エイリアン魔獣境 I
菊地秀行
[#改ページ]
目次
第一章 異形の影走る
第二章 サイラスの腕
第三章 死霊秘宝館
第四章 中華街妖蛇戦線
第五章 横浜港サブマリン血戦
第六章 幻の巨大都市
第七章 好敵手
あとがき
[#改ページ]
コナン・ドイルと
ウィリス・オブライエンに
[#改ページ]
第一章 異形の影走る
ドアのチャイムが鳴ったとき、おれは居間の真ん中で、ゆきにヘッドロックをかけられていた。頭骸骨のきしむ音がする。
「お、おい、来客だ。休戦しよう、なっ」
必死の言葉に、しかし返事は憤然としていた。
「やーよォ。このドジ。十万円もする切符を二枚も……死ねェー!」
ゆきの身体が浮いた。――と思う間もなくとてつもない力で首をひねられ、おれはもろくも、二千万円もするペルシャ絨毯の上に這いつくばっていた。
落下と同時に全体重をかけて相手をひねり倒す――悪けりゃ首の骨を折る。ブルドッキング・ヘッドロックというプロレス技だ。もと世界チャンピオン、“カウボーイ”ボブ・エリスの得意技で、本職のカウボーイだった彼は、これを使って暴れまわる牛を押さえつけ、烙印を押していたのである。プロレス史上最も凄惨といわれる“生傷男”ディック・ザ・ブルーザーとの試合では、頭に二本のボールペンを突き立てられ、全身血だるまになりながらも、この必殺技一閃で勝利を収めたのだ。
幸い首の骨は折れもズレもしなかったが、ゆきの力も少しもゆるまなかった。あっ、またきしむ音がする。男と女の差は筋肉の瞬発力だけというが、こいつは筋肉組織の構造も男並みなのにちがいない。
チャイムが鳴った。
あまり客人を待たせておくのも悪い。おれは両腕に力を込め、ゆきの全体重――五三キロぐらいだろ――を首に乗せたまま、腕立て伏せの要領でぐいと上半身を起こした。膝立ちになる。
「あっ、しぶとい」
言いざま、ゆきの身体がまたも宙に舞った。第二撃が首を襲う前に、おれは両手で落下してきたばかでかいヒップを支え、上半身を軽く後ろに反らせた。身体の柔軟性には自信がある。世界中のプロ娼婦を狂わせてきた華麗なるテクニックは、ここから生まれるのだ。
とにかく、ブルドッキング・ヘッドロックはバック・ドロップに敗れ、ゆきは後頭部をカーペットに打ちつけて悲鳴をあげた。なに、ぎりぎりのところでスピードを落とし、チョコンで済ませてやったのだ。
いかにもわざとらしく、ひいひい言いながら頭を押さえて転げまわるゆきを横目で冷たく一瞥し、おれは上半身を床の上にそっくり返らせたまま、右手をひと振りした。
指輪の指令を受けて、壁にかかったバロック風大鏡が入り口の来客を映し出す。以前はただのモニター用画面だったのだが、ゆきの意見で工事をやり直したのだ。他にも、おれのごひいき家具イギリスのメイプルは、品も糞もないイタリア製シーラに変えられ、壁紙もイチゴ模様となり、原宿かどっかで買い込んできたやたらけばけばしい小物が室内にのさばりだして、おちおちトイレにもいけない。ゆきが同居して以来、おれの城もすっかりおカマっぽくなっちまった。
鏡に映った王子さまは、いやに年を召されていた。うす暗い頭髪の下で、しわだらけの顔が仏頂面をつくっている。ただし、鼻筋がすきっと通ったなかなかに品のある顔立ちで、黒いスーツも一流品だ。純白のYシャツと黒の蝶ネクタイを見て、おれはひと昔まえのイギリス名家にいたベテラン|執事《バトラー》を連想した。オーラ識別装置にも、武器や爆発物パターンは出ていない。
「夜の十時に何の用だい?」
ブリッジのポーズを取ったまま尋ねた。問答と健康法――人間、合理的なのが一番だ。
男は驚いた風もなく、インターフォンに向かった。実にはっきりと耳触りのいい日本語が返ってきた。
「八頭大さまでいらっしゃいますか?」
「ああ」
「私、名雲と申します。クリストファー・サイラスの秘書をしておりますが」
頭の上で鳴り響いていた死ぬ死ぬの叫びがぱたりと途絶え、ゆきが絨毯の上へ上半身を起こすのが見えた。驚きを無理矢理押し殺した声で
「ねえ、ひょっとして……あれ[#「あれ」に傍点]?」
「多分な」とおれは答えた。そろそろ首が痛みはじめている。「おまえがおれをヘッドロックにかけた原因さ」
おれはブリッジの姿勢から軽く足で床を蹴り、頭だけを支えに直立してのけた。こうすると頭部のつぼ[#「つぼ」に傍点]が刺激されて実にスカッとする。
「そのサイラス様が、しがない高校生に何の用があるんだい?」
無愛相な返事にも能面のごとき表情を崩さず、執事は淡々と言った。
「これから、主人のところまでご足労願えませんか? 仕事のお話があるのです」
おれはゆきにしかめっ面を向けた。ゆきはもっとしかめっ面をしていた。
「冗談はよせよ」相手の真意が掴めぬまま、おれはすっとぼけた。「おれはただの高校生だ。これから友達とディスコヘ行く約束がある。あんたのご主人も明日の晩はリサイタルの初日だろ。肩の筋肉でもつったんなら、波越徳二郎の電話番号を教えてやろうか? とにかく、おれんとこはお門違いだよ」
名雲秘書は少しも動じた風を見せず、内ポケットへ手を入れながら言った。
「リサイタルは中止でございます。主人はあるものを盗まれました。それを取り返していただきたいのでございます」
そして、おれとゆきの眼は、彼が胸前で広げてみせた燦然たる掌に吸引された。手のひらの上でかがやく直径五センチは堅い大ダイヤに。
「報酬は、この程度の品がもっとも小粒に見える鉱脈のありかでございます」
ひかりに埋まった頭の中で、名雲秘書の声が反響した。
「すぐ伺います」
ゆきが欲望に眼をぎらつかせながら答えた。
十分後、おれは名雲差し回しのばかでかいリムジンに乗って、日比谷へと向かっていた。帝国ホテル新館・一泊三〇万円のVIPルームに、彼の主人は愛用のピアノや専用コック、護衛らとともにふんぞり返っているはずだ。新聞報道ではそうなってる。
道路の両側を流れるビルや車の光を見やりながら、おれは出がけの三分間でコンピューターの資料から頭に叩きこんできたクリストファー・サイラスに関する知識のおさらいを始めた。
クリストファー・サイラス――今世紀、いや人類史上最高の名ピアニスト。文学だの音楽だのにはからきし疎いおれでも、名前くらいは知っている。
ちょうど三〇年前、古都ウィーンの安酒場でデビューし、翌日には世紀の天才と折り紙をつけられていた伝説的人物。バッハの荘厳、ベートーベンの激情、モーツァルトの憂愁を完璧に再現する十本の“黄金の指”は、あの天才ホロヴィッツをさえ顔色なからしめ、有為の人材を数多く音楽の道から葬り去ったという。
十六、七年まえ、はじめて彼の演奏をきき、「五年間、静かな夜明けを待っていたら、突然、真昼になって目がくらんだ」という遺言を血で壁に書きのこし、アパートの五階から飛び降りて死んだNYの音大生の話は、いまも語り草になっているし、パリのコンセルバトワールでは今でも、全学生に彼のピアノ演奏をきくことを禁じているほどだ。ピアノ科以外でも自信喪失に陥り、退学、廃人化する学生が続出したためである。
おととしの国連主催のゼミナール「世界の至宝」でも、ダ・ヴィンチの「モナリザ」「ミロのヴィーナス」「グーテンベルグ聖書」等の常連中ただひとり、人間としてランクされているほどだ。
だが、何より彼の名を世界中のマスコミに注目させているのは、皮肉なことに、その極端ともいえる秘密主義だろう。
まず前歴が皆目不明だ。ウィーンの音楽酒場に臨時雇いのピアノ弾きとして姿を現したとき、すでに四〇をすぎていたというから、とうに七〇の坂は越しているはずだ。当人がプライベートなことについて一切口をつぐんでいるため、年齢はおろか、出生地、家族関係などまるでわからない。結婚しているか否かもだ。
それどころか、年一回の公演旅行と六回のレコーディングにも、取材陣は一切オフ・リミット。移動はすべて自家用ジェットと借り切りの豪華客船(排水量五万四千トン!)および十輌編成の専用列車と馬車(!)で行い、もちろんレコーディング会場も貸し切りで、屋内での移動には常に十名近いガードマンが付き添っている。
二万坪もあるヴェルサイユの本宅(本物の城だぜ!)やウィーン、リスボン等四カ所の別荘にマスコミの眼は四六時中向けられているが、窓には日がな一日カーテンが下り、秘密の出入り口でもあるのか、門を出入りする車も、自家用飛行場に着陸するジェット機の姿も滅多に見られない。業を煮やしてこっそり侵入した記者とカメラマンが、それきり戻ってこないという噂まであるから、グレタ・ガルボやBBなどとは根本的に異なる、かなり危険な生活らしい。
本来なら、こんな氏素性のあやふやな人物は到底芸術の世界に名を連ねることなどできない相談なのだが、サイラスの場合は、その神技ともいうべき実力が、あらゆる非難と中傷の息の根を止めた。ここだけの話――あのキューバ危機とベトナム戦争を終結させたのは、国連事務総長の数十度にわたる要請でようやく腰をあげた彼の、生きとし生けるものの哀れさを謳いあげた演奏だったといわれているほどだ。
そんな大物がなぜおれたちの喧嘩の原因になったかというと、日本政府と皇室の要請で、ようやく来日が決定したからであり、わずか二日限りのそのリサイタルの初日が明日だからである。たまには芸術的な人生も送りたいとわめくゆきに脅されて、おれはやっとこ政府関係者から二枚の切符を手に入れ、そして、どこかへなくしちまったのだ。
おまけに、ひょんなことから、それがある美人モデルと食事にいった途中だということがゆきにわかってしまい、かくて、冒頭のごとき悲惨な状況と相なったのである。あの娘と暮らし出して以来、生命がいくつあっても足りやしない。
「今年の秋は豊作かね?」
おれは腕組みしながら、助手席の名雲に声をかけた。
「存じません。農業には詳しくないもので」
そっけない返事だ。ダイヤに目のくらんだおれが出動を了承し、部屋を出てからというもの、奴さん、自分の方からはひと言も口をきこうとしない。もっとも、おれも何ひとつ訊いちゃいないが。一流の執事の条件は、与えられた任務を果たせば唖になり切ることだ。彼が超一流どころであることを、おれは魔法の鏡に映った途端見抜いていた。
ほどなく、リムジンはお堀ばたに出た。すれちがう車の数も少なく、いやに白々とした月光の下に、石垣と堀の水面が鈍く沈んでいる。ホテルの敷地に入った。
ふと、頭のてっぺんがむず痒くなった。
ドアに手をかけ押し開けると同時に、空中へ眼をやる。名雲が何か叫んだ。
運転手の驚きを示して車が停まるより早く、おれの眼は前方にそびえるホテルの壁面を落下する三つの人影を捉えていた。
自殺か! だが三人一緒というのは――。
猛スピードで、ホテルの玄関に突き出した石屋根に激突するはずが、音もなく着地し、次の瞬間、軽々と地上へ降り立ったのを見て、疑問は驚きに変わった。
「お待ち下さい!」
名雲の静止もきかず車から降りる。三人組は真っしぐらにリムジンへ向かって疾走してきた。グレーのレインコートを着ている。今は夏で、今夜は晴天だ。
車の前へ出たとき、三人は眼前に迫っていた。十メートルの走破にコンマ二秒とかかっていまい。突風がおれの顔を打った。
恐怖に近い愉悦を感じながら、おれは真ん中の奴の顔面に右ストレートを叩きこんだ。タイミングは絶妙だった。あの猛スピードで、かわしたり後退したりができるはずがない。
拳は何の手応えもなく顔にめり込んだ。それが眼前で跳躍したための残像だと気づいて振り向いたとき、距離・高さともに五メートル以上を跳び切った三つの影は、風に追われるようにお堀に向かっていた。
「馬鹿が!」
吐き捨て、おれも走り出した。走りながら、無駄だという予感はあった。
三つの影は水面に身を躍らせた。そして案の定、おれが堀の淵に駆けつける寸前、彼方の石垣の上まで舞い上がり、あっと言う間に闇に呑まれた。おれの口からため息が洩れたのは、三人がジャンプしたはずの水面に、波紋ひとつ広がっていないことを見届けてからだった。
「八頭さま、お怪我は!?」
名雲の声と足音が背後でした。ありがたいことに、不安がこもっている。おれを主人のもとへ送り届けるまで責任を果たしたことにはならないのだ。
おれは首を振った。
「あいつらに心当たりはあるか?」
「存じません」
「サイラスさんは何階だ」
「三〇階に宿泊しております」
おれは頭上を振り仰いだ。
ところどころ光が洩れる、完成寸前のジグソー・パズルみたいなホテルの一角――図抜けて高い一点に、小さな人影が灼きついていた。窓辺に立って何を見ているのか。
おれは無言でホテルの玄関へ歩き出した。武者震いが襲ってくる。やくざの四、五人もぶちのめしたいほど高揚した気分だった
おれは奴らの顔を見てしまったのだ。
それと、真ん中の奴が後生大事に抱えていた品物を。
しなびた人間の手首がふたつ。
世界最高のピアニストは、ばかでかいリビング・ルームの革張りソファに腰を下ろしていた。
写真通りの悪相だ。鼻の下が異様に長く、唇はやけに厚ぼったい。風呂帰りのグラマーを横目に舌なめずりでもすれば一番似合いそうだ。糸みたいに細くて吊り上がった眼が、下からおれを値踏みしている。
身長は一五〇センチもあるまい。部屋の雰囲気とはおよそ場違いな、ピアニストどころかアラブの三流奴隷商人が分相応な爺いだ。辛うじてマッチしているのは、金糸銀糸で縫いあわせた絹のナイトガウンと、樫のテーブル上で組みあわせた左薬指に光る大粒のダイヤくらいである。
なるほど、この面であの演奏――新・世界七不思議のひとつといわれるだけのことはある。
おれは椅子をすすめられるのも待たず、居間を横断し、サイラスの前の肘掛け椅子に腰を下ろした。
爺さん、露骨に唇を歪めたぜ。
「日本人は好かん」と早口のドイツ語でののしる。「餓鬼のしつけもなっとらん」
「そう嫌うなよ」おれは言い返した。「せっかく呼び出しといて、そりゃつれなかろうぜ、おっさん」
サイラス老人の口があんぐり開いた。日本の高校生が、まさか自分より流暢にドイツ語を喋るとは思ってもいなかったろう。
「お……おまえは……」
おれは大きくうなずいて「会話ぐらいならなんとかね」と言った。ほんとは読み書きもそこそこいけるが、気に食わねえ野郎に教える義理はない。
「さ、用件に移ろうか。わざわざおれを指名したくらいだ。大層なお宝を盗まれたんだろうな」
サイラスは悪意を隠そうともせず、陰火の燃えるような眼でおれをにらみつけていたが、じき、ドアに向かって顎をしゃくった。ドアの開く音がして、すぐに閉まった。名雲の気配が消えた。通訳はいらなくなったわけだ。
「虫の好かん小僧だが、さすがに太鼓判を押されただけのことはあるようじゃな。よかろう」
苦々しげに言い放ち、右手をナイト・ガウンのポケットに突っ込む。恐る恐るテーブルに置かれたのは、長さ十五センチほどのガラスの円筒だった。直径は約五センチ。オートメーション製造の規格品じゃないのはすぐわかるが、中に水が入ってるくらいじゃ誰も驚くまい。しかし、その水の中に中世ヨーロッパの絵巻物に出てくるみたいな、黄金の宝冠と純白のドレスを着たお姫さまが突っ立ってて、おれと目が合うや哀しげな微笑を浮かべたとなると、話は別だ。
おれは身を乗り出した。驚きを隠すようにサイラスの指輪に手を伸ばす。
「でっかいダイヤだな」
富も名声も欲しいままの大芸術家は、さっと手を引っ込めた。
「ダイヤの話などしとらん。おまえの腕が噂通りなら、こいつ[#「こいつ」に傍点]の名前ぐらい心得とるはずじゃな――言うてみい」
「『幽閉されたオンディーヌ』」とおれは間髪入れずに答えた。「一五三一年、パラケルススがストラスブルグで極秘裡に作り出したという|人造生命体《ホムンクルス》だ。対でもうひとつ、『炎に狂うサラマンデル』というのがあって、こちらは永劫に消えぬ熱なき炎の中に王子さまが閉じこめられてる。――大変だ。このふたつが離ればなれになると、手放した持ち主を、とんでもない不幸が襲うそうだな。探して欲しい品てな、それかい?」
「ふん。それなりの知識はもっとるようだな。その通りだ」
サイラスは嘲るように言った。
「フランス革命におけるルイ十六世とマリー・アントワネットの斬首。その言葉通り、不可能はなかったはずの常勝将軍ナポレオンの滅亡。神にも等しい力をもっていた|専制君主《ツァー》ロマノフ王朝の末路。そのすべてが一対の小人どもの力によるものだとしたら、世界史の教科書はどう書き換えればよいのかの。
まあ、よい。わしはこれをアラブのサルタンから、小夜曲の演奏と引き換えに譲り受けたのじゃ。それが三日まえに片方だけ、ヴェルサイユの自宅から盗まれよった。犯人の目星はついておる。おまえと同業の汚らしいメキシコ人の宝探しどもだ。今ごろはカリブ海のもと海賊島で羽根を伸ばしておるだろう。ことによったら、残ったオンディーヌを狙って新しいこそ泥を派遣したかもしれん。その守りはこちらでする。おまえにはその海賊島へ忍びこみ……」
おれは無言で、水の精を封じ込めたガラスの牢獄を手に取った。
「もっといい方法があるぜ。これで呪いは盗っ人にだけ降りかかる」言うなり持ち上げ、テーブルに叩きつけた。水しぶきと銀の破片が飛び散り、爺いは椅子から跳び上がった。
「な、なにをする!? きさま、この品の値打ちがわからんのか!? 金には換算できんのだぞ」
「芝居はよそうや」
おれは冷然と言って、水びたしの卓上を見つめた。美姫の姿はどこにもない。
「どうせ、ホログラフィかなんかだろうが、よくできてたぜ。欠点は、見せる相手を間違えたことさ」
言い終わらぬうちに、爺いの表情は一変した。逆上の相貌が忌々しげなそれに変わり、あっさりとソファに戻った
音に気づいて顔を出した名雲に手を振り、下がれと合図する。それから低い声で、
「いつわかった?」
「はじめっからさ」おれはせせら笑った。「ダイヤに手を伸ばしただけで逃げるようなドけちが、値もつけられない宝をガウンのポケットになんざ入れとくものか。つかみ出すときも、もっと大仰に手を突っ込まねえと、そのちんけなダイヤより安物だとひと目で見破られちまうぞ。もうひとつ。本物のお姫さまは、白いパンティーなどはいてやしねえのさ」
今度こそ、因業爺いの顔に驚愕の色が走った。
「きさま――見たことがあるのか、本物を?」
おれは答えず、歯を剥き出して爺いをねめつけた。
「さあ、つまらねえ試験は終わりだ。まじな商取引といこうじゃないか」
「よかろう――取り返して欲しいのはこれじゃ」
ピアニストは親の仇と妥協でもしたみたいな声を絞り出した。
指輪を抜いてポケットにしまう。せこい野郎だと思っていたら、返す手で裸になった右手首をつかみ、手袋でも取るみたいにズルリと生皮剥いだのには驚いた。
眉間にしわが寄るのがわかる。品質不明の皮と肉の分厚い手袋をテーブルに置き、サイラスは、骨組みだけの右手をかかげてみせた。何やら半透明な液に濡れそぼる骨は、シャンデリアの光を反射して美しくきらめいた。それは、小さな関節をきちんと備えた、五本の金属の骨であった
おれは即座に事態の因果関係を呑み込んだ。
しわも、血管の走り方も、純生そのものの骨なし手袋[#「手袋」に傍点]に眼をやりながら、
「残りもかい?」
と訊く。
サイラスはうなずき、金属ハンドで左手首も同じ目にあわせた。こんな気色の悪ィもん、わざわざ見せなくてもいいのに。
「これは偽装用の電子義手じゃ」
ピアニストは、けたくそ悪い指の先をおれの目の前で振りまわした。まるでB級SF映画に出てくる悪玉サイボーグだ。
「ハイエナのようにわしの私生活をうかがっとるジャーナリストどもの目をくらますため、三千万ドルもかけてジェネラル・エレクトリックにあつらえさせた品じゃ、本もの[#「本もの」に傍点]の神経と接続して寸分変わらぬ動作を示す。火に触れれば火ぶくれもできるし、傷つけば血も流す。感覚はすべてわしに伝わってくる。ホロヴィッツ程度の演奏なら軽くこなすじゃろう。
だが、それでは、クリストファー・サイラスの足元にも及ばぬのだ。あの手首が戻らぬ限り、世界の聴衆どもは二度と天上の音を、真に神なる調べを耳にすることはできん。世界の至宝クリストファー・サイラスは永劫に俗人どもの前から姿を消さざるを得んのだ。世間にとって、これ以上の損失があろうか。わしは世界の財産だ。人々の救いなのだ。この愚劣な世にひとすじの灯を点すためには、いかな犠牲を払っても、あの手首を取り返さねばならぬ」
ここまで一気にまくしたて、サイラスはようやく我に返った。おれの表情に気づいたのかな。大仰な大演説をきくとついにやついて[#「にやついて」に傍点]しまう。七、八年まえ、まだフランコの生きてたスぺインでもこれをやり、親衛隊に追われて演説会場を逃げまわる羽目になった。
大体、演説が好きなんて奴は、ナルシズムの塊か自我肥大のエゴイストと相場が決まっている。シーザー、ナポレオン、ヒットラー、みなでかい声を張り上げるのが趣味だった。ただ、彼らはおれにコケにされたくらいでは、びくともせずに演説をつづけたことだろう。フランコもそうだった。わが世界の至宝どのは、一般大衆の上に君臨したがる独裁者としちゃ、やや小粒だ。キリマンジャロの麓にいる有尾人の酋長にも及ばない。
「なーるほど。世界最高のピアノを弾いてたのは、あんたじゃなくって、盗まれた腕だったわけか」
たっぷり嘲りを含んだおれの声に、サイラスは骨だけの両手をテーブルに叩きつけて立ち上がった。しわだらけの顔が赤く膨れあがっている。死ぬときゃ脳溢血だろう。
「な、なにを言うか! たしかにあの手の力はあるが、音楽とは素早い指の動きがすべてではない。あの手を操っているのはわしだ。曲の精神をつかみ、妙なる旋律を選び出すのは、すべてこのクリストファー・サイラスの芸術的感受性にかかっておるのだ!」
げいじゅつてきかんじゅせいね――ま、どうでもいいやな。
「ほいほい、わかったよ。で、おれにどうしろってんだ?」おれはさほど荒らされた様子もない室内を見回しながらきいた。「盗まれる前[#「盗まれる前」に傍点]に、取り戻してくれと言ってくるなんざ、あいつらよっぽど実力のある盗っ人なんだろうな。ルパン三世か?」
「ふざけとる場合か」
サイラスは吐き捨てた。こめかみに青い筋が走っている。最後の冗談が気に入らなかったのだろう。情緒不安定――長いこと他人をこづきまわし、強引に自分の意に従わせてきた我がまま餓鬼のかかる病気だ。いやらしい唇が泡を飛ばした。
「おまえを呼んだのは、わしに降りかかった大いなる悲劇を幸運に転じるためじゃ。八頭大――世界最高のトレジャー・ハンターの名が嘘でないならば、見事、あの両腕を取り戻してくるがいい。報酬は名雲が提示した通り。必要経費はすべてこちらが持つ。奴らの棲み家は、おまえが承諾しだい教えてやる」
興奮のあまりわなわなと震えるピアニストの口もとを冷たく見やりながら、おれはにんまりした。
「まことに結構な条件だがね。南米まで出向くとなると不足だな」
爺いはのけぞった。あ、脳溢血。しかし、不屈の闘志で起き上がり、顔を口にして喚いた。
「なぜ、奴らの居場所を知っとる!? き、きさま、他にも何か握っとるのか。――そうか。さっき下で奴らとぶつかったのはおまえだな」
ひひひ。
おれは得意げに笑ってみせた。そうなのだ。二歳のときから、スコップ片手に世界中を飛び回っていたおれの眼に狂いはない。
平坦な鼻、横にせり出した頬と扁平な顔立ち。モンゴロイドの特徴をすべて備え、頭といえばてっぺんを丸く剃った典型的なおかっぱ頭。さっきの三人組は、紛れもなく、アマゾンの密林地帯でいやというほど対面してきた先住民――インディオだ。素肌の上にコートをひっかけただけなのも、それでなんとなく納得がいく。もっとも、そんな格好で東京のど真ん中へ現れたり、30階から飛び降りて怪我ひとつしないで済んだり、水に飛び込んでも沈まなかったりする説明にゃならんがな。
おれは頭の後ろで腕を組み、柔らかな椅子の背にふんぞり返った。
「お互い、そろそろ腹を割って話そうじゃねえか。幸い、おれはあと一週間で夏休みに入る。丸ひと月は自由な身さ。南米でも北極でも飛んでいくが、それにゃあそれなりの準備がいる。あんたに都合の悪いところは飛ばして構わねえから、ざっと事情をきかせてもらおうか」
サイラスは眉をひそめた。最初からホラ半分の打ち明け話で、おれをだまくらかすつもりだったのが、それでもいいと了解されて毒気を抜かれたのだ。
「おれに興味があるのは、宝とその報酬だけだ。あの腕をあんたがどんな悪辣な手段で手に入れたにしろ、そんなこたどうでもいい。ただし、ピアノを弾いてちょっとましな音を出せるくらいの手首じゃ、おれが出るにゃあ役不足だ。その辺はどうなんだい?」
おれの口ぶりを承諾と読んだか、サイラスの顔はようやくまともな色に戻った。ばか長いため息を洩らしつつソファに腰を下ろす。どうやらビジネス交渉の場らしくなってきた。
「一から十まで気に喰わん餓鬼だが、宝探しの実力だけは話通りらしいな」
苦々しげに言いながら、卓上の銀の呼び鈴を振る。
待ち兼ねていたように名雲が入ってきた。分厚い銀の盆に汗をかいたワインとグラスが載っている。最初から出しゃいいものを、どけち爺いめ。
だが、さすが世界の至宝、ワインの味は極上だった。フランス産シャトー・ディケムの白。TROCKENBEERE NAUSLESE(乾熟一粒選り最高級)という奴だ。
ふた口ほど喉を湿して、サイラス老人はようやく真相を話し始めた。
「三〇年前……一九五X年のことじゃ。わしは三五で、まだ若く、ひと旗あげる野望に燃えていた……」
三時間後、行き同様、黒のリムジンで帰宅したおれを待っていたのは、ゆきのキスの雨だった。ぶちゅ、ぶちゅ、ぶちゅ。
「わっ、わっ、わっ」
おれは唇や頬っぺたをルージュで紅く染めながら、首に巻きついた白くて熱い腕をもぎ放した。
なに鼻の下伸ばしてやがると思われるかもしれないが、ゆきのキスは一級品だ。唇はいつも程よく濡れているし、こっちがいくら固く結んでいても、生あたたかい舌は、心得ているようにやさしく激しく動いて唇と歯を割ってくる。その辺の童貞受験生なら二秒でダウンだ。おれは喚いた。
「仕事の邪魔だ。さ、さっさと寝てしまえ!」
「あーら、冷たいんだ」ゆきは唇を突き出してすねた。「大ちゃんの好きなカボチャのパイつくって待ってたのにィ」
「うるせえ! そうそういつも食いものでつられてたまるか。それからな、カボチャじゃねえ。パンプキンと言え」
おれはゆきの方を見ないようにしながら、がらんとした書斎へ入った。肉づきの良い太腿剥き出しのベビードールが追ってきた。なに? ベビードールを知らない? ノースリーブのネグリジェを、お尻の少し下でちょんぎった女性用パジャマのことだ。スケスケとそうでないのとあるが、ゆきの着ているものは、辛うじて色がついてるなと判別できるくらい悩殺的な品だった。豊かな胸と腰のあたりをカバーする下着の白がぽよよーんと迫ってくる。デパートの寝具売り場にゃ透明人間のコーナーもあるのか?
