エイリアン妖山記
菊地秀行
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目次
第一章 護衛役(ガーディアン)
第二章 飛んで火に入る二人組(おれとゆき)
第三章 山中へ
第四章 迷宮山
第五章 背後に迫るもの
第六章 脱出ヘリ
あとがき
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第一章 護衛役(ガーディアン)
柔らかい初春の陽射しが、森の吐き出すオゾンの粒子をひと粒ずつ光らせている。
なだらかな傾斜を見せて登ってゆく山道は、まだ枯れ葉に覆われてはいるが、その下で蠢く生命の息吹を、おれははっきり靴底に感じた。
春は近い。
「ねえ、まだ、茶店に着かないの? あたしもう、歩けない」
不平と媚びをたっぷり含んだ声が、ひょろひょろとおれの後を追い、背中ではじけた。
「さっきの道標を見ただろ。茶店まであと一キロ。我慢せい。この辺はまだ、ハイキング・コースだぞ」
おれは足を緩めるどころか、後ろも振り返らず言い放った。女の泣き言をいちいち聞いていたら、一キロ行く間に日が暮れてしまう。
「あんたにはハイキング・コースでも、あたしにとっちゃ、エベレスト登山よ。これで目的が果たせなかったら、帰りに山崩れ起こして生き埋めにしてやるから。あたしが許しても神様が許さないわ」
「おまえの口から神様なんて台辞が出てくるとは思わなかったぜ」おれはさも驚いたように言った。「頭の上から稲妻が落ちてこないよう気をつけろよ。万能の神は、不信心者の偽りもすべてお見通しだ」
間髪入れず後頭部に殺気と風圧を感じ、おれはひょいと首を右斜めにかしげた。
驚いたね。唸りをたてて飛ぶ石は、卵ほどの大きさがあった。
もろ食えば、失神どころか脳挫傷か何かで廃人にもなりかねない。しかも、スピードとタイミングから考えて、おれが口を開く前、つまり、自分の台辞を吐きながら石を拾って構えてたに違いない。おれの反論を予想してだ。付き合いが長いと、相手の行動パターンを読んで反撃を加えるのが容易になる。むむ、危い。
「とにかく、あたしはもう、休憩とらないと歩けませんからね。――お腹も空いたし。どっこいしょ!」
言うなり、大質量の肉が枯れ葉を踏みしだく音。
おれはなるべく、うんざり顔をすまいと心がけながら、振り向いた。
ゆきは口をへの字に曲げ、真紅のダウンジャケットの胸前で腕組みしたまま、おれをにらみつけていた。怒りがジャケットの色と溶け合い、炎のように立ち昇っている。美しい閻魔《えんま》といった趣であった。おれは、大胡坐をかいた尻の下でつぶされた枯れ葉の苦鳴を聞いたような気がした。
「あのなあ」
とおれは、登ってきた方角――下りスロープの果てを指さし、なだめるように言った。
「おれたちがバスで登山口へ着いたのがちょうど二時間前、そこから垂直距離で三○メートル上がるのにもう四回も休んでるんだ。それを合わせて一時間二○分、単純計算でいくとだな、四○分でここまで上がれることになる。目的地まで残り高さ二○○メートルとして、あと四、五時間で済むんだよ、休みなしでいきゃあ」おれはきゃあ[#「きゃあ」に傍点]に力を込めてから「逆を言うとな、今のペースでしゃがみ込んでると、あと半日たっても道の途中ってわけだ。断っとくが、日が暮れると、この辺は熊がでる。おまえは熊だって食い殺せるだろうが、おれはそんな野蛮な真似、真っ平だ。休みたきゃひとりで休んでいけ。はい、さよなら」
「この、人でなし」
おれは構わず歩き出した。登山ナイフでもとんでくるかと思ったが、そんなこともなかった。十歩ほどいって振り向くと、ゆきはまだ胡坐をかいたまま、そっぽを向いていた。
ここで機嫌なんかとると癖になる。第一、好きで連れてきた訳じゃない。リュックの食料は優に五日分はあるし、超短波無線器や特殊兵器の備えも万全なのだ。なにかあったら連絡してくるだろうと踏んで、おれはさっさか山道を登った。
背中のリュックは二〇キロを越えるが、足手まといを失くした気分は大いに昂揚し、いや、道のりのはかどること、わずか二○分足らずのうちに、おれは山肌を巡る平坦な道の途中にある茶店に到着した。
昼前の淡い光の中で、「甘酒」「おでん」の文字を浮かせた暖簾が風にそよいでいる。店の前に出した縁台にも店内にも他に客の気配はない。
長野県佐久郡にそびえる雄峰・餓竜山《がりゅうざん》山中、唯一の茶店だ。
おれはガラス戸を開けて店内へ入った。
「らっしゃい」
右手の厨房から、恰幅のいい五〇年配のおばさんが顔を出した。桜色の肥えた頬と白いエプロンが眼につく。髪は後ろでひっつめにしていた。
七坪ほどの店内には、大型の石油ストーブが二つも燃え、暖房は十分だが、燃料代も稼がなければならないためか、コーラ一本三五○円の札があちこちに貼りつけてあった。おでんは一皿六〇〇円である。
値切ってみようかなと思ったが、先のことを考える[#「先のことを考える」に傍点]と、珍しく資本主義的暴利も気にならなくなり、おれは威勢よく、おでんとコーラ、それに月見うどんまで注文してしまった。
四つあるぼろテーブルのひとつに掛け、ろくすっぽダシもとってない茶色の汁から、ざっとゆがいた[#「ゆがいた」に傍点]だけの固いうどんをすすっていると、サービスのつもりか、おばさん、壁につるしてあるラジオをかけてくれた。
「名曲の時間です」
と、ポマード頭を七三に分けてると一発でわかる姿なきアナウンサーが、天気予報の原稿でも読み上げる調子で言った。ふむ、NHKだ。
「おい、おばさん、別の局に変えてくれ。飯どきに葬送行進曲でもやられちゃ敵《かな》わねえ」
と声をかけ、おれはすぐ、
「あ、そのままでいい」
と訂正した。あと五分ほどで正午のニュースだ。世の中の動きを掴むのに、いちばん手軽なのがこれである。深味はないが、おおざっぱな状況さえわかれば人間安心するし、それが関連情報ともなると、ぐっと動きやすくなる。
「おばさん、この山は長いのかい?」
おれはコーラとはんぺんを一緒に喉の奥へ流し込みながら訊いた。
「そうねえ。もうかれこれ[#「かれこれ」に傍点]二五、六年」
「今日の天気はどうだ、崩れるかね?」
「いや、まず大丈夫だね。こんなに晴れた日は滅多にないよ。山も機嫌がよさそうだし、ここ二、三日は快晴がつづくんじゃないの」
ガラス越しに窓の外を覗きながら言うおばさんに、満足顔でうなずいたとき、外で人の気配がした。
ガラス戸に影が映り、のっそりと入ってきた人数は三人だった。
ウールのセーターを着こみ、リュックを背負った大学生らしい男女のカップルとは初対面だが、真ん中にはさまれた長い髪の女とは腐るほど面識がある。
「はじめまして」
ゆきが仏頂面で頭を下げ、男の方がにやりと笑った。年の頃は二○前後。グレーのセーターの着方やリュックの背負い方が堂に入ってるところからみて、大学の山岳部か何かだろう。ちょっと細いが、さっぱりした笑顔で、
「連れは君ですか。ばてた女が厄介なのはわかるけど、置き去りはいけないな」
「あーら、この男《ひと》、だあれ? あたし、初めてよ」
ゆきが鼻から声を出して、わざとらしく店内を見回した。
「そう、へそを曲げないで。ちゃんと会えたんだから。ね、今度はうるさいこと言わないの」
諭すように言う女の方の台辞に、おれは感心した。トラブルが起こったとき、自己主張するだけならまだしも、他人の揉め事にまで顔を突っ込み妙な連帯感を発揮する女たちの中にも、こういうタイプがいるのだ。日本の未来はまだ明るい。男よりひとつかふたつ下――つまり、おれやゆきと同じくらいの年配《とし》だが、ゆきより遙かに落ち着いた、慎み深い雰囲気がある。濃紺のダウンベストもいい趣味だ。きっといい恋人に、いい女房に、いい母親になるだろう。
珍しく、おれはこのカップルに好感を持った。茶店のおばさんもぼんやりと二人を眺めている。
「じゃ、僕らはこれで」
男の方が軽く頭を下げ、女とうなずき合って出て行こうとするのを、ゆきがあわてて呼んだ。
「待って。こんな山ん中へ、あたしひとりを残していくのぉ!?」
「いい加減にしろ、みっともない」
おれはゆきに怖い顔をして見せ、二人組には天使の笑みを送った。
二人はくすりと笑い合い、一礼して出ていった。ああいうカップルに出会うと気分がいい。まるで古きよき青春映画のヒーローとヒロインだ。
「なによ、初対面の乙女に馴れ馴れしく触んないで」
肩をつかんだおれの手を、ゆきは振り払った。かなり頑強だが、こいつのすね方はこっちも研究済みだ。この程度なら、安い真珠の首飾りひとつで陥落するだろう。
「あのな」
言いかけたとき、別の声が緊迫関係を解消してくれた。
「次のニュース――今朝、午前七時頃、長野県長野市来留賀町の△△精神病院から、とりわけ凶暴な囚人二人が看守を殺して脱走。付近の山林へ逃げ込んだ模様です」
たちまちおれたちは憤りを忘れて眼を見合わせ、NHKのアナウンサーの硬い声に、耳を澄ませた。
これによると、生まれついての兇悪な殺人狂二人が、ろくすっぽ治療も済まないうちに看守を絞め殺し、病院の窓から逃亡したらしい。
「やだね、来留賀町っていや、反対側の登り口じゃないか」
おばさんが手にしたハイライトを灰皿に押しつけながら、不安そうな声でつぶやいた。
「こら、早目に店を閉め[#「閉め」に傍点]た方がよさそうだ。首絞め[#「絞め」に傍点]られちゃ敵わない――なんちゃって、どう、この洒落?」
「年の割にゃ若いね」おれは無理矢理笑顔をこじつけて言った。このおばさんもおれより長生きしそうだ。「だけど、気をつけるに越したことはないよ。精神病患者じゃ冗談も通じない」
「やだ、怖いわ。もう、山を降りた方がいいんじゃない?」
ゆきがおれのそばへ寄ってきた。
「ほう、見ず知らずの男は怖くないのかい?」
嫌味たっぷりに言ってから、おれは、おばさんの顔におかしな表情を認めて眉を寄せた。
「おかしいねえ。あたしの見間違いかねえ」
ぼんやりつぶやいた声と眼は、ついさっき、二人組のカップルが出ていった戸口の方に向けられていたのだ。
「どうかしたのかい、今のふたり?」
おれは何気ない風を装って訊いた。付近の情報はどんなものでも入手しとく必要がある。天候、道の具合、先を行くハイカー――今日のような場合は、往々にして些細な情報の存否が生命に関わるのだ。
「いえね」とおばさんは、隠しだてもせず言った。「今のふたり、どこかで見た記憶があるのさ。もう何年も前のことだけど」
「なんでえ」おれは、わざとあきれたような声を張り上げて、あまり汁の泌みてないガンモを噛み切った。「また、来たんだろ。どっちも山歩きやハイキングが好きそうな顔してた」
「でもさ、この前もそう思ったんだよ。それに――こいつははっきりした記憶じゃないんだけど、もっともっと前――あたしの子供の頃にも、見た覚えがあるような……」
おれはゆきと顔を見合わせた。なんとなく頭の後ろに黒いものが引っかかるような気がしたが、それはそれとして、目下の関心は別のところに向けなければ。
うどんとおでんの汁を一滴残らず飲み干し、おれは勘定を払って立ち上がった。
「それじゃあな、ゆっくり休んで来な」
ウインクして言うと、ゆきはふくれっ面でおれの後につづいた。
「なんでえ、お疲れじゃないのか。腹も減ってるんだろ。ゆっくり休んでけ」
「ふん。あの二人と楽しく歩いてきたら疲れも消しとんじゃったわよ。食事はね、コンビーフの缶詰とチョコレート分けてもらっちゃった」
大したもんだ。転んでも只じゃ起きないどころか、百円玉のひとつも拾ってくるとは、さすが太宰先蔵《だざいせんぞう》の孫娘。
とにかく、おれたちはまた、道づれに戻った。
おばさんの「気をつけておいきなさい」を背にスロープを登りはじめる。初春とはいえ、海抜一八○○メートルの山頂から吹きおろす風は、肌にあたれば強引に体温をこそぎ取ってゆく。
十分ほど進むと、右手にスズタケの密生地と、かなり急な勾配でそこを突っ切っていく細道が現れた。
ハイキング・コースとの分かれ目に立て札があり、『頂上への近道。お子さんやお年寄りはご遠慮下さい』と、白ペンキで記してある。下手な字だ。
「さて、いよいよ、だ」
「やだ。この立て札、誰かが悪戯してすり換えたんじゃないでしょうね。これ、きっとけもの道よ」
けもの道とは、文字通り、山中の動物が通ってできた道のことで、人間の手になるものじゃないから、過って踏み込むと遭難もしかねない。
「いや、地図通りだ」と、おれは麓の町で記憶してきた地図を思い浮かべながら言った。「ここを直線距離で二キロも登ると、神無峠《かみなしとうげ》に出る。そこから三時間も歩けば餓竜《がりゅう》渓谷だ。本番はそれからさ」
ゆきがニンマリした。眼に霞がかかり、その奥から別の光が現れはじめた。ピンク色――欲情の光芒《こうぼう》だ。
「おおっと、金銭妄想欲情症はお預けだ」
おれはあわてて言った。
「それでなくとも日帰りの予定に齟齬を来してる。おまえはひとりでよがってりゃいいが、見物してる時間が勿体ない。現物を見たら好きなだけ狂え」
その辺はゆきにもわかっているらしく、何度か頭を振って眼をしばたたくと、妖しい光は跡形もなかった。この娘なりに、自己抑制の鍛練を積んでいるのだろう。
「んじゃ、いくぞ」
返事も聞かず、おれは急勾配に足を踏み入れた。
三〇〇メートルを一気に登り切っても、おれは大した汗をかかなかったが、ゆきは本当にばてちまった。全身汗まみれで、ひいはあ喘いでいる。
平ったい峠の大地へ着くやいなや、ゆきはリュックを放り出し、ダウンジャケットとセーターを脱いで、ついでにシャツのボタンまではずしにかかった。
「おい、薄着もいいが、あんまり派手にやると風邪ひくぞ」
おれは、鼻の下が伸びるのをはっきり自覚しながら注意した。荷物だけおろし、突っ立ったままだ。
「冗談じゃないわよ。もう、どこもかしこも汗びっしょり。下着も変えなきゃ。こら、向こうをむけ」
「へいへい」
おれは言いつけに従った。ゆきの下着姿というのは、夜ごと隠しカメラで寝姿を見ても飽きないほどセクシーだ。グンゼの白だの、トリンプのベージュだのといったその辺の女子学生の平均的下着を着けても、そのたびに印象が変わるだろう。だろうというのは、そんな清純タイプの下着にお目にかかったことがないからで、ゆき愛用の品というと――
「ああ、いい気持ち」
喘ぐような声に、こりゃしめたとばかり背後を盗み見て、おれは生唾を呑み込んだ。
抜けるように白い肌を、空と同じ碧青の布が覆い、しかも、その面積が極端に少ない。ぐいとくびれた五八センチのウエストをまわる部分なんて紐だけだ。足元に脱ぎ捨てた紫色(!)のブラとパンティが落ちてるが、これは新品ほどきわどくない。
おれの位置からだと、背中の方しか見えないが、張り出したヒップに食いこむパンティのつくった溝なんて、何度見ても実にセクシーだ。しかも、自慢のバストを、下半分を隠すというよりすくい上げる感じのビキニ・ブラがぐいと押さえ、それが肩の線の向こうに見えるだけに、卑猥なことこの上もない。
右手は緑の原生林が波のように地肌を埋める餓竜山の峰、左は尾根伝いに天空へ連なり、その彼方に黒く、八ケ岳の偉容が山裾を広げている。自然の真っ只中だ。
それだけに、降り注ぐ陽光を浴び、白い肢体を惜しげもなくさらけ出してるゆきは、むっとするような野性味を帯びて、おれは危うく理性を失《な》くすところだった。
「ねえ、見てる?」
冷やかすような声に、おれはぎょっとして顔を振り戻した。
「やだ、急に寒くなってきたぞ。はい、もう、着ちゃいますよォ」
「やかましい。いちいち断るな」
「はいはい」
ウールのシャツやニッカーポッカーズを身につける気配を背に、おれはこれから赴く渓谷の方へ眼をやった。
峠から山腹を巡る道は原生林に覆われ、視界には入らないが、まずその辺に道があるだろうと思われる茂みの中で動くものがあった。
おや、と思って眼を凝らした途端、それはすっと消えた。
「なあ、おい」とおれはウールのセーターを着込んでるゆきに向かって呼びかけた。
「なにさ?」
「お前を連れてきた二人連れな。ありゃ、どこのどなた様だ?」
「何よ、急に?」
「いいから、答えろ。お前のことだ、少なくとも男の方の名前と出身地ぐらいは聞いてあるんだろ」
「ふん」と言ったものの、ゆきはすぐ「ええと、名前は緒形等《おがたひとし》。年齢は二一、出身は東京の三軒茶屋よ。W大文学部在学中、血液型O、星座は魚座、あたしとぴったり。それで、実家は古いお菓子屋さんですって」
「よく調べたもんだ」おれはあきれたように頭をかいた。「連れの女の子の前でおかしな真似はしなかったろうな。あっちは何という?」
「名前だけしか知らない」
「それでいい」
「和田さんっていうの。緒形さんが貴子《たかこ》って呼んでたわ」
「ふーん」
おれは腕組みして、原生林の繁みを見つめた。眼の錯覚だったかもしれない。
「どうして、急にあの二人のこと憶い出したのさ? 茶店のおばさんの言葉が気になるの?」
「まあ、そんなところだ。ところで、ストリップを終えたんなら出掛けるぞ」
「どうして着換えって言えないのよ、この助平高校生!」
怒声を軽く受け流し、おれはリュックをひっ担いで歩き出した。
グレーと濃紺の色が消え失せた木立へ向かって。
きっかり三時間で、道の左手の様相が一変した。
少し前から響いてた水音が、猛々《たけだけ》しい岩塊の間をはじけながら跳んでくる。
餓竜渓谷に入ったのだ。
いよいよだ。おれの頭は冷たく冴え渡ってきた。
周囲には人影も気配もない。おれたちはさらに五、六百メートル山道を進み、瀬音が左へと迂回する地点で立ち止まった。
道の端から見下ろせば、三メートルほど下を緑の奔流が滔滔《とうとう》と流れ、ところどころに顔を出した岩が白い飛沫《しぶき》を上げている。清流の速度を、おれは時速六○キロと踏んだ。かなり速い。川幅は五メートルほどだ。これが下方で滝となり、細い支流と化して千曲川を形成するのである。
おれはリュックのサイド・ポケットから四ミリの強化ロープの束を取り出し、川面へ大きく突き出している直径四○センチほどのスギの幹に巻きつけると、ロック・クライミングの要領でさっさと岩場へ降りた。ゆきが後につづく。内証で特訓してるとも思えないのだが、見様見真似にしちゃ鮮やかなロープと体捌《たいさば》きだ。二秒とかからずおれのかたわらに立ち、どんなもんよ、みたいな表情をつくる。
おれは無視してロープに特殊なひねりを加え、結んだ目をほどいて手元に引き寄せた。
「いよいよね」とゆきが、不安とも興奮ともつかない声で言う。
「いよいよだ」とロープをしまいながら、おれは流れの奥に目をやった。「これから先は水の中も歩かにゃならん。流れは急だし、かなり辛いぞ。気を抜いて滑りでもしたら、一発で流されちまう。宝の夢みてアヘアヘするのはもう少し我慢しろ」
「本物に会えるなら、いくらでも我慢するわよ。だけど、ほんとにあるん[#「ほんとにあるん」に傍点]でしょうね」
「多分な」
「多分じゃ、や[#「や」に傍点]」
「宝探しに確実なんて言葉はねえ」
おれは流れに手を突っこみ、温度を測りながら首を振った。ふむ、四度ってとこか。
「いいか、ここに一枚の古い地図がある。一七世紀に暴れた海賊キッドの宝を積んだ沈没船の場所を描いたものだとしよう。紙質を調べると、一八世紀中葉の品とでた。次はインク。これも同じだった。それから、文字の字体や文法もオーケイとでた。記されてる海や地名も当時実在したもんとわかった。さあ、出動だ。資金を調達し、食料を揃え、船とアクアラング、場合によっちゃ潜水球も用意する。専門のもぐり屋《ダイバー》も必要かもしれん。口止め料もいる。なんやかやで一億円近くかかった。――そこでだ」
おれは思わせぶりに言葉を切った。
「突然、年代測定テストに支障があり、紙もインクも二○世紀前半のものとわかった。さて、どうする?」
ゆきは、きょとんとしていた。
「一九二七年の五月に、これと全く同じ事件《ケース》が西ドイツのトレジャー・ハンターに起きた。アレキサンダーが東方遠征の途中で略奪した金銀財宝の在りかを示した八世紀の古文書が、年代測定の結果、一九世紀の模造品と判明したのさ。もう、準備万端整え、集めた金もほとんど注ぎ込んじまった。で、どうしたか? そいつは出掛けたのさ。忠実に、その古文書に従ってな。驚くなかれ、宝はあった。時価四兆マルクの黄金が、ちゃんと、書き記された場所にな」
「なんでよ?」
「わからねえ。ことによったら、一九世紀と出した判別法が間違ってたのかもしれん。模造品のつもりでペンを走らせた誰かの手に、神さまが悪戯っ気を起こして力を加えたのかもしれん。とにかく、奴は行き、宝はあった。今じゃ引退してボンの大豪邸に引き込もり、酒池肉林の毎日さ。
これが宝探し《トレジャー・ハンティング》なんだ。なんで奴がその古文書を信じたのかはおれにも謎だ。やけっぱちだったのか、引っこみがつかなくなったのか、トレジャー・ハンターの勘に閃くものがあったのか。――それもこれも、四兆マルクの前にゃどうでもいいことさ」
ゆきは茫然と天をあおいでいた。右手が、分厚いセーターの上からでもはっきりと確認できる乳房の膨らみを揉みしだいている。とめようかと思ったが、気を変えて、好きにさせておいた。
いちばん集中力と緊張感が必要な道中で、うっふん、ああとやられるよりは、いま片づけとく方が利口だ。しかし、変わった女だよな。
立ってるのに耐えられなくなったのか、ゆきは砂利の上にあお向けに横たわり、身をくねらせはじめた。右手はセーターの下からじかに素肌に触れ、左手は――下肢の方で蠢いてるようだが、いつの間にかうつぶせに変わったため、よくわからない。
ああ、あふんと、あたり構わぬセクシーなうめきをききながら、おれは川っぷちの平らな石に腰かけ、今回の探索行の信憑性について頭を巡らせはじめた。
そもそもの発端は、三カ月前、ITHA日本支部での忘年会で、新春恒例・TH《トレジャー・ハンティング》権プレゼントの当たりくじを、このおれが引いてしまったことにある。
TH権プレゼントというのは、ITHAが宝物存在個所と認定しながら五〇年間、それを探し出したものがない場合、優先的に次の探索権を譲渡するシステムのことである。年末の忘年会にくじ引きが行われ、それを引き当てると、向こう十年間、その場所を独占的に調査・発掘する権利が与えられ、ITHAメンバーは一切邪魔をしない。そういう土地だから、十年間いくら努力しても水泡に帰す場合も多いが、あたればメッケもので、現に七〇年間に二回、成功した例が報告されている。
そして、おれの引き当てたのが、餓竜山だったというわけだ。
海抜一七九二メートルの餓竜山は、長野・山梨両県にまたがり、昔からハイキング・コースとして有名だ。そのくせ、いま、おれたちがいるみたいな荒涼たる渓谷や、かなり切りたった岩壁もあちこちに点在するため、山歩きに慣れた登山家や絶壁登りが趣味というクライマーたちがしょっ中押し寄せ、気候のいい時期は、思いがけぬくらいの賑わいを見せる。もう少したつと、頂上近くの大岩壁には物好きが芋虫みたいにへばりついてるはずだ。今は全く人気がない。
ただ、おれたちトレジャー・ハンター仲間の間では、この餓竜山、別の名前で有名だ。
「帰らざる山《マウンテン・オブ・ノー・リターン》」――と。
その名の通り、ITHA《インターナショナル・トレジャー・ハンターズ・アソシエイション》(国際宝探し協会)日本支部《ジャパニーズ・ブランチ》の調査によれば、過去七〇年の間に九五名のトレジャー・ハンターが入山し、うち一二名が消息を絶っている。
ヒマラヤの高峰や、南米の大ジャングルならともかく、ハイキング・コースに最適の山で、ITHA加盟のトレジャー・ハンターが一二名も遭難するなんざ、怪獣や殺人狂の土民でもいるんじゃないかと思われるくらいの高率だ。しかも、うち六人が昭和に入ってからとなると、平穏な山に、ある種の危険な存在が潜んでいると見なければならない。
本当は有り難迷惑な代物で、辞退しようと思ったのだが、なにせ一杯入ってたし、周りの連中が、おまえなら大丈夫だの、宝の運命も決まっただの、てめえとは関係ないとばかり無責任におだて上げるものだから、つい、素直に受けちまった。ま、十年放っときゃ別の奴がと思いきや、マンションへ戻り、一杯機嫌が抜けぬまま、ゆきに話してきかせるという大失態を演じてしまったのだ。
「タカ」と言っただけで「タカラ」と決めちまう娘である。さあ、今晩すぐに出かけるだの、向こう十年分の食料と下着を用意するだの大騒ぎになり、おれが、絶対にいかんというと、死ぬの生きるのと叫び出し、とうとう出動を約束させられてしまった。
おれ自身に興味がなかったわけでもない。トレジャー・ハンターという輩は、単に金銭的満足感を得る以上に、他人を出し抜いて名前をあげたがるのが趣味というナルシス的欲望の塊みたいなものだ。悪いことに、おれは特にその傾向が強い。
四年ほど前、ラスプーチンとニコライ二世が共謀隠匿した帝政ロシアの宝を発見した際も、ITHA総会で、これまで手を出しては失敗した連中の名をリストにして読み上げ、半年ばかり生命を狙われて閉口した。
ゆきの強引さに押し切られた形でも、結構、胸の血はたぎっていたのである。
それからの三カ月、おれは、当たりくじと引き換えに手渡された餓竜山関係の資料を穴の開くほど読み、手ぶらで無事戻ってきた奴らの話を頼りに、どうやら、行方不明の連中が餓竜渓谷の一点で姿を消していることを突きとめた。相棒と再会を約して渓谷へ入ったきり、二度と帰らなかった例が三件もあったのである。しかも、偶然とはいえ、うち二件は、別れた場所まで同じ――ついさっき、おれたちが降りてきた岩場――だったのだ。
ここまでわかれば何とかなる。
資料通り、砂金と宝石が待っているにしろ、別のもの[#「もの」に傍点]が待ち構えているにしろ……
数分後、おれたちは不安定この上ない川石の上をよたよた歩きながら、川の上流へと進んでいた。
スギ、カラマツ、シラカバ――四季の風光を一層際立たたせる樹々の豊富さと美しさで名を売る反面、餓竜山はこの渓谷の険しさでも有名だ。ハイキング・コースも遠く離れ、上流へ行けば行くほど岩質が脆くなり、左右の岩壁から橋をかけることもできないため、川の水源までさかのぼった連中は数えるほどしかいない。
新宿から急行列車で三時間の日帰り・家族向きの山は、同じふところに、ちょっぴり不気味なものを秘めてもいるのだった。
一時間も進んだろうか。左右の岩壁からは次第に緑が消え、鳥の声も少なくなっていった。聞こえるのは水のうなりと、あ、すべった、こん畜生というゆきの罵声だけである。
突然、きゃっという悲鳴と水音が巻き起こり、少しして、驚きの声があがった。
あわてて振り向くと、ゆきはかなり大きな丸石の下に四つん這いになり、両手を水流に浸した格好で起き上がりかけていた。いや、起き上がろうとして硬直し、驚愕の視線を水流に向けていた。
「なんだ、どうした?」
と訊く前に、おれには答えがわかっていた。
水に色が付いている。
ゆきの手を浸した部分から、鮮やかな色彩が布切れみたいにほとばしり、水流にまぎれ、みるみるちぎれとんでいく。
転んだ拍子に岩の角で傷つけたかと思ったが、残念、色は赤じゃなかった。おれは軽く口笛を吹いて言った。
「まあ、人並みな赤い血は流れてねえと思ったが、黒とはね、おまえ、蛸の親戚だったのか」
とは言うものの、見過ごせる現象でもない。おれはゆきに近づいて、安定した平岩の上に引っぱり上げた。
水滴が墨のような尾を引きながら、手先からしたたり落ちる。
「ねえ、何よ、これ。気持ち悪い」
「おまえ、おかしなもの、食ったり飲んだりしなかっただろうな」
おれは水に触れぬよう用心しながら、ゆきの手を観察した。毛穴からおかしな物質や色素が滲《し》み出してる様子はない。となると、黒い水の中に手を突っ込んだのか。
不気味そうな顔で自分の手を眺めるゆきを尻目に、おれは変色地点に目をやった。むろん、平凡な水の流れが走り過ぎてゆくばかりだ。
待てよ、ひょっとして……
おれは水際に移動し、そっと右手の先を突っこんだ。
ゆきが喉の奥で悲鳴を噛み殺す。
流れは黒い筋を引いた。
手を上げると、黒いしたたりが陽光をはね返した。
そのとき、おれは妙な音を聞いたような気がして、ゆきを振り返った。
「何よ?」
「おかしな音、聞こえなかったか?」
「へんなこと言わないでよ、ただでさえ気味悪いのに――サディスト!」
「ふむ。耳のせいか」
おれはくよくよ考えるのをやめ、別のテストをしてみることにした。
腰につけたトランプ・カードほどの分析装置《アナライザー》を岩場に置き、引っぱり出したチューブの先端を水に落とす。
一秒とかからぬうちに分析装置の背面スクリーンは、清水の成分をディスプレイしはじめた。ただの水である。
黒い水滴も試す。前の結果と変化はなかった。黒い成分の正体は不明だ。ある種の化学成分が、おれたちの皮膚から滲みでた汗や老廃物と化合してこんな現象を引き起こしたに違いない。
しかし、一体、何のために?
そして、あの音は――?
曖昧さだけを後に残しておれは立ち上がった。背中を冷たいものが吹いたが、あえて無視を貫いた。
「きゃっ!」
「いい加減にしろ! このドジ娘!」
二度目の水音が終わらぬうちに、おれは怒鳴りつけた。
瞼が強引に押し広げられていく。
水は再び黒く染まっていた。また滑りやがったのだ。ただし、今度は足だった。ニッカーの裾、つまり脛から下が手と同じ状況に濡れ、乾いた白石の上に、おびただしい黒い染みをつくっている。
「水に入った途端よ。どうなってるの!?」
ゆきの声は押し殺した悲鳴に近かった。
「水の成分に異常はねえ。ほっといても大丈夫と思うが――ニッカーと靴の替えは?」
「んなもの、あるもんですか」
「じゃあ、脱いでいくか、そのまま我慢するかだ」おれは鼻の下が伸びかかるのを押さえてぶっきら棒に言った。「おれとしては、脱ぐ方を勧める」
「あんたの前で、パンティちらちらさせるなら、死んだ方がましよ」
「勝手にしろ」
言い捨てて、おれはある推論を思いつき、我ながら度胆を抜かれた。
少し離れた岸辺へ行き、靴底をつけてみる。黒く染まった。ふむ。無生物にも反応するのか。ならば、と。
おれは足元にごろごろしてる丸石をつかんで水中に放った。水に濁りは生じない。いよいよ、だ。別のを掴んで先端をつけた。
ゆきがあっと叫んだ。
「どういうことよ、放った石は何でもないのに、あんたが触ると――」
「あたしたち[#「あたしたち」に傍点]と言ってほしいね」
自分の推理の適中を、喜んでいいのか悲しんでいいのかわからず、おれはなるべく陽気な声で言った。
「どうやら、この水は、無機質、有機質にではなく、おれとおまえに対して反応するらしいな。それも、物理的なものではなく、おれたちの存在自体[#「存在自体」に傍点]にだ」
「どういうことよ、それ?」
「もうひとり、ただのハイキング・マニアでもいりゃ証明できるんだが、多分そいつを流れに放り込んでも、水には何の変化も起きんだろう」
「まわりくどいわね。はっきり、おっしゃい!」
柳眉を逆立てるゆきへ、おれは優しく言った。
「この水はおれたちトレジャー・ハンター――というより、宝探しの情熱[#「宝探しの情熱」に傍点]に対して反応するんだ。だがな、ただ色をつけても何にもならねえ。おれの考えじゃ、あの色を感知する何かが別にいて、そいつは多分、おれたちを歓迎する準備を整えてる真っ最中なのさ」
慄え上がるかと思いきや、ゆきの顔はみるみる怒りと激情に染まった。
「冗談でしょ、どこの馬の骨ともわからない奴に、苦労した宝を横取りされてたまるもんですか。死んでも、いいえ、そいつを殺しても手に入れるのよ!」
恐怖に脅えるより数等ましだが、憤りが昂じてか、ニッカーの内側につけたインサイド・ヒップ・ホルスターから、ワルサーPPK/S・九ミリを抜き放ったのには驚いた。あわててしまわせ、十分用心するよう命じる。
ともかく、この渓谷に何やら尋常ならざる存在がいることだけはわかったわけだ。
どんな手でくる?
