エイリアン黙示録
菊地秀行
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目次
第一章 怪人対魔獣
第二章 裏切りのアポカリプス
第三章 ユダの謎
第四章 高輪の黒魔術
第五章 ハント・パブでの邂逅
第六章 空白の明日
第七章 御殿場ハルマゲドン
第八章 黙示の語るもの
あとがき
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第一章 怪人対魔獣
薄汚れたガラス戸を開けても、|内側《なか》の光景には変化がなかった。それほどガラスが汚れていたか、店内が薄暗かったという|理由《わけ》だ。
違うのは匂いだけだ。一〇月の路上の、車のオイルや酔っ払いの反吐やアルコールの混臭が、あっという間にすえた紙の匂いに変わって鼻孔を刺激する。扉のペンキ文字は判読不能な|破片《かけら》にまで落ちぶれていたが、ここは確かにBOOK SHOPだった。
広さは二坪ほどか。そのかわり、うず高い本の山の向こう、闇に包まれた空間の奥で、頑丈そうな木の梯子が天井に吸い込まれている。
周囲はやたら古くさい本棚に収まった、触っただけで崩れそうな古書の壁。しかも、どの棚も歪み、レンガの地肌がむき出しになった床の上に奇形の影を落としている。中世|錬金術師《ファウスト》の書斎もこんな感じだったろう。なるほど、あれ[#「あれ」に傍点]の居場所にはぴったりだ。おれは頭の隅で、床の上に積み上げられた本を崩さないようにとかすかに意識しながら、梯子の手前にそびえる本の壁に近づいていった。淡い光がその背後からさしている。
おかしな連中の気配はない。この空気の鼻ごたえ[#「鼻ごたえ」に傍点]からしてここ二、三日、ドアを開けた人間はいないようだ。
胸まである壁の前で立ちどまり、ハロー、と声をかける。
二秒ほどして空気が動いた。小さな電気スタンドらしい光源を黒いものが揺らす。
「本は崩さんかったろうな」
声音からして眠っていたらしい。確かに安眠にはいい場所だ。永眠にはもっとふさわしいがな。
「人間、七〇を過ぎると、女か睡眠にしか興味がなくなるそうだが、あんた、どっちだい?」
おれは皮肉っぽく言ってやった。
「なぜ、わしの年齢を知っとる? 市役所の戸籍係か?」
「戸籍カードの代わりに札束を持ってきたぜ。今朝電話しといた|八頭《やがしら》だ」
「ほおほお」
不愛想な声に、ようやく感情の色がついた。
「まず、半額をもらおうかの」
「品物[#「品物」に傍点]はどこだ?」
「こっちへ放ればよい」
おれは肩をすくめ、バーバリーのトレンチコートの内ポケットから紙幣をひと束取り出すと、無造作に本の壁の向こうへ放った。不当な扱いだと紙幣は文句を言うかもしれない。マディソン大統顔の肖像が一〇〇枚――五○万ドルだ。受け渡しにも、相応の礼を尽くすベきだろう。壁の奥の不景気な光さえ、急に輝きを増したようだった。
「枚数を数えるまで待てってんじゃなかろうな」とおれはいらいらしながら毒づいた。
毒づきながら、ドアの方へ眼をやる。ガラスの向こうの街は、青いたそがれに沈んでいるだろう。摩天楼にも明かりがきらめく頃だ。ハイスクールの女学生や女々しい詩人どもが喜ぶ時間だが、おれにはそんなソフトクリームみたいな趣味はない。なんとなく気になるのだ。自然と身体が本の向こうからは見えない位置に移動し、右手がジャケットの内側へ入る。左肩のショルダー・ホルスターに収めたSIG・P226の感触が指先に伝わった。
「その梯子を登っていくがいい」と不意に声が言った。「見つけたときと同じ場所に置いてある。なに、ひと目見りゃ判るさ」
「あきれた爺さんだな」とおれはつぶやいた。「何年古本屋をやってる? あの本の値打ちを知ってて電話したんだろ?」
「この店をはじめたのは二日前だ」とひなびた声は無感情に応じた。「三〇年経営してた息子が死んで、嫁は荷物をまとめて買い物に出たきり帰らない。死ぬのを黙って待つのも退屈じゃから本でも読もうと思ったが、この階にあるのはしち[#「しち」に傍点]面倒な専門書ばかりじゃ。で、ポルノでもないかと二階へ上がったら」
「本の山のどこかにあれ[#「あれ」に傍点]があったわけか」
おれは珍しく自分の声に感慨がこもるのをきいた。何も知らぬ爺さんでも、それ[#「それ」に傍点]の異様さには気づいたのだろうか。その足で階下へ降りて古書センターへ問い合わせ、安月給のくせに四二番街の最高級アパートに部屋を借りてるセンターの係員は、すぐさまおれにコレクト・コールをかけ、おれは一時間もしないうちに羽田を飛び立った自家用ジェットの上から爺さんに電話を入れて値段の交渉を行い、かくて五時間後にここへ到着したわけだ。
黄昏どきのニューヨーク|市《シティ》、ブルックリンの小さな古書店へ。
「それじゃ、ちょこっと失礼するぜ」
おれは梯子に片手をかけながら言った。
「それから、そこにいても構わんが、奥に部屋があるなら引っこんでた方がいい。誰が来ても寝たふりをしてろ。おれが店番を代わってやる。――散歩の方がもっといいぜ」
答えはなかった。おれの耳は、パリパリの五〇〇〇ドル札をこする指の音をきいた。まともな人間の反応だ。好きにするさ。
屋根裏部屋は、下よりずっと黴臭く、二倍も薄暗かったが、おれは気にしなかった。呼吸も平静、脈拍も多分正常、頭の中だけが妙に寒々しい。おれはうなずいた。わかってるって――久しぶりの大きな収穫だ。冷たいものが背筋をのたうってる。要するに、ゾクゾクするってことだ。
見わたす限り本の山だが、部屋全体は大分広い。階下の店くらいは優にあるだろう。頭上三メートルほどの天窓から、夕暮れとも言えぬ、青みがかった光がさしこんでいる。
まともな人間なら手探りで進むしかない|薄闇の世界《トワイライト・ゾーン》も、おれには陽差しの弱まった午後程度だ。周囲を見まわす。爺さんの言った通り、すぐにわかった。真向かいにある埃まみれの分厚いハードカバーの山の上に一冊、薄っぺらな小冊子がちょこんと乗っている。
おれは躊躇なく近寄り、手に取った。
見た目には今にも塵と化してしまいそうだが、手ざわりは結構頑丈だった。ざっと表面に目を通す。ギリシャ語だ。頁の黄ばみ具合からして造本後一〇〇〇年ってとこか。表紙のマークだけは、原本通りの五芒星だった。
なんとも簡単な邂逅だ。
上がり口から何歩歩いただろう。七歩だ。落下する大岩石もない。木のばね[#「ばね」に傍点]を応用した槍ぶすまも、踏み石を踏んだ途端に噴出する太古の毒ガスも、三つ首の狼も行く手を塞ぎはしない。
棺桶に片足突っ込んだ爺さんが、ある日、暇つぶしの本を探しに足を踏み入れ、何気なしに送った視線が、おびただしい本の山のひとつに触れた。その位置に、ちょっと変わった小冊子の端がはみ出ていた。無精さよりもわずかに好奇心が勝った。爺さんはなんとかそれを取り出し、表面の妙ちきりんな記号だけを暗記して、本の山のてっぺんに戻した。それから別の本を探して下へいき、少したって、なんとはなしに、電話機を古書センターにつないだのだ。
ただ、人生の落日を待つしかない平凡な老人のささやかな好奇心――それが、二〇〇〇年の歴史の帷を巻き上げ、おれにこの本を手渡した。
一〇〇万ドルか――とおれはぼんやり考えた。一体全体、高いのだろうか? 一セントでも一兆ドルでも同じことなのだが、おれは第一発見者に、それだけのものを受け取る権利があると思っちまったのだ。まだ甘いな。爺さんが一も二もなくオーケイしたのは言うまでもない。
おれは自分でも驚くほど冷静に、紐とじの小冊子を丸め、スーツの内ポケットに収めた。本来なら、失神してもいいくらいのもんだ。
空気が動いた。床の出入り口から冷気が噴き上げてくる。誰かが店のドアを開けたのだ。背筋を冷たいものが走る。この感じは――敵だ。
こうこなくちゃな。
数個の足音が入り乱れたとき、おれは手近な雑誌の山から一番上の数冊を抜きとり、洒落たデザインの表紙を剥ぎとった。五七年の「ニューヨーカー」だった。丸めてコートのポケットヘ収める。それから、五〇万ドルの札束を取り出し、同じ山の中ほどへ押し込んだ。
天窓の下へ寄ったとき、「上だ」という声がした。他にも聞こえたが、いちいち書いてる暇がない。奴ら、精一杯声をひそめてはいるものの、おれには筒抜けだ。かたわらの、紐でくくった本の山の陰に隠れる。
梯子がかすかにゆれ、赤毛の頭がのぞいた。素早くおれの所在を確かめ、全身を現す。がっしりした、おれより五ランクくらい安物の青いトレンチコートを着た大男だった。
茶色の手袋をはめた右手にリボルバーが光っている。SW・M64・六連発、二・五インチ。ふん、いい趣味してやがる。実用性能から見て、ベスト級の|回転式《リボルバー》だ。男の身体つきからいくと、|弾丸《ビュレット》はまず三五七マグナム。こんな至近距離で食らったら、体重六五キロのおれなど、一発で吹っとんじまう。実戦向きに、照星と照門を削りおとしてあるのをみて、戦闘意欲が少し萎えかかった。とっさに抜き撃つ場合、ごつい照星や照門は、ホルスターや上着にひっかかり、コンマ何秒か遅れることがままある。大男はそれにこだわっているのだ。
拳銃より、おれは奴の力の入れ方[#「力の入れ方」に傍点]と足取りに注意を集中していた。肩に力が入っていないし、引き金にかけた人さし指も、足さばきもリラックスしている。ふむ、程度の差こそあれ、こいつもおれと同じ、荒仕事のプロだ。
ただし、相手が悪かった。
おれは余分な動きの|破片《かけら》も見せず、身を隠した本の山を大男めがけて突きとばした。
さすがに大男はプロだった。山が空中にあるあいだに、目測でその投擲地点を割り出し、身を屈めながら二発放ったのだ。
背後の本の山の一角が黄色い破片をまき散らしたとき、おれはすでにSIGを右手に横へとんでいた。轟音がうなり声をたてつつ部屋中を駆け巡る。
三発目を食う前に、おれは大男の頭上めがけて二連射を放った。不自然な姿勢の、しかも|片手撃ち《ワンハンド・シューティング》だったが、どっちかの|弾丸《たま》が吊り棚の鎖をはじきとばした。
大男の頭上に雪崩みたいな音をたてて、梱包した本が落下する。うちひとつがもろに後頭部を直撃し、大男はスローモーション撮影みたいにゆっくりと前にのめった。たかが本でも段ボール一杯となれば二〇キロは優に超える。そんなものが無防備な頭の後ろにぶつかってみいな、人間なんて脆いもんさ。
同時に、おれは重いものが階段を転げ落ちてゆく音をきいた。最初の狙い通り、大男にではなく階段の出入りロヘ放った本の山は、見事、二人目の敵を撃退したのである。足の下で怒号が渦巻いた。
念のため、負傷箇所を押さえて呻いてる大男に駆け寄り、右手のM64を蹴りとばしてから、おれは天窓の真下にある本の山にジャンプした。もう一度、天窓めがけて――。ありゃ、急に星空が遠くなる。床に顎をぶつける寸前、おれは両肘でブロックし、右足首を掴んだ大男の頭頂を左の踵で思いきり蹴とばした。
手応えあり。一部陥没くらいしたかもしれない。しかし、こいつはただ図体がでかいだけのうどの大木じゃあなかった。
苦痛の唸りひとつたてず、背中に乗った本の山を軽々と跳ねとばして起き上がる。足首は離さない。
「こん畜生!」
おれは奴の腿を狙って一発撃ち込んだ。再起不能にするのも可哀想だから骨ははずしてある。だが、すぐにも自由の身になれるはずなのが、かっと眼をむき出さなくてはならなかった。まるで禁酒法時代のシカゴ・ギャングみたいに派手なストライプのズボンの破片をまき散らしながら、大男は苦痛の色も見せずに、片手でおれを部屋の隅へ放り出したのだ。
幸い、本の山がショック・アブソーバー役を果たしてくれたが、すぐさま起き上がったおれの心臓は衝撃にゆれていた。身体を覆った本が四方にこぼれる。ショックでゆわえていた紐が切れたのだ。なんて馬鹿力だ。だが、そればかりじゃない。
とっくりと見つめ合った大男の顔には、何条もの細い銀色の線が走り、右頬が淡い光を鈍くはね返した。金属片だ。細い線は手術痕――そして、頭を蹴ったときのあの手ごたえと、右足首をつかんだ手の硬さは!
こいつはサイボーグか!
薄笑いを浮かべつつ、余裕の鈍足で近づいてくる頭部へ、おれは続けざまにSIGを放った。弾丸は九ミリ|軍用《パラベラム》・|銀製弾頭《シルバー・チップ》、軟らかい銀は貫通力こそないが、標的の体内で|茸《マッシュルーム》状につぶれ、全エネルギーを瞬時に放出する。市街戦になったとき、敵を貫いた弾頭が無関係の人間を殺傷せず、そのかわり相手がプロレスラーでも吹っとばせるように選んだ必殺の武器だ。
それが、大男の額と頬の上でぺしゃりとつぶれるのを、おれは見てとった。やばい! こいつと互角に渡り合うには重機関銃かバズーカ砲が必要だ。次は眼を狙うしかない。
しかし、引き金を引いたおれは、心臓の止まるような恐怖を味わわなければならなかった。撃鉄が空しく|内蔵撃針《フローティング・ピン》の尻を叩いたのだ。不発だ。遊底を引き、弾丸を排出している暇はなかった。
空気を引きちぎって襲ったパンチを間一髪で避け、おれは奴の足元へとんだ。足の間をくぐり抜け、抜けざま身をひねって右足をはね上げた。魔の急所蹴りだ。だが、おれは二度目の驚愕を味わわなければならなかった。大男は器用に両足を合わせてブロックしてのけたのだ! その辺の空手使いの三、四段にあたるおれの手加減抜きの蹴りを!
間髪入れず、立ったままの姿勢で巨体がのしかかってきた。肘! ぎりぎりでひねった顔の、鼻先数センチで分厚いはめ板がへし折れた。全身を戦慄が走る。こいつ、この図体で、スピードはおれにも劣らない。
こうなりゃ三十七計目だ。おれは露骨に背を見せ、天窓めがけて走り出した。走りながら、本の山を引き倒していく。こんな初歩の手が効いた。足音がとまどい、低い悪罵が背中を突いた。
さっきと同じ要領で天窓へとびつき、二つの事を同時に行った。SIGで窓ガラスを叩き割り、かろうじて屋根の縁にしがみつくや、左手で空中を薙ぎ払ったのだ。黒い巨岩と化して跳躍してきた大男の足首から五〇〇〇ボルトの電圧が全身を突っ走る。いくら|半合金人間《メタル・キット》とはいえ、これにはたまらなかった。惚れぼれするような二段蹴りの形から、ぎゃっと全身を反らし、地響きとともに落下する。|これが人生さ《セ・ラ・ヴィ》。
舞い上がる埃を吸いこまないように息を止め、逃げまわる途中ではめた|E《エレキ》手袋に感謝しながら、おれは左手も天井にかけ、一気に身体を押し上げようとした。
床の出入り口で人の気配。
素早くSIGを向ける。
戸口から男の上半身がのぞいていた。黒い背広の上下に、ばかでかい、これまた黒いマフラーで首から肩のあたりを覆っている葬儀屋みたいな男だ。敵意はない、とでも言う風に、両手を上げてみせる。階下から射し込む照明が、まだ若い顔にグロテスクな影を滲ませ、おれは訳もなくぞっとした。
仕様がねえ、片手でのぼるしかない。
おれは、SIGの銃口と両眼をそいつから離さず、左手に全身の気を集中させた、ぐん! と身体が浮き、ばねではじかれたみたいに屋根へ舞い上がった。ヨガの精神集中を現実の運動に応用してみたのだが、我ながら信じられない威力だ。
視界から消え去る寸前、そいつは耳もとで軽く右手を振ったように見えた。挨拶のつもりか――悪党めが。
冷気に身体が震えた。青いたそがれの空は星がまたたいていた。光点に彩られたブルックリン橋の優雅なカーブの向こうに、世界貿易センタービルのひょろ長い双子の影が見えた。
息が白い。今年も大雪だな、とおれはぼんやり考えた。
天窓の下はすぐ、急な傾斜が屋根の縁までつづいていた。幸い隣も二階建てで、しかもコンクリートのビルだ。間隔は約一メートル。屋根伝いに逃げ、どこかの路地へ入り込んでしまえばこっちのものだ。古書店前の路上にはまだ人影もない。
SIGをショルダー・ホルスターに収め、大男に投げとばされたときに痛めた左肩を指圧して痛みを柔らげてから、おれは身を屈めるや一気に跳躍しようとした。
ぴしっ! と空気が裂けた。
無意識に屈めた頭上を何かが薙いで通る。
その正体と発射位置を見定める前に、おれは身を翻して屋根の傾斜の陰に跳んでいた。
びゅびゅっと続けざまに空気を断ち切る音。
闇の中をより濃い線がしなり、三メートルほど向こう側に立つ、細長い人影の手元に吸い込まれていった。
鞭だ。それも二本。
「よくかわしたな。大したもんだぜ、坊や」
嘲るような声は、今の攻撃が全力を傾注したものではないことを示していた。
敵は、古書店へ入る前に、おれが屋根から逃げることを見越し、尖兵を潜めておいたのだ。ただのプロ[#「プロ」に傍点]じゃない。さっきの大男といい、おれと同じ超一流だ。
だが、自分でも自覚しているその実力が、奴の判断を誤まらせた。本気を出せば、音もなくおれの喉を絞めることくらいはやれたかもしれないが、一度ミスったら、おれはそんな暇も隙も与えない。相手の|失敗《ドジ》はこちらのチャンスだ。
「鞭を捨てろ――二本ともだ」
おれはコートのポケットから丸めた紙束を出し、右手のライターの炎を近づけながら命じた。
言うまでもなく、クズ同様の「ニューヨーカー」だが、奴の夜眼がおれほど利くとは思えない。ライターの炎も底の方にだけあててるから、印刷活字と写本字体の区別などつくまい。あれ[#「あれ」に傍点]だと言われたら信じるしかないのだ。SIGで決着をつけてもいいのだが、こう足場が悪くちゃ不利だし、命中しないでぐずぐずしてると、別の仲間がやってくる。サイボーグに鞭使い、次はどんな化け物がしゃしゃり出るかわかったもんじゃない。
しかし、脅しの効果はてきめんだった。
細長い影が動揺し、攻撃の気勢を削がれたのがはっきりと伝わってきた。やはりこいつら、これ[#「これ」に傍点]を狙ってきたのだ。
「鞭を捨てろ」
おれは、せっぱつまると何を仕出かすかわからんぞ、と言った風な響きを声に込めた。
影は両手を肩のあたりへ上げ、あっさりと手にした鞭を前に落とした。
やれやれ――と気を抜いた刹那!
鞭の先から黒い稲妻が走った。
一本はライターをはじきとばし、もう一本がニューヨーカーに巻きついたと思いきや、指に力を込める暇もなく、雑誌はおれの手から奪い取られていた。宙に浮いた鞭に、手を離す寸前、どんな力を加えたのか。
だが、「あっ!?」と叫んだのは奴の方だった。
まさか、驚きの真っ最中にいるはずのおれが、新たな一撃を加える暇も与えず、宙に跳ぶなんて思ってもみなかったろう。しかも、奴の方を見たまま――つまり、隣のビルに対し、背を向けた格好で。
おれにしても、一か八かの賭けだった。そんな真似、しょっちゅうやってたんじゃ、生命が幾つあっても足りやしない。
気も遠くなりそうな恐怖の後ろ向きジャンプは、しかし、見事に成功し、おれはビルの屋上のでっぱりにかろうじて踵だけ着地させると、地獄へつんのめる前にもう一度身を翻し、今度はしっかりと、平らで固いビルの屋上へ降り立った。鞭は追って来なかった。あの位置からじゃ届かないのは計算済みだ。アカンベのひとつもしてやろうかと思ったが、どうせ見えっこない。
おれは屋根伝いにブルックリンを脱け出し、三〇分後、祝杯をあげるべくチャイナタウンの一角にある小さなバーに入った。
分厚い木のドアを開けた途端、お呼びでないのがわかった。刺すような視線とお経みたいなBGMが迎えたのだ。
ざっと見渡したところ十坪ほどの店内もやけに薄暗く、空席のあいだにちらほらと禿頭や金髪が目立つ程度だ。よっぽど不幸の星の下に生まれた連中ばかりが一堂に会しているのだろう。暗い奥の方で「イエロー・モンキー」と誰かが吐き捨てた。
こいつぁ面白い。
おれは、ちっとも気にした風を見せず、ロックのリズムで君が代を口ずさみながら、カウンターの空き席についた。
左右と背後から浴びせられる敵意に満ちた視線に、身体中がぴりぴりする。ヨガを習ってるおかげで皮膚感覚が鋭敏になり、相手の「気」にまで反応するようになっちまった。カウンターの奥にかけられた大鏡を見ているうちにも、みるみる眼付きが悪くなる。男前がだいなしだ。
のそーとバーテンがやってきた。
「らっしゃい」
おれはストゥールから転げ落ちそうになった。商売柄か敵意こそ見せないものの、フランケンシュタインの怪物から、手術痕と首の電極を取り除いただけみたいな大男だ。
「何にします?」
声は墓地から出たてのゾンビーだった。
「シャンペンだ。いちばん高いやつ。――それからな」
「へい」
「今夜は葬式帰りの一家の貸し切りか?」
「いえ」生けるフランケンシュタインはぎりぎりと首を振った。「『日本企業の進出で馘首されたアメリカ市民の会』の貸し切りで」
「……」
おれは我ながら陰気にちがいないと思われる眼で、そっと左右の連中の様子を窺った。どっちも同じような眼つきでおれを眺めていた。こういうのを不幸な出会いという。おれは脱ぎかけたE手袋をはめなおし、咳払いをした。同時に左右でもごほんげほんと始めやがった。挑発してやがる。貸し切りなのに、おれを拒まなかったわけがやっとわかった。こりゃ反撃に出ないと面子が立たねえ。
ズシンズシンとぎごちない足取りでシャンペンの瓶とグラスを運んできたバーテンに、おれは紙幣を一枚握らせ、耳打ちした。
「へえい。おまかせ――」
バーテンが外へとびだしていくと、店内にはたちまち凄愴の気が満ちた。
鏡の奥――おれの背後で、髷を結ってない高見山みたいなおっさんが、サザエそっくりの拳骨に、スチール製のナックルをはめていた。その前の席の黒人は、小さな瓶から錠剤を取り出してボリボリやってる。景気つけの|麻薬《ドラッグ》だ。どうやら、日本大企業のもたらした失業問題の責任を、おれが肩代わりする時が近づいているようだった。バーテンが戻ってくるまで、なんとか時間を稼がにゃあ。
おれは満面に笑みをたたえ「ええ、ミナサン」とふり向いた。笑い返す奴などいるわけがない。右手で「リメンバー・パールハーバー」と言うのがきこえた。
わざと下手な英語で「ボク、日本ノ高校生ネ。家トテモビンボー。苦学シテ、にゅうようくニ女買イ――ジャネエ、写真ノ勉強ニ来マシタ。父サン死ンダ、母サン心臓病、妹ハある中[#「ある中」に傍点]」
最後のは悪質な冗談のつもりだったのだが、誰も反応を示さなかった。
アメリカ――特にここニューヨークじゃ、子供のアル中なんて当たり前なのだ。日本でも実例があったが、やはりアルコール中毒患者の母親から、血液中に過度のアルコールを含んだ生まれながらのアル中の赤ん坊が誕生する始末だ。加えて、このすさみ切った中年男ども。世の中、どんどん悪くなっていく。まるで、誰かに呪われてるみたいに。
「自己紹介シマス」とおれは、いかにも戦争を知らない子供ぶって愛想をふりまきながら言った。「ボク、|八頭大《ダイ・ヤガシラ》。日本デイチバン出来ノ良イはんさむガソロテル灘はい・すくーるノ二年生」
「わしゃ、ベン・スティットソン」と右手のいちばん近くに腰かけてた六〇がらみの爺さんが言った。「日本の小型車がのしてきたんで、|一時帰休中《レイ・オフ》じゃ、会えて嬉しいなんて台詞、期待せんでくれよ」
「エンリケ・サヴィーニだ」と左側の、きちんと背広とネクタイをつけたやせっぽちが言った。「メイド・イン・ジャパンの、落書きができない地下鉄車輌のせいで会社がつぶれた。何の会社かは君にもわかるよな」
次に名乗った奴は、タンカーつくってる造船会社のもと[#「もと」に傍点]技師、つづいて小さなコンピューター会社のもと経理課長。以下、薄暗い酒場で連綿と陰鬱な自己紹介がつづき、おれの周囲には憎悪と怨念の風がびょうびょうと吹きつのってきた。
わざと眼を丸くし、アイ・キャノット・スピーク・イングリシュ・リトルなどとぶりっ子笑いをしてみても、日頃自慢の男っぽい顔と身体つきが邪魔して高校生には見えないらしい。
最後の奴の自己紹介が終わる頃には、すすり泣く奴や、何のつもりか安酒の瓶をテーブルの端にぶつけて割り、残った口[#「口」に傍点]のギザギザをなでながら、にやりとこちらを窺う奴まで出て、明朗な高校生役のおれも、こりゃE手袋だけで片がつくかなと不安になってきた。
さあさあさあとさし出すシャンペンの瓶には誰ひとり眼もくれず、失業者どもの顔つきが凶暴の頂点に達したところで、ナックルのでぶと、麻薬でラリパッパの黒人がすっくと椅子から立ち上がり、おれの方へやって来た。でぶの顔には凶悪ながら緊張の汗が湧いていたが、黒人の方はすっかり眼がすわっている。殺人に対する禁忌は薬が追い払っちまった。
このふたりをKOしたら、今度は周囲が総出で襲いかかってくるだろう。それでもいいが、おれは別の解決を望んでいた。せっかくの大戦果を、殴り合いと感電でだいなしにはしたくない。
間一髪で間に合った。眼の隅でドアが開いたのだ。寒風とともに、フランケン・バーテンが、つづいて黄色い声と甘い匂いがどっと店内に吹き込んできた。
凝縮した殺気が跡形もなく消滅する。男たちの表情にもとまどいの色が浮かんだ。
「やだあ。みんな凄い顔しちゃって。楽しくやりましょうよ」
「あーら、こっちのおじさま、ウィスコンシンのパパそっくり」
あっちでもこっちでもセクシーな声が湧き、危険なムードは一変した。
太腿むき出しのミニスカートやら、豪勢な毛皮と派手な化粧やらをまといつけたグラマーたちが、バーテンから最高級のワインやらブランデーを受けとり、唖然とする男たちに抱きついていく様を、おれはニヤニヤ笑いながら眺めた。
近所のバーかディスコのウエイトレス、それが駄目なら|街娼《ストリート・ガール》でもいいから引き抜いてこいと渡した五〇〇〇ドル紙幣は大いなる効果を発揮したのである。
ざっと客数が二倍に膨れ上がった店内のあちこちで、グラマーたちの喘ぎやキスの音が響き渡り、数分後、ブランデーをがぶ飲みしてゆでダコみたいになったナックルでぶが、首に女の子をふたりも抱きつかせたまま、握手を求めに来たのにはまいった。ラリパッパの黒人など、体重一〇〇キロは優にありそうな超大型グラマーに組み伏せられ、キスの雨を浴びている。拷問だ。
「日本人、友だち」
もと経理課長がグラスを掲げながらわめいた。節操のねえ野郎だ、とは思わなかった。人間誰しもいいところはあるのだ。彼らは虫の居どころが悪かった。おれは金と女と酒を使って、もっといい場所へ虫を移してやった。それだけのことだ。
二派にわかれて「星条旗よ永遠なれ」と「軍艦マーチ」を合唱しだしたのを見届け、おれはカウンターを降りて店の奥へ移った。
追いかけてくる金髪の可愛こちゃんを両手に抱き、非常口近くの席につく。ここなら、カウンターみたいに横目で入り口を看視しなくても、真正面から、入ってきた奴と向かいあえるわけだ。いざとなったら非常口からおさらばする。もっと早く来たかったが、おれが祝杯をあげようと選んだ店でお客全部が首吊り寸前なんてムードは絶対に許せない。
おれは素早くカウンターから持ってきたシャンペンをグラスに注ぎ、二人のグラマーと一気に干した。心地よい炭酸とアルコールの刺激が内臓に泌み渡っていく。やはり高級品は違うぜ。
すり寄ってきたグラマーの、ボリュームたっぷりの乳房を遠慮なく揉みほぐしながら、おれの気分は陽気の絶頂に達していた。
「ねえ、あのバーテンさんから聞いたわ。あなた、若いのにとっても気前がいいんですってね」
右側の金髪のグラマーが、火のような熱い吐息を吹きつけながら囁いた。うう、耳朶が火照る。
「あたし、気前のいい人って大好き。お金持ちの日本人ならなおさらよ。ねえ、今晩お暇?」
「おお、暇ひまヒマよ。カーライルの最上階を借り切ってあるぜ」
おれは胸を叩いた。
これは本当だ。さすがはニューヨーク最高の格式を誇る大ホテル。一〇年貸し切りで、四谷のニューオークラや赤坂の軍艦パジャマ――青山通りを赤坂まで下ると正面に見えてくるホテルがあるやんけ――のざっと一〇倍の料金をとられた。ま、ケネディ大統領の定宿だったほどの場所だ。仕方あるまい。今どき値段と中身が一致するのは高級ホテルくらいのものだ。
「わあ、素敵ィ」と左腕にぶら下がったひとりも嬌声を張り上げた。毛皮にミニスカートといったスタイルからして、ストリート・ガールだろう。
「腕にさわってごらんなさいな。とっても固いのよ。きっとあっちも凄いわ」
へええと感心した風に手をのばしてくる金髪のグラマーから、おれは何気なく右手を避けた。両腕を女にとられて鼻の下を長くしていられるような人生を送っちゃいないのだ。この瞬間、ドアを蹴破って、マシンガン構えた先刻の半人造人間が飛び込んできたらどうする? 女の手が邪魔でSIGが抜けないから待ってくれ――言い終わる前に蜂の巣だ。
だが、実のところ、おれはいつもよりリラックスしていた。万にひとつも、奴ら[#「奴ら」に傍点]がおれの後を尾けてくる気遣いはない――これは、確かめながら逃げてきた――。正体は不明だが、あれだけの猛者をふたりないしそれ以上抱えているのだ。FBIのフーヴァーをたきつけるか、CIA長官の口座にゼロが六つの小切手を振り込んでやれば、明日にでも身元は判明するだろう。処分の方法と時期はそれから考えても遅くはない。
それに、何よりもおれは、大きな仕事をやり遂げた快感に身を浸していた。本来ならばまっすぐホテルへ帰り、孤独な勝利の夜を過ごすのが鉄則なのだが、なにせ今度は物がでかすぎる。
「あーら、なにひとりでニヤついてるのよ」
「あたしにも分けてェ」
ふたりが同時にシャンペン・グラス片手にすり寄ってきた、
白い魔女の手がおれの膝を割る。
自分でも鼻の下が長くなるのがわかった、その途端――。
店内の明かりが一斉に消えた。
きゃっと左右の女が両腕にしがみつく。
つづく数瞬のあいだに、おれはふたりを突きとばし、テーブルの下へ身を屈めていた。SIGの|銃把《グリップ》を握った右手は、その寸前に内ポケットの古書[#「古書」に傍点]の所在を確認済みだ。両眼を入り口のドアと窓に、残る全知覚を周囲の「気」に注ぐ、
すぐ明かりがついた。
あちこちで、軽い怒号や笑い声が湧いた。
「やだ、びっくりして、グラスを倒しちゃったわ」と左側の女がスカートの裾を引っぱりながら立ち上がった。「しみンなっちゃう、ちょっと、トイレでなおしてくるわ」
「いいじゃないの、それくらい。後にしなさいよ」と金髪がとめた。
「おっさん、ブレーカーの故障かい?」
とおれは、カウンターの隅で配電盤をゴチョゴチョやってるフランケンシュタインに声をかけた。
「いや。内側じゃねえな。いつも今日以上の電気を使ってるが、この十年、ヒューズがとんだこともねえ。外で誰かが|悪戯《わるさ》しやがったな」
電光が後頭部をはたいた。
おれは、入り口に眼を向けたまま、古書を取り出した。眼を走らせるのと、トイレヘ向かってダッシュしたのとどちらが早かったかはわからない。
ドアの鍵はかかっていたが、おれは構わず渾身の力を込めた右足を叩きつけた。安っぽい新建材のドアにふさわしいちゃちな鍵がはじけとぶ。
ちょうど、パンストを腰までたくし上げてた女が悲鳴をあげた。
「な、なにすんのよ――この野蛮人!?」
前方の壁のやや上にある、人ひとりぐらいならなんとか通れそうな窓に気を配りながら、おれは後ろ手にドアを閉め、女の胸ぐらを掴んだ。
「な、なによお!?」
女は泣き声をあげた。うまい芝居――といえるかどうか。今のおれの形相をみたら、怒れる獅子でも押し黙るだろう。
おれは半べそかいた女の顔に、右手の雑誌を突きつけた。時代遅れの「ニューヨーカー」――あの鞭使いにくれてやった本だ。ちがう。奴らへの|幻覚《めくらまし》用に失敬したのこり二冊の片方だ。
「いつスリ変えた。盗んだばかりか、別のものと入れかえて、おれにそれと気づかせねえとは恐れ入った。ただ、逃げるタイミングと場所を間違えたな。もう少し時間を稼ぐベきだったぜ。さあ返せ。素直に返しゃ、生命まで取ろうとはいわねえ」
「や、やだ。だから、一体何のことよ」
「この」
と右手をふり上げ、突然おれは気づいた。
この女の脅え方は本物だ。それに、あれだけの神業を駆使する女が、こんなことでボロを出すとは思えねえ。
「しまった!」
ひと声叫んで、おれはトイレをとび出した。
案の定、ピンクの声と紫煙が立ちこめる店内に、あの金髪グラマーの姿は影も形もなかった。
「あの女どこへ行った――知り合いか、お前の?」
おれはカウンターに駆け寄りバーテンの顔に唾をまき散らした。
「いや。実はあっしも、声をかけた覚えも見た覚えもないんで。いつの間にかあんたの隣にいたんで、どっかの商売女がまぎれ込んだのかと思ってたんですがねえ」
ますます頭がこんがらがってきた。まず間違いなく、あの女は古本屋でやり合った一味のメンバーだ。しかし、一体どうやっておれの跡をつけた? この店を見つけた? へんな自慢になるが、これくらいうまくまい[#「まい」に傍点]たと自信を持ったことないんだぞ。
ま、バーテンに訊いても始まるまい。おれは煙草の煙を押しのけて店を跳び出した。
人気のない灰色の通りを見まわすと、右手奥、数本先の横道に、すっと黒いものが吸い込まれるのが見えた。タイミングが良すぎる。罠だろう。しかし、鉄の顎が閉じるのを覚悟で飛び込む他はない。
走りながら、|E《エレキ》手袋のスイッチを入れた。三〇〇〇ボルトに合わせる。普通の人間で失神確実、心臓疾患なら死亡するレベルだ。あの大男にも十分効果を発揮できるだろう。半ば鉄なら電気のまわりはいいはずだ。
右手でSIGを抜く。銃全体が帯電して薬莢内の火薬が暴発する恐れがあるため、こちらの手袋のスイッチは切ってある。
おれは横丁の入り口でコンクリートの壁に身を寄せ、周囲の気配を探った。遠ざかってゆくやつだけだ。足音は女だ。
おれは暗闇に走り込んだ。全力疾走に移る。ゴム底の|靴《ブーツ》はほとんど足音をたてない。おれの走り方のせいもある。生まれつき、猫族の敏捷さと隠密性が備わっているのだ。
人間どころか、化け物まで相手にしなきゃならんトレジャー・ハンターは、必然的に、このふたつを身につける訓練を積むが、やはり天稟は一流とそれ以下を厳格に峻別する。女にもてる点を除けばおれと互角のハワードってトレジャー・ハンターは、三日三晩不眠絶食の身体に一○○キロ近い黄金の楯を背負い、百数十頭ものライオンの巣のど真ん中を横切り生還した。彼の幸運は、深さの程度こそあれ、ライオンすべてが寝込んでいたことにある。
おれなど三つの頃から、濡れた半紙を破かずその上を歩く訓練を積まされた。恥を忍んで打ち明けると、こればかりはとうとう大成しなかった。他に学ぶことが多すぎたせいである。ふん、そのかわり、おれの方が女にもてるのさ。
ともかく、おれは周囲の気配に気を配りながら、小便のにおいがこもる狭苦しい横丁を突進した。一〇メートルほど先を、月光に押されるように細い影が駆けてゆく。すぐ行き止まりだった。コンクリートの壁がそびえ立っている。影はスピードを落とさない。すっと消えた。おれも足を止めなかった。壁の中心に人が優に通れるくらいの大穴が開いているのは、横丁にとびこんだときからわかっていた。くぐり抜けたとき、女との差は五メートルにまで縮まっていた。
不意に闇が色褪せた。
常夜灯の光が、コンクリートの地面に幾つも車の影をわだかまらせている。三方を闇よりも濃い巨大な影が取り囲んでいた。無音の重圧がのしかかってくる。ビルの谷間の、かなり広い駐車場だった。それ自体、つぶしたビルの跡地だろう。夜中にうろつく不良少年や麻薬|中毒患者《ジャンキー》どもに荒らされるのを覚悟で利用しているらしく、年代もののGMやリンカーンが並んでいる。よくタイヤをズタズタにされたり、窓ガラスを割られたりしないで済むものだ。
女は駐車場のほぼ中央に立っていた。
平然たる表情より、その口から規則正しく洩れる白い色の軌跡がおれの胸に不安をかきたてた。呼吸の間隔がおれとさして変わらない。一〇〇メートル以上全力疾走してだ。
「よく来たわね」
笑いの絡んだ声がおれを迎えた。他にもまとわりついていた。憎悪、侮蔑、そして殺意。
「仲間はどうした?」
出来るだけ|気魄《きはく》を込めたが、我ながら、張りぼてみたいな声だと思った。女もそうだろう。口もとの笑みはさらに深く影を帯びた。
「じき来るわ。あなたを追って」
「なにィ?」
おれはSIGを女の胸にポイントしたまま、周囲を窺った。敵の気配はない。するとこの女、おれをおびき出したのではなかったのか。それとも……。
おれは音もなく地を蹴った。逃れようのない速度で間合を詰める。E手袋のパワーを一〇〇〇まで落とすのと、身動きひとつしない女の手首を握るのとほとんど同時だった。一〇〇〇でも戦意くらいは楽に喪失する。女ならなおさらだ。
異様な手ごたえが指先に伝わった。ろくに力も入れぬうちに、手首がおれの掌の中でつぶれたと知ったとき、おれは一呼吸も置かずSIGの銃身を女の首筋へ叩き込んでいた。
厚紙を殴るような手ごたえだった。
女の首が衝撃点からべこんと折れ、毛皮をまといつかせたマネキン人形みたいに軽々と地面に倒れるのを、おれは茫然と見送った。
手の中に残ったもの[#「もの」に傍点]に眼をやる。
つぶれたボール紙の円筒だった。まさしく、この女は厚紙でできていたのである。
「んな、阿呆な」
つぶやきながら、おれは身を屈め、ついさっきまでぐいぐいと密着してきた熱い肌の成れの果てを調査しはじめた。女の気配が途絶えたのは確かめてある。
実に単純な構造の人体だった。
その辺の文房具屋で幾らでも手に入る安物のボール紙で円筒をつくり、セロテープで三本ほどつなぎ合わせた背骨兼胴体。てっぺんには、やはり同じ紙を乱暴に丸めただけのでこぼこ頭部。その少し下から――間の部分は首[#「首」に傍点]だろう――左右に張り出した胴[#「胴」に傍点]と同じ太さの両腕は、関節のつもりか、ほぼ九〇度の角度で二本の紙筒がつながっていた。両脚は胴の下端から三〇度の角度で伸び、どういう|理由《わけ》か、こちらには関節がなかった――ただの棒だ。
頭部――顔にあたる部分はつんつるてんで、ただ下顎ほどの位置にナイフか何かで入れたらしい切れ目が走っていた。口のつもりだろう。おれは無情にも頭をひっこ抜き胴の内側を調べた。濡れている。おれが勧めたシャンペンだ。これで決まった。おれは紙製の女の乳房をくすぐり、尻をなで、グラスを重ねていたのだ。おー、気色悪ィ。
コートの内側を調べたが、無論、あの本は発見できなかった。途中で人形使い[#「人形使い」に傍点]に渡したのか。しかし、そいつはどうやっておれの後を尾けた? 古書店で戦ったグループとの関係は?
そこまで考えたとき、背後に足音が交錯した。塀の穴から人影が湧き出て、おれと紙製のグラマーを取り囲む。気配は三つ。おれだからこそ聞き取れた足さばきの絶妙さは無類だった。一般人なら背後から頭を叩き割られるまで、その存在に気づくまい。ただのギャングやマフィアの殺し屋じゃなさそうだ。しいていえば、軍の特殊部隊が近いが、迫力の質がまるで違う。はじめて遭遇したときから感じていたことだが、こいつらには、どこか化け物じみたところがあった。
「どうやって尾けた? それと、あのでかいのはどうした?」
おれは素早く左右に眼を走らせ、前方のおんぼろセダンの脇に立つ長身痩躯の影に向かって訊いた。古書店脱出の寸前、昇り口から顔を出した黒ずくめのハンサムだ。黒いマフラーの端が風になびいている。右手人さし指の大きな指輪が月光にきらめいた。
左手の紺のコート姿は、あの鞭使いだった。小柄だがいかつい顔が薄笑いを浮かべている。骨格からしてアラブ系だ。両手には、とぐろを巻いた毒蛇が二匹――必殺の鞭だ。
右側は新顔だった。薄茶の背広にトックリのセーターを着て、顔色がやけに青黒い。そういや頬骨もとびでて、どことなく末期の癌患者というイメージだ。両手をポケットに突っこみ、肩をすぼめている姿は、早く病院へいけと忠告したくなるほど寒々しかった。
そうしなかったのは、おれ目がけて照射される殺気のせいである。面白いことに、ハンサムと鞭使いはそれほどでもないが、こいつのは手加減なしでおれの皮膚をぴりぴりと刺した。健康な人間すべてが親の敵と映るのだろう。地獄へ道連れというわけだ。
質問の答えはすぐに返ってきた。流暢な英語だった。
「ブレアは療養中だ。身体の半分は鉄だけに、おたくの電気ショックはよく効いたらしい。どうしてもおたくを引き裂くと言い張ったが、置いてきた。彼には首だけを届けてやるさ」
「やれやれ」
「もうひとつの答えは、死ぬ間際に教えてやるよ。君の国でいうメイドノミヤゲだ」
「勿体ぶんなよ」とおれは、左右の動きに気を研ぎ澄ませながら毒づいた。「女と組んで一人前の能なしが笑わせやがる」
一瞬、夜目にもはっきりと、ハンサムの顔を困惑が彩った。
「女――? 何のことだ?」
「なんでもねえよ」
おれは胸の中で、ひとつの疑問に対する解答を整理し、脳のボックスへ収めた。ハンサムの驚きは本物だ。あの女はこいつらの仲間じゃなかったのだ。なら、一体何者だ? どうしてこいつらが来ると予言できた? おれたちを噛み合わす作戦か?
「つまらんたわ言[#「たわ言」に傍点]はそれくらいにして、例のものをもらおうか」ハンサムは手をさし出した。「おとなしく渡せば、楽に死なせてやろう」
「ご丁寧なこって。そんなもの、ない、と言っても信じやしねえだろうな?」
「なければ、おたくの生命だけでももらって帰るさ」
「なんだ、おまえら殺人狂か。おれに何の怨みがある?」
ハンサムは無言で首を振った。
「わからんね。だがどういうわけか、我々は全員、おたくを殺したくてならない[#「おたくを殺したくてならない」に傍点]んだ」
「やな性格だな」
言い終わると同時に、おれは前方ヘダッシュしながらSIGの引き金を引いた。銃声と閃光。敵の左右の壁が火花と破片をまき散らし、敵は車の陰に隠れた。むむっ。この距離ではずす気遣いはないのだ。今回の戦はどこかおかしい。
ハンサムは身を隠そうともしなかった。武器を取る素振りさえ見せない。
不安が胸を横切った。
地を這う音。地面を蹴ろうと意識する、その何十分の一秒かが生命取りになった。宙に浮いた右足に凄まじい衝撃と引力が加わり、おれはぶざまにコンクリートの路面へ転がっていた。視界一杯に火花が散る。頭を打ったのだ。巻きついた鞭は、受け身さえ許さなかった。
無意識に、鞭使いの方向へSIGを向ける。同時にE手袋の電圧を最大に上げた。鞭の端をつかむ。つかみ切れなかった。もう一本の蛇がSIGを吹っとばし、手首の自由を奪ったのだ。ぐん! と身体が引かれ、つんのめった。コンクリートとキッスだ。眼から火が出る。右肩も激突し、いやな音をたてた。どんな使い方してやがるんだ。敗北感という名の鴨がネギを背負ってやって来る。
「その気になれば、肉ぐらいいつでもちぎれる」アラブ人が訛のある英語で嘲った。「生きた牛の骨を折ったこともある。人間ははじめてだが、試してみるか?」
よしゃがれ、と毒づいたつもりだが、唇と鼻が痛くてフニャフニャとしかきこえなかった。口の中が裂けたらしく、塩辛い鉄の味が舌に乗る。
「さ、早く出したまえ。人が来ると面倒だ」
ハンサムが言った。
おれは答える前に、右手で鞭をつかもうとした。くそ。痺れて動かねえ。脱臼したか。
「ニャいといっチャらニャい」
我ながら情けない声だ。野郎、いつか倍にして返してやる、と誓ったものの、形勢は九回裏|二死《ツーアウト》ランナー無しでツーストライク・ノーボール、おまけに一○点差と来たもんだ。
「仕様がない。手足を利かなくしてから身体検査といこう」
ハンサムがそう命じ、鞭使いに顎をしゃくってみせた。
そのとき――。
二本の鞭の端から、凄まじい驚愕がおれの全身を突っ走った。ふっといましめが解ける。痛みをこらえ、左手で路上のSIGにとびつきながら、おれの理性は一瞬、眼にした光景を闇雲に否定しはじめた。
車が立ち上がっていた。
鞭使いが身を隠していた黒塗りのぼろセダンが、ぶるぶると音もなく身を震わせながら、なんと後輪だけを地に着けたまま、ぐーっと車体を持ち上げたのだ。後足で踏んばる巨大な黒い獣のように。
ハンサムが息を呑む音。
セダンだけじゃなかった。彼の隣のムスタングが、そのかたわらの日本製グロリアが、いや、駐車場の車という車が、歪み、ねじくれつつ、別のものに変貌してゆく。呪わしい、しかし、確かな生き物に!