「なによ、そんな言い方ないでしょ。こんな夜中に呼び出されてお仕事の相談。大変だなァと思って、苦労して焼いたのにィ」
しおらしい声で抗議しながら、ゆきはぶりっこくねくねをした。
実のところ、ゆきの料理の腕は特A級である。帝国ホテルの|コック長《シェフ》というわけにはいかないが、あと半年も自己流でやってりゃ、かるく追い抜いてしまうだろう。
おれも、腹ペコで資料整理してるとき、ランバンのアルぺージュってばか高い香水をねだられ、断固拒否すると、赤ワインでこってり煮込んだ仔牛のシチューを食わさないと脅されて降参したことがある。これがまた、いい匂いでよ。
しかし、今度は負けないぞ。
おれは、しなだれかかる白い肢体を無視して、机上のプッシュホンを取り上げた。呼び出し音は二回で通じた。
「|国際宝探しハンター協会《インターナショナル・トレジャーハンターズ・アソシエーション》日本支部でございます」
夜間局員の落ち着いた声が応じる。
「こちら八頭大。会員ナンパー・|GGG《トリプル・ジー》の66だ」
途端に声に、感嘆の念がこもった。
「はい、何なりとご用件を承ります。音声照合が済むまで約二秒間お待ち下さい。――終わりました。ご要望をどうぞ」
「人を探して欲しい。南米のインディオが三名だ。身長は全員一六〇センチ前後。最後に会ったときは、グレーのレインコート姿で素足だった。背後関係は不明だが、国内に入出国を手引きした奴がいるはずだ。そいつも探って欲しい。三人は一両日中に日本を出るだろう。空港と港、それから各ターミナル駅に網を張ってくれ。東京の外からふけ[#「ふけ」に傍点]るかもしれねえ。今すぐ頼む」
「承知いたしました」間をおかず返事があった。さすがITHA。人も機械も優秀だ。「順次連絡をお入れします。それから八頭さま。先月入金のご寄附五千万円、まことにありがとうございました。支部員一同感謝しております」
礼儀までわきまえてやがる。
「いやあ、なに。わはは。ま、よろしく頼むわ」
おれは気分よく電話を切った。
国際宝探しハンター協会は、英文の頭文字をとって通称ITHAという。プロのトレジャー・ハンターの組織で、本部はロンドン。全世界に一二八の支部をもつ大機構だ。二八○万の構成人員は過去の実績、能力、ハンターとしての家柄、プラス寄付金の額によって「|平会員《NORMAL》」「|特別会員《SPECIAL》」「|大会員《GREAT》」の三ランクに分けられ、最高の大会員Gには、さらに三ランクが付け加えられる。おれの称号|GGG(トリプル・ジー》はその最高峰で、トレジャー・ハンターとしての窮極的価値を示すものだ。世界に六人とはいまい。
ゆきが眼を輝かせて、
「ねえ、ねえ。仕事オーケイしたのね。今度はどこへ何探しにいくの? お礼は幾ら?」
「うるせえ。宿題はすんだのか?」
「東大のボーイフレンドにやらせるわよ。ねえってば、クリストファー・サイラスの依頼ってどんなこと? あたしたち、また、有名人と知り合いになれたのね」
声がすみれ色だ。おれもこれまでいろんな人間を見てきたが、こんなにも有名人嗜好と名誉欲の強い女は初めてだ。中年すぎたらどんなことになるのやら。
「東大のボーイフレンドだって? こないだはゲイ・ボーイ養成学校の生徒だったな。また別の男と付き合ってるのか、この男狂い」
おれは話題をそらそうとしてののしった。
大体仕事に女が絡んでくるとロクなことにならねえ。一度は女子高をやめたものの、高校ぐらいは出といた方がいいだろうと、高い金使って別の高校へ入れてやったおれの恩も忘れて図々しい野郎だ。面倒臭えから、アパート借りて自活しろと三百万円渡したら、きっちり貯金し、共同生活の方が安いわよとマンションに居座っちまった。翔んだカップルだ。バレたら揉み消すのにまた金がかかる。
「ああら、慶応のミーちゃんと同じよ。知り合ってからもう二カ月になるわ。言わなかったっけ。マコトっていってね、仏文の三年生。旅館の御曹子で、お金あるんだからあ。ジャガーを乗り回して、明後日も伊豆へドライブすることになってるの」
「ほおほお、結構なこったな。おフランス語はペラペラだが、女の手を握ったこともねえにきびだらけのマザコンに、ロマンチックな海辺で押し倒されねえように気をつけろよ」
「ふん、だ。あんたと違うわよ」
とうとうゆきは怒り出した。しめしめ。
「マコちゃんはね、育ちがいいのよ、育ちが。今まで五、六回デートしたけど……あら、そう言えば、手も握ってこないわね」
「ほれ、みろ。おまえ知らんだろうが、各官庁にゃ東大卒業生専用の地下病棟があってな、ママがいないとボク仕事ができないと泣き叫ぶ連中を、鞭とロウソクで集中治療してるんだ。おめえの彼氏もその口さ。ちょっぴり太腿でも見せてみろ、興奮して運転中に校歌を歌い出すぜ」
「そうねえ」
とゆきは腕組みして考え込んだ。
「あのひと、妹を見る眼が何か異常だし、車を習ったときも、試験官がおめえ可愛いってパン買ってくれたと自慢してたし――あの|気《け》があるのかな。おー、やだ。早稲田の黒江くんと箱根いこうっと」
「お忙しいこったな」
おれは、昼間キッチンに置いてあった手紙の束を想い出して肩をすくめた。五百通以上はあるうずたかい山が、すべてゆき宛てのラブレターなのである。新しく入った男女共学校の男どもはともかく、ディスコで知り合ったアホ大学生だの、医者の卵だの、各職業最低ひとりはいるだろう。
ゆきは男を惑わす食虫植物だということが、ようやくわかってきた。街を歩くだけで、知らず知らずのうちに、男を魅きつける物質を巻き散らしてしまうのだ。本人がそれを恥じて、毅然たる態度を取ればいいのだが、キゼンどころかわざと92センチのバストをゆさゆささせたり、見惚れてる男に気のありそうな流し目を送ったりするからトラブルが絶えない。
おれと歩いてるときも、アイビー姿の青びょうたんがふたり声をかけてきたので、張り倒してやった。二、三週間まえ、マンションの入り口でナイフを持った中年男に刺されかかったが、あれも、ゆきにふられたのをおれのせいだと邪推した揚げ句の凶行だったな。
このままでいくと、二〇歳をすぎるまでに、男の二、三百人は破滅させてるかもしれない。やれやれ、こんな女とよく一緒に暮らして清い仲を保っていられるもんだ。我ながら、その強固な自制心に感じ入ってしまうよ。
「さ、おれは忙しいんだ。あっちいって寝ろ」
手を振った途端、ゆきはぴっ! と真顔になった。
「それで、サイラスさまの仕事って何だったのよ?」
「あの爺いにさま[#「さま」に傍点]なんざつけるな」おれは憎々しげに言った。「仕事に女は関係ねえ」
「なーに恰好つけてんのよ。カボチャ狂い」とゆきは言い返した。「あの天人事件のとき、あたしが踏みとどまって、爆弾つかんだ|怪鳥《ランド》を射ち落とさなかったら、今ごろどうなってたと思うの!? あんたもアンドロポフも、本当ならあたしに足なんか向けて寝られないはずでしょ!」
「バカヤロ、それは……」
「うっるさいわねえ!」
ゆきは床を踏み鳴らして喚いた。両手両脚むき出しのセクシーな美少女が仁王立ちで激昂すると、なんとも異様な色気がある。おれは気を削がれてしまった。
「その上、あんた病院であたしの手を取りながら、この恩は一生忘れない、永久にコンビは解消しないし、仕事の報酬は山分けだ。えーと、それから――そうそう。財産も半分こ。そう言ったじゃない。言ったでしょう。言ったのよ」
「こここここの……」
「いいこと」とゆきは重々しくおれをねめつけ、「いまあんたが認めた[#「認めた」に傍点]通り、コンビである以上、あたしも|依頼主《クライアント》の仕事の内容をきく権利があるわ。さ、教えてちょうだい。一から十まで、隠しだてしないでね!」
やっと沈黙が降りた。しゃべりまくったゆきが、パンティの上から95センチのヒップをかきかきパイと飲みものをとりにいき、意気揚揚と戻ってくる間に、おれは素早く状況を分析して答えを出しておいた。
さっきの鬼女面はどこへやら、掛け値なしに天使のような笑顔でつがれたアイス・ティーをぐびりと飲み干し、おれは渋々口を開いた。
「おまえのことだ、おれが嘘をついてもすぐ見破るだろうし、しゃべった以上はコンビを組まなきゃ勝手にひとりでうろつき、おれの足まで引っ張りかねねえ。とはいうものの、使い方によっちゃ役に立たないわけでもねえ」
ゆきは得意げにうなずいた。直径五〇[#「五〇」に傍点]センチほどのパイを四つに切った分厚いひと切れを、半ば強引に口へ押しこむ。凄え女だ。もっとも、おれのクラスの演劇部主将・外谷順子なら丸ごと飲みこみかねない。俳優というより相撲取りだ。あれくらいまわし[#「まわし」に傍点]の似合う女はいまい。
おれは言葉をつづけた
「――で、おれは条件をひとつつけることにした。今度の事件に限り、おまえは国内でだけ相棒として働け。ことによったら海の向こうへいくことになるかもしれないが、そっちはオフ・リミットだ。もちろん、報酬はすべて山分け。国内分だけなんてケチなこた言わねえ。いいな」
まだ何か言いたそうにして、ゆきは思いとどまった。マンションの名義はまだ手に入れてない。
「わかったわよ。どこまでセコいのかしら。カボチャ食う男はちがうわね。はいはい、承知いたしました。ご主人さま――さあ、きかせてちょうだい!」
おれは、あのにせピアニストの顔を思い出さないように注意しながら、奴の話をなぞりはじめた。
「今から約三〇年まえ、クリストファー・サイラスは南米にいた。ある商売に従事してたというから、どうせ密貿易か何かだろう。とにかく、ピアニストでも何でもなかった。今もちがうけどな。
月に一、二度おんぼろ飛行機で、ブラジルからエクアドルやぺルーへ積み荷を運ぶのが仕事だった。当時から政情不安なお国柄さ、しこたま儲けたことだろう。
ところが、幸か不幸か、ある日のこと、大アマゾンの密林地帯の上空で、飛行機がエンストを起こしちまったんだ。さあ大変。だけど、飛行機はボロでもパイロットは優秀だったらしい。真っ逆さまに墜っこちても文句はいえねえのに、なんとかジャングルの真ん中へ不時着してくれた。ただし、サイラスはショックで気を失い、パイロットは可哀そうに、風防ガラスを突き破った木の枝に心臓を刺されてあの世行きさ」
ゆきが、おお、いやだ、という顔をしたので、おれは吹き出しかけた。自分の眼の前でなら、百人が串刺しになっても平気な娘だが、空想するとかえって現実的らしい。
もちっと怖がらしたれ。おれはできるだけ感情を抑え、淡々と話しつづけた。
「気がつくと、飛行機は密林のど真ん中に墜っこちてた。奇蹟的に火は噴かず、いくらかの食料と水とライフル、それに金目の積み荷を少し持ち出すことができた。で、奴さん、磁石片手に文明への道を辿り出したわけだ。
ところが、ものの十秒といかねえうちに、磁石は役に立たないことがわかった。ひと足ごとに北の方角が変化するんだな。奴さんの話だと、磁場が狂ってるというより、方角を含む空間自体が歪んでるような感じだったそうだ」
ゆきの眼がきらりと光った。おれ好みの顔だ。男狂いだろうと根性悪の気があろうと、この娘の中には太宰先蔵の血が流れているのだった。
「あとは勘に頼るしかねえ。エンストのちょっと前、パイロットに訊いた飛行地点からすると、トロンペダス河とアマゾン河の合流点からさほど離れちゃいないはずだった。地図もある。だけど、事はそう簡単にゃあ運ばなかった。
初めの計画じゃ、とにかく川へ出て、どっかのインディオの部落へ辿り着く予定だったんだが行けどもいけどもジャングルばかりよ。おまけに夏の真っ盛りで、地面にゃばかでかい蟻がうようよ。歩いても停まってもブヨだのダニだのが群がってくる。おまけにジャングル内は熱気で蒸し風呂、ろくすっぽ眠れやしねえ。いい加減ばてたところに、とどめとばかり、とんでもねえ代物が襲ってきやがった」
おれは言葉を切ってゆきを見つめた。息をとめている。
なにげなさそうに「大蛇さ」と言った。
「なあんだ――馬鹿みたい」ゆきは軽蔑の笑みを浮かべた。「アマゾンならでっかい蛇くらい当然じゃあないの」
「まったくだ」とおれは静かに同意した。
「三、四日めだったそうだ。ジャングルが切れ、妙にゴツゴツした岩場に出た。その岩の陰から、変な声がきこえたんだ。ちょうど、牛が鳴くみたいな。何だろうと岩に近寄り、ひょいと向こう側をのぞいた途端、サイラスは恐怖のあまり、五年は年を食っちまった。
岩の向こう側――直径、二、三百メートルはありそうな深い窪地の真ん中に、小山のような大蛇がとぐろを巻いていたんだよ。あの顔つきからして本当だと思うが、こっちを向いてた頭の大きさが、小型トラックぐらいはあったそうだ。眼は閉じられてたというから、牛の鳴き声はそいつのいびき[#「いびき」に傍点]だったんだろうな。どうした、顔色が悪いぜ。
さて、名ピアニストの前身どのはどうしたか。進むにゃあ、なにがなんでも岩場を突っ切らなきゃならねえ。後戻りは論外だ。結局、足音を忍ばせて、窪地のすぐ脇を通る羽目に陥ったのよ。
想像しただけでも鳥肌がたってくるぜ。ゴジラに噛み殺されるならともかく、大蛇に呑みこまれるなんざ、ほんものの生き地獄だ。もう、心臓はガンガン、手足はブルブル、足もとの岩はグラグラさ。一歩進むのに、五、六分かかったそうだ」
「……」
「その甲斐あってか、長い旅も終わりに近づいた。七、八メートル先に天国みたいなジャングルの入り口がある。ほっ。これが悲劇の始まりだった。足の下ろし方が無造作になり、石を踏んでよろけちまったんぜ。必死で手をついた岩がまた、滑りやすいときてやがった。ごろんごろんと転がってったのさ――窪地の下へ。
さあ、大変。後をも見ずに一目散、と思うだろうが、そうはいかなかった。恐怖のあまり、神経の接続が狂っちまったんだな。サイラスは、むしろ前よりゆっくり、ジャングルへ向かって歩き出した。少し行って振り向いた。何もついちゃこない。やれやれと胸をなで下ろし、また二、三歩あるいて、あることに気がついた。
いびきがきこえない。
ほうれ、背中の方から、生暖かい風が吹いてくるじゃないか。
ゆっくり振り向いた。三メートルと離れてねえところで、窪地の縁から大蛇の頭がこっちを見ていた。ふたつの目で、まばたきもせず、じーっと。赤い二股の舌をペロペロさせながらな」
長椅子にかけたゆきの両腕に鳥肌が立っていた。たまにゃ、いい薬だ。おれは大蛇と同じく腹の中で舌なめずりをした。
「このとき、ようやくサイラスの呪縛が切れた。というより、恐怖で麻痺してた神経が、倍する恐怖のためにもう一段階狂って、普通に戻ったんだな。ぎええとひと声、無我夢中で奴は走り出した。
ジャングルだ。すぐ後ろから、何か重いものが滑るような音が追っかけてきた。こりゃ、たまらんぜ。必死で走った。ライフルも捨てた。リュックも投げた。どのくらい走ったかわからねえ。次の瞬間、奴は足を滑らせ、木の幹にしたたか頭を打ちつけて、昏倒しちまったんだ。
ほっとしたかい。しかし、話はこれからだぜ。気がつくと、サイラスはベッドに寝かされていた。まわりには、かなり美人の娘を含むインディオが三、四人集まって、容態を見守ってたそうだ。「ここはどこだ」とスペイン語できくと、言葉は通じないものの、峠は越したと思ったらしく、白い長衣を着たいちばんいかめしい顔の男が、娘に何やら言いつけ、サイラスのそばに残して出ていった。
要するに、ぶっ倒れてジャガーの餌になる運命だったのを、通りかかった原住民の娘に救われたわけさ。倒れた拍子にねじったらしく、片足を骨折してたが、頭の傷は大したことはなかった。
しかし、意識が回復して頭の働きが正常に戻るや、奴は自分がまた別の、とんでもない運命に巻き込まれたことがわかってきた。
奴の部屋は、どんな原住民の部落でも見たことのない、石づくりの小屋だったんだ。しかも、壁の一方に窪みがあり、夜、娘が入ってきちゃ、それに油らしきものを入れて火を点すじゃねえか。今だって奥地のインディオ――ワイカ族なんかは先祖代々の焚き火で明かりを維持するんだぜ。もっとも昨今は、マッチだの、フライパンだの、余計な文明の産物が、かなりの僻地まで流れ込んでるそうだがな。
二、三日たって、ようやく外へ出たサイラスは腰を抜かすほど驚いた。
眼の前に広がっているのは、ちょっと変わったインディオの集落なんかじゃなかった。
まるで、天空から舞い降りた巨人の手が、数十平方キロにわたってジャングルの樹という樹を根こそぎ引っこ抜いたような平坦な土地に、とてつもなく巨大な石造建築物が建ち並んでいたんだ。
サイラスの記憶が確かだとすると、その建物のひとつひとつは、エジプトのギゼーの大ピラミッドくらいの大きさがあり、階段や通路が縦横に走っていた。それを組み立てた石のうち、目についたいちばん小さな奴を測ってみたら、一辺が両手を広げて四抱え――サイラスの身長が一五〇弱だから、約六・八メートルもあったそうだ。石と石との間には、ナイフの刃一枚入らなかった。積み上げた巨人はきっと几帳面な性格だったんだろうな」
「待ってよ」ここでゆきが初めて口をはさんだ。秘境の話に興奮したのか、声が上ずっている。
「確か、南米一帯には、そういった巨石文化の名残みたいなものが多かったわよね。そのひとつじゃないの?」
おれは素直に感心した。
「さすが、太宰先蔵の孫娘だ。世界の謎をよく勉強してんな。その通り。例えば、ペルーのインカ遺跡オヤンタイタンボも巨石城塞のひとつで、推定八○トンもある石を、高さ三三〇メートルもの山頂で切り出し、激流やら峡谷を越えて平地を十キロも運搬、その上で急斜面を高さ一五○メートルの高地まで引き上げたとされている。
インカ文明が勃興したのは九世紀だ。そして十六世紀に侵略を開始したスペイン軍の盗っ人どもは、インカにはそのような巨石にひと筋の傷をつける道具も、一ミリたりとも動かす機械装置も存在しなかったと断言している。一体誰がどうやってこんなもので城塞を築いたのか、ほんとのところは今も考古学上の|謎《ミステリー》だ。
メキシコ以南、中南米から南米にかけちゃ、こんな正体不明の巨石建造物がゴロゴロしてるよ。だけどな、サイラスが見たものは、そのどれよりもスケールの点でひと桁ばかりちがうんだ。
ざっと計算すると、奴さんの測定した石はどれもほぼ完璧な正方形だったというから、体積で三一四立方メートル。重さ二千トンは下るまい。これは、レバノンのバールベックにある石切り場に放置された巨石とほぼ同じ重量だ。だが、いいか、バールベックの石は運び切れずに打ち捨てられたとされてるが、サイラスの見たものは、ちゃあんと組み立てられていたんだぜ。しかも、それは一番ちっぽけな[#「一番ちっぽけな」に傍点]石なんだ。もひとつしかも[#「しかも」に傍点]、現在、世界で垂直方向にものを移動できるクレーンは、アポロ宇宙船を発射台に運び上げるものが最大とされているが、それだって八○○トンが限度なのさ」
もう、ゆきは何も言わなかった。眼だけが輝いていた。自分の知識では理解不能な驚異を素直に認めながら、しかし、なお好奇心と、謎に対する闘志を失ってはいない。トレジャー・ハンターの必須条件だ。おれは満足してつづけた。
「ところが、ここに問題がある。サイラスの話じゃ、その建造物はどうみても新品同様、苔ひとつついてないし、雨風で摩耗した形跡もなかったというんだ。となると、現在も残ってる遺跡と年代的にとても合いっこねえ」
「すると、造られたばかりだというの? 嘘よォ。そんな凄い石造部落の話、どんな本にも書いてありゃしないわ。
大体、今から三〇年前といえば、第二次大戦の傷痕も癒え、朝鮮戦争も片づいて、世界が原子力時代に向かいだした時期でしょ。アメリカの水爆実験第一号が、えーと、一九五二年。翌々年には世界初の原子力潜水艦ノーチラス号も進水してるし、ソ連じゃ原子力発電も開始されてるわ。サイラスさまのその部落がどこにあるかはしらないけど、そんなばかでかい石ぶった切って家建てて、人目を引かないわけないわよ。万にひとつ飛行機が上空飛べばいっぱつじゃないの。一年や二年で出来上がるような代物でもないしさ。
