エイリアン京洛異妖篇
菊地秀行
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目次
第一章 風紀委員とゴリラの愛
第二章 化け物ふたりと厄介娘
第三章 古都を狙うもの
第四章 東大寺異変
第五章 でぶ還る
第六章 京洛最期の日
あとがき
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第一章 風紀委員とゴリラの愛
うちの高校は、東京にあるくせして、修学旅行に京都に行く。
さらにひどいことに、一年から三年まで、全部が全部京都なのである。
当然、生徒からは、
「ダサイ」
「隣の高校の連中と顔を合わせられない」
「親に笑われた」
等々の苦情が殺到する。
今日び、ちょっとした高校なら、前もって積み立て貯金をし、韓国、台湾はおろか、アメリカ西海岸まで飛んでいってしまうのだから、不平不満は無理もない。
しかし、これでいいのだ。親の臑齧《すねかじ》って生活してる餓鬼どもに外国旅行など十年早い。隣町の鉄工所や醤油工場の見学がお似合いである。第一、学校運営の費用が助かる。この時期になると校長は、必ずおれのマンションへ甘納豆の詰め合わせを持って現れ、今年はバリ島の方角がいいようだ、などと旅行費用の無心をする。
おれはそのたびに、
「駄目」
と言い、こうして、うちの高校は例年のごとく、全校生徒が京都の雅《みやび》を味わいに出かけるのだ。大体、年に一度、全校舎の建て替えができるくらいの寄附をしているのに、この有様なのは、校長と教頭、PTAがグルになってその金を横領しているためで、おれは証拠も握っているのだが、まあ、無視することにしている。
校長の桜島は、頭の禿げ上がった貧相な小男で、どう見ても貫禄ゼロなくせに、裏では妾を五人も囲い、それぞれに妾宅を持たせ、小料理屋やら美容院やらを経営させているやり手爺いだ。おれはこういうタイプに妙に弱い。――というより変な親近感を抱いてしまう癖がある。少なくとも、生徒間のいじめで自殺者やら何やらが出ているのに、「知りませんでした」「先生は残念に思います」などと答弁する抜作《ぬけさく》や人殺しよりは数等ましである。おれはこの男が街で、中学生を脅していた他校の生徒二人を半殺しの眼に遭わせたのを見たことがある。今どきの教師――特に五〇をすぎたおっさんなら、見て見ぬふりをしかねない。
で、今回も京都に決まり、クラスから色々な係を選ぶことになった。
連絡委員とか保健委員とかいうあれだ。
他はどうか知らないが、うちのクラスは抽選で行われる。
小物は大体決まり、いよいよ修学旅行最大の任務――風紀委員の番になった。選ばれるのは男女ひとりずつ。石頭がなるか物わかりのいいのがなるかで、修学旅行の価値まで決まってしまうVIP職――学校のMP、憲兵である。
「それじゃ、推選して下さい」
とクラス委員の裏成《うらなり》が、教壇の後ろで言った。
「矢島くんがいいと思います」
と女子のひとりが言った。
「賛成」
「賛成」
「素敵」
おや、圧倒的だな。
矢島というのは、昔の平安貴族みたいなノッペリ顔のハンサムで、物腰や口のきき方がソフトなため、クラスの女どもには圧倒的な人気がある。その分、学力の方はオールDというバランスの取り方も絶妙な男だが、ふん、おれは知っている。こいつには近くの女子高全部に彼女がいて、週に四日は女どもとのデートに時間を割いているのだ。しかも、そのたびに他のと出食わさないよう、時間、場所をすべて違《たが》え、ついでにデートの費用全部をあっちにもたせるという質《たち》の悪さである。桜島みたいなのがやる分にはいいが、こういう色男の偽善者というのはおれの趣味に合わず、二、三度、デート現場の証拠写真も添えて学校新聞に投書してやったのだが、初回は矢島シンパのひとりである女子新聞部員に握りつぶされ、後の二回は、うちはフォーカスじゃないという編集長の判断でボツになった。くそ、まだ、まともな野郎がいやがる。
それじゃあ、とおれは自費でタブロイド判の立派な怪文書を印刷し、
「偽善者、矢島の毒牙に泣く女たち」
というセンセーショナルなタイトルで全校に配布したから、全員、矢島の正体に気づいているはずなのに、奴の人気には凋落の翳りもない。男は中身じゃない。顔の時代なのだ。
他にも、剣道部副将の桑山だの、登山部のキャプテン小西だの、舞踊部の網走らの名前が挙がったが、図々しいことに全部自選の上、どいつも鼻が胡座をかいたような面構えのせいで、女子の矢島人気には遠く及ばず、風紀委員の人選は、やるだけ無駄と思われた。
ふん、おれの名前は無し、か。近頃の女はどいつも見る眼がねえ。リマが聞いたら、ひとりずつ待ち構えて暗殺しかねないぜ。
「では――挙手する必要もないですね」
と裏成が黒板に書かれた名前をふり返って言った。
「今回の京都旅行の男子風紀委員は、矢島くんに――」
桑山と小西と網走が、異議ありと口々に喚いたが、決断力だけはある裏成は意にも介さず、
「矢島くんに決――」
と言いかけた。
「ああ――待ちなさい」
ここで切り札が出た。
おれを除く全員の眼が黒板の左脇――椅子にかけた担任の大泉に注がれた。
「先生――あの、推選がありますか?」
と矢島がびっくりして訊いた。この軟弱野郎――すっかりその気でいやがる。世の中、そう甘いもんであるかい。
「ある」
と大泉教師はうなずいた。教師推選は最優先事項になるのがクラスの決まりだ。
「で――誰です?」
と桑山が訊いた。
「八頭《やがしら》だ」
ぎええ、と誰かが叫んだ。
クラス中の驚愕と反感の視線を、おれはそっぽを向いてはね返した。これで大泉の銀行口座には、ゼロが五つつく数字が振り込まれることになる。男は顔じゃねえ。金の時代だ。
「そ、そんな。――八頭なんかを風紀委員にしたら、クラスは鉄火場になっちまいますよ――」
矢島が金切り声で叫んだ。言ってくれるじゃないの、色男。
「僕もそう思います」
と桑山も同意した。
「あたしも絶対反対です。食事の後の余興にストリップやれって言うわ、この男《ひと》」
この声は佐良《さがら》久子か。土曜の晩にゃあ横浜へ出て、暴走族を引っかけ、ラブホテルでストリップしてやがるくせに、他人《ひと》のことを言えた義理か。
「賛成。いえ、八頭くんに反対。男生徒と女生徒の親睦を計るため、相部屋にしろって言いかねません」
と杉沢典子が言った。読まれたか。別の手を考えなくちゃならんな。
「とにかく反対」
「嫌イヤいや」
「あたし、旅行へ行くのやめます」
「お嫁に行けなくなるわ」
日頃、女生徒から人望がないのはわかっていたが、いや、出るわ出るわ。しまいには、食われるという意見まで出てきて、おれは苦笑せざるを得なかった。男の援護はなし。女子の勢いに呑まれてしまったのだ。
しかし、担任推選の威力は鉄である。その上――
「わたくし、八頭くんでいいと思います」
えらいとこから味方が出てきた。
「わっ」
と叫んだのは――おれだった。
あっ、ではない。わっ、だ。
中程の列の中程の机から、ぬう、と立ち上がったのは、でぶんでぶんに太った外谷《とや》雲子だったのである。
「そんなあ」
「どうして八頭くんなんか[#「なんか」に傍点]がいいのよ、外谷さん?」
「信じらんない、あたし」
女生徒たちの声の中で、体重九九キロという、一キロのけじめもつかないデブは、静かにあることをした。
一メートル二〇センチのバストの前で、何と十字を切ったのである。
「すべては神の思しめしです。ブー」
と、半月前まで女八頭と呼ばれていた性悪でぶは言った。
半月前、何が起こったか。言うまでもない、外谷雲子はそれまでの日蓮宗からクリスチャンに改宗してしまったのだ。
てんつく、てんつくやってたのが、アーメンになったのにもびっくりしたが、宿直室で煙草は五本ずつまとめて喫う、焼酎は一升瓶でラッパ飲みする、可愛らしい下級生を見つけたらトイレへ引っぱり込んでお医者さんごっこを強要する、弁当はドカ弁三つ食う、気に食わない教師は待ち伏せして頭上から飛び降りる、授業中に高らかに屁は垂れる、といった無法者が、どんなときでも聖書を離さず、事あるごとにおちょぼ口で、神が見ておいでになります、とやらかし、大胆な外股歩きをやめて、両腿をこすり合わせるような内股歩行をおっぱじめたのには、十倍ぐらい驚いた。
当初は「陰謀だ」という声が圧倒的だったのに、半月たったいまも馬脚を現すどころか、率先してトイレ掃除はする、転んだ下級生には駆け寄って背中を踏まず手を差しのべる、クラスメイトが休めば見舞いに行く――そんな塩梅で、ついに外谷雲子の変貌は、ほとんどの生徒・教師から本物、と認められるに到った。
無論、頭から信じていない連中もいて、おれもそのひとりだ。
大体、洗礼名が外谷ブチンスキー順子ゴンドワナ・ウンタレリーナで、これに合わせて日本名も、外谷順子から雲子に変える。――こんな阿呆な真似をする女を、信じられるものか。
だが、おれの意見はともかく、外谷のひと言がもたらした効果は圧倒的だった。
おれの風紀委員就任に対する反撃の炎は、あっという間に収まってしまったのである。
桑山と小西と網走が、友達甲斐もなく文句をつけはじめたが、もちろん無視され、おれは晴れて念願の職務に就くことになった。
女の風紀委員が誰かは言うまでもあるまい。
やれやれ。
ブー。
九月二十×日、おれたちは東京駅から新幹線で京都へと旅立った。
なにしろ行楽と修学旅行の秋である。同じ列車にも他校の生徒が乗り合わせている上、遠去かりゆくホームにも、別の制服姿が何種類か固まっていた。
「いいですか、君たち」
とおれは、出発後十分ほどして、そろそろ何かしでかしそうなクラスの連中を前に宣言した。
「隣の車輛には、愛誠《あいせい》ってミッション系のお坊っちゃんお嬢ちゃん高校の方たちが乗っておられます。トイレで出会っても口説いたり、奢って頂戴などと絡まないようにして下さい」
「愛誠だって!?」
案の定、クラスで一番柄の悪い黒江が金切り声を上げた。興奮して席を立っている。この男は丸パンみたいな顔をし、六、七〇の爺さんくらい頭の毛が薄いくせに、派手なことが好きで、校内のイベントだの行事だのになると必ずプロデューサーを買って出る。服装も最新ファッションを着こなし、クライアントだの、ブランドだの、訳のわからない業界用語をしょっちゅう口にするため、身長一六〇センチのくせに女の子に人気がある。
「しめた。秋の学園祭のモデルを頼めるな」
と手を叩くのを、
「いけません!」
と一喝したのは、おれの前の席から通路へ立ち上がった外谷である。
何のつもりか、丸まっちい手をパッと突き出し、
「神を信じる学徒に、モデルなどという下賎な職業を仲介するなどもっての外です。恥を知りなさい、恥を!」
よく見ると、手の中に小さな十字架が握られていた。
「おめえ、欲求不満じゃないのか」
と嫌味を言いつつ、黒江は席に戻った。
男はみな不満そうだが、何せ、通路一杯に立ち塞がってる肉の壁相手では手が出ず、おまけに、そいつが宗教的正義感と信念に燃えた狂信者の眼をしているものだから、文句を言う奴はひとりもいない。いや、ひとりいるのだが、その男は外谷ちゃんの相棒だ。
外谷はじろりと、おれの方を向いて、
「八頭くん、特に気をつけるように」
「安心してくれ」
とおれは、猜疑心の塊みたいな眼つきの女へ微笑してみせた。
「おれは暑がりでな。痴漢予防にでっかいパンティ三枚もはいてる学校の女なんかに興味はねえんだ」
「まあ、お下品な――」
外谷はブーと叫んで真っ赤になった。
「なんでそんなこと知ってるの、ブー!?」
「おめえもはいてるのか!?」
瓢箪《ひょうたん》から駒が出て、おれはびっくりした。丸裸で町歩いてたって、誰がこんな女を襲うか。金をくれると言ってもご免だ。
外谷はイエス・キリストの誕生から切り出し、おれがいかに品性下劣な人間であり、天国の門から除外されているかについて話しはじめたが、おれは聞いてなどいなかった。
阿呆らしくなって、麻雀やチンチロリンをおっぱじめたクラスメイトの中から、ただひとつ、どう見ても熱い眼差しがこちらに注がれているのを感じ取ったのだ。
自己陶酔の極致で、恍惚と讃美歌をまくしたてる外谷に向かって、
「おい、古賀がおめえを見てるぞ」
とおれは言ってやった。
「主は来ませり、主は来ませり――ん、何ですって!?」
「古賀雄一だよ。ゴリラ男がおめえを見てるんだ。キスでもしたそうな眼つきだぞ」
「ふんが」
外谷は露骨に唇を歪めて十字を切った。
古賀雄一というのは、進化の奇跡と綽名されてる男で、五歳のとき、生物学者だった父とボルネオへ旅行に出掛け、現地の森の中で正体不明の生物にさらわれた挙句、十年後、素っ裸で股間の蚤《のみ》を取っているところを別の生物学者に発見され、日本へ送還されたのである。
なぜこんな綽名がついたかというと、行方不明当時の写真は、すっきりと足も長く、利発のひと言につきる聡明な顔立ちだったものが、発見されたときは、手の方が足よりも長く、平地は歩けず木の枝から枝へと飛び移って移動し、やむを得ない地上歩行の際は、前屈みになって、手も使ってぴょんぴょん跳ねる――要するにゴリラそっくりに変貌を遂げていたためである。
顔つきも利発など夢のまた夢――眉は太く、鼻は広がり、分厚い唇の間からイヤミ氏そこのけの前歯が突き出ているといった動物的ご面相。対面した両親が開口一番、「わ、ゴリラ」と叫んで逃げかけたというから凄い。
ゴリラというのは、あれで情愛のこまやかな動物だから、ターザンみたいにその中で育てられたのではないか、と唱える学者もいたが、そうでもないらしいのは、この男、インドの狼少年とは違って、あっという間に人語を理解し、自分を捕らえた学者の前で、サービスにモンキー・ダンスを踊ってみせたのである。ボルネオのジャングルには今も訳のわからない生物が棲息し、時折、里へ出て来ては、人間をからかったり、ショック死させたりしているから、古賀をさらったのもその一種だったのだろう。
しかし、幼少のみぎりに習得した技術は忘れ難いものか、授業中にナイフで木を削って棍棒を作ったり、木切れをこすり合わせて火を点けようとしたりして、クラス一同の度胆を抜いている。
ふむ、こいつが、外谷に気があるとはな。おれは何となく納得した。
河馬とゴリラ――森の仲間ではないか。
結局、列車内では何事もなく、新幹線は定刻に京都駅のホームへ滑り込んだ。
列車を降りるとすぐ、「暑いなあ」の合唱が巻き起こった。うだるような暑さ、というが、これのことだろう。九月下旬だというのに、先が思いやられる。
とにかく、用意のバスに乗り、四条河原町にある『弁天ホテル』というちんけ[#「ちんけ」に傍点]な名前のホテルへ到着したのは、午後一時である。
うちの高校の定宿《じょうやど》なので、マネージャーもボーイたちも慣れていて、片手を上げたりウインクしたりするのもいた。
男女とも六人ずつのグループに分かれ、ひと部屋をあてがわれる段取りだ。
各担任が部屋割りを発表すると、耳ざとい女のひとりが、
「あら、八頭くんの名前がないわ」
と言い出した。
「あ、彼は風紀委員として僕と同宿する」
と言ったのは大泉担任である。たちまち、
「いーやらしい」
「“発見、うちにもホモがいた。ある私立高校の秘密”」
「“ここまで進んだ教師と生徒の仲”」
けたたましい非難が巻き起こったが、そこは教師の底力。クラスの連中はみんな各室へ追いやられ、おれはでかいショルダー・バッグ片手に、別棟の一室へ通った。
『弁天ホテル』は修学旅行相手の本館と、一般旅行者用の別館とがあり、マネージャー自らおれを案内したのは、別館中でも最高のVIPルームだった。
十畳の居間に八畳の寝室、大理石づくりのバス・トイレはもちろん別々で、それに十畳のカクテル・バーまでついている。通常料金なら一泊三〇万円はふんだくられるだろうが、おれは無論ただだ。校長の横流し金は、こうして一部が還元されてくる。おれ自身は要求したことがない。校長が気を利かせているのだ。
早速、戸締まりして、シャワーを浴び、おれはバーの冷蔵庫から「アサヒビール」を出して一杯やった。
予定では、これから二条城と西本願寺、東本願寺の見学である。
それもいいが、おれには別の用があった。クラスの連中が怪しんでも、大泉が腹痛だと言ってくれるし、ホテルの従業員はすべて、校長から因果を含められているから、おれは今日一日、うんうん唸りながら、みんなを待っていたことになる。
実のところ、少し惜しかった。
おれは見学が――あの旗を持ったバスガイドに案内され、ぞろぞろと数珠つなぎになって名所旧蹟を廻る忌まわしい旅が、何故か嫌いじゃないのだ。
子供のときから、両親に連れられて、あっちこっち、地球の果てまで引っぱり廻されたせいかもしれない。
クラスの気の合う阿呆どもと一緒に、ダセえなあ、京の女子学生口説きてえなあ、などとぶつくさ言いながら、辛気臭い寺の境内をうろついていると、何となく嬉しくなってくる。修学旅行って、そういうもんじゃないか。
とにかく、おれはひとり、ホテルの駐車場へ降り、アイボリー・ホワイトのスカGに乗り込んだ。このホテル用にキープさせてある特製スポーツカーだ。
紺のブレザー、白ワイシャツなんて制服は着ていない。修学旅行の高校生です、と喚き散らしているようなものだからだ。「ムッシュ・ニコル」のアイボリー・ジャケットにブルーのポロシャツ、「マッキャンベル」のブルー・ジーンズ姿で通りへ出ると、窓の外から、歩道を行く女たちの視線が横顔に集中する。苦味ばしった顔つきは、とても高校生には映らないはずだから無理もない。
目的地は、南禅寺裏に建つ小さな家である。南禅寺近くの駐車場に車を停め、二十分ほど歩いて青竹に囲まれた小路へ入ると、京の熱気が消え、涼風が頬を叩いた。
「おいでやす」
青い石を敷きつめた玄関で、楓《かえで》はひっそりとおれを迎えた。
落ち着いた色の和服が似合う五〇近い婦人は、さん[#「さん」に傍点]づけで呼ぶべきだろうが、そうすると楓はいつも怒る。
おれは奥の八畳へ通された。
おれ専用の客間だ。いつ来ても、使った気配がない。それでいて、床の間も黒檀の座卓も、人の顔の皺が見分けられるほど丹念に磨き上げられている。
滅多に来ないものが来るときに備えて――何という虚しく、豊かなこころ遣いだろう。
楓が死ぬまで、これはつづくのだ。
透き通った若葉のような煎茶と無花果《いちじく》甲州煮の水菓子がおれを迎えた。
「相変わらずだね」
とおれは、ここ以外では感ずることのない、深い水底にいるような気分で尋ねた。
「何がでしょう?」
「あなたはいつ見ても同じだ。この家もまるで時間が停止しているようだよ」
「よしとくれやす」
楓は片手の甲を口にあて、ひっそりと笑った。こういう笑い方のできる女性が、日本にはまだいるのだ。
「こんなお婆ちゃん捕まえて。――お家が古くならんのは、坊ちゃんが強く、頑丈に建ててくれたおかげどす」
「ははは」
とおれは照れた。ゆきやリマに誉められたりすると、ぬははと自慢げにのけぞるのだが、男も相手次第だ。
楓は記憶を辿るように眼を細めて、
「また修学旅行どすな。秋とはいえ、こんな暑いときに、えらいことを」
「全くだ」
とおれは同意した。
「とても、学問を修める環境とは思えねえ。ただ、この暑さは異常だ。京都でも滅多にないだろ」
「ほんとに。九月に入ってからの平均気温は例年より十度も高いそうで」
何となく嫌な感じがしたが、気のせいだと思うことに決めた。
「そう言えば、今日、おかしなことがありましたの」
楓はぽつりと言った。
「ほう」
こんな話におれは眼がない。また、楓の言うおかしなことが、おかしくなかった例《ため》しはない。
「源庵寺って、鞍馬の方に小さな山寺がありますの。そこが、夕べ――たった一日のうちに、消えてしまったとか」
「ほう」
おれは噴き出す汗を冷たいおしぼりで拭いながら、繰り返した。
「消えたって、寺そのものがかね?」
「ええ。本堂の天井から杭穴まで根こそぎ。土台石も跡形もないそうで」
「そりゃ、凄い。大騒ぎになるな」
「はて、どうでしょう」
おれは、じろりと楓を見つめた。
静かな眼が、深い色でそれを受け、そっと包み込んだ。大抵の奴は泡を食ってしどろもどろになるか、緊張するかである。こんな芸当は楓と――あと二人しかできない。
マリアと銀麗しか。
「そうか、誰かが故意に伏せるか」
おれは素早く記憶を辿った。
源庵寺なんて、何処にもない。おれの頭にインプットされてる京の古寺、名所旧蹟の数は、その辺の旅行ガイドより多いはずだから、これは近所の人間しか知らない苔むした小寺にちがいない。
それが一夜のうちに根こそぎ消滅し、誰かが新聞発表を押さえようとしている。
だが――さしあたっては、おれのフィールドじゃない。
「その寺のあった跡だけど――どんな風な状態だい?」
「ほほ。何から何まで人の噂ですけれど……大きいシャベルでえぐり取ったみたいに、凄い穴が開いていましたとか」
「えぐり取ったか」
楓が言う以上、その通りなのだろう。おれはそれきり、小寺の運命について考えるのはやめた。
「ところで、ひとつ、教えてもらいに来たんだが」
「私に出来ることでしたら、何でも」
薄く紅を塗った小さな口元が微笑んだ。
「こっちも寺に関することなんだ。銀閣寺の例の銀沙灘《ぎんさなだ》な。おれの欲しいものがあそこにあることがわかった。ただし、いただき方が問題でね、少しでもおかしな砂の崩し方をすると手に入らなくなってしまう。もう引退したあなたにゃ悪いが、ひとつお知恵拝借と願いたい」
「こんなお婆ちゃんの知恵でよろしければ、いくらでもお貸しいたしますわ」
それで決まった。
約一時間後、おれは楓に別れを告げて、眠るような家を後にした。
スカGですぐ帰ろうと思ったが、気を変えて南禅寺の庫裡《くり》から法堂、三門の脇を下り、美術館前へ抜けてみることにした。
暑い。
確かに異常な暑さだ。摂氏四〇度は楽に越えてるだろう。
右手に、石川五右衛門の大見得で有名な三門と、それに群がる学生服やセーラー服を望みながら、おれは頭上をふりあおいだ。
一点の曇りもなく澄んだ青空が悠々と広がっている。
と。――
それが突然、薄暗く翳《かげ》ったのだ。
いや、そう感じただけで、視覚で捉えたわけではない。現に、周りの学生たちは、誰ひとり空を見上げようともしなかった。おれの超感覚が作動したのだ。
同時に、背筋をぴいん、と鋭い痛みが刺し貫いた。
「逃げろ!」
何が何だか自分でもさっぱりわからないまま、おれは三門の周囲をうろつく黒い影たちに声をかけたが、遅かった。
天空から何かが落ちてきたのだ。
そいつは狙い違《たが》わず――狙ったかどうかはっきりしないが――三門の真上に落ち、次の瞬間、三門全体が凄まじい白煙に包まれた。
女の子の悲鳴が耳をつんざいた。
そっちへ行かなくては、と思いながら、おれの身体は後方へ跳んでいた。
三門を包んだ白煙は、周囲の生徒たちを飲みこんだばかりか、三門の建つ石畳も樹木も覆い隠し、津波のような勢いで、こちらへ押し寄せてきた。
眼の前の松の木が見る見る萎《しお》れ、学生服の連中が倒れた。
凄まじい刺激臭が鼻をつき、おれは呼吸を止めつつ、後方へ跳躍した。
白砂利を敷きつめた道も白煙に征服された。
おれは通路脇の建物――正因庵と天授庵の間にある石橋の上に降りた。煙は迫ってくる。もう一度跳躍しかけ、しかし身体は動かなかった。呼吸を止めっ放しなので、筋肉へ酸素が行き渡らないのだ。
走り出すか。無理矢理跳ぶか――一瞬とまどった隙に、白煙は眼前に広がり、皮膚がぴりっと痛んだ。
危ない!?
だが、そこまでだった。
白煙は薄れ、力なく崩れ落ちて、砂利道の上にわだかまった。
その下の石が、たちまち変色していくのを、おれは黙然と見つめた。
おぼろげながら、白煙の正体は見当がついていた。
誰ひとり救えなかったことで、少しは胸が痛むかと思ったが、それどころじゃなかった。
大体、胸の痛みだの哀しみだのは、自分の誤ちがもたらした悲惨な状況を眼にしたせいで湧き上がってくる。
煙はすでに消えていた。そして、悲惨もへちまも――
おれの眼の前には何にもないのだった。
歌舞伎は「楼門五三桐《さんもんごさんのきり》」――五幕の時代もののうち、石川五右衛門の名調子「絶景かな、絶景かな」で名高い“山門の場”、その舞台になった有名な大門は、周囲の学生や観光客もろとも、跡形もなく消えていた。
何とか難を免れた中門の方で、数名の観光客が身を折り、ひざまずいて咳こんでいる。
残っているのは、刺激臭と、今まで三門のあった地面に穿たれた、直径二〇メートルもの巨大な穴だけだった。
おれは、靴先からつい二メートルにまで達した穴の縁に眼をやり、ゆっくりと頭上をふりあおいだ。
おれのせいじゃないよ、とでも言っているように、空は冴え渡っている。
いいや、おまえのせいだ、とおれは無言で宣言した。
おまえ――あの[#「あの」に傍点]瞬間、一瞬、暗く翳ったおまえの落とした涙が、この惨劇を生んだのだ。
三門が溶け崩れる寸前、おれが目撃したものは、天空から門へと降りかかる半透明の、途方もなく巨大な液体の粒だった。
おれは弁天ホテルへ戻り、休息をとった。
楓の言っていた寺の喪失と、南禅寺三門の消滅は、どこかでつながっている。――当たり前だ。全く無関係にあんな事件が連続してたまるものか。
茫然と立ち尽くす観光客や学生たちを尻目に脱け出す前に、おれは穴を覗いてみた。
深さは優に一〇メートル。縁に残った石材も土も黄色く変色し、白煙を漂わせていた。
大急ぎで引き上げたため、物騒な土は持ってこられなかったが、どう見ても、あれは酸による腐蝕である。
天空から、建物ひとつ消すほどの酸を誰がぶちまけたのか。
たった一粒の塊にして。
そんな酸を何に入れたのか?
さっぱりわからん。
ま、おれが考えるより、事件を担当する鑑識の専門家か科学者が結論を出してくれるだろう。
おれには他にやることがあるのだ。
時計を見ると、いつの間にか四時近かった。修学に出掛けた連中が戻ってくる時刻だ。
さらに三〇分ほど待ち、おれはVIPルームを出て、桑山と小西と網走が集まってる部屋へ向かった。
みな、おれと風紀委員を争った連中である。あの顔でよく自選なんぞやれたと思うが、そういう風に自分のことがまるでわかっていない自信過剰の単細胞だから、つき合うとこれが実に面白い。ただし、揃って問題児で、三人だけひとまとめにされているのは、いわば隔離のためだ。
ドアの並ぶお粗末な廊下には、すでに帰還した生徒たちが右往左往していた。
女子生徒どもは、おれの顔を見ると、露骨にそっぽを向いた。男の魅力が真面目さだの清潔さだの思ってる餓鬼どもは、これだから困る。
別の廊下へ曲がったとき、おれはおかしな奴を見つけた。
身長一メートル五〇センチほどの小太りの男が、あるドアの前をウロチョロしているのだ。腹の出具合を見るまでもなく、古賀雄一である。
一応冷房は効いているものの、異常な熱気で蒸し暑いホテルの中なのに、きちんとYシャツのボタンを上までかけ、ネクタイを締めて、制服のジャケットまで着ている。背中に廻した手に白い薔薇の花束を持っているのを見て、おれは眼を剥いた。
花と野獣だ。――この男、通称“ゴリ一《いち》”という。
何してやがると曲がり角から見ていると、思いつめたような顔に、突然、決意の色をみなぎらせ、古賀は眼前の部屋のドアをノックした。
ドアが開いた。
外側へ開くタイプのため、おれの位置からだと、戸口の人間は見えない。とにかく、女には違いないのだが。
古賀の唇が動いた。簡単な読唇術ならおれにもできる。別の部屋から出たり入ったりする女生徒の足音で声は聞き取りづらい。
こう言っていた。
「あ、あの、お話が」
ドアの向こうで声らしい応答があった。内容はわからない。
古賀の表情が絶望に彩られたのを見ると、申し込みは失敗したのだろう。
おっ、強引に押し入った!
