エイリアン魔獣境 II
菊地秀行
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目次
第一章 大アマゾン遡行
第二章 ロケット・マン対武装ヘリ
第三章 魔境へ!
第四章 南米トワイライト・ゾーン
第五章 恐竜伝説
第六章 監視者
第七章 超能力者(エスパー)を撃て
あとがき
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コナン・ドイルと
ウィリス・オブライエンに
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第一章 大アマゾン遡行
まさに晴天の霹靂といえた。
一瞬、「アルゴー号」の船長を殺したのはベロニカじゃないのかと考えたほどである。
だが、毒々しい赤のルージュを塗りたくった唇は確かに、おれに会いに来たと言った。このホテルを知っていたことになる。昨夜、おれを襲った機密部隊の連中が、裏街の迷路でおれを捕捉したのと同じように。
もうひとり尾けてきたのがいたが、こちらはすぐ人違いとわかった。ベロニカも激烈な訓練を受けてはいるのだろうが、全身から漂う気魄が違う。あれは男の気配だ。
「何の用だ?」
背後にゆきの怒りに満ちた視線を感じながら、おれは何気なく訊いた。
どの方角へもすっとべるよう全身の力は抜いてある。眼はブルーのワンピースの胸元から七割近くはみ出した豊満な乳房を遠慮なく見つめ、全身の感覚をロビーに集中する。ブラジル・コーヒーと焼きたてのパンの匂いが香り高くたちこめ、朝の七時だというのに泊まり客や黒色のポーターたちがせわしなくうろつき回る空間に、異様に眼つきの鋭い男たちの姿は見えなかった。
「大丈夫よ、そんなに気をつかわなくても。物騒な仲間は連れてきていないわ」
赤い蛭みたいに猥褻な唇が、甘い吐息と喘ぐような言葉を吐き出した。この女が悪魔の使者と知っていなけりゃ、ひと言で脳味噌が溶かされ、腰のあたりがムズムズしてくるはずだ。おれの背後のゆきと名雲に艶然と笑いかけ、
「こんな可愛らしいお伴がついてちゃ、あたしのビジネスの話をもち出すわけにもいかないわね。もっと別のお話をしましょうか?――コーヒーをご馳走して下さらない?」
「無駄金は使わねえ主義だ。――なんの話だい?」
おれは冷たい視線を崩さず、できるだけハードボイルドに言った。
「お願いといった方がいいでしょうね。あなたたちのご旅行に、あたしも同行させて欲しいのよ」
「気は確かか?」
ベロニカは平然とうなずき、声を落とした。
「これはあなたの生命にかかわることよ」
口元に浮かぶセクシャルな微笑は娼婦そのものだったが、両眼が笑っていない。国に保証された殺しの専門家――軍人のものだ。本当か嘘かは判別しにくかったが、奇妙な真憑性がおれの背をつついた。
「コーヒーだけだぜ、それも一杯」
「結構よ」
「ちょっと、大ちゃん、誰よ、この|女《ひと》」
刺々しいゆきの声が背中でした。
「いや、その、昔の知り合いさ。珍しいところで会ったから、ティファニーで朝食を」
「ふん。楽しそうなお知り合いね」ゆきは自分の倍くらい豊かなベロニカの胸を中心に、頭のてっぺんから足の先までじろじろ見つめ、軽蔑したように言った。それから名雲秘書を振り返り
「さ、おじさま、参りましょ。マザコンのお兄さまは、朝っぱらからおかあちゃまのおっぱいしゃぶりたいんですって」
聞こえよがしに言うと、秘書の腕を取り、さっさと喫茶室へ行っちまいやがった。
「若いわりにはご苦労が多いようね」
ベロニカが舌なめずりしながら言った。
「うるせえ。先に行け」
おれたちは冷房のよく効いた広い喫茶室の隅のテーブルを選んで腰を下ろした。別に根クラなわけじゃない。のこのこ窓際にいてベロニカの仲間に狙撃されるのを回避したのと、窓際の特等席に陣取ったゆきたちを監視しやすいためだ。
口でどんなうまいことを言おうとベロニカは女で軍人――他人の倍も信用できやしない。
「さて、同行したいって理由と、おれの生命に関わる話をきかせてもらおうかな」
近寄ってきた黒人のボーイに、ブレンド・コーヒーとトーストを二人前注文してから、おれは訊いた。
口調はできるだけ冷たくしたものの、眼の方がそうはいかなかった。大きく開いた胸の谷間へどうしても吸収されてしまう。混血児特有のややブラウン気味の皮膚は、熟れた女の脂肪にぬめぬめと光り、じっと見ていると、まるでおれを誘うかのように微妙に蠢いて見える。しかも、充分にタイミングを計り、髪飾りを直すような仕草で脇の下をこちらの視線にさらすときては、少しでも気を許したが最後、千分の一秒で理性は沸騰点に達してしまうだろう。おれの短い人生でも、こんな芸当ができたのは、ハリウッドで出会ったなんとかシールスぐらいのものだ。大臣クラス専用の高級コールガールにも百人にひとりいるかいないかの逸物である。鉄のごとき意志を持つおれだからこそよだれ[#「よだれ」に傍点]も流さず我慢できたのだ。
「辛抱強いのね」
ベロニカは薄笑いを浮かベて煙草を取り出した。こりゃあいい。おれもシガレット・ケースから一本出して口にくわえた。途端に唇より赤いマニキュア付きの指が伸び、ひょいともぎ取っていった。
「ご免なさい。あなたみたいな若い子が、ニコチンなんか吸うものじゃないわ」
真顔だった。本気でおれの身体を心配してるように見えた。煙草はあの催眠薬だったのだが。
「そんなおかしな顔しないで。あたしも人の子よ」
「殺し屋が人ならな」
「きついことをいう坊やね」ベロニカは怒った風もなく笑った。「その方が話が早いわ。――実はあたし、降等されそうなのよ」
「ほう」
「嬉しそうな顔しないでよ、馬鹿。こういう理由なの……」
ベロニカの話は簡単明瞭だったが、その分おれの背筋をうすら寒くさせる効果はあった。
日本の機密部隊が、おれとインディオのために(正確には護衛役の佐渡のおかげで)ほぼ壊滅状態に陥らされたとの連絡を受けたベロニカたちは、本部(これがどこなのかは教えてくれなかった)の指示に従って迎撃の準備を整えていたが、昨日、偶然「アルゴー号」の奇蹟を眼の当たりにし、船長を脅してインディオたちの行方を突き止めた。(その後でズドンとやった)
ただちにマナウスの米軍基地から、待機中の機密部隊員が軍用快速艇三隻と、武装ヘリAH64三機に分乗して出動。ベレンからアマゾン本流へ注ぐパラ川上流三〇キロの地点でインディオのボートを捕捉、包囲したが、結果は惨憺たるものに終わった。
「誰ひとり生還しなかったから、何が起きたのかは不明だけど、マナウスの無線機に入電した最後の連絡は『ボートが呑み込まれた。大渦だ! ああ水が柱のように。た、|竜巻《トルネード》がヘリに!』――以上だったわ」
言い終わったベロニカは、運ばれたコーヒーを味わうふりをしてこっそり反応をうかがっていたが、おれは別段驚かなかった。あの連中ならやるだろうと頭の隅で思っただけだ。
ここ二、三日というもの、ショック死してもおかしくないような超自然現象を五、六回は体験してきたのだ。並の人間が片手一本で軍用機をぶち落としたり、ボートを転覆させたりしたぐらいで驚いてちゃ、|現代《いま》のトレジャー・ハンターは身がもたない。
ほんとにびっくりしたのは、ベロニカがベレン地区担当部隊の隊長だったことだ。さすがに部隊の組織や作戦について詳しい内容は口にしなかったが、インディオ捕獲作戦にゴー・サインを出し、おれを襲わせたのも、このセックス爆弾どのだったらしい。お可哀相に、ほぼ同時刻に行われた両作戦はともに失敗し、昇進どころか詰め腹を切らされる羽目になったわけだ。
「あたしたちの部隊で降等とは抹殺と同じ意味なの。マナウスのアマゾン作戦基地に戻れば、本国送還を待つまでもなく処分されてしまう。あたしはご免だわ。こんな屈辱で軍人生活に幕を降ろすくらいなら、自分から生命を絶つ。けど、その前になんとかして、あのインディオたちに一矢報いたいの。捕獲はできないまでも、彼らの棲み家ぐらいは確認したいのよ。――お願い、連れていって」
男を悩殺するしか頭にないような淫婦の面影は消え、切実な声に、数多くの部下を叱咤しつつ修羅場を乗り切ってきた豪胆で知性的な女の素顔がのぞいた。それでもおれは、たっぷりバターを塗ったトーストを濃厚なコーヒーで胃袋へ流し込み、冷たく言い放った。
「何でかんでも力で押しゃ片がつくと思うからそうなるんだ。おまえの仲間どもは自業自得だが、おかげでインディオはますます警戒を強めるだろうぜ、余計なことしくさって。インディオの後が追いたけりゃ、ひとりでいくんだな。もう、マナウスから追跡隊が出てんじゃねえのか? おれたちより、そいつらを色仕掛けでおとした方が話が早いぜ。同じ釜の飯を食った戦友だ、おまえのテクニックを使って楽しませてやりゃ、否応なしにOKするだろうさ」
「追跡部隊は当分でないわ」
ベロニカは、おれの悪態を無視して言った。
「あまりにも犠牲が多すぎると上層部が判断したのよ。今回の作戦には、どこか自然の限界を超えた|力《パワー》や|現象《フェノメナ》がつきまとっている。それに匹敵する味方が出動するまで、作戦は一時中止されるの。一応、敵の王国の所在地は判明しているし、その気になれば、アマゾンが広いといっても、先回りするのは造作もないことよ」
「じゃあ、そうするこったな。おれたちは種々の事情により、奴らが故郷の土を踏む前に取っ捕まえにゃならねえんだ。事情はどうあれ、昨日までおれの生命を狙ってた組織の指揮官をおめおめ仲間に加えるわけにはいかんよ。どこで足すくわれるかわかったもんじゃないからな。――で、奴らに匹敵する仲間てな、どんな奴らなんだ?」
「教えれば連れていってくれる?」
「やだね」おれは格好よく、無表情に首を振った。「女の連れはひとりだけで往生してるんだ。これ以上、悩みの種を増やされてたまるか。おまえの仲間は追いかけてこない。――いい情報をもらったぜ。ブラジルを出る旅券やパスポートぐらいなら都合をつけてやってもいいがな」
言い終わって、おれはちょっぴり体温の下がるのを感じた。ベロニカがにやりと笑ったのだ。自信と憎悪を込めた笑い――ファウストの願いをオーケイしたときのメフィストフェレスのそれよりも邪悪に満ちていただろう。なんといってもこいつは、女で軍人なのだ。次に吐いた台詞の内容もまさにぴったりだった。
「アマゾンを遡るのにパスポートは不要よ。あなたは、あたしを連れていかざるを得ないの。どうして昨日、あたしの部下があなたを襲えたと思う? あたしがいま、あなたとここで話していられる理由は? まだ気がついていないようね。昨日、ホテルであなたに抱きついたとき、襟首の痛みを感じないツボに、針の先くらいの超短波発信器を打ち込んでおいたのよ。そんな顔しないで。これでも針灸のテクニックはプロ級なの。ついでにお知らせしておくと、それには微量ながら、あなたの頑丈な首も軽く脳から切り離せるくらいの超高性能火薬が封入されているわ」
おれはひと噛みトーストをかじってから、「ハッタリだ」と言った。
「試してみる? 爆破スイッチはあたしの指輪に仕掛けてあるのよ。お願い、使わせないで」
ベロニカは喘ぐように言って身をくねらせたが、こっちは欲情するどころじゃなかった。通信器の話は本当だろうが、爆弾の方は十中八九まやかしだ。じゃあどうする? ベロニカが言うみたいに、試してみるか――冗談じゃない!
「お手上げのようね」
最後のコーヒーをぐいと飲み干して、ベロニカは妖艶な唇をほころばせた。
「よく考えてごらんなさい、大したことじゃないわよ。探検隊員がひとり増えるくらい、あなたのふところには響きもしないでしょう。むしろメリットの方が多いかもしれないわ。どこをとってもあちらの魅力的なお爺さまやお嬢ちゃんの五倍はましなはずだし、足が痛いだの、|豹《オンサ》やピラニアが怖いだなんて口が裂けても言わないわ。幻の王国が無理なら、彼らと遭遇するところまででいい。あなたたちの仕事が終わったら、ひとりで尾行を続けるわ。リーダーもあなたで結構。命令には絶対服従することを誓います。――どんな命令[#「どんな命令」に傍点]にもね」
最後の言葉を、ベロニカはずしりと重い乳房を両手でこねるようにして言い放ち、おれは束の間、首筋の死に神のことも忘れた。悪いことばかりじゃなさそうだ。
「わかった。しようがねえ」
こう言って立ち上がる。
「それがお利口さんのとる道よ、|隊長《キャプテン》さん」
してやったりというベロニカの微笑に送られて、同行者の増えたことを告げるべく、おれはゆきたちのテーブルへ向かって歩き出した。
ベレン港――グワジャラ湾は、これからアマゾン奥地へと向かう、おびただしい数と種類の船舶でごった返していた。
観光客を満載した政府直営の観光船、開拓者やインディオ相手の行商らしい食料だの衣類だのが甲板からはみ出してる小型ボート、人々の単なる「足」の役目を果たす老朽化した貨物船。そのどれもが広い湾内にひしめき、ちょっと目には、これがひと昔まえの緑の大魔境――現在でいう地上最後の秘境アマゾンへの出発地点とは到底思えない賑いを見せている。
魚と塩の匂いがこもる熱い空気の中を歩きながら、おれは再び訪れたアマゾンの息吹に胸が高鳴るのを感じた。
大アマゾン。――正しくはアマゾン河とその流域に広がる一大密林地帯と呼ぶベきだろう。
南米の西端ペルーのアンデス山中にその源を発するマラニョン河は、さらに南からの支流ウカヤリ河と合流し、南米大陸を横断しつつ大西洋へと注ぐ。この両河の合流点から下流が、俗に言うアマゾン河だ。
全長約六〇〇〇キロ、おびただしい支流を含む水系は北はエクアドル、コロンビア、ギアナ等、南はペルー、ボリビアを含んで七〇〇万平方キロの流域面積を誇る。驚くなかれ、北米合衆国と同じ広さだ。大西洋へ注ぐ淡水量はヨーロッパの全河川を合わせたものよりも多く、地球上のすべての淡水の四分の一に相当する。
河口の町といわれるここベレンですら、正確には河口から一四五キロメートルの上流に位置しているのであり、アメリカ軍基地があるマナウスは一四〇〇キロ上流、その遙か彼方、三五〇〇〇キロの最上流部にペルーの街イキトスが存する。おれたちの目標トロンペダス河は、ベレンとマナウスのほぼ中間にある街サンタレンのやや上流へ、北方のギアナ高地から流れ落ちている大支流のひとつだ。
おれは頭上の|蒼穹《あおぞら》を振り仰ぎ、沖合遙かにかすむマラジョ島から、縹渺と続く大河の彼方に目を移した。無論、泥色の水の連なり以外、何も見えはしない。この前来たときもそうだった。その前もその前も。そして、おれは緑の奥地に眠る厖大な秘宝に想いをはせ、血みどろ汗みどろになりながら、常に勝利してきたのだ。
はっきり言って、ブラジル政府はもはやアマゾンを秘境とは見なしていない。俗にいうアマゾン河の総流域面積七〇〇万平方キロの遙か奥地まで、勇敢な開拓者が進出して|麻《ジュート》や|西洋こしょう《ピメンタ》の栽培を軌道に乗せているし、各州のマラリア絶滅センターは、「マラリアを根絶するためならどんな僻地へもDDTを撒きにいく」と広言してはばからない。
いまでこそ奥地への主要交通機関は船に頼っているが、新しい運送手段「道路」も次々と密林の中に槌音をひびかせて建造中だ。ここベレンと首都ブラジリアを結ぶ二〇〇〇キロもの直線道路、ブラジル北東岸のレシフェあるいはジョアンペソアとペルー国境とを結び、結果的に大西洋から太平洋を一本につなぐ全長五五〇〇キロの「アマゾン大陸横断道路」。――そのすべてが、流域の産物たる金やダイヤモンド、マンガン、ボーキサイト等の鉱物資源を開発運搬するためにつくられたものとはいえ、この緑の大秘境を、人々がスポーツ・カーを駆って旅する時代をもたらすことは疑う余地がない。それはまさしく、アマゾンにとって「新しい時代」だ。
だが一歩、自らの作り出した文明圏――大はマナウスのごとき人口百万を誇る都会から、小は一家族のみの開拓小屋まで――を離れるや、人々は自分たちを取り巻く大自然の魔気に触れて慄然とするだろう。
人食い魚ピラニアの渦巻く川、ジャングルの樹上高く獲物を狙って移動する大蛇、闇に光る豹の瞳、二〇世紀の今なお、文明人を寄せつけず、無警告で攻撃を加える原始インディオたち、昼夜の別なく襲いかかる蚊やアブ。赤蟻の大群に埋め尽くされた地面には、人間の座る場所などほとんど見当たらない。運悪く、物資運搬船の到着間際に病人でもでようものなら、木の根草の根をかじって急場をしのぐしかない。人間ががむしゃらに前向きであればあるほど、大自然は死の御手をもってその蛮勇に報おうとするのだ。
そんなただ中に、四万キロの高みから睥睨する電子の眼さえもあざむく夢幻の王国が存在することは、アマゾンがなお魔境たる現実の保証でなくてなんだろう。
「ちょっと、あの女どうする気よ?」
低い怒声が拳にかわって腰のあたりをどついた。
「しょうがねえだろ。放っときゃ仲間に殺されちまうんだ。人助けと思って我慢しろよ、な」
口をへの字に曲げているゆきに、おれは足を止め、振り返って言った。
ベロニカについては、おれの首筋に埋まった発信器兼爆弾の一件を除き、すべて打ち明けてあった。無論、ゆきと名雲、およびベロニカ間の相互不信と疑心暗鬼を駆り立てるためだ。
チームワーク第一の一般探検隊的常識からみれば、とんでもない暴挙だろうが、おれたちはちっとも一般的じゃない。世界的名声を得たインチキ・ピアニストのためならたとえ火の中水の中という感じのアナクロ秘書、暇さえあれば宝物をかっさらうことばかり考えている“自称”相棒、昨日まで平気な顔でおれの殺害を命じていたもと米軍機密部隊隊長――親の仇同士が同じ船に乗り合わせたようなものだ。いちいち何を企んでるのか考えてたら頭がおかしくなってしまう。互いに敵意をもたせ、牽制させといた方が得策なのである。
「なにさ、ちょっと肉づきが良くて助平ったらしい顔した女見ると、すぐニヤついちゃって。いつ寝首かかれても知らないからね。断っとくけど、あの女があんたの後ろでナイフを構えてるの見ても、あたしは助けませんからね」
「勝手にしやがれ。隊長はおれだ。口ごたえは許さん」
「ふん、能無し隊長。ジャングルの中でリコールされないよう気をつけることね。アマゾン河に蓋はしてないのよ」
震度六くらいの脅し文句を残すと、ゆきはおれを追い越し、もう少し離れたところでチャーターした船の持ち主と何やら話し込んでいる名雲秘書の方へ歩き去っていった。どこへいったのか、ベロニカの姿はない。おれとゆきが言葉を交わしてるわずかな間に消えちまったのだ。このまま一生出てこないでくれるといいのだが。
船は前方十メートルくらいの岸壁につながれていた。差し渡し七メートルほどの中型ボートで、甲板と岸壁との間に渡された細い板の通路を、筋肉隆々の沖仲仕たちが荷物を肩に往復中だった。岸壁の分はあと五、六ケースしか残っていない。
ふと、おれは気になるものを発見し、ボートの方ヘ足を速めた。
背後でいやな音がした。
ボロいトラックが警笛をがなりたてながら通り過ぎていった。
おれは通りを横切って倉庫の列に近づいた。右手はショルダー・ホルスターのSIGにかけてある。
コンクリートづくりの頑丈な建物の間に細い道が口をあけている。何気ない顔で周囲を見回し、そっと足を踏み入れた。コルダイト火薬の匂いが熱気に混じり合っている。SIGを抜く。ホテルで身につけたとき、初弾を|薬室《チェンバー》へ送り、|撃鉄《ハンマー》は戻してある。あとは引き金を引くだけだ。いちいち安全装置をはずす必要はない。なんといってもダブル・アクションは便利である。汚れたドラム缶の向こうに曲がり角。路地の左壁に張りついたまま、SIGを構え、そっと顔半分だけのぞかせる。
右手少し奥にベロニカが立ち、片手と視線を足元にのばしていた。まだ青い硝煙が立ち昇る銃口の先に倒れたふたりの白人より、肩紐もはずれたワンピースから剥き出しになった見事なベル型の乳房が、おれの眼と心臓を直撃した。
「こいつは――大した壮行パーティだな」
電光のような速さで拳銃がこちらを向き、すぐ下りた。
「どうせなら、もっと早く来てちょうだいよ。こいつらにさんざかいじくり回されなくても済んだのに」
ちぎれた肩紐を、拳銃を握ったままで結びながら、ベロニカはぼやいた。冷ややかな声である。
「なんだ、こいつら?」
「もと同僚よ。あたしが戻らないので探しにきたのね。思った通り、処分しろとの命令を受けていたわ」
「で、逆処分か。――相手が悪かったな」
おれは、男たちの|朱《あけ》に染まった胸部とベロニカの拳銃とを見較ベながらつぶやいた。
|H&K《ヘッケラー・アンド・コック》・P7。次々と新製品を発表し、銃砲界の耳目を集める西ドイツ・H&K社が自信をもって送り出した九ミリ・オートだ。
スクィズ・コッカーという独特の発射/安全機構を備え、グリップ前面にはみ出ているレバーをきつく握るだけで、|撃針《ファイアリング・ピン》が発射位置にセットされる。要するに初弾を|薬室《チェンバー》に送り込んでおけば、あとは拳銃を握って引き金を引けばいいわけだ。手を放せば撃針は安全位置に戻るから、暴発の危険は百パーセントない。どこを探しても安全装置がついてない理由だ。
全長は一八センチきっかり。消音器さえはずしておけばベロニカのハンドバッグにも難なく収まるし、九ミリ|軍用弾《パラベラム》は、どんな大男でも一発で戦闘不能にできる|威力《パワー》を秘めている。敵の体内に全エネルギーを放出しやすい|軟弾頭《ソフト・ポイント》――|銀製弾頭《シルバー・チップ》等――を使えば、効果は倍増しだ。
「どうやった?」
おれは男たちが右手に保持した|消音器《サイレンサー》付きコルト・ガバメントを奪い取って、ベルトに差し込みながら訊いた。我ながら助平ったらしい眼付きだったろう。
「こうよ」ベロニカは熱い腕をおれの首に巻きつけた。「そんなにあわてないで――誰も来やしないでしょ。奴らも落ち着いてたわ」
赤い唇が近づいてきた。甘酢っぱい吐息が鼻孔から頭骸に広がる。ラパチーニの娘の毒息も、こんな香りがしただろう。
「ここへ連れ込んだらすぐ、上を裸にしたわ。ひとりがキスして、一度抱いてやろうと思っていたと言いながら、ここをたっぷり揉んだの、こうやって」
左手が引かれ、柔らかい球面に触れた。同時に、それはみるみる熱く掌に吸いついた。
「あたしは動けなかったわ。もうひとりが拳銃片手に見張っていたんですもの。何をされても文句がいえなかった。そのうち、ここがとっても熱くなって……」
頭の中で、何かが危険信号を発していた。こいつは罠だ。おれが横浜のホテルでクレア・ジョーダンを虜にしたように、ベロニカは催眠術も心得てやがったのだ。おれの左手は、火のような果実に指を食い込ませたまま離れようとしなかった。
目の前で白い歯がきらめき、なまめかしい唇が蛭みたいに動いた。
「それから、奴はこう言ったわ。気持ちよく殺してやるって。そして、舌をこんな風に……」
甘い囁きとともに唇を割って熱い舌が侵入してきたとき、おれの脳味噌はすでに白い膜がかかったみたいに濁り、このセックス催眠術から逃れようとする理性の一片まで痺れきっていた。
いちど唇を引いてベロニカがこう言ったのも、まるっきり理解なんかできやしなかった。
「奴らと同じことをして、大。あなたはあたしのものよ」
もう一度、熱い口づけ。
そのとき――
「大ちゃん」
馬鹿でかい金切り声と足音が、おれよりベロニカの理性を直撃した。
唇と乳房が離れても数秒のあいだ、おれは焦点の合わぬ眼を、口惜しげに唇を噛む女の乳房にぼんやり注いでいた。
曲がり角から脱兎のごとく、これも迷彩色のサファリ・ジャケットを着たゆきが姿を見せた。おれとベロニカを見つけて眼尻を吊り上げたが、すぐ、はっとした表情になる。死体に気づいたのだ。
「なによ、一体どうしたの?」
「そっちこそどうした?」
まだ酔いの醒めぬ頭を軽く左右に振りながら、おれは尋ねた。
「大変よ。ボートがあたしたちを置いて、出ていっちゃったの!」
「なにい!?」
これで完全に術が解けた。ゆきの説明を待たず、おれは波止場めがけて走り出した。
「ちょっと、この死体どうすんのよ!?」
あわてて後を追いながらゆきが叫ぶ。
「馬鹿、でかい声だすな。放っときゃいい。こんなところ、当分誰も入ってきやしねえ」
「そうね」
波止場の岸壁には名雲秘書が茫然と立ち尽くしていた。
河口というより湖といった方が正確なくらい巨大な湾に白い航跡を曳いて、おれたちの荷物を満載したおれたちのボートは、上流へと遡る白い点と化しつつあった。距離は約三○○メートル。
「おまえさんがついててなんてえざまだ。事情を説明しろ」
おれはSIGに延長銃身を取り付けながら文句をつけた。
「それが、わたくしめにもよくわかりませんのです」
気が抜けたコーラみたいな名雲の声は、それが事実であることを物語っていた。
「積み込み完了の声があがり、ボートの方を見ますと、金髪で左眼に眼帯をつけた人夫が勝手に渡り板をはずしとるじゃございませんか。おい、こら、と怒鳴りましたところ、そやつは無表情に操舵室へ入り込んでしまいまして。あわてて跳び乗ろうにも、渡り板はなし、ゆきさまとふたりであたふたしておるまに、ボートはエンジンの音高らかに……」
「はい、さようならってわけか。えらく堂々としたこそ泥があったもんだな」
おれは望遠スコープ付きのSIGを肩づけした。六倍のレーザー・サイトに、操舵室のリア・ウインドーと、その向こうで舵輪を操っている背の高い影法師の輪郭が鮮明に映じた。
奴だ。
昨日からおれを追い回し、突っ込んできた機密部隊員を一発で葬り去った第三の男。こんなにも水際立った手を使うのは奴しかいない。さっき、沖仲仕たちの中にかがやく|金髪《ブロンド》を見かけたときからおかしいと思っていたのだ。
ま、愚痴っても始まらねえ。
おれはSIGの引き金を絞った。
リア・ウインドに蜘蛛の巣状のひびが入り、影法師が横に倒れる。
一矢は報いたわけだ。即製カービンと九ミリ・パラベラム通常弾の組み合わせだが、四〇〇メートルまでなら自信はある。
おれは|膝射ち《ニーリング》の姿勢から立ち上がった。
「やっつけましたかな?」
名雲秘書が訊いた。ききたくもなさそうな声だ。
おれは答えず、
「間抜けた見張りの罰だ。もう一隻ボートをチャーターしてこい。食料や武器弾薬もだ。ジェット機から下ろした荷物の代わりにゃならねえが、仕方ねえ」
「もう手配いたしました」
おれはじろりと仏頂面を一瞥し、「左様で」と言った。
返事の代わりに、名雲秘書のかぶったキャンピング・ハットが宙に舞った。風のせいじゃない。撃ち飛ばされたのだ!
きょとんとしてる老人に体当たりをかませて岸壁に伏させ、おれは全身が熱くなるのを覚えた。
野郎、お返ししやがったな。
念のため、岸壁を転がって、路上に落ちた帽子を掴む。丸いてっぺんが削り取られていた。
立ち上がり、持ち主に手渡した。
「帽子でようございました」
「まったくだ」
おれは上流に眼をやった。ひたすら広い水面にボートの姿は消え去っていたが、見えざる敵の残した熱い余韻は、おれの血の中でまだざわめいていた。
わざとはずしたな。おれがはずしたのを知って。
おれたちが新しいボートをチャーターしてベレン港を離れたのは、午後四時を少し回った時刻、ちょうど太陽が紅蓮の炎塊たる姿を赤々と水面に映し、西の空を燃え上がらせながら没してゆく凄絶な終焉のときだった。
これから一〇〇〇キロ先のサンタレンまで最高速度で休みなく走っても、優に三〇時間はかかる。夜間走行は危険だが、そう悠長に構えてはいられなかった。インディオたちのボートは手動だから、サンタレンの手前で捕捉するのはたやすいが、下手に手出しをすれば機密部隊の二の舞いである。
そっと追尾するか、追い越して待ち伏せるか、だ。真紅の上流へと舵輪を操りながら、おれはまだ心を決めかねていた。
「まことに大したものでございますな」
さっきからおれの背後で夕映えを見つめていた名雲秘書が感に堪えたように言った。
「アマゾンは初めてかい?」
「いえ、夕焼けのことではございませんので。あなたさまが、ボートまで操縦なさるとは思いませんでした。羽田をたってから今日まで、正直、感じ入ってばかりでございます。主人は素晴らしい方を見つけられました」
「ありがとさん」
と答えたものの、大根役者が台詞を棒読みしてるような口調だから、ちっともいい気になれやしない。
「それにしても、見渡す限り水でございますな」
「なにせ河口の幅が三三〇キロ。クイーン・メリー号だってマナウスまでは楽々通過できるそうだからな。三千トン以下の船なら、イキトスまでいける。
この河を最初に発見したのは、スペインのビセンテ・ピンソンって男だが、一五○○年、大西洋を南下中、海のど真ん中で自分たちが淡水に取り囲まれてることに気がついた。それから丸一日西へ帆走して、ようやく陸地に出食わしたんだ。言うまでもなく、アマゾン河口さ。ピンソンも川だと考えて遡行してみたが、八○キロ進んでも川幅が狭くならない。とうとう怖くなって引き返しちまった。かくて、アマゾン河だってことは認知されずじまいさ」
「まことに驚くべきことばかりで。長生きはしたいものでございます」
おれは苦笑した。
下のデッキに通じる梯子をのぼってゆきが姿を見せた。紺のタンク・トップに白いショート・パンツ。ノーブラらしく、乳首が突き出ている。太腿は汗と脂肪でテカテカだ。
「なによお、また鼻の下長くしてえ」
すぐにののしったが、声の中に妙に媚を売るような調子があるのは、ベロニカとおれとの関係を意識してのことだろう。女の魅力からいや、フィービー・ケーツと松本伊代くらいの差が歴然としている。
名雲秘書が一礼して船室を出ていった。
「なんだ、もう飯か。おれはここで食う。持ってこい。毒なんか入れるなよ」
「やあだ。たったひとりの身内にそんなことするわけないじゃん。もう少し信用してよ」
「誰が身内だ。勝手なこと抜かすな」
「そんなことよりさ」とゆきは話題を変えた。
「食堂にいると、外から何かぶつかる音がするのよね。こわいわ。鰐かピラニアじゃないの?」
「安心しろ。そりゃイルカだ」
「え?」
「河口が近いから、こんな奥地まで遡ってるのさ。釣ってみろ。道具は揃ってるだろ」
たちまちゆきはふくれた。
「よく、そんな残酷なことが言えるわね。知ってる? ソクラテス曰く、『人間を人間であるが故に愛する動物はイルカのみである』あんた、ほんとに哲学的じゃない男ね」
「所変われば品変わるさ」おれは巧みに舵輪を操り、いつのまにか目立ってきた浮島の間を通過しながら言った。
「ブラジルじゃ、百年前はベレンの河口を埋め尽くすほどいたという海牛が肉めあてに獲り尽くされ、今はもう動物園でしか見られない。なのに、イルカはなぜ無事か。魔物だと思われてるからさ。言い伝えによると、雄のイルカは夜になるとハンサムな青年に化け、糊のきいた白い服装で処女を誘惑しにくるそうだ。ま、おまえは安心だがな」
「どういうことよ、それ?」やばい、と思ったが、案の定、ゆきは眼尻を吊り上げた。やくざも震え上がるような声で「断っときますけど、あたしは正真正銘の|処女《ヴァージン》ですからね。おかしな噂まき散らさないでよ。なにさ、自分が鼻垂れ餓鬼のころ、ぶくぶく太った白人女に三回も[#「三回も」に傍点]童貞奪われたもんだから。他人も仲間だと思うな、馬鹿」
「なななにを吐かす!」こう言う話になると、おれはすぐ逆上する。「これでも、女たらしが多いトレジャー・ハンター仲間じゃ清廉潔白で通ってるんだ。だだだれが白人のデブ女と三回もやった。言うに事欠いて、よくもよくも……」
「お仲のよろしいことね」
甘い声がねっとりとおれの首筋を這った。
おんぼろドアをぎいぎい鳴らしてベロニカが入ってきた。途端にゆきなど、ポン! だ。
白のショート・パンツはおんなじだが、見事なバストを押さえつけているのは、ワンピースと同色のハンカチ一本。歩くたびに肉の隆起がぶるぶる揺れる。こりゃ、また催眠術にかかっちまいそうだ。
「船を停めたら? 食事の用意ができたわよ」
一瞬、ゆきの眼に凄まじい光が点ったように思えたが、「ふん」と鼻を鳴らすなり、梯子の出入り口からさっさと消えてくれた。ベロニカは皮肉っぽい笑みを浮かべて、
「お子さまの相手も大変ね。とてもあなたの相棒にふさわしいとは思えない。足手まといになるだけじゃないの?」
「実はそうなんだ」
おれも心から同意した。
「で、どうするの、これから? インディオは陸路を行ってるかもしれないのよ。それに、正体不明の敵のこともあるわ。おめおめ彼らが捕まるとは思えないけど、強敵には違いないわ」
「その通りだ。だがな、あんな力をもってるインディオが、おれだのおまえの仲間を恐れて陸路をいくとは思えない。奴らはとにかく時間に追われてるんだ。ヤブ蚊を追っ払うようなつもりで川を遡るさ。ただし――」
「ただし――なに?」
不意にこわばったベロニカの声を無視して、
「例の男は、おまえたちの仲間じゃないのか? あまりひとを舐めるなよ」
「よしてよ。まだ信用してくれないの? あたしは仲間をふたりも殺した身よ」
それは確かだ。コルトを握った男たちの手には、見事に拳だこが盛り上がっていた。通りすがりのやくざじゃあるまい。
「だからって、仲間を裏切ったことにはならんさ。名誉を重んじる軍人なんざ、第一次大戦と一緒に滅んだんだ」
「あたしは違うわ」
「なら、なおさら悪い。名誉のために人を殺すのが、現代最高の軍人だからな」
「軍人が嫌いなのね」
「できれば、おまえの喉を掻っ切ってやりたいくらいにな。おれの頭にピンを一本打ちこんだくらいで調子に乗るなよ。脳味噌が吹っ飛んでも、おまえをピラニアの群れにぶち込むぐらいはできるんだ」
ベロニカは息を呑んだ。いつものセクシャルな笑いは片鱗も浮かびはしなかった。おれが本気だと悟ったのだ。
「いいか――」
ダメを押しかけて、おれは口をつぐんだ。前方の水面に眼を凝らす。
「どうしたの?」
ベロニカが寄ってきた。
「船舶用の救命ボートだ。インディオめ、乗り換えたな」
「何も見えないわ」
「おれにゃあ見えるさ」
数分後、「アルゴー号」の刻印を夕暮れの光にさらしつつ、ボートはおれとベロニカの眼の前を通り過ぎていった。
「どういうこと?」
「訊かなきゃわからねえのかよ?」
「誰が拾い上げたのかしら?」
「観光船、奥地へ向かう個人用ボート、ふたりで漕ぐより早い船ならいくらでもあるさ」
「あなたの持ち船第一号もね」
「うるせえ」
まあ、これで、途中からジャングル入りされる恐れはほぼなくなったわけだ。サンタレンで降りるかどうかはわからないが、なんとか追尾できるだろう。
その晩、次の日と、途中ベロニカに数時間交代してもらったきり舵を取り続け、三日目の夜明け近く、おれはジャングルの中に忽然と現れた街・サンタレンの港にボートを乗り入れた。
サンタレン――河口の商業都市ベレンや、中流域の大都会マナウスほどではないが、アマゾン河遡行の旅人には有名な街である。やや上流でタバジョスという大支流がアマゾン本流に注ぎ、こちらの水は青く澄んでいるため、上空から見ると、合流点を中心に、青と白の流れがきちんと境界線を引きながら下流へと続いている。
午前五時。まだ完全に夜は明け切れず、東の空がようやく白み始めた頃というのに、港には大小さまざまの船やボートが出入りし、ベレン以上の活況を呈していた。
入港合図と起床ラッパを兼ねた汽笛を鳴らすと、二分とたたぬうちに名雲秘書がやってきた。もうお得意のサファリ・ルックに着替えている。ゆきもベロニカも起きてはいるが、困ったことに、どちらもひと言も口をきかないという。結構、結構。少なくともそうしてる間は、おれに対するクーデター計画など立てやしまい。
船着き場の岸壁に空きがないかと眼の玉を四方に移動させると、ちょうどいいスペースが目についた。おまけに、
「岸壁の上で、誰か手招きしておりますな。明らかに対象はわたくしたちでございます」
「手を叩いてるぞ。えらい喜びようだな。知り合いか?」
「|いいえ《ノン》」
ベロニカが答え、さすがの名雲秘書もはっと後方を振り返った。驚きの眼でおれを見つめる。年を取ると女の香水の匂いも気にならなくなるらしい。朝早く起こされて不機嫌そうなゆきも上がってきた。
まわりの船におかしな奴らが潜んでる気配もなかったが、おれは三人の厄介ものに船室で武装しとくよう命じ、表面は鼻唄まじり、心は狂った狼という案配で、招かれたスペースに|船《ボート》をつけた。
港湾官らしい黒人がやってきて、ベロニカの投げたロープを鉄柱にもやいでくれた。ゆきと名雲が渡り板を出す。ふむ、なかなかいいコンビネーションだ。いつまで続くことやら。
岸壁に降りると歓迎男が駆け寄ってきた。おれに抱きつき頬っぺたにキスをする。チビだが腹だけは、麻のスーツとシャツのボタンがはじけそうなくらい出ている。年は、四五、六だろ。後ろに用心棒らしい混血男がふたり控えていた。
後から降りてきたベロニカとゆきの方へも行きかけたので、襟首を掴んで引き戻し、何事かと訊いた。
「あんたたち、日本人とブラジル女のグループ――間違いないね。わたし、ジョアン・ポポンガ。サンタレン一の貿易商だよ、よろしく」
おれの左手をちぎらんばかりに振りながら、モモンガみたいなポポンガ氏は、続けてとんでもないことを言い出した。
「あんた方のおかげで、わたし、大変大変もうけたね。もうこれから十年働かなくてもオーケイ。そのお礼言うためと商売するため、徹夜で待ってたのよ」
「そいつは、ありがとよ」おれはポルトガル語がわかるベロニカと名雲に向かって首をかしげてから言った。
「で、おれがあんたに何をしてやったと言うんだい?」
「こーの、とぼけて。昨日の晩ここへ着いたあんたの船と荷物、ぜーんぶわたしが引き取ったのよ。超破格値ね。正直いって、わたしあんた馬鹿思う。今日、あんたが来ると教えてくれた金髪の友達もそう言ってたよ。あらら、何するの? 乱暴いけない」
おれの腹あたりで短い足をばたつかせる貿易商の胸ぐらをつかんで宙づりにしたまま、おれは悪鬼の形相で尋ねた。
「その、おれの友達ってのはどんな野郎だ。どこへいった? 船と荷物はどこだ?」
「金髪のハンサム・ボーイね。あんないい男見たことない。全盛期のロバート・テイラーも真っ青ね。あんた、足短い」
しげしげと下半身を見られた揚げ句、同情たっぷりに言われたので、おれは激昂した。
「人のことが言えた義理か! さっさと質問に答えねえと、ピラニアの餌だぞ」
喚いて揺する。揺すりながら右肘から先を十分スナップきかせて真横へ振った。殴りかかろうと身構えた用心棒のひとりが、鼻血と一緒にのけぞる。
背後で苦鳴。振り向くと、もう片方が股間と顔面を押さえてぶっ倒れるところだった。ベロニカとゆきのスタイルから、何が起きたのかは容易に想像がつく。おれに楯つこうとしたところを、ベロニカの蹴りで睾丸をつぶされ、しゃがみ込んだ顎に、ゆきの掌底打ちが決まったのだ。
ふたりの女が、顔を見合わせて微笑んだ。こりゃいかん。喧嘩を通して女同士の友情が生まれてしまうじゃないか。
「いいぞ、ベロニカ。大したもんだ」
おれは口笛付きでほめそやした。たちまちゆきが膨れっ面してそっぽを向く。首尾は上々だ。
「な、なんということをするか」空中でポポンガが喚いた。「こいつら、港でいちばん性質の悪い暴力団ね。勝手にそばにいただけ。揉め事とみると絡んで金をゆする。あんた方、きっと後で報復される。喉斬られて、川へドボンね。ピーやんちょっと来て骨だらけ」
「うるせえ。奴と荷物はどこだ?」
「彼のこと知らない。船はもう買い手がついて出航したね。荷物はわたしの倉庫ん中」
「もうひとつ。最近、二人連れのインディオが降りなかったか? 小さな包みをもってる奴らだ」
「初めまして」と奴は空中でにんまり唇を歪めた。「わたし、ジョアン・ポポンガ。情報売買業もしてる。そのお話、一件五千クルゼイロ」
おれは右手をポケットに突っ込み、ようやく起き上がりかけた用心棒の腹に横蹴りをかまし、財布から器用に抜き取った千クルゼイロ紙幣を奴の顔面に突きつけた。あとは形相と威圧感だ。
「おー、わたしの負け。あなた商売うまいね」ポポンガは愛想笑いを浮かべた。「昨日の夜の十時ごろ、観光船で着いた。これくらいの、日本の風呂敷包みを肩にかけてたね。でも、ここへは降りずに、同じ船ですぐに出ていった」
「えい、くそ」
おれは出来るだけ優しく、ポポンガを石畳の道へ降ろしてやった。
「もう、ジャングルへ入ってるな。荷物運びを探さにゃならねえ。いくぞ」
おれはタクシー乗り場へと三人を促した。ところが、ゆきはそっぽを向いて名雲の手をとり、
「やよ。あたし行かない。船で待ってるわ。ふん、そっちのグラマーさんとお楽しみあそべ。行きましょ、おじさま」
薬が効きすぎたらしい。造反だ。
疲れてたし、この町のどこかに奴がいるかと思うと気になって、文句も出なかった。
「勝手にしろ、爺さん、すまんがお守を頼むぜ」
それだけ言って背を向けた。ベロニカはついてくる。
「待って。まだ話があるね」
「お気をつけて。それから、わたくしめの名は名雲でございます」
どっちの呼びかけにも、おれはもう振り向かなかった。
裸足の人々が元気よく往来するかと思えば、突如、何十階建ての白亜のホテルが目の前に現れる市街地を抜けて、ジャングルへ入り込むと、ベロニカよりタクシーの運ちゃんが青くなり始めた。
「兄さん、もういいかね、もういいかね?」
と連発する。
「何を脅えてるのよ?」
ベロニカの問いにおれはふくみ笑いで答えた。
「やっぱり爺さん[#「爺さん」に傍点]、嫌われてんな。もう少し――おっと、ここでいいよ。停めてくれ」
