エイリアン魔神国〔上〕
菊地秀行
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目次
第一章 なんじゃ、この餓鬼(プリンス)は?
第二章 “プリンス”を狙う影
第三章 とんでもねえ来客
第四章 原宿魔獣街
第五章 官公庁の夜
第六章 “大佐”との邂逅
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第一章 なんじゃ、この餓鬼(プリンス)は?
その日、おれは、渋谷の百軒店《ひゃっけんだな》にある「SHIBUYAミュージック・ステーション」の楽屋へ押しかけた。
高校が休みに入った当日の夜である。公園通りにそびえる東武ホテルのプライベート・ルームでアルマーニの上下に着替え、手には注文しておいた薔薇の花束を抱いていた。
髭も剃ったし、コルゲートで歯も磨いた上、アラミスのオーデコロンも、ほんのひと吹き――どんな美女でもうっとり間違いなし、と思ったのに、おれを待っていたのは、怒りに灼熱した罵声だった。
「なによ、ひとりで最前列借り切ってかぶりつき[#「かぶりつき」に傍点]なんて。ああいうのはね、お客さんが山ほどいるから、気が乗って出来るのよ。それを、ひねた高校生が眼ぇ血走らせ、鼻の穴広げて歯ぁ剥いてたんじゃ、いまにもとびかかってくるんじゃないかと、気が気じゃあないわ。今日の出来――最悪よ」
ぱぱぱぱぱん、と平手打ちの連打みたいに言い放つと、おれの訪問先――愛しの大川千里《ちさと》ちゃんは、鼻筋がスキッとのびた可愛らしい横顔だけをこちらに見せて、プイとそっぽを向いた。
「そんなあ」
おれは我ながら下心見え見えの甘ちょろけた声を出し、四つん這いで千里ちゃんににじり寄った。
金ピカのガウンから剥き出た太腿に、なるべくいやらしくなく、露骨に手をかける。この兼ね合いが難しい。今回は割合うまくいった、と思いきや、
ばちいん。
情け容赦もなく弾き飛ばされ、おれは危うく畳に頬ずりするところだった。
こりゃ、本気で怒ってる。
「なにすんだよお」
と、おれは未練がましく言った。
「買い切りもかぶりつきも、君を愛すればこそじゃないか。ここんとこ仕事――学業に忙しくて十日もご無沙汰してたしさ。おれ――ボクは他の男どもに君の裸を見られたくないんだよ。なにしろ、紳士だから」
「あのね、いいこと。――あたしにしてみれば、みぃんな大事なお客さんなのよ。それを、縄張って、舞台へ上がらないで下さい、じゃ困るわけ。大体、高校生の分際で、毎晩、ストリップ小屋に顔出すなんて、どうかしてるわよ。帰って勉強なさい」
以上の会話からわかると思うが、「SHIBUYA ミュージック・ステーション」というのは、日本でも指折りのストリップ劇場であり、千里ちゃんは、そこの人気ナンバー1を誇る踊り子なのであった。
しかも、ここだけの話だが、年齢もおれと同じ十八歳。バレたらすぐ手が後ろに廻るという状況で、アル中の父親と中学生の弟二人を救けるために頑張ってるという、今どき珍しい女の子、と来れば男として黙ってはいられまい。
毎晩通いつめて、父さんと弟さんにひとつ――とプレゼントも届けてやりたくなるではないか。
決して、千里ちゃんの肉体が目当てとか、お寝んねしたいとか、そういう意味ではあんまりない。
ところが、彼女、身持ちが固いというか、貞操堅固というか、おれが誠心誠意入れ込んでも、いっかな実のある返事をきかせてくれないのだ。デートどころか、手ぇ握るのも駄目。好きな男でもいるのかと、ショーがはねた後、こっそり尾行したこともあるが、等々力《とどろき》の自宅まで、都バスで一直線に帰宅し、家族以外の男っ気など皆無ときた。
「そう言わないで」
と、おれはなおも未練がましくにじり寄って甘え声を出した。
「なにさ、ヘンな声出さないで。おかしなことすると、人を呼ぶわよ。強い用心棒がいるんだから」
「大丈夫だよ。ボクは紳士だから」
おれは紳士紳士と繰り返しながら、
「ボク、君と一緒に別のお勉強がしたいなあ」
「こら」
千里ちゃんは身を翻そうとしたが遅かった。おれは素早く彼女を畳の上に押し倒し、両手を押さえつけるや、強引に唇を寄せた。なにしろ紳士だから、せめてキスだけでも、と思ったのである。
その瞬間、おれは上体をひねりざま、ドアの方へ転がっていた。
頭上で、ひゅっ! と風が鳴った。
いきなりドアを開けて突進してきた影の手首を下から掴んだ途端、その細っこい手ごたえに、おれはあっけにとられた。
巻き込みの要領で畳に叩きつけたときも、手加減する余裕は十分にあった。ドアの向こうに他の気配はない。
「何すんのよ!」
千里ちゃんの声と同時に飛んできた灰皿――おっ、喫うのか!?――を左手で受け止め、おれは当面の敵――用心棒を見下ろした。
想像は当たっていた。――十歳程度の年齢だけ。後はぺけだった。髪の毛は海賊《キャプテン》クックの黄金みたいな金髪《ブロンド》で、眼はローランド湖の水のように碧い。手にした棒はまだ放さない。
おれをにらみつける怒りの表情からさえ立ち昇る気品はどうだ。誰が紳士だって?
「その子に手を出したら、承知しないから!」
コーラの瓶片手に叫ぶ千里ちゃんに、
「こいつ、用心棒?」
と、おれは訊いた。
「そうよ」
「放せ」
と、外国産の餓鬼は喚いた。驚いたね、少し固いが鮮やかな日本語だ。国産だろうか。
「暴力はやめると誓え。そしたら放してやる」
おれはペラペラと英語で言った。
我ながら流暢なクィーンズ・イングリッシュである。二歳のときからの英国仕込みだ。
餓鬼ばかりか千里ちゃんも眼を剥いた。
「捨てなさい」
と千里ちゃんが言った。白い手から、ぽとんと棒が落ちた。おれも約束通り、あっさりと解放した。
餓鬼は素早く起き上がり、千里ちゃんをかばうようにおれとの間に立った。
安物のポロシャツとジーンズが、どうしても似合わない。つまり、本物の品の良さがあるのだ。
「小さいが、プロだね」
おれは口元に浮かびかかる微笑を押さえながら言った。
「どういう知り合いだい?」
「あなたこそ、何者よ?」
餓鬼をそっと自分の脇へ座らせ、千里ちゃんはぼんやりと訊いた。
「ただの金持ちのお坊っちゃんかと思っていたら、そうでもなさそうね。ひょっとして――この子の知り合い?」
「いいや。君のファン」
千里ちゃんはじっとおれを見つめ、すぐに両肩の力を抜いた。
「本当らしいわね。よかった」
「なにか、理由《わけ》ありだな」
おれは興味津々という口調で訊いた。本当は、この餓鬼がエイリアンだろうと何だろうと、千里ちゃん以外に気にはならないのだが、彼女の胸の中に何かがひっかかっていて、それがこいつと関係あるような気がしたのだ。
それを共有したい、という具合に攻めていけば、千里ちゃんもきっと気を許すだろう。
「何でもないわよ」
と答えた。
“そうなのよ”
と言っている。
「よかったら、話してごらん。ボクの父は国会議員だ。何か力になれるよ」
「本当!?」
「ああ」
ちょっと躊躇したが、千里ちゃんの決心は早かった。
まだ、おれをにらみつけている餓鬼に向かって、
「少し出てらっしゃい。お姐ちゃん、この人とお話があるの」
と言った。信頼感絶大なのか、人を疑うことを知らないのか、餓鬼はすぐ、こっくりとうなずき、それでも、おれからきつい目線は離さず、楽屋を出ていった。背筋は伸ばしている。
「あなたのお父さんは――」
「ごめんよ、ありゃ嘘だ。今は土の中にいる」
「だろうと思ったわ。すっかり騙されるところだった」
「いつもならバレっこないんだ」
「どうして、あたしには?」
「そりゃあ」
と言って、おれは恥ずかしそうに頬を染めた。もちろん、わざとである。こういう身持ちの固い女の子を陥落させるには――
「いやだ」
千里ちゃんも俯いて赤くなった。
――純情と誠意がいちばんだ。
おれはそっと彼女の肩を抱いた。身体をもたせかけてきた。ガウンの胸もとから、白いふくらみがのぞいた。ツンブラはつけていない。
ぷん、と香水と汗の混じりあった匂いが鼻をつき、おれはその内側へ右手を差し入れようとした。
「あの子、ね」
「はいはい」
手を戻してしまった。どうも、調子が出ない。
おれの気も知らず、千里ちゃんはぽつりぽつりと語りはじめた。
「自分の名前も住所も知らないのよ。完全な記憶喪失症」
二人の奇妙な関係のはじまりはこうだった。
一週間ばかり前――おれが、パルテノン神殿の地下五百メートルで、ヒドラの右眼をめぐり、ヒドラ教徒とドンパチやってた頃だ――夜の部が終わった千里ちゃんは、NHK近くのレストランへひとりで食事に出掛けた。それを済ませてから、夜風に吹かれようと、国立競技場の敷地内へ入った。
七月下旬なのに、いい風の吹く晩で――ギリシャは暑かったぞ――夕涼みのアベックやら何やらも多く、千里ちゃんは下の方の通路をぶらついていた。
餓鬼はそこの暗がりに立っていたのである。
綿パンにポロシャツという素っ気ない姿でも隠しようのない気品が千里ちゃんの眼をひいた。
しかも――
「ここ、右のこめかみのところから血が流れてたのよ。どこかにぶつけたのかと思ったけど、それにしても、血止めもしないなんておかしいじゃない。で、声をかけたら――」
「何ひとつ覚えてないってわけか。会話は何語だい?」
「英語と日本語ね。私にはよくわからないけど、英語は随分、達者よ。母国語だと思うわ」
「日本語の方も、あれだけしゃべれりゃ、大したもんだ。自分の国で相当やったか、日本に長いこと滞在してたか。――どっちにしろ、言葉まで忘れないでよかったな」
記憶喪失に関しては、まだ、よくわかっていないことが多い。ひどい場合は言葉まで忘れ、赤ん坊の状態に戻ってしまうのだ。
おれは自分のこめかみに人さし指を当て、
「医者に見せたのか?」
「ええ」
「何と言われた?」
千里ちゃんは躊躇した。
「別に。――やっぱり、ぶつけたらしいと言われたわ」
おれは指を三本立てた。
「ひとつ」
と、人さし指を折り曲げ、
「その医者が嘘つきか、ぼんくらだった」
千里ちゃんの眼が険しくなった。
「ふたつ」
と、おれは中指を折って、
「本当は医者へ連れていかなかった」
「………」
「みっつ」
薬指も曲げた。
「それとも、ボクが信用できずに嘘をついてる。――誰かさんが」
「……何のこと?」
「あれは銃創だ。医者ならひと目見ればわかる」
「………」
「それなのに、あの子がここにいるってことは、君が医者に口止めして、警察へ連絡もさせず、連れてもいかなかったからだ。君にあの傷の正体がわかったとしても、警察へ連れてかなかった理由は、ますます混沌としてくるな」
「やっぱり、きかせて。……あなた、一体何者よ?」
「ただの高校生だよン」
おれは甘え声を出した。
「君がどこまでボクに話すつもりだったかは知らないけど、まあ、いいや。ボクには関係ない。――ね、今日、焼き肉食べに行こう。下北沢にいい店があるんだ」
「セコいわね」
千里ちゃんはやっと微笑した。化粧台脇の屑篭を引っぱり出すと、何のつもりか、底の方から丸めたティッシュペーパーを取り出して、
「――やっぱり、きいてもらおう。実はね、あの子、首からこんな品、下げてたのよ」
畳の上に置いたティッシュを、ほっそりした指が開くのを、おれは無言で見つめた。
おれの瞳には、少女漫画の星々がきらめいていたかもしれない。
それは純金の台と鎖《チェーン》にはめ込まれた、黄金の女人像だった。
全長約一〇センチ。長衣をまとい、手に錫杖《しゃくじょう》みたいな品を握った堂々たる姿は、多分、女神だろう。
おれはそれを手に取り、しげしげと見つめた。重さは約二〇グラム。純金だ。
「このサイズで、眼も口も鼻も、歯の数まではっきりと識別できる。そんじょそこらの工芸品じゃないな。よくよく由緒ある品だ。あの餓鬼にゃぴったりだよ」
「ちょっと。――身元引き受け人の前で、餓鬼よばわりしないでよ」
「こりゃ、失礼」
おれは、頭を掻いた。いま、千里ちゃんを怒らせたら、これまでの苦労とプレゼントが水の泡だ。
「私、それ[#「それ」に傍点]見てクラクラっと来ちゃったのよね。格好は普通だけど、どう見たっていわくありげな育ちの坊やとわかるじゃない。おまけにそれ[#「それ」に傍点]でしょ。匿っておけば、いい目が見られるかも、と思ったのよ」
「銃で射たれるような子供をかい?」
「それこそ、あの子の価値を表していると思わない? あんな年齢で生命を狙われるような大物なのよ」
「そりゃそうだ」
おれは、千里ちゃんの深読みに呆れ返った。確かに家庭の事情を考慮すりゃ、そういう風な考えも持つだろうが、無茶すぎる。
おれの頭の中を読み取ったのか、千里ちゃんは――
「とんでもない夢を見ちゃったのよね、私。私たちの幸運っていうと、どう転んだって、宝くじに当たるとか、その程度じゃない。ふと知り合った平凡そうな男の子が、実はビッグ・エンタープライズの御曹子で、とんとん拍子に玉の輿なんてことは絶対に不可能よね。たまに竹薮ん中で一億円拾ったりする人がいるけど、あんなことまず起こりっこないし、起こっても、所詮は一億円止まりよ」
「ふむふむ」
おれは、いかにも理解しているという風にうなずきながら、早くデートの約束を取りつけたいな、と思っていた。
それでも口を挟まなかったのは、女神のペンダントが、気になっていたからだ。宝探しみたいな仕事をしていると、いいこと、悪いことのどっちにも、ある種の勘が生まれてくる。
そいつが囁く。――おまえと一緒だ、と。
大抵の場合、おれにはどっちかわかる。幸運の女神か死の使いか。
ここだけの話だが、二度ほど、おれは予定していた宝探しに向かわなかったことがあるのだ。
あまりに気が滅入って、出掛ければ必ずおっ死ぬような気がした。確信だった。ひとつは別の奴らが見つけ、もうひとつはそのままだ。見つけ出した連中には何の異変もなかったようだ。しかし、おれが行けば死んでいた。――そういうことなのだ。
ところが、今度という今度はわからない。途方もない幸運が待っているのか、逃れようのない死がおいでおいでをしているのか。妙な胸騒ぎはある。それがどういう類か判別できないのだ。
おれが内心困っているうちにも、千里ちゃんの話はつづいていた。
「あの子とつるんでいると、もっと途方もない、私たちには想像もできないような何かが手に入るような気がしたの。例えば、私がどこかの国の王女さまになれるような、ね。もう、父さんや弟たちのことを考えなくてもいい。そう思ったら、何処へも連れて行く気になれなくなったわ。――私と一緒にここの楽屋の上に寝泊まりさせて、手なづけることにしたのよ」
「成果は上がったようだね」
「ありがとう」
「で、あいつの親元の手がかりはあったかい?」
「それが全然。新聞やニュースも残らず眼を通してるし、新聞社で昔の縮刷版も当たってみたんだけど、何も掴めないわ。ま、私ごときに勘づかれるような連中が暗躍してるとは思えないけれど、そのうち、探偵さんを頼もうと思ってた矢先よ」
「あの子の持ち物は?」
「それだけ」
「着てた服はどうした?」
「血まみれだったので処分しちゃった。大丈夫よ、バラバラにして調べたもの」
「ご丁寧なことで」
「どう思う?」
おれは肩をすくめた。
「焼き肉食いにつき合ってくれたら教える」
「もう!」
千里ちゃんは可愛らしくもきつい眼でおれをにらみつけ、すぐ、にっこりした。
「いいわ。何だか、あなたといると安心しちゃった。その代わり、あの子も一緒よ」
「いいとも。――おい」
「大丈夫、食事だけ。デートはその後ね」
おれもにこにこして、
「あの子、何て呼んでる?」
「プリンス。――ぴたりでしょ?」
その通りだ。
「着替えるから、後ろを向いてて」
と、千里ちゃんは言って立ち上がった。
「出てるよ」
「いいの。私は育ちが悪いけど、あなた紳士だもの」
おれは肩をすくめた。
「――ひとつだけ、言っていい?」
「ああ」
おれは、ガウンの衣ずれの音に耳をすませながらうなずいた。
「今でも、あの子を預かっているのはお金のためだけど、少しはあの子が好きだってこともあるのよ」
恥ずかしそうな声が耳を抜けた。何処へ行くのかと思ったら、胸の中で鳴っていた。
「そうだろう」
と、おれは言った。本気だった。でなければ、おれにあんな眼つきはしない。あれは、大事なものを守ろうとする男の眼だ。
ふと、細長い氷の針が、おれの首筋から背骨を抜けていった。
「“プリンス”は何処にいる?」
「上でしょ」
「呼んでくる」
「下から大声出せばきこえるわよ」
「階段は、廊下の端にあるやつか?」
「ええ」
きょとんとした千里ちゃんを置いて、おれは素早く外へ出た。
まっすぐ階段のところへ行き、第一段目に足をかけたとき、反対側の端にあるドアがきしんだ。
ふり向いた。
黒っぽい影が入ってきた。左手に丸めた新聞紙の先を掴んでいる。その端は右手を手首までくるんでいた。
おれは上体をひねりざま、左脇の下から、グロック17を抜いて引き金《トリガー》を引いた。
銃身や摩擦部分を除き、ほとんど強化プラスチック製のオーストリア軍用自動拳銃《オートマチック》は、小気味いいキックを右手から肩に伝えながら、九ミリ・パラベラム・シルバーチップの弾頭を、狙いたがわず、そいつ[#「そいつ」に傍点]の右肘へ叩き込んだ。
衝撃で大きく右手を後方へふりながら、引き金にかけていた指に力が入ったのだろう、男の新聞紙も火を噴き、消音器特有の鈍い音をたてた。
床に当たる命中音の方がよく響いた。
そいつが尻餅をついたとき、おれの銃は、ドアを抜けようとした二人目を向いていた。
そいつは下がろうとしたが、おれの銃のあまりのスピードにあきらめたのだろう、頭から床に突っ込み、背広の内側から抜き出したシグP226をふり上げた。
あいにく、引き金を引く前に右手は爆発し、右肩の骨も砕け散った。
廊下の左右に並んだドアが一斉に開いた。
「出るな!」
叫んで、おれは戸口めがけて威嚇射撃を放った。
木屑が吹っ飛び、第三の黒い影があわてて引っ込む。
楽屋のドアが片っぱしから閉まった。
ひとつだけ開いた。
「プリンス!」
千里ちゃんの叫びがおれの背を凍りつかせた。
「来るな!」
叫んだ刹那、視界は紅蓮《ぐれん》に染まった。
倒れた二人の身体が爆発したのだと理解したのは、衝撃で背後の壁に叩きつけられた瞬間だった。焼夷手榴弾ではなく、通常炸薬だったのがせめてもだ。
右手で顔面――眼を、左手で後頭部をカバーしたおかげで、致命傷は避けられた、と思う。
吹きつける衝撃波と木やコンクリートの破片が一段落したところで、おれは立ち上がった。
戸口の向こうに人の気配はない。逃げたか。それでも、第二波の攻撃に用心しながら、おれは血まみれの廊下を千里ちゃんの部屋の前へ移動した。
千里ちゃんは死んでいた。
爆発は彼女の足元で起こったのだ。どんな死に様か言わない方がいいだろう。見たこともない中年男と二人の子供の姿が脳裡に浮かんだ。誰だか知ったことか。おれは素早く、舞台で腰をくねらせるセクシーな踊り子のイメージに切り替えた。
即死なのがせめてもだ。
力なく伸びた白い手を握り、おれは階段の方へ戻りかけた。
そのとき、もう一度、天地が鳴動した。
こいつらは、ただの刺客じゃなかった。任務遂行の執念で死の恐怖をも塗り込めた、殺人マシンだったのだ。
二階から吹きつける衝撃に階段が折り畳みのやつみたいにへし折れ、天井の構造材が落下してくる。
角材が凄まじい勢いで背中に命中し、おれは床にへたり込んだ。
奴ら、外から二階にも手を廻していたのだ。“プリンス”と千里ちゃんのことも気がついていたのだろう。
鼓膜の痛みをこらえつつ、おれは起き上がった。
グロックを上衣の腹のあたりで隠しながら外へ出る。
痛みの箇所からして、傷は手の甲と顎の先――それもすり傷程度だ。
劇場の方から人が走り寄ってくる。
おれは素早く、敷地内の通路を抜け、百軒店の坂を下りた。
通りに出る前に上衣を脱ぎ、埃は払い落としてある。グロックはホルスターごと、遊底《スライド》の動きを阻害しない程度に上衣に巻いて保持しておく。
えらい目にあった。
ストリッパーを口説きに行ったら、射ち合いに人間爆弾と来たもんだ。
一体全体、どうつながる?
おれはタクシーで東武ホテル一〇FのVIPルームへ戻った。こういう状況には慣れているし、傷も浅いので、怪しまれずに済んだ。
ドアにつけてきた髪の毛がもとの位置にあるのを確かめ、念のため部屋中をチェックしてから、シャツを脱ぐ。下は最新型の耐衝撃ベストだ。箔のように薄い衝撃吸収組織を百枚ばかり貼り合わせたものだが、重機関砲や象狩りライフル用の弾でも、骨折程度でストップさせてしまう。ギリシャでの戦いがきつかったものだから、まだ身につける癖がついていたのが幸いした。
シャワー室へ飛び込んでひと汗流し、奥の二〇畳もある仕事場で手当てをする。バンドエイドも要らない程度の傷だった。
グロックの十連弾倉《マガジン》に使った分を装填し、暖炉の上に飾ったヤティ・マチック短機関銃《サブ・マシンガン》の弾倉と発射準備完了の状態を確かめる。こう堂々と飾ってあれば、誰でもモデルガンだと思うだろう。居間《リビング》にはレミントンのM870散弾銃《ショット・ガン》とミニ・ウージー、寝室にはMAC11《イレブン》/九ミリ・三〇連発が白日の下にさらされているのだ。
武器をデスクの右側――右手が最も自然に伸びる位置に置き、おれはコンピュータ解析にかかった。
上衣の襟につけたミニ・ビデオ・カメラはコンクリート片がレンズと内部機構を直撃してアウトだから、記憶に頼らなきゃあならない。
おれは、左手の中指にはめた輪《リング》状のコントローラーを閃かせた。
仕事場に装備した全電子装置に生命が吹き込まれた。
天井に渡したフリー・レールからBWヘルメットが降りてくるのを真下で直接頭にのせ、おれはコンソールのスクリーンを見つめた。
色彩と光点が入り乱れ、ある形を整えていく。
無数の角片が縮小し、凝集して、リアルそのものの人間の顔を描き出すまで二秒とかからなかった。おれの記憶とイメージの喚起力もなかなか大したものだ。――と言いたいが、それを頭の中から取り出し、解析して再構成するコンピュータ・システム――特に、その基礎となるBWヘルメットの威力は凄い。
BWとは、もちろん、ブレイン・ウェーブ“脳波”の意味だ。悪名高きソ連KGB(国家保安警察)が、お得意の洗脳法の一環として開発したもので、彼らのところにある品はこれほど精巧とはいかず、被験者に強度の脳波増幅薬を服用させるため、副作用も多い。
おれのは、アメリカ一の精密機械企業エレクトリカル・ダイナミック会社に改良させた極上品《エクセレント》である。
いちいちボードを叩くのも面倒なので、おれはすでに作動中の音声モードへ、
「この餓鬼の身元を探れ」
と命じた。
美貌が縮小し、緑色の空白部へきらめく文字が打ち込まれる。何たるスピード。さすがに最新型はちがう。
だが、ストリップ小屋の“プリンス”の横には、こう浮き出ただけであった。
データ無シ
おれは困惑した。あれだけの気品を備え、しかも、国家警察的殺戮の執念に燃えた男たちに狙われている少年だ。絶対にどこか小国の王侯貴族にちがいないと思っていたのだが、それなら九九・九パーセントまで、おれ専用のデータ・バンクに入っているはずだ。CIA、KGB、MI6をはじめとする世界各国の諜報組織の資料をくまなく網羅したバンクにないとすると、単なる一般市民だろうか。いや、整った顔立ちはともかく、あの気品は、血の成せる業だ。外谷《とや》順子がアフリカの太ったお姫さまに化けても、すぐ見破られてしまうどころか、河馬のお姫さまと勘違いされるのと同じことである。
すると、生まれてすぐ、人知れず身分を隠して育てられたか、だ。陰謀渦まくヨーロッパ中世にはよくある話だが、今どき――。
おれは少年のイメージを解消し、別の像を思い浮かべた。
二つ出た。
「こいつらはどうだ?」
と訊く。
答えは即座にやって来た。先刻の素っ気ない表記にかわる文字の列を、おれは、にんまり顔で迎えた。
細かい部分はわずらわしいから、肝心なところだけ言う。
『バイク・リーミレイ 三八歳。ローラン共和国国家安全保障委員会情報局破壊班所属』
『ラフォン・コリジ 三四歳。ローラン共和国国家安全保障委員会情報局破壊班所属』
狙われる方の身元は不明でも、狙う方ははっきりしていた。皮肉なもんだ。おれに射ち倒されても、爆発だけは欠かさなかった律義な殺し屋どもの素姓である。
同時に、おれは激しく納得した。
「なるほどな、ローラン共和国か」
ドア・チャイムが鳴ったのはそのときだ。
おれの反応は我ながらスピーディだった。ガウンを引っかけると同時に、消音器付きのヤティ・マチックをひっ掴み、ガウンの内側へ隠したときは、ドア・ミラーに仕込んだ監視モニターのスイッチをオンにしていた。
あれ!?
ドアの外に突っ立っているのは、見覚えのある爺さんだった。
髪も顎髯も真っ白だが、黒いダブルのスーツを見事に着こなし、背筋も釘みたいに伸びた風格は、そんじょそこらの富豪風情に出せるものじゃない。
名雲《なぐも》秘書か!?