奇怪な唇の形に変形したバンパーが、バチッ! と上下に裂けると、その奥に錐みたいに鋭い牙の列がのぞいた。濡れるような音をたてて、赤黒いナマコみたいなものがはみ出し、コンクリートの地面をのたうった。舌だ。唾液が白い湯気をたてている。
おれはいちばん手近のぽんこつフォードに眼をやった。ぎろりと、馬鹿でかい血走った|眼《まなこ》が見返す。ライトだと気づくより早く、おれはSIGを二発、憎悪と殺戮に狂った瞳のどまん中に叩き込んだ。
悲鳴をあげた。車がだ。血飛沫がとんでおれの頬にかかった。おなじみのにおいがした。ガソリンだ。ヒロイック・ファンタジーの阿呆世界ヘまぎれ込んじまったのだろうか。
苦鳴とガソリンという名の血潮をまき散らしながら立ち上がったフォードへ、横合いからおれめがけて突進してきたリンカーンが激突した。ウォオーンといななきつつ二台そろって横転する。地面が揺れた。
フォードの脇腹へ牙を突きたて、首[#「首」に傍点]のひと振りでかたわらへ放り投げたリンカーンが起き上がった。バキバキと音をたててシャフトがタイヤをつけたまま左右へせり出し、奇怪な腕が出来上がった。青黒い血管が脈動しながら走り、その真ん中あたりで肘関節さながらにぐいとひん曲がったのを見て、おれは悲鳴をあげそうになった。
ご親切にも別の奴が悲鳴をあげてくれた。眼の隅に黒血の溢れる左手を押さえて後退する鞭使いが見えた。ペンキも剥げ落ちたBMWのボンネットが食事中の人間の頬っぺたみたいに蠢いている。ボリボリと骨を噛み砕く音が夜気を震わせた。
重々しい足音をたててリンカーンが迫った。
金属とも皮革ともつかぬ車の底――どてっ腹にSIGを五発叩き込む。一瞬、驚いたようにたたらを踏んだものの、さして効き目はなかったらしく、すぐ近づいてきた。|後輪《リヤ・タイヤ》は象を思わす灰色のしわだらけの巨足と化している。
背後で肉食獣が喉を鳴らす音。地に伏せた姿勢でスカGが舌なめずりしていた。退路は絶たれた。万事窮す。
突然、別種の檸猛な|咆哮《ハウリング》が湧いた。
月光を浴びておびただしい細長い影が、四方から駐車場に侵入してくるや、こちらは耳慣れた攻撃の雄叫びとともに、生ける自動車どもに躍りかかったのだ。
「腕」のひと振りで、幾つかが地上に叩きつけられた。大型のポインターとコリー。首輪はついてない。新たな戦闘者は野犬の群れだった。どいつが呼んだんだと詮索する暇もなく、おれは数頭の敵を全身にまとわりつかせて奮戦する妖怪自動車どもの間を縫って、壁の出入りロヘ突進した。歩くたびに右の足首と肩が激痛にわなないたが、気にしちゃいられなかった。三人組の動向を窺う余裕もない。
嫌な音をたてて、シェパードが一頭、眼の前の地面に叩きつけられた。脇腹を噛みちぎられ、内臓がはみ出している。思わず立ち止まったのがまずかった。横手から膨大な質量の迫る気配。ふり向く眼にシボレーらしき大型車の巨躯が映った。バンパーに、血のしたたるセントバーナードをくわえている。これは悪夢だ。コミックだ。
駆け出すよりコンマ五秒ほど早く、小山のような影が、かっと真っ赤な大口開いてのしかかってきた。
本能的に、SIGを握った左手を突き出す。無駄と知れてる動作だが、黙って食われるよりはましだ。
白い光が走った。
この世のものとは思えぬ絶叫を放ち、シボレーは大きくのけぞった。思わずE手袋を見てしまう。こいつが効いたのか。SIGの表面に紫色の電流の触手が蠢いている。一〇〇〇ボルトにあわせたままだった。
シボレーは後退していた。はっきりと異形の脅えが伝わってくる。
コンクリートの大穴をくぐる寸前、おれは背後の死闘に眼をやった。入り乱れる大小の影に隠れて三人組の姿は見えなかった。
頭上遠くに羽ばたきの音。月光が翳る前に、おれは駐車場めがけてビルの谷間を縫いつつ押し寄せてくる黒い大群を捉えていた。旋回もせずに急降下してくる。かちん、かちんと自動車の金属部に激突しては急上昇してゆく鳥の群れ。カラスだった。野犬どもの援軍らしい。
|決着《けり》がつくまで見たいという気もしたが、この体調じゃ捲土重来を期した方が無難ってもんだろう。この世ならぬ咆哮が響き渡る駐車場に背を向けたとき、ようやく遙か彼方から、ニューヨーク市警のパトカーのサイレンが近づいてきた。
おれは通りで流しのタクシーを拾い、やっとの思いでホテルへ帰りついた。
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第二章 裏切りのアポカリプス
翌朝は七時に眼が醒めた。
前夜、ホテルへ着くや強盗に襲われたと大騒ぎし、部屋つきのボーイにメイド、マネージャーを叩き起こし、揚げ句の果てにロング・アイランドの自宅で就寝中のオーナーまで呼び出して、ああ八頭さまになんてことを、強盗め呪われてしまえ、などとチヤホヤさせ、ホテルの医者から手厚い看護を受けたせいで、気分はすっかり青い空だった。顔の腫れは少し残っているが、痛みはほとんどない。
早速、ベッドの上でヨガの深呼吸と柔軟体操を二〇分ほど行い、体調を整える。
関節の動き、筋肉の柔軟度はまあまあだ。殴り合いに不自由はあるまいと思うが、試しに床へ降り、蹴りをまぜたシャドー・ボクシングを五分。やはりまあまあだった。
ついで少林寺拳法流の眼打ちと金的蹴りを練習する。空手式の貫手(指をのばした形)で突くと失明の恐れがあるが、少林寺拳法の眼打ちは拳をたてにした形で突き、眼の寸前で五指を開いてはたく[#「はたく」に傍点]方式だから、眼の奥に火花がとび散るくらいでつぶれることはまずない。逆らう奴の眼の玉ぐらいほじくり出して当然とは思うが、そこで止めるのが、おれの善人たる所以だ。自分と同じ身長の相手を設定し、何もない空間に指と足の甲を叩き込むのは毎度単調な繰り返しでも、いざ実戦となった場合、これほど有効な技はない。
休みなしで左右一〇〇回ずつ空気を切ると、軽く汗が滲んできた。火ぶくれができそうなのと、氷みたいに冷たいシャワーを交互に浴びて身を引き締める。ルーム・サービスで極上の朝食を頼んでから、久しぶりに方向感覚の訓練をする気が起きた。
隣のバーへいき、マホガニーの戸棚からシャンペン・グラスを二○個ほどと、バランタインの一七年、クールヴォアジェのナポレオン等、最高級の酒を五、六本取り出し、床の上ヘ出鱈目にならベる。それからテーブルの縁や椅子の上、背の上にも、ぎりぎりのところで落ちない位置にすべて眼をつぶったまま行う。瓶はすべて栓を抜いてだ。万がいち落としたら中身がこぼれる。一滴だって大損害だ。たちまち気力が充実してきた。
バー中にならベ終わると、その位置で三、四回転し、回り終わると同時に、逆向きでグラスや酒瓶の間を全力疾走開始だ。走りながら身をかがめ、あるいは靴の先で、グラスや瓶を並べた逆の順にはね上げ、片っ端から受けとめていく。
五年まえアンデスの谷間で、後ろは迫りくる人喰い蟻の集団、前方は幅三〇センチもない曲がりくねった崖っ縁の道、しかも、インディオの毒液を浴びて一時的失明状態という有り様で、なんとか生還できたのは、ただひとつ、往きもその道を辿ったおかげだった。
おれの体内には、数千キロを翔破してなお正確に目的地へ辿り着く渡り鳥のメカニズムが仕込まれているのだ。ITHA――世界宝探し協会の最高位|GGG《トリプル・ジー》にランクされてるハンターはおれの他に五人ほどいるが、おれのみが指一本、目の玉ひとつ、耳たぶひとかけらなくさずにいられる|理由《わけ》である。
はい、よくできましたね、大ちゃん一〇〇点満点ですよ。
自分で自分にいい子いい子しながらグラスと酒瓶をもとの位置にならべていると、朝食が届いた。
TVのスイッチを入れる。深刻な表情の男が出てきて、米ソ核軍縮交渉が暗礁に乗り上げたと伝えた。そういや、オスロの会場じゃ武官同士の暴力沙汰があったらしい。男ばかりで一室に閉じこもり、長時間しゃべくりまくるからこうなる。会議なんてのはピチピチのバニー・ガールを膝に乗せて口説きながら進めた方が、いいアイディアがでるもんだ。後は、貯水池に下剤投げこんだ阿呆と、アベック強盗のニュース。強盗の正体が一二歳の男の子と一○歳の少女ときいて驚いた。世の中、確かに狂ってる。
|脂肪《あぶら》っ気のない極上のクロワッサンとトルココーヒーをよく噛んで――笑っちゃいけない。コーヒーだって噛んだ方が身体にいいのだ――胃に収め、ドレッシング抜きのサラダと厚さ二センチの|生焼き《レア》ステーキを――わかっちゃいるけどやめられないんだ――平らげ、いつものように電話連絡にかかる。まず、怨み重なる四人組の畜生の身元だ。普通ならITHAニューヨーク支部の調査課へ依頼する段取りだが、この犯罪都市にはさすがにもっとふさわしい奴が巣食ってる。
そいつへ連絡しようと手をのばしかけたところへ、グッド・タイミングで受話器のベルが鳴った。
「はーい、大ちゃん、グッド・モーニング」
底抜けに脳天気な声は、むろんゆき[#「ゆき」に傍点]だった。国際電話もこの部屋には直通だ。日本電電公社とITT(国際電信電話公社)の口座に振り込む多額の寄附のおかげなのは言うまでもあるまい。
「なんの用だ」とおれは寝るときもはめている三〇〇万円のローレックスを見ながら、不愛想な声で言った。「今、朝の九時。そっちは午前零時だろ。どっからだ、またディスコで青びょうたんの低脳大学生をたらしこんでるのか?」
「いやだ。ちがうわよ。もち、ふたりのスイート・ホームよ。これから大ちゃんの写真抱いてお風呂に入るとこ」
おれは思わず鼻の下をおさえた。それから電話じゃ見えないことを思い出し、咳払いをひとつして、
「へえ、おまえにしちゃ品行方正だな。ほんじゃさっさと寝ろ。おれはこれから、辛い世間へ出掛けなきゃならん」
「やん、ちょっと待ってよ」柄にもなくしおらしい声に、おれは思わず耳を疑った。「大事なね、お話があるの」
「今度はなんのおねだり[#「おねだり」に傍点]だ、この浪費娘」とおれは毒づいた。「アマゾンから帰って、ゼナからもらった宝石はほとんどお前が盗っちまったんだぞ。おれには小粒のしかよこさんで。値段からすりゃ一億と一〇〇万ドルの差がある。おまけに、おまえ専用の自家用機も買ってやった。いい加減にしろ。もう当分、なにもくれてやらん」
「あら、その言い方はなによ」
ゆきの声に牙がはえた。こうこなくちゃいけない。こいつにしおらしい声でしなだれかかられるくらいなら、妖女ゴーゴンに結婚を申し込まれた方がましだ。
「あんただって十分元はとってるじゃないの。ふん、あたしの寝室に、取りはずしたはずのビデオ・カメラこっそりつけ直して、着替えや寝姿録画してるの、ちゃんと知ってるんだからね。それから、おとつい調ベてみたら、パンティとブラが半ダースくらいずつ足りないわ。あんたがつけて[#「つけて」に傍点]歩いてんじゃないでしょうね。いちばん細いビキニのばっかり盗んで、このどエッチ。あの紫と赤の縞々、返してよ、気に入ってんだから。匂いかいだり、へんなことしたら承知しないからね。それから、えーと――あんたの同級生に売るんだったら、ニッパチで分け前よこしなさいよ。場合によっちゃ、もっと凄いの提供するわ」
「……」
「あら、いけない。あたしとしたことが」
再び、まともな少女の声が甦った。
「商売の話はチャラ――じゃない、帰ってからゆっくりしましょうね。実は――」
「あばよ」
おれは無慈悲に電話を切り、すぐに取り上げてダニー・グレムリンの電話番号をまわした。
セントラル・パークには秋の陽が満ちていた。夜は吐く息も凍るのに、もう三時間もすれば、人びとの肌は汗ばみ、上着を脱ぎはじめる。狂ってる。ニューヨークだけじゃなく、この世界すべてがだ。ニューヨーク名物「五番街」をゆく通行人には丸見えの木陰で、朝っばらから猛烈なペッティングに励んでいるティーン・エージャーのカップルを横目で見ながら、おれは公園の入り口に駐車しているアイスクリーム販売|車《カー》のかたわらに立った。
待つほどもなく、二頭だての黒馬にひかれた馬車が、蹄と|車輪《わだち》の音も高らかに近づいてきた。観光客目当ての公園遊覧馬車だ。一回五ドルで、北の端をのぞく安全地帯をまわってくれる。
「旦那、いかがで」
シルク・ハットに長い革鞭を手にした黒人が御者台でお辞儀をした。まだ若いくせに、黒の燕尾服がよく似合う。
「あっちいけ」とおれは手を振った。「こんな下品な馬車に乗ってみろ。北のハーレムへ連れこまれて身ぐるみ剥がれちまう」
「なにを抜かす」と黒人は噛みついた。「さっさと乗りやがれ。別の客が待ってるんだ」
しかめっ面で乗り込むと、鞭がうなり、馬車は黄金の光をはね返しながら、ようやく人の姿が目立ちはじめた公園の奥へと疾走しはじめた。
「調べはついたか」
こっちを見送る金髪のグラマーにウインクしながら、おれはやわらかい椅子の背にふんぞり返って訊いた。
「残念ながらノーだ」
ちっとも残念そうじゃない声が答えた。
「すげえ顔してるな――おれの知ってる八頭大って男をこれだけの目に遇わせられるグループが、このビッグ・アップル(ニューヨークのこと)にいるなんて初耳だ」
「ふん、お世辞でごまかすな」おれは冷たい声で毒づいた。「なにがニューヨーク一の情報通だ。今日この場で看板を下ろすんだな」
「相変わらず、せっかちな男だな」
前を向いたまま、ダニーの放ってよこした大型の一眼レフを、おれは難なく受け止めた。ニコンFE2。いい趣味だ。
「よかったら、ニューヨーク観光の記念に、アベックの激しいシーンでも|撮《うつ》してっておくんなさいよ、お客さん。フィルムはサービス。場所は案内しますぜ」
おれは黙ってFE2を構え、ファインダーをのぞいた。四角く切られた風景にダブって、見覚えのある顔とその下の光文字が輝いて見えた。あの大男――文字は名前と経歴その他だ。
エーリッヒ・ガレーン。ドイツ人。ルクセンブルグ生まれの一匹狼の殺し屋で、五年前アメリカに渡ってきた。殺しの数はのべ三〇人。ドイツ時代、商売敵に手榴弾で吹きとばされたとき、ある医者の手術を受け、半分機械になって一命をとりとめた。武器は拳銃とナイフだが、ほとんどの殺しは素手で行う。首の骨を折るか、頭骸骨をはさみつぶすかだ。
「現住所までついてるな。大したもんだ。さっきの発言は取り消すよ」
「いいってことさ」ダニーは白い歯と同じくらい明るい笑顔を見せた。「その分もちゃんと料金に入ってるよ」
「この根性悪」
ぶつぶつ言いながら、おれはつづけざまにシャッターを押し、フィルムを巻き上げた。
カシャッ。
アラブの鞭使い:マリク・サワラジ。四二歳。イスラエル出身。もとサーカスの鞭使いで、女をめぐるいざこざからブランコ乗りを殺して逃亡。目下、イスラエルの秘密機関モサドの暗殺要員を務めている。ニューヨークへは二年前に一度だけ来て、元ナチの戦犯二人を殺害。
カシャッ。
正体不明の半病人:アントン・グローベック。なんと十九歳。ワルシャワ出身。同地の凶悪不良グループ『緑の石』のボスで、半年前から警官に追われニューヨーク在。ポーランドで二〇人以上、こちらでも八人の人間を殺している。ガレーン同様の殺し屋で、特技は、ほう、ナイフ投げだ。
どいつもこいつもクラッシックな武器を使いやがる、とおれは思った。
最後のカシャッ。
黒ずくめのハンサム:スコット・レイン、三二歳。出身地不明。ヨーロッパの犯罪シンジケート所属の殺し屋。ニューヨークにも三度来て計六人を始末している。手口は――。
おれは眉をひそめた。
「面白いだろ」
シャッターの回数から、おれの読んでる箇所を突きとめたらしい。ダニーが声をかけてきた。
「犠牲者のうち四人は野犬に喉笛を食い切られ、二人は鳥に眼の玉と全身をついばまれて逃げ出したところを車にはねられてる。どうやら鳥獣を自在に操るらしいな」
おれは最後に見た駐車場の光景を思い出し、肩をすくめた。駐車場で死体が見つかったかと訊く。答えはNOだった。やっぱりな。
「中世のヒュードロドロ世界ならともかく、今どきそんな芸当できる奴がいるのかよ。こいつもサーカス出身か?」
「おたくらしくない発言だな」
ダニーの声に軽い鞭の音が重なり、ややスピードをおとしかけていた馬車はまた速度を増した。
「インドにゃまだ、コブラ使いがいる。もと、ハリウッド女優でヒチコックの『鳥』なんかに出てたティッピ・ヘドレンとこの亭主は、家にライオンや虎を放し飼いにして、映画にもなった。サーカスの飼育係は言うまでもなく、普通の人間の領域を越えて動物と精神的交流のできる奴は少なくないよ」
「飼育係がいくら馴らしたって、ライオンは人殺しの命令を必ずきくとは限らんぜ。実の子みたいに可愛がってた動物に食われた調教師が何人いると思う」
「程度問題だね」おれの反論をダニーは軽くいなした。「一種のテレパシーを使える奴なら、動物にも殺しを強制できるかもしれん。ドイツであった催眠術殺人を覚えてるだろ。高名な医者が資産家の女房に術をかけて、亭主を撃たせたんだ。ま、女房が実行に移すまで何年かかかってるが、道徳的禁忌の分厚い壁をもつ人間だってここまでなる[#「なる」に傍点]。野性動物ならもっとずっと――」
「わかったよ」おれは片手を振って論争に終止符を打った。「奴らの手口はわかったんだ。せいぜい用心するさ。それと、もうひとつ頼んどいたおかしな魔術を使う野郎の件、ありゃ駄目か?」
「すまんな。できる限りあたっちゃみたんだが、ボール紙で女をつくるなんてけったいな真似ができる奴は、おれのファイルにない」
「仕様がねえ。じゃ、こっちで探すさ――おっ、あのアベックの女、すげえグラマーだな。Tシャツからおっぱいがはみ出してやがる。まだ十五、六のくせして。いやあ、アメリカ人てな毎日肉食うから凄いねえ。野郎の方みろよ。天にも昇る顔してやがる。ふん、ありゃオカマだぜ」
勝手なごたくをならベるおれを尻目に、ダニーは無言で馬車を走らせていたが、メトロポリタン美術館の裏手あたりにくると、やけに真面目な声で言った。
「どう考えても納得できんよ。確かにそいつら、どれひとりとっても、Aクラスの殺し屋だ。四人も束になってきたんじゃおたくだって危なかろう。だが、おれはおたくの実力も知ってる。一方的にやられっぱなしなんて考えられん」
「いやあ、そんなことないョ」
おれは育ちの良いところを見せて、ハハ、ハハと鼻で笑った。さすが、よちよち歩きの時分からつき合いのあるだけあって、ダニーの品定めは精確無比だ。
だが、胸の|裡《うち》ではもうひとりのおれが、さわやかな初秋の陽とそよ風を浴びながら、陰気な眼つきで考え込んでいた。ダニーの言う通りだ。面子があるから負け戦のことなど話しゃしないが、逐一分析すると、おかしな事ばかり浮かび上がってくる。
大男――ガレーンの顔を撃った|弾丸《たま》が効かなかったのはともかく、眼の玉を狙うと作動不能、マリクの鞭を食ったときも――昨日から考えてたことだが――風を切る音はちゃんととらえてたのだ。反応が遅れた。薄い鉛の箔を着たみたいに。
おれはカメラをもったまま、そっと両手を動かしてみた。いつもどおりだ。古書店へ入ったときもこんなものだった。体調は完璧だったと断言できる。
なら、どうしてだ?
おかしな答えが浮かんだ。
まさか。あの四人が――。いや、ちがう、ボール紙の女を操った奴だ。そいつ[#「そいつ」に傍点]なら……。
「やっぱりだ」
おれが灰色の脳細胞を駆使しているあいだ、御者席の脇にある古い革鞄の中身をカチャカチャやってたダニーが不意に声をかけた。
「奴ら四人の足取りを追ってみた。驚いたね。誰ひとり、昨日の昨日まで、顔を合わせたこともない」
思わず、なにィ!? と出かかった声を、おれは必死に押さえた。
馬車の脇を、ジョギング・パンツ姿の男女が汗を散らしながら駆け抜け、遙か向こうの芝生では、地味な半袖シャツの老人と老婆が、笑顔でリスに餌をやっているのが見えた。光に溢れた平和で平凡なニューヨークの朝。それが突如として色を失い、現実を反転した奇怪な陰画と化しておれを包み込んだ。
「そうさ」とダニーは鞄を叩きながらつづけた。「おれの情報が正しけりゃ――この中につまってるデータすべてを賭けてもいいがね――奴らが初対面だったのは、おたくだけじゃない。あいつら自身、おたくと出食わしたとき、はじめて[#「はじめて」に傍点]顔を合わせたんだ。おかしな事はまだあるぜ。奴らの昨日までの仕事はそのカメラ型端末器にでてるだろ。見てみな。おたくとやり合うような依頼をどっかから受けてるかい?」
言われるまでもなかった。このコンピューターと親子三代にわたる顔の広さを武器に、ニューヨークのことにかけてはFBIもCIAもマフィアも及ばぬと定評のある情報屋の資料にミスなど存在するはずがない。だからこそ、ダニー自身今まで生きのびられたのだ。
ガレーンは半月まえに、日本のもと総理の収賄事件に絡んだ某航空会社の経理課長を殺してから失業中だった。グローベックはニューヨーク港湾労働者問題で、当局に保護された組合側の証人を狙っていた。
「マリクは、ベネズエラでヨゼフ・メンゲレ(ナチ党の医師で、ユダヤ人相手に数多くの生体実験を行った。)を追いまわしている最中だった」とダニーは前を向いたまま言った。「レインときた日にゃ、敵側の麻薬組織と、ヨーロッパの覇権を賭けて大立回りだ。どっちも、休暇をとってニューヨーク見物に来れるような身分じゃない」
「ふん、別の任務かもしれんぞ。なにせ、今回はもの[#「もの」に傍点]がもの[#「もの」に傍点]だからな」
ダニーはちらりと鞄に目を走らせた。
「最新情報だ。マリクとレインを追って、モサドとシンジケートから刺客が派遣されたよ」
おれは沈黙した。
「こいつらは、そんじょそこらの主義も節操もない三下の殺し屋とはちがう。いいか、イスラエル情報機関とヨーロッパ犯罪シンジケート直属の殺し屋が、一体どんな必要があって、中途で任務を放棄し、宝探しに身を投じたというんだい? 地獄の底まで狙われることを知りながらよ」
それ[#「それ」に傍点]だ、とおれは、流れ去る緑と人びとを眺めながら、ぼんやり考えた。
ダニーの言う通りだとすると、ある日突然、世界中にちらばってる一面識もねえ四人の男が、急におれの仕事を妨害する衝動にかられ、それまでの任務も地位もおっぽり出してニューヨークに集まり、まったく別々に[#「まったく別々に」に傍点]、五分の差もなく偶然[#「偶然」に傍点]あの古書店へ馳せ参じたってことになる。
しかも、会った途端、強烈な連帯感が生まれ、ろくな打ち合わせもなしで、ひとりはおれを追って屋根裏へ、もうひとり――ナイフ使いの餓鬼も一緒だろうからふたりだ――は下で待機、残るひとりは屋根の上に隠れておれを待つ。これだけの作戦行動をとったってわけか?
んな阿呆な。
どこかにこいつらを操ってる人形使いがいるはずだ。
脳裡にある考えが閃いた。
人形使い――ボール紙の女――あれ[#「あれ」に傍点]の操り師か? いや、そいつは奇怪な力をふるって奴らまで葬り去ろうとした。すると――。
わからねえ。
「なあ、大、よく考えてくれ」とダニーの声がきこえた。「イスラエル情報機関の暗殺要員、ヨーロッパ犯罪シンジケートの殺し屋、ニューヨークの殺し屋ふたり。どこの誰が、どんな目的でこんなおかしな人選をする?」
「それがわかりゃ、お前んとこへ来るもんか」
おれはやや景気の悪い声で反論した。
ひょっとしたら、おれは最初から[#「最初から」に傍点]見張られていたんじゃなかろうか? いつからか知らないが、一種の魔力みたいなものをかけられ、それ以後のていたらくぶりは、そのせいではなかったか? そうだとすると、魔術師と四人組の関係は?
「やはり、心当たりがあるようだな」
安全地帯――セントラル・パークをどこまでも北へ進むと、かの悪名高きハーレムに行きあたる――の果てまできたらしく、器用に馬車の向きを変えながらダニーがつぶやいた。
「こうなると、問題の鍵は、おたくの追っかけてた仕事の内容だとしか思えねえ。なあ、良かったら教えてくれよ、大。そいつらとの喧嘩の原因はなんだい?」
おれは束の間ためらい、我ながら驚くほどあっさり言った。「ユダの黙示録さ」
「|黙示録《アポカリプス》」――誰だって一度くらいは耳にしたことがあるだろう。あの「聖書」の末尾を飾る奇怪壮大な破滅の書。広い意味では旧約のゼカリヤ書九章以下、イザヤ書二四〜二七章、マルコ福音書一三章などを含めた黙示文学をさすが、通常、新約聖書中のヨハネ黙示録のみをさしてこう呼ぶ。
描写のあまりの難解さと異様なイメージゆえに、キリスト教の総本山ローマン・カトリック教会からも一時期異端として退けられ、ようやく二世紀半ば正典認可を受けたのはあまりにも有名だ。東方教会が受け入れたのは四世紀末だが、今でも教会の典礼では決して誦読しないことになっているし、かの名高き宗教改革で権威に溺れ切ったカトリックを批判し、「聖書に帰れ」と唱えた戦士マルチン・ルターでさえ「それ[#「それ」に傍点]を聖書中に加えることを黙視できない」と明言したほどである。「その中で操り広げられる幻想が異様すぎるため」と続くルターの言葉は、今なお、あらゆる宗教関係者、聖書研究家たちの中に生きている。
だが、ダニーはこちらを向いて黒い顔のちっともよく見えない黒い眉を寄せた。
「なんだそりゃ? ヨハネのなら知ってるが……ユダって、あれか? キリストさまを――?」
「そうだ」おれはファインダー内のデータを逐一頭へ刻み込みながら答えた。「イスカリオテのユダ――永遠の裏切り者さ。考えてみりゃ、人類の終焉を描く黙示の作者として、こいつほど適役はいまいよ」
ダニーは少し考えてから言った。
「だけどよ、おりゃこれでも信心深い方でな、牧師だの、宗教関係にも知り合いは多い。なのにこれまで一回だってそんな本があるってこと聞いた覚えはないぜ」
「そりゃ当然さ。宗教関係者といえど、この本の名前を知ってるのはバチカン上層部のひと握りしかねえ。そいつらだって実在を信じてるかどうか。かく言うおれさまも、八頭家代々の言い伝えがなかったら、今ごろ六本木のマンションで中間考査の勉強に励んでただろうな」
おれはニコンをダニーに返し、電話をかけてきた古書センターの係員の声を思い出した。笑いが浮かんでしまう。敵でも見つけたような興奮の口調は、もちろん、情報を高く売りつけるための演出だ。腹の中じゃ舌出してたにちがいない。ところがそれが、内心はともかく、奴の発見にふさわしい驚きの表現となった。その価値の断片でも知識に収まっていたら、もっと低い、無感情な声で数千万ドルを要求してきただろう。本来、値などつかない代物だが、凡人が要求できる|現金《げんなま》の限界は億単位の前[#「前」に傍点]なのだ。奴には珍しい本が見つかったら連絡しろとしか伝えてない。
「おれも、よく知っているわけじゃねえがよ、黙示録てな、あれだろ、世界最高の予言書っていわれてるんだろ。大気汚染だの、巡航ミサイルだの、核実験だのを、二〇〇〇年も前から言いあててるっつうじゃねえか」
「その通りだ」おれはうなずいた。心地よい振動が背から伝わってくる。二頭の馬は足取りも軽く、木洩れ陽を蹴散らしていく。
「予言書の類は古来山ほどあってな。いちばん有名なのが、ノストラダムスの大予言――いわゆる『諸世紀』だ。“一九九九の七の月、空から恐怖の大王が降りてくる”ってやつさ。もっとも、この本の原題|LES CENTURIES《レ・サンチュリー》にゃ“世紀”の意味なんざなく――フランス語の“世紀”は|SIECLE《シュクル》だからよ――正確に訳せば『雑句帳』になるんだ。ま、他にも、マスコミに乗ってる『ファチマ大予言』とか、ピラミッドの構造に世界の運命が隠されてる『大ピラミッド予言』とかいろいろあるが、どんな予言研究者も、最後に『これっきゃない!』と行き着くのが、聖書のヨハネ黙示録さ。
ひとつ例をあげると、ある読み方によれば、第八章の『第一の御使いラッパを吹きしに、血の混じりたる|雹《ひょう》と火、地に降りくだり、地の三分の一焼け失せ、木の三分の一焼け失せ、もろもろの青草焼け失せり』のくだりが、四一〇年のゴート族のイタリア侵入とローマの破壊を示してることになる。ノストラダムスの大予言が、実は黙示録の予言から多くのネタを借用してるってのは、その筋の専門家の常識さ。
だがな、ユダの黙示録――別名『裏切りの黙示録』は、これより遙かに具体的、かつ精確に人類の未来とその運命を予言してるんだ。いま残ってるのはギリシャ語訳だが、古くはアントニーとクレオパトラ、フランス革命から、新しいとこじゃ、|宇宙船《スペース・シップ》、|巡航《クルーザー》ミサイルだのの単語がバンバン出てくるそうだぜ。もち、二回の世界大戦や、ソ連のアフガニスタン進攻まで実名バッチリ、年代ぴったしで記入されてるはずよ」
「驚いたね、こりゃ。だがよ、そんな凄え予言が、今の世に名前も伝わってねえのは何故だい? 一〇人が一〇人、ユダってや、裏切りものとしか知らねえぜ。ほんとにそんな未来を見透す力があったのかよ? キリストさまの奇蹟はおれだって知ってるけどよ」
ダニーの質問は当然のことだった。
「ユダがそんなものを書いた動機はおれにもわからない。神さまを裏切った理由と同じにな。だが歴史から葬り去られたのは、紀元五四年の正典協議会の席上で、当時の大物信者たちの間でのみ訳本が閲覧され、その日のうちに紛い物との公式発表が伝えられたためさ。そればかりか奇妙なことに、以後、公私を問わずあらゆる文書、刊行物にその名を記すこと、いや信徒間で口にすることさえ禁じられちまった。
ま、当時の、教団成立の熱意に燃えた信徒たちのエネルギーと団結力に訴えれば、一冊の文書の存在を歴史から抹消するなんぞ朝飯前だったろう。実は、協議会の席上で何やら不可思議な事件が勃発したとも言うが、その辺はよくわからねえ。それに、二〇〇〇年も前のこた、おれにゃ興味もねえし――黙示録の内容と同じにな」
今度こそ、ダニーは身体ごとおれの方をふり向いた。
「なんだァ!? おめえ、そんなもの凄い本の内容を知りたくもないのかい?」
「前向かんと危ねえぞ」おれは淡々と言った。「おれの関心は、それが幾らで売れるかってことだけさ。考古学者が美術品集めやってるのと違う。値もつけられない貴重品だからタダ、なんて話は死んでもお断りだ」
「なるほどね」ダニーは心の底から感心したように言って向き直った。「アメリカ、ソ連――欲しい国はどこにもあらあな。バチカンだって……」
「そういうこった。だから、草の根分けてもかっさらった奴を見つけて取り返す」
「やれやれ、おたくにそんな決心させるとは阿呆な野郎がいるもんだ」
ダニーの讃辞は、いつになく苦いものをおれの胸に残した。ボール紙で女をつくり、自動車に人間を食わせる阿呆な野郎――そいつを追いかける男と阿呆くらべをしたら、どっちが勝つだろう。
公園の出口が近づいてきた。
おれはダニーに情報の礼を言い、バンク・オブ・アメリカのニューヨーク支店に料金を振り込むと告げて、ステップに足をかけた。
途端に、コンピューターを見つめていたダニーの眼が細くなった。
「どうした?」
「ホワイト・ハウスがテロにやられた。無人のセスナに爆弾を積んでとびこませたらしい。迎撃ミサイルが撃ち落として直撃は免れたが、二人死んで、五人が重傷だ。物騒な世の中になってきたな。これもユダの黙示録にゃ、ちゃあんと出てるんじゃないのかよ?」
肩をすくめ「多分な」と言いかけたとき、少し離れた木陰で銃声が轟いた。反射的にふり返る。
白髪の老人が胸を押さえて崩れるところだった。眼の前に、九ミリくらいの、ワルサーらしい拳銃を構えて立っている犯人を見て、おれは度胆を抜かれた。さっき、老人ともども公園の中でリスに餌をやってた婆さんだ。それきり婆さんは動かず、まわりの連中がどっと駆け寄るのを尻目に、おれは黙って出ロヘ急いだ。
近頃はやりのなんとか大予言の類によると、黙示録の示す世界破滅のときは刻々と迫り、不気味な前兆がいたるところに姿を現すという。
イタリアや西ドイツで瀕発する要人暗殺、フランスの特急列車爆破未遂事件、そして、アメリカ大統領官邸襲撃と、名も知れぬ幸福そうな夫婦の殺人……これも、そう[#「そう」に傍点]だろうか。
どうでもいい。今のおれにとって興味があるのは、世界の破滅よりバチカンに売りつける粗末な書物の値段と、その所在だった。
セントラル・パークを出てすぐイエロー・キャブを拾い、|九番街《ナインス・アベニュー》と|一七番通り《セブンティーンス・ストリート》の交差点まで急行した。もう少し南下するとグリニッチ・ビレッジだが、この辺は殺風景な店やアパートが並んでるばかりで、自称芸術家たちの溜り場とは縁遠い雰囲気に満ちている。これから起こる事態にはその方がふさわしいだろう。
おれは何気ない風に交差点を左へ折れ、二〇メートルほど進んで右折した。紙くずやビールの空き缶が散乱する薄汚い横丁をくねくねと五分ほど歩くと、背の低い灰色の建物が密集する一角へ出た。アルコールと反吐の臭気に横手へ眼をやると、ごみバケツの陰に、ぼろぼろのコートを着た中年の酔っ払いがひっくり返っていた。垢だらけの右手にしっかりとバーボンの空き瓶を握りしめている。
あたりに人影のないことを確かめ、おれは建物のひとつ、今にも倒壊しそうな三階建てのアパートへ足を踏み入れた。
相撲取りがひとり入ったら、誰も歩けなくなりそうな狭苦しい廊下の突き当たりに、古色蒼然たる鉄柵式のエレベーター・ドアと、その手前に階段があった。
足音を忍ばせて階段を上がる。
三階の三〇三号室。
ファイルについてたスコット・レイン――あの獣使いの隠れ家だ。
お察しの通り、おれは即、逆襲に取りかかったのである。ぶん投げられるわ、鞭ではたかれるわ、コンクリートにひっくり返されるわ、ボール紙に本盗られるわ、車にかじられかかるわ、ひと晩でこれだけしんどい目にあわされたら一時的ノーテンパー――これ普通の|人間《ひと》。ベッドで泣き寝入り――これ三流トレジャー・ハンター。おれは五倍にして返す。痛い目にあわせた方は、まさか半病人の復讐など予想もしていまい。そして、襲うならリーダーに限る。話しぶりからしてレインに間違いない。奴を締め上げて残りの三人を呼び出し、全員半年は動けないくらいの目にあわす。黙示録探索はそれからだ。
おれは、ドアの内側から洩れる「気」を吸収しながら、左肩のショルダー・ホルスターからチェコ製オートマチック、CZ75を抜いた。聞きなれない名前だが、ガン王国のアメリカにだって何挺も入ってやしない、ガン・コレクター垂涎の的だ。最も実用的で種類の多いオートは九ミリ口径だが、中でもこれは作動の確実さ、ダブル・アクションの滑らかさ等あらゆる面でトップとされている。かろうじて、ワルサーPPK/Sが比肩できる程度だが、あちらは戦闘用というより護身用で|弾倉《マガジン》七発、|薬室《チェンバー》一発の計八連発、こちらは一六発とファイア・パワーが一桁ちがう。もちろん、初弾はチェンバー内に収まり、発射の瞬間を待っている。
おれの闘志も満々だが、一部欠損があった。愛用のE手袋が、昨夜コンクリートにぶっ倒されたときひどくぶつけたらしく、両方とも作動不能になっちまったのだ。ホテルを出る前、ITHAのサービス員に修理を頼んだのだが、四、五日はかかるという。
「気」は流れてこなかった。留守らしい。ノブをまわした。鍵はかかっていない。悪党のくせに不用心な野郎だ。こういうタイプに限って、殺人の後で戻ってみたら家財道具一切をかっぱらわれ、警察に訴えたりして自分がパクられてしまう。ドアを開けた途端ドカンといくような仕掛けのないのを確かめ、おれは部屋へ入った。
殺風景な部屋だった。乱れたベッドと、開け放たれたつくりつけの戸棚が、踏み込むのが遅すぎたことを示していた。生あたたかな空気に煙草の香りがこもっている。三〇分、いやほんの一五分前まで、奴はベッドにひっくり返って一服つけてたのだ。
浴室の洗面台の前に、洗い清められたグラスと灰皿と中身が半分残ったバーボンの瓶を見つけて、おれは察しがついた。何か急な事態が生じ、奴は部屋を捨てて逃げ出したのだ。それでも、指紋と血液型の処分だけは怠らない。やはり闇の世界の男だ。
おれは窓から見えない位置[#「見えない位置」に傍点]に立ちどまり、ため息をついた。
ダニーの意見が正しければ、ヨーロッパ屈指の殺し屋はある日突然、おれを殺しユダの黙示録を奪う使命感に取り憑かれて組織を捨て、アメリカへ渡ったことになる。他の三人もそれにならった。お互い横の連絡もなしに。そんな馬鹿な。四つの駒とそれを操る差し手が必ずいるはずだ。あのボール紙女を動かした奴だろうか? わからない。しかし、誰かに吹き込まれなきゃ、いくら腕ききとはいえ他人の生命を奪うしか能のない下劣な殺し屋風情に、ユダの黙示録と、それをおれが買い取りに出向く時間がわかるわけがない。
おれに黙示録のことを連絡してきた古書センターの店員が洩らしたって可能性もあるが、おれは「わかった」のひと言しか話さなかったし、二重売りするような知恵も度胸もない中年男だ。それとも、黙示録のことを知ってる影の黒幕から賄賂でも頂戴してたのか?
頭がこんがらがってきたので、おれはそれ以上考えるのをやめ、部屋を出た。
外の陽射しは濃さを増していた。午後一時をすぎている。対抗するように風が冷気で身を飾りたてていた。鼻先にツーンとくる。それと脇の下にも。
玄関を出た途端、戸口の左右に潜んでた二人組の片割れがリボルバーの銃口を食い込ませたのだ。もうひとりが素早く身体検査をし、CZ75を奪い取る。足首まで叩いて隠し武器を調べた。荒仕事に慣れてるプロの手口だ。ダーク・グレーのコートの上に、石にぶつけて鍛えたみたいないかつい顔が乗っている。三流スポーツ選手によくある顔立ちだ。ちがうのは皮膚の下から滲み出る覆いようのない残忍さだった。
「何だお前ら、FBIか?」おれは両手を上げたまま訊いた。
「歩け」
身体検査を終えたコート姿が横丁の方へ顎をしゃくり、銃が脇腹に食いこんだ。
大体の事情はわからんじゃないが、こいつらのアジトにまでお邪魔する時間はない。
おれは大男の顔に唾を吐きかけてやった。
「|野郎《ガッデム》」
重い衝撃が|鳩尾《みずおち》に食い込む。後で事故死にでも見せかけるとき、外傷が発見されると厄介だから、腹へ来ると思ってた通りだ。いいフックだった。苦痛だけで内出血も起こさない限度をわきまえている。
おれは呻いて路上に膝をついた。
つく寸前、右の拳を後ろの奴の右足の甲へ叩き込む。靴の上からだが、打つ角度、拳のパワーともに絶妙だった。第一、敵は動こうともしなかったのだ。
おれは腹腔に貯めておいた息を吐きざま、大男の下腹部めがけて頭突きを敢行した。金的を叩きつぶすつもりだったのだが、大男はとっさに半歩ほどとびすさり、目標はヘソの下あたりに変更を余儀なくされた。
それでも、予想の七割程度のダメージはあったと思う。大男はよろめきながら右手を内懐へ滑り込ませた。一気に間合いをつめる。武器はSWのチーフスペシャルだった。二インチ銃身で五連発と回転弾倉が薄く、私服刑事には便利なリボルバーだ。殺し屋にも同様だが、なあに、どっちも親戚みたいなものだ。
大男がおれに銃口を向けるのが遅れたのは、とっくに抜いてる相棒を頼りにしたからだった。人生観の甘い野郎だ。三八口径(九ミリ)の小さな穴が心臓に向けて火を吐く寸前、おれは左手でリボルバーの弾倉を上から握りしめていた。引き金を引く力で撃鉄を上げ、弾倉を撃発位置にもってくるリボルバーの場合、どちらかの動きを封じてしまうと、引き金も引けなくなる。
だが、大男はさすがにプロだった。武器が利かないと判断するや、顔面を左手でブロックしながらおれの頭突きを避け、あっさりとチーフスペシャルを放した。右手をもう一度内懐ヘ突っこむ。おれがチーフスペシャルを持ち直すより、奪い取ったCZ75を抜く方が早いと計算したのだろう。だが、おれもチーフスペシャルには拘泥しなかった。電光の速さで、おれの脇腹に拳銃を突きつけたまま硬直してる相棒の背後にまわる。
大男が続けざまに引き金を引いた。
相棒の身体が小刻みに揺れる。
おれは彼の右手のリボルバー、コルト・トルーパー三五七マグナムを奪い取り、アパートの陰へ移動しかけた大男の右肩へ二発ぶっ放した。|実戦用《コンバット》シューティングの撃ち方だ。一発目がミスっても二発目が当たる。
どちらも命中した。右肩を軸に巨体がきりきり舞いしてすっとぶ。通常弾より装薬分量の多いマグナムならではの威力だった。
ほとんど同時に、おれの楯もぐったりと路上に倒れた。着弾の衝撃で神経麻痺がとれたのである。足の甲の小指側の線やや上に、少林寺拳法でいう臨泣と|地五会《ちごかい》の急所があり、おれはこれをぶっ叩いて|胆嚢《たんのう》に障害を与え、右半身を麻痺させたのだ。
計算じゃ二発食らってる。CZ75の弾丸は、ガレーン――あのメタル・キット人間――用の特別仕上げだ。助かりっこねえとのぞいたら案の定、白眼をむき、呼吸も止まってた。傷口は見ないようにした。運の悪い野郎だ。
おれはさっさとひっくり返った大男の方へ移動した。横倒しになって呻いていた。マグナム二発分のパワーが炸裂したせいで、肩は半ばちぎれかかっていた。おさえた左手の指の股から、ぴゅうぴゅうと鮮血が噴き出し、路上に赤い池をつくっている。
どこかで人の叫び声がした。さびれてはいても住人はいるらしい。
おれは大男の足元に転がったCZ75をホルスターに戻し、トルーパーの銃口を鼻先に突きつけた。
「うだうだ問答してる|時間《ひま》はねえ」と声に凄みをこめて言う。「おまえらのことも大体わかってる。レインが抜けたシンジケートの殺し屋だな。おれを仲間と思ったのが運の尽きだ」
大男は答えなかった。しかし、下からおれを見上げる憎悪と苦痛に溢れた眼の中に、驚きの色が広がっていった。
「野郎はどうやって組織を抜けた? それだけ答えろ。すぐ救急車を呼んでやる。そのまま放っときゃ出血多量でじきお陀仏だぞ」
大男は束の間ためらい、生き長らえる方を選んだ。
「……詳しい事情はわからねえ。ただ、奴は何の断りもなく、マルセーユでの仕事をおっぽり出してこっちへ渡ったんだ……奴が勝手な真似したおかげで、うちのマルセーユ事務所は、この世にいるはずのねえ敵につぶされちまったのさ……は、はやく、救急車を……」
「いいとも。奴の新しい雇い主は何て野郎だ?」
「……わからん。……だが、おかしな話をきいてる……レインは殺しの標的と野犬がドンパチやってる最中、不意にその場を離れ、ホテルヘ帰って荷物をまとめたというんだ……」
すると、仕事の真っ最中に? おれは頭を振った。どんな力をもった雇い主だって、こんなまずい抜け方をさせるもんか。まるで、何かに取り憑かれでもしたみたいに……。
大男が首を垂れた。必死に持ち上げてた上半身がコンクリートの上に落ちて鈍い音をたてる。呼吸は浅く速い。おれは、ハンカチで傷口を縛り、ヨガの蘇生法を施してやった。全身のバイオリズムを極端に下げ、身体の要求する生命維持エネルギーがロー・レベルで済む。みるみるうちに出血が止まり、呼吸はさらに浅く、しかし、ゆっくりとなった。いわば偽似的凍眠状態である。あと二〇分はもつだろう。
恐る恐るのぞき込む連中を尻目に横丁を出て、電話ボックスを探す。緊急病院に場所を告げてから、もう一枚一〇セント硬貨を投資してダニーに連絡を取り、四人組の居所を探すよう依頼した。電話ボックスを出ると、ようやくパトカーのサイレン音が聞こえた。
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第三章 ユダの謎
一七番通りに出てから通りを一本上がり、|一八番通り《エイティーンス・ストリート》の地下鉄駅に入った。タイムズ・スクエアで乗り換え、七七番通りまで行けばホテルは眼の前だ。階段の途中で、どうして車に乗らないのかと考えたが、戻るのも面倒だった。
平日の昼過ぎに加え、場所も場所だけに、ホームには人影もまばらだった。床や壁は意外ときれいだ。日本でよく宣伝される落書きだらけの駅は、悪名高きハーレムやサウスブロンクス方面に限られる。
ただし、地下鉄には容赦がない。訳のわからねえ文字を書きなぐられた車体が滑り込んできた。
かなり混んでる。空いてる車輛はないかと見まわした。およよ、いちばん最後ががら空きだ。どういうつもりか、乗車位置に並んでる奴もいねえ。おれは後ろからぐいぐいと押してくるデブの白人女にあかんべをしてから、素早く列を離れ、最終車輛にとび込んだ。足が床を踏むと同時にドアが閉まり、ニューヨーク名物の地下鉄は、金切り声をたてつつ暗黒の地底を疾走しはじめた。
おれは無言で外を眺めた。多分レインは、殺し屋どもの襲撃に気づいてアパートを引き払ったのだ。そこへおれがのこのこ出掛け、奴の代わりに一戦交えた。下手すりゃ殺されてただろう。あまりにもタイミングが良すぎる。おれは背後に何やら不気味な力が蠢いてるのを感じた。CZ75一丁じゃ解決にも何にもならない黒い闇の力を。
そろそろ駅だ、と身体に刻み込まれた超感覚が告げた。ニューヨークの地下鉄は二つのときから反吐が出るくらい乗りまわしている。
ブレーキまで、あと三秒……二秒……一秒……。
スピードは落ちなかった。
脳の片隅で非常警報が鳴り響き、おれは反射的に立ち上がった。電車は前と変わらぬ速度で疾走をつづけている。天井の車内灯がおれの淡い影を床に落としていた。
脇の下のCZ75を握りしめたまま、おれはしきりの|扉《ドア》を開けて隣の車輛へ入った。
おぼろな照明の下、がらんとした座席の中ほどで真紅のコートがおれの眼を射た。
ボール紙の女は静かに立ち上がった。
「お久しぶりね」
笑いを含んだ声が赤い唇からただよってきた。吸いつきたくなるようななまめかしさだが、ぶちゅした途端にボール紙の切れ端になっちまうんじゃ食指も動かねえ。お、香水の匂いまでする。ミス・ディオールやんけ。人形のくせに洒落たものつけてやがる。
「運の強い坊やだこと。どこかに手違いがあるようだわ[#「どこかに手違いがあるようだわ」に傍点]。でも、これでおしまいよ。あなたには、永遠にこの地下鉄で地底巡りをしていただくわ」
「やーなこった」とおれはCZ75を女の豊かな胸にポイントしながら言った。「どうやったか知らねえが、すぐ地下鉄を止めろ。乗客を降ろすんだ」
女は艶然と笑った。
「わからない坊やね。他のお客はみな目的地で降りられるの。どうどう巡りはあなただけよ」
その通りだった。女の言葉が終わる前に、おれはある事実に気づき、愕然としていた。前方のしきり扉にある円形ガラスの窓を通して、次の車輛の|内側《なか》が見えた。だが、そこには誰もいないのだ!?
