エイリアン魔神国〔中〕
菊地秀行
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目次
第一章 大西洋への道程(みちのり)のきつさ
第二章 ニューヨークでBANG BANG(ばんばん)
第三章 女責め、あらら
第四章 海妖戦
第五章 上陸するまでの大騒ぎ
第六章 敵地でさっそくかっぱらい
あとがき
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第一章 大西洋への道程(みちのり)のきつさ
落ちる!? ――と思ったが、おれはさして気にも止めなかった。
アルマーニのスーツの下は“機械服《メック・ウエア》”だ。二、三〇メートル分の衝撃《ショック》なら、何とか吸収してくれるだろう。
しかし、その必要もなかった。
いきなり、身体を押す圧力が消滅するや、おれは垂直に落っこち、両膝の裏にかかるショックとともに停止した。
頭の上に、逆立ちになった街路や通行人が見えた。
要するに、おれは間一髪で両膝を窓の敷居に引っかけて止まり、代償として逆さ吊りになっちまったのだ。
何つうことはない。
ちょっと腹筋に力を入れただけで、おれは跳ね起きた。――あれ、戻っちまった。もう一度――今度はうまくいった。
――!?
室内では異様な光景が繰り広げられていた。
ゆきはさっきと同じ位置に立ち、凄まじい悪鬼の形相でこちらをにらみつけている。
その三メートルほど前方――つまり、おれから約二メートル前の空中に浮かんで、彼女と対峙しているのは、人間の頭骸骨――あの水晶髑髏《どくろ》だった。
マリアが番犬代わりにと手渡してくれたインカの遺産に、どれほどの妖力が秘められているものか、ゆきの全身は震え、顔からは汗が、そして、きりりと結んだ唇からは涎《よだれ》が噴きこぼれていた。
「邪魔する気かい!? ……おどき!?」
獣を思わすゆきの恫喝にも、髑髏はびくともしなかった。
ひとりと一個の間に、めらめら陽炎が立つような鬼気の線が張り渡されたのを、おれは感知した。
数瞬――
ぴしりと白い線が、髑髏の頭頂部から前後に走った。
あっ、と呻いた刹那、水晶のきらめきは二つに両断され、鈍い音をたてて、旅行会社の床に転がっていた。
同時に、ゆきも引きつるような声を上げて、その場へ崩れ落ちていた。
相討ちだ。
ゆきに憑いた悪霊も髑髏の魔力も、凄まじいレベルに達していたのだろう。
棒立ちになった社員をよそに、おれは素早くゆきに駆け寄った。
「こら、起きろ」
動かない。
脈をとってみた。
わっ、ない。
瞳孔チェック――開きっ放しだ。
活を入れてみたが、まるで効き目はない。
銃創や刀傷なら、いくらでも手の打ちようがあるが、霊力によるフーテン症状ではおれの任じゃない。
マリアだ。
おれはゆきを肩に担いで立った。
「無事ですか?」
“プリンス”が気忙しげに尋ねた。
「わからねえ。――新宿に戻るぞ」
「わかりました」
おれたちが出て行こうとしたとき、旅行社のひとりが、揉み手しながら――
「あの――ローラン共和国への渡航手続きの方は?」
と訊いた。
あきれると同時に感心したね。
「予定変更だ。ニューヨークまで三枚[#「三枚」に傍点]。大至急で頼む」
「承知いたしました。毎度、ありがとうございます」
ま、たまには観光旅行タッチもいいか。
おれは、畏れ多くも本物の“プリンス”を引き連れ、外へ出て車に乗った。
新宿へ逆戻りだ。
待てよ。――閃いた。
おれは自動車電話をひっ掴んだ。車は迎賓館の坂を急上昇していく。
すぐにマリアが出た。
「うまくいったようだね」
「お見通しかい」
おれは舌を巻いた。
「訊きたいことがあるんだ」
「何だい?」
「さっき連れてった女の子な、あれが、霊障だろう――仮死状態だ。治療してもらうつもりで、目下、そっちへ向かってるんだが、どうだい、遠隔治療《リモート・キュア》もできるかい?」
「状況を教えとくれ」
おれは四方に気を配りながら、知ってる限りのことを打ち明けた。
「何とかなると思うよ。問題は距離だね」
「ざっと五千キロ」
「まかしとき」
「頼りになるねえ」
おれは思わず微笑してしまった。こんな女がいるから、世の中面白い。
迎賓館の前で、おれは思いっきりハンドルを切った。
「あの」
と、“プリンス”が呼びかけた。
「ああ、目標変更だ」
「何処へ?」
「羽田さ」
「?」
「急で悪いが、里帰りだ」
「でも、僕はまだ、記憶も取り戻していないんですよ」
「その辺はよくわからねえよ」
「でも――」
「治療を受けたことは覚えてるだろ?」
「はい」
「なら、効果があるかもしれない。あそこの所長に以前きいたことがあるんだが、治療の効果は、後からじわじわ来るそうだ」
「そうですか……」
「嬉しくなさそうだな?」
「僕には何もわからないんです」
それもそうだ。おれはうなずいた。
自分がプリンスだ、王位継承者だと言われても、自覚がなけりゃ、いまいち乗れやしない。
「そうだ」
“プリンス”がはっと眼を見開いて言った。
「王位継承者のペンダント――あれは何処にあるんです? 千里さんが亡くなったときに、あの部屋で――?」
その眼の前で、黄金の光が左右に揺れた。
「いつの間に?」
茫然とつぶやく少年の前から、おれはペンダントをスーツの胸ポケットへ納めた。
「悪いが預かっとく。おまえの背中にゃ敵がいるんでな」
「わかっています。――でも、何処で?」
「最後の瞬間に、千里さんが渡してくれたんだ。おまえのことが気になってたんだろ。感謝しろよ」
“プリンス”は何も言わなかった。おれも彼の方を見ようとはしなかった。この子なら、どんな反応を示すか、わかっていたからだ。
多分、顔中の筋肉をこわばらせ、口を一文字に結んで、その肩はかすかに震えているだろう。眼には涙が滲みこそすれ、決して流れはしない。男の子だからな。
ゆきは眠りについたままだ。
羽田に着くまでは、何も起こらなかった。
おれが五、六本、日本と世界のあちこちへ自動車電話をかけただけだ。
駐車場に車を入れると、空港公団の係員が二人、ジープに乗って近づいてきた。
「用意はできてるな?」
「はい」
二人はうなずいて、後部座席のゆきをジープに移した。
その後を追っていくおれに、
「――あの、手続きはいらないんですか?」
と、“プリンス”が訊いた。
「もう済んでる。安心しろ、ビザもパスポートも、日本とアメリカ政府発行の分がちゃんと取ってあるよ」
「アメリカ?」
「最初はニューヨークへ行く。おまえの故郷はその後だ。日本にゃ、厄介な相手がいるんでな」
「八頭さんにも、そんな相手が?」
「ああ」
そいつはもう、おれの動きに気づいているかもしれない。銀座の「千疋屋《せんびきや》」で出くわして以来、あの視線が背中に貼りついているような気がしてならないのだ、実は。
コーネル・ヤンガー――ローラン共和国情報局長兼三軍総司令官。
通称“大佐”。
恐らく、世界でも五指に入る天才戦術家。情報局長としても超一級だが、その本領は、あくまでも戦闘の才にある。
ローラン共和国は、国際紛争において、過去に一度ずつ米ソとやり合ったことがあるのだ。もちろん、核戦争じゃない。
ローランの北西五〇〇カイリに浮かぶ孤島「バーナバス」は、もともとはローランの領土だったのだが、一九六〇年十月、この地で豊潤なウラン鉱脈が発見された途端、米ソともに、その採掘権を主張しはじめた。
アメリカは一九三〇年以来、この島を三〇年契約で借り受け、大西洋警備のための艦隊基地を置いていたからであり、ソ連は、その少し前の一九二七年に、無期限の約束で、石油の採掘権を獲得していたからである。
いま考えると、とんでもない状況だが、当時は、こんなことぐらい平気でまかり通っていたのだ。
とにかく、アメリカは「基地」を置いているという既成事実を楯に、ソ連は「無期限」の約束をふりかざして、ウラン鉱の権利分与を主張した。
これに対して、ローラン共和国では、「基地」の有無に関係なく、三〇年の借款契約は一九六〇年をもって切れること、「無期限」の契約もまた、ローラン側が正式な文書をもって期限を設定すれば無効になると「契約」に明示されていることを理由に、あらゆる交渉、要求を撥ねのけたのである。
この結果、何が起こったか。
世に言う「恥かき巨人戦争《ザ・シェイムレス・ジャイアンツ・ウォー》」である。
一九六三年、夏。米ソの両海軍は、最新鋭の艦隊を率いて、孤島「バーナバス」を包囲するに到った。と言っても、当時のソ連は一隻の空母もなく(最初の航空機搭載艦は、一九六七〜六八年にかけて竣工したモスクワ級ヘリコプター巡洋艦。垂直離着陸機=VTOLを積んだ簡易型空母キエフの完成は一九七五年)、なんと、米機動部隊の雄「エンタープライズ」と「キティ・ホーク」に自前のミグ21戦闘機を積み込ませてもらって出動するという、みじめさここに極まれりという案配だったのだが、とにかく、六三年といえば冷戦の真っ只中。こういうことができただけでも驚嘆に価する。逆に言えば、こんな無茶をしても入手したいほど、バーナバス島のウラン資源は、原子力時代を予見していた両大国にとって、必要不可欠の宝だったのである。
もうひとつ。この状況を細かく分析すると、あるとんでもない事実が浮かび上がってくるのだが、とにかく、アメリカ・ソ連「冷戦」連合軍(!?)は、数千キロの波濤を越えて、バーナバス島に迫った。
対するローラン共和国は、戦艦、空母などといった御大層な大型艦船は無論、ゼロ。巡洋艦三、駆逐艦三、旧型のディーゼル潜水艦四隻が全海軍力といったお粗末ぶりで、押し寄せる二大国を迎え討つ。――どう見ても、どう転んでも、勝敗の帰趨は明らかであった。
以下、一週間にわたる戦闘の記録は、米ソの戦史協会の大金庫の奥深く『屈辱』『要反省』のマーク付きで眠っている。
この後、文字通り、世界の二大ライバルとして抗争を繰り返す米ソにとって、この一週間こそ、まさしく反省を要する屈辱の日々であった。
ベトナム戦争での敗北が決したとき、年配の軍人たちに、さほど衝撃が広がらなかったのは、この十年前の敗北のせいとされる。
完全武装の二巨人が襲った小犬は、狼の牙と、天才の頭脳を持っていたのである。
そして、「エンタープライズ」「キティ・ホーク」を大破させ、戦艦「ニュージャージー」を沈没寸前まで追いこんだ恐るべき戦略者こそ、コーネル・ヤンガーという名を持っていたのである。
当時、ローラン共和国防衛省の若き職員だったヤンガーは弱冠十八歳。以後、彼の作戦レポートを認めた大臣と手を組んで様々な改革を行い、豊富なウランその他の鉱物資源を背景に、今では、米ソ英仏イスラエルも恐れる軍事、情報組織を造り上げた。
コーネル・ヤンガー――この男がそのトップにいる限り、ローラン共和国の平穏は保たれるだろう。
ジープは真っすぐ施設の下を通過し、航空機の駐機するエプロンへ入った。
ここのエプロンは目下、約一三〇万平方メートル。上野動物園のざっと九倍だ。
おれの自慢の愛機は、すでに滑走路に入っていた。
以前アマゾンへ出向く際に使ったダグラス・マクダネル社製ジェット旅客機AFD1を改造したものとはちがう。ふた回りも小型のゲイツC21リアジェットだ。
もともとは、スイスのA・F・A社が山間部で使用していた観光・輸送用のジェット機だったのを、ゲイツ・リアジェット社が権利を買い上げ、ビジネス・ジェット機として全米に売りさばいていった。全長一四・八メートル、全幅一二メートル、全高三・七メートル、総重量七七一〇キロ、パイロット二名、乗客八名――計一〇名のこぢんまりとした機体は、アメリカ中を駆け巡るビジネス・エリートたちにとって、えらく便利で手軽な代物だったのである。
小型と侮ってはいけない。二機のターボファン・エンジンを取りつけたこの機の原型C―21Aは、島づたいとはいえ太平洋を独力で横断して来日。現在は二機が横田基地に配備されている。
もちろん、おれの愛機になった以上、徹底的に改良を加え、エンジン推力は倍増《ばいま》し、パイロットなしの自動操縦機構《オート・コントローラー》でもって、実に二万五千キロをノン・ストップで飛ぶ。その他、危《やば》い装備もばっちりだ。
ジープから降りて機内に入ると、設備の豪華さに、“プリンス”が眼を見張った。――子供は素直でなくちゃねえ。
最高級のソファ、テーブル。カウンター・バーの棚には世界の洋酒がずらりと並び、ステレオHIFI、電子雀卓まで揃っている。狭さを別にすれば、米大統領の愛機“エアフォースワン”にもひけをとらない豪華さだ。
三人分のパスポートとビザはテーブルの上に置かれていた。
「こちらの方は、いかがいたしましょう?」
と公団員のひとりが訊いた。ゆきのことである。二人掛かりで運んできたのだ。
おれは左手の指輪を閃かせた。
奥のソファがモーター音を響かせて形を変え、十分な広さのベッドになった。
もちろん、もうひと振りで、最新型の医療ユニットが壁からせり出す仕組みだ。今のゆきには、何の用もなさないが。
ゆきを横たえて、二人は機を降りた。
「じゃ、行くぞ。ニューヨークへ直行だ」
と、おれは言った。
「あの、パイロットの方は?」
「全天候自動操縦装置さ」
「はい」
“プリンス”の眼はかがやいていた。好奇心だ。子供は常にそうなのだ。あらゆる経験、あらゆる物語が未知の世界と化し、柔軟な精神《こころ》を誘う。そして、恐れずそこへ踏み込む子供だけが、何かを感じ、何かを知って戻るのだ。
「席へ着いて、ベルトをお締め下さい」
と、おれはウインクした。
「了解」
少年はシートに腰を下ろして、指示に従った。もちろん、窓際さ。
ゆきの身体をベッドへ縛りつけてから、おれも、隣の席《シート》に座って、指輪を閃かせた。
かすかなエンジン音とともに、愛機は、滑走路へ向かって滑るように走り出した。
十分後、おれたちは高度一万五千メートルを保ちつつ、北アメリカ大陸めがけて、マッハ二の超音速で飛びつづけていた。
天井のスクリーンに映し出されるコクピット・インフォメーションによれば、乱気流も嵐もなさそうだ。
ひと安心して、おれは“機内電話”を取り、歌舞伎町のマリアにつないだ。
「いま、飛行中だ。成田から、五〇〇キロも離れたが、治療の方をよろしく頼む」
「了解――しばらく、お待ち」
いかにマリアといえど、超音速で飛行中のジェット機の乗員を、地上から治療するのは難儀だろうと思いつつ、おれは“プリンス”の方をちらと眺めた。
きょろきょろと機内を見廻している。ベルトは外していた。
顔つきを見て、おれは少しばかり感心した。
ただ、興奮しているだけじゃない。ひどく生真面目な表情は、分析してる顔だ。
ちょっと子供らしくないな、と思ったが、そこは“プリンス”だ。血筋は争えない。
少し、柔らかくしてやるか。
久しぶりに悪戯っ気が湧き、おれは左手を特殊な角度に向けた。
「あらん、いらっしゃい」
いきなり、甘ったるい女の声に耳元でささやかれ、少年は身を固くした。
ふり向いて、眼を見張った。
途方もなくグラマーなスチュワーデスが、銀の盆にジュースのグラスを載せて、悩ましげな視線を彼に送っていたのだ。
「あ――あの?」
途方に暮れてふり向く顔に、おれは笑いかけた。
「せっかくのジュースだ。喉が乾いたろ?」
「ええ」
「なら、貰いな。安心しろ、何もしないよ」
「素敵な殿方――乗っていただいてうれしいわ。うんと、サービスさせていただきますン」
グラスを“プリンス”に手渡し、女は腰をくねらせながら言った。少年はぽかんと口を開けている。おれは吹き出すのを必死でこらえていた。
腰と尻をふりふり後部の方へ歩み去るスチュワーデスを、“プリンス”は茫然と見送っていたが、すぐ、あっ! と叫んだ。
いきなり、スチュワーデスが消えれば無理もない。
「ホログラフィさ」
と、おれは説明した。
「空中の分子を集めて好きな形に組み立てたもんだ。磁場の結合力が弱いんで、まだ、人間そのものというわけにはいかないが、ある程度の強さは保持できるから、中味の入ったグラスぐらいは運べる。本当は成人用なんだ」
ストリップもできるぜ、と言いかけて、おれは自制した。
胸を撫で下ろすかと思いきや、少年は眼をかがやかせて、
「凄い」
と言った。
「凄いなあ。もっと結合力が強くなれば、触っても人間そっくりになりますね」
「先のことはわからんぜ」
「でも、きっとなります」
「だといいな」
おれは微笑しながら言った。
そのとき、天井のスクリーンが、ぴい、と警報を放った。
「――!?」
ふり仰ぐ眼に、緑色の文字が飛び込んできた。
『前方二〇キロに雷雲が発生。このままだと、接触します』
「構わん。行け」
と、おれはスクリーンに向かって言った。二〇億円もかけて改造したジェット機だ。雷と雨くらいでビビるような玉じゃない。それに、遠まわりは趣味に合わない。
程なく窓外は暗黒に包まれた。
黒紙を貼ったような窓の向こうで、閃光がひらめき、雨の粒を映し出した。
かなりの雷雲だ。
メカ類は耐電磁波処理を施してあるが、多少、揺れるのは仕方あるまい。
――と思っている矢先に、機体が震えた。エア・ポケットか?
胸騒ぎがした。
おれは立ち上がり、“プリンス”にウインクして、操縦室《コクピット》へ入った。
装置はすべて正常に作動している。
窓外だけが、ひたすら暗い。
稲妻が光った。近い。いやな予感が胸をかすめた。
コクピット内が白く染まったのは、次の一刹那だった。
白光の中で赤い火花が散った。
計器盤が火を噴いたのである。
「しまった!」
おれの叫びに、自動消火装置のうなりが混じり、天井と壁から二酸化炭素の白煙が炎めがけて噴きつけられた。
「いちばん近い場所から、この雲を脱け出ろ!」
おれは叫んだ。
「了解」
コンピューターの応答を聴いたときは、ほっとした。操縦装置は無事らしい。だが、今みたいな落雷を三、四発食らうと危ない。海の藻屑《もくず》だ。
身体が右斜め前方へ引き寄せられていく。レーダーが、雲の薄いところへ機を導いたのだ。
――これで、何とか……。
ぴい。
今度は何だ!?
「右上方四九度より、飛行物体接近中。距離二〇〇〇メートル。時速一二〇〇キロ。航空機ではありません」
「何だと!?」
おれは武者ぶるいをひとつして叫んだ。
「じゃあ、生き物か? 何メートルある?」
「翼長二〇メートル、幅一メートル」
「そんな鳥がいるか」
おれは思わず吐き捨て、はっとした。
全長五メートルのモグラがいれば――。
だが、時速一二〇〇キロ――音速で飛ぶ鳥だと!?
「かわせ。どうしてもちょっかい出してくるようなら、迎撃しろ!」
「了解」
キャビンへ行こうかとも思ったが、こういうとき、機械まかせでのんびりしているのは性に合わない。
おれは、通話マイクを取って“プリンス”に呼びかけた。
「ちょっとグラつくが、心配はいらん。ベルトを締めてジュースを飲んでてくれ」
「わかりました」
落ち着いた声が返ってきた。
おれはマイクを戻し、高分子ガラス窓の外へ注意を集中した。
墨を流したような闇だ。ジェット機を押し戻すような勢いで雨も叩きつけてくる。
視確認は無理だ。
おれは、二基作動中の自動操縦装置のうち、左側の座席《シート》に腰を下ろした。
レーダー・スクリーンに眼をやる。円型スクリーンの中央に向かって、右上方から鳥型の光彩が接近しつつあった。
来る! ――そう思った刹那、機首がぐん、と下がった。背筋が浮くような落下感。急降下だ。
一瞬、闇より黒いものが窓外をかすめた。常人の眼には見分けもつかなかったろうが、おれの超感覚は、確かに猛禽類の翼の端と識別した。
ジェットは急降下していく。このまま雷雲を脱け出る気なのだろう。
おれはレーダー・スクリーンから眼を離さずに、コンピューターへ命じた。
「化物鳥の姿をシミュレートしろ。すぐだ!」
「了解」
すべてが後ろへ引っぱられていくような機内でも、二〇億円の改造費をかけたメカニズムは正常に作動した。スクリーン上の鳥型に、みるみる厚みや幅が加わり、色彩と具体性が加味されていく。鋭い眼、鉄板もえぐりそうな嘴《くちばし》、雄壮な翼――まぎれもない鷲《わし》だ。
しかし、翼長二〇メートルの鷲が、太平洋上にいるわけがない。それも、こんな凄まじい雷雲のただ中に。
おれはもう、呑み込んでいた。
敵の一派だ。どうしてかは知らないが、おれの出発を見抜き、こんな化物鳥を出動させたのだ。
ひょっとしたら、この雷雲も、奴らが発生させたのかもしれない。
おれは背筋が凍った。――同時に、熱い塊が腹腔から盛り上がってくる。面白い。
気候制御法《ウェザー・コントロール》は、軍事力を持つあらゆる国家が取り組んでいる研究だ。数十万ボルトの電撃を一カ所に集中できる雷、特定地方にのみ降りそそぐ一日何千ミリもの豪雨、ビルさえハリボテのごとく吹きとばす風速一〇〇メートルの大暴風――これらを自在にコントロールし得るノウ・ハウを軍事力に応用したら、どれほどの戦果をあげるか、素人の目にも一目瞭然だ。
千輛の大戦車軍団も、押し寄せる河川の大氾濫には勝てるはずがない。最新鋭のジェット戦闘機といえど、真っ向から叩きつける秒速三四〇メートルの大風を食らったらどうなるか。最重要地点の軍事基地を干上がらせるには、輸送路を連日大竜巻で叩けばいい。
もちろん、現在《いま》のところ机上の夢だ。しかし、必要は発明の母だし、人間というのはやると決めたことは、大概のところ、成し遂げてしまうのだ。何年か前にギリシャのアテネがかんかん照りの夏を迎え、数十人の死者を出したのは記憶に新しい。あれが、某東側陣営の気象制御衛星の仕業といっても、各国情報部のトップ・クラスは笑いなどしないだろうし、つい、ひと月前のアラスカを襲った異常高温で、永久凍土や氷河がばしばし溶け、その上に建ってた家や道路が傾いたり沈んだりしたことにも、ある疑いを抱いているに違いない。
その超技術を、目下の敵がある程度まで実現しているとしたら? ――面白い。喧嘩にも、やり甲斐というやつがあるのだ。だからこそ、それを感じたとき、おれの中に流れている血がうずき出す。それこそが、八頭の血だからだ。
おっ、鷲が反転した。
おれたちの後を追って急降下してくる。早い。対象物速度計を見た。マッハ〇・九……マッハ一……マッハ一・二……一・五……こいつは?
だが、そこまでだった。急降下に移ったジェットは、時速二四〇〇キロ――マッハ二の超スピードでもって、ぐんぐん巨大怪鳥を引き離していく。
一戦交えてもよかったが、おれひとりの身じゃないんでな。また、会おう。
そう胸の中でつぶやいた途端、またも、閃光が闇を切り裂いた。
振動は後部からやってきた。
ぴいぴいと耳障りな警報とともに、データ・スクリーン上に、二基のターボファン・エンジンが表示され、左側がアップされると、「電気系統落雷」の文字が映し出された。
「修理可能」とつづき、
「推力六〇パーセント低下」と出た。
危《やば》い。
二基でマッハ二を絞り出す以上、片方の推力が六割減となれば、最高速度はマッハ一・四に落ちてしまう。
大鷲のスピードは一・五だ。
おれの測定と、それから引っぱり出した結論を何より雄弁に証明すべく、レーダー・スクリーン上には、消滅した大鷲の姿が再びかがやきはじめていた。
やるか。
おれは口元に笑いが浮かぶのを感じた。そうなのだ。これこそ、おれが待ち望んだ状況だったのだ。やりすごす[#「やりすごす」に傍点]など、糞食らえ。暗黒の大空で相まみえた敵と、おれはこころゆくまで戦いたかったのだ。
「あらよ」
自動操縦機構は手動《マニュアル》に切り換わっていた。操縦桿はおれの手に吸いついた。減速状態に移行しつつ、おれは機を反転させた。
稲妻が閃いた。
どうやら、敵の気象コントロールも、自在に落雷を制御できるまでは達していないらしい。落ちたときはそのときだ。お天気を気にしていたら、喧嘩などできっこない。
武器《ウェポン》システム・ON。
機首の先端からGAU8/三〇ミリ・バルカン砲の七連装銃身が覗き、機体底部から支持架《バイロン》に支えられたミサイル・ポッドがせり出す。ポッドの中味はフランス/マトラ社製60ミリ空対空ミサイル二四発だ。
大鷲は真っ向から突進してくる。武器はその爪だ。嘴は獲物を引き裂くときに使う。万がいち折れでもしたら、餓死するまで取り換えが利かない。
だが、いかに頑丈な爪とはいえ、このジェットの機体は、地上最硬金属のひとつチタン合金である。引っ掻くパワーは相当なものだろうが、効果を上げる前に、爪が破損してしまう。そこを、二〇ミリ鋼板を楽々貫通し、重戦車さえ一発の命中弾でアウトにする三〇ミリ機関砲でドドドか。――あんまり、フェアとはいえないが、仕様がねえ。攻撃する以上、反撃を食うのは自然の理だ。
おれは容赦なく、突っ込んでくる敵に照準を合わせた。
ゆっくりと距離を測る。
航空機搭載機関砲というのは、基本的に短射程の武器だ。距離九〇〇メートルぐらいからやっと有効になる。敵が音速に近い速度で飛行中の場合、それ以上だと方向転換される恐れがあるからだ。
一五〇〇……一二〇〇……速い。……一〇〇〇――今だ!
おれはトリガーを引いた。
迸《ほとばし》る火線は、眼にも鮮やかに暗黒を切り裂いた。
〇・五秒で指を離す。GAU8の発射速度は、毎秒五〇発。積載弾丸は六〇〇発だから、一二秒で射ち尽くしてしまう。
「おおっ!」
声が出た。
大鷲は凄まじい速度で急降下していた。二五発の三〇ミリ弾頭は、秒速九八八メートルで虚空へ消えた。
追うぞ。ここで仕留めなくちゃ、向こうが追ってくる。攻撃されるよりする[#「する」に傍点]のがおれの性分だ。
いくらなんでも亜音速の垂直降下は無理だから、ぎりぎりの角度で追った。マッハ一……一・二……暗黒だ。しかし、レーダーは逃さない。
距離二〇〇〇……一八〇〇……一五〇〇……照準用意、OK。弾丸もたっぷりだ。
一二〇〇……一〇〇〇……発射!
うわっ。急上昇。まるで、レーダーでも持っているような変幻自在ぶりだ。
旋回砲塔のない哀しさ。こっちは外れるたびに、体勢を立て直さなくちゃならない。
こうなりゃ、仕様がない。機関砲が無力な以上、最後の武器――60ミリミサイルあるのみだ。
いきなり、頭上から衝撃が襲った。
とうとう、バックを取られたのだ。尾翼でももぎ取られたら、大変なことになる。
二度目の衝撃。
嫌な音がした。
ひょっとして、奴の爪《クロウ》――特別製か!?
おれは夢中で照準を機上の大鷲に合わせた。ミサイル・ポッドは機体の下――どう射つ?
心配いらない。
ミサイルの発射カバーを親指で弾き飛ばし、おれは思いきり押した。
一秒。
頭上から――聴こえるはずもない――叫びが落ちてきた。
ついで――衝撃。
世界は急速に回転した。きりもみ状態で落ちていく。
ポッドのミサイルは、ただの射ちっ放し方式ではなかった。照準器と連動したコンピューターが、目標をインプットするや、燃料の切れる限り追いつづけるホーミング式ミサイルだったのだ。
人呼んで“マン・サーチャー”という。
いくらなんでも、機上の標的へ叩き込んだのは無茶苦茶だが、これしか手はないのだからやむを得まい。
おれは機体のタフネスと――
操縦桿を思いきり押しながら、右エンジン停止。〇・二秒で噴射。左エンジン停止。二秒後に点火。落ちる、落ちる。まるで独楽《こま》だ。天井もコントロール・パネルも暗黒も旋回中。両エンジン停止、旋回。糞、眼が廻る。よし、噴射だ!
突然、世界は平衡に復した。
――おれの超感覚操縦技術に賭けたのだ。
息をつきながら、レーダーを見た。
総身の血が引いていく。
鳥型は、すぐ頭上にいた。
戦車さえ一撃で溶けた鉄の塊《スクラップ》にするミサイルを食らっても平気な鳥!
さすがに驚愕に包まれながら、おれの右手は無意識にサバイバルへの過程を通過していった。
鳥への照準。標的インプット。発射OK。
背後のドアが開いたのもわかっていた。
“プリンス”か。
異様な気配が、ミサイルを射つ手を止めさせた。
おれはふり向いた。
ゆきだった。
右手は頭上に掲げられていた。
太宰先蔵――世界最高のトレジャー・ハンターの娘は、手刀で瓦一〇枚を割る。
それが、唸りを発して、おれの首筋へ!
