エイリアン魔界航路
菊地秀行
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目次
第一章 荒ぶる海洋
第二章 方舟(はこぶね)伝説
第三章 牙を剥く船客たち
第四章 闇を翔(と)ぶもの
第五章 魔獣解放
第六章 敵
第七章 脱出
あとがき
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第一章 荒ぶる海洋
1
今宵、海は静かだ。
潮は満ち、月は海峡に美しくかかり……そして、おれは船縁にタキシードの白い肘をのせ、果てしなく広がる銀色の水面《みなも》に、無限の感慨をこめた視線を向けていた。
かたわらでは、純白のイヴニング・ドレスをまとったゆきが、白くたおやかな手を差しのベ、月光を求めて海面に浮上するという深海の魚たちを招いている。
口も根性も最悪だが、時折、年齢相応の可愛げを見せる女だ。もっとも魚たちは、けたくそ悪い月の光や白い手よりも、大胆に開《あ》いた胸もとからこぼれる豊満な乳房目当てで寄ってくるに違いない。
先刻まで加わっていたパーティー会場のざわめきと、高級シャンパンやハバナ葉巻の香りが、船内楽団の演奏する「ラ・クンパルシータ」のメロディーとともに、おれたちのまわりを去りがたげに漂っていた。
夏休み最後の、豪華な船旅にふさわしい余韻嫋々《じょうじょう》たる一夜だった。
ただ、問題は――
と、手にしたシャンパン・グラスに半分ほど残った黄色い液体を、しみったらしく舌先で舐め取りながらおれは思った。
そのパーティー会場が、特等船室に泊まり込んでた豪華客船もろとも、計算では二○海里(約三七キロ)も東を走行中なことと、船縁の三○センチ下はもう太平洋の大海原ってことだ。
「やだ、もう! せっかくあたしが白魚のような手で誘ってるのに、蛸一匹寄ってこないんだから。魚って知能程度があんた並みなんじゃないの」
「なんとでも言ってくれ」
おれは両手を頭の後ろで組み、ゴムボートの底に寝そべった。幸い広さはたっぷりある。
「ベリンダと会う前に、たらふく食っとくんだったな。惜しいことをした」
「なにが、ベリンダよ」
とゆきは、はずれかかったドレスのストラップを反対側の手で戻しながら、鬼女みたいな形相で食ってかかった。まるで腕まくりしてるみたいに見える。
「大体、あんたが、あの女を殺し屋どもの片割れだと見破ってりゃ、こんな目に遇わずに済んだのよ。なにさ、よりによって、こんなゴム臭いボートへ押し込まれ、海へドボンだなんて。おまけに、ボートには水も食料もないときちゃ、あんたのクラスの外谷順子に四の字固めとフライングボディ・プレスをまとめてされたようなもんだわ」
「海の上にまできて、女相撲の話をするな」
まわしをつけた九〇キロの女を想像し、おれは声を低めた。吐き気がする。
「仕方なかろう。三方からサイレンサー付きマシンガン片手にウィンクしてきたんだ。生命が助かっただけめっけもんさ。おれについてる有り難い大日如来さまに感謝しろ。この役足たずの焼き餅娘」
「言ったわねえ」とゆきは両手の爪を船底に食いこませながら、四つん這いでおれの方へにじり寄ってきた。
まるで女豹だ。バストの隆起が半ばまで丸見え――凄惨な色気がおれの顔面へ吹きつけてくる。前から思ってたことだが、こいつに豹皮のブラジャーとパンティーをつけさせ、おれが鞭をもってSMショーをやったら、ひと晩で巨万の富がつくれるに違いない。
「――なあ、やってみないか」
「なにを、よ?」
「いや、何でもない。そう怖い顔すんな。そんなことより、まずは食料の確保だ。バストか尻を出して魚を誘惑しろ。半分は雄だろうから、すぐ飛びついてくるぞ。おれに遠慮はいらん」
「誰がそんなことするもんですか、この変態高校生」
とうとう、ゆきは牙を剥いた。む、SMショー。
「せっかくジバンシーで特注したこのドレスを、ろくすっぽ貴族の御曹子たちに見せられないうちに、こんな境遇に身をおとすなんて。このまま日干しになったら一生呪ってやるからね。――さ、食料の確保が第一でしょ。男なら、かよわい女性のために、一生懸命腕を奮ってね!」
「へいへい」
おれはやむを得ず身を起こした。
二週間ほど前、佐賀の怪猫事件を片づけたおれは、夏休みが残ってるのをいいことに、独りアメリカ旅行を計画したのだが、たちまちゆきに勘づかれ、一週間の予定が四週間に延長、往きはジェット機、帰りは船というくそ豪華な観光旅行の主催者になってしまったのだ。
なにせ、おれの専用ジェットもヨットもホテルも嫌。たまには一般旅行者並みに、何も考えず、眼にしたものにいちいちびっくりするミーハー気分を味わってみたいという仰せだから、全部、旅行社まかせになった。
いや、その高いこと悪質なこと。まさに惨状である。たかだか一四日――往復の空と船の旅を入れるとわずか三〇日で費用総額三五七万円。驚きのあまり電卓片手に計算してみたら、すべて特等で通したにしても、百万近い差額が旅行社の懐へ入るとでた。
野郎。
これじゃ、旅行術の初歩も知らん、金だけいっぱいのミーハー・ギャルがいる限り、旅行社てのは食いっぱぐれるわけがない。
そういえば『H・P・ラヴクラフトのふるさとを訪ねて。プロビデンスの旅七日間』という阿呆な企画まであったぞ。企画する奴もする奴だが、単なる一怪奇作家を食いものにできるご時勢もご時勢だ。このチラシの惹句《じゃっく》には驚いた。
「……カレッジ・ストリート・スワンプ・ポイント墓地、あなたの前にめくるめく広がる怪奇なるパノラマ……」
スワンプ・ポイント墓地はスワン・ポイント墓地だし、あんな静かで夕映えの美しい街が他にあるものか。物知らねえにも程がある。現地へも行かんでコピーつくってやがるな。
ま、それはともかく、暴利を貪る旅行社に憤慨しながらも、おれはやむを得ず指定された豪華客船に乗り込み、シアトルを出港した。
横浜に錨を降ろすまで一七日の旅である。夏休みは大幅に越してしまうが、なに、文句をつけそうな正義派の硬骨教師は、校長に命じて休み前にほとんど全員、左遷させてしまった。深夜、金で雇ったホテトル嬢が裸で訪問し、首っ玉にかじりついて強引に押し倒したところを同行のカメラマンが撮影。これを見た校長が断を下したのだ。幸いこの手の世間知らずは教師になりたての若いのが多く、粛清を免れた妻子持ちは二人っきりで、彼らがいくら喚いてもなあなあ[#「なあなあ」に傍点]とまあまあ[#「まあまあ」に傍点]の保守体制に抗すべくもない。帰国する頃には物わかりのいいおっさんになり切っているだろう。ヴェルヌの小説に出てくる十五人の餓鬼どもなど、二年間も無人島で遊び暮らしていたのである。おれたちの遅刻など愛くるしいものだ。
ところが、この船の中に、数年前クノッソス宮殿地下に眠るテセウスの剣――例の迷宮の怪物ミノタウルスを屠った武器である――をめぐって対立した元ナチの一派が、大富豪とその護衛の名目で乗り込んでおり、つい一時間ほど前の船上大パーティーの途中、ゆきの三倍もセクシーな金髪美人にウィンクされ、ついふらふらと甲板へ出たおれを、三挺のAKM《アー・カー・エム》アサルト・ライフルで取り囲んだのである。
なんで元ナチがソ連製の武器を使うのかわからんが、毎分六○○発の速度で発射される七・六二ミリ弾を三挺分一九○発も食らえば、不死身のおれも生き残れるはずがなく、こりゃ危《やば》いと思ったとき、奴らは引き金を引く代わりに、おれを最下層の甲板まで連行し、用意してあったゴムボートを海に投げ込むや、おれにも飛び込むよう命じた。これにも驚いたが、すでにゆきが別の男にとっ捕まり、苦虫を噛みつぶしたような表情でおれにウィンクしたのにはもっと驚いた。この時点では逃げ出す方法などいくらもあったのが、これでパーになった。
ここで禿げ頭の元ナチが現れ、昔日の恨みつらみを述べて、ひと思いに殺すのは勿体ない、女と一緒に海の上でミイラになれと宣言。誰よこの男《ひと》とおれを指さすゆきもろとも、二人して甲板からジャンプする羽目に陥ったのである。パーティー会場から持ってきたシャンパン・グラスの中身がひと滴もこぼれなかったのは、奇蹟といっていい。
一時間前のことだ。
「ねえ、なんか、向こう側の雲行き、怪しくなってきたわよ」
ボートの端でゆきが心細そうな声を出したが、おれは気にもとめなかった。
つねに現在位置を明確にしておくのはトレジャー・ハンターの鉄則で、おれが身につけた方位感覚でも大体のところは掴めるのだが、船やジェット旅客機など、二本の足が地に着いていない場合は、しつこいくらい、正確な情報の持ち主――航海士やパイロット――に訊くことにしている。今夜もパーティーの前に確かめたばかりで、それによると、遭難地点――ゆきに言わせるとどじ踏み追んだされた地点――は北緯四三度二○分、西経一七七度四分、ミッドウェー島のやや北だ。もっともこのやや[#「やや」に傍点]は、ざっと二五○○キロほどある。
客船の航路とはいえ、地球の七割を占める海の上だ。最悪の事態も考えておかねばならず、おれは、炎天下、飲まず食わずでどれだけもつか、ざっと計算してみた。
漁船をはじめ、航洋船に積み込まれた救命ボートの生存指導書には、「海水の飲用禁止」「一日一人五〇〇ミリリットル以上の水がない場合は、鳥も魚も食べてはならない」とされ、これは現在でも定説とされている。
ところがアラン・ボンバールなるフランス人医師がこれに挑戦。人は飢えや渇きによってではなく、恐怖と絶望を克服できず死に到ると唱え、自説を証明すべく、一九五二年の八月一四日、モロッコのタンジールを出発、一一三日後に西インド諸島の東端バルバドス島へ到着するまで、海水と釣り上げた魚だけで生きのびるという快挙を成し遂げたのである。
この伝でいけば、ボートが転覆でもしない限り何とか持ちそうだ。ゆきのドレスを裂いて釣り糸をつくれば、魚くらい釣れるし、二〇○個のダイヤを鏤めたネックレスのプラチナ台は、釣り針としても十分使用に耐える。
そう思った途端、ゆきがぱっ[#「ぱっ」に傍点]とドレスとネックレスを守るように手でかばい、
「やだからね。破くんなら、あんたのタキシードにしてよ!」
と叫んだものだ。自分の身に及びそうな利害関係についちゃ、目はしが利くどころじゃない。おれはときどき、こいつ、超能力者《エスパー》ではあるまいかと首をひねることがある。
もちろん、ジヴァンシー特注の白いイヴニングも、その下につけてるワコールのビキニ・ブラとパンティーも、おれの金で買った品だが、そんな道理、こいつの金切り声のつるべ射ち二秒でどこかへ素っとんでしまう。
おれは不平面を浮かべたきり何も言わず、ハンカチでも破こうと胸ポケットへ手を入れた。ボートへ追放される前、護身用のワルサー・PPK/Sも七つ道具もすべて取り上げられ、それだけは陽よけにしろと残しくさりやがったのだ。いつかあの禿げ頭に鉤十字《ハーケンクロイツ》を刻みこんでやる――おれは腹の中で誓った。
「ねえ、大ちゃん――」とゆきが妙に弱々しい声で、裂いた絹布をつなぎ合わせてるおれの名を呼んだ。
「やかましい。いま、布切れ同士を結婚させてるんだ。静かにしろ。今度声を出したら、ブラジャーで鯨捕りの投げ縄をつくるぞ」
「……やっぱり、おかしいわよ」とゆきは反論もせずに言った。
「何がおかしい。昔のエスキモーは、投げ縄で捕鯨をやってたんだ。その一部が南下して北アメリカへ入り、カウボーイに技術を伝えたのさ」
「ちがうってば」ゆきの声はますます陰気な様相を呈してきた。
「えいくそ[#「くそ」に傍点]――なんで、こんなに揺れるんだ。もう少しで五メートル達成なのに。ハンカチを細く切るってな、これでなかなか難しいんだ――」
おれは最後の「ぞ」を呑み込んだ。
「ねえ、見てよ、あっちの空。どんどん星が消えてく。黒い雲に飲まれてくみたいだわ。ちょっと! あの光、なによ。それにあの音――稲妻よ。あ、あ、嵐がやって来たんだわ」
「阿呆。ここ二〇〇キロ四方に嵐どころか雨雲ひとつないのは、航海士に確かめてあるわい。海洋冒険小説じゃあるまいし、そうそう物騒なシチュエーションが起こってたまるか。ホラ吹きゃいいってもんじゃねえ」
とののしったものの、おれも雷鳴そっくりの音は聴いたし、徐々に大きくなる波頭の不気味さを込めて、ボートは左右に揺れはじめていた。
それに――
「ああっ!? ――さ、鮫!」
ようやく気づいたらしいゆきの金切り声を、うねる波頭と月光を砕きつつ悠々とこちらへ接近してくる黒い背鰭がはね返した。
でかい。水中の身体は優に四メートル。体重三トンは下るまい。
恐怖がおれの血管を青く冷たい血で満たした。
こんなちゃちなゴムボートにナイフ一丁なしで、どう切り抜けろというんだ。
かっと見開いた眼の中で、二メートルほど前方まで近づいた背鰭はふっと海面に溶け、一呼吸置いて猛烈な衝撃がボートを襲った。
ゆきの悲鳴が闇を切り裂く。必死でボートの縁につかまるおれの脳裡を、海の殺し屋にズタボロに食い裂かれるグラマーな肢体が横切った。
十年ほど前、水中銃片手にカリブ海でやりあったとき、銛《もり》を撃ちこんだ一匹の傷口から流れる血が近くの仲間を呼び集めてしまい、俗に「凶暴索餌」と呼ばれる血の大狂乱がおっぱじまったことがある。
手負いの仲間を寄ってたかって貪り食らい、食われた奴も食い返し、溢れ出る血で真っ赤に染まった海水の中を、数十匹の巨体が歯をがちがち鳴らしながら暴れ狂うさまは、今思い出しても背筋が寒くなる。首から下の肉も内臓もほとんど食いちぎられた奴が、まさに残ったその首で、別の奴の腹に歯をたてたところを、おれは確かに目撃したのだ。鮫は痛覚がないらしく、臓物を取り除いてから海へ入れても、捕鯨船につないであった鯨のところへ突進し、がぶりやったと、ものの本にある。よく、生きて帰れたものだ。
「やだ、また来るう!?」
とゆきが反対側の海面をさして泣き声をあげた。黒い悪魔の鰭は十メートルほど前方で方向を転じ、再びボートへ向かってくる。ひと噛みで外被など穴だらけだ。
おれは船底のシャンペン・グラスをひっ掴み、船縁に近寄った。こいつを砕いて、水中戦を挑むしか手はない。
タキシードのボタンに手をかけたとき、頭上でぴかりと閃光がきらめき、おれは黒い波を通して、直進する砲弾みたいな殺し屋の頭部と、残虐無惨な色を湛えた双眼とを見たような気がした。
次の瞬間、度胆を抜くような出来事が眼前に展開した。二つも!
閃光が消え失せ、大暗闇が周囲を包んだと思いきや、どっとばかりに大粒の雨が、猛烈な風もろともおれの頬をぶっ叩き、ほとんど同時に、波頭を割って出現した何か途方もなくでかい塊が、迫り来る大鮫を空中へ放り投げたのだ。――四メートル、三トンの巨体を!
再び閃光がひらめき、おれは、そいつ[#「そいつ」に傍点]を見た。
頭上五メートルまで一気に上昇し、落下する大鮫をがっきとくわえた凄まじくごつい大顎! 稲妻をはね返した白い牙の一本は二○センチを越えていただろう。いや、それよりも、巨大なくせに細長いその大顎をびっしり覆う黒い鱗の形は、あれは――
「ハ、ハンドバババ……」
とゆきが叫んだ刹那、のたうつ大鮫を手土産に、つづけざまに焚かれる白光のフラッシュを浴びつつ、そいつは蝿叩きのごとき勢いで海面にぶつかり、砕け散る怒濤をおれたちに浴びせ、荒廃した溶岩台地を思わせる背中を閃光に示して、視界から消滅した。
全身濡れ鼠と化し、いつの間にか荒ぶる海のただ中で木の葉のように揺れるボートに身をまかせながら、おれたちは少しのあいだ動くこともできなかった。
「だ、大ちゃん。いまの、あれ、ワワワワワ……」
ゆきの声を聞くまでもなかった。
閃光の光と影が綾なすおどろの夢を見たのでもない。あれは――あれ[#「あれ」に傍点]だ。
だが、太平洋のど真ん中に、そんなものいるのだろうか。大鮫をひと呑みにし、推定体長二〇メートルにも達するハンドバッグの原料。CROCODILIDAE《クロコディリダ》――大鰐が!
2
だが、鰐が海にいるかどうか二人して語り合ってる場合じゃなかった。
ゆきの指摘通り、ボートは大嵐の真っ只中に飛びこんでしまったのだ。
海はどよめいていた。
ちょっとした丘くらいもある波が狂ったように揉み合い、閃光に白い牙を剥いて、おれたちに襲いかかってくる。眼の前に黒々と聳える水の壁がゆっくりと迫ってくる恐ろしさを、未体験の誰が想像できるだろう。海は魔性だった。水も魔性だった。山は崩れ、地は裂ける。だが、それは永劫につづくだろうか。一○メートルもの高みに人間を持ち上げ、軽々と放り投げるだろうか。海神ネプチューンは怒れる神であった。
悲鳴みたいに喉を鳴らして、ゆきが身体を曲げた。嘔吐している。
「大丈夫かあ!?」
絶え間ない風と雷鳴に負けじと、おれは大声をふりしぼった。
ゆきは下を向いたまま、手足をつっぱらせるのに夢中で、気づかない。
「大丈夫かあ!?」
ボートの縁をつかみ、必死の思いで傍へゆき、もう一度叫んだ。
今度は顔を上げ、なによ、という表情をつくったが、ついでに陰になってた胸元も見えた。ずぶ濡れになったドレスはぴっちりと身体に貼りつき、バストの膨らみの中心に、愛らしいさくらんぼの実が突き出ている。
おれが小さなつぶやきを洩らした途端、雷鳴が中断した。
「お、ノーブラか」
ばっちいん!
閃光が異質な音をたてて、おれの右頬を直撃した。悩ましい美貌を鬼女の相に変えて、白い右手がもう一度上がる。
それが空中で止まった。すべての表情を消して、びしょ濡れの肢体がおれの胸に倒れ込んできた。恐怖と疲労による心神喪失だ。それでも胃腸は別らしく、ひっきりなしに、おえおえと喉を鳴らして痙攣するが、出るのは黄色い胃液ばかりである。並の人間ではないといえ、女の身でよくここまでもったものだ。胃液がタキシードを濡らすのも構わず、おれは片手で背中をさすった。
心臓が派手な音をたてた。
白い塊となってちぎれとんでいく雨と水飛沫の彼方に、光のようなものがまたたいていた。
船か――!? 歓喜が胸を刺した途端、猛る波のピラミッドがおれたちにほぼ垂直の滑降を強い、もう一度浮き上がったとき、光点は怒濤の果てに消滅していた。
こっちへ来い、とおれは胸の中で叫んだ。このままの状態がつづけば、おれはともかく、ゆきが疲労でまいっちまう。生と死を分かつ唯一の希望らしきものに、おれは夢中ですがった。
ボートの底から巨大な手に持ち上げられる感覚。次の瞬間、奈落落としだ。無重力と重力の交錯。胃袋が跳びはね、血が血管を上下する。この世で誰もがその存在を知りながら実は何ひとつ理解していない地獄――それが荒ぶる海洋だ。
ゆきが大きく痙攣し、こりゃ、いよいよ危ないなとおれは青くなった。この苦痛をまぎらわせるためなら、舌でも噛みかねない。
吐瀉物にまみれた唇をあおむかせ、指を二本突っこんで蓋をした。いてて。こら噛むなってば。
どれほど時間がたったかわからない。海は狂い、天は咆哮し、ゆきは痙攣すらやめて、おれの膝上にのびていた。地獄はつづく。まだ終わらない。
ふと、すっかりガタがきたみたいなおれの五感の先端へ、ある種の気配がぴりりと刺激の針を差し込んできた。
何やら巨大な無機質の気配。
のたうつボートの底で、おれは喜色に頬を染め、その方角へ眼を凝らした。
稲妻の昼と水壁の夜。
それで十分だった。
だが、おれは生まれて四回目――多分――に、おれの眼を疑った。
あれは島ではないか。
ほぼ百メートル前方で闇を断ち切る黒い壁は、そびえているとしか形容の仕方がなかった。その両端もてっぺんも視界に入らない。見えないのではなく、収まりきれないのだ。
また稲妻が光った。
おれの眼は確かだった。あるいは頭がおかしくなったのか。
荒れ狂う鉛の海のただ中に、忽然と巨大な壁が出現したのである。いや、それは壁ではなかった。喜んでいいのか驚いていいのか判然とせぬまま、闇に溶け込むそのてっぺんを見上げたおれは、今度こそ、乱れとぶ海水のことも忘れて驚愕の口を開けねばならなかったのである。
遙かな高みに、明らかに人工のものと覚しき小さな光点がまたたいており、それが、ゆっくりと左右に揺れている。波の手に弄ばれ、転覆しないのが不思議なゴムボートの上でもはっきりとわかった。
これは――これは、船ではなかろうか?
驚くべき想念に愕然となる代わりに、おれは海面に手を突っこみ、無我夢中で水をかきはじめた。
ようやく運が向いてきたものか、波の手はおれたちをふり回しながらも、壁だか船だかの方へ追いやっていった。
「もう少しだ。船が通りかかったぞ」
白蝋みたいなゆきの頬を引っぱたき、ゆさぶりながら、おれは頭のどこかで、何か異常な現象が生じているのを感じた。正体は掴めない。
壁、いや、船体まであと五、六メートルのところでまた雷鳴が轟き、今度はかなり鮮明に、壁の様子を浮き上がらせた。
おれはまた口を開けた。
大自然の名のもとに世界を蹂躙する大海原に挑む壁は、自然石でも、鉄の船体でもなかったのだ。
どう見ても――何度眼を凝らし、片手で雨水を拭ってみても、それは無数の丸木を組み合わせたものとしか思えなかった。全長数キロ、高さ数百メートルに達する小山のような木造船が嵐のただ中に――!?
だが、疑惑に首かしげるより、乗り込む算段をおれは優先した。
船体へ押し寄せる波と、ぶつかってははね[#「はね」に傍点]返される波とのはざまで、必死に眼を凝らし、乗船口を探す。
閃光が希望をつなぎ、闇が死の手で眼を塞ぐ。
絶望が鋭い嘴で心臓の肉をちぎりとっていく。出入り口が見つかったところで、船内の誰かが気づいてくれない限り、おれたちにはどうすることもできない。
だが、おれは、ろくすっぽ坐ってもいられないボートの中で、タキシードの上衣に手をかけ脱ごうとした。
まだ船体に触っていない。よじ登ってもいない。死に神に白旗をふるのはその後だ。
ようやく片袖がはずれかかったとき、恐怖が足の下からこみ上げてきた。
雨と風が横に流れ、ほとばしる白光に、窪んだ接着溝に瀝青《アスファルト》らしきものを塗りつけた巨大な船体がぐんぐん迫ってくる。
大波の巨腕がゴムボートを船腹へ叩きつける寸前、おれはゆきの手をひっつかみ、海原へと身を躍らせた。
全身が水につかる感覚は、いっそ気分がよかった。
一気に浮上する。空気を吸いこもうと思った瞬間、海水が雪崩れ落ち、おれはしこたま胃と肺に流し込んじまった。夢中でゆきを引っぱり上げて顎に手をかけ、船へと泳ぐ。上衣もズボンも靴もはいたままだから、身体が異常に重い。水を切る手は粘土をえぐっているようだ。わずか二メートルの距離が二キロにも感じられた。
手が船体に触れた。
手応えを探る。木の湾曲に沿って上へのばしていくと、第二関節までかろうじてひっかかったところで、瀝青《アスファルト》が道を塞いだ。
おれは口元に微笑が浮かぶのを感じた。手応え十分。死に神はまだおれと遊んでいたいらしい。
ゆきの顎を掴んでた左手を腰にまわす。状況を忘れるほどのむっちり具合に、もっと下まで触りたくなったが、波に頭をこづかれて思いとどまった。欲情が人間を堕落させる好例だ。よっこらしょと声に出して肩へ担ぐ。
全精神力を右の五指先端に集中させ、おれは片腕一本でぐいと二人分――一一○キロを水から引き抜いた。
耳もとで唸る風の怒号も背後から襲う水のハンマーも気にならない。地獄そのものの状況でも、ヨガの瞬間催眠は抜群の威力を発揮してくれたのだ。おれは一個の登攀《とうはん》マシンと化した。
水中で靴を脱ぎ捨て、手と同じ足場を確保すると、左手で頭上の窪みを探る。丸木の太さは五、六〇センチ。よく見ると、あちこちに、枝を落としたらしいでっぱりが、円形の切断面を示している。長さは――よくわからないが十メートル以上はありそうだ。
とてつもなく荒っぽい造船技術の生んだ、途方もなく巨大な丸太船――普通ならこれだけでトレジャー・ハンターの血がたぎるところだが、おれはあくまでも冷静に上昇をつづけていた。いかに巨大でも、船舶である以上、甲板まで百だの二百だのあるわけがない。てっぺんが見えなかったのは、あの時だけ眼が錯覚を起こしたのだ。
かれこれ五、六○メートルも登ったろうか。さすがに腕の感覚が鈍くなりはじめ、おれは船腹の途中で、ひと息いれることに決めた。
といっても、ほぼ垂直な壁面にへばりつき、背中にはゆきを背負っているのだから、必然的に片手で手がかりを押さえ、残りを休ませることになる。
ゆきの身体から異様に高い熱が伝わってきて、おれの醒めた精神に不安の彩りをつけた。水を吸ったドレスが急速に体温を奪っている証拠だ。そして、雨も風もなお吹きつけてくる。
左手も二○秒ほど休め、おれは登攀を再開した。精神を虚無に封じ、上も見ず一歩一歩登っていく。感覚は十本の指先に蠢く熱いうずきだけだ。
さらに二○メートルも登っただろうか。
頭上で何か風を切るような音がしたかと思うと、おれの右脇を何か重い物体が幾つもかすめていった。
ぷん! と強烈な匂いが鼻をつく。猛烈な腐敗臭だ。風に交じって砕け散る。残り香がかなり長いこと鼻孔の粘膜に残った。
とにかく、汚物を船内に留めておくまいという知能の持ち主が上にいることは間違いない。
我ながら感動が少ないと思いながら、おれは指先に力を込めた。
もう一度、降ってきた。凄まじい勢いでおれの頭上を越えていく。恐らく、何度も、船体にぶつかりながら落ちてゆくのだろうが、このスピードじゃ投下高度は数百メートルのオーダーになるだろう。マストのてっぺんから放っているのだろうか?
ともかく前進とのばした指が、柔らかいものにめり込んだ。枝の切り株に、廃棄物の一片がひっかかったのだ。引き寄せて閃光を待つ。掌にずっしりとくる肉片だった。ナイフか何かで削りとったらしいきっぱりした切り口が、船内の居住者に関するおれの推理を裏書きしてくれた。
腐敗状況は両端の表面だけ、それもまだ初期とみて、おれはそれをタキシードのポケットに収めた。状況を考慮すれば、どんな食料でも決して無駄ではない。密林内で食うものがなくなり、自分の手足を切りおとして生還したトレジャー・ハンターがごまんと存在することを思えば、このひと切れが、五体満足での帰国を保証してくれるかもしれないのだ。少なくとも、ゆきの尻の肉を切り取る欲望くらいはコントロールできるだろう。
登るほどに風は勢いを増し、ゆきの体温はさらに上がった。ときおり横顔をのぞいても、眠り姫一本槍だ。ボートの滑り台がよほどこたえたに違いない。
それにしても、この船の甲板は、何メートル上空に設けられているのだろう。登攀距離は一二〇メートルに達していた。
いきなり、右斜め上空で、またも何かが落下する気配があった。今度はかなりの質量だと、おれの知覚が囁いた。接近速度からいって落ちるのではなく、ロープにでも身を託して滑り降りてくるらしい。
おれは眼を軽く閉じ、その物体の放つオーラを感知しようと精神集中を一時、別方向に向けた。
この刺激は――人間だ!
しかし、素直に喜ぶことは自己催眠が許さなかった。荒れ狂う大海原のど真ん中に浮かぶ、甲板まで百メートル以上はありそうな丸木船の甲板から滑り降りてくるとは、一体どんな野郎だ?
おれはその場に停止し、息を潜めた。
待つほどもなく、そいつら[#「そいつら」に傍点]はやってきた。
三メートルほど右手をかなりの速度で滑り降りてゆく。
怪事つづきで、大抵のことには驚かぬおれも、これには眼を見張った。
全長二メートルはありそうな、アルファべットのJ型をした鉤みたいなものの上に、全裸の女――長い髪とボディー・ラインを雷光が浮かび上がらせたのだ――が突っ立ち、その両横に突き出た棒に、ボロをまとった男がふたり乗っている。これからろくでもない運命が待ちうけているような、無表情な女の顔と、男たちが手にした槍らしい品がとりわけおれの注意を引いた。
闇が目隠しをする前に、奇怪なゴンドラとその住人は下方へ消え、蔦を何本もよじり合わせたロープが船体をこすって後を追う。
おれにはすぐ、旅行の目的がわかった。
女は鉤の端に、蔦で両手を縛りつけられていたのだ。
いきなり、蔦の動きが停まった。みるみる針金みたいにたわんでいくのと、数メートル下方で三種類の悲鳴と怒号とが入り乱れるのと同時だった。
おれは耳を疑った。
男と女の分はわかるとして、もうひとつは明らかに獣の咆哮だ。そんなもの、この天気に船の外にいるわけはない。内部《なか》から攻撃をかけたのだ!
奇妙な三人組の運命より、出入り口の方を気にしつつ、おれはもと来た道を辿りはじめた。
騒動の現場は思ったより近く、きっかり七秒で頭上三メートルまで到着した。
案の定、白い光芒が無数の銀点を四方八方へはじきとばしている。光の中で見る雨粒は限りなく懐かしい――といいたいところだが、自己催眠中は感動が零に近い。それより、ゴンドラの連中は修羅場の真っ最中だった。
いつの間にか男のひとりは姿を消し、残った方が必死に槍を構えて、あるものと渡り合っている。片手は鉤をつかんでいるから、へっぴり腰もいいところだ。
それは、光のみなもと――船腹にぽかりとあいた一メートル四方ほどの窓らしきもの――から突き出された、数本の毛むくじゃらの腕であった。
一本が蔦のロープをひっ掴んで固定し、残りがゴンドラを引き寄せようと奮闘している。鋭い鉤爪の生えた腕の形状とはおよそ似つかぬ知能の高さが、催眠中のおれさえゾクリとさせた。一瞬、もっと上に行った方がまし[#「まし」に傍点]かな、と思った。
びゅっ、と鉤爪が鋭く弧を描き、男がのけぞった。腹のあたりから、膿でもつぶしたみたいに血と内臓が噴き出し、雨風を紅く染めた。
いかん!
外谷順子のまわし姿を思い浮かべて――これが解放のイメージだ。うえ、効くぜ――自己催眠を解くや、おれは一気に鉤型ゴンドラめがけて跳躍した。
見事、横棒――崩折れる男の脇へ着地した瞬間、その手から落ちる槍をひっ掴む。通常の感覚に戻った指に、鈍い痛みが走った。
加速度プラス二人分の体重の不意打ちに、怪力を誇る獣腕――なにせ一本でゴンドラを支えてたんだぜ――も驚いたか、おれたちはゴンドラごと風を切って落下した。男の身体だけが遠ざかる。黒い手が確保したのだ。
女が悲鳴をあげた。途端に、どん! と腹の下から衝撃が突き上げ、おれの登攀は水泡に帰すのを免れた。
しかし、喜んでいいのかどうか。それは再び、あの不気味な殺人者の腕が待つ窓辺へと、ゆっくり上昇しはじめたのである。
絶叫が鼓膜をつん裂いた。
女が身をよじりもがいている。アラブ系らしい色気たっぷりの美貌は狂気の色に染まっていた。蔦の食い込んだ手首足首から血が滲み、重量感たっぷりの乳房がぶるんぶるん揺れる姿は、たとえようもなくエロチックだ。
よっぽど、上の奴らが怖いのかと思ったが、そうじゃなかった。
眼球がこぼれそうなまで見開かれた女の眼は、下を見ていた。約六○メートル下方、闇に閉ざされ、波頭牙剥く海面を。
閃光がきらめき、おれも見た。
何かが這い上がってくる。
恐らくは荒れ狂う海の中から。風雨に叩かれ、六○メートルの垂直距離を。
おれは眼を凝らした。夜目は利く。
十メートル先でやっと焦点が像を結び、おれにはたちまち正体がわかった。
黒く塗りつぶされた闇の淵から、おれたち目がけて這い登ってくる白いなまこ[#「なまこ」に傍点]みたいなものは、おびただしい数の触手だった。
3
絶体絶命とはこのことだろう。またの名を前門の虎、後門の狼。早い話が万事休すだ。
横に移るか? いや、あのスピードじゃ十メートルもいかないうちに追いつかれてしまう。這い寄る触手の範囲は、端から端までざっと四十メートルに及ぶのだ。
ありっこない打開策を求めて脳細胞をフル回転させだしたとき――
急に上昇感が増した。前とほぼ三倍近いスピードで引き上げられていく。
見上げると、ロープは途中であの窓に引き込まれ、鉤爪の持ち主らしい毛むくじゃらの頭が二つ、こっちを向き、何やら喋り合っている。風の唸りが解読を邪魔した。
奴らも気づいたのだ。
ある考えがおれの脳裡をかすめた。万に一つだが、チャンスはチャンスだ。そのためには、あるものが必要だった。在りかはわかるが、手が届かない。
わめきつづける女の口に手をあてて黙らせ、おれは恐怖に満ちた青い瞳へうなずいてみせた。存外度胸がすわっているのか、みるみる正常な光が復活する。身体の震えも止まった。おれは巧みにバランスをとりながら、鉄製らしい槍の穂を手首の蔦にあてた。舌を巻くくらい鮮やかな切れ味だった。ジャングル・ナイフでもこうはいかない。未知の特殊鋼か? 太さ一センチもの木が豆腐みたいな手応えをのこして、女を解放した。すぐ足にうつる。女は夢中で鉤にしがみついた。
また速度が上がった。
窓まで五メートル。だが、ゴンドラ真下の触手はすでに一メートル足らずまで迫り、指先みたいにのたりと持ち上がるその裏側に、直径二○センチはありそうな白っぽい吸盤の列が見えた。
こいつを五メートルばかり切り取って、築地に出してるおれ経営の料亭で調理させたら、新しい客がつかないだろうか。
しょうもないことを考えたとき、だしぬけにゴンドラが急上昇し、まばゆい光がおれたちを包んだ。
人工照明の奥から、およそ文明とは縁のなさそうな黒い化け物が鉤爪を閃かせて襲ってくる。
だが――
狂暴な光が空気を灼いて走ったとき、獲物は空中に身を躍らせていた。
最後のチャンスを生かすあるもの[#「あるもの」に傍点]――窓の向こうに大きく張り出したロープのたわみへと。
おれの予想通り、ロープの長さは前もって測ってあるのか、下降はすでに停止していた。
女のタイミングが気懸かりだったが、途中で指で示した通り、見事に跳んでのけた。惚れ惚れするくらいの度胸と運動神経の持ち主だ。大きく左右にしなる蔦にしがみついたまま、おれは同じ部分を掴んだ女にウインクしてみせた。
先に登れと合図する。蔦にジャンプすると教えたとき、一応、アラビア語で説明したのだが、思った通りちんぷんかんぷんだったのだ。
女は躊躇なくうなずいて登りはじめた。豊かなヒップをおれに下からのぞかれても文句の言えない状況だが、気にした様子もない。おれの方もそんなものを見てる場合じゃなかった。
左手の方で狂気の叫びが入り乱れた。
計算通り、おれたちを尾けてきた触手が、内側から閉める間もなく、窓へと入りこんだのだ。
どんな死闘が繰り広げられているのか見たい気もしたが、おれは我慢して蔦のロープをよじ登りはじめた。催眠状態に入るが、疲労のため軽いショックでも解除されちまいそうだ。
両眼の隅で白い線が蠢いていた。
言うまでもなく、別の触手だ。
別の獲物を求め、果てしなき上昇をつづけていく。触れたら終わりだ。左右とも、おれの肩から一メートルと離れていない。閃光に濡れた肌がぬめぬめと光った。みる間におれたちを追い抜き、上方の闇へと消える。
おれの困惑はますます深まった。先刻の大鰐といい、全長数百メートルの触手をもつ化け物といい、どうして今日に限って、この海域に限って、おかしな奴ばかり出てくるんだ。
最後のダメ押し――この船の正体は?
おれは頭を振って疑問を追いやり、蔦登りに精神を集中した。女の見事なヒップは闇に溶け込んでいる。レンジャー部隊顔負けのスピードだ。もう一度、拝見したいものだと思って、おれも力を込めた。
身の毛もよだつクライミングを二○分近くつづけただろうか。
さすがに両腕の感覚が失せはじめた頃、すぐ前に、おいしそうなヒップと太腿が現れた。おれを認め、女が片手で右奥を指さした。
必死で眼を凝らす。稲妻も力を貸してくれた。
なお昇りつづける触手の真下に光の筋が浮き出ている。窓か裂け目があるのだ。しかも、安全な。不気味な蓋さえどければ、固い大地と雨のない空間で身体をのばせる!
ためらいもせず、おれは右手に保持した槍をふり上げ、肉の塊めがけてふり降ろした。先端はともかく、この辺の感覚は鈍そうだと思ったが、効果は予想以上だった。直径六〇センチもの肉棒は、風を巻いて尺取り虫のように持ち上がったのだ。
溢れる光の滝が視神経を灼いた。
槍を引き抜いた手で、おれは飛び出せという合図に思いきり女のヒップを叩いた。空を切った。女はムササビのように宙に舞っていた。見事、縁につかまり、たくましい太腿で二、三度丸太を蹴るや、光の奥に呑み込まれた。感嘆するより、おれはあっけにとられた。世の中、まだ捨てたもんじゃない。
次はおれの番だった。槍を右手に移し、両足先を蔦に密着させる。
ちらと頭上をあおぎ、おれは震え上がった。闇を蹴散らし、触手の先が猛然と迫ってくる。
光の端まで九〇センチ。
ゆきを背負ってジャンプできるだろうか?
触手のうなりが耳に届いたように思ったとき、おれは両脚の腱も切れんばかりの力を込めて蔦を蹴った。
光彩が迫り、身体が沈んだ。手をのばした。
指先に感触はない。冷たいものが心臓を掴んだ。
手首から衝撃が伝わった。心臓の呪縛が一瞬に溶ける。どちらにしても身体には良くない。
見るまでもなく、女が上半身を乗り出しておれの落下を食いとめてくれていた。
無論、いくら頑強でも、女ひとりで一一〇キロを支えるのは無理だ。
おれは丸太の窪みに足をかけ、女の力に合わせて蹴った。心は安堵と自信に満ちていた。
一気に安全な世界へ飛び込む寸前、おれには数十センチの距離を詰める触手の腹を見上げる余裕さえあった。
足の裏が重い衝撃波と打撃音を跳ね返した。間一髪で触手が窓を塞いだのだ。
だが、次の瞬間、おれは奇想天外な心境で眼を剥かねばならなかった。
眼前に広がるのは光と、それを映してきらめく満々たる水の広がりだったのである。船の中にも海があったのか?
