エイリアン怪猫伝
菊地秀行
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目次
第一章 ルート246の怨霊
第二章 呪われたジェット旅客機
第三章 紅舟の妖婆
第四章 黒い爪
第五章 長く熱い夜
第六章 白昼の怪猫戦
第七章 血闘
あとがき
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第一章 ルート246の怨霊
近頃、変わった組み合わせが多い。男と女の話だ。
原宿や青山、六本木へ行けば、実例はいくらも見つかる。思わずズボンの前を押さえたくなるほどセクシーなハーフのモデルと、ひょっとこみたいな顔の|兄《あん》ちゃんがねっちり腕組んで歩くのを見れば、こんな馬鹿な人生がと、石のひとつもぶつけたくなるのが人情だ。
おれの場合は時速一二〇キロで青山通りをぶっ飛ばしていたフェラリを急停車させ、二人の後を|尾《つ》けることになった。
石をぶつけなかったのは、助手席に東京でいちばん高いギャラを取る美人モデルが乗っかっていたのと、反対側の歩道を歩くそのカップルがあまりにも――異様なくらい不似合いだったからである。
時速一二○キロから猛烈な勢いでブレーキを踏み込んだため、おれはともかく、美人モデルは激しく前方へつんのめり、ハーフ特有の吊り鐘みたいなでっかいバストヘ安全ベルトを食い込ませて悲鳴をあげた。
ベルトをはずし、素早く外へ出る。ゴムの灼ける匂いが鼻をついた。タイヤと路面の隙間から青い煙が立ち昇っている。
「いきなり急停車なんかして、どういうつもりよ。顔ぶつけたらどうすんの、馬鹿!」
ベルトをはずそうとじたばたもがきながら、モデルが喚いた。
鮫みたいな青黒い肌にえぐり込まれた両眼は血走り、血の気を失った唇の端ともどもきゅっと宙へ逆上がって、まるで般若だ。鋭い牙か長い舌でもだせばぴたり絵になる。女の素顔だ。
「コスモポリス」や「ミスタ・ヒロイン」編集部は、化粧した化け物にページをさいてることになる。髪型や着こなしを真似する読者こそいい面の皮だ。
「済まんが、お別れだ」
おれはフェラリの鼻面を回って、モデル側のドアを開けながら言った。
「運転できるならこれ[#「これ」に傍点]で帰ってくれ。免許がなきゃタクシーだ。交通費は後で請求しろ」
「あら、ほんとにこの車貰っていいの?」
モデルは途端に営業用兼プレイ用の笑顔に変わった。見る見る肌が生気を取り戻し全身が光り輝く。ジバンシーのロング・ドレスの中で宝石の瞳がおれに微笑した。
こうこなくっちゃ。美人モデルのあどけない素顔になんざ、おれは興味はない。今しがた、赤坂の高級レストランで食事をし、年代もののワインを飲みながらギリシャ哲学と三浦和義について語らってきた美しいだけの人形がそこにいた。おれは満足だった。
「いいとも。あとで譲渡証明を送ってやる。達者でな」
投げキッスをひとつ送り、運転席へともぐり込むモデルを尻目に、おれは素早く道路を横断した。金曜の午後十時、車の流れも人の列もやむ[#「やむ」に傍点]には遠い。
数台の車に急ブレーキをかけさせ、罵声を肩に通りの柵を越えたとき、赤坂方面からパトカーのサイレンが響いてきた。ようやく追いついたとみえる。
ひと言注意してやろうかと振り向いたが、フェラリはチューンナップ仕立てのエンジン音も凄まじく、渋谷方面へダッシュするところだった。しようがない。捕まったら何か言ってくるだろ。
モデルと車の運命を念頭から追い払い、おれは通りを走って、問題のカップルを探し求めた。
いた。十メートルほど向こうを、サイレン音の方角めがけてトボトボ歩いていく。
ネオンサインのせいか妙に青白い男が前、すぐ後ろに女だ。
足早に通りを進みながら、おれはすぐ、おかしな事に気づいた。
前方の二人連れとすれちがう奴らが、誰も女の方を見ようとしないのだ。男の方は、夜目が利くおれが見てもなかなかの長身――一八○は優にある――でハンサムだから、全身これ満艦飾というイカれた格好のフーテン娘が何人か振り返ったが、女は誰の注意も引かない。男の背後に寄り添うようにしてひたひたと青山通りを進んでいく。
おれは首をかしげた。
そんなはずはない。
前方左手に、深夜営業のスーパー・マーケット「ユアーズ」の立て看と入り口が見えてきた。
ハリウッドの「チャイニーズ・シアター」を真似た有名人のサイン入り手形を壁に埋め込んであるが、本物かまがい物か、おれは未だにわからない。
うつむいてた男が顔を上げ、両手をポケットから出して店内へ入る。女の方は見ようともしない。
女が見た。
店内へ消える寸前、振り向いて、おれの顔を。
ざんばらに乱れた白髪の下で、何百歳ともつかぬ皺だらけの顔が、形容し難い邪悪な笑みを浮かべていた。
全身の血が音をたてて引いてゆく。
ここは東京の青山通りだ。車の排気音と警笛、通りを行く群衆のざわめき。
背を丸め、まるで手招きするような格好をとった老婆のかたわらを、ボーイ・ジョージみたいなヘアとファッションの餓鬼が二人通りすぎた。
眼をそらそうとしたが身体が動かない。
老婆がおかしな具合に曲げた手を前に突き出し、ひょいと引いた。
意志に反して身体が動いた。頭は冴えているくせに、考えがまとまらず、自己催眠やヨガの秘術で対抗することもできない。
ゆっくりと、老婆の顔が近づいてきた。
二つの眼は今や真っ赤に充血し、まるで獲物を魅入った蛇のような狂気を湛えて、おれを放さなかった。荒縄で結んだ、今日び浮浪者だって着るとは思えないぼろぼろの着物の|鉤裂《かぎざ》きの痕も、爪の剥がれた素足の傷も、おれは明瞭に見ることができた。
老婆の手の中に入るまで、あと三メートル足らず、というとき――
「馬鹿野郎、気いつけろい!」
怒声とともに背後から突き飛ばされ、おれはコンクリートの上に伏せていた。頭の中で霧みたいなものが渦巻き、すぐ晴れた。
白い背広がはち切れそうな巨漢が、頭上からおれを一瞥し、肩を揺すりながら歩み去るところだった。レスラー上がりのやー公だろう。いつもなら背後からスナップの効いた急所蹴りをかましてやるのだが、今回は生命の恩人だ。
素早く老婆の方へ視線を飛ばす。顔ではなく、腰から下の位置へ。あの眼ににらまれたらおしまいだ。いない。ひとつ頭を振り、おれは店頭に積まれたコカ・コーラの木箱から空き瓶を一本抜き取った。
入り口の自動ドアをくぐりながら、何気ない風を装い、手首だけで放る。七、八メートル先を行く巨漢の後頭部で黒い瓶が躍り、白服姿はあっけなく路上に転倒した。
レスラーだろうがボクサーだろうが、油断してる最中に急所を一撃されれば人間なんて脆いものだ。急所の位置さえ熟知させれば、あとは針一本もたせるだけで、小学生が相撲取りを即死させることだってできる。
石をぶつけなかったのがせめてもの御礼だ。
おれは光溢れる店内に入った。
十字型の回転|棒《バー》とレジの向こう側が売り場だ。冷凍食品や缶詰類はいうに及ばず、食器や化粧品まで、棚の上に大量に並べられている。店内は夜ふかしのハイティーンやカートを引いた奥さま方で、かなりの混みようだった。高級住宅やマンションに住む有閑マダムというやつだろう。店もお客も、大都会の夜がもっともふさわしい陰花植物だ。
老婆は見えないが、男の方はすぐ見つかった。右端の、化粧品の並んだコーナーの前をうろうろしている。背の高いわりになよなよしてると思ったら、やはり、あの気[#「気」に傍点]か。近頃は、マイケル・ジャクソンみたいな野郎が増えた。
|金属《スチール》製の回転棒を回し、おれは売り場へ足を踏み入れた。歩きながら、ふと、どうやって声をかけようかと思った。そうだ。そもそもおれは、何のためにこいつ[#「こいつ」に傍点]を追いかけてきたんだろう。
おれは急速に眼が細まるのを感じた。
化粧品コーナーから|下着《ランジェリー》ブースへ移ってた男が、ひょいと手をのばし、四角い包みを幾つか取り上げると、まったく無造作にポケットへねじ込んだのだ。
万引か!? しかし、よりによってこんな店で女ものの下着を……。
訳がわからなくなり、おれは思わず足を停めた。これがトラブルのもとだった。
横合いからひょいと紺のスーツ姿が現れ、別の下着にのばした男の手をぐい、と掴んだのだ。
はっと男が振り向き、右手からバラバラと包みが落ちた。
おかしいぞ。疑惑の雲が猛烈な勢いで胸に広がってきた。こんな下手くそな万引きをする方もする方だが、ポケットに入れたくらいでいきなり御用にする私服ガードマンもどうかしている。普通は、下着の代金も払わずレジを出たところで声をかけるのが常道だ。人権蹂躙で訴えられても文句はいえまい。
ところが、男は一瞬はっとしてガードマンの方を見たきり、すぐ首を垂れ、手を引かれるままに店の奥へと歩き出したのだ。まわりでは店員や買い物客が眼配せしたり、低い声で囁き合ったりしている。
おれはあわてて追いすがり、男の肩に手を置いた。
「やあ、山田。遅れて済まん、妹の下着は買っといてくれたか。――おや、誰だい、この|男《ひと》?」
ガードマンが、妙にぼんやりした眼つきでおれを見た。いかつい顔の三○男だ。顎はヘビー級プロボクサーのパンチでも平気で受けとめられそうだった。
「私はこの店のガードマンですがね。いま、こちらが品物をポケットへねじ込むのを見たもので、事情を説明していただこうと思いましてね。おたくこそ、どなた様?」
「こいつの友だちさ」おれは横柄な口調で言った。「ちょっと遅れたんで、妹の下着をこいつに頼んどいたんだ。この店じゃ何かい、女ものの下着を男が買っちゃいかんのか?」
「いや……」とガードマンは口ごもった。「しかし、それをポケットにしまわれては……」
「こいつは買い物カゴをもってないぜ。剥き出しのまま、店をうろつくわけにゃいかんだろ」
「それは、まあ……」
さすがに、たじろいだところへ「あのお……」と男が弱々しい声で口をはさんだ。「その、君は、一体……」
「馬鹿だな、お前」とおれは男の声を吹っ飛ばすようなばんから声で怒鳴った。ここで余計なこと言われちゃ元も子もない。「気が弱いにも程ってもんがあらあ。おかしな疑いかけられたら、ちゃんと抗弁しろっての。場合によっちゃ、警備会社からだって賠償金はとれるんだぜ。お互い、だてに法律やってんじゃなかろう」
言ってから、ちらりとガードマンの方を見る。動揺の相を浮かべていた。ざまあみろとほくそ笑みかかり、おれの笑いはたちまちこわばっていった。
眼の前に老婆がしゃがんでいた。
すぐ横にそびえたつ、日用雑貨品を並べた大棚のてっぺんに。
その、無限の怨みを込めた形相の凄まじさ。よく心臓がもった[#「もった」に傍点]ものだ。
「どうかしたかね?」
おれの顔つきに気づいたのか、ガードマンも棚の方を見て、不審そうな表情をつくった。
「見えねえのか、あれが」
震え声で、一メートルと離れていない老婆を指さしつつ、おれはほぼ真相を掴んでいた。
人でごった返す青山通りのど真ん中を歩きながら、誰も老婆に目もくれなかったのだ。大体、生身の婆さんが、好きこのんでスーパー・マーケットの棚へなんかよじ昇るものか。こいつは、おれにしか見えないのだ!
「君ら、おかしな真似ばかりするんじゃないよ」ガードマンがやけに粘っこい口調で言った。
「どうも様子がおかしいな、一緒に来たまえ」
ぐいと手首を握った毛むくじゃらの腕に、おれはもう片方の手のひらを重ね、関節をとると同時に体をひねってガードマンを床へ叩きつけた。手押し|車《カート》に肉と野菜を満載した有閑マダムが金切り声をあげる。
抑えようのない焦燥感が全身を浸していた。このまま老婆のそばにいると、じわじわと取り返しのつかない破滅の淵へ追いやられそうな気がした。
そうなる前に、ひと騒ぎ起こして、相手の意図を粉砕する手だった。
「こ、この野郎」
起き上がってくるガードマンの側頭部へ猛烈な、それでも十分に手加減した回し蹴りを叩き込み、おれは手近の棚に並んだエイボン化粧水の瓶を老婆めがけて投擲した。
ひょい、と老婆はその姿勢を崩さず、一メートルほど跳びすさって難を避けた。
瓶は出入り口の壁にぶつかり、派手な破壊音と悲鳴が湧いた。店内を騒然たる気が走る。ふん、目的の半分は達せられたわけだ。
もう一発と、化粧瓶をつかんだとき、
「おやめなさい〜〜〜」
ぞっとするような声が耳もとで囁いた。振り返り、おれは喉の奥で悲鳴をあげちまった。手押し車のマダムのいた位置に、あの老婆が突っ立ち、じっとおれを見据えているではないか。
ぎゃっと叫んで瓶を投げようとした手に、男がしがみついた。
「放せ、何をする!?」
「そっちこそ」と男は叫んだ。「包丁なんか振り回すのはやめたまえ!」
――!?
振りかぶった右手の方にそっと顔を回し、おれは本当に震え上がった。何ということだろう。香水瓶のつもりで投げつけかかったのは、調理用の幅広い包丁だったのだ。
あわてて老婆の方を見る。恐怖の眼を見開いているのは、派手な顔立ちの有閑マダムだった。
もし、男が止めてくれなかったら……
「あそこだ! 捕まえろ!」
ガードマンらしい声と足音が四方から近づいてきた。
こりゃ、いかん。
「おい、ついてこい!」
おれは男の手を振りほどき、あらためてひっ掴むと、店の奥へ走り出した。
青山通りと表参道の交差点でタクシーを拾い、三万円のチップを与えて、どこでもいいから突っ走れと命じたとき、おれの精神は異常に昂ぶっていた。気分が妙にとげとげしく、暴力への渇望が腹中にわだかまって、手当たり次第に喧嘩を売りたい――そんな感じだった。
残った理性と、入るときに記憶しておいた店内配置図をフルに活用し、追いすがるガードマン二人を張り倒しただけで「ユアーズ」の裏口から脱出できたのは、怪我の功名というべきだ。
柄の悪そうな運転手も気配を察してか、妙に硬くなっており、隣の男も口をつぐんでいる。おれもそっぽを向いて窓の外を眺めていた。
「あの……」
少したって、ようやく気分が落ち着いてきたのを感じてか、男が声をかけてきた。事情を説明しろとでも言うのだろうと思ったら、
「君も、見たのかい。あのお婆さんを?」
おれは驚きのあまり、身体を半回転させた。
「どうして、わかる!? お、おたくにも見えたのか!?」
「いや」と彼は弱々しく首を振った。「今日は[#「今日は」に傍点]見えなかった。でも、ときどき姿を現すんだ。夜中に、妙に息苦しくなって眼を覚ますと、枕もとでじっと僕を見つめてたりする。外へ出ると、通行人がきゃっと叫んで逃げ出すのはしょっ中だよ」
要するに、特定の誰かとは限らず、見えたり見えなかったりするわけだ。なんとなく、おれはほっとしたが……。
「新聞読んでてぞっとしたんだけど、あのお婆さんを目撃した人は、ロクな目に遭わないんだよ。|一昨日《おとつい》、育児ノイローゼで子供を絞め殺した母親があったろ、あれは、二、三週間まえ、マンションの入り口で腰を抜かした保険の外交員なんだ。
五日まえ、四谷のサラ金で日本刀振り回した挙げ句、自分で自分の腹を刺しちゃった男は、確か生協の事務員だし……ぼくが東京へ出て来てから、こんなことは何十件と起こってるのかもしれない……」
男は悲しそうに眼を伏せ、おれは何となく同情したい気分になった。これじゃ、素直についてくるわけだ。ま、何はともあれ、他人に致命傷を負わさずにすんでよかったぜ。
おれはあらためて、ヨガの精神統一法を行い、気分を静めようとした。浅い腹式呼吸と卍の空想視で、じきいらだたしさが消えていく。
「だけど、君は誰なの? どうして嘘までついて僕を助けてくれたんだい?」
男の問いに、おれは眼を半眼に閉じたまま首を振った。
「わからねえ。強いていえば勘だな」
「勘?」
「ま、いいさ。それより、自己紹介がまだだったよな。おれは|八頭大《やがしらだい》。フリーの|宝探し屋《トレジャー・ハンター》さ」
男は一瞬、奇妙な表情を浮かべてから、弱々しい微笑を見せた。
「ぼく、宮城つかさ。青峰学院大学の一年生。四月に九州から上京したばかりさ」
「ほう、あの一流大学へか。まさか、あの婆さんも一緒に尾いてきたんじゃなかろうな。目撃した奴は荒み切って凶行に走る。おたくが女の下着を万引きする気になったのも、あいつのせい[#「せい」に傍点]だろうし、ガードマンがあんな場所で手を出したのも、おたくを陥れるよう、知らず知らずのうちにそそのかされてた[#「そそのかされてた」に傍点]んだ」
「そうそう」
宮城は威勢よくうなずいた。
おかしな野郎だなと思いながら、おれは訊いてみた。
「あの婆さん、人間じゃねえな。怨霊か」
宮城は、驚いたようにおれを見つめ、口をつぐんだ。大学一年というから、ストレートに入学してればおれよりひとつ年上なのに、そう思わせる覇気がまるでない。
なるほど、じっくり見れば、ハンサムな眼鼻立ちにも線の太さが感じられないし、八月の盛りだというのに肌の色も妙に生白い。
身につけた白いポロシャツは、アルファ・キュービック・フォア・メンのマーク付きだし、スラックスも渋い重厚な色合いからして国産品じゃなさそうだ。ピカピカの靴もスニーカーなんかじゃない。マレリーの最高級品だ。田んぼ売った親の金で揃えたんじゃない証拠に、どれもぴたりと身についてる。よほどの家柄のお坊っちゃんにちがいない。
これで中身がもう少しワイルドだったら、おれ程度とはいかないまでも、女子大生ぐらいはそこそこ引っかけられるだろう。惜しい。
「しっかりしろよ」とおれは元気づけるように言った。「乗りかかった船だ。事情を話してみる気はないか? あの婆さんを見てサラ金強盗に走る連中よりは頼りになるつもりだし、あちら[#「あちら」に傍点]の方面に関する知識も多少はあるぜ」
こう持ち出しても、宮城は頑固に沈黙を維持していた。秘密を知られるのを恐れているんじゃなく、おれの立場を気づかっていることはひと目でわかった。こんな甘い根性でよく東京の独り暮らしなんか出来るものだ。
おれも無言で待った。車は明治通りを新宿方面へ向かっている。
「こんなことしていいのか自信はないんだけど、君は普通の人じゃなさそうだし……」
不意にぽつりとつぶやき、宮城は運転手に、青山へ戻ってくれと言った。
二○分後、おれたちは根津美術館の裏手に建つ瀟洒なマンションの五階に足を踏み入れた。
口にこそ出さなかったが、正直おれは感心した。六本木の拙宅には及ばざること月ほどの距離があるが、独身大学生の住まいにしちゃ超贅沢品だ。
どっかに婆さんが隠れてるとまずいから、一応全室点検してみたが、床面積にたっぷり余裕をとった六DK。家具調度もすべて一流どころを揃えている。家賃だけで大会社の部長クラスの給料が吹っ飛んでしまうだろう。キッチンなんざ、西芝電機が世界に先がけて開発した『フル・オート・ユニット』――手を振るだけでコンピューターがオーブンやコンロの点火、消火はもちろん、食器洗いや消毒殺菌までやってのける――だ。
「オールナイト・フジ」に出てるような低脳女子大生どもに目をつけられたが最後、既成事実をつくらんものと、裸の女がなだれ込んでくるだろう。とどめは「ご両親に紹介して」。これで宮城の一生は暗雲に閉ざされたまま終わることになる。
だが、不思議なことに、部屋には女っ気のおの字もなかった。シャツの袖の折り方や着こなし全般から想像してた通り、どの部屋もきちんと掃除機がかけられ、寝室兼書斎(!)にも、読み差しの本や汚れたコーヒー・カップなど影も形もない。ベッドのシーツがしわひとつなく整頓されているのにも驚いた。こりゃ、付き合いづらい。
理由はすぐに思いあたった。
「女の子が婆さん、見るのか?」
キッチンヘ戻り、アイスコーヒーを入れてる宮城に訊くと、小さくうなずいた。
だろうな。それじゃなくても、そこいら中にねっとりした妖気が立ち込めてる。生物学的に言って女は男よりずっと敏感だから、霊感の強い奴なら入り口で逃げ帰ってしまうだろう。上がり込むなんて、よほどの鈍感だ。
おれはゆったりした革張りのソファに腰を下ろすと、宮城の書斎から失敬してきたメモ帳をテーブルの上に置き、自前のサインペンである[#「ある」に傍点]記号を書きはじめた。
「……なによ、それ?」
水滴のびっしりついたグラスを置きながら訊く青白い顔に、おれはウインクしてみせた。
「サンフランシスコの|魔法道具店《マジック・ツール・ショップ》で買ってきた|超能力《ESP》ペンシルさ。一本二○○ドルもするが、書く記号次第で縁談、失せ物、宝くじ、大抵の願い事なら叶うそうだ。記号ん中にゃ魔除けというのもあってな、いま、それを書いてる。メイド・イン・ジャパンの怨霊に効くかどうかわからねえが、何もしないで来るのを待ってるよりはよかろう。二人揃って、自殺でもしたくなるよう仕向けられちゃ敵わんからな」
宮城は「へえ」と言って、何の変哲もないサインペンを見つめた。
世の中不景気になると、怪奇現象やらオカルトやら、超自然的なメディアに注目が集まるというが、ミーハー・ギャルの憧れの地、アメリカ西海岸――中でもサンフランシスコとロサンゼルスの二大都市を擁するカリフォルニア一帯は、六○年代半ばから、オカルト|運動《ムーブメント》の根拠地として有名だ。
LSD、ポップ神秘学、悪魔主義者、そして、これらがライフ・スタイル化し、人々の心の闇の部分を増幅させた結果の大量虐殺。――あの美人女優シャロン・テートを殺害したマンソン・ファミリーが、麻薬と悪魔主義を奉ずるオカルト結社だったことは衆知の事実だし、続発するこの種の犯罪事件の中には、犯人が被害者の労務者を食っちまったという物凄いものまであるのだ。
ある水晶占い師は、カリフォルニアこそ、古代のレムリア、ムー両大陸の残存部分であり、その霊的遺産が、奇怪な現象と土地柄になって顕現しているのだという。鵜呑みには出来ないまでも、民衆を虜にしたひとつの文化がこの土地で発生し、今なお命脈を保っているのは事実である。
「マジカル・ミステリー・ミュージアム」なる世界初の魔道士養成機関を設立し、商業主義的オカルトの先駆を成した“大僧正”アーチ=ドルイド=モーロク、グラマー女優ジェーン・マンスフィールドを弟子にもち、「|人生《LIVE》」を逆につづると「|邪悪《EVIL》」になると喝破して「チャーチ・オブ・サタン」なる悪魔崇拝教団を州公認の宗教団体にしてしまった現代のサタニスト、アントン・サンダー・ラ・ベイ、彼らの対極に位置するアラン・ワッツ、シュリ・オーロビンド等の“真摯”な哲学探究者たちとバグワン・シュリ・ラジニーシ、チョギャム・トゥルンパをはじめとする“善”のオカルティストたち……。
サンフランシスコの裏通りを歩けば彼らの支部や道場の看板が氾濫し、スーパー・マーケットには瞑想用のオーディオ・テープやタロット・カードが並んでいる盛況ぶりは、大工業国アメリカの黒い一面を如実に物語ってくれる。
むろん、魔法も「商品」のひとつだ。
魔女の惚れ薬、恋敵を短期間インポにする呪いの人形などは序の口で、耳にしただけで人間と身近の動物霊を合体させ、精神ばかりか肉体まで獣化させてしまう「アニミュージック・テープ」や、人間の魂を入れ換え、殺人、強盗も思いのままという「精神交換薬」が、平均七○ドル前後で取引されていると知れば、無邪気な日本人観光客の数も激減するだろう。
ま、そのうち九割方は、「その気にさせる」程度のまがいもの媚薬だが、中には支払う代金に見合う品もある。七〇年代末に売り出された超能力ペーパーがそれだ。
細かい製造方法はおれにもわからないが、特殊な薬物のコーティングによって筆記者の「想い」を封じ込め、約一昼夜ののち、相手が開封した時点で、ドカンといく。気に食わない相手に偏頭痛を起こさせるくらいは朝飯まえ、枚数さえふやせばどんなブスにもハンサムがひっかかるというので、一時は大変な話題になった。人気が落ちたのは、ある学生がなかなかなびかない彼女のところヘ送った五〇枚近い“恋文”を、その|娘《こ》の父親が開封してしまってからで、学生は今もむくつけき“恋人”の眼を逃れ、アメリカ中を駆け巡っているという。
おれの超能力ペンシルは、そこと同じ会社が性懲りもなく発売した品で、その辺の紙に、願い事を象徴する記号を描いてドアの前に貼っておくと、まさしく、月末になってもNHKの集金人や新車のセールスマンはやってこなかった。
おれは五秒で二○枚ほど書き上げ、宮城と手分けして外に通じるドアと窓にもれなく貼りつけてから、またキッチンに戻った。手元に残った何枚かをいじくりながら、
「これで当面は大丈夫だろう。かなり強い霊も撃退できると店の親父が保証してたからな。おれが信じられんと言うと、奥の部屋にストックしてある、借金のせいで首吊り自殺した男の霊で試してみせたよ。ドアの内側に貼っつけただけで、奴め、一歩も外へ――借金取りのとこへ行けなかった。なんでも女房は借金のかたに犯されてこれまた自殺、娘は娼婦に身を堕としたそうだ。つまり、効果は保証済みってわけさ。おたくのお婆ちゃまの怨みがそれ以上に強くないことを祈るんだな」
自信たっぷりの口調でそう言うと、宮城はようやく笑い顔を見せた。
母性本能をくすぐるというんだろうが、おれには泣き笑いにしか見えない。これじゃ、怨みがなくても、面白半分に悪霊が寄ってくるだろう。
「さて、婆さんとの関係をきかせてもらおうか――うええ!」
舌が痺れるほどよく冷えたコーヒーを吐き出しかけ、おれは眼を白黒させながらなんとか飲み込んだ。
「ああ、甘かったかしら?」
あわてて腰を浮かす宮城へ、おれは首を振ってみせた。色付きの砂糖水だが、奴の好みに文句をつけても始まらない。
「生命に別条はなさそうだ。さあ、いけ」
「あー、よかった」
宮城は胸に手を当て、嬉しそうに笑ってから、脅えた眼で周囲を見回し、低い声で話しはじめた。
彼の実家は九州の佐賀で七代もつづく大地主だが、三年前、父母に先立たれてからは、痛風で寝たきりの祖母と、今年二十二になる姉の|秋葉《あきば》の三人で家を守ってきた。
ところが、ちょうど二年前、叔父夫婦の進言で、余った土地へ一大レジャー・センターを建設すべく県の観光課と提携してから事惰がおかしくなった。
ちょうど浦安の「東京ディズニーランド」が話題をさらっていた頃である。佐賀市から車で三○分ほどの山林五万坪を切り拓き、最新鋭の技術を駆使して建設される施設の素晴らしさは、観光課ばかりか佐賀県民の度胆を抜き、全国紙に紹介記事が派手に載ったくらいだから、おれも覚えている。五万坪もの土地を無償で提供し、県威発揚のために役立てようという心意気は、一種の「美談」として、新聞ばかりか雑誌やTVでも何度か取り上げられた。
ところが、土地を均し、土台を打ち込み、いざ、という時期になって――ちょうど一年くらい前だろうか――ぱたりと噂をきかなくなり、少しして風の便りで、建設は中止、施設はつくりかけのまま放置してあるときき、ははん、と思ったものだ。
土地の提供者たる宮城の家族はマスコミに一切登場せず、記事の囲みやブラウン管の中で愛想よく「事業理念」について語るのは、つねに茂弥、|奈緒美《なおみ》の叔父夫婦だったからである。詐欺師は顔を見ればわかる。
さすがに育ちの良さで、宮城は二人のことをあまり口にしなかったが、快く思っていないのはすぐピン、ときた。おれも詳しくは訊かずに済ませたが、この事業の橋渡しになったのが札つき夫婦である以上、土地やレジャーランドの収益を巡って裏契約でもあったに違いない。金のある一家には、必ず腐り根性の身内がいるものだ。
|悪《わり》い野郎だなと腹をたてかけたおれの精神を緊張させたものは、つづけてきかされた、工事中止の直接原因だった。
「猫なんだ」
と宮城は、なんとも背筋が寒くなるような声で言った。
「レジャーランドの施設が約三分の一完成した時点で、狂死したり、獣に噛み殺されたりする作業員が続出しはしめたんだ、極秘裡に警察に手を回して傷口を調べてもらったら、とてつもなく大きな猫の歯型だとわかった。大人くらいの身の丈があるらしい。あのレジャーランドは、いや、ぼくの家は怪猫に呪われているんだよ」
こういう場合、普通の奴なら、不気味な眼つきで数歩退くのだろうが、おれはうなずいたきりだった。
つい数十分まえ、ネオンと車と人混みの青山通りで、怨霊としか思えぬ老婆と一戦交えたばかりではないか。レジャーランドに成人大の化け猫が出たからって何の不思議がある。清涼飲料水のCMじゃねえが、河馬が樹にのぼり、豚が月へいく時代も眼と鼻の先だ。
「そもそもの始まりは、去年の秋口さ。作業員たちが、工事現場のあちこちであの老婆の姿を目撃しはじめたんだ」
宮城の話が進むうちに、おれは首筋の辺が妙にうそ寒くなっていくのを感じた。内容はほとんど人伝てによるものだが、嘘でないことだけは明白だった。想像を一切含まぬ断片的な事実の重みが、おれの体温を変えていく。現実が変容するときにのみ感じる、冷え切った炎のような感覚だった。
老婆の出現が噂にのぼりはじめた頃は、誰も事の重大さに気づいてなどいなかった。
近所の婆さんか浮浪者が、もの珍しさから現場に入り込んだのだろうと見なされ、今度見かけたら、即刻つまみ出すようにとの指示が作業員たちに下った。
目撃者たちが、材木置き場の片隅や草繁る土手の高みからじっとこちらを見つめる、ぼろ[#「ぼろ」に傍点]をまとった姿の言いようのない不気味さや、食い入るような視線の恐ろしさを語ったところで、彼ら以外の仲間たちと、その経験を分かち合うことは不可能だったのである。
彼らのうち何名かが――多分、老婆を目撃しただけでなく、こちらも目撃された連中が――日に日に食欲と労働意欲をなくし、手抜き仕事の連続から馘首されても、老婆の一件と結びつけるものはいなかった。
老婆の存在が、底知れぬ冥府の闇をまといつけ、人々の前に登場してくるのは、最初の目撃談から約ひと月後、基礎工事が終了し、上もの[#「上もの」に傍点]の建設にかかった頃である。
工事現場全体に、何ともいえぬうそ寒い気が立ち込め、日常のすべてが生気を失いはじめたのだ。
「時々、現場を覗きにいくでしょ。すると、ちっとも晴れてる[#「晴れてる」に傍点]って気がしないんだよね。一歩足を踏み入れただけで、じわあっと気が滅入ってくるのよ。どこもかしこも秋晴れで、遠くの天山の紅葉は、ため息がでるほど美しいし、山鳩やコジュケイも、あっちで飛びはね、こっちで歌ってるの。だけど、現場はまるで活気がない。
ううん、それどころか、働いてる連中や動き回ってる機械は、今にも地面へぶっ倒れるか、音もなく停止するみたいに思えるんだ。みんな、妙にやつれて、頬骨は飛び出し、眼ばかりいやな光り方させてうろついてんの。しょっ中喧嘩が起こり、二、三分中を歩くと、人気のない作業場の隅でこっそり酒飲んでる連中を見かけたものだよ」
何か黒いものが夜となく昼となく工事現場をうろつきはじめたのだ。その事が、関係者全員の胸に、肺臓をついばむ菌がえぐり込んだように赤黒い痕跡を印したのは、現場全体が妙に活気を失ってからほぼ二週間後に起こった、仁科監督殺害事件であった。
精彩を欠く現場にあってただひとり、作業員の士気を鼓舞し、かろうじて工事の進行をスケジュール通りに推し進めていた有能な現場監督が、近所の荒れ地の中で、無惨にも喉笛を噛み切られた死骸と化して発見されたのである。
それだけならまだしも、捜査の手が監督殺害の前後に及ぶにつれ、事件はなんとも言いようのない不気味な様相を呈しはじめたのだ。
その日の昼休み、仁科監督以下数名がプレハブの事務所で仕出し弁当に番茶の昼食を摂っていると、入り口から高校二年生になる近所の雑貨屋のひとり娘が顔を出した。名前は|彩子《さいこ》といい、細身だが清純な顔立ちとおさげ髪に人気があり、日に何度も煙草やまむしドリンクを買いに行く若い作業員が後を絶たない看板娘だった。
少なくとも、これから数分の間に狭苦しい事務所内で起こったことに関しては、精確な記録が残っている。
彩子はドアのところでぺこりと頭を下げ、いつもの、はにかむような微笑を浮かべて、
「仁科さん、いますか?」
と訊いた。
作業員のほとんどは、現場の出入り口から百メートルと離れてない彩子の店と顔なじみだし、ヘビー・スモーカーで日にピース八十本を豪語する仁科が、毎日一度は顔を出すことは皆も知っているから、彩子の言葉にそれほど驚きはしなかったが、中で、彩子にちょっぴり気のあった鈴木という二○歳の作業員が、
「へえ、お安くないねえ、監督」
と、軽い嫉妬まじりの冷やかしを放った。
部屋の奥で二人の仲間とテーブルを囲んで食事中の仁科も、驚いたというよりは嬉しそうに、箸を置き、
「どうしたね、彩子ちゃん?」
と手招きした。
このとき、入り口に一番近い椅子にひとり腰を下ろしていた鈴木は、彩子の背後のドアがいつの間にか閉まっているのに気がつき、妙な気分になったという。
いちばんはじめに少女を見つけたのは彼なのだが、後で思い返してみると、そのとき彩子はもう事務所の中にいたことになる。ところが、入り口のドアときたら、取りつけ方が悪いのとろくに油も差さないのとで、ちょっと風が吹き抜けたくらいでギィギィピィピィ耳障りな音をたてる代物なのだ。
それが、彩子の入ってきたときだけ、音をたてなかった。
さて、手招きされた彩子は、明るい笑みを浮かべて仁科たちの方へ進んできたが、弁当を食っていたひとりは、その途端、わけもなくぞおっと身体が震えたと述べている。
しかし、この事務所での彩子に関して、最も不気味で物凄い印象を留めた出来事は、その数秒後、少女が部屋の真ん中へんを通過するときに起こった。
いきなり、外で犬の吠え声が轟いたのである。それも一頭や二頭ではない。五指に余る凄愴な雄叫びが遠く近く放たれたと思うと、それがぐんぐんプレハブめがけて近づき、あっという間に戸口は、ガリガリバリバリ爪をたてる音と狂ったような咆哮で満たされた。
狂ったという形容があながち嘘ではない証拠に、身長一八九センチ、体重八五キロの仁科監督をはじめとする、数々の飯場や荒仕事をくぐり抜けてきた大男たちが血相を変えて立ち上がったほど、外部の犬の狂騒ぶりは凄まじいものであった。何事かと駆けつけた外の作業員たちによると、犬の数は十頭以上おり、全部が全部、工事現場をうろつく野良犬だったが、泡を吹き、牙を剥いてドアに前脚をかける様子があまりにも凄まじく、誰ひとり追い散らす勇気も湧かなかったという。
彩子が振り向いたのは、このときである。
仁科の両脇にいた二人の作業員によると、その動作は非常にゆったりしたもので、吠え声にびっくりしたというより、なにか、癇癪もちの母親が怒りを抑えながら、突然泣き出した赤ん坊を振り返るような感じだったという。
そして、どう考えても偶然の一致としか思えないのだが、少女が戸口へ向き直った途端、犬たちの吠え声はぴたりと途絶えたのだ。
これも外部の目撃者の証言によれば、犬たちは突然戸口からとびすさり、明らかに脅えの表情をみせながら、それでも精一杯、威嚇の牙を剥き出したままじりじりと後退を開始、やがて、散り散りに走り去っていった。まるで、眼に見えない何かが戸口から滲み出し、力くらべの末、猛犬どもを追い払ったような感じだったと、目撃者のひとりは語っている。
外が静かになると同時に、彩子は元通りの屈託ない笑顔で仁科を振り返り、彼のそばまで来ると、
「ご相談したいことがあるんです」
と言った。
作業員の二人が顔を見合わせ、仁科も眼を丸くしたが、そこは酢いも甘いも噛み分けてきた強者らしく、ちょっと腕時計を覗き、
「ま、少し遅刻してもいいな」
と言い、二人に目配せをした。二人も壁の時計を見たが、あと二〇分ほどで午後の作業の開始時刻だった。もとより、工事の一切を取り仕切っているのは仁科で、文句をつける筋合いのものではない。
いつもの癖で安全ヘルメットを手に少女の後につづく彼を、三人の男たちは苦笑しながら見送った。
それきり仁科は帰らなかったのである。
その晩、ほじくり返された赤土が生々しい断面をさらしている現場の片隅で、探しに出た作業員のひとりが、無惨な死骸を発見するまでは。
宮城の話によると、致命傷は喉を大きく食い破った獣の牙で、それはともかく、眼を覆うばかりの遺体の惨状が人々を震え上がらせた。後に宮城が担当の刑事からきいたところでは、熊とさえ素手でやり合えると噂された筋骨たくましい身体が、原形をとどめぬまで「解体」され、手足はもちろん、胴体もバラバラ、内臓はあたり一面に撒き散らされ、発見時には数頭の野犬が群がっていたという。
しかも、食いちぎられたかもぎ取られたかした四肢への仕打ちはさらに凄まじく、例えば両脚は膝関節から噛み砕かれて、大腿部はもちろん、むこうずねの肉もぱっくり食いとられて骨が覗き、腕はこれも肘関節で分断されていたが、こちらは牙によるものではなく、力まかせにへし折られたものと鑑定された。
付け加えれば、指は手足とも根元から食い切られており、それだけでは気が済まなかったものか、一本一本生爪を剥がし、第一、第二関節でも噛みちぎられて、白っぽいドングリかチョークみたいに、赤土の上に散乱していたのである。
発見者の作業員はその場で腰を抜かし、それから後の遺体収集でも何人かがひっくり返ったが、この事件の最もおぞましい点は、被害者が仁科監督だと見分けるのに、引き裂かれた衣類や四肢から割り出さねばならなかったことだろう。監督の首はいまだに発見されていないのだ。
警察もはじめは野犬の仕業と見なし、その日のうちに、保健所と共同で工事現場付近一帯の掃討を計画していたところ、鑑識の出した結論がそれに冷水をぶっかけた。
なんと、傷の程度、残された牙の痕からして加害者は一頭、いや一匹、それも全身一メートル六〇センチ近い巨大な猫と判定されたのだ。
「しかも、仁科監督は殺されてからそんな目に遭わされたんじゃないのよ」
宮城の声は震えをおびていた。
「死体のまわりには、必死に這いずり回った跡がはっきり残ってたのさ。きっと、真っ先に両足を食われ、這って逃げようとするところを、手をちぎられ、それから……」
「もうよせ馬鹿」
おれは渋い顔で、妙に熱のこもった宮城の話を制した。おかしなことに気を入れやがる。夜、眠れなくなったらどうするつもりだ。
「その他の被害はいずれ訊く。それより現状を話せ」
「うん」
猫に呪われているって大秘密を暴露しちまったせいか、宮城は妙に冴え冴えとした顔で実家のことを話しはじめた。
工事が中止になっても、宮城家には大した変化はなかった。なにせ由緒正しい――源平の頃からつづいている――家柄で、執事や女中たちの中にも先祖代々ってのが随分いるくらい現実離れした家系だそうだ。寝たきりの祖母と姉の秋葉は、むしろ喜んだらしい。
「姉さん、古いからねえ」と、宮城は嘆息するように言った。「高校卒業すると、どこへも行かず家にこもって、お婆さんの世話に明け暮れてんだよ。弟のぼくが見ても、藤の花みたいにきれいだけど弱々しいタイプだから、なまじ働いたり、大学へ行ったりするよりは、その方が性に合ってたみたいだけど」
佐賀でいくつかの会社の役員をしていた父が残してくれた株券が十分にあるのと、佐賀市内の分を含めれば二十万坪以上にもなる土地の一部を県内企業に賃貸している収入とで、暮らしには困らない。
ふん、いいご身分だな、とおれは思った。家に引きこもり、病弱な身寄りの看病をしながら花嫁修業か。どうせ、着物の似合う、触れなばおちん風情の色白の美少女かなんかだろう。純日本風てのは虫が好かねえ。
現在の宮城家にとって、問題は叔父夫婦だった。
宮城の両親はこのふたりが嫌いで、生前、家の敷居は決してまたがせなかったのが、彼らの死後は気の弱くなった祖母と秋葉の優しさにつけ込み、唯一の身寄りという特権をかさに着て、涼しい顔で出入りするようになったという。
いつまでも山奥の屋敷にくすぶってちゃいかんとか、財産は増やすことを考えねばと祖母をたきつけ、今回の事業計画に無償で土地を提供させたのが裏目に出て、社会的信用まで失っちまったはずなのに、今も祖母を訪ねては秋葉や宮城に内緒でおかしな事業話を持ち込んでいるらしい。「なんで、おたく、家を出てきたんだ?」
結構、悲痛な顔で話を終えた宮城に、おれは当然の質問を放った。
「化け猫だの、親戚乞食だの、内憂外患、清時代の中国じゃねえか。男のおたくが家で踏んばってなきゃ、みな食い殺されるか、丸裸でおっぽり出されるかだぞ」
「うん」と宮城はさすがに照れ臭そうな表情で「ぼく、高校の成績もよかったし、お婆さんも姉さんも、家のことは心配せず、しっかり勉強してこいって言うもんだから、お言葉に甘えたのよ」
おれは頭を抱えたくなった。なにがお言葉に甘えたのよ[#「のよ」に傍点]だ。
「その挙げ句が、怨霊婆さんに追っかけられてパンティ泥か。もう少しで婆さんを目撃した他の連中みたいに破滅させられるとこだったんだぞ。一体、何の勉強をしとるんだ?」
「勉強部屋見たでしょ。法律だよ、法律」
おれは腹の中で舌打ちした。なにがホーリツだ、このオカマ野郎。ひと言文句つけてやろうかなと思っていると、宮城はおれの顔をじっと見つめて首をかしげた。
「でもさ、気をつけてよ。どうやら、ぼくはすぐ破滅させちゃあもらえないようだけど、君もあいつを見ちゃったんだ。きっと、身に不幸が降りかかるよ」
真剣な瞳に見据えられ、おれは我知らず総毛立つのを覚えた。そうだ、おれも見てしまったのだ。怨霊の呪いは、すでにおれの心肉深く食い込んでいる。
新宿のマリアの店でお祓いしてもらおうかなと考えたとき、宮城がふと、ドアの方を向いた。
「どうした?」
訊きながら、答えはわかっていた。
遠くから、足音が聞こえてくる。靴じゃない、素足か、草履でもはいているような音がぴたぴたと、コンクリートの階段を登ってくる。
「……いま、三階だね」
「うむ」
次の瞬間、おれたちは引きつった顔を見合わせた。
ここは居間である。玄関へつづく廊下とは樫の木のドアで隔てられている。玄関と外の廊下を仕切るのはスチール製の扉で、三階の踊り場までは分厚いコンクリートの床がふたつも遮断している。
それなのに、なぜ音が聴こえるんだろう。いや、それよりもなぜ、三階に誰かがいるとわかるんだろう。
「どうしよう?」
泣きそうな宮城の声に、おれはどう答えていいかわからなかった。
あの札にまかせとけ――そう言い切る自信もない。九州から東京まで追いかけてきた怨霊に、市販のお護りがどこまで通用するだろう。
足音はいま、四階の踊り場をすぎた。
ぴたぴたぴた――五階だ。
そして、ゆっくりやって来る。
軽やかな一歩に限りなく重い呪いを込めて。
宮城がおれの肩を掴んだ。
足音が停まったのだ。
ドアの前で。
「何枚貼った?」
とおれは尋ねた。
「三枚」
「阿呆。入り口は|要所《かなめ》だから、十枚は貼っとけって言ったぞ!」
「それしか残らなかったんだよ」と宮城はおろおろ弁解した。「入り口は最後にやったもんで」
おれは歯ぎしりをひとつしただけで耳を澄ませた。もう何を言っても遅い。
「貼ったの、まずかったんじゃないかなあ」
宮城が妙に怨みがましい眼付きでおれを見た。
「どういう意味だ?」
「今まで何にもしなかったんだ。今度もただ僕の部屋を覗きに来ただけかもしれない。それなのにあんな札貼って……怒らせちゃったと思うのよ」
「黙ってたたられて[#「たたられて」に傍点]いたいのか、このマゾヒスト!?」
「そんな……」
「黙れ。やつ[#「やつ」に傍点]、ためらってるぞ!」
おれの胸に希望が湧いた。コンクリートの壁とドアを通して、確かに躊躇する気配が伝わってくる。即席のお札も効果ありだ!
