エイリアン邪海伝
菊地秀行
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目次
第一章 とんでもない家庭教師
第二章 温泉街の怪
第三章 海に潜むもの
第四章 海魔の招き
第五章 魔食
第六章 生け贄の香り
あとがき
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第一章 とんでもない家庭教師
ゆきからの手紙が届いたとき、おれはリマと二人して、夏休みの旅行計画を練っていた。
リマは海を見たいと言い、おれは温泉で一杯やりたいと主張して、互いに譲らなかった。なら、温泉の出る海辺へ行けばいいのだが、そうなると帯に短し襷《たすき》に長しで、適当なところが見つからない。
おれはこう見えても、温泉にはちとうるさいのだ。年を食ったら物騒な稼業はやめて、温泉評論家になろうかと考えることもある。
「ここがいい、四国の奥弥生《オクヤヨイ》温泉。海のそばだし、ホテルも立派だ」
とリマが言うのへ、おれは顔をしかめ、
「駄目だ。ここの湯は胃腸に効かん」
「大《ダイ》――心臓が悪いのか?」
「違う。まだ、わからねえのか。胃と心臓は別もンだ」
「でも、両方とも内臓だと本に書いてあった」
「それでも違うんだ。米といってもササニシキだのコシヒカリがあるのと同じだ。車にもパトカーとジープの区別がある。女にも美人と林真理子がいるんだ」
「林真理子――怖い」
「そうだろう、よく覚えとけ。とにかく、胃腸に効かない温泉はご免だ」
おれは断固主張した。このところ、四方へ配ってる賄路の額を上げろという政治家関係の突き上げが激しく、これまでの実績と貢献度を算出するのに徹夜つづきのため、多少、胃の具合がおかしいのだ。
あの禿頭の総理大臣は、東京サミットの費用を半分もってやったから、据え置きでいいだろう。そうそう、外谷順子が悪態料をよこせと要求してきたが、有名税だと突っぱねて痩せ薬を五キロほど送ってやった。中味は高カロリーの肥満促進剤だから、今ごろは食前食後に貪り食い、ほぼ完全な球体と化しているだろう。身の程をわきまえない女の末路だ。
「とにかく、おれは金勘定に忙しい。政府関係だけで月ン億を越しそうなんでな。温泉については夜中にベッドの中で話し合おう。――おまえは、ホテルのプールにでも泳ぎに行ってこい」
「大と行きたい」
「忙しいのだ。――と言ってもわからねえか。オツムテンテン」
「ふむ、忙しいのだな」
「?」
そこへ玄関のブザーが鳴った。居間のモニターをつけると、郵便屋が憮然と突っ立っている。
「何か用かい?」
「郵便です」
「入れてけよ」
「料金不足ですが」
「誰からだ?」
「言えません。名前が用件を告げる暗号になってる場合もあるんで」
「利巧な奴もいるもんだ。いらねえ、もって帰れ。おれは今、一円も惜しいんだ」
「困ります。えと、ピンクの封筒ですよ」
おれは考えを変えた。
「差出人は?」
「六〇円です」
「わかったよ」
勝ち誇ったような郵便配達から渋々封筒を受け取り、おれは素早く宛名を読んだ。
「おい――」
返すぞ、と叫ぶつもりだったが、灰色の制服姿は、一目散にマンションの廊下を走り去っていくところだった。たった一通の封筒にも様々なドラマがある。それにしても、面白い郵便屋だ。
それが、ゆきからの手紙だった。
六〇円ろくじゅうえんとつぶやきながら居間へ戻ると、リマが水着に着換えていた。
いくら自分の部屋でやれと言っても、わからない。まあ、あの馬鹿でかいノアの箱舟の中で人生送ってきたのだから、住まわせてる十畳が兎小屋に見えるのも無理はないが、生活習慣も昔の癖が抜けないため、ひと前で着換えするくらい平気の平左だ。
それも時と場所を選ばないから凄い。
事情を知らない男が見たら、ゆき以上の色情狂だと勘違いするだろう。
「こらあ」
と厳しく言うつもりが、
「こらああ〜〜〜」
になってしまったのも無理はない。
それくらい、リマの肢体は見事だった。
あの、船板一枚の下には化け物ウジャウジャの巨大船で生き抜いてきた筋肉は、連れてきて半年以上になる今も、いささかも衰えを見せず、細紐など手もなく引きちぎってしまう。
腰高のプロポーションも素晴らしいが、締まりに締まったヒップの筋肉から太腿にかけてのラインの見事さときたら、もう生唾ものだ。なんてったって、大福だ、ショート・ケーキだ、水羊羹《ようかん》だあと、後先考えずに食べまくり、×キロも体重が増えちまったゆきが、一度二人で(リマとだよ!)風呂へ入った翌日から、学校さぼってトレーニング・ジムヘ通いだしたというくらいである。
茫然と立ちすくんだおれの気配に気づいたか、リマはさっとこちらを振り向いた。
残念、ブルーに白いプリントが浮き出たシルクのワンピースをあてて[#「あてて」に傍点]たところだったのだ。
「大――何を見てる?」
「いや、別に。はっはっは」
我ながら空虚な笑いだった。
「私の裸が見たいなら、もっと近くで見るといい。遠慮はいらない」
「けっけっけ、そりゃどうも」
と揉み手をしたのはもうひとりのおれだ。おれは、
「冗談じゃねえ、見損なうな」
小気味いい啖呵を切ってそっぽ向いちまった。盗み見ならともかく、どうぞと言われて覗けるか。見栄ってもんがある。
「大は時々、私の着換えを覗いているようだが」
どき。
「ひとこと言ってくれれば、こちらから出向く。そうしろ」
教育の仕方を間違えたか。天性の気質を文明社会でスポイルしないよう気をつけたつもりだが、こっちがスポイルされそうだ。
「覗きでなければ、何の用だ?」
言われて、おれは我に返った。
「そうだ、それそれ――ゆきから手紙が来てる」
リマは仏頂面をつくった。
ゆきの方はお姐《ねえ》さま、お姐さまと慕っているのだが、この野性の娘は、素っ気ないことおびただしい。自分で言うのも何だが、おれにしか関心がないのだ。
打算のない原始的精神で、生命を救ってくれた恩人と思っているらしく、従って、おれにベタベタするゆきにはすこぶる冷たい。恩人の友達だから大事にするという風がないのは、やはり女だ。
ゆきが東京を離れた理由《わけ》は、そんなところにもありそうだ。
「あの野郎、家庭教師だなんて、東北行っちまったが、もう里心がついたか。旅費送れってんじゃねえだろうな」
一番安いピーカン封筒を破くと、便箋の他に、数葉の写真が出てきた。全部で五枚ある。
二枚は海岸の岩場でポーズをとってるゆき。三枚は相手つきで、坊主頭の中学生だ。
この餓鬼が、似合いもしねえ田舎面のくせに、リー・クーパーのカントリー・シャツなんぞ着て、ポーズをとってやがる。
「海のそばだな――きれいなところだ」
おれの隣で、リマがしみじみと言った。
リマは海の女だ。何千年もの間、荒れ狂う異次元の海を生き延びてきた筋金入りだ。化け物と戦い、挙げ句の果ては生け贄に選ばれて、海中に潜む化け物を釣り上げる餌にされかかっても、傲然と胸を張っていた。
それでも海は懐かしいらしい。
おれも興味を引かれた。と言っても海にではなく、二人の背後にせり出して見える切り立った崖っぷちにだ。その上に、洋館らしいでかい家が建っている。嵐の夜など十分絵になるだろう。深窓の令嬢でもいればなおさらだ。
それと、もう一枚。
これはどっかの荒れ地らしく、青みどろの苔らしいものが、こちらを向いた二人の背後にかなり遠くまでつづき、その向こうに赤茶けた断崖の線が重なっている。
海岸の近くだろうか。
写真で見ただけでも、瘴気が立ち昇るのがわかるような、腐敗しきった印象がある。よくにやけていられるもんだが、わざわざ写真の背景に選んだくらいだから、人知れぬ地方名所なのだろう。
しかし、ま、それだけと言えばそれだけのことだ。
おれは手紙を読んだ。
「えーと、あれ、こりゃ、ゆきの字じゃねえな。男の字だぞ。――あの鼻垂れ餓鬼か。馴れ馴れしい野郎だ。なになに――『前略、まだ若い身空で、こんなお手紙を出すことをお許し下さい。僕の名前は荻原勘太郎。字《あざ》松川第四中学二年生。図書委員をしてます。年齢は一四歳。家は三代つづいた旧家で、旅館を経営してます。僕は独りっ子なので、ゆくゆくは結婚して後を継ぐでしょう……』」
なんだこの餓鬼。まさか、ゆきと結婚させてくれというんじゃあるまいな。けけ。
「『……つきましては、太宰《だざい》ゆきさんの身元保証人である八頭さんに、いきなりこんなお手紙を出すのは失礼なのですが、僕とゆきさんとの将来を……』――なんだあ!?」
おれのびっくり声に驚いたらしく、リマがこっちを向いた。おれは構わず読みつづけた。
「『……将来をお認め願いたく、若い身空でこのようなものをしたためました。僕たちは年齢の壁を越え、真剣に愛し合っています。ゆきさんへの愛は、こちらで勉強を見ていただいてから、日増しに深くなるばかりで、いけないこととは知りながら僕は勉強も手につかない毎日です。このままでは、おかしくなってしまいます。不躾なお願いとは存じますが、一度、お目にかかって、僕たちの将来についてお話しできませんでしょうか。僕の方から伺うのが筋だとは思いますが、ゆきさんは、大変この土地が気に入られ、夏休みの間は一日も離れたくないとのことです。かく言う僕も、ゆきさん無しでは暮らせません。お願いです。宿も旅費もこちらで負担致しますから、是非一度、気楽な旅行のつもりで、当地へおいで願えませんでしょうか。急な手紙の上にこんな内容で、とても驚かれたとは思いますが、僕たちも必死なのです。是非、おいで下さい。
草々
八頭大さま
荻原勘太郎』
なになに……『追伸。ゆきさんが、八頭さんを出向かせるには、都合を聞くより、こうした方が効果的だと言うので、列車の切符を同封します。当日、駅までお迎えに参上いたしますので、何卒よろしくお願いいたします』……」
おれはしばらく手紙を見つめてから、リマヘ眼を移した。
リマも奇妙な表情でおれを見つめていた。
「どうした大?」
「よくわからん」
「大にわからない? すると相手はよほど頭のいい奴か?」
「泣かせることを言ってくれるが、中学生の勘太郎月夜だ」
「グーな名前だな」
おれは、早いとここの世界に馴染ませるため、リマに、TVとラジオの視聴を義務づけていることを憶《おも》い出した。おれの言うことなら何でも聞く娘だから、熱心すぎるくらい頑張って、おかげで知識の吸収は恐るべきスピードで進んだが、おニャン子だの、外谷ですブーだの、程度の悪い言葉も覚えて困る。真面目な顔して、儲かりまっか、と繰り返していたのにはまいった。人間、重厚よりは軽薄に馴染みやすいとみえる。
「何と書いてあった?」
「ゆきと結婚したいとよ」
「おめでとう」
「何がだ?」
「確か、結婚すれば、女は家を出て相手の家へ行く。大は私のものだ。邪魔者は殺せ」
「柄の悪い番組ばかり見てるな、おまえ」
とおれは毒づいた。
「ロクすっぽ球も打てねえ四番打者が年上の女房をもらって以来、姐さん女房ちゅうのが流行《はや》っててな。ゆきめ、早速真似しやがった。この糞忙しいのに、色に狂った中学生の相手までしてられるか。また預金凍結してやる」
「それがいい」
「無責任に賛成するな、この」
どうも、おれを取り巻く女どもは、肉づきはいいが脳味噌がひねくれてていかん。
おれは気を取り直して封筒に目をやった。
「待てよ、確かこの住所は……おい、リマ、旅行先が決まったぞ」
「何処だ?」
「波濤《はとう》温泉だ。仙台から車で二、三○分のところにある。海岸の近くだし、確か山もあった」
「イカすわね」
もう気分は収まっていた。どうせ、ゆきのお色気攻撃に血迷った中学生のたわ言だ。向こうで素敵な恋人の正体でも見せてやれば、すぐ目が醒めるだろう。それまで適当に調子を合わせ、この家で騒ぐのも面白い。何よりもロハだ。
おれはもう一度、切符入りの封筒に眼を移した。
阿呆餓鬼め。もう一枚、切符を入れときゃ本当《ほんと》にロハで済むものを。
仙台駅の空気は、暑いが東京のような湿り気はなかった。
改札口を抜けるとすぐ、おれは出迎えを捜した。
待ち人は何人もいたが、ゆきの姿はない。列車の着く時刻を間違えたか、あのいい加減娘。
「いないのか、大?」
リマが周囲を見廻しながら訊いた。
淡いジャスミンの香りが空気に混じった。
通りがかりの連中が、男も女も酔ったような眼差しをリマに向けて行くのも無理はない。
薄いブルーのワンピースに包まれた大柄のボディを見なくても、そばにいるだけでこの娘は人目を惹きつける。
あの異次元の海を漂うノアの箱舟で生き抜いてきた野性の気が、この軟弱な世界に首までつかった連中の頬を叩くのだ。
おまけに、バストではゆきに一センチ劣るが、ヒップは二センチ上廻るというグラマーぶりは、夏の空気に一種の熱い妖気みたいなものを醸し出し、周囲に生唾を飲ませてしまう。
これだけなら、ゆきとあまり変わらないだろう。
リマのオリジナリティは、周りの連中[#「周りの連中」に傍点]に、女も含まれていることにある。
女の子というのは、本能的に色気たっぷりの同性には反感を持つものだ。ゆきの話をきくと、しょっ中、学校で女の同級生と張り合ってるみたいだし、制服をカミソリで切られたから、シャワー浴びてるときに熱湯に切り換えてやったの、机の中におもちゃの蛇を入れられたお返しに、ブルマーに本物のガマガエルをぶちこんでやったのと、帰ってくると涙ながらに話していたものだ。
現に、あれだけマセ餓鬼どもからのラブレターを受けながら、女の子からのものは一通もないのだ。
その点、リマは男よりむしろ、同性に対して妖しい魅力を発揮する。
彼女自身が知的好奇心に富み、現代社会の風俗習慣から、政治・経済・文化に到るまで貪欲に吸収したせいで、おれももういいかな、と外へ連れ出したりするのだが――なんせ、もとは人喰い人種なのだ――路上で立ちすくむのは、女性が圧倒的に多い。
ひどいときには、七つ八つの女の子までぽう[#「ぽう」に傍点]、となってしまうのだ。
そばに、おれみたいないい男がついていながら誰もこっちを見ないから、おれは複雑な気持ちになり、マンションへ戻ると『女ごころのイロハ』だの『リルケ愛の詩集』などをひとりでひもといたりする。
そこへ陽気なゆきちゃんがやってきて、
「きょう四人、ナンパしちゃったァ」
この頃、気が滅入るのは、こういう事情があるからだ。
それはともかく、ゆきの姿はない。
「あん畜生――おい、リマ、次の東京行きで帰るぞ」
と毒づいたところへ、横からぬう[#「ぬう」に傍点]と黒い巨大な影がおれたちの頭上へ落ちてきた。
「あのォ、八頭大さまでえ?」
間延びした声も斜め上空からした。
振り仰ぐと、かの名高き何とかジャイアントもかくやと思われる巨体の上に、こちらもジャイアントなんとかを彷彿させる長い顔が乗り、おれたちを見下ろしていた。
掛け値なしで身長二メートル三○はあるだろう。
巨人症かと思ったが、四肢は見事にバランスがとれている。こんな奴とだけは喧嘩をしたくないもんだ。
「八頭さま――で?」
もう一度訊かれ、
「ああ」
とおれはうなずいた。
「あんたはあれか、勘太郎くんとこの人か? 出迎えご苦労さま」
何となく気味悪かったが、おれは一応、礼儀正しく挨拶した。
「こちらへ〜〜〜」
巨人は、おれたちの荷物をひょいと両手に抱え、重々しい足取りで出口へ向かった。
あわてて追いかけたが、なにせ歩幅がちがう。やっと追いついたと思ったら、もう駅前の駐車場である。
黒塗りの馬鹿でかいリムジンが待っていた。
キャデラックを改造した特別車輛だ。
これならジャイアントが三人は入れる。
ふかふかのバック・シートにおれたちを収め、車は滑るように走り出した。
整然と区画された市内を走り抜け、しばらくして田園地帯に入った。
間違いなく波濤温泉の方角へ向かっている。
「ゆき――太宰さんは元気かい?」
と窓外の景色を眺めながらジャイアントに訊いた。
「はああ」
眠そうな返事だった。
見渡す限り青々とした耕作地の広がる郊外を過ぎると、じき、道が昇り坂になったのが感じられた。
リマは無言で窓外を見つめている。遠い眼差しに、自然に触れた歓びをおれは感じ取った。
運転手の方は、何を訊いても「はああ」ばかりで、手応えのないことおびただしい。ま、阿呆に車の運転はできないから、いいか。
小さな松林をいくつか抜け、バスを一台追い抜いて大きなカーブを曲がると、右手の空が青くうねった。
光がきらめいた。
「リマ――海だぜ」
おれの言葉にリマはうなずいた。
どんな風に感じているのだろうかとおれは思った。
あの、終日波が牙を剥き、得体の知れぬ巨大生物が荒れ狂う魔海と、夏の白い陽ざしの下に洋々と横たわる穏やかな海原。
リマの世界はどっちだろう。
波濤温泉までは、あと五、六分だ。
そのとき、今まで寡黙を維持していたリマの唇が動いた。
「大、この先に行くのか?」
おかしな言葉の意味は探らなくちゃなるまい。
「もちろんだ。だが――どうして、そんなことを訊く?」
「帰った方がいい――運転手さん、戻してくれ」
「こら、何を言う――真っすぐだ、真っすぐ」
あわてて訂正するおれの顔を、リマは生真面目な表情で見つめた。もっとも、この娘が笑顔を見せるなんてよくよくのことだ。あのノアの箱舟から連れ帰って以来、ほころんだ唇を見たのは、三回とない。ひねくれているんじゃなくて、そういう性質《たち》なのだ。
それがまた、ピタリと決まる。氷の色気だ。
「どうしても行くのか、大?」
「あたりまえだ。ここまで来て戻れるか。帰りたければ、おまえひとりで帰れ」
「大が行くなら行く」
リマはあっさり言うと、何事もなかったように、窓外へ眼を戻した。
しかし、聞き捨てならんな。
おれはしなやかな胴を肘でこづき、
「おい、なにか、感じるのか?」
と訊いた。
超自然界で生き抜いてきたリマには、現代人の体内に眠っている動物的本能が生のままで備わっている。ある意味で、おれより強い能力だ。
日本へ来て長いことたつが、特に訓練している様子もないのに、鈍化はないようだ。
それに、ピン、と来たのか?
だが、リマは向こうを向いたまま、ひと言、
「わからない」
と言って口をつぐんでしまった。
ふう、とおれは内心ため息をつきつき、シートにもたれかかった。
リマが何かを感じ、それが海のそばだった。こりゃ、何かある。
だが、その正体は皆目掴めぬまま、予想通り五、六分後、おれたちを乗せた車はひなびた旅館やら大小のホテルやらが立ち並ぶ温泉街へ滑り込んだのである。
荻原家は町中かと思ったが、車は下りの道を選んで、海の方へ降りていく。
滔滔《とうとう》と流れる川の上にかかる石橋や、幾つもの排水孔からたぎり落ちる濛濛たる湯煙を見ていたので、ああ、あっちがいいなと思ったが、仕方がない。なにせ、ロハなのだ。
ところが、海岸へ出た車は、道路の上を猛スピードで突進し、温泉街はみるみる遠くなっていく。
どうやら郊外らしい。
おれの眼の前を、色っぽい温泉芸者や都会からやってきた温泉大好きギャルのピチピチした姿がかすめていった。
ゆきとリマがそばにいようと、ピチピチギャルはピチピチギャルである。男たるもの、常に新しい美を求めつづけなくてはならんのではないか。
などと勝手なことをほざいているうちに、右手の海岸線の様子が変わってきた。
今まではさほど広くない砂浜の先に、黒いごつごつした岩場が連なって、その先に波が砕けていたのだが、突然、砂浜がでかい面をしはじめたのである。
いや、正確に言うと、荒れ地になるか。
青っぽい苔みたいなものが遠い波打ち際まで這いつづいている、何となく不潔な湿地帯を思わせる土地であった。
途端に、記憶にひっぱたかれた。
ゆき――というか荻原勘太郎タコの助が送ってきたラブ・ペア写真の中の一枚――あれに写ってた背景だ。
左手には、なるほど赤茶けた断崖がある。
だが、それも幅は五〇メートルほどで切れ、海岸線はすぐ平常を取り戻した。
かたわらで、緊張した気配を感じ、おれは振り向いた。
リマの瞳がおれを、いや、窓ガラスを通り越して、その奇妙な土地を凝視しているのだった。
「ここか?」
おれは低い声で訊いた。
リマは首を振った。
「わからない」
また同じ返事だった。
リマにはわからなくても、リマを見てれば何かおかしいのはわかる。
おれは真面目に帰宅を考えた。
儲け話でもあるならともかく、こんな田舎で二、三週間暮らす代償に生命を懸けるなんざ真っ平だ。
「本当にわからんのか? わからなくても何か感じられるんだろう? 言ってみろ」
「わからない。ただ――誰か何か考えてる。それも、ずっと遠くで」
遠く、ねえ。
それ以上訊いても、リマは本当にわからないのだと答え、おれも了承した。
「あ――」
と運転手が呻いた。
じゃなくて、おれたちに声をかけたのだった。
「あ――、じき、着きますぅ」
その通りだった。
やがて、車は荘重な石壁と鉄門に守られた敷地内に吸い込まれ、おれはスラックスの内側――インサイド・ヒップ・ホルスターに収めたショック・ガンの感触を確かめた。
温泉まで武器持参とは因果な商売だが、おれに怨みを抱いてる奴は、コンピューターの概算によると、世界中でざっと五七万八千人いるそうだ。
これまで関わった事件でおれとやり合い、苦い汁を飲んだ奴等とその家族、親戚、友人、子分、影のボス等が大半だが、案外、おれの知らないところで恨み骨髄に達してる連中も多いだろう。
おれと浮気した女の恋人や亭主、子供に到るまでだ。
そんな馬鹿なと思うなら、アガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」を読んでみればいい。
だから、一度、首を突っ込んだ事件の舞台や、関係者の縄張りへ出掛けるときは生命懸けだ。
特にイタリアには、末代までおれを殺すべく努力しろというのが家訓のマフィアがうろちょろして、暗殺されかかったのも十回や二十回じゃない。
ひどいときには、ベニスのホテルへ一日に三度も爆弾をぶち込まれたことがある。イタリアではしょっちゅう爆弾テロが起きるが、あの何パーセントかは、おれを狙ったものだ。
東北の寂れた温泉だからって、油断はできない。
とまあ、おれの緊張した理由は以上のごとくだが、実はもうひとつ重要なことがある。
おれたちが入ってった家は古風な西洋館であり、あのタコ坊主の中学生にはどうしても似合わぬその屋敷は、まぎれもなく、あの二人の写真の背景と同じ――突き出た岬の突端にそびえる大邸宅だったからである。
石づくりの玄関前で車を降りると、召使いらしい中年の眼鏡のおっさんが立っていた。背後に、お手伝いらしい和服姿の婦人が三人ほど。
「ようこそいらっしゃいました」
と挨拶し、トランクから運転手が取り出した荷物を受け取る。
ぐらり、と来た。おれのスーツケースが重すぎたのだ。しかも、二つもある。それでもしゃきっとしてるのには驚いた。
「ご主人さまがお待ちかねでございます。どうぞ、こちらへ」
こいつもおれたちの都合などお構いなし、婦人たちが開けたドアをくぐって、邸内へ歩き出した。クーラーが利いている。
えらく豪勢だが、古い造りの家だ。築七、八○年、いや、百年以上たってるかもしれない。
くるぶしまで埋まりそうな絨毯、燦然ときらめくシャンデリア、調度は新品も多いのだが、雰囲気は裏切れない。
どう見ても、荻原なんて名前の男が住むところとは思えない。
ここは、別の家だ。じゃあ、あの運転手は?