何とか避けられたのは、おれの反射神経と、再び傾いた機体のおかげだったろう。
それでも、ゆきの手刀は流れ、おれの肩口に当たった。
効く。もともと格闘技の素質はあったが、それだけじゃ、こうはいかない。どこで習いやがった。
跳びかかってきた。
白い手がおれの首を後ろから絞め上げた。
おれはゆきの顔を見た。
旅行会社で、おれとやり合ったときの表情だ。マリアの遠隔治療がはじまる前に、取り憑いた悪霊が目を覚ましちまったのか。
「この邪魔者め――死ね」
と、ゆきは持ち前の色っぽい声でささやいた。
いつもなら、股間が熱くなるところだが、今日は別だ。
おれは両手でもぎ離そうとした。
これは。――まるで鋼鉄だ。いや、本当に鉄だ。
おれは見た。
喉に食い込む黒い鋼《はがね》を。
ゆきの手は、肘から指先まで、鉄甲で覆われていたのだ。
意識が遠のいた。
こうなりゃ、顔面に後ろ向きでパンチを叩き込むしかない。
鼻が折れるくらいは覚悟しろ。
だしぬけに、喉が楽になった。
「ゆきさん、いけません!」
“プリンス”の声だった。
いいぞ、坊主。
やることは二つ。
レーダーを見た。鳥はまだ、機上にいた。後ろ向きで尾翼を狙っているのだ。
おれは、操縦桿を掴みざま、ミサイルの発射ボタンを押した。
同時に、操縦桿を倒す。
わずか一秒の出来事だった。
急降下に移った機から、鳥の影が離れる。
その胸に三発のミサイルが吸い込まれた。
次の瞬間、鳥型の光はスクリーンから消滅した。
いくらタフな鳥でも、ミサイルの直撃を受けて、無傷でいられるはずはない。半死半生で攻撃をかけている。そう判断して、おれは機を急降下させたのだ。
案の定、鷲はついて来れなかった。
操縦をオートに切り換え、機体を安定させてから、おれはベルトを外して立ち上がった。
「この野郎」
とふり向いた眼の前で、ゆきがにっこりと笑った。
「?」
「こんちわ、大ちゃん」
何が、大ちゃん、だ。
かたわらの床に尻餅をつき、きょとんとゆきの変貌を見上げている“プリンス”の無傷ぶりを確かめ、おれは怒鳴りつけてやろうと、肺に息をためた。
その唇に、白い人さし指が妖しく吸いついた。
「興奮しちゃ、駄目よ、ね?」
「何が、ね、だ」
おれは、ゆっくりと息を吐きながら言った。
「この淫乱のノーテンキ娘――てめえが何をしたかわかってるのか?」
「ええ」
と、ゆきは豊かな胸を張った。揺れてる。こんな状況で、おれは生唾を呑み込んだ。それほど、ゆきのセクシーぶりは凄い。
そのプロポーションも、おっぱいの形も、ヒップの豊かさも、それぞれをとれば――いや、総合的に見ても、比肩する女は世界中にいくらもいる。
ところが、それに色気という武器が加わるや、誰ひとり、ゆきに勝てなくなってしまうのだ。
何気なく持ち上げた腕に男どもはゾクリとし、ふとこちらを見つめた意味もない眼差しに股間を押さえ、揺れるバストにヒップときたら――今流行の心不全を起こしかねない。
ゆきの全身は蜜でもかかったように、妖しく濡れ光り、耳もとで、
「寝てあげるから、あいつ殺して」
とささやかれれば、バチカンの大司教だろうと日本刀を持ち出しかねない。
危《やば》いのは、この娘が本当にそう言いだしかねない、ということだ。
「事情は“プリンス”ちゃんからきいたわ。ご苦労様でした」
「何が、ご苦労様だ。さんざん物騒な目に遇わせやがって。ニューヨークへ着いたら放り出してくれる。絶対に同行なんかさせねえぞ」
「あら、それは私のせいじゃないわよ。大体、あの歌舞伎町の地下にいるうちに、何が何だかわからなくなっちゃったんだから。やっぱり、悪霊に取り憑かれてたのね。あたしが、大ちゃんにそんなことするわけないでしょ」
「いいや、やりかねん」
おれは断固首をふった。
「ま、その辺は永遠の謎ね」
ゆきはそっぽを向いて話を打ち切った。
まあ、今はそんなこと議論してる場合じゃない。
おれたちはキャビンへ戻った。
「まあ、一杯やれ」
おれはカウンター脇のフリーザーから最高級のワインを取り出し、ゆきと“プリンス”のグラスに注いだ。
「じゃ、これからの旅の無事を祈って。――乾杯」
ぐい、と干した途端、おれは素早く自分のを口に咥え、両手で、ゆきと“プリンス”のグラスを受け止めた。
ひと口飲《や》った瞬間、二人はソファの上へ倒れ、眠り込んでしまったのだ。
西ドイツ製の即効睡眠薬だが、これほど効くとはね。
ソファをベッドに組み換えて二人を休ませ、おれは新宿のマリアに電話をかけた。
通じた。
「はい」
「少し遠いな」
と、おれは文句を言った。
「そうかね。そうでもないよ。あたしには、あんたの姿が眼に見えるようだ」
「――治療はどうだった?」
「見ての通りさ」
「おれが見たのはこうだ」
それから、おれはゆきと奇妙な鎧をつけた手のことを話しまくった。
マリアは黙ってきいていた。
おれは勢い込んで、
「さあ、どういうことか教えてくれ。治療はしたんだろ? それなのに、ゆきがおれの首を絞めたわけ、あの鎧の手の謎。――さっぱり、わからない」
「治療は中断したのさ」
「おい」
「理由はじきにわかる。微妙なところだけれどね」
「どういうことだ!?」
「吉と出るか、凶と出るか。――普通なら大凶だが、あんたの運の力があれば、吉に変えることもできるだろう」
何だかよくわからないが、おれは、ほっとした。
「そうかい」
「多分」
「ちょっと待て」
「幸運を祈るよ、大。また会える日を愉しみに」
「こら――マリア、おい」
受話器に向かって食いつかんばかりに叫ぶおれの背を、誰かがそっとつついた。
ふり向いて、おれは眼を丸くした。
この世の中に、おれに気づかれずにバックを取れる人間は三人しかいない。
そのひとりが、マリアだった。
青いドレスをまとった姿は、驚きすら忘れさせる神々しさに溢れていた。
「驚かしてくれるなよ」
と、おれはようよう言った。
「それくらいで眼を丸くしていては、今度の戦争についていけないよ。もう、はじまっているんだ」
マリアはおごそかに言った。
「わかってるさ」
おれは答えてから、眼を剥いた。
「戦争だって?」
「その通り。あんたたちにひとつの国が全力を挙げて挑んでくる。戦争でなくて何だね?」
おれは返す言葉もなかった。
マリアの身体は、ゆっくりと薄れはじめた。
「お別れだ。達者でね」
「後でな」
と、おれは言った。いつもより景気悪く。
マリアの微笑が、白い陽に溶けた。
おれは眼をしばたたいた。
神々しい中年女性の姿はそこにはなく、代わりに、奥からさし込む清涼な光が機内を満たしていた。
それを残して、マリアは行ってしまったのだ。
おれは、ソファ・ベッドに横たわる二人を見つめた。
白い光にふさわしい平和な寝顔だった。
「何て道連れだ」
と、おれはひとりごちた。
それはそうだろう。
ひとりは背に化物の卵を埋め込み、もうひとりは、いつ出てくるかわからない悪霊に憑かれたままなのだ。
だが、何の苦労もない二つの寝顔を見つめているうちに、おれは腹の底から闘志が燃え上がってくるのを感じていた。
矢でも鉄砲でも軍隊でも持ってこい。宝探しの邪魔する奴は、一切容赦しねえ。――それが、八頭の掟なのだった。
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第二章 ニューヨークでBANG BANG(ばんばん)
ケネディ空港へは、夕方の四時に到着した。空港でレンタ・カーを借り、エンジンに鞭打ってマンハッタンへ。
グリニッチ・ビレッジのぼろホテルの駐車場へ滑り込むと、
「やだあ、こんなダサいとこ」
と、ゆきが泣き声をあげた。
「あたし、五番街の『ピエール』か、セントラル・パークの『リッツ・カールトン』がいい。あそこじゃなきゃ、いやだ」
「おまえこそ、ダサい言い方するんじゃねえ」
おれは、四方をチェックしながら、言ってやった。
「『リッツ・カールトン』だなんて、ガイド・マップの丸写しはよせ。『リッツ』と言え、『リッツ』と。このホテルにも、それなりの設備はあるんだ」
「なによ、こんな、壁にひびが入ってる、アッシャー家の館」
おれは苦笑した。うまいこと言いやがる。アッシャー家というのは、エドガー・アラン・ポーの小説に出てくる滅びの家系のことで、そこの家長たる兄妹二人の棲む荒涼たる館は、一面がうすいひび[#「ひび」に傍点]で覆われ、凄まじい雷鳴の晩、兄妹もろとも沼に呑まれてしまう。
駐車場を出て、ホテルの玄関へ廻ったとき、おれは、ついたり消えたりしてるネオン・サインを指さしてやった。
「なによ? え――HOTEL U…S…H…E…R――アッシャー家のUSHERじゃないの?」
おれは黙って“プリンス”の肩を叩き、ドアをくぐった。
ひなびたロビーの住人は、カウンターの向こうの白髪の老婆と、ソファで新聞を読んでる、これも白髪だらけの老人二人きりだった。いや、老人は膝に小犬を乗せている。
「ほのぼのするほど平和な光景ね」
と、ゆきがぞっとするほどやさしく言った。
「前にテレビで見たことがあるわ。――養老院」
「るせ」
おれはカウンターに近づき、婆さんにウインクした。
「スイート・ルームを三つだ」
地殻変動の極みともいうべき顔をぴくりともさせず、婆さんは後ろを向いて、キイ・ボックスから鍵を取り出し、カウンターに三本並べた。
少し遅れて、台の下から粗末なブリキの笛をつけ足す。
「何よ、それ?」
ゆきが、赤いのを手に取ってひねくり廻しながら、ついでに首をひねった。口に咥えて吹いた。
ぶう。
おれは、ヨーロッパ一周中のある女の姿を憶い出した。笛の音は変えた方がいいな。
ゆきも“プリンス”も、不可解そうな眼で笛を眺めている。
婆さんの出した宿泊カードに必要事項を記入し、支払い用のアメックス・プラチナ・カードのチェックを済ませて、おれは二人ともども奥のエレベーターへ向かった。
ドアが左右から開いたり閉じたりする結構な代物じゃない。鉄みたいな扉を、ガラガラ開ける旧型タイプだ。
黒人のエレベーター・ボーイがついている。
「八階だ」
「イエス・サー」
「ああら、こちら、ハンサム」
と、ゆきが彼の脇を通りながらウインクした。
途端に黒い顔が真っ赤になった。
「きゃ、可愛い。照れてる」
とんでもないことに、ゆきは手を伸ばして黒人の引き締まった尻に触れた。この際、ズボンの上だの下だのは何の関係もない。
「オッフーン」
と、得体の知れぬよがり声を上げ、まだ二〇歳《はたち》前後のエレベーター・ボーイは、股間を押さえてその場にしゃがみ込んじまった。
「ボケ、子供の前だぞ」
おれは罵ったが、ゆきはいけしゃあしゃあと、
「ふん。世の中の仕組みを、男と女の関係を媒体にして、教えてやっただけよ」
と、わけのわからないことを言った。
“プリンス”は頬を赤らめている。
黒人がしゃがんだまま、オーノウ、オーノウと動かないので、おれは勝手に八階でエレベーターを止めた。
降りるとき、1Fのボタンを押しといてやったが、黒人はとうとう立てなかった。
おれは、鼻歌混じりで狭い廊下を歩いていくゆきの、でっかい尻――もとい、後ろ姿に眼をやりながら、おかしいぞ、と思った。
いくら色気の塊とはいえ、ひと撫でするだけで男がしゃがみ込むなんて芸当は出来なかったはずだ。
これも、憑き[#「憑き」に傍点]が残ってるせいだろうか、獅子身中の虫とはこのことだ。おれはため息をついて、ドアの方へ向かった。
ゆきは先に鍵をガチャガチャやっていたが、不機嫌そうにおれの方を向いた。
「大ちゃん、壊れてるわよ、この鍵。開かないわ」
「そら、そうだ。そいつはダミーさ」
「え?」
「開けゴマの呪文はこれだ」
おれは、おまけの笛を咥え、ぶう、とやった。
武骨なドアは、音もなく右へスライドした。
「なくさないようにしろよ。ドアには厚さ二センチの鋼板が入っている。バズーカ砲でもなきゃあ開かないぜ」
ゆきは、きょとんと笛を見つめていたが、自分の分を咥えて、同じく、ぶう、とやった。
ドアは開き、最高級の調度に飾り立てられた超豪華な室内をさらけ出した。
「大ちゃん……これ……」
「ここのスイートに比べりゃ、『ピエール』だの『リッツ』だののVIPルームだって、ウサギ小屋さ。前に、サウジの王様に勘づかれてな、石油の利権と交換にひと部屋よこせと迫られて困ったよ」
「……ひょっとして、このホテルも?」
おれは、うなずいた。
ニューヨークは、ロンドン、モスクワ、パリ、東京とならんで、おれの仕事にとっての最重要拠点だ。
宝の情報はもちろん、それに付随する政治情勢、関係者の動き、埋蔵地点の開拓状況などが入ってくる頻度は、ベスト・ワンといってもいい。
ホテルのひとつぐらい所有してなきゃ、動きが取れない。
無論、他の客はない。ソファの犬つき爺さんも、『アクターズ・スタジオ』から雇って来た俳優だ。あれで、シェークスピアをやらせると、全米屈指の名優だそうだ。
「三〇分くつろげ。その後、おれの部屋へ集合だ。今後の方針を検討する」
と、おれは呆然としている最中の二人に宣言した。
二人がやって来るまでに、おれは、やることをすべて片づけておいた。
まず、中央情報局《CIA》長官を呼び出し、ローラン共和国に関する最新の情報を要求。五分で入手した。つづいて、日本の総理官邸へ電話。妾といちゃついてた総理大臣を引っつかまえて、おれに関する情報をローラン情報部に流した奴を探し出せとカマしてやった。
後は、ジェネラル・ダイナミックスをはじめとする大企業、港湾関係の役所、出国管理局etc etc……。
きっかり三〇分後、ゆきと“プリンス”が顔を出したときは、何もかも片づき、おれはソファに引っくり返って、トーケイのワインをちびちびやっていた。
TVはデトロイト・タイガースとニューヨーク・ヤンキースの試合を放映している。
「で、どうすんのよ?」
シャワーを浴びたらしいゆきが、タオルを頭に巻いた格好で訊いた。下は“プリンス”を考慮してか、さすがにTシャツとジーンズをつけている。いつもなら、バスタオルからおっぱいを半分はみ出させているところだ。
「ローラン共和国の情報部に狙われた以上、あたしやあんたの顔は、国中の公安関係に廻されると見ていいわ。“プリンス”をお護りした、なんて正面から乗り込んでったら、税関で逮捕され、即、死刑場行きよ。――電気椅子かなあ? 絞首刑かなあ?」
「黙れ、淫乱」
おれはぴしゃりと言った。
「むう」
「畏れ多くも“プリンス”クロードの前だぞ。言葉遣いに気をつけろ」
「ふん」
「それでだ、まず、ローラン共和国のデータからいこう」
おれの言葉に、“プリンス”の眼がかがやいた。記憶を失くしているとはいえ、そこは彼の母国なのだ。
ローラン共和国。
位置は、北緯三七度五分、東経四一度九〇分――大西洋上。ニューヨークから五四〇〇キロ、リスボンから四〇〇〇キロの地点にあたる。
面積は六〇〇〇平方キロ――ヨーロッパのルクセンブルグ大公国(三〇〇〇平方キロ)のほぼ二倍だ。非常に小さい。孤島といってもいい。ちなみに、日本は三七万八〇〇〇平方キロ、アイルランドは七万平方キロ。でかい方では、アメリカ合衆国九三六万三〇〇〇平方キロ、ソビエト連邦二二四〇万二〇〇〇平方キロ――ま、比較にならんか。もっと近いサイズで言うと、大分県六三三一平方キロ、愛媛県五六六六平方キロで、我が東京都は二一四五平方キロになる。
人口――八〇万。一平方キロあたり一三三人で、これはかなり多い。朝鮮民主主義人民共和国が一六二人で大分近い。多い方を列挙すると、大韓民国四一四人、オランダ三五一人、日本は三一七人。少ない方の代表はオーストラリアとカナダの二人、アラブ首長国連邦の一・五人。アメリカは二五人。ソ連は一二人だ。
首都――国土中央やや北寄りのサヴィナ。人口一三万五〇〇〇。古風な王宮や城塞が、超近代的な摩天楼《スカイスクレーパー》や工業地帯と隣接するコンデンスド・シティだ。
基幹産業――貿易。国内の豊かな地下資源――ウラン、コバルト、ダイヤ等を全世界に輸出し、見返りに工業技術や頭脳導入をはかって、ここ二十数年の間に、一流と認められる科学技術国家にのしあがった。特に、最近、三年間の発展は素晴らしく、軍事産業の面では、米ソの最新鋭装備に劣らぬ成果が上がっているといわれるが、実態は不明だ。
国土の七〇パーセントは農耕地であり、人口の七五パーセントが農業に従事しているところから、本質的には農業国とされる。他方、観光にも力を入れ、首都及び南部山岳地帯や、中央平原部には観光施設も整って、バスや鉄道、航空機も利用した観光ルートの充実と相まって、アメリカやヨーロッパから、年間、三〇万人近い観光客が訪れる。
政治体制――基本的には共和制を施《し》いているが、実体は君主共和制で、実効ある条約、法令の批准、制定はすべて国王の手に握られ、首相がそれを承認し、議会の了承を得て公布する。ただし、国王の引退は七〇歳と決められており、新国王がその時までに二〇歳に満たぬ場合は、首相が国王代理として国王の全権利を掌握する。ただし、首相の任命権、罷免権は新国王が有し、これは一〇歳以上なら効力があるものとされる。
王家――ゼーマン王朝。始祖カレル・フランクス・ゼーマンが一〇九五年、ヨーロッパより移住して建国を宣言。以後、ヨーロッパ貴族社会と血縁関係を保ちつつ、今日に到る。その間、ハプスブルグ家やメディチ家とも抗争があったらしいが、何とか切り抜けた。現在、前国王クロード・ゼーマン六世が引退し、世継ぎの誕生を見なかったため、ネイミス・ウールマイヤー首相が国王代理。王妃は昨年末に病死し、皇太后のみが健在である。
「ざっと、こんなところだ」
と、おれは壁に設置した一〇〇インチの大スクリーンのデータ解説を終えた。
「建国以来、ざっと九〇〇年。その間、王家に対する暴動や抗議運動は一切起こっていない。ま、愛される国王一家と言えるだろうな」
「よかった」
“プリンス”がため息をついた。
「それで、あの……僕の……」
「ん?」
「母さん[#「母さん」に傍点]よ。馬鹿ね」
「データ不足だ。米軍の資料にもそこまでは載っていない」
「そうですか……」
「香港のときの記憶はないのかい?」
と、おれは訊いてみた。
「いえ、まるで」
そりゃ、そうだ。代々木公園でやり合った奴の話だと、数人の腹心が付き添っていたというが、そいつら、みんなやられてしまったんだろう。
「ま、元気を出せ。共和国のどこかでのんびり暮らしてるかもしれない」
「そうよそうよそうよ」
ゆきが、“プリンス”の背中を、平手でぽんぽんぽんと叩きながら言った。
「人間、物事を悲観的に考えちゃ駄目よ。夜はいつかは明けるのよ」
この淫乱娘にしちゃ、まともなことを言う――と思いきや、
「その点について、身体で教えてあげるわ。今夜、お部屋にいらっしゃい」
「よさねえか、この色情狂」
おれは歯を剥いて注意を促した。
「一〇歳の小学生に何教える気だ。精神状態が滅茶苦茶になるぞ」
「ふっふっふ」
と、ゆきは妖しく笑った。
眼は笑っていない。――本気なのだ。今夜から、“プリンス”の童貞にも気を配らなきゃなるまい。
まさか、小学生を、なんて常識はこの女に通用しない。目的のためなら、あどけない幼児でも手ごめにしかねない破廉恥娘だ。
「でさ。ローラン共和国のことはわかったけど、どうやって潜り込む気よ?」
「内緒だ」
「なんですって!?」
ゆきが柳眉を逆立てた。
「おまえの希望が叶えられなくて済まんが、今回はニューヨークで遊んでもらおう。ローランへ渡るのは、おれと“プリンス”だけだ」
「どういうことよ?」
ゆきは歯を剥き、荒く息を吐いた。
以前、TVで観た怪獣の唸りに似ている。
「嫌な予感がするんだ」
おれは正直に言った。
もちろん、効果などなかった。ゆきに景気をつけただけだ。
「冗談じゃないわよ。あんた、いつからノストラダムスよ? 黒猫が前を横切っただの、茶柱が立ったの立たないのでやることを決めてたら、世の中の産業は成り立っていかないわ。あたしが思うに、これは陰謀ね。あんた、何とか山の宝だけじゃなく、ゼーマン王家に取り入ることを考えたんでしょ。武家や朝廷に色目つかった日本商人のやり方よ。それには、あたしってもんが邪魔になるわ。なにしろ、未来のお妃さまなんだからね。いいわよ、行ってごらんなさい。その代わり、あたしも何が何でもローランへ渡り、あんたの陰謀を洗いざらいぶちまけてやるからね。死なばもろともよ。この世界と一緒にあなたも滅ぶんだわ」
ゆきは立ち上がっていた。
立ち上がりながら、じろりとおれを見た。
戦慄が胸を貫いた。
あの眼。この形相。ジェットの中で、おれを襲った――
判断は空中でしていた。眼を見た刹那、おれはゆきに跳びかかっていたのだ。
身体がふわりと浮き、おれは間一髪で身をひねって、足から床に降り立っていた。
おれでなければ、後頭部と背中を思いきり打ちつけて、スリー・カウント取られてるところだ。
ふり向いて、おれは眼を剥いた。
そこにいるのは、ゆきではなかった。古風な黒塗りの鎧に身を包んだ中世の騎士――ただ、闇色の鉄仮面の中の顔だけが、ゆきのものだった。
「動くな!」
と叫んだが遅かった。
隙を見たつもりでおれの方へ移動しかけた“プリンス”の首を、黒光りする指ががっちりと捕らえ、次の瞬間、少年は小脇に抱えられていた。
「子供を離せ!」
と、おれは叫んだ。
「そうはいかん」
と、ゆきの顔をした騎士は、ゆきの声で言った。
「私を置いてローランへ向かうという以上、この子を離すわけにはいかん。聞けば、ゼーマン王家の正統な嫡子。子供に怨みはないが、王家には呪いをかけた。ここで首の骨へし折ってくれようか」
「その件に関しては、話し合おう」
おれはすかさず、妥協案を提出した。
話しぶりから、この黒の騎士――ゆきに取っ憑いた悪霊が、決して邪悪そのものとは限らないと踏んだのだ。
「どうしても、というんなら、こっちにも考えがないわけじゃあない。だから、子供を離せ、な?」
「いいや。その手には乗らん。戦乱の世を潜り抜けてきたこの私だ。おまえごとき若造の悪計にはまりはせん」
「わかった。わかった。――で、あんたのことを知りたい。誇り高い戦乱の騎士の正体をな。それと、なぜ、ゼーマン王家に怨みを抱いているのか。事と次第によっちゃ、連れていかんでもないぜ」
うまいこと思いついて、交渉を有利にと思ったのだが、騎士はせせら笑った。ゆきの声だから、憎々しいことこの上ない。
「事と次第によっては? ――笑わせるな、若造。決めるのは、すべて、おぬしではない。この私だ」
「わかった。その件に関しても、後で話し合おう。で、教えてくれ、あんたの名を」
おれはできる限り、誠実な高校生らしい声をふり絞った。この辺はお手のものだし、必死でもあった。
首根っこを押さえられた“プリンス”が、苦痛に顔を歪めたのだ。
効果は――上がった。
騎士は誇り高く言った。
哀しげに。
「私の名は、栄光にみちたカッシーニ侯の下僕《しもべ》、忠実なる戦士シャルロット――シャルロット・クレマンティー」
「女か」
おれは唖然とし、同時に納得した。ゆきも女だ。やはり、同性の方が取っ憑きやすいらしい。
「女ではない! 戦士だ!」
烈火のごとき怒声がおれの全身を打ち据え、“プリンス”が低く呻いた。
おれは、あわてて、
「わかった。――その戦士、名誉ある戦士が、なぜ、ゼーマン王家を呪う?」
ゆきの――シャルロットの眼に、凄まじい憎悪の炎が揺れた。訊かなきゃよかった。
「呪うべし、ゼーマン一族。奴らは、私をたばかったのだ。常に清廉潔白を身上として生き抜いてきた身に、卑劣にも毒を盛りおったのだ!」
これは後でわかったことだが、ゆきに取り憑き、そのくせ、自分の姿は見せずに鎧ばっかり出して他人《ひと》を威圧する中世の女騎士シャルロット・クレマンティーは、確かに実在した。
当時のゼーマン家の王、マイオンヌが、イギリス攻略の件でパリに上洛した際、彼女が仕える主人カッシーニ侯との間に、些細なことからトラブルが生じ、主が侮辱されたと見たシャルロットは、その場でゼーマン家の家臣三名を斬って捨てた。
数日後、彼女はマイオンヌが開いた和解の酒宴に主人とともに招かれ、毒入りのワインを飲まされて絶命した。――これは、記録にも残っている。
女だてらに男三人を平気で斬殺する根性の主だ。卑怯な手を使って殺られた怨みは、百年経っても千年を経ても残るだろう。死霊秘宝館へ入れられたのは、彼女にとって幸いだったのかもしれない。まったく、時代と国こそ違え、よくも似た玉にくっついたものだ。これだから、女は油断できない。
とにかく――“プリンス”を人質にとられている以上、ここは懐柔策しかなかった。
「ようし、わかった。連れて行こう。約束する。だから、今日のところは引っ込んでくれ。おれも男だ。約束は守る」
「マイオンヌの奴もそう言いおった」
シャルロット=ゆきは嘲笑した。
「毒入りのワインを片手に掴み、“わしも男だ。和解の誓い、決して反古にはせん”と」
「おれは出来が違う。――あんた、取り憑いた女と話ができるか? だったら訊いてみろ。おれという男がいかに誠実で信頼が置ける勇士か否か」
シャルロットは、少し沈黙した。
それから、軽蔑モロ出しの眼でおれを眺め、
「おまえの家系は、ペテン師で埋まっているそうだ」
と言った。
「野郎!」
絶叫したが、追っつかない。
おれを見るシャルロットの瞳には、言い知れぬ怒りが溢れていった。あの馬鹿《ゆき》――何を吹き込んでやがる!?
「許せん」
と、女騎士は大喝《たいかつ》した。
やっぱり。
「何という……何という卑劣な男……若い分際で、手当たり次第、女を犯し……」
「ちょっと待て」
「……無理矢理に貢がせ、用がなくなれば捨て去り……」
「おい」
「いかに時移り世が変わろうと、人間の尊厳は守らねばならん。人の則《のり》は維持されねばならん。――私は、おまえを斬る」
いつの間に出現したのか、騎士の左腰には、さっきまでなかった幅広の長剣が重々しくぶら下がっていた。
がしゃん、と鉄の指が柄を掴んで、白光が鞘からこぼれた。
恐怖よりも、おれはうんざりした。
一体全体、何だってこう、本筋から外れた連中の相手ばかりをしなくちゃならないんだ!?
びゅっ! と、白光が空気を灼き、おれは寸前――一メートルも跳びすさっていた。
凄まじい腕――しかも、本気だ。
グロックは左のショルダー・ホルスターに収まっている。現在の九ミリ・パラベラム弾なら、中世の鎧ぐらいわけなくぶち抜ける。だが、傷つく肉体はゆきのものなのだ。
ふと、恐ろしい考えが脳裏を横切った。
そうか。足でもぶち抜いときゃあ、シャルロットの霊は消えるかもしれん。しかも、ゆきは動けない[#「動けない」に傍点]。留守番の理由もつく。――これ[#「これ」に傍点]だ!
喉もとめがけて突き出された剣をかいくぐり、おれは、眼にも止まらぬ速さでグロックを抜いた。
引き金《トリガー》から三ミリほど出た安全装置《セフティ》が引っ込む独特の感触。
低い音が鼓膜を突いたのは、その瞬間だった。
フロントからの警報だ。
誰か、ろくでもない客が、やって来やがったのだ。
えい、こんなときに。
「よせ!」
と、おれは叫んだ。
「ゆきに伝えろ。敵が来た!」
返事は、真横から叩きつけられた豪剣だった。
声を押さえてかわし、おれは跳びのいた背に、固い気配を感じた。
壁だ。
追いつめたと思ったか、シャルロットの顔を、勝利の笑みが彩った。
それが煙った。
「邪魔するな!」
と女騎士は、おれ以外のものに向かって言った。
ひょっとして、ゆきか!?
それも束の間。
拮抗する意志の戦いに顔を歪めつつ、シャルロットは、立ちすくむおれの頭上めがけて、真っ向から一刀を叩きつけた。
流れる光芒。
しかし、それは、おれの頭頂を割る寸前――一〇センチほど手前で弾き飛ばされていた。
「――!?」
何が起こったのか歴戦の女騎士にもわからなかったろう。
空手の上段受けでシャルロットの刀身を撥ね上げながら、その手首を押さえ、おれは滑らかに彼女の内懐《うちふところ》へ入った。
胸の裡《うち》で日本武道に感謝しつつ、腰を跳ね上げる。
自分で言うのも何だが、鮮やかな一本背負いだった。
女騎士の身体は刀身と等しく廻り、地響きをたてて床に激突した。
次の瞬間――長剣と“プリンス”は自由の身になっていた。
「八頭さん!」
叫んで駆け寄ろうとする少年の肩を、おれは部屋の右隅へ突き離した。
ドアの方で、電子装置らしい音が鳴った。
おれは床上のグロックを見つめた。
日本柔道の妙技をお披露目したとき、すでに抜いていた拳銃は地面に落としておいた。
「邪魔するな」のひと言で射てなくなったのだ。
戸口から三つの人影が飛び込んで来たとき、おれはグロックへ飛びかかる寸前だった。
間に合わない!