だが、次に響く音をきいて、希望に膨らんだ胸はたちまち冷凍庫と化した。
ドアの軋む音。開いてる。
あとはまっすぐ部屋だ。
しかし、足音は三和土のところでまたもためらった。気のせいか、おれは、しわがれた唇の洩らす苦痛と怨みの呻き声をきいたように思った。
「おたく、玄関口にも貼ってきたのか?」
「うん。十枚ばかり、余ってたもんで」
「でかした。さすが法学部」
「ははは」
顔だけこわばった笑い声てのもシラけるもんだ。こういうタイプが悪霊に狙われるのはわかるよな。
こう考えたとき、宮城がひえっと叫んで、おれの手にすがりついた。
足音が廊下を進みはじめたのだ。
来る、やって来る。
カチリとノブの回る音。そしてギイ〜〜〜。
手前のキッチンだった。
なんとも低い、この世のものとは思えぬ怨みに満ちた声が、
「……いない」
おれの喉仏がひとりでに動いて唾を呑み込んだ。
足音がまたぴたぴた……と。
ドアの軋み。
向かいの応接間だった。
「……いない」
振り向く気配があった。いよいよだ。ぴたぴたぴた。
――行っちまえ! とおれは念じた。
だが足音は停まった。
おれの視線は入り口のドアに貼りついた。そこには、おれが札を貼った。外に五枚、内に五枚。
最後の砦だった。
ドアの外のやつは、明らかにためらっていた。何度かドアの前を行きつ戻りつし、立ちどまり、じっとおれたちの様子を窺っている。
「……お札が……貼ってある」
世界で一番聴きたくない声が言った。
「……ここだね。開けて……おくれ」
誰が開けるもんか。
声は少しの間沈黙した。動く気配もない。
「いま、何時だ?」
おれは眼線をドアに釘づけにしたまま訊いた。
「午前三時ちょっとすぎよ。夜明けまで、間があるなあ。でも――真っ昼間にも出るのよ、あいつ」
おれの質問の意図を予測した宮城の答えだったが、あいにく、おれは回答が欲しかったんじゃない。昼間も出るのはさっきの話からわかっている。情けないことに、おれは沈黙に耐えられなかったのだ。どう考えても只事じゃない。この怨霊は、ただの怨みの持ち主ではなかった。
カチリとノブが回ったとき、おれは必死で対抗策を検討していた。世界中で記憶した呪文や護符の紋章が光速度で頭の中を乱れ飛んだが、いかんせん、複雑すぎて書いてる[#「書いてる」に傍点]暇がない。
かすかなドアの軋みが細い冷たい線を背筋に走らせた。
だが、見開いた眼の向こうで、壁とドアの隙間は数ミリの溝と化して停止した。外側の護符は突破されても、内側の分は効いているのだ。
「マークが、マークが消えていく」
臨終まぎわの病人みたいな宮城の声を聞くまでもなく、おれにも、三枚のメモが見えない力に引き剥がされるみたいにうち震えているのが見えた。表面の記号が、水に溶ける絵の具みたいに薄れていくに従い、ドアと壁の間の線は、徐々に、確実に太さを増していった。
ぱらりと白い紙が落ちる。
きいいとドアがこちらヘせり出す。
「開けておくれ……」
と声がまた言った。
「開けておくれ……出しておくれ……」
突然、すぐ脇で宮城が呻いた。
振り返ると、野郎何のつもりか両手を胸前で構え、背筋をピンとのばして、二○センチほど離れた空間をひっかいてるじゃないか。恐怖のあまり、婆さんが眼の前にいるように見えるのだろう。
ドアの方に向き直って、おれは硬直した。あと一枚しか残っていない!――と思いつつ、ドアの彼方から放たれる怨霊の呪いのせいだろうか、頭の中は白い霞がかかったみたいに濁り、全身の血はゼリーのように重く粘つき、指一本動かすのも大儀なくせに、へたり込むこともできなかった。ヨガの自己催眠へ入るにも精神統一が不可能ときてる。
最後の一枚が、上端からすう[#「すう」に傍点]とめくれ返ってきた。
――そうだ、とおれは恐怖のために霜柱と化した頭の隅で考えた。新宿のマリアに電話すれば……
白い紙がはらりと落ちた。
ドアがゆっくりと開き、長方形の空間の奥に髪振り乱した妖婆の姿。
けたたましい音がおれの耳をつんざいた。
それが電話の音だと意識した刹那、すべては正常に復していた。
ドアの向こうに、怨霊の姿はもうない[#「ない」に傍点]。
「――電話だぜ」
腕のローレックスに眼をやりながら、おれはぼんやりつぶやいた。午前三時八分ちょい過ぎ。事件の後で時間を確認するのはトレジャー・ハンターの鉄則だ。記憶がより確かになる。
「うん」これまた虚ろな声で応じ、宮城がのろのろと卓上のコードレス・フォンに動いた。
おかしな話だ、とおれは、老婆の怨霊がどこかの部屋に姿を隠したんじゃなく、一時的にしろ何にしろ、おれたちの周囲から完全に消えてしまったことを感じながら思った。
用があるなら真っすぐこの部屋に出ればいいものを、わざわざ三階から上がってくるなんてご苦労なこった。それに、電話の音で姿を消しちまうなんて軟弱すぎる。突然の来訪者に驚いて逃げ出す殺し屋みたいじゃないか。いや、奴は驚いたんだろうか?……
「はい、宮城です」
一メートルと離れていない声も遠くきこえた。
「……あ、はな[#「はな」に傍点]さん……ええ……」
やや安堵に和らいだ声が、突如、驚きと恐怖に硬直した。
「――お祖母さんが!?――いつ――それで、傷は?……」
電話の向こうにいる女の様子がおれにははっきりと想像できた。
「……そう、わかりました……明日の朝いちばんで帰ります……」
さっきよりずっと白ちゃけた顔で受話器を置くと、宮城はぼんやりおれの方を見た。ことによったら生命を救ってくれたのかもしれない電話だが、お返しに有り難くないニュースも運んできたらしい。一難去ってまた一難――不幸とおててつないでるみたいな野郎だ。
「つい二〇分まえ……」と宮城は誰に言うともなく言った。「お祖母さまが怪猫に襲われた……林の中が血の海で、お腹をえぐられたって……」
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第二章 呪われたジェット旅客機
幸い、佐賀の婆さんは死なずに済んだが、年も年だし、かなりの重傷だというので、宮城は急拠、帰省することになった。
「そりゃあいい。すぐ帰ってやれ」
とそそのかすと、宮城は恨めしそうな顔で、
「あれ、一緒に来てくれないの?」
と言った。
「冗談じゃねえ」とおれは手を振った。「いくらおれだって、眼に見えない怨霊の相手などできるか。取り殺されちまう。おたくん家に必要なのは、警察やトレジャー・ハンターより、高野山の坊主のご祈祷だよ」
「冷たいんだね。君」
「おお、そうとも」
おれは胸を張った。男の泣き落としになんざひっかかってたまるか。
宮城はしばらくのあいだおれをにらんでいたが、不意に、「あれだ[#「あれだ」に傍点]っ!」と叫んで指を鳴らすや、きょとんとするおれを尻目に寝室へ駆け込んだ。
一分とたたないうちに戻ってきた彼の手には、一枚の縁なしスナップ写真らしきものが載っていた。
「はい、これ。――もう一緒に来たくなったでしょ?」
「なんだ、こりゃ?」
おれは首をかしげながら、どうやら夜空の星か何かを写したらしい長方形に目を落とした。
妙にすべすべした写真で、縦八センチ、横十二センチほど――ほぼサービス版大。写ってるのは、どうやら宇宙空間に浮かぶ星らしい。よく出来ているのは認めねばなるまい。手前に黒い惑星を配置し、やや上方から俯瞰したレンズは、その背後からわずかに顔を覗かせたもうひとつの星と、さらに後方から眼を射るような輝きを伴って昇ってくる光の玉を捉えていた。
「こりゃ、凄え」
知らず知らずのうちに、おれは片方の掌を顔の前にかざしていた。本当にまばゆいような錯覚に捉われたのである。
その構図、解像度、イマジネーションの豊かさ――誓ってもいい。天才の作品だ。
だが――
「うまいトリック撮影だな」とおれは写真を宮城に返した。「スペース・シャトルからだって、こんな凄いのは撮れっこない。ありゃ、月と地球の間を回るきりで、月の外側[#「外側」に傍点]へは行ってないんだよ。それから、今後どこで逢っても、金輪際、月の写真[#「月の写真」に傍点]なんざおれに見せるな。気分が|悪《わり》い」
まくしたててから、おれは急に疑問を感じて言った。
「で、こんなもの見せて、どうしようってんだ?」
答えるかわりに宮城は大きくうなずき、机の上にある卓上ライターに火をつけるや、写真の端を燃えさかる炎にあてがったのである。
「お、おい」
おれは自分の声が驚愕に彩られるのをきいた。
写真が焼けないのだ!
十数秒火にあててから、宮城は写真をはなし、熱したばかりの端を自分の手にあててみせた。
「ちっとも熱くない。お祖父さんやお祖母さんも子供の頃に試したらしいけど、紙質も色も、ちっとも変わってないよ。――ほら」
差し出された写真を手にとり、おれはそっと熱いはずの部分に指を押しつけた。ひんやりした硬質の手応え。
「破ってもいいよ」
からかうような声に、おれは遠慮なく両端を掴んで力を込めた。びくともしなかった。
「無理さ。親父もおふくろも、姉さんまで、ありとあらゆる手段を試してみたんだ。ハサミでも切れないし、どんな方向から力を加えても破れない。弾力性はあるけど、丸めて押しつぶしてもたちまち復元しちゃう上、しわも残らない。ぼくが八つの頃、出入りの大工さんが大釘をあててハンマーで叩いたら、釘ごと地面へめり込んだけど、傷ひとつつかなかった。――どう、珍しいでしょ。一緒に来てくれれば、これあげる」
「その前にひとつ質問するぜ」
おれは人さし指を宮城の坊ちゃん顔の真ん中に突きつけてドスの利いた声で言った。
「お祖父さんの子供の頃って言ったな。あの『写真』はそんな古くからおたくにあるのか?」
宮城は首を振った。
「もっと前からさ。お祖母さんは、自分の[#「自分の」に傍点]ひいお祖父さんが破ろうとして破れず、とうとうひきつけ[#「ひきつけ」に傍点]を起こしたのを目撃したって言ってた。だから、それよりも――」
「宮城家の発生にまで遡るか」
ため息をつきながら、おれは胸の裡に、猛然と熱いものが満たされていくのを感じた。意志とは無関係に気力が充実し、血管にアドレナリンが分泌される快感、宝の確証を掴んだあの手応えだった。
「となると、その頃、こんなトリック写真を扱う技術をもっていた奴、ないし、ほんとに[#「ほんとに」に傍点]撮影した奴がいたわけだな。――おたくん家、旧家だな。納戸の奥に、まだこういうのがあるんじゃないか?」
「調べてみれば」
喜色溢れる宮城の表情に、乗せられたかなと思いながら、おれは力強くうなずいた。
翌朝羽田で落ち合う約束をとりつけ、おれは六本木へ戻った。宮城を連れてきてもよかったのだが、おかしなお供まで一緒に来られ、楽しい我が家を滅茶苦茶にされちゃ敵わない。必要な部分はシビアにいかんと金はたまらないし、女にももてなくなる。足音を忍ばせて部屋へ入り、ゆきが寝室の壁に飾ったドライフラワーの中に隠してあるモニターTVをつけた。
これまで内緒で取り付けた八台はすべて見破られてしまい、これは、ソニーに特注した超小型の隠密タイプである。直径五ミリにも満たぬレーザー・ケーブルの先端に取り付けた圧縮レンズは、世界のソニーが誇るだけあって、暗闇でも解像度抜群、昼間なみの画像が楽しめるが、そのためモニターも特製となって、二千万近い金が吹っ飛んだ。
何故か? もちろん、ゆきの寝姿を見るためだ。
それだけの価値は十分ある。冬のさなか、分厚いミンクの外套を着てたって、すれちがう中学生が思わずヒップに手をのばすような色気のかたまりなのに、夜ともなれば、スケスケのネグリジェに極彩色の柄ものパンティ一枚で横たわるのだ。
それも寝相の悪いことといったら|覗いてる《ピーピング》おれの顔が赤らむほど。――脂の乗った生っ白い太腿は派手に剥き出すわ、ネグリジェまくり上げて、九二センチのヒップはぽりぽり掻くわ、夢見てうなされると、胸元から手を突っ込んで、はち切れんばかりのバストをねっちり揉みほぐすわ、思わず、よせえと喚きたくなるくらいのどぎつさだ。五分も覗くとガックリ疲れる。
自分でも寝相のことはわかってるらしく、だから隠しカメラにも敏感なのだが、そのくせ、こっちがふと気がつくと、パンティに包まれた尻を露骨にカメラの方へかかげ、ウインクなどしてるときがある。半分はおれを挑発して楽しんでる風なのだ。
では、と言うのでおれの方も、良心の苛責などさらさらなく、毎晩、女子高校生のフレッシュ・ヌードをたっぷり楽しんでるという寸法で、まさに理想的な共同生活といえるだろう。
ちらり、モニターを覗くと、今日のスタイルは際立って凄まじかった。
ネグリジェではなく、薄いブルーのパジャマの上だけ。例によってスケスケで、ぽってりしたボディ・ラインはばっちりおれの眼に吸いついた。オレンジに紫のチェックという下品この上ないビキニのパンティがぐっとヒップの丘を窪ませ、下半身のエロチックさを露骨に強調している。ほんのちょっとのつもりだったのに、たちまちおれの脳は白熱し、理性は溶けて流れ、眼ばかりネチネチと、ゆきのボディを舐めはじめた。
まさにセックスの塊だ。
少女マンガの主人公みたいに細く長い眉毛、すらりとのびた鼻梁、大きくなく小さくなく、厚くなく薄くなく、絶妙の美形を誇る唇。ひとつずつとってみれば、典雅とさえいえる造作なのに、これが血色のよい玉子型の顔にはめ込まれた途端、なんとも濃艶な色気を発散する。
ボディの方はいうまでもあるまい。やや太めの首筋、パジャマを通してでも盛り上がり具合がはっきりわかるのに、先っちょだけ見えない――寝巻きのそこ[#「そこ」に傍点]だけ厚くなってるのだ――バスト、ぬめぬめ光る腹、小気味よく締まった腰、そして恥も外聞もなく突き出したヒップ……ひと目これを見て襲いかからぬおれ以外の男は不能者に違いない。
ああ……となまめかしい声がスピーカーから洩れた。また、おかしな夢を見てるらしい。
一昨日は、ゴリラに追いかけられて押し倒され、昨日の晩は、蛇に全身を這いずり回られ、赤い舌で身体中ペロペロされていいキモチだったそうだ――どちらも間一髪で眼が覚めたと言ってるが、わかるもんか――が、今夜はゆき好みのハンサムとお楽しみらしかった。
ルージュ抜きでも濡れ光る唇を半開き、切なげな吐息をもらしながら身をよじる。スクリーンを通して、熱い肉の呻きが感じられるような艶めかしさだ。イタリア製チノーバーの豪華なダブルベッドがヒップの断末魔に揺れ、おれの喉仏は嚥下する生唾に震えた。
「ああ……いや……」
喘いで、眼に見えぬ唇を避けるかのようにゆきは首を振り、剥き出しの太腿を固く閉じた。丸裸に近い姿だけに、かえっていやらしい仕草だ。
それでも夢の相手に太腿を集中的に責められているのか、二、三度腰から下を左右に振り、全身を海老みたいに反らせながら、快楽の波にでも包まれているかのように、片手で黒髪をかき上げ、もう片方の手でパジャマの上から乳房を掴んだ。掌全体で包み、円を描いて激しくこねる。ボタンは胸元まではずれ、乳房の膨らみが半ば以上露出しているだけに、じかに触れるよりエロチックな眺めだった。
「いや……いや……そこ、駄目だったら……」
完全に痴呆状態に陥ってたおれがびっくり仰天して正気に戻るような台詞を吐くと、ゆきは、頭髪をかきむしっていた右手を、思いきりよく、最も敏感な部分へと近づけた。どぎつい、小さな三角形の内側へと……。
ひっと小さく叫んで、全身が痙攣した。悶える肉体から白い炎が湧きたち、おれの脳細胞を灼いた。ゆきの顔は泣きそうにひき歪み、それもすぎると、押し寄せる快楽の怒濤に抗しきれず、プロ娼婦顔負けの、悩ましい喜悦の色が浮かびはじめた。
呼吸が切迫し、ぴんとのばした足指の先がシーツにめり込んだ。
「あ……あ……あーっ……」
「馬鹿たれ、やめろ!」
理由もわからずおれはモニターの画面めがけて絶叫した。
「は?」
次の瞬間、ゆきはきょとんとした顔でベッドから起き上がり、TVカメラの方を見つめた。やばい! 一方通行の盗聴マイクだけにしとくんだった!
すぐに事情を察したらしく、ゆきはガウンもはおらず、おれの部屋へやってきた。
「や、やあ。元気そうだね」
おれは眼のやり場に困りながら必死に笑いかけた。
「今晩は。お帰りなさい」
何のつもりか、ゆきは戸口で正座し、三つ指をついて挨拶した。不吉な予感がおれに頬ずりする。恐ろしいことだ。
「なんだよ、はは、今日はおしとやかだな」
ゆきは艶然と微笑み、おれが腰を下ろしたソファの隣に坐ると、ぐっと顔を寄せてきた。
眼の前で生赤い唇が割れ、甘い息と舌が頬を舐めた。みるみる腰のあたりが熱く、重みを増す。
「どうだった、あたしの寝姿?」
顔をそむけようとするおれの顎を左手でそっとひきとめ、ゆきは呻くようにささやいた。くそ、やっぱりカメラに気づいてやがったか。
「ちょうど宝物の夢見てたのよ。ふふ、凄い格好だったでしょ? どう、堪能した?」
膝の上にどてっと重いものが投げ出された。太腿だ。照明に脂がぽってりと滲み、青い血管が縦横に走っている。ステーキにしたらさぞやうまかろう。
「おいしそうでしょ?」とゆきはおれの考えを読んだかのように言った。「見るだけじゃつまんないでしょ。好きなだけキスしてみたら?――ふふ、食べてもいいのよ」
「ははは」
「あたしねえ、宝ものを番してる|黄金《きん》の人形に追いかけられたの。人間の形しているけど、頭のてっぺんから爪先まで黄金で出来てて、触ると、とってもかたいのよ」
「ど、どこがだよ?」
「どこもかしこもよ」
ゆきはおれの首に白蛇のような腕を巻きつけ、そっと耳たぶを噛んだ。
「あたし、ひと眼でまいっちゃったの。でも、怖いから夢中で逃げたのよ。ところが足が動かないの……冷たい黄金の腕に足首ぎゅっと掴まれて……それが上がってくるの、上の方ヘずうっと……それからとってもいやらしいことされて……あたしもう、たまんなくなって……」
ゆきは片手でおれの手を掴み、ゆっくりと腿の付け根へ導いた。十七歳とはとても思えない成熟しきった肉は、炎のように熱くおれの手に灼きついた。
「こら、よせ、何をす……」
いさめの言葉を、濡れた唇と舌が吸い取った。
「……」
たっぷり一分近く、おれの口の中で舌を楽しませ、ゆきはやっと満足したように唇を離した。
「あ、もうちょっと――」
我ながら情けない声で言った途端、太腿を押さえた手を嫌というほどはたかれた。
「いつまで、人の足なでてんのよ。この出歯亀!」
さっさと身を離し、腕組みしたゆきは、虫けらを見る般若のような視線でおれをねめつけた。
どうやら、黄金人間に抱きすくめられたときの欲情から醒めたらしい。ふん、この分じゃ、最後の線は越えてないな。おれは何故かホッとした。
「いやあ、失敬」
とあっさり詑びる。
「はい、おやすみ」
ゆきはとまどいの表情を浮かべた。
「なにさ、あんた、反論しないの?」
「うん、もう眠いから」
たったこれだけの会話で、ゆきの眼は爛々と輝きはじめた。一体、なんで勘づかれたのかさっぱりわからない。
「今度はどんな儲け話を見つけて来たのよ?」
低く訊ねる声は、一切の嘘を許さぬ凄愴の気を孕んでいた。これが、バストも太腿も露わなグラマー美少女の言葉だから、息を呑むほどの淫猥さがある。鞭でも持たせりゃ、一流のSM構図になること請け合いだ。
しかし、おれは平然と両手をのばし、大あくびを放った。
「なーんのことかなァ。さ、早く寝ないと。明日も学校があるし」
「一昨日から夏休みじゃないのさ」
「成績が悪くてね。休み返上で補習を受けなきゃならないのよ」
「冗談よしてよ、馬鹿ね。本物の[#「本物の」に傍点]経営者を落第させる学校がどこにあるの。あそこ、あんたの寄附で成り立ってんじゃない」
「あら、そうだったかしら」
口をすぼめておほほと笑いかけ、おれはあわてて咳払いをした。宮城の口調が移ったらしい。低能だの不能だの言われるならまだしも、おカマとののしられるくらいなら死んだ方がましだ。
「とにかく、おれは寝る。おまえも明日はデートだろ。なるたけ派手なパンティつけてけよ。あ、パンストはやめてガーター式のほうがいいぞ。近頃の大学生は昔風のに興奮するそうだ」
こう言い捨てて向けた背に、ゆきが無言で部屋を出ていく気配を感じ、おれは拍子抜けしてしまった。ひょっとして、本気でガーターつけるんじゃあるまいなと、モニターを覗いてみたくなったが、朝いちで九州へ出向かなくちゃならない。
おれはキャビネットを開け、旅行道具の点検をはじめた。|宝探し《トレジャー・ハンティング》というのは足で決まる。|犯人《ほし》発見の知らせを受けた刑事や、特ダネを流された新聞記者みたいなものだ。徹夜明けだろうと、深夜の熟睡中だろうと、宝関係の情報が入ったら吹っ飛んでかなきゃならない――なんてのは、ひと昔まえの三流トレジャー・ハンターの台辞だ。
プロのハンター以外の連中に偶然見つかるようなイージーな宝は、一九四○年代にほとんど取り尽くされたというのが定説になっている。いや、プロのハンターだとて、意図せぬうちに黄金の輝きと対面できるなど一生に一度もないことの方が多いのだ。
一九七五年にフロリダ沖でスペイン黄金艦隊の一隻「ラ・ヌエストラ・セニョーラ・デ・アチャ号」から黄金の延べ棒を引き上げたメル・フィッシャーの場合、七年の歳月と二五万ドル(約七億四千五百万円)の費用がかかっている。もっとも延べ棒[#「延べ棒」に傍点]総額は一億三千万ドル(約三九〇億円)もあったから、収支は大幅に黒字といえるだろうが、とにかく、それだけの犠牲[#「犠牲」に傍点]は要求されるわけだ。おれなど、飯田橋の〈だらだら長者〉|事件《ケース》のとき、穴掘り代、|機械《メカ》製作費等で、二億近い金を使っている。
要は確かな情報網と|今日風の《ナウい》メカと潤沢な資金源、プラス日数なのだ。とはいうものの、この前の黙示録事件みたいな場合もあり、緊急出動用のジェット旅客機やヘリコプター、快速艇などは四六時中スタンバイ態勢をとっているし、必要な機材も可能な限り積み込んである。
なのに何故、マンションの書斎でバック・パック詰めをしなきゃならんのかというと、国電や地下鉄を利用した方が安上がりで時間のロスも少ない場合がままあるからだ。
正直いって、こと日本国内に関する限り、おれ用の交通網はまだまだ未発達である。――運輸省関係に札ビラをばら撒かにゃならない。
荷物と武器をチェックし、運輸省の政務次官に圧力をかけて明朝七時発の全日空福岡行きの切符を二枚手配すると、ようやく人並みに疲労の波が全身を浸した。時刻は午前五時十分前。睡眠は飛行機内でとることに決め、軽く一杯ひっかけようかと居間に戻って、おれは不吉な思いに胸をつかれた。
写真のキャビネ版くらいの角封筒を手にしたゆきが、ソファの端から顔と太腿を大胆に露出したまま、にやりと笑ったのだ。
愛くるしい微笑は、あの老婆のそれより遙かに邪悪だった。
午前八時。おれと宮城は日本航空・福岡行きDC一○の機内で、ぼんやりと窓外を眺めながら、妙につんつんしたスチュワーデスの運んできたグリーン・ティーで喉を湿していた。
羽田を発って四〇分、博多までの実際飛行時間一〇〇分もほぼ半ばを越え、どうやらおかしな現象も起きそうにないと、おれはようやくひと寝入りの態勢に入った。
つかさの祖母が襲われた状況もきいてある。夕べの午後六時ごろ、ひとりで付近の森を散歩中、背後から襲われ、右脇腹にかなり深い傷を負った。幸い一命はとりとめたものの、それが巨大な獣の爪痕だというので大騒ぎになり、屋敷では若いものが猟銃や木刀で武装し、刑事や警官でごった返しているという。
怪猫の噂も飛び交っているが、表面上は野犬の仕業ということになっている。今どき化け猫などといっても、外部の人間は誰も信じやしまい。――おれ以外は。
一方、これから佐賀に待つ未来とは別に、不安の黒い染みは胸の片隅にがっちりと食い込み、ちょっと気をゆるめると、じわじわ広がっていくような感じがする。染みは、あの老婆の顔をしていた。高度七千メートルの高空を時速一二〇○キロで吹っ飛んでゆく精密機械の塊の中に、まさか現れようとは思えないが、あの怨念の強さからすると、万が一ってこともあり得る。
もうひとつ、出掛けに連絡した新宿のマリアが留守だったことも、おれの胸を重くしていた。
サブ・マネの話じゃ、三日ほど前、カナダを巡ってくると出てったきり電話一本入らないらしい。例によって帰国日不明の鉄砲玉だ。あの大自然と氷河の国で霊能力に磨きをかけるのもマリアに相応しいが、出来れば別の機会にしてもらいたかった。
「はい、ああんして、お姐さまがポイしてあげるわ。口移しでもいいのよ」
甘ったるい声がして、おれは自分の手で[#「自分の手で」に傍点]お茶受けのクッキーを口に放りこんだ。
背後の席で、やむを得ず口をあけたのは宮城。色っぽい手つきでクッキーを与えたのは、ゆきだ。
結局、連れてく羽目に陥ったのである。宮城の方は迷惑そうだったが、ゆきはひと目で彼が気に入ったらしく、隣が空席なのをいいことに、おれをうっちゃらかしてそこへ移ってしまい、たちまち、誘惑の手くだを使いはじめたのだ。
怪猫と怨霊の一件は話してあるが、大金が絡めば怨霊になるのも辞さない女に効くはずもなかった。
「おい」とおれは出来るだけ不愛想な声で注意した。「他にお客もいるんだ。仲がいいのも結構だが、場所柄をわきまえろよ」
「なによ、妬いてんの」間髪入れず、ゆきが小馬鹿にしたように言った。「でかいこと言える立場じゃないでしょ。例のもの、バラ撒かれていいの?」
「……」
「ほら、ごらん。自分の立場をわきまえなさいよ。モデル・クラブのガリガリ娘と別れたかないでしょ。――さ、お口開けて。わあ、可愛い、赤くなっちゃって。もう、食べちゃいたい!」
言うなり、チュッと聞き慣れた音がして、宮城が「きゃっ」と悲鳴をあげた。キスだけじゃなく、ありゃどっか触られたな。
茫然と振り返る前方の客たちと眼を合わせずに済むよう、おれは素早くシートにもたれかかり寝たふりに入った。
「馬鹿ねえ、そんなに震えなくてもいいのよ」
ややトーンをおとしてゆきが囁いた。半ば欲情、半分は揶揄するような口調だった。
「はい……この手はここ。ふふ……柔らかくてあったかいでしょ。もっと奥までどうぞ」
「いえ、あの――ちょっと失礼」
あたふたと逃げ口上を言い、宮城はおれの隣へ走り込んできた。
じろりと眺めると、左の頬にルージュの痕がべっとりついて、顔全体が赤らんでる。おれより年上だってのに初心な男だ。これでも大学生かよ。
「まいったな。どうして、あんな娘を連れてきたの?」
ハンカチでキス・マークをこすりながら、宮城は不平を言った。声が上ずっている。
「それを言うなよ」
おれは眼を閉じ、腕組みして言った。
「なによ、そんなとこ行って。意気地なし」
シートの背後から顔と剥き出しの腕を覗かせてゆきが悪態をつくと、乗客たちがどよめいた。
ヌードにでも見えたのだろう。ま、上は銀ラメの黒いタンク・トップに下は同色のホット・パンツだから無理もない。おまけにタンク・トップときたら、ちょいと腕をあげただけで脇の下は見える、バストの谷間はばっちりという大胆なカットが売りものだし、パンツの方は、まるで水着並みに両端が切れ上がってる危険物だ。
本人が自分のセックス・アピールに気がついてないならまだしも、道行く男どもを挑発し、口笛吹かれるのが飯より好きという女だから始末が悪い。羽田じゃ全日空の係員がもろ胸元から覗く肉球に眼をやっちまい、搭乗券のチェックに二〇分もかかったほどだ。
おまけにノーブラで、歩くたびに九二センチのヒップと重量感たっぷりの乳房がゆさゆさ揺れるのだから、跳びかかる奴がいなかっただけましだろう。
「ねえ、こっちいらっしゃいよ。――お話ししましょ」
氷山も溶かさんばかりの甘くて熱い声に、宮城はあわてて首を振った。
「やん、意地悪」
ひょいとのびた白蛇の腕を、おれは邪慳に押し戻した。ゆきが歯を剥き出し、
「何するのよ! バラ[#「バラ」に傍点]していいの!?」
「うるせえ! おまえが何握ってようと勝手だが、こりゃ仕事だ。おれの言うことが聞けないんなら、福岡へ置き去りだぞ!」
「ふん!」
と毒づきながら、それでもゆきは渋々席へ戻った。
「すごい娘だね」と宮城が安堵のため息をつきながら、シートの背にもたれかかった。精も根も尽き果てたという案配だ。
おれは立ち上がった。
「あ、どこ行くの? 一緒に行く」
「トイレだよ」
アクアスキュータムの麻のジャケットにすがりつく手を振りはらい、おれは狭い通路を後部トイレへ向かった。
ドアの取っ手を掴んだとき、背後のギャリーでスチュワーデスの声がした。
「ねえ、あなたの言う通りよ。二七一人いるわ」
「でしょ。でも飛び立ってすぐ数えたら、二七〇人ちょうどだったわ」
もうひとつの声が不審そうに言った。
「ひとり多いわね」
「おかしいわねえ。もう一度数えてみようか」
「わたし、機長さんに話してくるわ」
ひとりが動き出すより早く、おれは席へ戻った。
「早かったね」と不思議そうな宮城に、「気が変わってな」と答える。出るものも出なくなっちまったよ。もうひとりの乗客のおかげでな。やはりついてきたか。
トイレから戻る途中で、席という席をチェックしたが、乗り込んだときの記憶[#「記憶」に傍点]そのままだった。スチュワーデスにだけ見える客がいるらしい。どうしたもんかと、おれはシートの中で首をひねった。
無策のまま三〇分がすぎても、変化は生じなかった。黙って博多までついてくるだけなのか。おれはやや胸をなでおろし、座席のボタンを押した。
「何すんの? それ、スチュワーデスを呼ぶスイッチでしょ」
目ざとく見つけて宮城が眉をひそめた。
「そうとも。あのオツに澄ました女がくる。根性は悪そうだがなかなかのグラマーだ。来たら、おたく、ケツを触れ」
「はン?」
「はン、じゃねえ。大体、大学生にもなって、女の尻も触れない度胸のなさでどうする気だ? お祖母さんと姉さんは、おたくだけが頼りなんだぞ。少しは、筋金の入るような努力したらどうだ? 触れ」
「そんなこと、できないよ、ぼく」
「鼻から声を出すな、鼻から」とおれは毒づいた。別に宮城を鍛えようと思ったわけじゃない。景気づけである。「ついでに、いやいや[#「いやいや」に傍点]もやめろ。ほんとにもう、おれがおたくん家乗っ取っちまうぞ。ほら、来た」
「何かご用でしょうか?」
地上一七〇センチほどの高みから、これまた鼻にかかった女の声が落ちてきた。一流航空会社の激烈な試験を突破した女エリートなのよと、空飛ぶホステスが沈黙の叫びを込めている。餓鬼が何の用よと言いたいところなのだろう。
顔もぽっちゃり整い、スタイルもまあまあだ。試験の成績を知性と勘違いする低能が並以上の顔と身体を与えられ、しかも男どもにチヤホヤされるから、とめどなく増長するのだ。少しは堀ちえみを見習え。
「何のご用?」
女の声にいらだたしさが混じった。
「いえね」とおれは困った表情の宮城を指さして言った。「こいつが、あんたにひと眼惚れでさ。デートにお誘いしたいんですと」
「申し訳ありませんが、いま、勤務中ですので、個人的なお申し込みはお受けできません」
女は突っけんどんに言って背を向けた。
今だ! とおれは宮城に目配せした。動かない。
しようがねえ。おれは宮城の右手首を掴むなり、左右に揺れながら去ってゆくはち切れそうな紺色の膨らみに押しあてた。
女はぎゃっと叫んで振り向いた。
おれは素早く手を放してそっぽを向き、真っ向からにらみつけられたのはまだ空中に留まる宮城の腕だった。
「あ……あの、その……」
「何するのよ、この糞……」
餓鬼とでも言いたかったんだろうが、そこは花のスチュワーデス。ぐっとこらえて、ずかずかと近寄るなり、宮城の腕を掴まえたものだ。
その刹那、
喉の奥で引きつるような悲鳴を上げ、宮城は全身をのけぞらせた。
ぎょっとして振り返り、おれは宮城が凝視するスチュワーデスの顔を見た。眉を吊り上げてはいるが、宮城の形相にとまどいの色も隠せない普通の女の顔だ。
「どうした……?」
と奴を向き直り、あることに気づいておれは全身の毛が逆立つのを覚えた。
おれだからこそ気づいたのだ。
恐怖に剥き出された宮城の瞳に映し出されたスチュワーデスは、ぼろをまとったあの老婆――怨霊の姿に一変していたのだ! 宮城には見えるのだ!
とっさにおれはスチュワーデスを突き飛ばしていた。
派手な悲鳴をあげて通路に転倒する。スカートがまくれ上がり、剥き出しの腿が何事かと振り向いた乗客たちの注目を浴びた。思った通り、パンティは赤だった。
怒りの形相も凄まじく起き上がる。
まずいかな、と思ったとき、今度は今のに数倍する悲鳴が、機首の――操縦席の方から空気を震わせた。男の叫びだった。
全員の視線が集中する。
開け放たれたドアの向こうに、半袖にネクタイ姿の大男が仁王立ちになっていた。右手に無線受信用ヘッドフォンを握ったその顔は、とうに理性の色をかなぐり捨て、意味もなく痙攣する口の端からこぼれる唾液が、狂気に蝕まれた精神の証だった。
彼の正体に関する最悪の予想を、次の瞬間、ドアから飛び出てきたもうひとりの男が保証した。
「機長、ど、どうしたんですか!? 戻って下さい!」
言うなり、背後から抱きすくめたその顔を、首をねじってひと目見た途端、機長はおよそ人間とは縁のない、魂も狂わんばかりの絶叫を放って身を沈めた。
灰色の太い線が上下に流れた。
鮮やかな一本背負いで通路にしたたか腰と背を打ちつけた副操縦士が、ぐっと呻いて失神したとき、おれは猛然と席を立った。太腿丸出しで寝そべってるスチュワーデスの頭上を跳び越え、狂った機長に向かう。
乗客たちの悲鳴が耳元をかすめた。
狂人は通路に進み出ていた。
走りながら、おれは右手を左腰へ引きつけた。
おれに気づいて狂人の顔が恐怖に歪んだ。
おれも怨霊に見えるのだろう。
次の瞬間、追いつめられたものの馬鹿力を両腕に込め、掴みかかってくる。
右手はおれの襟に、左手が右袖に。精神は色を変えても、身についた戦いの術に揺らぎはない。見事だ、とおれは思った。
だが、必殺の投げ技に移る寸前、握るべき獲物は彼の眼前からかき消えていた。力に溢れた指が空を掴むのと、下方から振り子のように放たれた右の拳がその水月を強打するのと、どちらが早かったか。
床を軋ませて倒れる巨躯に目もくれず、おれは腰のあたりをさすりながら起き上がろうとしている副操縦士に近づいた。
おろおろしてるもうひとりのスチュワーデスを押しのけ、
「どうした?」と訊く。「必要なら手を貸す。飛行経験はあるぜ」
副操縦士はいぶかしげにおれを見つめ、うなずいて
「さっぱりわからない。いよいよ着陸ですね、といった途端、おれの方を見て――」
そのときの機長の表情でも想い出したのか、副操縦士は泣きそうな顔で首を振った。
「立てるか?」と訊くとうなずく。
おれは眼を閉じて軽く息を吐き、彼を抱き起こした。
「機長はどうした?」
「大丈夫、のびてるだけだ。活を入れるまでひと休みさ。――えー、みなさん。大丈夫です。心配はいりません」
おれがそう言った途端、通路まぎわまで押しかけ、二人のスチュワーデスに遮られた乗客がわっと押し寄せてきたので、副操縦士はあわてて手を振った。
「みなさん、席へお戻り下さい。ご心配いりません。ご覧の通り、機長がある種の発作を起こしましたが、こちらの方の協力で鎮静させました。機には自動操縦装置も備わっておりますし、私ひとりでも十分制御可能です。福岡まであと二十分――どうか、安心してお席へお戻り下さい。お騒がせして誠に申し訳ありません」
苦痛の断片も留めぬ落ち着いた響きに、血相変えた乗客たちもようやく安堵したらしく、それでも数人がなおも文句をつけようと進み出たところへ、
「さあ、みんな戻りましょ」
聞き慣れた明るい、色気たっぷりの声が出端をくじいた。
ぞろぞろと席につく乗客たちを見届けて機長に駆け寄るスチュワーデスに、そのまま放っておけと言い残し、副操縦士はおれの肩にもたれたまま、操縦室に向かった。
後ろ手にドアを閉める寸前、おれは通路の方――ゆきの席を振り返った。たまにはまともなことをしやがる。ウインクのひとつも送って労をねぎらおうとしたのだが、あの色情娘、ちゃっかり宮城の隣に移り、さも怖そうに腕を首に巻きつけて抱いて抱いてとせがんでいた。
副操縦士を機長の席に坐らせると、彼の席につく前に、おれはおびただしいメカで埋め尽くされたコクピット内部を点検した。
全神経を研ぎ澄ませ、ヨガで鍛えた超感覚の触手を一分の隙間もなく、三メートル四方ほどの空間へ張り巡らせたが、見えざる怨霊の手応えは皆無だった。
どこかおかしい。この事件の最初から、今度の敵はどこか常軌を逸している。並の怨霊なら、いや、いかなる類の妄執に取り憑かれた猛々しい霊であろうとも、修業途中とはいえ、ある程度の霊能をマリアから保証され、それなりの訓練も積んだおれの知覚に触れぬはずはない。
奴は機長を狂わせただけで満足したのだろうか。
辿り着く結論は十も二十もあったが、今はそれどころじゃない。福岡空港に非常事態を知らせる副操縦士の声をききながら、おれは計器をチェックしていった。
燃料はたっぷり、自動操縦装置も正常だ。高度計、大丈夫、姿勢制御装置、異常なし……緊張しきった精神の壁に、おれはほっと安堵の一穴を開けて、操縦桿を握った。
「大丈夫そうだね」かたわらで言う副操縦士の声にも自信が満ちている。「逆噴射事件の二の舞いかと思ったが、何とかいけそうだ。あと三〇秒で高度を下げる。しかし、福岡の連中、胆を冷やしてるだろうな」
おれが暖昧に笑い返すうちに、スチュワーデスのひとりが入ってきて、乗客も静かになったと伝えた。機長はおれの当て身を食ったまま、ギャリーで眠りこけているという。普通は活を入れないと、絶息状態であの世へ行っちまうのだが、中国河南省の拳法の達人から学んだ振打拳は、脳と神経に特殊なショックを与え、呼吸困難を起こさずに済む。
間もなく、副操縦士が操縦桿を倒し、おれの身体は斜め下方へと吸いつけられはじめた。眼前の青空が、湧き上がる雲海に閉ざされる。
一万五千……四千……フィート表示の高度計の針の指す数値がぐんぐん下がっていく。
一万二千を読んだとき、突如、災厄が襲った。副操縦士の驚愕の念が真横からおれの頬を叩きつけた。
気にしてる余裕などなかった。おれも目を剥いていたのだ!
計器がすべて狂っている!
高度計、姿勢制御装置、水平儀、磁気コンパス――航空機の死命を決するあらゆる針が滅茶苦茶な回転を――いや、ちがう、回転などしない。動かない。一点をさしたきり、微動だにしないのだ。着陸寸前という、離陸時とならんで最も事故の起こりやすいときに!
「メイディ。メイディ――こちら三五一、計器の故障だ。高度も位置も不明、指示を――」
言いかけて、副操縦士はぎゃっと叫んだ。
おれの頭の中を冷たいものが走る。
老婆がいた。あの、怨むような呪うような瞳でおれたちをはったとにらみつけ、身じろぎもせず立ち尽くして――コクピットの外、ジェット旅客機の鼻づらに!
マッハのスピードで降下してゆく風圧に、着物の裾も白髪も揺れず、唇の端だけがにいっと吊り上がった。奴は宮城もおれも殺すつもりなのだ!
地上に四散し、炎と油煙と衝撃で黒焦げの肉塊になる己のイメージが脳裡をかすめた。
「――メ、メイディ――通じない!」
老婆の顔を動揺の色がかすめたのは、副操縦士の絶叫に憐れを催したせいではあるまい。
操縦桿は左手にまかせたまま、おれの右手は遅滞なく動いて、ジャケットの内ポケットから長方形の紙束を引っぱり出していた。
夕べ、徹夜でつくったインスタント護符を。
おれの動きを封じようとしてか、老婆がぐいと手招きしたが、おれは停まらなかった。紙束をぱっと広げ、マジック・テープのついた背を両手で[#「両手で」に傍点]風防ガラスに押しつける。
老婆はたじたじと後ろへ下がった。
夕べの護符防衛線など軽く突破した怨霊も、縦横二○センチの超特大護符が扇みたいにぱあっと、十数枚連なって視界を塞ぐなど、想像もつかなかっただろう。ざまあみろ。夕べの護符が一枚ずつ[#「一枚ずつ」に傍点]剥がれたせいで、おれは数さえ増やせば時間を稼げると悟ったのだ。でかけりゃでかいほど効くかもしれんと思いついたのはついで[#「ついで」に傍点]の発想だが、これも効き目があったのか、老婆はこちらへ前進しかけ、見えない壁に押し戻されたように後退した。
絶体絶命の窮地で見出した唯一の光明を消してたまるものかと考えながら、おれは我ながら冷静に別の護符束を取り出し、計器だの椅子だのにやたらめったら貼りつけはじめた。
「動き出したぞ! 正常に戻った!」
副操縦士の声が静寂を破った。
だがおれはもっと別の、身の毛もよだつ作業に取りかからなくてはならなかった。
貼ったそばから、護符が剥がれるのだ! 一枚貼る間に二枚、二枚目を貼ると三枚が落ちる。ただの白い紙と化して。
「スチュワーデスを呼べ」おれはあわてもせず[#「あわてもせず」に傍点]副操縦士に命じた。
すぐに、さっきおれが突き倒した方じゃないのが入ってきて、操縦室内の様子を見るなり立ちすくんだ。
「窓の外を見るな」副操縦士が、おれの方を指さす。「彼の指示に従いたまえ。この機の運命はこの人次第だ」
「外見ないようにして、計器の上にこれを貼るんだ」
と紙束を差し出しながらおれは命じたが、声にはいつもの底力がこもっていない。それでも、異常な事態は察したらしく、スチュワーデスは躊躇なく作業にとりかかった。この辺はさすが航空会社、訓練が行き届いている。風間教官のおかげだろうか。
おれの前で身を屈めたとたん、女はきゃっ! と跳び上がった。
「何するのよ、子供のくせに!」
と、もうひとりのお澄ましに負けぬ雄大なヒップを押さえて、おれをにらみつける。
おれは平然と「おまじないさ、それ、取るな[#「取るな」に傍点]よ」
「彼の言う通りにするんだ」副操縦士が命じた。「私もつけてる」と、護符を貼りつけた自分の背中を指さす。このおかげで、機長の二の舞いにならずにすんだのだ。
顔をひきつらせながら、スチュワーデスも作業にかかったが、
「やだわ、貼ったそばから剥がれちゃう!?」
すぐスチュワーデスが叫んだのは、老婆の怨念の仕業にちがいない。|向こう《ライバル》もはんぱ仕事じゃないのだ。
恐るべき鼬ごっこがはじまった。
窓の外で髪振り乱す老婆が震え、両手を動かすたびにおれたちと――乗客二七○人の生命を懸けた護符はぱらぱらと地に墜ち、おれとスチュワーデスが必死で新作[#「新作」に傍点]を貼りまくる。まるで漫画だが、何も知らないスチュワーデスはともかく、副操縦士は気が気じゃなかったろう。
大地はぐんぐん迫り、雲海の切れ目から九州の緑と福岡の町並みが傲然と顔を覗かせたのに、計器はまだ動いたり、停まったりを繰り返しているのだ!