しばらくの間、何事も起こらなかった。ゆきは、右手をぴったりとPPK/Sのグリップにかけ、いざ事あれば必殺の一弾をぶっ放す態勢を整えていたが、おれには、たかが鉛の弾丸で決着《けり》がつくような相手とは思えなかった。
誰かが護りを固めているのだ。
古代の知恵か、現代まで生き延びた護衛役《ガーディアン》の子孫かが。
この二つこそ、宝そのものが備える「防衛と攻撃力」と言っていい。
前者の代表がカナダ――ノバスコシア半島の南に実在するオーク島の“竪穴《マネー・ピット》”だ。
カナダ本土から数百メートル先の海上に見えるこの島は、干潮時を待てば、幅三○メートルの水路を泳いで誰でも渡れる平凡な孤島であり、また最も大西洋寄りの“海賊入り江”には、途方もない財宝の眠る竪穴があると天下に知れ渡りながら、一八世紀の発見時以来今日に到るまで、あらゆる秘術を尽くしたトレジャー・ハンターたちの挑戦を頑として拒んでいる。
一七九五年、一六歳の少年ダニエル・マックギニスが竪穴を発見、二人の仲間、ジョン・スミスとアンソニー・ホーガンを加えて地表から三メートルまで掘り起こした結果、樫の丸太で組んだ足場と粘土層が出現した。粘土層からは錆びた呼び笛と一七一三年の刻印がある銅貨も見つかった。それからは三メートルおきに、最初と同じ樫の足場が現れ、一○メートルに達すると、ココヤシの繊維を厚く敷きつめた個所に出た。オーク島から半径三○○キロ以内に、それを調達できる場所はない。
マックギニスとスミスは結婚後、妻を伴ってオーク島に移り住み、ジョン・リンズなる医師の後ろ楯を獲得。一八○四年に本職の井戸掘り人を使った本格的な発掘作業に着手した。深さ二七メートルに達したとき、それまでになく頑丈な足場と、その下から奇怪な絵文字のある石板が発見され、一二○年後、ようやく「二○○万ポンド埋めてある」との内容だと解読された。ただし、原因不明のまま石板のオリジナルは消滅。コピーによる解読のため、この財宝の埋蔵地点は三メートル下とも一二メートル下ともいわれている。
さて、この時点で、三人はふりおろすシャベルの先に金属物らしい手ごたえを感じた。もうひと押しで何かが手に入る。しかし、疲労困憊した彼らは、その発掘を二日後の月曜日まで延期してしまった。
勝負はここでついた。
月曜日に戻ってみると、穴の三分の二は、どこからともなく溢れ出た水に覆われ、どうしてもかき出すことはできなかったのである。竪穴と並行にもう一本の穴を掘り、それをつなげて一時的に水をかい出そうというリンズ博士の作戦も、異常な大出水のせいで失敗に終わり、マックギニスとスミスは、やがて世を去った。
この二人の遺志を継いだのが、最初の三人グループ中の最年少だったアンソニー・ホーガン。別のパトロンを探し出し、最新の発掘技術をもって挑戦を開始した。
地下三〇メートルに眼くらましの意味で埋められたらしい二個の宝箱、四五メートル地点のセメント部屋に埋まっているらしい大部分の宝、そして、穴の最深部たる地下五○メートルに据えられた鉄の板――これらの実在が確認されたのは、ひとえにホーガンの功績である。
にもかかわらず、これだけの事が一〇〇年以上も昔に判明していながら、マックギニスたちの発見した石板以降、たった三メートル下の宝の箱が今に到るまで陽の目を見ないのは何故か。
マネー・ピットには、島の二つの海岸につづく海水のトンネルが設けられ、潮の満ち干に伴って、海岸に設置されたココナツ繊維から大量の海水が流れ込み、挑戦者を封じてしまうのだ。一九七〇年代に最新のハイ・テクノロジーをもって挑んだ米オンタリオの製鉄技師でさえ、この三○○年前の技術に敗退したのである。これまでマネー・ピットに挑戦し、脛の毛まで抜かれて引き下がった会社及び団体は三五。中には後のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトさえ一枚噛んでいたものがあるという。
第二次大戦後は、一九四九年にH・A・ガードナー少佐が新型の金属探知器片手に挑戦し、大量の黄金の存在を示す反応を得たにもかかわらず、本格的発掘にとりかかる前に死亡。翌五○年に、リンズ博士同様、竪穴に並行するもう一本の穴の拡張に着手したホイットニー・ルイス鉱山技師も、必要不可欠な二○トン・パワーショベルが、輸送中海に落ちて挫折。今なお、マネー・ピットを征服したものはない。
埋蔵された宝物については、海賊キッドの隠し財宝だの、仏領カナダ時代、イギリス軍に敗れたフランス側の軍資金の一部だのといわれているが、どちらにせよ、ピットの製作者が、二○○年後の科学技術にも打ち克ってきた大天才だったことは論をまたない。おれもいつか挑戦するつもりだ。
現代に連なる護衛役となると、オーストリアのトプリッツ湖が登場する。
この起源は比較的新しいもので、一九四五年、敗北必至と悟ったナチス総統アドルフ・ヒトラーがヨーロッパ全土に分散隠匿したトラック一千台分――総額三○○兆円に及ぶ財宝の一部が沈められたとされている。
現に、後世までつづく忌わしい事件の発端をつくった若者は、ナチの兵士が湖に箱らしいものを沈めている光景を目撃したのである。
戦後、彼は湖に舟を出し、湖底からひも[#「ひも」に傍点]のかかった木箱を引き揚げたが、中身はイギリスのポンド紙幣――しかも偽札だった。失望した若者は二度と湖に近づくことはなかったが、この事件が噂になり、財宝目当ての連中が、標高二○○〇メートルのアルプス山中にある小さな湖に群がりはじめた。そして、怪事件が勃発したのである。
一九四六年、トプリッツ湖の財宝についてある種の情報を得たらしいオーストリア人、マイヤーとピクラーの二人が胸をナイフでひと突きにされ惨死、一九五二年には、フランスの地理学者リース博士が、ナチス・ドイツの財宝について確実な資料を入手したと言い残し、アルプス山中へ分け入ったものの、やはりトプリッツ近くの山林で殺害されている。付近には博士のボートらしきものが放置され、木箱の破片が散乱していた。
同年、ウィーンの銀行員スタインが休暇を利用してのハンティング中、湖畔で首を切断されるという無惨な姿で発見され、一躍話題になった。
三件目も同じ年で、地元の青年マティスが、湖畔でキャンプ中行方不明となり、死体も発見されなかった。
ついにオーストリア政府も無視できなくなり、一九五九年に到って、本格的なトレジャー・ハンティングが試みられたが、警官や役人の見守る中、水中カメラを駆使した調査が見つけ出したものは、一四年前に発見されたのと同じ偽札七億ポンド分であった。
他に目ぼしい品は発見されなかったため、木箱を沈めていたのは、ドイツ兵の格好をした偽札づくりだったのではないかと、疑問を提出するものも現れたが、捜索者は以後も後を絶たず、従って、奇怪な殺人事件も終結してはいない。
一九六三年にも、万全の装備で湖底へ潜った一九歳の少年が、酸素ボンベにたっぷりと中身を残したまま湖底で息絶えている。謎の犠牲者は彼で九人目にあたるのだ。
言うまでもなく――と言っても、世間では推測の域を出ないが――殺人事件の犯人は、ナチの残党である。
トプリッツ湖畔に人口二○○ほどのヘニェなる村があり、驚いたことに、ここの構成人員すべてが元ナチとその子孫なのだ。八年前、おれと親父が潜り込んだとき、村では一斉教育の真っ最中だった。子供たち全員に親が手づから洗脳術を施し、偉大なる総統の財宝をかすめ取りに来た蛆虫どもを抹殺せよと教え込んでいたのである。地下につくられた死刑場の一室で、いたいけな少年・少女たちが、壁際に立たされたトレジャー・ハンターたちに銃弾やナイフを嬉々としてめり込ませていく姿は、今思い出しても背筋が寒くなる。彼らは成長し、美しい青年や娘となって、訪れるハンターたちに死の爪をといでいるに違いない。これほど無益な任務は世にないとおれは断言する。なぜなら、彼ら自身も知らぬことだが、湖底の秘密洞窟に眠る金塊や宝石類、美術品等はすべてまがいものだからだ。時価五兆円に達する本物はいま、おれの六本木の住まいで安らかな眠りについている。
だが、これからおれたちが遭遇しようとしている脅威は、性質からいってこの二つの合体物、規模からみて数百倍の凄まじさがありそうだった。
「ねえ、この先、宝を見つける手がかりはあるの?」
敵意に溢れた視線を周囲にまきちらしながら、ゆきが痛いところをついた。これまでも何回か質問されるたびはぐらかしてきたが、ここまで来ちゃそうもいくまい。
「ない」
おれはあっさり言った。
「なくってどうする気よ!?」
ゆきが跳び上がった。おれは平然と――
「だがな、行方不明になった連中も、最初のひとりを除いて、物証がゼロだったことはわかってる。それが戻ってこないとなると、話は簡単。向こう[#「向こう」に傍点]からちょっかい出してきたのさ。連中もさっきの黒い水にびっくりしたことだろうよ」
「でもさ、ちょっかい出されっぱなしでおしまいになったらどうするの?」
「あきらめるか、お祈りでも唱えるこったな。アーメンか南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経でよかろう」
「くたばれ、へっぽこトレジャー・ハンターてのはどう?」
「好きにしろ」
おれは口をきくのをやめて、先を急いだ。
そのとき――
地の底から湧き上がるような轟音が四方から轟いた。
一瞬でおれは見抜いた。爆流する水の音だ!
だが、おれを立ちすくませたのは、もうひとつの事実だった。
音は下流から近づいてくる!
「ど、どうしたの、大ちゃん、何よあの音!?」
ゆきがおたおたしはじめた。
「ワルサーで片がつくかしらね?」
つくわけあるかい。
おれは叫んだ。
「そこのでかい石に、ロープで身体を巻きつけろ! ここへ来るまで、まだ、二、三分はある。固型酸素と体圧調整剤も服《の》んどけ」
こういう場合のゆきのスピードとタイミングは言語に絶するものがある。反抗と従順、どちらが得か一発でわかるのだ。
ぐらつく石の上を牛若丸みたいに鮮やかに駆け渡り、走りながら、腰のパックから二種類のカプセルをとりだして口にふくみ、ぺたりと岩に張りついた。
「早くう!」と叫ぶ。
畜生、おれが縛るのを待ってやがる。
ゆきと同じ薬を服み、四ミリの特殊ロープで二抱えほどの岩にそろって身を固定したとき、爆音が一気にはじけた。
おれたちが回ってきた岩場の角で途方もない水量がはじけ、高さ五メートルはありそうな緑の壁が襲いかかってくる。
通常の流れとの接触面が白い飛沫をあげていると見た刹那、世界は衝撃と不気味な色彩に覆われた。
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第二章 飛んで火に入る二人組(おれとゆき)
視界は緑一色に変わった。
一体どこからこんな大水量が、しかも急な流れに逆行して現れたのか見当もつかぬまま、おれたちは岩に押しつけられて呻いた。
深度五〇〇メートル相当までの圧力なら、体圧調整剤が十分抵抗してくれるし、固型酸素剤のおかげで呼吸にも困らなかったが、気分は土左衛門だった。
眼の前を黒っぽい巨大な影がとんでいく。岩と流木だ。水中で見かけるそれは、妙にグロテスクに引き歪められ、まるで、ひょいとこちらを向いて近づいてくるような不気味さがあった。
敵がどんな仕掛けを残したのか知らないが、こんな大規模な自然現象がそうそう続くわけはないと思っていたら、案の定、二分ほどで水流は急速に勢いを減じ、色を失い、おれは頭のてっぺんに風を感じた。
陽光の降り注ぐ岩場を見つめる自分に気づくまで、水中でのまばたきも二回分の時間で済んだ。
早速ロープをほどき、ぐったりしたゆきを抱いて岩場にへたりこませる。あれほどの大水流が荒れ狂ったのに、岩壁の裾から四メートルほどまでが濡れてる程度で、四囲の光景にさほど変化は見られない。
自然現象に人為的なコントロールが介在しているのを認めざるを得ないだろう。おれは内心、心細くなってきた。
ふがふがと呻くゆきをほったらかしにし、上流の方に眼をやる。
異様な光景が視覚を直撃した。
川の中ほどに一本の鉄の棒とおぼしき影がせり上がっているのだ。
長いこと水中につかっていたらしく、赤錆だらけのそれは、おれの胸に期待と戦慄の炎を燃え立たせた。
まず、あの大水流に巻き込んでKOする。それにしくじった場合、水流は一種の発条《ばね》となって、河底に埋もれていたこれを引き上げるのではなかろうか。
何のために? 言うまでもない。しぶとい宝探し屋を確実に抹殺するためだ。放っておけばわからないという思想は、このシステムを製造した連中には縁遠い代物だったらしい。
いわば死の誘いを、おれは有り難く頂戴することにした。今のところ、手がかりはこれしかない。
「おい、ゆき、BPLを塗るか、戦闘服を着ろ。両方一緒でもいいぞ。それが済んだら、あれを引いてみる」
おれの指示に、へたってたはずのゆきはぱっと岩上に起き上がり、喚いた。
「やあよ。BPLは痒くて肌がかぶれるし、戦闘服は暑苦しいんだもの。このままでいいでしょ。いざとなったら、ワルサーぶっ放せば済むわよ」
「さっきの水の壁にそうきいてみろ」
言い放って、おれは素早く濡れた服を脱ぎはじめた。
リュックは完全防水だから、中身はみな無事だ。濡れた衣類をしぼってしまいこんだおれは、早速、装備の点検に入った。
全身にBPL――防弾塗料《ビュレット・プルーフ・リキッド》を吹きつけ、新しい下着と戦闘服を身につける。金属繊維の間に厚さ○・一ミリの剛性粘物質《ハード・ゲル》をはさみ込んだ戦闘服は、確かに動作の不自由はあるが、防弾性は完璧だし、巨虎の爪も通さない。市販弾丸中最強とされる四六〇ウェザビー・エレファント・ビュレットも、中学生の投げる硬球程度のショックに押さえられるのだ。これに、七層にわたる衝撃吸収皮膜を皮膚上に張り火炎放射器もへのかっぱというBPLを加えれば、鬼に金棒だ。
腰の戦闘ベルトには、愛用のチェコ製CZ75自動拳銃《オートマチック》・九ミリ十六連発を収めたフロント・ブレーク・ホルスターと、十五発の弾丸をこめた余備弾倉《スペア・マガジン》三本つきのケース二個、それに高感度無線器とサバイバル・キット、戦闘服の胸にITHA装備課特製の小型手榴弾と催涙ガス弾、焼夷手榴弾が三個ずつだ。手榴弾はすべて、缶コーラ程度のサイズにおさえられている。登山靴も実は戦闘ブーツを兼ねているのだが、こちらには、ハイ・チタン鋼の両刃ナイフが一本と針金が仕込んである。
ここまでがいわば余備武装《サイド・アーム》で、生命をかけるのは言うまでもなく、愛用のH&K《ヘッケラー・アンド・コック》・G11無薬莢SMG《ケースレス・サブ・マシンガン》だ。口径四・七ミリ、五〇発の無薬莢弾丸はすべて炸裂弾である。威力は手榴弾の半分――四六〇ウェザビーの三倍はあるだろう。象や犀《さい》が束になってかかってきても、ビクともするもんじゃない。有効射程は一〇〇〇メートル。レーザー・サイト付きだ。五○連発弾倉は都合四本、戦闘服の胸にテープでとめてある。
リュックを背負い、おれはゆきの方をちらりとみた。
あきらめたのか、同じ服装に身を固め、屈伸運動に励んでる。渋い顔だった。それでも、拳銃とライフルを除いて装備に変化がないのは見上げたものだ。弾薬やメカ類がおれのリュックに入ってるにしても。
おれたちは何事もなかったように流れる清流に足を踏み入れた。水に変化は生じない。一から十まで探知済みってわけだろう。
鉄の棒は明らかに一種のレバーだった。
川面から一五度ほどの角度で突き出し、全長は五メートルもある。先端はおれの胸あたりに届いていた。赤錆だらけの本体を飾る複雑な模様がおれの眼を捉えた。
動物や人間の浮き彫りらしいが、デフォルメを計算にいれても、正体不明の像が多い。言い伝えによれば、宝物の隠匿年代は鎌倉以降だが、どう見ても日本的思考の産物じゃなさそうだ。かといって、おれの知識にある古代世界美術のどれにもあてはまらない。
「ねえ、これ、恐竜じゃないの?」
彫刻を指でなぞってたゆきが、ずばりと指摘してのけた。
「こっちのは人間らしいけど、おかしな機械みたいなもんに乗ってるわね。ほら、パレンケのレリーフそっくりよ」
それは、おれの眼の前にもあった。なにやら機械らしきものにまたがった男だか女だかの像だが、確かに有名なレリーフと瓜二つである。
ゆきの言う“パレンケ・レリーフ”のパレンケとは、メキシコ南部にある小さな町の名で、一九五三年、メキシコの考古学者アルベルト・ルース博士が、その神殿地下に眠る石棺の表面に発見した浮き彫りが、パレンケ・レリーフである。いまでは土産物屋で売られるくらい有名なこの絵柄は、どうみてもロケットとしか思えない“装置”にまたがった古代インカ人を描いたもので、ロケット工学の専門家がみても、はっきりと装置各部の名称が指摘可能なのだ。例えば、男の右手はしっかりと“操縦桿《レバー》”を握りしめているし、その前には“計器盤”と“酸素ボンベ”が据えつけられ、“座席”の背後では“燃料タンク”からパワーを得た“エンジン”が“排気筒”から“推進ガス”を噴き出している。
問題は、この製作年代が二五○○年以上前ということだ。ロケットなど影も形もなかった時代である。おれたちの知ってるロケットは。
もうひとつ、このレリーフを刻んだ石棺の中には、当然死体が入っていた。調査の結果、身長一七三センチほどの“男性”の骨と判明したのだが、果たしてそいつは、人間だったのだろうか。
「あれこれ詮索してもはじまらねえ。とにかくやる[#「やる」に傍点]ぞ」
おれは力強く宣言し、レバーに右手をかけた。全体重をのせるようにして引く。
案外気持ちよく動いた。一〇センチほど引きおろしたとき、何かが噛み合わさったような手ごたえが腕に伝わり、レバーは停止した。手を離すと、自らゆっくりと沈んでいく。
そいつ[#「そいつ」に傍点]が浮かび上がってきたのは、レバー本体が完全に水中へ没した瞬間だった。
地面と地面がすれ合うような音とともに、川の真ん中から幅二メートルほどの石壁が姿を現し、おれたちの眼前へ立ち上がっていく。壁という呼称を与えた通り、それは水流を縦に二分する壁面を陽光に光らせながら、高さ二メートルほどの位置で上昇を終えた。長さは一○メートルにも達するだろうか。一枚岩を削ったものだ。
だが、驚くべきは、二手に分かれた水の動きであった。おれたちに向かって左手の流れはそのまま、右の水流だけが、壁面にどのような曲率の仕掛けが施されているものか、大きくカーブし、岸辺へと押し寄せたのである。
そびえ立つ岩壁に銀色の光が千々に砕けた。
「ああっ!?」
ゆきの驚愕が耳朶を打った。
水の勢いに敗退でもしたかのように、不動の岩壁は、その一部をゆっくりと後退させはじめたのである。
まず長さ三メートルほどの細い亀裂が入り、徐々にその幅を広げていく。無尽蔵の水はその壁面でとび散る角度を変じ、穿った隙間へも怒濤のごとく躍り込み、二分と待たず、おれたちの眼の前には、幅と高さが等しい正方形の洞窟がぽっかり口を開けていた。
地鳴りが足元をゆすり、
「壁が沈んでくわよ」
ゆきの低い声がした。異常な水流はまたたくまに視界から消え、おれは大がかりな夢を見たような気がした。
「どうするの?」
「弱気だな。待っててもいいんだぞ。おれはそっちを勧める」
「誰が。――あんたに小判一枚だって猫ババされてたまるもんですか」
説得しても無駄だろう。かくしておれたちは運命をともにすることになった。
穴の近くに寄り、左手を突き出す。ガス探査インディケーター、有害細菌スキャンニング・フィルター、ともに無色だ。たとえ赤く光っても、口部の防毒フィルターが無害にしてくれる。空気の成分も異常なしとでた。
おれは入り口の端をそっと撫でた。
見事なものだ。微々たる凸凹もない。後退した扉が密着すれば、つなぎ目もわかるまい。
「行くぞ」
おれはゆきに声をかけ、真四角な穴に身を滑り込ませた。
空気は乾いている。遺跡に特有の黴臭い匂いもしなかった。そう遠くない昔、侵入したものがある証拠だ。
彼ら[#「彼ら」に傍点]はここまで来た。そして、戻らない。
足の下に溜まった水をはね返しながら、おれたちは石の洞窟を進んだ。平坦で歩きやすいのが助かる。
「この穴、自然のもんじゃないわね」
ゆきが背後でつぶやいた。
「さっきの石の壁といい、ここを開けた水の仕掛けといい、ひょっとしたら渓谷全体が人工のものなんじゃなくて?」
おれはうなずいたきりだった。
別に、今度の仕事を甘く見たわけではなく、だからこそ戦闘準備も整えてきたのだが、想定した相手のスケールが桁をはずれていたようだ。
宝の隠し場所というものは、大体において自然の産物――洞窟や湖沼等――に手を加えたものが利用される。戦国時代とか、ひっきりなしの興亡がつづいて明日の運命も見定められぬような場合に限り、専門の隠匿場所をしつらえることもあるが、まあ、既存のものを使用するのが普通だ。
おれもマヤの地下神殿やクノッソス第二迷宮で、太古の仕掛けとやり合ったものの、今回ほど大規模じゃなかった。
それに、もうひとつ、過去の事例と決定的に違う点が、実はおれの頭を痛めているのだった。
多少の凸凹はあってもほぼ正方形の通路を五、六〇メートル進んだとき、背後の光が、ふうっと薄まり、消えた。
振り向く必要はなかった。入り口が閉じたのである。ゆきが金切り声をあげて、
「ど、どうするのよ、大ちゃん! やだ、真っ暗闇じゃない。閉じ込められたわよ!」
「何かあるたびにいちいち驚くな」
おれはうんざりしたように言った。星の光ひと粒でもあれば昼間同様見えるおれの眼も、真の闇じゃ用をなさない。ゆきの気配と体熱が感じとれるだけだ。
「フードには暗視装置がついてる。レーザー方式だから、おまえの腹ん中ぐらい真っ黒でも十分動きはとれるさ。大体、いわくありげなところへ入れば、背後でドアがしまるのは一般常識だ。そんなことぐらいできゃぴきゃぴ言ってたら、胆っ玉が幾つあっても足りやしねえぞ。ま、おまえのは特別硬い鋼鉄製にゴジラの皮でも張りつけてあるらしいから、おれより先にパンクしっこないけどな」
「どういう意味よ、この墓泥棒」
闇の中でゆきが柳眉を逆だてるのが、おれにははっきりとわかった。
「人の顔が見えないと思って。いいこと、今度日なたに出たら今の台辞、眼の前で言ってもらうわよ。断っときますが、こんなことになった以上、あんたには宝を探し出して、しかるのち、あたしを無事に連れ戻す責任が生じたんですからね。宝は見つからない、こんな穴の中で飢え死にだ、なんてことになったら、化けて出てやるわ!」
そうなったら、おれも死んでると思うがね。
これ以上やり合っても意味がないので、おれはフードをひっかぶり、前進することにした。
レーザー暗視装置の効果は覿面だった。
それから二、三百メートルも進んだろうか。異様な感覚が足の裏を突き上げ、おれはゆきの腰を横抱きにするや、一気に後方へ跳んだ。
「こんなとこで欲情するな、変態!」
叫ぶ声は途中で消えた。
着地すると同時に、横手の壁面が幅一メートルばかり――文字通り、おれたちがいた位置だ――物凄い勢いでせり出し、対面《といめん》の壁に突っこんだのである。
大激震だ! と身構えた眼の前で、壁はぽっかり口を開け、巨大な角柱は、あっという間にその奥へ呑みこまれた。壁はたちまちふさがり、角柱の出口も埋まる。新しい角柱がせり出してきたのだ。
あまりの勿体なさに、おれは唖然となった。どういう神経の野郎がつくった仕掛けだ。これは。わかるのは、踏み石が角柱の作動装置を兼ねていたということだけである。
「ま、初歩的な防御策だな。素人ならともかく、ITHA加盟のハンターがかかる罠じゃない」
おれは、きょとんとしてるゆきを元気づけるように言った。そういや、本格的な宝探しは今度がはじめてだ。度胆を抜かれるのも無理はない。
おれは、G11の予備弾倉からケースレス・カートリッジを一発抜き取り、角柱の端にあたる床へ力一杯放った。さっきの感触からいくと、踏み石はフェザー・タッチ――グラムの圧力で作動する。
変化なし。その前方七、八メートルにわたって試したが、無事だった。
「さ、もう引き返せねえんだ。行くぞ」
まだぽかんとしてるゆきの尻を叩き、おれは一メートルの走り幅跳びを行うべく、リュックをおろした。
ジャンプはうまくいった。
先に放っておいたリュックとG11を肩にかけ、おれは、やや正気のゆきを、完全にまともにすべく――半分阿呆の状態でジャンプしてのけたんだから立派なもんだ――尻やバストを触りまくった。刺激を与えて正常に返そうという作戦で、純粋に治療的意図からでたものである。
にもかかわらず、ゆきは鮮やかに、おれの手をすべてはねのけてみせた。
これでわかった。
「いい加減に芝居はやめろ」
おれは、痴呆状態の美貌をにらみつけて宣言した。
「いくらとぼけても、金輪際おぶってなどやらんぞ。二本足で歩くんだ」
「ふん、見破られたか」
ゆきは憎々しげに唇を歪めて正気に戻った。
以後は弾丸に極細のワイヤーを巻きつけ、それを放るやり方で前進し、直線距離で二キロほど、何事もなく過ぎた。位置的には、山腹あたりだろう。よくもこんなどえらい発掘作業をしてのけたもんだ。
そう思ったとき――
不意に、前方へ放っていた緊張の意識が拡散し、おれたちは、かなり広い石づくりの部屋へ足を踏み入れていた。
「わ、宝よ」
ゆきの指さす方を見るまでもなく、おれは五メートルほど離れた石の台座に並ぶ、五個の木箱に気づいていた。千両箱半分ほどの大きさだが、その口からてんこ[#「てんこ」に傍点]盛りに盛り上がり、台座ばかりか床にまで散乱している色とりどりの光の粒は、宝石に違いない。
らったったあ〜〜〜と叫びながら駆け寄ろうとするゆきを片手で制止し、おれは用心深く台座に近づいた。
おかしな仕掛けはないようだ。深い溝のような可動部分らしきものは見当たらない。
台座の宝石――紅玉石《ルビー》を手にとり、とっくりと観察する。本物のようだ。光具合と大きさからみて一粒三千万円は下るまい。これだけのものを集められるのは、一人の超権力者の横暴がまかり通った時代――それも古代に限る。
「ねねねね。山分けしましょ。あたし、ルビーとサファイアとダイヤ貰うわ。大ちゃんは、エメラルドと真珠ね」
口の端から泡吹きながら、ゆきは宝石を鷲掴みにするや、おろしたリュックへ詰めこみはじめた。ちらりとおれを見て、
「どうして頂戴しないの? 要らないんなら、あたし貰っとく」
「好きにしろ」とおれは意味ありげに笑った。「ロールスロイスを前にして、お子様用の三輪車で満足するのは真っ平だ」
ゆきの手が止まった。
「こういうのをおとり[#「おとり」に傍点]ってんだ。素人や新米のトレジャー・ハンターがよくひっかかるぞ。その挙げ句、拍子抜けしちまって、あっさり次の仕掛けにやられちまう。本物の宝は、次の扉の奥にあるのにだ」
「ほんと?」
ゆきは疑い深そうな眼でおれと宝石を交互に見つめた。目先の欲と未来の黄金に眼球が血走っている。
「んなもの全部持って帰ったら、重くて敵わねえ。大物を見つける前にへばったら、本命はみな、おれが貰っとくぞ。外へ出さえすりゃ、またいつでも取りに戻れるんだ」
「じゃ、少し残す」
ゆきはあっさり言って、リュック内の宝石をもとの箱へ戻しはじめた。ふむ、五、六粒ならよかろう。どっちが得か、ちゃんと計算してやがる。
入ったときから四方へ気を配っていたが、この部屋にはおかしな仕掛けはなさそうだった。そのくせ、何かすっきりしない。こういうときは要注意だ。
入り口と反対側の壁に出口らしき空間が開いている。
おれは足音を忍ばせてそちらへ向かった。
最初の通路と同じくらいの廊下へ出た。前のほど不愛想なつくりではなく、妙に顔の長い石像が左右に並んでいる。どれも身長は一九○センチ近い。手に手に石の剣を握っているのがおれの気にさわった。
「なによ、このニコニコ坊やたち。気味が悪いわ」
ゆきが文句を言った。なるほど、石像の顔は笑ってると見えないこともない。
「早く行こうよ。なんで突っ立ってるの?」
「安全装置を点検しろ」
おれはこう言って、G11を構えなおした。
「手榴弾もだ。すぐ投げられるようにしておけ」
ゆきがうさん臭そうに、
「何かいるの?」
「わからん。妙な気分がするだけだ」
「んが」
それでも、M16A1ライフルを点検したのは、ゆき自身、何かを感じたのかもしれない。
石像の列は約二○メートルにわたってつづいている。長い。
おれは歩きはじめた。ゆきは後ろ向きについてくる。
一○メートルほど進んだとき、眼の前に影が滑り出た。想像してたから驚きはしないが、石の像が近づいてくるというのは、やはりどこか気味悪い。
「大ちゃあん」
ゆきの情けない声を聞くまでもなく、事態は了解できた。前後を塞がれたのだ。
どういう仕組みになってるのか、さっき見たときはちゃんとくっついていた両足を前後に動かし、冷たい石の貌《かお》に無機質の殺意を込めて、石像はぎりぎりと右手を上げた。
小気味よい連続発射音が背を打った。ゆきの連射だ。間髪入れず、おれも引き金を引いた。
石像の頭部が爆発したように吹きとぶ。材質はただの石らしい。炸裂弾の威力は米軍用手榴弾の約半分、G11は三点連射《バースト》に合わせてあるから、一個半の直撃を受けたことになる。
石剣を振り上げたままの姿勢で、像は停止した。
「やったあ!」
ゆきも成果を上げたらしい。M16A1はマガジン・スリングなしで重量二・九四キロ、世界一扱いやすい軍用ライフルなのだ。
「走るぞ!」
言うなり、おれはダッシュした。ガタン、ガタンと動き出す影を横目で見ながら突っ走る。
あと五メートル。
左手に殺気。本能的に手を上げた。手首に鈍い衝撃が走る。大半はハード・ゲルが吸収したものの、押しつける力は減じなかった。身を屈めて流し、そのまま走り抜けながら振り向く。石像の列は脱けたが、今度はのこのこと近づいてくるところだった。
おれたちは迸る火線で迎え討った。
先頭の何体かの頭が四散し、胴が真っぷたつに裂ける。停止した身体を押しのけて迫る後続部隊。きりがない。
「ゆき!」
おれは胸につけた手榴弾をはずしながら、叫んだ。
「承知!」
震え上がってるかと思いきや、はずむような返事がはねた。この娘も、戦いに湧き立つ血潮をもっているのだ。右手でM16を撃ちまくりながら、手榴弾をはずして口へもっていく動作はおれより速かった。丸いプルリングをくわえて安全《セフティ》ピンを抜き、安全桿《セフティ・レバー》をはなす。撃鉄《ストライカー》が雷管《ブライマー》を叩いて延期薬《ディレイ・エレメント》に点火。
よたよたと迫り来る敵までは三メートル。投擲姿勢の必要はなかった。
おれはゆっくりと三つ数え、下手投げの要領で二個の手榴弾を放った。ゆきも同数だ。
床に伏せ、頭をかかえる。
地軸を揺るがす衝撃と轟音が全身を覆った。かなりの勢いで石片が身体を打つ。普通ならめり込んでる距離だが、戦闘服の金属繊維内に仕込んだ薄さ○・一ミリの剛性粘物質《ハード・ゲル》はあっさりと衝撃を吸収してくれる。
破片を払い落としつつ立ち上がった眼の前に、動くものはなかった。
生ける石像群は、原形も留めぬ石塊と化して、廊下を埋めていた。
「凄い威力ねえ。気に入っちゃった、これ」
ゆきが惚れ惚れと、右胸に残った手榴弾を撫でた。ITHA装備課がG《グレート》クラス以上の会員に限って販売を許可してる特製で、威力は米軍用の三倍――三発分もある。戦車は無理でも、十三トン程度の七三式装甲車ぐらいは転覆させられるだろう。それが四発――計十二発分。石とはいえ、おとなしくなるのも無理はない。
おれは足元に落ちてる破片を拾い上げた。片方は剣尖だが、もうひとつは丸石を二個組み合わせた品で、どちらもぎざぎざが噛み合って回転するようになっている。多分、歯車だろう。こういうのも機械《メカ》仕掛けというのだろうか。
「さあ、次はなあに? 矢でも鉄砲でももってらっしゃい」
M16を肩づけしたゆきが、左右に銃口を振りながら宣言した。戦闘服と手榴弾の威力に百万の味方を得た気分らしい。放っとくとやたらに撃ちかねない。
おれは銃身に手をあてて押し下げ、通路の奥を指さした。
「な?」
「うん」
おれたちは半分だけ意気揚々と歩き出した。
「ところでさあ」とゆきが朗らかな声で話しかけてきた。「かなり凄い相手に出くわしたけど、あたしたちの前に入ったって人たちも、あれをうまくくぐり抜けたのかしらね? 死体がひとつも見当たらないじゃないの」
「最初の張り出し石柱にぶちあたった奴は、反対側の壁の中へ吸いこまれる仕掛けだ。石のフランス人形とちゃんばらして負けても、同じ眼に遇うんじゃないかな。よくみたら、二、三体欠けてたし、さっきの石の剣尖には血みたいな染みがついてた。あそこまで来れたら立派なもんさ。奴らが、おれたちと同じ装備をしてたとも思えねえ」
「そうね」
ゆきは納得し、すぐ、次の質問に移った。
「あのさ、思うんだけど、この地下のお城ね、どうしても、単なる宝の隠し場所には見えないんだけどな。宝を隠すっていう以上、埋めた当人かその子孫が後々、取り戻しにくることを前提にしてるわけでしょ。だったらさ、もっと簡単なつくりの方が便利に決まってるわ。この廊下にしたって無意味に長すぎるわよ。防御の仕掛けも、もっとひとつにまとめといた方がよくはない?」
ほう。おれは唇がほころびるのを感じた。半分色気狂いでも金の亡者でも、この娘の祖父は太宰先蔵なのだ。
「いちいちごもっともだ。おれもそう思う。実は、一番気になってたのもその点さ。どう考えても、これは、宝を護るためだけ[#「ためだけ」に傍点]の装置じゃない。黒く変わった川の水といい、あのレバーといい、な。第一、宝探しを抹殺するための洪水を起こしといて、それが済んだら、秘密の入り口を開けるための桿《レバー》を突き出すなんざ、不自然もいいところだ。考えられるのはただひとつ。わざと招き寄せたのさ」
「わざと――!?」ゆきが眉を吊り上げた。「そんなことして、万がいち、宝盗まれたらどうする気よ? 黙ってりゃわからないじゃないの。そりゃ、あのお邪魔石も不愛想人形も、凄い仕掛けなのはわかるわよ。お金だってかかってるし。でも、いったん、内側へ敵を引き入れたら、こりゃ、やっぱり、まずいわよ」
「その通りだ」
おれは全面的に賛成した。
防御策というのは、あくまでも次善の手段に留まる。財宝隠匿において、全智全能をふりしぼっても遵守すべき大原則は、見つからぬことである。いかなる巧妙な防御策も、これにしくものはない。前述したマネー・ピットのごとき例外を除いて、現在なお、存在は確認されていながら、発掘者の血と汗を嘲笑しつづけている秘宝の共通点はすべてこれ[#「これ」に傍点]だ。これひとつである。
源義経の埋蔵金も、小栗上野介《おぐりこうずけのすけ》の軍資金も、人目につかないからこそ、永劫の眠りを貪っていられるのだ。
それなのに、今回の埋蔵者は、いともたやすく、おれたちをそのふところへ招き入れた。
これで首をひねらん奴にトレジャー・ハンターの資格はない。
「どうして、わざわざそんな真似すんの?」
もっともな質問だった。おれは口をつぐんで歩いた。解答はあった。あまり、口にしたくないのがひとつ……。
おれの気分を察したか、ゆきもそれ以上問いつめずについてきた。
三、四百メートルも進んだ頃、おれは妙な不安感に腹の中がむずむずしはじめた。
どうもおかしい。
左手の検出器を見たが、空気におかしなものは混じってないし、謎の怪電波が充満してる様子もない。なのに、おれの身体器官は、明らかに異様の兆候を示していた。
四方は蜿々《えんえん》とつづく石壁の連なりだ。
待てよ、これと似たような現象を本で読んだことがある。確か――
記憶が閃く寸前、ううっと、何かこみ上げるような音が背後でした。
ゆきが腹を押さえて倒れるところだった。
「どうした!?」
駆け寄って抱き起こす。
「わかんない――急にめまいがして。吐きそうよ……」
「どんな感じだ?」
「後楽園のジェットコースターの百倍すごいやつに乗った感じよ。それと――」
「それと――」
いきなり、二本の腕がおれの首を巻いた。M16を打ち捨て、がむしゃらにしがみついてくる。身動きがとれなくなっては危《やば》い。おれは素早く身をひねって脱け出し、なおも伸びてくる両手首を片手で握った。
「どうしたんだ、落ち着け。こんなところで精神失調にかかったら――」
絶句を招いたのは、自分で口にしたそのひと言だった。精神失調――そうか!