すぐ帰ると抵抗する運ちゃんを大枚のチップとベロニカのウインクで落ち着かせ、なんとか客待ちを承諾させると、おれは先にたって、生い繁る樹木の間を走る小道を歩き出した。ベロニカは左手を軽く握ってついてくる。これじゃ起爆スイッチのついた指輪を抜き取ることもできやしない。タクシーの中でも再三トライしてみたが、指に触れることもできなかった。いやな女だ。
五分といかず、鉄柵で囲まれた豪邸が現れた。ミミズ採りの名人が無一文の身から数年でビルをぶっ建てるお国柄なので、ベロニカも別段驚きはしない。
「変わった周旋屋ね」
「その代わり、|荷物運び《ポーター》は働きものさ。ものも食わんし、賃上げも要求しない」
「?」
立派なレンガ造りの門柱をくぐり、大理石の噴水が豪勢に水を噴き上げる前庭を通って住まいに近づくと、裏手からベレチ老人がひょっこり顔を出した。見事な黒褐色の太鼓腹に派手なチェックのバミューダ・ショーツが食い込んでいる。目ざとくベロニカを見つけ、ほお! という表情になった。すぐおれに気づいて跳び上がる。
「大じゃないか。今度は何を探しに来た? ピサロの弟がスペインに内緒で隠したインカの財宝の地図が三枚も手に入ったよ」
そんなもの要るもんか。
「おれにもよくわからねえんだ」
鰐でも絞め殺せそうな太い腕と握手を交わしながら、おれは顔をしかめてみせた。
「案内人次第なんだが、そいつらはひと足先にジャングルへ入っちまいやがった。で、急ぎポーターが要る。十人ぐらいすぐ用立てられるだろ?」
黒人特有の愛嬌たっぷりな笑顔から不意に友情が消え、強欲な営業用看板が下りた。
「生きのいいのがいるけど、引く手あまたでな。優先的に回すとなると、ちと高いよ」
ほうら、来た。アマゾンくんだりまで逃げてきて、たった三年のうちに、これほどのものを建てるだけのことはある。だが交渉なら望むところだ。上目づかいで見上げる白髪頭へ、おれは唄うように言った。
「ハイチの警察署長と付き合いができてな。あっちじゃ、パパ・ドクが倒れて以来、ボコール追放と断罪の嵐が吹きまくっている。国外逃亡した連中も徹底的に狩り立てる方針だとよ。ブードゥーの支配する魔法の国のイメージを一新させるためなら、大統領の親族も容赦しないそうだ。ユダヤ人のナチ狩りも顔負けだな。史上二番目のボコールともなりゃ、居場所が発見された途端、|秘密警察《トントン・マトーク》の暗殺部隊が飛んでくるだろうぜ」
「よしてくれ!」ベレチ老人は黒い顔を青く染めて叫んだ。「わしゃ、空軍のボレニ中将からにらまれとるんだ。秘密警察がくるまえに爆撃されちまう。――わかった。一人二カラットでどうだね」
「一カラット。ただし傷なしだ」
おれは日本から用意してきた皮袋を取り出し、老人の眼の前で振った。
商談は成立し、おれたちは老人の案内で裏庭へ回った。いやに広々とした、そのくせ、ムッと瘴気の立ち込める陰気な風景をひと眼みた途端、ベロニカが低い声でつぶやいた。
「ここ、墓地じゃないの?」
「そうとも。爺さん、表向きは墓地の管理人なんだ。ポーターの斡旋はアルバイトさ」
「ハイチのボコール――ボコールってブードゥーの妖術師をさす言葉よね。ひょっとしたら、あなた……」
「しっ、黙ってみてろ」
ベレチ老人は仕事にかかっていた。
墓地といっても、ゴムや黄金でもうけた財閥たち専用の立派なものじゃない。ただ土を盛って、名前を書いた板切れや墓石を立てただけの下層民用だ。ろくに手入れもせず雑草が繁り放題の小道をゴム草履ひとつで器用に歩き回りながら、老人はいつのまにか手にした小さなガラス瓶を、目ぼしい盛り土の上で逆さに振った。どう見ても瓶の中身は空っぽである。それから口の中で何やらもごもごと唱え、次の墓に移る。おれの記憶に間違いなければ人の名前だ。
立ち昇る瘴気が不意に濃さを増し、かたわらのベロニカがあっと小さな叫びを洩らす。
赤茶けた土の山の一端が見る見る盛り上がったと思いきや、それは直立し、表面の土砂を払い落として、一枚の分厚い石蓋となった。重々しい落下音が続けざまに地面を揺るがす。
数百キロの石蓋を押しのけたものは、土中に埋められた石の棺から、いま、ぬうっと立ち上がった。
いずれも筋骨たくましい、しかし虚ろな眼と表情が言いようもない鬼気を感じさせる若い黒人たちだ。首をうなだれ、そよとも動かぬ空気の中で裸の上半身を頼りなげに揺らせている姿は、操る糸の数を欠いた人形のように不気味であった。
「こ……これは……」
満面蒼白と変わり、汗の玉を結ばせているベロニカへ、おれは静かに言った。
「本物を見るのは初めてかい。これがゾンビーさ」
ゾンビーとは、一般的にブードゥー教の魔力によって生を受けた死体――生ける死者のことを指す。語源はバンツー語で“魂のない生き物”をあらわすンヴムビ。
発生は中南米の島国ハイチだが、似たような存在は中央アジアやアフリカの土着民の間にも語り伝えられており、例えばウズベク人は、|呪術師《シャーマン》が子供の血で育てられた植物の葉を焼き、その匂いをかがせることで死者を甦らせ得ると信じているし、チベットのダンサーは、妖術師の口移し呼吸法で生き返り、奇怪なダンスを踊る妖物だ。
しかし、生ける死者の分布が世界中にわたっているとはいえ、呪われた復活を果たすそもそもの目的が、安価な労働力の提供にあるのは、後にも先にもハイチのゾンビーのみである。
アメリカ大陸を発見したスペイン人は当然中南米にも進出し、ハイチ共和国の存在するイスパニョーラ島を占拠、土着のアラワク・インディアンを酷使し、絶滅させてしまう。この暴挙の帳尻は、ヨーロッパへ帰った彼らがもたらした南米の風土病、すなわち梅毒の猛威で合わせられるのだが、ともかく、労働力を失ったスペイン人たちは、アフリカからニグロの奴隷を輪入し砂糖きびづくりの過酷な作業に従事させた。後にフランス人が島の支配権を奪っても黒人奴隷たちへの虐待ぶりは一向に収まらず、五〇万人の奴隷たちの血と汗から生まれた巨万の富を、わずか四万人のフランス人農園主が独占するという無惨な歴史が百年近く続いた。虐げられ、踏みにじられた人々の怨念の深さを想像するのはたやすい。こうして生まれたのが、今なお公然と命脈を保つ復讐のための宗教――ブードゥー教である。
西アフリカのアニミズムにローマ・カトリックの儀式を取り入れ、独自の特徴を加えて完成されたこの混合宗教は、黒人奴隷たちの故郷たるアフリカに生まれた無数の神々や霊魂、そして悪魔を信仰の対象とする。
正式に任命された|司祭《ホーガン》や|女司祭《マンボ》は兄弟イエスと姉妹マリアを称えはするものの、民衆に対し圧倒的な力をもつのは、呪術を駆使する妖術師ボコールだ。彼らが可能にする魔力というのは、映画やTVでもたびたび放映され、世界的に有名だが、敵の血や髪の毛を塗り込めた粘土の人形に針を突き刺し、同じ場所に激痛を与えるテクニックはその代表的なものである。
その八五パーセントは読み書きの能力を欠いているハイチの民衆が、自分たちの生んだこの宗教をどれほど恐れ畏怖したかは、ボコールと噂された独裁者フランソワ・デュバリエ博士、通称“パパ・ドク”が十四年間も権力を維持し、七一年に死亡したのちも、その息子が終身大統領の地位を継いでいることでもわかる。
一九六三年の軍による反乱が失敗に終わると、デュバリエは首謀者フィロジェーヌ大尉の首をはね、ブードゥーの秘儀を施して、まだ逮捕されずにいる裏切り者の名を告白させたという。これが事実かどうかは不明だが、早合点した軍の将校二人が自殺し、国外逃亡を計ったり自首するものまで出たことは、はっきりと記録に留められている。
絶対権力維持のために使われる宗教は、当然、悪とも結びつく。商売敵や恋敵を呪殺するため、大枚の金を払ってボコールを雇う連中は後を絶たないし、安価な労働力を狙って、埋葬されたばかりの死体のゾンビー化を依頼する農園主等も現実に存在するのだ。
現代科学では、ゾンビーとは仮死状態にされた上、一種の催眠術をかけられた生身の人間とされているが、定説はまだないし、ブードゥーの秘密主義は鉄壁で、おれにもその辺のところはよくわからない。ただ、何年か前にある政治家の紹介でベレチと会い、ジャングル行の護衛役に使ったゾンビーは、まぎれもない死体だった。ほぼ二カ月、食事も睡眠もとらずじまいだったし、渡河中をクロコダイルに襲われ、脇腹の肉を噛みちぎられても、血一滴流さなかったのだ。
「本物の死人だろうな、こいつら?」
おれは得意気に揉み手してるベレチ老人に訊いた。いい年こいてハイチの有力者の女房に手を出し、手ひどく振られた腹いせに彼女をゾンビーに変えてしまい、故郷にいられなくなってこの地へ流れ着いてから、何人の生ける死者を作り出したろうか。こいつにも天国の門は開かれまい。
「疑い深くなったの。小僧のくせに教育なんぞ受けるからそうなる。人は食って寝て働けばいいんじゃ」
胸糞悪そうに言う老呪術師を、おれは嘲笑した。
「その揚げ句が、墓地の管理人の手にかかってゾンビーか。遺族がきいたら百回はなぶり殺しにされるな」
「安心するがいい」とベレチはバミューダ・ショーツの内側から小さな拳銃を引っ張り出しながら言った。「ここに埋められた死体の女房・子供にはちゃんと訳を話して、一回労働させるごとに、千クルゼイロずつ支払っとるわい。近頃はやつらもせこくなって、二千クルゼイロに値上げし、二年目ごとに更新しろなどと要求してきよる。かえって赤字続きだ。ゾンビーどもに旗をもたせて値下げ断行のストライキも考えとる」
「なるほど、商業道徳に叶ってるな」
おれは感心した。ベレチは、どうやらコルト・ポケット・モデルらしい二五口径の遊底を引きながら、
「ま、旅行用ガード、キャバレーの用心棒、召使い、映画のエキストラと、需要はたっぷりあるで、食うには困らんがな」
おれは住み心地のよさそうな、鉄と木とガラスをふんだんに使った三階建ての家を見上げた。
「こんなに派手に稼いで、よく居所がばれねえもんだな」
「お客は契約前に、髪の毛一本と爪をひとかけら提供することになっとる。彼らの眼の前でそれを人形に入れ、針で一刺しすれば、みな|唖《おし》になってくれるわ」
ふむとうなずくおれの脇で、ベレチはいちばん手近のゾンビーの胸に、続けざまに三発撃ち込んでみせ、それから「出せ」と命じた。
相変わらずうつむいたままの死体が、骨太の指を小さな射入口へ突っ込み、ぐりぐりとえぐるや、血一滴ついてない小さな弾丸をつまみ出すのを見て、おれは満足した。皮袋から一カラットのダイヤ粒を十個取り出し、目の前に突き出た黒い手に載せる。
こすっからそうな眼で点検し、ベレチはめざとく、
「ひとつ、傷があるぞ」
「三発も撃ち込まれたゾンビーの分さ。死人だと証明しろと言ったわけじゃねえ」
ベレチは肩をすくめ、にやりとした。交渉は成立し、おれたちは友情を取り戻したのである。
ゾンビーを引き連れ、タクシーへと戻る途中で、ベロニカが薄気味悪そうに背後を振り返り振り返りしながら訊いた。
「あのお爺ちゃん、すんなり値段の交渉に応じたところをみると、あなたには他のお客みたいに呪術をかけていないのね。ナンバー2のボコールともあろうものが、どうして?」
「ナンバー1と友達だからさ」
色っぽい顔に尊敬の色がほんのり兆すのを見て、おれは気をよくした。いいもんだ。たとえ相手が、好きなときにおれの頭を吹っ飛ばせる雌サソリだとしても。
[#改ページ]
第二章 ロケット・マン対武装ヘリ
今度の旅の特長は、良い気分が長続きしないことにあると言えるだろう。港に戻り、タクシーの屋根やトランクから這い出るゾンビーどもの世話をベロニカにまかせて、ボートの渡り板へ足をかけた刹那、不吉な予感が未貫通弾丸のように胸中を駆け巡った。静かすぎる。勘のいいのも困りもんだ。
下の|船室《キャビン》へ飛び込んだおれを迎えたのは、粗末な二段ベッドの下段に放心状態で横たわるゆきと、かたわらのテーブルに置いた洗面器の上で、濡れタオルを絞っている名雲秘書の姿だった。
「どうした? さっき痛めつけたチンピラどもの御礼参りか?」
「左様でございます」
冷静沈着な態度もこういう時は腹が立つ。おれはゆきを指差し、
「まさか、おかしなことされたんじゃあるまいな?」
「いえ。まったくの無傷で」
「だが――」
伸びてるじゃねえか、と言いかけて、おれは真相に気づいた。確かに放心状態だが、考えてみりゃ、乱暴されたりされかかったりで人事不省に陥るような殊勝な玉じゃない。もっとして[#「して」に傍点]とせがむか、なによ弱いのね、インポ、と相手を自殺に追い込むタイプだ。
しかし、眼はゾンビー以上に虚ろで、頬は羞恥の薔薇色に染まっている。となると――。
「ああ、ローレンス様……」
ゆきが自分で解答を出した。
「どういうことだ?」
おれは馬鹿娘の額にタオルをあてている老秘書に向かい、やや戦闘的な気分で尋ねた。
どうやら、おれたちがベレチのもとへ発ってからすぐ、例のチンピラが仲間を引き連れてボートを襲ったらしい。らしいというのは、腹立ちまぎれにアイスが食べたいと喚くゆきのために、名雲秘書がちょうど通りかかった屋台のアイスクリーム売りのところへ出掛け、チョコとバニラをふたつずつ(ゆきがどっちも食べたいと言ったため)買って振り向いたときには、すべてが終わっていたからだ。
つまり、渡り板のところに、ゆきが半失神状態で突っ立ち、周囲の路上には、チンピラの仲間たちが六人、全員半死半生のありさまで呻いていたのである。
「ゆきさまにいくらうかがっても、さっぱり要領を得んのです。ふた言めにはローレンス様ばかりで。どうやら、わたくしが船を離れたとき、チンピラども――失礼いたしました。暴力少年団に襲われ、危ういところをローレンスなにがしに救われたと見えますが」
「その戦メリ野郎の姿は見たのか?」
「いえ、振り向きましたときにはもう。人通りも多ございまして」
「神出鬼没か。気障な野郎だ」
「左様でございます。ですが――」
「ですが――何だ?」
「勝手な推量を言わせていただければ、ゆきさまはお年ごろのせいもあって、比較的容貌のすぐれた男性に興味をもちやすい方とお見受けいたしますが、決して自分を見失うほどに深みにはまるようなことはないと確信いたします。そんな方が、まさしくほんの二、三分のあいだに、ごらんの通りのありさまで――」
「だから、どうした?」
「男のわたくしから見ましても、そのローレンス様とやらは、なかなか、その、人物ではないかと。――申し訳ございません。お気に触ったらお許し下さいませ」
「うるせえ」
おれはゆきの方を向いて訊いた。
「何てんだ、そいつの本名は?」
ぱっ! とゆきはいつもの表情に戻っておれを睨みつけた。
「うるさいわねえ! 人がうっとりしてるのに。あっち行け」
いうなり幻想の世界へ舞い戻り、とろけるような声で、
「またお目にかかりたい……ローレンス・シュミット様……」
沈黙。
「……どうなさいました?」
名雲秘書の声が遠ざかり、おれは三年まえブラジリアの安酒場で刻み込んだ記憶が、ざわめきやダンス音楽とともに甦ってくるのを感じた。
ローレンス・シュミット。
事の起こりは些細な喧嘩だった。どうやらそこは軍人相手の酒場らしく、陸軍だの空軍だの、将校だの二等兵だのがごっちゃになってグラスを空け、安煙草の煙と最低のウィスキーの匂いが混じり合い、両肩を剥き出した女たちが尻を振り振り男たちの間を往来しては、けたたましい嬌声をあげていた。そのくせ妙にぴりぴりした兵隊特有の刹那的雰囲気が店中に立ち込め、いつ殺し合いが勃発しても、決しておかしくはない様相を呈していたのである。
マナウスでひと仕事片づけたおれは、そこの片隅でビールをちびちびやっていた。三年前といやまだ中学生だが、その頃から身長は一七〇センチ以上あったし、身体つきや顔つきも苦労したせいで、その辺のフーテン大学生よりよほど大人びており、またそんな酒場は、相手が小学生だろうと金を払えば客という立派な商業道徳で成り立っていた。
いきなり、グラスを床に叩きつける音が店中に響いた。何が原因かはいまだにわからない。おれが顔をあげたときは、店でいちばん若そうな――十七、八だったろう――ウエイトレスが頬を押さえてカウンターにもたれかかり、全員が総立ちで殴り合いをおっぱじめていた。
グラスと酒瓶が宙を舞い、骨と骨がぶつかる鈍い音がそこいら中に響いた。やめてくれという店主の声も怒号にかき消され、騒ぎはとめどなくエスカレートしていった。
このままじゃ間違いなく死人がでる。
そう思って早々に退去しようと椅子から身を浮かせたとき、リオのカーニバルを三倍にしたくらいのその大騒ぎは、始まったとき同様、ピタリとやんだのである。
血走ったゴロツキどもの眼が、恐怖の相さえ浮かべて入り口の方を凝視しているのを認め、おれも振り返った。
左眼を覆った黒い眼帯が鮮やかに脳裡に灼きついた。年は若い。まだ二〇になるかならないかだったろう。だが、しわひとつないカーキ色の将校服に包まれた身体は、すでに苛酷な戦場で生き抜いた男の風格を全身に滲ませていたし、眼前の騒ぎを見つめる隻眼には、泥酔しきった荒くれ男たちを凍りつかせる凄まじい精神の光が燃えさかっていた。
誰かがつぶやいた。
ローレンス・シュミット中尉……
この若者が長靴の音を立てて店内へ歩を進めたとき、居並ぶ巨漢どもは後じさったのである。
店の真ん中まで来ると、シュミットはまずカウンターに寄りかかっている娘の肩に手をやって振り向かせ、頬を押さえている手をやさしくはずした。
すぐに兵たちの方へ向き直ったとき、軍人とは思えぬ端正な顔からはすべての表情が消えていた。淡々とした声で、
「騒ぎの張本人と、この娘さんに手をあげた者、前へ出ろ」と言った。ポルトガル語だった。
兵隊たちの性格はおれにもわかっている。こんなときは誰かひとりが名乗りを上げ、全員でそれをかばうものだ。
だが、身長二メートルを越すひげ面の大男がしゃっちょこばってシュミットの前へ出ても、とりなす者はいなかった。シュミットより上の階級章をつけた将校たちですら、うそ寒い眼で棒立ちになったきり動こうともしない。
おれは無言でビールを口に運んだ。
「ビセンテ・キノ曹長」
巨漢の首にかかった認識章をちらりと見て、明らかにドイツ人のこの将校は低い声で訊いた。
「ブラジル軍人の本分とはなんだ、言え」
「……」
「言え」
「ひとつ……」唾液に粘つく唇が動いた。
「ひとつはいらん。ひとつしか[#「しか」に傍点]ない」
うなずいた曹長の顔は蒼白だった。
「軍人は民間人を守ることをその本分とすべし」
「そうだ」
一二〇キロの大男を、七〇キロのプロボクサーが叩きのめせるかどうか、おれには自信がない。
だが、おれの眼の前で巨漢は確かに宙を飛んでいたし、シュミットは鮮やかな右フックの姿勢をとっていた。
巨体がカウンターに激突する轟音も、その有り得ない光景を現実のものと認めさせる何ほどの効果ももたなかった。男たちは、顔を血みどろの肉塊と変えた戦友の方を見ようともしなかったのである。何かがカラカラとおれの足元へ転がった。おれは爪先で前歯の破片を蹴り飛ばした。
それだけだ。
顔見知りらしい兵隊に娘を病院へ連れていけと言い残し、この恐るべき青年将校は黒い風を巻いて立ち去った。
少しあとで、おれはさる政府高官の口から、彼こそ、二〇に満たぬ若輩ながらあらゆる軍事・諜報組織が引き抜きを策している軍略の天才であり、つねに第一線に立って戦い、いかなる死地からも任務遂行の後帰還する超兵士だということをきいた。大尉に昇進したことも。
人はその名を呼ぶ。
|地獄の戦士《ヘル・ファイター》と。
おれは|恋愛症候群《ラブ・アフェア・シンドローム》に陥ったゆきに歯を剥き出して甲板へ出た。シュミットはどうやら、おれたちを監視してたらしい。なぜゆきを助けたのかわからないが、どうせよからぬ魂胆あってのことに違いない。とにかく、出し抜くのはいまだ。
だが、そうは問屋が下ろさなかった。
岸壁にかけた渡り板の端っこで、ベロニカとゾンビーたちが何やら議論しているではないか。値段がどうとかいっている。ゾンビーどもの賃上げ要求か?
そんな馬鹿な、と渡り板を駆け抜けた途端、驚きは杞憂に終わった。ベロニカとゾンビーの間から、ポポンガの愛嬌のある顔がのぞいたのだ。
「何の用だ?」
おれはドスの効いた声で尋ねた。
「よかった、よかった。この女の人じゃ埒があかない。あなた、最後まで話もきかないで行ってしまった。せっかちは日本の美徳――ノン、罪悪ね。わたし、初めに言いました。あなたを待ってたの、お礼と商売のため。――わたしのとこにあるあなたの荷物、みーんな引き取ってください」
「全部はいらねえ」
おれはぴしゃりと言った。少し離れてるとこに停車中の大型トラックが目についたからだ。運転席にいるのは、さっきおれが叩きのめしたチンピラだった。港の情報網兼貿易業者どのは、商品の在庫一掃を狙って、用心棒どもを雇ったらしい。
「そうはいきません」ポポンガはにやにや笑いながら言った。「まとめてでないと売れない。断っても買ってもらう。ボートや女のひとに怪我させたくないでしょ」
「オーケイ、いくらだ?」
「五千万クルゼイロね。現金払い。隠しても駄目よ。あなた絶対、お金もってる」
「わかった。品物はあのトラックの中だな?」
うなずくポポンガの鼻先に、おれは一クルゼイロ紙幣を一枚突きつけ、ぼんやりと突っ立っているゾンビーたちに目配せした。
「やっちまえ。腕の二、三本は折ってもいいが殺しちゃいかんぞ」
ポポンガが喚いた。
「な、なにをするか。わたしは平和的解決を。――いいこと、彼ら、みな、武器持ってるね。わたし、警察にも顔が効く。大人しく言うことをききなさい。さもないと……」
だが、ゾンビーたちはすでに不気味な二列縦隊を組み、石畳の路上をひたひたとトラックめがけて前進を開始していた。
それから先は、ポポンガにとっても、初めて眼にする夢魔の時間だったろう。
トラックに潜んでた――どうせ、おれたちの身ぐるみ剥いで殺しちまう気だったのだ――十名近いならず者は、|山刀《マチエテ》やラーマ、アストラといった安物のスペイン製拳銃で武装していたが、すでに死んでいるゾンビーたちには効果ゼロだった。
ブードゥーの魔力で動かされる歩く死体は、人間のもつ潜在的な破壊・苦痛への恐怖感から解放され、その筋肉、腱、骨格の全パワーをフル稼動させる。やせた相撲取りを相手にしているようなものだ。猛烈なナックル・パートで鼻底骨を陥没させられる奴、万力みたいな両腕に掴まれ、喉仏をつぶされる奴、ベア・ハッグで肋骨をへし折られる奴、格闘技の心得があるゾンビーに捕まり、廻し蹴りやコブラ・ツイストをかけられる奴までいた。
バキバキボキボキと小気味よい音が港湾の一角に響き渡り、わずか四、五分でチンピラどもは半ゾンビーと化して岸壁に横たわっていた。
だが、ポポンガが本物の恐怖に総毛立ったのは、ぎくしゃくと戻ってきたゾンビーたちに周囲を囲まれたときだった。
あるものは脳天の半ばまで山刀を食い込ませ、あるものの胸には十発近い風穴が開いている。喉に刺さった二本のナイフを平然とひっこ抜き、メリメリと握りつぶすゾンビーを見て、港の貿易王はおれに胸倉掴まれたまま失禁してしまった。
「全部で一クルゼイロだ。それ以上はこいつらに届けさせることになるけど、いいな」
奴が放心状態でうなずいたのは、おれの言葉が終わって三〇秒もたってからだった。
さらに一時間後、新しい荷物と十人のポーターを積み込んだボートは、三○○キロ上流の目的地、トロンペダスとマプエラ両河の合流地点めざして波を蹴立てていた。
緑の葉と褐色の樹々が無限に折り重なって太陽の恵みを隠し、昼なお暗い密林の陰鬱な空気は熱を孕んでひと足ごとに汗が噴き出す。湿度一○○パーセントの不快な蒸し風呂――それがアマゾンのジャングルだ。
薄日にほの白い頭上で、鳥たちの声がやかましい。
「ひっどいところねえ」
すぐ後ろを歩いてるゆきが、ぜえぜえ言いながら文句をつけた。
昨夜遅く、両河が一本となって流れる大支流の河口に到着し、船内で一夜を明かしてから夜明けと同時に歩き始めたのだ。睡眠十分とはいえない上、三時間以上も休みなく道なきジャングルを黙行し、しかもいつ出られるかわからないとくれば、毒舌のひとつも浴びせたくなるだろう。正直、おれもきつかった。
「ほんとにインディオはこの道を通ったの? 地図見たけど、こんなひどいとこ出てやしないじゃない。気がついてみたらサンタレンだったなんて、やよ」
「心配なら引き返したっていいんだぜ」
おれは身を屈め、ズボンの上から平気で血を吸ってるでかい蚊を叩きつぶしながら言った。掌にべったりと血の感触。おれの血だ。畜生め。
ゆきも首筋や二の腕をボリボリかいている。昨日も襲われて、殺虫剤や痒み止めをシューシューやっていたが、アマゾンの蚊やアブに市販の薬など効きやしない。おまけに数は無尽蔵だ。慣れるしかあるまい。ゆきもショート・パンツをあきらめ、Tシャツと生なりのジーンズにはきかえていた。もっとも、蚊の嘴は、もっと厚い生地さえズボズボ突き抜けるし、スルククやジャララックスといった猛毒蛇の前には無防備も同様だ。ゆきはおれの言葉に眼を三角にして、
「そんなこと言ってやしないでしょ。手首を取り戻すためならどこまでもいくわよ。だけど、インディオに追いついたとして、ひと泡吹かせる算段はあるの? 相手は化け物よ」
おれは口をつぐんだ。
「ほうら。手も足も出ないんだ」
と、ゆきが揶揄し、
「それは問題ですな」と名雲秘書の声が加わった。「わたくし個人は八頭さまを信頼申し上げておりますが、相手が相手。おまけに強敵がひとり、先を越しておりますようで。ここはひとつ、具体的な計画をおきかせ願い、安心しとうございます」
「夕べ話した通りだ」
おれはできるだけ自信たっぷりにきこえるよう、|声音《トーン》を落として答えた。
「奴らの故郷はギアナ高地の麓にある。そこへ行く以上、いまおれたちの通ってる|路《ルート》を抜けるのが最短距離なんだ。一方、彼らは人情として、比較的行程がゆるやかな地図にある道を辿るだろう。計算すると丸二日遅れをとってるわけだが、このペースで進めば、明日の夕方には追いつける勘定だ。どうやって奴らの手首を奪うかはおれの主義に従って秘密とする。
文句あるか? あってもそれ以上の質問は許さん。最後にひと言。あと十分も歩けば、インディオの村がある。そこで休憩だ。全員喜ぶように」
我ながら一方的な宣言に、なおもゆきが食ってかかろうとしたところへ、ベロニカの甘い横槍が入った。
「あたしは隊長に賛成よ。こんな魔境でリーダーを信頼しないと、全員行き倒れは免れないわ。ミスター八頭は若いけど、素晴らしい隊長さんよ」
「なによ、この……後から入ってきた裏切り者のくせして……」
ゆきの声には凶気がこもっていた。同じタイプで自分以上に“女”を感じさせるベロニカへの反感と嫉妬が、抑制なしで噴き出そうとしている。疲労が制御弁をはずしちまったのだ。日本語がわからないながらもそうと察したベロニカの顔からも表情が消える。
こいつあ面白そうだと思ったが、名雲が仲裁に入った。ゆきはもちろんベロニカも、このゾンビー以上に無表情な老人は薄気味悪いらしく、肩をすくめて歩き出した。
「助かったよ、さすがは年の功だ」
歩きながら、おれは名雲に礼を言ったが、答えは実に恐ろしいものだった。
「いえ、あれしきのこと何でもございません。ですが八頭さま、わたくしの見ますところ、あなたさまはインディオたちを捕まえたくない[#「捕まえたくない」に傍点]のではございませんか? ――失礼いたしました。質問は許されておりません。ご容赦を願います」
おれは無言で名雲に背を向けた。眼付きが悪くなってゆくのがわかる。
野郎、なぜ知ってやがるんだ?
「あ、家がみえた。部落よ!」
ゆきのはずむ声が思念を打ち破った。
部落に入ると、ゆきは拍子抜けした風だった。
広場を囲む十軒ほどの家から人なつっこそうに集まってきた村人たちは、みな髪を七三に分け、派手なアロハ・シャツに半ズボンをはいている。女の子はワンピースに可愛らしいお下げ髪だ。家もちゃんとした木づくりの普通家屋である。
広場の片隅に腰を下ろし、虫に食われたところへ痒み止めをつけながら、ゆきは、
「何よ、全然、インディオらしくないじゃない」
「阿呆」とおれはののしった。「ジャングルへ一歩入れば、ターザン映画みたいな原始種族や猛獣がいると思ったのか。いまアマゾンは急速に開発が進み、かなりの奥地まで開拓者が入ってコショウ農園や焼き畑農業を行ってるんだ。この辺のインディオは彼らと接触し、とうの昔に文明化してるのさ」
「ふーん。でも、なんとなく日本人と似てるわねえ」
「それも知らんのか? インディオっていうのは、もともと北米インディアンと同じ人種が、約一万一千五百年前、氷河期が終わると同時に北米から南下して、アマゾン河流域に住みついたものだ。北米インディアンは元をただせば二万五千年くらい前、ベーリング海峡が干上がっていた時代にアジアから北米へ渡った|黄色人種《モンゴロイド》の先祖。つまり、インディオとおれたちとは同じ人種なのさ」
「へえ、やに詳しいじゃないの。女のお尻と宝物追いかけ回すだけしか、能がないと思っていたのに」
「あてがはずれて残念だな」
「ふん」
中年の樽みたいな女性が、水の入ったカメとひしゃくを持ってきてくれた。一杯飲んでからゆきに濾過剤を入れろと注意し、女に礼を言う。インディオの消息を訊いてみた。なんと、昨日の朝立ち寄ったという。いつどっちへ行ったかは、村長が知っているとのことだった。
どこにいると訊くと、近所の森へタランチュラ狩りに行っているとの返事が返ってきた。タランチュラはいわずと知れた猛毒蜘蛛だが、手足には毒がないため、そこだけ焼いて肉を食う。未開インディオはよくやるが、こんな開けたところじゃ珍しい。村長の趣味だろう。凝り性で、一日がかりになることも稀ではないという。おれはじきじき出向くことにした。
もうひとつ、シュミットのことも尋ねたら、こっちはまだ来ていなかった。ようやく先手をとったぜ。
おれは膝の上に置いたSIGをつかんで立ち上がった。カービン銃に改造してある。
「どこいくの?」ゆきが訊いた。
「河で水浴びだ。三〇分で戻る。名雲の爺さんに頼んでどっかの家を借り、飯の仕度をしておけ」
「やーよ。あのグラマーにさせたら」
「ふたりでやるんだ。いいな」
おれは広場を見回した。少し離れた木の下で、名雲秘書が子供たちと何か話してる。こりゃ驚いた。どっちも笑ってやがる。鬼の眼にもなんとやらだ。ゆきに伝えたのと同じ命令を出し、村の入り口へ向かう。ベロニカが後を追ってきた。いやに焦った声で、いつまでここにいるのかと訊く。
「飯を食ったらすぐ出る。なにを脅えてるんだ? 近所にキング・ギドラの巣でもあるのか」
「冗談はよして。別に脅えてなどいないわ。一刻も早くインディオを追いたいだけよ」
「なら結構だ。ゆきと飯の仕度をしろ。つまらねえ喧嘩はご法度だぞ」
「あたしの方からけしかけたことはないわ。知ってるくせに」
急に声が鼻にかかった。いかん、いつもの手だ。
じっと見上げる濡れた瞳から眼をそらし、おれは足早に森へ入った。採集場所は中年女に訊いてある。
襲いかかる蚊やアブを払いのけながら十分も歩くと、やや開けた場所に出た。木の数がぐんと減り、一種の空き地を形成している。
奥の方に、勇敢にも上半身裸の男の背中が見えた。肩にブリキの採集箱、右手には捕虫網。村長だ。
何かが首筋を走った。様子がおかしい。両手を下げ、まるでゾンビーみたいに突っ立ったきりだ。獲物を見つけて身構えてるんじゃあるまい。――まるで獲物だ。
おれは村長の前方に視線を送った。
おれの位置からは木の壁にさえぎられてよく見えない。ふと、村長の足元で何かが動いた。灰色の棒が地面に突き刺さっている。いや、ただの棒じゃない。縞模様つきだ。
次の瞬間、極度に圧縮された思念がおれの行動を決定した。
蛇だ。縞模様。毒蛇。スルククだ。長さは三メートル。
両腕がSIG・カービンを持ち上げる。
気配に感づいたら跳びかかる。危険。一撃必殺。
銃床が肩づけされた。
落ち着け。無闇に撃つな。何もしないかもしれない。凶暴性なし。弾丸。|電気弾《エレクトリック・カートリッジ》。一万ボルト。|豹《オンサ》でも感電死。
標準よし。
スルククの頭が村長めがけて跳躍した。認識。射撃命令が脳から指先へ。常人は○・二秒。おれは――。
火花が散った。電撃よりも着弾の|衝撃《ショック》でスルククの首は半ばちぎれ、太い胴体を引っ張りつつ大きく方向を変えて地に墜ちた。
やった!
だが、おれは今度こそ、村長の恐怖の源泉を見極めねばならなかった。
木の壁の向こう側から、毛むくじゃらの棒みたいなものが何本も、ぬわーっと湧いて出たのである。彼はこれを見て凍りついたのだ。
思考が七転八倒した。正常な流れに、異端の情報が強引にねじこまれてくる。
なんだ、あれは? わからん。脚だ。途方もなくでかい。これはなにかの間違いだ。あんなものいるわけがない。脚だ、脚だ。――の脚だ。違う!
おれは地を蹴った。大きく村長の背後へ回り込み、恐怖の正体を真っ向から見据える。
それは、四肢の長さが五メートルはあるとてつもなく巨大な毒蜘蛛――タランチュラの姿だった。
おれの思考はほぼ停止状態にあった。眼前のもの[#「もの」に傍点]を正確に認識でもしたら、即、恐怖のあまり全神経が麻痺してしまったろう。待つのは、タランチュラの強力な顎に全身の骨を砕かれ、食いちぎられる運命だ。こいつの攻撃本能は世界一強烈なのだ。
だが、おれの身体は思考を断ち切って動いた。この世には、いかなる自然法則にも叶わぬ事物が存在するという根本的認識。有尾人、雪男、サスカッチ、吸血蝶など無数の怪生物と戦い生き抜いてきた自信――潜在意識に刻み込まれたトレジャー・ハンターの生命がおれを救ったのだ。
自分でも知らぬ間に、SIG・カービンが|全自動連射《フル・オート》で吠えた。
棒立ちになった村長の身体をギリギリではずし、三〇発の電気弾は雨あられと超自然の怪物に降り注いだ。
跳ね上がりかかる銃身を押さえる左手が連続発射の熱で灼きつく。乱れとぶ空薬莢。前進する大蜘蛛の全身は|電撃《スパーク》の妖しく光る触手で覆われ、永劫とも思える輝きを放った。立ち昇る紫煙と異臭。カッと開け放たれた洞窟のような口がおれと村長に迫り、ガラス玉のような眼の奥に苦痛と怒りが交錯した。銃声と電光。
ついに、蜘蛛のものとは到底思えぬ重々しい音を立てて、タランチュラは横倒しになった。四肢を縮め、断末魔の痙攣に身を震わせる。
やったという感慨も湧かなかった。無意識のうちに右手親指が|銃把《グリップ》のマガジン・キャッチを押して空|弾倉《マガジン》を排除し、左手が腰のベルトから新規の三○連ロング・マガジンを抜き取り装填する。改造したスライド・ストップは自動的にはずれ、|撃鉄《ハンマー》を撃発位置に残したまま遊底は前進。同時に弾倉上の第一弾を引っかけ|薬室《チェンバー》に送り込む。あとは引き金を引けば、再び三○発の猛射が飛ぶ。ただし、今度は東京の地底王国で使った九ミリ炸裂弾だ。威力は軍用手榴弾の約半分。ま、とどめをさすには十分すぎるだろう。
しばらく肩づけで照準を合わせ、タランチュラが動かないのを確かめてから、おれはSIGを腰だめの位置に戻した。
村長に駆け寄る。肩を掴んで揺すったが動かない。しわだらけのモンゴロイド・フェイスにはめ込まれた瞳は虚ろな洞窟だった。
軽く頬を叩く。ようやく感情の色が動いた。ぼんやりとおれを見つめ、捕虫網を落として両手を差し出す。両掌を三〇センチほど離し、「これくらい」とインディオ語で言った。
「普通はな。ま、あれなら靴はいたときに咬まれる恐れはねえや」
なおも、紫煙をただよわせる死体から目を離さず、おれは同意した。
村長が示しているのは、普通のタランチュラの大きさなのだ。この蜘蛛は人家だろうと平気でもぐり込み、かめ[#「かめ」に傍点]や靴の中に潜む。インディオたちがレジと呼ぶハンモックを吊って寝るのは、彼らや毒蛇を避けるためだ。翌朝、何も知らずに靴をはいた学術調査隊員がコロリといった例は枚挙にいとまがない。全身に寒気と悪寒が走り、数時間で心臓麻痺を起こして死に至る。こんな大物なら数秒だろう。
しかし、いくらなんでも現実に、それもこんなにも人家の近くに浮世離れした怪物がいるなんて、それこそ自然の法則に反した現象だ。こいつはどこか、別の場所からやってきたに違いない。
ひょっとしたら、あの幻の王国から。
ほんの一瞬、おれは蜘蛛から眼を離し、考えに没頭した。
重々しい銃声が思考を吹き飛ばし、村長の身体ごとおれを横に跳ばせた。
空中で振り向いた。
タランチュラが立ち上がっていた。
三〇発の猛打を受けて熟柿みたいになっていた頭部が完全に消失し、血の霧が空中に舞った。
誰かが大口径ライフルで吹き飛ばしたのだと考えるより、おれは別の思考に戦慄していた。
大蜘蛛は、おれの隙をうかがっていたのだ!
村長の身体をひっ掴んだまま、おれは地上を転がり、手近の木蔭に隠れた。直径七、八○センチはある。象狩り用の四五八ウイン・マグナムや四六○ウェザビー・マグナムでも紙のごとく貫通するというわけにはいくまい。
屈辱がしみ[#「しみ」に傍点]のように胸中を広がっていった。また助けられたことになる。
奴に。
おれは銃声のした繁みの方向に眼を注いだ。全身の力を抜き、気配の吸収を図る。
いた。おれの真正面からやや右寄り。移動にかかっている。
おれは勘でSIGを放った。
炸裂弾が地をえぐる轟音。
気配がとまった。
木蔭に顔を伏せる。
雷鳴。
大口径の衝撃に木の幹が揺らいだ。
おれは跳びのいた。
ざあっと枝々を鳴らしてたっぷり葉をつけた大枝が落下し、村長を打ち倒した。
やるな!
興奮と緊張が全身を駆け巡った。湧き立つ血の雄叫びがきこえる。好敵手と巡り会えたものの歓喜の叫びだった。
義理で村長に駆け寄り、傷を確かめる。軽い後頭部打撲だ。死ぬほど重い枝じゃない。奴はそこまで計算して撃ったのだ。
再び気配を探る。
消えていた。逃げたんじゃない。おれ同様、木の蔭かなんかに隠れたのだ。
だが、勝利の女神は手にした秤をおれの方に向けていた。
どうみても、奴にはおれを殺す気がないのだ。一方、おれは殺意に燃えていた。トレジャー・ハンターを|生計《なりわい》にして十四年、これほど舐められた経験はない。屈辱はそれを科した奴の血で償う主義だ。こうみえても、おれは実に執念深い性格なのである。
どちらも動かなかった。
先に動いた方がやられる。殺されなくても、脚の片方も吹き飛ばされちゃ、一生食いっぱぐれだ。
十分間もそうしていただろうか。
遠くで悲鳴がきこえた。
部落の方角だ。かすかな銃声と絶叫が風に混じる。
何かが起こったのだ。
おれは舌打ちした。
放っとけ。――そうもいくまい。
くそ、撃ちたきゃ撃つがいい。
村長はそのままに、おれは三発ほど盲撃ちで連射するや、脱兎のごとく木蔭から跳び出した。
背中が寒い。
銃声は追ってこなかった。
蚊もたかれないスピードで疾走し、村へ飛び込んだ。
家が燃えている。二階の窓から黒煙が蛇のように大空へのたくり、炎の舌がチロチロと壁を舐めていた。
一階はすでに火の海だ。
村人が水の入ったカメをバケツ・リレーで運んでぶちまけている。
おれはゆきたちを探した。
広場の真ん中に、さっきと同じくらいのタランチュラがひっくり返っていた。うええ、二匹もいる。思わずSIGを構えたが、息絶えているのは一目瞭然だった。黒い塊のあちこちから細い煙の糸が立ち昇っている。
少し離れたところでベロニカが死骸をねめつけていた。
どこから引っ張り出したのか、機密部隊のレーザーガンを抱えていた。ベレンを発つ前夜、おれが失敬してきた戦利品である。
走り寄って訊いた。
「一体何事だ? ゆきと爺さんはどうした?」
ベロニカはおれの方を見ようともしなかった。喉にひっかかったような声で、
「あなたが出ていってすぐ、こいつらが裏から襲ってきたのよ。家畜小屋がつぶされ、牛が三頭もやられたわ。安心して。村人は無事よ。あたしがこれでやっつけたから。――でも、あの火事はレーザーのせいじゃないわ。家族が蜘蛛にびっくりして逃げる途中、ランプか何かを倒してしまったのよ」
「ふたりはどうした?」
おれは蜘蛛を見ながら淡々と語るベロニカを凝視した。
返事の代わりに、火事現場の方からゆき本人が駆けつけてきた。
「大ちゃん。大変よ。子供が、子供が」
「なにィ?」
おれは血相変えて振り向いた。
「二階にまだ残ってるのよ、兄妹がふたり!」
「早く言え、馬鹿娘!」
おれは炎の家へダッシュした。戸口で母親らしい女が男にすがって泣き叫んでいる。男の顔には煤と軽い火傷の痕がこびりついていた。できるだけのことはしたのだろう。おれは母親を取っ掴まえ、子供の部屋をきき出した。
もう水をかけるのも忘れてオロオロしている村人の手から土のカメを奪い、中身をひっかぶる。火事場泥棒用の便利な道具もあるが、荷物をばらしてる暇がねえ。
「無理でございます。八頭さま」
リレーの人波を抜けて名雲が顔をみせた。仏頂面が煤煙で黒い。おれは口元がほころびるのを感じた。
「いいとこあるな、爺さん」
「は? ――わたくしの名前は」
おれは答えず、両肺いっぱいに空気を吸い込んで火の中へ突進した。炎と黒煙の渦だ。熱気が衝撃波となって顔を叩く。左手に階段。目を閉じたまま一気に駆け上がる。左右にドア。右側の部屋に飛び込んだ。
八畳間くらいの寝室だ。壁際の二段ベッドは炎を噴き上げている。パンパンと音を立てて壁板がしなる。
二メートルほど離れて子供たちが倒れていた。手近な方に駆け寄り、抱き起こす。四歳くらいの縮れっ毛の男の子だ。細いがまだ息はある。
立ち上がろうとしたとき、長大な炎の塊が行く手を遮った。天井の梁が落下したのだ。
女の子が!