「気がついたようね。後ろを見てごらんなさい」
背筋をもう一度冷たいものが這った。確かにおれは最後尾から入ってきたのに、背後にあるのはしきり扉ではなく、最後尾の乗降口だった。すると、ここは――
「ここは、最終車輛よ。あなたの乗ったところ」女はおれの頭の中を読んだように笑い、前方の扉に手を振った。「あそこも、その先も、あなたのいるところはすべて同じ。どうしてここだけ乗客が並ばなかったかわかって? いいえ、なぜあなたは最初から便利なタクシーより地下鉄を選んだのかしらね」
「そう仕向けられたってわけか……レインの奴が逃げたのも、おれがあそこで殺し屋と出食わしたのも、おまえ――いや、人形使い野郎の仕業だな」
女は妖しく笑っただけだった。
「どうかしらね」
「とぼけなさんな。だが、おれを一生ここに閉じこめとくつもりならそれでもいい。哀れな囚人さまの最後の願いを聞いてくれ。黙示録は何処だ? それとおまえの操り師は?」
妖艶な唇が沈黙し、じきに答えを吐いた。やけに思いやりに富んだ答えだった。
「日本へ帰ってごらんなさい[#「日本へ帰ってごらんなさい」に傍点]。……ただし、帰れたらね。地底巡りは死体でも出来るわ」
「冷たいことを言うね」
おれはCZ75を握った手を真っすぐ女の顔にのばした。
「無駄よ。ただの拳銃では何の役にも立たないわ」
今度はおれが笑う番だった。
左手でシャツの胸を開け、特製のペンダントを示す。低いうめきを洩らして、生けるボール紙は一歩後退した。
「昨日ひと晩考えた――てえのは嘘だ。あのとき、駐車場でおまえの仲間を撃退できるような武器といったらこれしかなかったんだからな。ある子供が、生命の代わりにおれにくれた品さ」
柄にもなく声に感慨がこもっている。銀色の鎖につながった薄い石のペンダントは、数カ月前アマゾンで、業火に消えたインディオの少年がくれたものだった。その表面に彫られた紋様に、人食いカーを退けるどんな力が秘められているのかおれにはわからない。ただ、あのとき抱き上げた少年の笑い顔だけは脳裡に灼きついている。化け物を追っ払ったのは、それ[#「それ」に傍点]かもしれなかった。
「この銃の弾丸は、この石にこすりつけてある。効き目はわからねえが、試してみる価値はありそうだな」
女が身をひるがえした。とびついて右手首をつかんだ。あたたかい肉の手ごたえ。それが突然消えた。何の抵抗もなく、ボール紙の筒だけをおれの手に残して女は前の車輛へ走り去った。
追いかけた。扉を開けてとび込む。赤いコートが前の扉の向こうへ消えるところだった。駆け寄って左手をつかんだ。また抜けた。前の車輛へ。赤いコートが前の扉の向こうヘ消えるところだった。駆け寄って、今度は髪の毛を掴んだ。何でこんなことをしてるのかと思った。女の首が抜けた。ぽん[#「ぽん」に傍点]という音がした。女はそれでも逃げた。おれはもう追わなかった。扉の向こうへ走り去る赤いコートと二本の足を見送ってからふり向いた。そこは最終車輛だった。
有り得ない車輛に乗り込んだ以上、実在する別の車輛へ行けるわけがない。見事なやり口だ。おれはふと、ニューヨークで行方不明になる男女の何人かは、偶然この地下鉄に乗ってしまったんじゃないかと思った。
かといって、満喫できるような優雅な旅でもない。おれは先の見通しも立たないまま、乗降口にCZの九ミリ弾を叩き込んだ。
予想だにしない反応は、スチール製のドアに拳大の射入孔が開いた途端、扉の絶叫となって現れた。鮮血がとび散り、狂ったようにドアが開閉する。テンポが速すぎて飛び出すこともできなかった。閉じては開き、開いては閉じながら、扉の縁に牙らしきものが生え揃いつつあった。
床が、いや、車輛全体がぐにゃりと曲がった。天井から、照明から、座席から、車輛のすベてが憎悪の念を叩きつけてくる。奴らは怒っているのだ。
かといって、ご機嫌をとるわけにもいかねえ。おれは念仏とアーメンを唱えながら、手当たり次第CZ75を乱射した。
照明が吹っとび、ガラスの破片とともに眼球らしいものが白い糸を引いて落下した。三つの大穴を開けられた座席が、明らかに生物のものらしい内臓を噴出させ、車内に彩りをつける――と思ったら、びゅんびゅんとうねくりながら、おれめがけて飛びかかってきた。
左手首に巻きついたのを九ミリ弾で吹きとばす。くそ、E手袋さえあれば。床が波打っていた。動脈が通っているらしい。一発ぶち込んだ。石油みたいな色の液体が噴き出し、天井に当たって床へと逆流した。耳を覆いたくなるような叫びが車内に充満し、おれはかろうじて、断末魔の声と聞き分けることができた。
心なしか、車輛のスピードが落ちている。乗降口に眼をやった。奴も死にかかっていた。あの開閉速度なら抜けられるだろう。だが、光る牙は健在だ。確率は四分六――おれが四だ。床から噴出する液体に白いものがまじりはじめた。天井や窓ガラスが白い湯気を発して溶けていく。胃液だった。主成分はやはり酸だろうか。
靴が煙を放ちはじめた。四分か六分かだ。おれは、うねりくる内臓を払いのけながら、乗降口のドアが閉じるのを待った。肩が熱い。コートが溶けていく。
扉は閉じ、再びゆっくりと開きはじめた。もう少しで胸の厚みが通る。おれは突進した。何もない暗黒の空間へ身を躍らせ、唸りとぶ冥府の風を頬に感じたとき、右足に激痛が走った。
ぐん、と見えない線路へ落ちてゆく寸前、ふりむいた両眼に、おれの足首をくわえ、どう見ても死微笑としか思えない形に歪んだ扉の姿が映った。
「おい、君、こんな所で何をしとるんだ、起きたまえ」
肩を強く揺すられて眼をあけると駅員の格好をした男が立っていた。周囲を見回す。おれは地下鉄駅のホームにあるベンチで眠っていたらしかった。思わず壁のプレートを見る。|七七番通りの駅《セブンティ・セブンス・ステーション》だった。
「……目的地に着いたってわけか」
おれはつぶやいた。身体に痛みはない。コートにも地下鉄[#「地下鉄」に傍点]の血の痕一滴、胃酸であいた穴ひとつ見当たらなかった。
駅員の話によると、おれは午後二時からずっとベンチにひっくり返っており、午後出勤の途中におれを見かけた乗客のひとりが、帰宅時にオフィスへ連絡したらしかった。どうやってここへ辿り着いたのか、おれにもわからない。
それを考えるより、おれの思考は何千キロも彼方へ飛んでいた。
日本へ帰ってごらんなさい。
おれは警官と周囲の乗客たちにわざとらしく微笑みかけてから立ち上がった。顔が歪んだ。
「どうした?」
「なんでも。夢見が悪かったのさ」
構内を出たところにあるベンチで、おれは住み心地の悪い世の中になったもんだと思った。夢まで人を食いやがる。
右足首にうがたれた一〇近い傷痕は、どうみても牙の痕だった。
ボール紙女のアドバイスに従い、翌日の午前九時、おれを乗せた自家用ジェット・ボーイング747SPは、ジョン・F・ケネディ空港の滑走路を蹴って一路成田へとその機首を向けた。
同時刻に同じ航路を飛ぶ予定の航空機すベてをキャンセルさせるという無茶苦茶なフライト・プランがまかり通ったのも、全世界の主要航空機関にばらまいてる年数億ドルにのぼる賄賂のおかげだが、マッハ二・五の猛スピードで、眼下に流れる雲海と粘土細工みたいな海を追いつつ、ふかふかのソファに身体を伸ばしたまま、おれは、金の力じゃどうにも手の打ちようがない不安が胸の奥から広がってくるのを感じていた。
ニューヨークからノン・ストップ五時間のスピード記録で成田に到着。専用車庫にキープしてあるポルシェを気狂いみたいにすっ飛ばして帰宅した六本木のマンションで、それは、ゆきという名の娘に姿を変え、おれを待っていた。
「なにィ、結婚する!?」
おれはあんぐり口を開けたまま、つんと澄ましたゆきを呆然と凝視した。珍しく玄関口まで出迎えたと思や、開口一番なんてこと抜かしやがる。二、三十年先におれを心臓麻痺で片づける遠大な計画の第一歩を踏み出してるんじゃあるまいな。
だが、話は本当だった。
一カ月ほど前から付き合ってる若手実業家に二日前、つまり、おれあての国際電話をかけた晩にプロポーズされたという。そういう野郎がボーイフレンドの中にいるのは知ってたが、まさかここまで話が進んでるとは初耳の中の初耳だ。
「申し込まれる瞬間まで、結婚相手なんて意識全然なかったのよネ。なのに、耳もとで熱い言葉を囁かれた途端、心はもう式場の予約にとんじゃってたの」
居間のソファに坐ってにらみつけてるおれの前で、ゆきはふた昔まえの三流メロドラマのヒロインみたいな表情で歌うように言った。そう言や、眼の中に星が光ってやがる。
恐ろしいことに、式の日取りも決まっていた。一〇月末日である。
「――でね。遺産分けして欲しいわけ」
ヌケヌケと言い放ったひと言で、おれはやっとこ唖然という名の虫を追い払い、怒りのガス・バーナーに点火することができた。
「なにが遺産分けだ。誰も死んじゃいねえし、おまえの金なんざ、東京中の地面掘り起こしたって、びた一文出やしねえ。寝言は寝てから言え!」
「ふん」とゆきは、あっさり提案を引っこめた。察するところ、駄目でもともと[#「もともと」に傍点]と言い出してみたらしい。金のためならあらゆる可能性を追求する女だ。即座に次の手を打ってきた。
「じゃあ、手切れ金よ、ハンド・カット・マネーよ。あなた、むりやりわたしをこんなとこ閉じ込めて、さんざか弄んだんだから、そうねえ、肉体的精神的慰謝料を含めて、このマンションのワン・フロアすべてをいただくわ」
「いい加減にしろ、このごうつくばり。おれがアパートでも借りろと出してやった金を丸ごと貯め込み、安上がりでいいわよと転がり込んで来たのはお前の方じゃねえか。おおおれがいいいつお前を弄んだ。そりゃ、寝姿の一度や二度は覗いたが、指一本触れてないのに肉体的慰謝料たあどういう意味だ? 精神的慰謝料の方はおれがもらいたいくらいだよ」
「言ったわね」ゆきはついに柳眉を逆立てた。
「こうなれば全面戦争よ。あの人の力を借りてマスコミを動かし、世界中にあんたの悪業をぶちまけてやるわ。八頭大の賄賂人脈図をつくってやる。ロッキード事件なんて眼じゃないわよ。一生涯、宝探しどころか、道端に落ちてる一円硬貨も拾えないほど有名にしてあげるからね。手はじめに、学校で外谷順子のブルマー盗んだことから|暴《ばら》すわよっ!」
壮大な計画のわりにセコい真似しやがる。おれは鼻先で嘲笑った。
「笑わすな、このアンポンタン。八頭一族が先祖代々築いてきた人脈金脈が、おまえやどこの馬の骨ともわからねえチンピラ実業家ごときに崩せるとでも思ってるのか。立花隆の読みすぎだよ。つまらねえこと考える前に、愛しい恋人の身元調査でもしたらどうだ。『午後のワイド・ショー』の統計によると、若手実業家と名乗るのは、結婚詐欺の手口のベスト・ワンらしいからな。
それからもうひとつ。外谷順子のブルマーを盗むくらいなら、西新宿のおカマのパンツでも失敬した方がましだ。体重が一〇〇キロ、ヒップ一二〇メート――じゃねえ、センチか――そんな女のブルマー、どんな気狂いが何の目的で盗むというんだ。警察が取り上げるもんか」
この反論に腕組みをし、それもそうねとつぶやいたのも束の間、ゆきは再び黄色い声を張り上げた。
「よくもあの[#「あの」に傍点]人の悪口言ったわね。もう生かしちゃおけないわ。明日からお弁当に少しずつ砒素をもってやる。光栄でしょ。あのナポレオン・ソロが、セントヘレナに幽閉されたときと同じ死に方よ。えーと、確か日に日に脱力感が増し、髪の毛が抜け落ち、視力が衰え……そうそう、インポになって死ぬのだぞ」
断っておくと、おれは毎日ゆきの特製弁当を高校に持参し、恋人の日替わり弁当だよなどと言っては、クラス中の嫉妬と羨望の眼を一身に集めている。
「だれが、おまえみたいな淫乱娘の弁当なんざ食うものか。でで出ていけ、出ていけ。二度と戻ってくるな」
くそ、これで、弁当を大量生産し、ゆきの寝姿ピンナップをつけて売りさばく計画もおじゃんか。煮ころがしの味つけの秘密を、コンピューターもまだ解読してねえんだよな。
「えー、出ていきますとも」とゆきは眼を三角にして喚いた。む、今日は強気で出やがる。「これからは、食事も掃除もぜーんぶコンピューターにやらせるのね。もう、ひとつの鏡で一緒に歯も磨かないし、お風呂の温度もみてあげない。バス停で別れのキスも出来なくなるのよ。大事なものは、失くしてからその価値がわかるんだからね。後になって、どこに下着があるのかわからねえなんて、あたしたちの新居に電話なんかかけてこないでよ」
バルカン砲みたいなスピードでこれだけまくしたてると、ゆきはさっさと身をひるがえし、風みたいな速さで部屋をとび出していった。少しして玄関のドアが閉じる音。
しばらくソファにふんぞり返ってから、おれはテーブルの上のブランデーとグラスに手をのばした。光沢とカーブの渋さがお気に入りのグラスだ。選んだのはゆきだったな。結局、酒はやらず、ゆきの部屋へ行った。理由はわからない。長旅の疲れでセンチメンタルになっていたのだろう。
しかし、ドアを開けた途端、感傷はブッ飛び、怒りがでかい面してやってきた。
あの糞ったれ娘、家具からスリッパまで、動かせるものは洗いざらい持って行きやがった。すべては計画的だったのだ。
腹はたっても学生の身分である以上、授業にゃ出席しなくちゃならない。膨大な寄附のおかげで、一年間まるまる欠席してもオール5進級は思いのままなのだが、おれはなるべく授業に出るよう心掛けている。騙し合いだの殺しっこだの、殺伐とした世界に首までつかってると、いくらワイヤー並みの強靱な神経を誇るおれでも、親の金で学生生活をエンジョイしてる青春小僧どもの世界が懐かしくなってくるのだ。
四人の殺し屋とボール紙女の陰の黒幕、そいつの持ってる黙示録の行方――気になることは山ほどあったが、おれはITHAの調査課と個人的に親しいその筋の情報屋に捜査を依頼し、翌日の一時限目から元気いっぱい登校した。ヨガの代謝機能調節技を使えば、時差ぼけなど遠い世界の話だ。
ただひとつ、地下鉄の中で耳にした謎の言葉――日本に帰ってごらんなさい――が相変わらず胸にひっかかっていたが、そのせいで逆に、矢でも鉄砲でも持ってこいという気分になれた。帰った以上[#「帰った以上」に傍点]、おれが動かなくても、向こうからちょっかいをかけてくるにちがいない。だが、向こうにいるのはどんな奴だろう?
クラスに入ると例のごとく、動揺と驚きの視線が迎えた。全員おれの商売を心得てて、無事戻ったのが不思議なのだ。
「おい、あの新顔、何者だ?」
鞄の中身を机へしまいながら、おれは隣席の青木に尋ねた。
廊下寄りの列の中ほどに、初めて見る顔が腰をおろしている。授業まえのいちばんやかましい時なのに、じっと前を向いたまま彫像みたいにぴくりとも動かない。周囲の空間までが半透明に固着し、そこから冷たい風が陰気陰気とつぶやきながら吹きつけてくるような、うっとうしい野郎だった。
「まさか、富士の火口から出て来たのが、カルチャー・ショックに悩んでるんじゃあるまいな。何て奴だ?」
「|蒼《そう》ってんだよ。昨日、日比谷から転校してきたんだ」青木はちょっと眉をひそめながら答えた。「驚いたぜ。あの席についてからひと言も喋らねえ。宮本の話じゃ、実家は会社を経営してるそうだ」
おれがふーんとつぶやいたとき、出欠簿片手の宮本が入ってきた。
これ見よがしにそらした胸の上から、悪趣昧な銀ぶち眼鏡でクラス中を威圧的にねめつける。もとからデブのせいでダブルの背広に蝶タイがそれなりにお似合いだが、なに、人間本性はすぐ現れるもんで、おれと視線が合うなり反射的にお辞儀をしてしまった。あわてて顔を上げ、咳払いしたものの、シラケ鳥が立ち去るまであと三〇分はかかるだろう。あちこちでくすくす笑いが湧いた。
出欠、朝礼、数学、現国、世界史、音楽とタイム・テーブルは順調に消化されてゆき、昼休みのベルが鳴り響いた。
音楽室を出るとき、女の子が二、三人、嫌な笑い声を洩らし、ドアの奥に視線を投げた。|標的《ターゲット》は蒼に決まっている。
仕事と無関係の男には砂粒ほどの関心も持たない主義のおれも、こいつにはいささかあきれ返っていた。
四時限――二〇〇分のあいだに三回の指名を受け、ただの一度も席を立たなかった。いや、そのトロリと結んだだけの、今にも涎がこぼれそうな血色の悪い唇は、「はい」のひと言も発さなかったのだ。
猫背気味の背をはじめて見たときの角度と寸分変えず、なぜ返事をしない、という教師陣の業を煮やしたような詰問の方角へ眼を向けることもなく、やせこけたブレザー姿は沈黙を固持し抜いた。無視ではない。行為には意志が必要だ。蒼にとっちゃ、教師もクラスも最初から存在していない――無視する必要もない――おれにはそう見えた。無類の短気をもってなる音楽の杉山教師までが、手にしたタクトで奴の横面を張らなかったのは、内気な転校生という考えが頭の隅にあったからだろう。
なにはともあれ、変わった野郎だ。
もっとも、かく言うおれさまも、あの恩知らず娘の変節行動に思考力のほとんどすべてを奪われ、幾度さされても[#「さされても」に傍点]、ぐおっと歯をむくだけでパスしちまったのだから、でかい口は叩けないがよ。
手を洗う前にトイレへ行きたくなった。時間が時間だけにごった返してやがる。他も同じだろう。近頃、色気づく年齢のせいで他人のもの[#「もの」に傍点]がどうも気になるらしく、隣から覗き込む奴もいるしな。
おれは即座に三段ずつ階段を駆け降り、裏庭へ回った。カマボコ型のプレハブ校舎が二棟、塀に身を寄せている。もっと設備のいい部屋が校舎内に設けられることになり、ひと月ほど前から使われなくなった理科室と化学室である。付属する水洗トイレの機能はまだ活動中のはずだ。
快感。
すっきりしゃんとして、手を洗う。
塀のせいで昼の日射しが大幅に妨げられ、トイレの中は妙に薄暗かった。いつもは二、三人姿を見せるおれと同じ合理主義者の足音もしない。
しかし、いた[#「いた」に傍点]。
ふと横を見る。
蒼が手を洗っていた。
思わず立ちすくむおれに青白い顔を向けようともせず、やせっぽちはひたすら、流れる半透明の太い糸を細く小さくちぎりながら、骨ばった掌をこすり合わせていた。
マクベスの女房そっくりだな、とおれは思った。
「つまらないですね、学校なんて」
不意に蒼が口を開いた。はじめて傾聴するお言葉は、発した当人にふさわしく、暗くて妙に粘っこかった。「ほんとは来たくなかったんです。他にしなくちゃならないことがたくさんあるもので。でも、ひとめ噂の八頭くんに会ってみたかった。やっと願いが叶いました」
「そいつは、どうも。だがな、慕ってくれるのは嬉しいが、おれはストップひばりくんにゃあ興味はねえぜ」
おれは絹のハンカチで手を拭きながら、平然たる声を出そうと努めた。季節の変わり目はおかしな奴が増えるというが、おれに会うため転校してくる男なんてはじめてだ。おまけに噂の的ときちゃ、宝探しがやりづらくて仕様がない。
「一度、どこかでゆっくりお話できませんか。ぼくの部屋へご招待します。二人だけなら結構広いですよ」
首筋の怖気を顔に出すまいとしたが、うまくいかなかったかもしれない。青白い顔が無表情に、「喜んで受けて下さるとは思ってやしません。でも、そのうち、あなたの方から訪問したいと言い出しますよ。古い言いまわしを使えば、ぼくたちの小指は、運命の紅い糸で結ばれているんです」
「いちいち、ゾクゾクさせんなよ」おれは大げさに背中を掻く真似をした。「愛してるなんざ言い出したら、おれが転校せにゃならん。それに、そんな馬鹿丁寧な言葉を使う必要もねえ。おれたちゃ同級生なんだ」
横顔がはじめておれの方を向いた。そこだけ異様に紅い唇が笑いの形をつくる前に、おれは早々とトイレをとび出した。
日射しが明るかったのなんの。
学校が終わるとすぐ、おれは近所の駐車場から、愛車フェラリ・ベルリネッタBB512Iを駆って新宿へ向かった。
高速へ乗っても、幾度となくバック・ミラーを覗いてしまう。蒼竜二が側にいるような気がしてならないのだ。近頃は母親と息子だの、兄と弟だのまで不倫な関係が広がっているらしいが、おれの美意識の範疇に男は入っていない。午後の授業の間じゅう、蒼はあらゆる外界を無視する態度を堅持し抜いたが、あの調子じゃ、終業のベルと同時におれのもとへ駆け寄り、夕食をご二緒にぐらい言いかねないと考え、掃除当番もパスして逃亡した次第だ。
ヒマラヤの仙人から地底の獣人まで、男という男に巡り合ってきたおれのキャリアでも、非常に稀なタイプだった。そのうち、おれの方からお訪ねしたくなる? いい加減にしやがれと頭の外へ追いやりながら、おれはその考えが妙に具体的に思え、ハンドルを握る手に戦慄を感じた。ただのおカマじゃなさそうだ。
夕暮れ前だというのに、歌舞伎町の人出は休日なみだった。色彩の豊かさじゃNYやLAのダウンタウンに敵わないが、人数なら世界一だ。
フェラリを駐車場に入れたおれが、一八○センチの長身で風を切ると、でかいマフラーで首を隠した亀の子みたいな娘が何人も声をかけてきた。最新流行かなんか知らねえが、こういうのに限って、ずんぐり体型の上に男が着るみたいな上着をかぶってるから、まるで人間そっくりなガメラだ。
声かけてきた娘たちのほとんどは女子大生だったが、二、三人は学校ふけた高校生と中学生にまちがいない。体格は見事なもんだが、顔が幼すぎる。もっとも、それまでなくなっちまったら、日本の寿命も尽きる寸前だ。
いつもなら、フジTVの「オールナイト・フジ」に出してやると言って、こちらから口説くのだが、おれは誘惑の手をすべて振り切り、劇場通り――「とんかつ・にいむら」の並びにある小さなディスコに入った。
ご存知、一階はナウいヤング相手の踊り場、地下は八頭家代々の呪われた秘宝の集積場――死霊秘宝館である。
五時開店だから客の姿はなく、店員たちが掃除やレコードの運搬に励んでいた。おれを見つけ、軽く会釈する。店長の親戚ぐらいに思っているのだろう。実はパトロンなのだが。
マリアは、百年一日のごとき妖艶さを保っておれを待っていた。濡れた瞳と真紅の唇をはめ込んだつややかな顔は、とても化粧で二〇〇歳近い年齢を偽っているとは思えない。青いサリーからむき出しになった肩や豊かな乳房の張りも、三〇代の豊穣さだ。その正体を垣間見せるのは、深く澄んだ双の瞳――人間の醜悪さから崇高さまでを静かに見据えてきた叡知と達観のかがやきだ。
「来る頃だと思っていたわ」
肩の荷をおろしたような安堵感にとらわれているおれに、マリアは謎めいた微笑みを投げた。
「ニューヨーク、駐車場、地下鉄……大変だったようね」
「知っていたのかい?」
答えず、マリアは立ち上がり、おれたちは秘密の小部屋を開けて地下へ降りた。
いつ来ても不気味な場所だ。
八頭家の先祖が営営と発掘収集した呪われた宝物が、ところ狭しと並べられている。空気が妙に冷たい。全身の毛穴から精気が吸いとられるような感じがするのは、おれの気がくさくさしてるせいじゃあるまい。総点数は約二万七〇〇〇――つまり、最低でも二万七〇〇〇人分の怨霊が新宿の地下の一角に渦まいているわけだ。占星学や陰陽術を駆使して封じ込めてあるはずだが、やはり、歴史上の宝物となると、取り憑く怨念のスケールも桁はずれで、ときどき地上で「事件」をまき起こす。新宿で殺人や強盗の瀕発する原因がここにあると知れば、警察や婦人団体の暴徒が群れを成して押し寄せるだろう。
「とんでもない事件に関わってしまったようだね、大」
黒い|髑髏《されこうべ》や深い獣の爪跡がえぐり込まれた石壁、瞬間に表情を変える銀仮面といった奇怪な展示物に囲まれた一角で、こればかりは普通のソファに腰をおろすと、マリアはちっとも心配ではなさそうに言った。
心臓の血流が一瞬乱れる。「とんでもない事件」か。生まれた時からの付き合いだが、「とんでもない品[#「品」に傍点]」ならともかく、マリアが「事件[#「事件」に傍点]」と言ったことはない。おれは周囲に立ちこめる鬼気を払うように両手を動かしながら、今度の件の背後にそびえる黒い計りしれぬ存在の大きさをふと感じた。
「でも、仕方がないわね。あなたがどうあがこうと、それ[#「それ」に傍点]は決まっていたことよ、遠い前世――二〇〇〇年以上も前に。いいえ、遙か大宇宙の|開闢《かいびゃく》以来、膨大な|時空間の記録《アカシック・レコード》に刻み込まれていた、と言っても驚かないでしょうね」
「やれやれ」とおれは肩をすくめた。「親父とおふくろは、さぞやあんたとウマが合ったろうな。だが、おれまで運命論者になるつもりはねえ。おれの現状と未来を気にしてくれるのはうれしいが、今日は教えてもらいたいことがあって来た」
「ユダの黙示についてだわね」
「先の先まで読んでるのか」
苦笑しかけたおれの口元が凍りついたのは、気のせいなどではない異形のどよめきをきいたからだった。空気の微粒子ひとつ揺らさず、暗い暗い地の底から湧き上がるようなその「声」は、おれの耳ではなく脳髄の奥底で重々しく反響した。
部屋にいる奴ら[#「いる奴ら」に傍点]が一斉に放ったのだ。
「こいつらは知ってるわけか。おれは――」
マリアはなまめかしい白い指をすぼめた唇にあてて、おれの言葉を封じた。
「ここに来た以上、すべてはわたしにおまかせなさい。あなたの知っていることも、知りたいことも、知らねばならないことも、すベてわかっているわ。そうでない部分は、すぐ訊いて[#「訊いて」に傍点]あげる」
「そいつぁどうも」
パチパチと手を叩いたのは、どうしても顔に出ちまいそうな薄気味悪さを|隠蔽《いんぺい》するためだ。
この地下室へ来るたびに、先祖の趣味の悪さをののしりたくなる。マリアの澄んだ眼が見守っていてくれなければ、とうの昔に展示物を売り払い、エアロビ教室かハンバーガー・チェーンの二、三十もつくってるところだ。ふむ、女子高生相手のホスト・クラブもいいな。
「イスカリオテのユダ――歴史上、これほど憎み、呪われた名前が存在したかしらね?」
歌うようなマリアの口調に、おれは、筋肉もりもりの美少年がセーラー服姿の女高生から巻き上げたチップの上まえをはねている自分の悪夢から醒めた。
「ユダのことなんざどうでもいい。ジョージ・スティーヴンスの『偉大な生涯の物語』で、ナポソロのデヴィッド・マッカラムが|演《や》った役だよな。キリストをゴルゴダの丘まで連れてく百人隊長役がジョン・ウェインだ。マッカラムは首を吊って自殺したぜ。――さ、黙示録のことをきかせてくれよ」
「まあ、お待ち。作品を語る前に作者について知ることは、古の礼儀だわ。それに、これは黙示録の最も深い謎に光をあてることにもなる。ユダは首を吊って死んだのだったわね」
「ああ」
「それは、マタイ福音書、二六ノ一五、および二七ノ三に記されているひとつの事実よ。エルサレムの東、ケデロンの谷を隔てたオリブ山の西麓にあるゲッセマネの園で、ユダは師イエスを示す合図の口づけを送り、ローマ人官憲の手に渡した。永遠の裏切りものの烙印とともに。でも、どうして[#「どうして」に傍点]彼は師を裏切ったのかしら」
おれは正直、返答に詰まった。なるほど、ユダがイエスを裏切ったことは、きょう日小学校低学年の子供でも知ってるだろう。しかし、その原因は何だ? 今まで読んだキリスト教関係の書物や映画、テレビの記憶を瞬時にたどり、おれは愕然となった。記憶は鮮明だ。ところがどれひとつとっても、納得できない[#「納得できない」に傍点]のだ!
「二〇〇〇年のあいだ、宗教関係者たちはさまざまな理由を創案してきたわ」
マリアの口調は、おれの胸中を完全に読み取っていることを示していた。
「ヨハネ福音書、一二ノ一からはじまる記述――ベタニヤで母マリアが高価なナルドの香油をイエスに注いだとき、それを三〇〇デナリで売り、貧しい人びとに施すべきだと非難したユダ――これを論拠にして、イエスとユダの人格的対立を原因に挙げるものも多い。圧倒的なのは、信仰上の意見の食い違い説だけれど。でも、それらのどれひとつとっても、どんな食い違い[#「どんな食い違い」に傍点]があったのか、説明し得るだけの力は持っていないのよ。三〇枚の銀貨で師を売ったとするマタイの福音書でも、変節の理由は記されていない」
そうだ、とおれは胸の裡でうなずいた。
イスカリオテのユダ――永遠の裏切り者。だが、その汚名の来たるべき|所以《ゆえん》を説き明かした一行の文字、ひと言の言葉が存在しないとは。
とすれば、これは二〇〇〇年の長きにわたるいわれなき汚名ではないのか。
おれの耳の中で、マリアの声が低く、けれども溢れ出る泉のように|滔々《とうとう》とつづいた。
「たとえ、百歩譲って、原因の曖昧さに眼をつむるとしても、ではなぜイエスは、一二人の弟子のひとりに彼[#「彼」に傍点]を選んだの? 全智全能の神の子が、いいえ、救世主が、彼自身を裏切る身中の虫をあらかじめ排除するどころか、一行の会計係までまかせた|理由《わけ》を、誰か教えてくれないかしらね。ヨハネ福音書一三ノ二九――彼は金入れさえ預かっていたのよ」
「ひとつ、納得できる理由があるぜ」とっくの昔に頭に浮かんでいた記憶を、おれは恐る恐る口にした。「ヨハネ福音書一三ノ二七、ルカの福音書二二ノ三――ユダにサタンが取り憑いたのさ」
少しはまいるかと思ったが、マリアは眉毛ひと筋動かさなかった。
「イエスは神の子よ。サタンが彼に入る[#「入る」に傍点]ことすら予知していたはずだわ。現に、最後の晩餐の席で、ユダを裏切り者と指名しているのよ。この指摘によってユダは永劫に救われない境遇へ身をおとした。神の愛は、裏切り者すら[#「裏切り者すら」に傍点]救うはずなのに」
「もういいから、本題に入ってくれ」おれはうんざり顔で手をふった。「二〇〇〇年も前に首吊って死んだ男に興味なんざねえ」
「それも真偽のほどは不明よ」
マリアの声に笑いがこもった。
「使徒行伝一ノ一二を読んでいないのね。ユダはイエスを売った報酬として、ある地所を手に入れたけれど、そこへ頭から転落し、腹を引き裂いて死んでしまったというわ。“|臓腑《はらわた》みな流れ出でたり”――まさに呪われた者に相応しい断末魔ね。だけど、大、これもまたいぶかしげな霧に包まれた事実を提示してくれるわ。首を吊って果てたユダ、地の底で我と我が身を引き裂いたユダ――この記述の相違は、どちらもユダに対する憎しみの現れとされているけど、聖書の|編纂《へんさん》者たちは、なぜユダの名を聖典にとどめた[#「なぜユダの名を聖典にとどめた」に傍点]の? 真の憎悪の結果は、歴史に名を残すより抹殺することによって[#「抹殺することによって」に傍点]成就されるのではないかしら?」
「……」
「少し、前置きが長すぎたようね」
不意にマリアは人なつっこい微笑を浮かべて椅子から立ち上がった。
「いらっしゃい。あなたの訊きたいことを訊いてあげる[#「訊きたいことを訊いてあげる」に傍点]」
二〇〇坪近い広大な展示室を抜け、おれたちは隅の傾斜路を通って、もう一段下の通路へ降りた。
ゴシック建築を思わせる尖頭アーチの間を抜け、やたらと曲がり角の多いコンクリートの通路を五分も進んだろうか、気がつくとマリアは立ちどまり、壁の一角に片手をそえて何やら呪文みたいなものを唱えているようだった。
すっと身体が壁の中に消えた――と思ったのは早とちりで、コンクリートの表面にはドアくらいの大きさの穴が黒い口を開けており、おれもすぐ後を追った。
はじめて見る――よちよち歩きの子供の頃、一度だけ入った記憶があるが、おれとしたことがどういうわけか、ほとんど何も憶えていない――石の小部屋は、まばゆい照明の中で妙に閑散としていた。そのくせ、まるで爆発するのを待っているみたいな無形のエネルギーの集合体が、音もなく渦を巻き、おれとマリアの身体に触れては離れ、離れては触れるのが感じられた。
待てよ――とおれは思った。前にも一度、これとそっくりな感覚を味わったことがある。どこだったか、あれは――?
「その椅子におかけなさい」
マリアの声にふりむくと、サリーを着たなまめかしい姿は、部屋の中央に敷かれた丸い敷物の上で、|結跏趺座《けっかふざ》の姿勢をとっていた。いつの間に|点《つ》けたのか、香料入りの太い蝋燭が周囲を丸く取り巻き、その匂いの凄まじさにおれは息がつまった。
「これから、ユダ・イスカリオテの霊を呼ぶわ」
左右の手で球体を形づくりながら、マリアは静かに宣言した。我ながらあわてたね。
「待てよ、おい。一〇年、二〇年前に死んだ人間の霊ならともかく、ユダがくたばったのは二〇〇〇年も前だぞ」
「霊には時間も空間も存在しないわ」
すでに降霊状態に入ったものか、両眼を軽く閉じたまま、マリアは低い声で異議を唱えた。小さな灯影のゆらめくその顔は、ときにあどけない美少女に、ときに数百年を|閲《けみ》した魔女のように見えた。
「向こう側にいる者たちにはこちら側のすべてが見える。人のこころが、喜びが、哀しみが、そして……」
「裏切りが」とおれはつぶやいた。
それきり声は途絶え、おれは小さな折りたたみ椅子に腰をおろしたまま、じっとマリアを見守った。
部屋の温度は急速に下がっていった。渦巻くエネルギーはマリアの周囲で活性化し、色鮮やかな帯の流れとなって部屋中を駆け巡った。皮膚ばかりか、駐車場で着替えたハーディ・エイミスの上下さえもが毛羽立っていく。
やがて、繚乱たるエネルギーの流れが合体し、太い剛性の帯と化してマリアの頭頂に吸い込まれていく様を、おれは呆然と見守った。
しかし、蝋燭の炎は微動だにしない。
突然、帯がどこか[#「どこか」に傍点]から何かを引き出し、あっという間にマリアの中へ入り込むのがわかった。
部屋中の気配が消えた。おれは真の静寂に包まれた。
マリアの表情は死者のそれであった。
待つほどもなく唇が動いた。
「おい……」
と呼びかけて、おれは口を閉じた。
マリアの唇の間から、いや、耳からも鼻孔からも、不気味な燐光を放つ青白い流動物が溢れ出したのである。
それはマリアの肩や乳房の膨らみを伝わってねっとりと流れ、なんと膝の部分で、くい[#「くい」に傍点]と空中へ浮き上がった。
霊体――エクトプラズムだ。
優れた霊媒や霊能力者は、死者の霊を招くのみならず、自らの肉体から特殊な蛋白状の物質を分泌し、霊の実体をも再現する。
眼前にすっくと立った長衣痩身の男を一瞥しただけで、おれはマリアの能力の偉大さと喚び出されたものの正体を知った。
「……私を呼んだのは、誰だ?……」
野太いが柔和さを湛えた声であった。日本語のイントネーションに、耳慣れたマリアの響きが籠っている。憑依した霊の言語を通訳しているのだ。こんな芸当ができる霊媒など世界にふたりといまい。
そうか。おれはやっと先刻の疑問の解答を発見した。ここと似たような雰囲気の場所――下北の恐山だ!
「あんた、一体誰だ?」
おれは喉にからまる唾を無理やり呑みこんで訊いた。霊魂と話す経験なんざしょっちゅうだが、今度は相手が相手だ。
「……ユダ・イスカリオテ……偉大なる師イエスの誇り高き弟子だ……ユダ・イスカリオテ……なぜ、なぜ今ごろ……私を呼んだ?……」
「あんたの汚名を晴らすためさ。教えてくれ。あんたの書いた黙示録の内容と、成立の動機を。あんた、ほんとにイエスを裏切ったのか?」
絶叫が部屋を揺るがした。冥府の庁でさいなまれる呪われた魂の、限りなき苦悩の叫びだ。だが、おれが震え上がったのは、その声とは裏腹にマリアが能面みたいな無表情を保っていたからじゃない。
この部屋めがけて通路を辿ってくる、おびただしい気配を感じたからだった。分厚い石の壁をへだててなぜそんなことがわかるのか、おれにも謎だ。しかし、そいつらは凶々しい鬼気と憎悪を発散しながら傾斜路を下り、冷たい石の路を辿って刻一刻とおれたちのもとへ接近しつつあった。
マリアがマリアでなくなったからだろうか。そのとき、ユダの返答がおれの意識をとらえた。
「……私は……私は……裏切ったりはせん……主よ、許したまえ。……こそは……こそは裏切った……この世を……人びとを……」
なんだって!?
おれは思わず椅子を蹴倒して立ち上がった。
裏切った? おれたちを――誰が[#「誰が」に傍点]!?
「……エルサレムで、私は……未来を読んだ……ヨハネの黙示録……あんなものは……まやかしにすぎぬ……黙示を告げるのは、私だ……イスカリオテのユダ……私は内容を告げた……しかし、しかし、……はそれに手を……」
突如、声に含まれた苦悩は、人間以外のものの苦悩と化した。
「……とは……ああ……とは何者だ?……あなたは何処から来たのか?……の誕生は聖霊によるものだ……しかし、あなたは言われた。自分は聖霊と意を通じるものだ、と……母……の胎内に入る[#「胎内に入る」に傍点]ときですら、すべてを知っていた、と……地球――地球とは何だ……地球から二〇万|光年《ライト・イヤーズ》の彼方から訪れた……聖霊の産ませたもの……よ、あなたは誰なのですか……」
おれの頭の奥で、さまざまな光景が瞬いた。
……の手が触れただけで快癒する|癩《らい》患者、……の命で豚の群れに投ぜられ、海中へ落下し果てた亡者たち、「彼」が裂いた五つのパンは、五〇〇〇人の群衆すべてに行き渡り、残ったパンくずは一二の籠を埋め尽くしたという。
この奇蹟の数々。
――彼は二〇万光年の彼方からやって来た。
まさか、……彼が……ユダの……が……
驚きと戦慄が等しくおれの身体を貫いた。
おれは振り向いた。閉ざされた石壁の出入り口を。
外に奴ら[#「奴ら」に傍点]がいる!