おれは細心の注意をこめて周囲を見回した。平坦な床と天井、垂直に走る壁。――各《おのおの》の描く線は完全な正方形を構成し、その無限の連続こそおれたちの辿る道だ。――いや。
「目を閉じろ。いいというまで開けちゃいかん」
おれはゆきのマスクをはずし、脂汗の噴き出た顔を胸に押しつけた。
「怖いのよ」となまめかしい唇が喘いだ。「怖いのよ。急に……あたしもう、進むのは嫌……帰りたい」
そんなことできるものか。
おれはゆきの言葉を無視し、左肩を貸して立ち上がらせた。リュックとM16は右肩にかける。動きが規制されるがやむを得まい。
おれも固く眼を閉じた。
一〇メートルと歩かぬうちに、ゆきが悲鳴をあげて、跳びすさった。
喉をかきむしり、戦闘服のジッパーをはずす。青いブラに包まれた乳房の膨らみは見事なものだったが、見惚れてる場合じゃない。
「呼吸《いき》が、呼吸ができない。大ちゃんどこにいるの――助けて」
レーザー暗視装置をとれば、周囲は暗黒だ。やはり間に合わなかった。ゆきはもう精神のバランスが完全に崩れてる。
駆け寄ろうとしたおれの前で、ゆきは身を屈めた。
ひょいと上がったその顔。
眼尻は吊り上がり、かっと見開かれた瞳は狂気の色を湛えておれを見据えていた。唇の端から唾液の糸がしたたって、白い胸に筋をつける。
びゅっと白刃が眼の前を薙ぎ、おれは軽くスウェイ・バックしてかわした。G11もゆきの荷物も捨てる。
「寄らないで……あたし、呼吸ができないんだから」チタン鋼のナイフ片手に、ゆきは唸るように言った。「これから、喉を裂くからね。そうすれば、空気が入ってくる……きっと楽になるわ」
逆手に握ったナイフが喉まで上がる。おれが待っていたのはこの一瞬だった。
右手が電光の速さで閃いた。
ホルスターからCZ75を抜き、腰だめでぶっ放す。
銃声と金属音が重なり、ゆきの右手からナイフがすっとんだ。
距離二メートルとはいえ、絶妙の射撃と誇っていいだろう。右手がスタートしてから火を噴くまで、○・一秒かかっていまい。ちなみに日本最高記録は、コルト・SAA《シングル・アクション・アーミー》で出した○・〇七秒である。
おれは素早くゆきに走り寄り、顎に軽く右パンチを叩きこんだ。脳震盪を起こして崩れかかるのを左肩で受けとめ、そのままひっかつぐ。手間のかかる女だ。
M16とリュックをとろうと身を屈めた途端、クラッときた。言いようのない不安と怒りが胸の中で爆発する。
一から十まで手間どらせやがって。
おれは本気でゆきを憎悪した。これまで蒙った迷惑が一気呵成に脳裡を横切る。
上半身むき出しの身体を床に横たえた。
肩紐《ストラップ》がはずれかかったブラの上から、豊満な果実を鷲掴みにする。
「あ……」
ゆきは小さく喘いで唇を震わせた。殺意に倍する欲情が腹腔から湧き上がり、おれは腕に力を込めた。柔らかく張りのある肉の山に、指先がめり込んでいく。
身悶えする喉を左手が押さえた。
みるみる力が加わる。ゆきの唇の間から舌がはみ出した。必死に両手をのばしておれの左手をもぎ放そうとする。
いかん。一体全体、どうなっちまったんだ!?
束の間、正気を取り戻せたのは、おれ自身の意志とヨガで鍛えた精神力のおかげだった。
ブラを剥ぎとりにかかってる右手へ精神を集中し、かろうじて引きはがす。くそ、惜しいな、と思った途端、元に戻りかけたので、あわててもう一度、ひっぱがす。
その間も左手には力が加わる一方で、ゆきの顔は蒼白と化していた。ボリュームたっぷりの身体がねじれ、太腿が空を切る。フィットした戦闘服は身体の線を浮き彫りにするから、たまらなくセクシャルな眺めだった。
右手が左手首を掴んだ。何しやがる。
よさんか、こら、と良心的なおれがわめいた。
やかましい。こんな厄病神、殺さずにおくものか。
そうはさせねえ。
阿呆。生かして得する理由でもあるのか?
ふむ――ねえな。
なら、絞めちまえ。せいせいするぜ。
よし――いかん、いかん。さっさと離さんか。
この偽善者め。ようし、殺す前に犯せ。それで妥協しろ。
そうしたいのはやまやまだが、そうもいかんのさ。おれにはたったひとり、尊敬する人物があって、こいつはその孫娘なんだ。
だからどうした、おセンチ野郎。それなら、手前が身替わりだ。
左手が凄まじい力でブーツの方へのびていく。目的はナイフだ。右手で押さえようとしたが、遙かに強靱だった。おれは、震える指がナイフの柄を掴み、ゆっくりと上昇してくるのを長いことかけて見つめていた。
眼を閉じて呼吸を整える。
ナイフはすでに喉の前で逆手に握られ、突進を待つばかりであった。
ぐいと引かれる。
左手に渾身の力がこもった。どうすることもできない。
刃は凄まじい勢いで逡巡を切り裂き、喉にぶちあたった。金属繊維とハード・ゲルが切尖をはね返す。
おれは思いきり息を吐いて、右手をひねった。
手首のきしむ苦痛が脳の奥を灼き、狂気を打ち砕いた。四方を見ぬよう固く眼を閉じ、その場に膝をつく。
へたり込むわけにはいかない。この通路に留まる限り、狂気はおれたちを蝕むのだ。
おれは全精神力を集中して自己催眠状態に入り、ゆきと荷物を肩にかつぐと、大股で廊下を前進した。
視界が闇に閉ざされていると、足の裏から特殊な感覚が伝わってくる。これが狂気の原因だった。
廊下と壁と天井が、微妙に歪んでいるのだ。
精神病理学の分野では有名な症例に、セネガル共和国のリンゲールで起きた「バイファップ家殺人事件」がある。一九二七年の真夏、その家の長男がライフルを、父親が手斧を持ち出して、残る家族四人を惨殺し、お互いも殺し合いの結果死亡するという惨劇で、原因は家の歪みにあることが判明した。
視覚には感知できぬほどの天井のずれ[#「ずれ」に傍点]が、壁の歪みを生み、親子を狂気に走らせたのである。しかも、近所の連中の話から、一家六人は半年も前から様子がおかしく、特に長女と次女の二人はとうの昔に発狂していたことが明らかになった。
おれとゆきを狂わせたのは、その現象を数百倍――なにせ、この通路に出てから二キロ、四○分も歩いているのだ――も増幅させた仕掛けだったろう。廊下が長いのはこのためだ。そして、太古の建築技師は、近代病理学がやっと六○年前に探り当てた症例を心得ていたにちがいない。
闇雲に突っ走るおれの足が、ようやく平坦な大地を認めるまで、二時間を要した。
殺気がないのを確かめ、そっとゆきとリュックをおろす。
気分はすぐれなかった。いやな予感がつづいている。
眼を開ける前からわかっていた。
おれたちがいるところは廊下の突き当たりだった。猛烈な解放感に血液中の興奮が引いていくのを、おれはかろうじて押しとどめた。この一瞬をつかれたら致命的だ。
かと言って、前進も不可能だ。
想像を絶する太古の知恵も、大自然の猛威には抗すべくもなかったのか、崩れ落ちた石壁の背後から、これこそ途方もない大岩塊の黒影がのぞき、通路を塞いでいたのである。
背後から追ってくるものがいないのを確かめ、おれは休憩をとることに決めた。まず、ゆきを正気に戻さなければ、手も足も出ない。
腰につけたサバイバル・キットから特製の精神安定剤カプセルを取り出し、水筒もはずした。
ゆきは気絶したままだ。起こすのも可哀相だから口移しにしよう。
赤い貝殻みたいな唇をそっと指で押し開け、カプセルを押し込むと、おれはフードを鼻の下までめくり、勢いよく水筒の水を口に含んだ。
そっと唇へ。むふふ。
気絶しててもゆきの吐息は甘かった。
気分を出して眼を閉じ、構わず前進しようとした刹那、おれはばち[#「ばち」に傍点]っ! という音を耳の奥できいたような気がした。
ゆきの眼蓋が開く音だ。
ぱっと身を離した鼻先を、ぶん! と平手打ちが薙いで通る。
悲鳴はそれから上がった。
「何すんのよ、このど助平。ひとの意識不明をつくなんて、卑怯だと思わないの!? 飯沢先生に言いつけてやるから!」
おれのクラスの担任だ。
「阿呆、あいつにも買収の魔の手を伸ばしてあるんだ」
おれは、いきなり水を飲みこんだせいで、ガボガボという腹を押さえながら言った。
「下の子供を私立の中学へ入れたがってるし、家のローンもたまってる。不二家のケーキの箱に札束隠して挨拶にいったら、嬉しさのあまり、座敷でとんぼ返りしてみせたぜ」
「嘘おっしゃい」
ゆきは頭を振って起き上がった。顔色は悪いが、声も眼つきもしっかりしてる。気がついたときに、薬は水なしで飲んじまったらしい。まだ効いてるはずはないから、恐ろしい精神力だ。
あの現象は何だったのと問うゆきに、歪みの説明を施し、おれは次の行動準備を整えた。
腹ごしらえと突貫工事だ。
手榴弾を三個取り出して胸につけ、食料のパックをゆきに放る。
まだ気分が悪いのか、苦い顔で蓋をとり、ゆきはもっと渋い表情をつくった。
「やだ。まずそ」
自分の分を開けながら、おれは苦笑した。小さな辞書程度のパックは三つに区切られ、オレンジと緑と白のペーストが詰めこまれているばかりで、食欲をそそる要素は皆無だ。
ぶつぶつ言いながら、付属のプラスチックスプーンでひとすくい口へ運び、ゆきは目を丸くした。
「あらあ、いけるじゃないの、これ!」
「そうだろ。ITHAの特製弁当だ。赤いのがシチュー、緑は野莱サラダで、白いのはパンのエキスさ。見てくれは最悪だが、味とカロリー、満腹感は保証付きさ」
「ふむふむ」
おれは猛スピードでペーストを胃に流し込み、水筒の水をひと口呑むと、リュックから溶解液のボンベを引っぱり出した。
以前、日本橋の地下で岩と土とを溶かした品に改良を加え、三倍近い威力が発揮できるようになっている。つまり、分量も三分の一で済むということだ。プラスチックのホースとノズルを取りつけ、岩塊に近寄った。念のためフードをひっかぶる。
一気にバルブをひねった。
半透明の水流が接触すると同時に、黒い質量はみるみる白煙をあげはじめた。濡れそぼる土塊《つちくれ》と化して、水圧に押され、石の床にわだかまる。以前の品より威力が増した分、硬化速度は鈍いから、すぐに踏み込めない。ラバー・ソウルの靴などまばたきする間に溶けてしまう。
幸か不幸か、岩壁と向かい側の壁には、幅三○センチくらいの隙間が開いていた。そこを広げれば事は済む。
ボンベ二本を空にした時点で、ぎりぎりおれが通れるくらいの通路が抜けた。
まだどっかふらついてるゆきを立たせ、おれたちは穴をくぐった。
出るとすぐ、石段が下方へつづいていた。
だが――
おれは立ちどまったきり、しばらく動けなかった。
暗視装置には、下方の通路を埋める水面が白々と広がり、石段は不気味に静まり返ったその淵へと姿を消していたのである。
「今度は水か。――一難去ってまた一難ね。どうするの?」
「愚問だな。引き返せねえ以上、行くしかあるまい。渡河訓練と思え」
こういうとき、完全密閉の戦闘服は実に便利だ。おれはブーツから抜いたナイフをベルトにはさみ、ブーツの端を服に押しつけた。密着テープが繊維にくっつき、それで水の一滴も入ってはこない。はずすときは、外から軽くひっぱればOKだ。内側でどんなに暴れてもはずれない。
どこまで水がつづくかわからないため、三錠――六時間分の固型酸素と同量の体圧調整剤をのみ、リュックから、ガス銃を取り出す。
高圧酸素で射ち出される全長三センチ、太さ二ミリほどのシリコン針は、炸裂弾同様、先端に感知信管《センシング・プライマー》、本体内に炸薬を詰めて、敵の腹の中でドカンといく。ジョーズ級の大鮫でも、三発食えばKOだ。弾倉には一千本が収まり、単発、三連射、フルオートと切り換えがきく。一見、アメリカン・ルガー風の本体最後尾に収まった高圧酸素ボンベは、五千発まで連射が可能だ。水中のみならず、近距離なら地上でも恐るべき威力をもつ武器といえる。
ゆきがかたわらで、食料パックくらいの紙束を取り出し、突起の栓を引き抜いた。
びしゅうっ! と空気が鳴り、眼の前で紙束が跳ねた。みるみるある形を整えていく。自分でそうしておきながら、ゆきの眼には感嘆の色が浮かんでいた。
猛烈な空気吸収システムによって、紙束が文字通りの紙舟になるまで、二○秒とかからなかった。
厚さ〇・〇一ミリに満たぬ箔のような薄紙だが、一平方メートルあたり五トンのパルプ材を消費し、表面の特殊コーティングで浸水は絶対にない。ゆきが楽々と片手でひっくり返し、これだけは金属性のモーターを紙製のスクリューに取りつけているうちに、おれは水中へ全神経を集中した。
精神を空に保ち、流れ出る生命反応を吸収する。
足元の淵から前方へ。
異常なし。
五メートルまで……異常なし。
一〇メートル……異常なし。
一五メートル……二○……二五……
何とも形容し難い冷気が面貌を打った。
いる[#「いる」に傍点]。
水の中に。身動きもせず、呼吸《いき》もせず……
ひたすら待ちつづけて……
「用意できたわよ」
ゆきが疲れたような声で告げた。
「どうしたの――行くんでしょ?」
戻り道がないと言ったのは、おれだったか。
おれは無言でボートに乗り移った。
リュックを降ろそうとしてるゆきに、背負《しょ》ってろと命じる。
「なんでよ? もうくたくたよ。楽しい船旅に、重い荷物は禁物でしょ。それともあれ? 水の中に何かいるの?」
「ばれたか」
ゆきは蒼白になりかけ、すぐ細っこい眼でおれをねめつけた。
「ふん、うまいこと言って。その手にのるもんですか」
「はっはっは。とにかく、荷物は離すな。何かいたら[#「いたら」に傍点]ことだ。従って、エンジンも使用中止。オールで漕ぐ」
ゆきはふくれっ面をしたが、おれは構わずリュックの横についてる細い棒を一本手渡した。横のボタンを押すと、山型のフィンが左右からとび出し、インスタント・オールになる。
おれは右舷、ゆきは左舷から漕ぎはじめた。
天井の高さは水面から二メートル。地下通路も上と同じ構造だとすれば、水深は一メートルほどだが、内側《なか》の様子がわからなくては一万メートルの深海と危険度は同じだ。
まして、下に何かいる[#「いる」に傍点]ときては。
だが、おれにはひとつの疑念があった。どうみても、この地下道は水路じゃない。水はずっと後から、多分、あの大岩を招来した地殻変動の際に侵入したものだ。すると、水中にいるやつも、予定[#「予定」に傍点]されてた罠にあらずってことになる。
どこから来たのか?
この山に棲む物の怪か?
水中でも生きられる「防御策」のひとつなのか?
ボートは階段から一○メートル離れていた。
一五メートル……
二○メートル……
二五メートル……いる。
下にいる。かなりでかい。
そうっといく手だ、ゆき。そうっと……。
三○……まだ[#「まだ」に傍点]いる。――こいつは大物だぞ。
一○メートルほど前方に不吉なものが見えてきた。
石壁――行き止まりだ。
秘密の扉か、あるいは、別の通路があるのだ。水の下――奴[#「奴」に傍点]のいるところに。
「どうするの、大ちゃん?」
ゆきが訊いた。やはり何か感じるのか、声は低い。
おれは答えず、ボートを進ませた。
石壁に着いた。
ただの壁としか思えない。溶解液を使うにしても、もうひとつの可能性を探ってからにする方が利巧だ。
「ボートを石段まで戻せ」
「どうしてよ?」
「おれは下へ潜る。おまえは石段で待ってるんだ。おれの身に何か起きたら、――仕様がねえ。ひとりで何とかしろ」
ゆきの眼に涙が溢れたので、おれはびっくりした。
「嫌」
と濡れた眼でおれを見つめたまま首を振る。そんなことしてる場合じゃないんだがなあ。
「大ちゃんが死んだりしたら、あたし、あたし……」
「宝を手に入れづらくなる――か?」
おれは憮然と言い放った。わめき散らしたいところだが、下で耳をそばだててる奴がいる。
「せめて宝の有り場所までは生きてて頂戴ね――はいはい、承知しましたよ」
「ふん、わかってりゃいいのよ」
ゆきはあっさり涙を引っこめ、唇を歪めた。しょっ中やられるもんで、おれはこの表情に愛着さえ覚えはじめている。どうやら、涙を出したり引っこめたりしているうちに、その出す量やタイミングまで自在に制御できるようになったらしい。器用な女だ。
「で、どうすりゃいいのさ?」
「言った通りだ。戻って、石段のとこで待機しろ。この距離ならM16よりガス銃の方が扱いやすい。おれがおかしな奴と格闘でもしはじめたら、そいつを射つんだ。いいか、普段の怨みつらみなんざ想い出すんじゃねえぞ」
おれが狙われちゃえらいことだ。
ゆきはにやりと笑った。
「承知いたしました」と言いながら、そっとガス銃のボディを撫でる。ま、宝の隠し場所へ着くまでは、おかしな真似はしないだろう。
不吉なことを考えるのはよして、おれはそっとボートを戻した。
ここにゆきを置いて潜ればいいものを、なぜ二重手間をかけるのか?――おれにもわからん。永遠の謎だ。
ボートは再び魔の水域にさしかかった。
動くなよ、動いてくれるなよ。
下にいる。じいっとおれたちを見上げている。
石段が近づいてきた。
あと二〇メートル。
一九メートル。
動いた。
上がってくる!
「早く漕げ!」
叫んだ途端、ぐわっとボートが持ち上がった。身体が左へ流れる。あっという間におれたちは水中にいた。
凄まじい水泡の中で、おれは眼を開けていた。水は自動的にフィルターでブロックされる。呼吸は固型酸素まかせだ。
黒いものが五メートルほど前方を泳いでいる。小さなマッコウクジラのような体形だが、もっとずんぐりして気味が悪い。体色は灰色だ。
それよりもおれの心臓を鷲掴みにしたのは、二、三メートル下の床に散らばってる白い破片だった。
人骨だ。行方不明になった連中の成れの果てだろう。
ふと、感嘆の気持ちが湧いた。
彼らもここまでやってきたのである。だが、おれはもっと先へ行く。
もうひとつ、正体不明の生き物らしい骨があった。これでこの地下道の謎がとけた。もともと、ここに潜んでいたのは、骨になった奴だったのである。それが地殻変動で、別の――いま、おれと折衝中の奴が割り込み、死闘の挙げ句、先住者を食い殺して後釜に居すわってしまったのだ。どっちにしても、おれには迷惑この上もないがな。
そいつ[#「そいつ」に傍点]が迫ってきた。ほとんど球形に近い鼻面の下で、かっと細い裂け目が開く。
おれは容赦なくガス銃の引き金を引いた。
フル・オートが音もなく咆えた。
泡を引いてとぶ銀色の閃光が忌わしい肉塊をはねとばす。つづけざまに火花があがった。炸裂弾の威力である。黒っぽい色が水を染めていく。奴の流した血だ。
巨体が遠ざかるのを見すまし、おれは隣を見た。
ゆきがいない。振り向くと、さっさと石段の方へ向かって泳いでいる。
よし! と思ったものの、露骨にやられると孤独だ。
おれはガス銃を構えなおした。
黒い影が迫ってくる。
おれは二連射を放った。手ごたえあり。だが、敵は停まらなかった。さしちがえる気だ!
おれは思いきり右へ跳んだ。
鼻先を黒い壁がかすめる。
そいつには眼があった。暗い、無慈悲な、残酷性だけを秘めた瞳が、じっくりとおれを見つめて流れすぎる。
必死で水をかきながら、おれは左手で焼夷手榴弾をはずした。
奴はまた向かってきた。ガス銃を捨て、指で安全リングを引き抜く。安全桿をはじきとばして構えた。
距離三メートル。
おれは左足を大きくはね上げた。
奴はそれ[#「それ」に傍点]をおれだと思ったかもしれない。巨大な口ががちんと噛み合わさったとき、音もなく砕けたのは、床の骸骨だった。
足ですくい上げたそれを、おれは手榴弾ごと奴の口へ叩き込みざま、身をひねったのだ。生者の役に立って彼[#「彼」に傍点]も満足だろう。
三メートル先で反転しかけた巨体がぐっと膨張した。まばゆい光が皮膚を破って噴き出す。焼夷手榴弾内のテルミットが火を吐いたのだ。六〇○○度の炎が奴の腹わたを灼き尽くさんと荒れ狂っている。
突如、どす黒い水中に巨大な火球が出現した。
黒い肉片と油煙とをまきちらしながらのたうち、壁と床に激突する。
やがて、その動きが断末魔の痙攣に変わり、目もくらむ閃光が水中で停止したのを確かめて、おれは水を蹴った。
眼の前に転覆したボートがある。
その向こう――階段の上で、ゆきがにっこりと手を振っていた。くそ。
ボートを元に戻そうと手をかける。
あれれ……ゆきが遠ざかっていく。
おれの身体が引かれているのだ。
ゆきが立ち上がり、向こう側の壁を指さして何か叫んだ。
急激な水流に巻きこまれながら、おれは見た。壁が開いている。
水はそこへ流れこんでいるのだ。
焼け死んだあいつ[#「あいつ」に傍点]の断末魔の動きが、どこかにあった開閉スイッチを押したのだと思う間もなく、おれはどす黒い流れに運ばれ、猛スピードで新たな展開を告げる一室へと放り込まれていた。
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第三章 山中へ
水に自由を奪われながらも、おれの眼は的確に周囲の状況を識別していた。
扉の向こうは部屋だった。
床へ押し流されながら、おれは両足に力をこめた。水流に抵抗しつつ停止する。右横をボートが滑っていくので、手をのばして停めた。
立ち上がりかけるところを、後ろからでかいのがドン、と背中にぶつかる。言うまでもなくゆきだ。おれと離れ難いわけじゃなく、宝を独り占めにされるとでも思ったんだろう。
「ねえ、大ちゃん、無事? 怪我しなかった?」
「ああ。おかげさんでな」
「わあ、よかった」
お互い、苦笑しながら、おれたちは周囲を見回した。猿芝居もいいところだ。
「あったあ!」
ゆきの叫びは、おれの認識より早かった。
だだっ広い、ホールとさえいえる床の真ん中に、底の方は水に浸したままそびえる黄金の山……
とはいかなかった。
円形の台座に置かれているものは、一○センチ四方ほどの青錆びた銅板だったのである。
他にはない。きれいなほど何もない。ひしひしと身に迫る石の重圧だけだ。
ゆきが血相を変えて、
「ちょっと、何よ、これ? ここもカムフラージュ用の部屋なんでしょうね。あの板が宝だなんてことになったら、あたし、宝石とりに戻るからね。当然、あんたにも付き合ってもらうわよ!」
おれは肩をすくめたきりだった。長年の経験からいえば、ここが到達点――宝の隠匿場所にちがいない。
しかし、おかしい。
これが、この銅片一枚が、伝説の宝だろうか。
おれは銅板の価値を疑ってるわけじゃなかった。
超LSIを埋め込んだ一枚のチップの価値は、ネアンデルタールにはわかるまい。一○センチ角の板に、世界を震撼させる呪文が刻み込まれている場合もあり得るのだ。
おれの疑問は、この山の財宝にまつわる噂の少なさだった。古代の何者かが膨大な砂金と宝石とを埋めたらしい[#「らしい」に傍点]というだけで、宝物伝説につきものの華やかな虚飾がまるでないのである。
宝には、故事来歴を記す噂がつきものだ。真偽は不明のまま、大和朝廷以前に栄えた古代王朝の金銀財宝だの、明智光秀の隠した金の延べ棒だの、隠れキリシタンの布教費用だの、それこそ枚挙にいとまがない。
こういう場合はえてしてガセネタが多く、ひとつに絞りきれるものほど真実性は高い。ところが、今回に限り、これが当てはまらないのだ。
何かを埋めれば、尾ひれ羽ひれがついて、どこかの因業婆ァの隠した小金が、百万両の大判小判に化ける。
だが、たった一枚の銅板が「砂金」と「宝石」に限定されることはない。絶対にない。噂や伝承になるとすれば、確実性のない数多くの説を生み出すはずなのだ。
それが今回は、「砂金」と「宝石」に決まっていた。
誰かが、そう言いふらし、言い伝えてきたのだ。
おれは茫然と宙をあおいだ。想像を絶する大質量の石壁とその彼方から、とてつもなく巨大な薄笑いが向けられているような気がした。
「ちょっとぉ、しっかりしてよ」
ゆきが背中をこづいた。
「仕様がない。あれもってくわ。大ちゃん、出口探しといて」
言い残して、トコトコ台座に近づいていくゆきの手を、おれはあわててひっつかんだ。
「なによ、こんなところで」振り向いて抵抗した。「一段落したからって変な真似しないで。後よ、後。あたしが欲しいんなら、それなりの手順を踏んでちょうだい」
「何を吐《ぬ》かすか、このど淫乱。あの板を動かすのは、出口を探しあててからだ。手にとった途端、スイッチが入って天井でも崩れてきたら敵わねえ」
おれはゆきを放り出し、点検に向かった。とびかかろうと身構えたゆきも、尋常ならざる気配を察し、その場に凝固する。
ぐるりを詳細に点検したが、出口と覚しきものもそのスイッチも見つからなかった。すると戻るしかないか。そのときはそのときだ。
おれは最後のつめにかかった。
ゆきを侵入孔の前に待避させ、そっと台座に近寄る。
足裏と指先に全神経が集中していた。
眼を台座と並行の位置に据え、銅板の固定度を調べる。凹部に埋まっている風はない。台座に置かれているだけだ。
次に台座と床の接触面に目を走らせ、同じことを点検する。こちらはよくわからない。
すると、いちかばちかだ。
おれは素早く手を伸ばし、銅板をつまんだ。あっさり手元に引き寄せる。
厚さは約二ミリ。表面に微細なひっかき傷みたいなものが無数についている。一種の情報バンクだろうか。
「大ちゃん――台座が!」
ゆきの叫びを、吐き気のするような摩擦音がかき消した。
台座がゆっくりと回転している。いや、それだけじゃない。床との接触面からは火花がとび、その高さは徐々に減じていくではないか。
石の台座が石の床にめり込んでいくのだ。
異様な震動が空気を叩いた。
壁がかすかに動く。床も、天井もだ。おれは素早く、銅板を服の胸ポケットへしまった。
「だ、大ちゃん――床が、床が傾いてくわよぉ!」
言われるまでもなかった。
不気味に、しかし確実にめり込んでゆく台座の力に屈服したものか、堅牢な石床は窪みつつある接触面を中心に、盛り上がり、亀裂が走り、それに伴って壁や天井までもがうねくりはじめたのだ。
ぼきっ! と音をたてて床石の一部がへし折れ、ぎざぎざの切断面を示して跳ね上がる。
おれは一気にゆきのいる戸口まで走った。
ゆきはちゃっかり外に出ていた。
こちらに異常はない。おれは胸をなでおろした。
宝物蔵を振り向いた瞬間、凄まじい石塊と土砂が床を打ち、その床自身も巨大な蟻地獄に吸い込まれるみたいに、ぽっかり口を開けた奈落へと落下していった。
まさに間一髪。
ごおごおと唸りつづける土砂の落下は、しかし、おれとゆきが顔を見合わせている間にやんだ。
不思議な光がレーザーの視界を埋める。
「お日さまよ。上から!」
歓声をあげて戸口へ寄るゆきを、おれはまた引き戻した。
確かに、天井も床も失った石の部屋――すっぽ抜けの空洞の真上から射し恵んでいるのは、懐かしい自然の光だった。
「午後四時ってとこか」
ゆきを下がらせ、弱々しい光に手をさしのべて、おれは戸口から頭上をあおいだ。
意外と近いところ――百メートルほどの高みに、かなり大きな円形の穿孔が見えた。夕暮れの空を紫の雲が遠く流れていく。おれたちはようやく、現実世界とのつながりを回復したのである。
「ねえ、ほんとにあの金属板っきりないの?」
とゆきが疑い深げな声を出した。
「秘密の隠し部屋とかさ。砂金と宝石の山はどうしたのよ?」
「あの銅板に刻んであったよ」
おれは上空の穴までの距離を計算しながら軽くいなしてやった。
「本当《ほんと》!?」
「嘘だ」
「このホラ吹き!」
地団駄踏むゆきの罵声を背に、おれは脱出の方法で頭を悩ましていた。
竪穴はどうやら、分厚い岩盤をくり抜き、石で部屋を組み立ててから土砂で固めたものらしい。何故、そんな手間暇かかる真似をするのかさっぱりわからないが、有り難いことに、岩盤は凸凹だらけだった。手と足だけでいけそうだ。リュックにはワイヤーとハーケンもある。
「ひと休みしてから登るぞ」
おれはできるだけ無愛想に宣言した。
「どこをよ!?」
戸口の上を指さす。
ゆきはぽかんと口を開けたまま、何も言わなかった。
三時間後、おれは草の上に寝そべり、頭上の星々を見つめていた。足元には溶解液のボンベが転がり、両手指は無闇と痛んだ。
そばではセーターとジーンズに着換えたゆきが、乾パンと牛肉の大和煮を貪り食っている。周囲には闇が落ち、まばゆい月光に、森の影だけが黒々と滲んでいる。おれたちを照らしてくれるのは、穴のそばに置いたレーザー照明灯だけだ。
「でもさ、大ちゃん、あたしの岩登りの腕前も大したもんでしょ」とゆきが胸をそらした。「そりゃ、あんたが手がかり足がかりをつけてくれたってこともあるけど、そこを登り切ったのは、あたしですからね。くく……自信がついちゃった。今度また、宝石取りに降りてみよう」
おれは返事をする気もしなかった。百メートルの岩登りなんざ大変のたの字にも入らないが、上からロープを垂らした後、ゆきが登ってきやすいよう、溶解液で手がかり[#「手がかり」に傍点]を穿ちながらとなると話は別だ。
それだけならまだしも、せっかくこしらえた手がかりを、二、三登っただけでゆきは足を滑らせ、おれは泣き叫ぶ宙吊りの肉体を、百メートルも引っぱり上げる重労働を強いられたのである。
何はともあれ、無事でよかった――これで済ますしかあるまい。ゆきの言う通り、残った宝石はまた取りに戻ればいい。
冷気が戦闘服をぬいだ身体の芯に泌み入ってくる。零下とはいかないが、四、五度までに下がっているだろう。
おれはへばった身体に鞭打って立ち上がり、リュックから寝袋を引っぱり出した。寝袋といっても、丸めた大きさは長袖の肌着一枚分しかない。ゆきにも一つ放って、突き出たバルブを引く。紙ボートと同じ音がしたと思うと、みるみる膨れ上がって、いかにも暖かそうな寝袋が誕生した。内側の極薄繊維は断熱・保温がばっちりの上、肌ざわりは極上の毛布なみ、外側の金属繊維はジャガーの爪も通さない。
ここでゆっくり眠り、翌朝、穴に木の板をかぶせてカムフラージュしたら即下山だ。
何も問題はない――はずだ。
「ねえン。もう寝ちゃうの?」
ゆきがにじり寄ってきた。
「ああ。二人分働くとお疲れになってな」
知らんぷりして寝袋へもぐり込もうとする首っ玉に、熱い腕が巻きつけられ、重い肉がのしかかってきた。
「わあ。転がってしまうじゃないか」
おれはわざとらしく言いながら、ゆきの顔が近づいてくるのにまかせた。このくらいの余禄がなくっちゃやってられるものか。
「よく働いたわね」
ゆきは唇から熱い息を吐きながら囁いた。この娘なりに緊張していたのか。ここに到って欲情も解放したらしい。悩ましげな声だった。
「ごほうびをあげる」
わざと眼の前で唇を舐め上げ、おれの欲情を刺激してから、ゆきはそっと唇を押しつけてきた。
押しつけ方はおっとりだが、舌の動きは激しかった。こっちがオタオタしてるうちに強引にねじ込ませ、絡み合わせ、強く吸う。
やられっぱなしじゃ男がたたないから、おれもゆきの口蓋を愛撫したり、歯茎に舌を這わせたりする。ゆきは切なげな喘ぎを洩らし、それでも唇を離そうとはしない。
おれたちは長いこと、舌で刺激し合っていた。
やっと、ゆきは唇を離した。唾液が長い糸を引く。白い顔が闇の中で妖しく微笑んでいた。
おれのかたわらで、ゆきはゆっくりとセーターを脱いだ。
何ともいえぬ芳香が鼻をついた。オーデコロンなんかじゃない。すべてゆきの体臭だ。熱っぽい下半身がもっと熱を帯び、凄まじい欲求が突き上げてくる。
なにせ二人きりで、誰もいない山の中なのだ。理性的でいられる方がおかしい。
ゆきはブラウスもつけていなかった。
白い肌を青いレースのブラが覆い、それさえもスケスケときている。ビキニ・タイプで肌に食い込んでいた。
「ふふ。はずさせてあげようか? フロント・ホックよ」
ゆきがあおむけになって身をくねらせた。
うんうんとうなずいてのばしたおれの手をかわし、草の上を転がる。こういうことをしてるときは寒さも感じないらしい。あっという間にジーンズも脱いじまった。パンティも青。しかも、ビキニどころの話じゃない。小さな三角形に細い紐をつけただけの恥知らず用品だ。
「こらこら、待たんか、うっしっし……」
長くなった鼻の下も気にならず、おれは四つん這いでゆきににじり寄った。他人様には見られたくない表情だったろう。
ゆきは笑いながら立ち上がり、森へ向かって走った。レーザーの光に影が大きく揺れておれを誘う。
「おい、道に迷うぞ」
と叫びながら、おれも追いかけた。いくら春でも、三月の山ん中をビキニ・スタイルで走り回るなんて正気の沙汰じゃない。
ゆきは構わず茂みに消えた。
一呼吸遅れておれもとび込む。
白蛇みたいに木々の間を抜けていく白い肢体には、しかしすぐ追いついた。思いきり地面を蹴り、太腿にしがみつくや、地面に組み敷いた。
「嫌、嫌よ」
と、もがく手を地べたへ押さえつけると、ゆきはあっさり抵抗をやめた。おれの顔の下で熱い胸が脈打っている。
これで、君、服を着なさい、などと言えれば人格者なんだがなと思いつつ、おれは二つの柔らかい肉の間に顔を埋めた。唇を押しつけると、ゆきはこらえ切れないようにのけぞり、甘い声で喘いだ。
濡れた眼が、乳房の間から見つめるおれのそれと合う。
「こんなところで抱くつもり?」
潤み切った声には揶揄するような響きがあった。
「悪いか。お誘いは受ける主義だぜ」
おれはゆきの首筋へ鼻と唇をこすりつけた。うふんうふんと呻きながら逃げる唇を吸うと、ゆきの全身から力が抜けた。
絶好のチャンス。
おれは右手を離し、ゆっくりとゆきの下半身へ下げていった。腰が、腿が、火のように熱く手のひらに吸いついた。
小さな布切れの内側へ忍び込んだとき、ゆきの全身が激しくわなないた。
左手でおれの頭をかきむしり、口腔で滅茶苦茶に舌を動かす。からかうどころじゃなさそうだ。
むふふ、今夜こそ。
指に力をこめた瞬間、おれは素早く、ゆきから身を離していた。
密着していた胸と腹が急速に冷えていく。
「どう……したの?」
粘つくゆきの問いにも答えず、おれは四囲の木々に注意を集中した。
おかしい。
はっきりとはわからないが、何かが今、動いた。そのくせ、気配からすると、人でも動物でもない。
こりゃ、早く出た方がよさそうだぞ。
「いつもいつも、いいとこまでいって――もう!」
ゆきがわめいて身体の下から脱け出した。
「これで結構寒いんだから! ブラ一枚はずせないって、どういう事よ!」
「黙れ」
おれは静かに言った。一発でゆきは沈黙した。あわてて乳房と下腹部を手で覆い、おれの背後にすがりつく。
「どうしたの? 誰かいるの?」
「わからねえ。いるとすりゃ、かなり厄介な敵だぞ。戻り道はわかるか?」
「ううん」
おれは舌打ちした。
「足音をたてないでついてこい。口もきくなよ――いいか」
「うん」
くそ、さっそく違反しやがる。
おれは月光と超知覚だけを頼りに移動を開始した。動いたくせに気配も感じさせないとは、大変な体術の使い手か、メカそのものだ。メカにも気配はあるが、今回は感知できない。
森閑と静まり、冷気がおちているだけ、超感覚は冴え渡っていた。おれは正確に進入路を辿って森を抜けて行った。
「あっ、出た!」
出口の方を向いてたゆきが叫ぶ。
よし、とうなずき、振り向いて、おれは愕然と立ち止まった。
眼の前に太い木の幹がそびえ立っているのだ。
「どうしたの、早く出ましょうよ」