そのとき、おれは見た。
紅蓮の炎の奥で、たくましい両腕に少女を抱きかかえ、すっくと立ち上がった男の影を。
炎が金髪をなびかせた。黒い眼帯のかたわらでおれを映す隻眼は青く澄んでいた。
ローレンス・シュミット。
薄い口もとに不敵な笑みを浮かべ、「|地獄の戦士《ヘル・ファイター》」は片手をあげた。おれも挨拶を返す。それは永劫に生命を賭けて戦うもの同士が交わす死闘の礼であった。
おれと奴との戦いは、いま幕を切って落としたのだ。
凄まじい風がおれの視界を炎で埋めた。
黒い影が窓辺へ跳び、躊躇なく外へ消えた。
頭上で鈍い物音。
残った梁が一気に落下してきたとき、少年とおれは宙に舞っていた。
お礼の焼き獏をたらふくご馳走になって部落を辞去したのは、午後一時を少々回った時刻だった。インディオたちはさらに北をめざしたという。おれが助けたペレという男の子と、シュミットに救われた妹のナムがジャングルの入り口まで送ってくれた。
別れ際、ペレは恥ずかしそうに、大きなズボンのポケットから分厚い石板を取り出しておれに手渡した。動物のだか人間のだかはっきりしない顔が彫り込まれた、かなり古い品だ。舌ったらずの声で「お守りなの」と言った。
おれは黙って胸のポケットに収め、少年を抱き上げた。きゃはは。青空を背景に、はちきれそうな笑顔と無邪気な笑い声が眼と耳に灼きついた。
密林に入り、少しして振り向くと、幼い兄妹はまだ手を振り続けていた。
おれたちの足取りは、部落到着前よりやや慎重だった。ゆきとベロニカはいうに及ばず、名雲秘書までが頭上や周囲に不安げな視線を浴びせかけている。あんな大蜘蛛は他にいるわけがないといくら説得しても、一度眼のあたりにした恐怖心はそう簡単に癒せるものじゃない。毅然たる態度を崩さないのは十人のゾンビーとおれだけだ。
ゆきが隣にやってきた。肩から米軍制式銃AR16A2をさげている。機密部隊の畜生どもと同じ武器なのは業腹だが、米軍のコピーといってもいい軍隊がのさばるブラジルじゃ、いちばん手軽に入手できるのだ。
スタンダード・タイプじゃなく、ゲリラ戦用に銃身とストックを切り詰めた|短縮型《ショーティ》だから、五・五六ミリ弾の三〇連マガジンをつけても重さは三キロそこそこ。他に荷物のないゆきなら楽に担いでいける。
扱いは六本木のマンションでたっぷり仕込んであった。というより、一度撃たせたら味をしめ、渋るおれの眼を盗んで独習したのである。太宰先蔵の孫娘だけあって、進歩のスピードは驚異というほかなく、今じゃ百メートル先のリンゴでも軽々と吹っ飛ばす。あとは殺人狂にならぬように祈るばかりだ。
ベロニカと名雲も一梃ずつ背負っている。ただしもと女兵士はともかく、ピアニストの秘書どのは部落を出る間際に即席で取り扱いを聴講しただけだから、いざという場合は、はなはだ心もとない。またあんな化け物が出ると手に負えないというので、ベレンで調達した十梃のうち二梃は、取り扱いを紙に書いた上で部落に残してきた。
「ねえ、またあんなの出てくるかしら?」
緊張と恐れの中に、期待の響きがこもる声音だった。
「どうだかな」おれは無愛想に言葉を吐き出した。「いくら緑の魔境だからって、そうそう危険な野生動物に出食わすわけじゃねえ。動物ってのは不必要な闘争を避けるように内部メカニズムができあがってるんだ。人を襲うのは、無知蒙昧な輩が彼らの領土を脅かしたときだけさ。――それにしても……」
おれは歩きながら考え込んでしまった。
最初の一匹は、少なくとも死んだふり[#「死んだふり」に傍点]をしていた。おれが眼を離した数秒間に都合よく起き上がるなんて出来すぎだ。
自然連鎖の一環にすぎぬ小さな毒蜘蛛を化け物に仕立て、そんな知能を植えつけたのは誰だ? 一体これから先、どんな状況がおれたちを待っているのだろう? こんな厄介な旅は今回限りで願い下げにしたいものだ。サイラスのいう幻の王国だって相当やばそうなのに、普通のジャングルでもうこれじゃ、目も当てられない。
機密部隊、蛇人間、インディオ、タランチュラ、それに……
「ああ、シュミット様……」
ゆきがうっとりとつぶやき、おれは唇を歪めた。男の戦いより嫉妬を解決する方が先だ。別段ゆきが好きなわけじゃないが、他の男にほの字というのは腹が立つ。奴めナムを救い出すとすぐ消えちまったが、今度出食わしたら停戦を申し入れ、隙を見てコーヒーに痺れ薬でも混ぜてやろう。最後は|軍隊蟻《マラブンタ》の塚に投げ込んで仕上げだ。
ふと、おれは立ち止まり、頭上を振り仰いだ。見えるのは無数に種類の異なった樹木の枝ばかりである。
「どうしたの?」
「エンジン音だ。ヘリだな。それも……三機」
ゆきは耳を澄ませ、おかしな眼付きでおれを見た。
「きこえないわよ、なにも」
「北東からこっちへ向かってくる。――軍隊や警察にゃまだ連絡はとってないだろうし、第一、市街地とは方向が逆だ。こいつは……」
おれはベロニカに近寄った。北東方面にアメリカ軍の基地はあるかと訊く。返事はイエスだった。
「軍事基地ができたって話はきかねえな。なんのための基地だ。生物研究所か?」
ベロニカの眼に凄絶な光が宿った。
「図星だな」とおれは嘲笑した。「驚くこたあない。横須賀でおなじみだからな。だけど、今の眼付きでおまえが信用できないってことがわかったぜ。降等だの名誉だのと言っても、結局は戦争屋に未練があるんだ。ベレンで殺したふたりだって、こうなっちゃ、本物の兵士かどうかわかったもんじゃねえ」
「違う。私の言ったことはすべて本当よ。軍人の名誉にかけて嘘はついてないわ」
「あっ、ほんとにヘリだ!」
ゆきが叫んだ。
頭上をはっきりと爆音が通過してゆく。
不吉な予感がおれを捉えた。
ペレの笑顔が浮かんだ。
「待ってろ」
言い捨てて走り出そうとした腕をベロニカが捉えた。激しい口調で、
「どこへ行く気よ。武装ヘリ三機を相手に何ができると思って? もっと冷静になりなさい。あなたはインディオより、私たちに責任があるのよ」
「やかましい!」おれは見かけより遙かに強靱な指を鮮やかにもぎ放した。「あそこに置いてきた自動小銃が気になるんだ。おれの私有財産だからな」
「嘘おっしゃい。あなた、思ってたより甘ちゃんね。絶対行かせないわ。指輪のことを忘れて? それにもう、間に合いっこないわ」
それが合図だったかのように、彼方でジャングルが揺れた。紛れもない爆発音が靴の底から這いのぼってくる。間髪入れず機銃掃射の連続音。真相は明白だった。
部落が襲われているのだ。あの村長が、ナムが、ペレが、ナパーム弾の炎に骨まで灼き尽くされ、二○ミリ・バルカン砲が逃げ惑う村人を肉と骨の破片に解体してゆく……。なんてことしやがる!
ベロニカがまた腕を引いた。
「もう間に合いっこないわ。それよりどこかへ隠れないと、彼ら、また戻ってくるわよ」
そいつはおれも同感だった。米軍の最新武装ヘリは、殺戮兵器の他に索敵用のレーザー・スキャニング・スコープや赤外線アナライザーを備え、地上の敵を走査する。
幾重にも折り重なった濃密なジャングルの下に息をひそめていても、身体から放散する熱パターンは容易に赤外線感光スクリーンに現れるし、分厚いコンクリートのベトンさえ通過する集音マイクの耳を逃れる術はない。あらゆる生物の心臓音をきき分けるマイク連動コンピューターは、一秒とかからずホモ・サピエンスのそれを付近の生物から選別し、レーダー・スクリーンに映し出す。次の瞬間、バルカン砲の一斉射撃だ。さっき上空を通過したとき、おれたちは悪魔の眼に見据えられてしまったのだ。
「ふたりで何言いあっているのよ。あたしにも教えて!」
ゆきが地団駄を踏んだ。
そっと名雲が肩に手を載せた。
「いいか。よくきけ」
おれは三人の不信な仲間をねめつけ、低い声で言った。ゆきへ通訳しろと名雲に命じる。怒りのため全身が異様に冷たい。普通は熱くなるのだが、今回は限界を突破してしまったのだ。それがわかったのだろう。三人は真顔でうなずいた。
「理由を話してる暇はねえが、あと五分もすればさっきの武装ヘリがおれたちを殺しに来る。敵は重戦車も撃破する化け物だ。しかし、こっちにもそれなりの武器がある。そこでだ、おまえたちはこのまま前進しろ。あとはおれが引き受ける。きっかり三○分たったら、その位置で待ってろ。すぐに追いつく。質問は許さん」
「そんなの駄目よ!」ワン・テンポ遅れてゆきが反抗の雄叫びを上げた。「あたしも手伝う。何だかよくわからないけど」
「あたしも。どっちにしろ、もう逃げられはしない。それに、いくら武装ヘリのエキスパートでも、アマゾン探検隊が自動小銃やレーザーガンを持っているとは思わないでしょう。不意をつけるかもしれないわ」
ベロニカもゆきに同意した。すでに、おれとベロニカのやりとりをきいている名雲もうなずいた。
「降りかかる火の粉は払わねばなりますまい。ここで八頭さまに死なれては、わたくしめの監督不行き届き。主人に申し訳がたちません。老いたりといえど、昔は銃剣術や|柔術《やわら》で鍛えた身。ひとりで戦うよりはよほど……」
「ひとりじゃねえさ」
おれはにやりと笑い、背後の太い木立にSIG・カービンを向けた。ポルトガル語で、
「でてきな。さっきからご苦労さまだが、おれの耳は人の三倍きくんだ」
ぬっと黒い影が|朽葉《わくらば》を踏みしめて現れた。
「あ〜〜〜っ」
ゆきが、郷ひろみとばったり出食わした松田聖子みたいな声をあげた。
敵意のない証拠に、グロテスクな形の象狩り用二連ライフルの銃口を下げたまま、ブラジル陸軍大尉ローレンス・シュミットは、飄然とおれたちの前に歩み寄った。
む、ベロニカの眼付きがおかしい。ゆきなどもう頬を薔薇色に染めている。名雲まで口を「ほお」の感嘆詞型にあけているので、おれは頭へきた。しかし、いまはそんなこと気にしてる場合じゃない。
「何しに来た? ずっと尾けてたのか?」と訊く。
錆をふくんだ声が応じた。
「君たちが部落を出てからな。ヘリに関する意見は君と全く同じだ。ここは休戦としたい」
「自分もやられるのがわかっているからな」
おれの挑発をシュミットは無視した。無言でおれの言葉を待つ。
この男は、野外訓練のみで威張りちらし、生徒を戦場に送り込みながら、自分は安全な作戦本部でカリキュラムを作成する類のインチキ軍人ではなかった。弾丸の飛び交う最前線で指揮をとり、生と死のはざまで耐え抜き、生き抜いてきた男だ。鋼の風格は完全におれを圧していた。無惨な戦場のさなかでも、千万人、一億人にひとりは、自分を磨くことのできる人間が存在するのかもしれない。
「では、対ヘリ作戦にとりかかるか」
おれは肩をすくめ、とりわけ大きな荷物を背負ったゾンビーを呼んで、背中のものを下ろさせた。ひと目で人間じゃないとわかるはずだが、シュミットはじろりと見たきり二度と眼もくれなかった。大した度胸である。ますます気分が悪くなった。わざと伝法に、
「おれたちの|突撃銃《ライフル》じゃ、ヘリの装甲を撃ち抜くには時間がかかる。かといって、あんたのライフルがいくら強力でも、高空から襲ってくるヘリを一発で仕止めるのは至難の技だ。まして、相手は三機もいる。弾丸も届かない高空からまとめてナパームを落っことされりゃ一秒で火だるまさ。で、こっちも同じ立場で迎え討とうってわけだ。――見な」
おれは手際よく荷物の防水布を剥いだ。
出て来た品物を見て、ベロニカが息を呑んだとき、おれは背後の空を振り仰いだ。
遙かな村の方角から、新たな殺戮に舌舐めずりする悪魔の羽音が接近しつつあった。
武装ヘリは、アメリカ軍の誇る最新型ベル社製AH―64だった。全長一六・一六メートルに対し、攻撃を受ける面積を減らすため、操縦席幅は○・九一メートルと極端に狭い。 正面からみるといかにも貧相なやせっぽちだが、その鼻面と両脇にせりだした幅広のウィングを目撃した軍事関係者は、頭から冷水を浴びせかけられる思いがするだろう。
公表・毎分四○○○発、実際発射速度・実に七二○○発の猛射を可能にする二○ミリ・バルカン砲の銃口と、片ウイングに二・二五インチ=ミサイル一九発、対戦車用TOWミサイル四発、――計四六発のロケット弾を装備した四基のミサイル=ランチャーは、地上最強の移動兵器といわれる鉄の城・重戦車に対してさえ、十対一の撃破率を誇る。すなわち、ヘリ一機が撃墜されるまでに、十輌の戦車が生け贄に捧げられるのだ。
気温四〇度C以上、高度一五〇〇メートルの高地でも時速三一五キロを絞りだすガスタービン・エンジンを搭載し、わが新幹線を一〇〇キロも上回る速さで飛翔する地獄の使者を、地上の誰が迎え討てるだろう。
それは、ヘリのパイロットの思想でもあった。
だからこそ、レーザー・スコープや赤外線アナライザーを使う前に、以前、学術調査隊らしい小人教のグループを感知した地点から二○○メートルほど北の空き地に、無防備な黒人がひとりで突っ立っているのを肉眼で確認したときは、戸惑いに近い感情を抱いたに違いない。
「どうする? 近くの部落のものかもしれんぞ」と|射手《ガンナー》に訊く。
「構うもんか。奴らはその辺にいる。ついで[#「ついで」に傍点]にやっちまえ。目撃者は残せん。あの部落もそうしただろ」
答えは簡潔明瞭だ。
HSS――ヘルメット・サイト・サブ・システムがパイロットとガンナーどちらにセットされていたかはわからない。とにかく、どちらかが哀れな黒人に眼を向けると、ヘルメットに連結されたワイヤーがその顔の動きをコンピューターに伝え、コンピューターはバルカン砲のターレットを動かして瞬時に銃口を黒人に向けた。
どちらかが発射ボタンを押す。
地上二○○メートルの高空から放たれたオレンジ色の火矢は、瞬時に黒人の肉体を猛烈な砂煙に混ぜて四散させた。
これで殺意が明白になった。
ゾンビーよ安らかに眠れ。
やや高度を落としつつ、ヘリが接近してきた。
いまだ。
おれは太い木の陰から一気に舞い上がった。
パイロットは、おれの存在をレーザーか赤外線で捉えていたはずだ。しかし、まさか、地上を這って逃げる予定の獲物が、森の中から凄まじいジェット噴射とともに飛び立ち、二秒とかからず自分たちの頭上を越えて背後に回り込むとは想像もつかなかったろう。
おれのほどいた荷物は、いま背中につけているアメリカ製ロケット・ベルトだったのだ。
過酸化水素H2O2を触媒もろともバック・パックに背負い、両サイドから突き出した噴出ノズルで大地に叩きつけて宙を飛ぶ。一九五八年にテストが開始され、なんとか実用化までこぎつけたこの夢の飛行装置も、結局は最高二〇秒という航続時間[#「航続時間」に傍点]のせいでおクラ入りの憂き目をみたが、おれが改良させたものは超効率圧縮燃料を使い、高度五〇〇メートル、時速三五〇キロで二〇分のフライトを成し遂げる新鋭機だ。短期決戦型だが、武装ヘリとはいい勝負だろう。
驚愕のあまり急上昇を忘れた手近な一機の尾翼へ、おれは眼を据えた。バック・パックの両脇に取り付けた五〇|連弾倉《マガジン》付きM16A2ライフルと、三〇ミリ・ミニ・ミサイル五○発入りランチャーが、かぶったヘルメット内のコンピューターの電気信号をうけて同目標をポイント、火を吐いた。
尾翼が吹っ飛ぶ。バランスを失ったヘリは、主翼の回転に合わせて狂ったコマのように回転しつつ緑の絨毯に激突した。巨大な火の花が赤黒い花弁を広げてゆく。ざまあみさらせ。おれの撃ったのは尾翼だ。文句があったら飛び出して逃げろ。
大きく旋回しながら、おれはにやりと笑った。HSSシステムは、武装ヘリの専売特許じゃないのだ。
下方から武装ヘリが舞い上がってくる。おれは右側の一機に接近し、右斜め横腹についた。敵の死角だ。
こっちを向いて喚くガンナーのひきつった表情。ぐっと機首を下げ、尾部を振っておれをはたき落とそうとする。おれは蚊か! 構わずミサイルを五発叩き込んだ。眼の前に広がる火炎の花を避けて後退する。一気に三〇メートル離れても、衝撃波と熱気が全身を翻弄した。両手の操作レバーを微妙に操り、バランスを取り戻す。
最後の敵が迫ってきた。
ミサイルを発射しざま急降下する。全身の血が脳天へ逆流! 鮮やかにかわしやがった。バルカンの猛射。だが、おれは小刻みに動いて火線をずらした。
スピードじゃやや劣るが、小回りの効きはこっちが上だ。ヘリの左脇腹に密着したまま、三○○キロの猛スピードで前後左右にめまぐるしく移動し射手の眼をくらます。距離があいたら最後だ。そのかわり、こっちも攻撃できない。附属の酸素マスクをつけてるため呼吸は楽だが、骨や内臓がでんぐり返って苦情を並べ立てた。人間の身体は、時速三〇〇キロで飛んだり跳ねたりするようにはできていないのだ。いくら運動神経がよくても、パイロットとしての専門訓練を受けてない限り、五秒とたたないうちにまず三半器官がいかれて嘔吐、内臓衝撃で激痛、急速降下で失神と相成る。
いつの間にか、おれたちは地上二○メートルまで降下していた。すぐ眼の下に密林の屋根。空き地の上空だった。そろそろ幕だ。おれは自分からヘリのそばを離れた。パイロットとガンナーは舌舐めずりしただろう。カチカチと歯車の音を立てて、ターレットがバルカン砲の銃口を憎悪の対象に向ける。
だが、毎分七二○○発の猛打は襲ってこなかった。
数インチの金属防弾板で守られてる燃料タンクに突然、大人のこぶし大の穴が開いたはずだが、おれにはわからない。その道のプロでも一日五○発撃つとムチ打ちになるという600ニトロ・エクスプレス弾は、紙みたいに装甲をぶち抜き、燃料タンクも通過して、多分、ガンナーかパイロットの身体の中で全エネルギーを放出した。
ぐおっと、炎の衣がヘリを包んだ。そういやエビフライに似てる。墜落も待たず空中に飛び散った。十分距離はとったつもりだが、ヘルメットやゴーグルに火の粉がぶつかり、澄んだ音を立てた。
すでに二本の黒煙を噴きあげてるジャングルのあちこちで小さな火花があがり、新たな煙が立ち昇った。
おれは少し上昇し、インディオ部落の方を向いた。
煙の帯が熱い風にたなびいている。
ペレとナムの笑顔が浮かんだ。
ため息をひとつついて、おれは大空から舞い降りた。
地上にはお客が待っていた。
空き地の端っこで、シュミットとベロニカに見張られているのは、服装からみてヘリのパイロットだった。
名雲とゆきはいまごろまだ、密林の中を走っているはずだ。遠くに五人のゾンビーが立っている。機銃でやられたひとりをのぞき、残り四体はゆきたちの護衛についている。
パイロットの顔は煤だらけ。パイロット・スーツもあちこちから煙をあげているが、あぐらをかき、両手を首の後ろに回しているのは元気な証拠だ。最初に撃墜したヘリの生き残りだとベロニカが説明した。ヘリが地面にぶつかる寸前、木の絨毯にひっかかったおかげで操縦席から投げ出されたらしい。ポパイみたいなふてぶてしい面構えの中年男だった。
ロケットと酸素マスクをはずして近寄るおれをじろりと見上げ、「|畜生め《ガッデム》」と吐き捨てる。
「で、こいつは何者なんだ?」
おれは正確にパイロットの脳天を二連銃でポイントしてるシュミットに尋ねた。地上からヘリを撃墜したのは彼だ。答えるかわりに左手で認識票を寄越した。アメリカ陸軍第××空挺部隊J・E・ヒコック一飛曹。正規の軍人だ。
「あの部落をどうした?」
おれは静かに訊いた。
「J・E・ヒコック一飛曹。認識番号は……」
意味もない数字を並べ始めた。非戦闘員の女子供を殺しても、いざとなれば軍人扱いを要求しやがる。
おれはヒコックの左肩を掴み、分厚い軍服の上から指を食い込ませた。鎖骨のやや上にある急所だ。容赦なくえぐる。みるみるヒコックの顔中から汗が噴き出し、ごつい顔面をしたたり始めた。歯を食いしばって激痛に耐える。
「あの部落をどうした?」
「……や、焼き払った……全員……」
ようやく言葉を押し出す。ありがたく思えよ、ペレやナムは、何か言う余裕も与えられなかったのだ。
「理由はなんだ。あの化け物蜘蛛を目撃したからか?」
「そうだ。――お、お前たちは、一体……?」
「ただの学術探検隊さ。そんなことより、質問に答えろ。貴様らジャングルの奥で動物の|突然変異《ミューテイション》実験を行ってるんだな。そうだろ?」
指に力を込めると、一飛曹は激痛に耐えかねて身をよじり、素直に答え出した。殴る蹴るの拷問には耐えられても、急所の痛みというのは想像を絶する。それにしても存外苦痛に弱い男だ。
それから十分ほどかけてきき出した事の真相というのはこうだった。
米軍は、ここから北東約五○キロのジャングル中に、秘密の生物学研究所を建造して、奇怪な|生物兵器《バイオロジカル・ウェポン》の実験を行っていたのである。生体に対する放射線照射、遺伝子組み換え、クローン誕生――ひと昔まえのSFコミックに出てくる|気狂い科学者《マッド・サイエンティスト》の実験が、最新科学技術に支えられて再現されたのだ。
研究所設立は一九六〇年代初め。その目的は、研究所護衛を主任務とするヒコックら軍人には固く伏せられていたが、口の軽い研究員や作業員たちの洩らす情報からして、当時苛烈を極めていたベトナム戦争用の秘密兵器を製造することにあったらしい。
ヒコック自身は現物を眼のあたりにしたことはなかったが、青ざめた顔で、翼開長五○センチにも及ぶ毒蛾や、ダニよりも小さな毒サソリを見たと証言する軍人たちもまれにいた。
おれは真実だと思う。毒ガスや細菌兵器の研究はフォート・デリックの生物化学兵器研究所にまかせ、ここ南米の非合法研究施設では、知能指数二○○台の天才科学者たちが、血に飢えた軍人たちですら冗談だろうと吹き出したくなるような滑稽でグロテスクな生物創造に励んでいたのだ。
あのタランチュラは、死んだふりをしながらおれの隙を狙った。そうしつけ[#「しつけ」に傍点]られたのだ。檻の向こうに蠢く巨大な大蜘蛛の足に頬ずりし、我が子よと抱きしめる科学者の姿を想像して、おれは胸が悪くなった。
ベトナム戦争終結後も研究所は存続し、コンクリートの壁で幾重にも覆われたラボの中で、ヒコックたちには想像もつかぬ実験が日夜続けられた。二日前にあのタランチュラが三匹、厳重なラボを脱け出したのは、これまで起こらなかったのが不思議なようなものだ。そして、罪もないインディオの部落民が焼き殺され、その下手人たちも激しい空中戦の揚げ句、ひとりを残して地獄の釜に投げ込まれる羽目となった……。
「さて、残るは貴様の処分だが……」
おれは怒りを隠そうとせずにいった。
話し終わって放心状態のヒコックがみるみる青くなったほど凄みのある声だった。
「まさか……射殺する気じゃなかろうな。おれは、すべて話したんだぞ」
「安心しな」とおれは奴の胸ぐらを掴んで引き立たせた。部落の方を指差す。「あっちへ真っすぐいきゃ、貴様らが焼き払ったインディオの部落だ。そこからまた三○キロも歩けば川に出る。下ればサンタレンはすぐさ。装備は一切やらん。裸で行くがいい」
「ま、待ってくれ。そりゃ無茶だ。こんなジャングル、水も食料も武器もなしで、一キロといけるもんか。タランチュラがいる。スルククや|豹《オンサ》もだ。頼む、一緒に連れていってくれ」
「なんとかするんだな」おれは冷たく奴を突き放した。「インディオの子供たちは、そいつらに取り囲まれながら、平和に暮らしてたんだ。貴様にもできるさ。木の枝を折って槍にしろ。釣りざおをつくれ。豹だって食えないことはないし、ピラニアでも釣れりゃめっけものだ。あの白い肉は、あれでなかなかうまいそうだからな」
おれは分解してただの|拳銃《ハンド・ガン》に戻しておいたSIGを引っこ抜き、奴の鼻先に突きつけた。
「これで先っちょをはじき飛ばしてから、追ん出してやろうか。血の匂いを嗅ぎつけた|食肉烏《ウルブ》や|猛毒蛇《ジャラライカ》が待ってましたと寄ってくるぜ」
「や、やめろ!」
ヒコックはあわてて後じさった。救いを求めるようにシュミットとベロニカに目をやり、すぐに肩を落として歩き出す。
チッという金属音をきいて振り返ったときは遅かった。
ベロニカの右手からオレンジ色の火花と轟音がほとばしり、後頭部を撃ち抜かれたパイロットは、赤い霧を巻き散らしながらどっと草原に倒れた。
血相変えて駆け寄ったおれを、ベロニカは氷のような瞳で見据えた。
「リーダーにしては甘いわね。仲間がヘリで迎えにきたらどうする気? 今度は機動部隊が攻めてくるわ。一応捜索隊は出されるでしょうけど、あたしたちさえ見つからなければ、うまくやり過ごせる。さ、ぐずぐずしないで出掛けましょう」
「拳銃を渡せ」
おれはSIGをベロニカの胸の谷間にポイントした。
「まだ、わからないの? あたしは最善の方法をとったのよ。これで、あたしの立場がよくわかったでしょう。感謝して欲しいくらいだわ」
おれは首を振って、炎の女を見つめた。
「おれは餓鬼じゃねえ。敵を殺しちゃいかんなんて言いやしない。だが、あいつは無防備でしかも後ろを向いてた。おれが行けと言ったからだ。おまえはそれを知ってて撃った。――拳銃を渡せ」
「あなたも同意見?」
本性を露わにした蛇のような眼付きでおれを睨みつけながら、ベロニカはシュミットに訊いた。答えは短く簡潔だった。
「軍人は捕虜を撃たん」
「どいつもこいつも、甘ちゃんね。死んでから後悔しても遅いのよ」
「その通りだ。渡せ」
「嫌よ」
「断っとくが、指輪のスイッチを入れるより、おれが引き金を引く方が速いぜ」
「一対一ならね」
ベロニカの口元が耳の方へ吊り上がった。内側に潜んでいたどす黒いものが、解放の歓びに身震いしながら表面に現れた――そんな感じだった。
おれは眼の隅で、胸のあたりに向けられた重量十二キロの大型ライフルの銃口を捉えていた。
「いつの間につるんだんだ?」
死角はないかと頭を巡らしながらベロニカに訊く。
「最後のを撃ち落としてすぐよ。彼をリーダーにするという条件でね。銃を捨てなさい」
こりゃお手上げだ。
「ヘリの件が片づいたら訊こうと思ってたんだがね」
おれはシュミットに矛先を変えた。
「あんた、どう見ても女の色気に我を忘れるタイプじゃあるまい。利害得失が一致したんだろうが、なぜインディオを追いかける? 冥土の土産に教えてくれよ、シュミット大尉」
いきなり階級を言って動揺させたつもりだが、隻眼の美丈夫は平然とうなずいた。おれは胸の中で唸った。ライフルの銃口がぴくりとも動かない。
「ご存知のようだから私の身分は省く。事の起こりは五日前、上官から見せられた三枚の航空写真だ。アメリカの軍事偵察衛星がアマゾンの同一地点を写したものだが、うち一枚に奇怪な建築物がいくつも発見されたのだ。しかもそれは期日的にみて、明らかに何も写っていない他の二枚の中間に属するものだった。決して未踏地帯ではない、詳しい地形図も作製されている平凡な土地にそんなものが存在する道理はない。しかし、上官は私にその場で調査の指令を与えた」
「ちょっと待て。その上官とやらは、どこでその写真を手に入れた? NASAか?」
ベロニカの表情が動いた。シュミットの答えは期待はずれだった。
「それに答える権限は私にない。だが、アメリカ軍のある部隊がその目的はともかく、同じ幻の王国を求めて活動中であることは知っていた。ベレンでの動きもな」
今度こそベロニカが仰天したように振り返る。おれもいささか感じ入った。装備から訓練方法までアメリカにおんぶにだっこのブラジル軍としちゃ、大した情報収集能力だ。かなり上の部分で、おれたちには想像もつかない苛烈な情報戦争が行われたに違いない。おれはベロニカの方へ顎をしゃくった。
「なるほど、あんたが追っかけてたのはおれたちじゃなくて、このグラマーの方だったのか。そこへインディオだのおれたちがやって来て、お祭り騒ぎをおっぱじめたわけだ」
シュミットは無言だった。
「あの売春宿でこいつが船長を殺したとき、あんたふたりの問答を盗聴したんじゃねえのか。それから、追っかけるのをおれに変更したわけだ。ひょっとしたら、日本からブラジルの米軍基地へ送られた秘密無線も傍受してたのか。あんたの手下ならやるだろう」
「部下と呼びたまえ」
「こりゃ失礼」
「さ、もう気は済んで?」
ベロニカが憎々しげに言った。おれを誘惑したときの好色な娼婦の色香は露ほども感じられなかった。
「せめてきれいに拳銃で殺してあげるわ。頭を吹き飛ばされるよりましだと感謝することね」
「ものは考えようだぜ」おれは落ち着き払って言った。「おれが死んだら、あの装備はどうする? ゾンビーはおれの命令しかきかないんだ。放棄するのは勿体ないぜ。どんな貴重品が入ってるかは今見た通りだ。戦車が五、六台束になってかかってきても軽く片づけられる。捨ててくのは丸損だよ」
「安心なさいな」
ベロニカはP7の銃口をおれの腹にポイントした。さすが軍人。万がいちはずれたときのことを考えて心臓や頭は狙わない。腹なら目標も大きいし、胸部とは違って、一発食らえば即死はしないまでも相手は抵抗力を失う。頭はその後のお楽しみだ。両手保持したP7の銃口には毛ほどの揺れもない。ベロニカは続けた。
「あなたがいなくなっても、あとふたり、荷物持ちがいるわ。それにね、置いてく荷物のロスを考えても、あなたみたいなタイプは消えてくれた方が、何百倍も気が楽なの。見たところ、人一倍執念深そうだし、いつ逆転されるかわかったものじゃないわ。夜くらいぐっすり眠りたいものね」
おれは舌打ちした。首筋を右手でなでながら[#「なでながら」に傍点]、
「わかったよ。あのふたりはあんまり苛酷に扱ってくれんなよ。それと、殺すなら爆弾でやってくれ。腹撃たれてから頭に一発じゃ汚くて敵わねえ」
「いいですとも。結構なご趣味ね」
右手にP7を握ったまま、ベロニカは左手を耳の横へ上げてみせた。人差し指の幅広い金の帯がいやに生々しく眼に灼きついた。
すっと親指が人差し指の腹に寄る。おれも右手の指先に力を込めた。さて、どうなることか。
だが、白い指がふたつに重なる寸前、ごつくはないが鋼のような男の指が、小さなレーダー・スクリーン付きの起爆スイッチをもぎ取っていた。
「な、何をするの!?」
血相変えて喚くベロニカの抗議もどこ吹く風と受け流し、物騒な指輪をポケットにしまいながら、シュミットは低い声で言った。
「彼は連れていく」
「よしてよ。どうしたの、あなたまで。こいつは危険人物よ。あたしたちの邪魔をするに決まってるわ。いいこと、あたしたちは問題の王国を突き止めたいんだけど、こいつはそこへいく前にインディオからある荷物を取り返せば済むのよ。放っておけば、絶対余計なことをしてインディオたちに警戒されるわ。
あなたにはまだ言ってないけれど、彼らの力はあたしたちの想像を超えている。逆襲する気になれば、あたしたちを抹殺するぐらい造作なくやってのけるわ。それを防ぐためにも、こいつはここで始末するのが最善の策なの。ひょっとしたら、こいつはあなたとあたしの手にも負いかねる玉よ」
こいつは面白え。仲間割れときた。おれは早速、助長することにした。
「そんなことないよ」と神妙な顔で言う。「ぼく、ただの高校生だもん。ほんとは、こんな暑いとこ、来たくなかったんだ」
言いながら跳びかかる隙を狙ったが、これは失敗に終わった。ベロニカをねめつけながらも、シュミットはおれから眼と銃口を離さない。
猛烈な精神戦はすぐ終わった。ベロニカが折れたのだ。シュミットの決心が固いとみたのだろう。ここでヘソを曲げられては、女ふたりと老人だけの弱小グループで、さらなる難関を突破しなくてはならない。行く手に待つものは、ただのアマチュアではないのだ。それにしても、おれを助ける理由も説明せずにこのお色気悪魔を黙らせるとは、大した豪傑だ。
「それでは武器を捨ててくれたまえ、八頭くん」
驚いたことに、おれにSIGを握らせたままで平気だったのだ、こいつは。
「嫌だと言ったら?――殺せるかい?」
「いや、足を撃って置いていく。食料と武器は残していくから、ひとりで帰るなり進むなりしたまえ。ここに残っていれば、帰りに救出する。帰ってこれたらの話だがね」
隻眼の光を丹念に分析し、おれは本気だと悟った。素直にSIGと小道具一式付きのガンベルトを放る。ベロニカが駆け寄り、指先から足の裏までぶっ叩くように検査した。いまにもとって食わんばかりの顔で、
「いいこと。大人しくしてるのよ。指輪はなくなったけど、いつもあたしの拳銃があなたを狙ってるわ。そばを離れないよう、ミスター・シュミットによく頼んでおくことね。蚊を叩こうと手を動かしても、撃つ理由にはなるんだから」
「この淫売女」
おれはうんうんと神妙にうなずきながらののしった。日本語だからベロニカにゃわからない。
「では、あのふたりのところへ急ごう。ミスター・八頭は君にまかせる」
言うなりシュミットは広い背を向けた。ライフルを胸前にジャングルへと歩き出す。
「ゾンビーどもに進めと言いなさい。たったいまから、あたしの命令だけをきくようにと」
背中にP7を押しつけながらいうベロニカに、おれは嘲笑を返した。
「残念ながら、そういう回路はついてねえ。ゾンビーの指揮者を変えることができるのは、彼らを生き返らせたボコールだけさ。そいつが主人はおれだと言った以上、奴らはおれが何と言おうと、主人を変える命令にだけは従わん。強制すれば相反する要素がぶつかり合って発狂し、もとの死人に戻っちまう」
「嘘じゃないでしょうね」
銃口が背中に食い込んだ。
「試してみようか?」
「お行き」
言われるまでもなく、おれは歩き出した。秘密の生物研究所をぶっつぶしてやりたかったが、いまは案配が悪い。だがあの子供たちの笑顔を炎の中に朽ちらせた元凶は、いつかこの手で始末をつけてやる。久しぶりの誓いだ。そしておれは、誓いを果たさなかったことはない。
ふとあることが訊きたくなった。大分小さくなったシュミットの後ろ姿へ、
「おい、教えてくれよ。なぜおれを助けたんだ? この女の言う通り、助けといたってろくなことにゃならんぜ。立場が逆だったら、おれは容赦なく始末する」
「そうかな」低い声が漂ってきた。「好きにするがいい。だが、軍人は民間人を守るのが本分だし、君とはまだ休戦中だ。たったいま解いたがね」
そうか。もっと有利な条件をつけりゃよかった。
少し間を置いて、ジャングルに消え行く影は意外なことを言った。
「もうひとつ――子供のために炎の中へ飛び込む男を殺す銃を、私は持ち合わせておらん」
くそ、格好つけやがって。
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第三章 魔境へ!