男ならそうこなくちゃ、と内心拍手した途端、バン! とこれはすぐにわかる打撃音が響くや、古賀は花束片手にドアから飛び出し、廊下を横断するや、反対側のドアに頭からぶつかって倒れた。
相撲とりの張り手でも食らったような状況からして、何が生じたのかは一発でわかった。関わり合いはご免蒙る。
おれは、ぶっ倒れたままの古賀を尻目に、男子生徒用の部屋が並ぶ廊下へ入った。
ノックもせずにドアを開けると――
「馬鹿野郎――何だ、八頭か」
と小西が、はいたばかりのパンツを上へ引き上げながら言った。
「何処行ってたんだ?」
とベッドの下を整理していた桑山が、訝しげに訊いた。
「腹痛でな」
と言うと、鋭い眼で、
「おまえ、去年もそうだったじゃないか。毎年、この日に病気になるのか」
「ああ、そうだ」
おれはさっさと部屋の奥へ上がりこんだ。
「ここへ来るとき、面白いのを見たぜ」
と意味ありげに言う。
「矢島だろ?」
と網走が面白くもなさそうに言った。絨毯を敷いた床の上に胡座をかいて、チンチロリンの用意をしている。
「そうだ。女どもが列つくってる。手には差し入れがどっちゃり、よ」
「勝手にしろ。奴めそのうちヤキ入れてくれる」
桑山がたくましい腰から何かを抜くような真似をしてつぶやいた。
こいつは、浄月流居合の達人だ。
「その割に、おまえら妙に機嫌がよさそうだな」
とおれはあてこすりを言った。
「浮き浮きしてやがる。――何があった?」
「残念だったねえ、ポンポンが痛くて」
と小西が嫌味ったらしく言った。登山部のキャプテンは、桑山より厚い胸をしている。
おれが問わなくても、こいつら言いたくて仕様がなかったらしく、桑山が、
「清真高と二条城でかち合ってよ」
と言った。ナルシシズムの極致にある声だ。
「そこの、とびっきり可愛い子がよ、庭ですれ違いざま、おれたちの手に、小さな紙切れを握らせたのよ。――ほれ」
さっと三方から手が伸び、掌を開いた。
小さな紙切れが入っていた。ノートの切れっぱしだ。字らしいものが書いてある。
「そうかい、よかったね」
とおれは腕組みしてそっぽを向いた。
「何さ、見たくないの?」
と網走が高い声を出した。舞踊部だけあって、こいつだけは後の二人と違い、まあ少しは人間らしい顔で、色も白くほっそりしている。
「そんなはずはない。見ろ」
小西。
「いらねえよ」
とおれ。
「見てもいいんだ。見せてやるよ」
と小西が近づいてきて、おれの顔の前で紙切れをヒラヒラさせた。
「いらねえんだ、馬鹿」
「そう言うな、見てくれ。な、な」
小西は哀願しはじめた。
桑山も一枚噛んで、
「おれからも頼む、見てくれ。おれのでもいいぞ」
「てめえら、いい加減にしろ!」
ついにおれは怒鳴った。
「男のくせに情けねえったらありゃしねえ。なんだ、たかが清真のズベ公に紙切れ握らされたくらいで、眼の色変えやがって。恥を知れ、恥を」
「どうして、ズベ公ってわかるのよ?」
といちばんおとなしい網走が文句をつけた。
「まともな女生徒が、見ず知らずの他校の男に付け文なんかするものか。ズベ公に決まってら」
「何だ、その言い草は」
とうとう桑山が怒り出した。右手で布にくるんだ素振り用の木刀をひっ掴む。これはやばい。
「せっかく人がいい気持ちになっているのに、水を差すようなことばかり吐《ぬ》かしおって。おまえでも許さんぞ」
おれは肩をすくめた。
「ほんとにいい女だったよ」
と小西が、何のつもりかバッグから取り出したピッケルを撫でながら、夢みるような口調で言った。山でも登る気か、この野郎は。
「おまけにグラマーだ。ブラウスの胸が林檎入れてるみたいに膨らんでた」
この男はひどい顔をしてるくせに、ロマンチックな妄想癖がある。ほれ、一曲歌い出しやがった。
「わかった。読んでやるから、浪曲をやめてくれ」
おれは片手を振った。
「浪曲じゃない。『山のロザリア』だ」
「はいはいはい」
おれは構わず、桑山の手から紙切れを取り上げて眼を通した。
『今夜、九時。新京極の「トリム」で待ってます。ゆっくりお話がしたいです』
この後に清真高のクラス名と名前が書いてあった。一応、女の名だ。
「よかったな。気をつけて行ってこい」
おれは紙切れを桑山の手に押し戻した。
「なんだ、羨ましがらねえのか。愛想のない野郎だ」
と三人揃って不平面したが、おれは仏頂面を通した。あることに気がついていたのである。
まさか。――しかし……ふむ。
「ところで、今回の風紀委員は、うるさいこと言わないでしょうね」
と網走が、名前に似合わず、上半身をくねらせくねらせ訊いた。
「そんなことをしたら、ひどいから」
「わかってるよ。門限が午前さまになったり、女子の部屋へ忍び込むぐらいは大目に見る。ただし、見つからないように裏口か窓から戻ってくるのと、触れるのは下着の上からだけ。踊り子――じゃなかった、女の子の肌にじかに手は触れるな。それだけ守りゃ、後は何とか揉み消してやる。合意で深い仲になったら、店外デート――じゃねえ、ホテルの外でどうにでもなっちまえ」
「おまえはいいけど、女の側には外谷がいるぞ」
と小西が、♪青い牧場日暮れて――と歌うのをやめて言った。
「安心しろ。ちゃんとクラスの女どもの弱味は掴んである。あいつにゃ、矢島のヌード写真でもやるって言えば、いくらでも無理がきくさ」
「そんなもんないぜ」
「ふん捕まえて裸に剥いちまえばいいのさ。おまえらカメラぐらい持ってるだろ」
「矢島の野郎は睡眠薬も持ってる。デリケートなんでよく眠れないんだってさ」
と網走が言った。日頃の怨みがあるから、みな、あいつの情報はよく知ってる。
おれは部屋の真ん中に胡座をかいて坐りこんだ。
「さ、いいから、じき飯だ。それまで、チンチロリンやろうぜ」
「いいねえ」
と桑山が舌舐めずりをした。
そのとき、誰かがドアをノックした。
「何の用だ、馬鹿野郎」
桑山が牙を剥いた。
「まだ飯には早いぞ」
と小西が眉をひそめる。
「何の用?」
と網走がドアに向かって訊いた。
「僕、古賀」
とぼけたような声がした。
「ゴリ一だよ」
網走はこう言い、もう一度、
「何の用?」
と繰り返した。
「八頭いないかなあ? 聞いて欲しいことがあるんだ」
黙ってろ! と言うつもりが一瞬遅く、この中でいちばん正直な網走は、
「ああ、いるよ」
と答えてしまった。
「開けて開けて」
おれはうんざり顔で網走をにらみつけ、
「何の用だ?」
と訊いた。
「大事な話なんだよ」
古賀の声は、突如、小さくなった。哀しみが溢れている、と言ったらいいのか。
「おれにゃ大事じゃねえ。帰れ」
おれはにべもなく突っぱねた。じき二十歳《はたち》になろうって男の感傷に付き合っていられるか。
「そんなこと言うなよ。相談料払うよ」
「わかった。いま、出てく」
おれは呆然とする三人に別れを告げ、ドアを少し開けた。
博打なんて不確実な金儲けより、わずかでも堅実な現金を選ぶのが、おれの趣味だ。
細い隙間から、古賀のゴリラ面の、ほぼ中心が見えていた。
「幾ら出す?」
「一万円」
「三〇分でか?」
「一時間」
「また、な」
「一万五千円」
古賀はあわてて言った。
「まけとこう」
あまり阿漕《あこぎ》なことはしたくない。おれはドアを開けて外へ出た。
「ここでいい話か?」
「駄目。ロビーで話したい」
「わかった」
おれはドアの方を眺め、わずかに開いた隙間から盗み見してる三つの眼をにらんで、エレベーターの方へ歩き出した。
ロビーへ着くと、古賀はおどおどと左右を見廻し、隅っこのソファを選んで腰をおろした。
「で、相談てな何だ?――恋の悩みか?」
「どうしてわかるの?」
古賀は眼を白黒させて訊いた。
「おまえの顔つき見てりゃ大抵わかるわな。――で、相手は誰だ? おまえの体形からすると、痩せでノッポの女だな。――杉沢典子だろ?」
「ありゃ駄目だよ。毎朝、弟の尻をつねってから登校してくるんだ」
「よく知ってるな。――じゃあ、片瀬さつきか? あれもガリガリだぜ」
「駄目、Cクラスの半沢って自転車屋の息子と出来てる。ホテルにも行ったそうだ」
「神田みどりは?」
「美人だけど、料亭の伜《せがれ》と付き合ってる。卒業し次第結婚するそうだ」
「大久保真美は?」
「あそこん家《ち》は金がありすぎる。しかも、独身主義者だ」
「伊藤真由美は?」
「でかすぎるよ。好みじゃない」
おれは片っぱしから女どもの名前を挙げていき、ついに最後から二人目になった。
「法水琴絵だろ!」
「あれは七〇キロもあるじゃないか――二〇人も並べて、どうして出てこないんだ!?」
「おまえこそ、なんで女どもの内幕にそんなに詳しいんだ!? おれだって知らんぞ!」
「まあ、それはそれとして」
古賀は平然と話を変えた。変わり身の早いゴリラだ。こういうところは野生の勘が働くらしい。
「僕は外谷さんを愛してるんだよ」
とうとう口にしやがった。信じたくなかったが仕様がない。
「どれくらい愛してんだよ?」
とおれは疲れた声で訊いた。
「寝たい」
「は?」
「寝たい」
「は?」
「セックスしたい」
古賀は怒気満面の口調で言った。
「ほう」
自分でどんな声を出したかわからない。わかりたくなかった。遠い声だ。これ以降はおれの台詞じゃない。
「どういう風にしたい?」
「後ろからお願いしたい」
古賀は恍惚と言った。恍惚にも程がある。
「ひと晩何回いきたい?」
「一〇回でも二〇回でもお願いできるだけ」
「おまえは変態だ」
「もっと言ってくれ。あの、ドラム缶のような胴、ビヤ樽みたいな脚、グローブそっくりの丸まっちいお手手、タラコの蠢く唇――ああ、あの象のオッパイの下で窒息してみたい」
おれは茫然と立ちすくんだ。こいつはほんとの変態だ。育ちが育ちだから、言動はどこか異常にしろ、教室では比較的おとなしいやつだったんだが、変態の中でも最悪のタイプとは思わなかった。下の下の下だ。
「僕は変態だ。もっと言ってくれ。もっと虐《いじ》めてくれ」
「やかましい!」
おれに怒鳴られて、古賀は夢から醒めたようになった。おれの頭は痛みはじめていた。
「で、おれにどうしろってんだ?」
ようやく訊いた。
「気持ちを伝えて欲しいんだよ。クラスの中で、外谷さんが一目置いてるのは君だけだ」
「生物《いきもの》にさん[#「さん」に傍点]なんてつけんじゃねえ。どうして自分でアタックしない?
「もう十回以上したんだ。みんなフラれた」
おれは天井を仰いだ。
シャンデリアが廻り出しそうだった。
世の中には惚れた女に千回でもアタックする男はいるだろう。だが、こいつの十回には及ばない。忍耐と根性の質が違うのだ。
「あいつが嫌ってんならしようがない。恋愛てな、ひとりじゃ成立しないんでな。――さよなら」
「おっとっと」
古賀は手を伸ばして、おれのベルトの端を掴んだ。さすがに素早い。もと野獣だ。
「最後まで話を聞いてくれ。最初はうまく行ってたんだよ」
「ほう、そうかい、そうかい」
おれは構わず歩み去ろうとし、古賀は引き戻そうとする。奇怪な力くらべを、周りの客たちは総立ちで見つめていた。
おれは何とか、ホールのドアの近くまで引っぱって行った。
「外谷さんの机の中に、ラブレターと大福を入れといたんだ。次の日、また開けてみたら、『あたしはキャベツが好き』って書いてあった」
「キャベツ!?」
おれは再び茫然と立ちすくんだ。これ幸いと元のソファに引き戻されるのも気にならなかった。
「で、大きいのをひとつ買って入れといたのか?」
こう訊いたときは、半ば諦めかかっていた。
「特大の奴をね。次の日は『ありがと。あたしはサツマイモも好き』だった」
外谷の顔が浮かんだ。
「生ものがお好きなようだな、君の意中の女《ひと》は?」
古賀はうなずいて、それからも、ジャガイモを二キロずつ二回と、林檎を三キロ、ニンジンを四キロ半贈ったと話した。すべてキロ単位だ。
「それで、プロポーズしたら、あんたなんか嫌いよ、か?――馬鹿。おまえは弄《もてあそ》ばれてんだぞ」
「違うんだ」
古賀は急にしょんぼりした。ゴリラのうなだれる様というのは、これでなかなか動物学的に興味津々だった。
「最後に、『もっとイモちょうだい』と書かれたとき、僕、図に乗ってとんでもないものを一緒に贈ってしまったんだ」
「なんだ、そりゃ?」
おれはちょこっと考えて言った。
「まさか、まわし[#「まわし」に傍点]じゃねえだろうな?」
古賀はじろりとおれを見つめた。
「どうして知ってんの?」
おれは、しつこくベルトを掴んでいる毛深い手をやさしく押しのけ、
「もう、おれの手には負えねえ。頑張れよ」
と言った。
「そう言わないでくれよ」
ゴリラ男は情けない声で哀願をはじめた。
「それ以来、嫌われどおしなんだ。何とかしてくれ。この通り」
「うるせえ。生のイモやキャベツを食いたがる女を好きになるようなトンマが悪いんだ。相談料はいらない。離せ」
「やだ。死んでも離さない。この気持ちを外谷さんにわかってもらえないのなら、死んだ方がましだ。一緒に死んでくれ」
また、恍惚としはじめた。
周りの連中が、ひそひそと耳打ちしているのを見て、おれは打開策を考えた。
すぐに出てきた。
「わかった。何とかしてやる。いい方法が見つかるまで、少し時間をよこせ」
「おお」
古賀は喜んで飛び跳ねた。
「そのかわり、相談料は貰うぞ。あと、工作にかかる費用もな」
「うちの金庫ごとかっぱらってくるよ」
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第二章 化け物ふたりと厄介娘
せっかくの修学旅行だってのに、なぜ、こうも余計なトラブルがついてまわるのかわからぬまま、おれは、本当にやってくれるだろうねとしつこくまとわりつく古賀を追い帰し、ロビーで夕食までテレビを見た。
六時からの報道番組では、幸田シャーミンと逸見政孝がじゃれ合っていたが、三門喪失のニュースは流れていなかった。
しばらく見ていたが、臨時ニュースのテロップも出ない。
間に合わなかったのではない。押さえられたのだ。
いや。
いくら報道機関が軟弱だからって、山奥の小寺ならいざ知らず、天下の重要文化財が白昼堂々と、多数の目撃者の眼の前で、煙に包まれて消えてしまったのだ。ニュースにしないはずがない。じゃあ、どうしたのか? マスコミもグルなのだ。――と言って悪けりゃ、報道管制に同意したのである。
すると――目撃者も?
一体、何なんだ?
警察もマスコミも知らん顔を決め込み、あっという間に親兄弟や我が子を失った目撃者にまで口をつぐませる謎とは?
京都――日本人の故郷と呼ばれる風雅の古都が、おれには急に恐ろしいものに思えてきた。
だが、まあ、とにかく飯だ。
おれは部屋へ戻って、ひとり夕食を摂りはじめた。メニューは二〇〇グラムのサーロイン・ステーキに、特製のコンソメ、舌びらめのムニエル、大盛りの野菜サラダ、焼きたてのフランスパン――同級生の食膳とは育ちが違う豪華版だ。
しかし、どうも気が乗らない。喪失事件のことではなく、せっかくの修学旅行だというのに、ひとりで豪華な食事をする気にならないのだ。ハムカツに薄い味噌汁、アジの開きにお新香でも、気の合った連中とだベくりながら食えば、今のおれの食事より数倍美味だろう。
おれは黙々と食事を済ませた。おれはあいつらの仲間じゃない。だからこそ、あいつらが一生かかっても手に入らない富と冒険に首まで漬かっていられるのだ。
午後八時。
おれは、そっと部屋を出た。感傷的な気分は跡形もなかった。仕事が待っている。おれの仕事が。
おれはトレジャー・ハンターなのだった。
夜の京都をスカGで飛ばし、三〇分足らずで、銀閣寺まで来た。
参道下の広場へスカGを残し、おれは素早く外へ出た。
熱気が襲った。
気狂い沙汰の暑さは終わっていない。早いとこ仕事を切り上げて、東京へ戻る手だ。
だが、汗が流れるのはまずい。地面へ落ちるのは、すぐに蒸発してしまうだろうが、今夜の仕事は、汗が流れること自体が生命取りになる。
首から下の汗はたちまち引いていった。
ジャケットの下に、おれは白いハイネックのシャツとしか見えない特殊戦闘服を着込んでいた。自動温度調節《サーモスタット》装置と、衝撃吸収粘材はもちろん、今回のは、もうひとつ売り[#「売り」に傍点]がある。
おれは何気ない様子で参道を上がり、銀閣寺の参拝客入り口で立ち停まった。
参拝時間は五時がリミットだから、参道の土産物屋もほとんど戸締まりをし、人気《ひとけ》はないに等しい。
おれは塀の端に左手をかけ、軽く跳躍した。
左手に思いきり力を込める。体重は打ち消され、身体は軽々と塀の向こうに着地していた。
見廻りがいないのは勘でわかる。
道は植え込みの間を抜けて境内へ入る。
ところどころに照明が点いているのが邪魔だが、壊すわけにはいかない。気づかれては宝探しが泥棒になってしまうからだ。
おれは額の汗を拭い、レーザー暗視鏡《ノクトビジョン》付きフードをひっかぶった。
サーモスタットのおかげで、残りの汗がどんどん引いていく。体調は十分。GO!
しかし数メートル進んで、おれの足は停まった。勘が冴えなかったらしい。曲がり角の寺垣の端から、黒い影がひとつ、忽然と道の真ん中に現れたのである。
身構えかけ、次の瞬間、おれは事態の異常さに気づいていた。
そいつは警官ではなかった。
フードのレーザー暗視鏡《ノクトビジョン》は、白昼と変わらぬ微妙な色彩感を再現できる。
寺の小路に墨染めの法衣をまとった雲水がいてもおかしくはあるまい。
顔は、闇ではなく、目深にかぶった半月形の網代笠《あじろがさ》が隠していた。ただ――年齢とは無関係の、途方もない得体の知れなさが、おれを打った。
この時間、この場所――どのみち、ただの坊主じゃあるまい。
そして、十中八九、おれの仕事に関係がある。
まず敵だ。
おれは右手を腕の下のショルダー・ホルスターに収めた衝撃波銃《ショック・ガン》へ伸ばした。空砲を音源に、増幅した音波衝撃《サウンド・インパクト》を相手に叩きつけて失神させる拳銃《ハンド・ガン》は便利この上ないが、御仏に使える身には、あまり効果がありそうになかった。
抜き出す暇もなく、雲水の姿は消えてしまったのだ。
空へ飛んだのでも、地へ潜ったのでもない。いくら超スピードが出ても、おれにはわかる。ただ、この場所からいなくなってしまったのだ。
幻ではない。――それもわかる。
全く、何てこった。
おれは念のため前後左右を見廻し、入念に気配の有無を確かめて、小路を急いだ。
境内へ入る途中に宿直室が見えた。明かりが点いている。仕事熱心なことだ。
おれは戦闘服のベルトから、金属のスプレーを取り出し、身を屈めて宿直室へ忍び寄った。
いまの雲水を考えると、ひどく空しい行為のような気がした。
窓から覗くと、二人の守衛がテレビを見ているところだった。南野陽子が大胆な衣裳で身体をくねらせている。
少し観ていたかったが、おれはドアの鍵穴にスプレーの放出口を押しつけ、プッシュ・ボタンを押した。
かすかな音をたてて、無色無臭の睡眠ガスが守衛室へ流入していく。
椅子にかけた二人が、かくんと全身の力を抜くまで、一秒とかからなかった。おれの息がかかったアメリカ軍の軍需工場で開発した品――ITHA《インターナショナル・トレジャー・ハンターズ・アソシエーション》(世界宝探し協会)の装備課で売り出し中のものより優秀だ。
これで六時間は眼が醒めまい。ま、おれ以外、夜の銀閣寺に押し入ろうなんて人間はいないから安心しろ。
地面は熱気を噴き上げていたが、夜の底に沈んだ銀閣は涼やかな静寂に包まれていた。
と言っても、見た感じだけだがね。
文明十四年(一四八二年)、八代将軍・足利義政が造営した東山山荘が、彼の死後、遺言によって寺となり、慈照寺銀閣と呼ばれた。当時建築されたという十二の楼や珍器類は、後の戦乱で消失したものの、今に残る観音殿、東求《とうぐ》堂、本堂、弄清《ろうせい》亭、庫裏《くり》のたたずまいや配置は、上下に分かれた庭園の美しさと見事に調和し、こんな場合でも、じっくりと見ていたい気分にさせる。
おれは本堂前に立つ二つの円錐型の砂盛り――銀沙灘と向月台の方に進み出た。
どちらも先っちょはちょん切ってある。
目標は銀沙灘だ。
奇怪な消失事件も、謎の雲水も、あらゆる雑念が消え失せ、頭は熱く、そのくせ冷たく冴えていた。
所要時間は三分しかない。
宝の眠る場所まで行くのに二分はかかるから、探し出すのに割けるのは一分きりだ。おれの経験でも最短時間に属するハンティング行である。
そして、最難関だ。
おれはジャケットを脱いで地面へ置き、戦闘服のベルトから、一本の細い紙筒を取り出した。別に特別な品じゃない。その辺の文房具屋でいくらでも手に入る和紙の巻紙を三メートルほど切り取り、筒状に丸めたものだ。
おれはその端を押さえたまま、筒の方を白い盛り山へ放った。
闇の中を白い帯が優雅に流れ、その端は銀沙灘の頂点に落ちて一本の路をつくった。
すべて狙い通りだ。これからも、そう願いたいな。
おれは戦闘服を脱ぎ捨て、ブリーフ一枚になると、見学順路の真ん中に胡座をかいた。
両手を下腹部の前で組み合わせ、全身の力を抜く。楓から与えられたイメージを頭に浮かべ、数分。――いける。
おれは立ち上がり、銀沙灘の斜面に延びる和紙の端へと歩き出した。
和紙の上へ慎重に一歩踏み出す。
OKだ。
砂は崩れない。
ヨガの消去法でほとんど消失したおれの体重は、わずかに残った分まで足下の和紙が吸い取り、実に、一粒の砂さえ微動だにしないのだ。
いや、してはならない。
でないと、銀沙灘の中に眠る宝は、容易におれのものにはならないのだ。
銀沙灘――向月台とともに、毎年何十万人もの観光客の前にその姿をさらす砂の盛り山。無論、国宝でも重要文化財でもない。古《いにしえ》の流儀にのっとり、現代の庭園師たちが折あるごとに形を整えるただの砂山だ。
その中に宝がある。
それも室町時代から。
おれがこの事実に気づいたのは、比較的古い。いや、宝探し仲間の間でも百年以上前からの話題で、アタックした奴も何人かはいるのだが、いずれも失敗に終わった。
要するに、どちらの盛り砂からも、何ひとつ発見できなかったのだ。二〇年前のイタリア人グループなど、夜半にヘリをチャーターして速乾性のコンクリートで上から砂を固め、そのまま隠れ家に空輸してからバラすという荒っぽい手段を用いたが、何ひとつ発見できなかった。
それ以来、この噂は眉唾ということになり、二度とアタックするものはいなかったのである。
おれが挑むのは、半年前、ブカレストのルーマニア人トレジャー・ハンターが死亡し、遺族がITHAを通して遺品を競売に付したときに、小さな壷の破片を手に入れたのが契機《きっかけ》である。そのルーマニア人がトレジャー・ハンターとしてさしたる業績を上げていなかったため、同国の連中が数名集まったきりの熱のない競売場で、おれは彼の遺品をほとんど独占することができた。出席はぎりぎりまで内緒にしておいた。八頭が手を出したというので、各国の大物クラスがいきり立ったのは、おれが六本木のマンションへ着いてからである。
おれだけは、ルーマニア人ハンターの、唯一の業績ともいうべき仕事を知っていたのである。情報の出所は、彼の孫娘だ。どうやって掴んだかは内緒、照れるじゃねえか。
とにかく、このハンターは、十五世紀に死んだオランダ人貿易商の墓から、彼とともに埋葬された室町時代の日本の美術品を多数獲得したのである。ハンター自身の生活態度が荒んでいたのと、鑑賞眼に欠けていたのが災いして、せっかく入手した貴重品もすぐ、二束三文の値で売りとばされてしまったが、おれの手に入った遺品を見る限り、そのほとんどは室町時代の東山文化を代表する逸品揃いだ。おれの分にはないが、ハンターが売り払ったものの中には、銀閣寺の創設者・足利義政が集めた美術品や、庭園の造営を指揮したと言われる世阿弥の傑作があったかもしれない。
壷の破片には、誰とも知れぬ人物の手で、銀沙灘の宝にまつわる事情が克明に記されていたのである。完全ではないが、破片をつなぎ合わせた結果は、おれの行動を促すのに十分なものであった。
かくて、いま、おれはパンツ一丁で砂山の上に敷いた和紙の上を歩いていく。
何て珍妙でシュールな光景だろうと自分でも思う。
体重という余計な負荷が減った分、感覚は異様に研ぎ澄まされ、おれの足裏はそこに触れるすべての砂粒を個々に識別することができた。
動かしてはならない。この粒は断じて移動させてはならない。銀沙灘の形が崩れるということは、すなわち、この銀沙灘が銀沙灘でなくなってしまうということだ。
宝は銀沙灘の中にある。
つまり、それ自体でなくなった銀沙灘の中には、宝も存在しないということになる。
これが、銀沙灘の謎を今の今まで解明させることなく維持してきた秘密だったのである。銀沙灘をそれがあるべき場所から奪ったイタリア人たちも、日々造営に励む管理人たちも、このせいで途方もない事実に気がつかなかったのだ。
一体、誰がこんな仕掛けを考えついたのかはわからない。壷の裏の手記の執筆者かどうかもはっきりはしない。おれの考えでは、世阿弥の造営時に実際の作業を担当した奴らの中に、少しおかしな奴がまじっていたのではないかと思う。
壷を発見してから集めまくった資料で、現在は京都歴史学館の倉庫に保存されている「山荘造営記」と「慈照寺伝」のどちらにも、人夫の中に変わり者がいたという記録があるからだ。後者はともかく「山荘――」の方は公認の記録書である。その中に単なる人夫を一行でも取り上げることは、この男、余程目立つ奴だったに違いない。どんなことをしたか記録してないのが、つくづく残念だ。
ところで、問題はどんな宝[#「どんな宝」に傍点]か、なのだが、こいつばかりは手にしてみないとわからない。壷の文も、宝の内容は記しておらず、“極めて重要なもの”との曖昧な表現があるきりだ。
誰にとって重大なのかは不明だが、重大なものなら宝だろう。銀沙灘の仕掛けひとつを考えてみても、それがおれたちの常識を遥かに越えたものだということがわかるはずだ。仕掛けそれ自体が立派な宝なのである。
これまで銀閣寺を訪れた観光客たちが、正体不明の宝と、その防御機構の前を素通りしていたと知ったら、何と思うだろう。常に人々の眼にさらされている宝――これほど推理小説的な盲点はあるまい。
和紙の半ばをすぎたとき、おれの全身を戦慄が貫いた。予想外のトラブルだ。
汗が噴き出しつつある!
おれの歩行に直接影響はないが、和紙を突き破って砂に染みこんだらどうなるか。
一体、どこまでの変形が認められるのかわからなかったが、汗のもたらした戦慄は、おれの精神集中を乱した。
足裏の下で、わずかに砂粒のきしむ感触。
いかん。
精神集中。楓のくれたイメージ。
よし、うまくいった。
だが――汗が。
顎先から……ああ……垂れる。
ぽつり、と。
あと五〇センチで頂上だ。
まだ、ぽつり、ぽつり、と。
三〇センチ。
もう待てなかった。おれは上体を屈め、左手を砂の頂上にさしのべた。
小指の先で、そっと触れる。
触れなかった。
来訪者の条件に叶ったのか、おれの手首は、確かに頂上にはなかった円形の穴の中に、すっぽりと収まっているのだった。
何とか、クリアしたらしい。
だが、手に触れるものは何もない空間だけだ。
おれはさらに前進し、穴の中を覗きこんだ。猶予は許されなかった。三分間の無重歩行の限界に達し、体重が感じられつつある。
おれは顔を寄せ、左手をさらに奥へと差し入れた。
固いものに指先が触れた。
あった!
その瞬間――
穴の中から、おれの手と重なるようにして、ぴゅっ! と緑色の何かが、おれの喉元めがけて噴き上がった。
手だ!
五指の先端には鋭い鉤爪。
おれは思わず、喉たけ[#「たけ」に傍点]を上げた。
そのせいだったろうか、それとも、銀沙灘の崩壊が、防御機構の殺人許容量にまでは達していなかったのかもしれない。
鮫の歯が閉じるような音をたてて、鉤爪はおれの喉元数センチ手前で噛み合わさり、次の瞬間には、電光の早さでもとの穴へ引っこんでいた。
同時に、おれの指も触れたものをしっかりと掴み、一気に引き上げていた。
途端にずるり、と足元が崩れ、おれは流れる砂に混じって数十センチ下方へ滑り落ちていた。
和紙を掴んで思いきり跳躍する。
着地成功。
素早く周囲を見廻したが、誰もいない。
銀沙灘の部分的崩壊は、多分、何も盗まれたり傷つけられたりした事実がないとわかれば、寺の管理側がもみ消してしまうはずだ。
おれは戦闘服を身につけ、気持ちいい冷気に包まれながら、成果を見た。
「何じゃ、こりゃ?」
思わず声が出た。
触れたときからおかしいと思っていたのだが、いざじっくりと眼を通すと、何とも奇怪な「宝」であった。
第一印象から言えば、肉片だ。
形は――正月の鏡餅、直径三〇センチぐらいのあれ[#「あれ」に傍点]を少し薄くつくって、真ん中から切断したと思えばいい。
厚さは十二、三センチ。鋭利な刃物で断ったような、滑らかな平面を見せている。
色は中央部が白っぽいピンク、円周部分は紫色に近い。
指先にねっとりした手触りが伝わってきた。
これが肉片だとすれば、たったいま切り取られたもののようだが、どっこい、こいつは少なくとも五〇〇年以上前から、あの砂の中にあったのだ。
おれは戦闘服のポケットから、用意してきた硬繊維の袋を取り出し、奇妙な宝を包んだ。表向きは適当な名前をつけたレコード店の手提げ袋と変わりないから、中身まで気にする奴はいないだろう。これでも、三千度の熱と零下一〇〇度の低温に耐え、五〇〇〇レムの放射線まで弾き返す。おれが金を出してる繊維会社で開発した品だ。
袋を小脇に、おれは足音もたてず銀閣の境内を出た。
宝がなくなっても、また銀沙灘がつくられる限り、あの手[#「あの手」に傍点]は生きつづけるのだろうか――そんな感慨が湧いた。
誰にも見つからずに参道を下《くだ》り、スカGの停めてある広場へ出た。
後はホテルへ帰り、こいつ[#「こいつ」に傍点]を冷蔵庫に入れて寝るだけだ。分折は東京に帰ってからでもできる。少なくとも明日からは、クラスメイトと高校生気分の修学旅行が楽しめるわけだ。
五メートルほど先に車が見えた。
月が出ている。大きな白い月であった。
普通の人間なら一仕事終えれば口笛のひとつも出るだろうが、おれはまだ緊張を解かなかった。六本木へ帰り、分析の結果が出るまでは安心できない。五〇〇年前の気狂いがつくった時限爆弾ということも有り得るのだ。
この習性が、また危機を救った。
車の後方の闇から、眼に見えぬ力の塊が音もなく突進してきたとき、おれは大きく左へ跳び、コンクリートの地面に着地していた。空中で衝撃波銃《ショック・ガン》を抜いた右手は、すでに力《パワー》の発生地点をポイントしている。
あの雲水坊主か?
右横から何とも言えない悪寒が伝わってきた。
力塊が砕けたのだ。
戦闘服の下で全身が総毛立つ。凄まじい悪念だった。もろに食らったら失神か一時的発狂は間違いない。
闇の奥から滲み出たような赤い人影が、おれの予感がはずれたと物語っていた。
今どきどんな女でも着ていないような、真っ赤な和服に黒い帯を締めた女だ。
髪は日本髷に結っている。芸者か? いや、芸者がこんな時間にこんな場所をうろつくはずはない。袖口で口元を押さえたりもしまい。血走った眼でおれをねめつけもしまい。左手を前へ伸ばして、何かねだるように指を広げたりもしまい。
まして、こんな台詞を、背筋が凍りつくような声で吐くことも……
「お返し。それを。私のものだよ」
おれは答えなかった。
女の足元を――月光の落とす影を見つめていた。
コンクリートの路面だけが、白々と広がる場所を。
女には影がないのだった。
「お返し」
女がまた言った。胃が張り裂けそうな声である。突き出した手が、さも口惜しいという風に空を掴んだ。
「お返し。それをお返し。返さないと……」
どうする?
女は一気にこちらへ走り出した。
猛スピードだ。
おかしい。
気がついた。
足が動いてない。飛んでくるのだ。
おれは容赦なく衝撃波銃《ショック・ガン》の引き金を引いた。増幅レベルは最大値に合わせてある。二二口径の空砲が生んだエネルギーが、虎をも吹っとばす衝撃波と化して女を襲った。
女は消えた。
手から衝撃波銃が落ちた。
全身を悪寒に包まれ、おれは膝をついていた。
胃の底から嘔吐が突き上げてくる。このまま衰弱死してもおかしくない激しさだった。
おれは必死に顔を上げた。
女はもとの位置に立っていた。血走った眼は笑っているようだ。
今突進してきたのは、女ではなかったのだ。分身――というよりめくらまし、人間の形をした悪念だろう。見事に一杯食ったわけだ。
おれは呼吸を停め、嘔吐感を呑みこんで体機能の回復に精神を集中させた。
女が近づいてきた。
口元を手で隠し、残りの手を前へ突き出したその姿は、おれでなければ蒼白になりかねない不気味さがあった。
立てるか?