「指示がきこえん! メイディ――何とかしてくれ!」
絶望の声は口先のマイクに向けたものか、それともおれをののしったのか。
その声を合図に、おれは窓の外の老婆がにやりと笑う凄絶な笑顔を見た。
……
がくん! と|着陸時《ランディング》特有の衝撃が足の底から突き上げたとき、副操縦士の全身からこわばりがとれた。
前方から左右にすっ飛んでいく福岡空港の風景とスロットルを絞るキーンという音をききながら、おれは立ち上がり、ドアの方へ急いだ。
足もとにはおびただしい白い半紙が揺れている。護符のなれの果てだ。おれとスチュワーデスの必死の貼りつけ作業にもかかわらず、怨霊の力も限界知らずに膨れ上がって、ついに百枚のストックも尽き、もはや取り返しがつかないと思われた最後の数十秒間、老婆の姿は忽然と消え失せ、全計器と操縦桿が正常に復したのである。
「日航三五一・DC一〇着陸確認。誘導路A二を使い、七番駐機場へ向かえ」
管制塔から何も知らぬ天下泰平な声が響いてきた。
「了解」
答えておれの方を振り返り、何か言いたげな副操縦士に、おれはウインクをひとつして、コクピットを出た。
一緒に護符を貼ったスチュワーデスがシート・ベルトをはずして駆け寄ってくる。キスでもしてくれるのかと思ったが、さっさと操縦室へ突進しちまった。そのかわり、すれちがいざま「電話してね」のささやきとともに、右手に小さな紙片が押し込まれたのは、ようやく運が向いてきた証拠だ。
ジェットが停まり、乗降扉が開くと同時に、おれは何があったのよ、と食い下がるゆきと宮城をせきたて、機外へ出た。
副操縦士やスチュワーデスと打ち合わせはしなかったが、会社の体面上、機長の発狂あたりで片がつくだろう。おれなど前面に出ない方が、お互いさっぱりするってものだし、こっちも記者やTVレポーターどもに取り囲まれるよりは、さっきのスチュワーデスを相手にする方がなんぼかましだ。
でかい荷物はないから、真っすぐ到着ゲートを出てタクシーを拾い、鹿児島本線の博多駅へと急ぐ。九時三十五分発の特急に間に合った。
半ば観光気分のゆきは、福岡城跡だの大濠公園が見たい、博多の中洲で刺し身が食べたいとぶつぶつ言ったが、おれに本気でひとにらみされ、不満顔で口をつぐんだ。かわりに宮城がお色気攻勢の犠牲になったのはいうまでもあるまい。
おれがジェット機の操縦席で札貼ってたあいだ、大分ゆきに仕込まれたのか、拒む声にも前ほどの毅然たるところがない。バストが苦しいから揉んでとせがまれたときは、さすがに困った風におれの方をチラチラ見たが、おれは眠ったふりを決め込んだ。阿呆らしくてやってられるか。
|鳥栖《とす》で長崎本線十時十四分発の特急に乗り換え、二一分後、列車は暑い日射しを跳ね返して佐賀駅のホームに滑り込んだ。
改札を出て宮城はきょろきょろ、右往左往する人混みを見回した。
「おかしいな、田村さん、来てないや」
「なんだそりゃ?」
「うちの運転手さん。到着時間は知らせといたから、迎えに来てくれるはずなの」
「きゃ、素敵。専属の運転手さんまでいらっしゃるの? いいお家なのねえ」
ゆきが眼を輝かせた。煌々ではなく爛々と。まるで豚を見つけた女豹のように。
「気が利かないわねえ、あんた。運転手さん探してらっしゃいよ」
宮城の腕にがっちりと自分の腕を巻きつけてゆきが命じた。くそ、誰の金で九州くんだりまで来れたと思ってやがる。
「あ、ぼくが探してくるよ。八頭君じゃ田村さんも顔がわかんないもの」
宮城がそっとゆきの手を放して入り口の方へ歩き出したのを引きとめ、おれは待合ロビーのソファを差し示した。
「あそこでお守りをつくっとく。探しにいくのはそれからだ。おれから離れんなよ」
宮城は素直についてきたが、ゆきはふくれっ面でトイレの方へ行っちまった。
「ねえ、何かあったの?」
無言でメモ帳に超能力ペンを走らせはじめたおれへ、宮城が立ったまま訊いた。
「別に。何でだよ?」
と訊き返したものの、答えはわかっていた。
「だって、手が震えてるし、汗びっしょりじゃないの」
おれは胸の中で顔をしかめながら、上辺は平然とそうかい[#「そうかい」に傍点]、と言った。
見破られたか。怨霊相手に一歩も退かなかったどころか、奇怪な力にびくともしなかったツケが、今ごろ回ってきたのだ。全身に悪寒が爪を食い込ませ、身体の芯から吐き気が込み上げてくる。これで熱のかわりに異様な寒けさえなけりゃ、マラリヤの症状そっくりだ。したたる汗が眼に入り、曲がりくねった魔除けのマークがきちんと形を整えて見えた。いくら調息に励んでも、震えはとまらなかった。やむを得ず、おれはペンを停め、ソファにもたれかかった。
夕べ、護符をつくってから、対怨霊戦の武器として自己催眠を施しておいたのだ。潜在意識が妖気を察知した瞬間、神経と筋肉は脳の支配を離れ、前もってかけておいた暗示の行動プロセスをなぞる。おれが、あの恐るべき降下時にひとり平然と護符を貼っていられたのもこのおかげだ。
老婆の力が一種の物理的念力で、直接身体の動きに干渉する場合は何の役にもたたないが、マンションでの前哨戦からして、恐怖心の増幅による金縛り法だと狙いをつけておいた。それは適中したらしいが、これほどの後遺症が残るのをみると、やはりただの呪力じゃなさそうだ。
「ねえ、ほんとに大丈夫?――」
宮城が心配そうに屈み込んできた。ああ、と答えてまたペンを持ち上げたとき、トイレの方から仏頂面のゆきが戻ってくるのが見えた。やけに早いのは、ペーパーでも切れてたのか。
カチャリと、眼の前に銀色の鍵束が突き出された。
「?」おれは顔をしかめて、ゆきを見上げた。
「あれ――このキイ・ホルダー、田村さんのじゃ?」
わけもわからず宮城とおれは、茫然と突っ立ってるゆきを凝視した。あっけにとられたような表情が珍しい。
大きく深呼吸して、ゆきはトイレの方へ顎をしゃくった。
不気味な予感が全身の倦怠感を瞬時に粉砕し、おれは驚くべき速さでソファから起き上がった。宮城に書きかけの護符を渡し、離れないように言う。ゆきをもう一度トイレの方へと押しやりながら内ポケットのE手袋をはめ、電圧を三千にあわせた。
「|殺《や》られてたか?」と訊く。
ゆきはうなずいた。
幸い、トイレのドアには「清掃中」の札がかかっていた。ゆきの仕業だ。さすが|太宰《だざい》先蔵の孫娘、金とハンサムしか興味がないようでも、いざ鎌倉となれば機転が利く。
人気がないのを見すまして|内部《なか》へ入り、ゆきの示すコンパートメントのドアを開けた途端、おれは今さらながらゆき[#「ゆき」に傍点]の度胸に感嘆した。こんなものを見て、よく悲鳴をあげなかったものだ。五○過ぎのおっさん――田村運転手は、狭い個室の隅に背をもたせかけるような格好で息絶えていた。
猛烈な血臭が浄臭剤の香りにまじって鼻をつく。半袖の白ワイシャツは喉から溢れる血で赤く染め抜かれていた。なかなか漸新なデザインだなと、おれはぼんやり考えた。すぐに頭を空にし、個室に入って傷口を調べた。敵の正体を掴むのに、死体は最高の遺留品だ。
致命傷は喉笛の傷。それも刃物で斬られたものじゃない。鋭い牙で食い破られているのは一目瞭然だった。屈んで調べると、攻撃は咽喉筋はもちろん喉仏まで食いちぎり、頸骨表面に達していた。
それに、この死に顔の凄まじさ。
再び噴き出した汗を、おれは手の甲で拭った。たとえ殺されなくても、田村運転手は恐怖のあまり精神崩壊を起こし、朽ち果てていったろう。
剥き出しの光なき眼球にそっと瞼をおろし、おれは立ち上がった。
「外に血が流れてないのを見ると|内側《なか》でやられたらしいな」とつぶやく。「しかし、いい年食った男が、女子トイレで何をしていたんだ?」
「わかんない」とゆきは首を振った。「変態だったんじゃないの。隣を覗いてるとこをやられたのよ」
「なら、隣の女が騒ぎに気づいたはずだ。血の固まり具合からみて、死んだのはまず二、三〇分前。――おい、あの清掃中の札、おまえが出したのか?」
「ううん」
「さっき賞めたのは取り消す」
「?」
おれはそれきり黙ってゆきとトイレを出た。
着く早々これだ。
現状がどうなってるのかさっぱりわからないが、ひとつだけはっきりしていることがある。
佐賀県警の鑑識課が正しかったってことだ。
傷口からみて、犯人は身長一メートル六〇前後の大猫に違いない。
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第三章 紅舟の妖婆
タクシーが鬱蒼たる樹々の緑で覆われた宮城邸へ到着したとき、おれは滅法気が重かった。
佐賀駅の公衆電話から佐賀県警に連絡して事件を知らせ、折り返し法務大臣を呼び出し、当分の間は適当な調査でお茶を濁すよう圧力をかけろと指示したものの、気力の萎えは自分でもわかるほど進んでいた。
原因は対老婆戦の後遺症だが、不安の占める要素もかなり大きかった。なにしろ、相手の片方は姿なき怨霊なのだ。いつ、どこへ、どんな風に現れるのか皆目見当がつかない。形のある相手なら、掴める相手なら、CIAのサイボーグ・エージェントだろうと、シベリア熊だろうとなんとかいなしてみせるが、ヒュードロドロには四五口径も一万ボルトの電撃も効きやしまい。
だから、駅のトイレで田村運転手を惨殺した化け猫のことを考えると、かえって気が休まるくらいだった。こちらには、肉を食い切る牙が備わっているのだ。まさか、牙だけが現実で残り全部が怨霊ってことはあるまい。すると、老婆と化け猫の関係は? もうひとつ、その両者と、あの超科学的写真との関係は?
考えているうちにタクシーは停まり、おれたちは、いかにも古風荘重な屋敷の門前に降り立った。
見上げる空は眼を射る青で満たされているのに、夏の陽光は地上に達する前にひそやかな湿り気と翳を帯び、くぐった門から玄関へとつづく石畳の道に落ちるおれたちの影法師も濡れそぼっているようだ。
「うわ、すっごい!」
駅のトイレで薄緑のワンピースに着換えたゆきが驚きの感情をそのまま声に乗せた。外見は清純な乙女に化けても、性質だけはそうはいかない。
おれも同感だった。
正面にどっしりと構えた瓦屋根の母屋は、一見平凡な平屋造りだが、それを構成する柱や白壁は金に糸目をつけず最高の品を選定したものと知れた。左右にどこまでも広がり、樹木の彼方に消えている両翼は、屋敷自体が自然と同化した年月の重みを来訪者に伝え、その奥に潜む広大な地所と歴史の肌合いが皮膚感覚で迫ってくる。
今日びこれだけの格調に比肩する家は三井、三菱の本邸ぐらいしかあるまい。
だが、竹林を鳴らして過ぎる風に、おればかりかゆきまでがぞっとして周囲を見回したのは何故だろう。
ちょうど玄関口から出てきた中年女が、宮城を見てはっとし、奥の方へ「お帰りですよ」と叫んだ。
駅から宮城にタクシーで帰ると電話させておいたから、時間を見計らって迎えに出てきたのだろう。
「まあまあ、お坊っちゃま、よくご無事で」と駆け寄ってくる。
おれは目の玉だけ空へ向けた。あきれたの合図だ。お坊っちゃまはともかく、たかだか東京から戻っただけでアフリカから帰国した案配だ。
おれの胸の裡を読んだのか、スーツケースを手渡しながら照れ臭そうにしていた宮城が、玄関の扉を開けて出てきた一団を見て、複雑な表情を浮かべた。
おれ自身のは、きっと阿呆面だったろう。
下男らしい屈強な中年男が二人と、若い女中が三人――数だけは数えたが、もうひとりの姿を見た途端、そんなことはどうでも良くなってしまった。
白い繊手を無作法な日射しにかざし、苦しげな表情を浮かべた顔の白さと美しさがすっと[#「すっと」に傍点]眼に灼きついた。飾り気のない白いブラウスと紺のプリーツ・スカートを輝かせているのは太陽ではなく、木立を渡る風が少女の身体にぶつかって光を放っているのだった。
宮城秋葉――つかさの姉だ。
姉さん、と声をかけるつかさに静かにうなずき、秋葉はおれとゆきに深々と頭を下げた。
宮城からの連絡でおれのことは知ってるだろうが、お荷物のゆきにも迷惑そうな顔ひとつ見せない。
「ようこそいらっしゃいました。弟が東京でお世話になったそうで。姉の秋葉でございます。お待ち申しておりました」
「やや八頭です」
挨拶で上ずったのは何年ぶりだろう。
「なに興奮してんのよ、馬鹿」
背後でゆきが低くののしり、周囲に愛想笑いを振り撒きながら尻をつねった。
おや、感じないじゃないか。
ゆきも猫かぶって自己紹介をし、お荷物を、と手を出す女中たちにおれは結構ですと断り、ショルダー・バッグを提げたまま宮城姉弟の後について屋敷の玄関をくぐった。馴染みの雰囲気が毛穴から染み込んでくる。犯罪――夕べの傷害事件の後、刑事や医師がうろつき回った騒然の気が、重厚な空気の中に色濃く漂っていた。何人かはまだ残っているはずだ。
「お祖母さんの具合、どうなの?」
ぴかぴかに磨かれた杉の廊下を歩きながら宮城が尋ね、秋葉の顔は暗く翳った。
「お腹の脇を浅く切られただけで、生命には別状ないの。夕べは大騒ぎだったけど、今は休まれて、さっき眼を覚ましたばかり。大丈夫、刑事さんや鉄造さんたちがついてるもの。傷も浅くて、それで病院へ入れなくても済んだのだけれど」
「お祖母ちゃんがいきたくないって言ったんだね。死ぬときはこの家でって言うのが口癖だったもの」
「こら」
強い口調で叱られ、宮城はあわてて口を押さえた。
二手に分かれた廊下の曲がり口で秋葉は立ち停まり、お部屋でお待ち下さい、と言った。
「すぐお|昼食《ひる》になります。わたくしとつかさは祖母のところへ」
「じゃ、ぼくもご一緒します」おれはじろりとゆきの方を横目で見ながら言った。「このため[#「このため」に傍点]に来たんですから。――こいつだけ連れてって下さい。ぼくとは別室に。それから、なるべく男性は近づけないように」
「ちょっと、どういう意味よ?」
ゆきが眼尻を吊り上げた。
「でも――ご兄妹じゃ……?」
と秋葉があわてたところへ、
「冗談でしょ、誰がこんな奴と!」
ののしり声とともに爪先を踏みつけにきた足を、おれはさっとかわした。廊下にぶつかって悲鳴でもあげるかと思ったが、まさに薄紙一枚の隙間を残して踏みとどまった。見事。
上体は身じろぎもせず、にこやかな笑顔もそのまま、足だけの攻防だから、秋葉姉弟や家人たちは何も気づかず、きょとんとしている。
「それでは、ゆきさんだけお部屋へお通しして。八頭さんはこちらへ」
秋葉のややあっけにとられたような指示に従い、おれたちは嬉々として左右に分かれた。
姉弟の祖母――みや[#「みや」に傍点]の寝所は、長い渡り廊下の果てにある離れだった。
周囲は手入れの行き届いた見事な庭園で、三本松や菩提樹、花みずきといった珍しい樹木が緑の羽根を天空にのばし、池の水面を飾っている。青苔の繁る小道の向こうに、倉や茶室らしい優雅な建物と、紺の制服姿が窺えた。警官だ。みやの警護にあたっているのだろう。不粋な風物だが、それさえ我慢すれば、遠くで鳥が啼き交しているのも情緒たっぷりだ。
おれは立ち停まり、耳を澄ませた。
「どうかなさいまして?」
「いえ、鳥の声がきれいだな、と」
「まあ」
好意に満ちた微笑が瞳を貫き、おれは満更悪い旅でもないなと思いはじめた。
離れの入り口には牛みたいに頑丈そうな中年の下男が、扉を開けて待っていた。物騒なことに、すぐそばの壁に豊和の狩猟用ライフルが立てかけてある。こいつが鉄造らしい。宮城と秋葉に頭を下げた位置で、ぎろりとおれを見上げる眼線には、疑惑と本能的な憎悪がこもっていた。おれもひと目で敵愾心を燃やした。
外から想像してた通り、内部は一軒の家並みで、客間からキッチンまでちゃんと付いていた。床も柱も総檜の豪華版である。年期の入った母屋と異なり、こちらは最近建てたらしい。クーラーがばっちり効いて、渡り廊下で滲んだ汗を吸い取ってゆく。金というのはあるところにはあるものだ。
奥の狭い襖を開けて、おさげ髪の娘が顔を出した。年頃は十六、七。麻のブラウスとジーンズ・スタイルに若さがみなぎっている。
「あ、ごめんなさい。お迎えにも出ないで。つい、こっくりしちゃったんです」
丸みを帯びた可愛らしい声に、秋葉はいいのよ、という風にうなずき、
「大変でしたものね、夕べから。――起きていらっしゃる?」
「はい」
少女の出てきた部屋の向かいの、白も鮮やかな障子の前で膝をつき、秋葉は鈴の鳴るような声で訊いた。
「お祖母さま、秋葉でございます。つかさが戻りました。入ってもよろしうございますか?」
白い紙に遮られた奥から、「おお、おお」と待ちかねたような声が返ってきた。
「ようこそお帰り。さ、早う顔を見せておくれ」
秋葉はおれと宮城の方に軽くうなずき、障子を開けた。立ち居振る舞いのすべてが流れる水のように澱みない。
厳しい躾けだけじゃこうはいくまい。本人が、時代離れした大邸宅の中で、|蕪雑《ぶざつ》な騒音にまみれず、水のごとく歩み、影のように生きる娘なのだ。なんでこんな娘や女々しい弟のところに限って、化け猫だの怨霊が出やがるんだ――世の不条理に、おれはやや立腹した。ゆきのところへ押しかけりゃいいのに。
ついてきた下男と下女を部屋の外に待たせ、おれたちは中に入った。
少し前から寝たきりだと宮城が言ってた祖母は、蚊取り線香の匂いが漂う二十畳ほどの部屋の真ん中に横たわっていた。おれたちの入ってきた向かい側は庭に面しているらしく、障子が白く輝いている。壁にはめ込まれたクーラーの音も静寂に呑み込まれていくようだ。
「お祖母さま」
宮城が呼びかけると、みやはしわだらけの顔をくしゃくしゃにして笑いかけた。襲われたショックでか、顔色は生気に乏しく、粗い肌目が浮き立って見える。傷はともかく、よくショックで心臓が停まらなかったものだ。
「よう戻ってきたな。なに、そんな顔せんと大丈夫。こんなかすり傷でへこたれりゃせんがね」
言葉の内容はともかく、相手を説得させるかのような強い物言いは、寝巻きの袖からのぞく枯れ木のような手足とはおよそ不釣り合いな響きがあった。大した|祖母《ばあ》ちゃんだ。
「あんた、あの化け猫を追い払ってくれる人だそうだね」
おれに向けた信頼感溢れる笑顔に、おれも笑顔で応じた。
長い修羅場を切り抜け、年齢以上の男の渋みを身につけたとはいえ、根が上品に出来ているため、なかなか年齢はごまかせない。こんな厄介なときにどこぞやの餓鬼が図々しくと思われても不思議はないのだ。こうなると人間、気分の動物で、張り切らざるを得ない。
「まかしてください」とおれは力強く厚い胸を叩いた。無論、秋葉の眼を意識している。「目下、一勝一敗です。次は決着をつけますよ。もっとも怪猫は今度が初めてですが」
「と、おっしゃると――あれかね、ぼろをまとったお|婆《ばば》の恨めしや?」
「ええ」
「やはりのう……」弱々しく吐き出し、みやは眼の前で青筋の走る両手を合わせた。「恐ろしいことじゃ。紅舟さまの呪いじゃろう。しかし、しかし、なぜ、今ごろになって……」
「ぼくもそれが知りたいんです」おれは明朗少年の声を張り上げ、膝でにじり寄った。「あの、おかしなペアが暴れる理由をご存知ですね。過去、この宮城家とどんな因縁で結びついているのか、是非うかがいたい。教えて下さい。その紅舟さまとは誰のことなんです。――あの老婆ですか?」
沈黙がおちた。
老婆は呆けた表情でじっと豪華な薄布団の模様を見つめ、身じろぎもしなかった。名家の過去に秘められた陰惨な汚点を語る恐れより、腹部にえぐり込まれた現在の恐怖がその口を重くしているようにおれには思えた。
気の滅入る沈黙を破ったのは、荒々しいがさつな罵声だった。戸口で何人かがののしり合っている、と思う間もなく、無作法な足音がふたつ、客間を横切り、障子の前で立ち停まった。
今度は停めるものもなく、障子は開け放たれた。
空気の乱れで侵入者の人格がわかった。
四〇年配の男女がふたり、高みからじろりと部屋中を一瞥し、女の方が後ろ手に障子を閉めた。本人は気配りしたつもりだろうが、根性が派手な音をたてさせた。
一族の鼻つまみ――宮本茂弥と奈緒美の叔母夫婦だ。宮城姉弟の父親の妹が、口先一本の山師野郎にひっかかり――というより、自分で選んだそうで、なるほど似た者夫婦ではある――インチキ事業で失敗しては、足繁く金をせびりにくるため、一徹ものの父親に義絶を食らってからは顔も見せなかったのが、両親が急逝して以来、当然のように出入りをはじめ、この態度だと出入りの仕方も只事じゃなさそうだ。
「ひどいじゃないの、母さん」と奈緒美が口を切った。
欲の深そうな顔だが、肉づきがよく、年増の色気が溢れてる。本人も意識しているらしく、病人の見舞いだというのに、紫のブラウスはスケスケで、もっと濃い色のブラジャーと、ばかでかいバストの隆起がもろ、おれの網膜を直撃した。深夜興行で観た、ふた昔まえくらいの東映か日活映画の、ギャングの情婦役にぴったりだ。
「怪我したならした[#「した」に傍点]と、ひと言声をかけてくれるのが実の娘に対する礼儀ってもんでしょ。今じゃ母さんの娘はあたしひとりじゃない。水臭い真似しないでよ」
といかにも心配そうに言っておいて、秋葉とつかさの方をじろりと眺め、
「それとも、可愛らしい孫たちが、叔母さんには知らせるなって、釘でもさしたのかしらね」
「そんな」
と秋葉が顔を曇らせた。つかさもむっとしたようだが、奈緒美に睨まれるとあっけなく下を向いちまった。やれやれ。
「とにかく、僕らは憤慨しとるんですよ」と詐欺亭主がさも遺憾であるという口調で言った。
「親戚をこうも軽く扱われたんでは、世間様に面子が立たん。秋葉ちゃん、困るなあ。つかさ君のいない間、留守を守る君が、こういう軽率な真似をしたんじゃあ」
「申し訳ありません」
秋葉はうなだれた。どうもおかしい――おれは首をひねった。見たところ、おとなしそうだが軟弱な娘では決してない。だが、今の態度は蛇に睨まれた蛙だ。
おれは鼻つまみの元凶を見上げた。身長は一六〇程度。やせぎすの身体は六〇キロもあるまい。銀ぶちの眼鏡をかけてすか[#「すか」に傍点]してるが、教養よりいやしさが顔にしがみついている。詐欺師としても、この貫録のなさでは寸借詐欺がいいところだ。
「なんだね、君、その眼つきは?」
おれの視線に気づいたらしく、宮本が険のある声で問うた。
「あ、この方はつかさのお友達です。東京から――遊びにいらしたの」
秋葉があわてて答えた。本当のところを打ち明けなかったのは、この糞叔母夫婦にこれ以上嫌がらせの口実を与えぬためだろう。
「八頭と申します。どうぞ、よろしく」
おれはしおらしく頭を下げ、二人に見えぬ位置でにやりと笑った。
背筋が震えてくる。怒りのせいではなく歓喜の表現だ。荒仕事以外の喧嘩じゃこういうタイプが好きなんだよね、おれ。いびりまくる方法が次から次へと湧いてくる。
「そうかい。こんな事情のときに友達ってだけでノコノコやってくるのは、さすが東京の坊ちゃんだが、あまり楽しい旅にゃなりゃせんと思うぜ」
「およしなさいよ、あんた」と奈緒美が手を振って亭主をとめた。「せっかく遊びに来た学生さんを、何だい。とっても素敵な東京ボーイじゃないの、ねえ」
「ええ」
おれはにっこり笑いかけた。胸の裡でもうひとりのおれが、久方ぶりの邪悪な笑いをみせる。奈緒美の声にまぎれもない情欲を感じ取ったのだ。くくく、こっちはいいが、そっちは爛熟の人妻対純情学生の火遊びじゃ済まなくなるぜ。
「じゃ、みなさんお取り込み中らしいので、ぼくは、これで」
おれは畳に三つ指をつき、馬鹿丁寧に頭を下げてから立ち上がった。
「あ、僕も」
情けないことに宮城も立ち上がったので、歯を剥き出して威嚇する。自分の立場を認識したのか、すぐもとの位置に戻ったのがせめてもの救いだ。この小心野郎。
「あの、すぐおうかがいしますわ。――およし[#「およし」に傍点]さん、お客さまをお部屋へ」
秋葉のすまなそうな声を哀しい色で胸に染めながら、おれはファイト満々で寝所を出た。
母屋の中程にある広い部屋へ通され、よく冷えた麦茶を用意したおよしさんが出て行くとすぐ、「おーす」の声とともにゆきが突き当たりの襖を開けて入ってきた。
「なんだ、陸続きか」
「なんだとは何よ、その嫌味ったらしい言い方。襖一枚の仕切りだからって、夜中に布団へもぐり込んでこないでよ」
着換えたばかりのTシャツの肩を軽くつまんでずれを直しながら、ゆきは毒づいた。
「わかった、わかった」
おれはなおもぎゃあぎゃあ喚くゆきを柳に風と受け流し、ジャケットの内ポケットから銀製のシガレット・ケースを取り出した。
蓋の隅を軽く押し、飛び出た棒状のワイヤレス・イヤホンを耳にあてる。自動的にウイングが開いて耳孔を覆うため、奥に入って取れなくなる心配はない。イヤホンと同時に現れたコントロール・パネルのボリューム・スイッチを指先で調節すると、すぐ、詐欺師のきんきん声が鼓膜を揺すった。
「ね、義母さん、今言ったこと、ほんとに考えてみて下さいよ。ね」
くそ、何を言いやがったんだと焦ったら、色情女房が助け舟を出してくれた。
「こんな物騒な土地と屋敷、なくなった方がさっぱりするわよ、母さん。生命あっての物種じゃないの。処分の手続き一切は、ほら、うちの|夫《ひと》が専門なんだから」
「そんなこと言ったって、おまえ」
みやが困惑したように口をはさんだ。
「そう簡単に決められる話じゃないだろ。秋葉もつかさもまだ身の振り方ひとつ決まってないんだし、もっと時間をかけて話し合わないと」
「そんなこと言ってたら、今度は生命がなくなるわよ」奈緒美が小馬鹿にしたように言った。
「化けものは、きっとこの屋敷の内側で、母さんとそこのふたりを狙ってるんだから。ま、あたしはもう|他所《よそ》の人間だから大丈夫でしょうけど、せいぜい気をつけることね。八つ裂きにされてからじゃ遅いわよ。――それじゃあ、今日はこれで失礼するけど、よく考えといて。そこの二人もね」
おれはイヤホンのスイッチを切り、耳から抜いてシガレット・ケースに収めた。
「ちょっと、それ盗聴器でしょ。何の情報を仕入れたのよ」
陰険な眼付きで責めるゆきに、おれはにやりと笑ってみせた。
盗聴装置というのは、もともとスパイの小道具だった。現代の戦争が「情報戦争」の名で呼ばれていることからも、敵側の機密を多く握った方が、火器を動員する本格的戦争さえ制する理屈はわかるだろう。
精巧な盗聴器が本格的に使われだしたのは、一九五〇年代以降だが、アメリカのFBIや警察では、もっと以前、アル・カポネの時代から、電話線を通じて密造酒ギャングたちの会話を盗み聴きしていたし、一九四五年にソ連外交官からモスクワのアメリカ大使館へ贈られた木製の彫刻には、スプリング式振動器が内蔵されており、通りの向こう側に陣取ったKGB職員へ七年間にわたって機密情報を送信しつづけていたほどだ。
六〇年代に入って装置の開発は急ピッチで進み、当時一年間で売られた機器は約一千万セット、嬉しいことに、ブラジャーの先に録音マイク、パンティの中にテープという、恋人の浮気発見にもってこいの品まで出回ったのである。この頃のソ連製盗聴器K―9リンペットはマッチ箱大の超短波発信装置を備え、通信距離も八キロ程度だったが、今では虫ピンの頭ほどのマイクを蠅につけて飛ばし、有効距離三〇キロという「ラジオ・フライ」なるものまで製作されている。
ロスの超高性能ヘリを扱った映画「ブルー・サンダー」に出てきた「シュープリーム・イーヴェスドロッパー」という盗聴マイクは、CIAが実用化を狙っている本物の品で、対象物に固有な振動を増幅して音に変える。厚さ数メートル、数層のコンクリートで守られた人間のタイピンやカフス・ボタンの微振動まで確実にとらえ、数十キロ離れて聴き分けられるのだから恐ろしい。
おれが別れの挨拶をしたとき、畳の間に刺し込んできた「ピン・マイク」はそれほど凄くはないが、三〇〇メートル四方の音なら、タンポポの花弁のそよぎまで捉えられるし、特定方向の音を選択的に聴くことも可能だ。ふふ、ウォーターゲートで失脚させられたニクソンの気持ちがよくわかる。あいつは、政敵の情報より盗聴そのものにスリルを感じてたんじゃあるまいか。
「大ちゃん、あんた、そんなもの、トイレやお風呂に仕掛けて、あたしの出す音みいんな聴いてるんじゃないでしょうね」
憤然たるゆきの声に「阿呆」と答えてから、それも面白いな、とおれはニンマリした。
盗聴専門の会社が大繁盛してるアメリカでは、ビルにひかれた電話線や電気ラインをすべて剥き出しにした大企業もあるし、シリコンバレーのとある研究所は、ブレーン・スタッフの一室を厚さ五〇センチの金属の箱につくりかえて、盗聴を防止している凄まじさだが、日本じゃせいぜい探偵や個人の浮気調査、盗み聴きがいいところだ。これとレーザー・ケーブル応用の超小型カメラのセットをつくりゃ、政財界の助平どもに、数万のオーダーでさばけるだろう。
「それ、秋葉さんの部屋にも仕掛けてきたらどうかなあ」
思わせぶりなゆきの言葉が、いきなりおれの胸を刺した。
「ななななんだと」
ぶすりじゃなくぶっすり刺し込まれた悪意の刃に、おれは柄にもなく動転し、声を上ずらせた。この色気小悪魔、何を勘づきやがった?
「なんなら、あたしが仕込んできてあげようか。たまには違った女の子の寝言や独り言を聴くのもいいんじゃない? いつもあたしの喘ぎ声ばかりじゃ、いい加減飽きがくるでしょ? ほら」
差し出された手から、おれは思わずシガレット・ケースをひったくるように隠した。
「ああら、顔色が悪いわよ。そういうときこそ、白いブラウスにプリーツ・スカートの似合う純日本調美人がシャワー浴びる音とか、パンティはき替える音とか聴くのがいちばんいいのよ。――ふん、あんたがあの娘にひと眼惚れだってこと、ちゃあんとわかってるんですからね」
「なななにを言うか、この邪推女」とおれは頭から湯気を噴かんばかりの勢いで逆上した。
「おおおれは、例の写真を貰うためにやってきたんだ。ちゃんと複写装置ももってきた。原版をコピーしたら、それを置いて、はい[#「はい」に傍点]さよならさ。相手によって手加減なぞしねえのがおれの主義だ。見損なうな、馬鹿」
「へえ。そう。なら、いいのよ」
ゆきは開いた手のひらを意味ありげに閉じ、涼しい顔で胸を叩いた。
「ただし、あたしがこれ[#「これ」に傍点]を持ってることはどうぞお忘れなく。ふん、なにさ、あたしのお尻が下がらない間は、お金儲けそっちのけで、女に熱なんか上げさせないわよ。さあてと、じきお昼ね。食事の前にお庭でも散歩してこようっと。ここで働いてる若い人たち、結構ハンサム揃いだし、変わった情報をきけるかもしれないわ」
睨みつけてるおれの前を、わざとらしく“さよなら、初恋”などと歌いながらゆきは出ていった。
離れの様子を立ち聞きしようかと、もう一度シガレット・ケースに手をのばしかけ、おれは途中でやめた。何故か、秋葉の声をききたくはなかった。陽気な声、万歳。美しい声、結構。哀しい声、まあ[#「まあ」に傍点]よし。しかし、美しくて哀しい声は真っ平だ。
おれはジャケットを脱ぎ、パンツ一枚になると、ショルダー・バッグから防虫剤フマキラー・Aを取り出し、身体に吹きかけはじめた。両手両足はもちろん、首すじ、背中にも万遍なく吹っかけ、仕上げは顔だ。大分ひりひりするが、先のことを考えたらぜいたくは言っていられない。
三分もかけて吹き終えると、ブルーのサマーセーターを着てダンガリーのホワイト・ジーンズをはいた。ベルトも巻く。ちと厚めの金属のバックルを指ではじき、強化ナイロン製の|小物入れ《パウチ》をつける。中身はシガレット・ケースに五○本入りマッチ箱、インスタント護符百枚、超能力ペン、栄養剤五○錠入りのカプセルだ。
ケースは盗聴マイクの他、半径十キロ以内の無線電波も傍受できるし、まだ試したことはないが、簡単な操作で妨害電波も放射可能な仕組みだ。やや長目の蝋マッチは軸木に特殊コーティングを施してあり、十分はもつ上、うち二十本は長燃焼マグネシウム剤を加工した発光灯、もう二十本は燃焼温度七千度に及ぶバーナーを兼ねている。あとの十本は人目を欺く本物だ。普段はシガレット・ケースに組み込まれたライターを使う。
NASAが宇宙食プロジェクトの一環として開発した栄養剤は、当初、遭難事故におけるサバイバルを目的としたもので、宇宙空間での孤独による発狂を避けるため一種の麻薬を含有してバイオリズムを高めるのに成功したが、凶暴性等の副作用が顕著なため、実用化は見合わされた。おれのところへ回ってきたのは、バイオリズムの活性率を七○パーセント程度におとし、その分副作用を極力抑えた代物だが、ひと粒あれば三日分のカロリーを保証する代わりに、やや喧嘩っぱやくなる。
ただし、おれのようにいかなる場合も他人の援助は当てにできないロンリー・ハンターの場合、手傷を負った上、食料もなしでだらだらと助けを待つよりは、猛獣を殺して食ったり、筏を組んでピラニア渦巻く河を渡ったり、自力で道を切り開かにゃならないから、その方がむしろ都合がよく、NASAの化学班に命じてわざと副作用が多く出るよう調合させてある。まるで麻薬中毒患者だね。
最後に、バッグの底から、おれはプラスチック製のショック・ガンを取り出した。全体の形と大きさはブローニングのM10に似ているが、わずか四五〇グラムの重量は、素人目には安っぽいオモチャにしか映るまい。
確かに秒速四、五〇〇メートルのスピードで実弾は飛び出さないが、|握り《グリップ》に仕込まれた二○発の二二口径|空砲《ブランク》は、代わりに|銃身《バレル》内の音波増幅フィルターでその発射音を増幅され、猛烈なサウンド・インパクトを相手に叩きつける。三〇メートルの有効射程を越えると急速にパワーは下降するものの、二〇メートルまでならヘビー級ボクサーのパンチを食らった程度のダメージはあるだろう。空砲使用のため、反動は|皆無《ゼロ》。まず百発百中だ。
例のごとく|遊底《スライド》を引いて初弾を|薬室《チェンバー》に送り込み、握りからフレームに沿って突き出ている鉄製のクリップで、腰の後ろにあたるジーンズの内側にひっかける。状況に応じて身体の前にも横にもポケットにも移動できるから実に便利だ。|内側《インサイド》に|銃《ガン》を隠すため、インサイド・パンツ・クリップ・ホルスターとも呼ばれる。二○連の予備弾倉を三個収めたマガジン・パウチも反対側の腰の内側にしまう。
抜くとき、セーターをまくり上げなきゃならないので、とっさのコンバット・シューティングには向かないが、今回は出合い頭に撃ち合うような事態は避けられそうだ。○・一秒で抜き撃ちが出来たとしても、この|拳銃《ガン》そのものが化け猫に通じるかどうかは不明だし、いくら警察にコネが利くといっても、本物をドンパチ撃ちまくろうものなら、おれを呼んだつかさの立場が悪くなる一方だ。あの親戚乞食夫婦はどんな弱みも見逃しはしまい。
E手袋を尻ポケットに押し込んで武装を終え、おれはショルダーをがっちりとロックして部屋を出た。ITHA装備課特製の合成皮革は、ナイフやその辺のガスバーナーの炎などまるで受けつけないし、わずか五ミリしかない内側の衝撃吸収樹脂は、高さ三百メートル――エッフェル塔のてっぺんからコンクリートの上へ落としても、中身を百パーセント保護する。実験では、五千回もショックを与えて、内側のマイコンがびくともしなかったそうだ。
とりあえず、家の内部を探っておく必要がある。第一目標は言うまでもなく、あの写真[#「あの写真」に傍点]の隠し場所だ。
生命懸けで化け猫と戦う気なんぞ、おれには毛頭なかった。
写真と引き換えに出来るだけのことはすると約束したものの、化け猫殺しまで請け負ったわけじゃない。全力を尽くしても駄目な場合は、交渉して写真をいただく手だ。いやだといったら、黙って借りる。
秋葉はきっと、あんな素敵な|男《ひと》がそんなことするなんて信じられないと悲嘆に暮れるだろうが、やむを得まい。弱肉強食は世の常だ。
縁側へ出て緑と青に黒ずんでさえ見える壮麗な中庭を眺めていると、秋葉がやってきた。
どんな話をしようかな、と思い、おれは困惑した。
ヨハネスブルグの、最低の料金で最高のテクニックを楽しませてくれる黒人娼婦から、英王室に連なる上流貴族婦人まで、ひと眼見りゃお気に召す話題が口を突いて出るおれさまが、突然、何喋ったらいいのかわからなくなってしまったのだ。あれれと記憶を探っても、二○前後の娘向きの話題はきちんとストックされてるものの、どれが秋葉向きか見当もつかない。
「オールナイト・フジ」? 秋葉があんなもン、見るものか。東京うまいもの巡り? このくらいの家なら好きなもの好きなだけ食えるわい。今年のパリのファッション・ショーの話題は? いかん、おれにもわからない。
「あの……」と秋の穏やかな日射しみたいな声が背後からおれを呼んだ。
「きょきょ巨人は勝てませんねえ」
しまった。
「ほんとうですわね」
「は」
振り向いたおれに、秋葉は白い歯を見せて微笑した。
「あの太った投手さんがもう少し立場を自覚してくださらないと。このままではよくて三位どまりですわ。四番の方もだらしがない。三振しても笑ってらっしゃるばかり。笑うだけなら、わたくしにも出来ますもの。――あの、どうかなさいまして?」
言われて、おれは開けっぱなしの口をあわてて閉じた。閉じても声は出なかった。
「面白い方」
と秋葉はこらえ切れないように吹き出した。木洩れ日薄い森蔭にひっそりとたたずんでいる古風な娘の面影が消え、二○歳の、どこにでもある[#「ある」に傍点]はずむような笑顔がのぞいた。
わけもわからぬまま何か口にしようと焦る眼の前で、笑顔はかげろうみたいにゆらめいて消え、桜貝を思わすくちびるが動いた。
「|昼御飯《おひる》の用意が出来ましたので、どうぞ。ご案内します」
ほのかな香りの後について、まるで大広間みたいな食堂に通されると、つかさだけが黒檀の大テーブルにつき、ゆきの姿は見えなかった。訊けば、佐賀の市内見物に行きたいとつかさを誘い、断ってもしつこくせがむので、ちょうど庭の手入れに来ていた顔なじみの若い庭師に頼んで送ってもらったという。まるっきり観光気分だ。
それよりも、ゆきと二人きりとなると、これからその若いのも警戒しなきゃならないな。血の気の多い野郎があの色気で迫られた日には、親の首だって絞めかねない。
結構な食事が済むと、おれは事情を説明して欲しいと申し込んだ。
「まず、お祖母さんが襲われた詳しい状況、それから、この家と化け猫の関係ですね。過去に因縁話でもあれば、特に詳しく話して下さい」
「でも……つかさからお話しはうかがっておりますが、無関係な方にそのような……」
「心配ご無用」とおれは胸を張った。「秋葉さんより若いけど、失礼ながら、危ない橋ならその辺の警官やヤー公の百倍渡ってきてますよ」
「ですが……」
と秋葉が言いかけたとき、壁のインターホンが鳴った。秋葉が席を立ち、受話器をとらえた。
「はい……え、警察から……? わかりました。つないで下さい」
数秒としないうちに、白い顔がすうっと青ざめた。
「……そんな……田村さんまで……はい、は?」
ここで不可思議なものを見るような表情でおれの方に眼をやり、しばらく話してから受話器をおいた。困惑に揺れる美しい顔の中に、もうふたつ、別の色が兆していた。恐怖と――希望とが。
「佐賀県警の宮前さんという方から……新聞報道は完全に押さえるし、事故死ということで処理をするから決して迷惑はかけないって……八頭さん、あなた、どういう方なの?」
「ただの宝探し屋ですよ」
おれは笑いに歪む顔を必死に抑えて、ハードボイルドな声を出した。
田村運転手の死体を発見してからすぐ法務大臣へ長距離を入れ、宮城家に生じるトラブルはすべて片がつくまで押さえとけ、捜査本部のトップは、必要とあらばおれに指示を仰ぐように、と命令しといたのだ。
考えてみりゃ無茶苦茶な話で、県警の方もさぞやお怒りだろうが、そこは資本主義の世の中である。この先どうなるかわからないが、何かゴタつくたびに、お巡りがやってきて事情聴取されちゃ面倒だ。
「その他、即席のエクソシストも兼ねてましてね。今度の事件はそっちの方が役に立ちそうだ。田村運転手の件は心配いりません。ゴシップ種にならんよう、新聞社にも圧力をかけ――いや、話を通しておきますし、好きなときに会いにいけます。ただし、家族がいるんならできるだけのことはしておやりなさい。すぐ、遺体を見にいかれますか?」
秋葉はためらいなくうなずいた。幸い(と言っていいものかどうか)田村運転手は独身で身寄りもなく、屋敷の一室に寝泊まりしていたという。
「では」
とおれは促した。
もはやためらいはなく、秋葉はじっとおれを見つめたまま、遠い過去より今にいたる恐るべき呪いの物語を、透き通る言葉に乗せて静かに語りはじめた。
「今から三〇〇年も昔、と言いますから元禄の時代でしょうか。当時この土地は――今でもご覧の通り、昼の光さえ木の枝や木の葉にさえぎられてしまうほど辺鄙な場所ですけれど――それは深い森と荒涼たる岩山に周囲を囲まれた貧しい農村でした。二○○人ほどの人々が猫の額ほどの土地を細々と耕し、毎日を送っていたのです」
喜怒哀楽を一切込めぬ単調な声音をききながら、おれは江戸時代の農民たちの灰色で重苦しい生活を脳裡に描いた。
「生活は苦しくとも、農民たちを見守るものが英明の士であれば救いはあります。ですが、彼ら――紅舟村を|統《すべ》る代官、宮城|典方《のりかた》は、彼をこの世に生んだことで、神ですら永劫の罪を背負わねばならぬと言われるほどの大悪人、いえ、人間の皮をかぶった悪虐非道の魔獣だったのです。
宮城典方――わたしとつかさの先祖であり、宮城家の呪いを生んだ張本人であることは、申し上げるまでもありません」
鬼畜、狂人――いや、肥前佐賀三五万七千石の一翼を担う代官、宮城|主人正《もんどのしょう》典方を形容するのに、これらの言葉をもってしてもなお十分ではあるまい。支配下の村人たちはもとより、残忍性ではひけをとらなかったと言われる妻女、利絵でさえ、その覚書に「わが殿は人獣魔人」と銘記してあることで、彼の性質は容易に察せられる。
出身は佐賀城下であり、この地方へ赴任してきたのは額に刻まれた癇性の皺も黒々とした四三歳のときであった。
その身の毛もよだつ所業を逐一、細大もらさず書き記した――そんな真似する女房も女房だ――利絵の「覚書」によれば、障子の桟に埃がついていたという程度の理由で下男下女を打擲するのは日常茶飯事、犬、猫は言うに及ばず、空飛ぶ鳥さえ嫌悪し、迷い込んだ動物で生きて宮城家を出られたものはまずないとされている。
それも、ただ殺すのではない。文字通りのなぶり殺し、八つ裂きにするのだ。暴れる犬の尾を斬り足をおとし、眼をえぐり、もはや半死半生で泣く力さえないものを、無理矢理豪腕をこじ入れて舌を引き抜くとなると、これは正常な神経の成せる業ではない。癇癖を抑えるというより、虐殺そのものを楽しむ血――殺人淫楽症のどす黒い膿が血管に満ちていたというべきだ。
年とともにその血は一層濃さを増し、歪んだ脳細胞の芯まで広がり、典方を真正の殺人狂にまで仕上げていった。
記録にはないことだが、彼が紅舟村を含むこの地方一帯の代官に収まったのは、佐賀の私邸でいたいけな町民の子女を惨殺し、発覚を恐れた上司の手で中央から追いやられたものらしいと郷土史家の定説にある。ほとぼりがさめるまでわらじ[#「わらじ」に傍点]をはけというやくざやサラリーマンの左遷と同じで、体よく追ん出されたわけだが、そんな札つきを領主として迎えねばならぬ民百姓の方も、たまったもんじゃない。
任期二年目を終える頃から、典方の近辺で領民たちの原因不明の死が相次いで起こりだす。そのすべてが典方の仕業と利絵の覚書に記されているわけではないが、粗末な和紙に墨痕淋漓と留められた血臭漂う字体は、人外境にあった狂える精神の所業を冷静尋常に再現して澱みを知らない。
肉感的な百姓の妻ばかりをさらっては犯し、住居の地下に築いた拷問部屋で火責め、水責め、生爪剥ぎ、生きながら壁に塗り込めては腐乱した頃解放し、無惨な姿を肴に利絵と睦み合う光景は、鬼気迫るものがあったろう。
妻を返せ娘を返せと押しかける男たちも、例外なくこの地下室に消えた。老人以外の若者や子供たちを嬲るのは利絵の担当であったらしく、鉄の輪と鎖で壁に縛りつけた血まみれの男たちを全裸で挑発し、若い精を絞りとる様が刻明に描かれている。恐らくは彼らも、苦しみもがいた末に、妻や娘や母の後を追ったのだろう。
この悪魔の地下室の所在は現在、杳として知れないが、今なお数百貫の石壁で閉ざされた暗い穴蔵の中では、白骨と朽ち、死蝋化した遺体が、出口もなく荒れ狂う怨念の炎とともに呪いの言葉をつぶやいているに違いない。
だが、おれの興味を引いたのは、典方の所業をひとくさり語り終えた秋葉が、広い窓から差し恵む夏の光すら恐れるように、周囲を見回しつつ打ち明けはじめた、典方対猫と怨霊――あの老婆の物語であった。
「その|老婆《ひと》は、紅舟村から一里ほど離れた荒れ地の中に、粗末な庵を結んで生活しておりました……」
心なしか声すら押さえて秋葉はおれを見つめ、おれは大空を爆進するジェットの機首で髪振り乱す怨霊の姿を瞼に描いた。確信が口をへの字に結んでうなずく――間違いなしと。
いつ頃から老婆がそこに棲み出したのか、記録は残されていない。宮城家の言い伝えによれば、「紅舟村」の名と老婆出現の時期はほぼ等しいとされるが、それも定かではない。
とにかく、典方が赴任してきた頃は、最古参の農民ですら老婆の出自を知らず、ただ“紅舟の婆さま”と呼んで畏怖の対象とされていたのである。
さて、この齢不明の老婆については、利絵の覚書以外にも、様々な伝承が残されている。その中から信用できるものだけをピック・アップし、さらに厳選してなおかつひと口に言うと、こちらもまた、典方にひけをとらぬ妖人であった。いや、悪虐非道の徒とされている典方が、こと老婆に関しては、妖魔を葬り去った無双の勇士、誉れ高い名君のごとく語られているのである。
ひとつの国に二人の王は不要とされるが、この法則は悪魔にも援用される。
赴任早々、老婆の存在を知った典方は、異常人特有の鋭い勘で、自分と同類の存在と見破った。となれば、湧くのは親近感より近親憎悪。ここで遮二無二力で押せば単なる暴力人間だが、用心深さも常人の域を超えていた典方は、村の長老たちから老婆に関する様々な情報を得、しばらく放置しておくことに決めた。
老婆の家へ押し入った盗賊三人が、翌日、五体を引きちぎられて発見された――ひとりの右腕はふた月後、四里(十六キロ)も離れた松林の中で見つかった――事件。老婆の姿を見ると必ず子供たちの何人かが倒れ、蘇生しても、ケラケラ笑うだけの白痴と化している事実、畦道をゆく老婆に罵声をあびせた子供が、一昼夜で白髪、しわだらけの老人と化して死亡した悲劇、また、夜ともなれば、老婆と一匹が入っただけで身動きもならぬと思われる庵から、奇怪な動物の吠え声や奇怪な光がとめどなく流れ出す怪現象――さしもの凶人も、超現実感において、自らの蛮行を容易に凌ぐ凄絶さにうなったことだろう。
老婆の方も、新しい代官やその手先など気にもとめなかった。
二本差しの役人がふたり、遠乗りに出た荒れ地の一本道で老婆と出喰わしたことがある。馬上からかさにかかって睨みつけても平然と進んでくる老婆に、男たちは容赦なく馬を疾駆させたが、そのしわだらけの猿のようにくすんだ身体を鉄蹄が打たんとした一刹那、ひとりは馬もろとも前のめりに地べたへ叩きつけられて即死、今ひとりの頭部と馬の頸骨も片側の岩肌に激突して、どちらも半日後、死亡した。
後日、調査にあたった役人たちは、現場から少し離れた道の片隅に、ちゃんと蹄のついた馬の足二本を認めて凍りついた。両方とも膝骨から強引にねじり取られたような傷口が明らかだった上、ひと口ふた口、肉を噛み取った痕跡が明瞭に残されていたためである。
即死を免れた男から事の次第を聞きいきり立つ部下たちを何故か典方は押さえたが、血の気の多い若侍たちが八名――一説には五名――その夜のうちに、荒野のあばら家を急襲した。
そのことが明らかになったのは、翌日、老婆が若者たちを代官所まで送り届けたからである。
顔を土気色に染め、魂を吸い取られた抜け殻のようにふらふらとやってきた武士たちに、門番は制止する言葉も忘れて立ちすくんだ。
その背後で、肩に銀色の毛皮をまとい、異様にまっすぐな木の棒をついた老婆が薄笑いを浮かべていたが、こちらを止める気にもなれなかった。一行の全員から湧き上がる妖気と死臭を思わせる臭いが彼を金縛りにしたのである。
異常事態に気づいて駆けつけた武士たちも同様で、妖異なる一行は、昼ひなかの警戒厳重な代官所へ、いともやすやすと侵入を果たした。
知らせをきいて典方と利絵が奥の住まいから血相変えてやってきたときは、すでに中庭に達しており、春うららの白い砂の上に、男たちは死人のように顔うつむけて立ち尽くしていた。あまりの異様さに、一刀に手をかけたまま立ちすくむ代官へ、はじめて老婆が口をひらき、蛙が人語をしゃベるような調子で、この侍たちを買ってくれと申し入れた。
「買え? 人間をか?」
それでも、そこは人間の皮をかぶった獣。度胸の方も人一倍で、こう問い返すと、老婆はにやりと笑ってうなずく。
「馬鹿なことを、人間を牛馬のように扱うつもりか」
と、日頃の行状も忘れてののしると、
「では、肉にしてお渡しもうそう」
と言う。これで、典方のひと声あればなます斬りと、血走った眼と利き腕に殺意をひめていた猛者たちが全員、戦意を砕かれ蒼白となった。
返事をすることも出来ぬ典方の前で、老婆は軽く両手を打ち合わせ、膳所へ行けと命じた。
八人の男たちは歩き出した。昨日と何の変化もない服装のまま。眼には見えぬ糸に操られるからくり人形のように。
「さて、買うか買わぬか?」
と老婆が膳所の入り口で訊いたという。
「肉とやらになるのを見届けてからだ」
典方の答えには、豪胆を装う半面、サディスト特有の期待が込められていただろう。
「では」
と老婆が言って右手のひとさし指を軽く引いた。
若侍たちの動きは停まらず、彼らは右手をあげて顔面に指を食い込ませた。わずかに掌全体が震え、次の瞬間、握りこぶしを形造ったかと思うと、何やら白っぽい球体がふたつ、湯気と糸をひいて顔から飛び出し、遠巻きにしたひとりの若侍の足元へ転がっていった。
パラパラと音がする。
顔面を握りつぶした男たちの掌からこぼれる破片と、石床の触れ合う硬い音であった。
球体を見定めた若侍が身を曲げて別の音を発した。ぷん、と吐瀉物の匂いが生あたたかい空気に混じる。
同僚たちが落としたものの正体を知っても、人々はもはや驚くことすら忘れていた。
「肉を買っていただくのに眼の玉も歯も爪も不要」
老婆の声が伝えたときには、歩く生け造りと化した若侍たちは全員、膳所の敷居をまたいだところで停止していた。
「さてと、仕上げじゃ」
と老婆は両手をもみ合わせながらつぶやいた。
「そこの大皿を八枚――こ奴らの分だけ板の間に並べて下され。さ、早う早う。ほれ、人の形をとっておるのが辛うて、血の涙を流しておりますぞ」
確かにねじれ歪んだ顔面にそこだけぽっかりと開いた不気味な空洞から流れはじめているものは、血そのものというより、生きるも死ぬもできぬもの[#「もの」に傍点]たちの悲痛な涙ととれぬこともなかった。
下女たちが老婆の言葉に促されたかのように、直径六〇センチもある陶器の皿を板の間に置く。顔無し侍たちはその上に乗り、立ち尽くした。不気味といえば、これこそ今日の怪事で最も不気味な光景であると、利絵は記している。全員が次に起きる惨劇も知らず、いや知りたがらずに眼をこらした。
「さて、八人分の極上肉、幾らで買うて下さる気かや、お代官さま?」
返事を待たず、骨ばった指が動いた。
本格的な解体がはじまった。
強靱な指が頭髪をベリベリと皮膚ごとむしり取り、素早い動きで顔の肉全部を剥ぎ取る。腱がちぎれ、血管が垂れ下がる。真っすぐのばした五指が根元まで喉笛に突き刺さる光景に、数名が眼をそらした。
異様な音をたてて手刀は下腹部まで移動し、もう一方の手を切開部にめり込ますや、若侍たちは一気に皮膚と筋肉を押し広げた。やわらかいものが先をあらそって陶器にぶつかる音。何人かが悲鳴をあげて嘔吐するのも構わず、手刀は再び下腹部の端から左右の大腿部、すね[#「すね」に傍点]へと下がり、指先まで割って戻った。
だが、これまでを悪夢とするならば、次に繰り広げられた光景は、悪戯好きの夢魔そのもの[#「もの」に傍点]が表舞台に登場して演じたような、形容を絶する白昼夢であった。
自らを縦に割った死体が、まるで着物を脱ぐかのように、皮膚と筋肉とを骨格から引き剥がしはじめたのだ!