それは、奥へ行けばわかるだろう。
予想は適中した。
おれたちが通されたのは、古い高級ホテルを思わせるくすんだ応接室で、あたりを見廻すほど待つこともなく、反対側のドアから、主人夫婦らしい長身の男女が姿を現したのである。
どちらも、貴族といっても通用しそうな典雅な顔立ちで、男はコールマン髭――中年紳士の見本みたいな野郎だ。
女の方は、これまた、厳しい躾と教養があらゆる挙措から立ち昇ってくるような上品な奥方であり、さしものおれも、どうやって手を出そうかと考えもしなかったくらいだ。
「ようこそ、小早川家へ」
と男が軽く腰をかがめて挨拶し、椅子を勧めた。
「小早川《コバヤカワ》? ――大、違うぞ」
とリマが腕を引いた。
「ほう、驚かれんとは」と小早川氏がわざとらしく眼を丸くして「冗談のつもりで運転手には、家の名を告げんよう含んでおいたのですが。――いつ気づかれました?」
「運転手を見たときからですね」
おれは不愛想に言った。
「どうみたって、僕たちの行く先に、あんな凄まじいのがいるわけはない」
途端に、小早川氏は爆笑し、何度もうなずきながら腹を押さえて、
「――そりゃそうだ。私としたことが、外杉《とすぎ》の見てくれを計算に入れてなかったとは」
「あなた」
と隣の夫人が、困ったような表情でたしなめた。
「いや、失礼、失礼。なにしろ滅多に外出せんもので、いつも見慣れてるのが、当たり前の人間になってくる。だが、そうと知って、何故ついて来たのかね?」
「荷物を持ってかれちゃったんで」
もう一度、小早川氏は吹き出し、かろうじて胸を叩いて笑いのジャブを食い止めた。
「それより、なぜ、僕たちを無縁のお二人が招いたのか教えて下さい」
小早川氏はにやりと笑って、
「想像がつかんかね?」
「ひとつだけ妥当な推理があるんです。あなたを見て確信が掴めました。毛皮、宝石、金――どれかひとつを要求されませんでしたか?」
「さすがだね。あのお嬢さんは半分正直だったことになる」
「ゆきと何処で知り合われたんです?」
「この屋敷へ来られる途中に見えたろう。あの海辺の土地は、先祖代々我が家の地所でね。三日程前、久し振りに看視にでかけたら、可愛らしいカップルが散歩中だったというわけだ。それから、一日とあけずに見えられる。ただし、お嬢さんだけだが」
「よほど、主人を気に入られたようで、私も気が気じゃありませんのよ」
と、夫人が困ったような表情で言った。
ご亭主にくらべて、こちらは精神的に脆そうだ。つまり、より人間的である。
亭主の方は――どうも、本物の貴族に近い。差別主義者のエリート気取り――つまり、より怪物に近い。
ユーモアも解し、愛想もよく、礼儀もわきまえているが、ついでに冷血、傲岸不遜、陰険で復讐心旺盛――おれはそう判断した。
「何処にいます?」
とおれは、育ちのいい高校生になり切って訊いた。
「あいつは、中学生の家庭教師に来てるんです。毎日ここで油を売らせるわけにはいきません。連れて帰ります」
「事情は聞いている」
と小早川氏は小テーブルの上のシガレット・ケースから、金口の紙巻きを取り出し、ライターで火をつけた。
「まあ、いいじゃないか。我が家へ来るのは可愛い彼の勉強を見てかららしいし、一時間もすればお別れだ」
「あら――そんな。昨日は酔っ払って夜半まで――」
夫人は口を押さえたが遅かった。
「何処にいます? わざわざ招待してくださったんだ。今日はここですね」
「そういうことだね」
と小早川氏は、口から天井へ紫煙を吹き上げながら言った。
「実に大らかで、若々しいお嬢さんだ。いつも帰すのが惜しいくらいだよ」
「いまの、絶対に聞かせちゃ駄目ですよ。遺産譲渡書に判を押すまで動かなくなります」
「本当に」
と夫人が深刻な表情でうなずくのを見て、おれは、さっさと帰らにゃいかんと決心した。
壁にかけられた古代の武器のコレクションを見ながら、
「とにかく、こんな昼間っから酔っ払いを他所《よそ》さまの家へ置いとくわけにはいきません。引き取ります」
「まあ、いいじゃないか。ゆきさんから君のことは色々聞いてる。私としては、みなで私たちのところへ滞在してほしいくらいなのだ。そちらの野性的な美女もご一緒に」
「そうはいきませんよ」
とおれがつっぱねたとき、
「いくぅ」
とでかい――およそ恥知らずな声が夫婦の背後から響いた。
それを合図に、ぷん、と高級アルコールの匂いが立ち込め、後ろのドアを抜けて、見覚えのあるグラマーな肢体が現れた。
「らっしゃい」
と最敬礼するゆきは、マリン・ブルーのタンク・トップに白のホット・パンツ姿。おまけにシャツの丈が短く、白い腹に可愛い臍がついている。
ノーブラで盛り上がった乳房と先の突起、パンティのラインなしで張り切ったヒップラインと太腿の艶めかしさは言うまでもあるまい。
しかも、片手に下げた酒瓶のせいで、全身がほんのりピンクに染まっているときては、夜中に海岸なんぞをうろついていようものなら、魚の痴漢までが寄ってくるにちがいない。
「何がらっしゃいだ、このアル中高校生」
おれは憤然とソファから立ち上がった。
「昼間っから酔っ払ってて、家庭教師が務まるか、この。――さあ、帰るぞ!」
「なーによお」
とゆきが当然逆らった。
「高校生がアル中で、何処が悪いのよォ」
凄いことを言う。論理のアクロバットだ。この世が成り立たなくなる。
「大体ね、あなたを温泉へ招待してあげたのは、このあたしなのよ、ヒック――そのあたしが何処にいようと関係ないでしょ。なにさ、帰るわよ、ふん、泊まってったことなんかないんですからね。ねえ、おじさまァ」
言うなり、酒臭い息をぷんぷんさせながら、小早川氏の首っ玉に抱きついたのにはあきれた。
亭主は苦笑し、夫人は眼を剥いてる。
おれはゆきに近づき、手首を取ろうとしたら、奴め、さっと逃げた。
アル中でも運動神経と勘は抜群だ。
それにしても、この酔い方は異常だった。小早川氏一人きりならともかく、夫人がいる前で抱きつくとはゆきらしくない。別段、夫人に気兼ねしてるんじゃなく、目的達成のためには一人でも敵をつくってはまずいとの打算的思考によるものだ。おれの体験じゃ、その理性の箍《たが》がはずれるまではビール一ダース、ウイスキー・ボトル一本。日本酒なら一升半。
「おい――それ、何本飲んだ?」
おれは白い手の中で揺れている緑色の瓶を指して訊いた。ワインなら半ダースちょっとだ。
ラベルもない。自家製のワインだろうか。
「大したことないわよ」
とゆきがわざとらしく手を振り、
「ざっと半ダースよ、プラス三本」
「半ダース半か、この」
おれはあきれ返った。何が何でも連れて帰らなくてはならない。
こいつが酔ってストリップしようが、サボテンに抱きつこうが勝手だが、保証人のおれのレベルまで同じだと思われては心外だ。
おれは手を伸ばし、ゆきはまた逃げた。
そのとき――
「ゆき、およし」
ゆきどころか、おれまでハッとするような清冽な声が空気を切り裂いた。
リマだ。
その眼は憎悪に燃えていた。
誰であれ、おれを困らせるものはすべて彼女の敵だ。
そして、敵は――殺せ。
リマの世界の掟だった。
「やだあ、お姐さまあ」
さすがのゆきが、突如、しゃきっとした声を出したんだから、おれも驚いた。
この二人――ノアの箱舟の中で内緒内緒の行為に耽っていたのだが、その時のリマのテクニックがよほど凄かったのか、以来、ゆきはリマに頭が上がらない。というより、ぞっこんなのだ。
そのくせ、男漁りは今のごとし。
「ちょっと、ふざけてみただけよ」
とゆきは妖しくウインクしてみせた。
リマはにこりともしない。
「さ、帰ろ帰ろ」
と前言など忘れ去ったかのように頭を振り、ゆきは先に立って廊下へつづくドアの方へ向かった。
小早川氏は苦笑いして、ゆきの手の中で揺れるワインの瓶に眼をやっていたが、すぐあきらめたように立ち上がり、
「引き止めても無駄だね。いや、君たち三人――実にユニークな若者だ。当分こちらにいられるそうだから、いつでも遊びに来てくれたまえ。また、ご招待しよう」
「どーもどーも」
とおれは平均的高校生の挨拶を返し、部屋を出た。
小早川氏が執事を呼んで、荷物を車まで運んでくれた。
「おじさまぁ」
とゆきが小早川氏に抱きついたのを見すまし、おれは、そっと夫人に訊いてみた。
「さっき、僕のこと、半分は太宰くんの言う通りだとおっしゃってましたが、後の半分は何です?」
夫人はうつむいた。赤くなっている。
「そんなこと――とてもわたしの口からは申し上げられません」
野郎、やっぱり。
「今度はそうだねえ、つまらんかもしれんが、私の経営している工場へご案内しよう」
「へえ」
とおれは、内心呆れながら、一応、びっくらこいてみせた。
「工場までお持ちですか? 凄いなあ。あの、何の?」
「一種の化学工場だね。ただ、なかなか面白い実験をしている。君たちにも興味があるかもしれんよ」
「バイオテクかなにかで?」
「そうだね、土地開発かな」
小早川氏は悪戯っぽく笑った。
「化学で不動産ですか?」
「また、いずれ会おう。――酒は早いとこ処分したまえ。かなり効くはずだ」
「はあ」
これを合図におれたちはすでにジャイアントが待っている車へ乗り込んだ。
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第二章 温泉街の怪
おれの願い通り、荻原勘太郎の家は、波濤温泉の中心地――と言っても半径二百メートルほどの繁華街だが――を、少しはずれただけの場所にあった。
えらくでかい旅館だ。
名前は「波濤館」。
リムジンの中のゆきの話では、この温泉地でいちばんの老舗らしい。
四〇代半ばの主人が切り盛りし、勘太郎はその長男だという。母親は彼を生んですぐ死んだ。
しかし、驚いたね。
玄関をくぐろうとしたら、いきなり、
「こらあ、待たんか」
とんでもない怒声が響くと同時に、帳場の台を飛び越えた小さな坊主頭の影が、もの凄い勢いでおれたちの脇をすり抜け、数メートル後方で急停止した。
「あ、先生!」
小さな金庫を小脇に抱えたその顔は、まぎれもなく荻原勘太郎だった。
間髪入れず。
「この馬鹿もン!」
凄まじい勢いで、今度はでっかい影が、おれたちの間をすり抜け、突っ立ってる勘太郎の首根っこを押さえつけた。
頭の薄くなった中年男で、勘太郎とよく似ている――親父の勘吉だろう。
しかし、どうも様子がおかしい。
勘太郎は、純真な中学生じゃなかったのか。
「また、帳場の金を――今度は何に使う気だ!?」
青すじ立てて喚く父親に身体を揺すられながら、勘太郎は、しかし、夢みるような視線をゆきに据えて動かなかった。
ようやく勘吉もそれに気づいたらしく、
「先生――あんた、一体、どこに……?」
「いえ、ちょっと散歩に――それから、こちらが前にお話しした……」
おれとリマをクラスメートと紹介され、勘吉は訝しげな眼でおれたちを見つめたが、すぐに、リマの胸へ視線を吸いつけて、
「そりゃ、ようこそいらっしゃい」
と言った。
何にせよ、美人は得だ。
「あの――勘ちゃん、どうなさったんです? ケクッ」
ゆきが口を手で押さえながら訊いた。このアル中娘。
「どうもこうも、今朝から帳場をうろつくなと思ったら、案の定――しかも、よりによって、金庫ごとかっ払うたあ、あきれて物も言えませんよ。こら、何にするつもりだった?」
「モデルガン」
「嘘をつけ」
「覚醒剤」
「この餓鬼ァ」
勘吉の拳が上がり、勘太郎の頭が、ごん、と鳴った。
「いってえ」
と頭を抱えて地べたへぶっ倒れる。
「死ぬ死ぬぎゃあ」
とのたうちながら離れようとするのを、そこは父親、むんずとTシャツの襟首を掴んで引き上げた。
「殴られてまで、演技しやがって。さ、何に使うつもりだったか、先生とお友達の前で話してみろい」
「パフォーマンスと言ってくれ」
「馬鹿野郎」
もう一度拳を振り上げたので、おれが素早く、
「まあ、後で僕らが訊いてみますよ、お父さん、今日のところは」
「いいや、ならん。今日のところはと言う人は、その今日がいつまでつづくか知らんのだ。わしなんざ十四年前――こいつが生まれてからずっとだぞ」
「そんなことを言わずに」
とゆきも口を出した。
この女が他人をかばうとは――天変地異の前兆だ。
「わたくしが後で、ゆっくりと言って聞かせます。今日のところは、本当にひとつ――」
うるむような眼で見つめられ、勘吉は陶然となった。
ゆきの手は勘吉の手のひらを握っている。
バーの姐ちゃんの手口の変形だ。
車の中で飲んだ口臭除去剤のせいで、ゆきにはアルコールの匂いがしない。
「わかりました。こいつも先生といるときだけはおとなしいようですし――ひとつ、何分よろしく」
おれたちにまで頭を下げ、勘吉は息子を離した。
「駄目よ、そんなことしちゃ」
とゆきが言い、
「店の金を持ち出すのはいかん」
とおれが説教した。
「うん、もうしない――余計なお世話だ、バーロぉ」
前半がゆき、後半がおれ用だ。
手紙の印象とまるで違う態度に、おれはカチンと来た。
「なななんだ、この糞ガキは。――いっちょ、礼儀を教えてやるか」
と凄みかけると、勘太郎は憎々しげに舌を出してアカンベをし、
「先生《せんせ》、勉強しよ、勉強」
とゆきの手を取り、建物の方へ引っ張っていった。
勘吉がため息をつき、
「いや、もう、手に負えん悪ガキで、まことに失礼な真似を――ま、お詫びのしるしに、ゆっくり遊んでってください」
部屋は二間つづきの上室だった。
造りは古いが、建て方と材料が今どきのへっぽこ旅館とはくらべものにならないほど頑丈だし、和室に珍しく、クーラーもよく利いている。
ゆきは勘太郎の部屋へ行ってしまい、おれはその間に、勘吉から息子の不行跡をあれこれ聞かされた。
普通は息子の恥を高校生になど喋らんものだろうが、よっぽど素行が悪くて手をやいているらしい上、おれは実年齢より老けて見え、信頼感抜群の印象を与える。父親としては、愚痴のひとつもこぼしたくなるだろう。
母親は勘太郎を生んですぐ亡くなり、父は不憫だ不憫だと、甘やかし放題に育てた。よくある話だ。
おれはいい年齢《とし》こいた男の愚痴などろくすっぽ聞いていなかったが、ゆきとの関係には耳をそばだてた。
そもそも、ゆきがこの温泉地へ来たのは、例によって金庫からくすねた金で東京見物に来た勘太郎が、赤坂東急ホテルのロビーでボーイ・ハントしてたゆきと出会い、うまいこと丸め込まれたのが原因だという。
地図持って赤坂うろついて、コーヒーに砂糖を三杯もぶち込んで飲むようなカッペで、しかも金がありそう――ゆきの毒牙にかかるために上京したようなもんだ。
「困ったもんだ」
とおれはつぶやいた。
「全く」
と親父もうなだれた。
「ところでですね」
とおれは一八○度話題を変えて言った。
暗いときには楽しい話題。
「あのおかしな土地と崖の上の家――あの一家は何者ですか?」
「ああ、小早川さんとこかね。――なんてことはない。先祖代々あそこで暮らしてる実業家で、この辺一帯の大地主だよ」
「へえ。そんなに不動産を?」
「うむ、あの辺だけで十万坪はあるだろうね。なにしろ、後ろの山はみんなあの家のものだし、工場の敷地だって軽く二、三万はあるしね」
「何をこさえてんですか?」
「よくわからんが、小早川さんとこは、海洋食糧源のための新種のプランクトン改良だと言っとるね」
「すると、あの海岸は……」
「うん、失敗したサンプルを、パイプを通してあそこへ投棄しとるんだな。工場ができてすぐ、県の代表を招いて、おかしなものを捨ててないことは証明済みだ」
「でも、気持ち悪いですよ、あれ」
とおれは少し食い下がってみた。
「そんなことはないよ。排水時には、魚がよく集まり、この辺の漁師なんかみな喜んでるくらいだ。もっとも、噴き出る水の量が凄いので、それを狙って釣りをするというわけにはいかんようだが。それに、あの辺は潮の流れが強くて、暗礁も多いから、沖を行く船がしょっ中転覆する。いわば難所だ」
成程、それでリマがおかしなことを言ったのか、とおれは合点しかけ、すぐに可能性のひとつと考えることにした。
何事も早呑み込みは事故のもと。おれの場合は生死にかかわる。
「実は、あの方のところの車で迎えに来てもらったんですよね」
「そうそう、悪いことをしたね。息子からあんたらのことは聞いとって、車も出すはずだったんだが、ゆきさんが自分で来るからいいと言ってね。今日も朝早くから消えてしまったもんだから、こっちも困っとったんだ」
あの因業娘。どうしてくれよう。
それから、おれは小早川夫婦のことをあれこれ訊いてみたが、あまり人前に姿を見せぬ以外は、少し気障だが極めて温厚、良識のある人物としてそれなりの敬意を集めていることがわかった。
あの洋館は百年以上も前――明治に建てたもので、当時の建築が手抜きでなかったとは言え、大した修繕や改築もなく――と言うより全くゼロで――今なお荒海の烈風に挑んでいるのは、この辺の連中の自慢の種だという。市の観光局がぜひガイド・ブックに載せたいと数年来申し込んでるそうだが、夫婦は静かな生活が壊されると、丁重に断りつづけている。
ゆきさんのお友達なら何日でもいて下さいと言われ、おれはにこにこして、早速、街の見物に出掛けることにした。
リマも行くと言う。
面倒臭いから、ゆきは放っておくことにした。どうせ、
「あんな狭い温泉場、とっくにあたしの縄張りよ」
と毒づかれるのがオチだ。
ガイド・ブックによれば、「波濤温泉」のある宮城県・波濤町は人口三千人。ホテル二つに民宿を含む旅館が一五軒という小規模な温泉地帯である。
泉質は単純温泉で、運動機能障害、神経麻痺、神経症等に効果がある。
ジーンズとTシャツに着換えて街なかへ出ると、意外と観光客の姿は少なかった。
ブームなんていうのは、案外、底が浅いものだ。
最近のギャルたちは、ファッション雑誌の、
「湯煙にランプの灯影が揺れる宿」
だの、
「疲れた都会人に心の安らぎを。××温泉」
などというキャッチ・フレーズと、ムードたっぷりの写真に一発でノーテンパーにされ、こういう平凡な温泉地帯は見向きもしないらしい。
新幹線で三時間、私鉄に乗り換えて二時間、そこからバスで山道を二時間も走って、着いた挙げ句がランプの灯りじゃ、本も読めない。
そんな旅がどーして楽しいのかね。
ゲームセンターにはファミコンが並び、あっちじゃ射的屋、ストリップ劇場、こっちにゃ土産物屋、水族館――そんな賑やかな土地の大ホテルこそ旅行の醍醐味ってもんだ。
そのうち、
「ランプも無い宿」
「熊と混浴を」
「都会よりもっと疲れる○○温泉」
なんてキャッチ・フレーズが出てきても、ギャルたちは低脳にものを言わせて押しかけるだろう。
そこへ行くと、こういうちゃんとしたホテルの建つ温泉地は、何不自由なく生活ができて、絶対に安心だ。心がなごむ。
温泉へ来てまで、ペルーの高山地帯と同じ生活ができるか。
とかなんとか思いつつ、町を縦断して流れる川にかかる石の橋を渡りかけたところで、前方から、丹前姿の、どっかのサラリーマンらしい風采の五、六人とすれ違った。
ぷん、と酒の匂いがした。
次の瞬間、
ばっちいん。
ぎえ。
聞くまでもなく平手打ちの音と悲鳴だった。
サラリーマンどものなかでも、特別好色そうな爺さんが、独楽みたいに廻ってぶっ倒れる。
部下らしい若いのがどっと駆け寄り、みるみる青ざめた。
そらそうだろう。
顎の骨がはずれ、歯という歯が一本残らず路上にちらばってりゃ青くもなる。
リマの筋肉の瞬発力は男並みで、しかも、ヤワなスポーツ選手などには負けない荒仕事をこなしてきたのだ。
プラス・気性は野獣。
「き、君ィ――何をする!?」
眼鏡が金切り声をあげた。
「どうした、リマ?」
おれは面白くもなさそうな声で訊いた。
「別に。私のお尻を撫でただけ」
「だそうだ」
とおれは血相変えてるお兄さん方に言った。
「飲みすぎないこったな。いくぞ、リマ」
さっさと行きかけたら、背後で足音と怒声が入り乱れた。
「こいつ――警察へ来い」
左肩が引かれた。と同時に、おれは力に逆らわず、自分からステップ・バックするや軽く後頭部を後ろへ振った。
ぐしゅ、と嫌な音がした。相手の鼻先に当たったらしい。
肩が楽になると同時に、へたり込む音がした。
振り返ると同時に、おれは一歩後ろへ跳ねた。
眼の前で黒い塊が風を切る。
一番若い奴だった。
いいパンチをしてる。大学でボクシングでもやったのか。
おれは片目の隅でリマを見た。
残る二人の男は、もう彼女の両脇でへたり込んでいた。
片方は眼を、もうひとりは股間を押さえている。
阿呆が、女を舐めるな。
おれより年上の若いの[#「年上の若いの」に傍点]が突っ込んできた。
切れのいいジャブをぎりぎりのところで躱し、おれは左のストレートを出した。
よけざま、ボディへ来た。
今でもジムに通っているのか。大したパンチだった。
絶妙のタイミングで息を吐き、腹筋を締めなけりゃ、今の倍体重があっても危なかったろう。
だが、効かなきゃ子供のパンチでも同じだ。
奴が二発目を放つ前に、おれのフックは正確に、頑丈そうな顎《チン》を十分な体重とスピードを込めて打ち抜いていた。
「大丈夫か、大?」
リマが心配そうでもない声で訊いた。
「ああ。しかし、おまえはちっともおれのこと心配してないね」
「するわけがない。大がやられるはずがない」
おれはギャフンとなって、さっさと立ち去ることにした。
周りでは町の連中や観光客が遠巻きに眺めている。
足早に橋を渡ったとき、眼の前にひょいと人影が立ちふさがった。
一瞬のうちに、おれはその男の身長・体重から年齢、鼻の脇の黒子《ほくろ》まで見て取った。
一七○センチ、八○キロ、五五歳――男だ。
最後の年齢だけは、ちょっと戸惑った。
垢じみたシャツと綿パンに包まれた体格は赤銅色の見事さなのに、その髪の毛だけは、妖婆もかくあらんと思うほど真っ白なのである。
「なんじゃい?」
とおれは訊いた。さっきのサラリーマンどもの仲間じゃなさそうだ。
「強えなあ、あんた」
とそいつは言った。
「あんたならよ、あいつもやっつけられるぜ、なあ。絶対にやっつけられるよ」
「そうだな――あばよ」
とおれは言った。
ひと目でわかる。男は気がふれていた。
「ま、待ちなよ、兄さん」
いきなり袖を引かれた。
「なんだよ?」
おれは邪慳に訊いた。
せっかく温泉見物に出てきたというのに、喧嘩に能天気か。やれやれ。
「な、兄さん、聞いてくれよ。わしゃ船に乗ってたんだ。それが、あいつに沈められちまってよお。な、頼むよ、船長や仲間の仇を討ってくれ」
普通なら、突き飛ばして去《い》っちまうところだが、おれには何かがピン! ときた。
沈没船か――ふむ。
「あら、樺山《かばやま》さん――こんなところに!?」
ひなびた女の声が、世界を現実に戻した。
通りを横切って中年のおばんが駆け寄り、後ろから男の肩を抱いた。
おれにぺこりと頭を下げ、
「済みませんねえ、坊っちゃん。――あたし、この先の西華園って老人ホームのものなんですけど、この人、少し頭がおかしくって、知らない人見ると、いつもこうなんですよ」
「いやあ、なんのなんの」
と坊っちゃんと呼ばれたおれは機嫌よく言った。
「ところで、このお爺さん、船乗りさん?」
「そうなんですよ。その船が十年前に沈んじゃってから、ずっとこう」
人の好さそうなおばさんはペラペラと喋り出したが、樺山と呼ばれたおっさんが、ひょいと通りを渡りはじめてしまい、あわてて追いかけて行った。
「なんだ、今のは?」
「よくわからん。そのうち、会いに行ってみないとな」
リマに答え、おれは再び平穏な散歩に戻った。
温泉地とは言っても、さほど大きな街じゃない。一時間もうろつくと、大体の地理は把握できた。
いつの間にか、街はずれにある神社の近くに来ていた。と言っても、鳥居はペンキも剥げ落ち、遠くに見える社務所も明らかに空き家だ。神社の跡だな、これは。
「ちょっと入ってみるか?」
おれはジロリと邪《よこしま》な眼でリマの方を窺って誘った。
「うん」
リマに否やはない。
おれたちは、そろそろ薄闇の垂れ込めてきたもと[#「もと」に傍点]神社の境内へ入った。
ちょっと不気味だが、欅《けやき》や※[#「木+無」、第3水準1-86-12]が生い茂り、ムードは十分だ。
「リィマちゃん」
とおれはリマの両肩に手を置いた。
リマは動かない。
じっとおれを見つめている。
おれは無言で唇を近づけて行った。
そのとき、リマの表情が動いた。
背に人の気配を感じたが、おれは構わず行為を継続した。
「ちょっとお! こんなところで何してんのォ!」
背筋が凍った。
明らかにゆきの声じゃないか。
おれは振り返った。
血相変えて近づいてくる。背後の社務所の陰に、勘太郎の姿をおれは認めた。
「ちょっと、人の眼を盗んでいいことしてるじゃない?」
おれの前で、ゆきは憤然と腕を組んだ。
「な、なにを言うか。おまえこそ、家庭教師だのなんのと吐《ぬ》かして、こんな場所で何してる。淫行か?」
「野外実習よ、馬鹿ねえ」
とゆきは嘲笑った。
こんな薄暗い神社で、実習があるものか。
「大体、おまえとあいつはおかしい。純真な中学生におかしな真似をするのはよせ」
「ふん、余計な――」
お世話といいかけて、ゆきは悪態を中止した。
脅えたような瞳の中にリマが映っている。
「ゆき――それ以上、大の悪口を言うと……」
「そんなァ、誤解よ、お姐さまン」
とゆきは身をよじった。
「冗談よ、冗談。そうだ、あたし、勘ちゃんを待たしてあるんだった」
さっさと身を翻すと、社務所の裏に消えた。
くそ、あんなところで何をしてやがる。
じい[#「じい」に傍点]と睨みつけるおれの背を、リマの指が突ついた。
「気になるか?」
「なるもんか、あんな淫行娘――行くぞ」
おれは歯ぎしりを我慢しつつ、神社を出た。
黙々と、さっき渡ったのと別の橋のたもとまで来たとき、下の水面から、ばしゃんと水を打つ音がした。
魚か。だとしたら、かなりでかいぞ。
何気なく、おれは覗き込んだ。
待てよ。旅館やホテルから、じゃかすか熱い湯が捨てられる川の中に、魚なんかいるのか。
波紋が広がっている。
おれは興味を引かれて眼を細めた。
と――ばしゃん。
さっきより五メートルほど上流で、何かが水を跳ね上げた。
おれは見た。
あれは、確かに魚の尻尾だ。だが、逆算すると、全身は二メートル近くある。
まさか、鮫か何かが流れを遡って――。
「大――」
リマが呼んだ。緊張した声だった。
「今の――魚とちがうぞ。おかしい」
「ああ」
とおれもうなずいた。やっぱりな。
他にも気がついた奴らがいるらしく、川っぷちや同じ橋上からも、何人かが下を覗き込んでいる。
また、跳ねた。
今度は小さくて、尻尾とまではわからない。一匹だけのようだ。
「ようし。おれが釣り上げてやるぜぇ」
どでかい声が、左手の川っぷちから聞こえた。
川っぷちと言っても、道路の端っこで、そこから水面までは優に五メートル以上ある。
釣り竿と餌箱をかついだ男が、竿をおろすところだった。
よほど自己顕示欲が強いのか。
「いいかぁ、見てろよぉ、みんなぁ」
とスピーカーから出るみたいなドラ声で叫ぶと、何のつもりか、餌もつけずにびゅんと竿を振った。
銀のテグスが水面へ吸い込まれるのをおれは見た。
「大」
おれは小さくリマにうなずいた。
嫌な予感がした。
全員が男と水面を注目している。
不意に男が前のめりになった。
悲鳴があがる。
左右の見物人が駆け寄り、ガードから身を乗り出した腰を押さえた。
五人はいただろう。
おれが胸を撫で下ろしたのも束の間、その塊がのめったのだ。
周囲から、わっと悲鳴が上がり、後ろの数人は寸前に手を離したものの、釣り竿を持った男とあと二人は団子のようにつながったまま、派手な水飛沫をあげて水中へ落下した。
なんて馬鹿力だ。
男たちの頭はすぐ浮かび上がったが、誰も安心などできなかったろう。
その通りだった。
いちばん川の中央に近かった竿男が、不意に悲鳴をあげて身体を震わせると、万歳のように両手を上げ、ずぶりと水中に沈んだのだ。
みるみる水面に大輪の花弁が咲いた。
血の花が。
「け、警察を呼べ!」
と誰かが叫んでいた。
その声が終わらないうちに、残る二人も金切り声をあげて沈んだ。
水の色はますます濃くなった。
おれが欄干から身を乗りだしたとき、水面に小さな物体が浮き上がってきた。
手首だ。
足だ。
それから――胴。もちろん、首も手足もない。
各々の切断面に残る数条の深い溝を、おれの眼だけは見ることができた。
「大――牙の痕だ」
もうひとり。リマがいた。
水中の奴は飢えを満たしたのか、それきり、奇妙な尻尾は現れず、無惨な遺体ばかりが布のような血の筋を引き引き下流へ流れ出したとき、ようやく、人の声があがった。
後始末は彼らにまかせ、おれは橋を渡りはじめた。
苛々は吹っ飛び、おれ本来の――八頭の血が、ふつふつとたぎりはじめていた。
「大――四人いた」
リマはおれを見つめて言った。
おれにもわかっていた。
三人が飛び込んで、夢中で浮かび上がってきたとき、その後ですぐ沈んでしまったもうひとつの――四つめの頭があったのだ。
面白くなってきたじゃねえか。
人間を喰う大魚――そいつは、明らかに人間の頭をしていたのだ。
「波濤館」に戻るとすぐ、おれは部屋から電話をかけて東京のマンションを呼び出した。
人間は留守だが、コンピューターがいる。
盗聴防止回線の作動音が鳴ってすぐ、
「ハイ、八頭デス」
静かで上品な合成音が答えた。
よく留守番電話に自分の声を吹き込んで、他所行きの声を出す奴がいるが、あんな不気味なものはない。自分で聴いたことがあるのだろうか。
ひどいのになると音楽付き――それも「葬送行進曲」と「軍艦マーチ」を交互に仕掛けといたりする。
「おれだ」
「八頭サン確認」
「資料室のディスクから、波濤温泉と、その近辺の秘宝、埋蔵金に関する資料をピック・アップしろ。すぐだ」
「了解。所要時間・推定三秒。オ待チ下サイ」
答えはきっかり三秒で届いた。
満足すべきものとは言えなかった。
なにもなかったのである。
平家の落ち武者が軍資金を隠したという伝説もなければ、金塊を積んだ船が坐礁した事実もない。宝とは無縁の場所だ。
得体の知れん怪物がうろつく温泉地か、おもしろくもおかしくもない。
しかし、人間、あきらめてはいけない。
宝とは稀なもののことだ。何も宝石や黄金に限らない。
怪物だって宝になる。
科学の進歩のためにどっかの研究所へ寄附するばかりが能じゃない。ディズニー・ワールドを半年借り切って、大興行を打てばいいのだ。
入場料十万円でも客は入るだろう。
ホロヴィッツだの、フリオなんとかだの、中森明菜だのが武道館を満員にしたって、たかが知れている。
世界中の人間を動員なんかできやしない。
しかし、
「人類の謎ついに解かれる。海底深く眠っていた超太古の怪物・本邦初公開、生きてます」
とやれば、アラスカのエスキモーだって、アフリカのホッテントットだって、カヌーに乗ってやってくる。
音楽だの芸術だのより、人間はこういうものが好きなのだ。
こんな下品なモノ嫌よ、というお嬢ちゃんがいるときは、立て看の脇に――
「監修・国連
協賛・宮内庁/文部省興行部特選」
とでも付ければいい。
おれはファイトが湧いた。
やったろうじゃねえか。スイス銀行にもうひとつ秘密口座が増えそうだ。
となると、装備を点検する必要があるな。
つくりつけのロッカーからスーツケースを引っ張り出して、ガタガタやりはじめると、寝室からリマの入ってくる気配があった。
ここは二間つづきなのだ。
「どうした?」
振り向いて驚いた。
リマは浴衣姿だった。
浅黒い肌に白い木綿の生地がまあ、よく似合うこと。
「どうも気になる。あの海岸と海……」
そいつはわかる。夕方見かけた水中の奴が、河口から昇ってきたことはまず間違いない。棲み家は海だろう。
しかし、海岸が不気味だというのは……
おれがそう指摘すると、リマは曖昧な調子で首を振った。
「わからない。海岸そのものは危険がないかもしれない。……でも、そうじゃないかもしれない……」
「おまえの言ってることはさっぱりわからん」
とおれは装備を確かめながら言った。
「ちょっと、あの海岸でも覗いてきたらどうだ?」
返事はなかった。
あれれと思った途端、背中に熱いものが張りついた。
「大――怖い」
おれの方が怖くなった。怖い? ゆきならともかくリマが――あの箱舟の中で逞しく生き抜いてきたこの娘が、怖い、だと?