頭から跳びこんだ。かたわらで、細かい水泡《みなわ》に取り囲まれた女体が、あわてる風もなく水とたわむれている。
おれは夢中で手足を動かした。眼も開けたくなかった。これ以上、水中で何かと遭遇したら気が狂っちまう。
生命は海から生まれた。人間の血液中に塩分が含まれているのがその証拠だ。だからこそ、海は恐ろしい。原始生命の段階で他生命に食い殺された記憶、岩蔭に潜む何ものかに突如牙を剥かれた甲殻魚類の恐怖――そのすべてが遺伝子に伝わり、戦慄すべき故郷の実体を伝えている。人間は、もはや、踏みしめるべき確たる大地なくして安らぎを得ることができないのだ。
浮上しざま左右に眼を走らすと、二○メートルほど前方の壁にドアらしきものが見えた。身体は疲弊しきっているが、やむを得んと手足を動かし、二、三メートルいくと、足が硬いものに触れた。
「待てよ」
つぶやいて立ち上がる。
あっという間に腰まで後退した水を、おれは茫然と見つめた。
「なんてこった。底を見りゃひと目でわかったのに……」
すぐそばで激しい水音。
あわてて身構えると、女が立ち上がったところだった。
かがやく黒瞳、すらりとのびた鼻梁、ちょっぴり厚めの、形はいいが淫乱そうな唇。女優でも通用しそうな顔立ちに加えて、ブラなしでも垂れ下がらぬはち切れそうな乳房を、したたる水が舐め、長い黒髪が淫靡にまとわりつく。水中に消える寸前の腰のくびれと豊かさに、おれはたちまち下半身が熱くなった。
それを知ってか知らずか、女は妙に赤い唇を笑いの形に歪ませると、さっさと背を向け、ドアの方へ歩き出した。まだ触手に覆われた窓の方へちらりと眼をやり、おれもすぐ後につづいた。
ドアの五メートルほど手前で水は不意に切れ、板張りの床が顔を出した。
嬉しいことに、乾いている。
おれは夢中でよじのぼった。
先にのぼる女のヒップも見なかったのだから凄い。
両掌《てのひら》と膝頭に懐かしい感触を味わった途端、へたり込みたくなったが、ここでへばると当分立てなくなる。とにかく、水のないところへ行くのが先決だ。
空気はじめつき、へんな臭いがしたが、生あたたかいのは救いだ。さっきまでの元気はどこへやら、うつ伏せであえぐ女は放っておいて、ゆきを担いだままドアの前へいき、外の気配を確かめる。
さっぱりわからない。疲労のせいで精神が集中できないのだ。自己催眠はさっき、窓から落ちかかったときに切れちまったし、もう一度かけたらほんとに催眠状態に入って熟睡しかねない。
ドアは縦二メートル、横三メートル。横木を組み合わせた、周囲の壁と同じつくりの観音開きで、把手の代わりに二本の鉄の輪を、直径一五センチくらいの棒が貫いていた。閂である。鉄の輪が赤く錆を吹いているところからみて、この船自体、建造されてから大分たつらしい。
閂を掴んで押してみたが、鉄輪の錆に邪魔されて思うように動かない。
ひと休みするか。
そう思った途端、全身の力が抜け、かろうじてゆきだけはそっと床に下ろすと、おれは精も根も尽き果てた格好で、その場へひっくり返った。
ゆきがむくりと起き上がったのは、そのときである。
「ああ、やれやれ。水につかるわ、どっかから落ちるわ――死ぬかと思ったわよ」
さも大儀そうに肩を叩く姿を茫然と見つめながら、おれはゆっくりと天使のような笑みを浮かべた顔を指さした。
「あら、なによ。へんなとこ指ささないで。エッチ」
乳首の突き出た胸を、ゆきは素早く両手で隠し、おれをにらみつけた。
「妙ちきりんなとこだけど、やぁっと地面に立ててせいせいしたわ。ねえ、ここどこよ? それと、お腹が空いちゃった」
「おまえなあ……」
糸に引かれるみたいに重い上半身をかろうじて起こし、おれはようよう言った。
「いつから、目が覚めていたんだ?」
「最初っからよ」
ゆきはあっさりいった。天気でも答えるみたいな調子である。太腿にひっついたドレスをはがしながら、
「大体あたし、海って嫌いなのよね。ああいう環境じゃ眠ったふりするのが一番。熊に出食わしたら、死んだ真似しろっていうじゃない?」
「熊と海とどういう関係があるんだ、この大ぺてん師娘。くそ、人のタキシードにゃ反吐つけやがって、自分のドレスはきれいなままか。みてろ、五分もしたら、ジヴァンシーだろうが、ロベルタ・カメリーノだろうが、この手でズタズタに引き裂いてやる。パンティー一枚にして、この船ん中を追いまわしてくれるぞ」
「あーら、残念でした」
ゆきは胸をそらせ、嘲るように唇を突きだした。
「あたくし、イヴニングの際は下着を着用いたしません。ノーパンだもんね」
「糞ったれ」
力尽き、おれはがっくりと床に倒れ込んだ。ふっと意識が遠のく。
「ところでさ――この女《ひと》誰よ?」
ゆきが陰険な声で訊いたが、答える気にもならなかった。
「あんたの肩で様子を窺ってたら、途中から女の声がきこえたのでびっくりしたわ。この船のメイドさんにでも手を出したんじゃないでしょうね。ま、メイドさんが裸のわけないけどさ」
「ひとつ、頼みがあるんだがな」
おれは蚊の鳴くような声をふり絞った。
「なにさ?」
「おまえのドレスを脱げとはいわん。おれのタキシードをはがして、あの娘にかけてやれ。あれじゃ、動きがとれない」
「お安いご用よ」
いやに物わかりよくうなずくと、ゆきはさっさとおれの後ろにまわり、荒っぽくタキシードを脱がして、女に近づいた。
動機は見えすいている。この船じゃおれより女の方が頼りになりそうだと踏み、恩を売る気なのだ。女の仲間のことも計算に入っているに違いない。さも同情したような顔つきで女の前に膝をつき、そっと上着をかける姿を見て、おれは苦笑を浮かべるしかなかった。手の内を見すかした男を前に、あれだけ臭い芝居をやられちゃ、怒る気にもならない。
女がふっと顔を上げ、ゆきの方を見た。
驚きのあまり、筋肉に打ち込まれた鉛の疲労も一瞬、霧消してしまったほどだ。
ゆきの頬がみるみる紅く染まっていったのである。
アラブ系にしては蝋みたいに白い腕がそっとゆきの肘を掴んだ。引っぱられたらしく、前へとのめりかけ、ようやく自分を取り戻したのか、ゆきは素早く身を離した。それでも、女の手をもぎ離すには、かなりの力で肩をゆすらなければならなかったようだ。
女はすぐ、冷凍鮪《まぐろ》の状態に戻った。裸でも風邪をひく心配はあるまい。
戻ってきたゆきは、動悸が収まらないのか胸に手をあてていた。
「おれたちが清い仲を通せたわけが今わかったよ。おまえにあの気[#「あの気」に傍点]があるとは思わなかった。どっちがお兄さま――タチ役だ?」
「まいったわ、あの眼つきとお触りのテクニック。肘掴んだとき、薬指でさあっと撫でたのよね。鳥肌が立ったわ。あんたに触られたのとは逆の意味でね。ううっ、気持ちいい」
わざとらしく身体を震わせるゆきに精一杯顔をしかめて情けない報復をすませ、おれは眼を閉じた。
忌わしいトレジャー・ハンターの習性が閉じる前に出た。見なきゃよかった。
不安な未来がおれに投げキッスを送る。
おれたちが憩う木の床の向こうに広がる光景は、その果てどころか天井さえもおぼろに霞む、茫々たる海原だったのである。
船の中にも海か、どうなってるんだ。
ぼんやり考えながら泥のような眠りに落ちこんでゆく寸前、おれはどこともしれぬ場所で、鳥のような奇妙な鳴き声をきいたと思った。
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第二章 方舟(はこぶね)伝説
1
泥のように疲弊した挙げ句の眠りに落ちていても、身につけた感覚は必ずどこかで目覚めている。
きっかり一時間後、おれは安らかな睡眠から糞いまいましい現実へ戻った。見回すと、傍らでゆきの尻と背がへばっていた。おれに背を向けて眠っているのだが、濡れたイヴニングドレスは脇へ脱ぎ捨て、全裸である。確かにノーパンだった。女はさっきと同じ場所に同じ姿勢で伏せたまま、身じろぎもしない。
おれは身体を動かしてみた。疲労は残るが喧嘩くらいはできそうだ。ズボンはともかく、シルクのシャツはもう乾いている。
船内の海へ眼をやる度胸も復活の歌を唄っていた。
それでもなお、その、人の手になる巨大さは、おれの胸に畏怖の念を植えつけるに十分だった。
かろうじて天井だけは、頭上に黒々と揺れていたが、それでも三○メートルは越すだろう。いっそ見えてくれない方が、現実感が乏しいだけましというものだ。
しかも、光は天井から降り注いでいるのに、照明装置らしいものは影も形もなく、天井自体が木の黒さを保ちながら輝いているとしか見えない。
競泳用のプールでは絶対にあるまい。
ひょっとしたら……。
船腹の上で今も蠢いているかもしれない触手のことを考え、おれはそっと脱出孔に眼をやった。雨が吹き込んでいるのが見えたが、別に、白い烏賊の足は侵入していなかった。
ある驚くべき考えがおれの胸を刺した。
やむことを知らぬ雨が壊れた窓から降り注ぐとしたら、船内は水侵しになるだろう。最初は数ミリ、数センチ、それがやがて数メートルに達するまで、どれほどの時間を必要とするか。数キロ四方の船室を覆い尽くすまで。
傍らでゆきの起き出す気配があった。ふりむいてやろうかと思ったが、まだトラブルを起こすほど体力は回復していない。七分咲きであいつと口論できるのは、スタン・ハンセンぐらいなものだ。
「見ちゃ駄目よ。みーいるな」
眠けの残るガラガラ声でいう。
「やかましい。さっさと着換えろ、この露出狂」
「ははん、もう見られたか」
おれは答えず起き上がり、女の方へ近づいた。
肩に手をかけようとした途端、黒い稲妻が眼前を流れた。女がタキシードをひっ掴んだまま、二メートルもとびすさったのである。鮮やかすぎる体術であった。
床すれすれに身を屈めた獣のようなセクシーな肢体から、たちまち緊張が退いていった。おれだと理解したのである。
いきなり真っ赤になって、おれの脇を指さした。
身体以上にセクシーな声で何かを訴えている。すぐにわかった。
おれは後ろを向いた。少ししてふり向くと、女はタキシードの前ボタンに悪戦苦闘していた。一緒に降りてきた男たちの服も、頭からすっぽりかぶれるタイプの貫頭衣だったし、無理もない。おれはそっと女の手をどけ、ボタンをはめてやった。
一七〇センチ近い大柄な身体にも、おれのタキシードはかなり余り、愛くるしいおへその下は太腿の半ばまで隠れてしまったが、それでもかなり破壊的な眺めではあった。
特に胸もとから半分ずつこぼれる乳房が何ともいえない。形はゆきと似て、最も量感溢れるベル型だが、サイズはひとまわり大きいようだ。九六、七はある。年齢はおれたちとまず同じだ。男もののタキシード一枚を素肌にかけた野性の美女――どうしようもなく倒錯的な光景に、おれの胸は妖しく高鳴った。
「うおっほん」
わざとらしい咳払いの音。もちろん、ゆきだ。おれは苦々しい想いで女の顔に眼を移した。
まず、この船の乗客と意志を疎通させねばならないが、女の言葉から古代アラブ語だろうと踏んで、片言のやりとりをはじめたら、これがうまくいった。
宝物の在りかを記した古文書を読みこなす作業は、トレジャー・ハンターに不可欠のものである。これができないと、時間のロスという致命的な事態が生じる。言語学の教授を探しているうちに、ライバルに先を越された奴とか、ひどい場合は、教授自身が悪党で、依頼主にはでたらめを教え、自分が探検隊を組織して発掘にかかったという喜劇まであるのだ。
三歳のときから、徹底的に古代語の会話と読み書きを仕込まれたおかげで、おれは文明創成期の頃の言語なら、専門学者とまではいかなくても、最大の知識と会話能力を備えているのである。
手話を交えてペチャクチャやっていると、ゆきがいちゃもんをつけてきた。
「断っときますけど、あたしもチームの一員なのよね。作戦会議に参加する権利があるわ。お二人で交わした会話はすべて、現代日本語に翻訳してちょうだい。ふん」
そのくらいはいいだろうとおれは思った。ただし、都合のいい部分だけ、な。
「この女《こ》の名前はリマ。いちばん高いとこに住む連中のひとりだそうだ」
「どこよ、そこ?」
「わからん。高さの単位がはっきりしないんでな。とにかく、光る指と風の声がいつも一緒にいる、とてつもなく高いところらしい。多分、上甲板だろ」
「上甲板って、これ、やっぱり船なの?」
「間違いないな。ただし、これほどの巨船とは思わなかった」
ゆきがぎろりとおれをねめつけた。
「あんた、知ってたの[#「知ってたの」に傍点]?」
「さてね」とおれは白っぱくれた。
「でも、少しおかしかないこと」とゆきは周囲に眼を走らせながら、薄気味悪そうに言った。
「でかいこともでかいけど、いまどき、全部丸木づくりの船なんて、どこの世界にあるのよ?」
ここにあるよ、とおれはぼんやり考えた。この世界[#「この世界」に傍点]に。
「さて、何はともあれ、全員体力は回復したらしいな。ここを出るとするか。もう海はたくさんだろう」
どっちも異存はないらしく、おれは先頭にたって閂のところへ行き、力を込めて押した。
びくともしない。
もう一度、根かぎり踏んばっても、木の棒は一ミリとて動かなかった。三人掛かりでも同じだ。湿度と時間のせいで、木の幹に金具が食いこんでしまったらしい。
「出口はここだけか?」
おれはあきらめてリマに訊いてみた。あの壊れた窓のことを知っていたんだ。この部屋(?)へ足を踏み入れた経験があるのだろう。
リマは首をふった。
「わからない。……水がいっぱいあるだけ。穴から出入りした。いっかいだけ」
「何て言ったのよ?」
ゆきが、騙したら承知しないわよ、という眼付きで凄んだ。
「ここはもと金魚すくいの店だったそうだ」
「この大嘘つき」
「出口はわからんとさ。だが、閂は内側《なか》からかかってるんだ。かけた奴がここにいない以上、出てったとみてよかろう。他の出口からな」
「あーら、この――」
部屋で、というのはさすがにためらい、
「このプールを出て行けなかったかもしれないわよ。溺れるか何かして」
「じゃ、おれたちもここで飢え死にだな。これ以上力は出そうもないし、あとは、あの窓から別の出入り口を探す船腹旅烏しかない」
「真っ平よ!」
呻いてゆきは沈黙した。
リマはじっと彼女の方を見つめている。その視線の行方と熱っぽさが、何となくおれの気に触った。
「とにかく、他の出入り口を探してみる手だ。おまえたちはここで待ってろ。軽くお散歩してくる」
「やよ、一緒にいく。この女《ひと》、気味が悪いわ」
ゆきが薄気味悪そうにしがみついてきたが、おれは邪慳に振り払った。
「今までは安心だったが、これだけ広い水の中だ。どんな奴が隠れてるかわからん。槍はおいてくから黙って留守番してろ。二人でイチャついても構わんぞ。少なくとも風邪はひかなくて済む」
「ふん、高校マゾヒスト」
おれは構わず二人に背を向けて、シルクのシャツとズボンを脱ぎはじめた。
熱い気配が背後に近寄り、三ヵ所に柔らかい接触があった。確かめる必要もなくリマだ。両肩に触れた手と、背中に押しつけられた頬から思い入れ[#「思い入れ」に傍点]がひしひしと伝わってくる。熱い吐息と唇が肩の線に触れた。歯と舌が弄うように動く。ぞくぞくっときて、おれは美しい誘惑から身を離した。
ゆきの不安ももっともだが、今のところは手の打ちようがない。
おれは素早く床から水中へ身を滑り込ませた。
壁に沿って歩く。
移動するとなると、ほとんど絶望的な感じで広さが胸に迫ってきた。
動くものの気配も、生命反応もない。ひたすら広い水の連なりは、それを産んだ時の茫大さをのみ伝え、死の静寂に身を委ねていた。
ここには死しかなかった。
ある予感がおれの足を早めた。
三〇分ほど実りなき前進をつづけ、ゆきたちの姿も見えなくなった頃、前方の海面上に、異様な物体がおぼろな輪郭を現してきた。
一瞬、船の残骸かと思ったが、ここは海ではないのを想い出し、苦笑してしまう。
壁を離れ、おれはゆっくりと、沖[#「沖」に傍点]の方へ足を踏み出した。
それは一見、途方もない大きさの廃墟とも見えた。
ちがう。
ゆるやかな曲率《カーブ》を示しながら宙天高くへ挑む柱の列と、その周囲に堆積する丘ほどもある白い破片の山。
骨だった。
不思議なことに、おれはそれほど驚かなかった。
手近の一本に触る。ほぼ完全に石化し、表面を走る細かいひび[#「ひび」に傍点]が妙にリアルだった。
見渡すと、右も左も累々たる骨の林だった。すべてが図抜けて大きい。そそり立つ肋骨など、優に七、八メートルはあるだろう。おれを見おろす肩胛骨や腕骨の間を縫って歩きながら、おれはあるものを探した。それは、水中に半ば没した形で横たわっていた。虚ろな空洞は眼窩だろう。頭骸骨である。
まず、歯を調べた。犬歯は一本もない。臼歯と切歯ばかりだ。切歯がへら[#「へら」に傍点]かのみ[#「のみ」に傍点]のように平たくなっているのは、草を切り取るのに便利だからだろう。それよりも、口腔上部から突き出た長大で鋭利な骨が死者たちの身元を明らかにしていた。牙だ。
しばらく見てまわると、同様の骨が幾つも見つかった。頭部の形状など微妙に異なっているようだが、おれにはよくわからない。はっきりしているのは、この骨が草食動物、それも、現代には生存していない超巨大な象の遺品だということだ。こいつは推測の域を出ないが、シベリアあたりでよく見かける旧北区系マンモスはもちろん、キタアメリカマンモス、最新世の始まりとともに世界中に分布した南方マンモス――アルキディスコドン等の骨も完備しているはずだ。
おれは、あるもの[#「あるもの」に傍点]を探したが、おれ程度の知識では判別不能だった。
化石の森をさまようにつれて、ある不気味な事実が、おれの体内に黒い澱のようにわだかまりはじめた。
いつの間にか、林立する骨のスケールは、上野動物園で見かけるインド象の花子くらいにまでダウンし、もっと小さなものも眼につくようになったが、これはちっとも不気味じゃない。
骨の表面に刻まれた亀裂を、おれは風化によるものと判断した。ところが、どうやら見当はずれもあるらしいのだ。
メガテリウムのものと思える頭骨には無残な穴がいくつも穿たれ、マストドンの脛の骨は凶々しい深い溝を何条も刻み込んでいる。肉食獣の爪と牙が遺したものだった。
おびただしい骨は、ことごとく、食い殺された無念の屍だったのである。すると、船内に運び込まれたとき、彼らは化石ではなかったのか!?
ひと足進むごとに、水中から得体の知れぬ凶眼がじっとおれを観察し、情け容赦もなく襲いかかる妄想が現実味を増して、おれは気分が悪くなった。
象たちがここへ集められた理由は何となくわかった[#「何となくわかった」に傍点]。すると、彼らを食い尽くしたものがやはり船内に集合していたとしても、不思議ではあるまい、それが、意図的に集められたにしても。
おれは半ば、この船の正体を見破っていたといっていい。正直にいえば、あの荒海にそびえる巨体を発見した時点で、ある程度の察しはついていたのだ。
身体が異様に熱く、頭の中だけが冷たく冴え渡る感覚。
おれは自分がトレジャー・ハンターであることを否応なしに認識させられた。
壁の方に眼をやったとき、熱はさらに強さを増した。
天井ぎりぎり――二七、八メートルにも達する高さと、一○メートル近い幅を誇る巨大な穴が、黒々と壁を塗りつぶしていたのである。
その下端から穴を塞いでいたらしい壁の一角が、これも端の連結部だけを視界に留め、斜めに水中に没している。扉だろう。壁の穴から、後を追うように水中へ伸びるロープの太さがおれの眼をひいた。開閉用に違いない。象たちはここから船内へ連れ込まれたのだ。
しかし、異様といえば異様な闇であった。こちら側の放つ光をすべて吸収するブラック・ホールのごとく、封じた彼方は一センチ奥の様子さえ窺えない。真っ暗だ。ひょっとして、タールでも塗りつけた悪い冗談ではないかとさえ思ったが、そうでもなさそうだ。
とにもかくにも、水からは脱け出せる。
おれは外の様子を探ろうと、水を切って歩き出した。
そのとき――
異常な気配が全身を直撃した。
巨大な出入り口とこの船室とを封じる濃密な闇の奥から、何かがやってくる。
信じ難いほどの体躯と重量を示すかの如く、それはまず立ちはだかる壁や広大な空間さえ揺るがすような響きとなって現れた。
おれは素早く、巨大な上腕骨の蔭に身を潜めた。身についた基本動作というより、そうせずにはいられぬものが、迫りくる響きにはあった。
来る。
五〇メートル……三〇メートル……二〇……一〇……
猛々しい足音に水面が波立った。行っちまえ!
そして、まさに巨大な黒い出入り口の向こうで、そいつはぴたりと立ち停まったのである。
見ている。こっちを見ている。
一瞬、おれはあらゆる気配を絶った。
空間と同調する虚無そのものと化して、固着する。視覚による認識以外、おれを感知する術はない。目撃しても、それっきりだ。おれの形を視覚が脳へ送るだけで、敵と認識できないのだ。飢えた虎の巣に投げこまれても食欲はそそるまい。唯一の欠陥は、こちらも身動きひとつできないことだが、捜索者とは、あきらめはせずとも移動するものだ。
長い時間のように思えたが、実際はほんの数秒であったろう。そいつは再び地響きを引き連れ、暗黒の彼方へ立ち去っていった。
足音が完全に消えてから、おれは水中の扉を伝って戸口の闇の前に出た。
光に反射光を与えぬ濃密さは、人工のものだろう。一体、何の眼をくらまそうとしたのか。
ちょっと考え、おれは骨の山からもってきた小型象の大腿骨を闇に刺し込んだ。手応えはなく、骨は呑み込まれた。引き出しても異常はない。
おれは壁に背をつけたまま、十分用心しながらもためらわず顔を押しつけた。
そこは廊下に違いなかった。
どこからともなく溢れる淡い光の中に、高さ十五メートル、幅十メートルほどの空間が左右に果てしなくのびている。その端を呑みこむ青い闇は、別世界のたそがれではないかと思われた。
とにかく道は開けたわけだ。二人の悩ましい道連れを引っ張ってこようと、おれはすぐきびすを返した。
2
戻ってみると、どうも様子がおかしい。
女ふたりの間に、形容し難い空気が漂っているのである。リマは落ち着いたものだが、ゆきは妙な眼付きでおれの方をちらちら眺め、眼が合うとすぐに伏せちまう。済まないことでもしたという風だ。
ある想像が浮かんだが、おれはあえて口にしなかった。この上、厄介事の種がふえては敵わない。
骨の山のところへ出ると、好奇心の強いゆきはあれこれ質問してきたが、おれは無視して出入り口を抜けた。
「なによ、この闇!?」
ひと声叫んでから、ゆきは茫然と周囲を見回した。
何から何まで超雄大なスケールに度胆を抜かれたのである。
「今の骨の山といい、ここといい、一体、こんな船、誰がつくったの? そして、どこへ行くのよ?」
「どこへも行かんよ」とおれはリマから受け取った槍を構えながら周囲を見回した。「多分、未来永劫このままさ」
「ちょっと、どういう意味?」
ゆきが食ってかかったが、おれは背を向けて歩き出した。
このままじゃ何もつかめない。船である以上、当然、乗組員がいるはずだし、最悪の場合、最上甲板にいるリマの仲間たちでもいい、ともかく、船の全貌を把握してる人間に会うことだ。リマはほとんど何も知らなかったのである。
船内には静寂だけが降りていた。
分厚い木をよほどしっかり打ちつけてあるらしく、床は軋み軌みもしない。骨が化石になる以前に造らせたものとしては、驚くべき堅牢さだ。木材自体に特殊な加工法が施されているのだろう。
丸木を組んだ壁にも風化の痕跡はほとんど見られなかった。材料は多分松の木で、船体同様、隙間に瀝青《アスファルト》を塗ってある。
ところどころ、L字型の楔に鉄の皿をつけた品が打ちつけてあり、のぞくと白っぽい油脂みたいな塊から紐の切れ端がぶら下がっていた。極めて原始的な洋燈《ランプ》にちがいない。
まもなく、巨大な破壊孔がおれたちの前に現れた。
へし折られた丸太の痕跡も生々しい、高さ七メートル、幅四メートルに及ぶ壁の割れ目である。廊下に破片が散乱していないのは、外部からの侵入を示していた。しかし、これだけの私用出入り口を必要とするとは、どんな化け物か?
「ちょっと覗いてみるか?」
と背後に問いかけ、おれは眉を寄せた。
途方にくれたゆきの傍らで、リマが凍りついている。あの触手蠢く嵐の船腹クライミングにもびくともせず、骨の林にも無関心な一瞥を与えたあっぱれな女丈夫の顔には、眼を覆うばかりの恐怖と凄惨な色がへばりついていた。
言うまでもない。この破壊孔を穿った主に恐怖しているのだ。
「知っているのか、こいつを?」
穴を指さして訊くと、ゆっくり首をふる。あわてて振られるより、よっぽど不気味だ。おれは、あの足音の主を想い出した。
「ちょっと来い」と手招きした途端、化鳥のような絶叫を放ってリマは二メートルも後方へとびすさった。
「よしなさい。女の子虐《いじ》めて何が楽しいの!?」
ゆきが食ってかかったので、おれは眼を剥きそうになった。
自分がやられるのでなけりゃ、逆にあおるタイプなのだ。六本木の路上で、通行人数十人がやり合い、重軽傷者三○名を出した大喧嘩《ストリート・ファイト》――俗にいう「防衛庁前抗争」の火付け役はあたしよと、打ち明けられたときにはびっくりした。なんでも、三人組のチンピラに路上で声をかけられ、あまりしつこいので、あんたたちのうち、いちばん強い人と付き合うわと言った途端、三菱銀行の前で大立ち回りがはじまったというのだが、おれは声をかけたのはゆきの方だとにらんでいる。
それはともかく、翌日の新聞には、単なる見物人に「あなた強そうね、二、三人ぶん殴ってよ」と乱闘加入をけしかけた娘がいて、「つい、ふらふらとのめり込んでしまった」男たちの談話が幾つも載ってたくらいだから、エスカレートさせたのは絶対にゆきだ。窮極の根性悪というか、歩くトラブル・メーカーというか、こんなのに眼をつけられた男は、生命と社会的地位が幾つあってもたまったもんじゃない。
それが突如、道徳的正義感に目覚めるとは――。
「いいこと、今度、お姉さまが嫌がるような真似したら、あたしが只じゃおかないわよ」
牙を剥いてねめつけるゆきの壮絶な顔から、炎のような怒りが噴きつけてきた。こりゃ、ひょっとするとひょっとするぞ。
ま、無理強いしても仕様がないので、おれは恐怖の眼を見開いているリマをそこヘ残し、穴の内側を覗いてみた。
やはり光が満ちている。死と恐怖の充満する巨船の中にあって唯ひとつの救いだ。
ここも負けじと広いが、水のみ[#「み」に傍点]の字もなく、建造時の様子を遙かに精確に伝えていた。
とはいっても、死の蹂躙は覆うべくもない。
四方八方に散らばる骨片、床の黒い染みは多分血の痕だろう。
壁の端に残る遺構らしきものがおれの目を魅きつけた。丸木を縦と横に組み合わせた高さ一メートルほどの柵――だろう。凄まじい暴力が荒れ狂った過去の名残を留めて、ほとんどが途中で消失しているが、目をこらすと、あちこちの壁際にわずかながら原形が残っている。面白いことに、高さがみな違う。
おれは一メートルほど低い部屋の床へ跳び降りた。残ったゆきが、いやん[#「いやん」に傍点]と言ったが、知ったこっちゃない。
柵の内側に入ると、木の桶みたいな品が眼についた。調べてみると、床の上にそれを固定する台の跡みたいなものが残っている。どうやら、柵に沿って桶が並んでいたようだ。
桶の底に黄色い植物がへばりついているのをみて、おれは片手を入れた。ひと目でわかった。藁だ。
後は簡単だった。おれはあちこちに散らばる骨を調べて歩いた。大、中、小――大きさは様々だが、まとめればひと言で済む。ヒラコテリウムもメソヒップスもネオヒップスもいただろう。せっかく生き残った[#「せっかく生き残った」に傍点]のに、まさかこの船中で忌わしい運命に見舞われるとは、世の中、ついてない生物てのはいるものだ。
少し歩くと、巨大な乗り物が横倒しになっているのにぶつかった。
直径三メートルもある分厚い円形の板は車輪に違いない。その上に乗った長方形の車体は、車輪を二○個並べても支えられるかと思えるくらい巨《おお》きかった。そのあちこちから、円筒を縦に割ったような半月形の筒が突き出ている。おれは軽々と車体によじ登り、筒の内側を点検した。
干し草や藁くず。車内を調べるまでもなかった。
恐らくこの車は、あの桶に餌を供給する給餌車だったのだ。
車体の前に回ったが、御者台らしいものは存在せず、牛にひかせるための轅《ながえ》(馬車、牛車の前に突き出た平行の二本の棒、その前端に頸木《くびき》を渡し、牛や馬をつないで車をひかせる)や頸木を取りつけた跡もない。
異様な想像がおれの頭に芽生えつつあった。これはドライバーなき自動車――オート・カーではあるまいか。
おれは車体からとび降り、車の底を調べた。車軸は車体を貫いているため調べようがないが、車体に沿って五、六メートル歩くと、かなり大きな亀裂に出喰わした。車輪の真下だ。おれは舌舐めずりをして、内部を覗き込んだ。
想像していたような電子装置やメカは一切見当たらなかった。車軸自体も平凡な松の木で、ただ、奇妙な形の細木を束ねた、これも軸みたいなものが中間から車体前部へ消えている。タイロッドかピットマン・アームのようなものだろう。その先に、恐らく木製の自動制御装置や操向装置、食料供給メカが収まっているのだろうが、そこまでは手が回らなかった。
二人を残してきた出入り口の方で、かん高い悲鳴と銃声[#「銃声」に傍点]が轟いたからだ。
大あわてで駆け出したおれは、途中で、破壊孔を降りてきたらしいゆきと出食わした。
「何事だ!?」
「わかんない」とゆきは首を振った。「大ちゃん待ってたら、廊下の向こうに人影が――で、声かけようとしたら、いきなり――」
「リマはどうした?」
「わかんない。あたし、撃たれた途端に、とび降りちゃったから。やだ。お姉さま、無事かしら?」
「阿呆か、お前は!」
わかりきった事実を叫んで、おれは破壊孔へジャンプした。
廊下へ頭を出した途端、銃声がして頭上を弾丸がかすめた。音から判断すると、高速軽量弾――五・五六か七・六二ミリを撃ち出す突撃銃《アサルト・ライフル》だろう。これでうかつに顔を出せなくなった。全自動射撃《フルオート・ファイアリング》でも食らったら胴体などたやすくちぎれてしまう。廊下の反対側にリマが倒れていた。左肩から鮮血が流れている。
「おい、やめろ。同じ文明人だぞお!」
おれはためしに英語で叫んだ。本来は母国語でいくべきだろうが、そこはやはり国際人としての資質が出る。
一瞬、射撃がやみ、明らかな動揺の気配が伝わってきた。
その間を逃さず、おれは廊下の向こうにとんだ。火線は影を貫いた。なぜか半自動射撃《セミオート》だ。選択《セレクト》スイッチがトラぶったか、弾丸を惜しんでるか、だ。
おれが近づくと、リマはすぐ顔をあげた。歪んでいるが表情は元気そうだ。素早く肩の傷を調べる。かすった程度だ。
敵の前進する気配があった。武器無しと見たのだろう。おれは槍を握りしめた。
遙か蛇行する廊下の陰から、人影がひとつ現れたとき、おれは右手のものを投げた。
一撃必中を期したにしては距離が遠すぎた。風を切る音に気づいて、奴は薄笑いを浮かべながら身を屈めただろう。
銃声。おれの眼の前の床が木片をとばした。空薬莢のおちるかすかな音が耳に届いた。完全に射程内に入っている。いまのは脅しに違いない。次が本番だ。
鈍い打撃音を、おれは確かにきいた。ぐっと呻き声がして、銃が床に落ちる音。
おれは起き上がりざま、左手の槍をふりかぶった。
遠ざかる足音が必殺の闘志をにぶらせた。手強しとみて、敵は逃走に移ったのだ。おれは追わなかった。足音からして大したダメージは与えてない。逆襲されたらこと[#「こと」に傍点]だ。
「大丈夫か?」
とリマに訊く。色っぽい顔がうなずいた。
「大丈夫かあ?」
なんとなくバツの悪そうな声が破壊孔の方から響いた。ゆきに決まってる。リマを預け、おれは敵のいた方向へ走った。
残念ながら銃は持って逃げたらしい。欲の深い野郎だ。あちこち探し、空薬莢を二つみつけた。五・五六ミリ。猛獣狩りハンターの持つ代物じゃない。トレジャー・ハンターなら別だが。
廊下には点々と血痕がしたたっていた。軽傷程度で逆上されちゃ敵わないから、あまり手加減せず、かといって死なないレベルに調整して武器を放ったのがよかったらしい。のびてくれればなおよかったのだが、あまり欲を出すとろくなことがない。
落ちてた武器を拾いあげ、おれはリマたちのもとへ戻った。
おかしな事態が待っていた。
「ああっ」
切なげな声とともに、ゆきが床へ倒れるのが見えた。びんた[#「びんた」に傍点]の音は後からやってきた。
「この、卑怯者」とリマが叫んでいる。もちろんゆきにはわからない。
「許して、お姉さま」
ゆきがよよ[#「よよ」に傍点]と泣き崩れたのをみて、おれはすべてを了解した。
リマの白い脚が上がり、ゆきの脇腹を蹴った。音は派手だが、それほどの力はこもってない。ああと叫んでゆきは大仰にのけぞった。大げさな。
すぐにはね起き、リマの腿にしがみつく。
「ああ、もっとぶって、もっと蹴って、お姉さま。あたしがいけなかったの。悪い子なの。お姉さまを見捨てて逃げたりして。虐めてちょうだい。悪い子といって。このきれいな脚で踏みつけて」
なんてこった。
おれは大きく咳払いをして、二人に近づいていった。
途端にゆきはリマから離れ、つん、と侮蔑の表情でおれを見据えた。言葉のわからんもの同士でSMごっこをやってた割にゃ大した変わり身の速さだ。
リマが抱きついてきた。ゆきの眼も構わず猛烈なキスを浴びせてくる。おれの口腔をふさいだ唇の間から舌が勢いよく入りこみ、おれの舌をとらえて、妖しくねぶりはじめた。大したテクニックだ。
「ありがたいが、後にしよう。人目もあるでよ」
おれは最大の精神力を発揮すると、熱い女体を押し離し、ワイシャツの袖を裂いて包帯をつくった。
傷口に巻く間、リマは感謝の表情を顔いっぱいに湛えておれを見つめていた。異常に熱っぽい眼差しが気になったが、ま、もてる罪だと思っておれは甘受することにした。そのうち、ゆきを先に寝つかせる手段を講じる必要があるな。
「ねえ、さっき飛ばしたの何よ?」
ゆきが仏頂面で訊いた。
おれはベルトに差しこんであった武器を抜き、眼の前に突きつけてやった。
「何よ、これ――骨じゃない?」
「正確にゃ肋骨だ。さっきその飼育場で見つけたとき、何本か拾っといたのさ。投げ方次第でいいブーメランになる」
ゆきは眼を丸くした。
ブーメラン――原物はオーストラリアの原住民が獲物をとるのに愛用していたという鎌型の木製飛び道具だ。
七〇度から一二○度に開いた彎曲と歪みのため、目標に当たらない場合は射手の手元に戻ってくるという特性をもち、極めて扱いにくいが、分厚い木でつくった差し渡し五〇センチもある品を熟練した狩人《ハンター》が投げると驚くべき威力を発揮し、大型獣の首さえへし折るという。使いようによってはナイフや槍より遙かに有効なため、おれたちトレジャー・ハンターは小型のものをよく利用するが、サバイバル用に、木の枝や動物の肋骨を加工して自作する場合も多い、もちろん、工法や投げ方は難しい。今回も二○メートル先の林檎を真っぷたつにできる技倆のおれだからこそ金星を射止められたのだ。
「ふーん、便利なものねえ。――頂戴」
ゆきはひょいとおれの手から肋骨を受けとり、乳房の間へしまった。くそ、油断も隙もねえ。
「で、どうするの、これから?」
一番嫌な質問をしやがる。
「まず、安全な場所と食料を探す。それから武器をつくって、船内探索だ。まともな生存者を見つけるこったな。いまの奴でも構わん」
「何がまともよ。お姉――リマさんの仲間たち探した方がよっぽどまともだわ」
「阿呆か、おまえは? この船の中で近代兵器持ってる奴ほどまともな人間がいるものか。少なくとも、おれたちと同時代の知識の持ち主だ。あの素行の悪さじゃ道徳感の方は危ないが、その辺はおれたちも文句をつけられる柄じゃねえ」
「同時代の知識ってどういう意味? お姉――リマさんは原始人だっていうの?」
声を荒らげるゆきに、おれはあっさりうなずいてやった。
「知識はな。この船をつくったときから、多分、ずっと停滞しているはずだ。服装《なり》や言葉でわかる」
おれは二人の会話が古代アラブ語だと説明した。
「遙か昔も昔、大昔、聖書でいう創世記時代の言語だ。この船はその時代に建造された代物さ」
「?」
「ボートの中で海水を浴びてたときから薄々勘づいてはいたんだが。あの象の墓場とそこの厩舎を見て確信がもてた。海水はすべて真水。厩舎、すなわち馬小屋の骨は――見つけるのに苦労したが――同じものが二つずつ。多分、象も、その他この船に積み込まれてる動植物はそろってひと組ずつだろう」
「それが、どうしたっていうのよ」
きょとんとするゆきに、おれは諭すような口調で、
「神言いたまいけるは、すべての人の末期《おわり》、我が前に近づけり。其は、彼らのために暴虐世に満つればなり。見よ、我、彼等を世とともに滅ぼさん」
ゆきの眼に動揺の色が走った。
「それ、聖書の創世記――確か第六章の文句でしょ……あんた、まさか、この船が……」
おれはぐいと指をのばして、木の壁と瀝青《アスファルト》を示した。
「……汝、松の木をもて汝のために舟を造り、方舟《はこぶね》の中に房《ま》をつくり、瀝青《やに》をもて其の内外《うちそと》を塗るべし……」
ゆきが眼を剥いた。おれは船室の方へ指を向けた。その遙か奥、怒濤逆まく真水の海と降りそそぐ雨に。
「……見よ、我、洪水を地に起こして凡ての生命の息ある肉なる者を天下より滅ぼし絶たん。地にいる者はみな死ぬべし……」
「されど汝とは我、我が契約をたてん……」ゆきの声が受けた。「……汝は汝の妻および汝の子等の妻とともに其の舟に入るべし。また、諸々の生物すべて肉なる者をば、汝各々その二つを方舟にたずさえ入りて、汝とともに其の生命を保たしむべし。其等は牡牝《おめ》なるべし……」
おれはにやりと笑った。
「その通り。よく勉強してんな。さすがは太宰先蔵《だざいせんぞう》の孫だ。――色気狂いでもな」
「うるさい」とゆきは反抗した。「あたしが色気狂いなら、あんた本物のノーテンパーじゃない。これが、この船があれですって……?」
「他に当てはまるものがないんでな」
おれはため息をつくように言った。
「まず間違いない。これがノアの方舟だ」
3
聖書の名は知らない子供でも、ノアの方舟の名前は知っているというくらい、この物語は有名だ。
旧約聖書の巻頭を飾る創世記において、ノアの方舟伝説は、第六章に登場する。アダムとイヴの楽園《エデン》追放は第三章。つまり人類は、先祖の誕生後、わずか二章分の年月を隔てて壮絶な破滅のときを迎えることになる。
アダムとイヴの子孫が地に満ちて大いなる繁栄を享受するも、その正道を踏みはずした生き方を怒った神の手により四〇日間にわたる降雨と大洪水に見舞われ、地上の万物はことごとく没し去る。ただひとつの希望は、神が善なるものと認めたノアの家族がつくった方舟と、それに積み込まれた雄雌ひとつがい[#「つがい」に傍点]ずつの動物たちだけだった。
水は一五〇日の間地の表を覆い、さらに一五〇日を経てようやく減りはじめた。七月の十七日にアララテ山の頂上に到着した方舟の中から、ノアは鳩を放ち、水の引き具合を確かめるが、なお水の渦巻く地表には鳩のとまるべき樹木がなく、それはノアのもとへと帰還した。七日後、再び放った鳩は橄欖《かんらん》――オリーブ――の若葉をくわえて戻り、水の引きはじめたことを知らせた。さらに七日後に放たれると、再び船には還らなかったのである。こうして、六百一年の二月二七日、神のお告げに従いノアと家族は船を出、地上には再び生きものによる真の繁栄が築かれた……。
以上が創世記の語る方舟伝説の概要である。
中世において、すべてが真実とされていた聖書の中のこの記述は、近代科学精神の芽生えとともに学術的実証主義の対象となり、数多くの学術探検隊がアララテ山へ登ったが、今日に到るまで、方舟は発見されていない。
それがまさか、太平洋のど真ん中を航行していようとは。お釈迦さまでも気がつくまいとはこのことだ。
昇降口を求めて長い廊下をさ迷いながら、おれとゆきは、方舟とそれにまつわるもろもろの伝説について、低い声で話しつづけた。不意打ちされないよう、血痕に気をつけて男の後を追ったのだが、血は途中で切れていた。
「アララテ山に方舟捜索の目的で入ったのは、聖グレゴリー時代、アルメニアのジェハン・ハイソン王子だった。彼はそこで方舟の一部を発見し、山麓のエチミーアジン修道院の大聖堂に保管していたといわれるけれど、一八四〇年の大地震で、これは僧院もろとも消滅してしまった。
一八七六年にブライス卿は山の斜面を四千メートルほど登った岩棚で長さ約一・二メートルの木片を発見。どうみても松材で、しかも何らかの用途に使われたものらしく加工してあったが、卿はその切れ端を持ち帰っただけだった。
はじめて方舟発見の報を伝えたのは、カルディア教会のヌーリ副司教だったな。同年の『イングリッシュ・メカニック』誌十月十四日号で、氷河の中に方舟を見つけたと主張し、氷に覆われていない船室へ入り、その寸法を調べたところ、すべて聖書の記述通りだったと感激を語っているよ。もっとも、宗教家だったせいで、証拠の品を持ち帰らなかったため世間からはインチキ呼ばわりされ、再度の遠征へ行く前に病死しちまったがな。
やがて飛行機と航空写真の時代が来る。一九一六年にロシア人のパイロット、V・ロスコヴィッキイが標高四千メートルの地点で雪に覆われた巨船らしきものを発見、“アララテ山南側の中腹、ロシア領内で異様な物体を発見せり”と打電した。噂によると、ロシア政府はさっそく遠征隊を派遣、報告通りの巨船を発見したというが、その資料は翌年のロシア革命のどさくさにまぎれて喪失した。残念至極だな。
四九年には米ノースカロライナのスミスという退職宣教師が三人の仲間とアララテ山に挑んだが方舟は発見できなかった。うちひとりは、この探検に参加するため、経営状態良好な会社をさっさと売り払ったといわれるが、奇特な奴がいたもんだ。面白いのは、サンフランシスコ出身のアメリカ人、ジョン・リビイで、一九六九年まで七回も試行を繰り返しながら、とうとう不首尾に終わったが、石を投げる熊に追いかけられただの、特異な冒険談を残しているよ。
問題は一九五六年にフランス語で『方舟発見記』を著したフランスの実業家フェルナン・ナヴァロで、アララテ山頂の氷河と氷湖の下から大量の床材とL字型の船梁を発見し、帰国後調査させたところ、放射性炭素の含有量から紀元前三千五百ないし四千年前のものと判明、世界の方舟愛好家を注目させた。ところが一九七〇年にイタリア隊が、彼と同じ場所を発掘したが何ひとつ現れず、しかもそのときのガイドがいわく、“ナヴァロさんは、はじめからあの材木をもって登った”――これで嘘がばれちまった。
もっとも、一九六五年九月十三日の『デイリー・テレグラフ』紙には、船底の型がくっきりとわかる衛星写真も載ったし、今では元宇宙飛行士ジェームズ・アーウィンが熱心な方舟捜索者としてアララテ山に挑んでる。七四年にトルコ政府が国家保全を理由に登山を禁止してからは大分やりにくそうだが、まさか連中、苦労の種がまだ水の上とは気がついちゃいまい」
「あー、お腹が空いた」とゆきがぶつぶつ言いながら「だけどさ、あんた、最初からこの船の正体知ってたようじゃないの。山登ってった人を揶揄してる感じもあるし。よくないわよ、そういうの。何千年もの間、この船がどこをどうさまよってたか、知ってんなら教えてよ」
「そいつは内緒だ。さっきのライフル野郎を見つけるまではな。ある程度のこたわかってるが、なぜ今ごろまで沈没もしねえでうろついてるのか、原因は不明だ」
「なにさ、出し惜しみして。ふん、ええかっこし[#「かっこし」に傍点]」
と、ゆきは舌を出してから、
「だけど、船にしちゃ少し広すぎないこと。伝説の方舟ってこんなに大きいものなの?」
「ふむ。いいところに気がついたな。聖書の記述によると、長さ三〇〇クビト、幅五〇クビト、高さ三〇クビトってことになってる。このクビトの長さはまだ決まっていないんだが、ほとんどの学者は、船のサイズをメートル法に直すと、長さ一三三メートル、幅二二・五メートル、高さ一三・五メートルに相当するという。ニューヨーク考古学研究財団の理事長ジョージ・ヴァンデマン氏は、方舟のサイズをクィーンメリー号の三分の二と見積もったが、これは今の数字と大体一致するよ」
「へえ」
「だが、あの高さからみても、この広さからいっても、とてもそんな数字じゃ追っつかねえな。やっぱり、クビトの換算が違ってたというべきだろう。ざっと二、三○倍」
ゆきが肩をすくめた。
「一体、誰がこんなものつくったのよ?」
それは、おれが最も知りたい疑問だった。象の墓場、馬たちの骨、無人給餌車――光景は次々と変わり、おれの脳を灼いた。
聖書の記述によれば、「ノア、エホバの凡て己に命じたまいし如くなせり」――つまり、言われた通りの船を建造したわけだ。そして乗り込んだのは、「ノアとノアの子セム、ハム、ヤペテ、およびノアの妻と其の子等の三人の妻」の計八名。当時の土木技術でこれだけの船をこしらえる人数としては、あり得ない。そもそも木を切るだけで何百年も経過してしまうだろう。聖書に忠実なスケールだとしても、排水量は一万五千トンに達し、「歴史上確実な記録の存する最古の船ではあろうが、造船知識の非常に発達した国民の手になる想像上の一種の組立船」という意見もあるのだ。
ましてや、いまおれたちが歩いてる船ともなれば、一万人や二万人が働いたところで十年二十年のうちに仕上げるのは、まず不可能とみていいだろう。
となれば、超技術が働いたのだ。あの、給餌車のような。当時でさえ絶滅していた太古の生物たちを、その始源から収集できるような力が。
聖書学者たちはともかく、大胆な研究家たちの間では、方舟は一種の超技術の結晶とされている。長さと幅の比六:一は、横揺れの有無と安定度を考えた場合、現代造船学では理想的な比率とされ、現在のマンモス・タンカーもこれにならっているのだ。
これは試行錯誤を重ねて学び取ることも可能だが、より現実的な問題となると、当時の技術では、まず解決が不可能なはずだ。
密閉された方舟の中で、酸素はどうとったのか? 汚れた空気を循環させ、炭酸ガスを排出し、酸素を補給した方法は? 少なくとも雨降り注ぐ最初の四〇日、船は密閉状態にあったはずである。さらに、動物たちの餌と食料はどうしたか? 象と馬であれだけのスペースを必要としたのだ。他の動物を計算にいれたら、その量は天文学的な数字と化す。すべて積み込んだとして、給餌と排泄に必要な労働力はどこから手に入れたのか?