それに、その当時は隠密裡にやれたとしても、それから三〇年のあいだには、何十という探検隊や測量部隊がアマゾンへ入ってるのよ。そんなに大規模な石造建築物が、そのうちの誰ひとりの目にもとまらなかったなんて、信じられないわ。そもそも、どう考えたって存在するはずがない[#「どう考えたって存在するはずがない」に傍点]代物なのよ。サイラスさま、夢でも見てたんじゃないの?」
知識の確認もかねて一方的にまくしたてるゆきに苦笑いしながら、おれはパイを口に運んだ。うまい。パンプキンの漉し方がプロ級だ。料理の腕と根性悪は関係ないらしい。ムシャムシャと下品な音を立てながら、
「おれもそう思ったよ。だが、夢にしちまうと、それ以後の奴の出世物語が説明できなくなる。――いかん、もう二時半か。寝不足は美容に悪い。はしょっていくぞ。
初めのうちサイラスは、自分を助けてくれた娘――あとでダナという名と知れた――と、何とか意思を疎通させようと努力したんだが、なかなかうまくいかなかった。ダナたちの言葉は、奴の知ってるどんなインディオの言葉にも当てはまらなかったし、その文字も、記号やら絵やらを組み合わせたもので、けちな密貿易野郎の手に負える代物じゃなかった。
それでも、どうやら未知の世界から来た白人の男に興味をひかれたらしいダナは、必死で彼を理解しようと努め、ひと月後にはかなり複雑な概念も通じ合える間柄になっていたんだ」
「へええ」ゆきが小馬鹿にしたような声をあげた。「できちゃったのね。白人と森の娘のロマンスよっくある話よ」
「うるせ。チャチャを入れんな、チャチャを。まあ、それでようやく、サイラスにも身辺の事情が呑みこめたわけさ。その国は、ダナもよく知らぬ遙かな太古から栄えてきた。文明の手も及ばぬ場所で、周囲からは完全に隔離され、純粋に彼らだけで自給自足の生活を営んでいたんだ。
建物のまわりには広い畑もあり、狩りもさかんだったという。遠くからしか見なかったのでよくわからねえが、トカゲのでかいのだの、わけのわからん獣が、よくジャングルの中から追いたてられてきたそうだ。武器は石の槍と弓と吹き矢――この辺は今のインディオと大差ないが、武器に塗る毒か眠り薬だかがかなり強力で、しかも、兵隊役らしい男どもが使うと百発百中。サイラスの目撃談だと、二〇メートルくらい先を走ってた大トカゲの両眼を二本の吹き矢で射抜き、しかも、眼ばたきする間に失神させてしまったという。建物の周囲には、落とし穴や、鋭い木の杭を露出させたバリケードなんかの『狩り場』があり、密林から追いたてた獲物はそこで始末していた。かついでくるのが面倒だったんだろう。
だが、何よりもサイラスの興味をひいたのは、その王国のもつ巨万の富だった。
ある日、ダナの案内で近くの岩場を歩いていた彼は、そこで偶然、ダイヤモンドの鉱脈を見つけちまったんだな。多分、大昔に起きた地崩れか何かが、その辺の石炭にとてつもない圧力をかけてダイヤを製造し、その後、何万年かの間に、再び地殻変動で地表へ跳び出させたんだと思う。
面白いことに、ダナや他の連中は、その鉱脈のことをとうに知りながら、ろくすっぽ興味も示さなかった。そらそうさ。人跡未踏の大ジャングルの中で、ひと粒一千万ドルのダイヤが何の役に立つ? しかし、サイラスはそう考えなかった――」
「ははーん」ゆきが意味ありげにうなずいた。「でかいのかっさらって、とんずらこいたのね」
「犯罪者用語を使うな、このノータリン」おれは苦々しい口調で言った。「ま、結果的にはそうなったが、その前にもうひとつ、とんでもない事件があるんだ。それが今度の依頼の内容さ」
「へえ。何よ、なに? 教えて教えて」
スケスケの女体がぐっと眼前に迫った。体臭とまじりあった高級香水の香りが鼻をつき、世界がピンクに変わる。下腹部がムズムズ。そろそろもの[#「もの」に傍点]にしていい頃かな。
途端に、ゆきはさっと身を引いた。
「お気の毒さま、べえ」と赤い舌を出す。「あんた結構、根が正直なのよね。あたしを組み敷こうと決心すると、きっちり二秒後に鼻の下が二センチ伸びるわけ。一秒一センチよ。それなんとかしないと、跳びかかる前に女の子はみんな貞操帯つけちゃうから」
「な、なんてこと言いやがる!」おれは逆上した。「きききさま、それでも、だ太宰先蔵の……」
「えー、孫娘よ。知っての通りね。なにさ、自分が先におかしなこと考えたくせに、ケダモノ。さ、時間の無駄よ、肝心なこときかせて」
おれは口をへの字型に曲げて、額に手をあてた。うむ、熱がある。長生きゃできまい。
「……宝を見つけたサイラスは、たちまち里ごころがついた。折った足が回復してたせいもあるだろう。で、彼はダナに頼んで、部落の最高権威者たる神官――初めに出てきたいかめしい男さ――に会い、世話になったがそろそろ国へ帰りたいと申し入れたんだ。
ところが、神官の返事は予想を裏切るものだった。彼はサイラスがこの国で一生を送るか、さもなければ密林に棲む“大きな獣”の餌食になるか、どちらかを選べと言い渡したのさ。なんでも、ダナが必死になって頼むから助けたようなもので、本来なら部外者は一歩たりとも彼らの国へ足を踏み入れることは許されない――それが太古より連綿とつづいてきた鉄の掟なんだそうだ。
そこまで言われちゃ、面と向かって嫌だなんて言えねえやな。サイラスはなんとかその場をとりつくろい、逃亡する機会を狙うことにした。ひとりで大アマゾンを脱けるんだ、食料も水も、それなりのものがいるからな。
だが、そんな申し込みしたもんだから、次の日以降、奴の身辺には警備の眼が光るようになって、脱出の準備はなかなか整わなかった。それをなんとか誤魔化し、ようやく、一、二週間はもつだけの品を手に入れた数カ月後、サイラスはダイヤなんか糞くらえのどえらい代物を眼のあたりにする羽目になった。
その夜、煌々と月のかがやく明るい晩、建物と建物の間にある中庭を歩きながら脱出ルートのあたりをつけてたサイラスは、見え隠れにつけてくる警備兵をまこうと、庭の一角にある朽ちた石壁の蔭に身を隠した。
尾行が通りすぎ、さて、出ようかと立ち上がりかけたとき、奴は足元の地面から、何とも奇妙な物音が湧き上がってくるのに気づいたんだ。
あわてて土をのけてみると、下から泥と石で塗り込んだ小さな穴が現れた。音はそこから響いてくる。幸いあたりに人影はねえ。腰のナイフをスコップ代わりに石をのけ、乾いた粘土をえぐっていくと、じき、なんとか通れるくらいの隙間が開いたので、奴は恐る恐る地の底へ足を踏み入れた。
と、いきなりブーツに抵抗がなくなった。あっと思ったときはもう遅い。地面をつかんでた手も滑って、ザーッと数メートル、かなりの急傾斜を一気に滑り落ちちまった。
幸いすぐに底へ着いたんで、怪我はしなくて済んだが、腰をしたたか打った。だがな、痛がってる暇はなかった。眼の前に音の発生源が転がっていたんだよ。ただし、それは音じゃあなかった。うめき声だったのさ。ばかでかい泥人形の」
[#改ページ]
第二章 サイラスの腕
ゆきはきょとんとしていた。おれがこんな話をきいたら、「うわあ、凄え、ロマンだなあ」ぐらいの|台詞《セリフ》は吐くのだが、やはり女だ、馬鹿馬鹿しさと馬鹿馬鹿しい真実の区別がつかないらしい。おれは構わず話をつづけた。
「サイラスの落っこちたところは、恐ろしく広い地下の穴蔵だった。光といえば、今、自分が入ってきた穴から洩れる月の光だけで、そう見通しはよくなかったが、とてつもない広さだけは十分に感じられた。
泥人形は奴の眼の前に横たわっていた。身長は二、三メートル。でっぷり太った人間そっくりの手足は見分けられるが、眼鼻はついていない。
初め、人間が衣裳をつけてるのかと思ったが、腰から下がぽっきり折れ、折れ口にも泥しか見えん。手もとに片足らしきものが転がっていたので、やはり折れたところを指でほじってみると、ザラザラ崩れちまった。これで正体がわかった。
おまけに、人形は一体じゃなかった。よく眼を凝らすと、薄闇のあっちにもこっちにも、同じようなのがうようよしてる。しかも、いかにも苦しげに蠢き蠢き、なんとも言いようのない音を『顔』の下あたりから発しているんだ。地上できいた物音は『彼ら』のうめき声だったんだよ。
ようやくサイラスにも、ここがどこなのか呑み込めた。人形の墓場さ。どれひとつとして五体満足なものはない。足の折れた奴、片手をもぎとられた奴、頭半分が欠けたもの、そいつらが何百体と寄り集まって、朽ちるのを待ちつつ、薄闇の地下で呪詛か苦痛のうめきかをあげているんだ。
ガサッという音に振り向くと、横手の岩壁に横たわってた奴が、みるみる塵になってくところだった。寿命が尽きたんだな。崩れる前、これも泥でできた骨組みがみえたっていうから、芸が細かいじゃねえか。
一体誰が何のためにこんなものをこしらえたのか、まるっきり見当もつかぬまま、サイラスは出口を求めて歩き出した。入ってきたところから、とも思ったが、傾斜が急すぎる。どうやら、昔は階段として使ってたものが、長い間に摩滅したんで、入り口もろとも閉鎖したらしかった。
出口はじきに見つかった。向こうの方からやってきたのさ。
石壁としか見えなかった一角がギリギリと開いて、まばゆい光とともに、三つの泥人形が入ってきた。今度のはでかかったらしい。サイラスに言わせると、掛け値なしに六メートルはあったそうだ。真ん中の奴の右膝から下が消失し、両肩を支える右側の人形がそれを持っていた。そいつらは、負傷者――っつうんだろうな――を奥の一角へ横たえると、かたわらへ折れた足を置き、ズシンズシンと外へ出ていった。そのときすでに、サイラスは石の扉を抜け、光に満ちた世界へ脱出していたわけよ。そこは明らかに大建築物の中だった。
地上へ昇る出口を探して広い廊下をうろちょろしているうちに、奴はおかしな現象に気がついた。どう見ても真っすぐな廊下を辿ってるのに、身体は地下へ向かってる気がするのさ。案の定、壁際で燃える燭台の数は減ったと思えないのに、いつの間にかまわりは徐々に暗くなり、圧倒的な質量がひしひしと感じられた。天井は異様に高く、数十メートルにも達し、支える石柱も、直径七、八メートルはあるものが列をなしていた。
人っこひとりどころか、泥人形ひとつにも会わない。絶望感にさいなまれながら、さらに何百メートルか進むと、鉄の扉があった。開いている。ひょっこり入って奴は眼を見張った。人形墓場にも驚いたが、今回はその比じゃなかった。
クリストファー・サイラスの見たものは、歴史さえその存在を知らない、ある文明の姿だったんだ。この辺は、奴の話もちっとも要領を得ないんだが、イメージがあんまり鮮明すぎて記憶中枢が麻痺しちまったんだろう。
なんでも、果て知れぬ大天井を貫いてそびえるとてつもなく長大な石柱を中心に、小さなビルくらいもある石の歯車やら、円錐形のピラミッドやらがえんえんと連なり、そのすべてが活動していたというんだな。歯車と歯車の噛み合う音が耳を聾せんばかりに響き渡り、何千本と並んだピストン状の石柱が規則正しく上下する。
想像してみろよ、その光景を。
あの巨大な泥人形どもは、問題の天にも届く石柱の根元を取り囲み、そこから突き出た石の棒をつかんで、いつ果てるともなく石柱の周囲をまわりつづけていた。石柱の太さにくらべれば、蟻んこほどにも見えなかったっていうぜ。
労働の成果は、これも驚くべきものだった。高さ十五、六メートルはある石のピラミッドの頂点から、目もくらむ稲妻がほとばしり、部屋の一角を束の間、闇から解放するんだ。一列終わると次の一列、またその次って、これも果てしなくつづく。わかるだろう。泥人形と石ころが共同で電気を|勃《お》こしてたのさ」
「……」
「ピラミッドはエネルギー増幅装置か変換器だろうが、その巨大な柱の意味がわからねえ。多分、|発電機《ダイナモ》だと思うが、そんな電気を一体どこへ供給してるのか?」
「そうか……住まいの照明は油を使ってるのよねえ」
これは最大の謎だったが、どんな天才が考えたってわかりゃしまい。サイラスは何を考えていたのだろう。
「茫然と突っ立っていると、ばかでかい石の台座の向こうからふたつの影がやってきたので、サイラスは台座の陰に身を隠した。驚いたね、神官とダナだった。
ダナは見たこともない白い長衣をつけ、両手に小さな金色の箱を捧げ持っていた。何か話し合っていたが、機械の音でききとれない。どうやらこの娘はただの村娘じゃねえらしいと知って、奴はこっそりとふたりの後を追った。
今度は廊下を少し行ったところにある部屋だった。いや、倉庫といった方がいいだろう。そこには、あの巨大な泥人形がほぼ無尽蔵に並んでいたんだ」
「なによ、泥人形のタコ部屋?」
「阿呆。ことによったら、前の発電室よりでかいんじゃないかと思われる空間の半分ぐらいを占めて、泥人形の列がずらっと並んでるんだ。一体何列あるのか、先の方は闇に溶け込んでて見えなかったってよ。ふたりは大きな石のテーブルに近寄ると、実に奇態なことをやり始めた」
「いよいよ、本番ね」
ゆきが息を呑み、おれはうなずいた。
「テーブルの上で、ダナは金の小箱を開けた。まず、かなり太くて長い針と黒い糸玉らしきもの――サイラスが隠れてた柱のところからは、少し距離があってよく見えなかったんだ――を取り出し、次になんとも大仰な手つきで、二本のひからびた手首をテーブルの上に置いた」
「やだ。なにそれ?」
「じきわかる。神官はそのあいだ、何やら呪文みたいなものを唱えていたが、ダナが針に糸を通すと、それまで胸の前に組んでいた両手をはなし、なんと、両手の小指をテーブルの上にあてて逆にねじ曲げた。そんな顔すんなよ、神官は平気だったというから、よくできた義手だったんだろ、きっと。前にサイラスが会ったときは、まったくふつうの手に見えたらしいけどな。
とにかく彼の手は手首からすんなりはずれ、ダナはミイラ状の手首を一本取ってその切り口に押しあてるや、例の針と糸を使って巧みに縫い合わせ始めた」
「ぬ……縫った?」
「それからがSF仕立てになる。水気も血の気もない干物みてえなその手首が、縫いつけてから五秒とたたないうちに、みるみる普通の健康な腕に変身しちまったんだ。
神官はそれを見届けると、ダナを従えて、最も近くにある泥人形の列に近づき、口の中で何ごとかブチョブチョ言いながら、その左足に触れた。
手の先から何かが人形の中に入った。何も見たわけじゃねえが、サイラスはそう感じた。その証拠に、身長七メートルの人形は、ゆっくりと動き出したのさ」
「ちょっと、それなによ、その手――人形に生命が吹き込めるの?」
おれは答えず、
「神官はあわてもせず、通路の奥を指さした。サイラスが首だけ出してのぞくと、遙か彼方に、こいつらの出入り口らしいばかでかい洞穴が見えた。人形は意外に速い足取りでそこをくぐって消えた。これでわかったろ。つまり人形は、あの巨大な石の動力室で働く労働者だったんだな」
「そこはわかったけどさ」とゆきは眼を宙に据えて言った。「そんな奴らを作ってまで、一体何に電気を供給してるのよ。そもそも、その発電機も人形も誰がこしらえたの? いいえ、そこの文明全体はさあ?」
「おかしな言葉使うな。頭の中身を疑われるぞ」とおれは警告した。「それがわかりゃ苦労しねえ。大体、いくらアマゾンの奥地とはいえ、太古からそんな新品同様の文明が存在してること自体がおかしいんだ。ましてや今は米ソのスパイ衛星が地球の全表面をスキャニングできる時代だぜ。とっくに発見されて大騒ぎになってもおかしかねえ。いや、そっちの方が当然ってもんよ」
「そうよね!」ゆきも手を打ち鳴らした。「四、五年まえに、アメリカの静止衛星が、マヤ文化の遺跡を発見したって報道があったもんね。あれだって大変な考古学上の発見だと、大騒ぎになったんだ。いまの話みたいなのが見つかったら、上を下への大騒ぎよ」
しかし、おれは首を振った。
「それがそうでもねえんだな。あのときの遺跡にしたって、まだろくすっぽ調査されてない。それどころか、どっかの国の探検隊が出かけたって話もきかねえ。たかだか貴重な考古学上の遺跡というだけで、大蛇だのワニだのタランチュラだのがうようよいる大密林へ、何十人もの学者と何トンもの物資を送れるほど銭がだぶついてる国家はないのさ。だが、それにしたって、発見ぐらいはされてもおかしかねえよな」
「そうよ。ひょっとすると、とっくに見つけちゃってて、口つぐんでるのかもよ。ダイヤの山と泥人形に生命を与える手首。すっごい秘密じゃないの。ぜーったい億万長者よ。
うまくいってダイヤの権利だけでも貰ったら、株買いましょ、株。ボーイフレンドの親戚に兜町のベテランがいて、値上がり間違いなしの銘柄教えてくれる手筈になってんの」
おれは苦笑した。世界史の謎を解く鍵になる大発見も、この娘にかかっちゃ、たやすく日常生活のレベルに還元されちまう。女というのはまことに現実の使徒だ。
「ま、それは後で相談しよう。で、その光景を見たサイラスの頭の中にも、おまえと同じ利殖の考えが芽生えたわけだ。ダイヤだけじゃ勿体ねえ。土に生命を与える人形なら、死にかけた病人だって生き返らせるんじゃねえかってな。
政府首脳、天才芸術家、科学者、大企業の社長――世界を動かすトップ・リーダーたちに応用したら、手に入るのはそれこそ巨万の富なんてものじゃねえ。自分は世界でただひとり、死に神に対抗できる|魔法医師《ウィッチ・ドクター》になれるんだ。この世の栄華は思いのままさ。それどころか、うまくやれば東西両陣営に食い込み、事実上の世界の支配者にも……」
「あら、あたしよりちょっとスケールが大きいわねえ。くやしい」
「ちょっとな」とおれはウィンクした。
「ここまでくりゃ、後のストーリーは簡単だ。はしょろう。
用の済んだ神官が手首を交換すると、サイラスは背後から襲いかかって彼をKOし、手首を奪い取った。ついでにダナも連れて逃げた。奴を好きになってたダナはおとなしくついてきた。どうも彼女は巫女だったらしいな。そのひと声で、見張りは疑念ももたず次々と門を開け放ったそうだ。
途中でダナは足をくじき追っ手に捕らえられたが、サイラスは彼女に教わった脱出ルートを通り、丸一週間飲まず食わずでトロンペダス河の支流へ出、小さなインディオ部落へ辿り着いたのさ。もちろん、別れる前に例の手を縫いつけてもらうのは忘れなかった。さすがに手首を落としたときはのたうったが、ミイラのを押しつけられただけで、たちまち痛みが引いたとよ」
「馬鹿ね。あとで病院へいけばよかったのに」
「縫いつけるのも、手首の力を発揮させる特殊なプロセスだったんだとさ。むろん、サイラスはその縫い方を習って逃げた」
「わお。後半がやけに簡単だけど、面白い話ねえ。それで、その国はどこにあるの?」
「わからん。辿り着いた部落まではわかるが、その先はサイラスも見当がつかんそうだ。でもまあ、飛行機が墜落した位置ははっきりしてるし、手がかりゼロよりはましさ。もっとひでえ仕事をいくつもやってきてるしな」
畜生拍手しやがんの。おれはわざとらしく、
「そんじゃ第二部もはしょろう。これからがおっもしろいんだけどなあ」
「あ、ごめんごめん、冗談よ冗談。つづけてつづけて」
ゆきはあわてて愛想笑いした。胸前で手を猫みたいにパタパタする。少女時代のブルック・シールズもこんな感じだったのではなかろうか。いくら清純そうに微笑んでも、熱い肌触りが伝わってくる。おれはゾクッとした。
「それでさ、サイラスは、どうしてお医者さんじゃなく、ピアニストになっちゃったの?」
ちゃっかりしたもんだ。もう、さま[#「さま」に傍点]を削っちまいやがる。
「縫いつけを急かしたのが悪かったのか、あるいは、神官でなきゃ最高の力を発揮することはできないのか、死体に生命を与えることはついにできなかったそうだ。ことによったら、泥人形の作り方に秘訣があるのかもしれないが、結果は同じさ。
だが、天は一物だけは与えてくれるんだな。奇蹟よりワン・ランク下のレベル――物理法則の限界内では、盗んだ手首は奇蹟に近い力を発揮した。奴に言わせると、分子の手触りまでわかったそうだ」
「なによ、それ?」
「具体的にいおうか。ブラジルのサンパウロに戻ったサイラスは、盗み出したダイヤを売り飛ばして大金を手に入れたが、それが別の組織の連中の目に止まり、身の回りがヤバくなりだしたんで、思い切ってウィーンに渡った。やけに場違いなところへ行ったと思うだろうが、もう、このときはすでに、腕の持つ力に気づいていたんだな。