「一体、何があるってんだ?」
爆発しかかったところへ、猛烈な力が加わり、おれは畳の上に押し倒されていた。
すぐに重みは上へ移動し、熱く濡れた唇がおれの口を塞いだ。
「うぐぐ……こら、待て……仕事中だ……」
「後にしろ」
とリマは呻くように言った。
舌が入ってきた。
ゆきだと、気をもたせるように、ゆっくり嬲《なぶ》るのだが、リマはずっと直截で情熱的だ。おれの舌を歯で咥えて引き出し、音をたてて吸った。
女に攻撃されっぱなしじゃ恥だ。
おれは素早く半回転して、リマを組み敷いた。
眼の前にやや厚目の熱い唇が、風に揺れる花のようにわなないていた。
軽くキスしてから、喉に唇を滑らせると、リマは耐え切れず獣のような声をあげて、身をくねらせた。
浴衣の裾が大きく割れて剥き出しになった太腿が蛇のようにおれの腰を巻いた。
ああ、ああと呻きながら、自分で胸をかき開く。
ゆきにひけをとらない見事な乳房が光の中に現れるや、甘酢っぱい匂いがおれの鼻孔を刺激し、脳を白泥と変えた。
手を触れた。
火のように熱い肉が指に灼きついた。
乳首をこすると、リマは狂ったようにおれの首に手を廻し、唇を求めてきた。
おれに否やはない。
長いこと、唇を重ねる音と息つぎだけが部屋を支配した。
「じゃあん!」
激しい掛け声とともに、出入りの扉がノックされたのはこのときだ。
「わっ!」
おれは跳ね起きた。
すぐに腕が追ってきて、引き戻された。
リマのキスは前より粘っこく激しかった。人が来るので興奮してるらしい。
「よせ、こら、ゆきだ」
「放っとけ、鍵がかけてある」
「阿呆、かけてありゃいいってもんじゃねえ」
しかし、リマは構わず、キスをしまくってくる。
ゆきみたいに困らせようってんじゃなく、生理的欲求が原因だから、止まらないわけだ。
ゆきはゆきで気を利かして帰るどころか、こりゃ面白い、邪魔してやれという悪い根性の見本だから、ノックの音はやむどころか、ますます激しくなってくる。
まったく、これだけ他人の迷惑を気にしない女が二人揃ってるというのも前代未聞だろう。
「後だ後後後」
おれは強引に半裸のリマから身を離し、素早くドアへ急いだ。
ゆきは凄まじいソプラノで広沢虎造の「遠州森の石松」をぶちはじめていた。
「やめんか、恥知らず」
ロックをはずし、大急ぎで引っ張り込む。他に誰もいないのは気配を確認済みだ。
「ふーんだ。そっちこそ、二人きりで何よ」
ゆきは戸口でちらりと、胸前を合わせるリマの方を見て、
「お姐さまと楽しかった? どんな手を打ったのか知らないけれど、あたしを除け者にして二人きりの部屋へしけ込むなんて、相変わらず大したコネね」
「おまえな」
とおれは血相変えてクレームをつけた。
「いいか、ここの旅館はいま、夏の盛りでかき入れどきなんだ。おれたちを別々にする余裕なんざないんだよ。一室取ってくれただけでもありがたいと思え」
「なにさ、お姐さまはあたしの部屋に来ればいいじゃない。ふん、うまいこと言って。六歳を過ぎた男と女がひとつ屋根の下にいて、どんなに弁明したって通じないんだからね」
なぜ六歳なのか、さっぱりわからない。
この旅館のおっさんが話のわかる粋人で、おれもリマも高校生には見えないとなれば、当然の待遇だが、そんな理屈の通じる娘じゃない。
こうなれば反撃あるのみだ。
「こら、人のことを云々できる柄か。高校生の分際で、中学生を誘惑しやがって。何を教えてるんだかわかったもんじゃねえ。そう言や、さっきも神社の裏から出てきたな。何してた?」
どうせ素直に答えるつもりはないと思っていたし、現にその通りだったのだが、その代わりの反応は、さすがのおれも予想外だった。
二つの目に突如、おぼろな隈がかかったような状態になると、ゆきの肌はみるみる上気し、両手で豊かなバストをゆっくりとこねくり廻しはじめたのだ。
久し振りに見る金銭妄想欲情症――おれの命名だ――だった。
だが、一体――
おれは、ピン! と来た。
間違いない。あの神社の裏には、ゆきが欲情するに足る何かがあるのだ。
一億円以上の値打ちのものが。
それがゆきの欲情要件である。
「何してる? ――またか?」
覗きに来たリマも、ゆきの様子を見て、うんざり顔になった。
こうなるとどんな治療も無駄である。
ぺたんと玄関口に坐り込んで、せっせと淫らな行為に耽るゆきを置き、おれは部屋へ戻った。
血が昂ぶっていた。
この小さな温泉地は非常に楽しい場所に変わっていた。
翌日、おれは、街はずれにある谷川という郷土史家を訪ねた。
荻原のおっさんに教えてもらったのである。
他にも史家は何人もいるが、伝説伝承、それに裏面史のような事柄は、この爺さんが一番だということだった。
現れたのは、黒い髪のふさふさした、精力絶倫といった感じのでっかい爺さんで、七○近いとはとても信じられなかった。
黴臭い古書やら百科事典やらに埋め尽くされた書斎に通され、おれは大学の史学科の学生と偽り、この地方の言い伝えを取材に来たのだと告げた。
手土産に持参した一級酒三本が効いたのか、知識を開陳する相手もいないので欲求不満に陥っていたのか。爺さんは上機嫌で喋ってくれた。
正直言って期待はずれだった。
ネズミと山犬の出てくる伝説は古くさいステロ・タイプだったし、各地に流布している基本的な説話のバリエーションなのも一目瞭然だった。
幸運なのは数が少ないのと、谷川老人が自分の創作を加えなかったことである。
「――大体、わかりました。結構面白いもんですね」
おれは老人の気分を害さぬよう和やかに微笑んで言った。
「ところで、町はずれの神社――あれに関する話はないんですか?」
「うむ――ないね」
あっさり言われた。嘘をついている雰囲気じゃあない。
「じゃあ、あの――ほら、いま工場の廃液が捨てられてる海岸があるでしょ。あそこの沖ではよく船が遭難するそうですけど、そういうのにまつわる話は?」
「それもない。――船が沈むようになったのは、戦後だよ。北海道や北方領土相手の密輸船が多くてな。ひょっとしたら、誰も知らんところでプラチナだの黄金《ゴールド》だのを積んだ船でも沈んでるかもしれんぞ。ははは」
「ははは。ところで――樺山さんって船乗りをご存知ですか? 西華園にいる」
「おお、知っとるよ」
谷川老人は手を叩いた。
「阿呆らしいんで口にしなかったが、今から二○年くらい前に遭難した船の生き残りだよ。ひどい嵐の翌日、あいつだけ海岸に打ち上げられたんだ。白い化け物が海の中から襲ってきて、船が沈没させられたというが、漂流物がひとつもない、かと言って、船乗りには間違いなさそうだ。回復を待って詳しい事情をと思っても、身体はもとに戻ったが、頭の方は駄目だった。何せ自分の名も憶い出せんのだよ。結局、何かの縁だというので、町の有力者が当時出来たての『西華園』へ入れてやった。樺山というのも、その有力者の名前なのさ」
「で、二○年間、そのまま?」
「うむ」
こいつは面白くなってきた。
宝を積んでいたかもしれない沈没船。記憶を失くした船員。海の中の何か。そして、昨日目撃した川の中の妖物。
おれの世界だ。
おれは丁重に礼を述べて、谷川老人のもとを辞去した。
次に打つ手は――神社に決まっている。
いざとなったら勘太郎かゆきを締め上げるか自白剤を打つかだが、その前に、調べられるだけは調べておくに限る。
関係者はひとりでも少ない方がトラブルも分け前も少なくてすむのだ。
日は高いが、何となく不気味な神社の跡には昼間から人っ子ひとりいない。
ゆきは一体ここで何を見たのだろう。
木陰で、スラックスの内側につけたショック・ガンの弾丸を確かめ、安全装置をはずしてホルスターへ戻すと、おれは素早く、社務所の裏へ廻った。
しかし、それだけでは何もわからない。
鬱蒼たる樹木が昼ひなかから闇の一角を作り出しているばかりだ。
東北だけあって、日陰はさすがに涼しい。
おれはポロシャツの胸ポケットから、分厚いサングラスを取り出した。
右側のつる[#「つる」に傍点]の横にあるスイッチを入れてかける。
レンズに似せたスクリーンに周囲の光景が映った。
金属探知器と赤外線カメラを兼ねたサングラスは、闇夜でも宝探しにもってこいの品だ。
おれが金を出して設立したアメリカの科学製品開発会社の小道具だが、金にあかせて斯界《しかい》の名士を引っこ抜いただけあり、宝探し用の小道具としては最新の品を工夫してくる。
ITHA《インターナショナル・トレジャー・ハンターズ・アソシエーション》(国際宝探し協会)の登録メンバー多しとはいえ、自分の小道具開発用の会社を持っているのは、GGG《トリプル・ジー》の他数名しかいない。
おれは左側のつるの脇についたダイヤルを調整して、探知器の強度を徐々に強めていった。
社務所を見ると、あちこちに細長い緑の線が映る。
釘や金具だろう。
おれは散歩を装いゆっくりと裏庭を調査して廻った。
それらしい反応はなしである。
金具ではなく、石の扉かもしれない。
ひと渡り調べてから、おれは音波センサーによる土中探査に切り換えた。
左腰のベルトにつけたソニーのウォークマンがそれだ。
庭の中央へ出て、イヤホンを耳に詰め、ジャックに似せたセンサーを地面に刺す。
続けざまに超音波を送った。
反応は――あった。
地下にかなりの空洞がある。
音波の反射時間からして、深さは約十メートル。浅い。おれはウォークマンからコネクト・コードを抜き、サングラスにつないだ。
光景が変わった。
空洞の透視図が映り、総面積等の数値が現れる。
ほぼ長方体。縦七メートル、横五メートルで高さは三メートル強だ。
町の方向に向いた先端部の形がいびつなのは、潰れるかどうかしたのだろう。
これが、ゆきと勘太郎の秘密だったのだ。
後は入り口だが、これは簡単に見つかった。
いまいる場所から北へ五、六メートル離れた杉の巨木――樹齢二千年はありそうなその根元から、通路らしきものがつづいているとスクリーンに出ている。
おれは近づいて点検してみた。
通路はこの根元だ。と言うことは、木も空洞か、木自体が動くか、だ。
ぶっ倒すのは簡単だが、人目につくのはまずい。
じっくり入り口を探すか。あわてることもあるまい。
おれははやる[#「はやる」に傍点]胸を押さえて、森を出ようとした。
こんな状態でも、勘の冴えてるのが、おれの凄いところだ。
半ば振り返った位置で、おれは身を屈めた。
その頭上ぎりぎりを、ひゅん! と音をたてて何かがかすめ、背後の杉の木が細くて硬い音をたてた。
視界の隅に羽根をつけた細長い棒が震えている。鉄らしかった。
ほう、弩《いしゆみ》か。
矢の刺さった角度を知れば、発射位置がわかる。
鋭い音。
おれは傍らの幹に跳んだ。
もとの位置から数メートル離れた地面へ重い音をたてて、紛れもない鋼の矢がめり込む。
三秒とかかっていない。
鋼鉄の矢を飛ばす弩は、普通の弓に数倍する殺傷力を有してはいるが、それだけに弓なみの連射は不可能だ。弦を引くのにえらい力が要る上、そのたびに弩本体を弦の引きやすい位置に移動させねばならない。昔は一分間に三本も射てれば上等とされていた。
大したもんだ。だが、射撃位置は同じらしい。
社務所をはさんで反対側の森の中だ。
おれは素早くショック・ガンを抜き、木陰から狙いをつけた。
距離は約二五メートル。射程距離内だ。
銃身根元の照射角ダイヤルを、広角射撃に合わせて引き金《トリガー》を引く。
キュン! と低い唸りを上げて増幅された超音波が飛び出し、音源の二二口径空薬莢《エンプティ・ケース》が撥ねる。
手応えあり。
音波増幅フィルターを通って照射される超音波は、三〇メートルまでなら、ヘビー級ボクサーのKOパンチ並みの威力を発揮する。
おれは一気にダッシュした。
無茶だが、敵はひとりという読みがある。
攻撃もなく、森へ飛び込んだ途端、藻抜けの殻とわかった。
おれの超感覚に訴えてくる気配はなし。
残留物もなしだ。
一体、何者か?
心当たりはあった。ひとりだけ。まず間違いあるまい。
巨大な運転手の姿が黒々と視界を埋めた。
小早川家を訪問してみようかと、おれは胸の中でにんまり微笑んだ。
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第三章 海に潜むもの
旅館へ戻ったのは正午少し前。
いくら北国とはいえ、夏の陽射しは強烈この上ない。
おれは「波濤館」の露天風呂へ入ることにした。リマも誘ったが、いい[#「いい」に傍点]と言う。
かなり広い風呂だ。
湯温は三七、八度。うん、ナイス。
おれは湯舟に首まで漬かり、調理場から拝借してきた盆の上に酒肴を乗せ、「セントルイス・ブルース」を口ずさみはじめた。
試してみるといいが、ブルースというのは浪曲より温泉にピタリとくる。特に、このハンディの名曲を、サビを利かせて歌うと、もうたまらないね。自分に酔ってしまう。
♪今日の日も 明日の日も
慕う君が姿
ここで銘酒を猪口できゅっとやった途端、
「しっつれい〜〜〜」
聞き覚えのある桃色の声が頭上で轟き、おれの右隣に湯柱が立った。
誰か来たのは気配でわかっていたが、まさか――
「こら、馬鹿娘。ここは混浴じゃねえぞ!」
波に揺れる盆を必死に押さえながら、おれは、ニヤニヤとこちらを見つめているゆきを叱咤した。
鼻の下が長くなるのがわかる。
ゆきのバストは半ばまで湯から覗いていた。
白いタオルが巧みに危険な部分を隠しているが、まるで薄膜のように頼りない。
あ、見える ぬ〜〜〜、見える ぬ〜〜〜。
ぬ〜〜〜は、おれの鼻の下が伸びる音だ。
「やーね、理性を取り戻せ!」
おれの顔面にゆきの放ったお湯の塊があたり、おれは頭を振って興奮を追い払った。
世界中でグラマーな女たちを見てきたおれだが、これだけは見飽きない。
「あ、それ、おいしそう。あたしにもちょうだい」
ゆきは泳ぐように近づいてきて、盆上のとっくりから酒をつぎ、猪口で一気にあけた。
エクスタシー、という表情で、思い切り息を吐き、
「ぷはあ、おいしい。ほんと、昼間っから温泉につかって日本酒やるなんて最高よね」
「そら、そうだがな――おまえ、ここは男湯だぜ」
「大丈夫よ。誰か来たら悲鳴あげるから」
とゆきは平然と言い、
「せっかく、大ちゃんの後ろ姿見たから、背中流してやろうと追いかけてきたのにィ。ね、流してあげる。上がろ」
「しいっ。でかい声出すな」
とおれは唇に指をあてて止めた。
「ま、来ちゃったものは仕様がない。おれも流してやるよ」
自分でも助平ったらしいなァとしみじみ思う声だった。ま、男の証さ。
ゆきは艶然と笑って、
「ふふ――背中? それとも……」
「そっちの方さ」
おれがウィンクすると、ゆきは素早く寄ってきて、白い手を首に巻いた。
「す、て、き」
唇が重なった。
蛭のような舌がぬるりと滑り込み、おれの舌をとらえて嬲りはじめる。
「うン、うン、うン」
ゆきは忘我の状態で唇をねじりつけた。
となるとおれも黙ってられない。
両手でゆきをがっしりと抱き、右手を下へ移動させる。
絶妙なカーブの感触が伝わってきた。
この先がヒップだ。
おれは構わず進んだ。
熱い――湯のせいかもしれないが――肉球を手のひら全体で撫で廻す。
ゆきは唇を離し、軽くおれの唇を舌先で嬲りながら、
「ふふ、エッチ」
と言った。
了解の合図だ。
えい、と指をたてる。
ゆきは、呻いて身をよじった。
おれの手はさらに奥――肉球の間へ進もうとして、ゆきに押さえられた。
「駄目よ。背中、流してから」
言うなり、さっさと流し場へ上がってしまう。
おれの眼に、大きく揺れるはち切れそうなヒップが灼きついた。
すべすべの曲面に水の糸が流れ、それが陽光に当たって輝く様は、生唾を飲みこむような煽情的な眺めだった。
おれもいそいそと上がりかける。
ゆきがちらりとこっちを向き、当然、眼は真っすぐ腰の下を狙い――残念でした。ちゃんとタオルで、と思ったら、
「やだあ!」
とゆきがでかい声あげてのけぞったのには驚いた。
あわてて見ると、いつの間にか腰に巻いといたタオルはほどけ、それでいて、おれの身体の前に、ちゃあんと、ひっかかって[#「ひっかかって」に傍点]いたのである。
「ははは、こりゃ失礼」
あわてて湯に沈み、きっちり結んでから、おれはもう一度上がった。
しかし、結果的には同じだったね。
この意味がわかるだろうか。
なんだか、女房に背中を流させる亭主のような気分で、おれは木の腰掛けに座り込んだ。
スポンジの感触が柔らかく背中を撫ではじめる。
「どう、気持ちいい?」
ゆきが訊いた。
「いいな」
おれは返事をして、そっと左手でゆきの腕に触れたが、たちまち撥ね除けられた。
「ね、触りたい?」
いきなり、背中全体にぺたりと、どう考えても生身の肌が押しつけられた。
しかも、この感触からすると、――ゆきの胸だ!
「いいわよ、触っても。ほーら」
背中を上から下へ、何とも言えぬ快感が滑っていく。
「きけけけけ」
とおれは身体を揺すって快感を表現した。そのとき、
「ね、お願いがあるの」
耳元でゆきが囁いた。
「な、なんだ?」
「昨日の夜、大ちゃん、あたしの悶えっぷり見てたわよねえ」
「おお」
「じゃ、さ、察しがついたんじゃない?――神社のこと」
とうとう来たか。
「さあて、何のことでござんしょうかねえ」
おれはすっとぼけた。
「ふふ、可愛い。そんな嘘のつき方、大好き……」
耳たぶに軽い痛みが走り、耳孔に熱い吐息が忍び込んできた。
ゆきが噛んだのだ。喘ぐように、
「ね、あたしたち、もう少し深い仲になってもいいと思わない? だから、ね、神社のことは忘れて」
「そうはいかねえな」
とおれは咳払いをひとつして言った。
「深い仲になるのはいいが、それとビジネスは別だ。あの神社はとっくりと調べさせてもらう」
こう言っときゃ、まだ手をつけてないのかと安心するだろう。
「そんなこと言わないでえ」
ゆきは耳孔に舌を差し込んできた。
「せっかく勘ちゃんがあたしのために用意してくれた宝物よ。これからってときに大ちゃんにさらわれたら、彼、絶望のあまり、おかしくなっちゃうわ。お願い。手ぇ出さないで」
「いいや、駄目」
とおれは執拗なゆきの舌から顔をよけつつ、断固言い張った。
「大体、あの餓鬼が宝のひとつやふたつなくしたからってどうかなる玉か。おまえの関心を引くためなら、銀行強盗だってやりかねねえ。いいか、そろそろ年下の阿呆をだまくらかすのはやめて、温泉につかって帰る準備をしろ。分け前はちゃんとやる」
「言ったわね、このオタンコナス」
何処で習ったのかと思われるような紀元前の悪態をつくと、ゆきは素早く、おれの背から離れた。
「覚えてらっしゃい。あたしと勘ちゃんをアマチュアだからと舐めてると、手痛い目に遭うわよ!」
声と同時に頭上から、びしゃっと水をぶっかけられ、おれは跳び上がった。前もって汲んでおいたらしい。用意周到な女だ。
「くそてめばか」
と喚き散らすおれを尻目に、ゆきはでっかいヒップを左右に振りつつ、脱衣場へ行っちまい、おれは憤然と湯舟に跳び込んだ。
毎度のこととは言え、また敵を背中にしょい込んでしまった。
着換えて部屋へ戻ると、リマはいなかった。帳場で訊くと、三〇分くらい前に散歩に出たらしいという。服装はタンク・トップにショート・パンツ。
何となく気になった。
リマならその恰好でも泳ぐだろう。
おれは腕時計を見た。荻原のおっさんから聞いといた、廃液流出時間まであと三○分。
おれは大急ぎで部屋へ戻り、バッグを引っ掴むと外へ飛び出した。
歩いてちゃ間に合わない。
車は、と見廻すと、折り良く、中型ジープが一台玄関口へ滑り込んできた。
乗ってるのは勘太郎である。
このドラ息子――中学生の分際で! と思ったが、今は願ってもない救い主だ。
おれは素早く駆け寄り、助手席のドアに手をかけた。
ロックしてない。用心の悪い野郎だ。
「はい、失敬」
と乗り込むと、勘太郎は眼を剥いた。
「な、なんだよ、おめえ」
「この野郎――人生の先輩に向かっておめえ[#「おめえ」に傍点]があるか」
おれは一発頭をはたいてやった。
「や、やりやがったな!」
と血相変えたのは札つきのワルの顔だが、田舎町の番長が相手にできる男か、おれが。
殴りかかってくるのを、カウンターで軽いパンチを一発決め、おれが運転席へ座ると同時に助手席へ放り出すと、奴め、こりゃ相手が悪いと無抵抗になった。放り出してもいいが、ジープの運転席は高いし、下はコンクリートだ。只で泊まってる旅館の息子にそうまでやっちゃ危《やば》い。
「さっさと降りろ。でないと連れてくぞ」
「ど、どこへ!?」
「あの海岸だ。ゆきが行ってる」
「え?」
突然、凶相が育ちのいいお坊っちゃん面に変わった。
「あいつは生まれつき、物騒な海岸で泳ぎたくなる癖があるんだ。それで何度か死にかかってる」
「そりゃ大変だ」
勘太郎は青くなった。恋に狂った中学生てのは実に扱いやすい。
「お、おれも一緒に行くよ。連れてってくれ」
「あいよ」
おれはジープを反転させた。
猛スピードで突っ走る。
カーブに来ても構わずアクセルをふかした。外側へ持っていかれそうになるのを、強引にねじ伏せていく。
「へえ」
と勘太郎が驚嘆の言葉を発した。
海岸道路へ出れば、後は一直線だった。
「おまえ――ゆきが好きなのか?」
退屈だから訊いてみた。
「うん――所帯を持ちてえ」
江戸時代の大工みたいなことを言う。
「あいつは、ゴロツキは嫌いだろうな」
ずばり言ってやった。
「うぐ」
と唸って勘太郎は黙った。おれはすかさず、
「今なら、おまえはまだ治せる。金庫ごと金をくすねるなんざ、大したもんだ。だがな、高校へ入ってまでそれをやってちゃおしまいだ。やくざになるしかないよ。そうさな、あと一年、親を泣かしたら、まともになれ」
勘太郎月夜はそっぽを向いた。
「ふん、余計なお世話だ。説教なんて、真っ平さ。ぶん殴られたことは忘れねえ。夜も寝ない方がいいぞ」
「この糞餓鬼」
と片手を振り上げたとき、おれは前方の、ひと目でわかる不気味な海岸線の手前に、リマらしい姿を認めた。岩場の上を、波打ち際へ向かってゆっくり進んでいく。その前方に釣り人らしい男が立ち、竿を握っている。
石段のところにジープを着け、おれはショルダー・バッグ片手に降りた。勘太郎もつづく。
廃液が流されるまで、あと十分。
おれは胸を撫で下ろしていた。
なんとか追いつけるだろうし、廃液を流すこと自体は危険もない。
なんとなく、リマが自分でもわからぬうちに、妙なことを仕出かすんじゃないかと脅えたのだ。
粗い岩場を、おれはリマを追って走った。勘太郎もつづくが、おれのスピードと反射神経には到底及ばない。
おっと、畜生、うわっ、という台詞が遠くなるにつれ、おれはリマとの距離を縮めた。
追いついた。
波打ち際から十五、六メートルのところだった。
「リマ」
両手で肩を抱くと、リマはようやく足を止めた。
「大か、どうして来た?」
「ご挨拶だな。おまえこそ、こんなところでお散歩か。まさか、走ってきたんじゃあるまいな」
「走ってきた」
とリマは平然と言った。
「一体どうして?」
「見ろ」
右手が上がり、前方を指さした。
釣りをしている男の方角だ。
波が打ち寄せる岩場の先にいる。そろそろ満ち潮だろう。足元の波が白い牙を剥いている。
「あいつが、どうかしたのか?」
「止めなくては。――危ない」
危ない? どうして、そんなことがわかるんだ?
そう訊こうとしたとき、足元で派手に波が砕け、男は一瞬、バランスを崩した。
どっと仰向けに倒れるところを、途中で身をひねって俯せになる。
その身体を押し寄せる波が包んだ。
「いけない!」
リマが走り出したが、おれには何のことかわからない。
男はすぐ起き上がろうとしてるし、波だって引きずり込まれるような代物じゃない。
だが、リマが一メートルと進まぬうちに、男は悲鳴を上げた。
「助けてくれ――引っ張り、引っ張り込まれる!」
眼を剥くより早く、おれは走りだした。
男の両足だけは、膝から下が波打ち際へ消えている。
男は必死に眼の前の岩にしがみついていた。遠目にも絶望と恐怖に彩られた表情が窺え、おれたちはさらに足を早めた。
ひょっとしたら、あの、川の中で三人を食い殺した奴が――
金切り声をあげて男が両手を放した。
いかん!
ダッシュしたが及ばない。
必死に岩へ指を絡めつつ、そのすべてが撥ね飛ばされて、男はあっという間に海中へ引きずり込まれていた。
インサイド・ホルスターからショック・ガンを抜き、おれは男が立っていた岩場へ駆け上がり、水中へ眼を凝らした。
見なきゃよかった。
視界の隅を、すうっと沖へ持っていかれる男の凄まじい顔がかすめた。
次の瞬間、新たな波がその光景を白く塗り潰し、おれの身体へ無数の水滴を飛ばした。
しかし、一体、何が……
おれは夢中で頭を巡らした。
すぐに回答は出た。
不様な話だが、おれは後じさった。
この海にはやはり何かがいる。
振り向いて、茫然と突っ立っているリマに訊いた。
「わかるか?」
リマは首を振った。
「どうしたんだよ、おい、どうしたんだ?」
勘太郎クンの声を聞きながら、おれは海の彼方に眼を向けつづけていた。
そのとき、海が吠えた。
怒濤の雄叫びに似ていた。
おれは振り向いた。
それは、あの海岸だったろう。
コンクリートで塗装された岩壁の一角に開いた大穴から、水としか思えぬ透明の液体が太い綱のように迸り、地面を覆っていったのである。
岩場より低いため、液体はこちらまで侵入してこないようだ。
「ちょっと行ってくる。おまえら、ここにいろ」
おれはこう言って、放出の現場へ近づいていった。
背後から二人の気配がつづいた。仕様がねえな、もう。
霧のように飛沫が肌にまつわりだしたところで、おれは足を止めた。人畜無害と言っても昔の話だ。今はどうだかわかったもんじゃない。
ふと、おれはほのかな香りを感じた。
普通の奴の鼻じゃ嗅[#「嗅」に傍点]ぎ取れまい。おれだからこそ知覚できた超微量な臭素だ。
そのためか、どこかで嗅いだ覚えがある、と思っても、確定できなかった。考えれば考えるほど記憶はぼやけ、すぐにおれはあきらめた。それほど薄い匂いだったのである。
この勢いなら、あの泥みたいな部分も押し流されてしまうかもしれないな、と思ったが、どうやら間違いだったらしい。
廃液の放出は一分とつづかず、液が海へと流れ去った後には、また、あの青みどろの、不気味な地肌が広がっていたのである。
こんなもの、ほんとに、無害なのだろうか。
首を傾げていたら、傍らのリマがいきなり岩場と海岸の縁まで歩み寄り、その場へしゃがみ込んだ。
おれが駆け寄ったとき、彼女はなんと左手で、あの青い苔をすくい、ぽいっと口へ放り込んだのである。
「よせ、馬鹿、吐け!」
おれは叫んだが、リマは平然と数度それを噛みしめ、喉を鳴らして燕下した。
「大丈夫だ。大。おかしなものじゃない」
「阿呆か、お前は?――後で効いてくる毒だってあるんだぞ!」
と罵りながら、おれはリマの言うことなら間違いなかろうと思った。
この娘の野性の勘は動物並みのところがある。いくら腹が減っても、人喰いライオンがなかなか毒の餌にかからないのと同じで、ライオンの嗅覚にあたる部分が、いわば第六感に変化しているのだ。
魔界を漂い、海中の化け物すら食料にしなければ生きていけなかった娘は、そのための勘の発達も、人間離れしたところがある。
「味はどうだ?」
苦い顔で訊いてみた。
「いける」
「そりゃ、結構だ」
とおれはつぶやき、青苔が廃液に揺れる海岸を見下ろした。
「何だ、こりゃ? 海藻か?」
「似てる。でも、食べられる」
ここでリマは少し考え、
「エ――栄養もある」
おれは驚いた。そこまでわかるのか。だが、そうなると――この海岸は一体何なんだ?