最後の質問の答えはわかっている。おれは給餌車を見たのだから。恐らくは排泄物の世話も、同様の機械が行ったのだろう。空気の循環、製造もだ。
だが、一体、誰が?
ノアたちか? 誰かが教えたのか? ――神が?
すでに遭遇した二つの恐怖も忘れ、おれは決して解答の出ぬ問いに没頭した。
「あれ、何かしら?」
ゆきが指さす方をみると、黒っぽい染みの広がる廊下の上に、巨大な骨の残骸が見えたりした。凄絶な闘いは船内の到るところで展開されたにちがいない。何かの拍子に、凶暴な肉食獣が鎖を切ったのだろうか。
小山のような糞の化石も散らばっていた。槍の穂先でつついてみると、骨片らしい品が出てきたので、肉食獣のものとわかった。ゆきがそばへやってきて、何これ? と撫でたり触ったりした。正体をばらそうかとも思ったが、殴り合いをはじめる元気はない。ゆきは、ふーん、ふーんと感心しながら粉末状のものがついた手をぱんぱんはたいて満足した。
おかしな話だが、これを見た刹那、空腹を覚えた。カクテル・パーティの会場を出てから何ひとつ口に入れていない。会場でもシュリンプを二匹ほど放り込んだだけで、ベリンダに誘われてしまったのだ。あれから六時間近く経過してる。胃の腑が文句を言うわけだ。
早いとこ、食うものを探さにゃ日干しになっちまう。
危機感が惻惻《そくそく》と身に迫ってきたとき、前方の壁に大きな窪みが見えた。
船倉への出入り口と大きさは変わらないが、位置は反対だし、奥行き一四、五メートルで行き止まりだ。
「何の部屋よ、ここ?」
ゆきがぼんやり尋ねた。ある想像を抱いて観察しはじめたおれの肩を強い力が引いた。リマだ。左手の壁を指さしている。おれはピン! ときた。逆らわず近づくと、取っ手状のものが突き出ている。
軽く握って動かすと、下へだけ曲がるようだ。本来は上へもひねれるらしい余裕はあるが、故障でもしているのか途中でひっかかる。
あの毛むくじゃらの手のことを考えると、下へ行くわけにはいかない。
そう思ったとき、廊下の奥で無数の気配が蠢いた。外へ出るな、と注意すべくふり向いたら、まさにゆきはつまらなそうな顔で廊下へ一歩踏み出すところだった。
うわ、と思ったがもう遅い。
人間とも獣ともつかないうなり声が、一斉に空気を揺するや、こちらへ向かって走るおびただしい足音が湧き上がった。きゃっと叫んでゆきが走り戻る。奴ら、探しに来たのだ。
こうなりゃ仕方がない。おれは取っ手を思いきり下へ押した。
む。
動かない。
あわてて両手を使ってみたが、かろうじて数ミリの手応えしかなかった。
身体中の血がすーっと引いていく。足音はますます近づいてくるばかりだ。ゆきはどうしたらいいのかわからず、おろおろと部屋じゅうを見回している。
おれは瞬間催眠に入った。一気に無念無想――全身の力を両腕に集中する。
毛むくじゃらの影が数個、出入り口から駆け込んできた瞬間、取っ手はガクンと下へおちた。
現在のエレベーターとちがうのは、ドアの閉まらないところと、猛スピードだった。
支えるロープが切れたんじゃないかと思ったほどだ。廊下の光景はたちまち上へふっとび、凄まじい音をたてて壁面が上昇していく。
駆け込んできた怪物どもが宙に浮いて見えた。それでも1Gの自由落下ほどではなかったらしく、三匹がぽとぽと床に着地する。数秒遅れて、頭から激しく床に叩きつけられた二匹は、ぎりぎりで跳び込んできた連中だろう。勇敢なのも考えものだ。
全身がくすぐったくなるような落下感に身を苛まれながら、おれはリマに槍を放るや奴らの方へ突進した。
一匹がゆきに抱きつき、二匹がこちらへ向かってくる。右手に骨か棍棒状の武器を握っていた。
身長一四〇センチ、全身剛毛に覆われた身体は二本足直立型のくせに異様に前屈みだ。知性のかけらもない猿面に、凶暴さと飢えに狂った瞳のかがやきを認めた刹那、おれは真正面の奴に手加減抜きの右前蹴りを放った。五センチの松板六枚をへし折るハンマーもどきの蹴りを腹に受け、そいつはぎゃっと叫んでのけぞった。
眼の隅を白い閃光がかすめる。もう一匹が横なぐりに振った武器を、おれは右上腕でブロックした。肉のついた部分で受けたつもりが、少しずれたらしく、肘近くにじん! と痺れが走る。
木の棒だ。
二撃目を放とうとふりかかったそいつの腹を銀色の光が貫いた。リマが槍を投げたのである。三メートルたらずの距離とはいえ、容易にできることではない。
感嘆する前に、おれはゆきとやり合ってる化け物のところへ駆け寄った。
そいつの鉤爪からゆきは必死で身をかわしていたが、おれが到着する寸前、ついに一撃を背に受けた。
びりっと嫌な音がして、凄まじい悲鳴があがる。南無三――おれは背を向けてるそいつの腰に右フックを叩きこみ、身を反らせるところを、左手で首を巻きざま足を刈り、床の上に叩きつけた。吐き気を催す臭いが鼻をつく。後頭部がガツンと喚いてそいつは静かになった。
「だ、大丈夫か!?」
駆け寄った途端、突きとばされた。
引き剥がされたドレスの向こうにペロリと白い艶めかしい背を露わにして、ゆきはいま倒したばかりの化け物に走り寄るや、両手を組みざま、渾身の力をこめて頭上からふりおろした。ぼこんぼこんと鈍い音をたてて激しい打撃がそいつの顔にあたる。
「このこのこの。せっかくあつらえたドレスを、ジヴァンシーを、このこのこの」
共同生活の長いおれもはじめてみる凄まじい連打だった。化け物の顔がたちまち朱に染まる。物欲の生む憎悪だ。女てのは恐ろしい。
「こら、もう、よせ」
なおも暴れるゆきを羽交い絞めにして引き放し、おれはリマに救いを求めた。
女丈夫が苦笑して、
「ニェト!」
訳のわからん言葉で一喝した途端、今までの凶暴さはどこへやら、ゆきはさっぱりした表情になって、
「なによ、この手は。さっきから人のおっぱいばかり揉んで――変態!」
言うなりさっさとリマの方へ行っちまった。
舌打ちする気も起こらず、おれは失神した化け物の傍らに屈み込んで、しげしげ観察してみた。
体形は猿そっくりだが、指の端から三センチものびた鋭い鉤爪は獰猛な肉食獣のそれだ。
聖書の記述が頭の中で甦った。
“又、諸々の生き物すべて[#「生き物すべて」に傍点]肉なる者をば――各々、其の二つを方舟にたずさえ入りて……”
生き物すべてとなれば、四○○万年前に生息していたとされるアウストラロピテクス・アファレンシス(アファル猿人)だの、八○○万年以前のラマピテクス・ルーフェンゲンシスだのが含まれてもおかしかない。人間が類人猿と分化したのは何百万年くらい前なのか、今でも議論は闘わされているが、とにもかくにも、こういう連中は猿と見まごうばかりの剛毛、前傾姿勢をとる半直立人種だったことは、全学者の意見が一致するところだ。なるほど、体形的にはその辺とも見える。意識的な武器の使い方といい絶対に猿ではあるまい。
しかし、猿人にしては脳容積が大きすぎるとおれは思った。
さほど詳しいわけじゃないが、記憶によれば猿人のそれは大体五〇〇〜七〇〇CC。最大八○○CCというのもいたが、これだと次の進化過程の立役者・原人に近くなる。ところが、いま眼の前で泡吹いてる奴らはどう見ても八○○以上、九〇〇CCはあるのだ。すると原人か? そういえば、顔にそこはかとなき知性の色を見ることもできるようだ。
だが、どちらにしても、ただひとつの身体的特徴が結論を妨げていた。全長五センチにも達する鉤爪である。肉食獣や猛禽類に特有のそれは、凶器にも等しい凶々しさでおれの眼を射た。道具を扱うにふさわしい五本指に、何故、凶具ともいうべき爪が備わっているのか。逆に言えば、これほど強力な身体武器を備えていれば、人工的な武器を考案し、使用する必要はなかったはずだ。
では、何故? ――使うよう強制処理を施されたのだ。誰かが猿人を改造し、爪と道具を生む知性を与えた。何のために? わからない。
謎はもうひとつあった。
方舟に積み込まれた生物はすべてひとつがい[#「つがい」に傍点]――おれたちの眼の前には五人もへたっている。
近親婚で増えたのだ、とおれは結論し、立ち上がった。立ち上がりかけて、身体は床に引きつけられた。
巨大な運搬エレベーターは、新たな世界に待ち受ける凶兆を示すがごとく、ゆっくりと、その急降下の足取りを緩めはじめたのである。
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第三章 牙を剥く船客たち
1
へばった猿人どもを観察しながら、おれの超感覚は、冷静に降下――落下といった方が適当だが――距離を算出していた。
驚いたね。ブレーキがかかりはじめるまで六〇〇メートルと出たぜ。こりゃ、聖書の記述の二、三〇倍なんてものじゃない。
当然、驚愕に立ちすくむべきだが、床の下から薄暗い空間がせり上がってくると、そうもいかなかった。身を隠したいところだが、エレベーター――というより昇降機だな――の正面一杯が出入り口になってちゃ、外から丸見えだ。壁にへばりつくくらいしか手はない。
幸い、待ち受ける鉤爪はなかった。
そこは船底――ないしは船底に近い部分のようだった。
光は薄闇に追われ、闇自体が圧倒的な密度で迫ってくる。整然たる組み合わせの壁は姿を消し、果てしない広がりだけがおれたちを迎えた。
「床ばっかりじゃない……」
ゆきがつぶやいた。
「こうしていても仕様がない。出るか」
「出てどうすんのよ?」
「わからんか。ここは船底――積み荷を置いてあるところだ。食料だってあるかもしれん」
ゆきは眼を輝かせた。いつの間にか、改造猿人の片割れが持ってた凶器――動物の大腿骨を右手に握っている。準備のいい女だ。
おれは血染めの槍を眺めてるリマにここへ来たことがあるかと聞いたが、返事は首の横振りだった。はっきりと脅えがわかる。出て行きたくなさそうだ。
闇は叱責と脅威に満ちていた。
それでも、行くしかない。自己催眠で力をふるったが、取っ手はとうとうどちらにも動かなかった。
おれを先頭に外へ出た。
光ばかりか、温度まで景気が悪い。ねっとりと湿り気を帯び、皮膚の表面に沙膜でも張るようだ。撫でれば水滴が付いてくるかもしれない。
おれは鼻を鳴らした。
腐敗臭に近い臭いが空気の成分を汚している。元凶を探ったが、茫漠たる広がりにおれの知覚は吸い込まれてしまい、見当もつかなかった。ここには何かしら異形《いぎょう》の気が漂っていた。
闇雲に広い空間を、おれたちは壁に沿って歩き出した。
二〇分ほど歩いて小さな孔の前に出た。こいつは人間の通り道らしい。
ようやく人間のための施設が現れたと、胸を撫でおろしたい気分だった。
暗い通路の数メートル向こうに光が見えた。
生き物の気配はない。
おれは背後の二人に尾いてこいと合図し、孔をくぐった。
通路の壁には燭台の跡があった。この船が波に乗ったとき――現代科学が、ノアの洪水における「世界」を聖書の作者にとっての世界、すなわち地中海の島々からエチオピア、南アラビア一帯にすぎなかったとし、あくまでも地域的な大洪水のみが起こったと認めた時点、紀元前二八○○年――のものだ。すなわち、イギリスの考古学者レオナード・ウーリーが、ノアの洪水の跡とされる洪水層を発見したメソポタミア=ウルの都の存在年代である。
それから五千年――永劫の嵐に翻弄されつつ漂う方舟の中で何が起こったのか?
黙念と壁を抜けた向こうに、度胆を抜くような光景が広がっていた。
おれたちが立っている床の延長は宙を走る高架道路で、それが前後左右へと網の目のように広がり、交差し、上下へとのびる隙間に、何とも巨大な装置が林立しているのだ。
その底部まで見下ろせば、高さ七、八○メートルは優にあるだろう。そのどれも、大きさの途轍もなさは共通しながらひとつとして同じ形のものがないという事実より、すべて木製であることが、おれの背に冷たいものを走らせた。
見上げれば、遙か頭上や果ても見えぬ船体の彼方から、無数の円筒や蔦が巨大装置のあちこちに連結し、細い通路が間を巡って、ここで生まれるエネルギーの茫大さを思わせた。
「どういう場所よ、ここは?……」
ゆきの声にも驚愕が含まれていた。ただし根っから明るい。装置を売りとばすか、見物人を集めて入場料をとる算段でもしているのだろう。羨ましい性格だ。
左方向で何やら動く気配があった。
音もなく、ずんぐりした形が猛スピードで迫ってくる。前の通路へ飛び出しかけたとき、それは、ぴたりと数メートル前で停止した。
運転席でリマが笑っている。
「なに、これ? ひょっとして自動車!?」
おれはうなずいた。これだけ広い船内だ。垂直移動用のエレベーターが備わっているのなら、水平方向には車かオートロードぐらいなきゃおかしい。とはいうものの、眼の前でみればやっぱり驚きだ。
運転できるのか、とおれはリマに訊いた。
「むかし、下でうごいてるのみた。他にもたくさんあった。ないしょでうごかしたの」
「大したもんだ。むかしてのはいつごろだ?」
「××バラク」
「わからん。下ってどこだ?」
「わたしたちのすんでるところの、ずっと下。床を四つくらいこえたわ」
「乗ってる奴がいたのか?」
「ええ。白いひげの年寄り」
「なんだ、そいつは?」
「わからない。だれにもきけなかった。下へおりたら罰せられる、でも、わたし、その年寄り、わたしたちの国の、ずっとさき[#「さき」に傍点]でみかけたことがある」
「ずっと先? どの辺だ、ときいてもわからんな」
「世界の果て。かべ[#「かべ」に傍点]の切れるところ」
舷側のことだろうか? いや、世界の果てという言葉を、もっと厳密にとっていいとすれば――
「舳先《へさき》か、艫《とも》か?」
「なに、それ?」
ゆきが訊いた。近頃の餓鬼ぁ、コンピューターだのワープロだのパンティの銘柄だのには詳しいくせに、人生を支える基礎的知識がめいっぱい不足している。
「船の先っちょとお尻の方だ」
「船首に船尾か――なあんだ」
「はやくのる[#「のる」に傍点]」とリマがせかした。「ここ、きらい。とてもよくないもの[#「もの」に傍点]がいる」
「なんてったのよ?」
「おまえの尻はとてもうまそうだとよ」
言った途端にとんできたローキックを鮮やかにかわし、おれはさっさと「車」に乗りこんだ。席は四つ。おれはリマの隣だ。車体は木づくりで、ドアも小さな木ねじでとめられている。椅子だけは藁を編んだものだったが、憤然と落としたゆきの尻の下で、びりりという音がした。五千年の歳月に耐えた細工も、でかいヒップには勝てなかったのだ。女は文明の破壊者である。
おれたちが乗ったのを確かめると、リマがダッシュボード(?)から突き出たV字型の棒を握り、どこへ行く? ときいた。
おれは先刻の出入り口から空中へ真っすぐ伸びている通路を指さした。方向感覚が確かなら、向こうが舳先だ。さっきの爺さんの話が妙にひっかかる。どうせ食料庫を探してうろつきまわるなら、人と出会う可能性の高い方がよかろう。
リマが棒――ハンドルを前へ倒すと、車はスムーズに走り出した。車輪は内蔵されてるらしく、外からは見えないが、まるっきり揺れも振動もない。エンジン音もガソリン臭もゼロ。カーきち[#「きち」に傍点]がみたら卒倒保証のメカだ。ダッシュボードにもアクセルやチョーク、ブレーキの類はまるでなし。すべてハンドルの操作で行うらしい。おれは舌を巻いた。
「ねえ、この車、どういう仕掛けで動くのよ?」とゆきがリア・シートできいた。「木製にしちゃ結構いい乗り心地じゃない。サスペンションなんかどうしてるのかしら? ひょっとして、でっかいネズミが担いで走ってるんじゃないの?」
そうかもしれん、とおれは本気で考えた。
「車」は地上数十メートルの高空に架けられた細い通路を、時速七○キロほどで突っ走っていた。耳もとで風が唸る。左右に柵を設けてあるとはいえ、下界は丸見えだから、高所恐怖症の奴は失神するだろう。
ふとダッシュボードの表面に、おれは二個の彫り物を認めて、眼を細めた。
文字らしきものがいくつか、横二列に並んでいる。
上のは、セム、と読めた。
もうひとつは、カミル。
最初のひとつはわかる。
旧約聖書・創世記第七章“此の日にノアとノアの子セム、ハム、ヤペテおよびノアの妻と其の子等の三人の妻もろともに方舟にいりぬ……”
多分、ノアの長子――セムだ。もうひとつは名も記されぬその妻にちがいない。
二つの名前を並んで掘ることの意味を、おれはぼんやり考えた。愛と憎しみ、絶望と希望、喜びと哀しみ……ナイフを握る手に彼らは何を込めたのだろうか。
車は天を圧する巨大な装置群の間を縫って進んだ。五千年の今も茫大な電力を供給しつづける発電機、想像を絶する数の動物たちに餌を与える給餌機構と排泄物処理装置――必要とされるものは幾つもある。
食料など、備蓄という遠回しな方法ではとても水が退くまでもつまい。あの円筒のひとつが、実は巨大な原子合成装置なのではあるまいか。
確かめたいと思ったが、その前に腹が鳴った。ゆきより先にこっちがまいりそうだ。
通路はゆるやかに下降し、壁の一角に吸い込まれた。
再び光景が変わった。
闇がさらに濃さを増し、壁を構成する松の木も、グロテスクなほどの巨大さを示しはじめていた。ふりあおぐ頭上にもビルくらいはありそうな梁が無造作に走り、空気にも凄愴な気が満ちている。
何かいる。それも極めて危険なものが。
おれは全神経を周囲に集中したが、明確な気配を感じ取ることはできなかった。
今は留守にしているらしいが、何ものかが恒常的にこの辺をうろついていることは確かだ。
ハンドルを握るリマの顔つきも厳しく変わっている。
本能的に、おれはかたわらの槍に眼をやった。一点の曇りもない金属の穂先が、おれの顔を映した。あの猿人にゃ血が流れてなかったっけ?
いきなり、鈍い衝撃が前方の曲がり角から伝わってきた。
リマがハンドルを手前に引き、急ブレーキをかける。何のショックもなしに車はぴたりと停止した。慣性消去。信じ難い技術だ。人間の科学は年々退化してるんじゃなかろうか。
曲がり角を回って、人影が現れた。後ろをふり返りふり返り、必死に走ってくる。白い髭に覆われた顔は、遠目にも明らかな恐怖の色に支配されていた。
「あれは!?」とリマが叫び――
「そいつか!?」とおれが喚いて――
「何て言ったのよォ〜」除け者がヒステリックに怒鳴った。
全員が見た。
老人ではなく――曲がり角から闇を押しのけ、地上五メートルの高みからおれたちをねめつけた全裸の大男を。
体形は人間そのもの、そればかりか、かなりの美形だ。
陽灼けした胸の筋肉は岩のように突き出し、はっきりとくびれた腹筋の瘤は、盛り上がった豪腕の肉よりも、そこに貯えた力の凄まじさを伝えている。
長髪と髭に覆われてはいても、その顔立ちは美しいとさえいえた。
限りない憎悪を湛えておれたちを見やる血走った眼さえなければ。
こいつだ! と、もうひとりのおれが頭の中で叫んだ。象の墓場でやりすごした恐怖の対象が、いま、全貌を現したのである。
立ち停まったのはほんの一瞬で、老人がおれたちの車に頭からとび込んだのを見るや、そいつは凄まじい怒号を放ち、右手に握ったこれまた桁はずれにでかい金属製の長剣らしきものをふりかざし、猛然と走り寄ってきた。
「早く逃げろ! 何をしておる!」
老人が古代アラブ語で叫んだ。
巨人はもう十メートル先に迫っている。あのスピードでは、方向転換している暇はなかった。リマの顔が恐怖に歪んだ。殺られる!
そう思ったとき、左右の景色が一気に前方へ流れた。
ぐおっ! と音をたてて、いままで車のあった空間を切り裂く銀色の閃光がみるみる遠ざかる。
リマは驚愕の瞳で、老人は感嘆の眼でおれを見つめた。いい気分、といいたいところだが、それどころじゃなかった。
間一髪、ハンドルを奪いとったおれは、そのままバックで車を発進させたのである。背後など見てるとスピードが出せない。辿ってきた道筋を記憶してるおれの超感覚が頼りだ。上体を横へのめらせた不自然な姿勢だがやむを得ない。
背中[#「背中」に傍点]でバックを、肉眼で前方の巨人を注視しながら時速一○○キロでふっとばすのは、我ながら身の毛もよだつ経験だった。
そいつが、前のめりの姿勢からすっくと起き上がり、巨体からは想像もできないスピードで追いかけてくるのを見てはなおさらだ。
「す、すごいわ」
とゆきがようやく世間並みの娘らしい感想を洩らした。
「すっごく大きい[#「大きい」に傍点]。りっぱあ[#「りっぱあ」に傍点]!」
おれは巨人の股間で揺れている長大な影に気がついた。このど淫乱娘!
巨人のスピードは想像を絶していた。
ぐんぐん差が縮まる。筋肉の構造が人間離れしているのだ。走るというより跳躍に等しい。
次のひと跳びで追いつかれると悟った刹那、おれは運を天にまかせることにした。
巨人の跳躍が大地を蹴るのを見届け、思いきりハンドルをプッシュする。
三人が悲鳴をあげた。
頭上に躍った巨人の両脚が雪崩れ落ちてくる。車の前へ、おれたちの頭上へ。そして、それが間一髪、わずか数十センチの距離をおいて車の彼方ヘ着地したとき、おれはハンドルを目いっぱい前方に押し倒し、巨大な通路を、巨人の出てきた反対方向へと曲がりかけていた。
広い廊下がどこまでもつづいている。
「追いかけてくるか!?」
「だいじょうぶ」
勇気づけるようなリマの声をきき、ようやく胸のつかえがとれた。
「おい、じいさん、何だ今のは?」
ゆきの隣にへたりこんで、ぜいぜい言ってる老人へ古代アラブ語で訊く。
「――しっぱいした。すべて。神よ、許したまえ」
顔同様、皺だらけの声であった。胸をおさえてうつむく。
「大ちゃん、変よ。心臓が悪いみたい。余計な質問しちゃ駄目」
珍しく、ゆきがあわてて老人の肩を抱いた。そっとシートの背にもたせかける。額に手をあて、
「ひどい熱よ。手当てしなきゃ」
「と言っても、薬もない。医務室はどこか、訊いてみろ」
「あたしじゃ言葉がわからないわよ」
「おい、リマ、出番だぞ」
リマは早口で問い、切れ切れに答える老人にうなずいた。
「すこしいく[#「いく」に傍点]。左にまがる。またすこしいって右。しょうこうき[#「しょうこうき」に傍点]ある」
昇降機――エレベーターのことか。
戦慄がおれを貫いた。
左前方の壁から息を呑む凶気が吹きつけてきたのだ。壁の内側から。
おれの眼はその出来事を一連の分解像として捉えた。
膨れ上がる壁。パラパラと崩れる瀝青《アスファルト》の破片。何の抵抗も示さず耐及点を越えて裂け出す横木。ぼんぼんと不気味な音をたててとび散る木屑が車体に降りかかる。後は一挙の崩壊であった。
くだけ散る横木とともにショルダー・ブロックの形でとび出してきた巨躯は、勢い余って、車の前方を走りすぎ、対面《といめん》の壁に激突した。おれは躊躇せず車を前進させた。
「さ、先回りしてたのね!?」
震え上がるゆきへ、
「しつこい野郎だ。おまえ、ちょっと降りて話をつけてこい。あれでも一応、男だ。胸と太腿を提供する気になれば、案外脆いかもしれん」
「ふーむ」
「馬鹿。真面目に考えるな!」
「大――くる[#「くる」に傍点]!」
リマの叫びを聞かずともわかっていた。
狂気のオーラがもろおれの後頭部を叩き、ぐんぐん熱を帯びてくる。何てしつこい野郎だ。
曲がり角が見えた。
この車の性能だけが命の綱だ。
「わっわっ、スピードがおちたじゃないのお!」
金切り声に、巨人の獣みたいな息づかいが重なったとき、おれはハンドルを目一杯押し倒した。
曲がり角が迫り、一気に右へ流れる。
次の瞬間、柔らかいものが壁にぶつかる吐き気を催す音。
誘いと気づかず全速で突進してきた大男のダメージはかなりのもののはずだ。一瞬の遅滞もなく発進停止が可能なこの車に、おれはすべてを賭けたのだ。
「どうだ? のびたか?」
前方に眼を据えたまま訊く。
「ええ。ひっくり返って――きゃっ、おお起き上がった!?」
おれは総毛だった。
「追いかけてくるう!」
どうやら坊主か神父が必要な形勢になってきたぞと思いながら、おれはもう一度、最後の可能性にすがる気になった。
前方七〇メートルほどに曲がり角。
とび込むと、すぐ右手にエレベーターのドアが三つ、口を開けている。いかんせん、かんじんの中身は消失し、暗い空間を、三抱えもありそうな木の蔦をよじりあわせたロープが縦に切り裂いていた。
「あそこにボタンがある。あれを押せ!」
おれはゆきにわめいて車を停止させた。ベルトにはさんだ残りの馬の肋骨《あばら》に手をかけながら立ち上がる。
リマも並んだ。
「どうする気だ?」
「わたし、先、投げる。つぎ、大――いいね?」
おれは神速でリマの計画を読み取った。お互い闘う者同士、たまにはこういうこともある。
「なあ」
とおれは肋骨をサイドスローにふりかぶった姿勢でリマに尋ねた。リマも槍の投擲姿勢をとっている。オリンピックに出したいくらい見事なスタイルだ。この娘は、生まれついての戦士に違いない。
「なに?」
「おまえがあんな目に遇うなんて信じられんよ。おまえの仲間は馬鹿揃いだ」
片言の言い回しでも理解できたのか、リマはにっこり笑った。
横手でかすかな音。ゆきが任務を果たしたのだ。
おれは眼を閉じた。精神統一の意味もあるが、奴の気配を正確に感じ取るためだ。眼で見ていては間に合わない。
凶気が迫ってくる。曲がり角まで十メートル、七メートル、五メートル……
三メートルまできたとき、リマが槍を放った。
正確に奴の鼻面をかすめねばならない。速度と遭遇点をおれは頭の中ではじき出した。
曲がる寸前、オーラのとびのく気配。かわした。
だが、――
鼓膜をつんざく絶叫に、おれは小躍りして眼を開いた。
全身を現した巨人は両眼を押さえていた。指の股から鮮血が噴き出し、たくましい胸や腹を染めていく。リマの槍はかわした巨人も、寸秒遅れて飛来するブーメランは避けられなかったのだ。あるいは、半円を描きつつ飛来するという常識はずれのアタックにとまどったのかもしれない。
「来たわよ――早く乗って!」
ゆきの叫びに、おれは夢中でハンドルを切った。
「きゃん! レバーが動かない!」
喉仏がせり上がってきた。
どこまで続く悪運だ!
おれはとび降り、ゆきを押しのけて取っ手をつかんだ。あっさり動いた。
「な、なんのつもりだ。この大事なときに――フーテン女!」
「ふん」とゆきはそっぽをむいた。「あんまりお姉さまとばかり仲良くして、あたしをないがしろにするからよ。以後、気をつけることね」
こん畜生と言いかけたとき、おれはエレベーターの速度がいやに遅いのに気がついた。
入り口で咆哮が轟き、リマの悲鳴がおれをふり向かせた。
悪夢は究極の形をとっていた。
あの巨人が、両眼を肋骨の先端に引き裂かれたはずの巨人が、満身血にまみれた無惨な姿もなんのその、半分ほど上昇したエレベーターの床に片膝をつき、左手を戸口の線にかけて、上昇を妨げているではないか。
どれほどのパワーを秘めているのか、戸口の空隙は徐々に広がりつつあった。
どうしてここがわかったんだ!――頭に閃く謎の解答は、すぐにやってきた。
つぶれたはずの左眼がかっと開いて、おれたちをねめつけたのだ。ブーメランの成果は右眼どまりだったのである。
全身の筋肉を緊張にわななかせ、憎悪を血と変えておれたちを見つめる巨人の面貌の凄まじさは、さしものおれを絶望にすくませた。
おしまいだ、という無意識の自覚が急激な脱力感と化して全身を駆け巡る。
眼の隅で車がバックしはじめた。一気に背後の壁まで下がり、風を巻き起こして巨人の膝小僧へとダッシュする。
リマがとび降りた。老人はそのままだ。無茶苦茶な!