おれは眼を剥いた。以前、おかしな音楽家の手首をめぐって、一緒にアマゾン奥地のロスト・ワールドまで珍道中した相手だ。
いや、よくよく眼を凝らすと、どこか違う。
もう一度、チャイムが鳴った。
他に誰か隠れている様子もないし、爺さんにもおかしな気配はない。
これからはX線放射装置もつけようと思いながら、おれはコンピュータのキイをひとつ押して、ロックを解除した。ドアがゆっくりと開いていく。
戸口まで行く間に、四角い入り口はぽっかり口を開け、細っこい人影は逆光をくり抜いていた。
おれの顔を見ると、
「八頭《やがしら》さんですな?」
渋い声で訊いた。
「ああ。――どちらさま?」
「私、名雲と申します」
やっぱり。
「兄さんか弟さんか知らんが、あのおっさんには世話になった。――死んだのかい?」
どうも、縁起でもない訊き方だな。
「はあ」
「ま、入んな」
「どうも」
名雲はトコトコと入ってきた。実に堂々としている。一緒に歩くと、おれが召使いに見えそうだ。
居間のソファを勧めて、
「ま、かけなよ」
「失礼いたします」
どっか、と腰を下ろした。まるで総理だ。
「結構なお住まいで」
声も地の底からきこえるみたいに暗くて重くて荘重だ。賞められてる気にならねえ。
「で、兄さんはどうした?」
おれは指輪を操って、居間の隅にあるオート・サイフォンのスイッチをオンにした。
「国連事務総長夫人の秘書をしておりましたが、つい、四、五日前に食中毒で」
「食中毒?」
おれの声には、呆然さと不条理感がこもっていた。
あの爺さん――プロ中のプロたる秘書が、食中毒。やっぱり世の中、狂ってる。
「ちょうど、六五回目の誕生日でして」
名雲弟は、むしろ憮然たる声で言った。あまり哀しんではいないようだ。おれは少し不満だった。
「一族郎党がニューヨークのアパートに集まったわけですが、兄はついはしゃぎまくりまして、得体の知れぬ深海魚のゼリーをがっぱがっぱと胃に収めすぎた結果、あっけなく」
「なんてこった」
「全くです」
「葬儀は済んだのかい?」
「は、滞りなく」
なんだか、この爺さんに言われると、今でも成仏できず、その辺をうろついているような気がする。
「で、何の用だい?」
「私《わたくし》、名雲陣十郎と申します」
「これは、ご丁寧に」
おれは思わず頭を下げてしまった。しかし、おかしなタイミングで物を言う男だ。
「生前、兄から八頭さまには大変お世話になったとうかがっておりまして。私もお世話になれないものかと、はあ」
じい、と上目遣いで見つめられ、おれは薄気味悪くなった。あわてて、
「悪いが、秘書なんて雇える身分じゃねえ。おれのことをどこまで知ってるかわからんが、結構、フットワークが軽くてな。今日は渋谷、明日は北極点って身の上だ。失礼だが、あんたじゃ、ついて来れないよ」
「これは軽薄なことを」
「何だ!?」
おれは思わず気色ばんだ――つもりだが、どうも気勢が上がらねえ。死にかけた年寄り相手に喧嘩する気分なのだ。
「お試しにもならず、そのようなことをおっしゃるとは。兄はアマゾンまで同行いたしました。私はバミューダ三角海域でも参ります」
「とにかく、年寄りはごめんだ。いざってときにぶっ倒れられても置き去りにはできねえ。寝醒めが悪いんでな」
名雲陣十郎は、くっくっと笑った。それがまた、私は絶対に死になどいたしませんよ、とでも言っている風で、おれは背筋が寒くなった。
「どうしてもいけませんか?」
「済まんが」
「コーヒーをいただけますまいか?」
「そうそう」
おれは指輪をふるった。オート・メカは器用に家具を避けて走り寄ってきた。
「便利な機械ですな」
「だろ?」
おれは保温されていたコーヒー・カップに茶色の液体がなみなみとつがれ、純金の砂糖壷とミルク・ピッチャーごと台の上へせり出してくるのを見ながら言った。
「しかし」
と、陣十郎は言った。
「何年保ちますかな」
「二〇年保証付きだ」
「短い」
「ほっとけ。飲むのか飲まないのか?」
「砂糖は三つで」
「自分で入れろ、この」
うっとりと、極上品のキリマンジャロの香りを嗅ぐ名執事の弟を、おれはしげしげと見つめた。うっとりと目を閉じている。死刑囚の飲む最後のワインを想像し、おれは陰気な気分に陥った。
「そんなに気に入ったか?」
「はあ。いつもこれが最後の一杯という気持ちでいただいております」
やっぱり、だ。
諦観と陰気の歌を歌う召使いなんざ、誰が欲しがるもんか。コーヒー一杯で叩き出してやる、と決意したとき、また、チャイムが鳴った。
今度はどいつだ。おれは背中に廻しておいたヤティ・マチックを右手に戻した。
「申し訳ありません」
と陣十郎が言った。
「?」
おれは、部屋の隅に置いてある三二インチの大型モニターへ、ドア・カメラの映像を連結した。
ひと目でゴロツキとわかる顔つきと服装の男が四人、突っ立っている。ゴム草履《ぞうり》と雪駄履《せったば》きの奴もいた。顔はこいつらの方が凄いが、迫力は、人間爆弾どもがだんち[#「だんち」に傍点]に上だ。つまり、ストリップとは無関係ってことになる。
妙に暴力的な衝動に駆られて、おれはドアを開けた。
ずかずかと入りこんできた。
黙って通した。
おれをただの高校生と見たのか、薄笑いと眼づけを送りながら、四人は居間に入った。
「いやがった[#「いやがった」に傍点]」
と、細面のやくざが言った。おれではない。
目標は、ソファの上でコーヒーを飲んでいる。
「逃げられると思ったか、バーカ。てめえの考えなど、最初からお見通しだぜ」
と、黒背広が部屋中を見廻しながら、
「えれえ、ぜーたくな部屋だな。おい、坊主、親父さんは何処だ?」
ようやく、おれにお鉢が廻ってきた。
「仕事です」
おれは、わざと固い声を出した。
「仕事? 旅行者じゃねーのか?」
「はい。ここに住んでるんです」
「そーかい、母ちゃんもか」
「はい」
「買い物だな。――帰《けえ》って来るまで待たせてもらうぜ」
四人は素早く、陣十郎を取り囲んだ。
「おめえ、こいつの知り合いか?」
と、三人目の刈り上げがおれを見て訊いた。
「いえ。――この人、何かしたんですか?」
「けっ。餓鬼に言ったってわかるけえ。おふくろと話すよ、おふくろと。おかしな知り合い持ったのが運の尽きと思いな」
しゅっ、という音が空気を裂いた。
陣十郎の背後で、四人目のパンチ・パーマが飛び出しナイフの刃を閃かせたのだ。
「気に入らねえ爺いだ。澄ましてやがる。おい、ここが誰の部屋なのかは知らねえが、おめえなんぞと関わったせいで、骨の髄までむしゃぶり尽くされるんだ。よく見ておきな」
光る切尖が皺深い右頬に食い込んだ。
少しもぐった。
血の珠が盛り上がった。
「こかぁ、誰の部屋だい」
と、そいつが訊いた。
「私の主人だ」
陣十郎はコーヒー・カップをソーサーに戻しながら言った。陰気な口調だ。はじめて、おれは、この老人が好きになった。
「主人?」
「左様。とても怖いお方だ。さっさと出て行きたまえ、身のためだ」
「こいつぁ、面白えや。そのご主人さまてのは、プロレスラーか何かかよ。口から出まかせもいい加減にしやがれ。ここ一週間、連日うちの賭場に入りびたりやがって、何がご主人だ」
細面がおれの方を向いた。
「おい、坊主。――おめえの親父てのは何の商売だ?」
「やくざいびり」
「何ィ!?」
と、そいつが血相変えるまで数秒かかった。その間におれは二歩進み、パンチ・パーマの横面めがけて右手を振った。容赦はしなかった。本来は消音器《マフラー》つきの短機関銃《サブ・マシンガン》なんかで殴ってはいけない。故障《トラブル》のもとだ。
パーマの頬骨がきれいにめり込んだところを見ると、おれは思っていた以上に険悪な精神状態でいたようだ。もっとも、陣十郎の喉からナイフの刃を浮かせたところを選ぶくらいの理性はあった。
やくざどもには、何が何だかよくわからなかったようだ。
それでも、とっさに後じさりし、この餓鬼ィと突っかかってきたのは、その道のプロだった。
もっとも、この程度のプロではな。
おれは真正面から突っ込んできた奴の鳩尾《みぞおち》へ左の前蹴りを軽くぶち込み、引いた足の膝を前屈みになった顔面へ改めて叩き込んだ。軟骨の折れる手応え。
残る二人はもう、素手ではかかってこなかった。
「この餓鬼ィ」
右手に閃く短刀《あいくち》が罵声を発した。
まだ、おれを、モデルガン片手の空手の得意な高校生と思い込んでいる。
おれは容赦しなかった。
そいつが腰を沈めたところへ、ヤティ・マチックを向け、引き金を引いた。
銃身が銃本体のラインより五度ほど上向きについているフィンランド生まれの短機関銃は、そのボルトの後退方向が銃身の跳ね上がりを効果的に打ち消し、目下、世界最高峰の命中率を誇る。消音器付きだから、遠距離ともなれば下廻るだろうが、この距離なら問題にならない。
どどっ、と右肩から肘にかけて黒点が弾け、やくざは右手に引っぱられるみたいな格好で吹っ飛んだ。ゴロツキなんぞ何人死んでも気はとがめないが、絨毯が血で汚れるのは困る。
最後のひとり――黒背広が泣くような声を上げて、右手を背広の内側へ突っ込む。
おれは、ある実験を思いついた。
視界には、慣れないブローニング・ハイパワーらしき自動拳銃《オート》を夢中で引っぱり出そうとするやくざと、窓際のレミントンM870が収まっている。
銃台のセンサーがおれの視線を受けて赤ライトを点滅させるや、散弾銃《ショットガン》を支えている支持架がやくざめがけて旋回する。
「くそ餓鬼」
ようやく、そいつは九ミリの銃口をおれの胸あたりに向けた。
おれは黙っていた。
引き金を引き絞るそいつの顔は、憎悪と殺人の快感に歪んでいた。
弾丸《たま》は出なかった。ブローニングHPはシングル・アクションだ。射つには安全装置《セフティ》を外して撃鉄《ハンマー》を起こさなくちゃならない。これだから、素人には自動拳銃《オート》より回転式拳銃《リボルバー》が向くのだ。あれなら、引き金を引けばBANGとくる。アメリカでは、犯人と格闘になって拳銃を奪われた警官の死傷率が、自動拳銃《オート》装備の場合、回転式拳銃《リボルバー》より遥かに少ないという数字が出ている。激昂した犯人には、安全装置を外したり撃鉄を上げたり、はたまた、遊底《スライド》を引いて初弾を薬室《チャンバー》に送り込むなどという複雑な作業はできないのだ。
「撃鉄を上げろよ」
と、おれは親切に言ってやった。
「さもなきゃ、遊底《ゆうてい》を引けばいい。一発射つまで夜が明けちまうぜ」
やくざは眼尻を吊り上げ、遊底《スライド》に手をかけた。引いた。排莢孔《エジェクション・ポート》から弾丸は出てこなかった。一発目も送ってないのか。こんな野郎がピストルを持つから事故が増大する。
「く、くたばれ」
「はいよ」
そいつの銃口がおれの腹を狙った瞬間、おれは眼でM870の引き金を引いた。
眼で機械を作動させるメカニズムを開発したのは、NASAである。ロケット打ち上げの際、体重の五倍も六倍もG(重力)がかかる状況では、何かが生じた場合、スイッチひとつ押すのも容易じゃあない。そこで出来上がったのが、視線センサーというやつだ。いや、便利なものだ。
散弾銃の重い音は比較的好きな部類に属する。
どどおん、だ。
スライド式の円筒弾倉《チューブ・マガジン》に込めてあるOOB《ダブル・オー・バック》は、直径約八ミリの粒弾を九発、まとめてゴロツキの膝に叩き込んだ。
左脚はちぎれたが、絨毯も弾け飛ぶ。糞、天井に一発射ち込みやがった。修理代はもらうぞ。
血の噴き出す膝を押さえてのけぞるゴロツキの手からブローニングを蹴とばし、ついでに顎にも爪先をめり込ませて、苦痛から束の間解放すると、おれは陣十郎の方へ眼をやった。
陰気なため息をついていやがる。滅入りかける気を奮い立たせつつ、おれは、壁の電話器でマネージャーを呼び出し、部屋の後始末を頼んだ。
無感情なOKが出た。従業員全員にたっぷり賄賂をはずんであるとはいえ、楽しい仕事ではないだろう。やくざの始末は警察崩れのガードマンたちがやってくれる。
「こいつらは何だ?」
おれは陣十郎の鼻先に、消音器を突きつけて訊いた。
「射ちますか、私を」
陰気な声が訊いた。
「これで、苦悩にみちた世界ともおさらばできそうです」
「そんなことして何になる?」
おれは怒りを抑えながら言った。
「事情だけ説明してとっとと失せろ。貴様、わざとこのヤー公どもに後をつけさせたな?」
「はい。召使いの難儀はご主人の難儀で」
「おれは給料なんぞ払ってねえ!」
「とにかく、このようなご迷惑をおかけした以上、黙っておさらばするわけには参りません。私にできるご恩返しをいたしたい、と、かように考える次第です」
「やかましい。もう、説明はいらん。とっとと出て行け」
「このまま追い出されますと、私はこいつらの仲間から生命を狙われます。それでもよろしいのですか? 良心はお持ちと存じますが?」
「貴様に関しちゃ、破片《かけら》もない。出て行け!」
おれは断固として言った。
「承知いたしました」
と、爺いはうなずき、
「では、事情をお話しいたしましょう」
「やかましい。出て行け!」
激したおれの耳を、電話のベルが叩いた。
受話器を取り、
「いま、取り込み中だ」
と言って切ろうとした途端、
「また、女でしょ!」
向こう側の顔が想像できるような、ゆきの声がきこえた。
今夜もボーイフレンドと桃色遊戯にふけっているのかと思ったら、
「いま、六本木よ。――ちょっと、何よ、これ!?」
「これ?」
おれは首をひねった。何か六本木にまずい品でも残しておいたろうか。秘密の預金通帳とか、隠し金庫の鍵、はたまた、引っかけた金髪ギャルのパンティその他?
「高校生のくせに、こんな子供こさえて。――恥を知りなさい」
受話器が耳に吸いついたような気がした。おれはぞくりと震えた。ある予感のせいだ。
「どんな餓鬼だ?」
「金髪よ、金髪」
ゆきが声を落としているのに気がつき、おれは、やはり、と思った。いつものこいつなら、金髪のご当人を前に怒鳴り狂うところだ。それを許さない金髪の少年とは。
「何て名だ?」
おれは訊いた。
「“プリンス”よ」
ゆきの声は、何と、恍惚としていた。
「わかった。――確かにおれの子だ」
「冗談コロッケ」
ゆきは嘲笑した。
「あんた、八歳で子供を生ませたわけ? ――さ、とっとと帰ってらっしゃい。あと一時間以内に戻らないと、この子、叩き出すからね」
「怪我はどうだ?」
「大丈夫みたいよ。――ね、何があったの? 何かこらえている感じ」
「すぐに行く。それまで面倒をみててやれ。風呂でも沸かして、腹一杯好きなものを食わせるんだ。――花はあるか?」
「さっき、薔薇買って来たわよ」
「おまえにしちゃ、上出来だ。すぐ居間に飾れ。派手にしなくてもいいが、とにかく、あの子のそばに置いとくんだ」
「何よ。やけに気ィつかうじゃないの。そうか、八歳でねえ」
「おかしなこと考えるんじゃねえ、この人間週刊誌。いいか、その子が寂しがったら身体で慰めてやれ」
「どういう意味よ?」
ゆきの声は憤然となった。
「おまえの馬鹿でかいオッパイの谷間に顔を埋めて、眠らせてやれってことだ。それ以上は許さん」
「あーら、いいこときいちゃった」
ゆきは高らかに言った。
「そういや、好いたらしい坊やね。ほほ、おいしそうだこと。いいわよ、おっぱいの間で眠らせる前に、お腹いっぱい飲ませてあげる。ふふ、焼き餅やきっこなしよ」
おれはあわてて、
「すぐ戻る。不純異性交遊は許さんぞ!」
叫んで、陣十郎を見た。
「実は、NYから戻りましたのが、五日前……」
「うるせえ。とっとと、出て行け!」
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第二章 “プリンス”を狙う影
結局、ホテルのガードマンがゴロツキどもを片づけるのを見届けてから、おれはうだうだと弁解につとめる爺さんを追ン出し、六本木へとフェラリを走らせた。
やくざどもを半殺しにしたせいで、少しは憂さ晴らしになったが、ハンドルを握っている間じゅう、千里ちゃんの面影が脳裡を横切るのには閉口した。
しかも、その面影が金ピカの舞台衣裳しかつけていないときては、自己嫌悪にも陥ろうというものだ。
別に尾行もなく、おれは六本木の豪華マンションの一室へ到着した。
チャイムを鳴らそうと指を伸ばした途端、ぬう、とゆきが顔を出し、
「しい」
人さし指をセクシーな唇にあてた。驚いたことに、平凡な白いワンピースを着てる。いつもは、おれへの嫌がらせか、肩も腋の下も剥き出しのタンクトップと、太腿ばっちりのショート・パンツなのだ。
「どうした」
おれはせき込んで尋ねた。つられて小声になっている。
「寝ちゃったわよ」
「おっぱいが効いたか?」
「ふん、馬鹿」
おれは、ゆきを先頭に部屋へ入った。
ゆきが居間へ入ろうとするので、客室の方へ行ったら、
「何処行くのよ」
「何処って、ここ[#「ここ」に傍点]だろ」
「こっちよ」
ドアをくぐると、金髪の美少年は、肘かけ椅子にもたれかかって安らかな寝息をたてていた。
おれは口元に微笑が浮かぶのを感じた。ボッティチェリが描いた馬小屋のキリストでさえ、これほど愛らしく、高貴な表情はしていなかった。
ゆきのワンピースの意味が、何となくわかったような気がした。
「我慢強い餓鬼ね」
後ろから、ゆきが呆れ返ったように言った。
「さっきまで、うつらうつらしながら、あんたを待ってたのよ。ソファの背によりかかろうともせず、手は膝に置いてね。無理しないで寝なさいと言ってもきかないの。舟漕ぎ出すと、はっと元に戻るのよ。可愛くないったらありゃしない」
おれは横目でゆきを眺めた。
部屋のクーラーが効いている。
「一体、どういうこと? 事情を説明しなさいよ、事情を」
「いいとも。おれは、五日前、NYから帰ってきた」
「?」
「ところが、帰りの飛行機で、川崎のやくざと知り合いになり、賭場に誘われたんだ。イカサマですっからかんにされ、ホテル代も払えなくなって」
「何のことよ、分裂症」
「何もきいてないのか?」
「何もしゃべらないんだもの。ミスター八頭はいるか、と訊いたきりよ。いない、と言ったら、帰ろうとしたの」
「よく引き止めたな」
「普通なら、はいさよなら、だけどさ。なんか、ひどく疲れてるみたいだったのよ」
「とにかく、ソファじゃ、なんだ。客間へ連れてきて寝かせろ。なんなら、おまえのベッドでもいいぞ」
「この変態。未婚のヴァージンになんてこと言うのよ」
小声でやり合ってたつもりだが、“プリンス”の身体が小さく震え、ゆきの言葉通り、彼は、はっ[#「はっ」に傍点]と姿勢を正した。
「気楽にしなよ」
と、おれは甘くならない程度の口調で言った。
「でも」
「いいから。くたびれてんだろ? このお姉さまに、おかしなことされなかったろうな?」
「は?」
と“プリンス”は眼を細め、おれは後ろから、嫌というほど尻をつねられた。
痛みをこらえつつ、
「よく無事だったな? 二階にいなかったのか?」
と訊くと、
「あのとき、僕は飲みものを買いに裏から外へ出たんです」
と、眼をこすりこすり言う。
「いつもの自販器が壊れてたんで、大分先の機械まで歩きました。戻ろうと思ったとき、爆発音がきこえて――着いたときは、もう大騒ぎでした」
「千里ちゃんには……?」
少年はうなずいた。死に顔は目撃したのだろう。よかったのか、悪かったのか。
「だが、おれが君と会ったのは今夜がはじめてだ。よく、ここに住んでるとわかったな?」
「千里姉さんからきいてたんです。私に言い寄ってくる高校生がいるけど、いざとなったら、頼りになりそうだから、そこへお邪魔しろと、あなたがお姉さんに宛てた手紙の封筒をくれました」
「いざ[#「いざ」に傍点]となったら?」
「僕もどうやってお姉さんに会ったかは、きいています」
狙われてるのは承知ってことか。十歳の子供がよ。
「あの――しばらく置いていただけませんか? 掃除でも何でもやります」
「冗談じゃないわよ」
おれは、こん畜生とばかり、背後のゆきを見つめた。
お色気女子高生は、ふくれっ面をしていた。
「あんたと一緒なだけでもうるさいのに、こんな子供引き受けたら、わずらわしくて仕様がないわ」
少年は、しかし、ゆきに軽い笑みを見せたきり、おれから眼を離さなかった。わかっているのだ。この部屋の主人《あるじ》が誰なのか。
気に入った。並の餓鬼じゃない。
「いいとも」
と、おれはうなずいた。
「女の頼みじゃ嫌とは言えない。好きなだけここにいな」
「むう」
と背後で、ゆきが、おれのクラスメートの外谷順子みたいな唸り声を上げた。そのうち、ぶう、と言うかもしれない。
「ありがとう。――助かります」
“プリンス”は微笑した。
次の瞬間、崩折《くずお》れていた。安心したのだろう。
部屋へ運ぼうとして、おれは手を止めた。横顔がこちらを向いている。その頬を、眼尻から光る珠が静かに滑っていった。
千里ちゃんの夢でも見ているのだと、おれは勝手に考えた。
「断っときますけど、あたしは何の世話もしないわよ」
とゆきが毒づいた。
「ぜーんぶ、あんたが見るか、その子にやらせるのね。よくやるわよ。高校生の分際で、こんな厄介もの引き受けちゃってさ」
「厄介もんには慣れてるんでな」
と、おれは切り返してから、“プリンス”の身体にかかっているタオルケットをつまんだ。
「クーラーが効きすぎてるな。――これは、誰が持ち出した?」
「ふンだ。ひとりで歩いてきたんでしょ」
そっぽを向くゆきへ、おれは苦笑を浴びせ、“プリンス”を抱き上げた。
それから、ひと悶着あった。ゆきは、あくまでも、“プリンス”の素姓とおれとの関係、及び、千里ちゃんとは誰なのか知りたがり、あんまりしつこいので、おれもつい逆上してネタを割りかけ、かろうじて思いとどまった。
「どうしても口を割らないのね。この強情もン」
「ああ、その通りだ。おまえはおとなしく、肉体目当てのピンク大学生とおデートでもしてろ。浮世の憂さは、みんな、おれが引き受けてやる」
「何を企んでるのよ?」
「何にも」
おれはそっぽを向いて、冷蔵庫から取り出した枝豆をつまんだ。うまい。ゆで加減も塩加減も満点だ。こんな性悪女に、どうして、こんな料理ができるのだろう。よく、料理は愛情だと言うが、この女の場合は悪態だ。
「よく、そんなもの胃に入るわね?」
ゆきが腕組みして罵った。
「何でだ? なかなかいけるぜ、この枝豆」
「アイス・コーヒーと一緒に食べなきゃ。もっといけるわよ」
「そういうもんかね」
「全くもう。――一体全体、あの子は何者よ? どう見たって、そんじょそこらの良家のお坊っちゃんじゃないわ。それに、こめかみの傷――あれ、銃創でしょ? どうつながってるのよ?」
「ふっふっふ」
おれは、なるべく嫌みったらしい含み笑いをしてやった。いつもやられているお返しだ。
ゆきは立ち上がった。
「いいわよ、この根性悪。あたしの方で調べてやる。外国人なら税関に書類があるはずだわ。何としても見つけ出してやるからね」
「ま、好きにしな。――けど、おまえには関係のない厄介者じゃなかったのか? どうして気にする?」
「あんたが、ただで子供を居候させるような玉? どっかで金儲けにつながってるわ。独り占めさせてたまるもんですか」
「やっぱり、そうか。――この金の亡者。おまえのような奴が、政治家と結託して、日本人を拝金主義者に変えちまったんだ」
「おかしな責任、押しつけないでよ」
ゆきが怒鳴り、おれたちは久しぶりでにらみ合った。
この頃、こいつは油断がならねえ。すれ違うとぴりぴりくる、一種の鬼気を放ってやがるのだ。おれに内緒で何か習いに行ってるなと思うものの、いまひとつ確証が掴めない。
「ふふ、やる気?」
ゆきがにんまりした。
「おまえ次第さ」
おれは、頭の中であれこれ対策を練りながら言った。
「いざ」
ゆきの両手がすっと上がったとき、おれの全身の毛が逆立った。恐怖じゃない。エネルギーへの反応だった。
こいつぁ、やる、と思った刹那、ゆきはすっと手を下ろした。
「ふっふっふ。ここであんたを片輪にしたら、後々、面倒だからね。今日はやめとくわ」
そして、色情娘は、でっかいヒップをふりふり、“CABIN FOR YOU”を口ずさみながら、居間を出て行った。
その姿が消えると、
「馬鹿め、手の内を見せやがって」
と、おれは嘲笑とともにつぶやいた。
入国管理事務所か。――多分、そんなこったろうと思っていたが、ゆきの考えははっきりした。こっちはその前に手を打たなくちゃなるまい。
数分後。――おれの書斎へ、凄まじい形相と勢いで、ゆきが駆け込んで来た。
「よくもやったわね! この卑怯もの!」
面も向けられぬ憎悪の罵倒へ、おれは平然と、
「どうかしましたかね?」
と返した。
「とぼけないでよ、この。――あたしの部屋のコンピュータとマザコンのコネクトをカットしちゃったでしょ。これじゃ、データの調べようがないわ。汚い真似しないで、正々堂々とやり合ったらどうよ、男のくせに!」
「悪いが、おれの辞書には“正々堂々”と“外谷さんはスマート”という言葉はねえんだ。ダイヤモンドを前に、男のくせにと言われて、レディ・ファーストする野郎が何人いると思う?」
「この、へらず口」
「はい、さようなら」
おれは憤然と食ってかかるゆきを部屋から追んだし、スクリーンに映る“成果”を見つめた。
出入国管理事務所の、最近二〇年に及ぶ入出国者名簿《リスト》である。これを入手するにも、随分、金を使った。
それなのに、
“該当者ナシ”
では、あんまりだろう。
すると、あの少年は、密入国者ということになる。それも、パスポートや旅券《ビザ》の偽造もなし、でだ。念のため、不法入国者のリストも当たったが、記載はやはりない。
こうなれば、残る手段はひとつ。本人の記憶を甦らせることだけだ。
翌日にすべての行動をまかせ、おれは書斎を出て寝室へ行きかけ、ふと思いついて、“プリンス”の部屋のドアを開けた。
豪華なダブルベッドに横たわった少年の顔を、おれは廊下から忍び込む光だけで、克明に見ることができた。
涙の筋は残っている。止まらなかったのだろう。独りきりで国立競技場の暗闇に立っているところを救われ、今夜、また独りぼっちになった。渋谷から六本木までどうやって来たのかは知らないが、その間のこころの動きを、おれは想像してみた。
不意に、少年は寝返りを打った。
「チ……サ……ト……」
おれには、そうきこえた。
ミスでも、姉さんでも、ただのさん[#「さん」に傍点]でもなかった。
チサト
そんな呼び方をできる男は一種類しかいない。そう呼ばれる女も一種類しかいない。
「……千里……」
もう一度、名匠の描いた唇がその名を呼んだ。哀しげに。
おれは黙ってドアを閉めた。
翌日、眼を覚まして、ふがふがとキッチンへ行き、おれはびっくりした。
食卓の上に、豪華な朝食が並んでいる。トーストとサラダ、コーンビーフ入りのスクランブル・エッグとロースハム。マスクメロン半個。プラス、グレープフルーツ・ジュースと来た。焼き方、分量、温度――ひと目で満点とわかった。おれにはおれの趣味があるが、これはどんなに胃腸の弱い奴でも口にできる優等生の調理っぷりだ。
「どうですか?」
照れ臭そうに訊く美貌は、男のおれでさえ、齧ってやろうかと思うくらいの愛くるしさだった。ゆきでもいたら、大変なことになる。
遠くで鈍い音がしていた。
「大したもんだ」
と、おれはできるだけ素っ気なく言った。
「何処で習ったんだ」
「千里姉さんから。居候なんだから、食事ぐらいおつくり。それで、あなたと私は対等だと。不満があったら何でも口にすればいいし、気に食わなければ、いつでも出て行ってかまわない。ちゃんとお給料は上げる。小遣いじゃなくて、あなたが自分で稼いだお金だ。そのかわり、仕事は全力を尽くしておやり。――こう教わりました」
「いい人に拾われたな」
おれの唇は、微笑せずにはいられなかったようだ。
「はい」
“プリンス”は大きく胸を反らしてからうなずき、ふと眉を寄せた。
「さっきからきこえてるんですけど、何の音でしょう」
「ああ。ゆき――昨夜のおっかないお姉さんが、寝返りを打ってるんだ。じきに収まるよ」
「でも――」
「いいから、いいから。君も一緒に食え」
「お腹がいっぱいです」
「そんなはずは――」
ない、と言いかけ、おれは一切を呑み込んだ。
昨日、眼の前で千里の最期を見たばかりだ。おれみたいに快眠快食とはいくまい。
「なら、居間でTVでも見てろ。話は飯の後でしよう」
「お給仕しなくていいですか?」
泣けるねえ、こん畜生。
「いいんだよ。自分のことは自分でする主義だ。料理をこしらえたら、君の仕事は終わりさ。ちゃんと、給料も払うよ。夜食もつくってたのか?」
「はい」
「おれたちは二人だから、夕食は大変だ。ゆきにまかせよう。あいつが掃除もやれと言い出したら、受けても受けなくてもいい。もちろん、その分の御礼はする」
「わかりました。あの――僕は置いてもらうだけでいいんですが」
「千里姉さんは間違ってなかった。だから、おれもそうするよ」
“プリンス”はぺこんと頭を下げて出て行った。
食事は一〇分で済んだ。
おれは居間へ入った。まずい、と思った。“プリンス”はTVの画面を見つめていた。
時刻は九時三〇分すぎ。ワイド・ショー全盛の時刻だ。
画面では、男性アナウンサーと女性アシスタントが、渋谷のストリップ劇場で起きたガス爆発についてコメントしていた。
「嘘だ」
と、“プリンス”はおれの顔を見るなり叫んだ。
「ガス爆発事故で、ストリッパーがひとり焼け死んだだけだなんて。みんな、あの凄い光景は見てたはずなのに。――どうして?」