人影の銃口がおれに向くのを意識しつつ、おれは右手を思いきりふった。
背広姿の殺し屋どもも、まさか、中世の豪剣をぶつけられるとは思ってもみなかったろう。
柄と刀身を顔面に食らい、二人が吹っ飛んだ。
感謝しろよ。狙って投げたんだ。
たたらを踏んだ三人目の、消音器付きウージー短機関銃が唸りをあげたとき、おれはグロックを握って、ソファの陰に飛び込む余裕があった。
九ミリ弾頭の着弾で、革張りのソファが揺れる。
糞。二〇〇万円もしたイタリア製だぞ。
おれは、ソファの脇からグロックを突き出し、勘で引き金《トリガー》を引いた。
悲鳴があがり、弾痕は壁と天井に移行した。修理代は誰が出すんだ、こん畜生。
おれはソファから起き上がり、両腿をぶち抜かれて横倒しになったはずの殺し屋の肩に、一発射ち込もうとした。
代行業者がいた。
おれの眼の前で、殺し屋は高々と持ち上げられ、物凄い勢いで床へ叩きつけられていた。カエルと同じだ。悲鳴もカエルみたいだった。
床上で、鼻っ柱を叩き潰された殺し屋が、真っ赤な顔で何か罵り、右手のSW・M645をシャルロットに向けた。
彼女には何のことかよくわからなかったろう。
だが、一瞬遅れて、殺し屋の右肩は、侵入した九ミリ弾頭に骨も肉もぐずぐずにされた。
もうひとりは両手を上げたが、シャルロットの長靴《ブーツ》に情け容赦もなく顔面を蹴り上げられ、一発で失神した。
あまりの凄惨さにあっけにとられたおれを、白いゆきの顔がふり向いた。
「借りができたな」
「まあな」
と、おれは答えた。
「いずれ、返す」
そう言ったかと思うと、シャルロットはゆきに変わっていた。
おれは部屋の隅に眼をやり、壁に貼りついている“プリンス”に、
「大丈夫か?」
と訊いた。
「平気です」
落ち着き払った声。血は争えねえな。
「えらいことになっちゃったわね」
何もかも見知っているのか、のうのうと太平楽を並べる女がいた。
「ああ、えらいことだ。こいつら、始末しなくちゃな。ニューヨークなら簡単だが……」
「肉屋へ売っちゃったらどう? こいつなんか、豚みたいに太ってるわ。挽き肉にすればお金くれるわよ」
とんでもねえことを言いやがる。
おれは素早く、鼻と右肩を潰され、ひいひい言ってる男のそばに身を屈めた。
グロックを口の中へ突っ込み、
「肩だけでたくさんだろ?」
と訊いた。
出血のせいか、男の顔は白っぽく光っていた。汗だ。
男はうなずいた。
「ローラン情報部のものか?」
おれは、グロックの銃身を口から離して訊いた。英語だ。
「そう……だ」
「このホテルの場所を、誰から訊いた?」
「……」
「黙ったまま死ぬか? ほおっておいても出血多量だ。それとも、この姿で三人とも外へ出してやろうか。この辺は下町でな、腹を空かせた野良犬がひどく多い」
男はおれを見た。
本気だと悟った。
おれは本気だった。
「CIAだ。……極秘の……コネがある」
やっと、血の気を失った唇が言葉を発した。
「どいつとだ?」
「それは……」
「仕様がねえな。そうしょっ中、気が変わっちゃ」
言いざま、おれは男の肩の傷へグロックを叩きつけた。
男は泣き叫んだ。
「遊びじゃねえんだよ、おっさん」
と、おれは事態の本質を説明してやった。
「わからない……おれはただの下っ端だ。そこまでは知らん」
本当だ。
あきらめて立ち上がったおれの耳に、またも警報が鳴った。
第二陣か。こりゃ、引っ越した方がいいかな。
「ゆき、“プリンス”と奥へ行け。ロッカーの中に武器がある。いざとなったら、それを持って、非常口から逃げろ。ドアは通じてる」
「了解」
ゆきは身を離した。こういうときは素早い。
おれは、グロック片手に迫り来る敵を迎えた。
戸口に気配がしたと思うと、金髪のスーツ姿が飛び込んできた。
柱の陰から狙っているグロックとおれを認め、
「射つな、味方だ! ミスター八頭」
「銃を捨てろ。外の奴らもだ」
「その必要はないよ」
きき覚えのある声と、見覚えのある姿が一緒に入ってきた。
おや、これはこれは。
渋いスーツ姿の中年紳士は、部屋を一瞥し、
「始末しろ」
と後方の部下に命じて、おれに握手を求めた。
「どうやって三〇分でニューヨークへ?」
「極秘情報だが、ワシントンDCとニューヨークの地下を、リニア・モーターカーがつないだのだ。超電動方式だから、マッハ二でとばせる。ここまで三〇分もかからんよ。もっとも、私が出るまでもなかったがね」
「こいつらにおれの居所を教えたのは、あんたの手下らしい。損害は賠償してもらうぞ」
「謹んでお支払いする。君にデータを送ってすぐ、盗聴されていることに気がついたのだ。新型の逆探知器を仕込んだとまでは知らなかったようだが、かくて、当人を逮捕し、口を割らせ、私自ら、地の底を通って陣頭指揮に現れたというわけさ。無事で何よりだ」
「おれより、月五〇万ドルの賄賂が、だろ?」
紳士は、にやりと笑った。
その背後で、殺し屋どもは消えていた。こいつらは担ぎ出されたのだが、シャルロットの長剣が見当たらないのは、鎧と一緒に未知の世界へ旅立っていったのだ。
「ご存知かどうか知らんが、目下、CIA内部でも、クレムリンなみの権力闘争が巻き起こっていてな――」
CIA局員の代わりに、ブルーの制服制帽をつけた作業員たちが、鞄片手にやってきて、血を拭き取り、弾痕を埋めはじめた。
「最近のCIAは、出動時に、修理屋も連れて歩いているのか?」
「医者もいる。手術台も備わっているよ。みな、君用に調達したものだ。五〇万ドルの寄付者を放っておくわけにはいかない」
「おれ[#「おれ」に傍点]の反対派は誰だ?」
と訊いてみた。
「副長官のリロ・シャピオだ。私と君の関係もよく勘づいており、かなりのデータを集めていた。次期長官候補だな」
「あんたが生きてる限りだめさ」
と、おれはCIA長官に言った。
「だが、一体、ローラン共和国は、どうやって、おたくとコネを持ったんだ?」
「目下、尋問中だ」
「わかったら、教えてくれ」
「いいとも。意外な事実が判明するかもしれん。――それより、せっかくワシントンくんだりから出向いたのだ。外で一杯どうだね?」
「いいだろ」
おれはあっさりと首肯し、奥の寝室へ行った。
二人の姿はなかった。
ゆきは、おれが殺《や》るか殺られるか、はっきりするまで待つような愚は冒さなかったのだ。
大したもんだ。
おれは嘆息し、戻って長官に一杯は中止と告げた。
「それは残念だ」
肩をすくめた彼に、戸口にいた部下が、
「長官、お電話です」
と言って、小ぶりなショルダー・バッグから有線の受話器を差し出した。バッグには、高出力のバッテリーが内蔵されているのだろう。おれも知っているが、あれだけの大きさで、丸々一日保つ。VIP専用ともなると、市販品と違って、ノイズは入らないし、世界中何処へだって、直接プッシュ・インすることができるのだ。どこかのジャングルで餓え死にしかかってる男のもとへ、パリの「マキシム」から間違い電話が入るって皮肉な事態も考えられる。
もはや、この世に隠者生活はあり得ない。
長官は、受話器を耳にあてハローと言ったきり、無言で向こうの話をきいていたが、やがて、受話器を離して、おれに突きつけた。
「君だ」
? と思ったが、この頃じゃ、どんな事態でも起こり得る。おれは受話器を耳にあてた。
「はいよ」
「名雲陣十郎でございます」
「……」
「実は、いま、ある方々に捕らわれの身となっておりまして、大変、危険な状況にあるのでございます」
冬の霧雨のような、陰々滅々たる声であった。
「お加減はどうかね?」
声が変わった。誰のものでも、あいつ[#「あいつ」に傍点]よりはまし[#「まし」に傍点]だ。この声を除いては。
「何処にいるんだ、“大佐《コーネル》”?」
と、おれは訊いた。
「すぐ近くだ。しかし、聞きしに勝る実力の持ち主だな、君は」
声に含まれた心底からの感嘆を無視して、
「あんたは嘘つきさ」
と、おれは冷たく言った。
「ほう」
「“プリンス”のシンパみたいなことを言っときやがって、よくも、おかしな雲だの大鷲だのに襲わせてくれたな。おまけに今も、殺し屋をよこしやがった」
「何のことだ?」
大佐の声には、明らかな動揺が含まれていた。
「てめえの胸に訊いてみろ。さもなきゃ、あんたは上司として失格だってことだ。命令ひとつ行き渡らせられないんじゃな」
「誰かが君と“プリンス”を狙ったのかね?」
「話にならねえな、あばよ」
「待ちたまえ。事実なら聞き捨てならんが、その前に、君の父上の親友が話があるそうだ」
おれは天を仰ぎたくなった。
「陣十郎で」
「よう、親父の親友」
「あれは言葉の綾で。お忘れ下さい」
「そんなとこで何してる?」
「こんなことを申し上げたくはございませんが、すべては八頭大さまのせいでございます」
「何だあ?」
思わずあげた大きな声に、長官がびっくりしてふり向いた。部下のひとりは、右手を背広の内側へ滑り込ませている。
「どどどういうことだ? 説明しろ」
「よろしゅうございます」
受話器の向こうの声は、血も凍る凄惨さを帯びた。
怨霊の声というのは、こんな感じだろう。それも、不景気な怨霊だ。
「わたくしは、東京の六本木で、八頭さまのマンションを訪問いたしました折、挙動不審な人物がお部屋の前をうろついているのを発見し、後をつけました。日本での最後のお電話は、彼のアジトの場所を申し上げようとしたのでございます。それを八頭さまは、容赦なくお切りになりました」
道理で意味ありげだったと思った。
「――ところが、敵もさるもの。実に巧みに尾行していたと思っていたわたくしも、帰りは逆につけられていたのでございます。かくて――というわけだ、ミスター八頭」
最後は“大佐”の声に変わった。
全く油断のならない野郎だ。おれとCIA長官の仲まで嗅ぎつけ、わざわざ、あっちへ電話をよこすとはな。ということは、このホテルの場所を“大佐”は掴んでいないとみえる。やっぱり敵も二派あるのだ。
「お父上の親友をどう取り扱うかは、君の胸先三寸にかかっておる」
“大佐”は抑揚のない鋼《はがね》の声でつづけた。
「君の持つペンダントと引き換えではどうかね?」
「持ってねえよ、んなもン」
「とぼけるのはよしたまえ。君ほどの用心深い男が、肝心要の品も手にせず、どこの馬の骨ともわからぬ子供を連れて、我が国へ乗り込む気かね? 元国王陛下ですら、今のプリンスの顔は知らんのだ。誰かが騙り者だと言えばそれっきり。それを承知で乗り込むとなれば――」
「さて、どうですかね」
おれは、とぼけ抜いた。相手に少しでも有利な材料を確かな形で与えてはならない。
「それからな、いまのとぼけた電話をかけてきた、親父の親友――あいつに伝えてくれ。親父の遺言で、お付き合いはいたしかねます、とな。あばよ」
「いいのかね?」
“大佐”は平然と言った。畜生。
「我々にも心理戦担当の部署があってな。君の行動パターンも分析させてもらった。この老人が親の敵でも、君は見殺しにはできまい」
「残念だったな。おれはそんなに甘かねえ」
「そうか」
声と同時に、悲鳴がきこえた。
それがもう、この世のものとは思えない、地獄の鬼の金棒で叩き潰される不景気な亡者の唇から出るようで、さしものおれも立ちすくんでしまった。
驚いたことに、“大佐”の次の言葉にも、怖気が感じられた。名雲陣十郎の不気味さは万国共通なのだ。
「――これでも、甘くないと澄ましていられるかね?」
「そっちで勝手に処理しろ。厄介払いだ」
とは言えなかった。厄病神にしろ死神にしろ、外見は、よれよれの爺さんなのだ。
「――条件は何だ?」
「いま、言った通りのものだ」
「場所と時間は?」
「明日の正午、ローワー・マンハッタン《LOWER MANHATTAN》のサウス・フェリー乗り場へ来たまえ。こちらから参上する。くれぐれも、余計な連れはないように心がけてくれ」
「わかったよ、糞ったれ」
悪態をちゃんときいてから、電話は切れた。一応の礼儀はわきまえてるらしい。さすが“大佐”だ。
おれは受話器を人間電話ボックスに戻して、大きく伸びをした。
「経済大国のプレイボーイは大変だな」
と、長官がやさしく声をかけてきた。
「何だったら、うちの手を貸すぞ」
「後が怖いからやだ[#「やだ」に傍点]よ」
おれは、長官のやさしさを裏切らないような声で、きびしく言った。情報機関に借りをつくったら大変なことになる。北極点から隣の煙草屋まで、行く先々すべてで情報部の役に立つ仕事――すなわちスパイ行為を強制させられるのだ。
「何かあったら、また、よろしく頼むぜ。じゃな」
CIAの一党を追い出してから、まず、おれのしたことは、電話を一本、だった。
次には、待つことだ。
ローラン共和国の最新データを読みながら、「小梅ちゃん」をぽりぽりやっていると、二時間ほどして電話のベルが鳴った。直通だ。
「あいよ」
「八頭か。ベンだ」
と、ニューヨーク一の情報屋は言った。
「探しものが見つかったぜ」
「ありがとさん」
と、おれはさほど気の入った風もなく言った。
ニューヨークのことなら、毎日下水道で生まれるネズミの数まで知っているといわれる物知り博士だ。ゆきと“プリンス”の行方を探し出すくらい、どうってことはない。
「で、どこだ?」
「そうだな、現在、ブルックリン橋上空八〇メートル」
「――?」
「ヘリで“ナイト・フライ・ツアー”を楽しんでるんだ。発着場は『ダウンタウン・ヘリポート』。三四丁目イースト川《リバー》岸にある。下で一〇分も待ってりゃ、自然と上から降りてくるさ」
「サンキューでした」
おれはすぐ、言われた場所――ダウンタウン・ヘリポートへ車《レンタ・カー》を飛ばした。
すぐ眼の前がイースト川《リバー》という、安全だか危険だかよくわからないところにあるヘリポートには、三機のヘリが鎮座していた。もう一機分が空いている。
受付でオーナーらしい男に訊くと、名簿を調べ、普通は一〇分で降りるのだが、その客ならもう一時間もフライトをつづけていると、呆れ顔であった。
そこへ連絡が入り、男《オーナー》はオフィスへ入っていったが、すぐに出て来て、にやりと笑った。
「もう三〇分延長だ。待つのも退屈だろ、あんたも追っかけたらどうだね? 夜のアベック飛行というのも、オツなものだよ」
それもそうだ。
「すまんが、ヘリポートだけ貸してもらえねえか。料金は一ドルでどうだ?」
「何をやる気だね?」
「一ドルでよけりゃ、教えてやるよ」
「二ドル」
「よかろう」
おれは、車のトランクを開け、西瓜《すいか》二つ分ほどのビニール袋を取り出した。
ただし、重量は七〇キロほどある。
空いてるスペースの真ん中に運び、袋を取ると、ついてきたオーナーが眼を丸くした。
おれが広げたのは、直径三〇センチ、高さ五〇センチほどの金属円筒二個を、半月状の金属帯《メタル・ベルト》でつないだ品だった。
円筒上部の旋回銃座から、二本の銃身が突き出ているのを見て、オーナーが、
「何だい、こりゃ?」
と訊いた。
「早いとこ、モデル・チェンジを考えるんだな。――あと一〇年もすりゃ、これをつけたガイドが旗ふりながらお客を引率するようになるぜ」
おれはにやにや笑いながら、銃座の上についている操縦ユニットを指で弾いた。
円筒――ターボ・ファン・エンジンが作動を開始する。内蔵した拳大ほどの圧縮タンクから噴き出る燃料が毎秒五〇〇〇回転の力をファン・エンジンに与え、ヘリポートの埃を吹き散らしながら、二基のエンジンはゆるやかに上昇を開始した。
ちょうど、上端が腋の下へ辿り着くあたりで、おれは上昇をストップさせ、おれは二つのエンジンの間に身を滑り込ませた。
円筒を抱え込むようにしてベルトの長さを調節し、付属の前ベルトも締める。こちらはゴム製だ。
エンジンと一緒に包んでおいたヘルメットは、もう被ってある。
ゴーグル状の視覚《ビジュアル》スクリーンを下ろし、おれは首を左右に回転させた。
カチカチとターレット音を刻んで、スクリーンと連動した銃座が旋回する。中身は二〇ミリ機関砲弾発射機構だ。
機関砲弾といっても、この発射機構は通常の弾丸を使用しない。機関部の末端に取りつけられた高圧縮ガスが、直径二〇ミリの鋼球を、毎秒一七〇〇メートル――なんとマッハ五の超高速で弾き飛ばすのだ。
鋼球の重さは、約一〇グラム。五〇〇メートル先の五ミリ鋼板をたやすく貫通する他、内側を空洞にして炸薬と信管を入れておけば、超小型の爆弾になる。
薬莢だの炸薬だのが不要な分、重さも容積も少なくてすむから、小さなスペースにも、二〇ミリ機関砲弾の一〇倍もの量が積載可能だ。銃座内弾倉《マガジン》には、三〇〇〇発が収まっている。
製作はご存じ、ジェネラル・ダイナミックス社。工場以外で使うのは、今日がはじめてだ。
おれは両手で小ぶりな操縦桿を握り締め、
「じゃあな」
とオーナーに挨拶して上昇を開始した。
あっけにとられた顔がみるみる小さくなり、ヘリポートに溶け込むと、ポートも闇の中に消えた。
代わりに、おれの周囲には、眼もくらむばかりに鮮やかな、夜のマンハッタンの光景が浮かび上がってきた。
摩天楼《スカイ・スクレーパー》というのは、ひとつの巨大なイルミネーションだと言える。
窓に点る明かりだけでも、軽く数百を越えるのに、派手好きなアメリカ人は、ビルの周囲にもライトを点け、それ自体を一大電気看板にしてしまうのだ。
すべてが黄金にかがやいて見える。
この不夜城を眼のあたりにすれば、どんなに腹が減った人間でも、世界を睥睨《へいげい》する王の気分になれるだろう。
おれは、ターボのファンを水平移動に切り換え、五番街の方へ向かった。
しかし、殺し屋に襲われて逃げ出した先が“ナイト・フライ・ツアー”とは、なかなかユニークではある。足底を地面にくっつけて追いかける奴らは、獲物の足が宙に浮くとは考えにくいものだ。ま、単に遊び半分かもしれないが、その辺はよしとしよう。
とにかく、早いとこ捕まえないと、ヘリの真ん中でシャルロットでも出現したらえらいことになる。
高度二五〇で、おれはマンハッタン最大の歓楽境・五番街へ向かった。
ここは北と南に分かれる。夜のNY《ニューヨーク》の代表スポットがブロードウェイだとすれば、昼は五番街だ。それも北。プラザやリッツ・カールトンといった超豪華タワーをはじめ、有名ブティック、近代美術館、ラジオ・シティ・ミュージック・ホール、トランプ・タワー、ロックフェラー・センターといった名所が揃っている。
ヘリの姿はなかった。夜になれば、店は閉まっている。じゃあ、と五番街南へ。五番街の五〇丁目から三二丁目までは、一般にロワー・フィフスと呼ばれ、十九世紀中頃のNYの中心地だった。
雑誌「ニューヨーカー」が創刊されたことで名高いホテル・アルゴンキンやマジソン・スクエア・ガーデン、ニューヨーク市立図書館――古き良きNYの面影を残す建物は、みなここだ。
おれは真っすぐ、ある地点に向かった。
五番街と三四丁目の交差する角――
あった。
NYの夜を圧している高層の長槍《ランス》。
地上一〇二階――三八一メートルの建物は、かつてNYの、アメリカの象徴だった。このビルを凌ぐ二つの建物――シカゴのシアーズ・タワーも、同じNYの世界貿易センターも、高い建物というだけの意味しかない。一九二九年の大恐慌に喘いでいたNY市民は、この翌年、灰色の世界に挑むかのように青空へのびていくビルを、どんな想いで眺めただろうか。
エンパイア・ステート・ビルディング。初代の「キング・コング」がここへ昇ったのは、一九三三年のことだ。
北の方から近づいていったおれの視覚スクリーンには、槍みたいな塔のてっぺんに滞空中《ホバリング》の小型ヘリが、はっきりと映し出された。地上三八一メートル。
やっぱりか。
NY→エンパイア・ステート・ビルディング――というゆきの精神構造を尊重すべきだったな。
おれは思いきり高度を上げ、地上四〇〇メートルから接近していった。
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第三章 女責め、あらら
ヘリは、四人乗りの小型機だ。操縦席も客室もガラス製の風防に包まれたきり、おれには、はっきりと、後部座席《バックシート》に腰を下ろしているゆきと“プリンス”の姿を見ることができた。
旋回するローターに気をつけながら、風防ガラスを叩く。
ゆきは、うるさいわね、という風に手をふっていたが、先に気づいた“プリンス”に促され、こっちを向いて眼を見張った。
たちまち、ぺちゃくちゃやり出す。
勝手に逃げ出した弁解だろうと思った。唇を読み、驚いた。
“今まで何してたのよ、人を放っといて”
文句だ。
“死ぬほど怖い思いをしたんだからね。下へ降りたら、決着をつけるわよ”
「この、ど阿呆」
とだけ罵り、おれは着陸しろと手で合図した。
“やよ”
仕様がねえ。
おれは右手を操縦桿から離し、ショルダー・ホルスターからグロックを抜くと、ぼけーっとこっちを見ているパイロットの鼻先に、黒い銃口を突きつけた。
風防を通した威嚇だが、平和に慣れてるパイロットには効果があったようだ。
降りろの合図に、青い顔でうなずく。
そのときだった。
おれの背筋を危険な戦慄が貫いた。
敵が迫っている。
おれは、ヴィジ・スクリーンの画面を、三六〇度に変えた。NYの夜景が、まばゆい平面図となって浮き上がる。
右上空に小さな光点が三個。それがみるみる、奇怪な輪郭を帯びてくる。
翼だ。
あの大鷲かと、おれは眼を凝らした。スクリーンをズームに切り換える。比率照合。ベースは人間だ。出た。サイズは翼長五メートル。鷲にしては平均サイズか。
だが、ズームの自動焦点《オート・フォーカス》は、翼を背負った奇怪な本体を捉えていた。
黒ずくめの人間だ。ごつい暗視鏡《ノクト・ビジョン》をつけ、AK47らしい自動小銃を手にしている。
力強く上下する羽根とは、背中につけた函状のメカで連結されているらしかった。
こいつはちょっとした発明だ。
まず、羽根を広げるだけのスペースがあれば、離着陸は自由自在だ。おれの飛行ボックスにしたって、モーター音を完全に消すわけにはいかないが、鷲ならギリギリまで気づかれる恐れはない。飛行性能にしたって、鈍重なヘリより遥かに身軽だろう。戦闘機相手じゃ、たしかに危《やば》いが、せせこましい市街戦なんかにはもってこいだ。
そして、おれはそこ[#「そこ」に傍点]でやり合わなくちゃならない。
おれはヘリの風防を叩き、パイロットに敵の様子を示して、下へ降りろと合図した。
事態はよくわからないが、逃げるが勝ちと思ったのだろう。パイロットは一気に方向転換に移った。
おれも操縦桿の親指カバーを外した。高圧ガス・ガンの発射ボタンに親指をあてる。
垂直降下に移った。
唸りをあげて二羽――二機かな?――が追ってくる。
ビルの明かりが迫った。
ぎりぎりまで落下速度を落とさず右方へ移動した瞬間、頭上を弾丸がかすめた。
来たか。
おれは奴らの方を向かず、ヴィジ・スクリーンを背後に切り換えた。
ヘルメットと銃座上のレーダーが照準を担当する。
十文字の緑線《グリーン・ライン》が敵の右肩で交差する。垂直線が右へずれた。修整。OK。――発射!
狙いは正確だった。
二人の殺し屋は、のけぞりながら、AK47を放り出した。
たとえ鉄の鎧をつけていても、マッハ五の超高速で飛来する直径二センチの鉄球ともろに衝突しては、たまったものじゃあるまい。
左手で肩を押さえながら、急速下降に移る。
ま、あの羽搏きぶりなら、地面にぶつかってぺちゃんこになる恐れはないな。
もう一機を求めて、おれは急旋回に移った。奴は、ゆきたちのヘリを追ったのだ。
発着所まで逃げていては、追尾の上、射ち落とされる恐れもある。内心、おれはあわてていた。
だが――
おれの内側《なか》にいる何かが、操縦桿を右に傾けた。急降下へ移った刹那、左側の円筒から火花が飛び散り、跳ね返った弾頭は闇に呑まれた。
「こん畜生」
ヴィジ・スクリーンの三六〇度映像で探したが、並んでいるのは摩天楼のみだ。右肩の奥で、気配が動いた。びりっと背筋が寒くなる。凶兆だ。
左へ廻った刹那、耳たぶを熱いものがこすった。
だが、今度こそ、ヴィジ・スクリーンは闇夜《あんや》の発射光を捉えていた。
おれの背後――エンパイア・ステート・ビルのてっぺんだ。地上三二〇メートルの第二展望台――風の強い日は閉鎖されるあそこ[#「あそこ」に傍点]より、もっと高い尖塔の根元に貼りついて、三人目はAK47を構えてやがったのだ。
垂直降下。すぐ、右へ。弾丸はすべて、空を切った。
もともと、自動小銃てのは射程が短い。その中で無闇に弾丸《たま》をばら撒き、敵を釘づけにするのが本来の役目だ。全自動の精密射撃など、五〇メートル離れたら怪しくなってくる。
おれも、エンパイアの壁に貼りついた。身体が音をたてている。急降下からコンマ一秒で直角移動したせいだ。骨が筋肉を食い破りそうだった。
敵はもう射ってこない。上で待ち構えているのだろう。それとも、裏側を降下してくるか。
気配に注意しながら、おれは下方を見下ろした。
心臓の鼓動がひとつ止まった。
六番街――通称「アメリカ街」――とブロードウェイの交差点あたりへ、車の光が四方から集中していく。ヴィジ・スクリーンの感度を上げた。ヘリだ! よりによって、あんな目立つところへ。幸か不幸か、撃墜されたのではないらしく、煙は上がっていない。
とりあえず、上の三人目だ。
おれは四方への精神集中を弱めず、ビルの周囲を廻りはじめた。
明かりのついた窓も多い。多くはオフィスだ。
見つかるとやばいが、仕方あるまい。
いよいよ、真後ろだ。
その刹那、背後でガラスを叩く音がした。ふり向いた。胸にばかでかい青色のファイルを抱えた金髪の女が立っていた。もちろん、ガラスの向こうだ。オフィスらしかった。女の他に人影はない。
きょとんとした表情をしている。見開いた眼は、いまにもこぼれ落ちそうだ。
おれは、にやりと笑った。
女はおずおずと右手を突き出し、Vサインをつくった。妥当な反応といえるかどうかはわからないが、ま、こんなところだろう。
おれはウインクをひとつ残して、移動を開始した。
あの後、女はどうする気だろうかと考えた。別のオフィスへ行って人を引っぱり出し、おれを探すだろうか。それとも、阿呆呼ばわりを承知で、他人にしゃべってまわるだろうか。
超高層ビルの窓の外に浮かぶ謎の怪物――都市伝説なんてのは、案外、こんな風にして出来上がるのかもしれない。
いよいよ、裏側に――奴の隠れてる場所だ。
おれは一気にビルから離れた。身体が重い。風が出てきたのだ。高度は約一五〇メートル。強風も場違いじゃない。これは――秒速二〇メートルってとこか。おまけに、さらにアップ中だ。
五〇メートルで旋回。
いた。
奴もすぐ、おれに気づいた。勘のいい野郎だ。
AK47が火を噴く。おれのエア・ガンも唸った。
精確さでは、レーダー照準つきのおれに、十歩ほど分があった。
奴の弾丸は空中へ消えたのにくらべ、おれの鋼球は見事に右肩へ命中した。
最初の二人同様、こいつも武器を取り落とし、逃げ出そうと降下を開始した。
ちょっと、訊きたいことがある。
下のゆきたちも気になったが、おれは奴の後を追った。
一〇メートルに迫った。
三〇代半ばぐらいの顔がはっきりと見える。不意に奴の左手がおれの方を向いた。したたかな奴だった。左手にはコルト・ガヴァメントと覚しい自動拳銃《オートマチック》が握られていた。
だが、したたかくらいでは、おれも負けていない。反撃は計算済みだった。エア・ガンが唸った。
指をひん曲げて銃が撥ね飛んだ。骨の折れる音がきこえるような気がした。風が、ごお、と来た。
いきなり、奴はすとん、と落ちた。
理由は明らかだった。
風のせいで、奴の身体の動きが狂い、おれの鋼球は、翼のコントロール部分を破壊してしまったのだ。
おれも急降下した。
そのとき、横合いからもろに突風が叩きつけてきた。
身体は半回転し、必死で立ち直ったおれの眼の前から、奴の姿は忽然と消えていた。
落ちたか? ――違う。
魔法でも使ったのか、と思いきや、すぐにネタは割れた。
ビルの窓がひとつ開いている。奴は風に乗って、そこへ叩きつけられ、あろうことか、鍵のあいていた内側《なか》へ入っちまったのだ。
似たような記事を、数年前の新聞で読んだことがある。場所も同じエンパイア・ステート・ビルで、もう少し上の階だった。自殺志願の奴が飛び降り自殺をはかり、折からの強風にあおられて、何とひとつ上の階[#「ひとつ上の階」に傍点]へ飛び込んでしまったのだ。
こうなりゃ、仕様がない。
おれも追いかけた。
そこは、会社のオフィスらしく、大騒ぎがおっぱじまっていた。
なんと、翼の生えた人間が窓から飛び込んで来たばかりか、ドアめがけて片翼飛行を敢行したのである。
そこへ、おれが来た。みな総立ちになり、悲鳴をあげて逃げまどった。おれのターボと奴の翼が巻き起こす風に、書類は吹っ飛び、渦を巻いた。
おれは躊躇せず突進した。
右肩が砕け、左指がへし折れた奴に何ができるものか。
身体の下で、オー・ゴッドとか、ジーザズ、ファックとかが乱舞した。
ドアの前で、奴がふり向いた。
残った一枚の翼が、団扇《うちわ》みたいにふられた。突風じゃない――烈風がおれを撥ね飛ばした。
窓際まで吹き飛ばされ、体勢を立てなおすと、奴はもう、ドアの外へ飛び出していた。えらい仕掛けを持ってやがる。興味と好奇心と独占欲が湧いた。その辺の技術《テクニック》もいただく必要があるな。
ドアの方へ直進しながら、おれはガス・ガンのコンプレッサーを調節した。ガスの圧搾比を初速毎秒一〇メートルくらいにまで落とす。これなら、ひどいダメージはあるまい。
廊下へ出た。
奴は階段を下っていく。片翼で安定する力が尽きたのか、足を使っていた。
「もう、あきらめろ」
と、おれは呼びかけた。
「これ以上、体力はもちっこない。おれの質問に答え、背中の羽根を渡してくれたら、いい病院へ連れてってやるぜ」
奴の足が止まった。病院が効いたかな。壁にもたれかかり、奴は悲鳴をあげた。折れた肩が触れちまったのだ。
「病院だけじゃ、ご免だね」
と英語で言った。
「一生遊んで暮らせるだけの金を貰おうじゃないか。大した坊や」
「いいとも」
おれは、真面目な顔でうなずいた。話をきいた後で値切るつもりである。
「どうして、あのヘリのことがわかった?」
「ホテルの外で見張っていた仲間から、しくじったと連絡が入ったんで、情報屋にきいたのさ。――ベンって奴だ」
あん畜生。二重売りしてやがったのか。まあ、コーネル・ヤンガーの薫陶《くんとう》を受けた連中ならそれくらいのことはするだろう。
「おまえたちは、どっち派だ? ヤンガー大佐か、エニラ師か?」
陽灼けした男の顔から、急に血の気が引いた。
エニラ師というのは、それほどの奴なのだ。ホテルを襲った奴らを見張っていたというのだから、エニラ派だろうと判断し、おれは次の質問を放った。
「おまえらのニューヨークのアジトは何処だ?」
「……だ」
男はすぐに応じたが、きこえなかった。
「何処だって?」
「マリオット・マーキースの二〇階――ローラン大使館だ」
これには驚いた。そんな話はきいてない。
「いつ、アメリカと国交を結んだ?」
「あわてるな」
男は青い顔で笑いかけた。危険な表情だった。人間はある決心をしたとき、みな、こんな顔になる。
「まだ、正式に条約締結はしていない。ざっとひと月後。大使館も部屋の確保だけだ。――おまえ、どういう事情だか知らんが、あの坊主に肩入れして、うまい汁にありつこうなどと考えていると、痛い目に遇うぐらいじゃすまんぞ……」
「余計なことを吐《ぬ》かすな。じき、おまえの国まで押しかけてやるよ」
「それがいい。おまえのような自信過剰な餓鬼は、そのとき、我が国の恐ろしさを思い知るだろう。陸海空のすべてにわたって、ローランの防衛網が張り巡らされている。米ソ以上に堅固なネットワークだぞ」
「面白え。んじゃ、そこから破ってやるよ」
男の顔が笑いに歪んだ。
「いい度胸だ。久しぶりに生きのいい小僧にあったぞ。それに免じて、ひとつ、とっておきの情報を教えてやろう」
「ほう」
「……だ」
男は低い声で言った。きこえなかったのは、よろめいたせいだ。肩と指をやられた苦痛と追いつめられたゆえの精神的破綻だ。
「きこえねえぞ。はっきりしゃべれ」
「……だ」
男は指の折れた手で肩を押さえ、ゆっくりと崩れた。顔には汗の珠が噴いている。
「しっかりしろ」
おれは、わざと[#「わざと」に傍点]大きな声で叫び、階段を下りた。
三段下りてから、思いきり跳び戻った。
ヴィジ・スクリーンの中で、男の身体は粉々になった。
すでに、日本の外務省で経験ずみの人間爆弾だった。詳しい情景は省こう。壁と床と天井が真っ赤になったと思えばいい。音はそれほどしなかったが、衝撃は大したもので、壁には亀裂が入り、階段途中のガラス窓は粉々に砕け散った。下に通行人がいなきゃあいいが。
おれは空中で思いきり旋回し、何とか衝撃波をやり過ごした。男が身に着けていた装備の破片がいくつか命中したが、大したことはなかった。
男はしゃべり過ぎた。多分、みな本当だろう。おれを道連れにする気だった。口が軽くなったのだ。ただし、今までの戦いぶりには似合わなかった。
後始末のためにニューヨーク市警へ払う賄賂のことを考えながら、おれは階段を上がった。誰がいるかはわかっていた。
両手でSWらしい回転式拳銃《リボルバー》を構えたガードマン二人だ。窓から失敬したオフィスの連中が呼んだのだろう。
どちらも屈強な黒人だが、眼は虚ろだ。人間ひとり吹っ飛ぶのを三メートル足らずの距離で目撃すれば、こうならざるを得まい。
「どうする?」
と、おれは空中――地上二メートルの高さから訊いた。
「おれの武器もそっちを狙っている。見ての通り、自動機関砲だ。六〇秒で三〇〇〇発。あっという間に、いまの奴みたいなミンチになるぜ。いやなら、銃を捨てて下がれ。おれのことが気になるんなら、市長のところで訊け」
ガードマンたちは沈黙を維持していた。言葉は出て来ない。出せないのだ。
「捨てろ」
おれは威丈高に恫喝を込めてガス・ガンを発射した。二〇ミリの鋼球が男たちの足元の床を貫き、ばかでかい破片を撤き散らす。二人は悲鳴をあげて、のけぞり逃げた。
前の黒人が銃を下ろした。
二人目もならった。
「お利口さん。市長の件は本当さ。達者でな」
そう言うと、オフィスのドアから覗く男女混合の顔を尻目に、おれは廊下の窓へ飛行していった。
ちらりと眺めると、ドアのガラスには、
『フォーリング生命保険/航空機専門』
と大書されていた。
これ以上、騒ぎを大きくしたくないので、おれは、ゆきたちのヘリが着陸したのと反対側へ降下し、足を地面へつけた状態で、人込みへ近づいた。もちろん、ターボは作動中だ。
降下はビルの周囲を巡りながら行ったが、幸い、怪我人は出ていないようだ。幸運としか言いようがない。これで、ローラン共和国軍のアジトへ、賠償金を出せとねじ込みにいけなくなった。
おれの知らないところで事故ってたら、市警の方へ請求書を廻すよう連絡しておこう。
おれが近づくと、集まってた連中は、一様にぎょっとして道を開けた。
小さなドラム缶を二個、両脇に抱えた日本人の小僧が、水の中を歩くような足取りでやって来た上、ドラム缶の方は、BOONと低いモーター音を発しているのだ。親しげに話しかけてくるわけがない。
おれはやすやすと人垣を突破し、ヘリの前に仁王立ちになってる警官のひとりに、ハローと言った。
そいつも、ぎょっとしたようだが、さすが、何でもありのNYの警官。気を取り直して、ふんぞり返った。
おれは思いきり接近しながら、そいつの腹へ、右手で抜いておいたグロックを突きつけた。
左手でゴーグルを持ち上げ、すぐに下ろす。
警官には、それで十分だった。
「生きていたのか、黄色い厄病神!」
昔馴染みの市警巡査――ベン・バイブリッジは白い顔を大胆にほころばせた。
五年前、おれがNYで静養中、ストリート・ギャングどもと大喧嘩やらかしたときに、割って入ってくれたおっさんだ。そのときから署長クラスの貫禄があったが、口髭がますます立派になったくらいで、階級《グレード》はアップしてないらしい。おれの“恩返し”を含めて、一切の賄賂を受け取らないからだ。
おれを眼に止めて近づいて来た周りの警官も、ベンとの親しげな様子を見て元の位置へ戻った。
「こんなとこにヘリが着陸するから、只事じゃないと思っていたが、やっぱり、おまえが噛んでたか。何だ、その格好は?」
「TOKYOの最新ファッションさ」
「今度は何人半殺しだ?」
「人聞きの悪いことを言うなよ。――おれだって、傷ついてるんだぜ。初めて会ったときのことを忘れるなよ、肋骨に三本もひびが入ってたろうが」
「その代わり、相手の非行少年は全員、顎を砕かれ、利き腕をへし折られてた。二度と食いぶちは稼げなくなったぞ」
「あいつらに頬を切られた女の子のことを憶い出してみなよ。責任は取らなくちゃな」
ベンはにやりと笑って、
「ヘリのパイロットなら、尋問済みだ。空中で空飛ぶ人間に出会って、発着所へ逃げ出そうとしたら、乗客の日本人娘がピストルを突きつけて、ここへ降りろと強制したそうだ」
今度はおれがにんまりした。
ゆきだな。ヘリポートには敵が待ち伏せしていると判断したに違いない。しかし、真下に――それも世界で一番にぎやかな通りのひとつにヘリを降ろすとは、思い切ったことをする。さすが、太宰先蔵の血だ。
「それで?」
「その娘と連れの男の子がヘリを降りた途端、黒服の男たちに取り囲まれ、何処かへ拉致された」
おれは宙を仰ぎたくなった。
「何処だ? ――と訊いても分かるまいな。どんな連中だ?」
「この街じゃ、どんな人間だって普通なのさ。おまえと同じで。明日の晩、飯でも食いに来な」
「ありがたいが、そうもしていられん」
おれは、ため息混じりに四方を見廻しながら言った。
どこへ連れて行かれた?