衝撃波がおれを叩き、巨人は苦鳴の叫びを放った。ぐうっと間隙が狭まる。ぶつかった瞬聞、後部座席で老人がぴょんと跳ね上がるのが見えた。
巨人が剣を握った右手を床に突き、後方へ跳ねとんだ。廊下へ落下する轟きを、空隙を閉ざしたエレベーターが断ち切った。
2
リマも気になったが、おれは真っ先に老人へ駆け寄った。
半壊した車の座席にもたれている。抱きおこすと低く呻いた。全身打撲か。幸い骨折はないようだが、この年齢じゃ少しのショックでも応えるだろう。
異様に軽い身体をおれはそのままシートに横たえ、回復を待つことにした。車はぽしゃったが、いざとなりゃ背負っていけばいい。なにせ、今はこの老人だけが頼みの綱なのだ。
後部から激しい怒気が叩きつけてきた。
憤然たる形相でリマがおれをにらみつけている。
理由は簡単。床に倒れた彼女を放っといたからだ。どうやら、年寄りを労わるとかいう習慣とは縁のない世界の住人らしい。
「なぜ、わたしより、こいつを先にたすけた?」
ほら来た。
「おまえはおれと同じだ。強い。どこへいっても、誰の助けがなくてもひとりで生きてゆける。だが、年寄りはそうはいかねえんだ」
「自分のこと、自分でやれぬものはじゃま[#「じゃま」に傍点]」
リマはぞっとするほど冷たい声で言った。
「自分でしぬ[#「しぬ」に傍点]か、おいだされるか、ころされるか。ほおっておけばいい。なんなら、わたしが楽にしてやる」
おれは苦笑した。
「おれと一緒にいる間は、そんな真似させる訳にはいかん。おまえにもだ」
「大――わたしがきらいか?」
「いまのおまえはな」
「そうか」
リマの顔からあらゆる表情が消えた。背中がおれの方を向き、歩み去る。これまでのつながりを断ち切る強靱な意志がおれを拒否していた。
やむを得まい。
壁の一角にもたれて眼を閉じるリマのかたわらへゆきが近づいた。なにやら、べちゃくちゃやり、おれの方を指さすと、赤い舌を出した。これで二対一だ。
間もなくエレベーターは停まり――どこへ着いたか皆目わからんというのは困るなあ――おれたちは廊下へ出た。
今度の出入り口は妙に小さく、ひょっとしたらと思っていると、案の定、世間並みの廊下の両側に、小さなドアが幾つも並んでいる。
ノア一族――人間の居住区だ。
おれは老人を背負って外へ出た。やっとひと息つけそうだ。リマとゆきも後につづく。つづきはしても、以前とは比べものにならないくらい冷たい視線が背に刺さるのをおれは感じた。四面楚歌、獅子身中の虫だ。
左右へ走る廊下のどっちへいったらいいのかわからず突っ立っていると、背中で老人が動いた。
「どうだ、具合は?」
と訊くと、
「ほお」と感心したような声を出す。「あいつから逃げおおせたか。若いのに、なかなかやる[#「やる」に傍点]」
「賞めるより飯だ。どっかに食い物の置いてあるところはないか?」
「右へ行け、五つめのドアだ」
「ところで、降りたらどうだい?」
「う、ううう……」
実に都合のいい苦鳴と痙攣に、おれは天を仰いだ。仕様がねえ。万一、本物だったらことだ。
歩き出すとすぐ、うめき声は停まった。おれは老人の尻をつねったり、わざと左右に振ったりの嫌がらせをつづけたが、相手は蚊に刺されたほどにも感じないらしく、しっかりとおれにしがみついて離さなかった。まるで海じじいだ。
何にしても、男女ふたりずついて男同士、女同士のグループができるなど、とても真っとうとは思えない。リマのよく締まった尻の肉とゆきのバストを空想しながら、おれはそう思った。
廊下はしかし、惨々たる様相を呈していた。あちらこちらに鮮血らしい染みがこびりつき、何のものだかわからん白骨が散らばっている。蟹のハサミを連想させるものもあったが、これだと全長は三、四メートルになるな。ま、この船にはお似合いか。
進むうちに、過去、この廊下で生じた異常なる事態の残滓がおれの眼を引きつけた。
ドアというドアがすべて、外側から破壊されているのである。
何千年も前にここで繰り広げられた凄惨な闘いと死の臭いが時間を越えておれの鼻をついた。
五つ目のドアも破砕は免れていなかった。
かなり広い部屋だ。塵ひとつおちてない。そういえば、この船に上がって以来、埃に鼻をつまらせた覚えは皆無だ。よほど性能のいい防塵装置を使っているのだろう。そして、それは照明同様、五千年の歳月を越えて働きつづけている。
部屋の内部は暴風が荒れ狂ったかのようであった。テーブルと椅子が横倒しになっているが、かろうじてそれとわかるくらいで、ほぼ粉々である。壁にも深さ十センチはありそうな溝がえぐられ、白っぽい木肌がのぞいている。あの蟹がやったのか?
「さ、着いたぜ、どうする?」
おれはぐったりと背にもたれている爺さんを大きくゆすった。
「う、うむ……むむむ……」とひとしきり呻いてから、震える手で床の一点を指さした。
よく見ると、奥の壁ぎわの部分にうっすらと切れ目状の線が四角形を形づくっている。縦横一メートルほどだ。
「おい、リマ、開けてみろ」
言ってからしまったと思ったが、リマは不貞腐れるでもなく、秘密の蓋に近づき、点検しはじめた。おれに対する感情と生き残るための団体行動は別と、はっきり割り切っているのだ。男でもこうはいかない。惚れ惚れするような精神力だった。
少ししてこちらを向き、首をふった。
「おい、開かんとよ」
おれはまた海じじいをゆすった。
「開くわけない。鍵はわしがもっている」
「なら、なぜ教えねえ。図にのってると叩きおとすぞ」
「言おうとしたら女が動いた」
悪びれぬ口調に、おれはうなずいてしまった。あわてて、
「さっさと鍵を渡さねえか、この」
「うむ。では、あの壁にある赤い印の前へ立つがよい」
糞ったれと思ったが、言う通りにすると、老人はふんがふんがと何やら唱えはじめた。
最後のひと言が終わると床の蓋は音もなく上へせり上がった。木の梯子がかけてある。
「凄いわ。魔法の呪文ね。アリババと四○人の盗賊みたい!」
「ちがうな」とおれは壁の赤い点を指でさわりながら言った。直径三センチほどの円筒が埋め込まれ、その表面に赤い繊維を何枚も重ねたものが巻きつけてある。
「これは多分、隠しマイクだ。記録してある人物の音声をどこぞやの分析装置にかけてドアの開閉を行うんだ。いま流行の音声識別装置だ。ホーム・オートメーションの一環だな」
「ノアの方舟にどうしてそんなものがあるのよ? どっちにしても凄いじゃないの」
「まったくだ」
同意せざるを得なかった。
「こら、早く降りんかい」
老人がえらそうに喚き、おれは苦虫を噛みつぶしたような表情で梯子を降りはじめた。
全員が降りると、老人が何かいい、蓋は自動的に閉まった。
「内側からは、壁のスイッチで誰でも開けられる」と老人は言った。
下は一種の隠れ部屋、というより避難所らしかった。
二十畳ほどの空間に、藁のベッドや机がならんでいる。隅の方に大小の石の壺が無造作におかれ、これも様々な大きさの木箱とともにかなり広いスペースを占領していた。
荒っぽくベッドに投げ出すと老人は悲鳴をあげて身をくねらせた。芝居とは思うが、どうにも真に迫ってて、うっちゃっとくことができない。たちまち、ゆきが駆け寄って般若の形相でおれをにらみつけ、
「今度こんな真似したら殺してやるからね。この人でなし!」
おれはそっぽを向き、老人のものらしい机の方へ近づいた。
荒っぽい造りの木机だが、上に載ってる四角い箱は、ただものじゃなさそうだ。表面に小さな木製の取っ手と押しボタンがいくつもついてて、いじってみろと誘っている。
試しにボタンを押してみると、内側でカチカチと木片のぶつかるような音がした。
それきりだ。
「いけない。それ、こわれてる」
老人が言い、ゆきに壁ぎわの壺のひとつを指さした。
かなり大きなやつをえっちらおっちら運んでくると、老人は片手を突っこみ、長さ七、八センチの白っぽい虫みたいなものをつまみ上げた。
ゆきが後じさるのをにやりと見やり、口へ放りこむ。ぽりぽりとなかなかうまそうな音がして、喉仏が激しく動いた。
「なんだ、今のは?」
おれは嫌悪の情を隠さず訊いた。
「ミノダリだ」
口元を拭いながら言う。
おれの頭の中にある記憶がひらめいた。
古代メソポタミア・シュメール王朝に存在していたという肉虫だ。ミノダリアなる香木にのみ棲息するものを、孵化してすぐ蜂蜜に潰け、そこへ三○二種の薬草、九八種の鉱物を加え、神官のみが知る特殊な加工法をもって、白色透明の虫に変えたという。これを口にすれば、体内に生じるあらゆる病を予防撃滅できるとされ、王の直系だけがその幸に浴していたという。
一九八二年の六月に、シュメール第三王朝の遺跡から化石が発見され、大騒ぎになった。この先は機密だが、化石の中に一匹、生存していたものがおり、イスラエル軍当局の医学班が分析再生した結果、モルモットに生じた末期癌を二日で完治させる力を示したという。世間に知られたら、医学界ばかりか薬品業界をも根底から揺るがしかねぬ騒動を引き起こすだろう。一匹胃に収めるだけで、いかなる毒も効力を失うのだ。
思わず覗き込もうとするおれの眼の前から壺はさっと消えた。
「これ、わしのたからもの。見るな。へる[#「へる」に傍点]」
「わかった、わかった。誰もかっさらわねえから安心しろ。おまえさんの熱がそれで下がりゃ結構。ところで、おれたち用の食いものはねえか?」
老人は別の壺を指さした。
脱兎のごとくゆきが駆け寄り、軽々と抱えて戻る。
中を覗くと、何やら茶色をした肉の塊みたいなものがのたうっている。
「何だ、こりゃ? 生きてるんじゃねえのか?」
「むしって好きなだけ食うがいい」と老人はドアの真下に腕組みをして立つリマの肢体に助平ったらしい眼付きを注ぎながら言った。
人間、長生きすると食い物と色気にしか興味がなくなるというが、こいつもその例に洩れないらしい。もっとも、リマ相手に鼻の下をのばさない男は変態か不能者だ。
「やだ、気味が悪い」とゆきが言うのを、
「どうした、食わんのか? わしら[#「わしら」に傍点]はこれだけを食って生きのびてきた。こいつはへらん[#「へらん」に傍点]。いくらちぎってもしぜん[#「しぜん」に傍点]にふえる」
老人が嘲笑った。
古代中国の伝説に、眼を備えた肉塊――視肉なるものがあったと伝えられる。それは、幅十メートル、高さ三メートルほどの焦げ茶色をした生物で、その肉は滋味と栄養に富み、しかも視肉自体が天地の気と精を吸いとって増殖し、永劫に減らなかったという。古代中国でも伝説の王朝とされる殷の繁栄は、この視肉がもたらしたものだとする説もあるのだ。
こいつもその仲間だろうか。
ひょいと、おれの傍らから白い腕が壺中へ躍り、ひとつまみの肉片をつかんで戻った。引き裂く音はない。
ロへ運ぼうとするリマの手から、おれは強引にそれを奪い取った。
「何する――大?」
「おれが先だ」
男なら無理にでも食わせるが、女に毒味役をさせるわけにはいかんのよ。
おれは覚悟を決めて、一見うまそうな断片を口へ放りこんだ。いつでも吐き出せるよう胃と腸を整え、咀嚼をはじめる。意外と豊潤な肉汁が滲みでてきた。恐る恐る舌先で味わってみる。ぴりっともしない。それどころか、薫蒸肉などより百倍も美味だ。独り占めにしたくなるのを抑え、おれは呑みこんだ。
「あーん、頂戴よお」
とこういうときだけぶりっこ泣きをするゆきを尻目に、壺を抱えて離れる。
「このお!」
とびかかろうとするゆきをリマが片手で制した。この女にはおれの崇高な行為がわかっているのだ。
十秒、二十秒。何も起こらない。――どころか、皮と皮がひっつきそうだった胃は、みるみる満腹感で満たされたのである。中を覗く。リマがちぎった窪みは、すでに九分通り、やや薄茶の肉が再生しかかっていた。
「ほれ」
さし出した壺にとびつくゆきに目もくれず、おれはベッドの縁に腰をおろしている老人に近よって言った。
「さて、ゆるゆる事情をきかせてもらおうか。この船の正体、おたくの身元、下の怪物と巨人――その他もろもろだ。あんた、ノアの子孫かい?」
「なんだね、それは?」
「この船をつくった男の――その、孫か、ひい孫かときいてるんだ」
「ちがう」
重々しく首をふった。本当らしい。おれはリマを指さし、
「あの娘はおまえの仲間か? そうだとしたら、おまえはどうしてこんなところにひとりで隠れてる?」
「ふむ」と老人はリマの腰と太腿を遠慮なく跳めまわしながら言った。「同じかもしれない。この娘、わしの子孫かも」
「なにい?」
「わし、この船をつくったものの孫でもひい孫でもない。その当人」
茫然と見つめるおれの前で、その声音は五千年の歴史の風をまいて重く流れた。
「わしの名はノアという」
3
ノア。方舟をつくった男。
そう。聖書の記述によれば、方舟に入ったとき、ノアは六〇〇歳だった。六〇〇の歳《よわい》を重ねたものが、さらに五千年生きられぬという保証があるだろうか。
「我が妻リリス、長男セム、次男ハム、三男ヤペテ……みな、この部屋をでていった。新たなきぼう[#「きぼう」に傍点]、上に[#「上に」に傍点]もとめて、わし、とめられなかった……」
欲望ぎらぎらの人間臭さはどこへやら、沈痛な面持ちで語る白髪の老人は、聖書画家たちの絵に出てくる聖人の苦悩を全身にみなぎらせていた。
「何年も何百年も、船、走りつづけた。さいしょはすべてうまくいった。食りょうも水もくすりもたっぷりあった。どうぶつたちを大人しくさせるきかい[#「きかい」に傍点]もちゃんと動いていた。えさをちゃんとやり、排せつぶつのせわをすれば、どうぶつみなしずか」
だが、ある日、悲劇が起こった。発電機の回路――というしかあるまい――に故障が起こり、三昼夜にわたってあらゆる施設へ電力の供給が停止したのである。
凶暴な肉食獣を制御していた催眠機構の不能が、破滅の端緒を開いた。
暴竜ティラノサウルスを筆頭に、ケラトサウルス、アロサウルス等、凶暴な怪獣どもが船内を彷徨し、他の温和な生物たちを殺戮していったのである。掃討用の電磁網も巨大な石弓も、それを操作するエネルギーが供給されぬ以上、無用の長物でしかなかった。
さらに、逃亡した破壊者は、恐竜たちだけではなかった……
必死に修理を試み、三日後にようやく発電機は再始動させたものの、巨大な船に死の影は刻々と迫っていた。
血に飢えた狂獣たちに催眠装置は何の効力ももたず、おびただしい植物が暗黒に閉ざされたまま、肥料の供給も受けず枯死した。
死体から発する疫病は船内の隅々に広がり、その原因たる恐竜たちも次々と斃れていったのである。
そして、雨。
四〇日後には馥郁たる空気と陽光を約束したはずの神が、期限をすぎてなお自分たちを暗黒魔海のただ中に放置したと知ったとき、家族たちは絶望の縁に突き落とされたのである。加えて、船内で牙を剥く魔獣たちの足音は、着々と居住区へ近づきつつあった。
彼らを斃す武器は工作室でつくるしかなく、船底のそこは、凶獣たちに席捲されて久しかった。
成す術もなく、ノアと家族たちはこの地下室へ身を隠した。
「だが、子供たちは出ていった……地下での生活に……いやけがさして……」
「まあ、五千年も乗ってりゃ飽きもくるわな」
おれはこれが方舟だと知ってから感じていた最大の疑問をぶつけてみた。
「“我、四〇日四〇夜、地に雨ふらしめ、我造りたる万有《あらゆるもの》を地の面より拭い去らん……”なぜ今でも雨が降りつづいている? なぜ方舟は大洪水から逃れることができないんだ?」
「……それは……カラ……」
不意にノアの声は途切れた。
胸をおさえて前にのめる。
「いかん! ゆき、あの虫を一匹よこせ」
おれはノアの身体をそっとベッドに横たえた。いけしゃあしゃあとしている割には髭の隙間からのぞく肌が土気色なので、もしや、と思っていたのだが、やはりガタがきていたか。
大あわてでゆきが手渡したミノダリを受け取り、おれは、おや、と思った。こいつ、あんなに薄気味悪がってた虫を手で掴んだのか。
思ったより硬くて手触りのいいそれを口元へ押しつけると、ノアは首をふった。
「それ一日一匹……むねがくるしいのは、それのせい」
「副作用ってわけか。他に出来ることがあれば言ってくれ。何でもしてやる」
「すこし――休ませてほしい」
「わかった」
おれはうなずき、ぼろぼろの毛布をかぶせたノアの身体から離れた。
意外や意外の光景が眼の前に広がった。
ゆきが机のところからがたがたの椅子を引っぱってくるや、ノアのかたわらに置き、坐り込んだのである。
皺だらけの手を白い手がそっと握り、淡い光に照らされたその横顔は、祖父を想う年相応の娘のそれに変わっていた。これもゆきなのだった。
「大丈夫、ずっとあたし、そばにいる」ゆきは優しく言った。「絶対に死なせやしないから……お祖父ちゃん[#「お祖父ちゃん」に傍点]」
ようやくおれは、ノアの顔に世界最高のトレジャー・ハンターの面影を見た。
あたりを点検してくるかと梯子の方へ歩み寄るおれの前に、リマが立ち塞がった。
「どうする気、大?」
「どうするって?」
「あの男、足手まとい。放っておくか、始末すべき。あたしたち、他のところへいく」
おれは口元に苦笑が浮かぶのを感じた。
「他のところってどこだい?」
「この世界、とてもひろい。あたしたちふたりでくらせるところ、たくさんある。あなたがいれば、あたし、どこでも平気。なにがおこっても、あなたを守ってみせる」
「苦しいときの女頼みか」おれはリマにわからないよう日本語でつぶやいた。「八頭大もおちたもんだな。だが、礼をいうよ」
「いこう」
肩をつかむ手を、おれはそっともぎはなした。
「あのふたりを置いていくわけにはいかないよ。少なくともあの娘は、おまえより付き合いが長いんでな」
リマはじっとゆきを見つめた。その表情に危険なものを感じて、ひと言いおうとしたとき、リマが先に口を切った。
「あの娘が行くといえば行くか?」
「ひとつ断っとくぞ」
おれはリマがはっとするような、凄みの利いた声で言った。
「あの娘と爺さんに指一本でも触れてみろ。傷ひとつつけてみろ。おまえとは金輪際敵同士だ。どこへ逃げても追いかけて八つ裂きにしてくれる――わかったか?」
「……わかった……」
リマの声は上ずっていた。おれが本気になれば誰でもこうなる。
「……私、おまえと戦えない。言いつけは守る」
最後の言い方がどうも気になったが、病人のそばで、これ以上ガタガタしたくない。
梯子のところへ行く前に、おれは木箱の方へ歩み寄り、中身を点検した。案の定、最初のひとつに鋭い鉄製の剣や槍がおさめてあった。
リマとゆきにひとつずつ渡し、自分の分もとってから、おれは奇妙な品物を見つけて引っ張り出した。形としてはライフルに近いが、すべて木製で、銃身にあたる部分の先端がラッパみたいに広がっている。中を覗くと木肌がうるしでも塗ったような光沢をおび、銃口はなく、代わりに先を尖らせた鉄棒が一本突き出ていた。握りのすぐ前にむきだしの細い鉤みたいなものがつき、これが引き金らしかった。
面白い。おれは槍をすてて、それを持つことにした。
リマに尾いてくるよう命じて梯子に手をかけた。
「駄目よ、お姉さま連れてっちゃ」
いきなり、ゆきがリマの背にすがりついた。
「馬鹿。こいつはな――」
「何でも駄目。あんたがいなくなったら、あたしひとりで心細いじゃないの。おかしな猿とか、でっかいのぶら下げた巨人が入ってきたらどうするのさ。――でっかいのは、ま、いいけど」
「何がいいけど、だ。この処女喪失願望娘」
ののしったものの、この上、ゆきと言い合う気力はない。好きにしろと言い捨て、おれは壁の取っ手を引いて天井の蓋を開けた。
地下であたふたしてた頃より、気分は大分軽くなっていた。ノアさえ元気を回復すれば船の謎は解けるだろうし、猿人や巨人の正体もわかる。うまくいけば、この船をおんでる方法も掴めるかもしれない。
こう思いながら、梯子の半ばまで登ったとき、またも、奇妙な鳴き声がおれの耳をそばだてた。
遙か彼方で、いや、耳のそばできこえるともとれる不気味な声……あの船内の海で眠ったとき耳にした声だ。
「お祖父ちゃん!?」
ゆきの叫びにおれはふり向いた。
ノアは蒼白の上半身を起こしていた。血走った眼が恐怖と怒りをこめて空中をさまよう。
「ここだ……」
血管の浮きでた両手をあてもなく頭上へ突き出し、ノアは血を吐くような叫びを洩らした。
「……船は……ここだ。……おまえの巣は……早く……早く……戻ってこい……早く……」
そして彼は、ゆきの腕の中へ倒れ込んだ。
「どうだ、容態は!?」
梯子に宙ぶらりんで訊くのを、
「いいわけないでしょ、阿呆」とゆきがにらみつけた。「でも、大丈夫……ほら、もう眠ってるわ。何よ――今の声?」
「おれにもわからん。後は頼むぞ」
おれは言い捨て、梯子を登った。
船室を出て、精神集中を行っても、付近に怪しい気配は感じられなかった。当分、害はなさそうだ。食料も見つかったことだし、腰を落ち着けて様子を探るか。
くたくたに疲れた身体に鞭打って部屋という部屋をのぞいたが、ノアのものと大差はなかった。
ただ、夫婦の寝室だったらしく、ベッドはノアのものより大分大きかった。
背後で気配が動いた。
「リマか」とおれはふり向きもせず言った。
「そう」
リマは小さく答えて歩み寄った。背中に熱く柔らかいものが押しあてられた。頬だろう。
「やめとけ。妹分が淋しがるぞ」
離れようとしたおれを、リマの手が抱きすくめた。
火のように熱い唇と、決意を湛えた眼がすぐ前でわなないていた。
唇が重なった。リマのキスは情熱的だった。ちぎりとらんばかりの勢いでねじってくる。濡れた舌が強引に唇を割り、歯の前でためらい、躊躇した自分に怒り狂って襲う。わずかに開けた途端、表面と裏が歯先にこすりつけられるのも構わず侵入してきた。こっちから仕掛ける暇はなかった。おれの舌を絡めとり、翻弄し、吸いまくる。ぴちゃぴちゃいう音がおれの腰を熱く刺激した。
おれはかなりの力を入れてリマの唇から自分を解放した。
「疲れてると思ったが、案外元気だな。ひと眠りしたら仲間のところへ戻ったらどうだ?」
「わたし、もう戻れない――大、知ってるはず」
意地の悪い言い方をしたな、とおれはちょっぴり反省した。あのでかい釣り針に両手を縛られ、全裸で海の中へ落とされる――それだけで、リマの役目は明らかだった。
「はじめてきかれたとき、言わなかったけど、わたしの仲間、上にいるもの、みな飢えてる。みなでクジ[#「クジ」に傍点]を引き、わたしがあたった。わたし、海の中のものを釣り上げるえさ[#「えさ」に傍点]だった」
「成る程、生きのいいのが釣れただろうな」何を言っていいかわからず、おれは口からでまかせを並べたてた。「何にしろ、この船の中じゃ、仲間のところへ戻るか、おれたちと一緒に来るしかない。好きな方を選べ」
「もうきめた」とリマは欲情に眼を光らせながら言った。「どちらもえらばない。わたし、あなたとふたりで別のところへ行く」
「そうはいかんと言ってるだろう」
リマの手に力がこもり、おれはもう一度ディープ・キスを強要された。遊びや計算ずくならともかく、こういったひたむきなのは、おれが最も苦手とするタイプだ。処女の特徴である。人間、軽みがなくてはいけない。
「わたしを抱いて」
喘いでリマはおれを床に押し倒した。踏んばれば踏んばれたが、おれも決して嫌いな方ではない。リマは積極的だった。唇を熱く重ねたまま、おれのシャツのボタンをはずし、てのひらで肌を愛撫する。あっという間に、それはズボンの内側へ滑りこんだ。処女じゃなさそうだ。動かすのに邪魔とみたか、さっさと戻してベルトをはずしにかかる。
これで手間どった。扱いがわからないのだ。結ぶのをほどく知識しか頭にないらしい。
残念、と思ったら、わわぁ、ズボンの上からじかにこねくりはじめた。押し寄せる快楽に、おれは呻きを洩らしかけた。うすぐらい船室に、タキシードの上だけをつけた野生の美女と重なり合っている。これで、冷静沈着なんて奴は男じゃない。
やられっぱなしは性に合わず、おれはリマの腰に手をあてた。おや、確か肉片を入れといたはずだが、空っぽだ。ま、後で考えりゃいい。おれは手に力を込め、ぐいとリマを下に組み敷いた。
右手を太腿に沿ってのばし、タキシードの裾をめくり上げる。豊かなヒップの肉は熱を帯び、おれの手に灼きついた。
「ああ……大……早く……」
喘ぎと舌の誘いに、ひき締まった腰から腿の内側へと手をさしのべる。女の最も感じ易い部分はおれの指を溶かすほど熱く、じっとりと濡れていた。
リマの身体を痙攣が貫いた。
それが急に停まった。おれが跳ね起きたせいである。
うっとりした表情が瞬時に女戦士のそれに変わる。槍を構えて部屋の隅へ跳んだ。
何かが廊下をやってくる。
足音は消しているが、気配は隠しようもない。二つだ。
おれはラッパ銃の引き金(?)に指をかけ、入り口脇の壁に張りついた。瞬間精神統一――無の状態に入る。
かなり近づいても足音はきこえてこなかった。吸音ブーツをはいてもなかなかこうはいかない。訓練を積んだプロだろう。あの、五・五六ミリ野郎とその仲間だ。どこかでおれたちを見かけたか、来るならここだと見当をつけたかだ。
ドアの内側を覗く気配が伝わってきた。ひとつがふっと薄まり、片方が停止する。ひとりが室内点検、もうひとりが外でガードしているのだ。となると――
おれはリマにある合図をした。何のためらいもなく、うなずいて従う。女たる武器の使い方を十分に心得た女だ。世が世なら最上のパートナーになれたろう。
後は待つだけでよかった。
二分ほどでやってきた。
影のひとつが戸口を横切り、両脇の壁につく。
おれがへばりついた反対側の壁から、小汚い髭面が覗いた。おれと眼が合う。ひょいとひっこんだ。
すぐに反対側からもうひとつ現れ、こちらはすぐにとまった。緊張が走る。奴の視界ぎりぎりの部屋の隅に、リマを見つけたのだ。むき出しの乳房を悩ましく片手で隠し、豊満なヒップの膨らみを大きく自分の方に向けた煽情極まりない淫らな肉体を。
警戒も忘れておれの前に立つ。まだだ。おい、と言いながら、もうひとりも入ってくる。
モス・グリーンの迷彩服にジャングル・ブーツ。銃は前の奴がイスラエル製ウージー・サブマシンガンだ。口径九ミリ。ピストル型グリップの下から三○連ロングマガジンがのびている。後ろの奴はスタイルからしてソビエト製AK47か、イスラエルのガリル・ライフル――三○連バナナ弾倉のカーブが異彩を放っている。右腰のホルスターに大型リヴォルバーのグリップが収まっているのをみると、軍人じゃなさそうだ。どちらも一メートル八○を越す巨漢で、肩幅はおれよりひと回り大きい。
「なんだ、この女は――?」
前の奴がつぶやいた。英語だ。濁った声が性格を表している。
「上の奴らの仲間か――」
「多分な」ともうひとりが言った。そこで、ようやく気づいた。愕然と背後を振り返る――と思いきや、わずかに上体を傾けただけで右足が電光のように後ろへのびた。
凄まじい後ろ蹴りにぞくりとしながら、おれはそいつの首筋にラッパ銃の銃床を叩きつけた。がくんと首をはね上げ、崩折れる。その身体が、ふり向きかけたもうひとりにぶつかり、AK47の移動を妨げた。
おれは巨人の要領で二人まとめてショルダー・ブロックをかけた。手応えはあったが、前の奴はからくも後方へ跳んで避けた。体勢を整え、九ミリの銃口をおれに向ける。おれは動かなかった。火を吐くはずの銃口はだしぬけに下を向き、男の身体とともに床に落ちた。
男の胸から槍の穂先を引き抜くリマに、おれはため息をついた。生かして捕虜にするなどという姑息な手段は通用しない生活を送っていたのだろうが、これはやりすぎだ。
「どうした――わたし、悪いことしたか?」
おれは首をふった。
「注意しないのが悪かった。だから、はっきり言っとく。これから、殺さなくても済みそうだと思ったらなるべく助けてやれ」
「助ける? 敵をか? どうやって助ける?」
素朴かつ難解無比な質問だった。その通りだ。武器をもって迫る大男を、戦い慣れているとはいえ、ナイフ一本の小娘がどうやって殺さずに勝利を得る? おれは沈黙した。
「わたしが殺すと大、こまるのか? なら、もうしない。なんとか助けてみる」
「いいんだ。忘れてくれ」
おれはあっさりと前言を撤回した。
そう思ってみると、リマの腕は見事のひと言につきた。鮮やかに心臓を貫いてる。
おれは男の拳銃をベルトごと腰につけ、ウージーも奪った。予備弾倉はない。ズボンのポケットに、ニッケル鍍金《めっき》の四四マグナム弾が十二、三発はいっていたのを失敬し、ジャングル・ブーツの脇についてるケースから幅広の野戦用ナイフも抜いてベルトにはさむ。場合によっちゃ、銃よりも役に立つ便利な武器だ。ライフルでは獲物の解体ができない。拳銃はSW―M29。ダーティ・ハリー愛用の四四マグナム――地上最強の拳銃である。
あと、ジッポのライターと凸レンズがひとつずつ。レンズはライターが切れたとき太陽光で火を起こすためだ。これほど役に立たない場所はあるまい。身分を示すものは何もなかった。
もうひとりの奴が呻いて正気に戻ったとき、男のガリル・ライフルも二個の予備弾倉とナイフもろともおれの手に渡っていた。
おれとリマを認めて起き上がりかけ、恐怖の表情を浮かべてとまった。喉元に血まみれの槍の穂先がつきつけられている。かたわらに眼をやり、同僚の屍体に気づいた。ライフル以上に効果のある小道具だ。
「何者だ、貴様らは? どこに隠れてやがった?」
昏《くら》い声で訊く。
「誰でもいい。質問はこっちがする。貴様、オハラの仲間か?[#「オハラの仲間か?」に傍点]」
男の眼が今度こそ驚愕に剥き出された。
「何故、隊長の名前を――? 貴様ら、何者だ?」しげしげとおれとリマを見つめ、「東洋人のふたり組――鷹の爪か?」
「質問するのはこっちと言ったはずだぜ。残念ながらアラブのトレジャー・ハンター・コンビじゃねえよ。八頭ってもんだ」
男はハンマーで頭を一撃されたような表情になった。
「ま、まさか……ト、トリプルGが……貴様も乗り込んでたのか?……」
「つい、半日前にな。おまえらがカサブランカを発ってから三年と半年ぶりだ。旧交をあたためてる暇はねえ。オハラは何処だ?」
「待ってくれ。ものは相談だ。なにもいがみ合うこたなかろう。な、このままじゃ話もできねえ。立って喋らせてくれよ」
「喋らせてやるよ。こっちのききたいことをきいたらな」
おれは冷たく言った。
男の喉仏が動いた。おれの口調と顔から拷問も辞さぬと読んだのだ。
「オハラは……この下の、巨大哺乳類の食料倉庫にいる」
「ひとりか?」
「あとひとり――奴の弟だ」
「切り裂きジム《ジム・ザ・リッパー》か」
「そうとも。――おめえ、あいつを傷つけたな。首の後ろだ」
五・五六ミリはオハラの弟だったのか。道理で射撃はからきしだったわけだ。
「奴ぁかんかんだぜ。なにせ、半分は気狂いだ。撃たれるならともかく、刃物で傷つけられるのは我慢ならねえのさ。絶対に仇を討つと喚いて暴れるもんで、押さえつけるのに三人掛かりだ。オハラは右手首を斬られる始末よ。せいぜい、気いつけるこったな――UGH!」
銃床でへし折られた前歯を、男は血と涙と一緒に床へ吐き捨てた。憎まれ口をきいた罰だ。
「歯がなくても口はきけるだろう。――おまえら、どうしてここへ来た。おれたちがいると思ったのか、それとも、どこかで見かけたか?」
「わからねえ」男はおどおどした眼付きで言った。口の中は真っ赤だ。「オハラの命令だ。とにかく居住区をひとつひとつあたれ[#「あたれ」に傍点]と。もう何百回となく繰り返したんだが……」
不安がおれを立たせた。
男の胸倉を掴んで起こし、リマに外で見張れと命じる。
「大はどうする?」
おれは答えず、Yシャツの裾に手をかけた。
二分ほど遅れて部屋を出、ノアの船室へ戻った。
地下室の蓋は開いていた。
足音は忍ばせたつもりだが、蓋のそばまでいくと、野太い声が呼びかけた。
「よく来たな、ミスター・八頭。まあ、入んな。もうひとりの女もな」
わずかに遅れて、
「だ、だいちゃあん〜」
義理ではなく、心底脅え切ったようなゆきの悲鳴が噴き上がってきた。
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第四章 闇を翔(と)ぶもの
1
こうなるとお手上げだ。おれはウージーを構えたまま、梯子を降りた。男とリマが後につづく。
ベッドの傍らに、新しい住人がふたり増えていた。
ごついボルト・アクション・ライフルを構えた迷彩服の巨漢と、同じ格好の青白い痩っぽちだ。巨漢は椅子にかけている。
オハラと弟のジムだろう。
ゆきはジムの前に立っていた。片手で髪の毛を掴んであお向けにされ、白い首筋に光りものがあてられている。ナイフではなく解剖刀《スカルペル》なのが、持ち主の暗い性格を表していた。
斬り裂きジム――噂では七〇人以上をメスで刺殺した記録保持者《レコード・ホルダー》である。兄貴の方は、街なかであろうと国宝陳列館内であろうと、四六〇ウェザビー――史上最強のエレファント・ガン――をぶっぱなし、負けじと八○人少しを肉塊に変えてきた狂人だ。およそ、これ以上好もしからざる同居人はあるまい。どちらも髭と垢に埋まり、眼ばかりがギラギラかがやいてる。
「さ、武器を捨てな」
オハラが重い声で命じた。
「人質の数は同じだ」とおれは切り返した。「そっちは小娘だがこっちは大の男――戦力からみて、価値は大分違うと思うがね」
「価値なんざ相対的なもんだぜ」とオハラは薄笑いを浮かベて言った。「この小娘、おめえにとっちゃどれほどの意味があるかしれねえが、おれたちにゃただの肉と骨だ。そっちの――ウィルってんだが――も、おめえにとればそうだろう。ちがうのは、おれたちにも同じだってことさ」
おれにもそれはわかっていた。オハラの声をきいたときから、男――ウィルは蝋人形みたいな色に変わっていたのだ。
「兄貴、まどろっこしいことはやめようぜ」
隣で殺人狂が陰気な情熱のこもった声をあげた。
「早く斬らせてくれよ……久しぶりに見つけた女の身体《ボディ》じゃねえか……斬っていいんだろ、ひと思いにやりゃしねえ、少しずつだよ……。少しずつ、時間をかけてやるからよ……もう、化け物や土人の肉なんざ真っ平だ……」
脅しじゃなかった。言葉のひとつひとつが粘つき、唇の端に光る唾の珠が不気味だ。すわった眼が妙に冷え冷えとして、そのくせ陰火のごとき炎が燃えている。狂人の特徴だ。
解剖刀を握った手をゆきの乳房まで滑らせ、ゆっくりと揉みはじめた。ドレスと肉球に指が食い込み、ゆきは悲鳴をあげて身をよじった。
「どうする。久し振りのいい女を見て、弟は狂いかけてる。あと三○秒もすりゃ、おれでも止められねえ」
最後通牒だった。
「わかったよ」
おれはガリル・ライフルの銃口を下ろした。
リマに男を解放しろと命じる。渋ったが、怖い顔をしてみせると、なんとか従った。
ウィルは身をふりほどくようにして、おれのそばに立った。おれに奪われたコルト・パイソン三五七マグナムをガンベルトごと肩からはずして、自分の腰に巻き、おれを武装解除するや、
「この餓鬼」
叫びざま猛烈なバック・ハンドをかける。おれはひょいとかわして、バランスを崩したウィルの足を軽くはらった。自分の勢いで床につんのめる。こんな三下に黙って殴られるいわれはないし、あとの二人の不興を買うこともあるまいと計算済みだ。
思った通り、満面を朱に変えて立ち上がったウィルを、「下がってろ」とオハラが制した。「ジムと交代して娘を見張れ。――ジム、手を出すなよ」
兄貴の命令に従う理性は残っていたらしく、殺人狂はあっさりゆきの胸からナイフを離した。かわって、リマへ狂気の視線を注ぐ。タキシードの上だけをつけた半裸の美女。ゆき以上に、変質者の淫虐心をそそる対象にちがいない。安堵の息をつくゆきを羽交い締めにしたまま、
「あっちの女はどうだい、兄貴?」
「いかん。我慢しろ。もっとも、話のつき方次第だがな。かけなよ、ミスター・八頭」
「その前に。――爺さんにおかしな真似しちゃいねえだろうな」
「安心しな。今にもぽっくりいきそうな年寄りにゃ、おれもジムも興味はねえ」
おれは無言でノアに近寄って、奴の言葉が嘘ではないことを確かめた。
「どうやって、この隠し部屋に気づいた?」
と訊く。
「何の事あねえ。三年まえにこの船に乗り込んでから、幾度か会ってるのさ。そのたびに逃げられたが、二回ほどこの居住区でまかれてな。で、どっかに秘密のアジトがあるとにらんでたんだが、今日、ジムがおめえらとでくわしたというじゃねえか。となると、居住区へやってくるに違いねえ。そこで、張り込んでたのよ。おめえにゃ、近くに隠れてる人間を見つける奇妙な力があるらしいから、はずれの方にな。そしたら、エレベーターからのこのこ降りて、この上[#「この上」に傍点]へ入りやがった。後はご承知の通りさ」
「おれとリマが脱けだしたのを見て、あの二人を尖兵に出し、その隙に、というわけか。扉は閉めておいたはずだぜ、よく、ゆきを騙せたもんだな」
オハラはにやりと笑って弟の方へ眼をやった。
「よく、ゆきを騙せたもんだな」
おれは自分の声を聞いた。
「相手を斬り裂く以外、こいつの唯一の特技でな。一度きいた他人の声の発音も特徴もすっかり再現できる。声紋分析にかけても区別はできんだろうさ。勝手に下へ出掛けたのはまずいが、おめえの声を耳にしといたのは上出来だった」
軽く肩をすくめながら、おれはオハラの自慢たらたらな響きを聞き逃さなかった。不肖の弟ほど可愛いらしい。この商売で情けをかける対象を持つのは致命的な欠点につながるんだがね。
今のおれのように。
「なるほどな。気狂いにも取り柄はあるもんだ」とおれは日本語で言った。すぐ英語で「さ、話てのをきこうじゃねえか。言い終わったら、すぐ出てってもらうからな」
「単純なことさ」とオハラは四六〇ウェザビーの銃口をおれではなくリマに向けながら言った。
「上がったばかりのところを申し訳ねえが、もう一度、船の最下層まで戻ってな、ある物《ブツ》を持ってきて欲しいんだ。あの化け物巨人が隠してるお宝をよ」
オハラのフル・ネームは、パイグッドリー・オハラ・サルコフ。ロシア系とも言われるが、真相は不明だ。