ベリベリベリという剥離音をきいて、利絵付きの腰元ひとりが発狂し、ついに正常には戻らなかった。
これは、材料自身が自らの身を切り刻んでつくる奇怪な生け造りであった。
もはや人々は、典方や利絵ですら、自分たちが何を見ているのか理解し難かっただろう。
生赤い肉の着物から足[#「足」に傍点]を抜くや、髑髏はがしゃりとひしゃげ、日も射さぬ薄暗い膳所の板の間に、世にも怪異な人間の生け造りが八皿、それなりに整然たる盛り付けを示して居並んだのである。
あまりの凄惨さに、思考回路を根こそぎ奪われて立ちすくむしかない人々の耳に、そのとき、「……ようし……その肉、八皿すべて買おう……」
これまた地上のものとは思われないほど陰惨怪異な、宮城典方の声が響いてきた。
老婆が振り向いた。ゆっくりとその小さな姿が、庭先の典方へと近づいていくのを見ながら、家来たちはどうすることもできなかった。
「……はて、幾らで買いなさる?」
立ちすくむ典方の一メートル前方で、しわがれた声が地を這ったとき、
「これだ!」
叫びと銀光が老婆めがけて殺到した。典方のかたわらにいた近従たちの呪縛が今のひと言で解けたのである。
数本の白刃が老婆の頭上から全身へ振りおろされた、その瞬間――
凄まじい悲鳴と血煙をあげてのけぞったのは、武士たちの方であった。
あるいは喉笛を噛み切られ、あるいは両眼をえぐり取られて地に伏した男たちを、まるで嘲笑するかのような眼つきでねめつけている巨大な獣に、人々はようやく気がついた。
老婆が肩にまとっていた銀毛は、全長三尺(約九〇センチ)にも達するかと思われる大猫だったのである。
名は――奇妙なことに女名前で――きよ[#「きよ」に傍点]という。紅舟の老婆ともども、いつとは知れぬ昔から庵に棲みつく奇怪な住人であった。
滅多に外出することはないため、飼い主ほど恐れられてはいなかったが、時折垣間見せるその巨体と、どこか老婆を思わせる容貌のせいで、不気味な名声だけは飼い主に比して高かった。あるとき、村でも屈指の猛犬が守る家畜小屋が破られ、十数頭の牛もろとも番犬までが喉笛を噛み切られた事件では、誰もが真っ先に、この大猫の名を脳裡に浮かべたものだという。
「ささ、幾らで買いなさる?」
興奮も、してやったりという響きもない、それだけに不気味な再度の質問に、もはや答えるものはないと思われたが、典方は大笑したのである。
「はは愉快、愉快、主が主なら飼い猫も飼い猫じゃ。気に入ったぞ。――よかろう、その肉すべて、おまえの言い値で引き取ってくれる。だが、その前に一献、おまえの愛猫ともどもわしの盃を受けてくれ」
この譲歩ともいうべき姿勢の裏には、後に明らかになる典方一流の悪魔的思考が隠されていたのだが、一方では大サディストの|精神《こころ》が、老婆の内部に潜む異形のものと、極めて近しい共振現象を引き起こした結果ともいえよう。
老婆もそれを理解したのか、ためらいもせず招きに応じた。それから二人と一匹が奥座敷へ入り、立ち去るまでに三時間を要したのだが、この間、ひとりとして――酌をする腰元はおろか、利絵さえ――同席は許されなかった。妖人と魔人の取引がどのように進み、いかなる決着を迎えたかは、以後の二人の言動より推察する他はない。
なんと、彼らは一種親愛の情にも似た協調関係を結んだのである。きよを肩に代官所へ訪れる老婆の回数は日ましに増え、供侍を連れぬ典方の不可思議な外出も頻繁となった。利絵の覚書にも、妻としての焦りといらだちが如実に感じられる。
双方の家での行為は永久に知る術もないが、こと典方に関しては、接待に必ず地下室を利用する事実と、あの日[#「あの日」に傍点]以来、紅舟村のみならず近在の土地から行方不明の男女が続出した事例に鑑み彼に負けぬ怪物性を有する友と、常人離れした嗜虐性を満足させる行為にふけっていたと見てよかろう。
ただ、利絵の目撃談によれば、老婆が訪れ立ち去った日と、自ら外出し戻った後の典方は、利絵ですらうすら寒くなるほど病的な満足感の中に、覆いようもない脅えと、苦悩の影を漂わせていたらしい。
これは、彼自身の悪虐ぶりが老婆に及ばぬというよりも、例えば、人間が鬼神とある技を競った場合陥るであろうような、より根源的な恐怖の産物と思われた。要するに、典方は邪悪な人間[#「人間」に傍点]だったのである。
そして、老婆との初邂逅から半年ほどすぎた冬の午後、朝から私室に籠り何やら思案していた典方は、家来に命じて近隣の石工を集め、ある注文を出す。
「それは、縦六尺(約一・八メートル)横三尺(約九○センチ)、深さ二尺五寸(約七五センチ)もある石の箱でした。しかも石の厚さは五寸(約一五センチ)と申しますから、重量は数百キロにのぼったと思われます」
話す秋葉よりもかたわらのつかさの方が青ざめていたが、おれは笑えなかった。奇妙な話だが、その箱が何に使われたのか見当がついたのだ。
「典方は石工たちに向かい、それを二つ、五日のうちにそろえろと命じました。適当な石を見つくろい、鑿と玄翁と二本の腕だけで注文の品をつくり上げるのに、何日かかると思っていたのでしょう。彼の癇癖は承知しているはずの石工たちもさすがに逡巡の色を浮かべますと、問答無用で家臣のひとりを斬り倒し、血刀をひっさげたまま、一家眷族にいたるまでこうなりたいかと申しました。石工を|屠《ほふ》らなかったのは、人数を減らして完了の遅延するのを怖れたためでしょう。その血走った眼と形相のあまりの凄まじさに、石工たちは一も二もなく平身し、昼夜の突貫作業で狂人の望みを叶えたのです」
おれの頭の中で、ある言葉が閃いた。
夕べ、青山のマンションで老婆が放ったひと言。
出しておくれ。
質問する前に、おれの眼を見ただけで秋葉は静かに答えを告げた。
「はい。五日目の晩、どういう手を使ったのかわかりませんが、典方は訪れた老婆と愛猫をそれぞれ石棺に封じ込め、この世から葬り去ったのです。二人と一匹が地下室に消えてから半刻(約一時間)後、彼は利絵をよび、地下室への降り口で、奴らを処分すると告げました……」
夫の右手に握った松明より、その凄惨な表情に利絵は戦慄した。このとき、典方は実に奇妙な言葉を洩らしたのである。
「わしは救った……きせろ[#「きせろ」に傍点]を……」
意味不明の単語より、何かを「救った」という宣言に驚いて、利絵が口を開きかけたとき、典方は地下の穴蔵へと振り返り、渾身の力を込めて松明を投げ入れた。
数瞬も置かずして紅蓮の炎が噴き上げ典方の顔を灼いたというから、前もって大量の油が撒き散らされていたのであろう。鉄の扉を重々しく閉ざした典方の衣類は煙をあげ、鬢と前髪はちりぢりに焦げていた。
「何もかも終わったのだ」
と典方は狂気の発作に唇をわななかせながら言った。
「未来永劫、この地下蔵の扉を開けてはならん。明日、村の奴ばらを駆り出し、この棟だけ残して屋敷全体を別の場所に移し、この土地はぺんぺん草の生えるにまかせよう。今日、ここであったことはわしの胸に収めたまま、わしの身体とともに滅び去る。この地下蔵のこと、ここを訪れたもののこと、すべて後世に伝えてはならぬ」
そして彼はショックの反動によるものと思われる心底楽しげな哄笑を放ちつつ立ち去ったが、数刻後、数十の人馬が街道を村はずれへ向かって疾走する足音が、村人たちの眠りを脅かした。
「翌日、恐る恐る街道に残る馬の足跡を辿った村人たちの見たものは、完膚なきまでに破壊され、焼き尽くされた紅舟の婆の庵でした。金目のものを、などと不埓な考えを起こすものなどいるはずもなく、以後、村人は老婆の脅威から解放されたのです。
けれど、悪魔の片われはまだ残っています。代官・典方は、翌日から以前に輪をかけた残忍狂気の所業に狂いはじめました。村で遊んでいる子供たちの円陣に馬で突っ込み蹄にかけるなど序の口、視察の折、遠くから自分を見ていた百姓の娘の眼つきが気に入らぬと難癖をつけ、その場へ引きずり出しては全裸に剥いて鞭を打ち、止めに入った両親、弟もろとも斬殺するなど、村人ばかりか妻女、家来の眼からみても鬼畜そのものでありました。
ただ、従来は単に自らの獣的欲望を満足させる――純粋に楽しみであったものが、あの夜以降、その残虐行為には、何か心の憂さを晴らすとでもいうような苦悩の翳が染みついたようです。人間の見てはならぬものを見てしまったが故の精神的崩壊と、今の精神科医は診断するでしょうか。村人は前以上に恐れ慄きました。けれども、彼らの苦しみは長くつづきませんでした。地下蔵を炎と変えてから三カ月、新しい敷地へ移した屋敷の内外で、身の毛もよだつような怪事件が発生しはじめたのです」
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第四章 黒い爪
秋葉とつかさが田村運転手の遺体を確認しに出かけた後、おれは邸内をぶらついて構造や間取りを頭に叩き込む作業に取りかかった。
一緒についていきたかったが、家にいた刑事が三人同行したし、怨霊も怪猫もそう簡単にふたりを襲うとは思えなかった。これまでの手口から考えて、じわじわくるはずだ。猫が鼠をもてあそぶように。つかさの乗った飛行機が墜とされかかったのは、多分、おれが一緒にいたからだろう。何故かはわからないがね。つかさにはもちろん、インスタント護符を二○枚ばかりもたせてやった。
この屋敷の基礎は昭和のはじめに建造されたもので、位置としては、新しい代官屋敷と合致する。例の地下蔵のある旧地所の所在は不明だが、おれには目算があった。
それより、当面の問題は、この家に仇なすものが何故今頃甦ったのか、それと、どこに潜んでいるのか、だ。
前者に関してはおよその見当がついていたが、後者についても、おれはある恐ろしい意見をもっていた。
田村運転手は女子トイレで殺された。ということは十中八九、女に誘い込まれたと見て差し支えあるまい。それも、かなりの顔見知りにだ。
となると、怪猫は人間に、少なくとも女に化け得る。そして、ひょっとしたら……最悪の場合、この家に出入りする女に化けている。……いや、住み込みの女中にも……。
三〇分ほどかけて邸内の間取りを暗記し終え、おれは庭へ降りた。踏み石の上に置かれたサンダルをひっかけ、呑気な見物気分を装いながら歩き出す。目標は蔵だ。
離れヘ行く途中で見たときはすぐ[#「すぐ」に傍点]だと思ったのに、小径が曲がりくねっていて、意外に手間取った。
しかし、それだけのことはある。耐火建築に違いない厚い壁と三階建ての小ビルほどもある堂々たる構えに、おれはこの事件に噛んで以来はじめて、トレジャー・ハンターの興奮が湧き上がるのを感じた。全身が熱くわななき、頭の芯だけが異様に寒い。おれの世界に足を踏み込んだ証拠だ。
|内部《なか》を覗き、入れるもんなら入ってやれと戸口の石段に足をかけたとき、背後で気配が動いた。
振り向くと、おれの通ってきた後を追うように、垢抜けしないポロシャツとグレーのズボンをはいた大男が現れた。凶暴な石みたいな顔つきは、やくざか警官のものだろう。
「あんた、誰かね?」
とハンカチで額の汗を拭いながら訊く。意外に愛嬌のある声だ。八頭だと答えると、ほおと大仰にうなずき、胸ポケットから警察手帳を出して佐賀市警の朝丘刑事だと名乗った。
「こら、失礼しました。上からの指示は受けとったとですが、まさか、こんなお若いとは思わなかったもんで」
敵意の少しもない、敬服したような言い方に、おれは良い気になる前にあきれた。おれが彼の立場だったら、どんな汚い手を使っても屋敷から追い出す算段をする。しかし、朴訥のエキスが全身から滲むような朝丘刑事はにっこり笑って、
「ご用は何でも申しつけてください。他のもんはともかく、わし、あんたの役に立つことは何でもやりますから。そう命令を受けとるもんで」
「そいつは、ありがたい。早速、二、三あるんだがね」
「なんでしょ?」
「まず、今日殺された田村運転手の女関係を徹底的に洗って、深い仲の女や、彼が最近熱をあげてた女をリスト・アップして欲しい。それから、この辺の伝承、特に『紅舟の婆』に詳しい人物を探し出してくれ。もうひとつ。建設中止になったレジャー・ランドの跡へ、これからすぐ案内して欲しいんだ」
おれの言葉が終わるやいなや朝丘刑事はうなずいた。
「はじめのはもう取りかかってますし、家のもんのアリバイもこっそり調べてるとこで。次のはすぐ探します。最後のは、わし今手が放せませんので、適当な人に行ってもらいます。――あの、わしの顔に何かついとるですか?」
「いや」とおれは首を振った。「九州にゃいい刑事がいると思ってな」
「また、そげなお世辞。だけど、ほめられて|悪《わり》い気はしないすな。はっはっはっ」
つられておれも微笑しかけた。やっと巨人の中畑みたいなタイプと会えたわけだ。
こういう陰気な事件に取り組むと、捜査陣も自然に根暗集団的色彩を帯びるようになる。そんなとき、こういうタイプは貴重な存在だ。いるだけで信頼感が湧き、気持ちがはずんでくる。
おれと一緒に母屋の玄関近くまで戻り、少し待つように言って、朝丘刑事は邸内へ上がった。まるで屋敷の住人だ。
三分ほどの間に、女中が何人か挨拶しながらおれの前を通りすぎ、ようやく戻ってきたときは、五〇年配の女性を連れていた。おれたちの到着時にも出迎えた女だ。つかさははな[#「はな」に傍点]さんと呼んでいたが。
「こちら、女中頭のはな[#「はな」に傍点]さん」と朝丘刑事が紹介した。やっぱりだ。「これからレジャー・ランドの敷地へ連れてってくれるそうです。大丈夫、車の運転もできます」
「そりゃ、どうも」とおれは丁寧に頭を下げた。
「わざわざ佐賀くんだりまでおいでなすって、こんなお婆ちゃんが相手で申し訳ないですけど」
はなさんがこう言って微笑してから五分後、おれはのんびりと黒いベンツの助手席におさまり、昼なお暗い林道を軽やかに疾走していた。
「運転、お上手ですねえ」
妙に馬鹿高い杉の列が飛び去るのを見ながら、声をかけてみた。
「ほほ。慣れとりますんで。運転手の田村さんが休みのときは、いつも代わりを務めてます」
「田村さん――大変な事でしたね」
「まったくです」とはな[#「はな」に傍点]さんは暗い顔でうなずいた。「なんでまた急に、お屋敷にばかり不幸が起こりだしたのか、さっぱりわかりませんです。……若い子はともかく、わたしら何かのたたりじゃないかと、気持ち悪がってるですよ」
すると、はなさん以下、女中や出入りの連中は宮城家の伝説を知らないわけか。ふむ。おれは話題を変えた。
「さっきお眼にかかったけど、叔父さん夫婦はいい方[#「いい方」に傍点]みたいですね」
「あれ[#「あれ」に傍点]が、ですか」
はなさんの声に突然、嫌悪がこもった。気まずい沈黙に陥りそうだと気づき、おれは素早く、育ちの良いシティー・ボーイ風の軽い口調で、
「つかさ君にききましたけど、あれですか、財産を巡って、いろいろあったんですって?」
「はあ。そうなんですわ」
はなさんは別に隠そうともせず言った。口が軽いというタイプじゃなさそうだから、あの夫婦がよほど腹に据えかねているのだろう。
「ただ、前の旦那さまの妹というだけで、お二人がなくなってからもう、我がもの顔で。みや[#「みや」に傍点]さまはお歳の上に身体も弱くてふさぎ勝ちですし、秋葉さまは見た通りの静かなお人柄。しっかりしてらっしゃるといっても所詮は女。あんな恥知らずの夫婦にかかっては赤ん坊と同じです。せめて、つかささまがもう少し……」
同感だ。おれは胸の中で大きくうなずいた。
「失礼ですが、八頭さまはつかささまのご学友でいらっしゃいますか?」
うう、ごがくゆう。
「いえ、まあ、似たようなもので」
「そうですか。同い歳とはとても思えません。ずっとたくましくいらっしゃるし、まるで、小さなときから自分お独りの力で生きてこられたように拝見いたしました」
「いや、なに、はっはっはっ。わかりますか?」
「はい」
おれは笑顔を見せないよう、車窓を流れ去る光景に眼をやった。
アメリカのハードボイルド・スターにジョージ・ペパードという玄人受けする渋い二枚目がいて、普段のおれはそいつによく似ている。それが、ひとたび破顔した途端、どういうつもりか桂文珍そっくりになってしまうのだ。いぶし銀から寒天フェイスへ――ここ二、三年、この落差を埋めるのが、日常におけるおれの最重要課題なのである。
おかしなことに、笑いによる顔面崩壊は、自慢たらたらの笑顔を浮かべた場合に限る。作り笑いや、タモリと山田邦子の馬鹿ばなしに笑い転げるときのおれは、まさしく笑ってるジョージ・ペパードなのだ。
いい仲になりかけ、もう一歩でベッド・インという瀬戸際でおだてられちまい、わははと笑ってそれきりになった美女は十指に余る。おれだってキスし合ってたフィービー・ケーツが大笑の刹那、今くるよ[#「今くるよ」に傍点]に化けて腹叩いた日にゃとっとと逃げ出すだろう。
一夜限りの相手ならともかく、トレジャー・ハントの鍵を握るような人物だと悲劇だ。これまでに二度出し抜かれた経験があるが、被害総額はざっと七〇〇億ドルにのぼった。八頭身のハーフ美人に振られた、じゃ済まないのがおれの商売だ。
はな[#「はな」に傍点]さんは、つかさ坊っちゃまをよろしくご教育下さいと懇願し、おれはまかしときなさいと胸を叩いた。もちろん、そんな気はない。宝探しの一環としてならともかく、トレジャー・ハンターが余計な事柄に気の一部でも回そうもんなら生命取りになる。さっさと例の写真かそれに見合う品を見つけたら引き揚げようと、おれは最初から決めていた。
「あのですね。つかさ君からきいたんですが、あの庭の蔵には、宮城家代々の逸品がしまってあるとか」
おれは何気ない風を装い、かま[#「かま」に傍点]をかけた。
先刻、秋葉にも尋ねてみたのだが、あの写真は曽祖父の代から伝わっているというだけで、秋葉にも出所は不明だった。一時は行方知れずになっていたものを、数年まえ蔵を掃除した折、偶然つかさが見つけ、珍しいからと手元に置いといたらしい。探せばもっと何か出るかもしれないが、なにしろ馬鹿でかい蔵で、奥の奥まではとても手が回らなかったという。
そうきいただけでおれの血は湧きたったが、秋葉は写真の件を知ってもひっそりと口を閉ざしていた。金だの宝だの、俗世の価値に心を乱すまえに、蒼茫たる樹々を渡る風に屋敷の中へ封じ込められてしまったのかもしれない。後で蔵の鍵を貸してくれると約束したが、出入りには自分とつかさのどちらかが同行すると念も押された。なるほど、しっかり者だ。
「さて、わたくしは存じ上げません」とはなさんは言った。「あん中は、宮城家の方しか入れないことになっとりますんで。わたくしが三○年前にお勤めしたときからずっと――いいえ、その遙か前からそうしてると伺いました」
「はあ、そうですか」
おれはがっくりと背もたれに身をゆだねた。
「ですが――確か……」
「何か?」
おれは、背もたれから跳ね上がりかけ、わざと気のない素ぶりで身を起こした。足元を見られちゃまずい。
「わたくしがお屋敷へまいって間もない頃、やはり蔵の大掃除がございまして、そのとき、まだ健在だった大旦那さま――秋葉さまとつかささまのお祖父さま――が、こっそりとわたくしを呼びまして、何かナイフみたいなものを見せてくれましたです。面白いことおっしゃったんで、よく覚えてますですよ。こりゃ、空から降りてきたナイフだが、何にも斬れないんじゃと」
「?」
「そうそう、憶い出しました」とはな[#「はな」に傍点]さんはハンドルを握ったまま何度もうなずいた。「長さは一尺もない――ええと、二○センチくらいの果物ナイフみたいなもんでした。ちゃんと握るところもついていて、朝日の下でみるとキラキラ反射して、そりゃよく斬れそうなんですが、大旦那さまが試したら、ほんと、何にも斬れんのです」
「斬れんて……ナイフなんだろ?」
「へえ。刃先は尖がってるし、縁も両方、紙みたいによく研いであるのに、いくら力入れても汗拭き用の手拭いどころか、そばに積んであった半紙の一枚も斬れないんですよ。――そうそう、大旦那さまがやってみろおっしゃるから、地面へ突き立ててみたんですよ。ところが、あなた、刃先の一ミリも入らないんです。ただの地面が、そのナイフが触れると鉄みたいになって、みな跳ね返しちまうんで」
ようやく目的地に近づいたらしく、道をはずれた平地の向うにメリー・ゴーランドやら大観覧車やらの影がそびえ立っているのを見つめながら、おれは混乱する頭を必死にまとめようと苦闘した。
一体どうなってるんだ。絶対に破れない宇宙写真はともかく、斬れない[#「斬れない」に傍点]ナイフとは……。
「それ、何処にあるか知ってますか?」
声が上ずり気味なのをあえて隠そうとせず訊いた。返事は落胆すべきものだった。
「さて。大旦那さまに返してそれっきりになってしまったもんでね。元のところに戻したか、蔵から持って出られたか……出られたにしても、あんな珍しい品がそれきり噂にも出んところみると、母屋の何処かに忘れられちまったんじゃないでしょうかねえ――さ、着きましたですよ」
もっといろいろ訊きたかったが、話はいつでもできる。済まんが二時間後に迎えに来て下さいと告げ、おれは車を降りた。
眼の前に不気味この上ない景観が広がっていた。
どんな粗悪品でも、人々に供されるものは美しい――おれはしみじみそう思った。
旨い料理を食ベたいのなら、厨房は覗かないことだ。
直径五〇メートルはありそうな大観覧車は軽快なジンタとともに|蒼穹《あおぞら》を巡り、マーチに乗って走るメリー・ゴーランドの木馬たち。園内遊覧列車のベルに子供たちが殺到し、ジャングル・ボートの汽笛にライオンの怒号が応える。ソーダ水からきらめく炭酸の宝石、綿あめと西瓜の香るはずもない芳香を涼やかな夕風が運んでくる。
そうはいかなかった。
風が熱の澱みをそのままおれの全身に叩きつけ、たちまち汗が噴き出した。
重黒い影を地におとす観覧車の鉄骨には錆が浮き、幽霊屋敷、鏡の迷路、ありとあらゆる施設の入り口は板で閉ざされ、その板もまた剥がれかかっている。
群れなす人々の未来を約束されながら、ひとりの観客を迎えることもなく打ち捨てられた廃墟。 夏の陽射しは滅びの光であった。
おれははなさんから借りた鍵で、正面入り口の錠をはずし、|内部《なか》へ入った。
白い陽射しの下でペンキと鉄が焦げている。
施設や催し物会場が七割方完成した時点で放棄されたものの、発電装置は手つかずで残され、スイッチひとつで動力が入るという。まだレジャー・ランドに未練を持つ宮本夫婦の差し金だ。
眼前は広場で、噴水台らしい円形の建造物が腰をおろしている。通路の舗装は未完成なため、埃が吹きつけてきた。おれは片手で顔を隠しながら園内を観察した。人の気配はない。入った様子もだ。
管理人を置かないのは、事件以来なり手がないからだそうだが、発電機や鉄骨目当てのこそ泥さえためらうとなると、これは異常だ。
おれは左手にE手袋をはめた。眼を軽く閉じ、「気」を探る。
右手奥、血みどろ看板が凄まじい幽霊屋敷の建物近くに、気流の乱れが生じている。
板付けされた売店の陰に身を寄せ、スラックスの内側からショック・ガンを抜いた。右手にもE手袋をはめると、高圧電気を使った際暴発の恐れがあるし、ガンの操作がしにくい。左手でインスタント護符を十枚ほど掴み出す。
果たして怪猫だろうか。
一陣の熱い風が吹き抜けるうちに、おれは|呼吸《いき》を停め、気配さえ殺して建物づたいに走った。百メートル近い距離を十秒とかけずに突破し、幽霊屋敷の横手の壁にへばりつく。さすがに心臓が不平を洩らしている。大きく息を吸い込んできっかり一秒、肺の内部に留め、渾身の力を込めて吐く。音はたてない。ヨガの呼吸法だ。一発で心臓は正常に戻った。
ショック・ガンはダブル・アクションで、初弾は常に|薬室《チェンバー》へ送り込んであるから、後は引き金を引けばヘビー級のKOパンチが飛ぶ。しかし、通じるかね?
「気」の位置は建物の入り口奥だった。板で塞がれ、一番下の横板だけが地面に転がっている。ずさんな釘打ちと風の仕業だろう。
いきなり「気」が動いた。
近づいてくる!
逃げるか、やり合うか。意志より本能が後者を選んだ。横手から跳び出しざま、左手に護符をかざし、ショック・ガンを入り口に向ける。
「あれ?」
思わず膝から力が抜けかかった。
一頭の黒犬がノソノソと入り口から現れ、じろりとおれの方をにらむや、遊園地の奥へと歩き出したのである。体長は一メートル強、みるからに老いさらばえてるが、足取りはしっかりしたものだ。どこかの隙間からまぎれ込んだ野良犬にちがいない。
「なんてこった。犬の『気』まで判別できなくなるとは……」
茫然たるつぶやきがひとりでに洩れた。武器を収め、犬の後につづく。方向が同じだけで、腹いせに獲って食おうというわけじゃない。
ジェット・コースターの線路下をくぐり、スピニング・カップの台脇を通ると、すぐ左手前方に、細い通路が見えた。「子供カー・レース場」と矢印がついている。
申し合わせたように、黒犬はそこを曲がった。二秒ほど遅れておれも後へつづく。左右は鉄柵に蔦と葉を隙間なく絡ませた垣根だ。高さは二メートルもある。垣根の後ろには何もない。
足元の血溜まりに黒犬が横たわっていた。
反射的に跳び下がり、おれは垣根の陰でショック・ガンを構えた。全身に猛スピードでアドレナリンが回っていく。左手はパウチから護符を取り出していた。
白い陽炎が死骸の向こうで揺れている。それだけだ。
そいつは何の気配も感じさせず、老いたりとはいえ一メートル近い大犬を二秒間で屠り、姿を消したのだ。
犬の横腹はぱっくりえぐられ、肋骨のカーブの内側に赤黒い内臓が蠢いていた。
姿も見えず、「気」もつかめないんじゃ攻撃のしようがない。
持久戦か。
粘っこい風だけが通路を抜けた。
沈黙に満ちた遊園地。場違いなだけに不気味な世界だった。
十秒待って、おれは通路へ足を踏み入れた。他の道を選んでも同じ目に遭うだけだろう。|決着《けり》は早くつけた方がいい。鼠みたいになぶられるのは性に合わねえ。
猫に[#「猫に」に傍点]。
ゆっくりと、全身の力を抜いて通路を歩き出す。十メートルほど向こうが出口だ。天蓋も何もない平凡な道である。死が満ちているだけだ。
右か左か上か下か? 犬の傷は左脇腹だった。
右側で空気が――
身体をねじらず、両脚に力を込める。筋肉の動きのもどかしさよ。腰の位置で垣根の一部が盛り上がる。はじける蔦と葉。靴底が路面から浮いた。
垣根を突き破って黒い腕が伸びてきた。黒光りする剛毛、丸く膨らんだ指、牙を思わす爪。垣根が遠ざかる。腕が伸びてくる。奴[#「奴」に傍点]のが速い! ショック・ガンを。爪が脇腹へ達するのを見ながら、おれにはどうすることもできなかった。
セーターの裂ける感触。こら、深いぞ。そして、鈍い痛みが走り天地が逆転した。
頭から地べたへ激突する寸前かろうじて身をひねったものの、受け身までは手が回らなかった。身体は腰の打撃部分を中心に半回転していたのだ。右肩の骨が嫌な音をたてた。
だが、同時に、忌わしい片手を生んだ垣根のやや上部にも、重々しい打撃音をたてて拳大の穴が穿たれていた。攻繋を受ける寸前、空中で放ったショック・ガンが一矢を報いたのだ。人とも獣ともつかぬ悲鳴が熱気に拡散した。
二二口径の真鍮薬莢が地面の小石にぶつかる澄んだ音を聞きながら、おれはショック・ガンをふるって垣根に穴を開けつづけた。五発まできちんと数えられたのは、ヨガの瞬間自己催眠のおかげだ。二撃目は襲ってこなかった。
なお痛む脇腹を左手でカバーしたまま、おれは一気に通路を走り抜け、垣根の裏側へ銃口を向けた。
陽炎だけが嘲笑うように揺れていた。
手の突き出た穴の背後へ回ってみたが、血痕一滴残っちゃいない。
こういうのをSFというのだろうか、怪奇と呼べばいいものか。
念のためショック・ガンは離さず、脇腹の傷を点検する。セーターの腰部は鮮やかな傷痕を見せていた。爪にひっかかってのびた[#「のびた」に傍点]繊維などひと筋もない。えぐったのではなく、切り裂かれたのだ。
腰を見て悪寒が背筋を走った。
青黒く腫れ上がった肉の上にはっきりと五筋の線が描かれ、白い脂肪層とその下の筋肉が覗いている。あと二センチ深ければ内臓までちぎられていただろう。
安堵感で全身の緊張がゆるむのを抑えつつ、おれはそれでもにやりと笑った。
これだけは、奴にとって[#「奴にとって」に傍点]SFと怪奇の世界だったろう。獣の爪は超絶の切れ味とパワーでもって根元までおれの脇腹にめり込んだはずだ。いや、現にめり込んだ[#「めり込んだ」に傍点]のだ。
おれは無言で道を急いだ。
十分とかからず、遊園地のはずれに出た。
ここまでは手が回らなかったのか、丘を切り崩した未整地は、赤土の断面を露出して、小さな荒野を形づくっていた。
おれは一段高い土山にのぼり、数歩歩いて停まった。
秋葉との話の後で見せてもらったランドの見取り図が確かなら、ここが目的地――第一の犠牲者・仁科監督の襲われた場所だ。
怨霊や怪猫が暴れ出した時期と建設工事の着工が妙に一致することから考えて、おれは、そもそもの原因が工事にあると考えた。有名なツタンカーメンの呪いにも出てくる王の間の壁に刻まれた文句――「王の眠りを妨げるものは死の翼に触れるべし」――そして、二○人以上の人間が死亡した。
恐らくは、この土地の何処かに紅舟の老婆と愛猫きよの霊が眠る地下室があり、そのままにしておけば平穏無事に済んだものを、別の亡者どもが揺り起こしてしまったのだ。金の亡者どもが。
地下室の入り口が、仁科監督殺害の現場と判断したのは、トレジャー・ハンターとしての勘もあるが、この一画が最初に杭を打ち込まれた場所だからだ。確証はないが、もとの代官所の所在が不明な以上、可能性の多いところからあたっていくのがいちばんだろう。
地下室さえ見つかれば必然的に中には死骸があり、それを供養すりゃさ迷う霊魂も成仏するというわけだ。とりあえず、今日は場所だけでも見つかればいい。
おれは、パウチからシガレット・ケースを取り出して足元に置き、ショック・ガンを握ったままの右手で、デジタル時計の竜頭を引いた。陽光に極細の電子コードがきらめく。竜頭に見せかけた接続端子をケースの端子孔につなぐと、かすかな金属音とともに腕時計の文字盤が変化し、ミニ・コンピュータのディスプレイが誕生した。シガレット・ケースの機能も自動的に|金属探知器《メタル・サーチャー》に切り換わっている。
ケースを左手に持ち、炎の噴射孔を地面に向けてゆっくりと|走査《スキャン》する。噴射孔下の磁気センサーが地中の金属反応を捉え、その大きさ及び位置と深さをディスプレイに表示する仕組みだ。
旧代官屋敷にそんなものがあったか?