まるで――
おれは身を屈め、リマと同じく、青い苔をすくい上げた。
どろりとして、まるでトロロコブのようだ。
釣り人のところへ駆け出した地点まで戻り、置いてあったショルダー・バッグから、ビニールの袋を取り出して苔を入れ、密閉した。
宝の眠っている場所には、どんなおかしな仕掛けが待っているかわからない。
有毒ガスもそのひとつだ。
ところで百年、二百年もたつと、保存機構がイカれて、微量ながら外へ洩れることがある。当然、周囲の動植物は影響を受け、枯れるか、突然変異体《ミュータント》が発生する場合も多い。
そんなときのために、採集用の小道具も必要なのだ。
おれくらいになると、どんな場合でもガス・マスクを離さないが、やはり事前に知っておけば、安心度が異なる。
ビニール袋をチタン合金の箔でできたケースに収め、おれは、きょとんとこちらを見てる勘太郎に言った。何かの役に立つかと思って連れてきたのだが、適中だ。
「釣りしてたおっさんが海に流された。戻ってすぐ警察へ連絡しろ」
もちろん、おれが警視総監か法務大臣に連絡し、こっちに捜査の手が廻らないようにする。面倒臭くて仕様がない。
まだ、茫として海原の彼方へ眼をやっているリマを促し、おれたちは車へ戻った。
宿で勘太郎に電話をかけさせ、おれはリマを部屋へ戻して、精神安定剤を与えた。
ITHA薬剤局特製の薬は、野性の娘の精神も落ち着かせ、リマはすぐ畳に横になった。全身が弛緩し、眼がとろんとしている。
張りつめた精神が溶解していくのだ。
「いいかい、今日はゆっくり休め」
おれは静かに言い聞かせた。
「おれは、明日から忙しくなりそうだ。のんびり、お湯につかっていられそうもないが、おまえはゆっくりしろ。海のことは気にするな。何があっても気を遣うんじゃねえ」
「大が忙しいなら、私も手伝わなくてはならない。一緒に行く」
「いかん。おれが好きなら、おとなしくしていろ。本当に仲間が欲しいときは、おまえを連れていく」
「本当か?」
「ああ、それに、おれももう寝る」
「なら、おとなしくする」
素直な女っていいねえ。
「だが、明日からは多分忙しくなるだろう。万が一ってこともある。こいつを持ってろ。おまえひとりのとき、部屋にはおれ以外の奴を入れちゃいかんぞ。ゆきもだ」
おれは、バッグの底からワルサーPPK/S自動拳銃《オートマチック》を取り出し、リマに手渡した。
扱い方は教えてある。
リマの実力は、三○メートル先の林檎もぶち抜くほどだ。今じゃ、ゆき以上の射手《シューター》と言える。
おれは三本の予備弾倉も渡し、リマがバッグにしまうのを見届けてから、布団に横になった。これもリマが敷いてくれたものだ。
翌朝、薬が効いたのか、ぐっすり眠っているリマを残し、おれはスーツケースの荷物を移したショルダー・バッグ片手に部屋を出た。
まっすぐ玄関へ行くつもりが、途中で気を変え、ゆきの部屋へ向かった。
ノックしたが、出て来ない。居留守ではないようだ。
おれは帳場へ行き、何処へ行ったか尋ねたが、係の者がいない間に出かけたらしかった。
おれはジープに乗り込み、出動した。いよいよ、本格的な宝探しのはじまりだ。
神社の入り口でジープを止め、ショルダー・バッグを持って境内へ入る。
周囲を窺ったが、人の気配はない。尾けられていないのは確認済みだ。
木陰で服を脱ぐ。
下は旅館で着換えた黒い戦闘服《コンバット・スーツ》である。
腰には、愛用のCZ75・九ミリ自動拳銃《オートマチック》に予備弾倉三本をつけた戦闘用ベルト、刃渡り二七センチのチタン鋼のナイフと五○トンの重さも支える直径○・○三ミリの金属糸やその他を詰めたパウチもついている。
左手の有毒ガス・細菌探知フィルターも確かめ、おれは素早く、通路の端にある杉の巨木を調べた。
超音波センサーで調べても、空洞ではない。
どうやって動かすのか。
スイッチはどこだろう。
センシングしても、メカの細かい部分まではわからない。
おれは、バッグの底から溶解液のボンベを取り出した。
あの「天人事件」(『エイリアン秘宝街』参照)で使った代物だが、品質はより強力になっているため、小型ボンベ一本で五本分の効果が上がる。
幸い、風は社務所の方へ吹いている。煙はすぐ散ってしまうだろう。
おれは杉の根元目がけてボンベの噴出口を向けた。
濛濛と白煙が噴き上がった。
太い木の根を露出させて、大地はゆっくりと沈下していった。おれもそれに合わせて、ぐずぐずの土を踏みしめながら下がっていく。念のために、杉の木に極細の超硬度ワイヤーを巻きつけておくのも忘れなかった。
一分ほどで、直径二メートル、深さ十メートルの穴が穿たれ、その下に、石の表面が現れた。
恐らく、杉の木は、この通路が埋もれてから植えつけられたものだろう。
となると、造られたのは、約二、三千年も前ということになる。
おれはにんまり笑った。
土とは異なる白煙が上がり、鼻がむずむずする。
全身の血が湧き立ち騒ぎ、反対に頭の芯はどこまでも冷えていった。
これがトレジャー・ハンターの醍醐味なのだ。
石の厚さは五○センチもあった。すり減った石段が下方へつづいている。熱っぽい空気が頬を叩いた。暖房施設でもあるのか。
まだ泡を噴いている穴の縁から、おれは左手を突き出し、ガスや放射能の検出を試みた。
異常なし。
おれは赤外線サングラスを頼りに、ショック・ガンを握りしめて穴の底へと下りていった。
階段は、垂直距離で三メートル下りると床に溶け込んでいた。
そこ自体が、ひとつの部屋だった。
広さは超音波センサーの報告と等しい。
おれは周囲を見廻した。
四方は石だ。それが珍しかったわけじゃない。
あの匂いが鼻をついたのだ。
あの匂い――それは紛れもなく、あの海岸の砂と苔が発生していた、匂いともいえぬ匂いだった。
それが、この部屋にもあるとは。
二千年前の超施設とあの海岸は何処でどう結びつくのだろう。
結びつける役はわかっている。小早川夫婦と彼らの工場だ。
いずれ訪問する必要があるな。
おれはバッグから火炎放射器を取り出して、肩から吊るした。
全長二九センチしかないこの武器は、下方のタンクに圧縮されたニトロメタンと酸素の混合ガスを入れ、引き金を引くと、三千度の炎がなんと十メートルまで伸びる。
化け物にはもってこいだ。
確かに太古の部屋であった。
周囲は石だ。これも一枚板である。
ひょっとするとこの部屋自体、馬鹿でかい巨岩をくり抜いてつくったものかもしれない。そう言えば、壁と床と天井――どれひとつ取っても、接点に継ぎ目がないじゃないか。
だとしたら、研摩技術も凄い。壁も床も滑らかで、凸凹ひとつないのである。
ひと目で何かの実験室だということがわかった。
木製の椅子とテーブルらしきものがきちんと原形を留めてあちこちに残っているし、その上には石の壺や擂《すり》鉢、石包丁といった道具、壁の端には炉らしいものさえあった。
炉の中には白い灰がまだ残っている。
ある理由から、おれは素早く近づき、戦闘服の手袋で灰を払った。
かすかなオレンジの輝きが眼を灼いた。
やっぱり、そうだ。熱風が噴き上げてきたのも道理。
灰の下から現れた、燃え尽きた炭としか見えぬ白い塊を、おれは驚愕の思いで見つめた。
その片端だけは、まだ燃えつづけているのだ。
特殊加工した炭か、あるいは我々の知らぬ、とうに滅びた植物の末裔か。小さな炎は、そのささやかな生命《いのち》の証を、三千年の長きに亘って、保ちつづけてきたのだった。
おれは傍らの大きな二個の瓶《かめ》の中身を点検した。どちらにも水らしいものが詰まっている。
その脇の机の上には、大小の皿と小動物――ネズミらしい――の遺体。別の机上には、ドライフラワーのように枯れ果てた植物の山。壺を開けると、底の方に、もっと小さなそれらの残骸が残っている。
生物を使って何らかの実験に精を出していたらしいが、それよりおれの目を捉えたのは、中央の木製大テーブルに山と積まれた土塊だった。
乾燥し切った部屋のおかげで、土というより砂の山だが、かろうじて一部が保っている形から、土の粘着性が想像できたのである。
それと、その山の周囲にくっついた、これも干涸らびた花びらみたいなものは……
おれが指でつまむと、柔らかい腹の下で、それはたちまち粉々に砕けて風に消えてしまった。
はっきりとは言えないが、あるものを当てはめると、何となく想像がつく。
おれは素早く、先刻調べた二つの瓶に近づき、中の液体を一滴ずつフィルターに垂らした。
毒はない。
では――おれは片方に指をつけ、指先についてきたものを舌に乗せて口腔へ戻した。
海水だ。
次の分も同じように。
変な味がした。
確かめてはいないが、あの廃液と同じなのではなかろうか。
さっきの乾燥した破片は、間違いなく植物のものだろう。
これは一体、何を意味するのか。
三千年の時を隔てて、同じ現象が生じている。いや、おれの勘が確かなら、こいつは三千年間、ずっとつづけられてきたのだ!
平凡な土に海水と廃液を垂らし、青い苔みたいなものを育てる。
そして、三千年。
かつてはここで、今では小早川の工場がその役を担っているのだろう。
何故、何のために?
もうひとつあった。川の中の人食い魚だ。あれも副産物か?
おれは何となくぞっとした。
部屋には不気味なものがこもっていた。
いずれ、発掘してみれば全貌がわかるかもしれない。
おれは戦闘服の胸につけた超小型ビデオ・カメラを四方に動かした。
天井、左側、右側、前方、そして後ろ……
振り向いたとき、石の壁はすでに真横に滑り、天井まで届きそうな穴の向こうに、黒い人影が見えた。
おれは小早川家の運転手を連想した。
奴より一メートルはでかい。
裸の大男――だが、全身の肌は焦げ茶色に干涸らび、おれを見下ろす眼は死魚のようにとろけて――しかも青色だ。
漂着した外国人だろうか。それとも、ここの連中が全員、海の向こうからやってきたのだろうか。
おれに掴みかかろうというのか、前へ伸ばした両手指を鉤状に曲げ、のっしのっしと進んでくるそいつの胸や腰に、かすかな音をたてて噛み合う歯車や、何かのパイプらしい木の筒を見て、おれは正体を悟った。
BC一千年の護衛用サイボーグ――こんなことがあり得るだろうか。
今から約三千年前、紀元前一千年と言えば、西洋ではミケーネ文明が崩壊し、西アジアではダビデ王が即位し、ユダヤ・イスラエルを統一、エルサレムを都としてヘブライ王国を築いた頃だ。鉄器時代がはじまって約百年。中国は周の時代だった。
日本には語るべき何物もなく、あの名高い「倭奴国王」が後漢に遣使し、金印を得たのは五七年――それから九五〇年後のことだ。
こんな時代に、一体誰が、サイボーグなんかを? エジプトのミイラだって、ここまでの仕掛けはない。
しかし、考えていても始まらなかった。
おれは数歩後ろへ下がり、ショック・ガンを巨人の腹にポイントした。
三メートルの大男が、ヘビー級ボクサーのパンチで倒れてくれるかどうかわからなかったが、引き金を引いてみた。
大男の身体がかすかに震え――それだけだった。
掴みかかってきた両手をかすめ、おれはそいつの背後に廻ろうとした。
なんとか生け捕りにできないものか――麻酔弾なら効くかもしれん。不老の人間だ。五千億円はかたい。
おれは戦闘服の胸につけた麻酔弾をはずし、安全リングを引き抜いた。穴は開いてるが、ひと息でも吸い込めば、虎でも外谷《とや》でも鼾をかきはじめる。
大型にふさわしい動きで反転した巨人の足元へ、ゆっくりと三つ数えて放る。
ぽん!
とくぐもった音がして、無色無臭の煙が巨人を包んだ。赤外線サングラスの像が輝きを失う。
巨人は意に介さなかった。
呼吸していないのかもしれない。
おれの胸部くらいある手のひらが、頭上から落下し、間一髪で躱《かわ》したら、背後のテーブルがぶち壊れた。
古いとはいえ、凄まじい力だ。
またくるか?
だが、奴を連れていくわけにはいくまい。
おれはあきらめて、火炎放射器を構え、引き金を引いた。
ノズルに点火されていた火花が高圧ガスに着火し、オレンジ色の炎の舌が三メートル前方の巨人に伸びた。
接触と同時に火の花弁を広げる。
まずい、とおれは思った。
焼ける匂いが外へ洩れてしまう。
頭上の入り口あたりで人の気配が湧いた。
誰か来た!
上半身火だるまになっても、平気で突進してくる巨人の体当たりを躱して、おれは机に飛び乗りながら、振り向いた。
「きゃっ、火事だ!?」
ゆきだ! よりによって、こんなところへ、この厄病神!
「出てけ、馬鹿!」
と叫んだ途端、巨人が突っ込んできた。
とっさに二撃目!
眼の前を炎が埋め、顔面を叩いた。近すぎた!
一瞬たじろいだ胸もとへ、途方もない鉄棒を叩きつけたような衝撃が襲った。
声もなく吹っ飛ばされ、おれは床へ転がった。
フードをかぶっていなかったので、かろうじて左手で後頭部をカバーしてのけたが、頭の中を星が駆け巡った。
乱射は――ゆきがいるのでできない。
夢中で見開いた視界一杯に、巨大な足底が広がった。
身をひねることができたのは、意志ではなく反射神経によるものだ。
耳たぶをかすめて、そいつはずずん[#「ずずん」に傍点]と床に命中した。
起き上がろうとしたが、うまくいかなかった。
眼の中で、しかし、そいつの身体は大きく揺れた。上半身は巨大な松明と化している。
ようやく最期が訪れてきたらしい。これまで活動できただけでも奇跡に近いのだ。
何という超技術だ。
幸い、巨人はおれが起き上がるのを待ってから、後方へぶっ倒れてくれた。
不思議と肉の焼ける匂いはしなかった。雑草のに近い。
二千年――いや、いつ訪れるかも知れん侵入者を生きて帰さぬためには、肉体そのものを変成させる必要があったのだろう。
「大ちゃあん」
とゆきが飛びついてきた。
「大丈夫、怪我しなかった? このこのこの」
と巨人の腿を蹴っ飛ばす。とんでもない性格の娘だ。
「何で今ごろ出て来た? 先に出掛けたというから、とっくにここへ来てると思ったのに」
「それが、途中の喫茶店で二人の高校生にナンパされちゃってさあ」
とゆきは、ああ不潔という表情で言った。
「一緒にお茶飲んでたら、お姉さまとか言ってキスしてくるのよね。気持ち悪いから逃げてきちゃった」
「お姉さまか。日本の男は全部オカマになりつつあるな。総理府の陰謀だ」
「ああら、男じゃないわよ」
「なにイ!?」
「女子高生よ。田舎もんにしちゃ、結構、可愛い顔してたわよ」
おれは苦い顔をして、ゆきから眼を離し、他におかしな奴がいないかと、実験室の中を点検した。濃紺の煙が充満している。
「とにかく出るぞ。穴を塞いで土をかける。この煙を見られちゃ危《やば》い」
こう言って階段の方へ向かう途中、巨人がぶっ倒したテーブルの下に、おれは紙束のようなものを見つけた。
さっき見たときは、テーブルと椅子の陰に隠れており、恐らくそれが原因で千年前も運び出されるのをまぬがれたのだろう。
おれは近づいて見下ろした。黄ばんだ紙である。こよりのようなもので適当な厚さに閉じられている。
――実験記録かな?
表紙はない。
表面を奇妙な文字がのたくっている。何で書いたのかは不明だ。
おれは最初の一冊を取り上げ、バッグに押し込んだ。
テーブルの上の土も少しビニール袋に詰める。
海水と廃液も欲しかったが、またいつでも来られる。
こう考えてしまった。
これが超重要な過ちとも気づかず、おれはゆきのヒップを間近に見ながら、石の階段を上った。
案の定というか幸いというか、人気はない。
おれがバッグから取り出したものを見て、ゆきが顔をしかめた。
「なによ。太い白墨ねえ」
「ちがう。充填剤だ。これで穴を塞ぐ」
「開けたり塞いだり、あんたってほんっと[#「ほんっと」に傍点]に偽善者ねえ」
しみじみ言った。糞。
「何とでも抜かせ」
と凄んで、おれは粘土状の充填剤を石段のいちばん上に乗せ、三回ほど強くこねた。
手応えがあった。
素早く離した手の下で、そいつはソフトクリームみたいに膨れ上がった。
凄まじい勢いでガスを注入する風船か、カルメ焼きのようであった。
「おいしそうね」
とゆきが言ったほどである。
充填剤の泡はたちまち大穴を埋め、部屋の内部をおれたちの眼から隠した。
これで、あと一分もすれば、コンクリートより頑丈なトーチカの壁が出来上がる。次に開けるには、同じ充填剤を少量、その上で膨らませればいい。
泡状の薬は硬化した部分を溶かす性質があるのだ。もちろん、たっぷりやりすぎると元の木阿弥だが。
「さ、上がれ。この穴も埋める量を入れたんだ」
おれたちは地面をよじ登り、地上に戻った。
ほどなく、眼の前の窪みからホイップ・アイスクリームが盛り上がり、すぐ停止した。
ほとんど同時に硬化がはじまる。
その上に土をかけ、おれは戦闘服の上から上衣をまとった。手榴弾《パイナップル》や焼夷弾はバッグに戻してある。
町中ではショック・ガンで足りるだろう。
「ところで、あれ、何よ、大ちゃん?」
とゆきが訊いた。
「あれって、何だ?」
「いまの、地面の下の部屋よ。はじめて見るわ」
「なにィ?」
とおれは眼を丸くした。
「とぼけるなよ。勘太郎に案内してもらったくせに」
「え?」
「違うのか!?」
おれの口があんぐり開いた。ゆきもきょとんとして、
「全然」
と首を振る。
「じゃ、おまえが欲情してた原因は何だ? あの部屋が超太古の存在の遺物だと教え込まれたんだろう?」
「?」
「違うのか!?」
おれはまた、訊いてしまった。
「違うわよ、ばっかねえ。あたしは勘ちゃんに、あの家に伝わる家宝の大判小判の一部を見せてもらっただけよ。絶対に内緒よ。あの子、倉庫から少しずつくすねて、そこの社務所の床下に隠してあるの」
「なるほど、そいつを覗きにきたってわけか。だが、そんなもの十枚あったってせいぜい五、六百万円がいいところだろう。おまえ、一億円以上でないと感動[#「感動」に傍点]しないんじゃなかったのか?」
「残りがあるのよ、残りが、あたしと勘ちゃんが一緒になれば、必然的にあたしのものでしょう。評価額はざっと五億円。ああ……」
憶い出しただけで頬が上気してきたので、おれはあわててゆきを揺すり、正気に戻そうとした。
「駄目ン」
いきなりおれの首に抱きつき、唇を重ねた。凄まじい勢いで舌が歯を割り、おれの口の中をかきまわす。
好き勝手にこっちを奔弄して、すぐ、今度はゆっくり、おれの歯の裏側に舌を這わせはじめた。
「駄目よ、逃げちゃ……そこへ坐って……」
おれたちは杉の木の根元へ横になった。
その間もゆきは唇を離さない。
眼の色さえ黄金に変わりそうだ。
手がおれの手を腰に導く。言い忘れてたが、ゆきは青のTシャツにピンクの花を散らしたフレア・スカートだ。
おれは誘われるまま、スカートをめくり上げ、熱い太腿に手を這わせた。
内側へ滑らせると、ぴしゃっと来た。
「駄目――まず外からよ!」
とゆきは唇を離して言った。
「へいへい」
おれは言われた通りにし、片手でゆきの乳房をTシャツの上から揉んだ。
突起をつけたゴム毬。リマよりワン・ランク柔らかい。揉み甲斐十分だ。
内腿へ手を伸ばすと、ゆきは呻いて、両脚でぴたりとはさみ込んだ。
おれは乳房から手を離し、Tシャツの裾から内側へ――
「馬鹿!」
ゆきは叫んで身をよじった。
「順序が違うでしょ、順序が! じかに触るのは、キスが終わってからよ。何度言えばわかるの!?」
「やかましい!」
とおれは激怒した。
「こういう状況で、おまえの順序なんか守っていられるか。キスの後はネッキングだの、その間、腿は外側だけ責めろだの、こっちにも都合があるわい」
「ふんだ! じゃあ、もう、あたしには触らないことね。こういうときに、女の要求をきちんと聞いてくれない男なんか最低よ!」
「うるせてめバーロー」
思い切り罵りながら、おれは、ふと、妙な感じに襲われた。
「おい、おまえ、ボディ・ローションか何か変えたか?」
「何よ、おかしなこと訊かないで」
「確か、資生堂がお気に入りだったよな? カネボウにしたのか?」
「どうして、あんた、そんなこと知ってるのよ!? 毎晩、あたしの匂いでも嗅いでるっていうの!?」
「答えろ!」
「変えてないっ!」
「すると、資生堂のままか」
「つけてないっ!」
「ん?」
「今日は素肌よ……ふふ、汗の匂いで興奮する?」
「阿呆、変態じゃあるまいし」
吐き捨てて、しかし、おれは何処か釈然としなかった。
ひょっとしたら……
そう考えたとき、ゆきはさっさと立ち上がっていた。
「じゃ、ね。――ああ、どうも、すっきりしないわ。勘ちゃんに好き好きしてもらおうかしら。あ、断っとくけど、小判のこと話したんだから、一枚でもなくなってたら、あんたのせいよ。お忘れなく」
「わかったよ」
「ね、ところで、どうすんの、これから?」
とゆきが訊いた。
「どうでもよかろう」
おれはショルダー・バッグ片手に神社の出入り口の方へ歩きはじめた。
「あーら、冷たいこと」
ゆきはスカートを翻しながらついてきた。
「あんな凄いお部屋を見つけて、独り占めなさるつもりかしら」
「ああそうとも。そのかわり、おまえの小判に手はつけないし、勘太郎と結婚しても、分け前をよこせなんて言わないから安心しな」
「ありがとさん」
とゆきはおれの隣でニヤニヤした。
「でも、あたしは頂きたいわ」
「なんだぁ?」
おれはじろりと見据えた。
さすがに腹が立っている。
ゆきもぎょっとしたように跳び退がった。
「冗談よ冗談」
と愛想笑いをしながら手を振る。
冗談だった試しがねえ。
おれはゆきを無視してジープに舞い戻った。
「ねえってばあ。どこ行くのォ」
言いながら、きっちり隣に坐る。
おれはため息をついてアクセルを踏んだ。
次の目的地は「西華園」だった。
町の西のはずれにある養老院である。
思ったより大きく、造りも清潔だった。
小鳥の鳴く声を聴きながら、おれは門をくぐり、受付へ行った。樺山の爺さんを連れ戻しに来た中年の婦人がいた。
「樺山さんにお目にかかりたい」
と伝える。
面会人もいないのか、婦人は喜んだ。
「あなた、昨日の方でしょ? 何かご用?」
「いえ。話し相手が要るんじゃないかと」
「そうなの。若いのに、お年寄りを慰めに来てくれるなんて、感心ねえ。でも、ちょっとさっき、散歩に出かけられたわ」
「ひとりで、ですか?」
「いいえ。藤平さんって方がご一緒。うちの職員よ」
「何分ぐらい前です?」
「そうねえ、かれこれ一五、六分。いつもコースは決まってるから、この時間なら、あの橋のたもとあたりか」
おれは何となく、背筋が寒くなった。
「どーもです」
と会釈して、車の方へ向かう。
「どうしたの、血相変えて?」
と、その辺の爺さんにウィンクしてたゆきが訊いた。
「わからん。だが――危《やば》いな」
このとき、おれは、ひょっとして、爺さん、もう殺《や》られたんじゃないかと思った。
理由はない。勘だ。
あの橋の下には、あの川が流れていて、あの川の中には、あれ[#「あれ」に傍点]がいる。
半分だけ[#「半分だけ」に傍点]当たった。
対向車を二、三台路傍の溝に突っ込ませる程のスピードで橋へ急行し、おれは車から飛び降りて四方を見廻した。
いない。
観光客もチラホラだ。
だが、この近辺には間違いあるまい。
それとも、二人揃って……
不吉な予感を振り払い、おれは川の流れに沿ってジープを走らせた。
やはり、見つからない。
町なかも走ってみたが同じだった。
どうしたものかと思案しながら、もう一度橋の方へ車を向けると、目の前の狭い路地の向こうを人影が横切った。
二人連れだ。片方は間違いなく、樺山の爺さん。
「いたぞ!」
おれは大急ぎで運転席へ戻り、ジープをスタートさせた。
二人は橋の方へ向かっていた。
散歩を終えて、養老院へ戻るところなのだろう。
路地を抜けて通りへ出た。
眼の前が川だ。
ゆきが、あれっ[#「あれっ」に傍点]、と言った。
二人の姿は消えていた。
通りには人影もない。
おれは首を傾げた。それから、あるものに気づいた。
「どうしたの、いなくなっちゃったわよ」
「ここから出るなよ。――何かあったら、運転して逃げろ」
おれは低く伝えて、車を降りた。
あの足取りなら五、六メートルと進んじゃいまい。
川には何本も橋がかかっているが、一番近い橋まで五○メートル以上ある。
その間、曲がり角はなし。
歩く途中で消えてしまったのか。
否だ。ひとつだけ、行くところがある。
コンクリートの舗道を見下ろし、おれは五メートルほど歩いて、その端へ向かった。
川へ落ちないようガードレールがある。
鉄の杭に、路面から四〇センチばかりあけて鉄板を打ちつけたもので、高さは一メートル。飛び降りる気になればできるが、おれには違うとわかっていた。
飛び込んだというのが。
おれは舗装路に眼をやり、すぐに、川の下流を眺めた。
その先に海がある。
夕べ、人間ひとりを引きずり込んだ海が。
「ねえ、なによ、これ、大ちゃん?」
後ろでゆきの気配と、薄気味悪そうな声がした。
おれは足元の線を見つめた。
それは幅約一二、三センチの濡れた痕が二本で、おれたちの車のやや前方まで道を横切ってつづき、線の周りにはおびただしい水滴が点をつくっている。
かなりの猛スピードで移動したらしく、水滴ははっきり、進行方向と反対側に弾けていた。
「この水滴の形からみると、一本は川から出て、一本は川へ戻ったのね」
ゆきが眼を移動させながら言った。妙に低い声だった。
おれは返事もせず、道路の両端を眺めた。
太いロープみたいなものが川の中から出て、通りを横断して元に戻った。
そのとき、何かを掴まなかったという保証があるだろうか。
ガードの板と道路との間には四○センチの隙間がある。人間二人が横になって通り抜けるには十分な広さだ。
おれは川の表へ眼をやった。
澄んだ流れは魔法のように陽光をきらめかせつつ、下方へと下っていく。
あちこちの排水孔から加わる湯煙の他には何ひとつ見当たらない。
ゆきが震える声で、
「帰ろう」
と言った。
「ああ」
おれもうなずいた。
固い舗道が、何とも頼りなく感じられた。
樺山爺さんと付き添いが引きずり込まれるまで五メートルあった。
これが千メートルにならないと、誰が保証できるだろう。
夜、ひと気のない街の真ん中を歩いていると、突然、足首に何かが巻きつく。
あれと思った途端、猛スピードで引き倒され、引きずられはじめるのだ。
それでも、まだ真の恐怖には考えが及ばない。何と言っても街なかだ。人はいなくても、おかしなところまで連れていかれる恐れはあるまい。
だが――
じきに気づく。
猛スピードで街角を曲がり、道路を走り、バス停を次から次へと過ぎていくうちにわかる。空気に潮の香りが混じってくるうちにわかる。潮騒が近づいてくるとわかる。
何処へ連れていかれるのか。
だが、ひょっとするとわからないかもしれない。
怒濤を突き破り海水に身を浸しても、いつかは死体となって海岸へ流れ着くのではないかと思うかもしれない。
底知れぬ暗黒の底へと達するまでは……
おれは思い切りアクセルを踏んだ。
「波濤館」へ戻るより、水のあるところから離れることが先決だったのは言うまでもない。
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第四章 海魔の招き
偶然だろうか、とおれは考えた。
樺山老人のところへ出掛けたのは、沈没船の位置を確かめるためだ。
老人をかっさらった奴がそれを知っていたとは思えない。誰にも喋っていないんだからな。
恐らく、目的は別にあるのだろう。おれの探索と重なったのは多分偶然だ。
それでは、何のために?