ITHA《インターナショナル・トレジャー・ハンターズ・アソシエーション》不加入の宝探し屋だが、弟と組んでの手段を選ばぬ冷酷残忍なやり口は、ここ十数年来、ITHA総局の論議の的であり、たとえ非加入者といえど、トレジャー・ハンターを正業とする限り、強硬処置もやむを得ずとの意見も百出していたものの、宝探し《トレジャー・ハント》における自由競争の原則を第一義とするITHAでは手を下しかねるのが現状であった。
マリー・セレスト号の航海日誌削除部分を狙ったとされる、英ロイド保険会社本部爆破事件は、居合わせた市民を含む八名の死者を出し、フィジー島では、古代島民の埋蔵金を巡って別派のハンターたちと争い五名を殺した。――以上彼らの犯行とされるITHA公認レコードで、この他、表沙汰にならぬ殺人を含めれば、死者の数は優に二百人を越すという。
三年まえ、この船[#「この船」に傍点]へ乗り込むとカサブランカの飛行場を六人乗り輸送機で出発したのが最後で、以後消息が途絶えていたが、とんだところで巡り合ったものだ。
ついでに、とんでもない要求をしやがった。
「うまいこと上甲板に着陸したのはいいが、この雨と風だ。車輪が滑ってすっころんじまってよ、なんとか這い出したら、土人どもが襲ってきやがった。何人かぶち殺して下へ逃げたら、訳のわからねえ化け物がうようよしてやがる。まったく、えらい目に遇ったぜ」
「おまえらの苦労話をきいてもはじまらねえ」おれはオハラの長くなりそうな話を途中でやめさせた。「とっとと、おれが船底へもぐらにゃならん事情を説明しな。宝物てな何だい?」
オハラはケケケと笑って、足元の壺の中から肉片をひきちぎり口に運んだ。ゆきがばらしたらしい。くちゃくちゃ口を動かしながら、
「修理道具一式」
「なんだあ!?」
おれの大声に、ウィルがガリルの銃口を向け、ジムがゆきの喉へまた解剖刀を突きつけた。
「やめてよ、もう、変な声出さないで! あたしが斬られたらどうする気、この馬鹿!」
「ほうれ、恋人がお嘆きだぜ」
オハラはせせら笑った。
「つまりだな。おれたちはもうこの船から引き揚げてえんだ。ところがおめえ、乗ってきた飛行機は滑って転んで、今も上甲板に置きっぱなしよ。といっても、ぶつかったショックでエンジンのオイル・パイプが切れたくれえで、道具さえありゃいくらでも修理がきく」
とりあえず修理にとりかかろうとしたところで、オハラのいう土人たちが襲いかかり、全員、修理道具と当座の武器、弾薬、食料を抱えたまま、船内へ退避した。ところが、数日後、巨人のねぐらと思われる船底で襲われた際、かんじんの修理道具を置き忘れてきたのだという。
何回か危険をおかして取りに戻ったものの、どこかへ隠したのか、影も形も見当たらず、ひとりが例の長剣で真っぷたつにされて以来、奪還の試みは中断したきりだ。
「取ってきてさえくれりゃ、おめえらも一緒に乗せてってやるぜ。その格好じゃ、好きこのんでやって来たんじゃあるまい。こんな幽霊船はさっさと離れるに限る」
「そうよ、大ちゃん――大賛成! 行って!」
秒単位で敵と味方の変化する女が叫んだ。
おれはじろりとにらみつけてから訊いた。
「なぜ自分でいかん? そんなことにおれを使うより、いま殺《ばら》しといた方が得策だぜ。そこの走り使いにきいてみな」
「抜かしやがったな」
ウィルは歯のない口でわめいた。ガリルの小さな銃口がおれの胸に向く。距離は四メートル。おれはウィルに目もくれず、オハラの四六○ウェザビーだけに注目していた。
「残念ながらそうはいかねえんだ。片づけたいのは山々だけどよ。もっとも、死にたきゃそれでもいいんだぜ。ここで、嫌だといいな。おめえがくたばった後で、女どもぁたっぷり可愛がってやる。どっちも涎のたれそうな肉体《からだ》だ。ひとり三回はできそうだぜ」
オハラの眼はリマに注がれた。
「そこの女《あま》――甲板の土人の仲間だな。特別念入りに礼をしてやるぜ。前からも後ろからもぶち込んだ後で一寸刻み五分刻みだ。いいのかい?」
「修理道具を持って帰るのはいいが、飛行機が無事だって保証はあるのか? 三年前の話だぜ」
「安心しな。土人どもがちゃんと保管してるさ。幌で覆ってあるから、あの雨にも十分耐えられる。それは確認済みだ」
「わかったよ」とおれは両手で万才の真似をしてみせた。「その代わり、おれたちも連れてけ――約束だぞ」
「いいともよ」オハラは破顔した。毒蛇と熊の合いの子も人並みに笑うらしい。
「ただし、必要な武器と装備はもらっていくぞ。どうせ人質をとるんだ、おれは逆らえっこない。いいだろう?」
「好きにしな。おりゃ、気前がいいんで評判なんだ」
「もうひとつ。助手を連れてく。人質二人はいらんだろうからな。その娘だ」
ゆきが眼を丸くした。次の瞬間、ナイフを突きつけられているのも忘れて、
「この裏切りもの! あたしを放っといて、お姉さまと。いつから出来てたの!?」
「ふむ。ま、いいだろう。いちばんやり易いやり方でやるさ」オハラは別に反対しなかった。
「こっちにゃ人質が二人もいる。だがな、そのままはいかせねえ。おれたちがやることはやると、胆に銘じといてもらおう。――ウィル、その女を犯せ」
「よさねえか。仕事を断るぞ!」
「二人ともやられてえのかよ?」
ゆきが悲鳴をあげた。また髪の毛をひっ掴まれ、首筋に解剖刀をあてられたのだ。まずい。
ウィルが舌なめずりしながら、突っ立ったままのリマへ近づいた。リマはじろりと見たきり身じろぎもしない。ウィルの汚らわしい意図はわかっているはずなのに、脅えの色はゼロだ。
ウィルが胸もとから手をさしこみ、豊かな果肉を掴んだ。
リマの顔が歪んだ。
「どうだ、え、気持ちいいか――いいだろ?」
ウィルはくぐもった声でいった。前歯がないせいで、妙なイントネーションになる。
「じき、よがり声をあげさせてやるぜ。畜生、久しぶりの女だ。五回でも十回でも可愛がってやる。――兄貴、上へいってもいいかい?」
「構わんが気をつけろ。只の女じゃねえ。それから、あの声はおれたちにきかせるんだ」
「いいともよ」
ウィルの笑いは欲情の炎に染まっていた。
ガリルを突きつけて、上へいけとリマを促す。リマは従った。その無表情さからは何を考えているのか、判断しかねる。
「我慢しな。あの女の泣き声さえききゃ、こっちの娘も逃げ出そうなんて思うまい」
オハラがウィンクして言った。
「やめて。お姉さまに何すんの」
ゆきが喚いたが、日本語のわからないオハラたちには通じない。
二人は階上へ消えた。
すぐ、床に倒れるような音が響き、ウィルのくぐもった声がきこえてきた。
「さ、いくぜ。死にたくなけりゃ、精いっぱい、あの声をあげるんだ。遠慮するこたあねえ」
阿呆、ノアの子孫に英語がわかるものか。白い女体にのしかかる垢だらけの身体をおれは想像できた。ごつい手がボリュームたっぷりな乳房を揉み、舌が首筋を這う。
わざとらしい舌鼓にまじって、熱い呻きがきこえはじめた。リマが応じているのだ。
「ほう、なかなか話がわかるじゃねえか、ほら、もっとこっちの脚を上げなよ――そうだ。いい具合だぜ。……手は――ここだ。……う、いける。おめえ、馴れてるな……」
突然、その声が苦悶と驚愕に彩られた。
「お、おい、何を――AIEEEE!」
激しい物音がつづき、ぴたっとやんだ。
「動くな! ジム、見て来い――女はこっちだ」
オハラの叫びに、ジムはゆきを兄に押しつけ、ベッドにたてかけたガリル自動小銃をとるや、梯子に向かった。
「相手を間違えたな」おれは思ったより落ち着いてるオハラにしみじみとした声で言った。「あの娘ひとりで、ウィル三人分の働きはするぜ」
「ああ。そうらしいな」
オハラは素直に認めた。負け惜しみではなく、ウィルをそれほど惜しいとは思っていないのだ。心理的ダメージは少ないな、こりゃ。
「やられたよ、兄貴」とジムが昇降口から顔を出して言った。「舌を食いちぎられ、キンタマも握りつぶされてる。お釈迦《アーメン》だ。女はいねえ」
「足手まといが減ったと思やいい。だが、女を逃がしたのはまずかった。仲間をつれてここへ来るかもしれん。場所替えだな」
「その爺いも連れていくぞ――ミスター・八頭、背負っていきな」
オハラは椅子から巨体を起こした。
「わかったかい。おめえに行ってもらわにゃならん理由がよ。あの女の仲間にやられたんだ」
「ああ。大分前からな。たまにゃ、椅子から立つもんだぜ」
オハラはびっこをひいていた。
2
おれはノアを背負い、残り三名と部屋を出た。ミノダリと肉の壺はゆきが抱え、後ろにはオハラとジムがつく。オハラの足を考慮すれば不意討ちも可能だが、ちゃんと飛びかかる距離を計算に入れてついてくるし、ライフルは二丁ともゆきを狙っているという念の入れ方だ。
「引っ越しの当てはあるのかい?」
おれは廊下を出たところで訊いてみた。
「ああ。おれたちのアジトへいく。いちばん安心だからな」
ラッパ銃を担いだオハラが言った。ただのガラクタとみて捨ててしまわないのが、この突拍子もない船で三年も過ごした男の数奇な体験を表していた。
「上の連中、相当手強いのかい?」
「ああ。ざっと四、五百人もいてな。かなり進んだ命令系統をもってやがる。火器はねえが、槍や弓、それと吹き矢を使うぜ」
危ないな、とおれは思った。槍や弓ならよほどの至近距離でもない限り、風を切る音でかわす自信があるが、吹き矢はそうはいかない。拳銃に対するガス銃みたいなもので、音もなく飛来する凶器だ。眼でも狙われたらたまったもんじゃないし、毒が塗ってあれば、凶器に必殺の二文字がつく。
エレベーターのところにつくまで、おれたちは前後左右に気を配りながら、ゆきやジムにもききとれぬ低い声で話した。トレジャー・ハンターのベテランだけが可能な隠密会話である。腐ってはいても、オハラは鮫にちがいなかった。
上の――ノアの子供たちの子孫どもだろう――連中は甲板上の掘っ立て小屋に住み、ノアと同じ肉を食っているが、時折、栄養の補充のためか、甲板からばかでかい釣り針をおろして、海中の魚らしきものを釣り上げるという。らしきというのは、針にかかり、甲板上で暴れる獲物が、大きさといい形といい、とてもおれたちの常識的尺度では測れないようなものばかりだからだ。
方舟ばかりか、それを取り巻く海原も五千年前の状態だろうから、おれが目撃した大鰐――ディノクスや、ばかでかい蛸だの烏賊だのいても決しておかしくはあるまい。
「おれが盗み見たやつでも、おめえ、全長十メートルくらいあってよ。頭のてっぺんから尻尾の先まで鱗で覆われてるのよ。それが木の甲板を死にもの狂いで暴れまわるもんだから、もの凄い音がしてな。連中、槍と手鉤みたいなもんで、遠くから刺し、最後は下から槍を突き出したでかい穴にぶち込んで死ぬまで放っとくんだが、あれよ、引き上げるまで百人がかりで三時間近くかかるんだ。大した重労働だぜ」
「百人がかりで三時間?」
おれは、いやな気分を押さえて訊いた。
「この船の大きさは一体どれくらいあるんだ?」
「知らなかったのかい?」オハラはにやりと笑った。
「聖書の研究家どもは、みんな単位を間違えてやがる。“長さ三百クビト、其の広さは五○クビト。其の商さは三〇クビト”――なにが一五〇メートル、二五メートルの一五メートルだ。三年間もいて、まだ正確とは言えねえが、全長一五○○○メートル、幅二五○○メートル、高さ一五〇〇メートルはあるぜ」
予期はしていたものの、三年間の船上生活者に言われると、さすがにがん、とくる。数字だけじゃ味気ないので現物に当てはめると、東京駅から新宿駅までがざっと一○・三キロ、一五キロとなると直線距離で吉祥寺に達する。幅二・五キロは東京から御徒町に匹敵し、高さとなると、全長三三三・三メートルの東京タワー――あれのざっと五倍だ。山手線が平均時速三四・五キロで環内一周に一時間かかるから、この方舟の船首から船尾まで行くのに山手線の電車でも約三〇分かかると思えばいい。とてつもない数字だ。
「ねえ、さっきから、この船の大きさをお話し合ってるご様子ですけどね」
ゆきが嫌味たっぷりに口をはさんだ。
「あたしはまた、アララテ山にとまったはずの船がなぜ、今頃、こんな海の中を行ったり来たりしてるのか知りたいわ。ご高説、おきかせ願えないかしら――日本語で」
そいつは、おれも知りたいことだった。方舟にまつわる謎のすべては、そこから発しているのだ。で、オハラに訊いてみた。
「わからねえ。だがよ、ひとつおかしなことに気がついた。二年ぐらい前、飛行機の具合を調べにこっそり甲板へ上がったら、この爺さんが舳先におってな、空に向かって何か叫んでるんだ。するとよ、それに応えるように空のずっと上から鳥の鳴き声がきこえ、その途端、風と雨がどおっと勢いを増しやがった。いや、船が大きく揺れたところをみると、海まで荒れだしたらしい」
奴の言葉が終わる前に、おれはついさっき目撃したノアの奇行を思い出していた。
どこからともなく響いてくる鳥の声に、無限の恨みを込めてのばされた手。
「オハラ――その鳴き声、何の声だと思う?」
おれはある答えを持っていた。
「そうさな――あれは……」
風斬る音がオハラの声を中断させ、おれの頬をかすめた。
槍だ!
「来やがったぞ、エレベーターまで走れ!」
おれたちは身を低くして両脚を動かした。
はたして、エレベーター前に辿り着いたとき、廊下の左右でどっと喊声があがると、おれたちの周囲を光るものが走り、廊下が派手な音をたてた。矢ぶすまだ。
耳もとを轟音が叩きつけた。
ウェザビー・ライフルの猛打が空気を衝撃波と変えて襲いかかってくる。ビッグ・ハンターでさえ敬遠する地上最強の弾丸は、並の体格の持ち主が撃てば肩関節脱臼を免れない。上半身をわずかに揺らせただけで耐えたのは立派といえるだろう。
敵の一角から悲鳴があがり、ガリルの軽快な連続発射音がそれに交じった。
後ろから来られちゃやばいと思い、ノアを背から下ろしたとき、首筋がチクリとした。
しまった!
手を触れると奇妙な形の吹き矢が抜け落ちた。つづけざまに背中へチクチク。
「いやーん、くすぐったい!」
ゆきもやられた。
「エレベーターへ入れええええ」
語尾がゆっくりと溶けはじめ、おれの胸を紫色に染めた。眼の前で、オハラとジムが極彩色の流動体と化して、マンボを踊っている。廊下が逃げる。乗らなくちゃ。おれは、ゆきを引っ張ろうと――ゆきって誰だ? 真っ白い花が足元に咲いている。その花弁の奥から人間の手そっくりの蔦がおれの方へ。
エレベーター。
歩くたびに手はつけ根まで床にめり込んだ。すぐそばに洞窟が。おれは入りこみ、レバーをレバーをレバーを……下へ下へ下ってどっちだどっちだどっちだがたんがたんがたん……
気がつくと、エレベーターの真ん中にひとりで寝ころんでいた。誰もいない。
上半身を起こすと、宿酔《ふつかよ》いみたいにふらついたが、頭は痛まなかった。飲んべえにもってこいの麻酔薬だ。パラパラと吹き矢がおちる。一本持って帰って分析させ、酒に混ぜて売ることにしよう。
呑気に考え、さて、どれくらいひっくり返っていたのかと体内時計に質問して、おれは驚いた。わからないのだ。この麻酔薬は、おれの超感覚知覚まで麻痺させてしまったのか。
儲かる! 真っ先にこう考え、おれは苦笑した。
すぐに困惑に変わった。
何階かもわからない。睡眠時間も不明となると、二、三日たったかもしれないのだ。そのあいだに――ノアは大丈夫だろう。オハラ兄弟など八つ裂きの刑で結構。だが、ゆきは――? リマのことをお姉さまなどと慕っているが、リマが自分をどう思っているかなどてんで眼中にないのだ。リマのあの調子では、いの一番に首を刎ねられかねん。
おれはまだふらつく身体に鞭打って立ち上がった。
ドアの外は狭い廊下で、行きあたりばったりに歩くと、小さな扉が見つかった。長いこと使われてないらしく、生きものの気配は感じられなかった。
取っ手をつかみ、引っぱった。
思わず悲鳴が洩れかけた。
眼も開けていられぬ風と雨が真正面から殴りかかってきたのである。まだ勘が鈍っているらしい。
下へ行くつもりで上へ来ちまったのか。おれはひとりごちた。奴らから逃げるつもりで群れの中へ飛び込むとは。
武器はない。
エレベーターへ戻る前に、おれはそっと戸口から顔を出して、様子をうかがった。
そこもひとつの世界だった。
雲もなく光もなく、ひたすら青黒い闇に閉ざされた天の奥津城より銀色の線は果てしなく降りつづけ、風はごおごおと渦巻いた。
おれの前方に広がるのは、行く手も定からぬ茶色の平原だった。その遙か向こうで、時折青白い稲妻が閃き、地の果ても空の果てもなお虚しいと告げた。
吹きつける風雨に抗して、おれは天をあおいだ。無性に星が見たかった。怪異な運命に翻弄されるこの巨船もまた、すがるべき道標をもつのだと信じたかった。
無論、そんなものはない。
顔面で容赦なく砕け散る雨がおれの意識と体調を整えてゆくだけだ。
感傷を追い払い、おれは木製の平原の四方に眼を据えた。
右手遙かに小さな灯がいくつもゆらめいていた。形からいって窓だ。リマたちの居住地だろう。すぐ出向かなきゃなるまいが、その前に――
左方向には、闇だけがあった。
おれの眼だからこそ、それが見えたのかもしれない。
束の間走る稲妻の光芒にワン・テンポ遅れて闇がそれを呑み込む寸前、おれは白い点を確認したのである。
距離は概算――三〇〇メートル。よく見えたものだ。
妙に気になったが、今はそれどころじゃない。
灯の方へ行こうと身をひねったとき、
KAAAAAHHH……
あの鳴き声だった。
おれを呼んでいる。そんな気がした。あの白い点の下で。
おれは何かに引かれるように歩き出した。すぐに辿りついた。
首をふらざるを得なかった。
小さな朽ち果てた小屋らしきものが雨滴をはね返している。白くはない。木の平原と同じ茶色だ。
おれはドアを押した。触れた途端に蝶番がはずれて崩れた。内側へ入る。
白いものは、そこに、決して外からは見えない[#「決して外からは見えない」に傍点]位置にもたれかかっていた。小さな椅子にかけ、崩れかけた窓から空中に片手をのばして。
それは白骨だった。
ノアと同じ粗末な白麻の衣から頭骸骨が虚ろな眼窩をおれに向け、何かを訴えかけているようだった。
小屋の外でもう一度、何かが鳴いた。
おれは窓辺に寄って天空をあおいだ。
それは眼と鼻の先にいた。二メートル足らずの、雨と闇に塗り込められた空間で羽搏いている。おれは眼を凝らした。
鳴いた。
はじめて、おれはそいつの正体に確信をもった。
稲妻の閃き。
ほんの一瞬のことではあったが、おれは見た。
聖書の一節が甦った。
「尚、また七日待ちて鳩をはなちけるが、再び彼の所に帰らざりき」
鳩は帰らなかった。とどまるべき大地を見つけたからだ。
しかし。
おれは白骨に眼を向けた。
いつのものだろう。
服に触れてみた。かなり長い期間、雨風にさらされながら、新品同様の生地の強さをもっている。白骨より新しいのだろうか。勿体ない。
誰の骨なのか。
その手は、鳴き声の主を求めているのだろうか。この船に乗ってはじめて見る生々しい執念の具象だった。そうと知りながら、おれは頭の隅で、どこかが間違っているような気がしてならなかった。
白骨に触れた。指先一本欠けていない。なりたてのほやほやだ。
本当にそうだろうか。
おれは小屋の中を見回した。
小さなテーブルの上に、古ぼけた羊皮紙の束が載っている。葦の茎で端を閉じてあり、かたわらに先を鋭く切った葦のペンが置かれていた。骨製のインク壺の底には、乾いた中身が黒々とこびりついている。
航海日誌だろうか?
すると、この白骨は――船長か? ノアの他に、船を操るものがいたのか?
おれは頭を振って黄ばんだ紙束に手をかけたが、それは持ち上げた途端、粉々に砕けて、吹き込む風に散じてしまった。
「達者でな」と白骨に言い捨て、外へ出る。葬ってやりたいが、死んだ人間に構ってちゃ、目的を遂げるまでにこっちが日干しになっちまう。アンブローズ・ビアースの遺骨や、メキシコで行き倒れた切り裂きジャックのミイラのありかもわかっているが、金にならん死人に興味は湧かない。
灯を求めて歩き出した頭上から、そいつ[#「そいつ」に傍点]は襲いかかってきた。
おれを救ったのは、転がって避けるよう命じた勘であった。
首筋をかすめて過ぎる凶器の感覚ははっきりと感じられた。嘴か爪だ。
起き上がらず、おれは雨をはねとばしながら、地上を二転三転した。凄まじい殺気に背筋が総毛立っている。
ひと声鳴いて、そいつは一気に急降下してきた。
回転しながら、おれはベルトの内側から、失敬してきたばかりの葦のペンを抜いた。あお向けで待つ。
闇よりも黒い恐怖の羽搏きが、眼と喉笛で炸裂する寸前、葦は空気を灼いて走った。
KAAAAHHHH
まぎれもない苦痛と呪詛の声があがり、羽搏きがぐんぐん頭上へと遠ざかる。どうやら、当座の危機は脱したらしい。
と思ったのが、玄人のあさはかさ。
凄まじい突風がおれをさらったのだ。体重七○キロの人間を。
何百メートル吹きとばされたか。
待っていたのは、どことも知れぬ廃墟の戸口だった。
おれは凄まじい音をたてて、軟らかい材木をへし折り、頭から廃墟の床へ激突した。とっさに両腕でカバーしなかったら脳震盪は免れなかったろう。これも、奴の仕業だろうか。
不意に強風は途絶えた。葦の傷がこたえだしたのだろう。
おれは素早く周囲を見回した。
外部の白光に、粘土か何かをこねてつくったらしい釜炉のようなものが浮き上がった。
かなり広い空間を幾つも占めている。台所だろうか。ノアの息子たちは、階下の魔獣跳梁を逃れてこの最上甲板へのぼり、かつては建物の体裁を保っていた廃墟で、絶望と希望の入り交じった新生活を開始したのだろう。
となると、刃物があるかもしれない。
また閃光が室内を白く染めた。
おれは調理台と思われる平べったい土壁の方へ進んだ。
勘と夜目を頼りに、あちこち探しまくる。
いきなり、釜炉のひとつが青白い炎を噴き上げた。
「わっ!?」
と叫んで背後の壁に肘が触れた途端、壁の一角から太い線となって水がほとばしり、左手を濡らした。
火と水――この基本的なものを自在に操るということは、当時としては、台所の完全自動化を意味していたのではなかろうか。
五千年前の自動調理室《オート・キッチン》。
おれは開いた口がふさがらなかった。マヤ遺跡の地下にも、似たような施設があるが、あそこは野暮なハンドルがごっそりついている。
おれは試しに、左手を水の奔流からはずしてみた。線は細まり、すぐ壁の一角に吸い込まれた。じっくり探したが、センサーらしきものはない。
一体、ノアの一族とは何者だったんだ? これをつくれと命じた神は?
火がついているのを幸い、おれはあちこち武器になる品を探したが、何も見つからなかった。すべてを持って移動したのだろう。
あきらめて外へ出ようとしたとき、片隅に大きな土鍋らしきものが眼についた。
骨がはみ出ている。どんな生物のものだろう。
これはいい。また、ブーメランができるし、太腿骨は立派な棍棒に早変わりする。おれは早速、手を突っこんでガチャガチャやりはじめた。
3
灯の洩れる小屋へ着くまで二時間を要した。
エレベーターの出入り口は小さなビルくらいの大きさがあったものの、長屋のようにひとつづきではなかったため、ほとんど風雨に悩まされながらの道行きであった。
途中、いくつもの正体不明の骨を発見した。別の骨の主に食われた形跡を留めるものもあれば、矢傷、槍傷の痕跡を露骨に残すものも多かった。
逃げだした怪獣たちがここまでやってきたのだろう。あるものは共食いし、相争い、ノアの子孫たちの攻撃に斃れていった。近親相姦で生まれた恐るべき人間たちの胃の腑を満たすために。
彼らの居住区との境に、材木を山積みにし、槍を突き出したバリケードが築かれていた。
こちら側は禁断の地なのだろう。奴らがおれを追跡しなかったわけもこれでわかる。
バリケードといっても、敵を迎撃するためのものではなく、胸のあたりで切れている。造作なく登れた。
リマたちは船尾近くに小屋を建てるか、エレベーターの昇降口を利用して生活を営んでいるようだった。
バリケードの向こうには過去の恐怖の名残か、投石器や巨大な石弓を思わせる設備が幾つも目についた。ちらりと見ただけだが、バネやゴムは一切使っていない。挺子《てこ》の原理に特殊技術を応用したものだ。積み荷か手作りかは不明だが、大した工作技術だ。聖書時代の連中は、現在に匹敵する科学工学技術を誇っていたのだろうか。かつて、海中に沈んだアトランティスやムーには、空飛ぶ船や海中を潜る車があったと伝えられている。
居住区の周囲は、木の柵が覆っていた。高さ三メートル。左右の広がりは見通しが利かない。なにせ、幅二五〇〇メートルの甲板に拠を占めているのだ。
つくづくでかい。が、感心している場合じゃない。おれは柵に忍び寄った。気配は絶っている。歩哨は見えなかった。ここまで上がってくるものは、絶えて久しいのだろうか。遠くで何かがきしむような嫌な音がつづいている。
門だけは閉じていた。
おれは柵の表面を撫でた。船材を切りとったものらしく、多小の凸凹はある。何とか登れそうだ。
自己催眠に入る。篠つく雨も忘れて、柵に手をかける。船腹をよじ登る苦労にくらべれば天国の作業だった。
二分もしないうちに、柵の内側――見張り台の上にいた。ここにも人影はない。少し離れたところにある階段をつたって降りた。やっとこ、人間の手になる人間専用の施設に辿り着いたという妙な安堵感がおれの胸を満たした。
この船はやはり人間用ではない。
地上に生けるものすべて[#「すべて」に傍点]を後世に伝えるべく建造された巨船。動物相を一個のシステマチックな生命形態として見た場合、それを存在させるべき遺伝子情報[#「情報」に傍点]のすべてを含んだ超スケールのDNAといえるだろう。
だが、辿り着き生命を芽吹かせるべき土地は?
階段の下には、掘っ立て小屋が列をなしていた。シェードをおろした窓の隙間から洩れている光を見て、おれは驚いた。獣脂や植物油によるものじゃない。船内の照明とも異なる煌々たる光質は――電灯だ。
陰を選んでしばらく行くと、謎はすぐとけた。闇の彼方に巨大な木の塔らしきものが幾本もそびえ、その頂でばかでかい木の輪が回転をつづけているのだ。柵を登ったとき耳にしたのは、その車軸が、木のそれとこすれて生じる共鳴だったのである。
風車だろう。
自動調理施設や音声識別装置、いや、この船自体を造り上げたものたちが、風力発電を可能にしないという保証はあるまい。現在の連中はともかく、ノアと訣別した息子たちの知識と技術を総合すれば、たやすい作業だったはずだ。五千年の歳月を耐えることも。
人気のない地面――甲板上を歩きながら、おれは彼らが営む文化生活の高さに畏敬の念を隠し切れなかった。たとえそれが、原理への理解なき無知の応用だったにしても、現在《いま》のおれたちと何ら変わるところはない。ひょうきん族を見て笑う視聴者の誰が、TVの仕組みを知っているだろう。
不意に、広場らしきところへ出た。
ど真ん中に円形劇場を思わす塀が立っている。
あちこちに木の杭がそびえ、白っぽいものが風に揺れていた。ロープで吊ってあるらしいが、ちぎれとばぬのは、足の部分も固定されているせいか。
白骨だ。掟に反した科か何かで処刑されたものたちだろう。極めて近代的な生活を営む人々の暗黒部分へ、おれは押し入りつつあった。
眼の前にひときわ大きな小屋が闇を圧していた。ちょっとした城塞の趣もある。
扉の隙間から明かりがはみ出しているが、裏へ回った。
別の扉があった。気配を探ると、二体分ほどオーラの流出が感じられた。
扉を押す。動かない。音声識別だろうか。隙間から覗くと、なんのことはない。扉の受け板に壁の板をひっかける仕組みだ。
ベルトから取り出した鎖骨の先で下から持ち上げ、簡単に開けてしまう。
どうやら船員室だったらしい。
二メートルほど下に広い船室が広がり、槍を構えた男がふたり突っ立っていた。
左右の壁に沿って三メートル四方ほどの木の檻がならび、うちひとつにオハラとジムの姿が見えた。ゆきとノアはいない。
間髪入れず、おれは扉を押しのけて船内へ飛び降りた。
吹き込む風雨にはっとして振り向いたひとりめの頭部を大腿骨で一撃し、つっかかってくるふたりめの槍を左脇の下へはさみ込んで素早く前進、頭突きをかませて吹っとばした。
あお向けにぶっ倒れたそいつの首に槍の穂先を突きつけ、
「女と老人はどこだ?」と訊く。
そいつは鼻血にまみれた顔を敵意に染めて首をふった。顎の頑丈な、意志強固タイプだ。それでも、試しに穂先をちょっぴりめり込ますと、脅えの表情になった。
「女と爺さんはどこだ?」
「……この上。一階の奥にいる。リマがつれてった」
「案内してもらおうか」
おれは男の衣服を掴んで立ち上がらせた。
「おい、八頭――おれたちも出してくれ」
檻の獣どもが騒ぎ出した。
「少し待て。ゆきと爺さんを救い出したら戻ってくる」
「何を言う。そんな約束信用できるか、頼む、扉だけ開けてくれりゃ、後は自分でする」
「あきらめろ」おれは冷たく言った。「おまえらみたいな宝探しの屑は、このまま消滅しちまった方が世のためだ。運が悪かったと思いな」
「畜生!」獣のようにわめいて柵をゆすりかけ、オハラは必死の面持ちで言った。
「わかった。なら、おれはいい。弟だけ、ジムだけ助けてくれ。な、こいつだけ出してくれりゃ、おれはここに残る。この足で武器なしじゃ、逃げられるかどうかもわからねえし――頼む、ジムだけは、な、な」
痛いところをつきやがる。ついさっき、自動調理室でみた光景が甦った。
鍵といっても、扉と木枠を蔦のロープで結んであるだけだ。
おれは倒れてる男の槍を使って切り裂いてやった。
「恩に着るぜ」言いながら、オハラが真っ先に出てきた。なにが、おれは残る、だ。
「さっさと失せろ。武器は自分で調達するんだな」
「わかってるとも。後でこの礼はきっとする――なあ、ジム」
「ああ」気狂いは濁った眼と声でうなずいたきりだ。
「先に出ろ。変な真似すると、弟からブスリだぜ」
おれは槍をふって、二人を裏口から追い出した。おれの後に残したら、倒れている男を拷問にかけて武器の有り場所をきき出しかねない。
おれはひっくり返ってる男の竜眠というツボを人さし指でつき、二、三時間、眼を醒まさないようにした。これは背の筋肉内の微妙な場所にあるツボで、数ミリずれるともう効かないが、うまくあてれば、それこそ竜のように十年単位で眠りを維持することができる。もちろん、外科的手段では絶対に起こせない。
おれは、捕虜を先に、反対側の戸口を登った。
単なる丸木小屋だが、風ひと筋吹き込んでこないのは大したものだ。
廊下をいくつか曲がり、どれがどれだかわからない扉のひとつを男が指さした。
細めに開けて覗く。
十畳ほどの空間に、ベッドひとつの寒々しい部屋であった。
ベッドのすぐ下の床で、ふたつの肢体が絡み合っている。熱い呻きが耳朶を打ち、おれは眼を見張った。
タキシード姿のリマがゆきを組み敷いている。
ゆきのドレスのストラップは肘までずらされ、大胆に盛り上がった肉の丘をリマの手が微妙に刺激していた。
女戦士の熱い唇に首筋を許し、ゆきは切なげな声をふりしぼった。
「駄目よ、お姉さま……やめて……」
半開きで喘ぐ口をリマの唇が塞いだ。激しく首をふってゆきの顔を歪ませ、自分の情熱でゆきをも昂ぶらせようとする。数秒後、ようやく自由を取り戻したものの、ゆきは口から全身を征服されていた。
リマがにやりと笑ってもう一度唇を近づける。今度はゆきの方から顔を上げて吸いついた。我を忘れて舌を出し入れし、リマのものを求める。
成る程、お姉さま――か。
喉を鳴らす音がきこえた。我ながら――と思ったら、隣の男が元凶だった。
「こら、お前は見るな」
おれは拳で男の脾腹《ひばら》をつき、その場に昏倒させた。ふてえ野郎だ。
二人ともあっちに夢中とみて、おれはそっと扉を開け、男を引きずり込んだ。
リマもゆきも気づかない。滅多に見られるものじゃないから、おれはもう少し見学することにした。
リマも舌を与えていた。絡み合う二枚の濡れた音が露骨に部屋を辿る。乳房をなぶる手は、指の間に乳首をはさんでもみ上げているようだ。
四枚の唇を唾液が濡れ光らせた。
「おまえ、殺してやりたい」ゆきの舌を吸いながらリマは粘っこい口調で言った。「でも、わたし、大とやくそくした。殺さない、けがもさせないと。だから、おまえと大、引きはなす。おまえ、大より、わたしを好きになる。……こうやって」
唾液の糸を引いて唇が離れた。手は乳房を放さず、顔だけを胸から腹へと下降させてゆく。ドレスは腰までめくれ上がっていた。
「駄目……そこは……やめて……」
必死に閉じた太腿を、リマの唇が責めはじめた。容赦なく舌を滑らせ、片手を内側へねじ込んでゆく。もう一方は豊満な乳房をこねくりまわして休むことを知らない。ゆきは全身を羞恥と欲望のピンクに染め、熱い息を洩らしつづけた。
腿は屈服した。わずかなゆるみを逃さずリマは内腿のやわらかい部分に吸いついた。獲物に食らいつくピラニアのようだ。丹念に腿のつけ根まで唇を上下させ、ゆきに抵抗の気力もなしと判断するや、一気に奥を極める。ゆきの全身がそり返り、痙攣した。
「ああ……あ……」
押しのけようとする手で、ゆきは逆にリマの頭をそこへ押しつけた。快楽を逃すまいと、腿で頭をはさみ込もうとする。リマは思いきり開いた指先で、ふたつの乳首を刺激しつづけていた。
喘ぎはすすり泣きに変わっていた。
リマの愛撫は、ゆきと男どもへの訣別地点へと、怒濤のごとく突き進んでゆく。
こりゃいかん。
「こら、よさんか、こら」
おれは古代アラブ語で警告しながら、絡み合う裸体へ走り寄った。
手をかける前に、リマが濡れ光る顔を上げた。
「うっ」
虚をつかれた一瞬、ゆきの喉元へ光るものが走った。リマがどこかへ隠していたナイフを突きつけたのである。
「来ると思ってたわ」
リマは静かに言った。眼に思いつめたような光が満ちている。こりゃ、性根を据えてかからなきゃならん。
「な、リマ、おれはおまえを救った。今度はおまえがおれたちを救う番だ」
おれは、他所行きの声で、諭すように言った。リマは表情も変えなかった。
「大には助けてもらった。でも、この子は別。助けるのはひとりだけ。わたしは大にしたい」
「固いこというなよ」とおれは言った。「おまえはまだ人生観が甘い。世の中、なあなあと腹芸だ。な、コミで二人。いいだろ?」
「よくわからないが、駄目――寄るな!」
リマの肩に力が入り、おれはあわてて両脚の力を抜いた。
「大、こなければいいと思ってた。きたら、仲間につかまって殺される。わたし、三人を捕らえた功績でひとりだけ助ける権利もらった。おまえにしたい。見張りをたてないでおいたのも、そのため。あたしと逃げて」
「そうはいかねえんだよ」
「なら、仕方ない。この女――仲間にわたす」
「おい」
「お立ち」
ゆきはのろのろと命令に従った。上気した頬に虚ろな眼をはめ込んだまま、ぼんやりとおれを見つめた。
「何しに、来たのよ。とってもいいとこを邪魔して」
「阿呆。女子高生の分際でレズの味覚えてどうする? 最初は男にしろ男に」
だが、伸ばしたおれの手を逃れ、ゆきはリマの腕にすがりついた。一度、レズのベテランに仕込まれると、その気のある女は一生男嫌いで通すというが、ゆきにもそんな素質があったのだろうか。
早いとこ手を出しとけばよかったと、おれは内心、臍を噛む思いだった。
「お願い、お姉さま。もう一度、今度はもっと激しくして」
すがるように言うのを、リマは邪慳にふり払い、ナイフを突きつけたまま、思い決した声で、
「二人して死ぬがいい。――外へ出ろ」
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第五章 魔獣解放
1
おれとゆきは、別棟で待機していた男たちに引き渡され、オハラ兄弟の檻へ入れられてしまった。
中にひとり、貫録たっぷりな奴がいて、リマとあれこれ話し、不貞腐れてるおれたちに向かってこう宣言した。
「おまえら、夜明けに料理する。だが、ひとつ条件をつけよう。それ叶えたら二人、自由にしてやってもよい」
「なんだ、そりゃ」
いかめしいくせに、眼だけは陰気に笑っている男の表情が気に入らず、おれは敵意をむき出しにして訊いた。
「朝になればわかる」
「冗談いうな。ここは万年夜の世界じゃねえか」
「連れてゆけ」
「ちょっと待て――おれとゆきはともかく、あの爺さんはどうした? 説明してもわかるまいが、お前らのご先祖さまだぞ、リマ」
「お爺さん?」とリマは眉をよせた。「そういえば――ここへ連れてくる途中で……どこへいった?」
「知るか」
こうしておれたちは連行された。
檻にぶち込まれるとすぐ、ゆきは、「お姉さま、ひどいわ」と格子につかまって身をもがいたが、四人の見張りを残して全員いなくなると、今度は猛然とおれに食ってかかった。
「馬鹿どじ間抜け。なぜもっと早く助けにこなかったのよ!? 捕まって三日もたつのに」
「三日? あの薬、そんなに効いたのか!?」
大儲けの三文字が脳髄と握手した。売れる!
「あたしやオハラ兄弟は、下で吹き矢を射ち込まれてからすぐ、目覚ましを飲まされたけど、あんたはひとりで、何の苦労もなくひっくり返ってたのね。さぞやよく眠れたでしょう? さ、今度はここからあたしを連れ出す算段、してよね。さっきの酋長呼んで、あんたのもってるブラジル国営放送の株券、半分譲渡するといったらどう?」
「阿呆。こんな船の上で株券なんざ使いものになるかい」
ののしってから、おれは仰天した。
「お、おまえ、どうして、ブラジル放送のことを知ってる!? ありゃ、無記名証券だぞ!」
「ふん。あんな知識、あたしにとっては氷山の一角よ。あんたがMGMとシェル石油の大株主だってことも、投資ジャーナル騒動のきっかけとなった情報を警視庁にリークしたことも、ちゃあんとわかってるんですからね。倉田まり子が首でも吊ったら、半分はあんたの責任よ! ついでに言っときますけど、今年のレコード大賞受賞者は、マッチにしてよね!」
げ。レコ大選定委員会に、おれが金バラ巻いてることも知ってやがるのか!?