あるとも。地下室の扉だ。
秋葉の話をききながら、畜生、溶解液を持ってくればよかったと、おれは臍を噛んだものだ。
とにかく、所在地だ。
ひとあたり走査してみたが、ディスプレイに反応はなかった。ショック・ガンを手にゆっくり歩き出す。
十分ほど歩いたが徒労に終わった。
センサーの感度は地中三○メートルの虫ピンも探り出す。扉に使われるくらいの鉄板なら二、三〇〇メートル奥でも探りあてるだろう。それが駄目となると、もっと深くか場所自体が違うかだ。
おれは首をかしげ、頭を絞った。
怪猫が最初からここにいたのか、おれの後をつけてきたのかどうかはわからない。どちらにしても、あの婆さんの怨霊と話はついてるだろうから、おれを狙うのは筋が通ってる。
棲家ならありがたいんだけどな。
もう一度出て来てくれないものか、とおれは物騒なことを考えた。
別のもの[#「もの」に傍点]が出て来た。
遊園地の方角で幾つもの「気」が入り乱れ、まもなく、柄の悪い足音と罵声がアロハシャツとサングラスを身にまとって通路から溢れ出した。
男たちは五人いた。
まっとうな人間ではない、と断るのも阿呆らしいほど臭い[#「臭い」に傍点]格好を見て、おれはため息をつきたくなった。
派手なアロハに黒眼鏡にさらし[#「さらし」に傍点]――田舎やくざ丸出しだ。ひとりだけ木刀をもち、あとは素手である。東京から来たでかい学生ごとき、威圧感と拳でひとひねりという腹だ。全員、おれの肩ぐらいまでしかないが、なんといっても暴力のプロですからね。
わざとらしく砂を蹴散らし、たっぷり時間をかけておれの前後に回った。凶暴な視線が全身にあたっては跳ね[#「跳ね」に傍点]返る。
「な、なんですか? あなた方は?」
おれはわざと脅え切った顔つきと声を示した。ショック・ガンもシガレット・ケースもすべて元の位置に戻してある。暴力への渇望が熱いうねりと化して下腹部を荒れ狂う。ま、あわてるなって。
「あんたかい、東京から来たボディ・ガードっつうのは?」
ちんけな麦わら帽をかぶった|兄《あん》ちゃんがガムを噛みながら訊いた。
「え、ええ」
「そうかい。こんなとこで何してんのか知らねえが、この辺はおっかねえお化けの出る場所でな。東京の坊やが来たってどうなるもんでもねえんだ。な、さっさとお家へ帰んなよ」
「そそそれはどういうことでしょうか。第一、ボクがボディ・ガードなんて誰が言ったんです?」
「やっかましい!」
凄まじい怒声に、おれはきゃっと叫んで後退した。男たちは動かない。柄がでかいだけの哀れな小羊と踏んで、薄笑いを口元にこびりつかせているだけだ。田吾作どもが。シティ・ボーイを舐めるんじゃないよ。
「帰れと言ったら、素直にはいと言やあいいんだ」兄貴分が凄んだ。「余計なごたく抜かしやがると、手足の一本もへし折っちまうぞ」
「やだなあ」
おれは両手を右頬の脇でこすり合わせながら、わざとらしく震えてみせた。そろそろタイム・リミットだ。こんな低脳ども騙くらかして話を引き出すのは簡単だが、いかんせん、ごろつきに対する信念がそれを許さない。おれはにやりと笑って言った。
「ボクの手が折れるなんて決まってないでしょうが」
「なにい」と叫んでやー公どもが殴りかかってきた。
おれは手だしをしなかった。金的と眼だけをカバーし、奴らが全精力をつぎ込むのを待つ。半人前でもプロだけあって、殴り方は堂に入っていた。腰ものってるし、パンチや蹴りの切れもいい。ほぼ正確に急所を捉えている。だが、手応えは――サンドバッグを殴ってるようなものだったろう。ガツンガツンと音だけはいいが、赤ん坊の振る手があたる程度の効果しかなかった。木刀なんざ、丸めたボール紙と同じだ。
三分ほど好きなようにさせ、息が切れるのを見計らってにんまり笑う。男たちは青ざめた。頭はパーでも恐怖心は持ち合わせている。自分たちが絶対と信じる暴力のきかない相手と遭遇したことに気づいたのだ。
「それじゃ、交代だな」
と、おれは愛くるしい微笑を浮かべて宣言した。
「な、な――」
なにィと言い切る時間はなかった。
兄貴分の腹のあたりで鈍い音がしたと思った刹那、身体は前折り二つに曲がり、どっと生々しい色彩の吐瀉物が砂地を染めた。おれは、無目的に脅えたふりをして跳び下がったわけではない。蹴るのにちょうど手頃な石を見つけておいたのだ。
あまりのスピードに事態が理解できず立ちすくんでいたチンピラがもうひとり、顔面をもろ粉砕されて吹っ飛ぶ。見つけた石はひとつじゃなかった。
背後で空気が乱れた。
ぐっと全身を前へのめらせ、見当で右足をとばす。命中。この手応えは胃だな。ぐえと喉の内側にこもった悲鳴が遠ざかり、倒れる音。
残ったふたりはシラけた顔を見合わせていた。あまりに予想外の事態が神速で展開したため、理解が追いつかないのだ。おれは無言で距離をつめた。
やっと木刀男が我に返った。
野郎めと叫んで得物を振り上げたとき、おれはすでに奴の顔前五センチのところで天使の微笑みを浮かべていた。仕上げは左の人さし指で、胡座をかいたししっ鼻をはじけばよかった。三千ボルトの稲妻に身体の中身をかき回され万歳の格好でひっくり返る。木刀を離さないのは立派だが、立派だからって何にもならない好例だ。
横手へ眼をやると、残りのひとりは大あわてで丘を下っていくところだった。三流やくざの根性はこんなものだろう。
おれは戦闘意欲を減退させないよう心がけながら、腹を押さえて唸っている兄貴分に近づき、髪の毛を掴んで上向かせた。
ぐぐぐと声にならない悲鳴を洩らす。
「ほう、血が出てるぜ。内臓が破裂したかな」
おれはハードボイルドな声で嘘をついた。
「医者へ連れてって欲しけりゃ全部しゃべりな。おれを用心棒だと教えたのは誰だ? 宮本の詐欺親父か、女房の奈緒美か?」
男は首を振り、咳込んだ。
「じゃ、誰だ? ほう、血が濃くなってきたぜ。こりゃ長くはもたねえな」
すがりつく手を邪慳に振り払い、おれはもう一度、しゃべりな、と繰り返した。
男の汚れた唇が動く。
驚愕が全身を貫いた。意識もせぬまま声が低くなる。
「このど田舎やー公、ふざけた嘘をつくと……」
だが、おれの眼付きに脅えた男の再度洩らした名前も同じものだった。嘘ではあるまい。
しかし……
やくざは「秋葉って娘」と言ったのだ。
ひととき茫然と宙をにらみ、おれは男の背中に指をあてた。活を入れるつぼを探り、親指をえぐり込む。
ほっ、と男は息を吐いた。しかし、おれに再挑戦する意志は|破片《かけら》もなく、脅え切った表情で後じさりするばかりだ。おれは左手で髪の毛を掴み、激しく揺さぶった。紫色の火花が飛んで、脂肪の燃える嫌な匂いがした。
「いつ、どうやって連絡を受けた? 正直にいわないと……」
「わ、わかった……しゃべる。しゃべるから……」
おれは紫煙たなびく手を停めた。男の言葉をくんだわけじゃない。
さっき、三下やくざが逃げていった方角から、凄まじい絶叫が響き渡ったのだ。
しかも、ゆきの声だった。
「えい、くそ」
言い捨てざま、おれは疾走に移った。恐怖のあまり金縛りにかからんよう催眠状態に陥りながら、ショック・ガンと護符を抜き取る。
悲鳴は通路の奥でした。垣根の外側に怪しい影はない。
なんであんな色気狂いのためにあわてなきゃならんのか、疑問が脳裡をかすめた瞬間、おれは通路に飛び込んだ。
ゆきは通路のほぼ中央で四つん這いになっていた。
ひとりじゃなかった。三人――正確に言えば二人と一体だ。ひとりはこれまた四つん這いで垣根にすがっており、残り一体はゆきの背に覆いかぶさっていた。
あわわわわとゆきが這って逃げようとするたびに、敵前逃亡した三下の死体は揺れ、引き裂かれた喉から溢れる血潮が、ゆきの肩から首筋、胸をしたたり、地面に吸いこまれた。
ゆきは顔面蒼白、発狂寸前の眼付きで出口をめざしている。おれのいることにも気がつかないらしい。こりゃ滅多にない見世物だ。ぐっと下がったTシャツの胸元から九二センチのバストが覗き、ひと這い[#「ひと這い」に傍点]ごとにぶるんと揺れる。垂れ下がってないのはさすがだ。艶びかる肉の表面をちょろちょろと赤い筋が走っていくのは、なんともエロチックな眺めで、おれは危うく周囲への警戒を怠るところだった。
も少し見てようかなと思ったがそうもいかず、まわりに気を配りながら近づき、死骸を引き離す。
途端にゆきは変貌した。
ぱっと立ち上がり、開口一番――
「あんたね、あんなもの垣根の向こうから放り投げたのは! かよわい純金の心臓を停めるつもりなの!」
おれはあっけにとられた。今まで心臓麻痺寸前だったのが、おっかぶさってた死体がなくなった途端、鉄の女に早替わりだ。サッチャーだってこうはいくまい。
長年一緒に暮らしてるが、おかしな状況になるたび、新発見という名のパンチをがつんと食う。少々やかましいが、全く飽きない女だ。
「阿呆、いくらおれが冗談好きだからって、血みどろ死体を投げつけるほど趣味は悪くねえ。それより、どうしてあいつがここにいるんだ」
剥き出しの太腿までホット・パンツと同じ真紅に染まったSM的色気に押されながら、おれは、じろりと垣根のそばで怖気づいてる男に眼をくれた。宮本茂弥だった。
「あら、宮本のおじさま、大丈夫ゥ?」
甘ったるい声を鼻から抜かせてゆきはウインクし、おれの方を向き直って言った。
「庭師の松本くんと佐賀の市内見物してたら、松本君が、こんなところで何さぼってるって声かけられたのよ。あの家の叔父さんだって言うじゃない。最初は嫌な目付きであたしのこと見てるから、なにさって思ったけど、すぐ仲良くなっちゃったわ」
「なるほどな。色仕掛けで全部訊き出したってわけか。宮城家の伝説もな」
にこにこうなずくゆきを見て、おれは内心舌を巻いた。
こいつもまた、宮本の話から、怨霊と怪猫の墓所を嗅ぎつけたのだ。やってきた目的はおれと異なり、物見遊山か、死骸の断片でも見つけて売り飛ばそうってとこだろうが、眼のつけどころはさすが太宰先蔵の孫だ、おれは口元がほころびるのを感じた。
「今度は脅かされただけで済んだが、次からは生命を狙われるぞ。この死体を見てもわかる通り、怪猫、怨霊とも宮城家の一族だろうとそうでなかろうと見境なしだ。これからはひとりでのこのこ出歩くんじゃない」
「いいわよ」とゆきは澄まし顔でそっぽを向いた。「あたし、あちらの叔父さまと行くもん。やだ、ごめんなさい――大丈夫?」
ゆきはあわてたように駆け寄り、宮本を立たせた。
もちろん、心配ぶりっ子してるだけで、真の気遣いなど皆無である。おれが宝の地図を持った未亡人の面倒を看るのと同じで、肝心のものを手に入れたら、ハイそれまでよだ。
宮本はゆきの肩を借りて身を支えると、右手でおれを指さした。
「貴様か、こんな悪ふざけをしたのは? ひ、人まで殺しやがって……見てろ、警察に訴えてぐうの音もでないようにしてやる……」
腰を抜かした男とは思えないくらいしっかりした脅し文句だった。
単なる大学生と紹介されたおれにこんな疑いをかけるとは、ゆきの野郎、目一杯ばらしやがったな。
おまけに、二人の背後からぬっと湧き出したごつい人影が、野太い声でこう宣言したのである。
「その訴え、確かにききましたぞ。八頭くん、君をこのチンピラ殺人容疑で逮捕する」
「よせやい」とおれは朝丘刑事にむかって唇を尖らせた。「こいつは今、おれを襲って返り討ちにあい、あわてて逃げる途中、逆に襲撃されたんだ。あっちの丘でのびてるヤー公どもが証人さ。へんな疑いかけられちゃ迷惑だな」
「信用しちゃ駄目よ、こいつの言うこと」と罰当たり娘が口を出した。「口先で人を騙すことにかけちゃ天才的なんだから。あたしも引っかかって|処女《ヴァージン》奪われちゃったのよ」
「ほお」と刑事は大木みたいな腕を組んでおれをねめつけた。状況大いに不利。
「わかったよ。じゃあ、一緒に来てくれ。あいつらの話をきけば納得するだろ」
おれは朝丘刑事を従えて丘の方へ歩き出した。ゆきと宮本もあわてて尾いてくる。詐欺師が精一杯の善人声で、
「刑事さん、たぶらかされちゃ駄目ですよ。こいつは東京から来た盗っ人なんです。つかさ君の友人だなんて言っとるが、このお嬢さんから聞いたところによると、先祖代々の墓泥棒で、警察にも顔が利くらしい。まさかとは思うが、上からの圧力なんかに負けて、まっとうな市民の権利を守れんようでは困りますぞ」
「もちろんですとも」刑事は岩の塊みたいな拳固でごん[#「ごん」に傍点]、と胸を叩いた。「不肖、朝丘岩夫、刑事一筋三〇年。営々と築き上げた経歴に傷をつける気など毛頭ありません。大船に乗った気でいて下さい」
こん畜生め、とおれはひとりごちた。ひょっとしたら、こいつらみんなグルじゃないのか。佐賀県警への寄附の額を増やさにゃならんかな。
嗅ぎ馴れた臭いが鼻孔を刺激し、おれは全身が緊張するのを覚えた。
まさか、おれたちがあそこで問答してる隙に……。
「こら、どこさ行く!?」
朝丘刑事の怒声を背に、おれは一気に砂地を駆け上がった。
想像した通りの光景が拡がっていた。
背後で、追いついた朝丘刑事が立ち止まる気配があった。
「……こら、凄い」
適確なひと言が表現したごとく、血臭渦まく砂地に、四人のやくざたちは全員喉笛を噛み切られ、何を目撃したものか、恐怖の相を顔面にえぐり込んだまま悶死していたのである。
宮城の屋敷へ戻ってから、おれは食堂の大テーブルをはさんで朝丘刑事の尋問を受けた。
上司へ連絡をとろうにも、んなもん後でわしがするの一点張りで、じゃあ署へ連れてけと言うと、途中、逃亡の恐れがあると言い返す。このぉ、と立ち上がりかけるや、さっと内ポケットに片手を突っ込み、
「わしの拳銃は素早いぞ」
とくる。ふざけた野郎には違いないが、眼の底の光に不思議な威圧感があり、なんとなく本当にぶっ放しかねないような気分になって、おれは素直に豪華なアーム・チェアに腰を下ろし、容疑者の立場を味わう羽目になった。ショック・ガンもパウチもすべて没収されてるから、武器には武器で対抗するわけにはいかない。
隣のソファにゃ、ゆきと宮本がふんぞり返ってやがる。みっともないったらありゃしねえ。窓と窓の間に置かれた石膏胸像も薄笑いを浮かべているようだ。
「んでは、もういっかいはじめっからやり直しだ」
屋敷に着いてから今までの状況をひと通り話し終えると、朝丘刑事は鼻毛を抜きながら退屈そうに言った。
「いい加減にしろ、これで三回めだぞ!」
我慢しきれなくなって、おれは声も荒々しくテーブルをぶっ叩いた。
クリスタルの重量感溢れる灰皿がガタンと悲鳴をあげたほどだが、朝丘は眉毛ひと筋動かさず、衝撃に便乗して抜き取った鼻毛をふっと吹き散らした。
「何回でも、気の済むまでやる。どう考えても殺人鬼はあんたしかいねえ。そのうちへばってボロ出すに決まってるわ。のう、宮本さん」
「そうとも!」と詐欺男は喜色満面で膝を叩いた。「いやあ、僕の意図を、いや、善良な市民の意図を実によく体現して下さる。こんな犯罪に厳しい刑事さんをもって、佐賀市民として鼻が高いですよ。こういう東京の盗っ人は、佐賀の警察なんぞボンクラ揃いだと舐めとるに決まっとるです。ほれ、もっとじゃかすか[#「じゃかすか」に傍点]しごいたって下さい」
まかせて下さいと大仰にうなずく朝丘と宮本を交互ににらみつけながら、おれは復讐への意欲に胸をたぎらせていた。
こいつら絶対グルだ。はした金で買収されるような|刑事《でか》を大した男だと思うなんて、おれの眼も狂ったもんだが、正体を掴んだ以上、反撃に容赦はしねえ。アメリカ法務省に話をつけて、シンシン刑務所へぶち込んでくれる。
「ほんじゃあ」と朝丘刑事がおれを促したとき、ノックの音がした。
「どんぞ」
入ってきたのは秋葉だった。薄紫の外出着を着てるところからして、死体安置所から帰ったばかりだろう。
「いま、はなさん[#「はなさん」に傍点]からききましたけれど、八頭さんが何か大変な容疑を受けられたとか」
花の香るような声に、おれはやっとひと息ついた。首筋にぴりっと痛みが走る。ゆきの嫉妬の視線が貫いたのだ。
「そうなんです」と朝丘刑事がうなずき、節くれ立った手をぱっと拡げた。「五人も殺しましてな」
「まあ!」
秋葉の驚愕に満ちた視線に耐えきれず、おれはついに椅子を蹴って立ち上がった。
「おっ、くるか!?」と朝丘刑事は右手を内懐へ突っ込み「わしのペストルは……」
「やかましい、このど田舎刑事」とおれは喚き散らした。「さっきも言っただろう。おれが奴らを殺したかどうか、傷口を調べりゃわかるこった。おまえも見たろ。え? あんな鋭い傷、どうやってこさえたっていうんだ。そのおもちゃのピストルでか?」
「日本刀でばっさりやってから、どっかへ隠したんだろ」朝丘はにべもなく答えた。「あの辺一帯はいま捜査中だし、死体も解剖に回した。じき、おめえも死刑台だぞ」
パチパチとゆきが手を叩く音をききながら、おれは負けてたまるかと、さらに声を張り上げた。
「どこまで常識がねえんだ、貴様は。大の男五人だぞ。それが無抵抗で日本刀の前に素直に喉を差し出したってのか? いいか、やつらは全員、ひと噛みで喉を食い破られてたんだ。どこのどいつにそんな芸当ができる? おれが返り血の一滴も浴びてたか?」
「オモチャで脅して縄で縛った。それからバッサリ。縄も日本刀と一緒に出てくるだろ。やっぱり死刑だ」
くう、と呻いたとき、秋葉が助け舟を出してくれた。
「お言葉ですが、朝丘さん、わたくし、八頭さんがそんな真似のできる方とはとても思えません。つかさも東京で随分とお世話になったそうですし、今回こちらへ来て下さったのも……」
「墓荒らしでしょ」ゆきがすぱっと切り込んだ。「その辺の事情はみーんな、あたしがお話ししてあるわ。ちょっぴり遅かったわね」
秋葉はあっけにとられたような表情でゆきを見つめ、
「あなた……八頭さんのお友達じゃあ……」
「いいや」といちばんケタクソ悪い声が言った。「彼に犯されて、無理矢理同棲させられてる犠牲者だそうだ。毎日毎晩、口にはできないような酷い目に遭わされ、今では完全な男性恐怖症だよ。いつか彼を法の手に引き渡そうとチャンスを狙っていたらしい」
秋葉の瞳がみるみる哀しみと嫌悪で曇るのを見て、おれは声もでなくなった。何故だかはわからない。
「そうよ、その通りよ」とゆきが嫌味たっぷりの声ででたらめの補強作業にとりかかった。「縄で縛ったり、裸にして蝋燭垂らしたり、そりゃもうひどいんだから。こいつはね、生まれついてのサディストなの。そうやって、あたしがのたうち回るのたっぷり楽しんでから犯すのよ。いつも後ろっから、ひと晩に最低二回も。よくご覧なさい、好きそうな顔をしてるでしょ」
「それは……そういわれてみますと……」
秋葉のつぶやきに、おれは再起不能の状態に陥りそうな気がした。
そのとき、ゆきが素っ頓狂な声をあげた。いぶかしげな眼付きで秋葉の背後[#「背後」に傍点]を見やり、
「あら、お婆さん、いつ入ってきたの?」
秋葉を含めて計八個の瞳がゆきの後を追い、すぐにゆきに戻った。
「なによ?」とゆきは怪訝そうな表情で秋葉を指さした。「そこに、お婆さんが……」
「どうかしたかね、お嬢さん?」と朝丘刑事が眉を寄せて言った。「わしらの他にゃ誰もいねえが」
ゆきの顔が凍りついた。もうひとり、震え上がった奴がいる。おれだ。
「いるわよ、そこに。ぼろ[#「ぼろ」に傍点]着たお婆さんが突っ立って、秋葉さん見てるじゃない! や、やだ、すごい怖い顔して……誰よ、あんた、誰なの!?」
ひきつるような声音から嘘ではないと気づいたのか、朝丘刑事が立ち上がり、丸テーブルに沿って秋葉の方へ歩き出した。
「気でも狂ったかね? ほら、この通り誰も……」
ひょいとたくましい手を突き出す。
異様な恐怖がおれの脳天を貫いた。
「やめろ、そいつは怨霊だ!」
立ち上がりざまの叫びにゆきの悲鳴が重なり、朝丘刑事は大きくのけぞった。両手を前方に突き出し、眼には見えないものを押しのけようとする。
二秒ともたず、床に横転した。
「何を見た!? どうなった!?」
机に置かれたパウチに駆け寄り、インスタント護符を掴み出しながら、おれは立ちすくむゆきに尋ねた。
「け、刑事さんが手え出したら、お婆さんがいきなりそれを掴んで、すうっと近づいて、か、重なっちゃったわよ」
くそ、やられたか。警戒を怠ってたわけじゃないが、化け猫の方に気をとられすぎてた。まさか、こんなところに出てくるとは……。
「みな外へ出ろ。この刑事さんは取っ憑かれた。除霊しなきゃならん」
ぴしゃりと言い渡し、おれは大急ぎで朝丘刑事のかたわらにひざまずいた。
日本流の除霊にゃ詳しくないが、|悪魔祓い《エクソシズム》なら一度だけ経験がありだ。
チューリッヒの富豪にヴェーゼルブって悪魔がくっ憑いちまい、カソリック教会から派遣された神父が二人とも身体中の骨を折られて死んじまったもので、富豪の隠し子ってことで付き添ってたおれが急拠、見よう見真似で代役を果たす羽目に陥った。天井と床から飛んでくるナイフやハンマーのために、全治三週間の傷を負ったが、おかげで悪魔を追っ払い、正気に戻った富豪から、紀元前四世紀の金鉱の地図を入手できた。
今度もうまくいくといいが。
おれはインスタント護符を額に貼りつけようと、うつぶせで痙攣中の朝丘刑事の肩に手をかけた。
刑事は自分から振り向いた。
あの老婆の顔で。
背後でかん高い悲鳴が上がる。ゆきと秋葉だ。彼女にも見えたのだ。
構わず貼りつけようとのばした右手首を、枯れ木のような指が押さえた。万力で締めつけるみたいな怪力に、腕全体が麻痺し、護符が離れる。
次の瞬間、おれは手首から先に空中を吹っ飛び、宮本から五センチと離れていない壁に叩きつけられていた。
とっさに左手をのばしてクッション代わりにしたものの、腱に鋭い痛みが走り、つづいて左横面が壁と猛烈な抱擁を交わした。顔は老婆でも、力は朝丘刑事プラス怨霊のものだ。後頭部までじん! と痺れる。
不様に床へ這いつくばりながら、おれはまだもたついてる三人へ「逃げろ!」と叫んだ。
「駄目なのよ! 開かない!」
ノブをガチャガチャやる音とゆきの声が一緒に降ってきた。
左手と頬の痛みをこらえて立ち上がるおれの眼に、ゆっくりと近づいてくる朝丘刑事の巨体が映じた。巨体だけが。その顔は老婆にも刑事にも見えた。怨めしげな声が言った。
「出して……出しておくれ……」と。
刑事の視線が束の間、おれから戸口の三人へ移動した瞬間、おれは一気にテーブルの上へジャンプした。全身を思いきりのばし、ショック・ガンを掴もうとする。
指先が触れたと思った刹那、ぐわっと大地が盛り上がり、おれは宙を舞っていた。ほとんど反射的に床へ右手をつき、鮮やかな回転運動で、頭上に迫る黒い影から遠ざかる。
零コンマ一秒遅れて、おれの落下地点へ大テーブルが激突した。朝丘刑事が指先を端にひっかけ横転させたのだが、おれは驚きもしなかった。チューリッヒの大富豪は、四方の窓にはめてあった直径三センチの鉄棒をすべて引っこ抜き、先を鉤状に曲げて鉄のロープをこしらえ、逃げようとした。このとき、取り押さえようと突進した三人の警官は全員、鉄棒のひと薙ぎで首をもぎ取られちまったが、富豪の身長は一六〇センチ、体重は六○キロしかなかったのだ。
まず邪魔者を先に、とでも思ったのか、刑事は重々しい足取りでおれの方へ近づいてきた。
床におちたショック・ガンとE手袋へ飛びつく余裕はない。素早くクラウチング・スタイルをとりながら、おれは不吉が頭の上に留まるのを感じた。肉体は朝丘刑事のものだが、動かしてるのはあの妖婆だ。いくら肉体にダメージを与えても、憑きものを取らない限り攻撃はとまらない。
――すると、殺すしかねえかな。
おれは恐怖におののく脳細胞の隅でふと考えた。万が一、重傷でも負わせた後で正気に戻ったら、あの刑事のことだ、一生おれを尾け回しかねない、生ける怨霊だ。
二本の巨腕が首筋めがけて迫り、呑気な考えを打ち砕こうとしたとき、激しくドアが乱打された。
「姉さん、|内部《なか》にいるの!?」
「どうしたんだ!? 開けろ!」
つかさと、祖母のみや[#「みや」に傍点]を護衛してた警官たちだろう。
またもや刑事の顔がそちらを向き、間一髪、おれはラスト・ダッシュをかけた。武器ではなく、反対側――さっき取り落としたインスタント護符の方へ。
刑事の足元を抜け、一枚をつかみざま立ち上がる。刑事が振り返った。老婆の顔で。
おれはそのど真ん中へ護符と右手のひらを叩きつけた。
ぴしっと空気が鳴り、メモの切れ端を鼻面に貼りつけたまま刑事はよろめいた。
「姉さん!」
つかさの声が急に大きくなり、足音が入り乱れた。束の間、妖婆の呪いが破れたのだ。
「外へ出ろ!」
おれの叫びに、激しくドアの閉まる音が重なった。
真っ白けのメモがひらひらと床へ落ちた。
この世のものとは思えぬ苦痛の絶叫が、おれの注意を奪った。
ドアと壁の間に制服姿の警官がひとり、腰をはさまれてのたうち回っている。侵入してきたとき、妖婆の魔力復活で再び閉じたドアの犠牲になったのだ。みるみる顔面が土気色になり、眼球が半転して白眼を剥き出す。
いかん! と思ったときは遅かった。
残った二人の警官がゆきと秋葉の前に立ち塞がったのは超ファイン・プレイといえた。
嫌らしい音をたてて、サンドイッチにされた警官の腰は両断されてしまったのである。壁と床に血の華が咲いた。
「だ、誰だ、おまえは!?」
背の高い方が朝丘刑事に向かって叫んだ。幸い、老婆に見えるらしい。
「出して……おくれ……」
老婆の顔をした巨漢が近づいてくるのを見て、警官たちは腰の拳銃を抜いた。あまりの異常事態に意識が慣れてないためか、保持した両手に震えはない。
「よせ、撃つな。それは朝丘刑事だ!」
おれは大声で叫び、拾い上げた護符の束を丸めて警官たちに放った。
「それをのばして婆あに貼っつけろ! 気をつけてやれ。つかまったら最期だぞ!」
だが、強盗やパンティ泥ならともかく、先輩刑事の身体に老婆の首をのっけた相手ははじめての警官たちに、命令が理解できるはずもなかった。
迫りくる理不尽な恐怖が、ニュー・ナンブ回転式五連発の引き金を引かせた。
小気味よい撃発音がおれの鼓膜を猛打し、刑事の左肩の肉をはじき飛ばした。
「近づくな!」
泣きそうな声で叫ぶ警官の眼の前で、老婆はおかしな格好に口を歪めた。
おれが飛びかかるより早く、びゅっと何かが空を切り、警官の顔に吸い込まれた。
おれは歯だと思う。
どんな力がそれほどの呼気を生んだか知らないが、結果からみて、速度は秒速千メートルを超えていたんじゃあるまいか。
四メートルほど先にいた発砲警官の顔は、マグナム弾を撃ち込まれた西瓜みたいにはじけ飛んだ。
血と脳漿の洗礼を浴びてもうひとりの警官と宮本が失神するのを眼の隅で捉えながら、おれは老婆の首筋と背中に護符を叩きつけた。
ぐらりとよろめいた。やはり直接攻撃は効くのだ。左手首が激しく痛んだが、構っちゃいられなかった。
たちまち白紙に戻る。
不意に刑事の両手が猛烈なスピードで下からせり上がり、おれの腰を捉えた。なんの斟酌もなしで、ごつい指が十本、坊ちゃん育ちの脇腹にめり込む。苦痛が呻きと化して口から洩れた。肉がちぎれる!
だが、化け物じみた圧搾感は不意に消えた。
おれを解放した手を顔へ振り上げ、朝丘刑事は顔面に貼られた護符を剥がしにかかった。
なんと、つかさ坊っちゃまが猛烈な勢いで跳び出し、警官に渡した護符に役目を遂行させたのだ。本事件のハイライト――凡百の推理小説に勝るどんでん返しに、おれは我を忘れるほど驚いた。刑事の右手が風を切る音。鈍い音がして首が四散した。
つかさの背後にあった石膏の胸像が、ほんとの胸像と化して台ごとぶっ倒れる。つかさが鮮やかな回転で猛打をかわしたと知り、おれは舌を巻いた。
「おのれ……おのれえ」
刑事の顔した妖婆の声が部屋中に轟いた。
形勢逆転の兆しだ。
全身に力がみなぎるのを意識しながら、おれは護符片手に突進した。
ふわりと目標が上へ流れた。
九〇キロ近い身体が猫みたいに丸まって跳んだ。両手を胸前で構え、おれの頭上へ襲いかかる――やばい!
一瞬の絶望が驚愕と歓喜に変わった。
刑事の頭上にもうひとつ、影が躍ったのだ。より早くより高く。渾身の力を込めて降りおろすつかさの護符を後頭部に受けて、朝丘刑事は大きく体勢を崩し、もんどり打っておれの頭上へ落下してきた。
「いてて……早く|除《の》けてくれ」
虚ろな中年男の顔を必死で脇へ押しながら、おれは救けを求めた。
「もう少し、待ってよ」
つかさが護符を両手に握りしめたまま用心深く言った。声に重みが加わり、顔つきも別人のようだ。
「もう大丈夫、|去《い》っちまったよ。もう、この|刑事《でか》さんは自分に戻ってる。胸部圧迫で窒息する前にどけてくれ」
「いや」とつかさは首を振った。「まだ信用できない。五分は待たんと」
忌々しいことに、つかさの言い分が通った。幸い三分ちょっとで朝丘刑事が眼を覚ましてくれた。覚ました途端に、おれの上で肩押さえて跳ね回り、おれは失神しかかった。
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第五章 長く熱い夜
その夜、女中のひとりが訪れ、秋葉がおれに逢いたがっていると告げた。
ショック・ガンとパウチを身につけて立ち上がる。少し気が重いのは、食堂の騒ぎで床に落ちたE手袋が故障しちまったせいだ。直せないことはないが、時間がかかる。
長い廊下はひっそりと静まり返り、おれと女中の影だけが天井の照明が落とすほの白い光の中を無言で移動した。
窓や床に所構わず貼りつけたインスタント護符が目につくたび、おれはため息をついて右手首を揉んだ。昼間の事件が起きてから、千枚の護符をつくるのに四時間と右手の痺れを要求されたのだ。それを家のもの全員が手分けして貼るのについさっきまでかかった。
窓に映る横顔のみっともなさに、おれはよほど途中で引き返そうかと思った。朝丘の取っ憑かれ刑事に壁へ叩きつけられた左頬は、おたふく風邪みたいにぷっくり腫れ上がり、珠のような皮膚の表面に青黒い血の塊が浮いている。むやみやたらと熱っぽいのは我慢するとして、左手首がずきずきするのは困りものだ。
秋葉の部屋の前には椅子が置かれ、私服の刑事が文庫本かなにかを読んでいた。
うさん臭さそうな眼でおれをねめつけ、どなた? と訊く。八頭さまですと女中が答えた途端、もの凄い勢いで椅子をはねのけ、直立不動の姿勢をとった。
「失礼しました。自分は佐賀県警の君島と申します。以後、お見知りおきを」
「こちらこそ、よろしくね」
おれは軽く頭を下げて、ろくに眼線も合わせずドアをくぐった。何故か、朝丘刑事の小憎らしい表情が懐かしく想い出された。
秋葉は青畳の上に敷いた布団に正座しておれを迎えた。品の良いモス・グリーンのパジャマを薄い掻い巻きで包んでいる。
透き通るような肌には血の気が戻ったものの、憔悴の翳は色濃くこびりついていた。あの食堂での大立ち回りが一件落着したとわかった刹那、失神したのも無理はない。眼の前で警官の頭が血の霧と化して四散するのを目撃しちまったのだ。
あんな光景慣れっこのおれはともかく、胃の中身をすべて吐き出した生き残りの警官こそ正常で、騒ぎの最中にはいちばんでかい悲鳴をあげていながら、三〇分もしないうちにお腹が空いたと、おかかえのコックがこしらえたどでかいハムエッグをパクついてたゆきなど、情緒欠乏の異常性格者だ。
気分のいいことに、宮本の野郎も警官と同じ反応を示し、しまいには吐くものがなくなって痙攣しながら胃液をゲエゲエやっていた。ひひひ、あれ苦しいのだよ。
秋葉が静かに黙礼し、おれはあわてて「こりゃ、どうも」と言った。
つかさや医者がさっきまで付きっきりだったため、空気はなんとなくざわついていたが、おれには秋葉のまわりだけ、時間や風物が凍結し、夢を見ているように思われるのだった。
おすわり下さいと秋葉の示した座布団に、は、はいと上ずった返事もろとも腰を下ろすなり、おれの口は考えてもいないことを語りはじめた。
「あ、あの、いいんですか、じょじょ女性の部屋に男が独りきりでお邪魔して」
案内の女中はおれを通すとすぐ引っ込んでしまったのだ。
「どうしてですの?」
不思議そうに訊かれて、おれは返答に窮した。男なら誰でもあなたと一度にゃんにゃんしてみたいからですよ、と答えるわけにもいくまい。
秋葉は答えを要求するでもなく、じっとおれの不細工な面を見つめていたが、不意に、布団の上に両手をつき、深々と頭を下げた。細い肩がかすかに震え、手の甲に光るものが落ちた。
「?」
「わたくしたちを助けるためにそんなお顔になられたことを、わたくし今の今まで存じませんでした。それどころか、誰よりもしっかりしていなければならないのに、こんな姿でお礼を申し上げねばなりません、どうぞ、お許し下さい。今日は本当にありがとうございました」
おお、とふんぞり返ったつもりが、おれは血相変えて手を振っていた。
「よして下さい。どうか、手をあげて。ぼぼ僕は仕事を果たしただけです」
言いながら、おれはもうひとりのおれが、頭のどこかで嘲笑しているのを聴いた。
「でも……」と秋葉はようやく顔をあげて、食い入るようにおれを見つめた。すがるような色を認めた気になり、おれは、しめた、と思った。こりゃ、うまいこと口説けばいけ[#「いけ」に傍点]そうだぞ。それも古式豊かに。
「八頭さんはどういう方なのでしょうか?」
風のような声が妄想を打ち破り、おれは眼を白黒させた。
「どどんなって、どんな?」
「あの事件のあと、きっと警察の方にいろいろ訊かれると覚悟しておりました。警備の方がひとり亡くなり、朝丘さんまでお怪我なすっては、何も知らないと申し上げてもとても通りますまい。朝丘さんが怨霊に憑かれたと言うのはたやすうございます。ですが、誰が信じてくれるでしょう。残った警官の方は、朝丘さんが手を下したところをご覧です。あの方はきっと殺人犯として逮捕され、宮城の家は報道関係の人たちに踏み込まれて、今晩にも呪われた屋敷として日本全国に知れ渡ってしまう――わたくし、そう思っておりました。
ですが、さきほど県警の本部長さんがこっそり教えて下さったところによりますと、警察の方こそ増えたものの、わたくしやつかさには一度の尋問もなく、朝丘さんも何の容疑にも問われないばかりか、今度の事件もこれ以後のどんな出来事も一切、報道関係には伏せられるとか。そして、それもこれもすべて、東京から空を越えていらしたたったひとりのお方、魔法使いのようなお方の指示によるものだと。……あなたは一体、どういうお人なのでしょうか?」
「女中さんたちにお暇を出されたそうですね」
おれは話題を変えた。理由はない、強いていえば、澄んだふたつの瞳に見つめられているうちに、自分のしていることが恥ずかしくなっちまったのだ。冗談めかして「賄路の天才だよ」と言うのは簡単だし、気も済む。しかし、今のおれには不可能中の不可能事だった。
秋葉は束の間とまどい、「ええ」と答えた。
回答への執着はもう感じられなかった。自分の欲望をあくまでも追求するタイプの女ではないのだろう。ひょっとしたら、このまま、この屋敷とともに朽ちていくのかもしれない――そんな気がした。
「でも、古くからいる方たちはみな残ってくれましたし、若い|娘《ひと》も何人かは」
「よかった。このお屋敷にご家族三人とぼくだけじゃ、ちょっと寂しいですものね」
「いえ――あのお嬢さんも……」
おれは頬がこわばるのを感じた。左の頬と手首の痛みが、久しぶりだなとせっつきはじめる。この部屋へ入った途端、痛みを忘れていたことに、おれはようやく気がついた。
「ゆきのことですか。あいつは宮本さんが気にいったようで、客室に入りびたりです。さっき奥さんが見えられて、追い出されてしまいましたが。もともとおつむの方は隙間のあいてる奴ですから、多少の言動には眼をつぶってやって下さい」
「それは構いませんが……宮本の叔父さまとは……」
「大丈夫です。あいつはここ[#「ここ」に傍点]は弱いが、欲の皮と腕っぷしが脂肪となってそれをカバーしてますから、そう簡単にへたばる玉じゃありません。その注意は叔父さんにしてあげるべきです。それよりも――」
「はい?」
なぜ、やくざにおれを襲わせたかという質問を、おれは信頼しきった瞳にそっと放つだけにした。奴らの運命は絶対秋葉の耳に入れぬよう警察関係者に厳命してあった。
「そのォ」
「はい?」
蔵の中かどこかに、燃えない写真や切れないナイフの仲間はあるかと、おれは胸の裡でつぶやいた。
質問を声に出したのは秋葉の方だった。
「どうなるのでしょうか、これから?」
「……」
「お婆さまは得体の知れない獣に襲われ、つかさは東京で怨霊に取り憑かれたのを八頭さんに救っていただきました。ですが、わたくしにはわかるのです。この屋敷全体を、昼も夜も黒い魔の影が取り囲んでいることが。独りで廊下を歩いているとき、どこかから、何者かの視線が首筋に注がれているのを感じます。いえ、雨戸を閉じ、部屋の障子を閉めてさえ、何かが中庭をうろついているのが、はっきりと感じられるのです。あの――あの、宮城典方の妻女、利絵のように……」
おれも感じた。
三〇〇年の昔、宏壮な屋敷の奥まった一室で、何十人もの強者たちに守られながら狂い死にしていった女の叫びを。
今朝、秋葉から聴いた伝説の残りが甦った。
老婆と妖猫が地下室に消えてふた月、典方の新しい屋敷にもようやく生活の色がなじみはじめた頃、怪異は勃発した。
家の使用人がひとりずつ姿を消しはじめたのである。下女や下男の失踪は黙視していた典方も、それが二本差しの下級刑吏にまで広がるに到り、村内に不埓な動きありとして、徹底的な捜査と弾圧を命じた。
かつて、老婆が庵をむすんでいた荒野に刑場が出現し、火刑に処された村人は七歳の子供を含めて百人を越したという。風は断末魔の呻きと呪詛の声とを乗せて渦巻き、代官所の屋根や外壁に炭のような肉片と脂肪とをこびりつかせた。
その甲斐あってか、謎めいた失踪は終わりを告げ、出現[#「出現」に傍点]がはじまった。
昼とを問わず夜とを問わず、ぼろをまとった老婆の姿が邸内で目撃されだしたのだ。
薄暗い廊下で、納戸の奥で、あろうことか典方の寝所で、うつむき加減にたたずむ老婆を見かけた者たちは、数日とたたぬうちに非業の最期を遂げた。
中庭で転倒した下女のひとりは、材木から突きでた釘に右眼から脳までを貫かれ、別のひとりは突如乱心した武士のひとりに八七個所をなますに刻まれ、四日四晩苦しみ抜いた末狂死した。
しかし、もっとも悲惨でもっとも不気味な死は、やはり利絵を襲ったものだろう。
ある日の午後、部屋で紅を塗っていた利絵は、鏡の奥、自分の肩越しに不気味に微笑みかける老婆を目撃し、その場に昏倒した。
恐ろしいことに、以来昼夜の別なく老婆は利絵の背後について回る。何もしない。ただ、五○センチと離れず黙々と尾いて歩くだけである。警護の武士が斬りかかればすっと消え、すぐ同じ場所に出現する。お付きの女中は次々に暇をとり、利絵自身も半狂乱となった。典方の指令で九州全域から加持祈祷の名人が招かれ、秘術を尽くしても、利絵は脅え、やせ細っていった。
もうひとつの怪がその身辺をうろつきはじめたのは、老婆が取り憑いてから半月ほど後のことである。
夜な夜な利絵は眼覚め、部屋の一方を指さして、こうつぶやくようになった。
「誰かいる、庭に誰かがいて、雨戸をこじ開けて入ってくる」
利絵の指さす奥には屈強な供侍たちの間が控え、その向こうは廊下だ。襖と雨戸に遮られ、どうしてそれがわかるのだろう。
「ああ、来る、入って来る。今、雨戸がはずされた。廊下にいる。歩いてくる。――前に、部屋の前に!」
この世のものとは思えぬ絶叫に、血相変えて飛び出した武士たちの見たものは、確かに庭へぶちまけられた雨戸と、そして、こればかりは見間違えようのない、巨大な猫の足跡であった。
それからさらにひと月たち、利絵は脅えに脅え、骸骨のようにひからびて狂死した。
悪鬼の性をもって生まれた典方も、さすがにこれはこたえたと見え、夜ごと仏前の焼香は欠かさなかったが、とある雨の晩、いつものように仏前に端座する彼の横に白いものが動いた。
老婆の怨霊かと大刀片手に振り向き、典方は眉をひそめた。
青畳の上に深々と頭を垂れているのは、他ならぬ利絵だったからである。
「何を迷って|現世《うつしよ》へ戻ったか?」典方は語気荒く尋ねた。「願い事でもあるのか? 欲しいものでもあるのか? 言うてみい」
「はい」と利絵は一層深く頭を下げ、地の底から滲み出るような声で言った。「そのどちらも……願い事、欲しいもの、ともにございます」
「何だ、それは?」
むっくりと、利絵の顔が上がりはじめた。
「あなたさまの|首《みしるし》で」
典方が狂気の沙汰で抜刀したのは、利絵のおねだり[#「おねだり」に傍点]に驚愕したためではなく、はったと彼をにらみつけたものが、憎悪に満ちた猫の顔だったからである。
毛という毛は逆立ち、瞳を炎と燃やして着物姿の大猫は典方めがけて躍りかかった。
死闘の叫びに殺到した供侍たちの見たものは、血の海と化した部屋の中で呻く瀕死の典方であった。彼の右腕は付け根からもぎ取られていた。
翌日の晩、苦しみ呻く典方の病床には腕自慢の強者たちが刀槍に弓矢を加えてつめかけ、さしもの怪猫もよもや昨日の浪籍に及ぶ隙はあるまいと思われた。
丑三つを過ぎても妖しいものは現れない。
ふと、武士たちは眠気を覚えた。
おれひとりくらい眠っても、と全員が思った。
彼らが眼覚めたとき、訪れたもの[#「もの」に傍点]から必死に遠ざかろうとしたものか、宮城典方は隣室へ続く襖の前でかっと眼を見開き、吐く息も絶え絶えに、噛みちぎられた右足を虚ろな視線で凝視していたのである。
ようやく侍たちも、夜ごとの訪問者の意図が呑み込めた。
三日目の晩、自らの身を切り刻んでも妖しの眠気を防ぎ、主人からの世にも恐ろしい「強奪」を防ぐべく、侍たちは決死の覚悟で集い、また眠りにおちた。
今度は左腕だった。
翌日、左足が失せ、家臣たちの守るのは、奇怪な人間芋虫となった。次に失われるものを、彼らは努めて考えぬようにしたことだろう。
なぜ、このような状態で典方が生きていられたか、今となっては謎である。言い伝えによれば、四肢の喪失に伴う大量出血は死亡寸前で食いとめられ、傷口を覆う薄い寒天状の被膜がその原因とされているが、確証はない。
典方の最期はあっ気なく訪れた。
翌々日の朝、ついに[#「ついに」に傍点]失われたものを求めて屋敷の内外を探索した家来たちは、正門の手前でそれを発見した。正しくは、送り届けられたというべきかもしれない。
夏の水々しさを湛えていた蒼空がにわかにかき曇ったと思うや、形容し難い雷鳴が天地を叩き、雹を思わせる大粒の雨が人々の皮膚を激しく打った。
雨宿りの場所を探して逃げまどうひとりの武士が同僚の顔を見て心配げに尋ねた。
「貴公、怪我でもしたのか、顔が真っ赤だぞ」
「それがしも、そう言おうと思っておったところじゃ」
ようやく人々は、降り注ぐ雨滴が血の色をしていることに気がついた。いや、それは血そのものであった。
「うわ」
軒下に逃げ込もうと走るひとりが、木の枝のようなものに頭を打たれて昏倒した。
駆け寄った同僚の見たものは、
「わわ……う、腕じゃ、人の腕じゃ。な、なますのように切り刻まれて……おお、骨が骨が見えるぞ」
ぼと! と男のかたわらに別のものが墜ち、眼をこらせば、左の足であった。
「こ、こちらは、無惨じゃ、無惨じゃ、肉も何もかじり取られておる!」
ぼとっ! ぼとっ! と落下物はつづいたが、その正体を見定めようと走り出す武士たちはいなかった。わかっていたのである。
身の毛もよだつ雨はじきにやんだ。
恐る恐る落下物へ近づいたひとりが、ようよう言った。
「ないぞ。あれ[#「あれ」に傍点]がない」
武士たちは周囲を見回した。
「あ、あれじゃ!」
金切り声の方へ向いた眼は、すぐに声の主が指さす方向に注がれた。
奇怪な雨に濡れ光る屋敷のてっぺん、灰色の屋根瓦の頂点に、それは見るも無惨な形相で天地を見渡していた。
眼球はえぐられ、噛みちぎられた両耳を失い、それでも気が済まなかったのか、鼻をもがれ、骨さえ露出した宮城典方の生首が。
おれは無言で秋葉の肩に手を置いた。気の利いた言葉をかけたいと思ったが、何を言っても嘘になるような気がした。嘘でもよかったかもしれない。言えなかっただけだ。
典方の死をもって途絶えた怨霊の蹂躙はいま、三〇〇年の時の流れを越えて甦り、広大な館の内外で牙を剥き、過去へは何の責任ももたぬ人々の生命を限りなく黒い呪いの爪で引き裂こうとしていた。
頼るものもなく、その館の奥で憂いに沈む少女の横顔から眼をそらし、おれは蔵の内部にある「宝」のことを考えようと努めた。
こうなれば写真一枚、ナイフ一丁をかすめてずらかる手だ。生命あっての物種さ。
「これで失礼いたします」
秋葉は静かに頭を下げた。
「詰まらないことを申し上げました。お忘れ下さい。今後ともよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
こら、本気か、ともうひとりのおれが頭をこづいた。
ドアのノブに手をかけたとき、
「あの……」
と秋葉が呼びかけた。
「は?」
我ながら間抜けた表情だろう顔の前で、影みたいな美貌がかすかに横に振られた。
「なんでもありません……ごめんなさい」
何だか知らないが、聞かなくてよかったと思った。
おれは破顔する刑事に眼もくれず部屋に戻った。
バッグに異常がないかどうか確め、これからどうするかお茶でも飲みながら考えようと、黒檀の卓袱台に近づく。
決まってるさ、写真かっぱらってとんずらよ。
黒光りする表面に、茶器とは別の品が置かれていた。
無言で取り上げ、すぐポケットにしまうと、おれはそっと隣室――ゆきの部屋とをへだてる襖に近づいた。襖と襖の間に眼をやる。出掛けに張っといた髪の毛はそのままだ。ゆきの気配はない。こんな時、どこにいってやがる、まだ、宮本んとこか。婆あに取っ憑かれちまえ。
おれは部屋を出て、廊下を渡った。
目的地のドア前まで来ると、ただならぬ声が洩れてきた。
嬌声の進歩したやつ――男と女の喘ぎ声だ。
ぴん! ときた。わざと馬鹿でかい音をたててノックする。
どすんどすんと荒っぽい足音が近づいてくるや、怒りを解放するかのようにドアが押し開けられた。
ゆきだった。
頬が上気してるのは怒りのせいだけじゃあるまい。おれの顔を見て一瞬とまどったが、次の刹那、低い声に炎の怒りを込めて、
「何しに来たのよ、この出歯亀!」
びゅっ! と横なぐりに襲った右手を軽くかわして、よろめくゆきを尻目に、おれはすんなり部屋へ入った。
八畳ほどの洋室にハイファイ・セット、リモコン付きカラー・TVと、ナウいヤングの必需品はすべて揃っていた。東京のは別あつらえらしい。なかなか大したもんだ。
つかさは、部屋の隅に置かれたセミ・ダブル・ベッドのふちに腰をかけ、焦点の定まらない眼付きで宙を仰いでいた。おれに気づいても、ぼんやり会釈したきりで、はい[#「はい」に傍点]のひと言もない。頬っぺたや口の脇にゆきと同じルージュがまだらにこびりつき、あれれ、耳たぶにもべっとりだ。
ま、どんな堅物でも、ゆきの唇と舌のテクニックを味わったら、こうなるだろう。
「お疲れさんだな」
皮肉っぽく挨拶したとき、凄い音をたててドアが閉まった。ゆきが出ていったのだ。あの迫力なら計画は途中で挫折したにちがいない。昼は宮本、夜はつかさか。博愛心に富む娘だ。
派手な音響に頭の芯がようやく正常に戻ったらしく、つかさはやっと意志の光を取り戻してやあ[#「やあ」に傍点]と言った。
おれはその寝ぼけ面の前へポケットから取り出したものを突きつけた。
例の宇宙写真だった。
つかさは眉をひそめておれを見上げた。
「おたくが置いたのか? おれの机の上へ?」
ぼんやりうなずいた。まだ、ゆきの濡れた舌が歯茎と唇の間を舐めてる気分なのだろう。
「こんなものを置いたら、おれがさっさと荷物まとめて帰るとは思わなかったのか? 冗談はよせ。置いたのはおたくだが、そうしろと言ったのは秋葉さんだな、え?」
「ち、ちがうよ。ぼくよ」
「白ばっくれるな、この。おたくみたいな腰の決まらんタイプに、こんな芸当ができるものか。やい、白状しろ」
わざと浮かべた威嚇の形相に驚いたものか、つかさはあっさり、うん[#「うん」に傍点]と認めた。
変わった|娘《ひと》だな、とおれは全身に軽い倦怠感が染み込むのを感じながら思った。
おれの身を案じたのか。
竹の鳴る部屋で滅びの影に身を浸しながら、娘は何を考えていたのだろう。
しかし、やくざにおれを襲えと命じたのは?