「あんた、未来を読んだと言ったな。それを書き留めたのがユダの黙示録か?」
おれは壁の方を向いたまま背後へ声を投げた。
「……そうだ……」
「なんでそんなものを書く羽目になった? その内容は?」
声ではなく、石壁の揺れる音が応じた。
厚い――優に一メートルはある石の壁を、外から押し破ろうとしているのだ! それに合わせて、無数の爪が壁の表面をえぐり、ひっかく音。
だが、おれの注意は目前の超自然的脅威よりも、ひっそりと結跏趺座の姿勢を維持する紅い唇のわななきに奪われていた。
霊体の絞り出す声は、物理的な苦痛の響きに染まりはじめていた。青白い光は薄れ、人形さえ歪み崩れていく。
「……なぜだ……なぜ、邪魔をなさる……よ……私の読んだ未来を変えようと……したように……は……そのために……来たのか?……星々の……を摘み取るべく……呪われた使命をおびて……だが、私は、私は書かねばならぬ……すべてのページが一夜にして別の……に変じていたとしても……全智全能をふりしぼって、それを『……』せねば……あなたの驚きの顔を見るのは……ささやかな楽しみだった。……よ……私は負けはせぬ……黙示録は……」
次の瞬間生じた出来事を、おれはあまりはっきりと記憶に留めてはいない。それでよかったと思っている。
だしぬけに石壁の表面に亀裂が走ったと思うや、何百トンもの破片が轟音とともに床へ落下したのだ。衝撃が部屋中を走り、すっぽ抜けた大穴の向こうに、闇よりもなお黒い影の群れと真紅に濡れた怨念の双眼を、おれは見たように思う。
そして、起こったとき同様、全く唐突にすべては終わった。
ユダの絶叫に振り向いた刹那、それはレコードのピック・アップを持ち上げたように途切れ、おれは微笑むマリアと顔を合わせていた。もう一度振り返る。四方の壁は冷え冷えと圧倒的な重量を示しつつ、静かにおれを取り囲んでいた。穴などどこ吹く風だ。なにしろ、開いてないのだから。
三度振り向いて、おれはマリアに駆け寄った。苦しげに胸をおさえ、床に膝をついている。はじめて見る苦悶の姿だった。
「大丈夫よ。久しぶりなんで疲れたわ。それに、邪魔が[#「邪魔が」に傍点]入ったようね」
おれの肩にすがって椅子に掛けながら、マリアはため息をついた。無数のしわに覆われた年相応の素顔を見て、なぜかおれはほっと胸をなでおろした。
「しゃべらず、じっとしてろ。奴ら[#「奴ら」に傍点]ならもう行っちまったよ。あんたが戻ってきた途端に」
マリアは首を振った。ずっとぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]な声音で、
「ちがう。邪魔というのは、奴らのことじゃない。……わたしにもよくわからないけれど、凄い力をもった……人に非ざるものの霊さ。そいつがユダを引き戻したんだよ。あの二人……今でも幽冥の国で、永劫の死闘をつづけているのかもしれないね」
「あのふたり、か――片方はやっぱり……」
同意を期待していたのだが、マリアは答えず、
「上へ連れてっておくれ、大。――あんたに渡すものがあるよ」と言った。
おれたちは冷たい通路と傾斜路を昇り、展示室に戻った。すべて異常はない。去りがけに調べた石壁の表面には、かすり傷ひとつ見当たらなかったのだ。猫かぶりやがって、こん畜生ども。おれは胸の裡で、どでかい黄金の釘を腹に打ち込まれたミイラだの、ガラスの壺の向こうからどろりとした眼つきでこっちを見つめているホルマリン漬けの美女の顔だのに毒づいた。そのうち化けの皮ひんむいて成仏させてやるぞ。
着くとすぐマリアは隅っこの古くさい木机をガタガタやっていたが、じき戻ってきて、テーブルの上に小さな首飾りを乗せた。純金の鎖に吊るされた精緻極まりない黄金の女神像は、豪華絢爛たる宝を見なれたおれにも、手にとって見ずにはいられない魅惑の輝きを放っていた。細工からして紀元前七、八〇世紀、まだ神と人間の共存が成り立っていた時代の品だ。製作した人形師の国籍は、エジプト以前――幻のシュメール王朝か。
「大――あなたは恐ろしい敵に狙われているわ」マリアは物騒なことを平然と言い放った。「それも、これまでみたいに、ピストルやミサイルといった物理的手段で片のつく相手じゃない。この世界の裏面を飾る暗黒の歴史を連綿と支えてきた黒い闇の力――それを自在に操る能力を備えた敵よ。黒い|魔術《ブラック・マジック》――人はそう言いならわしてきたわ」
「わかってるって」おれはわざとらしく、こめかみをなでながら言った。「場末の手品使いが、自動車に人を食わせたり、生きてる地下鉄路線を経営したりできるわけがないからな。で、このペンダントは妖術破りの護符ってわけか。ありがたいけど、もうひとつ持ってるぜ」
おれがシャツの内側から取り出して見せたペレの首飾りを、マリアは片手をのばすや無造作にもぎ取ってしまった。
「な、なにをする!?」と激昂するおれをなだめるように、
「南米の創造神ビラコチャのペンダントだね。これ自体には大した力がないけれど、持ち主のあんたに対する『想い』が原子のひとつひとつにまでこめられているよ。あんたがニューヨークの危機を切り抜けてこられたのも、多分そのおかげさ。でも、もうお忘れな。敵の方もニューヨークでは小手調べだった。それでも普通の相手なら一○○回は死んでたろうけどね。今度は本気で来るよ。そのとき、このペンダントの力じゃ、お前さんを生きのびさせることは出来ないのさ」
「大層な自信だな。こいつはそんなに霊験あらたかなのか?」
「シュメール王朝の伝説的呪術師ヌビア・モンの手になる破邪の護符だよ。これを身につけている限り、お前さんの手にある武器はいかなる黒魔術の産んだ妖魔をも撃退できる。おでん屋のつま揚枝でも、あんたが使えば、アーサー王の秘剣エクスカリバーも足元にも及ばぬ力を発揮するよ。ただし、妖魔に対してと、あんたを取り巻く不運の次元渦動流を追い払うだけだがね」
「なんだ、その次元渦動流てのは?」
「お前さん、ニューヨークじゃ負け戦続きだったろ?」
「ぐえ」
「わたしの見たてじゃ、最初からあんたにゃ不運の場がつきまとってる。持ち前の強運とさっきのお守りでなんとか切り抜けてきたらしいけど、生きて帰れたのが不思議なくらいさね。ヌビアの護符はそれを拡散して、|五分五分《フィフティ・フィフティ》の状態まで戻してくれるのさ。安心おし、もう相手にも必要以上の運はつかないよ。実力次第さ」
「有り難くって涙が出るよ」おれは銀の鎖を首の後ろで結びながらつぶやいた。「で、今度イスカリオテのおっさんを呼び出せるのは、いつ頃だい?」
「わからないね」マリアはあっさり言った。
「ユダと争う敵の力は、今のところ、あたしにも手がつけられない異質なものさ。異世界の霊と言ってもいい。その時がきたら、すぐ連絡するよ、それまで自分の戦いに精をお出し。死ぬんじゃないよ」
おれは肩をすくめた。感動的だがこれほど無責任な言葉はない。
「そこまで激励してくれるなら、こいつはわかるだろ――その、おれを狙ってる黒魔術使いの名前と居場所さ。それさえ教えてくれりゃ、もうこっちのもんだ。防衛庁長官に電話して、大型爆弾積んだ輸送機を一機、そいつの家に落としてやる」
「今のあたしには無理さね」
愚かなことに、おれははじめてマリアの症状の重さに気がついた。
「大丈夫。少し休めば――といっても、これじゃ二、三日かかるだろうが――じき治るさ。さ、もうお行き。気をつけてね、大。気をつけて」
ああ、と立ち上がりかけたおれの手を、何を思ったかマリアは強く引き、疲労しきった顔で、しかし眼だけは爛々とかがやかせておれを凝視した。
「な、なんだよ?」
おれの言葉が終わらぬうちに、老婆の顔はがっくりと前へ垂れた。
「おい!?」
「わからない。こんなことはじめてだよ。――大、あんたの戦いは、とても大きく、限りなく深い。……あんたは、選ばれたん[#「選ばれたん」に傍点]だ」
「なんだ、そりゃ?」
「でも、これだけは言っておかなくては――あんたは、望むと望まないとにかかわらず、自分のためにだけ戦うんじゃないよ。あんたが支えるもの、あんたに託されたものは、途方もなく大きいんだ」
一気にこうまくしたてるとマリアの身体はゆっくりとテーブルにのめりかかった。最後のつぶやきが耳に届いた。
「戦いを決めるものは……耳ふさぎたき場所では眼よりも河……狭き広場では鋼よりも土……丈高き家では口よりも星……稲妻の国では火花散る糸よりも火を噴く棒……」
今度こそ本当に力尽きたのか、全身の力を抜いてソファに横たわったマリアの身体を、おれは軽々と階上の店長室まで運び、寝室にあるふかふかのベッドへ横たえた。
何が何だかよくわからないが、どうやらおれの戦いは遙か前世から定められていたらしいのである。
ふん、そんなこと信じるもんか。
安らかな寝息をたてる老婆の頬に軽く口づけして寝室を出ながら、おれの意識は、重苦しい因縁話など歯牙にもかけず冴え渡っていた。
ユダの黙示録――それを奪った奴らの手から取り戻すこと。それだけだ。運命も、トレジャー・ハンターの胸に燃える秘宝ヘの想いを消すことはできない。手に入らぬことが運命ならば、おれは喜んで無益な反抗を試みるだろう。おれにとって戦いとは、自分のためにのみするものなのだから。
[#改ページ]
第四章 高輪の黒魔術
マリアのところで思ったより時間をつぶしたため、歌舞伎町は青い光に包まれはじめていた。ローレックスをのぞくと午後五時と少し。あと三○分もすれば、コート姿のサラリーマンや勤務先へ急ぐ厚化粧のお姐さんたちの姿が増えてくる。
いつもならすぐマンションへ帰り、ITHAの調査結果を聞いて次策を練るのだが、今日に限ってそんな気がしなかった。
どうにもムシャクシャする。マリアの降霊術でも肝心のところは訊けなかったしな。
で、おれは、近くのスナックで六〇〇円の焼き肉定食を二人前平らげてから、マリアの店の隣にあるディスコヘ入った。入り口に巨大なライオンの胸像が吊るしてある。よく見ると店名が「アニマル・キング」だった。百獣の王ってわけか。一見、無駄遣いのように思えるが、自分が出資してる店じゃ遊ばない主義だ。第一、気分が転換してくれない。
考えなければならない事は山ほどあった。黙示録の行方、あの四人組の居場所、マリアの洩らした謎の言葉――因縁の戦いとは何か?
もうひとつ。ゆきの結婚が控えてる。どんなレベルか知らねえが、相手は一応実業家だそうだ。金にうるさい因業な舅や姑が、両親のいない身の上だの、二人の好き嫌いとはまるきり無関係な点をほじくり出して難癖つけるのはわかり切っている。ま、しっかり対抗するんだな。
あれこれ考えるのはマンションへ戻ってからにしようと決め、ディスコのドアをくぐりかけたところで、誰かがおれの名を呼んだ。
「なんだ――お前、|綾木《あやぎ》じゃないか、久米坂も!? こんなところで――」
何してるんだと言いかけて、おれは二人のクラスメート、綾木真理と久米坂由香の格好を見て度胆を抜かれた。
一〇月の夕暮れどきだってのに、ノースリーブ、超ミニのワンピースはショッキング・ピンクに輝き、極度に長いつけ睫毛や頬紅、リップ・スティックで加工した顔は、教室で田原俊彦だのシブがき隊のヤッ君だのの話をしてるときとはくらべものにならないくらい色っぽい。二十二、三で通用しそうだ。発育のいい太腿や、ちょっぴり身を屈めただけで丸見えになりそうな白いパンティに包まれたヒップに、通行人どもの視線が集中する。
「おまえら――まさか、アルバイトに事欠いて……」
柄にもなく唖然としたおれに、ふたりは見かけよりずっと無邪気な表情で、やーだ、と手を振った。
「ばーか、ヌード・マッサージだの、マントルなんかしてないわよ。これみてよ、これ」
久米坂の手にした看板には、「未成年健全社交クラブ『ミルキー・ウェイ』」と大書されていた。おれはあきれ返った。世の中、おれより実行力に富む奴がいやがる。
「馬鹿野郎。何が未成年だ。そんな格好で、ニキビ盛りの童貞受験生とお話すりゃ同じこった。どうせ個室なんだろ」
「一応ね。でも、男の子は部屋に入るとき、こんな輪っか[#「輪っか」に傍点]手首にはめられるの」綾木が弁解した。
「あたしたちに触わろうとすると、電流が流れてビリっとくるのよ」と久米坂がつけ加える。「だから、絶対安全なの。それに相手は一八歳未満、父兄同伴に限る――ね、健全でしょ」
「まるで、芸仕込まれるケダモノだな」
おれは長いため息をついた。世紀末もいいところだ。これから日本はどうなっちまうんだろう。ひょっとしたら、ユダの黙示録にはこの辺の事情も予見されてるんじゃなかろうか。
「どう、ちょっと寄ってかない?」綾木真理がウインクして言った。全校美人コンクール三位の実力者だけに、なかなかセクシーだ。「協力してよ。冬休みにふたりでヨーロッパ行きたいんだ。三〇分・五〇〇〇円。八頭君なら三〇〇〇円でいいわ」
「あたしたち、しがない中堅サラリーマンの娘でしょ。増税で痛めつけられてるし、お願い、助けると思って」
久米坂由香が手を合わせた。綾木ほど美人じゃないが、ずっと艶っぽい。なんでもするから、なんて言われたら困っちまう。
「いいこと教えてやろう」とおれは、ふたりのムチムチした太腿を遠慮なく眺めながら言った。「そんなふうに地道に稼ぐより、金のありそうな家の坊やをひとり捕まえて誘惑しちまうんだ。なんなら結婚しちまえ。資金ゼロで堂々と世界一周旅行ができるぜ」
「そうねえ」
ふたりは眼を輝かせておれ[#「おれ」に傍点]を見つめた。む、やばい。
「やっばり八頭君、遊びに来てよ。内緒でBくらいならしてもいいわ。そのかわり、ヨーロッパ巡りの費用出して。いい亭主と結婚したら三〇年月賦で返すから」
「そのうちな」
おれはふたりの脚から眼を引っぺがし、やーん、意地悪、待ってよォという罵声を尻目に、ディスコの扉を押した。
三〇〇〇円で飲みもの付きのチケットを買い、店内へ入る。暇な学生どもが踊り狂っていた。男だか女だか、日本人だかインディアンだかも判別しがたい餓鬼たちの狂態を見ていると、ゆきや今のふたりがまともに見えてくるから不思議だ。いい若いもんが夕方から踊りまわってどうする、と一席ぶちたくなったが、そこは我慢して仲間に加わった。
軽快なBGMに乗って、8ビートで身体を動かしていると、すぐにまわりの奴の視線が集中しはじめる。おれのリズム感は天賦の才だ。ニューオーリンズのダンス・コンクールに飛び入り出場し、居ならぶ黒人ダンサーを歯牙にもかけず優勝カップを頂戴したこともある。八頭家の美質といおうか、神経の伝達回路と筋肉の質が日本人離れしているのだ。
七つのとき、ワシントン・スクェアで踊ってると、一日おきにふたりの中年男が本格的なレッスンを受けてみないかと誘いにきた。すぐにも教習場へ連れ込みかねまじき勢いだったので、断固拒否したが、数日後、オスロへ飛ぶジェット機の中で、おれの消息を求める二人の記事を読んで驚いた。興奮の体で写真の枠の内側からおれに呼びかける男たちの名は、ジーン・ケリーとフレッド・アステアだったのだ。
快い汗が肌を伝わる頃には、おれのまわりはぴちぴちギャルで埋め尽されていた。踊りだけじゃない。ハーディ・エイミスの七○万円の上下を着こなし、右手にダイヤを散りばめたローレックスを巻く苦みばしったハンサム・ボーイとくりゃ、まともな欲望をもつ娘たちが集まらない方がおかしい。おれの気を惹こうと、そろって豊かな腰やお尻を必要以上にくねらせ、悦楽の表情をつくる。
娘たちの背後から、敵意に満ちた野郎どもの視線も雨あられと浴びせかけられていたが、おれは気にもとめず、娘たちの子宮を痺れさせつづけた。
敵の攻撃に気づかなかったのは、そのせいかも知れない。
本能と勘の連合軍は、まさしく数千分の一秒の差でおれの生命を救った。閃く稲妻はわずか数ミリほど心臓をずれて、背後から、身をひるがえしたおれの胸へ突き刺さったのである。
苦痛の呻きを吐息とともに唇から吐き出しつつ、おれは三〇センチと離れていない青白い顔へ右足をはねた。
半病人とは思えぬ切れの良い動きで蹴りをかわしながら、ナイフ使い――アントン・グローベックは、これまたBGMに合った見事なタイミングで左手を走らせた。苦痛を押さえながら半円を描いてかわす。戻る刃は受け流し、左の|下段蹴り《ローキック》をナイフ使いの向こう脛へ叩き込んだ。命中! 低い唸りを洩らして膝を折る。だが、間髪入れず下から流れた閃光に、とどめの右前蹴りは空中で元の位置に戻った。スラックスの裾が切り裂かれている。
大した腕前だ。ナイフも名人級になると、すれちがいざま刺された犠牲者が、何も気づかず四、五十メートル歩いて倒れるそうだが、こいつはそのレベルに達している。最初の一撃をもろに食らっていたら、一曲の終わりまで踊りつづけ、席へ帰ってハイお陀仏だったに違いない。
半病人は、物寂しげな表情で起き上がった。女の子のひとりがウインクしながら肩を叩く。接近戦で、しかもどっちの攻撃もゼロ・コンマ何秒の範囲だから、滑ってもなお立ち直る根性の男に見えるのだろう。おかしな稼業に入る前、こういう娘に巡り合わなかったのが、こいつの不幸だ。
左胸が熱く濡れはじめた。出血多量で動きが鈍くなるとまずい。こう人が多くちゃCZ75の弾丸が奴の身体をすっぽ抜けて他人を傷つける恐れがある。おれは人殺しと叫ぶことに決めた。
しかし、いち早く気配を察したらしく、ナイフ使いは右手のひらにすっぽりと包んだアルミ箔みたいに薄いハート型ナイフを、隣で踊る娘の方へちょっと動かし、凄まじい眼でおれを威嚇した。ひと声あげれば無差別殺戮だ。
おれはやむを得ず、踊りつづけながら、非常口のドアへと後ずさった。ナイフ使いも進む。けたたましいリード・ギターとマイケル・ジャクソンの絶叫にまじってほとばしる連続攻撃。BEAT IT かわした。BEAT IT もう一度かわした。スーツの胸もとが大きく口を開ける。CZ75を抜く暇もなかった。腕をやられる。
来るぞ!
「失礼」
気障な声がおれの鼻先を通りすぎた。
両手にコーラのグラスをもって恋人のもとへ急ぐIVYルックの|兄《あん》ちゃんに、おれの感謝が通じたかどうか。
リズムを狂わせた必殺の突きがはなたれたとき、おれは鉄のドアを押し開け、二階の踊り場へとび出していた。
猛烈な白光が眼を射た。四方の壁面をきらめく獅子が覆っている。むちゃくちゃ光量のあるネオン管で型どったライオンだ。正視に耐えなかった。
おれは眼を軽く閉じわざと床を踏み鳴らした。階段を駆け降りる真似だ。半病人はこれにひっかかった。ドアの陰にまわったおれを確かめようともせずにとび出してくるのを、肩から体当たりをかまし、ドアと壁とのサンドウイッチをこしらえてやった。
どこかの骨が折れる音。
ドアを開けると、奴はよろめき、片手を床についた。
「どうしたの?」と追いかけてくる声を、ドアを閉めて断ち切り、おれは、かろうじて立ち上がった若い殺し屋の顔面に、容赦ない右フックを叩きこもうと突進した。
その顔がふわりと床に沈んだ。
白熱がおれの眼底を灼いた。奴の身体がカバーしていたライオンの両眼だと知った刹那、マリアの声が脳裡を走った。
眼よりも川。
風を切るうなりとともに、必死でよけた頬に鈍い痛みが走る。にわか盲目では、迷路を脱出するくらいの芸当ならともかく、神速の攻撃を避けつづけることは不可能だ。
低い音。奴の含み笑いだ。もうひとつは――誰かが階段を昇ってくる!
「八頭くん――危ない!」
それを綾木真理の叫びだと意識するより早く、おれの回復しつつある視界の内で、音もなく滑ってくる人影と四角の物体が交差した。
横っとびに床へ転がったとき、もう一度白光が爆発し苦鳴が轟いた。肉の焼ける匂いと、床に倒れる影。
「やだ、――こんなことするつもりじゃなかったのよ!」
綾木真理が泣きながら抱きついてきた。逆上のあまりシャツに血が滲んでるのもわからない。おれはまだはっきり見えぬ両眼をしばたたきながら訊いた。
「綾木――なんでこんなところにいるんだ?」
「さっきの件で、もう一度八頭くんを説得しようとあたしだけ裏から入ってきたの。そしたら、ちょうど非常口を出るところで……、この男ナイフ持ってんの見たから、あれを、あれを投げたの。そしたら、足をからませて……」
「わかってる。おまえはおれを助けてくれたんだ。大丈夫、こいつはまだ生きてる」
おれは泣きじゃくる綾木をなだめ、階段の方へ押しやった。
「後で連絡するから、ここはおれにまかせて先に店へ戻ってろ。ヨーロッパ旅行の件はまかせとけ。ついでに南極もいかせてやる」
綾木が立ち去ると、おれは、とっくの昔に本物の死体と化したナイフ使いに近寄った。視力はほぼ回復している。奴は生きてるときよりずっと健康そうに見えた。看板に足をとられたのは放った綾木の責任だろうが、ネオン管に手と、柄もついてないむき出しのナイフを突っ込んだのは自業自得というべきだろう。
これで、仲間の居場所も、どうやっておれを見つけたのかも、わからなくなっちまった。勝利の快感などさらさらなく、灰色の失望を噛みしめながら、おれはある事実に気づいて愕然となった。
勝負を決めるものは、耳ふさぎたき場所では眼よりも川。
ライオンのかがやくネオンの眼はおれを死地に立たせ、一枚の看板がそこから連れ出してくれた。ミルキー・ウェイ――天の川[#「天の川」に傍点]と記された粗末な板切れが。
感慨にとらわれてる時間はなかった。人が来たら厄介なことになる。おれは胸の痛みを押さえながら、素早くナイフ使いの身体検査を済ませた。
両手首の革バンドにおれのと同じ両刃ナイフが二枚、両方の二の腕とくるぶしに二本ずつの飛び出しナイフ、ベルトの背中につけた革ケースにも一本――都合十三本。まるでナイフの行商人だ。
あとは日本円で二〇万近い札と小銭が入った革の財布、封を切ってないマルボローと安物のオイルライター――半病人ほど不健康なことをしたがる証拠だ――きり。現在の境遇を探る手がかりは零だった。
ナイフ以外はすべてポケットに移し、おれは階段の方へ歩き出した。ふり向いた。まだ火花をあげてるライオンの方で、ふくみ笑いを聞いたような気がしたのである。破壊されずに残った獅子の顔が妙に歪んでみえた。どことなく蒼に似ているが、勘違いだろう。
フェラリに積んだ医療キットで応急処置を施し、三〇分後、おれは六本木の我が家に帰り着いた。
ドアを開けざま、おおい、重傷だ、お湯をわかせ――と言いかけて気がついた。玄関にも居間にも、香水の香りは漂っていなかった。下校の途中、おどかすつもりで冗談半分に買ったトマト・ケチャップの血痕を見るたびに、大変よ大変よととび交った逆上の声もない。
急に胸が痛みを増した。
居間に入り、ソファにひっくり返る。
出血を除けば大した傷じゃあない。五センチばかり鋼が食い込み、血管が何十本か破られただけだ。身体が少し熱っぽいが、応急手当てのとき飲んだ増血剤と殺菌・解熱剤の効果で、立ち振る舞いには差し支えなさそうだ。
電話一本でバス・トイレ付きの専用救急車が迎えにくる超一流病院は二〇ほどあるが、おれは昔から消毒液の匂いが嫌いで、月に一度の健康診断のとき以外、ここ二、三年無関係を通している。
薬だけでなんとか行けるだろう、とおれは思い、じき情けなくなった。これが熱帯のジャングルだったら、薬どころか水も食料もなしで地獄に耐えなきゃならないのだ。ボルネオの山奥で有尾人に襲われたときは、全身に七本の矢を射込まれ、四〇度近い熱に骨の髄まで灼かれながら、傷口へ小便と岩塩をすりこみ、六日六晩のたうちまわった。冗談抜きで、黒マントの大男がそばに立って待って[#「待って」に傍点]るのがわかったほどだ。やっと歩けるようになったその日、岩場の水を飲み、含まれてた毒に身体じゅう紫に染められ、また三日間ぶっ倒れた。大男は鎌をふり上げていたっけな。
一度でもこんな経験すりゃ、ナイフで五センチ刺されたくらい風邪ひいた程度の気分でいられるはずなのに、なまった[#「なまった」に傍点]もんだ。
普段、いくらトレーニングを積んでいようが、万能コンピューターと身の回りの世話をすべてしてくれる娘こみで暮らしていると、精神の方がだらけてくる。生命懸けの仕事を持つものに、長すぎる安逸と奉仕は最大の敵だ。
おれはそれ以上余計な手当てをせずに耐えることにした。自分に鞭打つ必要を認めたからだ。
しかし、ま、栄養はとらなくちゃ。
「おーい、酒持ってこーい」
いかん、まだふっ切れてないな。
おれは居間の一角に設けたホーム・バーに足を運び、極上のブランデーとグラスをつかんで書斎へ移動した。しんどい。
ぶっ倒れたくなるのを必死で――ほんと、情けねえの――こらえ、ソファにもたれるとすぐ、ディスコでの事件をうやむやにするよう警視総監に連絡。つづいてコンピューターに、今朝頼んどいた調査の結果を知らせろと命じる。
ボール紙女の人形使いは不明のままだが、四人組の消息は写真入りで大パネルに映し出された。それぞれ名前を変え、おれが帰国する前日――血を流す地下鉄とやり合った日だ――にNYを発っている。
パスポートはともかく、奴らどうやって|旅券《ビザ》をとったんだ? 即製チームにしちゃ手際が良すぎる。前から手配してたか――そんなはずはねえ。誰か、もっと社会的な力をもつ奴がバックについたんだな。それとも、みな偶然に[#「偶然に」に傍点]手に入れたか……
成田に到着以後の消息は不明だった。都内に潜入し、おれを倒して黙示録を手に入れる計画を練り、次の日の夕方、そのうちのひとりが新宿のディスコでおれを襲ったのだ。黙示録がどうなったのか訊きもせず、殺意だけを蛇のような瞳に湛えて。
「組んだか……」とおれはつぶやいた。「だから黙示録を入手する必要がなくなった……」
いや、まだわからない。だとしたら何故、親の仇みたいにおれをつけ狙う? 放っておけば済むことじゃないか。
おれは頭をひとつ叩き、水割りを口へ運んだ。吐き出しかかった。薄い。そうかいつもはゆきがっくってたんだ。
おれは憤然とつまみの生ハムを貪り食らい――実は、熱のせいであまり食欲はなかったのだが――おかわりを取りにキッチンへ出向いた。とにかく栄養をとらなくちゃ体力が戻らない。冷蔵庫から黒海直輸入のキャビアとアラスカン・ムースの燻製肉をひっぱり出したところで、奥の方におかしなものを発見した。手帳だ。表紙に田村正和が微笑んでるとこを見なくても、こんなもの冷蔵庫へ隠しとくのはゆきしかいない。
どうせ、美男タレントへの愛の告白か、事務所かファンクラブの連絡先だろう。読んだら焼き捨ててやろうかと思いながら眼を通した。
見慣れぬ内容だった。
大ちゃん用コーヒーの入れ方。
ブルマン茶さじ半分。ネスカフェの一番安いやつを茶さじ二杯半。(あんた、味音痴だからね)湯は沸いてから二分待って注ぐこと。
大ちゃん用水割りのつくり方。
いちばん高いウイスキー二、トリス・キングサイズ四、水四。ただし、氷はミネラル・ウォーターを製氷室で凍らせておくこと。
大ちゃん用お風呂の温度、大ちゃん用一週間の献立、大ちゃん用救急病院電話番号、大ちゃん用……大ちゃん用……薄い手帳の最後のページまで、小さな文字が埋めている。
最後は月並みな文句で、
身体に気をつけてね。
おれは手帳を閉じ、黙って冷蔵庫のもとあった場所に戻した。素直に机の上へ置いときゃいいものを、ヘソ曲がりめ。それから、キャビアと肉を抱えて書斎へ戻り、ナイフを忘れたのに気づいて、丸ごと噛みついた。
いつもより部屋が暗いような気がしたが、シャンデリアと発光材の壁は普段と変わらぬ光量を消費しつづけている。たまには暗い夜もあるさ。
黙示録の行方について考えようとしたが、うまくいかなかった。TVをつける。ニュースの美人アナウンサーが、四菱重工の社長の婚約と世界の異常気象をおちょぼ口で告げていた。ハワイに大雪が降り、雪だるまのつくり方を教える学校ができたらしい。すぐ、歌謡番組に切り替え、中森明菜の「北ウイング」を聞いてる途中で、玄関のフォーンが鳴った。指輪を振ってコンピューターをインターホンとつなぎ、
「なんでえ――おれは酔ってるんだ。ゴム紐買ってくれ」
とわけのわからん台辞をわめく。
気圧されたような、おどおどした声が帰ってきた。
「あの、八頭大さんのお宅でしょうか――?」
「いいえ、新日本プロレス六本木支店です」
「失礼しました」
「こら、待て」
おれはあわてて制止し、天井のモニター・スクリーンを降ろした。入り口のカメラに切り替える。年の頃二〇前後の、ひょろっとした坊やが立っていた。品のある顔立ちで、驚くほど仕立てのいいスーツを見事に着こなしてるが、触ったら折れそうだ。悪家老の言いなりになる、善人だが気の弱い若殿といった感じだった。
「八頭はおれだ。何用でござるか?」
若殿は、きょろきょろと周囲を見まわしながら答えた。
「私――岩代洋介と言います。その――太宰ゆきさんと婚約した者なのですが……」
束の間、おれは返事も忘れてスクリーンに見入っていた。泥棒猫にどんなお灸をすえるか考えてたんじゃない。どこかで見た顔だと思ってたのが名前をきいてようやく謎が解けたのだ。
テレビでも報じていた。
ゆきのフィアンセは、日本最大の|複合企業《コンツェルン》・四菱グループの総帥だったのだ。
天下の四菱――年間売り上げ高三兆円を誇る四菱重工業を筆頭に、全世界一四八カ国に支社をもつ四菱商事、マイカー市場占有率四割を誇る四菱自動車、第六世代コンピューターに先鞭をつけ、あのIBMの顔色をなからしめた四菱電器他、一二〇に及ぶ関連、無関連企業を傘下に収める超巨大産業の雄。
二年まえ、最も権威ある米経済誌「フォーチュン」の国内外巨大会社順位表で、モービル・オイル、フォード・モーターを抜き、三位に躍り出たとき、世界の経済人は眼を剥いたことだろう。
なぜなら、その数年前から大規模ゆえの機構の老朽化と経営の動脈硬化に陥った四菱グループは、眼を覆うばかりの業績不振をつづけ、同誌のランク付けでも、常に一○○位前後を低迷していたのであり、三年前、創始者以来の傑物と讃えられた前社長の死によって、より色鮮やかな落日を迎えることはもはや決定的と噂されるに到った。グループ中枢企業の株価は一斉に暴落し、いかなる奇蹟をもってしても、苔むした巨岩の急坂を下る勢いは止めようもないと思われた。
半月後、前社長の令息・岩代洋介がグループ総帥に就任、経営の采配をふるい出すまでは。
大四菱の名を恐怖に近い感嘆の念とともに経済人の脳裡に刻みつけ、奇蹟の本当の意味を思い起こさせたのは、弱冠二四歳・某私大を卒業したばかりのこの若者であった。
わずかな家族だけで操業する小さな町工場ひとつつぶすことなく、増収一兆円、「フォーチュン」|順位《ランク》一〇〇位から三位への大躍進を成し遂げた魔法使いは、いま、静かにおれの前のソファに腰をおろした。
しかし、おれは眼を疑わねばならなかった。
まさか、こいつが……。
「やっぱり、そう思うよね」
自嘲の混じる声と弱々しい微笑が、セブンスターの紫煙と一緒に吐き出された。
「みんな言うよ。あいつは大四菱のリーダーじゃなくて、生まれつきのフーテンだってな。ぼくもそう思う」
「いや、そんな」と愛想笑いを浮かべながら、おれもそう思った。
経営者タイプもいろいろあるが、この男には、そのどれにも共通する基本条件みたいなものがすべて欠落していた。細面の顔は詐欺師が小躍りしそうなくらい人なつっこいし、煙草をくわえる動作ひとつとっても妙に女っぽい。親の金で優雅な学生生活を送る仲良しグループの中でなら人気ものになれるだろう。文学を論じ、ギターの弾き語りもうまく、麻雀も車の運転もそこそこいける。親密な恋人の他に、つかず離れずのガールフレンドが数人。
ただし、どでかいデスクの前にすわって、海千山千の重役陣相手に経営戦略を練る姿だけはどうしても浮かんでこなかった。そんな光景をイメージさせる覇気がまるでない。
こいつが大四菱を甦らせた|救世主《メシア》――首を賭けてもいい。絶対に間違いだ。
「そんな眼で見られると、どう切り出したらいいのか困っちゃうんだがね」
岩代財閥のお坊っちゃんは、七三に分けた頭をかきながら、フィルターぎりぎりまで喫ったセブンスターをそっと[#「そっと」に傍点]もみ消した。
「明日、ゆきちゃんとぼくを囲んで、友だちだけのパーティがあるんだ。で、君にも出席してもらいたいと思ってね。うちでやるけど、別に堅苦しい会じゃない。ジーパンで来てくれればいいんだ。正式に婚約すれば、人を通してきちんと挨拶にうかがう。明日のはぼくと君の顔合わせと思ってくれ」
「ちょっと待て」おれはあわてて言った。「それじゃ、まだ婚約してねえのか?――あん畜生、明日にも結婚するみたいこと言いやがって。で、いま、どこにいる。もう親に内緒で同棲してるのか?」
岩代は手を振って、ゆきの泊まっているホテルの名を言った。四谷の一流どころだ。さすが四菱の御曹子。
ふと、おれは岩代の視線がおれの顔に釘づけになっているのを感じた。眼を合わせると、すぐはずし[#「はずし」に傍点]ちまったが、羨望の眼差しといったら自惚れになるだろうか。
「本来なら、ゆきちゃんと知り合ったきっかけや、ぼくや家庭のことを話さなきゃいかんのだが、今日はちょっと急ぐ。パーティは明日の晩六時からやってる。いつでも都合のいいときに来てくれ」
住所と地図を書いたメモを机にのこし、岩代は立ち上がった。
「待てよ。あんた、おれを招待するためにわざわざ出向いたのか?」
召使いに電話一本かけさせりゃ済むことだ。
「ああ。――そうだが――?」
このとき、おれははじめてこの頼りなさそうな御曹子が好きになった。
玄関先で別れぎわ、岩代ははにかむような微笑を浮かべて言った。
「ゆきちゃんに、君のことをいろいろきいたよ。ぼくも君みたいになりたかった。今のぼくは、ぼくじゃないんだ」
最後の一節を、おれは夢と現実生活とのギャップを表したものと単純に解釈した。
「人前で言うのも口はばったいから今言っとく。あいつを幸福にする必要はないが、あまり泣かせるな。亭主になるんだったら、おふくろさんや小姑や親戚どもに女房の悪口なんか言わせないこった」
岩代は、照れ臭そうに微笑した。なんか、危なっかしいんだよね、これが。
「心配ない。母は四年前に亡くなってるし、兄弟もいないんだ。それじゃ、明日」
「あばよ」
ドアが閉まった。何の理由もなく、おれは岩代が電車でここまでやって来たに違いないと思った。
書斎に戻り、コンピューターに岩代洋介の身元調査を命じた。怪しい奴と思ったわけじゃあないが、やはり気になる。
地下のマザー・コンピューター記憶巣にインプットされた四菱関係の資料やら、賄賂を送ってる各官庁からのデータやらがスクリーンに映し出されるまで二〇秒とかからなかった。
「いちばん最近の写真と経歴を映せ」
おれの指令に応じ、和服姿の岩代が大スクリーン一杯に登場した。さすがにいい生地つかってやがる。書斎で撮影したものらしく、背景は色とりどり、サイズさまざまな洋書の海だ。はにかんだような顔の横に経歴が和文でディスプレイされる。
『姓名:岩代洋介。身長:一七三・四六センチ、体重:六六キロ、本籍地:青森県……』
スクリーンを見つめる眼が不意に細まった。
急拠放たれたもうひとつの指令に、コンピューターは迅速に反応を開始した。
翌日は授業を休んだ。
まだ身体が本調子に戻らなかったせいもあるが、真の原因は一時的痴呆状態だった。
昼すぎまで、コーヒー一杯飲まずベッドにひっくり返り、ようやく動き出す気分になれた。熱も痛みもボディからはほぼ退いていたものの、別の場所で新婚生活をはじめていた。頭の中が重く熱い。使いすぎだ。ひと晩で二〇冊も本を読み漁った成果である。
ベッドから降り、おれはパーティ出席の準備にとりかかった。
軽いシャドー・ボクシングに蹴りや肘打ちを加えて一〇分。軽く汗が滲んだところで、ヨーガの柔軟を二〇ポーズ。こっちの方がきつい。息が切れないのでホッとした。傷口は完全に塞がっているようだ。火傷しそうなのと鳥肌の出そうなシャワーを交互に浴びる頃にはようやく頭の中に青空が見えてきた。
キッチンへ入り、昨夜の鹿肉に辛しをたっぷりつけ、レタスと玉ネギごと、毎朝配達される「アンデルセン」のフランスパンにはさんで胃に収める。コレステロールのつくバターは無しだから、凄まじい刺激だ。これがたまらない。
副食はサラダボール一杯の野菜と二リットルに近い水だ。水分を多量に摂取するのに身体が慣れると、熱い地方での行動に差しつかえるので、トレジャー・ハンターたちは常日頃節制に励んでいるのだが、おれは別だ。体内の毒素を手っ取り早く外へ出すにはこれがいちばんだし、喉の乾きを癒すために飲んでるわけじゃない。仕事中――例えばドンパチやってるとき、トイレへ行きたくなったらどうするか? おれはそんな状況に直面するたびに、ズボンをだいなしにして難を逃れてきた。
三〇分ほど休憩する間に、新聞や郵便物に眼を通す。凡人は必要な記事だけ記憶するのだが、おれの脳味噌には経済問題から「すべて許す。帰れ。父」のお知らせまで、一度読むだけでインプットされてしまう。記憶にかけちゃコンピューターも真っ青だ。だから、どんなに授業をご無沙汰しても、棒暗記重視の現行教育じゃあ成績は常に学年のトップだし、ひょっとしたら、今すぐ東大だっていけるかもしれない。インプットに必要な時間さえ自由にとれれば、コンピューターだっておれには必要ないのだ。
ビデオに録画しといた各局の早朝ニュースを片づける頃には、鹿肉も消化されていた。
いよいよ、ですな。
おれは居間の秘密エレベーターで一階下へ降りた。身体中の血が湧き返っている。
岩代洋介の家は、でかいお屋敷ばかりがふんぞりかえっている高輪の高級住宅地でもきわだって目立った。森かと錯覚するほどおい繁った黒い樹々の間に、木とコンクリートとガラスをふんだんに使った北欧風の建物が周囲を圧している。原宿あたりでキャーキャーいってる怖いもの知らずのギャルたちを招待したら、ばかでかい鉄門の前に出ただけで口もきけなくなるだろう。別世界の人間が住む人外境だ。
門のそばに守衛所があり、二台のTVカメラが訪問者をねぬつけている。蜒々と続く土塀の上の柵には高圧電流でも流れているにちがいない。
戸籍抄本か住民票でも要求されるかと思ったが、名前を告げると最敬礼で通してくれた。なにせ、四菱総帥の|婚約者《フィアンセ》の親代わりだからな。
母家まで時速二〇キロで三分かかった。玄関脇の屋根付き駐車場は車で埋もれていた。ほとんどが外車のスポーツ・タイプだ。友だちだけといったのは嘘じゃないらしい。黒塗りのリムジンも何台かあったが、あれは、岩代家専用車だろう。驚いたことに、四、五十台パークしてる車の向こうには、まだまだだだっ広い空間が広がっていた。さすがは王国の駐車場だ。
TVカメラで覗いてでもいたのか、タキシード姿の執事が駆け寄り、丁重に玄関へ案内してくれた。
家の|内側《なか》は駐車場の百倍も広そうに見えた。玄関で案内役が変わり、くるぶしまで埋まりそうな豪華な絨毯を踏んで居間に通された。ドアの片側に|真物《ほんもの》のルノワールの一〇号が飾ってある。ホテルのロビーくらいはありそうな部屋は、四、五十人分の声で埋もれている。あちこちで小人数の輪が結成され、料理を持った執事たちが右往左往していた。
「大ちゃん!」
本物の薪が燃える大理石の暖炉脇できき覚えのある声が上がったと思うや、色とりどりの人の輪をかきわけて、ゆきが走り寄ってきた。首と手が白く燃えている。ばかでかいダイヤのネックレスとブレスレットのせいだ。さすが四菱財閥の御曹子、プレゼントも常識外だ。金持ちは大むねケチと相場が決まってるが、岩代洋介は別らしい。
仰天したような若い顔がこちらを向く。造作だけはまともだが、陰険な眼つきの男女ばかりだった。金と物で育てられた、岩代家にふさわしい坊ちゃん、嬢ちゃんだ。
「よかったあ。あんな喧嘩しちゃったからさ、来てくれないと思ってたの。洋介は大丈夫だと言ってたけど、彼、なんか頼りないしね」
「亭主の悪口言う女房がどこにいる」おれは凄みの利いた声でたしなめた。「ありゃ、おまえにゃ勿体ねえ男だ。せいぜい大事にしてやれ。四菱の総帥の嫁が毎晩男漁りじゃ、首でもくくりかねんぞ」
ゆきはケラケラと笑って、
「やだ。あの人の性格よくわかってるじゃない。大丈夫よ。あたし、こう見えても一途なんだから」
不意に、見たこともない表情が、色っぽい顔を曇らせた。
「でも、大ちゃん……ひとりぼっちね、これから」
「阿呆」とおれはゆきの額を軽くこづいた。こっちを見ていた男たちがどよめく。「今さらおれを気にするのか。自分のことだけ考えてる方がよっぽどおまえらしい。余計な頭つかうと、ただでさえ足りねえ脳味噌がショートしちまうぞ」
「なにさ、馬鹿」
ゆきは歯をむき出した。それでも周囲に気をつかってか、ののしり声は低い。人間、世間体を気にしだすと弱気になるばかりだ。今夜はおれの方が優勢である。
「あんたみたいなスカタン、呼ぶんじゃなかったわ。今までお世話になったからと思って、洋介に行ってもらったのに。ふん、本来なら、あんたみたいな馬の骨、こんなお屋敷へ一歩も足を踏み入れられないんだからね。今日来てる人たちだってみんな国立出てるし、ご両親は実業家なのよ。ふん、定職ももたない高校生は帰れ」
素早く周囲を見まわし、派手にアカンベすると、ゆきはざわついている男どものもとへ立ち去った。
おれはニヤリと笑って、片隅にあるホームバーへ向かった。あいつめ、ちっとも変わってねえ。
その辺のバーくらいはありそうな黒檀のカウンターで、中の執事に水割りをつくってもらいチビチビやっていると、男や女たちの刺すような視線が集中するのを痛いほど感じた。
フィンテックスの生地で仕立てたジャケットにアボンのタートル・ネックと、衣裳代はこいつらにも負けないはずだが、なにせ、女の尻を追いかけまわすのと東名でパトカーを振り切るくらいが冒険と心得てる羊どもだ。同類の皮をかぶった狼の匂いは敏感に嗅ぎわける。その辺のお高くとまってる女の尻でもなでて、流れを変えてやろうかなと考えていると、奥のドアを開けて岩代が姿を見せた。
人前構わず抱きつくゆきの頭をなで、お上品な友だちと握手を交わしながら、めざとくおれを見つけて近寄ってくる。おれもグラスを掲げて挨拶した。
「ようこそ」
差し出された手をおれは軽く握った。自然と両足に力が入り、左手の力が抜ける。いきなり引っ張られて膝蹴りをかまされたり、突きとばされたりした時の用心だ。この頃は、相手がわずかに不用意な力を加えただけで左の眼打ちがとぶ。活気に満ちた人生を送っていると悪い癖がつく。やれやれ。苦笑に気づいたのか、首をかしげる岩代に手をふった。
「何でもねえ――ないよ。それより大盛況だな。ゆきも喜んでるだろ。派手なことなら何でも好きな奴だ」
「だといいが。本気で祝ってくれるものが何人いるかな」
ダイキリのグラスを傾けながら岩代は自嘲的に言った。
「やに悲観的だな。みな、友だちなんだろ?」
「ああ。将来のことばかり考えてる友だちさ」
「親友をつくるにゃお家が邪魔だったってわけか。よく、ゆきを選べたもんだな」
岩代の眉がぐっと持ち上がった。悲痛とさえ見える色が顔全体を硬くこわばらせ、瞳はおれの心中をえぐるように激しく燃えた。
発言の意図を掴めたか、掴んだとしてどう出るか?
答えは予想通りだった。
「たまには、親戚どもを驚かしてやらんとね」
力ない声と寂しげな笑いは、その言葉が偽りであることを示していた。
ゆきを好きなのは多分本当だろう。愛しているかもしれない。だが、少なくとも、岩代の愛には成就が必要だった。年商三兆円の一大帝国に生まれる女王――家柄も財産も両親すらない一七の小娘を、彼の想いだけで支えなければならないのだ。婚約者としてマスコミ発表しただけでも奇蹟に近い壮挙といえる。よく、ゆきを選べたものだ。
しかし[#「しかし」に傍点]、一体[#「一体」に傍点]、誰が[#「誰が」に傍点]――?