おれは宙天に眼を据え沈黙した。
「ああん、もう。楽しい船旅のはずが、こんな檻に入れられて。リマなんて、大っ嫌い!」
「ほう、そうですかね。さっきは満更でもなさそうだったがねえ」
嫌味たっぷりに言ってやると、ゆきはにやりと笑ったきり沈黙した。不敵といってもいいような、だからこそ不気味な笑いだった。
おれは床に腰をおろし、対策を練ったが、名案は浮かんでこなかった。四人も見張りがついてちゃ無理だ。リーダーのいう夜明けを待つしかなさそうだった。おれは横になるとすぐ眠りにおちた。
六時間ほど眠ったところで、妙に殺気だった気配が覚醒を促した。
薄眼をあけてみると、変に年食ったとっちゃん坊や風の男が、おれたちの方を指さして何か言っている。
「開けろ」
ふむ。
隣の様子をうかがうと、ゆきはでかい尻をこちらに向け、すーすーと心地よい寝息をたてていた。憎たらしいが大した度胸である。
見張りの一人が扉をあけ、おれを槍の柄でこづいた。
おれはゆきを揺り起こし、二人して外へ出た。
十人ほどの護衛に左右を固められ、建物の内部を歩き出す。夜明けなどという実感はまるでない。リーダーだって、ほんとのところはそれがどんなものか知っちゃいまい。先祖代々の言い伝えを口に出しただけだ。
かなり歩くと、いい匂いが漂ってきた。
「あ、おいしそう」
感情を推敲もせずに口に乗せ、ゆきは左右を見回した。
眼と鼻の先に、扉の開いた戸口がいくつもならび、通りすぎるときひょいとのぞいて、ゆきは頬っぺたをふくらませた。
おれも見た。でかい木のテーブルの上に、土を焼いた皿と木のナイフが何十人分か配置されている。
「朝ご飯よ。あたしも食べたい」
呑気な声をききながら、おれはもう少しで真相を吐露しそうになった。
小さな階段を降り、おれたちは薄暗い小部屋に閉じ込められた。
「なんだ、ここは? 食堂にしちゃ狭いぜ」
おれが空元気を出すと、とっちゃん坊やは無表情に、
「おまえたち、ラグゥと戦う」
「なんだ、ピザ・クィックか、そりゃ? 殺すなら、さっさとやったらどうだい?」
「わしら、娯楽が少ない。楽しみに見物させてもらう」
「このサディストども」
「もう少し時間がある。食事を運ばせる。それを食べてから戦え」
木のドアを荒々しく閉めて男たちの姿は消えた。五つほどの気配が外に残る。見張りだ。目の前に別の扉があった。こっちは外から開ける仕組みだろう。どこに通じてるのか、おれにはちゃんとわかっていた。
「お腹が空いた」とゆきが哀しそうな声で言った。
そういえば、どこからともなく、腹を十分に刺激する香りが漂ってくる。
「くんくん。燻製かな」
ゆきの何気ない台辞《せりふ》に、おれは首筋を冷たい刷毛でなでられるような気がした。
「あ、窓がある。のぞいてみよう」
ふり返ると、横手の壁、地上二メートルほどのところに、空気抜けらしい、縦横二○センチ程度の穴が開き、光が洩れている。光の帯の中に、煙の粒子らしいものが渦巻いているのが見えた。
「ね、肩車してよ」
「面倒くせえ。飯がくるまで寝てろ」
「やあよ。あんた日頃からあたしに何と言ってるの? トレジャー・ハンターたるものの第一条件。すべからく好奇心をもつこと。――はい、ここへ来て!」
おれがぶつくさ言いながら、壁の端に立つと、ゆきは肩に手をかけ、次の瞬間、軽々と宙に舞っていた。靴だけは脱いだ足が肩にのると同時に、全体重がむぎゅとかかる。
「わあ、おいしそう!」
素っ頓狂な声が頭上からふってきた。
「ああん。女の人が何人も燻製つくってる。天井からお肉吊るして――きゃっ、もう狐色よ。いいなあ、いいなあ。おいしそうだなあ。わ、あっちじゃ解体《ばら》してるわよ。すっごく面白そう。何を裂いてるのかしら? 章魚《たこ》みたいのもいれば、魚みたいのもあるし。――やだ。猿そっくりな首よ。あれ、あたしたちを襲った猿人とちがう?」
おれはうんざりしてひょいと脇へのいた。きゃっと足から落ちるゆきの胴をとらえ、安全に着地させる。
「何すんのよ! 足くじいたら、一生、付き添ってもらうからね」
「うるせえ。少し大人しくしてろ」
「ふん」
ゆきがそっぽをむいたとき、扉の向こうで何やら人声がきこえた。
「ご飯よ!」
ゆきの叫びに応じるかのように扉が開き、手に木の盆を抱えたリマが入ってきた。槍を構えた護衛も一緒だ。
おれたちの方も見ず、盆を床に置く。燻製肉の塊とスープみたいな汁が湯気をたてていた。
「きっと、最後の食事よ」
リマは静かに言った。ゆきがわからんでよかった。
「わざわざ食事まで届けてくれるとは――おまえ、かなりの大物だな」
おれは真面目に訊いてみた。
「わたしの父に、夕べ会った」
おれは一瞬、絶句し、それからようようと言った。口には出さず、胸の裡で。
――おまえ、リーダーの娘か……それじゃ、自分の娘を魚の餌に……
昏《くら》いものがリマの横顔をかすめた。哀しみに近いそれから、おれはそっと眼をはなした。
「もう行くわ」
リマは静かに戸口へ歩き出し、少し行ってふり向いた。
「さよなら、大。――全部食べることよ」
「あの[#「あの」に傍点]肉じゃなかろうな?」
「大丈夫。家畜のものよ」
「お姉さまあン」
媚び丸出しで叫ぶゆきに、リマは一瞥も与えず、歩み去った。
扉が閉まった。
「ふん、なにさ。いざってとき何の役にも立たない野蛮人」
ゆきが、てのひらを返したような伝法な口調で吐き捨てた。ここまで変わり方が徹底してると、いっそ痛快である。世の中へ出ても、いいとこまでいくだろう。
あんなにきわどいとこまでキスさせてあげたのに、とぶつくさ言うゆきを尻目に、おれは盆を引き寄せ、肉をちぎりはじめた。
「やん。ひとりでいいとこ食べないでよっ!」
二つに裂いた片方をひったくり、早速むしゃむしゃやりだしたはいいが、かなりきつい香辛料を使ってあるせいで、ゆきは半分もいかずダウンした。
おれは自分の分を平らげ、ゆきの残りに手をのばした。
「あっ、大食い、意地汚し。取っちゃ駄目。後で食べるんだからあ」
阿呆。後などあるもんか。
おれは構わず手にとり、指で肉の繊維を引き裂いていった。
真ん中近くで爪に固いものがあたった。
期待と安堵が全身の細胞を活性化させていく。
なお、ほじくりつづけると、白い肉の間から、銀色の光りものが現れた。長さ十二、三センチの細長いナイフ――いや、三角形の二辺を構成する両端が、後方で鋭く突き出しているスタイルは、魚をとる銛の穂先だろう。
全部食べること[#「全部食べること」に傍点]――リマの言葉の意味を、おれは見抜いていたのである。
「何見つけたの?」
覗き込んだゆきに目をくれず、おれは何気ない風を装って部屋の奥へひっこむと、穂先を壁に盛り込ませた。太さ五ミリ、長さ十センチほどの木片を何本も切り抜き、その一方の端を猛スピードで削りだす。即製の手裏剣だ。時間は残り少ない。
三本の先端を研ぎ澄ませたところで、扉が開き、とっちゃん坊やが入ってきた。護衛が盆をさげる。おれは銛と手裏剣を素早く袖の中へ押し込んだ。
「さいごの食事、うまかったろう。おお、みな平らげたか。では、おまえらが食われる番だ」
それからじろりと、ゆきのバストと腰に眼をやり、
「わしらは、そっちをもらう。水気が多くて旨そうだ」
「何て言ってるの?」
無邪気な声でゆきが訊いた。
「では、行くがよい」
男の声を合図に、もう片方の扉が鈍い音をたてて下からめくれ上がりはじめた。地獄へつづくドアが。
雨と風が猛然と叩きつけてきた。
「行け」
護衛たちの槍の穂先に押され、おれとゆきは外へ出た。扉の閉まる音が背中を妙に薄寒くした。
荒れ狂う雨のべールの彼方に、ぐるりを取り巻く円形の壁が見えた。高さ三メートル。そこからすり鉢状におびただしい人の頭がならんでいる。夜明けの見物人だ。壁の数ヵ所が光って、おれたちの影を床におとしている。
「なによ、ここ? 一体、あたしたちをどうしようっていうの?」
ゆきが片手を上げて雨を避けながら訊いた。
「じきわかるさ――みろ」
ちょうど真円を描く広場の真っ正面にあたる壁が、おれたちの出口同様、上へめくれ上がりはじめた。
四角い空洞の奥で、何やら見たくもねえものが蠢いている。
ゆきがぐっとおれの肩をつかんだ。
そいつはゆっくりと、闇の淵から脱け出し、光の中に全身をさらけだした。
ゆきが奇妙奇天烈な叫びを発した。
おれたちの十数メートル前方でのたうつそれは、長い髪と美貌をもつ、正真正銘の女だったのである。
むき出しの乳房が床に押しつぶされ、切れ長の眼とすっきりのびた鼻梁に、乱れる黒髪がふりかかる様は、異様な美しさとしか形容のしようがない。
もうひとつ。その紅い唇がまるで窒息寸前のように空気を求め、ぜえぜえと激しい擦過音をたてるのも異様であった。
理由はすぐにわかった。ゆきの叫びは、女の美しさ故ではなかったのだ。
激しくうねくり、床を叩く女の下半身は、無数の銀の鱗に覆われ、その先端は二枚の巨大な鰭に分かれていた。それは妖しくも美しい魚の下半身であった。
人魚――まさか。
おれの驚愕と時を同じくして、突如、左右から水音が巻き起こった。
壁の一角から凄まじい水の奔流が広場へたぎり落ちはじめたのだ。
「やだ、人魚と一緒に水責めよ!」
「阿呆。天井はあいてるんだ。目的は別だよ」
おれにはある予感があった。
それは、押し寄せる水を全身ではね返し、のたうつ女の表情に裏づけられていた。
水はたちまち胸まで達し、そこで止まった。人魚の姿はとうに水中に没している。
おれは袖口からナイフと手裏剣を抜きとった。
周囲の見物人どもは沈黙している。不気味な期待と邪悪な予感に満ちた沈黙であった。頭ひとつ動かさない。どこかでリマも見ているかとおれは思った。
精神を集中したが、水の壁にはばまれて、女のオーラは感じられなかった。
潜ってみるか、こう思った刹那――
眼の前に女の顔が浮上した!
それは限りなく美しかった。
類いまれな美貌は笑顔にゆるみ、悩ましい唇から吹きつける吐息はおれの鼻孔をやさしくくすぐった。髪をときながら麗しい調べを口ずさむという、船人たちが語りつたえた伝説は嘘ではなかったのだ。
ただ、間違ってはいた。
その笑顔に秘められた限りない邪悪さ、肉食獣特有の生臭い吐息、おれとゆきを見つめる青い瞳から溢れる狂気の飢え。
アンデルセンは、人魚姫の食物を何と想像しただろう。
魚ならまだよし。
女の唇がゆっくりと開いた。
真珠のかがやきを放つ歯は、すべて獣の牙であった。
2
ゆきがきゃっと叫び、おれの背中に隠れた。
ほとんど同時に、美女の顔も水中に没した。
「あ、あれ、何よ……どうして人魚が牙剥くの?」
震え声で言うゆきに、
「あれが女の正体さ」
おれはあっさり答え、水中でゆきの右手に手裏剣を一本握らせた。
「奴ら、慰みにおれたちとあいつを戦わせる気だ。できるだけやってみるがどうなるかはわからねえ。おまえはここ動くな」
「……」
横の方で水音。眼をやると、人魚の尾が没していくところだった。
おれは頭から水中へ躍った。
二、三メートル四方は何とか見通せる。下半身をくねらせつつ水を切る女体が、その可視範囲ぎりぎりのところでおぼろに見えた。
どうでるか?
おれは二本の手裏剣を袖口に戻し、銛の穂先だけを口にくわえて、大きく水をかきはじめた。
女は動かない。
三メートル、二メートル……
一メートルまで接近したとき、女が突進した。
信じ難いスピードだ。
かろうじて横へとんだ眼の前で唇が噛み合わさり、ガチンと鈍い音がきこえた。間髪入れず、胸のあたりに鋭い痛み。ぱあっと黒いものが墨汁みたいに広がる。
女の爪の一撃であった。
二撃目を焦らず、女は数メートル先の水中で停止した。
一本ずつ右手の指を愛おしげに舐める。爪のえぐった肉片を味わっているのだ。
おれの肉を。
激怒が腹の底から込み上げてきた。自分のものを奪われることへの耐性がおれにはない。髪の毛一本だって他人に奪われるのはご免だ。床屋嫌いはそのせいである。戦法を変え、銛の穂先を右手に、袖口からとりだした手裏剣を縦に口へくわえる。
わずかな獲物にかえって食欲を刺激されたか、女の顔はみるみる鬼女のそれにかわった。
下半身を鞭のごとくひねって突き進んでくる。
両腕の爪をきらめかせて掴みかかってくるのを、おれは両手で女の手首を押さえ、その腰に足を巻きつけた。
考えようによっちゃロマンチックな姿勢だが、生命賭けともなるときつい。しかも、女の力はおれを凌いでいた。
鉤爪と牙が顔に迫る。
おれは自分から顔を寄せた。口腔に呑み込んだ手裏剣を鋭い先端だけ露出させ、歯で固定する。女の顔が動揺した。そむける隙を与えず、おれは一気に頭を振った。
手応えあり! 手裏剣が歯の間をすべり戻り、女の美貌は苦痛に歪んだ。
目標は眉間だったが、少しずれたようだ。鼻の付け根あたりで黒い雲が湧き上がる。おれは手裏剣を抜き、もう一度ついた。
人間離れした力が、おれの両腕をもぎ放した。眼前で黒い丸太がうなり、横面を叩きつけた。顎がはずれるほどの猛打だった。一瞬意識を失い、したたか水を飲んで、おれはあわてて上昇した。
「大ちゃん!」
手裏剣を吐き出し、胸いっぱいに吸い込む空気より、ゆきの声がふらつく頭を覚醒させた。周囲でどっと歓声が上がる。畜生ども、人を何だと思ってやがる。
「大ちゃん、後ろぉ!」
しまった、と思ったときは遅かった。ふり向いた眼に映ったのは、空中へはね上がる水の糸のみであった。
女はすでに下降に移っていた。
体重プラス加速度の衝撃を頭と肩に受け、おれは女の身体もろとも水中に転げこんだ。状況判断もつかぬまま、右手の銛の穂先を夢中で突き上げる。鎖骨上部の肉に爪がめり込む感覚。
ふっと、それが離れた。
眼をこらすと、黒い影が同じ色の糸を引きながら遠ざかってゆく。顔の分はわかるとして、胸のあたりから二、三本洩れているのは今の成果だろう。
だが、おれもやられていた。
はっきりした流失感が左右の首筋にある。血が噴き出ているのだ。首を噛みちぎられなかっただけましだが、こう派手に水が黒ずんでくようじゃ、時間の問題だろう。奴の攻撃を待つ方が体力の消耗も少なくて済むが、相手にもそう考えられちゃおしまいだ。
女はゆっくりとおれの周囲を旋回しはじめた。やはり、こっちの消耗を待つ気か。
ちがう。
周囲で揺れ動く水の勢いが徐々に増しているではないか。
奴がスピードを上げはじめたのだ。
しかし、何の目的で?
ふわりと身体が浮いた。水流に押されたのである。恐らく、あの鱗に猛スピードの秘密があるのだろう。女の意図を怪しむ前に、おれは一枚もって帰ってアメリカ海軍省に売りつけた場合の利益を計算した。潜水艦の船体に応用したら、時速百ノット(一八五キロ)も夢じゃあるまい。一億や二億の儲けじゃきかんぞ!
だしぬけに、おれの身体は凄まじい勢いで旋回しはじめた。女の姿は黒い弾丸と化して水中を突っ走っている。あまり猛スピードなため、えぐった空間へ水が流れこみ、こんな超常現象を引き起こしているのだ。こりゃ、百ノットどころの話じゃない。
おれはもはや、メールシュトロームの大渦に巻き込まれた小舟に等しかった。凄まじい勢いで水の分子をえぐり抜いて走る。耳の奥がじんじん鳴り、心臓がみるみる膨れ上がっていく。普通の人間ならとうに窒息しているところだ。フランスにジャック・マイヨールという素もぐり――閉息潜水のチャンピオンがいて、一○一メートルで四分五七秒という超人的な記録を残しているが、おれは及ばずとも遠からずで、四分、七〇メートルはいける。
すでに四分はすぎ、おれの我慢も限界に達していた。眼の前がひたすら暗く、奔流は停まらない。胸は破裂寸前だった。
不意に、方向が変わった。
上へ――と見る間に、おれは凄まじい勢いで上昇する水の柱に塗り込められたまま、遙か空中に舞っていた。竜巻に巻かれた漁船のように。なんて女だ。今でも時折起きる竜巻による遭難は、こいつの仲間のせいかもしれない。
ふっと水の圧力が消えた。
眼の前に牙を剥く女の顔があった。
耳元で風が鳴っている。落ちていたのだ。距離は十五メートル。下が水とはいえ、まかり間違えば首の骨を折る。
女はそれを狙っているのだ。この高さから叩きつけられて、もはややり合う力は残っていない。
叩きつけられる前なら別だ。
銀色の閃光が空気を灼いて走った。
女の喉元に突き立つ銛の穂先を確認し、おれはにっと笑った。
次の瞬間、おれは頭から水の壁に激突した。
胸もとまでの深さでは、十五メートルの距離で生じる加速度すべてを吸収するというわけにはいかないから、おれは落下中に身体を丸めて二回ほど回転し、寸前でとび込みの姿勢をとった。
水中突入と同時に両肘を広げてショックを軽減する。
それでもかなり激しく肘を打った。
痛みをこらえて浮上する。
どっと喊声が上がった。
数メートル左に女があお向けに浮いていた。
顔と胴から流れる血が白い肌に縞模様を描き、水中に溶け込んでいく。
ぴくりとも動かない。
銛を抜こうとおれは水を切って近づいた。
女が跳躍した。
もはや死に顔と化した面貌に、凄愴な復讐の念を込め、牙むき出して躍りかかってきた。
「わわっ!」
のけぞりながら、しかし、おれは見た。
空中に躍った女の顔からあらゆる表情が消え、バネと化した全身が弛緩すると同時に、それは本物の一個の死体となって、おれの前方五○センチほどの水中に水飛沫をあげた。
またも、観客がどよめいた。
おれは彼らに見えぬよう女の首から銛の先を抜き、袖口にしまって、ゆきのところへ戻った。
「すっごーい、大ちゃん! 感激しちゃったあ!」
掛け値なしの讃辞とともに抱きついてくるのを、おれはしっかり抱きしめた。これが理想的な関係なのだが。
「わっ、やだ」
ゆきは悲鳴をあげて身をはなした。
「血がついてるじゃない。あーん、ドレスが汚れちゃう! 馬鹿馬鹿馬鹿あ!」
夢中で胸元を洗うゆきにうんざりするより、おれは四方から襲いくる殺気に身構えなければならなかった。
壁の縁――つまり、客席の最前列を仁王立ちの男たちが埋めている。全員、槍を肩口まで引き、必殺の投擲姿勢だ。水中じゃよけられない。
「おまえ、よくやった」
左手の方からリーダーの声がきこえた。
「だが、もうこれまで。死ぬがいい」
実にあっさりした言い方だけに、絶体絶命がひとしお身に泌みた。いよいよ、おしまいか。
リーダーの後方で、いきなり絶叫が巻き起こったのはそのときだった。
全員がふりむき、口々に何か叫んだ。
どうやら外からの出入り口らしい場所に、奇怪なものが立っている。
黄金の四足獣であった。虎ほどの体躯をかがやく金毛が覆い、照明に照り映える姿は美の結晶とさえいえた。その、人間そっくりの、美しい顔がなければ。その口に、男の生首をくわえていなければ……。
キュオオオオン
なんとも形容し難い声でひと声吠えるや、そいつは集中する投げ槍の銀線を軽々とかわし、棒立ちになった人々の間へ躍り込んだ。
血飛沫があがり、苦鳴が折り重なる。
おれたちのことも忘れて、男たちはそちらへ殺到した。殺到しかけて、もう一度ふり向いた。おれたちをではない。
闘技場の上空を。
濡れ手拭いを打ち鳴らすような音がしたかと思うと、紫と黒をごちゃまぜにした色の鳥が宙から降下し、人魚の死体にとまった。体形は雁に似ているが、倍も大きく、三○センチ近い銅色の嘴で人魚の乳房の肉をついばみはじめた姿は、凶暴な猛禽を連想させるものがあった。首をふるたびに肉がちぎれ腱がとび、豊満な果実は、たちまち、血みどろの肉塊と化した。
風を切って槍が走った。人魚の身体を揺らせて突き刺さったそれの上を怪鳥は音もなく飛翔し、男たちの頭上で羽搏いた。
「ぐえええ〜っ!」
耳を覆いたくなるような苦鳴が一ヵ所であがり、眼ばたきする間もなく周辺に広がった。
喉をおさえ、のたうちまわる人々の顔が、全身が、たちまち紫色に変じ、鼻と口から血が噴き出す。威勢のよいポンプのような出方だった。
鳥が羽搏くたびに犠牲者が増加していく。
上下する羽の下から、何やら粉みたいなものが舞い落ちるのを認めた途端、
「潜れ!」
おれはゆきの頭に手をあて、水中に押しこんだ。
途端にタイミングよく、おれたちが送り込まれた扉が上がり、そちらへ押し寄せる水流に乗って、おれとゆきは船内へ雪崩れ込んだ。小部屋の扉も開け放たれていた。
大急ぎで廊下へ出る。
さしもの水もすぐ退いていった。
シャツを引き裂き、傷口にあてて止血する。幸い深い傷じゃない。じきとまるだろう。
「どうなってるのよ、一体?」
ゆきの問いに答える前に、
「大――こっちだ」
水の量まで計算していたのか、すぐ手前の曲がり角からリマが現れた。
うれしいね。右肩にウェザビー・ライフルと、ガリル自動小銃、それに弾薬帯をぶら下げている。自分用には弓。矢筒は背だ。
おれは武器を受け取り、四六〇ウェザビー弾が七発ほど詰まったベルトを腰にまいた。ボルトを引いて弾丸を確かめる。
「おまえがやったのか。あの怪物どもは――」
「下の船倉に生き残ってた奴ら」
「無茶しやがる。早いとこ手え打たないと、この船は本当の幽霊船になっちまうぞ」
「幽霊船とは何か?」
「何ふたりきりで内緒話してるのよお!」
ゆきが地団駄踏んだ。
「あたしも武器が欲しいいっ!」
おれははいよ[#「はいよ」に傍点]とガリル自動小銃を手渡した。おれのマンションで使い方は心得ているはずだ。
「あら、その布なにさ」
「オハラたちと出食わす前に、おまえと爺さんがとっ捕まったときのこと考えて、シャツの切れ端を銃口に詰めといたのさ。ウィルの奴が引き金を引いてくれりゃ銃身炸裂が起こって、形勢は逆転したんだがな。――弾倉はそれひとつしかない。大事に使えよ」
「はいはい」
浮き浮きした声でうなずき、ゆきはチャージング・ハンドルを引き、セレクターをフル・オートに合わせた。
「こっちだ。ついてこい」
ゆきの方を迷惑そうに一瞥し、リマは走り出した。
「待ってえ、お姉さまあ」と先刻、野蛮人女とののしっていた娘が後を追う。走りながらおれに、
「さっきの獣と鳥、あれ何さ?」
好奇心の塊だ。さすがは太宰先蔵の娘。
「最初の、人間の顔した金獣が玉面獣。『西遊記』に出てくる牛魔王の第二夫人で、そのときの名は玉面公主だ。積雷山摩雲洞《せきらいざんまうんどう》の万年狐王《まんねんこおう》の娘で、美しい古狐よ。『西遊記』じゃ猪八戒に打ち殺されるが、別の話によると、天竺《インド》、中国、日本を股にかけ、日本では時の天皇《みかど》をとり殺しそうになったところを、陰陽師・安倍清明《あべのせいめい》に見破られ、法力で那須の殺生石と化した大妖狐『九尾のキツネ』も、もとは『金羊玉面[#「玉面」に傍点]九尾の白狐』というらしい」
「あれが狐? 虎みたいだったわよ」
「おれたちは伝説の真実を目撃したんだよ」
おれは軽くいなして言った。
「次の鳥は、ありゃ恐ろしい。鴆《ちん》っていってな、猛毒の持ち主だ。羽の付け根をちょっとひたしただけでその酒は毒酒となり、貯水池に一滴たらせば一国の人民すべてを滅ぼす。時たま日本へ渡ってきて、田畑の上空を飛ぶと、羽から痂皮という粉末が散って、作物ばかりか家畜や人間もイチコロだったとされている。毛利元就《もとなり》が隣国尼子《あまこ》の英雄・山中鹿之介を毒殺したときも、彼の盃にこの鴆毒をもったというし、古代カルタゴの名将ハンニバルが戦い破れ、ビテュニアで自害したときも、これを飲んだそうだ」
「へえ」
「この船なら、こういう中国の伝説の生物を積んでてもおかしかねえが、しかし、あのまま放っといたら、また大昔の悲劇の繰り返しだぞ」
「じゃあ、どうすればいいのよ?」
「逃げ出すか、奴らを始末するかだ。しかし、そもそも、最初の悲劇はどうやって切り抜けたんだ? 寿命のある奴らばっかりならいいが、そうじゃないのもいたんだろう」
「知らないわよ、そんなこと。あのお爺さんに訊いてみたら?」
「そうだ」
おれはようやく、ノアのことを憶い出した。リマは途中でいなくなった[#「途中でいなくなった」に傍点]というようなことを話してた。心臓の病気もちで、おれの背に乗らにゃ動けなかった年寄りが、一体、どこへ消え失せた? わからん。謎が多すぎる。
水びたしの廊下を行く途中で、何人もの男女に出食わしたが、みな、おれたちどころではないらしく、泣き喚きながら右往左往を繰り返していた。
大きなドアの前に出た。
「ここから、あたたかいとこ通って逃げる。安心だ」
「逃げるってどこへだ?」
「大と二人きりになれるところなら、どこでも」
「わからん女だな」
「はなし[#「はなし」に傍点]はあとできく」
リマが扉を開けると、むうっと熱気が襲いかかってきた。こりゃあいい。すぐ服が乾く。
「わ、大ちゃん――ここ温室よ!」
ゆきの声をきくまでもなかった。
これまた巨大なかまぼこ型の空間の所狭しと、緑や赤、紫、青――百花撩乱たる植物が美を競い合っている。茄子、胡瓜、唐辛子、メロンあたりはおれでもわかるが、あとは、グローブそっくりのやつとか、鼓に狸の尻尾をくっつけた極彩色の果実とか、ちんぷんかんぷんだ。
これから先のことを考え、おれたちは手分けしてもてるだけの果実をポケットに押しこんだ。おかげでポケットというポケットは総ぶくれ。タキシードもドレスもあったもんじゃねえ。
みなぎる光を放つのは天井だが、電気照明とガラスの組み合わせではなく、木の枝に何やら発光物質を定着させてあるように思われた。温度や光量の調節は、どこぞやのコントローラーまかせだろう。リマの仲間たちが五千年もの間、壊血病にもかからず過ごせた理由を、おれはようやく呑み込んだ。
3
リマに尾いて歩くに従い、果実や植物はますますグロテスクな様相を帯びてきた。実も葉も異様に大きく、地に墜ちた分が腐敗して放つ悪臭が、あちこちから立ち昇ってくる。
聖書によれば、神がノアに示した洪水の期間は四○日。それなりの野菜を積み込んでいればこんな大がかりな施設は必要ないから、後日、建設したものだろう。コントローラーが故障したという場合もありうる。それでも、壊滅的打撃も受けず、その存在すら知らない連中に緑の恵みを与えてきたとは、奇蹟に近いだろう。
「おい、そっちでいいのか?」
ジャングルみたいに木の葉がおい茂る方向へずんずん進むリマへ、おれは不安の声をかけた。
「大丈夫。こっちが昇降機への近道」
仕様がねえ。
言われるままに足を踏み入れ、五、六分進むと、ゆきがへばった。通路にぺったりと坐り込み、両脚をばたばたさせる。
「もう、駄目よお。足に豆ができちゃったあ」
「豆だあ!?――おまえ、まだ靴はいてたのか?」
「だって、フランソワ・ヴィヨンのオーダー品よ。シャルル・ジョルダンやタニノ・クリスティなんかの原宿かっぺと違うんだから。一足五万フラン(一五○万円)もしたのよ。絶対、持って帰るう!」
「わかった。貸せ貸せ」
「ふふふ、ほうら、とってごらん」
にょきりと肉付きのいい太腿が眼の前に持ち上がった。爪先で白い靴が揺れている。こんな状況でどういうつもりだ、この女は。
「ほら早くう」
片足の付け根近くまで露出させながら、ゆきは、なおドレスの裾を思わせぶりにたくし上げていった。おれは素早くリマの方を眼で追った。いない。行く先を点検しに出掛けたのだろう。
空気に突如、甘酢っぱい匂いがたちこめ、おれはめまいを覚えた。ドレスが優雅なだけに、むき出しの肉の生々しい印象は、平時の数倍も強烈だ。加えてまわりは密林同様ときてる。
「ほらってばあ。あんよが疲れちゃう。それとも、もっと奥まで見たいのかなあ。ノーパンだって知ってるのになあ」
おれの眼は自然と――本当だ!――ゆきの腿の奥へ吸いつけられた。
「やっぱり、見たいんだあ、ふふふ。じゃあ、ちょっとだけよ」
勝ち誇った眼でおれを見つめながら、ゆきはゆっくりと禁断のドレス位置を移動させていった。
さっき水中にいたときより心臓は激しく鳴り、口の中は滅茶苦茶に乾いた。
もう少し、あと三センチ……二センチ……
激しい足音がおれの欲望をあっちへ追いやった。
リマだった。
ほとんど同時におれも立ち上がっていた。ゆきに負けず劣らずへとへとだったが、超感覚は眠っていない。
何かいる。疲労のせいで距離も方向も霧に閉ざされているが、蠢く気配だけは感知できる。大き……くはないが……これは……。
「大、早く出よう。あぶない」
「同感だ」
おれはゆきの靴をズボンの尻ポケットへ突っこみ、立ち上がった。ふらりときた。出血多量かもしれない。あてた布切れをはずすと、血は止まっているが、傷口は今にも裂けそうだ。
「大、しっかり。大丈夫か?」
リマが近づいてきた。心配そうな顔でシャツの内側を覗き込む。おれはあわてて襟を合わせた。
「さ、案内してくれ」
「うむ」
不満そうにうなずき、リマは先に立った。ゆきには目もくれない。
左右の木々ははや十五メートル以上に達し、巨大な葉でおれたちの行く手を遮った。
リマが足をとめた。
おれも立ち止まり、ウェザビー・ライフルを肩付けする。目標は、五メートル前方の交差地点。
はたして、左手奥から、巨大な四足獣が姿を見せたのである。
ピューマに似た黄色の毛並み、顔つきからしてネコ科の生物には間違いないが、巨大な口の脇からのぞく、セイウチの如き二本の牙は――
一瞬で悟った。
剣歯虎――サーベル・タイガーだ!
一万年以前、更新世に存在していたという凶獣。全身を直立させ、雪崩れ落ちるように打ち込む二本の牙は、時にはマンモスさえ一撃で昏倒させたという。その威力の凄まじさは、後年発掘された化石のほとんどすべてにわたって、腰骨の異常が検出されたことからも証明されている。リマはこいつの檻まで開けてしまったのだ。
「大……」
「声を出すな。来たら、おれが仕留める」
凶獣の眼がゆっくりこちらを向いた。
ぐっと上半身を屈め、疾走の体勢に移る。
黄金の稲妻と化して跳んだ。
その心臓を貫く余裕と自信がおれにはあった。
ウェザビー・ライフルが咆哮する寸前、横あいの木々を押しのけ、極彩色の奔流が走った。
剣歯虎は空中で固着した。
想像を絶する巨大な口にがっぷとくわえられていたのである。
それを大蛇と判断するまでに、おれは一秒ほど要した。
ゆきの魂切るような悲鳴。
リマが解放した生物の一匹か。
そいつは、血みどろでのたうつ剣歯虎をくわえたまま、小型トラックほどもある頭部をぐいとこちらに向けた。
ほう、ここにいたかい。三人も。よしよし、今度はお前たちの番だよ。
おれたちは金縛りにあったように、身動きひとつできなかった。大蛇も動かない。くわえた獲物とおれたちと、どちらが旨いか考慮中なのだ。
「だ……だい……大ちゃん……どうすんの?」
「このまま根くらべされたら、体力的にこっちの負けだ。奴があれくわえてる間は襲っちゃ来まい。そっと歩いてやりすごすんだ。おれが見張ってる。リマの後ろについて行け」
「や、やよやよ[#「やよやよ」に傍点]。あいつの真ん前を通り抜けるなんて……」
「今さら戻るわけにゃいかんのだ。早くしろ! リマ、行くんだ」
「ええ」
震えを帯びているが、はっきりとした声でリマはうなずいた。こんな状況でなければ、キスのひとつもしてやりたい気分だった。
リマはゆきの手をとり、ゆっくりと一歩を踏み出した。
血も凍る想いとはこれだろう。
すでに弱々しく喘ぐばかりの剣歯虎をくわえた大蛇の顔から一メートル足らずのところを通過しなければならないのだ。
二人とも発狂寸前だったろう。
足が震えている。一歩、また一歩。
蛇は動かない。冷たい爬虫類の眼はひたすらおれに注がれている。
ゆきの足が止まった。
蛇の真ん前で。
恐怖のあまり、筋肉が麻痺してしまったのだ。蛇ににらまれたセクシーな蛙の役を果たそうとしている。
恐怖と苦痛が汗となって全身から噴き出す。傷ついた身に四キロ近いエレファント・ライフルは辛い。筋肉が震え――あ、傷口が裂けた。汗とは別に生あたたかいものが胸から腹を伝わっていく。気色悪いったらありゃしねえ。
こら、ゆき。
動かない。リマが手を引くのだが、動こうとしないのだ。自殺願望に支配されている。逃げる途中をガブリとやられるより、覚悟の上で死にたいのだ。
蛇の顔が曇った。眼に汗が入ったのだ。ライフルがすっと下がる。
リマの左手が音もなくゆきの腹に吸い込まれた。前のめりになる身体を肩にかつぎ、歩き出す。
おれは、生まれて二度目に、女を尊敬したくなった。最初は銀麗だ。
次はおれの番だった。
危《やば》い。ライフルを構えたままじゃ、銃先《つつさき》が蛇の鼻に触れてしまうのだ。しかし、下ろしたところを襲われたら、いちころだ。
蛇は見ている。じっと見ている。ライフルがあるから襲えないのだと知っている。
おれはライフルを下ろした。
必死で自己催眠に入ろうと試みる。
恐怖は消えなかった。
それでも歩き出す。
横へ抜けるまで八歩というところか。
四歩で真正面をすぎた。
あと一歩で視線がはずれる。
はずれなかった。
動いている。おれの後を追っている。もう、七歩すぎたのに。
顔がぐう〜っと……
ぽとりと剣歯虎が床に落ちた。
眼の前でかっと真紅の口が割れた。視界を覆う紅蓮の口腔。
ライフルを肩付けできたのは、自己催眠より奇蹟の力といえた。しかし、間に合わない!