その場で“プリンス”を殺《や》らなかった以上、大佐のグループだろうが、さっきの羽根男の言い草を信じてもいいのか?
「じゃあな」
おれはベンに片手を上げて背を向けた。
歩くのも面倒だ。
ふわりと上がった。
驚愕の叫びが湧いた。少しは憂さが晴れる。おれは下方を覗いた。
見覚えのある女の顔とぶつかった。窓の中で挨拶した丸顔が、もう一度、Vサインをつくっていた。
その手が曲がり、隣の男の顔の下で停止した。
そいつは渋々、ポケットからドル紙幣を取り出し、女の手に乗せた。どうやら、おれという存在を女が見たか見ないかで、賭けをしていたらしい。ちゃっかりしてやがる。
おれは一気に三〇メートルまで上昇し、一路、ブロードウェイの中心部にそびえる超高級ホテル――「マリオット・マーキース」へと向かった。
一分とかからず、平べったい板を二枚立ててつないだような、斬新なデザインの建物がヴィジ・スクリーンに入った。
たかが大西洋のはずれにある島国のくせに、贅沢なところに大使館を持ってやがる。
ニューヨークのホテルをクラス分けすれば、「マリオット・マーキース」は、わけなく最高級《ラグジュアリイ・クラス》にランクされる。
同列のホテルが、各国の貴族や大富豪の定宿「ピエール」「リッツ・カールトン」、元首クラス専門の「ウォルドルフ・アストリア」「カーライル」の四つしかないと言えば、そのグレードの高さがわかるだろう。三六階まで吹き抜けのロビーを持ち、三六〇度回転のバー・ラウンジは、タイムズ・スクエアを一望できる。
さて、敵の部屋をどうやって探し出すか、だ。
CIA長官に連絡すりゃあ一発だが、何となく業腹だしな。
すぐに決めた。
おれはホテルの窓をゆっくりと覗きはじめた。
窓と窓との間のスペースにぴったりくっつくと、下からは案外目立たないものだ。
時間が時間だけに、濃厚な光景が随所で目撃できた。
ばかでかいダブル・ベッドで上になり下になり、肉弾戦に励んでる白人のカップル、一糸まとわぬ姿でヨガを練習中の黒人のグラマー美女、三人のストリート・ガールを連れ込み、四Pを実行中の日本のおっさん。――みんな、元気で生きてる。
一〇階の、ほぼ真ん中にあたる部屋を覗いたとき、おれは、ついに目的を遂げたことを知った。
運が向いてきたのか、カーテンは開いていた。
どうやら、オフィスらしく、ファイリング・キャビネットやらファックス、テレックスやらの器材が揃っている。
正確には、その残骸が。
おれは眉が自然と寄るのを感じた。
どれもこれも床に落ち、それどころか、何かにぶっ叩かれたみたいにひしゃげて、二度と使いものにならないのは一目瞭然だった。
バットを持ったプロレスラーが殴り込んだみたいな――ここで、ピン、と来た。
シャルロットが出たのではないか。
これなら辻褄が合う。ゆきでもこれくらいのことはやりかねないが、あいつは、物を壊すくらいなら、相手を色仕掛けでたらし込む方を選ぶだろう。
隣の部屋も見て、おれは眼を丸くした。こっちはリビングだが、オフィスよりひどい。バットとプロレスラーが根性悪の台風に変わったようだ。
テーブルは滅茶苦茶、椅子もキャビネットもひっくり返り、大の男が何人もそれに混じっている。
ショルダー・ホルスターをつけているところからして、一般の大使館員ではあり得ない。
しかし、どこのどいつが、プロの教育を受けた情報部員をまとめてぶちのめしたのか?
シャルロットにしても派手すぎる。もうひとり、同じレベルの豪傑が必要だ。
ゆきと“プリンス”の姿は、どこにもなかった。
窓をこじ開けて入ろうか、と思ったところへドアが開き、ガードマンが駆け込んできた。
おれは、素早く上昇して、夜の闇にまぎれ込んだ。
これ以上、愚図愚図していても無駄と本能がささやいたのである。ゆきと“プリンス”は別の場所にいる。ないし、移されたのだ。
ひょっとしたら、反大統領派の手が動いたのかもしれない。
とにかく、これ以上うろつき廻るより、おれはアジトでの情報収集に賭けることにした。
ヘリポートへ戻り、車にターボ・ファンを積んで、ホテルへ。
途中のデリカテッセンで、スペアリブと焼きそばを仕入れ、食料の方もクリアした。明日は大仕事が待っている。
辿り着いたホテルでは、別のものが待っていた。
ドアの外まで来ると、人の気配がする。
フロントの婆さん、何も合図をしなかったな、と訝しみつつ、グロックを抜いた。
ローラン情報部の奴だとすれば、異様にしつこい。
開けようとした途端、底抜けに陽気で色っぽい声が、
「お姉さまァん」
ゆきだ!
すると――お姉さまと呼ばれる女は?
憮然とドアを開けたおれの顔へ、久しぶりに見る野性的な美貌が、白い歯を剥いた。
「ハロー、大」
リマだった。
突っ立ってるおれに、リマは大股で近づき、息が止まるほど抱きしめた。
五秒ほど待ってふりほどき、おれは部屋へ入った。
「どうした、おまえ?……」
訊きながら、半分だけ答えはわかっていた。
半年前、リマは日本を発って、NYの国際人養成学校へ入学した。おれがそうしたのだ。
一緒に暮らしているうちに、おれは、リマという女の身についた国際的《インターナショナル》なセンスや生き方に注目した。
ノアの箱舟という閉鎖的環境で生まれた開放的な性格は、言語や生まれ、生活の壁を越えて、どんな国の人間をも引きつけ、リマ自身も相手に深い理解を示した。一カ月足らずで英語、フランス語、ドイツ語をマスターした語学力よりも、この資質こそ真の国際人のものだと判断したおれは、狭い日本でチマチマしてるよりはと、おれのもとを離れるのは嫌だと喚くリマを説得し、折よくNYで開校したての国際人養成学校へ入学させたのである。学校のカリキュラムや講師陣を十二分にリサーチしたのはいうまでもない。
三カ月後、もと国連事務総長の校長と理事長から、こんな優秀な生徒を迎え入れることができ、感謝にたえないとの礼状が届いた。
今回のNY行きに際して、その顔を思い浮かべなかったわけではないが、人情としては巻き込みたくなかった。だが、こうなっては――もう、運命みたいなものか。
「質問は後にする。――おい、“プリンス”はどこだ?」
おれは、ソファにふんぞり返ってルージュを塗り直しているゆきの方をにらみつけて訊いた。
「それがさ、ヘリを降りたところで捕まるとすぐ、別々の車に乗せられちゃったのよ」
ゆきは手鏡の中の自分をうっとりと眺めつつ答えた。
おれは、その鏡をむしり取り、
「助平化粧は後にしろ。――“プリンス”は何処へ連れてかれた?」
「何すんのよ!?」
ゆきは逆上して叫んだ。
「捕まった途端に別の車へ乗せられちゃったんだから、行き先がわかるわけないでしょ。そうそう、“プリンス”を乗せた車の奴が、ドアを開けたとき、大佐がどうこうと言ってたわ」
「その大佐と会ったか?」
「いいえ」
ゆきは、おれの手から鏡を奪い返し、
「でも、あのホテルの部屋にいた連中、いやらしかったんだから。“プリンス”は大佐んとこ行ったから、あたしを慰みものにしようって襲いかかってきたの。必死に抵抗したけど、そこは、か弱い女じゃない。ブラとパンツだけにされちゃってさ。あわやってとき、お姉さまが来てくれて助かったわ。おっぱいのつけ根だの、腿だのに、うんと触られちゃった」
「気持ちよかったろ、この、ど淫乱」
「ええ、そうよ。あんたみたいな、他人《ひと》が眠ったときや気絶してるときだけ、パンツ下げようとするのと、えらい違いよ。キスだけで、いきそうになっちゃったわ」
おれに向かって憎々しげに突き出した唇の脇が、ぴしゃり、と鳴った。爽快!
「大に何てこと言うの」
リマの冷悧《れいり》な瞳に見据えられて、ゆきはたちまち甘ったれた表情をつくった。
「ごめんなさい。お姉さま、だってえ〜〜〜ん」
「言い訳は駄目よ!」
「は〜〜〜い」
おれの方を冷たい眼で眺め、ゆきはすぐ、リマの手にすがりついた。女同士の心情てのは、おれにもよくわからない。
いくらか、胸のつかえがとれた。
“プリンス”は大佐に拉致されたらしい。なら、とりあえず、生命の方は安心だ。敵の内部に二派あるというのは、いつか、こっちのメリットになるかもしれないしな。
それに、大佐とは、厄病神の取引で、明日、会わなきゃならない。
あらためて、おれはリマを見つめた。
「会いたかった、大」
大きな眼が潤んでいた。
「なぜ、こんな修羅場に出て来た?」
おれは思いきり迷惑そうに訊いた。女の涙なんて真っ平だ。
「校長からおかしな礼状が来たが、ちゃんと勉学にいそしんでるんだろうな。単位なんかひとつでも落としたら容赦しねえ。すぐ退学だぞ」
「来年は、二つ上のクラスへ進級できそうだ。でも、退学すれば大のそばにいられるなら、私はその方がいい」
「そんな真似されてたまるか、おまえにはたっぷり金をかけてあるんだ。早く一人前のインターナショナル・パーソンとやらになって、おれの役に立ってもらわなきゃあな」
「わかっている。そのつもりで、努力しているの」
「なんて、功利主義者なの!」
ゆきが激昂しやがった。ソファから跳ね起き、おれに指を突きつけて叫んだ。
「女を何だと思ってるの。あんたの墓荒らしの道具じゃないんだからね。お姉さまは、立派な国際人になって、国連に勤めて、世界平和に貢献するのよ。あんたの道楽の手伝いなんかさせやしないわ。世間が許しても、あたしが許さない」
国際人→国連てのは女の発想だ、と言い返そうとしたとき、ゆきの頬はまた鳴った。
女豹のごとき眼差しでにらみ据えるリマの前で、ゆきは沈黙した。くく、ざまあみろ。女同士というのは、かくあるべきだ。
「ところで、リマ――どうやって、こいつを救い出した?」
おれの質問に、すっかり垢抜けした野性の女はにっこり笑った。
「学校の場所、忘れた?」
「?」
おれは記憶を探った。確か、五番街の三四丁目《フィフス・アベニュー・サーティフォース・ストリート》――
「エンパイア・ステート・ビルの内部《なか》か!?」
おれは叫んでしまった。
「しかし、おれはおまえに会った覚えはないぞ」
「学校の講師に会った」
リマはにこにこと言った。おれをからかうのが、嬉しくてたまらないらしい。
「私は夜間の特別コースも受けてる。次の授業の用意をしてるとき、講師が入ってきて、窓の外に東洋人の男の子が浮かんでいると言った。Vサインも出したそうだ。すぐに誰だかわかった」
「あの女か。――おれを賭けの道具にして、男から金を巻き上げてたぞ」
「あの女《ひと》は一番優秀なエスペラント語の教師だ。――私が廊下へ出て窓の外を見ると、下の方に人や車が集まってる。で、急いで降りてみた。そうしたら、ゆきがさらわれるところだった。幸い、すぐにタクシーが通りかかったので、うまく後を尾《つ》けることができた」
おれは何も言わなかった。
プロの情報部員に、それと気づかせず後を尾けてのけたリマの技量に感嘆する他はない。国際スパイになっても、超一流の名をほしいままにするだろう。
「よくやった、と言いたいところだが、よくきけよ、リマ。おまえの出番はこれっきりだ。あと一時間のうちに家へ帰って寝ろ。今日のことはみんな忘れて、明日からまた勉強だ。――ところで、何故、夜間コースなんか取ってる? バイトなんかしなくてすむだけの金は渡してるはずだぞ」
「昼のコースもちゃんと受けている」
リマは寂しそうに笑った。
「私は大に勉強させてもらっている。夜も遊んではいられない」
おれは絶句した。した[#「した」に傍点]がしっ放し[#「しっ放し」に傍点]というわけにもいかない。
「よくやった」
と、ふんぞり返って賞めた。
「今のお前の仕事は勉強だ。しっかりやれ」
とは言うものの、このしゃべり方は、とても国際人ってわけにゃいかないな。ひょっとすると、日本語のコースは取っていないのかもしれない。動作も、いつも通りきびきびして、優雅さに欠ける。後で言っとこう。
「何か、敵のアジトで耳にしたことはないか?」
「いや」
「なら、もう帰れ。明日からは平凡な学生さんだ。他の奴等を蹴散らして、首席で卒業するのを待ってるぞ。邪魔な奴がいたら、いくらでも足を引っぱってやる」
おれはリマの肩を叩いた。少し痩せたようだ。慣れない生活だから仕方がないといえばいえないこともない。そんなことくらいでへばる娘《たま》じゃあるまい。
「大――明日はどうしてる?」
不意にリマが訊いた。
ある考えが胸を貫いた。ひょっとして、名雲の一件を気づかれたか?
おれは平然と、
「“プリンス”探しだ。――おまえには関係ない」
と突っぱねた。リマは何も言わなかった。
少しして、
「わかった」
とうなずいた。
「帰る。――ゆき、大と仲良くしないと怒るよ」
「はあい」
ゆきは揉み手せんばかりの愛想笑いを見せた。
「そこまで送ろう」
「いいの。独りで帰れる。――何をするつもりかわからないが、気をつけて」
「あいよ」
そして、リマは立ち去った。
少なくとも、ひとりは無傷で済みそうだ。
「お姉さまにはああ言ったけれど」
と、ゆきが背後で喚いたが、おれは、閉じたばかりのドアを見つめていた。
「仲良くなんか、絶対にしないからね」
その通りだ、とおれは納得した。ようやく、笑いが込み上げてきた。
ふり向いて言った。
「当たり前だ。誰がおまえなんぞと手をつなげる。今夜は鉄のパンツをつけて寝ろ。油断したら、全部覗いてくれる」
「あーら、いまだっていいわよ」
ゆきはソファの上で身をくねらせた。もう、横になってやがる。
片手を頭の方へ上げて腋の下を示し、もう片方の手でブラウスの上から乳房を揉む。
熱い声が唇を割った。赤い唇だった。揉み方は、一段といやらしく、巧みになっている。
「ああ……ふ……」
自分の行為に欲情し、ゆきは腹這いになると、おれの前に、ヒップを突き出した。例によって、スラックスの内側から、パンティの線がくっきりと浮き出している。
おれはため息をついた。
リマと別れたばかりだが、仕様がない。
「ねえってば……」
嗄れ声と一緒に、ゆきの尻は左右にくねった。困ったものだ。こういう女には、罰を与えなくてはならない。
二度とこんなことをしたくなくなるほどきついやつを。
おれは一気に跳んだ。
「何をするの!?」
太い声に、あれ、と思った刹那、おれは身をひねって床に着地していた。
眼の前を、黒い腕が横殴りに通り過ぎた。手は指先までの手甲をつけていた。
「これは、シャルロット。誇り高きカッシーニ侯の騎士よ」
おれは片膝を立て、誰にもわかる敬意を込めて言った。
ゆっくりとソファから起き上がった黒い鎧の奥で、ゆきの顔が微笑していた。よもや、この娘に、と思われるような親愛の情に満ちて。
「偉大なるカッシーニ侯の騎士、シャルロット・クレマンティー――聖騎士の名において、おぬし[#「おぬし」に傍点]が気に入ったと告げる」
「あン?」
「わたくしは、いまの女も気に入った。わたくしと同じ精神《こころ》を持っておる。気高く、死を恐れずに主人《あるじ》のために尽くす誠の献身を。だが、その主人はさらに立派であった」
何を言い出すのかと、おれはひたすら、過去の憑依霊を見つめていた。
「女子《おなご》を危険にさらさぬようにと、精神《こころ》を鬼にして追い返す。誰にでも出来ることではない。カッシーニ侯がご健在であらせられたら、わたくしの連れ合いには、必ずや、おぬしのような男を求めたであろう」
これはいかん。かっぱらい、墓泥棒、成り上がり――何でもいいが、こういう理解をされては、八頭家の恥だ。
「あの女には、それなりの利用価値があるんだ」
と、おれは惚れ惚れとおれを凝視する瞳へ、どす[#「どす」に傍点]を効かせた。
「将来、もとは十分に取らせてもらう。だから、無価値なその女――つまり、おまえの宿主は、ここまで連れて来た」
「隠すな、隠すな」
女豪傑は大笑しながら、おれの肩に手をのせた。顔はゆきだから、妙な感じがする。
「海の向こうの小さな国で、この娘を逃がそうとしたこともわかっている。娘はわたくしを知り、わたくしは娘を知ることができるのだ。遺憾ながら、この娘には、いまだに、おまえの気持ちがよくは通じておらん」
「よく[#「よく」に傍点]じゃねえ。全然だ!」
糞。ははは、と来やがった。
「まあ、よい。まあ、よい。おまえたちは、それなりに良いコンビだ。わたくしですら、羨ましい。幸運を祈るぞ――と言いたいところだが」
おれは軽い緊張感を覚えた。シャルロットの声には、危険なものが含まれていた。
兜《かぶと》の奥で、ゆきの顔が生真面目な表情をおれに向けていた。そういうのは苦手だ。
「わたくしは、おまえが欲しくなった。この娘ひとりには、いや、先程の女相手にも勿体ない丈夫。今宵の閨《ねや》を共にしてもらいたい」
「冗談はよせ」
おれは唖然として言った。
「節操のないのが建前だが、幽霊と寝たことはねえんだ。憑依状態の女とセックスするとどうなるか、実はまったくよくわかってない。それがはっきりするまでは、ご免だね」
「どうしても、嫌か?」
シャルロットの声から感情が消えた。
「ああ、嫌だね」
おれも伝法な口調で言った。
「おれからみれば、おまえはどうしたって女だ。男にそんな口をきく女てのは、宝を守る化物以上に気に入らねえ。嫌ならどうする? ――やってみな」
挑発に応じるかのごとく、騎士姿が動いた。腰の長剣ががちゃりと鳴る。何本でも換えが効くようだ。あれも霊物質《エクトプラズム》で出来ているのだろう。
シャルロットは、おれを抱きすくめるつもりだったようだ。
鎧のことは頭に入っていないらしい。
突っ込んできた。
金物をまとった女にしては、大したスピードだが、おれから見れば、やや速いカタツムリだ。
伸ばして来た腕を取り、おれは一本背負いに入った。
棒立ち同様の女を投げ飛ばすのは気が進まなかったが、こういう場合は、はっきりと決着をつけておくに限る。
シャルロットの身体は、大地を揺るがす地響きをたてて床に軽がった。
すぐには起き上がってこない。
衝撃プラス自分の重さだ。
「見事だ」
掛け値なしの賞賛に、おれはミスったことを知った。
「二度目だが、そのような技、これまで見たことも聞いたこともない。伝説の円卓の騎士のものか、ますます、おぬしに魅入られてしまったぞ」
シャルロットの右手が長剣にかかるのを、おれは見た。
鞘から光がこぼれはじめた。
「何のつもりだ?」
おれは、少し本気になりながら訊いた。
「おまえは素晴らしい技をわたくしに見せた。それに匹敵するものを披露しない限り、わたくしはおまえと同じ立場に立てぬ。カッシーニの騎士は、好いた相手に寝てもらう[#「寝てもらう」に傍点]わけにはいかんのだ」
「まだ、そんなことを言ってるのか。――それが食い違いの原因だな。わかった。寝てやるから、剣を仕舞え」
「無礼者!」
光の帯が鼻先をかすめ、おれは息を殺して後方へ跳んだ。
本気《まじ》だ。
ごとんという音がした。肘掛け椅子が倒れたのだ。二つあった。縦に割られたのだ。剣の一閃で、断たれる音も出さずに。
戦慄が背後を貫き、おれは唇が歪むのを感じた。
笑いに。
こうでなくちゃ、と胸の中の昏《くら》い声が言っている。そうともよ。
おれは両手を手刀の形に伸ばし、両肩のあたりで構えた。
何を感じたのか、シャルロットは動きかけて、足を止めた。
騎士の名は伊達じゃあないってことか。
あの剣の鋭さじゃ、気楽にこっちから突っかけるわけにゃあいかない。こいつの技に感心するのは、首と胴が離れたときだろう。
おれは待った。
一分……二分……鎧は微動だにしない。なんて、タフな女だ。
三分。
普通の状況でも、身動きひとつしないなんて不可能だ。
五分。
額に汗が噴いた。降りてくる。いかん。眼の上だ。片眼にでもなったら。
滑ってきた。
よせ。
眉毛の脇を。止まれ。通過だ。あとは――
その刹那、黒い騎士が躍った。
片眼に汗が広がり、一瞬、全身がぼやけた。
次の瞬間、おれは頭上――五センチのところで、ぴしりと打ち合う手のひらの音をきいた。
シャルロットが驚きの声をあげた。
その通り。
おれの頭上へ振り下ろされた必殺の鋼は、二枚の手のひらで挟み止められていたのだ。これだけは、シャルロットの時代の技にもあるまい。
真剣白刃取り。
一〇歳のとき、柳生新陰流の先生から学んだ技だ。
「いえええーっ!」
間髪入れず、おれは両手を左へひねった。
鋼の折れる音は心地良かった。
半ばからへし折った刀身を、おれは拝み打ちにシャルロットへ投げた。
それは棒立ちになった鎧姿の胸当てにあたり、かん高い音を立てて床に突き刺さった。
衝撃でシャルロットはよろめき、かろうじて踏み止まった。
「まだ、やるか?」
と、おれは呼びかけた。
「断っておくが、あれで力半ばだ。これ以上やる気なら、出力一〇〇パーセントでいくぜ」
ひとつうまくいけば、後ははったりでいける。おれの全身は総毛立っていた。シャルロットの攻撃は必殺、おれの白刃取りも必死だったのだ。
果たして、シャルロットはがくりと膝をついた。
刃の一撃がきいたかな、と思いきや、女騎士は折れた長剣を鞘に収め、大きく上体を屈めたのだ。
「わたくしの負けだ」
澄んだ声であった。
それなのに、おれがぞっとしたのは、その中に、恋に狂った女にしか出せぬ歓喜を聴き取ったからである。それなのに、澄み切った声。――女てのは怪物だ。
「どのような敵も、ここまでわたくしを敗北にまみれさせたことはない。わたくし、カッシーニの聖なる騎士、シャルロット・クレマンティーは、ここに敗北を認め、あなたの意志に従うことを誓う」
おれは安堵のため息をもらすところだった。
「しかし」
「なんだ!?」
おれは驚いた。
「話が違うぞ、こら。騎士の誓いというのはイカサマか?」
「それは敗れた後のことだ」
シャルロットは、にんまりと笑った。両手が兜にかかり、ぐいと上方に持ち上げると、上気したゆきの顔が現れた。
鉄の面を足元に置き、両手を背中に廻すと、鎧の胸部がはずれた。
何をする気なのかに気づいて、おれは複雑な気分になった。
いま、死闘を繰り広げた死霊を、おれは気に入ってしまったのだ。
「あなたとの契りを望んだのは、戦いの前。――叶えずにはおかぬ。わたくしはこれまで、戦士としてのみ生きてきた。その枷《かせ》を、今こそ外す。シャルロット・クレマンティー――ひとりの女として愛し合いたいのだ」
おれの眼の前で、鉄のスカートが剥ぎ取られ、脛当てが落ちた。
シャルロットは――ゆきは、不思議にしみじみとした表情で、下に着ていた鎖帷子《くさりかたびら》も脱いだ。
裸身はゆきのものだった。
頬を染め、乳房と危険な場所を手で隠している娘はどちらなのかを考え、おれは哲学的思考に陥るところだった。
白い裸身は、大胆な仕草でソファに横たわった。
ゆきといい、こいつといい、近頃の(?)女はどうしてベッドルームまで行くのを面倒臭がるんだろう。
ま、いいか。――そう思わせるほど、今夜のゆきの裸身は魅力的だった。
見慣れたボディなのに、微妙な違和感が伴い、それが色気に影響している。
純日本産の肉体から漂うヨーロッパの色香とでもいえばいいのだろう。おれの前で大胆に太腿を立て、乳房だけを覆った女は、ゆきとシャルロットの合作なのだ。
おれは唾を呑み込んだ。
「早く」
ゆき/シャルロットが片手を伸ばして、おれの指を握った。熱い手だった。
引かれるままに、おれはソファへ近づき、ゆきの顔を覗き込んだ。
唇から舌がはみ出ていた。指の間から、鴇《とき》色の乳首がこぼれて見えた。
いきなり引かれた。
のしかかる途中で、おれはためらいを捨てた。
顔はもろ、柔らかい肉球の間にめり込んだ。思いきり乳房を吸ってやろうと顔の位置をずらした途端――
「何すんのよ!」
絶叫とともに、頬が派手な音をたてた。
「あれ!?」
「あれ、じゃないわよ。――玉の肌に何をするつもり、この色気違い!」
今度は爪をたてて襲った二撃目から、おれは鮮やかに身を離し、胸に手を当ててうなずいてみせた。
「あっち行け!」
胸を隠しながら、ゆきはテーブル上の灰皿を投げた。
それを左手で受け止め、おれは軽やかな足取りでベッドルームへ向かった。
背後でドアを閉めた瞬間、形容し難い笑いが込み上げ、思いきり吹き出してしまった。
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第四章 海妖戦
翌日になった。つまり、今日だ。
フェリー乗り場へ着く頃には、世界は仄白く変わっていた。
車や通行人も、白い糸を引いて通過するように見える。
霧だった。
ニューヨーク港の潮加減のせいで、時折、こういうことが起きる。
太陽は黄色に澱み、世界中がじめじめとうっとうしく感じられて、不快この上ない。
最高級のノルウェー・スモーク・サーモンと大粒のキャビア片手に、「ピーウィー・ハーマン・ショー」を観るのにもってこいの日だ。
そうしたかったが、そうもいかない。
かくて、おれは、深夜から早朝にかけて、あっちの企業、こっちの警察と連絡を取り合った眠い眼をこすりながら、大佐指定のフェリー乗り場へ出かけた。
切符売り場の広場には、それでも、かなりの人の列が出来ていた。大半はケンタッキーだの、ウィスコンシンだのの田舎から出て来たおのぼりさんだ。日本人観光客も何人か混じっている。
河口を前に、右手には実物の航空母艦イントレピッドを改造した「海軍博物館」が三万トンの偉容を誇っているが、これも霧のせいで、幻のように見える。