わからないことをあれこれ考えつづけるのはやめ、おれは、別の目標へアタックすることに決めた。
すると、ますます気が重くなる。
なにせ、海の中なのだ。
言うまでもない。樺山老人が口にした沈没船探しである。
史家の谷山氏は信じていないようだったが、おれの勘は本物だと告げている。
となれば、早く動くことだ。
幸い、準備は万端整っている。
うまいことすれば、あの地下の一室と合わせて二つの宝が同時に入手できる。
沈没船の宝は直接、おれの懐へ入れればいいし、地下の実験室はあらゆる調査を済ませた上で、ITHA主催のオークションにかけよう。
これは月一回、ニューヨークで行われるもので、世界八二ヵ国からディーラーが集まってくる。美術品の競り市と同じだと思えばいい。
違うのは、出品されるのが、超古代の永久運動機関の模型だの、ドイツの古屋敷から発見された人造生物《ホムンクルス》だの、アトランチス存在の証拠を示す古文書だったりすることだ。
動く金も最低、ドルで一億からだし、ディーラーも各種財団をはじめ、国家機関、暗黒街の秘密結社、謎の億万長者といった超大物ばかり。まかり間違っても大学の研究室なんてところはこない。
一番最近の目玉は、例の失われたアークって奴だが、これはアメリカ国防総省《ペンタゴン》が、クレムリンと争い、一兆ドルで落札した。
ま、何はともあれ、沈没船の場所を確かめ、宝の運び出しは、ITHA日本支部の運搬課に依頼しよう。
とりあえず、おれはゆきと波濤館へ戻り、お茶を一杯やることにした。
さすがに、すぐ潜る気はしない。
どこかで見ていたのか、勘太郎が飛び出てきた。
めざとい野郎だ、と思いきや、奴はタッタカタッタカ、ジープの脇をすり抜けて走り去り、わずかに遅れて玄関から、親父殿が姿を見せた。手に竹刀を持ち、息を切らせている。
「どうしました?」
おれは面白がって訊いた。
「いやあ、何、ははは」
と荻原氏は照れ隠しに竹刀を振ってみせた。
「ちょっと二人で剣道の練習をしておったら、逃げ出しましてな。実に腑甲斐ない。仕置きしてやろうと追いかけてたとこで」
それから、じろりと息子の逃げ去った方角へ眼をやり、玄関へ戻って行った。
おれは苦笑した。
どこかで見た光景だった。
とにかく、ジープを降りて、旅館へ入った。
恐怖状態を脱け出したゆきは、元気に部屋へ戻って行った。この気分転換の早さだけは、天下一品の取り得と言ってもいい。
リマは窓辺に肘をつき、海の方へ眼を向けていた。どうも気になる。
「大丈夫か?」
と訊いてみた。
「大丈夫」
という返事だった。こっちを見もしない。
「大――海へ行くのか?」
いきなり訊かれて、おれは度胆を抜かれた。
「ど、どうしてわかる?」
「何となく、だ。私は、海とつながっている。海の考えがわかるのだ」
ふむ、そういうもんか。
「人間は海から生まれたと、大の読ませてくれた本に書いてあった。海は、だから、人間の考えることみんな知ってる」
だとしたら、厄介だぞ、こりゃあ。
「ま、それならそれで仕様がない。お茶をいれてくれないか。それを飲んだらちと散歩に出る」
リマは何も言わずうなずいた。
すぐ、湯気の立つ茶碗が目の前のテーブルに置かれ、おれはひと口飲んだ。
うまい。
リマのいれるお茶は常に絶品だ。これだけはゆきも及ばない。近頃の女はインスタント・コーヒーのプロみたいなのが多いが、リマは一種の天才だ。ときどきこしらえる酒の肴も眼の玉のとび出るほどうまいのが多い。
いずれ、この世界で暮らすのに差し支えがなくなったら、それなりの相手を見つけてやらねばなるまい。
ゆきも同じだ。
おれみたいな幾つ生命があっても足りないフーテンのそばに置いとくわけにはいかん。
「うまかった」
おれは満足の笑みを洩らしてリマを見つめた。
「ほんじゃな」
立ち上がった。
リマはじっとおれを見つめていた。
行くのか? とも訊かない。
行かないで、とも言わない。
無駄だとわかっているからだ。
女に引き止められるくらいなら、おれはとっくの昔に廃業し、それまでの稼ぎだけで、世界中を豪遊しながら一生を終えるだろう。
世界中に配る賄賂の計算に頭を痛めることもなかったし、毒虫に刺された挙げ句、うだるような密林の真ん中で、四○度の高熱に丸一週間のたうち廻るなんて真似もせずに済んだ。おれをかばってくれた娘が敵の組織に誘拐され、拷問の挙げ句、女として生きられない身体にされるようなこともなかったろう。そいつらを皆殺しにしたものの、娘の人生は取り返しがつかない。
「それなのに、どうしていくの?」
別の娘が言った言葉だ。
どうしていくの?
おれにわかるものか。
おれは部屋を出た。
どうにも気分が重い。リマといるとしみじみしがちだが、よく考えると、宝探しには禁物の情感だ。
ひとつ、ゆきのところへでも行ってみるか。
例によって、ノックする前に、ドアに耳を押しあてて、精神を統一する。
「……だから、こうでしょ。三角函数の応用よ」
意外な声が漂ってきた。
しかも、恐ろしくやさしい。
これは只事ではない。おれは耳を澄ませた。
そこへ、人の気配。
あわててドアから離れると、小柄な仲居さんが通りかかって挨拶をした。一八、九のトランジスター・グラマーだ。
「ちょっとちょっと」
と手を取り、すぐ前の布団部屋に引っ張り込む。
「やだあ――東京の男の人って、手が早いんだ。言ってやろ」
と色っぽい眼つきで軽く逆らう。おれもついその気になり、
「北の女は密告癖があるのか。――ほら」
と和服の上からバストを掴んだ。
「ああん」
とわななくところを、抱きしめて、強引にキスする。少し抵抗があったが、予想通りすぐ身体の力は抜けた。
「ここじゃ……駄目よ。夜……」
「いいから、いいから」
と半開きの唇を責めながら、
「あの勘太郎って若旦那、どんな奴?」
と訊いた。
「もう、最悪」
間髪入れず凄い返事が返ってきた。
「間違いなく、あの子がこの店潰すわね。店のお金は盗むわ、学校じゃ番長で悪さの仕放題だわ、旦那さん、毎日のごとく先生に呼ばれて、ほとほと困ってるようよ。あたしたちが風呂へ入ってるのを覗いたり、すれ違いざまにお尻撫でたり、それでやめてった女《ひと》も随分いるわ」
「ふうむ」
とおれは首を捻って訊いた。
「下級生を虐めたり、女を泣かせたりするのか?」
少し考え、仲居は首を振った。
「――それはないようね。相手は必ず上級生や高校生みたいよ」
「そうか。――で、僕の友達が来てからはどうだい?」
「あの娘《こ》といるとおとなしいわ」
と娘は大きくうなずいた。
「まるで普通の子供みたいに無邪気に見えるし、あの娘に言われると、部屋の掃除も勉強もきちんとやるみたい。でも――駄目よ、駄目。もとがもとだから、いずれ馬脚を現すわよ」
「おふくろさんはいないんだったな?」
「そうよ。小学生の頃、亡くなったんじゃない。その頃までは真面目だったって言うけどね」
「顔知ってるか?」
「ううん。でも――そうね、古くからいる仲居さんの話じゃ、なんか、あの娘に似てるって」
「へえ――まあ、いい。んじゃな」
「ちょっとお!」
娘は口をとがらせて、おれの手を掴んだ。
「こんなとこへ連れ込んで、それだけ?」
「今夜、帰って来たら会おう。用事があるんだ」
「約束よ」
と娘は舌舐めずりして、熱い眼をおれの顔に向けた。
娘が行ってしまうと、おれはもう一度、ドアに近づき、耳を押し当てた。
「はい、よく出来たわね」
というゆきの声が聞こえた。心底嬉しそうな顔つきまで想像できそうだ。
それから、ため息をつくように、
「やれば、できるのに。――どうして勉強しないの?」
「つまらねえもん」
勘太郎の声は的を射ていた。
「つまらなくても、やらなきゃまずいの。阿呆じゃ、お店をやってけないのよ」
「いいもん。こんな店いらねえ。ね、一緒に逃げよう」
野郎! とノックしかけたところへ、
「いいわよ。ただし、やることやってからね」
ゆきがぴしりと言った。
「楽しい目を見るには、苦い薬を飲まなくちゃいけないの。今は、父さんが代理してくれてるけど、中学終われば、自分に降りかかってくるわよ。殴れば殴り返されるのが世の中なの。だから、算数と国語と社会ぐらい、きちんとやっときなさい」
「やだよお。先生が教えてくれんならやるけど。いなくなったら、また暴れてやる」
「いいわよ。あたし、あなたのことなんか夏休みの間しか責任もてないもの」
まずいことを言うなあとおれは思った。案の定、勘太郎は――
「グレてやる。畜生、もう、グレてやる」
「はい、どうぞ」
この辺、ゆきの胆っ玉は太い。
「嘘だよォ、先生〜〜〜」
たちまち勘太郎は軟化した。
「おれ、先生と離れたくないんだよお。だから、かすめた小判も見せてあげたんじゃないか」
「さあて、何のこと? あたしは何も見てないわよ。勘ちゃんも見せなかった」
「ひでえや」
「いいから。はい、お喋りは終わり。少なくとも、あたしがさよならするまでには、それなりの成績をあげてちょうだいよ」
「もう」
「もうも糞もないの」
ゆきはもの凄い言い方をして、論争に終止符を打った。
何となく毒気を抜かれ、おれはその場を離れた。
あいつ、なかなかやるじゃないか。先生の素質があるとは思わなかった。チラリチラリと胸の谷間や太腿ぐらい見せて、その気にさせてるのかもしれないが。
おれは黙って、その場を離れた。
何となく、気分が落ち着いちまったい。
海辺には荒い波が押し寄せていた。
午後四時、まだ陽は高い。
おれは黒い岩に沿って、あの[#「あの」に傍点]海岸の方へ眼をやった。
誰も見えなかった。
勘太郎の連絡を受けた巡視船が、遠くに米粒ほどの大きさで波を蹴立てているばかりだ。
海岸には警官が出ているかもしれない。
おれのコネが効いて、警察も勘太郎には当たり前のことしか質問しなかったし、おれのところへは無論やってこない。
忙しいところを悪いが、海の中でもひと騒動起こさせてもらおう。
おれは、ショルダー・バッグの中から、金属製の傘としか見えぬ品を取り出し、岩の上に置いた。
ここは温泉地からの坂道を真っすぐ降りてきた岩場で、うまい具合に、海辺すれすれまで、三本の太い松がせり出し、車や通行人から姿を隠してくれる。しかも、眼の前がすぐ海だ。
おれは金属傘の軸の先にあるボタンを押して、岩の上に放置した。
かすかなモーター音をあげて、太さ一ミリのチタン合金の骨格が、ゴムみたいな箔を広げつつせり出してくる。
二秒とかからずおれの眼の前に現れたのは、寸の詰まったブーメラン型の潜水艇だった。
人間ひとりが腹這いになれる操縦席は全長二メートル。幅は五〇センチ。翼長は五メートルに達する。
操縦席先端のスペースに、バッグから取り出したコントロール・ボックスをセットし、船体下部に、二基の大型懐中電灯大の推進ノズルをつける。
海水をノズル前部の吸水孔から吸い込み、高圧プレッシャーで圧縮してから、一気にノズルから噴き出すのが、この潜水艇「マーシャン」の推進原理だ。
武装は、これもバッグから取り出した、直径一五センチの円筒発射管に詰まった五〇発のミニ・ミサイル。直径一センチ、長さ二○センチとペンシル並みだが、大型の鮫など一発で二つにできる。「アマゾン事件(エイリアン魔獣境I・II参照)」のときの折りたたみ式の潜水艦に搭載したミサイルを、より小型、強力にしたものと思えばいい。
おれは、手早く、潜水艇の船殻――すなわち箔と同じ素材のウエット・スーツに身を固めた。
スーツといっても厚さは○・一ミリしかないから、第二の皮膚という方が正しい。
軽く身体を動かして、肌に馴れさせ、フィンをつけると、おれは素早く艇を海中へ投じた。
重さは三キロもない。
フィンとアクア・グラスをつけてその上に乗り、腹這いになる。後は呼吸装置だが、それは錠剤の固型酸素と、太さ一〇センチ、長さ五センチほどの円筒に吸い口をつけた呼吸フィルターをつければ足りる。
五層のフィルターが水中の酸素を分解し、十分な量を肺へ送り込んでくれるのだ。
つまり、今回は水があるからこそ成立する調査行のわけで、まことに理に適ったものと言えるだろう。
例のチタン合金ナイフと同じものをふくらはぎに巻き、おれは「マーシャン」に跨った。
これも折りたたみ式のハンドルを片手で握り、もう一方の手で、ノズル作動スイッチを押す。
艇全体がかすかに震動すると同時に、表面の箔が微妙にかすみはじめた。
ハンドルを前傾させると、翼も前方へ傾き、おれはゆっくりと水が全身を浸すのを感じた。
視界はたちまち半透明の世界と化した。
岩場の傾斜に従って沈んでいく。
「マーシャン」の位置は、艇自体のコンピューターと、地上三万六千キロの静止軌道に浮いているITHA専用の航海衛星「ボイジ」が休みなく看視してくれる。
これは超高感度の三次元レーダーとセンサー・カメラを取りつけた豪華版最新衛星で、ITHAに年間五千万ドル以上の寄附をし、なおかつトレジャー・ハンターとしての功績が群を抜いているものでなければ利用できないため、この権利を持つのは、おれを含めて世界に十人といない。
おれは谷川氏の話の中にあった、あの[#「あの」に傍点]海岸から沖合七カイリの地点めざして、フル・スピードで前進していった。
全身の皮膚を疾走感が滑っていく。
正確には皮膚の上の擬似皮膚上を。
もしも、眼のいい魚がいたら、「マーシャン」の艇殻全体と、おれの服の表面が、微妙に形を変えているのに気づいたことだろう。
艇は、流体力学的に見て、最も理想的な形に変化しつつ疾走していくのだ。
艇殻は金属でもゴムでもない。一種の有機皮膜――つまり、生きている皮膚に等しい。その細胞は、あらゆる水の流れに反応して、それが最も流れ易い形状をとる。そのとき、艇の速度は驚くなかれ、水中で六○ノット(毎時一一一キロ)に達するのだ。
ちなみにロサンゼルス級原子力潜水艦が三○ノットである。追いかけっこしても、絶対捕まらないというわけだ。
目的地までは、十分もかからず到着した。
と言っても、ここに沈んでいるかどうかは谷川老人の推測でしかない。
おれは、青い澄んだ水の中から、下方に広がる黒い光景を眺めた。
峨々《がが》たる岩肌が、波打ちながらあるいは高く、あるいは低く、遥か彼方の灰色に溶けている。
水深三○メートルはあるだろう。
どうにも水中は苦手だ。
しかも、おれの真下には、幅一〇メートルは優にある亀裂が海岸線と平行に、黒々とつづいているのだ。
ここ[#「ここ」に傍点]こそ地獄の入り口かもしれない。
だが、ためらってもいられず、おれは勢いよく海水を噴出させて、黒い闇の原へ下降していった。
じき、海底に着いた。
見渡すかぎり岩肌で、海草一本、魚一匹見当たらない。
まるでこの一帯に毒素が発生しているかのようだが、腕のフィルターには反応ゼロだ。
構わず前進した。
このほぼ真西に例の海岸があるはずだ。
おれはノズルを停止し、アクティブ聴音器《ソナー》のスイッチを入れた。
沈没船は音をたてないから、ひたすら聴き耳をたてるだけのパッシブ・ソナーは使えない。こちらから音波を発し、その反射音から物体までの距離を探知するアクティブ・ソナーの出番だった。
おれはゆっくりと船体を三六〇度回転させ、反応を待った。屹立する岩がないからやりやすい。
あった。
現在地点から南南西――約二キロ。
かなり大きい。
口元に笑みが浮かぶのを止められない。
全速で急行する。
「マーシャン」も歓喜にわなないているようだ。
見えた。
薄闇の中に、白っぽい船体みたいなものが。
近づくにつれて、確かに船だということがわかった。
と言っても、客船とか大型貨物船とかいう御大層なもんじゃない。
三〇〇トン級の小型貨物船だ。
船体は赤錆だらけ、帆柱はへし折れ、煙突もひん曲がっているが、船体はほぼ原形を保っている。
無惨、という印象はない。
だが、薄暗い幽明のただ中に、それだけ盛り上がる黒い影は、何とも不自然で不気味なものをおれに感じさせた。
脅えるな、と自分に言い聞かせて進む。
船はほぼ海底に鎮座している。
船名は『飛翔丸』。
空を飛ぶようにはいかなかったわけだ。
これに樺山老人が乗っていたのだろうか。
船の名前もわからんのだから、確かめようがない。要は積み荷が宝か否か、である。
金や宝石ならともかく、麻薬か何かだったらおしまいだ。
おれは巧みに「マーシャン」を操り、船の甲板上に降りた。
死人でもひっかかっているんじゃないかと少し気味悪かったが、そんなこともなかった。
幸い船内への昇降口が開いている。
おれは棚ぼただとホクホクしながら、「マーシャン」を離れた。念のため、船体についたワイヤーを引っ張り、船のマストにつないでおく。
ナイフを確かめ、ロケット・ランチャーをはずして小脇に抱え、いざ、船内へ。
おれはベルトにつけたライトを点火した。
船内は異様にきれいだった。
海草一本ついていないのだ。
廊下を渡り、さらに下――船倉へ向かう。左右のドアから、白骨か水ぶくれの死体が現れてきそうだ。考えただけで逃げ出したくなる。海には弱いのだ。
ここの昇降口は半開きだった。ナイフで押し開け、木の踏み板を掴みながら下降していく。
あった。
木箱の山だ。ざっと七、八○はある。
興奮が眼の前を赤く染めた。思い切り、木の段を蹴って沈む。
ぬう、と背中に硬いものが触れた。
うるせ。
手を廻すと壺みたいなものが触れた。
ひっ掴んで見ると頭骸骨だった。
何処かに引っかかっていたのが、おれの起こした水流で落っこちてきたのだろう。
えーい、いいとこ邪魔しやがって。
おれは背中の白骨をふるい落とし、頭骨を放り投げて、木箱の山へ向かった。
チタン・ナイフをふるってこじ開ける。
あっさり開いた。
おれは眼を見張った。
無数の延べ棒が口いっぱいに詰め込んである。顔がほの白く光った。
この輝きは――白金《プラチナ》だ。
やった――この箱全部がそうなら、四、五千億円は下るまい。
この地点を確かめ、すぐITHAの運搬課へ連絡しなくては。
プラチナを一本だけ掴んで腰の強化ビニール袋へ入れ、おれは身を翻した。
その途端、いきなり目の前の光景が反転した。
水が脈動し、船が横転したのだと悟った刹那、頭上からプラチナの詰まった木箱がのしかかってきた。
いくら水中とはいえ、百キロ近い塊が十個以上も重なってきてはたまらない。
肋骨に嫌な痛みが走った。
口からフィルターが飛び出しかかるのを夢中で押し戻す。
がぼりと肺から空気が溢れた。
驚愕と戦慄が背中を貫く。
船が動いている。
引きずられているのだ!!
樺山老人と付き添いのように!
おれは渾身の力をふりしぼって腹と胸上の木箱をふるい落とし、跳ね起きた。
左の肋骨がきしんだが、気になどしてられない。
必死に水をかき分け、昇降口を上る。
蓋が閉まっていた!
どこのどいつが、一体!!
夢中で押した。
あっさり開いた。自然に落ちかかったのだろうか。
水が揺れた。船は疾走していた。
おれの感覚が確かなら、亀裂の方角へ!
衝撃がつづけざまに身体を通り抜け、おれは夢中でミサイル・ランチャーを天井に向けた。
「マーシャン」を傷つけないように狙いを定め――といっても勘だが――発射レバーを引く。
一〇ミリ・ペンシル・ミサイルは細い炎を噴いて飛び出し、天井に火の花を咲かせた。
それが収まらないうちに夢中で水を切り、破壊孔を抜けた。我ながら恐ろしい早さだった。
おれの腕ばかりじゃない。「マーシャン」と同じ材質のウエット・スーツのおかげだ。
プールなら百メートル自由型十一秒は固い。
降り注ぐ破片を手で撥ね除けつつ外へ。
吐きそうになった。
甲板中を白い、太い蛇が蠢いていた。
いや、触手だ。
こいつが船を引っ張っているのだ。
身体がぐいと船尾の方へ引かれ、必死で穴の縁にしがみつく。
「マーシャン」も船体とほぼ平行に流れている。
おれは誰ともわからぬものに感謝した。
「マーシャン」にも、つないだワイヤーにも、一本の触手も絡みついていない。
だが、このままでは、穴から出た途端、吹き飛ばされてしまう。
四方は轟々と水のどよめく灰色の世界だ。そして、おれの感覚は、もう亀裂が近いと告げている。
一か八かだった。
おれは息を止め、タイミングを測り――一気に跳んだ。
ぐっと後退し、すぐスピードは落ちる。
目の前にワイヤーが来た。
思いきり足を動かし、手を伸ばす。
あと五ミリ。
行ってしまう。
だが――左の人差し指の第一関節がかかった。
そのひっかかりへ、おれは全身の力と精神力を集中した。
たちまち身体が後方へ撥ね飛ばされ、指の曲がり角に凄まじい痛みが走る。スーツが手袋も兼ねていなかったら、引きちぎられていただろう。
おれは唇を噛んで激痛に耐えつつ、右手を伸ばしてしっかりとワイヤーを掴んだ。
安堵が湧く。
両手を滑らせながら、夢中で「マーシャン」へたぐり寄っていく。右手のミサイル・ランチャーが邪魔だ。
そのとき、足がぐいと下方へ引かれた。
忘れていた。あの触手だ。
船を暗黒の裂け目へ引きずり込もうという悪魔の手が、おれの足を掴んだのだ。
おれは右手を脛へ走らせ、チタン・ナイフを抜いた。
足首へ向かって振る。
軽い手応えが伝わり、足は自由になった。
タコの足を斬るよりたやすい。
第二、第三の触手がこないうちに、おれは必死で「マーシャン」によじ登った。
船体下部にランチャーをはめ込み、スターター・スイッチを押すと同時に、ワイヤーをはずす。
たちまち「マーシャン」は船から離れ、次の瞬間、猛烈な勢いで反対側へ疾走しはじめた。急上昇に移りながら、下方を見て、おれは青ざめた。
亀裂は二〇メートルと離れていないところに横たわり、いま、その縁から、「飛翔丸」は黒い奈落めがけて、ゆっくりと舞い降りていくところだった。
ある考えがおれの頭をかすめた。
ひょっとしたら、「飛翔丸」は、わざとあそこに置いてあったのではなかろうか。
おれを罠にかけるために。
そうでなければ、ああも都合よく、すべての扉が開いていた理由が掴めない。
それに、あのプラチナの木箱。沈没したというのに、一個の乱れもなく積まれていたではないか。
あの触手の主にそんなことができるはずがない――とは思えなかった。
人を罠にかけるような高度の知能を持つものが手先は器用でないと、誰が言えるだろう。
だが、と別の疑問が湧く。
おれが今日、あの船を探しに来ると、どうしてわかったのだ。
だが、海中での恐怖は、まだ終わっていなかった。
おれは見た。
あの底知れぬ深い亀裂から、無数の触手が煙のように立ち昇り、一斉におれめがけて押し寄せてきたのだ。
総毛立った。
だから海は嫌いなのだ。
頭上に輝きが増し、次の瞬間、おれは水の膜を突き破って海上へ躍り出していた。
「マーシャン」の外殻が風圧に合わせて変化し、二○メートル近くを滑空して、水面に落下する。
軽い衝撃。
同時にノズルの吸収孔が海水を吸い込み、岩をも貫く勢いで噴射する。
また跳んだ。
彼方の陸まで、それこそ巨大な※[#「えい」、第3水準1-94-50]かブーメランのごとく跳ね飛び進む。
おれは振り向いた。
触手は追ってこない。
胸の中が急速に軽くなった。だが、足の裏だけはむず痒さが消えない。海はおれの敵だ。
おれは前方に眼を移した。
全身が総毛立った。
海は巨大な触手を生んでいた。
おれの足に巻きついたものなど、ちょび髭だった。
太さ三メートル、いや、五メートルはある。
それが、三本、釈迦の指のように行く手を塞いでいるのだ!
海の中にいるのは何者なんだ!?
おれは左へハンドルを切った。
風が頬を叩き、「マーシャン」の皮膚細胞が風向に応じて変化する。
前方の水面が盛り上がった。ぎょっ。
その頂が花弁のように裂け、恐るべき肉の柱が空中へ躍り出た。
よく見ると、白ではなくエンジに近い色であった。切断したところは見なかったが、内側に走る薄青い線は血管だろう。こんな巨大なものを自在に動かすには、血の道もよほど太くないと追っつかない――
なんてことを考えてる場合じゃなかった。この分じゃ何匹海底にいるのかわからない。
――いや、ひょっとしたら……おれはまたまた身の毛がよだった。
こいつは、ただの一匹かもしれないのだ!
だとしたら、どんな大きさになる?
全長十キロぐらいじゃ足りやしまい。百キロ? いや、千キロ?
そんな化け物が三陸沖にいるのか?
途方もない想像がおれの脳を直撃した。ハンドルを持つ手が震える。
何も三陸沖とは限らない。
太平洋のど真ん中だっていいわけだ。そうなのだ。触手さえ届けば、それ[#「それ」に傍点]は海溝から沈没船を引っ張り出し、河口から何キロも遡って、通りを歩いてる通行人をひっさらう。それに何の意味があるのかはわからない。
だが、もし、論理的な行動だったとすれば、人間にとってこれほどの脅威はあるまい。
人は忘れている。
自分たちが確固たる不動のものと疑わぬ大地が、大陸が、世界が、実は巨大な孤島にしかすぎないことを。
その周囲には、未だ人知の及ばぬ、海という名の大ジャングルが取り囲んでいることを。
これも世界が理解すべき、恐怖の図式ではなかろうか。
陸をひとつの部落とみよう。
いちばんでかいのがユーラシア大陸だ。
その近所におびただしい小村があって、中に日本という、まあ、程度の高いか低いかよくわからない村がひとつある。
ここへ行くには、日本海という小さなジャングルを通らねばならない。
逆に、日本から遥か彼方のもうひとつの大部落・北アメリカ大陸や南米へ行くには、日本海などくらべものにならない大ジャングル――太平洋が横たわっている。
このジャングルの気候は変わりやすく、猛烈な突風や大洪水が吹き荒れ、古来、何万人という旅人が行方知れずとなった。
ところが、時がたつうちに、人は安全な道――航路と、乗り物――船とを造り、やがて、飛行機という、ジャングルを渡らずともすむ交通手段を編み出したのである。
幸いなことに、このジャングルに棲む野獣は、滅多なことでは、人間の通路に姿は現さないし、乗り物に乗っている限り襲うこともできない。
人間もそれをわきまえ、最初はジャングルの奥へは入らないようにしていたが、そのうち、中へ入り込むようになってきた。言うまでもない。アクアラングや潜水艇を使ってだ。ここで、はじめて、猛獣たちとの本格的遭遇が開始され、幾多の小競り合いが行われた。
彼らの種類が多種多様にわかれていることが判明したのもそのおかげだ。
だが、人間は真の闇を知らない。
彼らはジャングルすべてを文明の光にさらしたわけではない。
一、二度、彼ら自身が最深部だと考える場所へ達したことはあったが、それが本当にそうなのか、実のところはわからない。
ジャングルの九九パーセントは今なお未踏の地であり、そこに潜む猛獣や平凡な生物のすべては、人類にとって永劫に未知のまま残るだろう。
人は、それを知らない。
安全な路を安全な乗り物で往来し、急ぐときは隣の部落まで数時間ですむ交通手段に頼るうちに、いつしか、ジャングルを脅威とは思わなくなった。
猛獣は決して乗り物や部落の内側[#「部落の内側」に傍点]へは侵入して来ないからだ。
本当にそうだろうか。
ひょっとして、本当の、真の意味での猛獣が、暗黒の密林の奥で、牙を研いでいるとしたら。
その猛獣が知能を持っていたとしたら。
ジャングルの隅々まで伸びる手足を有していたとしたら。
人間の棲む部落への侵略――その機会を、虎視眈眈と狙っているとしたら?
その正体を人間は知らないとしたら?
陽光が翳った。
頭上から、触手が雪崩れかかってくる。
おれは思い切ってハンドルを前傾させた。
水中へ突っ込む。
一気に一〇メートル。
頭上から凄まじい衝撃がやってきた。
構わず潜る。心臓が喉のあたりに来ている。
ぬおお、と前方の海中から白い塊が現れた。
これじゃ埒があかない。
迫り来る触手めがけて、おれは渾身の力でランチャーの発射ボタンを押した。
「マーシャン」の先端から炎と水泡が噴き上げ、触手に吸い込まれる。
やった! と思う間もなく、渦巻く水泡《みなわ》と肉片と炎が全身を包み、スッポ抜けた。
急上昇。
水片を撒き散らして宙へ!
振り向いた。
水が爆発した。
その間からぶっちぎられた丸太のような白い手が!
しつこいったらありゃしねえ!
次の瞬間、おれは眼を瞠《みは》った。
飛びだした触手が、ひょいと引っ込んだのだ。
眼にも止まらぬ早さとはこのことだ。
ある予感が働き、おれは振り向いた。
遠くに白い船影が見えた。
やっとわかった。
巡視艇だった。奴は、見られることを恐れたのだ。
しかし、おれもまずい。
よく考えれば、海上保安庁の上層部へ働きかければすむことなのだが、やっとこ触手から逃げられた安堵感で、そこまでは頭が働かなかった。
それに、陸も近い。
岩場の端が、百メートルほど前方に見えている。
おれは潜水に移った。
水が眼前に広がり、世界はコバルト色に変わる。
その向こうに、横たわる白い蛇。
全身の毛穴から生命が吹き出て行った。
奴は下で待っていたのだ。
ぐにゃりとうねった。
笑う唇に似ていた。
これを無事に切り抜けたら、おれの髪は真っ白になっているのではないか。
奇妙な平穏がおれを満たした。
いかん、絶望の生む安定だ。
神経にGO! を命じ、最高速で陸へ突っ走る。
眼は触手から離れない。
くそ、蜿蜒《えんえん》とつづいてやがる。
陸まであと五〇メートル。眼の下に、岩の列が見えてきた。
しめた。
――と思ったとき、触手が大きくしなった。巨大なうねりが「マーシャン」を下から襲う。
こいつは皮膚細胞の手にも余った。たまらず横転してしまう。
だが、奴はまだ、「マーシャン」の力を見くびっていた。
ひっくり返りながら、おれは四方を観察していた。
どう見ても触手はそれ一本しかない!
なら、もう一度、吹っ飛ばしてやる。
八頭の血を舐めるな!
普通の人間や同型の船なら苦もなく翻弄されただろう水流の中で、「マーシャン」は体勢を立て直していた。
ミサイルに四散したピンクの切り口を見せて蛇のごとく迫る触手へ、再び乱れ飛ぶペンシル・ロケット!