まあ、いいや。秋葉の考えがどうだろうと、おれは目的の品を手に入れたのだ。アメリカ|国防総省《ペンタゴン》に売りつければ億単位の値がつくだろ。
おれは無言でつかさの手を取り、謎の写真を載せた。
「な、なによ、これ、どうするの? 姉さんに怒られちゃうよ」
「いい歳して何が姉さんだ、この甘たれ小僧」
おれはつかさの両肩を掴んで揺さぶりながら喚いた。
「昼間、食堂で見せた根性と技はどこへやった? いいか、日常生活でもあれを出せ。あの調子でやるんだ」
「いつもいつもジャンプして人を殴っちゃいられないよ」
「気魄の問題だ、気魄の!」
絶望的な気分で喚いてから、おれは前からの疑問をぶつけてみた。
「だけど、あのタイミングと度胸はやぶれかぶれや偶然の代物たあ思えねえ。おたく、スポーツか武道をやってたのか?」
「日本拳法を少し……」
おれはやっと納得した。
「なるほどな。それにしちゃ、カップも賞状も見当たらんじゃないか。あれなら大学の二段並みの実力はあるはずだ。段位不要の実力主義者か、格好いいな」
「そんなんじゃないよ」つかさは恥ずかしそうに首を振った。「ぼく、人間相手だと、にらみつけられただけで青くなっちゃうんだ。でも、動物とか木の幹ならいくらでも」
「犬でも殺したのか?」
「狂水病にかかった猪を仕止めたことがある。体重は一五〇キロぐらいだったかな。なぜ、そんな眼で見るの?」
「やっとわかったのさ。おまえのファイトの理由がな。人間なら足もすくむが、怪物相手は百人力ってわけだ」
「そうそう」
「手え叩くな、手を!」おれはひと声喚いてから哀願口調にチェンジして言った。「いいか、姉さんは今困ってる。外にゃ化け物、内には詐欺師だ。悪くすりゃ、この家乗っ取られた上殺されちまうかもしれん。頼りになる身内はお前だけだ。もう少し根性を出せ。化け物相手のファイトを世間に向けるんだ。姉さんのとこ行って、おれにまかせろと胸叩いてみせろ」
「そんなことしたら大変だよ」
「馬鹿、おたくの胸だ。姉さんのじゃあねえ」
「ふーん」
とつかさは頭をかきながら宙をあおぎ、力強くうなずいた。おっ、見込みなきにしもあらず。
「ところで、ゆきは何をしに来たんだ。おれがお相手しないもんで、欲求不満を解消しに来たんじゃあるまい。目的は何だ?」
「それは言えないよ」つかさは、やけに強い口調でかぶりを振った。「そういう約束だ。男が一度したら破れない」
おれはしげしげと奴を見つめた。
「なら、宮本の叔父貴は何企んでる? 少しでも洩らさなかったか?」
「それも駄目」
口をへの字に結んだつかさの顔から眼を放し、おれはドアへ向かった。妙に男っぽくなってきやがったな。おれの話がそうそう効くわけもなし。すると……
「ねえ、ちょっと待って。この写真をどうするのさ?」
「まだ、おたくとの約束を果たしてねえんだ。もらえる義理かよ。この事件が片づくまであずけとく」
「わっ、じゃあ、帰らないんだ!」つかさは満面に喜色を浮かべて手を叩いた。「でも、生きて帰れるかなあ」
「うるせえ」
おれはがなって[#「がなって」に傍点]外へ出た。
糞、縁起でもねえことを言いやがる。
むしゃくしゃしついでに風呂へ入ることにした。夕方くらいから全身がむず痒い。部屋へ戻ってもゆきが待ち構えてるだろう。言い争いする気分じゃなかった。浴室場所は昼間調べてある。
五分ほど歩いて着いた。
服を脱ぐと、ひからびたセメダインの皮膜みたいなものが雪のように足元へ降り注いだ。肌が赤く膨れ上がっている。痒くてたまらず、おれは容赦なく爪をたてた。
温泉ホテル顔負けの広い風呂だった。
温泉も湧いているらしい。宮本夫婦が眼をつけるわけだ。
ゆっくりつかって[#「つかって」に傍点]筋肉の疲労を押し出すと、備え付けの剃刀でひげをあたり、身体を洗う。
全身に緊張が走った。
脱衣場の方で人の気配。
素早く風呂桶を引き寄せる。中身はショック・ガンと護符だ。ガンは強化プラスチックと合金製だし、護符の油性インクは水に溶けない。怪猫だとしたら風流な野郎だ。
ガラス戸に人影がうつり、きしる音とともに開いた。湯気の中に濃艶な香水の匂いがむっと立ち込めた。
おれは眉をひそめた。
「うふふ、今晩は。さっき廊下で見かけたものだから。ご一緒させてね」
身体の前を覆ったピンクのタオルから、豊満なカーブと膨らみも露わに微笑んだのは、宮本の妻、奈緒美だった。
無言のおれを、色香に迷ったとでも見たのか、奈緒美は脂の乗りきった腰をくねらせるような大胆な歩き方でおれの背後にくるや、白い手を背中においた。熱い息が耳たぶをくすぐる。
「お背中、まだでしょ、流してあげるわ」
「いえ、あの結構です、わ、くすぐったい」
おれは初心な学生風に身をよじり、身体の前の方へ回された手から逃れようとした。
こういう演技は得意中の得意だ。四つのときから修羅場をくぐり抜けてきた割には血筋は争えず、坊っちゃんぶりっ子すると、百戦練磨の娼婦でもたやすくひっかかり、お金なしでもいいと言う。十二歳で国際テロリスト、カルロスとやり合い、奴の一党に追いかけ回されたときなど、パリの娼家を「ぼく迷子の日本人」と渡り歩いて、隠れ家と食事とセックスにありついたものだ。
背中に重量感たっぷりのものがふたつ押しつけられた。火のように熱い。
「そんな……困ります。変なことをすると、大きな声をたてますよ、ボク」
「ふふ、女の子の台辞じゃない。馬鹿ねえ」
奈緒美はせせら笑うと、おれの右手をとり、たくましい腰にあてた。いい感触だ。年は四○近いだろうが、肌に張りがある。おれは奈緒美に導かれるまま、腰から白蛇を思わす太腿へ、さらに戻って豊かなヒップへと進んだ。
ずっしりとしたヒップをなで回すうちに、奈緒美の息は熱くなり、喘ぎさえ洩らしはじめた。こりゃ生来の好きものだ。
「ぼく、もう、あがらなきゃ」
おれはわざとそう言って立ち上がろうとした。
「駄目よ、駄目だったら」
奈緒美の声が耳の横でしたと思うと、熱い肉がどっとのしかかり、おれはわあ[#「わあ」に傍点]と叫んでタイル張りの床に仰向けに倒れた。
「あなた、初めて?……そうは見えないけど……いいわ、たっぷり楽しませてあげる。一緒に連れてきた娘や秋葉なんかより、ずっと凄いわよ、叔母さまは」
「そ、そんな。困ります」
と言うより早く、熱い唇がすえた果実の匂いでもっておれの口をふさいだ。四〇女の舌が恥じらいもなく口腔へ入り込み、おれの舌をとらえてこねくり回しはじめた。遠慮なく唾液を流し込んでくる。
低い声で、あっあっと呻きながら、おれは内心にやりと笑った。
夫婦の主導権を握っているのは、むしろ奈緒美の方とおれは踏んでいた。こいつの弱みを握ってしまえば、亭主の方を操るのは簡単だ。くく、趣味と実益、一石二鳥とはこのことだ。
さんざか唇と舌でおれを楽しませてから、奈緒美は上体を起こすと、九七、八センチはありそうなバストでおれの全身を愛撫しはじめた。
見るからに好色なだけあって、テクニックはその辺のやくざの情婦そこのけだ。おれは半ば快楽、半ば正気を保ったまま、あっあっボクボクと喘ぎつづけた。
「どう? 吸ってみたい?」
数分後、ゆっくりと身体を離し、奈緒美は片方の乳房を下から手で掲げ、鴇色の乳首をおれの口元に押しつけて訊いた。
「ええ」
おれは真面目な顔で大きくうなずき、果実に唇を押しつけようとしたが、奈緒美は巧みに上体をそらした。それでも手は放さず、おれの鼻先でじらすように振りながら、
「たっぷりとよがらせてあげる。その代わり、質問に答えるのよ」
ははーん、やっぱりこの手か。色仕掛け――古来、女が男に勝る唯一の情報収集テクニックだ。
「あなた、ただの学生じゃない、プロの宝探し屋だそうね」
下から見上げると、奈緒美の肉体は圧倒的な肉の壁だった。上気した肌に汗の珠が光り、たとえようもなくエロチックだ。毛穴という毛穴から性のエキスが惨み出て全身を濡らしている。おれの腰に密着させた下半身は火のように熱かった。
いくら色っぽくても、小娘じゃこうはいかない。男遍歴を重ねてエロスの脂を身体に塗り重ねてきたベテランにのみ許される迫力と威厳があった。声も威丈高だ。妖艶な性の技巧で男を征服した女王のつもりなのだろう。
「ちょうどいいわ。あたしも、そんなプロが欲しかったのよ。どう、お祖母さんはどうせ長くないわ。あとはあの姉弟を追っ払い、この土地と屋敷の権利書を手に入れちまえば、すべてはこっちのものよ。怪猫が出るなんて噂が立つ前に、売り飛ばしてしまうの。土地だけでもしめて五万坪、屋敷も入れれば時価九〇億はかたいわ。折半でどう?」
「そりゃ、いいけど。ご主人はどうするんです?」
「あんな口先だけで実行力のない男、もうこりごり。あっちの方もまるで駄目だしね。ふふ……わたし、あなたが気に入ったわ」
ゆっくりと近づいてきた乳首を、おれは遠慮なく吸わせてもらった。すでに欲情で硬い。舌先で転がすようにすると、熟れきった肉の内部を電撃が突っ走るのがわかった。
「ああ……」
生々しい唇から悶えの前兆が洩れる。演技ではない。八割方本気だ。おれの舌使いのうまいせいもあるがね。
「じゃあ、ご主人の作戦を聴かせてくれよ」
おれは両腕を分厚い腰に巻き、乳首から乳房へ舌を滑らせながら言った。
「ええ……あいつは、あなたの仲間――あの小娘と組んで、宮城典方の遺跡を見つけ出すつもりなの。今朝、お祖母さんの前では格好つけてたけど、実は、工事現場に怨霊や化け猫が現れた時点で、もう尻っ尾を巻きたがってたのよ。あたしが引っぱってここまでやってきたけど、あの神経じゃもうもたないわ。……あ……そこもっと強く噛んで……やめちゃ嫌……所詮は三流山師で終わる男よ、あいつ……遺跡を見世物にして儲けるくらいが関の山……でも……」
「でも何だい?」
おれは身体を半回転させた。奈緒美は一瞬身体をもぎ離そうとしたが、腰はおれの手に固定されていた。攻守ところを変え、おれは年増女の上に荒々しくのしかかった。
「……何するの?」
拒んだ手を払いのけ、おれは乱暴に、まだ手つかずの乳房を揉みしだいた。
「でも、何だい? 答えろ。いわなきゃやめる」
「嫌……言うわ。言うから……。見たこともない怪猫を怖がるあいつが、いくら小娘にたぶらかされたからって、そいつが殺された場所へいくなんて……ああ……おかしいと思わない……。わたしにはわかるの……あいつ、別の、もっと凄い儲け口を見つけたのよ」
おれは奈緒美の首筋から唇を離し、それは何だ、と訊いた。ある予感が閃光となって後頭部に咲いた。
「……あいつ……頭でっかちなのよ……駄目、もっと乳首を吸って……手はここよ……詐欺師のくせに、知識だけはたくさんあるの……本ばかり読んで……随分珍しい紙屑を集めてるわ……その中に、あの、怨霊……やめて、そこは駄目……死んじゃう。……『紅舟の老婆』に関する本があったのよ……」
「何だって!」
ばかでかくなりかけた声を、おれは夢中で喉の奥へ押し戻した。秋葉でさえ知らない妖婆の正体を、一体、誰が?
おれは熱い部分に突き刺した指に力を込めて、本の名と内容を尋ねた。
「わからない。馬鹿げてると思って訊きもしなかったの。あいつがひとりで騒いでただけ。……す、すごい……くう……もうびしょびしょよ……はやく来て……あなたを頂戴……」
「まだだ、本の内容は?」
奈緒美は夢中で首を振り、唾液と汗を飛び散らせた。片手でおれの腕を捉え、もっと強くと腰を動かす。大柄なだけに凄愴な迫力があった。おれ以外の男なら、見るだけで果てちまうだろう。太腿ががむしゃらな力でおれの腰に巻きついた。
「宇宙の本よ、星の本よ……。宇宙人が昔、地球に来て、どうこうしたとかいう本よ……そんな馬鹿らしい伝説がいっぱい……。『紅舟の老婆』も宇宙人だろうって……」
必死で歯の間を割り、口腔に押し入る舌をじらすように吸いながら、おれはもつれにもつれた糸が一度に解きほぐれたような解放感を味わっていた。
この土地に人々が入り込んだときから存在していた老婆と妖猫――エイリアンとその飼い猫か? 数々の怪現象も、地球の物理法則を無視した異星人ゆえの超能力を考えれば合点がいく。そいつらの怨霊ならば、地球の祈祷や武器で倒そうとしても不可能だろう。確証はない。しかし、おれの全身は細胞のひとつひとつがどよめいていた。トレジャー・ハンター八頭大の勘がそうさせるのだ。そして、これに従う限り、ミスを犯したことはない。
「その話、もっと詳しくきかせてもらおうか」
おれは奈緒美の両脚を小脇に抱え、ぐいと前進した。歓喜の声が浴場を渡る。
おれが問う前に、奈緒美は知識のすべてを半狂乱状態で開陳していった。
十数分後、半失神状態で横たわる裸体をそのままに、おれは浴室を出た。足が妙に軽い。聞くだけ聞いた後で奈緒美の色気に負け、頑張ってしまったせいである。人間、節制が肝心だ。
ようやく気分が晴れ、おれはパンツ一丁に口笛混じりで廊下を渡っていった。
部屋へ戻ると、ゆきが卓袱台の前に胡座をかき、柿の種をポリポリやっていた。
薄いブルーに花模様のパジャマ姿はなかなか乙女チックだが、相変わらず下着がスケスケで、しかもそれが黒一色ときちゃ、大人は生唾、子供は情緒不安定になりかねない。
特別な[#「特別な」に傍点]風呂上がりなので、おれは眉毛一本動かさず、ゆきを無視――とはいかなかった。
花模様に黒ブラとパンティ。アンバランスが生み出すぞくぞくするような色気が下半身に泌み渡ってくる。ただすわっているだけで男を発情期の牡に変えられる女、それがゆきだ。
「ねえ、あたし、変なものを見ちゃった」
だしぬけに言われ、さてはさっきの一件かとおれはあっけにとられた。
「何を見たんだ? つかさか宮本の着替えでも手伝ったのか?」
「ちがうわよ、馬鹿」
ゆきは、インスタント護符を貼りつけた窓辺に腰を下ろし、夜風にあたってるおれの膝元にしなだれかかって言った。腿に頬を乗せ、右手で内腿をなでる。
「どういう心境の変化か知らねえが、宮本に関する情報をよこさん限り、おれたちゃ敵同士だ。気安く人の部屋へ入るな」
「なに、気取ってんのよォ。せっかく、重大発見教えに来てやったのに」
いきなり脛の毛を抜かれ、必死で悲鳴をこらえるおれに、ゆきは不審そうな表情で言った。
「さっきあんまり夜風が気持ちよさそうなんで外へ出て歩いてたらさ――そんな顔しないでよ。たった二、三分なんだから――離れの庭の方へ入っちゃったのよね。そしたら、こんな夜中だってのに、ほら、あのライフル持ったおっさんいるじゃない、あいつがね、ライフル肩に担いだまま、網みたいなの持って、池から魚すくいあげてんのよ」
「?」
「鯉だったと思うわ。よく見えなかったけど。それがまた生き[#「生き」に傍点]がいいの何の、網ん中で滅茶苦茶暴れ回ってる音がはっきり聴こえるの。それに……」
ゆきは不意に声を落とした。いやな予感がした。おれがせっつく前にこう言った。
「耳や気のせいじゃないと思うのよ。あたしね、鯉が吠える[#「吠える」に傍点]のをきいたような気がするの。なんかこう、豚と犬を合わせたみたいな声でね」
表情からして嘘じゃなさそうだった。また、わけのわからん現象がひとつ発生したことになる。大の男がライフル片手に鯉すくいか。
「ねえねえ、盗聴器で聴いてみよ」
ゆきがけしかけた。
「ああ。おまえがいなくなったらな」
「なによ、けちんぼ。情報提供者はあたしなのよ。一緒に聴く権利があるわ」
「やかましい、この変節女」とおれは一喝した。「さっさと宮本と同じベッドに入っちまえ。おれは忙しい。おまえの|尻《けつ》をなでてる暇あねえ」
「やだ、エッチ」途端にゆきは豹変した。「ね一緒に聴いてみよ。その代わり、宮本の計画ぜーんぶ教えてあげる」
おれはつくづく宮本に同情した。えらい相棒があったもんだ。どうせ宮本にも同じこと言ってるんだろう。無視して言った。
「大体、そんな目撃談をきかせに来たんじゃあるまい。本当の目的はなんだ?」
「そう、そこよ。さすが大ちゃん、頭が切れるわね」
ゆきはきゃっきゃっと手を叩いて破顔した。今までの話は一切なかったこと、というわけだ。
立ち上がって、おれの膝の上に乗り、両手を首に回す。今夜は女責めの晩らしい。
パジャマのボタンをひとつずつはずしても、ゆきは無抵抗どころかすすんで上衣を脱いだ。身体を動かすたびに揺れるバストは、ブラの黒い布地が食い込んでエロチックこの上ない。大年増の肢体とは別の色気があり、おれはたちどころに腰の辺が熱くなった。ま、女の裸みてのぼせ上がらんようじゃ念仏でも習った方がいいがね。
「いいわよ、はずしても」とゆきは熱い息を吐きながら言った。「ゆっくり見せて上げる。その代わり……」
「その代わり――何だ!?」
おれはぱっと淫靡な身体を押し放し、鉄みたいな声で言った。仕事と色気は別だ。
「持ってきたんでしょ、宝探し用のメカ。金属探知器とか、岩盤溶解液とかさ」
ゆきはおれの手を押しのけ、乳房を大胆にくっつけようと努力しながら甘い声を出した。
「あれ貸して欲しいのよ。ちょっと事情があって、あたし、この家の先祖が人と猫を生き埋めにした場所、探りあてちゃったの。江戸時代の遺跡――それも拷問部屋ともなれば大変な値打ちもんだし、猫と婆さんのミイラ見つけて供養すれば、この家の呪いも解けるかもしれないわ」
「貸してくれって、誰と組む気だ?」
「いいじゃないの、そんなこと」
「いいもんか」
「細かいことにこだわってると、人間が小さくなるわよ。そっちはあたしにまかせて、あなたは秋葉さんを守る算段でもしてなさい。しくじると、恋しい人を死なせるばかりか、宇宙写真もおシャカになっちゃうわよ」
「ほう、おまえ、もうあの写真に関心がなくなったのか」
じろりと見つめられ、ゆきはそっぽを向いた。こん畜生、また何か企んでやがる。
「ごめんだね。おまえと宮本にいい目を見せる気なんざ、これっぽっちもねえ。今回、おまえとおれはライバル同士だ。お互い実力で勝負しようじゃないか。はい、お休み」
挨拶代わりにバストを掴もうとした手を思いきりつねり上げ、ゆきは怒りにわななく女武者のように仁王立ちでおれをにらみつけた。
「よくもコケにしてくれたわね。いいわよ、グーの音も出ないようにしてやるから。ふん、宮本の叔父さんの力も知らないでえらそうなこと言ってると、後で激しく泣き見るわよ。九州の田舎にだって埋もれた天才はいるってこと、身体に教えてやるからね」
いつも通りの捨て台辞と襖を閉める轟音がやむと、おれはパウチからシガレット・ケースを取り出し、イヤホンを耳にあてた。
「猫が鯉食う音でもきこえるかな」
ほんとに聴こえた。
バリバリバリと肉を食い破り、骨を噛み砕く音。じゅるじゅるじゅる――これは舌鼓か。
あまりの不気味さに膝立ちのまま凍りつくおれの耳へ、獣とも鳥ともつかぬ|咆哮《ハウリング》が飛び込んできた。ゆきの聞いた「鯉の吠え声」か?
だが、真に身の毛もよだつ事態は次の瞬間生じた。
「ご隠居さま、どうなさいました?」
気懸かりそうな娘の声とともに、ガラリと障子が開けられたのだ。
いかん! 凄まじい恐怖の|箍《たが》を跳ねのけて、ショック・ガンとパウチを掴み、おれは畳を蹴った。
怪猫は隠居のみや[#「みや」に傍点]に化けていたのだ!
廊下へ飛び出したとき、ワン・テンポ置いて、ひえっ! と引きつるような声がきこえた。
夢中で廊下を走る。
「見たな」
押し殺すような問い。みやの声だ。イヤホンをもぎ取りたくなる不気味さがあった。
「い、いいえ、何も……あたしは何も……」
眼の前の光景にすくみ上がる娘の姿が、おれには容易に想像できた。
「いいや、見た。――見たであろう」
駄目を押すような声が、どこかしら揶揄する調子に変わった次の瞬間――
断末魔の絶叫が鼓膜を直撃した。
柔らかいものを噛みちぎるような音がしても、おれはイヤホンを放さず突進した。ショック・ガンは腰だ。畜生、E手袋さえあったら……。
離れへの角を曲がり、渡り廊下へ。
出入り口の前に黒い人影が立っていた。
壁に埋め込まれたランプの光に豊和ライフルの銃身が光った。
構わず進もうとする胸元に銃口があがった。
脅しじゃない殺気がおれの足を停めた。
「どいてくれ、鉄造さん。中に化け猫がいるんだ!」
喚いたが、岩みたいに剛直な顔は崩れもしなかった。
「ご隠居さまはお休みだ。邪魔するな」
「わからないのか。ご隠居に化けた怪猫が、付き添いの娘を襲ってるんだぞ!」
夢中で説得しながら、おれは部屋の状況を掴もうと焦り狂っていた。
意味ある音はすべて途絶え、何やら動き回るような気配しか伝わってこない。
いや、足音が近づいてくる。
ショック・ガンを構えようとしたが、ライフルが狙っている。
入り口の戸が開いたとき、おれは恐怖のあまり一メートルも後方へとびすさっていた。
ひょい、と鉄造の背後から顔が覗いた。
おれは眼を見張った。
あの娘じゃないか!
「何ですか。真夜中にうるさいこと」
眠そうな声で不平を言う顔は、何の変哲もない少女のものだった。手で襟元を押さえたガウンの前にも血の染みはゼロだ。
一体、どうなってるんだ。
おれは泡みたいに霧消しかかる気力を必死に立て直そうと焦りながら訊いた。
「何もなかったのか、内部で?」
「何よ、このひと?」
と少女は眼をこすりながら唇を尖がらせた。
鉄造は狼みたいな眼つきでおれをにらんでいる。
いつもなら攻め方を変えるか、あっさり引きさがるかして様子を見るのだが、今度はそう呑気に構えちゃいられない。
「いま、ここを通りかかったら、女の悲鳴がきこえたんだ。あんたじゃなきゃご隠居さんだろ、中を見せろ」
おれは嘘ついてごり押しした。
少女は困ったように鉄造を見上げた。あまり真に迫ってるもんで、一瞬、こりゃほんとに何もなかったのかな、と気後れしたほどである。あれ、イヤホンからも静かな寝息が届いてきたじゃないか。
「とにかく見せろ。ちょっくら覗くだけでいいんだ。じゃなきゃ、みんなを叩き起こすぜ。ご隠居さんも迷惑だし、あんた方も仕事が満足に果たせないって叱られるかもな」
多分、最後の脅しが効いたのだろう。二人は顔を見合わせ、少女がうなずいた。ライフルの銃身が下がる。
「ほんとに静かにして下さいよ」
少女は念を押した。手でおさげ髪をいじる。
「今日はなかなか寝つかれず、さっきやっとお休みになったばかりなんですから。起こしたら、あたしが叱られます」
「わかった。早く案内してくれ、おっと、その前に」
「え?」
おれは予備動作なしで左手の護符を少女の眼前に突きつけた。
眉が寄った。――それだけだ。
数秒間そのままでいて、おれは護符を下ろした。
「失敬。行こうか」
少女を先頭に、おれと鉄造――おれがご隠居に何かしやしないかと気遣ったのだ――は離れに入り、おれは恥をかいた。
わずかに襖を開けて覗いた寝室にも廊下にも血の痕一滴なく、蚊取り線香の煙の中で、みやは人の好い婆さんそのものの安らかな寝息をたてていたのである。
あの人気狂いじゃない、というふうな眼付きで見送るふたりを背に、おれはしぶしぶ離れを後にした。
気のせいのはずはない。
少女は確かに食い殺されたのだ。生きているのは、そう見えるだけだろう。しかし、怪猫の神通力で偽りの生を与えられているのなら、いかに非力とはいえ、護符の前で妖婆同様それなりの反応を見せたに違いない。
頭がこんがらかってきて、おれは部屋に戻るとさっさと床についた。
九州旅行の初日はこうして幕を閉じたのである。
やれやれ。
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第六章 白昼の怪猫戦
翌日から、おれは徹底して離れを監視することに決めた。
怪猫はどうやら人間に化けることができるらしい――映画や本でおなじみの知識だが、いざ直面すると、これがなかなか頭になじんでくれなかった。科学的にいえば、構成原子の配列を意志の力で自由に変えるかどうかするのだろうが、どうしてそんなことが出来るのかわからないままじゃ、怪奇現象と同じだ。
しかし、まあ、居場所がわかった以上、守るのは十倍楽になった。かといって、どんな手を打ったらいいかは相変わらず五里霧中だった。
食い殺された少女の反応からして、お札をはじめとする宗教的な力は効き目がなさそうだし、ショック・ガンで撃ったときは退散したものの、あれは初体験で驚いた上、すぐ殺す気がなかった――目標、なぶり殺し、だ――からに決まってる。もしエイリアンだとしたら、地球の火器で倒せるだろうか。
それにしても、敵が眼の前にいるのに手の打ちようがなく、こっちもそれが本物の敵かどうか百パーセント自信もないというのは、なんともおかしな気分ではあった。
丸二日、夜も昼も監視の眼はゆるめなかったが、老婆は一歩も外へ出ず、鉄造は石みたいに動かず、付き添いの少女――あとで直子という名だとわかった――だけが母屋へやってきては、秋葉に容態を告げたり、隠居の欲しがる雑誌や果物をもらったりしていた。ちっとも生きてるときと変わりなく、おれは何度もあいつは死んだと自分に言いきかせなきゃならなかった。
夜の魚取りもあれっきりだった。鉄造に理由をきいてみようかと思ったが、昨日の今日じゃライフルに物言わされる可能性が濃いのでそれはやめておき、代わりに、秋葉やつかさにくっついて二、三度離れに乗り込んだ。むろん、様子を見るのと二人の護衛も兼ねてだ。
生け図々しいことに、みや[#「みや」に傍点]は完全に本物らしく振る舞い、おれにも愛想笑いを絶やさず、些細な尻尾の先も掴むことはできずじまいだった。
盗聴マイクも、平凡な生活ぶりしか伝えてこない。秋葉とも挨拶程度の言葉しか交さなかった。影の薄い美貌は、はっとするほどはかない翳りのような気配をひそめ、黙って出ていかないおれの身を哀しんでいるようにも思えた。
おれの活動はそんなものだが、ゆきの方はずっと活発だった。
宮本は事件の翌日、奈緒美と一緒に自宅へ戻ったが、どこかで落ち合ってでもいるのか、ゆきは朝早くから外出し、日が暮れた頃戻ってくる。すぐ風呂へ入るのは夏の盛りだから当然として、疲れた様子がないのは、雑用すべてを宮本にまかせ、自分は楽をしているからだろう。あの程度の中年詐欺師、ヒップの食い込みラインをちらちらさせただけでゆきの術中に陥ってしまうのは眼に見えてる。
どうせ、地下室の出入り口を探してるのだろうと思って、おれは気にもとめなかった。おれの金属探知器でも発見できなかったのだ。宝探しに何の知識もないど素人二人に見つかるはずがない。それに、化け物のこもりっ放しの邸内には、ひとりでも人が少ない方がいい。
しかし、敵味方決め手のないまま過ぎた三日目の朝、事態は戦慄と恐怖を含んで一気に急転した。
その日も朝からおれの眼はぎんぎらぎんに冴えていた。
この二日、平均睡眠時間は二時間を割っているが、眠気などどこ吹く風だ。昼も夜も離れからは眼が放せないため、睡眠は三〇秒とか一分とか小刻みにとる。要は時間ではない。いかに早く熟睡し、気分よく起きるかだ。ヨガがそれを可能にしてくれた。
二○秒ほど熟睡して眼覚め、庭の方を見ると、着物姿の女中がひとり、池のほとりで鯉の餌らしきものを撒いていた。風が強く、力いっぱい投げても、茶色の細片は水際へ吹き戻されてしまう。
五分ほどして母屋の方へ戻りかけ、つと立ち停まると、手にした籠の中身から離れの方に眼を映した。
期待と不安が交錯した。
向きを変え、離れの奥へと向かう。余った餌を裏の池の鯉に与えようと思いついたのだ。
渡り廊下のところには鉄造が寝ずの番をしている。おれの考えが確かなら、きっと女中の邪魔をするに違いない。ひと揉めしてる間に吠える鯉でも見てやるかと、おれは縁側から庭に降りた。玄関から持ってきといたニューバランスのスニーカーをひっかける。備えつけのサンダルじゃスピーディな動きに不利だ。
いきなり風の向きが変わった。
渡り廊下の端で鉄造が眼をこする。絶妙のタイミングに恵まれて、女中は裏庭の方へ回った。小石でも眼に入ったのか、鉄造はせわしげに手を動かすばかりで後を追わなかった。
数十秒の空白が生じた。恐怖の前の沈黙が。
おれが裏庭へと歩き出し、鉄造がライフル片手に渡り廊下を降りかけたとき――
悲鳴が風の唸りをかき消した。
とうとう来た!
おれは突っ走った。左手の護符と右手のショック・ガンの感触がどうにも頼りない。
悲鳴を聞きつけて、母屋の廊下でも足音が入り乱れた。庭に張り込んでた刑事たちがこちらへ向かってくる。鉄造はおれに銃口を向けようとしてためらい、もの凄い眼付きでにらみつけるや、裏庭へ走った。
池のほとりに、さっきの女中が右手を押さえてうずくまっている。足元には籠と餌が散乱していた。痙攣する丸い背の向こうから、すすり泣きと苦痛の呻きが漂ってきた。
動揺と威嚇の表情を浮かべる鉄造を押しのけ、おれは女に駆け寄った。
右手の指先を押さえた左手の間から鮮血が糸を引き、庭土を染めている。
今までの体験で幾度か出食わしたことのある、けれども、何故かぞっとする眺めだった。嫌な想像が鮮明に脳裡へ灼きついた。
アマゾン河の流域には、手指足指を欠いた住人が多い。ピラニアやその他の肉食魚が巣食う水辺で不用意に鍋釜を洗ってるとこう[#「こう」に傍点]なるのだ。
「大丈夫か、見せてみな」
おれはそっと女の左手をのけた。
右手の人さし指と中指がない。
付け根から数ミリ先に残る痕跡は、生血を噴き出す楕円形の切り口だった。あまりの滑らかさに、刃物で切断されたんじゃないかと思ったほどだ。
「指が、あ、あ、あたしの指が……」
と女は虚ろな声で池の方を見ながら言った。水面にはゆるやかな波紋が広がっていた。今しがた何かが表面近くで暴れでもしたかのように。
「餌を撒いて、もう一回撒こうとしたら……いきなり、鯉が水中から跳び上がって、指を……あたしの指を……」
苦痛より驚きのせいで、涙に濡れた頬がふるえた。
「すぐ医者に連れてけ」
立ちすくんでる警官のひとりに命じ、二つの影が立ち去るのを見届けてから、おれは散らばった餌を籠の中に拾い集めて立ち上がった。
「何をする。この池の鯉はご隠居さまの命令で、余分な餌やっちゃならねえことになってるんだ」
鉄造が怒鳴ってライフルを構えた。
刑事と警官がどよめき、
「鉄つぁん!」
と、つかさの声がした。女中や下男たちの間に交じって成り行きを見守っている。秋葉の姿はなかった。
それよりも、人垣の向こうに直子のおさげ髪を認め、おれは緊張が唇を歪めるのを感じた。
じっとおれを見つめるあどけない表情に、何か怖いものが浮かびはじめている。
おれは左手に籠をもち、鉄造の方へ身体を向けて言った。
「あんた、よくよくご隠居さまに忠実らしいが相手を間違えてるよ。あんたの知ってるご隠居さまは、夜中に裏庭の鯉を取って来いなんて命令したかい? その鯉を生で食ったりしたかい? あんたにもわかってんだろ。――いま離れにいるのが別人だってことが。――いつからだい、ご隠居さまが変わったのは?」
「何を言う! ご隠居さまはずっと……」
「飯にみそ汁をぶっかけて食ってたか? 部屋の奥でゴロゴロと喉を鳴らしてるのがきこえなかったか? 障子に猫の影が映らなかったか? 忠誠にも限度があるぜ!」
「だまれ!」
怒号一声、鉄造はライフルの銃身を上げたが遅かった。
籠の蔭に隠したショック・ガンのインパクト・ウエーブは、岩みたいな体躯を三メートルも後方へ吹っ飛ばし、大地は激しく揺れた。風がどっと吹きつけ、傾けた籠から茶色の中身を池へ振り撒いた。
「近寄るな、離れろ!」
叱咤より早く、居合わせた全員の叫びが水面を揺すった。
青黒い水がぐっと盛り上がったとみるや、体長七、八○センチに及ぶ鉛色の影が水をはじき返して空中に躍ったのだ!
カッと開いた、明らかに鯉そのものの口の中に、肉食獣を思わせる牙が閃き、そいつは顔面をかばったおれの左手にがっぷりと食らいついた。
悲鳴も殺して腕を振り、地べたへ叩きつける。そいつはへばったふうもなく、ダイナミックに身をくねらせては、なおもおれの足に噛みつこうと砂を蹴散らせ跳びはねた。ガチガチと鳴る牙の音よりも、獣とも何ともつかぬ狂気の咆哮よりも、おれはある事実に気づき、慄然となった。
こいつら、餌よりも餌をもつ人間を狙ったのだ!
びゅっ! とまた銀色の影が走り、おれの注意も忘れて池の縁に近寄った刑事のひとりが顔面を直撃されて絶叫を放った。
鼻面に牙をたてられ、逃れるつもりで池の方へ走る。
女の悲鳴が湧いた。水飛沫をあげて落下した刑事の周囲に、四方から小さな波が押し寄せ、肉と血を飽食しだしたのだ。苦鳴をあげてのた打つ身体を赤と銀の影が覆い、飛び散る水はみるみる赤く変わっていった。
猛魚ピラニアですら、これほどの早業はなし得まい。岸辺の男女が茫然と立ちすくむ数十秒のうちに、巨大な鯉は人間ひとりを白骨に変えようとしていた。
風に冷気がこもり、おれは振り向いた。
一メートルと離れぬところに直子が立っていた。
空が一気にかき曇り、突風がおさげをかき乱した。自由を取り戻した黒髪は、ふわりと直子の顔を覆った。すぐ現れた。
大猫の顔が。
ショック・ガンを向けるのと、ベージュのブラウス姿が跳びかかるのと、どちらが早かったか。
喉笛に熱い息と牙が射ち込まれるのを感じた刹那、直子の身体は宙を舞っていた。
つづけざまに襲うヘビー級ボクサーのパンチに、体勢を立て直すこともできずのけぞり、旋回し、地面に這う。二二口径の小気味よい反動がたとえようもなく甘美だ。
だが、吹っ飛びながら怪猫は、かたわらの大松の幹に爪をたてるや、大きく身体を回転させてインパクト・ウエーブを避け、五メートルも離れた刑事のひとりに躍りかかった。
肉と腱のちぎれる音。
ぽっかり開いた喉の穴からしゅうしゅういう呼吸音と、それにあわせて血塊を飛び散らせつつ、刑事は白眼を剥いて地に伏した。
思い思いの悲鳴をあげて逃げまどう宮城家の使用人を怪猫の血に狂った眼が捉え、ぐるりと回った顔は、ひとり立ち尽くすつかさに向いた。
いかん!
ショック・ガンをあきらめ、おれは地面に転がったままの鉄造のライフルへ跳んだ。
膝をついて拾い、そのまま肩づけする。|立ち射ち《スタンディング》で構える余裕はなかった。ボルトは? 引いてある。
引き金を引く寸前、ブラウス姿がつかさめがけて宙を跳んだ。
血も凍るような一瞬におれは見た。
鮮やかな身ごなしで地に伏せたつかさの右脚が優雅な円を描いて上がり、怪猫の横腹をえぐるのを。
ぎゃっと叫んで、糸の切れた人形みたいに地へ降りた怪猫の眉間に、おれは|H&H《ホーランドホーランド》三七五マグナムを叩き込んだ。四六○ウエザビー“エレファント・ガン”には及ぶべくもないが、日本最大口径を誇るマグナム弾は、猛烈な反動とともに、妖魔と化した少女の胸から背へ、拳大の射出孔を穿った。
轟音が長い木魂をひいて大空へ吸い取られると同時に、おれは夏の光が肌を射すのを感じた。
怪猫は動きを停めていた。
「――見ろ、顔が、顔が変わってくぞ! 娘に戻ってく!」
恐る恐る近づいた警官の声に、刑事たちが殺到するのを見ようともせず、おれは池の方に眼をやった。
静まり返った穏やかな水面に、たった今繰り広げられた魔性の時間を留める証がひとつだけ浮いていた。
シャツの破片をまとわりつかせた白骨である。
おれはため息をひとつつき、地面に寝ころがったままのつかさに軽くウインクしてみせた。
何はともあれ……
何も終わっちゃいなかった。
まだ大物が残っている。
おれは刑事と警官の数を数えた。二人と三名。足りっこないがしょうがねえ。
「おい、この中でライフル射撃の一番うまいのは誰だ?」とおれは尋ねた。
全員が顔を見合わせ、すぐにあっ! という表情を一点へ集中させた。
振り向くと、見覚えのあるごつい顔が破顔しながら近づいてくるところだった。
「わしにまかせなさい」と朝丘刑事はたくましい右腕を差し出した。おれの視線が肩の包帯にとまっているのに気がつき、「大丈夫。ちょっぴり表の肉が削れた程度ですわい。撃つのに支障はなし。これでも、佐賀市内のハンター・クラブのメンバーでしてな、北海道まで何度も熊撃ちに出掛けとります。それに、やくざ殺しの容疑者にそんな物騒なもの持たせとくわけにゃいかんで」
「いい加減にしろ。今の騒ぎを見てなかったのか。あの娘さんが化け猫に取っ憑かれてたんだ。奴らを殺したのもそいつだ!」
さすがにあきれ返ったおれの抗弁を、右から左と聞き流し、朝丘は無言でライフルを奪い取った。
「で、どうするですかね?」
そのくせ、おれの指示はきくつもりらしい。おれはこいつの頭の中を計算するのはあきらめて言った。
「あんたともうひとり、離れの前と後ろを見張ってくれ。後の人たちは一緒に来てもらおう。少したって、もしも、おれたち以外[#「おれたち以外」に傍点]のものが飛び出してきたら、構わねえ、一発で仕止めるんだ。いいか」
朝丘刑事は質問もせずに重々しくうなずいた。敵か味方か得体の知れない男だが、こういうときは実に頼もしく見える。代わりにと、おれは彼の拳銃を拝借した。こちらもニュー・ナンブで、銃身長が制服警官のものの半分、二インチしかない。
「ぼくもいくよ」とつかさが口をはさんだ。声に元気がないのは、真相に気づいたせいかもしれない。
「民間人は引っ込んでろ。姉さんについててやれよ。いいな」
おれは言い捨て、離れの上がり口へ向かった。
入ってすぐの応接室に三人の警官を配置し朝丘と同じ指示を与える。腰のニュー・ナンブ回転式拳銃にかかる手が震えていた。
外の騒ぎとは切り離されたような静けさがおれの背に冷たいものを走らせた。クーラーの音と蚊取り線香の匂いしかない。
あくまでも白を切り通すつもりなのだろう。大した玉だ。
挨拶抜きで襖を開けた。
みや[#「みや」に傍点]は布団の上に上体だけ起こして驚いた風におれたちを見つめた。寝巻き姿である。線香の匂いがつんと鼻をついた。
「何じゃ、無作法な。お若いとはいえ、他人の部屋へ入るときの礼ぐらい知っとるじゃろう」
初めて会ったときと寸分変わらぬ口調だった。もっとも、あのときから化けてたとすりゃ筋は通る。
「そろそろ観念したらどうだ。おまえのお護り役とあの娘は元に戻ったよ。怨みの深さはわからんじゃねえが、三〇〇年てのは行き過ぎだぜ。どうすりゃ怨みが収まる?――おまえと主人の遺体を探して供養し直しゃいいのか。なら場所を教えろ。すぐ手を打ってやる」
しわだらけの顔にはめ込まれた眼をまん丸く開けながら、みやは救いを求めるようにおれの背後の刑事に目をやった。
「みなさん、警察の方らしいが、一体どうしなすった。明日をも知れぬこの病人が何をしたとお言いやる? まず、それからきかせておくれ」
動揺の気配が背中をうった。たった今、眼の前で怪猫退治の現場を目撃したとはいうものの、人間の神経はやはり、より現実に近いものを信じたがる。
「いや、わしらは別に……この人が……」
やや、責任転嫁か、これだから田舎の刑事なんざ信用できんのだ。
「いいだろ。すまんが家探しさせてもらうぜ」
おれは自信たっぷりの声で言った。
「あの鯉はおまえ専用の食い物らしいな。いつから育ててたのかしらんが、あれだけ改良するにはそれ相当の技術が要ったはずだ。かといって、そうそうここを出てばかりもいられまい。鉄造はともかく、直子さんがいたからな。となると、この離れが実験室ってことになる。おまえがご隠居さんに化けたのはいつだかわからねえが、どっかにそれなりの道具がそろってるはずだ……床下、天井、押し入れん中、手当たり次第に引っ剥がしてやる」
無言でおれを見つめるみや[#「みや」に傍点]の顔から、じわじわと表情が消えていった。
「もっと早く気づくべきだったよ」
おれはベルトの背に差し込んだニュー・ナンブへそっと右手を近づけながらつづけた。
「はじめてこの離れへ来たとき、どうして鳥が遠くでしか[#「遠くでしか」に傍点]鳴かなかったのか、どうして体調が悪いはずのお婆さんの部屋に蚊取り線香の煙が立ち込めてるのか、な。最初のはおまえの妖気のせい、あとの理由は食料製造作業の匂いを消すためか?」
視界を青いものが埋めた。
跳ね上げられた布団と知った刹那、おれは○・三秒とかからずニュー・ナンブを抜き、腰だめでぶっ放した。
オレンジの|閃光《フラッシュ》と|硝煙《ガン・スモーク》の向こうで、夏掛けに黒い穴が開く。
凄まじい勢いで寝巻き姿が壁へ跳んだ。
どんな構造になってるのか、それとも神通力か、両脚で身体を真横に支え、かっとおれを見据えたその両眼の恐ろしさ。ぴんと立った耳まで裂けた口からのぞく槍の穂先みたいな牙と口腔の赤は、もろおれの瞳を直撃し、その場に凍りつかせた。怪猫の迫力は直子の比じゃなかった。ヨガの自己催眠が効果を発揮しなかったら、一気に跳躍してきた鉤爪の猛打を浴びて、顔半分が削り取られていただろう。
座敷に身を倒すなり、おれは空を切る影めがけて二連射を放った。ぼぼっと寝巻きの繊維がはじけ、大猫の身体が揺れる。それでも血は流れず、悲鳴ひとつもらさぬのは、化け物としての年期だろう。
伏せそこなった刑事のひとりが顔を押さえてのけぞった。鮮血がはねて畳を濡らす。おれの足元に白と黒のまざった球体が糸を引いて落ちた。眼球だ。
怪猫――きよ[#「きよ」に傍点]は姿勢を崩さず、流れるように宙を跳んで応接間の方角へ消えた。
驚愕の叫びと銃声。
生き残りの刑事を踏んづけて飛び出したおれの眼に、ドアを叩き破って脱出する寝巻き姿が映じた。
轟音が飛行を乱した。
大口径ライフル・三七五H&H・マグナムのインパクトに、さすがの怪猫も吹き飛ばされる格好で渡り廊下の柱に激突、床に墜ちた。しかし、まだ出血はしない。しつこい野郎だ。どうすりゃ成仏する?
廊下の先を見て、おれは総毛だった。
秋葉とつかさがいる。
婆さんが気になって覗きに来たのか。阿呆姉弟!
怪猫の双眼が爛とかがやいた。
一気に空中へ跳ぶ。轟音。がくっと揺れた。しかし、飛行速度は変わらず、その身体は、ようやく事態に気づいて母屋の方へ戻ろうと身をひねりかけた秋葉の頭上へ舞った。
いちばん聴きたくない悲鳴があがった。
防虫スプレーの缶が脳裡をすぎた。
つかさが突進した。
「やめろ!」
叫ぶよりニュー・ナンブの引き金を引く方が早かった。
糸が切れたみたいにつんのめるつかさの頭上を、猫の鉤爪が唸って過ぎた。
きよはこちらを向いた。邪悪な口が曲がってある形をつくった。
次の瞬間、寝巻き姿は大きく左へ跳び、廊下から庭へおちるや、深い木立に吸い込まれた。繁みが二、三度鳴り、すぐ静かになった。
姉さん、姉さんと叫ぶつかさに眼も向けず、おれは恐怖に破れる寸前の神経で、きよ[#「きよ」に傍点]の最後のメッセージを読み取るまい[#「読み取るまい」に傍点]としていた。
無駄な努力だった。
笑いの形に歪んだ口と、真紅に燃える眼で、きよ[#「きよ」に傍点]はおれにこう告げたのだった。
まだまだ、これからだぞ、と。
その日のうちに、屋敷はめっきり静かになった。秋葉の傷は左肩口に浅く残った歯形だけで、生命に別状はなかったが、残っていた女中や下男の大多数が暇をとってしまったのだ。
化け猫が退治されたら戻ってきますと皆がいい、ばらばらに帰るのは怖いからと、警察差し回しの小型バスに乗り込んで去った。
つかさとはな[#「はな」に傍点]さん――この|女《ひと》とあと二、三名の下男だけが残った――はくれぐれも内密にと念を押してたが、なーに、いざとなりゃ隣近所の有名人になりたいだけで、あることないこと吹聴するのはわかりきってる。新聞社や警察に根回しする口止め料のことを考えると、おれは気が滅入ってきた。
バスが出るのと入れ違いに、ゆきがタクシーで戻ってきた。おれの部屋へ顔を出すなり、
「なにさ、やけにしんみり[#「しんみり」に傍点]しちゃったじゃない。屋敷の人追ん出して、刑事たちが就職したの? ここお給料よさそうだもんね」
「阿呆、そんな呑気なこと言ってる場合か」
おれはショルダーから取り出した小道具でE手袋を修理しながら、今日の出来事を話してやった。
「すると、そいつは逃げ出して、今もどっかに隠れてるわけね。あんたが仕止められなかったせいで」
「……」
「もう、さっさとこんな家処分しちゃって別のとこ移ったら。後は宮本さんにまかせてさ。あの|男《ひと》、結構顔広いのよ。化け猫の憑いた家でも高く売ってくれるわよ」
「そして九割は自分の懐へ入れるわけだ。残念ながら、秋葉さんはここを離れる気はないとさ。おれも賛成だ。どこいったってあの猫から逃げられるたあ思えねえ。それはそれとして、お前、協力費として幾らもらう約束になってる?」
ゆきはそっぽを向いて口笛を吹いた。
「何人も殺された地下の拷問部屋を見世物にした上、土地運用で大儲けか、お前ら一生呪われるぞ」
嫌味ったらしく言うと、ゆきはふんと鼻を鳴らして、
「人のこと言える立場なの?」と言い返した。
「あんたの一族は先祖代々、毎朝七時に起きて八時間働いて、決まったお給料で誰も泣かさず生活してきたっていうつもり? これまであばいたお墓や寺院、百や二百できくのかしら?」
今度はおれがそっぽを向く番だった。
八頭家が手にした莫大な富のほとんどは、正当な商取引で手に入れたもんじゃない。しかし、そこは考えよう。人知れぬ密林や氷の墓所で朽ちるのを待つばかりの文明遺産を、生命を的にコレクトし、保護してるとも言えるわけだ。人目にゃ触れさせないがね。
「まあ、その辺の議論はよそう」とおれは話題を変えた。「ところで地下室の入り口は見つかったのか。あの遊園地跡は気をつけた方がいいぞ。可愛い猫ちゃんが棲家にしている可能性が大だ」
おれの言葉に、ゆきの口元をかすかな笑いがかすめた。おや? と思ったが、すぐに唇をとんがらせて言った。
「余計なお世話よ。宮本さんの友達がたくさんついててくれるんだから、ゴジラが出てきたって平気だわ。あんたは|騎士《ナイト》気取りで、不幸なお嬢ちゃんの面倒見てりゃいいの。それもこれも、あたしがあれ[#「あれ」に傍点]を見せるまでの運命だけどね」
「この!」
おれは電光の速さでゆきに跳びかかった。さっと身を翻して逃げ出すところを、右足首を捉え、畳の上に押し倒す。
甘い息が顔を濡らした。
ゆきは抵抗しなかった。
「ふふ……どうする気? 真っ昼間から強姦ごっこするの?」
「やかましい。あれ[#「あれ」に傍点]を出せば手を放してやる。それとおまえの計画だ。墓場荒らしもいいが、どうも納得できねえ点がある。ぜんぶ喋ってもらおうか」
言いながら、おれは欲望の血流が身体の隅々へ伝わっていくのを感じた。
ゆきの赤い唇は十センチと離れぬところで半開きになり、もっと赤い舌が誘うように動いているのが見えた。Tシャツの下で上下する胸の隆起はいつもながらダイナミックだ。ぽっちり浮き上がった乳首のラインなど、痴漢大歓迎と言ってるようなものだ。
「やなこった」とゆきは嘲笑った。「文句あるなら口を割らせてごらんなさい。そんな荒っぽい真似しなくても、ふふ、男の魅力でまいらせたら、何でも教えてあげる――裸でね」
最後の言葉がおれの克己心を破壊した。この先どうしたものかという精神的閉鎖状態にうずいてた激情と、脅しに耐えてた怒りが一気に解放され、おれはゆきの唇に覆いかぶさった。
舌を絡ませながらTシャツの裾から左手を滑りこませる。乳房は溶けたにかわ[#「にかわ」に傍点]のように熱く、素晴らしい弾力をもって掌に吸いついた。
ショートパンツから突き出た脚がおれの脚に絡みつき、微妙に動きはじめた。
自由になった両手でおれの頭をかき乱しながら、ゆきはちぎれるように唇を押しつけ、ねじった。想像を絶する舌さばきの巧みさにおれは目を丸くした。
アルジェリアの最も破廉痴な娼婦でさえここまではやらない。自分は冷静に、男の欲情だけを加速度的に増幅させてゆく。熟れ切った百戦練磨の奈緒美でも不可能な技巧だった。宮本が精も根も吸い取られたのも無理はない。
「ねえ……金属探知器――いいでしょ?」
白く溶けかかった脳髄にセクシーな声が切なく忍び入り、おれは思わず「おお」と言っちまった。
途端にゆきはおれの顎に手をあて、力いっぱい押しのけるや、素早く起き上がってTシャツの乱れを直した。わざとらしく、ペッペと窓の外へ唾を吐く。
「ああ。ゴキブリにキスされたみたい。シャワー浴びなくちゃ」と聞こえよがしに言い、ひょいと手を差し出す。「はい、探知器よ」
なぜか、こいつと約束すると反古に出来ないのだ。
ま、あの遊園地が違うとすれば、場所探しにゃ大分手間取るだろうし、万がいち先を越されても横取りする手段には困らない。たかが田舎詐欺師とセックス・アピールだけが武器の小娘――八頭大さまの相手じゃないさ。
で、おれはシガレット・ケースを渡した。
「ほら」
「ほら[#「ほら」に傍点]じゃないわよ。使い方も」
くそ、知りくさってやがる。
渋々教えると、ゆきは自分でテストし、うなずいた。
「じゃ、お先にね。それから大ちゃん、いやにお肌が荒れてるわよ。若いのに欲求不満は毒。早く解消することね。べえ、だ」
ゆきが出ていくと、おれはE手袋を引き寄せながら、秋葉のことを考えた。白い日射しが黒髪の翳を頬に流しているような美貌を思い浮かべただけで、腰のあたりの昂りは嘘のように退いていった。もう十年以上も忘れていた甘酢っぱい想いが、鋼鉄の心臓にそっと手を触れ、やさしく、意識もせずに溶かそうとしていた。
いかん。情感過多は攻撃性の弱体化につながる。
おれは懐かしい横顔から気持ちをそらし、胸にわだかまる疑問点に注意を集めた。
まず、護符の効果である。婆さんの怨霊には効いたが、猫に噛み殺された直子にゃ無力だった。
怨念の強さに大差はあるまい。すると、猫の方は、あの護符のもつ力には左右されない未知のパワーを有してることになる。エイリアン・パワーか? じゃあ、飼い主の方が地球の怨霊と同じ生理を持つのはどういうわけだ?