それから五日間、おれたちは黙々と緑の魔境を進んだ。
道なき道を行く難行苦行より、眼が醒めると同時に浴びせかけられるゆきの罵詈雑言に、おれはうんざりした。馬鹿だのちょんだのノータリン呼ばわりはまだいい方で、先祖代々墓暴きだの、脳味噌の代わりにカボチャが詰まってるだの、まるで悪口の国際見本市だ。
そのくせ、シュミットの眼のあるところでは、肩凝ったでしょうだの、無理しちゃ駄目、きっといいことあるわよなどとおべんちゃらを言い、何のつもりか、ハンカチを出しておれの額の汗を拭いたり、チュッとキスしたりする。シュミットの姿が見えなくなると、もちろん、おえおえと言いながらうがい[#「うがい」に傍点]だ。こんなにも二重人格的な女とは思わなかった。くそ。
五日間の行程は二○○キロに及んだが、インディオたちに追いつくことはできなかった。幻の目的地まではあと約二○○キロ、インディオたちの足なら五日とかかるまい。
シュミットもベロニカも、幻の王国へ分け入るためには、どうしてもインディオたちを捕捉する必要があると心得ているから、全速力を出すのだが、なにせ、ゆきと名雲秘書が一緒だ。一日三〇キロのところがどうしても二○キロになる。ベロニカの顔に焦りと怒りの色が濃くなり始めた。
雨が多いのも災いした。
三日目などは、一日に五回も猛烈なスコールに悩まされ、おまけに川っぷちを歩いてたもんだから増水した激流の直撃を受け、ゾンビーがふたり、荷物ごと流されてしまった。上流下流というが、アマゾンでは土地の落差が一キロメートルあたり四ミリ程度しかなく、たやすく増水や逆流が起こる。極端な場合には、河口から十数キロの地点まで海水が流れ込んでくるのだ。
ついでに言っておくと、緑の魔境だの、豊かな[#「豊かな」に傍点]アマゾンだのという呼び名は誤解の最たるものだ。樹高数十メートルもの緑の絨毯にふりそそぐ陽光や、満々と水を堪えた大河の写真を見れば誰でもそう思うだろうが、アマゾンの土地の地力は実はかなり低い。熱帯特有の頻繁な猛スコールが、せっかく形成された腐植土をたちまちのうちに洗い流してしまうのだ。土質自体も濾過性が強いため、いくら肥料をやっても雨が降れば一巻の終わりである。旅の途中で開拓者の住居跡をよく見かけたが、無計画に樹を切り倒し、原始的な焼き畑農耕などを行うと、その土地ははげ山と化して二度と生命を支えることができなくなる。
「アマゾンでは数百メートルも歩かないと、同じ種類の木にぶつからない」という有名な調査結果があり、これは、育成する植物が、やせた土地に同種個体が固まって種全体を枯らすのを恐れ、奇蹟ともいうべき複雑微妙な「すみわけ」を行っていることを意味する。高木、低木、水や陽光を大量に必要とする木、しない木、薄闇程度でも生きられる灌木――これら、神の手によって植えられたかのように貧弱な生活空間を最も効率よくすみわける植物群が、世界一バラエティに富むとされるアマゾン・ジャングルの正体なのである。
五日目の昼すぎ、またもスコールに襲われ、ついにゆきと名雲がへばった。これ幸いとおれも泥の上に膝をつく。
怒りで満面を朱に染めたベロニカがやってきた。グラマーな鬼女にもこの土砂降りはこたえるらしく、頬がげっそりおちて、黒い隈が眼の下を覆っている。半ば気力で歩いているようなものだ。ひと目で忍耐の限界にきたことがわかった。P7を抜いている。
仕様がねえ。おれはのたのたとふたりとベロニカの間に割って入った。
「お立ち。今すぐ立たないとこの場で撃ち殺すよ」
両手でスクイズ・コッカーを握りしめ――つまり引き金さえ引けば弾丸の出る状態にしたP7を、ベロニカはおれの脳天に向けた。
「そう無茶を言うな。おれやこのふたりはあんたたちと違って軍人じゃない。ジャングル歩きなんて慣れちゃいないんだ。銃で撃たれようが、ジャラライカに噛まれようが、もう一歩も歩けない」
おれは我ながら疲労困憊といった情けない声を振り絞った。シュミットも立ち止まり、無表情にこちらを眺めている。ライフルは腰だめ。ベロニカに跳びかかることもできやしねえ。
名雲はぜえぜえ喉を鳴らしながらも仏頂面を崩さず、ゆきは燃えるような眼でベロニカを睨みつけた。銃さえなけりゃいい勝負なんだが。
「あたしは最初からおまえたちを連れてくのには反対だったんだ。ちょうどいい。ここで始末をつけてやるよ」
ベロニカはむしろぞっとするような低い声で宣言した。疲労と焦りが理性の噛み合わせをはずしかけている。いかん、本気だ。おれは足元の泥を右手にすくいあげた。
「よせ」
またも、計算通りシュミットが声をかけた。
「彼らを殺しても何にもならん。ミスター・八頭がへそを曲げたらゾンビーは動かなくなるのだ。この先、我々ふたりが背負っていける装備などたかが知れている。目的地へ着くまでは我慢することだ」
相変わらず、焦りも怒りも恫喝もない静かな声だった。客観的事実だけを述べ、それがピタリと現状を把握している。
ベロニカは曲がりなりにも唾眠をとっているが、こいつはおれを見張るため、ほとんど寝てないはずだ。それでいて、疲労の色ひと筋見せず、つけ入る隙ひとつ与えない。常人の五倍はタフでしかも冷静、沈着、豪胆ときては、敵に回してこれほど嫌な野郎はねえ。素手でやり合っても果たして勝てるかどうか。
「じゃあ、どうするのさ!」ベロニカが吠えた。「このままじゃ、インディオに後れをとるばかりよ。彼らと一緒にいかない限り、目的地へは入れやしないんだから!」
さあ、どうするか、と腹の底で笑いながら見ていると、シュミットは実に意外な解決策を実行に移した。ベロニカに狙いをはずさぬよう命じた上で、へたり込んだ名雲の前へいき、広い背を見せて地面に膝をついたのである。
「おぶって下さるので?」
さすがに名雲秘書の声にも感情がこもった。
「仕方あるまい。そちらのお嬢さんはミスター・八頭の受け持ちだ。拝見したところ、まだ十分余力は残っているようだし」
くそ、人のエネルギー残量まで見越してやがる。
で、おれはおんぶしながら、炎暑とスコールがめまぐるしく繰り返す密林の中を歩き回る羽目になった。
「まことに申し訳ありません」と棒読みの台詞が言った。「八頭さまにこのような面倒をおかけするとは恐悦至極でございます。必ずやいつかこのお返しを……」
要するに背中にいるのは名雲秘書なのである。一歩も歩けないはずのゆきは、いざ背負う段になってさっさと名雲を押しのけてシュミットにしがみつき、おまけに幸福いっぱいの顔でぐーぐー寝込んでしまった。
「しかし、これもなかなかオツな道行きで。……いや、極楽極楽」
「うるせえ、黙らねえと叩き落とすぞ」
「失礼いたしました」
おれは名雲よりもっと仏頂面で密林を歩いた。幸い雨足だけはやみ、二時間後、おれたちは狭い川のほとりで休憩した。
「ちょうど正午か――おまえ、水浴びでもしてきたらどうだ。汗かいたろ」
缶詰の牛肉を頬ばりながら言うと、ゆきは露骨に顔を歪めた。
「なによ、嫁入り前の娘に向かって。親切ごかして、どうせ隙みてのぞきにくる気でしょう」
「あたしはそうするわ」
強行軍のせいか食事も喉を通らず、水だけを飲んだベロニカが立ち上がった。
「そこの坊やがのぞきに来ないよう、後を頼むわよ」
言い残すと五メートルばかり先の岩場へ歩き出す。大胆にも岩陰へ隠れる途中でシャツを脱ぎ、上半身剥き出しのまま消えた。向こう側の光景を想像し、おれは下半身がむずむずしてきた。疲れてても、あっちの方は別なのだ。なにせ、相手が相手ですからね。
「なに想像してんのよ、よだれ垂らして、この」
ゆきが噛みついた。
「シュミット大尉をごらんなさい。必要なとき以外、あたしや、あのあばずれ女を見もしないわ。沈思黙考、激情において冷静――ストイシズムの塊よ。男の中の男だわ」
「ばーか。あんなのに限って生粋のホモだったりするんだ。実は昨日の晩、おれの寝床へ入り込みに来たんだぜ。あわてて追っ払ったがよ。今朝も、顔洗うときにそっと手ェ握られた。そうそう、おまけに実は淋病だそうだ」
飛んできたフォークを、おれはチン! とスチールの皿でよけた。かたわらで入れ歯の掃除をしてる名雲に、
「おい、なんとか言ってやれ。こいつめ、敵の親玉にイカれてやがる」
「ふぉうふぉうおわちくだふぁい」
つまり、少々お待ち下さいと言ってから入れ歯をはめ、名雲はじっとおれの顔を見つめた。
「あの方は、そんな性癖の持ち主ではないと存じます」
おれはぶっとんでしまった。こ、こいつもシュミット派か。四面楚歌とはこのことだ。
おれは少し離れた石の上で黙々とミルクを飲んでいるシュミットに呼びかけた。
「おい。こいつらおまえを闇打ちしようと狙ってるぞ。いますぐ片づけちまえ、おれも手伝う」
むろん無視された。
「この裏切りもの」
跳びかかってくるゆきから身をかわし、おれは立ち上がった。シュミットもだ。
岩場からきこえる悲鳴は、もちろんベロニカのものだった。
おれはシュミットの方を見た。
「銃を貸せ。見てくる」
「だめよ、これ[#「これ」に傍点]信じちゃ!」
ゆきが絶叫した。とんでもねえことを言いやがる。敵味方より好み優先ときた。これだから女は信用できない。
シュミットは一瞬考え、すぐ「ゾンビーに行かせたまえ」と言った。
「あいつらのろい[#「のろい」に傍点]んだ。|鰐《ジャカレ》か|水蛇《スクリュー》に襲われてたら間に合わん」
「用が終わったら返すと約束するかね?」
「いいとも!」
シュミットは背後でぼんやり突っ立ってるゾンビーの群れに近づき、おれたちの武器を抱えてる奴を選ぶと、M16ライフルのショーティを放ってよこした。二○連マガジン付きだ。
受け取るなり走り出す。
岩場へ駆け上がりながらセレクターを|全自動射撃《フル・オート》に切り換え、チャージング・ハンドルを引く。鰐でも蛇でもキング・コングでも何でもござれだ。五・五六ミリ・フルオートの小気味よい反動を憶い出して精神が高揚の極みへと昇っていく。とにかく撃ちまくりたい気分だった。
ベロニカは、そこだけ小さな湾みたいに岩がえぐり取られた水溜りの中でP7を構えていた。必死に覆った手からはみ出した乳房も、褐色の裸身に食い込む黒いパンティからすけて見える尻もわなわなと震えている。
無理もない。P7一丁でどうなる相手ではなかった。
おれもすぐ抵抗を断念した。
彼女の見事な裸体を光る眼で凝視しているのは、手に手に弓や槍をもった五〇人近い半裸の原始インディオたちだったのである。
「な、なんとかしてよ、大!」
振り向いたベロニカの顔は蒼白だった。
「銃を捨てろ。これじゃどうしようもねえ」
内心いい気味だと思いながら、おれはショーティの銃口を下ろした。救いに来た男があきらめたと知った途端、ベロニカの張りつめた意識もあっけなく崩壊した。放心状態でP7を下げる。
どっとインディオが取り囲んだ。
両手を押さえられ、乳房をぶるんぶるんさせながら暴れるベロニカとともに河岸へ戻ると、シュミットたちも取っ捕まっていた。不意を襲われたのだろう。ジャングルはインディオたちの生まれ故郷なのだ。
おれたちはゾンビーもろともインディオたちの部落へ連行されることになった。
「ねえ、大ちゃん、これからどうなるのよ?」
ゆきは泣きべそをかいていた。
「知らん。この辺のインディオは、文明との接触を嫌って奥地にこもる原始インディオだ。文明人に露骨な敵意を持ってる。首くらい落とされるかもしれんぜ。覚悟しとくこった」
「やだあ!!」
ゆきはとうとう泣き出した。勝ち気な娘が泣くと、なかなか色気がある。これからも機会を見つけて泣かせることにしよう。
さすがのシュミットも五〇人が相手じゃ手の出しようがないらしく、黙々と歩を進めていた。
ゾンビーを暴れさせても、怪我人が出るばかりだ。それに、インディオたちの矢と槍の先端には茶色の液がこびりついている。クラーレを塗った毒矢だ。かすり傷でも命取りになる。ここは大人しく、向こうの出方を待つ方が賢明というものだ。
五キロほど歩くと部落があった。
木を切り倒し、土をならした土地に草葺の円形家屋が建ち並んでいる。オリノコ河流域に棲息するワイカ族の言葉でいうシャプノと同じものだ。サーカスのテントに似ている。
部落の狭い入り口に女や子供たちが集まり、こちらを眺めていた。腰に布をつけた程度で、上半身は裸体である。ベロニカ顔負けのグラマーが何人も、おれやシュミットを眺め、あれこれ言い合っていた。
「何語かわかるか?」
おれはドイツ語でシュミットに訊いた。
「残念ながら、彼らは完全に文明と未接触の原始部族だ。さっきもマキリタレ、ピアロア、ワイカなど、知る限りのインディオ語で意思の疎通を計ったが不首尾に終わった」
「えらいこった。いまはあんたがリーダーだぞ。何とかしろ。さっき、二、三人が部落の方へ先発したのも気がかりだ。おれたちの料理法を進言しにいったんじゃなかろうな」
「最善は尽くす。安心したまえ」
おれは不安げなゆきと、恐らくは仏頂面で死ぬだろう名雲秘書の方を向いて日本語で言った。
「シュミットは責任を放棄するそうだ。オレは何もしらん、おまえら勝手に逃げろと言ってる。こんな無責任男、二度と信用するんじゃねえぞ」
次の瞬間、火を吐くような言葉の猛射が真正面から叩きつけてきた。
「シュミットさんがそんなこと言うもんですか、この大嘘つき! あの方と一緒にいれば死んでも[#「死んでも」に傍点]安全よ!」
これはともかく、
「失礼ながら八頭さま、わたくしめ、ドイツ語も少々たしなみます」
おれはぎゃふんとなって前方へ向き直った。えい、腹が立つ。
だが、部落内に入り、家屋の中心にある広場の光景をひと眼見た瞬間、ゆきはきゃっと言っておれの手にすがりついてきた。
なんと、赤土のど真ん中に部落中のインディオが輪をつくり、その中心には、ばかでかい粘土の大壺がふたつ、燃えさかる焚木の上に据えられているではないか。壺は口まで水に満たされていた。
「な、なによ、あれは?」
ゆきが虚ろな眼差しでつぶやいた。
「なんだと思う。爺――いや、名雲さん?」
「風呂ではないと存じます」
「ご名答」
おれはベロニカの方を横目で眺めた。せっかくのバストをTシャツで隠しちまったが、どうやらもう一度脱ぐことになりそうだ。スコールでもくりゃ火も消えるが、こんなときに限って陽光燦然たる青空ときたもんだ。
不意にざわめきがやんだ。
おれたちの目の前の人垣がさっと左右に分かれ、屈強な戦士に両脇を固められた太鼓腹二重顎の大男が姿を見せた。ふんぞり返ってるところから見て酋長に違いない。
一メートルほど手前で立ち止まり、まずシュミット、それからおれへと視線を移した。品定めだろう。ゆきのところでたっぷりと時間をかけて全身をねめ回し、名雲は○・一秒で通過。いよいよ本命のベロニカだ。
「なによ、この野蛮人、いやらしい眼付きで見ないで!」
金切り声を張り上げたって役に立つ道理はない。バスト、ウエスト、ヒップと魅力的な曲線をたっぷり観察した酋長は、やはり、中身が見たくなったらしい。いきなりベロニカを指差し、ついで白い湯気を立てている大壺の片方を指差した。
ざっと戦士が動いて、たちまちのうちにベロニカは一糸まとわぬ全裸に剥かれ、たくましい腕に担ぎ上げられたかと思うと、矢のような速さで大壷のそばへ運び去られていた。すぐに水音。ゆきが悲鳴をあげ、動きかけたシュミットを無数の槍が止めた。
「安心しな、まだ煮えたぎっちゃいねえ」
おれは壷の縁から浮かび上がった赤毛を見ながら言った。必死に飛び出そうとするベロニカを、取り囲んだ戦士の槍が押し戻す。
「ミスター・八頭、君はかなりこの方面の知識をお持ちのようだが、人間を煮炊きするインディオの話など、きいたことがあるかね?」
シュミットが苦渋に満ちた声で訊いた。
「いいや。せいぜい干し首にするくらいだな」
「私はさっき、あの小屋の奥に金属性の食器らしいものを見たよ。この連中はどこかおかしい。通常のどんなインディオの規範からもはみ出している」
「結構じゃねえか。杓子定規なのはあんたたち軍人だけでたくさんだ。人間すべてユニークに生きなくちゃな」
おれは得意満面の笑みを浮かべたが、途中でやめた。酋長が今度はゆきを指差したからだ。
「やだあ! 大ちゃん、何とかしてよお!」
血相変えてゆきがおれの腕にすがりついた。ほれ見ろ。いざとなりゃ頼りになるのはおれしかない。
「こうなったら仕様がねえ。おまえがシチューになる前に、シュミット大尉が名案を出してくれるよう祈るんだな」
「やだあ!」
戦士に両腕をとられて泣き喚くゆきを見送ってる暇はなかった。何のつもりか、にやりと笑った酋長は今度はおれの鼻先に、モスラの幼虫みたいな指を突きつけたのである。
「やーい、ざまみろ」
引き立てられてゆくゆきの歓声がきこえた。
ずらっと戦士がおれの両腕を取った。
「お待ち下さい。こら放せ。八頭さまの代わりにわたしを処分するがいい」
背後で叫ぶ名雲を振り返り、おれはニヤリと笑った。身体が宙に浮いた。
「爺さん、仕事熱心なこったな」
「当然のことでございます。あなたさまにここで死なれては主人の願いが……こら、放せ、放せというに――なんのためにここまでお伴したのか、まるで……こら、ええい、放せ、放さんか」
こんな状況でも無愛想この上ない名雲の声に苦笑しているうちに、大壺が迫ってきた。ベロニカの方なら良かったのに、待ってるのはゆきだった。
ひょいと持ち上げられ、足からザブン。
ちとぬるいが、まあまあの湯加減だ。隣を見ると、ベロニカは壺の縁にぐったりともたれかかっている。あちらはかなり熱いらしい。スープができるまで四、五○分というところか。
「大ちゃあん」
いきなりゆきが水飛沫をあげて抱きついてきた。大きな眼が涙にうるんでいる。
まだ十七歳の身で運命を悟ったらしい。
「あのさあ、これまであたし、随分と大ちゃんにひどいこと言ったり、背信的行動をとってきたでしょう……決して本気じゃなかったのよね。だって大ちゃん、あたしより強いし、お金だってあるし、だから、あのくらいのこと平気で受け止めてくれるって思ってたの」
おれはうんうんとうなずきながら、ゆきの背中に手を回した。水が、かなり熱を帯び始めている。
「そう気にするこたあない。女に我がまま言われるなんざ男の甲斐性さ」
「そういうところが好き!」
ゆきの熱い唇が頬に張りついた。おれは黙って長い髪をなでてやった。
「ね、もし無事に日本へ帰れたら、ううん、ここで殺されて天国へいって、また生まれ変わったら、もう一度一緒に暮らせるかしら」
「ああ、きっと探し出してやるよ」
「ほんと? 約束よ」
おれはうなずいた。
「熱くなってきたな。脱いじゃえ」
「そうね。大ちゃんも」
「もちろんさ」
おれたちはシャツを脱いで壺の縁にひっかけた。おれの胸に押しつけられたゆきの乳房は、大きさこそベロニカに及ばないものの、とうに青い果実の堅さは抜け、成熟した女の豊潤な艶やかさを帯び始めていた。透き通るように可憐なピンクの乳首が、鮮やかにおれの眼を射た。
「あたし、いろんな男の子と付き合ったけどさ、結局は大ちゃんのところへ戻っていくみたい」
ゆきは情感のこもった声で話し続けた。
「東大生、|医者《ドクター》、建築家、エリート・サラリーマン、学者……誰と一緒にいても、いちばん羽根をのばせるのは大ちゃんのマンションだったのよね。あなた、いつも意地悪やいやらしいことばっかりする。でも、まるでほんとの兄弟みたいに陰日向なくあたしに接してくれた。喧嘩しながらいつもあたしのこと、ちゃんと考えてくれていた。信じて。あたしまだ男の人と寝たことなんかないのよ。大ちゃんにあげようと思って――ちょっと、何してるのよ?」
「ますます熱くなってきた。スラックスなんざはいてるなよ」
「そうね――よいしょ、あ、脱げた。でね、あなたは――やん、お尻なんか触っちゃ――あたし、シュミット大尉にもぽーっとなっちゃったけど、よく考えてみれば、大ちゃんを嫉妬させるために気のある素振りしてたのよ。ほんとは、あたし、大ちゃんのお嫁さんに……」
ゆきは黙っておれの顔を見上げ、目を閉じた。柔らかい濡れた唇がおれのそれに強く重なり、おれの右手が湯よりもなお熱い部分に伸びた――とき、
いきなりぼちゃんと顔の脇に水柱が上がった。
「な、なによ!」
おれは苦笑を浮かべて酋長の方をみた。にんまり笑っている。そろそろ潮どきだな。おれはいま放り投げられたものを拾い上げた。
「どうしたの、これ――石鹸じゃないの!?」
「ああ」とおれはいい香りのする白い塊を顔や手にこすりつけながらうなずいた。みるみる白い泡が湧いてくる。
「よく汚れが落ちるぜ。だってキャメイですもの」
おれは素早く壺から跳び降りた。戦士のひとりに差し出されたバスタオルで身体を拭きながら、衣類を背負ったゾンビーのひとりにこっちこいと手招きする。
シュミットと名雲が顔を見合わせてるのを見て、会心の笑みが湧いた。ベロニカはゆでだこ寸前でインディオの女たちに救い出され、エロチックな格好で家の中に寝かされてる。
ぎくしゃくとやってきたゾンビーの背負った荷物から新品のシャツやスラックス一式を取り出し、身につけ終わったころ、ひと風呂浴びてさっぱりしたらしいゆきが、バスタオルを巻きつけてやってきた。
「おっかねえ顔してどうした? いい湯加減だったろ?」
「事情を説明しなさいよ。事情を」
「なんてこたあねえ。要するに、南米へ宝探しにくるたび、どういうわけかこの部落を通るんでな、今じゃ酋長とおれとは無二の親友ってわけよ。で、さっき川のほとりで彼らに出会ったとき、とっさに捕まったふりして、あいつら脅かしてやろうと思ってさ。先に二、三人帰らせて、酋長に準備を整えとくよう連絡したんだ。はい、酋長」
おれは片手をあげ、酋長はウインクを返した。鮮やかな日本語で、
「あんたに貰ったラジオとても役立ってる。あれないと女房、夜燃えないね。人の声ききながらする[#「する」に傍点]――実に楽しい」
「だってさ」
「なにが、だってさよ!」
ゆきは目を三角に吊りあげ、かたわらの戦士が下げてる山刀をひったくった。いかん、完全に逆上してる。
「よくも騙したわね……あたしまで。あんなにも怖い思いさせて、裸にして、おっぱいと変なとこ触って。もう少しでヴァージン盗まれるとこだったわ。……なにが来世でも探し出す、よ。うまいこと言って、乙女ごころをたぶらかして……腹の底で笑ってたのね――許せない」
じりじりと山刀片手に迫るゆきの迫力に気押され、おれは後退を余儀なくされた。両手を前に出し、止まれ止まれと合図する。
「いいこと、よく覚えときなさいよ」
豊かなバストを包んだバスタオルを片手で押さえながら、ゆきはなまめかしい唇から呪いの言葉を吐き散らした。
「今後一切、あんたの言うことなんか信用しないからね。さっきあたしの言ったことも本気にしないことよ。ほんとは付き合った男全部とバカスカ寝てんだから。みんな強くてたくましくって育ちがよくて、あんたなんか眼じゃないのよ。結婚だって星の数ほど申し込まれてるんだから」
「へへえ」とおれは鼻の先で笑った。「おまえいま、おれにヴァージン盗まれるとこだったと言ったじゃねえか」
「うるさい!」
ぶんと山刀が唸った。仮借ない一撃だ。身を沈めてかわした頭髪が二、三○本持っていかれる。羞恥のせいで真っ赤に頬を染めたゆきに、おれはふと甘哀しい想いを抱いた。そういや、死ぬの生きるのいっても、まだ十七歳だったな。
「まいったまいった」とおれは悲鳴をあげた。
「おまえは確かにプレイガールだ。男ともよく寝てる。立派だ。わかったからやめろ」
「ふん、わかりゃあいいのよ。これからひとをコケにしたら承知しないからね」
「へいへい」
おれは着替えをはじめたゆきから離れ、憮然たる表情でたたずんでるシュミットと名雲のところへ歩を進めた。
「大体の事情は呑みこめたろ?」
シュミットはじっとおれの顔を見つめて言った。
「どうやら一杯食ったらしいな。お見事だ。大した民間人だよ」
くそ、本気で賞めやがる。
「だが、ひとつ誤算があった。私はいまポケットで君の首に仕掛けられたピン爆弾の発火スイッチを握っている。次はどんなカードを見せてくれるかね?」
おれは肩をすくめ、両手を広げてみせた。
「どんな強いカードも、相手に示さなきゃ効果はない。あんた、民間人を殺せるのかい?」
「必要とあらば」
おれは右手を出した。
「さ、出しなよ。さもなきゃ遠慮はいらない、スイッチを押すんだな。|最初《はな》からあんたはでかいハンディを背負ってたんだ」
シュミットは黙ってポケットに手を入れ、金の指輪をおれの掌に乗せた。頭脳はとうの昔に次の手を求めてフル稼動しているはずだ。勝った、とはどうしても思えなかった。
「お見事でございます。八頭さま」脇で名雲の朗読が始まった。「わたくし、これほど鮮やかな形勢逆転を六五年の人生で初めて体験いたしました。主人の眼に狂いはなかった。心から感服いたします。思いいづれば」
おれは手を振って老秘書の口を封じ、シュミットに尋ねた。
「さて、あんたをどうするか?」
「私は答える立場にない。無益な質問だ」
「おれはあんたほど甘くねえ。邪魔ものは完膚なきまでに叩きつぶす。覚悟はできてるな」
「好きにしたまえ。だが、私の目的遂行を完全に阻止するつもりなら、この場で殺すことだ。君は私に情けをかける必要はない。怨みにも思わん」
「ほう、ご大層な台詞だな。そこ動くなよ」
おれは銃運びのゾンビーから久方ぶりに愛用のSIGを受け取り、ゆっくりと数歩退がった。初弾が薬室内にあるのを確かめ、シュミットの下腹部を狙う。酋長が何か叫び、周囲の戦士が散開した。
「や、八頭さま、それは非道でございます」
名雲が我を忘れて叫んだ。
「大ちゃん、何するの! 無抵抗な人を!」
くっそお、どいつもこいつも。おれは再度頭にきた。狙いをはずさないようSIGの撃鉄を親指で起こす。引き金を引く|距離《ストローク》がぐっと減り、ブレが少なくなるのだ。
「やい、怖くないのか。助けてくれと言ってみろ」
「撃たれるのを恐れるくらいなら、最初から軍人面などしない」
「こん畜生」
おれは引き金を引いた。
狙いたがわず、弾丸はシュミットの足もとに砂煙をあげた。青黒い棒がはねる。
「ジャラライカ!」
酋長が叫んだ。
おれの九ミリ弾はものの見事に、シュミットの足元に迫った猛毒蛇の頭部を粉砕していたのである。
「おれたちは休憩後すぐ出発する」
おれはSIGを、ゾンビーから受け取ったガンベルトのホルスターにしまいながら告げた。
「あんたとベロニカはこの部落で留守番だ。待遇は悪くしないよう言っておく。大人しく待ってりゃ帰りに拾ってゆくよ」
「過分な計らいだ。感謝する」
「今は風呂上がりで気が弱くなってるんだ。この次ノコノコ追っかけてきやがったら、こうはいかねえ。よく胆に銘じとけよ」
「承知した」
おれは酋長にふたりを閉じ込めるよう命じ、ゾンビーの荷を下ろしはじめた。酋長や女房、子供たちへの土産が入っているのだ。
「八頭さま、ご立派でした。わたくし、大いに感銘を受けました」
「大ちゃん……素敵……」
後ろから聞き覚えのある声がしたがおれは返事をしなかった。なに鼻を詰まらせてやがる、この裏切りものどもが。断っとくが、おれのコネが通用する文明圏はここまでだ。
強行軍が始まった。目標は一日四〇キロ。名雲秘書とゆきは二日ともたずに悲鳴をあげたが、インディオ部落への贈り物を担いでいたゾンビー二名に命じて背負わせ、おれはがむしゃらに先を急いだ。
とにかくインディオたちに追いつかれなければ、幻の王国に入れないことは明らかなのである。王国の入り口がどこなのか不明な以上、彼らはもうそこへ辿り着いた可能性もあるのだ。
おれは焦っていた。名雲も同じ想いだったろう。しかし、彼は何も言わなかったし、不安げな表情ひとつみせなかった。おれを信用していたからだ。
焦る理由はもうひとつあった。シュミットとベロニカだ。部落へ預けてはきたものの、そういつまでも監禁状態でおけないのはわかりきっている。あのままおれたちの帰りをのんびり待つような玉なら、最初から苦労などするものか。武器がなければ木の枝で槍をつくり、水とトカゲの肉で飢えを満たしながら追ってくるだろう。毒蛇に足を噛まれても付け根から切り落とし、杖がわりにして任務を遂行する男だ。
おまけに、奴を置き去りにして以来、ゆきは日がな一日ボケ顔でゾンビーの背に乗っていることが多くなった。何をきいても生返事するばかりで、時折切なげなためいきをついては、おれをいらだたせた。
高地に近づいたせいか、天候は以前より崩れやすくなり、スコールの回数も日を追って増した。雨は肉体より精神を疲労させる。背負われてるふたりばかりか、おれまでもゾンビーたちが羨ましくなったものだ。ジャングルは生きてる人間向きのところじゃない。
実際ゾンビーたちはよく働いた。ただの人間の抜け殻としか考えてない冷酷非情なおれでさえ感心したほどだ。
川がスコールで増水してりゃ、近くの大木を根こそぎひっくり返して橋をつくり、魚が食べたいとゆきが喚けば、ピラニアうようよの河へ入り、腰や足の肉をかじり取られながら手掴みで漁を行い、器用に包丁を操ってたたき[#「たたき」に傍点]や刺し身を作るのだ。
アマゾンでは二四種類のピラニアが発見されており、小は十二、三センチの観賞用“レッド”から大は“ジャイアント・イエロー”の五○センチ台までが、よどんだ流れや浸水林の蔭にごっそり潜んでいる。
豹、鰐、水蛇、イノシシ、ペッカリーといった危険な陸上動物ないし両棲類は、乱獲がたたった上、野生特有の用心深さから滅多におれたちの前に姿を現さないが、水中は魔物の巣だ。
牛一頭を三○分で骨だけにし、金属切断器でなきゃ切れない炭素鋼の釣り針を軽くひん曲げちまう例のピーやんはもちろん、恐怖の|肉食どじょう《カンジェロ》、水辺で遊ぶ子供たちの足に跳びつき水中に引きずり込んでしまう四メートルの|人食いなまず《ピライパー》、剣歯虎を思わせる二本の牙で、水を飲みにきた牛の舌を食いちぎるといわれる“狂犬”ペーシュ・カショーロ――考えただけで、アマゾンの川には足指の一本もつけられなくなっちまう。
特に凄いのは肉食どじょうで、こいつは体長七、八センチのやせっぽちのくせして、魚のエラから体内に入り込み内臓を貪り食うという、悪魔の短期間借り人だ。
始末の悪いことにおれ以上の色好みで、女性の膣が大好き。いったん侵入するや、肉を噛み切り、血をすすりながら奥へ奥へと猛進する。犠牲者は神に祈るか、もっと安楽な死に方――自殺を選ぶしか救われる手段がない。インディオの女性が水浴びするときタンガという素焼きの貞操帯をつけるのは、こいつらの殺人レイプから身を守るためだ。また、こいつの間借り人的根性は徹底していて、時たま、犠牲者の血管に卵を産みつける。
こうなると悲惨で、ゾンビーのひとりがこれにやられた。ある河を渡る途中に足をすべらせ、そこは死体だから五、六百メートル潜ったまま進み、平然と岸辺を見つけて上がってきたが、その間に肛門から侵入されたらしい。二日目ごろから肌が異様にむくみ、三日目には眼の玉がなくなったと思ったら、その昼下がり、黙々と先を急ぐゾンビーの耳や鼻や空洞と化した眼窩から、細長いカンジェロの餓鬼どもがわーっと噴き出してきた。ところが七転八倒するはずの犠牲者はとっくに死んでるもんだから、そいつらをボロボロこぼしながら平気の平左で歩き続ける。幸いゆきと名雲には気づかれずに済んだが、すぐ前を歩いてたおれは思わず吐きそうになった。早速列から離し、ナパーム弾で火葬にしたものの、二度と見たくないアトラクションだったぜ。
そして、これだけの苦労をしたせいだろう、部落を出て一週間目の晩、おれたちはついに彼ら――二名のインディオを間近に目撃したのである。
初めに気づいたのは、ゆきだった。
二日まえから焼き鳥が食べたいとぶつぶつ言ってたのが、とうとうその夜我慢できなくなり、M16ライフル片手に夜鳥狩りに出掛けちまったのだ。
よりによって陽も落ちかかった夕暮れに鳥を撃つこともないと思うが、強化ビニール・テントに空気を入れてたおれは、疲労と眠気のせいでつい見過ごしてしまい、泡食って追っかけたら、ゆきは五〇メートルほど離れた木の繁みの蔭に腰を下ろしていた。
「この阿呆娘」と怒鳴りかけたおれは、次の瞬間、ゆきの見ているものに気づいて、さっと同じ姿勢をとった。
一○メートルほど前方にそびえる大木の根元に、炎のような夕映えの光を浴びて、ふたつのシルエットが浮かんでいた。半ズボンだけのたくましい身体を、何がいるかわからない地面にじかに横たえ、身じろぎもしない。
野獣を防ぐ弓も矢も見当たらず、荷物といえば枕がわりにしてる小汚いズタ袋だけだ。普通のアマゾン・インディオでは絶対にない――奴らだ!
「どうしようか、大ちゃん。武器はあるし、突撃する?」
ライフル片手に舌舐めずりしながらゆきが囁いた。
「冗談こくな。そんな豆鉄砲で勝てる相手か。軍隊が全滅させられてるんだぞ。どんな超自然能力を持ってるかわかりゃしねえ。まず相手の手の内を見るんだ」
「どうやってよ? ここで待ってりゃいいの?」
「うるせ。いま考える。こんなとこで逢えるたあ思ってもみなかったからな。ゾンビーを使うか」
「あ、いい手ね」
こいつも死者に対する畏敬の念などこれっぱかしもない。おれといいコンビだ。
だが、こっそり野営地へ戻ろうと振り向きかけて、おれはゾンビーの用がなくなったことを知った。
急速に光を失いつつあるアマゾン特有の夕闇の奥、五メートルほど横手の木陰から、青白く光るふたつの光点がじっとおれたちをねめつけているのだ。肌に粟を生じさせる低い肉食獣の唸り声。アマゾン最大の野獣、豹と遭遇した証拠だった。
何か言いかけるゆきを制し、おれは右手のSIGカービンをゆっくりと豹の方に向けた。後悔の念が胸を蝕む。|消音器《マフラー》をつけてなかったのだ。装填してあるのは|電撃弾《E・ビュレット》だが、発射薬はかなり大きな音を立てる。インディオが気づくには十分だ。
唸り声が途絶えた。来る!
肩づけしたSIGの引き金を絞ろうとした寸前、インディオの野営地で何やら動く気配があった。
次の瞬間、木立の光る眼はさっと方角を変えるや電光のような速さでおれたちの前を素通りし、そちらへ向かって突進していた。
おれもあわてて振り返る。
絶叫が密林を揺すった。けたたましい鳥の返答。
「今のうちだ、こい」
おれはゆきの肩をこづいた。
「何よ。一体どうなったの? 真っ暗で見えない」
「いいから来い。一杯飲んで計画の練り直しだ。見るものは見たよ」
「なに上ずってんのよ。インディオがあの豹を食べちゃったとでもいうの。ふん、こんな真っ暗闇で何も見えっこないじゃない」
おれが構わず背を向けると、ゆきはあわてて腕にしがみついた。もう盲目も同然だ。何を見たのよとしきりに問いつめたが、おれは何も答えず歩き続けた。一度だけ、懐中電灯をつけかかったので阿呆とののしり引ったくった。ゆきがののしり返しだしたときは、テントが目の前だった。
「どうなさいました、八頭さま?」
光の洩れぬ個人用テントの中からナイト・キャップつきの名雲が顔を出したが、おれはそそくさと自分のテントにもぐり込んだ。返事をする気も、それどころか、手首奪還計画を練る気も起こらなかった。
ゆきには見えなかったろうが、おれは、どえらい惨劇を目撃してしまったのだ。
豹の爪がインディオの顔面をかきむしる寸前、彼が身を横たえていた木の上から生き物の触手のようなものが伸び、豹の身体に巻きつくや、あっという間に骨をへし折り内臓を握りつぶして、搾りたての|果実《フルーツ》みたいに変えちまったのだ。
闇の中で、おれははっきりとそいつの正体を見極めた。吸血植物や人食い植物なら別に珍しくもない。おれ自身、このアマゾンで五、六回巻きつかれたことがある。だが、ついさっき南米最大の凶獣をジュースに変えたものは、それこそ想像を絶した存在であった。
ただの、平凡な木の蔓だったのだ。
時間にして三〇分も、おれはテントの中で寝返りばかり打って過ごした。寝心地が悪かったわけじゃない。シェラ・デザイン社製特注テントの外皮は、圧縮空気を入れただけで膨張し、ちょうど薄いクッションで組み立てた家みたいな形になる。
中には電池式の照明灯がついてて本も読めるし、光は絶対に外へ洩れない。明かりをみると跳びかかってくる毒蛇ジャララックスの牙などお茶の子さいさいではじき返してしまうが、ぶつかる音がうるさくてよく眠れないからだ。
空気は三カ所についた濾過フィルターから取り入れ、虫も水も侵入してこない。水に浮かべりゃ立派な小型客船になるだろう。床にあたる部分は特に厚みを増し、人間の身体に最適な膨張硬度を保っている。これで空気を抜いて折り畳めば、ベータ式ビデオ・テープくらいの大きさに縮まってしまうのだから便利なものだ。
おれが落ち着かないのは、どうしても打つ手が思い浮かばないせいだった。
どうあがいたって、腕ずくじゃ勝ち目はゼロ。怨みもないインディオに闇打ち不意打ちは過激すぎるし、やってみたってまず成功は覚束ない。
気晴らしにスウェーデン製のポルノを読んでいると、入り口のチャイム――買ったときからついている。なんのつもりだ?――がピンポンと鳴った。防犯レンズを通してのぞく。ゆきだった。わわ、あの馬鹿、ペンシル・ライトなんか点けてやがる。おれはあわててドアを開け、テントに引っ張り込んだ。
「なにあわててるのよ、前祝いに一杯やりましょ」
ゆきはスラックスの尻ポケットから、ウィスキーの小瓶を引っ張り出してウィンクした。ぐいと一気に空け、おれに差し出す。何の前祝いだとききながら、おれはひと口飲んだ。
「またあ。しらばっくれて。インディオ殺しのよ」
「ぶっ」
「あらま」
おれはゴボゴボむせながら喚いた。
「だだ誰が殺すと言った? おれはおまえみたいな殺人狂じゃない。なんとか奴らを傷つけずに手首を取り返そうと苦労してるんだ!――それによ……」
「それに――なに?」
おれはきょろきょろとテントの内部を見回し、声をひそめて言った。
「ここだけの話、おれはいま手首を取り返す気はねえんだ」
「なんですって!」
「しっ、声がでかい。いいか、これは横須賀の米軍基地で、例の衛星写真を見た瞬間から考えてたことだ。手首の報酬はダイヤの鉱脈だよな。確かにありゃ凄え。だけど、いくら探しても見つからない世界にある鉱脈をどうやって探す?」
「あ」
「な。ここはどうしても、インディオたちの後をつけて幻の王国へ入る手だ。おれの計算じゃ遅くともあと三日間で、例の石造建築物の建ってた位置に着く。あくまでも想像だが、奴らはその前に王国へ入るはずだ。いま、手首をかっぱらって帰国する手はないだろ」
「ヒック」とゆきはうなずいた。「そうね。でも、そこへ入ってダイヤと手首を奪還できたとしてさ、あたしたちの世界へ帰れる保証はあるの?」
「大丈夫、まかしとけ」
おれは喉の灼けるような液体をぐびぐびとラッパ飲みしながら胸を叩いた。
「サイラスみたいな三等身でも、外の世界の男というだけで神官の女にもてたんだ。おれの美貌にまかしとけって。それでも足りなきゃ、おまえ神官を引っかけろ。神さましか頭にねえ朴念仁なんざ、太腿ちらりで一発さ――それ以上はやめとけよ」
「あーら、心配してくれてんの。感激ね、ヒック、らっしゃい、口移しで飲ましたげる」
ゆきはもう酩酊状態だった。いつもなら日本酒一升にトリスの角二本までは軽いのだが、疲労がアルコールのまわりを早くしている。おれも身体が熱っぽい。
で、おれたちは口づけした。
唇を軽く噛んだり、小刻みに軽いキスを繰り返すと、ゆきはすぐ喘ぎだした。ダイヤの妄想でも浮かべているのだろう。
これはいけそうですよ。
おれはちゅっちゅとキスの雨を降らせながら、熱い肢体をマットの上に横たえた。半袖シャツの前ボタンをはずすと、ベロニカや死んだクレアにも負けない豊かな膨らみが、待ってましたという感じで飛び出してきた。迷わず唇を押しつける。火のように熱い。ゆきの身体がびくっと震えた。肉感的な腕がおれの頭を抱き、髪を愛撫した。あとはエスカレートあるのみ。
だが、二秒とたたないうちに、おれは魅力いっぱいの身体から身を起こしていた。腰のホルスターからSIGを抜く。テントの中では長すぎて不便だから拳銃に戻してあるのだ。
「……どうしたの?」
ゆきが息をはずませながら訊いた。
「誰か来る――。わっ!?」
凄い力で引き寄せられ、おれはゆきと唇を重ねた。
「むが……こら! むぐ――何をする!?――むぐ、外に誰かいるんだ!」
「……いいじゃない……」ゆきは暴れるおれの唇を求めながら呻くように言った。「入れてあげなさいよ。見られてた方が燃えるわ、あたし」
これが高校生の言う台詞か。
なんとか二本の腕をもぎ放し、入り口へ向けてSIGを構えたとき、チャイムが鳴った。
「夜分、お邪魔いたします」
おれは胸をなでおろした。名雲の声だった。
SIGを収め、ドアのロックをはずす。といっても、横浜のミニ潜水艦「キッド」のハッチ開閉に使ったのと同じ粘着テープである。
「何の用だ? 夜出ちゃいかんと言ったはずだぞ。二メートルと離れてない隣のテントへ行く途中でペッカリーに襲われ、骨だけにされた奴もいるんだ」
無愛想なおれの指摘に、パジャマ姿の名雲は頭を下げた。
「無粋な真似をして申し訳ございません。ですが、どうしてもきいていただきたい話がございまして」
「なんでえ?」
「これからすぐ、手首を取り返しにいっていただきたいのでございます」
おれは眉をひそめた。この爺さん、気でも狂ったのか?
「別に頭がおかしくなったわけではございません。実は先刻、ゆきさまのポケットに小型盗聴器を仕掛けておきまして、テント内でのおふた方のお話はすべて拝聴いたしました」
おれはSIGを抜くこともできなかった。言い終わるまえに、名雲はパジャマのズボンの内側から銀色のハイスタンダード・二連デリンジャーを抜き、静かにゆきへ狙いをつけたのだ。
「やだ、何するのよ、名雲さん」
ゆきの声には脅えより戸惑いの色が濃厚であった。名雲はあくまでも冷静に、
「まことに申し訳ありません。おふたりに対し、このような態度をとりますのは真実心苦しいのですが、わたくしめはクリストファー・サイラスに仕える身。八頭さまが先程のような考えをお持ちとあっては、主人の利益を守るため、最良の策を講じなくてはなりません。で、つらつら考えた揚げ句、このようなものを持って参上した次第で」
おれは中指で|引き金《トリガー》を引く式の、実にスマートなデザインの凶器へ顎をしゃくった。
「そんなもん、どこで見つけた?」
「日本から持って参りました。ここ二年ほど愛用しております。二二口径ですが、一応マグナム弾を使用。この距離なら標的はまず即死と存じますが」
「おれもそう思う。で、どうしろというんだ? さっきのは冗談だと言ってもききやせんだろうな?」
「残念ながら」名雲は首を振った。「ですが、決してあなたさまを卑怯もの扱いはいたしませんからその点ご安心を。自らの利益を考えました場合、あなたさまのお考えは至極妥当なものと存じます。あとは、わたくしめが主人とあなたさま、どちらの利益を優先するかの問題でして。――残念ながら……」
「わかってる。気にするな。だけど、サイラス旦那はちゃんとあそこ[#「あそこ」に傍点]から帰還してるんだぞ」
「あなたさまが出来るとは限りません。万にひとつの可能性に賭けるわけにも参りません」
「しかし、今すぐってのは、少し気が早すぎねえか。何も見えないぜ」
「だからよろしいので。インディオたちも、まさか、真夜中のジャングルを歩き回る人間がいるとは思いますまい。それに、わたくしめが拝見したところ、八頭さまは闇でも鳥のようにご覧になれるのでは」
「当たり」
「それではお願いいたします。ここはひとつ、わたくしめの立場をご理解いただいて、何とぞご協力のほどを」
「まだ何の考えも浮かんでないよ。それと、ゆきにピストルを向けるのは構わんが、あんたは自分で恥ずかしくないのかい?」
「死ぬほど辛うございます。ですからなにとぞ、たったいま[#「たったいま」に傍点]、良策をご案出下さい。さもないと、ゆきさまを撃った残りの一発を、わたくしめの頭に撃ち込まなくてはなりません」
おれは肩をすくめた。
「いいだろう。――なんとかやってみた。腕も取り戻した。それからどうする気だ。インディオは追ってくるぜ。断っとくが、おれたちはあんたを助けねえ」
名雲の表情はぴくりとも動かなかった。
「もとより承知でございます。手首さえ取り戻していただければ、わたくしひとりで持って帰る努力をいたします。おふたかたはインディオを追って王国へお入り下さい。ご無事をお祈りしております」
「ちょっと待ってよ」とゆきが口をはさんだ。豊満な胸を半分以上さらけ出したまま、「どうも、あなたが言うと何でも簡単にきこえるけど、インディオの力はあの女からきいたでしょ。あなたひとりで逃げられっこないわ。一キロもいかないうちに捕まってよ」
「それはもう、間違いございません」
おれとゆきはこの返事に顔を見合わせた。こいつ、一体何を考えてるんだ。
「ですが、わたくしめの力で出来ることはそこまででして。結果はどうあれ、サイラス様の秘書としての務めは全うしたことになります。手首をいただいた時点で、わたくしめのことはお忘れ下さいませ」
おれは苦笑した。
「あんたはプロだ。認めるよ。だがな、おれを働かせるなら、せめて明日の朝まで待ったらどうだい。この暗闇の中をどこへどう逃げようというんだ。知ってると思うが、懐中電灯なんざつけようもんなら、豹だの毒蛇だのがわーっと襲いかかってくるぞ。インディオに殺られるまでもない。せっかく六○過ぎまで生きたんだ。もっとましな死に方を考えたらどうだい?」
「そう言われてみると」
「なっ!?」
「いいえ、なりません」
「わっ!」
あわよくばデリンジャーをもぎ取ってやろうと近づきかけたおれは、鼻先へ銃口を突きつけられて、また元の位置へ戻った。名雲はにこりともせず、
「勝手なお願いが続いて恐縮でございますが、願わくば彼らの眼を、わたくしの逃走経路とは反対方向へそらすよう算段してはいただけますまいか」
何て答えたらいい?