青い世界を紅蓮に染める炎の中から、奴[#「奴」に傍点]が追ってこないうちに、おれは思い切りハンドルを切った。
見る見る岩礁が迫ってくる。
その岩と岩との間へ「マーシャン」は突っ込んだ。
胃の中身が吹っ飛びそうな衝撃に耐え、おれは「マーシャン」の上に立ち上がった。
すぐ陽光を浴びた。
腰まで漬かっている。
念のため、脛のケースからチタン・ナイフを抜いて呼吸フィルターをはずし、岩礁へ跳び上がる。身体の重いこと。彼方に岩壁と、夫婦連れらしい男女の影が見えた。男の着るグリーンのシャツが何故か眼に灼きついた。
後をも見ずに――とはいかなかった。
海中を覗いた。
硬直しそうになった。
青い水の下を、ゆっくりと、白い塊が「マーシャン」へ近づいていくではないか。
まだ、あきらめていないのだ。
おれは走り出した。
水を蹴立てて逃げた。
笑わば笑え。生命あっての物種というのは常に正しいのだ。
いつの間にか水が消え、フィンの裏だけでばしゃばしゃ鳴っているのに気づいたとき、おれは岩壁のすぐ下まで来ていた。
眼の前に階段があった。
「どうしました?」
左右から男女の声が呼んだ。
あの夫婦連れだろう。
それにしちゃ、心配してるというより、面白がってる風だ。――こう思う余裕が、すでに甦っていた。
ただ、声の主を判別するまでには到っていなかったようだが。
「旅館の方へ招待状を廻しておいたのだが、お手元に届きましたかな?」
おれの眼の前で、小早川氏が屈託のない笑みを浮かべていた。
「残念ながら、まだですね」
とおれは海の方を見ながら答えた。
疲れた声である。それでも、こちらは心底心配そうな夫人に黙礼するくらいの礼儀は心得ていた。
岩礁に白波が砕けている。
追っ手はかからなかったようだ。巡視船も見えた。
「君も遺体捜索ですかな?」
小早川氏が訊いた。
どうせ、真面目な質問じゃない。おれも、ええ[#「ええ」に傍点]と答えた。
「それじゃ、ま」
と階段の方へ行きかけるのを、
「待ちたまえ。――夕食の招待は受けてもらえるだろうね」
小早川氏の声が止めた。
「残念ですが、溺れかかりましてね。今夜は徹夜で寝ます」
「あの――」
と夫人が切羽詰まったような声で、
「ゆきさんもいらっしゃるんですが」
「は?」
「もう来ておられる」
と小早川氏がつづけた。
「ついさっき、家へ見えられてね。ダイニングでワインをたっぷりやっておられる」
あの馬鹿娘――とうとう食いものにつられるようになったか。
「ですから、八頭さんも是非――ね?」
夫人が執拗に勧めた。
どうやら、この女性だけはまともらしい。それが、こうもしつこく勧めるのは、ゆきのそばにいろという謎か。
「わかりました」
とおれはうなずいた。
「御招待は受けます。ですが、少し流されてしまいましてね。別の場所に置いてある荷物を取りに行かなくちゃなりません」
「なら、そこまでお送りしよう。どうだね?」
そういや、道路の上に黒いリムジンが止めてあったな。こりゃ助かる。
「お願いします」
おれは威勢よく頭を下げた。
潜水地点からバッグを引き上げ、着換えてから旅館へ戻ると、空は青色を濃くしていた。
午後四時すぎ。
長いこと潜っていたもんだ。
小早川夫婦とは再会を約して別れ、部屋へ戻ると、リマはベランダの籐椅子に腰をかけていた。
ゆったりとした呼吸音は眠っているらしい。
おれは足音を忍ばせて近づいた。
横を向いたリマの表情を見て、おれは眉をひそめた。
ひと目でわかる疲れと慄きと、そして安堵の相がこびりついている。
ほんのさっきまで、リマの心中では、この三つの感情が争闘を繰り返していたのだ。
一体全体、何が起こったのだ。
たっぷりとした白いブラウスの前ボタンは腹の上まではずされ、隙間から浅黒い野性の肌と、生唾を飲む豊かな膨らみが覗いた。
こういうのを見ると、疲れも吹っ飛ぶ。
あの触手の悪夢など糞食らえで、おれは早速、リマの胸に手を滑り込ませた。
素晴らしい弾力が伝わってくる。
乳首をつまむと、リマは、あっとつぶやき両眼を見開いた。
声も上げさせずに唇を重ねる。
リマも応じてきた。
しかし、いい相手を見つけてやるだのなんだの言いながら、こういうことしてていいのかね。
おれは悪党だ。
あー、そうとも。
リマは両手でおれの首をかき抱いた。
「大――ああ、大、無事だったか」
「もちろんさ。おれには神様が二人もついてる。月百万で雇ってあるんだ」
リマは唇を離し、何とも言えぬ眼つきでおれを眺めた。
「嫌な夢を見た。大が海の中で、大きな蛇に追いかけられていた。私の家の外にいたのと似た奴だ。でも、ずっと大きい」
おれは一瞬、唖然となり、すぐ納得した。
リマくらい感覚が研ぎ澄まされていれば、精神感応《テレパシー》ぐらい使えてもおかしくはない。
おれへの思い込みが激しい分、おれの危険な光景を、おれが出す思考波の形でキャッチしたのだろう。
「具合はどうだ?」
おれは我ながらやさしい声で訊いた。
「もう大丈夫。よく寝たから」
そう言って、起き上がろうとし、リマは両手を肘かけから滑らせてしまった。
「まだいかん。休んでろ」
おれは強く言った。
「実は夜、小早川家での夕食に招待されてる。ゆきの阿呆はもう行っちまったらしい。おれもじき出かける」
「私も行く」
「いかん。おまえはどうみても具合が悪い。ここを離れるまでおとなしくしてろ」
「いつ離れるのだ?」
「わからねえ。あの地下の部屋をもう一度調査してからだな」
「地下の部屋?」
「そうか、まだ話してなかったな」
おれはベランダに腰を下ろし、手短に今日の事件を物語った。
リマは何も言わずに耳を傾けていた。
「というわけだ。――疲れた。風呂へ入る」
「外のへ行くか?」
「いや、内風呂でいい」
おれは部屋の奥にある浴室に入り、服を脱いだ。
湯舟には二四時間、熱い湯が満たされている。豊富な温泉のいいところだ。
熱い湯に首までつかっていると、疲れが抜けていく。
先刻の海中での恐怖は、とうの昔に記憶から去っていた。
おれはどんな恐ろしい目に遭っても、うなされたことはない。
喉元すぎれば熱さも忘れるというが、いちいち昔のことを気に病んでいたり、びくついてたりしたら、この商売は務まらない。
歌手でも俳優でもスポーツ選手でもそうだが、過去を悔いたりする奴に、大成したり大物になったりするのは絶対にいないということだ。
おれの経験から言ってもそうだ。
半年ほど前、ひとりで出かけたアメリカで、女優のブルック某《なにがし》と仲良くなったが、こいつは凄かった。
朝の四時から一八時間、ぶっつづけで撮影をこなし、おれと三時間飲みつづけに飲んでベッド・インしたのだが、あの途中にトイレへ駆け込み、ゲーゲー吐いてくる。
それから熱戦。
それからまた吐く。
それから――
と言うわけで、ひと晩三回が最低、そして、全く同じペースで仕事と一杯をこなし、これを五日つづけた。
おれだって、二度とアルコールの顔なんか見たくなくなる。
ブルックもそうだった。
おれの腕の中で喘ぎながら、吐き気は押し寄せる、頭は割れそうだ、もう二度とお酒なんか飲まない、と言いつづけながら、翌日はケロリとしてバーへ誘ってくる。
これだよ。
後悔するようじゃ、人間大きくなれっこないのだ。
おれはもう、白い湯気を見つめながら、次の手を考えていた。
そのとき、ガラス戸に人影が映った。
右手が桶の中に隠したショック・ガンに伸びる。
入ってきたのはリマだった。
ゆきとちがって、タオルで前を隠したりしない。
大胆極まりない娘だ。
その裸身の美しさに息を呑むのは毎度のことだが、さっさと狭い湯舟へ入り込んで、眼の前に迫られると、それどころじゃなくなってくる。
「大……」
とリマは呻くように言った。
熱い唇が眼の前でわなないている。米粒のような白い歯の間に赤い舌が見えた。
「何だ、急に?」
「行くな」
「おまえ、この頃、年取って来たんじゃないのか? 心配症になんのはまだ早いぞ」
「よくわからないけれど、大にはすごい危険が迫ってる。私にはわかる。早くこの土地から離れよう」
「そうはいかねえの。まだ、金儲けの材料が残ってるんだ。まず、それを確かめないとな」
いきなり、リマはおれの両腿の間に身を割り込ませてきた。
「おい……」
リマが腰を動かし、おれたちは二人揃って呻いた。
お湯が木の枠に当たってぴしゃぴしゃと鳴った。
「海の中に……何かいる……とても危険な、恐ろしいものだ……それが、大……おまえを狙っている」
「ほう……そうかい……」
言いながら、おれも下半身を微妙に動かしはじめた。リマがのけぞった。のけぞりながら、両手で湯舟の縁を掴み、大きく身をくねらせる。
乳房がぶるんと揺れた。
「そいつは……おまえが本当の敵だと、気がついた……そいつは、陸のことを何でも知りたがってる……随分と知識を手に入れて……いつか地上へ出てこようと……」
「おい」
とおれはリマの乳房に両手をあてて言った。
「そんなこと、どうしておまえにわかる? あいつと――」
言いかけて、おれは茫然となった。
ひょっとしたら――
ひょっとしたら、あいつに情報を流していたのは、リマだったのではないか。
思い込んだら一途のリマは、おれの精神波《サイキック・ウエーブ》を読み取る能力を備えていた。
それを逆に、海の怪生物に読まれているのだとしたら?
もともとリマは荒海を生き延びてきた人間だ。その方面での精神能力は、おれでさえ足元にも及ばない。
この土地に来て、何故か知らんがここにちょっかいを出していた怪生物と精神感応してしまったとしてもおかしくはない。
生物はリマに働きかけ、その能力にさらに磨きをかけた。
恐らく、リマを通じて、陸地の情報を仕入れるつもりだったのかもしれない。
ところが、リマは、最も入れこんでる愛しい美青年――すなわちおれと精神感応していた。
ある意味で、それは奴にとって大助かりだった。
何故かは知らんが、奴がやろうとしていることに、おれは邪魔なのだ。
そうとも。おれが沈没船に興味を持ったのも奴はちゃんと知ってる。樺山の爺さんと会ったとき、リマも後ろにいたのだ。
ひょっとしたら、樺山の爺さんも?
西華園へ行くとは話さなかったが、頭の中のことをリマが読み取れるとすれば、奴が爺さんをひっさらったのもうなずける。
危《やば》いぞ、これは。
身内にスパイを飼っているようなもんだ。
しかも、このスパイは自覚がないときてる。
とすれば、取る手はひとつ。
おれは、リマの腰を強く抱き、思い切り引きつけた。
「ああっ」
と叫ぶのを唇で吸い取り、強引に――
「大――逃げろ。ここにいては駄目……早く……逃げて……ああっ……ああ」
熱い湯の中に、もっと激しく熱した声を流して、リマは失神した。
おれは素早く、重い身体を抱き上げ、タオルにくるんで居間へ運んだ。
寝巻きをつけさせ、スーツケースの中から、睡眠薬のカプセルと無痛注射器を取り出し、薬をたっぷりと吸い込んだ注射器をリマの二の腕にあてた。
ITHA装備課発明の睡眠薬は、市販されている品の百分の一の副作用で、十倍の効力がある。
リマはすぐ安らかな寝息をたてはじめた。
計算では、丸一日は眠りつづけるはずだ。
念のため、栄養剤も注射し、万全の態勢を計る。これでリマの思考波は読めまい。
おれは部屋の真ん中に戻って、これまでの収穫を広げてみた。
三つある。
あの海岸の苔みたいなものと、地下室の土、プラス正体不明の古文書だ。
これを分析・解読する装置は手もとにない。東京のマンションにあるコンピューターにインプットしなくちゃなるまい。
三つの収穫を保管用の金属ケースに詰め、バッグを片手に帳場へ行くと、最寄りの自衛隊基地へ電話をかけた。極秘のコードナンバーを告げると無条件で司令官につないでくれる。
おれは荷物の輸送を依頼した。すぐOKが出た。ヘリで取りに来てくれた上、ジェット機を使って東京まで届けてくれると言う。金の力は恐ろしい。今日の九時過ぎには到着するだろう。
ケースを帳場に預け、食事はパスしますと告げていると、ロビーの方から勘太郎がやって来た。
「なあ、兄貴ィ」
と手にしたノートを差し出す。
「なんだ、こりゃ? それから、おれを兄貴と呼ぶな」
「わかんねえんだよ。先生、何処《どっか》へ行っちゃったし、帰ってくるまでにこれ解いとかねえと、怒られちゃうんだ」
算数の方程式だった。
「いかん。こういうものは自分で考えろ。人に頼ろうなんて根性が気に入らねえ」
「でも、わかんないから」
「だーめ」
断固首を振ると、勘太郎は柄にもなく首を垂れ、深いため息をついた。
「おれって、やっぱり、勉強にむかねえんだよなあ」
「どれ」
とおれはノートを引ったくった。
「いいか、ここが、こうなる。そこんところへ四を代入するんだ。するとサインがコサインに変わってだな……」
「やったあ!」
勘太郎が跳び上がった。最後まで聞かずにわかるとは、頭は悪くないらしい。
しかし、ゆきにいいとこ見せるのが、よっぽど嬉しいのかね。おれは苦笑した。
「ま、しっかりやれよ」
とおれらしくもなく肩を叩いて行こうとすると、
「兄貴ィ〜〜〜、先生、やっぱ、帰っちゃうのかよ?」
と訊いてきた。
「まあ、な」
がくんと肩が落ちた。
「いて欲しいか?」
おれは静かに訊いてみた。
「うん」
「そうにこにこするなよ、番長。凄味が効かなくなるぜ。あいつはな――こんな静かな町は不向きな女なのさ」
「ふん」
と勘太郎はおれに鼻を鳴らした。
「そんなこと言って、先生をかっぱらおうって魂胆だな。見え透いてるよ。兄貴が先生と深い仲だろうが何だろうが、おれは男として絶対に奪い取ってみせるからな。そのつもりでいてくれ」
「おれと競争しようってえのか、この餓鬼」
コツンとやろうかと思ったが、周りは勘太郎とこの従業員だ。
「わかったよ。ただし、正々堂々とだぜ」
「もちろんよ」
番長、肩揺すって行っちまった。
学生さんは気楽でいいよな。
おれはため息をついて、玄関を出た。
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第五章 魔食
小早川邸へ着くと、夫人と召使いが出迎えてくれた。
相も変わらず心配そうな顔へ、マダム・キラーの微笑みを送り、おれは、
「お招きにあずかって恐縮です」
と言った。まともな人間をまず味方に引き入れることが、戦略の第一歩だ。
「そんな――ようこそおいで下さいました。どうぞ、こちらへ」
奥へ通される途中で、
「ゆきはどうしていますかね」
何気なく訊いてみた。
途端に夫人は顔を曇らせ、
「あの――来てからずっとお酒を召し上がっていらっしゃいますわ」
「酒?――あのお宅でつくったという?」
夫人はうなずいた。
どうも気にかかるうなずき方である。
ダイニング・ルームには、豪勢な料理が湯気をたてていた。
少し待っていると、小早川とゆきが別のドアから入ってきた。
ゆきはもうへべれけに近い。
相当きこしめしたか。
そんなに旨いワインなのだろうか。
「ようこそ――今日はまあ、ゆっくりやってくれたまえ」
小早川の声で、おれたちは食事にとりかかった。
「それ、弩《いしゆみ》ですか?」
おれは青銅の剣やら楯やらが飾ってある壁の一角を見ながら訊いた。
「ああ――古代と中世の武器だ。私の父の道楽でね」
「矢は二本――前は三本あったと思いますが」
「そうかね――特に注意しとらんのでな」
「そうよ、そうよ、いちいち覚えていられるもんでしゅ[#「しゅ」に傍点]か」
とゆきが異議を唱えた。くそ、この女虎め。
「しかし――こいつは変わった料理ですね」
とおれはフォークに刺した肉を見つめながら言った。
「海亀ですか」
「ほう――お判りか?」
「まあ、なんとか――ただ、こちらのクリーム煮はわからない」
「日本で口にするのは君と私たち夫婦ぐらいだね。――シギ・ウナギ。深度一二〇〇メートルに棲息する深海魚だよ。いけるだろ?」
「結構ですね。すると、この刺し身は?」
「そいつは私たちにもわからない」
「一体、どうやって運んでくるんです? 近所の魚屋にあるとも思えないけど」
「空輸してもらうのさ。少し遠いところからね」
小早川氏はにやりと笑い、
「それより、明日、うちの工場を見に来ないかね? 八頭くんには非常に興味深いところだと思うが」
「はあ」
とおれはとぼけながら、小早川氏の様子を窺った。
「天人事件」の飯田橋の夫婦みたいに、得体が知れない、といった感じはない。
ただの人間だ。
少し異常なところがあるが、それきりだ。あの触手を使いこなすなど不可能な芸当だ。
すると、どんな役割の持ち主か。弩の一件からして、あの石の実験室と関係あるのは間違いなさそうだ。そして、実験室の土は、あの海岸のものとよく似ている。イコール、触手と小早川氏はいい仲ってことになる。
食事が終わってワインが出た。
おれは手をつけなかった。
小早川氏は気にも止めなかったようだが、夫人は何処となくほっとした風情を示した。
「ゆきさんの話では、君はなかなか面白い職業についておられるそうだな」
グラスをあけながら小早川氏が言い、おれはじろりとゆきを睨《ね》めつけた。
ご当人は、そんなもの痛くも痒くもないわよといった感じで「巴里《パリ》祭」など口ずさんでいる。広沢虎造といい、レパートリーの広い女だ。
「宝探しとは驚いたよ」
と小早川氏はつづけた。
「若いときは私も冒険に胸震わせたものだが、この年になる大分前に、自分の限界に気づいた。現実を知ったとでもいうのかな。君は私の夢を現実にしているようだ。実に羨ましい」
「いやあ、それほどでも」
おれはわざとらしく謙遜してみせた。効果があったのか、小早川氏はにっこりして――
「普通のものには決して見せぬのだが、君のような興味深い若者には特例として我が家を見学してもらいたいと思うがどうかね?」
「それは――是非」
おれは本気でうなずいた。
「では、春代――案内して差し上げろ」
夫人がうなずき、おれたちは立ち上がった。
「小早川さんは来ないので?」
「私は、こちらのお嬢さんとお話ししていた方が愉しいのでね。心配いらん。女房は私以上に屋敷には詳しいよ」
なら、よかろう。
おれは夫人の後についてダイニング・ルームを出た。
「二階へ」
と小さな声で言った。
これも由緒ありそうな頑丈な木の階段を上って二階へ上がった。
「窓を開けてごらんなさい」
夫人が言った。
昇降口のところに窓がある。
卵を二つに切ったような形の枠に、ブルーの色ガラスがはめ込まれていた。
おれがきょとんとしてると、眼で促してきた。
何かある。
おれは素早く左右を見廻し、人の気配がないのを確かめてから、金色の小さな把っ手に手をかけた。鍵ははずれている。
軽く押したが開かない。
力を入れた。――同じ結果だった。
「古いんじゃないんです」
と夫人は思い詰めたような口調で言った。
「こちらへ」
奥へ通された。
廊下の左右にドアが並んでいる。
造りを自慢するのかと思ったが、そんなこともなく、夫人は三つ並んだ真ん中の部屋のドアを開けて脇に退いた。手だけを突っ込み、電源スイッチを入れる。ややオレンジがかった光が部屋を埋めた。
一礼して先に入る。
驚いた。
最初は物置かと思ったのだが、そんなこともあるまい。
外から見た感じでは、海に面した部屋だ。
何ひとつなかった。
殺風景な白っぽい空間に、窓だけが開いている。
夫人が何か言う前に近づき、鍵をはずして押し上げた。
拍子抜けするくらい、あっさり開いた。
下を見下ろし、おれはほう[#「ほう」に傍点]とつぶやいた。
垂直に切り立った家は、岩壁から生えているように見えた。
わずか数十センチ先は断崖の突端で、遥か下方の暗黒に波が砕けている。
距離は五〇メートルはあるだろう。
「何です、こりゃ?」
とおれは訊いてみた。
正直、何のためにこんなものを見せるのか、夫人の意図がよくわからなかった。
「この家の窓が幾つあるかご存知?」
夫人がすがるような眼つきで言った。
「いいえ」
「三四です。でも、開くのはこれひとつだけ」
おれの頭の中でのクエスチョン・マークがタップを踏みはじめた。
まだ、わからない。
「あの人は、恐ろしい人です」
夫人が俯き、こうつぶやいたおかげで、タップはライン・ダンスに変わった。
「――あなたをここへ案内したら、私が何を話すか、それを承知で二人きりにさせたんですわ。自分は、あのお嬢さんの相手をしながら、その内容を考え、私がどんなに苦しんでいるのか想像しながら、笑っているんです」
「一体、何のことです?」
おれは肩をすくめた。
「――いいんです」
夫人は突然、断ち切るように言った。
「忘れて下さい。今、話したことも、聞かなかったことにして。――でも、ひとつだけ……」
言いかけて黙った。
泣きそうな表情をしていた。
何百人もの女たちの、こんな表情を見てきたおれには、一発で、誰のためのものか想像がついた。
自分のためではない。それだけは確かだった。相当に激しい葛藤が、胸の裡で生じているはずだ。
それがどう出るか?
「奥さん――」
言いかけたとき、
「ワインの匂いです」
ひとこと言って、夫人は身を翻した。
追うこともせず、おれは殺風景な光の中で考え込んだ。
夫人は明らかに小早川氏を恐れている。
だが、ここで夫人がおれに見せようとし、小早川氏がそれを期待しているものとは、一体何だろう。
ひとつしか開かない窓か?
殺風景な部屋か?
それとも――ワインの匂い、あのひと言か?
これは、酒を分析する手だ。
となると厄介だ。今さらワインをくれと言ったら一発で勘づかれてしまう。
すぐに解決法がひらめいた。
一昨日《おとつい》、ここからゆきが持って帰ったワインの瓶、あれがまだ旅館にあるはずだ。始末されてなければ、少しは中身が残っているだろう。
分析器には一滴あれば足りる。
しかし、それと、この窓とどういう関係があるのか。
おれは首をひねりながら、下へ降りた。
客間の方へ向いた途端、背後で凄まじい質量が動いた。
軽く前方へ跳んで振り返る。
腹がいっぱいのせいで、やや動きが鈍い。右手はスラックスの内側へ指先だけが忍んでいる。
巨人の運転手――外杉だった。
何度見ても、馬場よりアンドレに見える。
「何か用かい?」
「いいえ。わたくしも、居間へ」
「さよか。案内《あない》せい」
「はいいいい」
客間へ戻ると、小早川氏の姿はなく、ゆきがソファでこっくりこっくり舟を漕いでいた。かたわらに夫人が付き添っている。
「あの、ご主人は?」
「はあ。外に――海を見ております」
「そうですか」
何か、おれの勘に触るものがあり、
「じゃ、ボクもお伴してみます」
と言った。
「ですが――」
「いえ。――おい、案内してくれよ」
と巨人に促す。
沈んだ空気に大穴を開けつつ、ベランダの方へ向かう。
おれは後をも見ずに外へ出た。
闇が世界を覆っている。
右手遥か奥に、無数の光点がきらめいている。「波濤温泉」の街だろう。
髪が吹き乱された。
さすがに風が強い。
一〇メートルほど前方に、照明灯が輝き、その下に佇む小早川氏の姿を浮き上がらせていた。
ニコチンの匂いが流れてきた。
煙草をふかしている。
前方の白い木の柵の向こうは断崖、その下があの海岸だ。
「こんな晩に海を見にくるとは殊勝な心掛けだね」
と小早川氏はおれの方を向いて笑った。
「変わりものでして」
「ここの海も少し変わっているよ」
と小早川氏は顔を闇の方へ向けた。
おれも潮騒を聴いた。
ジャングルが部落へ侵入しようとする雄叫びを。
「宝探しを職業とするなら、この海岸の由来について調べてみたかね?」
小早川氏が訊いた。
ほう、話は願ってもない方向に進んでいる。
一瞬考え、おれは正直にええ[#「ええ」に傍点]と言った。
「で――何か出てきたか?」
「残念でした」
「そうだろう――谷川のところではね。しかし、あるのだよ」
「なんですか、そりゃ?」
「それは自分で調べてみたまえ。君がこの辺鄙な田舎町へ来て、職業的欲望を満足させられるか否かは、そこにかかっているよ」
「はあ」
うなずきながら、おれは背中の圧力が徐々に殺気を発散しつつあるのに気づいていた。
外杉が馬鹿力で軽く突けば、おれなど真っ逆さまに崖の下だ。
「でもですね。谷川さんはこの地方の伝承説話の収集にかけては、日本でも比べる人がいない大家だとか」
おれは平静を装って言った。
「あの人が知らないことを、失礼ですが、小早川さんといえどご存知とは思えません。どのような形であろうと現代まで残るような事柄ならなおさらです」
殺気がポロシャツを通して侵入しはじめた。
どう対応する。振り向きざまの廻し蹴りか。
「至極もっともな意見だ」
と小早川氏はうなずいた。
「だが、似たような事例は他にもあるはずだよ。例えば、つい最近の事件でも、関係者以外の者には一切、なかったことにされてしまうようなものが」
おれは、背後の凶気も忘れ、おやっと思った。
こいつ、知ってやがるのか。
一九三三年のことである。
RKO興業のデナムという男が、ニューヨークの「マジソン・スクエア・ガーデン」を借り切って、インド洋の小島から生け捕ってきた何かを陳列したことがある。
ところが、その後の顛末がさっぱりわからない。
一般公開されたところまではわかっている。
ところが、それが何物で、その後どうなったのか、ニューヨークの市史にも、当時の新聞社や市議会、ラジオ放送局の記録にも、一切記されていないのだ。
それでも、何かしら大規模な騒ぎが起こったのは明らかだ。噂では、ニューヨーク名物の高架電車の一系統が大修理を受けたというし、エンパイア・ステート・ビルのてっぺんには、今なお飛行機搭載機銃の弾痕が数十個残っているそうだ。
何よりも、市内の食肉解体業者が、その年の冬は軒並み大黒字を記録したという事実がある。
毛皮業者の動きも華々しかったらしい。
それくらいだ。
それだけで、後は皆目わからない。
何ら信憑性のない噂だけを辿っていけば、警官が十名以上死んだとか、市民にそれ以上の死者が出たとか、複葉機が墜落したとか、動物の本が売れなくなったとか、それこそ色々あるが、実のところは、今に至るも明らかにされていない。
どうやら、ニューヨークのみならず、アメリカ政府の積極的介入と揉み消し工作があったらしい。
それと同じことが、この[#「この」に傍点]海岸にも?
おれは大いに職業意欲をそそられてしまった。
「もう、お帰りになったらどうかね?」
不意に小早川氏が提案した。
同時に、背中の殺気が跡形もなく消滅する。
おれも潮どきかと思った。
後は工場を覗いたときにでも、新しい事実を掴めるだろう。
動かぬ小早川氏に一礼して、おれは外杉の案内で客間へ戻った。
あきれたことに、まだワインを抱えて一杯やっているゆきに、帰るぞ、と伝える。
「やあよ。独りでどうぞ、あたし、帰らない。泊まってく」
「いい加減にしろ」
と喚きかけるところへ夫人が、
「ご安心なさい。酔いが醒めたら、私がお送りしますから」
ここでひと暴れしてもはじまらないな、とおれは判断した。それに、明日は工場へ招待されてもいるのだ。ゆきにおかしな真似はしないだろう。
そう思ったとき、ゆきはワインの瓶とグラスを抱えたまま、さっと部屋を飛び出していった。
帰るのが嫌さに逃げたらしい。
やれやれ、愛しの勘太郎クンがこれを見たら、何と言うだろう。
「じゃ、ひとつよろしく」
それだけ言って、おれは小早川邸を後にした。
ジープで例の海岸まで差しかかると、おれは何気なく下方を見下ろした。
あの不気味な海岸が広がっている。
そのほぼ中央で、何かが動いた。泥を撥ね除け、立ち上がったのは――人間だ!
おれは即座に探検行を決意した。
現金なことに、ゆきを置いてきて正解と思った。すぐ準備にかかる。
普通の服の下は戦闘服である。
ショック・ガンと一緒に、実弾を発射するCZ75自動拳銃《オートマチック》をショルダー・ホルスターへ収める。
小型の火炎放射器を左手にテープでくくりつけ、いくら振っても落ちないようにする。今回、もし戦いとなれば、CZ75に勝る働きをするだろうとの予感があった。
例によって手榴弾や焼夷弾をくくりつけたキャリー・ベルトを腰に巻き、十五連のスペア・マガジン三本を差し込んで車を降りた。
石段を下り、岩場を三メートルほど左へ行くと、すぐあの、ふやけたような土地が眼に入ってきた。人影はない。静まり返っている。波の音だけがやかましい。
眼鏡はもち、赤外線サングラス。
念のために、酸素分解フィルターまでくわえている。よくよく懲りたのだ。
それなのに降りるのは、トレジャー・ハンターの血だとしか言いようがない。
岩場の陰から、おれは無言で下の海岸へとび飛りた。
ズブリと足首まで沈んだ。予想はしてたから驚かない。むっとする熱気が噴き上げてきた。
フィルターを持ってきてよかった。
ある予感が湧いた。
泥の中から出て来た人間は、二日前、川の中で、三人の男を貪り食った奴と同じではないのか。
そいつも今回の事件に結びついているのは論を待たない。
ひっ捕まえて、水族館へでも売り飛ばしてくれる。
おれはショック・ガンの安全装置をはずした。
ぼこ、と左手で泥を撥ねる音。
振り向いた。
ぞっとする眺めだった。
月明かりとサングラスのせいで、奴の顔ははっきりと見えた。
泥に汚れた顔の下で、赤黒い光点が二つ、何とも言えない狂気と憎しみを湛えておれを見つめていた。
死人の顔に獣の眼だ。
にい、と唇が笑いの形に吊り上がり、牙のような歯列が剥き出しになった。
何者だ、こいつは?