入り口の方から激しい動揺が伝わってきた。
二○歳前後と見られるショートカットの娘が、床を踏みつぶすような勢いで、まっすぐおれたちの方へ近づいてくる。そこいらのチンピラ女優顔負けの美貌を、浮かべた形相が帳消しにしていた。般若だ。右手を左脇に抱えたハンドバッグに突っこんでるのを見て、おれはグラスを握った指の力を抜いた。ゆきの方へ眼をやる。岩代の取り巻き連中しかいない。トイレにでも行ったんだろう。神さまてのはやっぱりいるらしい。
ざわめきが途絶えた。
――美也だ。
と誰かが言った。
執事たちが事態に気づく前に、女は岩代から五〇センチと離れてない位置に立ちどまっていた。
カウンターの執事が外へ出ようとするのを、おれは左手で制した。余計な動きは事故のもとだ。他のタキシード姿も停止する。娘の右手と若殿までの距離を計算すれば、賢明な行動といえた。
「……美也。何しに来たんだ?」
岩代が目を伏せながら、くぐもった声で訊いた途端、おれの身体に電流が流れた。眼から手へ。伝達速度は通常○・二秒、おれは○・〇一秒。放ったグラスは見事にハンドバッグを床に吹っとばした。
どよめきと女の悲鳴があがる。
娘の手に物騒なものが残っていないのを確かめ、おれは素早くふたりの間をすり抜けてハンドバッグを拾った。周囲の視線から隠すようにして、柄のはみ出した果物ナイフをジャケットの袖口へ押し込む。手品師顔負けのスピードだ。十一、二の頃、ジャマイカでスリに有り金全部を盗られ、昔、見よう見まねで習った手品を披露して二カ月間食いつないだ実績があるのだ。
娘も岩代も突っ立ったまま動かない。二人のリズムはおれのに巻き込まれてる。このまま押し切る手だ。
娘が我に返って次の行動に出る前に、おれはその背後へまわり、右手首をつかんだ。反抗する暇も与えず、思いきり振った。岩代の頬が派手な音をたてる。居間全体が息を呑んだ。構わず、反対側からもう一発。岩代は避けなかった。無気力というより、責任を取ったのだ。いちばんセコくていやらしい取り方だが。
娘がふり向き、おれを見つめた。鬼女の相は跡形もない。OKだ。おれはもうひと押しした。
「気が済まなきゃ、今度はあんた自分で殴れ。それでこの件はおしまいだ。明日のことを考えなよ」
娘は両肩をおとした。おれを見てうなずく。岩代を向き直り、低い声で言った。
「よかったわ、あなたみたいな|男《ひと》を刺さないで。いつまでかかるかしれないけど、あなたが私にしたこと、言ったこと、すべて忘れてみせる。裏切ったことも、騙したこともね。だけど、それまでは[#「それまでは」に傍点]覚えているわ――忘れないで」
おれは無言でハンドバッグを手渡した。やさしい受け取り方だった。かすかに、有り難うとつぶやくのがきこえた。数秒後、娘は胸を張り、落ち着いた足取りで部屋を出ていった。
「失礼。続けてくれ」と岩代が宣言し、駆け寄ってきた執事を追い払った。友人連は動かない。何事もなかったようにパーティは再開された。ただし、空気はやや欺瞞に満ちている。
「礼を言わなくちゃならないな」
岩代が額の汗を拭いながら言った。精魂尽きたという表情が妙に哀しかった。こいつは弱い善人なのだ。
「女遊びもいいが、片のつけ方ぐらい知っておくことだぜ。言葉じゃ満足しない女もいる」
「金は使いたくなかったんだ――金額のことじゃない」
「わかってるさ。誰も責めてやしない。おれは責められた方がいいと思うけどね。――ほら、来た」
トイレから戻ってきたらしいゆきの方へ岩代を押しやりかけて、おれは少し眼を剥いた。
ゆきの笑顔がつくりものではないと一目で看破できなかったら、背後のおなじみさんにナイフでも突きつけられていると早合点しただろう。
眼もくらむような金髪を肩まで垂らしたボール紙女は、色っぽい唇をきゅっとすぼめて、おれにウインクしてみせた。
「何かあったの?」
部屋の雰囲気を敏感に察して、ゆきが岩代に訊いた。
「なんでもないさ」とおれは答え、金髪から眼を離さずに岩代をせっついた。「凄い舶来品[#「舶来品」に傍点]だな、紹介してくれよ」
「ああ――僕の個人秘書で、ミス・ルース・ベネット。こちら、ゆきさんの……親代わりで――」
「八頭大です。お初にお目にかかりますねエ[#「ねエ」に傍点]」
ボール紙女――ルースは、おれの「挨拶」も無視して艶然と微笑んだ。達者な日本語で、
「まあ、ずいぶんとお若くていらっしゃるのね。でも、雰囲気はまるで大人。頼もしいこと。もっと早くお眼にかかりたかったわ[#「早くお眼にかかりたかったわ」に傍点]」
「まるで、お知り合いみたいね」とゆきが刺のある声を出した。やれやれ、まだ、娑婆っ気が抜けてない。
「もう秘書役は長いので?」
「いいえ」ルースは首を振った。
「二年になるよ」と岩代が口をはさんだ。「ぼくが株主総会で社長になったとき、新しく来てもらったんだ」
「お国はどちらで?」おれは表面笑顔、内心嫌みたっぷりに訊いた。
「ニューヨークですの。趣味は地下鉄巡りと人形づくり。あなたのもつくって差し上げましょうか」
大したものだった。それならこっちもお返ししなきゃな。
おれは「失敬」と言いざま、左手で、シルクのブラウスを突き出してる偉大なバストを鷲掴みにした。
岩代とゆきが眼を剥く。
ルースは身を避けようともしなかったが、おれはその口元の笑みが、みるみる殺意と憎悪にこわばるのを感じた。
この弾力は本物だ。もっとも、ニューヨークの酒場で寄り添ったときもそうだった。人形かどうか確かめたわけじゃない。おれ流の宣戦布告なのだ。
「なにするのよ、馬鹿!」
ひっぱたこうとしたゆきの手は空を切り、ルースはブラウスの胸を軽くなでたきりで、おれから身を離した。入り口の方を指さし、
「大胆な方ね。ふたりきりでお話したくなりましたわ。お庭でもご案内しましょうか」
そうれ、来た。おれは不敵に笑い「喜んで」と言った。
「待ちたまえ。じき余興がはじまるぞ」
遮る岩代へルースは謎めいた微笑を投げた。
「リュウに指示されましたの。それに、余興は一部変更になりますわ」
岩代は眼を伏せ、沈黙した。ゆきが、このォという顔で婚約者をにらみつける。
おれは二人に、じゃあなと手を振り、すでに歩き出したパープル色のブラウスを追った。
ドアを閉めると、ルースはすぐおれの方を振り返った。
「お庭見物なんて腰が曲がってからでいいわね、八頭さん」
おれはうなずいた。
「できれば書斎に案内して欲しいね。さもなきゃ、この家の本当の主人に紹介してくれよ。リュウってのかい?」
「そうよ。あなた、どの程度調べたの? あたしを見たときもあまり驚かなかったわね」
「そう驚きなさんな。話はご主人に会ってからさ。大四菱を動かす陰の黒幕にな」
ルースは肩をすくめた。廊下の立ち話にしちゃ、話題がでかすぎるとでも思ったのだろう。おれも我知らず苦笑しちまった。日本最大の企業と裏でそれを操る闇の支配者――まるで昭和三〇年代の空想科学漫画だ。
だが、おれのいる場所は正真正銘、四菱重工社長の大邸宅だし、三〇センチと離れず突っ立ってる女は、過去二回ニューヨークでボール紙と化した妖女と同一人物だ。そして、ゆきの亭主となるべき四菱の総帥殿は、リュウと名乗る男か女の指令にうつむいて従った。
ゆきは知っているのだろうか?
ルースは長い廊下を歩き出した。
「どこへ案内してくれるんだい?」
「あなたの行きたい場所よ」
「あんたもボール紙かよ?」
「どうかしら。裸にして試してみる?」
「この先、時間があったらな」
おれたちは数メートルいって平凡なドアの前でとまった。
「なんだ、こりゃ。隣の部屋じゃねえか」
「そうよ。地下に秘密の大工場や作戦本部でもあると思ったの?」
おれはぎゃふんとなって、口をつぐんだ。
ルースのノックに、|自動錠《オートマチック・キイ》のはずれる音で応答があった。
エアコンの激しい稼動音も、吹きつけてくる猛烈な異臭には手も足もでなかった。
おれが入るとドアは自動的に閉じた。何から何まで今度の|事件《やま》に噛み合ってやがる。
薄暗い照明の下でまず眼についたのは、部屋中の壁と床を埋めつくす書棚と書籍だった。新刊書などは一冊もない。すべて色褪せすり切れた古書だ。しかも、ただの古本じゃないのは、ちらと眼を走らせた手近の本の題名で一目瞭然だった。
手垢にまみれた『イエスとサタンの二重人格論ないし両者の整合性の研究』、すり切れ破れた『憑きもの』、血痕らしいしみが無数にこびりついた『転生』、その他『ユダの広めた毒』『堕天使と悪霊の物語』『エイボンの書』『無記銘祭祀書』エトセトラ、エトセトラ。もって読書人の性格をうかがうことができる本ばかりだ。
左右の壁には、二個の三角形――ユダヤ人のいうダビデの星を魔力をもつヘビで囲んだソロモン王の印章、天使をとりまく鷲、牛、羊に同じ三角形を組み合わせたエゼキエルの魔法図、月の女神アルテミスを描いたパラケルススの魔法円等々が飾られ、床に置かれた人体骨格標本や、それに内臓、眼球等の装飾をつけた解剖図、加えて人面虎身の馬腹、巨大な鉤爪の人間鳥ハルピュイア、泥人間ゴーレムといった怪獣・怪物の実物大模型等が、どんよりと澱んだ偽眼の奥からおれをにらみつけている。歌舞伎町にあるマリアの店ほどじゃないが、普通の人間なら一分と我慢のできないお部屋だ。
ルースの豊かな尻にくっついて、本の山や虹や雨雲を封じたショー・ケースの間を抜け、おれは部屋の中央――床に大きく描かれた朱色の魔法陣の真ん中に到着した。
傷だらけしみだらけのばかでかい木製丸テーブルに向かい、さっきから試験管やビーカーやらをガチャガチャひねくってた白衣姿が、机上に溢れる七色の霧をまといつかせながら、悠然とこちらをふり返る。
「ようこそ。お待ちしておりました」
わがクラスの沈黙男――|蒼《そう》だった。
おれは軽く肩をすくめただけだった。
「さすがは八頭大――ほんとに驚いてないようですね」
「そうでもねえさ。だが、四つの頃からおれみたいな仕事してると、世の中どんな事でも起こり得るってのがわかってくる。いちいち驚いてちゃ、成人式を迎える前に心臓疾患であの世行きだ。おまえ、名前はリュウってのか?」
「竜二です。今のは卓見ですね」
蒼はくすくす笑いながら手を叩いた。教室より自分の部屋で生彩を放つタイプだが、この奇妙な内弁慶は、次の瞬間なんとも凄まじい力のこもった眼でおれを凝視し、
「知ってたんですね、やっぱり。どこまで、いつ気がついたんです?」
おれは質問を無視して露骨にそっぽを向いた。くんくんと鼻を鳴らし、
「マンドラゴラに、アメリカマンサク、バーベナルアイリスか――惚れ薬でも調合して世界平和を成し遂げようってんじゃあるまいな」
「これは――」嘘いつわりなく蒼は絶句した。
「まいったな。君に対する僕の知識には大いなる欠陥があるようですね。単なる宝探しが、魔術の原料にまで詳しいとは思わなかった」
「|魔術《マジック》じゃなくて|黒魔術《ブラック・マジック》だろ」とおれは訂正してやった。「パラケルスス系の妖術の中にゃ、紙人形を生身の女に変える術もあったそうだな。おまえ、生まれてくる時代を間違えたんじゃねえか」
「いいえ」
おれが、どきりとしてふり返るほどの自信と迫力をこめたひと言であった。
「僕はこの日のためにつかわされ[#「つかわされ」に傍点]――生まれたのです。八頭くん、君も[#「君も」に傍点]、ね」
おれは嘲笑った。
「こんな薄暗いところで、おかしな葉っぱやヒキガエルの血を煮てたんじゃ、トロく[#「トロく」に傍点]なるのも無理はないやな。隣じゃ品のいいパーティがたけなわだぜ。匂いは洩れないのか?」
「この部屋だけ特別製でね。壁の中には完璧な防音材と厚さ五センチの鋼鉄――四菱製鋼直産ですよ。煙は五台のエアコンで処理します。バズーカ砲を撃ち込まれても、隣室じゃワイン・グラスひとつ倒れません。もちろん、悲鳴もオフ・リミット」
いよいよ本題に入ってきたようだ。おれはかたわらのルースに気を配りながらわざと大げさに腕を組んだ。
「そんな野蛮な真似をしないでも、話し合いで解決できるんじゃないかなあ。おれにも武器はあるぜ」
「強がりはおよしなさい」とルースが脇から口を出した。「あなたがこの家の玄関をくぐったとき、金属探知器で全身を走査させていただいたわ。もってたとしても、プラスチックのナイフぐらいでしょ」
「恐れいったよ」おれは万歳してみせた。
「まず、こちらの質問に答えていただきましょうか」
蒼がたたみかけるように言った。学校とはまるで異質な迫力がおれの全身を覆って威圧しようとする。
「ルースの集音マイクで拝聴したところ、君は四菱と僕らの関係について、かなり深いところまでご存知のようだ。いつ、どうやって嗅ぎつけたのですか?」
「ありゃ、当てずっぽうさ。その証拠に、おまえらの居場所に武器も持ってこなかったろ?」
二人は顔を見合わせた。なんだか急に部屋の中が寒々しくなったように感じて、おれはぶるっと身体をふるわせた。種明かしをしてやる。
「正直に言おうか。ある週刊誌で偶然、書斎にいる岩代の写真を見つけたのさ。本棚の隅っこに魔法関係の書物が写ってたよ。おれは少々ラテン語もいけるし、うちの『眼鏡』は解像度もいい。調べてみたら、奴さん電子物理が専門で、これまでの人生に、魔法のマの字もでてきやしねえ。――この部屋の本がまぎれ込んだんだろうが、不注意だったな」
「なるほどね。ますます君を甘く見ていたようだ。それほどの実力の持ち主とは思いませんでしたよ」
おれは、ふふんと鼻を鳴らし、胸を張ってやった。
「ま、他のことも調べたがな。岩代が新社長に就任する前後――ありゃ、凄え。うまく隠蔽してるけど、わかるものが見りゃ、なんらかの力が働いてるのは一目瞭然だ」
脳皮質の奥を、岩代に関する「記憶」の連続がなでて通った。
岩代の社長就任に猛反対した四菱重工専務派のひとり、四菱化学常務が、株主総会の半月まえ心臓麻痺で急死。専務派の資金源と見なされていた大株主が、その二日後、自宅風呂場で晩酌疲れから寝込んでしまい、それがもとで風邪と肺炎を併発、翌日死亡。さらに当の専務本人が、株主総会の当日、秘書の見守る前で屋上から投身自殺。
岩代洋介の帝王就任は、こうした犠牲の上に成り立っていたのだ。
「誰が見ても完全な事故」では言葉が足りない。「魔術で仕組まれた完全な事故」が正解だ。
「ついでにお前のことも少し調べさせてもらったぜ」おれは上着のボタンをいじりながら言った。「――と言いたいところだが、今も調べさせてる。学校へ出した転校届けは出鱈目もいいところだし、ろくな手掛かりもないが、おれの情報網はCIAなみに執念深い。今日明日中には返事が届くだろう」
「あなたがそれを読めればいいけど」
ルースが嘲った。
「それじゃ今、訊いちまおうか」
おれは、蒼の青白い顔を真正面からにらみつけた。戦闘開始だ。
「余計なことはどうでもいい。ユダの黙示録は何処だ? 渡せばスンナリ引き揚げる」
「これは、君とも思えない[#「君とも思えない」に傍点]発言ですね」蒼の声には揶揄する調子があった。右手で、手もとにあるおかしな色の液体入りビーカーを引き寄せる。「無理もないけど、まだ、わかりません[#「わかりません」に傍点]か。何も知らずに今まで闘い、これからも闘いつづける気なのですか? 可哀想な人だ」
「まどろっこしい言い方はよせ。おれは宝探し屋だ。世界の運命よりも宝の方が気にかかる。おまえらが黙示録と四菱帝国を使って何をやるつもりか知らねえが、返せばよし、返さなきゃ戦争だ」
「何を知らなくとも、闘いだけはつづくわけか。それもいいでしょう。結果は同じことです。僕も、君には死んでもらわなくちゃあならない。そういう決まりなんでね[#「そういう決まりなんでね」に傍点]。安心なさい、あの娘――ゆきちゃんも、すぐ後を追います。寂しくはありませんよ」
やはり、ゆきの名がでたか。岩代が黒魔術と一枚噛んでるとわかった時点で、この婚約も罠かと踏んだのだが、どうやら的中だったらしい。だが、昨夜の岩代にはそんな気配がまるでなかったし、術にかけられてる様子もなかった。ゆきへの想いも、間違いなく本物だ。とすると、ゆきが巻き込まれたのは偶然か。しかし、蒼の今の言い草は……。
おれの心中を読んだように、蒼が口を開いた。
「すべては神の御心[#「神の御心」に傍点]です」
言うなり、ビシャッと音がして、奴のかたわらに立つ骸骨と解剖模型に赤い飛沫がかかった。同時に、二人ともテーブルの向こう、部屋の奥へと遠ざかる。
追う前に、おれは眼前の異変に眼を奪われていた。
妖気――新宿のマリアの店にもひけを取らぬほどの妖気が部屋中に渦巻きはじめ、天井に床に紫色のスパークが咲き乱れた。突然、凄まじい風が本という本のページをはためかせ、丸テーブルの上の試験管やフラスコは次々と四散し、床や壁を奇態な色で塗りつぶした。何が入っていたのか、立ち昇る霧は人とも獣ともつかない形をとり、声すらあげた。
スパークに手をはじかれ、おれは素早く入ってきたドアの方へ後退した。自動錠だが、始末するくらいの武器はある。裸で敵地へ乗り込む阿呆がいるものか。金属探知器ぐらいとっくにお見通しだ。
骸骨が動き――震えていた。ただのプラスチック性の骨組みが、妙に生々しい色艶を帯び、ぐいと顔をこちらに向けるや、冥府の風でも吹いてきそうな洞窟そっくりの眼窩でおれを捕捉し、ゆっくりと乗っていた台の上から降りはじめた。
解剖図の方は、と眼をやり、おれはおえっと言いかけた。
半月くらい前、クラスの悪党どもがいたずら半分で、女子トイレのドアの内側に、いまここにあるのとそっくりな解剖模型を置いたことがある。女の子がヒイキャア言うところを見たいだけのセコい了見だったのだが、あにはからんや、五〇近いオールドミスの古文の教師がいの一番に駆け込んでしまい、仕掛け人どもの目的は年齢をのぞいて果たされたものの、全員、三日間の自宅謹慎を食らった。婆さん、効果がありすぎて泡噴いちまったのである。
要するに、それくらい解剖模型というのは凄みがあるわけで、それがすべて――プラスチック製の大脳も小脳も心臓も肺も、内臓と筋肉のすべてが本物になってしまったらどうなるか。おれだから、ショック死せずにいられたのだ。
それだけじゃなかった。カタカタと迫りくる生きた骸骨と、腐汁とも体液ともつかぬ代物を垂らしながら両手を広げた解剖死体の後ろでは、おかしな液の飛沫をついでに浴びたらしい馬腹やハルピュイア、キマイラたちが、新しい生の歓喜にわななき、痙攣しつつ、炎のような飢えと殺意がきらめく眼をおれに据えて、ゆっくりと前進を開始したのである。
「さあ、どうします、お手並み拝見」
蒼の声とルースの笑いが遠くから聞こえた。
一見、なす術もなく後ずさるおれの退路を、鋭い羽音とともに空中から舞い降りた|人面鳥《ハルピュイア》が塞いだ。耳をつんざく狂気の絶叫。女の口がカッと開き、肉食獣の牙をむき出した。前方からは、白い骨だけの手と、こちらは生あたたかい湯気をあげる、真っ赤な筋肉と腱をつけた腕が迫る。肋骨の内側で赤黒い心臓が脈打ってるのを見て、おれはうんざりした。
息を吐きざま後ろ蹴りをとばす。ぎゃっと悲鳴をあげて、とびかかってきたハルピュイアが吹っとんだ。それを合図に化け物どもが襲いかかる。
轟音と閃光が異形の影を薙ぎ倒した。
ふりむきもせず、脇の下からの連射でハルピュイアの頭部を吹きとばしてから、おれは素早く「武器」の|紙製弾倉《ペーパー・マガジン》をおとし、ベルトのマガジン・パウチの予備弾倉と交換した。
蒼もルースも、おれの言葉が嘘じゃないとこれでわかったろう。
弾倉だけじゃない。右手の「拳銃」さえ厚紙製なのだ。
近年、金属探知器だの爆発物センサーだのの発達により、ちょっとした重要施設やVIPの集まる場所などは武器の携帯がしづらくなってしまった。困ったのは、その筋の――といっても末端の殺人請負業者、いわゆる殺し屋から、政府単位の暗殺組織までさまざまだが――連中である。
金属に頼らぬナイフ、爆弾等が次々に開発される中で、一九五〇年代中ごろには紙製の発火式拳銃がソ連KGB兵器部で開発された。これは兵器部特製の強靱な厚紙に特殊コーティングを施したもので、二二口径弾丸発射時の火薬ガスの熱と反動にぎりぎり二発しか耐えることができず、すぐ開発は中止された。
紙製拳銃再生の原動力となったのは、ひとえに高分子化学の発達である。七四年には、米CIAと英国情報部MI6の共同開発により、九ミリ|軍用弾《パラベラム》六発を収容・発射可能な“ペーパー・ガン”PG74が試作され、かなりの数が“|暗殺《ヒット》”に使用された。
おれの握った品は、米英の委託を受けたベルギーのFN――ファブリック・ナショナル社が極秘裡に開発したオートマチック・モデルで三八口径九連発。市販されてる厚紙で形をつくり、高分子塗料につければ三五七マグナムさえ撃てるが、これだと|一弾倉《ワン・ラウンド》でいかれちまうので、おれは九ミリ|炸裂弾《エクスプローディング・ビュレット》を愛用している。こいつは、小型信管と強力炸薬を込めた弾頭部だけが相手の体内でドカンといくため、発射薬は通常の九ミリ分で間に合うし、三ラウンド――二七発はこなせる。紙自体を改良し、塗料の質量をもっとふやして、銃全体の重さを今の六〇〇グラムから一キロ程度にまで上げられれば、じき四四マグナムも撃てるようになるだろう。もちろん、薬莢も弾頭も信管も塗料プラス紙製だし、|反動《キック》はかなり強烈だから、一〇メートル離れたらもう人間に命中させる自信はない。完全な近距離使い捨て拳銃だ。
だが、おれのいるのは、そんな当たり前の兵器が通用する世界じゃなかった。
見ろ。背骨をへし折られた骸骨の上半分がじりじりと床に爪立てて這い寄り、解剖標本にいたっては、ちぎれた筋肉から腱をひきずり、半分ふっとんだ心臓が苦しげに蠢くたびにぴゅうぴゅうと濁った静脈血をふりまきながら、前進をやめないじゃあないか。
頭上から頭部なしのハルピュイアの爪が襲う。床にとびざま二連射。片羽のつけ根を四散させたが、奴は分厚い革表紙の本をやすやすと貫き、空中で自信満々の円を描きはじめた。迫りくる集団から、白痴としか思えない馬腹の人間面が突き出され、長い舌で唇を舐める。飢餓の唸りが低く床を這った。
ドアまで三メートル。辿り着いても錠をぶっこわすのに時間がかかる。
絶体絶命だった。後は神頼みしかない。
馬腹が虎体をひらめかせて跳んだ。首すじに包丁みたいな爪の猛打!
衝撃はあまりなかった。
武骨な音をたててプラスチックの模型は床に転がっていた。やっと自分の正体を思い起こしたかのように。
頭上でハルピュイアの苦鳴がとどろき、ゴーレムの泥身に亀裂が入る。水槽から自力で這い出しかかってたマンドラゴラが急速にしなびていく。悪臭が鼻孔をついた。
神頼みが効いたのだ。
おれは左手で、首にかけた純金のペンダントを高く掲げた。シュメールの大魔術師ヌビア・モンの護符を。
格別派手にきらめいたりはしなかったが、化け物どもはわななきながら後ずさった。
今だ。おれは一気に部屋の奥へと突進した。おれの身体に触れた稲妻ははね返って壁に火花を散らし、護符の威力に狂ったキマイラとハルピュイアは取っ組み合いをおっぱじめていた。「このこのこの」とペンダントでひっぱたくと、すぐお人形さんに戻る。
蒼とルース――ふたつの影が、さらに深い闇の彼方へ溶け込もうとしているのを見て、おれは左手にとびついた途端粘土細工と化した「|栄光の手《ハンド・オブ・グローリイ》」をもぎはなして追った。ちらっとふり向くと、ゴーレムだけが追ってくる。
闇の中で、追いついた!――と手をのばした刹那、二人の姿はうっすら見えてた壁面の中に吸いこまれ、勢い余ったおれの手と身体も、何の手ごたえもなくコンクリートと融合した。
白光と拍手の嵐。
ゆきと岩代を最前列に、パーティの出席者全員の熱っぽい視線を浴びて、おれは一段高くなった舞台の上に立っていた。
何のつもりだ、と頭を巡らすより早く、おれは身体で事態に反応した。風をちぎってとんできた猛烈な右フックを身を屈めてかわした瞬間、内臓が破裂せんばかりの前蹴りを食らい、それでも次の肘打ちはなんとかブロックして体勢を立て直した。
悲鳴と歓声があがる。
事情は皆目だが、敵の正体だけは一発でわかった。
眼の前でさざえみたいなごつい拳固をなでながら、薄笑いを浮かべてるのは、トランクス姿のメタルキット人間――エーリッヒ・ガレーンだった。
[#改ページ]
第五章 ハント・パブでの邂逅
黒魔術の部屋から瞬時にパーティ会場へ。あまりの変転の早さと待ち受けていた事態の意外さに、おれはわけもわからず大男へ|紙鉄砲《P・G》を向けた。
どっと笑い声。卑怯だぞォととぶ野次の方を見れば、ゆきが口に手あてて叫んでやがる。笑いで済んだのは、ひと目で紙製のオモチャと判断できるからだろう。マリアの予言だと、今度は弾丸がでるはずだ。野次など構わず、一発ぶち込んでやろうかと大男の顔面に銃口をポイントした途端、ルースの声が笑いを含んで、
「卑怯な真似はよしましょうね」
またも口笛と野次。
つかみかかる巨大な腕を避けて、なぜか舞台の上[#「舞台の上」に傍点]を逃げまわりながら、おれはようやく状況を把握した。
パーティの余興だ。
どうやったのかはさっぱりわからないが、おれはパーティを盛り上げるために、大男と一戦交える手筈になっていたらしい。紹介も済んでるようだ。
おれ自身[#「おれ自身」に傍点]も舞台を降りたくはなかった。やらなきゃならん――この事件に首を突っこんで以来はじめて味わう熱い感情が全身にみなぎっている。
おれはやや熱を帯びた拳銃をショルダー・ホルスターに戻し、後屈立ちの構えをとった。
ふたりの間に張りつめる殺気を感じてか、ざわめきがピタリとやむ。
ガレーンが一歩進んだ。
おれも身をねじりながら奴の両脚の間へとぶ。あお向けになってくぐりざま、金的へ片足を跳ね上げた。
甲に鈍い手ごたえ。やや、ここも! 金属性インポめ! これじゃ、急所はないに等しい。
起き上がって向かい合うと、さすがにガレーンも、おれの調子がこの前とは違う[#「この前とは違う」に傍点]と悟ってか、すぐには仕掛けてこない。
「大ちゃん、フレフレ、フレフレ大ちゃん」
ゆきの楽しそうな声援に、この無責任娘がと気をそらしたとき、眼の隅で巨体が跳躍した。鉄骨でもへし曲げそうな二段蹴りをかろうじてかわしたものの、足がもつれ、おれはたたらを踏んで舞台の端までよろめき、壁に左手をついた。
途端に凄まじい熱気が手首までを押しつつみ、おれは悲鳴をあげて――手を抜いた[#「手を抜いた」に傍点]。手首は真っ赤に腫れ上がり、セーターの袖は黒煙をあげている。
そこは、おれの出て来た場所だった。熱も煙も通さず、そのくせ恐らくは火事でも起こしたあの小部屋とまだ通じているのだ。
ガレーンの血走った両眼に、してやったりと歓喜の色が湧き上がる。ははーん、おれをここへぶち込む気だな。
ガレーンのパンチが電光のように走った。と、次の瞬間、ダッキングでよけたおれのかたわらで、奴はたたたとよろめき、あっという間に壁へと吸い込まれてしまったのだ。地獄の炎と毒煙が渦まく隣室へ。
無責任な観客たちの、あっけにとられたような叫びにまじって、ルースの拍手が鳴り響いた。
「変わった仕掛けですこと。でも、相手が尻っ尾を巻いたということで、これは八頭さんの大勝利ですわね」
うまい手だな、とおれは思った。人間が壁に吸い込まれるなんて、眼の前で目撃しようと理性が否定してしまう。あとは「仕掛け」のひと言で「常識」を補強し、ジ・エンドだ。
ようやく坊っちゃん嬢ちゃんの拍手と歓声が湧いた。
気がつくと、ルースが笑いながら、凄まじい眼付きでおれを眺めていた。
――覚えてらっしゃい。まだ、つづきがあるのよ。
そんなところだろう。
おれは別のことを考えていた。
――勝負を決めるものは、狭き広場では鋼よりも土。
最後の一撃をしくじったガレーンの肩を、壁から突き出たゴーレムの腕がひっつかみ、もの凄い力で半人造人間を地獄の底へ連れ込んだと、誰が信用するだろう。土塊で出来たゴーレムがおれを追ってきたといっても同じだ。
「見事だったよ、八頭くん」
「大ちゃん、かーっこいい」
台に駆け上がろうとする岩代とゆきの前に立ち塞がり、おれは素早く舞台をさえぎるカーテンを半分だけひいた。
「どうしたのよ?」
「何でもない。後は有能な女秘書さんが片づけてくれるさ。――さ、一杯やりにいこう」
こう言って、おれはなおも仁王立ちでおれをにらみつけてるルースと、ガレーンの消えた壁に最後の一瞥を投げた。
蒸し焼きになる殺し屋の断末魔のあがきか、壁から突き出た一本の手首は、焼け爛れた肉の間に金属の骨を露出させながらも、永劫の敵に掴みかかろうと、あるいは暗黒の冥府へ招くかのように、空しい動きを繰り返していた。
濃い水割りをたてつづけにあおって気分をほぐし、左手の負傷に薬を塗ってもらうとすぐ、おれは岩代邸を辞去した。
ゆきを放っておくのは気懸かりだったが、むりやり連れ出そうとすれば、蒼たちは力ずくで止めにかかるだろう。おれとゆきの関係はとうにご存知のはずだ。こちらも一文にもならん殺生はごめんこうむりたい。
あの|魔法の部屋《マジック・チェンバー》でおれを狙ったとき、ゆきを人質に使えばもっと簡単だったのに、奴らはそうしなかった。自分たちのやってることをゆきに知られたくないか、別の用途があるってことだ。
岩代と蒼、それにゆきの間をつなぐ糸はまだはっきり見えないが、それを突きとめてからでも黙示録捜索は遅くあるまい。
おれさま恒例の高速ごぼう抜きで、スカイラインだのセリカだのサバンナだの、イモな国産車の鼻面に排気ガスを浴びせつづけて六本木に戻るや、おれはただちに書斎で蒼の身元を確かめる作業に取りかかった。
ITHA捜査課の資料はマザー・コンピューターにインプットされていた。さすがトリプルGの依頼ともなると、特A級リサーチャーを総動員したとみえる。
いちいちディスプレイ文字を読むのも面倒なので、音声回答でいくことにした。
「蒼の本名、出生年月日、その他をインプット通りに読み上げろ。写真があれば、その都度ディスプレイだ」
「了解」
すぐに応答があった。感情を殺した合成音で「蒼竜二、本名同じ。一九六七年一二月二五日生まれ。本籍地:青森県八戸市|朝礼《あされい》村三のX。父:竜蔵、母:かね。他に系累なし」
「なし? 親戚がひとりもいないってことか? 一体どうした?」
「父方の祖父:善次、一九六七年一二月二〇日死亡。死因:心臓発作、祖母:よね、一九六七年一二月二二日死亡・死因:心臓発作、叔父:貴次・一九六七年一二月二○日死亡、死因:交通事故、叔父:良作、一九六七年一二月二三日死亡、死因:発狂死……」
「ちょっと待て」
「了解」
「いや、つづけろ」
「了解。叔母:とし子、一九六七年一二月二一日死亡、死因:長男・|威吉《たけよし》に撲殺さる。叔母:宮子、一九六七年一二月二四日死亡。死因:泥酔状態で予田川に転落、溺死……」
「父方はもういい。母方はどうだ。いちいち読み上げるな。まとめて答えろ」
「了解。全員死亡」
「その家族はどうだ。子供たちもか? そうだとしたら死亡期間は?」
「了解。全員死亡。死亡期間:一九六七年一二月二○日午前三時二○分より、二四日午後一一時五八分のあいだ」
どっと疲れが出て、おれは全身の力を抜いてソファにへたり込んだ。気のせいか、マンションで治療しなおした火傷や、あることも忘れてた胸の刺し傷までズキズキする。
蒼竜二――ある家系に、良かれ悪かれ常人の枠を超えた|運命《さだめ》の子が誕生すると、その並みはずれた業の力により、親類縁者ことごとく死に到るというが、おれはその実例を眼のあたりにしていた。
蒼竜二の運命とは一体?
知らず知らずのうちに、おれは胸のペンダントをまさぐっていた。
それから、ITHA調査陣渾身の力作が、次々と電子の画面に登場し、おれは身じろぎもせずにそのひとつひとつを記憶に収めた。
蒼は地元の中学を卒業後、すぐ東京へ出ている。以後の詳しい経過は不明だが、四菱家に出入りしはじめたのは二年と少し前。そのひと月後に先代の社長が死去してる。
やりやがったな、とおれは思った。
多分、無気力な二代目の烙印に従って遊び歩いてた岩代とどこかで知り合い、その力を示して取り入ったのだ。
どう逆立ちしたって手に入りっこない四菱帝国総帥の座が我が物になる。経営のけの字も知らない電子物理学者の卵に、二代目は実の息子がなって当然という「欲」が湧いたとしても責められやしまい。
しかし、蒼とあの女は、四菱の力をバックに何を成し遂げようとしているのか。例年の業績不振を一気呵成に挽回したのは、奴らにとっちゃ序の口でしかあるまい。
ユダの黙示録を手に入れた究極の目的と合致するのだろうか。
ユダは一体何を記したのか?
この世に伝えられているもうひとつの破滅の書――ヨハネ黙示録ならおれも知っている。
映画にもなった「|地獄の黙示録《アポカリプス・ナウ》」なんて、これにくらべりゃ甘っちょろい精神異常者のドラマにすぎない。ユダの黙示録の内容を考える上で、それより遙かに劣るとされるヨハネの作を検討してみるのも必要条件だろう。
おれはソファに腰をおろしたまま、濃い水割りを肴に、最近あちこちで眼につきはじめた黙示的終末論の考察を開始した。
アポカリプスとは、現在伝えられている聖書のもととなったギリシャ語訳でいうアポカリプシス“隠されたものの覆いを取り除く”ことを指す。聖書に登場する神の言葉を預かり、万人に示すという意味で、この預かるもののことを預言者[#「預言者」に傍点]――神の言葉を知らせ、それに対する人間の行動、態度等を表す者――と呼び、単に未来の出来事を語るだけの予言者[#「予言者」に傍点]と区別する。旧約聖書に登場するイザヤ、エゼキエル、エレミア、ダニエル等はすべてこの預言者だ。
黙示録――こう名乗るのは唯一、ヨハネ黙示録のみだが――にいう神の言葉とは、人類の来るべき未来のことで、ヨハネ黙示録は次のような言葉ではじまる。
“これイエス・キリストの黙示なり。即ち、かならず速かに起こるべき事を、その僕どもにあらわさせんとて、神の彼に与えしものなるを、彼その使を僕ヨハネに遣して示し給えるなり」
そして、次々と、まるで謎解きのような難解な表現をつかって人類の運命を「具体的」にあげつらっていくのだ。
その預言の的中率、信憑性がどれほどのものかは、かの名高きノストラダムスの「諸世紀」が、実はほとんどすべてヨハネ黙示録からの引用――この説が神秘学・予言学研究家の間では常識――とされていることからもわかる(もっとも真偽のほどは、おれにも闇の中だが)。
一例をあげると、黙示録が書かれたとされている紀元九六年以降、比較的未来におけるローマ帝国の運命が、刻明に記されているらしいのだ。
黙示録第八章にある七人の御使とその吹き鳴らすラッパがそれだ。
“第一の御使ラッパを吹きしに、血の混じりたる雹と火とありて、地にふりくだり、地の三分の一焼け失せ、樹の三分の一焼け失せ、もろもろの青草焼け失せたり”――紀元後一、二世紀の間に隆盛を誇った大ローマ帝国は、四〇九年、ゴート族のイタリア侵入により、聖地ローマまで蹂躙され、大地も樹も青草も焼き払われる死と破壊に見舞われた。
“第二の御使ラッパを吹きしに、火にて燃ゆる大いなる山の如きもの海に投げ入れられ、海の三分の一血に変じ、海の中に造られたる生命あるものの三分の一死に、船の三分の一滅びたり”――四二八年、蛮族ヴァンダルがスペインから北アフリカに侵入、ローマの穀倉を奪ったばかりでなく、地中海への入り口カルタゴを占領、海軍を組織し、当時といわず史上――六〇〇年間無敵を誇った――最強のローマ艦隊を撃破した。
有名なのは第三の御使とラッパである。
“第三の御使ラッパを吹きしに、燈火のごとく燃ゆる大なる星天より隕ちきたり、川の三分の一と水の源泉との上におちたり。この星の名は|苦艾《にがよもぎ》という。水の三分の一は苦艾となり、水の苦くなりしに因りて多くの人死にたり”――ずばり、凶名暴虐をもってなるフン族の首領アッチラのヨーロッパ大侵冦を指すと言われている。中央アジアの僻地より出現したフン族は四五一年にライン川を渡り、パリ東方のカタラウヌム平原で、西ローマ・ゲルマン諸部族連合軍と対決、死者一六万五〇〇〇人を出した。このときは連合軍の名将アエチウスの知略とフランク族長メローブス(のちのフランク王朝メロヴィングの基礎をつくった人物)の活躍で敗退したが、翌年、北イタリアに侵入、ローマに迫る勢いを見せ、結局は莫大な貢献金と、教皇レオ一世の懇望によって撤退、本拠地に戻る途中、ドナウ川畔で没した。遺体は川の流れを変えて川床に埋葬され、“燃える大なる星”は“川の三分の一と水の源泉との上におちた”のである。
ローマ滅亡は、第四のラッパで確実性を帯びる。
“第四の御使ラッパを吹きしに、日の三分の一と月の三分の一と星の三分の一と撃たれて、その三分の一は暗くなり、昼も三分の一は光なく、夜も亦おなじ”
黙示録に出てくる数字の解釈については諸説紛々だが、この部分の三分の一は西ローマ帝国を明確に表すとされている。すでに三九五年、東西に分裂していたローマ帝国は、西ローマ帝国最後の皇帝ロムルス・アウグストウルスが、傭兵隊長オドアケルによって廃されたことにより、日のごとく月のごとく星のごとく輝いた栄光の歴史に半ば終止符を打った。そして、ローマに残されたものは、アジア・アフリカの領土と東ローマ帝国――すなわち、“三分の一”が滅ぼされたのである。
だが、残るアジア・アフリカの領土も、第五の御使が吹き鳴らすラッパとともに、血と戦雲の彼方に滅び去る。
いわく“第五の御使ラッパを吹きしに、われ一つの星の天より隕ちたるを見たり……煙の中より|蝗《いなご》地上に出でて、地の蝎のもてる力のごとき力を与えられ……かの蝗の形は戦争の為に具えたる馬のごとく、頭には金に似たるかんむりのごときものあり、……之に女の頭髪のごとき頭髪あり、……また鉄の胸当のごとき胸当あり、その翼の音は軍車の轟くごとく、多くの馬の戦闘に馳せゆくがごとし……この蝗に王あり。……ヘブル語にてアバドンといい、ギリシャ語にてアポルオンと言う……”
六三〇年、逃亡先メジナからアラピア半島を統一、全アラブ部族と同盟関係を結んだマホメットは、アラーの神の名のもとに軍を挙げ、“蝗のように”ローマ領土を席捲した。イスラム軍団は勇壮無比をもって鳴る騎馬隊で、“金に似たる”黄色のターバン、“女の頭髪のごとき”長髪と顎ひげ、“鉄の胸当のごとき”鎧をトレードマークにしていたという。アポルオンとはマホメットのことだったのだろうか。
やがて、時代はひとつの終焉を迎える。
“第六の御使ラッパを吹きしに……その時、その日、その月、その年に至りて、人の三分の一を殺さん為に備えられたる四人の御使は解き放たれたり。騎兵の数は二億なり……彼らは火・煙・硫黄の色したる胸当をつく。馬の頭は獅子の頭のごとくにて、その口よりは火と煙と硫黄を出づ。この三つの|苦痛《くるしみ》、すなわち其の口より出づる火と煙と硫黄とに因りて人の三分の一殺されたり”
一四五三年、東ローマの首都コンスタンチノープルを陥落させたトルコ軍の武器が、“火と煙と硫黄と出づ”る史上初の「大砲」だったことは言うまでもあるまい。こうして、栄光の都ローマは永遠に滅び去った。
――と、まあ、こういう次第だ。なんとなくこじつけめいてもいるが、現在の黙示録研究の分野で大局を握っている解釈に文句をつけてもはじまらない。
気分でも変えようかと窓の方を向いたおれは、夜景とダブって映るおのれの姿に、思わず苦笑した。
絹のナイトガウンをまとい、水割りのグラスを片手の高校生が、世界の破滅のときに思いを馳せている。これほど不似合いで珍妙な図もまたとあるまい。おれは妙にやつれ、外の闇に黒々と浸食された顔の背後に浮かぶ街の灯を見ながら、突然、どうしようもない不安といら立ちに胸をつかれた。
黙示録――人類の避けがたき運命を示すもの。四五億の民に突如襲いかかるいわれなき死と破滅のドラマは、二〇〇〇年の過去に予言されていたのだろうか。
ヨハネ黙示録は最後に言う。――
すべて生命の|書《ふみ》に記されぬ者は、みな火の池に投げ入れられたり。
おれは、ヨハネ黙示録の予言が実現されたとする様々な社会現象を想起せざるを得なかった。
ニューヨークで突如、ホモたちの間に発生した正体不明の奇病AIDS、一九六四年、インド洋上で炎上「|冥府《プルートゥー》の王の元素」――四〇〇万分の一グラムを吸引しただけで人を死に到らしめるプルトニウム288を一○○○グラム空中にばらまいた米軍事衛星SNAP――9A。片や、体内のあらゆる免疫性を枯渇させ、皮膚ガン等をたやすく発生させる正体不明の病、片や直径一ミクロン(一〇〇万分の一ミリ)前後の粒子と化して体内へ侵入、これまた各種のガン――悪性腫瘍を瀕発させる猛毒の放射性物質。
“斯て第一の者ゆきて其の鉢を地の上に傾けたれば、獣の|徽章《しるし》を有てる人びととその像を拝する人びととの身に悪しき苦しき腫物生じたり”
そして、数万トンの油を海上にぶちまけ、魚やプランクトンを死滅させるタンカーの海難事故や赤潮の発生。
“第二の者其の鉢を海の上に傾けたれば、海の死人の血の如くなりて海にある生物ことごとく死にたり”
各種河川の深刻な汚染状況と世界的規模で広まる飲用不適応現象。
“第三の者其の鉢をもろもろの河と、もろもろの水の|源泉《みなもと》との上に傾けたれば、みな血となれり”
無際限に吐き出される炭酸ガスが大気中にたまり、地上の熱をすべて地球に送り返す温室効果。
“第四の者其の鉢を太陽の上に傾けたれば、太陽は火をもて人を焼くことを許さる”
そして、研究家たちは最後に指摘する。このすべてに当てはまる、まだ実現途中の現象がたったひとつある、と。
核戦争だ。
乱れとぶICBM・タイタンや中距離個別誘導多核弾頭ミサイル・SS20、レーダー・サイトの眼を盗んで不気味に忍び寄る巡航ミサイル・パーシングII、人間のみを焼き殺す中性子爆弾、そして、併用されずにはおかない各種化学兵器が人びとを焼き尽くし、わずかな水を毒――苦艾と変える。偽りの平和の下、今日もアラスカの氷河の奥では五〇メガトンの大型核弾頭がモスクワをにらみ、ウラル半島のサイロは、内にはらんだ炎の子をワシントンへ撃ち込む時を待っているのだ。
ユダの黙示録もそうなのだろうか?
人類の歴史は破滅によってのみ成就され、それを見透したものにも語る術しか残されていないのか。
おれは首を振った。関心外のことだ。その方面で頭を使わなきゃならない連中は他にいる。
疲れてたし、左手の火傷も少し痛んだが、おれは気分直しにマンションを出、女子大生や若いOLの集まるハント・パブへ行くことにした。
一年かそこいら前は、おれくらいハンサムで金離れがよけりゃ、向こうからキャアキャア寄ってきたものだが、近頃のギャルどもは妙にすれてるうえ、おかしなバイトで懐もあたたかく、おまけに林なんとかいうとんでもない顔した女コピーライターがマスコミの寵児扱いされてるせいで、めったやたらと自信がつき、よほど根気よく口説かないとなかなかなびかない。おれのクラスでも、体重一〇〇キロの外谷順子が、しつこく迫ってきた男にウエスタン・ラリアートをかけたら壁ぎわまで吹っとんだと、ゲラゲラ笑いながら自慢してたことがある。そのうち、河馬でも象でも雌なら口説くって時代が来るだろう。
『哲学者の小径』は、おれのマンションから徒歩五分の距離にそびえる大衆ハント・パブで、割合まともな女の子たちが集まるので有名だった。眼の玉ギラギラ光らせた独身OL――オールド・レディより、悪戯っぽい光を眼に湛えた渋谷や|狸穴《まみあな》近辺の女子大生が多いため、赤坂や自由ケ丘あたりを根城にしてるフーテン大学生や遊び人がひっきりなしに出入りし、ドアを開けたときも、店内は熱気と欲望でごった返していた。
壁のあちこちに、自己紹介やら交際相手の条件やらを書いたメモが貼ってある。店内を歩くおれに、娘たちの好奇の視線と野郎どもの敵意が集中する。需要と供給の間につきまとう宿命的な命題だ。
非常ドアの位置を確かめ、その近くの席に腰をおろす。ばかでかい丸テーブルの隅っこにあたるので、いちばん近くのギャルまで席五つ分離れている。
左隣で、どうやらブランド物で武装した丸ぽちゃの小男が、頭ひとつ分高い、モデルと言っても通用しそうな美人ギャルにちょっかいを出していた。どっかで見た顔だと思ったら、ちと有名な賞を獲り、最近では黒メガネのタレントが司会する正午の番組で、いいともとか悪いともとか言ってる若手作家だった。
おれは入り口の方を一瞥し、何にしますかと威勢よく尋ねるバーテンにジン・ライムを注文してから、時間つぶしに五つ先の娘を口説いてみることにした。
「ねー、君、お名前なんていうの? ぼく東大生」
我ながら白痴じみた台辞と声だ。
派手なワンピース姿の娘は、素早くおれの全身を値踏みし、隣のもっと派手な格好した女の子と顔を見合わせてニンマリした。どうやらグル[#「グル」に傍点]らしい。よく見りゃ、彫りの深いなかなかの美人だ。男の子とお近付きになるより、言い寄ってくるのを振っては自分の値打ちを確認したがるタイプである。近頃こういう手合が増えた。
きれいなお顔に薄笑いを浮かべながら、
「やーだ。あんた、ほんとに東大生? 学生証見せてよ」
「固いこと言うなよォ。ぼくら、ぴったしのフィーリングじゃん。河岸変えて食事でもしようよォ」
「ほーら、ばれた」もうひとりの娘が軽蔑し切った声で言ってから、彫刻美人を肘でこづいた。
「駄目よ、こんなのに引っかかっちゃ」
こっちはお目付け役だ。顔のつくりは普通だが、軽薄男の罠にかかりそうな友人を救い、自分の精神的成熟度を確認して悦にいる。何のことはない、ハント・パブは女たちの美点確認場と化しているのである。
隣では若手作家が、ボク、キミをモデルに小説書きたい、などと見えすいた台辞をならべ、その幼児的言い回しがあんまりおれと瓜ふたつなので気分が悪くなった。男ってのは、口説き文句さえ類型化するほどレベル・ダウンしたのだろうか。
「やあ、ごめんごめん」
とおれは、ちょうど入り口から入ってきた恰幅豊かなスーツ姿の中年男を見ながら言った。
「実はおれ、フジテレビの『オールナイト・フジ』のスタッフなんだ。キミら、出てみない?」
噂通り、効いたね。
ふたりの確認主義者は歓声をあげて、文字通り、おれの両側の席へとび移ってきた。
「ホントホント? ねえ、いつ出してくれんの?」
「これ住所と電話番号。今晩、お宅へうかがってもいいわ」
「あのォ」と横から若手作家の声がかかった。「ボクも出してもらえませんかァ?」
やれやれ。
どう断ろうかなと思っていると、頭上からおよそ場違いな渋い声が降ってきた。
「失礼ながら、八頭さんですね?」
「左様で」
「お楽しみのところをお邪魔して恐縮です。わたくし、こういう者で」
極上の和紙を使った名刺の名は、わずかにおれの興味をひいた。四菱銀行頭取・設楽重造。
おれはじろりと、ふてぶてしい岩みたいな顔を見上げた。突如、この周囲だけ別世界に変わったのを知ってか、女たちも若手作家も薄気味悪そうな顔で席に戻りだす。威厳たっぷりの大男だが、全身から放散する気迫は、彼にしてもそう無闇に出せる代物じゃあるまい。こいつ、殴り込みに来たのか?