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第四章 南米トワイライト・ゾーン
それから二時間後、おれは山刀を手にした四体のゾンビーを従え、またもインディオたちの野営地に向かっていた。
暗黒をついて進むたくましい美男子とゾンビー。景気のいいBGMでも欲しいところだが、当人の気分には鎮魂歌の方がふさわしかった。必死に頭をひねり、なんとか作戦らしきものを組み立ててはみたが、うまくいく自信など蚤の頭ほどもない。手首を奪った上、インディオたちをテントとは逆方向へ誘導しなきゃならんのだから、難度は二倍だ。
奴らを見つけた繁みのところまで来て、おれは一体だけ残し、インディオの野営地を三方から襲うよう残りのゾンビーたちを散開させた。眼を凝らす。
インディオはさっきと寸分たがわぬ格好で横たわっていた。おれが目撃してから身じろぎひとつしていないのではないかと思われた。
黙って待つ。
インディオが身を起こした。
周囲の灌木や蔓をへし折り、切り倒しながらゾンビーたちが姿を現した。
おれは用意してきた武器を肩づけした。
戦いは、ゾンビーたちの攻撃で始まった。立ち上がったインディオに近づき、無造作に山刀を振る。あまり露骨にはずすと狙いがばれる恐れがあるから、ぎりぎりで傷つけないよう命じておいたものの、なにせ死人だ。気が気じゃない。
ぶん、ぶん! と空気を薙ぐ山刀を、インディオたちは音もなくかわした。銃の弾丸も平気だと「アルゴー号」の船長は言っていたが、刀は駄目なのか。いや、おれはゾンビーたちの正体がわからず戸惑っていると見た。豹のように蔓一本で殺そうとしない。奴らにも人間の血は流れているのだろう。
片方がバンドにはさんだ大刃のナイフを抜いた。振り下ろされた山刀を軽くかわし、その手首に切りつける。半分ほどちぎれかかったが、ゾンビーは平然たるものだ。
インディオたちが顔を見合わせた。敵の正体を察したのだ。表情まではわからないが、笑ったような気もする。
いつの間にか、二人とも宿代わりの大木の幹を背にしていた。ゾンビーたちとの距離は二メートルもない。
おれは武器の引き金にかけた指に力を込めた。
大木の梢が動いた。無数の蔓が蛇のように頭上から落下してきた。ゾンビー、いや、インディオたちへ。ゾンビーたちの眼の前で、ふたつの身体は地上から離れ、樹上へ引き上げられていた。
次の瞬間、大地が口をあけた。
ゾンビーたちの踏みしめている地面を含めて、直径五メートルほどの堅固な土地が、何の前触れもなく陥没したのだ。
大木の細い根がへし折れる音が響いた。
ゾンビーも灌木もまたたく間に暗黒へ吸い込まれた。こりゃ、ひょっとすると、おれにも荷が勝ち過ぎる相手だ。
だが、おれの注意はインディオたちが大木の根元に残したズタ袋に集中していた。
穴に向かってグロテスクに突き出した根っこに辛うじて引っかかっているだけだ。下手すりゃ落ちる。
樹上から蔓に支えられたインディオが降りてきた。空中で身を曲げ、袋に手を伸ばす。その指先で袋のバランスが崩れた。大穴の中へ落ちる。
銃声が轟いた。
銀色の閃光が闇を切って走り、袋の上端を撃ち抜いた。
トレジャー・ハンティング・七つ道具のひとつ、鉤撃ち銃だ。高圧ガスで細いが強靱なテグス・ロープ付きの鉤を木や壁に撃ち込み、城壁や崖をよじ登る道具だが、こういう使い方もできる。
ズタ袋を貫いた瞬間、おれは逆進スイッチを押していた。飛行慣性を押さえる猛烈な反動が銃床から伝わり、手首と肩がぐん! と跳ね上がる。内蔵されたモーターの力で、ズタ袋は一瞬空中に停止し、秒速四〇メートルのスピードで舞い戻り始めた。
インディオが蔓ごと動いた。
手を伸ばす。間の悪いことにその鼻先を袋がかすめた。衝撃に続いて布地が裂ける音。約半分をインディオの手に残して、袋は鉤撃ち銃の銃口に戻った。
腰を浮かしながら中をあらためる。
あった! だが喜びは五〇パーセントだった。手首は一本きり。――右手だ。ちぎれた日本風呂敷の中でミイラ状にひからびてる。
袋とライフルをゾンビーに渡した。
横手の森を指差す。うなずいて走り出した。おれはそのまま動かない。繁みの向こうで足音。わけのわからない言葉で何か言い合っていたが、すぐにあわただしくゾンビーの消えた方角へ向かう。まんまと陽動作戦にひっかかってくれた。
足音が消えたのを確認して、おれはキャンプ地へ戻った。
おれの足音をききつけたのか、名雲秘書とゆきがテントの外で待っていた。サファリ・ルックに探検帽姿の爺さまは右手にデリンジャーを握りしめている。ゆきはベビードールだ。
「ご首尾は?」
「半分だ」
言ってからおれは、ゆきのすけすけベビードールの端にひっかかってる紙片に気づいた。
「なんだ、そりゃ、トランプじゃねえか。お前らばば抜きやってたのか!?」
「滅相もない」
名雲があわてたようにゆきを抱き寄せ、こめかみにデリンジャーを突きつけた。この猿芝居が。
「獲物はこれきりだ」おれは名雲に腕を放り投げた。「インディオは誘いのゾンビーを追っかけてったが、完全に巻くのは無理だ。ま、三〇分だな。逃げるなら今のうちだぜ。――ゆき、テントを畳め。おれたちもとんずらだ」
「あら、どうしてよ。追っかけられるのは名雲さんだけでしょ?」
「こんなとこにテント張ってて、無関係で済むと思うのか」
ゆきはあわててテントに走り寄った。
おれはヒイヒイ言いながらばかでかいリュックを背負おうと奮戦してる名雲秘書に声をかけた。
「ご苦労なこったが、本気で帰るつもりかい?」
「左様で。申し訳ございませんが、あなたさまの留守に、食料やら水やらを少々拝借いたしました。――どっこいしょ。わたくしめのことはお気兼ねなく。おふたりのご無事と探検の成功をお祈りしております」
「ご丁寧にどうも」
名雲は一礼し、懐中電灯片手に歩き出した。餌はここですよと言ってるようなものだ。やっぱり止めた方がいい。おれはため息をついて、後を追おうと身構えた。
頭上で異様な物音がした。
振り仰ぐ。おれの眼でもよく見えないが、何やら、雲か霧みたいなものが虚空を埋めつつあった。
パラパラと音を立てて、冷たい打撃が頬や首筋にあたった。水滴だ。|雨《スコール》か。
びしゃっと重いものが足元に墜ちた。眼をやり、おれは度胆を抜かれた。全長四○センチにも及ぶ黒光りの身体が地面をのた打ち回っている。ガチガチと歯の鳴る音。
ピラニアだ。この人食い魚が空から降ってくる!
わっと思ったときには、おれたちは怒濤のごとく降り落ちる水滴とピラニアの雨に包まれていた。ゆきの悲鳴がきこえた。こっちもびっくりだが、ピーやんも仰天しているだろう。興奮したこの魚は、ひと噛みで直径約三センチ、厚さ二センチ弱の肉を胃に収める。頭と肩に打撃を受けるたびに、心臓が縮みあがった。|靴《ブーツ》に衝撃。わ、先っちょに噛みついてやがる!
「テントに入れ! そいつに触るな!」
叫び終わらない内に、ゆきの姿は頭からテントに消えた。あの強化ビニールなら大丈夫だろう。尻でもかじられなきゃいいんだが。
不遜なことを考えながら、おれは名雲の方に駆け寄った。
懐中電灯持ってたおかげでピラニアに気づき、さすがにショックの余りバランスでも崩したのか、草地にへたり込んでいる。それでも、雨あられと降り続く悪魔の魚を、こら、無礼もの、とはたき落としてるなんざ大した度胸だ。
おれはめまぐるしく右手を頭の上で振り回しながら、左手で名雲の肩を掴んだ。
「逃亡は中止だ。テントへ逃げろ。――そんな荷物捨ててけ!」
手首だけを抱いた名雲秘書をかばって、おれはなんとかテントのところへ駆け戻った。
ドアに手をかけた刹那、奇怪な雨はぴたりとやんだ。
「これは……八頭さま……夢でも見たのでしょうか?」
ようやく名雲秘書の声に驚きの感情がこもった。おれは首を振った。夢じゃない証拠に、地面のあちこちに黒だの銀だのが威勢よく跳ね回っている。怪事の原因も犯人も、おれにはとっくにわかっていた。
「手首を貸せ。これしか手はない」
「しかし、これは……」
渋る名雲秘書の手から、おれは強引にミイラの手首を奪い取った。
「もう大丈夫かしら? どこもかじられなかった?」
恐る恐るドアを開けてゆきが顔を出した。
答える代わりに、おれは腰のSIGを抜きながら振り向いた。名雲は武器まで取り上げようとは全然しなかったのである。これでよく、人を強迫しようという気になるものだ。
突然のスコールに鳴き叫んでいた鳥たちがぴたりと声をひそめた。ゆきが耳を澄ませる。名雲が振り返った。
異様な鬼気がキャンプ地を取り囲みつつあった。
梢や蔓がざわざわと揺れたが風はない。
「このまわりだけよ……」
ゆきのつぶやきもおれの耳には届かなかった。神経は眼に集中していたのだ。前方の木立が左右に分かれ、月光を浴びて現れたふたつの影を見るために。
インディオたちはテントの前方五メートルほどの地点に立ち止まり、やや背の高い方が右手を差し出した。
「や、八頭さま、返却してはなりませんぞ」
要求に気づいた名雲がおれの手をこづいた。わかってるさ。だが相手は遠くの河の水ごとピラニアを運んできて、おれたちに足止め食わせた奴らだ。強くでるにはどうしたらいい?
いきなり足元で銃声が連続した。
インディオたちの眼の前の地面が派手に土片を巻き上げる。鳥たちの絶叫が夜気を震わせた。
「近寄るな! 撃つわよ!」
テントの中に腹這いでM16ライフルを構えたゆきが警告を発した。糞度胸もいいところだ。ライフルの弾丸なんか効かないと言ってあるのに、この!
インディオたちは顔を見合わせた。
背の低い方が左手を高くあげた。
よせ! と警告しようとしたが遅かった。
ゆきの眼の前の地面が急に盛り上がり、黒い蛇の尾みたいなものがライフルに巻きつくや、一気に地面の中へ引きずり込んでしまったのである。
「やだ、あれ、木の根っこよ!?」
ゆきの声音は恐怖というより動転であった。
インディオが迫ってきた。無表情な顔はむしろ朴訥とさえいえた。それだけに、おれの心臓は恐怖にすくみあがった。名雲秘書も声がない。
地鳴りのような響きがきこえた。
その原因はおれにしか見えなかったろう。不公平な話だが、探検隊長としてはひとりで恐怖と戦慄のすべてをひっかぶるくらいの度量が要求されるのだ。
森が動いていた。
インディオたちと歩調を合わせて、おれたちへの包囲網を縮めつつあった。「マクベス」の一場面が浮かんだ。木の幹の表面で、蔦や蔓がおれたちに跳びかかる瞬間を待って波打ち踊っている。
「止まれ!」
おれは右手首にSIGを突きつけ、ワイカ語で叫んだ。通じるかどうかなど気にしてはいられない。
「それ以上近づくと、手の指を一本ずつ吹っ飛ばすぞ!――下がれ」
まさに最後の手段だったが、予想通り効果はあった。奇怪な敵の前進はぴたりとやんだのである。
「下がれ!」
おれはなおも叫んだ。
「お下がりってば、この!」
かたわらでゆきが叫び、手を大きく振った。これが通じたのか、インディオたちはじりじりと後退を開始した。森も一緒に下がる。おれは夢でも見ているような気分に陥った。
敵は最初に出現した位置で停止した。
さて、交渉だ。時間はかかるが、絵でも描くしかあるまい――こう思ったとき、背の低い方のインディオが、奇妙な行動に移った。右手に下げたズタ袋の切れ端をほどき、ミイラの左手首を取り出すと、両手でその指を掴んで様々な形を作り始めたのだ。
手話――いや、指話だ!
なんということだろう、おれにはその奇怪な指文字がすべて理解できたのだ。
――その手首を使え。
とインディオは言った[#「言った」に傍点]。
――偉大なる神クルルの手首だ。不可能はない。
いつの間にか、おれも応じていた。手首のもつ魔力だったのかどうかはわからない。だが、おれは自分の指が作る言葉を理解していたし、インディオにもそれはわかったはずだ。
――おまえたちの神、クルルとは何者だ?
おれは訊いた[#「訊いた」に傍点]。返事はすぐあった。
――守り神だ。地上に生きるもの、空を飛ぶもの、水を泳ぐもの、すべてを慈しみ、その成長を見守ってきた。おまえたちのごときものさえもだ。さ、手首を渡せ。
――そうはいかないぜ。
とおれは反抗した。
――こっちも高い金と生命を賭けてるんだ。手首を渡した途端、地面の下へ真っ逆さまじゃ間尺に合わない。おっと近寄るな。それ以上動くと一発だぞ。
インディオは逡巡の色を浮かべた。干からびた指を奇妙な形に動かす。
――安心するがいい。我々は意味もなく他人の生命を奪うことはしない。その手首さえ返してくれれば黙って立ち去るが。
おれの手も負けずに動いていた。指が折れちまわないかな、とぼんやり考える。
――何もしないってのも困るんだよ。おれたちはおまえらの国へ行かなきゃならねえ用があるんだ。
――では、どうする?
――道案内を願おう。王国へ着いたら手首は返す。おれは、あんた方の役に立たない、ある石をもらいたいだけだ。
――三〇年まえ、あの男が神の手首と一緒に持ち出したものだな。外の人問は詰まらぬものを欲しがることだ。
ほう、サイラス殿はまだ有名人らしい。おれは言った。
――そんなことはどうでもいい。さ、連れて行くのか、行かんのか? 嫌ならおれたちは手首を持っておさらばだ。おまえたちの仕事が片手だけで完了するかどうかはしらんが、追いかけてくるにしろ、おかしな真似をしたらすぐ始末するぜ。
手首をもったインディオは、背の高い方と二言三言話し合い、うなずいた。
――承知だ。同行するがいい。ただし、生きて我らの国に辿り着けるかどうか、責任は持たんぞ。我々でさえ自信はないのだ。脱け出ることも同様に。
――結構だ。お守り役までしろとはいわねえ。
――では、明日、夜明けとともに発つ。昼には我々の国へ入るだろう。用意をしておくがいい。
それだけ言ってふたりはきびすを返した。音もなく闇に呑まれる。途端に森は生物の声で満ち溢れた。
全身からどっと力が脱け、おれは地面に膝をついていた。インディオたちの凄まじい鬼気を浴びたせいである。名雲とゆきが駆け寄ってきた。
「お怪我は? 彼らはなぜ帰ったので?」
「大ちゃん、大丈夫?」
おれは答える気力もなくミイラの手首に眼を落として愕然となった。
いや、手首のことじゃない。
ゆきが息を呑む音がした。
ミイラの指を操り、妖異な指話を続けていたおれの指は、知らぬ間にすべての関節部で奇怪な形状にねじ曲がっていたのである。
「い、痛くないの、大ちゃん!?」
おれは首を振り、すぐお薬をとテントへ行きかけた名雲秘書を制した。ふたりの眼の前に、アブストラクト彫刻みたいな指を突き出す。
「見な。もう直りかかってる」
ゆきがまた息を呑んだ。
眼ばたきを二つするあいだに、指はもとの形状を取り戻していた。
「自然法則の枠内にあるおれの指で、超自然的な行為を行った報いさ。どっかに歪みがでるんだ」
おれは立ち上がり、まだのた打ち回ってるピラニアを蹴散らしながらテントに入った。インディオたちとの会話を説明し、名雲秘書にも同行を求める。手首を手に入れてもどうせ逃げられっこないと知ったらしく、秘書は一も二もなく同意した。
全員がそれぞれのテントへ戻った後も、おれはなかなか寝つかれなかった。ヨガの精神統一で自己催眠に入るのは簡単だが、それもしたくなかった。
いよいよ明日、未知の領域へ分け入る興奮――これを失くしたらトレジャー・ハンティングなど定年間近なサラリーマンのデスクワークと変わらない。金銀財宝よりも、おれはこの気分が味わいたくて今の仕事についてるんじゃないかと考えることもあるのだ。誰だってそうだろう。
またチャイムが鳴って、ウィスキー片手のゆきと名雲秘書が入ってきた。寝つかれませんで、と老人は言った。棒読みのくせに、どことなく照れ臭そうな響きがあった。飲み明かそうよ、とゆきがグラスを掲げて笑った。その夜、酒盛りをしているあいだ中、おれたちは同じ心をもつ仲間だった。
翌日、おれたちがテントを畳み、大至急で旅仕度を整えると、見透していたようにインディオたちが現れた。
無言で密林の奥へ顎をしゃくる。
うなずいておれたちは歩き出した。
肩に荷が食い込む。
昨日の戦いで四人のゾンビーを失ったため残りは二人。おれたち三人で彼らの荷物を出来るだけ分担した。それでもかなりの分量を放棄しなくてはならなかった。食料が二週間分と武器、弾薬、医療品、それにメカが少々――これだけ運ぶのが精一杯だった。
夕べみたいに森の木がひとりでに分かれて道をつくってくれるのかと思ったら、インディオたちは山刀とナイフで蔦や蔓草を切りながら進む。あてがはずれた。
――おい、得意の超能力はどうした?
三時間休みなく進んで約一○キロしかはかどらない行程にたまりかねたおれは、ミイラの手首を引っ張り出して道行くインディオに問いかけた。意外な返事が返ってきた。
――勘違いしてはいけない。我々には自然を自由に操ることなどできぬ相談だ。夕べの事象は、自然そのものが我々に協力してくれた結果にすぎない。
――協力? 自然がか?
――手首を奪われ、それを求めて三〇年間、我々はお前たちの世界を旅してきた。
インディオの言葉[#「言葉」に傍点]に、おれは疲れのようなものを感じた[#「感じた」に傍点]。
――数多くのものを見、体験してきたのだ。見なくてもよいものを、体験しなくてもよいものを。お前たちは得るべきものと捨てるべきものを取り違えてしまった。
――また機械文明否定と自然復帰論か。耳にタコができるほどきかされたよ。
――自然とはどういうものか、お前たちはその一端を昨夜見たはずだ。言葉が何万遍同じことを繰り返し語ろうと、実相はつねに存在する。
インディオはおごそかに言った[#「言った」に傍点]。
――彼ら[#「彼ら」に傍点]はすべての行く末を知っている。この星の過去も未来も彼らとともにあり、またあった[#「あった」に傍点]のだからな。だからこそ、この星のために正しいと認知した行為に対しては、無限に協力を惜しまぬのだ。
――正しいてのは、この手首をお前らが持って帰ることか。それはここ――地球のためになる行為だというんだな。一体、この手首は何の役に立つんだ。この手首でつくられた泥人形が動かしてるものは何なんだ?
――言っても信用すまい。
――言ってみなきゃわからねえだろうが。
インディオの顔に逡巡の色が浮かんだ。
ミイラの指をつかんだ指[#「指」に傍点]がぴくりと動いた。
そのとき、二メートルほど前方を歩いてたもうひとりが何か叫んだ。
「霧だわ」
ゆきが息もたえだえになりながらつぶやいた。
いつのまにか、おれたちの周囲は白い水粒子の膜に覆われつつあった。木も蔦もたちまちおぼろな影と化した。
「おかしいですな、この霧は。冷たくない。それに触れると妙にヒリヒリしますぞ」
名雲の言葉はおれが言おうとしていた内容だった。大体、近くに滝でもない限り、アマゾンのジャングルで霧に巻かれるなんてことあり得ない。耳を澄ましても沢の音ひとつきこえはしなかった。
――おい、こら。おかしな真似すると手首の生命はないぞ。
必死に指話を操るおれに、もう輪郭も定かならぬインディオの言葉が応じた。
――安心するがいい。お前たちは我々の国へ入るのが目的だと言ったではないか。黙って進め。どう歩いても迷いはせん。
ひと安心だ。おれは奴らの言葉を伝えようと背後を振り返り、かっと眼を見開いた。
ゆきの身体が透けて見える!
模型屋で売ってるプラスチックの人体解剖キットみたいに、皮膚の色だけが薄れ、筋肉や血管、内臓と骨格がすベて重なり合って見えるのだ。
「や、やだ、大ちゃん――どうしたの!?」
この声からして、おれも透明人間のなり損ないなのだろう。無論、霧の背後にひそむ名雲秘書やゾンビーも。
おれはふたりにインディオの言葉を伝えて安心させた。
三〇分も歩いただろうか。
不意に四方が色彩を増した。
いつの間にかジャングルは途切れ、おれは赤茶けた岩肌が陽光を跳ね返す岩場の真ん中に立っていた。五メートルほど前方の平たい石にインディオたちが寄りかかり、こちらを眺めている。
あわてて振り返った。不安げなゆきと名雲秘書の顔がある。ゾンビーも健在(?)だ。全員が衣服をまとっている[#「衣服をまとっている」に傍点]のを見て、おれはほっとひと息ついた。
あらためて周囲を見回す。
岩場を別とすれば、まわりは平凡なジャングルだ。抜けるような青空を鳥が飛んでいく。ふと、おれは眼をしばたたいた。あんなにでかい鳥がいるか? だが、眼を凝らしたときはすでに遅く、その鳥らしきものの影は行く手の密林上空の小さな点と化していた。
「やだっ!」
ゆきの悲鳴におれは振り向いた。
蒼白な顔から眼の玉が飛び出しかかっている。焦点はすぐ前方とみた。何もない。
「どうした!?」
おれの質問に、しかし、ゆきはかぶりを振って「何でもないわ」と言った。
「おかしなもの見たような気がしたんだけど、気のせいよ。きっと」
おれは額面通りには受け取らなかった。すぐ後ろの名雲もゆきそっくりの表情を浮かべていたからだ。こいつら、何か見たのだ。問い質そうとすると、
――行くぞ。旅はまた続くし、時間はあまりない。
インディオの言葉が感じられた[#「感じられた」に傍点]。
もう歩き出してやがる。仕様がない。
おれはゆきと名雲秘書を振り返り振り返り歩き出した。
横手の岩蔭から洩れる異様な唸り声が、おれの足を止めた。SIG・カービンを握る手に力がこもる。初めてきく類の声だ。猛獣には違いないが、哺乳類の太い声音とは異なる。どちらかといえば爬虫類に近いだろう。
だが、あんなにでかい唸り声を出す|蜥蜴《とかげ》とは――?
いることはいる。いや、いた[#「いた」に傍点]。しかし……。
――早くこい。大丈夫、もう立ち去った。
インディオが呼びかけて[#「呼びかけて」に傍点]きた。心なしか緊張の響きがある。
おれはSIGを肩にかけ、あわてて訊いた。
――立ち去ったって、何がだ? おい、ここは何処だ?
――君たちの望みの場所だ。
背を向けて歩きながらインディオは答えた[#「答えた」に傍点]。
薄々勘づいてはいたが、一応おれは仰天してみせた。
――なにィ、するとここはもうサイラスの入った幻の王国か!? あの霧は一体なんだったんだ?
――この国へ入るために、君たちの身体を細胞組織から変換させる役目をする。いわば元素転換溶液だ。
おれは驚いた。げんそてんかんようえきだ? まるでSF作家みたいな言葉を使いやがる。
おれの胸中を察したように言葉が追ってきた。
――三〇年間サイラスを追いながら、我々も数多くのことを学んだのだ。お前たちの作り上げた知識体系はそれなりに素晴らしい価値をもつ。――だが、わからん。あれだけの知識を身につけていれば、お前たちのような方向へ文明が発展するはずはないのだが……。意識的にねじ曲げているのか、それとも、文明自体の中に、お前たちをスポイルする要素が存在しているのか……
――ひとのことは放っとけ。
おれは指話で喚いた。
――それより、お前たちの国へ入るのに、なんでおれたちの細胞組織を変えにゃいかんのだ?
――おかしなことを言う。ここは我々の世界でお前たちの世界ではないからだ。お前たちは何の用意もせずに水の中へ入るのか? 一定時間あの霧に包まれていないと、後で大変なことになる。
理由もなく、おれはゾクリとした。
――なんだ、その大変なことってのは?
――説明しても無駄だ。お前たちは心配ない。それより、もうじき森に入る。武器の用意はいいな。色々なものが待っているぞ。
それっきり何を訊いても答えはなく、おれたちは黒々と口をあけた森に呑みこまれた。
しばらくは相変わらずの密林行が続いた。
空気は向こう側[#「向こう側」に傍点]のアマゾンより蒸し暑く、十分も歩くと全身が滝になった気分にとらわれた。ジャケットを絞ればバケツに一杯分くらい汗がたまるだろう。
「八頭さま」
肩越しに名雲秘書が呼んだ。やさしい言葉をかけてへばられると困るからわざと無視していたが、爺さんなかなか頑張ってる。ハードな道中に慰めは禁物だ。
「なんだい?」
わざと無愛想に訊く。
「さっきから気になっておりましたのですが、この森は以前とどこか違うようで」
「気がついてたかい。なにせ、あちらさんの世界の森だからな。――みんな、シダ植物さ」
おれは左右を埋めた色とりどりの木々や葉に眼を走らせた。霧の中で幻の王国の領土へ入ったことはもう二人に伝えてある。
「あの小さな葉がたくさん集まってる奴がプチロフィラム、隣のソテツそっくりなのがシカデオイデアだ。植物からすると、どうやら、ジュラ紀と白亜紀の過渡的時代だな」
「どういうことでしょう? わたくし、その方面にはとんと疎いもので」
「じきわかるさ。――おれたちは『失われた世界』に来たんだよ――隠れろ!」
おれが認めて指差した巨大な黒い影は、生い茂るシダ植物や裸子植物をバリバリ踏みつけ、おれたちの辿る小道へその全身を現した。
九メートルはあろうと思われる赤茶色の胴体のてっぺんで、巨大な口からすり鉢型の歯列がのぞいた。
とっさに身を隠した木蔭の方を、血走った眼でじろりとねめつけられたときはさすがに胸きゅんとなったが、おれはそれほどあわてなかった。やはり前方の大きなシダ植物の葉蔭に身を寄せたインディオたちも、平然とこの巨大な通行人を見上げている。
ぐいと頭を上げて、巨木の枝から緑の葉をひと噛みちぎり取るや、そいつは薄い喉をぶるぶる震わせながら再び密林の奥へ消えた。首の下から突き出た前脚の親指だけが異様な格好――直立しているのがおれの眼に止まった。
「だだ大ちゃん……何よ、あれ? きょきょ恐竜じゃないの?」
ゆきの声は震えていた。すぐそばの葉が小刻みに揺れているのは、身体もぶるってる証拠だ。
「そう怖がることはねえ。ありゃイグアノドンといってな、温和な草食恐竜だ。普通は集団で移動するものなんだが、今のは群れをはぐれたらしい。早く戻らないと、肉食の奴に襲われるぞ」
「ちょっと、肉食って何よ。一体ここはどこなのさ? まるで特撮映画の世界じゃない?」
「おれの推測じゃ約一億五千万年から一億年前の世界だ。中生代ジュラ紀後半と白亜紀中盤にかけての生物がどっさり生きてる計算になるな」
「ど、どうして、現代のアマゾンにそんなところがあるのよ!?」
ヒステリックな詰問に、おれはこれ以上おかしな奴はでないだろうかと辺りを見回しながら答えた。
「よくはわからん。あとでインディオに訊いてやる。ただのタイム・スリップじゃなさそうだし……どうもこの世界は常識の尺度じゃ測れないところがある」
結構のんびりと答えはしたものの、おれは内心とんでもないことになったと頭を抱えていた。あの霧の彼方に存在する奴らの世界とは、まさしく超太古――凶暴猛悪な肉食恐竜どもが徘徊する中生代に他ならなかったのである。
だが、とおれはトレジャー・ハンティングの暗号解読で鍛えた頭をフル回転させて考えた。
それがなぜ現代の偵察衛星のカメラに映るんだ? おまけに建物の周囲は普通の密林だったぜ。いやいや、大体、そんな大過去に、インディオどころか人間の祖先といわれる猿人だって住んでた道理はない。こいつら一体何者なんだ?
考えてる最中にインディオが、行くぞ、と促し、おれたちはおっかなびっくり木蔭から道へ戻った。
それからしばらくは他の恐竜にも出喰わさなかったが、ネズミそっくりの小動物が足早に前方を横切るのをたびたび目撃した。白亜紀に出現した原始哺乳類の祖先パントセール類だ。
こいつは厄介な時代だぞ。
恐竜が君臨した中生代には三つの区分があり、約二億四千万年前に幕を開く三畳紀、二億八百万年前に始まるジュラ紀、一億四千万年前にオープンした白亜紀と続く。
最後の白亜紀は、新生代第三紀の開幕する約六千五百万年前まで我が世の春を謳うわけだが、合計一億七千万年余に亘り、それぞれの栄枯盛衰、誕生と滅亡のドラマを繰り広げた恐竜たちの種類が最も多様化し、さらに陸上生物の限界点まで巨大化したのが、ジュラ紀末から白亜紀にかけてなのである。ご存知雷竜プロントサウルスやディプロドーカス、米コロラド州で発見された史上最大の恐竜――頭から尾までの体長が二四メートル!――ウルトラザウルスなど、みなこの時代に隆盛を極めたのだ。
これらの巨大竜はすべて温厚な草食恐竜とされているが、いまのおれたちにとっての大問題は彼らを狙う肉食恐竜である。ジュラ紀末の一角竜ケラトザウルス、レイ・ハリーハウゼンの特撮怪獣もの「恐竜グワンジ」でおなじみのアロザウルス、そして、肉食恐竜中の王、暴君竜ティラノザウルスが勢揃いする。このうちティラノザウルスは白亜紀後期の産物とされているが、そんなもの、所詮は二〇世紀の科学者どもが化石だの何だのから割り出した推測で、今のおれたちには慰めにもなりゃしない。いつも腹ペコで、動くものを見つけ次第襲いかかるような奴らだ。
いたら[#「いたら」に傍点]どうしてくれる?
ノンフィクションにすれば世界大百科辞典並みの厚さの本になるくらい、化け物どもとドンパチやってきたおれだが、丸ごとこんな世界へ放り込まれたのは初めての経験だ。どこへ行っても逃げ場がない。こりゃダイヤを手に入れたら、インディオでも神官でも脅しつけ、早々に尻尾を巻くのがお利口さんだ。
ゆきがあれこれ質問してきたが、おれは放っておいた。余計な知識を与えると何やり出すかわからない。見方によっては恐竜より始末の悪い爆弾娘である。無視されたゆきは憤然としていた。
暑さと緊張と荷物の重みでいい加減へばりかかったとき――
インディオのひとりがこちらを振り向いて斜め前方を指差した。
わ、また霧だ。
だが、今度のは本物だった。生温かい感触が全身にねばつく。
それほど濃くはない白い壁の向こうに、澱んだ水面が見えた。沼だ。
――あの岸で少し休むとしよう。
連絡[#「連絡」に傍点]が入った。彼らも疲労の極に達していたようだ。後ろのふたりに伝えると安堵のため息を洩らしたが、おれは一抹の不安が胸を横切るのを感じた。
恐竜世界の、霧に包まれた沼地――まるで事件が起こるために仕組まれたような舞台装置じゃないか。
沼の周囲には静寂が立ち込めていた。
穴に足をとられて、小さく、きゃっ! と叫んだゆきの声さえばかでかく響いたくらいだ。
「なによ、この穴。あったまにくるわねえ」
おれは人差し指を唇に当てた。よく見ろと顎をしゃくる。ゆきばかりか名雲も眼を剥いた。穴の先は三つ叉に分かれていた。それぞれが長さ八○センチはある。
「これ……ひょっとして、足跡じゃない?」
おれはうなずいた。
「大きさからしてティラノザウルスだな。やっぱり棲息してやがったか。武器の安全装置ははずしとけよ。――もっとも、そんな豆鉄砲、効きゃしないだろうが」
言いながら、おれは水辺の地面が似たような足跡で埋められているのに気がついた。大きいのや小さいの、深いのから浅いのまで、この沼は恐竜たちの喉を潤す場所なのだ。
すると水の中には……。
おれの不安や疑念も知らぬげに、インディオたちは平気で沼のほとりに座り込み、顔を洗ったり水を口に含んだりしている。
あたふた余計な心配しても始まらない。
おれもミイラの手首をシャツの内側へ押し込み、彼らから少し離れた水辺に荷物を下ろすと、腰のサバイバル・キットから円筒状の濾過チューブを取り出した。
水はうまかった。
強力活性炭とフィルター層が、コップにすくった沼の水を、全長二○センチのチューブを通過するまでに清水同然のクリーン度にしてくれる。どんなに雑菌が多くても効果は変わらない。一本で約五○リットル分もつ。人体に必要な一日の水量は九五○CCだから、ほぼ五○日分だ。その辺の河の水などいくら飲んでもおかしくなるようなヤワな胃は持ってないが、この際慎重であるに越したことはない。ゆきと名雲もちゅうちゅうやっている。
牛肉の缶詰を空け、やっと人心地がついた。
インディオたちは、と見ると、どこで仕入れたのか、ズタ袋の残りから干し肉らしきものを出してムシャムシャやっている。
「おい」
おれは声をかけて缶切り付きの牛缶を二個放ってやった。三○年も外地にいたんだ。缶切りくらい使えるだろう。
ふたりはおかしな目付きでおれと缶詰を見つめ、すぐにそっぽを向いた。近頃の野蛮人は礼儀を知らねえ。
背中に視線を感じて振り向く。食事を終えたゆきと名雲秘書がじっとおれを凝視していた。
「なんだ? 背中に何かついてるか?」
「ふん」とゆきが鼻先でせせら笑った。「あんた、よくよく根が甘くできてんのね。なにさ、敵に缶詰なんて。上杉謙信のつもりなの?」
「うるせえ。あいつらにへばられちゃ困るからだ。ここまで来て道案内をなくしたら苦労の甲斐もねえ。第一、どうやってこの世界から脱け出す?」
ゆきはフン! と言ってそっぽを向き、次の瞬間、あら! と驚きの声をあげた。十メートルほど奥の木蔭から灰色の小型恐竜が顔を出し、こちらを見つめている。体長約一メートル。ピプシロホドンという奴だ。肉食だが、トンボや小型哺乳類専門であまり凶暴じゃない。おれたちに気づかれたのがわかったのか、ひょいと繁みの奥に引っ込んだ。
「なんだ、可愛らしいのもいるのね。一匹持って帰って、ペットに飼おうかしら」
ゆきが呑気な台詞を吐いた途端、凄まじい咆哮が密林を震憾させた。
ピプシロホドンの苦鳴をきき分けたのはおれだけだったかもしれない。
右手が無意識のうちにかたわらのSIGへ飛ぶ。
そいつ[#「そいつ」に傍点]が、巨大な口に死の痙攣に震える血まみれの小型竜をくわえて現れたとき、おれはまず逃げることを考えた。
十、いや十五メートルは優にある巨体はイグアノドンよりひとまわり大きく、犠牲者の身体に食い込んだ歯は遙かに鋭い。飢えと殺戮への渇望だけを湛えた冷酷な眼が虚ろに周囲を見渡し、不意にぴたりとおれたちを捉えた。
暴竜ティラノザウルス・レックス。
おれたちの形状などは無論眼中になく、現代の鰐程度の容積しか持たぬ脳で、ただ数の多い獲物とだけ認識したか、そいつはもうひと声咆哮するや瀕死の獲物を吐き捨て、跳ね飛ぶように前進を開始した。
七トンの体重が大地を揺るがす。
「水に飛び込め!」
叫んでおれは、続けざまに電撃弾を奴の鼻面に叩き込んだ。
ばちばちっ! と紫の触手がグロテスクな顔面を覆い、肉食竜は小さな前脚で顔を払った。
束の間前進がやむ。痛みや熱さを「認識」する脳は小さくても、頸の付け根と腰椎の先端にある脊髄膨大部が自律神経をつかさどるため、反射機能は一人前なのだ。おれたちが熱いものに手を触れた場合、熱いと「意識」する前に手を引っ込めるのは、この自律神経のおかげである。二つの膨大部がないと、例えば尾の先を噛まれた場合、「痛い」の信号が脳へ走り「逃げろ」に変わって尾の先に伝わるまで二秒もかかるといわれている。
M16を撃つのも忘れて水辺に駆け寄ったゆきを、背の高いインディオが抱き止めた。
「何をする!」
おれは思わずSIGの銃口を彼に向けた。
低い方が片手をあげておれを制し、森の方を指差した。水に入っちゃいかんらしい。
インディオの顔に真摯な色を認めて、おれは従うことにした。罠じゃなさそうだ。
「爺さん、行くぞ!」
と、ライフルを構えた名雲に手を振る。ゾンビーも走り出した。
ティラノは再び前進を開始していた。一万ボルトの高圧放電は巨体にも苦痛だろうが、痛いから逃げようなどという高級な思考形態は持ち合わせていない。敵か自分かが動けなくなるまで戦う殺人マシンだ。
置きっ放しの荷物を巨大な後脚と尻尾で蹴散らし、ひとり水辺に残ったインディオに迫る。
前屈みになった巨大な顎が閉じる前に、インディオは身を躍らせた。
水中に潜ってティラノの手の届かないところに、と思いきや、一メートルほど前方に顔を出し、何のつもりか、ティラノの脚めがけて山刀を投げつけた。
苦痛の叫びが怒号に変わったとき、暴竜はその巨体を水中に投じた。挑発に乗ったのだ。足場はしっかりしているらしく、後脚の付け根から上は水上だ。
かなりのスピードで、抜き手を切るインディオに迫った。
「や、やられちゃう!」
やっとこ辿り着いた太い木の蔭でゆきが悲鳴をあげた。
だが、インディオは恐れる風もなく右手をあげた。
風もないのに密林の木という木がざわめいた。
「おい、ありゃなんだ?」
思わず、言葉が通じないのも忘れて、おれは残ったインディオの肩を掴んだ。
狭霧に閉ざされた湖の中央で、太い流木みたいなものが水を跳ねたのだ。いや、あの曲がり具合は木じゃあるまい。
「あっ、大ちゃん、木の枝が!?」
ゆきの叫びで、追われるインディオに目を向けたおれは、またもや彼の超自然能力を眼の当たりにすることになった。
岸辺の巨木の一本が何の前触れもなく、ぐぐっと水面めがけて傾いたと思うと、枝という枝が一斉にたわみ、インディオの頭上へ救いの手を投げかけたのである。
その端を掴むや、恐竜の鼻先で彼は一気に空中へ舞い上がっていた。
理解しがたい現象に対する暴竜の怒りの絶叫より、おれは、先刻よりずっとティラノに近い水面でまたもうねくるどす黒い蛇のような胴体に目を奪われた。
雷竜の首か? それにしちゃ細すぎる。太さ二○センチもあるまい。また、水棲の草食恐竜じゃ、いくら水中でもティラノザウルスの敵ではない。
新たな一方的勝負におれが眼を見張ったとき――
突如、ティラノザウルスの全身が硬直した。怒りにあらず苦痛の絶叫が血まみれの口を割る。――と思った刹那、叫びは唐突に途切れ、地上最強の巨竜は水しぶきをあげて水中に横転した。
「い、一体、何事で、八頭さま」
名雲の声も驚きの響きを隠せない。おれも同じ気分だが、解答だけは掴んでいた。黙って、水面に浮いたティラノの死骸を見つめる。
ばちゃっと水を跳ねて、何やら細っこい、黒い蛇のようなものが死骸の腹に這い上がった。
「これは、鰻ではございませんか?」
おれは、ああ、と言った。口の中がカラカラだ。インディオが水に飛び込むのを止めたわけがやっとわかった。
この沼は、実に胴回り二○センチもある巨大な――といっても、恐竜サイズからみればその尻っ尾にも及ばない――電気ウナギの棲み家だったのである。
雷竜だのプラキオサウルスなどの水棲恐竜がいなかったのも道理だ。
電気ウナギ――おれたちの世界じゃ、やはりこの南米アマゾン河流域やオリノコ河支流に棲息し、尾先にある発電器官で人間や馬をショック死させるというが、眼の前にいるのはスケールが違う。体長は約五倍――一二メートルはあるだろう。その発電量は推して知るべし。分厚い装甲皮膚で守られたティラノザウルスの心臓さえあっさり止めてしまったのだ。現代の電気ウナギの祖先がこの世界にいたのかどうかは知らないが、とにかく眼の前にいるんだから文句のつけようがない。
そいつはティラノが死んだとみたか、水中に没するや、死体の両脚の間で何やらバチャバチャやり始めた。
「あれは……何を?」
「肛門から入り込んで内臓を食ってるんだ」
おれは苦い唾が湧くのを感じながら答えた。
いつ木から降りたのか、全身から水滴をしたたらせてインディオが戻ってきた。
おれはミイラの手首を取り出し指話を送った。
――おまえの仲間は阿呆だ。おれたちを水の中へ入れて、恐竜と同じ目に遭わせることもできたんだぞ。
――我々はおまえたちとは違う。
怒りも哀しみもない答えが返ってきた。
――共に旅をしているものが危険な目に遭ったら、生命を賭けても救うのが同行者の務めだ。それが救うに値しないものでもな。
――何とでも吐かせ。断っとくがおれは助けんぞ。
――好きにするがいい。缶詰の礼は言う。
おれは口をへの字に結んで訊いた。
――次はどこへ連れて行く気だ?
――この沼を渡るのだ。
――冗談はよせ、感電死させる気か。
――あの怪物なら大丈夫。興奮させぬ限り襲ってはこない。ボートでそっと渡る。
――そんなものどこにあるんだ?
――持っていないのか?
あるものか! と言いかけておれは口をつぐんだ。あるんだよね、これが。いつ勘づきやがったんだ。
おれの沈黙から答えを察したのか、インディオは、
――蔦と木の枝で筏をつくることもできるが時間がかかる。もしあるなら活用してもらいたい。
――わかったよ。
沼はいやに広かった。あんな化け物ウナギがいては他の動物が寄りつかないのは当然だが、時たま、頭の上を鳥だか獣だかわからん奴がギャアギャア言いながら飛んでく以外、生き物の兆候はまるで見当たらない。それでも、霧の向こうの岸辺らしい辺りで二、三度、大きな黒い影が動いた。
十人乗りの大型ボートは、ゾンビーの操る櫂に乗って静かに水を切っていく。
これをふくらませたときは、さすがのインディオたちも感心したような表情を浮かべていたし、ゆきは――今でもそうだが――露骨に不安そうなしかめ面をしてみせた。
小さな栓を抜いただけで、吸収弁が自然に外気を取り入れ、手帳大のビニール・シートがみるみるばかでかいボートに変わったんだから無理もない。だが、○・五ミリにも満たぬ化学繊維は、岩角に激突したくらいじゃびくともしないし、耐電塗装を施してあるから、いかに強力な電気ウナギの攻撃も跳ね返す。ITHA技術陣苦心の傑作だ。
船尾に別売りの超小型エンジンとスクリューを取り付ければ、時速十ノットまで出せる。目下手動式なのは、エンジン音がおかしな奴らの出現を招くのを恐れてのことだ。
「まだ着かないかしら?」
ゆきが薄気味悪そうに周囲を見回しながら言った。
「一体、どの方角へ進んでいるのでしょう?」
と名雲。
おれは無言でポケットから磁石を取り出し、ふたりの眼の前に突きつけた。
「やだ。ぐるぐる回ってるわ。北がないのかしら。面白い。真上向かないかな」
ゆきはすぐ気分を転換し、名雲秘書は沈痛な面持ちで、
「この付近の土地は磁力を含んでいるのでしょうか?」
「わからねえ。この時代、極地は現代よりもっと別の位置にあったはずだが、そればかりが原因ともいえないようだ。空間自体に負担がかかりすぎてるのか……お、そろそろご到着らしいぜ」
霧の奥に、はっきりと木立の影が見えた。次第に濃さを増してくる。
その前に、おれの眼は霧を通して別のものを看取っていた。
右手前方の水面に太い朽ち木がそびえ立ち、そのてっぺんから張り出した大枝の上に、巨大な鳥らしきものが羽根を休めているのである。
「わっ、な、……うぐぐ」
でかい声張り上げかけたゆきの口と、巨鳥を指差そうとした右手を押さえた名雲秘書に、おれは最高級のウインクを送った。この爺さん、ただの秘書やらしとくのは勿体ない。
いちばん前の席にいるインディオからも、右手を見るなと連絡があった。
やがて、そいつは霧の彼方からゆっくりとその全身を現した。
後ろへ突き出した尖った頭部、バナナを思わせる曲線の、つるはしみたいに鋭い嘴、どんよりと濁った赤眼がおれたちをねめつけている。茶色の胴体脇にたたまれた羽根の端には、悪魔のような三本の鉤爪。
翼手竜――プテラノドンだ。
翼開長八メートル。――これで最低記録。白亜紀の大空の覇者で、肉食だ。
おれたちは息をひそめて「ラドン」のモデルの前を通り過ぎていった。
飛竜の首もそれに合わせて動きはしたものの、飛び立つ様子は見せない。
岸まであと五メートル。
おれは、ほっと胸を――なでおろそうとした途端、重々しい轟音が鼓膜を揺さぶった。全身の血がぐおおと引いてゆく。
音の正体をライフルのものと知ったせいか、頭上で巻き起こる羽音をきいたせいかはわからない。
SIG・カービンを構えて振り仰いだときはもう遅く、悪魔のような影がボート全体を覆ったと見る間に、おれは両肩に凄まじい衝撃を感じて呻いた。
ぐん! と身体が浮く。
背後でM16の銃声。
けたたましい絶叫が生温かい血潮をおれの頬に浴びせた。ゆきか名雲の放った一弾が翼手竜の胸を撃ち抜いたのだ。
一瞬、がくん! と身体が下へ引き戻されたが、喜ぶ間もなく、きょとんとしているゾンビーに向かって「おまえら、岸辺で待ってろ!」と叫んだのが精一杯。おれは鋭い鉤爪を両肩に食い込ませたまま、ぐんぐんと空高く吊り上げられていった。
くしゃくしゃになったゆきの顔が見え、次にボート全体、それから沼の輪郭。じき、すべては霧に閉ざされた。
耳もとで風が唸る。感じからして高度二〇〇といったところか。下は緑の絨毯だ。
もっと上がるかと思ったが、すぐに上昇感は消え、むず痒い感覚が足先から首筋まで抜けていく。下がり始めたのだ。
見上げると、十二、三メートルはある巨大な羽搏きはどことなく頼りないし、さほど大きくはない胸部から下は血でぐっしょり濡れている。ついでに、おれの右頬から肩にかけても血みどろだ。でかいのは羽根だけ、骨の中身も空洞という意外にひ弱なこの大空の支配者にとって、五・五六ミリ高速弾は致命的な効果を及ぼしたのだ。
おれはむしろあわてた。
墜ちるのはいいが、途中で力尽きるなよな!