立てる。
無感覚に等しい両足をふんばり、おれは立ち上がった。
女が立ち止まった。突き出した左手を、何かを招くように後方へ引く。
オーバー・スローで女は悪念を投じた。
おれは左へ跳ぼうとした。
その寸前、力塊は消滅した。
おれと女を底辺の両端とし、右向きの三角形を構成するその頂点に、黒衣の雲水が飄然と立っていた。
「おまえは――」
と言ったのは女である。語尾はねじ切られるように消えた。
雲水の左手が前へ伸びたのを見て、おれはため息をつきたくなった。
こいつも油揚攫うトンビになるつもりか。
「それを、戻せ」
手前へ蠢く指が放ったような言葉だった。相変わらず顔は見えないが、声からして五〇や六〇の年齢《とし》ではあるまい。苔が生えている。
要求は呑めないが、今のおれには救いの主だった。
少なくとも女と同じものを狙っているのだ。敵同士ってことになる。
「いいだろう。欲しけりゃ、取りな」
おれは、これだけは放さなかったビニール袋を、雲水と女を結ぶ直線のちょうど真ん中に放り投げた。それくらいのパワーはある。
どちらの視線もそれに集中し、どちらからともなく動いた。
女が先だった。
直立した全身から、もうひとつの身体が分離し、雲水へ突っかける。
雲水の右手が一メートル五〇ほどの錫杖《しゃくじょう》を握っていることに、おれはこのとき気がついた。
声なき気合とともに、それが稲妻のように伸び、先端が女の身体と触れ合った刹那、死の花が空中に花弁を広げた。
女の本体はすでに袋へと突っ走っている。
おれも地を蹴った。
雲水の錫杖が袋の底を貫くのと、女の手が把手を掴むのと同時だった。
おれがスカGのエンジンをスタートさせたとき、袋は二つにちぎれ、後方へ跳んだ女の手に、上半分が握られているのが見えた。
エンジンOK。
おれは思いきりアクセルを踏んだ。
バックミラーを覗く。
再び向かい合ったまま動かぬ二人の姿は、すぐ闇に溶けて見えなくなった。
狭苦しい通りを抜け、大通りに出るまで三分。
ことによったら、まだ睨み合ってるんじゃないかと考えて、おれはこみ上げてくる笑いを押さえた。
ジャケットの左胸に手をあてる。気色の悪い感触は、明らかに肉と思しかった。
あの雲水が登場することを考え、有機質の「宝」は、銀閣寺を出たところで、袋から移しておいたのだ。
化け物どもめ、トレジャー・ハンターをなめるな。
それにしても何者だろうか?
女は「返せ」と言った。
雲水は「戻せ」と言った。
どちらも意味は同じである。あいつら、こんなものをどうする気だ? どうやって手に入れた? 雲水はともかく、女があれ[#「あれ」に傍点]を自分のものだと思っているのは、ほぼ間違いない。
こりゃ一体何だ?
おれはホテルの部屋へ戻るとすぐ、電話で東京のマンションにある母《マザー》コンピューターを呼び出し、過去の資料にこんなものがないかどうか、調査を依頼した。
答えは一秒で出た。
「資料に記載ありません」
と。
仕様がねえ。ひとりであれこれこねくり廻したが結論は出なかった。
ナイフで少し削ったり、ライターの火で焙ったりしてみても、何ら反応を示さない。
この分なら大丈夫だろうと思ったが、世界に安全なものなどひとつもないことを思い出し、備え付けの金庫に収めた。
明日早速、警察のコネを活用して、東京へ送り、しかるべき機関に徹底調査をさせてくれる。
怪人物たちのことを考えるのはやめ、おれは“京都慕情”を口笛で吹き吹き、桑山たちの部屋へ出かけた。廊下でクラスの奴とすれ違うたび、
「あれ?
とか、
「さぼり」
とか言われたが、気にしなかった。
桑山たちの部屋は空っぽだった。時刻は十一時を廻っている。消燈時間などどうでもいいとして、本気で女子の部屋に潜りこんでるんじゃなかろうな、と少し気になった。
部屋を出合い頭に、矢島と出食わした。
「よう、色男。――問題児どもは何処行ったか知らねえか?」
にやにやしながら訊くと、矢島は不機嫌そうに顔を歪めて、
「ロビーにいたよ。何人かでコソコソやってる。君、風紀委員なら、厳しく取り締まったらどうだい。さぼってばかりが能じゃないだろ?」
「じゃあ、まず、おまえからやってやろうか」
おれは笑顔を崩さず言った。
「おまえ、青山のマヌカンに手を出して、百科辞典だの、ビデオ・ディスクだのを貢がせてるそうだな。高校生がそういうことしていいのか、このヒモ。それから、D組の服部正恵が物理のノート写させてと来たとき、おまえ、一ページ千円かキスかを要求しただろう。高校のときから商人やるんじゃねえ」
矢島は押し黙った。わかったか、ヒモ男。
おれはロビーへ降りた。
まだライトが点いている。
きょろきょろしていると、
「おい、八頭、こっちだ」
向こうから声がかかった。
ジューク・ボックスの前の応接セットを幾つもの人影が取り囲んでいる。
桑山、小西、網走は言うまでもなく、黒江と、B組の錨《いかり》、D組の樽島の姿も見えた。おや、クラス委員の裏成もいるぞ。
桑山たち三人以外の様子を見た途端、おれには事態が呑みこめた。
「どうした、どうした?」
と言いながらグループに加わる。
桑山が苦笑いしながら、
「こういうときになると、どこからともなく出て来やがる。まるでトラブル・ハンターだな、おまえ」
と言った。いいとこ突いてるよ、トラブルじゃないがね。
おれはにやにや笑いながら、黒江の顔を見て、
「どこの学校とやった?」
と訊いた。
「やられた」
と黒江は右眼の周りに出来た痣を撫でながら言った。錨は右頬を腫らし、裏成は哀れにも前歯が三本ほど欠けている。
「一方的か?」
と、おれはため息をついた。
「それも女にだ」
と小西が吐き捨てるように言った。
「なんだ? まさか、おまえら、外谷とやり合ったんじゃねえだろうな?」
「誰がそんな無謀なことしますか」
と錨が不貞腐れたように言った。この中じゃ、おれを抜かして一番の美男子だ。講道館柔道初段だから肩幅も広く、他の二人ならともかく、こいつまであっさりやられるとは考えにくかったが、相手が女じゃ別だ。おれと違って男女平等にぶちのめす男じゃない。
「他にも被害者が出てるんだ。男相手ならともかく、女にやられっ放しじゃ、学校全体が舐められる。お返しに行こうと話し合ってたところさ」
「それこそみっともねえ」
おれはハンカチで額の汗を拭きながら言った。クーラーは利いているのに、なんでこう暑いんだ。
「うちのクラスの男子がおまえらんとこの女子にやられたって文句を言う気か? とにかく、相手はどこの高校だ?」
「それは――」
これもハンカチを頭にあてていた裏成が名前を言った。こいつの場合、布の下に瘤のあるのがおれと違う。こいつの方がユニークといやユニークだ。
「やっぱり清真高か」
とおれはつぶやき、桑山に、
「おまえたちは平気だったのか? 付け文もらったんだろ?」
「出かけようとしたら、こいつらがやって来た。今までずっと話を聞いていたんだ」
「ふむ」
おれの胸に、嫌な予感が広がっていった。ひょっとしたら……?
「どんな手口でやられた? 話してみろ」
おれは焦りを抑えきれない声で訊いた。
結局、おれは午前さま寸前――つまり、零時少し前に、三度目の外出をする羽目になった。休む暇もないとはこのことだ。
平日だけあって、京の繁華街はほとんど店じまいしている。暑さのせいもあるだろう。これから繁盛するのは、水の商売とセックス産業だけだ。
おれは紺のブレザーの上下という制服姿で、四条通りを鴨川の方へと歩き、四条大橋の袂を左に折れて、先斗《ぽんと》町へと入った。
もう、学生じゃ商売にならない。となると、後は一杯機嫌のヒヒ爺いが狙い目だろう。
最近の不景気のあおりを食って、この庶民的な花街もつぶれるところが多いというが、いま、おれの前に広がる小さなバーやキャバレーは、好きごころを浮き浮きさせる悪趣味なかがやきを華麗に点していた。まさに誘蛾灯だ。
わざと締まりのない顔をして、おれはきちんとネクタイを締め、いかにも田舎の高校生という感じで通りをぶらつき出した。
五分程歩いたところで、獲物が食いついた。店と店との間に開いている小さな路地から、ひょい、とセーラー服姿の人影が現れ、紺のプリーツ・スカートを膝までめくり上げたのである。
「ふんが」
と、おれは外谷の口真似をして、ぶらぶらとその影に近づいた。
路地の脇にある外灯の明かりで、顔はよくわかった。
とう[#「とう」に傍点]のたったセックス産業の姉ちゃんが、貸衣裳屋のセーラー服を着てるんじゃない。眼鼻立ちのくっきりした、むしろ楚々たる顔立ちの女子高生である。
こりゃ、その辺の助平爺いは一発でひっかかるだろう。黒江たちのときは脚を見せず、一緒に見物しませんか、と声をかけてきたそうだ。
おれは立ち止まり、はじめて女の脚を見る、といった阿呆面をつくった。
女はにっと笑った。素早くスカートを下ろし、
「あなた大学生?」
気さくな感じだった。罪悪感なんざ、破片《かけら》もないらしい。
「い、いえ、高校生です」
女は眉を寄せ、
「こんな時間にひとりで何ブラブラしてるのよ?」
と訊いた。
「いえ、あの、京にいる親戚の家へ行くって許可をもらったんだけど、歩いてるうちに、道に迷っちゃって」
おれは、額の汗を拭きながら、どもりどもり言った。
女は信用したらしい。再び、にやりと笑って、
「じゃあ、ちょっと、カンパしてよ。今朝、東京から来たんだけどさ、着いた早々、新京極で財布を落としちゃったんだ。このままじゃ、お土産ひとつ買えないしさ」
「そりゃ大変ですね。よし。――で、幾らです?」
「いいから、来て。近くにいいホテルがあるのよ」
女の子は手招いた。ここからはうちの連中がやられたのと同じだ。
色っぽい眼つきで、五千円でいいのよ、と言われ、黒江は十万出すからモデルになってくれと口説き、後の二人は完全に興奮して、お袋に電話するだの、東京で会いましょう、などと口走ったらしい。そうなればもう、相手の思う壷だ。今のおれと同じく――
「でも、ぼく、まだ高校生、だし」
おれはわざと震えた。
「だから、高校生用のホテルよ。安心なさい。法には触れないから」
連中はタクシーに乗ったというが、おれは歩いて五分ほどのところにある小さなラブホテルへ誘い込まれた。
入るとすぐ、ホテルの空室を示したパネルがあり、おれは「夢の回転式七色ドリーム・ベッド」とやらの付いた一万円の部屋を選んだ。パネル下のボタンを押すと鍵が飛び出し、同時に天井から『足下の矢印に従ってお進み下さい』と女の声がした。
多分、どこからかTVカメラで覗いているのだろうが、女の子のセーラー服姿を見ても何も言わない。この辺は進んだものだ。フロントとは一切、顔を合わせなくてすむ。
おれたちは声と矢印の指示に従い、エレベーターの前まで辿り着いた。
部屋は三四二号室である。
「いいとこでしょ?」
と、エレベーターの中で、女の子がウインクしながら言った。
おれはワナワナと震えて、
「入るの初めてです」
「嘘ばっかり。慣れてるって顔よ」
「そんなあ。それよりキミ、今日着いたばかりと言ってたけど、どうしてこんなとこ知ってるの?」
女の子は一瞬、しまったという表情になったがすぐににっこりして、
「いいじゃないの、そんなこと。お楽しみを壊さないで」
と言った。
エレベーターはすぐ三階に着き、おれたちは外へ出た。
すぐ前が部屋だった。おれがキイでドアを開け、女の子が閉めた。
部屋はなかなか立派なつくりだった。夢の大回転ドリーム・ベッドも確かにあった。
「ね、シャワー浴びるから待って」
言い残して、寝室から消えるとすぐ、隣の壁を通して水のほとばしる音が聞こえてきた。
さて、と。
おれは足音を忍ばせて寝室を出、ドアのところへ行った。閉めればキイがかかる自動ロックだが、ノブを掴んで押すとあっさり開いた。キイはかかっていない。ほんの少し、閉めきってなかったのだ。
おれも、ロックせず、部屋へ戻った。
ライトを消して、そのままベッドへ入る。
一分としないうちに、浴室のドアが開く音がして、女の子が入ってきた。
セーラー服姿のときよりずっと豊満だ。
胸から腿までを覆ったバスタオルからは、乳房の肉が半ばはみ出していた。顔や身体つきは、三人の被害者の話と少し違うが、全員、とびきりの美人でグラマーなのは間違いあるまい。これなら、黒江たちごとき、一発で茫然自失に陥ったことだろう。
石けんの香りを濃厚に漂わせながら、女の子は、首だけ出したおれに近づいてきた。
「一服していい?」
とソファに腰を下ろして訊く。
足を組んだ。白くて太い腿の奥まで見えそうだ。
おれは眼を凝らしたが、くそ、うまい具合に足が重なってやがる。
おれの返事を待たず、女の子はソファに脱ぎ捨てたセーラー服のポケットから「バージニア・スリム・ライト」のパッケージと百円ライターを取り出して、スパスパやり始めた。
時間稼ぎか。
「自己紹介まだだったわね。わたし、めぐみ。もちろん本名じゃないわ」
「ぼ、ぼく、長嶋茂雄」
「やだ」
女の子――めぐみは吹き出した。
「固くならないでって言ったのに。でも、あなた、とっても可愛いわ。お金なんかいらない。つまみ食いしちゃおうかしら?」
「やだ、怖い」
おれはわなわなと身を震わせてみせた。めぐみは、もう堪らない、といった表情で、
「ね、何したい?」
と訊いた。声が熱い。その気になってるのだ。
「何? 何ですか?」
めぐみは妖艶に笑った。それでも高校生らしさは拭い切れない。
「ここまで来て、やだ。あなたが私にしたいことよ。それとも、ね、まだ童貞?」
「ど、童貞?」
失神せんばかりの口調に、めぐみはもう一度吹き出した。
「よしてよ。ガールフレンドの十人もいるような顔をして。好きにしていいのよ。二人しかいないんだから、遠慮なく言ってみたら? それによって料金が変わるの」
「ど、ど、どんなのがあるんです?」
「まず、お話だけする」
「?」
「これが千円ね。それから、手を握るだけ、これも千円。これとお話を合併させると三千円になるの」
「へえ」
と言いながらおれは腹を立てていた。本気で怒っていた。ふざけやがって、この。しかし、それを押さえて、
「でででも、普通、男と女がその、一緒にラブホテルへ入ったら、何かもっと別の、特別なことを、一生懸命するんだって、本に書いてありましたたた……」
めぐみの口元に弄《いら》うような笑みが浮かんだ。女は本来的に小悪魔だ。
「だからさ、話をよくきいてよ。そういう向きが好きな男性《ひと》のために、特別コースがあるんだから。私がね、このタオルの上だけずらしてオッパイ出すでしょ、それが一万円、全部脱いだら、三万円、オッパイ触りたかったらもう一万円プラス、お尻眺めるのは、全スト、プラス一万円で、撫でるなら二万円足すの。――ね、どれにする?」
「ぼぼぼくは、これでも大人のつもつもつもりです」
おれはどもりながら言った。
「もっと、大人のつつき合いを」
「はい、そういう方のためにも色々用意してございますよ」
めぐみはウインクした。
「唇へのキス二万円、舌を差し込んだら四万円、オッパイは乳首のみ三万円、後の部分は二万円でいいわ」
「それでオッパイは片っぽだけというんじゃ?」
「あら、どうしてご存知」
「ぼく、失礼します」
掛け布団をはねのけたおれの服装を見てめぐみは眼を丸くした。
「ちょっと――ちょっと待ってよ!」
いきなり抱きついてきた。おれは抵抗せずベッドへ押し倒された。
熱い息が石ケンの匂いに混じって鼻孔を充たした。眼の前で、半開きの若い唇が震えている。白い歯とピンクの舌がはっきりと見えた。こういうテクニックは娼婦顔負けだ。誰が仕込みやがった。
「ふふ、あわてん坊ね、服も脱がずにベッド・インなんて……」
おれが自由になると思ったらしく、めぐみは妖しい花のように笑った。
右手でおれの頬を撫でつつ、左手でYシャツのボタンを上からはずしていく。
「あんたみたいに固いの、今どき貴重品よ。あたしの好み。ね、コース外のこと、してあげようか?」
正直、おっ、と思ったね。
「ほら」
めぐみはボタンをはずした手でおれのシャツを開くと、乳房をカバーするタオルの上端を掴んで、ぐい、と下に引いた。
弾けるように若々しい乳房が出た。身体と同じピンクなのは、年相応の羞恥と欲情のせいだろう。
ゆっくりと、めぐみは乳房を下ろし、乳首だけをおれの裸の胸に押しつけた。いい気持ちなのはもちろんである。
「こうすると、いい気持ちよ」
めぐみの声と同時に、乳首はゆっくりと下方へ動き始めた。
「わあ、くすぐったい」
痙攣と歓喜の声を絞り出しながら、おれはあきれはてていた。近頃の女子高生は何を勉強してやがる?
「どう? もっと素敵なサービスもあるのよ。値段次第だけど――まけとくわ」
「そうかい」
おれは低くつぶやき、めぐみの腰に手をあてた。一気にずり上げ、顔の上まで乳首を持ってくる。
「な、何よ、急に――あなた、ひょっとして!?」
驚愕の声はそこで止まった。右の乳首はおれの口に収まっていた。
「あなーた、あ、ああーああ、あーっ」
上半身剥き出しの身体が大きくのけぞったが、おれは乳首を放さなかった。
めぐみは両手でおれの手を引き離そうと試み、無駄と知るや、拳で胸を叩いた。
快いリズムだ。力などこもっていない。その手が力なく垂れるまで二秒とかからなかった。
おれは反対側の乳首に移った。めぐみは自分から押しつけてきた。この子のせいじゃない。おれがうますぎるのだ。
おれは三〇秒ほど彼女を愉しませてから、ぽん、と唇を離した。
「駄目――やめちゃ、駄目!」
めぐみの哀願を尻目に、
「つづけて欲しかったら、質問に答えろ。いいな?」
おれは冷酷に言った。返事も待たず、
「うちの高校の生徒を恐喝したのはおまえらか?」
「そうよ。そうよ。だから早く――」
「何校だ?」
「清真よ」
「やはりな。――初心《うぶ》な男生徒をだまくらかして桃色遊戯に誘い、金だけまき上げてドロンなんて、太え野郎だ。あと何人、仲間がいる? 言えばこうしてやる」
乳首が音を立て、めぐみは髪の毛をふり乱して、いい、いいと絶叫した。
「何でも言う、何でも答える。お願い、もっと凄いことをして」
「何人いる?」
「全部で十人よ。他に――」
「他に?」
おれが訊き返した途端、けたたましい足音がドアの方から湧き、寝室の戸口が幾つもの人影を吐き出した。
二、三分前にこっそり入ってきて、おれたちの様子を窺っていたと、ちゃんとわかっていた。
いずれも長い髪にセーラー服姿だ。人数は四人。うち二人が木刀とバットを握っている。つけ睫毛とルージュ、頬紅が異様に濃い女たちだった。
おれは身体の上のめぐみをセーラー服どもの真ん中に叩きつけ、ベッドから跳び降りた。
悲鳴が上がった。
なんと――男の声だった。読めたぜ。錨がかまされたのも道理。こいつらはみな女装した男たちだったのだ。恐らく細っこいのだけ集めたのだろう。それにしたって四人が武器を持ちゃ素手のひとりぐらいどうとでもなる。
おカマどもが体勢を立て直すより早く、おれは連中の真ん中に突っ込んだ。
足刀で左の奴を壁際へ吹っとばし、右の裏拳と左の突きをぶち込んで二人に鼻血を噴かせると、後のひとりは自分からひっくり返った。このアマチュア。おまえらとは喧嘩の格がちがうんだよ。
「痛いよお」
と鼻の頭を突きつぶされた奴が、女みたいな声をあげて泣き出した。およそ喧嘩に馴れていない。不意打ちぐらいが関の山だろう。こんな奴らにクラスメイトはやられたのか。おれは珍しく友情に燃えて、もう少しぶん殴ってやろうかと、無傷な奴の胸ぐらをひっ掴んだ途端、
「よしなさいったら!」
背後で金切り声が上がった。
おれは、ゆっくりと大仰に肩をすくめた。ついにお出ましか。
「はっはっは」
と、おれはうつろな笑い声をたてた。声はなお鋭く――
「もう。ちょっと遅れたら、この騒ぎ。あんたって、ほんとに気狂い犬ね」
「うるせ、この。おまえはツツモタセの女将か、この恥知らず」
おれはふり向いてゆきの顔を見つめた。憤慨していても相変わらず色っぽい。外谷が怒るとおれでも後じさるがね。
「修学旅行の行く先と期間が同じだっていうから、イヤな予感がしてたんだ。やっぱりおかしなこと考えてやがったな、太宰先蔵の名が泣くぞ」
ゆきの祖父は世界に冠たるトレジャー・ハンターだった。その実力と業績に匹敵する同業者は世界にひとりもいない。このおれ――八頭大を除いては。
「ひと聞きの悪いこと言わないでよ!」
とゆきは歯を剥いてから、つんとすましてそっぽを向いた。
「これでも、ちゃんとしたビジネスですからね。フン、だ」
「初心な男を色仕掛けで引きつけ、不意打ちで金むしり取るのがビジネスか。高校生のくせに売春組織なんかつくりやがって。人の顔に泥塗るのもいい加減にしろ!」
「ああら、おっしゃいましたわね」
ゆきは、馬鹿丁寧な口調で口を突き出した。
「断っておきますけど、うちのクラブは、不法でいかがわしい行為などいたしたことなど一度もありませんことよ。痛い目に遭った方は、それなりの違反行為を行ったんですわ。あなたの同級生の場合ですと、黒江さんという方はヌードを見るだけと約束しておいて途中から、モデルになれるかどうかチェックしてやると、バストやヒップに触りまくったんですの。しかもその後、『これ、サービスね』とおっしゃいました」
あの禿。
「他のはどうした。あいつらはまともだったはずだぞ」
「ほほ、最初はそうでも、風呂上がりの女の子がバスタオル一枚で前に立つと、みなさん、ケダモノになられるらしいですわ。約束と違う行為を強要しようとしてうちのガードマンに注意されましたの」
「木刀やバットでぶん殴るのが注意か。――財布をかっぱらったのはどういうわけだ?」
「精神的慰謝料ですわ」
「ふざけるな!」
伸ばしたおれの指先から、ゆきはすっと身を引いた。この辺の体術は見事なもんだ。素質と仕込んだ先生がいいからな。
「とにかく、おれの仲間の財布を返せ。それから治療代ももらうぞ。おまえが責任者だろ」
「嫌だって言ったら?」
ゆきは顎を突き出した。この娘は何をやっても色気がついて廻る。キスしてくれとでも言っているようだ。
「警察へ突き出す? ふふ。そんなことできないわよね。一応、あなたが身元保証人だもの。それより、さ」
ゆきは妖艶に微笑し、まだ床の上でこっちを見ているおカマどもに出て行け、と手で合図した。大した貫禄だ。男どもはすぐ従ったが、めぐみは寝室のドアのところに立ち止まった。未練がましい声で、
「ねえ、あたしもいちゃいけない?」
「駄目よ。あんたの手に負える相手じゃないわ。――どういう気?」
ゆきはちらりと現場担当者の方を見て、
「あんた、まさか――」
「だってさ。結構、きりっとしてるじゃない? 今までのとえらい違いよ。それに――」
「それに何よ?」
「あっちも上手だし――」
言った途端、めぐみは真っ赤になってうつむいた。ははは。
ゆきは眼を剥いた。
「もう! 一発で丸めこまれちゃって! なおさら、そばへ置いとけないわ。早くお帰り。あなたの料金はちゃんと取ってあげるわよ」
「ううん。あれはサービスよ」
「うるさい、馬鹿!」
ゆきに一喝され、めぐみは渋々と引き上げて行った。
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第三章 古都を狙うもの
で、おれとゆきが残った。
ラブ・ホテルの一室である。
「ね、あんた、風紀委員なんだって?」
ゆきは、いつもの笑いを浮かべながら、おれのかけたソファの隣へやってきた。
「何で知ってる?」
「あんたの高校にもボーイフレンドはいるの」
「社交好きで結構だな。とにかく、今後、おかしな商売はやめるんだ。いつ警察沙汰にならんとも限らねえ」
「やだ。そんなときのためにあんたがいるんじゃないの」
ゆきは両手をおれの左手に絡め、ぐうっと身体を寄せてきた。
「ねえ、あたしと組まない?」
と訊く。
「組むのは構わんさ」
とおれは手を抜こうとしたが、ゆきはしがみついてきた。かなり気を入れてるな。
「あら、なら、どうしてそんなに情《つれ》ないのよ?」
「裏切るのがわかってる女と組む馬鹿はいないぜ」
ゆきは、きっと、おれを見据えた。もともと色っぽいだけに、ぞくりとする色気がある。怒らせるためにちょっかいを出したくなるというのは、こんな女だ。
「あたしがいつ、大ちゃんを裏切って? ちょっと、名誉毀損よ。ひとつ具体例上げてよ」
これが女である。男が女に勝てないと思うのは、こんな時だ。
おれは肩をすくめて、勘違いだったよ、と言った。
「でしょ? そうよ。だからさ、ここは信頼関係に基づいて、二人で修学旅行の学生のために、一大歓楽結社をつくりましょ、ね?」
「何が一大歓楽結社だ!」
おれは手をふりほどいて立ち上がった。
「純情な田舎の高校生を色仕掛けでラブホテル連れこむのに、結社などいるものか! まして、かんじんなことは何もさせねえくせに!」
「ああら、かんじんなことさせれば、いいわけ?」
顎を突き出して挑発するゆきに、おれは一瞬、言葉を失った。そこを逃さず、ゆきは詰めてきた。
「大体、あんたダサイのよ。田舎と高校生と純情がどうやって結びつくのさ? 今どき、そんな高校生、生きてる化石よ。岩手にも北海道にもいやしないわよ。高校生が京都に修学に来るなんて、本気で思ってるわけ? 毎月、どれだけの雑誌が京都特集やってるか知ってる? その辺の小学生だって、神社仏閣どころか、ストリップ劇場やソープランドの場所まで暗記してるのが現代よ。このアナクロ。古都の美、日本の故郷ですって? おお、やだ。彼らはね、辛気臭い寺や遺跡じゃなくて、新しい出会いを求めてくるのよ。古都は目的じゃなくて、手段なの。ムードたっぷりの舞台で彼らは恋をしてみたいの」
「おまえもか」
「はい、はい」
とゆきはおれの皮肉にもめげず、下顎を突き出してわざとらしくうなずいた。
「とにかく、そんな彼らのための新しい商売を私たちははじめようとしているのよ。あんたみたいな血の中にプレイボーイが流れてるのはいいわよ。だけど、私たちの対象は、異性に声もかけられない初心《うぶ》でシャイな男の子や女の子。これをきっかけに何組もの恋と愛が芽生えれば、とても素敵なことじゃなくって?」
「おまえのしてるどこがプラトニックだ? あれは管理売春だぞ、馬鹿野郎!」
「最後のラインは越してないって、何回言ったらわかるのよ!?」
ゆきは金切り声をあげた。
「ニキビだらけの若いのが、ピチピチした女の子とこんなところへ入ってだな、おっぱいがどうだの、キスがどうだの言われたら、頭がおかしくなるのが当たり前だ。おまえ、それを見越して暴力学生を配置してたな。しかも、ご丁寧にセーラー服まで着せやがって。この犯罪娘!」
「わからない人ね!!」
「わからないのはおまえだ!」
おれたちはにらみ合った。
しかしまあ、なんとレベルの低い対決であることか。情けなくなるね。
「とにかく、最後通牒は出したぞ。今後、うちの男生徒が、おまえの仲間に痛い目に遭わされた場合は、おれが決着をつける。そのつもりでいろ」
「……」
さすがに、ゆきは鼻白んだ。いざとなればおれがどんなことをやらかすかは身に染みているはずだ。なにせ、共同生活者だからな。
おれは、にやりと笑ってドアの方へ歩み寄った。
その前へ、すっとゆきが立ち塞がる。
おれの脅しからいつ立ち直ったのか、口元には、例の、あの、淫ら極まりない微笑が浮かんでいた。
「何のつもりだ、おまえは?」
「そう急ぐことないでしょ。久しぶりに会ったんだし」
「昨日てのは久しぶりなのか?」
「いちいち揚げ足とらないでよ」
ゆきは、馬鹿、とつぶやいて、おれの首に白い腕を巻いた。
「よせ」
「放しちゃ駄目。お願い」
おや、しおらしいことを。
「邪魔するな。門限があるんだ」
「よしてよ。どうせ、同級生と同じ部屋になんか泊まってないくせに。あの学校、あんたが筆頭株主でしょ?」
「それとこれとは別だ。おれは目下、平凡な高校生でな。毎日、おふ[#「ふ」に傍点]の味噌汁とアジの干物を食わなきゃならん」
「えい、もう、うるさいわね」
いきなり、ゆきは唇を寄せてきた。
腹に一物あるのはわかっているのだが、いつも拒否できないんだよな、これが。
ゆきのキスに躊躇《ためらい》はない。いつも濃厚だ。
激しく張りついた。
舌が入ってくる。甘い香りがおれの鼻孔を満たした。
ゆきが押した。
おれはその力を受け流し、ベッドへ放り出した。ゆきの手は離れない。折り重なって倒れた。
スプリングがギイ、と鳴った。
ゆきはおれの下で舌舐めずりをした。
「ここまでは、うち[#「うち」に傍点]でもオーケイしてるわ」
喘ぐような声に、おれの頭はクラクラと揺れた。
「これから、どうする? うちの規定内行為にしとく? それとも、逸脱する? ふふ、もうガードマンはいないのよ」
おれは答えず、白いブラウスの上からゆきの乳房を鷲掴みにした。
「あ――ああ……」
ゆきはのけぞった。演技じゃない。おれのテクニックにかかって、とぼけていられる女はいない。
「おや、ノーブラかと思ったら、やけに薄いのをつけてるな。男どもががっかりするぞ」
「ほっといて……学校じゃはずしてるわよ」
「この淫乱娘」
おれはののしって、右手をひと振りさせた。
あっという間に、ゆきのブラウスの前は完全にはだけた。おれだけの特技である。ジッパーはやりづらいが、ボタンならどんなに固くても百パーセントうまくいく。もっとも、こんなに勢いよく開いたのは、九二センチのバストのせいもある。
「すっばや―い」
感嘆の声をあげるゆきの乳房に、おれは唇を押しつけた。
熱くてやわらかい肉の感覚は、いつも新鮮だ。
ゆきは激しく身をよじっておれの頭を抱いた。
白い指が髪の毛をかきむしる。
もう忘我の極にあった。
おれの左手を掴んで下半身の方へ導く。
手が腿に灼きついた。スカートはつけ根までめくれ上がっている。
「駄目よ、途中で逃げちゃ」
ゆきは呻くようにささやいた。
「こんな愉しいこと……女だって気持ちいいんだから。……それを押さえてるんだから……良心……的でしょ……」
阿呆か。
おれは右手を柔肉の内側へさし込んだ。
指先にナイロンが触れた。熱くたぎっている。
軽く指を動かしただけだ。ゆきは引きつるように上体をずり上げた。
そのとき――
けたたましいベルの音が、おれを跳ね起きさせた。
ベッドの脇で電話が喚いている。
ゆきの手より早く、おれは受話器を耳にあてていた。
「何するの――あたしよ!」
と叫ぶのも無視して耳をすませたのは、予感があったからだ。
つくり声を出すまでもなく、切迫した女の子の声が、
「大変よ、ボス[#「ボス」に傍点]。――いま、あたしたちの眼の前で、お寺が消えちゃったわ!」
それから一時間後、おれは現場[#「現場」に傍点]へ急行した。
ゆきは――しゃらくさいことに――着々と何とか結社の準備を整えており、別の名前で四条の豪華マンションの一室を借り切っていた。電話はそこからであった。
かけてきた娘は動転しきっており、わけのわからないことを一方的にしゃべりまくったため、おれはすぐゆきに代わり、電話が終わってから大体の事情を聞き出した。
「寺てな、どこだ?」
「違うのよ」
とゆきは苦い顔をして、
「お寺じゃないの。神社よ――八坂神社」
おれは緊張し、同時に呆れ返った。
「おまえのクラスメイトは、八坂さんの名も知らねえのか。やっぱ、修学旅行は必要だね」
「それどころじゃないでしょ」
その通りだった。
おれたちがタクシーをとばして到着したとき、誰かが通報したらしく、八坂神社の敷地にはロープが張り巡らされ、警官隊とパトカーが鈴なりになって、鬼でも入れない警戒ぶりを示していた。
面白いことに、彼らも詳しい事情は知らないらしく、一体どうなってんだ? しっ、黙ってろ、といった会話があちこちで交わされていた。小声だが、おれの地獄耳からは逃げられない。
おれは単なる通行人のふりをして、何かあったんですか、と警官のひとりに訊いてみたが、返事は、
「八坂さんの境内に強盗が逃げこんだらしいです」
の大嘘だった。
おれは、とりあえず、ゆきのマンションへ押しかけた。
もう二時を廻ってる。眠気など消しとんでいた。
電話の通り、マンションは八坂神社の鳥居を見据える白亜の建物だった。
エレベーターに乗ってすぐ、ゆきは4Fのボタンを押し、おれは、
「おまえには月々五万円の小遣いしか渡してないはずだぞ。ここの家賃は幾らだ?」
「うるさいわねえ。二〇万よ」
「敷金、礼金、保証金と管理費だけでも百万は下らねえだろう。そんな金、何処で工面した?」
「まず、誕生日があるでしょ」
と、ゆきは指折り数えはじめた。
「それからバレンタイン・デーに桃の節句、クリスマスにお正月、天皇誕生日に体育の日ね。……こういうときは、ボーイフレンドがプレゼント持って集まることになってるの。みんな現金か宝石で貰ってるだけよ。足りない場合は、誕生日が年に三回になるとか……」
「幾ら貯めた、え?」
「内緒よ」
と言って、ゆきはにんまりと笑った。
ドアが開き、おれたちは五秒とかからず、ゆきの部屋の前に着いた。
ゆきがインターフォンのスイッチを押す。
蒼白の顔に涙の痕も痛々しい女子高生が出てくるにちがいない。
ドアはすぐに開いた。
間違いなく女子高生だったが、別に蒼白でもなかったし、泣いてもいなかった。
丸ぽちゃの可愛らしい顔が、どこかシラけた風に、
「お帰りなさい、ボス[#「ボス」に傍点]」
と言った。
「なによ、あなた、やけにけろっとしてるじゃない?」
とゆきが部屋へ入りながら不思議そうに言った。
「そう?……この方、どなた?」
女の子は不審そうにおれをねめつけた。
「あたしのパートナーよ。それなりの口のきき方をしてね」