「あんた確か、重工の専務亡き後、反岩代洋介派の急先鋒だったな。河岸を変えようか?」
「いや、結構」
分厚い唇を歪めて熊みたいに笑うと、設楽は気軽に隣の席へ腰をおろした。一○○キロ近くはありそうな体重で、スチール製の支えが悲鳴をあげた。
「どうやら、かなりの事をご存知のようですな。見込んだかいがあった。蒼くんが恐れるだけのことはある。私の秘書が尾けていたことを、いつからご存知だったかな?」
「マンションを出てからさ。あんたのスケジュールを調整する腕はプロ級でも、尾行はアマチュアだ。おれを試したんだろうが、他のもっと物騒な奴を尾けるときは、横丁に引っ張り込まれないよう注意するこった。それから、お目当ての人間とすれちがった途端そいつの実力が知りたくなったら、その場で車に方向転換なんかさせちゃいけないよ。腹に一物ありと勘ぐられるだけだぜ」
「これは、ベーカー街の探偵以上だな。いや、お宅の入り口へ着いたら、ちょうど出ていかれるところだったもので、つい悪戯っ気を起こしてしまった。悪く思わんで下さい」
ポマードできちんとなでつけた白髪頭を下げるのに、おれは軽く手をふって、
「そんなことしに来たんじゃあるまい。用件は岩代社長と蒼お目付け役についてだろ。おれは構わんが、ナウいギャルさんたちに聞かせるような話じゃあるまい」
設楽は小さくうなずき、おれの背後に向かって手を振った。
仰天してふり向くと、これも濃紺のスーツ姿の男が、きびきびした動作で店の奥へ向かう途中だった。
「まいったな。殺されてもわからないとこだったよ。尾けてた秘書さんじゃないだろ」
おれは深刻なショックを押し殺してにこやかに訊いた。気配も足音も殺しておれのバックをとった奴など、生まれてこの方ふたりしか記憶にない。横浜の元大人と銀麗だ。
設楽が何か言う前に、店内に『螢の光』が鳴り響きはじめた。とまどったようなアナウンスが、本日はある事情によりこれにて閉店と告げる。あちこちで不満げな声やブーイングが起こり、それでも客たちは席を立ちはじめた。
「さすが四菱銀行。金でも貸してるのかい?」
「融資と言っていただきたいが、似たようなものだね。ここはうちの直営店だ」
さっきのボディガードより、おれはこの発言の方に三倍驚いた。
「銀行がハント・パブを経営してるのか!?」
「そうびっくりしたもうな。もちろん、名目上は四菱の小会社の運営だが、資金はすべて我々が担当する。若者相手の投資は回収率が高くて助かるのだよ。第三勧銀はトップレス喫茶に手を出すそうだ」
「預金者が聞いたら嘆くだろうな」
おれはこう言って、人気のなくなった店内を見回した。ボディガードの処置か、照明だけが光量を増し、三つ四つある円形バーにもバーテンの姿はない。代わりに、どこぞやのスピーカーから、ベートーベンの「第九」が流れてきた。何のつもりだ。
「耳ざわりなら許してくれたまえ。私の趣味だ」
こんなもの聞きながら仕事をしていれば、中小企業の運命を握った神さまの気分にもなるだろう。
気分を害し、おれは押し黙った。次に口をついた台辞は「!?」だった。設楽がまたも、おれの後ろにうなずいてみせたのだ。
愕然とふり向くおれの眼の前に、眉の太い精悍な男の顔が微笑していた。
「紹介しよう。私の専用ボディガード、|南風《みなかぜ》だ。空手三段、剣道四段、ボクシングは世界ランキング級、射撃と軍事教練はFBIと米軍|海兵隊《マリーン》仕込み。しかも出身は伊賀上野で、代々忍者の血を引く家系の出だ」
「ドロンドロンと消えるわけか。おれが気がつかなかったのも無理はねえな。今度ゆっくりお手並み拝見といくぜ」
「いつでも見てやってくれたまえ。彼はただ今この場から君の指示に従う」
「なんだ、そりゃ?」
設楽は平然と、
「きいての通りだ。お願いするのが後になったが」
四菱銀行頭取は、本日の驚愕レベル最高点を記録した。
なんと、椅子から降りておれの前に両手をついたのだ。
「この通りだ、八頭君、始祖・岩代弥太郎以来二五〇年の歴史をもつ大四菱存続のため、君の力を貸してくれたまえ」
嘘いつわりのない血を吐くような叫びだった。ただ、おれがそう[#「そう」に傍点]思わなかっただけだ。
「よしてくれ。どうやってあんたがおれに目をつけたか知らねえが、おれは何をするにしても、自分で決める。気が向きゃ明日にでもキリスト教に改宗するが、ローマ法王があんたと同じことをしても、嫌なものは嫌だ」
だが、設楽は、おれの主義主張なんか聞きもしなかった。
「我々四菱の社員が、言うに言われぬ苦悩を押し殺しながら築き上げたこの帝国に、無能な社長と奇怪な妖術使いが崩壊への道を辿らせようとしておるのだ。あの凡庸な若造が、奇怪な術を使う餓鬼の走狗となって四菱グループの実権を握れば、どのような事態が待っているかは火を見るよりも明らかだ。頼む、君の力を是非私のために、いや四菱社員二千万人の生命のために貸してくれたまえ」
「いいから、坐りなって」
おれはため息をついた。
「いい年こいて、そんなおかしな真似するんじゃねえよ。それより、なんでおれの事を知った?」
「社長宅の盗聴マイクでだ。七つを仕掛け、そのうちの最後のひとつが、二日前、蒼と社長の会話の中で君の名を伝えてきたのだ。“ぼくにも勝てるかわからない宿命の敵”――奴はこう言っておった。それをきいたとき、私の胸に、重工専務が亡くなって以来消え失せておった希望の光がまたさしはじめたのだ。八方手を尽くし、君の住所を掴んですぐ、あらゆる会合をすっぽかして馳せ参じたのだよ」
「そりゃ、ご苦労さんだな」
おれはさっさと帰りたくなった。土下座しながらも、恩着せがましく優位に立とうとする根性が気に入らない。所詮は、弱肉強食株式会社の責任者様なのだ。
「何なら、今すぐ会議に戻ってくれてもいいんだぜ。こちとら暇な身でね。あんたのおかげで、お目当ての女の子もみんな帰っちまったしな」
「これは気がつかなかった。すぐ手配しよう。後で秘書に好みのタイプを言ってくれればよい」
「あんたの秘書はアメリカ人で、手を引っぱると肩から抜けるんじゃあるまいな?」
「何の事だね?」
「何でもない。その盗聴器てのは、まだ残ってるのか?」
「いや、先ほどの会話を録音してすぐ処分されてしまったよ。それまで発見されなかったのが不思議なくらいだ。先の六つはすべて、取り付け後三〇分以内に使用不能になった」
おれはまたも、蒼の力を再認識する羽目に陥った。マイクはすべて、取りはずされたのではなく、突如機能を失ったのだという。
「そればかりではない、取りつけた当日、盗聴していたプロが突然、仕事を降りると言いだした。むりやり理由を尋ねてみると、マイクから母親の声が流れ出し、『お前も早くおいで』と執拗に呼びかけてきたのだそうな。そいつの母親は一〇年以上前に亡くなっていたのだよ」
おれはちょっと考え、「ラウディブ・ボイスか」と言った。設楽の眉が寄る。
おれも経験した覚えがあるが、野原の真ん中で野鳥や風の音を録音していると、テープの中にその当人に向かって話しかける死者の声が含まれてることがある。
一九五九年にスウェーデンの映画製作者が野鳥の声を録音中これに気づき、のち本にまとめた。ラウディブ・ボイスとは、この現象に最も積極的に取り組み、科学的方法を用いて多大の成果をあげたラトビアの心理学者コンスタンチン・ラウディブ博士の名を冠したものである。
別に複雑な道具は不要。市販のテレコと静かな場所さえあれば誰でも実験できるので、数多くの信頼できる「成果」=「声」が残されている。ロシアの作家ワレリー・タウシスは、一九六七年の実験で七年前に死んだパステルナーク――あの「ドクトル・ジバコ」の作者だ――の声をきいたという。超心理学の分野じゃ珍しくもない現象だが、それにしても、好きなときにこれを実現できるってのは大した超能力だ。
「すると、ひとつだけ無事に残ったのか。或いは残された[#「残された」に傍点]か……」
言葉に含んだ重大な意味も、会社一筋の猛烈人間の眼を開くことは出来なかったようだ。おれが自分たちのために戦うと独り決めしているらしく、岩代と蒼が組んでからの怪異を一方的にしゃべりまくる。
岩代の社長就任を決めた株主総会の前夜、反岩代派の夢枕に先代社長の亡霊が立ち、欠席を強要した事実、反対派の秘密会合の席で突然重鎮のひとりが焼死した赤坂の料亭事件、手を組むはずだった米国の某企業の社長が見せた、何かに憑かれたとしか思えぬ不可解な変身ぶり……。
頭取は、蒼に対して行った物騒な処置に関しても隠さず打ち明けた。彼の外出時を狙ったやくざが五人、跡形もなく消えてしまったのは平凡として、そのやくざの事務所から組員がひとり残らず消滅した話は傑作だったし、路上で彼をはねとばす手筈のトラックが暴走し、二○人近い通行人を殺傷したという件にいたっては、眼を丸くするしかなかった。
黒魔術に間違いあるまい。
設楽の話がようやく一段落したところでおれは尋ねてみた。
「で、あんた、おれに何をしろと言うんだい?」
「わからん」
大銀行の頭取はあっさりと首をふった。
「それは、そちらで考えてもらいたい。正直いって、今回の事件は我々の常識を逸脱している。手の施しようがない――というより、眼には見えぬ力に先手先手と打たれる一方なのだ。私は銀行屋だ。三〇年以上、収入と支出のバランスのみを気にして生きてきた。他のことは皆目わからぬ。
だが、そんな私にも、四菱グループを包んでいる黒い不気味な力ははっきりと感知できる。これは人知を超越した魔力ではないのか、と。共に立とうとした仲間はすべて抹殺された。私ひとりではもはやなす術もない。はっきり申し上げるが、私は君を信頼してよいのかどうかも自信がない。どう見ても、ただの体格の良い高校生だ」
ほんとにはっきり言いやがる。
「だが、君はあの蒼が恐るべき敵と言明したただひとりの人間だ。協力は惜しまない。お礼もむろんする。頼む、我々四菱社員二千万の運命を双肩に担って戦ってくれたまえ」
ポマード頭がまた下へ下がった。
おれは苦笑した。一○○○回頭を下げても懐は痛まない。
「よかろう」とおれはうなずいた。
おう、と振り上げた喜色満面の顔に自讃と悔蔑の影が横切る。甘い餓鬼とでも思ったのだろう。
「まず報酬と条件を決めておくぜ。この仕事にかかる全費用プラス、蒼を四菱から放逐したときに限り岩代の屋敷にかかってるルノワールの直筆画だ」
「それだけか――いいとも」
なるほど、金の出入りにしか興味のない男って台辞は嘘じゃなさそうだ。ま、別に設楽じゃなくっても、あの絵の真の価値はわかるまい。岩代の家で見かけたときは、胸の高鳴りを押さえるのに苦労したぜ。うまいこと一枚に見せかけてある画布を二つに分けると、ナポレオンがセントヘレナ幽閉以前に隠匿しといた金銀宝石一兆フラン相当のありかを描いた地図が出てくるんだ。
おれはそれから、蒼の奴が四菱の力を使って何を企んでるのか尋ねた。
「わからん。いま私の手元に入る情報は極端に制限されておるのだ。ただ、興味ありそうな情報がひとつある。南風、お話しろ」
用心棒は軽く一礼して、内ポケットから黄色い封筒を取り出すと、手首のひと捻りで中身をカウンターに並べた。惚れ惚れするほど小気味よい動作だ。関節に盛り上がった拳だこといい、ぴたり等間隔でならんだ写真といい、こいつとは喧嘩をしたくない。
写真は七葉。何やら馬鹿でかい電子装置を組み立て中の工場内を盗み撮りしたものだ。赤っぽくて極端に粒子の荒い二葉は、赤外線フィルムを使用したものだろう。
「これを撮影するために四人のプロが姿を消した。五人目に南風が志願し、ようやく入手できたわけだ」
「忍びの術も使うのか。さすが伊賀忍法の末裔。大したもんだ」
「恐れ入ります」
南風は悪びれず頭を下げた。おれのことを小僧っこ扱いする風は露ほどもない。天才は天才を見抜くのだ。
「でかいコンピューターだな」
おれの推理に、設楽の眉が再び持ち上がった。
「よくお判りだ。これは――希望が出てきたぞ」
「我が社はおろかIBMでも前例のない大容量コンピューターです」と南風が説明した。「用途は――推測ですが、写真から見る限り恐らくは暗号解読用と思われます」
おれの脳裡に閃くものがあった。
「どこでつくってる?」
「御殿場の重工組立工場です。設計はおととしの九月から。写真はふた月ほど前のものですが、組み立て状況から見て、現在すでに完成しているか、未完成としても秒読み段階に入っていると思われます」
「その工場の見取図はすぐ用意できるか?」
「は。これです」
手渡された封筒を見つめるおれに、設楽が「いずれ必要になるだろうと思ってね」と言った。おれは南風に、岩代と蒼の身辺を探ったことがあるかと訊いた。
「先日もお邪魔しましたが」
「じゃ、こんなの見たことねえか。本というより紙の束で、どのページもボロボロ。表紙に消えそうな五芒星が書き込んである」
南風は少しのあいだ眉を寄せ、それからうなずいた。
「一度だけ。あの太宰ゆきという娘さんが書斎でご覧でした。遠くからですのではっきりとは断言できませんが、五芒星のマークだけは覚えております」
おれは生唾を呑み込んでしまった。
また、あいつか。ただでさえ今回はわけのわからん事ばかり起こるのに、ゆきみたいな金の亡者がとびこんできたら、それこそ収拾がつかなくなっちまう。あの腑抜け亭主と魔法使いは、なんであんな本をゆきなんぞに見せた? 中身がわからなくても、金になるかならないかの匂いはちゃんと嗅ぎ分ける女だぞ。そのくせ、おかしなところで読みが甘いから、黙示録をバラして一ページ一〇〇万程度の金で切り売りしかねねえ。おれは南風に言った。
「じゃ、そこの頭取さんのお言葉に甘えて、早速こき使わせてもらおう。引きつづき岩代邸を見張り、三人の動きを逐時連絡するんだ」
「三人?」
「岩代のフィアンセもだよ。あいつは顔見知りでな。とんでもねえ玉だ。うまく使えばあの二人を攪乱できるが、悪くすりゃこっちの命取りになる」
「あの娘をご存知かね?」
ようやく立ち上がりながら設楽が訊いた。まだ、おれとゆきとの関係についての情報は渡ってないらしい。おれは、まあな、と答えた。
「そういうところを見ると、あんたもおなじみさんか?」
「四、五日前、大手町の本行で会ったことがある。社長との婚約が決まったので挨拶に来たとか言っておったが、いや、まいった。あれでは四菱グルーブは三越の二の舞いだ」
「そいつは認めるが、あの女、あんたに何かやらかしたのか?」
設楽の眼つきが気に入らず、おれは語気荒く質問した。
「この寒空に真っ赤なミニスカートで私の部屋へ入ってくるなり、首っ玉に抱きついて、仲良くしましょうときたものだ」
「……」
「これでも年相応に朴念仁ではないつもりだが、あの娘にだけはまいった。勝手に膝の上に乗り、私の手をつかんで太腿からヒップまでなでさせおる。まるで火傷するみたいに熱くて柔らかだった。いや、年甲斐もなく興奮したわい。その間に、私の耳たぶを噛みながら、社長さんに内緒で自分名義の口座つくりたいから一千万ほど融通してよときた。もっといいことしてあげるとも言ったが、ちょうど秘書が来て渋々、膝から降りおった。今考えると、秘書の奴を馘にすべきだったな」
「……で、融資の件はどうした?」
「当然、断った。社長のフィアンセかどうかも確認していなかったのだからね。ああいう客は皆無ではないが、あの娘に限ってなぜ、あんな見えすいた手口に乗りかけたのか、自分でもわからん」
おれにはわかるぞと言ってやろうかなと思ったが、とりあえず胸の奥にしまい、おれは南風に、できたらその本を失敬してきてくれと頼んだ。
「無理はしなくていい。おれの生命ならともかく、他人様のを賭けるほどのもんじゃないからな」
それから設楽に連絡はこちらからすると伝え、とりあえず活動資金として一千万円を振り込むよう、六本木の三菱銀行の口座番号を指示した。設楽が顔をしかめたのは言うまでもない。
話はそれで切り上げ、念のためおれたちは別々に店を出た。
物語はちがった展開を迎えそうだ、とおれは次のハント・パブへ向かう途中で考え、なぜ物語なんて単語が出てきたのかといぶかしんだ。戦いは紙に書いた小説通りになどいかないものだ。
午前二時すぎ、身体中にキスマークをつけて部屋ヘ戻ると、じき南風から電話がかかり、設楽と秘書の乗った車が行方不明になったと告げた。先に彼を降ろしてから横丁を曲がり、その横丁でふと消えちまったのだ。おれは、ニューヨークで乗るはずだった地下鉄最終便を想い出した。今ごろ四菱銀行の頭取どのは、決して存在しない横丁を会議に遅れまいと疾走中なのに違いない。指示通りに動けと伝えておれは電話を切った。
物語はまさしく別の展開を迎えようとしていた。
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第六章 空白の明日
翌日、今日は明るく登校するつもりで、準備体操とシャワーを終え、学生鞄に教科書を詰めていると、意外な訪問客が訪れた。
「うわあ、大ちゃん、お久し振りィ」
すべて世は事もなし――どころか、浮かれ騒いでるって感じの声をあげながら、ゆきは勝手に寝室へ上がり込み、抵抗する間もなく、おれの首っ玉にかじりついてベッドへ押し倒した。
「こら、どうやって入ってきた。――そうか指輪渡したままだったな。返せ」
「ふーんだ。ケチ臭いことを言わないでよ。せっかく楽しいことしようと思ってきたのにィ」
ゆきはルージュをたっぷり塗った生あたたかい唇と舌で、おれの顔中を愛撫しながら巧みに右手を隠した。
「この野郎、よこせ。四菱の大社長にもっとでかいのをプレゼントしてもらったんじゃないのか」
「それがさあ、からっきし駄目なのよ」
いきなり身を離すや、ゆきは、さも口惜しいという風にルージュの剥げおちた唇を噛み、憤然たる口調でののしった。
「いくらあたしがわざと戸をあけてシャワーを浴びたり、暇みてはキスしたりしてあげても、ぜーんぜんその気にならないのよね。昨日なんか黒いスリップ一枚でディープ・キスしてさ、おっばいとお尻まで触らせてあげたのに、愛してるからそんなことしなくてもいい――だってさ。ばーかじゃなかろか」
「おまえ、何か勘違いしてるな」とおれは顔中についた口紅をハンカチで拭き取りながらうめいた。「おれはでかい指輪[#「でかい指輪」に傍点]のつもりで言ったんだ。まだ婚約者同士のくせして、そんな破廉痴な真似してるのか。よく、周りの連中何にも言わんな。あれだけの家だ。母親代わりの乳母とか、苔の生えた女中頭くらいはいるだろう」
「ああ」とゆきはかるーく手を振り、「そんな邪魔もの、とっくに追い出してやったわよ。ご主人の未来の奥さまに楯つく奴らなんか、昔なら打ち首獄門だわ。くく……こういうときは便利ね。あのひと、あたしの言うことなら何でも聞くんだから」
「唯一の欠点は、あれ[#「あれ」に傍点]が弱いってことか。結婚しても|処女《ヴァージン》なんて、魔女に生き血を狙われるぞ。断っとくが、おれは代役はごめんだ。おまえなんか相手にしたら、それを|種《ネタ》に一生ゆすられる」
「やだ。誰が結婚したってあんなこと[#「あんなこと」に傍点]するもんですか。もっと魅力的な男いくらでもいるわよ。せいぜい選ばなくっちゃ。ね、大ちゃん、遊ぼ」
「勝手にママゴトでもしてろ」おれは言い捨て、鞄片手に立ち上がった。「四菱の嫁だって、幼稚園程度の頭はいるんだぞ。さっさと学校へいかんか学校へ。おれは先に出る。指輪は置いてけよ」
「もー。このへそ曲がりィ」とゆきは極上のミニワンピースの裾から生々しい太腿も露わに、ベッドで身悶えした。
一○指に余る男どもと付き合ってるせいか、生来の色気に加え、挑発の媚態が身体じゅうに根を張っておれを直撃する。二〇畳の寝室いっぱいに甘酢っぱい香りが立ちこめ、おれはあわてて頭をふった。ゆきの体臭だ。このまま結婚へ突っ走ったら、夫の留守に片っ端から男をとっ換えひっ換えし、財界を揺るがす大スキャンダルにまで発展するだろう。茶道の奥方のヌード騒ぎなど可愛いものだ。
「あんなお別れの仕方したから気になって、愛しい夫の眼を盗んで会いに来たんじゃないの、もう少しいい子いい子してよ」
ゆきはベッドの上でうつ伏せになり、濡れた眼でおれを見上げた。
ゾクリとして眼をそらしても、その気もない――ほんとにだ!――のに、ぴちぴちのスカートヘ吸いつけられてしまう。パンティ・ラインがくっきり浮き上がったヒップがぐい! と持ち上がり、脂肪でつやつやの太腿がゆっくりとおれの方へ伸びてきた。どんなに寒くても、ゆきはパンストなどつけない。熱いうずきが伝わってくるような生の肉のつけ根に、女子高生のものとは思えない黒い下着が見えた。これじゃ岩代みたいな植物人間しか我慢できるはずがない。
「おまえ、ほんとに未来の旦那が気にいったのか」おれはスカートの奥に眼を釘付けにしたまま意地悪く訊いた。声がいやに粘ついてる。「おれの金が自由になりそうもないんで、あっちに鞍換えしたんだろ。この金の亡者の淫乱娘。おまえの浮気の相手なんざ真っ平だ。あばよ」
「ふん」とゆきは鼻先で、おれの宣言を笑いとばした。「じゃあ、お土産もいらないのね。苦労して持ち出したのに」
いっぺんで眼が醒めた。黄金の光が頭の隅っこをかすめる[#「かすめる」に傍点]だけでゆきは欲情し、おれは冷静になる。世の中うまくいかねえもんだ。
「どどどこにある?――黙示録はどこだ?」
我ながらあさましい声に、ゆきは一瞬きょとんとしたが、すぐにやりと笑った。
「へえ。あの本、黙示録っていうの?」
「なにィ、知らなかったのか!?」
「さあ、どうかしら、事情を知りたい? だったら、ほら。キス、して」
ズボンの内股に電流が走った。ゆきの手が触れたのだ。快感が蛭みたいにブレザーの腹から胸へと這い上がり、ずっしりと熱い重みが首にかかる。おれはゆきの体重を支えたままベッドの縁に腰をおろし、ぬめっとした唇が覆いかぶさるのにまかせた。甘い蛇みたいな舌と唾液が流れ込み、おれの舌をとらえてねぶりはじめた。
おれはゆきの背に片手をまわし、残りの手で乳房をもんだ。舌の動きを狂ったように速め、ゆきは切なげな喘ぎを洩らして身を引きつらせた。全身が性感帯で出来てるらしい。
「もっと……もっといろんなとこ、触って……」おれの手を腿のつけ根へ導きながら、ゆきは夢見心地でうめいた。
「あの本を見たとき、お金になるってピンと……きたのよ……それからずっと、欲求不満なんだから……ああ……あ……そこ、もっと……もっと、強く……」
おれが背中に回した方じゃない手の動きを速めると、ゆきはたまらなくなったらしく、しゃくり上げはじめた。
「さて、それじゃ質問に答えろ。まず――」
忘我状態のゆきは素直に従った。おれだからできることだ。その辺のプレイボーイ風情じゃ攻守所を変えちまう。
黙示録は書斎のテーブルの上に、何冊かの蔵書にまじって置かれていたという。それだけ見て宝の山と直感したのはさすが太宰先蔵の孫娘だがおれは、あまり乗れ[#「乗れ」に傍点]なかった。岩代はともかく、蒼とあの秘書がそんなケアレス・ミスを犯すとは考えられない。故意に決まっている。問題はなぜゆきに見せたか、だ。
「おまえ、ほんとに欲求不満でおれのとこへ来たのか?」
「そうよ……あ、ちがう。やめちゃ駄目……ほんとは、ほんとは……本の、黙示録のことききにきたのよ。……あなたが売りさばくルート紹介してくれたら……あたしが……ああ……盗んで、儲けは山分け……」
「嘘こけ、この」
ちと右手のスナップを利かせると、ゆきはすぐ、七三のつもりだったと吐いた。油断も隙もありゃしない。
「で、本はどこにある? 持ってきたのか?」
「……それが……やめちゃ駄目……のぞいてる途中に蒼くんが入ってきて……取り上げられちゃった……でも、きっと見つけ出すわ……きっと……」
おれは素早く、失神寸前のゆきを離すと立ち上がった。
「いやん。もう少しだってば」
ゆきが不平を唱えた。顔じゅうが上気してる。おれは語気荒く、
「それどころじゃねえ。出掛けるぞ。仕度しろ」
「え。学校でつづきするの? やだ。いくらなんでも……」
「阿呆。そこまで反道徳的じゃねえよ。奴ら、――いや、蒼は、承知でおまえをここへよこしたんだ。金目のもの見せれば、おれのところへ相談に来るだろうってな」
「何のためよ?」
「殺すためだ。おれたちを」
「馬鹿なこと言わないで。そりゃあの子、洋介の親戚の息子にしちゃあ、変に自信たっぷりで薄気味悪いわよ。あたしの方もいやらしい眼つきで見るし。だけど、なぜ、あんたやあたしを殺さなきゃならないのよ。――わかった。彼も黙示録売りとばそうとしてんのね」
「そういうことだ」
おれはうなずいた。いちいち事情を説明するのは面倒だし、ゆきが信じっこない。あたしの身体めあてで結婚を邪魔しようとしている、精神的慰謝料をよこせといわれるのが関の山だ。
戸棚へいき、宝探しの七つ道具が収まったキャリー・バッグを引っぱり出す。ショルダー・ホルスターに入ったCZ75を身につけ、部屋の武器庫から九ミリ・パラベラム一○○発入りの紙ケース三個と、各種ガス弾五〇個入りの密閉プラスチック・ケース二個を出してケースにしまう。
下の武器庫で戦闘兵器を吟味してる暇はない。何やり出すかわからん手合だ。黒魔術ならヌビア・モンの護符で防げるが、四菱重工の製品――自衛隊納入用のミサイル“ナイキ”や、バズーカ砲を、何かの手違い[#「何かの手違い」に傍点]でぶち込まれたらたまったもんじゃない。
蒼たちがゆきをどう見てるのかは不明としても、こいつが今度の事件構成の中でどんな要素を担当してるかおれにもわからん以上、奴らがおれもろともの抹殺を謀ったとしてもいっこうに不思議じゃないのだ。
あれこれ質問するゆきをせきたてて、おれは新宿へフェラリをとばした。
いくら自然法則を無視できる魔法使いだって、人なかで車に食欲を起こさせたり、ロケット弾を撃ちこんだりはできん相談のはずだ。――基本的に誤った考えではなかったが、いつになくあわて気味のおれは、重要な因子を欠落させているのに、まだ気がつかなかった。
実はもうひとつ、マリアのことも気になったのである。今朝、起きがけに容態はどうかと電話してみたら、誰も出なかった。行く先も告げず二カ月も姿を消すのは日常茶飯事で、普通なら気にかける必要はないのだが、あんな実験をやらせちまった後ろめたさがおれの背をせっついた。
案の定、マリアの姿は店になかった。居合わせたサブ・マネにきくと、昨夜の八時頃、スーツケース片手にとび出していったらしい。気まぐれな店長に慣らされてるサブ・マネが一応行く先を尋ねると、ひと言「インド」という返事とともにドアが閉まった。
おれは、店長抜きでも売り上げ落としたら承知しねえぞとサブ・マネにはっぱ[#「はっぱ」に傍点]をかけて外へ出た。
マリアは、現代の聖地といわれるインドでもとりわけ聖地、聖人が多いので有名な南インド・タミール・ナド州の出だ。急な里帰りにも、おれの理解を絶した理由があるのだろう。第一、マリアが出てった時刻には、おれは高輪のマジック・チェンバーで、生けるプラモ相手に一戦交えてたのだ。連絡のとりようもあるまい。
なんとなく、大海原のど真ん中に放り出された漂流者の気分で外へ出ると、ゆきがお腹空いたと言い出した。
「今朝はご飯食べずに出てきたのよ。しゃぶしゃぶが食べたい。京王プラザに高くていいお店あるのよ、行こ」
「高くていいんじゃ当たり前だ。贅沢言わず、元禄寿司にしとけ」
ゆきは激昂した。
「もう。あんたがヘンなことするからお腹が空いたんじゃないの。オッパイなんか揉んじゃやだって言ったでしょ」
通行人が、大声にびっくりして振り向いた。笑い出す奴までいる。おれはあわててゆきの口を押さえた。途端にペロリと生あたたかい舌でひと舐めされ、ゾクッと感じて手を離しちまった。
くそっ、面目丸つぶれだ。
「どう?――連れてく?」
「うるせえ」とおれは、ちょうど通りをやってきた黒い野良犬を指さして叫んだ。「うまそうなしゃぶしゃぶがやってきた。あれ捕まえてやるから、どうだ?」
「そう。なら、もう一度」
おれは再びあわてた。
「わかったわかった! 京王プラザでも南インドでも連れて行ってやる」
「最初から、そう言やいいのよ」
なぜ形勢逆転せにゃならんのか首をひねりながら、おれはフェラリを停めてある靖国通りの駐車場へ歩き出した。
五メートルもいかないうちに、ゆきが右の肘にすがりついてきた。
「ねえ、さっきの犬、まだ尾いてくるわよ。やだ、あと……三匹も一緒よ」
おれはうなずいた。歩き出したときから唸り声には気がついてる。三匹は途中で増えたのだ。
「あんまり振り向くな。おまえの尻がうまそうに見えるんだろ」
軽口を叩いたものの、おれは内心ほぞ[#「ほぞ」に傍点]を噛んでいた。敵はもうひと組いたのだ。鞭使いマリクと、鳥獣を自在に操り、自分の手は汚さずとも殺人をおかせる男――スコット・レインが。
忘れてたわけじゃないが、東京ほど野生動物に縁が薄い街は世界広しといえども少ない。都心ともなれば、それこそビルやマンションの中[#「中」に傍点]でしか、地を駆り天に吠えるはずの犬にもお目にかかれないのだ。
だが、東京にも野良犬は存在するし、レインの能力が二三区の何処からでも彼らを駆り集め得るほど強力じゃないという保証はない。いや、ひょっとすると飼い犬でさえ。
その証拠に、おれたちが靖国通りへ近づくにつれ、どんよりと曇った新宿の大空の彼方から、遠く低く、しかし明らかに猛り狂った獣の咆哮がこだましはじめたではないか。向こうからやって来る通行人が薄気味悪そうに道路脇に寄るのを見て、ゆきが手に力を込めた。「こっちを掴め」おれは邪慳にはずし、ゆきを左側に移動させた。いざってとき、利き手を封じられるとまずい。
靖国通りまであと三メートル。渡って左側にある紀伊国屋アドホック・ビルの地下駐車場まで辿り着けるだろうか。
不安は的中した。
靖国通りとの交差地点の横合いから、のっそりと小牛くらいもあるセントバーナードが身を乗り出したのだ。おれたちの方を向いて微動だにしない。重さ七、八十キロはある、熊とでも対等にやり合えそうな巨犬だ。重そうな体躯にみなぎるパワーと敵意をヨガの超感覚で察知し、おれは背筋が寒くなった。自由意思を奪われた殺人犬クージョより始末が悪い。
「ねえ、どうする? どうなってんのよ?」
ゆきが情けない声を振りしぼった。男ならやくざでも手玉にとれる食虫花も、雄犬相手じゃ手の打ちようがないらしい。
「太腿でも見せて懐柔しろ――と言いたいところだが、どうやら駐車場へは行かせてもらえないらしい。右側に喫茶店があるな。おれはすぐ、左のゲームセンターにとぶ。犬がそっちへ動くのを確かめてから、お前は喫茶店へ入れ。入ってすぐ自動ドアの電源を切るんだ。間に合わなければトイレヘ隠れろ」
だが、この作戦も水泡に帰した。おれがわずかにゲームセンターへ意識を集中しただけで、微妙な筋肉の動きを読み取るのか、セントバーナードは牙をむき出し索制した。背後の唸り声も一斉に高まる。やや、また数が増えやがった。
「こりゃ、奴らの許可する道を行くしかねえな」
言いながらおれは、車を出るとき上着のポケットへ小指くらいの麻酔ガス弾を五個ほど放り込んどいた幸運に感謝した。今の頭数ならCZ75でも片はつけられるが、人間ならともかく動物はなるべく撃ちたくない。何よりもここは街なかだ。決着は奴らの案内してくれる場所でつけるべきだろう。向こうにもそれなりの用意はあるだろうが、立場上ある程度のハンデは受け入れなくちゃなるまい。
靖国通りとの邂逅地点まで進むと、セントバーナードはのっそりと左へ寄った。右へ行けということらしい。さすがに頭へ来たのか、ゆきが蹴とばそうとした刹那、ガルルと歯を剥き出され、きゃっとおれにしがみついた。
後はいうなりだった。
おれたちは、セントバーナード以下七頭の野良犬にバックを見張られた状態で、山手と中央線のガードを越え、新宿西口へ足を踏み入れた。抜き撃ちで、とも思ったが、間隔は約ニメートル、無傷で倒せる距離じゃない。それに、この四つ足ども、知りくさってるのかどうなのか、わざと人の多い小田急・京王デパート前の通りや、「ヨドバシ・カメラ」の脇を選んで通らせやがる。
「ねえ、ちょっと。このままだと、あそこ行くんじゃない? しゃぶしゃぶが食べられるわよ」
「そうだ。よかったな」
立場も忘れたゆきの声におれは同意した。数分後、おれたちは天に挑む罰あたりな高層ビル、京王プラザ・ホテルのロビーに足を踏み入れたのである。
秋風が横殴りに頬を叩きつけた。
「大ちゃん、気をつけて」
数メートル向こうの金網にへばりついたゆきの声援に応える余裕はなかった。
おれの全神経は眼前の敵に集中していた。浅黒い残忍な顔に白い歯が笑っている。アラブの鞭使い、マリク・サワラジ。力を入れてるとも思えないのに、手の黒鞭は尺取り虫みたいにコンクリートの地面をうねくり、おれを殴打する渇望を露骨に示していた。スコット・レインの姿は見えなかった。犬もいない。耳もとで風が鳴った。
屋上である。
ホテルのロビーへ入った途端、犬どもは四方へ散り、客やボーイが総立ちになって右往左往する隙に、おれたちは近寄ってきたマリクにエレベーターに乗せられ、屋上へと連行されたのだ。ま、手にしたコートの中から、イスラエル軍の名を一挙に高めた|SMG《サブ・マシンガン》の傑作、ウージー短機関銃が狙ってたんじゃどうしようもない。目撃者は多分ゼロだ。そして、秋風の吹きすさぶ四八階――地上一七〇メートルのささやかな頂きにもおれたちと殺気以外は存在しない。
その三二連発の武器もコートも地べたへ置き、マリクは必殺の自信を半袖のポロシャツからむき出した豪腕の筋肉に託して、炎のような瞳でおれをねめつけていた。
「どうした、好きなときに抜け」と英語で挑発する。CZ75は奪われていなかった。おのれの実力に対する絶大な自信のなせる業だ。しかし、奪えなかったと言っても的はずれではあるまい。
マリクの左手は手首から先が消失していた。言うまでもない――NYの駐車場で中古車に食われたものだ。
凄まじい強敵とは知りながらも、おれが殺意をフル稼動できないのはこのためだった。
「やる前にひとつ教えてくれ。あんた、どうしてこの場所を選んだ?」
おれの問いに、マリクは眉をひそめ、少しして言った。
「スコットと相談したんだ。おまえたちが新宿へ着くのを見届けてからな。ここなら、人も来ない……」
声の末尾が力なく消え、殺人者の顔に覆うべくもない困惑の色が浮かんだのを、おれは見逃さなかった。
「そんな場所、他にいくらもあるぜ。おまえが個人的におれを憎んでるのはわかる。だが、どうして、ここじゃなきゃならなかったんだ[#「ここじゃなきゃならなかったんだ」に傍点]?」
返事の代わりに鞭がうなった。
顔をかばった上腕に走る凄まじい激痛をこらえつつ、おれは右手でCZ75を抜いた。横っとびに身を投げ出しながらマリクの右肩ヘポイントする。旋風に乗った黒い鞭が銃身に巻きついた。撃鉄は落ちたが、発射の衝撃は伝わってこなかった。猛烈な力で拳銃が引かれ、おれの手を離れた。
しかし、マリクの勝利に酔い痴れた顔は、次の刹那、小気味良い銃声とともに後方の壁に叩きつけられていた。
驚愕を湛えた瞳が、鮮血を噴き出す右肩の射入孔を見、それからゆっくりとおれの左手に注がれた。硝煙ただよう|紙製拳銃《ペーパー・ガン》を握った左手に。
NYでの痛い経験を基に、おれは外出時、複数の武器を身につけるよう心掛けたのである。普段は、ハイスタンダードの22口径四連発マグナム・デリンジャーか、ワルサーPPK/S九ミリを袖口かくるぶしの特殊ホルスターに忍ばせておくのだが、今日は手もとにこれしか置いてなかったのだ。ヒップ・ホルスターは腰の後ろ。
「この前みたいにゃいかなかったな」
おれはマリクから眼を離さず、地ぺたに長々と伸びた黒鞭に近づいて、CZ75を拾い上げた。鞭の先端が撃鉄と遊底の間に入りこんでいる。このせいで撃鉄が落ち切らず、|撃針《ファイアリング・ピン》の尻を叩けなかったのだ。撃針が前進しなきゃ|弾丸《カートリッジ》の発火信管もつつけない。
「大ちゃん――大丈夫」ゆきが駆け寄ってきた。「あっ、血が出てる」
急いでおれのポケットから、おれ[#「おれ」に傍点]のハンカチを取り出そうとするのを押し止め、おれは昨夜来撃ちつづけで、そろそろ熱を帯びはじめてきた紙製拳銃をホルスターに戻し、CZ75と交換した。
「おまえは知らんだろうが、前とは条件がちがうんだ。それに、両手ならともかく片手じゃ無理さ。おれの一番調子の悪いときを見たせいで、見通しが甘くなったな」
恐怖のせいか、マリクの歯が激しく小刻みに鳴った。
「……わかった。おれの負けだ。早く、早く医者へ連れていってくれ。これじゃ、一生鞭が使えなくなってしまう」
「それのおかげで、理由もわからず殺される奴が少なくなるさ。病院へ行きたきゃ、質問に答えるんだ。――まず第一。おまえはなぜこんなにしつっこくおれを狙う。その二。蒼たちとは今、どんな関係にある? その三。蒼は一体何を企んでるんだ?」
「なぜおまえを狙うのか、おれにもわからん。ニューヨークでやり合う五日まえ……」
「五日まえに、どうした?」
わずかな躊躇もおかずに答えはじめたマリクに、いぶかしげなものを感じながらも、おれは思わず詰問した。
「……おれはベネズエラでヨゼフ・メンゲレを探していた。元ナチの生体実験医師をな。それが急に、何もかも捨ててニューヨークへ行きたくなった[#「行きたくなった」に傍点]んだ……見えない力……偉大なるエホバに導かれるように。ニューヨークへ着いてからも同じだ……あの日、古書店で他の連中と会い、その場で同志とわかった[#「わかった」に傍点]。二階にいる奴が、おれたちの永劫の敵だともな……おれたちはそのためにすべてを放棄し、ニューヨークへ遣わされたんだと閃いた……」
遣わされた――か。マリアの言葉が耳の裡に響いた。
あんたは選ばれたんだ
「蒼との関係は?」
おれは疑惑を払いのけるために質問を繰り返した。
「それもニューヨークだ。……あの駐車場で、おれは手を食いちぎられ、失神しちまった。気がつくと、恐ろしく立派な病院みたいなところに寝かされ、そばにあの餓鬼と女がいた。奴らはおれたちを仲間と言った。おれたちを殺す気はなかったが、術を使うと、時として歯止めが利かなくなると。……きけば、日本の大企業・四菱と手を握ってるそうじゃないか。……日本でおまえを殺そうという提案に、おれたちは一も二もなく従った。……」
出血のせいか、マリクの声は急速にしぼんでいった。眼蓋がゆっくりと落ちる。
「まだ眠るにゃ早い。奴は、黙示録とおれたちの関係について何か話してなかったか?」
反応はなかった。血まみれの体が壁にもたれ、横へと滑っていく。
おれはゆきの方を向いた。
「下へ行って――」
空気が揺れた。電光の速さで振り向いたつもりが遅かった。
ゆきの悲鳴を耳にした刹那、喉もとにびしっ! と音をたてて鋼線が巻きついた。想像を絶する圧搾力に、眼の前が真っ赤に染まる寸前、おれは鞭の端を口に[#「口に」に傍点]くわえたまま凄槍な笑いを浮かべているマリクを見た。
どこかでタイプを叩くような音がした。
冷たいものが頬に当たった。床に倒れたんだろ。
不意に視力が回復した。おれは激しく咳こみながら身を起こした。ゆきが駆け寄ってくるところだった。あの一瞬に抜きかけたCZ75をホルスターから抜こうとして、思いとどまった。
三名の侵入者が横倒しになったマリクの身体を取り囲んでいる。全員、分厚い革ジャン姿だ。ウージー小脇に鬼みたいな形相さえしてなければ彫像のモデルにもなれそうなハンサム揃いだった。アラブ系だな。
ひとりがウージー|短機《SMG》を構えたまま近寄ってきた。銃口から硝煙が洩れている。ピストル・タイプのロング・グリップ・マガジンに込められた弾丸の行く先は一目瞭然だった。こっちを向いたマリクの顔から赤い糸が数条、チロチロと噴きこぼれてる。重い血溜りが、うそ寒いコンクリートの上にゆっくりと領土を広げていった。
「怪我はないか?」
近づいてきたひとりが英語で訊いた。
「ああ」おれはひりひりする首筋を撫でながら、ようよう言った。「あんた方、奴を追ってたのか?」
「そういうことだ」
マリクの横腹を蹴りつけた隊長らしい大男がこっちを向いて答えた。任務を放棄した敵前逃亡者を抹殺すべく日本までやってきたイスラエル軍特務部隊――モサドのメンバーに決まってる。[#「決まってる。」に傍点]
「おれは鞭使いとは無関係だぜ」
「わかっている。裏切り者の居場所を知らせてくれた電話の主がそう言っていた」
「何だ、そりゃ? 教えてくれ」
「我々は昨日までニューヨークにいたのだが、奴の足取りは|沓《よう》としてつかめなかった。そこへ本部から、すぐ日本へ行けと連絡があった。女の声の匿名電話が、今日のこの時間に、この場所で、裏切りものが君たちと戦うことになっていると告げたのだ」
おれは理由もなく、マリアだろうと思った。
鞭使いの死体はそのまま放置し、おれたちは階下へ降りた。
モサドの連中は途中の階で降りた。一緒にいるのを目撃されると、お互いどんな迷惑が降りかかってくるかわからないためだ。別れぎわ、おれはイスラエルの国旗について質問し、その通りだとの返事を得た。
ようやく、おれはマリアの予言に含まれた謎の一貫性に気づきはじめていた。
勝負を決めるのは、丈高き家[#「丈高き家」に傍点]では口[#「口」に傍点]よりも星[#「星」に傍点]。
イスラエル国旗の象徴は六角星なのだった。
地下二階の和食店でしゃぶしゃぶを食い終えると、正午をまわっていた。
人ひとりが死んだ後で肉を食うなど罰あたりと思われるかもしれないが、おれもゆきもそんなやわな神経は持ち合わせていない。秀れたトレジャー・ハンターは、生きて宝と名誉を得るために、木の皮草の根を食うくらい当たり前だし、毒水や毒茸を承知で胃に収めなきゃならん揚合も多い。
幸いなことにおれはまだ未経験だが、ITHAのトップ・クラスの何人かは、人の肉を食って危機を脱しているはずだ。氷しか存在しないアラスカの果てや、見わたす限り灼けた砂ばかりというサハラの砂漠で、人体は貴重この上もない栄養源となる。生還の陰にいかなるドラマが隠されているか、それは当人以外の知ったことではあるまい。おれだって必要とあれば平気でやるだろう。
「ああ、おいしかった」
満足気に嘆息し、隣のテーブルへちらちらと眼をやるゆきへ、おれはこれからどうする気だと訊いた。ちなみに、ゆきの視線の先には、夫婦ものらしい若い外人のカップルがいて、男の方はなかなかのハンサムだ。ヘッドフォンをつけてるが、しかつめらしい表情からして、お昼のニュースでもきいているのだろう。ゆきの外人好きも異常のくち[#「くち」に傍点]で、国産品[#「国産品」に傍点]は金か地位がおまけについてなきゃ鼻もひっかけないが、外人のボーイフレンドはほとんど貧乏学生だ。いつか冷やかしたら、国際親善が趣味だと反論されちまった。
「どうするって、洋ちゃんのとこ帰るわよ。あたしの家じゃないの。欲求不満も解消したしさ。ふふん、また熱くなったらよろしくね。今度はもっとハードにしてよ」
返事をするかわりに、おれは自慢の脳細胞をフル回転させた。
ゆきを返していいものかどうか。ゆきを使っておれを倒す作戦がコケても、のこのこ戻せば敵はまた性懲りもなく別の手を考えるだろう。蒼の口ぶりでは、ゆきもこの事件に関係ありそうなのだ。もちろん、真相を打ち明けても相手はゆきだ。あたしの幸福を妬んでとか何とか邪推して、四菱の財産を手離そうとはしまい。監禁って手もあるが、おれは何故か、ゆきを奴らの元へ返したかった。いや、そうしなくちゃいかん[#「そうしなくちゃいかん」に傍点]ような気がした。
「わかった。帰れ。だがいいか、余計なことは考えるな。ひたすらおとなしく、男遊びも自粛しろ。黙示録のことはひとまず頭からうっちゃっとけ。おとなしい婚約者で通すんだ、いいな」
「なによ。それじゃ黙示録の情報、あなたに教えた甲斐がないじゃない」とゆきは反駁したが、おれの眼付きがただならぬのを知ると、フンとそっぽを向いて「じゃあ、あたしは勝手にやるからね。黙示録も勝手に探して、勝手に処分するわ。なにさ、これでも日銀の重役の息子だの、金相場のプロだの、付き合いは広いんだから。せっかく、あなたと七三――いえ、山分けにしようと思ってきたのに、この意気地なし。情けなんかかけるんじゃなかったわ。儲けはみーんな、あたしがもらいますからね」
最後に一発、べえと舌を出して憤然と立ち去るゆきの後ろ姿を見送りながら、おれは刻々と終幕へ向かう事態の足取りを感じた。
ひとつの考えが、頭の最も奥深い部分で具体的な形をとりはじめていた。ちょっとでも意識をそらすとたちまち拡散してしまう脆い「事実」の結合と抽象。それから導き出されるべき「論理」の構造はさらに脆弱だ。おれは必死で意識を集中し、そのか細くやわなピンセットで、「事実」から「論理」を引き出そうとした。
おれを殺すために「遣わされた」四人の殺し屋。
マリアの言葉によれば、おれも「選ばれた」という。
何のために? 誰のために戦う?