所在なしに立っていると、観光客の群れの周りをウロついていた酔っ払い風の男が、近づいてきた。
「ミスター八頭か?」
尋ねる声は、少し酒臭かった。
「あいよ」
「こっちへ来な。特別のクルージングを用意してあるぜ」
「そりゃ、どうも。――昼すぎを指定してくれて助かったぜ」
「……?」
おれは、酔っ払いの後について、フェリー乗り場を少し離れたところにある岸壁まで出向いた。
左が古い桟橋になっていて、中型のクルーザーが停まっている。眼をこらすと、桟橋の先にも、似たような細長い形が見え隠れしている。
この辺は、すでに使われなくなったものも含めて、ニューヨーク港の桟橋群を形成しているのだ。イースト川《リバー》に沿って北上すれば、じきシーフードで有名な「フルトン・マーケット」、その先に「ブルックリン橋」が見えてくる。映画「裸の町《NAKED CITY》」で、殺人犯が追いつめられ、遥か彼方に、幸せそうにテニスを楽しんでいる人々を遠望するのは、確かにここだ。
酔いどれとおれは、もう使われていないらしい桟橋に降り立ち、クルーザーに近づいた。
波の打ち寄せる音が足元からする。潮の香りも強い。
クルーザーの脇に数個の人影が立っていた。
先頭の影が黒いソフトの縁に軽く手をふれた。
「銀座では失礼したな」
霧にかすむ大佐の笑みよりも、おれはかたわらのしょぼくれた人影に注目した。
こっちも、にんまりとした。背に悪寒が走った。
生ける厄病神が。
「まことに、ご迷惑をおかけします」
と名雲陣十郎は一礼した。
「取引の用意はしてきたかね?」
大佐が相変わらずの鋼の声で訊いた。
「さて、な」
「まあ、いい。――では、乗船してもらおう」
「ここ[#「ここ」に傍点]でしろ」
「そうはいかん。君の足が地面を踏んでいると、どうにも落ち着かんのだ。水の上では、そうもいかんだろう」
「さすがにスパイだな。根性が汚え」
おれは嫌みと凄みをミックスしたが、大佐は少しも動じず、
「賓客には、乗船第一号の資格がある。行きたまえ」
脇にのいて昇降階段《タラップ》を示した。
おれは澄ましている陣十郎を横目でにらみつけながら、威厳を失わずに昇った。なめられちゃ敵わねえ。
甲板には、イングラムMAC11を手にした三人組が待っていた。後の連中が乗り込むと、クルーザーはすぐに霧の川を移動しはじめた。
「後ろへ行きたまえ」
大佐の命令で、おれは三人組に導かれ、後部甲板へ向かった。
船尾の手すりに身をもたせかけ、
「いい船だな」
と、おれは大佐の一行に話しかけた。距離は三メートルちょい。
「ローラン大使館の持ち船か。幾らした?」
「余計な心配はよしたまえ。それより、商談といこう」
「“プリンス”はどうしたい?」
「私は昨夜の女戦士《アマゾネス》のことが知りたい。斃《たお》された四人は、いずれも重傷だ。女相手でも容赦なくやり合ったのに、指一本触れずにのばされたそうだ。あまりのスピードに女の顔も覚えていない。決してヤワな男たちではなかった。――知り合いだろう?」
「どうかな」
おれは素っとぼけて、
「その四人がおっ死んでも、おたくの情報部には何の影響もあるまい。“プリンス”がおかしな目に遇うと、おれの方は大損害だ」
「殿下はすでに、生まれ故郷に向かわれた」
「やっぱりな」
予想通りだ。大佐のやることに、遅滞はない。
「君が相手ではのんびりしてもいられないのでな。――ただし、我々と同じ船旅だ」
「そりゃ、また、どうして?」
てっきり、超音速ジェット機ぐらい、奮発したと思ったが。
「“プリンス”を“プリンス”として扱いたくない輩もいるということだ」
「なるほど。エニラ師一派が空港を塞いだか。――だが、その後で船を用意したとも思えねえ。前々からの計算通りだな。さすがは大佐だ」
「賞賛より、もっと実のあるものをいただこう」
「そう、あわてるな」
おれはあっさりと後ろを向き、甲板によりかかると、霧の海を眺めた。
さっきより大分深いが、遠ざかるフェリー発着所やニューヨーク・プラザ・ビル、世界貿易センター等の摩天楼は、はっきりと見分けられる。ビル街の向こうでは、ヘリの音もした。こんな視界不良時に飛ぶとは、緊急救助ヘリだろうか。
悲鳴が上がった。老人のものだ。となると、ひとりしかいない。
舌打ちしてふり向いたおれの前で、名雲陣十郎が爪先立ちになっていた。
一団の中でもひときわ大型の巨漢が、腕を逆に取っているのだ。
「暴力沙汰は好かんが、アマチュアには一番効く。――さあ、全身バラバラになった老人と、宝物を交換したいかね?」
「ない、と言ったら、どうする気だ? そもそも、おまえたち、おれが持ってるって確証があるわけじゃなかろう?」
「前にも言ったが、勘だ」
「それでよく、情報部がつとまるな」
「資料や情報は、最後の決断を容易にさせる手段にしかならない。最終のゴー・ストップは人間が下す。だからこそ、悲劇が生まれるのだ。――私の決断が、この老人と君にとって不幸なものではないことを祈りたいが」
「わかったよ」
おれは、やけっぱちに言って、右手を上衣のポケットに突っ込んだ。
一〇近い銃口が、緊張する。
だが、おれが取り出したのは、まぎれもない、あのペンダントだった。霧のせいで、陽光を撥ね返す、とまではいかないが、本物の黄金のかがやきは疑うべくもない。
「ほら。――調べてみな」
おれは、あっさりと大佐へ放り投げた。
「照合しろ」
大佐の手から、それはかたわらの禿頭に渡った。そいつだけは素手で、学者みたいな顔をしている。暴力沙汰とは無関係の鑑定係だろう。
禿頭は恭しく両手にいただき、通路に用意してあった小テーブルの前に腰を下ろした。
「“プリンス”は無事に到着するかね?」
チェックが済むまで時間がかかりそうだと判断して、おれは大佐にこう質問した。生かして返すはずもない。なら、正直に答えるだろうと思ったのだ。
「すべて極秘裡に行った。まず大丈夫だろう」
「まず[#「まず」に傍点]、てのは絶対じゃないぜ」
「保証はしかねる、ということだな」
「あんたが手こずるほどの相手か。三軍の総司令官だろうが?」
大佐の風雪に耐えてきた岩みたいな顔を、苦渋の翳がよぎった。
「地位では如何ともしがたい相手もいるということだ」
「どうして始末しちまわん?」
おれは挑発的に顎を突き出して訊いた。
視界の右隅に、自由の女神らしい像が見えた。
左手の島影はブルックリン、右はニュージャージーの岸辺だ。クルーザーは、目下、アッパー・ニューヨーク湾《ベイ》を、前方遥かなスターテン島とブルックリンとの境目の水路へ向かって直進中だ。速度は一六ノット(約三〇キロ)というところか。
ここを抜ければ、後は総面積八二二一万六〇〇〇平方キロ――大西洋の大海原が待っている。
「我々は、必ずしも敵対しているわけではないのだ。“プリンス”を王座から遠ざける点では、完全に意見の一致を見ている」
「エニラ師は殺したがってるぜ。連れて帰りなんかしたら、あんたの命も危なかろう。あのペンダントまで渡したら、その場で殺られるかもしれん。エニラ師の造った化物に、頭からがりがりだ。それとも、持ち運びが出来る超小型原子炉を住まいの床下に仕掛けられて、ミニ・チェルノブイリごっこでもやるか?」
「……」
「考え直しなよ、大佐。今どき、軍事政権なんて流行りじゃない。いつかはすたれるさ」
大佐が何か言い返そうとしたとき、鑑定係の禿頭がこちらをふり向いた。
「結果が出ました」
「どうだった?」
「写真しかありませんが、私の見る限り本物です」
「十分だ」
満足げなうなずきと同時に、名雲陣十郎はこちらへ突き飛ばされた。
よろけ倒れるところを抱き止め、おれは、いやいや、
「大丈夫か?」
と訊いた。
「無論でございます」
陰気な声だが、張り切ってやがる。
「商談成立だな」
と、おれはにこやかに大佐へ呼びかけた。
「いま、ゴム・ボートを下ろす」
と、大佐は後ろの部下に指示を与えながら言った。
「ただし、乗船するのは、約束通り、そちらの老人ひとりだ」
「おやおや」
おれは、腹のあたりに集中しているMAC11の九ミリ銃口を見つめた。都合九挺。一斉射撃されたら、文字通りハチの巣だ。
「さっさと離れさせちまえ。おかげで、せいせいする」
「年寄り相手に聞き捨てならねえな。――一体、どうした?」
おれは興味を抱いた。厄病神には違いないが、誰にとってもそうだとなると、話は違ってくる。
「この老人を捕らえてから、我々の身は不運つづきなのだ」
大佐は――このタイプには珍しく――苦虫を噛み潰したような表情で言った。
「隊員がつづけざまに交通事故に遇い、みなの雰囲気が妙に暗く冷たくなった。小さなミスが重なり、単なる定時連絡にすら支障が生じるほどだ。ミスター八頭、死ぬ前に教えてくれたまえ。彼は、何者だ?」
「当人に訊いてくれ」
「私も存じません」
陣十郎は激しく首を横にふった。
「君とのことがなければ、とうの昔に放り出していただろう」
大佐は冷たい声で言った。
「これで本当の厄介払いだ。君には重ねて感謝する」
「何の」
と、おれは陣十郎を横へ押しのけながら言った。
「一応、この爺さんが無事船を離れるまで、ハチの巣は勘弁してもらうぜ――。おい、ボートぐらい漕げるんだろうな」
「は、何とか」
とてもできません、という口調だが、おれはさっさと行けと手で合図し、じき、海面上で膨れ上がったボートへ乗り移って、陣十郎の姿は霧の中に消えた。
「兄貴は世界一の秘書《セクレタリー》なんだがな」
おれは、小さな姿が霧の奥に消えていくのを見届けてからつぶやいた。
いよいよ、本番だ。
「では、これでお別れだ」
大佐が静かに言った。
“機械服《メック・ウェア》”の作動スイッチは人さし指の指輪だ。親指はすでに触れている。
さっと、人垣が左右に分かれた。それどころか、足音も高く後方へ退いていく。
軽い衝撃が胸を突いた。
カーテンの向こうの舞台に立つ花形役者のように、五メートルほど向こうで、ひとりの男が膝をついていた。
その眼には、照準器と覚しい円筒があてられ、それ[#「それ」に傍点]は、細長いアームで、もっと太く長い円筒に取り付けられていた。アメリカ製M72ロケット・ランチャーだ。こんなものの直撃を食らったら、いかに“機械服《メック・ウェア》”といえども――
いや、わからない。保ちこたえるかもしれない。可能性としては、三七《さんなな》――生き残る方が三だ。
「日本での戦いぶりを入手してな」
大佐は静かに言った。
「百挺の短機関銃《サブ・マシンガン》より一発のミサイルを、と思ったのだ。こんなところで射てば、船も損傷を受けるがやむを得ん。海の上の事故ということで、他にも迷惑はかからんしな」
「ご丁寧なことだ」
こう答えながら、おれは妙な予感が“近づいてくる”のを感じた。
よくわからないが、極めて危険な何かだ。
方角は――右舷か。
霧の海だ。
自由の女神は後方に去り、スターテン島の建物の影がおぼろに見えている。
すると。
霧が深くなった。視界は白。すぐに薄まる。
おれの眼は、右舷二〇メートルほどのところに突き出た、黒い塔みたいな影を射た。
それが――
近づいてくる。
「おい。――何だ、あれは?」
指さした。途端に、霧がそれを覆い隠した。
「子供だましはやめろ。八頭家の名を冠する若者でも、生命が惜しくなるのかね?」
当たり前だ、このアナクロ野郎。これだから、心底軍人てのは虫が好かねえ。立派に死ぬために生きてるような奴ばかりだ。
霧が晴れた。
塔は甲板から三メートルほどのところに立っていた。
高さ約五メートル。
いや、塔じゃない。
ぷん、と生臭い匂いがした。
こいつは頚《くび》だ。
生物《いきもの》の頚だ。
「やれ!」
と大佐が命じた声へ、世にも凄まじい咆哮が重なった。
霧の天蓋を突き破って現れた顔は、子供の頃から、科学雑誌のグラビアやイラストで馴染んでいたものと、それほど変わりはなかった。
違うのは、その性質と眼と歯だった。
雷竜《プロントザウルス》は温和な草食獣だ。飢えと憎悪に血走った悪鬼のような眼はしていない。かっと開いた口に並んだ歯も、木や草の根をすり潰す大臼歯や盛り土みたいなもので、肉食獣のような牙じゃあない。
まして問答無用で、ロケット・ランチャーを構えた男の頭に噛みつくなんて――
押し殺した絶叫と、ランチャーだけを土産に、男は空中へ――霧の中へと持ち上げられて消えた。
影だけが見えた。空中でふり廻される影だけが。すぐに落ちて来た。甲板で血の飛沫を撒き散らしながらバウンドする肉体には、首がなかった。
次の瞬間、クルーザーは大きく左へ傾いた。MAC11の射撃音を宙へ放ちながら、大佐以下の情報部員もそっちへ転げ落ちる。
おれは右手で甲板を掴んだ。
指先まで鋼で覆われている。視界は電子スクリーンにチェンジされていた。
“機械服《メック・ウェア》”作動。
黒い巨体がのしかかってきた。
おれは左腋の下のグロックなど考えもせず、甲板の一点に精神を集中した。
M72ロケット・ランチャーは、船室の壁と甲板の間に鎮座していた。
手すりに掴まりつつ、おれはそれをめざして走った。
雷竜の総重量は三〇トン。中型のクルーザーぐらい、訳なく転覆させ得る。問題はその後――海に落ちたら、奴の天下なのだ。
エニラ師の手が動いたに違いない。
大佐の部下の中にスパイがいるか、それとも、想像を絶する方法で今日の一件を嗅ぎつけ、とんでもない刺客を放ったのだ。
おれを消すためか――多分、大佐もろとも。
いくらなんでも、昨日や今日になってローランから運び込んだ代物じゃああるまい。前もって、ニューヨーク近辺にバラ撒いておいたのだ。この調子じゃ、他に何が出て来るかわかったもンじゃねえ。
のしかかるような格好で、雷竜の頭が下りてきた。
クルーザーの傾斜角は約六〇度。
目標は、おれだ。
「こん畜生」
身をひねりざま、おれはぎりぎりでかわした雷竜の口の脇に、蹴りを入れた。靴はスニーカーだが、その下は“機械服《メック・ウェア》”だ。パワーは一〇馬力に匹敵する。
雷竜の顎はきれいに裂けた。
少しは痛がるかと思いきや、奴はじろりと横眼でおれをにらんだ。
その眼つきの恐ろしいこと。
戦慄で全身が硬直した。――次の瞬間、おれの行動は識閾《しきいき》下の領域に入った。
横殴りに噛みついてくる巨獣の頭を軽々と跳び越し、傾斜甲板と並行に着地する。
安定装置《スタビライザー》に全身のバランスをまかせての疾走は、十分にロケット・ランチャーの位置まで到達した。
止まれば滑る。
左手でランチャーを引っかけると同時に、おれは、船室の壁に身をもたせかけつつふり向いた。
巨獣の顔はおれの方を向いていた。
発射筒《ランチャー》脇のファイアリング・スイッチに人さし指を乗せる。
すい、と雷竜は霧の中に後退した。
まさか、知性を?――いや、危険を察する野性の本能であったろう。誰かがそれを増幅しやがったのだ。
だしぬけに、クルーザーはもとの位置に戻った。
おれはかろうじてバランスを保ったが、後部甲板の方からは、激しい打撃音と悲鳴がつづいた。
何人かは骨折しただろう。
後は逃げるだけだが、その前に、もうひとつ、手を打っておく必要があった。
雷竜に用心しつつ、おれは足早に後部甲板へ戻った。
左手でグロックを抜く。
起き上がってた情報部員のひとりが、銃を向けた。
その肩をグロックでぶち抜き、おれは肩に乗せたランチャーを、甲板にもたれる大佐の胸に向けた。
「動くとぶちかますぞ!」
効いた。ひとり残らず硬直。三メートルの距離でランチャー内のHEATロケット弾が炸裂すれば、直撃を受けなくても即死は間違いない。
「言うことをきけ」
と大佐も部下たちに言った。
「ペンダントを返してもらおうか」
おれはグロックをふった。
「愚図愚図してると、恐竜の腹の中だぞ。おれはここで失礼する」
「断る」
大佐は苦渋の色も見せずに反抗した。
「皆殺しだぞ。いいのか?」
「君に無抵抗のものが殺せるなら、構わんよ」
おれは肩をすくめた。
「いつまでも、甘いこと吐《ぬ》かすな」
おれは無造作に引き金《トリガー》を引いた。
大佐の眉が寄った。
九ミリ弾頭は、右の耳たぶを弾きとばしていた。
「遊びじゃねえんだ。よこせ!」
おれは断固として言った。本気だった。大佐にもそれがわかったようだ。
右手をポケットに入れ、無造作にペンダントを取り出すと、放った。
左手で受け止めようとした刹那、稲妻が背骨を貫いた。
黒い塊が悪夢のように船尾へのしかかったのだ。
ペンダントはグロックに当たって甲板へ落ちた。
雷竜は、霧の彼方から様子を窺っていたのか。
ランチャーをふり向けると同時に、おれはスイッチを押した。
HEATロケット弾はぎくしゃくと、それでも、ほぼ真っすぐに巨体の胴へ吸い込まれた。
眼の前が毒々しい赤に染まるのを、おれは空中で見た。
雷竜の顎は、おれの胴をがっぷりと咥え込み、空中高く持ち上げていたのである。
甲板にかけた前足の間には、ロケット弾の炸裂孔が直径五〇センチもの黒穴を穿ち、肉も皮膚も焼け爛れているというのに。
“機械服《メック・ウェア》”が苦鳴を発した。
強烈な牙の圧搾がメカに異常を与えているのだ。おれの一撃で顎の筋肉を持っていかれたはずなのに、なんというタフネスぶりだろう。
だが――
おれは左手のコミュニケーターへ向かって叫んだ。
「ゆき、来てるか!?」
「ええ。――何よ、あれ? 恐竜」
「その通りだ。いま、脱出する。その後で一発ぶちかませ!」
「了解」
揺れ動く視界の下で、大佐が床のペンダントを仕舞い込むのが見えた。糞、こっちを見上げて、手をふりやがった。この人非人。
部下たちは、MAC11の乱射をはじめている。甲板は血の海だ。
おれは両手を雷竜の上顎にかけ、思いきり持ち上げた。
いくら総重量三〇トンの怪物でも、顎の力は一〇頭の駿馬に及ばない。
めきめきと顎の骨が砕けた。
耳も潰れんばかりの絶叫を後に、おれは海中へとダイブした。
水中へ入るや、一気に浮上する。
頭の上から赤い粘液がふりかかってきた。
構っちゃいられない。
おれは周囲を見廻した。
閃光がきらめいた。
かすかなモーター音とともに、光の珠が近づいてくる。
そちらへ向かって、おれは抜き手を切った。
五〇メートルを一五秒、世界新記録だ。
おれの前に止まったのは、全長一〇メートルほどの白い船体だった。
奴らのと同じくらいのクルーザーだ。
停止するなり、タラップが自動的に下りてきた。
大急ぎで上がり、操縦室へ飛び込んだ。
コントロール・パネルの前で、電子チェアに座り込んでいたゆきが、にっと白い歯をきらめかせ、すぐに吹き出した。
「ひどい格好。――血だらけよ。シャワー浴びてらっしゃいな」
「そんなこと言ってる場合か。ニューヨークに恐竜が出たんだぞ。おれを狙ってやがる。魚雷の用意はいいな?」
「はいはい」
にんまりと笑うゆきを見て、おれは呆れるくらい感心した。いくら操縦が簡単とはいえ、よくもマスターできたものだ。
この外洋航海用クルーザーは、日本を発つ前、フロリダの保管所から運ばせておいたものである。
全長七〇メートル、船体重量一二〇トン、定員二〇名。完全自動化《コンプリート・オートマチック》が行き渡り、操舵士が出発から到着まで飲んだくれてても、自動操縦装置が無事、目的地まで運んでくれる。
最高速度は通常航海[#「通常航海」に傍点]の場合、時速四五ノット(八三・三四キロ)。航続距離は四五ノット、ノン・ストップで一万海里(一万八五二〇キロ)を達成する。単なるクルーザーでこんな芸当が可能なのは、米海軍エネルギー研究廠《しょう》が開発した、『省エネルギー増幅機構付き大出力エンジン』という長ったらしい名のエンジンのおかげだ。要するに、これまでの十分の一の燃料を吸い込めば、その一〇倍のパワーを発揮できる特殊機構を試作したわけである。
目下、おれのクルーザーにしか応用できないのは、製作にとんでもない費用がかかるせいだ。軍隊というのは、いわば官庁。決められた予算内で、レーダー衛星の打ち上げから、トイレの清掃用具までまかなわなければならないのである。無駄使いはできない。
「あっ!?」
ゆきが怒ったような声を上げた。
「来たわよ、でかいの」
おれの眼は、窓とレーダー・スクリーンの二つを同時に捉えていた。
濃く薄く流れる川霧の間を縫って迫る巨大な塊と、ダーク・グリーンのスクリーン上を接近する緑色の光点。
もうひとつ――遠ざかっていくのは、大佐のクルーザーらしい。
どうして、おれがここへ逃げたと恐竜にわかる? 外務省で“プリンス”を襲った蜘蛛みたいに、知能を備えているのか、やっぱり?
だが、おれはあわてなかった。こっちの迎撃態勢も完璧なのだ。
おれは動力回路を“手動《マニュアル》”に切り換え、「戦闘《コンバット》」スイッチをONにした。
白い平和なクルーザーは、この刹那、地上で最も優美な戦闘艇に変じたのである。
『魚雷』――『発射準備』――『完了』
おれの指がキイボードを叩くにつれて、インジケーターの文字は次々に点滅した。普通なら武器制御用《ウェポン・コントロール》のコンピューターが担当する。おれが自前の指を使うのは、最後の引導くらいは人間の手で渡してやりたいからだ。やられる方にしてみりゃ、傲慢な感傷だがな。とにかく、いま、死ぬわけにはいかないのだ。
照準スクリーンに、迫り来る雷竜の姿が点描されていく。獣の発する熱や赤外線をセンサーが探知し、コンピューター・グラフィックへ連動させるのだ。
雷竜の頚《くび》の付け根と前足の間――さっき、おれが一発ぶちこんだところ――に光点がXマークを描き、スクリーン下部に表れた魚雷図形とその二点を緑の点線で結ぶ。“照準完了”だ。
距離は一〇メートルもない。
発射。
点線が緑から赤にチェンジしつつ、雷竜のグラフに向かっていく。
長い時間のようだが、現実は二秒とかからなかった。
水中から迫る二本の細長い脅威には、さすがの知恵付き恐竜も気づかなかったかもしれない。
おれは窓ガラスを通して見た。
雷竜の頚は、ほとんど水上に出ていたが、その真下で水が大木のように直立し、間髪入れず、もっと太く短い二本目が盛り上がった。
巨体は大きくのけぞり、水は朱色に染まった。断末魔の叫びをきかずに済んだのは幸運だったろう。
水中での爆発力は、地上や空中の比ではない。ゼロに等しい空気抵抗とは異なり、分厚い水の膜に押し返された爆発エネルギーは、すべて目標を破壊する方向へ集中するからだ。さらに、破壊孔へ流れ込む水という武器がある。
波を受けて、船体が揺れた。思ったより少ない。復原能力にも最大限の努力を払ってあるのだ。
「命中よ」
と、ゆきが浮き浮きと言った。
「止《とど》め刺したら?」
おれは返事をせず、霧深い波間に浮かぶ黒い山を眺めていた。
潮の具合から言って、すんなりと大西洋へ流れ出てしまうだろう。おれが出資してるフロリダの海洋生物研へ送りたいところだが、もう、間に合うまい。
大佐のクルーザーの姿はもう見えなかった。レーダーには映っている。どうやら、スターテン島へ逃亡するつもりらしい。片づけるのは簡単だが、おれは追わなかった。
操縦席からゆきを追い出し、ハンドル状の舵輪を握った。
クルーザーは、波を切って前進を開始した。
「何処行く気よ?」
ゆきが訝しげに訊いた。
「ニューヨークは、ちょっと狭すぎるんでね。思い切って大西洋だ。本船は、このまま、ローラン共和国へ直行する」
「ええ?」
さすがに、ゆきは眼を見張った。その黒瞳《くろめ》に、何ともいえない歓喜と興奮が宿ってきたのは、太宰先蔵の血だろうか。
「そんな――海運局や出国管理局に届け出は?」
「NYに着いた晩に出してある。日付のとこだけ抜いてな。末端の役所にも、知り合いは多いのさ」
「やるう!」
いきなり首っ玉に抱きつかれ、おれは、どうしてよけなかったんだろうと、自分を訝しんだ。
ゆきは、おれの顔中にキスの雨を降らせながら、
「早く行こ、早く行こ。お妃よ、王妃よ。あなたは最高顧問にしてあげる」
太平楽な女だ。
おれは邪慳に熱い女体を押しのけた。
「何すんのよ!?」
ゆきの怒号も耳に入らなかった。
殺気は頭上から襲いかかってきた。
思いきり、ハンドルを倒した。
噴射燃料が一気に一〇倍を突破し、スクリューではなく、緊急用ロケット・エンジンに直接、アフター・バーナーをかける。
猛烈なGが、おれとゆきを後方へ吹っ飛ばした。クルーザーの速度は、コンマ五秒で六〇ノット(一一一キロ)に達した。
その背後で、凄まじい水柱が上がるのを、おれはモニター・スクリーン上に見た。
ミサイルだ。
レーダーにヘリらしい光点が映っている。右斜め後方五〇〇メートルの地点だ。沿岸警備隊のものかと思ったら、敵か。
恐竜のときに救助に駆けつけなかった以上、“大佐”の味方ではあるまい。
恐竜を操る方だ。――糞、用心深くできてやがる。ミサイルが自動追尾式《ホーミング》でなかったのが、せめてもだ。
気の毒に。――おれは、にやりと笑った。クルーザーのウエポン・システムには、無論、対空砲火も含まれている。無事じゃ帰れねえぜ。
何で撃墜して欲しい? X線レーザーか、対空ミサイルか?
そのとき、おれは、レーダーの上に、もうひとつの光点が現れたのに気がついた。
コンピューター・グラフィックは?――ヘリだ。また、敵か!?