とゆきは鋭く言い、二〇畳はありそうなリビング・ルームのソファに腰を下ろした。応接セットも特級品だ。黒檀のキャビネットには、ナポレオンだの、シーバスリーガルだのがグラスごと勢揃いし、高校生らしく、濃縮オレンジ・ジュースの瓶も並んでいた。
「で、さっきの電話の件だけど、あなた、何を見たの?」
ゆきの質問に、女の子はあっさりと首を横に振った。
「なによ、それ?」
ゆきの眼が光った。凄味さえある。さすがは太宰先蔵の孫娘だ。決めるときゃ決める。おれは腹の中で唸った。
娘はゆきから眼をそらして、
「何でもないの。あれ、嘘なの。窓の外見てたら、次々にパトカーが来たんで、急に怖くなって、早くボスに帰ってもらおうと、つい……」
「嘘をついた?」
「そう」
「八坂神社が溶けたって?」
「……」
「嘘にも色々あるわ。本当らしい嘘、嘘っぽい嘘、とんでもない嘘……馬鹿らしい嘘っていうのもね」
ゆきは静かに言った。娘の横顔をじっと見据えて、
「あなたのがそれよ。つまり、嘘じゃないってこと。……でしょ?」
「ちがうわよ」
驚いたことに、娘は首を横に振った。
「自分でもよくわからないけれど、あれしか思いつかなかったの。本当よ、ボス、本当なんだってば」
ここで、ゆきちゃん、柳眉を逆立てるのかと思いきや、おれが拍子抜けするような、淡白な口調で、
「そう」
とだけ言った。
「わかったわ。じゃ、もうお寝みなさい。あたしはこの男《ひと》と話があるから、ここにいます。おかしな夢見ないで、ぐっすり眠ることね」
娘がため息をついたのを、おれは見逃さなかった。
おれたちに挨拶して出ていった後、それを告げると、ゆきもうなずいて、
「安堵の吐息ね」
と言った。
「電話を受けてから真っすぐここへ来るべきだったわね。タクシーを拾うのに手間取ったけど、一〇分もあれば来れたわ。一時間はかかりすぎよ」
「同じことさ」
とおれは、娘の閉じたドアへ眼をやりながら言った。
「この辺一帯の住人……というより、八坂神社消滅の目撃者は、同じ目に遭ってるはずだ。彼らを発見し、何も見なかったことにするよう説得する――この場合は脅しに近いな――大分、大がかりな手が打たれてるようだ」
「誰がやったのかしらね? あの娘《こ》、あたしのグループじゃ一番タフなのよ」
「警察の上層部――だけじゃなさそうだな。ひょっとしたら、京都府全体」
「よしてよ、馬鹿らしい」
「八坂さんが消えるのは馬鹿馬鹿しくないか?」
「消えたって、どうしてわかるのよ?」
おれは南禅寺三門の怪異を話してきかせた。
ゆきは今度は眼を丸くして、
「なぜ、もっと早く、タクシーの中で話してくれなかったのよ!?」
「運転手は京都の人間さ」
「あんた、大ちゃん――本気でそんなこと考えてるの?」
おれは肩をすくめた。
いきなり、ゆきは、右手をドアの方へ伸ばした。
「?」
「出てって」
敢然と言いやがった。
「あんたって、ほんと、ロクでもない事に首突っこむのが好きね。生まれついての厄病神だわ。出てって。おかしなものを片づけるまで、二度と戻ってこないでちょうだい!」
おれは苦笑した。この辺は筋が通ってる。
「またな」
と言って、ドアの方へ向かった。
「いーっだ」
ゆきの別れの言葉だった。舌を出している顔までわかる。その程度で、何もかも決着がつけばいいのだが。
おれは八坂神社へ引き返した。
パトカーと警官の数はもっと増えている。それなのに、確かに騒然としてはいるが、異様な静寂が古都の一角を覆っていた。
原因はすぐにわかった。
誰も口をきかないのだ。――と言っては語弊があるな。××班整列、だの、鑑識はこちらへ、だの言う声はちゃんと飛び交っている。それですら奇妙に低く、それが途切れると、束の間、完全な沈黙が落ちる。要するに、誰ひとり、無駄口を叩かないのである。
ロボットの警官を思わせた。
ただならぬ事態の進行は明らかだった。第一、マスコミの車が一台もない。
おれは鳥居の前の石段にロープを張ってる警官たちのうち、どう見ても上級管理職といった中年男に近づいた。
「何だね、君は?――目下、非常警戒中だ。ここへ来ちゃいかん」
とハンカチで額の汗を拭き拭き言うのへ、
「八頭ってもんだ」
おれは、男が眼の玉をひん剥く光景を想像しながら言った。
こう答えやがった。
「それがどうした?」
おれの調査と質問に対して、すべて隠し立てせず、最優先で便宜を計れ――ゆきとラブホテルを出る前、おれは東京の法務大臣宅へ電話をかけ、京都府知事にこう命じるよう伝えたのだ。
それがこのざまだ。
法務大臣の奴、眠ってるところを叩き起こされて不愉快になったか? いや、もう慣れっこだと、この前会ったときに笑ってた。すると――
この怪現象は、法務大臣の力すら及ばぬ重大事なのだ。
押して出て、押し返されたら引くのがコツだ。
おれはうむ、とうなずき、
「失礼」
ときびすを返した。
「待ちたまえ」
と中年男の声が背中を叩いたが、構わず石段を降りる。
何が生じたかは、神社の境内を見ないでもわかっていた。
闇が風景を隠しても、匂いはごまかせない。
それでも必死に脱臭効果を上げているのであろう。おれでなければ、うっすらと夜気に漂うこの匂いが、南禅寺三門の消滅時に香っていた悪臭と同じものだとは、気づかず終《じま》いだったに違いない。
「待ちたまえ」
声がまた呼んだ。はっきりと、疑惑と怒気がこもっている。公務員の悪い癖だ。てめえが国を背負ってると思ってやがる。飼い犬。
こういう相手には徹底的に反抗することにしている。
幾つもの足音が追ってきた。
おれはふり向きもせず石段を降りると、眼の前の通り――東大路通りを素早く右折した。
「待たんか、こら!」
声は叱責に変わった。
まるっきり、やくざの口調だ。
おれは走り出した。
「待てえ!」
声がついてくる。足音からして三人だ。
おれはスピードを上げた。
あっちも合わせた。距離は約四メートル。
警官の足音が近づいてくる。全力疾走だ。
おれは前へ出た。
また、四メートル。
間隔を開けも狭めもせず、五〇メートルも突っ走ったろうか。
足音が急に乱れた。遠くなる。こりゃ、いけない、と、おれもスピードを落とした。
おれにとっちゃハイペースのジョギング程度だが、警官にしてみれば、息が切れるまで走り抜いたことになる。
だが、まだ早いぜ。
「ほれほれ」
とおれは三人の方を向いてはっぱ[#「はっぱ」に傍点]をかけた。
「不審人物はここにいる。追いかけたが息が切れましたって言うつもりか。はい、もうひと息。フレフレ」
「この……ガキ……」
「け――警官を――舐めおって……」
「見とれ。いま、ひっつかまえて……くれ……る……」
息も絶え絶えだが、それでも足を止めもしない。さすが治安関係者、鍛え方が違う。
イチニ、イチニ、と手を叩くと、凄まじい形相で追いかけてきた。
やはり、前よりのろい。
おれもスピードを合わせて逃げた。距離は四メートルだ。
今度は二〇メートルも保たず、全員がへたり込んだ。ひとりが堪らず路上へ膝をつき、後の二人は上半身を曲げて、派手に空気を吸いこむ。
「どうした、どうした?」
とおれは、その場で足踏みをしながら言った。
「訓練の苦しさを忘れたか。おまえらそれでも男か。ここは平地だぞ。ほれ、イチニ、イチニ……」
「糞お〜〜」
「す――す――す――少し――待っと――れ――」
「おれは誰の挑戦でも受けるぜ」
こう言って、ガッツポーズを取るのはいい気分だった。
呆れたことに、三人はまたも走り出した。四メートル先の犯人じゃ拳銃を射つわけにもいくまいが、なかなか見上げた根性をしている。おれは少し、こいつらが好きになりかけていた。
今度は十メートルも保たなかった。
三人ともぶっ倒れ、アスファルトに荒い息をふっかける。
もう駄目だろう。
なにせ、基礎体力が違うのだ。
おれは九歳のとき、アフリカで、凶暴なヒシという部族に追いかけられたことがある。
武器なし食料なし水なし気温四五度という超悪条件下で、丸三日、一睡もせずにサバンナを走り通し、追っ手は全員日射病で死んだ。
幼児の頃から鍛え抜いた耐乏訓練とヨガのおかげだ。いくら日本の警官でも、三歳で毒蛇、毒虫のうようよする熱帯林の中へ放り込まれ、三〇キロも歩いて脱出するなんて訓練はカリキュラムにあるまい。
ところが――
ひとりだけ――二〇歳《はたち》そこそこのいちばん若そうな奴が、歯を食いしばりつつ立ち上がったのだ。
正直、見直したね。
おれは無言でそいつに近づいた。
肩で息をしている。全身汗まみれだ。
体力こそ絞り尽くしたが、おれへの憎悪とファイトだけは失っていない眼が、心臓を貫いた。
「貴様……絶対に……逃がさ……ん……」
「見直したよ、京都の警察を。犯人を捕まえるのに、おいでやす、と言うのかと思ってたぜ」
「舐め……るな」
警官の右手が、おれの顎へと弧を描いた。
軽くかわした。
体勢を立て直すこともできずに、倒れこんでくるのを、おれは上体で支え、
「また会おうぜ」
嘘じゃない親愛の情をこめつつ、そいつの頑丈そうな顎へ右アッパーを叩きこんだ。
絶妙、と自慢してよかろう。
多分、おれの敬意もわからず、そいつはひっくり返った。
素早く、後頭部を手で支えて路面にぶつからないようにし、おれは再び身を翻した。
一〇メートルほど走ったとき、首筋に冷水がかかった。
反射的に右へ跳んだ耳たぶを、熱いものがかすめ、次の瞬間、銃声が夜気を揺るがした。
へばった二人のうちひとりが発砲しやがったのだ。
おれはとっさに左手の路地へ飛び込んだ。
もう二発。
おれは全速力で狭い路地を抜けた。
あちこちで靴音が湧いたが、おれは、気配を察知する超感覚を駆使して追撃者を煙《けむ》に巻き、ホテルへ帰りついた。
玄関のドアを開けたとき、東の闇空は青い色を帯びつつあった。
午前四時七分。――警察の包囲網を切り抜けるのに、一時間以上を要したことになる。七歳のときのアテネ非常線突破以来の最悪レコードだ。
二時間ほど仮眠をとっただけで、おれは朝刊の来る時刻を見計らってロビーへ降りた。
眠いのは当たり前だが、ヨガ独特の深層睡眠法を使ったから、気分は悪くない。
新聞には、とんでもないニュースが載っていた。
と言っても、一面トップにでかでか、というわけじゃない。
最終ページの左隅に、何気なく読めばすっとばしそうな大きさの活字で、こうあった。
「八坂神社参拝禁止」
記事を読んだ限りでは、夕べボヤを出し、社務所を全焼したため、それが再建されるまでの数カ月間、神社の参拝を禁止する、とあった。
ボヤねえ。サイレンも鳴らないのに。
そうこうしているうちに、食事の時間になり、ロビーもざわつきはじめた。
うるさいから、おれの部屋へ戻って歯を磨こうと立ち上がりかけたとき、
「あ、いたいた」
古賀雄一が目ざとくおれを見つけ、近づいてきた。
歩き方はゴリラに似ている。やや前屈みで両手は自然に垂らすのだ。奴はどうやら、普通の人間の歩き方より、こっちの方が好きらしい。幼児体験てのは恐ろしいもんだ。
「ね、言ってくれたかい?」
と古賀は顔に似合わず、おずおずと訊いてきた。悲痛な表情である。
「いや、まだだ」
とおれはあっさり言った。
古賀の顔を失望と希望が交差した。万が一、クソミソに言われたらどうしようと考えていたのが、延期になったことで、それまで気を揉まなくてもよくなったのである。
「で、どうだい、見込みは?」
こいつが真剣なのはわかるが、正直に答えるたびに、笑いが浮かんでくるのは、外谷の人徳だろう。
「ねえな」
おれはあっさり言った。
え? と言ったきり、古賀は絶句した。
「あいつはデブが嫌いだろうが」
「ど、どうしてだよ? 自分がデブなのに」
「だから嫌いなんだよ」
「へえ」
「おまえ、痩せられるか?」
「まず無理だね」
古賀は胸を張って言った。
「なら、あきらめた方が無難だ。野郎、カソリックに改宗してから、ますます男の趣味がうるさくなってやがる」
「でもさあ」
と古賀はいじいじと身をくねらせはじめた。
「僕だって、いつか痩せるかもしれないし。そう言ってみてよ」
「あいよ」
うるさいので生返事しておくと、古賀は喜び勇んで両手で胸を叩き、ぴょんぴょんと跳ねるように歩き去った。
おれは、大食堂へ出向いた。
安っぽい料理を乗せた膳がテーブルの上に整列し、チラホラとその前に腰を下ろしてる奴もいる。
卓上のカードでクラス名を確かめ、適当なところに坐っていると、すぐ、生徒たちがやって来た。
「よお、神出鬼没男」
と桑山が片手を上げた。
「夕べは何処に泊まった?」
と小西がウインクした。
「京都の妾の家さ」
と答えると、網走が破顔して席へ着いた。
教師たちも集まり、すぐに食事がはじまった。
白米、薄い味噌汁、アジの開きに生玉子、焼海苔といった修学旅行用定食だが、たまに食うとなかなかいける。
おれは箸を動かしながら、他の連中の様子を窺った。
黒江、錨、裏成の三人はさすがに元気がない。ま、後でゆきから奪ってきた財布を返してやればよかろう。
後の皆さんは、寝不足以外、これといった問題はなさそうだ。
びっくりしたのは、やはり外谷で、なんと、食事の前に胸前で十字を切り、食事も箸先に少しだけ取って、おずおずと口へ運んでいる。口はおちょぼ口だ。
お櫃抱えてしゃもじで食うのが似合う女だから、おれはため息をつきそうになった。宗教の力てのは恐ろしい。
「おい、八頭、今晩出掛けるぞ」
と右隣の桑山がこっちを見ずに言った。
黒江たちの仇討というわけだ。
「やめとけ。片はついた」
おれも知らん顔で言うと、桑山は茫然とこちらを見つめた。
「何だ?」
「詳しい事情は後で話すが、黒江たちの財布は取り戻してきた。多分、二度とおかしな事件は起きねえだろう。うちの学校に関してはな」
「どうして、そんなことがわかる? 片って、どうやってつけた?」
「平和な話し合いだ。人間、裸になりゃ、わかり合えるものさ」
「おい」
「いいから。――二度とおかしなこと考えるなよ」
おれはじっと桑山の顔を見つめた。
おれの中に何を見たのか、桑山の闘志は凍りついた。わかった、の合図だ。
「今日はどうするんだい?」
と左隣の小西が明るく訊いた。
「ちゃんと見学する予定か?」
「阿呆おっしゃい」
と彼の隣の網走がからかうように、
「八頭に、ちゃんと[#「ちゃんと」に傍点]なんて言葉が通用するもんですか。まだしも、妾の家の方が、この男《ひと》らしいわ」
「そうでござりまするかね」
とおれは網走をからかい、どうしたものかと考えた。
予定としては、あの肉片と思われる宝をしかるべき場所で分析してもらうのと、京都市上層部の動きを探る――その二点だが、とりあえず、昼過ぎからでもよかろう。
午前中は、清水付近の見学か。ふむ、行ってみるか。
食後一時間休憩があり、見学はその後、バスに乗って出掛ける。
その前に、おれはひとつ、厄介な用を片づけることにした。毎日ゴリラに泣きつかれちゃ敵わねえ。
食堂を出たところで、三人分の幅がある背中に近づき、そっと肩を叩く。
「ふんが」
と外谷がふり向いて微笑した。
「何よ、八頭くん?」
「セックスしようや」
「?」
「冗談だよ。風紀委員の打ち合わせをしようと思うんだ。おれ、昨日の見学に出られなかったからな。みな、どんな状態だったか話してくれ」
「いいわよ」
外谷は嫌な表情もせず、おれに従ってロビーの方へ行った。
隅のソファに腰をおろすと、スプリングが不気味な音をたてた。
とりあえず、打ち合わせの件は嘘だと告げ、おれは古賀の胸の内を外谷に伝えた。
「――というわけで、あいつは心底おまえにまいってる。ぐっちょんぐっちょんになるまでねんごろになりたいそうだ。受け入れてくれないときは、おまえと一緒に清水の舞台から跳び降りて無理心中したいと言ってる。恋人になれたあ言わん。少し付き合ってやれ。なに、相手は少し浮き世離れしてる。ちょっとデートして映画でも一緒に観れば、何でも貢いでくれるぞ。何も寝ることはねえ。キャベツやサツマイモをいただいたときのテクニックだ」
「あれは昔の話よ」
と外谷は顔を赤らめながら言って、十字を切り、すぐ深刻そうに首をふった。
「申し出はありがたく思いますが、今の私は神に仕える身。男性の厚意を受ける立場にはありません。ありがとうとだけ、お伝え下さい」
「カッコつけんなよ」
とおれは言ってやった。この女の敬虔さはどうも胡散臭い。
「キャベツやイモはどうする気だ? 気のある風を装って貢がせといて、ありがとうで終わりか? そりゃ、なかろうぜ」
「穀物や野菜の話は、以前、外谷順子と申した女のもの。あれは死にました。今の私は別の人間です」
「勝手なことを言うな、この偽善者!」
とおれは憤慨した。デブというのは、普通愛くるしいものだが、こいつは何かと腹が立つ。
「他の連中は騙せても、おれの眼はごまかせねえぞ。カソリックだか切支丹だか知らねえが、何を企んでやがる?」
「失礼ねえ、ブー」
と外谷は文句を言った。おれの悪口などどこ吹く風だ。大人の風格さえある。確かに大きな人間ではあるがな。
「とにかく、お断りします。以後、そういう不潔な話題はつつしんで下さい」
「ちょっと待て」
おれは方針を変えた。これでは古賀から金を取るわけにはいかない。やるだけのことはやらにゃあ。
「なにさ、ブー?」
と外谷は、でかい尻をポリポリ掻きながら訊いた。ちょっとした通りや廊下ならつっかえそうに見える。
雄大、ブー。
「古賀はああ見えても金がある」
おれは自分でも本当かどうか自信のないことを言った。効果はあった。外谷の身体がぴたりと静止したのだ。
ふり向いた顔は清純と金銭欲に歪んでいた。
おれは畳みかけた。
「おまえはキャベツだのイモだの、食うものしか要求しなかったが、あいつは結構遣り手でな、祖父の会社の伝手《つて》で入ってくるポルノ・ビデオを大量にダビングし、やくざに売っては小遣いにしてるんだ。もう百万単位の銀行預金があるそうだぜ」
外谷の眼が爛々とかがやき出した。金銭欲の権化と化している。何がカソリックだ。
だが――
デブ女の顔に一瞬、とまどいの表情が浮かんだと思うや、丸まっちい手が胸前で十字を切り、
「私は神に仕える身」
と言った。
そうはさせじと、
「おまえと寝るために、京王プラザのVIPルームを予約《リザーブ》するそうだ。キャベツやサツマイモと言わず、トマトでもニンジンでも腹が裂けるほど食ってくれと言ってた。けなげだと思わねえか? プレゼントにはでかい純金の鼻――じゃねえ、腕輪――ブレスレットをくれるそうだ。滋賀県の湖南てとこには山を持っているから、ゆくゆくは二人のために、人工のジャングルと沼もつくるそうだ」
「……沼……ジャングル……」
外谷の眼は恍惚としてきた。
おれの頭には、真っ裸で泥水をかぶり、派手に水を噴き上げながらキャベツを食うこいつの姿しか浮かんで来ないのだが、一体、何を考えてやがる?
「貯金貯金」
とおれは押した。
外谷は両手を握り合わせ、イエス・キリストに出くわしたペテロのように身悶えした。アクメに達している。昇天寸前だ。
このとき――邪魔が入った。
「八頭くん――何してんの?」
背後の気配はわかっていた。声でもっとはっきり正体がわかった。
C組の樽山だ。
ふり向くと、中くらいのデブが立っていた。いつもニコニコしてる弁護士のお坊っちゃんで、外谷ほどの迫力はない。肉もプヨんプヨんとたるんでいる。ここに古賀のチビデブが加われば、大中小――デブの品評会ができるわけだ。
「何の用だ?」
おれの不愛想な声にも、樽ちゃんはニコニコと笑って、
「面白い話をきいたんで、教えに来たんだよ」
と言った。
この男はミステリー狂で、古今東西の推理小説すべてを読み漁り、それでも足らずに実話、奇現象研究の類にまで手を伸ばして、面白そうな話を聞くと、おれに教えに来る。大体、今どきの高校生は現実生活かまるっきりのフィクションにしか興味を示さず、現実の超常現象などには眼もくれないから、おれくらいしか話し相手がいないのだ。アメリカや日本の奇現象研究会のメンバーに加わっているせいか、おれの耳にも珍しい話が入ってくるので、こいつとの会話は楽しみのひとつだ。
だが、目下は――
「悪いが後にしてくれ。今度は何処の超現象《フェノメナ》だ? アメリカかインドか?」
「京都」
と樽山は、豊かな腹を波打たせながら言った。
「なにィ?」
おれの頭の中で火花が散った。
「今度はさ、奇現象じゃなくて、坊さんのことなんだ」
樽山は、してやったり、という表情をつくって、
「僕の親父が弁護士やってるの知ってるよね。その弟子が奈良にいるんだけどさ、土地柄か、坊さんの客が凄く多いわけ。それがみんな一斉に、遺書の作成を依頼しはじめたっていうんだよ」
「遺書?」
頭の中に飛び散った火花は色と温度を失い、異様な冷気となって、おれを総毛立たせた。
何の確証もない。しかし、背後に途方もない事実を隠匿しているという予感だ。
「もっと詳しく話してみろ」
おれは外谷の方を横目で見ながら言った。
デブ女は完全に恍惚状態だ。黄金のプールで貯金通帳片手に水浴びしている己の姿でも思い描いているのだろう。放っときゃ一日中このままの恐れもあるが、おれは放っとくことにした。
古賀の願いを叶えるには、もうひと息で何とかなる。それより、こっち。――坊主の方だ。
ああ、ああ、と金銭欲に悶える外谷を放り出し、おれは樽山を連れて別の席へ移った。
要するに、顧客、新顔を問わず、奈良の坊主たちが財産の整理を申し込みはじめたわけである。樽山の知り合いだけじゃなく、他の弁護士事務所も同じだというところに、おれは注目した。
全員そろって不治の病に侵されたわけじゃあるまい。時を同じくして、死ぬと決まった、あるいは生死を賭けた事態が発生したと思うのが正しい。
今どき、坊主が生命を賭ける仕事とは何だろう。
「その弁護士は京都か奈良出身の人間か?」
おれの問いに、樽山は首を振った。
「違う。東京の人だよ。京へ落ち着いたのは五年ぐらい前かな」
「それまでに、おまえ、その人からそんな話を聞いたことあるか?」
「全然」
「わかった」
おれはうなずいた。午後からもうひとつ、やることが増えたのだ。
とにかく、おれたちは清水寺へ「修学」に出掛けた。
とは言っても、あんな寺、五回も六回も来てるよ、という連中ばかりだ。学校から手渡されたパンフも、バスガイドの説明も聞く奴なんかおらず、京の女の子は痩せ型が多いだの、夏だというのにホットパンツが少ないだの、四条の某所にソープランド付きの回転寿司ができただの、女子高の生徒とデートの約束取りつけただの、危険な体験談と情報が飛び交い、アル中の気のある奴が酔っ払って、♪ウルトラマンの子供、ウルトラマン――と歌い出すのを寄ってたかって押しつぶしたり、それに代わってマイク持ったネクラ野郎が、陰々滅々と失恋の歌をメドレーでおっぱじめ、やめろと言っても快調のテンポ、ついには、涙を流しながら合唱する阿呆も現れて、女生徒からはミカンが飛ぶわ、罵声が投げかけられるわ、大混乱のうちに、バスは清水寺の修学旅行専用駐車場に着いた。
白い光のみなぎる地面へ降りた途端、汗が噴き出した。
暑い。それだけだ。やっぱり、来ない方がよかったか。
今さら愚痴っても仕方がない。おれは強行軍の一員と化し、清水道を上がりはじめた。
途中で道は清水坂となり、左手に七味唐辛子の店と、三年坂が見えてくる。熱気のせいか、人通りが少ない。
清水寺の石段前に辿り着いたときは、全校生徒息も絶え絶えの有様だった。
ところが、何だか様子がおかしい。
石段上の仁王門は固く閉ざされ、敷地の右側を通って茶屋の方へ廻り込む道の出入り口も柵で塞がれているのだ。
予告なしの椿事《ちんじ》だったらしく、ちらほらいる観光客も顔を見合わせ、すぐに教師のひとりが仁王門の方へ汗を拭き拭き駆け出していった。
門の前に立て看板が出ているのを、おれは最初から気づいていた。
「むこう三日間、都合により参拝をお断りします」
と来た。
教師が戻ってきて、校長や教頭と話し合い、ついに学年主任の大河原が、
「何か急な事情がお寺の方に出来たらしい。見学は中止し、これから一時間、二年坂、三年坂付近の自由行動に切り換えます」
と言った途端に、わあ、と歓声が上がった。
時間通りにこの場所へ集合するようになどという注意は誰も聞いておらず、
「では――」
の声を合図に、生徒たちは面白くもない寺を後にして、どっと四方へ散った。
こうなると、おれには行くところがない。さて、どうしたものか、と首を振るその肩を、誰かが力強く叩いた。
「行こうぜ」
と汗みずくの顔で桑山が笑った。その周りに網走も小西もいた。そうか、クラスメイトだったよな。
おれは笑い返して、彼らと一緒に清水坂を下りた。
三年坂のところで、小西が足を停めた。
「どうした?」
と桑山が訊いた。
「転ぶのが怖くなったんじゃあるまいな」
三年坂には転んで三年以内に、その先の二年坂には二年以内に死亡するという言い伝えがある。
「いや」
と小西は頭をふって、眼の前の唐辛子屋を指さし、
「おふくろが、ここで七味買ってこいっていうんだよ」
「なんでこんなとこまで来て、七味買わにゃならんのよ」
と網走が文句をつけた。
「京都で買えば味が違うとかいうもんじゃないでしょ」
「違うんだよ、阿呆」
と小西は、でかい手で汗を拭き拭き弁解した。
「京都で買えば味の代わりに箔がつくんだってよ。――ご近所へお配り用さ」
「全く、おふくろてのは子供の敵だな。いい年齢《とし》した男に七味か」
と桑山がごちた。
「悪いから先行っててくれ。すぐ追いつく」
おれはにやりと笑った。
「遠慮すんな。おれたちが選んでやる」
何を感じたか、小西の表情がこわばった。
「いいよ」
「いいから」
おれたちは強引に小西と一緒に店内へ入った。
「いらっしゃいませ」
と、七味の缶入りや化粧箱入りを並べたカウンターの向こうで頭を下げたのは、眼を剥くような京美人だった。
これで、おれ以外はぶっとんでしまった。
「あのあのあの」
と桑山が、白い美貌へ眼の玉を釘づけにしたまま口走った。
「唐辛子下さい」
唐辛子屋に入って、他に何買う気だ、阿呆。
「はい、いかほど?」
と、女店員が鈴の鳴るような声で訊いた。
小西が桑山を押しのけるようにして、
「いい一トン」
「いえ、その詰め合わせをひとつ」
と言ったのは、網走だった。名前は刑務所みたいだが、こいつは舞踊部のキャプテンやるくらいだから、女にも慣れているし、少々あの[#「あの」に傍点]気がある。
「承知しました」
こういう高校生はいくらでもいるのか、女店員はにこやかに微笑んで、品物を取り出した。
「はい」
と網走に手渡し、金は小西が払った。どこかおかしいが、この際、細かいことはどうでもいい。
何となく解せない表情の三人を連れて、おれは唐辛子屋を出、三年坂を降りはじめた。
暑く、陽はかがやいていた。少しは風もある。
石段は、うちの学校の連中でごった返していた。
「あ、ちょっと待って」
網走が坂の途中にある小物屋のショーウインドーに目をつけて立ち止まった。
「いい櫛があった」
「誰にやるんだ? おまえが使うのか?」
と訊くと、
「妹にだよ」
と答えた。
「ふーん」
うなずきながら、おれもショーウインドーを覗いた。お多福だの福助だのの人形や財布、コンパクトなどが並んでいる。ガラスもよく磨いてあった。
「さっきのお礼に、今度はおれが品定めしてやろう」
と小西が言い、いいよ、と辞退する網走を、無理矢理店内に引っ張りこんだ。
もう少しウインドーを覗きこんでから、おれは桑山の方をふり向いた。四人ほどのグループが彼から少し離れたところを歩いていく。
「元気かい?」
と声をかけてみた。
「ああ」
「おれに用があるなら、口笛を吹いて呼べよ」
「ローレン・バコールにハンフリー・ボガートか。おまえもアナクロだな」
桑山が苦い声で言った。
じきに小西と網走が現れ、おれたちは三年坂、二年坂の周辺を散歩してまわった。
そろそろ清水へ戻らなきゃ、という時間《とき》に、おれたちは近くの喫茶店へ入った。
小路の奥なので人目につきにくく、客も少なかった。
「ちょっと」
と網走が言って、すぐ前のトイレへ向かい、おれたちは桑山、小西、おれの順で店の奥へ進んだ。
「あれれ」
と桑山が低い声で言った。
おれも小西もすぐに気がついた。
いちばん奥まった席に矢島が腰をかけていた。小さな丸テーブルをはさんで、ひとりの女生徒がうつむいている。
「お取り込み中だぜ」
と小西が面白そうに言った。こういう状況で、気をきかせるなんてヤワな神経は誰も持ち合わせていない。
「あっちは誰だ?」
と小西が訊いた。
「C組の保科美智だ。口説いてるんじゃなさそうだぜ」
おれもニヤニヤと、こちらには気づいていない色男の方を露骨に見ながら言った。本来なら、ここで、ドン! と奴らの隣のテーブルに腰を下ろす。
「まずいよな」
とおれはトイレの方へ顎をしゃくって言った。
「ああ」
桑山がうなずき、小西も首を縦にふった。
「出るか」
「よしてくれ」
小西が悲鳴を上げた。
「もう喉がカラカラだ。さっきの唐辛子を呑んだ気分さ。一歩も歩けない」
「じゃあ、どうする?」
おれはトイレの方を見ながら訊いた。二人が何も言わないうちに、
「席を変わろう。眼の毒だ」
言ってるところへ、網走が靴音も高く戻ってきた。
あっち行こう、なんて言うと怪しまれる。おれたちはそのまま腰を下ろした。
「隣へ来いよ」
と矢島たちの方へ背を向けてた桑山が誘い、網走も従った。
腰を下ろすとすぐ、網走は暑い暑いと言いながら、店内を見廻しはじめた。
「何にする?」
おれはメニューを網走に押しつけた。
後ろへ向きかけてた眼を紙のページに戻した網走が、また後ろを覗こうとするのを、小西がいきなりテーブルのシュガー・ポットを手に取り、中身を網走の顔にぶっかけた。
無茶苦茶な野郎だ。山に関してはベテランだろうが、常識はカラケツときている。
「何をするんだ!?」
網走が憤慨した。当然だ。
「何も糞もあるか。こっちを向いてろ」
小西は威張って言った。正しいことをしたと信じているから、臆したところがない。困った男だ。未踏峰を征覇するために、遭難者を見捨てても、胸を張るタイプだ。
「暑いな、網走」
と桑山がわざとらしく声をかけた。他に話題はねえのか。
「それがどうしたのさ?」
網走はまだ怒っている。
「暑い」
「そんなこと、わかってるよ。詰まらないこと言わないでちょうだいな」
「何にいたしましょう?」
とマスターらしい中年男がトレイに水を入れたグラスを乗せてやって来た。
「水割り」
と、反射的に言ってから、桑山はあわてて、
「チューハイ」
と訂正した。親父《マスター》は眼を丸くしている。おれは素早く、
「アイス・コーヒーをくれ。全員だ」
「やだよ。おれ、アイス昆布茶がいい」
と小西が主張した。網走も便乗して、
「ぼく、三色アイス・コーヒー」
「そんなもんおいてませんで」
親父《マスター》はあっけにとられていた。
「あんた方、どこの国の学生さん?」
「いいから、全員一括してアイス・コーヒーだ!」
ついにおれは叫んだ。
「いいなっ!?」
「おおっ!!」
と三人揃って同意しやがった。
これだけ騒いでりゃ、矢島の野郎も気がつく。
こっちを見て、気まずそうな表情をつくるや、女の子には眼もくれずに立ち上がり、ついでにおれたちも無視して出て行った。
幸い、網走には気づかれなくて済んだが、取り残された娘のことがおれには気になった。
うつむいた顔は、眼の前のアイス・ティーのグラスを見つめているようだ。水滴が表面を覆っている。そこに映る自分の顔を見つめているのかもしれない。胸が痛むだろうに。
おれは網走の様子を窺った。
怒りは収まったらしく、とろんとした眼で買ったばかりの紙袋をいじくっている。
妹への土産の入った紙袋だった。
世の中、うまくいかねえもんだな。
仏頂面の親父が運んできたコーヒーを飲むと、もう集合時間ぎりぎりだった。
「ほんじゃ、行くべえか」
と、おれは言って立ち上がった。
外へ出た。料金はワリカンである。
それぞれに支払い、灼熱の世界へ出る前、おれは奥の席をふり向いた。
娘は前の姿勢を崩していなかった。グラスに映る無数の自分を罵《ののし》っているのか、哀しんでいるのか、おれにはわからない。
「じゃあな」
店の前で、おれは三人に片手を上げた。
「何処へ行くんだ?」
小西が首をかしげた。
「急用を思い出した。京都の伯母さん家《ち》に行ってくる」
三人は顔を見合わせ、桑山が、
「達者でな」
と言った。
おれにふさわしい挨拶だと、奴にはわかったのだろうか。
「お互いに」
とおれは答え、三人に背を向けた。
清水と反対方向へ少し行くと、
「おーい、八頭」
網走の声が遠くから呼んだ。
「晩飯には来るんだろお?」
おれはうなずいた。三人に見えたかどうかはわからない。
行くとも、きっと。
だが、その前に、おれの世界をくぐっちまわないとな。
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第四章 東大寺異変
新学期はとうに始まっているというのに、京大の構内は異様に人気《ひとけ》が少なかった。熱気のせいだろう。
陽炎まで立っている。
おれは正門前でタクシーを降り、文学部の建物へ急いだ。
一応クーラーが効いていたが、溶鉱炉のそばで感じるそよ風程度だ。これで秋かよ。
教授の研究室が並ぶ階でエレベーターを降り、十秒とたたないうちに、おれは『小野沢』と書かれたドアの前に立った。
ノックしようと右手を上げ、おれはそっと左へのいた。
二つまで数えたとき、ドアが罵声と人影を吐き出した。
「出て失せろ、この野良犬!」
ガツン!