ユダの霊は言った。「誰か」は二〇万光年の彼方から訪れた、と。
「彼」は何物だったのか?
ユダの語った未来[#「未来」に傍点]に、「彼」は何をしたのか。あの|霊体《エクトプラズム》の絶叫が推測させるもの。「彼」は、本当にギリシャ語のクリストス、アラム語のメシーハー、すなわち「|救世主《メシア》」だったのだろうか。そして、親類縁者のすべてを犠牲にして生まれた蒼竜二は、四菱帝国の嫡男岩代洋介に近づき、恐らくは帝王の地位と引き換えに巨大な暗号解読用コンピューターをつくらせた。読みとるべき「予言」とその内容は?
黙示録――人類の運命と終末を告げる書物。
ひょっとしたら、おれの戦いもまた……。
一瞬の思いつきが、深遠にさし込む光明だと悟り、意識の手をその細い光の中にもぐり込ませようと思考を集中した刹那、
「NO!」
語らいと香ばしい匂いの満ちた空間に不似合いな絶叫が轟き、おれの成果を四散させた。
こん畜生め、と立ち上がりかけ、元凶のハンサム外人が浮かべた凄まじい恐怖の相に、おれは凍りついた。他の客たちも、何事かとこちらを眺めている。
女房がバツの悪そうな顔で、どうしたのと訊いた。訊かなきゃよかったのに。
「チェコと西ドイツの国境で、核兵器が使われた……」
ハンサムの顔は蒼白だった。女房の口がぽかんと開き、近くの席にいた商社マンらしい一団が、血相変えて立ち上がった。口々に英語で、どうなったと詰問する。ただならぬ気配が店内にこもりはじめた。
「詳細は、情報が入り次第伝えると言ってる……だけど、どっちかが攻撃したことは間違いなさそうだ……OH、NO!……第三次大戦の勃発だ……神よ、ハルマゲドンを望まれたのですか……?」
商社マンのひとりがヘッドフォンを奪い取り耳に押しあてた。何人かが店をとび出てゆく。
騒然としはじめた店内で、ひとり、ぐったりと椅子にもたれかかりながら、おれはユダの預言について考えた。
これ[#「これ」に傍点]が人類の行くべき未来なのだろうか。
チェコ=西独国境での核兵器使用のニュースは、瞬く間に世界中を駆け巡った。
幸か不幸か、爆発の起こった地点がほぼ無人に等しい荒野だったため、死者と物的損害は皆無で、当初の「攻撃」も「誤射」と訂正されたものの、現実に核兵器を撃ち込まれたワルシャワ条約機構側は常軌を逸して怒り狂い、目下、続々と西側国境付近へ集結しつつある。
当然、ベルギーに本部を置くNATO――北大西洋条約機構軍も臨戦体制を整え、西ドイツ他に配備されたパーシングII巡航ミサイルは、その機首をワルシャワ、キエフ、そして、モスクワへ向けているだろう。誤射のあった時点で、いや、現在にいたるまで、何ら東側の報復行為が行われていないのは奇蹟に等しいのである。
スイス銀行をはじめ、ヨーロッパ各国に分散してある金と宝石の処分を考えながら帰宅したおれを、マンションの前で意外な客が待ち受けていた。
岩代洋介だった。
「何の用だ?」
用心しいしいフェラリの窓から顔を出すおれに、彼は渡すものがあって来たと言った。なら、郵便受けにでも入れておけば済む。
「上がれよ」
「ああ」
居間で手渡された品物は小さなライターだった。ちょっとひねくりまわした後で、おれは、四菱製の隠しカメラだなと、言った。
フィルム自体ではなく、スイッチひとつで行うフィルター変換により、通常フィルムを超高感度、夜間用赤外線など四通りに使用できる最新型である。
「中身には一切手を触れてないよ」と岩代は言った。「うちの社員の南風が、ぼくに手渡したものだ」
「奴はどうした?」
岩代はうつむいた。いつまでもうつむいていた。
「変わった男だな、あんたは」おれは、ライターの背から超小型フィルムのパッケージを抜きとり、ポケットにしまいながら言った。
「いくら謀略や経済戦争向きのタイプじゃなくても、自分の立場や蒼たちの行動は承知してるだろう。おれはいわば敵方だぜ。南風がよく手渡したもんだ」
岩代はうなずいた。眼は足元に向けたままだった。
「わかってるさ。だが、いいんだ。考えた上でした[#「した」に傍点]――なんて言わんよ。南風もぼくの性格をよく知ってるんだろう。安心したまえ。蒼は知らんはずだ」
「何でこんなことをする? 奴に知れたら……」
「それも安心してくれ。奴はあるものが出来上がるまで、ぼくに手は出せん」
「暗号解読用の超大型コンピューターのこったろ。そろそろ出来上がる頃だな。黙示録の翻訳に使うんだろうが、そのときはおれも呼んでくれよ」
せいぜい思わせぶりに言ったつもりだが、岩代はちょっと眉を上げただけで驚きもしなかった。こうまで無気力な男も珍しい。
「設楽に聞いたらしいね。蒼が教えてくれたよ。それと、コンピューターはもう出来上がってる。明日にでも御殿場工場で試運転をする予定だ」
おれは皮肉たっぷりに、
「そう伝えろと蒼に教えてもらったのかい?」
「好きなように取るがいい。ぼくは自分の意志でここへ来た」
哀しみともとれる微笑が岩代の瞳をかすめた。
「――いや。これだって[#「これだって」に傍点]多分……」
「多分、なんだ?」
「……」
「言えなきゃ言ってやろう」おれは、自分でも訳がわからぬ憤怒にかられてソファから身を乗り出した。「おれたち全部が釈迦の掌で踊ってる。そう言いたいんだろうが。おれたちの行動、運命のすべてが、ユダの黙示録に予言されてるとな。断っとくが、おれは操り人形じゃねえ。たとえそうだとしても、人形使いなんかの言いなりになるくらいなら、吊り紐を切って舞台におっこちた方がましだ。おまえみたいに何もかもあきらめ、神さまの御心のせいにするのを人間の堕落ってんだ。おまえ、ゆきを嫁にしたいっていうのも、神さまに言われたんじゃあるまいな」
やっと岩代の顔が上がった。苦痛にうめくような声を絞り出す。
「ちがう。あの娘だけはちがう。ぼくは本気で好きになったんだ……」
「末尾が小さいぜ」とおれは決めつけた。「都合のいいときだけ、自分の力を信じるんじゃねえよ。パーティの晩、蒼の野郎はゆきの未来も知ってるようなそぶりだった。おれの前ではっきり言え。おまえと蒼、どっちがゆきを選んだんだ!?」
「……ぼくだ」
蚊の鳴くような声だったが、おれはようやく、ソファに戻る気分になれた。
「あいつはとても品行方正とはいえねえが、それなりにあんたを気に入ってる」今朝の行動を思い出し、少々後ろめたい気分で、おれは訓辞を垂れはじめた。「いまの台辞が本当なら、さっさと蒼と手を切るんだ。すぐとは言わねえ。奴と女秘書が目的を遂行してからでいい。大四菱がどうなるかは知らねえが、あんなでかいオモチャ、もともとあんた向きじゃないんだ。一生食える程度の金を持って外国へでも行き、ふたりで[#「ふたりで」に傍点]質素に暮らすがいい」
胸の中で、もうひとりのおれがののしった。この大嘘つき、と。
岩代は首を振った。手を切れないって意味か、まともな結婚生活など送れないと言いたいのかはわからない。腕ずくで口を割らせることもできたが、この男にはどういうわけか荒っぽい真似はしたくなかった。
岩代は無言で立ち上がった。
「ゆきちゃんのことは安心してくれ。何が起こっても、あの娘には危害を加えさせん」
「お互いさまさ。あんたが全部ひっかぶりゃ、ゆきは哀しむ[#「ゆきは哀しむ」に傍点]だろう。せいぜい身をつつしむことだ。もう一度言うが、早く奴とは手を切りなよ」
一カ所だけ抜かして心底本気の言葉だった。
玄関先で岩代は微笑んだ。はじめて見る笑顔だった。すぐ消えちまったがね。なんだか思いつめたような表情でおれを見据え、奴はおかしな別れの挨拶を口にした。
「君の仕事は知ってる。蒼やぼくのことは調べたんだろ?」
「ああ」
「ぼくの本籍地は青森。彼の生まれもそうだ。|朝礼《あされい》村の近くに新郷村があるな」
「ああ」
「それがわかれば、奴と手を切れなんて言わなかっただろう。奴がはじめてぼくの家へ来て、あの[#「あの」に傍点]新聞記事を見せたときも、こんなことになるとは思わなかったよ。――さよなら、会えてうれしかった」
ドアが閉まると同時に、おれは書斎へ駆け込んでわめいた。
「昭和四〇年以降の、青森地方の新聞記事を一枚ずつ映せ。一紙の三面だけでいい。大至急だ」
「了解」
このときおれはすでに、恐るべき真相に気づいていたと思う。もっと早く気づくべきだったが。
地下のマザー・コンピューターには、向こう一〇〇年に及ぶ世界各地の出来事が新聞、マイクロ・フィルム等からストックされ、それでも調べがつかない場合は、自動的に国会図書館や関係官庁、各施設の資料保管用コンピューターと連動するシステムだ。もちろん、おれの賄賂が行き渡ってる場所に限るがね。
ストックはあったらしく、眼ばたきする間に「声」が応じた。
「読み上げます。一九――」
「やめとけ」とおれは手を振った。「いやな予感がする。お前の澄ました声でききたくねえ。ディスプレイ表示だ」
「了解」
濃紺のスクリーンに湧き上がった巨大な「記事」を、おれは次々にチェンジしていった。
昭和四〇年……なし。四一年、一月、二月、三月……一○月、一一月……一二月一日、二日……一九日、二〇日……
「停めろ!」
固定した記事は、予想通りの「事件」をスクリーンに刻みつけていた。
四。たったの四だ。
なんてことしやがる。
スクリーンがぼやけ、おれは涙を拭いた。
朝礼村の近くに新郷村。
蒼の野郎め、確かに人間離れした運命を背負って誕生しやがった。
こいつは忙しくなりそうだ。
おれは、すぐ次の仕事にとりかかった。
ライター型カメラのフィルムを、VTR再生装置に付属する|現像器《デベロッパー》に収める。つい四、五日前、ディスク・カートリッジもまかなえる最新式と交換したばかりだが、市販のフィルムはもちろん、隠し撮り用、スパイ用、必要とあらば偵察衛星のネガまで、三分とかからず現像、焼き付けを完了する。最新の先端技術を開発するために、年数億ドルの予算を受けているITHA装備課の自信作だ。
CIAやKGBにも類似の装置はあるだろうが、性能は大分劣る。新しいノウ・ハウの発見・開発にかけちゃ、ITHAは四菱にだってヒケはとらないのだ。弱点は生産力で、年数百単位でしか製造できないため、すべてをフルに利用できるのは、金の心配をしなくていいトリプルGクラスのハンターに限られる。月賦制度も一○○年という気の長いのまであるが、孫の代までこんなしんどい仕事を続けられるかという意見が多く、利用者は極端に少ないそうだ。
きっかり一分で現像OKの赤ランプが点った。放っておけばすぐ複写され、ネガはストックに、プリントは紙焼きとプロジェクターにまわされる。驚くべきことにこの装置は、どんなフィルムからも粒子反転技術によりネガ・ポジ双方を作ることが出来るのだ。
スクリーンに映し出されたやや粒子の粗い画面をひと目みて、おれは南風が卓越した潜入員だったことを知った
五〇枚撮りのフィルムはわずか二カットしか利用されていなかったが、そのどちらも、黄ばんだ表紙とその表面に書き連ねたギリシャ文字を刻明に撮し取っていたのだ。
ユダの黙示録の一節に違いない。
だが、記憶にある古代ギリシャ文字と照らし合わせた途端、おれはすぐ失望の歯がみをしなければならなかった。
文章は何の意味も成していないのだ。
ギリシャ文字だというのはわかるが、その配列・構成は狂人の手になるわざとしか判断できなかった。暗号だろう。おれは首をひねった。何よりも精確な自らの預言書を、ユダは何故秘め隠そうとしたのか。
誰の眼から?
新宿の降霊室で霊体の放った声が脳裡に甦った。
ユダはエルサレムで予見したものの内容を誰かに告げた。しかし、彼はそれに手を……
――手を加えたのか? それとも、加えられるのを恐れて、ユダはすべてを暗号に変えたのか?
ひょっとしたら、その結果[#「その結果」に傍点]、彼は師イエスを裏切り、その「死」とともに永劫の汚名を着せられることになったのか?
二〇万光年の彼方より飛来したものとは何者か。彼は人類の未来にいかなる「手」を加えようと試みたのか?
だが、ただの書き換え[#「書き換え」に傍点]がどんな意味をもつ?
わからない。
おれは首を振り、ソファにもたれ込んだ
電話が鳴った。
放っとこうかと思ったが、重い手をのばしたのは虫の知らせだったろうか。
返事をするとすぐ、甘ったるい女の声が、インドのマドラスから国際電話だと告げた。コレクト・コールだ。普通なら断固切っちまうところだが、おれにはある種の予感があった。OKと言う。じき別の女の声が代わった。
「大? 無事だったようね。ヌビア・モンの護符が効いたかしら?」
マリアの遠い声だった。予感的中。ようやく運がこっちへ向き出したようだ。
「やっぱり、インドか。会いたかったぜ」
「その前に中近東よ。時読みの古老に会って面白い話を聞いたわ。――大、ユダは決して裏切り者じゃなかったのよ」
「なぬ?」
「時読みの老人は、私など比べものにならないくらい正確に、深く、アカシック・レコードを読みとることができるのよ。エドガー・ケイシーがそうだったように」
エドガー・ケイシー。アメリカのバージニアビーチで、数多くの病に苦しむ人びとを救った大予言者だ。
彼自身は何ら医学的教育を受けていなかったが、昏睡状態で指示する治療法は|医療診断《フィジカル・リーディング》と呼ばれ、今なお膨大な量が、バージニアビーチの|ARE《アソシエーション・フォー・リサーチ・アンド・エンライトメント》(研究と啓発のための協会)に保管されている。
だが、彼の名を「諸世紀」で有名なノストラダムス、現在最高の予言者といわれケネディ大統領暗殺を予言したジーン・ディクソンとならんで「世界の三大予言者」のひとりと言わしめるものは、昏睡状態で語られるさまざまな未来予言の正確さに他ならない。
有名なものをざっと挙げても「第一次大戦の勃発と終戦の年」「一九二九年におけるニューヨーク株式市場の大暴落」「イスラエルの国家再建」「レーザーの登場」等枚挙にいとまがない。この彼が一九三四年の一月、「大地はアメリカ西部で砕け、日本の大部分は海中に没するに違いない。その年は一九五八年から九八年の間に始まるだろう」と告げたのは有名な話だ。
ケイシー・リーディングのエネルギー源に関する説はいろいろあるが、最も有名なもののひとつがアカシック・リーディングである。あらゆる空間に満たされた宇宙の根本的エーテル――サンスクリット語のアカシヤ――に、全宇宙の記録が刻み込まれており、ケイシーはこれを読み取ったというわけだ。面白いことにアカシヤ内には時間が存在せず、未来の事象ですら、すでに「記録」として記憶されている。この読解ほど正確無比な予言は他にあるまい。
「なんだと!?」おれは仰天を隠さず電話口でわめいた、「じゃ、じゃあ、聖書の記述はどうなる? 正邪逆転か?」
「彼もすべてを刻明に見聞できるわけではないの。エーテル中に存在するときは、何もかも具体的なのだけれど、日常生活へ戻るとき、三割近くの記憶密度を失ってしまうのよ。それに、アカシック・レコードの中にも、簡単に見ることができるものと、そうでないものとがあるのよ。ケイシーもそうだったわ」
「厄介なこったな。裏切者じゃないって証言の裏付けはどんなんだ?」
「誤解しないで、大」マリアの声に焦燥がこもった。「彼が師を裏切らなかったとは言っていないわ。ゲッセマネの園での、ユダの口づけは事実よ。でも、彼は私たちを――神の下僕である人間を裏切りはしなかったの」
おれは沈黙せざるを得なかった。ユダは神の子である師を裏切り、それが結局は、人間への背信ではなかったというのか。
すると――すると、やはり「何者」かは――師か? イエス・キリストか?
「大、きいてるの?」マリアの声が遠くでした。
「きかずにおれるか。続けてくれ」
「イエスは人間じゃなかったのよ。彼は遙か彼方の異世界から地球の未来を摘みとるためにやってきたエイリアンだったの」
エイリアンて事実にゃ驚きもしなかったが、未来を摘み取るって何だと訊いた。
「老人にもそこまでは読み取れなかった。ただ、具体的な事例は覚えていなくても、イエス・キリストがエイリアンだったということはわかるのよ。それに、エーテル中のアカシック・レコードにも、聖書――特にイエスとユダの事蹟に関係したものは、明晰性が極端に損なわれているらしいわ。老人は操作によるものだと言ってるけど」
「そ、そんな。――宇宙の記憶まで勝手に操れる奴がいるのか!?」
おれは絶句した。
二〇〇〇年の過去に発したひとりの聖者とひとつの汚名を巡る物語の裏に、こんな驚天動地のドラマがあったとは。――知らなかった。知らなきゃよかった。
「私はこれからすぐ日本へ帰るわ。大、一日だけ待って。私が行くまで動いては駄目よ」
「何故だい?」
「わからない。そんな予感がするの」
予感か。おれは正直うんざりした。どれもこれも論理的なところがひとつもない。謎でできた底無し沼で暴れているようなもので、ぐんぐん深みに引きこまれていく恐怖感が手足をがんじがらめにする。地底の獣人やロスト・ワールドの恐竜相手にドンパチやってた方がましだ。
「ところで話はかわるが、その爺さん、未来の方もいけるんだろ。核兵器使用のニュースは知ってるな。その後どうなるのか教えてくれ。それさえわかれば、ユダの黙示録の暗号なんざ解けても解けなくても同じだ」
「私もそう考えたわ。だから、黙ってこちらへ来たのよ。この電話もその結果を知らせるためにかけた。大、老人の話では、人類の未来はアカシック・レコードに記録されていないというの」
「なんだ、そりゃ?」
あんまり意外すぎて、おれは我ながら間の抜けた声で訊いた。
「……わからない」とマリアは繰り返した。
「老人は、未来を読み取った痕跡と、それを消し去り別のものにしようと企んだ跡があると指摘しているわ。二〇〇〇年前、二つの勢力が人類の未来を巡って戦ったのよ」
「で、いまは何にもなし――か。しかし、行く先のない電車なんてあるのかよ?」
「これは、私もそう感じる[#「そう感じる」に傍点]のだけれど、未来決定のためのある因子が不足しているらしいの。それさえ明らかになれば、人類は|明日《あした》を持てるわ。どんな明日にせよ、ね」
「もう勝手にしろ、だ」おれはとうとう音をあげた。「こんな訳のわからん、スケールばかりでかい話にかかずらわってると頭が痛くなってくる。どっかの気狂いのおかげで核戦争は勃発間違いなさそうだし、財産を処分して、スイスに買ってある個人用核シェルターにでも入るさ。あそこなら、頭のてっぺんで五〇メガトン級の水爆が破裂しても耐えられる。食料も水も二〇年分は貯えてあるしな」
「それもいいけど――」ふと、マリアの声に哀しみの色が加わったような気がして、おれはびっくりした。これこそ只事じゃねえ。そんな人間的感情などとっくに昇華したと思ってたのに。どいつもこいつもおかしくなっちまったのか。
「……あんたには、出来ないような気がするよ。忘れたのかい。あんたは選ばれたんだ[#「選ばれたんだ」に傍点]」
「何とでも抜かせ。おれは用意ができ次第日本をおさらばする。北方領土やナホトカのSS20は、もう東京や大阪を狙ってるだろうからな。火の玉にされちまうよりは、黙示録のことなんざスッパリあきらめて、シェルターの中で漫画読んで暮らしてた方がましだ。一緒にこないか? もよりの空港まで来りゃ、途中で拾ってくぜ」
返事はなかった。
あきれて物が言えんのか? えい、くそ。勝手にさらせ。
電話を切ろうとして、おれは受話器のあまりの冷たさに眉をひそめた。まるで氷の塊だ。心臓の温度が伝わったんじゃあるまいな。
次の瞬間、おれは声にならない叫びをあげて、受話器を放り出した。
数千キロ離れたインドで響くマリアの苦鳴がきこえたからじゃない。
二つの電話口から、不気味に光る青白い流動体が音もなく滲み出したのである。
霊体――エクトプラズムだ。
しかし、いくらなんでも、インドから、電話回線を通して!?
マリアの意図もわからず、おれは後方へ下がった。絨毯の上に広がったエクトプラズムは、例によってぶるぶると身悶えしながら人の形を取りはじめた。
「――イスカリオテのユダ……何を伝えに来た?」
おれのつぶやきは、身を貫く戦慄を増したにとどまった。
[#改ページ]
第七章 御殿場ハルマゲドン
おれの右手は本能的にCZ75を抜いていた。自ら霊体を放出すべく瞑想状態に入るマリアは苦悶の声などあげないからだ。片手でヌビア・モンの護符を探る。
イスカリオテのユダ――新宿の地下で一度だけ眼にしたやせぎすの男は、踵とぼろぼろにちぎれた長衣の裾からエクトプラズムの尾を引きながら、苦しげな足取りでおれの方へ歩き出した。
「イスカリオテのユダ――何をしに来た?」
再度の質問に答えるかのように青白色の口が開き、喉仏が動いたが声は出なかった。声帯が未完成なのだ。
血管らしい線まで浮き出た骨と皮ばかりの腕が喉をかきむしった。瞳のない両眼がむき出され、次の瞬間、コンピューターのコントロール・パネルが火を噴いた。
「やめろ!」
バン! と音をたててスクリーンに亀裂が走る。部屋の隅で火花がとび、ソファの外張りをはじいてスプリングとマットがびっくり箱みたいに顔を出した。
エクトプラズムの中には生前の能力を受け継いでいるものもあるという。すると、ユダはエスパーだったのか?
みるみる部屋に白煙がこもりはじめた。炎の子ではない。自動消火装置の噴出する消火液だ。くそ、修理にいくらかかると思ってやがる。経済的損失で頭に血が昇り、CZ75を青白い脳天に向けたとき、聞き覚えのある低い声が地を這った。
「……行かねばならん。……おまえは行かねばならん……そして……そして、勝たねばならん……」
「何のこった、この螢光塗料入りのアイスクリーム人形。総額弁償しやがれ」
ユダの右手がおれの方へのびた。超能力で心臓でも止められるんじゃないかと緊張したが、奴はおれの背後の壊れたスクリーンを指さしているのだった。
「――!?」
ふり向き、おれは息を呑んだ。破壊されたスクリーンに、先刻同様、黙示録のフィルムが映し出されてるじゃあないか。
「……これ、最後の戦いの章なり。白き地に赤き丸を描き、これを国の旗とする国にて戦いは起こるべし。……」
銃を握る手が下がった。小躍りしなかったのが不思議だ。著者じきじきの朗読だぞ! しかし、どう解釈してもこの国てのは日本のことだろう。なるほど、具体的には違いないが、しかし……。
「戦いは、されどまず、白き星と赤き横棒を描き、これを国旗とする国の、東の海辺の都市にておこらん。選ばれし者ども、我が描きし黙示録を我がものにせんとて相争い、しかれども、戦いの真の意味を知らず。……その数、まず[#「まず」に傍点]、四人とひとりなり」
おれは、ぽかんと開いた口をどうにかしなきゃと思いながら、エクトプラズムの予言に耳を傾けた。四人とひとり――あいつらとおれか。なんてこった、奴ら、ユダの黙示録の四騎士だったんだ。
「……黙示録、いまひとりの選ばれしものの手に渡りぬ。この世ならぬ力を操る、我よく知りしもの[#「よく知りしもの」に傍点]なり。彼、白き地と赤き玉を国の旗とする国にて、国よりも巨大な船、山さえも砕く|雷《いかづち》の棒をもつ車をつくりし家々と人びとの群れに入り、正しき王を玉座に据えん。この王、我よく知りしもの[#「よく知りしもの」に傍点]なり。王、力を操るものに力を与え……」
それからしばらくの間、蒼と岩代に関する予言がつづいた。魔法の部屋で蒼やプラモ怪獣どもとやり合った|件《くだり》を聞かされるに及び、おれは青くなった。なんという超能力者だったんだ、こいつは。
不意に、青白い光が輝きを失った。霊体の人像は大きくゆらぎ、収縮しつつあった向こう側のものがこちら側の世界にいられるタイム・リミットが近づいたのだ。おまけに、こいつは無理に出てきたのだった。
「……いまひとり、選ばれしものあり……」
すでに顔面は溶け失せ、魚みたいな姿で電話機に吸い込まれながら、ユダはなお唱えつづけた。
「……美しく可憐なる若き淫婦、王と力を操るものとともに、一○の月×の日に、火を吐く車、光る翼にて空とぶ鳥をつくりし巨大なる家々へおもむく。家にて、力操るもの我が黙示録を読み、選ばれしものたちに、その持つ真の意味を授けん。激しき戦いありぬ。やがて若き淫婦、ひかり輝く場所にてすべてを失わん。人あまたありて、これを祝う。最後の戦いをさして我、ハルマゲドンと呼ばん。人の運命はこの一戦にて定まらん……」
弱々しいかがやきの最後の一片が受話器に吸い込まれてからも、しばらくの間、おれは身動きひとつしなかった。
CZ75をホルスターに収め、受話器を戻すとプッシュ・ボタンを押す。
お手伝いらしい声が応じた。岩代は不在だった。ゆきと一緒にどこかへ出掛けたらしい。蒼のことを聞いてみた。ここ数日、姿を見せないという。女の声に含まれる安堵と嫌悪感をおれは聞き逃さなかった。
電話を切るとすぐ階下の武器庫へ降りた。ハルマゲドン――地上最後の善と悪の決戦場。一〇月×日――今日だ。
必要な武器は、降りるまでに目安をつけておいた。
一度じゃ運べないし、試射の時間もない。ITHAの兵器課と製造会社のチューニングを信じるとするか。
おれは超鋼板の特殊ロッカーから選び出した品を、自走ワゴンで隅のコンベアに乗せ、地下駐車場へ降ろした。最後の大決戦にこれで足りるかどうか自信はなかったが、ジェット戦闘機や榴弾砲を|背負《しょ》ってくわけにはいくまい。敵は使うかもしれんがよ。
新品の戦闘服に着替え、背広をはおる。鏡の前で点検したが、身につけた武器の膨らみは目立たない。今のおれは歩く人間兵器並みなのだが。
エレベーターで地下駐車場へ降りた。
すぐそばに停車中のバンへ近づき、荷台のドアをあけると、折り畳み式のグラス・ファイバー・パイプを引き出してコンベアの口にかぶせ、指輪を振った。
吸温・吸湿マットを張ったバンの床で武器同士の触れ合う金属音をきくと士気が高まってくるのだが、今回は逆に気の滅入る一方だった。守るも攻めるもでも歌おうかと思ったところで、別の曲が意識をかっさらった。唸り声という曲だ。
何気ない素ぶりで背広の内側へ手を滑り込ませ、おれは周囲の空間に全神経を集中した。
わかってる。
おれを狙う宿命の敵――黙示録の四騎士最後の生き残り、スコット・レイン。
獣を操る男だ。
地下駐車場へおかしな奴が入り込めないよう、居住者の車にはすべてリモコンを付けさせ、これでドアの開閉を行うため、駐車場内部は常に照明がかがやいている。
おれはCZ75を構えたまま、ゆっくりとそばの通路に移動した。
どうやって忍び込んだか知らないが、管理人の野郎、後でとっちめてやる。高い給料とりながらなんてざまだ。
「さ、出てきてやったぜ」おれはヨガで鍛えた感覚の触手で駐車場の隅々を|走査《スキャン》しながら言った。「短いつきあいだったが、|決着《けり》をつけようじゃねえか。どっちがやられるにしてもな。四つ足を使うもよし、おまえ自身でかかってくるもよし。遠慮はいらん。どうした――殺さなくちゃいかん[#「殺さなくちゃいかん」に傍点]のだろ?」
走査の網は、駐車場の半分を終え、おれの右側半分を残すだけに狭まっていた。いちばん奥からいくか。うう、このスリルとサスペンスがたまらんぜ。
だが、おれの緊張には、奇妙な間隙がえぐり込まれていた。マリアの最後の予言だ。
戦いを決めるものは、炎の国にては、火花散る糸より火を噴く棒。
とっくに気づいていたが、おれと三人の戦いは予言通りに成就されてきた。それが、今度だけはどう考えても当てはまらねえ。ここじゃ話はつかないってことだろうか。
|走査《スキャン》はほぼ終ろうとしていた。
おれの斜め後方にある最後の空隙。
いない。そんな阿呆な!?
血に餓えた咆哮にふり向くのと、一〇〇キロ近い体重と肉食獣の臭気がのしかかってくるのとどっちが早かったか。
奴は壁にあいた換気ダクトの窪みに潜んでやがったのだ。
熱い息が喉元にかかり、おれは重みに耐えかねて床にぶっ倒れた。必死に頭だけかばったのがせめてもの救いだ。喉に牙が触れ、肉に食いこむ感触。やられる!
ふっと身体が軽くなった。巨大なセントバーナードは、おれの喉を食いちぎるとどめのひと噛みも忘れ、苦痛の叫びをあげて逃走に移った。巨体に似合わぬ敏捷さで出入り口のドアへ消える。ふりまく血が床と車を紅く染めた。
おれは硝煙たちのぼるCZ75を握って立ち上がった。ぶっ倒される寸前放った一発は奴の左目を撃ち抜いたはずだ。
首を覆った戦闘服の|襟《ネック》に手を触れる。タートル式でなかったらとうにお陀仏だ。牛の喉笛さえひと噛みで食いちぎる強靱な牙と顎も、日本刀の鋭さと45口径弾のパワーを同時に食いとめる戦闘服を貫くことはできなかった。おれは心底、名も知らぬITHA兵器課の設計者に感謝した。美人だったら、ワコールの下着を買って会いにいこう。
モニターを見たか、中年の管理人が駆け降りてきた。何でもないと追い帰そうとしたら、顔色が只事じゃねえ。
「どうした? 雇い主とはいえ、そんなにおれの身が気にかかるのかい。感激だな」
「何を脳天気なことを。――あの犬……お知り合いですか?」
「ちょっくらな」
「出て行きました。入り口のガラスを破って……」
それが、厚さ三センチの防弾ガラスだということを思い出すまで、一、二秒かかった。
東名をとばしにとばし、御殿場インターを降りた頃、ようやく陽が傾きはじめた。東京とは比較にならぬ樹々の集落は鮮やかに紅葉し、地に落ちる自らの影さえ色づけているようだ。
核戦争寸前のヨーロッパ情勢とも、ユダの黙示録とも無縁の世界だった。こんなとこで暮らしたら、近所の婆さんと孫の成長ぶりを話題に茶飲み話をする老人になれるだろうかと考え、ハンドルを握りながらおれは苦笑した。
エジプトの墓泥棒あたりを基点にはじまるトレジャー・ハンターの歴史で、功成り名を遂げたと記されるものはほんのひと握り、実数で七人とはいまい。トリプルGクラスの超一流ハンターでも、ある日突然、別れのひと言も残さず消息を断ち、五年の登録猶予期間ののちに会員名簿から抹殺される例は限りがない。熱砂の地で果てたか、大氷河の奥に眠る宝物を眼のあたりにしながら、自らの心臓も凍りつかせたか、……誰も知らない。仲間たちだけが――彼の顔も知らず、ただ自らの夢に殉じたことを知る仲間たちだけが、おれも後から行くとつぶやく。それだけのことだ。
柄にもない感傷を断ち切り、おれは御殿場市内に入った。午後四時。まだ下準備にとりかかるには早い。フル・スピードで市内を抜け、記憶済みの道路地図を頼りに郊外の林に入る。
荷台から常備品の食料パックを取り出し、目的地の見取図を広げた。
四菱重工御殿場工場。
「火を吐く車」――戦車と、「光る翼もて空とぶ鳥」――ジェット機を組み立ててる「巨大なる家々」だ。昨夜、南風にもらっといた見取図がこんなに早く役に立つとは思いもしなかった。
すべての施設・道路や周辺地理を記憶するのに二秒を要した。装置の組立工場の位置もぎちんと記入してある。惜しい男を失くしたもんだ。見取図をしまい、厚さ二センチもあるワラジみたいな乾燥ハムを、保管ポットに入れたミネラル・ウォーターで胃に流し込みながら、侵入・脱出計画を練る。
岩代も蒼も――多分、ゆきも――ここにいるはずだ。大コンピューターが完成間近と言ってた岩代の言葉、今日のこの日と場所を指摘し、ハルマゲドンだと告げたユダの予言、すべて符合する。
だが、おれは今でも、人類の未来やら、黙示録の解読になんか興味はなかった。まして、選ばれた戦士になるつもりや、ハルマゲドンの戦いに加わる気なんかこれっぽっちもない。解読されようがされまいが、黙示録の価値はそのままだ。手に入れる方法は力ずくを含め、後からいくらでも考え出せる。なのに、なぜやって来たか?――放っとけ。
九分通り計画がかたまったところで、おれは車を降り、下準備にとりかかった。
バンの荷台へいき、武器の分解・掃除を行う。考えられる限りのチューニングを施し、組み立てるのに三○分。これで作動しなきゃ、おれにはまだ悪霊がついてるんだ。
つづいて、今回の|秘密兵器《シークレット・ウェポン》の試運転にかかる。
数分後、おれはバンから二〇〇メートル離れた森の中を散歩していた。
かすかなあえぎ。女の声だ。五メートルほど右手の樹々の間から聞こえてくる。眼をやると、夜目にも白い蛇みたいなものがのたうっていた。女の足だ。これは面白い。
おれは音を低くして近寄り[#「音を低くして近寄り」に傍点]、上から覗きこんだ。
セーター姿の男と女が重なり合っていた。男の手が女の小さな下着の奥に入り、激しく微妙に責めたてている。二本の太腿がその手をはさみ、快楽を離すまいと努める。この寒いのにご苦労なことだ。少し離れたところにコートとジーンズが脱ぎ捨ててあった。服装や顔形からみてどっちも高校生ぐらいだろう。ホテルにでもいきゃいいものを森の中で楽しむとは、ませくり返ってやがる。
男が女の耳の奥へ舌をさし込みながら何か囁いた。セーターを首までたくし上げた裸身がのけぞり、女は自分の手で白いブラをずらすと、豊かな乳房を揉みはじめた。最近の高校生は発育がよろしい。
もっともっととせがんでた悦楽の顔が傾き、何気なくおれの方を見上げた[#「見上げた」に傍点]。
悲鳴をあげるのも忘れて凝視する。男も気がつき、同じくおれを見てあっけにとられた。
「こんちわ」とおれは頭を下げる。
「どーも」男もペコリとした。
おれは空中で[#「空中で」に傍点]きびすを返し、時速七〇キロほどで樹々の間をジグザグに駆け抜けた。
ふたりの悲鳴は、バンに到着してからきこえた。
林からバンをとばして二〇分。えんえんとつづく白い壁の連なりが左前方に迫ってきた。御殿場工場の塀である。二〇万坪におよぶ雑木林を伐採してならした土地の上で、年間・中戦車六〇輌、装甲車五〇台、ライセンス生産のジェット機一〇〇、迫撃砲、自走榴弾砲等を生み、一千億円以上の売り上げを計上する。まさに、日本最大の兵器工場だ。
おれは塀に沿ってバンを走らせ、真裏にあたる雑木林の中に止めた。
武器や小道具を降ろし、ロックする。車体と装備のすべて、それからおれ自身には、先刻の林の中で、無色透明の「吸収塗料」を散布してある。F化学が開発し、アメリカ軍が購入希望を申し出て話題になったレーダー吸収塗料に、対赤外線・対超音波機能を加味したものだ。
まるで軍事基地へ忍び込む道具立てだが、壁の内側には本物の戦車やロケット砲が眠っているのだ。どこが違う。それに、戦車砲弾やミサイル自体は重工の別工場で製造されてるというが、同様の施設がここにも備わっているのは周知の事実だ。備わってて動かないわきゃねえだろ。
おれは携帯用火器と弾薬を収めたバック・パックから、愛用の|H&K《ヘッケラー・アンド・コック》/G11・|無薬莢《ケースレス》|突撃《アサルト》ライフルと五〇連マガジン三個を取り出し、マガジンを戦闘服のパウチに収めた。地底の獣人とやり合ったときはテープでくっつけといたが、ようやく専用パウチができたのである。手榴弾四個、照明弾四個、麻酔ガス弾六個に、CZ75の一五連マガジン五個も並んでいた。これだけで一〇キロ近い。あらためてバック・パックを背負い、地面に置いた戦闘用MMU(有人機動ユニット)の装着スイッチを入れた。
ため息のような音を洩らし、地面との接触面から高圧空気を噴射しながら、|電子技術《エレクトロニクス》の精華は一〇五キロの巨体をおれが背負える[#「おれが背負える」に傍点]高度まで上昇させた。
ついこのあいだ、NASAの宇宙飛行士がはじめて命綱なしで船外活動を敢行したとき、背中に負っていたのがこれの原形だ。あちらは五・九キロの液体窒素を二四個の|噴出孔《スラスター》から噴き出し移動と旋回を行うが、空気抵抗が桁はずれに大きい地球上のおれは、超高圧空気を利用する。
単なる移動装置にすぎぬオリジナルに対し、コンピューターを組み込んで、リモートコントロールによる操縦や、おれの肉体的生理的条件に最も適した動きを「記憶」させたITHA技術陣の努力は賞讃に価する。さらに、一・二メートル四方の、電子装置がびっしり内蔵された本体に、全長二〇〇ミリの超小型誘導ミサイル六〇発、ミニ地雷「ジャック」三○発、三次元高感度センサーまでセットしたのだからお手柄だ。
NASAのパイロットは、まず、酸素供給装置や通信設備を組み合わせたPLSS=ポータブル生命維持システムを含む宇宙服(正式名称は機外活動ユニット=EMU)を着込み、その上でMMUを身につけるのだが、おれは代わりに、宝探しの小道具一式と武器を詰めたバック・パックを背負った。
一ミリの狂いもなく、バック・パックの端と腰がMMUの窪みに収まり、表面に出ていたラッチがユニット内に押されると、折りたたまれていた二本の|操縦桿《ハンド・コントローラー》が脇の下から持ち上がる。右側を倒すと前進、後退、まわせば旋回、左側はミサイルその他の火器発射装置だ。
戦闘服のマスクをかぶり、すでにせり出してたMMU用ヘルメットをつける。無論、レーザー暗視フードがついているが、戦闘服のマスクの|暗視装置《ノクト・ビジョン》があるのではね上げておく。最後の仕上げに左手の機能点検スイッチを押した。全装置異常なし。
いよいよだ。
おれは、空中停止=重量ゼロのMMUを背負い、塀に走り寄った。上端にバリケードが張り巡らせてある。どうせ高圧電流のおまけつきだろう。
勢いを増した高圧空気が地面を叩き、おれは軽々と三メートルの|塀《バリヤー》を越え、工場内に舞い降りた。ユニット内の空気は自重ゼロの噴出率だと三〇分しかもたないが、上部の空気取り入れダクトから補充が利くため、飛行時間は無限に近い。前回のアマゾン遡行で旧式のロケット・ベルトを使ったのは、もちろん、こいつが届いてなかったためだ。
午後九時。工場内は静まり返っていた。レーザー暗視装置に浮き上がった蒲鉾型の組立工場はともかく、オフィスや社員寮らしいビルの窓にも明かりひとつ点いてないことが、おれの胸にある予感を生んだ。
敵も勘づいてるかな。
ま、不利は承知だ。
おれはとりあえず、手近の倉庫らしい建物の脇に身を隠そうとMMUをわずかに上昇させた。目的の組立工場は、広場を横切った向こう、約五〇メートル前方に静まり返っている。
右手の操縦桿に力を込めたとき、白光が炸裂した。
轟音とともに、身体の両脇で凄まじい砂煙があがる。小火器じゃあるまい。しかし、いくら真夜中で市街地からはずれてるとはいえ、無茶苦茶な真似しやがる。
「ようこそ、八頭くん」
サーチライトの奥で蒼竜二の愉快そうな声が響いた。
「いや、武器は捨てないで結構。――お待ち申し上げていたよ。君が来ることはとうの昔にわかっていた。おっと、言いたいことがあればどうぞ。普通にしゃべればぼくの耳に入る」
「ついでにばかでかい銃声も、外にきこえるぜ」
「心配ご無用。音はすべて工場内に限られる。ぼくの術を忘れたわけじゃないだろう。また、今夜に限り、無関係な社員諸君はどういうわけか深い眠りにおちている。心臓のみが動く死体だ」
「で、どうする?」
おれは訊いた。
「別に。その前に教えてくれ。君は何故ここへ来た?」
「黙示録をいただくためさ。ある筋から、今日あたり翻訳勉強会が行われるってきいたもんでな」
蒼の声は少し黙り、すぐ、
「なるほど、そうか。今朝からいやに気が昂ると思っていたが、今日がその日か」
「何のことだ?」
おれはとぼけて訊いた。
「隠したもうな。どんな事情があるかは知らないが、君ももう勘づいているはずだ。我々と君自身の選ばれた戦いのことを」
「はてね」
「まあ、よかろう。今日がその[#「その」に傍点]日なら、君を生かして帰すわけにはいかん」
「物騒なことを言うな」
おれはせせら笑った
「二〇〇〇年前の教えに反するんじゃないのかい。イエス・キリスト・ジュニアよ」
蒼はまた沈黙したが、今度ははっきりと驚愕の気配が感じられた。
「そう謙遜しなさんな。お前が青森生まれだとわかったとき、ピンとくるべきだったぜ。近くの新郷村――これで騙された。改名なんざするもんじゃねえな。|戸来《へらい》村とくれば一発だったのに。なんてったって、キリストの死に場所だからな」
キリストは日本で死んだという説があるのを知っているだろうか。ゴルゴダの丘で十字架にかかったのは弟のイスキリで、イエス自身は秘かに故郷の地を脱出。シベリア経由で日本へ渡り、青森の八戸から戸来村まで来て一生を終えたという。
馬鹿らしいといえばいえるが、この説を唱える文献には笑いとばすことのできない数多くの事例が挙げられており、戸来にはキリストの墓まである。青森、岩手等の一部で古くから歌われる盆踊り歌「ナニャドヤラ」の歌詞が、古代ヘブライ語で解読され、「民の先頭にエホバ進み給え……」という意味だとわかったのは有名な話だ。
「他にもあるぜ。お前の生まれる五日前、朝礼村の村長が突然発狂して四人の子供を殺した。全員、二歳以下だったな――“ヘロデ、幼児を|索《もと》めて亡さんとするなり”、救世主生誕の報に脅えたヘロデ大王も同じことをした。おまえが妙に今度の事件に詳しかったのも、これで説明がつく。なにせ昔の記憶を辿ってるだけなんだからな」
おれはざまあみろとばかりに胸を張り、返事を待つふりして、状況を把握しようと努めた。四方から浴びせられるサーチライトのせいで視力はがた落ちだが、木の陰や建物の脇に立つ人影はなんとか見分けられる。
奇妙な感覚が皮膚全体に躍った
人影からまるっきり殺意が感じられないのだ。無気質な、冷たいエネルギーばかりがひたひたとおれめがけて押し寄せてくる。こいつら何者だ?