ゆきがせっついても、おれは動けなかった。
「何よ、この木、何か[#「何か」に傍点]あるの?」
別に何もなかった。ただの大木だ。二抱えもありそうなごつい幹が蛇みたいな根を地中に走らせ、威風堂々と天に挑んでいる。もう、二、三百年も前からここに立ちっぱなしにちがいない。
だが――おれの超感覚が確かなら――五分前は存在しなかったのだ。おれはこの幹のそびえる地面を通り抜けて、裸のゆきを追いかけまわしたのだ。絶対に。動いたのは、こいつだ。
「早くいこ。風邪ひいちゃう」
ゆきに強く手をひかれ、出口へと移動しながらも、おれの頭の中は混迷の霧に包まれていた。
その晩は何事も起こらなかった。
ゆきはビキニ・スタイルのまま憤然と寝袋にくるまって、すぐにいびきをかきはじめてしまい、おれは明け方まで頑張り、安全を確かめた上で三時間ほど眠った。
ヨガを応用した睡眠だから、それだけで気分は爽やか日本晴れ。ついでに天気も上々だった。心なしか風も暖かい。森にも別段、異常は感じられなかった。
あの大木が気にはなったが、おれはあえて無視し、朝食をとるとすぐ枯れ葉を集めて穴に蓋をし、下山にとりかかった。
夕べの星の位置と地形からするに、おれたちがいるのは、山をはさんであの渓谷の真南にあたる。海抜は約一三〇〇メートル。下山路の途中には小さな村や、キャンプ場もあり、おれたちが登ってきたルートより賑やかだ。人に出くわす恐れがあるから、G11とM16は分解してそれぞれのリュックに収めておいた。
「ねえ、このルビー、幾らくらいで売れるかなあ?」
足取りも軽く森の中を歩きながら、ゆきが真紅の石を陽光にかざして訊いた。
「ひとつ三百万は固いな。ま、おれにまかせとけ。五百万くらいで売り捌いてやるさ」
「そして、五百万円懐へ収めるわけ?」
ぎく。
「あたしもね、宝物の相場ぐらい勉強してんのよね。宝石商の友達もいるし」
ゆきは、何気ない口調で言った。
「そうねえ、これくらいなら、傷もないし、ざっと二、三千万円……十五個あるから、うまくいけば五億円。手数料引いても四億九千万にはなるわよ。――ま、大儲けの口かな」
「そうはいかねえ」
おれは嫌味たっぷりに言い放った。
「どんな宝でも七日間以内に警察へ届けなきゃ、発見者としての資格は剥奪されちまう。場合によっちゃ、占有離脱物横領罪にも問われるんだ。そうした上で、埋蔵者ないし、その子孫が現れるまで待つ。そいつが出てきて、国が正統な有資格者と認めた場合、宝物は遺失物扱いになって、発見者の手もとには、二割から五分までの報賞金しか入らねえんだ」
「へえ。じゃ、埋蔵者もその子孫も現れなかったらどうなるの?」
「発見者と土地所有者の間で折半だな。おれたちが半分、この山の持ち主が半分だ」
「ちょっと。おれたち[#「たち」に傍点]って何よ。あんた、あの部屋で、こんなもの捨てちまえと言ったの、忘れたの? ええ、忘れたでしょうね。あたしは覚えてますからね。この宝石の所有者に関する限り、一切、複数形は使わないでちょうだい!」
おれは肩をすくめた。
ゆきはつづけて――
「それに、七日以内に当局へ届けないと資格を失うですって? ちゃんちゃらおかしい。あんた、あのマンションの宝物、どれひとつとして子孫が現れなかったっていうの?」
「うん」
「なによ、白々しい。警察へ届けたかどうかだって怪しいもんだわ。いいこと、日本じゃ文化財保護法って規定があってね、その第一条『わが国にとって歴史上または芸術・学術上の価値の高いもの』は、すべて国の鑑定にまかせ、文化財と認められたら、それに相等する金額を請求できるけど、現物は没収されちまうのよ。なんなら、六本木のマンションの宝物蔵へ、その筋の人を呼びましょうか。あそこたちまち、空っぽよ」
図星をつかれ、おれは口をつぐんだ。ナポレオンの辞書に「不可能」という言葉はないそうだが、八頭ディクショナリーの欠落単語は、「子孫」「所有者」「届け」に「折半」だ。このうち下から二番目は、八頭家において先祖代々ゼロの輝かしい記録を更新しつつある。もちろん、おれも負けてはいない。
鑑定してもらうボーイ・フレンドの店の名を切れ目なく言い続けるゆきを尻目に二十分も歩くと、ようやくハイキング・コースらしい道に出た。下る一方かと思うと、顔がほころんでしまう。
だが、そうは問屋がおろさなかった。いや、簡単にはいかなかった。
降りはじめて五分とたたないうちに、おれたちは、おかしな道を辿っているのに気がついたのである。道幅は妙に狭くなり、いつの間にか傾斜も消滅していた。
「おかしいわね。ずい分平坦な道じゃない?」
ゆきがつぶやいたとき、前方の森陰に、黒っぽいわらぶきの屋根らしきものが見えてきた。
道は、私道だったのだ。
間もなく、おれたちの前に、宏壮な農家の建物が忽然と現れた。
「どうするの?」
ゆきが訊いた。声に精気が乏しい。ぼちぼち不穏な事実に気づきはじめたのだ。
「お邪魔する手だな。道はここで途切れてるし、どう見ても最初のハイキング・コースは正常のルートだったんだ。それが、いつの間にかここへ通じてる。誰かがおれたちを招待してるのさ」
「誰かって誰よ?」
「それを聞きにお邪魔するんだ。ついでに、ハイキング・コースか登山口への道もお教えいただかなくちゃ」
「教えてくれるかしらね?」
「んなことわかるか」
わかってても訊くしかない。
おれは無言で、眼の前のばかでかい木の門をくぐった。くぐる途中で手を触れる。ひんやりと冷たい感触は本物だ。夢や幻じゃあない。
おれたちはすぐ、前庭に出た。
正面にガラス戸をはめた玄関があり、右手は大きな縁側になって、何枚も敷いたゴザ[#「ゴザ」に傍点]の上に干した大根が並んでいる。風が匂いを運んできた。
反対側で鶏の鳴き声がきこえ、おれは何故か胸をなでおろした。
ガラス戸を開け、ご免くださいと声をかける。かなり広い三和土《たたき》だった。
五、六メートル先の座敷では、囲炉裏の上で、鉄瓶がちんちん鳴っている。
「はあい」
と澄んだ女性の声で応答があった。奥からだ。そのくせ、こっちへ出てくる気配はない。やむを得ず、
「道に迷ったらしいんですが、登山道へ出る道を教えていただきたいんです」
言いながら、おれは、ダウン・ジャケットの懐へ右手を入れ、ショルダー・ホルスターに収めたCZ75のグリップに軽く手をかけた。
どうもおかしい。
「じゃ、待ってて下さい。すぐ行きますから」
女の声は明るく言った。
ゆきが緊張をとく気配。おれたちは玄関に突っ立ったまま待った。
十分後、おれは靴をはいたまま、座敷へ上がり込んでいた。ゆきが奥へ眼を走らせながら、
「まずいわよ。遅れてるのかもしれないじゃん。出合い頭にぶつかったら、泥棒と思われちゃう」
「それで済みゃいいさ。それよりお前、そっと裏へ回って、鶏がいるかどうか見てこい」
「鳴いてたじゃないの、さっき」
「いいから」
ゆきは頭の横で人差し指を回しながら、扉を開けて出ていった。
おれは素早く、座敷の奥へと超感覚の触手をとばした。
気配はある。人の、それも複数だ。耳をすますと、笑い声さえきこえた。
じき、ゆきが戻ってきた。案の定、おかしな表情をしている。
「どうだった?」
「全然」と肩をすくめる。
「全然なんだ?」
「いないのよ。裏庭へ回る前は声がきこえてたんだけど、回ったとたん、消えちゃって、鶏が一羽も見当たらないの」
やっぱりか。
「でも、おかしいんだ」とゆきは首を傾げた。「乾いた土の上に足跡や糞が残っててね。どっちも今残したばかりみたいなの。糞なんか湯気たててるのよ。ほんとに、あたしが顔を出すまでそこにいたのが、出したとたん、どこかへ行っちゃったって雰囲気」
今しがたまでそこにいた[#「今しがたまでそこにいた」に傍点]――か。
「縁側に誰かいたか?」
「ううん。でも、障子の向こうから子供の声がしてたわよ。誰かきたのって、母さんにきいてたわ」
「ふーん」
おれはうなずいて、家の奥へ向かった。
「どうする気? 家の人はいるのよ」
「今しがたまで、な。おまえはここで待ってろ」
「やだ。ねえ、何か危ないことがありそうなら、早く出ましょうよ」
「出たってどうにもならん。あの道は多分、どこへも通じてない。――出口を訊かにゃならんのだ。ワルサーでも手榴弾でも用意しとけ」
「こんなとこにひとりでいるのは嫌よ。一緒にいく!」
ゆきもぴょこんと座敷へとび上がった。
おれは無言で座敷の戸をあけて廊下へ出た。ぴかぴかの木肌の上を、音もなく歩き出した。
「凄いわね、この家。出来立てのほやほやみたい」
ゆきが低く感嘆の言葉を発した。おれにも異存はない。最上級の樫や桐を切り倒し、吟味し抜いた床や天井。座敷の畳は青々としてイグサの匂いさえしていた。新築してひと月、いや、一週間と経っていまい。
廊下の左右に引き戸が並んでいる。
おれはひとつひとつ開けていった。
二〇畳もある座敷が二つ。中にあるのは豪華な床の間と掛け軸、木と畳の香り。
次の六畳間は子供部屋らしかった。
真新しい木の幼児ベッドの上に哺乳瓶やガラガラがのり、合体ロボのオモチャや安もののゲーム・ウォッチなどが周りに散乱している。
ミルクやおもらし[#「おもらし」に傍点]の匂いにまじって、別の香りが空中に満ちていた。
おれは縁側をのぞむ障子の前に視線をおとした。円い鉄製の灰皿の上で、吸いかけの煙草が紫煙をくゆらせている。かたわらには、封を切ったマイルド・セブンと百円ライターがちょこんと置かれていた。
「危ないわ。アイロンがつけっ放し」
灰皿の少し手前にならんだアイロンとおしめののったアイロン台を見て、ゆきが心配そうに言った。
おれは構わず入りこみ、煙草とライターを点検した。アイロンの方はゆきにまかせる。
セブンスターの箱には一九本きっちり残っていた。ライターの油もたっぷり。多分、十回と使っちゃいまい。勿体ないことをする。これだから百姓は虫が好かねえ。
「アイロンはどうだ?」
「どうって、普通よ。おしめもあったかいわ」
ゆきはすぐそばにたまったおしめの山を見ながら言った。
「一枚目をかけてたとき、どっかへ行っちゃったのね」
「母さんはな。親父は、最初の一本を二口三口吸ったところで、同じく席を立った――おい、ベッドの哺乳瓶を調べてみろ」
ゆきは言いつけに従い、すぐ振り返った。声には不気味なものが含まれていた。
「あったかいわ。中身もたっぷり。ふた口と飲んでない」
「そして赤ん坊も出ていった」とおれは、ページが開いたままになってる絵本を見つめて言った。
「母親はおしめにアイロンをかけていた。父親は煙草をくゆらせてた。大きい方の子は絵本と合体ロボで遊び、赤ん坊は、ひとりで哺乳瓶をちゅうちゅうやってた。それが、おれたちが扉をあけた途端、どっかへ行っちまったんだ」
「おかしいわねえ。すぐ来るっていったのに。子供は母さんに誰が来たのかって訊いてるのよ。一体、何が起こったの?」
「まだ、おかしなことがある。おれが挨拶し、女の声が答えてから今まで、十二、三分かかってるんだ。だけど、この様子はほんの一分、いや、数十秒まえの光景さ。つまり、ここにいた親子四人は、すぐ行くわと言ってから何もせずにいて、時間的にみておれたちが扉に手をかけたころ、ここに残された行動をとり、一斉に姿を消したってことになる」
「やめてよ、気味が悪い」
ゆきが両手で自分を抱きしめ身震いした。おれもそうしたいが面子がある。
「鶏といい、ここの親子といい、つい今しがたまで存在してた痕跡だけ残して、どこ行っちゃったのよ」
「わからん。まるで、マリー・セレストだ」
ゆきが、あっと叫んだ。
知ってたとみえる。
マリー・セレスト――何の変哲もないある帆船の名だ。
ただし、これを知らないミステリー・ファン、SFファンはまずもぐりと言っていい。
一八七二年十二月四日、ポルトガルのセント・ヴィンセント岬沖合七百マイルの海上で、英船「ディ・グラチア」号によって発見されたこの三檣《さんしょう》帆船は、十一月七日にニューヨークを発って以来、当日までの日誌を船内に残しながら、乗組員全員が忽然と消失してしまったことで世に名高い。
ディ・グラチア号のデヴォー船長以下二名が調査に赴いたところ、食料の貯蔵は十分、タンクには清水が満々と湛えられ、船長室のテーブルには二人分の朝食が並んでいた。おまけに中身を七分目ほど残した薬瓶が片隅に突っ立っているのだから、大波を食らって乗員がさらわれたのではないのは明らかだ。大西洋には海賊も多いが、机の引き出しには船長夫人のものと思われる宝石類が残っていたし、一七○○バレルのアルコールも無事だから、積み荷目当ての犯行でもない。乗組員同士の喧嘩や反乱、殺人と見るにも室内は整頓されつくし、血痕ひとつ見当たらないのだ。「ディ・グラチア号」が発見する数時間、数十分前まで、平凡な洋上生活が行われていた。それが、何かの拍子に全員、どこかへ行ってしまったのだ。
炊事場には剃ったひげをこびりつかせた剃刃が主のないままおかれていた。ひげ剃りの最中、何かが起こり、持ち主は途中で外へとび出した。そして、いなくなったのだ。
どのような事態が生じたとき、ひげ剃りを放棄し洗面所をとび出すか考えてみれば、彼を襲った事件の奇怪さがわかるだろう。
けれども、マリー・セレストを巡る謎のうち、最も不気味なのは、真相を伝える唯一の手がかり――航海日誌の文面であった。
運命の日、十二月四日の最後の項には、非常にあわてた走り書で、
「わが妻ファニーが」
これだけである。
船長ともあろうものが、公の書類に何故妻の名を残したのか。ファニーが何を見たのか、ファニーに何が起こったのか。いや、船長は次に何を書こうとし、それを邪魔したのは何者か――?
無論、一隻の救命ボートもなくなってはいなかった。
これが、海を巡る怪奇実話中、最大の謎と称される「マリー・セレスト号事件」の概要である。
おれたちはどうやら、陸の上で幽霊船に乗り合わせたらしい。
「ね、帰ろう」
ゆきがそっとダウンの袖を引いた。阿呆が。帰れねえから入ってきたんじゃないか。
「誰かいないか!?」
おれは精一杯の大声でがなりたてた。
「はあい」
また軽やかな声がした。年の頃は二十五、六。目もとの涼しい母親の顔をおれは思い描いた。
「誰もいらっしゃらないのでお邪魔してます。登山路へ出る道を教えていただきたいのですが」
「少しお待ち下さい。いま、参ります」
答えるそばで子供の声がきこえた。
「いえ、そちらがそこにいて下さい。こっちから出向きます」
「はあい」
お言葉に甘えて、おれたちは次々と部屋を巡っていった。
障子の向こうから陽が射し込み、庭では鶏の餌をついばむ音がきこえた。
どの部屋にも人影はなく、おれたちは、恐らく最後のものであろう引き戸の前に立った。
そっと手を伸ばしたとき、
「待て」
野太い男の声がおれたちを硬直させた。
「いま、出ていく」
扉の向こうで気配が動いた。
言い知れぬ恐怖がおれを貫いた。
「ゆき――さがれ!」
言いざま、廊下へ走り出た。訳のわからぬままゆきもつづく。
ドン! と何かが壁にぶつかる音。誰かが引き戸を開け放ったのだ。この家の主が!
夢中で走るおれたちの横手で、次々に襖や障子を開ける音が連続した。ついてくる!
おれはCZ75を抜き、つづけざまにぶっ放した。炸裂弾が引き戸に人間の頭くらいもある射入孔を穿つ。反応はなし。
おれは左手でダウンの下から焼夷手榴弾を抜いた。昨日使った分は補充してある。
土間へとび出した。
振り返らず、廊下の奥へ投じる。座敷にもひとつ。
座敷の奥の戸が途方もない力で内側からはじけ飛んだとき、六○○○度の炎が毒々しい黄金の花弁を開いた。
まばたきする間に座敷を包み、土間へ押し寄せてくる。
炎の中に何かがいた。
もう一発、焼夷弾と通常手榴弾を取り出し、二つのピンを同時にくわえて引き抜く。
座敷にいるものへ投擲して身をひるがえした。
手榴弾の炸裂が地震を提供した。
背後でガラス戸が吹っ飛び、走りつづける足元へ落ちてきた。
振り向くと、玄関と縁側は巨竜のような炎塊を噴出し、火の手はわらぶきの屋根へと燃え広がっていく。
何処《どこ》かで鶏の鳴き声がきこえた。
「大ちゃん――あんた……ちょっと無茶じゃない? 中には母親も子供もいるのよ」
おれは沈黙で答えた。首筋がまだ冷たい。
土間で焼夷弾が炸裂した瞬間、引き戸をぶっ倒して出てきた奴――ほんの一瞬のことではあったが、おれは見てしまったのだ。
その姿を。
炎がおれたちの顔を紅く染めた。
消防車がくることはあるまい。山火事にもならないだろう。
おれたちを招いた意思がそれを許さんはずだ。
おれたちは門をくぐって外の道へ出た。
熱い空気の中から、この世ならぬものたちの断末魔の悲鳴がきこえたような気もしたが、おれはもう振り向かなかった。
思った通り、私道はじき、登山路に変貌していた。
鳥の歌う平和な山道である。
「何が何だかよくわからない」ゆきがぶつぶつ言った。「まるで、あの地下道にいるみたい。もう何も起こらないんでしょうね」
痛いところをつきやがる。おれはにっこり笑っただけで返事をしなかった。
「なによ。でたわね、にこちゃん笑い。あんたがそれやるときは、腹に一物あるときなんだから。ちょっと、何考えてんのよ? ルビーちょろまかし作戦じゃないでしょうね」
せこい誤解だが、おれは気にしなかった。真実よりはましだ。
ひょっとしたら、おれたちは本当に、まだ、あの地下道にいるんじゃなかろうか。
山には山の伝説がある。それは、今でこそ形を変え、ホラ話の域を出ぬものにおとしめられてはいるが、その発生段階において、強力な現実を基礎としていたことは、数多くのまともな神話学者が提唱している事実だ。日本のように、あらゆる自然に神や魂が宿るとの信仰を有する国では、それがどのような形に変形しようとも、「話」自体が失われることは極めて少ない。
具体的にいうと、言い伝えが皆無のこの山には、何ひとつ奇現象じみたものが存在しなかった公算が大ということだ。
おれはトリプルGランクのトレジャー・ハンターである。現地の事前調査は十分に済ませた。観光協会や役場の史料室、教育委員会等に手を回して餓竜山の伝説を調べ、名所旧蹟の資料も入手し、事前のフィールド・ワークも十分行った上でのハンティングだったのである。
その時点で、山には財宝伝説以外何ひとつとしておかしな言い伝えはなかった。月並みな遭難者の幽霊談も、夜道で後をつけてくる足音とも無縁だったのだ。
あんな屋敷が突然現れるわけがない。
考えられるのはただひとつ。地下の宝を守っていた防御機構――あれがまだ作動しているのだ。
しかし、と胸の中のおれが?マークを提示する。
こんなことをするくらいなら、何故、地下道で防御に万全を期さなかったのか?
わからん。
おれは不安に苛まれながら、細い山道をひたすら降りた。
間もなく、水流のざわめきが近づき、前方に幅三メートルほどの清水の流れが見えてきた。
おれたちが最初辿ってきたのとはまた別の川だ。流れもずっと緩やかである。
水面から二メートルほどのところに、丸太を組んだ頑丈そうな橋が架かっていた。
まず、おれが足を乗せ、強度を確認する。OKだ。それに落ちても大事はない。
鼻歌まじりで中ほどへさしかかったとき、足の下の手ごたえが急に消失した。
反射神経に物を言わせ、空中に跳躍したものの、この位置じゃどうしようもなかった。
どういう細工か、真っぷたつにへし折れ、ゆきもろとも清流に没した橋の後を追って、おれも足から流れに突っこんでいた。
腰の深さまでしかなかったが、おれは眼を剥いた。
凄まじい勢いで身体が引っぱられる。手も足も自由が利かなかった。橋の上から見たときとは雲泥の差だ。違う。おれたちが落ちた途端、スピードが増したのだ。
三メートルほど先をゆきが手を振りながら流れていく。
大ちゃんと呼ぶ声が、水音にまじって切れ切れに届いた。
だが、手の打ちようがなかった。川床に足はついても、停止できないのだ。
足や腰に岩があたる。くそ、無機物の分際で。
と見る間に、おれとゆきの距離は、ぐんぐんとへだたりはじめた。たちまち手と足が楽になる。水流が勢いを減じているのだ。
おれの周囲だけ!
「ゆき!」
と叫んでも答えはなく、遠ざかる影は、樹木と岩場の角を回って見えなくなった。
岸辺に上がるより、おれは全力で水をかきはじめた。流れにのる方が歩くよりロスが少ない。
だが、すでに遠く運び去られたものか、二○分以上流れを辿っても、ゆきには追いつけなかった。
黒い絶望が胸を蝕んでいく。連れてくるんじゃなかったか……
だが、万が一の望みをかけて左右の岸に走らせていた視界に、濡れたものが這い上がったような痕跡が目にとまった。
あわてて岸に泳ぎ寄り、点検する。
乾いた砂の上に、かなり大きなものが這い上がった跡がある。指の形も残っていた。
ゆきもここから上がったに違いない。
だが、気分はちっともすっきりしなかった。水のしたたりは岩場を越え、上流の方へつづいているのだ。
何故、ここで待ってねえ? いや、上流から泳いできたおれの目に何故つかなかった?
ゆきじゃないのか?
おれはリュックをおろしてガス銃をとりだし、ダウンの内側へ隠した。CZ75はこの程度の水でびくともしないが、何といってもメカだ。手入れをするまで信用しない方がいい。その点、こいつは、もともと水中戦用に開発されたものだ。大型でかさばるが、信頼度はぐっと高まる。
まずいことに超短波無線機は紛失していた。これで誰とも連絡はとれない。
おれは、濡れた岩場を辿りはじめた。
結果は案外早く出た。
ゆきを見失った岩角を曲がると、前方、一五、六メートルほどに、真紅のダウン・ジャケット姿がゆらゆらと歩いているではないか。
安堵感が胸を覆い、へたり込みかかるのを抑えて、おれは大声でゆきの名を呼んだ。疲労のせいで予定したほどの響きはない。
ゆきも聴きとれなかったらしく、速度をゆるめず歩いていく。
おかしいなと思ったのは数秒後だった。
追いつけないのだ。
ゆきの歩幅からいけば、おれは三倍近い速度で走っている。にもかかわらず、差が縮まらない。
いよいよ、何かの力が働いているらしい。
やがて、登山路への傾斜を見つけたゆきはさっさと登ってしまい、おれが登り切ったときは、一〇メートルも先をひょこひょこ歩いていた。
もう呼ばなかった。かわりにおれは全力疾走に移った。
ゆきの歩調は変わらず、しかし、その後ろ姿はちっとも大きくならない。
んな馬鹿な、と思っても、これが現実だ。
急にゆきが方向を変えた。
コースをはずれ、右手の森へ入っていく。
こりゃ、何かあるなと、おれはガス銃の安全装置を右の親指ではずした。G11でも欲しいところだが、組み立ててる時間がない。
後を追ってとびこむと、ゆきは危なげない足取りで木や茂みの間を縫っていく。
入り口から四、五○メートル入ったところに一本の大木がそびえていた。夕べの問題の木よりひと回り大きい。天狗でも棲み家にしそうな巨木だ。
その根元でゆきは足を停めた。しめた。
ところが、顔はおれの方へ向けず、二、三〇メートルは優に越す梢の方をじっと見つめているではないか。
おれは足を停めた。動かないからとうかつに近づいたら、どんな罠が待っているかしれたものじゃない。女とは、意識しようとしまいと常に男の敵だ。
ゆきは動かない。周囲の気配を探っても、危険度はゼロ。おれは一分ほど待機し、覚悟を決めて歩き出した。
後ろ姿が近づいてくる。動くなよ。ついでに――手をかけた途端に、おかしな顔[#「おかしな顔」に傍点]で振り向くなよ。
大丈夫そうだった。おれはそっと肩に手を――
次の瞬間、周囲が不意に翳った。
雨かと思う暇もなく、凄まじい土砂降りが、のばした手や頭を叩いた。
次の瞬間、おれは愕然ととびすさっていた。
雨に色がついている!
色を失った陽光の中で、一瞬黒にみえたそれが、実は紅だと気づくまで百分の一秒とかからなかった。
血だ、血の雨だ!
手の甲や二の腕にはねた赤い水滴も忘れ、おれは茫然と頭上を見やった。
それ[#「それ」に傍点]は地上二○メートルの高みから張り出した枝の上にひっかかっていた。おれの視力だからこそ識別できたのだ。
二つの首が、手が、胴体が、枝に乗っている。いや、串刺しになっている。降り注ぐ血は、ひきちぎられた身体のこぼす無念の涙とも思えた。片方は男、もうひとりは女だ。長い髪が、蔦みたいに垂れ下がっている。
殺すのはいい。どう殺そうと、それは加害者の好みだ。しかし、一体どうやって、ばらばらにした身体を地上二○メートルの高みへ運び上げ、ひとつひとつ枝に突き刺したのか。方法は何だ? 目的はどこにある?
死体のまとっている服の色がおれの眼を捉えた。青いパジャマ型――囚人服だ。昨日、茶店できいたラジオ放送が甦った。こいつら、脱走した狂人じゃないのか!?
気色の悪い雨に打たれぬようフードをかぶりかけ、おれはゆきの方を見た。
歩み去る後ろ姿との距離は再び一○メートルを数えていた。
追いかけようとした視界を白い蛇が横切る。轟音とともに、蛇の頭部に触れた立ち木が火を噴き、半ばからちぎれた。凄まじい落雷であった。
それにさえ脅える風もなく、ゆきは飄然《ひょうぜん》と歩み去る。
金属製品を投げ捨て、地に伏せるのが常識だが、そうもしてられなかった。頭のてっぺんにさえ落ちなきゃ、ダウンとセーターの下につけた戦闘服は耐電繊維である。
またも、実のない追いかけっこが始まった。
ゆきはおれより遙かにのんびりと森を横切り、おれは一〇倍ものスピードで森を抜けた。それなのに、決して追いつけない。
ゆきは街道へ出た。
全身に雨がしぶいている。
少しして、脇道にそれた。
白いカーテンの向こうから、忽然と黒い屋根が幾つも浮かび上がってきた。小さな部落らしい。先刻のマリー・セレスト屋敷をふた回り縮めたようなワラぶきの家が五、六軒、登山路を少し下った傾斜地の途中に軒を並べている。ゆきはそこへつづく石の段を音もなく降りていく。
おれももちろん、後につづいて降りた。降り切ると広場だ。ぐるりを取り巻くように家々が並び、まっすぐ通り抜けたところに畑が広がっている。土砂降りのせいでよくわからないが、大根でもつくっているらしい。
絶好の雨宿り場だが、素直に喜ぶ気にはなれなかった。なにせ、導かれた状況が状況だ。
ゆきはいちばん手前の農家へ入っていった。雨のおかげで手についた血痕が洗い落とされているのを確かめ、おれもつづく。また、誰もいないか知らんが、仕様がねえ。内側には四、五人分の気配が渦巻いていた。
「あれっ!?」
懐かしさをこめた響きがおれの目を丸くさせた。
入ってすぐの座敷に上がり込んでいるのは、昨日、茶店で会った二人連れ――緒形等と和田貴子――だったのである。
「奇遇じゃないか」と緒形が立ち上がった。
おれは曖昧に笑い返し、座敷にいる連中の人数と顔を頭の中に叩き込んでから、土間の真ん中に突っ立ってるゆきに近づいた。
「おい」
声をかけた途端、くるりと振り向いた。
おれの目はどうかしてたらしい。長い髪も真紅のダウンもゆきそのものだが、別人だ。年の頃二五、六の、清楚な感じの美女である。ただし、グラマーだ。
きょとんとした眼でおれを見つめている。
「――いや、失礼。人違いで――あの、川で誰か見ませんでしたか?」
「は? わたくし、川など行きませんけど」
「は?」
困惑しきったおれの背へ、
「おい、美弥子、早く上がれよ」
不機嫌そうな声がかけられた。
座敷にいるひとり、四五、六の中年男だ。
いかにも高級そうな丸首のセーターを着込んでいるが、首から上が不似合いもいいところだ。暴力沙汰にしか興味がなさそうな鈍重なやくざ面が、敵意むき出しでおれを見つめている。
おれも見返した。
かなり獰猛な面構えだが、なんのなんの、この程度の三下、国籍を問わなければ何十回となく半殺しにしてきたおれだ。奴はあっさり眼をそらした。ざまあみやがれ。
それにしても、とおれは眼の前でおれと亭主――だろう――を見比べてる女を遠慮なく眺め回した。
雑誌のモデル、それもミーちゃんハーちゃん向きの本ではなく、「マドモアゼル」だの「ヴォーグ」だのの洗練された婦人雑誌にぴたりのエレガント・ビューティだ。どうみたってやくざの姐《ねえ》ちゃん向きではない。
女がにっこりと笑った。愛想笑いにあらず、「女」が「男」へ送る笑顔だ。
口説き文句が五〇ばかり頭の中に点滅しかけ、おれはようやく、ゆきのことに思い到った。
「あんた、本当に川から戻ってきたんじゃないのか?」
と訊く。女は首を振った。
「わたくし、ずっとここにいたわ。雨の具合を見に外へ出て、すぐ戻ったら、あなたが入ってきたのよ」
おれは緒形と和田貴子の方を振り向いた。
揃ってうなずく。この二人組は信用できそうだ。となると、ゆきは何処へ行った? おれが追ってたものは幻だったのか? そして、あの樹上の屍体は?
おれは女に背を向け戸口へ向かった。
「これ、どごさ行く?」
あわてたように声が呼んだ。主はわかっている。皺だらけの老人――この家の主人だろう。
「人を探しとるらしいが、この雨の中へ出るなんて気狂い沙汰じゃ。一寸先も見えんぞ」
「何とかなるさ」
「ちょっと待ちたまえ」と緒形が心配そうに言った。「あのお嬢ちゃん――ゆきさんとはぐれたのか?」
「そんなとこです」
「とにかく、この雨じゃ、東金《とうがね》さんのいう通り、探すのは無理だ。地盤だってゆるんでる。もう少し待って、小降りになったら僕と一緒に出よう」
「私も手伝うわ」と和田貴子が元気よく言った。滅多に出会わぬ善人だ。
「申し出は嬉しいけれど、そうそう待ってもいられないんで」
おれは笑顔を送ってきびすを返した。ガラス戸を引き開ける。
凄まじい雨と風が頬を叩き、おれはたじたじとなった。青い闇の中で雨粒が白い網のようにうねっている。閃光が束の間、白昼を取り戻し、雷鳴が風の音《ね》を消した。ちょっとした暴風雨だ。頑丈そうな農家の梁さえ耳ざわりな音をたてている。
「ほれ、よしたがよがんべえ」
座敷の縁《へり》に立って東金老人が言った。
「すぐ下の消防団へ電話して、雨がやんだら捜査に来てもらう。心配だろうが、それまで待つだよ」
「おれもそう勧めるよ」
緒形が静かに言った。
その方がよさそうだ。
おれはため息をついて、引き戸を閉めた。リュックを土間におろす。座敷から見えない土間の奥へ顎をしゃくり、着換えに使わせてもらうよと言う。
「いいとも」
東金老人が破顔し、やくざが鼻を鳴らした。
「けっ、餓鬼が気取りやがって。尻《けつ》の青いのを見られたくねえのかよ」
おれは無視して土間の隅へ入った。ダウンジャケットとセーターをぬぎ、手榴弾とCZ75をリュックへ戻す。ニッカーもはずして替えのジーンズにはき換え、ゆきと同じインサイド・パンツ・ホルスターに入ったワルサー・PPK/Sの弾薬を確かめてから、ジーンズの内側へ押し込む。これでダウンを着ればちょっとわからない。
リュック片手に座敷へ上がると、緒形と和田貴子が席を開けてくれた。
大きな石油ストーブが燃えている。
二人とも、テントで一泊し、下山途中で雨に出食わしたとこぼした。
問題は後の二人だ。それとなくきいてみると、二人の後にやってきた夫婦で、男の方は宮田、女は美弥子と名乗ったそうだ。そのくせ、女の方はどうも男を毛嫌いしてる風でろくすっぽ口もきかないし、男は男で妙にそわそわし、緒形や東金老人の言動ばかり気にしてる風だという。
「どうも眼つきがおかしいのよ」
宮田がトイレに立った隙に、和田貴子が低い声で囁いた。
「あたしたちの方を血走った眼でにらんでるかと思うと、急にぽけっとなったりして――ほら、二人[#「二人」に傍点]逃げ出したっていってたでしょ。あの二人じゃなくって?」
脳裡を、樹上の死体がかすめた。誰に殺《や》られたのかは知らないが、囚人服着てたのはあいつらだ。しかし、服着てたから囚人とは限らない。宮田と美弥子が共謀して二人を殺し、服を取り換えたとも考えられる。それにしても、どうやってあんな樹の上へ、となると、理解を絶してしまう。どうひいき目にみても、超能力とは無縁だし、いくら気狂いでも、死体をばらして木の上まで運び、枝に縫いつけるとは考えられない。ありゃ、人間以外のものの仕業だ。
二人の説明によると、脱走した狂人は、始末の悪いことに男女ペアの殺人狂で、名前は桑田光雄と峰村善子。年齢四六歳と二七歳――隣のコンビにぴたり合う。
「おまけに、交番襲ってピストルも奪ってったそうだ」
緒形がもっと始末の悪いことを言ってから、眉をひそめた。おれが嬉しそうに笑ったのを見とがめたのだろう。
くく、面白くなってきた。あのやー公、ピストルでも持ってりゃ面白い。正当防衛で蜂の巣にしてくれる。
もちろん、こんな物騒な考えはおくびにも出さず、おれは高校生らしく、不安気な表情で緒形と和田貴子を見上げた。
「大丈夫さ」と緒形は力強くうなずいた。「ここは東金さんひとりだけど、近所にはいくらでも人がいるし、雨が上がれば山狩りの連中もやってくる。それまで注意を怠らないことだ」
「怖いわ、わたし」
心細げに言う和田貴子の声に、おれは安らかなものが身内を走り抜けるのを感じた。
ゆきなら色仕掛けでピストルを探し出すというところだ。女はこうでなくっちゃ。ゆきだの、六本木のマンションに残してきたリマだのと暮らしているうちに、おれは女というものを、ひと蹴りで瓦の五、六枚もへし折る怪物だと思い込みはじめていたらしい。人間、まっとうな生活はまっとうな友人から、である。
[#改ページ]
第四章 迷宮山
夕方になり、夜に入っても、風雨は勢いを減ずるどころか、ますます強さを増したようだった。ゆきのことを考えると気が気じゃない。確かに今出るのは狂気の沙汰だろうが、これ以上黙って待つのにも耐えられそうになかった。
東金老人は麓の消防団へ連絡をつけてくれようとしたが、電話が不通だと戻ってきた。風でやられたらしい。となると、村全体が孤立したことになる。
いらいらしながらも、おれは、宮田夫婦の言動に細心の注意を払っていた。
確かに夫婦にしちゃ、どこかが噛み合ってない。美弥子の方は亭主からできるだけ遠ざかろうとしてる様だし、女房を見る宮田の眼にも、時折、殺意に似たものが走る。
何にしろ只者じゃなさそうだ。
夜になると、夕食のあとで東金老人が部屋割りをしてくれた。
なにしろ、子供たちも出ていっちまったでかい農家にひとり暮らしだから、部屋はいくらでも余ってる。宮田夫婦と緒形たちにひとつずつあてがい、おれもと言われたが、辞退してこの座敷に留まることにした。
少しでも雨がやんだら、夜でも救助にいかなきゃならない。
ストーブで乾かしておいたニッカーとセーターを身にまとい、準備万端整えて、おれは人気のなくなった座敷で横になった。
時間は午後八時。
分厚い板と土壁を通して、牙を剥く風の音がかしましい。
右手がすっとジャケットの内側へ滑りこんだ。
外で妙な音がする。
足音だ。
誰かが広場を歩いている。うろつき回ってる。
ゆきか、とはね起きかけて、おれはこの気配の異様さに凍りついた。
鳥肌の立つような冷気が吹きつけてくる。ほとんど物理的な寒さに近い。こりゃ人間じゃあるまい。化け物でも何でもいいが、どうして急に、レヴューみたいに総登場しやがるんだ。しかも、おれの周りに。
あの地下の防御機構のせいか?