音はこんなところだ。
よれよれのポロシャツを着た学生らしい男は、床にぶつけた後頭部をさすりながら起き上がった。
ドアはもうひとつの人影を吐いた。
声の主だろう。二、三〇〇キロはありそうな巨体が、憎悪に燃える眼で学生を見下ろした。
「先生――あんまりです」
と学生は泣くような声で言った。細面と針金みたいな身体つき――気の弱さ剥き出しだ。二重顎でぶ厚い唇を持ち腹のせり出した肥満体の大男なんかに、踏みつけられて一生を終わるタイプだ。
「あの論文は僕が前に……」
「黙らんか、この恩知らず!」
大男の怒声は熱気さえ撹拌した。
「貴様ごときの青臭い論文を、機関誌に発表できたのは誰のおかげだ? わしの肩入れがなければ、クズ屋も引き取らん原稿の山なのだぞ」
「それはわかってます。感謝しております。ですが――」
「失せろ!」
弱々しい、必死の抗議も吹き飛ばす一喝であった。
学生は立ち上がり、相手をにらみつけようとしたが、眼を合わせられなかった。勝負は最初からついていた。
細い姿が力なく歩み去るのを見届けてから、ドアを閉じかけた巨漢に、
「小野沢先生?」
とおれは声をかけた。
京都大学文学部教授・小野沢元祇《げんぎ》は、愕然とふり向いた。
おれは澄まして一礼した。今のことはなかったことにしてしまう。
教授もたちまち動揺を押し隠し、疑い深い眼つきでおれをにらみつけた。少なくとも眼だけは立派な犯罪者になれそうだ。
「何だ――君は?」
荒い息遣いで訊き、いきなり、
「――そうか、八頭君?」
「はあ」
おれがうなずくと、凶相だけは拭うように消えた。気難しさも同道してくれれば文句ないのだが、あまり高望みはよくない。
おれは研究室へ通された。
東大と勢力を二分する京都大学でも一、二を争う実力者の部屋だけあって、大会社の重役クラスの広さと調度を誇っている。
「今日は秘書が休みでな。ロクな接待もできんが」
と言いながら、教授は手づから隅の冷蔵庫とカップボードを開け、冷えた麦茶を運んできた。
「お構いなく。僕はうかがいたいことがあってお邪魔しただけですから」
「そうか。そうだったな」
教授はうなずいて、椅子に腰を下ろした。
「八頭か――懐かしい名前だったよ。今朝、電話をもらったとき、耳を疑ってしまった。――で、用件とは何かね?」
ラストのワン・フレーズは、欲深い因業爺いを思わせた。おれは八頭の後継ぎではなく、只で彼のコメントを盗みに来たこそ泥ぐらいに見られているのだろう。いつもなら一発かましてやるところだが、今回はそれどころじゃなかった。おれのコネすら――いや、法務大臣の命令すら突っぱねる京都治安当局の謎を解明しなくちゃならん。もう宝は見つけたわけだから、さっさと東京へ帰ってもいいのだが、コネの件だけははっきりさせとかないと、後々まで尾を引く。
「いま、京都でおかしな事態が発生しています」
おれは、じっと彼の眼を見つめながら言った。小細工の通用する相手じゃない。正面から正攻法あるのみだ。おれは、銀閣寺の件を除いて、あらゆる奇現象を克明に物語った。
「――以上です。これは、僕みたいな素人が自力で調べるより、京都大学の最高峰である先生のお力を仰いだ方がいいと思いまして」
おれは、話しながら、教授の反応をうかがっていた。
学生の出来の悪いレポート発表をきくような顔つきは、最後まで変化がない。
その裏を読むのが、おれの実力《ちから》だろう。
眼つきは変わらないが、眼光に変化が生じているのを、おれは見逃さなかった。
何か知っている。――後はおれ次第だ。
「いかがでしょう。八頭のコネも受けつけない京都の大事――ご存知ありませんか?」
言われて、教授の喉仏が動いた。
生唾を呑みこんだのだ。
意味するものは――決意か恐怖だ。
おれは恐怖と踏んだ。
「残念ながら、役には立てんな」
教授はつぶれたような声で言い、ソファの背にもたれかかった。動揺を抑えるための動作だった。
見事なものだ。
沈黙が落ちた。
切り札を見せなきゃならんか。
「実は僕、京の某所で、ある物体を手に入れました」
おれはこう切り出した。教授の表情は動かない。
「肉片みたいなものです。大きさはこれくらい」
手でサイズを表すと、明らかな変化が教授の顔をかすめた。咳払いをひとつして、ふんぞり返ったまま――
「何処で見つけたね?」
事態は核心に入った。
おれは下腹に力を据え、
「銀閣です」
次の反応はなかなかの見物《みもの》だった。
金魚なみのでかい眼を、本当にこぼれ落ちそうなくらい大きく見開いたまま、教授はびっくり箱《ジャック・イン・ザ・ボックス》のジャックみたいに跳ね上がり、次の瞬間、またも深々とソファに吸いこまれたのである。
「銀閣……そうか……やっぱり、そうだったか……」
そうとも、とおれは言いたくなった。
代わりにこう言った。
「ご存知なんですね、やはり」
「いや……」
教授は首を横にふった。躊躇など一片もない、しっかりとしたふり方だ。大したものだった。眼を空に据え、自らの世界に閉じこもる。
おれは少し待った。
教授の精神状態に「余裕」を付加する必要があった。
だが、この眼つきでは、いつになるかわからない。
効果の度合いを掴めぬまま、おれは切り出した。
「おふくろ[#「おふくろ」に傍点]から、伝言があります」
案の定、効果が出るまで十秒と少しを要した。ただし、十分だった。
ただひとつの単語が、自己の世界に没頭していた男を、やすやすとこちら側へ引き戻してしまったのだ。
教授は、さっきの学生を睨んでいた眼つきからは想像もできない眼差しで、おれを見つめた。
「お母さん……君のお母さまは――元気でおられるのか!?」
「いえ」
おれはあっさり言った。計算通り、教授は全身の力を抜いて、ソファに溶け込んだ。
「そうか……亡くなられたか……やはり……」
「残念です」
おれは、してやったり、と胸の中でつぶやいた。いつもより陰気なつぶやきだった。
「先生のことは、何度か母に聞いていました。アメリカでは随分お世話になったそうで。いつもいつも感謝しておりました」
大嘘だ。おふくろは、教授の名前など一度も口にしなかった。彼のことは、コネの由来と利用価値のランク付けをしたリストで見つけたのだ。
「世話などしなかった」
と教授は疲れたような声で言った。
「してもらったのは私の方だよ。私は一日を十五セントで送らねばならぬ貧乏留学生で、一冊の資料を買う余裕もなかった。君のお母さんの援助がなければ、学問どころか飢え死にしてたろう」
それは事実だったが、ひとつだけ間違っている。母の目的は、裏町で路頭に迷っていた日本人学生が、たった一冊だけ購入した古書を失敬することにあった。古書そのものは大した品ではない。今ならいくらでも、ペーパーバックで入手できるホーソーンの短編集だったし、初版本とも違う。もとの持ち主がルイジアナの大金持ちで、こっそり発見した地図を、小さな黒子《ほくろ》大の点画にして、本の何処かに隠しておいただけだ。
教授はそれ以上何も言わず、大きな窓の外――白い光にみちた世界を見つめていた。秋のニューヨークに見えたのかもしれない。
「恩返し、というのは、久しく忘れていた言葉だが……」
と彼は言った。
長い沈黙の後で、おれはようやく得点したのだった。
「――君の話が事実とすれば、私にも思い当たることがある。詳しい話は、もう少し調べて確証を掴んでからにしよう。明日の正午、もう一度来てはもらえないかね?」
「承知しました」
おれは立ち上がった。急所を押さえたのは明らかだった。あわてることはない。
「では、明日――」
一礼してドアの方へ向かったとき、教授が名を呼んだ。
「は?」
ボケ面でふり返ると、
「もう一度、お母さんにお目にかかれたら、是非訊いておきたいことがあったのだ。ことによったら、君が答えを知っているかもしれないと思ってね」
「何でしょう?」
言ってから、おれは驚いた。我ながらやさしい、ふやけた声だった。
「お母さんはニューヨーク滞在中、半年に亘って私の面倒を見てくれた。ある日忽然と消えてしまったがね。一文の得にもならない貧乏学生になぜあれほど尽くしてくれたのか、知ってはおらんかね」
おれは首をかしげて「さあ」と言った。
「そうか……」
教授のつぶやきは口元で消えた。臨終の言葉のようだった。さっきの学生がこれを見たら、何と言うだろう。
おれはそっと部屋を出た。
もうひとつ、医学部の校舎を訪問しなくてはならない。
そして、京大の次に訪れるべき場所は、京都ではなく、奈良の東大寺だった。
いったんホテルへ戻り、昼食を摂ってからスカGを吹っとばしてもうひとつの古都へ辿り着くと、時間は午後二時を廻っていた。
暑いことは暑いが、こちらはまだ清涼なものが空気中に感じられた。京よりこぢんまりしているせいだろうか。
東大寺は、各種高校や中学の生徒でごった返していた。
ホテルから電話を入れておいたから、おれは直接、本坊へ出かけた。
若い坊主が待っていて、管長は大仏殿におられます、と言った。
念仏でもお唱えですか? と訊いても、わからないと言う。ま、そうだろう。
いつ見ても、でかい建物だ。おれは秋空の下で、蒼穹に異議を唱えるがごとき大仏殿の偉容を見上げた。
不意に天空が翳った。――思わず後方へ跳び、おれは我に返った。
空には一点の曇りもない。四方から笑い声と感嘆の声が上がった。
どうも、気になってしようがない。三門の消え方が無意識の精神外傷《トラウマ》を形成しているようだ。
管長は大仏の真正面にいた。
つまり、巨大な台座の中央部真下から、全長一六メートルの廬舎那仏《るしゃなぶつ》を見上げていたわけだ。
周りは、観光客でごった返している。
「こんちわ。八頭です」
声をかけると、すぐふり向いた。
厳しい顔だ。ぴん、と来た。やはり何か知ってる。
この管長とは、子供の頃、何度か逢っている。もちろん、親父と一緒にだ。
「ようこそ。御仏の下でお目にかかれるとは、お互い運がいいことですな。――電話を頂戴したときは驚きましたぞ。しかし、大きくなられた」
ようやく皺深い顔に微笑が浮かんだ。
「こちらへ」
管長はおれを、人気のない隅の方へ誘った。
「しかし、お父上もそうでしたが、ご子息も変わった用件でこられるものだ。京に何かしら大きな異変が起こっていないか。坊主が急に遺書を作成しだしたのは何故か、とは」
「申し訳ありません」
とおれは殊勝ぶって頭を掻いた。
「ですが、もう管長におすがりする外は手がありません」
「私ごとき老骨への頼みとは、よほどの宝ものなのですか?」
「ええ、まあ」
おれは内心舌を出した。坊さんたちの一件が宝探しと関係があるからと、無理矢理辻褄を合わせて面会を申し込んだのだ。
「失礼ですが、管長も?」
おれの問いに、老僧はにこやかに首を振った。
「私には残すものなどありません。強いて言えばこの身体のみですが、これも御仏に捧げてしまいました」
声は淡々として、深い味わいがあった。やはり本物は違う、と、おれは感服した。
「さて、お尋ねの件ですが、正直に申し上げましょう」
「は」
おれは緊張した。
「私にもわかりかねます」
「は?」
「いえ、何のためにそれをするのか、ということです。しなければならない事柄は、お話しできると思います。お父上は、私にそれだけのことをして下さいました。今はあなたが力を貸して下さっています」
「いや、僕は――」
「時折、寺の口座に大金が振り込んであるのは誰の間違いか、随分考えました。あなたの名前を今日うかがったとき、ようやく謎が解けましたよ」
おれには、この老僧と親父の関係がよくわからない。ひとつだけ――親父が匿名で金を送り、何ひとつ見返りを要求しなかったのは、彼ひとりだけなのだ。
おれは、ちょっぴり、すまないような気になった。それを押し隠そうと――
「で、一体?」
東大寺管長はうなずいた。
「僧たちは運が悪かった。五〇〇年目が今年にあたるとは、考えもしなかったでしょう」
「五〇〇年?」
眉を寄せたおれに、管長はやさしく笑いかけた。
「京都・奈良一帯の寺には、その出自、年数を問わず、共通の言い伝えがありましてな。つまり、ある年から五〇〇年ごとに、ありとあらゆる寺の僧侶が一個所に集合し、丸一週間、不眠不休、飲まず食わずである種の祈りを唱えねばならないのです」
「ほう」
おれの中で一瞬の内に、坊主たちの遺書とひとつの情景が結合した。
果てしなく広い空間で、得体の知れぬ読経をつづける痩せこけた僧侶たち。全員の顔は過度の疲労と栄養不足で、生ける髑髏に近い。ひとりが倒れる。気にするものはない。また、ひとり。次々に息絶えた屍の上を、陰気で妖気を帯びた声だけが、婉々とつづいていく。
遺書もつくりたくなるわな。
「一体、何のために?」
おれは思わず――といった感じで訊いた。管長が本当に原因を知らないのかどうか、確信が持てなかったのである。
「さて」
管長は腕組みをし、足元の地面に眼を落とした。
「正直、私にもわからんのです」
「でも――」
「嘘ではありませんよ」
「ですが、ただの言い伝え、それも五〇〇年ごとにのみ、一定期間の読経を要求するだけの――はっきり言えば馬鹿げた言い伝えが、現在までも効力を持つとは考えられません。相手は、京都、奈良――日本を代表する古寺名刹の坊さんたちですよ。みなさんを強制する力とは何なのです? 或いは、何だとお思いです?」
長い吐息が管長の口から洩れた。
彼は大仏を見上げ、すぐ、おれの方を向いた。
「原因そのものの正体はわかりません」
と言った。
「ですが、私たちを強制するのは、その読経に関する指示が、寺の歴史に関わらず、代々の管長、住職に伝えられているという事実です。これは確認したことですが、京都・奈良に存在するすべての寺に、読経の一件は、変更を許されぬ創成時からの掟として、伝わっていました」
「いちばん古い寺は――法隆寺でしょうか?」
「でしょうな」
「理由を明らかにしない掟――それでいて、五〇〇年ごとの人々に、死をも決意させる祈りの掟とは、想像がつきますか?」
管長は無言で首を横にふった。
「法隆寺の創建は、伝承によれば推古十五年――六〇七年です。ですが、五〇〇年ごとの読経が義務づけられているとすれば、年代が合わない。この言い伝えは、法隆寺以前からはじまっているのですか?」
「そうなりますかな」
「警察もこれに加担している?」
「さよう。治安関係者との連絡も出来ております。この前後、京都・奈良に変事が生じた場合、彼らは全力をあげてこれを一般市民の眼から覆い隠します。パニックを避けるためですが、その原因は彼らにもわからんでしょう」
「僕の見ている前で、南禅寺の三門が消えました。空中から落ちてきた液体で溶解したのです。正体をご存知ありませんか?」
「……ふむ……」
老僧はうつむいて思案した。
本当に考えているが駄目らしい。おれは諦めて、別のことを訊いた。
「その読経は何処で、いつ?」
管長は少しためらい、おれの顔をじっと見た。
「八頭大――お父上より、いい眼をしておられる」
と言った。
「場所は、平安神宮の敷地内。読経開始は、明日の午前零時からです」
「感謝します」
「お役に立てましたかな。ただし、今日の会見はくれぐれもご内密に」
静かに笑う管長に頭を下げ、おれは身を翻した。
数歩――出口の方へ歩いて止まった。
中高生の白いシャツの中に、眼も鮮やかな青い和服がゆらめいていた。
学生たちの好奇の視線を浴びながら、日本髪に結った女は白い左手で口元を隠しつつ、おれたちの方へ歩み寄ってきた。
「京で見つけた――」
女は低く低く言った。低くてよかった。まともな声量でやられたら、耳にした連中が卒倒するだろう。
おれですら全身に鳥肌が立った。そんな凄まじい、怨念を含んだ声であった。
「もう逃がさない。お返し」
右手がゆっくりと伸びた。ぎくしゃくと曲がった爪が肉に食い込むような幻痛を覚え、おれは身震いした。
おかしい。どこかおかしい。
間違いなく、この女はこの世のものではない。しかし、幻覚とも夢とも異なる明確な実体だ。おれを総毛立たせた女だ。それなのに、何処かおかしい。
形容し難い不安の雲が、おれの腹の底にじんわりとたまりはじめた。
違う。
この女じゃない。
違う。
この女だ。
確かに同一人物の醸し出す、それでいて、はっきりと眼の前の女のものではないとわかる、途方もない不安。
おれの超感覚をもってしても、まるっきり手応えが掴めない恐怖の主は――
「お返し」
と女が繰り返した。
「鬼さんこちら」
と、おれは奥の方へ後退しながら言った。
学生たちから引き離さないとえらいことだ。
女は尾いてきた。
「お返し」
と言った。
「ここにはないね」
とおれは鼻先で笑った。
「断っとくが、おれを殺したら、あれは一生あんたの手に戻らんぜ」
「殺しはしない」
女の眼が不気味に光った。口元が見えないだけに、薄気味の悪さはまた格別だ。
「喋らなくてはいられないようにしてあげる」
つう、と近づいてきた。
「管長――お下がりなさい!」
叫びざま、おれは横へ飛んだ。
右手を内懐へ。もどかしい動きだった。
女が迫ってきた。両脚は動かしていない。
悪念だ。
おれまで二メートルのところで、衝撃波が捉えた。
音もなく消えた。
左右から二つ来た。
口元を隠し、白い右手を猛々しく伸ばして。
衝撃波銃《ショック・ガン》が人数分唸り、差し引きゼロにした。
戦慄と悪寒がおれを包んだ。破壊した悪念の余波だ。
今度は準備を整えてあった。強化した意識が箔のごとき妖気を弾き返す。
精神を集中したその一瞬に危機が来た。
女の気配を感知し損ねたのだ。
凄絶な鬼気がおれを腑抜けに変えた。
それは頭上から来た。
二つの悪念を放つと同時に、女は跳躍していたのだ。
膝をつきかけた両肩に、女の体重がかかった。並みの女と変わりない。影のない分軽いのだろうか、とおれは阿呆なことを考えた。
失神してもおかしくない妖気に崩れかけた膝は、しかし、ふらふらと直立の姿勢に戻った。
おれの精神力プラス女の力《パワー》だった。
衝撃波銃を上に向けようとした手首を冷たい手で押さえ、女は口を覆ったまま、
「おや、大した力だこと。でも、これで終わりね」
悪寒が脳髄を直撃した。全神経が衰弱死に突入する。
それでも、おれは左手を貫手の形にして突き上げた。
喉にめりこむ寸前、それは女の左手でブロックされた。
誰かが悲鳴を上げた。馬鹿な観光客がのぞいていたのだろう。悲鳴はしかし、止まらなかった。パニックに近い。何が起きたのか?
「見られてしまったわね」
肩の上で女が言葉を吐いた。愉しげに。
「あなたにも見せてあげるわ。――ほら」
頭上から顔が下がった。
おれは真正面から向き合った。
逆さまだが、それだけに凄まじかった。
耳まで裂けた――という形容がある。
その通りだった。
女の口はその両端を耳のつけ根に置き、深いカーブの底を下顎すれすれに垂らして、見事な弦月を構成していた。
人間の頭ぐらい軽く呑みこめそうな口の端《は》には、鮫も顔負けの鋭利な牙がずらりと並び、肋骨も頚骨もたやすく噛み砕いて楽にしてやると告げていた。
口腔は血の色だった。ひっきりなしに血ばかり飲んでいないと、こうはなるまい。
ケケケ、と女は笑った。これが本当の笑い方だろう。最後の気力がおかげで尽きるところだった。
これでは、口元を隠さざるを得まい。
眼の前に、薄い、裂け目のような唇が広がった――と見る間に、おれの視界は限りなく紅く染まり、湿った、粘っこい空気が首から上を覆った。
理由は説明するまでもあるまい。おれの頭は女の口に呑み込まれてしまったのだ!
それなのに、声は聞こえた。
「今すぐにでも、おまえを片づけることはできる」
血色の闇の中で、何か平べったい蛇のようなものが蠢いていた。舌だろう。
「それが嫌なら、お言い。あれは何処に隠してある?」
「内緒だ」
答えた途端、顔全体が火照った。
皮膚がふやけ、額の皮がぺろん、と眼の前にかぶさってきた。
酸だ!
この女は口腔内に強力な酸を分泌するのだ。喉が詰まった。
このままだと、怪談映画の主演がつとまる。ノー・メイクでだ。
怒りと恐怖が、最後の力を絞り出したのかもしれない。
次の瞬間、おれは両膝をわずかに曲げて跳躍していた。五〇センチもいかなかったろうが、十分だ。
空中で思いきり前傾する。顔が抜けた。野郎、気づいたな! ふり離そうとする女の手首を、おれは逆に握りしめた。
鳥の嘴みたいな弧を描きつつ、おれは頭から大仏殿の床に激突した。
もろ[#「もろ」に傍点]にぶつかれば頭が割れる。
ごっ! と嫌な音が響いた。
跳躍からここまで一秒とかかっていまい。
失禁しそうな悲鳴が頭上で上がった。
そのせいで手が緩み、おれの身体が床にへたり込む寸前、女はつるりと脱出を果たしていた。
大仏の方へ逃げていく後ろ姿へ、おれは衝撃波銃をポイントした。
どんな状態でも、銃を握れば手の震えは止まる。
引き金を引いた。
女がのけぞった。死にはしない。とにかくひっ捕まえておとなしくさせとかないと、邪魔で仕様がねえ。
悲鳴が交錯し、白シャツの姿が右に左に入り乱れた。
女が走り出した。蚊に刺された程度か。くそ。おれも立ち上がり、後を追う。まだ足が笑っていた。管長は無事のようだ。あっけに取られた顔つきで、こちらを見つめている。お世話になりました。
何のつもりか、きゃあきゃあ言いながら抱きついてくる坊主頭の中学生を突きとばし、二発目を撃とうとした刹那、左右から敵意にみちた気配が駆け寄ってきた。
「君――やめんか!?」
警備員だった。
いつもなら、手足をふり廻してのびていただくのだが、今回は銃を持ち上げるのがやっとだ。
「失礼!」
おれは謝罪しながら、衝撃波銃《ショック・ガン》の引き金を引いた。
二二口径の空薬莢が美しく舞い、二人の警備員はやって来た方向へ跳ねとばされて失神した。
「見学者のみなさん、大仏殿を出て下さい。速やかに大仏殿を出て下さい」
男声のアナウンスが鳴っている。
遠巻きにしている学生たちへ向かって、おれは衝撃波銃をふり廻した。
いま、二人吹っとばされたのを目撃してるから効いた。
我先にと出入り口へ走る。パニックに近い。東大寺へは、もう少し振り込みを増やさないとなるまい。警備員には文明堂のカステラでいいか。
「き、君――銃を捨てろ」
と入り口の柱の陰で喚く警備員へ、威嚇に銃口を向け、おれは女を追った。
眼は離していない。大仏の陰に隠れた。出口から逃げたか?
床には血の痕もなかった。女の頭か額を割ったと思ったが、考えすぎだろうか。流す血がないのかもしれない。
気配は感じられなかった。見事な隠形《おんぎょう》の法だ。
足音が背後で湧いた。それに力強い声が――
「やめたまえ! あの子は犯人を探しとるんだ!」
感謝しますよ、管長。
おれは声の方へ片手を上げ、衝撃波銃を握り直した。額に触れてみる。皮が剥がれたのは、ほんの一部らしい。顔じゅうがひりひり、ぶよぶよした。これでは外谷や樽山と同じだ。
この時期には到底あり得ない、森閑とした東大寺・大仏殿を、おれは死闘の舞台に得たのだった。
正体の掴めない相手とやり合うほど厄介なことはない。
おれは神経の網を四方へ張り巡らせつつ、巨大な大仏の周囲を廻りはじめた。
敵はどうした? 逃げてはいない。――確証はないが、確信はあった。出入り口には警備員がいる。管長に訊きゃ答えてくれるだろうが、あの人の前でそんなみっともないことができるか。八頭の意地ってもんがある。
とは言うものの、今のおれがしんどいのも確かだ。気力で保たせてはいるが、心臓は情けないくらいこっそりと脈打ち、肺はいつもの半分も空気を吸い込まず、胃の腑からは、ひっきりなしに嘔吐感がこみ上げてくる。頭を掻けば、髪の毛も抜け落ちるだろう。
大仏の前にさしかかった。
右手は五指を開いて胸前にかざし、左手は膝上でこれも指を開いている。
妙な音を聞いたのは、そのときだった。
何か硬いものを剥ぎ取り、咀嚼するような響きが、巨大な大仏の背後から漂ってきたのである。
おれがそっちへ行くより、近くの警備員が廻り込む方が早かった。
驚愕の叫びが耳を直撃し、おれは全速力で大仏の背後へ廻りこんだ。
「大仏さまが!」
悲鳴には十分、それなりの根拠があった。
女は大仏の後頭部にへばりついていた。顔を押しつけている。音はその接触面から聞こえた。
食っている。
大仏の後頭部はなかった。
そこには、巨大な虫食い穴みたいな空洞が、黒々と口を開けているだけだった。
女が右へ移動した。
その顔のあった部分に、ぽっかりと小さな穴が残った。
食っている。
女が大仏を――
おれの気配に気づいたか、女はぐるりと頭をねじ曲げてこちらを見た。
口いっぱいに頬ばった大仏の破片――いや、それは像の肉だ。
何者だ、こいつは!?