声をかけても仕方がないのは、眼を見ればわかる。
おれは問答無用でショック・ガンを上げざま、ぶっ放した。
水飛沫が飛び散り、そいつは間一髪で泥の中へ沈んだ。
しかし、どうやってだ?
足首までしか入らないところへ!?
背後で、どぼ[#「どぼ」に傍点]。
おれは振り向かなかった。いちいちそんなことをしていては、埒があかない。
右手のみ、左の腋の下から覗かせて射った。
手応えはあった。
おれは振り向き、奴の顔がゆっくりと沈んでいくのを目撃した。
素早く歩き出す。地底の奈落へ行かれると物騒だからな。
おれは足を停めた。
慣れ親しんだ感覚が伝わってくる。
おれは足首を見た。
水だ。信じられないことだが、水位が上がっている。
排水孔を見たが、流れている様子もない。
手を突っ込むまでもなかった。下方から押し寄せてきている。
満ち潮か?
まさか、そんな急に。
おれは悟っていた。罠だ!
ぼこ、ぼこと四方を取り巻くようにして、顔が覗いた。
全員がゆっくりと立ち上がる。
身長は平均一・七メートル。体重は六七、八キロ――並の人間となら、百人来ても怖くはない。だが、こいつらは――
おれは奴らの腰から下を見つめていた。
両脚全体に小さな輝きがこびりついている。
鱗だった。
川の中の奴みたいに魚の尻尾こそ持っていないが、こいつら、やはり、同類だ。
奴らに動く暇も与えず、おれはショック・ガンを連射した。
月光に空薬莢がきらめく。
泥を撥ね飛ばして、奴らはのげぞった。
背後の奴らが押し寄せる足音!
おれは前方へ跳躍しながら、引き金を引いた。たちまち二人が倒れる。
だが、おれは眼を瞠らねばならなかった。
一秒と待たずに起き上がってきたのだ。
ヘビー級のKOパンチが効かない!
とっさにおれは理解した。
泥だ。この泥が、防弾チョッキの役を果たしているのだ。
「こん畜生」
おれは罵り、ショック・ガンをベルトに戻すや、CZ75を抜いた。まだ火炎放射器の出番ではない。
左右から二人が飛びかかってきた。
九ミリ・ルガー弾の銃声が轟いた。
我ながら惚れ惚れする早射ちに、奴らは泥の中へ叩き落とされた。
効いたか?
残念でした。たちまちすっく[#「すっく」に傍点]と――
もう最終手段だ。
おれは右手にくくりつけた火炎放射器のノズルに着火した。
「やめとけ――熱いぞ」
と輪を狭める奴らに言う。
聞こえるはずもなかった。
と、奴らはゆっくりと、おれから見て右側へ移動しはじめたのである。
逃げるのではない。円を描くのだ。
「何の真似だ?」
おれは質問した。我ながら阿呆な質問だった。
スピードが増してくる。
おれは水に漬かった腰から下が、同じ方向へ引っ張られるのを感じた。
わかった。――奴ら渦を起こしているのだ。
いきなり身体が沈んだ。
腰まで泥中に潜り、漏斗状の水の壁が眼の前で旋回していた。
直径五メートルほどの小渦巻きだが、奇怪な眺めだった。
巻き込まれてもフィルターがあるからいいが、海へでも引っ張り込まれたら? いや、海からあれ[#「あれ」に傍点]が上がってきたら?
恐怖が、おれの自制心を奪った。
夢中で火炎放射器の引き金を引く。
高圧酸素とポリスチレン濃化物、マグネシウム、ガソリンの混合油製剤が一条の炎と化して飛び、魚のように泳ぐひとりの頭に命中した。
渦巻く水と等しい速度で炎が広がっていく。
奴らに潜水する暇はなかった。
弾丸を防ぐ泥も火だけは手に負えなかったらしい。
人のものとは思えぬ絶叫を放ちつつ、水中へ没していく。
黒い水の中でも炎は巨大な螢のように輝いた。
マグネシウムが含まれているため、水中でも容易に消えないのだ。
おれは大急ぎで、陸地めざして走った。
小早川の野郎め、帰れと言い出したのは、このためだったのか。おれを邪魔者と判断したらしい。そうこなくちゃ、ファイトも湧かんぜ。岩場へ駆け上がったとき、おれはニンマリ笑った。
「波濤館」へ戻るとすぐ、おれは部屋から六本木のマンションへ電話をかけて、コンピューターを呼び出した。
「届いたものの分析結果を教えろ――どれでもいい」
「了解」
機械の声は、今のおれに、むしろ清々しくさえ聴こえた。
「資料A:一種の植物らしき海棲生物は、ある種の生体調整ないし強化成分と思われます」
「なんだ、そりゃ?」
「推測率六〇パーセントの回答。すなわち、特定の海棲生物が、資料Aを食し、或いは何らかの方法によって体内へ吸収することにより、地上でも生活可能となります」
「……もうひとつの土は何だ?」
「資料B:資料Aと同種の生物が付着した赤土ですが、これは構造的に資料Aとほぼ等しく、ただ、極めて原始的なため、Aと等しい効果は望めません。時間的にはほぼ三千年前のものです」
「……」
おれは理由もなく、イエイイエイと絶叫したい気分だった。
三千年前――日本の歴史が影も形も整えていない頃から、海よりの侵略は人知れず行われていたのである。
おれの想像通り、ジャングルの猛獣は、恐るべき高度な知性を有していたのだった。
おれは、それを知った。
おれしか知らないのか?
世界首脳に告げるべきだろうか?
おれは電話器に向かって言った。
「例の古文書――要約して伝えろ」
「了解」
機械の声には、わずかな脅えも含まれていなかった。羨ましい野郎だ。
「これは、実験レポートです、文字の種類は不明。現存する世界のいかなる文字とも一致点をみません。――七二パーセント以上、推測・仮定が含まれますが、要約は次の通りです。
三千年前、この地方一帯へ、大津波襲来。その後、数度にわたって起こり、資料Bと等しい物質を海岸線一帯に残しました。このレポートの作成者たちは、それを持ち帰り、神の指令によってつくった特殊な研究室と設備で実験を重ね、なんとか資料Aに近づこうと努力したのです。レポートに記されたその期間は推定三カ月。試行錯誤のために二人が死にました。死体は『再生房』へ廻され、彼らは生け贄の準備も整えねばなりませんでした。――以上です」
「ちょっと待て」
おれはあわてて言った。
「なんだ、その生け贄というのは?」
「文字通りの意味だと思われます。ただ、人間かそれ以外のものか、性別、年齢等については一切不明です。資料が足りません。記述は『生け贄が必要だ』一行のみ」
「了解」
とおれは疲れた声で言った。
「以上だ。ご苦労」
「了解。お休みなさい」
おれは電話を切った。
背中に大きなものが貼りついた気分だった。少し重すぎるな。
ベランダのリマを見つめた。
よく眠っている。
気どられんようにしないとな。
おれは足音を忍ばせて、ベランダへ出、リマと差し向かいの椅子に腰を下ろした。
材料を整埋してみないといけない。
古来より海中に棲むある種の生物が、地上侵略を計画したことから、すべてははじまったのだ。
そいつは、自分ないし、その眷《けん》族を地上へ送り込むため、その体構造を恐らくは分子段階から変化させるべく、変成剤ともいうべきものを、津波の形で陸上に固着させた。
しかし、最終目的を可能にする効果を上げるには、陸上の、人間の手によって変成剤を進歩させる必要があった。
それ[#「それ」に傍点]を奉じるものもいたのであろう。或いは、一種の精神感応力で強制したか、とにかく、それ[#「それ」に傍点]の下僕《しもべ》ともいうべき人間たちは、あの岩をくり抜いた実験室で、それ[#「それ」に傍点]の送る材料とノウハウとを駆使して変成剤の強化に努めたのである。
それが完成しなかったのは幸いと言うべきだろう。
原因はわからぬまま、実験室は放棄され、それ[#「それ」に傍点]はしばらくの間、人間に危機感を与えるような活動を封じられた。
それが近年、また永の眠りから醒めた。
ここからはおれの想像だが、新たな使徒が、現代の高度なテクノロジーを駆使して、それ[#「それ」に傍点]の希望する効果を上げるべく、活動を再開したに違いない。
言うまでもない。使徒とは小早川夫婦――いや、小早川氏とその一派だ。
変成剤の鍵は彼の工場にある。
大筋はこんなところだろう。
後はわからないことが幾つかある。
まず、生け贄の意味だ。
次が、夫人の見せた、あのひとつしか開かない窓群と海に面する殺風景な部屋。
謎のひと言――「ワインの匂い」
おれは首を傾げた。
わからん。
わからなくてもいいか。もう宝は手に入れたことだし。
すなわち、あの苔と土と古文書よ。
ニューヨークの競りにかけたら、凄まじい値段がつくぜ。なにしろ、魚を人間に変えちまう薬だ。国防省の人間が血相変えてとんでくるのは、一目瞭然だ。ふっかけられるだけふっかけてやろう。
ワインの瓶も処分されてたし、となると、この温泉地にはあともう用がないってことになる。
保養というのがあるが、あれはノンビリと気持ちを楽にするためにやるんであって、この田舎町の遥か沖に、世界征服を企む人間以上の力を有する化け物がいるとあっては、落ち着いて女湯を覗くこともできやしない。
帰ろう!
おれは甲子園で敗れた高校球児のごとく、きっぱりと決心した。
それには、ゆきがいる。
明日、工場見学の帰りに引っ張ってくるか。
まあ、おれが生きていられたらな。
翌朝、午前九時に小早川家からリムジンが迎えに来た。
急いで乗り込むや、
「ゆきはどうした?」
と訊いた。
夕べ、帰ってこなかったのだ。
「ご安心下さいぃぃ」
と外杉は相変わらずの伸び切った声で言う。
「奥さまのお部屋へお泊まりになりました。まだお休みでございます」
「結構なご身分だ。そう思わねえか?」
「何とも」
おれは急に、この大男が好きになった。
「さ、やってくれ、アンドレ」
「わたくし、外杉《とすぎ》と申します」
「いいから、行ってくれよ」
おれは肩を叩き、それでエンジンがかかったのか、重いリムジンは悠々と大地の上を滑りはじめた。
工場は山ひとつ越えた谷間の真ん中にそびえていた。
上から見たわけじゃないからよくわからないが、三万坪は超すだろう。
設備もさほど古びてはいない。
巨大なカマボコ型工場や宿舎、発電室のかたわらで蠢く人間が蟻のように見える。
とりわけ、おれを圧倒したのは、天地を圧してそびえる直径百メートル以上ありそうな銀色のタンクの列だった。
間違いない。これが変成剤の貯蔵タンクだ。
出くわす工員たちは、みな正常に見えた。近隣の町や村から出かけているのだろう。女性も多かった。
オフィスらしい建物の前でリムジンを降り、おれは、玄関前で待ち受けていた小早川氏の出迎えを受けた。
満面にこやかな笑みを白々しく浮かべている。おれも、歯を剥き出してサービスしてやった。
「わざわざ来たんだ。さぞや面白い現場を見せて下さるんでしょうね」
最後のね[#「ね」に傍点]に力を入れて言うと、小早川は余裕をもってうなずき、
「勿論だとも。今日は私に対する以上の最高の便宜を計るようスタッフ全員に命じてある。決して失望はさせないと思うよ」
「そいつは、どうも」
見学がはじまった。
この工場が最新の設備を導入していることは、十分としないうちにわかった。
あらゆる電子機器は中央《メイン》コンピューターと、その指示を受ける予備《サブ》コンピューターに制御され、それこそ、空気中のニコチン含有量まで調整されてしまう。
各部屋との通信はすべてレーザーにより、静止軌道上の通信衛星や海洋看視衛星からも、リアル・タイムで情報の提供を受けているらしかった。
注目すべきは、バイオテクノロジーに関する技術導入で、どう考えても、この工場ほど進歩した研究は、国家機関の研究所といえど不可能なのではないかと思われた。
遺伝子の組み換えや細胞融合など、他所ではいまだ構想中の試みをバンバン実現段階に移している。
プランクトン無制限増殖や、蛋白合成による水中農園の一大シミュレーションも見物《みもの》だったが、おれがやはり[#「やはり」に傍点]と思ったのは、地下一階の巨大な水槽前に立たされたときだった。
縦は約二○メートル、横一○メートル、高さは五メートルもあろう。
水槽の上縁ぎりぎりまで海水を満たし、底から三メートルぐらいまで、泥らしきものが積もっている。
よく見ると苔だ。
あの海岸と同じ。
「見覚えがあるだろう?」
小早川が笑みを含んで言った。
「用済みの廃液とはこれだよ。もちろん新品だがね。君ならもうご存知だろう?」
「毎日二度ずつミネラルを補給しないと活動を維持できんのか。効率の悪い養殖場だな」
おれの皮肉に、小早川は驚いたような表情をつくった。
「……ほう、よく、判ったな。若いといって侮れん」
「そりゃ、ありがたいが、あんたはこれを見てるときが、いちばんニコニコ顔だ。おれを賞めてる暇があったら、自慢の種を見せてくれよ」
「よかろう」
小早川は後方の技師のひとりに顎をしゃくった。
「軽い刺激を流せ。一匹見せればよかろう」
技師はにこやかにうなずき、おれにまで会釈して胸のハンド・トーキーをはずした。
上空の壁から突き出ているコントロール・ルームらしき場所へ、
「F62を出せ」
と告げる。
「了解」という声をおれは聞いた。
二秒と待たずに済んだ。
おれたちのいちばん眼に入りやすい場所を選んだのだろう。
三メートルに及ぶ泥層のほぼ中心、おれたちの眼の前に当たる部分の泥が、突如、煙のように攪拌されたのである。
おっ、と思う間もなく、その真ん中から、泥と同じ色をした鱗だらけの手が現れ、たちまち、見慣れた形を取った。
泥の奥に眠っていたものが、何かの指令を与えられ、ガラスにぴたりとへばりついたのである。
見慣れたといっても人間ではなかった。
かといって、魚というのとも違う。
強いていえば、合体した姿か。
全長は一メートル五、六〇センチ。
全体像はシーラカンスに近い。
凄まじいのは、頭部すらびっしりと小判のような鱗に覆われ、青白い燐光を放っていることだ。その間に、ドブ色の眼球がある。
顎は頑丈そうだが、その辺から、おかしな具合になってくる。
歯が、四角いのだ。人間のように。
よく見れば、臼歯や大臼歯、糸切り歯まで判別できる。
そして、その鰭《ひれ》と胴。
胴は人間の腰を思わせて微妙にくびれ、前鰭は木の根のように丸太く長く、その先端は二つに裂けて扇のように揺れてはいるものの、明らかに、人間の腕そっくりの形状を呈しているではないか。
「漬けて何年だ?」
とおれは訊いた。弱みは見せられないから、大したこたねえや、という口調である。
小早川は不快げに、
「八カ月というところか。ようやく、この段階に達したよ。これは現在、最も適合進化のうまくいった例だ」
「ほう――あの、『波濤温泉』の川の中で人間三人を食い殺した奴はどうした? 顔だけ見りゃ人間と見分けがつかないぜ」
「逃げた」
と小早川はすっぱい顔で言った。
「いちばんの成功作だったのだが、水への帰省本能だけは抑えることができなかった。ちょっと眼を離した隙にパイプを通って。――しかし、川へ紛れ込むとは思わなかったよ」
「三人食い殺すとも、かい?――もとは何なんだ?」
「ホーライエソさ」
「罰当たりなことをしやがる」
おれは本気で腹を立てた。ホーライエソというのは深海魚のひとつだ。
人間が魚になるならまだしも、魚を人間にするなんて、万物の霊長を何と心得てやがる。もっとも、その霊長さまは、このところ年々質が低下してるがね。
「だがな、人間になりきって地上で生きるにゃ、まだまだ五、六百年はかかりそうだぞ」
「安心したまえ」
と小早川は胸を張って言った。こんな写真をどこかで見たことがある。そうそう、連戦連勝中のナチス・ドイツの高官だ。
「この工場で製造される変形活性剤は日々進歩しておるし、変貌期間を大幅に短縮させる見通しもついた。ただ、少々、養殖床が古びてきたことは否めんな。なにしろ千と七年前のものだ。あと一回、新しい基台《ベース》を構成し、その上に、工場からの変形剤を寝せれば、そうさな、ひと月で、人間への変形は完成するだろう」
「それは、おまえの神さまが変わるのか? 少しベッドが小さすぎるんじゃないか?」
「大いなるものは常に、人知の及ばぬ世界におる。恐らくは片方の眼で北極海の氷山分布を調べ、片方の手で、アリューシャン列島沖の海底火山の噴火を押さえておるだろう。わかるか。大いなるものは、どこにもいるが、どこにもおられぬのだ」
「さっぱりわからねえ」
とおれは言ってやった。
「そんなこと言ったら、おまえ、世界中の海底の上に、いや、海底自身がそいつ[#「そいつ」に傍点]ってことになる」
否定を期待したのだが、小早川はにやりと笑ったきりだった。
こういうときの笑い方は必ず意味あり気だ。
「さ、これで見学は終わりだ。帰りたまえ」
「へえ、帰っていいのか?」
「もちろんだ。秘密を知った以上、生かして帰されぬとでも思ったのかね? 安手のギャング映画じゃあるまいし。私は常に常識人たることを心掛けているよ」
「結構なことです」
おれはわざとらしく、慇懃に言った。
「ところで、この工場の労働者は、みな、大いなるものの教えの信者ですか?」
「いや。ヘッドの数十名だけだ。それも、生まれついての信者は私だけさ。後はそうさせられているだけの凡人だ」
「やれやれ」
とおれは頭を掻いた。それじゃ、自衛隊に命じて、ミサイル一発というわけにゃいくまい。
別の手を打たなければ。
「さ、行きたまえ。ただし、車では送っていかれん。歩いて戻りたまえ」
そうら、来た。
「車のコースを辿っていけば、夕刻までには君の宿につけるはずだ。多分、私は先に着いておるだろう。それから、あのお嬢さんと、楽しい晩を過ごすことになる」
「なんだって?」
おれの眼が気になったのか、小早川の顔に緊張の色が動いた。
「なんだって?」
おれはもう一度訊いた。
周りの技師や幹部たちが素早く身構える。
おれの狂気は誰にもわかるのだ。
「気になるのなら、さっさと戻ることだ。拙宅への再度の訪問は双手を上げて歓迎するよ。今夜の記念すべき行事を一緒に祝うのもよかろう」
「そりゃ、どうも」
言いざま、おれは小早川の腹に右のフックを叩き込んだ。
ぐえっと呻いて二つに折る身体の後ろへ廻り、首に手を廻す。軽く力を込めただけで、小早川は痛みも忘れてのけぞった。
気管を絞める急所さえ押さえれば、子供でも二秒で大人を昇天させることができる。
「徒歩で帰ってから出てこいっちゅう言い草はなかろう」
とおれはやさしく言った。
「さ、お車を用意してちょうだいな、おじさま」
少し手に力を込めると、小早川はもう一度呻いた。
軽く緩める。おれの眼の前で敵対行動をとった罰だ。ゆきから何を聞いてやがった。
「車を――回せ」
本物の恐怖がこもった声で、小早川は喚いた。
その通り、言う通りにしなきゃ、殺すつもりだった。
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第六章 生け贄の香り
すぐにリムジンが滑り寄ってきた。
フロント・グラスの向こうに、外杉の傷無しフランケンシュタインみたいな長い顔が窺える。
ノコノコ降りて、手ずから後部ドアを開け、
「どうぞ」
と来た。
「おう」
と返事をして、おれたちは乗り込んだ。どんな仕掛けがあるかわからんので、小早川は離せない。死なばもろともだ。死にたくない奴にはおっかねえだろう。
窓から顔出して遠巻きにしてる技師どもへ、
「警察へ電話なんかしたら、社長の生命はないぞ」
と脅しをかける。みな、うなずいた。
「どちらへ〜〜〜」
と外杉が訊いた。
「小早川邸へ」
とおれは堂々たる貫録を示して命じた。
「承知いたしました」
とうなずき、外杉はリムジンを前進させた。
「ところで、ゆきをどうするつもりだい?」
おれは手を緩めずに訊いた。必然的に二人とも横坐りだ。
「……」
「黙ってると、喋りたくても黙ってることになるぞ」
おれはまた、きゅっと絞めた。
気管だけじゃなく神経も絞ってるから、窒息と痛みが同時にやってくる。
子供時分の家庭教師のひとり、鉄みたいなもと[#「もと」に傍点]傭兵から仕込まれた技だ。
小早川は手の指一本動かさなかった。
「……い……生け贄だ」
ようよう言った。
「なんだと?」
「……生け贄だ。……大いなるものに与える……」
「与えてどうする? どんな御利益があるんだ?」
訊いてから気づいた。
「そうか――養殖床だな。津波を起こす気か?」
「……そうだ……この辺一帯は、我が家を含めて……二○メートルの高波に襲われる……」
苦しそうな言葉の中に、誇らしげな響きを聴き取り、おれはゾッとした。
「阿呆か、おまえも土左衛門だぞ」
「私たちは……地下室に隠れる……あの屋敷はそろそろ建て替えねばならん……」
「合理主義者か、てめえは」
おれは思い切ってひとひねりし、小早川をぎゃっと言わせてから、
「おい、急行しろ。事情は聞いたろうな。もっとも、こいつを絡め取っときゃ、おかしな真似はできんが」
「だと、いいがね」
「やかましい。儀式の開始時刻はいつだ?」
「……いつでも、私と生け贄さえ揃えば」
「そうか、じゃ、おまえをここで絞めちまえばいいんだな」
「よ、よさんか!?」
「この野郎、人間の裏切り者のくせに、やっぱり生命が惜しいか」
おれは凄みをきかせて、ひねった。うぐ[#「うぐ」に傍点]と言って小早川は失神した。
ゆきの阿呆め。何も知らんと酒ばかり食らいやがって……
酒か……
おれは、活性点を突いて小早川を蘇生させた。忙しい男だ。
「おい、あのワインのことだ。ありゃ、一体何物だ?」
「ワイン?……あ、あれは……」
「もう一回失神したいか?」
「いや……神に捧げる味だ」
「味?」
「あれを習慣的に飲むと、毛穴という毛穴から、大いなるものが最も歓喜する匂いが発せられるのだ。あの海岸にも、うちで出す料理のすべてにも入っておる。我が家は、それを作り出すために生まれてきたのだからな」
「なるほど、人身御供を捧げんと、力が出ないわけか。下等生物のくせにふざけた野郎だ」
「あの方の悪口を言うな!」
手の中で、小早川が揺れた。
「るせ、この」
二度目の失神をくれてやり、おれは窓の外へ眼を移した。
左右は高さ三メートルほどの岩壁である。
前の記憶によれば、ほぼ山頂に近い。
といっても、海抜五〇〇メートルほどだ。
後は下りだな、とおれは舗装路をみながらつぶやいた。
そのとき、前方の舗装路の一角がゴムみたいに盛り上がったと思うや、アスファルトの黒い塊を撥ね飛ばして、ずおおと立ち上がった白い蛇がある。
あの触手だ!
な、なんて野郎だ、ここまで追っかけてきやがった!
おれは手首を見た。
総毛立っている。
「車を停めろ!」
叫んだ。
外杉は従った。
触手は直径一メートル。地上三メートルの高みへ直立し、先端だけをこちらへ屈めている様は、まさしく大蛇だ。
小早川を楯に、と思ったが、通じまい。
おれは夢中で奴を蘇生させ、
「おい、戻らなきゃ、おれが殺されると言え!」
と脅した。
「無駄だよ」
と小早川は嘲笑った。
「あの方は私など眼中にない。その気になれば妻でも十分役目は果たせる」
嘘つけ、と言いかけ、おれは口をつぐんだ。奴の精神感応ならやれるかもしれない。少なくとも夫人は、小早川と最も親密な人間だ。
「じゃあ、なんで出て来た? おまえを取り返しに来たんじゃないのか?」
「いいや。多分、君を処分するためさ――どうやら、あの方にとっても厄介な相手らしいな」
おれは無言で、触手の動きを見つめた。
どう出るか?
左手は小早川の首に巻いたまま、右手でバッグを引き寄せる。小早川の奴が舐め切って、手を出さずにおいたので助かった。
結局、こいつも、トレジャー・ハンターの実力を知らなかったわけだ。
おれは、バッグを開いて火炎放射器を取り出した。ショック・ガンやCZ75の通じる相手じゃない。
ノズルを小早川のこめかみに当て、首から離した左手を、ドアのノブにかける。
いきなり、人外の鬼気がおれをはたいた。背後から!
不意討ちか!
罵りながらも、おれは振り向かなかった。時間のロスだ。
リア・ウインドが砕ける音を聞きながら、小早川ごと車外へ飛び出す。
奴を下にして、衝撃を緩和すると、悲鳴をあげるのも構わず踏んづけて立ち上がった。
はじめて振り向いた。
後部ドアから白い蛇がのたくり出てくるところだった。
そののっぺりした面を、紅蓮の火の花が包んだ。
おれは聴いた。
触手が悲鳴をあげるのを。
耳を押さえたくなるような声だ。
そうとしか言えない。
黒煙をなびかせつつ後退する。
おれは反転した。直立してる方は動かない。運転席のドアを押し開け、おれは外杉に火炎放射器を向けた。
「行け!」
「でも――御主人が……」
「あいつは死にゃしない。行くんだ!」
「はい」
触手がいてもいなくても、この男は、こういう調子だろう。
車はまっすぐ前方の触手へ突き進んでいく。おれは窓から身を乗り出して、火炎放射器の照準を上空の先端に合わせた。
「ぶつかりますが」
と外杉が言った。車は真っすぐ進んでいる。
「右を抜けろ。右を!」
とおれは喚いた。全く、どいつもこいつも。
脇を通過しても、触手は動かなかった。
「行け!」
とおれは命じた。
「フル・スピードだ。後ろを見るな!」
道は下り。
山の斜面に沿って走る道路だから。片面は切り立った断崖だ。
ときどき、トンネルを抜ける。
あの触手は、山中を走る排水孔を辿って来たのだろう。
次は何処に出る?
幾つめかのトンネルが迫ってきた。
入った。
長くはない。十メートル先に半円の出口が見えた。
おれは緊張していた。結局、それが救いになったのだ。
リムジンの鼻面が半円の光を突き破ろうとしたとき、光は左右に分かれた。
円の天頂から、帯のような影が勢いよく垂れ下がり、フロント・グラスは吹雪のただ中に入ったがごとく白く煙った。
無数のひびが走ったのだ。
「いかん。――飛び降りろ!」
予想通りという落ち着きがおれにはあった。
太さ三〇センチもの触手の先端が天井に貼りつき、ぐいとフロント部が持ち上がったとき、おれはすでに身を躍らせていた。
身体を丸めて受け身を取る。
うまくいった。
どっと眼の前に黒い影が落ちた。
「失礼」
外杉だった。
なかなか、要領のいい野郎だ。
「跳べ!」
叫びざま、おれは横へ走った。
背後で耳触りな金属破壊音。
触手がリムジンを放り投げたのだ。
後頭部をカバーした手に鋭い痛みが走った。ガラスの破片が飛んできたのである。
何でもいい。
おれは前方へ走った。
脇で巨体が動いた。外杉も一緒に跳んだらしい。動きのいい野郎だ。どう考えてもただの運ちゃんじゃない。
車を放った触手は――ほう、天井に貼りつき、先っちょだけをぐにゃぐにゃ振り廻してやがる。
奇抜な奴め。
だが、ここは海じゃないぜ。
おれの世界さ。
のっぺらぼうの皮膚にセンサーでもあるのか、おれめがけて突進してきたそれに、おれは火炎放射器の猛打を浴びせた。
叫びをあげて後退する。
もう二発食わせて、おれは出囗へと走った。眼の前をのたうつ炎の触手が過ぎる。
なんとか抜けた。
足音がついてくる。外杉だろう。
触手の行方を見定めようとおれは振り向いた。
凄まじい勢いで山肌を滑り登っていく。
あっという間に木々の間に消えた。
あきれ返ったね。
おれは苦笑し、くすくす笑い、ついに爆笑した。
腹を抱え、膝をぶっ叩いて笑う。
おかしいったらありゃしない。
「ど――どうしました?」
さすがの外杉が心配そうに訊いた。発狂したとでも思ったのだろう。
「これが笑わずにいられるか」
おれは仏頂面で言った。
「いいか、海はこの斜面側にある。触手が消えてったのは、山の向こうだ。つまりだな、あいつはわざわざ山ひとつ越えて、反対側から襲ってきたんだよ。変わった触手じゃねえか」
外杉は少し考え、
「それは――変わってるなあ」
と言った。愛想のねえ野郎だ。
「だが、しつこく追っかけて来た割には、やけにあっさりと引き揚げましたな」
おれは道の前後を見廻した。
車の音が背後からやってきた。
ははん、これでか。いま、大騒ぎになっちゃまずいと思ったんだな。
だが、まだまだ人間に関しちゃ素人だ。
山を這い登る触手を目撃したら、人間《ひと》は怪物が存在するなんて思いやしない。おれは疲れた、だ。たまさか当人たちが信じても、周りは幻覚、イカレポンチでおしまいである。
だからこそ、世界は正気を保ってこれたのだ。
何も知らないお坊っちゃんの正気かも知れないが。
とにかく、車が近づいてきたので、おれは乗せてくれと右手をあげた。
グロリアだった。
「どうしたい? トンネルのポンコツ、あれ、おたくらの?」
と助手席の男が窓から顔を覗かせた。
「すみません。急ぎの用があるんで、『波濤温泉』まで――」
言いかけて、おれは、あれ[#「あれ」に傍点]と言った。
「ややっ、てめえは!?」
と叫んだのは、乗ってる全員だ。何とまあ、こういうこともあるのだな。おれとリマが『波濤温泉』に着いた初日、橋の上で叩きのめしたサラリーマンどもじゃないか。
「へへ――ざまあみやがれ。歩いて帰りなよ、坊や」
とおれにぶちのめされた若いのが言った。
「けけけ、こりゃ都合がいい」
といやらしく笑ったのは、おれだった。
何せこのグロリア、来たときから満杯に詰まって、おれたちを乗せる余裕がないのは一目瞭然だったから、おれは腕ずくでもひとり降ろしてくつもりだった。家族連れや無関係の善人だったら困るなアと、内心不安だったのだが、なんでえ、こいつらなら遠慮はいらない。
運の悪い奴らだ。
おれはスタートする前にグロリアの鼻先へ火炎放射を一閃させた。
路上に炎が広がり、風にあおられた先端がフロント・グラスを叩く。
車も乗ってる奴らも沈黙した。
「こら、すんなり降りんと、車ごと丸焼きだぞ」
月並みもここに極まれりという脅し文句だが、現物を見せたのは強い。野郎どもは真っ青になって我先に下車し、おれは素早く運転席に乗り込んだ。
行くか、とギヤに手をかけた途端、後ろのドアが開き、巨体が黒雲みたいに乗り込んできて、シートのど真ん中にちょこんと坐り込んだ。
「おい」
とおれは、陰険間違いなしの流し目を外杉に送って言った。
「はあ」
「はあじゃねえ。運転手が客席に乗ってどうするんだ、ん?」
「はあ」
「えい、くそ、もめてる場合か!」
自ら納得し、おれはグロリアをスタートさせた。
このまま小早川邸へ急行できれば文句なかったのだが、それは望み薄だった。
道路は蛇行しながら麓へとつづいている。
あと五分も走れば平らな地面の上だと、さすがのおれもにっこりした。
「いやあ、よかった」
後ろから運転手の声がした。
「なかなか、運転がうまいなア」
「馬鹿野郎――降りたら、話をつけてやる!」
と歯を剥き出したとき、おれの顔はそのまま硬直した。
前方――二〇メートルほど先のカーブからいきなり水が溢れたのだ。
水――山の中に洪水!