次にあの怪猫自体、猫の常識から完全にはずれてる。
おれは、離れを徹底調査した警官どもが見つけ出し応接室に並ベたものを思い出しては、何回目かの首をひねった。
床下から発見されたみやの白骨死体と大量のミュータント鯉の骨はともかくとして、問題は屋根裏の拾得物だった。
多分、きよ様命の鉄造が請われるままに集めたのだろうが、どこにでもあるビーカーや試験管をはじめ、訳のわからない液体の詰まった瓶や大量の化学薬品は、化け猫が夜ごとそれらを調合したり、色具合を調べたりしてる姿を想像すると、吹き出す前に鬼気迫るものがあった。こうして鯉の餌が生まれたのだ。今は佐賀大の化学実験室へ分析に出されてる。
つまり、怪猫は腹をすかせるのだ。これを怨霊の性質と思う奴はいまい。奴は生き延び、典方を殺害後約三〇〇年間、何処かで生活してきたのだ。それとも、怨霊も腹をすかせるのか?
唯一の僥倖は、こちらの武器が奴に取っ憑かれた人間だけは倒すことができるという点だが、大もとを叩けなくっちゃ意味がねえ。三七五の大口径マグナムを食らってへばらん猫に、何が通用するか見当もつかないが、相手も生き物ないしもと生き物。必ず弱点はあるはずだ。ただし、他の世界の弱点だったらどうしよう?
考えれば考えるほど気が滅入ってくるので、おれは気晴らしに庭へ出た。
時刻は午後三時。九州の日射しはまだ暑い。離れでは市内からとんで来た鑑識の連中が、カメラ片手にわいわいやっている。みやの骨や直子の遺体はとうに県警本部へ移送され、ここにはない。
途中、何度か刑事と出会った。おれと朝丘の要求で、屋敷には三〇人近い連中が常駐してる。この世界の相手なら山口組だろうとアントニオ猪木軍団だろうと互角にやり合えるが、今回の敵には蟷螂の斧だ。すべてが片づいたとき何人生き残れるか。いちいち会釈を返しながら、おれは民間人を守って死ぬのが警官の務めだと思い込もうとした。
蔵の前まできて、低いが鋭い断続音がおれの足を停めた。
空手かボクシング――格闘技独得の呼吸法だ。
おれは蔵の裏手へ回った。
道着に白帯を巻いたつかさが、空気相手に乱取りを挙行中だった。ひと眼で猛烈な精神集中ぶりがわかった。すでに相当量をこなしたものか、顔は汗でひと回り大きく見え、黄色く変色した道着も染みだらけである。
数秒見学しているうちに、おれは威嘆の唸りを洩らした。
技のコンビネーションは派手どころか基礎も基礎、平凡な中段突きと前蹴りのコンビネーションにすぎない。時折、下段回し蹴りが交じる程度だ。おれの眼を見張らせたものは、その技のリズムとタイミングだった。
おれは何もない空間に、つかさの相手と、その繰り出す技を見た。
つかさの技がそうさせるのだ。
彼は戦っているのだった。
一分ほど壮絶な攻防をつづけて休みをとり、つかさはようやく、おれに気づいた。
「やだな、見てたの?」
心なしか声まで男臭い。
「見事なもんだ。それで人間相手に使えねえとは勿体ない――どうだ、一丁おれとやり合ってみないか?」
つかさは用意したタオルで汗を拭きながら少し考え、「いいよ」と言った。思ったより決断力のある男だ。たしかにこいつ変わってきてる。
「休んでからにしようや」
「いや、すぐでいいよ」
「ほお」
おれはショック・ガンとパウチをはずし、Tシャツを脱いで身構えた。両手は胸前、両脚は肩幅に開いて膝の力を抜く。
「へえ、心得あるね。立ち方でわかる」
「とんでもない。あちこちいただき流さ。お互い手加減抜きの一本勝負だぜ。容赦はしねえ」
つかさはちょっと情けない表情をつくった。
おれは叩きのめすつもりだった。これで闘争心が湧かなきゃ救いようがない。
間合いは一メートル。一気に詰めた。続けざまにパンチを出す。左ジャブで牽制、右のストレートと見せて左からフックを送る。すべて空を切った。鮮やかすぎるフットワークと身のこなしだった。一度も受けない。相手の体力と精神力を浪費させる最良の手段だ。
おれの中で何かが噴き上がった。そうそう舐められちゃ敵わねえ。
左のストレートを軽いダッキングでいなしたつかさの顔面へ右フックが跳んだ。筋肉がしなる手応え、つかさが見切って後退する。数ミリの空隙を残して風を切るはずの拳は、その右頬をかすめた。
つかさの顔が驚きに歪む。
おれの眼の隅で、その右脚が上がった。
手加減するな、とおれは左手で受ける作業を開始しながら思った。
しなかった。
おれの認識視界に入っていた右脚が半円を描いたところで消え、左手を上げきらぬ側頭部へ猛烈な打撃を受けて、おれは暗黒に沈んだ。
……気がつくと、つかさが心配そうな顔で見下ろしていた。頭の中で何かが鳴っている感じだが、首にも痛みはない。とっさのところでかわしたというより、つかさの蹴りが理想的なパワーとタイミングで決まったのだ。
「動いちゃ駄目だよ――大丈夫?」
おれは軽く頭を振りながら上半身を起こした。わざと怖い顔で、
「このペテン師。人間相手にゃ闘えない? おれは獣人ゴリラ男か?」
「いや、その」とつかさは困ったように頭をかいた「なんとなく入っちゃったんだよ。いつもなら自然と停まるのに」
「馬鹿野郎、あれでいいんだ」
おれは口元に笑みが浮かぶのを感じた。やられていい気分とはおかしなもんだ。
「今度、宮本の詐欺師夫婦がきたら、問答無用で一発かましてやれ」
「そうはいかないよ、今のは試合だったからいいけど、話し合いになったらもう手も足も出ない」
「情けない声を出すな。大体おたくは――」
言いかけたおれの声を、女の呼び声がとめた。
振り向くとはなさんが駆けてくるところだった。
「つかさ坊っちゃま、宮本の叔父さまがお見えです」
不安げにおれを見つめるハンサムな顔へ、おれは顔をしかめてうなずいてやった。
はなさんは叔父さまと言ったが、左肩に包帯を巻いたまま布団に起き上がった秋葉の前には、大胡座をかいてる宮本の他に、妖艶な奈緒美の笑顔もあった。
おれを見つけて、一瞬動揺し、すぐ平然たる表情に戻る。風呂場で濃厚なニャンニャン以来御無沙汰してたがお変わりなさそうだ。色気でおれをまいらせるつもりが逆にKOされちまってプライドを傷つけられたとでも思ったのか、土地の権利書についての連絡もなかった。
ひょっとすると、亭主と|縒《よ》りを戻したのかな。
「君は何だ、無関係のものは出ていって欲しいな」
宮本の以前ほど高圧的ではない口調と顔を見て、おれは吹き出しそうになった。
頬がえぐれたみたいに落ち、眼の下は真っ黒だ。三日前の事件がよっぽどショックだったとみえる。根性なしは根性なしらしく、隣近所相手に寸借詐欺でもやってりゃいいんだ。ピースだかハイライトだか、安物の煙草を右手にくゆらせている。怪我人の前だという気遣いもどこへやらだ。
「ええ。でも、ぼく、つかさ君の後見人でして」
「なんだと。ふざけるんじゃない! これから家族同士の話し合いがはじまるんだぞ。私がおとなしくしてる間に出ていきたまえ!」
きいきい声が頭の中で反響した。腰を抜かしたり、失神しかけたりをおれの眼の前で演じてしまった屈辱の反動だろう。
おれはじろりと奈緒美に眼をやった。取りなさにゃバラすぞ。
「まあ、いいじゃないの、あんた」と宮本の肩を白い手が叩いた。「口出はしないわよね、八頭さん?」
「もちろんですとも」
おれは天使の笑顔でうなずいた。えくぼがあればもっと可愛いんだが。
宮本は口をへの字に曲げて秋葉の方を向いた。たおやかな少女に集中攻撃をかける気だ。
「ところで秋葉さん、もう一度きくが刑事さんたちが多いのはともかくとして、お祖母さんに会わせてくれないのは何故かね? その傷の理由もはっきりせん――何があった?」
秋葉は沈黙した。
怪猫に食い殺されたなどと言おうものなら、それみたことかと、この二人が騒ぎだすのはわかりきっている。
「そうよ、秋葉さん」と奈緒美も口を出した。
「叔父さんもあたしも、心配してきたんだもの。挨拶ぐらいはさせてもらわなくちゃ。――それとも」
秋葉はうなずいた。この少女にとって、嘘をつくというのは出来ない芸当だった。
「お祖母さまは亡くなりました」
顔を見合わせるふたりに、おれは素早く、
「あ、ついさっき心臓麻痺でね」
「君は黙っていたまえ!」
と宮本ががなった[#「がなった」に傍点]。
「へーい」
できるだけ小馬鹿にした調子で答えてやると、宮本のこめかみにみるみる青筋が浮き上がったが、かろうじて押さえ、無闇と煙草をふかしはじめた。
「ほんとなの、秋葉さん?」
さも心配そうに奈緒美がきいたが、声に含まれた歓喜は隠しようがない。
「いえ」と秋葉は首を振った。やれやれ。
「もうずっと前に、猫に襲われて……」
語尾は消え、すすり泣きが取って変わった。おれは無意識につかさをにらみつけた。詐欺師夫婦より、おれはこいつに腹がたったのだ。
「そうなの。なら、話が早いわ」
奈緒美はため息をひとつついて言った。実の母親が非業の死を遂げたショックも感慨も示さない。ある意味では大したものだ。
「本来なら、お通夜の席ででもする話なんだけど、どうかしら、あなたとつかささんじゃお父さまの残した事業やこのお屋敷を維持してくの、とっても大変だと思うのよ。こんな恐ろしい事件の折でもあるし、こんな家早く売って、別の土地へでも移ったらいかが。本気で考えてごらんなさい」
「そうとも」と宮本が煙草を灰皿にこすりつけて相槌を打った。「後の始末は僕たちがやる。なあに、一筆委任状を書いてもらえればいいんだ。悪いようにはせんよ」
「それは……」
秋葉が言い澱んだ。おれは立ち上がりかけた。堪忍袋の緒が切れかけていた。
「お断りします」
断固たる声で言った。秋葉と宮本と奈緒美が一斉に振り向いた。おれの方へ。おれの隣へ。遅まきながら、おれも茫然とつかさを見つめた。
そこには、薄っぺらなこそ泥[#「こそ泥」に傍点]親戚相手にびくついていた宮城家の総領はいなかった。見慣れたおカマっぽい表情は変わらず、しかし、目を見張るほどの迫力をみなぎらせて、しっかと宮本をにらみつけているのは、ついさっき、おれを地に伏させた拳法の名手だった。
わき上がる歓喜を、おれはあわてて押さえつけ、渋面をつくって言った。
「おい、叔父さんに失礼だぞ、でかい声をたてるな」
むろん、火に油を注ぐための台辞だ。秋葉がはっとしたのも、つかさの激情を刺激した。
「ここは僕と姉の家だ。売るも売らないも二人で決めるよ。叔父さんと叔母さんにゃ悪いけど、今後一切、家のことには口出ししないでもらいます」
ます[#「ます」に傍点]の断乎たる言い方よ! 信じられないといった面持ちで弟を見つめる秋葉に、おれは何度も小さくうなずいた。
しかし、一体どうなっちまったんだ? おれの薫陶が効いたにしちゃいきなりすぎる。誰がどんな魔法を使って、腑抜けを一家の|主人《あるじ》に変えやがった?
「な、なんてこと言うの、つかさちゃん[#「ちゃん」に傍点]!?」
叫んだ奈緒美の声にも驚愕が溢れていた。宮本の方は度胆を抜かれたのか、口を半開きにしてあっけにとられている。こうなりゃ、こいつがつかさに勝てる要素はない。
「叔父さんは、あんたたちのためを思って……」
「それはわかります。だけど、いま、僕たちだけになった以上、僕らが担っていかなくちゃならない責任――この屋敷や土地や事業は、できるだけ二人でやっていきたいんです。僕と姉さんだけで。それで手に余れば、そのときは叔母さまたちのお力添えを、こちらからお願いします」
きっぱりした止めの一撃に、おれは拍手したくなった。ところが、これを聞くなり、今まで痴呆状態に陥ってた宮本が妙にうすら寒い笑みを浮かべやがったのだ。
「ほお……そうかい。親戚でも他人ってわけか。いいとも……だがな、僕はちがう[#「ちがう」に傍点]んだよ」
秋葉がびくっと全身を震わせた。
どす黒いものがおれの頭に浮かんだ。そいつの名は「予感」だった。
「いいのかい、秋葉さん、つかさ君にあんなこと言わせて。え、本当にいいのかい? 僕は――」
今度こそ立ち上がりかけたところへ、また邪魔が入った。
いきなりドアが開いて、
「ねえ、宮本さん、いる?」
およそ状況にそぐわないピンクの響きが轟き渡ったのだ。
「ああ、いたいた」
おれたちの誰かが返事をする前に、緑のタンクトップに白いショートパンツ姿もなまめかしいゆきは、ずかずか入ってくるや、「ね、ホテルの件、も少し考えさせて」と言ったものだ。
「ななな……」
宮本は狼狽し、奈緒美はなんですってと凄い目付きで夫をにらみつけた。おれとの関係など念頭にはなかろう。
「あーら、しらばくれちゃって。はじめて会った日から、太腿なでたりネッキングしてきたの誰よ。それも普通の場所じゃ興奮しないからって、電柱の陰とかデパートの待合室でさ。あたし、とっても恥ずかしかったんだから」
何のつもりでこんなことばらしたのかわからず、おれは茫然とゆきを見つめた。
秋葉にとっては幸いだった。宮本は血相を変え、奈緒美は|眦《まなじり》を決してにじりよったからである。薄汚い台詞は奴の頭から恐怖と狼狽の炎と化して消し飛んじまっていた。
「あんた、よくもこんな小娘と……あたしには、あんなションベン臭い餓鬼、地下室を見つけるために手なづけてるだけだと言っときながら……」
奈緒美の眼は炎を噴かんばかりだった。つかさもおれも一言もなく、面白がって成り行きを見つめた。
ゆきは、あら、心外だわ、という風に、
「失礼ねえ。叔父さま、あたくしをホテルに誘ったとき何とおっしゃって? うちの古漬け女房なんか女じゃない、お尻は垂れ下がってるし、おっぱいはぶよぶよ、ウエストもヒップもおんなじサイズで、そのくせセックスだけは人の三倍も求めてくる牝豚だって言ったじゃないの」
やった。
「甲斐性なし!」
言うなり宮本の頬が鳴った。のけぞる背広姿に奈緒美が跳びかかる。それを突き飛ばすと、宮本は紙みたいな顔色で部屋を駆け出していった。奈緒美も後を追う。
風がおれたちの周囲で渦を巻き、ゆきが艶然と微笑みながら手を振った。
「おかしなことになったけど、ま、いいでしょ。じゃあね」
「ちょっと待て。お前、何しに来た?」
「何も。あの人見かけて、金属探知器の話、しに来たんだけど、藪つついて蛇出しちゃったわ。ばーい」
甘酢っぱい香水の香りが鼻先で揺れ、グリーンのタンクトップと白いショートパンツは光の中に消えた。
あっけにとられて振り向くと、秋葉が深々と頭を下げている。
「およしなさいよ、あんな色情――いや、ノータリンに礼をする必要なんざない。宮本さんを探しにきて瓢箪から駒が出ただけです。明日は敵に回りますよ。野郎、人が忙しいのにつけ込んで何企んでるのか、とっちめて聞き出してやる――失礼」
去りぎわに、おれはつかさの肩へ軽く手を置いた。つかさがおお[#「おお」に傍点]とうなずく。これで内憂の方は片づきそうだ。
おれは廊下へ出た。あきれ顔で立ち尽くす刑事にご苦労さまと言い残し、玄関へ向かう。サンダルをつっかけて出たら、青いブルーバードが正門を曲がるところだった。運転席に宮本とゆきの姿がちらりと見えた。本格的に穴蔵捜査でもやるつもりだろ。
戻りかけたとき、ねえ、と甘い声が呼んだ。正門のところに奈緒美が立っていた。表情はこわばっているが、なんとか怒りの絶頂はすぎたようである。
「ねえ、おばさまに付き合ってくれない?」
と横手の林の方に顎をしゃくる。眼がうるんでいるのをおれは見逃さなかった。激情と、何もかも失いそうだという焦りが欲望を昂進させているのだ。
放っとこうかなと思ったが、考え直しておれは奈緒美の後につづいた。
玄関も見えない繁みの奥へくると、奈緒美はいきなりおれに抱きつき、唇を重ねた。
荒々しい吐息に合わせて舌を差し込んでくる。欲情と怒りをぶちまけるような凄絶なキスだった。おれは早速応じることにした。人助けである。
ボリュームたっぷりの腰に手をあて強く押すと、奈緒美は抵抗も示さず夏草の中に倒れた。おれの頭を強く抱え、唇は離さない。
奈緒美は自分から麻のツーピースを脱いで、超ビキニのブラとパンティになった。どちらも豹の斑点をかたどった模様がついてる超過激ウェアだ。
腰から腿に手を滑らせながら、首すじへ口をつけると、眼を固く閉じて切ない呻きを洩らす。昼日なか、それも林の中の抱擁だということが、熟女の肉体を狂わせていた。
あいつ、あいつと憎悪の呻きを送り出しつつ、おれのTシャツをたくし上げ、こねるような強さで手をこすりつける。おれの手の下で蠢く乳房もすりつけた下腹部も火のように熱かった。あなたも脱いでと半狂乱で囁きつづける。
おれはひと言、いいとも[#「いいとも」に傍点]と言い、Tシャツを脱ぎ捨てた。ブラをずらして乳房に唇を這わすと、奈緒美は悲鳴に近い声をあげて身を反らせた。夢うつつでおれの下腹部に手をあて、一瞬、眼を見張った。
「凄い。こんなに固くなってる。――素敵よ、早く来て」
おれは苦笑した。奈緒美のお気に入りは、ジーンズの内側に隠したショック・ガンだったのだ。はじめは腰の後ろにつけておいたのだが、とっさの場合、コンマ一秒でも早く抜けるよう、前腰部に移したのである。拳銃は拳銃でもこちらは本物だ。
「みんな、あいつよ、あいつのせいよ」
草いきれよりも濃厚な肌の香りを撒き散らしながら奈緒美はこう口走った。
「そうとも、あいつの始末はおれがつけてやる。安心して極楽へ行きな。ほーれ、こちょこちょ」
巧みに乳首をつまみ上げられて、奈緒美は絶え間ない絶叫を放った。おれのテクニックはその辺のホストや田舎プレイボーイどもとちょっと違う。乳房の間に顔を埋めると、奈緒美は自ら乳房を押しつけてきた。
「お願いよ、殺して、あいつを殺して――あの淫乱娘[#「淫乱娘」に傍点]……」
はいよ、と言いかけ、背筋から足の先まで電撃が突っ走った。
「なんだと?」とまだ夢中なふりをして尋ねる。
「あいつよ――秋葉よ……あんな顔して、宮本ともできてるくせに……ひとりだけ哀しそうなお嬢さん面して……どうしたの!? やめないで!?」
だが、おれは汗と唾液に濡れた白い女体から、あっさり立ち上がっていた。
「どうしたのよ、急に?」
はみ出した豊満なバストをブラへと押し戻しながら、奈緒美が上半身を起こして文句をつけた。
「どうもしねえ――そうか、さっき、あいつが秋葉さんに言いかけたのはその事だったんだな。いつ、あの|娘《ひと》に手を出した?」
なるべく冷静な声を出したつもりが、欲情の解放を無期延期された奈緒美の腹には据えかねたらしい。荒っぽく髪をなでつけながら、
「つかさが東京へ行ってからすぐよ。珍しく外出したところを話があるって車ヘ誘い込んでね。だからあの娘はうちの|夫《ひと》に頭が上がんないわけ。お気の毒さま。あんた、あの娘がお気に入りのようだけど、あいつはとっくに女よ。あのときも結構歓んだらしいわ」
奈緒美が言えたのはそこまでだった。おれの表情を見ただけで、上気してた肌は蒼白に変わっていった。
「おまえの望みは叶えてやるよ」
おれは身を屈め、右手で片方の乳房をブラの上から掴んだ。容赦なく力を込める。
ひっと叫んでのけぞる腿へも左手を食い込ませた。
「宮本の野郎は、おれが必ず始末をつけてやる。どんな汚い手をつかっても、裏の世界じゃ生きられないようにしてやるぞ。覚えとけ、帰ったらこう伝えるんだ。世界一の宝探しが生命を狙ってる。夜も寝ない方がいいわってな。わかったか?」
奈緒美は白ちゃけた顔に恐怖の双眼をはめ込んで、何度もうなずいた。つかさと同類のはずのお坊っちゃんの中に、自分たちとは桁違いに強烈な毒を見てしまったのだ。
白い肉に紫の手痕を残して、おれは背を向けた。哀願も憎悪も追ってはこなかった。
腹の中に石でも呑み込んだように、気分は重く沈んでいた。
夕暮れどきから霧のような雨が、庭の花々と梢を小さく震わせはじめた。
刑事たちの警備体制はゆるまず、大口径ライフルだの、弾薬だのが運び込まれ、屋敷の中は相変わらずものものしい空気に包まれていたが、おれは気の抜けたサイダーみたいな心地でE手袋の修理をつづけていた。成果はなかなかあがらなかった。
昨日の奈緒美の告白以来、どうにも気が乗らない。渋茶をすすりながら禅問答でもしたい気分だった。
ゆきも帰ってこなかった。宮本とホテルか。おれのニャンニャンは営業を兼ねているが、あいつのは相手を痛めつけるのが目的の半分を占めている。その気になっている男をSMオーケイよと縛りつけ、下着姿で挑発しちゃ、最後まで見たけりゃ金のありかを白状しろと言いかねない。古い手だが、ゆきなら百パーセント以上の成功率を収めるだろう。宮本とは何をして楽しんでるのやら。
あーあと、あくびをひとつしたとき、ノックの音がした。つかさかはな[#「はな」に傍点]さんだろ。
無愛相な声でどうぞと答える。
静かな気配と畳さえ愛おしむように踏む足取りが、おれを正座させた。
「秋葉さん、駄目ですよ、無理しちゃ! 寝てて下さい」
仰天したおれの叫びに、秋葉はかすかに口元をほころばせて応じた。首から吊った包帯以上に痛々しい笑顔だった。おれはあわてて自分のすわってた座布団を差し出した。
「いま、麦茶いれます。お、おせんべいお好きですか?」
「はい」
遠慮のない明るい声が返ってきて、おれを有頂天にした。気がつくと孤独な精神の憂愁など跡形もなかった。復活!
おれがあわてていれた茶碗を、秋葉は片手で取り上げ、そっと口をつけた。両手で運んでいるような気がするほど典雅な飲み方だった。
「おいしい」
「も、もう一杯いかがですか?」
どうかしてるなと思いながら、おれはポットを構えた。
「いえ、もう」
「ははは」おれはポットを置いて意味のない笑いを洩らした。少しのあいだ微笑みを絶やさずおれを見つめ、秋葉はそっと口を開いた。
「もう東京へお戻り願えませんか」
意外な言葉に、おれは「は?」といったきり口をあけてしまった。ことここに到ってはどう考えても吐ける台詞じゃなかった。おれの心中を察したのか、秋葉は思いつめたような声と表情でつづけた。
「これ以上、ご迷惑はかけられません。いえ、それだけならば、失礼ながら宮城家の御礼で十分賄えるつもりではおりますが、このままここに留まっては生命が危のうございます。八頭さんには、もう十分以上に尽くして頂きました」
「冗談はやめて下さい」とおれはポットを抱き締め、イヤイヤをした。「こちらも失礼ながら、貴女とつかさ君が今日まで無事でいられたのは、何を隠そうぼくの働きです。警官なんざペケもペケ。右往左往するだけで役にも何にもたってません。いまぼくが出てったら、それこそすべてがおじゃんですよ。ぼくは怪猫を退治したら、例の写真を貰う約束でこちらへお邪魔した。まだどっちも果たしてないんです」
秋葉の右手がガウンのふところへ入るのを見て、おれはあわててつづけた。
「写真なんか出しても駄目です。仕事は終わってない。ぼぼぼくはプロなのだ。報酬だけは貰えませ――」
んと言いかけて、おれは目を見張った。秋葉の取り出したものは、例の写真ともうひとつ、木の鞘と柄のついた古風な短刀だったのである。
「はなさんからお聞き及びと存じますが、これが何も斬れないナイフです。柄と鞘は父がつけたものですが、刃はごらんの通り――」
片手で器用に中身を滑り出すと、秋葉はその|切尖《きっさき》を畳に走らせた。力を入れてるのはわかるのに、表面には傷痕どころかへこみ[#「へこみ」に傍点]もつかなかった。
おれは胸の中で唸った。
斬れないナイフ――世にこれほど無用の長物はなざそうだが、トレジャー・ハンターの眼から見りゃ天下の大財宝だ。何も切断できないってことは、相手も歯が立たないって意味になる。要は、この超物理的性質を解明さえできれば、いかなる攻撃――核ミサイルの猛打を受けても平気な防御施設をつくり得るのである。米ソ、いや、世界の軍隊で、これを入手するのに金に糸目をつける阿呆がいるだろうか。
喉がごくりと鳴った。
「お引き取り願えますか?」
秋葉が訊いた。
「いやです」
おれは首を横に振った。自分でもあきれるほど依怙地になっていた。いつもなら、その場で帰り支度をしてる。
「そうですか」と秋葉はかすかなため息をついた。
「そうです。早く隠して下さい。気が散っていけない」
「そうします。そして、写真と一緒に、二度とあなたにはお渡しいたしません」
おれは眼を剥いた。
「そ、それじゃ、話がちがう。契約違反だ」
「では、持ってお帰り下さい。お願いです」
突然、秋葉の眼に涙が光った。
「これ以上、私を苦しめないで。私もつかさももう[#「もう」に傍点]逃げられません。お祖母さんばかりか、田村さん、直子ちゃん、それにやくざの人たちも死にました。みんな私が殺したようなもの――いえ、隠さないで。宮本の叔父さんからききました。あの人たちが叔父さまに雇われていたにせよ、叔父さまに言われて、あなたを襲うよう命じたのはこの私なんです。――私……叔父さまに……」
おれは黙っていた。秋葉は泣かなかった。泣きたいのはおれの方だった。あのインポ詐欺師、今度会ったら生かしちゃおかねえ。せっかく伏せといたやくざ惨殺の件をよくも……。
「ごめんなさい。でも、本当にもうたくさん。あなたとゆきさんに何かあったら、私もつかさも死ぬまで、いいえ、死んでも[#「死んでも」に傍点]苦しまなくちゃなりません。お願い。これをもってお帰り下さい」
おれはあっさりと、しかも、断固たる口調で言った。
「あかんべえ」
「どうして――一体、どうして?」
「仕事を果たしてないからです」
秋葉は茫然とおれを見つめた。はじめて、美しい両眼から光るものが頬を伝わった。
「さあ、もう部屋に戻りなさい」
おれはあきれるほどやさしい声で言った。どこから出る声だ?
秋葉は立ち上がった。おれは送らなかった。外には三人の刑事が待っている。二人以上で行動するよう朝丘が命じたのだ。
ドアのところで振り向き、秋葉は「あなたは馬鹿よ」と言った。
まったくだ。宝探しが宝やるから帰れと言われて、つっぱねてりゃあ世話はない。
言ってから、秋葉は静かに頭を下げた。長いことそうして、静かに出て行った。
気がつくと畳の上に写真と短刀が残っていた。
さっさとこれ持って逃げちまえというもうひとりのおれは何とか黙殺したが、どちらもパウチにしまい込んだのは、やはり抜き差し難いトレジャー・ハンターの血ゆえだったかもしれない。
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第七章 血闘
翌日、朝食の済んだ後で、はな[#「はな」に傍点]さんが市内へ買い物にでると言いだした。
ぼんやり聞き流してると、つかさが「八頭くんも市内見物してくれば」と勧め、秋葉も顔をほころばせた。
「そうですわ。せっかく佐賀へいらしたのに、毎日ここにつめてばかりでは面白くも何ともございません。いくら怪猫でも昼ひなか、こんなに刑事さんがいらっしゃるところへは現れないと存じます。ゆっくりと見物なさっておいで下さい」
不安は残ったものの、結局おれはOKした。
怪猫の性格からして、狙われるのは秋葉たちより護衛陣――特におれが真っ先だろうという予感がしたのである。自分たちを守るために無関係な人間が死に、それが二人の姉弟にどれほどの苦悩を負わせるものか、あいつは知りくさっているはずだ。それに、昨日から戻ってこないゆきのことが気になりだしてたせいもある。宮本のオフィスは市内の目抜き通りにあるという。
武器とパウチを身につけ、どうにも心もとないので、夕べ鑑識から拝借しといた鉄造のライフルを手にもち玄関へ回ると、朝丘刑事が部下の若いのと渋い顔で話し合っていた。
出掛けに不景気な話をきかされちゃ敵わないから、中庭へ出て直接玄関へ回った。車は門前に出されていた。助手席に乗り込み、ライフルをシートカバーでくるんで膝に載せる。
少ししてはなさんが駆け寄り、すぐ走り出した。
「たまには気晴らしもよござんしょ」
明るい言葉がおれの気を軽くした。相槌を打つ前に、おれは気に懸かる事柄について質問してみた。
「さっき、刑事がぶつくさ言い合ってましたね。何事です?」
「わたしにもよくわかりませんで。出てくる途中で小耳にはさんだ程度ですが、なんでも、バスが着いたとか着かないとか」
「へえ?」
それきりで話は打ち切ったが、おれは背筋に冷たいものが流れるのを感じた。
バスてのは、昨日、宮城家の使用人を移送した県警の小型バスのことじゃなかろうか。それが着かないとは? 県警の車庫へか?
疑問は十分ほどで解消した。
急カーブを回ったとき、はなさんが「あら!?」と低い驚きの声をあげたのだ。十メートルと離れてない前方を、一台の小型バスがのろのろと進んでいく。
いぶかしげなはなさんの表情を見るまでもなく、おれにも怪事に対する心構えはできていた。
こっちのクラウンは時速四○キロで飛ばしているが、バスの足取りは三○前後、追い抜かれた記憶はない。要するに、不意に出現したとしか思えないのである。そして、左は十メートルを超える断崖、右手は昼なお暗い森林なのだ。ライフルのカバーをはずし、ボルトをひく。小気味よい金属音が車内に響き渡った。
「スピードをおとして。しばらく後追いでいきましょう」
おれの緊張を感じ取り、はなさんもうなずいた。
十メートルの車間距離を保って進む。
銀色の車体に「佐賀県警」の文字を、おれはとうに読み取っていた。
リア・ウインドの向こうに、人の頭が四つほど見えた。少なくともきちんと坐ってはいるようだ。
そのひとつがこちらを向いた。
「あれ、|六《ろく》さんだ!? ありゃ、お豊さんも。みな、今まで何してたのかしら?」
ガラスの向こう側で、六〇近い爺さんと二○前後らしい娘が手招きをしはじめた。
「おいでおいでしとりますがな」
おれはうなずく気もしなかった。昨日出発したはずのバスがどこへついて来いというのか?
おれはそっと車のシートに手を触れた。冷たいビニール・レザーの感触。本物だ。
頭上には太陽が輝き、風に舞う小鳥の姿も見えた。確たる現実の中で、おれたちだけが異形の相と対しているのだろうか。
「追い抜けますか?」
なぜこんな訊き方をするのかわからぬまま言った。
「へえ。――でも……」
「いいから、早く」
身体がシートに引きつけられた。
バスの後部が迫り、横腹が後方へ流れ去っていく。
坐っている連中の横顔が見えた。
ひょいと窓から身を乗りだし、手招きをはじめる。
「一緒に行こうって言っとりますが、どうしましょう?」
「冗談じゃない。真っすぐ真っすぐ」
「へえ」
血相でも変わっていたのか、ちらりとおれの方を見て、はな[#「はな」に傍点]さんは脅えたようにアクセルを踏んだ。
身をひねってリア・ウインドを見つめる視界の奥で、小型バスはぐんぐん小さくなった。
ほっと安堵の息を洩らした途端、車は次のカーブに差し掛かった。
「ひえ! また、バスが!?」
相変わらず、十メートルほど前方をのろのろ進む車体を確認しても、なぜかおれは驚かなかった。
いよいよ、おれに的を絞ってきたか。
頭の芯が冷え冷えと醒めてゆく。全智全能を振り絞って戦うファイトの前触れだ。
どう出てくるか、と見守るうちに、バスの後部方向指示器が右折を示して光った。ゆっくりと道路を渡り、そこだけ切り取られたような繁みの間へ吸い込まれていく。
おいでおいでの乗客たちも木々の陰に隠れた。
「停めて下さい――いいから」
敵の正体に気づいたのか不安げに見つめるはなさんに、おれは、五分だけ待ち、おれが戻ってこなかったら市内へ直行して朝丘刑事に事の次第を連絡するよう指示した。
「ですけども……八頭さんひとりじゃあ……」
おれはにっこり笑って首を振った。
「僕はいつもひとり――だったんですよ。最近はちがうけど」
ふと、ゆきの顔が浮かんだ。不貞腐れている。
おれは苦笑を浮かべて車を降りた。
繁みの間を進みながらショック・ガンを抜き、親指で|安全装置《セフティ》を解除、|全自動《フルオート》射撃に合わせてスラックスの内側に戻す。これで、引き金を一度引けば指を離すまでの間、三○発のヘビー級キックが休みなく敵に降り注ぐわけだ。
パウチからNASAの栄養剤を一本取り出し貪り食う。チーズそっくりの色と歯応えだが、味は蜜入りの寒天だ。何度か試用して効果は確認済みである。
繁みの間に横たわる細長い空き地にバスは停まっていた。
窓の付近に使用人たちの姿はない。手招きがなくなっただけで、おれはほっとした。
ヨガで磨いた超感覚の触手を四方に走らせる。生き物の気配は、森の小動物や昆虫、鳥だけだ。こいつらの仲間にゃ化け猫なんかいないだろうなあ。
身を低くしてドアの陰まで走る。車内に人の気配はない。
嫌な匂いがした。嗅ぎ慣れてはいるが、同じ料理も食する環境によって味が異なるように、こいつもまだ時折吐き気を感じさせる。
ドアの把手に手をかけて押した。何なく開いた。密閉状態ほどではないが、かなり濃密な血臭が押し寄せてきた。
素早くステップを踏んでライフル両手に車内ヘ突入する。
案の定だった。
不思議と嘔吐感はなかった。
どのような恐怖と絶望と死が、安全地帯へ疾駆する車を襲ったか、おれには容易に想像できた。
屋敷を出て間もなく、顔見知りの誰かが、乗り遅れたと背後から追ってくる。はなさんか、残った数人のうち誰かか、ひょっとしたらおれだったかもしれない。化け猫の知識はあっても、息を切らせて路上にへばる姿を見れば、まさか、と思うのが人情だ。
それが裏目に出た。
まず運転手がやられ、喉笛から噴水みたいに血を噴き出しながらハンドルに突っ伏す。しかし、猫の妖力に支配されたバスは停まらない。最前列にいた二人の警官が事態に気づいた。どちらも拳銃に手をかけるが、怪猫の形相の凄さに気圧されて抜き遅れ、まず左側の警官が喉笛をやられた。残りはなんとか拳銃を抜いて発砲したものの通じるはずもなく、通路を後退したくても、事態に気づいた客たちが総立ちで逃げまどい、あたふたしているうちに爪のひと掻きで顔の右半分をもっていかれた。
次は乗客だ。
宮城の家に仕えていたというだけで迫り来る理不尽な運命を、人々はどんな思いで待ち受けたろうか。
腰を下ろしたまま凍りついた右座席の二人――四○すぎの壮漢たちが喉笛をえぐられ、窓をあけて逃げようとする一七、八の娘の背に容赦なく鉤爪が振りおろされる。
娘の後ろにいた二五、六の青年が半狂乱で怪猫に跳びかかったが、これは通路にねじ伏せられ、顔面を食い取られた。今は紅いのっぺらぼうである。
この時点で、残ったものたちは運命に気づいたと思われる。
楽に死なせてくれと哀願した女もいるだろう。何の怨みがあってと問い続けた男もいたに違いない。
宮城の家で働いた――ただそれだけが無惨な死に値するのだと、誰が想像できたろう。
窓にへばりついた姿勢で息絶えた少女の瞼をそっと閉じながら、おれははじめて、全身の細胞に怒りが染み込んでゆくのを感じた。腹の奥が異様に熱い。栄養剤が効いてきたせいもある。
死はおれの友だ。おれたちは常に手をつないで地球を駆け巡り、海底に挑み、灼熱の大地を渡った。そのたびに彼はおれを出し抜こうとはかり、おれは必ず先手を打って彼に苦笑を浮かばせてきたのだ。
だが、勝負はすでについている。いつかはおれも彼の後塵を拝する。彼の世界へ行くのだ。だからこそ、他の誰が彼の訪問を受けようと一切同情はしないできた。
しかし、今度は別だ。
虐殺だけを求める怨念を野放しにするわけにはいかない。それが狂気に蝕まれている証拠に、息絶えた犠牲者たちの身体は、全員、死んでから爪にえぐられた溝だらけではないか。死の静寂が満ちた車内で、これでもかこれでもかと死骸をさいなむ大猫の姿よ。
お前やゆきまで狙われる恐れがあるからな、ともうひとりのおれが囁いた。うるせえ。
おれは足取りも重くバスを降りた。
地面に降り立つと同時に手近の木蔭へ跳び、繁みの出入り口に全神経を集中する。
足音が近づいてきたのだ。
泳ぐような格好で息も絶え絶えの姿を現したのは、小さな風呂敷包みを抱えたはな[#「はな」に傍点]さんだった。バスを見つけ駆け寄ってくる。
隠れたまま傍観してると、ステップ近くで足を停め、周囲を見回しながら恐る恐るおれの名を呼んだ。返事がないと知り、ゆっくりとバスに近づいていく。襟足の産毛が総毛立っているのまでわかった。
「見ない方がいいよ」
ぬっと顔を出したもんだから、はなさんはきゃっと叫んで尻もちをついた。
「どうしたの?」
「あちあちあちあっち……」
恐怖のあまり今来た方向を指さしてどもるのは、おれが脅かしたせいばかりじゃあるまい。
「あたしが待ってたら、どっからともなく変なお婆さんが乗せてってくれと。断ったらふっと消えて、いつの間にか後ろの席に……」
紅舟の老婆か。おれは唇を噛んだ。オールスター総出演――紅白歌合戦だぞ、こりゃ。
「あ、あたしもう車へ戻るの嫌。ね、歩いてきましょう」
「そら、いいけど……」
「大丈夫。近道があるんです」
細い手で胸をさすりながらはな[#「はな」に傍点]さんはバスの方を指さした。
「この先を曲がれば、道路下るより早く市内にでます。……は、早く、あたしゃお化けにはからっきし弱くてね」
誰でもそうだろうが、とにかくおれははなさんの後について歩き出した。どこかに怪猫が潜んでる以上、狙われる場所を云々してもはじまらない。
バスの向こうには細い道が林の中へつづいていた。昔の旅人がならした踏み分け道だろう。
よほど老婆の怨霊が怖かったのか、おれが包みを持とうと言ってもはなさんはひいひい言いながら闇雲に突っ走った。
その足が不意に停まった。林の真ん中である。樹木は太いが密集していないため採光は十分だ。
あれれ、と思ったとき、すうっと空気が冷え、木立がざわめきはじめた。
はなさんはうつむき加減で立っている。
おれには背中しか見えなかった。
「はな――」と言いかけたとき、
「この辺でよございましょう」
陰にこもったその声は、おれの知っているはなさんのものじゃなかった。
後ろ向きのまま右手が動いて、風呂敷包みが宙を跳び、おれの足元に落ちた。衝撃でほどけた結び目が、届けものの中身をもろ[#「もろ」に傍点]眼の前に露出した。
突如、陽光が翳り、どっと吹きつける冷風にはなさんの髪はざんばらに乱れた。
おれの足元でかっと白眼を剥いたはなさんの生首が。
はなさんの服を着た女が振り向いた。
顔と手を覆う剛毛の中で、黄金の猫眼と耳まで裂けた口が憎悪の炎を叩きつけてきた。
ほとんど同時に、おれは自己催眠の状態に入った。
深度三。恐怖心を潜在意識のレベルで押さえつけ、本能に内在する攻撃性を意識表面に押し出す。栄養剤によるアドレナリンと血液中の酸素量増加。筋肉が盛り上がり、サマーセーターが一気に膨らむ。腕力、握力――あらゆる力が四割はパワー・アップしたはずだ。
おれは戦闘マシンと化した。
おれめがけて飛来した怪猫を、三七五マグナム・ライフル弾が空中で捕捉した。衝撃で宙を跳び、体勢を立て直す寸前に第二弾が顔面に炸裂する。服の切れ端が吹き飛び、肩付けした銃床の反動が右肩を襲う。おれはびくともせず、空中をのたうつ妖怪へ破壊と死を送りつづけた。
背後の樹々は揺れ、一本がなかほどから白い木肌を見せてへし折れた。貫通しているのだ。四発、五発――最後の一発で怪猫は地に墜ちた。やった!
しかし、一撃で|羆《ひぐま》すら倒す大口径マグナム弾六発を浴びながら、怪猫は叩き伏せられた地面からぐいと相貌を起こした。服はずたずただが、傷痕は一カ所もない。こいつは間違いなく化け物――三〇〇年前の怨霊だ。
弾丸が尽きたと見たか、怪猫は一気に突進した。死の鉤爪が迫る。
おれはライフルを逆手に持ち替え、とびのきざま渾身の力を込めて大猫の脳天へ打ちおろした。粘土を殴る手応えが途中で消え、銃床が折れて吹っ飛んだ。熊の頭だって|熟柿《じゅくし》みたいにつぶせたはずだ。
怪猫が吠えた。
頭頂をなでもせず右手を横なぐりに振った。絶妙のタイミングでおれは身をひねり難を逃れた。ライフルの銃身を叩きつけ、ショック・ガンを抜く。走り寄る影へ引き金を引き絞った。
快適な震動とともに、空薬莢と敵の身体が宙に舞う。放水車のシャワーを浴びているようだ。
三〇発の弾丸は二秒で尽きた。おれはショック・ガンを捨て、木立ヘと走った。
背後で追いすがる気配。
びゅっ! と頭上で風が鳴ったとき、おれは身を屈めて木立の密集地へ突っ込んだ。
怪猫が立ち停まったときに見極めておいた場所で、藪と繁みが木立の間隙を埋め尽くしている。わずかな隙間を通って迅速に移動するのは空を飛んでも不可能に近い。
だが、おれには可能だった。
深層催眠と栄養剤の効果であらゆる感覚もまた超能力のレベルまで研ぎ澄まされていた。意識の選んだ逃亡の目的に従い、視覚が聴覚が、第六感までもが木の配列、風の通路を読み、脱出路を捜す。超音波で闇夜をゆく|蝙蝠《こうもり》と同じだ。
背後で凄まじい破壊音が轟いた。
振り向いて見た。
魔の光景だった。
地上一メートルほどの空中に留まりながら、怪猫は自然の障害も意に介さず追いすがってくるではないか。
その両手が宙を薙ぐたびに、行く手を遮る木も藪もことごとく幹をえぐられ、根元から切り倒されていく。憎さも憎し宮城一族――その怨念がこんな魔獣を生んだのだ。
身体を支配する意識が対決を命じ、おれはかたわらの木立へ跳躍しざま、手刀の一撃で大ぶりの枝をもぎ取った。全長約一メートル。折れ口に爪をたてて硬皮を剥き、槍の穂先をつくる。恐怖心はなかった。
猫は五メートル前方に迫っていた。
その距離が三メートルにまで近づいたとき、おれは即製の手槍を投擲した。時速一七○キロ――全盛期の国鉄・金田正一投手の一六〇キロを陵駕するスピードで、最後の武器は悪鬼の心臓を貫いた。
槍の先端から半ばまでを背中から露出させた串刺しの姿で、そいつは地上に降り立ち、にやりと笑った。笑ったような表情をつくった。
吹き渡る妖風のただ中で、おれは追いつめられたことを知った。
今度こそ逃がさんと、怪猫は草踏みわけて前進を開始した。
おれはあわてた風もなく、最後の武器に手を触れた。
狂気の叫びが梢を揺すり、跳びかかってきた灰色の巨体を、おれは思いきり両手でひっ掴んだ。
一万ボルトの高圧電流が猫の全身を突き抜け、はな[#「はな」に傍点]さんの服は火を噴いた。アクリルの燃える悪臭が鼻をつく。E手袋の修理は完成していたのだ。
だが、怪猫は痙攣ひとつ起こさずおれをねじ伏せた。地球の物理法則に見合った武器は通用しないのだ。
|血腥《ちなまぐさ》い吐息が喉元にかかる。鉤爪がやつの喉を押し戻そうとする腕の筋肉をかきむしった。白い粉がぱらぱらとおち、鋭い痛みが走った。虫よけスプレーも限界だ。
この怪力なら三秒ともつまい――おれは冷静に計算した。
背中を震動が伝わってきた。
わずかに遅れて爆発音。かなり近い。
死の圧力がふっと消えた。
追いすがる暇もなく、ぼろをまとった姿は轟音のした方角へ走り去った。
ため息と同時にめまいが襲った。通常意識の復活であった。
催眠から自動解除されるや、おれの意識は爆発音の正体を探る欲求で満たされた。怪猫は確実に動揺したのである。
さほど遠い場所ではない。
おれは背中の苔や草の葉を払い落として立ち上がった。腕の傷は浅く、血がにじむ程度なのでハンカチを巻き、E手袋は最強に合わせたままにしておく。ほんの気休めだが心細さは感じなかった。水爆でさえあの猫に通用するかどうかわからないのだ。
五、六〇〇メートルも歩いたろうか。妙に荒涼とした場所へ出た。おれの方向感覚からすると、屋敷を中心にレジャーランド建設用地のちょうど反対側約三キロの地点だ。
木立は七、八メートル前方で途切れ、赤茶色の地肌を覗かせた岩山がぐるりを囲む砂漠みたいな土地の端っこが、ぽっかりと黒い口を開けている。
そのかたわらで朱に染まって倒れているやくざ風の男より、いきなり閃いたある真相に衝き動かされて、おれは林を駆け抜けた。
やくざとくれば宮本、宮本となりゃゆき[#「ゆき」に傍点]だ。間違えた。あいつの狙いは地下室じゃなく、多分――いや、絶対に――紅舟の老婆と大猫きよの庵跡だったのだ!