だが、いちど気力を失うと、覇者の凋落は急激だった。ぐんぐん高度がおちてゆく。そればかりか、おれの肩に食い込んだ爪もじわじわとはずれていくではないか。
わっ! で左肩がはずれた。
わわっ! で右肩が――はずれる寸前、おれは激痛をこらえてプテラノドンの足首にしがみついた。万物の霊長が、みっともねえったらありゃしない。
しかし考えてみりゃ、ひとりで墜ちるか、プテラノドンと一緒かの違いだけで、頭ん中でも風音が鳴り響き、眼下には緑の木々どころか岩場らしきものが広がり出して、約四○秒後、おれはほぼ時速二〇キロの速度で岩の斜面らしき部分に足から降下し、二度三度空中を回転しながら気を失ってしまった。
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第五章 恐竜伝説
闇の奥で無数の声がささやき交わしていた。
――今晩のおかずは何にしようかしら。
――偵察衛星の写真では確かにこの辺なのだが。
――どのくらい愛し合ってるのか、ひとつ我々の前で具体的に示して下さい。
――そんなこと出来ませんよ。梨元さん。
――hyaloidinとは、粘液蛋白質から得る炭水化基でコンドロイチンに類似するが……
――地下五〇キロに明確なエネルギー反応あり。やはりこいつは人工のものだ。秘密がわかれば……
――こちらNBC放送。政府は今夕七時、非常事態宣言を発表。戒厳令を……
――夏休みてのは、なんて宿題が多いんだ。
――八頭君って女の子と同棲してるんですって?
日本語、英語、仏語、ドイツ語、エスペラント語……
銃声。続けざまに。
ふっと暗黒が遠のいた。
明るい光の中で見覚えのある顔がふたつ、おれを見つめていた。ひとりは無表情に、もうひとりは煮えたぎる憎悪の視線で。
迷彩色のジャングル・スーツに薄汚れたサファリ・ルック。
ローレンス・シュミットとベロニカだった。
おれは上体を起こした。腰と肩に鈍い痛み。腰の方は無意識に受け身をとったせいで大したことはないが、肩の傷は左右とも熱を帯びている。消毒しないと雑菌で破傷風になる恐れがある。
「久しぶりだな。いつ脱け出してきた?」
自分でも意外なほど確かな声で、おれは訊いた。ティラノに襲われたとき捨ててきた六〇〇ニトロ・エクスプレスを腰だめにしたまま、錆びた声が答えた。片手におれのSIGを握っている。夢うつつできいた銃声はこれだったのだ。弾薬や医療キットはすべておれの足元に並べられていた。畜生、手首も取られちまった。
「君たちが部落を出て二時間後だ。ベロニカがある手を使ってインディオのひとりをたぶらかしてな。それにしても、こんなところでお目にかかれるとは思わなかった。一体、どういう事情かね。近くに翼手竜が死んでいたが、ひょっとして、ロック鳥に捕らえられたシンドバッドの真似か?」
おれは答えず、P7を真っすぐおれの心臓に向けてる女兵士の胸に眼をやった。顔はジャングル行のせいかやつれが目立つが、こっちは健在だ。下のTシャツがブラなしで身体の線とほぼ直角に突き出している。勇猛をもって鳴るインディオの戦士といえど、男である限り、ひとゆさ[#「ひとゆさ」に傍点]されればひとたまりもなかったろう。
「酋長にじきじき見張ってもらうべきだったな」
「たぶらかされたのは酋長だ」
おれは苦笑するしかなかった。
「インディオはどっちへいったの?」
ベロニカが氷のような声で訊いた。
「知らん。おれは空から墜ちてきたばっかりだ。見てただろ」
「やっぱりね」ベロニカは吐き捨てた。「もうあんたに用はないわ。首の爆破スイッチも返してもらったわよ。でも、すぐには殺さない。この拳銃の弾丸がなくなるまで、ゆっくりと時間をかけて、一発ずつ手足に撃ち込んでやる」
「そんなに怨みを買う覚えはないがね」
「なにを言うのさ、このくそ餓鬼。土人どもの前であたしをゆでだこにして、何もかも奴らの眼にさらしたくせに」
女の怨みだ、原因はそんなところだろう。おれはなんとか立ち上がろうとした。
「座りたまえ。無理はせんことだ」
シュミットが制した。当然、次の瞬間、ベロニカが鬼女の形相で食ってかかる。
「どうして、こんな奴をかばうのよ。インディオとははぐれた。王国への道も知らない。もう用無しじゃないの! 早く先へ進みましょう。さっきみたいな怪物に襲われるのはもうたくさんだわ。磁石だって効かないのよ!」
最後は絶叫に近かった。
確かにこの世界は女向きじゃない。人間相手の殺し合いなら平気の平左でも、現実にあり得ない恐竜相手じゃどう戦ったらいいのか見当もつかなくなるのだ。いったん理性が絶望を認めたら、後は精神崩壊の連鎮反応が待っている。忍耐も克己心も判断力も、一転して恐怖の増幅に手を貸す負の要素に成り果てるのだ。
だが、とおれは胸の中で眉をひそめた。ベロニカの様子はどうも尋常じゃない。銃をもつ手が怒りで震えているなんて、たかが裸を見られたくらいでこんな状況に陥るようじゃ、とても機密部隊の兵士など務まるまい。
「やっぱりあの銃声はおまえらか、おかげでひどい目にあったぜ」
彼女を刺激しないよう、おれはシュミットの方を向いてプテラノドンの一件を話してきかせた。
「やむを得なかった。森の中で突然恐竜と遭遇してしまってね。この銃を拾った直後でよかった。なんとか一発で仕止めたが、あれが原因でこういう事態に陥ったとは、お互い不幸な巡り合わせだな」
「その大砲をぶっ放したのは、いつだ?」
「約二時間前だが」
すると、かなり失神してたことになる。おれは話題を変えた。
「どうやっておれたちの後をつけた? これでも背中に眼をつけて歩いてたんだぜ」
「我々も戦闘のプロだ。嗅ぎつけられない尾行法は心得ている。あの霧にまかれたときは参ったが、まさか、こんなところへ出てくるとはな。一度は君たちを見失ったのだよ。しかし、君の方からやって来てくれた」
「いつまで、くだらない話をしてるのよ!」
ベロニカが絶叫した。
「こいつにはもう利用価値がないのよ。早く片づけてインディオたちを追わなくちゃ。磁石も役に立たない土地で化け物に食われたいの!!」
こいつ、ほんとにおかしいぞ。額には青筋、全身が汗まみれだ。放っときゃ、シュミットまで撃たんばかりの形相じゃないか。マラリアにでもやられたか。おれはわざと情けない顔でシュミトの方を見た。阿呆が、やはり援護してくれやがる。
「彼がはぐれたとは限らん。確証はないが、インディオたちを追っていた理由はこの手首だろう。とすれば、今度はインディオたちが彼を追ってくる」
「わかるもんですか!」ベロニカは吐き捨てた。「とにかく、あたしはこいつを殺さなきゃ気が済まないんだ――何がなんでも、今すぐに……」
「おい、|軍人《ソルジャー》。――民間人が撃たれるのを黙って見てるのか?」
「彼女は抹殺にきた同僚を射殺し、いまは軍籍を離れているそうだ。従ってこれは民間人同士の争いということになる。軍は介入せん」
「この野郎、汚ねえぞ!」
だが、シュミットは苦笑いをすると、さっと手を伸ばし、ベロニカの拳銃を奪い取ってくれた。もう撃発寸前まで引き絞ってた引き金を落とさず失敬したんだから大したものだ。訓練次第じゃ天下一品の|掏摸《すり》になれるぞ。
シュミットに跳びかかってくれりゃしめたもんだと思いきや、ベロニカはなんとか自制したらしく、肩で息をつきながらぷいと向こうを向き、少し離れた石の上へ座り込んでしまった。どうやら爆破スイッチもシュミットが持ってるらしい。やれやれだ。
とにかく狂人に撃たれる危険は去ったわけだ。
肩を押さえて大げさに呻くと、シュミットが足で医療キットを放ってくれた。スプレー式の消毒薬を両肩の傷に吹きつけ、薄い合成皮膚を貼りつける。アメリカの某医療機関が開発したこの新製品は、すぐ本物の皮膚と癒着し、それ自体の持つ治癒機能で傷口までふさいでしまう。サイズはいくらでも大きくできるが、ちぎっても平気な上、厚さは百分の一ミリもないから携帯にはもってこいだ。火事の現場や戦場で生命を取り止める奴らがさぞ増えることだろう。
五分もじっとしてると、熱はともかく痛みは大分退いた。そのあいだ、シュミットはベロニカに命じてその辺の植物の枝葉を集めさせ、軍用マッチ一本で火をつけた。
器用な野郎だ。狼火のつもりか。さっき、おれのSIGをぶっ放してインディオたちを呼び集めようとした策は失敗に終わったしな。太い黒煙が青空へ煙突みたいにそびえ立っていく。これを見て、ゆきやインディオが駆けつけてくるのを見越してるんだろうが、おれはそううまくいかないような気がした。奴ら、随分先を急いでたからな。
三時間待ったが、誰もやってこない。
その間、シュミットはこの手首は何の役に立つのかと訊いた。おかしな芸をするんだよ、とおれは答えた。手首の話はそれで終わりだった。
とうとう、業を煮やしたベロニカが立ち上がった。
「無駄よ。こいつはもう見捨てられたんだわ。この手首だって、実はそれほど大した品じゃなかったのよ。さ、こうなったら時間を無駄にはできないわ。早くこいつを始末して後を追いましょう。その銃を返して!」
「よさんか。無益な殺人を犯して何になる。彼はここに置き去りにすればよかろう」
シュミットのこの言葉をきいて、ベロニカはますます逆上した。
「いいわよ、あんたがそんなにカッコつけたいなら止めないわ。でも、四六時中こいつの面倒ばかりみてるわけにはいかないでしょ。夜、寝静まったとき、石で頭を割ってやる。怪物がでたらその前へ突き飛ばしてやる。いざとなったら木の枝だって人を殺せるのよ」
こいつは本気だ。おれは肩をすくめて、自分がいかに重大人物であるかを説明しにかかった。
「こう言っちゃ何だがね。あんた方だけで奴らの国への道がわかるのかい?」
シュミットの濃い眉が動いた。
「君は知ってるのか?」
「ああ」とおれは鷹揚にうなずいてみせた。
「嘘よ、信じちゃ駄目。こいつは悪魔みたいに悪知恵が働くのよ。きっと何か企んでるんだわ!」
どうしてもおれを殺したいベロニカが喚く。
「なら、この世界で野垂れ死にするんだな。死体は恐竜どもが骨まできれいにしてくれるさ」
「それも願い下げにしたいな。君の言葉が本当なら立派に同行の理由ができるわけだ。ベロニカも文句はあるまい」
シュミットに見つめられてベロニカは歯ぎしりしながら口をつぐんだ。怒りのために顔が青黒く充血している。こりゃ、前より危険だ。
「では、その証明をしてもらおうか」
シュミットがニトロ・エクスプレスのばかでかい銃口を向けた。腰だめなんかで撃ったら手首か肩を折りかねない化け物銃だが、この男なら楽々と使いこなすだろう。
それにあの隻眼で見据えられたら、よっぽど腹を据えてかからないと、たちまち精神的に威圧されてしまう。ありゃ戦士の眼だ。にらめっこして勝てるかどうか、おれにも自信はない。
おれはなんとか立ち上がって、SIGを指差した。
「えー、その銃を」
「駄目よ!」
ベロニカが喚き、シュミットもうなずいた。おれは不平面しただけだ。情けないねえ。
まだ痛みが残る腰や手足をかばうようにしながら歩き出す。目標は岩場の向こうだ。
「ところでよ」
おれはさも苦しそうな声で訊いた。
「おれが伸びているあいだ、おまえら何も言わなかったか?――いや、何もきかなかったか?」
「別に――夢でも見たのかね」
おれは黙って先を急いだ。
おびただしい雑多な声は、いまも耳の中で反響していた。ただの幻聴だろうか。それにしちゃ、この胸騒ぎはどういうわけだ。おれの両親が薄汚いこそ泥どもに射殺されたときと同じ、この焦燥感は?
おれたちに恨みでもあるらしい午後の太陽に手足を灼かれながら、三○分ほどで目的地に着いた。プテラノドンと心中しかかったとき、しっかり見ておいたのだ。一度眼にしたらおれの方向感覚に狂いはない。
そこは岩場と湿地帯のちょうど境界線にあたる土地だった。何十本もの灌木が薙ぎ倒された果てに、グロテスクなシダ植物に覆われた文明の利器が横たわっていた。足元に四散する赤錆びた鉄板やひん曲がったねじを見下ろし、シュミットが驚いたように言った。
「こいつは……飛行機の残骸か。しかし、一体いつ、誰が、この世界へ……?」
「おれも上空から見たときは驚いたぜ。実はある種の事情により、この飛行機にはおれの知り合いが乗っててな。こいつはなんとかもとの世界へ帰りついて、今はもう死んじまったんだが、その前に、墜落地点から王国への道筋を残してってくれたのさ。そうそう、帰り道のもあったなあ」
勿体ぶるおれに、ベロニカが真っ向から、嘘よと切りつけた。
「こいつは上空から偶然この残骸を見つけただけでホラを吹いてるのよ。証人はいないんだからどんな嘘でもつけるわ。助かりたいためのでまかせよ。証拠を見せてごらん。地図でも持っているの?」
おれは人差し指で頭の横を叩いた。この中に入ってるって合図だ。サイラスの地図はもう暗記してある。ベロニカは、ほれごらん! と喚いた。
「操縦席へ入ってみな」おれは動じもしなかった。「フロント・グラスを突き破った木の枝と、それに心臓を貫かれたパイロットの白骨があるはずだ。少しは他人の言うことを信用したらどうだい。いくら人間無視の諜報戦時代とはいえ、ちと味気ないぜ」
ベロニカは答えず、シュミットからP7を受け取り、憤然と残骸に近づいた。機首の辺りの灌木をざわざわやっていたが、じき不愉快そうな顔で戻ってきた。
「口惜しいけど本当らしいわね。――いいわ。この件に関しては信じてあげる。だけど、図に乗って、あたしたちを煙に巻こうなんて考えると、その場で撃ち殺すわよ」
おれはへいへいと神妙な顔でうなずいた。気狂いに逆らうとロクなことはない。
「ここからその王国へはどのくらいかかるのかね」シュミットが訊いた。
「ま、急いで三日だな」
「おかしな真似はしないと約束してくれるかね」
「いやだね」
シュミットは白い歯をみせた。
「威勢のいい捕虜だな。まあいい。では、すぐ出発したいのだが」
おれは伸びをして、
「ほんじゃ、あの沼へ戻るとするか」
「沼へ? 場所がわかるのか? 戻ってどうする?」
「あの近くでゾンビーがおれを待ってるはずなのさ。奴ら、おれの命令は死んでも――というのもおかしいが――とにかく守る。インディオたちが連れてこうとしても、動くもんじゃねえ。荷物も放さねえから、インディオたちに始末されない限り残ってるはずだ」
「そうあってくれるといいが。部落から持ち出した食料は三日ともたずに底をついた。トカゲや蛇はもう食べ飽きたよ」
「お互い、ご苦労なこったな」
パイロットの遺体を埋葬し、相変わらずの炎天下を、おれは先頭に立って歩き出した。
道なき道を四、五〇分も進んだだろうか。
そこを曲がればジャングルは眼と鼻の先という岩蔭まで来て、おれは足を止めた。感心したことに、シュミットの立ち止まる方がちょっと早かった。いい耳してやがる。
「どうしたのよ?」
ベロニカが息をはずませながら訊いた。
おれはそっと岩蔭から顔をのぞかせた。
岩と岩の間が差し渡し二、三○メートルの広場になり、体高二・五メートルほどの小型恐竜が、岩蔭に生えた植物を貪り食っている。細長い前脚とわずかに平べったい嘴の先。イグアノドンの仲間とされてるプロバクトロザウルスだ。後期になって出現するサウロロフスやガトロザウルス等のカモノハシ恐竜の先祖とされている、性質は温厚――のはずだ。
「どうする?」
シュミットが訊いた。
「捕虜に訊くな。隊長はあんただろ」
「ベロニカの話では、こういうものに関する経験は君の方が豊富らしい。適材適所といこうではないか」
おかしなことを言いやがる。ドイツ人のくせにユーモアのセンスもあるのか。いかん、黒ビールとフランクフルトの妄想が眼の前に散らつきだしたぞ。沼のほとりで食事して以来、もう五時間近く胃に何も入れてない。
おれはなるたけにこやかな[#「にこやかな」に傍点]表情で言った。
「ものは相談だが、あいつを食っちまわんか。草食竜だ。焼いて食やうまいぜ」
これがまずかった。
「嫌、嫌よ! 死んだって……」
眼の玉をひん剥いて喚きかかったベロニカの口を、シュミットのたくましい手が押さえたときは遅かった。
プロバクトロザウルスはひょいとこちらを向くや、小さな手でぽりぽりと首筋をかき、ぴょこぴょことおれたちの方へ前進を開始したのである。
下がれ! と言いかけたおれの眼の前を、オレンジ色の光が流れた。
恐竜だ。おれたちよりずっと小さい。体高は約一・三メートルそこそこ。しかし、オレンジと緑の縞に彩られた小柄な身体が、みるみる十頭近く、おれたちとプロバクトロザウルスの間の横道から出現し、体長で優に倍はある獲物を取り囲んだとき、おれはそいつらの正体を悟って総毛立つのを覚えた。
ディノニクスだ!
モンタナ州で発見された化石からいわく、動物進化史上、最も巧みで執念深い殺し屋!
次の瞬間、奴らは哀れな犠牲者めがけて一斉に跳躍した。鋭い牙と鉤爪のついた前脚が草食竜の軟らかい腹部を集中的に襲う。プロバクトロザウルスのたくましい尾が動いて、二、三頭が岩肌へ叩きつけられた。ディノニクスの体重は八○キロ、プロバクトロザウルス・約一トン。十二倍の体重差が生み出すパワーだ。
しかし、おれの眼には茶色の巨体が、ひっきりなしに投げつけられるオレンジ色の|投げ矢《ダート》を浴びる血みどろの|標的《ターゲット》に見えた。ちっぽけな身体が跳びかかり、一瞬止まって払い落とされるたびに、草食竜の肉は確実に引き裂かれていった。
午後の陽光に、屠殺者の血まみれの後脚から突き出た奇怪な形状の爪がぎらりと光った。
鎌そっくりの蹴爪。
これこそディノニクス――「恐ろしい爪」と呼ばれる所以である。三指のうち、決して地面にはつかぬ一本の鎌状爪をもって、この小さな殺し屋集団は、自分の倍も大きく十倍も重い獲物を捕食するのだった。
プロバクトロザウルスの喉がグフッ! という音を立てた。腹の皮膚と筋肉をはじくようにして湯気のたつ内臓が地面にわだかまる。横倒しになって喘ぐ獲物に非情な爪と牙が殺到した。
おれは後退するよう手でふたりに合図し、後じさり始めた。
大体こういう場合は間の悪いことが起きる。熱い内臓を貪っていた一頭が、断りもなくおれの方を向いたのだ。血に飢えた眼と澄んだ瞳との邂逅!
そいつはひと声ひきつるような叫びをあげるや、身体を地面と平行に曲げ、後脚と尾で地を蹴った。
耳もとで小型砲をぶっ放す轟音。
ディノニクスの首から上は文字通り四散した。身体だけが慣性と自律神経に支えられてさらに数歩前進し、岩壁にぶつかって止まる。600ニトロ・エクスプレスの巨弾は、一トンの重量を瞬間七五センチ移動させ得るのだ。
「後退しろ! 岩の隙間を見つけてもぐり込め!」
シュミットの叱咤は、他の殺し屋どもの注意を引きつけただけだった。
一斉に突進してくる。
「シュミット!」
ぐんぐん近づいてくるオレンジの塊を見据えながら伸ばした手に、懐かしい鋼の感触。
まかしとけ!
連続発射音はひとつにきこえた。
電光に包まれて恐竜たちがはじけ飛ぶ。
悲鳴!
振り向いた。ベロニカの眼の前に一頭。轟音。小さな身体が西瓜みたいに飛び散る。おお、ニトロ・エクスプレス。
向き直った眼の前に異形の顔!
ぶん! と蹴爪が腹へ。
おれはSIGを片手にとんぼを切って後ろへ飛んだ。二転、三転。
シュミットが驚きの声をあげた。
空中で連射。
最後の二頭を紫の光が包んだとき、おれは着地した。
拳銃音が連続した。返り血を浴びて朱に染まったベロニカが、ニトロ・エクスプレスの猛打でけし飛んだディノニクスの残骸へP7を連射している。眼尻を吊り上げ、鬼女の形相だった。口の端から心臓の鼓動に合わせて白い唾液が飛ぶ。ひきつるような呼吸音。
弾丸が切れ、撃針が空しく空を叩いてもベロニカはやめなかった。こいつは間違いなくイカれてる。
シュミットが近寄り、血まみれの手からP7を奪い取った。糸の切れた人形みたいに倒れかかるのを抱き止め、軽々と肩に担ぐ。
「退散だ」
「もう、その必要はないぜ」
おれは前方を指差した。邪魔ものはすべて地に伏している。
「もっともだ。銃を返して、ベロニカを背負ってもらおう」
「ふん、堅えことをいう野郎だ。民間人に労働を強制しやがる」
「今は非常時と思ってもらおう」
仕方がない。
おれはSIGを放った。恐竜みたいにゃなりたかない。ニトロ・エクスプレスの二つの銃口は、大砲みたいにおれの足をにらんでいる。
五分後、おれたちは無事、密林に入った。
幸い、何にも出喰わさなかった。
ためらわず木々の間を前進するおれに、シュミットは驚きと疑惑の念を抱いたはずだが何も言わなかった。
休まず歩いて三〇分後、ようやく朱色の光が辺りを染める沼のほとりで、おれは荷物を肩に立ち尽くす二体のゾンビーを発見した。
邪魔なベロニカを地べたへ放り出して駆け寄り、荷物を点検する。おれひとりでざっと三日分の食料と医療品、それにSIG用の弾薬――通常の九ミリ弾・千発入りの缶二つと、炸裂弾千発、電撃弾千発。それぞれ十五連と三〇連マガジンが十個ずつ。
さらにゾンビーの肩にかけてあったライフルを見て、おれは口笛を吹きかけた。
FNC79だ。
ベルギーの名銃器製造会社|FN《ファブリック・ナショナル》が発表した最新|突撃《アサルト》ライフル。堅牢さ、命中精度、操作性ともにベスト作品のひとつと認められている。
口径は五・五六ミリと小さいが、二つの金属ケースに収められた一千発の実包はすべて特殊炸裂弾だ。テフロン加工の弾頭が恐竜の装甲外皮といえども容赦なくもぐり込み、体内でドカンといく。威力は軍用手榴弾の約半分。ティラノザウルスだろうが何だろうが、五発も叩き込めばひっくり返るはずだ。
おれは|折り畳み式の銃床《フォールディング・ストック》を本体の右側へ寝かせ、三○連発弾倉を装填した。安全装置兼用の射撃モード・セレクターを3の位置に合わせる。三|点射《バースト》――引き金を一度ひくごとに三発ずつ弾丸が出る。|全自動射撃《フル・オート》じゃ弾丸の無駄が多すぎるからだ。
そのフル・オート記号はA、|半自動射撃《セミ・オート》は1で、Sに合わせると安全装置がかかる。射程距離は四千までいくが、狙って当たる有効射程距離は五〇〇が限界だろう。軍用ライフルというのは大体四〇〇メートル必中をめどに造られているのだ。風や砂塵やらの諸条件でそれが左右されるのは言うまでもない。
残念ながら、シュミットが背後にいる限り持って歩くわけにはいかず、おれは他の装備を点検し――ボートやテント、ライター等の生活必需品が揃っていた――、ようやく、ゾンビーのひとりが握っているノートの切れ端に気がついた。
ゆきの手紙だった。ボールペンで――
「大ちゃんへ。探そうとしたのですが、あれからすぐ、でっかい鰐に襲われ、みな岸まで泳ぐ羽目になりました。インディオたちは、これ以上の危険を冒すよりもすぐ出発する様子です。手首はひとつでもあきらめるみたい。とっても時間に追われてるようです。
あたしも名雲さんも、どちらか残って探してくれと頼んだんですけど、言葉が通じないし、彼らほんとに急いでるみたい。それほど手首を運ぶことは大切な仕事のようなんです。あたしたちは残ろうと思ったんだけど、やっぱり怖いので、インディオさんたちと行くことにします。大ちゃんが死ぬなんてこと絶対にない、あたしはそう信じてます。早く助けに来て下さい。行く先の地図ぐらい残しておきたいんですけど、全然話が通じないのであきらめました。
お元気で。
ゆき」
なにが、お元気で、だ。おれはいっぺんで頭へ血が昇った。
自分の身が危険となりゃ、さっさと敵についてっちまう。これだから、おれはこれまで他人と組んだことがないのだ。
しかし、いまはシュミットやベロニカに当たり散らせる立場じゃないし、ゾンビーに文句いっても始まらない。
おれは憤懣やるかたない思いを抱いて、飯にすることにした。
加熱剤を加え、空気を入れただけで温まるビーフ・シチューと乾パン、強力電熱器で入れたコーヒー。
なんとか腹はふくれたものの、おれひとりなら三日分でも、三人で食えば一日しかもたない。
こりゃほんとに恐竜を捕って食わなきゃならんようだ。
食事の最中に陽が落ち、おれたちは沼から少し離れたところにある、狭いが平坦な土地にテントを張った。さすがのシュミットもこんな便利な品は初めて見るらしく、隻眼を細めていた。
幸い、テントは五人用で、全員入っても優にスペースが余った。おれとベロニカは横になり、お目付け役のシュミットはふわふわの壁を背に腰を下ろす。無論おれ用の監視だ。テントの中でニトロ・エクスプレスもないと思ったのか、膝の上に愛用銃らしく年期の入ったブローニング・ハイパワーを置いた。ライフルと同じく沼地に残してきた品だ。
口径九ミリ・十三連発のこの拳銃は、コルト・ガバメントと並ぶ軍用拳銃の最高傑作で、ダブル・アクション・オートマチック全盛の今なお、世界中の軍隊で制式採用されているほどだ。シュミットのものを見て、おれは内心舌を巻いた。
グリップはバックマイヤーなど使わずチェッカリング入りのクルミ材で、親指のあたる部分を深くえぐってある。マニュアル・セフティはすぐはずせるように二倍の大きさの特注品だし、撃鉄はホルスターに入ってたときから起こしっ放しだ。とっさの場合、セフティをはずしただけで撃てるようにというプロの心構えである。その辺のへっぽこガンマンのように、薬室に初弾を装填した上で撃鉄を起こしたシングル・アクションを持つのは精神的に不安だから、などとほざいていては戦場で通用しないことを、骨身に泌みて知っているのだろう。
銃全体も角張った部分すべてをやすりで滑らかに仕上げ、抜き撃ちの際ホルスターやシャツに引っかからないよう工夫してある。普通モデルについてる調節可能なリア・サイトも取っ払い、単純で薄っぺらな固定式になってるのを見て、おれは胆をつぶしかけた。拳銃は所詮、近距離実戦用と割り切っているのだろう。
ブラジル軍の制式拳銃はコルト・ガバメントのはずだが、シュミットがわざわざこれを選んだのは、四五口径のマン・ストッピング・パワーより、ハイパワーの十三連発という連射能力を重視したわけで、これも拳銃接近戦用思想だ。生命を預ける武器にその持ち主の本質が表れるという説が正しいならば、こいつは骨の髄まで“実戦用”人間だった。
こういうタイプにちょっかい出しても無駄だ。いざとなったら片づけることにして、それまではおかしな素振りをしないに限る。
おれは早々に休むことにした。
ところが、そうは問屋が下ろさなかったのである。
少し大人しくしてると、おれが眠ったと勘違いしたベロニカが、シュミットにちょっかい出し始めたのだ。
おれと反対側の端にひっくり返ってたのが、起き上がる気配がしたかと思うと、軽蔑しきった声で小さく「|日本人《ヤポン》」と吐き捨て、シュミットの方へ膝立ちでにじり寄っていった。
くそ、と思ったが、そういう個人的憤怒で楽しい光景をぶち壊すほどおれは不粋じゃない。期待に胸ふくらませながら耳を澄ましてると、すぐに、「抱いて」と喘ぐように言うベロニカの声がした。当然、激しいキスの音と思いきや、厳しい声で「よせ!」ときた。
勿体ねえことをしやがる。
寝返りを打つふりをして、ちらりとのぞく。
シュミットのたくましい迷彩色に絡みついたベロニカの肢体がアップで灼きついた。自分からシャツを脱ぎ捨て、河合奈保子より凄いバストを押しつけながらシュミットの服を脱がそうと奮戦中だった。低い声でおれが仰天するような猥褻な言葉を洩らす。
だが、褐色の肢体は悲鳴をあげて跳ね飛ばされた。
シュミットは眼を薄く閉じたまま、マットの上で睨みつけるベロニカを見ようともしない。ホモでなきゃ大した自制心だ。
怒りと屈辱で顔を歪ませるや、ベロニカは何とドアを開けて外へ飛び出していった。おれに同じことして見せつけてやりゃいいのに、馬鹿な女だ。
立ち上がろうとしたシュミットをおれは制して、素早くドアの外へ出た。
「どこへ行く?」ニトロ・エクスプレスが動いた。
「安心しなよ。逃げやしない。――撃ちたきゃ撃ってもいいぜ」
ウインクを残して、おれは闇のロスト・ワールドへ飛び出した。
密林の上に青い月が冴えている。
いいムードだ。これでベロニカさえその気になれば。ムフフ。
だが、期待は大幅にはずれた。
テントから五メートルと離れていない草むらに、半裸の肢体がこちらを向いて棒立ちになっている。
何かいるのか!
背後でシュミットの足音がした。急に立ち止まる。彼も気づいたのだ。
おれたちの前に軍人と覚しき男がふたり立っている。
シュミットとよく似た半袖の迷彩服の下で、岩みたいにごつい顔が地図らしきものを見てうなずいた。
おれもシュミットも口をきかなかった。もと仲間のベロニカさえ眼を剥いたままだ。
彼らの身体の向こうにアマゾンの木立が見えた。それは、いまおれたちがいる世界のものじゃなかった。
「透き通ってるぞ……」
シュミットが低い声でつぶやいた。
奴らの身体とアマゾンの木立を通して、ベロニカの姿がおぼろに見えた。
不意に兵士たちは地図をしまい、足元の透き通った[#「透き通った」に傍点]リュックを軽々と背負うや、ベロニカの方へ歩き出した。
ぶつかる! と思った刹那、彼らはベロニカの身体を突き抜け、彼らの世界[#「彼らの世界」に傍点]にある木々の間を縫って消えた。少しのあいだ、当たり前の[#「当たり前の」に傍点]ジャングルの情景がおれたちの前に残り、それも残像のように闇に溶けた。
「いまのは幻覚だと思うかね、ミスター八頭?」
シュミットの問いは、彼自身がそう思ってはいないことを示していた。全員へばってはいるが、集団幻覚を見るほどヤワなのはひとりもいない。
ベロニカのところへ近づくシュミットを見ながら、おれはふと、この世界へ初めて入ったときのゆきの驚きを思い出した。ひょっとしたら、あいつもこんな幻覚を、いや、そこにあってそこにない、もとの世界の二重像を見たんじゃなかろうか? すると、おれが気絶してるときにきいたあの声は――?
何かつぶやくベロニカの声がきこえ、おれは彼女の方へ向いた。ハイパワーを手にしたシュミットの胸に寄りかかり、虚ろな視線を幻覚の消えた位置へ投げている。低いつぶやきも、おれの耳にははっきりときこえた。
「見覚えがあるわ……ロジャースとザッコよ。……やっぱり彼らが来たんだわ……」
「なんだ、そりゃ?」
おれは訊いてみた。
「お前が前にいってた秘密兵器てな奴らか? たったふたりで密林うろついて何しようてんだ? それも向こう側の[#「向こう側の」に傍点]よ?」
おれの声もきこえないかのように、ベロニカは独白を続けた。
「……彼らなら[#「彼らなら」に傍点]、きっとこの世界へも入ってくる……そして、あたしを殺すわ。鉄の爪と歯で八つ裂きにして……」
「鉄の爪?――彼らは何者だ?」とシュミットが尋ねた。
「何でもないわよ!」
突然、ベロニカはシュミットを押しのけて立ち上がった。喪失感の代わりに狂気のような激情が全身をわななかせた。
「もう、あたしたち、おしまいよ。どんな幻の文明だって、彼らの前には破滅するしかない。あいつらは魔人だわ。殺戮と破壊のためにつくられた秘密兵器よ。――やっぱり、やっぱり、あの生物学研究所をつぶしておけばよかった。彼らはあそこでチューンナップされて出てきたのよ!」
チューンナップ? おれはこの単語にひっかかった。すると、奴らは機械人間――サイボーグか!? だが、生物兵器研究所をつぶしとけばよかったというのは――?
しかし、それ以上おれとシュミットが何を訊いても返事はなく、ベロニカはテントの隅でひとり震えながら夜を明かした。
翌朝、様々な疑惑に胸を重く染めながらおれたちは出発した。
あのサイラスがなんとかこなした道だ。恐竜なんぞに出喰わさなければ大したことはあるまい。――おれはこう思っていた。
ところが、ありゃよっぽど運が良かったのだ。
道自体はそれほどハードじゃなかった。食料も、小型恐竜や正体不明の鳥らしきものを撃ち落として何とかなった。
けれど、でるわでるわ、でかいのから小さいのまで、恐竜のオンパレード。
ティラノザウルスに良く似た中型の肉食竜メガロザウルスが、角竜スティラコサウルスを襲いあっけなく刺し殺される現場を目撃した同じ日に、湿地帯を集団移動するブラキオザウルスの大群にふみつぶされかかり、翌日はなんと、隠れる場所もない崖下の一本道で、あの暴竜ティラノザウルスに出喰わしてしまった。
休みもない強行軍でいい加減参ってたところへ、岩の曲がり角から滝らしい水音がしたので、静止もきかずベロニカが飛び出し、その数メートル前に、万年腹ペコの暴君さまがいたというわけだ。
おれは銃を持ってなかったし、シュミットが顔面へ二発叩き込んだが、これはかえってティラノの凶暴さを高めるだけの結果となり、おれたちは必死になって逃げ出した。
すぐ背後でもの凄い地響きが追ってくるし、左右は崖の一本道だ。振り向いて炸裂弾を撃つ余裕なんざありゃしない。正直、こりゃやばいなと蒼くなった。
ところが、死にもの狂いで五〇〇メートルも走るうちに、背中の唸り声や足音はどんどん遠ざかっていくじゃないか。
シュミットと顔を見合わせて振り向くと、なんとティラノの野郎、でかい図体をふらつかせ、息も絶えだえに歩いてる[#「歩いてる」に傍点]。
無事、うまく巻いてからシュミットがこう尋ねた。
「私は古生物の知識など持ち合わせていないのだが、恐竜というのは、長距離走向きではないのかね?」
「そうらしいな。確かイギリスのリーズって学者が、恐竜の足跡から歩行速度と走る速さを計算したことがあってな……えーと、最低で三・六キロ、最高が十三キロ」
「すると、全速力で追われても、人間が必死にかければ時速十五、六キロはでるから、なんとか逃げられるわけか」
「そういうことだ。それに、恐竜が爬虫類みたいな冷血動物か、哺乳類と同じ温血動物かって議論があるんだが、いまのスタミナのなさじゃ前者のようだな。肉食のベロシラトプスが草食のプロトケラトプスと取っ組み合った姿勢で化石になったのが見つかったのも、これで合点がいく。ゴビ砂漠だのアメリカだのをよく探せば、もっと相討ちの化石が発見できるかもしれんぜ」
「面白い話だな。勉強になった」
「なんのなんの。ところで、これ以後もああいう奴に襲われる可能性があるわけだ。銃を返してくれないか?」
「残念ながら、見たところ君は俊足だ。走って逃げればよかろう」
「あんた、見た眼よりセコイな」
「軍人は耐乏生活に馴らされているのでね」
なんだかよくわからないが、とにかく、この後は別に大したトラブルもなく、おれたちはついに三日目の昼下がり、最後の大難関を迎えることになった。
なんとか無事にジャングルを抜け、あの大蛇の岩場も無事通過して、サイラスの地図が確かならあと五キロ平地を歩けば巨大王国に着くはずのおれたちの前に、なんと見上げるばかりの大岩壁が峻険とそびえ立ったのである。
「一体どうしたのよ、ご自慢の記憶は?」
ベロニカがいやに押し殺した声でP7を突きつけた。
「君の話だと平地のはずだが」
シュミットの声もさすがに硬い。
「わからんな」おれは肩をすくめるしかなかった。「弁解を許してもらえるなら、あの地図はおれの知り合いが大蛇に追われて気を失い、王国へ運ばれた後で、そこの女の話をもとに書き上げたもんだ。つまり、今の森の中でひっくり返ってから以降は奴の眼で確認してねえのさ。誓ってもいいが、今までの道筋に間違いはない。この岩壁だけ、奴はボケて書きもらしたか、その女が故意に口をつぐんだんだ」
腹の中でサイラスを八つ裂きにしながら、おれはわざと淡々と弁解を終了した。
「嘘おっしゃい。どこまで口が達者なの? あなた信じる気?」
シュミットは首を振った。
「残念ながら、今回は君の言う通りかもしれん」
「おい。――ほんとだ。嘘じゃないってば。よせよ。――!?」
おれは眼を剥いた。トリックじゃない。シュミットたちの背後の岩壁の表面に、おかしなものを見つけたのだ。
ベロニカは妙に澱んだ眼でおれを睨みつけたまま、注意を向けようともしなかったが、さすがにシュミットは、おれが不意をつけない距離まで後退してそちらを向いた。
すぐに向き直り、
「何もないぞ。こんな小細工をするタイプには思えなかったが」
「ようく見ろ。あの崖っぷちにはえている繁みの陰だ。おれは眼が効くんだ」
「では、一緒に確かめるとしよう」
数秒後、眼を剥くのはシュミットの番になった。
おれはほうれ見ろと悪態をつきながら、明らかにゆきのものであるピンク――なんてえ趣味だ――のハンカチを引っ張った[#「引っ張った」に傍点]。
びくともしない。生暖かい白亜紀の風に揺れるそれは、全体の半分ほど岩の表面から生えて[#「生えて」に傍点]いたのだ。
よく見ると、ごつごつした岩面に、うっすらと蜘蛛の糸よりまだ細い線が垂直に走っている。シュミットがナイフを差し込もうとしたが駄目だった。
「大した技術だな。ピラミッドの積み石の間には剃刀の刃も入らないというが、これは光も通すまい。しかし、正直いって驚いた。私はこれでも眼の良さが自慢のひとつだったのだが、君には兜を脱がねばなるまい。よく見つけたものだな」
「ほんの実力さ」
おれは胸をそらした。
すぐ調査にかかり、この切れ目は縦横七メートルの正四角形を形作っていることが判明した。言うまでもない。岩製のドアだ。ここをくぐるとき、ゆきはインディオたちの眼を盗んでハンカチをはさみ込んだのだろう。何はともあれ、ここまでは無事だったらしい。おれはなぜかホッとした。しかし、開け方がわからない。さんざ探したが、岩をえぐった秘密のスイッチも、謎の踏み石も発見できなかった。
とうとう、おれとシュミットは顔を見合わせ、暗黙の了解点に達した。
この崖を登るのだ。
だが、どうやって? 掛け値なしで三百メートルはあるのだ。武装ヘリを叩き落としたロケット・ブースターは、最初のティラノザウルスにあったとき踏みつぶされちまった。
「蔦でロープを作ろう。まず私がのぼって蔦を下ろす」
おれの疑問を読み取ったようにシュミットが言った。
用意が整ったのは、その日の夕暮れだった。なんとなく二億年後と変わらないような太陽が西の空を炎に染め、森の奥からは恐竜の鳴き声がきこえた。
「それでは。ベロニカ、後を頼むぞ」
言い残して、シュミットは蔦の束とライフルを肩に岩壁に近づいた。幅の広い大型ナイフを口にくわえ、おれから取り上げた特殊鋼のナイフを右手に、ほんの心持ち程度の出っ張りにブーツの先をかける。
おれは半ば感嘆、半ば阿呆か、という気分で、この無鉄砲|登山家《クライマー》の後ろ姿を見送っていた。
そうなのだ。三〇〇メートルの岩壁をよじ登る彼の道具は、その二本のナイフだけなのだ。あとは何だろう。軍隊への義理立て――燃えるような下らない使命感か。
蔦をつなぎ合わせながら、おれは嘲笑まじりにその答えを求めた。シュミットは笑っただけだった。おれは、世界中になぜトラブルの火種が絶えないのかわかるような気がした。小利口な爺いばかりが生き残り、こういう阿呆が先に死ぬからだ。
二本のナイフで登山となれば、方法はひとつしかない。一本を岩の隙間に打ち込み、それを足場にもう一本を食い込ませ、徐々に登っていくのだ。丈夫なハーケンもハンマーもない。隙間があるかどうかだってわからない。おれのはともかく、シュミットのはただの軍用サバイバル・ナイフだ。七○キロ以上の体重をいつまで支え切れるものか。
だが、シュミットはやってのけた。
水平のセットを垂直に見せる映画の特殊撮影のように、驚嘆すべき速度で岩山を征服していった。中腹にかかるまで三十分とかからなかったろう。
「地獄の戦士」か――おれは胸の裡でつぶやいた。
突然、頭上を黒い影が流れた。けたたましい爬虫類の金切り声。
七、八メートルはありそうな鉤爪つきの翼と、狂気のカーブを描く長い嘴は言うまでもない、翼手竜プテラノドンだ。血走った眼がおれを見据えて急上昇していった。岩板を這い進む大きな獲物――シュミットへ!