おれは、昨夜、法務大臣の私邸へかけておいた電話のことを、ちらりと思い出しながら、
「誰かが口を封じたんだ。とんでもねえ野郎がいるな。気にするな。おれと君だけは真相を知ってる」
「……一体、僕は誰なんです?」
“プリンス”は両手で顔を覆った。
「昨夜のことだって、本当は僕を狙ったにちがいない。相手は誰なんです? 一体全体、僕はどんな秘密を持ってるんですか?」
おれは金髪をそっと撫でて、
「そいつをこれから探りに行くんだ。一緒に来るな?」
「何処へでも行きます」
「じゃあ、仕度するから、待っててくれ」
おれは書斎へ戻り、十分後、耐衝撃・耐熱加工を施したレザーバッグを肩に、玄関へ出た。
“プリンス”も一緒だ。
「ゆきさん――まだ……」
奥へ眼をやって気にする少年へ、
「今日は特に寝返りがひどいな。道路工事の夢でも見てるんだろう」
おれは冷たく言い放って外へ出た。
昨夜、部屋のドアも窓もロックされているのを知って、ゆきはさぞ驚いたろう。これでは、“プリンス”を連れておれより先に出て行くこともできはしない。ドアや壁を叩いて喚きつづけても、防音措置と頑丈さは要塞なみときている。ま、おれが下の階へ降りたら、マンションの機能は正常に戻しといてやる。
愛用のフェラリを、おれはホテル・ニューオータニの方向へ向けた。
あそこの正門から五〇メートルばかり離れた住宅街の一角で車を停めたのは、二〇分後だった。
蔦の絡まる古色蒼然たる建物の門には、
『国際精神療法研究所』
と、こればかりは新しいネオン看板がついていた。
要するに、人間精神に関するあらゆる分野の研究を行う機関であり、記憶喪失の治療もそれに含まれる。
おれが全資金を出しているのは言うまでもあるまい。
すでにスーツ姿で待ち構えていた所長と副所長に、“プリンス”をジョンと紹介し、おれは単刀直入に用件を伝えた。
一切質問はせず、二人が首肯《しゅこう》したのはもちろんだ。
副所長に“プリンス”をまかせ、おれは久しぶりに、所長の案内で最新の成果を見せてもらうことにした。
「明日にでも、ご連絡しようと思っとったんです」
と所長は、突き出た腹を平手で叩きながら言った。
「へえ。具体化したの?」
なにせ、扱っているものがもの[#「もの」に傍点]だから、それがおれの仕事に利用できるよう、具体的な形を取るのは、万にひとつもない。
この研究所を創設したのは親父の代で、その頃から、未来の宝探しには、物理的な工作はもちろん、精神的な攻防も不可欠になると考えたらしい。
いくらタフでも、幻影機構か何かにひっかかり、鞭打たれる家族の姿を見て泣き叫ぶようでは、プロのトレジャー・ハンターには向かないのだ。
この研究所では、そういった過去の事例や現在の心理学、精神衛生学等の成果を十二分に取り入れ、様々な精神攻防法や兵器を造り出している。
例えば、アジア遠征中のアレキサンダー大王が、紀元前三二年、アレキサンドリアで没したとき、インドの婆羅門僧《ブラフマー》から伝えられた“知識”を黄金の瓶に封じ込めて、都の地下深くに埋めた。一九四〇年代初期にこのことが明るみに出て、国際宝探し協会《ITHA》からも何人かのメンバーが出動したが、実質的な生還者はゼロだった。他の連中が成功したという話もきかないから、“知識”とやらは、まだそこにあるのだろう。
一九四三年にナチスが派遣したある一隊だけは、まんまと宝の眠る大扉の外まで近づいたが、そこから洩れる妖気に触れた瞬間、全員が何とも言えぬ脱力感、無力感に打たれて、その場を去ったと言う。
つまり、“知識”には、それを狙う人間に対する防御知識も含まれていたわけで、おれが何故、この一件を知っていたかといえば、ほぼ全員が自殺を遂げたうち、ただひとりの生存者を看取った看護婦の娘と知り合いだったからだ。その患者もやがて衰弱死したが、別の貴重な“知識”がおれの手元に残った。
状況を判断するに、“知識”は霊波を製造してこちらの精神にゆさぶりをかけたのであり、俗な言い方をすれば、もっと“図太ければ”何とか持ちこたえたはずなのだ。
「いい品ができたのかい?」
一階の実験室に通されるや、おれは、なるべく期待を表面《おもて》に出さないように訊いた。
「あらゆる精神攻撃《サイコ・アタック》に有効かどうかは保証しかねますが、現在、米ソで開発中の心理兵器には十二分以上に対抗できるはずです。例えば、耐洗脳法としては、ここ一〇年以上、これを屈服させる洗脳手段は考え出せないでしょう」
用心深く鉄扉を閉じると、所長は部屋の奥に固定された巨大なメカ・チェアを示した。個人用サウナくらいのサイズで、形もそっくりだ。
一瞬、拷問台じゃないかと不安が閃いた。おれを脅して、マンションの権利書や身ぐるみを剥ぐつもりじゃなかろうな。
「おかけ下さい。大丈夫、じきに済みます。五分とかかりません」
おれは、椅子をすすめる所長の手先を見つめた。
「原理は意外と単純で、精神的なタフさをつけるだけのことですから、深層心理と潜在意識のある部分を、ある方法で刺激すればOKです。その二つ[#「その二つ」に傍点]が、実は新発見のノウ・ハウでして」
「危険とか副作用とかはねえんだろうな。いきなり、怪物化してしまったとか」
「ご安心下さい。ただ――」
「ただ」
おれは思わず緊張してしまった。
「いや、ご安心を。目下のところ、強化レベルの上限が不明というだけですから。――大丈夫、その人間の本来持つタフさ加減によって、行き着くところは決定されます」
「なんだよ、それじゃ、強い奴はうんと強くなり、弱い奴はちょっぴり強くなるだけか」
「それをならすのが我々の役目でして」
「まあ、いい。信じるよ、試してみてくれ。またとない、モルモットだろ?」
「とんでもございません」
真顔で否定する所長をじろりと見て、おれはサウナにかけた。
「では、こちらをごらん下さい。いや、その前に――」
所長の言葉が途切れると同時に、コードやらライトやらが滅多矢鱈にくっついた移動用治療台が、カートの音も軽やかにやって来た。
かすかなモーター音とともに、無痛注射器が持ち上がり、おれの手に近づいてきた。
「心理解放のための誘因剤です。危険は一切ありません」
おれはうなずいて、チクリ、に我慢した。
確かに、五分もかからなかった。
注射を受けた途端におれは闇に呑み込まれ、気がつくと、所長が計器盤の向こうで重々しく笑っていた。
「いかがです、ご気分は?」
おれは肩をすくめただけだった。
「試験《テスト》をしてもらおう」
「これはしたり」
「何でだよ?」
「八頭さんの精神力は、通常でもかなりのものがあります。加えて、自己催眠による強化コントロールも心得ていらっしゃる。かなりな程度の心理攻撃にも十分対処できるでしょう。いまの処置は、それを凌駕する攻撃が加えられた場合にのみ、効果を発揮します。それ[#「それ」に傍点]を試してごらんになりたいですか?」
おれは少し考え、やめとこう、と言った。
「いつもながら、賢明なご判断で」
所長の声に送られつつ、おれは研究所を出た。
“プリンス”の治療は、あと一時間以上かかるという。ホテルのティー・ルームで可愛いウェイトレスとデートの約束でも取りつけようと思い、おれは、フェラリをそちらの駐車場へ乗りつけた。
ティー・ルームは比較的空いていたが、あまり可愛いウェイトレスはいなかった。おまけに、おれのところへ注文取りに来た女は、外谷順子みたいなデブで、不貞腐れたような態度も口のきき方も、もっとひどかった。
そういや、愛しの外谷さんはヨーロッパ一周に出かけると張り切っていたが、どうなったことか。ジェット機が不時着してライオンに食われたり、人食い鮫の餌食にならなきゃいいが。いや、あの女なら、ライオンを燻製に、鮫をカマボコにして、鼻歌まじりのサバイバルをやってしまうだろう。
ふと、感慨に浸ったせいで、
「ご注文は?」
と不愉快そうに訊くウェイトレスへ、
「君の尻の肉」
とやってしまい、怒るかと思ったら、デブはにいっと笑った。
「やだン、お客さん。あたし、恵毛子《めけこ》。バイトが終わるのは午後六時よ。お寿司が食べたいわ」
「わかった」
と、おれは総毛立つのを押さえながら、
「後で電話する。今夜は楽しい夜にしよう」
「ふっふっふ」
女は思いきり、おれの肩をつねって去った。多分、痣ができたろう。憤怒が胸をついた。あんなデブに言い寄られて総毛立つようで、何が心理防壁だ。あの所長め、減俸処分にしてくれる。
そのとき、ティー・ルームの戸口から、ひとりの長身の男が近づいてきた。外人だ。アングロ・サクソン系。濃紺のスーツをきりりと着こなして、一見、エリート・サラリーマン風だが、なに、平凡な会社勤めを百年つづけても、あんなしなやかな歩き方はできない。
ちなみに、おれはひとりでいるとき、必ず壁を背にし、出入り口と窓を一望に見渡せる位置に席をとる。決して窓際には坐らない。
近くに観葉植物か衝立でも置いてあれば、なお結構。外からの狙撃よけになる。
「座ってもよろしいか?」
男は、テーブルを挟んで真向かいの椅子を示して訊いた。鮮やかな日本語だ。ビジネスマンでなく、これほどの会話能力を必要とする職業は何だろう。
「どンぞ」
と、おれは言った。とまどうかと思ったが、男はあっさりとうなずき、腰を下ろした。
年は四〇少し前、ベテラン諜報員といったところだろう。
水のコップを届けに来たデブへ、コーヒーを注文し、両手を組んでテーブルの上に置くと、じっとおれの顔を注目した。
「もう、私が誰だかお判りだろうな?」
「いンや」
「ふざけた言い方はよしたまえ。天下のトレジャー・ハンターのお里が知れるぞ」
「他所《よそ》の国の言葉をぺらぺらしゃべるんじゃねえよ。そういうのを、日本じゃ太鼓持ちってんだ」
「君のお国の文化には敬意を表している。だが、仲間を二人も殺されては、良い顔もできんな」
「おれは殺しちゃいない。勝手に吹っ飛んだのさ。おれの恋人と十歳の男の子を道連れにしてな」
「恋人のことは知らんが、男の子は生きて、すぐ近くの研究所におる。記憶喪失にでもかかったかね?」
「よく、ご存知だな」
おれはしゃべくりながら、周囲の様子を窺った。
「いま、窓際に座ったカップルは私の部下だ。レジの手前の席にかけた男も、そう。女のハンドバッグと男のライターには、キング・コブラの百倍の威力を持つ猛毒入りのカプセルがつめてある。高圧ガスの初速は四二〇メートル。いくら天下の八頭大《やがしらだい》でも、超音速とは勝負になるまい。どちらもろくに音はせん。倒れた君は私が担いでいってあげよう」
「どうする気だ?」
「手を引きたまえ。我々の目的は、あの少年だけだ。君がどこまで知っているかはわからんが、これきりにしてくれれば、生命までとるとは言わんよ」
お情けか。この八頭大に、情けをかけようってのか、この糞外人は?
「涙が出るほどありがたい話だがな。おれの守護天使とやらは、何処の誰さまだ?」
「余計な口はきくな、黄色い小僧」
男は静かに、笑みを絶やさずに言った。
「私は小生意気な餓鬼が嫌いだ。口の中から手を突っ込んで、中身を引きずり出してやりたくなる。本国からの指示がなければ、とうの昔に、部下のナイフ使いに命じて切り刻んでおる。世界一のトレジャー・ハンターだと? プロの殺し屋の手にかかれば、何程のことがある?」
「そいつはどうだかわからねえが、おれはいま、爪先を左の女とあんたの腹へ向けた。靴の底にちっぽけなミサイルが仕込んであると言ったら、信用できるかい」
青い眼が、じっとおれを見据え、
「出鱈目だ」
と言った。
「おれもそう思うよ」
と、おれは、奴よりもっと静かに言った。
「こいつは少々音がするし、あんたの身体にめり込んだときに、拳くらいの穴を開けちまう。目立つんで、なるべく使いたかないんだ。だが、いざとなれば、あんたにゃ喜んで使わせてもらうよ」
男は目蓋を閉じ、仕入れ値でも計算するような表情をつくった。
再び両眼が開いたのは、三秒後だった。
「どっちが先に出ていく?」
「おれとあんたさ。十分間動くなと二組に言いな。それから公衆電話のところへ行って、子供を離せと命令するんだ」
「もう、手遅れだ」
「断っとくが、あの研究所の連中は、ひとり残らずおれの知り合いだ。傷でもつけたら、あんたに責任を負ってもらうぜ」
男は沈黙した。おれが本気で、しかも、それだけのことをやる力があると気づいたのだ。
小銭稼ぎのチンピラ宝探しだと思っていたのか。――それが生命取りさ。
おれは、男を促して立ち上がった。
二つの席から、毒入りカプセルが飛んでくるかと思ったが、そんなこともなかった。奴らにも男の立場がわかったらしい。この辺が軍組織の泣き所だ。上官からの命令がない限り、上官は殺せない。単なる殺し屋集団なら、男もろとも、おれにカプセル弾を射ち込んでいるだろう。男の指が何かの図形を描いた。おれの指示を伝えたのだろう。
おれは男を先に悠々と――内心は焦り狂って――ティー・ルームを出た。デブがきょとんと見送っていた。すまんが、デートは御破算だ。
「断っておくが、外にも仲間が見張っているぞ」
と、男は歩きながら言った。
「そうかい。百人待ってても、死ぬのはおまえが一番先さ」
おれはこう言い返し、他の客には見えないよう、そいつの脛をかなりこっぴどく蹴とばしてやった。さっさと歩けの合図だ。
いきなり、男は蹴られたところを押さえてしゃがみ込んだ。芝居だ。まだ、ロビーである。トラブルわけにはいかない。おれは素早く男の頭部に手を当てた。延髄の下三センチ――犀河《さいが》というツボへ思いきり人さし指をめり込ますと、男は、うん、と言っただけで意識を失った。
前のめりになるのを、屈み込んで抱き起こす。野郎――しゃがんだときに、ベレッタのM92Fを握ってやがる。安全装置《セフティ》OFF――ホルスターに入れたまま腋の下から射つ気だったんだろう。
こりゃ容赦する必要はないと、おれは男の背骨――特別苦痛を与えるツボをたっぷりと刺激し、無意識のまま呻く野郎をソファへ運んで座らせた。
「仕様がねえな、酔っ払いやがって。おい、しっかりしなよ」
と頬っぺたを叩き、
「いま、中村を呼んでくるからな」
と言い残して玄関へ向かう。
足早に歩きながら、おれは片手を上衣の内側へ突っ込んだ。ショルダー・ホルスターのグロックの引き金《トリガー》を軽く引く。このオーストリア軍用自動拳銃《ミリタリー・オート》はトリガー・セフティという面白い機構《メカニズム》を採用しており、引き金の中央から少しはみ出ている安全装置《セフティ》を引くと、撃発OKとなる。
初弾はすでに薬室《チェンバー》内。
分厚いガラス扉を抜ける前に、おれは、人待ち顔で外に立っていた外人が二人、手にしたアタッシェ・ケースをこちらに向けるのを見た。
脇の部分に黒点。どちらの親指も把手の上段を押さえつけている。
平均的な日本人には、これだけじゃさっぱりわからないだろうが、修羅場を踏んだ人間なら一目瞭然だ。
二人の親指に力がこもる前に、おれはグロックを抜いて引き金を引いた。
ガラスに開いた白い点の向こうで、左側の男が右肩を押さえてよろめいた。手からケースが落ちる。銃声に驚いたホテルのボーイ以下客たちが、一斉にこちらを向いた。日本は平和だ。これが外国なら、みな床へ伏せるところだが。
大きさからして短機関銃《サブ・マシンガン》内蔵のアタッシェ・ケースの銃口が、腹と胸だけを狙っていると知り、おれは構わず進んだ。
眼の前のガラスに白い点が飛び散ると同時に、二人目ものけぞった。肩を狙ったつもりだが、胸に当たったらしい。手当てが早けりゃ致命傷にはなるまい。
悲鳴が鼓膜を叩いた。目撃者が事態に気づいたのだ。後は法務大臣にまかせよう。
おれはドアを抜け、震え上がってるボーイを尻目に、駐車場へと急いだ。
このホテルは玄関から通りまで緩やかなスロープがつづいている。スロープに囲まれた内側が駐車場だ。
そこから、一台のグロリア・サルーンが跳ね上がってきた。
助手席の窓からベレッタを構えた男が上体を乗り出している。
射った。
左肩に当たった。いい腕だ。おれは腰を屈めざま、左足を伸ばした。
発射装置は左手の指輪《リング》だ。磁気信号が靴底のセンサーをつつき、電気の火花が発射薬に点火する。
最初の男は勘が良かったというべきだろう。
靴底に仕込んだ長さ一〇センチ、直径二・五ミリのペンシル・ミサイルは、柳葉のごとき炎を吐きつつ、サルーンの鼻っ柱へ吸い込まれた。
ベレッタの九ミリ弾が耳たぶをかすめた。
車の先っちょに拳大の穴が開いたと思った刹那、ボンネットがめくれた。木の葉のように、表と裏を目まぐるしく示しつつ宙を舞う。エンジンが火を噴いた。
T大の理学部の学生が小遣い銭稼ぎに設計した品だが、近頃のヒット作だ。
突っ込んでくる車体をかわし、おれはフェラリへ駆け寄って飛び込んだ。爆発物探知装置の確認を怠らない。
スタートさせたとき、ホテルの玄関前で燃え上がる車から、二つの人影が飛び降りるのが見えた。どちらも火の衣をまとっている。ティー・ルームの仲間が助けてくれるかどうかだ。同情などこれっぽっちもなかった。千里ちゃんを殺した輩なのだ。
ホテルの敷地からフェラリを飛び出させた途端、鼻先を黒いセレステが通過した。
窓際を塞いでいるのはどちらも外人だった。
ぴん、と来た。
おれは思いきりハンドルを切った。
その瞬間だった。
“危ない、大!”
頭蓋いっぱいに鳴り響いた声を、マリアのものと知った刹那、凄まじい光と熱が車内に炸裂した。
不思議なのは、それからの出来事を、おれが逐一精確に記憶していたことだ。
まず、光と熱には方向があった。
上から降ってきたのだ。――そう思ったとき、おれはドアの外から[#「ドアの外から」に傍点]車内を眺めていた。光と熱がシートと床を叩いて反転し、噴き戻り、何もかも飴みたいに溶けて蒸発するのは、空中で見た。光が迫ってきた。おれは後退した。ついにあきらめたのか、かがやきは色を失い、おれは車体から数メートル離れた歩道の上で、醜い溶鉄の塊と化したフェラリをぼんやりと見つめていた。熱気が顔面を叩き、手の甲もひりひりした。
左右で気配と声が交差した。路上にも通行人が飛び出し、熱に押されてたたらを踏む。交通は完全に麻痺していた。弁慶橋の方から警官が、赤坂プリンス・ホテルの新館の方からガードマンが駆け寄ってくる。
「一体、何だ?」
「わからねえ。横の方で何かが光ったと思ったら、車が燃えてたんだ」
「いや、溶けたんだ」
「あの、あの――光は空から降ってきたみたいでしたよ」
その通りだ、と思いながら、おれは立ち上がった。へたり込んでいたのだ。
「あんた――どうしたい?」
サラリーマンらしい、半袖のYシャツにネクタイを締めた男が訊いた。
ひどい格好だったろう。アルマーニの上衣はボロボロ。おまけに、ほつれた繊維の端は焦げつき、身体を動かすと灰が宙に浮く。
おれは、サラリーマンに軽く手を上げ、上衣のポケットからハンカチを取り出すと――ちゃんと左手[#「左手」に傍点]でだ――ひりつく頬っぺたにあてながら、赤坂見附の交差点へ眼をやった。セレステは無論、見えない。
うまく逃げられたが、打つ手はまだある。のんびりしちゃいられないだけだ。
警官が――目撃者を探していたのだろう――こっちの方を眺めているのに気づき、おれは、さっさと交差点の方へ歩き出した。
最も不可解なことは、そのとき起こった。
おれが吹っ飛ばされたのは、赤坂プリンス新館と通りを挟んだ反対側――ニューオータニに面した方だったから、車道へ出れば、弁慶橋の方角からやって来る車と正面衝突することになる。
フェラリの残骸はまだくすぶっていたので、警官は車道に出て、交通整理にあたっていたが、橋の方からやってくる車は数少なく、現場近くで停められた三、四台の後ろには空隙がつづいた。
その最後の一台の脇を通り抜けかかったとき、いきなり後部座席のドアが開き、いかにも実業家といった感じの、しかし、まだ若い男の顔が覗いていたのだ。
「おい、きみィ」
と、額の中央に大仏みたいな黒子《ほくろ》がある、どこかの歌番組で見たことがあるような男は、立ち停まったおれに、怪訝そうな表情を向けた。なに、訝しいのは、こちらも同じだ。
「何だい?」
おれは、自由な右手をいつでも腋の下のグロックを抜けるよう意識しながら訊いた。
ダーク・ブルーのスーツに身を固めたそいつが、何と言ったと思う?
怪我はないかね、か? 道を訊きたい、か? それとも、乗っていかんかね? ――とんでもない。
「電話だ」
―――
おれは、眉根ばかりか眼も寄せた。
「何だ」
「君に電話だ。私の車には、自動車用フォンがついている」
そう言って、奴が車内から突き出したのは、確かに右手に握られた白い受話器だった。
「長くなりそうなら、乗りたまえ。送っていこう」
「ああ」
と、おれは曖昧な返事をして、受話器を受け取った。
耳に当てるとすぐ、
「大丈夫そうね」
マリアの声がきこえた。新宿地下の“死霊秘宝館”館長だ。
「何とかな。――助けてくれたのは、あんたか?」
「お給料を上げてちょうだい」
「いいとも。今月から三〇万アップだ」
「武器は静止衛星からの荷電粒子砲ね。レーザーじゃ、ああは光らないわ」
「見えるのか?」
と訊き、愚問だな、と思った。
「どうして、わかった?」
「勘よ。すぐにそこから離れて。二撃、三撃と食う恐れもあるわ。今日中に会いに来てちょうだい」
「了解」
受話器を青年実業家に戻し、ふと、おれは訊いてみた。
「済まんが、乗せてってくれねえか?」
「どちらへ?」
「新宿――いや、六本木だ」
何となく、こいつならOKするような気がした。その通りだった。
奥へ引っ込む実業家の横へおれが滑り込むと、行き先をきいていたのか、それとも別の力に操られているのか、運転手はただちに黒塗りのサルーンをスタートさせた。こちらの列が通過する番が廻っていたのだ。
身じろぎもせずに前方を見つめている男へ、
「どうして、電話がかかった」
と、訊いてみた。
「かかってなど来ないよ」
こいつに東北訛があることに、おれははじめて気がついた。外へ出たら標準語になるのか。――うむ、実業家向きだ。
「何となく、受話器を取りたくなって、耳へあてたら、いま外を歩いているのを出せ、と女の声がしたんだ。六本木へ送ってくのも同じ。送りたいだけさ」
「ありがとよ」
おれは皮肉っぽい口調で言い、男の方の窓の外を見た。ちょうど、フェラリの残骸の脇を通りすぎるところだった。
残骸といっても、残ったのは、焼け爛れたシャシとエンジンの一部だけで、ガラスやシートなどは完全に蒸発してしまっている。車道のアスファルトも溶けたのが冷却し、泥状に固着して黒い沼のようだ。
大口径のレーザー砲《キャノン》でもこうはいかない。超高熱シャワーをまんべんなく浴びせられたような効果は、やはり、粒子砲だろう。
帯電した粒子を超高速で加速させ相手に叩きつけるこの武器は、大規模な加速装置を必要とするため、もっぱら地上設置専門だったが、最近は新しい帯電方式が開発され、ぐんと小型になった。
アメリカのSDI構想ではないが、スパイ衛星は攻撃衛星もかねているから、いずれ、搭載可能なコンパクト砲《キャノン》も設計されるだろう。だが、現状で、となると――何処の国が?
それも、地上三万六千キロの静止軌道から、砂粒のひとつにも等しいフェラリだけを精確に捕捉できる照準装置を備えて、だ。
また、あの名前がおれの耳の奥に鳴り響いた。
ローラン共和国。
しかし、米ソでも不可能な兵器を、一体、どうやって?
[#改ページ]
第三章 とんでもねえ来客
おれは、最近、外人歌手の女房と離婚し、三〇億円の慰謝料をとられたと愚痴る実業家に礼を言い、マンションの前で車を降りた。
粒子砲ともなれば、これはもう戦争だ。
ひょっとしたら、今でも三万六千キロの彼方から、電子レンズの眼がおれを見張っているのかもしれない。こちらにも、それなりの準備は必要というものだ。
一応、帰宅合図にチャイムを鳴らし、おれは指輪を一閃させてロックを外そうとした。
首筋に短く電流が走った。
走り方にも色々あるが、これは「待ち伏せ」用だ。
おれが、これから行こうとする先に誰かが潜んでいるのだ。あるいは何か[#「何か」に傍点]が。
おれは精神集中して正体を探り出そうとしたが、うまくいかなかった。
六本木へ戻る前、研究所へ寄ってもらった。
所長は殺されていた。所員の話によると、客を装った外国人が訪れ、所長を脅して、治療中の“プリンス”を連れ出したらしい。これも、法務大臣に連絡しなけりゃならない。
このくらいでびびっちゃいかんのだが、おれも人間だ。たまには精神不安定にもなる。
グロックを抜き出し、おれは、そっと内側《なか》へ侵入した。
室内の様子は、寝室のモニターに逐一映し出される。歓迎できないお客が覗いているかもしれないが、ま、そのときはそのときだ。
気になるのは、ゆきだった。出がけの一件で怒り心頭に発して、男漁りにでも出てってくれてるといいが、こういう場合に限って在宅するように出来ている。おれに迷惑をかけるために生まれてきたような女だ。
廊下を奥へと進みながら、おれはもう一度、精神を集中した。
今度はうまくいった。
気配は居間だ。二つある。どちらも動かない。
奇妙な感覚がおれを捉えた。
ふたつのうちのひとつからは、怒りと脅えが伝わってくる。――ゆき[#「ゆき」に傍点]だろう。
もうひとつからは――何も。
そこにいる、というだけだ。おれに対する殺意も憎悪も哀れみも、一切の感情が伝わってこないのだ。
石か。
居間に近づいても、反応は変わらなかった。気がつかないのか。だが、気配なしというのは。
試してみるか。
おれは、ドアの前で止まり、軽くドアを叩くと同時に、右横へとんだ。
反応なし。
動く気配もない。糞。
こうなると小細工は無用だ。おれは敵の気配をがっちりと押さえながら、ドアを開いた。
まず、眼に飛び込んできたのは、右側の肘かけ椅子に座り込んだゆきだった。やっぱり、な。
問題は、前方のソファに腰を下ろした巨漢だ。
赤毛の白人――アングロ・サクソンだ。殺し屋にしちゃ若い。二十五、六だろう。憎らしいくらい、渋い薄茶のスーツが決まっている。こればかりは、絶対に、胸厚く、肩幅広く、足の長い西洋人のものだ。
身長一メートル九五、体重九五、六キロと踏んだ。やや痩せ型のプロレスラーといったところか。上半身は見事な逆三角。
おれに向けられた青い眼に、おれはにっこりと微笑んだ。ついでにグロックをまっすぐ、眉間にポイントする。
「ゆきの客じゃなさそうだな? ――誰だい?」
男は答えなかった。
代わりに、横合いから声が、
「大ちゃん、気をつけて。――こいつ、人間じゃないわ!」
ほう。
「ドアを開けないのに入って来て、レーザーで足の甲射ち抜いても平気なのよ。あたしがいくら殴っても効かないの!」
「無事か?」
と、おれは短く訊いた。
おれを見つめる男の眼には、何の感情も浮かばず、彼はゆっくりと立ち上がったのだ。
「いつ、来た?」
「つい、さっき。――十分くらい前よ」
おれが赤坂からここへ向かう途中だ。空中攻撃もミスったと知り、次の手を打ったのだろう。
手廻しのいい奴らだ。相当の業師がいやがる。
だが、どんな化物にせよ、たったひとりで八頭大の家へ乗り込むなんざ、史上最大のミスだぜ。
「動くな」
と、おれは一応、命じてみた。
男は近づいてきた。
ゆきの言葉を試すわけではないが、おれは奴の右腿へ九ミリ・パラベラム弾を一発ぶち込んでみた。
外れっこない距離だ。弾丸は再装填してある。
ズボンの繊維がちぎれ、そいつは空中へ飛んだ。
おれの顔面へ廻し蹴りをかけたのだ。凄まじいスピードだった。おれはよけずに両手でブロックした。右こめかみを覆う形になった手首に、丸太がぶつかるパワーが炸裂した。
グロックを握ったまま、受けの形でおれは宙を飛んだ。
肩から床に落ちる寸前、一回転して立つ。
ゆきが驚きの声を上げた。
着地と同時に、おれは両手保持の構えで、グロックを連射した。
距離は三メートル。外しっこない。腹を狙った。
普段持ち歩くグロックに装填してあるのは、貫通を狙った完全被甲弾《フルメタル・ジャケット》だ。並の人間ならこれでもへばる[#「へばる」に傍点]が、こいつは化物に近い。戦闘不能に陥れるなら、腹が一番の近道だ。
いくら貫通しやすいといっても、至近距離から五発の軍用弾を食らっては、堪らない。
巨漢は身を震わせつつ後方へ跳ねとんだ。テーブルをぶっ倒して床にひっくり返る。
「駄目よ!」
ゆきが叫んだ。
おれは眼を剥いた。
そいつは立ち上がりやがったのだ。顔つきは――にやりと笑いやがった。
同時に、おれも微笑した。
意志はあるらしい。少し安心したぜ。
だが、どう扱う? 拳銃もレーザーも通じない肉体の持ち主なのだ。上衣に開いた弾痕からも、一滴の血も滲んでいない。
ぶん! と視界いっぱいに黒い塊が広がる。
凄まじいストレートを間一髪でかわせたのは、おれだけの勘だ。あちっ。耳たぶをかすりやがった。
声もなく、男は前蹴りを放った。
最短距離を突っ込む前蹴りは、ある意味で廻し蹴り以上に受けにくい技だ。
それも横っ跳びに逃げた脇で、異様な音がした。
男の足が壁を貫いたのだ。断っとくが、コンクリート製だ。引き抜いた足首と一緒に、コンクリート片がこぼれる。
その隙に、おれは南向きの窓のそばへ跳んでいた。思いきり、息を吸う。
眼の隅で、ゆきが椅子の肘掛けにもたれかかるのを捉えた。
男の足が止まった。
眼を細め、鼻をひくつかせる。気がついたか?