とにかく、どんなに複雑な楽器でもあの手で握った途端、子供のオモチャよりたやすく扱えるんだそうだ。しかも、そこから生まれる音色は、史上いかなる天才演奏家といえども紡ぎ出したことのない天上の美しさを持っていた。
これは、おれよりおまえの方がよく知ってるだろう。奴が粗末な竹笛で子守唄を吹けば、音の可聴範囲にいる赤ん坊は、どんなに泣き叫んでいても二秒以内にスヤスヤ眠り、サンパウロの安バーで|鎮魂曲《レクイエム》を弾いた時にゃ、トイレで七人の自殺者がでた。みな次々と折り重なって、ナイフで首切ったり、舌噛んだりしたんだ。奴がサンパウロにいられなくなったのには、こんな事情もあったらしいぜ。
だが、手首の力はこれだけじゃなかった。ウィーンのプラーター――映画『第三の男』で有名な大観覧車のある公園さ――でスケッチ描いて生活してたときなんざ、見てた子供が出来上がった絵に思わず豆を差し出したそうだ。サイラスは鳩の絵を描いていたんだよ。いたずらっ気を出して完成させたユトリロやモジリアニの模写なんざ、隠れた本物[#「隠れた本物」に傍点]として、ルーブルやウィーン国立美術館の壁を飾ってるとよ」
「まあ、詐欺じゃないの! ひどいわ」
「奴を責めるより、手首の力に感心するんだな。ホテルの部屋に飾ってあった自作の彫刻や版画も見てきたが、門外漢のおれでも、ひと目で天才の作品だってわかるほどさ。それと、奴、いつも愛用のピアノを空輸して使うだろ。あれも設計図だけ専門家にひかせ、組み立ては自分でやったといえば驚くかい? 必要とあればコンピューターだって組み立ててみせると、あの爺い豪語してやがったが、多分空威張りじゃないよ。
ま、後は知っての通りさ。サイラスが音楽家を選んだのは若い頃、少しジャズをかじったのと、こっちはおれの推測だが、やくざによくある芸術コンプレックスのせいだろ」
「やくざにそんな高級なもんあるの?」
「知るもんか。で、これから奴の依頼の内容に入るわけだが、もう寝たらどうだ? 眼が赤いぜ。夜更かしは身体に毒だし、おりゃ、コンピューターと帳簿調べをしなくちゃならん。おまえの学校にくれてやった寄附金の領収証がまだ未着らしいんだ」
「相変わらずせこいわねえ。お金なら腐るほどあるくせに。やーよ、寝るなんて絶対いや。寝てる間に、あんたひとりで南米行かれちゃ敵わないわ」
ゆきは歯を剥き出してかぶりを振った。頭でイヤイヤしただけなのに、おお、乳房がブラブラ波打っている。これが楽しみで同居させてるようなもんだ、実は。
ま、しようがあるまい。
おれは手っ取り早く、帝国ホテルの玄関で出喰わした三人のインディオのことを話した。言い終わるや、ゆきはすぐ手を打って、
「わかった。彼らはその謎の国から派遣された泥捧だったのね。三〇年かけて、ようやく手首を取り返したわけだ。えらいわねえ、泥棒のくせに」
「盗んだものを取り返したのが泥棒になるかどうかは知らんが、手口はなかなかのもんだぜ。なにせ、どこから入ってきたのか、当のサイラスにもわからんくらいだ。気がついたら、部屋の中に立ってたそうだからな。出るときは三〇階の窓を開けて飛び降りたが、窓の錠はちゃんと夕方、|内側《なか》から締めたままになってた」
「でも、サイラスのおっさん、そんなスーパーマン相手によく無事でいられたわね。当然、抵抗したんでしょ?」
「いいや。実は今日――といっても、もう昨日か。その朝、奴の枕もとに、下手くそなポルトガル語の手紙が置いてあってな。おれも見たけど、今日の夜、手首を返してもらいに行くとだけ書いてあった。
隣室には秘書とガードマン、部屋の外にもホテルの警備員がいたが、誰ひとりこの変事に気がつかなかった。
奴はそれだけですべてをあきらめ、知り合いのいるITHAのヨーロッパ総局へ連絡し、現在探し得る、おほん、最高のトレジャー・ハンターを紹介してもらったのさ。すなわち、おれだ」
「なあるほどね。取られるのを防ぐより、取り返す算段をしたわけか」
おれの自慢そうな声をわざと無視して、ゆきはうなずいた。
「クリストファー・サイラスが不自然なくらいマスコミ嫌いなのも、居場所が不明がちなのもようやく呑み込めたわ。いつか、こうなるんじゃないかと恐れていたのね。それにしても、どうして今ごろ日本くんだりまで。三〇年もたってるのよ」
おれは唇を歪めて椅子の背にもたれた。人間工学を十分取り入れた背中は微妙に傾斜し、脊髄の曲率に合わせて最も負担の少ない角度でおれを包み込んだ。
「前から探していたのに見つからなかったか、あの手首がどうしても必要な、何か差し迫った事情ができたかだろうな。多分、両方だろう。
彼らの文明の閉鎖性から考えて、そう多人数の捜索隊を外の世界へ送ったとは思えん。また、探す方も全く異質な環境に慣れるまで、相当な時間を要したろう。三〇年は彼らにとっては、必ずしも長いとは言えまいよ」
おれはよく冷えたグラスを取り上げ、アイス・ティーの残りを飲み干した。長話の間にも、温度は全然上がっていない。チェコのボヘミアン・カット・グラスだが、材料はアメリカの防弾ガラス・メーカーが開発した温度非透過性ガラスを採用、周囲の熱さを完全に遮断する。蓋さえしておきゃ、丸一日は氷も溶けない。
「さあて、寝るか」
おれは大きく伸びをして立ち上がった。ゆきもつられてふわああ。机の電子置き時計は、午前三時をさしている。
「明日、ITHAの連絡が入ったら教えてよ。絶対一緒に動くんだからあ」
パンティの食い込んだ跡がくっきり見えるヒップを振りつつ、ゆきは寝室へ引き下がった。
おれは書斎を出ず、結局机に戻った。ゆきの高校の領収証だけでやめるつもりだったのが、各官庁からの寄附金の請求書だの、スイス銀行、バンク・オブ・アメリカをはじめとする全世界七五カ国の銀行からの利息振り込み通知など、目を通さにゃならん書類が続出し、全部片づいたのは、さらに一時間たってからだった。
七月の空はすでに青みを帯び、それでも月だけはほぼ真円を保って西の空に浮かんでいる。
地下二〇〇メートルに眠るマザー・コンピューターが制御するエアコンの、おれとゆきの身体に最も適した涼やかな空気の中で、おれは奇妙な感情の相克を覚えていた。
十四年間のトレジャー・ハンター生活の中でも初めてのことだ。大アマゾンの奥地に眠る一大秘境王国、無尽蔵に近いダイヤ大鉱脈、奇怪巨大な石の文明とそれを支える泥の巨人たち……身体の奥で八頭の血が湧きたっているのも当然だ。
だが、もうひとり、地獄の淵を渡ってきた何でも知っているおれ[#「おれ」に傍点]が、仏頂面で首を振る。世の中、知らない方がいいこともある、と。
それが何なのか、いくら尋ねても答えはなく、おれはあきらめて窓の外へ眼を向けた。
排気ガスで汚れ尽くした六本木の、明け方近い夜空と白い月。地球と同じころ誕生し、以来、そのやんちゃで大きな兄を慈愛に満ちた眼差しで見守ってきた美しい妹――その静かな気高い姿に、おれは何度救われてきたことか。
ピレネーの迫りくる大断層を間一髪で脱け出したとき、生還を祝うがごとく頭上に輝いていた月、マレー半島の大頭人に追われ、ベラ湖畔の葦の繁みに身を隠したおれを、やさしく保護してくれた月。
よろしく頼むぜ、これからも。
胸の中でつぶやき、おれはようやく腰を浮かせて寝室へ向かった。
翌日の正午近く、一台の赤い稲妻が中央高速を横浜方面へ疾走していた。あっけなくぶっちぎりされたセリカだのシャレードだのの安物ドライバーが口惜しまぎれに鳴らすクラクションを尻目に、ぐんぐんと距離を離す。
車はフェラリ・ベルリネッタBB512I。おれの愛車で、ハンドルを握った気狂いはゆきだ。
時速は一七○を超えている。いつもなら、少しは加減しろ、と文句を言うところだが、今日は別だ。
「どう、あたしのテクニック、ちょっとしたもんでしょ? 免許だってあるし、鬼に金棒よ。こらそこの。あんた邪魔よ。事故を起こしたくなかったら、さっさとどきなさい」
きこえもしない青のカローラを口汚くののしり、派手にクラクションを鳴らすや、一気に加速する。接触寸前のところで追い抜いた。怒り狂ったドライバーの顔が、バックミラーの中でみるみる小さくなってゆく。
「いいぞ」とおれはけしかけた。「高速を一七○以下で飛ばす野郎なんざ男じゃねえ。もっとあげろ。パトカーがきたら、おれが話をつけてやる」
「まっかしといて」
ゆきは思いきりアクセルを踏んだ。まだ十七歳のくせに免許を携帯してるという安心感があるから気狂いに刃物だ。
低脳ボーイフレンドどもとのドライブで味をしめたらしく、あんなに凄い車があるのにあんただけ運転するのは不条理だ、あたしにも免許買って[#「買って」に傍点]くれと連日連夜泣きつかれ、警視庁に手をまわしてやったのだが、今日だけはその甲斐があったぜ。
「ねえねえ。横浜の調査員って、あたし好み? ハンサム?」
ゆきがルンルン気分で訊いた。
「ああ、なにせ男だからな」
「なにさ、馬鹿」
おれはゆきの悪態を無視し、出がけにコンピューター・ディスプレイで見てきたITHA調査課員・久保田の顔を思い浮かべた。ITHA直送の写真だ。
今朝の午前十時、まだゆきが眠ってるときに久保田から電話が入り、彼の使ってる情報屋が、三人のインディオらしい男と知り合いの貨物船の船長が話しているのを見たと伝えてきたのだ。彼らには日本人がついており、そいつの名前と住所もつかめそうだと言うから喜んだものの、すぐに久保田は緊張した声で、どうやら尾けられていると告げ、午後一時に山下公園の海側のベンチで待つと指定、連絡を絶った。
ぎりぎり粘ったが以後電話はうんともすんともいわず、おれたちは出発した。ゆきのインディ五〇〇〇並みのクレージー・ドライブを止めなかったのは、こういう訳である。
久保田は誰に尾行されたのか。この件が絡んでるような口ぶりだった。サイラスかとも思ったが、昨日の様子じゃおれに頼り切りだ。気が変わって他のトレジャー・ハンターを雇ったのだろうか。それとも別口の敵か。
どちらにしても話し合いじゃ決着はつくまい。おれは腕を組むふりをして、右手を麻のサマージャケットの内側へ滑り込ませた。
冷たい金属が指先に当たる。バーンズマーチン製ショルダー・ホルスターに収まっているのは、愛銃SW・モデル659・ステンレス・オートマチックだ。最大の欠点といわれた丸みのないグリップを、おれの手に合わせて改造し、ウィンチェスターの95グレイン(約6グラム)程度の軽い弾頭だとよくジャム(ひっかかり)するスライドに手を加えて、弱装弾でも九五パーセントまではスムーズに作動可能にした。
残りの5パーセントは、オートマチックに必ずつきまとう宿命的欠陥だから、これ以上銃に手を加えてもどうにもならない。西ドイツ製ゲコ社の一二四グレイン・カートリッジと、|薬室《チェンバー》・|弾倉《マガジン》込みで十五発の装弾数でカバーするしかない。ドイツのみならず、ヨーロッパ製カートリッジのほとんどは戦闘用だから、護身用の弱装弾が多いアメリカ製とはパワーがちがうのだ。
ダブル・アクションで七・五キロのトリガー|張力《プル》も手ごろな三キロに落とし、素早い抜き撃ちができるようフロント・ブレイク(ホルスターの前部が開くようになっている)になったホルスターには、十四連の余備弾倉がひとつくっついている。あとは内ポケットにご存知|電撃手袋《E・グローブ》、街なかの戦闘ならこれで十分だろう。もちろんフェラリには、その他の大型火器も積んである。くくく、楽しみだ。
約束の時刻にあと十分というところで、フェラリは高速を降り、青空の下にそびえる雄大な横浜スタジアムを左手に見ながら海岸通りに出た。土曜の午後なので交通量も多く、さすがのゆきもスピードを落とす。
公園の敷地に入る手前で、おれはフェラリを停車させた。
「なによお、変なとこ停めて」と唇をとんがらせるゆきに、ダッシュボードから双眼鏡を手渡し、
「これでおれを監視してるんだ。手を振ったら構わねえ、公園の中に乗り入れろ。救助係だ。大役だぞ」
「武器ちょうだいよ、武器」とゆきは手を差し出した。「あたしが襲われるってこともあり得るんだから」
「ダッシュボードにワルサーPPK/Sが入ってる。使い方は知ってるな。できるだけ足を狙え。相手が撃ち返してきたら、そのときは腹だ。頭だけはよせ」
「はいはい」
浮きうきした声に背中を押されて、おれは車を離れた。どっと熱気が襲いかかってくる。襟もとに軽く手を触れ、歩き出す。
アベックや子供が群がるかき氷や何やらの売店を横目で見ながら、おれは恋人との待ち時間をつぶしているシティ・ボーイといったおもむきで、海に面した柵のところへぶらぶら歩いていった。
濃灰色の海には何隻もの大型船が浮いている。うち一隻が世界を仰天させる秘密を握って、さらに巨大な謎を秘めた未知の国へ向かうのだ。恐らくは地上に残った最後の|失われた世界《ロスト・ワールド》へ。
湾の奥から吹いてきた潮風に髪をなぶらせながら、おれは柵の手前の道に沿って並ぶベンチに目をやった。大半はアベックと家族連れが占めている。その向こうに氷川丸の雄姿。
ふん、おまえらホテルいく金もないのか。おれなんか、これから荒仕事を片づけ、ひょっとしたら南米まで行くんだぞ。
熱気のせいで、かなり挑戦的な事を考えながら歩き出す。ゆきの方は見ない。平和な公園はもう|敵《ゲリラ》の隠れる戦場だ。一挙手一投足を観察されてると思った方がいい。
あの、稚拙極まりない「赤い靴をはいた女の子の像」の前まできて、おれは立ち止まった。斜め前方、像から三つ目のベンチの端に、白い半袖のワイシャツ姿が見えた。サングラスをかけた中肉中背の男が両手をポケットに突っ込み、ややうつむき加減で腰を下ろしている。久保田だ。
おれはため息をついて、彼のお隣さんに目をやった。反対側の端に、これはばかでかい、プロレスラーもどきの白人が、ポップコーンの袋片手に海を眺めていた。グレーのTシャツは女の乳房みたいに盛り上がり、松の根っこそっくりな毛むくじゃらの腕がはみ出ている。ベンチが歪んでいるように見えた。
何気なく見回すと、結構外人さんは多い。白い紗膜を張る噴水の向こうのベンチに若いアベックがふた組。コーラの缶片手に木蔭をぶらついてる黒人がひとり。
おれは無言で氷川丸の方へ歩き出した。
「あばよ」と胸の裡で久保田につぶやく。十四年間修羅場をこなしてきたおれだ。死体か睡眠中かぐらいの区別はつく。
久保田が尾けられているといったのは嘘ではなかったのだ。いつ、どうやって|殺《や》られたかは知らないが、わざわざ約束の時間に指定の場所へ連れてこられたところをみると、相当派手な拷問にかけられたのだろう。ITHAの調査員は口の固いことでは定評があるのだ。
そして殺人者どもは、新しい獲物――おれのやってくるのを待ち、真夏の日差しにうだる公園のどこかで眼を光らせているにちがいない。
おれは氷川丸の船内観覧チケット売り場へ近づき、ガラス窓に掲示してある値段表を見た。大人六〇〇円。高い。それでも一枚買って構内に入った。
賑やかな家族連れに交じって桟橋を進み、長い階段を上った。送迎用デッキに出る。見学順序と記されたプレートに従い、船内に入った。乗客用のサロンや、氷川丸の歴史展示室等を適当にのぞいて、曲がりくねった大型船特有の廊下を下層へと降りてゆく。見学が目的ではない。
じき船内の最下層部――機関室へ出た。
機械油の汚れがこびりついた鋼鉄のピストンやパイプが縦横に走っている。巨大な機械群の醸し出す非人間的な威圧感。人間のつくった、人間に最もふさわしくない場所だ。高い天井の照明もかえって重苦しい雰囲気を助長している。
おれは、見学者が絶えた隙を狙ってコースをはずれ、ばかでかいスチーム・タンクの蔭に身を隠した。怒りと興奮で血が湧きたち、そのくせ頭の中だけが異様に冴えている。
いよいよだ。
胸ポケットに手を突っ込む。
家族連れが何組かコースを通って隣室ヘ消えた。
人の流れが絶えた。
鉄と鉄の触れ合う重々しい金属音。入り口のドアが閉じられたのである。
つづいてもうひとつ。今度は出口だ。奴らも勘づいたのだ。
「出てきな、坊や」
抑揚のない鼻にかかった日本語が響いた。恫喝の響きゼロ。むしろ陽気な口調だ。発音も堂に入ってる。こりゃただの殺し屋ややくざじゃなさそうだ。もっとも、そんな連中にITHAの調査員がおめおめ殺られるはずがない。
「隠れんぼするつもりでおれたちを誘ったんじゃなかろ? え? 出てこないんなら、こっちから探しにいくぜ。宝探しの坊や」
やっぱり、な。
いくらひと気がないといっても、見学者がいっぱいの船の底で拳銃は使うまい。こう機械が詰め込まれていては、跳弾の危険性もある。発射した弾丸が跳ね返って心臓を射ち抜かれるのは、人殺しどもだって願い下げだろう。
おれはゆっくりと通路に出た。
チケット売り場の窓ガラスで背後を盗み見たときからわかっていたことだが、敵は久保田と同じベンチにかけていた巨漢ではなかった。
噴水の向こうではしゃいでいたふた組のアべック――その男たちの方だった。通りすがりの女の子を引っかけ、|偽装《カモフラージュ》を施していたのだ。
どちらも身長は一八○センチのおれとどっこいどっこいだが、胸の厚みは倍以上ある。片方はブルー、もうひとりはオレンジのポロシャツを着、ややくたびれたブルー・ジーンズと黒いブーツが共通点だった。髪は茶と金髪。どちらもなかなかの美男子だ。年齢は三〇前後だろう。便宜上、茶色をブラウン、金髪をブロンドと呼ぶことにする。
「ほう、よく出てきたね」
とブラウンが笑った。
「君の知ってること、ゆっくりしゃベってもらう。抵抗するとちょっと痛いよ」
ブロンドが大仰に顔をしかめてみせた。眼まで笑っている。これで|故郷《くに》に帰れば、働き者の陽気なヤンキーなのだろう。母親が眼を細める孝行息子かもしれない。こういう奴らを、おれは昔から知っていた。
「ベンチの男を殺ったのはおまえか?」静かに訊いた。
「はい、そうですねェ」ブロンドが朗らかに言った。「わたし、やりました。指全部へし折っても、あいつしゃべらなかった。で、今度は片手をつぶした。ようやく話しました。それから首をきゅっと絞め、血止めして、あそこへ置いてきたね」
おれはうなずいて、おいでおいでをした。
「来な。仲間の礼をしてやるぜ」
おれの口から流暢な英語が飛び出した途端、ふたりの顔から笑いが四散した。申し合わせたようにゆっくりと前進を開始する。機械の影が無表情な顔をどす黒く染めた。
おれは膝をやや曲げ、空手でいう後屈立ちに近い構えをとった。五歳のとき、アラビアで五つも年上の餓鬼大将を半殺しにして以来、数多くの修羅場をくぐり抜けながら身につけた、これが最も実戦的な喧嘩用スタイルである。
あまりにピタリと決まっているのを見て、ふたりの前進が一瞬やんだ。久保田の口からある程度のことはきいていたのだろうが、所詮は高校生となめきっていたにちがいない。その過ちに気づいたのだ。少なくとも非情な眼の色は、奴らにもひけをとってはいまい。
先頭のブラウンがボクシングのスタイルらしきものを取った。軽く落とした腰と膝の曲げ具合から、おれは奴らの正体に確信をもった
「おまえら|軍人《アーミー》だな」
ブラウンの口からしゅっと吐気が洩れた。
右のパンチが顔面を狙ってきた。おれは気にもとめず、一歩下がって、下腹部を蹴り上げてきた右前蹴りをブロックした。衝撃が全身を走る。とてつもない破壊力だ。肩先まで痺れる。パンチは牽制だったのだ。それでも両手首で太い足首をはさみざま、後方のブロンドめがけて突き飛ばした。
重々しい響きを立てて転がる相棒を避けてブロンドは後退した。髪の毛をそばだてて痙攣中の身体とおれの手に交互に目をやり、マーシャル・アーツの構えを解いた。ポロシャツを跳ねあげ、右手を腰にすべらせる。
だが、○コンマ五秒ほどでヒップ・ホルスターから抜き出したコルト・ガバメントは、四五口径――約一・一センチ直径のばかでかい銃口を足元の床に向けたまま静止した。かわりにふたつの眼が、今度こそ驚愕と恐れに彩られて、眉間へ不動の直線をひいたSW・M659を見た。