しめた! と思う前に、おれは血相変えて武器を背負ったゾンビーの方へ駆け寄ろうとした。
銃声! 右肩を灼熱の棒がかすめた。
ベロニカの、薄笑いを浮かべた顔が、硝煙の向こうに見え隠れしていた。
「動くんじゃないよ。もっとも、シュミットが上までいったら、もうおまえには用がない。この場で始末をつけてやる」
憎悪に膨れあがった言葉の中に、おれはどこかしら苦痛をこらえているような響きを感じ取った。どこがどうとははっきり指摘できないが、なんとなく、身体つきまでおかしい。
「よさねえか! 放っときゃシュミットはラドンの餌食だぞ!」
おれの叫びに、ベロニカは崖の方を見ようともせず首を振った。
「いいからお座り! 何なら、いま殺してもいいんだよ!」
おれは呻いた。傷のせいじゃない。いつの間にか霧がでてきたのだ。かなり濃い。みるみる周囲を白い世界に変えていく。
おれは歯がみしながら頭上を振り仰いだ。翼手竜の叫びが天を領している。少なくとも四、五匹がシュミットの周囲を旋回中だ。まずいことに、そこまで白霧が猛威をふるい出している。闇夜ならともかく、霧の中じゃおれの眼にも限界がある。
ニトロ・エクスプレスの轟音がとどろいた。
落下音に気づいたベロニカが宙を仰いだときは遅かった。
残念ながら下敷きにはできなかったが腹にばかでかい貫通孔をあけたプテラノドンの死骸は、その短い尾で女兵士の首筋を打ち据えたのである。
地響きが終わらぬうちにベロニカは倒れ、おれはゾンビーの荷物にかじりついていた。素早くFNC79を引っこ抜く。弾丸は装填済みだ。安全装置をセミ・オートに合わせる。
肩付けとポイントは同時だった。
世界最高のライフルから放たれた五・五六ミリ炸裂弾は精確無比、シュミットめがけてピッケルのような嘴をふるう翼手竜を捉えた。翼の付け根に洞窟があき、絶叫とともに墜ちてくる。
低脳爬虫類の哀しさ、眼先の獲物に気をとられてるせいで、地上の敵にはとんと気づかず、おれはまたたくまに五匹を撃墜した。
霧の奥でシュミットが片手を上げ、再び上昇を開始する。
ほっとして、ベロニカの手当てでもしてやるべえかとFNCを下ろしたとき、おれの耳は遙か天空の彼方から押し寄せてくる羽搏きと鳴き声を捉えた。
新手の翼手竜だ!
霧の届かぬ薄闇の宙天から黒い影が真っしぐらに降下してくる。今度はおれの番だ。
FNCが迎え討った。
嘴で引っかけてくるのをかわし、無防備の腹をさらけ出して上昇するところを、地面に寝たまま狙撃する。小気味よい反動。FNCのコントロール具合は抜群だ。腹ぶち抜かれた奴がきりもみ状態で地面と激突する。
頭上でまた重々しい銃声。シュミットも襲われているのだ。眼をこらしても、すでに頂上近くまで分厚い霧に包まれ、影さえ定かじゃない。
この一瞬を敵が襲った。
猛烈な衝撃がFNCの銃身を叩きつけた。凄まじい力でライフルがもぎ取られ、吹っ飛んだ。
腹に激痛。別の奴が急上昇しざまシャツと肉を裂いたのだ。
波状攻撃だった。必死で数メートル先のFNCめがけて転がる。今度は腰へ激痛。一瞬、意識が遠のいた。
唐突に攻撃は途絶えた。
シュミットの身を気遣うより、おれは灼けるような痛みをこらえて跳ね起きざま、岩盤の方へ視線を飛ばした。翼手竜の去った原因はわかっていた。
石の扉は音もなく左右に開きつつあった。
おれはFNCを拾いあげた。
黒い入り口に霧が吸い込まれ、何かにぶつかって反転し渦巻いた。
FNCを肩づけし、フル・オート射撃に切り換える。
ずんぐりとした、身の丈二メートルほどの人影がふたつ現れた。妙にぎくしゃくした足取りでこちらへ進んでくる。手足が異様に太い。
引き金にかけた指に力が込もる。
サイラスの話の一説が頭の中で繰り返し鳴っていた。
眼も口も鼻もないのっぺらぼうな顔面、付け根から手首まで同じ太さの手足、無造作にくっつけた棒杭みたいな五本の指。
|泥人形《ゴーレム》だ。
一体が立ち止まり、器用に上半身を傾けてベロニカを抱き上げた。
もう片方はおれ目当てと見た。両腕を伸ばして掴みかかろうとする。
「行け! やっつけろ!」
おれはゾンビーに叫んだ。
こちらの操り人形も動き出す。
二人がかりでおれ専用の敵を襲った。十人力の豪腕をふるって泥人形の手をもぎ取ろうとする。ぶん! と空気がうなり、ゾンビーのひとりが頭骸を半分陥没させて地に伏した。だが、すぐ起き上がり、強靱な指を泥人形の両肩にめり込ませた。一度死んだ人間はなかなか殺せない。
ざくっと音を立ててゾンビーはバランスを崩した。木の皮さええぐり取る鋼線のような指の間から、黒褐色の粉末が溢れている。泥――人形の筋肉だ。
鈍い音がして、人形の右腕が折れた。もうひとりのゾンビーの仕業だ。握った腕を放さず人形の脳天に振り下ろす。泥片が飛び散り、ずんぐり頭部が半分欠けた。それでも残った腕で下手人の顔面を掴む。メリメリという音。ゾンビーの眼球が指の間から飛び出してきた。ガクッと膝を折る。脳をやられたらおしまいだ。
だが、泥人形にも最後が迫っていた。背後のゾンビーが山刀の猛打を送ったのだ。ざくざくと白い刃が黒い巨体に食い込み、破損部を砂塵に変えていく。胴体を半分大地に巻き散らしたところで、泥人形は崩れた。ゾンビーが抱え上げ地べたへ叩きつける。泥の堆積だけが残った。
ゾンビー対ゴーレムの勝敗を見届け、おれはもう一体の後を追って走り出した。ベロニカを抱いたまま、入り口の奥の闇に消えかけている。扉も閉じつつあった。
隙間が五〇センチくらいまで縮まったとき、おれは身体を横にして滑り込んだ。次の瞬間、重苦しい音が背後で鳴り、周囲は闇に閉ざされた。
おれは少しのあいだ眼を閉じ、闇に馴らしてから前進を開始した。完璧に近い分厚な暗黒の中でも、近くの物の形を判別するくらいはできる。物心つくころから親父に受けた特殊訓練の成果だ。遠目が効くのもこのおかげである。常人以上の鋭敏な感覚は、秀れたトレジャー・ハンターの必須条件だ。常人が到底得られぬ宝を手に入れるために。
かなり広い通路だった。
岩壁を真四角にくり抜いてある。触れてみたが床にも壁にも目立った凸凹はない。何を使ったかしらんが超高度技術というべきだろう。幻の王国は近いのだ。
泥人形の姿は奥の闇に呑まれていた。
シュミットのことも気になったが、この状況じゃ手の打ちようがない。おれはひたすら歩いた。武器はもう当てにならない。計算によるとFNCの弾丸はきっかり二○発しか残っていない。あとの武器は手足だけだ。
大体十分たったころ、前方に四角い明かりが見えた。赤いが、炎じゃなく陽光だ。ためらっても仕様がない。おれはFNCを腰だめにしたまま外へ出た。
霧はかかっていなかった。
やれやれ、五〇メートルほど前方にまた大密林がそびえている。
周囲でざあっと人影が動いた。
ま、こんなとこだろう。
おびただしいインディオたちが幾重にも輪を成しておれを取り囲んだ。先頭の奴は細長い管を口にくわえている。吹き矢だ。次の列は弓矢、三重めが鋭い槍。全員が戦闘姿勢をとっている。
まず麻酔薬を塗った吹き矢、それが駄目なら毒矢で、とどめは槍か。人間相手には理想的な|戦闘隊形《ファイティング・フォーメーション》だ。かなり高度な知識の産物に違いない。
だが、おれの眼を魅きつけたのはそんなもんじゃなかった。奴らの首や腕で夕暮れの光をまばゆいばかりに反射させてる品だ。シュミットやベロニカが見たら、こう叫んだことだろう。こんな原始的な武器と腰蓑しかつけてないような連中が、どうやって世界一硬い|炭素《カーボン》――ダイヤモンドに穴を開けて、首飾りを作ったんだ、と。
[#改ページ]
第六章 監視者
幸い殺されずに済んだ。
どうやら戦闘隊長らしい大男の号令で、おれは四方から三種の武器で狙われた格好のまま歩き出した。先頭にベロニカを抱きかかえた泥人形がいる。
振り返って耳を澄ませたが、そびえる大岩壁のどこからも銃声ひとつきこえてこない。人間相手には不敗を誇る「地獄の戦士」といえど、翼手竜の大群に宙吊りの状態を襲われては、まず万にひとつも生命はあるまい。非情なようだが、おれはきっぱりと、今後の状況計算からシュミットを抹消した。生命がけの戦いに、不確定要素は悲惨な結果を生むだけだ。
密林に入った。闇が落ちかかっている。
インディオたちは手に手に松明をかかげていた。長い影が地に墜ちてゆらめく。
遠くで恐竜の唸り声がしたが、襲ってはこなかった。小さな哺乳類や小型恐竜が梢の陰から不安げに頭をのぞかせてはすぐ消えていく。時折、頭上をトビトカゲみたいな格好のやつが枝を鳴らして飛びすぎた。
緊張はしているものの、インディオたちの足取りに不安はない。通い慣れた道なのだろう。
虜囚の身ながら、おれは胸の高鳴りを感じていた。この一件がクライマックスに達した証拠だ。どんな目が出ようと結末は間近い。
前方に、見上げるばかりの巨大な岩塊が見えてきた。思わず、幻の王国の入り口じゃないかと思ったほどだ。
すぐに違うことがわかった。
無数の蔦や蔓草が表面を這っている。岩塊のあるものはひび割れ、あるものは半ば土中にめり込んでいた。
廃墟だった。
おれたちはその間を抜けた。いつの頃か、何ものともしれぬ存在が構築し、やがて廃滅の時を迎えた石の都は、死の沈黙をもっておれたちを迎えた。
瓦礫と化した岩塊の奥に、何やら機械の一部らしいものを見かけても、おれは驚かなかった。二○世紀に人間が月へ行くのと、二億年前の世界に機械文明が存在していた事実との間に、どんな違いがあるだろう。これは内緒の話だが、ペルーのインカ帝国には、いつとも知れぬ太古より半重力装置の製法が伝わっていたのだ。
松明の炎に、おれたちの左右にそびえる岩塊は、巨大な生物の死骸を思わせて揺れた。
徒歩約三時間で密林を抜けると、おれは目的地に到着したことを知った。
闇の奥に無数の光点がゆらめいている。
松明か篝火だろう。
冴えた月光が眼前の大城塞に神秘的な景観を与えていた。
高さは優に二百メートル。銃眼らしい光点が何列となく遙かな闇の彼方に続いている。万里の長城くらいはあるかもしれない。まさに王国だ。
幅広い石の路が、城壁のやや窪んだ部分――扉だろう――へ直線をひいている。
ついに来た。
槍の穂先に背中を突かれて歩き出したとき、おれの脳裡からはすべての雑念が取り除かれ、もはや本能と化した言葉がファンファーレのごとく鳴り渡った。
宝こそ我が人生。
城壁の内部は、サイラスの話や偵察衛星の写真で見たより遙かに広大だった。といっても闇夜だが、おれの眼は庶民階級のものらしい石造りの家並みや、他を圧してそびえ立つあの[#「あの」に傍点]大神殿の威容を克明に頭脳へ収めていった。
これまでお目にかかれなかったものにも出会った。馬鹿でかい柵に囲まれた人工の湿地帯で、何百頭という|雷竜《プロントザウルス》がのんびり餌をあさったり、水浴びに興じている。現代の鯨以上に貴重な食料源に違いない。かたわらの大きな建物で、肉塊や内臓をスライスしてるインディオたちの姿が垣間見られた。
家々の間には石畳の道が整然と走り、京都やニューヨークのような碁盤目状の区画を形成している。要所要所に篝火が立てられ、交番みたいな石の箱の中に、三種の武器で武装した兵士が腰を下ろしているのを見たときは、思わず吹き出しちまった。
区画の内や外に、石と木で組み立てた投石器や槍射器が天を仰いでいるのは、翼竜用だろう。防空体制も万全なのだ。
おれが街中を通ると、家という家からインディオたちが顔を出し、頭のてっぺんから爪先までためつすがめつするのには参った。ここは印象を良くしておかねばと、子供にはにこやかに手を振り、若い娘にはウインクし、亭主と女房の肩を叩いてみせたが、糞ったれども、にこりともしない。ある餓鬼なんぞはアカンベしやがった。悪態は二億年前でも同じとみえる。
最もおれの眼を魅きつけたのは、街の交通機関だった。
なんと、プロトケラトプスの親子を利用しているのである。ギリシャ語で「角を持った顔の最初のもの」と名づけられたこの草食竜は、性格も温和らしく、全長一・八メートルほどの背にくくりつけられた木の台に二、三人の成人男女を乗せ、ノロノロと街路を闊歩していた。
しかし、あれじゃ歩いた方が速いだろうな。獲物を追いかける必要のある二脚歩行の肉食竜と異なり、四足の草食恐竜は時速四、五キロ以下のものが多かったとされているが、どうやらその通りだ。
やがて街区や人波も遠ざかり、異様に神々しい静けさが周囲を取り囲んだ。泥人形とインディオたちは黙々と先を進んでいく。
天を縫わんばかりの神殿の影が迫ってきた。
もうひとつ巨大な門をくぐり、前庭に入った。
でかい。
高さで新宿駅ビルの三倍、広さで十倍はあるだろう。直径二○メートルはある大円柱の列が天井の気狂いじみた重量を支えている。
石段の手前で列が止まった。
迎えが出ている。
あのふたりのインディオがまず眼についた。その後ろに武装インディオたちに周囲を取り囲まれた長衣の壮漢と同じ格好の若い娘。
神官とダナ――いや、そいつはおかしい。サイラスが会ってから三〇年は経過しているのに、二人そろって奴の話通りの年格好じゃないか。
おれは無遠慮な視線をふたりに浴びせ、すぐおかしなことに気づいた。
彼らの容貌だ。どうみてもインディオとはかけ離れている。かといって、アングロサクソンやその他の系統とも違う。瞳は平凡なブルーだし、骨格や顔形もどこといっておかしなところはないのだが、よく眼を凝らすと、東洋系にも西洋系にも見えるのだ。
おれはぎょっとした。
誰にも似てるってことは誰でもないってことだ。すると、こいつらは……。
神官が一歩前に進んだ。
静寂が墜ちた。篝火の燃える音さえ途絶えた。おれは身体の周囲に異形の気が満ちるのを感じた。凄まじい精神波がおれを取り囲んでいる。
「よく来た、ここまで」と神官は英語で言った。「――そう驚くことはない。三○年前、外界の盗人からダナが学んだ言葉だ。盗人の仲間には盗人のものがふさわしかろう」
「待ってくれ」とおれも英語で手を振った。
「そりゃ誤解だ。おれはサイラスとは何の関係もないよ」
「そうかな」神官は冷ややかな声で「どちらでもよい。この世界のもの[#「もの」に傍点]を狙う以上、我々にとっては同じことだ。さあ、あまり時間もない。君がもう一方の神の手首を持っていることは二名の使者からきいた。返していただこう」
おれは肩をすくめ、
「残念でした」と手を上げた。
神官がおれを指差し、お馴染みのインディオ・コンビがさっと近づくや、身体検査をおっぱじめた。
「よ、よせよ。くすぐったい」
と身をよじった途端、パッと離れて、神官に何事か伝える。
「どこへ隠した?」
鬼気がぐっと凝集する。おれはヨガの精神統一法を施して抵抗した。
「教えてもいいが、条件がある」と低い声で言う。
「何だね?」
「おまえたちが胸から下げている首飾りの石、あれを貰いたい。なんでも、神殿の裏にごっそりあるときいたが」
「やはり、奴[#「奴」に傍点]の仲間か――」
神官の眼がギラリと光った。まずい! ――おれは胸の中で舌打ちした。
「つまらんことを口走ったものだな。あの手さえ返してもらえれば、多少の条件は呑んでもよいと思っていたが――奴の仲間なら話は別だ。救われた恩を忘れ、この『護りの地』を汚し、あまつさえこの星の命運を左右する『護りの腕』を盗んだ愚かもの。見ろ!」
この星の命運がどうたらこうたらいう言葉の意味を問い直す余裕もなく、おれは神官が指差した神殿の一角へ眼を走らせ、棒立ちになった。
そこは階段の途中からせり出した、ちょうど演説台みたいな場所で、その上に、いつのまにか、インディオたちに槍を突きつけられたゆきと名雲秘書が立ちすくんでいたのだ。
そして、その真下――敷石の上にぽっかりと開いた穴の中からは、きき違えようのない肉食恐竜の唸り声が。
「どうだね。あのふたりには何の怨みもないが、こちらも交換条件をつけさせてもらおう」
神官は冷たく言った。
「穴の下にいるのは、ドイガル――君たちの言葉でいうティラノザウルスだ。二オーキ――四日前に餌をやったばかりだが、いつも腹をすかしている。さ、返事はどうだね?」
うむむと唸ったとき、久方ぶりにきく金切り声が闇をつん裂いた。
「だ、大ちゃん、そこにいるのは大ちゃんね!? わあ、来た来た。待ってたのよォ、早くこの台から降ろしてェ!」
「と言うわけだ。君が手首さえ返してくれれば無益な殺生はしたくない。君もあのお嬢さんもご老人も、永久にこの世界の住人となることで決着がつくのだが」
「うむむ」
「大ちゃあーん」
「わしからも言わせてもらおう」
気懸かりな声をかけたのは、背の低い方のインディオだった。おれはびっくりした。
「な、なんだ、お前は――英語が話せるのか?」
「三〇年間、外界をさまよっていたのだ。忘れたかね」
「だったら、なんでわざわざ手の指なんか使って話をした。意志疎通だってもっとスンナリいったんだぞ」
「我々はこの世界の住人だ。できれば、外界の言葉など使いたくなかった」
「えい、この偏屈ども。で、なんだっちゅうんじゃ?」
いきりたつおれを平然と眺め、インディオは心のこもった声で言った。
「わしの見た限り、おまえは悪い人間ではないと思う。だから勧めるのだ。あのふたりのためにも隠し立てはせず、手首はどこなのか素直に白状することだ。所詮もうここからは出られん。必要のない品だろう。この国も住めば都だぞ」
なに吐かしやがる。
おれはゆきと神官とインディオに視線を送りながらあたふたした。
でたらめを言ってもすぐばれるに決まっている。どんなに危険なジャングルの夜でも、手首のためならインディオたちは生命も捨てて踏破するだろう。こういう|生《き》のままの感情を保存してる連中には、小細工を施すよりありのままを語った方が道は開けるものだ。一瞬のうちにおれは方針を決めた。
素直にシュミットのことを話す。
神官はこわばった表情で、おれを連行したグループの親玉に何か言い、返事を受けると、またおれへ向き直った。泥人形が抱えたベロニカを指差し、
「彼はおまえとその女しか知らんと言っているが」
「言ったろ、シュミットはその泥人形が出てくる前に崖を登ってったんだ。プテラノドンに襲われてどうなったか、そっちで確かめてくれや」
おれはわざとやけっぱちに言いながら、さっきから押し黙ったままのダナに眼を向けた。その口元が穏やかな笑いを湛えていると見たのは、都合のよい解釈だろうか。
「どうなってるのよォ!?」とゆきが地団駄を踏んだ。「この情け知らず、人非人。あたしに手を出しちゃはねつけられたもんだから、その腹いせに意地悪して! ――覚えといで、恐竜なんかに食べられたら化けて出てやるから」
そっちの方がよっぽど怖いが、差し当たっては、神官の頭の中の方が問題だ。
彼は氷のような視線をおれの眼に浴びせていたが、やがて決心したように、おれを連れてきたインディオたちに右手を振った。
おれを残して全員が闇の中へ消えた。シュミット探しだろう。どんな答えがでるか。
「とりあえず生命拾いをしたわけだが、それも彼らが帰ってくるまでだ。連れていけ」
「待って」
澄んだ声が神官を振り向かせた。やっと真打ちの登場だ。ダナは神官と同じ色の、けれども温かい視線をおれに向けて言った。
「そのあいだ、彼を『語りの水』につけたいのだけれど、どうかしら?」
神官ばかりか二人のインディオまで、驚きの顔を見合わせた。なんだ、そりゃ。水がしゃベるのか?
「しかし――」と神官が異議を唱えかかるのに、
「大丈夫。私にはわかるの。姉とは違ってね――この|男《ひと》、ぎりぎりのところで信用できそう。私たちの世界の真の意義を知ってもらい、協力を仰いでみたら?」
「姉――!?」
おれの叫びに、娘は哀しげにうなずいた。
「そう。姉はあなたの仲間――サイラスを逃がした責任を問われ、自ら生命を絶ったわ。私は妹のゼナよ」
で、おれは、そのちんけな名前の水につかる羽目となった。
神殿の衛兵らしいインディオに左右を固められ、ゼナの案内で神殿に入る。ゆきたちはどこかへ連れていかれちまった。
気にはなったが、今はどうしようもない。ま、外の奴らとは違って[#「外の奴らとは違って」に傍点]話せばわかる連中らしいから、いきなりティラノザウルスの檻の中、ということにはなるまい。
しかし、どえらい建造物だった。
柱、床、天井――すべて石を切り出して造ったものなのは間違いないが、どれもぴかぴかに磨かれ、角なんかに触れると指が切れそうなくらい鋭い。まるで、たったいま、石切り場から運んできたばかりの新品だ。
三〇年まえ、サイラスが歩き回ったときと、寸分変わっていないのではなかろうか。
誰がいつ、こんな代物を白亜紀に建造したのか? 年代的にみて存在し得ないインディオたちがここにいる理由は? 何よりも、神官とゼナ――このふたりは何者なのか? そして、この『護りの国』の真の存在意義とは果たして何なのか?
ピンクだの灰色だの群青だの、ちっともすっきりしないクェスチョン・カラーが頭の中を駆け巡った。先を行くゼナに、あえて質問はしなかった。じきわかるという予感めいたものがあった。
いつの間におれたちは、篝火だけが無限に続くと思われる廊下を、地底へと進んでいた。
ふと、ゼナは巨大な鉄の扉の前で足を止めた。目的地じゃあない。通り過ぎようとして気を変えたのだ。
「水の物語をきく前にこれを見ておくといいわ。理解が深まるかもしれない」
悪戯っぽく笑って扉を押す。分厚い鉄の板はたやすく回転した。中へ入り、おれを手招く。
眼前の光景が、もうひとつのイメージとオーバー・ラップしておれの脳を灼いた。強烈な白い|既視症《デジャヴェ》。
果てしなく広がる地底の大工場。奥行きも知れぬ彼方に溶け込んでいる三角錐の列。そして、頭上遙かな高みにそびえる悪夢のような円柱とそれを動かす巨大な泥人形たち。飛び散る火花と電光。何処とも知れぬ空間から洩れる秘めたる機械の唸り。
急速に現実感が戻ってきた。白光が翳り、本来の色を帯びてゆく。
おれは頭を振った。
幻想と現実のギャップは強烈だった。
工場には死の闇と沈黙が墜ちていたのである。三角錐は稲妻の閃きを止め、大円柱の根元には、泥の|巨人《ゴーレム》たちが倒れ伏している。澱んだ空気は、この静寂な死が、かなり前からのものであることを示していた。
原因はすぐにわかった。エネルギーの枯渇だ。
あの手首――息絶えた人形たち。
虫喰いだらけのジグソー・パズルが小気味よく埋まっていった。
この工場のエネルギーは、あの泥人形たちの行為が供給していたのだ。だが、土でできた人形はやがて崩れる。補充が必要だ。それが、サイラスの目撃した人形の倉庫だった。だが、生命を与える手首が奪われたとき、厖大な彼らもただの泥の塊に堕したのだ。
久しぶりに脳細胞がフル操業を開始していた。
このエネルギーは何に使われていたのだろう?
照明ではない。王国の光源は油だ。テレビやラジオじゃもちろんあるまい。
ポン! と意外な単語が飛び込んできた。
NASA。
奴らは宇宙で何を知ったのか?
推測はここまでだった。おれは振り向いた。ゼナの奇妙に少女っぽい、透き通った笑顔が待っていた。この国でまともなのは、この娘くらいだ。
「さあ、答えを教えてくれよ」
おれの質問を予測していたように、娘はうなずいた。
おれたちは再び廊下を進んだ。今度の旅はすぐ終わった。
廊下の行き止まりにある幅広い階段を下りると、不意に人工の壁が消え失せ、グロテスクな天然の岩がおれたちを包囲した。背筋に冷たいものが走る。この世界へ来てから初めて感じる冷気だった。
おれを囲んでいた衛兵が数人、ゼナの前方と左右を固めた。足取りが鈍くなる。異様な緊張ぶりが伝わってきた。
「どうした? ここにも恐竜がいるのか?」
「大きいのはいないわ。ときどき小型のやつが紛れ込むの。ここだけがどこかで地上とつながっているらしい」
「だけど恐竜は冷血だろ。こんな寒いとこじゃ動きがとれまい」
難しいこときいたかなと思ったが、あっさり返事が返ってきた。
「大型はね。小さくてすばしっこい奴らの中には、混血のものもいるわ。そして、私たちにとっては、どちらも同じくらい危険なの」
「ふむ」
おれも五感を研ぎ澄ましたが、物騒な奴は出現せず、無事、底に到着した。
「な、なんだ、これが水か!?」
眼の前数メートルの位置から広がる岩の窪みを見て、おれはすくみ上がった。澄んだ地下水を連想してたわけじゃないが、こりゃひどい。赤と青とオレンジ色が、あるところでは混じり合い、あるところでは独立して模様づくりに励んでる泥。しかもぶつぶつと沸騰し、白い蒸気まで噴きあげてるじゃないか。なにが「語りの水」だ。「くっちゃべる粘液」がいいところだ。
「ここへ入るのか?」
「ええ。熱くはないでしょう?」
ゼナは静かにうなずいた。
「そういや、そうだ。――なんで突っ立ってる。おれが裸になるのを見たいのか?」
「馬鹿。服を着たままでいいのよ。濡れやしないわ」
人並みの悪罵をきいておれは胸をなでおろした。神秘的な巫女さんも、おれたちと同じ、人の子らしい。ただ、どんな人かが問題だ。
「で、一体こりゃ何だ?」
「入ってみればわかるわ」
「へいへい」
おれは覚悟を決め、|靴《ブーツ》を脱ごうとして、えいままよと立ち上がり、余裕たっぷりの態度でそっと[#「そっと」に傍点]片足を極彩色の泥につけた。
「わっ!?」
絶叫だけを宙に残して、おれはどぼりと水中に引きずり込まれていた。この泥め、生きてやがる。本能的に抵抗しようと手足を動かしたが、遅すぎた。水中に落ちた刹那、泥という泥が強靱な接着剤と化して全身の自由を奪い、耳と鼻と口、いや、服さえ通して、毛穴という毛穴から体内へ侵入してきたのだ!
意識は途切れなかった。眼の前の光景が変わっただけだと思う。両肺と気管も不気味な粘液で満たされたはずなのに、呼吸はスムーズだった。
おれは凄まじい火と水と光の奔流のさなかを漂っていた。
ほとばしる電光、荒れ狂う波頭、そのどす黒い水中から隆起し、陥没する大地、空気は水素とイオンに満たされた毒ガスに等しく、煮えたぎる海には微生物存在の兆候さえない。この狂気の世界が、やがて、銀河の片隅にあるそのちっぽけな太陽系で唯一、知的生命誕生の舞台になろうとは、誰が予測しえたろう。
そうだ、とおれは思った。これは地球の誕生する光景だ。おれはいま、ひとつの星の出産に立ち会っているのだ。
いや、違う! おれだけじゃない。
陸塊に激突しては砕け散る波頭の飛沫を浴び、風と雷鳴の怒号をききながら、地獄に浮いた大陸の、その崖の果てに、ふたつの影が見えた。
人のような、人ではないような影。眼を凝らしても輪郭さえ定かじゃない。ことによったら、単なる存在の気配にすぎなかったかもしれない。
――危険だ。
――危険すぎる。あらゆる存在にとって。
音や電波によるのではない「会話」を、おれは確かにきいた。
――だが、この生物の発展過程には、まだ未知の不確定要素が多すぎる。早急な結論はひとつの可能性を押しつぶすことになる。
――では、どうする?
――監視を置こう。この生物の発展段階における危険ベクトルが、我々の設定値に達した場合、速やかに処理できる監視役を。
――×××ドット以前に使った手段だ。美しいものを置こう。彼らの美的水準から判断しての話だが。
――よかろう。
光景は一転した。
そこが、絶対零度に近い暗黒と水素原子のみの世界だということはすぐにわかった。
宇宙だった。
おれの視野の真ん中で、何か巨大なものが形を整えつつあった。
空間からぼんやりと墨のようにその輪郭を滲ませ、背後の星々を消し去ってゆく球体。絶望と破壊の監視者。
そして、おれは知った。
こいつは、この正体は――。
次の刹那、おれは燦々と降り注ぐ陽光の下にいた。
横から巨大な黒い影が現れ、おれを踏みつぶして彼方の森へと急ぐ。アロザウルスだ! 獲物を見つけたらしく、地響きを立てて疾走していく。
突然、目に見えない波のようなものが巨体を真っぷたつに裂いた。瞬時に結晶化した傷口からは一滴の血も噴き出さず、肉食竜は大地を揺るがして倒れた。
森の奥から数個の人影が現れた。最初のもの[#「最初のもの」に傍点]とは明らかに違う。ずっとおれたちに近い。金だか銀だかよくわからない発光繊維の服を頭からすっぽりかぶり、何か機械みたいなものを手に頭上を指差している。深刻な雰囲気だった。
青い空には何も見えない。
彼らが何者かは次の光景でわかった。
巨大な角石が宙を飛んでいた。
草原の真ん中にだだっぴろい沼のようなものがあり、飛来した大石はその上空でスピードを落とすや、老人が入るみたいにゆっくりと、極彩色の粘液につかった。液は、いまおれが全身を浸しているのと同じものだった。
沼のそばで、さっきの人影のひとりが不思議な格好の球体をいじくり回すと、巨石は水滴をしたたらせつつ沼から上昇し、再び空中を飛行して地平の向こうに消えた。
急に夜のとばりが降りた。
沼のほとりに球形のテントみたいなものがいくつも並び、青白い月光をはねている。
おれはその内部をみた。
外見からは想像もつかない広大な空間に――球体の直径は五メートルくらいなのに、内部は百畳敷きの大広間くらいはあった――これまで眼にしたよりもっとずっと大きな、ずっと奇妙な形の機械が据えつけられ、色とりどりの光を点滅させている。
まわりに、あの連中が集まり、何やら議論を交わしていた。ひとりが機械を指差して何か言い、もうひとりが沈痛な物腰で首を振る。椅子らしいものに腰を下ろし、三角だか四角だかの結晶体をひねくり回していたやつが立ち上がって話しかける。
一同のヌラリヒョンみたいな顔に喜色が湧いた。
再び情景が変わった。
おびただしい人の群れが城壁の大門をくぐるところだった。インディオたちだ。全員、滝のような汗を流している。まるで極地帯から、だしぬけに白亜紀の熱波の中へ連れてこられでもしたように。
広大な王国を見つめる彼らの顔には、初めて未知なるものと遭遇する人々の、原始的な畏怖が色濃く漂っていた。
そうだったのか――。
おれはすべての事態を呑み込んだ。
だしぬけに眼の前が暗くなり、あの粘液の色がいっぱいに広がったと思うと、おれは全身の流失感と引き換えに水中から跳ね上がり、岩板の上に荒っぽく放り出されていた。
「くそ……いてて。……なんて荒っぽい水だ」
腰に手をあて、文句を言いながら起き上がりかけて、おれは眼を剥いた。
沼のほとりに数名の衛兵が倒れ、その上へ体長二メートルほどの恐竜が覆いかぶさっている。わわっと後ろへ跳んだら、どうも様子がおかしい。恐竜は身動きもしない。下の兵士や岩場は赤黒い血の海だった。恐竜の首筋に突き立った槍や矢が致命傷でないのはひと目でわかった。胸に拳大の射入孔が黒々と口を開けている。
死骸の向こうに、ゼナと生き残りの衛兵がふたり立っていた。ひとりは恐竜にやられたらしく、肩を押さえ、もうひとりの腕の中で呻いていた。
おれの眼は、彼らの前に立つ長身の影に吸いつけられた。
沼から出たら、すぐにも手ずから探しにいこうと思ってた男だ。
三人に向けた600ニトロ・エクスプレスの上で、白い歯がきらめいた。
「この状況で水浴びとは優雅なことだな、ミスター八頭」
奇妙な安堵感がおれを満たした。
「いやあ、いいところで」とにこやかに手を振る。「事情が変わった。銃を下ろせ」
「そうはいかん。こちらの事情も変わったのでね」
シュミットは穏やかな、しかし厳しい口調で言った。
左手を迷彩服の内側に入れ、あの手首を取り出す。衛兵とゼナがあっと叫んだ。
「あの岩壁をなんとかよじ登ったものの、私は翼手竜の嘴と爪で致命傷を負っていたのだ。頸動脈も裂かれ、血止めもできなかった。正直、死を覚悟したよ。そのとき浮かんだのが君の言葉だ、ミスター八頭。
――この手はおかしな芸当をするんだよ――
それ[#「それ」に傍点]を傷口にあてたのは、私の兵士としての勘だったかもしれん。そして、奇蹟が起こった。それこそまばたきする間に傷口はふさがり、いや、そればかりか、疲弊しきった身体まで体力を回復したのだよ。あの岩壁を降り、この王国の前へ出るまで、一時間とかからなかった」
淡々たる口調にも感嘆の響きがあった。
おれはもう一度沼へ入って眠りたくなった。えらい野郎にえらい秘密を嗅ぎつけられたものだ。
「どうやってここへ来た? 城門を抜けたのか?」
「さすがに、それは無理だった。しかし、あの森の途中に、大きな岩の裂け目があってな。耳を澄ますと機械の唸りらしい音がきこえた。それを思い出して森へ戻り、なんとか身を忍ばせると……」
「リーデンブロック海に出てきたってわけか。恐竜が暴れてるとこに。相変わらずカッコいい出方だな」
「そういうことだ」
「おれも一度でいいから、あんたの真似をしてみたいよ」
おれは、なんとか武器を取ろうと、倒れてる恐竜の方へにじり寄りながら訊いた。
「教えてくれ。事情が変わったって何だ?」
「私の任務はあの衛星写真の謎を探ることだった。――それ以上、動かないでもらおう。――この世界の存在を確認しただけでも九分通り果たせたわけだが、もうひとつ、それ以上の大発見をしてしまったのだ。この手首の謎を探り、しかるのち、我々の世界へ持ち帰れば、世界は想像もつかぬ恩恵を蒙ることになるだろう」
「もう蒙ってんだよ、実は」
おれは手を振って力説した。
「その手首は、地球のための安全装置なんだ――いや、正確には、安全装置を動かす泥人形に生命を与える道具なんだ。持って帰っちゃいかん」
シュミットはいぶかしげな顔でおれを見た。
「わかってる、わかってる。おれを気狂いだと思ってるな。いいとも、いいとも、気狂いで結構。な、嘘だと思ってこの沼ん中へ入ってくれ。一分でいい。それですべてがわかる。この王国の存在意義も、その手首の由来もだ」
「残念ながらそうはいかん。私はすぐにでももと[#「もと」に傍点]の世界へ戻らねばならん。ここへ来ることができた以上、戻ることも可能なはずだ。その気があれば一緒に来たまえ」
「なあ、頼むから――」
言いながら、無駄なことはわかっていた。こいつも所詮は軍人だ。突きつめれば、自分の国の都合と利益しか考えやしない。
そのとき、シュミットはいきなりおれに巨砲の砲先を向けた。
殺す気だ!
そう思った途端、おれは本能的に恐竜の死骸めがけてダイブしていた。
轟音に地底が揺れた。
恐竜の首に刺さった槍を掴んで地に伏したおれの眼に、衛兵のひとりがシュミットに跳びかかるのが映った。いいぞ、やっちまえ!
背後で異様な唸り声。
振り返って驚いた。明らかに肉食と覚しい別の小型恐竜が腹部を撃ち抜かれて喘いでいる。外の出入り口から遅れて入ってきたのだろう。シュミットはこいつを狙ったのだ。
いかん、殺すな。
おれは揉み合ってるふたりに駆け寄った。
シュミットの首を絞めあげ、腰のナイフを抜こうとしてる衛兵の後三枚に強烈なフックをぶち込む。ぶっ倒れたところで、ついでにシュミットの顎にも一発かます。指の骨がきしむほど頑丈な顎だったが、ガクッと膝をついた。間髪入れず顔面へ蹴り。シュミットは両手を交差させて受け止めた。一気に宙へ跳ね上げる。
バランスを崩して転倒する前に、おれは自分から地面を蹴った。ゼナの驚きの声が上下に流れる。とんぼを切って着地しざま腰を沈め、横合いから襲うシュミットの廻し蹴りを左手一本でブロックした。衝撃に骨がきしむ。凄まじい重さだった。
防がれた足はしかし地には着かず、ぐいと戻るや凄絶な横蹴りと変じておれの顔面を狙った。辛うじてブロックしたものの、油断したせいでバランスを崩し、数歩後退してしまう。虚を突く連続技だ。
打つ手がなかった。基本技から徹底的に仕込まれた実戦空手が身体を動かしている。一発くらえば肋骨の一、二本はへし折れる突きの猛打を浴びながら、おれは後退するしかなかった。
いきなり前蹴りがきた。おれはブロックしなかった。
胃液を撒き散らしながら、シュミットの顔面にストレートを叩き込む。鼻血が飛んだ。
シュミットは身を翻して、地面に転がったニトロ・エクスプレスを掴んだ。
風を切って飛来した槍が、手首の横の地面に突き刺さり、動きを封じた。
索敵したシュミットの顔に意外な表情が浮かんだ。
第二の槍を振りかざしているのはゼナだった。
おれは両手をあげ、余計な行動はとらないことに決めた。
階段を駆け降りる無数の足音をきいたのだ。
ごつい大男の戦士団はたちまちおれたちを取り囲んだ。
シュミットも両手をあげた。
衛兵隊長らしい、幾重にも首飾りを巻いた男が腰のナイフを抜き、シュミットの胸に突き立てようと振り上げた。
白い繊手がそっとその肩を押さえた。
ゼナは無言で戦士長のナイフを取り上げると、彼の革ケースに戻した。返す手でシュミットのシャツの内側から手首を取り出す。衛兵たちの間から低い歓声が洩れた。おれも胸をなでおろした。ついでにまたも吐き気に襲われ、腹を押さえながら海老のように上体を屈める。
「なぜ殺さぬのだ?」
シュミットの訊く声がした。ポルトガル語だ。
「お前はあの恐竜から私たちを救ってくれた」ゼナの返事もポルトガル語だった。この娘が操るのは英語だけではなかったのだ。「それに、私たちは無闇に生き物は殺さぬ。そのために[#「そのために」に傍点]ここにおるのだから」
それから、膝ついて呻いてるおれの方を見て、
「やっと、『護りの手』が戻った。私たちの喜びが、いまのお前には判ろうな」
「ああ」とおれはうなずいた。心の底から。
「間に合ってよかったぜ。タイム・リミットはいつなんだ?」
「明日の正午よ」
「礼を言うよ。向こう[#「向こう」に傍点]の世界の連中すべてに代わって。――あんた方全員に」
薄い唇がほころんだようだった。
石段を上がりながらゼナは衛兵に何か言い、おれたちは槍ぶすまに囲まれて、地下道に戻った。
またもあちこち引き回され、広い部屋に放り込まれると、お馴染さんが待っていた。
奥にある石づくりの寝台にかけていたゆきが、歓喜に顔面を紅潮させて駆け寄ってきた。
「おう、よしよし。怖かったろう」
おれは両手を広げた。
ゆきはその脇をすり抜け、背後のシュミットに抱きついた。
「やっぱり、来てくれたのね。インディオに食べられたんじゃないかって心配しちゃった」
首に巻きついた腕を邪慳に引き剥がしながらシュミットは言い放った。
「期待を裏切って悪いが、君を助けに来たわけではない。礼はミスター八頭に言うべきだ」
「ふんだ。あの男はね、助けに来て当然なのよ。なんてったって、こんな探検を組織した張本人なんだから。でも、ほんと、来てくださって嬉しいわ。ね、あっちの|寝床《ベッド》でお話ししましょ。あら、図々しい。もう陣取ってるわ」
おれはゆきのきこえよがしの悪口を平然と受け流し、石の上に材質不明のマットらしいものを敷き詰めた寝床に横たわった。
部屋の中にはあと三つ同じような寝台があり、机と椅子らしきものも置かれている。照明は石壁にはめこまれた青い鋼のランプだ。動物の脂肪か植物から採取したらしい油が鈍い音を立てて燃えている。煙と匂いは意外に少なかった。牢ではあるまい。正式な客間だ。錠が下りて、槍をもった番兵が立ってるところが違うだけだ。当然ながら他に出入り口はない。
心底迷惑がってるのも構わず、シュミットを追いかけ回してキャッキャッ言ってるゆきの声をききながら、いつ脱け出したもんかと首をひねっていると、
「ようこそ、お戻りで」六五歳の老人の声がした。
「んが」
「再会を祝しまして、ひとつこれを」
差し出されたものを受け取って、おれは眉をひそめた。
「なんだ、こりゃあ。爪切りじゃねえか」
「左様で。いまのご気分にはピタリではないかと」
おれは真剣な表情の名雲秘書を見つめ、「ありがとよ」と言った。
「どういたしまして」
せっかくのご好意だ。おれはベッドの上に起き上がり、壁の方を向いて足の爪を切り始めた。切りながら名雲の話をきく。何のトラブルもなく着いたらしい。
「ベロニカはどうした?」
「はて。様子がおかしいとかで、わたくしたちがここへ連れてこられる途中、別の部屋へ移されましたが」
「やっぱりな」おれはつぶやき、まだ、ゆきの手を首から引っぱがすのにおおわらわのシュミットに訊いた。
「あいつがおかしくなったのは、いつからだ?」
「そうだな。あの霧をくぐってからだろう。実は彼女だけ、足をくじいて入るのが遅れたのだ」
「すると、十分に霧を浴びてねえわけだな」
「そういうことも考えられる。――こら、いい加減にしないか」
「ふむ」おれは考えこんだ。
「で、八頭さま」と名雲秘書はせかすように言った。「あの手首の件はどうなりましたでしょう?」
「あきらめるんだな」とおれは冷たく言った。
「は?――で、その理由は?」
「私も聞きたい」
あたふたとシュミットがやってきた。まとわりつくゆきにほとほと閉口した顔だ。人間、誰しも弱点はあるもんだ。おれが笑いかけると、シュミットは苦笑した。おれは肋骨と胃の腑がねじれ、奴の顔も腫れ上がっているが、お互いさっぱりしたものだ。いかん、ゆきが参ってる男だ。同居人という立場上、もっと対抗意識を持つ必要がある。おれは口をへの字に結んだ。
「なにさ、勿体ぶって。早くしゃべっちゃいなさいよ」
シュミットの腕にすがりつきながらゆきが悪態をついた。
「遠い昔――ざっと四六億年まえのことだ」
おれは静かに、ポルトガル語より得意なドイツ語で話し始めた。名雲ならわかるはずだ。案の定、ゆきにも通訳してくれる。
「四六――地球創世の年でございますな」
と名雲がつぶやいた。
「そうだ。すべてはそこから始まるのさ。おれは地底の沼でその証拠を見た。あの沼は多分、神官とゼナ――あの巫女さ――たちの一族が伝えてきた時空間の記憶保存液だろう。他に無機物と短期間ながら人体のような有機物も保存する力があるのだが、その件はあとで話す――」
おれは口をつぐんだ。
「どうした?」
シュミットが尋ねる。
「なんでもない」とおれは答えた。そのくせ、いま感じたばかりの得体の知れぬ不安は、腹の中でぐんぐん硬く、黒々と膨れ上がってきた。
勘だ。シュミットにも、他のどんな秀れた戦士やトレジャー・ハンターにもないおれだけの勘だ。かつて生還しがたいあらゆる危難からおれを救い、名誉と栄光を欲しいままにさせてきた超自然的なそれが、またもや危機の到来を告げていた。
「なら続きを――」
言いかけてシュミットも黙った。
ゆきが声にならない悲鳴をあげてシュミットにすがりつき、名雲の口がぽっかりと開いた。
全員が見た。
部屋のほぼ中央、五メートル四方ほどの空間に浮き上がった武装兵士たちの姿を。
機密部隊じゃない。軍装からして明らかにアメリカ正規軍、それも特殊工作隊だ。シュミットと同じ迷彩服に身を固め、M16A2を抱えている。たくましい身体の上に乗ったごつい顔が緊張と殺意に歪んでいた。
「見て。戦車にヘリよ」
ゆきがくぐもった声で言った。
壁の向こう[#「壁の向こう」に傍点]に広がる美しい星空をサーチライトで消し去りながら、大型ヘリと覚しき影が、戦車らしいものを機体の下にぶら下げ、ゆっくりと高度を落としてくる。
「向こうの兵士は火炎放射器を持っている。一個大隊はいるぞ。戦争でも始める気か、ここは一体どこだ?」とシュミットがつぶやいた。
「ここ[#「ここ」に傍点]さ」とおれは言って名雲の方を向いた。
「さっき、ここへ来る途中、似たような幻影を何回か見たといったな。――これは幻でも何でもない。いま、この地点で起こってる事実なんだ。ただし向こう[#「向こう」に傍点]側で」
「どういうことよ?」
ゆきがあっけにとられたように訊いた。
突然、現れたときと同じように、何の前触れもなく幻影は消え失せた。
武器よりも何よりも、闇の中にばかでかい機械を据え、そこから延びたパラボラ・アンテナみたいなものを手に、医者のような手つきで空間をなで回している男たちの姿が、おれの胸に灼きついた。やばいぞ、こりゃ。
「なんだね。あれは? 事情を知っているなら説明してくれ」
シュミットが光る眼でおれを見据えた。
「いいだろう。四六億年まえ、この地球が産声を上げたとき、この大宇宙に祝福してくれるものはいなかった。そればかりかこの星は、その生誕のときから、やがてくる破滅と崩壊を運命づけられていた呪われた存在だったんだ。――」
疑惑と嘲笑と驚き――三つの視線が集中する中で、おれは話し続けた。
「そいつら[#「そいつら」に傍点]がどこから来てどこへいったのか、どんな生物だったのかはわからない。だが、そいつらは、確実に、陣痛の苦しみに喘ぎもがいている地球の、荒れ狂う海原を見下ろす隆起したばかりの黒い陸の端に立って、ある結論を下した。この星は、この星の未来は、全宇宙にとって悪なる存在だ、と。
『悪』の概念が、未来をさすのか、具体的におれたち人類を意味するのかはわからない。だが、多分、次にやつら[#「やつら」に傍点]が施した措置をみる限り、後者じゃないかと思う。
奴らは監視者を置いたんだ。この地球のすぐそば、眼と鼻の先に。それは、どうみたって恐ろしい存在じゃあなかった。だから、すべてのものが騙されてきたんだ。初めて海中に発生した原始生命体も、中生代の覇者・恐竜も、それから一億六千万年後に生まれる毛むくじゃらの人類の祖先たちも」
「監視者――それは?」
シュミットが低い声で訊いた。名雲秘書の喉仏が動いた。
「月だ」
おれはあっさりと言った。
誰がそれ[#「それ」に傍点]を死と破壊の監視者と思うだろう。
月。
直径三万キロのちっぽけな岩石の塊が、無窮の大宇宙のただ中に生を受けて以来、さらに小さく狭苦しいその表面で繰り返されるおびただしい生命の営みを、やさしく見守りつづけてきた月。
戦い疲れ、荒野の一角で死にゆく戦士を静かに看取った白いアフロディーテ。
ささやかな夕餉の席で明日の幸福を祈る人々の姿を静かに見下ろしていた月。
ざわめきと喧騒と埃まみれの昼を追い払い、とげとげしい心を水泡のように溶かしてくれた月。
それが、まさに死をよぶ女神だったとは。
あの沼の中で、おれは月の内部をのぞいた。その機構を説明してもはじまらないし、おれにもよくわからない。だが、終末の日のイメージだけは鮮明に脳髄を灼いた。
ある日、月の内部を調査していた科学者か探査装置が、千五百キロ下方――ほぼ月の中心部で、かちりというかすかな音を聞く。
それから一時間もたたないうちに、地球上のあらゆる天文台、あらゆる宇宙施設は上を下への大騒ぎになるだろう。
月が動いている。地球めがけて。
そして科学者たちは知るのだ。月が今こそ美のベールを脱ぎ捨て、本来の使命を果たし始めたことを。
地球の引力圏に達するまで何ヵ月かかるか、それはわからない。
すぐでないことだけは確かだ。
初めは首をかしげていた人々も、お月さまが毎日大きくなると喜んでいた子供たちも、やがて、その現象に潜む大いなる恐怖に気づくことだろう。
地球政府も黙ってはいまい。
最新式の核ミサイル、極秘裡に静止軌道上へ打ち上げられたミサイル基地とレーザー、荷電粒子ビーム砲台等が、その全力を挙げて、誰もが考えつかなかった最も正当な理由に基づく任務を果たそうとするだろう。
だが、直径三五○○キロの星[#「星」に傍点]に対して、一万メガトンのミサイルが何の役に立つ? 一億度の針先が表面を沸騰させれば行進は止まるのか?