さらに四歩進んで、男はいきなり右膝をついた。
効いたかな。
つい二カ月ほど前、ふと、家の改装を思い立ち、防御用レーザーの他に、麻酔ガス発射装置を仕込んでおいたのだ。自衛隊の化学班が取り付けに来るといったが、謝礼を出すのが勿体ないので、おれが自分でやった。
弗素《ふっそ》化合物のハロセンをベースにした無色無臭のガスだから、副作用はないが、効果は迅速だ。ゆきを見てもわかる通り、並の人間ならひと呼吸で人事不省に陥ってしまう。
どんな改造を施されたかは知らないが、この世界で生きている以上、酸素は取り入れなきゃなるまい。
止めに一発かましてやろうかと、おれは、用心しいしい男に近づいた。
そのときだ。
巨体が跳ねた。窓へと向かって。
置き土産に左足がおれの頭上をかすめた。油断していたら、バットで叩きつぶされた西瓜と化していただろう。
だが、鈍い音をたてて、巨体は床に落ちた。状況が状況でなけりゃ、おれは大笑いしていただろう。
窓ガラスは、二〇ミリ機関砲弾にも耐えられる高分子複合ガラスなのだ。当然、ぶつかれば落っこちる。
えらくタフな野郎だが、もう、おしまいだ。時間がかかろうと、ガスは必ず効いてくる。
ずい、と立ち上がった。
戦慄が背筋を貫き、おれは息苦しくなっていることも忘れた。
最初のガスにやられたときから、男は息を止めていたのだろう。でなければ、いくら何でも引っくり返っている。その状態では筋肉もろくに動かせないはずだ。酸素が行き渡らないからである。
それが、動いた。
男の右手が思いきり引かれ、空気を抉《えぐ》って、窓ガラスへぶち当たったのだ。
四方へ走る白い亀裂を、おれは信じ難い思いで見つめた。
男はもう一度、右手を引いた。ガラスは雪みたいに白く変わっている。
OHHHH
と叫びざま、そいつは右パンチをふるった。最後の一撃だったろう。肩から先が、おれには唸り飛ぶハンマーに見えた。
ガラスが砕け散り、地上六階の窓からそいつが飛び出しても、おれは驚かなかった。
近づいて――もちろん、ガラス越しにだ――覗き込むと、遥か下の中庭を、黒い塊がよろめき走っていく。
通りへ出て角を曲がるのを見届け、おれはやっと窓から顔を出してひと息ついた。窒息寸前だ。
すぐ、防衛庁へ電話して、代わりのガラスを届けさせなきゃならねえ。糞、いつかガラス代を支払わせてやるぞ。
とっくにガスは止めてあるが、ゆきはまだ眠りっぱなしだ。
クーラーが効いているにもかかわらず、ピンクのタンクトップにぴちぴちのショートパンツというけしからん格好が、おれの眼に止まった。特によくないのは、たっぷりとシャツを持ち上げたバストと、その先に浮かぶチェリーのぼっち[#「ぼっち」に傍点]である。高校生がノーブラにシャツ一枚でいいと思うかい。
やることは一杯あったが、おれはより重要な事態と判断し、抜き足差し足でゆきに近づいた。眠りこけている女に、どうしてそんなことするのかよくわからないが、おれは自分で思っている以上に気弱な人間なのだろう。
耳を澄ますと、気持ち良さそうな寝息がきこえた。
自然と口元がほころんでしまう。この辺の切り換えの速さが、おれのいいところだ。巨漢や窓ガラスのことなど、きれいに頭から消えていた。
「くっふっふっふ。ゆーきちゃん」
おれは我ながら不気味な猫なで声で呼びかけると、ゆきのそばにしゃがみ込み、剥き出しの腿に手を這わせた。もち、内側へだ。
ゆきは反応しない。
薬を飲ませて、というのは、おれの正義感に反するが、わざとやるわけじゃなし、その辺は神さまにも大目に見てもらおう。何よりも、おれには精神《こころ》和らげるものが必要だ。
ゆきの腿の肌触りは絶品だった。触れると弾けそうなくらい若さが張りつめ、それでいて、ねっとりと柔らかい。一度、手のひらに感じてしまうと、思いきり揉まずにいられない淫らさがあった。
おれはゆきのショートパンツに眼をやった。
パンティの筋はついていない。いわゆるノーパンである。
これで平然と近所のマーケットやオーディオ屋に出かけるから、パニックが巻き起こる。こいつが道を歩くところを見た奴は、十人中三人がのこのこと後を尾けてくる。面白いことに、ほとんどが気の弱い、好きな女の子とデートしても手さえ握れないようなタイプで、しかも、金持ちのボンボンときている。
ゆきは、偶然というか、無意識のうちに、肉体からフェロモンみたいなものを分泌し、目標に叶った男だけを選択するように、おれには思えてならないのだ。
さて、ゆきちゃんはどうするか? ――そのまま店へ入る。
当然、青二才どもは後へつづき、そのうなじやヒップにいやらしい眼を注いでいる。
ここで、ゆきは、くいっ、とやる。
くいっ、である。
ヒップをくねらせるのだ。
この女の魔力か。ついて来た奴らは、まるで砂糖にでもたかる蟻みたいにふらふらとゆきに近づき、一斉にヒップへ手を伸ばす。
当然、ゆきは悲鳴を上げ、何すんのよ、と平手打ちか金的蹴りを閃かせる。後は警備員を待てばいい。
気が弱くて家のいいお坊っちゃんには、大抵、真っ白な将来がくっついてる。そこに黒ペンキを塗るのも、刑務所の絵を描くも、ゆきの自由だとしたら、親はどんな条件でも呑むだろう。
地下駐車場のポルシェとジャガーは、くいっ[#「くいっ」に傍点]の成果である。
俯せに肘掛けへもたれかかっているのを、ソファへ仰向けに倒しても、ゆきはぴくりとも動かない。
麻酔ガスの効果は丸一時間つづくはずだ。
おれは、ゆっくりとタンクトップの裾をめくり上げた。
白い腹が出た。ぬめぬめしている。濃厚なコロンの匂いと体臭に誘われ、おれは可愛らしい臍の上に軽く唇をつけた。
ありゃ。一度きりのつもりだったのが、ちゅちゅちゅといっちまった。ゆきの肉体にはこんな魔力があるのだ。
いかん。このままじゃ、腹にキスだけで終わっちまう。
おれは夢中で顔を上げ、薄い布地を乳房のすぐ下までめくり上げた。
あと数ミリで、見える。
おれは生唾を呑んだ。
しかし、これは卑怯な方法ではないか。いや、風通しを良くした方が、目覚めも早い。なぜ、早める必要があるのだ? 若いうちから人生を無駄にしてどうする? ――決まった。
おれは布を握った手に力を込めた。
そのとき、電話が鳴った。
えい、畜生。雲の上にいる奴は、おれが嫌いにちがいない。
おれは立ち上がり、キャビネットの上に置いたファッショナブル・フォーンの方へ近づいた。
今日は電話に縁がある。
「はいよ」
と出ると、
「子供は預かった」
と渋い声が言った。訛はあるが、流暢な日本語だ。
「いまのゴリラも引き取ったか?」
おれは、あわてず切り返した。
声は答えず、
「返して欲しかったら、今夜零時、代々木公園の原宿門へ来たまえ。余計な連れはなしで、だ」
「ごめんだね」
と、おれは素っ気なく言った。
「公園の樹木ごと、粒子砲で灼かれちゃ敵わねえ。あの餓鬼を餌に、何か気づいたかもしれんおれを始末するつもりだろうが、おれは降りる。後はおまえらで好きにしな。もともと、会いたくて会った餓鬼じゃねえ」
「来なけりゃ、嬲《なぶ》り殺しだ」
「まだ死んじゃいねえって証拠を見せな」
向こうの受話器から、ひとつの気配が消え、別の気配が顔を出した。
「八頭さん? ――僕です」
「無事か!?」
おれは思わず訊いてしまった。
「大丈夫です。でも――」
研究所の所長のことだろう。多分、眼の前で殺られたのだ。
「わかってる。おまえのせいじゃないさ」
少し間を置いて、
「来ちゃ駄目だ。奴らの狙いは、あのペンダントと、あなたの生命なんです。僕はどうなっても――」
声は遠ざかり、最初の渋いのが、
「健気な子だな」
と笑った。
「あんな子が千人もいれば、世界はもっと住みやすくなるだろう。だが、今はひとりでたくさんだ。その上、君が来なければ、そのひとりも減ることになる。鼻を殺ぎ、眼を抉り、歯神経をひねくり廻せば、もっと効果的な泣き声も出せるが、どうだね?」
「関係ねえな」
「そうかな?」
「失せろ!」
おれは叫んで受話器を叩きつけた。
次の瞬間、鳴った。
「ぶち殺されてえか、てめえは?」
「いえ」
おれは思わず、受話器を見てしまった。
この声は確か――
「名雲陣十郎でございます」
「何の用だ!?」
「やはり、雇っていただきたく」
「目下、人手は余ってるんだ、帰れ!」
「でも」
「デモもストもあるか!? ――おれは、おまえの声をきいてると、たっぷり服を着込んで、大雨の中をさまよっているような気分になるんだ。おまえの顔を見てから、ツキは落ちっぱなしだ。帰れ!」
「いいがかりは、おやめ下さい」
凄まじく陰気な声に、おれは逆上することもできなかった。
「私、この年齢まで、ご主人を不幸に陥れたことなどございません。最初は多少の誤解も生じるようでございますが、最後には、みなさん、おまえは思ったよりいい奴だったと感謝して下さいます」
「解雇の日にだろう?」
「何故、ご存知で?」
「誰でもわかるわい!」
おれはついに怒鳴った。
「一九九九年に火の大王が降って来ようが、アトランティスが浮上しようが、おまえを雇う気なんかない。帰れ帰れ帰れ」
連呼して思いきり受話器を叩きつけると、少しはせいせいした。
ゆきと桃色遊戯をつづけようかとも思ったが、そんな時間はなくなった。
しかし、今回はこの性悪娘、出番が少ないねえ。
ゆきをうっちゃらかしたまま、おれは奥の秘密エレベーターを使って、地下三階の「武器庫」へ入った。
幸い、半月前に蔵ざらえを行い、新品と入れ替えたばかりだ。旧型はそっくり米軍に引き取らせ、かなりの額の儲けになった。
なにせ、おれのところへ届く品の出所は、世界中の超一流兵器メーカーから個人のガン・スミスにまで及ぶ。
例えば、目下、米軍でテスト中の新世代ライフル――ACR(アドバンスト・コンバット・ライフル)――の開発元、コルト、ステアー、AAI、ヘッケラー&コックの各社は、新製品が完成すると、必ずそのプロトタイプと、グレード・アップ・モデルをおれのもとへ送ってくる。後者は、軍隊以上の激烈な性能テストに耐え忍んだ実用品だから、少なくとも携帯用火器に関する限り、おれは世界の最先端を突っ走っていることになるのだ。
いつもなら、この部屋へ足を踏み入れただけで、軽い緊張がアドレナリンの分泌を促進し、快い酩酊状態に陥ってしまう。
今日は違った。
どうも、考えがまとまらない。大抵は迷わず、突撃銃《アサルト・ライフル》か短機関銃《サブ・マシンガン》、次に拳銃、手榴弾に手が伸びるのだが、今回は別のものが気になった。
なんつったって、三万六千キロの彼方から粒子砲をぶちかます奴らだぜ。ま、そっちはマリアにまかせるとしても、待ち伏せてる連中相手にも、いつものお決まり料理じゃ申し訳ないような気がした。
こいつだな。
おれが真っ先に選んだのは、オランダのリッヘル兵器廠《しょう》開発になる複合自動銃《MMAR》であった。
オランダとかポルトガルとか、かつての植民地時代に覇を唱えた国々は、自国文化に異境のそれらをミックスし、ある方面で全くユニークな品物を残したが、オランダの場合は火器にも及んだ。
MMAR自動銃は口径七・六ミリ、三〇連発の自動小銃をベースとし、二〇ミリ口径のロケットランチャーと火炎放射器を付属する。ランチャーは口径さえ合えば、ロケット弾から、焼夷弾、散弾まで、あらゆる類の弾丸を発射可能だ。火炎放射器は、銃尾に圧縮空気と高純度ゲル化油のタンクを仕込み、吹きつける炎の距離は五〇メートル、温度は三千度に達する。まさに複合自動銃の名にふさわしい武器だが、さすがに重く、五・四キロある。非力な奴が自在に操るには、小骨が折れる代物だ。
弾倉は三〇連のを五本、二〇ミリ破砕榴弾七発入りの円筒弾倉《チューブ・マガジン》五本、グロック17用の一七連弾倉に何を詰めるかちょっと迷ったが、念には念を入れて、炸裂弾《エクスプローディング・ブレット》にした。人命尊重の立場から言や問題だが、さっきみたいなフランケンシュタインの怪物相手じゃ遠慮してもいられない。
弾倉の装填は自動装填器《オート・ローディング・スタイル》にまかせ、おれは防弾服のロッカーを開いた。
現在の兵器産業は、武器の開発と同時に、それを防ぐための器材も考案し、軍隊やら警察、犯罪シンジケート及び死の商人どもに売り込み攻勢をかけている。
自分のところで開発した新式銃では決して射ち抜けない自社製の防弾チョッキです、などと宣伝するんだろうから、おかしな話だ。世の中狂っとるよ。
ずらり並んだうちから、おれが選んだのは、武器製造業者の製品にあらず、メカマニア・インダストリー社の『機械服』だった。――通称“メック・ウェア”。
この会社は、そもそもジェネラル・ダイナミックの子会社で、NASAや米海軍の宇宙服、潜水服の開発に当たっていたのだが、先代の社長が、そのノウ・ハウとお得意先のほとんどを抱えて独立。国防総省の全面的援助を受けて、ユニークな製品を造りつづけている。
ここの製品のユニークさの第一は、服自体をメカニズム化――一種のロボット化――ないし、ロボット的機能を持たせた点にある。
つまり――
おれは、ハンガーに吊るされた、黒いタイツとしか思えない機械服の襟元に手を伸ばし、内側のスイッチを押した。
びいん、とかすかな電子音とともに、へなへなの服が強張り、ぬいぐるみのごとき硬質の形を取る。――と同時に、喉もとから股間、手首、足首までがまっぷたつに裂けて、装着――というより、こっちが侵入しやすいようになる。
材質は特殊加工したシリコン・ファイバーで厚さは一〇ミリ。その中に、超精密なメカニズムが詰め込まれているとは、一般人には想像もつくまい。もちろん空を飛んだり、地に潜ったりは不可能だ。それでも、人間の限界を軽くオーバーするくらいの芸当はやれるし、耐衝撃、耐熱、耐寒、耐電能力は、他のに劣らない。
それなのに、おれの気分が明るくならないのは、これと一緒に送られてきたMI社の注意書きのせいだ。
『試作品』
つまり、完成品はいまだし[#「いまだし」に傍点]なのである。
使っている最中にトラブルが生じても、MI社は一切関知しない、とのコメントも一緒だった。
普通なら、あくまでも飾りっ放しにして、完成品を待つ。
それにもかかわらず、おれには今回の戦いで、これ以上の品を考えつかなかった。
もうひとつ。
おれは別のロッカーから、誰が見てもすぐに正体がわかる――そのくせ、絶対に使い途のわからない道具を取り出した。
一見、サーカスで使う一輪車と小さな台座を組み合わせた風に見える。台座からはカーブしたスチール製の軸が伸び、その先端の筒に車輪ははめ込まれた格好になるのだ。ただしこの筒と軸の関係は一種のターレットで、車輪は筒ごと、あらゆる方向へ簡単に曲折する。
開発したのは、西ドイツのダイムラー・ベンツとジーメンス。片や自動車工業の雄、片や電子機器《エレクトロニクス》の覇者である。
夜の代々木公園ともなれば、こいつのお世話になるのが便利だろう。
その他、幾つか小道具を選び、最後に取り出したのは、ワルサーPPKS/九ミリ自動拳銃だった。できれば使いたくはないが、使わざるを得ないかもしれない。また、そうであってくれなくては困る。
武器庫から出ようとしたとき、エレベーターのドアが開いた。
開口一番、
「何よ、そのバッグは?」
とゆきが凄い眼つきで訊いた。
「今日から、オーストラリアにキャンプに出かける。その用意だ。夏休みじゅう戻らない」
「それはいいけどね」
ゆきは白い歯を鬼のように剥いて、にじり寄ってきた。
エレベーターがどんどん遠くなる。
「居間の窓はどうなったの? あのでかいのはどこに行ったの? あたしのシャツがおっぱいの下までずり上がってたのは、どういう理由?」
「細かいところに気ィ使ってると大物になれねえぞ」
「大丈夫よ。いやらしい大物からむしり取ってやるから。――事情を説明しなさいな」
「オーストラリアだ」
「いい加減にしないと……」
ゆきは右袖をめくり上げた――といいたいが、袖はないから、右腕をこすった。
「おれも、おまえに訊こうと思ってたんだ」
後ろへ下がりながら、おれは愛想笑いを浮かべた。
「あいつは、どうやって入り込んだ? 何かしゃべったか?」
「別に。チャイムが鳴ったので出てみたのよ。ニューヨークから来たプロレスラーで、前にあなたの世話になったと言ったの」
「そんなことを信じたのか?」
おれは呆れ返った。
ゆきは唇をとんがらせ、
「あんたが普通の人間なら信じなかったわよ。それに、そんな嘘つく人間が何処の世界にいるの? つまり、もとはと言えば、あんたの日頃の荒唐無稽があたしを危険に陥らせたのよね。責任は取ってもらうわよ」
立て板に水の鮮やかさであった。
「そ、それで、どんな話をした?」
おれは、わざと声をうわずらせて訊いた。ゆきはいい気[#「いい気」に傍点]になり、
「ええ。いいこときいちゃった。最初は何訊いても答えないから、あの子のことでしょ、ってカマ[#「カマ」に傍点]かけたの。そしたら、じろっとこっち見たからさ、どうせあたしを殺す気なんでしょうから、冥土の土産に教えてよとせがんだの」
「ふむふむ」
おれは、心の底から興味を持ったような顔でうなずいてみせた。
ゆきは、にやりと笑った。
「何てったか、知りたい?」
「おう」
「何処行くつもり?」
おれは肩をすくめた。
「あいつらのアジトさ」
「やっぱりね。――どうして、そこがわかるのよ?」
「今朝、あの子の飲んだ牛乳の中にある種の信号液を入れといたんだ。これが血液に溶けると、人体電流とは少し波長の異なる電波を体内から発信する。後は、うちの受信器を信用するかしないかの問題だ」
「あたしも行くわよ」
来やがった。
「いい加減にしろ。これは遊びじゃねえ。生命懸けの仕事なんだ」
「あんたのすることに遊びなんかあって?」
ゆきは厚めの唇を舌で舐めた。ぞくっとするほど熱く、色っぽい声で、
「ねえ、あの子が王子様だったら、幾ら入るのよ?」
おれは茫然と、ゆきの上気した顔を見つめた。
「あいつ[#「あいつ」に傍点]がそう言ったのか?」
「そうよ」
ゆきの眼はうるみ切っていた。おれでなかったら、有無を言わさず跳びかかり、組み敷いているところだ。
トレジャー・ハンターとしての本性が、別の胸の高鳴りを伝えてきた。
王子さま。――あの気品、起居動作、高邁なる精神。確かにそうだ。並の上流階級のボンクラ子弟のものじゃない。生まれついての殿上人《てんじょうびと》。赤ん坊の頃から雲の上で教育を受けた男の子のものだ。
十中八九、ローラン共和国の王子だろう。だが――
「何考えてるのよ?」
ゆきにせっつかれ、おれは我に返った。
「いや、何にも」
「ねえ、あんた、最初からあの子の正体知ってたんじゃないの? それで、あんなに親切にしたんでしょ。大体、あんたみたいに欲の皮の突っ張った高校生が、ただで素姓も知れない子供の面倒なんかみるわけがないもン」
野郎、見抜いていたか。
「で、どうなの? どこの王子さまよ?」
「オーストラリアへ行く」
「駄目よ。さ、素直におっしゃい」
「おれにもまだわからねえんだ。心当たりはあるが、そこには確か王子はいないはずさ」
「どこよ、それ?」
「助け出してから、ききな」
「いいですとも。さ、行くわ」
「いかん」
「どしてよ?」
ゆきは柳眉を逆立てた。
「あたしが、その辺の女子高生と違うのは先刻承知でしょ。カバーぐらいしてあげるわ。ピストルは何処よ、ピストルは?」
「あのなあ」
「いいこと。あたしを出し抜いて、あの子の宝を独り占めしようなんて考えてんなら、いますぐ、あきらめることね。何もかも警察にバラすわ」
この女ならやりかねない。それに事情を知られてしまった以上、要求を無視したら、一生祟られる。
「わかった」
と、おれは言った。武器を詰めたバッグを肩にかけ直し、
「じゃ、一緒に来い。車の中で手順を決めよう。だがな、ひと言だけ言っとく。――今度の相手は並大抵の連中じゃねえぞ」
「いつもそうじゃない」
ま、それもそうだ。
「行くか」
と、おれは気を取り直して言った。
おれとゆきが直行したのは、敵のアジトにあらず、新宿歌舞伎町地下の「死霊秘宝館」だった。
いつものおれなら、他人の手は借りずに仕事をする。別段、カッコつけてるわけじゃなく、謝礼が勿体ないからだ。
だが、今回に限ってのみ、おれは積極的にマリアの助言を受け入れる気になっていた。
ゆきの装備を整え、あちこちに連絡も入れてから出たため、上階のディスコへ到着したのは、午後三時を少し廻っていた。
ゆきには、外で男漁りでもしてろと言ったのだが、どうしても一緒に行くと言い張り、とうとうついてきてしまった。
今日は休店日で、ディスコの店内は森閑としていた。
「なんか、ぞくぞくするわね」
と、ホールの中央を歩きながら、ゆきが剥き出しの両肩をこすった。鳥肌が立っている。
「ね、この店、妖気が立ち込めてるわよ」
「わかってる。だから、休みなんだ」
「そうか。――あたしって、結構、妖気に敏感なのね。ほら、この店に入ったときから、玉の肌がこんなよ」
「おれは、店の前からさ」
「なにさ、横暴」
おれは肩をすくめて、地下への通路を降りた。
一歩下がるごとに妖気が強くなる。ゆきなど両肩を抱きしめていた。
慣れてるはずのおれでさえ、芯から寒気がする。異常だ。
だが、地下の陳列室へ着いた途端、ゆきは陶然たる金切り声を上げた。
「す……凄いわ。これ……みぃんな、本物ね?」
おれも、二〇〇坪の大陳列室を見廻しながらうなずいた。
「向こうの壁に立てかけてあるのが、ソールズベリーのストーン・ヘンジの真ん中から出て来た呪符さ。ストーン・ヘンジの役割は諸説ふんぷんで、天体観測の道具だの、単なる祭事場だのという奴らが多いけど、本当は生け贄の処理施設だったんだな。あれをつくった太古の一族が死に絶えた後も、呪符と石柱の形が相乗効果を生んで、近隣の者を呼び寄せては自殺させていたらしい」
「死体はどうするのよ?」
「学者ってのは、おかしなもんでな。地上に摩訶不思議な品物があると、地下は正常だろうと思い込んじまったんだ。三メートルも掘れば、犠牲者の骨が何千体も埋まってるのが発見できたろうに」
「それは、誰が埋めたの?」
「自殺した死体が自分で穴を掘り、その中へ入ったのさ」
「――それにしても、よく、あんな呪符見つけたわね」
ゆきはため息をついて、壁にもたれた巨大な影へ眼をやった。
ミサイル――というより塔を思わせる石の塊は、全長五メートル、太さは大の男ふた抱え分はある。
「ご先祖には、凄い勘の持ち主がいたらしいぜ。透視《クレアボアイアンス》や物体引き寄せ《アポーツ》なんぞお手のもので、後に史上最高の霊媒と言われたイギリスのヒュームなんか、足元にも及ばなかったそうだ」
「ははん、そうか」
ゆきは思わせぶりに手を叩いた。
「何だよ?」
「だから、あんたのやることは、何から何まで人間離れしてるのよ。おかしな血が流れてんのね、やっぱり」
「ま、そんなところだな」
おれは、あえて、ゆきの憎まれ口に反発しなかった。
ゆきは、知らず知らずのうちに、床に撒いた砂地の上に足を踏み込んでいた。
ほぼ正方形で一辺が五メートルほど――ゆきが背を向けたその一部が、不意に盛り上がった。
砂を蹴散らしてそびえ立ったのは、高さ二〇センチほどの黒い三角形――鰭《ひれ》だ
いくら細かいとは言っても、水とは比べものにならない高密度な砂の海を、そいつは滑らかにゆきめがけて滑り寄って来た。
「大体、あんたは……」
片手を腰に当て、お説教をはじめたゆきへ、
「おい、動けるか?」
と、おれは訊いた。
「え?」
「動けるか?」
ゆきは、何言ってんのよ、という風な顔で片足を上げ、一歩分前へ下ろした。後ろ足も上げる。これがさらに一歩分進むことによって人間は前進するのだ。
のだ、が……
ゆきは動かなかった。
後ろ足を上げた途端、前足がずず[#「ずず」に傍点]、ともとの位置へ戻ってしまうのだ。
「あら」
と妙な顔つきになった。後方の背鰭は、一メートルほど後方をゆっくり旋回している。巣に落ちた獲物の様子を探るかのように。
「どうしたのよ、一体?」
怪訝そうなゆきへ、
「その砂の海はな、クノッソス神殿にあった世界最古の動物園の遺跡から発掘されたものだ。残った資料によれば、一角獣《ユニコーン》だの、ケンタウロスだの、昔は随分と色とりどりの動物が飼われていたらしいが、ご先祖が入り込んだときは、これ一匹しか残ってなかった」
「なによ、一匹って?」
さすがに気味悪そうなゆきの声の背後で、背鰭は旋回をやめ、一気に突っかかってきた!
「おれは“砂鮫《サンドシャーク》”ってきいてる」
言いざま、おれはゆきの手首をひっ掴み、思いきり引いた。
動かない!
鰭はあと五〇センチ!