女の口から白煙が上がった。
と見る間に、咥えた像の破片は飴みたいに蕩け、黒い糸を引きつつ、おれの方へ下降してきた。
「下がれ!」
跳び退いた瞬間、足元でぼうっ! と白煙が噴火みたいに噴き上げ、すぐ右手で悲鳴が上がった。
警備員のひとりが、頭から溶けた汁を浴びたのだ。
トレジャー・ハンターなんて商売をやってると、色々な人間の最期に出会う。ライオンに頭から食われる奴、流砂に飲みこまれる奴、古代人の仕掛けた槍ぶすまに串刺しにされる奴、大毒蜘蛛に刺されて真っ黒い姿で狂い死ぬ奴……。
溶解された奴らも、ボルネオの食人樹に片手をやられただの、強酸の雨を浴びただの、無数にある。
だが、おれの眼の前で繰り広げられた光景は、そのどれよりも徹底していた。
警備員の頭にふりかかった液は、ろくすっぽ飛び散りもしなかった。
それは黒い海月《くらげ》みたいに頭から肩を覆い、警備員の身体をぐんぐん縮めていった。
毛髪が灼けるだの、皮膚の下から筋肉がのぞくだの、肉が溶けて骨が見えるだの――すべて余分な印象だった。
髪も皮膚も肉も骨も脳もすべて一緒くたに混じり合い、白煙を上げつつ、オレンジとも茶ともつかぬ色合いの粘液になって、液との接触後一秒もたたぬうちに、床上へ広がったのである。
床は石づくりだ。
それすら白煙を上げて陥没したではないか!
おれの頭を凄絶な光景が横切った。
溶解する南禅寺三門――これと同じだ!
あの国宝を溶かしたのは、この女か、その仲間だ!
衝撃波銃が唸った。
間一髪で身をかわし、女は大仏の内側へ消えた。食い破ったあの穴から!
背後で足音が湧いた。
「銃を捨てろ!」
警備員の台詞じゃなかった。とうとうお巡りを呼んだらしい。管長も押さえ切れなくなったのだ。
相手になどしてる暇はないが、あの声じゃウインクしただけで発砲しかねない。
いや、いっそ――
おれはちらりと新たな敵の方を向いた。
お巡りは四人いた。
全員がニューナンブ三八口径をおれへポイントしている。人さし指は引き金《トリガー》にかかっていた。
「落ち着け」
おれは両手を高く上げて言った。
「銃を捨てろ!」
「捨てろ!」
金切り声が重なった。
「お待ち下さい」
と別の落ち着いた声。修行を積んだ坊さんてのは声にも味がある。
「彼は私の知り合いです。こうなったのは何か事情があるはず。撃ってはなりません。私が説得してみましょう」
「来ては駄目です!」
おれは、こちらへ歩き出した管長に向かって叫んだ。
仕方がない。
おれは衝撃波銃を足元へ放った。この爺さんを危険な目に遭わせる訳にはいかない。
警官がへっぴり腰で近づいてきた。
おれは大仏を見上げていた。
残った頭部が崩れたのは、そのときだ。
警官もふり仰ぎ、眼を丸くした。
大仏の首のつけ根に大穴が開き、頭部は消えていた。すぐ、大仏の下腹にあたる部分から、激突音が聞こえた。
「右の肩だ!」
警官の声と同時に、指摘した場所が白煙と黒い水を糸のように吐いた。
二人が浴びた。
たちまち原形を失い、床にわだかまる粘塊と化し、それもみるみる石の底に沈んでいく。
「下がれ!」
おれは金縛りにあったひとりの右手からニューナンブを引ったくり、安全地帯へと押しやった。
弾倉を横に出し《スイング・アウト》、三八口径弾が五発収まっているのを確かめて戻す。
その間も大仏の破壊は進んでいた。
右肩に生じた虫食い穴は、まるで黒い染みみたいに広がり、首無き大仏の背と腰を浸蝕していた。全方向へじわじわと進んでいるのは、あの女が食っている[#「食っている」に傍点]だけではなく、溶かしてもいるのだろう。
「御仏が……ご本尊が……」
茫乎《ぼうこ》たる管長の声に同情している余裕はなかった。
奇怪な虫食い穴の浸蝕に耐え切れなくなったか、大仏の上半身は大きくかしぎ、次の瞬間、大地を揺るがせつつ下半身の上に落ちた。
白煙と原色の埃が爆風のように舞い上がる。
おれが待っていたのはこの一瞬だった。
大仏殿を吹きとばすがごとく膨れ上がった煙の中に、おれは電光の速さで跳躍する女の影を見た。
そこへポイントし、引き金を引いたのは、おれの意志ではなく、反射神経だった。
銃声だけをおれは理解した。
ぎゃっ、という声がした。
それを聞いた刹那、居ならぶ警備員は耳を押さえてうずくまった。
おれだけが走った。苦鳴の落下地点へ。衝撃波銃の効かない化け物も、鉛の弾丸で斃《たお》される実体は備えていたわけだ。
おれは上衣の襟に手を突っ込み、下に着込んでいた戦闘服のフードを引っかぶった。白煙は危《やば》い。
案の定、白い世界を数メートルといかないうちに、異音が生じた。
頭上――いや、四方から。
「崩れるぞ!」
と誰かが金切り声を張り上げた。
白煙の皮膜を通しておれは見た。
大仏殿――東西五七メートル、南北五〇メートル、高さ四九メートルに達する世界最大の木造建築は歪んでいた。
白煙は恐ろしいスピードで表面を浸し、釘を溶かし、建材の内部まで腐蝕し抜いたのだ。
木の砕ける音が頭上で鳴った。
右手の柱に、ぱん! と、音を立てて亀裂が走る。
頭上から影が落ちてきた。天井が左へ傾いたのだ。
脱出への意欲をぎりぎりまで押さえて、おれは落下地点へ到達した。
真紅の色が眼に灼きついた。
直径二〇センチほどの血溜りが床上に跳ね、点々と入り口の方へつづいている。
逃げられたか。
視界が黒く翳った。
おれは一気に地面を蹴った。
大仏殿の玄関を飛び出した刹那、衝撃波が背中を叩き、おれはそれに乗って数メートルも飛んだ。
轟音と地響きは、世界最大の木造建築物の最期にふさわしかった。
結局、おれは、なんとか警察の眼をかすめてスカGともども、京都の宿《ホテル》へ帰投した。
カーテレビでもラジオでもニュースは流していなかったので、服を着換えてすぐ――上衣は跡形もなく、戦闘服も金属繊維の表面はかなり腐蝕していた――部屋のテレビをつけた。
「水戸黄門」が豪快に笑いまくっている。画面に『ニュース速報』の文字がテロップされたときはさすがに緊張したが、四条河原町でやくざ同士の撃ち合いが行われた、という内容で、東大寺の件は影も形もなかった。
またも報道管制か。徹底してやがる。
おれは備えつけの救急箱を使って顔の手当てをし――といっても、顔を水で洗い、湿布薬をつけただけだが――これからの対策を考えた。
女は逃げた。血の痕は外にもつづいていたが、中門を出たところでぷっつり途切れ、姿を見たものは誰もいなかった。
何者かはいくら首を捻ってもわからず、しかし、もうひとつの疑問――何故おれを発見したかは、すぐに解決した。
町人姿の里見浩太朗が、葵の紋の入った印篭をカメラにむかって突き出し、これが目に入らぬか、と啖呵を切った画面に、こんなテロップが入ったのだ。
『今夕四時、京都大学文学部校舎内にある小野沢元祇教授(55)の研究室で、教授の死体が発見されました。死因は衰弱死の模様』
あの女は、おれが例の宝か自分の正体を知るため、京大へ行くと当たりをつけたのだ。
教授の研究室で襲わなかったところをみると、構内の何処かに潜んでいたのかもしれない。奈良まで尾行してきたのは、おれの次の目的地と目的を探るためだろう。
それほど正体を知られたくないというわけだ。
おれも本来はどうでもいいのだ。知りたいのは宝の正体とおれのコネが通じぬ理由であって、あんなおっかねえ女の素姓になど興味はない。
今まではだ。
今は――知りたい。警察の異常事態にあの女が絡んでいるとわかった以上は。
あれこれ考えているうちに、夕飯の時間になった。
クラスの連中ももう帰ってきてるだろう。おれは平凡な学生生活へ加わることにした。
食堂へ行くと、腫れ上がった顔へ、色男、の讃辞がとんだ。
よせ、馬鹿野郎。
桑山と小西の隣へ腰を下ろす。
いつもとは違う空気が漂っていた。
桑山は妙に殺気立っているし、網走は浮き浮きとダンスでも踊り出しそうだ。
「おい、どうした?」
とおれはステーキを口へ入れながら、ただひとり尋常そうな小西に尋ねた。
「わからん」
と小西は首をふった。左隣の網走の方をそっと指さし、
「こっちは眼にピンクの膜がかかってる。よそのクラスの妹[#「妹」に傍点]が気になって仕様がねえんだ」
「いい年齢《とし》してプラトニックか、おえ」
「誰でもおまえと同じだと思うなよ」
と小西は苦笑した。
「こっちはどうだ?」
おれは黙々と箸を動かす桑山へ眼をやった。
「よくわからねえ。今日、清水へ行ってからおかしいんだ」
「人でも斬りかねない眼つきだぞ」
とおれはわざと大きな声で言った。
「気狂いに刃物だ。居合はゴボウでやらせろ」
「うるせえ」
桑山がじろりとこちらを向いた。
やれやれ。おれは黙って膳へ箸をのばした。
他の連中はまともそうだ。
古賀は?――と見ると、両手を握り合わせ、恍惚とした表情で外谷を眺めていた。
二人だけの世界だ。
食事を終えると、おれは外谷を追いかけた。
樽山が「八頭くん」と呼んだが、ふり向きもしなかった。
廊下でつかまえる。
「朝は失礼したな。で、決心はついたか?」
「何よ、それ?」
「おまえが古賀とねっちりぐっちゃりの間柄になるってことさ」
外谷は大袈裟に眉をひそめて、
「失礼な。私はクリスチャンですのよ」
「貯金貯金。銭ずら」
一瞬、ぼうっとなりかけ、外谷はあわてて十字を切った。
「神の教えは忠実に守らねばなりません。以後、二度とそんな汚らわしい話題を口にしないで下さい」
それからすぐ、
「ブー」
なかなか面白い女だ。本気で改宗してら。
どってんどってんと歩み去るデブ女を見送りながら、おれは、ゴリラ男に何と言おうかと頭を巡らした。
「お、お、おい、八頭ぁ」
廊下の向こうから小西が駆け寄って来た。
「なんだい?」
「ロビーによ、お前探してえらいグラマーが来てるぞ」
「外谷なら向こうだ」
「一二〇、一二〇、一二〇じゃねえ。ありゃ、九五、五八、九五だ。なななななんで、あんな美人を知ってる?」
嫌な予感がした。
「何て女だ?」
「太宰っての」
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第五章 でぶ還る
おれはすぐロビーへ出た。
驚いたことに、そこにいる男という男が全員突っ立って、受付脇のプリーツ・スカート姿に見入っていた。
身動きひとつしない。
何のつもりか、柱の陰やソファの背の向こうから覗いてる奴もいた。
「こっちよ、大ちゃん」
全員を彫像と変えた訪問者が、にこやかに手をふった。
途端に、こわばってた連中が一斉に動き出し、凄まじい嫉妬と怨念がおれを押し包んだ。
「何の真似だ。こんなとこへ来やがって!」
おれは、ゆきの胸ぐらを掴みかかる手を押さえて呻いた。
「ああら、ご迷惑?」
「あたりまえだ。どいつもこいつも発情期の男どもの真ん中に、おかしな格好で来やがって」
「なにさ、ちゃんとお洋服着てるわよ」
「ブラが透けて見えるブラウスを着るな。パンティのラインが出てるスカートなんかはくんじゃねえ」
「失礼ねえ。校則の範囲内でちゃんと収まってるわよ」
言いながら、ゆきはとてつもなく色っぽい眼つきで、周囲をねめつけた。
「あんたの学校って、よくよくいい女の子がいないのね。みんな涎《よだれ》垂らしてるわ。二、三人廻そうか?」
「余計なお世話だ。さっさと用事を言え」
ゆきは急に硬い表情をつくった。
「困ったことができたのよ。外――出ない?」
「いいけどよ」
うなずいたとき、背後から誰かが近づいてくる気配がした。
ふり向くと、よそのクラスの男が三人、コチコチになって突っ立っている。指ではじくとひびが入りそうだ。おまけに、りんごの頬っぺ――真っ赤っ赤だ。
「あのあのあの」
と、真ん中のひときわ真面目そうなのが言った。
「なにかしら?」
ゆきが囁くように言って微笑した。
おれですら腰くだけになりそうなお嬢さま声と娼婦の流し目である。これで、三人の人生は三カ月ほど無駄になった。
「ぼぼぼくたち、こここれから、外出するんですけど……あのあのあの……よかったら……ご一緒に」
「わあ、うれしい!」
ゆきは両手を胸前で組み合わせ、身悶えした。白いブラウスを突き上げたバストが、ぶるんぶるんと唸る。
欲情とも熱気ともつかないものが、ロビーいっぱいにふくれ上がった。
これは危険である。
「行くぞ」
おれはゆきの背をドアの方へ押した。
「待て、こら」
「てめえ、独占する気か?」
「汚ねえぞ」
悪口が頭や背中に当たったが、構っちゃいられなかった。放っておくと、ゆきの方を見た見ないで喧嘩がはじまりかねない。
ゆきもそれを感じたのだろう。さっさと出ていきゃいいものを、するりとおれの手をすり抜け、片手を頭に、腰をくねらせるセクシー・ポーズをとった。
うおお、と喊声が上がった。
ゆきの手がスカートにかかる。
ぐおっと興奮が一気に高まった。
白い指がめくり上げたスカートから覗く太腿は男子全員の息を呑ませ、その場に硬直させた。
「やめんか、馬鹿!」
おれはゆきの肩をひっ掴むや、大急ぎで自動ドアを抜けた。
小走りに近い速度で引きずっていく。
「何するのよ。痛いわ、離して」
「クラスの奴が追っかけて来かねん。――男と見ると挑発することばかり考えやがって、この色気狂い。今日という今日は許さんぞ」
「あら、どうする気よ? 殴る? 蹴る? その後で……ふふ」
「ふふ、何だ!?」
「SMってのもいいわね」
「いい加減にしろ!」
おれは、ゆきを近くの神社の境内へ引っぱりこんだ。
外灯があちこちに白くかがやいている。
「話てのは何だ?」
社務所からは見えない大木の陰で訊いた。
「ちょっと、やりすぎちゃってさ」
ゆきは、困ったな、という表情をつくり、
「うちの女の子がひとり、補導されちゃったのよ。夕食前にひと稼ぎ、とホテルへ入りかけたところを。――尾行されてたのね」
「大いに結構。古都の浄化運動だな」
「何とかしてよ、大ちゃん」
「何をだよ?」
「とぼけないで」
ゆきは、左手でおれの肘を掴んだ。
すねるような眼つきをする。よほど克己心の強い男でも、鼻の下が目一杯のびそうな色気がある。おれは平気だ。慣れてる。
「アメリカの大統領とだって話ができんだから、京都の警察ぐらい、なんとでもなるでしょ? すぐ出してやってよ。署長を更迭するとか脅かしてさ」
「京にだけは効かねえんだ」
おれは正直に言った。無論、ゆきは信用しなかった。
「嘘ォ」
と肘をつねる。跳ねとばすと、また絡めてきた。
「そんな意地悪言わないで。帰ったら、うんとサービスするから。ね?」
「駄目ったら駄目だ。あんな商売さっさと終わりにしろ」
「じゃあ、あの子はどうなるのよ?」
「自業自得だろうが」
「いやああん」
ゆきはいきなり抱きついてきた。
押しのけようとしたが、剥き出しの腕に触れると、勿体ない、という気になった。
空に月なく、周りに人なく、しかも木の陰ときてる。
ゆきは力を入れ、自分から地面に倒れた。
おれの頭が地面とくっついた瞬間、唇の方もくっついた。
ゆきはすぐ舌を入れてきた。常套手段だ。
おれの左手をとって、自分のヒップにあてる。スカートも自分でめくった。
「はい、ここ」
おれの手は、熱い肌に導かれた。灼けそうだった。
「ね、お願い。もっとハードにしてもいいから」
おれの耳元で、ゆきは熱く囁いた。
おれは右手でゆきの乳房を服の上から掴んだ。
「あン」
大きくのけぞった。芝居じゃなさそうだが、信用できねえ。
おれは指にテクニックを加えた。
ゆきは激しく頭をふり、おれの左手を危ない部分へと導いた。熱い。煮えたぎる坩堝《るつぼ》だ。薄い布を通してもわかる。
「駄目、やめちゃ駄目」
とゆきは喘いだ。
「もっと強く。もっと激しく。もう――殺して!」
苦笑しつつ、おれはゆきの望みを叶えた。
ゆきの声は低く短くなり、ついには全身の痙攣だけが、失神していないと告げる有様だった。
「行くう」
引きつるように叫んだ。
「行く行く行く。行ってしまう。あ――っ!」
声は途中で消えた。
おれの手が唇を塞いだのだ。
「しっ」
おれは境内の中央へ眼をやった。
人影が五つ並んでいる。
正確に言うと真ん中にひとつ、そのぐるりに四個。
全員見覚えがあった。
桑山だ。囲んでいる連中は今日、三年坂の途中で、桑山に何やら申し込んでた奴らだ。おれにはショーウインドーでお馴染みだ。
楽しい話じゃなさそうなのは、全員が手にした細長い包みで明らかだった。
木刀だろう。
おれは素早く、ゆきを押しのけて立ち上がった。
桑山が仏頂面で飯食ってたわけだ。こいつも悩み多き青春だね。
おれは身を屈め、足元の小石を三個ほど拾い上げた。忙しいことだ。
「行くぜ」
と桑山の正面にいる野郎が言った。
さっと四人が離れ、全員布袋を取って青眼に構える。
桑山のみ構えなし――と思いきや、左手に一刀を封じたまま、ぐっと腰を落とす。
居合だ。
だが、木刀で居合とは。――打ちどころが悪ければ死に到る。
それがわかっているのか、四人は打ち込もうとしなかった。
だらしがねえ。数を頼むとこうなる。
「来い」
と、桑山が別人のように鋭い声で言った。
包囲の輪がひと廻り縮む。
緊張を断ち切ったものは、ひどい歌声であった。
度胆を抜く、というのはこれだ。
讃美歌らしいが、軍艦マーチにも聞こえる。
石段を上がってきた外谷の方へ、一瞬、桑山が凄い視線を投げた刹那、四方から他校の生徒が桑山を襲った。
前と後ろからふり下ろされる木刀。
桑山の居合は一閃のみ。――不利だ。
木と木が打ち合う美しい音。
おれは眼を見張った。
前から襲った奴は声もなく地べたへ倒れ、後方からの男の刀身は地べたを叩いている。
桑山は右へ跳んでいた。
最初の敵の胴を薙いだ刀身は、すでに左手に収まっている。
右の敵が悲鳴を上げて、跳びすさった。
迸る刀身の外へは出られなかった。――二人目。
石畳をこすって反転した桑山の前で、残る二名は硬直した。
勝負はついた。
じり、と桑山が進んだ。眼が火を噴いている。全員ぶちのめす気だろう。木刀とは言え、あいつなら軽く打っただけで骨折は免れない。
「……」
二人組の顔は夜目にも白い。
おれは右手をふった。
二人組が後頭部を押さえてのけぞる。
桑山がたたらを踏んだ隙に、悲鳴を上げて逃走に移った。金縛りが解けたのだろう。
地面の二人を蹴とばし、桑山はその後を追わせた。
よたよたと走り去る後ろ姿を見届け、こっちを向いた。
「出て来いよ」
「あいよ」
おれは木の陰から出た。
「なんだ、おまえか」
「ご挨拶だな。秋の全国大会に出場停止になるのを救ってやったんだぞ。『イノダ』のコーヒーか『鍵善』のくずきりをおごれ」
「余計なことを。腕をへし折ってやるつもりだったのに、中途半端な結果になっちまった」
「何だ、あいつら?」
「暁雲高の応援団員さ。全国大会で最初にぶつかる」
「なるほど。厄介な芽は出る前につぶしとけ、か。汚い手え使いやがる。だがな、実力で及ばんとわかったら、次は搦手《からめて》でくるぞ。おまえみたいな醜男《ぶおとこ》は女に弱い。くれぐれも自重するこった」
桑山は何も言わなかった。大きく眼を開き、ついでに口も開けている。
「?」
おれは視線の先を追った。
おれの横を素通りして、後ろへ。
「こんばんわ」
とゆきの甘い声がした。
「お強いんですのね。素敵だわ」
おれは眼の玉だけ動かして天空を仰いだ。
「ね、紹介してよ」
シャツの裾が引っぱられた。
「ええ、うるさい。とっとと帰れ。用はもう済んだろ」
「またひとつ出来たわ。――ねえってば!」
おれは眼で桑山に、とっとと立ち去れと合図した。痩せても枯れても女嫌いの居合名人だ。
桑山は口を結び、どっしりとうなずいた。風紀委員に立候補するほど自分がわかってない野郎だが、さすがは武道をやるだけのことはある。
「八頭」
と、重々しく言う。
「何だ?」
「紹介してくれ」
「馬鹿野郎」
どいつもこいつも、色に狂ってやがる。
おれは、あることを思いついた。
「そうだ。――あのでぶはどうした?」
「ウンタレリーナか」
と桑山は思い出した。
ゆきが、
「あのデブちゃんなら、この人がやり合ってたとき、そこの繁みに飛び込んだわよ」
悩ましい手つきで、石段の横を指さす。
「おい、出てこい」
と、おれは声をかけた。
あいつが出てくりゃ、甘いムードも吹っ飛んでしまう。天性の喜劇役者だ。卒業したら、女子プロレスだのクリーニング屋のプレス係になるより、黒木香の後を継いでタレントになったらどうだろう。ふんがふんがと地団駄を踏んでりゃサマになる女など、百年に一人しかいない。
外谷は現れなかった。
さっきの気配といい、様子がおかしい。
「一緒にこい」
と、おれは桑山に声をかけた。
「おれは無関係だ」
「あいつは敬虔なクリスチャンだ。決闘の現場を覗いて気絶してるかもしれん。おれひとりじゃ運べねえ」
「起重機がいるな」
「真面目な顔で言うな」
桑山は未練たらしく、ゆきの方を見い見いおれの後につづいた。
繁みといっても、薮の塊である。
改宗前は、喧嘩を見て逃げるどころか、収まりかけているのをけしかけるのが飯より好き、という女だったが、クリスチャンになった途端、男子トイレの前を通るにも頬を赤らめていたと、これは、我が高校の秘密クラブ『外谷順子の傾向と対策』のレポートにある。
案の定、てんこ盛りのような女体は、繁みの内側にひっくり返り、どってんぶーと空を仰いでいた。
おれたちはため息をついた。自然に出てしまったのである。
「どっちが顔だ?」
と桑山が訊いた。
「それより、これはうつぶせか、あお向けか?」
「わからんよ」
「いい加減になさいよ」
とゆきが怒り出した。
「こっちが頭に決まってるでしょ!――あら、違った」
おれたちはうなずき、ゆきの指摘とは反対側の方へ廻った。
外谷はあお向けで宙を仰いでいた。
「おまえ、活を入れろ」
おれが言うと、桑山は露骨にイヤイヤをした。
「触るのはイヤだ。おまえ、しろ[#「しろ」に傍点]」
「別に指は腐りゃしねえ。おれはいま、案配が悪い」
「仕様がないわね、二人とも」
とゆきがごねた。
「いい男が二人して、だらしないったらありゃしない」
おれはじろりとゆきを見た。
「じゃ、おまえ、やるか?」
「冗談じゃないわよ。こういうタイプはあたしの美的センスに反するわ」
「誰のにだって反するさ」
とおれは毒づいた。
仕様がねえかなあ。立場上、おれがやるしかあるまい。
活を入れるには、抱き起こさなきゃならない。おれは外谷の両肩を掴んだ。
ぶよん[#「ぶよん」に傍点]とも、ぶでん[#「ぶでん」に傍点]ともつかない奇怪な手触り。
「うおお」
低いかけ声とともに、丸石を転がすみたいに引っぱり上げたとき、おれは身体の下に妙なもの[#「もの」に傍点]を認めた。
灰の塊のようだ。
外谷はその上にへたり込んでいたのである。
「おい、ゆき。その粉末を少しハンカチに包んどけ」
「なによ、こんな汚らしいの」
「いいから」
おれに言われて、ゆきはしぶしぶ従った。こういうとき、保証人は強い、と言いたいのだが、おれの商売を知ってるゆきは、こんな些細なことがおれの増収、ひいては自分の利益につながることを承知しているのである。
「なんか、これ、布の切れ端みたいよ。模様が見えるわ」
指でつまんだ灰の一片を眼の前にかざしているゆきへ、
「ちょっと見せてみろ」
おれは近づいた。
「あ」
しまった、と思ったが遅かった。
外谷はぼでん、と地べたへひっくり返り、白い煙がもうもうと立ち昇った。
「屁をこいたのか?」
桑山が跳びのきながら訊いた。
「違う違う」
と一応弁解しながら、おれは外谷の方を見ようともせず、ゆきから細片を受け取った。
そのとき、風が吹いた。
「あ……」
ゆきの声が消えるより早く、おれの指先に貼りついた破片は崩れ、風と仲良く吹き飛んでしまった。
まあ、いいさ。ただの埃かもしれない。
「さて」
おれはもう一度外谷に活を入れようとふり向いた。
「わっ!」
跳びのいてしまった。
外谷はもっこり起き上がったのである。しょぼついた眼をこすりこすり、
「よっこいしょ」
と立ち上がる。
平凡な、当たり前の動作なのだが、なんとなく凄い。
「なにさ、こんなところで?」
と辺りを見廻して訊く。
「あっ、なによ、その女。あんたたち、何してんのよ、神社の中でさ。不純異性交遊? それとも桃色遊戯?」
そして、外谷はあるのかないのかわからない顎を突き出し、ケケケ、と笑った。
底意地の悪そうな笑顔だ。町内の情報網とか呼ばれる因業婆さんが、よくこんな笑い方をする。
「何をしようと余計なお世話だ。これは神社だぞ。伴天連《ばてれん》は江戸時代以来の敵だ。帰れ」
「ふん。後で先生に報告してやる。このインチキ風紀委員」
外谷は悪態をつき、すぐにゆきをにらみつけた。
「あんたも、こんな低能ども相手にチャラチャラしてると、身体汚されて、ソープランドへ売られるのがオチよ。ちょっと可愛いからってつけ上がらないことね。女は顔じゃなくて目方よ」
新理論をぶちかますと、外谷はのっしのっしと歩み去った。
「あの野郎、ショックで元に戻りやがったな」
おれのつぶやきに桑山もうなずいた。
「また校内に嵐が吹き荒れるぞ。対策本部を設けなきゃならん。とりあえず、あいつの三段論法から下級生を保護しなくちゃ」
その通りだ。
俗に「可愛い、おいで、脱げ」の三つを評して、「外谷の三段論法」と言う。
つまり、トイレの前に立って、下級生を物色し、これぞ、というのがいたら、
「可愛い」
とドスの効いた声で言う。大抵はこれで腰を抜かす。次は、
「おいで」
である。純情な下級生は、まさか学校内にこんなのがいるとは思わないから、一種のパニック状態に陥り、その隙に手を引かれてトイレへ連れ込まれてしまう。
外谷はさっさとドアの前に「清掃中」の札を出し、入ってる女子は追い出して、愛くるしい下級生と二人きり、
「脱げ」
とやる。
あまりのショックに狂乱状態になった生徒から訊き出したところによると、ここで逆らっても、
「ブー」
と脅され、怖いというより、この世の中にこんなことがあるなんて、という不条理感か無常感に襲われ、言うなりになってしまうのだそうだ。
「じゃあな」
と、おれは桑山の肩を押すようにして、ゆきに別れを告げた。
「ちょっと待って。あっちの方はどうなるのよ?」
ゆきは食い下がった。本当のことを言っても駄目なら仕様がない。
「わかった。何とかしとく。二、三日待て」
「経歴に傷がつかないようにしてよ」
「あいよ」
「じゃ、行きましょ」
ゆきは素早く近づき、桑山の手を取った。
「おい、何の真似だ」
「なによ、京の夜は自由恋愛の夜だわ」
「いい加減にしろ。こいつには、秋の剣道全国大会が待ってるんだ。おまえに腑抜けにされてたまるか」
「あら、ずいぶんと友達思いになったじゃない」
ゆきは嫌味たっぷりに言った。外谷の顔がダブついたので、おれはそう言ってやった。
露骨に顔を歪めた。ざまあみろ。
「桑山、行くぞ」
とおれはせか[#「せか」に傍点]したが、剣道部副将は動こうとしなかった。
「おまえな」
「先に行け。おれはデートをする」
「何が、でえと、だ。こんな女郎蜘蛛にたぶらかされてみろ。尻の毛まで抜かれちまうぞ。おまえの小遣いは月に幾らだ?」
「五千円だ」
「その女のハンカチ代にもならねえ。お茶一杯飲むんだって『マキシム』へ行きたがる女だぞ」
「『マキシム』ぐらい何杯でも飲ませてやる」
コーヒーと間違えてやがる。
「とにかく、よせ。おまえのためにならん」
「ちょっと。黙って聞いてりゃ何よ。人を悪女みたいに言って」
ゆきは憤然とし、おれは呆然となった。こいつ、自分を何だと思ってるんだ。
「あんた、さもこの男《ひと》のこと心配してるように言うけど、ほんとはあたしを独占したいんじゃないの。他の男に抱かれるんじゃないかと心配なのよ。まだ寝てないからね。ふん、そんなに気になるんなら、鎖でもつけて閉じ込めといたらどう? 断っときますけど、あたしは恋愛至上主義者よ。あらゆる自由を束縛するものと、断固戦いますからね」
「同感だ」
この糞剣道部。
「勝手にしろ」
おれは肩をすくめて言った。もうどうにでもなりやがれ。おれにゃ関係ない。
「おれは帰る。おめえらセックスでも何でもしろ。――あばよ」
ホテルのVIPルームへ戻る前に、少し頭を冷やそうと、おれはひとりで鴨川の方へ出た。
四条通りはまだまだ車と人でごった返している。
夜はこれからお楽しみの時間だ。
おれは、ショーウィンドーを覗きながら四条大橋の上へ出た。
鴨川の水音は車と騒音に負けない。
おれは川っぷちへ降りた。
前はもっと地面がせり出していたが、今じゃ川からすぐ土手だ。それでも、少しは散歩できるくらいの余裕がある。
まさか人はいまいと思ったのに、見事、当てがはずれた。
コンクリートの土手が川へ落ちる傾斜の途中に、ひとつの影が腰を下ろしていた。
おれに気がついたかどうかはわからない。
闇よりも濃い彫像と化して、水流を見つめている。
川明かりがあった。月も出ている。
「よお」
とおれは声をかけた。
影ははっとこちらを向いた。
長い髪が揺れた。
「物想いにふけるには、適当な場所じゃないぜ」
「あなた――八頭くん……」
別のクラスにいても、おれの名前くらいは知ってるだろう。
「保科さんだろ。はじめまして」
名前を言われて驚いたようだが、保科美智はすぐ、川面へ視線を戻した。
おれは土手の上へ眼をやってから、のそのそと土手を上がり、美智のそばへ腰を下ろした。
何も言わなかった。
「変わったデートだな」
とおれは言った。
「……」
「『つぼさか』へシチューとお茶漬け食いにいかないか?」
「……」
「ここはお巡りが定期巡回に来る。捕まる恐れがあるぞ」
「……帰って」
「やっと口がきけたな。フラれたかと思ったよ」
「ひとりにして下さい。邪魔しないで」
おれはのこのこと三〇センチばかり離れて川面を見つめた。
「世の中、うまくいかないもんだ。あっちが好きでもこっちが嫌い。こっちが好きだとあっちが嫌い」
美智は黙っていた。
川面を見つめているのだろう。
「……どうしてわかるの?……」
ぽつり、と言った。
「川明かりでな」
「気障なこと言うわね」
「様になってるだろ?」
美智は答えなかった。微笑したのがわかった。答えの代わりとしては十分だ。
それから手で顔を覆った。
泣き声は低かったが、水音よりよく聞こえた。
「好きにならなければ……」
美智はしゃくり上げた。
「好きにならなければよかった……」
「全くだ」
とおれが言ったのは、すすり泣きが収まってからだった。
「ところで、おれとのデートの話はどうなった? さっき申し込んだぞ」
「冗談はやめてよ」
「またフラれたか。近頃、ロクな目に遭わねえ」
「同情は嫌です」
「違うね。つけ込んでるんだ」
「……?」
「できれば君とホテルへ行きたい。自由恋愛でな」
「好きでもないのに……」
「いいや、好きだね。ひと目惚れ」
「よして」
美智は笑った。笑いながら泣いた。
「満更でもないだろ。相手が誰でも、好きだと言われるのは。おれ以外にもいるかもしれんぞ、かなり熱烈なのが」
「嘘」
おれはじっと娘を見つめた。
「人を好きになってしょぼくれる奴があるか。泣いてもいいから胸ぐらい張ってろ」
美智は少し黙り、そうね、と言った。
声に力が戻っていた。どんな力でもいいもんだ。
「デートの話、OKするわ」
おれは微笑し、それから土手の上の方を見て首をふった。
「おれの方から申し込んどいて悪いが、急用ができた。ひとりで帰れるな?」
「送ってくれないんですか?」
「月が出てるさ。――じゃ、な」
おれは別れの挨拶もそこそこに、川べりを三条大橋の方へ走り出した。
遠去からなくちゃならない。
神社を出てすぐ、尾行の気配に気づいたのだが、ショーウインドーを覗いても発見できなかった。なかなかやる。
十分、保科美智から離れたところで、おれは一気に土手を駆け上がった。
上がった刹那、気配が襲った。
悪念だ。
右へ跳んでかわす。そうそう同じ手にかかってはいられない。
おれは身を屈め、素早くスラックスをまくり上げた。
恐らく世界最高の小型自動銃《オートマチック》ワルサーPPK/Sを、臑につけたナイロン・ホルスターから引き抜く。
薬室への一発は装填済みだ。弾丸は九ミリ・クルツ――通常の九ミリ・パラベラムよりひとまわり小粒だが、シルバーチップの空洞弾頭《ホロー・ポイント》は標的の体内できれいにひしゃげ、全エネルギーを叩きつける。猛獣には無理だが、人間には十分だ。
もっとも、こいつは人間じゃあないがな。
相手は闇に溶けていた。
土手の向こうには、鴨川名物・床棧敷《さじき》がまだ残り、提灯を煌々と点しているが、土手の上は闇が濃い。
こいつはその中に溶けていた。黒ずくめなのだ。
あの女じゃないのか?