と、見る間に、新しく出現したヘリは、一気にミサイル・ヘリめがけて直進し、何と、銃火一閃、敵の後部ローターを見事に付け根から吹っ飛ばしちまったのだ。
あっという間に、ヘリはローターと反対方向へ旋回を開始し、見る見るうちに高度を下げるや海面に激突した。
機体と水面が、ほぼ平行に触れたので、バラバラにもならなかったし、ミサイルが爆発もしなかったのはせめてもだ。
通信装置が低い唸りを発した。救助ヘリからの無線通信だ。
おれは、通話器をオンにし、コネクトした。
「無事ね、大?」
おれは苦笑を浮かべた。
「学業に励めと言ったぞ、リマ」
「昨夜、ゆきを助けに行ったとき、あいつらが、今日、大を呼び出すと立ち聞きした。心配で眠れなかった。それで――」
「早いとこ、嫁の口を探した方がいいかもしれんな」
おれは、柄にもなく、温かいものを胸の中に感じながら言った。
「おまえみたいな女をドンパチの巻き添えにしたら、おれは間違いなく地獄行きだ。そのヘリはどうした?」
「近くのヘリポートのを盗んできた」
「操縦はどうした? 教えてないはずだぞ」
「パイロット付きだ。脅した」
おれは、ちらりとゆきの方を見た。アフター・バーナーで加速した際、床へぶつけたらしく、腰のあたりを揉んでいる。揉みながら、口をぽかんと開けた。
「そいつを出せ」
と、おれは言った。
「あいよ《ハロー》」
すぐに、男の声がした。脅えている風はない。屈托のない陽気なヤンキーの声だ。若い。二〇代前半といったところだろう。
「ひどい目に遇ったぜ。勤めて半年、まさか、空中戦を経験するとはな」
「申し訳ない。ちと変わった娘でな。悪気はないんだ。みんな、おれのためにしたことさ」
「わかってるって」
顔も名も知らない男は、明るく、慰めるような口調で言った。
「おれを脅したときから、大を救いに行くんだって必死だったよ。やり方は無茶だが、おれは気に入った」
「そう言ってもらうと助かる。そこで、ひとつ頼みがあるんだが。リマにはきこえないよな?」
「ああ。何だい?」
「ヘリのかっぱらいと、あんたを誘拐した罪で、告訴して欲しいんだ――」
「何だと、おい。この女は、おまえのために――」
男は激昂した。おれは吹き出したくなった。話が逆だ。
「安心しろ。すぐに保釈金を積むし、おれはNY市警に顔も利く。リマの経歴にも傷はつかん。ただ――わかるだろ。その女は留置場の中が、一番安全なんだ。特に、これからしばらくの間は。おれは遠くへ行く。放っとくと、尾《つ》いてくるかもしれない」
「成程な」
リマの気配を気にしているのか、声はやや固いが、男らしい爽快さにあふれていた。
「事情はよく知らんが、この女の気性ならそうだろう。わかった。あんたの言い分をきけるかどうかわからんが、出来るだけのことはやる。この女《こ》に頭をぶち割られない限りはな」
「助かるよ。必ず礼はする」
「いらんね」
「はン?」
「その代わり、早く帰って来るな。その間に、おれと結婚するよう口説いてみる。――本気だぜ」
おれは、呆気にとられてしまった。それから、急に嬉しくなった。
「出来るもんならやってみな。その女《こ》は、心底、おれにまいってるんだ。ちょっとやそっとじゃ落ちっこねえ」
「結婚してくんなきゃ、一緒に落ちるぞって、ヘリに乗って脅してみるさ。――それが嫌なら、ゆっくりでも何でもいい、無事に帰って来てやりなよ」
「そうしよう。さっきの件――頼んだぞ」
「気は進まねえが、引き受けた」
「礼を言う。――名前をきかせてくれ。おれはダイ・ヤガシラだ」
「ほんとに日本人か!?――大した発音だね。おれは、レッド・バトラー三世だ」
なるほど、男の中の男だ。
「あばよ」
と、おれは言った。
「幸運をな」
と、レッド・バトラーは言った。
そして、無線は切れ、ヘリは風とともに去って行った。
「ちょっと寂しいわね」
ゆきがスクリーンを見ながらつぶやいた。
「寂しかねえさ。おまえも降りたらどうだ?」
「何よ、今さら。そうなれば、地獄の底までついていくからね」
仕様がねえな、こりゃ。
そう思いつつ、おれはおかしなことに気がついた。
パネル・ディスプレイの『収容人員』が『3』と出ているのだ。
タイミングよく、誰かがドアをノックした。寒気に似たものが室内に溢れ、おれはすべてを悟った。
「入りな」
「ぎい」
と、ドアの音をつぶやきながら入ってきたのは、ずぶ濡れになった名雲陣十郎だった。
「ご機嫌うるわしゅう」
と爺さんは、手にしたハンカチで頭を拭きながら言った。
「さて」
「何が、さて、だ?」
おれは凄みをきかせた。
「とっとと逃げろ、と言ったはずだぞ。なぜ、おれたちと一緒にいる?」
「わたくし、ボートは漕げますが、方向音痴でして、霧の洋上をあちこちさまよっているうちに偶然、この船とぶつかりましてございます」
「おまえが乗せたな?」
おれににらみつけられ、ゆきはあわてて、
「仕様がないじゃないの。相手は年寄りよ。ゴムボートで流れ着いたら、救助するのが人の道ってもんでしょ」
と喚いた。
「おまえから、人の道について説かれるとは思わなかったよ」
おれは思いきり毒づき、途中で降りてもらうぞ、と陣十郎に言った。
「ならば、ローラン共和国で」
「何だと!?」
どうして、こいつが、おれの行く先を知ってる?
おれとゆきに見つめられ、陣十郎は、あわてて、陰気に手をふった。
「冗談でございます。ただ、あそこには、知り合いがおりまして。仕事が見つかるかもしれません」
「どんな知り合いだ?」
「内緒で」
「何処にいる」
「『貧民夜会』に」
「何よ、それ?」
と、ゆきが訊いた。
説明してやった。
ローラン共和国の東には、一〇平方キロほどの無法地帯《ローレス・ゾーン》というか、無国籍地域が存在する。
昔、イギリスと一戦交えて劣勢に立たされたとき、和睦の条件として割譲したものだ。イギリス政府は、何のつもりか――多分、嫌がらせだろう――本国や植民地から囚人、それも、もっとも凶悪な連中をここへ送り込んで隔離した。いわば、刑務所、島流しである。
それが五〇年、百年と経つうちに、恩赦や政変で、囚人の数は減り、ついに刑務所は崩壊、囚人とその子孫は帰国せずに住みついてしまい、ひとつの街を形成したのである。
住人を考えれば、それがどんな性格を持つかは言うまでもなかった。やがて、割譲期限が終了し、イギリスが手を引いても、『貧民夜会』は頑としてそこに存在し、得体の知れぬ建物や路地が連なるあちこちから、日ごと夜ごと、拳銃の音や悲鳴が絶えないとされる。
もちろん、観光客など入れるところではないが、外貨獲得をめざす政府は、無法街を牛耳るボス――アルフォンゾ・ポネカという――と手を結び、国営のカジノやショー劇場をつくって、マカオやモナコ並みの豪華な不夜城を完成、海外からのお客がすっからかんになって帰国するのを楽しみにしている。
そんなとこにいるとは、どんな物騒な知り合いだ?
「仕様がねえとこだな」
と、おれは言った。
「ただし、この船に乗る以上、船賃代わりに働いてもらうぞ。それと、これは決して愉快な船旅じゃない。生命にかかわる大事が起こっても、おれは一切責任は負わん。命令には絶対服従だ」
「横暴」
と、ゆきが憤然とし、
「よろしゅうございます」
と、陣十郎は頭を下げた。
「船室は下のをどれでも使いな。とりあえずは夕食の仕度だな」
「承知いたしました。あの――」
「備えつけてあるものは好きに使え。服でもパンツでもだ」
「ありがとうございます」
一礼して陣十郎が立ち去るや、
「何を企んでるのよ?」
と、ゆきが、両手でタンクトップからむき出しの肩をこすりながら訊いた。
「何をだ?」
「あんなお爺ちゃんを物騒な国へ連れていく理由がないわ。どう見たって、足手まといの役に立つくらいよ。いつものあんたなら、途中で下船させてるはず。それをしないのは、何故か?」
ゆきは、眼の前に人さし指をかざして、宙を仰いだ。そういや、日本にいるとき、P・D・ジェイムズだの、コリン・デクスターだのに凝っていたが、いよいよ、影響が出て来たか。
「推理は論理的に頼むぜ」
おれはそう言ってから、自動操縦に切り換え、甲板に出た。
時速一〇〇キロはミサイルを外した時点で解除されている。
クルーザーは、約一〇ノット(一八・五キロ)でニューヨーク湾を出ようとしていた。
その先には、言うまでもなく、ローラン共和国と“プリンス”と――宝の山が待っている。
霧の海を見つめているうちに、おれは血のたぎりを感じた。
わかっている。おれは、根っからのトレジャー・ハンターだったのだ。
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第五章 上陸するまでの大騒ぎ
それから六日間、おれたちは時速二〇ノットで大西洋の荒波を乗り越え、ついに、ローラン共和国の領海内まで、あと五キロの地点に到着した。
化物や潜水艦でも現れるかと思ったが、そんなこともなかった。
おれは船長《キャプテン》として、孤高の無口へ仏頂面をまぶして通したが、ゆきと名雲陣十郎も、あまり親密にはならなかった。
陣十郎が陰気すぎるのである。
何せ、後ろに立っただけで、こちらの体毛は逆立ち、部屋の電灯は翳り、じっとりと湿り気を帯びてくるような感じがある。
一度など、夜半にゆきと甲板でぶつかり、あの豪胆な娘が、ひええと腰を抜かしかけたほどだ。
当人も、これはいかんと思ったか、すれ違うときは笑顔を見せ、鼻歌や口笛をぶちかましたりするのだが、笑顔は歯を剥き出しているとしか見えず、鼻歌も口笛も、何をやっているかは別として、念仏か葬送行進曲にしかきこえないため、おれの方から中止を勧告した。
いつ厄介な目に遇うか気が気じゃなかったが、ここまで無事に来れたのは奇蹟に近い。
秘書としては、さすがに優秀で、紅茶のいれ方、トーストの切り方、ハムの炒め方――どれひとつとっても申し分ない。エリザベス女王の下へ行っても、執事頭がつとまるだろう。こんな有能な秘書を雇わないというのは、人間に対する冒涜――でもないか。
とにかく、おれはその日の正午、前部甲板に二人を呼び、
「いよいよ、二百海里内に入る」
と宣言した。
「知っての通り、入国許可は取ってないから、ちゃんとした港へ入るわけにはいかねえ。ここから先は、別のに乗り換えて密入国を敢行する」
「別のって何よ?」
ゆきが歯を剥いた。
「じきにわかるさ」
と、おれ。
「それじゃ、退艦の用意といこう。下へ行って――」
そのとき、陣十郎がはっとしたように右側を向いた。
おれの背にぴん、と来たのは、一秒は遅れていただろう。さすが厄病神、不幸に対する感覚は鋭い。
「どうしたの?」
ゆきが潮風になびく髪を掻き上げながら言った。
その肩を叩いて、
「おいでなすったぞ、大歓迎がよ」
と、おれは水平線の彼方を指さした。
小さな黒点がぽつんと現れるまで、五秒はかかったろう。
「船? ――軍艦ね?」
この辺は読みが早い。
「さようで」
陣十郎が言った。
「さ、船底へ行け」
と、おれは二人をハッチの方へ追いやった。
「アクアラングをつけるんだ。脱出用ハッチのところで待て」
船影の一点が炎を噴いたのは、そのときだ。
「射ったぞ。――急げ!」
声に、かん高い落下音が混じった。
水柱が上がったのは、右舷二〇〇メートルほどの海面だった。
横殴りの大波を受けて、船体がダイナミックに揺れる。
二人が潜ったのを見届け、おれは操縦室へ入った。
コンピューターに、敵艦をグラフィック化しろと命じる。
すぐに出た。
ローラン共和国海軍の軽巡洋艦『アシバリ』だ。
総排水量八二〇〇トン、全長五〇メートル、最大速度毎時四五ノット、八インチ二連装砲二基、五三三ミリ五連装魚雷発射管二基、三〇ミリ・ファランクス機関砲二基、RBU―6000対潜ロケット弾発射機、SS―N―19対艦ミサイル二〇発、SA―N―6対空ミサイル六基を装備。
レーダー・センサー関係は、トップ・ノット型三次元レーダー、SA―N―6用トップ・ドーム型誘導レーダー、可変深度中波ソナー、低周波ソナー、電子光学型センサーetc etc……。
全身に眼と牙を備えた海の豹だ。
無論、すべての電子/電気システムは、コンピューターの支配下にある。乗員一二〇名。
おれは、通信器のマイクを掴んで喚いた。
「こちら、個人所有船舶『ヤマタノオロチ』。当船舶は公海上を通過中。貴船の砲撃は不法である。ただちに中止せよ。――どうぞ」
応答はなし。
代わりに、もう一発。
クルーザーは右へ旋回した。
今度の水柱は、もと[#「もと」に傍点]操縦室の真上だった。威嚇にあらず、狙いすましての砲撃だ。
「野郎」
おれは、怒りの呻きを発した。
「X地点へ急行。全速力だ。ホーミング・ミサイルと魚雷発射用意」
「了解」
とコンピューターの声が応じた。
「ただし、沈めるな。エンジンとスクリューを狙え。死人が出るのは仕方がないが、不必要に多いのは禁物だ」
「了解」
次の瞬間、照準スクリーンに浮かぶ船影へ、緑線《グリーン・ライン》が二条、音もなく接近を開始した。
ほとんど同時に、敵からも三条。
「ミサイルか!?」
「SS―N―19対艦ミサイルです。命中まで五秒――四秒」
「防御しろ!」
「了解。二秒――一秒」
一瞬、視界は白く変わった。
右舷に突っ込んだミサイルが爆発したのである。
対艦用だから、そのパワーもNY港でのやつとは比較にならない。
つづいて、もう少し遠いところで一発。船尾よりのところでもう一発。
波涛が覆いかぶさってきた。フレキシブル・シートが悲鳴をあげながら、おれを水平に維持しようとする。
海底火山の噴火に巻き込まれたようなものだが、それくらいなら何とかなる。
理論とテスト段階ではうまくいっても、実戦で新兵器を試すとなると、冷や汗ものだ。
敵の対艦ミサイルは、艦からの誘導電波に導かれて、おれたちを直撃するはずだった。
ミスったのは、こちらが間一髪で放った強制妨害電波――“ジャミング”――のおかげである。
敵の誘導電波を完全に断ち切る強烈な電磁波をぶつけ、その空白に、コンピューターが割り出した敵と等しい周波数の誘導電波を割り込ませて、安全圏へ着弾させるのだ。
至近距離に食らったのは、こっちから誘導電波を送る時間がゼロに等しかったからである。
ほぼ九〇度近くまで傾いた船内で、おれは敵巡洋艦に目をやった。
平然とやってくる。
魚雷もミサイルも迎撃されたらしい。迎撃ミサイルかファランクス機関砲の仕業だろう。
やるもんだ、と思った。
魚雷もミサイルもホーミングだ。コンピューターが指示した標的を赤外線と超音波照準でポイントしながら追いかけていく。普通ならやられっこないが、同じシステムの迎撃ミサイルと、近接防御機関砲《CIWS》ファランクスの、三〇〇〇発/分でばら撒かれる三〇ミリ弾頭には捕捉されたのだ。多分、どちらにも、命中しなくてもある距離まで目標に接近すると爆発する炸裂信管が仕込まれていたのだろう。ま、どちらも一発ずつだったしな。
敵艦の両舷側《サイド》から炎が噴き上がった。銀色の線が陽光にきらめきつつ上昇する。ミサイルの乱射だ。
「外せ!」
指示して、おれはハンドルを掴んだ。
アフター・バーナー点火。
七五トンの船体は、飛び魚のごとく水面を跳ねた。
グォン グォン グォン
水中で炸裂したミサイルの押し殺した轟音は、静かな怒りにふさわしい波涛を盛り上げた。
着水した刹那、艦は大きく傾いた。
窓ガラスに叩きつけられた水飛沫が流れ、青空が覗いた。
こんないい天気に、ミサイルの射ち合いときた。
巡洋艦の主砲が火を吐いた。誘導ミサイルの無益を悟ったのだ。
もう一度、ジャンプ。
着水。
「危険」
赤ランプの文字がきらめいたのは、空中でだった。
船底が水面を叩いた刹那、横合いから別の衝撃が襲った。
右舷の窓が吹っ飛び、メカが火を吐いた。おれは椅子ごと回転し、コントロール・パネルへしたたか背を打ちつけた。硝煙の匂いが鼻を灼く。
右肩に痛痒感がこもっている。鉄片が突き刺さっていた。左手で引き抜いた。
「被害状況を出せ!」
「了解」
コンピューターの冷静な声に、おれはにやりとした。もう少し長生きできそうだ。
マイクを取って、船底の一室につなぎ、
「具合はどうだ?」
と呼びかけながら、スクリーン上の被害状況を確認する。
「大変でございます」
こういう状況では決してききたくない声が流れてきた。全身の力が脱けていく。
「どうした!?」
思わず訊いた。
『非直撃』
『右舷外殻部破損』
『近接信管?』
『浸水あり。修理不可』
コンピューターの指示に混じって、
「太宰さまが直撃を食らって――」
「なに?」
「亡くなられました」
「直撃じゃなかったとコンピューターが言ってるぞ」
「バレましたかな」
陰気な声が笑った。照れている。
絶望的な気分を抑えながら、
「つまらん冗談はよせ。用意はできてるな?」
「は。でないと、水が顎まで来ております」
「いいと言ったら出るんだ。おれが行くまで深度二〇メートルで待て。この船はじき、おシャカだ」
「ご愁傷さまです」
おれは返事をせずに、計器をチェックした。
X地点まで、あと二分。
速度は四〇ノット。「アシバリ」は約三〇。軽量の強みだ。幸いエンジンに影響はなかったらしいが、浸水で重さがふえると厄介だ。
「“ジャミング”はどうだ?」
「異常なし」
「ミサイルと魚雷は?」
「ウエポン・コントロール・システムの一部に作動不能個所有り。目下、使用不能です」
「じゃあ、逃げろ。とにかくX地点まで行くんだ」
「了解」
またも砲撃。
ジグザグでやりすごす。
「X地点まで、あと三〇秒」
おれは硝煙ただよう操縦席から立ち上がった。着替えたいが、もう時間はあるまい。
素早く、パンツ一枚の裸になると後部のロッカーまで歩き、超小型の潜水用具を引っぱり出す。
小さな消火器サイズで六時間も潜水可能な酸素ボンベを内蔵した代謝コントロール・ボックスを背負い、マスクをかぶる。スチール弾芯のクレシット弾使用の水中銃を右手に、コントロール・パネルの前へ戻ると、マイクヘ――
「いよいよだ。三秒で飛び出せ。三―二―一―ゼロ」
スイッチを入れて、スクリーンを覗いた。
乗員数は『1』に変わっていた。
速度が落ちた。
船底の一部が外れ、二人を放り出したところへ、海水が侵入したのだ。
「世話になったな」
コンピューターへ呼びかけ、おれは甲板へ出た。
「どういたしまして」
という声が背を打った。
「ご機嫌よう」だの「お名残惜しい」よりはクールでよろしい。
「敵艦発砲」
の声を耳にしたのは、デッキから身を躍らせた空中でであった。
沈んだ。必死に両足を動かして下降する。五メートル、一〇メートル。代謝装置の重さが頼りだ。
マスクのヴィジ・スクリーンが『二〇メートル』の数字をかがやかせたとき、頭上から衝撃波がおれを叩いた。
ふり仰ぐと、海面に波紋が広がり、ワン・テンポ置いて、黒っぽい破片が次々に降ってくる。
クルーザーが直撃を食らったのだ。
怒りが湧いた。装備を含めて一五億もした船だ。もと[#「もと」に傍点]は取らせてもらうぞ。
おれはマスク横のコミュニケーターをオンにし、マスクの中で叫んだ。
「無事か!?」
「平気よ」
「ご安心下さい」
「じゃあ、そこで待て。次の乗り物を探してくる」
それだけ言って、おれはさらに水中に沈んでいった。
「何処へ行くのよ?」
ゆきの声が追ってきた。
まだ、手の内は明かしてないから、当然の質問だ。
答えず、潜った。何処かで小さな光が点滅している。
深度四〇メートル。水圧が肺を締めてくる。周囲はもう、暗い。魚も見えなかった。クルーザーの残骸だけが左右に沈んでいく。絶対的な孤独感が襲いかかってくる。
こんなとき、眼の前に、ぼわっ、と――
出た。
コミュニケーターは、さっきから短い点滅を繰り返して接近を告げている。
直径二〇センチ、長さ一メートルほどの円筒型のブイだ。下から細長いワイヤが、黒い底へ伸びている。
おれはワイヤを掴んで、さらに潜った。一〇メートルで済んだ。
ヴィジ・スクリーンは、はっきりと、黒いグロテスクな巨岩の上に横たわるそいつ[#「そいつ」に傍点]を光の線で示していた。
巨大な(エイ)とでも言えばよかろうか。
異なるのは、頭部に高分子ガラスで囲まれた操縦室が組み込まれているのと、全身が一体成型ではなく、無数の鱗《うろこ》状の金属片から成っていることだろう。
アメリカ一の規模を誇るウィンスロップ運送会社の仕事は、やはり正確だ。船出する前日に連絡しといてよかったわい。
全長一三メートル、全幅一三メートル、厚さ三メートルの巨大な魚は、世界一の海洋技術開発会社「ファガト・INC」の建造になる高速潜水艇だ。通称“スキッパー”。
フロリダの工場に管理されていたものを、おれは大急ぎで空輸させ、このXポイントへ沈めておいたのだ。クルーザーで、敵の領海内へ入るなど、標的でございます、というようなものだ。なぜ、最初からこれで来なかったのかというと――まず、乗り心地がよくない。プラス、航続距離が二〇〇〇キロ止まりなのだ。
これさえあれば、水上をちょろちょろ走る巡洋艦など屁でもない。
おれは大急ぎで、上面のハッチへ近づいた。
ウィンスロップにゴネてやろうと決心したのは、その瞬間である。
船体がぐらりとかしいだのだ。
思わず、土台の岩を見下ろし、おれは唇を噛みそうになった。
半分、はみ出ているのだ。
船出する前日、国連の地質学研究所から、この海域の測量図をホテルへ電送させ、例外的に高く突き出している海底棚のてっぺんに着底させろとウィンスロップ社に指示を出した。
それに、ズレがあったのだ。“スキッパー”は岩棚の縁に引っかかり、間一髪の僥倖《ぎょうこう》で深みへはまらずに済んだものの、潮の流れに少しでも異常が生じれば落ちるぞ、とでもいう風な、微妙なバランスを保っているのだった。
万が一、ドアでも開けようものなら、それによって生じる水流の異常で、船体はたちまち、ぞっとするほど深くて暗い深海溝へと落下するだろう。
深度は四〇〇〇メートル。いくら“スキッパー”でも堪えようがない。
しかし、このままじゃあ。
おれはすぐ決心した。
出来るだけゆっくりと水を掻き、ドアまで近づくと、把手を握りながら開閉スイッチを入れた。
グイーンと、ドアはウィング状に持ち上がった。
ぐらりと揺れた。傾斜は止まらなかった。落ちていく。
おれは素早く、ドアの内側の気密室へ潜り込んだ。三人はまとめて入れるスペースに海水が溜まっていた。
ハッチをロックし、内側のスイッチを入れて、気密室の水を船外へ放出する。
身体が側壁へ押しつけられた。傾きながら落ちていくのだ。
壁のデータ・ユニットを見上げた。
深度七〇……七五……八〇……。
膝まで水位が下がったところで、おれは気密室を出た。床に水が溢れた。――と思いきや、側壁の方へ押し寄せ、床との接点につけられた排水孔へと吸い込まれていく。
今回は斜めが多いな、とつぶやきつつ、おれは壁のレールに掴まって、操縦室の方へ急いだ。
ハッチを開けた時点で、すでに船の動力はONになっている。照明も十分だ。おかしな格好で歩きながら、おれはみなぎる発電機とモーターの唸りをきいた。
操縦席のコクピットは大型ジャンボ機程度だが、これも最新エレクトロニクス技術の塊だ。
シートに深々と座り込み、クルーザーと同型のハンドルを握った。
身体からこぼれる水滴が、眼の前を上昇していく。
船は一八〇度回転していたのだ。
エンジン始動。姿勢制御装置作動。ソナー及びセンサーOK。ウエポン・コントロール・システム異常なし。
出動だ。
眼の前を流れる水滴が、突如、方向を変えて床へ落ちた。――実は船の方が逆転したのである。
レーダーを見た。
巡洋艦は? ――いる。停止状態だ。その周りの光点はボートだろう。クルーザーの破片や残存浮遊物をチェックしているのだ。
その五〇〇メートルほど北の海中に、ゆきと陣十郎が見えた。指示した地点を動いていないのは立派だ。
あいつらが装着したウェット・スーツには、正確無比なジャイロ・コンパスがついている。指定時に、垂直、水平、進行方向への三次元軸をゼロに合わせておけば、水の流れで移動しかけると数値が変わるから、常に維持するよう手足を動かせば、もとの位置を動かずに済む。ゆきは使い方を心得ているはずだ。
ボートが動き出した。
巡洋艦へと集合していく。敵のソナーが、“スキッパー”を捉えたのだ。
おれはあわてなかった。
ゆきたちのところへ近づくまで、三分とかからなかった。収容するのに、さらに三分。二人が気密室に入り、ハッチを閉めると同時に、おれは“スキッパー”を発進させた。
時速六〇ノットで北々西へ向かう。
“アシバリ”がミサイルを放った。一発。
『対潜ミサイル・SSN―14』
とコンピューターが光示する。
阿呆が。わかってねえな。
こちらは水中時速六〇ノットだ。自動追尾のアクティブ・ホーミング式SSN―14は、せいぜい五五ノット。つまり、一〇〇発射とうと追いつけっこないのだ。
だが、
不安がおれを突き上げた。針の痛みが心臓を貫く。今までの未来予知などとはまるっきり異なる、凄愴な“危険信号”だ。
背後でドアが開いた。
「ねえ、シャワーある?」
のんびりとしたゆきの声を合図に、おれは思いっきり、操縦桿《ハンドル》を倒した。
「きゃあ」
「うおお」
ゆきと陣十郎の声が後方へ吹っ飛び、激しい打撃音が空気を揺すったが、気にもならなかった。
デジタル・メーターが猛烈な速さで速度を刻んでいく。
六一、六二、六三、六四……
七〇……七一……七二……
七五……七六……
ミサイルは?
空中でロケットと分離し、魚雷がいま、水中へ降下したところだ。
距離は約二キロ。――二・五キロ……三キロ……追ってくる。だが、五五ノットだ。こちらはいま、八五ノット。三・五キロ……四キロ……五キロ……。
爆発はその刹那、やってきた。
“スキッパー”は最高速度一二〇ノット(二二二キロ)までいける。
その秘密は、船体に貼りつけられた鱗状の裂水フィンにある。ノアの箱舟から失敬した人魚の鱗――あれの破水効果を倍近くまで引き上げた品だ。
これを、コンピューターで弾き出したある組み合わせの形に並べると、今のところ、水抵抗が従来の六分の一まで減る。
おれたちの生命を救ったのは、おれの勘とこいつ[#「こいつ」に傍点]だった。
途方もない衝撃波が水を鋼鉄の壁と変えて叩きつけた。しかも、厚さは無限だ。深度一三三五メートルまで潜水可能なチタン船殻を誇るソ連マイク級原潜でも、数秒ともたずにひしゃげてしまうだろう。
一万五〇〇〇枚のフィンがこれを迎え討った。
神の刃と化して水の壁を切り裂き、分解し、自在に角度を変えつつ衝撃波を吸収、フィンの間を通過させてパワー・ゼロに陥れる。
それでも艇は二転、三転し、不気味なきしみ音が四方から舞い上がった。
三発分だ。
だが、浸水はなかったし、照明も消えなかった。
突然、すべてが平常に復した。
高圧ガラスの窓外は、青黒い連なりが広がっているばかりだった。
おれはレーダー・スクリーンを見つめた。水中ではレーダーが効かないから、今はソナー・スクリーンだが、コンピューター解析によるグラフィック効果に、さほどの差はない。
ある予感があった。
まさか。
だが、その通りだった。
緩衝対策として、艇の速度は一〇ノットにまで落ちている。コンピューターの仕業だ。
おれは操縦桿を握って、六〇ノットまで上げた。
背後でドアが開くと同時に、
「一体、何事よ!?」
ゆきの怒りの声が、コクピットに谺《こだま》した。
「身体中の骨が折れたわ。名雲さんなんか、泡吹いてるわよ。まるで、水爆でも落ちたみたいじゃないの」
「その通りだ」
おれは静かに言った。
「え?」
「奴ら、核魚雷をぶち込みやがった。それも三発だ」
衝撃からして五〇キロトンというところだろう。戦術核としてはまあまあだが、TNT火薬五万トンに相当すると知れば、誰も笑ってはいられない。
「そんな。――だって、自分たちは平気なの?」
おれは肩をすくめた。スクリーンに、“アシバリ”の姿はなかったのだ。
ゆきの口がぽかんと開《あ》いた。喉仏まで見える。
「それじゃ……自爆じゃないの。あたしたちを殺すために、自分の生命も……ね、間違いでしょ?」
「多分な」
と、おれは言った。
「そうよね」
と、ゆきがうなずいた。どちらも、自分の言葉など信じていなかった。
奴らは――少なくとも、発射命令を下した奴か、発射した奴は、こんな近距離で戦術核を使ったら自分たちがどうなるか、承知の上でGOしたのだ。
“死ぬのが怖くない軍人”。――誰だって「こういう奴もいるかもしれないが、まあ[#「まあ」に傍点]……」と思うだろう。
だが、これに“本当に”がくっついたらどうなるか?
そんな奴らとは、絶対に戦いたくない、付き合いたくないと思うに違いない。
ローラン共和国の連中が、みな、そうだとしたら?
新宿・歌舞伎町の地下で、マリアが言った言葉が甦ってきた。
おやめなさい。
正しかったかな。
だが、おれの胸にはすぐ、新しい意欲が、派手な色彩と唸りを伴って湧き上がってきた。
だから、どうした?