異常事態を察して、ゆきが悲鳴をあげた。その瞬間、グラマラスな身体はどっとおれにぶつかり、おれは思わず反射神経で後ろへ放り投げてしまい、ゆきの身体は鮮やかな弧を描いて床へ飛んだ。
しまった! ――と思いつつ、おれの眼は砂場から一瞬跳び出した黒褐色の影を捉えていた。
鮫と言ったが、形は――なんと、ツリガネソウに似ている。その花弁が、ゆきのいた空間へふわりと覆いかぶさり、次の瞬間、眼にも止まらぬ速さで、砂の中に吸い込まれた。
砂まみれになりながらも、おれは、花びらのような四枚の唇が、さも口惜しげにキリリと歪むのを見た。
「大丈夫か?」
と、ゆきの方を向きながら、おれは左手を上げた。
びしり、と横なぐりに叩きつけられたゆきの手は、きれいにブロックされた。残念、おれの視界は一八〇度以上効くのだ。
それにしても、すっくと立った姿勢からして、空中で身をひねり、足から落ちたらしい。運動神経抜群とは思っていたが、いや、大したもんだ。
「よくもやったわね」
おれの胸の裡《うち》も知らず、ゆきは眼を剥いた。
「誤解だよ」
「何が誤解なもんですか。邪魔なあたしを怪我させて、置いてくつもりだったんでしょ」
どうやら、砂鮫には気づかなかったようだ。
ま、おれの中にも、そんな気分がなかったとは言えないしな。
黙ってるおれに、ゆきはなおも突っかかろうとしたが、そのとき、低い声がおれの名を呼んだ。
ふり向くと、左手奥にかかる石づくりのアーチの下に、妖艶な女がひとり、忽然と立っていた。
言うまでもなく、マリアだ。
「お久しぶりね、大」
青いサリーを霧のようにまとった姿は、この奇怪な秘宝館の主《ぬし》にふさわしく、限りない神秘さを漂わせていた。ゆきですら、茫然と声もない。
「さっきは危なかったわよ」
と、マリアはゆきに優雅な会釈を送って言った。赤坂のことだろう。
「まったくだ」
と、おれは素直に認めて、
「何だ、あの技は? ――はじめて見たぜ、遠隔移動《テレポート》か?」
「似たようなものよ。ひどく疲れたわ」
マリアは片手で隅の空間に置かれた椅子とテーブルを示した。
最初からそこ[#「そこ」に傍点]にあったかなと思いつつ、おれとゆきは古ぼけた木の椅子に腰を下ろした。ギイ、と合わせ目がきしむ。
おれとゆきのちょうど真ん中に着座すると、マリアはサリーの袖口から、茶色いパンの塊みたいなものを取り出して、おれたちの方へ押しやった。
「何よ、それ?」
ゆきが、マリアとそれ[#「それ」に傍点]を交互に見ながら訊いた。さしものお転婆娘も、完全に呑まれている。
「ちぎって口になさい。そうすれば、わかる」
マリアの声はやさしい。言葉遣いも、風体より遥かにめりはりの利いた若々しさだ。でなければ、秘宝館長兼ディスコのオーナーなどやっていられっこないだろう。
好奇心の塊みたいなゆきは、それじゃ、と言って右手を伸ばした。茶色い塊をひとつまみつまんで引く。パンより簡単にちぎれた。
少しためらって、ぽい、と口の中へ放り込んだのは、この娘らしかった。普通なら、ちょっぴり噛むか、舐めてみるかするだろう。
くちゃくちゃと噛んだゆきの眼が、大きく見開かれた。
「何よ、これ、すっごくおいしいパンね!? こんなの、はじめて!」
「パンだけじゃ、もの足りないだろ」
と、おれはひとちぎりむしって、ゆきの口元へ突きつけた。
「?」
「ステーキにスープ、それに野菜サラダはどうだ? ほおばってから、今言った品を頭に浮かべてみな」
すでに最初のを咀嚼したゆきは、またおかしなことを言う、てな表情でそれを受け取り、口にした。
途端に、
「やだ! ――これ。ちょっと、これ、ステーキだったの? ちがう、サラダね。――スープもあるわ。――ちょっと、どうなってるのよ!?」
「中国は崑崙山の麓で取れる“視肉”ってやつだ」
おれはにやにやしながら説明した。
「断っとくが、生もんだぜ。生きてるんだ。ところが、いくら肉をちぎろうが、削ろうが、すぐ再生して目減りしないという便利なやつでな。これ一匹いれば、ひとつの国の人口くらい何とかまかなえる。伝説の殷《いん》王朝の重要な食料源だったとも言う。おまけに、今、おまえが体験した通り、口の中で想像通りの味になってくれるんだ。これひとつ持ってきゃ、大アマゾンの密林の中でも、エベレストのてっぺんでも、パリのマキシムなみの食事が楽しめるわけさ」
「すっごーい」
ゆきは眼を見張って、もう盛り上がりかけてる“視肉”の大きな塊を見つめた。興奮しきった声で、
「ねえ、大ちゃん。これ、大量生産して売り出そ。このままじゃ、他の食品産業が崩壊しちゃうから、一匹でひと月くらいしか保たないようにしてさ。味も限定した方がいいわね」
「できりゃ、とっくにしてるさ」
おれは、愛しげにゆきを見つめるマリアへ笑いかけながら言った。
「残念ながら、最新の分子生物学を駆使しても、その肉を合成も増産もできねえ。目下、現存するのは、それ一匹だ。大事に食え」
「惜しいわねえ」
ゆきはため息をついた。
「ところで、大」
と、マリアが真面目な声で切り出した。
来たか。
「あいよ」
「敵の正体は掴めたのかい?」
「ああ」
おれはうなずいた。
「ローランって、大西洋上に浮かぶ島国の特務機関だ」
「おかしいね。そんな金持ちなのかね? 粒子ビーム砲を積んで静止衛星を打ち上げられるほどに?」
「その辺はおれにも不明だ。NATO(北大西洋条約機構)やモスクワ条約機構各国に手を廻して調べたが、技術者を派遣したって情報はねえ。ひょっとしたら、アメリカかソ連と手を結んで使わせてもらってるのかもしれんな」
「その辺は当たってみたの?」
「目下、照会中さ。どっちにしろ、おれの住まいや正体も一日足らずでバレちまってる。誰かが教えたに違いない。そのうち取っ捕まえて、八頭式の拷問を味わわせてくれる」
「怖いこと」
マリアは微笑した。その笑顔に、おれは気になるものを感じて、
「どうした?」
と訊いた。
「おやめなさい」
とマリアは言った。
おれの身体から血が引いていった。音をたてて。
これまでに何度も、マリアはおれに忠告したことがある。
だが、やめろと言うのは、はじめてだ。
「そうかい」
それなのに、おれはにっと笑った。笑ってしまったと言うべきか。
「大――」
話しかけようとしたマリアの前へ、おれは無言で、立てた人さし指を突き出した。
「それ以上は言うな。励まされるつもりで来たのに、気を滅入らせられちゃ敵わねえ。――わかった。最初のひと言だけ貰っとくよ」
「ちょっとお」
ゆきが低く言って、肘打ちをかました。
「その態度、ペケよ。おばあさんの言うことききなさいな。年寄りの意見とカボチャの花は、少しの無駄もないって評判よ」
「危ないと言われたら、おまえ、やめるのか?」
おれの質問に、ゆきはぐっと詰まった。
「そりゃあさ。……あんたみたいに、半分はあの子への同情で動くなら……」
「よしやがれ」
おれは、ゆきの眼を静かに見つめた。
「おれの名前は何だ、言ってみろ」
「……八頭大よ」
「その通り、八頭大だ。誰にも違うなんて言わせねえ。――二度と、同情なんて言葉を口にするな」
ゆきはおれから眼を離さなかった。離せなかったのである。
額に浮かんだ汗を拭うのも忘れて、
「……わかったわ」
返事には恐れと――おや、珍しく敬意がこもっていた。
「私もわかったよ」
マリアの声もゆきと同じなのに、おれは少し驚いた。
「忘れてたよ、大。――八頭の血を引く男。あんたのお父さんもそうだった。やめろと言われれば、倍も燃えて挑んでいったっけ。血は争えないね」
その通りだ。ときどき、ひでえ血だと思うこともあるがよ。
「じゃあな。――悪く思わないでくれ。実のところ、あんたがいねえと何もできない男なんだ」
おれはゆきを促して立ち上がった。
マリアはひっそりとおれを見つめていた。
「そんなこと、誰が信じるものかね」
おれは笑いかけた。
「ありがとうよ。――ひとつだけきかせてくれないか」
「何なりと」
「今度の相手は、あんたでもびびる[#「びびる」に傍点]ほどの野郎かい?」
「そうとも」
おれは肩をすくめた。
「達者でな。――店の繁盛を祈ってるぜ」
途端に、ぎゅっと尻をつままれた。
苦鳴を押さえて横眼を使うと、ゆきが凄い顔で呻いた。
「縁起でもないこと言わないでよ、馬鹿」
がお、と歯を剥いて、おれは階段の方へ歩き出した。
マリアは追って来なかった。
おれもふり向かない。
階段を昇って店の外へ出た。
新宿の雑踏だった。行き交う人々の間で、おれだけが別の場所に属しているような気がした。
「大ちゃん」
と、ゆきが声をかけた。
答えず、おれはそっちを向き、白い美貌へウインクを送った。
違和感は消えていた。
こんなことでしおたれてちゃ、八頭大の沽券に関わる。
いつだって、おれはそうやって来たのだった。
「行くぞ、ゆき」
と、おれは言った。
「ええ」
色っぽい顔がうなずく。
空に蒼茫《そうぼう》の気が迫っていた。
おれたちは、ポルシェを止めてある駐車場の方へ歩き出した。
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第四章 原宿魔獣街
おれとゆきが車を停めたのは、原宿駅近くにある高級マンションの地下駐車場だった。
そこへ招いたのは、おれの多機能腕時計に表示される“プリンス”の場所を示す光点だ。
「じゃあな。――待機地点はまかせる。ただし、連絡したら、すぐに動きのとれる場所にいろ」
おれはゴルフ・バッグを肩にかけながら言った。服装はブルゾンとゴルフ・パンツ。リュック風のヤッケを背負っている。
「わかったわ。気をつけてよ」
ゆきは大胆なウインクを送ってきた。
「あんたはともかく、“プリンス”だけは無事に返してね。後のことは引き受けたわ」
糞ったれ女《ガノバビッチ》。
しかし、おれは何故かにんまりと笑って、
「まかしとけ」
と返した。
バッグを肩にエレベーターの方へ歩き出す背後で、排気音が轟き、出口の方へ走り去っていく。
生命懸けの仕事に出かける相棒を見送る気持ちもないらしい。ふてえ女だ。“プリンス”に絡まる儲け話からは、徹底的に排除してくれるぞ。
おれは腕時計を見ながら、エレベーターに乗り込み、全階のボタンを押した。
接近表示は、音と光輝度で示される。
ぴーぴーぴーが、ぴぴぴになると近づいた合図なのだが、近くに人がいるとまずいから、もっぱら輝度の方に頼る。今は垂直同調に合わせてあるのだ。
地下――B1は平凡な青緑色だ。
1F――同じ。
2F――異常なし。
3F――駄目。
4F――残念でした。
5F――
光点がおれの眼に灼きついた。
近い。
おれは、腕時計の横にくっついたボタンのひとつを押し、超短波通話《コミュニケーター》モードに切り換えた。
「おれだ。いま、目標階に着いた。いよいよだ」
低く素早い声に
「了解」
と腕時計がゆきの声で応じた。まだ、ドライブ中らしい。車のエンジン音がきこえる。声も流れていく。
「頑張ってちょうだい。――以上」
気楽なもんだ。
おれがスイッチを切ると同時に、エレベーターのドアが開いた。探知機能は、自動的に水平モードに切り換わる。
手首に巻いて、通常は腕時計《ウォッチ》として使用するからそう呼んでいるが、大もとは通話器《コミュニケーター》である。
戦場で負傷した兵士の安全をはかるべく、米軍が開発したものだ。
前線で兵士が負傷すると、手首と密着したセンサー部が、脈搏、血圧、体温の変化等をすぐに後方の受信装置《インタロゲーター》に伝える。信号は位置まで知らせるから、ヘリコプターやトラックの急行も容易だ。
さらに、後方のレーザー・ジャイロINSと連動した超精密な3Dマップも映し出せるわ、単分子繊維チェーン・ソーはついてるわ、金属探知器、シグナル・ミラーはあるわ、まさしくいたれりつくせりの多機能ウォッチで、もちろん、衛星放送も受信できるから、アラスカの奥地で、ラスベガスにいるポーラ・アブダルのショーも見られるというわけだ。
完成まであと一年とされているが、おれの手にはめてある品は、もう次世代のコミュニケーターと言っていい。
5Fの廊下は静まり返っていた。
ここへ来る前に、信号の発信地点と都地図をドッキングさせ、マンションの場所がわかった時点で、建設省に圧力をかけ、マンションの施工主から設計図も借り出して頭に叩き込んである。
自分の家同様とはいかないが、ま、眼をつぶっても何かにぶつかる気遣いはゼロだ。
エレベーター前の廊下は三方向に延びている。腕時計を動かすと、左と前方が色褪せた。
右へ向かう。
ゴルフバッグは右肩。
左右に並ぶドアのうち、右側三つめを過ぎると光芒が薄まった。戻すと――輝く。
ここだ。
記憶を辿った。
ライオネル・アースキンという貿易商の部屋だ。ここに暮らしてもう半年。案外、その頃から腰を落ち着けて“プリンス”を探していたのかもしれない。
精神統一して気配を探った。三つ。かなり剣呑《けんのん》だ。少ないのは、おれの出迎え用に代々木公園へ出向いているのかもしれない。
おれは素早く、ブルゾンの下に着けたパウチから、スプレー式の催眠ガス筒を取り出した。
右手の腕時計をドアに近づけ、スイッチを入れる。
ぴいん、と弾け出た黒線の端のぼっち[#「ぼっち」に傍点]をつまんで、一〇センチほど引き出す。最高五メートルまでOKだが、ドアの厚さにはこれで十分だ。相手は象じゃねえ。
単分子繊維チェーン・ソーというのは、文字通り一個の分子でできた糸ノコ[#「糸ノコ」に傍点]のことで、かなり固い木の幹でも、チーズみたいに切断してしまう。
夜営用の焚木を切ったり、薮を切り開いたりするには絶好の道具だが、もちろん、まだ実用化はされていない。
おれのを除いては。
しかも、これにはもうひとつ、別の使い途がある。
おれは、糸ノコの先を右へねじって固定し、ぼっちを外した。
先端は錐状に尖っている。
太さ約〇・五ミリの糸の先を、おれはドア・ノブのやや下に押しつけ、腕時計のスイッチを入れた。
内蔵されたモーターのリードが、切断用振動から貫通用旋回に変化し、糸ノコは錐に変わった。
毎秒五千回転の速度でドアに埋没していく。モーター音はゼロに近い。
抜けた。錐を戻して時計内に収める。
直径〇・五ミリの穴におれはスプレーの先端部を押しつけ、中身を噴出させた。
穴のサイズがサイズだから、少し時間がかかる。
気配を探った。
五秒。
気配が途絶えた。効いたな。
おれはブルゾンのポケットから磁気反応式の解錠装置を取り出し、ノブに押し当てた。電磁波がキイの噛み合わせを記憶し、コンピュータに解錠磁気強度と方角を送り込む。
カチリ、と鳴って、ロックは解けた。
おれはさらに五秒待った。
ガスが酸素に分解される時間だ。
ゴルフ・バッグに隠したMMARの自動銃を構えて、ドアを押した。
細目に開けて、バッグから先に押し入り、後ろ手にドアを閉める。
三〇畳近いリビングだ。
かなり高級な家具が並び、ソファと床に、背広姿の男がひとりずつ倒れていた。
呼吸を確かめる。
二人とも合っていない。眠りこけてる証拠だ。
腕時計の光点は、右手奥のドアを示していた。
かかっている鍵を解錠装置で外す。
いた。
六畳ほどの空き部屋の床に、“プリンス”は横たわっていた。手足は自由だ。呼吸も正常。眠っているだけだ。
ブルゾンの胸ポケットから、覚醒刺激薬の詰まったカプセルを一個出し、鼻先で割った。
安らかな顔を歪め、“プリンス”は眼を開いた。
「――!?」
愕然とするのを制止し、
「無事か?」
と、おれは訊いた。
品のいい顔がうなずく。うなずき方まで端正だ。
「大丈夫です。でも、何か薬を服まされて、頭が……」
「麻薬だろう。すぐに抜いてやるよ。他の奴らはどうした?」
「わかりません」
「ここの住人は奴らの仲間か?」
「ええ。何度か話しているのを見ました。僕を探すために、ここを買い取ったそうです」
やっぱりな。すると、何処かに本国と連絡をつけるテレックスや無線装置が隠されてるはずだ。
防衛庁前にある六本木の飲み屋に入れば、客の中に必ずどこかのスパイが混じっているというが、ここにもいた。
「君はよっぽど大物なんだな」
おれは少年の様子に気を配りながら言った。笑いが込み上げてくる。元気だから? 冗談じゃねえ。貴重な金づるだ。
「身元がわかったかい?」
「いえ。訊いても教えてくれませんでした」
「出し惜しみする野郎どもだ。――とりあえず逃げよう。隣には二人いた。あと何人いる?」
「よくわかりませんが、囚われてから今まで、違った顔は十二人見ました」
あきれたね。ちゃんと数えてやがる。一ダースか。――他にもアジトがあるな。いずれ、まとめて日本から追い出さなくちゃなるまい。
おれは“プリンス”の肩を抱くようにして立ち上がらせた。
「歩けるか?」
「平気です。ひとりでやれます」
「いい心がけだ」
「どうしてここが?」
「話せば長くなる」
おれたちは部屋の外へ出た。邪魔は入らなかった。
時計を見ると、午後八時十分すぎ。約束の九時まで大分ある。
エレベーターに乗ってすぐ、おれはゆきに連絡を取った。
「はあい」
面倒臭そうな声はともかく、その背後から響くディスコ・ミュージックと人声に、おれは嫌な予感がした。
「片づいた。迎えに来い」
「もう来てるわよ。地下にいるわ」
「何だ、その音楽は?」
「ディスコ・サウンドよ」
「人の声は?」
「全部、合成よ。学校や会社にいても、ディスコの臨場感が味わえる“体感ミュージック”。レコード会社のボーイフレンドにつくらせてみたの。大量生産して売るつもり。あんたも騙されたしね。あっ――やだ」
いきなり、ゆきの声が悩ましく変わったので、おれはびっくりした。
「何するの、こんなところで――やだ……ああン……うぐぐ」
最後のは、唇がふさがれた音だ。
「何があった? ――おい、応答しろ!」
「駄目よ……やめて。いけない……そんなとこ、触っちゃ……」
そして、通信は途切れた。
「どうしました?」
不安顔で訊く“プリンス”へ、
「何でもねえ」
と、おれは白を切った。
「かなり、不思議な声でしたが」
真剣な眼差しで見つめられ、おれはどぎまぎした。まじめ[#「まじめ」に傍点]にゃ勝てないよ。
「あの女の癖だ。家でも時々やる。気にするな」
「はい」
少しして、落下感がなくなり、エレベーターは止まった。
「そこにへばりついてろ」
おれはMMARを右手に握って、自分もパネルの内側へ隠れた。
ドアが開いた。
気配はない。
少し離れたところにひとつ。――これはお馴染みさんだ。
おれは足早に、もとの位置に止まっているポルシェに近づき、運転席を覗き込んだ。
ゆきは澄ました顔で腰を下ろしていた。
さっきの悶えっぷりなど、影も形もない。
「?」
という表情のおれへ、にんまりと右手を上げてみせた。
直径三センチほどのCDが銀色にかがやいていた。
「あれも芝居か?」
おれは助手席のドアを開けながら訊いた。
「迫真の演技だったでしょ。途中からこのCDに変えたんだけど、継ぎ目もわからなかったんじゃない」
「大したもんだ。――バイトにしちゃあな。AV《アダルト・ビデオ》の主演女優になったらバカ売れだぜ」
「あら、そう」
本気で眼をかがやかすゆきを無視して、
「来な」
と“プリンス”を呼んだ。走り寄ってくる少年の背後で、何かが動いた。
眼をこらしたが、車が並んでいるばかりだ。
「どうしたの?」
ゆきが不安げに訊いた。
「どうしたんです?」
“プリンス”もドアの前で立ち止まった。
「いいから乗れ」
「でも」
“プリンス”が渋ったとき、近いところで、獣の鳴き声がした。
空気の中にいつまでもこもるような声である。
大型の肉食獣だ。
「大ちゃん……」
「しっ」
おれは“プリンス”の肩を押して、無理やり座席へ押し込み、自分も車内へ身を滑り込ませた。
ドアを閉めるタイミングを計る。
ゆきはすでに発進準備を整えていた。
この辺の呼吸の合い方は大したもんだ。
だが、肉食獣なんて、どこのどいつが連れて来たんだろう。
気配は――
左手の奥――サバンナとローレルの間にわだかまっている。
凄まじい殺気の凝集と化して。
どんなショックで爆発するか、だった。
おれはブルゾンから煙幕弾を一本抜き取って、先端のOリングをえた。
ゆっくりと、三つ数える。
二つ目で引き抜いた。
ほおるのと、ドアを閉めるのと、ほとんど同時だった。
「行けえ!」
その声が終わらぬうちに、ポルシェのエンジンは咆哮し、影なき獣の気配が砕け散った。
視界を黒煙が覆う。
何かが横合いから車に激突した。
ゆきが悲鳴を上げた。そのくせ、勘としか思えぬ鮮やかなハンドルさばきで体勢を立て直した。
太宰先蔵の孫娘!
「突っ走れ!」
おれは叫びざま、窓ガラスを叩き割って、MMARの銃口を向けた。右側の排莢孔《エジェクション・ポート》にあたるバッグのカバーを引っぱがす。
また、向かってくる。
そこへ。
軽やかな連続発射音が集中した。
五・五六ミリ高速炸裂弾は、彼方の車体と壁に直径二〇センチほどのすりばち状の穴を抉った。
間一髪、そいつは方向を変えたのだ。
ポルシェは一気に傾斜路を駆け上がった。煙幕を引きちぎる。
来る!
おれは窓から身を乗り出して、背後の黒煙へ引き金を引きつづけた。
そいつが何だったのかはわからない。
暗黒から跳び出した口元の牙と、しなやかな筋肉の動きだけは見せてもらった。
どん、と天井が揺れた。
まさか、上とは!?
「伏せてろ!」
言いざま、おれは天井めがけて引き金を引いた。
拳大もの穴が開き、そいつの気配が遠のいた。
「出たわよ!」
ゆきが叫んだ刹那、フロント・ガラスの向こうの出口が、右へ回転した。
横からの一撃を食らったのだ! ――と思う間もなく、おれたちは車体ごと通路にひっくり返り、壁にぶつかって止まった。
「無事か!?」
低く叫んだ。
「OKよ」
「大丈夫です!」
さすがの二人だ。
ほぼ九〇度になっちまった車から出るには、天井と化したドアを開けなきゃならない。安物じゃないから、この程度の衝撃で引火する恐れはゼロだが、外には奴がいる。
どこから来たのかわからねえ化物が。
サイズから言うと虎。パワーから言うと熊か相撲とり。――何物だ?
「心当たりはあるか?」
おれは、後部座席でもぞもぞやってる“プリンス”に訊いた。
「いいえ」
当然だ。
「少し待て」
と言って、おれは外の気配へ気を集中させた。
いない。
いま、車ごとおれたちを吹っ飛ばした奴が、もう姿を消している。
遠くじゃあるまい。近くで様子を窺っているのだ。おれの超知覚にも捉えられないよう、気配を絶ち、息を殺して。
「どうすんのよ?」
ゆきが訊いた。声は低く押さえている。緊張しているが、あわてた様子はない。太宰先蔵の血は伊達じゃないのだ。
おれは思いきり、ドアを押し開けた。
異常はない。
先に出た。
“プリンス”、ゆきとつづく。
やばい。
地上出口の方から、管理人らしい姿が走り込んできた。
「どうした!?」
えらい見幕で食ってかかる。
「来るな!」
おれは叫んだ。
左頬がちりっと強張る。
ゆきと“プリンス”を突き飛ばすのが精いっぱいだった。
管理人は近づきすぎていた。
稲妻のスピードでおれの頭上を黒いものが跳び、次の瞬間、男の首はきれいになくなっていた。
わずかに同情が胸を刺し――それきりだ。眼の前の人間の首がとんだくらいで驚いてちゃ、宝探しなんざやっていられない。
カンボジアの鍾乳洞へ潜り込んだときなど、後ろについてきてた案内人の首がいつの間にかなくなり、それでも歩いてた。
あまりの猛速でもぎ取られたため、まだ突っ立ったまま血を噴いてる胴体を尻目に、おれは影の消えた駐車場奥へ眼と武器を向けつつ、外へ出ろと二人に手で合図した。
出入り口までは二メートルもない。
左右を見い見い、ゆきが“プリンス”の肩を抱いて歩き出す。
右から来た。
そう感じるより早く[#「感じるより早く」に傍点]、おれは身を屈めつつ、MMARをスイングさせた。
もう、かばう手間はいらない。
生身のおれだったら、MMARの重さのせいで、奴のスピードに後れをとったかもしれないが、ブルゾンの下には、コンバット・ベスト付きの“機械服”を着込んでいたのだ。
フィードバック機構が、筋肉の力を十五倍に増幅し、突進する敵の未来位置[#「未来位置」に傍点]へ狙いを定めるまで、コンマ一秒とかからなかったろう。
五・五六ミリ炸裂弾の二連射が空中にオレンジの妖花を咲かせ、ぐおっ、という唸り声が上がった。
ゆきの頭上を越えて着地し、次の瞬間には外へ走り去った黒影は、確かに四本足の獣だった。
しかし、命中した三発は、短機関銃《サブ・マシンガン》用の拳銃弾じゃない。薬莢にたっぷりと発射薬、弾頭に手榴弾一発分の威力を持つ高性能炸薬を詰めたライフル弾なのだ。
「やだ。――ちょっと、この色見てよ、血よ」
怖気《おぞけ》をふるうゆきの声に、おれは下を向いた。
獣の着地点と覚しいところから、緑色の液体が出入り口まで吹きつけている。帯状ではなく、霧吹きで吹きつけたみたいに飛んでるのは、猛スピードで移動したせいだ。
「一体……何よ、今の化物?」
“プリンス”をかばうようにして震え声を出したゆきに、おれは答えなかった。
そうだろう。
身体の中で手榴弾を三発ぶちかまし、しかも緑色の血を流す動物の正体を、誰が口にできるだろう。
とにかく、おれたちは外へ出た。
管理人には気の毒しちまった。按配が悪かったとはいえ、匿名で香典をふんぱつしなきゃ、寝醒めが悪い。糞、また、出費がかさむ。
「ね、どうする?」
駅前の通りへ出ると、ゆきが訊いた。乗り物のこったろう。
「電車で行こう」
と、おれは言った。
車じゃ、敵も襲いやすい。尾けられちゃいないが、静止衛星で見られてる恐れは十分にある。――とは言うものの、おれはあまり気にしていなかった。
わざわざ高い金出して打ち上げた以上、他にやることは――敵陣営のミサイル配備状況を調べるとか、キエフの海岸で日光浴してるビキニ美人を覗くとか――いくらもある。ローラン共和国が自前でつくった衛星にしろ、どこかの国のに間借りしてるにせよ、だ。そうそう四六時中、おれたちを見張ってばかりはいられまい。
駅の切符売り場に並ぶと、
「あのお」
と、“プリンス”が固い声を出した。
「何だい?」
おれは財布を出しながら――ゆきは絶対に払わねえからな――訊いた。
「ちょっと、トイレへ行かせていただきたいのですが……」
「あら」
とゆきが、意味ありげな眼つきをし、おれに苦笑を浮かべた。
「ご丁寧にどうも。――トイレは確か……」
「探してきます」
言うなり制止する間もなく、小柄な影は明治神宮方面の闇の中へと消えた。
「いかん。ゆき、追っかけろ!」
「そうね。トイレは内側《なか》だわ」
おかしな返事を残して、白いスラックスが後を追う。
大きなヒップにパンティの線《ライン》がないのを見つけ、おれは束の間、よくない妄想に浸った。
三人分の切符を買って待つ。
とりあえず、銀座東急ホテルに買ってある部屋へ行くつもりだった。もちろん、敵の目をくらますため、次の渋谷で地下鉄に乗り換える。
不安が黒く冷たい棒で胸を突いた。
来ない。
“プリンス”はともかく、ゆきまでが。
さらに五分待ち、おれは駅舎の外へ出た。
いない。
不安が渦を巻き、ある予感が喉もとでふくれ上がった。
おれの右手に、明治神宮の森が黒々とそびえていた。
月も明るい。
左側を走る表参道に沿って、五分も歩けば敵との邂逅地点――代々木公園原宿門だ。
「マリアの予言が正しかったかな」
おれはつぶやいて、にやりと笑った。
んなこと、どうでもいい。
おれはあくまでも、おれの流儀でやるだけだ。
腕時計を見た。
午後九時二分前――なんとも結構な時刻じゃないか。
夜九時とはいえ、夏の代々木公園だ。桃色遊戯にふけるアベックや、それを覗きに来る痴漢でいっぱいと思いつつ、おれは敷地内へ足を踏み入れた。
舗装路が白っぽくつづいている。
黒いものが落ちていた。拾いあげた。
靴だ。“プリンス”のスニーカー。――今朝、赤坂へ行く途中に買ってやったものだ。
やはり、か。
おれは四方へ気を配りながら前進した。
不意に、めまいがした。
すぐに消えたが、奇妙な感覚が全身に残った。
まるで、身体を含む空間がねじれたみたいな。
しかし、そこは確かに、見慣れた代々木公園だった。
夜なのに生命をみなぎらせてそびえる木立、広大な芝生、あちこちに立つ常夜灯の光輪。
それなのに、どこか違う。
異常を突き止める前に、おれは入り口から二〇メートルほど離れた芝生の真ん中に立つ人影を認めて足を速めた。
七名。
残りは森の中にでも隠れているのだろう。こう広いと気配を探るのも難しい。
全員が背広姿の外人だ。
手に手に消音器《マフラー》付きのMAC11やH&K《ヘッケラー・アンド・コック》MP5A1、ウージー・ピストル等で武装している。どれもこれも、全長二〇センチ前後の小型サイズのくせに、三〇発以上の弾丸を全自動《フルオート》でばら撒ける物騒な坊やだ。
もうひとりの坊やは、男たちの間にいた。
背後の男が、MAC11を握った手を細首に巻いている。それなのに、脅えた様子はない。
五メートルの距離をおき、おれは足を止めた。
「結局、ここで会うことになったな、ミスター八頭」
先頭の、見事なコールマン髭を生やした男が言った。
恰幅といい風采といい、間違いなくリーダーだ。
「まさか、アジトに先制攻撃を受けるとは思わなかったよ。――さすが、八頭の血を引く男だ。子供とはいえ、あなどれない」
「賞めて時間をつぶすんなら、その坊やを返してもらおう」
おれは、そいつをにらみつけながら、ゆきの姿を探したが、いなかった。予定調和の世界が嫌いな女の子は困りもんだ。
「残念だが、そうはいかん。この方にはまだ用がある。もっとも、それが済んでも、君の素敵な仕掛けのある部屋には帰れんがね」
「あの化物にきいたか。――あいつはどうした?」
「本国へ送還したよ。身体じゅうにガタが来ていた。まあ、六階からコンクリートの地面に叩きつけられれば無理もないが」
「何者《モン》だい、あいつらは? ――強化人間《ブーステットマン》か?」
「似たようなものだ」
「おたくの国で開発して、アメリカかソ連へ売り込む気か? アメリカがいいだろうな。あそこは建国以来、でかくて強いもの至上主義の国だ。米軍でも超人のプロトタイプが完成したときいたぜ」
これは本当だ。
二年ほど前の四月――アリゾナ州にある米軍生命化学研究センターから、ひとりの男が、硝煙ただようエルサルバドルへ送り込まれた。
結局、彼は生還しなかったのだが、後日、米軍担当将校のもとへ共産軍相手に彼が示した能力のすべてが、データ化して届けられた。
それによると、最前線での彼は、全身に八十七発の七・六二ミリ小銃弾を受け、三度の火傷を負うこと十数回、戦車の下敷きになること四回に及びながらも、凄まじい働きを見せ――
通常軍用ライフル(有効射程四〇〇メートル)を使用して、一五〇〇メートル先の敵将校を射殺。
水中に三〇分留まり、渡河中の敵将軍を刺殺。
素手の白兵戦において、自分より体重で三〇キロ以上、身長で二〇センチ以上勝る敵兵八人を都合三秒で死に到らしめた。凶器は素手。殺害方法は撲殺である。
また、敵軍に捕らえられた後も、言語に絶する拷問に耐え抜き、意気揚々と処刑されたらしい。
おれが思うに、この男は米軍がつくり出した“超人”の試作品か完成品第一号で、エルサルバドル侵入は、戦場でその性能を試すのが目的だったのだ。
似たようなことは、ソ連も中国もやってるが、超人製造コストがひとり三億円以上かかるため、もっと効率のよい方法が開発されるまで、棚上げの感じもある。
「あれで幾らだ?」
おれは思わず訊いた。
「日本円で――そうだな、ざっと一〇〇万円」
「そりゃ、安い!」
「我が軍の顧問にかかれば、何でも安上がりだ。さ、そんなことより、あのペンダントは持って来たろうな?」
「残念でした」
おれは、MMARをそいつに向けたまま、あっけらかんと答えた。
「あのペンダントに関してのみ、おれには何のことだかわからん。一体、何だよ?」
「――とぼけては困るな。あの後、どうしてもペンダントは見つからなかった。君でなければ誰が持っている?」
「知るか。――そんなことより、坊やを返しな」
「ふむ。どうしても知らんと言うのなら、やむを得ん。一緒に来てもらおう」
「ごめんだね。ところで、その坊や――本当におたくの国の皇太子さまか? え、ローラン共和国情報部のお偉いさんよ?」
「やはり、勘づいていたか」
男の両眼に白い炎が点った。
「では、隠しても仕方がない。その通り、このお方は、我が国の正統なる王位継承者だ」
「そこがわからねえ。いくら調べても、今の国王にゃあ子供がいるとは出てこない」
「当然だ。我々にしてからが、こちらの存在に気づいたのは、やっと一年前のことだ。それまでは香港におられた。わずかな腹心ともどもな」
成程な。おれにもやっと呑み込めた。昨夜、ローラン共和国の現状と歴史を調べたとき、そんなことではないかと思ってたのだが、やはり図星だったようだ。
日本へは密入国したのだろう。
それでも、こいつらは追いかけてきて、“プリンス”は記憶を失った。
「八頭姓の男のことだ。我が国の事情とプリンスの素姓に気づき、ひと儲けを企んだのだろうが、そんな夢はもう捨てろ。そのかわり、黄金のペンダントを一億円で買ってやろう。君は以後、口を閉ざしていればいい」
それが最後通告のつもりか、男は口をつぐんだ。
殺気が顔面を叩いた。
安全装置を外す音はゼロだ。とっくの昔にONというわけか。
「返事はどうだね」
「悪いが、そんな少額のために働くのはやめている」
言うなり、おれは二つのことを同時に行った。
右手でMMARの引き金を引き、左手の指輪に仕込んだレバーを弾き飛ばす。
男たちの足元の地面が吹き飛び、襟元に仕込んだ“機械帽”《メック・フード》が顔面を覆う。箔状の軽合金は鋼の面と化した。
悲鳴を上げてのけぞりつつ、男たちの右手からも火線が迸った。
顔に胸に、九ミリ・パラぺラムの弾頭が食い込んでも、おれはびくともしなかった。
素材の高分子金属糸は拳銃弾の衝撃など簡単に吸収してしまう。
突進した。
リーダーの腹へMMARの銃床を叩き込むのと、“プリンス”を押さえてる野郎の顔面へ左パンチをめり込ませるのとを同時に行う。
違う種類の声を上げてぶっ倒れかかるのを、胸ぐらを掴まえ、後ろの仲間へ放り出す。
一瞬、銃火が熄《や》んだ。
その隙に、おれは“プリンス”をかばって立った。
「無事か?」
「ええ」
気のない返事だった。まだ、麻薬の影響が残っている。
「背中についてろ!」
叫んで、おれは敵つぶしにかかった。
身体じゅうから、勢いをなくした九ミリ弾頭《ブリット》がこぼれ落ちていく。
三連射で射った。
男たちの足が炎と血を噴き上げる。
全員をぶっ倒すのに、三秒とかからなかった。
阿呆が。ただの高校生に毛が生えた相手と思ったか。学生を舐めるな。
“プリンス”を左脇に抱え、おれは逃走に移った。
スピードは時速六〇キロを軽くオーバーする。
軽い衝撃が右脇腹と肩に来た。
ライフルだな。森の奥に狙撃屋《スナイパー》がいるのだ。
MMARを横薙ぎにふるって沈黙させる。
出入り口は眼の前だ。
追手はない。
突っ込んだ。
出た。――と思った刹那、おれは愕然と立ちすくんだ。
眼の前に広がっているのは、代々木公園だった。
ふり向いた。
こっちもそうだ。
ある考えが頭をかすめた。
まさか。
仕様がねえ。戻るしかないな。あのリーダーをふん捕まえて、現状を打破する必要がある。
おれは、ズタズタになったスラックスの尻ポケットから、ワルサーPPKSを抜いて、“プリンス”に与えた。
「ここにいろ。引き金を引けば弾丸が出る。使う状況は――おまえを信用するぜ」
少年が武器を見つめ、うなずくのを待って、おれは走り出した。
森からの発砲はない。さっきの一連射が効いたらしい。
足をやられた連中も反撃はしてこなかった。無駄を悟ったのだ。
まだ腹を押さえているリーダーに近づき、おれは胸ぐらを掴んで起き上がらせた。喉笛にMMARの銃口を突きつけ、
「おかしな真似するじゃねえか。さっさと、この空間からおれたちを脱出させな」
と凄みをきかせる。
「残念だったな」
リーダーは顎髯を涎《よだれ》で濡らしたまま嘲笑した。
「コントローラーを持った仲間は“外”にいるんだ。おれたちの様子を観察して、おかしな具合になったら、おれの合図があるまで決してここを開かない。降伏するのは、おまえの方だ。断っておくが、仕掛けはまだある。生命のあるうちに、おとなしく投降しろ」
「外の奴に開けろと命令しろ」
おれは、リーダーの喉に銃口を食い込ませたが、さすがにプロ、びくともしなかった。
「射つかね? それでも構わん。だが、合図できるのは、リーダーの私だけだということは覚えておきたまえ」
「記憶力が悪いんでな」
おれは左のショート・フックをリーダーの顎に叩き込んだ。
とんでもない真似をしやがる。
ちっぽけな国にいる誰かが、空間を自由に閉鎖する装置を完成したらしい。
どうする?――と落ち込む前に、おれは不穏な気配に気づいていた。
公園の奥から何かが近づいてくる。
リーダーの言った“仕掛け”だろう。
駐車場の化物か?