左脇の下から抜き撃つおれの平均タイムが○・三秒だと知っていたら、奴もわざわざ最後の武器をひけらかすような真似はしなかっただろう。阿呆が。世の中には、おまえたち以上に激烈な訓練と実戦経験を積んだ高校生だっているんだやい。
「左手でそっと床にすべらせろ」
奴は少しためらい、おれの眼を見てすべてを断念した。身を屈め、言われた通りにする。足元に送られてきた大型自動拳銃を、おれはブロンドから目を離さず拾い上げた。
すでに|撃鉄《ハンマー》は起きている。|弾倉《マガジン》を入れた時点で|遊底《スライド》を引き、|薬室《チェンバー》に一発送り込んでから、マニュアル・セフティだけをかけてホルスターに戻したのだ。暴発覚悟で行う、シングル・アクション・オートマチック特有の早撃ち用携帯法である。何かの拍子に撃鉄が落ちる精神的重圧さえ気にしなければ、あとは親指でマニュアル・セフティをはずすだけで射撃可能だ。
おれのSWのようなダブル・アクション・システムなら、同じく初弾を薬室に送ってからそっと撃鉄を戻せば、あとは|引き金《トリガー》を引くだけで発射でき、持ち運びも実に安全だが、一九一一年にアメリカ軍制式採用となったコルト・ガバメントではこうはいかない。とにかく親指であげるなり遊底を引くなりして撃鉄を起こさなければ、弾丸は発射できないのだ。軍用銃としてはブローニング・ハイパワー九ミリと並んで今なお世界最高の名をほしいままにしながら、ついに米軍が次期採用の軍用拳銃トライアルに踏み切ったのも、こうした機構自体の老朽化のせいだろう。
おれは左手で撃鉄を戻し、バックマイヤーのゴム・グリップつきのガバメントをベルトの内側に差し込んだ。
ふん、殺しにかけちゃベテランだろうが、拳銃についちゃこいつらアマチュアだ。この社のゴム・グリップはへんに粘っこく、銃と手の一体感が味わえないし、握りが甘くなるので、射撃大会で飯を食うようなガンのプロたちは絶対に使用しないのだ。
「さあて、一からやり直しだ。好きな得物を使っていいぜ。持ってんだろう」
おれはSWをホルスターに戻した。ブロンドの顔が一瞬あっけにとられ、次の瞬間みるみる殺意に彩どられた。
右手が、今度はブーツの方へ動き、何やら細長い品をズルズルと引き出す。右手に握られたとき、反射光を抑えるためグリースを塗った|刃《やいば》に照明があたり、持ち主にふさわしい殺意にみちた黒光りを放った。全長三○センチにも及ぶ軍用サバイバル・ナイフだ。
おれも慎重にならざるを得なかった。距離を測りながら小刻みに後退する。ブロンドもなかなか手を出さない。相棒のやられ方と、おれの手袋[#「手袋」に傍点]が気になっているのだ。
安心しな。E手袋の電撃は切ってある。おまえだけは素手で叩きのめさにゃ気がすまねえ。
儀礼上、おれが先に動いた。右廻し蹴りでナイフを握った手首を狙う。ブロンドは軽くかわして踏み込んできた。だが、おれの右足は完全な回転を成し遂げるまえにベクトルを変えた。渾身の力を込めた後ろ蹴りを胸元に食らい、ブロンドは見学通路まで三メートルも吹っ飛んだ。足[#「足」に傍点]ごたえからして肋骨の四、五本はイカれたろう。それでもさすがにタフネスが資本の軍人、ナイフも放さず、うめき声も立てずに起き上がってくる。
おれの背に冷たいものが走った。あのタイミングでおれの蹴りを受け、立った奴はいないのだ。
ブロンドが突進してきた。さすがに長時間の戦闘には耐えられないと見たのだろう。おれにもう一発食らっても、確実に仕留める気だ。
だが、奴がおれの占めた空間へ飛び込んできたとき、おれはその頭上にいた。頭上のスチーム・パイプにつかまり、鮮やかに身をひねって背後に降り立つ。
「!」
声にならない悲鳴をもらしたのは、おれの方だった。ブロンドは振り向きざまナイフをふるい、サマージャケットを切り裂いたのである。八万円のサンローランを。
「野郎!」
経済的激怒がおれを狂わせた。戻ってくる刃に目もくれず、負傷した胸へ前蹴りを食い込ませる。ゲッ! とナイフを落として崩れかかるところへ左右のフック。目にもとまらぬ|鳩尾《みぞおち》への十連打だった。
五発目でブロンドは悶絶していた。六発目で苦痛のあまり目を覚まし、七発目で完全に失神した。もたれかかってくるのを押し放す。ジーンズから白い湯気が立ち昇っていた。くそ、失禁までしやがった。しゃべらせるつもりがむきになりすぎたか。金が絡むと頭にきてしまう。
おれは素早く、床に横たわったブロンドのポケットというポケットをあさった。身分を示すような品は一切出てこない。右の二の腕にハートの|刺青《いれずみ》があるきりだ。ブラウンも同じだろう。活を入れ、手袋で拷問にかけても情報はつかめまい。舌でも噛まれるのがオチだ。
誰かが入り口の扉を叩いている。変事に気づいた客が係員に連絡したのだろう。
おれはE手袋をはずしながら出口へと歩き出した。
うめき声で振り向いた。
なんと、完膚なきまでに叩きのめしたはずのブロンドが、鉄製の手すりにつかまって身体を起こしかけているではないか。口のまわりは胃液と吐瀉物で汚れ、両眼はうつろだ。失神しながらも、敵に対する攻撃本能が身体を動かしている。人殺しにしちゃ見上げた根性だ。
右手が床のナイフを拾い、緩慢な動作で振りかぶる。
おれはスイッチを入れ直したE手袋でかたわらの手すりに触れた。三千ボルトの電撃に奴の心臓がもったかどうかはわからない。猛烈な痙攣が手すりを揺するのを感じながら、おれはそそくさと機関室の出口をくぐった。
[#改ページ]
第三章 死霊秘宝館
氷川丸を降り、真っすぐに公園を縦断して海岸通りに出た。
途中でベンチの方を振り返ると、黒山の人だかりだ。あの外人プロレスラーが、真っ赤な顔で何やら喚いている。やっと隣人の正体に気づいたらしい。フェラリの方へ歩き出したとき、遠くから救急車のサイレン音がきこえてきた。
おれは目を見張った。
フェラリのまわりにも人垣ができているのだ。あの|厄病神娘《カラミティ・ジェーン》、また何かやりやがったのか!?
だが、おれの姿を認めたゆきは、運転席から身を乗り出し、笑顔で手を振った。群がってた男たちが一斉にこっちを向く。思わずお巡りさんと呼びたくなるような、|凶々《まがまが》しい視線だった。
おお、怖わ。軟弱なシティ・ボーイならまだしも、全員、今すぐ銀行強盗でもやりそうな顔つきの壮漢ばかりだ。黄色いのと白いのと黒いの。最後の奴をのぞき、明るい色のTシャツや開襟シャツからのぞく肌は、こんがりと赤銅色に灼けている。ひと目で船乗りとわかった。
「遅いじゃないのお」まだ車のところへ行かないうちからゆきは唇をとがらせた。「ひとりで氷川丸になんか乗っちゃってさ。退屈だから、この人たちとお話ししてたのよ」
それから、おれの服の惨状と顔つきに気づいて「あら、どうかしたの?」
「どけ」
おれは語気荒く、運転席のドアのところに立っている黒人船員を押しのけた。お、抵抗しやがる。ぎろりと睨みつけた。黒い顔に浮かびかけた怒りの色はたちまち素っ飛んだ。殺し合いの揚げ句、ふたりを半殺しにしてきたばかりだ。女の子相手ににやついていた野郎とは迫力がちがう。
おれは手を振ってゆきを助手席に移した。
「な……なによ、気味悪いな……」
さすがに脅えたような声にも答えず、フェラリを出す。前に立ってた太鼓腹の日本船員とポパイみたいな顔の白人おっさんが、あわてて歩道にのいた。
お電話ちょうだいねと船員どもに手を振ってから、ゆきはこっちを向いて、
「ど、どこ行くのよ?」
「どこへ行きたい?」
「クリフサイド。お腹がペコペコ」
「ふむ。朝飯はサンドイッチと番茶だったからな」
「悪かったわね」
「どういたしまして」
「ふん!」
ふてくされていたゆきも、おれが交通量の激しい道路で片っぱしから追い越し、信号無視を重ね、猛烈なクラクションと非難の声を浴びるに及んで、ついに恐怖の相を浮かべ始めた。
「や、やめてよ、大ちゃん、他の車もいるのよ。ひい! 明日、学校から帰ったら、うまいパイつくったげるから。きゃっ! いいカボチャ売ってるとこ知ってるのよォ!」
ま、それからも、クリフサイドで態度の悪いボーイが料理運んできたのを足かけてひっくり返したとか、道路脇で嫌がる女の子を無理矢理口説いてるフーテンを見つけ、「おまえ、おれを捨てるのか」と泣き真似して逃げてきたとか色々あったが、別に|尾《つ》けられることもなく、おれたちは六本木のマンションに帰りついた。
「どうするのよ、久保田さんに会えない上、あんたまで襲われちゃって?」
「おまえは気にせずボーイフレンドと遊んでろ。明日のドライブの用意でもしたらどうだ。後はおれが片づけとく。ちょっとした行き違いだ。大したこたあねえ」
おれはごちゃごちゃ言うゆきを半ば強引に部屋へ追いやり、書斎に入った。まずITHAの日本支部を呼び出し、久保田の死を告げた。
ゆきには隠しておいたことだ。別に精神的ショックを恐れたわけじゃない。逆だ。仕事を頼んだ仲間が殺されたなんてきいたら、すぐ逆上して、仇討ちだのなんだの余計なことを考えるに決まっている。考えるだけならいいが、おれに内緒で実行に移したらことだ。
同様に、再起不能なくらい痛めつけた相手の正体も不明にしておいた。軍人だなと言ってはみたものの、これまで関わってきた奴とはどこか違う。イギリスの精鋭コマンド部隊、米軍の雄グリーン・ベレー……いざ戦闘となれば非情な殺人兵器に転じる男たちは数多いが、彼らだって、戦う相手が親兄弟となれば、必殺の引き金にかけた指を躊躇するだろう。あのふたりなら喜んで撃つ。――そんな違いだ。
久保田にはITHAから勤務中の事故死として相応の見舞金がでるし、彼自身、生命保険に加入していたから、残された家族――妻と子供ふたり――の生活は心配なさそうだった。少しは気分が休まる。何と言っても彼は貴重な手がかりを残してくれたのだ。
おれは彼の連絡の内容を告げ、横浜港に停泊中の全貨物船をあたるよう命じた。敵の実力も細かく伝え、十分注意するよう念を押す。
それから取引銀行に電話を入れて、きいたばかりの久保田の口座へ匿名で五千万円を振り込むよう指示した。なんの解決にもならないが、残された妻子の生活の足しにはなるだろう。おれにできるのはこれくらいだ。
おれはジャケットの襟から銀バッジ型のビデオ・カメラをはずし、フィルム・カプセルをコンピューター・ユニットヘ入れた。天人事件のときに活用した品と同型だが、技術の進歩は日進月歩で、録画時間は二〇分から三時間に延びている。山下公園に着いてから氷川丸を出るまで、スイッチはオンにしっ放しだ。
天井から舞い降りた五メートル四方のディスプレイに、ブラウンとブロンドの悪相が映ったところで画面を止め、国際電話を一本入れた。
「……ハロウ」
眠そうな声が答えた。無理もない、おれは少し悔恨の情に胸を痛めた。日本時間の今日午後五時は、ワシントンじゃ午前三時――真夜中の絶好調だ。なるべく愛想よく、
「あ、どーも、八頭です。いてくれて助かったよ」
「ヤガシラ……」
相手はちょっと頭の霞を払う努力をしていたが、だしぬけにOH! と叫んでベッドの上に起き上がった。正確にいえば、起き上がる気配がした。
「これは珍しい。就任式のとき、この電話で話して以来だね」
声にも眠気は跡形もなしだ。
「そうそう、このあいだは結構な寄附をありがとう。できれば私個人ではなく、共和党にも回してくれるとありがたいのだがね」
「おれはノンポリでね。政党てのはどうも気に喰わねえ。八頭家の血だな。それよりひとつ頼みがあるんだ、|大統領閣下《ミスター・プレジデント》」
「いいとも」間髪入れず、快い返事が返ってきた。「下院での貿易委員会の突き上げも、あの寄附でなんとかなった。今の私なら、大抵のことをして差し上げられるつもりだよ。何なりとどうぞ」
男の付き合いてのは、こうでなくちゃ。
「これからすぐ、ふたりの男の顔写真をホワイト・ハウスのコンピューターに送る。おれの見たところ、間違いなくアメリカ軍人だ。マーシャル・アーツの構えからして、多分、陸軍だろう。そいつの所属部隊と、どんな作戦に従事してるのか至急知りたい」
「夜半に緊急回線で叩き起こされ、何かと思えばそんなことか。アンドロポフの情事の相手でも調べてくれというのかと思ったよ」
拍子抜けしたような声にあくびが混じった。
さすがもとハリウッドの|俳優《スター》、言うことが下世話で実におれと話が合う。カーターのときはまいったぜ、あいつ買収が嫌いでよ。そのせいで、現職のくせにみンごと落っこちやがんの。ざまあみろ。
「そのくらいのことなら、日本の防衛庁で片がつくのではないかな」と大統領はつづけた。「あそこは、在日米軍を本気で自衛隊に組み入れようと工作しておる。身内のことならツーカーだろう」
「おれは軍人嫌いでね」
「そうか。……よろしい。すぐ手を打とう。明日――といってもこちら時間でだが、正午きっかりにこの回線で連絡を入れる。楽しみに待っていてくれたまえ」
「感謝するぜ。金のことならおれに言ってくれ」
大統領は軽快な笑い声を立てた。
「これで来年の選挙も鬼に金棒だな。黒人大統領誕生の予言も君の財力には通じまい。ディクソン夫人に嫌みのひとつも言ってやれそうだな。では、おやすみ」
「達者でな」
おれは爽快な気分で電話を切った。八頭家代々の当主が、発掘した財宝の力にものをいわせて広げてきた国際首脳ネットワークもたまには役に立つ。
おれの胸には、インディオを連れていたという日本人のことが引っかかっていた。貨物船の船長と会っていたからには、三人を脱出させる交渉にちがいない。少なくともあの二人の殺し屋とは目的を異にするわけだ。そいつも、謎の巨石王国と関係があるのだろうか。
いや、それよりも久保田は、その貨物船の名と出港期日をつかんだのだろうか。
ずっと胸について離れない疑問だった。
ついに、おれはある決意を固めた。横浜から戻る道中でも考えていたことだが、もうひとつ気乗りしなかったのだ。ITHAの調査員の腕は確かだが、ああばかでかい邪魔が入っちゃ、捜査は手間取るかもしれない。その間にインディオが港を出てしまうか、敵がその居場所を突き止めちまったら万事窮すだ。
となれば早い方がいい。
玄関へ向かう途中でキッチンから出てきたゆきとぶつかった。
「あら、血相変えてどこ行くの?」
「新宿だ。すぐ戻る――かどうかはわからん。達者で暮らせ」
「まあた。格好つけちゃって。晩ご飯までには帰ってよ。でっかいオムライスつくるんだからあ。玉子買いすぎちゃったのよね」
「へいへい」
部屋を出て、エレベーターで地下駐車場へ降りる。フェラリに乗った。
ため息が洩れた。無事、晩飯が食えるかな。
しかし、もう決心は変わらなかった。
久保田の秘密は久保田に訊くしかない。
三〇分後、おれは夕闇に閉ざされた東京第一の歓楽街、新宿歌舞伎町の一角にあるディスコの扉を押していた。
どっと騒音の化け物が襲いかかってくる。わけのわからん格好をした餓鬼どもが気狂いじみたロックのリズムに合わせて踊り狂う中を巧みに泳いで、奥の事務室へ向かう。
ノックと同時に「どうぞ」の返事があった。男の中枢神経をくすぐる甘ったるい響き。用もないのにノックしたがる店員がさぞや多いだろう。
デスクの奥で、やや厚化粧の妖艶な美女の顔が微笑んでいた。支配人のマリア・ムスティである。インド人で年齢は不詳。理由はじきわかる。
「久しぶりだな。驚かねえのかい?」
「そろそろ来る頃だと思っていたわ。わたしの大事なパトロンさん」
マリアはデスクから立ち上がり、おれに近寄るや、両腕を首に巻きつけて唇を重ねた。お白粉と彼女の故郷独特の香料の匂いに頭の芯まで痺れそうになる。
「景気はどうだい?」
おれは首に巻かれた腕をそっと離しながら尋ねた。
「まあまあよ。日本人は遊び好きね。毎晩毎晩、あれでよく勉強や仕事ができるわ。帳簿を見る?」
おれは手を振った
「親父が君に店をまかせて二○年。そんなものあることだって忘れちまってたよ。銀行から金は下りてるかな?」
「ええ。毎月二〇日にきちんと」
マリアは三本の指を立て、おれはうなずいて言った。
「結構だ。じゃあ、案内を頼む」
「何が見たいの? お父さまとちがってここの品には興味がないはずのあなたがわざわざ来るほどのものといったら、ノストラダムスの本物の[#「本物の」に傍点]『諸世紀』? カスパー・ハウザーの遺書?」
「アガメムノンの|仮面《マスク》だ」
マリアの赤い唇が|O《オー》の字をつくった。
「義理で驚かなくてもいい」おれは冷たく言った。「もう足が震えてるんだ」
「今度は大仕事なのね」
マリアは形容しがたい笑みを口元に浮かぺてデスクに戻り、インターフォンに向かってしばらく客を通さぬよう告げた。
右手がデスクの蔭で動く。ドアの左手にある壁が音もなく左右に分かれ、ニメートル四方ほどの小部屋が現れた。床面がぽっかりと口をあけ、コンクリートの階段が下ヘとつづいている。
「その前に一巻の終わりにならなければいいけど」
「やかましい」
マリアを先に、おれはあくまでも気乗りせぬ足取りで階段を降りた。背後で壁が閉まった。
季節を問わず二四時間、人いきれと騒音とネオンの絶えぬ街の地下にこんな場所があるなどと誰が想像できるだろう。
自家発電装置と除湿器の唸りがかすかに響く、光にみちたコンクリート製の空間で、おれは八頭家の先祖が収集した「特殊」な秘宝と相対した。
二〇〇坪は優に越す地下の大空洞に陳列されたそれらの放つ輝きと神秘感は、おれのマンションの展示室をさえ凌駕する。しかし、これはまた何という不気味な品ばかりであることか。
冷たいコンクリートの壁に立てかけられた古代エジプト王朝のものらしいミイラの棺は、その装飾すべてを荒々しく剥ぎとられ、頑丈な木製のテーブルに並んだバレーボール大の水晶球の内側では何やら人影らしきものが蠢いているではないか。
その隣にちょこんと立ったフランス人形大のものは、形状からして明らかにロボットだが、強い力を加えられたらしく全体が何となく歪み、細い板切れみたいに切り取られた口をパクパクさせて何やら口走っている。それがどうやら一種の歌らしいことを知って、おれは総毛だった。
まだある。壁を埋めた狐、猿、鳥――おなじみの動物たちの他、悪夢としか思えぬものの顔を再現した仮面類だ。長さ何メートルもありそうな木の棚に収められた古びた巻物、妖気ただようグランドピアノ、巨大な石に半ばまで食いこんだ鋼鉄の剣……。
よく目を凝らせば、天井の螢光灯からほとばしるまばゆい光さえ、これらの怪異な展示物の醸し出す妖気に、輝きが本質的に持つ生気を吸収されて、心なしか色褪せて見える。
ナウい若者たちでごった返す歌舞伎町のディスコの地下は、実に八頭家代々の呪われた発掘品の陳列館なのであった。百年以上まえ、明治時代に祖父の造ったものだ。
もとは芝白金台の洋館に収めてあったのが、なにせものがものだ。当時の新聞にもあるように、連日文明開化の東京に怪異が続出し、すぐここへ移った。方位や星の動き、地相からいって、霊の動きを封ずるのにもってこいだったらしいが、いくら宝物とはいえ、こんなもんよくとっとく気になったものだ。年寄りのやるこたあわからねえ。
こんな不遜な念をいだいたせいか、おれの体温は異様に下がっていた。
かすかな音が、ミイラの棺の方でした。
いつの間にかマリアの姿が消えていたが、おれは気にせず棺に歩み寄った。床の上に新品の錠が落ちている。鍵はかかったままだ。何かの拍子にはずれて床に落ちたとき、そのショックで元に戻ったのだろう。ふと見ると、棺の蓋がかすかに開いていた。
閉じようと、ぼんやり手を伸ばしたおれの肩を、誰かがぐいと鷲掴みにし、もの凄い力で後ろへ引っ張った。よろよろと数歩下がったとき、おれは急に頭がすっきりするのを覚えた。
「あたしと一緒じゃなければ危ないと、お父さんからきかされなかったのかい?」
しわがれ声[#「しわがれ声」に傍点]が嘲るように言った。
それに呼応するかのように、棺の隙間からこの世のものとは思えぬ低い|怨嗟《えんさ》の声が湧きあがるのをおれはきいた。いや、すり切れ、褐色に変わった包帯らしきものを巻きつけた腕――茶色の剛毛で埋め尽くされた鉤爪を持つ腕が、空しく空をつかんで薄暗い帯の中に戻っていくのを見たのである。