新種の強敵に出くわすたびに繰り返してきた、これが、八頭の合言葉だったのだ。
おれは力強く、ゆきの肩を叩いた。
「戻る燃料はねえ。――行くぞ」
これが、この娘のいいところだ。
にやりと笑って、
「もちろんよ!」
さて、上陸地点だが、おれは『貧民夜会』の港か、首都サヴィナの近くと思っていた。
敵も当然、そう思うだろう。
核魚雷を積んだ掃海ヘリや掃海艇、海底に潜んでおれを待つ沈底魚雷や電磁機雷の群れの中へ突っ込む勇気はない。
となると、敵の予想もつかないところしかあるまい。これまでのやり口から判断すると、そこだって何らかの仕掛けがありそうだが、絶対上陸不可能って地点なら、少し[#「少し」に傍点]でも可能性のある場所よりは、大分楽なはずだ。
「アシバリ」に見つかったときから、おれには決めた場所があった。
ローラン共和国の北の果て――ブルゴーゲンの崖だ。
五〇〇メートルの絶壁が、垂直にそびえる大自然の驚異。
過去八人のクライマーが挑み、全員失敗に終わった人間の手が触れない難所。
だが、ニューヨークの一件で、敵はおれの飛行能力に気づいたはずだ。十分な警戒網を敷いていることも考えられる。
まあ、そのときはそのときだ。
おれはフル・スピードで“スキッパー”を飛ばし、三時間としないうちに、黒い巨大な屏風のごとき絶壁が遠望できる地点までやって来た。
高さ五〇〇メートルの連なりは何と五キロもつづき、皮肉なことに、その左右には、緩やかな湾を有する漁村がひっそりと存在する。念のため、両方とも潜望鏡で覗いたが、移動式の監視塔が建ち、哨戒ヘリが何機も飛び廻っていた。
ブルゴーゲンの崖の上空もそうだが、これは、夜間にこちら[#「こちら」に傍点]が飛べば、何とかなりそうだ。
問題は、その夜間だがな。
沖合五キロの地点で、おれは、ゆきと名雲陣十郎を呼び、今後の計画を打ち明けた。
「まず、崖を登る」
「冗談じゃないわよ」
と、ゆきが噛みついた。
「人間は、垂直な壁を登るようには出来ていないのよ。大体――そうか!」
やっと、NYの夜空を思い出したらしい。
「賛成賛成」
にこにこして言った。現金な娘だ。
「えー、わたくしめのことですが」
陣十郎が口をはさんだ。
「せっかく、ローラン共和国まで連れて来ていただいたのに何ですが」
「一緒に来い。船賃はまだ払い終わってねえ」
おれは、にべもなく言って、陰気な秘書の発言を封じた。
「この船はどうするの?」
ゆきが訊いた。
「コンピューターに、サヴィナの沖合で待つようインプットしておく。もしも、そこから脱出できなくても、後で取りに来るさ」
「よかった。気に入ってたのよ」
「あの崖を越えましてから、どうするおつもりです?」
陣十郎が怨めしそうに訊いた。
「まっすぐサヴィナに入って、詳しい情報を仕入れる。それから、だ」
「それから、何をなさるので?」
「色々だ」
おれは短く言った。
「そのつど、指示は出す。あんたの役割もちゃんと考えてあるから安心しな」
「ありがとうございます」
嫌みったらしい声だった。
「どういたしまして」
おれも慇懃無礼に応じたところへ、ゆきが、
「サヴィナへ行くって、すぐに入れるの? この調子じゃ、道という道は塞がれてるわよ」
「ルートはいくらもあるさ。おれの仕入れたデータじゃ、昔、山賊の一味が使っていた秘密の抜け道が、今でも残ってるそうだ」
「そうだ[#「そうだ」に傍点]じゃ、危ないわよ」
「駄目なら最後の手段だ。おまえ、裸になって、助平爺いの耕運機を止めろ。それに乗って首都へ殴り込む」
「できるもんなら、やってごらんなさい」
ゆきが歯を剥いた。
「情報部の親玉とひと晩寝て、あんたたちのこと、みんなバラしてやるわ」
「その辺の話は後にしよう」
と、おれは、背後のドアを指した。
「上陸は午後十時決行。それまでは装備を整えるのに使うぞ。――はじめ」
厄介なことに、世界は濡れていた。
三時間ほど前から、雨が降り出したのだ。ついでに風まで吹きはじめ、波も荒い。“スキッパー”は鱗を小さく、せわしなく動かしながら、定位置を保っているはずだった。
だった、というのは、おれたちは“スキッパー”を脱け出し、何とか崖の下に辿り着いたからだ。
潜って近づくつもりだったが、思い切って浮上し、ゴムボートで荷物ごと崖下へ来れたのは、悪天候のおかげだと言ってもいい。せわしなく飛び廻っていた哨戒ヘリの数が一機になったためである。今は崖の端へと消えている。
もっとも、その風のおかげで、ボートに積んできたターボ・ファンの出力では、荷物込みの上昇は無理ということになった。
一人当たり、五〇キロ以上ある上に、風速はとうに四〇メートルを超えていたからである。
崖下の、猫の額ほどの平らな岩場に荷物を置き、二人でひとつずつ運び上げることに決めた。それなら何とかなるし、雨風が収まれば、しつこい警戒がまた、はじまる。雨が降り出す前には、哨戒艇の姿もちらほら見られたのだ。“スキッパー”から直接舞い上がらなかった理由もまた、風雨のせいである。
「まず、おれとゆきでひとつ、次におれが戻って陣十郎爺さんとひとつ。最後はまた、おれとゆきとで運ぶ。あんたは、崖の上で休んでろ」
陣十郎にこう言って、おれは気持ちいいくらい垂直な壁を眺めた。
「もう、“スキッパー”もいねえ。五分前に指定の海域へ向かった。後はおれたちだけだ。幸運にも頼るな。――行くぞ」
おれは、防水用のバックパックをゆきと二人で持ち上げた。近くに敵がいないのは、“スキッパー”の三次元レーダーとソナーで確認済みである。
「上がるぞ」
「OK」
「ご無事で」
陰気な声を背に、おれたちは一斉に地を蹴った。
上がった途端、異常に気づいた。
ファンががちゃがちゃ音を立てている。回転不良だ。ヴィジ・スクリーンにもそう表示されている。
「おかしいぞ」
「あたしもよ」
「なにィ!?」
「ファンがガタついているわ。ターボに異常があるのよ」
「同じ異常か!?」
ゆきのヴィジ・スクリーンを確認させると、はたしてそうだった。
「あり得ないわ。――スパイよ」
空中で雨風に打たれてよたつきながら、おれたちは下方を眺めた。
名雲陣十郎は、ヴィジ・スクリーンの底で、こちらを見上げていた。
「このまま上がれないこともないが、上はさらに風が強い。完全に直してからアタックだ」
「なんか、エベレスト登頂みたいになってきたわね」
ゆきが心細そうに言った。珍しい。この勝ち気一点張りの小娘も、何かを感じているのだろうか。
舞い降りたおれたちを見て、
「ご無事で?」
と陣十郎が眼を昏《くら》くした。
「おい、おまえのターボを見せろ」
「ご冗談を」
「冗談なんかじゃねえ。何処にある?」
「それが」
「それがどうしたのよ?」
ゆきが両目尻を吊り上げた。
「とんだミスをしでかしまして。――荷物の方は生命を懸けて保管しておいたのです。が、あちら[#「あちら」に傍点]は、ちょっと――」
「ちょっと、何よ? 何処にあるの?」
「あちらで」
陣十郎は、史上最悪の方向を指さした。
黒い波頭の彼方を。
「ラジオ体操をしようと立ち上がったとき、誤って倒してしまいまして。気がつくと、もう、波とねんごろになっておりました」
「やっぱりね。あんたの仲間は何時《いつ》やって来るの?」
「いま」
「何ですって!?」
「二人して降りて参られましたが」
「誰が仲間なもンですか!」
ゆきはいきなり、陣十郎の細首を絞め上げて叫んだ。
「正直に白状なさい。いつから、敵とつるんでたの!?」
陣十郎は眼を白黒させたままだ。
こりゃ、違うな、とおれは思った。
とにかく、二人して尋問に明け暮れてちゃ、敵の哨戒ヘリが戻って来ちまう。ヘリの捜索間隔は約二〇分だ。
「とっちめるのは、まかせたぞ!」
ゆきの肩を叩いて、おれはターボの修理に取りかかった。多少、海水がかかるが仕方あるまい。
二分とかからないうちに結果が出た。
原因不明
だ。
本来なら、故障の状況と原因まで表示されるヴィジ・スクリーンにも、ファンの回転不良としか出ないので、訝しんでいたのだが、不安は現実になった。
おれが見る限り、悪いところはどこにもない。エンジンもコンプレッサーも、制御機器にも異常なしだ。ゆきのも同じだった。
ふり向くと、ゆきがまだ陣十郎の細首を絞め上げているので、おれは近づいてふりほどいた。
「口を割らないのよ」
「やめとけ。こいつのせいじゃねえ」
「どうしてわかるのよ!?」
「言い換えよう。こいつのせいだが、こいつの意志[#「意志」に傍点]じゃねえんだ」
「はン?」
「こいつには厄病神がついているのさ」
それだけ言って、おれはターボを示した。
「今のところ、動くことは動く。風に気をつけて往復するしかねえ。じきにヘリも戻って来る。行くぞ」
妙な予感がしたのは、そのときだ。
後ろだ。
思わずふり向いたものの、何も異常はない。風は強い。雨はどしゃ降り。海は荒れ狂って――
!?
おれの全身から、ある音が響いてきた。血の気の引く音だ。それは、もうひとつのどよめきに重なっていた。
波の飛沫は、おれの足もとへ迫っては来なかった。
おれに見えるのは、今まで隠れていた黒い不気味な岩塊の連なりだった。
それは、遥か沖へとつづいていた。
「……大ちゃん」
と、ゆきがつぶやいた。
「津波だな」
と、おれは冷静に答えた。妙に静かな気分だった。
「偶然かしらね?」
「わからん」
多分、違うな。どうやら、おれたちは見張られているらしい。
「念のため、荷物は後廻しだ。あの爺さんを抱えて飛ぼう」
「だって――厄病神でしょ」
ゆきの口調は露骨に、置いときなさいよ、と言っていた。
「阿呆」
と答えて、おれは陣十郎に近づき、その旨を伝えた。
野郎め、仏頂面で、
「これはどうも。このような老いぼれを大切な荷物より優先していただいて、感謝にたえません」
「嫌がらせはよせ。さっさと掴まるんだ。行くぞ」
いまにも噛みつかんばかりの形相のゆきにも片腕を預け、数秒後、陣十郎は一気に、よたよたと宙へ舞い上がった。
荷物は置き去りだ。ロープで岩に縛りつけておこうかとも思ったが、取りに来る余裕があったとき、厄介なことになる。
二〇〇メートル付近で風がひときわ強くなり、岩壁に吹き寄せられかかったおれたちは、必死に足で突っ張り、直撃を防いだ。
「やっぱり無理よ!」
ゆきが絶望的な声をあげた。
「上へ行けば、もっと強くなるわ。木の葉なみに吹き飛ばされてしまう」
「かと言って、下へ戻れば海の底へ引き込まれるぞ。その前に、岩壁へ打ちつけられて、のしいかだ」
「こいつ、下ろせばいいのよ」
「さようでございます」
と陣十郎が、陰々滅々たる声で言った。天地がさらに暗さを増したようだ。
「どうぞ、お手をお離し下さい。そうすれば、私も非常に楽な気分になれます。せめて、こんな年寄りひとりの犠牲の上に、若いお二人は生き延びて下さいませ」
こんな嫌みったらしい爺いだとは思わなかった。兄貴とは天地の差だ。
「はい、それじゃあね」
ゆきが手を離した。
「わわっ」
あわてて、陣十郎がすがりつく。ま、こんなところだろう。
「何よ、離しなさいよ」
「ご無体《むたい》な」
言い争っているうちにも、おれたちは流され流され、何とか上昇をつづけていった。
二五〇メートル。
三〇〇メートル。
あと、ひと息だ。
だが、風が――
次の瞬間、おれたちは旋回しながら、手近の岩壁へ吸い寄せられていった。
必死に足を突っ張ったが――
ターボ・ファンが岩にぶつかり、嫌な音をたてた。
ガリガリ、と岩壁をこそぎ落としつつ、水平に吹き流されて行く。岩とキスしてる気分だ。
幸い、ターボ・ファンのおかげで、おれもゆきも陣十郎も直接、岩肌と接触せずに済んだ。
「これじゃ、動けない!」
ゆきがまた叫んだ。
「いよいよ、ね」
「なりません!」
と陣十郎がゆきにしがみついた。
おれは、さっきから左右上下に眼を走らせていたが、
「あった!」
と空いてる方の手で、頭上を指さした。
黒い岩壁の表面に、もっと黒っぽい裂け目が走っている。
かなり大きい。内側はわからんが、ターボ・エンジン付きの人間三人くらいは何とかなりそうだ。
「あそこまで行くぞ。そこで息つぎだ!」
「OK!」
おれたちは、風の合間を縫って、また、上がりはじめた。
下は、不気味な岩肌がどこまでも露出した海岸だ。
まだ、海鳴りは聴こえない。聴こえたらいいのに、と思った。そのくらいなら、津波のスケールもわかる。しかし、まだ聴こえないとなると――どんな巨浪が……。
ヴィジ・スクリーンの端に、光点が生じた。
小さなエンジン音が後を追って鼓膜を叩いた。
哨戒ヘリが戻って来たのだ。この状態じゃ、イチコロだぞ!
「ヘリよ!」
ゆきが金切り声を上げた。
「急げ。あの岩の間へ入るんだ!」
指示しながら、おれは、ガス・ガンの砲塔を旋回させようとした。
キチキチと数回鳴って止まった。
『砲塔旋回不能』
のかがやき。
「おれのガス・ガンはアウトだ。ゆき、そっちはどうだ?」
「アウトよお」
「昇れ!」
おれは夢中で、岩壁を蹴り上げた。
そのとき、一瞬、風が熄《や》んだ。
おれたちは一気に上昇した。
その姿を白光が包んだ。
ヘリだ。機銃掃射が来る。
岩壁まで、あと五〇メートル。五秒は要る。おれの右側で火花が入り乱れた。二〇ミリ――だろう――機関砲弾を食らった岩壁が破片を撒き散らした。
横っ面にでかいのを食らった。昔、NYの路上でやり合った、プロボクサーのヘビー級パンチより効く。
万事休すだ。
裂け目までは、あと二〇メートル。
不意に闇が降りた。
猛風が頬を叩く。
ヴィジ・スクリーンの中で、ヘリがのたうっていた。突風に巻き込まれたのだ。
「上がれ!」
おれは、まだふらふらする頭で叫んだ。
陣十郎の厄病神ぶりも、ここまでは働かなかったようだ。
裂け目の入り口は広く、中は深かった。二〇ミリ砲弾でも耐えられそうな岩盤の厚さに、ひと安心した途端、ドドドと来た。
「もっと奥へ行け。立って歩けるだろ!」
「いっぱいよ。それに、ロケット弾射ち込まれたら、おじゃんだわ」
「わかってらい!」
怒鳴り合いながら、おれは、ゆきに陣十郎をまかせ、何とか外側を向いた。ガス・ガンも外向き。これで、やり合える。
合えるが、このスピードでは、鷹と相対する野豚のようなものだ。唐突に外谷順子の顔が浮かんだ。
全身を光が包んだ。
ヘリが戻って来た。
ガス・ガン発射。
カンカンカンと鋭い音をたてて、ヘリの胴体が窪んだ。糞、貫通しない。光る粒が光彩の中を闇へと落ちていく。
『ガス圧低下』
と出た。おまけに、見たところ、敵ヘリは単なる哨戒用じゃない。装甲の分厚さ。コクピット下端に固定された七連装二〇ミリ・バルカン砲、機体左右のパイロンが支える三二連発ミサイル・ポッド。――単なる武装ヘリとは異なる死の使い――攻撃ヘリだ。
いくら二〇ミリ砲を撥ね返す岩盤といえど、二・七五インチ・ミサイル三発でも食らおうものなら、エンド・マークが出る。
ぐい、とヘリが前面をこちらへ向けた。
一気に遠ざかる。安全圏からミサイルを叩き込むつもりだろう。
そうはいくか。
おれはガス・ガンのスイッチを押した。
出なかった。
代わりに、
「ガス圧ゼロ」
と出た。
首筋を戦慄がかすめた。
その刹那、光るものが旋回しながら、おれの狙った目標――ヘリの操縦席へ吸い込まれた。
最初から攻撃用に造られた攻撃ヘリの操縦席は、被弾効果を最小限に食い止めるため、真正面から見ると極端に狭い。パイロットの肩幅ぎりぎりと思えるくらいだ。そんな標的に何かをぶつけるのがどんなに困難かは、言うまでもないだろう。
加えて、相手は急速に遠ざかっているのだ。
だが、何かは確実にヘリへ向かって投擲《とうてき》されたのだし、確実に防弾ガラス製の風防へ激突し、きらめく破片《かけら》を空中に四散させた。
ヴィジ・スクリーンが映し出したものは、
「長剣」
であった。
もう、見ることはできなかったが、それは疑いもなく、パイロットの何処かを貫いたのであろう。
ヘリは突如機首を下に向け、真っ逆さまに降下していった。
炎が眼を灼いたのは、三秒後であった。
風の雄叫びの只中でも、轟音ははっきりと噴き上がってきた。
その頃にはもう、おれは岩壁のもっと奥へ眼を向けていた。
おれを見すえるゆきの顔は、黒い鋼の兜に包まれていた。
シャルロット・クレマンティー。
誇り高きカッシーニ侯の聖騎士よ。
おれたちには、もうひとりの同行者が、それも、強力無比の仲間がついていたのである。
「あれでよかったか?」
シャルロットがゆきの声で訊いた。
「ああ。――さすがはカッシーニ侯の聖騎士だ。感服したよ」
ゆき=シャルロットの口元に、淡い微笑が浮かんだ。それがこの女丈夫の、精一杯の喜びの表現なのだろう。
「わたくしは、どうすればいい? この新しい鎧はどんな風に使う?」
ターボ・ファンのことだ。成程、困るだろうな。
「説明してもよくわかるまい。陣十郎、おまえが代わりにつけろ。大急ぎだ」
「ははっ」
狭苦しい岩の裂け目の中で二人があたふたしている間に、おれは外の闇に注意を注いでいた。
下方のヘリの炎以外、何も見えない。恐らく、敵の本部には、おれたちの動きが連絡されているだろう。一刻も早く、この場を去るに限る。
そんな思考を、ある音が断ち切った。
どどどどど
遠く遠く。
どどどどどど
地が放つがごとき重い響き。
おれは、ヴィジ・スクリーンをレーダー解像に切り換え、最大倍率で闇の奥を覗いた。
すぐにやめた。
どどどどど
「用意はどうだ?」
「完了です」
陣十郎が答えた。
「海の方は見るな。真っすぐに上がれ。絶対にふり向くなよ」
「承知いたしました」
「何があった?」
と、シャルロットが不審げに訊いた。
「何でも」
おれは答えて、彼女の手甲つきの腕を肩にかけ、ゆっくりと洞窟を出た。
幸い、風はぐんと収まっている。
おれたちは無言で上昇した。
「八頭さま」
と、陣十郎が呼びかけたのは、四〇〇メートルを越えた地点だった。
「あン?」
「ひょっとして、背後の物音は、津波ではございませんか?」
「そうだ」
「かなり近いようですが」
「おれに訊くなよ」
「では、どなたに?」
「おまえしか、いねえだろ。さっきのヘリと同じで、厄病神が呼び寄せたに決まってる」
「すると、わたくしは厄病神と同じだとおっしゃる」
「あたりきだ。もっとも、だからこそ使い途があるってもんだが。正直、ここまで役に立つとは思わなかったぜ」
「おほめ頂いて光栄です」
おかしな野郎だ。
不意に、眼の前の黒い壁が消えた。
平らな地面の広がりと、彼方の森らしきものがスクリーンを彩る。
五〇〇メートルの垂直上昇が、いま、完了したのだ。
「あの森まで行くぞ」
おれたちは水平飛行に移り、一〇〇メートルほど進んで、黒い繁みのただ中に身を入れた。
大きな木陰を選び、着陸する。
ターボ・ファンを脱ぐと、陣十郎はへたへたとその場へ座り込んだ。
老人には苛酷な旅だったに違いない。
「津波が来るらしいな」
と、シャルロットが仁王立ちになって、崖っぷちの方へ眼をやりながら訊いた。
「ああ」
「もっと高いところへ逃げた方がよくはないか?」
「ここは海抜五〇〇メートルの崖の上だ。そんなところまで、おれたちに会いたがってくる波はないさ」
「だといいが。――嫌な予感がする」
「おれもだよ」
正直に言って、おれは彼女と同じ方向へ眼をやった。
来る。
どどどどど
だが、五〇〇メートルだ。
いまや、はっきりと見えた。
数百メートルの彼方まで迫った、黒い、途方もない広さと高さの水の壁が。
巨峰のごときその頂は、どう見ても、おれの頭上遥かな高みにあった。
そのとき、おれの脳裡に、ひとつの単語が閃いた。
リツヤ湾。
アラスカの南端に近い入り江のひとつだ。
シトカの町から北へ二三〇キロ。ジュノーから西へ二〇〇キロの地点。奥行き一一キロ、最大幅三・二キロを有する、ごく普通サイズの湾である。
この湾を地上最高位の大津波が襲ったのは、一九五八年七月九日の夜十時すぎであった。
ただし、通常のように、外海から湾奥へではなく、波は湾内で発生し、奥から湾口へとまるっきり逆のコースを辿って押し寄せたのである。湾内に碇泊中の二隻の船――「ハッシャー号」と「エドリー号」は無事だったが、湾をめざしていた「サンモーア号」は巨浪に呑み込まれて沈没。生存者はなかった。
原因は、湾奥で生じたマグニチュード7・9の地震により、氷河下を走るフェアウェザー活断層が数度、痙攣的にずれ動き、氷の塊を湾内へ落下させたことによる。
たかが氷というなかれ。その重量――九千万トン。
後の調査で、発生した波の最高到達位は、海抜五二〇メートルと計測された。
岸辺の樹木は根こそぎもぎ取られ、直径一メートルもの樅《もみ》の大木が、根元近くで無惨に切断されていたのみならず、そのほとんどが裸の丸太となって発見された。最初、荒れ狂う水のせいで、木々は互いにぶつかり、すり砕かれたと推定されたが、樹皮下の形成層に、そんな痕のないことから、すべては高圧高速な水流のせいとわかったのである。
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第六章 敵地でさっそくかっぱらい
しかし、リツヤ湾の巨大波浪は、いまのおれにとって、実に羨ましい存在だった。
あれは、出て行ったのだ。向かってくるんじゃない。
東京タワーの下に立って見上げてみるといい。
あれで三三三メートル。プラス二〇〇メートルの高さの水の壁が、ゆっくりと、圧倒的な質量をもって迫ってくる。
これが平地なら、おれもこれほどびくつきはしなかったろう。
だが、五〇〇メートルの安全地帯にいて、なおも、そこが死の罠の真っ只中だったとは。
「面倒臭いが、もう一度、上がるぞ」
おれは二人の方を向いて宣言した。
シャルロットは無言でうなずき、陣十郎は眼を丸くしたが、彼方に迫る水の壁を見せつけると、蒼白になって、自分からターボ・ファンに抱きついた。
ひょっとして、また、ろくでもない不祥事が、と思ったが、ファンは快く回転しはじめた。
地中の大魔神が放つ眼覚めの声のような海鳴りに混じって、サイレンの音がきこえた。
遅まきながら、監視兵たちが事態を悟ったのだ。
おれたちは宙へ舞い上がり、崖の背後にそびえる山の方へ向かって上昇しながら飛んだ。
サイレンを地響きが消した。
おれたちの足の下を水が襲ったのは、それから三秒後のことだった。
さっきまで休んでいた森は、水に覆われる前に、根こそぎ引っくり返った。
水は黒く、泡立ちもしなかった。ただ、とびかかり、悠々と呑み込んだだけだった。
山肌に激突したとき、はじめて、海は牙を剥いた。
おかしな話だが、水が岩を打つ響きはしなかった。
空中のおれが耳にしたのは、プロレスの会場でよく生じる音だった。
レスラーが相手の頭を鉄柱にぶつけるとき、こんな音がする。
水が跳ね上がった。
崖からさらに三〇メートルもの高さを有する水が、垂直に立ち上がったのだ。
ぐんぐん伸びた。
五〇メートル、六〇、八〇、一〇〇、一二〇。水の中にはへし折られた巨木の幹が見えた。
一四〇メートルを越えたところで、水はついに力尽き反転した。山頂までは、あと七〇メートルあった。おれたちはそこ[#「そこ」に傍点]にいた。
「凄まじいものだな」
シャルロットの声音はしかし、落ち着いている。
「ああ」
とだけ、おれは答えた。考えることが山程あったのだ。
この津波は誰が引き起こしたのか。
海底火山の噴火や海中断層の活性化が原因だろうが、偶然の自然災害とは考えられなかった。
あまりにも、タイミングが良すぎる。
そいつ[#「そいつ」に傍点]の眼は、おれたちに確実に注がれていたのだ。ひょっとしたら、今も。
赤坂の路上にいたおれを、三万六〇〇〇キロの彼方からレーザー砲で一撃したときのように。
しかし、こいつのリスクの計算は、一体、どうなっていやがるのだ?
赤坂はおれひとりだが、今度は近隣の漁村があり、そこに進駐していた軍や警察の連中がいる。一〇〇人か、二〇〇人か。トラックも自動車も、機関銃もミサイルもあった。一〇輛か一〇〇輛か。
いまはみな、海の藻屑《もくず》だ。そして、おれたちは生きている。
こういう計算を何処の誰がやらかすんだ?
戦いにおいて、自軍の兵の生命だろうと、平気で見捨てる参謀はいるだろう。しかし、兵器や資材は絶対に確保する。それが、損得計算というものだ。
それなのに、今度の奴は――
「どうする?」
シャルロットが訊いた。
おれはもう、気を取り直していた。
「荷物は無しのすっからかんだ。どこかで、塒《ねぐら》と朝飯を調達せにゃならない。とりあえず、近くの町か村まで飛ぼう。何もかも、それからだ」
「わかった」
戦う奴は話が早くて済む。
おれは、少し離れた木の陰でひっくり返っている陣十郎に近づいていった。
夜明けまでに雨は止んだ。
おれたちはターボ・ファンで山の向こう側へ降り、おれの記憶を頼りに、南の方角へ進んだ。
街道を避けたのは、言うまでもない。夜明けと同時に、南岸の津波情報が近隣の町や村にもたらされ、昼近くの道は救援活動に殺到する軍のトラックや輸送車輛で身動きも取れない大渋滞に陥っていた。
おかげで、隠密飛行はスムーズにいけた。
目的地は、首都のサヴィナである。王宮か牢獄かの差はあれ、“プリンス”は絶対にそこにいるはずだ。
距離は約八〇〇キロ。大した距離じゃないし、おれは航海中、アメリカの偵察衛星経由で、スパイ衛星の写した航空写真を手に入れておいたから、村や町、軍事基地の所在地までわかっている。用心さえ怠らなけりゃ、見つからずに通過する自信はあった。
自信はあっても、トラブルは起きる。
昼近く、森の中を疾走中に、とうとう、ターボ・ファンがイカれた。
あの状態から考えれば、もった方だろう。原因不明の死ってのがいただけないがな。
小さな空き地で、おれたちは便利な小道具を放棄した。
これで、頼りは二本の足だけだ。
崖下に放棄した荷物には、折り畳み式のターボ・カーも入っていたのだが、悔やんでもはじまらない。むしろ、これからのしかかってくる問題は、武器だろうとおれはにらんでいた。
目下の所持品は、腋の下のグロックぐらいしかない。複合自動銃《MMAR》も、短機関銃《SMG》も、火炎放射器も、ペンシル・ミサイルも、根こそぎ海の底だ。
何処かで補充する必要がある。
ま、ゆきはワルサーPPK/Sと予備弾倉を三本持ち、シャルロットには絶対になくならない長剣という武器があるが、いざってときどっちが役に立つかは判然としないときた。
無論、陣十郎には持たせていない。
「これから、どうするのだ?」
シャルロットが、ゆきの髪を風になびかせながら訊いた。足元のターボ・ファンを見下ろし、
「これがなくては空を飛べまい。この先には、私が落としたような巨大な怪鳥がたくさんいるのではないか」
哨戒ヘリのことだろう。
「ああ。あれより速くて、大きな奴もうようよしているぜ」
怖気づくかと思ったが、シャルロットはにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「面白い。会ってみたいものだ」
「そろそろ、お別れした方がよくはございませんか」
と吐《ぬ》かしたのは、陣十郎だった。
「何でだ?」
と、おれは噛みつかんばかりの表情をしてやった。
「これ以上、わたくしがご一緒しても、ご迷惑をかけるばかりです。足手まといのなくなった方が、八頭さまたちも動きやすいのでは、と」
「それで、どうする気だ?」
「とりあえず、農家の手伝いでもしながら、首都をめざします」
「見も知らない東洋人が農家で薪を割ろうとするな」
「はい」
「たちまち、隣近所中の評判になる。働き者かどうかは別としてだ」
「はあ」
「みながみな、素性の知れない東洋の働き者に感心してくれるとは限らない。警察に密告する奴もいるだろうし、それより早く、警察の方からやって来るかもしれん」
「ふむ」
「腕組んで首をかしげるんじゃねえ。そしたら、おまえはどうする気だ?」
「正直に話します。八頭さまたちのことは別として」
「どうやってここへ来た?」
「道に迷った観光客でして」
「パスポートや旅券《ビザ》はどこだ?」
「山道を歩いているうちに落としました」
「グループの名前は?」
「失念いたしました」
「ホテルは何処だ?」
「軽い記憶喪失症で」
「署まで来てもらおう」
「ご無体な」
「拷問にかけるぞ」
「何でもしゃべります」
気まずくなって、おれたちは黙った。
「というわけで、おまえは置いていけねえ。それに、ここで逃げられちゃ、苦労して連れてきた意味がない」
「わたくしに不法な労働を強制するおつもりですかな?」
「ああ。大いに役に立ってもらうぜ」
「正当な労働条件と報酬を要求いたします」
「いいとも。――とにかく、首都までは死ぬも生きるも一緒だ。いいな?」
「不承不承ながら、承知いたしました」
「それでは、レストランで食事といくか。この先に、小さな村があるはずだ。幸い、通貨はクルーザーから持ち出しておいた」
「大賛成でございますな」
と、陣十郎が揉み手した。
それが終わらないうちに、おれは右手の木立に向かって走った。走りながら、
「殺すな!」
と叫んだ。
木立の一本から分離した人影めがけて、小剣《しょうけん》を投げつけようとしていたシャルロットの動きが止まる。
一〇メートル以上の差を一気に詰め、おれは小さな影の背中を押した。引き戻すより効果がある。
わっ、と小さな悲鳴をあげて、そいつはつんのめった。
おれは素早く近づき、腕をとって抱き起こした。
追いかけるときからわかっていたが、一〇歳前後と覚しい男の子だ。“プリンス”とさほど変わらない。
緑と青のチェックのポロシャツに半ズボン、プラス、スニーカー。
「離してよ」
とふり廻す手は、ぶよぶよで太かった。頬っぺたも、今にも落ちそう。――小太りだ。
「怪しいものじゃない。観光客だ」
と、おれは片言の英語で言った。
「グループから離れて困ってる。君の家は近くか?」
少年は、おれの顔と服装を交互に見つめ、すぐに緊張を解いた。
雨が熄《や》んだとき、ウェット・スーツも脱いでおいたのが幸いしたな。
こういうこともあろうかと、おれも陣十郎も、綿のジャケット、ポロシャツにジーンズ、ウォーキング・シューズ姿だったのである。ゆきもそうだが、今はちと違う。
「中国人?」
と、少年が訊いた。
「そうだ。大という。君は?」
「カレル」
「よろしくな」
微笑すると、少年――カレルの口元にも白い歯がきらめいた。素直な性質《たち》なのは、一目瞭然だった。こういう子は都会へ出ず、田舎でのびのびと成長した方がいい。
カレルの眼が、おれの腋の下を刺した。わかっている。シャルロットだ。あの格好《スタイル》を何と説明したらいい?