すべての手段が絶望を証明するものでしかないと知ったとき、少なくとも一部の科学者たちは、過去に幾度となく繰り返されてきた問答と疑問を思い出し、もう一年早くその調査と解決に着手していればと、猛烈な自責の念にさいなまれることだろう。
月が自然発生的な、いわゆる「星」でないことは、かなり前から議論されていた天文学上の大命題であった。
いかなる生命も存在し得ぬはずの真空の中で、時折起こる発光現象は何を意味するのか。初めて月面へ着陸したジョン・ヤングは、なぜ一メートルもジャンプすることができなかったのか。一九六六年にオービター2号が撮影した宇宙ピラミッドの正体は。真空中でなら最低深さ三八キロ〜四八キロもの|隕石孔《クレーター》をうがつ隕石が、月面に限っては一・六〜三・二キロメートルの効果しかあげていないのは、月が強靱な金属外殻をもっているからではないのか。
月とは、実は人間以外の存在によってつくられた人工天体ではなかったのか。
すべては遅すぎる。
大質量の接近に伴い襲ってくる暴風や大津波、大地震は、月がその任務を果たす前にほとんどすべての陸上生物を絶滅させる。地軸は歪み、大地は裂け、地獄の使者のようにマグマが噴出しては、あらゆるものが死に絶えた地上を炎の舌で舐め取ってゆくのだ。
わずかに地下へ待避し得た人々の運命も死を免れることはできない。重力場の変動は、人々の血流や体液の運行にも影響を及ぼし、発狂者、殺人者が続出して周囲は惨劇の巷と化す。満月の夜の狼男の殺人が現実となるのだ。
そして、審判の日がやってくる。
黙示録でさえ予言し得なかった壮大華麗な破滅のとき。
ロシュの限界も、超人工天体には通用しない。月は自らの手で、大いなる兄の生命を奪うのだ。
先に砕け散るのは地球だ。
大陸に、大海原に、無数の黒い亀裂が走り、次の瞬間、血のようなマグマがどっと絶対零度の真空中に解き放たれる。八つ裂きにされた巨人の血潮のように。
それを見届けて、月は任務の最終段階を実行に移す。
その表面からほとばしる白熱の光。音もなく、怒りも哀しみも知らずに大宇宙を染める白光はみるみる地球の残骸を包み込む。生命存在の最後の可能性まで奪う完膚なき|大殺戮《ジェノサイド》――光が暗黒の海原に呑み込まれたとき、かつて地球と呼ばれた緑の星は、その原子の最後の一個まで失い、宇宙の歴史から抹消されている。
「月のもつ意味はわかった」シュミットは思ったよりずっと静かな声で言った。「だが、そいつら[#「そいつら」に傍点]は、いつ地球を滅ぼすつもりだったんだ。君の話が確かなら、監視者を置くような手間をかける必要はないと思うが」
「その通り」とおれはうなずいた。ゆきはぽかんと口を開けている。ざまあみろ。こん畜生め。
「だが、未来ってやつが、本来予測可能なものかどうか。――少なくとも、そいつらは完全な予測を達成できなかった。で、地球全体が、彼らの考える邪悪な存在と化した際、月がその任務を開始するよう、特殊な設定値を設けたんだ。それがどんなものか、おれたちには永久にわかるまい。救世主にもな」
「救世主ですと?」
名雲が気持ちだけ眉をひそめた。
「世の中うまくしたもんでな。ヒトラーがのしてくりゃ、チャーチルやルーズベルトが登場するんだ。おれたちの救世主は約二億一千万年前、ジュラ紀の初めに降臨したもうた」
ゆきが、阿呆か、という表情をつくった。おれは構わず続けた。
「最初の奴らとは別のエイリアン・グループだった。星間旅行中、宇宙船が故障を起こし、やむなくこの星へ不時着したわけだ。宇宙船は修理不可能。で、彼らは仕方なく、この地球で生き抜く決意を固めた。幸い、原始的ながらひとつの文明を築くだけの科学装置は健在だったんだ。
どうやら彼らは、最初から月の正体に気づいていたようだ。まず着手した仕事が、月への制御電波を送る装置を開発することだったんだからな。そうとも、この大文明も、あの塔も泥人形も、すべてはそのために存在しているんだ。
この星に永住するつもりの、そして、自らの遺産を子孫に語り継いでいこうとする彼らにとっては、地球絶滅を図る小道具など許しがたい存在だった。しかし、現在の彼らの力では、月そのものを抹消することはできない。小型宇宙艇で月へいくのがせいぜいだ。で、彼らは月を徹底的に調べ上げ、その作動装置を常にOFF状態に保つ特殊電波発生装置を完成したわけだ。あの泥人形は、その電波を発生させるダイナモの運転手なのだよ」
「じゃあ、あの手は何なのさ!?」
ゆきがとんがり声を張りあげた。
「初代の――この文明を作り上げたクルルというエイリアンが残した、泥人形に生命を与えるパワー・ユニットさ。手そのものじゃない。昔は別の使い方をしていたのが、今じゃ手首として縫いつけて使用するしかなくなってしまったんだ」
「ふーん」
「しかし、白亜紀の世界が現実とオーヴァー・ラップするのはどういう理由だね?」
シュミットが訊いた。当然の疑問だ。
「ここを白亜紀の全世界と考えるのが間違いなんだ。正しくは世界の一部さ」
おれは、あの空間というものの大きさをまるっきり無視したテントの中の摩訶不思議な装置と、それをいじくっていた男たちの沈痛な表情を思い浮かべた。
「彼らはまだ実験段階ながら時間を超える技術を持っていた。タイム・マシンと言ってもいい。月の制御と併行して、彼らが実現させようと頑張ってたのはそれなんだ。場所は動かなくても、もっと科学の進んだ時代へいけば、宇宙船を修理する技術が手に入るかもしれない。最初の一団から何世代かのちのグループがようやく組み立てに成功し、未来へ旅立った。
ところが実験はものの見事に失敗した。彼らの文明だけじゃなく、この王国を中心に半径千キロほどの、白亜紀の土地の一部まで連れてきちまったのさ。おまけに到着したのは、彼らが意図した時代じゃなくて、ようやく南米へインディオが渡ってくるようになった氷河時代――で、彼らはすっぱりと帰郷をあきらめ、未来永劫、月を見張るもの――監視者の監視者として生きることを決めたのさ。立派だと思わんか。しかも、だ。白亜紀の世界を未来に連れてきたことによって生じる大混乱を恐れた彼らは、王国の維持に必要なだけのインディオを集め、自らを含めてその一角だけ別の空間に封じ込めた。
こうして一万年もの間、この世界は、おれたちの世界と同時に存在しながら、互いに接触することなく平和裡に過ごしてきた。城塞は例の『語る水』――保存液につけてあるから朽ちる心配はない。ある男が来て、例の手首を持ち出すまでは、な」
おれは名雲秘書の方をチラリと見たが、先生、どこ吹く風だった。大したもんだ。
「その手首がないと、月への制御電波が送れなくなるわけだな」
シュミットがどことなく吹っ切れたような声で言った。ようやく事態が呑み込めたらしい。正確には、送電装置を動かす労働者に生命を与えられなくなるのだが、細かい部分はよかろう。
「しかし、異なる空間の壁を突き破って、こちら側の月に電波を送る装置とはな――NASAが機密部隊の出動を要請するはずだ」
シュミットのつぶやきにおれもうなずいた。地球上の存在しない一点から月へ送られる謎の電波。ひょっとしたら、ソ連やフランスの宇宙局も勘づいていたかもしれない。
おれはまた、さっきの幻影を思い出した。あれ[#「あれ」に傍点]が出るのは、この世界とおれたちの属してる世界との境界が曖昧になっている証拠だ。あの発電装置は、こちら側[#「こちら側」に傍点]を今の位置に[#「今の位置に」に傍点]とどめおくためのエネルギーも供給していたのだ。
「信じ難い話だが、これまで見て来たものからすれば、君には感謝しなくてはならんな、ミスター八頭。よく地下で私を止めてくれた」
「なんのなんの。電波の供給が停まってから大分たつ。月は明日にも動き出すはずだった」
「ですが、八頭さま」と名雲が口をはさんだ。
「わたくしどもはこれからどうなりますので? やはりその、手首はもって帰れません――でしょうねえ」
おれは驚いた。今の話をきいて、まだこんなこと吐かしてやがる。
「悪いが、おれはおまえの主人の名声のために、世界を破滅させるつもりはねえ。それから、ここから脱け出る手段はちゃあんと考えてある。安心しろ」
ゆきが手を叩き、わあ、さすが大ちゃんと歓声をあげた。この|蝙蝠《こうもり》娘、あとでみてやがれ。
と思ったとき、異様な衝撃が部屋中を揺さぶった。おれやシュミットまでバランスを崩して床に伏す。つづいて全身の皮膚が四方に引かれる感覚。
「やだあ、気持ちが悪い!」とゆきが頬を押さえた。
廊下で足音が入り乱れた。
ただならぬ気配が満ちていく。
「何事だ?」
シュミットがつぶやき、石のドアに向かった。耳をあてる。
「よくわからんが、悲鳴のようなものがきこえる」
「ベロニカさまで――?」
名雲の声におれは首を振った。シュミットも、
「違う、数が多すぎる。おかしいぞ、異変が起こっている」
「外の見張りはまだいるか?」
おれはぼんのくぼのあたりをなでながら訊いた。返事は否だった。
「じゃ、脱出だ。いま、この王国には未曾有の危機が迫ってる。このまま放っといたら、おれたちも巻き添えだ」
「そうか、さっきの幻か」シュミットも重々しくうなずいた。「奴ら、こちら側へ入ってきたのだな。――いかん、止めなくては。NASAが月面の調査に乗り出したのは、公式なアポロの月着陸以前――二○年以上も前だ。月の正体も知っていたかもしれん。となれば、奴ら、この王国の人間を皆殺しにしても、施設の接収を図るぞ! これほど大きな、反対陣営への切り札はない」
「そういうこった。さすが軍人、仲間の手口はよくわかるな」
言いながら、おれは指先にかすかな冷点を感じた。あった。
「何してんのよ?」
ゆきがいぶかしげな眼を向けた。
「脱出の準備さ。――シュミット、おれから取ったベロニカの指輪――起爆スイッチは持ってるな?」
「ああ。――しかし」
「いま、爆弾をほじくり出す。いいといったらスイッチを押せ」
「なんですって!?」
「八頭さま!?」
驚愕の叫びをよそに、おれはその場に突っ立ったまま、人差し指と親指の二本をぼんのくぼに押し当て、指先に精神を集中した。ぐいと肉に盛り込ませる。
「やだ! 指を刺してる!」
ゆきの叫びをシュミットが制した。
「ヨガの心霊手術だ。一切の外科器具を使わず、素手で体内の患部を治療し、ほとんど血も出ない」
その通りだ。だてにヨガ習ってんじゃねえ。東洋の神秘を使えるのはベロニカひとりにあらず、だ。これまで使わなかったのは、しくじった場合、指と他組織の原子が融合し、原子爆発を起こす恐れがあるからだ。この神殿ひとつくらい、丸ごと吹っ飛んでしまう。
おれは必死だった。全身汗まみれで、肉と神経の間をえぐっていく。
指先に固いものが当たった。
おれは呼吸を止め、筋肉や腱に傷をつけないよう、微妙に指先を動かしてその先端をはさみ込むや、一気に抜き取った。
長さ二センチほどの金色の針だった。
「大ちゃん、大丈夫!?」
ゆきが駆け寄って首筋を眺め、眼を丸くした。傷痕ひとつ残ってはいまい。おれも痛みはゼロだった。
石のドアに近寄り、小さな鍵穴に針を差し込む。
「用意はいいな。大した威力はなかろうが、念のため離れてろ。外へ出たらよそ見しないでおれについてこい。真っすぐ出口まで送り届けてやる」
数秒後、石のドアは轟音とともに真っぷたつにへし折れ、床に転がっていた。
「大した威力ではないな」
茫然と突っ立ってるおれの脇をシュミットの声が通り過ぎた。
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第七章 超能力者(エスパー)を撃て
人っ子ひとりいない廊下へ出た途端、もう一度震動がやってきた。今度は音を伴っていた。炸裂音と崩壊音。敵は王国の中枢部へ侵入したらしい。
おれは廊下を駆け抜けた。複雑な回廊をいくつも曲がり、階段をのぼる。
「正確だ……」シュミットの呻くような声に、おれは内心にんまりした。
「どうして、あの複雑な通路を覚えていたのだね?」
「企業秘密さ」おれは勿体をつけた。
どんな迷路だろうと、一度身体に記憶した道は、おれにとって吹きっさらしの一本道と同じことだ。渡り鳥は季節がくるたびに、何千キロもの大空を渡り、迷わず帰省する。あれと等しい特殊メカニズムが体内に備わっているのだ。
勇者テシアスが伝説の魔獣ミノタウロスを倒したクノッソス宮殿の地下迷路さえ、おれには自分の家みたいなものだった。迷路に迷うくらいなら、もう五、六〇回は死んでるだろう。
あの動力室の前に出た。いきなり銃声がきこえた。
扉は開いている。
シュミットたちに待っていろと命じ、返事もきかず飛び込んだ。
厄病神の手にした銃口がおれの方を向いた。ベロニカだ。いつ脱け出しやがった。おまけにP7まで。
その前の床に、神官が倒れ伏している。かたわらには銀の小箱と二本の手首をもったゼナ。これから泥巨人の部屋へいく途中を襲われたのだろう。
「いいところへ……来たわ……ね」
くぐもった声が憎悪を吹きかけた。
だが、おれはその言葉より、殺意に燃えたベロニカの姿に眼を奪われていた。別に裸だったわけじゃない。
なんという変わり果てた様か。
あの南米の太陽の下で咲き狂う大輪の花のような美女が、人間の骨格を無理矢理ひしゃげたような、奇々怪々な姿形の異生物と化していた。首は床と平行に突き出し、片方の肩は異様に盛り上がり、もう片方は手が床に触れんばかりに落ちているではないか。あの豊かなヒップが極端に後方へ飛び出し、体重を支えきれずわなわなと震えている歪んだ両脚の上で頼りなげに揺れているのを見たとき、おれは思わず涙が盛り上がってくるのを感じた。こう見えても美しいものを惜しむ気は人一倍強いのだ。
「よせ、ベロニカ」とおれは自分でも驚くほどやさしく言った。「おまえは病気なんだ。一緒に帰ろう。おれのマンションで治してやる」
「うるさい」
と、もと[#「もと」に傍点]女兵士は言った。
「あたしはやっとここまで辿り着いたんだ。……思った通り……仲間がきた。この女を差し出せば、投降しなくても済む……一生仲間に追われることも……ない。……おまえは、ここで死ぬがいい……」
「よせ!」
人間以外のものになりかかっていても、ベロニカの射撃は正確だった。九ミリ弾頭の強烈なキックを心臓の真上にうけ、おれはきりきり舞いして床にぶっ倒れた。
だが、それがベロニカの最後の行為だった。奇形化した骨格は自動拳銃のガス反動に耐えられなかったものか、なんとも奇怪な形で後方へのけぞると、一瞬立ち直り、次の刹那、首も手も胴体もぐしゃりと床に崩折れていたのである。霧に巻かれ損ねた肉体は、この世界に適応できなかったのだ。おれの眼の前にあるのは、服をまといつかせた腐肉の堆積にすぎなかった。
おれはすぐ床から起き上がった。
背後で足音。シュミットたちが駆け寄ってくる。
「どうした、八頭――撃たれたのか!」
「服に穴が開いただけさ」とおれは、胸ポケットの焼け焦げた弾痕へ人差し指を突っ込んでみせた。固いものがあたった。
無邪気な笑顔がこう言っていた。
お守りだよ。
ペレのくれたとるに足らぬ石板が、九ミリ弾を見事に食い止めてくれたことを、おれは口にしなかった。
神官のかたわらに膝をついていたゼナが立ち上がった。
憂いに沈んだ瞳でおれを見つめる。
「彼はどうした?」
「死んだわ。これで、残るは私ひとり」
「あの保存液につけたらどうだい?」
「無駄よ。生命あるものなら、三倍近く生存タイムを引き延ばせるけど、死人には役に立たたないわ。生命反応のあるうちに入れれば一、二時間はもつでしょうけど、彼は即死だった」
「機械はどうなる? 泥人形には誰が生命を吹き込むんだ?」
我ながら情けない声に、不思議な美貌がうすく笑った。
「安心なさい。私がいるわ――もう、私しかいないけど。あなたたちはお逃げなさい。通路はつくってあげる。サイラスの逃げた道よ」
「そりゃ助かる!」とおれは喜んだ。「ものはついでだが、ダイヤはどこにある? ほら、ピカピカ光る飾りもんだ、えーと……」
「このくらいの透き通った石よ!」
とゆきが助け舟を出す。さすが太宰先蔵の孫娘。プロの素質十分だ。
「おあきらめなさい」とゼナは首を振った。
「サイラスの見つけた鉱脈は大したものではなかったの。みな、人民の装身具に変わってしまったわ。泥棒か追い剥ぎをするなら別だけれど」
巫女のくせに、えらい俗語知ってやがる。あとは、落っこちてるの拾うしかねえか。
「この騒ぎは何だね?」
シュミットが静かに訊いた。
「外界の軍隊が侵入してきたのです。エネルギーが枯渇したため、次元シールドが脆くなったところをつかれました。でも、心配はいりません。人形たちが追い払ってくれるでしょう」
あ、丁寧語だ。そういえば、ゼナの頬がほんのり赤らんでる。こいつら、怪しいのだ。ゆきも気づいてか、ゼナの方をにらみつけている。
「じゃあ、道を教えてくれ。おれたちは失敬する」
「この廊下を真っすぐ行って突き当たりのドアを開ければ森に出ます。そこを西へ向かって進みなさい。太陽で方角はわかります。十分も歩けば“出口”にぶつかるようにしておきますわ」
「そりゃどうも。で、その、食料かなんかないかな」
ゼナは笑いながらうなずき、戦士のひとりに何か言った。
じき、大きな布袋が運ばれてきた。
ねえ、他になんか宝ものないのと訊くゆきの手を引いて、別れの挨拶もそこそこにおれは出口に向かった。シュミットもついてくる。
扉のところで振り返ると、ゼナ――たったひとりの地球の守り神――エイリアンの最後の生き残りは、白い長衣の裾を翻して闇の奥に没していくところだった。
「行くぞ、脱出だ!」
なおも首のあたりにまとわりつくものを振り切って、おれは廊下をまっしぐらに走った。背の荷物が重い。
なんとまあ、短い、実りなき滞在だったことか。
走りに走り、三〇分ほどで問題のドアに着いた。押すと開いた。緑のジャングルが続いている。夜明けの光が木洩れ日となって細い線を引いていた。
「早く――」
ゆきの尻を押そうとして、おれはシュミットの方を見た。
廊下の奥に眼をやっている。幅広い背が妙に薄く、寂しげに見えた。
闇に消えた少女。
「断っとくが、おれたちは逃げるぜ」
おれは冷淡に言った。
「次元の壁をぶち抜いてやってくる奴らだ。月のことも、この世界の存在意義もよく知ってるだろう。誰があの発電機を支配しようと、大勢に影響はねえさ。生命あっての物種だ」
「勿論だ」シュミットは力強くうなずいた。
「君たちは民間人だ、留まる義務はない。しかし、あの娘やこの国のインディオたちも立場は同じなのだ」
たくましい長身の影は音もなくおれたちから離れた。
「幸運を祈る。おかしな形だが君と知り合うことができて光栄だった」
隻眼が初めてみる柔和な光を帯びて、ゆきと名雲に向いた。
「ミスゆきに、ミスター名雲。あなた方の名前は忘れない」
ゆきが何か言いかけたとき、迷彩色の姿はすでに廊下を走り出していた。
彼は軍人だったのだ。
「何をぐずぐずしてる、行くぞ!」
おれは半ば強引にゆきと名雲の腰を押した。
ソテツやシダの繁みをかきわけて行くと、きっかり十分ほどで白い霧の壁が眼に入った。
「やっと出口だ。成果ゼロは業腹だが、やむを得まい。生命があっただけめっけものだ」
おれは元気よく言った。
「左様で」
名雲も元気よく同意した。
「そうね!」
とゆきも明るい声を張り上げた。
誰も動かない。
おれはまた、ふたりを霧の方へ押しやった。
「おまえら先に行け。すぐ戻る。やっぱりダイヤのひとつぐらい持って帰らにゃ面子が立たねえ」
「何言ってるのよ、馬鹿!」
いきなりゆきがおれの腕にすがりついた。
「行ってどうなるの。あのシュミットの馬鹿の二の舞いじゃないの!? へんな|侠気《おとこぎ》出して生命を粗末にしないでちょうだい」
おれはゆきを見つめた。睨み返す黒い大きな瞳に、みるみる光るものが湧き上がってきた。
「お祖父ちゃん死んじゃった。今はシュミットさん。今度は大ちゃんまでいなくなっちゃったら、あたし、どうすればいいのよお」
それもそうだ。おれひとりが戻ったからといって、いまさらどうなるもんでもない。
おれはそっとゆきのいましめから腕を抜いた。
「頼んだぜ、名雲さん」
老秘書はゆきの肩を掴んで抱き寄せた。
「承知いたしました。お気兼ねなくどうぞ。ゆきさまはきっとわたくしめが、無事日本までお届けいたします。お行きなさいませ。私も昔、今のあなたさまと同じことがしたいと思ったときがございました」
「馬鹿馬鹿、大の馬鹿、シュミットの馬鹿。男の馬鹿。軍隊相手にどうやって戦おうっていうのよ、無理に決まってるじゃないかあ」
「ゆきさま」と名雲秘書は、やんちゃ娘をたしなめる慈父のような声で言った。
「生命懸けで何かをやろうとしている方に、無理だなどと言ってはいけません。失敗してから、不可能だった[#「だった」に傍点]とおっしゃい」
さすが年の功、いいこと言うぜ。ちょっと不吉だがよ。
おれは駆け出した。
ゆきの金切り声が追ってきた。
神殿の入り口から一足跳びに動力室へ。
巨大な人形たちが機械を動かしていた。飛び散る火花が眼を灼く。これで月の方は大丈夫だ。
おれはひたすら走って、地上へ出た。
いきなり右手で砲弾が炸裂した。
頭を抱えて伏せた腕や背に神殿の破片がバラバラと降りかかる。いてて。
おれは立ち上がり、前庭へと下る階段の上から状況を見回した。
米軍は市街の中心部に出現したらしかった。ガスタービン搭載の最新鋭戦車M1エイブラムスが、石垣を踏みつぶし、槍や弓で必死に応戦する戦士たちを重機関砲の連射で薙ぎ倒しつつ神殿へと進んでくる。数が少ないのは、それほど巨大な抜け穴をうがつことができなかったのだろう。
戦車兵にとっては演習よりも手軽な戦闘だった。兵器らしい兵器といえば、大型の槍か石投げ器から飛来する丸石ぐらいのものである。口笛まじりに応射すれば、たちまち数十名の敵がちぎれて抵抗はやむのだ。
歩兵たちも同様だった。
通常の市街戦なら戦車の陰で震えている輩が、堂々と戦車の前を歩いていた。動くものを見ればM16を浴びせかける。女子供が鮮血を噴き上げ、プロトケラトプスの悲鳴が王国のあちこちで|谺《こだま》した。
何の呼びかけもなかった。
これは殺戮のための軍団だった。
そのとき、神殿の端から、巨大なものが現れた。全長十メートルはありそうな泥人形である。一体、また一体……。
次々に大地を揺るがせながら、城壁をまたぎ、押しつぶしつつ戦車に向かっていく。
戦車砲が唸り、重機関銃が吠えた。
先頭の人形の片腕が半分ほど吹き飛ぶ。しかし、胸にも巨大な風穴をあけられながら、その人形は残った腕を戦車砲塔めがけて振り下ろした。一撃で砲塔はつぶれ、乗員は圧死した。衝撃でキャタピラがはじけ飛ぶ。
人形たちの攻撃にも情け容赦はなかった。突然の形勢逆転に脅え、M16を撃ちまくりながら退去せんとする兵士たちの真上から直径三メートルはありそうな大足を踏み下ろし、十数名をまとめて血まみれのゼリーに変えた。
あちらでもこちらでも、立ち昇る煙は戦車のそれと変わりつつあった。
「なんだ、これなら――」
来る必要はなかったと悔やんだところへ、奇怪な現象が勃発した。
最前列で戦っていた泥人形たちが突如、空中へ舞い上がったのである。
どっと驚きの声が上がる。
次の瞬間、それらは凄まじい白光に包まれ跡形もなく消滅していた。文字通り、灰も残らなかった。何やら常識はずれのエネルギーが、構成原子を素粒子レベルにまで分解してしまったのである。
眼を見張る間もなく、後列の泥人形たちも先陣の後を追った。
白光は街をも舐めた。
凄絶極まりないエネルギーの奔流が、石づくりの街を、文明を、灼熱の虚無へと変じてゆく。
一体、どいつがこんな真似を。眼を細めたが、むろん何も見えるはずはない。
避難民が神殿前庭へなだれ込んできた。大半は血にまみれていた。四肢をもがれ、呻いているものも多い。広大な中庭もたちまち人々で埋まった。
すでに戦闘の決着はついていた。
おれは身を翻して地下へ急いだ。
動力室の隣、泥人形の倉庫へ飛び込む。
インディオの戦士たちに囲まれてゼナとシュミットが立っていた。伝令らしい男から報告をきいている。シュミットは右手に愛銃ニトロ・エクスプレスを握っている。すでに戦闘に出たらしく、左肩に包帯がまかれ血が滲んでいた。腰のベルトにブローニングとおれのSIGがはさんであった。
どの顔にも暗い翳が濃い。
戦士のひとりがおれを見つけて何か叫んだ。一斉にこちらを向く。
「ミスター八頭、何しに来た!?」
シュミットが訊いた。
「ダイヤの|破片《かけら》でも落ちてねえかと思ってな」
向けられた槍や弓矢に目もくれず、おれは平然とゼナに近づいた。
両手を掴んで無遠慮に眺める。
「あのインディオたちはどうした?」
「勇敢に戦って亡くなったわ」
ゼナの声は重かった。
「なるべく痛くないように、おれの手首を落とせるか?」
とおれは訊いた。
シュミットが驚きの表情をつくった。
「切り落とした奴は、あの保存液につけといてくれ。あんた方の技術を使や、軽く復元可能だろう。仕事が終わったら付け替えてくれよ」
「仕事とは何です?」
ゼナが尋ねた。
「気狂いどもを片づけるこった。その手首をつけてな。他に何がある?」
「でも、この手首は兵器として使用したことなど……」
「やってみなくちゃわからない」おれはずばりと言った。「ただのゴロツキを天才ピアニストに変えることのできる腕だ。おれを戦士にするくらい朝飯前だろ。それとも他に手[#「手」に傍点]があるのかい? おい、シュミット、そのくらいの傷でオタオタしてんな。おまえも半分手伝え」
「……」
訳がわからず突っ立っているシュミットに、おれはサイラスのことを話してやった。
「てなわけだ。――来るな」
「望むところだ」
返事には闘志があふれていた。こいつも戦いが好きなのだ。
「ですが……」
ゼナはなおためらった。おれは冷厳と言い放った。
「外にいるのは、誰彼かまわず殺すためにやってきた化け物だ。おめおめやられていいわけがない。そんな奴らが、この装置の秘密を手に入れて、天下万民のために使うと思うかね。小汚い政治の裏取引に利用するのがオチさ。そういう奴らとは戦うに限る。二度とここへは来たくないと思わせるくらい痛い目に遭わせるんだ。神さまもわかってくれるさ、――な」
「はい」
「じゃ、おれは右手だ。おまえ、左手をやれ」
シュミットはうなずいて負傷した腕のシャツをまくった。
やがて、薬箱らしいものを持った侍女が訪れた。
「麻酔ぐらいかけてくれるんだろうな?」とおれはおっかなびっくり訊いた。
「大丈夫。死んでも痛くありません」
ゼナがいたずらっぽく答え、蛮刀をひっ下げた戦士が無表情に近づいてきた。
敵[#「敵」に傍点]の足取りは遅々たるものであった。
無敵の余裕である。
迷彩色を脱げば平凡な中年の親父ふたりだ。人混みに紛れても、ひと睨みで生物の細胞を灼き尽くす超自然能力の持ち主とは誰にも見破れまい。人間であって人間ではないもの。あのアマゾンの奥地で、連綿と進歩を続けてきた呪われた生物工学と邪悪な意図が生んだ歩く殺人生物。
人為合成エスパー。
その正体を隠すためか、名前だけはロジャースにザッコと平凡だ。
おれとシュミットの姿を見て、ふたりは戸惑ったに違いない。
まるで西部劇だと。
最後の|障壁《バリケード》、神殿前の城門から忽然と現れた軍人とトレジャー・ハンター。
ひとりは左手[#「左手」に傍点]に場違いな二連象狩り用ライフル、もうひとりの腰に巻かれたホルスターにはSIG226。彼らにとっては、どちらも豆鉄砲以下だ。火薬ガスの圧力でけし粒ほどの金属片を飛ばす兵器など、形状の差でしかない。千分の一秒とかけずに張り巡らす精神バリヤーは水爆の直撃をも食い止めるし、必要とあれば、弾丸を射手の心臓へ送り返すこともできるのだ。
しかし、このふたりはどこかこれまでの相手とは違っていた。
不思議な静けさを瞳に湛え、彼らめがけて歩む足取りに戸惑いはまるでない。
立ち止まる。
距離は五メートル。
何かがふたりのエスパーをためらわせた。
何を恐れる、馬鹿な!
「意識」が鉄の障壁と化し、炎の剣となっておれたちを襲った。全細胞が燃え上がる。加えて、血一滴流さず四肢を引きちぎる超念動波の猛打。
炎の中でおれたちが笑ったことに、ふたりが気づいたかどうか。
エネルギーは、おれたちの全身にも満ち溢れていた。恒星間飛行を行い、直径三千キロの大天体さえ封じ込めたエイリアンの力が。
手首が異様に熱い。
おれたちは「武器」を抜いた。
無生物に生命を与え、こそ泥を天才ピアニストに変えた腕で。
九ミリ炸裂弾と六〇〇ニトロ・エクスプレスは奇蹟のように精神バリヤーの鉄壁を貫き、殺人兵器たちの頭部を四散させた。
武器はさらに回転し、エスパーたちの後方に控える重戦車を狙った。ちっぽけな鉛の弾丸が一〇〇ミリもの装甲を紙のように突き破り、戦車を炎で包む。
彼らめがけて悠然と進んでくる炎に包まれた人影をみて、兵士たちは恐慌状態に陥った。悲鳴をあげて後退する。
一〇五ミリ戦車砲の一撃。
おれたちは四散し、同時に再生した。いかさまサイラスには不可能だったエイリアン・パワーのフル稼動を、おれたちは苦もなく成し遂げていた。
戦車も兵士も後退を開始した。
おれたちは追わなかった。彼らが自らの侵入孔から立ち去るのを見届け、この手首を使って空間を縫合すればよい。戦いは終わったのだ。
三日後、おれたちは霧の国を抜け、かつてサイラスが脱出したルートを辿ってオリノコ河を下り、無事マナウスへ到着した。
「主人に何と言えばいいのでしょう」と仏頂面で心配する名雲秘書に、おれはこう言って安心させてやった。
「もう引退の潮どきだと忠告するんだな。さもなきゃ、ピアノの神さまから世界最高のピアニストへ格下げだ。その方が気楽でいいかもしれんぜ」
言いながら、おれはもと通りの右手首をなでた。大した技術だ。傷痕ひとつ残っていない。それにしてもあの手首――惜しかったな。
ゆきはご満悦だった。あの世界を救った礼にと、インディオたちから大粒のダイヤをいくつも土産にもらったのだ。
おれたちはマナウスでシュミットと別れた。あの世界を出てから、彼はあまり口をきかなかった。たったひとりで月を監視し続けるゼナのことを考えていたのだろうか。
エネルギー供給がもとに戻った以上、こちら側の科学力では永久に次元の壁を越えることはできない。しばらくは安心だ。しかし、ゼナが亡くなったら? 保存液の効果といえども万能ではない。
ゼナは何も言わなかったが、その日が遙かな未来ではないことを、おれは知っていた。――ノストラダムスや黙示録の予言は適中するのだろうか。おれたちは、二度と心安らぐ想いで月を見上げることはないだろう。知らなくてもいいことを知ってしまったものだ。
マナウスの船着き場で別れるとき、おれは彼に「これからどうする?」と訊いた。
「任務失敗を知らせねばなるまい」
「そのために、あの世界を出てきたのか。ゼナは残ってもらいたがっていたんだぞ。それに軍へ戻ってどうする。確か、こういう類の極秘任務失敗は軍法会議のはずだ。あそこから逃げ出したアメリカ軍兵士はおまえの顔をみている。おれたちはもう、大統領に話をつけたからいいが、おまえは機密保持のため暗黒裁判で銃殺だ」
シュミットは黙って笑っただけだった。
出港の汽笛が鳴った。岸壁に立つ戦士の姿はたちまちのうちに遠ざかり、見えなくなった。
「大ちゃん」
話をきいてたゆきがすがりついてきた。何のつもりか、ダイヤをひと粒おれの手に載せ、
「これ、あげる。だから、シュミットさんを助けて」
涙声だった。おれが死んだってこんな声ひとつ出しはしまい。おまけにダイヤはいちばん小粒のやつだった。今回は腹の立つことだらけだ。
おれは口をへの字に結んで言った。
「言っただろ。おれは軍人嫌いなんだ」
「だって――だって」
ゆきのくぐもった声も意に介さず、おれは毅然たる態度で、暮れゆくアマゾン河の水面に眼を向け続けていた。
一九八×年 九月二五日付 『ブラジリア・ニュース』より抜粋
二四日午後八時、ブラジリアの軍事裁判所第一大法廷に、麻酔ガス弾らしきものが投げ込まれ、ちょうど判決宣告を終了したばかりの法廷より、被告ローレンス・シュミット陸軍大尉が行方不明となった。なお判決は軍籍剥奪ならびに銃殺刑の重罪であり、犯行は、軍籍剥奪の言い渡しが行われた直後、実行に移された。軍ならびに警察は全力を挙げてシュミットもと大尉の行方と犯人を捜査中で、有力情報の提供が待たれる。
「エイリアン魔獣境 II」完
[#改ページ]
あとがき
恐竜という生物には不思議な魅力があるようです。すでにこの世に存在しないという神秘さ、あのグロテスクな巨体、今もって原因不明の唐突な滅亡(もっとも最近の説では、直径十キロもの大隕石、つまりメテオが地上に激突し、そのとき舞い上がった凄まじい土砂が太陽エネルギーを遮断して、温暖な気候に馴れていた恐竜たちを絶滅させたのだそうですが)。数多くの作家たちが彼らに魅せられ、文章でスクリーンでその生前の勇姿を再現してきました。
前回触れたウィリス・H・オブライエンはその代表選手で、「ロスト・ワールド」「キングコング」の二大傑作の他にも、「コングの復讐」でトリケラトプスに海竜、「動物の世界」ではプロントザウルスにティラノザウルス、「ジャイアント・ビヒモス」(未公開)では大海竜を、いわゆる人形アニメ――ストップ・モーション・アニメーションで齣撮りしています。この他にも前世紀の大蝎や大蜘蛛が火山の中をうろついている「黒い蝎」だの、原案提供のみの「原始怪獣ドラゴドン」等の佳作があります(ちなみに、最近『原始怪獣ドラゴドン』をビデオで観たら、出てくるティラノザウルス型巨竜の上唇の横が、『ロスト・ワールド』のプロントザウルスそっくりにまくれ上がるのでびっくり。ひょっとしたら、ウィリス・オブライエン、この映画の特撮も内緒で担当したんじゃないかしらん。恐竜が掘っ立て小屋ぶっ壊したり、馬追っかけて疾走したり崖の道を登り降りしたり、とにかく扱い方に味のある名篇です。急斜面を駆け降りてくるところは凄かったな)。
「キング――」と「ロスト――」のいいところは、まず人間が秘境へ入って恐竜を発見し、次に、それを文明地帯のど真ん中へしょっぴいてくることです。まず、全く別の世界へ人間を引きずり込み、つづいておなじみの世界へ怪物を送り込んで、強烈無比な違和感を狙う。日本映画じゃ怪獣に襲われた街の人間は、早々に逃亡してしまいますが、「ロスト・ワールド」のロンドン市民は、プロントザウルスが暴れ回るところをちゃんと遠巻きにして見てるんですなあ。突っ立ってる連中が、尻尾で薙ぎ倒されるところなど絶品です。この作品はビデオが出ていますから、ぜひご覧下さい。キャスト紹介にMR, MISSがつくなんぞ、もう一生涯お眼にかかれないですよ。
いちど、大怪獣パニック小説なるものを書いてみたいと思います。人間を貪り食う怪獣が東京を襲い、ひたすら虐殺と破壊を繰り返し、ついには殺されるまでを、ドキュメントタッチで追っていけたら面白いでしょうね。
全二巻にわたってお送りした恐竜世界の物語、いかがでしたか。またお目にかかれる日を楽しみに。
83年11月7日
「原始怪獣ドラゴドン」と「キングコング」と「ロスト・ワールド」を観ながら
菊地秀行