だが、間違いない。
溝を流れる汚水のように、それはおれたちの方へ、上昇[#「上昇」に傍点]してくるのだ!
「いかん、また、降りろ!」
おれは叫んで、ドアに手をかけた。
十秒後、凄まじい逆[#「逆」に傍点]鉄砲水に弾き飛ばされ、回転し、潰れたアコーディオンのようになって流れ去るグロリアを、おれと外杉は、少し離れた安全な斜面の上から見つめていた。
「一体――何ですう?」
と訊く外杉へ、
「おまえの御主人の御主人のせいだよ」
とおれは冷たく言った。
「しかし、おまえ、意外と大事にされてないね。おれと一緒に始末されかかるとは」
「わかりません」
「とにかく、これで主人の正体がわかったろ。無事、下へ降りられたら、さっさと故郷《くに》へ帰れ。給料の残りなんざ貰いにいくんじゃねえ」
「そうは、いかない」
「この根性ワル」
悪態をつきながら、とにかく、おれたちは道路を通らず、下へ降りることにした。
灌木やら※[#「木+無」、第3水準1-86-12]やらが密集して歩きづらいが仕方がない。そもそも人間は山を登ったり下りたりするようにはできていないのだ。なぜこんなところへわざわざ道路を造って、車を走らせなきゃいかん?
しかし、歩けば大した距離ではない三○メートルも、垂直となると、話は別だ。
神経を使うから、疲れることおびただしい。
それでも休まず下った。
外杉は黙々とついてくる。
息を切らせた様子もない。
タフなのはわかっていたが、日頃、慣れない運動をしても平気でいられるなど、並の鍛え方じゃあるまい。
「じきですねえ」
とG・馬場みたいな声で言う。
「あああ」
おれも陰気に答え、傍らの灌木を掴んだ。
ぬるりとした感触。
おれは手を眺め、すぐ枝に眼をやった。
濡れている。
長いこと水に漬かっていた木のように。
雫が落ちた。
「水が湧きでてる」
と外杉が、今度ばかりは緊張した声で言った。
おれにもわかっていた。
灌木という灌木、立ち木という立ち木がふやけ、全身から汗のように水を噴いているのだ。
「運動でもしたのかなあ?」
「悪い冗談はやめろ」
とおれは低く罵り、火炎放射器を握りしめた。
他の場所はいざ知らず、おれたちの周囲は壊れた水道管になってしまった。
いまや、斜面中が濡れていた。
木ばかりじゃない。地面という地面から水が噴き出してくるのだ。
――いかん、このままじゃ、と思ったときは遅かった。
いくら木の根が張っているとはいえ、地面全体から水が噴き出ているような状態で、持ち堪えられるはずもなく、ずい、と身体が滑ったと思いきや、おれは地面や握ってた灌木もろとも真っしぐらに奈落の底へ落ちていった。
それでも、死中の活はと知恵を働かせていられたのは、トレジャー・ハンターの訓練と素質によるものだ。
スキーのジャンプ競技の要領で疾走しながら、おれは足の間にはさむようにしてバッグから三個の手榴弾を取り出し、安全リングをくわえて引っこ抜いた。安全桿《レバー》が弾け飛ぶ。三つ数えて下方へ投じた。
どうせ、下で待ち構えているのだろう。
三秒ほどして、爆発音。
対人用だから、大した威力はないが、こけ脅しにはなるだろう。
水の落下速度が緩んだ。
左手前方に、丈夫そうな灌木が生えている。
「掴まれ!」
おれはCZ75とバッグを右手に、思い切り左手を伸ばした。
肘にくる衝撃。この木は抜けなかった。
後ろから巨体がぶつかり、おれを前へ撥ね飛ばした。
「どおも」
と外杉が言った。
「これから、どうします?」
面白そうに訊く。
「そんなことぐらいわからんのか。もう五メートルも下れば地面だ。歩いて、小早川の家へ行く」
「下には、いますよ」
「何処に行ったっているんだ。いまも、おれたちの尻の下でゴチョゴチョやってるかもしれん。逃げようたって逃げられるもんじゃねえ。なら、戦って活路を開くまでだ」
「賛成」
おれは無言で、傾斜を滑り降りた。
ぬるぬるしててやりづらかったが、何とか下へ着いた。妨害はない。
火炎放射器が相当効いたな、とおれはひとり納得した。
奴め、こんな反撃を受けたことがなくてビビっているのだ。
恐らく、触手に加えられた痛みは、何処とも知れぬ深海に眠る本体へも、同じように、リアル・タイムで伝えられるのだろう。
斜面の底には、三個分の大穴が開き、黒土の地肌が剥き出しになっていた。
ぷん、とTNTの匂いが鼻をつく。
地面はびしょ濡れだが、それ以上、水は滲んでこないようだ。
今のうちだ。
おれたちは灌木の繁みを縫って歩きだした。
「こっちでいいんですか?」
とG・馬場が訊く。
「勘が確かならな」
確かだった。
少し歩くと、眼の下に道路が見えた。
「波濤温泉」へつづく道だ。
一分後、おれたちは硬いアスファルトの表面を靴底に感じながら歩き出した。
「もう、何もないですかねェ?」
と外杉が左右を眺めながら訊く。
怖そうじゃなく、面白がっているようだ。
変な運転手だな。
左手で変な音がした。
何かが猛烈な勢いで何処かへ吸い込まれるような音である。
二人して振り向いた。
何もない。
右も左も灌木の繁み――その向こうは山肌である。
わざと前を向いて歩いた。
眼の隅で、何かが沈んだ。
おれは眼を見開いた。
灌木の一本が地面へ吸い込まれたのである。
その音だった。
ズボ。
また一本。
今度は眼の前の木だった。
「どうしますう?」
外杉がさすがに気味悪そうに訊いた。
「歩け。おれたちを脅しにかかってるんだ。出てきたら、火炎放射器がある」
「はぁ〜〜〜」
言ってる間に、左右の木々はことごとく、異様な音とともに地中へ引きずり込まれていった。
その間を胸を張って歩く。恰好はいいが、気疲れがひどい。
あいつの手にかかったら、豊かな山林も一時間でハゲ山だ。
太平洋かどこかの海底にいる奴が、手を伸ばして地面へ引きずり込んだんですよ。――山林の持ち主が信じてくれるだろうか。
おれは火炎放射器の安全装置をはずした。
遥か前方の林の奥に人家の姿が見えた。
着いた!
そう思った途端、足の裏を凄まじいうねりが走り抜けた。
思い切って横へ跳ぶ。
空中で身をねじった。
地面から木が生えていた。
当たり前だが、その地面がアスファルトの舗装路とくれば、天下の一大事だ。
驚く間もなく、着地と同時に走り出す。
その前後左右から、次々と茶色の枝が分厚いアスファルトを突き破って直立した。
これは槍だ。
奴め、火炎放射に懲りて、武器を使いはじめたのだ!
きええ、という悲鳴が上がった。
振り向くと、外杉が転倒していた。
駆け戻ろうとする眼の前へ、地軸を揺るがして、灌木がそびえ立つ。どうしようもなかった。
おれは夢中で走った。
その眼の前をかすめて、茶色の線が迸った。
猛スピードだが、おれには正体がわかっていた。
木の枝だ。
地面に引きずり込まれた木の枝を山の斜面が噴いているのだ。
おれは地に伏せた。
その上を通過する風の唸りが聞こえた。
横を向く。
数本の線が反対側の山腹に吸い込まれていくところだった。
身を屈めて走った。
幸運というものがあるならば、奴の投擲が下手糞だったことだろう。
かろうじて無傷のまま、さっきの人家の前に辿り着いたとき、奇怪な槍の噴出はぴたりと熄《や》んだのである。
人家の前には、住人らしい主婦が立っていた。
地響きが気になって出て来たのだろう。
おれは近寄り、電話を貸して下さいと頼んだ。
あるところへ電話して、おれはまた走り出した。
小早川が何らかの手段を使って――おれはそれができると信じて疑わなかった――おれより早く家へ戻った場合、ゆきの運命は風前の灯だ。
三分とかからず街へ入った。
なるべく人通りの多い道を選んで走った。
どこから触手が出てくるかわからない。
魚屋の前を通ったとき、触手を少し切って売ったら幾らになるだろうかと考えた。その前に、主人が腰を抜かすか?
「波濤館」に到着するや、まっしぐらに部屋へ入り、武器の点検をはじめた。
リマはいなかった。
嫌な予感がしたが、どうせ、眠らせるつもりだったから、都合がいいといえばいい。
火炎放射器に圧縮ボンベ式の燃料を注入し、手榴弾も補充する。
考えてみたら、それくらいしかない。
心細かったね。
たとえ、水爆を携帯していても、あいつをどうこうできるとは思えない。
上衣を着ると、手榴弾やCZ75の弾倉は目立たない。
戦闘服の上に武器弾薬をつけ、おれは気分も重く立ち上がった。
ノックの音がした。
「何だ、今、忙しい」
罵ると同時にドアが開いて、勘太郎が顔を出した。
「何の用だ?」
「先生が帰ってねえんだ」
「わかってる。これから迎えにいくんだ」
「おれも連れてってくれよ」
「来たって仕様がねえ」
おれは冷たく言ってから、勘太郎の肩を掴み、じっとその顔を見つめた。
「いいか、これから何が起こっても、オタつくんじゃねえぞ。番長だろうが何だろうが、おまえはこの旅館の次の主人だ。従業員と客の全部に責任がある。ゆきのことはおれに任せとけ」
勘太郎の目つきが悪くなった。
「夜逃げする気だな」
「阿呆」
おれは叱りつけて部屋を出た。
リマのことが気になったが探してる暇はない。
あいつのことだ。何か起こっても、一人で切り抜けられるだろう。
外はもう夕闇が覆っている。
おれは、もうおれ専用となったジープに乗って走り出した。
前後に他の車が走っているせいか、小早川の屋敷までは無事に到着した。
鉄門が閉まっている。
塀の方へ廻った。
高さは約二メートル強。
おれはまず石ころを放り投げた。異常はない。高圧電流のような仕掛けはなさそうだ。塀から三、四メートルほど離れ、一気にダッシュした。
ジャンプ。
伸ばした右手が壁の縁に触れるや、全身の力を集中し、右手一本で身体を吊り上げる。靴先が壁を蹴った途端、身体は半円を描いて塀の内側へ降りた。
窓には明かりがついている。
あの、海に面した奇怪な部屋もそうだろう。
おれは、裏口へ廻った。鍵がかかっている。
傍らの窓――これだ。
おれは戦闘服のポケットからダイヤをはめ込んだガラス切りを取り出し、鍵の上部を丸く切断すると、そこから手を突っ込んで、ロックをはずした。
正直言うと、派手な武器より、こうしたせこい作業の方が性に合っているのだ。
久し振りに味わうこそ泥の気分。
二年前、エドワード獅子王の宝冠の裏に刻まれているという暗号を解読しに、倫敦《ロンドン》塔へ忍び込んだとき以来だ。
屋敷の内部は静まり返っている。
妙な緊張が含まれている。
やはり、これから、だ。
すぐ脇に、地下へ通じる階段があった。
おれは左手にCZ75、右手に火炎放射器を構えながら、足音もたてずに下りた。
あるものを確かめたかったのである。
ぷん、と独特の匂いが鼻をついた。あのワインの匂いだ。
確か自家製と言っていたが、こんな海岸の縁で葡萄なんか採れるのだろうか。
かすかな機械音。
奥の方からだ。
かなり広い地下室だった。敷地と同じくらいあるだろう。
音の出どころはすぐにわかった。奥の一室である。
古めかしい鋼鉄の扉に鍵はかかっていなかった。人の気配はないが、何かが蠢いている。おれはそっと、肩で押した。
隙間から覗いた。
恐ろしい光景が見えた。
これを眺めずにおらりょうか。
おれはそっと内側へ忍び入った。
ワインの貯蔵庫であろう。壁を埋め尽くした棚に、緑色の瓶が整然と並んでいる。
問題は、部屋の中央に備えつけられた「装置」だった。
あの工場にあったのと同じ型のずっと小さな水槽が置かれ、その内側にどうやら海藻らしい濃い紫の影が蠢いているのだ。
水槽の端からこぼれ出るそいつらを、奇妙な機械の腕がまとめてひっ掴まえ、脇のタンクにぶち込む。
自動的に蓋が降りると、後は汽笛のような圧縮音がして、下方の蛇口と密着したワイン瓶の中に、細い雫の糸が垂れていく。
それでも一度に数ミリ分しか溜まらないところをみると、タンクの途中で様々な行程を経ているらしかった。
人間の身体を、あいつ[#「あいつ」に傍点]向けの味にするには、それだけの分量しか製造できないわけか。
しかし、ワインを海藻からつくるとはね。
そのとき、かすかな足音が背後でした。
あわてて手近の棚の後ろへ隠れる。
扉を押し開けて入ってきたでかい影をみて、おれは眼を剥いた。
外杉だ。
何て悪運の強い奴だろう。
あれだけ忠告したのに。とっちめてやろうかと思ったが、おれは我慢して様子を見た。
野郎め、何のつもりか、きょろきょろ左右を見廻しながら別の棚のそばへいくと、ワインを一本抜いて、手にしたザックの中へしまった。
それから、小型《ハーフサイズ》カメラを取り出し、水槽の中で不気味に蠢いてる奴の写真を撮りはじめたのである。
シャッター音が鳴るたびに、水槽の動きが変わるのは、不気味としか言いようがなかった。
蛇みたいに襲いかかってこなきゃいいがと思ったが、幸いそれはなく、四八枚分を撮り終えると、外杉はさっさと部屋を出ていった。
なるほど。退職金のかわりに、あのワインと写真をしかるべき筋へ持ち込む気か。うまいこと考えやがる。
おれも少しして部屋を出た。外杉の姿はどこにもない。
一階へ上がった。
相変わらずの静寂である。召使いや女中もいないようだ。
二階へ。
いよいよだ。
例の部屋へ行く前に、窓から外の様子を見た。
何の変化もない。強いて言えば、妖気が幾分、濃くなっているくらいか。
おれは、ドアのノブに手をかけた。
軽く廻った。細目に開けて覗く。窓の前の床に、ゆきが横になっていた。
他に気配はない。
おれは素早く滑り込み、ゆきに近づいた。
びゅう、と身体の周りで海風が鳴った。
遠くで、何か、サイレンのような音が聞こえ、何かが怒鳴っている声が切れ切れに届いてきた。
おれはゆきの様子を調べた。
睡眠薬でも服《も》られたらしい、安らかな寝息をたてている。
動かすと、プン、とあの地下室の匂いがした。
いい気になって海藻ジュースなんか飲みやがって。
おれは、ゆきを小脇に抱え、立ち上がった。
そのとき、かすかに人の気配が漂ってきた。複数だ。
おれはCZ75を構えてドア脇の壁に寄った。
足音が近づいてきた。それが、ドアの前で止まり、
「いるかね、八頭くん?」
小早川の笑いを含んだ声が聞こえた。
こうなれば、隠れていても無駄だ。
「おう、いるぞ」
と言って、おれは壁から離れた。
「では、失礼」
こう吐《ぬ》かして、ドアが開いた。
顔面へCZ75をポイントしようとして、おれは息を呑んだ。
立っているのは、ナイフを握ったリマだったのである。
「いま、この娘は、あの方のコントロール下にある」
と小早川は部屋へ入りながら言った。
「生命を助けたかったら、武器を捨てたまえ」
「よせよ、捨てたら、おれまで危《やば》い」
小早川がうなずいた。
リマの手がすっと上がり、自分の喉元にナイフの先を押しつけた。
「君を倒すことはできんだろうが、自殺ならたやすい。どうするね?」
「あなた――やめて」
と小早川の隣にいる夫人が言った。
「何を今さら」
と小早川は嘲笑った。
「生け贄はこの娘ひとりではない。一緒になって何人の娘を捧げてきた? おまえもその儀式には参加したはずだぞ」
「お願いです。もう、これ以上は――」
夫人は涙ぐんでいた。
「どうするね?」
と小早川が訊いた。
どうしようもないね。こんな狂信者を射ったって、リマを操っているのは、海の中のものだ。
おれはCZ75を足元へ置いた。
素早く小早川が背後に廻り、身の廻りを点検する。
武器はすべて取り上げられた。
おれがナイフを奪い取れないよう、リマは部屋の隅へ押しやられている。
「では、ゆっくりと愉しみたまえ。あの方がそのお嬢さんを味わってから津波までは少々間がある。私は外で様子を窺わせてもらうよ」
ためらう夫人を押すようにして、小早川は出て行った。
リマは残された。
恐らく、おれの動向を逐一、海の底のやつに盗ませているのだろう。
罪なきスパイか。始末が悪いったらありゃしねえ。
仕様がない。おれは腹を据えて四方を点検した。
点検しても周囲は頑丈そうな扉で、頭上三メートルほどに電灯がひとつきり。
あのコードを引っこ抜けば武器になりそうだが、手も足も届かない。ベルトさえ持っていかれたのだ。
おれは二人の娘に囲まれて――ひとりは自殺寸前、もうひとりはへべれけだが――待った。
十分もたっただろうか。窓の向こうで海鳴りが強くなった。
近寄って覗く。
海面が泡立っている。こら、いよいよだぞ。
何とかリマの手にしてるナイフを奪えないものかと、おれは知恵を巡らせた。
うまい手はない。
殺すわけにはいかないんだからどうしようもないわな。
まだ非情という名の調味料が足りない。おれは甘ちゃんである。
もう一度海面へ眼をやり、おれは青くなった。
来た。
岸から数メートルしか離れていない黒い波を抜けて、あの白い触手が一本、のろのろと、だが着実に窓の方へ向かってくるではないか。
硬い音がした。
リマがナイフを落としたのだ。奴の支配が切れたのか!
おれはゆきを抱いて部屋の隅へ跳んだ。ナイフをひったくる。
次の瞬間、触手が部屋に飛び込んできた。
いつもそこ[#「そこ」に傍点]なのか、ゆきの眠っていた床の上を叩き、少し戸惑った風でいたが、急にこちらを向いた。
「大――これは!?」
リマが眼を瞠った。こりゃ、正気だぜ。しかし、遅いよな。
おれたちをどう見たか、触手はあわてる風もなく、ゆっくりと、左右に首(?)を振りながら忍び寄ってきた。リマを解放したのは勝者の驕りだろう。
つるつるの表面は水に濡れ光り、何もこけ脅しがついていないだけ薄気味が悪い。
「持ってろ」
おれはゆきをリマへ押しつけ、ナイフを構えて前へ出た。
刃渡り十センチほどの果物ナイフである。リマの喉くらいは切れるが、こいつ[#「こいつ」に傍点]はねえ。
触手の動きが止まった一瞬、おれはナイフを横へ薙いだ。
寒天を切るような手応えだった。
三〇センチもスッパリやられ、そいつはのけぞった。
悲鳴が上がらない。触手の中にも我慢強いのとそうでないのがいるらしい。おれは首を傾げた。
突っ込んできた。潮の香りが強い。
横へ跳んで躱し、今度は縦に切った。
血はでなかったが、内側に腱だか神経だかの白い線が見えた。
性懲りもなく、頭上から走った。
ナイフを振るおうとする寸前、そいつは鞭みたいにおれの手へ打ちかかった。
ナイフが飛んだ。しかし、そこはおれだ。飛んでも奴の先に突き刺さっている。
だが、何にもならない。
「こっちへ来い!」
おれはリマに叫んだ。
走り寄る。
触手が飛んだ。万事休す。
そのとき、背後のドアが大きく開いた。
「伏せろ!」
それが外杉の声だと気づくより早く、おれはリマを抱いて床へ伏せた。
頭上を火炎が走った。
油性の粘っこい炎がみるみる奴の先端をくるむ。奴は悲鳴をあげて後退した。
「今だ!」
おれはリマの肩を叩いて走り出した。外杉は横に退《の》いている。
廊下へ出ると、激しい音をたててドアが閉じられた。足元で小早川が頭を押さえており、夫人が心配そうに付き添っていた。
「ありがとよ、自衛隊」
おれは火炎放射器片手の外杉にウインクした。
「ほう、どうしてわかった?」
相変わらずの間延びした口調で訊いた。
「山ん中の歩きっぷりさ。ありゃ、レンジャー部隊のもんだろ。おれさえ顎が出そうだったのに、平気でついてきた。もうひとつ、用事があって、ついさっき防衛庁へ電話したら、おまえの上司から連絡が入ってたってわけだ。やはり、政府は気づいていたらしいな」
「そういうことだ」
と外杉は小早川を抱き起こしながら言った。
「しかし、国家公務員てな無節操だね。おれを二度も殺し損ねといて、命令ひとつで助けに廻るとはな」
「命令ではない。自分の意志だ」
と外杉は言った。
「山の中の借りを返さんとなあ。神社で君を狙ったのは、国家機密を狙う邪魔者と思ったからだ」
「何はともあれ、感謝するよ」
おれはこう言ってから、呻きつづけてる小早川の胸もとをひっ掴んだ。
「さあ、これでおしまいだぞ。由緒正しきおまえの家系もジ・エンドだ」
このとき、小早川の顔に何とも言えない微笑が広がりはじめた。
不気味な表情であった。
「その通り、おしまいだ。今のことはすべて、あの方に伝わっておるだろう。従ってじきに……」
奴が言い終わらないうちに、おれは廊下の窓を通して、海鳴りが変化しているのを感じた。
海の中の奴は、証拠を湮滅《いんめつ》するという知恵を持っているのだろうか?
「地下室へ行け!」
おれは叫んだ。
その途端、小早川が立ち上がった。猛烈な勢いで廊下の端へ駆ける。
夫人の悲鳴に押されたかのように、海に仕えるものは、頭から暗黒へ落ちていった。ガラスの破片が束の間きらめき、嫌な音が聞こえた。
「早く!」
おれはもう一度叫んでゆきを抱き、階段へと走った。
海鳴りは異様に厚く、重くなっていった。
全員が地下室へ飛び込み、外杉が鉄のドアを後ろから、しっかりとロックした。これだけが頼りだ。
「にゃあに?――にゃにがあったの?」
床に寝かしたゆきがようやく上体を起こして訊いた。頭と尻をポリポリかいている。
「じき津波が来るんでな、みんな地下室へ避難したんだよ」
とおれはやさしく言った。
「にゃんだ――そうか」
こう言って、ゆきは酒臭いげっぷをし、また寝てしまった。
「どうだ?」
おれは鉄の扉に耳をあててる外杉に訊いた。
「わからん――だが、そろそろだ」
おれも近づいたとき、ドアの向こうから凄まじい響きが伝わってきた。
同時に部屋が大きく揺れ、電灯がぱっと消えた。夫人の悲鳴。
外の様子を想像しながら、おれは外杉に、
「大丈夫かな?」
と聞いた。
「この扉は三〇センチ以上あるし、周りは石づくりだ。崖が崩れん限りは保《も》つ」
「ふむ」
おれはようやく安心してうなずいた。
話は以上のごとしである。
結局、地下室は外杉の言葉通り保ちこたえたし、外へ出たおれたちは、すぐに自衛隊のヘリで救出された。
津波の規模は、「波濤温泉」の建物が根こそぎ持っていかれたといえば、わかってもらえるだろうか。
しゃくにさわることに、神社の地下のあの石の実験室――あいつも掘り起こされて、転がっていってしまった。それどころか、谷間《あい》にあった小早川の工場――あれすらも木っ端微塵に破壊されてしまったのである。
調査によれば、海岸の排水孔から水が逆流して工場を襲ったというのだが、それくらいであの近代施設がああまで徹底的にやられるはずはない。
水の他にも何かが押し寄せたのだ。
おれたちが助かったのは、触手が地下室の扉の位置を知らなかったか、おれたちごとき歯牙にもかけなかったか、このどちらかだろう。
だとしたら、ミスったな。
おれはいずれ海の底にも宝探しの手を伸ばすだろう。そのときは容赦はしない。
おまえのことがわかった以上、打つ手は必ずあるはずだ。
待っているがいい。借りはいつか返す。
小早川夫人は、警察で尋問を受けるが、じき釈放されるだろう。おれがそう手を打つ。
最後に記しておくが、「波濤温泉」はなくなっても、住人にはひとりの被害者もでなかった。
あのとき、工場から戻ったおれは真っ先に総理へ電話を入れ、自衛隊の緊急出動を要請したのである。
さすが本職。電話を入れてから二時間もしないうちに、住人を丸ごと山の中腹へ避難させちまった。いくら二〇メートルの大津波でも、そこまでは追っていけなかったわけだ。
ほとんどの人が着のみ着のままだったが、ま、生命さえ無事なら、何とかなるさ。
おれたちはそのまま自衛隊基地へ送られた。そこのベッドで眼を覚ましたゆきの表情は見物だったぜ。奴の記憶は、小早川邸のダイニング・ルームでたらふく飲んでるところで切れてるんだからな。
「なによ、一体、ここは何処? 革命でもあったの!?」
とヒステリックに喚くのを、おれとリマは二人がかりでなだめた。
ひとまず戦いは終わったわけだ。
波濤温泉の人々も、自分たちの家と財産を奪ったのは、ただの津波だと思っているだろう。
そう信じて、彼らは一生を終える。
「勘太郎はどうする?」
おれは自衛隊の制服を着て、キャッキャッ言ってるゆきに訊いてみた。
「大丈夫。ほとぼりが冷めたら、また家庭教師にいくわよ。あの子優秀なんだ。励ましてやらないと」
「ほう、しおらしいところがあるじゃないか」
「あたりきよ。まだ家庭教師代、貰ってないんですからね。お世話になったのと、これとは別」
「ご立派なこった」
おれは、海の方角へ眼をやりながら、あきれたように言った。
「だが、いつまでも一緒にいてはやれんぞ」
「わかってるわよ。あの子も、ね」
「おれのところへよこした手紙――あれはお前が文面を教えたな」
ゆきはじろりとおれを見た。
「どうしてわかったの?」
「中学生に書ける内容か。しかも、一字も誤字がない」
「そうね……」
ゆきは寂しげに眼を伏せた。
「恋人に恥をかかすわけにはいかないでしょ」
何故か、おれは笑いかけてしまった。
『エイリアン邪海伝』完
[#改ページ]
あとがき
私はよく、執筆中にひとり言を言います。もう癖ですね。
過ぎし日の(今でもありますが)怨みつらみを憶い出して「バーロー」だの「阿呆」だの、もっとひどい言葉で他人をののしるなんか日常茶飯事。
家人や宿泊客がしょっちゅうぶったまげてとび起きます。
さすがにこれは余程、気心の知れ合った相手でないとやりませんが、もっと迷惑なのが、
「おーい」
と言うやつ。
しかも、返事がないと、知らず知らずのうちに何度も繰り返すんだから始末が悪い。
まず、十中八九、返事しますね、みな。
「はい?」
「何か?」
が平均的な答えですが、一度、隣室で待ってた編集者が、すぐ後ろまで来て、
「へい」
と凄まれたのには参りました。
不徳のいたすところでしょうか。
もっと輪をかけて凄い、というか恥ずかしいのが、
「〜〜〜さん」
と呼ぶこと。
これが女性名だったら聞いてる人は、絶対に誤解しますよ。
一回ありましてね。
しかも、その人のことを知ってる相手が後ろにいたの。
次に会ったとき、
「押しですよ、押し」
なんて言われて、困っちゃった。そんな深いイミはないんだけどなあ。
何はともあれ、一年と何カ月ぶりかの「エイリアン邪海伝」。
大もゆきちゃんもリマも元気です。ごゆっくりおたのしみ下さい。
一九八六年七月二日 「水爆と深海の怪物」を観ながら
菊地秀行