演劇の稽古中だとでも言うか。
「こんにちは《ハロー》、坊や」
馬鹿陽気な声が、おれの悩みを取り越し苦労に変えた。
少年は、きょとんとゆき[#「ゆき」に傍点]を見た。ピンクのTシャツにブルー・ジーンズ。どちらも豊かに盛り上がっている。
「ね、お姉ちゃんたち、お腹が空いてんの。ちゃんとお金払うから、お食事させてくんない?」
「いいよ」
カレルはあっさりうなずいた。ゆきのコスチュームの変化は、もう頭から離れ去ったらしい。こういうとき、女は便利だ。
ほどなく、おれたちは森の中を歩き出した。
道々、訊いたところによると、カレルは野生の果実を採りに森へ来たらしい。
「やったわね。これで食料問題は解決よ。チップをはずめば、警察や軍隊にもタレ込まないでしょ」
「だといいがな」
「なによお。――ははん。あんた、あたしがあの子を一発で言いくるめたんで、能力的な嫉妬を感じてるのね。自分が万能だなんて思ってると、挫折したときのショックが大きいわよ」
「阿呆。――おまえ、どういうきっかけで、シャルロットと切り換わるんだ?」
おれの問いに、ゆきは顔をしかめて考え込んだ。
「それがよくわからないのよ。そうじゃないときは、どこか暗いところに閉じ込められてるんだけど、出て来るときは何の前触れもないの」
「ふむ。暗いところには、いるだけか?」
「ううん」
と、ゆきは頭を横にふって、
「何か、景色みたいなものが、時々見えるんだけどね。よく見極めようとすると、頭が痛くなってくるのよ」
「どんな景色だ?」
「古いお城みたいなものとか、田園風景らしき代物とか」
生前のシャルロットの記憶だろうか。
考えあぐねているうちに、カレルの家に着いた。
あちこちに畑と家が点在する小さな村の一角だ。姿は見えないのに、牛の鳴き声もした。
家には両親がおり、カレルの説明をきくと、黙っておれたちを中に入れ、食事を出してくれた。
シチューの肉は舌の上でとろけるようだったし、青カビのたっぷり生えたブルー・チーズも、固いパンも、空きっ腹には天来のご馳走といえた。ナイフもよく切れた。
いかにも無骨な両親だが、純朴で善良なことはひと目でわかった。カレルの説明を鵜呑みにしているとも思えない。腹を空かした旅人に食事を供するのは、彼らにとって当然のことなのだ。
腹が膨れれば、後は情報だ。
テレビはないが、ラジオはあった。
仲間が警察に届けて、ニュースになっているかもしれないからと、頼んでかけてもらうと、音楽番組の最中だった。放送局は一局しかない。
安っぽいロックが終わると、
「七月×日は建国の日」
と、錆を含んだ男の声が言った。
「サヴィナでは豪華な催しと特別な祭典が行われます。みなで参加し、ともに祝おうではありませんか」
五日後だ。
おれはゆきに日本語で、
「きいたか。――豪華な催しだそうだ」
「特別な祭典ね」
色っぽい顔がうなずいた。
おれは石みたいな顔の父親へ、
「建国の日には、いつも、特別な行事や催し物が行われるのですか?」
と訊いてみた。
「いや」
「いつも、静かなもンだよ」
と、母親が付け加えた。息子はどうしているかと言うと、さっきから、うっとりと、ゆきの方ばかり眺めている。
「去年までは、特別なことは何もなかったのに、今年はもう半年も前から、お祭りの宣伝さ。この国もどんどん変わっていく。そして、大抵の場合、あたしらが歓迎しない方向へ変わっていくものさ」
「変わったって、いつから?」
ゆきが何気なさそうに訊いた。うまい。
「そうさねえ。ざっと、一年以上前」
母親は、おれのグラスに水差しで水をつぎながら言った。
「あいつが宮殿へ首を突っ込んでからさ。あのエニ……」
言いかけた声を、大きな咳払いが撥ね飛ばした。父親は拳で口もとを押さえている。
おれには十分だった。
この国はおかしくなりつつある。その元凶がエニラという男なのだ。
CIAの最新情報にも、この名が記載されていなかった謎の男。
すべての鍵は、こいつが握っているのだ。
訊きたいことは山ほどあったが、おれは、ゆきに目配せして、それ以上の質問を封じた。この一家には、どんな形でも迷惑をかけたくはなかったのだ。おれたちは、食事をご馳走になった東洋の間抜けな観光客として出会い、別れるのだ。
「仲間はサヴィナのホテルに戻ったかもしれない。どう行くのが、一番早いかな?」
「家の前の道をまっすぐ行くと、バス停に出るよ」
と、母親が窓の方を指さして言った。
「終点がイスカリの町だ。そこから汽車にお乗りなさるといい。そろそろ、行きなさい。あと三〇分で次のが出る。その次は、夜までないよ」
「わかった。ありがとう」
おれは礼を言って立ち上がった。
カレルが我に返ったように跳ね起き、母親の手を引いて、奥の部屋へ連れて行った。
父親がまた、咳払いをして、
「近頃の餓鬼は色気づくのが早い。――カレルの奴、どうやら、あんたに惚れちまったらしいぞ」
「あら。――光栄」
ゆきは艶然と微笑した。
「まあ仕方がないか」
父親は全く抑揚のない声で言った。
「上の伜《せがれ》は固い一方だが、あんたみたいな女を見たら、どうなるかわからん。そういや、そろそろ昼飯に戻る時刻だが――」
そのとき――
玄関のドアの外で、自転車のブレーキらしい窮屈な音が響き、少し間を置いて、力強い足音が真っすぐドアの方へやって来た。
ノックなしで、分厚い木の扉は開いた。
確かに固い一方の伜だったろう。
カレルとは、かなり年齢《とし》が離れていた。おれたちを見るなり、二〇歳前後と覚しい若い顔がこわばり、右手が腰へ下りると、黒い鉄の塊が勢いよく上昇して、おれの胸へ狙いを定めた。コルト・ガヴァメント――四五口径・八連発だ。
固い伜は、資料で確認済みの、警官の黒い制服を着ていた。
「何よ!?」
と、ゆきが激し、父親の顔つきも変わった。
「何の真似だ、ワレン? この人たちはお客さんだぞ」
「ならいいが」
と、両手で四五口径を構えた兄貴――ワレンは、粘っこい口調で言った。
「昼少し前に、本部から連絡があったんだよ、父さん。南の岩壁から、不法侵入者が入り込んだ、三人の日本人だそうだ」
「誤解だよ」
と、おれは平和的な笑みを、惜しみなくワレンに捧げながら抗弁した。
「おれたちは中国人《チャイニーズ》だ。日本人じゃない。道に迷ったんだ」
「パスポートを見せろ」
と、ワレンが額に汗の珠を結びながら命じた。
「落としちまった」
「後の二人は?」
「同じだ」
「何処に泊まってる?」
「それが」
と、おれは、ちらりと陣十郎の方へ眼をやりながら言った。
「軽い記憶喪失で」
「ふざけるな。貴様ら、やはり、不法侵入者だな。何処の国のスパイだ? 早速、連絡をとって、軍法会議にかけてやる」
ワレンの眼は血走り、引き金《トリガー》にかけた指は白く変わっていた。あと数ミリ分の力が加われば、シカゴの家畜処理場で数百キロの猛牛を仕留めて軍に採用されたというコルト45《フォーティ・ファイブ》の銃口が、その力を余すところなく披露しただろう。
おれの背後で、ドアが開いた。
ワレンの眼がそっちへ吸いつけられた刹那、おれたちは攻撃に移った。
陣十郎はその場に伏せ、ゆきはワレンの外側へと吹っ飛び、おれは思いきり、右手首をふった。
ナイフ投げは苦手の方だし、この家のナイフで、この家の長男を傷つけるってことに、禁忌も働いた。しかし、それは予想通りの速度と計算通りの進路をワレンの右肩へ結び、彼は声もなくのけぞった。
途端にコルトが暴発し、テーブルの皿が木っ端微塵に吹っ飛ぶ。
おれは空中にいた。
床を蹴った右足をたわめ、まだ、何が起こったかわからないワレンの顎を蹴り上げた。
手加減したつもりだが、彼は勢いよく後方へ吹っ飛び、床の上へ地響きをたてた。
着地と同時に近づき、おれは、ワレンのダメージを調べた。
すぐに、後ろを向いた。
テーブルの前に親父さんが突っ立ち、その背後のドアを背に、おふくろさんとカレルの姿が見えた。
「肩の肉を少し貰っただけだ」
と、おれはなるべく弁解口調にならないよう注意しながら言った。
「神経に異常はない。顎の方も軽い脳震盪で済む。――悪いことをしちまったな」
親子は何も言わなかった。カレルの眼に言いようのない哀しみと、涙が込み上げてくるのを見て、おれは少し胸が痛んだ。
「手当てをしてやってくれ」
「言われるまでもないさ」
母親がぼそりと言って、近づいてきた。
「カレル、奥の部屋から、救急箱を持っておいで」
少年が消えると、おれたちは玄関の方へ向かった。
「あんたたち、何者だね?」
父親が声をかけてきた。
何と言えばいい?
「好きなように考えてくれ」
おれは、上衣のポケットからローランの紙幣を抜き取って、テーブルの上へ置いた。それから、父親のかたわらにある棚に近づき、電話器のコードを引きちぎった。
「世話になったことは忘れない。達者でな」
「捕まるよ、絶対に捕まるよ」
と母親が、呻く長男の頭を抱きながら言った。
「さっさと出ておゆき。すぐに警察と軍隊に連絡してやる。それが嫌なら、あたしたちみんなを殺していくんだね」
おれの横で、ゆきが長いため息をついた。
「さよなら」
おれたちが戸口に近づいたとき、救急箱を抱えたカレルが奥から走り込んできた。
母親に箱を渡して、おれたちを見つめた。眼は、もう泣いてはいなかった。一〇歳の子供には荷の重すぎる哀しみに満ちていた。
「ごめんね」
と、ゆきが小さく言った。
外へ出て、ドアを閉めた。
「早く、警察をお呼び。裏から行くんだ」
母親の声がきこえた。
「何をしているんだい、愚図愚図している場合じゃないよ。何だね、この子は、兄さんがこんな酷い目にあったというのに、犯人どもを捕まえるのが嫌なのかい?」
おれは無言でゆきの方を見、ドアを離れた。
「どうするの?」
ゆきの問いに、この辺の地図を思い浮かべて答えた。
「東へ一キロほどのところに、警察署がある。そこへ行こう」
「自首する気?」
「阿呆。そこを潰せば、当分、何処へも連絡はとれまい。こんな田舎だ。日本の派出所並みの規模に決まってる」
「犯罪者的傾向が強くなってまいりましたようで」
と、陣十郎が嫌みったらしく言った。
「わたくしは、加担する気はございません」
「警官が反撃するなら皆殺しにしてもらおう」
と、おれは切り返し、止めてあったワレンの自転車にまたがった。
「急ぎだから先に行く。後から来い」
田舎道とは言え、真っ昼間だ。畑には人も出ている。
耕運機を動かしているおっさんや、弁当を広げているグループが、何事かと、おれの方を眺め、中には手をふる奴までいた。
それは無視しても、道ですれ違う農民夫婦には挨拶ぐらいしないと怪しまれる。
おれは片手を上げて、どうもどうもを連発し、二〇分後、やっとのことで日本の交番に毛が生えたような、村の警察署に到着した。
少し息が切れたが、どうってことはない。二階建ての建物の隣が駐車場で、頑丈そうなジープが二台パークしている。米軍の旧型――M151・1/4トンというやつだ。さっきのコルトもそうだが、この国は、アメリカと密接な関係を保とうとしているに違いない。危《やば》いかな。
考えるのは後にして、おれは自転車を降り、汗を拭き拭き、警察の玄関を入った。
すぐ内側に来客用の椅子、奥まった一角がデスクで、後ろのドアは留置場だろう。
デスクに足を投げ出してた中年の男があわてて立ち上がった。
ドア横に立てかけてあるAK47――こいつはソ連製だ――自動小銃を取ろうとして、おれの手のグロックに気づき、両手を上げた。
「おまえに用はない。二階のワレンを下ろせ」
と脅す。
男は固い声で、
「ワレンは昼飯を食いに家へ戻った。上には誰もおらん」
これで、こいつひとりとわかった。
「貴様は何者だ?」
「さて」
おれは警官に命じて、後ろの留置場の鍵を開けさせ、鉄格子の中に太り気味の身体を押し込んで、扉を閉めた。
窓には分厚いガラスと鉄格子がはまっているから、喚いても外へはきこえない。
何者だ、おかしな真似をすると軍へ連絡して銃殺だぞ、と怒鳴りちらす署長を置き去りにして、おれはオフィスへ戻った。
デスクの中をごそごそやっていると、ゆきと陣十郎がやって来た。どちらも汗みずく、陣十郎にいたっては、息も絶え絶えである。酒と博打の日々を送っていた罰《ばち》だ。
「ジープの鍵は見つけた。エンジンをかけておけ」
おれは鍵束をゆきに放り投げ、後ろのガン・ロッカーを開いた。
あるある。
AK47が三挺、アメリカ製の――びっくりした――M16A2を三挺。コルト・ガヴァメントが四挺に、弾丸多数。
おれはライフル二挺ずつ肩にかけ、デスク下の屑篭の中身をぶちまけて、予備弾倉をつめられるだけつめた。
重い。三〇キロはある。ターボ・ファンの有り難さが身に沁みた。
電話器のコードを引きちぎり、よっこらしょ、と屑篭を持ち上げた瞬間、銃声が轟き、窓ガラスが砕け散った。ショットガンだ。
「おとなしく出て来い」
と、男の声が遠くからきこえた。気配多数。
「ほんだらば、生命だけは助けてやる」
おれは苦笑した。
NYで空中戦をやり、クルーザー一隻と恐竜一頭を撃退、大西洋上では巡洋艦一隻を沈めて、上陸に際し、攻撃ヘリ一機を落っことした上、五〇〇メートルの大津波からも逃げ切ったのに、農民相手にピストルの射ちっことはな。
だが、つづけざまに窓ガラスが吹っ飛び、駐車場の方からゆきの悲鳴がきこえては、おちおちしてもいられなかった。
おれは屑篭を左手一本で身体の前に抱え、右手にAK47を構えて窓辺に近づいた。
そっと覗く。
「阿呆!」
英語で叫んだ。
次の瞬間、怒りの一斉射撃だ。これで、位置がわかった。
「ゆき――敵は横へ廻ったか!?」
と日本語で叫ぶ。
「大丈夫よ。前だけ。早く来て、ワルサー一挺じゃ、心もとないわ」
意外に落ち着いた声に、おれはひと安心した。流れてる血が違う。
息を吐きざま、ドアを蹴り開けて飛び出した。
AK47をフル・オートで横薙ぎに払う。
二〇メートルほど離れた土手の上に砂煙が走り、黒い頭が引っ込む。悲鳴が上がった。苦鳴じゃない。
口径七・六二ミリという五・五六ミリNATO弾をひと桁上廻る大きさとパワーの弾丸を使用するAK47は、単発射撃ならともかく、フル・オートでは銃身が跳ね上がって、容易に命中しない。狙ったところへ片手射ちで射ち込めるのは、おれなればこそだ。
反撃はぴたりと熄んだ。土手の向こうでは、頭ひとつ動かない。
もともとは戦争と縁がない農民だ。銃で射たれた途端に、腰でも抜かしてしまったのだ。
おれは苦笑して、駐車場へと走った。一発も追って来ない。
武器弾薬をジープの後部座席へ押し込み、助手席にゆき、後ろに陣十郎の布陣で走り出してからも、追撃はとうとうやって来なかった。
今度の件では、ツキに見放されたとしか思えない事態の連続だが、旧式のジープには運がついていたようだ。
別のジープに追われることも、牛車とすれ違うこともなく、おれたちは走りに走り、ようやく、夕方、この辺では一番の観光地「リベラ」市に到着した。
市とは言うものの、人口一万三〇〇〇弱の小都会である。
観光の目玉は、五〇〇〇体のミイラを収めたという地下の鍾乳洞と――なんと、市の東方一〇キロばかりの沼沢地にそびえる刑務所だ。
かつては政治犯、現在は凶悪な刑事犯専門だが、もとはと言えば、カソリックの大修道院だった。
環境は劣悪にして苛酷。今では少しは改善されたらしいが、政治犯用の刑務所時代は、七割が一年以内に死亡。冬ともなれば、シベリアの方がましだと、囚人は泣き叫んだという。
通称「魔女の寝台」――入ったら、二度と戻っては来られないという意味だ。
ジープを近くの森の中へ停めて、市内へ潜り込んだのは、天地が蒼茫と暮れる時間《とき》だった。成立後五〇〇年という古い街だけあって、由緒ありそうな建物が多い。道の端に装甲車や軍用トラックが停まっているのは仕方があるまい。基地は刑務所から二キロと離れていない。
「何処に泊まるの? 兵隊がいっぱいよ。もう手配書が廻ってるわ」
ゆきが尻を撫でながら訊いた。ノースプリングのシートに、五時間近くも揺られていたせいだ。
「ホテルさ」
「よく言うわよ。お金なんかないのに」
「ほれ」
おれが指先にはさんで突き出した紙幣の束を見て、ゆきは眼を丸くした。
「あんた、どうして? ――わかったわ。カレルの家に、ありったけ置いてきたんじゃないのね!?」
「柄にもないことを言うな。長男の肩の肉を少し貰い、軽い脳震盪を起こしただけだ。プラス、昼飯と迷惑料――あれで十分さ」
「なんて、ガメツイ男なの」
ゆきの声は怒りで震えた。
「全額置いてくるくらいの侠気《おとこぎ》はあると思ったのに……ここまで、ケチだとは思わなかったわよ」
「金で済むなら、全財産置いたって足りやしねえ。――あの家族との関係はもう終わった。おれたちに重要なのは、これから先のことだ」
何か言いかけ、ゆきは口をつぐんだ。全身が震えていた。怒りのせいだった。
「ところで、八頭さま」
と、陣十郎が口をはさんだ。
「わたくしどものことは、もう、この市《まち》にも連絡が来ているのでは?」
「多分な」
「では、一体、どうやってホテルへ?」
「あれさ」
おれは、石畳の通りをやって来る一団に、顎をしゃくった。
「おや」
と陣十郎がきき耳を立てたのも道理。夕暮れの街路を流れて来るのは、石原裕次郎の「赤いハンカチ」と美空ひばりの「柔」だったのである。
「日本の観光客ね」
ゆきがつぶやいた。
「そうか、あいつらに混じってホテルに潜り込んでしまうわけか。悪知恵だけは働くのね」
「ちょうど、観光シーズンだ。ホテルのフロントは、誰がどのメンバーだなんて確認しやしねえ。それに、あいつら、異国の空で孤独に苛まれてるだろう。おまえみたいなグラマーが行けば、一発で仲間に入れてくれる。おれたちは、別の団体だと言えばいい」
「ちょっと。あたしの身体を餌にするつもりなの?」
ゆきは気色ばんだが、まんざらでもなさそうだった。この女は、先天的に淫婦の気がある。男を手玉に取り、オモチャにして、しこたま貢がせた挙げ句にポイ、というやつだ。
チヤホヤされるのが好き、などという幼稚なレベルじゃなく、男が自分に狂っていく過程が楽しくてたまらないのだから、始末が悪い。妖女てな、こんな女のことだろう。
「困るわ、あたし」
と、ゆきはごねた。依頼されるのを待っている証拠に、腰をくねらせてポーズを取った。
「そこを何とか、ゆき――いや、ゆきちゃん」
おれも承知でヨイショをする。
「こら、おまえもお願いしろ」
「承知いたしました。――何分、ひとつ、よろしく」
「そうね。やったげてもいいわよン」
そう言うと、ゆきは大胆に腰と尻をふりつつ、前からやって来る一団に近づいていった。
悩ましい曲線が黒い人影に溶け、数秒。
「おお、そこの二人――こっち来な」
一斉に呼ばれた。
全員、四〇以上の中年男の集団だ。胸のバッジを見ると、「△△宗東関東住職慰安旅行会」――坊主だ。
おれたちは、たちまち酒臭い息に囲まれ、握手攻めにあった。どういうわけか、陣十郎の方がもてる。
「いやあ、おっさん、歌手のマネージャーなんて仕事、ようやるわ」
と、ひとりが言った。
「え?」
と、陣十郎が緊張し、おれはゆきをにらみつけた。
腰やヒップに容赦なく当たる御仏のお使いたちの手を巧みによけたり、つねったりしながら、ゆきはおれに近づき、耳打ちした。
「あたしは、日本の人気歌手――マリリン・ゆきだからね。あの爺さんはマネージャー、あんたはカメラマンよ」
おれは一瞬で事情を呑み込んだ。でかい声を張り上げ、
「オッケイ、みなさん――日本一の売れっ子歌手に、こんな海の向こうで会った記念だ。日本一のカメラマン、八頭大が一枚撮ります。さ、そこへ並んで。マネージャー、マネージャー――やだな、聞こえないんですか? この糞爺い、さっさと並べ。――そ、ゆきちゃん、そこね。あ、そう嫌がらないで、お尻の先ぐらい触らせてやンなさい。みなさん、異国の空の下で、寂しい思いをしてらっしゃるんだから。――はい、いいですか、チーズ」
おれの手には、ニコンのF1が握られていた。
ばしゃ。
「さ、我々はこれで」
と、おれは、ゆきを連中の中から引っぱり出して言った。
「待ってくれ。そらないよ、あんた」
「わしら、日本の娘さんに会ったのは、旅行に来てはじめてじゃ。もう少し、付き合っておくれ」
「そうじゃ、ホテルへ行こう。ホテルで一緒に飲もう、南無阿弥陀仏」
「でも――この娘《こ》は、明日の撮影もありますし」
と、おれは渋ってみせた。
「なにを固いことを――なあ、よかろうが、マネージャーさんよ」
「そうですなあ」
と、陣十郎は顎に手を当てて考え込んだ。絶妙の呼吸だ。名雲秘書の弟だというのは、嘘じゃないらしい。
「どうするね、マリリン?」
「そうねえ。――あたしは別に、構わないけどお」
「な、なら、決まりじゃ。行こ、行こ」
「ですが、この娘のスケジュールは、スポンサーに買われておるんです。明日もしも、疲れが顔に出て、撮影がうまくいかなかったりすると、一日単位で、ギャラを返却しなければなりません」
「幾らじゃね?」
「一日百万円」
「なんじゃ、一億も払うのかと思ったぞ」
坊さんたちは口々に笑い合った。
さすが高額所得者、宗教大法人。
「倍出すぞ。姉ちゃん」
「いや、三倍だ。ほれ、この通り。――えと、トラベラーズ・チェックでいいかな?」
「いえ、できれば、現金の方が」
「ようし、ようし」
陣十郎は手際よく、男たちから路上で現金を巻き上げ、おれは素早くそれをかっさらった。
「ちょっと。――ちゃんと分配しなさいよ。あたしが身体張って稼いだんだから」
にらみつけるゆきの尻を押し、
「さ、行くぞ、ホテルだ」
と、おれはニコンをふり廻して叫んだ。
「それ、誰のカメラよ?」
「知らん、さっき、隣にいた奴のを失敬したんだ」
「この、こそ泥」
「るせ、色仕掛けに精を出さんか」
こういう次第で、おれたちはホテルのフロントの眼をやり過ごし、坊さんたちの部屋でドンちゃん騒ぎした挙げ句、正当な住人を追ん出したベッドでたっぷり睡眠をとって、翌日の朝、みながまだ寝ているうちに外へ出た。
連中の服を失敬し、着替えておいたのは言うまでもない。シャワーも使わせてもらい、髯も剃った。
ゆきだけは合う服がないので、メイド室へ忍び込み、ホテル用の制服を着せた。
こんなダサイのやだ、と言ったが仕方がない。
ついでに、ホテルの駐車場へ行き、ベンツも借りることにした。おれも、ジープのクッションの良さには、もうこりごりだったからである。
まず、森へ戻った。ジープの武器を移さねばならない。
ベンツの乗り心地の良さに、制服ではスネてたゆきも大はしゃぎで、二度と降りたくないと連呼したのにはまいった。
おれが先に降りた。車が二台入るスペースはたっぷりある空き地だ。
ジープは木の枝で巧みに偽装してある。遠目どころか、よほど近くでも、見分けはつかないはずだ。
異常はない。
おれは足早にジープへ近づいた。
そのとき、足を止めたものは、頭上から迸る殺気を感じた超感覚だったか、偽装の微妙な違いを見抜いた記憶力だったろうか。
反射的に前へ跳んだ背に、灼熱の痛みが走った。
ひねった眼の中に、黒い小さな影を認めたのも束の間、それは、次の瞬間、消え失せていた。
上だ、と勘が命じた。
仰いだ樹上で、枝の打ち合う音がして――
沈黙が落ちた。
「八頭――」
陣十郎の声は、途中で切れた。ゆきが止めたのだろう。さすが、わかってやがる。
おれは全神経を肩から上の空間へ集中することが出来た。
背中の傷は明らかに刃物だ。あとゼロ・コンマ・ゼロ一秒、前へ出るのが遅れていたら、脳天ぶすりだったに違いない。
あの影は明らかに人間だ。だが、これほどの発条《ばね》と身の軽さ――おれの超感覚をもあざむく隠形の法を心得ているとは。
おれは、ゆっくりと右手を上衣の内側へ滑らせていった。
敵は動かない。
もう逃げたのかもしれない。おれは、ひとり芝居をしているだけなのかもしれない。それでも、気は抜けなかった。
何かが、足元を見ろとささやいたらしい。
おれは視線だけを落とした。
むっとする青草の上に、青黒いものが固まっていた。
蛇だ。
それも、もたげた鎌首が、異様にふくらんでいるときた。
コブラだった。ご丁寧に、地上最強の猛毒を誇るキングコブラだった。
普通なら、しかし、そんなに怖い相手じゃない。
今は別だ。
コブラは明らかに戦闘意欲に燃えていた。距離は三〇センチ。飛びかかるには一瞬だ。応じるには、おれも一瞬、全神経をそちらへ向けなくてはならない。敵が待っているのは、その瞬間だった。
打つ手は――ない。
コブラの出し入れする舌が止まった。
来る。
その一刹那、おれの中で何かが起こった。妙な言い方だが、気持ちが和んだのだ。
恐怖の跳躍がおれに届くまでの時間と距離を、おれは冷静に把握し、十分な余裕を抱いてグロックを抜くや、頭上から飛びかかる殺気めがけて左手をふった。
九ミリ・パラベラムの轟音とともにコブラの頭が吹っ飛び、肉を断つ手応えが左手へ伝わって来た。
おれの真上から襲った黒い影は、頭上一メートルで回転し、猿のように軽々と地上へ降り立つや、一気に三メートルも後方へ跳んでいた。
「やるな」
陰々滅々たる男の声であった。
身長は一メートル五〇もあるまい。手も足も異常に細く長い。髪は丸坊主だ。年は四〇代半ば。
右手に握った細長い剣を口に咥え、男は左の二の腕を押さえた。
おれはすでに、そこから滴る赤い糸のような血潮に気づいていた。
「おかしな武器を使う――何だ?」
「これか?」
おれは左手のコミュニケーターを示した。“プリンス”がさらわれた原宿のマンションで、ドアにガス孔を開けるために使った単分子繊維チェーン・ソー。最高五メートルまで伸びる万能切断糸を、おれは間一髪、奴の腕に叩きつけたのだ。
本当は右手の肘から丸ごといただきたかったが、敵の反射神経は尋常ではなかった。
それでも、大ショックだったらしい。
男の小さな顔には、生まれて初めて反撃を食らった天才暗殺者ゆえの虚脱感が浮かんでいた。
「“大佐”どのの言われた通り。若いからといって侮れはせんな。いや、いま、おれは侮りはしなかったぞ」
「やっぱり、“大佐”の部下《てか》か」
おれは、グロックを男の胸に突きつけて言った。
「おれは八頭大――あんたは?」
名前を訊いた理由は、おれにもよくわからない。多分、こいつの技倆に感心したのだろう。
「“処理班”のJ――ジャンプの略だ」
「なるほどな。“大佐”直属の暗殺屋か。――後は何人いる?」
「おれを入れて四人。いずれも手強いぞ。銃などというつまらん武器は誰も使わん。そのかわり、一歩歩くのも、うたた寝をするのも、もう、安らかにはいかん」
「どうして、おれがここにいるとわかった?」
「ある用事で来たのよ。そして、おまえたちのことを訊いた。何処で“プリンス”の居どころを知った?」
「なにい?」
ジャンプ――Jの表情に驚きの色がかすめた。
「ほう、知らずに来たのか。運の強い奴よ。おれは、てっきり、この街で策を練るつもりと踏んで、仲間とこの辺を廻った。そして、ジープを見つけたのさ」
「“プリンス”は何処だ? サヴィナじゃないのか?」
素直な答えなど返っては来まいと知りつつ、おれは口走った。
すると――
「喜ぶがいい。あのお方は“魔女の寝台”におられる」
「なにィ!?」
「ある事情により、あの忌むべき檻へ放り込まれたのよ。おまえたち、見事に救い出してみるか?」
おかしなことを言いやがる。自分たちで閉じ込めておきながら、口調は、おれが救い出すのを期待しているようだ。
「おまえの仲間と“大佐”は何処にいる? そして、そいつらの能力は?」
Jは、にっと笑った。
「いずれわかる。また、おまえは知らずにはおれまい」
「この――」
脅しに肩へ一発、と思った眼の前で、小さな顔が伏せられた。
まさか、奴が、もっと小さかったとは。
黒い姿の背が弾けるや、もうひとつの黒い塊が稲妻のごとく跳ね上がったのだ。
グロックが唸り、影のみを貫いて、向こうの幹に当たった。
近くで梢が鳴り、
「破ってみろ、小僧。『魔女の寝台』を!」
大笑が尾を引いて消えた。
硝煙漂うグロックを構えたまま、おれは、その場に立ち尽くしていた。
Jのもとの身体――特殊な紙か繊維でつくった脱け殻は、すでに張りを失い、地面の上でそよ風に揺れていた。
「大ちゃん」
「八頭さま」
二つの声が背後でしたが、おれはふり向かなかった。
「しっかりしてよ。――怪我はないの?」
珍しく気遣うような声を出して、ゆきは前へ来た。
驚きの色が表情を彩った。
「大ちゃん――あんた……」
その通り。おれは笑っていた。腹の底から込み上げる歓喜に、八頭大の全神経が呼応していたのだ。
“プリンス”を呑んだ『魔女の寝台』――Jの投げつけた挑戦が、おれの血をたぎらせていた。
破ってみろ。
おお、やってやる!
草いきれに息もつまるようなうっとうしい林の中で、おれは灼熱の人型と化していた。
『エイリアン魔神国〔中〕』完
[#改ページ]
あとがき
「どうも、締まりませんねえ」
「そうですねえ」
「あとがき、つけませんか?」
「うむ、つけましょう」
こんな問答が上巻刊行後にあり、中巻以降は、つけることになりました。どーも、この頃、横着になっていかん。読者のみなさん、ご免なさい。
で、中巻ですが、これは上巻より数等、派手に上がっています。なんせ、全三〇〇枚中、二五〇枚以上が、本編の活躍の場――ローラン共和国へ行くまで[#「行くまで」に傍点]の話。
数えてみたら――
空中戦が二度(もちろん、趣向は変えてあります)。
海上戦が一度(NYクルーズがもとになっている)。
海中戦が一度(正確には、海上VS海中)。
陸上戦に到っては××。
どうやら私は、兵器を使った一大アクションを展開したかったらしいのであります。
とにかく、ページをめくってごらんなさい。胸がすく[#「すく」に傍点]から。
大もゆきちゃんも名雲秘書の弟もみんな元気です。
ただし、オール・スターと銘打っているのに、何人か足りない人物《キャラクター》がいる。あと一巻で終わるのか、と不安になった方へ、お知らせであります。
どう考えても、三巻じゃ無理なことが判明。「エイリアン魔神国」は三巻(上・中・下)プラス完結編の全四巻で発売ということになりました。長すぎる、なんて言わないで下さい。五巻にしろ、とクレームがつくくらい頑張るつもりなんだから。
『獅子王』では新しいシリーズもはじまるし、諸君、私は燃えている!
平成元年八月某日
「フルメタル・ジャケット」を観ながら
菊地秀行