ここでまた、同じ疑問が浮かんだ。なぜ、地下室で仕止めなかったのか?
冷気が思考を中断させた。
近づいてくる。いったん離れてた気配と足音が、広場を横切って近づいてくる。
目当てはおれだろうか?
おれはホルスターからワルサーを抜き、親指で小さな撃鉄を起こした。同時に、遊底《スライド》上端に突き出したインジケーター・ピンにも触れ、薬室に装填してあるのを確認する。ダブル・アクションのワルサーPPK/Sは、引き金《トリガー》引けばドカンといくが、わざわざ撃鉄《ハンマー》を起こすのは、そうした方が引き金を引く距離が短くて済み、狙いが正確になるからだ。おれくらいになると、ダブル・アクションでも五○メートル先のコーラ缶を抜き射ちで吹っ飛ばせる。撃鉄を起こしたのはその冷気の凄まじさ故だ。
冗談ごとではなく、こいつは長いこと水に漬かっていたらしい。「気配」にはそのもつ当人の生活環境が大きく影響を及ぼす。
PPK/Sを、おれはダウンの懐へ収めて待機した。
はたせるかな、引き戸の取っ手あたりで、ガリガリと板をひっ掻くような音がつづき、やがて、戸はゆっくりと左へ移動していった。
風雨に押されるようにして、黒い影が入ってきた。全身から水滴を垂らしている。
冷気は明白な殺意に変じた。
おれは薄目をあけて眠ったふりを装っていた。左手の奥で石油ストーブが燃えている。
そいつは土間の真ん中まで歩き、何やらためらっているようだった。
背丈は一七、八○センチ。二本足で立っているが、人間じゃなかった。
そのとき、突然、左手の熱気が遠ざかっていった。燃えさかっていたストーブが急速に火力を失いつつあるのだ。原因はわかってる。こいつは火に弱く、何らかの手段で炎を消しにかかったのだ。
ゆっくりと、ぴしゃぴしゃいう足音が接近してきた。いよいよだ。
そいつは座敷の上がり口に立ち、おれの様子を窺っていたが、急に手をのばしておれの右足首を掴んだ。
凄まじい力よりも何よりも、次の一瞬に生じた現象を何と説明すればいいのだろう。
おれの全身は水に漬かったのだ。
開いた眼にも、奴の姿はおぼろに霞んで見え、空気のかわりに、鼻と口からどっと冷水が流れこんだ。咳込むと同時に、眼の前を気泡が立ち昇っていく。
雨風を遮断した座敷の上で、おれは溺れかかっていた。
必死に動かす手も粘っこい水圧に遮られ、それでも、足首を掴んでる奴の頭をめがけて、おれはPPK/Sの引き金を引いた。
水中で十分なパワーをもって撃鉄がおちるかどうか不明だが、軽い衝撃とともに小さな炎が閃き、そいつは額を押さえてのけぞった。
ウールの靴下の上からでもわかるねちゃねちゃ[#「ねちゃねちゃ」に傍点]した感触が消えると同時に、おれの周囲を覆っていた幻の水も消滅した。
咳込みながら、おれは、再び近づいてくる影に第二弾をポイントし、放った。
今度は小気味よい銃声が轟き、ずっと力強い衝撃が手首から肩にかけて走る。
そいつはまたのけぞった。顔を押さえた両手の水かきの間から、血とも体液ともつかぬものがどっとこぼれ出る。
何とも形容し難い声をあげて、そいつは跳躍した。
とびかかってくる腹と胸に二発ずつ射ち込んだつもりが、ぱっと臭い液が顔にひっかかり、そいつは真上からおれの身体にのしかかってきた。凄いスピードだった。
再び、おれは急ごしらえの水中に戻った。奴の青黒い両手はおれの喉元とワルサーを握った右手首をとらえ、眼の前で奇怪醜悪な顔が、じっとおれを見据えていた。
殺意に燃える、そのくせどんよりと濁った瞳。大きく突き出た唇。その間からのぞくガラスの破片みたいな牙。
やはり、こいつは実在したのか。
急速に薄れてゆく意識の中で、おれは夢中で左手をのばし、ストーブをつかんだ。
まだ、ちょろちょろと燃えている。
おれは渾身の力をこめて、そいつの急所――頭のてっぺんへ叩きつけた。
絶叫が迸《ほとばし》る。
旧式らしく、自動消火装置のついてないストーブは衝撃で中身を逆流させ、そいつの頭へ石油と炎をたっぷりとふりかけた。
人間以外の叫びをあげて、そいつは土間へ転がった。
おれもむせながら起き上がり、炎に包まれた頭部目がけて9ミリ・ショート弾を叩き込む。
ぎええとひと声叫び、そいつは脱兎のごとく跳ね起きて、雨と風の荒れ狂う世界へと消えた。自分の塒《ねぐら》へと。
襖が勢いよく開かれ、足音と叫びがいくつもおれを取り囲んだ。
「どうしたんだ、あの銃声は!?」
緒形が叫び、東金爺さんが火事だとわめいて、土間の奥へ消火器を取りに走る。
ワルサーをしまっとけばよかったと思ったが、もう間に合わなかった。
「何だ、それは。見せたまえ」
緒形の厳しい声音におれは当惑した。モデル・ガンだなんつっても通用はしまい。のばしてくる手をかわし、おれはリュックを掴むなり、土間へと降りた。
「済まんが、やはり探しにいくことにするよ。おっさん、世話になったね」
「こら、待て」と消火器片手に東金老人が呼びとめた。「なんじゃ、その汚い顔と匂いは。一体、何があった?」
「河童が出たのさ」
おれは本当のことを言ったが、信じちゃもらえなかったようだ。こうなったら、トラブル前に出ていく方が利口だ。
待てよ、ついでだ。
おれは凶悪な面構えに銃口を向けた。
「な、何しやがる、この糞餓鬼」
「やかましい。緒形さん、こいつの身体検査をしな。早く!」
緒形と和田貴子は顔を見合わせたが、すぐにうなずいたのは貴子の方だった。へえ、思い切りもいいのか。
貴子に促されるように緒形は宮田に近づいた。その背が銃口と宮田の間に入った。まずい!
見越したように宮田が動いた。鈍い音がして、うっと身体を折る緒形の逆をとり、おれの方へ向ける。
左手には拳銃が光っていた。銃身四インチのニュー・ナンブ回転式拳銃《リヴォルバー》――警官の持ちものだ。貴子が悲鳴をあげた。
「近づくな。その拳銃《はじき》を捨てねえと、こいつの頭は吹っ飛ぶぜ!」
野郎、とうとう馬脚をあらわしやがったか。脅しに屈せず、おれは緒形の頭の陰から突き出てる宮田の顔に銃口をポイントした。
「やめて」と貴子が叫ぶ。
「てめえ――ようし!」
宮田の顔がまぎれもない狂気に縁どられた。
全員の鼓膜を9ミリ・ショートの銃声がはじいた。
獣のような叫びをあげて宮田はのけぞった。その寸前、奴の肩に小さな射入孔が口を開けたのを目撃したのは、おれだけだったろう。人質がいるという精神的圧迫を取り除けば、たかだか四、五メートルの距離で、人間の頭大の標的に弾丸を射ち込むなど、Bクラスの射手《シューター》でもやれる芸当だ。
緒形がへたり込み、貴子と美弥子が茫然と立ちすくむ中を、おれは宮田の方へ歩み寄った。
いきなり、宮田がはね上がった。まだ拳銃を握っている。
「ひええっ」
と悲鳴とも憤怒ともつかぬ叫びを発して、ニュー・ナンブの引き金を引いた。
PPK/Sとは比べものにならぬ豪快な響きが空気を揺らし、素早く伏せたおれの頭上を弾丸が通過する。
宮田は一気に土間へ駆け降りた。肩から下は血で真っ赤だ。おれは舌打ちした。9ミリ・ショート弾は近距離なら十分な殺傷力を有しているが、相手の骨が頑丈だったりすると、体内で方向を変えたり急所をはずれたりして、時たまこういうことが起こる。それにしても、大した忍耐力だった。ま、こういう暴力人間にはそれくらいしか取り柄がない。
続けざまに三発ぶっ放し、宮田は開けっぱなしの戸口へ突進した。
腿を狙ってPPK/Sを撃つ。
ぴゅっと血の糸が吹き上がったが、びくともせずに戸口をくぐり抜けた。
このまま放っといたら、何をしでかすかわかったもんじゃない。
おれはリュックを背負った。美弥子を指さし、
「緒形さんにおっさん、その女、逃がすなよ」
叫びざま宮田の後を追ってとび出した。
待ってましたとばかり、猛烈な雨と風が顔を叩く。目もあけていられない凄まじさだ。セーターの下に着た戦闘服のフードをひっかぶる。
水煙の奥に、宮田らしい人影が見えた。登山道の方へ駆けていく。一刻も早く始末しなくちゃ事だ。
おれは猛然と走り出した。糞ったれ、何でこんな余計な事まで面倒見なきゃならんのだ。
宮田は手傷を負っているとは思えぬ速度で登山道を登っていく。
ごおっと風が唸って水の膜が眼の前で躍り、それが晴れるともう見えなかった。
おれは闇雲に細い道を駆け上がり、気配を探った。
きゅん! と熱いものが頬をかすめる。
身を屈めたとき、右手の土手の方から銃声が届いた。
盲射ちで三発叩き込む。敵は沈黙した。ニュー・ナンブ拳銃は五連発だから、残りは一発。それを射たせちまえば、料理は簡単だ。
おれは身を低くしたまま、土手へ走った。
また一発。今度はどこへ行ったかわからないほど遠い。拳銃なんてな、昨日今日もった素人に扱えるもんじゃない。まして動いてる標的となったら、一メートルの距離でも当たらないことが多い。
「こん畜生、手間ぁかけやがって」
おれはののしりざま、銃声の方角へ走った。
ざっと草むらを湧かせて、宮田が走り出す。
おれも地を蹴った。ぐんぐん距離を縮める。
黒々とした森の影が迫ってきた。
宮田はそっちへ向かっていく。入られたら厄介だ。
奇怪な現象が生じたのは次の瞬間だった。
地の底でダイナマイトでも爆発したような響きが腹をゆすった。
素早く身を伏せる。もうひとつ、ドカンときた。方角は不明だが、どうやら森の奥だ。おかしい。これだけの轟音なのに、地面ひとつ、空気ひと筋揺るがない。おれは首を振って立ち上がった。
宮田は森に入りかけていた。
ドン! とまた空気が鳴った。もう一発。今度は近い。いや、近づいてきている。宮田の方へ。轟音は太鼓の乱打のごとく鳴り響いた。
「馬鹿、伏せろ!」
叫んだが、きこえるはずもない。
この上なくはっきりと、指向性をもつ音が宮田の頭上に降りかかるのをおれは感じた。
再び水の膜が眼を覆い、同じ風に吹き散らされたとき、宮田の姿はかき消えていた。
森へ逃げ込んだのだろうか。
おれはそう思うことにした。轟音は絶えている。雨飛沫《しぶき》をついて森へ入った。
四囲を見回し、いないのを確かめてすぐ歩き出した。
何処へ逃げたかしらないが、おれや警察の手が届くところじゃなさそうだ。
耳の奥を轟音が渡っていく。
山に関するある言い伝えをおれは思い出した。
まさか。おれは首を振って森を横切りはじめた。
すぐ背後で誰かが尾けてくる気配があった。
殺気とは違うが、一種の執念めいたものがこもっている。おれがお目当てなのだ。
平然と歩きながら、おれは忍耐が限界へきたのを感じた。
こんな山にもう用はないのだ。河童が出ようが、殺人狂が出没しようが、おれたちが下山してからなら文句はいわん。それがこのときとばかり、どいつもこいつもおれ目当てに群がってくる。
一生、下山できないんじゃないか、とおれは暗い気持ちに襲われた。
とりあえず、後方の尾行者だ。
かなり急いで追ってくる。プロや化け物じゃなさそうだ。
おれはPPK/Sを構えて振り向いた。
「射たないで――あたしよ!」
女の声だが、ゆきではなかった。
レーザーの視界に、整った美貌が出現した。
「捕まったんじゃないのか――仕様がねえな」
おれは憮然とつぶやいた。女は美弥子だった。さっき別れた格好のまま、ずぶ濡れだ。
「あなた……八頭くん?」おびえた風な声は、暗視装置付きのフードを見たせいだろう。「射たないで。あたしは病院へ帰りたいのよ!」
やっぱり二人組の片割れか。
「だったら、なぜ逃げた。そう言や済むこったぜ」
「お願いよ、どこか木の下へ入れて。もう、びしょ濡れ」
泣きそうな声だった。殺人狂も濡れれば寒いのだろう。胸と尻が大きけりゃ、つい甘くなるのがおれの悪い癖だ。おまけに美形とくれば、多少の危険など糞食らえ。
雷の心配はなさそうなので、おれは手近な木の下に移動した。完全とはいかないが、じかに降られるよりはましだろう。
「寒い……」
美弥子が両肩を押さえて身悶えした。当たり前だ、阿呆が。
「手間をかけやがって。また、あの部落へ戻らにゃならねえ」
吐き捨てるおれの手に美弥子はすがりついてきた。
「嫌よ。あそこは嫌。何だかとっても気味が悪いの。はじめて入ったときからそうだったわ」
「何を吐《ぬ》かすか。殺人狂のくせに」
おれは美弥子から眼を離さずにリュックをおろし、タオルを取り出して手渡した。
「ありがとう。脱け出したとき、どうなるかと思ったわ。夢中で追いかけてきたの」
「気味が悪いてな、どういう意味だ?」おれは美弥子の泣き事に返事もせず言った。「東金の爺さんも、緒形さんたちも、至極まともだぜ」
「あなたの眼には、でしょ。わたしにはわかるのよ」
「なるほど、気狂いの勘てのは鋭いそうだからな」
おれの嫌味に、美弥子はきっと顔をあげたが、すぐ無表情に戻って、
「あのお爺さんも、アベックも絶対に普通じゃないわ。宮田もそれがわかったから、眼を離さなかったのよ」
「普通じゃないってどういうことだ?」
「わからない」
「おれに言わせりゃ、おまえたちの方がよっぽど普通じゃねえよ。この分じゃ、あの連中を皆殺しにするつもりだったんじゃないのか?」
美弥子はおれに目を向け、にやりと笑った。おれ以外だったら硬直しそうな、薄気味悪い笑顔だった。
「とにかく、わたしは病院へ戻りたいのよ。宮田に脅かされて協力したけど、本当は一刻も早く安全な場所へ帰りたいの」
「なら、一人で帰りな。おれにゃ用がある」
「こんな山の中に、女をひとりで放り出すつもり?――あなたの仕事、手伝うわよ。お連れを探したいんでしょ。ひとりでも仲間がいた方が助かるわよ」
おれは、ふんと鼻を鳴らした。
「あの部屋へ入る前、この森の中で男と女の死体を見つけた。囚人服を着てたが、殺したのはお前らだな。ハイカーを襲って服だけ盗んだんだろ」
美弥子はびくりともせず、
「手を下したのは宮田よ。わたしは見てただけ。止めたんだけど、聞いてもらえなかったわ」
「気狂いの言うことなど信用できるか。それに、この雨の中で女が役に立つものか」
「ラジオじゃ、わたしの職業を言ってなかったようね。スキューバ・ダイビングの講師だったのよ、これでも」
「だから、雨降りでも平気か。ここは海の中じゃねえ」
「水の中に変わりはないわ。とにかく、あなたと一緒にいさせて。追い出すなんてことしないでしょ?」
「仕様がねえ。ここで待ってろ」
「嫌よ。あいつらが来たらどうするの?」
おれは頭を掻いた。
雨宿りの場所も探すのか。また、二重手間やんけ。おれはPPK/Sを美弥子の腹に突きつけ、
「両手を頭の後ろで組め。身体検査させてもらう」
「あら」
美弥子はにやりと笑った。両手をセーターの端にかけ、ひょいと脱いじまった。
「おい、何の真似だ」
「馬鹿ね。裸の方が捜しやすいでしょ。それに、身体も拭かなくちゃ。着換えくらいもってるんでしょ?」
こりゃ役得だ、と思う間もなく、美弥子は馴れた手つきでシャツもはずし、ジーンズにとりかかった。
息をのむくらい見事な裸体があらわれる。着やせするタイプらしく、白いブラとパンティに包まれた肌は、意表をつく豊かさを保っていた。大柄なだけに、たっぷり男の劣情を刺激するボリュームの主だ。
おれは素早くボディ・チェックを行った。
こたえられない触れ心地に手のひらが震えた。腰とヒップに触ると、美弥子は小さな声でうめいた。
「ずい分、念入りにするのね」
「ああ、只の気狂いじゃないからな。この髪の毛で絞められたらいちころだ」
武器はなしとでた。おれは替えのシャツとビニール製の雨ガッパを取り出し、懐中電灯と一緒に美弥子に手渡した。
「下着はなくって?」
「んなもの、あるかい」
「そ」
美弥子は背を向け、あっさりブラとパンティを脱いじまった。全裸の肢体におれのウール・シャツとジーンズをつけ、雨ガッパをかぶる。
「さ、行きましょ」
おれは奇妙な道連れと一緒に雨の中へ出た。
例の川っぷちへ降りるまで、おかしな現象には出食わさなかった。
二、三〇分川を下ると幸か不幸か、土手の中腹にかなり大きく深い洞《うろ》が口を開けていた。四、五人でも十分足を伸ばせる広さがある。とりあえず美弥子をそこへ入れ、おれはさらに下流へ急いだ。
戦闘服とレーザー・サイトのおかげで、雨はそれほど難儀じゃない。
二時間ほど探したが、やはり手がかりひとつ得られなかった。
流されてしまったのか。足が棒になるまで探し回り、おれは捜索を断念した。
洞窟までの距離は恐ろしく長かった。
「見つかって?」
美弥子の薄笑いが迎えた。返事をする気にもならず、おれは腰をおろした。懐中電灯の光だけが唯一の照明だ。
ダウンとセーターを脱ぎ、戦闘服姿になると、美弥子は目を見張った。
「あなた、一体、何者よ?」
「何でもいい。少し寝るぞ。朝になったら、おまえ勝手に外へ出て、下の町へ戻れ」
「あら、それでいいの。あたし、途中で誰かを殺すかもしれないわよ。なにしろ、殺人狂なんだから」
勝手にしろと言いたいところだが、本当にそうなのだから始末が悪い。病院へ帰りたいなんて台辞も眉唾ものだ。こりゃ、朝いちで山を降りなきゃならなそうだ。
降りられれば、な。
おれはリュックから寝袋をとりだし、膨らませてから美弥子に放った。へえ、という表情で受け取り、入ろうとせずにおれを見つめている。
「なにを見てる?」
おれはレーザー照明灯をつけ、CZ75の分解掃除にとりかかりながら訊いた。
「なんでも。面白い人を見つけたなと思って」
「そりゃお互いさまだ。人殺しが好きな気狂いに出食わしたのはおれもはじめてさ。なあ、好んで人を殺すてのは、どういう気分だ?」
「別に。説明しても無駄よ、この気持ちは。いま、そうなりかけてるけれど」
おれは横目で美弥子をにらんだ。おちおち眠れそうもない。
「わたしはね、変わった男が好きなの。今まで手にかけたのもそういうタイプばっかり。強い男、頭の切れる男、ホモ、方程式を解くことにしか興味のないサラリーマン――でも、あなたみたいなのははじめてだわ」
いつの間にか、美弥子の息は荒くなっていた。欲求と欲情が不即不離に結びついてるらしい。この女にとって、変わった男を殺すのはセクシャルなうずきを満たす役目も兼ねているのだろう。一九世紀末のロンドンへいけば、女の切り裂きジャックで通用したかもしれない。
「得物はなんだ、ナイフか?」
「ええ」
美弥子は唇の横からしたたる涎を拭いながらうなずいた。
「ナイフ、包丁――刃物ならなんでも。睡眠薬を飲ませて絞め殺したこともあるわ。手から伝わる、断末魔の痙攣が何ともいえないのよ」
「おれはそう簡単にゃいかんぜ。寝てても起きてるんだ」
「ねえ、殺しっこしてみない?」
「何だ、そりゃ!――おっとおかしな真似すんなよ」
立ち上がった美弥子に、おれはPPK/Sを向けた。女相手に大人気ないが、疲れてる上に気が立ってる。加えて相手は、隙をみせたらとびかかってくる牝の豹だ。美弥子は変わった男と言ったが、どうしておれの周りには、いかれた女ばかりが集まってくるんだろう。
「やめて」
美弥子は左手でそっとPPK/Sをつかんで横へ向けた。
右手を胸のボタンにあて、ひとつずつ、見せつけるようにはずしていく。
やれやれ、また女責めか。今はそんな気分になれないんだがなあ。
とは言うものの、次第に露わになってゆく美弥子の裸体は、人目にさらすだけの価値は十分にある代物だった。
抜けるような白い肌には、うっすらと脂肪がのり、腰のくびれやヒップの丸味を実物以上に滑らかに見せている。
乳房の張りや重量感も申し分はなかった。
「あなたも脱いで。お願い。でないとわたし、本当にあなたを殺さずにはいられなくなる」
美弥子の眼は熱く潤んでいた。肌はもう欲情のピンクに染まっている。これだけで生命を捨てる価値があるという男もいそうだった。
「おれが殺されなかったらどうする?」
おれは意地悪い声で訊いた。
「意地悪」と美弥子は震える声で囁いた。右手をのばし、地面に落ちてる平たい石を拾い上げた。
鋭く尖った先端を喉にあてる。
「おい」
わななく指が動き、グラマラスなボディが痙攣すると、白い肌につうと赤い筋が走った。
「わかって? わたしを殺したい?」
「いや。勿体ないね」
おれは喉にからまる啖をなんとか呑みこんだ。
石を握ったまま、美弥子はゆっくりとおれにすがりついてきた。
重ねた唇も肌も異様に熱い。マゾヒストの殺人狂てなはじめてだが、グラマーで美人なら文句を言う筋でもあるまい。
美弥子は自分からおれの手をとり、乳房にあてがった。遠慮せず、熱い果肉を揉みしだく。
獣のような反応を美弥子は舌の動きで示した。テクニックも糞もない、ただただ欲情を貪るためのがむしゃらさだ。重ねた唇の間から唾液がしたたり、犬がミルクをすするような音が洩れる。
白けてちゃ悪いから、おれは固く尖った乳首をつまみながら、すっと唇を離した。
「あン」と叫んでなおも求めてくる美弥子の唇をかわし、顎に軽く歯をたてる。美弥子は噛みやすいように進んで喉をあげた。丹念に舌を這わすと、こらえ切れなくなったのか、すすり泣きを洩らす。おれは喉仏にも歯をたて、熱い女体を床に組み敷いた。
形の崩れぬ乳房に唇をつけたとたん、美弥子は激しく頭を振って喘いだ。凄まじい感度の良さだ。これまでの相手は何も知らずに歓喜しただろう。生命を頂戴する前の、せめてものサービスなのかもしれない。
おれも容赦せず、はち切れそうな膨らみを舐め、乳首を吸った。強く、弱く、そのたびに美弥子は身悶えし、身をよじりもがいたが、おれは抱き締めたまま動くのを許さなかった。くびれた腰に強く愛撫を施し、舌先で乳首をはじく。少し間を置いてじらすと、美弥子は夢中でおれの頭を抱き乳房に押しつけた。
「やめてはいや、もっと強く吸って――噛んで」
「はいはい」
左手でもう片方の乳房の弾力を楽しみながら、おれは言われた通りにした。美弥子は声もなく、たくましい太腿でおれの腰を巻いた。下腹部の熱さは戦闘服の下からでも伝わってきそうだった。おれの下半身と密着したそこは、恥知らずな動きを示しておれを刺激した。童貞の坊ちゃんなら、これだけでいって[#「いって」に傍点]しまうだろう。その後で喉を掻っ切られるのだ。
おれは反対側の乳房にもたっぷり刺激を与え、徐々に唇を滑らせていった。妖しく起伏するぬめぬめした腹を噛み、愛らしいへそも舌先でくすぐる。
しばらく留まって愛撫を施していると、美弥子は狂ったようにおれの頭を熱い中心へ押した。
「は、早く、早く、来て」
声は叫びに近かった。
「まあ、待ちたまえ」
おれは冷たく言って、肝心な部分を素通りし、脈動する腿へ吸いついた。
それ自体、肉の壁みたいな付け根から膝方面へ、内側を中心に責めていく。ときどき柔らかい肉を強く吸い、ぽんと離す。そのたびに美弥子の指は地べたをかきむしった。
殺人狂兼色情狂の望みは最後に叶えられた。
おれの唇と舌のテクニックに、美弥子は我を忘れて叫び、身をねじり、尻を突き出した。
首筋に激しい痛みが走る。石の先をねじ込んでいるのだ。いよいよ生命懸けになってきた。おれが死ぬか、美弥子がいく[#「いく」に傍点]かだ。おれも舌の動きを全開にした。たちまち美弥子の全身を痙攣が走り、おれの首筋から熱いものがしたたった。
「答えろ」とおれは強制した。「あの二人を殺したのはお前だな」
「ちがう、ちがうわ」
「正直に言え。言わんとやめるぞ」
「いや、やめてはいや。そうよ、わたしよ。わたしがナイフで刺し殺したのよ」
やれやれ。
「死体をばらして木の枝に刺したのもお前か?」
「馬鹿なことを言わないで――つづけて、もっと、もっと舌で、ああーっ」
わななく二本の太腿に頭を締めつけられ、窒息しそうになる寸前、ひと声高く呻くと、美弥子の全身から急速に力が抜けた。失神したのである。
おれは大きく息をついて太腿を押しのけた。美弥子の手から血まみれの平石を奪い、タオルで首筋の血を拭く。容赦なくえぐりやがって――この気狂いめ。
ほっといて風邪でもひき、肺炎でおっ死にゃいい気味だと思ったが、そうもいかず、おれは汗みどろの身体を抱き上げ、寝袋に押しこんだ。うむ、やはりフェミニストだ。
CZ75の分解掃除を終え、念のためG11を組み立てながら、おれは無意識のうちに外の雨音に耳をそばだてていた。
おかしいと思ったのは、機関部の上にかぶせる五○連発マガジンが滑ったときだった。拾おうとさしのべた手もうまく動かず、マガジンは二度も地面へ落ちた。
耳の奥で雨音が鳴っている。心地よいリズムで、間断なく。
催眠術だ、と意識のどこかで、もうひとりのおれが叫んでいた。近くに敵がいる。雨音で眠りを導く敵が。
表に足音が湧いた。ひとつではない。十個、いや、それ以上だ。そのどれにも、おれは聞き覚えがあった。ついさっき、東金家の扉を開けて入ってきたばかりだ。
川べりをうろついていたそれは、束の間ぴたりと停まり、それからゆっくり、洞窟の方へ近づいてきた。
ぺたぺた、ぺたぺたと。
ここでG11のマガジンに拘泥していたら、おれもジ・エンドだったろう。
だが、おれもそれなりの精神鍛練を積んでいる。トリプルGは伊達ではないのだ。
あっさりマガジンはあきらめ、おれは左手をリュックの内側へ滑り込むよう神経に指示した。術にかかってると第六感が気づいた刹那、自動的に自己催眠のメカニズムが作動していたのだ。
半ば自由、半ば意志を拘束されながらも、左手は遅滞なく動いて焼夷手榴弾を掴んだ。
したたる雨水のカーテンの向こうに、二本足のおぞましい両生類の姿が浮かんだとき、おれは安全ピンとレバーをはじき飛ばし、サイド・スローで放った。
影どもの間に動揺が走る。
ひと呼吸おいて、目もくらむ爆光が屋外の闇を追い払った。
同時に呪縛が解けた。
左手が神速のスピードで動き、マガジンを機関部にはめる。チャージング・ボルトを引いて第一弾を薬室に送り込んだとき、影がひとつ突進してきた。背中の甲羅が炎に包まれている。
四・七ミリ炸裂弾の衝撃が、そいつの脳天を吹っ飛ばし、突っかかる身体も屋外へはね飛ばした。
背後で美弥子の起き上がる気配がしたが、構っちゃいられなかった。炎の中から、影は次々に現れ、突進してくるのだ。
同時に三つ。
ひとつは吹っ飛ばしたが、もうひとつがのしかかってきた。掴まれたら土左衛門である。
半透明の体液にまみれた緑色の腹へG11の銃床を叩き込み、前のめりになった頭の、平らな頭頂へ垂直にふりおろす。固い手応えがあり、何かが砕ける音がした。
やっぱり皿をもってやがった。河童めが。
そいつは、全身を痙攣させて息絶えた。
外では炎の周辺を、生き残りの影が蠢いている。
おれは振り返った。
寝袋から出たばかりの美弥子の裸体に、忌わしい影が覆いかぶさっていた。もがく両腕をひとまとめに握って地べたへ押さえつけ、片方の手で乳房をもんでいる。ついさっき、おれの手の中に張りついた熱い肉は、不気味な粘液を塗りたくられ、それでも女の反応を示していた。愛撫に変わりはない。
伝説通りに突き出した唇が弱々しく逃れようとする美弥子の口を覆い、赤黒い舌までさし込んでいるのを見たとき、おれの中で久方ぶりの憎悪が爆発した。
しかも、そいつの腰は美弥子の下肢に密着し、人間同様の動きを繰り返しているのだ。
おれは叫び声をあげながら、そいつの脳天にG11をふりおろした。
ガチャンと陶器の砕ける音を残して、そいつは女体からずり落ちた。
美弥子が咳込み、激しく空気を吸いこむ。溺死寸前だったろう。
おれは振り向きざま、洞窟の外へフル・オートで十五、六発叩き込んだ。
叫び声が上がり、じき静かになった。
精神を集中しても気配は感じられない。一応、退却したらしい。
「な、なによ……こいつら……よくも」
美弥子が手元の丸石をとりあげ、河童の死体にとびかかった。殺されかけた怨みで、半分狂っている。いや、もともとおかしいんだから正常になったというべきか。
びゅっと音をたてて石がふりおろされ、肉らしきものにあたる嫌な音が洞窟に響いた。
三、四回黙認し、おれはなおも破壊欲を満たそうとする美弥子の手を押さえた。
「そのくらいにしとけ」
「嫌よ。見たでしょ、わたし、こいつに犯されかかったのよ。気味が悪いわ、このべとべと――もう一生消えやしない」
おれが何となくぞっとしたのは、嫌悪の滲む言葉の中に、楽し気な調子を感じたからだった。この世以外の生物を眼の前にして、恐怖より、殺したことへの歓びに酔っている女――これほどおぞましい存在が他にあるだろうか。
やっと落ち着いたのか、肩で息をしながら、寝袋の上へ横になる美弥子をその場に残し、おれは出入り口へ寄った。
敵の姿はない。
河童の体液だか血だか、腐敗臭を十倍きつくしたような匂いが洞窟内にたちこめはじめ、おれは死体を三つまとめて肩に背負うと、注意しいしい、河原へ放り出した。
まだ燃え尽きぬ炎が額に熱い。
美弥子はタオルで身体を拭いていた。興奮も醒め、半ば放心状態である。
「早く着て眠れ。多分、今日はもう来ないだろう」
シャツとジーンズを放り、おれはやさしく言った。
「嫌よ――抱いて!」
美弥子は喚いて抱きついてきた。
「阿呆、外にはまだ半魚人がいるんだぞ。おまえも見ただろ。あの[#「あの」に傍点]最中に襲われたら一発で土左衛門にされちまう」
「あなたがいてくれれば大丈夫よ」
美弥子はおれの顔中にキスを浴びせながら言った。
「わかってちょうだい。化け物に犯されかかって――そいつを殺して……このままじゃとっても眠れないわ」
「殺せば眠れるんだろ。あんなに変わった奴ら[#「変わった奴ら」に傍点]がいるか!?」
「殺したのはあなたよ」
「そらま、そうだがね」
ぶつくさ言ってる間に、美弥子はおれを押し倒し、なんとか戦闘服を脱がそうとあせった。
「どうすれば、はずれるの、お願い、裸になって」
「わかった、わかった」
おれは内心うはうはと思いながら、戦闘服を脱ぎはじめた。
時刻は午前零時を少し回ったところだ。夜明けまでまだ大分ある。
それまで身体がもつかどうか。
美弥子が胸にキスの雨をふらせはじめた。
絶え間ない嬌声と貪欲な肌に、おれは明け方近くまで眠ることができなかった。
闇が青味を帯びた頃、おれは外へ出た。
風雨は収まり、白い霧がたち込めている。
とりあえず、美弥子を下まで送り届け、ゆきの捜索はそれからとりかかるとしよう。
河童の死体はいつの間にか消滅していた。放り出した位置には、青菜を溶かしたみたいな粘液塊が残っているきりで、悪臭だけが昨夜の襲撃の記憶を思い起こさせた。
新たな襲撃に備え、おれはG11を構えたまま川辺へ降りた。
たちまち霧がまとわりつき、視界を奪おうとする。まずいな。おれはすぐ洞窟へ戻った。
美弥子の身体も霧に包まれていた。寝息は安らかだった。
あれだけ頑張れば眠くもなるだろう。眼の下に隈ができている。
申し訳ないが、おれは少しやつれた頬を叩いて美弥子を眼覚めさせた。
もごもごとののしるのを強引に寝袋から引っぱり出し、昨夜知り尽くした肢体が身仕度を整えるのを見守る。
リュックを背負って外へ出る。G11は分解してしまった。宮田と美弥子の捜索はまだまだつづいている。山狩りの連中に出食わしたら厄介だ。
登山道にも霧は渦巻いていた。といっても前方が見えないほどじゃない。
おれは黙々と道を進んだ。
一五、六分ほどして、おかしなことに気がついた。疲労度が強いのだ。下り一方だから気分的にも楽なはずなのに、登り坂と同じくらい身体がきつい。
おれは美弥子を振り返って訊いた。
「おい、体の具合、おかしかねえか?」
「別に」
「ふむ。夕べ頑張りすぎたか」
「嫌ねえ」
美弥子は照れ臭そうに笑った。
我慢して行くと、前方から複数の人の声がきこえてきた。犬もいるようだ。
「お迎えがきたぜ」
「そのようね」