絶望の黒い一点に凝集する気力を、軽快な連続発射音が甦らせた。
巨大な口が血飛沫を上げてのけぞった。
ガリルの完全自動射撃《フル・オート・ファイアリング》だと気づくより早く、おれは曲がり角へ跳んでいた。
撃ちまくるゆきのかたわらで体勢を立て直すなり、ウェザビー・ライフルを構える。
蛇は木々の間へ後退していくところだった。本来なら追い討つ必要などない。おれに引き金を引かせたのは、人間のもつ、異形なものに対する原初的恐怖だった。
凄まじい反動が右肩を襲った。巨象すら一撃で屠るウェザビー・ライフルは、それにふさわしい射手を要求する。おれには体重面で役不足だったようだ。
肩への衝撃はうまく逃がしたが、前足がふわりと浮き上がってしまう。
大蛇の左眼のあった位置にぼこりと大きな穴が口を開けた。赤い肉片と眼球の破片が噴き上がる。頭骨から脳まで破壊する予定だった弾頭は、意に反して片眼とその周辺部分を削りとるに留まったようだ。姿勢が悪かったのと、おれがウェザビーを撃ち慣れていなかったせいである。
巨大な爬虫類の顔は血の尾を引きながら林の中へと消えた。
「いまだ」
叫んでリマが走り出した。ボルトを引いて煙をあげる空薬莢をはじき出しながら、おれも後を追う。残りは二発。四六○ウェザビー専用ライフル・ウェザビー・マークVは弾倉《マガジン》に二発、薬室《チェンバー》に一発――計三発が許容量だ。またシャツの袖を破いて、開いた傷口にあてる。
「どう、あたしの射撃、大したもんでしょ?」
なかなか様になった格好でガリルを抱えるゆきが言った。恩を着せることだけは忘れない。
「当然だ。学校から帰るたびにマンションでバリバリやってるんだからな。こんなとき、役に足たんようじゃ、弾丸《たま》の無駄使いだ」
「なにさ、せっかく助けたのに。馬鹿もの」
おれは無言で、先頭をゆくリマのタキシード姿に眼を向けた。矢筒が揺れている。おれと暮らすことだけを夢見て、それ以外は何も望まぬ女。大蛇の鼻面へあの[#「あの」に傍点]一秒足らずのうちに二本の矢を射込んで、何も語らぬ女。たまには女にしとくのが惜しい女もいるものだ。
背筋を冷たいものが撫で、おれは背後をふり返った。
「どうしたのよ?」
ゆきが妙な顔できいたが、おれは無言で走りつづけた。
何かが追ってくる。さっきの蛇ではない、恐らくはしっこく[#「はしっこく」に傍点]、そのくせ、霞みたいに実体を感知させぬ何かが。
リマが振り向いた。顔色が青い。やはり感じたのだ。
「あれ[#「あれ」に傍点]か――大?」
「いや、蛇じゃねえ。人間だろう[#「だろう」に傍点]。心当たりはないか?」
「ひょっとして……」
おれは驚いた。リマが立ちすくんだのだ。
「あるのか!?」
「……セムかもしれない」
「なんだ、そりゃ?」
「仲間いちの戦士。吹き矢の名人だ。とても身がかるくて、まうしろにこられてもわからない。狙ったものはかならず仕留める」
「そいつがくっついてきたのか? まさか、吹き矢は毒が塗ってあるんじゃなかろうな」
「もちろん、塗ってある」
「おまえ、なんとか話をつけられんのか?」
「だめ。きっともう、わたしが仲間を裏切ったと知ってる。セムに狙われたらまず助からない」
一難去ってまた一難か。
「大はだいじょうぶ」
不安げな表情でも認めたか、リマはすかさず、力強い声でいった。
「わたし、かならずおまえを守る。父にも見捨てられた生命、誰でもない、おまえが救ってくれた。今度はわたしが助けるばん[#「ばん」に傍点]」
「なら最初から逃がしてくれりゃよかったんだ」
おれは右肩の止血帯を押さえながら文句を言った。糞、なかなかとまらない。
「あのときは、わたし、大がにくかった」
じろりとゆきを見て、
「こんな小娘をわたしより大事におもっていた。おまえが処刑されたらわたしも後を追うつもりだった。でも、やっぱり、できなかった……」
低くかすれた語尾を振り切るように、リマは前方を指さした。
「外だ」
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第六章 敵
1
おれたちが脱出したのは、温室の裏口――リマの居住区から二、三百メートル船尾寄りの部分だった。驚いたことに柵の間に破砕孔があり、リマの案内で易々と外へ出ることができた。五、六〇メートル前方で、エレベーターの巨大な箱が雨に煙っている。
その手前、獣の皮膜か何かをつなぎ合わせたらしい半円形の幌の内部に透けてみえる影は――。
輸送機だ! 双発のプロペラ機だが、この船に乗ってはじめてみるおれたちの世界のメカに、おれは感動さえ覚えた。
真っすぐ船首を向いている。途中のバリケードをかっさらえば、一万五千メートルの甲板は滑走路として十分の機能を果たすだろう。オハラたちが眼の色を変えて修理道具を欲しがるわけだ。
「だ、大ちゃん。これで逃げれるわよ!」
ゆきの歓喜の叫びをおれは無視した。うれしいのは山々だが、そういう時こそ冷静さが必要となる。
エレベーターまで行くついでに、おれは機内に入り、コクピットを点検した。ドアはノー・ロックだった。三年間、雨風に打たれっぱなしの割に、傷んでいない。燃料もほぼ満タン。その気になれば、いつでも飛び出せる。気分が高揚し、口笛のひとつも吹きたくなってきた。武器と食料は見当たらなかった。
すぐ外へ戻り、エレベーターに入った。ゆきが、飛行機で逃げようとぶつくさいうのを無視し、
「こいつはどこ行きだ」
「わからない」リマはあっさり言った。「誰も使ったことない。すぐ下へいくには階段を使う」
答えながら、平然とタキシードを脱ぎはじめたので、こりゃ、しめたと思ったが、ゆきの鋭い視線に気づき、おれはそっぽを向いて取っ手の方へいった。試してみるしかない。
エレベーターはゆっくりと動き出した。今までのにくらべてかなりスローモーだ。背中と尻をこちらに向けてタキシードを絞るリマへ、「よく、あんなもの[#「もの」に傍点]後生大事にとっておいたな」とおれは言った。飛行機のことだと、リマはすぐ呑み込んだ。
「空を翔ぶものを見たのはあれで二つ目。しかも、降りてきた」
「神さま並みの扱いか。ところで、二つ目といったな? もうひとつは何だ?」
「わからない。子供のときからいる。気持ちの悪い声をあげて空をとびまわっている」
あいつ[#「あいつ」に傍点]か。
「そのたびに、世界がゆれ、雨がふり、空に光が走る。何人も死んだ。だから、声がきこえると、みな家のなかに入り、うごかない」
「奴はいつ頃から飛びまわってるんだ?」
「わからない。父の父が、その父のまた父から、いた[#「いた」に傍点]という話をきいている」
やはり、間違いなさそうだ。ノアさえ見つかれば、話がきけるのだが。
かなりゆるやかな下降速度が、不意に鈍った。
またも巨大な廊下と空間がおれたちの前に広がった。
「ここはどこだ?」
「わからない。はじめて来る」
「さっきの化け物を閉じ込めていた船室じゃなかろうな」
「わからん」
「ねえ、どうするのよ、これから?」
ゆきがガリルをいじくりまわしながら、ややヒステリックな声で訊いた。見ると、床に坐りこんでいる。
「あたしもう、ほんとに動けないからね。こんな化け物のウヨウヨしてる船ん中、あっちゃこっちゃと引き回されるのは願い下げにしたいわ。さっきの飛行機で帰ればよかったのよ。なにさ、世界最高のトレジャー・ハンターだなんて吹いてるくせに、飛行機の操縦ひとつできないの?」
ふう、とおれはため息をついた。
この辺がしおどきかもしれない。なにせ、すべては偶然だったのだからな。目的もない冒険行は腹が減るだけ無駄だ。オハラ兄弟やノアがどうなるかはわからんが、逃げるなら早い方がいい。
おれは修理道具を取りに行く気になっていた。
「とりあえず、安全な場所を探そう。おまえたちをそこへ置いて、おれはひとりで飛行機の修理道具を取りにいく。場所はあの巨人のねぐらだ。何が起きるかわからんが、帰るまで待て」
それぞれの言葉で二度説明すると、二人は全く同じ返答をよこした。ただし、動機が異なる。
「あんたが帰ってこなかったらどうするのよ。ひとりで飢え死になんてやだ。あたしも一緒にいく!」
「大ひとりで危ないとこやれない。わたしもいく」
知り合うのが遅かったな、リマ。
「ともかく、ねぐらを探そう。あまり、甲板に近いと上から狙われるし、下には猿人とあのでかぶつがいる。ここくらいの中間層がよさそうだ」
おれたちはエレベーターを出た。
人魚とやり合う前にしこたま食っといたから、飲まず食わずで二、三日はもつだろう。その間に修理道具を手に入れるしかない。
巨大な廊下には荒涼の気がただよっていた。
生きるものの気配はない。
壁に沿った扉は意外と小さく、軒なみ破壊されたそのひとつを覗くと、囲いも極端に狭い。この階は小動物専用だったらしい。
遠くで耳慣れた音がした。
「銃声よ!?」
ゆきがおれの方を見た。
この船で銃なんぞ使うのは、あと、オハラたちしかいない。
「どうするの、大ちゃん?」
「面白え。あてもなくうろつくより、あいつらとっ捕まえて、食料や衣類を失敬した方がよさそうだ。三年もいたんだ。アジトくらい持ってるだろ」
「わあ、追い剥ぎだ」
ゆきが嬉しそうにガリルの銃身に頬ずりした。
リマにも事情を説明し、賛同の意を得ると、おれは先頭に立って銃声の方角へ進んだ。
衰えたりとはいえ、一度聴いた音の発生地点くらいは確実にわかる。
直線距離で一キロほど先だ。
四方に注意しながら進む。あちこちに白い骨がちらばっているのはおなじみの光景だ。
銃声が連続した。ライフルではなく拳銃のようである。
あと二○メートルというところで、足音が向こうからやってきた。
素早く曲がり角に身を隠す。
複数がもつれ合う足音だ。片方はびっこをひいてるらしい。
あと二メートルというとき、おれはウェザビー・マークVを肩付けして廊下へとび出した。
愕然としながらも、オハラは銃口に顔をぶつけず停止した。さすが一流のトレジャー・ハンターだ。
「およし!」
ガリルを構えたゆきが、ブローニング・ハイパワーをおれに向けかけたジムを凍結させた。
もうひとり愕然とした人物がいる。
おれだ。
ジムの背中で、横柄にうなずいてみせた白髪の主はなんとノアだった。
「待ってくれ。追われてるんだ。こんなとこで問答してる場合じゃないぜ」
「誰だ、相手は?」
「あの猿どもだ」
「じゃあ、武器だけもらおう」
「おっと、ひとりでも撃てる人間がいた方が有利だぜ。あいつら、百や二百じゃきかねえんだ」
「必要になったら返してやるさ。爺さんとリュックは持ってていいぜ」
おれは素早く身体検査をして、オハラからコルト・ガヴァメント四五口径とナイフ、ジムからはブローニングHPを取り上げた。
「大――来るぞ!」
リマが叫びざま、矢を放った。
廊下の奥でぎゃっと悲鳴があがり、何かが唸りをたてて飛んできた。棍棒だ。
「行け!」
おれの叱咤に、オハラとジムは一目散で走り出した。ゆきとリマが後につづく。
すでに黒い影がびっしりと埋めつくしている廊下の向こうに、おれはわざと狙いをはずして一発ぶっ放した。
驚愕の叫びが湧き、影たちはちりぢりになった。ああいう連中には、多弾数の小口径ライフルより、どでかい音と派手な火花の方が効き目がある。
しかし、いつまでたっても、肩の傷が塞がらんな、これじゃ。
おれも身をひるがえした。
オハラたちがとびこんだのは、エレベーター孔近くの一室だった。というより、壁の一部を切りとって、後で埋め込んだもので、内側からぴたり接着すると、外見には単なる壁としか映らない。
ぜえぜえ言ってる兄弟に、おれは重いウェザビーのかわりにジムのブローニングHPを突きつけ、あらためて身体検査をした。
オハラの後ろ襟からは安全カミソリの刃、ズボンの裾には絞殺用針金、ベルトの背にくくりつけたコルト・コマンダー四五口径が見つかり、ジムの内ポケットや袖の内側からは、鋭く研ぎ澄まされた手術用メスが二○本近く出てきた。ブーツの底や中身も一応点検する。
リュックの中は肉の缶詰やチョコレート、水筒ふたつの他に、四五口径弾丸や九ミリ・パラペラム弾の百発入り紙箱が二つずつ、それとダイナマイトが五本もでてきたのにはまいった。導火線とライターのガス・ボンベも無論ある。
医療キットをみて、ゆきが眼をかがやかせた。ノアはと見ると、部屋の奥でちゃっかり横になっている。
かなり広いが、何の設備もない殺風景が売りもののような部屋だった。工事が中止になったものを、オハラたちが見つけ、アジトのひとつに利用しているのだろう。
ゆきに見張らせて部屋中を点検したが、奥の方にベッドがわりの獣皮と缶詰が二、三あるきりだった。獣皮の一枚はノアが使用中だ。
「膝までズボンを脱げ」
おれは二人に命じた。オハラが妙な顔つきで、
「おめえ、そっちの気もあるのか? こんな色っぽいのを二匹も連れてよ?」
「おまえと違うよ、トンチキ」おれは片手で医療キットから消毒薬の瓶を取り出しながら言った。リマに手渡し、手真似で口を開けろと指示する。「――膝の上で軽くベルトを結べ。なんとか歩けるくらいにな」
こうしておけば走ったり飛びかかったりは不可能だ。二人は苦い顔で従った。毛むくじゃらの小汚い足を四本も見せられ、おれは吐き気に襲われた。
「ねえ、あんた、ようく見てごらん」
ゆきが凄みのある声を出したので、おれはぎょっと様子をうかがった。
ジムの前に太腿を突き出し、ついでに額へガリル・ライフルの銃口を突きつけたのだ。
「この前はさんざん可愛がってくれたわね。たっぷり、オッパイまでもんじゃってさ。ほら、自慢の腿が目の前にあるわよ。キスなりなんなりしてごらん」
固い音をたてて、メスが一本、ジムの足元におちた。ゆきが放ったものだ。
「お気に召したら、それで切ってもいいのよ。血を吸ってもいいわ。もっと奥ヘキスしたっていい。そのかわり、指一本あたしに触れたら、あんたの頭、柘榴みたいにしてあげる。愛しいお兄さまの眼の前でね。――どう、試してみない。あんたがあたしの喉にメス突きつけたみたいに、あたしも身動きできない男の頭を吹っとばすのが趣味なのよ。こんな素敵な足にキスしながら死ねるなんて、男冥利に尽きるんじゃなくて?」
まくしたてるのは日本語だから、ジムにはわからない。しかし、その形相の凄まじさから、「お返し」だというのは察しがついたようだ。青白い痩顔を汗の珠が埋めた。
「さ、どうしたの? メスを拾いなさいよ。あんたの得意技でしょ。女の肌を切り刻むのは」
「おい、ミスター八頭」とオハラが焦ったように声をかけてきた。「あの女、本気でジムを殺る気だ。止めてくれ。無抵抗なんだぜ、こっちは」
「さっきはゆきも無抵抗だったさ」
おれは冷たく言い放ってから、
「もう、そのくらいにしとけよ。奴さん、すっかりビビっちまってる」
「ふん。わかりゃいいのよ」
今までの迫力はどこへやら、ゆきはすっかりブリッコ口調で、
「ねえ、傷、大丈夫?」
「なんとかな」
おれは消毒液でひりひりする傷口へガーゼを押しあてながら言った。身を屈めて、ジムの足元からゆきの放ったメスを取る。
「少し眠りゃ大丈夫だ。おまえは先に休め。おれはリマとこいつらを尋問する」
「どういう意味よ、それ?」
ゆきの表情はみるみる猜疑の色に染まった。
「お姉さまが来てから、あんた、あたしをないがしろにしすぎるんじゃなくって。なにさ、ちょっと色っぽいのが出てくると、コンマ一秒で鼻の下のばしちゃって。大体あんたはね、女に対してポリシーがないのよ、ポリシーが」
話が大きくなってきた。
「美人が好き、肉付きのいいのが好き、やせっぽちも好きで、オッパイが立派なのも好き、お尻がでかくて腿に脂肪《あぶら》が乗ってりゃなお大好き。――要するに女なら何でもいいんじゃないの。ついでに頭がカラッポだと都合がいいんでしょ。精神や知性に惚れないのね。あんたみたいな男は女の敵。ダッチ・ワイフでも抱いてりゃいいのよ」
あまりの見幕にフガフガ聞いてたおれも、さすがに頭に来てひと言言い返そうと決心したとき、びゅっ! と空気が鳴って、ゆきの鼻先をかすめた矢が、偽装扉に突き刺さった。
「大――どうした? この女、おまえに文句をつけているのか?」
前もって指にはさんでおいた二の矢を弦《つる》につがえながら、リマが低い声で訊いた。オハラが思わずふり向いたほどの迫力がこもっている。青くなるかと思ったが、ゆきはにっこり笑って、
「ああ、びっくりした。ひどいわ、お姉さま、ちょっとした冗談よン」
「大、何と言ってる? その気があるならわたし、いつでも闘う」
ここにも敵同士か。おれは頭を抱えたくなった。首と胸の傷が急に痛みを増す。
「ちょっとした口喧嘩さ。気にするな。おまえもゆきと休め。おれはこいつらを尋問する」
「わたしも手伝う」
「勝手にしたら――ふん。あたしは寝るからね。詰まんないから、自分で慰めようっと」
聞き捨てならない台詞を吐くと、ゆきはさっさと奥へ移り、獣皮をかぶってノアの隣に横になった。ガリルは抱えたままだ。
「さてと。じゃあ、質問に答えてもらおうか」
おれはジムの頭にハイパワーをポイントしたまま、オハラに宣言した。
遊底《スライド》は引き、薬室には第一弾が発射のときを待っている。ハイパワーの九ミリ高速弾は、オハラのコルト45にマン・ストッピング・パワーでこそ及ばぬものの、二メートル足らずの距離でなら十二分に殺傷力を発揮する。対人用として勝れているのは四五口径か九ミリか、世界中のシューターから議論百出して、いまだに結論が出ていないのだ。
「まず、どうしてお前らがノアと一緒にいる? それから、修理道具を隠してある巨人のねぐらてなどこだ?」
「おお――行ってくれるのか!?」
「阿呆、喜ぶな。無事に戻ってこれるかどうかもわからねえし、戻ってきたからって、おまえらを連れてく気にならんかもしれんぞ。断っとくが、双発機の操縦ぐらいおれにもできるんだ」
「わかったよ。連れてってくれりゃ何でも言うことをきくさ。こんな化け物じみた船旅はもうたくさんだ」
「そうだ、想い出した!」
奥の方で、ゆきがまた喚いた。
「この船のことよ。――大ちゃん、あんた、乗り込んだときから、何か勘づいてたわね。ひょっとして、この船、斯界《しかい》では知る人ぞ知るっていう有名人じゃないの?」
「大当たり」とおれはオハラ兄弟に眼を向けたまま言った。
「この船のことは、紀元前から、船乗りや海洋関係者の間で話題になってたんだ。エジプト古王朝の、禁断の書ばかり集めた図書館のパピルスにも“平穏な海、不意に荒れ、大いなる船影見ゆ”と記されてるし、ビザンチウムのフィロが選んだ世界の七不思議のひとつ、アレキサンドリアの大灯台の日誌にも、“雲のごとき巨船、洋上を行けり”とある。その他、古代から中世、近代にかけて、単なる目撃例ならごまんとあるよ」
「あたし、知らないわよ、そんなの」
「知ってるわきゃないさ。この船くらいのスケールになると、あんまり現実離れしてるんで、目撃した奴らがシラけちまうんだ。ただでさえ海洋奇談てのは、ホラ話扱いされるものが多い。だから、できるだけリアルな方が相手に信じさせ易いんだが、――考えてみろよ。朽ちた幽霊船や深海の大海蛇ならともかく、長さ一五キロの木造船なんて、真面目な顔で言ったらどうなる?」
「病院行きね」
「だから、みな、口をつぐんじまうんだ。もっとも、単なる幻じゃないってのは早くからわかってて、乗り込もうとした連中も随分いるらしい。シラクサの友人にあてたアリストテレスの書簡によれば、プラトンは紀元前三八七年の春に現れたこの船をアトランチスの乗り物だとして、弟子ふたりを伴い、ボートで接近したとあるし、日本に通商条約を求めて来航したペリーは、途中、この船を目撃、乗船の意図を信号で伝えたと機密文書に残ってる。おれたちトレジャー・ハンター仲間でも、実は未確認潜在秘宝のひとつだったのさ。ま、乗船成功第一号の栄光は、このおふたかたのものだがな」
「ふーん。わかった」
言うなり、ゆきはまたそっぽを向いた。
「さ、きかせてもらおうか」
おれは今度こそ、誤魔化しを許さぬ鋭い口調でオハラを促した。
オハラの話というのはこうだった。
あの居住区を脱出してすぐ、二人はアジトへ戻り、残った武器・食料をかき集めて、なんと、おれ[#「おれ」に傍点]の救出に向かったのだという。飛行機の修理道具を取りにいけるのがおれひとりだと考えれば、至極当然の行為だ。
そこへ、全く偶然としか思えないのだが、ノアが訪れた。どうやって逃げ出したのか、いや、どうしてここがわかったのかと仰天するふたりに、ノアは驚くべき、そして多分に珍妙な提案をしたのである。
あの巨人の正体と弱点を教える代わりに、彼のねぐらから、ある品物をとって来て欲しい、と。
「なんじゃ、それは?」
「海図《チャート》だよ」
「ふざけるなよ。弟の生命がかかってるんだぞ」
おれは脅しのつもりで怖い顔をしてみせた。
「冗談じゃねえ。なんでも爺さん、大分前にそれを書きかけたんだが、そこを巨人に襲われ、持ってかれちまったというんだ。それがあると、爺さん、安らかに眠れるんだとよ」
海図を抱いて熟睡する老人か。漫画《コミック》にもならねえ。おれは頭をかいた。
「しかし、あの巨人、おかしなものに興味をもつな。一体、何者なんだ? それと、弱点てのは?」
「わからねえ。自分を連れて下へ行くまでは教えねえと吐《ぬ》かしやがるんで、拳銃を突きつけたが、びくともしねえんだ。ただ、正体だけは教えてくれたよ」
「何だ、そりゃ?」
聞いて驚いた。あの巨人は、船内の怪物掃討用にノアがこしらえたものだというのである。いかなる怪我も再生する超細胞と生命力を有し、生きとし生けるものの殺戮を目的に造られた巨人。彼は見事にその任務を果たした。
だが、ただひとつの誤算に気づいたとき、ノアは顔色を失った。わずか三日の製作日数で造り上げた結果、脳内部に損傷が生じ、巨人はノアの命令に服従することを拒否したのである。史上最強最悪の殺人鬼を造り上げたことに、その瞬間、ノアは気づいた。
しかも、ノア自身の悪戯っ気は、巨人に我欲を付け加えていた。美しいもの、他人が大事にするもの、欲しいもの――そのすべてを独占したいという飽くなき欲望を狂った頭脳に移植され、巨人は世に生まれ出たのである。
「それで人の持ちものを欲しがるのか。コレクターの正道を行く野郎だ」
ふと、思いついて、おれは訊いてみた。
「あの猿人は何者だ?」
「雑用させるのにこしらえたそうだ」
「なんでもかんでも手作りか。器用な爺さんだぜ」
「大ちゃん――大変!」
ゆきの叫びにふり向きかけ、おれはかろうじて二人から眼を離さずどうしたと訊いた。
「お爺ちゃん、ガタガタ震えてるのよ。身体じゅうずぶ濡れなの!」
「なんだあ? さっきはそんな――」
おれはハイパワーを構えたまま、ゆきの方へ後じさり、二人を見張っているよう命じた。
ノアの額に手をあてる。
ぞっとする冷たさだ。濡れている。ボロ服もびしょびしょだった。
おれは茫然と青白い横顔に眼を注いだ。
まさか……
「大丈夫か」ときいても返事はない。こちらに背を向けて震えているばかりだ。
おれは医療キットのところへ戻り、ゆきに水筒と解熱剤を手渡し、身体を拭いてやれと言った。
気が沈んでくる。
おれのためなら殺人も辞さぬ野性のグラマーと、おれの足を引っぱるために生まれてきたような悪態娘、悪党に殺人鬼、プラス、屋根の下でいつの間にか水をかぶって震えてる老人――実に個性的なグループだ。
おれの心中を見取ったか、オハラが嘲笑するように言った。
「若えのに家族を支えるのは大変だな。どうだい、おれのライフルを返してくれたら、叔父さん役ぐらいやってやるぜ」
「やかましい。貴様、パンツまで脱がされたいのか? さ、それより、化け物のねぐらの様子でもきかせてもらおうか」
脱出への可能性がおれの双肩にかかっているのは知りくさっているから、オハラも自分から舌を動かし、おれは船底の地理について、大方のところは知ることができた。
二人の手足を縛り上げ、竜眠のツボを押して眠らせると、ノアの看護はゆきにまかせ、おれは全員が見渡せる位置の壁を背にごろりと寝ころんだ。
心配してた通り、リマがすぐ傍らへやってきた。
「大、あいつら、眼を覚まさないか?」
「安心しろ。おれがくすぐるまで一生だって眠りつづけてる」
「なら、いい」
リマはそっと顔を近づけてきた。眼に異様なかがやきがあった。好きになれば即、愛の行為を求める。躊躇とか逡巡とかは、この野性の美女に無縁のものなのだ。
おれは、あわててゆきの方を見、こっちに背を向けてるのを確かめてから、リマと唇を重ねた。くくく、このスリルとサスペンス。
リマの舌は情熱的な蛇のように、おれの唇をなぶり、口腔内をかきまわした。こっちの舌の誘いを微妙に拒み、からかい、応じる。小刻みに舌を吸われたとき、おれの下半身はどうしようもなく熱を帯びていた。こわばりにリマの手がのびる。
「う……うう。こら、何をする……?」
わざとしかめつらで呻きながら、おれは左手でリマの手をつかみ、もっと奥へと前進させた。中途半端はよろしくない。
「ああ……大……」
リマが唇をはなして喘ぎ、またすぐ吸いついた。官能の声を呑み込み、狂ったように唇をねじる。
その狂態におれも我を忘れて、タキシードの裾から手を入れ、厚い腰を引いた。ヒップの丸みに指を滑らせ強く揉むと、リマは身を反らせた。すかさず白い喉に、おれの唇が蛭みたいに吸いつく。こってりと這わせる舌に、ぴりりと汗の味がしみた。
身を震わせながら、リマはおれのジッパーを引き下げた。わ、涼しい。尻にまわした指を窪みに沿って上下させる。あっと激しく痙攣して、リマは一気におれの腰に乗った。
熱く湿った感触がおれのものを包んだ。
眼の前から美女の顔が消え、タキシードの胸元から半ばこぼれる肉の果実が顔面をつぶした。柔らかくて張りもある。理想的な乳房だ。リマは自分でタキシードの胸を開き、両手でおれの頭をかき抱いた。必然的に乳がつぶれる。黙ってる手はないので、おれはぬめぬめする球体を激しく吸い、音をたてて舌を這わせはじめた。鴇色の乳首も口に含む。
リマの声は獣に変じた。遮二無二腰をふりたくり、おれの髪をかき乱す。絶頂感がおれの腰を突き上げた。あっあっあっ……。
その瞬間、おれは猛烈な力でリマを突きとばしていた。
「どうした……大?……」
まだ忘我の感覚から醒めやらぬ、うっとりした声と表情が、おれの顔を見てこわばる。
おれは扉を見ていた。その向こうを。
分厚い木の密度を突き抜けてびょうびょうと吹きつけてくるものがあった。殺気だ。
セムの二文字が脳裡をかすめた。
だが――なぜここがわかった!?
「大――?」
リマの声が遠くできこえた。
明らかにおれたちの居場所を勘づいてやがる。おれは、リマとの最中も離さなかった右手のブローニングHPに精神を集中した。武器による「威示」を思念にこめて殺気の中心へ叩きつける。
わずかな動揺。
次の瞬間、殺気はふっと消えた。
全身を弛緩させて、おれは壁にもたれた。普段ならともかく、手傷だらけの今はこたえる。
油断するわけにはいかなかった。敵が移動したという保証はない。おれたちの居場所を知った以上、扉の真正面で待ちかまえているかもしれないのだ。
「大――どうしたの? まだ、終わってないのに……」
リマがにじり寄ってきた。さすがに照れ臭そうだ。はじめて眼にする女らしい表情をゆっくり観賞している暇がおれにはなかった。
「セムって奴がいたな」
「ああ。――彼が来たのか!?」
「わからねえ。凄い殺気を放出してたのが、不意に消えちまいやがった。こうなると位置もわからん。弱肉強食の世界で身につけた術だろうが、恐ろしい相手だ」
おれは左手で額の汗を拭った。冷や汗だ。
「セムの得意技は吹き矢だと言ったな。どうやって相手に近づく」
「わからない」リマはあっさり首を振った。「でも、あの男がいったん狙った獲物を仕損じたのは見たことがない。下で飼ってた獣が逃げ出したときも、二日後にひとりで追いかけ、すぐ仕留めてきた。どこへ逃げても必ず見つける」
「いけすかない野郎だ。仲間を連れて戻ってくるか?」
「その点は安心。彼、最高の戦士。強い誇りの持ち主だ。自分の狙った相手、絶対に他人に手出し、ゆるさない」
「そりゃありがたい。なんとか解決のメドがついた」
扉にはジムたちが即製の閂をつけてある。大して頑丈な代物じゃないが、誰かが忍び込むのを知らせる役ぐらいには立つだろう。
こういうとき、おれは余計な心配して、精神を疲労させないよう心がけている。いざとなったら、そのときはそのときだ。
「寝るぞ。あっち行け」
「でも……」
「おまえまで、ゆきの真似をするな!」
一喝され、リマは恥ずかしそうにおれの隣に身を横たえた。妙に素直だ。怪しい。
ゆきもノアももう眠っているようだった。
泥のような眠りにおちる寸前、おれは、熱い腕がそっと肘に巻きつくのを感じた。
思わず微笑したくなるほどやさしく、つつましげに。
2
翌朝、缶詰と水で腹をふくらませてから、おれたちは船底遠征に出発した。おれとリマと――ジムである。
リマはどうしても一緒にいくと、自分の喉でも突きかねぬ勢いだったので、やむを得ず承知したのだが、ジムの方も船底の地理に詳しい男が要るだろうとオハラが言い出し、それもそうだとOKしたのである。
おれの命令に絶対服従を誓いはしたものの、眼の奥によどむ憎悪は最初《はな》からそれを裏切っており、目的の品を手に入れたら牙を剥くのは一目瞭然だった。なあに、こっちも道具を手に入れたら殺人狂に用はない。置き去りにするなり、ズドンと一発撃ち込むなり、始末をつける手はいくらもあるさ。
ゆきはノアと残すことにした。
おれとしては、ノアを同行したかったのだが、昨夜来、元気がなく、汗まみれでがたがた震えているばかりで、質問にもロクに答えられぬ有り様。やむを得ず残すことに決めた。
「いいか、おれたちが戻るまで、絶対、ここを出るなよ」
憮然たる表情のゆきに、おれは厳しい声で申しわたした。
「甘い男の声で開けゴマされても、夢々ドア開けるんじゃねえぞ」
「ふん。あたしには、お爺ちゃんの看病って大切な仕事があるのよ。いま、おかしな目にあうわけにはいかないの。余計な心配せず行っといで! 断っとくけど、お姉さまの色気に惑わされて、しくじるんじゃないわよ」
威勢のいい啖呵に、おれは少し気が楽になった。オハラはもう一度眠らせたし、おれをつけ狙う影についちゃ、それほど心配はしていなかった。標的はおれひとりなのだ。どこかで見張っている以上、おれが外出すれば絶対、後を尾けてくるに決まってる。ゆきとノアの心配するより、その方がよっぽど気苦労が少なくて済む。
廊下には誰もいなかった。気配もゼロ。立ち去ったのではなく、見事に気配を隠しているのだ。手強いもいいところの相手だった。
数歩いくと、扉をはめ込む音がした。しっかりしてやがる。
「断っとくが、おかしな真似するのは、修理道具を手に入れてからにしろよ。おれもおまえを撃ちたくてウズウズしてるんだ」
おれの脅しに、ジムは薄笑いを浮かべただけだった。眼は、リマの胸と腿に吸いつけられている。見事な女体をメスで切り刻む手順を思考中なのだろう。ときどき涎をすすりあげるのがその証拠だ。どんな男でも、女に対する趣味を最高度に発揮したくなるよう挑発するものがリマの肢体にはあった。
廊下を幾つも曲がり、ばかでかいエレベーターの前に着くと、ジムが指さして言った。
「これさ」
「どうしてこれ[#「これ」に傍点]だ? 今まで幾つもエレベーターがあったぞ」
「他のは直通だの、各駅だのでな、こいつは船倉の二つ上で停まる。そこからは階段を使うんだ。奴のねぐらへ直接入る通路があるのよ」
まだ嘘はつくまい。おれたちはエレベーターへ入った。
下降する間に、武器を点検する。四六〇ウェザビー三発を込めたマークVライフルとポケットの予備弾丸九発、ベルトのホルスターには四五口径ACP弾八発を装填したコルト・ガヴァメントが収まっている。予備弾倉は二つ――十四発分だ。どうも頼りない数だな。ベルトには他に五本のダイナマイトが突っ込んであるが、これはこれで扱いにくいし、痛し痒しというところだ。
リマは得意の弓と槍の他に、おれを救ってくれた銛の穂先をナイフがわりにベルトへさし込み、もともとジムが使っていたそのベルトには、ブローニングHP九ミリ十三連発がフル・ロードでホルスターに収まっている。リマは動きづらいと嫌がったが、強引につけさせた。
出がけに撃ち方を教えてある。実射はまだだが、リマならすぐ呑み込むだろうし、何といっても弓や槍の速度は、秒速四○○メートル強で素っとぶ九ミリ高速弾には及ばない。四五口径ガヴァメントをもたせなかったのは、九ミリHPの方が射撃時の反動が少ないからである。おれのガヴァメント同様、初弾は薬室《チェンバー》に送り込み、撃鉄《ハンマー》はフル・コックしてサム・セフティをかけてある。いざとなったら親指《サム》でセフティをはずせば、後は引き金を引くだけで弾丸《たま》が出る仕組みだ。
「一体全体、この船は何層あるんだ。聖書じゃ確か三階建てのはずだぞ」
「へへ……残念だったな。ありゃ、おめえ、いちばん下と二階と三階に戸をつけろと書いてあるだけで、船自体を三層に分けろなんざどこにも記されてねえ。俗説に惑わされねえこった」
「やかましい。貴様のような半気狂いから俗説なんて説教される筋合いはねえ」
武器がないのをいいことに、ライフルでどついてやろうかなと思ったが、さすがにそれはやめておいた。
確かに――“又、方舟の戸は其の傍らに設くべし。下と二階と三階とにこれを作るべし”方舟の階数が三階だとは言ってない。
ぼくっ! という音がして、ジムがのけぞった。何を思ったか、リマが槍の端で顔面を叩きつけたのである。紅いものが宙にとんだ。
「おい、よせ。何かされたのか?」
「この男、大を笑った。許せない」
「そ、そうか。よくやった」おれは当惑しながらもリマの肩を叩いた。おれがやるよりは軽くて済むだろう。「また、頼むぞ」
「まかしておけ」
ジムは横倒しのまま、リマを見上げていた。鼻をおさえた指の間から鮮血が滲み、小さな点を床に増やしてゆく。
眼が燃えていた。熱のない冷たい炎。泣いているとも笑っているともつかぬ細い割れ目の中で、危険なものがはじけていく。人間を見る眼付きではなかった。
こいつは倍、用心しなきゃならんな。
ジムが鼻血を拭きながらのろのろと身を起こしたとき、エレベーターの速度が不意に落ちた。
「わっ!」
先にジムが悲鳴をあげたせいで、おれは不様な声を出さずに済んだ。リマも茫然と立ちすくんでいる。吹きつける冷風に、三つの顔は文字通り凍りついたのである。
そこは氷の原であった。
廊下にも壁にも幾千億の白い光がキラキラと珠を結び、降りかかる照明光さえ薄氷《うすらい》に封じ込めて、世界は蒼茫と霞んでいた。
「な、なんだ、こりゃ?」
自分の体を抱き締めるようにしてジムが叫んだ。
「前からこうと違うのか?」
「とんでもねえ。半月まえに来たときは、おめえ、普通のよお――」
「じゃ、何かが起こった。いや、何かがいるんだ。思案のしどころだな。このまま降りたらどうなる?」
「船倉だけど、でかぶつのねぐらにゃ正面から入るしかなくなる」
「その通路てな、近いのか? 裸の女が歩いていけるか?」
「ああ」とリマの方を嫌な眼付きで見て「なんとかな」
数秒考え、おれは結論を出した。
ジムのブーツを脱がし、リマにはかせる。
「ひでえことしやがる。おれが動けなくなったらどうする気だ?」
「おぶってってやるさ。うだうだ抜かすな、この。ズボンまではがされたいのか?」
「ふざけるな」
「なら、急げ。凍傷にかかって足の指が腐るまえにその通路とやらへ入るんだ」
おれたちはアムンゼン気分で氷の道を歩き出した。
氷の厚さは四、五センチというところだろう。この階全部に及んでいるとなると、大変なエネルギーの放射だ。物理的な原因にあらぬ寒気がおれの首をなでた。
ジムの言葉通り、五分ほどして、前方の壁にかなり大きな裂け目が見えてきた。瀝青《アスファルト》がはがれ、砕けた丸太の向こうに黒い間隙がのぞいている。この壁は二重構造らしい。
「あそこを降りるんだ。かなり急だが、ロープが張ってある」
ジムが両脚をばたばたさせながら指さした。
「よし、行くぞ」
一歩踏み出したおれの足を、背後の気配が停めた。激しい動揺。
ふり向きかけたおれの鼻先を光るものがかすめた。
カチンと音がして壁の氷膜に光るものがあたり、床におちた。毛皮を張った円錐の先端から鋭い針が露出している。吹き矢だ。
「伏せろ!」
言いざま、おれはウェザビー・ライフルを肩付けして氷の上にとんだ。
七、八メートル後方の曲がり角から黒い影がとびだし反対側へ消える。
引き金にかけた指から力が抜けた。
もうひとつの影がのっそりと通路に現れたのである。
全長二メートル足らずの、あの猿人を思わす二足直立獣であった。体毛だけが異様に白い。氷の白に溶け込むようで、おれは眼をしばたたいた。
猛烈な冷気が叩きつけてきた。頭の芯がきいんと痺れ、シャツが氷面にはりつく。
冷気の元凶はこいつなのだ!