「つまらんことまで調べたようだね」
気を取り直したのか、蒼が再び口を開いた。残念でした。苦渋の色を糊塗するまではいってない。
「期待を裏切ってすまないが、僕はキリストではないよ。かつては自分でもそう思ったことがあるが――。ジーン・ディクソンの予言を知ってるかい。一九六二年、中近東の一角に偽メシア――反キリストが生まれたという」
「おまえもそのひとりなのか?」
「わからんな。僕にはわからん。君は自分が誰なのか、この宇宙の歴史の中でいかなる固有性をもつものなのか、言明できるかね?」
「禅問答はたくさんだ」おれは断固言い放った。「黙示録は返してもらうぞ。どこにある?」
「まだ、そんなことを言ってるのか」
蒼の口調に侮りが混じった。
「なぜ、君のような、現世の利益にしか目を向けん無知蒙昧な輩が、人類の運命を決する戦士に選ばれたのか、訳がわからん」
「放っとけ。時間の無駄だ。どうする?」
「どういう結果がでるかわからないが、わざわざご足労願った礼をとる意味で、君にふさわしい、最も得意とするゲームを行おうではないか」
「なんだ、そりゃ?」
「スコットの連絡で君の出動を知ってから準備を整えておいたのだ。君のことだ、すでにコンピューターの有り場所くらいは先刻承知と思い、黙示録ともども別の建物に移しておいた。君の現在の位置からちょうど真北へ二キロ、第一三組立工場がそれだ。なんとかそこまで辿りつき、宝を手中に収めてみたまえ。無論、妨害は入る。しかし、苦労なきトレジャー・ハントなど、君のような男を魅了する仕事ではないだろう」
おれは苦笑した。イエスだか偽メシアだか知らねえが、さすが本質を掴んでやがる。
「よかろう。首を洗って待ってろ」
「幸運を――」
みなまで聞かず、おれは空中へ舞い上がった。上がりながらサーチライトの方を見る[#「見る」に傍点]。
ミニ・誘導ミサイルが四基、火線を引いて四方へ飛ぶ。凄まじい火花と轟音が闇をつんざき、消滅したライトの代わりに地獄の業火が白い世界を産んだ。寮の建物じゃないのは記憶と照合済みだ。
瞬間時速一〇〇キロで斜め前方の寮らしい建物の陰に飛んだのはさすがにこたえたが、あまりのスピードと常識はずれの方向に、機関砲の唸りも追ってこなかった。
地上五センチの超低空で建物の裏へまわる。高みへ出たら、地対空ミサイル・ナイキや対空砲火の餌食だ。
軽快なエンジン音がやってきた。サーチライトが集中する。|七五〇cc《ナナハン》クラスの大型バイクとその横にくっついた弾丸のような車体。サイドカーの運転席でこちらをにらんでいるのが人間ではなく、多銃身バルカン砲と知った刹那、おれは急旋回に移った。猛烈なGに肋骨と内臓が悲鳴をあげる。
二〇ミリ機闘砲の重々しい連射音が横手をすり抜け、建物の石壁に激突して微塵に粉砕した。まずいことに、手近な建物まで三〇メートルほどの広場を横切らねばならない。おれは激痛をこらえ、上下左右にMMUをジグザグ運転させた。
サイドカーも必死で追いかけてくるが、スピードと運動性は比較にならなかった。こっちのベースは宇宙技術なのだ。太い火線は虚しく闇を切り裂き、彼方の立木や建物に巨大な弾痕をうがった。
工場らしい建物が迫った。急停止して一気に左へまわる。バイクの音が追いすがってくる。
この辺は密集地帯だ。五棟の大工場と付属施設が、カスバなみとはいかないが一応の迷路を構成している。サイドカーやバイクの乗り入れもできない細い枝道も多い。
ひとつ確かめたいことがあり、おれは枝道をもうひとつ右へ曲がった小路に身を潜め、敵の通りかかるのを待った。
じき、バイクのエンジン音と足音が入り乱れた。
懐中電灯の光が足元の地面に白い円を描く。MMUの空気噴射音をギリギリまで絞って待つ。足音が二つ近づいてきた。
二つとも小路に入った瞬間、おれは襲いかかった。迷彩服姿の男たちが手にしたライフルを撃つ暇も与えず、空中で半回転。MMUのボディでふたりを薙ぎ倒した。
空中で被害者を見下ろす。案の定だった。迷彩服から突き出た顔は、安っぽいボール紙の表面を夜気にさらしていた。殺気も声もしないわけだ。
だが、とおれは唇を噛んだ。かえって厄介だぞ。遠慮しないでドンパチやれるのはいいが、敵は大量生産が利く。何人いるかわかったもんじゃねえ。だが、策を誤ったな。せっかく作るんだから、ルースみたいな美人兵士にすればこっちの戦意もくじけるのに、男のボール紙なら容赦しねえ。
次の横道に入ろうと考えたとき、激しく大地を蹴る気配がした。小路を突進してきた黒い塊がおれめがけて跳躍する。わわっ! 急上昇した戦闘ブーツの下で歯と歯の噛み合う音。ヒステリックな咆哮がたちまち小路を埋めた。犬の群れだ。その背後に靴音。
おれは左手で戦闘服の麻酔ガス弾をはずし、安全リングを引っこ抜いて、狂った野獣どもの真ん中へ投下した。無色無臭のガスを吸って、みるみる横倒しになる。こいつらは本物のようだ。
人影が小路をまわって姿を現した。
手に七四式自動小銃を構えている。人間そっくりだが無表情な顔が空中のおれをとらえ、銃口が上がった。
空中からほとばしる閃光がボール紙人間どもを薙ぎ倒した。肉片ならぬ紙片を空中にばらまきながらゆっくり倒れる。命中した瞬間妖術が解けるせいで、G11の|無薬莢高速弾《ケースレス・ハイスピード・カートリッジ》はあっさり貫通し、ストッピング・パワーを発揮できないのだ。
次々に現れる奴らを空中から撃ち倒し、おれは横路からとび出した。
サイドカーが数台驀進してきた。カチカチとバルカン砲のターレットが回転する音。
眼で目標を確認。ヘルメットに装着したコードが、ミサイル発射時におれの両眼に映した目標像を弾頭内のコンピューターに伝え、敵がどう逃げようと追尾し破壊する。
ミサイルはサイドカー群のど真ん中で炸裂した。車体がはりぼてみたいに軽々と吹っとび、大地に激突する。操縦者は空中でボール紙の正体をさらし、火に包まれた。
ぐん! と身体が下がった。
操縦桿脇のトラブル・インジケーターが点滅している。くそ、大事なときに!
かろうじて地上一メートルに静止することができたが、じりじりと下降していく感じは確実に伝わってくる。いまのバルカン砲かサイドカーの破片で、高圧空気噴出系統がイカれたらしい。修理キットも組み込んであるが、直してる時間がない。この程度の高さならもうしばらくもつだろうと判断し、おれは一気に、広い道路を目標の建物めざして滑り出した。
メカに負担をかけぬよう、時折推力をおとして着地し、脚力も併用する。ジャンプの要領だ。まるで月面歩行だなと苦笑が洩れる。
闇をすかして、工場の列が見えた。その最遠端が目標の建物にちがいない。背後で銃声をききながら、おれは闇雲にMMUを駆った。
工場群のかたわらで、ぽっと赤い光が点った。
空気を切る音を耳にするより早く、おれは横へとんだ。
大音響が鼓膜を破りかけ、とてつもない衝撃波とコンクリートの破片が一○○キロのメカごとおれを宙に舞わせた。必死の思いで操縦桿を操り、足から着地できたのは奇蹟だったろう。
――いよいよ、しんがりの登場か。
がんがん鳴る脳髄の奥で、おれはぼんやり考えた。
独特のキャタピラ音が三方から接近してくる。グロテスクな鋼鉄の車体と、恐るべき破壊力を誇示するかのようにそびえ立つ一二〇ミリ砲身が、ポイントした獲物は決して逃さぬレーザー測距器を眼に、闇を押し分けて現れた。日本兵器廠=四菱重工の精華、八九式中戦車だ。七五〇馬力、全重量四〇トンの巨体は時速六五キロで疾走し、逃げ遅れた敵をひきつぶす。深さ四メートルまで渡河行動が可能。赤外線暗視装置によって夜間戦闘にも無敵を誇る。
砲塔脇の十二・七ミリ機闘銃が吠え、猛烈な破壊がおれの周囲を包んだ。ヘルメットやフードにコンクリートの破片があたって固い音をたてた。
白煙の間を縫って五条の火線が走った。
全長二〇センチの火矢は、八○ミリの砲塔前部装甲を貫き、鋼鉄の城を炎と油煙の死と変えた。
だが、戦果を確認しながら、おれは眼を見張らねばならなかった。炎の幕を突き破るようにして、中央の戦車が無傷の姿を見せたのだ。
まさか、と思う暇もなく、操縦桿を握った手が反応する。
真横へ飛んだ、と思った瞬間、眼の隅に爆光が閃いた。とっさにMMUを反転させなかったらどうなっていたかわからない。きりきり舞いしながら地べたに叩きつけられ、それでも失神は一瞬だったようだ。幸い一〇五キロのMMUは身体の下にあり、ひどく熱かった。
肩ベルトをはずしてはね起きると、全身打撲の痛みで眼がくらくらした。だからといって、敵は待っていちゃくれない。おれはふらつく身体に鞭打って、MMUから離れた。
近づきつつある戦車は勝利者特有の残忍な笑みを浮かべているように思えた。
いや――バック・パックをおろしながら、おれは見間違いではないかとがんがん鳴る頭を思わずふった。
一〇メートルほど向こうで戦車が笑ったのだ。車体前部にいやらしい亀裂が一文字に走ったと思うと、その周囲に唇の厚みが盛り上がり、ニヤリと笑った口元からは鉛色の鋭い牙がのぞいた。
NYの駐車場の悪夢が脳裡を横切った。
びちびちと音をたてて、軟泥状に溶け歪んだ砲塔や車体から糸状の触手がとび出し、したたる燐液で地面を濡れ光らせつつ、おれの方へ這い寄ってきた。その先端でまばたく血走った瞳を見た刹那、おれは凍りつきかかった。
だが、茫然としながらもトレジャー・ハンターの闘争本能は失っていなかった。だからこそ、いかなる死地からもおれは生還したのではなかったか。
バック・パックから、紙製の七五ミリ・ハンド・バズーカを取り出し、ロケット弾五発をセットした|挿弾子《クリップ・マガジン》を上端の装入口へ押し込む。点火装置の作動する金属音が天井の音楽のようだ。肩に抱え、左手で戦闘服の胸に光るヌビア・モンの護符を握った。
全身に力がみなぎった。いかなる妖魔も必ず倒せるという確信が神経電流と化して四肢を駆け巡り、血管に情報を送り込む。化け物が人間さまに勝てるものか!
青黒い触手だか蛆虫だかわからない紐の眼がおれをとらえ、吐き気を催しそうな臭気が四方からどっと躍りかかってきたとき、おれは発射ボタンを押した。まだ安心できない。もう一発!
ワン・テンポずらして炸裂したロケット弾が見事に効果をあげてくれなかったら、おれは臭気で窒息、ぬらぬら触手の不快感で発狂――二度死んだかもしれない。
大地を揺すぶる轟音が途絶えたとき、黒魔術で偽りの生を受けた中戦車は、鉄板の裏側に肉と腱をこびりつかせた臓腑を周囲にばらまいたまま、原形をとどめぬ残骸と化していた。口惜し気に閉じられていく眼と触手が散乱する足元に、どうやらディーゼル・エンジンの面影を留めた「心臓」がころがり、なお未練げに収縮しては、ちぎれたオイル・パイプ=血管から血のような油のような液体をぴゅうぴゅう噴き出しているのを見て、おれは必死に吐き気をおさえた。
身体じゅうに巻きついた触手を引きちぎって立ち上がる。ふと、戦車の筋肉とか胃とかいうのも、どこかの医学研究所じゃ大変な宝になるんじゃないかと思ったが、拾う気はしなかった。
「お見事だ、実にお見事だ。感服するしかない」
どこからともなく蒼の声が湧いた。
「ここまではぼくの負けだ。素直に認めるとしよう。だが、まだ難関は残っているぞ。正直いって、君を守る力に対し、ぼくの術は力不足だ。だから今度は、君自身[#「自身」に傍点]の力に訴えかけようと思う。入りたまえ」
前方の工場の扉が音もなく開いた。どうせろくでもない歓迎が待ち構えてるんだろうが、ここまで来てさよならするわけにはいかない。
おれはハンド・バズーカをスリングで肩に吊り、G11を構えた。
ちらりとMMUに眼を走らせる。もったいないことをしちまった。
経済的感傷をふり捨て、おれは足早に広場を横切った。
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第八章 黙示の語るもの
記憶によれば、この建物は来客用のオフィスである。
一歩足を踏み入れた途端に明かりがついたので、おれは痛みをこらえながら、周囲を見まわした。さほど広くはないが調度の整ったロビーだ。昼間は受付の美人案内係が笑顔で迎えてくれるにちがいない。
「ようこそ」
案内係のデスクで見馴れた美女が微笑んでいた。これでボール紙じゃなければ、この場でデートの約束をするんだが、
「今度のお相手は私よ」
「ほう。一夜をともにするお相手かい?」
「ご希望とあれば。お教えしときますけど、みなはこの階の一番奥の部屋にいるわ」
艶然と微笑み、ルースは優雅な足取りでおれに近づいた。
あまりの大胆さに、ほんとは人間じゃないのかって疑問が胸をかすめた。
これが命取りになった。
戦う決心がつかぬ数分の一秒の間に、ルースはその熱い両腕をおれの首にまわし、ぐいと豊かな乳房を胸にこすりつけた。
あっ、柔らか! と思ったとき、おれはくしゃくしゃに丸めたボール紙の顔と対面していた。ほんの一瞬、美女の口元に微笑とも哀しみともとれる翳がかすめたのだが、おれには区別がつかなかった。
そしてルースの身体は爆発した。
多分、リモコン式のダイナマイトだと思う。衝撃自体はそれほど凄くなかったし、破片も戦闘服が食い止めてくれた。しかし入り口まで吹っとばされ、ようよう起き上がったおれの胸にヌピア・モンの護符は下がっていなかった。爆発でけしとんじまったのだ。それがルースの役割りだったと気づいても後の祭りだ。
口借しまぎれに、爆発でひっくり返ったソファを蹴とばしてうさを晴らし、おれは奥へとつづくドアに向かった。
廊下に出た。
五メートルほど先におかしな奴が立っていた。
宇宙服かなと思ったがゴツすぎる。小さな|要塞《トーチカ》にゴーグルつけたみたいな格好の頭部、ボディ・ビルダーに西洋騎士の鎧を着せたかと思われる四肢の形状――どうみても、人体の骨格と筋肉を思いきりデフォルメした組み立てキットだ。天井の照明が、グロテスクな金属塊の影を床に落としている。
「止まれ」
おれはG11を構えて命じた。そう言いながらおれ自身、あんまり効きめはなさそうだなと思ったくらいだから、敵も止まるわけがない。
念のため、セミ・オートで足を狙った。小気味よい反動。スポーツ選手の膝当てパットみたいな関節部装甲の上で、小さな火花と美しい金属音がはじけた。横手の窓にひびが入る。はね返った弾頭の仕業だ。
ようやくおれも正体を察した。
戦闘用|強化服《パワード・スーツ》だ。
早い話が、超強力なロボットを人間が着込んだ[#「着込んだ」に傍点]と思えばいい。内側にいる人間の動きを、電子メカが増幅した形で服に伝えると、例えば、軽いパンチを出しただけで、世界最強のプロレスラー、あのアンドレ・ザ・ジャイアントどころか、アラスカ|羆《ひぐま》の骨格さえバラバラにすることが可能になる。増幅率を高めれば、着装した五歳児がビルひとつ、丸ごと素手で倒壊する芸当さえやってのけるのだ。まずアメリカ軍が設計に着手し、七〇年代で中止されたと思われていたが、四菱重工が実現させてるとは知らなかった。
こりゃ、いかん。
おれは素早く、手近のドアを開けて中へとびこんだ。広いオフィスだった。人っ子ひとりいない室内に机と椅子が整然とならんでいる様はこれで結構不気味だ。G11を肩にかけ、ハンド・バズーカをおろす。
四・七ミリ高速弾なんて、豆鉄砲以下だ。
派手な音をたててコンクリート製の壁が崩れおち、強化服が侵入してきた。ドアをぶちこわす方が安上がりという頭がないところからみて、入ってるのはボール紙人間殿にちがいない。なら遠慮はいるまい。
マジック・ハンドみたいな指先で、重いスチール・デスクを軽々と放りながら近づいてくる戦闘服に、おれは七メートルの距離からロケット弾を叩き込んだ。さすがの怪物マシンも衝撃でへたり込む。起き上がるところへつづけざまに二発。近くの壁は吹きとび、蜘蛛の巣状の亀裂が天井を走った。天地は炎と轟音で満たされた。
おれは煙を上げはじめたハンド・バズーカを捨てた。もともと厚紙に特殊コーティングを施しただけの使い捨て兵器だから、五発分の耐久力しかない。
もう起き上がってくるな、と念じた。無神経な奴を相手に闘うボクサーの心境だ。
あっさり裏切りやがった。
メカだけあって、よいこらしょとは言わないが、そんな格好で立ち上がるや、かたわらの半分溶けかかって炎を噴いてるデスクをつかみ、おれめがけて軽く投げつけた。
弾丸に等しかった。
反射的に身を屈めた頭上で風がうなり、デスクは鋭利な刃と化して、コンクリートの支柱に食い込んだのである。
声にならない悲鳴をあげて、おれは床を走った。部屋に入ったとき、通路の位置はすべて記憶してある。その背後で床に椅子がめり込み、デスクとデスクがぶつかっては形も留めぬ残骸と化した。
必死でデスクの間を駆け抜けながら、おれは小脇に抱えたバック・パックから|携帯用発電器《コンパクト・ダイナモ》をつかみ出した。ロケット弾の衝撃と熱波に耐えられる相手に効くかどうかわからないが、残る手だてはこれしかない。耐電機構も備わってるんだろうが、おれの発電機は最高三〇万ボルトまで出せる。一か八かだ。
おれは放電ジャックをエネルギー・ソケットに突っ込み、強化服の攻撃を誘うべく立ち上がった。
距離は三メートルもない。
マシンの手がデスクにかかる。
おれはジャックの先端をそのデスクに押しつけた。
人間ロボットはわなないた。デスクから手を離してよろめくところを、おれはデスクにとび乗り、奴の頭部に放電攻撃を加えた。装甲部表面に稲妻が走り、関節部から黒煙が上がった。紙の焼ける匂い。豪腕の一撃も怖れず、おれはジャックをあてがいつづけた。
音をたてて頭部が前方へのめり、怪物は直立姿勢を死に体に選んだ。
えらい手間をかけやがる。
おれはジャックを引っこ抜き、発電機もろともバック・パックにしまうと、廊下へとび出した。
邪魔は入らなかった。
廊下の端についたドアに辿り着くまで、走って三分もかかった。大企業てのは無駄な真似しやがる。
ドア脇の壁に張りつき、内部の気配を吸収しようとしたがうまくいかなかった。全身ガタガタのせいか、いくつもの気配が入り乱れてるとしかわからない。
何はともあれ、ここが最後の|戦場《ハルマゲドン》だ。
片手でG11を構え、ドアのノブをつかむ。
一気に押し開けた。
顔の両脇でバンバン! と火薬が炸裂した。
光のシャワーと陽気な笑い声。
パーティ・クラッカーからとび出した紙テープを払いおとしながら、おれはあっけにとられた。
「わー、来てくれたの、大ちゃん。待ってたのよォ!!」
タキシードとイブニング姿の男女を押し分けて、シャンペン・グラス片手のゆきが駆け寄ってきた。これまた、黒い絹に銀砂模様をあしらった大胆な胸ぐりのドレスで、乳房のふくらみが三分の二近く露出してる。
おれはきょとんとすると同時に生唾を飲み込んだ。
「はい、これ飲んで。駆けつけ三杯――なによ、こんなギャングみたいなマスク。とっちゃえ」
口もとへ突きつけられたシャンペン・グラスを受け取り、不承不承マスクを取りはずしておれは周囲を観察した。
大ホテルのロビーくらいあるホールに、虹テープやムード照明ランプが所狭しと飾りつけられ、豪勢な料理と酒を並べたテーブルの間を、各界の名士といった顔の老若男女が往き来している。礼儀はわきまえてるらしく、ほとんどは知らん顔だが、さすがに何人かは横眼でおれの様子をうかがっていた。
無理もない。身体じゅうに手榴弾や弾倉をくっつけ、脇の下には拳銃、両手にゃ突撃ライフルを構えた黒ずくめの若造じゃ、場違いの登場人物だ。おれの戦闘服姿に馴れてるゆきが一番で見つけてくれなかったら、政財界のパーティ会場に乗り込んだゲリラ隊員に見えたかもしれない。
「なんのパーティだ、こりゃ?」
おれはぼんやりと尋ねた。ゆきのさし出したグラスは置き、派手な眼鼻立ちの女がテーブルに戻したばかりのシャンペンを、ゆきが飲んでるグラスに足して拝借し、一気にあおる。サイダー程度の刺激しかないが、少しは人心地がついた。
「なにさ、あたしのもってきたグラスに毒でも入ってるというの? ふん、嫌みったらしい」
ゆきの怒声にああと答え、おれは、ホールの端にある舞台に眼を注ぎながら訊いた。
「パーティの名目は何だ? いつからやってる」
「あたしたちの婚約披露パーティに決まってるじゃないの。ただし今日はおえらい[#「おえらい」に傍点]さんばっかよ、通産大臣だってきてるんだから。――なのに、三〇分も遅刻してきて、馬鹿」
おれは苦笑した。外の戦争に、こいつら全く気づいていないのだ。防音装置と蒼の魔術の力だろう。甘ったるいムード・ミュージックのせいもあるかもしれない。
「招待状をもらってなかったもんでな」
「あっ、ごめん。あたし今朝持ってったんだけど、渡すの忘れたの。だって、大ちゃんあんな激しいことするんですもの。電話掛けようと思ったら、蒼くんが、もう随分前から[#「随分前から」に傍点]連絡済みだって言うのよ」
「ああ二〇〇○年も前からな」
おれはつぶやき、蒼と岩代の姿を探したが、見つからなかった。舞台裏で何か企んでやがるんだろう。しかし、えらい|最終戦争《ハルマゲドン》があったもんだ。
おれはきらびやかな会場を一瞥し、奥の方にある出入り口を確認した。なるほど、「岩代洋介・太宰ゆき婚約披露パーティ会場」となってる。招待客はそっちから出入りしたのだろう。
ゆきの知り合いらしいどっかの御曹子風のフーテン男どもが何人か話しかけてきたが、おれは適当に馬鹿話をして追っ払った。この先またドンパチが始まったら、こいつらの面倒もみなくちゃならねえのか。おい、ユダさんよ、いい加減にしてくれ。
唐突に、ざわめきが止んだ。会場の全意識が絡み合いながら一点に集中する。
舞台の真ん中にタキシード姿の蒼が立っていた。陰気な顔に精一杯の笑顔を――といいたいが、こりゃ自然にこぼれる笑いだ。
「本日はまことにようこそ、若い二人のためにおいで下さいました」
声まで年相応にはずんでる。客たちは憮然たる表情だ。十六、七の餓鬼が司会をやるとは思わなかったんだろう。ヒソヒソ話し合ってるのは、岩代の方の親戚知人に違いない。
「まあ、蒼くんなんか出して、あのひとどういうつもりかしら、探してくるわ」
行きかけるゆきの白い肩をつかんで、おれは蒼の話をきけと促した。
「余興をご覧に入れる前に、不肖わたくし、岩代洋介の友人代表・蒼竜二から、ひとことお知らせしたい儀がございます」
ほお、という関心に満ちたささやきが会場を走った。全員が、蒼の持つ特異な雰囲気に呑まれかかっている――魔術師の妖気に。
「みなさまの中には、なぜ、このような場所で目出度いパーティを開くのかとご不審な方もおいででしょう。いままで明らかにしませんでした無礼をお詑びするとともに、たったいま、詳しい事情をお話ししたいと思います。まず、これをご覧下さい」
背後のカーテンが音もなく左右に分かれ、その中にうずくまったものへ全員の視線が釘づけになった。次の瞬間、あちこちから失望の声が洩れるのを、蒼は両手をあげて自信たっぷりに押しとどめた。
「話は最後までおきき下さい。そうせっかちとは、大四菱の枢軸を成す皆様方とも思えません。この、どこにでもあるようなコンピューターが、今宵、実に驚嘆すべき事実を我々に告げてくれるのです。すなわち、大四菱の正統なる後継者・岩代洋介くんと太宰ゆきさんのカップルが、二〇〇〇年以上も前から結ばれる運命にあったことを――」
会場を覆うどよめきとわずかばかりの失笑の中で、もうひとりのおれが首をふっていた。おれ自身にも、台の上に乗ったありふれた小さな事務用コンピューターの背後に、とてつもなく巨大で精巧な超LSI集合体の存在がひしひしと感じられた。一万ギガバイト以上の記憶容量を保持し、推論すら可能な第六世代コンピューター母機の影が。
「実証の前に、みなさんに紹介しておくぺき人物がひとりおります。なんとなく場違いな気がしないでもありませんが、ミス・ゆきの友人代表――|八頭大《やがしらだい》さん!」
無数の視線がおれに集中し、まばらな拍手が起こった。異物をどう扱っていいのかわからないんだろうが、お疲れさま。
「彼はあとで、重大な役を果たすことになります。よく顔を覚えておいていただきたい。――さて、ミス・ゆきは皆さまのお相手をしておることですし、二人そろってのご挨拶はとうに済んでおりますため、これから、この大いなる奇蹟に最もふさわしい[#「最もふさわしい」に傍点]人物を招き、皆さまを驚かせたいと存じます。――では」
舞台の袖に手を差し出すと、現れたのは何のことはない岩代洋介だった。タキシードに身をかためたところはやはり大四菱の坊っちゃんらしい風格があるが、その表情は、おれが見た中で最悪の疲れを示していた。他の連中も気づいたか、みな拍手しながら耳打ちし合ってる。
「うーん、もう。もっと、しゃきっとしてよ。そんなことだから、あたしの裸みても手え出せないのよ!」
ゆきが憤然と、とんでもない発言を行った。
「では、例のものを」
さし出された蒼の手に、岩代はタキシードの内側から黄ばんだ雑巾みたいな本を取り出して手渡した。むろんユダの黙示録だ。
「かつて、この惑星の上、ベツレヘムという名の村に、ひとりの赤子が誕生いたしました」
蒼の声音から、座もたせの口調が完全に消え去った。
「彼は、ある遠大な目的をもち、数々の奇蹟を行って人びとの信望を得ました。しかし、その過程で、実に驚くべき力をもった『敵』に遭遇したのです。敵は、彼とは全くちがった奇蹟の能力をもつ超人間でした。その洞察力は、遙か人類の未来を見通すばかりでなく、未来すら変える――つまり、完全にとはいかぬまでも、彼の望む未来を物理的・現象的に実現させることができたのであります」
誰かが爆笑するかと思ったが、会場は水を打ったように静まり返っていた。蒼に呑まれているのだ。
――よく知ってやがる。さすが『彼』ないし、『彼』の親類だとおれは感嘆した。
「しかし、彼にとって、その未来は好ましいものではありませんでした。いや、それどころか、彼の目的の遂行にとってはあってはならぬものでした。なぜなら、彼の目的とは、この地球における人類の未来の可能性すべてを拭い去ることだったからであります。彼は『敵』の前で意図的に奇蹟を行い、いつわりの聖者たる姿を植えつけ弟子にいたしました。そして、言葉巧みに彼の予見した未来を明らかにしたうえで、その改変に着手したのであります」
ゆきがおれの肘を掴んだ。蒼が事実を語っているのだと理解したのだ。会場の空気は微動だにしない。
「質問があるんだがね」
おれは大声で言った。蒼はにこりと笑って、
「そう来る頃だと思っていましたよ。『彼』の正体は何か?――ですね。――もうご存知なのではありませんか。
イエス・キリストは、二○万光年の彼方から人類の可能性を摘みとるべく派遣された尖兵でした。なぜ、そのような真似をするのか星々の意図はわかりません。イエスが布教により何をたくらんでいたのかも今では知り得ようがありません。ですが、ユダの力に気づいた時点で、彼がその予言を利用したことは事実のようです。ぼくにはわかります[#「わかります」に傍点]。彼は最も確実な人類抹殺の方法――未来の可能性破棄を思いついたのです、と」
ここで蒼はひと息入れ、黙示録を取り上げると頭上に高々と掲げた。
「これが、人類の未来のすべてです。師イエスの正体に気づいたユダは、なんとか彼の歴史への介入を食い止めようとしました。ふたつの相反する『意図』が歴史上分一点でぶつかり合い、やがて、その決着は双方の歴史への留まり方で着くことになりました。すなわち、イエスの『聖者たる死』とユダに与えられた『永劫なる裏切り者の烙印』であります」
ひときわ高まる蒼の声に、岩代の肩がびくりと震えた。おれの胸で、もうひとつの疑問が形を取り始めていた。以前調べた岩代の細かい経歴……あれは?……ひょっとしたら?……
「これ以上、ぼくの口から申し上げることはありません。すべては、この一冊の本――ユダの黙示録に記されております。二人の超自然能力がぶつかり合い、その結果決定した未来。それは、ユダのもたらす『朗報』でしょうか、イエスの意図した『絶望』でしょうか」
蒼はちらりとおれの方を眺め、岩代を促すように後方へ下がった。
岩代の手がかたわらのコンピューターにふれると、ディスプレイが点滅し、プリンターは茶色の用紙を吐き出した。
「……我、ここに予言す。されどこれ、我ひとりの予言にあらず……」
用紙を手にした岩代のくぐもった声が、どこかにあるマイクを通じてホール中に響いた。
「……我、ここに記す……聖都エルサレムで予見せし人びとの事ども、人びとの未来を……。
我、幼き頃より未来を見、つくりし力[#「つくりし力」に傍点]あることを知る。ただひとり、この力及ばぬものは我が師なり。彼はこの世界に属さぬものか。それを明らかにすべく、我、弟子となれり……」
岩代はここでひと息ついた。
「ヨルダン河原の星美しき晩。師イエス、我の予見せし未来の記述を見ながら、笑いていわく『これ、我の意図せし未来とは異なる。改変すべし』と。我、驚きて問うに『|汝《な》が時の彼方を見る力怖るべし。よって、弟子のひとりに選びたり、我が知らぬ所で未来を決めらるるを怖れるが故。我、彼方の星の奥、光に乗りて飛びても、年を二〇万重ねねば着かぬ場所より来たり。この星のマリアなる女の胎内に入りしときも、故郷の記憶、我が目的を忘るることはなし』
その目的とは、と問いしに、『あらゆる星間文明の抹殺なり。汝が未来を見、ある考えを得ん。すなわち、未来の可能性を奪い、破滅への必然を歴史に植えつけん』
高らかな哄笑に、我、師の正体を見ん。このとき、サタン我が体内に入りしか。我、師を敵に売らんことを決意す。
翌日より、すでに予見せし未来、わずかずつ変化を来す。
ローマ帝国を栄光に導くべき七名の賢き帝[#「七名の賢き帝」に傍点]はなく、帝国の首都ローマは、九五六に滅ぶ。我、力を尽くし、七を五賢帝とし、滅亡をふたつに分け、それぞれ西を四七六、東を一四五三まで修正す」
おれはうなずいた。それがおれたちの歴史の数字なのだ。東西に分裂したローマ帝国の滅亡の年。
「……イエルサレムにおける十字の紋章を持つ平和使節歓迎の式典[#「十字の紋章を持つ平和使節歓迎の式典」に傍点]と、ふたつの宗教の永劫融和の宣言は、反対する者の虐殺により時の果つるまで行われずと改変さる。我、十字の紋章の軍隊の遠征と宗教の交戦には手を下せずも、未来における友好と平和の可能性を残すことに成功せり……さらに『改変』されることを恐れ、以下、わが修正のすべては暗号にて記さん」
岩代の口を借りて、二〇〇〇年前の大予言者――いや、偉大なる透視能力者というべきか――は、次々に驚くべき真相を明らかにし、おれはそのすべてをおれたちの歴史に当てはめていった。
予言:一五〇〇年、ピルグリム・ファーザーズ、北米大陸へ上陸、インディアンと友好条約を結び、文明と野生的平和の理想的開拓を推進、改変:一八五五年、北米大陸へ侵入したピルグリム・ファーザーズは、連発式ライフルをもって、五年のうちに、あらゆるインディアンを殲滅。独裁国家を打ちたてる。修正:一六二〇年、ピルグリム・ファーザーズ、プリマスヘ上陸、インディアンと抗争、平和調停を繰り返しながら、アメリカを開拓していく。
予言:一六五○年、イギリスにて、ジェームズ・ワットの電気推進船完成、同年、原子エネルギーの開発に成功、第三ロンドン市庁舎一〇五階にて、全世界原子力利用者平和調停が結ばれ、原子力管理はヨーロッパ連合に一任される。改変:一九○一年、イギリスにて、ジェームズ・ワット、車輪を考案、荷車、荷馬車の利用が本格的となる。これを第四次産業革命と呼ぶ。修正:一七六五年、ジェームズ・ワット、蒸気機関を改良、イギリス産業革命の口火を切る。
予言:一八○○年、日本が中心となり、京都に全地球連盟設立。恒久の世界平和と原子兵器破棄条約を締結、第二次原子力戦争に突入寸前のヨーロッパ2とアジア決戦隊の戦闘を食いとめる。改変:二〇〇一年、日本の京都にて開催の太平洋分割会議に核爆弾が投下され、日本とアメリカとソ連、ヨーロッパ諸国に宣戦布告。修正:一九四一年、日本軍、ハワイの真珠湾攻撃、太平洋戦争勃発す。
動くものはなかった。淡々と語られる予言の恐ろしさに、みな凍りついていた。二〇〇〇年の昔、人類の運命をかけて、ただひとり異星人と戦った孤独な超能力者を想い、おれは胸の中で手を合わせた。その報酬が永遠に晴れぬ汚名であることも、彼は知っていたのではなかろうか。
「さて、いよいよ人類の最終的運命を告げるときが来たようです」
蒼の嘲るような声が言った。
「その前に、ひとつ決着をつけねばなりません。ぼくはある人物と戦ってきました。みなさんの運命に関する最後の、巌の如く揺るがぬただひとつの予言を告げる前に、彼と戦い、生と死を分かつ必要があるのです――おききなさい」
床にあふれだしたプリント用紙の端を引き破ると、蒼は歌うように読み始めた。
「主と我の力、互いに拮抗し、最後の勝負はつかず。すなわち、人類の滅び去る年についてなり。
ここに至りて、我、主と話し合い、その運命の年を二〇〇○年後と定めり。この年、我が予見によりても、人類の最大の危機、到来す。正と負のエネルギー波動相闘い、混沌として予見利かず。以後の予見、その結果をもって大いに異なれり。ゆえに、我と主、この年を運命の年とせん。すなわち、互いに戦士を選び、彼らの勝敗をもって、世界の運命を決す。我が戦士敗れしとき、大いなる火の玉虚空にて炸裂し、海、陸のすべて煮えたぎり、家、人のすべて炎に包まれん。毒をはらみし空気永劫に晴れることなく、地下に隠れたる少なきものどもも、太陽の恵みをしらず死に至る……」
冷えきった無惨な沈黙の中で、おれはようやく悟った。これは黙示録なのだ。そして、阿呆な超大国は、大いなる火の玉を生み出す兵器を、地下に隠したサイロから撃ち出そうとしている……。
「……師の選びしもの敗れしとき、人類の最後の年は、我が予見に従いぬ。されば、我が選びし戦士は、二〇〇〇年ののち、この書に対し、あくなき欲望を持つ若者なり。欲望はすなわち最効率の生存エネルギーと化し、彼を戦いに没頭せしめん。また師の選びしは、殺人をなりわいとし、若者の生命のみを狙う邪悪の徒。これも適切な選択なり。――二〇〇〇年の月日を経て我は祈る。運命の日付は、戦いの終わりしとき、わが書の最終ページに示されん。戦士よ、未来のために、必ずや勝利せん」
そして、蒼のさし示した黙示録の最後のページは空白だった。
右手奥の方から、低い唸り声がただよってきた。人びとを押し分け、セントバーナードの巨体が進み出た。CZ75の九ミリ弾にえぐられた左眼は赤黒い空洞と化し、残された眼よりも凄まじい憎悪と怨念がおれを焼き殺さんと吹きつけてきた。
「師イエスが選んだ、おそらくは最後の戦士です」と蒼は言った。「人類の運命をかけて戦うがよろしい」
おかしな|最終戦争《ハルマゲドン》があったものだ。
「大ちゃん……大丈夫?」とゆきが情けない声を出すのを横へ押しやり、
「よくきけよ、スコット」とおれは五メートルほど前方に停止した巨犬に向かって[#「巨犬に向かって」に傍点]言った。
「おれたちは二○○○年前に、今日のために選ばれたそうだ。だが、おれはそんなこと信じねえ。人間の運命なんてな、人間自身が決めるんだ。おれたちが、自分の意志で泣いたり、笑ったり、怒ったりしながら、明日を決めるのさ。それがおれたちの運命ってやつで、神さまや予言者や地獄の悪魔だってちょっかいは出せねえんだ。そんなこと認めたら、これまで人間が努力して築いてきた人間自身の歴史はどうなる? より高いもの、より崇高なものを求めてきた思想は? 自分とは関係も責任もない戦争に駆り出され、苦痛と血にまみれながら親や子供や兄弟にだけは平和な明日がくるように祈りながら死んでいった、世界中の男や女に何て言い訳するんだ? おれたちはまだ愚かなことを繰り返すだろうよ。だが、いつかは――いつだかわからねえが――いつかは、求めてた明日がくる。神様の世話にも、超能力者の世話にもならねえ。そんな日が来るとしたら、それは、おれたちが喚んだんだ」
おれはG11をそっとおろし、見覚えのある指輪をはめた[#「指輪をはめた」に傍点]セントバーナードの足元に投げた。
「“勝負を決めるものは、炎の国にては、火花散る糸より火を噴く棒”――多分、こいつのことだろう。おれは使わねえよ」
「愚かな真似はよしなさい。八頭くん」
蒼のあわてた調子に、おれはほくそ笑んだ。
「黙示の予言はすべて成就されてきた。それは判るだろう。だからこそ、君もここへ来たんじゃないのか」
「残念でした。おれはおまえや犬と喧嘩しに来たんじゃねえ」
「そうよ、そうよ」とまだ事情がよく呑みこめてないゆきが口を出した。「大ちゃんは、あたしたちのパーティに来てくれたんだからあ」
「それも違う」
「む」
本当は、少しばかり、おまえのことが気になったんだが、口に出したら一生なめられる恐れがあるからな。
おれは静かに、断固たる決意を秘めて言った。
「黙示録をもらっていくぜ」
「愚かな。死ぬまでわからないのか」
ふたつの怒号が重なった。蒼と巨犬の。
男女の絶叫。
宙をとぶ巨体から間一髪で身をそらし、おれは舞台めがけて突進した。
蒼の右手が動いた。
冷気に心臓をわし掴みにされ、おれは膝をついた。眼の前が真っ暗だ。くそ。CZ75か手榴弾をと思っても、身体の自由は奪われていた。
背後から不気味な唸りが近づいてくる。
悲鳴が入り乱れた。
銃声。
すっと呪縛がゆるんだ。周囲が赤い。コンピューターが火を噴き、青白いスパークが四方に飛んだ。“炎の国にては――”
ふり向くと、五〇センチと離れていないところに裸の男が倒れていた。スコットだ。駐車場で犬がはめてる指輪に気づくまで、こいつに変身能力があるとは思わなかったぜ。舞台の上がり口でゆきがG11を構えていた。九ミリ高速弾はスコットを貫通し、延長線上のコンピューターまで撃ち抜いたのだ。余計なことしやがる。これで四菱の嫁の座はパーだ。おれなんぞ助けて、この阿呆娘。ユダの声が甦った。“美しき淫婦はすべてを失わん”
おれは立ち上がった。
「やはり、火の棒が決めたようですよ。しかし、ゆきさんの役目[#「役目」に傍点]があなたを救うことだとは思わなかった。生かしておいたのは計算違いでしたね」
蒼が冷たく言った。
「私が予言を完全に[#「完全に」に傍点]してあげましょう。火花散る糸でね」
火を噴くコンピューターがわななき、ごぼっと喉を鳴らすやプリント用紙を吐き出した。
かわりに火花散るワイヤがのびてくる。
逃げようとしたら、また心臓がギュッ。リモコン・マッサージ師か、こいつは!
「これで終戦ですね」
笑い声が遠くで聞こえた。
銃声。
おれは眼を剥いた。ワイヤは靴先一セソチで静止している。
蒼が腹をおさえ、ゆっくりと床へ膝をついた。
やっぱり、という表情で岩代を見つめる。四菱の後継者の視線は、右手の小型拳銃におちていた。
「最後で裏切ったな……お前は……やはり……永遠の……」
頭を垂れ、祈るような姿勢で声は途切れた。会場がざわつきはじめた。何人かが舞台へ駆け上がる。
死人に用はない。
おれは夢中で蒼の足元に広がった黙示録へ駆け寄った。最後のページをめくる。
「大ちゃん、火事よ!」
ゆきの声より頭の上の熱気で気づいた。コンピューターの放った火花が、舞台のカーテンに燃え移ったのだ。誰かが消火器と叫んでいた。
「頭の上!」
ゆきの叫びにおれは横へとんだ。火花を散らして燃えさかるカーテンが落ちた。黙示録の上へ。
おれは動かなかった。理由は――わからない。
悲鳴と足音が入りまじる会場へ戻った。
舞台を見た。
ボーイや親戚たちが放心状態の岩代を連れ出すところだった。
「おい」とおれは呼びかけた。虚ろな表情が、それでもおれの方を向いた。
「おかげで助かった。おまえは決して裏切りものじゃねえ」
岩代の唇が笑ったような気がしたが、すぐ連れてかれちまった。
おれは、奴の横面を張った女の顔と、奴の素行に関するデータを思い浮かべた。
岩代の生まれた故郷が蒼の眼と鼻の先だったからといって、小さい頃から、友人や恋人を裏切ってばかりいたからといって、奴がユダの生まれ代わりだったことにはなるまい。少なくとも、おれは奴に助けられたことを忘れない。
「ねえ、婚約破棄の場合、精神的肉体的慰謝料はどうなるの?」
足早にホールを出ながらゆきが訊いた。
「あきらめろ」とおれはあきれ返りながら言った。「おまえに四菱の嫁なんて、所詮柄じゃなかったんだ。毎晩岩代を責めて男の出がらし[#「出がらし」に傍点]にし、まわりの連中に総出で追い出されるのが関の山さ」
「なにさ、その言い草。あたしの寝姿が覗き見出来なくなったもんで、ヤキモチ焼いてたのね。ふんだ、これからは鎧着て寝てやるからっ」
「なに? おまえ、またノコノコおれんとこへ戻ってくる気か、この出戻り女。恥を知れ、恥を」
「うるさいわね、この墓泥棒。あんたみたいなフーテンは、あたしみたいなしっかり者がついてなきゃ、いずれ後ろに手がまわるのよ。断っときますが、立場上、あんたはまだあたしの保護者なのよ。体よく追い出して責任逃れをしようったって、そうはいかないんだから」
やれやれ、戦車に食われた方がよかったな。
とにかく、おれたちは無事御殿場を脱出した。
それからひと騒動起こってもちっともおかしくないはずなのだが、後始末は、茶飲み話にふさわしい春の日のごとく平穏無事についた。
新聞の片隅に、四菱重工御殿場工場の一角でボヤと報じられたきり、警察もマスコミもすべて沈黙したのである。おれと四菱側がそれぞれ手を打ったおかげだ。それと――こいつはどちらのせいでもないが、ヨーロッパの核戦争は突如、和解が成立し、全世界のマスコミは数日、開いた口がふさがらなかったらしい。
少しして、おれは岩代が社長の座を降り、ヨーロッパへ留学したという風の便りをきいた。ゆきのところへは、とうとうひと言の挨拶もなしだった。おれもルノワールを手に入れ損なった。
失礼しちゃうわねえ、五回はディープ・キスさせてあげたんだから、と電卓片手に慰謝料の計算に励むゆきをなだめすかし、おれは火に包まれる寸前、かろうじて眼にとめた黙示録の「数字」に思いをはせた。
一九九
ここまで読みとったとき、炎が二〇〇〇年の風雪に耐えた紙を焼いたのだ。
蒼竜二ならどう解釈するだろう。
人類の終焉は、一九九年後に訪れるのだろうか。
それとも一九九〇年か。
いや、もうひとつある。
「一九九九[#「一九九九」に傍点]の七の月、空から恐怖の大王が降ってくるだろう」
ノストラダムスはやはり正しかったのかもしれない。
だが、おれにはどうでもいいことだった。信じやしないからだ。ユダの予言は確かに的中した。
「過去」だけは。
「おれたちの未来」のことまで正しいという保証がどこにある。それは、おれたち自身がつくるおれたちだけのものだ。その一点にのみ、おれたちは責任を負うだろう。
御殿場での事件から数週間後、学校から戻ると、ゆきが応接間にぼんやり突っ立っていた。眼の前に積まれた荷物を見て、おれは愕然となった。こいつの処分を忘れていたとは!
気配に気づいたのか、ゆきがふりむいた。
手に便箋らしいものを握っている。その後ろに、桐の箪笥、純白の花嫁衣裳、ジバンシーの特注ドレスが一杯のドレッサー、純金の食器と台所用品etc、etc……
鼻歌を歌いながら引っこもうとしたおれの背にゆきの声がきこえた。
「……高輪の家から送り返してきたの。あたしの結婚道具だって、アメリカの叔父さんが届けてきたものだそうよ……あんたって、嘘が下手ね……でも、どうして、こんなことしてくれるの……?」
「おまえは、おれの家から嫁に行ったんだ。だとすりゃ、おれは親父ってことになる。裸で娘を外へ出せるか。世間体ってものがあらあ」
沈黙の合間にしゃくりあげるような音がしたが、それはきき違いだろう。
「……大ちゃん……じゃあ……じゃあ……」
「ん?」
「――これ、みーんな、あたしがもらっていいのね!」
どうして、おれは苦笑を浮かべたきりで済ませたのだろうか。
まるで、ゆきの行動すべてを予見していたかのように。
「エイリアン黙示録」 完
[#改ページ]
あとがき
前から大いにその気はあったのですが、近頃、世界の謎と神秘というか、オカルトに狂っています。
確固不抜と思われる日常生活もひと皮むけば、優しい恋人の口元からは鋭い牙があなたをにらみ、両親は夜ごと奇怪な呪文を唱え、学校の先生は美しい女生徒を生け贄に黒い儀式に熱中している――私はこういう世界が楽しくてたまらないのです。
子供っぽいといわれようが、現実離れと笑われようが、漫画みたいとののしられようが、現実世界のはかなく脆い皮膜の底にぽっかりと開いた黒い深淵を覗き、そこから吹き上がる異世界の風の香りを嗅いでみたいのです。
私たちの意識の可能性をとことん抑圧する、現実という澱んだ檻への呵責なき一撃。これなくして何のSF、何のホラー、何のファンタジーでありましょう。大宇宙の彼方に渦状星雲の運命を想う壮大なイメージも、食事どきの茶碗の陰から自分を見つめる友人の、別の「食欲」を湛えた眼差しに感じる恐怖の悦楽も、せんじつめれば、恐ろしいほど高圧的でそのくせ手ごたえのない日常生活に対する人間の精神の自由、遙かなる飛翔の試みではないでしょうか。
この物語の中にも登場するラウディブ・ボイス研究家のもとへ、NASA(米航空宇宙局)の職員二人が訪れ、実に適切な意見と、研究家自身にとっても興味深い質問を述べていったという事実は注目に価します。月面着陸を敢行し、やがては宇宙ステーションと|月世界基地《ルナ・ベース》をも建造するはずの近代科学の最先端が、死者の声に関心を示す時代に私たちはさしかかっています。そこから生まれる何か、明らかにされる何かは、私たちの|精神《こころ》にどんな衝撃を与え、何を考えさせてくれるのでしょうか。
私はささやかながら、そんな時代の闇の彼方に、人間の精神の広がりを見つめ、物語に留めてゆきたいと思います。
柄にもないあとがきになってしまいましたが、かのジョージ・オーウェルが予言した暗い時代の第一作を書くにあたり、これだけは記しておきたい気がしたのです。
昨年一年間、数多くの方々から激励のお手紙を頂戴いたしました。このあとがきは、そんなみなさんに対する心からの御礼でもあります。
一九八四年二月十一日
「ビデオ・ドローム」を観ながら
菊地秀行
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参考文献
『神の計画書「黙示録」大預言』 神代康隆 学習研究社
『予言書黙示録の大破局』 有賀龍太 ごま書房
『旧新約聖書』 日本聖書協会