おれは頭を振って振り向いた。
マリアが笑っている。ただし、化粧を落としたその顔はおびただしい数のしわ[#「しわ」に傍点]に塗りつぶされ、高い鼻はつぶれて、濃艶なディスコ経営者の面影は片鱗も留めていない。
親父がインドから連れ帰り、この宝物館の館長の座に据えたとき、すでに九〇は越していたというから、それが確かなら今年で一一〇歳をすぎているわけだが、見る角度や光の加減によって、二〇歳の少女に見えるときもあれば、二〇〇近い妖婆にちがいないと思わせるときもある。
確実なのは、ヒンズー教徒の中でも特に格式が高く霊験あらたかな家系の生まれで、彼女自身、幼い頃から霊地霊峰を巡り、様々な超自然的能力を備えているということだ。この陳列館にぴたりの管理人である。戦争で家を焼かれ、伝説の妖人種トウチョ・トウチョの秘宝を探しにいった親父とタイで知り合って、誘われるまま今の仕事についた。生ける神秘の具現者にしては明朗闊達な性格で、むしろディスコの店長に化けて若者たちと踊っている方が楽しい、といつも言っている。
「こっち[#「こっち」に傍点]の側の人間がここにくるときはよくよく気をつけなくちゃ。こいつら[#「こいつら」に傍点]は、とうの昔にあっち[#「あっち」に傍点]側へいったくせに、まだこっち[#「こっち」に傍点]に未練をもって、仲間を探しているんだからね」
何百年前の代物かと思われるボロボロの、しかしいかにも由緒正しげなサリーを着て、妙な人形やビーズ玉がいっぱいついたネックレスを首から下げたマリアは、こう言いながら棺に近づき、またもや伸びてきた野獣の手をひっぱたくと、簡単に蓋を閉じてしまった。
「こいつは確か……」
「ピラミッドで有名なクフ王の父・古代エジプト第四王朝の始祖クネフルの末子さ。猫の悪霊ヴァストに取り憑かれ、母親の腹を食い破って出てきたため、秘密の石牢に幽閉されたが、鎖を食いちぎって逃亡。人々を殺害して回ってるところをもう一度捕らえられ、ミイラにされてあそこに閉じ込められたんだ。王族の紋章も飾りもすぺて剥ぎ取られてね」
おれのげんなりした表情を見て、マリアは悪戯っぽく笑うと、机の水晶球を指さした。
「あれは、十六世紀のデンマーク宮廷占星術師チコ・ブラーエ愛用の予言球さ。天文学者としての業績はすべてヨハネス・ケプラーによって否定されちまったが、一生に三度だけ、あれ[#「あれ」に傍点]を使ってなした予言はことごとく的中したよ。すなわち、巨大船タイタン[#「タイタン」に傍点]の氷の海での沈没と、東洋の国ヒラシミ[#「ヒラシミ」に傍点]の上空に燃える巨大な火の球――あとひとつは言わぬが花だろうさ。
彼の妾のひとりが盗み出してトルコの大富豪のコレクション・ルームに飾られていたのを、あんたの曽々お爺さんが見つけ、派手な銃撃戦の末、失敬してきたんだ。中にいるのは盗んだ妾さ。ブラーエの呪いか水晶球の呪いのせいかは知らないけどね。三度以上あの球を予言に使うと、彼女の代わりを務めなきゃならんと言い伝えられている。やってみるかい?」
「よしてくれ」
おれは首を振り、うそ寒い眼付きで周囲を見渡した。
「このロボットなら知ってるぞ。『マグヌスの召使い』だな」
「そうとも」
マリアはどこからか引っ張り出した鍵束をガチャガチャさせながら言った。
「ドミニコ会の聖人アルベルトウス・マグヌスが、特定の惑星の配置下でこしらえた、召使い用の万能ロボットさ。頭のてっぺんにあいてる穴へ水銀を一滴たらしてやると、人間の言葉をきき分け、指示通り動いたそうだよ。
類まれな美声で歌も唄ったが、その声にきき惚れたケルーンの名家令嬢が焦がれ死にし、マグヌスへ糾弾の矛先が向けられるのを恐れた愛弟子の聖トマス・アクィナスにハンマーで破壊されてしまったよ。一六〇七年に神聖ローマ帝国のオカルト皇帝ルドルフ二世が、プラハのある|好事家《こうずか》の倉庫から残骸を発見し、再生したのがそれさ。でも、あんな声しか出ないんなら、本人、生き返らない方がよかったと思ってるんじゃないかねえ。
――さ、いつまで展示品の説明しててもきりがない。さっさとあんたの用事を済ませようじゃないか。おいで」
いつのまにか、マリアは奥の壁についた鉄のドアのところにいた。
扉をはさんで両側の壁に高くかけてあった二枚の、おかしなことに腰から下が黒ペンキか何かで塗りつぶされた中年の紳士のしかめっつら[#「しかめっつら」に傍点]の肖像画が、このときにんまりと不気味な笑顔でうなずき合い、上半身を屈めたマリアの背にぐっとつかみかかったのを見て、おれは叫び声をあげそうになった。
だが、十本の指先は彼女の頭上数センチの空間で宙をつかみ、肖像画は怨めしげに顔を歪めると、またもとの位置に収まった。
おれの記憶によれば、二〇世紀初頭にスコットランドのさる美食家兄弟が描かせたもので、完成した途端、衆人の眼の前で画家を取って食ったという。それから夜な夜な額から脱け出しては近隣の女子供を食い歩いたので、たまりかねた兄弟が夜歩き出来ないようにと足の部分を塗りつぶしたのだ。それほどの大食漢がここ数十年胃に何も入れていないんじゃ、しかめっ面になるのも当然だろう。
「お入りよ」
マリアの開けた明るい入り口の奥から、これまでに数倍する妖気がただよってきた、
ぶるっと身を震わせ、しかし、あくまでも傲然たる姿勢を崩さず胸を張って、おれは老婆の後を追った。
その陳列品は、大きさだけ見れば、木の椅子とテーブルだけの小さな部屋にふさわしかった。だが、テーブルに置かれたガラスのケースからじっとおれを見つめるふたつの空洞――その瞳はたちまちおれの|精神《こころ》を呪縛し、それがこれまで眼にしてきた無際限な時の流れと、おれたちの知っている正統な歴史の裏で暗躍するさまざまな黒い神秘の闇――いわば暗黒正史とも言うべき無窮の夢へおれを誘い込もうとした。
正直な話、マリアがいてくれなかったら、おれはその場に硬直したきり、生きるも死にもできぬ状態になって、永劫の精神彷徨をつづけていただろう。
だが、マリアの眼――人間界の汚濁と霊界の神秘を見つめながら、なお限りない生けるものの叡智と宇宙を|統《す》べる大いなる真理への理解を宿した温かくやさしい瞳は、おれをしっかりと現実世界へつなぎとめていた。
「さ、おやり。大丈夫、マリアが見ていてあげるよ」
おれはもう恐れなかった。
数百年を経た木の椅子に腰を下ろし、ガラスのケースをはずすと、そいつを手に取った。天上の名工か悪魔の手が彫りあげたような精妙で美しい黄金の|人面《マスク》――アガメムノンの仮面を。
おれはためらうことなく、その冷ややかな内側の空洞を顔に押しあてた。
一片のタイム・ロスもなかった。
眼の前に忽然と、陽光にみちあふれた緑の原野が出現したのである。
前方の小高い丘の頂上に、巨大な円柱に支えられた白亜の宮殿がそびえ立ち、白い長衣をまとった男女がオリーブの花咲き乱れる大庭園を優雅に散策中だ。麓の村落は粘土づくりのようだが、豊かな生活を誇るがごとく、人々の表情はみな明るい。
ミケーネだ――おれの意識のどこかがつぶやいた。
あの謎の天才シュリーマンが発掘した伝説の都。ギリシャ神話に謳われたトロイ戦役の武人アガメムノンが統治したとされる豊穣の国を、おれはいま、仮面の眼を通して眼のあたりにしていた。
再び光景が変わった。
エーゲ海の青い海原を横切り、一路トロイアへと向かう大船団の|舳先《へさき》におれはいた。
美女ヘレーネを無理無体に略奪したトロイア人どもを征伐し、ギリシャの意気地と力を見せつけてやらねばならぬ。しかし、なぜか気が重い。故郷にのこした愛妻クリュタイムネストラのせいだ。あの、男の脳髄をとろけさせる唇を、今宵も愛人アイギストスのそれに重ねているのだろうか。
耳もとを投げ槍がかすめた。トロイアの城塞にも|手練《てだ》れがいると見える。おお、わが軍の放つ火矢に、砦の一角が炎に染まっているではないか。鳴り交わすホラ貝の轟きと、戦の叫び、死にゆくものの祈り……。
しかし、見ているがよい、猛悪なるトロイアの運命も今宵限りだ。我らの背後には最後の奇策が控えている。精鋭五〇人を忍ばせたあの木馬は、すでに完成しているはずだ……。
ちがう! おれは胸の裡で絶叫した。
おれはアガメムノンじゃあない。ギリシャの総大将とは違う。別のものが見たいのだ。別のことが知りたいのだ。おれは必死に、ある顔を思い浮かべ、求める事柄に意識を集中した。
死の寸前まで久保田の脳裡にとどまっていた知識。インディオを乗せる貨物船の名と、彼らを世話した日本人の身元……。
「改造」が始まった。
背骨が音を立てて真ん中からへし折れた。腹がかっさばかれ、ひきずり出された内臓の代わりに、別の胃が、腸が入ってくる。毛穴という毛穴から侵入した異人の血液が、血管の中でおれのものとせめぎ合い、湧きたち、一滴のこらず放逐してしまう。
おれは久保田になりかかっていた。
|死人《しびと》に。
渾身の力を振りしぼってそむけた目に、椅子の肘をつかんだ手が映った。おれの若々しい腕とはくらべものにならぬ、血管が浮き出た四〇男の手が。
耳の中で化鳥の絶叫が響き渡り、とどめの痙攣がおれを襲った。深く冷たい地の底へ引き込まれていく寸前、おれは、用を終えて車に乗り込むインディオと日本人の後ろ姿を見た。
耳もとで夜風が吠えている。
風ぐらいなんとでもなるが、月が恥ずかしげもなく出ているのは困りものだ。夜の仕事がしづらいじゃないか。
右手前方に金沢八景の駅が見えてきた。道路は右にも延びて線路の下を通り、駅の裏手にそびえる崖上の住宅街へとつづいている。ホームの明かりはとうに消え、周囲の家並みも闇の静かな蹂躙に身をまかせていた。
午前二時――いま起きているのは、世界を裏で動かす奴らばかりだ。
おれはフェラリを右折させ、急な坂道に乗り入れた。蛇行しながら崖をのぼっていく。中腹をややすぎた右手に、車がやっと入れるくらいの細い道があった。好都合にも両側は深い林だ。
十メートルほど進んでやりすごし、道の入り口からは見通しがきかない地点で停まった。カムフラージュのポロシャツを脱ぎ、戦闘服のフードを頭からかぶる。眼部に仕込まれたレーザー応用の|暗視装置《ノクトビジョン》が、真昼並みの光量と色彩を提供してくれる。防毒フィルターを通る空気は、外部より新鮮なはずだ。
武器と七つ道具を詰めたショルダー・ケースを肩に、曲がり角の街灯の蔭から小道の入り口へ目をやった。
やはり人影はない。
見張りを置くのが定石の地点で透明人間しかいないとは。すると奴ら、久保田からこの家のありかを探りあてていないのか。彼が知り合いの情報屋からこの家の主の身元をききだした時点で謀殺されたのかどうかは、アガメムノンの仮面をかぶってもわからなかったのだ。
しかし、そう都合よく話が進むはずがない。おれの考えじゃ、奴ら早々に押しかけ、インディオたちを襲ったのだ。今ごろ顔を出しても十中八九骨折り損だろうが、おれには万にひとつの希望があった。インディオたちの実力だ。特殊訓練を受けた兵士のAR16自動小銃でも、三〇階の窓から平然と地上へ降り立てる超人たちに通じるかどうか。だからこそ、おれも無駄を覚悟で武装してきたのだ。めまぐるしく頭を働かせつつ小道の方へ急ぎながら、おれはふと、大統領からの連絡が入っている時刻だな、と思った。
結局、おれは新宿で死なずに済んだのである。
死者そのものに変じて彼の記憶を探るアガメムノンの仮面は、古来、無数の人々に知識や真実を与える代償としてその生命を奪ってきた。おれは辛うじてその呪縛から脱し切れたのだ。日頃鍛えた精神力のたまものにちがいない。ひょっしたら、マリアが力を貸してくれたのだろうか。
残念ながら求める|光景《シーン》は、失神する寸前に垣間みたものだけだったが、十分に目的は果たせた。インディオや謎の男の他に車の背中も見えたのである。ナンバー・プレートが。
マリアに礼を言って店を出るや、おれはマンションへ飛んで帰り、警視総監の尻を叩いて、車の持ち主を洗わせた。警視庁への年間寄附プラス総監個人への賄賂の効き目はまことに素晴らしく、二〇分とたたないうちに身元が判明した。
|佐渡《さわたり》真治という今年四二歳になるルポライターである。交通違反で一度処分を受けているが、犯罪歴はない。しかし、二年まえ取材と称し外国へ渡るため、国際免許を取っているという事実がおれの目を魅きつけた。南米もルートに入っていたかもしれない。
詳しいことは五里霧中だったが、おれは頭を悩ますより早く行動に移った。
久保田を殺った敵が先回りしていることも十分考えられる。かっぱらいっこ[#「かっぱらいっこ」に傍点]に勝つ秘訣は、第一に手段構わず相手の足を引っ張ること、第二に先行だ。ましてや相手がアメリカ軍ともなれば、出し抜いた快感は、拾った宝くじで三千万円当てたようなものだ。
かくしておれは、珍しくあたしも行くとわめかなかったゆきに夜食の用意をしておけと命じ、佐渡の家がある金沢八景へフェラリを駆ったのである。
案の定、見張りの影はなかった。
林の間の小道は十メートルほど真っすぐに走り、広場のような地所に出る。その奥に佐渡の住まいがあった。二階建てのなかなか豪奢な建物である。実家が大地主らしいが、近頃は自分の家も親がかりの軟弱野郎がふえた。
家の前に二台の黒塗りのセダンを認め、おれはやや緊張した。奴ら、来たばかりなのか? それとも、見張りも呼んでお茶でもご馳走になってやがるのか?
立っててもしようがない。
おれは素早く武器を点検した。
右手には、米イングラム社製超小型|SMG《サブ・マシンガン》マック10。全長二六七ミリ、二七九五グラムのちっちゃな|身体《ボディ》が吐き出す四五口径ACP弾は、毎分一千発の速度で敵を蜂の巣に変える。とにかく弾丸をバラまいた方が勝ちという近距離戦や室内掃討戦では、イスラエルの名機ウージー・サブマシンガン、ドイツの|H&K《ヘッケラー・アンド・コック》・MP5Kと並ぶ花形だ。
後者ふたつにくらべて、コントロール性能や命中精度でやや劣るが、なあに、お上品なウージーとMP5Kが時たま引き起こす弱装弾による|遊底《スライド》の不完全閉鎖という、とっさの場合生命にかかわる事故は全くない。|弾丸《たま》を食ってはばら撒くことだけを考えてつくられた餓鬼大将の強みである。
銃身先端には、イングラム社に特注してつくらせた複層式|消音器《サイレンサー》。全長、幅、重量とも、従来のものの約半分しかないが、消音効果はほぼ完璧だ。一メートルも離れたら|全自動《フルオート》射撃でも、自転車のタイヤの空気が抜ける程度にしかきこえまい。
今夜は何となく、室内戦闘の予感があった。戦闘服の腰に巻いたウェポン・ベルトには、三本の|余備弾倉《スペア・マガジン》を装着してある。ベルトの右には、フロント・ブレイク・ホルスターに収まったSW・M659と十四連発余備弾倉三本。どちらの火器も第一弾を薬室に送り込み、引き金が引かれるのを待っている。ちなみに、弾丸は特殊テフロン加工のKTW強力貫通弾。敵の実力からして防弾チョッキ活用も十分考えられるためだ。
おまけは戦闘ブーツの横に仕込んだ全長二五センチに達するハイ・チタン鋼のナイフ。○・一ミリの薄さながら白本刀の刀身でさえ両断する実力を持つ。
木蔭に敵がいないのを確かめ、おれは身を低くして小道を駆け抜けた。だだっぴろい地所にも人影はない。一気にセダンまで走る。低い唸り声。エンジンはかかっている。
ナンバー・プレートに触って持ち上げてみた。軽くはずれる。まっとうなお客じゃないようですね。
どちらも車内はもぬけの空だった。
どういうことだろう。戦闘訓練を受けたプロたちが、見張りも運転手も残さず家に押しかけ、それきり戻ってこないのだ。ティー・タイムじゃない証拠に、どの窓からも明かりひとすじ洩れてはいない。
おれは頭を振って緊張をほぐした。ゆきに手え出しとけばよかったかな。
小道を出るとき見ておいたが、この土地は吹きさらしの崖の中腹で、家はその縁に建っている。柵で囲ってあるのは家の付近だけで、余った土地に同じくらいの住まいが三つ四つはいけそうだ。勿体ねえ真似をしやがる。
おれはふと、住まいに隣接した小さなガレージに目をとめた。入り口のシャッターが開いている。近づいてのぞいたが、からっぽだ。主人は不調法な来客を置いて逃げ出したにちがいない。
何かに追いやられるみたいに、おれは家のドアに近寄り、真鍮製のノブを回した。あっさり開いた。
奴らは来客を装ってここに立ち、呼び鈴を鳴らして佐渡がでてくるのを待った。すぐに|銃《ガン》を突きつけ、押し入る。インディオはどこだ。すぐには答えまい。腹を殴るか、急所を軽く蹴る。佐渡もやむなく口を割った。土足のまま奥へ――。
居間か? 世界旅行の土産らしい安物が並んでいるが、人の入った気配はない。廊下の泥は真っすぐ奥へ。おれは人さし指を軽くイングラムの引き金にかけたまま、ゆっくりと前進した。廊下の左右に並ぶドアをことごとく開けてのぞく。もちろん、どこもかしこも真っ暗闇だ。
けっこうな調度品が並んだ応接室。薄汚れた浴室とトイレ。つくりつけの本棚が壁を埋め、床には新聞の切り抜きや資料が散乱している書斎。ここだけはじっくりと見てまわることにした。
大きなスチール製のデスクの上に空の状差しが倒れている。重要書類を処分する時間だけはあったのだ。ただし、書斎のばかでかいクーラーだけは切り忘れたらしい。窓という窓を閉め切ってあるわけだ。
廊下の突き当たりに、頑丈なスチール・ドアがついていた。半開きの向こうへ泥跡がつづいている。生きものの気配はない。
おれは壁に身を寄せ、軽く押した。
銃弾もナイフも飛んでこない。
イングラムを腰だめに、一歩足を踏み入れた。
はじめに眼を引いたのは、床に倒れている三人の白人だった。
ダークグレイのスーツを着た身体が、腰と胸部ではっきりそれとわかるくらいねじ曲がっているのだ。おれは頬が引きつるのを覚えた。鼻と口と耳から黒血をしたたらせた顔の、その恐怖の相! 彼らの眼の前で一体何が起こったのか。
苦い唾が口腔に湧き上がってくるのを感じながら、おれは素早く周囲を観察した。
部屋というにはあまりに殺風景だ。広さは十畳近くあるのに、明かり採りの窓もなく、コンクリートの地肌が剥き出しの壁は、部屋全体を妙にうそ寒く見せていた。片隅のソファと木のテーブルだけが人並みの調度だが、どちらも横倒しだ。
左手首に目をやる。ガス探査インディケーター、有害細菌スキャニング・フィルターともに無色である。おれは壁のスイッチを入れて電灯をつけ、フードをはずした
どっと熱波が押し寄せてくる。右胸部の|自動温度調節器《サーモスタット》も外気にさらされた部分には効力ゼロだ。もっとも真夏にフードをつける場合以外じゃ、万がいち体調を狂わす恐れがあるので使わないことにしているが。
熱気に交じって異様に生臭い匂いが鼻をついた。すぐにわかった。動物の体臭だ。部屋全体にわだかまっている。一日や二日でついたものじゃないだろう。
おれは床に散らばったコーヒーカップに目をとめた。数は四個――ひとりプラス三人。インディオたちはここに|匿《かくま》われていたのだ。そして逃げた。四五口径を構えた巨漢三名をねじ曲げて。
いや、ちがう。
おれは死骸をまたいで部屋の真ん中まで行き、床におちている二丁のコルト・ガバメントを拾い上げた。どちらも|撃鉄《ハンマー》は起きているが、発射した形跡はない。
死体の方は、と。
思った通り右手に握りしめられたガバメントは全弾を撃ち尽くし、遊底は|後退《ホールド・オープン》したままだ。周囲に空薬莢が散乱している。
ドアの方を見る。情景の再現開始。
まず、ふたりの男が、佐渡を従えて入ってきた。
そして、拳銃を撃つ暇もなく姿を消した。原因も方法もわからない。
佐渡とインディオは、恐らくそこで待っていたのだろう。先発隊の帰還が遅いのに不審をもった残留部隊がその罠にはまった。
ひとりずつか、三人一緒か、ともかくやってきて、“牛殺し”の異名を欲しいままにした四五口径ACP弾を二四発も敵に見舞いながら、ねじり殺された。
どうやって? 犯人は前のふたりも消した[#「消した」に傍点]奴だろうか? インディオたちか?