「大――早く!」
リマの叫びがおれを立ち上がらせた。
床に抵抗された。ベリベリとシャツの繊維がはがれていく。
おれは必死で裂け目へとんだ。縄梯子がかかっている。リマとジムはすでにかなり下だ。三段ずつ降りて、すぐ追いついた。
「急げ。追いかけてくるかもしれん、ロープが凍らされると事だぞ」
それから十数分、おれたちは夢中で暗闇を下降していった。頭上から冷気が襲いかかってくるかもしれないと気が気じゃなかったが、そんなこともなく、やがて、下についた。
壁の内側だ。あちこちから光が洩れているせいで、お互いの顔くらいは判別できる。ジムは坐りこんで荒い息を吐いていた。
「さっき、黒い影をみた。恐ろしく素早い。セムか?」
おれは平然と立っているリマに訊いた。
「そうだ」
「だが、一体どうしておれたちのいるところがわかるんだ? おまえたちの棲家を脱け出して二回、エレベ――じゃない、動く箱に乗ったが、奴は絶対に同乗しなかったんだぞ」
「わからない――大、わたしを疑っているのか?」
「いいや。おまえを疑うくらいなら、おれの方が怪しいさ」
「ありがとう。うれしい」
「なんのなんの」
「おい、いま奴は留守らしい。開けるぜ」
どこか隙間を覗いていたジムが声をかけ、おれはオーケイと言った。壁の向こうに生きものの気配がないのは確認ずみだ。
光が闇を追い払った。壁を切り抜いたらしい一メートル四方程度の穴から、おれたちは身を屈めて外へ出た。正確には巨人の住まいへ入ったのだ。ジムが切り抜いた壁板をはめ込んでる間に、おれは周囲を見回し、気力が萎えるのを覚えた。
五、六メートルの身長差は、驚異の世界を産み出していた。
真っ先に眼についたのは、壁にたてかけられた全長十メートルに達する長大な槍と棘付きの棍棒で、どちらも金属部に赤黒い血糊が数センチの厚さでへばりついていた。
この船に来てはじめて嗅ぐ生々しい血臭であった。
その手前にそびえる、直径二メートルほどの縦割りの丸木を三本、同じ太さの木で支えた巨大な建造物は、傍の、これも木材を組み合わせてつくった肘掛け椅子からして、その正体は明らかにテーブルらしかった。
「ここで物を食べるのか?」
正体に気づいたらしいリマが、さすがに不気味そうな声できいた。
「まあな」
「おい、こっちだ」
ジムが椅子の方を指さしておれたちを促した。こいつがいちばん落ち着いているというのは業腹だが、仕方がない。
おれたちは椅子の背後をまわり、部屋の奥へと移動した。
途中、壁ぎわの藁の山がおれたちの眼をひきつけた。真ん中がまるで踏みつぶされたみたいにへこみ、硬質化している。
「何だ、これは?」
「ベッドだな。しかし、あの椅子とテーブルとじゃ、あまりに手のかけ方が違う。道具はノアがつくり与えたものだろう。不老不死の化け物でも眠りは必要とみえる」
「あれは何だ?」
リマの興味の的は、ベッドの脇にたてかけられている翼を思わす二枚の板であった。長方形の、ゼリーみたいなぶよぶよの物質をはさみ、六○度ほどの角度で突き出している。物質の反対側には、これも木製のおぶい紐みたいな輪が二つくっついていた。
まさか、本物の翼じゃあるまいな。
もっとよく観察しようと近づきかけ、おれは横手に興奮の気を感知してふり向いた。
ジムの姿は見えず、別の一室へつづく曲がり角の奥から激しいオーラだけが漂ってくる。道具か海図を見つけたのだろうが、そっちへ行く前に、おれは奥の棚らしき木の段に並んだ品に注目せざるを得なかった。
あれは、粘土の壺だ。
直径三メートルは下らぬ色違いの壼が、ざっと見渡しただけで数百、整然とならんでいるのは壮観としか言いようもないが、船が揺れでもしたときに落ちたのか、うち一個が床上で砕け、中身がこぼれている。
粉末を固めたと覚しい、厚さ三センチほどの円板であった。直径は十五、六センチというところか。
食料だろうか。
おれには別のものが頭に浮かんでいた。
いきなり、後方で気配が入り乱れた。
リマの姿が見えない。おれは舌打ちして、角を曲がった。
3
燦然たるきらめきが両眼を直撃した。
床を埋め眼前にそそり立つ小山は、すべて金銀宝石の堆積だったのである。
いつの時代のものともしれぬ山吹き色の金貨が箱からあふれ、天才的な職人の技巧によるものと思われる宝冠や笏の精妙な意匠もさることながら、そこにはめ込まれたダイヤ、ルビー、サファイアをはじめとする百彩百色の宝石類の巨大さよ。
「へへ……驚いたかい?」
宝を目前にしたトレジャー・ハンターの習性を悔やませる嘲笑が頭上から降ってきた。
金貨の山の頂に、ジムとリマが立っていた。美しい喉元に黄金づくりの短剣を突きつけ、ジムは口の端からこぼれる唾を舌で舐め取った。
リマのこめかみから血がしたたっているのを見て、おれは事情を察した。追ってきたリマを、宝の蔭から笏かなにかで殴り倒したのだろう。最も忌むべき状況であった。
「ノア一族のお宝よ。目当ての物《ぶつ》はここにあるぜ」
ジムは足もとの黒いレザー・バッグへ視線をおとした。
「おーっと、武器を捨てな。――そうだ。そうやって、これからはじまるショーをようく見とくんだな。兄貴は修理道具の他に、この宝物が目当てで、おれを送りこんだんだが、こうなりゃもう、そんなものどうでもいい」
ジムの眼付きは狂人のそれであった。美しい獲物を手にした残忍な狩人の笑いだ。食うためでも売るためではなく、泣き叫ぶ小鳥を引き裂き、生きながら解剖するのを至上の快楽とするサディスト。
何をするにも遠すぎる距離であった。
「そう怖い顔するなよ」とジムは片手でリマの乳房をもてあそびながら言った。「この女だって、実は嬉しがってるんだぜ。女ってのはよ、切られながらする[#「する」に傍点]のが好きなんだ。いいや、無理矢理やられるのがもっともっと好きなのさ」
「よさないか。いま、そんなことをしてる暇はない。奴が帰ってきたら、おれたち、ひとひねりだぞ」
おれはわざと切迫した声をふりしぼったが、性的な歓喜に身を灼く狂人には通用しなかった。
「なあに、そう手間はとらせねえ。すぐ済むさ。こちとらベテランなんだ。どんな女だって、三〇分もあれば、きれいにバラしてやるよ。ま、じっくり見物してなって」
不潔な指が乳首をはさみ、ゆっくり揉みはじめると、リマは顔を歪めた。嫌悪と苦痛の中に、隠しようのない快楽の翳が滲んでいる。
「ほうら、どうだ、え、いい気持ちだろう?」
低く呻いてリマは身をよじった。ジムの舌が耳孔へ侵入したのである。ジムは耳たぶにも黄色い歯をたてた。
「やめろ……」おれは低い声で言った。「やめないと……この変態野郎……」
「どうするってんだ、色男?」
ジムはせせら笑った。
「おめえがちょっとでも動きゃ、女の耳を噛み切るぜ。次は眼をえぐる。少しでもきれいな身体を長びかせたかったら、じいっとみてるこった。興奮したら、マスをかいてもいいんだぜ」
ジムは身を屈め、乳房の手を一気にリマの下半身へ滑りおろした。
「あ……ああっ……」
覆いようのない快楽の波がリマをあおむかせた。
「どうだい、こうしながら……」
ナイフがかすかに動き、新たな痙攣がリマを襲った。首筋を伝わる赤い糸を、ジムは音をたてながらすすった。
「どうだ、もうあそこはぐしょぐしょだぜ。指が溶けそうだ。どんな女もこうだった。最初は嫌がるくせに、少しずつ切ってやると、やめちゃいやって泣きやがるのさ……こいつもな、ほうら」
苦痛にあえぐ女体の中心でまた腕が動き、今度は間違いようのない歓喜の声をしぼり出した。リマの身体は上気し、突き上げる欲望に、すすり泣きさえ洩らしたのである。
胸まで垂れた血の糸を、リマは自ら乳房に塗りたくりはじめた。血に染まる手で、ジムの首を下から抱く。自分から顔を寄せ、汚らわしい唇に吸いついた。ジムの舌が白い歯を割っていやらしい動きを示しはじめた。眼はおれに据えたままだから、手の打ちようがない。
リマも応じていた。舌が絡み、吸い合う音がいやにはっきりきこえた。
ゆっくりと、リマは唾液の糸を引きながら唇をはなした。なお数秒、今度は舌だけをちらちらと弄《いら》い合い、ジムの首筋へ唇を押しつける。
「うめえもんじゃねえか。大サービスだぜ。あとでこってりと……」
突然、恐怖がおれを直撃した。
リマの唇の奥に白い歯がみえた。
「リマ、よせ!」
「ヘヘ……何を……」
おれの制止の意味を、ジムは最後まで誤解していたに違いない。
首に巻きついた女の腕が、万力のようにナイフを持つ手首を押さえ、白い歯列が肉と頸動脈に食い込んだときも、その顔は残忍な愉悦の色を湛えていた。
肉がちぎれ、血がしぶいた。
新たな痙攣は、男の方であった。
ひと噛みで多量の肉と頸動脈を食いちぎり、リマはのたうつ狂人の身体を逆に組み敷いた。もう一度、鮮血の唇が喉笛を襲い、ジムは悶死したのである。
凄まじい光景に立ちすくむおれの手足を、肉を咀嚼する音が解放した。リマが食っている。人肉を。
おれにはわかっていた。
猿人を貫いた槍の穂先からきれいに血痕が消滅していた謎、タキシードから消失した肉片、食虫花が匂いで虫を誘うように、ゆきを引きつけた不可思議なその魅力、人魚と闘う寸前、とっちゃん坊やがゆきを見てもらした奇怪な言葉。そして、燻製製造室でゆきが目撃した猿人と見まごう四肢。いや、何よりも、彼らの先祖が用いた自動調理室の一隅に山と積まれた切断痕も露わな人骨――リマは食人種の末裔だったのである。
おれは金貨の山へ駆けのぼり、獣のように死者へ歯をたてるリマを引き離した。
「何をする。もっと食べさせて!」
「いかん。よくわからねえが、やめとけ。時間がない」
おれは暴れるリマを小脇に抱え、修理道具をガンベルトにはさみ込むと、ライフルをつかんで宝物蔵を出た。ノアの海図もこの中にあるような気がしたが、探している暇はなかった。リマにこれ以上おかしなものを食わせるわけにはいかない。
曲がり角を出た途端、おれは脱出の時機を失ったことを知った。
身体の芯が快音を発して凍りつく。ウェザビー・ライフルの引き金にかけた指が鉄と接着した。銃口を向ける暇もない。
四方はきらめく薄氷の城と化していた。
吹きつける冷気の中心点、壁にぽっかり開いた秘密[#「秘密」に傍点]の出入り口の前に、白い猿人が立ち尽くしていた。奴はおれたちを追ってきたのだ!
ぐんぐん薄れてゆく意識の片隅で、おれはおれたち[#「おれたち」に傍点]の世界に棲息するという、ある伝説の動物を脳裡に描いた。
ヒマラヤの雪男――イエティとは、こいつの仲間だろうか。
頭上で凄まじい咆哮が空気を振動させた。夢中で首をふりあげる。
グロテスクな人間の巨大戯画が天にそびえていた。主人《あるじ》が戻ったのだ。狂気の双眼が、おれたちではなく、白く凍てつく死を見据えて真紅に燃える。おれのブーメランがつけた傷など跡形もない。まさに不死身の怪物だ。その頭髪にも長剣の刃にも、みるみる白い珠が結ばれていった。
巨人は音もなく後方へ移動した。
棚の一隅に手をのばし、素焼きの壺を抱きかかえると、あの円板を取り出し、口に放り込む。あれは――錠剤だったのか!?
巨人の身体を覆う白い皮膜が、このとき、すうっと色を失っていった。血の通った桜色の肌がのぞく。間違いない。あの薬は、巨人の体内エネルギー活性剤だったのだ。恐らく、敵対すべき怪物たちの超能力にあわせて色分けしてあるのだろう。数が少ないのは、巨人にとって無害な生物もいるためだ。
GAAAAEEEE
殺戮者の怒号を放って巨体が前進した。テーブルを跳び越え、白猿に迫る。
長剣が風を切り、悲鳴が湧いた。冷気はぴたりとやんだ。
逃げるなら今だ。おれは半ば感覚を失った手足を叱咤しつつ、巨人がやってきた方角へ歩き出した。リマも必死でついてくる。
棚の左手に空間があった。
あと数メートルというとき、ひょいと人の頭がのぞいた。ライフルを構えたくても、手は動かなかった。
「無事でよかった」
ノアが人なつっこい笑顔を見せた。
「だ、大丈夫か――」おれは思わず、痺れの残る舌で叫んだ。「心臓はどうだ? ゆきはどうした? 何かあったのか?」
「外に乗りものが用意してある。早くこい」
ノアはにこにこしながら言った。
「だが……」
胸中の疑問を呑みこみ、おれは彼の後につづいた。巨人はおれたちに気づいているはずだ。
戸口のすぐそばに、あの木製自動車が停まっていた。
リマを後部座席に放り込み、おれがハンドルを握った。助手席へ腰をおろすノアへ、
「すまんが、海図は手に入らなかった」
「安心せい。おまえたちが凍えてるときに、――ほれ」
ノアの右手で黄ばんだ紙筒が揺れた。
「一体、どうやって――?」
重々しい足音が戸口から響いてきた。質問は後だ。おれは思いきりハンドルを倒した。左右の景色が帯と化して流れ去る。どういう構造になっているのか、風ひとすじ吹きつけてこないのが物足りねえが、乗り心地は満点だ。
ちらりと振り向く。戸口に立ってこちらを見つめる巨人の姿はたちまち芥子粒《けしつぶ》と化した。
今度は追いつけまい。おれは胸をなでおろした。物心両面の冷えがぐんぐん退いてゆく。
「この前はしくじったが、今度はようやく成功だ。これはゆっくり眠れそうじゃな」
意味不明の鼻唄まじりで海図を広げるノアに、おれはこう訊いた。
「あんたに関しちゃ、色々はっきりさせたいことがあるんだ。まず、ひとつきかせてもらおう。この船が五千年もの間、あり得ない海上をさまよってる理由さ。その海図が謎を解く鍵とみたんだがね」
「ふむ。いい眼のつけどころをしておる」
ノアは初孫の顔をみる好々爺の表情でうなずいた。
「目下、船の位置はここか……」
ちらりとのぞいた眼を、おれは丸くむき出さなくてはならなかった。ノアの広げた、どう見てもパピルス製と覚しい粗悪な紙に記された五千年前の海図――そこには、はっきりと、中学の教科書で使うようなメルカトル図法で描かれた明晰な世界地図が刻まれていたのである。
世にピリ・レイス地図なるものが存在する。一九二九年、イスタンブールのトプカピ宮殿から発見されたカモシカの皮に書かれたこの地図は、現在、トルコ提督ピリ・レイスによって一五一三年に製作されたものだと判明しているが、その驚嘆すべき内容は、地図そのものの原本が実は二千年以上昔の古地図だと知れば、いっそう神秘のかがやきを増す。
なんとこの地図には、現在、およそ二○○○メートルに及ぶ厚い氷に閉ざされた南極大陸の輪郭が、正確無比の精妙さで描き出されているのである。
一九四九年、ノルウェー、スウェーデン、イギリス合同南極調査隊が、万年氷の上から行った地震波測定によって得られた大陸の地図が、一五一三年製作のものとほぼ等しいと知れたとき、世界の地理学界は小さな嵐に包まれた。
一五一三年に、いや、その二○○○年以上も前に、有史以前の南極大陸ばかりか、南北アメリカまで正確に写しとった地図の製作者とは何者か。人類最初の科学的世界地図カッシニ図の完成は一七一八年、ピリ・レイスの原地図に利用されたメルカトル図法の考案は一五六九年でしかないのだ!
だが、おれの眼の前に広げられた古地図は、その原地図のさらに三千年も昔に、同様の測量技術が存在していたことを物語っていた。聖書のモデルとなった人々にとって、世界とは、メソポタミア一帯でしかなかった時代に。
ふンがふンがとちんけなリズムを口ずさみながらしわくちゃな指で海図をたどる皺深い横顔を、おれは何ともいえぬ気分でちらちらと盗み見た。
この爺さん、ひょっとしたら…エイリアンの……
「そう、そう、さっきの質問の答えじゃが」とノアがいきなりおれの方を向いた。「すべては、鴉《からす》のせいなのじゃよ」
おれの驚きは思ったより少なかった。
やはり、そうか。雨降りそそぐ甲板できいたあの鳴き声、襲いかかる嘴と爪――あれは鴉のものだったのだ。
「鳩は帰ってきたが、鴉は帰らなかった……いや、わしが帰るなと言ったのじゃ」
ノアの苦渋にみちたつぶやきに、おれはあの一句を思い出した。
“窓を開きて鴉を放ちけるが、水の地に涸れるまで往来しおれり”
鴉は大地が乾き切るまであちこちを飛びまわったのだ。
「……鴉は疲れ、戻ってきた。しかし、吉兆のないのに怒ったわしは、すげなく追い払った……とどまる場所の見つかるまで、未来永劫、飛びつづけるがよい、と。……奴はまだ飛びつづけておる……」
ノアの言葉をおれがついだ。
「とどまる場所が見つかるまで――すなわち、水がひくまでか。鴉が降りない限り、水もひかんとすれば……」
そのとき、凄まじい鬼気が異様な角度からおれの背を打った。
「大――あいつ、上から!」
凍死を免れたリマの、より恐怖に打ち震える声が後部座席で湧いた。
頭上をふりあおぎ、おれは眼を疑った。
みよ、身長五メートル、体重二トンを越す大巨人が、肩から生えた二枚の羽根を力強く羽搏かせて、遙か高みより接近してくるではないか!
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第七章 脱出
1
あの羽根状のものは、やはり飛行装置だったのだ!
頭上に迫る羽音をききながら、おれは巨人の任務達成能力を甘くみていたことを悟った。
あの巨体を浮揚させるには翼長からして不十分と思ったのだが。――糞、四六○ウェザビーを一発なりとぶち込んどくんだった。
「おい、爺さん、ハンドルを頼むぞ」
言うなり、おれは狭い車内で位置を交代し、ウェザビー・マークVを頭上にポイントした。
アフリカ象すら一撃で倒す四六〇ウェザビーである。理屈からいけば、身長五メートルの巨人だとて物の数ではない。相手がこの世界の自然法則に従う生物である限り。
銃を肩付けした途端、未知なるものへの恐怖は泡と消えた。生命を賭して戦う歓喜に血管が湧き返っている。リマのことも忘れ、おれは鏡のごとく澄んだ境地で、迫り来る敵を迎えた。
長剣をふり上げる巨大な影が頭上十メートルから一気に高度を下げたとき、マークVは吠えた。
巨人の額に黒点が生じ、間髪入れず後頭部が血と脳漿と化して飛び散る。
巨人はガクンと首を下げた。
やった!
生を失った巨体が頭上を越えてゆく。顔に吹きつける生ぬるいものを、おれは片手で拭った。十五キロの直線距離を闇雲に突っ走り、船殻に激突するのだろう。
小指の先ほどの大きさになったとき、それは不意に反転した。
「大――!」
リマの叫びに応えるかわりに、おれは無言でライフルを肩付けした。
「上昇通路へ入る。右へ曲がるぞ!」
ノアの声にワン・テンポ遅れて風景が左へ走る。銃床が肩の骨をきしませた。はずれた!
残り一発。
「これ、使ってみい」
ノアが車のどこからか、あのラッパ銃を取り出し、おれに突きつけた。どこに隠してやがった!? 車専用の通路か、滑らかな坂道が遙か彼方の壁に設けられた出入り口へとつづいている。
ぐうんと巨人が角を回った。
左右は巨大装置の林立する空間だ。出入り口から船底まで百メートルはある。ここから墜ちれば効くだろう。
巨人との距離三〇メートル。敵は長剣をふりかざした。ぐん! とひとまわり大きな羽搏き。
左右に身体をゆすりながら突進してくる。この位置では体当たりされただけでおしまいだ。
視界の隅から白い線が巨人の胴体に吸いこまれた。リマの放った矢だ。火のような闘志のオーラがおれの顔を灼く。食人種でも、リマは勇敢な女戦士だった。
突如、巨人に異変が生じた。
苦痛の叫びを上げ空中で身をよじる。
背中の飛行装置が、狙ってくれといわんばかりに、標準視野に入ってきた。
おれはラッパ銃の引き金を引いた。まばゆい光条がノズルから走って巨人の全身を包んだ。
ゼリー状の物質がとびちり、両翼が火を噴く。不格好な武器は、超高圧の電撃銃だったのだ。巨人はもはや空を制覇するものではなかった。
空中で二転三転しながら、とんでもない角度から突っこんでくる。
断末魔の形相がおれたちをかすめて通路の下へ消える。髪も産毛も逆立っていた。
今度こそ!
ぬっと巨大な手が現れた。通路をつかまれたら、道連れだ。
指先と通路の柵まで五〇センチと離れていなかったろう。しかし、指は虚しくもがきつつ空を掴み、永遠におれたちの前から消えた。
「停まれ! 確かめたい」
ノアがハンドルを引き戻し、音もなく停車した車からおれが跳び降りたとき、鈍い衝撃が通路を揺すった。
通路の柵に駆け寄り見下ろす。
巨体は四散し、かろうじてのこった胴と右足が、機械装置の間にグロテスクな格好で生前の姿を伝えていた。
「やった――大。すごかった」
「おまえの弓が効いたのさ」
おれは上気するリマの顔をみつめて言った。髪には巨人の脳漿がこびりつき、口から胸にかけて、ジムの血潮で汚れているが、なに、おれだって似たようなものだ。同じ血をかぶった人間同士、気取ってみたってはじまらない。
「そろそろいかんかの?」
ノアの声に、おれたちは車へ戻った。
すぐに走り出す。
「ところで爺さん――あの巨人が苦しみだした原因はおたくだな?」
おれは後部座席のリマにきこえないよう尋ねた。
「おれたちが凍りついてるとき、海図を失敬するだけじゃ飽きたらず、一服もった――薬を入れ変えたな。そうだろう?」
「あいつをこしらえたとき、出動前にある薬を飲むよう仕込んでおいたのじゃ」
ノアはくぐもった声で言った。
「さっき、それを別のものとすり替えておいたのよ」
「そこが問題さ。おれたちが宝物蔵を出たとき、あの棚のところにゃ人っ子ひとりいなかった。おまけに、あの壺はいくら粘土の素焼きとはいえ、あんたの身長くらいは優にある。そう簡単に蓋を開けられるもんじゃねえ。それにだ、どれも蓋が閉まってみえたのはおれの勘違いとして、階段もねえ棚の段から段へどうやって登り降りしたんだい? 両方とも一番下にあったなんて言い訳は通用しねえぞ」
老人は微笑した。はじめて眼にする寂しげな笑いだった。おれは年寄りをいじめているような気分に捉われた。
「わからんか?」とノアは静かに訊いた。
「いや」
「なら、よかろう。おまえはいい若者だ。年寄りにかまうな。わしはわしのしたことに責任をとらねばならん。おまえたちの手をわずらわせたが、ようやくうまくいきそうだ。五千年は長かったぞ」
「まったくだ。達者でな」
おれは無言でウェザビーに弾丸をこめながらうなずいた。電撃銃は単発らしい。
何事もなく二○分走り、見覚えのある廊下の角で、ノアは車を停めた。
「さ、わしはここで降りる。世話になった。あの娘さんによろしく伝えてくれ。息子たちがいなくなってから、あんなに親切にしてもらったのははじめてじゃ。神の恵みがいつもあの娘《こ》の上にありますように」
「伝えるさ、必ず」
笑顔をひとつ残し、ノアは廊下を曲がって消えた。
「大――誰だ、あの老人は?」
リマの問いにもおれは首をふった。おまえのお祖父さんだよと言ったところではじまらない。
おれは車を操り、ゆきたちの隠れ家が見えたところで、とび上がった。
隠しドアがはずされている。
血相変えてとびこんだ。
二人の姿はなかった。武器や食料も――毛布変わりの獣皮まで消えている。怪物どもに襲われたのではないと知り、おれは束の間胸をなでおろした。
武器や生活必需品をかっさらう知恵の持ち主は、リマの一族だけだ。かといって、落ち着いてもいられない。
「どうかしたのか、大。誰もいないが」
おれの表情で何をするつもりか気づいたらしく、リマが肩を強く掴んだ。
「わかってるだろ。おまえの仲間がおれの相棒をひっさらった。取り返しにいってくる。人死にがでるかもしれん、おまえはどっかで待ってろ」
「どうしてもいくのか、そんなにあの女が好きか?」
「好きとか嫌いとかの問題じゃねえ。義務だ、義務」
「わからない。そのために生命を捨てるのか?」
「約束だ。そうそう、おれは、空の上からおれたちを見てるいちばんえらい人と約束をしたんだ。強いものは張り倒せ。弱いものは助けてやるってな」
「わたしはリーダーと約束などしない」
「わからねえ女だな。どっかで待ってろというんだ!」
おれはとうとうかんしゃくを起こした。たちまちリマは哀しそうな表情になった。というより、途方に暮れてべそをかいた。
「どうして行くのだ? ――わかった、もう何もいわない。わたしも連れていって。きっと役に立つ。あの女、助ける」
「駄目といったら駄目だ。おれはおまえの仲間とドンパチやらなきゃならん。おまえを連れてくと、どうしたって利用するしか方法がねえんだ。それだけはしたくねえ。ここは、おれひとりでいく」
「あの女を助けて大がよろこぶなら、わたし、利用でも何でもされる」
「今どき珍しい女だな、おまえは」
おれは喚くことにだけ精神を集中した。
「ほんとは、おまえみたいな気の強い女は嫌いなんだ。見てるだけで反吐が出る。あの味[#「あの味」に傍点]はよかったが、その他の点じゃ最悪だ。女の魅力ゼロ――なし[#「なし」に傍点]だ。二度とおれに近寄るんじゃねえ」
リマの眼にみるみる光るものが盛り上がった。
「ひどい……大」
「そうともよ」おれはここをせんどと叫んだ。「もうおまえなんかに用はねえ。ほんとはこの辺でどう手を切ろうか考えてたんだ。眠ってるあいだに捨てられないだけましだと思いな。ほうら、どかねえか」
「嫌いだ、大!」
リマが大きくきびすを返したとき、おれは光るものが宙にとぶのを見た。おれが戻ってこなかったらリマはどうなるだろう。いや、この船の連中は?
おれは無言で廊下を走りだした。
何故、あんな悪態娘を助けにいくのか? わからない。付き合いだ。
上から降りて来たエレベーターは避け、船首の方へ行って、手近のやつにとびこんだ。ハンドルを上げると意外やすぐ[#「すぐ」に傍点]動き出した。少しはつき[#「つき」に傍点]が戻ってきたか。
2
雨をついて連中の居住区へ忍び込むのはちっとも難しくなかった。リマが解放した妖獣どもの後始末がまだ済んでないらしく、柵はあちこちが破れ、どういうわけか、内側からは煙が立ち昇っていた。
槍と弓片手にうろついてる男や、材木を運ぶ女の姿も眼につく。
見張りの眼につかないぎりぎりの位置まで接近し様子をうかがう。雨のせいではっきりしないが、居住区の奥におびただしい人数が集合しているようだ。
また、公開処刑か。
おれはズボンのポケットからダイナマイトを抜いた。こういうとき、闇と雨は格好の眼隠しとなる。
身を低くして柵へと走る。歩哨がひとり、槍を片手に立っている。ついでに槍の穂先も天を向いていた。精神的緊張に乏しい。見張り役には不向きだ。
おれは三メートルの距離からダイナマイトを放った。ごん! と顔が揺れ、見張りは昏倒した。
居住区の柵にへばりつくとすぐ、ライターを取り出し導火線に点火した。
時間を見計らい、見張りの足を引いて離れる。床に伏せた。
爆音と火花は豪雨のただ中でも壮絶であった。
入り口付近でうろうろしてる連中が大あわてで破砕孔へ駆けつける隙に、おれはまんまと柵内へ忍び込み、住居の蔭に身を隠した。混乱に乗じて奥の処刑場へと進む。物蔭から物蔭を通ったので誰にも気づかれなかった。一度、戦士らしい男たち二人とすれちがい、眼まで合ったが、その寸前、瞬間自己催眠に入ったため、連中は無視して立ち去った。もともとおれを探そうという意識に乏しいため、見慣れぬ人間としか認識できないのだ。
あきれたことに、処刑場にも人影はなかった。どいつもこいつも爆破現場へ押しかけてしまったらしい。人数が少ないこともあるが、物見高い野郎どもだ。
開けっぱなしの入り口を通って客席へ入る。
衝撃的な光景がおれの脳天をぶちかました。
処刑場の真ん中で、全長五メートルに達する大虎が血まみれの遺骸を貪っているのだ。黄金の毛並みが雨をはじき、尾の先は二つに分かれている。
中国伝説にいう妖虎だ。
ゆきは……こいつに食われてしまったのだ。
怒りとも哀しみともつかぬ激情がおれを立ち上がらせた。
同時に妖虎もふりむいた。血と肉片のこびりついた口を開け放ち、威嚇の雄叫びを発する。
真紅に燃える瞳がおれの眼と合った。身体中の気力が急速に萎えていくのをおれは感じた。これが妖虎たる所以か。
必死に精神統一を計る。瞼だけでも閉じねば、金縛りのまま虎の餌だ。
身体が動き出した。虎の術にかかっている。
客席の階段を降り、刑場内へ入る。
ライフルを離さなかったことだけが、おれの意地の見せ所だ。
虎が近づいてきた。ゆきとオハラを平らげ、なお足りないらしい。古代王朝・夏《か》の伝説によると、人口九〇〇の町の人間すべてが、女に化けた虎に襲われ、三日にわたって貪り食われたという。最後のひとりも自分が唯一の生き残りだとは気づかなかったそうだが、真相は妖虎の瞳術に精神を操られていたにちがいない。
おれは瞼をおろすことに全精神を集中した。
びりびりと肉のちぎれる感覚。激痛だ。しかし、視界は細まりつつあった。
黄金の肢体が跳躍の形をとった刹那、筋肉のちぎれる音がして瞼はおりた。意識が正常に戻る。
巨大なものが躍りかかる気配。いかなる名ハンターもかわせぬ必殺の攻撃。だが、おれには対決できる。眼が見えぬ故に。
凄まじい飢えと憎悪のオーラに顔面を灼かれながら、おれはウェザビーを肩付けし、迫りくる恐怖の中心へと引き金を引いた。
一撃目でぐん! と後方へ吹き戻される。地に墜ちる気配。起き上がりかけた脳天に二発目が炸裂した。おれは憎悪に狂っていた。よくも、ゆきを。
三発目は死骸に撃ち込んだようだ。
崩れゆく気力をかきたて、おれは、最初、処刑場を脱出した開き戸へと向かった。
3
温室は通らず、あの[#「あの」に傍点]牢獄を抜けて脱出した。途中、二、三人の男たちと出くわしたが、全部ライフルで張り倒した。いますれちがう奴は運が悪いのだ。最後は柵の一部をダイナマイトで吹きとばして外へ出た。
もう、この船に未練はなかった。大体、乗りたくて乗ってるわけじゃねえ。あのもとナチの禿げちゃびん、今に見てやがれ。日本人を見ただけで発作を起こすような眼にあわせてくれる。
おれは大急ぎで輸送機に駆けつけた。
エンジン・カバーを開け、ベルトの修理道具を取り出す。オハラの言う通り、燃料パイプが破損しているだけだ。応急処置で何とかなるだろう。合成粘材をくっつけ、乾燥剤を混ぜる。三分間待つか。たったこれだけのために、オハラ兄弟は三年も費やしたのだ。
ドアの方に回ったとき、闇の奥で殺気が凝縮した。
あいつ、まだ尾けていたのか!?
どうやって、などという考えは浮かばず、おれは見えざる追跡者に心から感謝した。ここはもうひと暴れしないと収まらねえ。
おれは翼の蔭に身を隠したまま、戦闘準備を整えた。
ライフルとガンベルトは機内に放り込み、修理道具からスパナをとりだしてベルトにはさむ。シャツを脱いで左腕に巻きつけ即製の楯にした。後はコルト・ガヴァメントにおまかせだ。
殺気の主は二○メートル前方に固着していた。これほど自分の位置を長時間、明確に知らせるのははじめてだ。何を企んでやがる。
すぐにわかった。
闇を貫く訓練を積んだおれの眼が、殺気と同じ方角から、悄然と歩み寄る人影を捉えたのだ。
リマ。
雨に濡れた虚ろな人形みたいな表情と足取りが、野性の娘を別人のように見せていた。
あの炎のような精神《こころ》から何か大事なものが脱け落ちてしまったのだ。下手人は――おれだ。
敵とリマの関係に、おれは思いをはせなかった。偶然であるはずがない。敵はおれたちの関係を知り、リマを使っておれの動揺を狙ったのだ。
ふっと殺気が消えた。
おれはリマを無視して横へ走った。眼は閉じている。ただでさえ確認の困難な吹き矢を、雨の引く銀線の中で識別するのは不可能だ。
左前方から熱く小さなオーラが二本接近してきた。生物同様無機物にも独自のエネルギー放射は存在する。シャツを巻きつけた左手で、おれは苦もなく毒針をはたき落とした。
あまり長丁場の戦いが不利なのは承知していた。食人種どもがやってくる恐れがある。吹き矢の速度から、防御は可能と判断し、おれは一気に吹き矢の放出点めがけて走りだした。
またもささやかなオーラの接近。
ひと振りKOだ。
眼前に黒い人影が立っていた。
口にくわえた吹き矢の筒は左手で支え、右手は腰に――
身をひねるのが、わずかに遅れた。
コルダイト火薬の轟音とともに、影の手に握られたブローニング・ハイパワーは、おれの左肩の肉を吹きとばし、おまけに地べたへ叩きつけた。
まさか、リマが!
宙に舞いながら、おれはコルト・ガヴァメントを抜いていた。向ける余裕はなかった。見覚えのある男の顔がにっと白い歯をむき出して笑った。
細い筒をあてがったその唇がすっとすぼまる。逃れようのない距離だ。
悲痛な叫びが雨をついた。
男の眼がわずかに横へそれる。
ちぎれるような痛みと熱をこらえ、おれは左手で顔面をカバーした。
慣れた武器への固執が明暗を分けた。
九ミリ弾は防げぬ布も吐息の押し出す毒矢はからくもはね返し、おれの右手を襲う四五口径の強烈な反動とともに、男は血煙をあげてのけぞった。
もう一発――とどめを刺す気にはなれなかった。
「大――!」
リマが走り寄ってきた。熱い頬をおれにこすりつける。雨だけが濡らしているのではなかった。
「済まん。お父さんを撃っちまった」
おれはリーダーの死体を見ながらつぶやいた。眉間の弾痕から鮮血が噴き出し、雨が砕いてゆく。セムとはリマの父親だったのだ。
おれの胸もとで、リマは右手を開いてみせた。小さな灰色の蜘蛛が乗っている。
「父さん、これをわたしの背中につけておいた。この虫は死ぬまで糸を吐きつづける。それを伝って追いかけてきた」
「ま、いいさ」
おれは無言で彼女の手をとり、きびすを返した。ここに残しておくわけにはいかない。船を飛び立っても、この海域から脱出できるかどうかは不明だが、二人でいけるところまで行ってみよう。
足元に槍が刺さり、矢が眼の前をかすめた。
輸送機の向こうから熱っぽい喊声と足音がどっと押し寄せてきた。奴ら、銃声をきいたのだ。
飛行機まで十メートル。おれたちを槍ぶすまにするには十分な距離だった。
奇蹟が起こった。
輸送機のコクピット脇の窓が開くなり、凄まじい閃光と軽快な射撃音が、人波の最前列の足元で木屑をはね返したのだ。悲鳴をあげて後退する。
水際立った射撃の腕前よりも何よりも、射手の顔と声がおれの度胆を抜いた。
「大ちゃん――早く乗って!」
ゆき――だよな。
思考は茫然と宙をさ迷い、身体だけが本能に従って動いた。
最後の距離を駆け抜け、輸送機にとび込む。ドアをロックするや、おれはコクピットに走りこんだ。
「ハロー」
窓からガリルを突き出したまま、色っぽい顔がこちらを向いた。何の屈託もない目覚めの挨拶。
「おまえ――どうしてこんなところにいるんだ? オハラは?」
「つかまっちゃったでしょ、多分」とゆきは眼を窓外に戻していった。「早く出してよ、これ。さっき修理してたじゃないの」
「知ってて黙ってたのか!?」おれはあきれ返った。「おれがどんなに苦労しておまえを――」
「あら、まさか、あんな野蛮人どもにつかまったと思ってたんじゃないでしょうね」
ドドドッ! ともう一連射してゆきは平然と言った。
「あんたたちが出てったあと、あのお爺ちゃんが消えちゃってさ。大あわてで探しにいき、戻ってみたら、アジトはあいつらに占領されてたのよ。ドア開けっぱなしでいったのがまずかったのね。すぐ逃げだして上へ行き、ずっとこの中に隠れてたの。大ちゃんは絶対来てくれると信じてたから」
おれがダイナマイトで柵吹っとばしたり、妖虎に殺されかけてる間、こいつはここでのうのうと昼寝してたのか。おれは声も出ず、オハラの霊に黙祷を捧げた。
「ね、早く出してよ、弾丸が切れちゃった!」
言われるまでもなく、おれは席につき、操縦桿を握りしめていた。
突然、地面が大きく揺れた。
窓外で絶叫が湧き、機体がぐうっと傾く。
「どうした、大?」
通路からリマが顔を出した。
「あ、お姉さま」
ゆきが頬を染めて黄色い声をあげた。
またも大揺れ。今度は反対側だ。
船が、いや、海が荒れ狂っているのだ!
おれは見た。
全高一千五百メートルに達する船を包んで、その甲板に白波を砕く大波頭を、とてつもない大異変が海と船を襲いつつあるのだ!
「いくぞ、ベルトをしめろ。このまま突っこむ!」
おれはエンジンをスタートさせた。トラブルなしでプロペラが雨を切る。
一気に船首へ向かって走る。
またも怒濤が砕けた。
ゆきが悲鳴をあげ、機体が半回転した。バリケードにぶつかる衝撃。かろうじて停止する。
「くそ。これじゃ、船首まで滑走距離がギリギリだ」
おれは胸の中でわめき、操縦桿を握り直した。
波が運んだものか、甲板には蛸だか烏賊だか、わけのわからん格好の生物や、太古の甲殻魚類そっくりな奴がぬらぬらぴょんぴょん蠢いていた。一匹持って帰りゃざっと数億ドルで取引できるだろうが、今はそんな場合ではない。
再び機首を前方に向ける。
「大ちゃん!――あれ、何よ!」
ゆきの声をきくまでもなく、おれにも見えた。閃光を通して、船首の遙か先、いや、船のぐるりを囲んで迫りくる巨大な水の壁を!
風の唸りは水の恫喝と化した。
思いきり、スロットル・レバーを引く。
機体は走り出した。水壁は悠然と迫る。おれの膝に置いたリマの指が肉に食いこんだ。
船首が見えた。
あの白骨の小屋が横手をかすめる。
いまだ、いけ!
おれは渾身の力で操縦桿を引いた。
そのとき、きこえた。
あの鴉の鳴き声が。水と風の怒号を歓喜と変えて。
ぐん、と身体が斜めにひかれた。
離陸成功。
だが――
水の壁はフロント・ガラス全面を押し包みつつあった。上がれ!
頂上で砕ける白い波頭が真っ正面からフロント・ガラスに叩きつけられた瞬間――。
それは急速に下方へ流れ、再び平穏な雨と風が窓外を占めた。
「ああっ、方舟が! 波に呑まれて。し、沈んでいく!」
窓から吹き込むゆきの声と風雨が、おれには甘美な音楽にきこえた。
数時間後、おれたちはアイスランド共和国の首都、レイキャビクの空港へ着陸した。
方舟を発って数分としないうちに空は晴れ、おれはこちら側[#「こちら側」に傍点]へ戻ったことを知った。
太平洋上で遭遇した船が、なぜ数日のうちに北アメリカをはさんだ反対側――ノルウェー海とデンマーク海峡をのぞむ小国付近にさしかかっていたのか、一切は謎に包まれていたが、こんな珍しいところへ来られてと、ゆきは大喜びだった。
専用のコールサインでアイスランドの国防大臣を呼び出して話をつけ――奴も賄賂仲間なのだ――、レイキャビク最高のホテルへ収まってしばらく後、ゆきがぼんやりと市街を見ながらつぶやいた。
「あのお爺ちゃん、どこ行っちゃったのかなあ。おかしいのよ。確かにドアは内側からロックしてあったのに、いつの間にか消えちゃって……横になってた後は、水でびしょびしょだったんだ……」
「もっと眠りやすいところへ戻ったのさ」とおれは離陸寸前あのボロ小屋で眼にした光景を思い浮かべながら言った。窓から突き出ていた骸骨の手は甲板に落ち、握りしめた海図と折り重なるようにして、明らかに鳥のものと覚しい骨が散らばっていたのである。
ノアに帰るべき船の位置を示され、鴉はようやく五千年の呪いと彷徨から解き放たれたのだ。
すべては終わった。
考えるべきことは未来にこそある。まず、リマを連れ帰ってこの世界に慣らさなきゃいかんし、人食い癖を矯正する必要だってある。ゆきとうまく折り合っていけるかも気懸かりだが、お姉さまンとレズってる間はなんとかなるだろう。くく、隠しカメラで覗く楽しみも増えた。
「あーあ、ジバンシィがくしゃくしゃだ」
皺だらけのドレスを畳みながら、ゆきがぶつぶつ言った。
「ねえ、日本へ帰ったらまた一着買ってよね」
「いいとも」
おれはあっさりうなずいた。
巨人の宝物蔵から脱け出したとき、鶏の卵くらいあるサファイアを失敬してきたと、ゆきにはまだ話してない。
リマの教育費用にあてても、ドレス代ぐらいは楽にでるだろう。
『エイリアン魔界航路』完
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あとがき
この物語は、暗い海をゆく巨大な船の灯りから生まれました。
画面手前から遙か奥へ悠然と滑っていく何層もの窓にともる灯り。深夜のホテルでさえ、そのともしびの奥で繰り広げられる様々な運命に興味をそそられるのに、周囲が暗黒の大海原ともなれば、これはもう、物語にとって絶好の舞台としかいいようがありません。様々な人生をもつ人々が一堂に会して語られる“グランド・ホテル”なる形式が映画にあるのも、そのドラマチックなスタイルの魅力によるものでしょう。
さて、それでは私の言う“巨大な船の灯り”――実はこれがどんな映画の一シーンなのか今でもはっきりしないのです。
「SOSタイタニック」だったような気もするし、「失われた航海」だったような気も……ひょっとしたら「未知との遭遇」かも(!)しれない。
とにかく、荒れ狂う海原にそびえる巨大な建築物のイメージがすべてであって、大やゆきの活躍も付け足しのような気がするのです、今回は。
そして、次回。新しい登場人物が大活躍します。ご期待下さい。
烈風吹きすさぶ荒海へ、
白雪舞う北氷洋へ、
白砂に打ち寄せるマリン・ブルーの海へ、
そして、もちろん、
海神怒れる大魔海へ。
イメージのすべてを託して。
一九八四年十二月七日
「ジョーズ」を観ながら
菊地秀行