「おい――」
とおれは呼びかけた。
「ピストルが顔にでも当たったか。ご尊顔を拝したてまつりたいもんだな。今度はパクリたぁいかんぞ」
闇の中で小さな金属音がした。
おれの親指がPPK/Sの撃鉄を起こしたのだ。無意識のうちに装填指示《インジケーター》ピンが突き出ているのを確かめ、黒衣の敵に向ける。
頭からすっぽり黒い布に包まれているため、女かどうかはわからない。だが、今の悪念のタッチから見て、まず同一人物だ。
「悪いが今度は容赦しねえ。撃たれりゃ効くようだから、ちゃんと用意しといたぜ。さ、おたくの正体となぜおれの宝を狙うのか、聞かせてもらおうか」
女の武器は悪念とあの溶解液だ。
悪念は幻惑されなければ何とかかわせるし、溶解液は何か食わなきゃ――それも大量に――放出できないと見た。弾丸の速度も女の身のこなしに勝る。となれば、絶対におれに有利だ。
女は動かない。
首筋を冷たいものが撫でた。
おれは黒い布の肩の辺を狙って引き金を引いた。
タン! と短い破裂音がして、布は地に墜ちた。中身もろとも。
「まさか!?」
おれは布を剥いだ。
何もない。
地面に開いた大きな穴以外は。
女は土を食い破って土中へ潜ったのだ!
そう気づいた瞬間、足元が不意に崩れた。
千分の一秒で反射神経が働かなかったら、地面の底に引きずり込まれていただろう。
足元にぽっかり口を開けた空洞を尻目に、おれは軽々と跳躍し、三メートルも離れた地面へ降りた。
そこも崩れた。
モグラみたいな野郎だ、と思いつつ跳んだ。
着地した刹那――
「八頭くん!?」
土手の下から保科の声が呼んだ。
反射神経の作動が千分の一秒遅れた。
おれは、ぐずぐずに崩れた土とコンクリートに混じって、地中に吸い込まれた。
本来なら溶解液の効果で溶けるはずだが、おれは念のため、食事の前に例の液体防弾服《リキッド・プルーフ・ベスト》を全身にスプレーしておいた。
効果の有無は保証できなかったが、何とか間に合ったようだ。
熱いが溶けはしない。
二メートルほどで落下は止まった。
脱け出ようと足に力を入れたとき、両肩が背後から掴まれた。
凄まじい力だ。防弾服の上から骨が軋む。
「あれをお返し」
と、くぐもった声が耳元で囁いた。
「るせえ」
「お返し」
肩の骨が鳴った。折られる。だが、両肩をこうもがっちり押さえられ、足は泥の中だ。手の打ちようがない。
それでも何とかしなくちゃならん。おれは泥に賭けることにした。
狭い穴の中で、両足を曲げた。
ぐん、と体重が女の手にかかる。
次の瞬間、おれは、ちょうどいい硬さの泥を撥ねとばしつつ、後方へ両足を跳ね上げたのである。
最初は曲げたまま――泥から出た瞬間、伸ばした。
後ろも泥の壁だった。
どうやら女の手は土から生えていたらしい。
両足もめり込み、その下で、ぎゃっ、と悲鳴が上がった。肩の呪縛が消えた。
やった!
おれは思いきりジャンプしざま、穴のへりに手をかけた。
腕一本で身体を跳ね上げる。
泥の尾を引きつつ出た。
穴の底へワルサーPPK/Sを向けた。
誰もいない。
逃げたか。
気配が前方で動いた。
黒い布が立っていた。
その中へ戻ったらしい。やるものだ。
ラウンド2か。
撃ちたくはないが、仕方がない。
おれはゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]とPPK/Sを黒布の頭に向けた。
気がついたのは一瞬[#「一瞬」に傍点]のことだった。
背後に気配が湧いたのだ。
馴染みの気配だった。
「あれを戻せ」
と雲水の声が言った。
おれはふり向けなかった。前門の虎と後門の狼。打開策が目まぐるしく脳裡を駆け巡る。
「戻せ」
また、言った。
「お返し」
女も言った。
おれはタイミングを測っていた。
雲水の出現はある意味で好都合だった。
「また、出たね。さっき別れたばかりなのに」
と女が呻いた。
「おぬしがおるところ、わしもおる」
雲水の答えが、おれの小さな疑問に解答を与えた。
おれを尾行していた気配が橋へ辿り着く寸前に消えたので、何処へ行ったのかと思っていたのだが、どうやらこの女、雲水と出食わしていたらしい。
前後から気配が接近した。
サンドイッチになる寸前、おれは思い切り右へ跳んだ。
土手の下――川っぷちへ。
左側面に奇怪な衝撃を感じた刹那、おれは空中で一回転し、地面の上に立っていた。
「八頭くん!?」
三メートルほど離れたところに保科美智がいた。
「どうしたの!? 喧嘩?」
「似たようなもんだ。ヤー公が拳銃持ってる。――逃げろ!」
おれの叱咤に、美智は川っぷちを走り出した。
おれも後を追う。
いきなり斜面が白煙を噴いた。
ぐおっ、と黒衣の影がとび出して、行く手を塞いだ。
意識せず右手が伸びた。
PPK/Sがつづけざまに夜気を切り裂く。
布だけが地に墜ちた。中身はまた地下か。
おれは構わず走った。あの「宝」がおれの手にある限り、殺されはしまい。
五メートルも走ったとき、眼の前の土が盛り上がった。
ストップをかける余裕はなかった。
しまった! と思った刹那、黒い閃光が視界を斜めに切った。
どん、と盛り土に突き刺さったのは、錫杖《しゃく》であった。
くぐもった悲鳴が土中で響き、すぐ熄《や》んだ。
おれはもう五メートル先を疾走していた。
間一髪であの雲水に助けられたらしい。
おれはふり向いたが、土中から伸びた一本の杖《じょう》以外、川べりには何の影も見えなかった。
頭をふって、土手をよじ昇る。美智の姿はない。うまく逃げたらしい。
おれはそうもいかなかった。
一メートルも離れていない位置に、あの雲水が忽然と立っていたのである。
「なんだ、おまえは?」
おれは静かに訊いた。
こいつもまともじゃないが、女ほど性質《たち》は悪くなさそうだ。
「あれを返せ」
と雲水は言った。
「馬鹿のひとつ覚えはよせ。そもそも、あれ[#「あれ」に傍点]とは何だ?」
「あれは封じ込めたものだ」
「そらわかってるよ。だから、それじゃ勿体ないとおれが頂戴した」
「おまえには何もわかっておらん。もとの場所へ戻さんと大変なことが起きる」
何となくゾクリときた。雲水の言葉に作為的な口調がないからなおさらである。
「どんなことだ?」
「おまえに話しても仕方があるまい。――戻すのだ。あれは、何処にある?」
「おれの頭の中さ」
雲水はずい、と一歩を踏み出した。
錫杖無しでも、奴の力がおれに届くかどうか。
「はあっ!!」
と言ったと思うが、声はしなかった。
おれは奴がおれに向けてかざした手のひらだけを見ていた。
身体の中で何かが炸裂した。
おれは身体が宙を飛ぶのを感じた。
飛びながらPPK/Sを構えた。
引き金を引いた。
肩を狙ったつもりだが、雲水はびくりともせず、次の瞬間、衝撃がおれを襲った。
土手とは言え、下はコンクリートである。とっさに受身だけはとったものの、すぐには立ち上がれなかった。
雲水が近づいてきた。
おれは仰向けのまま、腰だめで引き金を引いた。
一秒三発の連射だ。
PPK/Sの遊底《スライド》が後退したまま止まる。残弾が尽きたのだ。
距離は五メートル。いくら下手くそでも全弾はずすはずはない。
雲水の歩みは一瞬といえども停止しなかった。あの女は弾丸で傷ついたが、こっちは平気らしい。
「こん畜生」
呻いて、ワルサーをふりかざしたとき――
「あそこです!」
橋の方から保科美智の声が聞こえた。
「八頭くん――お巡りさんよ!」
しめた、というか、まずい、というか。
雲水は一瞬、硬直したと思うと、おれの前からふっと消えた。思い切りのいい爺さんだ。
おれの行動は我ながら迅速だった。
空になったPPK/Sをアンクル・ホルスターへ収め、痛みをこらえて起き上がる。
全身打撲だが、なに、この程度は本番前のお茶菓子だ。
おれは橋の方を向いた。
石段のそばに美智がいた。
ひとりきりだ。お巡りさん、というのは嘘だったらしい。
おれは苦笑した。
こんな状況で嘘がつけるなんざ、どうしてどうして大したもんだ。そんな女でも、好きな男にふられるとヘナヘナになる。面白い。
心配する美智に、橋の上へ戻れと告げて、おれは雲水の錫杖が刺さった川べりの方を見た。
杖の影も形もない。
おれは頭をふった。
体調も打撲の痛み以外は異常無しだ。
今日のところは無事に切り抜けたか。
だが、油断はできない。あの女は二度もおれの居場所を突き止め、尾行に成功したのだ。次は無事だという保証はあるまい。
こりゃ、ホテルへ帰らん方がいいな。
とりあえず、おれは橋の上へ上がった。
保科美智はまだそこにいた。
さっさと逃げ出すつもりだったのに、めざとくおれを見つけて駆け寄ってきた。
「何処いくの、八頭くん?」
「帰るんだよ。やくざの喧嘩みてたら頭が痛くなってきた」
「嘘」
信じられないという口調だった。
「とにかく、おれは戻る。おまえは好きにしろ」
「ひどいわ」
美智は哀しげな表情になった。さっきもこんな顔で川面を見つめていたのだろう。明かりの下で見ると、もともと清楚な顔立ちだから、それがぴったり合う。
「何がひどい?」
美智はちょっとうつ向き、聞きとれないくらいの声で言った。
「……デート……してくれるって……」
「ありゃ、おまえ――おまえを……」
元気づけるためだ、と言いかけて、おれは口をつぐんだ。
その辺は美智にもわかってるだろう。だが、はっきりと口に出してしまうのと、ただ理解しているのとでは、外谷とゆきくらいも違う。
腰は痛むし、身体に散布した液状防弾剤は、溶解液のせいでパリパリはがれ出してる。
一刻も早くシャワーを浴びて寝こんでしまいたい。
「すまんな。やくざがこわくて忘れてた」
おれは、間抜け、と自分を罵《ののし》りながら言った。
「何処へ行きたい? 新京極か、先斗町の料亭か?」
「そんなとこ、知ってるの?」
美智は素直に驚いた。矢島みたいな女たらしには、こういうタイプが一番狙いやすい。
「お祖父さんが遊興の徒でな。おれも馴染みはある。ひとつパーッとやろうか?」
美智は微笑した。冗談だと思ったのだろう。
おれも考え直した。
ここは高校生らしくいくか。
「円山公園へ行ってみない?」
と美智が言った。
「夜の公園、きれいですって」
「いいよ」
おれは同意して歩き出した。円山公園の前には八坂神社がある。どうなっているのか見ておきたかった。あのときのお巡りがいるかもしれないが、そのときはそのときだ。今日のボクは高校生である。
八坂神社の鳥居がぼんやりと見えてきたところで、美智は足を止め、
「あの辺――祇園ですね?」
「そうだな。行ってみたいか?」
「ええ」
おれたちは方向を変え、商店街の間の細道を入った。
近代的な店々は突然消滅し、紅《べん》がらの壁と犬矢来の家々がおれたちを迎えた。
四条通りをはさんで、北は白川南通り、新橋通りから、南は団栗通りまで、西は大和大路から東は東大路までの区域を祇園と呼ぶ。
石畳の道、狭い横丁を歩む舞妓の華やかな姿――昔ながらのしっとりとした空気が懐かしいところだが、今では時の流れに抗しきれず、お茶屋からバーや小料理屋に転向するものも少なくないという。
それでも、祇園小唄に歌われた風情は、おれたちが歩む小路や古いつくりの家々に色濃く残っており、美智は眼をかがやかせた。
「あら?――私の顔、何かついてます?」
おれが覗き込んでいるのに気がついて、訊いた。
おれは首をふって、いいや、と答えた。
「忠臣蔵」で有名な大石内蔵助が、宿敵吉良上野介の眼をくらますため、遊興の日々を送っていたという「一力茶屋」の方へと角を曲がったとき、前方に並んだ人影の間から、ぎゃっ、という悲鳴が上がった。
美智がおれの右手にすがりつく。
喧嘩は面白いが、今はごめんだ。
おれはろくすっぽそっちも見ずに、すぐ眼の前の角を曲がろうとした。
「あら、大ちゃん」
地獄に天使がいたらこんな声を出すだろう。
おれは天を仰いでふり向いた。
どっと人影が動き、おれたちを取り囲んだ。
「よう、八頭」
おれの前に立って木刀を構えたのは桑山だった。
「ここでも全国大会の練習か。いい加減にしろよ」
おれは、周囲を囲む七つばかりの人影を値踏みしながら言った。
みな若い。白いシャツとネクタイの上に紺の半纏《はんてん》を引っかけているところを見ると、茶屋の連中だろう。
「こいつらが悪いのよ」
いつの間にかおれの後ろに隠れたゆきが、金切り声で言った。
「すれ違うとき、あたしのお尻撫でたんだからあ。お返しに蹴とばしてやったら、それを根にもって追っかけてきたの」
「本当か、桑山?」
「まあ、な」
どうも歯切れが悪い。
「何人やった[#「やった」に傍点]?」
と訊いてみた。
「三人ばかり。腕ぐらい折れたかもしれん」
おれは眼を閉じた。すぐに開いて言った。
「あんたら、よくないよ。相手は学生だぜ。前途のある身だ。勘弁してやれよ、な」
「いいや、ならねえ」
と、ひとりが荒々しい口調で言った。
「たかが尻触られたくらいで、思いきり急所を蹴ることはないだろう。病院送りになったぞ。おれたちは詫びに来いと言ってるだけだ」
おれはゆきをじろりと見た。そっぽを向いている。
「詫びればすむか?」
とおれは男に訊いた。
男は少し黙った。顔に嫌な表情が広がった。
「こうなったら、それじゃすまんだろうな。少しは痛い思いをしてもらおう」
「なら、仕方がない」
おれは一歩前へ出て桑山と並んだ。
「助太刀などいらねえぞ」
「格好つけんな、馬鹿。大体、こんな棒切れ持ってやって来る場所か」
「来やがれ」
ひとりが叫んでおれの胸ぐらを掴もうとした。
身体を相手の移動線の外側へずらし、関節の逆をとる。
軽くひねっただけで、そいつは石畳の上に横転した。
ざっ、と男たちが緊張する。
そんな余裕を与えてたまるか。
「待った」
手近な奴の方へ踏み出そうとする動きを、通りの方から野太い声が止めた。
見るからに恰幅のいい和服姿の大男が、草覆の音を響かせて足早に現れた。
後ろに、これも茶屋の者らしい若いのを二人従えている。
豪商の大旦那、というよりやくざの大親分クラスの貫禄と雰囲気に、おれたちを囲む若いのが、さっと道を開けた。
「これは――旦那」
とさっきの男が頭を下げた。
大男は目もくれず、おれたちを一瞥して、
「なんだ。若いのが大分痛めつけられたというから来てみたら、まだ学生さんじゃないか。祇園の名に泥を塗るような野暮な真似をするんじゃありませんよ」
声音は女みたいにやさしいが、血相変えてた若いのが全員、へへっ、と頭を下げるだけの迫力があった。
さすが祇園一の茶屋『房錦』の元締めだ。
「ささ、学生さん。今日のところは若いもんの落度ですまそう。早くお行きなさい」
「やだね」
おれは、一語一語区切るように言った。
「何だって?」
巨漢の眼がすっと細くなった。
全身が倍にも膨れ上がったように見え、さすがの桑山が背筋を震わせた。
「おまえさん方――」
説得するような口調が驚きに変わった。
おれが彼の方を向いたのだ。
「あ――あんた……八頭の坊っちゃん!?」
茫然たる声音と、桑山やゆきの驚愕の視線を浴びて、おれは千両役者のように微笑した。
これくらいのことがなくちゃ、世の中やっていられない。
「お久しぶり。――上げてもらえるかな?」
おれの挨拶に、巨漢は一メートルも跳び下がって、
「そら、もう。八頭の坊っちゃんなら、他の客なんざみんな追い出して。――おお、ちょうどいい。まだ半玉《はんぎょく》ですが、とびっきりのがおりますよ」
「へえ」
とおれは状況も考えずに笑い、思いきり、ゆきに尻をつねられた。
「ま、とにかくうちへ。ささ、どうぞ、どうぞ」
巨漢は大きく腰を曲げ、呆然と突っ立っている若いのに、
「何をぐずぐずしています。昔、わたしが大恩を受けた家のお坊っちゃまですよ。『房錦』最高のもてなしを用意しなさい!」
若者たちは飛び散った。
「では」
巨漢が深々と一礼し、おれは、おお、とうなずき、その後につづいた。
美智と桑山、ゆきがついてきたのは言うまでもない。
巨漢の言った通り、半玉は目を剥くような美少女だった。
膳も最高だった。
酒も出た。美智だけが辞退したが、おれたちがラッパ飲みしているのを見ると、猪口《ちょこ》で一杯やり、すぐにコップで飲みはじめた。結構話せる娘だった。酒がいければ、嫌なことの半分くらいは忘れられる。
「あたし脱ぐ」
とゆきが言い、おれと桑山はヤンヤと拍手を送った。
半玉があわてて、
「お客さん、いやどすえ。そんな――」
と止めるのを、
「いいから。そうだ、君も脱げ」
とおれたちは喚き、
「はあい」
と半玉はうなずいた。これも話せる娘だった。
ぱぱぱ、とスカートが、ブラウスが、和服がとんだ。
半玉もブラジャーとパンティをつけていたのはご時世かもしれない。
それでも、桑山が興奮するには十分だった。おれほど耐性がないから、興奮すると一遍に血が昇り、しかも高級酒の酔いも手伝って、剣道部副将はあっけなくダウンしてしまった。ゆきが顔の真ん前にヒップを突き出したせいもある。
美智はそれより先にへばっており、結局、グラマー二人のお座敷ストリップを観賞したのは、おれひとりだった。
部屋にはピンクの霧がかかり、半玉の唄う「芸者ワルツ」が朗々と流れ、ゆきはブラのストラップをはずし、こぼれんばかりの乳房をおれの前に差し出しては遠ざけ、おれを挑発した。
「こら、待て。ヒヒヒ」
と酔いにまかせて助平ったらしく手を伸ばすと、ゆきはさっと身を引き、代わりに半玉のヒップがおれの鼻面を受け止めた。
いや、実に楽しい。今日びの高校生はこのくらいのことやらなきゃな。
「よし」
とおれは立ち上がって宣言した。
「おれも脱ぐ」
「きゃあ。いいぞぉ」
とゆきが手を叩いた。
「結構どすなあ」
半玉も言った。
「お盆、いりますか?」
結局、おれはパンツ一枚になり、「芸者ワルツ」の調べにのせて、ゆきと半玉とワルツを踊った。
ゆきはバストと腰を大胆に押しつけてきた。
「あーら、酔ってる割には元気じゃない?」
とおれの腰の下を見ながら言う。
「当たり前だ。この程度でしおたれちゃあ男がすたる。それよりお前、これ邪魔だ。とっちゃえ。出し惜しみすんな」
おれは胸に押しつけられた乳房を、何となくガードしてるブラジャーを鼻の先でさした。
「いいわよ。ふふ。でも、あたしのおっぱいがちゃんと見たかったら、自分で取ってごらんなさい。その位置から」
「ようっし!」
ゆきの言う通りにすると、歯で噛み取るしかない。
おれはアタックした。
「ううう」
唸りながら頭を下げると、眼の前に二つの水蜜桃が迫ってくる。ゆきには珍しく白い平凡なブラの端が、その先を覆っている。甘い毒花の匂いが漂ってくるようで、おれの眼はクラクラと揺れた。
「ほら、どうしたの、もう少しよ」
とゆきが挑発する。
くそ、届かない。あと三ミリ。ガチガチと歯が鳴った。
「ほら、もう少しで見られるのよ、あたしのおっぱい。本物なんだから。まだ、誰も見てないんだからね」
「このこのこの」
何もかも忘れておれは限界以上に首を押し下げた。
あと二ミリ……一ミリ……やった!
前歯の先に、布切れの端が触れた。
後は引き上げるだけ。
このとき――
「こら、八頭、何してる?」
言いざま、びゅっ! と空気を切る音。
「わっ」
と叫んで跳びのいた空間を真一文字に切り裂き、桑山は木刀を腰に構えた。眼がすわっている。こりゃ酒乱だ。
「やめろ、この気狂い高校生。剣道の練習なんかするんじゃねえ」
「何を吐《ぬ》かす、この裏切り者。人の恋人の乳当てを無理矢理はずそうとは、友達の風上にもおけねえ。ここで成敗してくれる」
「なにをアナクロなこと言ってやがる。どこが無理矢理だ。こいつはな、喜んでたんだ。おっぱい見せたくてしょうがねえのさ。先天性色情狂だ。――それからな、ブラジャーと言え、ブラジャーと」
「うるさい!」
声と同時にたばしる刀身。腐っても鯛、酔っても居合だ。
きゃっ、とゆきがのけぞり、とびすさったおれの胸を熱いものがかすめた。
抜くよりも早く刀身を収め、桑山が突っかかる。
もう一度下がろうとしたとき、びしっ! と横合いから白いものが桑山の顔を打った。
たたらを踏んだその顎へ、おれの蹴り足が正確にめり込み、桑山は畳にひっくり返り、本当にお眠りしはじめた。
「お見事!」
と半玉が喊声をあげて抱きついてきた。
「素敵やわ、この男性《ひと》。ね、今夜、付き合って」
「いいとも」
「帰るわよ!」
とゆきがブラのストラップを止めながら憤然と言った。
「るせ、おれはこの子とここへ泊まる。おまえ、消えろ」
「この二人、どうする気よ? あたしは知らないからね。じき、消燈時間だし、あんたは平気だろうけど、この二人、変な眼で見られるわよ」
それもそうだ。
仕方がない、帰るとするか。
おれは半玉の熱い身体をしぶしぶ引き離し、別れを告げた。
タクシーを呼んでもらって乗り込むまで、半玉は執拗に引きとめたが、無駄とわかるとメモに素早く自分の電話番号を書いておれに手渡した。
いい晩だった。
なかなかこうはいかんぜ。
タクシーが走り出したとき、半玉は小走りに追ってきた。ひたむきな表情が胸にこたえた。
女というのは、ああでなくちゃ。
前を向くと、ゆきが歯を剥いておれをにらんでいた。
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第六章 京洛最期の日
それから二日間、おれはホテルを変え、女の襲撃に備えた。
武器も運び込み、市街戦をするくらいの覚悟で待ち構えたのだが、結局、何も起こらなかった。
今度という今度は尾行されなかったらしい。
三日目の朝におれは警戒を解き、クラスへ顔を出した。
「よお、八頭、何処行ってた?」
と上機嫌で迎えたのは桑山ばかりで、小西は仏頂面、網走と来たらそっぽを向いている。
「何だ、どうした?」
こっそり桑山に訊くと、
「さあ?」
と首をかしげている。
おれはピンと来て、半ば強引に桑山を廊下へ連れ出した。
「おまえ、『房錦』でのこと、網走にしゃべったな!」
「はは」
「何がはは[#「はは」に傍点]、だ。網走が保科美智にほ[#「ほ」に傍点]の字ぐらいのことは前からわかってたはずだぞ。あの三年坂の買い物だって、妹にじゃねえ。保科美智のためだ。それを……この棒ふり野郎!」
「違うんだ。話をきけ」
と、ふり上げたおれの拳をにらみつけながら、桑山は弁解した。
「一昨日――つまり、おれたちが祇園から戻った次の日、網走は保科にプレゼントを渡しに行ったんだ。そして、あっさり、ふられた。理由は何だと思う?」
「矢島のスケコマシが忘れられないとか何とか言うんだろ」
「残念でした」
と桑山は生真面目な顔で言った。
「矢島さんのことは忘れました。私、本当に好きな人が出来てしまったんです」
どすの効いた男の声で、女の台詞を言われるほど気色の悪いものはない。
「誰だ、そいつは!? 叩きのめしてやる」
「八頭さんでーす」
…………
「八頭――」
「うるせえ! ホラ吹きやがって、この」
「本当だ。おまえがあの晩何をしたか知らんが、保科の眼は完全に虚ろだったそうだ。ついでに言うと、頬は薔薇色だとよ。これじゃ、網走が怒り狂うのも無理はない。おまえ、最愛の女をクラスメイトにかっさらわれたわけだからな。おれの考えだが、あいつ、そのうち、おまえに決闘を申し込むぞ」
「おまえがかわりに受けろ」
おれは頭へ来て怒鳴った。
「悪いが、おれは太宰くんのことで頭がいっぱいだ。将来のことまで考えてるんだ」
おれは絶句した。
どいつもこいつも人の気も知らねえで勝手なことばかり吐《ぬ》かしやがる。こうなれば、事態を正常に戻すため、嘘でも何でもつくしかない。
「いいか、よく聞けよ、桑山」
とおれは奴の胸ぐらを掴んで言った。
「あの女はおれと出来てる。すでに同棲中だ。毎晩毎晩、おれと愉しんでるんだ。夕べも松葉崩しと後背位でやった。もう汚れた身だ。あきらめろ」
「おれは別にかまわん」
桑山は平然と言った。こういうところは武道やってるだけあって、実に堂々としている。
「おれはあの娘《こ》が好きなんだ。お前のことは一切無視する。これからちょくちょく、お前の家へも行くようになるが、よろしく頼むぞ」
「馬鹿野郎」
殴りつけようとしたとき、
「八頭くーん」
と情けない声がおれを呼んだ。
「何だってんだ、いま――」
古賀雄一の哀しそうな顔を見て、おれは怒りのやり場を失った。
「外谷さんはどうしただろうか?」
「あんな化け物知ったことか」
と言いたかったが、ゴリラの哀しげな顔つきを見ると、そうも言えなかった。
おれの周りの野郎どもと来たら、女の趣味が悪いと言うより気狂いじみている。
「いま折衝中だ。あんな女は金と色で釣るしかない。ちょっと待て」
「でも、何だか、様子がおかしいんだよ」
「あいつはおかしいのが普通だ」
「でも、急に下品になって、所構わずオナラをしたり、エロ話をしてゲラゲラ笑うんだぜ。それが、みんな真っ赤になるような凄い話なんだ」
「それが普通なんだよ。今までみたいに十字を切ってアーメン言ってる方が異常だったんだ」
「そ、そうかなあ」
「これから飯だな」
とおれは体内時計で時間を計りながら言った。
「よく見てろ。あの女、お櫃抱えてしゃもじで飯食い出すぞ」
「そんな」
古賀が呆然と宙を仰いだとき、部屋のドアが次々に開いて、生徒たちが現れる。大広間で食事だ。
仕様がないから、おれは憤懣やる方ない胸を押さえ、桑山に、後で決着《けり》をつけてやるからな、と脅して食事に向かった。
席に着いた。
膳は出ている。
それなのに、食事ははじまらない。五分ほどして、みなが騒ぎはじめた。
給仕さんたちも困った表情を見交わしている。
原因は明白であった。お櫃がないのである。
まさか、戸谷がかっぱらったんじゃあるまい。席にいないのも偶然だ。
おれは立ち上がった。
古賀が不安そうに、こっちを見ている。
「トイレへ行って来ます」
と担任に断り、おれは食堂を出た。
真っすぐ厨房へ向かう。
途中で、仲居さんに出食わした。血相を変えている。
「どうしました?」
「それが、おたくとこの生徒さんが――」
これだけ言って、仲居さんは食堂の方へ駆けて行った。
まさか。
おれは厨房へ駆け込んだ。
ドアのところに、仲居さんが二、三人、おろおろと突っ立っている。
「どう――」
しました、と訊く前に、内側《なか》から、ええいと凄い気合がかかるや、白衣姿の料理人が二人も、宙を飛んで廊下に激突した。
悲鳴をあげる仲居さんを尻目に、おれは厨房へ駆け込んだ。
気合がすべての事情を説明していた。
お櫃は外谷のものであった。
厨房のど真ん中にどっかと尻を据え、周囲に白い湯気を噴き上げる木の樽を並べて、膝の上にもひとつ乗せ、出来たての白米をしゃもじでガパガパ頬ばっているところは、厨房の主か時代劇の牢名主のようであった。
茫然だの愕然だのする前に、おれは馬鹿馬鹿しくなり、無感動に背を向けた。
厨房を出て少し行くと、教師が二、三人駆けて行ったが、おれは気にもとめなかった。
食堂には戻らず、VIPルームへ行き、ルーム・サービスでカツサンドを取った。飯は食いたくない。
クラスに戻る気になれなかった。
古賀の哀しげな顔が浮かんだ。
いち抜けた、と言いたかった。
三〇分後、おれは気分を変え、服装も整えて、京大めざしスカGを駆っていた。
医学部の校舎へ入ると、おれは三階にある分子生物学の研究室のひとつを訪れた。
このあいだ、小野沢教授を訪ねた帰りにここへ寄り、例の「宝」の分析を依頼しておいたのだ。
ノックすると、若い男が顔を出し、不愛想に笑った。
この研究室の助手で船出という。
「どうだい」
「ああ……」
曖昧にうなずいた。
「ああ[#「ああ」に傍点]じゃわからねえよ」
おれは凄味を効かせた。船出はじろりとおれを見て、
「分析はもうすんだ。ひと通りはな。だが、あれは実に興味深い標本だ。なあ、君、譲ってはもらえないか?」
「冗談じゃねえ」
「百万円は返す」
と船出は食い下がった。
「正直言って、あの物体は完全なる未知の有機体だ。独占して研究すれば、これまでの生物概念を根本的にくつがえす大発見、新理論の確立も可能だろう。頼む。助けると思って――」
「駄目だ」
おれは冷たく、はっきりと拒絶した。
「こっちは忙しいんだ。早く実験結果を渡してもらおう。その前に――あれは何だった?」
船出は肩を落とした。
「まだよくわからんが、どうも――いや、いまデータを持ってくる。それを見ながら説明しよう」
「ああ」
おれは手近のテーブルに腰を下ろし、船出は隣室のドアを開けて出て行った。かっぱらって逃げる気かな、とも思ったが、おれが無事な以上、そんなことをしても何にもならない。
おれは窓を通して、今日もうだるような京都の青い空を眺めた。
いきなり、隣室で船出の悲鳴が上がった。それが小さくなる前に、おれはドアを開けて研究室内に飛び込んでいた。
奇怪なものがいた。
馬鹿でかい電子顕微鏡の前で、船出の手足が黒い闇から突き出ている。
あの黒衣の女が彼を抱きすくめているのだ。
どっと船出が倒れた。
その身体に頭はなかった。
あるべきところから白煙が立ち昇っている。食われてしまったのだ。
「来たね」
女が低く呻いた。凄まじい嗄れ声だ。
「やっと手に入れた。もう、おまえになど渡さないよ。これで私も腹一杯、ご飯が食べられる……」
その声が終わらないうちに、おれの右手から火線が迸った。
愛用の実戦用オート――CZ75・九ミリ自動拳銃の抜き撃ちであった。
布の表面が弾け、床に落ちた。
くそ、これでも遅いか!?