美弥子の平然たる言葉に、おれは不穏な気配を感じた。この女は本質的な殺人狂だ。病院を脱走したのもそそのかされたんじゃなく、そそのかしたに決まっている。人を殺したい――ただそれだけが行動の規範なのだ。病院へ戻りたいなどと吐《ぬ》かしたのは、昨夜の劣悪な環境でおれの庇護を得るための方便にすぎない。
山狩りの連中に引き渡すといえば、あなたがピストルもってることばらすわよ、くらいのこと言い出すのはわかりきっていた。だから、おれは彼らが通りそうな場所へ出たら木にでも縛りつけ、置き去りにするつもりだったのだ。
それを平然と受け流しやがるとは。
縛ったりする余裕はなかった。おれは精一杯、怖い顔で、
「おい、おかしな真似したら、後が怖いぜ」
美弥子は何故か、今までのとは少々異なる笑顔で、
「何も言いやしないわよ」
と答えたきり、逃げるそぶりもみせず歩きつづけた。
ようやく、霧をかき分けるようにして、制服警官や刑事らしい私服の姿が見えてきた。
先頭にいた五○年配の刑事がおれを見つけ、
「よお、早いでないの。夕べの雨にたたられなかったかね?」
人なつっこい声をかけてきた。
それから、美弥子の方を向いて、
「こんちは。あんた方、こういう二人連れを見かけなかったかね?」
と胸ポケットから写真を取り出したじゃないか。
茫然と二枚のキャビネ版を見つめるおれの眼に、宮田と美弥子の顔がとびこんできた。
「こ、これなら、あんた――」
「なに、見かけたか!?」
「い、いや、その、ほれ――」
おれは美弥子を指さし、刑事の反応をうかがったが、いぶかし気な眼で見返されただけに終わった。
「これ、あんたのお連れさんだろ?」
「そうよ」
美弥子は艶然と笑った。写真そっくりの顔で。
「そうかね――いや、失礼。この二人は精神病院を脱け出した気狂いでな。ちっと物騒な連中だから気いつけて降りなさい。見かけたら知らんぷりして通りすぎ、すぐわしらか下の村に連絡して下さいな。ま、あと一時間も下れば麓じゃ、のんびり行きなさい」
一礼して立ち去ろうとする刑事を、おれは呼び止めた。
「ちょい待ち。この辺の河原で女の子を見かけませんでしたか?」
刑事は首を振った。
「いや、どうかしたかね?」
おれはあわてて何でもないと言った。
「そうか。ならいいが……」
疑い深そうな眼でおれを見ながら、刑事たちは歩き去った。
おれは茫然と美弥子を見つめた。刑事には、こいつが美弥子と映らなかったのだ。
「驚いたわね。一体、どうしたの?」
「とぼけるな、この化け物――おれが洞穴の外へ出た隙に、何か手を打ったな」
「よしてよ。確かにおかしなことが起こったけど、わたしのせいじゃないわ。わたしはあの人たちに連行されてもよかったのよ。でも、こうなった以上、あなたに連れてってもらうしかないようね。それともここで放り出すつもり?」
そんなことして別のハイカーでも襲ったらことだ。
「仕方がねえ、ついてきな。その代わりおれの前を歩くんだ。おかしな真似したら容赦なく背中から撃つ。断っとくが、あんな三下警官、おれの指一本で唖《おし》にできるんだぜ」
「お強いことね。わたしは病院へ帰れればいいのよ。その前にもう一度、あなたと寝てもみたいけど――いかが?」
「残念ながら暇がない。さ、歩け」
美弥子は肩をすくめて命令に従った。
形、ボリュームとも申し分のないヒップがおれ用のジーンズの下で揺れている。霧までが気を引かれるのか、白い触手でまとわりついてくる。
三〇分ほどで、おれは「停まれ」と命じた。
「どうしたの?」
「おまえ、ほんとに疲れてないのか?」
「別に。下る一方じゃないの。あなた、もうバテたわけ?」
「やかましい」
「無理しない方がいいわよ。少し休んだらいかが。ちっとも恥ずかしくないわ」
「うるせえ――さ、行くぞ」
おれたちはまた歩き出した。
霧は執拗に行く手を塞ぎ、おれの顔や手に小さな水滴を結んだ。
左手に家の屋根らしき影が迫ってきた。
「ひと休みしたいわ」
美弥子が言い、おれもうなずいた。こうなったら、ITHAの東京支部《ブランチ》に連絡をとり、ヘリでも呼んでもらった方が手っ取り早い。
おれは霧に包まれた広場へ入り、手近な家の雨戸を叩いた。
「はあい」
すぐに女の声がして、閂《かんぬき》のはずれる音。
おれは驚愕の叫びを呑み込んだ。
「あら、戻ってきたの?」
不審げな和田貴子の顔がそこにあった。
おれは茫然と周囲を見回した。
広間を囲む家、井戸、畑、すべてに見覚えがあった。昨日の村だ。とっくの昔に通りすぎたはずなのに、戻ってきちまったのだ。
一瞬、疲労の原因が頭の中に閃いた。
おれは登山路を下るつもりで、実は登っていたのではなかろうか。あれは、昇りの疲労だったのだ。山は、おれを逃すまいとしているのだ。おれの超感覚さえあざむいて。
「お入りなさいよ」
貴子が脇にのいた。
「どうするの?」
面白そうに訊く美弥子に、おれは入れと顎をしゃくった。不様な真似はしたくないし、ややへばり気味でもある。
土間では緒形が靴の紐を締め直していた。東金老人は座敷でストーブにあたっている。
おれを見る眼に人なつっこい色は微塵もなかった。
「二人揃って。――宮田はどうした?」
緒形がきつい声で言った。
「とんずらこいたよ」
「冗談はよせ。まだ電話が直らないから仕様がないけれど、本当なら警察を呼ぶところだぞ」
「警察ならさっき会ったわよ」
美弥子が表の方へ顎をしゃくりながら言った。
「とにかく、少し休ませてもらうわ。おじさん、お茶をいただける?」
「殺人犯に飲ますお茶などねえ!」
東金老人が怒鳴った。
「そういうなよ」
おれは頭をかいた。
「ちと、訳ありで事情を説明してる暇はないが、おれは怪しいもんじゃない。――と言っても信じちゃもらえないだろうけどね。とにかく、この女は精神病院を脱走してきた患者の片割れだ。下まで連行しなきゃならない。そこで質問だが、緒形さん、この女、どんな顔に見えるかね?」
緒形が眉をひそめ、
「どうって――普通の、昨日と同じ顔じゃないか」
言ってから青ざめた。おれこそ狂人と思ったのかもしれない。おれは、彼にすがりつく和田貴子にも同じ質問を放った。答えは同じだった。
「とすると、あんた方はおれ並みに正常なわけだ。おい、美弥子、よかったな」
「ありがとう」
おれは緊張しきってる緒形に向かって、
「そこで、ひとつ頼みがある。おれはまだこの山に用のある身だ。ひとつ、こいつを山狩りの一行に引き渡すなり、麓へ連行するなりしてもらえないだろうか。おれがしてもいいんだが、どうにもおかしな事ばかり起きるんで、都合が悪いんだ」
「そりゃ構わんが。――いっそ、ここへ置いて、山狩りの人たちがくるまで東金さんに預かってもらっといたらどうだい?」
「冗談じゃないわ!」
美弥子が血相変えて叫んだ。悲鳴に近い声である。貴子ばかりか緒形までがびくっと身を震わせた。
「こんな薄気味悪い家で待てるもんですか。まだわからないの。この家も、いいえ、この村自体がおかしいのよ。この二人だって!」
突き出した指の先で、緒形と和田貴子が顔を見合わせていた。
「どういう意味だね?」
重い声で訊く緒形に、
「おれにもわからん」
おれは肩をすくめるしかなかった。なにせ狂人の言うことだ。しかし、前にもいったが、狂人の勘というのは人一倍鋭い。すると、一見、正常この上ない緒形たちも、ただの人間じゃあないのか。いや、狂人は狂ってる[#「狂ってる」に傍点]んだから、それがおかしい[#「おかしい」に傍点]という以上、言われた方は正常[#「正常」に傍点]なんじゃないか。
頭がこんがらがってきたので、おれはともかくひと休みさせてもらうと言ってリュックをおろし、その上に座りこんだ。
美弥子は戸口に寄りかかり、緒形たちは立ちっぱなしでおれたちを交互ににらみつけ、東金老人は座敷できょとんと突っ立ってる。
なんとも珍妙で異様なときが流れた。
沈黙を破ったのは緒形だった。思い決したようにリュックを背負い、
「じゃ、僕たちは出かける。後は好きにしたまえ」
おれも立ち上がった。
「そりゃ、つれなかろうぜ。おれたちもお供するよ」
「わたしは嫌よ」
美弥子は首を振ったが、おれはひとりで残りたいのかと脅し、強引に表へ連れ出した。
広場はまだ白い世界だ。
緒形と貴子がつづけざまにくしゃみを放った。薄気味悪そうな眼をおれたちに注ぐ。
「そう邪慳にするなって」
おれは二人に、したくもないウインクをしてみせた。
「どうせ降りるんだろ。ま、旅は道連れさ」
横で雨戸の開く音がして、おれは振り向いた。
向かい側の家の戸が開いて、かっぽう着姿のおばさんが顔を出すところだった。
おれたちに気づき、人なつっこい笑顔を見せる。
別の家からも生活の開始を告げる物音が響き渡りはじめた。
「じゃあ、僕らは行く。ついてくるのは勝手だけど、無関係ってことにしてもらおう」
緒形の宣言におれは、
「あいよ」
とうなずいた。
別段、この二人と行きたい理由があるわけじゃない。なんとなく、おれ以外の人間といけば山を降りられるんじゃないかと思ったのだ。
緒形と和田貴子に五メートルほど遅れて、おれたちは登山道を下っていった。今度は疲れなかった。この調子なら、一発で美弥子を引き取ってもらえるんじゃないかと、おれはあえかな期待を抱き、山狩り関係者に出会うのを待ちわびた。
風が鋭く鳴った。
あうっと叫んで美弥子がのけぞった。
背中に細い木の棒が突き刺さっていると見るや、おれは倒れかかる身体を支え、横手の草むらへとんだ。
「伏せろ!」
と緒形たちに叫びざま、CZ75を抜いた。
美弥子の位置と矢の角度から発射地点はすでに割り出してある。
背後の森の一角で草がなびいた。
CZ75が二度吠えた。
和田貴子の悲鳴。
手応えはなかった。大した手練《てだ》れといえる。
「緒形さん、無事か?」
おれは低く叫んだ。ああ、と応答があった。
「すまんが手を貸して下さい。女がやられた。リュックの中に医療キットがあります」
少しの間、ためらう雰囲気があり、やがて草が左右に分かれた。和田貴子も一緒だ。
美弥子は低く呻いている。
おれは素早く傷口を点検した。心臓のやや左上に命中している。凶器は木の枝をけずった矢で、矢尻はついていない。今作ったといっても通用しそうな即製品だ。ただし、射手は年季が入っている。どんな弓を使ったにせよ、真っすぐ飛ぶような矢ではないからだ。
「抜けるかね?」
緒形が固い声で訊いた。おれは首を振った。
「いや、心臓ぎりぎりだ。ここで手術してもいいが、とりあえず襲撃者の正体を見極めないと危ない」
「手術って、あなた、そんなことを出来るの!?」
和田貴子が素っ頓狂な声を出した。まだ高校生、ひいき目に見積もっても大学一、二年にしか見えない餓鬼が、本物のピストルを振り回して狂人と射ち合い、その連れが弓矢で負傷すると手術をしようという。彼女ならずとも困惑するのは当然だ。
敵の気配は消えていた。一度攻撃をかけたら、その成果に酔って深追いはしない。ゲリラ戦に馴れた輩だ。
おれは荒い息で呻く美弥子の背に刺さった矢を、食いこんだ部分のみ残してへし折った。
リュックから医療キットを取り出し、止血剤を傷口に塗りつけてから、無針注射器で痛み止めを打つ。
美弥子の呼吸はすぐ楽になった。
「どういうことなんだ、これは……」
緒形が啖の絡まる声で訊いた。
「おれにもわからん。あんた方と一緒なら安全と思ったが……」
おれも首をひねっていた。今の一撃は完全に美弥子を狙ったものだ。おれに恐怖を与えるためだろうか。それよりも何よりも、このおれが何故、殺気を感知できなかったのだろうか。たとえ、美弥子に向けられたものにしても。
どうも調子がおかしい。黙示録事件のときとはまた別の低調さだ。
「あんた方、済まんが、この娘を看ててくれないか。おれは山狩りの連中を探してくる。担架でもこしらえて運ばないと動かせん」
「待って。この娘を狙った人がやってきたらどうするのよ?」
和田貴子が泣きそうな声をふりしぼった。
「大丈夫。狙われてるのはおれさ。いない方が安全だ。苦しがったら、こいつを射ってやってくれ。先を血管に押しつけて、ボタンを押せばいい。それからこれは護身用だ。あと一四発、引き金を引けば弾丸がでる」
半ば強引に注射器とCZ75を手渡し、おれは登山道へ出た。ヒップホルスターのワルサー・PPK/Sを抜く。弾丸は装填済みだ。
脇目もふらずに登って、すんなり村の入り口に着いた。東金老人がおれのことを何と言ってるか知らんが、ここで人手を借りるのがいちばん早い。
おれは広場へ降り、東金老人の家はパスして、その隣家の戸を叩いた。旧式の電気洗濯機がごとごといっている。
五歳ぐらいの丸刈りの男の子が出てきた。ふかした芋を手にしている。
父ちゃん、いるか、と訊くと、畑の方を指さして、みんな、あっちと答えた。
かなり広い段々畑で鍬をふるう姿が見えた。子供に礼を言って近づく。
ぷん、と嗅ぎ馴れた匂いが鼻孔に忍び入る。
血臭だ。
おれは眼を凝らした。男も女も、四〇人近い人数が黙々と鍬をふり上げ耕している姿に異常はない。
しかし、血臭はまぎれもなく彼らの周囲からした。
土の異様な赤さがおれの眼を据えた。
彼らが西瓜のような丸いものの上に鍬をふりおろしていると気づいたのは、次の瞬間だった。
赤いのは西瓜の果肉か。それにしちゃ、色が緑じゃない。目鼻もついてるように思えるのは眼の錯覚だろう。
いや、それは人間の首だった。
かっと眼を剥いた途端、鍬にかき散らされた黒土の間から覗いている作物がはっきりと識別できた。
青白い葉のようなものは、五指を開いた人の手だ。大根は――脚だ。笑い事じゃねえ。奴らが耕してるのは土じゃなく、人間の身体だったのだ。
幾つかの顔が、のろ[#「のろ」に傍点]を浮かせた死魚の瞳でもっておれの方を見つめていた。覚えている。山狩りの刑事だ。
おれたちが村から出て一体何があったんだ!?
おれはそっと後退をはじめた。
誰かが背中に触れた。
気配が感じられない。
おれはゆっくりと振り向いた。
丸刈りの坊主頭が立っていた。
「ははは」
おれは愛想笑いをしてその横を通り抜けようとした。
ひょいと坊主頭が前を塞いだ。
この餓鬼と思ったが、おれは忍耐強くジャガイモ頭をなで、もう一度すり抜けようとした。
また邪魔しやがった。
「おい」
おれは怖い顔で、ドドッと突進するふりをしてみせた。
びくともしない。
坊主頭はおれの後ろを見つめていた。
おれはそっと振り向いた。
村を出がけに挨拶したあのおばさんが立っていた。彼女が先頭だった。背後に村人が勢揃いしていた。血みどろの鍬を肩に担いで、虚ろな眼がおれに注がれている。
「戻ってきたのかね」
と言ったのは、東金爺さんだった。
「来ない方がよかったのに」
とおばさんが声をかけた。
「仕様がねえ。いったん足踏み入れたら、絶対、抜けられねえだ。――おれたちみてえによ」
「もう何十年になるかねえ」
別の声が言った。
「わからねえ。山ができたときからだ」
おれは予備動作なしで地を蹴った。
遮二無二広場を抜け、村の出入り口へ走る。
背後で足音がした。
追ってくる!
無表情な顔の上に鍬が赤く光っていた。
首すじを空気が叩いた。ワルサーで応戦する暇もない。
おれは石段を駆け上がった。
足音は追ってこなかった。
村からは出られないらしい。おれは振り返りもせず山道を駆け降りた。笑い声がどこまでもついてくるような気がした。
走る手足に霧がまとわりついた。
待て 待て
出られんぞ この山からは
出られんぞ 出られんぞ
おれは走る足に抵抗を感じた。この化け物山め!
緒形たちを残した場所まで、一瞬たりとも休まなかった。
新たな衝撃がおれを迎えた。
例の草むらにCZ75と医療キットだけを残し、三人の姿は影も形もなかった。
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第五章 背後に迫るもの
これほどの八方塞がりは、おれの宝探し人生でもはじめてのことだ。
ゆきはいなくなる、山からは降りられない。ルビー数個と銅板一枚じゃ、どう転んだって合わねえ。
山芋を食いながらひげぼうぼうのターザンみたいな一生を終える自分の姿を想い浮かべ、おれは青くなった。
これはもう、一から態勢を立て直す手だ。根本的な対策を立てにゃ、ほんとに謎の原始人――餓竜原人になっちまう。どうもすいませんのTVレポーターどもに追いかけ回されてたまるものか。
おれはCZ75をチェックして、おかしなところのないのを確かめ、新たに二発を装填した後、ショルダー・ホルスターへ戻した。医療キットもしまい、周囲を点検する。少し離れた草むらに、美弥子を倒したのと同じ材質の矢が二本、突き刺さっていた。
また、しくじった。敵の目当ては緒形たちだったのか。おれを精神的に追いつめるために……。
それにしちゃ、草も荒れていないし、血痕もない。抵抗もせずに拉致されたのだろうか。拳銃と薬品を残したままで。
この山中にいる限り、平地だろうと森の中だろうと獅子の腹の中と変わらないが、おれは一応、手近の林へ入り、G11を組み立てた。人目を気にしてる場合じゃない。三・六キロの重量を手に感じると、義理でも自信が湧く。おれはあの地底の城へ入った時と同じ、第一戦闘装備に身を固めた。
焼夷手榴弾が残り三発なのが気になるものの、炸裂弾を込めたG11はあと二○○発――四弾倉《マガジン》分OKだし、破砕型手榴弾と麻酔ガス弾は五発ずつ残っている。CZ75の九ミリ炸裂弾は二〇〇発、PPK/Sは五〇発と少ないが、これが万が一の護身用《バック・アップ》だから最初から戦力としては考えていない。
おれはペースト食と水筒の水で腹ごしらえをし、一時間ほど休憩をとって立ち上がった。
山道を降りる正攻法はもう通用しない。
残るは川下りだ。運が良ければゆきも見つかるだろう。
おれは記憶しといた地図を頼りに、川へと向かった。
すんなり着いた。怪しい。
紙ボートを取り出し、膨らませて乗った。念のため、固型酸素と体圧調整剤をのみ、リュックは背負ったままだ。
不安材料は山ほどあるが、後は運まかせである。
川幅は三メートル、両岸は土手だ。おれは即製オールで水をかきはじめた。
滝になってる部分も記憶してあるから、ひとつ[#「ひとつ」に傍点]手を打っておく。
ボートは至極順調に進んだ。
こうなると落ち着かない。コペンハーゲンには、毎月泥棒に入られた挙げ句無事だった月末に、信じられんと心臓発作を起こして入院した男がいるが、今のおれにはよくわかる。
不安が失せたのは、数分後、滑らかな流れのつづく前方から白い霧がもうもうと立ちこめだしたときだった。
一気にフードをひっかぶる。
視界を白煙が覆い、おれはG11の安全装置を親指ではじき飛ばした。
全神経を四囲の気配に集中させて待つ。
霧は徐々に晴れていった。流動感が急速に失せていく。流れの停滞だ。
広い水面が見えた。
両岸の土手は消え失せ、押しのけられた霧の彼方に、黒い木々の連なりが沈黙している。
沼だ。黒々と澱んだ水面がおれに異常事態を告げた。わかってらい。記憶をどう探っても、渓流の途中に沼など存在しないのだ。
あわてず騒がず、おれはG11を膝の上に乗せて耳を澄ませた。
鳥の声ひとつきこえない。愛想のない世界だ。
ボートは静止した。
舳先《へさき》から五メートルほど前方の水面に、ぽかりと丸いものが浮かんだ。人の頭だった。黒い髪が虫みたいに顔に筋をひき、表情は不明だ。
左舷にも波紋が広がった。つづいて右舷にひとつ。彼方に気配はない。
三つの首はそのままゆっくりと立ち上がった。首だけかと思ったが、胴体もついていた。親切なことに服まで着ている。どれにも見覚えがあった。
前方にいるのが美弥子、右が緒形で、左は和田貴子だ。何処へいったのかと思ったら、こんな地図にもない沼で水浴びしていたのか。
いい加減にしろ。
腰のあたりまで立ち上がった三人は、すぐに沈みはじめた。膝を曲げているんじゃなく、浮き上がったものが沈んでいくのだった。水深はわからない。
三つの首はすうっとボートへ近づいてきた。
おれは前方の美弥子にG11をポイントした。
「こら、来るな、あっちへ行け」
と命じる。おどけた言い方は不安感を消すためと、化け物にも冗談が通じるかもしれないと、はかない望みを抱いたせいだ。
誰も従わなかった。
ぷくりと顔の前方から二本の手を突き出し、ボートへ接近してくる。
美弥子の顔が二メートルまで近づいたとき、おれは引き金を引いた。毎秒二千発の発射速度は、弾丸が銃口を出てから本体を跳ね上げ、一瞬のうちに三発の炸裂弾を美女の顔面へ叩きこんだ。
夕べ、骨の髄まで愛し合った女の顔が膨らみ、四散する光景は見なくて済んだ。
眉間に小さな黒点が口を開いたものの、青黒い汚液がどぼりと溢れただけで、美弥子は水中に没した。
緒形にも後を追わせた。
背後に銃身を向けたとき、ボートは大きく揺れた。和田貴子が縁に手をかけ、無表情な顔で登ってくるところだった。
長いこと水に漬かっていたような、妙にふやけた肌へ、おれは容赦なく三点射をぶち込んだ。
貴子は倒れかかってきた。
狭く不安定なボート上ではいかんともし難く、おれは貴子を突き飛ばすようにして、自分から水中へ落ちた。
ひたすら暗い水だった。
呼吸の心配は不用だが、G11の威力は大幅に薄れる。水壁の密度は空気とは比較できないほど大きいのだ。
おれはブーツに刺したチタン鋼のナイフを抜いた。
どぶ泥のような闇の奥から、ぬっと青白い顔が視界に現れた。
美弥子だった。
白い手をのばしておれの喉首へ掴みかかってくる。おれは渾身の力をこめてナイフを切りおろした。粘っこい手応えがあり、美弥子の両手首から先はスローモーション・フィルムのように離れて、のろのろと浮上していった。
両脇の下から男の手がのび、おれをフル・ネルソンに固めとった。緒形にちがいない。おれは振り向かなかった。いくらフード付きでも、こんな状況で土左衛門の顔とお見合いはご免だ。
おれは頭上に固められた手を下に向け、チタン鋼の刃を滅茶苦茶に上下させた。いまの緒形に身を遠ざけるなんて知恵が浮かぶとは思えないし、ナイフの刃渡りは三○センチを越える。
なんとか届いた。林檎に切れないナイフを刺し込むような手応えである。頭骸を貫通し、脳まで届いているはずだが、力はゆるまない。おまけに、手を失った美弥子が前方から、鼻のひしゃげた和田貴子が左側面からしがみつき、フードを引き離そうと奮闘しはじめた。馴染みの顔がふたつ、愛想笑いも浮かべずおれを殺そうとしているのを見るのは、不気味というよりシュールな眺めでさえあった。白くか弱い拳がごつんごつんと暗視レンズを叩く。
はじめての試みだがやむを得ん。
おれは渾身の力をふりしぼって身体を回転させ、フルネルソンをはずした。すかさず緒形は胴締めに移るが、手さえ自由になりゃどうでもいい。
掴みかかってくる貴子と美弥子を両脚で蹴りとばし、おれは胸のホックから炸裂型手榴弾をはずした。左手でリングを引っこ抜く。二人が抱きついてきたとき、はじめて安全桿をはじいた。
一《ワン》、二《ツー》、三《スリー》……
生まれてはじめて体験する衝撃と炎が全身を痛打した。水圧ハンマーの一撃に等しいインパクトに、そり返った背骨が嫌な音をたて、関節という関節がねじり取られる。象狩りライフル弾を食い止める戦闘服のパワーがなかったら、悪戯っ子に四肢をちぎられた人形と化していたところだ。
それでも肋骨は二本がとこ折れ、内出血でも起こしたのか、胃のあたりがねじきられるほど痛い。こみ上げる熱いものを、おれは必死でこらえた。
一応の成果は、周囲の黒い水をただよう肉片が保証してくれていた。緒形の手と貴子の腰、眼の前を流れる肉づきのいい腿の内側には小さな黒子《ほくろ》と、その周囲にキスマークが群がっていた。夕べの美弥子の脚だ。
おれは水を蹴って浮上を開始した。
水面に顔を出すと同時に、眼の前に緒形の首が浮かんだ。わっ、逆襲か!
しかし、首はくるりと反転し、爆風にちぎれた切り口を見せて水中に没していった。乱れた水流に乗って偶然浮き上がったものだろう。水中で襲いかかるより、よほど首らしい表情をしていた。
ボートによじ登ろうとしたとき、不可解な感覚が全身を貫いた。
おれに覆いかぶさっていたかったるい被膜の一枚が、すっと剥がれたような。
ボートへ乗るとすぐ、おれはフードをはずし、腹腔《ふっこう》からこみ上げてくるものを船べりから吐き出した。赤黒い塊が水面で砕け、墨のように溶け沈んでいく。血塊だ。内臓破裂でも起こしたらしい。
猛烈な倦怠感と冷気が押し寄せてきた。
背のリュックをはずして医療キットを取り出す。指先が震えた。
止血カプセルを嚥下《えんか》し、おれは脱出の用意にとりかかった。
船尾に寄って水中に手を突っこむ。
徐々に徐々に、ボートは後退を開始した。
どこにもない沼から、現実の世界へと……。
誰かが頬を叩いていた。
眼覚めを欲する意識が暗黒に細い光線を導入していく。
懐かしい顔が太陽を背に微笑んでいた。
「こら、大丈夫か、大の助?」
おれはそっと手をのばし、ゆきの頬に触れた。本物だ。これだけはすぐに見分けがつく。
「無事だったのか――厄介払いができたと思ったのに」
何とか笑おうとした。筋肉は動いたが、笑いの形になったかどうかはわからない。ゆきの膝の上に頭をのせているのだった。
「やかましい。悪態をつくと、寿命が百日縮まるぞ」
ゆきは思いきりおれの鼻をつまんだ。
「いてて。何しやがる!」
跳び上がり、おれは腹腔の痛みがきれいに消え失せているのに気づき呆然となった。
ゆきといるのは川っぷちで、紙ボートは岸に横たえられたまま、ふりそそぐ陽光に船腹を光らせている。足元にはリュックも健在だ。
「ところで、おまえ、今の今まで何処にいた? さんざん探し回ったんだぞ。この厄病神」
ゆきの顔に妙な表情が浮かんだ。
「大ちゃんとはぐれてから自力で岸へ這い上がり、今まで待ってたのよ。きっと助けにきてくれると思って」
「なぜ、自分で探しに来ない?」
「だってさ。ひと休みしてたら凄い降りになっちゃったし、今朝は霧でいっぱいでしょ。ここにいた方が安全と思ったの」
「すると、あの川の水は、おれとお前を引き離したきり、何もしなかったというんだな。頭のてっぺんに皿のある化け物にも遇わなかったし、おかしな沼にもひきずり込まれなかったんだ――そうだな」
「え、ええ」
トレジャー・ハンターとしてのゆきの最大の欠点は、ある種の嘘の下手なことだ。金が絡めば、相手にヒトラーの娘だと信じこませる才覚の持ち主だが、それ以外となると、すぐ馬脚をあらわす。
しかし、おれは深追いしないことにした。無事でいてくれれば御の字だ。することは他にいくらもある。
おれは頭上をあおいだ。碧青の空に白い雲がたわむれている。
「いつからこんな天気になった?」
「ついさっき。――大ちゃんが現れたときからよ」
「現れた?――どこからだ?」
「それが……」
ゆきは口ごもった。自分の言葉の意味を自分で掴めず、目を白黒させている。やっと、こう言った。
「どこからでもないの。何もないところから、流れとは逆に――船尾で何かをたぐるみたいにして……」
ふむ。すると、やはりあれは幻じゃなかったのか。
おれは横倒しになった紙ボートの船尾に眼を走らせた。粘着テープではりつけた太さ○・一ミリの特殊ワイヤ発射器は、まだ剥がれ落ちていなかった。ボートで川下りを始める前、おれはワイヤの端を岸辺の大木に縛りつけておいたのである。本来の目的は、滝壺に落ちるのを避けるためだったが、別世界からおれを引っぱり出す役目も果たしてくれたのだ。
胸の手榴弾もひとつ少ない。
「ま、お互い無事で何よりだ。山を下るにゃ絶好の天気だし、そろそろご帰還あそばすとするか」
おれは立ち上がった。風が肌に心地よい。山の神が突如、おれに好意をもったような感じだった。後は神さまが女であることを祈るばかりである。
ゆきはなぜかそわそわと、土手の方を見ていた。どうも様子がおかしい。
「何かあるのか。隠しごとするなよ」
「別にィ」
とそっぽを向く。向き方が小憎らしい。
「いいか、今は晴れても五分後にゃどうなるかわからねえんだ。どうやら、おれもおまえもこの山自体にたたられてるらしい。無事に下山するためにゃ、これまで以上に息が合ってなきゃならん。隠しごとは厳禁だ」
「なーんにもしてないもン」
横面を張り飛ばしてやろうかと思ったが、ここでイザコザはまずいので我慢した。絶対、腹に一物忍ばせてやがる。見てろ、いつか暴き出してくれるぞ。
「どうやって降りるのよ?」
ゆきが訊いた。荷物はみな無事で、セーターの下には戦闘服を着込んでいるという。結構なことにM16ライフルも組み立てを完了していた。
「とりあえず、川を下る。多分、次から次へと山の刺客が襲ってくるだろう。そいつらを片づけ片づけ、親玉の正体が割れたら、逆襲に転じてやっつける。そうでもしないことには、永久に山ん中で堂々巡りだ」
「わかったわ」
うなずくゆきの仕草に、妙に自信たっぷりなものを感じて、おれは首を傾げそうになった。
「ところで、あんた、あの銅板、ちゃんともってるんでしょうね」
ゆきがいきなり、こすっからい顔つきになって訊いた。
「もちろんだ」
言ってから、ぎょっとした。あの板は戦闘服のポケットに入れておいた。そして、手榴弾の直撃を食らったのだ。
あわてて引っぱり出すと、幸い無事だった。やはり衝撃を食らったらしく、真ん中から少しひん曲がっているが、外側の模様に変化はない。
「よろしい」
ゆきは渋い顔でうなずいた。
川を下るにつれて、おれは五感がますます冴え渡るのを感じた。長い間の悪夢から醒めたもののように、風の方角、草木にこもる気配のひとつひとつが、鋭敏に肌へ泌み入ってくる。
「快調そうね」
と船首のゆきが言った。「君去りし後」の鼻歌がきこえたらしい。
「まあな」
こう答えたとき、前方におかしなものが見えた。トンネルだ。両側の土手の上から木が川面へと枝を広げ、それが川の中央で合体してアーケードをつくっているのである。高さは川面から七、八メートル。長さはかなりある。三、四○メートルか。それも、この速度なら一○秒とかかるまい。
安堵は身を滅ぼす元だ。
おれはG11のグリップに右手を置いた。ほう、ゆきもM16を手元に引き寄せてる。この辺の勘は大したものだ。
ボートは樹木のトンネルに入った。
その途端――
頭上の梢で凄まじい爆発音が轟き渡ったと思うや、天蓋と化した木の枝が、長さ五、六メートルにわたって、ぐわっとたわんだのだ。まるで、何かが落下してきたかのように。
そして、この世ならぬ獣が欠呻でもするような、あーあ、という声とともに、何か、人肌でもひっ掻くような音がして、おれたちの頭上に何やらばらばらと落ちてきたものがある。
灰色の、分厚い皮膚の断片みたいなものに混じってくねくねと蠢くのは――
「きゃきゃきゃ――け、毛虫よお!」
ゆきが身も世もあらぬ叫び声をあげた。
「へ、蛇もいる。きゃあ。ひる――蛭もお!」
その通り。おれたちの眼の前でにょろにょろと蠢き、わなないているのは、ヤマカガシとアオダイショウであり、おれの手の甲でみるみる赤黒い色に変わって膨張しつつあるのは、親指大の吸血蛭であった。
半狂乱となって硬直したゆきの膝からアオダイショウを放り出し、手の蛭を叩きつぶすや、おれはG11を頭上に向けた。
上にいるものの正体がわからないではなかったが、常識が素直な肯定を許さなかった。
まさか――しかし、あの音は……そして、夕べ、宮田をさらった風は……
銃声が轟いた。
ゆきが我を忘れてM16を天井へ乱射しはじめたのである。空薬莢が跳ね、枝の破片が所狭しとふりかかる。
どん! と梢が揺れた。
少し遅れて数メートル先にも、どん。
上の奴は樹上を走っているのだ!