ある考えが頭の中で形を取り始めていたが、不定形状態で胸の奥へうっちゃった。あんな考えには、浮かべるにもっとふさわしい場所がある。あとであとで。
おれは入り口の方を向いた。フードをひっかぶり、聴音器のボリュームを二倍にアップする。
車の音だ。二台。佐渡たちじゃあるまい。アメリカ軍機密部隊の援軍に決まっている。ジャブがかわされたと知り、本格的ファイトに切り換えたのだ。
おれは頭に来た。これじゃ生命懸けで殺されに[#「生命懸けで殺されに」に傍点]きたようなものである。
キッチンから外へ出ようと、大急ぎで部屋を脱けだしたところで玄関のドアが開いた。黒い大きな影が幾つも入ってくる。おれのレーザー視界は、腰だめにされた米軍制式自動小銃アーマライトM16A2を確認した。
奴らがおれに気づくより早く、イングラムが唄った。長いため息のような音。男たちの足もとで火花が散った。さすがに悲鳴をあげてのけぞる。それでもドアの外へ出ず、左右に散って伏せたのはお見事だ。あてがはずれたぜ。
奴らの頭上すれすれへもう一連射してキッチンへ跳び込んだ刹那、反撃が開始された。軽快な発射音とともに、キッチンの壁にズボズボ穴があぎ、構造材の破片が宙に舞う。射撃線上の食器棚のガラスは微塵に砕けて落下し、中の食器が上下左右にはじけ、銃撃のリズムに合わせて踊り狂う。
二丁以上のM16A2の一斉射撃だった。五・五六ミリ・レミントン高速弾は、ブロックや耐火レンガなど易々と貫通してしまう。新建材の壁など紙と同じだ。
こうなるとイングラムの45ACP弾じゃ応戦しようがねえ。どんな大男でも一発でダウンさせるキック力があるといっても、所詮は拳銃弾だ。壁をぶち抜けても、弾頭にはろくすっぽパワーなど残っちゃいまい。
だが、壁は殺せて[#「殺せて」に傍点]もおれはそうはいかない。おれは勝手口のドアへイングラムをぶち込み、かかっているかもしれない[#「かもしれない」に傍点]鍵を吹っ飛ばしてから、トースターやコップの破片が飛び散る中、ドアへ突進した。
背後で足音。
振り返りざま、片手で一連射を浴びせる。短銃身連続発射の跳ね上がりは消音器の重量が押さえ、黒ずくめの大男は腹を押さえて後方へ吹っ飛んだ。そいつを押しのけるようにして、第二、第三の影がM16を乱射しながら跳び込んでくる。
火線の交差! おれの身体の両脇でドアの木片がはじけ飛び、先頭の男が前にのめった。ふたりめの肩から鮮血が噴き出し、M16が床ヘおちる。
突然、引き金が軽くなった。弾丸切れだ! 三人めは左手で左脇の下からコルト・ガバメントを抜いた。訓練されているだけあって、凄い速さだった。ただ、相手が悪かった。腹にM659のKTWを食らってつんのめるのを尻目に、おれは|蝶番《ちょうつがい》も被弾したスクラップ・ドアごと外へ跳び出した。
狭い庭の片隅から閃光がほとばしった。さっきから感じているのと同じ軽い衝撃が顔、胸、腹部を襲う。おれは舌打ちしながら、火線の発生地点へM659を乱射した。拳銃とはいえ、計十五発の弾薬量はイングラムの半分だ。苦鳴があがり、銃声が途絶える。その隙に、おれは垣根へダッシュした。飛び越えざま宙で身をひねり、台所の窓のそばに並んだプロパンガスのボンベを狙った。
毒々しい火の花が闇夜を白昼に変えた。
轟音が空気を震わせ、付近の家をぶっ叩きに出掛ける。
おれはイングラムの弾倉を詰めかえ、コッキング・ハンドルを引いて待った。
すぐエンジン音がきこえ、走り去る車の姿をレーザー・アイがとらえた。銃声というのは、ちょっと離れるともう何の音か判別しがたいが、ガス爆発となったら、夢ぐらいは破壊する。
あちこちの家に灯りが点りだすのを見て、おれもあわてて奴らの後を追った。
走りながら戦闘服の表面をなでてみた。金属繊維が何カ所かほつれているのは、同じ場所に弾丸を受けたためだ。あれだけの猛射を全身に浴びたのだから、当然といえる。
おれはITHAの装備に感謝した。以前の戦闘服なら弾丸の侵入だけは食い止めたものの、衝撃で肋骨の十五、六本はへし折れていただろう。二週間前に届いたばかりのこの新作は、金属繊維の間にITHA化学班が作り出した|剛性粘物質《ハード・ゲル》の層をはさみ込み、弾丸の衝撃力をほぼ完全に吸収してしまうのだ。
層の厚さは○・一ミリにも満たないし、身体の関節部分は特に軟化度を増してあるから、動作にもさほど不自由は生じない。その分重さが増えたが、それも六〇〇グラムどまりである。それで、五〇発も射つとムチ打ち症になるという象狩り用のニトロエクスプレス弾でさえ、中学生の投げる硬球並みのショックに抑えられるのだから、ウヒヒてなものだ
一時間後、おれはフェラリごと飛び込んだ横浜グランドホテルのVIPルームで夢も見ず眠りこけていた。
[#改ページ]
第四章 中華街妖蛇戦線
目を醒ましたら午前七時だった。三時間も眠っていないがおれには十分だ。これでも週二回、六本木にインド人のヨガ教師を招いて汗を流し、肉体と精神を鍛えている。
極限まで肉体を駆使することによって精神的昇華を可能にするヨガは、現世に奇蹟を実現し得る数少ない道だ。火や水の上を平気で歩いたり、ひとりの人間が同時に別の場所に存在したりなどという芸当は、取り立てて騒ぐほどのレベルじゃない。それこそ、漫画やSFにしか登場しない超人がつくれるのだ。
むろん、それには何十年という歳月を必要とするし、その辺の美容体操もどきのへっぽこビューティ・スクールや、すかたんヨガ・センターでは理解することもできぬ境地だが、おれの導師は政変に巻き込まれて日本へ亡命した大物で、修行はもの凄く厳しい。そのかわり弟子の素質や才能を引き出すことにかけては天才級で、いつのまにかおれは自律神経の調節ができるようになっていた。睡眠時間を自在に操れるのもこのおかげだ。
たった一時間の睡眠でも深さのレベルがちがうから、八時間たっぷり寝すぎて[#「すぎて」に傍点]頭が重いなんて奴より、体調はよほど爽快である。四、五日徹夜をつづけても、いざとなれば三〇分の睡眠で神経が休まり、筋肉や内臓の疲労などあっさり取れてしまう。
ひとつ断っておくと「四でさめざめ、三でがっぽり」というのがトレジャー・ハンターの鉄則で、四時間も寝る奴は宝を他人に横取りされて泣き寝入り、三時間でOKの奴だけが富と栄誉を得ることができるとされている。八時間睡眠なんて実行したら、一日で破産だ。
クマオンの金鉱探しに出かけたとき、敵のグループもろとも狡猾な人食い虎に襲われて持久戦となり、おれをのぞいた全員が、眠り込んだところを貪り食われちまった。
しかし、昨日はさすがにしんどかったぜ。欠伸をひとつして枕の下に忍ばせておいたSWを片手におれはテレビのスイッチを入れた。ぴたり、ニュースの時間だった。頭を七三に分け眼鏡をかけたアナウンサーが、昨夜のドンパチの模様をこう解説していた。
「昨夜、午前三時ごろ、神奈川県横浜市金沢区四の三の××、ルポライター佐渡真治さん方で爆発があり、近所の人が駆けつけたところ、家は火に包まれていました。消防車が出動し、二時間後にようやく消し止めましたが、焼け跡から外国人らしい男の焼死体と自動小銃等が発見され、神奈川県警が捜査に乗り出しました。なお、|主人《あるじ》の佐渡さんの姿は見当たらず、いま、必死で行方を追っています」
次のニュースはクリストファー・サイラスの日本公演が突如、中止になったため、ファンの抗議に頭を抱える音楽協会の模様だった。
TVを切り、おれは六本木のマンションへ電話を入れた。
出たのはコンピューターの合成音だった。
「八頭は不在です。ご用は留守番電話が……」
「おれだ、阿呆」とののしる。音声指示が可能な高級品なのだ。「ゆきを起こせ。それから、アメリカから電話が入っているはずだ。つなげ」
「承知しました」
ほんの数秒で応答があった。ゆきは不在。大統領からは、いつでも連絡をくれとの伝言が残されていた。
少しして[#「少しして」に傍点]国際電話を申し込む。
徹夜で執務に励んでいたのか、大統領はすぐに出た。挨拶抜きで答えを教えてくれと言う。意外な返事が返ってきた。
現在、日本で非合法活動に従事している軍関係の組織はないという。CIA、DIAにもだ。嘘をついているのではないことはすぐにわかった。
じゃあ、奴らはなんだ。外人部隊か、共産陣営の回し者か。殺しの装備や技は米軍だったぞ。
「大統領」とおれはしごく真面目な口調で呼びかけた。「どうだろう、あんたの知らない軍組織てのはアメリカに存在しないのか?」
彼との電話で、初めて逡巡があった。
すぐ響いてきた声に、暗いものが絡みついていた。俳優出身の大統領の苦渋に満ちた顔を、おれはたやすく想像できた。今度は、ミーハー娘たちの紅涙をしぼるための演技じゃあるまい。
「……正直いって、私にもわからん。つまり、存在し得るということだ。過去四年、私は常にある疑惑を抱いて執務をつづけてきた。私のもとに届けられる書類には、何ひとつ不備はない。原因不明の数字の食いちがいもなければ、偽造文書もまじっていない。しかし――どう思うかね、ミスター八頭。私は偉大なる国、アメリカ合衆国の大統領なのだろうか。いや、この国にとって、大統領とは一体いかなる存在なのだろうね?」
「あんたにわからんのに、おれにわかるはずがない」
おれはあっさり言った。
嘘だった。
彼にもわかっているはずだ。
アメリカ合衆国大統領とは、陸海空三軍を統帥する最高責任者であり、アメリカの意志決定者であり、すげかえの効く存在なのだ。
四年ごとに。穏便に[#「穏便に」に傍点]。
ケネディは例外だった。
世界最大の軍事力と経済力を誇る国アメリカを動かしているのは、|WASP《ワスプ》――|アングロサクソン系白人新教徒《WHITE ANGLOSAXON PROTESTANT》なのだ。ハーバード出身の。
考えてみるがいい。一期四年ごとにアメリカの政治体制そのものが、たったひとりの人物によって根本的に変わることがあり得るだろうか? 八年では? 十二年ではどうだ?
彼[#「彼」に傍点]が死んでアメリカは震憾したか?
リンカーンは? ガーフィールドは? ケネディは?
崩れ易い巨大な山の頂のすぐ下は、不動の岩盤なのだ。陸海空の|将軍《ゼネラル》たち、おびただしい上院・下院議員の中の超エリート集団、いかなる政変にも席を追われることのない男たち。アメリカは彼らWASP・エリートの意志に従う。大統領の絶対権力は、その範疇でのみ維持されるのだ。
もうひとつの軍隊があったと仮定しよう。
志願兵の中から選ばれた兵士たち。正規軍と同じようなものを食い、同じ武器を与えられ、同じ訓練を受け、同じ額の収入を得る。しかし、その存在は、いかなる書類、決算書にも記されることがない。税金はぴたり、正規軍を賄う分だけしか集まらず、事実、世界最高のコンピューターが確かめても、一セントたりとも不正に使用された金はない。
それでも、軍は存在する。
国のために。影なる支配者が支配する国のために。
凶々しい牙を秘めた軍隊が。
有り得ることだ。
おれの思考を大統領の返事が断ち切った。
「ひとつだけ、君の希望にそえるかもしれん情報がある。統合参謀本部のスプリングゴールド将軍が、クレイグ・ジーン博士の家族を家に招いてパーティを催したのだ」
「なんだ、そりゃ?」
受話器の向こうの声がやっと笑いを帯びた。
「統合本部詰めの記者どもは、大スクープだと割れんばかりだったがね。今年のホワイトハウス・アングラ十大ニュース当選はまずまちがいあるまい」
「勿体ぶるなよ、この」
「スプリングゴールドは狂のつく宇宙開発嫌い。一方、クレイグ・ジーン博士はNASA(米航空宇宙局)の現長官なのだよ」
おれの頭の中で何かが閃き、次の瞬間、暗黒に呑み込まれた。
「ふむ」とおれは唇を歪めた。「よくわからねえな。ま、いいや。助かったよ、|大統領閣下《ミスター・プレジデント》」
来年の選挙費用はまかせとけと付け加え、おれは電話を切った。
ベッドへ転がる。
だんだん話がおかしな方向へ向かっていく。影の軍隊ならともかく、NASAまで出てこられちゃ、おれの守備範囲外だ。火星までウラン鉱を掘り出しにいく自信はねえ。つまらんガセネタ流すな。ヘボ大統領め。
小難しい考えはきっぱりと捨て、おれはゆきの事と、今日一日をどう過ごすかに頭を巡らせ始めた。
しかし……
NASAねえ。
一時間後、おれはグリルで朝食を摂ってからチェック・アウトを済ませ、ホテルを出た。
空気は潮の香りを含んでいる。横浜だった。暑い。歩くたびに汗が噴き出す。
おれは徒歩で山下町へ向かった。五分ほどで、ホテルのマネージャーに教わった店が見えた。
「五五万」だの「七年、フル装備六〇万」だのの紙が貼られた車が、広い敷地を埋めている。中古車センターである。
ITHAの日本支部に電話したところ、その後の調査で、横浜から南米行きないし南米経由の貨物船は、ここ五日のあいだに四隻あることがわかった。
ウルグアイ行きの「海神丸」、チリ行きの「第三金剛」、リオ・デ・ジャネイロ行き「アルゴー号」とサンパウロ行き「深水丸」。どれも七千トン級の貨物船で、目的地以外の港にも立ち寄る。
三人のインディオは目的を果たした以上、一刻も早い帰国を望んでいるはずだ。日本での世話係を務めているらしい佐渡は、敵の正体をうすうす感づいているだろう。遅れれば遅れるほど日本脱出のチャンスは少なくなる。予定を早めこそすれ、身を隠してほとぼりが冷めるのを待つことはあるまい。無理をしても乗せる。
それに、あの三人ならアメリカ殺人軍団とも互角以上に渡り合えるだろう。
期日的に最も早い出港は「深水丸」だった。今日の午後一時である。次が「アルゴー号」で午前零時。「第三金剛」が明日の午後十一時。「海神丸」が一番遅れて五日後の正午だ。
そのあいだ横浜を抜けられない。敵はとうに網を張っているだろう。どこからか、四隻の貨物船にじっと目を注ぎ爪を研いでいる。ついでにおれの出てくるのにも。
奴らにインディオとあの腕をさらわれたら、それこそ南米へ遠征するどころの騒ぎじゃ済まなくなる。もう国家機関相手だ。戦争しかない。さらに悪いことに、途中で仕事を投げ出すのは面子にかかわる。
で、「足」を探しに来たわけだ。
フェラリは目立ちすぎる。しかも真っ赤だ。昨夜の残党どもが目撃してる恐れも十分にある。ここはプライドを抑えて国産にしましょう。
まだ少し時間があったが、おれはオフィスに入った。これ以上うろついたら日射病になっちまう。
デスクにいた五〇くらいの禿頭とニキビ面のアンちゃんがじろりとおれを見上げた。アンちゃんは整備服を着ている。
「なんだね?」
禿頭がつっけんどんにきいた。チビた煙草をくわえている。おれの方を向こうともしない。
「あの車が欲しいんですけどォ」
おれはおずおずと気弱な高校生の声を出した。
親父は顔をあげた。煙草をごつい鉄製の灰皿に押しつけ、この餓鬼が、という表情で、
「冷やかしならお断りだぜ」
「お金なら、あります。あ、免許もちゃんと」
「んなこと、当たり前だあな。で、何が欲しいんだよ」
完全に客をなめきってやがる。ホテルのマネージャーがさんざか悪態をつくわけだ。くく、面白くなってきたぜ。
「あの……外のスカG……ほら、青いやつ。七〇万円の」
おれはすっかり気を呑まれたように、おずおずと外の展示場を指さした。
「あれか」
親父は侮蔑の視線を外に送り、隣のアンちゃんに契約書を出せと命じた。勿体ぶった声に、いい鴨を見つけたといういやしい響きがこもっている。
「んじゃ、ここに住所と名前。……車庫証明は後でいいよ。それから……」
三分ほどで必要事項を書き入れると、親父は、金は持ってるのかね、と訊いた。
「は、はい」
「見せてみな、みんなだ。ことによっちゃ、もっといい車を世話してやれるかもしれないよ」
「は……はい」
おれは不安げに左右を見回して、サマー・ジャケットの内ポケットから百万円の束をふたつ取り出した。昨日、六本木で下ろしといた軍資金である。
さすがに親父は驚きの色を浮かべたが、たちまち、舌なめずりせんばかりの表情になって、
「ああ、悪いことしたな。忘れてた――あのスカGは、さっき値段が変わったばかりでな。値段表をつけかえることになってたのさ。本当の価格は、二百万だ」
「ええっ!」
おれは両手をあげてのけぞった。
「そ、そんな。じゃ、もっと安いのにします」
「それがよ、急に、他の車もぜーんぶ二百万になっちまったんだよ。な、塚本」
「そうともよ」とアンちゃんは、整備服の腕をまくりあげながら言った。あっ、刺青。
「ぼ、ぼく、両親と相談してきます」
どもりながら立ち上がったおれの両肩を、アンちゃんの太い腕が押さえつけた。おれは中腰のまま泣きベソをかいた。親父はニヤニヤとボールペンを顔の前で振りながら、
「よしよし、泣くこたねえよ。なんてったって、おめえはもう契約しちまったんだ。ほら見な、住所も名前もちゃあんと書いてあるだろうが、あとは、金払って出てきゃいいのさ。車を運転できる身体でな」
肩の指にぐい! と力がこめられた。いてて、馬鹿力め。
「うえーん」
おれは灰皿の上に突っ伏した。こうでもしなきゃ吹き出しちまう。笑いと、それから怒りが、だ。
「情けねえ餓鬼だぜ」とアンちゃんが嘲った。「でけえ図体しやがってからに。面みたときゃあ、もう少し根性あるかと思ったがよ」
「うえーん、うえーん、実はあるんですゥ」
「なにィ!?」
ぐしゃっ! という音がした。
アンちゃんが両手で頭を押さえてのけぞる。頭頂部――聖門という急所に鉄の灰皿を叩きつけられたのである。白眼を剥いている。束の間直立してから、ゆっくりと仰向けに倒れた。ヤー公の末路だ。
おれはとっくに禿頭の方を向いていた。仰天して立ち上がりかけるのを、四角い灰皿の角で軽く鼻っ柱をぶっ叩く。ばっと鼻血を散らせて、禿は椅子に戻った。
「ここここの……」
怒りより驚きと恐怖で声を詰まらせる。みるみる顔が充血し、その分ぴゅうぴゅうと鼻血が勢いを増した。有り難く思え。おれが殴らなきゃ、脳溢血であの世行きだったぜ。
人助けに気分をよくし、おれは怒りに身を震わせている禿頭に笑いかけた。
「スカGがいくらだって?」
「に、にひゃく……」
「二百ゥ?」
おれは歯を剥き出した。
「い、いや……正札通り、七〇万円で!」
血みどろの顔が急に明るくなった。不良にたかられて半泣きの優等生が、折り良く警官の姿を見かけたように。
その通りだった。
振り向くと、敷地の入り口に停まったパトカーから、恰幅のよいひげ面の中年男と制服警官がふたり、こちらへ向かってくるところだった。中年男は背広姿である。
「畜生、この餓鬼。――もうただじゃおかねえ。おれの顔が広いところを見せてやる。おめえの親父もおふくろも、一生まともな暮らしができねえようにしてくれるぞ」
血と汗と雑言を巻き散らし、禿頭はオフィスに入ってきた中年男に駆け寄った。震える手でおれを指さし、
「滝沢さん、いいとこに来てくれた。みてくれ、このざまを。あの餓鬼が車の値段が|高《たけ》えと難くせつけて暴れやがったんだ」
おれは知らん顔で、手にした灰皿を放り投げた。
ぐえっ! という声をあげて、起き上がりかけてたアンちゃんがまたひっくり返った。今度はもろ顔面だ。
「野、野郎!」禿頭はきっちり逆上した。「この気狂い餓鬼――ぶぶぶち込んでくれ滝沢さん。現行犯だ。二度とおれの顔を見たくならねえくらいきつくお仕置きしてやってくれよォ」
だが、滝沢刑事部長は苦虫を噛みつぶしたような表情で、哀願する悪徳ディーラーから目をそらしていた。渋々とおれの方を見て、
「八頭く――さんですか。横浜署の滝沢です。署長から言われて参上しました」
と挨拶する。おれはうなずき、禿頭はぽかんと口をあけた。
「あんた、このおっさんと親密らしいな」
冷たく指摘すると、滝沢はたちまち血相を変えた。必死に手を振りながら、
「とんでもない。こいつは常日頃から利用客の苦情が多い不良業者でして、実は私、内偵を進めておったのでございます。個人的接触が多少とも多いのはそのためで、決して後ろ指をさされるようなことはしておりません」
「そりゃ、結構。じゃ、おっさんに説明してやってくれ。おれは急いでるんだ」
滝沢は、はっ! と敬礼するや禿頭に向かい、
「こちらの方にくれぐれも失礼がないようにとの署長のお言葉だ。何かトラブルがあったようだが、事情は後でゆっくりきかせてもらおう。で、車の売買契約は済んだのかね」
「これからだ」とおれは言った。「なんと今日は中古車の特売日で、正札の十分の一の価格で売ってくれるそうだぜ。な?」
「ふ、ふざけるな!」
正気にかえった禿頭は滝沢に食ってかかった。
「あ、あんな餓鬼の好きにさせとくのか? あんた、おれに毎月いくら貰ってる? 一〇万だぞ。年に一二〇万だ。他にも飲み屋やレストランのつけを全部こっちに回してきやがって。いいとも、おれひとりじゃ死なねえ。てめえも道連れにしてやらあ。さあ、さっさとしょっぴけ。警察の取調室で何もかもバラしてやる」
「な、なにをいうか、この街のダニめ!」
滝沢は仁王みたいな面構えで怒鳴った。大声で真相と狼狽を糊塗しようと計る。堂に入ったものだ。血だるまのアンちゃんを抱き起こし疑惑の目つきで自分を見つめている警官に向かい、
「さっさとふたりとも連行せんか! おれもすぐに行く!」
脳溢血寸前の顔色でわめき散らす店主と半死半生の従業員が連れ出されると、滝沢はしゃっちょこばった様子でおれの方に向き直った。
「そ、その……今の話はなにぶん署長にはご内密に……」
おれは返事をせず、書きかけの契約書が載った事務机を指さした。
「契約書がいるな。あんた、おやじさんの代わりにつくってくれや」
「は?」
「お巡りさんの眼の前でただ乗りするわけにゃいかねえだろ」
数分後、おれは望み通りのスカGを駆って、中華街へ向かっていた。
口元にようやく笑いが浮かんでくる。
滝沢の野郎、署に戻ったら驚くぞ。さっき公衆電話で、奴と禿頭の問答を洗いざらい署長に報告し、油絞っとくよう命令しといたからな。
このご時勢だ。賄賂を握ったり握らされたりはむしろ当然、仲間意識さえ感じるが、額がよくなかった。月一○万円? それっぽっちのはした金で官民癒着なんぞされた日にゃあ、まじめに賄賂払ってるものの立場がなくなる。出す方も出す方だが、受け取る方も受け取る方だ。こんなはした金で買収されてたまるかという意地が影も形もない。
その点、目白に住む飛行機事件の大物はえらかった。新潟にある、平家の財宝が眠る湖の埋め立てを一日延期するよう頼んだとき、「一時間一千万――」堂々と切り出したものだ。五百万まで値切ったおれもえらいが、とにかく、一件百万以下の賄賂などおれは賄賂と認めない。近頃の賄賂関係者のプライドのなさは目に余るものがある。
てなことを考えてるうちに、あっさり中華街東門まえへ着いちまった。パーキング・メーターの列を見たらひとつしか空いてない。しかも、前に居座ったオンボロ・ブルーバードが、厚かましくも、汚い尻をこっち側まではみ出させている。
いま警官とトラブルのは時間の無駄だから、一応まわりに誰もいないのを確かめ、思いきり突撃して正常な位置に戻してやった。あとで持ち主と話をつけりゃあいい。修理代に五千円も上乗せすれば丸く収まるだろう。ブルーバードなんぞに乗ってる奴は、その程度のもんだよ。
おれはショルダーを肩に、まだひと気も少ない大通りを中華門に向かって進み、店頭にばかでかい麦わら帽子が飾ってある雑貨商「栄興號」の角を右に折れた。
数メートル先に、くすんだ感じの小さなビルがある。「四光商事」と描かれた木の看板を横目で見ながら、ドアを押す。
受付の中国美人がおれを見てにこりとした。とろけそうになるくらい色っぽい笑顔だ。大柄な身体から成熟した女の色気がマーチに乗って流れでてくる。足首がきゅっとしまってるのは、夜も激しい証拠だ。名前は秀麗。残念ながら二四歳の人妻である。「お姉さま」ではなく「奥さん」と呼ばなきゃならない。
「ようこそ、八頭さん。お久しぶりですこと」
甘い声が頭の中で反響した。おれは精一杯ハードボイルドな顔をつくって、
「元大人はいるかい?」
と訊いた。
「はい。お待ち下さいませ」
秀麗は熱い笑みを絶やさず、卓上テレフォンのスイッチを入れておれの名を告げた。すぐに受話器を戻し、奥のドアを指さす。
むっつりとうなずいて歩き出したおれの背中に、わざとらしいひとりごとが、
「わたし、今夜ひとりでいたくないの」
振り向きもせずドアをあけたおれの膝は、妙に頼りなかった。
相変わらず殺風景な応接室だった。洋式の応接セットとサイドボードが並んでいるきりで、中国人経営の会社と思わせる調度類は一切ない。冷房も故障しているのか、一歩入った途端、息がつまりそうになった。真向かいのソファに、ステテコ姿の大猿が座っていた。普通の猿とちがうのは、人語を解することと、横浜の中国人社会を裏で取りしきる大物だってことだ。
元光奇――ちっぽけな貿易会社の社長が世をあざむく|仮面《ペルソナ》にすぎぬと知っている中国人たちも、本名までは知るまい。彼らはただ元大人と呼んで、ひそかな、しかし圧倒的な畏怖を抱きつつ、一朝事あればこの老人の顔を思い出すのだった。
「よう来たの、大ちゃん。ささ、ここにお座り」
元大人はしわだらけの顔で破顔し座り心地のよさそうな肘かけ椅子を勧めてくれた。
「堅物の親父とちがっていける口だったな。ケンタッキー・バーボンのいいのが入っておる」
おれがとめる間もなくちょこんとソファを降り、デスクの脇にあるサイドボードから派手なラベルのついた瓶とグラスを抱えて戻る。
「実は急いでるんだよ、大人」
「わかっとる、わかっとる」
ちっともわかっていない。おれは押しやられたグラスの方を見ようともしなかった。気にする風もなく、大ぶりのカットグラスになみなみついだ液体を一気に飲みほし、大人は息ひとつつかずにおれの方を見つめた。
凄い眼だ。
虎がこんな眼をしていたら、人はそれを虎とは思うまい。魚がこんな眼をしていたら、魚とは思うまい。見つめられる人間すらそれと気づかぬ精神の最深部に潜んでいるものを容赦なく吸い取り、魂の質さえ読み取ってしまう眼だ。
人間の歴史には、ときたまこういう異物が生じる。生まれは華南省ときくが、よくわからない。年齢も不詳。アヘン戦争のとき五〇を越していたと本人がよく述懐していたから、それを信じるなら一九〇歳はとうに越えていることになる。おれはあながち嘘じゃないと思うが。
正確なのは、代々の中国政府の要人に|厖大《ぼうだい》な知り合いをもち、おれの親父の親友だったということだ。あの冷酷非情、必要とあれば乞食の服さえ剥ぎとりかねなかった親父が、この一五〇センチにも満たぬ老人の話をするときだけは人間くさい眼つきになったのを、おれはよく覚えている。
もうひとつ、こと横浜に関しちゃ、この大人、蟻の巣の数まで心得てる生き字引なのだ。
「人を探してるんだ」
♪お帰りなさい〜〜〜と一杯機嫌で岩崎宏美の「家路」を口ずさみだした大人へ、おれはあわてて言った。
「日本人がひとりと南米のインディオが三人。ぜんぶ男だ。多分、別々に――」
「知っとるよ」
あんまりあっさり言われたもので、おれは、え、と言ったきり絶句してしまった。
「お、教えてくれ。どこにいる!?」
大人はやんちゃ坊主を見つめる父親みたいな目つきで笑うと、グラスに二杯目をついだ。ボリボリと毛脛をかきながら、
「そうあわてるところをみると、またまた大仕事らしいな」ここで赤い鼻をくんくん鳴らして「行き先は南米――アマゾン河流域じゃな」
おれは肩をすくめただけだった。この大人と付き合ってると、こんなことでいちいち驚いてたら身がもたない。
「愛想のない奴じゃな。少しぐらい驚いて、年寄りを喜ばせても罰はあたるまいが」
「あのね――」
「まあ待て」
大人はしわだらけの小さな手を振った。
「米軍機密部隊も血眼になってはいるが、まだ見つかってはおらん。ここ|横浜《ハマ》では、時間の流れ方が|他所《よそ》とちがうのだよ。あわてることはないって――で、大ちゃん、同棲相手の娘御は元気かな?」
やれやれ。
「その顔では、まだ深い仲になっとらんな」
大人はクスクス笑いながら言った。どうしてわかるんだ!?