布が宙に舞った。
それが幾つにも分かれ、四方からおれめがけて吹きつけてくる。悪念だ。
おれも跳躍した。
空中で連射を放った。
はじめての試みだったが成功した。
黒い塊は次々に消えた。
校庭の方を向いた壁に大穴が開くのを、おれは着地寸前に認めた。
黒い影が脱け出ていく。
舌打ちしておれは追った。
分厚いコンクリートの壁はぶち抜かれていた。
溶解液ではない。体当たりのスピードと質量の仕業だ。犀《さい》なみの女だった。
だが――
破壊孔から下を覗いたとき、おれは目を見張った。
校舎の真下で、女は凍りついていた。
その前に立って行く手を塞いでいるのは、あの雲水だった。
「しめた!」
思わず叫んで、おれは破壊孔から身を躍らせた。
三階――約一五メートルまでは衝撃に耐え得るよう鍛えてある。だからと言って、あまりたびたびはできないが。おっとりと階段を下りてる暇はなかった。
風景が下から上へと流れ、ずしん、と衝撃が脳天へ抜けた。
立ち上がったとき、しかし、勝負はすでについていた。
白くかがやく校庭には、倒れた雲水以外に人影はなかった。
おれは大急ぎで駆け寄った。
網代笠《あじろがさ》を取り除けると、ミイラのごとき痩せ細った灰色の顔が現れた。
「案外、あっけなかったな」
おれはそっと声をかけて脈をとろうとした。
雲水の皺だらけの口が動いた。
「……奴は取り返した……やむを得ん」
「取り返したって、あれ[#「あれ」に傍点]のことか?」
我ながら阿呆な質問だったが、雲水はうなずいた。白髪の先が昆虫の手足のごとく揺れる。
「ありゃ、一体何だ?」
おれは核心に触れた。のんびりしてもいられない。こんなところを誰かに見られた日には、犯人と間違われること確実だ。
「……舌……じゃ……奴の……」
「奴てな、何者だ?」
老人の口が動いた。よく聞きとれなかった。おれは耳を寄せた。
「……わしは……長いこと……あれを守って……きた……だが……今度は奴の……勝ちじゃろう……」
「奴てな、何だ?」
おれは声を荒らげた。
老人の口がもう一度動いた。
足下に横たわる白い灰を見下ろしつつ立ち上がったとき、背後から足音が駆け寄ってきた。
おれに語り終えた雲水の身体が灰と化す前に、おれたちを認めたのはわかっている。
となれば、トラブルだ。
おれは用意してきたサングラスをかけ、足早に校門の方へと歩き出した。
「待て、こら」
権柄《けんぺい》づくの声だった。警備員だな。おれはふり返らず走った。
声が遠ざかる。足音が巻き起こったが、近づいては来なかった。おれは百メートルを九秒九九でいく。
まずい!
校門の外に停めたスカGを、二人の警官が覗き込んでいた。パトカーも停まっている。すぐ戻るつもりだったので、禁止地帯にパークしてしまったのだ。
問答無用。
おれは一気に走った。
警官がふり向いた。
その喉におれの両腕が叩き込まれたのは、次の瞬間だった。
ウエスタン・ラリアートという奴だ。たまにはプロレスも役に立つ。
スカGをスタートさせたとき、校門から警備員が飛び出してきた。
「残念でした」
走り寄る連中におれはウインクした。
それを消さないうちに、フロント・グラスが一番会いたくない車を映し出した。
パトカーだ。
アクセルを踏んですれ違う。
バックミラーの中で、警備員たちがパトカーに駆け寄るのが見えた。
Uターンした。追ってくる。
頭に叩き込んである京都道路マップを頼りに、おれはスカGを平安神宮の方へ向けた。
幸い混んではいないが、それはパトカーにも幸いする。
バックミラーの車体は、近くもならないが遠くもならない。よほど腕のいいドライバーらしかった。
平安神宮の大鳥居が見えてきた。
この広大な敷地の何処かで、京都・奈良の僧たちが、あいつ[#「あいつ」に傍点]に対して祈りを捧げているのだ。
パトカーはまだ追尾してくる。
一瞬、青空を暗雲が閉ざした。
心臓が跳ね上がる。
また、あいつ[#「あいつ」に傍点]だ。
白煙が世界を押し包んだ。
位置としては、平安神宮の手前――京都府立図書館あたりだろう。
バックは間に合わない。
おれはハンドルを左へ切った。
白煙は猛烈な勢いで平安神宮の方へ突進してくる。
何もかも呑み込む貪欲な津波だ。
その前に、神宮の敷地内へ入らなければ!
おれは思いきりアクセルを踏んだ。
白煙。
それがフロント・グラスを覆いかけた刹那、おれは正門を突き破るようにして、車ごと平安神宮の敷地内へ突っ込んでいた。
茫然とこちらを見つめる学生どもの真ん中でスカGをストップさせ、四方を見廻す。
奇怪な光景だった。
神宮の敷地内を除いて、世界は白煙に包まれていた。
あの、恐るべき溶解液の名残だった。
ここだけが無事なのだ。高僧たちの祈りが京を守るここだけが。
学生たちの間から悲鳴が湧き上がった。
おれはふり向いた。
門のところから制服姿の警官が現れるところだった。おれを追いかけていたパトカーの奴かもしれない。
全身が白い煙を引いている。
いや、噴いているのだった。
女子学生が泣き出した。
一歩を踏み出した途端、人間の形をした白煙の塊はどたりと地面に倒れ、四方へ飛沫をとばした。
眼の玉も、毛をへばりつかせた頭部もあった。
それが煙に包まれ、汚液と化し、地面に吸い込まれるまでの間に、数名の女子学生が失神した。
お母さん、お父さんと呼ぶ声も聞こえた。
おれは無言でスカGを降りた。
府立図書館へ行きたかったのだが、やむを得まい。とりあえず、おれは泣き叫ぶ女の子たちを慰めようと、立ち尽くす人影の方へ近づいていった。
薄暗い図書館だった。
それでも本は読めたし、何よりいいことに読む本があった。
『民話妖怪集成・巻2』
おれの読んでいるページのタイトルは、
のづち
とあった。
記述は短かった。
『のづち:全長不明。小指大とも日本より大きいとも言われる。後者の場合は町をひと呑みにするほどで、その垂らす涎《よだれ》だけで、小さな村は溶けてしまう。弱点は、舌を切られると物を食べられなくなることで、それを封じておけば、現れることはない。なお、人間の形をしたのづちは、人間と同じ方法で斃《たお》すことができるが、元来本体がないため、次から次へと人間に乗り移り、巨大化できないまでも永遠の生命を保つ』
今のおれはこの本より多くの情報を知っている。
あの雲水の言葉から推測して割り出したものだ。
例えば、のづちは常に、その国の首都を狙う。舌を切れば人間の形に留まるが、五〇〇年ごとに力を増し、舌を封じられても、小さな寺ぐらいは呑みこむことができる。寺を狙うのは、自らの強敵である神聖な力の象徴だからであり、そのためには、ほんの一瞬、もとの大きさに戻ることも可能だ。舌を封じてさえおけば、一時的な活動期も高僧たちの祈祷で乗り切ることができるが、ひとたびそれがのづちの手に戻れば、いかなる祈りも無益とされ、のづちの舌が接着に要する二日の間に、それを再び封じ込めない限り、世界は破滅のときを迎えねばならない。
受付で本のコピーをとってもらいながら、おれは老雲水のことを想い出した。
数千年まえ、ようやく封じ込めたのづちの舌を、後代の人間が奪い去らぬよう、法力の与えた永劫の生命とともに守護する護衛官。今日の死は、彼にとってむしろ幸せだったかもしれない。
だが、おれたちはその後を生きねばならないのだ。
おれの取るべき途《みち》はひとつしかなかった。
あの女を見つけてぶち殺してやりたいが、その瞬間に乗り移ってしまうんじゃ無駄だ。後は、あの「宝」――のづちの舌を探し出し、もとの場所へ封じ込めねばならない。
幾分気が重かった。
おれの盗掘がなくても、のづちは涎を垂らして寺の二つや三つは溶かしてしまったろうが、女の手に渡ってから後は、おれの責任なのだ。
修学旅行用のホテルへ戻る途中でも、おれは女の居場所を掴む手を考えつづけたが、何ら効果的な手段は考えつかなかった。
どうすればいいのか。
期間は二日しかない。
こういうとき、ひとりで考えてもいい案は浮かばない。
結局、夕食の時間がすぎており、おれは桑山たちの部屋を訪問した。
いなかった。
外へ出てみると、同じクラスの佐良久子と鉢合わせをした。
「どうした?」
と訊く。
「八頭くん――あなた、いつも何処へ消えちゃうの。先生は全然心配しないし」
「おれのことはほっとけ。先公には賄賂を渡してあるんだ。何かあったのか?」
「外谷さんがいないのよ」
「あのデブ、何処へ行った?」
「わからないわ。夕食のときはいたのに」
「なんだ。わざわざ探す必要なんかあるかい。そうだな、多分――便所だぞ」
「やだ」
佐良は顔を赤らめた。小さな声で、
「ぴたりじゃない」
と言う。
「なぜ、わざわざ探す?」
「ちょっとおかしいのよ、あの人」
「おかしい?」
「そうか。あなた知らないわよね。急に河馬みたいにガバガバ食事したり、ひとりでニヤついたり。先生もみんな心配して、それとなく見張るようにしたの。そしたら、いつの間にか」
「元に戻ったんだよ。心配なんかするな。キングコングとも互角に渡り合える女だぞ」
「無責任ね、あなたって」
佐良久子は怒って立ち去った。
そこへ若き奇現象男――樽山がプクプクとやって来た。
「何してんの?」
「おお、いいところへ来た」
おれはにこにこと、
「おまえ、のづちって知らんか?」
「ああ――大食らいの怪物のことだろ?」
「さすがだな。――そののづちが人間に取り憑くときに生じる現象についてはどうだ? 例えば何歳ぐらいの女に限るとか、何とか?」
「わからない」
と樽山は丸まっちい頭をふった。
「でも調べてみるよ。実家にそんな古本があったはずだ」
「すぐやってくれ」
「うん」
おれはロビーへ降りた。
他のクラスの連中はいたが、うちのは見えない。
あんな図体で何処へ逃げられるものか。じき、発見の連絡があるさ、とばかり、おれはソファで対策を練りはじめた。
五分とたたないうちに――
「ご免あそばせ、外谷です、ブー」
おれは顔を上げた。
眼前にふくれた女が立っていた。ふくらし粉娘だ。
「ね、みんな、何処?」
「おれの考えじゃ、誰かを探しにいったんだな。飯食ったらすぐ男を追っかけていなくなっちまうような奴を」
「やだ、誰、それ?」
「言いたくない。それよりおまえ、飯食ってすぐ、何処へ行った?」
「便所」
「直通か、おまえは!?」
「ふんが」
「みんなが探してたぞ。寿命が来たんなら死に場所を書いてけ」
「なによ、象の墓場じゃあるまいし」
外谷はそっくり返って怒った。
「ブー」
「おまえよ」
とおれは、うんざりした表情を隠すこともできずに言った。
「ふんが、とブーを巧みに使い分けてるようだが、どういう仕組みになってるんだ?」
「自分でもよくわからないのだ」
と外谷は眼の玉を空中に据えて言った。
「子供の頃、あたしがこれをやると凄く受けたのよ。それで迎合してるうちに、反射的に出るようになってしまったのだ」
「条件反射か」
おれはあきれた。
「ところで、古賀の件、考えてみたか?」
「みた」
「どうだ、返事は?」
「オーケイなのだ」
「そりゃ、残念」
………
気がつくと、ソファからずり落ちていた。
「なんだ?」
「オーケイと言ったのだ」
「おまえは、あいつと付き合うのか?」
外谷はニヤリとうなずいた。
邪悪な眼つきが、心変わりの原因を教えた。
「金とジャングルと沼が魅力か。案外、単純な女だな、おまえは」
外谷の笑みは深くなった。
「あたしがそんなものにまいる[#「まいる」に傍点]と思うのか?」
「ほんじゃ、あいつのセックス・アッピールか? 下ぶくれのくせに胸毛は濃いようだからな。噂じゃ、家の近所でときどき、裸の胸をぶっ叩いてドラミングをやるそうだ」
外谷は何も言わなかった。
「で、いつデートするんだ?」
おれは半ばヤケで訊いた。
「今夜」
と外谷は言った。嬉しそうである。
「うんと可愛がっちゃう」
「頭から食っちまえ。喜ぶぞ」
「うん」
そして、外谷は立ち去った。
何にせよ、ひとつは片づいたわけだ。
おれは、ぼんやりと空中を眺めた。内心は焦りまくっている。
あと二日――一日半しかない。学校の連中を引き上げさせるのは、校長に鼻グスリをかがせれば簡単だが、大都市好みののづちが東京を狙うのは自明の理だ。
ロンドン、ニューヨーク、パリ――みんな、ひと呑みか。
あまり、体裁のいい滅亡の仕方じゃねえなと考えたとき、ロビーの奥から桑山たちがやって来た。小西、網走というメンバーだ。
「よお」
と挨拶したが、返事はない。
「?」
網走が眼の前に来た。
「何だ?」
「決闘を申し込みたい」
「……」
「受けるのか受けないのか?」
「どいつもこいつも学生のくせにいっちょ前のことしたがりやがって。――原因は何だ?」
「おまえは――僕が好きだっていうことを知りながら、保科さんを強姦した」
「ゴーカン!?」
おれは思わず立ち上がっていた。
「ふざけるな! ――この八頭大、痩せても枯れても、嫌がる女と無理矢理寝たことなんざねえ。すべて和姦だ。どこのどいつがそんなデマとばした? 桑山、おまえだな!?」
びしっと指さされ、剣道部副将は肩をすくめた。
「いや。あのときのことを話したら、こいつ勝手に、エスカレートさせて」
「とにかく、保科さんがおまえと一夜を過ごしたのは確かだ」
「何が確かなもんか。桑山もいたぞ!」
「彼はゴーカンに加わらなかった」
「てめえひとりでいい子になりやがって!」
おれは桑山に足をとばしたが、彼は軽く跳んでよけた。
「見苦しいぞ、八頭」
一喝したのは、小西だった。
「友達の恋人を寝盗るなどと、男の風上にも置けぬ奴。制裁を加える」
「いつから保科がこいつの恋人になった!?」
おれは喚き返した。
「いつおれが寝盗った? そんな夢物語を吐《ぬ》かしてやがるから、矢島なんて屑にかっさらわれちまうんだ!」
「い、言ったなあ!!」
網走が逆上した。
「け決闘だ!」
「面白い。表へ出ろ!」
売り言葉に買い言葉だった。
おれたちは外へ出た。
網走はファイト満々、小西はセコンド気分であれこれアドバイスしている。
桑山だけが仏頂面である。
おれは怒り狂っていた。人の苦労も知らねえで餓鬼どもがのぼせくさってやがる。完膚なきまでに叩きのめしてやるからそう思え。
おれたちはホテルの駐車場へ出た。
「誰かが先公に知らせるとまずい」
おれは網走と向かい合った。
「早いとこ決着をつけよう。断っとくが、勝っても負けても怨みっこなしだぜ」
網走は首をふった。
「いや、怨む。この上負けたら立場がない。一生怨みつづけてやる」
「てめえ、それでも男か?」
「GO!」
小西が叫んだ。
網走が突っ込んできた。
闇雲か――と思った途端、突進は急停止し、かわりに黒い閃光が弧を描いた。
素早くかざした左手に鈍い衝撃が伝わる。
「ほお」
おれは本気で感心した。
見事な廻し蹴りだ。タイミングといい形といい初段のクラスの力はある。
網走の身体は独楽《こま》のように旋回した。
運動神経の発達した奴はリズム感がいい。ある空手家によれば、ダンスのうまい人間は空手の上達も早いという。リズム感が技を助けるのだ。
網走は舞踊部のキャプテンだった。
惜しむらくは攻撃が単調なことだ。その辺のチンピラやくざならともかく、歴戦のおれには通じない。
今後のこともあるから、急所でもこっぴどく蹴りつけてやろうかと思っていると、不意に、
「あ、いた。のづち」
ちんけな叫び声がおれの集中力を奪った。
次の瞬間、右のこめかみにガン! ときた。
おれは後ろのマツダ・ファミリアにぶつかり、かろうじて身を支えた。
こういう場合は耳元で爆弾が破裂しても驚かないが、今のひと言は別だ。
「やったあ!」
と網走が叫んだ。
「やられたぁ」
と樽山が拍手した。
「おかしな声を出すな!」
おれは怒鳴りつけた。
「のづちがどうしたってんだ!?」
「家に電話して聞いてみたんだよ」
と樽山が言った。
「念仏でも唱えなよ、八頭」
と網走がハードボイルド・タッチで笑った。調子に乗りやがって、この。
「古賀に念仏でも唱えてもらうといいぜ。あいつん家《ち》は坊主だよ」
「のづちがとり憑く人間には法則がないけど」
と樽山がのんびりと言った。
「その前に乗り移られた人間は、例えば何百年も前の人だとすると、白い灰になっちゃうんだってさ」
「やあ!」
網走の廻し蹴りがとんできた。
頭の中で稲妻が閃いた。
命中したんじゃない。
網走は悲鳴をあげて尻餅をついていた。
奴の廻し蹴りなどブロックもせずに、おれはカウンターのローキックを食わせたのだ。二、三日びっこをひくだろう。
おれは猛スピードで、駐車場を走り出た。
これまで経験したことが、いま、はじめて明確な連鎖をもってつながろうとしていた。
脱ぎ捨てられた人体は灰になる。その上に外谷がいた。あの大食い。あれほど嫌っていた、古賀への偏愛ぶり。――「可愛がってあげるわ」
そして、のづちは寺を憎み、古賀の実家は坊主だった。
ホテルのロビーへ駆け込み、階段を三段ずつすっとばしながら、おれは歯を食いしばっていた。
外谷が根っからのクリスチャンだったら、一発でおかしいと気づいていただろう。だが、どう見ても、あいつは元に戻っただけだった[#「元に戻っただけだった」に傍点]。黒衣で全身を隠していたのもむべなるかな、あの下には、外谷雲子の巨体がどすこいと隠れていたのである。
階段を上がり切ったところで、アンクル・ホルスターからPPK/Sを抜き、おれは一気に外谷の部屋へと突進した。
気配を走査する。
二つ――片方は激しく動いている。
おれはドアめがけて体当たりを敢行した。
ロックの衝撃――砕けた!
想像はしていても、現実に見ると身の毛もよだつ光景が展開していた。
六畳間の真ん中で、外谷は仁王立ちになっていた。
その口から――耳まで裂けた大口から、ちびでぶの身体が生えている。
蛇に頭を食われた蛙――いや、河馬に呑み込まれたゴリラだ。
「よせ!」
おれは叫びざま、外谷の――のづちの頭へPPK/Sをポイントした。
今なら斃《たお》せる。
外谷の眼がかっと赤光を放つや、上体が大きくしなった。
吹っとんできた古賀の上体を間一髪かわし、おれはPPK/Sの引き金を引いた。
「ギャッ!」
外谷は両手で馬鹿でかい尻を覆った。
身を翻しやがって。
何処となくユーモラスで、一瞬、次弾を放つ指が鈍った刹那、
BOM!
鈍い爆発音とともに、世界は黄色く変わった。
百分の一秒で息を止めたつもりだが、胃の腑が反転した。
想像を絶する悪臭――外谷、じゃない、のづちの放屁だった。
幸い溶かされずにいた古賀の襟首を掴んでドアの外へ引きずり出す。
鼻はひん曲がり、頭の中でハンマーが鉄板を乱打した。
毒素耐性をつけるために、子供の頃から稀薄な毒ガスも吸わされてきたが、これはホスゲンやイペリット以上の効果があった。常人なら狂い死にする。
胃の中身を吐き出しつつ、おれは夢中でドアを閉めた。
立っているのがやっとだ。
古賀の方を見た。
眼の玉がとび出すかと思った。
ゴリラ男は、何かを差し出すような格好で、両手を前に突き出していた。
その先に掴んでいるのは――あの「宝」ではないか。
おれは一瞬で理解した。
のづちの舌が接着するには二日間かかる。まだ不十分な状態で古賀を呑みこんだものだから、暴れた際に、剥ぎとられてしまったのだ。
後はこれを銀閣寺に戻せばいい!
おれの手が、それをひっ掴んだ刹那、壁が内側から吹き飛び、団子か河馬かという巨体が廊下へ出現した。
「ブー」
と唸ったのはいつもの通りだが、ただでさえでかい口は耳まで裂け、真っ赤な口腔からのぞく舌は蛇のごとく胸前で鎌首をもたげ、こぼれる涎が触れたブラウスも絨毯も白煙を噴き上げて、その中に立つ外谷は――もとからそうだが――人外の魔でぶのようであった。
「お返し」
太い手が伸びた。
「それをお返し」
「やかましい!」
おれは肉柱みたいな足を狙って引き金を引いた。
ドン、と床を蹴って外谷は跳躍し、
「ふんが」
死の涎を吐きかける。
それが廊下に当たって、白煙を噴き上げる中、外谷はぶち破った壁の中へ飛び込んだ。
「銀閣で待ってるぞ!」
古賀はそのまま、おれは叫んで階段へと走った。
スカGに備えつけの車内電話で用件を済ませ、銀閣へ着いたときには、満月と見まごうばかりの月輪が、西の空に上がっていた。
暑い。
おれは銀閣寺の前までスカGを乗りつけ、そこで降りた。
待機していた警官が駆け寄ってくる。
「ご苦労さまです」
と敬礼する。スーツ姿の貫禄たっぷりの中年男が、
「府警の高月です」
と挨拶する。
要するに、のづちのことがバレた以上、おれの口を塞ぐ必要もなく、法務大臣のコネも効くというわけだ。
「周囲の人家は全員避難させました。我々もすぐ引き上げます」
「よろしく。中には僕ともうひとりが入ります」
おれの言葉に高月はうなずいた。
「承知しております。ノンストップでお通ししますが、しかし、まさか――〇〇三号が……」
「証拠はない[#「証拠はない」に傍点]はずですよ」
おれはにやりと笑った。
「失礼だが、あなたはどういう……?」
「内緒」
とおれは、相手の感情を逆撫でしないよう、にこやかな口調で言った。
「とにかく立ち去って下さい。後はこちらでやります」
おれは銀閣寺の境内へ入った。
白い月明かりの下に、清涼な姿が寂然《じゃくねん》と浮かび上がる。
すべてはここからはじまったのだ。
そして、ここで終わる。
外谷にこの場所を告げたのは、無関係な連中から犠牲者を出さないためだが、奴め、どう来るか。
おれは念のため、銀沙灘から離れた。
これをつぶされては元も子もない。
舌先を失敬したときのようにうまくいけばいいのだが、今の精神状態ではまず無理だ。返す場合も、銀沙灘でなくてはならないのだ。
早く来てくれ、早く。
おれは胸の裡《うち》で祈った。
地面が揺れたのはこのときだ。
ぼこり、と沈む。
おれは跳躍していた。
意識的に銀沙灘とは反対方向へ跳ぶ。
空中で眼を見張った。
地面が沈んでいく。
まさに銀沙灘の一メートルほど手前で、銀閣寺の南半分が――竜背橋が、仙人洲が、錦鏡池が、洗月泉が、いや、銀閣を銀閣たらしめている観音殿までが傾斜し、黒い土中へと呑みこまれていく。
断末魔にとび散る水が月光にきらめき、観音殿の鳳凰が声なき絶叫をほとばしらせる。
おれは敷石の上に降り、その石もまた蠢動した。
思い切って跳ぶ。
銀沙灘の傍らに着地した。
幸い、崩れてはいないようだ。
大地はなお陥没し、その黒い穴の上に、おれは肥え太った肉体を見た。
「いよいよね」
と外谷雲子は言った。
声と同時に迫りくる悪念。それは途中で無数の外谷に化け、四方八方からおれめがけて接近してきた。
CZ75が唸った。
スカGに備えつけてある分だ。
十六発全弾。
十六個の外谷が消え、残りが襲いかかってくる。
かわした、と思った瞬間、足元の土が崩れ、おれはバランスを失った。
外谷が迫る。
おれは右手で内ポケットの包みを掴み、境内への入り口へ放った。
外谷が眼を剥いてそちらを見る。
その瞳の中で、しなやかな人影が月光を浴びていた。
京のわび[#「わび」に傍点]を全身ににじませたような和服姿の中年婦人は――楓だった。
「間に合いましたようで」
「確かに。――頼むぜ」
「承知!」
一瞬、音もなく、和服姿が銀沙灘の方角へと走った。
外谷の口が尖った。
ぶおっ、と溶解液を吐く。
大きな弧を描いたそれが全身に降りかかったとき、楓の姿は空中に舞っていた。
黒いボディスーツに身を固めた肢体が。
月光を撥ね返して飛翔するその姿のあまりの優美さに、さしもの外谷が茫然と見上げる頭上を楓は鳥のように越し、崩れゆく観音殿の屋根上に着地した。
羽毛のごとく、一片の重さすら感じさせずに。
全国指名手配怪盗〇〇三号。三〇年の間、京都を震憾させ、一〇年前忽然とその姿を消した不敗の怪盗が、いまは東山の寓居でひなびた生活を送る貴婦人と誰が信じられただろう。警察は知りつつ勘づきつつ、その犯行を事前に食い止められなかったときのごとく、今も何の証拠もないまま指一本動かせない。
いかなる圧力式警報装置も無力化した消重の技は、和紙一枚のハンディをつけておれに伝えたものの、齢《よわい》五〇にして自らの体重をゼロとすることが可能なのだ。
「ふんが、ブー」
外谷が絶叫した。
悪念が襲う。
無数の影の間を楓は走った。
伸びる手、手、手。
そのどれもが軽やかな中年婦人の疾走を食い止めることができなかったとは。
走りながら、楓は妨害者と妨害者の身体の隙を、手と手の間隔を見抜いていた。
常人にはほとんど不可能と思える隙間も、彼女の身体を通すには十分のスペースを有していた。それを維持し得るだけの速度とタイミングで楓は走り、そして抜けた。
悪念が反転する。
轟き渡る銃声に、それはことごとく消滅した。
そのくらいしなきゃ、おれの出番がなくなる。
「ブー」
外谷が迫った。楓の行く手を塞ぐ。
ひょい、と楓の右手が動き、包み[#「包み」に傍点]は外谷の手に乗っていた。
さすがに外谷が茫然と見下ろしたとき、楓は一陣の風と化してその前を過ぎた。
外谷の手に、包みはなかった。
予想に反して返された包みに、一瞬我を忘れたとき、のづちの外谷はただのでぶにすぎなかった。
一粒の砂も乱さず銀沙灘を駆け上がった楓の手が、包みを頂点の穴へと放り投げたとき、内側から伸びた妖手がそれをしっかり握り、再び穴の中へと消えた。
次の瞬間、悲鳴を上げて外谷雲子は倒れ、おれは見た。
月と星まで呑み込んで、京の空いっぱいに広がる巨大な口と歯を。
のづちの口を。
何もかも夢のようであった。
陥没した一万平方メートルの地所と、憑依を免れたか、ブーブーと高いびきをかいて眠る外谷雲子だけを唯一の証拠として、恐るべき惨劇の舞台は、青い月光の下、いつまでも静まり返っていた。
[#改ページ]
事後報告
外谷は正気に戻り[#「正気に戻り」に傍点]、前にもましてブーブーふんが、とお医者さんごっこに精を出している。古賀雄一との仲ははかなくボツ。傷心の古賀はひとりアフリカのジャングルへ旅立った。
網走と保科美智は、網走の粘りとおれの冷淡さが功を奏して、目下、校内で一番おアツいカップルである。
問題は桑山で、ゆきに骨抜きにされ、スカンピン状態に落とされた挙句、全国大会では大敗し、一から修行をやり直している。
時折だが、この事件のことを思い出すたびに、おれはある恐怖に駆られるのだ。
のづちの舌が封じ込められた瞬間、うだるような暑さは消えたが、これは、京都自体の発する輻射熱によるものだったのではないか。
すなわち、この事件の間じゅう、京都と奈良と、そこにいたおれたち全員は、のづちの透明で巨大な口の中に呑み込まれていたのではあるまいか、と。
『エイリアン京洛異妖篇』完
[#改ページ]
あとがき
お邪魔いたします。『エイリアン京洛異妖篇』お届けに上がりました。
ごらんになってすぐお判りのように、今回は、従来の作と少々毛色が異なっています。
大ちゃんはろくに新兵器も使わず、奇怪な相手との戦いもそっちのけで、クラスの仲間との修学旅行を満喫しているようです。
要するに、ここには私個人の抱く、そして、誰もが修学旅行で抱く想い――かくあれかしという希望がこめられています。
あの強行スケジュールの中で、いつまでも胸に残るものは、古寺の情緒でもお坊さんの話でもなく、気心の知れた仲間との夜の外出や、室内での馬鹿騒ぎ、夜通しで語り合った恋愛観、やっとの思いで声をかけ、あるいはついに遠くから見るだけに終わった憧れの人の横顔なのではないでしょうか。
何となくわかるのです。
私自身がそうだったから。
何もかも遠い話です。
大の冒険も大いにデフォルメが効いています。
しかし、私にはわかる。
この物語の中で、大や仲間たちの送った修学旅行の日々は、その荒唐無稽さを乗り越えて、みなさんをうなずかせてくれるはずです。
私もこんな旅がしてみたかった――
と。
それが、私と八頭大とのささやかな願いでもあります。
最後に、この物語の登場人物には、モデルのあるものと、ないものとがあります。
身に覚えのある人はせいぜい作者を罵り、うっぷんを晴らして下さい。私はあなたたちと知り合えたことを今でも嬉しく思っています。
特に××さん。あなたは常に私の前にそびえる雄大な(肉の)壁であり、今もうなされてとび起きるほど印象的な女性でした。いやあ、何というか、ほんとにもう――また、登場して下さい。
一九八七年八月×日 「燃えよデブゴン」を観ながら
菊地秀行