それはM16の乱射を嘲笑うかのごとく、ボートに先立って頭上を走っていたが、出口のところで不意に止まった。
「くるぞ!」
叫んでおれがG11をトンネルの端に向け、ゆきが絶叫を放った。
古めかしいぼろぼろの着物を着た、しかし明らかに人間とおぼしき巨大な影が、梢のてっぺんから逆さまにぶらさがったのは、次の刹那であった。
その右手に握ったばかでかい扇みたいなものが動いたとき、おれのG11はフル・オートで咆えた。
何が何やらわからないというのが正解だろう。頭のてっぺんに青空が広がり、足の下に緑の木々がひらめいたのは覚えている。
それも一瞬のことだった。
おれは訳もわからぬまま、なにやら固くてやわらかい敷物の上へ、頭から叩きつけられていた。
こん畜生めと両手両足に力を入れてふんばった途端、四肢は何の手応えもなく空を切り、腹だけが、かろうじて固い丸木みたいなものにひっかかった。
あわててそれにしがみつき、周りを見渡して、おれは今度こそ、天地がひっくり返るほどのショックに見舞われた。
おれの前に広がっているのは、果てしない杉の木の連なり――よりによって、その頭頂部ばかりだったのである。
遙か彼方に望むまだ白雲を抱いた山は八ヶ岳、その遠い果てにも白い山の稜線が鮮やかだ。
絶景である。
好んで高さ二○メートルにも達する杉の木のてっぺんに来たのであれば。
吹きすぎる風は心地よいどころか、たっぷり胆まで冷やしてくれた。
もとより、この程度の高さなど、おれにとっては驚きも恐怖も喚び起こさない。問題はそのやり方だ。川下りのボートから、山頂の杉木立まで人間ひとりを吹っ飛ばす方法とは――想像がつくだろうか。
自己催眠でたちまち平静さを取り戻し、おれはゆきの姿を求めた。同じ木にはいそうにない。
連絡は向こうからあった。
下方でおれを呼ぶ声がしたのだ。
見下ろすと、ゆきが立っていた。
おれは枝を伝わり、三〇秒とかからずゆきの前に立った。G11は肌身離さず持っている。
「一体、どうなってんのよ、これ? 気がついたら、木の根元に立ってたわ。あんた、どうしてこんなところへ登ったの?」
「登ったんじゃねえ。登らされたんだ」
おれは憮然と答えた。
「誰がそんな真似したのよ。せっかくあそこまで下れたのに、台無しじゃあないの」
「おまえ見なかったのか?」
おれの問いにゆきは沈黙した。こいつも見たのだ。
「ねえ、あたしたち、ひょっとして一生この山を降りられないのとちがう?」
ようやく、このノーテンキ娘にも本格的な事情が呑みこめてきたらしい。
「やってみなきゃわからん。死ぬまで試すしかねえな」
ふと、何か思いついたように、ゆきが眉を寄せた。
「ねえ、大ちゃんの言ってた親玉ってあいつ[#「あいつ」に傍点]じゃないの?」
「かもしれん」
おれはあたりの空気に妖気でも漂っていないか、注意しながら答えた。
「だとしたら、片づけちゃおうよ。きっとまた出てくるわ。今度会ったら一発よ」
時々、おれは女という生き物が羨ましくてたまらなくなるときがある。今のゆきがまさにそれだ。
宮田と美弥子が襲って惨殺したハイカーの死体を木の枝に串刺しにした不可思議な力の主を目撃し、自分もすんでのところでその二の舞いになりそうになりながら、脅えてもいない。
おれたちが無事だったのは、吹き飛ばされる寸前、おれのG11が、奴の扇を貫いたからにちがいない。万に一つの僥倖《ぎょうこう》だ。
「とにかく、こうしていても始まらん。降りるぞ」
「ええ」
おれは素早く、杉の木のてっぺんで見た八ヶ岳の位置と、記憶にある地図を照らし合わせて居場所を割り出した。
うんざりするが事実は事実だ。
おれたちは、最初歩いたあの渓谷から垂直距離で五○○メートルほど離れた餓竜山の山頂近くにいるのだ。
「出動だ」
顎出してるゆきの尻を叩いておれは歩き出した。下山コースは二つある。おれたちが登ってきた南口と、北口だ。どちらでも同じだろうが、念のため、北口の方を選んだ。
かなりの急勾配をとっとこ下っていく。どこで襲われるかわからんから、G11は右脇に抱えこんだままだ。
だが、今回の下山も簡単にはいかなかった。
五、六〇メートル順調に下っていた道は、突然、大きく迂回し、山腹と並行に走りはじめたのだ。
それが、いつまでたっても下りに移らない。
「おかしい」
おれのつぶやきをききとがめたゆきが、きょとんとした眼付きで、
「おかしかないでしょ、別に。普通の道よ」
「地図とちがう。こんなところを並行に走る道はない。真っすぐ降りてるはずだ」
「あんたの頭がボケたのよ」
ゆきが頭の横で指を回すのも気にならなかった。おかしいのはおれじゃなくて道だ。
だが、道である以上、ここを行くしかない。人間の哀しさ――道を踏みはずすとはよくいったものだ。
時刻は午後一時半すぎ。陽は徐々に傾き、やがて恐ろしい夜がくる。
おれは不意に立ち停まり、耳をそばだてた。
遠くで例の音がせわしなくつづいている。
どーん、どーん、と。
「あれ――確か、天狗倒しっていったわね」
ゆきが面白そうに言った。
「そうだ。山の神――天狗が、木を切り倒してる音だという。かなり悪戯好きなんだろうな」
「人を木の上へ吹き飛ばしたりもするそうね」
「八つ裂きにしてからな」
おれたちは黙々と歩きに歩いた。
時間は澱みなくたち、陽は刻々と翳っていく。
「疲《ちか》れたビー」
と古臭いギャグを口にしてゆきがへばったのは、足元の影がかろうじて見分けられる程度まで陽がおちた頃だった。
午後四時ちょうど。風も冷たさを増している。おれの感覚では一メートルも下降せず終《じま》いだ。しかし、この道自体に妖術が施されている気配はない。
一体どうなっとるんだ。
「あっ、明かりよ!」
ゆきの声に喜色が湧いた。前方を指さす。
木の影が周囲を取り巻く平地がかろうじて窺え、どうやら建物らしい屋根の下に、確かに白光が見えた。人家には違いないが、でかすぎる。寺か。地図にはない。廃寺に誰か入りこんだか、また[#「また」に傍点]出たのだ。
「あんな寺、地図にない」とおれは、早くいこうとぴょんぴょん跳びはねるゆきの気をさますように言った。「寝袋でたくさんだ。我慢しろ」
「やあよ、いやいや」
とゆきは地団駄を踏んだ。
「寝心地はどうでも、袋なんかもうたくさん。問題は気分よ。二日以上、地面の上へ寝るなんてあたしの美意識が許さないわ。あんた来なくても行っちゃうからね。若い修行僧がいるかもしれないし」
「そいつが目当てか、この淫乱娘」おれは低い声でののしった。おかしな化け物に聞かれちゃまずいから、でかい声を出せないのが辛い。「行くなら勝手にしろ。おれは外で寝る」
「ええ、しますとも」
こう言い残し、ゆきはさっさと道を進みはじめた。
「待て、こら、阿呆」
とおれも後を追わざるを得ない。
化け物に襲われる危険より美意識を選ぶってんだから、女というのはわからない。
結局、三〇分後、おれたちは寺の境内へ入った。
「すっごいところねえ」
ゆきが感嘆の声をもらすのも無理はなかった。
おれたちの眼前にそびえるものは、屋根瓦は落ちて青草がのぞき、崩れた壁土の中に木の骨組みも露わな荒れ寺だったのである。
吹きすぎる風にどこかの門がぱたぱたと鳴り、凄絶な鬼気がこもって、訪れる者を立ちすくませる。疲労死寸前でも、ご免蒙《こうむ》りたくなるような不気味な廃寺であった。
「なになに、餓竜寺ってのか」
おれは門柱にかかったひびだらけの看板を見て言った。こんな寺の存在、きいたこともねえ。やっぱり罠だ。
「震えてるじゃないか。怖いなら野宿しようや」
「誰が――寺の屋根の下、ゆきちゃんは安らぐ、よ。ほら、あんたもライフルしまって」
物騒な品をリュックに収めると、ゆきは颯爽と門をくぐった。
山寺にしちゃかなり大きな本堂の窓から、明かりが洩れている。
ゆきは髪をなでつけ、ついてもいない埃を払ってから、今にも落っこちそうな扉の前で、
「頼もう」
と言った。近頃凝ってる時代小説の影響だ。おれは背後に立って待つ。右手はいつでもダウンの下のCZ75にとびこむ用意を整えていた。
待つほどもなく、扉が開いた。
むっと、激しい妖気がおれの顔面を打った。右手が無意識のうちにダウンの内側へ滑り込む。
「何ぞ、ご用かな?」
意外や意外、顔を出したのは、輝くばかりの金襴の法衣に身をつつんだ、人品いやしからぬ老人だった。住職にちがいない。
狐か狸、それとも一連の怪現象の一環が人の形をとったものか。
「あの、あたしたち登山に来て道に迷っちゃったんです。一晩泊めていただけませんか?」
ゆきが珍しく筋の通った挨拶をして頭を下げた。
老僧は破顔した。
「いいとも。ただし、見ての通りの貧乏寺、宿泊料はちょうだいするが」
「おいくらで?」
ユースホステルが五千円として、寺ともなれば仏に仕える身、三千円以上だったら交渉の要ありと口を出したが、ゆきはもの凄い眼つきでおれをにらみ、
「ほほほ。もちろんです」
度胆を抜くような明るい声で言った。
老僧はうなずき、脇へのいておれたちを通した。
想像通り、床は抜け落ち、埃でいっぱいの本堂に、おれは妙なものを見つけて眼を剥いた。
白木の棺である。
周囲には線香の匂いが立ちこめ、読経の途中か、棺のかたわらに薄っぺらな座布団が置かれていた。
縁起でもねえ。
「お葬式ですか?」
おれの問いに老僧はうなずいた。
「昼ごろ、三人連れの方が見えられ、うちひとりが亡くなられたのです。なんでも、誰とも知れぬ輩に矢を射込まれたとか。当寺へ辿りついたときはすでに意識もなかったが……まだうら若い女性だというのに、酷いことを……」
「失礼ですが、その二人連れは?」
「山を降りられた。警察へ連絡をつけねばと言うてな。夕べの雨で電話は不通。近くの村まで降り、人手を連れて戻られるとか言うておったが、はて、まだ来られぬな」
「男と女で?」
「左様」
おれは棺を指さした。
「中を拝見してよろしいですか?」
「よいとも」と老僧は大きくうなずいた。「こんな時刻、当寺へ見えられたのも何かの因縁じゃろう。仏の顔を拝み、成仏を祈念してやって下され」
おれは大股で棺に歩み寄った。蓋は横にのけてある。
覗き込み、うなずいた。
白蝋の肌に苦痛の痕をまざまざと留めて息絶えている死者は、美弥子だったのである。別れたときのまま、おれのシャツとジーンズをまとい、両手は豊満な胸前で組み合わされていた。
すると、あの沼で吹き飛ばしたのは幻だったのか。
おれはすぐ考えるのをやめた。今回、おれたちを蝕んでいるのは論理の通用する相手じゃない。あるものをあるがままに認め、対処するのが唯一の対抗手段だ。
おれは両手を合わせ、一礼して退いた。
「あたしもする」
ゆきが楽しそうに言った。遊びと勘違いしてやがる。
老僧の方に戻りかけたとき、凄まじい金切り声が本堂をゆるがした。
「何事だ!」
ゆきが抱きつき、夢中で棺の方を指さした。
「眼を――死体が眼をあけたの」
「何を馬鹿な」
老僧が力強く否定し、棺に歩み寄って覗きこんだ。
おれたちを見てうなずく。
動こうとしないゆきを背中に回し、おれはもう一度死体に眼をやった。
死者の眼は固く閉じられていた。
今見ているのは、宿業の果てに行き着く地獄の風景だろうか。
「お嬢さんはお疲れのようじゃな」
と老僧はいたわしげに言った。
「布団をお持ちしたいが、ごらんの通りの古寺。生活用品は生臭住職の私の分しかない。寝場所もこの本堂になるが……」
「嫌よ!」
ゆきが震え上がり、おれは構いません、と言った。
「おまえ、外で寝るか?」
「ううん。屋根の下がいい」
これで決まった。
おれたちが寝袋を取り出し、ペースト食を用意している間に老僧は読経を済ませ、一礼して立ち去った。
途端に、取り巻く雰囲気がいっそうの鬼気を帯びて凝固した。
「よく、こんなところに暮らしていられるわねえ、あのお坊さん」
「何度言ったらわかる。この寺もあの坊主も事前調査のときはひっかからなかったんだ。どっちも偽物さ」
「どういう意味よ」
「わからん」
「ふんだ。知ったかぶりしないでちょうだい」
ゆきはそっぽを向いた。おれももっと重大な思考にとりかかる。
位置的にいえば、美弥子や緒形たちが消えたのは、山の反対側のルート、それも、二、三百メートル下方だ。
それがどうやって、こんなところまで死体を運び上げた。いや、何故?
おれたちと引き合わせるためだろうか?
大体、こんな妖気漂う荒れ寺と奇怪な住職なんぞ、舞台装置としちゃ出来すぎてる。
緒形たちもおれたちも、この怪異現象を支配するより大きな力の操る人形にすぎないのだ。
おれは、窓ガラスもない窓の外にひしめく闇の彼方へ視線をとばした。
誰でも簡単に登れるのが謳い文句のこの餓竜山。家族連れ日帰りハイキング・コースの整備の良さで、「休日に出掛ける自然ベスト10」に選ばれたこともある、人間と相和した自然。
冗談だろう。
自然は常に脅威に満ちている。人間が自然にとって脅威であるように。この世界に人間を容れるものなど存在しないのだ。常に戦い、疲れ、空しさと哀しみに明け暮れる愚かな生きもの――それが人間だ。
おれもそのひとりだった。
探検家がそうであるように、トレジャー・ハンターもまた、自然と拮抗する存在だ。その脅威、その怒り、その哀しみを知っている。
だからこそ、自然がどのような状況をおれたちに与えようと、おれは怨まない。恐れない。それを受け容れ、生還を期すだけだ。
何処かで「天狗倒し」が鳴った。
歩き疲れたのか、寝袋の上で舟を漕ぐゆきに、おれは袋に入れと勧め、G11の組み立てにとりかかった。
建物自体もそこの住人も怪しいとわかってる場所で、次に起こる事態を待つのはおれにとっても珍しい経験だった。
住職もあれきり現れない。
おれはG11を手元に置き、戦闘服の上からダウンをひっかけて太い床柱にもたれた。
疲れてはいるが、眠くはない。
体内時計で時の経過を感じるのは、それなりにメランコリックな快感だった。
午後が過ぎ、午前に入った。
「天狗倒し」が鳴っている。
あいつ[#「あいつ」に傍点]は、本物[#「本物」に傍点]だったのだろうか。
時間だけが過ぎた。
いつの間にか、強い睡魔がおれを捉えていた。瞼が自然に落ちてくる。
いかん。
自動的に自己催眠機能が作動し、瞼の引き上げを命じた。眠りはすぐ覚めたが、手が動かない。いや、少し、数ミリなら移動する。
おれはG11の引き金にかろうじて指をかけ、膝の上へ引き上げようとした。
すうと横の扉が開かれ、住職が姿を見せた。
似つかわしくない道具を手にもっていた。大工が使うような黒光りするノコギリだ。家庭用のヘナヘナとは訳がちがう。
おれとゆきの寄せ鍋でもつくろうてんじゃあるまいな。ゆきの尻の肉ならさぞや美味だろうが、おれのは鍛え抜いてあるから固いぜ。
老僧は、さきほどからは想像もできぬ不気味な眼つきでじろりとおれたちの方を見やり、
「ふむ、眠ったか」
とつぶやいて、棺の方へ歩き出した。
ノコギリを床へ置き、手を差し入れて死体を抱き上げる。
棺に蓋をし、その上へ美弥子の遺体を載せたまではよかったが、シャツのボタンをはずしはじめたのを見て、おれは胸が悪くなった。
この爺い、僧職にある身で屍姦《しかん》でもするつもりか。その後でノコギリ――とんでもねえ野郎だ。待てよ、僧職どころか、人間じゃなかったか。
なんとか右手を自由にしようとあがきながらも、かなりの好奇心でもって、おれは老僧の行為を見守った。我ながら助平ったらしい。
老僧はシャツを脱がし、美弥子のジーンズを剥ぎ取りにかかっていた。
ジッパーをはずし、紺色の布をずらすと、死してなおむっちりした太腿が現れ、おれは生唾を呑み込んだ。
死後硬直はまだはじまっていないらしい。
ブラジャーとパンティもはずされた。
おかしな真似をするかと思ったが、老僧はすぐに身を離し、代わりにとんでもないことをおっぱじめた。
ノコギリを美弥子の首にあて、いやな音をたてて引きだしたのである。
たちまち、首は胴から離れた。
おれは湧き上がる吐き気を呑み込んだ。
おかしなことに気づいたのは次の瞬間だった。
血がでないのだ。傷の内容からみて死因は出血多量だろうが、一滴もこぼれないというのは異常だ。
老僧のどこかが棺に当たったらしく、首はごろりと回転し、切り口をおれの方に向けた。
天井の蛍光灯が照らし出したのは、骨も血管もない、ゼリー状の断面だけだった。
美弥子の身体は人間のものじゃなかったのだ。やはり、あの朝、おれが数メートル洞窟を離れたときに何かが起こった。山狩りの刑事が見間違えた美弥子は、もう、おれと一夜を過ごした愛すべき殺人狂ではなかったのだ。
すると、彼女を射止めたのは、あれは誰の仕業だ。
隣でいびきをかいてる娘か?
ゆきなら、M16を使うだろう。
おれが考えあぐねている間に、老僧の作業は最終段階にとりかかっていた。
いまや美弥子――疑似美弥子の身体は、数個に分断された肉塊と化していた。
「よい眺めじゃ」
老僧がつぶやいた。おれの耳だからこそきこえる微細なつぶやきである。感情はゼロに近かった。非人間の口調だ。
「このまま放ってもおきたいが、もうひと仕事させるには、手を打たねばならぬでな」
老僧の右手に小さなきらめきがはじけ、おれは眼をこらした。よくは見えないが、針らしい。白い糸らしきものもついていた。
阿呆か、こいつは。
一旦切ったものを、わざわざ縫合する気なのか。
その通りだった。
老僧は無言で、生々しい不気味な切り口を接合し、赤い線へ針をくぐらせはじめたのだ。
その成果を見届ける前になんとか手を自由にしようと、おれは必死で自己催眠の暗示を両手に集中した。
少しずつ感覚が戻っていく。
極めてのろい、しかし異様に早い時間がすぎた。
老僧が棺上の女体から離れた。
「さ、わしにはあやつらをどうにもできぬ。始末するのはおまえの仕事じゃ」
不吉な単語を使いやがる。
全裸の美弥子がゆっくりと上半身を起こしはじめても、別に怖くはなかったが、手が動かないのは困りものだ。ゆきはひとり、快い眠りを貪っている。
美弥子は棺を降りた。
白い肌についた縫合線がなんとも不気味だ。映画のフランケンシュタインの怪物も裸にするとこんなものかもしれない。
虚ろな眼をカッと見開き、憎悪も怒りもない無表情を保ちつつ迫る裸女。
くそ、まだ銃が動かない。
骨格ににかわ[#「にかわ」に傍点]でも貼りついたようだ。重い。
おれは眼を閉じた。
下腹の一点、丹田に精神を集中し、大きく息を吸いこむ。
美弥子の揺らす空気が頬にかかった。
おれは獅子のように吠えた。一気に腹腔内の空気を吐き出し、錆びついた四肢をへし折る勢いで立ち上がる。
術は解けた。
老僧が眼を剥いた。
のばしてくる白い手をかいくぐり、おれは美弥子より老僧にG11を向けた。
「女を停めろ!」
老僧はにやりと笑った。
「殺せ!」
とびかかってくる美弥子の横面を銃床で一撃し、おれは老僧の脳天へ三点射を放った。
ゼリー状の物質が飛び散り、法衣姿が吹っ飛ぶ。おれは天国へ行けそうにないな。
操縦者を片づければ静まるかと思ったが、美弥子は倒れなかった。
攻撃も仕掛けず、じっと自分の手足を見つめる。
銃声で跳ね起きたゆきが美弥子に気づき、おれを憤怒の視線で貫く。
「なによ、この――人がちょっと眼を離すと女を裸にすることばかり考えてて……」
そして、美弥子の顔と傷に気がつき、きゃっと叫んだ。
「殺して」
とんでもねえことを言う奴だと思ったが、その言葉が洩れたのは美弥子の口からだった。
「殺して」
「荷物をたため!」
ゆきに叫んで、おれは美弥子の額にG11をポイントした。
「忘れたか。おまえの仕事は、おれを殺すことだ」
叱咤が美弥子に、老僧の指令を憶い出させたようだ。おれを見つめる眼に冷たい輝きがこもる。
「殺して」
また言った。自分の醜い身体に気づいたのか、それとも、最初《はな》から忌わしい生だったのか。
美弥子はおれの前で向きを変え、床柱に近づいた。
見送るゆきがあっと叫ぶ。
稽古場の相撲とりのように、美弥子は太い柱へしがみつくと、なんと、もの凄い力で左右にゆすりはじめたのである。
豊かな尻《ヒップ》がぐいんぐいんと揺れるのは実に楽しい見ものだったが、それに混じって天井から木材のきしむ音が降ってきちゃ、歓迎ばかりもしてられない。
おれは片手にリュックをひっ掴み、ゆきを突き飛ばすように本堂の出入り口へと走った。
これが美弥子の使命だったのかもしれない。
おれたちが外へ飛び出す寸前、太い床柱は鈍い破砕音とともに天井からずれ[#「ずれ」に傍点]、梁や天井板が雪崩を打って、おれたちばかりか自らの死をも意図した白い女体に降りかかった。
荒れ寺の本当の死を、おれは苔むした石燈籠の蔭で見守った。
地鳴りがしばらくつづき、本堂が完全な平面と化して地面に横たわると、おれは素早く周囲を見回し、ゆきにこう言った。
「野宿だな。天井は消えた」
「ふん。えらそうに言わないでよ、何してたかわかったもんじゃないわ」
ゆきはぶつぶつ言いながら、抱えた寝袋を地面に敷いた。
「どうする気だ?」
「眠るのよ」
「馬鹿野郎。奴らの仲間が調べに来たらことだぞ。一刻も早く山を降りるんだ」
「あたしは単なる馬鹿だけど、あんたは馬鹿野郎ね。降りられなくてここへ着いたんじゃないの」
「いいから、この辺を探してみろ。地図に載ってる道があるはずだ」
「嫌よ。なかったら馬鹿らしいじゃないの。体力の浪費よ」
「うるせえ。張り倒すぞ、この」
おれの見幕に恐れをなしたか、ゆきはつべこべ言いながらも、M16を構えて境内をうろつきはじめた。
じき、山門の左手の方で、
「あったぞお!」
万歳三唱みたいな声がきこえた。
思った通り、崩れ落ちた塀の向こうが切り立った崖のようになり、その一○メートルほど下から、細い道が蛇みたいにうねっている。
見下ろすゆきは、腕組みをして考え込んでいた。
「おい、どうした、悩める文学少女」
おれはワイヤーの束を松の木の幹に縛りつけながら訊いた。
「あれが普通の登山ルートよね」ゆきは呆けたような声で言った。「それがこの寺の敷地の途中から生えてるってことは、誰かが道の上に、この土地を置いた[#「道の上に、この土地を置いた」に傍点]んだ」
「よくできましたね、ゆきちゃん」
おれは手を叩いた。ゆきは怒りもせずに、
「さっき通ってきた道も、じゃあ、誰かがつくった[#「つくった」に傍点]の?」
おれは肩をすくめただけで答えず、崖の下へとワイヤーを垂らした。
「また造り変えられないうちに行くぞ」
おれたちが正規のルートを踏みしめ、森の中を歩き出したのは、それから三分後のことだった。
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第六章 脱出ヘリ
翌朝も快晴に恵まれていた。
電子ポットでお湯を沸かし、コーヒーの準備を整えていると、
「ああ、よく眠った」
と言いながら、ゆきがやってきた。
「ね、それあたしの分もあるんでしょ」
「阿呆、いい年食らって、自分のことは自分でしろ」
「あーら、言ったわね」
ゆきは柳眉を逆立てた。夕べ、森の中でぐっすり眠ったため、元気百倍らしい。
「昨日、夢の中であたしにしたこと覚えてないの」
そんなこと覚えていてたまるものか。
「嫌だ嫌だというあたしをどっかのホテルのベッドへ押し倒し、言うに言われぬいやらしい真似をしたのは誰よ? あんたがあそこまで恥知らずだとは思わなかったわ。あれこれポーズを変えて、ひいふうみい……四回も」
「ちょっと待て」
おれは不安に苛まれた。ひょっとしてこいつ、夢の中のおれの行為まで、ゆする種《ネタ》に使おうというんじゃあるまいな。
そう詰問すると、あら、いけない? とぬかしやがった。
「いいじゃない。楽しめたんだから」
「何が楽しめた、だ。おれはひと晩中、バラバラになった女の身体と首なし坊主に追いかけられる夢をみて眠れなかったんだ。おまえひとりで勝手なことして、ヘンな言いがかりをつけるな」
「だって、登場人物はあんたじゃないの。よしてよと、死に物狂いで拒むか細い腕をねじ上げ、歯でブラをずらして、愛らしいおっぱいに汚らわしい唇をぶちゅっと――」
「いい加減にしろ。この誇大妄想色情狂」
「それからね、それからね」
とゆきは、おれの顔へ人差し指を突きつけて喚いた。
「あたしを裏返しにして、ヒップを無理矢理上げさせて、お尻に噛みついちゃったのよねえ、ああ、いい気持ち――じゃなかった、ひどいわひどいわ。君、可愛いところに黒子《ほくろ》があるねって、くすぐったくて死にそうになるまで……」
あまりのことに電熱器を振り上げたおれをみて、さすがのゆきもしかめっ面をして黙った。口にチャックをしめる真似をする。
「判りゃいいんだ。二度とおれの前でおかしな言いがかりをつけるなよ」
「あら、他人《ひと》に説明するのはいいの――きゃっ、勿体ない。そのお湯ちょうだい。身体拭くんだ」
「身体を拭く?」
おれは片方の眉を吊り上げた。
「だって、ずうっとお風呂入ってないんだもん。汗くさくって。向こうの繁みの中でしてくるけど、覗いちゃやあよ」
言うなり、おれの手からポットを奪い取り、ゆきは五、六メートル前方の笹の繁みに身を隠した。
これではコーヒーも飲めない。
繁みに目をやると、ひょいと白い手が内側から伸び、笹の繁みにセーターとニッカーをひっかけた。むむ。すぐ手がひっこみ、少しして、戦闘服の上下。残るは下着だけだ。それもあっさり後につづいた。
おかしな言いがかりをつけられた。
せっかく沸かした湯も持っていかれた。
コーヒーも飲めない。
責任をとってもらおうじゃないか。
万が一の用心にG11をつかみ、おれは足音を忍ばせて繁みに近寄った。心なしか、ピンクの湯気が立ち昇っているような気がした。
鼻の下がのびていく。
おれは腰をかがめて繁みの周囲をうろつき、どこかに隙間がないか点検して回った。
一カ所あった。
見えること見えること。
後ろ向きのボディ・ラインはもう拭き終えたのか、ほんのりピンクに染まった肌から湯気が線みたいに立ち昇っている様は、実に刺激的な眺めだった。木洩れ日に、はちきれんばかりのヒップの皮膚がつやつやと輝いている。夢の中で責めたという黒子はと――ん、あった。なるほど、言われた通りにしたくなる色っぽさだ。
ひょいとゆきがこちらを向いたので、わお、と叫びそうになったが、残念。肝心な部分は笹の葉が適度にカバーしているため、眼には入らない。
ゆきはタオルで首筋から乳房にかけて拭きはじめた。
自分で触れても感じるのか、力を入れるたびに低い喘ぎを洩らす。乳房を拭う手は、特に力がこもっているようであった。タオルが乳を押しても肉の張りでぶるんと戻るのは壮観だ。何度かそれを繰り返し、ゆきは耐え切れなくなったのか、空いてる方の左手で左の乳首をつまんだ。
力を入れてこねる。
小鼻がいかり、熱い叫びが舌と一緒に唇を割った。
突然、おれは音もなく背後を振り返った。G11はすでに肩付けしている。
寝袋を置いたままの幹のところに立っているのは、五○年配の女だった。手拭いで頬かむりをし、手には鍬を下げている。体重は七、八○キロあるだろう。かなりの大型――外谷順子顔負けだ。
「なーんだね、ここは禁猟区だよ」
脅えた風もなく言った。
農家の人間らしい。散弾銃やライフルならともかく、G11の恐ろしさまではわかるまい。
「やだ。誰か来たの?」
繁みからゆきが顔を出し、おばさんに気づくと、あわてて衣類を引っぱりこんだ。
「ははーん、おめえ、痴漢だな」
おばさんは腕まくりして近づいてきた。圧倒的な迫力がある。おれはたじたじと後ろへ下がった。
「まだ餓鬼のくせに、女の裸ばっかり見たがって、この色気狂《きちげ》え。ちょっぴり痛え目にあわせでやっか」
G11を恐れる風もなく、鍬を振り上げたのを見て、おれはゆきに声をかけた。
「おい、ゆき――何とか言え。おれたちは友達だと証明しろ」
「あーん、助けてえ」
とゆきは叫んだ。この裏切り者め。
「身体を拭いてるとこを覗かれて、出るに出られなかったの。おばさん、やっつけて。半殺しくらいなら、あたし警察でおばさんの無罪、証明する」
「よっしゃ」
ポパイみたいに丸まっちい腕が、大きな鍬を高々と振り上げた。
「なあんだ、そうかね」
おばさんの笑い声に、手にしたコーヒー・カップの中身が揺れた。
「二晩も迷ったなんて大変だったねえ。もう少し歩けばここにぶつかったもんをさ」
「いやあ、助かりました。その上のこのこお邪魔してすみません」
ナショナルの赤外線電気コタツに長い足をのばして、おれはネスカフェ・ゴールド・ブレンドの熱いやつを口へ運んだ。
ゆきもにこにことクッキーをつまんでいる。
間一髪のところでゆきが事情を説明し、おれたちはそこから五、六○メートル離れた森の中にあるおばさんの家へ招待されたのである。
あの化け物部落よりずっと近代的な住宅には、おかしな妖気の一片だになく、おれは至極安心してくつろぐことができた。おれたちのいるところは八畳ほどの居間である。TVがNHKのニュースを流していた。
夫と息子夫婦の四人暮らしだが、今日はみな買い物に下山しているという。
おばさんの話によると、この家は最初おれたちが登ってきたルートの途中に建っているらしい。夕べ、山をひと巡りしてしまったのだ。
大体、太った女というのは気立てはともかく性格が明るいのが多く、お互いすぐ打ち溶けられる。例外は我がクラスの外谷順子で、天下無敵のデブなくせに、気立ては最悪、性格は真っ黒と、まるで殺されるために生まれてきたような女だ。一度こいつが腰かけると、その後には円形をした染みが残るという。坐ったとき、たるんだ筋肉同士が押し合い、肉の間から脂肪《あぶら》を滲ませるのである。
「ちょっくら、風呂をみてくるかね」
おばさんが立ち上がりかけた。
どーん、と空気が震えた。天狗倒しだ。かなり近い。
おばさんがぎょっとして宙をあおいだ。
「近いねえ、近いよ」と言う。心なしか青ざめている。
「大丈夫ですよ」
ひょっとして居所を勘づかれたかと思い、おれはわざと明るい声を出した。こりゃ、迷惑をかけないうちに退散した方がいい。
「さ、僕ら、そろそろ失礼します。早目に下山してゆっくり休みたいし」
「あら、お風呂ぐらい入りたいわ」
何も考えぬフーテン娘が余計な口をはさんだ。
おばさんはにっこり笑った。
「そうとも。せっかく寄ったんだ。風呂ぐらいよばれていきなさいよ」
「はあ」
おれも腰砕けだな。
どーん、ともうひとつ近所迷惑な音が轟き、おばさんは顔をこわばらせたが、「呼んだら、ひとりずつおいで」と言い残し、そそくさと障子をあけて出ていった。
「ねえ、テレビ変えてよ。NHKじゃつまらない。『ワイドワイドフジ』か『ルックルックこんにちわ』がみたいわ」
おれの方が近いか。おれは八チャンネルのボタンを押した。
でなかった。真っ黒だ。電波障害というのじゃない。白い雨も降らぬ真の暗黒である。
「おかしいわねえ」
ゆきが首を傾げ、身を乗り出して四チャンネルに合わせた。
黒い空洞が広がっている。電波が届いていないのだ。どんな電波も。多分、NHKも。
「ゆき――すぐにここを出るぞ。ライフルの用意をしろ」
「なんでよ? お風呂、どうすんの?」
「どんな風呂だかわかったもんじゃねえ。まさかとは思うが……」
おれはリュックにしまっておいたG11を取り出し、素早く組み立てに移った。ただのモデルガンだと説明したらあっさり納得してくれたが。
おれはそっと廊下へ出た。ゆきもしぶしぶ後に続く。
「ちょっと。どこへ行くんだい?」
おばさんの声がした。嫌な声だった。さっきまでの温かみが消えたの何のではなく、別の生き物が人間の単語を羅列しているのだ。
おれは振り向いた。
廊下の隅、浴室の前におばさんは立っていた。食事の仕度でもする気なのか、右手には長い刺し身包丁が光っている。
「どこへ行くんだい?」
おばさんはまた訊いた。顔つきも変貌を遂げつつあった。
「ご馳走までしてくれるのか?」
おれは答えずに言った。
「そうとも。おいしいお刺し身だよ、いま、風呂場で血抜きをしてきたのさ」
「いいのかい?」とおれはわざと囁くように言った。「あまりおれたちに関わってると、天狗さんがお怒りになるぜ」
このひと言がどんな作用を及ぼしたか。
唐突に暗闇が世界を包んだ。廊下も居間もカラーTVもこたつも消えた。
足の下はごつごつした地面と化し、おれの前方に浮かぶのは、おばさんの丸い白い顔ばかりだった。
ゆきが息を呑んだ。
おばさんの顔は変わっていった。
頬はこけ、青ざめ、骨格自体が変貌してみるみる唇が裂けていく。猛禽の爪を思わす牙がぞろりとのぞいた顎を割って、真っ赤な舌が蛇のようにねじれ躍った。眼は真紅の光芒を放っていた。
それは鬼の面であった。
ぐいと刺し身包丁を脇に引き、鬼女は凄まじい勢いで突進してきた。
G11とM16が迎え討った。
炸裂弾に肉片を四散させながら、鬼女はおれたちの頭上を越えた。腹と頭部で小爆発を起こしている。
生ぬるいものがおれたちの顔にかかった。
着地したとき、傷は跡形もなかった。
これでは埒があかない。
火のような殺意と飢えを両眼にこめて再び地を蹴ろうとしたとき、頭上で「天狗倒し」が鳴った。
鼓膜どころか筋肉を震わす衝撃であった。
鬼女がくわっと宙をふりあおいだ。
無限の怨みをこめた形相であった。
わずかに身を屈め、一気に宙へ跳ねる。
その身体は暗黒に呑み込まれた。
「大ちゃん!」
すがりつくゆきの肩を固く抱きしめながら、おれは虚空のどこかで激しく争う気配を感じた。
それが急に消えた。
周囲の闇がみるみる薄れ、おれたちは森の一角に立っている自分に気がついた。
家などなかった。すべては幻だったのである。胃に収めたコーヒーとクッキーの原料は何だったのだろうかと考え、おれはこみ上げる嘔吐感を必死でこらえた。
「今の何よ、一体どうなったの?」
そういうことにはとんと無頓着なゆきが、宙をあおいで訊いた。
「鬼と天狗の喧嘩さ。昔から仲が悪いそうだ」
おれは昔読んだ伝説集の一章を頭に浮かべながら言った。
「じゃ、あのおばさん、鬼が化けてたっていうの? 冗談はよし[#「よし」に傍点]子さん」
あきれたように言うゆきの台辞も聞き流し、おれはこの山の謎をぼんやり考えた。
鬼というのは、地の底にある幽界の生き物で、人間が古墳を築くようになってから、その墓道を通って現界に現れるようになった。古くは奈良時代に編纂された「出雲国風土記」に鬼に関する記述があり、平安時代に京を中心に暴れ回った大江山の酒顛童子《しゅてんどうじ》は特に有名だ。京の一条戻《もどり》橋で当時の武将渡辺綱《つな》に片腕を切り落とされたいわゆる羅生門の鬼は、その副将格の茨木《いばらぎ》童子で、ともに丹波の大江山にこもり、朝廷の軍隊を四度にわたって撃退。五度目にいたり、総大将・源頼光を頭とする軍勢に敗れたが、それまでは兵たちの死体をことごとく貪り食ったという。
その棲息地は大体において荒野や山の中で、そう考えれば餓竜山にいてもおかしくはないのだが、いきなりおれたちの眼の前に現れちゃ困る。
大体、おれの調べた限り、この山での遭難者は過去四名。全員無事で発見されているのだ。鬼には遠隔移送《テレポーテーション》の能力があるというから、近隣の村や町へ出張しているのかもしれないが、それならおれたちが遭遇する確率も奇蹟に近いほど少ないはずである。
何はともあれ、あのまま風呂へ呼び出されたら、刺し身包丁でぶっすりやられ、奴の腹に収まっていたことだろう。
地底と地上では環境が異なるため、鬼は七日に一回人肉を食わないと、身体が腐ってくるという。
おれたちはもう一度頭上をふりあおぎ、登山道へと歩き出した。
数メートル歩いただけで、おれたちはこのままでは下山できない身の上なのを知った。
鼻がひん曲がりそうな悪臭がお互いの身体から漂って、いや、噴き出してくるのだ。
「ね……何よ、この匂い……ぐええ」
「さっき、鬼の血を浴びただろ。――多分、それだ」
「どこかで身体洗わないと……これじゃ並んで歩けない……うえっ」
ゆきが手で口を押さえ、身を前のめりに曲げた。
おれは記憶の地図をたどって――しめた。あと二キロほど歩くと、小さな滝がある。
そう告げてゆきを元気づけ、おれは先を急いだ。悪臭はますますひどくなっていく。
岩場に出た。嬉しい水音がきこえてくる。
二〇メートルほど進むと視界が急に開け、青い水をたたえる滝壺が現れた。この川は、おれとゆきが生き別れた渓流の源にあたる。
滝の高さは約五メートル。幅も二メートル程度しかないが、頭の洗濯には十分だ。
タオルを取り出し、セーターもニッカーも脱ぎ捨てる。臭いは服にも泌みついているのだ。
ゆきは平気でブラとパンティ姿になり、滝壺に近寄って髪を洗いはじめた。寒くないのかね、あれで。
ほんじゃ、おれも、と思ったとき、
近くで誰かがおれの名を呼んだ。
滝壺の対岸を見る。岩場の上は深い森だ。
顔が二つ現れた。
緒形と和田貴子だった。
「無事だったか!?」
冷酷非情をもってなるおれも、この二人との再会は嬉しかった。たとえ一部分正体不明でも、だ。
二人とも笑みを浮かべている。
岩場へ降り、浅い流れを渡っておれの方へやってくる。
川の中ほどで二人は足を停めた。
眉を寄せ、鼻をくんくんさせる。
しまった。
「ちょっと、そこで待っててくれ」
おれは手を振った。それがまた身辺の空気を攪拌《かくはん》したものか、二人はぐえと呻いて後退し、足を滑らせ仲良く転んだ。
「大丈夫か?」
と流れに飛び降り、おれは二人に近づいた。
「うげげ……くるな。あっちへ行け!」
緒形が夢中で制した。
「あ、こりゃ、すまん」
あわてて後退し、二人が喉を押さえながら起き上がった。そのとき――
熱気さえ帯びた殺意の凝集塊がおれの頬をかすめた。
同時におれは電光の早さで右手を動かしていた。
飛来した矢は二本。一本は空中で保持し、残る一本もそれを振ってはたき落とす。
足が滑った。
もつれた頭上を唸りをたてて第三の矢が走る。
それは、何が起こったかわからぬまま立ちすくむ和田貴子の胸を正確に貫いていたのである。
ひいっと喉の奥で叫び、貴子ははじかれたように川床へ倒れた。水飛沫《しぶき》が四方へ飛ぶ。
「大ちゃん!」
ゆきが駆け寄ってきた。
第四弾はなしだ。殺気は遠ざかってゆく。
おれはG11をひっつかみざま岩場から森へと駆け上がった。敵はそこから狙ったのだ。
身を低くして殺気の消えた方角へ走る。
ひょおと空気が鳴った。
飛来する矢をおれはことごとく身体から数センチのところでかわし、うち一本を掴んだ。しかし、恐るべき技倆《ぎりょう》の持ち主だ。
矢は指にはさんでいるとして、それを弦につがえ、引いて、放す。それだけで最低一秒は要する。この相手は、その半分のスピードで射かけ、しかも、的をはずさないのだ。神業に等しい。
気配と殺意は完全に消滅していた。完璧に近い隠形の術は、体術の訓練を積んだものでもたやすく身につかない。子供の頃から苛烈な修行を積み、持って生まれた天分に磨きをかけたものだけが可能なのだ。過去に二度巡り合ったことがある。ひとりはチベットのラマ僧、もうひとりは銀麗だ。
おれは勘で敵の攻撃位置をはかり、粗末な矢を投擲した。
矢の吸い込まれた繁みから少しはなれた位置で手応えがあった。
呻きは上がらない。見事だ!