いや、ずっと大きい。これは!?
衝撃が靴底を突き上げた。
息を吐きざま、おれは前方の芝生へ飛んだ。
乱れた。肩から落ちた。
痛て。爪先が離れる寸前、地面が噴き上がったのだ。
おれは見た。
分厚い土と芝生とをめくり上げ、地上へ飛び出した巨大なものを。
それは――信じてもらえるかどうかわからないが――どう見ても、モグラだった。
無論、この世に全長五メートルにも達するモグラはいない。黒光りする色つやの甲殼に身を包んだモグラもいなければ、鉄のような手のひらと爪を持つモグラもいない。
しかし、尖った嘴といい、丸まっちい頭といい、そういった生身の部分を覆うビロードのような皮膚といい、サイズを別にすれば、そいつは明らかに哺乳類食虫目モグラ科の特徴を備えていた。
くるりと反転し、おれを求める眼には、限りない憎悪と飢えとが燃えていた。
コントロールされている!?――おれは直感した。
モグラの化物は、形容しがたい声で咆哮するや、おれめがけて突進してきた。
普通の人間なら、これだけで絶望してしまったろう。
あいにく、おれは普通じゃなかった。
ひと目見て、正体を察した瞬間から、直感が制圧手段を講じ、肉体がその実現に乗り出す。
巨大なシャベル状の前足をふり上げたそいつの鼻先へ、毒々しい炎の線が飛んだ。
もうひと声叫んで、そいつは後退した。
鼻先は紫煙を吐いている。でかくて凶暴だが、不死身にあらず、だ。
なら、手はいくらもある。
と、手傷を負って狂ったか、モグラはなんと、足元から這いずり逃げようとしている味方を数名、その巨大な手ですくい上げたのだ。
悲鳴を上げて人影が宙に舞う。
待っているのは、かっと開いた細長い口であった。
最初の奴はあっさり呑み込まれたが、二人目は下顎に引っかかった。
「HELP」
自国語で叫んだ。
もう一度叫ぶことはできなかった。
モグラの顎は閉じ、そいつは口と鼻から鮮血を噴き上げつつ、黒い口の中に消えた。
モグラのコントロールに異常が生じている。
セレクター・レバーを自動銃に合わせ、おれは破砕弾を放った。
いきなり、そいつが動いた。身をひねったのだ。
手榴弾の威力を持つ破壊用小型榴弾は、甲殼の表面で爆発した。
いくら化物でも、鉄ではできていない。
甲殻は吹っ飛び、おれの頭上にも破片を撤き散らした。
厚い。キチン質みたいだが、四、五センチはある。
付き合ってられるか。
走り出そうと思ったとき、そいつの身体はかげろうのようにぶれた。
前足が凄まじい勢いで土を掻き、迸る土砂は天地を暗く染めた。
逃げる気か。――その判断が二発目を遅らせた。
恐らく、前足の他にも全身を振動させて土砂を崩れやすくするのだろう。
巨体は二秒とかからず地中へ没し去った。土煙が二、三度噴き上げ、世界は静かな夜に戻った。
どうする? とりあえず“プリンス”の安全を確保しないといけない。
おれは、彼の方へ走り出そうとした。
不意に足元から硬さが消えた。
次の瞬間、おれは腰まで土の中に潜り込んでいた。
何事だ!? ――と訊くまでもなかった。あのモグラのせいだ。あいつが地面の下を掘り進んだため、土が崩れやすくなっているのだ。
「こんちくしょ」
呻いて、足に力を入れると、また、ずずと来た。
これじゃ、地の底行きだ。
不気味な震動が、遥か地底から盛り上がってきたのはそのときだ。
また、来やがった。
逃げないとやられる。おれはMMARを土の上へ投げ出し、両手をかけて這い上がろうとした。
手も銃も沈んだ。この辺一帯には、カルメ焼きみたいに簀《す》が入っているのだ。
こうなりゃ、やるしかない。
おれは四方を見廻した。
三メートルほど向こうが舗装路で、街灯がついている。
何とかなるか。
左手を伸ばして狙いを定める。
地鳴りは確実に近づいてくる。
腕時計のスイッチを押すと、しゅっ、と音をたてて、単分子繊維が弾き出、精確無比――街灯をひと巻きした。
糸の長さは五メートル。おれの手を入れてぎりぎりだったが、何とかうまくいった。
MMARはスリングで首からかけ、右手で“機械服”の上へまとったベストから焼夷手榴弾を引き抜く。
安全環《リング》を咥えて抜いた。
腕時計のスイッチを逆転させる。
身体が浮いた。
内蔵のモーターが切断糸の引き込みを行い、相対的におれが前進する。この単分子金属糸は振動を与えなければ切断能力を有しないからこそできる芸当だ。
穴から抜けても、身体は沈んだ。それでも前進する。馬から落ちて引きずられるカウボーイの気分だ。
おれは自分が出て来た穴へ手榴弾を叩き込んだ。
数秒。
おれが舗装路に辿り着いた刹那、炎が噴き上がった。
いくら硬い鎧《よろい》に守られていても、七千度のナパーム炎には歯が立つまい。
繊維を腕時計に巻き取りながら、おれは立ち上がった。
足底からは何も伝わってこない。
やったか。
おれは出入り口の方へ走り出した。
その瞬間、天地が飴のようにひん曲がった。舗装路が土にめり込み、芝生が盛り上がる。
左手の地面がどっと陥没した。
おれは揺れ動く大地の上を疾走した。
“機械服”の安定機構《スタビライザー》のおかげで、平衡感覚に異常はない。
前方の舗装路が口を開けた。
五メートル。
えい、いっちまえ。
おれは跳躍した。
“機械服”は収納した人体の機能を十五倍まで引き上げるが、垂直上昇は十六、七メートルが限度だ。弧を描くともっと落ちる。
十分だった。
飛翔するおれの足の下で、裂け目はなおも黒い顎を広げていく。
ベンチが、街灯が、木立までもが傾き、呑み込まれていく光景は、天変地異か、地中の魔王が暴れ狂っているとしか思えなかった。
このままじゃ、代々木公園自体が地の底に消えてしまう。
着地と同時に走った。
出入り口に着くや、“プリンス”が走り寄った。
さて、どうしよう?
地面はなおも荒れ狂っている。おれたちの足元も不気味な震動を背中に伝えてきた。
「大ちゃーん」
おれは耳を疑った。
凄まじい地鳴りのせいで、並の聴覚にはとうてい聴こえない声も、“機械服”なら別だ。
ゆきの声。方角は――この出入り口からまっすぐ奥だ。
「こっちよ。開いたわ。急いで!」
やった
何処で男を引っかけてたのか知らねえが、今は救いの女神だ。
「行くぞ」
と、おれは“プリンス”の肩を叩いて言った。
「でも――地面が」
その通りだ。
かろうじて平坦な部分もあるが、広大な敷地の大部分は、地球創成期でもこうはいくまいと思われるほどひん曲がり、のたうち、陥没と隆起を繰り返している。
モグラの断末魔だ。あいつを土竜《もぐら》と書く理由が、ようやく呑み込めたぜ。
「だけど、あんなもの、どうやって飼ってたんだ?」
黒いものが走り寄って来た。亀裂だ。
おれは肩にかけたバックパックのベルト・スイッチを入れた。
偽装《カムフラージュ》パックを引き裂き、強化プラスチックと軽合金の車輪が現れた。
ゆるやかなカーブを描いて、おれの尻の下で止まる。
「背中へ乗れ!」
叫んだ。
“プリンス”の重みがかかると同時に、おれはベルトの始動スイッチを入れた。
背中の高出力磁気タービンが唸った。と見る間に、おれは時速八〇キロを超えるスピードで、わずかに残る平坦な道を疾走していた。強制安定装置は、一トンの重量までは絶妙なバランスを保ってくれる。
ヨーロッパ宇宙開発機構が、他星上での移動方法として考案した携帯交通機関のプロトタイプである。
現在ではむしろ、過密状態にある大都市《メガロポリス》での交通麻痺解消の重要手段として注目を浴びている。
実用化は二十一世紀末といわれるが、なに、ひとつ[#「ひとつ」に傍点]くらいなら、今でもOKだぜ。
首っ玉にしがみつく“プリンス”の腕に力がこもった。いくら王子様でも、怖いものは怖いのだろう。
いきなり、地面が右へ傾いだ。
“プリンス”が短く叫ぶ。
急角度に傾いた斜面の上を、おれたちはびくともせずに通過していった。時速一二〇キロ。身体は傾斜に垂直。――それでいて、安定しきっている。さすが、知性の申し子だ。
頭上から木の枝が降りかかってきた。
構わず通過。
反対側の出入り口が見えた。
人影が手をふっている。ゆきだ。
がくん、と地面が沈んだ。
「そうはいくか!」
叫びざま、おれは地面を蹴った。十五人力のパワーだ。
おれたちは軽々と宙を飛び、ゆきの眼の前に着地した。
また、足元が崩れた。
「うわお」
ダッシュ。
伸ばした手をゆきが掴んだ。思いきり引いた。
あのねじれ[#「ねじれ」に傍点]が襲い――次の瞬間、おれたちは固い地面と静寂の下に立っていた。
「大丈夫?」
ゆきがにやにや笑いながら訊いた。
「モグラ一匹相手に大騒動だったわね」
「何もかも見てやがったのか? どうして助けねえ?」
「あたしの出番なんかあった? みんな、あんたが片づけちゃったわよ」
それもそうだ。
「大丈夫か?」
おれの背中から降りた“プリンス”に訊いた。
「ええ」
そのようだった。ひと安心ってとこか。
おれは磁気車を背中へ収めながら、ゆきの周りを見つめた。
少し離れた木の繁みの脇から靴を履いた足が一組、突き出ている。
MMARを構えて近づいた。
背広姿の外人が横たわっていた。
木の幹の下に、奇妙な形の機械が腰を据えている。空間を歪ませたのはこいつだろう。
点検し、おれは眼を見張った。
機械は二つの部分から成っている。ひとつは機能部、ひとつは動力部だ。機能部の方は専門家でなくちゃわからんが、残る片方は見覚えがあった。
以前、フロリダの原子力センターで見せてもらったのと、瓜二つの品――案内してくれたグラマーな科学者は、二〇年後には、一家にそれ一台の時代が来ると、豊かな胸をそびやかせていた。
縦横三〇センチ、高さ四五センチの特殊合金炉の中で永遠に燃えつづける原子の炎――超小型原子炉だ。
「どういうことだ?」
おれはゆきに訊いた。
「話は後よ。――逃げましょ。人が来るわ」
「事情を説明するんだ」
「わかったわよ。この子を見失ってうろうろしてたら、木の陰にいるそいつを見つけたの。おかしいなと思って覗いてると、あんたが来てパンパンはじまったわ。で、そいつをワルサーで脅して機械の説明をきいてから、しっかり眠らせたわけよ」
「ふん」
おれが、その機械を持っていこうとすると、
「ほっときなさいよ、そんなガラクタ。もう動かないわ。エネルギーを使い果たしたのよ」
「阿呆――原子力だぞ、これは」
「わかってるわよ、そんなこと」
ゆきは、唇を突き出して言った。
「そいつを脅して訊き出したら、空間を歪めたり閉じたりするには、原子炉一個分のエネルギーが必要なんだってさ。それも、なるべく空間のほころんでるところを選ばなくちゃならない上、そういう場所はいつも移動してるんだそうよ。つい、五、六分前からは、いま、大ちゃんが出て来たところね」
それで、おれが入ってきた出入り口じゃなかったのか。
「だが、エネルギーがなくなったら、公園はどうなる?」
おれは静まり返った惨劇の地に眼をやった。モグラは死んだのか、逃げたのか、口を開けるしかない破壊の痕跡を示して、公園は闇の下《もと》に眠っている。
「いったん閉じたら、それっきりよ。次にエネルギーを充填して全体を開放しないかぎり、この出入り口以外からは誰も入れないし、出て来られないわ。いいじゃないの、どうせ公安当局が立ち入り禁止にするし、あの外人どもも皆殺しになっちゃったしさ。このメカだって、国家機密の名の下にバラされておしまいよ」
「それもそうだが、やっぱり持ってくぞ。そいつも一緒にな」
「何でよ」
「ちょうどひとりだけ、人質が欲しいと思ってたんだ。殺したんじゃあるまいな?」
「よしてよ。金玉蹴とばしてから、首筋に肘打ち決めて眠らせただけよ」
凄いことしやがる。
「とにかく、担いで連れていこう。おい、ゆき、おまえ近所にパークしてるアベックの車をかっぱらって来い。それで連れていく」
「どうして、あたしがそんなことしなくちゃならないのよ?」
「こいつの口から、“プリンス”の身元が割れる。おまえも養育費を取りやすくなるだろう。こっちのメカは、どっかの企業か軍隊に売り渡せば、原理だけで何兆円にもなる。いいか、空間を自由に閉じたり開いたりできるんだぞ。どんな軍隊だっていったんその中に閉じ込められれば永劫に堂々巡りだ。核ミサイルも同じことさ。いまんとこ、エネルギー代が少しかさむようだが、そんなもン、いずれ解決できる」
おれの説明をきいているうちに、このメカ音痴にも、事の重大さが呑み込め出したらしい。
二つの眼は熱く黄金色に濡れ光りはじめていた。
「わかったわ。――何でも協力しちゃう」
「ほんじゃ、一台、いいのを頼むぜ」
「まかしといて」
ゆきは足早に通りの方へ歩き出した。
おれは“プリンス”へ眼を移した。
「どうして捕まった?」
と、おれは訊いた。
「すみません。トイレ探してたら、いきなり捕まってしまいました」
「今後、気をつけてくれよ」
「はい」
「トイレは大丈夫か?」
「ええ。もう」
少年は微笑した。
何故か、とまどっているような笑みであった。
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第五章 官公庁の夜
自分のかっぱらってきたランサーが滑り込んだ駐車場を見て、ゆきは眼を丸くした。
「なによ、ここ、外務省じゃないの!?」
「まあな」
と、おれは涼しい顔で言った。
「高級ホテルやマンションもいいが、たまには硬い雰囲気もなかなかだぜ。半年前にひと部屋借りてな。それに、ここなら海の向こうの情報を掴むのにも好都合だ」
おれは鼻歌混じりで答え、車を降りた。助手席の“プリンス”、後部座席の外人と、ワルサーPPKを握ったゆきがつづく。
「ハンドバッグの中から狙ってるわ。おかしな真似をすると、あそこ[#「あそこ」に傍点]へズドン、よ。ちぎられたくないでしょ」
恐ろしい脅し文句が効いたのか、外人は何ら反抗の色を示さず、おれたちの後について裏口から外務省の建物へ入った。
以前から、各官庁にひとつずつ自前の部屋を持っていたら便利だろうと考えていたのだが、とりあえず、最も利用価値の高い大蔵、法務、外務の各省にOKを出させ、メカや機材もすべて運んである。これに伴う工事費も負担し、ついでに、各省庁とのコンピュータ・ネットワーク開設にも成功した。
深夜十一時半。人影はない。いてもガードマンだし、彼らには、おれの息とボーナスがかかっている。
部屋は最上階だ。
入ってすぐ、おれは外人に訊いた。
「さて、あんたは囚われの身のわけだが、おれ[#「おれ」に傍点]の訊きたいことに……」
「おれたち[#「おれたち」に傍点]」
と、ゆきが訂正した。
「おれたちの訊きたいことに、素直に答えてくれりゃ、荒っぽい手段に出なくてもいいんだ。どうだい?」
「しゃべることなど、何もない。イエロー・モンキーの餓鬼にはな」
男は陰気と憎悪の極みにある声で言った。気勢が上がらないのは、ゆきに急所を叩きつぶされたせいかもしれない。
「あーら」
と、頬げたを張り飛ばそうとするゆきを制し、おれはわざとらしくため息をついた。
「そうか。じゃ、仕方がねえな。母国を離れて三千里。異郷の地に屍を埋めてもらおうか」
男の眼に動揺の光が揺れた。
「殺す気か?」
それでもプロ。声は落ち着いたものだ。
「いざとなったらな。そのときは、こっちのグラマーが喜んであんたの[#「あんたの」に傍点]を握りつぶしてくれるだろうよ。どうだい、考え直せや」
「ふざけるな」
おれは肩をすくめ、キャビネットの奥から「家庭用救急箱」をひっぱり出すと、本来、入ってるはずのない注射器と白い瓶を男に見せつけた。
「薬てのは陰険な手段でな。あんまりやりたかねえんだが、仕方がない。指ィ切ったり、肛門をガスバーナーで焙られるよりマシだ、と思ってくれれば、気が楽だ」
「無駄なことだ」
男はようやく、せせら笑った。
「我々のことをある程度は知っているようだが、なら、そんな手段で口を割るはずもないのは承知だろう。薬や催眠術に対する心理防衛は完璧だ」
「おれ、実は完璧主義者なんだが、いままで完璧ってやつに出くわしたことはねえ」
おれは、男の眼の前で、白い瓶を小さく振ってみせた。
「こいつは、内閣情報室と自衛隊医務部が共同開発した新製品でな。従来の自白剤より五、六倍も効いて、副作用も少ない。あんたがはじめてのクランケだが、ま、せいぜい頑張ってみてくれ」
おれは“プリンス”の方を見て、
「奥に行ってろ。子供の見るもんじゃない」
「はい」
少年は素直にうなずき、奥の寝室兼仕事場へ去った。
抵抗されると面倒なので、だしぬけにアッパーを顎にかまして気絶させ、おれは男の静脈に針を突き立てた。
ピストンを押し切ってから、活を入れる。開いた男の眼には、覆いようのない不安が揺れていた。
「あと十秒ってとこか」
おれは思わせぶりに腕時計を見た。
「いつもより量は多くしてある。ことによったら、おれの知らない副作用も出るかな。そのときは、あきらめてくれ」
男は鼻先で笑った。
「九……八……七……」
おれは、ゆっくりと、辛気臭い声で数えはじめた。
「六……五……四……いよいよだ」
男の顔に汗の粒が浮いている。
「効いてきたな……三……二……一!」
男は眼を固く閉ざした。おれの人差し指が眉間に突きつけられたからだ。
「薬が効いてる。もう開かない」
力を込めて告げ、指を離しても、瞼は痙攣したきり開こうとしない。
「かかったな」
おれはにっと笑った。
「深い闇の中だ。どんどん落ちていく。しかし、恐怖はない。とてもいい気持ちだ。とても素直な気持ちになれる……」
男の全身から力が抜けた。
「なんで英語使うのよ!?」
おれが身を離したのを見て、ゆきが食ってかかった。
「催眠術の暗示は、日本語より母国語の方がいいだろ」
「催眠術? ――薬を使ったんじゃないの?」
「あれはただのブドウ糖さ。発汗剤が混ぜてあるけどな。おれはこっちの方が得意なんだ」
「よくも、シラーッとあんな嘘つけるわね」
ゆきが呆れ返った。
「天性の詐欺師ね、あんたって」
「へいへい」
おれはわざと貧之ったらしくうなずき、施術にとりかかった。
催眠術で言うなりになる、と人は簡単に言うが、現実にやってみれば、胸中の秘密をしゃべらせるのは、かなり難しい。
人間の精神的禁忌というのは、それほど強いのだ。
自分すら意識してない「記憶」さえある。それを解放するのは、何重もの鍵をかけた大金庫へ忍び入るに等しい。しかも、その鍵は、奥へ行くほど複雑で頑丈にできている。軍隊なら、ブドウ糖の代わりに本物の自白剤を使用するのだが、単なる暗示だけでそれをこじ開けるのは、相当の術師でも至難の業だ。
だが、できる。――おれになら。そう思わせねえとな。
それから十五分ほど費やし、おれは、男を深層催眠レベルまで陥らせた。自慢するだけあって、禁忌の強さは、みな日銀の金庫なみだ。しかし、番号さえ合えば、どんな扉も指一本で開く。
おれは強制と懐柔――飴と鞭を巧みに使って、奴の鍵を発見していった。
深層催眠に陥る一歩前の段階で、こいつの心理的支えになっているのが、二〇年前に殺したカンボジアの少女だというのには恐れ入ったが、その娘に化けて説得すると後は簡単だった。
「いよいよだ」
と、おれはゆきをふり返って言った。
「念のために、“プリンス”の様子を見てこい」
「やあよ」
ゆきは空に眼を据えてとぼけた。
「いない間に、どんな質問するかわかったもンじゃないわ。断っときますけど、それほど信用はしておりませんことよ」
「勝手にしやがれ、根性悪」
おれは悪態を置き土産に、大詰めの作業にとりかかった。
「では、質問に移るわよ」
ゆきが、口もとを押さえて吹き出した。今のおれは、この男にとって、殺されながらも彼を許したカンボジアの少女なのだ。
「あなた――答えてちょうだい。お名前は何とおっしゃるの? 認識番号なんかじゃ、嫌」
男の唇が動いた。
「グレンだ。……グレン・アキーナス……」
「素敵なお名前ね」
背後で音がした。ゆきが腹を抱えて床に膝をついたのだ。全身が痙攣している。
おれは気にしなかった。照れている場合じゃねえ。咳払いして言った。
「教えて。あの“坊や”は誰なの? どうして、あなたが追いかけているの? 坊やの名前は?」
「……クロード……クロード・ゼーマン……七世……いや……親父が引退したら……ローラン共和国の……七代目国王に……なる……」
おれの肩に白い手がかかった。ゆきだ。もう笑ってはいなかった。眼はいつもの通り、野心と欲情にかがやいていた。
残る手は、ブラウスの前ボタンを外し、ノーブラの胸を揉みしだいている。危ねえ。
「その七代目が、どうして、日本にいるの?」
「……彼は……第二夫人の子だった。……国王は後継ぎにするつもりでいたが……その後でお妃が子を産み……クロードは……宮廷を追われた……」
「それで、暗殺? いくら何でも、今は中世じゃあないわ」
「……ちがう……お妃の子は……すぐに死んだ……これで王位継承者はいなくなる……だから……王はクロードを呼び戻そうとした……おれたちには……それが邪魔だった……」
「なるほどな」
おれは低くつぶやいた。
やっぱりお家騒動か。それにしても、こいつ、ただの臣下じゃなさそうだ。あんなメカをまかされるくらいだから、ひょっとして、と思ったが――金的だ。
「おれたちって、情報部のことね――トップは誰よ?」
「サイモン・ベンチュラ大佐だ」
「その人が黒幕?」
「い……や……」
男――グレンは首をふった。ためらいがちなのが気になる。
「教えてちょうだい……誰よ?」
「ウールマイヤー……首相だ」
おれは眼を剥いた。
共和国だから、政府首脳は王族の別にいてもおかしかないが、その最高権力者たる首相さまが、事件の黒幕とは。
しかも、どうやら王位継承権を狙っていると覚しい。
「なぜ、そんな真似をする?」
と訊きながらも、答えはわかっていた。
ローラン共和国の政治構造は、ほぼ全権が共和国政府の手に握られているとは言え、最重要権限――すなわち、首相の任命・罷免権、軍司令官の任命と解任、対外貿易国の承認と決定――は、国王に帰属する。
首相の胸におかしな考えが芽生えたら、すぐに抹殺したくなる第一号であろう。