だが、と走りながら疑問が頭をもたげてきた。江戸時代の婆さんの庵に、なんで金属探知器がいる?
恐怖とは異なる戦慄がおれの足を鈍らせた。
ひょっとしたら、庵は、いや庵の近くには? 宮本は地方伝承ばかりを集めていると言った奈緒美の言葉が甦った。
奴は紅舟の老婆の正体に気づいていたのではないか。
ようやく穴の入り口に近づき、右手のE手袋をオフにして調べてみると、男は喉笛を噛み切られて死んでいた。
血みどろのさらしに、SWの|複製《レプリカ》らしいリボルバーがねじ込んであった。マニラかどっかの密造銃だろう。不意を襲われ、撃つ間もなくやられちまったのだ。弾倉には三八口径の弾丸が六発残っていた。ポケットを調べると、六発の予備弾丸がでてきたので、拳銃もろとも失敬する。勿体ないもんな。
爆破用のリード線らしいコードが、穴の口から五、六○メートル向こうに駐車したスカイラインの方にのびている。
穴の中には最高五人か――それと一匹。
おれは車に近づき中を調べた。|鍵《キイ》はそのまま、いつでも発車できる。トランクを開けてみた。武器らしいものは木刀数本だけだが、油紙の包みがあったのでひっちゃぶいたらダイナマイトが二〇本ほどでてきた。ご丁寧に手製の導火線までついてるのは|喧嘩《でいり》用だろう。田舎のやくざめ、物騒な真似しやがる。
おれはうち五本ほどをベルトの間に突っ込み、リボルバー片手に穴へ戻った。
分厚い土の層の少し下から木を組んだ即製の階段が闇の中に降りている。穴の大きさは縦横一メートルほど。周囲に木片がちらばっているところをみると、木の蓋でもかぶせてあったらしい。
計算では垂直に二、三〇〇メートル下ったはずだ。振り仰ぐと入り口が四角い光点と化していた。周囲は岩肌で、触った感触ではまるっきり凸凹がない。くり抜いたものだ。誰かが何かを使い、三〇〇年も前に。
前方の闇が青白く薄れ、おれはリボルバーを握り直した。
岩壁は突然途切れ、淡い光の中になんとも異様な光景が出現した。
形容し難い色彩の壁らしき[#「らしき」に傍点]もの――というのは、まるで騙し絵でも見ているかのように、その垂直面は突如、様々な角度を擁する球面に変わってしまうからだ――、不可思議な角度にねじくれたサザエを思わせる突起物の内側では、これまた色彩不明の|水母《くらげ》のごとき物体が紫の糸とも電波ともつかぬものを吐いては戻し吐いては戻ししている。紫の線が放出されるたびに周囲のひかりが輝度を変えるのは、その行為自体が一種のエネルギー供給と結びついているらしかった。
それでも床だけは奇怪な装置の間を縫って平坦な通路を構成していた。
これが船か。
宇宙船かどうかは知らず、これが三百年前、九州の寒村にひとりの妖婆と妖猫を招いたにちがいない。
そして、何か不測の事態が生じ、船体は茫大な質量を誇る大岩盤に呑み込まれたのだ。
そこまで考え、おれはぞっとして首筋をなでた。
船はそれ以来、生き延びて来たのだ。あの恐るべき主従を呑み込んだまま。もし、船内に、なんらかの形でまだ生き残りが存在するとしたら……
万が一にもその可能性はないと信じながら、おれは、乗員たちの|精神《こころ》を恐れた。人間を生け造りにして恥じぬ生物たち。
右か左か前方か、どちらへ進むか決めかねているとき、右手奥で鈍い銃声が湧いた。
身を翻すや、無茶苦茶な連続発射音にゆきの悲鳴が混じった。
走りながら栄養剤を取り出し、二本を腹に収める。妙に柔らかい床は足音を立てなかった。
奇怪なもどかしさが全身を包んでいた。水中を走るような感触が走行に要するエネルギーを浪費させ、一メートル進むのに五分も十分もかかるような気がしておれは焦り狂った。船内の重力場が異常――いや、船の連中にとって正常とすれば、これが地球上であの猫が空を飛べる秘密なのかもしれない。
前方に霧の壁みたいな物体がそびえていた。本能的にドア[#「ドア」に傍点]だと悟り、肩からぶつかると、何の抵抗もなく通りすぎた。
眼の前は廊下じゃなく、明らかに個室で、喉を噛みちぎられたアロハ・シャツの男の死体を、三人の決死隊が茫然と見つめていた。
ゆきと宮本とサングラスのやくざと。
いきなり出現したおれを見て、全員がひえっと後ろへ下がったものの、ゆきがすぐ、つっかかってきたのには驚いた。
「なによ、あんた、こんなとこまであたしたちの邪魔しにきたの? どうやって嗅ぎつけたのよ」
「よしな」
おれは、コルト・ガヴァメントのレプリカらしい不格好な銃を向けようとしたやくざの胸に、SWの偽物を突きつけて命じた。血の海を広げてる床の男を指さし、
「入り口の奴はやられてた。ここでもひとりか。こいつを殺したら怪猫のやつすぐ消えただろ。じわじわと追いつめて、鼠をなぶるみたいにひとりずつ殺す気だぞ。――その武器、通じたか?」
やくざは総毛だった表情で首を振った。人間相手にゃ虚勢も張れるが、怪猫に凄んでみてもはじまらない。
おれは壁にぺったり張りついて震えている宮本の方を向いた。
「これが『紅舟』か? 紅い舟ってのは、宇宙船の外殻が大気との摩擦で灼熱してるのを目撃した誰かが名付けたらしいな。おたくも、善良な一般市民相手に土地転がしでもやってりゃいいものを、ヘンに民間伝承の実体をあばこうとなんぞするからこのざまだ。別段、助けに来たわけじゃねえが、猫が、いや、この船の飼い猫が戻ってくる前にさっさと逃げろ。出入り口まで送ってやる」
「冗談でしょ、ここまできて嫌よ」とゆきはごねたが、宮本とやくざは一も二もなくうなずいた。
形勢不利と見たか、ゆきは血相変えておれの肩を掴んだ。たちまち眼に涙を浮かべ、鼻にかかった声で訴えはじめた。時間がねえんだけどなあ。
「やん、やん、やん。あたし帰らない。せっかく苦労してさ、たくさん本読んで、大ちゃんのメカまで借りて探し当てたのよ。いわばあたしのトレジャー・ハンターとしての出発点じゃない。お願いだから邪魔しないで。|侠気《おとこぎ》を見せてよ。――ちょっと、随分筋肉が厚くなったじゃない。ヘラクレスみたい。だから、ねっねっ。このふたりを追い出したらすぐ戻ってきて、あたしと一緒に金目のもの探しましょ。お爺さんだって、きっと喜んでくれるわっ!」
最後のわっ! に力を込めたが、おれはきかなかった。
「お説の通りご立派な出発点だが、生命あっての物種って言葉を知ってるか。おまえは何も知らんだろうが、この船に乗ってるのは友好親善が目的の宇宙人なんかじゃねえ。他の惑星の家畜や住人を平気で食らうような奴なんだ。となれば何しにきたかも見当はつく。地球征服、ないしは人間狩りさ。
ひょっとしたら、有史以前にも何度かやって来てたかもしれん。恐竜たちの正体不明の衰滅や、どう探しても見つからんミッシング・リングなんてのは、奴らに絶滅させられちまったのかもしれんぜ。あるいは楽しみ半分で殺してたのか――こっちの方が的を射てるかな。典方と婆あの親密さをみれば……」
やくざが素っ頓狂な声をあげたのは、このときだった。
「な、なんだ、おめえは――!? この糞婆あ、どっから入ってきやがった」
仲良し三人組が立ちすくんだのは言うまでもない。
入り口へ振り向いたおれたちの眼には、しかし、何も映らなかった。
「く、来るな、近寄ると撃つぞ」
金切り声で喚きながらやー公は後退していった。こいつにだけは、迫りくる怨霊の姿がはっきりと見えるのだ。おれはパウチから護符を抜き取り、右手に高くかざしてやくざの前に立った。
効果があったのか、ほっと息を吐き出す気配が伝わってきた。
「どうした、消えたか?」
「も、もう嫌だ、こんなとこ。わしゃ、ひとりで逃げるわい!」
言うなり骨なしドアへ駆け出していったのは大した度胸だが――
姿を消して三秒とたたないうちに、魂切るような断末魔の叫びが空気を揺すった。
「これで三人きりか――」
おれはぽつりとつぶやいた。
「武器はあるが、役にゃあたたない。外じゃ船のペットが手ぐすねひいてお待ちかね。さあ、どうする?」
「な、なんとかしろォ!」
と宮本が身も世もない風情で喚いた。おお、おおと全身をわななかせて壁をぶっ叩く。どういう仕組みなのか、衝撃を与えるたびに、おれには壁の曲率が変わるように思えた。打撃音も一発ごとに異なる。
「やだ、もう。青森のぴーちゃんに貰ったお守り持ってくればよかったわ!」
ゆきも地団駄踏んだ。
「青森のぴーちゃんだ? おまえ、そんな僻地のトンチキとも」
言いかけて、おれは狂ったように部屋の中を見回した。
壁にはベッドらしい窪みがいくつもうがたれ、よく見ると、かなり広い船室だ。おれは、きょとんとしてるゆきを尻目に、ベッドというベッドを覗き込み、壁に吸い込まれてるように見える突起やら何やらに手をかけ、引いたりねじったりした
いくつかが、収まっていた部分の痕跡も留めずに抜け落ち、床の上で振ると、水晶みたいな、骨片のような、わけのわからない物体が転がった。
「なんの真似よ、一体?」
「やかましい。おまえもあたれ[#「あたれ」に傍点]。乗組員の荷物を失敬するんだ。トレジャー・ハンターの第一歩だぞ」
「かっぱらいじゃないの、馬鹿!」
しかし、おれの勢いに気圧されてか、ゆきもおかしな物体を集め、五分もしないうちに、おれの両手は得体の知れぬ小間物屋の店先と化した。
光る正方形だの、蠢く電線みたいな奴だの、まともな人間なら見てるうちに発狂しそうな品々を眺めていると、おれの頭にある考えが形をとりはじめた。
ひょっとしたら、おれたちは根本的な部分で、大きな過ちを犯していたんじゃあるまいか。
「こうしてても仕様がねえ。脱出だ」
おれは、泣き喚くのをやめ呆けた顔で坐り込んでる宮本の首根っこを押さえて立たせ、リボルバーを渡した。無駄なのは眼の前で目撃したはずだが、表情に生気が戻る。何にもないよりはましなのだ。
「いいか、外へ出たら、まっすぐ元来た道を走るんだ。何がでても振り向くんじゃねえぞ」
しかし、一歩外へ出た途端、指示は無用の長物と化した。
辿ってきたはずの通路は消え、なまめかしく光る汚怪な壁が行く手を塞いでいたのである。まったく、なんつー船だ。
奥へと走る通路の端っこで、おれは怪猫きよが、招き猫よろしくおいでおいでしているような気がした。
だが、もう選択は許されない。
おれたちはおっかなびっくり前進しはじめた。
明らかに別の通路と枝分かれしていると思える個所もあったが、すべて粘っこい壁面がそびえ立っていた。
「この船……まだ動いてんのね、凄いわ。どんな動力使ってるのかしら?」
「わからねえ。原子力ごときじゃ恒星間飛行はおぼつかんだろうし、|空間歪曲航法《ワープ》か、スター・ドライブか……米ソの宇宙関係者にみせたら大喜びするだろうな。何万人のエージェントを死なせても手に入れようと暗躍するだろう。価格なんかつくまい」
「つまり……あたしたちの言い値ってわけね……」
何かが脳天を直撃し、おれはあわてて振り向いた。
ゆきの眼はうるみ切っていた。
右手がゆっくりと、Tシャツの襟から乳房へ上がる。しまった! こんなときに金銭妄想欲情症がでやがった。
Tシャツの下で乳房でも揉んでるのか、手が微妙な動きを示しはじめ、ゆきの足は停まった。米ソの国庫に眠る黄金に理性を奪われ、状況も忘れて快楽を貪りだす。
「馬鹿、何してる、歩かねえか!?」
「嫌よ、いま、いいとこなの。イカ[#「イカ」に傍点]なきゃ、あたしどこへも行け[#「行け」に傍点]ない」
こん畜生、尻蹴とばしてやると一歩進み出た瞬間、後頭部で風が動いた。
わっと振り返りざま、おれは二メートルも通路を跳び下がり、灰色の猫の腕が、無念そうに壁へ吸い込まれてゆくのを見守った。宮本のSWをひったくって撃つ。弾丸は跳ね返り、おれの耳たぶをかすめた。
えい、スプレーをもってくるんだった。
ゆきはと見ると、バスト・タッチだけじゃ物足りないのか、左手もショート・パンツの中へねじ込み、二倍の激しさで喘いでいる。一体全体、事情が呑み込めているんだろうか。
おれはゆきの片手を掴み、強引に歩き出した。ついてはくるものの、両手の動きは続行中だ。宮本の方は怯えきり、ただ歩くだけのでく人形だし、えらい道中があったもんだ。猫の含み笑いを聞いたような気がした。
光と突起物と軟弱な壁と床の世界を三〇分もさ迷った頃、宮本がダウンした。恐怖のために神経がまいっちまったらしい。
ゆきは――楽しむだけ楽しんで、もうケロリとしていた――金目のものはないかと左右に眼を走らすばかりで、おれが宮本を立たそうとしても、置いてっちゃいなさいよ、と手伝おうともしない。ここまで連れてきてくれた男に冷たいもんだなと嫌味を言うと、
「なにさ。会うたびにさんざんバストやヒップ、触らせてあげたわよ、宇宙船一隻ぐらいじゃお釣りがくるわ」
おれはあきらめて、宮本を脅しつけ、強行軍を再開した。
時が経つごとに、おれは宇宙船の奇怪さに圧倒されはじめた。
多分、侵入者を一種の迷宮へ送り込むための装置がおれたちの通路を決めているのだろうが、その背後に秘められた超科学技術と途方もない空間の広がりは、ひしひしと理解力の枠組みに食い入り、たちまちそれを満たして滲み出ようとした。
こりゃ、ただの探査用宇宙船じゃない。
そんな確信が形成されはじめたとき、おれたちは意外なものに遭遇したのである。
はじめに見つけたのは、ゆきだった。
なんのつもりか足をとられてつっ転び、壁に手をついた、と思った刹那、傾斜は止まらず、壁にめり込んでしまった。あわてて引っぱり出そうとすると、すぐに手がでてきておれのをもぎ放した。
ピン! ときた。どうやらこの部分だけシールドがほころびてるか、エネルギー供給がうまくいってないらしい。
ゆきが何を見たか猛烈に知りたくなり、おれは宮本を放さず壁をくぐった。
光というものが、これほど似つかわしくない光景はまたとあるまい。
かがやく光芒を誇らしげに受けてそびえるのは、果ても知らぬ広間の一画を彩る白い山であった。
白骨だ。
その場にへたり込むゆきと宮本を放って、おれは全高五メートルはありそうな山に近づき、中腹から突き出た肋骨らしい一本に手を……。
だしぬけに、頭の内部で光が炸裂した。
細胞の個々に含まれるDNAに別種のものが加わり、半ば強引に「体験」するよう求めた。そのための情報は、極度に時間を圧縮した集合記憶としておれの脳内部へ送り込まれてきた。
それは「恐怖」の記憶だった。
この宇宙船が旅する目的を、おれはついに知った。
デネブでは、コアセルベート段階の下級生命体が虐殺されていた。スピカ系第三二惑星アロイの飛翔生物は、宇宙船の放った飛行殺人メカに追われ、三リナン後に全滅した。アルデバランの高等爬虫類は、精神崩壊を引き起こすガスを大気中に散布され、|理由《わけ》もない恐怖におののきつつ生きる希望を失い滅び去った。
そのたびに歓喜が船と乗員を捉えた。彼らは哀れな生物たちの恐怖を記憶巣内に収め、それを楽しみながら宇宙の旅をつづけた。
「恐怖」は彼ら生命体のエネルギーそのものであり、船の動力でもあった。死と虐殺は付録にすぎなかった。
恐怖狩り。
このようなスペース・ドライブを誰が想像しただろう。
死の恐怖におののく相手が、絶望のさなかで吐き出す純粋な恐怖を食って生きる生命体。それを求める旅。
鉄則はひとつだと「記憶」は告げた。
より高度な知能をもつ生命体ほど恐怖の「味」もまた勝る。
絶対兵器による抹殺時間を告げられ、成す術もなく待ちつづけたアルタイル第四惑星人、強烈な磁力干渉により、電子分離の死を迎えた白鳥座の電気生命体……。
全宇宙より集められた「恐怖」の記憶に、おれはほとんど発狂しそうだった。自己催眠のか弱いシャッターがなければ、脅え切った胎児の状態に戻り、無垢の精神で母の愛護を求め泣き叫んでいただろう。
彼らが殺害しコレクトした数千億に達する生物の「恐怖」を、おれはことごとく味わったのだから。
ここはそのための疑似体験ルームだったのだ。
……おれは肋骨らしい一本に手を触れた。
凝集時間。
もう調べる必要はなかった。
おれは二人のもとへ戻った。
一応説明してみたが、ゆきは目をぱちくりするばかりで、宮本は|最初《はな》から聞いてなどいなかった。
「――へえ、そうなの。おかしなもン探して旅するのねえ」とゆきは言いやがった。「でも、典方が二人を閉じ込めて焼き殺した訳がやっとわかったわ。彼が救ったきせろ[#「きせろ」に傍点]って、地球のことだったのね。地球のサディストも結局、自分の星を守ったわけか。――ところで、こんなに大きな船なのに、乗組員が例のお婆さんひとりってのは、少なすぎないかしら」
「ひとりじゃねえ、おれたちの言葉で言うと一匹だ」とおれは訂正した。
「ん?」
「ここんとこが決定的な誤解だったのさ。やっとわかった。紅舟の老婆はただの人間――おれたちとコミュニケーションをとるための操り人形にすぎなかったんだ。船の主は、怪猫――正しくは猫に似た他生命体だが、まさに怪猫というにふさわしいな。だからこそ、老婆の怨霊はこの世界の護符で撃退できたが、怪猫とやつに殺され取っ憑かれた直子さんには効き目がなかったんだ。その代わり、もとが人間だから、ライフルで永眠してくれたがな。
それから、この船の乗組員が少ないって件についての解答はこうだ。船が地面にはさまれてから脱出孔を掘るまで五年もかかった。惑星を吹っ飛ばす絶対兵器をはじめ、あらゆる装備を統括してた電子脳がイカれちまったもんでな。そのあいだ、奴らは何を食ってたと思う?」
「わかんない」
「あの記憶巣には、仲間の『恐怖』も入ってたんだ」
「じゃ……共食い……?」
「そういうこった。さ、もう行くぞ」
「行くって、どこへよ。あてのない旅なんかごめんだわ」
「大丈夫さ。やっとこ切り札ができた」
え? と眼を見張るゆきにウインクして、おれはベルトのダイナマイトを三本抜き取るや、パウチから取り出したマッチで導火線に火をつけ、溢れ出る光の奥に投擲した。宮本はほっとき、ゆきに抱きついて床に押し倒す。
凄まじい轟音と火花が、輝きに毒々しい色をつけた。天地は震動し、爆音は反響しつつ広間の高みへと昇っていく。
ふっと光が色を失った。
広間の入り口を覆うシールドも消えてる。どこかで回路が切断されたのだ。猫めあわてるなよ。
なんで仰向けに押し倒すのよとわめくゆきを引き起こし、爆風でぶっ倒れた宮本の肋骨に蹴りを入れて立たせ、おれたちは通路へ戻った。
何本もの道が不可解な角度にうねって上下左右へ延びている。あきれたことに、ここは地上一階じゃなかった。頭上はともかく、遙か下を巨大なゼリー状の機械群らしきものが埋めている。その数カ所から色つきの水みたいなものがぴゅうぴゅう飛び出ているのは、この世界でいうショートなのだろう。それがどこかに降り落ちるにつれて、足元からみるみる霧状のものが湧き上がり、十歩といかないうちに世界を吐き気を催す色と臭いで満たしたのには閉口した。
しかし、おれの超感覚は栄養剤二本で冴え渡っている。入り口からここまでの道程はばっちり記憶済みだ。
どさくさにまぎれて十分逃げられる。
と思いきや、ゆきが「あっちに出口みたいのある!」と叫びざま、おれの手を振り切って走り出した。
あわてて宮本の腕をしょっぴき後を追う。
数メートル先にぽっかり口を開けていたのは、出口というより破損孔みたいだったが、ゆきは構わず突進した。当然、こっちも追従する。逃げてんだか追っかけてんだかわかったもんじゃない。くそ。
だが、妖霧に満ちた船内を一歩出たところで、おれたちは立ちすくんでしまった。
「なによ……ここ」
ゆきのつぶやきは、こちらはまぎれもなくおれたちの世界の住人がこしらえた、不気味に焼け|爛《ただ》れた石壁に反響した。
「招き寄せられたらしいな。記憶巣を破壊したことで、あいつめ怒り狂ってるだろうし、復讐は怖いぜ」
言いながら、おれは「エイリアン・キャットの復讐」というタイトルで、ジョージ・ルーカスか、スティーヴン・スピルバーグに売り込めないものだろうかと考えた。いっそ、ジョン・カーペンターかデヴィッド・クローネンバーグはどうだろう? 配給権の半分はこっちが握って……。
「ここ……あの地下の拷問部屋じゃないの?」
明るい夢はゆきのひと言でしぼんだ。
「そういうこった」と、さっきの体験ルームほどではないが、それでも優に五、六○畳はありそうな死臭漂う空間を見ながら、おれは手にした異界の品をきつく握りしめた。
そびえる石壁、その中ほどから垂れ下がった鎖つき手枷、足枷、木の台に鋭い刃を逆に仕込んだ道具、積み上げられた石の板――どれもが木の部分は黒く焦げ、金属部は赤く錆をふいているだけに、三〇○年前の異常な悲劇とその結末を、あますところなく伝えていた。部屋の隅に積まれた黒いドクロはすべて歯を剥き出し、三○○年後に訪れた無作法な侵入者へ、呪いの言葉を吐きかけているようだった。
部屋の中央に置かれた二つの石の棺が、おれの注意を引いた。大急ぎで近づき、蓋に手をかける。十中八九、老婆と猫の死骸が横たわっているはずだ。これに護符をくっつければ、少なくとも婆さんの方は成仏してくれるかもしれない。
おれは二○○キロは下るまいと思われる分厚い蓋に両手をかけ、満身の力を込めた。普段ならとても無理な芸当も、急造とはいえ現代のヘラクレスには可能だった。
「う、動いた!」
ゆきが驚きの声をあげた。
ガリガリと石と石とがこすり合う音をたてながら、石蓋は覗き込むのに十分なくらいまで横にずらされた。
内側にあるのは、黒くひからび、肉も骨も押し縮められた女のミイラだった。ひときわ黒い|眼窩《がんか》がじっとおれを見つめている。胸前で掴みかかるみたいに構えた両手を見て、おれはぞっとした。いかなる甘言を弄され、狭い石棺に閉じ込められたものか。迫りくる窒息死と孤独の影に脅え、必死で石の蓋をひっかいたものだろう。
護符を貼ろうとパウチに手を入れたが、なんたることか一枚も残っていなかった。舌打ちして次の棺に移る。
こちらは老婆よりも生前の姿を留めた大猫の死骸だった。同じ条件なのに|死蝋《しろう》化しているのは、体組織の差だろう。やはり、あいつは怨霊だったのだ。
ちょっと首をひねり、おれは右手の品物をミイラの上にばら撤こうと手を伸ばした。
急に視界を暗黒が覆った。
「きゃっ」とゆきが悲鳴をあげてすがりつく。
「あわてんな。宇宙船との通路が閉ざされただけさ。怪猫が術を解いたんだ。おれから離れんなよ」
注意して、おれはマッチを模した発光灯をこすった。
まばゆい光が闇夜を白昼と変えた。
「な」
ひょいとかたわらに眼をやり、おれは腕にすがっているのが別人だということに気づいた。
大猫が笑っていた。
猛烈な衝撃が顔面を襲った。相手を認識してから行動を起こすまで、おれは○・〇一秒でやれる。常人の二○倍だ。だが、この一撃を避けることはできなかった。
右の横顔をもっていかれなかったのは、まだ防虫スプレーの効果が残っていたからに違いない。
無限の感謝と安堵を込めて、おれは右手の品を発光灯ごと怪物の顔に叩きつけた。
本当はひとつずつぶつけて効果を確かめたかったのだが、とにかく、どれかが効いたらしく、怪猫は悲鳴をあげて跳びすさった。
ゆきの絶叫がおれを振り向かせた。
背後から手を回し、豊満な乳房を上から押しつぶしているのは紅舟の妖婆だった。
おれは一気に老婆の死棺へ跳んだ。
その姿がすっと消えた。
ゆきが硬直し、じろりと横眼でおれを眺めた。老婆の眼で!
床にばら撒かれた何かが怖いのか、怪猫は立ちすくんだまま、ゆきだけが近づいてきた。その顔は時折ゆきに、時折老婆に見えた。
おれは石棺によじのぼり、パウチから超能力ペンシルを抜き取った。
ゆきの顔に動揺の色が走る。大地を蹴って宙から躍りかかってきたとき、おれは夢中でミイラの胸に、最も簡単な除霊マーク――五茫星を書き込んでいた。
空中でゆきが身をよじり、老婆の声で絶叫した。重い肉が床を打つ。
黒い影が石段の方へ走る。宮本だった。
ゆきを抱き上げ、おれも必死で追う。
鉄扉には外から鍵がかかっているはずだ。
案の定、押しても叩いてもびくともしなかった。
おれは宮本を遠ざけ、薄暗がりでマッチ型バーナーを取り出した。発光灯が消えなかったのは神さまの恩恵にちがいない。おれは善人だ。
楔型の炎が噴き出す。鉄扉の蝶番に押しつけると、鉄の芯棒はみるみる熱い粘液となってしたたり落ちた。
怪猫は動かない。
上下二本の蝶番を溶かし、おれと宮本は体当たりをかました。
鈍い音をたてて、扉はあっさり剥がれ、外側へ倒れた。
夕闇と星空が見えた。
一歩踏み出した途端、いきなり宮本が体当たりをかけてきた。おれだけならともかく、ゆきが一緒で不覚をとった。踏んばる力も出ないまま、おれとゆきは石段から怪猫の足元へと落下していった。
気がつくと、首の骨がずきんと軋んだ。身体中がめったやたらと痛い。頭上からゆきが見下ろしていたが、おれはつい、イテテと口走ってしまった。
「ありがと、大ちゃん」
いきなり言われて、おれは?マークを乱発しながら身を起こしかけた。イッテッテ。すぐゆきの太腿へ戻った。
「あんな高いところから落ちたのに、自分のことは放っておいて、あたしをかばってくれたのね。落ちる途中で我に返ったの。あなた、下敷きになって……」
ゆきは絶句し、おれは三メートルはありそうな石段へ眼をやり天を仰いだ。しかし、おかしなときに眼を覚ます女だ。
「猫はどうした? 尻の肉噛じられなかったか?」
やっとこさ声がでた。ゆきは大きくうなずき、
「それがさ、すっごくおかしいの。あたしたち、奴の足元へ落ちたのよね。ぐわっと牙剥いて跳びかかりそうな格好したから、思わず手元にあったナイフを構えたの。そしたら、あいつ、ぎょっと後ろへ跳びすさって、さあっと奥の闇へ消えちゃったんだ」
「?……――そのナイフ、お前のか?」
「ううん。これよ」
ゆきが手渡した品をみて、おれは吹き出すのを必死にこらえた。落下の衝撃でパウチからこぼれたのだろう。鞘もはずれた能なしナイフが、まだ尽きぬ照明光とマッチ・バーナーの光を刃に湛え、青白い笑みを浮かべていた。
「こんなもの見て逃げ出すとは、よっぽどおまえの顔が怖かったんだろうな」
「失礼ね。大ちゃんを助けようと思って必死だったんだからあ。念力よ」
ゆきの口元もほころんだ。
「でも、何さ、ここに散らばってるおかしな品は? 気味悪いわ」
「宇宙船乗組員の私物さ。別にかっぱらおうと思ったわけじゃない、おれが欲しい品がどれかちんぷんかんぷんだったんでな。お守りがさ」
「?」
「おまえのひと言がヒントになったんだ。奴らがどんな神さまを崇めたてまつってるか知らねえが長い船旅だ。ひとりぐらいは信心深い奴がいてもおかしくないと思ったのさ。そして、もうひとつ、おまえのおかげで決定打が掴めた」
きょとんとするゆきの頬に強く唇を押しつけ、おれは痛みをこらえて立ち上がった。
「どこへいくのよ?」と呼びとめるのを、後も見ず猫の石棺に歩み寄り、白濁した首すじへ思いきり能なしナイフを振りおろす。
柄までめり込んだ。
「見たか?」
「大ちゃん、頭打ったんじゃないの? 猫のミイラなんか刺してどうすんのよ?」
罰当たりにも、ゆきは不審そうな声で言った。
「何をいうか、見ろ、ちゃんとナイフが刺さったじゃねえか」
「……ナイフが刺さるの、当たり前じゃなくって……」
いかん。おれは胸の中で舌を出した。ゆきはナイフの件を聞いてなかったのだ。まるく収めようとにっこり笑うと、緊張の面持ちで後じさりやがる。
「えい、勝手に人を気狂いと思ってろ。行くぞ、時間がねえ」
おれはナイフを木の鞘に収め、ベルトにはさんで石段へ向かった。ゆきも急いでついてきた。
「時間がないって、どういう意味さ?」
「わからんのか。あの猫は、ようやく自分を殺す武器が敵の手に渡ったと知ったんだ。この世界のものは斬れんが、あいつの世界の存在なら怨霊だって叩っ斬れる破邪の剣だ。恐らく、典方が老婆から手に入れたか盗んだかしたもんだろうが、今までは、あれが出てこないから好きなようにおれたちをなぶってた。互角となりゃあ、怨みを晴らすのは一刻も早い方がいい」
「だけどねえ」とゆきは異を唱えた。「ミイラを刺したら怨霊は消えたわ。猫も同じじゃないの? それともさ、魚を養殖して食糧にする怨霊なんているわけないから、あいつ、実物なんじゃない?」
「宇宙人のことがおれたちにわかるか」とおれは顔をしかめた。「よし、賭けよう。おれはマンションの権利、おまえは|処女《バージン》」
「いいわよ。どっちにするの?」
「怨霊だ」
「あたし、本物――さ、確かめにいきましょ」
鉄扉の外は、遊園地からややはずれた森の真ん中だった。丈高い雑草や蔦に隠れて、よほど眼を凝らしてもわからない。訪問者も滅多にないだろう。金属探知器は歯が立たないが、怪猫の眠りを醒ますには十分な距離だった。
闇は万物を覆っていたが、おれは迷いもせずに森を抜け、道路に出るや走りだした。ゆきも必死でついてくる。
栄養剤の効き目もあってか、三○分ほどで門前に到着したときも、|呼吸《いき》の乱れはなかった。ゆきも――瀕死の病人といった風情だが――とうとう後れをとらなかった。
「休んでろ。今夜で一件落着だ。ただし、どっち[#「どっち」に傍点]が喜ぶかはわからん」
「やよ。……ここまで来て。……一緒にいく」
おれは肩をすくめて門をくぐった。
次の瞬間、おれは眼を疑った。
玄関前にバスが停まっている! 怪猫に襲われた虐殺のバスが!
くそ、総力戦か!?
おれは脱兎のごとく玄関へ駆け込んだ。
血臭に顔をしかめるのと、足がぬるりと滑るのと、どちらが先だったかはわからない。
「きゃっ――たた大変、すごい血よ!」
|三和土《たたき》と板の間も血の海だった。幾つもの血染めの靴跡が入り乱れ、奥へと向かっている。
それにしちゃ邸内はやけに静かだ。
廊下を秋葉の寝室へ向かう。形容し難い不気味さが|惻惻《そくそく》とおれたちを包んだ。
「やだ、暗い。電気つけるわね」
おれと違って夜目の利かないゆきが、おっかなそうに言ってスイッチをいれ、たちまち、ひい!と叫んだ。廊下に転がっていたものは――。
「こ、こ、これ、中森刑事さんよ――ないわ、ないわ、顔が半分ないわ」
大柄な刑事の死体は、残った左半顔で虚空をにらみ、無念の形相をこびりつけていた。
眼を凝らすと、あるわあるわ、あっちにひとり、こっちにひとり、恐らくは取っ憑かれたバスの乗客たちに不意をつかれたものだろう、武器ひとつ握れず、廊下を血に染めていた。
おれは二つの死骸から、ニュー・ナンブ・リボルバーを抜き取り、一丁をゆきに手渡した。
「この分じゃ警官隊は全滅だ。いいか、この家の使用人を見たら遠慮なくぶっ放せ。それがいちばんの供養になる」
「まっかしといて」
ゆきはどんと胸を叩いた。公認で人が撃てるためか、ファイト満々だ。こいつも異常人だな。
なんとも不気味な道行きだった。
廊下や障子を血に染めて警官たちが倒れているのに、十人近い犯人とまるで出食わさない。おれの部屋の前まできて、おれたちは中ヘ入った。侵入の形跡はない。
「どうするの?」
小声で訊くゆきに、おれは無言で、ショルダーから取り出した防虫スプレーをひっかけた。
「ひどいわ。ちょっと、これ、ひりひりするじゃない!」
「だから今までかけなかったんだが、生命にゃ変えられまい。これで丸半日は拳銃で繋たれようが、怪猫に食いつかれようが平ちゃらさ」
念のため自分にもぶっかけながら、おれはゆきにウィンクした。
アメリカ陸軍が開発した自慢の防弾塗料|BPL《ビュレット・プルーフ・リキッド》――皮膚の表面に張り巡らされた特殊コーティングは○・○三ミリの薄さながら、実に七層に及ぶ衝撃吸収皮膜を構成し、世界最強の市販銃弾四六〇ウェザビー・マグナムの猛打さえ跳ね返す。六時間で効果半減、半日で剥げ落ちてしまうのは、その簡便さ、効果からいって欠点にもなるまい。最大の難問は肌荒れと皮膚呼吸だが、これはどちらも近々解決される予定だ。
目下は軍の秘密兵器だが、市販されれば一大センセーションを巻き起こすだろう。視力にも影響を及ぼさないため、こと銃弾に関しては漫画のスーパーマンが可能となるのだ。
ばりっと音がして誰かが襖を突き破って突入してきた。
バスに乗ってた四○男と小娘だ。
みるみる形相が大猫のそれに変わる。
火線と轟音が二人を薙ぎ倒した。
ゆきの一連射。どちらも眉間を一発で撃ち抜いてる。二メートル足らずの距離とはいえ、天才級だ。
これで敵も不意はつけまい。
おれたちは外へ出た。
秋葉の部屋へ向かおうとしたとき、中庭で太い声がおれを呼んだ。
離れじゃない。もっと奥。蔵の方角だ。
廊下から跳び降りると、こちらへ駆け寄ってくる死人どもが見えた。大猫の姿はない。
ゆきとおれの銃が同時に咆哮し、彼らは次々と人間に戻った。
蔵の前まで一気に走る。
扉の覗き窓に、朝丘刑事とつかさの顔が映っていた。異変に気づき、秋葉もろとも一番頑丈な建物へ逃げ込んだのだろう。
近づいておれは青くなった。あの分厚い扉の中ほどに、直径三〇センチ近い穴が穿たれているではないか。きよ[#「きよ」に傍点]の力業だ。あと一分遅かったら……、
「危ない、大ちゃん!」
ゆきの声より気配を察しておれは身をひねった。一瞬遅く、首すじから腰にかけて鋭い鋼がかすめる感覚。構わず横なぐりにナイフを振った。
ぎゃっ! と悲鳴があがり、きよ[#「きよ」に傍点]は右脇腹を押さえて跳びすさった。指の股からどす黒い血が噴き出している。怨霊も血を流すとは変わった生態系の生き物だ。
しかし、おれはもう恐れなかった。
ナイフを胸前に出し、わずかに腰をひいて相手の出方を待つ。
勝機我になしとみたか、ずずっと後退する怪猫の退路を、つかさと朝丘刑事が塞いだ。
おれは一気に間合いをつめた。
鉤爪が走る。その速度と進路を予測して、おれの身体は半円を描いた。
スピードがすべてを決した。
おれの身体はきよ[#「きよ」に傍点]の両腕に抱きすくめられる形でその内側へ入り、必殺のナイフは円運動に乱れもなく、怪猫の肋骨から心臓部をえぐっていた。
絶叫を放ち、血煙あげて怨霊は倒れた。
朝丘刑事が感嘆の声を発する。
おれは右手に残ったナイフを見、それから怪猫に視線を移した。
身体は溶けつつあった。輪郭がぼやけ、中心部から透明化し、大気と混じり合ってしまう。すべては終わったのだ。
「つかさ」
蔵の方で澄んだ声が呼んだ。
石段の上に秋葉が悄然と立っていた。
猫が跳ねた。
半ば消えかかった姿で鉤爪を振り上げ、秋葉の頭上へ。ゆきが悲鳴をあげた。
おれの右手は無意識に動いた。
銀光と黒い影が交差し、怨霊は秋葉の手前数十センチの石段へ鉤爪を突き立て、今度こそ動かなくなった。
「実物ね」ゆきが言い、
「怨霊さ」とおれが答えた。引き分けか。
ふらりと倒れかかる秋葉へつかさと朝丘刑事が駆け寄るのを眼の隅で捉えながら、おれは、急速な脱力症状を感じていた。
結局、おれとゆきの努力は徒労に等しかった。てんてこまいで怪猫事件の後始末をつけ、やっとこ出向いた竪穴の底には、溶け崩れた、腐敗臭を放つ金属塊のほかには、宇宙船の影も形もなかったのである。
原因はひとつ、あの霧だ。もはや修復不能の状態と船自身が判断したとき、自動的に崩壊作用が励起されたとしか思えない。
地下室の方はきよの怨霊が死滅した段階で、これまで保ってきた霊エネルギーを失いでもしたのか、こちらも土砂に埋もれて手のつけられない状態と化していた。
残ったのはナイフと写真だが、前者はどういうつもりか刺さった大猫もろとも消滅してしまい、後者はおれが買い上げることになった。秋葉とつかさは差し上げると言い張ったが、これもどういうつもりかゆきの野郎が、二人とも死んだ人たちへの保障で大変なんだからとおれを説得し、百億近い金額で交渉が成立した。
NASAへ売りつける夢もこれでおじゃんだ。おれは宝しか売らないし、買い取った宝などその瞬間に価値を失っている。小切手を渡したとき、秋葉が涙を浮かべて礼を言ってくれたのがせめてもの慰めだ。
佐賀駅での別れ際、今度の事件で味わったショックを忘れるために療養するという秋葉の肩に、おれはそっと触れた。ゆきは弁当を買いに出向いてその場にいなかった。
「今度お眼にかかるときは、ゆきさんのような強い人になってますわ」
おれが眼を剥くのを見て、秋葉は静かに言った。
「あの方、あなたに内緒で毎日私のところへきては、頑張れと励まして下さったのです。あの方のお話をきくだけで、私は明るい気持ちになれました。どうしてそんなに気をつかってくれるのかと伺うと、女のよしみ[#「よしみ」に傍点]とだけおっしゃいました」
眼だけでは足りず、口まで開けたおれに、つかさが追い打ちをかけた。
「ぼくが叔父貴たちと渡り合えたのも、ゆきさんのおかげなんだ。毎晩やってきて、あれこれ手ほどきしてくれたんだよ。――そんな顔しないで。君の怒るようなことは一切していない。あの人が帰った後で、ぼくは不思議と自信のようなものがもてたのさ」
当分、口は閉まらないだろうなと思っていると、同行の朝丘刑事が深々と頭を下げ、
「今回は、いや、失礼をばいたしました。やくざ殺しの犯人、ありゃ最初から八頭さんじゃねえことはわかっておったんですが、ああやって宮本の肩もてば、あんたのお力であいつをいたぶってもらえると思いましてな。なにせ、札つきの|悪《わる》ですから」
どいつもこいつも――とおれは、屋敷へ逃げ帰る途中、森の中で怪猫に追いつかれたらしい宮本の悲惨な死に様を思い浮かべながらつぶやいた。――主役を放っといて陰で暗躍してやがる。
発車時刻が来た。
列車が動き出すと、ホームで手を振る三人の姿はすぐに見えなくなった。
「ちょっと、何話してたのよ、あたしの悪口?――ふん、何とでもおっしゃい。どうせあたしは男狂いのフーテン娘よ」
弁当を頬ばりながら言うゆきの悪態に、おれは黙って笑い返した。
「そのわりにゃ、味なことするじゃねえか。みんな聞いたぜ。明日からつっぱりの看板は下ろさにゃならねえな」
「ところであんた、秋葉さんと文通でもするつもりじゃないでしょうね」
図星をつかれ、おれはドキリとした。文通なんてまどろっこしい。福岡までジェットなら百分だ。
「いや、別にィ」
「秋葉さんの机の中に、あたし例のもの[#「例のもの」に傍点]入れといたからね。ほれ、あんたとモデルたちが六本木だの赤坂だののバーでキスしまくってる写真」
「なにィ!? ――何て真似しやがる、このど淫乱娘。このこのこの……」
「といっても、一番下の、普段は使わず鍵がかかってる引き出しの中へ滑り込ませておいたのよ。ああいうタイプはあんた向きじゃないの。おかしな手え出すと、電話一本ですべておじゃんよ。あの人は、あんたを高潔な救世主、現代のナイトと思ってるわ。夢は夢のままでおくのが一番。わかったの!?」
おれは口をへの字に曲げて車窓の風景に眼をやった。窓ガラスに、ほっぺたをふくらませて一心不乱に食事中のセクシーな娘の姿が映っている。
そうかもしれんな。
急に笑いが込み上げ、おれはゆきの背中を叩いて飯を喉につまらせてしまったのだった。
『エイリアン怪猫伝』完
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あとがき
私にとって最高のホラー映画はハマー・フィルムの「吸血鬼ドラキュラ」なのですが、中で特に忘れ難いのは、彼を滅ぼしにきた男が城で女吸血鬼に襲われ間一髪というとき、ドラキュラが邪魔に入るシーンです。怒号に二人が振り返ると、カメラはぐっと引いて大机の上にドラキュラが仁王立ち。次の瞬間、その凄まじい血みどろの形相がばーん! とアップで出てくる。小学生だった私は、この鮮やかなカット割りに震え上がりました。
ところが、これでさえ、その怖さ、そのショックにおいて日本怪談映画の足元にも及ばない。今の今まで普通の人間だと思っていたお婆さんが、くるりと振り向いた途端、猫の形相で「見たなあ〜〜〜」とくる。恋人がシクシク後ろ向きで泣き出したので、どうかしたのかと慰めると、殺した女の顔に変わり、「うらめしゅうございますウ〜〜〜」
一度これをやってみたかった。その結果が本書であります。
「ハウリング」でも「狼男アメリカン」でもその特殊メイクの凄さは驚嘆に値します。ですが、私は驚くためにホラーを観に行くんじゃない、怖がりにいくのです。国民性の違いといってしまえばそれまでですが、老婆の顔がじょじょ[#「じょじょ」に傍点]に怪猫に変わっていったら、怖さは半減してしまうでしょう。突如、声音が変わり、不気味な音楽が高まり、ひょっとして、と観客が思った次の瞬間、振り向いた老婆の顔は!?――この、タイムラグなしの変貌に、私は日本怪談映画、怪猫映画の秘密があると思います。残念なことに、最近はどちらにもちっともお目にかかれませんが、日本映画の怖さにくらべれば、あちらで傑作とされる「エクストロ」(未)も「ビースト・ウィズイン」(未)も眼じゃあない。そのあたり構わぬ残酷性追求の迫力でもって、「サンゲリア」「ゲイト・オブ・ヘル」(未)のイタリアン・ホラーがかろうじて匹敵し得るというところでしょうか。
「吸血鬼ドラキュラ」が話題になってから作られた東映「怪猫からくり天井」など、従来の怖さの美質をそのまま生かしながら、怪猫に噛まれた女性も猫になるという吸血鬼映画の凄さも取り入れ(それまでは怪猫自身が犠牲者に化けてました)、修験者が法力で怪猫と渡り合う設定は、十字架もったヘルシング教授対ドラキュラ伯爵のアクション対決そのもの。何よりも怪猫を、善玉、悪玉問わず、主人の怨みを晴らす邪魔する奴は皆殺しという、人間性ゼロの怪物に仕立てたところが見事でした。主人公を助けて悪を倒す怪猫なんぞ怪猫じゃあありません。
というわけで、夏ぐらいは怪談映画をつくってくれと、私は言いたい。では、また。
一九八四年七月十二日『ゲイト・オブ・ヘル』を観ながら
菊地 秀行