矢を放すと同時に、おれは左手で、岩場から拾ってきた小石を敵の移動位置と覚しい場所へ投げたのである。それも勘だが、うまくいったようだ。
おれは身を低くして弾着地点へ走った。
再び矢が飛んできた。
ひょいと顔をよけてかわす。
戦慄が背筋を突っ走った。右手の動きはおれ自身にも思いがけないものだった。
手のひらに鈍い衝撃。
見るまでもなく石だ。
おれのかわす位置を計算し、矢と同時に放ったのだ。今度の矢は手で投げたもの――おれと同じだ。
感嘆にも似た怒りが視界を赤く染めた。コケにしやがって。もう只じゃすまさん。
突進しかけたとき、さっと右手の繁みが動いた。はっと振り向き、ダミーだと知る。
その一瞬に、敵は逃亡に移った。
気配も殺気も消した肉の塊は足音すら立てなかった。
なお追いかけようとする背へ――
「大ちゃん!」
ゆきの悲痛な声が呼びとめた。
おれはあっさり追撃をやめ、森の出口へ向かった。ゆきは替えのセーターとジーンズにはきかえていた。
「どうした、和田さんは?」
ゆきは鼻を押さえて後退しながら沈黙した。
おれが見ても、矢は心臓のど真ん中を貫いていたのだ。
おれは滝壺へおりた。まず、頭を洗う。
放心したように立ちすくむ緒形の足元の岩場に、和田貴子は死骸《むくろ》と化して横たわっていた。
念のため脈をとり、再生処置の可能性を探る。瞳孔肥大。呼吸停止。生命反応はなしだ。
おれはため息をついた。
いきなり眼の前に膝頭がとんだ。身体をずらして簡単によける。バランスを崩してよろける緒形を待たず立ち上がった。
「貴様のせいだ」
叫んで殴りかかってきた。おれは二発を頬に受けた。白熱の怒りを、足元の死人《しびと》が支えていた。
「貴様と道連れにさえならなけりゃ。くそ。どうしておれたちに付きまといやがる。この厄病神!」
怒りより迫力の少ない拳が途切れ、緒形はがくりと膝をついた。
「貴子、貴子」
牛のような声で泣く。
ふと、おれはゆきが森の方へ奇妙な視線を送っているのに気がついた。とがめるような、非難するような眼差しは、しかし憎悪とは遠いものであった。
仕方がない。
おれはすすり泣く緒形を立たせようとしたが、触れた肩は手荒くはねつけられた。
「おれたちは行くけど、あんたが見つけられるよう手は打っておく。ここにいるんだな」
「勝手にしろ。おれはここで貴子についててやるんだ。警察がきたら、貴様を犯人の仲間として告訴する。忘れるな。行け、行っちまえ」
緒形はおれの方を見ずに言った。
「告訴でも復讐でも何でも構わんがね」
おれは冷静な口調で言った。
「事態ははっきり認識した方がいい。あの矢はおれじゃない。最初から君たちを狙ったんだ」
「貴様がそばにいたからだ。もうひとりの、あの殺人狂もそうだったじゃないか」
「おれと別れてから、何があった? 今まで平穏無事に来れたのか?」
緒形の神経がおれの言葉に動揺した。
「それは……」
「狙われたな、何回も」おれは静かに言った。「さっきラジオできいたら、行方不明になった山狩りの連中を探すのに、ヘリコプターが動員されるそうだ。それに乗ってきゃ、あんたくらいは山を出られるだろう」
「あんたくらい?」
「おれたちゃ危《やば》いのさ」
緒形はぼんやりとおれとゆきを見やった。
「おまえたち……一体、何者だ?」
「ゆき、焚き木を集めろ」
おれは答えずに言った。
「じき、ヘリが来る。目印に狼煙《のろし》をあげるんだ」
「あたしたちも帰れるかしら?」
「いや」おれはあっさり言った。「こいつは想像だが、おれたちの脱出に力を貸す連中は、多分、呉越同舟で狙われる。それにヘリじゃ、落っこちた場合、まず助からん。この二人が輸送されるのを見送って、おれたちは自力行進さ」
「あたし、嫌。ヘリで帰る」
ゆきが断固首を振った。
「好きにしろ。おれは自殺行為はご免だ」
「ふん」
ともかく、見えざるものの魔手が緒形に及ばぬよう用心しつつ、おれたちは焚き火をたいて、第二次捜査隊のヘリを待った。
一時間、二時間――脱出用の貴重な時間がすぎていく。
緒形は和田貴子の枕頭《ちんとう》に侍《はべ》ったきり、石のように動かない。
なぜこの二人が美弥子を脅えさせたのだろうか。
そこまで考えたおれの耳に、低いローター音が忍び入ってきた。ヘリが来たらしい。
北の上空から黒い点が近づいてくる。
単なる点は、やがて小指の先大に変わり、不恰好な二人乗りヘリの姿をさらけ出した。尾翼近くに『長野県警』と記してある。
煙を見て接近してくる。
いやな予感が胸をかすめた。
「ゆき、移動するぞ」
「え?」
「いいから来い!」
今度こそ、強引に腕をつかんだときは遅かった。
ヘリは滝壺上空にさしかかり、その影はくっきりと、黒い網みたいにおれたちを絡め取ったのである。
どこかで、空気銃を撃つような音がした。
ヘリが急にL字に曲がった。急激に、胴体の真ん中からへし折れたのである。
「あれ」
ゆきがぽけっと洩らしたが、責めるわけにはいくまい。
ヘリは大きく傾いた。操縦席の中で必死に操縦桿を操るパイロットの悲鳴がきこえてきそうだった。
「伏せろ!」
叫んでおれはゆきの身体を岩場に押しつけた。ぼんやりとこっちを向く緒形にとびつき、岩の窪みに入れる。
ヘリは滝壺へ落下した。
ローターが激しく水を切り、飛沫をまき散らす。衝撃でガソリンに引火したものか、数秒後に爆発した。
炎が水面を渡り、岩場へも押し寄せた。
和田貴子の遺体は火に包まれた。
訳のわからん叫びを洩らし、半狂乱になって炎へ飛び込もうとする緒形を、おれとゆきは力ずくで動かさなかった。
さらに一時間待っても山狩りの第二陣はやってこなかった。ニュースでも連絡が途絶えましたとしか言わない。
大騒ぎにはなっているようだが、おれたちがここにいる限り、何人来ても無駄な犠牲を払うばかりだ。おれたちを救い出す恐れがあると奴[#「奴」に傍点]が判断した場合、無関係のヘリでも容赦はされまい。第一次山狩り部隊も同じ理由で人間野菜になったのではなかろうか。
黒焦げになった和田貴子の遺体にセーターをかぶせ、おれたちは放心状態の緒形を連れてまた実りなき下山を開始した。
今度という今度は奴[#「奴」に傍点]を片づけるしか手はあるまい。
奴とは無論、天狗のことだ。
川っぷちにいた人間を一瞬のうちに山頂近い杉の木のてっぺんに送りつける扇の力、ばらばら死体を枝に串刺すブラック・ユーモア、何よりも、ボート下りのとき垣間みた、山伏そっくりの緋色の装束。そして、あの長い鼻――
だが、おれが奴の正体を確定した事実は、たったいまヘリを撃ち落とした銃にあった。
平田篤胤《あつたね》という有名な江戸時代の国学者がものした著書に「仙境異聞」という一冊がある。
何と、七歳のとき天狗にさらわれ、以後も交渉をもった寅吉という少年のインタビュー記録なのだが、その中で寅吉は、天狗界には一〇〇匁(四〇〇グラム弱)の弾丸を三里(約一二キロ)飛ばすことのできる銃があったと記しているのである。何でもねじを回して風を筒内に封じ込め、その力でドカンといくらしいが、明らかに一種の空気銃だ。幕府御用の鉄砲鍛冶・国友藤兵衛がこの話にヒントを得て、日本の最初の空気銃を発明したのはあまりにも有名な話だ。
この天狗と鬼は仲が悪く、まだ鬼が現界に勢力を保っていた平安から鎌倉時代にかけ、新興勢力たる天狗との大抗争が異界で繰り広げられた。結局は天狗の勝利に終わったものか、以後、人間界に鬼の登場は少なくなるのだが、この霊戦の余波をうけて人間界でも生じた争いが、応仁の乱から戦国時代にかけての乱世なのだという。
しかし、そんなご大層な野郎が、なぜ今ごろ、言い伝えも伝説もない山の中に現れ、おれたちを狙うんだ?
歩きながら、おれは不安と緊張が胸を占めつつあるのを感じた。
全身が熱く頭だけが醒めていく。
戦いの前触れだ。
敵は秘蔵の銃まで持ち出してヘリを撃墜した。最終決戦の予告ではあるまいか。
おれにはわかる。もうひとりのおれにはわかる。だから熱いのだ。
下りは順調に進んだ。
『登山口まで四キロ』の立て札がゆきを狂喜させた。
「ね、もう大丈夫なんじゃない?」
うきうきした声で言う。
「敵もあきらめたのよ。あたしたちが、あんまり手強いから」
「だといいがな。油断は禁物だ」
おれが相槌を打たぬのをみて、ゆきは話題を変えた。
「それにしても、この男《ひと》、大丈夫かしらね?」
緒形のことである。ただ歩いているだけの生ける屍だ。
「あたし、治療してあげようか」
「何をする気だ、この淫乱娘」
おれは歯を剥いた。
「でも、この調子じゃもう、歩くのは無理よ。これから先のこと考えたら、少しは正気になってもらわなくっちゃ――決めたっと」
ゆきは左右を見回し、
「あ、あそこがいい」
森の空き地を見つけて入りこんでしまった。
「おい、いい加減にしろよ」
と怒ったものの、確かに足手まといにはちがいなく、いざ鎌倉ってときに立ちん棒じゃ連れてきた意味がない。多少のことは眼をつぶるか。
ゆきは虚ろな眼で宙を見据える緒形を草むらに横たえ、馴れた手つきでそのシャツのボタンをはずしていった。
はずしながら、もう息は荒い。
「可哀相に、いま治してあげるわね」
おやと思うほどやさしい声であった。
緒形の肌を手のひらでこすりながら、半開きの口へ唇を押しつける。自分から顔を振り、ねじ切るように唇を歪めた。強引に舌を突っこむ。
「おい、こら、それはやりすぎだ。自重しろ」
あわてて言ったが、ゆきはもう聞いてなどいなかった。自由な片手で自分のシャツのボタンをはずし、荒々しくブラジャーをたくし上げるや、こぼれた乳房をつぶす勢いで緒形の胸に重ねた。
上体が激しく動いた。
ああ、ああ、と吐息を洩らしつつ、緒形の唇を求める。
おれは眼のやり場に困った。
「何を……する……」
緒形がこう言ったときは、ほっとした。
「ふふ、元気になった? もっと元気が出るようにしてあげようか?」
ゆきは赤い舌で緒形の唇をからかいながら囁いた。
「やめろ」
緒形は邪慳に押しのけて立ち上がった。
おれはへえと言ったきりだった。
男は女次第だの、女は選べというが、まさしくその通りだ。唇と乳房だけで半病人を蘇生させちまう。性感マッサージより効きそうだ。下半身の部と二部構成にして、イラスト付きで本にするか。いや、まてよ、いっそレーザー・ディスクに……
「でも、あなた、人間じゃないわね」
今回最大の衝撃がおれを襲った。
緒形は愕然と振り向いた。
「な、何を言う!?」
「隠しても駄目。あたしにはわかるのよ。大ちゃんは気配で相手を探すけど、あたしは、あたしの肌への反応で正体がわかるの。あなたの、人間とちがう。そっくりに作られたんでしょうけどね」
ゆきは目にもとまらぬ速さで、地においたM16を緒形に向けた。
「役目は何? 茶店のおばさんが、子供のときから見たって言ってたけど、宝探しの監視役? それとも、出ていくのをとめる殺し屋?」
緒形が動いた。
M16が鳴った。炸裂弾に腹腔がはじけ飛び――別のものもはじけ飛んだ。
青いゼリー状の物質が。美弥子の身体に詰まっていたものだ。
死微笑というにはあまりにもグロテスクな笑みを浮かべると、緒形はどっと地面に倒れた。
「ゆき――よくやった!」
「大ちゃん、あれ――」
おれにもわかっていた。緒形の吐き出した物質が、白い湯気をあげて溶けていく。
ただの湯気ではなかった。
それは霧のようにゆらめき、立ち昇り、おれたちの方へ漂い流れてきた。
「離れろ、ゆき」
霧はM16の銃身を包んでいた。
きゃっと叫んでゆきが彼方へ飛ぶ。
銃は地へ落ちなかった。
霧が押さえたのである。そして、それはたちまちのうちに、霧に呑みこまれて輪郭のみとなり、それさえも吸収されて消滅した。
ゆきを森の奥へ追いやり、おれは焼夷手榴弾をはずした。三個まとめてリングを引き抜く。まとめて放った。安全桿は空中ではじけ飛んだ。
彼方へ跳躍したとき――
火炎が眼を灼いた。フードはつけていない。食らう霧は六○○○度の炎に呑み込まれた。
炎と湿度の対決は、しかしあっさりと決着がついた。
テルミットの業火の前に、白い亡霊はたちまちのうちに水の粒子となって蒸発したのである。
それを確かめ、おれもゆきの後を追った。じろりと、倒れた緒形の方を見る。よくも騙しやがった。いや、ひょっとしたら、こいつも自分の役目を知らなかったのかもしれない。
炎は凄まじいが、幸い、空き地の真ん中だから山火事にはなるまい。
なればなったで手の打ちようはあるし、第一、ここを出られなくては山火事だろうが、大隕石が落ちようが同じことだ。火事の費用を支払うよう遺言でも作っておくか。
おれたちは登山口へ戻った。
「おまえ、ヘンな特技があるな」
おれは澄ましているゆきに訊いた。
「何よ」
「何よがあるかい。バストマッサージだ、バスト」
「ああ、あれ。口から出まかせよ」
「出まかせ!?」
おれは目を丸くした。緒形はそんなものにひっかかったのか!?
「彼、自分たちが狙われてることに気づいてたから、バレたと思ったんでしょ。ぎりぎりまで正体を見せまいとする努力も裏目にでたわね」
「そうだ。あいつらがこの山の一派だった以上、それを狙ったのは――? おまえ、知ってるな」
「どうかしら」
ゆきは悪戯っぽく笑った。
「それよりも、ほら、茶店が見えたわよ」
「おっ」
おれは口元がほころびるのを感じた。
出掛けにまずいうどんとおでんを食ったあの店だ。
ここまでくれば、もう大丈夫かもしれない。
おれたちはガラス戸をくぐった。
「あれま、いらっしゃい」
おばさんの陽気な笑顔が迎えた。
今回は徹底的におばさんにはついてないが、やっとまともなカードを手にしたようである。
おれは、コーラとおでん、ゆきはプラス・焼き肉ライスを注文した。
ほどなく、調理場から香ばしい匂いが漂ってきた。
「ねえ、焼き肉ライス、先もってきてよね」
「はいよ――お待ちどうさま」
待つほどもなく、おばさんが皿を運んできた。ふつうは大盛りのキャベツの脇に、薄い肉が少少なのだが、これは特別盛りだ。肉が山になってる。
「食べちゃやよ。みーんなあたしのだからね」
ゆきが竹のはしで、おれの手をつつきながら宣言した。おばはんも前掛けで手を拭きながら、微笑ましそうにみている。
「いっただきまあーす」
ゆきが肉片をつまみあげたとき――
「待て」
低い制止がおばはんの背後、調理場のドアの方からきこえた。それは片言の日本語だった。
おれの口があんぐり開いた。
「リマ!?」
青白い、しかし精悍この上ない女豹の顔がおれを見て照れ臭そうに笑った。
すぐ、心臓も凍りつく悪鬼の表情と化して、おばさんを見やる。
「その肉、おまえ食べてみろ――いや、無駄だ。おまえ、人間じゃない」
おればかりかゆきも眼を剥いた。
「何よ、急に? どこの外人さんよ?」おばさんは困惑したように言った。「あたしが人間じゃないって? じゃ、何なのさ」
「山の精さ」
おれはCZ75を静かに、愛嬌たっぷりな丸顔のど真ん中へポイントした。
リマか――どうして気づかなかったのだろう。
荒れ狂う海洋を漂うノアの方舟で、様々な怪物相手に生き延びるべく鍛え上げられた女戦士。その野生の勘をもってすれば、おれの見抜けぬ妖魔の正体を暴くことも可能に違いない。
「おい、リマ、どうして、こんなところへ来た?」
「大が出て行ったときから、わたし、悪い予感がしていた。その日の昼、それ、とっても強くなった。いてもたってもいられず、追いかけてきてしまったの」
「そうか――川ん中でゆきを助けたのもお前だな?」
リマはうなずいた。
「ところで、食べちゃいけないってどういうことよ、お姉さま。この肉、毒でもまぶしてあるの?」
ゆきが勿体なさそうな表情で訊いた。
「ちがう。これが材料」
リマが背後に隠してた手を外に出した。
ゆきの絶叫がガラス戸を叩いた。
それは肉を削り取られた、しかし、まぎれもない宮田の首だったのである。
「わたし、大のあと尾けるとき、この茶店も通った。ひと目で、この女、人間でないとわかった。だから、あの二人の女処分してから、ここへ入る隙うかがってた」
その女も隙をうかがっていたようだ。
巨体に似あわぬスピードで宙を飛び、調理室のドアへ向かう。
届かなかった。
リマも跳躍していたのである。
空中で女を捕捉し、顔と顔が重なった。
肉を噛み切る音がして、鮮血が空中に舞う。
着地した女はそのまま、喉を朱に染めてぶっ倒れ、リマは音もなく地に立った。
マンションのトレーニング・ルームで日がな一日、汗を流してる成果だが、血みどろの口をくちゃくちゃやってる図だけはいただけねえ。美人で純情でグラマーで――食人鬼。神さまというのは、どうして妙な悪戯をしたがるのだろうか。
手の甲で口を拭うリマを死体から離し、おれはおばさんの右手に握られた肉切り包丁に眼をとめた。リマは互角の戦いで仕止めたわけだが、これで本当に終わりだろうか。
おれたちは最後の難関を越えたのか?
地面が揺れはじめた。
ゆきがはっと顔を上げた。
「表へ出ろ!」
おれは叫んだ。
頭上から梁が落下し、埃が舞い上がる。
ゆきとリマの後を追って飛び出す。
外へ出た刹那、突っ転んだ。
地面がわなないている。
リマもゆきも四つん這いだった。
「だ、大ちゃん――木が、木が――」
ゆきの叫びに、おれは周囲を見回した。
何てこった。森の木が大地を走って[#「大地を走って」に傍点]いる。引きちぎれた根っこを引きずり、黒土をはね飛ばしながら、樹齢四、五百年の巨木が猛烈な勢いでその位置を変え、大地は震撼した。
「な、何事よ!?」
「地形を変えてるんだ」
なんとか二本足で立とうと努力しながら、おれは呆然とつぶやいた。
登山路を消滅させて新しい道をつくり、荒れ寺の土地をその上に乗せた力。
はじめての夜、おれの記憶にない場所にそそり立っていた杉の巨木の謎。
これですべて合点がいく。
地面に亀裂が走った。
ゆきとリマの足元だった。ふわっと姿が消える。
夢中で駆け寄った。
二人とも間一髪のところで、亀裂の端に両手をかけていた。
「大ちゃん――助けてえ!」
「大――あたしはいい。逃げろ」
同じ女で、えらい違いだ。
安心せい。
おれは左右の手で二人の手首をまとめて握った。
うおおーと掛け声をかけて引く。
足場が崩れた。血も凍る恐怖を抱いて、黒い割れ目を滑り落ちていく。
目の前の地面から、杉の木が突き出した。
ゆきとリマがそれにとびつき、今度は二人して宙ぶらりんのおれを支える体勢となった。助け合うというのはいいもんだ。二人の手を支点にし、おれはなんとか木の幹によじ登った。
地面から生えた巨木はなお前進していた。
しかも一本ではない。おれたちの前後左右に、二抱えもある木の幹が、黒土をふるい落としつつ、めりめりと斜面から青空へそそり立っていく。
さすがのおれもリマも声もない。
ぐん、とベクトルの方向が転じた。
木ではなく、大地が動いたのだ。
いつの間にか、茶店はわななく地の皺に押しつぶされ呑み込まれ、大岩壁さえ半ば以上を地中に没し、途方もない力のもたらす地球大改造は、最後の仕上げにかかったようであった。
耳元で風が怒号した。
「大――あれは、山頂が沈んでいくのではないか」
リマが面白くもなさそうな顔つきで言った。
そうだ。
おれたちが天狗の扇で吹っ飛ばされた頂がごおごおと崩れ、落下し、位置を変え、かわりにおれたちが高みへ昇っていく。
おれたちの足の下の大地が山頂になるのだ。
どこかで天狗が笑っているような気がした。
これほどの天変地異、地殻の大変動を眼のあたりにできた科学者がいるだろうか。
黒土は赤土と混じり、岩と岩が激突して火花を散らし、そのくせ、取るに足らぬ立て札が荒れ狂う土の中を優雅に運び去られていく。新しい登山路の脇に立つために。
目の前を、あの、和田貴子の遺体を置き去りにした滝壺が、ヘリの残骸ごと、いや、たぎり落ちる水には何ら変化を見せぬまま、水平に移動してゆくのを見たときは、おれも立場を忘れて吹き出しそうになった。川までくっついているのだ。
ぼとぼとと木の幹に何かが落ちかかり、ゆきが金切り声をあげた。
蛇であった。
のけぞり、落っこちかかるのをリマが平然と乳房をつかんで引き戻し、蛇をまとめて手にとると、あっさり放り出しちまった。
面白いことに、鼻先をあの部落[#「あの部落」に傍点]がかすめていった。
東金爺さん以下の村民が、狭い畑へ出て鍬をふっている。事態に気づかぬのか、気づかぬようプログラムされているのか、丸刈りの男の子が洗濯機の上に乗って遊んでいた。
突如、その上へ数千トンはあろうかと思われる大岩壁がのしかかり、村はたちまち見えなくなった。彼らの役目も終わったのであろう。
旅と整地は終わりかけていた。
震動は大分落ち着き、その上下の揺れに合わせて、茂みや藪は形を整え安定する。
以前のものと形、位置とも寸分違うまい。
急激に幹は直立しはじめた。
下まで三メートル強。
このメンバーなら何とかなる。
「飛び降りろ!」
おれは叫んで幹を蹴った。二人とも躊躇せず後につづく。
何とか足から降りた。
リマは鮮やかに、ゆきは少しとちった。尻もちをついてしまったのだ。
足底から突き上げる震動も徐々に弱まり、おれたちは改造の終わったことを知った。
ふりあおげば太陽は頭上に輝き、八ヶ岳の偉容がまといつく白雲にかすんでいる。飛び降りた杉の木は直立していた。
ここは餓竜山山頂だった。
「恐ろしい奴がいるもんだ」
おれはようよう言った。
「また一から出直しね。これじゃ一生降りられない」
ゆきが泣き事を言い、リマは無言で周囲の状況を偵察していた。
どちらにしろ、奴[#「奴」に傍点]はここで片をつけるつもりだろう。
「ところでリマ――おまえ、さっき滝壺の先の森でやり合ったとき、本気で弓を射てきたな。愛しいおれがおっ死《ち》んだらどうするつもりだった?」
おれは意地の悪い質問をしてみた。
「あのくらい、大ならよけられるはず。もし命中して死んだら、わたしもすぐ後を追う」
結構なこった。
「ゆきを助けておれを探した。おれが緒形や美弥子と歩いてるのをみて、連中がまともじゃないと見破った。ここまではいい。だが、どうして姿を見せなかった。言えばすむことだぞ」
「わたしが、奴ら、人間じゃないといえば、大は信じたか?」
「いや……その……」
おれは口ごもった。ごもっともな質問だ。
「信じたとしても、彼らを殺せたか? 大には無抵抗のもの射てない。でも彼らは必ずまた、知らん顔して大を狙う。わたし、大を狙う奴、許さない。でも、私が始末しようとすれば、大はきっととめる。それでは何にもならない」
きっぱりとした声であった。実にいい女だ。少々物騒だがな。
「ああら、この男、お姉さまがそうまで肩入れする値打ちがあるかしら」
ゆきが思わせぶりな口調で言ったので、おれはぎょっとした。
「あたしは身体で知ってるのよねえ。それに夕べ、おかしなもの見ちゃったし」
リマの鋭い眼で見つめられ、おれは泡を食った。必要とあれば、おれを刺して自害もしかねない女だ。
「おおおかしなものてな何だ、言ってみろ、え、言ってみろ」
我ながら腰の据わらん声だ。
「ええ。言いますとも、夕べ、あの肉づきのいい女のお尻みたとき気がついたのよ、あんた、キスマークつけたでしょ。隠したって駄目よ。あたしのおっぱいや腿についてたのと瓜ふたつなんですからね。あんたのキス・マークはね、特長があるの。いつも強く吸って一呼吸おくでしょ、だから――」
「うるせえ」おれは一喝した。「そうか、それで貴様、美弥子の後ろ姿見たとき、きゃっとか何とか叫んだのか。おかしなものばかりに目ざとい女だ。もう二度とキスなどしてやらんぞ」
「誰があんたになんか――」
言いかけて、ゆきは言葉を呑みこんだ。
頭上を黒影が覆ったのだ。
異妖の気がシャワーのように降り注いでくる。
おれはCZ75を掴んだ。
それは音もなく悠然と、おれたちの前に降り立ったのである。
身長はニメートル五〇センチ、髪は腰のあたりまで垂れ、頭には真鍮の鉢巻き、衣裳は川下りのとき拝見したのと同じ緋の山伏姿だ。ご丁寧に一枚歯の高下駄をはいている。
伝説通りに反りかえった、いやらしい鼻の上で、二つの無慈悲な眼がおれたちを見下ろしていた。
背中に負った三メートルほどの鉄の筒が、天狗界の鉄砲という奴だろう。
こいつが何千年前から言い伝えられている本物かどうかは別として、そのデッド・コピーならば、ひとつだけ打つ手がある。
いや、正確には二つだ。
おれは試しに話しかけてみた。
「なあ、話し合いといこうじゃねえか。おれたちは、この山を荒らしに来たんでもなければ、おまえさんの塒《ねぐら》を探りに来たんでもない。大人しく下山したいだけだ。帰してくれたら、それ相応の礼はするぜ」
天狗は答えない。
そもそも理解しているのかどうか。
右手が背に回り、鉄砲を握った。髪の毛が揺れ、毛虫や蛇がバラバラと落ちる。芸の細かい野郎だ。
血走った眼に明白な殺意がきらめいた瞬間、おれは抜き射ちでCZ75を放った。炸裂弾が頭部をえぐる。
穴が開いただけだった。どういう構造をしているのか、爆発のダメージは内部で吸収されてしまうのだ。
ぐいと、直径三センチもありそうな四角い銃口がおれを向く。
シュン!
まさしく空気銃を拡大したような音をたてて、伏せた頭上を風圧がすぎた。
転がりながら威力を確かめる。
直径一メートルほどの杉の木がちぎれ倒れるところだった。
こいつは四六○ウェザビーどころの話じゃねえ。まともに食らったらバラバラだ。
天狗はふわりと宙に浮き、地上三〇センチほどを滑空してきた。くそ、制空権を握ってやがる。
こうなったら眼でも狙うしかないか。
また空気が鳴った。
手前の大岩が真っ二つに割れて転がった。
「ゆき――リマ、二人とも裸になれ!」
おれは叫んだ。
「こいつに見せつけろ!」
普段なら大喧嘩になるところだが、状況は切迫している。
天狗が迫ってきた。
木蔭から飛び出しざま、CZ75をぶっ放し、また戻る。
激しい音をたてて頭の少し上の幹が半分ほどちぎれた。畜生め、烏天狗《からすてんぐ》でもいれば、人質にできるのに。
天狗の背後から銃声が轟いた。
振り向いた途端、奴が立ちすくむのがわかった。
ゆきとリマはブラとパンティだけの超セミ・ヌード姿で立っていた。
負けず劣らずの官能的な肢体に、おれまで我を忘れかけた。
これが二つの手段だったのだ。
天狗には女という性がない。
時折、色に狂う奴がでてくる。
江戸時代の『妖異譚』には、村の女性すべてを襲った好色天狗の話がある。人間の女に興味をもつ以上――性欲は備えているのだろう。
ゆきとリマは、そんな奴らをすくませるに十分な魅力の持ち主だったのである。
おれはすでに握っていた手榴弾を奴の足の下に放った。
「伏せろ!」と叫んで、口を開けて這いつくばる。
爆発音が収まっても、天狗は空中に停止《ホバリング》していた。
もう手がない。
ぐい、と銃口がおれの胸を狙った。
凄まじい衝撃に彼方へ吹き飛ばされる途中で、おれは意識を失った。
冷たいものが喉から流し込まれ、おれは薄目を開けた。
リマが唇をはなすところだった。
何か言おうとして、おれは大きく咳込んだ。
この痛みは肋骨だな。四、五本は折れてるだろう。
戦闘服の他に、「怪猫事件」のとき使った防弾液《BPL》を肌に塗っておいてよかった。○・一ミリ――七層の衝撃吸収被膜が戦闘服のハード・ゲルと手を組み、おれの生命を守ってくれたのだ。
「ゆきは――どうした?」
思わず声が高くなる。
「気になるか、あの浮気ものが?」
リマが固い声で訊いた。とんでもねえ単語を知ってやがる。
「下の川へ水を汲みにいっている。わたしが何も言わないのに、ひとりで駆け降りていった」
水筒はあの茶店に残してきちまった。
「奴はどうした?」
「消えた」
「消えた?」
「原因は、きっと、これ」
リマが突き出したのは、あの銅板だった。
真っぷたつに折れている。空気銃のインパクトが強烈すぎたのだ。
「ここから、おかしな力が出ていた。こわれて消えた」
そうだったのか。
ようやくおれは真相に気がついた。
おれはまだ、宝探しの途上にあったのだ。宝を掴んだ。それだけでゲームは終わらない。どうやって生きて帰るかだった。宝を金に変え、ゲームは幕を閉じる。
この銅板は、一種の防御機構だったのだ。
宝など最初からなかったのである。
では、なぜこんなものを宝に見せかけたのか。
おれの想像だが、太古にも――それが人間かエイリアンかはさておき――茶目っ気のある天才がいたのだ。恐らくは、盗掘防止の専門家だろう。
そいつは後世の宝探しと腕くらべをしてみたいと思った。自分の技術が未来の敵に通用するか。
そして、罠をはった。
この銅板には、山の近辺に住む人々に、砂金と宝石の言い伝えをいつまでも伝承するよう強制するプログラムも仕込まれていたにちがいない。
こんな趣向をこらす奴が、ユーモアの持ち主でないはずがない。
自らの防御機構の中心部を、宝として安置したのがその証拠だ。
自らを生きて帰さぬための道具を後生大事に抱えこみ、阿呆なトレジャー・ハンターは永遠に山の中をさ迷う。
自分を救う鍵は、とうに手中にあるというのに。
おれはあの銅板を捨てるか、破壊すればよかったのだ。
これが悪戯っ気でなくてなんだろう。
おれは生きて帰れそうだ。しかし、勝負は勝ったのか負けたのか? わずかなルビーだけじゃおっつかないし、ひょっとしたら、あの地下へ通じる穴も塞がっているかもしれない。
眼の隅に、シャツに水を汲んでやってくるゆきの姿が見えた。
その頭上には果てしない青い空。
おれはそのずっと向こうに、何千年も前の、見知らぬ天才の笑顔を見たような気がした。
「エイリアン妖山記」完
[#改ページ]
あとがき
私はおよそスポーツとか運動に興味のないタイプですが、どういうわけか、山へはよく出掛けます。もちろん、リュック背負って縦走などという立派なものではなく、麓の温泉で「長い髪の少女」を歌いながら湯につかるとか、散歩がてら山道を歩くとか、書くのも恥ずかしいレベルなのですが、ここで一度だけ奇妙な経験をしたことがあります。
「ひたひたさん」というやつです。
陽のおちた山道を歩いていると、後ろから誰かの足音がつけてくる。振り向いても誰もいない。こちらが停まれば停まり、歩き出すとまたついてくる。
六、七年前、場所も明らかでないロッジ裏の山道でこれに会い、正体を見届けてやれと、待ち伏せなどしたのですが、やはり駄目でした。
今回の物語はそのイメージが中心になっています。
鬼、天狗、山姥《うば》、河童――どれも限りなく懐かしい物の怪ばかりですが、その恐怖をどこまで描出できたでしょうか。
一九八五年二月二二日 「巨大な爪」を見ながら
菊地秀行