ただし、唯一の解決策もまた堂々と国法で定められており、王の血を引く後継者がいない場合、現国王の引退、死をもって、全権は首相に委ねられる。これは後継者と認定された人物が後日登場するときまでつづく。
つまり、“プリンス”――文字通り「プリンス」だ――がこの世から消滅すれば、ウールマイヤー首相は、死ぬまでほぼ独裁的な権力を手中にできるわけだ。
「では――あの黄金のペンダントは何よ?」
おれは、長年の疑問を口にした。
「……後継者の印……だ……王は代々……自分の子供に……あれを与えて……来た。……本来は正嫡《せいちゃく》に限るが……もうひとりの方も……余程……気に入ってたんだ……ろう……厄介なことを……しやがる……」
「全くよねえ」
おれは苦笑混じりに同情してしまった。それなら、こだわりたくもなるよな。あれがある限り、縁もゆかりもない子供が皇子の名乗りを上げることもできるのだ。八代将軍吉宗の時代に、御落胤《ごらくいん》の名乗りを上げて大騒動を引き起こした男がいたが。名前は確か、天一坊だったか……。
「あなた方、それを、おれ――じゃないわ、八頭ってハンサム・ボーイが持っていると思ったの?」
「確信はなかった。……プリンスも記憶を失っていてわからねえ……だから、生かしておいたんだ……あのトレジャー・ハンターは……履歴を調べたが……厄介な……野郎だ……絶対に……殺す……」
「目算が外れたわねえ」
おれは、しみじみと言ってから、ひと息入れた。
いよいよ、肝心の質問に移る。
「ローラン共和国って、そんなに大きな国でもないわよね。工業国でもないわ。科学技術が発達しているという話もきかない。それなのに、あの凄い機械はどういうこと? 誰が発明したの?」
「………」
男は口をつぐんだ。思った通り、最大の極秘事項らしい。
「わかってちょうだい。気を楽にして。あなたが苦しむのは、その秘密のせいよ。それさえ話してしまえば、とっても楽になるの。あたしと同じ気持ちになれるわ。あなたを愛してるの」
言ってから、おれはゆきの方を見てしまった。
茫然としている。
「ねえ、教えて」
おれは構わず言った。意識的に声を甘くする。
「答えずにはいられないのよ。あなたは、あたしの質問を無視できないの。だって、あたしたち、いま、ホテルのベッドにいるんですもの」
ゆきが、げっ、と言った。
「二人とも幸せな時間を過ごしたわ。何ひとつ隠しごとはないのよ。お願い……何もかも話して……」
男の全身からは、またもや汗が噴き出していた。
おれのブドウ糖とは違う、精神の抗争がもたらす発汗現象だ。おれの暗示に、男の心理防衛機構が抵抗しているのだ。
「教えて……グレン」
おれは奴の耳もとに唇を押しつけ、熱くて甘い吐息を送り込んだ。
鳥肌が立っている。気色悪いが、そんなこと言ってる場合じゃねえ。
グレンの顔は苦痛に歪んだ。椅子の肘を握りしめる両手には、青すじが立っていた。
「あのメカニズムの発明者は誰? あたしとあなたにとって、とても危険な人間なのよ。今度会ったら、あたし、殺されてしまう。助けて。……彼の名を教えて……」
ええい。――おれは清水の舞台から飛び降りるつもりで、グレンの耳たぶを噛んだ。
野郎、手間かけさせやがって。正気に戻ったら、ただじゃおかねえ。
わななく――わなないて欲しくもないが――唇が、不意に開いた。
効いたね! おれは全神経を耳孔に集中した。
「……エニラ師《マスター》……だ……」
そうきこえた。
「エニラ?」
思わず訊き返した刹那、それは起こった。
グレンの全身が激しく痙攣するや、顔面も手も、見る見る土気色に変じたのだ。
記憶がおれの脳をかすめた。
ストリップ劇場の楽屋で、爆発した刺客。
おれが身を翻した方が、わずかに早かったと思う。
体内の起爆装置は、心臓の鼓動か神経電流のパルスと連結されていたに違いない。
いまのひと言を解放した瞬間、心筋は鼓動を停止し、爆薬がオンされる。おれ以上に強力な暗示が加えられていたのだ。
ゆきの身体にすがりつき、床へ押し倒した刹那、凄まじい衝撃が背中を直撃し、意識は暗黒に呑まれた。
失神は一瞬だったろう。
状況を把握したとき、周囲ではまだ爆発音が鳴り響き、渦巻く衝撃波が背や脇腹を叩いていた。痛てててて。
「ちょっと――立ってよお!」
身体の下で、柔らかい塊がゆきの声を張り上げた。
「重いじゃないの。爆発に名を借りて、レイプでもする気? 早く起きろ、どH!」
「面白え――こうしてやる」
おれは、ゆきの胸のふくらみの間に――ちょうど真下だった――顔を埋め、ぐりぐりと動かしてやった。
相変わらずの張りと弾力だ。これとヒップが、この女の元気の素だろう。
「きゃあ」が「あっふーん」になるのを見届けて、おれは肉布団から起き上がった。
「眼をつぶってろ――バラバラだ」
「いやーん」
奥のドアから飛び出してきた“プリンス”に、戻れ、と命じ、おれは舌打ちした。
完全防音仕様だし、壁も特別頑丈に改造してあるから、いま程度の爆発では気づかれないだろうが、人間ひとり分の中身が飛び散ってちゃ、もうここにはいられない。
ついてないったら、ありゃしねえ。
「どうすんのよ、一体? これじゃ夜逃げじゃないの?」
法務大臣の私邸へ電話をかけ、とりあえず、もみ消しと清掃役を廻してもらうことにしたおれへ、ゆきは食ってかかった。
「どうもこうも、ここにゃいられんだろ。――法務省へ移ろう」
「場所ぐらい選んでよ?」
ゆきは、それでも半ばあきらめたように言った。
「せめて一流ホテル巡りといきたいわ。深夜に子供抱えて、お役所巡りなんて、恥ずかしくて友達にも言えやしない」
おれは肩をすくめるしかなかった。
幸い、法務省では何事もなく、おれは、まず、六本木のマンションへ電話を入れてみた。
留守録になっている。
名雲陣十郎からの電話が五本も入っていた。まだ、あきらめていないと見える。
その他、ガールフレンドから十数本。びっくりしたのは、外谷順子から「ぶう」というのが入ってたことだ。何のつもりか、さっぱりわからねえ。
うんざりして、切ろうかと思ったとき、それまでと、がらり変わった声が、おれの名を呼んだ。
職探しやドライブ希望のノーテンキとは、月ほども隔たる男の声だ。
「留守とは残念だ」
いねえからピーの合図で勝手にしゃべくれ、という愛想のないおれの声が終わった後で、声の主は流暢な日本語で言った。
おれの勘が確かなら、歴戦の強者だ。運不運を超越し、自らの意志ですべてを切り拓いてきた男の声に違いない。
全身の気が引き締まる。代々木公園へ向かうとき以上にハードな気分で、おれは耳をそば立てた。
「一度、お目にかかりたいと思っていた。八頭の名前には常々、敬意と畏怖の念を抱いている。差し支えなければ、拝顔の栄に浴させてはもらえないだろうか。よかったら、明日の正午、銀座の『千疋屋』までご足労願いたい。私はひとり。そちらは何人でもご自由にどうぞ。申し遅れたが、私の名はコーネル・ヤンガー。“大佐《コーネル》”で通っている。――では、よろしかったら、明日」
電話が切れてから少しして、おれは受話器を置いた。
革張りソファの上でにらみつけていたゆきが、
「ねえ、どうしたの?」
と低い声で訊いた。
「なによお、死人みたいな情けない表情しちゃってさ。しっかりしてよ。あたしにだって、やられちゃうから」
おれは返事をしなかった。
先手先手と取られるわけだ。“コーネル”がいたんじゃな。
なんとか丹田に力を込めながら、おれは二人に笑いかけた。
二人とも笑わない。
「で、これからの方針だが」
と、おれは言った。
「まず、おまえの素姓から打ち明けておこう」
さっきの男――グレンが告白した内容をしゃべっても、“プリンス”クロードはさして驚いた風にも見えなかった。多分、そうだろうとは思っていたが、何となく可愛げがない。
「少しは、驚いたらどうだい?」
と言うと、困ったように、
「すみません。何も記憶がないので、ちっとも実感がわかないのです」
そりゃ、そうだろう。
「まあ、いいさ。だが、おまえ自身はどうするつもりだ? そっちに記憶がなくても、王さまの後継ぎってことに変わりはない。このまま、新しい刺客の手から、世界中逃げ廻って暮らすか? ――それとも」
「それとも?」
貴公子の顔に、緊張の色が流れた。
「記憶回復は後廻しにして、とりあえず、国へ帰る。おまえとあのペンダントがなけりゃローラン共和国は悪い大臣の操るままだ。戻れば――奴らと戦争だな」
ひょっとしたら、時間がかかると思ったが、“プリンス”の返事は短かった。
「戻ります」
「うん」
おれは賛意を笑顔で示した。
「ですが――どうやって戻ればいいのか? 情報局の連中に狙われてる以上、パスポートもビザもとれません。それに、僕自身、今は密入国者です」
「安心しな。みーんな、おれ[#「おれ」に傍点]が面倒見てやるよ」
おれたち[#「おれたち」に傍点]よ、とささやきながら入れたゆきの肘打ちをかわしながら、おれは胸をぶっ叩いてみせた。
「そんな――ここまでお世話になって、これ以上のこと……」
「もちろん、ただじゃごめんさ。条件つきだ」
「何でしょうか?」
「必要な書類は後でつくらせるが、今は口約束でいい。おまえが正当な王位継承者としてキングになったら、バラザード・リア山の財宝をおれにくれ」
「おれたち」
「おれたちにだ」
「何でしょうか、それは?」
困惑気味のクロードに、おれは説明してやった。
「おまえの国にある中央山岳地帯のほぼ真ん中にそびえている山さ。海抜三四八二メートル。昔から“バラザード・リアの山”には化物が出るって有名だ」
「化物退治に行かれるのですか?」
「阿呆。おれの調査だと、バラザード・リアの中腹に、でかい洞穴があってな。その中には氷に包まれた古代船が眠っているそうなんだ。そうなんだってのは、それを狙いに入って戻った奴がいないのと、山麓の村々でささやかれてる口伝が話のもとだからさ」
「じゃあ、あんたの仲間がもう何組も入ったわけ?」
ゆきが、がっかりしたように訊いた。
「そうだな。ただ、あの山はここ百年ほど入山禁止だから、みな非合法に押し入ってるんだが、生還者はゼロだ」
「その古代船には、何が積んであるのよ?」
「口伝じゃ、“途方もない宝”ってことになってる。ということは、当時の連中には理解できないが、大いに利することだけは確かな何かだろう」
「さっぱりわからないわ」
「その方が面白い」
おれは、じっと“プリンス”の顔を見つめた。
「どうだい、その条件で?」
「ちょっと待ってよ」
ゆきが口を挟んだ。
「そんな、訳もわからないもののために、生命懸けで苦労しなきゃなんないわけ? あたしはごめんよ。せめて、王家の宝物蔵にあるダイヤか何かが貰いたいわ」
「だそうだ」
“プリンス”は、おれたちの欲の皮がつっぱった顔を見くらべていたが、やがて哀しげに眼を伏せた。
「どうした?」
「どうしたのよ?」
少年は眼を開けておれたちを見つめた。揺るぎない決意が固く、清々しく結晶しているのをおれは見た。子供の決意は、いつもそうなのだ。“プリンス”クロードは言った。
「もし、僕が、おっしゃる通りの人間なら……国を統《す》べるものとして、法は曲げられません……そうでないのなら、何ひとつ、お約束できる立場ではありません」
「まあ」
と、ゆきが柳眉を逆立てた。
「なんて生意気なの。一宿一飯の恩義を忘れちゃったわけ」
「どうしても嫌か?」
「嫌じゃありません。ですが、僕は自分が誰かもわからないのです」
「もっともだ」
「ちっとも、もっともじゃないわよ!」
ゆきは、今にも跳びかからんばかりの勢いで喚いた。
「ね、あんた。少しは融通を効かせなさい。卑しくも一国のプリンスでしょ。山のひとつが何よ、宝石のひと抱えぐらい何さ。この人を大臣、あたしを――」
声が熄《や》んだ。
おれは、ピン、ときた。とんでもねえことを考えつきやがる。
「ははあん」
と、ゆきは腕を組んだ。遠い眼差しである。
「そういう手もあったか」
「おい」
と、おれは言った。
「大それたことを考えるなよ、ゆき」
「失礼ね。――未来の王妃に向かって」
やっぱり、そうか。この誇大妄想狂。
おれの呆れ返った胸の裡《うち》をよそに、ゆきは艶然と少年に微笑んだ。
白い手で頬っぺたを挟み、
「あなたの言うこと、もっとも! そうよね、大切な国の財産、大して世話になってもいない外国人になんか、やすやすと渡せないわよね。うん、もっともよ」
一宿一飯はどうした? 一宿一飯は?
「ねえ、大ちゃん」
ゆきは、およそビジネス・ライクな口調で切り出した。
「あいよ」
「たとえ、一宿一飯の仲でも、ここまで関わった以上、あたしたち、この子を本国へ送り返す義務があると思わない?」
「思わねえ」
「何さ、馬鹿」
「“プリンス”の言うのはもっともだ。だから、おれがこれ以上の手助けをしねえのも、もっともな話だ。わかるだろ?」
「わからないわよ」
「わかります」
憤然たる浅慮娘より、おれは気品に満ちた少年の顔を眺めた。気分が違う。
「八頭さんの望みを叶えられないのに、僕の方だけ叶えてもらうわけにはいきません。自分で何とかします」
「その通りだ」
「あんた、本気でこの子を見捨てるつもり?」
とうとう、ゆきがヒスを起こしはじめた。ま、こいつのは、同情だの正義感ではなく、欲が原因だから、こちらも気が楽だ。
「さ、もう、寝な。後のことは明日、相談しよう」
「はい」
「それでも男なの。こら、話をききなさい。この子が日本で殺し屋どもにやられたりしたら、国際問題よ。世界的に信用が下落するわ。それもみんな、あんたのせいよ。あんたが保護者としての責任を放棄したからだわ」
「じゃあな」
「お休みなさい」
「大体、あんたは」
「黙れ、馬鹿」
おれは、ゆきの肩を突いて、ソファに押し倒した。
「いいか。今度の相手は今までと桁が違うんだ。軍隊だの、恐竜だのじゃねえ。ひとつの国が相手なんだ。一歩入れば敵地だ。住民全部、風のひと吹きまでが敵と見なくちゃならん。そんなところへ連れて行くのが、自分が誰かもわからん記憶喪失症の子供ときた。おまけに、代々木公園に出現したモグラの化物を見ただろう。ああいうのを育てて自由に操る手段も開発した奴らだぞ。ただ働きなんかで相手になれるものか」
「あたしが王妃になったら、家庭教師に指名してあげるわよ」
「おまえの愛人でもごめんだな」
「悪かったわねえ」
ゆきは舌を出した。
その唇へ、おれは自分のを押しつけた。
「ぐぐぐ」
呻いて、もぎ放そうとするが、許さない。生意気な女はこうやって黙らせるに限る。
舌を差し込むと、ゆきも激しく吸ってきた。興奮しているときは、性欲の昂ぶりも強い。
お互い、たっぷりと舌を吸い合ってから、おれは、ゆきの喉に唇を這わせた。
「あ……ああ………」
泣くような声を上げて、ゆきはみずから、おれの手を見事な胸の隆起へ導いた。
シャツの上からなんて、爺さんみたいな真似ができるものか。
おれは荒々しく裾をめくり上げ、じかに揉んでやった。
柔肉は熱く手に灼きついた。
乳首を指でこすると、ゆきは身も世もない声を上げて宣言した。
「あっあっあっ……感じる。腰に電気が走るわ……もう限界よ……お役所でこんなことするなんて……最高。最高、最高よ」
「そうだろ。ほら、もっと感じろ。もっとよくしてやる」
おれの脳味噌は白熱し、何もかも爆発寸前だった。
ゆきの肌と反応は、それほど魅力的なのだ。
「待って――脱いじゃうから」
息も絶え絶えに言うと、ゆきはスラックスのベルトに手をかけた。
興奮しきった手つきで外し、自ら下げた布地の下から、白い、むっとするようなヒップの肉と白いパンティが見えたとき、おれはもう我を忘れて、豊かな腿の間に手を差し入れていた。
一気に危ない部分へ走らせる。
熱い。
ゆきが、男なら発狂しそうなよがり声をあげて、身をのけぞらせた。こっちも忘我の域だ。そのくせ、身体は意図的にセクシャルな媚態を示している。レイプして、と言ってるようなものだ。
おれは、生の乳首を吸った。固く盛り上がっている。
下半身の責めも怠らず、おれは二つの乳房を可愛がりつづけた。
それだけで、絶頂がゆきを貫いた。
指から伝わる熱でそれがわかる。
「早く」
耳もとで切ない、欲情たっぷりの声が悶え、ゆきは剥き出しの両脚をおれの腰に巻きつけた。
こうなったら、やることはひとつだ。
おれはパンティに手をかけ、一気に――
奥の部屋で悲鳴が上がったのは、そのときだ。
きゃっ、というゆきの、これも悲鳴を腹の下でききながら、おれは跳ね起きた。
ソファに放り出してある“機械服”や武器の山からグロックを抜き出してベルトに挟み、MMAR自動銃も抱える。重い。筋肉も精神も弛緩しているせいだ。
ゆきもテーブル上のヒップ・ホルスターから、ワルサーPPKSを抜いた。パンティもスラックスももと[#「もと」に傍点]の位置だ。勿体ねえ。
おれは一気にドアへと走った。
異様な気配はすでに感じていた。右手の親指が自動銃の安全装置を外し、セレクターを五・五六ミリ炸裂弾に合わせる。
似ている。――原宿のマンション駐車場でやり合った四足獣の気配に。
だが――どこからやって来やがった?
ドアには鍵がかかっていなかった。
蹴飛ばして開けた。
奥は寝室だ。
床の上で奇怪な影が蠢いていた。
姿から言えば、蜘蛛だ。地肌は紫色――油膜みたいな色の斑点が浮いている。その下から、“プリンス”の足がはみ出ていた。
おれたちの気配に気づいたのか、そいつは“プリンス”ごと、ふわり、と空中に浮いた。
垂直にだ。
ふり上げた銃口の前で、そいつは姿勢を変えた。
おれの眼の前にぶら下がったのは、“プリンス”の背中だった。
戦慄が脳を突き抜けた。
こいつは身を守る“知能”があるのだ。
「何よ、こいつ!?」
背中でゆきが叫んだ。
「そこで狙ってろ!」
おれはMMARを床へ放り、蜘蛛の真下へ跳んだ。空中でグロックを抜く。
MMARのライフル弾では、至近距離すぎる。まして、こいつが普通の蜘蛛と同じやわな体組織の持ち主なら、炸裂弾といえど、爆発する前に貫通してしまう恐れがある。
白い糸みたいなものが宙から降ってきた。
おれは床に寝転び、仰向けに引き金を引いた。
蜘蛛の身体――青黒い眼玉らしい球体の真ん中に弾痕が穿たれ、そいつは声もなく震えた。
つづけざまに三発――全弾命中!
力尽きたか、物干し竿みたいな八本の足が“プリンス”を離した。
素早く受け止め、おれは降りかかってきた白いものを引きちぎろうとした。
そうはいかなかった。
わななく化物蜘蛛の尻から噴き出るそれは、まさしく糸と化して、おれの身体に粘着したのである。
天井に壁に床にくっつき、自重で垂れ下がる姿は、パーティ会場のモールそのものであった。
「ゆき――居間へ戻れ!」
何とか糸の間を抜けようとしたが、遅かった。
肩に腰に巻きついたそれは、粘稠力《ねんちゅうりょく》に伴う、テグスみたいな強さを持っており、おれは足をすくわれた“プリンス”ごと、床に転がった。
いや、転がりかかった。
身体は宙に浮いていた。
「大ちゃん!?」
ゆきの絶叫が、いやな予感を抱かせた。
「蜘蛛が引っぱり上げるわよお」
グロックを握った右手は身体と粘着してしまい、膠にくっついたみたいに離れないので、おれは首だけ廻して、斜め上方を見上げた。
何て執念深い昆虫だ。
おれがぶち込んだ都合四発の弾痕から、赤黒い血を滴らせ、断末魔の痙攣に身を震わせながら、蜘蛛はふり撤いた糸からおれたちの分だけを選んで、じりじりと巨大な顎の方へ引きずり上げていく。
普通の蜘蛛なら向こうからやってくる。自分の身体より大きくて重い獲物を引っぱるなんて、エネルギーのロス以外の何物でもないからだ。
やっぱり、まともじゃない。どいつだ、こんな化物をこさえやがったのは?
エニラって野郎か!?
おれは叫んだ。
「ゆき、そのライフルを取れ。蜘蛛の頭を射つんだ!」
ひょい、と持ち上げられた。
こいつは、人間の言葉もわかるのか!?
クワガタ虫のを百倍もでかくしたみたいな顎が眼前に迫った。
口の端から血を吐いている。
大きく開いた。
全自動発射《フルオート・ファイアリング》のどよめきが、天上音楽のようにきこえた。
弾痕が集中した、と見えたのも一瞬、グロテスクな頭は炸裂弾の猛射を受けて、熟柿みたいに吹っ飛んでいた。
見慣れた蜘蛛同様、節足を丸めて床へ落ちる化物に合わせ、おれたちも頭から落ちた。
顔を上げた。痛てて。床にくっついた糸に髪の毛が粘りつきやがった。
「よくやったぞ、ゆき。――奥の戸棚に薬箱がある。溶解液だの何だの入ってるから持って来い」
返事はなかった。
ゆきは硝煙立ち昇るMMARを手に突っ立っている。蒼白だった。眼はおれたちを見てはいなかった。
視線を延長すると、蜘蛛の屍骸だな。
「どうした!?」
おれは、嫌な予感を追い払おうと努力しながら訊いた。
「蜘蛛が……白い塊をお尻から出したわ……それが……割れたの」
「………」
「中から、ぶわあと黒いつぶつぶが溢れ出して……それがみんな……動いているの。波みたいに……広がって……蜘蛛の子供よ」
「よくきけ」
おれは、できるだけ落ち着いた声で言った。
「そのライフルのセレクターを一番下に合わせるんだ。『B』ってあるだろ。火炎放射器――『バーナー』の略だ。それで舐めてやれ」
「火事になるわよ」
ゆきは妙に静かな声で言った。
「防火建築だし、消火装置もついている。安心してやれ」
「………」
「おい」
足の裏がむず痒くなってきた。
「おいってば、こら、早く射て」
「だって……あいつら、親の死体を食ってるのよ。もう、ほとんど残ってないわ」
「射て。射たなきゃ、“プリンス”も骨にされちまう。お妃さまも夢だ」
「あ」
言うなり、炎塊が伸びる。現金な女だ。後ろは見えないから、
「どうだ、糸も焼けるか?」
と訊いた。
「大丈夫みたいよ」
「大丈夫じゃねえ。おれの糸に火はついてねえだろうな?」
「ごめん。――足の方についちゃったわ」
「さっさと、酸を持ってこい! お妃になりたけりゃあな!」
吹っ飛んでくゆきを見送りながら、おれは下になってる“プリンス”に、
「具合はどうだい?」
と訊いた。
「何とかなります。――八頭さん、重いですね」
「すまねえな」
おれは思わず笑ってしまった。胆っ玉の太い坊やだ。確かに王さま向きだよ。
ん?
「どうなさいました?」
「足に火がついたらしい。――こら、ゆき、早くしろ!」
おれは叫んだ。いざってときの用心に、スリッパなんか履かず、いつもごついジャングル・ブーツだから、少しはもつが、それを過ぎれば黒焦げだ。
あちちちち。――来やがった。
そのとき、ゆきが駆け戻って来た。
MMARは肩から吊るし、両手いっぱい、色とりどりの瓶を抱えている。
「どれよどれよどれよ」
「火はどうだ?」
と、おれは訊いた。
「大丈夫よ」
「どう大丈夫なんだ?」
「腰のあたりまで来てるわ」
ゆきは、瓶の蓋を片っ端から開けながら言った。
「いくわよ」
「待て。――どれをかける気だ?」
「試してる暇なんか、ないわ。一ぺんよ」
「やめろ、馬鹿。ありとあらゆる強酸が入ってるんだぞ!」
「我慢しなさい。焼け死にたいの?」
ゆきは、また瓶を抱えて立ち上がった。はずみで、一本の中味がこぼれ、床に飛沫《しぶき》を飛ばした。
じゅう、と絨毯が溶けていく。
「やめろ。この子も大火傷だぞ!」
「あんたが上よ」
この恩知らず。
「えい!」
声と一緒に、あらゆる瓶の中味がおれの背に降りかかり、嫌な溶解音が広がった。
足は火責め、背中は薬責めか。
「溶けたわ!」
ゆきが叫んだ。
「早く出て! 馬鹿、“プリンス”が先よ」
「糞ったれ!」
おれは渾身の力を込めて立ち上がった。
背中が熱い。わっ、ズボンにも火がついてる。
おれを押しのけるようにして、ゆきが“プリンス”を引っぱり出したとき、天井から消火剤の泡が猛烈な勢いで噴き出しはじめた。
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第六章 “大佐”との邂逅
なんとか危機は脱したものの、前から感じていたある疑問が、胸の中ではっきりした形を取った。
「なあ、“プリンス”よ。あの蜘蛛の化物は、どこから出て来た?」
居間に戻ってから訊くと、たちまち、ゆきが絡んできた。
「なによ、いま、大変な目に遇ったばかりなのに、おかしなこと訊かないでよ。ねえ、殿下」
「いえ、いいんです」
“プリンス”は静かに、おれの方を見つめた。もう、けろっとしている。
「ですが、僕にもよくわかりません。ベッドに腰かけてうつらうつらしているうちに、気がつくと、もう眼の前にいました」
「その前の――犬だか豹だかはどうだい?」
「あの件は――」
「さっきからきいてりゃ、何よ」
ゆきが口を尖らせてしゃしゃり出た。
「まるで、“プリンス”が化物を仕掛けたみたいに言うじゃないの。あいつらの目的は、“プリンス”を始末することなのよ。こんな連中の片棒を担ぐわけないでしょ」
「その通りだ」
おれは認めた。
「だが、本人が知らねえ間に、ってことがある」
「?」
ゆきと“プリンス”の目線が絡み合い、おれの顔に貼りついた。
「悪いが、調べさせてもらうぜ」
と、おれは“プリンス”に言った。
「はい」
素直に応じた。ゆきは憤然としている。
服の上から探ってみたが、おかしな品は持っていない。
あの二匹だけだろうか。
「裸になれ」
と、おれは言った。
「何考えてんのよ!?」
ゆきはもちろん、食ってかかってきた。
「あんた、前からおかしいと思ってたけど、その気もあったの? 道理で、あたしと最後の一線を越えないはずよね。わかった。何のかの理屈をつけて、本当は“プリンス”とつながっていたいんでしょ。この子が万が一、王座へ帰りついたら、あれでしょ、脅しかゆすり[#「ゆすり」に傍点]をかける気なのね。実は日本で尻合い[#「尻合い」に傍点]だとか言って。その前に、あたしを何とかしてくれたらいかが?」
「その話は後だ」
おれは何もきかなかったという表情で言った。この色気娘、子供の前で何てこと吐《ぬ》かしやがる。
「構いません。納得がいくまで調べて下さい。万が一、僕がそんな状況だと、これから先もお二人に迷惑をかけることになります。あの――ここで?」
さすがに、ゆきの方をちらりと見た。
「ゆき。おまえはトイレかバス・ルームにでも入ってろ」
「失礼ねえ。後ろ向いてるからいいでしょ?」
「ま、よかろう」
“プリンス”はまず、上半身を脱いだ。
恥ずかしそうな様子はない。おれも彼も、それどころじゃないのだ。
前の方は異常なし。
背中に移った。
ここにも異常は認められない。
黒子《ほくろ》が多いくらいだ。
「黒子は多い方かい?」
念のために訊いてみた。
「いえ」
視界を黒い斑点が埋めた。
「原宿で何かされなかったか?」
「薬を射たれて……よく覚えていません……」
おれは消火剤とゲル化油の匂いがまだ残る寝室兼仕事場へ赴き、無傷で残っていた手術道具を引っぱり出した。
簡単な銃弾摘出手術や縫合くらいなら、自分でできる道具が揃っている。
「何を見つけたのよ?」
ゆきが血相を変えた。未来のお妃がかかっているとなると、一日に何度も変わるものらしい。
“プリンス”も不安げだ。
「こいつはまだ推定だが、間違いはあるまい。奴ら、“プリンス”の背中に怪物の卵――ないし、似たような代物を埋め込んだんだ。“プリンス”の体温か何かが中身の出現を押さえているんだろう。とんでもねえやり方だが、今までの力を見て、あいつらならやりかねねえ。で、どうやって、臨機応変に現れるかだが、きっと、“プリンス”がある種の暗示にかけられているんだな。奴らのところから連れ出されかけたら使え、逃げ出そうとするときに使え、とか」
「――ですが、さっきは僕もやられそうになりました」
“プリンス”が口を挟んだ。怒ってはいない。苦悩に満ちた表情であった。この少年自身にもわからないのだろう。
「そうだわよ。いくら何でも、自分まで殺すような状況では使うはずがないわ」
おれは二人に首をふってみせた。
「奴らにとって、極端な話、“プリンス”は国へ連れ戻す必要がないんだ。本来なら、拉致したその日に抹殺したっていい。それを残したのは、おれをおびき出すためと、黄金のペンダントを誰が持っているのか、奴らにもわからなかったからだ。肝心の“プリンス”は記憶を失っているしな。だが、せっぱつまれば、ペンダントよりもまず、“プリンス”を始末した方が危険は少ない。あの化物どもは、最初から“プリンス”を救えなどとは命じられてなかったのさ」
「滅茶苦茶な推理ね。あてずっぽうよ」
「その通りだ。だから、これから証拠を探す。まず、急に現れた黒子だ。厄介だな。あと、でかいのが四つもあるぜ」
「それが、みんな、さっきみたいな大蜘蛛……?」
「とは限らんが、あれよりまし[#「まし」に傍点]とは断言できねえ。おまえみたいな色気違いがいるかもしれんしな」
「もういっかい言ってごらん?」
ゆきが気色ばんだが、おれは無視して、手術ケースの中からレーザー・メスを取り出した。
「これで切り取ろう。安心しろ。痛くも熱くもない」
「お願いします」
プリンスは素直に首肯《しゅこう》した。
「ただし、――おい、ゆき、そいつで狙いをつけろ。手術の最中におかしな化物が出たら、遠慮しねえで焼き殺すんだ」
おれが顎をしゃくった床上のMMARを、ゆきはじろりと見下ろし、あかんべしてよこした。
「いいですとも。化物が出たら、あんたも一緒に焼いてあげる。不幸な事故よね」
「そいつはよした方がいい。ペンダントの行方がわからなくなるぞ。奴らにとっちゃ、“プリンス”より、あっちの方が大切なんだ」
「ありかを知ってるの?」
ゆきは疑い深そうに訊いた。
「まあ、な」
「まさか、持ってるんじゃないでしょうね?」
「さて」
「ふん。好きなようにしたら?」
「あいよ」
おれは晴れ晴れと笑って、ケースの自家用バッテリーのスイッチを入れた。
メスの切尖が、赤くかがやきはじめる。
「そこへ寝てくれ」
“プリンス”はソファに俯せになった。
ゆきがMMARを火炎放射に合わせたのを確かめ、おれは用心深くメスの先を“プリンス”の白い肌に近づけていった。レーザービームは切尖から数センチ先の空間に焦点を結ぶ。白い肌の表面にもっと白い光点が浮かんだ。黒子まで左へ五ミリ。
焼きつぶしてやる。
おれはレーザーの焦点を黒子の真ん中に重ねた。青い煙が糸のように流れた。“プリンス”はみじろぎもしない。
一秒……二秒……
反応はない。小さく舌打ちして、おれはレーザーを止めた。黒子を調べる。表面が少しくずれているようだが、それだけだ。
「どうですか?」
と、“プリンス”が不安気な声で訊いた。
「でかい口叩いて、効果あったんでしょうね?」
ゆきが凄みをきかせる。
おれは答えず、黒子の縁へ再びレーザーを照射した。
黒子に見えるのは一種のカプセルで、化物どもはその内側に封じ込められているのだろう。だが、十万度のビームにもびくともしないケースとは、一体どんな代物だ? こうなれば、カプセルをほじくり出すしかない。
――と、思いきや、それまで何事もなく寝そべっていた“プリンス”が悲鳴をあげて上体をのけぞらせた。
あわててレーザーを止め、
「ど、どうした!?」
泡食って訊くおれのこめかみにMMARの銃口がつきつけられた。
おれはかまわず、黒子に注意しながら、
「何が起きたのか、言ってみろ」
「大丈夫です」
“プリンス”は必死に苦痛を押さえて言った。
大丈夫なものか。顔は蒼白だ。
「我慢しなくてもいい。正直に言わんと、後が厄介だ。レーザーの痛みか?」
「いいえ。――心臓に針が刺さったような」
「……手術は中止だ」
おれはレーザー・メスを手術台に戻しながら言った。
「ちょっと、理由を説明してちょうだい。切ったり焼いたり、中途半端で終わったり。――この子はモルモットじゃないのよ」
ゆきの怒りも、もっともと言えばもっともだ。
「そうだな、説明しておこう。このカプセルと、埋め込んだやつは、とんでもない代物だ。自分で出るのはいいが、外から摘出されそうになると宿主の心臓へ電気ショックか何かを与えるよう細工しやがった。無理にほじくり出そうとすると、一巻の終わりだ」
「じゃあ、どうするのよ?」
ゆきが眼を剥いた。
「どうしようもねえな。中身が自然に出てくるのを待つか、CTスキャンにでもかけて状況を細かくチェックしたうえで手術を行うか、さもなきゃ埋め込んだやつのところへ行って取り出してもらうしかあるまい。後の二つはまず無理だ」
「すると、お化けが出てくるまで待ってろっつうわけ?」
「そういう事だ」
“プリンス”がソファの上で起き上がった。
「それじゃ、僕はご一緒できません。そんなもの[#「もの」に傍点]をかかえていては、お二人を危険にさらすばかりです」
「大とゆきと呼びな」
おれはそう言ってから、
「安心しな。打つ手はある。おまえの身体の中にいる限り、化物退治はできないが、要するに、外へ出さなきゃいいんだ。おれの考えだが、さっきも言ったように、おまえはやつらの暗示を受けている。おれたちのところから逃げ出そうという心理が働くと化物が出てくる。そう思わなきゃいい」
「なーるほど」
ようやくゆきが感心したように言った。
「こっちも暗示をかけるわけね」
「そうだ、そんな気が起こらんようにな」
「けどさ、そんな暗示を受けてなかったらどうなるの? 出てくる原因が別にあったとしたら? あんたの説、確証はないんでしょ?」
「よけいな事言いやがる」
おれは肩をすくめて、
「そんな時は三人揃ってあの世行きだな」
ゆきは不平面してだまった。“プリンス”も不安気だ。
唇を固く結び、少年は眦《まなじり》を決して言った。
「お願いです。僕をどこかに閉じ込めて下さい、その方が安全です」
十歳とは思えぬ凛々しい表情を見つめ、おれはゆきに視線を移した。
くたびれた顔してやがる。おれは意地悪く、
「おまえ、ついててやるか?」
ゆきは答えず、
「大ちゃん、いい場所《とこ》ある?」
と、訊いた。
「ああ」
と、おれは答え、
「うってつけの場所がある。その前にこちら側の暗示をかけとくか」
と、言った。
翌日の正午、おれはアルマーニの高級スーツに身をかためて銀座を訪れた。新宿や六本木もいいが、やはり盛り場の代表選手はここだ。ニューヨークとロサンジェルスの差さ。しかし、選りにも選って千疋屋とはね。
ゆきと“プリンス”は、最も安全な場所――歌舞伎町の死霊秘宝館へ預けて来た。法務省の部屋は外務省と同じ清掃役が入っているはずだ。おれの住まいは、もっか赤坂のキャピタル東急ホテルである。こうも寝床が定まらないのは、はじめての経験だが、千疋屋でのデートのお相手が裏で糸を引いていたんじゃしょうがねえか。おれは二階の喫茶室へ上がり、店内を見回した。
男が一人で入るにはかなりの勇気を必要とする。色鮮やかな光の下に、もっと鮮やかな女の子たちがひしめいている。
その中で――
ひょいと黒い腕が上がった。窓際の席にいる黒ずくめの外人だった。黒いソフトの下で、がっしりした白い顔と青い眼が笑っている。これに金髪とくれば典型的なアングロ・サクソンだ。
おれは何食わぬ顔で――内心は少し緊張しながら――彼の方へ向かって歩き出した。テーブルを挟んだ席を示し、
「座っていいかい?」
「待っていたよ」
鮮やかな日本語だった。
おれが腰を下ろすと、アングロ・サクソンの男は、
「お初にお目にかかる。コーネル・ヤンガーだ」
右手を差し出した。ゴリラの首でもへし折れそうな手だ。だからというわけではないが、おれは握手をしなかった。
コーネル・ヤンガー――“大佐”は気にした風もなく手を引っ込め、
「お互い、苦労しているようだね。――何を頼む?」
おれの手元に水の入ったグラスが置かれた。
おれは“大佐”の注文した品を見て、
「いい歳をした男が、ミルクセーキか。――チョコレート・パフェをくれ」
「君も私も、男の屑だ」
おもしろそうに言った。
「とどめにショートケーキでも頼むかい? すると、ビールを飲む女はゴジラってことになるぜ。あんたがたが、あの子の背中に埋め込んだみたいな、な」
「さっそく本題かね。日本人はせっかちでいかん。チョコレート・パフェを食べてからにしたらどうだ?」
「用件は何だい?」
おれは“大佐”の全身をチェックしながら訊いた。両手はテーブルの上に乗せてあるが、黒い背広の前ボタンはオープン。いつでも腰か、脇の下へ飛び込める。ゆったりした仕立てなので武器の有無はわからない。夏だというのに、手には黒皮の手袋、拳だこでも隠しているのだろう。両足も要注意だが、テーブルの足が邪魔になって蹴りを食う心配はない。靴に何か仕掛けてあれば別だが、それはお互いさまだ。
「よかろう。――“プリンス”はお元気か?」
低くて男っぽい声の調子は丁寧であった。こういうタイプには敵意が湧かなくて困る。超一流のプロたる証だ。油断させといて、バン! せいぜい気をつけることにしよう。
「ピンピンしてるぜ、と言いたいところだが、あんたがたが腹ん中に植えつけた回虫のお化けに頭をかじられて重体さ。嘘だと思ったら信濃町《しなのまち》の慶応病院を当たってみな」
“大佐”の表情が固くなった。
「あれは禁じたはずだ。薄ら馬鹿めが。――責任者の処分はこちらでする、と“プリンス”にお伝え願いたい。命に別状はないかね?」
「伝えよう」
おれは腕組みして重々しくうなずいた。
いずれ、バレるだろうが、それまでは精神的打撃を与えとくに限る。まさかこの男が、“プリンス”のシンパだとは思わなかった。
「ところでどこまでやる気だ?」
おれは単刀直入に訊いた。
「命をちょうだいするまでだ」
あっさりと、矛盾した事を言いやがる。このへんの節度のなさがプロの証拠だ。
おれの考えを読んだか、“大佐”は意外と人なつっこく笑い、
「――と、首相なら言うだろう。軍人として従わぬわけにはいかん」
「首相にか?」
おれは意味ありげに訊いた。“大佐”の眼が光った。こら、凄い。眼の光だけで背筋が凍えたなんざ、何年ぶりだろう。
「知っているのか?」
「はて?」
「昨夜《ゆうべ》日本についてすぐ、一人拉致されたときいた。普通の相手ならともかく八頭家の血を引く男では、と気になっていたが、予想的中だな。どこまで知っている、と訊いても教えてはくれまいね?」
「名前だけさ」
「エニラ師の名前を知っている者は本国にも数えるほどしかおらん。恐ろしい相手を敵にまわしたものだ」
「そう思ったら、“プリンス”を無事帰国させて、王位を継がせたらどうだね。それともエニラ師とやらに直談判をしなきゃだめか?」
「君ならやりかねんな」
“大佐”はミルクセーキのストローを口にあてて強く吸いこんだ。あっというまに半分に減った。
ウェイトレスの近づく気配がして、おれの眼の前にチョコレート・パフェが置かれた。ここのパフェは派手な飾りや安物の生クリームをごてごて使っていないから嬉しい。負けちゃいられないからスプーンに思いきり中身をすくってほおばった。
「あんたの手下とはじめて会った時、おれを殺さぬよう、本国から指令が出ていると言ってた。出所はあんたかい?」
「手を引け」
“大佐”は短く言った。命令ではない。諭すような口調だった。
「そして、“プリンス”を渡したまえ。そうすれば何もかも平穏に片がつく」
「“プリンス”にそう言いな」
おれはできるだけ小馬鹿にしたように言った。
「なぜ、そう肩を持つ? 報酬は何だね?」
「助けてくれ、と言われたからさ」
「東洋の義侠心というやつか。八頭家の男は皆プロだと思っていたが、君は例外らしいな」
「ほっとけ」
「我が国のダイヤの採掘権の二割なら進呈するが?」
「宝探しが、くれる物をもらってたんじゃ、職名を変えなきゃならねえ。帰って首相とエニラ師とやらに退陣を勧めろ」
“大佐”は残りのミルクセーキを一気にすすり、
「どうしてもやり合わねばならんのかね。そうなると容赦はできん」
「おれは最初からしてねえさ」
おれはチョコレート・パフェをもう一口飲み込んでから言った。
「あんたがどんな男だかは、いやってほど心得てる。アレン・ダレス時代のCIA潜入の阻止。ブレジネフとアンドロポフの早逝はあんたがKGBの侵入部隊三百人を皆殺しにしちまったからだ。ローラン共和国ぐらいスパイがいない国も珍しいだろうよ。そのくせ、ドゾア海溝のウラン発掘権をめぐって正当な権利保持者であるリンガールと戦った際は、いとも簡単に南大西洋一の艦隊を撃滅してしまった――そうだろ、コーネル・ヤンガー? ローラン共和国情報局長兼三軍総司令官さんよ。あれ以来、世界でも有名なちっぽけな国に、アメリカもソ連も手が出せねえ。どころか、友好関係を結ぶのに大わらわだ。ま、その分暗殺も多いだろうがよ」
「ITHAの人員は借りんだろうから、一人で一国を相手にするか。あまり率のいい戦闘とはいえまいな」
「そうとも、これは戦争だ」
えれえ事言っちまったな――おれは胸の中でため息をついた。しかし弱みは見せられない。
「では、やむを得ん」
“大佐”は窓の外に眼をやった。その様子に引かれて、おれもそっちを見た。店の前の工事はまだ終わっていない。“大佐”は立ち上がった。これで通りには人死には出まい。おれは動かなかった。指先が麻痺している。一服もられたか。しかし、ウェイトレスには悪意が感じられなかった。調理師が一味だったにせよ、このパフェがおれの注文だと、誰が彼に伝えたのか?
「幸運を祈る」
“大佐”は勘定書きをつかんでレジの方へ向かった。驚いたことに他の客全員も、席を立ってドアの方へ向かう。ウェイトレスたちも後に続いた。
“大佐”は、動かぬおれの方をふり向き、
「今日、店は貸し切りでね。店員、調理師、お客にいたるまで、全員私が顔のきく組織から借り出したメンバーだ。誰も君に悪意は持っていない。というより、君のことを知らんのだ。すべて予定通りのお芝居さ。後のことは君の運にまかせよう」
冷ややかな眼差しが、今まで彼が座っていた椅子の下を向いた。文明堂の紙袋が置いてあるのにおれは気づいていた。
「爆発はしない。ガラスが溶けるくらいだろう」
そう言って、すでに階段を下り去った連中の後を追って、“大佐”も足早にドアに近づいた。
文明堂の袋が千疋屋の二階片隅を五千度の炎で包んだのは、“大佐”が席を立ってから、きっかり一分と三〇秒後の事だった。彼の言葉通り爆発は小さく、溶けたガラスを浴びて火傷した通行人は誰もいなかった。
新宿へ戻ったのは、一時間後だった。チョコレート・パフェを食う前に飲んでおいた解毒剤のおかげで、指先の麻痺程度で済んだ。それも、もう消えている。敵を相手に、何か口に入れる時は、必ず薬もお供させるのがトレジャー・ハンターの常識だ。まして、“大佐”ともなれば。
本当は、後をつけるつもりだったのだが、軽い麻痺が残って足がよく動かなかったのと、さすがに“大佐”の指揮は迅速で本人も含めた全員が――道路工事もろとも――おれが外へ出た時は、影も形もなかった。
まだ開店前のディスコの地下へ潜ると、すぐにマリアが走り寄って来た。
「どうした?」
と、おれは訊いた。
「二人が消えたわ」
マリアは静かに言った。
おれの口が開くまで少し時間がかかった。
まさか、マリアの口からこんな言葉をきこうとは……。
「ごめんなさい。私は日課の祈りを捧げなければならなかったのよ。たった三分だけど、戻ったら二人はもういなかったわ」
「何があった?」
おれは周囲の様子をながめながら訊いた。
宝物や雰囲気に異常はない。“プリンス”の背中の黒子があばれだしたわけでもないらしい。
「ここへ連れて来たのはまずかったのかも知れないわ」
マリアも四方を見回しながら言った。
「あの子の暗示を解いたと言ったわね?」
「ああ。だが本当にそんな暗示にかかっていたかどうかは未確認だ。ひょっとしたら、この地下の妖気のせいで敵の別の暗示が増幅されちまったか?」
「いいえ。それではあのお嬢さんまでいなくなった理由が説明できないわ。争った形跡もないし、二人は一緒に外へ出ていったのよ。たぶん、お嬢さんの方に先導されて」
「……」
そうか、ゆき――あいつを忘れてた。“プリンス”どころじゃない。あいつの腹の中には、欲望の女王や性欲の魔王からの暗示が渦を巻いていたのだ。
そのひとつ、いや幾つかに魔性の気がささやきかけた。
――その坊やを連れて、ここを出ろ。宝を独り占めにしろ。
と。
“プリンス”が抵抗しなかったのは、不意打ちを食らって眠らされたか、彼自身も魔性の気に影響されたかしたのだろう。
「大丈夫だよ、マリア。行く先はちゃんとわかってる」
おれは胸を叩いた。
“プリンス”はあの“信号薬”を服《の》んでいるはずだ。服ませるようゆきに言って、出て来たのだから。
ガン、と来た。
ゆきに言って[#「ゆきに言って」に傍点]。
おれは腕時計を大急ぎで追尾モードに変えた。
反応なし。
「駄目かい?」
マリアの問いに、うなずくしかなかった。
「おれの場合みたいに、何処にいるかわからんか?」
「残念だけど、付き合いが短すぎたわ」
「もっともだ」
「どうするの?」
「何とか探してみる。首謀者はゆきだ。となれば、あいつの考えそうなことから、行きそうなところを推測することもできるだろう」
「憑いてるのは、魔性よ」
そう言って、マリアは少し考えていたが、じきに、ちょっと待ってと言って、奥の方へ姿を消した。
その辺に何が置いてあるのか、おれは出向いたことがない。
一度、覗こうと思ったのだが、近くまで行くと、すうと暗くなる。暗視ならお手のもののおれの眼にも、何ひとつ見えぬ真の闇だ。これは入れなかった。
後に、マリアに訊くと、そこにあるものは、この世の終わりが来るまで誰ひとり気づくことのない宝物なのだそうだ。八頭家の誰が集めたのかも、教えてはくれなかった。
今回も、マリアは無事に戻った。
手にした品を見て、おれは眼を丸くした。
水晶の髑髏だ。
「マチュピチュの遺跡の地下で見つかった代物さ。これと水晶の胃袋が対になっていてね、胃袋の中には噛み砕かれた黄金が分子の状態で漂ってる。底に溜まるまで、あと二、三千年はかかるだろう。わかるだろ? 古代インカの民は、スペイン人に奪われる前に、彼らの宝をそうやって隠したのさ」
「そりゃ大したもんだが――今回の件とどういう関係があるんだ?」
「あの二人の身につけていた品物が何かあるかね? それをこの髑髏に噛ませるんだ。あとは髑髏が道を教えてくれるよ」
「そりゃ、便利だ!」
おれは、思わず叫んでしまった。新手の猟犬だ。
「ただし」
と、マリアは心臓が凍りつきそうな声で言った。
「胃袋を一緒に持ち歩けない以上、髑髏は持ち主を呪う。――あんたの生命が保つのは、ぎりぎり今日一日。その間も、身体はどんどん衰弱していくだろう。最後には針一本持ち上げられなくなるよ。そんな風になる前に――わかるね?」
「お、おう」
と言ってから、おれは――
「なら、その胃袋も貰ってくよ」
と言った。
「冗談はおよし。インカの隠し財宝がどれくらいのものだと思ってるのさ。黄金でざっと二千トン。胃袋の下の床は、地盤沈下を起こしてるよ」
「わかった」
おれは絶望的な気分に陥りながら言った。
マリアは胃袋の方をなだめると言って、付き添っちゃくれなかったが、その方がよかった。
そこまでオンブにダッコじゃ、おれがおれでなくなってしまう。
おれは、ホテルで手配してもらったBMWに髑髏を積んで六本木へ向かった。
本宅のマンションにしか、ゆきの品がないからだ。
困ったのは“プリンス”の方で、マンションにも下着やサンダルしかない。これを噛ませたら、いくら髑髏でも怒って復讐しかねないから、おれはゆきだけでいくことにした。
マンションに着くと、電話が鳴っていた。
「あいよ」
不愛想に出た途端、ウルトラ陰気な声が、
「名雲陣十郎でございます」
「まだ、生きていたのか!?」
「冷たいことを」
「またな」
「お待ち下さいませ。本日は耳よりなお話を」
「おれとあんたとの間に、そんなものは存在しねえんだ」
「いえ、今度ばかりは」
「いま、忙しいんだ。それもとびきり、な。あばよ」
おれは冷酷に電話を切った。
すぐに鳴り出したが、触りもせず、ゆきのブローチを探すと、居間のソファに腰を下ろした。もち、髑髏もいっしょである。
どう見ても、ただの鉱物だ。
おれは、翡翠《ひすい》のブローチを透き通った歯並みに近づけた。
まさか、跳び出すとはな。
あっという間もなく、おれの膝上から跳ね上がった髑髏は、いつ口を開いたのか、右の指先につまんだブローチを咥えるや、ただのひと噛みで噛み砕いてしまったのだ。
食道にあたる穴からこぼれる残骸は、金属部分さえ、粉末と化していた。
そして――
髑髏は、いつの間にか元の位置に戻っていた。
おれは待った。
午後のけだるい陽射しの下で、何かが起こるのを。
ごろり、と髑髏が傾いた。
膝から落ちた。止まらなかった。ドアの方へ転がっていく。ドアは閉まっていた。閉めたつもりだったが、来たか! おれはソファから立ち上がり、後を追った。
玄関のドアのすぐ前で捕まえた。外へ出られては厄介だ。
抱えて車へ乗せた。
困った。動きやがらん。
「好きにしろ」
こう言って手を放すと、勢いよく外へ跳ねた。
車の前方、五メートルほどのところを転がっていく。滑らないのがリアルだ。
後を追った。
通りに出たら、どうなることかと思ったが、あまり気づかれなかったようだ。大通りに髑髏が転がっているなんて、誰も想像できないし、たとえ見つかっても、降りて拾おうなんてドライバーはゼロだ。
一台だけ、走行中に気がついて、ハンドルを切り損ねた奴がいた。幸い、ガードレールと接触しただけで済んだが、半狂乱だったろうな。
なにしろ、ボンネットの上に髑髏が乗っちまったのだ。
それだけで、後は大したこともなく、おれが導かれたのは、赤坂にある大きなマンションの前だった。
ちょうど、日枝神社の裏にあたる。
髑髏は、ドアの前にちょこんと立って、おれを待ち構えていたが、車を降りると、自分でドアを開け、――自然に開いたのだが――玄関へ入った。
エレベーターの方へ転がっていく。まるで怪談だ。
残念ながら、髑髏は階段を選んだ。エレベーターじゃ、指示しにくいわな。
おれは逆らった。エレベーターに乗ってしまったのだ。玄関へ入ったとき、郵便受けがずらり並んでいた。その中にいっぱつ『悪沢海外旅行センター』というのがあったのだ。
ゆきの奴、“プリンス”を送り届ける気だな。悪霊にそそのかされたとはいえ、とんでもねえスタンド・プレーを考案しやがる。とっ捕まえたら、ブラジャーとパンティだけにして死霊秘宝館へ閉じ込めてくれるぞ。
おれは、エレベーターで七階に昇った。
すぐ前のドアがそうだった。
足を止めた。
ドアの前で、髑髏がおれを見つめていた。何となく、怨んでいるようだ。
「そう怒るなよ」
にやにや顔で話しかけ、おれは髑髏を抱えのけると、『悪沢海外旅行センター』のドアをノックした。
すぐに押して入る。
二〇畳ほどのスペースに机と椅子とキャビネットが並び、七、八人の男がうろうろしていた。
一応、Yシャツにネクタイ姿だが、それとなく見ると、かなり危険なご面相だ。ゆきの阿呆めが。なぜ、こんなところを選びやがったのか?
男たちの眼が一斉にこちらを向いた。
奥の応接間らしい家具を並べた一角から、女と子供の眼もこちらを向いた。
「あー」
と叫んだのは、ゆきだった。
「どうしてわかったのよ!?」
「うるせえ、この泥棒猫。てめえのやることなんざ、すべてお見通しだ!」
おれは足早にそっちへ行こうとした。
「止めてちょうだい!」
ゆきが、おれを指さして叫んだ。
「あれは、あたしの財産を狙う悪党よ。海外脱出を邪魔する気だわ!」
たちまち、Yシャツとネクタイ姿の社員どもが、おれの行く手を塞いだ。
「どけ」
「何だ、君は? ここは子供のくるところじゃない。さっさと帰りたまえ」
「あいつは、おれの女房だ」
「嘘よ」
「帰らんと、叩き出すぞ」
「面白え、出してみろ」
おれの宣言と同時に、前の野郎が、熊みたいな手で押してきた。
軽く身を開いてやりすごすと同時に、手首を押さえて関節を逆に取る。
ぐわわ、とのけぞる身体を思いきり突きとばした。
戦闘開始だ。
右から殴りかかってきた野郎の顔面に肘打ちを叩き込み、その手でもうひとりの鳩尾をぶち抜くと同時に、ショルダー・アタックをかまして、後ろから飛び込んでこようとする奴らのど真ん中へ吹っ飛ばしてやった。
連中が立ち直る前に、ゆきの方へと歩き出す。
凄まじい風が顔面へ叩きつけた。
「うおお!?」
と思った刹那、身体は宙を飛び、ドア脇の壁に激突していた。
一体、何事だ?
「さっさとお帰り」
ゆきは、妙にくぐもった声で言った。
突き出した右手の指は鉤状に曲がっている。眼の光もいつもとちがう。
悪霊が正面へ出てきたのだ。
いくら、死霊秘宝館がこいつらの巣とはいえ、マリアがいる限り、そうたやすく人間には、とっ憑けない。それを破ったのだから、ゆきという女が、いかに普通じゃないかよくわかる。
恐らく、悪霊の持つ全パワーを解放し得る素材なのだろう。
その証拠に、おれは壁に激突したまま、足が地上につかないでいた。風にはりつけにされている!
旅行社の連中も全員総立ちだった。
いきなり、若いのが殴り込んできて社員を張り倒し、それまでおとなしく手続きに励んでいた小娘が、悪鬼の形相で大風を吹きつければ、誰だって口を開けざるを得ない。
「邪魔をおしでないよ」
ゆきは妖々と叫んだ。
「あたしは“プリンス”を生まれ故郷へ送り返してやるんだ。行く末はお妃さまよ。邪魔ものは、みんな消してやる!」
「気を確かにもて。おまえはとり憑かれているんだ!」
「わかってるわよ、それくらい」
ゆきはにんまり笑った。
「でもさ、この方が便利じゃない?」
そりゃそうだろう。邪魔ものは悪霊が片づけてくれる。しかし、なんて娘だ。承知で悪霊に身をまかせやがった。
「お、お客さん」
と社員が叫んだ。
「どうぞ、今日のところはお引き取り下さい!」
「もう遅いわ。契約は済ませたんだから、ローラン共和国までは連れていってもらうわよ。お宅の社長とは、ホテルへ行った仲なんだから。――バストだけ触らせて、酔いつぶして逃げちゃったけどさ」
「あ、あれは、あんたですか!? ――社長はあれ以来、自信喪失して山寺へこもっちまいましたぜ!」
「お気の毒さま」
ゆきは高らかに笑った。
「とにかく、後のことはまかせたわ。おかしな真似しようものなら、あんたたちも、この会社も只じゃおかないわ」
えらいことになってきた。
ゆきは、じろりとおれの方を向いた。
「いちばん邪魔なのはあんたね。いま、始末をつけてあげる」
「こら、よせ」
「いけません、ゆきさん」
叫んで腕へすがりつく“プリンス”を押しのけ、ゆきは爛! と眼光を険しくした。
おれの身体は軽々と宙へ浮き、次の瞬間――窓ガラスをぶち破った。
七階からまっ逆さまに!?
『エイリアン魔神国〔上〕』完