「その前に、銀麗と愛し合ってみる気はないかね?」
その瞬間、おれはすべてを忘れた。
真っ白な部屋のどこかでせせらぎの音がする。
おれは頭を振った。
元大人が眼の前にいた。
「そいつらはどこにいる? 報酬は三百万円だ」
金以外の条件は呑めん。陽が西から上がっても。
大人が長いため息をついた。
「お目当ての四人組は、『泉正楼ビル』にいるよ」
「どこだい、そりゃ?」
おれはわざと血相変えてきいた。こうでもしなきゃ、戦闘用の精神状態に戻れない。甘い夢の名残をひきずりながら殺し合いは不可能だ。
大人はあっさり答えた。
「このふたつ先のビルだ」
おれは肩をすくめた。
「何だいそこは?」
「今月末にはつぶれる貸しビルだ。日本人のルポライターが一年まえ事務所に借りたが、ひとりの訪問者も来たことはない。南米からのお客をのぞいてな」
何でもお見通しか。おれは腹の中で舌を巻いた。
「部屋は何階だ?」
「二階の一番奥じゃ。窓はふたつ。外には非常階段もある」
ききたいことをみんな読んでやがる。
「もうひとつ頼みがある。『白蛇香』を液化してカプセル弾で撃ち出せるように改造して欲しい。発射用の銃はまかせる。どのくらいかかるかな?」
大人は、ほお! という形に唇をすぼめてみせた。何も訊かずに、
「そうさな。まず三〇分」
「ありがたい。奴らまだそこにいるのか?」
「日本人の世話役は一時間ほど前に出ていった、まだ帰ってはこない」
一時間か。乗船手続きに関してなら、大抵の用はそれ以内に片づく。じき帰ってくるだろう。おれは時を感じた[#「感じた」に傍点]。午前九時三二分。「深水丸」の出港にゃまだ間がある。まずはぎりぎりまで待って、敵とのいざこざを避けるはずだ。
「散歩でもしてきたらどうかね?」と大人が勧めた。「中華街は久しぶりだろう。面白いものに会えるかもしれんよ」
「そうしよう」おれも同意した。「こんな蒸し暑いところであんたの顔みててもはじまらん。品物ができたらもらいにくる」
部屋を出た。
秀麗の花のような笑顔が待っていた。ただし、これは妖花だ。男を、雄を狂わせる香りを放つ白い食虫花。
「あのひと、老けたでしょう?」
「そうかな」
「銀麗が夫と別れて以来、はっきりと気が衰えたわ。もう長いこと……」
「それで男探しか?」
おれは冷たく言った。
「そうよ」
怒った様子もなく、秀麗は上目づかいにおれを凝視した。元大人ほどじゃねえが、これも恐ろしい眼だ。腰のあたりが熱くなってくる。この場で押し倒しても、この女は平気で声を放ち、絶頂をむかえるだろう。こういうタイプを扱えるのは、元大人だけだ。
秀麗は元光奇の妻であった。
おれは軽くまばたきして妖女の誘惑から脱け出した。出入り口の方へ歩き出す。
「銀麗の話も出たでしょ。あの娘が夫と別れたのもあなたのせいよ。あなたに捨てられて愛のない結婚をして」
おれは振り向いた。
秀麗は白いブラウスの胸を大きくはだけていた。雪のような肌のダイナミックな隆起に、大胆な黒いブラが生々しく食い込んでいる。
「あたしとなら、|肉体《からだ》のお付き合いだけで済むのよ。あのひと以上に歓ばせてあげる」
おれはいつの間にか額に噴き出た汗をふいた。
「お互い苦労が多いこったな」
それだけ言って外へ出た。
通りには夏の光とざわめきが溢れていた。
中華街というのは面白い街だ。できたのは戦前だが、空襲で焼かれ、独特の赤レンガの家並みはすべて焼失。細部こそ異なるが、現在のものは戦後すぐ再建された街の面影をほぼそのまま保っている。名物の赤い中華門が建って二〇年。経営者の華僑の中には日本語を話せない年配者も多いが、コックや客のほとんどは日本人である。
料理店の店先に並べられた豚肉やアヒルの燻製にきゃあきゃあいってる女学生やOLの集団にウィンクしながら、おれは通りをへだてた角にある「中国貿易公司」へ入った。
三階建ての雑貨商である。中国人形だの、チャイナドレスだの、赤だの青だの派手な色彩で満たされた店内には、もう四、五人の客がいた。クーラーの吹き出す激しい冷気流の中に、香の薫りが立ちこめている。
おれは竹でできた大ぶりの扇子を冷やかしながら、奥の窓から「泉正楼ビル」の様子を窺った。
表面の塗装も剥げ落ちた灰色のビルは、白い陽光さえ拒否してうすら寒く澱んでみえた。
四人ともあの中だとすると、うかつには踏み込めない。コルト・ガバメント三挺分――二四発の「牛殺し」を食らって血一滴流さぬ奴が仲間にいるのだ。いや、四人全部がそうかも。
冷気が溶けた。
本能的におれは首だけ動かして入り口の方を見た。
白人のアベックだ。
どちらもまだ二〇代後半だろう。男は青いポロシャツにブルージーンズ、女の方はピンクと紫の格子縞ワンピースにばかでかいトンボ・サングラス。それぞれカメラバッグとハンドバッグを肩から下げていた。
客のひとりが女の方をちらと見て目を丸くした。バストは大砲みたいに突き出し、ブラの線がくっきり浮き上がっている。圧巻はヒップだった。パンティの線はもちろん、それに包まれたふたつの豊かな丘の輪郭がもろ出しだ。このワンピースを選んだのは色情狂にちがいない。
だが、クラッときたのは一瞬で、おれはすぐ、男の手に視線を走らせた。ごつい拳だこが盛り上がっている。眼つきもよくない。平凡な亭主には見えなかった。
やばいなあ。
ふたりの方へ向き直り、鼻歌まじりにE手袋をはめた。おれたちの間は大きなショーケースがへだてている。
ふたりは物珍しそうに店内を見回している。おかしな様子はまるでない。
取り越し苦労か。
そうではなかった。ショーケースの上の扇を手にとって広げた刹那、骨にはった黒絹の端にぼっ! と小さな穴があいたのだ。穴の縁から煙が立ち昇ったが炎は上がらず、パラパラと炭化した繊維が床に落ちた。
おれはその場に凍りついた。
レーザー・ガンだ。さすが影の軍隊、とんでもない武器をもってやがる。
白人の男が、カメラ・バッグの止め金のあたりに右手を置いたまま、おれの方に向かってニッコリと微笑みかけた。小さく首を振る。動くと撃つって合図だ。
女の方が、きょろきょろ周囲へ眼を配りながら近づいてきた。しめた! と思いきや、手の届かない距離で立ち止まり、横手のカーテン地の方を向いて、小さな声で、
「手袋をはずして外へ出なさい」
流暢な日本語だった。英語でもいいんだがね。
おれは黙って言いつけに従った。従う他はない。どんな行動も光の速さには敵うまい。はっきりとはわからないが、ホテルを出たときから尾けられていたのだろう。
外へ出た。通りの向こう側に見覚えのある黒いセダンが駐車していた。無人だ。
おれの前にいた女が、はっと表情を変えて背後の男を見た。バストがぶるんと揺れる。ブラが切れちまうんじゃないかな。さりげない足取りで通りを渡り、セダンに近づく。中をのぞいてすぐ戻ってきた。
「ゲイツもティムもいないわ。|鍵《キー》も行方不明よ」
今度は英語だった。
「|畜生《ガッデム》……この小僧が何か手をうちやがったな」
男の声には低さを補うだけの怒りがこもっていた。いつ火の矢がとんでくるか気が気じゃない。
「ともかく、この忌々しい街を出ることだ。クレア、気をつけて歩け。行きな、小僧。知ってることをしゃべったら、たっぷり仲間の礼はしてやるぜ」
恐怖のカメラ・バッグにこづかれ、おれは中華門の方角へ歩き出した。女が先頭だ。右手をハンドバッグの中に軽く突っ込み、あわてず騒がず、人通りの多い歩道をゆく。いささかも緊張を見せない。見事なものだった。
次の交差点を過ぎたとき、おれは小さな声で呼びかけた。
「|おい、姐ちゃん《ヘイ・ガール》。亭主が迷子だぜ」
振り返った女の眼に、今度こそ覆いようもない驚きと恐怖の色が湧いた。
おれも振り向いた。
男は消えていた。
「何をしたの? この|黄色猿《イエロー・モンキー》?」
おれは肩をすくめた。交差点をすぎる途中で、何の前触れもなく男の気配が消えたのだ。悲鳴ひとつ立てずに。おれは前方に見える中華門までの距離を測った。
「あと二〇メートル。あんたにとっちゃ大旅行だぜ。無事に着けるといいがな」
「お黙り!」身を震わせて叫んだ言葉がなおも小さかったことは|讃《ほ》めてやろうじゃないか。「先にお行き。おかしな素振りを見せたら、遠慮なく撃つわよ!」
「おー怖わ」
おれはまた歩き出した。
ファッショナブルなOLふたりとすれちがった。あと十メートル。結婚式にでも出たらしい黒背広に銀タイの老人グループ。あと七メートル。亭主が赤ん坊を抱き、母親が三歳ぐらいの子供の手をひいた夫婦連れ。あと五メートル。
背後で空気が揺れ、女の気配も消えた。
おれはそのまま少し歩いて立ち止まり、振り返った。
人々が行き交う日曜の路上には、米軍機密部隊員ふたりの影さえ見えない。
元大人の顔が浮かんだ。
おれは軽く頭を振ってもと来た道を辿り始めた。
歩みが止まったのは、「泉正楼ビル」のある曲がり角へ差し掛かったときだった。
女の絶叫が熱気を揺さぶったのだ。
久しぶりにきくゆきの絶叫が。
おれは一気にビルの入り口へ飛び込んだ。すぐ脇に小さな階段と共同郵便箱があった。「204・タナカ」と書いた小さな紙片以外の箱はのっぺらぼうだ。多小荒っぽい出入りになっても一般人は巻き込まずにすむ。手足がなくなるくらいならまだしも、生命まで取っちゃあ後々面倒だ。家族の怒りというやつは、金では買えないのだ。
おれは階段を駆け上がりながらも手袋をはめ、SWを抜いた。左の手袋だけスイッチをオンにする。
廊下の突き当たりのドアだけが、大きく開け放たれている。
やみくもに突っ込んだ。
入り口で立ち止まった。
眼の前にゆきが立っていた。大きく口をあけている。おれも顎が下がるのを感じた。なんとなく吹き出したくなるような気分だった。
おれたちの少し前方、八畳ほどの部屋の中央に男が立っていた。
顔全体がやけに平べったく、それはいいのだが、口が異様に大きい。
その口から、靴をはいた二本の足首が突き出ていた。
もがいている。
男の腹が黒いTシャツを引きちぎらんばかりに膨らんでいることに、おれはようやく気づいた。いや、最初から知ってはいたのだが、認めたくなかったのだ。腹は|内側《なか》から動いていた。
それでも、部屋の隅に三人のインディオの姿を見つけ、おれは瞬時に正常な思考を取り戻した。
昨日、佐渡の家を襲った尖兵もこうして呑まれたのだ!
おれはほとんど無意識のうちに手袋のスイッチを切りモス・グリーンのブラウスの襟に手をかけた。渾身の力で外へ引っ張り出そうと――。
佐渡がこちらを向いた。
靴の爪先がすっと口の中に消えた。
冷たい爬虫類の瞳がおれとゆきを見つめ、唇がひん曲がる。笑いの形を刻んだ。チロリとのぞく赤い舌は、先が二つに分かれていた。人間ひとりを丸呑みにした満足感と興奮がさらに急速な|変態《メタモルフォーゼ》を促したのか、おれたちの眼前で、佐渡は見る見る別のものに変わっていった。
鼻が完全に引っ込み、額と顎の骨がバキバキと音を立てて収縮する。すでに変形していた口の中で、唯一人間らしさを留めていた歯までが形を失い、代わりに四本の牙がどろりと赤い歯茎からせり上がってきた。
ゆきの襟足が総毛立っている。
佐渡は四肢さえ変貌を遂げていた。
手指がひとつに溶け合い、一本の棒と化して胴体に吸収された。足はすでにない。股間を突き破って青黒い縞模様をプリントした尾が床をうねくった。うねくりながら伸びてゆく。よほど強烈な消化能力を有しているのか、人ひとりを呑みこんだ腹部の線は、かなり緩やかなものになっていた。
しゅうっ! という音が唇から洩れた。
地上三メートルの高みからおれたちを見下ろす鎌首は完全な蛇そのものであった。
熱い横浜の部屋は非現実的な魔境に変貌していた。
風を巻いて首が動いた。カッと開かれた口がゆきの頭へ襲いかかる。佐渡は食い足りなかったのだ。
おれはゆきの肩を抱いて横へ走った。
青黒い光が眼の隅を流れ、濡れタオルをはたき合わせたような音がした。
それが佐渡の唇が噛み合わさった音だと知ったとき、おれの手は意思から解放されて動いた。KTW弾装填のM659を抜き、床に倒れざま連射する。炸裂弾にすればよかったという想いが脳裡をかすめた。
十発を二秒で放った。
立ち上がろうとして、軟らかいものに足をとられつんのめる。のたうつ佐渡の胴であった。
きいきい。
|硝煙《ガン・スモーク》の向こうで激動する大蛇の首から洩れる音。泣き声だ。
KTW弾は奴の右眼を貫いたのである。四五口径をあれだけ食らって血一滴流さぬ以上、筋肉細胞に急速な復元作用が備わっていると判断したのだが、間違っちゃいなかった。眼以外の部分には射入孔の痕さえ見えない。
ぶん! と尻尾が飛んできた。身を屈めてかいくぐり、おれは部屋の隅に寂然と突っ立ったままのインディオの前に走り寄った。
必死で、ワイカ語の記憶を探る。文明と接触をもつ南米インディオのうち、最も原始的な部族の言葉だ。M659をひとりの額に押しつけながら、
「奴をもとに戻せ[#「もとに戻せ」に傍点]!」
と叫ぶ。
無駄だった。かといって、|征服者《コンキスタドール》たちの言葉であるスペイン語は通じまい。彼らが人を動物に変える呪術師という保証もなかった。
おそらく、佐渡は二年前世界旅行に出掛けた際、南米で彼ら一族の手中におち、このような存在に変えられてしまったのだろう。
人間の獣への変貌は、おれたちトレジャー・ハンターにとって、それほど珍奇な現象ではない。おれもビルマで虎男とやり合ったことがあるし、ニューヨークのコイン・ランドリーで、SWATに射殺された殺人猛犬がみるみる十代の少年に変わっていく様を目撃した覚えもある。十中の七までは、獣と人間双方への変身は呪術師の力によるのだが、中には自らの意思で自在に化ける奴もいる。インディオたちが呪術に必要な道具を何ひとつ持っていないところから判断して、佐渡は後者にあたるとみた。――厄介な野郎だ。
「もとに戻せってば!」
今度はおれの知ってる、文明と未接触の未開部族語でわめいたが駄目だった。インディォたちの陽焼けした粘土みたいな顔は、筋肉ひとすじ動かない。
ゆきの悲鳴がきこえた。
振り向くまでもなかった。
どうやって痛みを克服したものか、いま、全長二〇メートルに達する人蛇はのたうつこともやめ、片目から鮮血をしたたらせながら再び天井からおれたちを|睥睨《へいげい》していた。
吐息さえきこえぬ静謐なその姿に潜んだ憎悪がおれの背筋を波立たせた。
「来るな。来たら、こいつを撃ち殺すぞ」
今の佐渡に理解できるかどうかわからないが、おれは日本語で叫んだ。どのみち蛇語はしゃべれない。
佐渡もインディオたちも動かなかった。
「ゆき、こっちへ来るんだ!」
斜め前方に立ちすくんでいるミニ・スカートのグラマーへおれは呼びかけた。並の娘なら発狂しても不思議はないのだが、さすがは太宰先蔵の孫。ゆきはふらふらとおれの方へ後じさりしはじめた。
空気が唸った。
あまりの素早さに、おれは警告を発することもできなかった。
もたげた鎌首は微動だもせず、佐渡は尾のみを動かしてゆきの腰を巻き取り、空中へ持ち上げたのである。
「きゃあ! だだだ大ちゃん、助けてえ!」
ショックが今までのショックを打ち消し、ゆきはようやくいつもの声で救いを求めた。必死で二重に巻きついた尾を乱打する。
見事な手刀だが、佐渡はびくともしなかった。
かすかに尾がふるえ、ゆきがのけぞった。みるみる表情が赤黒く変わる。尾に力がこもったのだ。
お、厄介払いができる――と思ったが、そうもいかなかった。
「や、やめろ。すぐそいつを離さないと、ほんとに撃つぞ! こっちにゃ、サイラスの手首さえありゃいいんだ」
返事は、ゆきの再度ののけぞりだった。
こいつ、おれを脅迫してやがる。
「な……なによ、この人殺し」ゆきがうめいた。「早く助けてってば。……ああ……苦しい……骨が折れそう……早く……早く」
肉づきのいい太腿が空しく宙を蹴った。
蛇に絞められて悶えるグラマー美女なんて滅多に拝めるものじゃない。もう少し見ていたかったが、そうもいかん。
おれは銃口を下ろした。
ドアの方を見た。佐渡も。
ぱん! と圧縮ガス銃独特の音がきこえた。
佐渡が絶叫を放った。
人間と蛇の混じり合った声で。
あまりの不気味さに、おれは思わず両耳を押さえた。ゆきが床の上に落ちた。
インディオたちが動いた。一気に窓辺へ駆け寄り、窓外へ身を躍らせる。全身の力を吸い取られるような恐怖の中でおれの放った一弾は、最後の奴の足には当たらず、コンクリートの破片を跳ね返した。三つのTシャツはたちまち消え失せた。
おれは佐渡の方に目をやった。
こんなことが現実にあっていいものだろうか。
部屋の中央で苦痛に悶える大蛇の胴体。黒いTシャツとスラックスをくっつけたそれの頭部だけが、徐々に人間のそれに変わっていきつつあった。
蛇が人間に変じるのか、人間が蛇に変わるのか。どんな形容も及ばぬ悪夢の眺めだった。
髪振り乱した佐渡の顔がはったとおれをにらみつけ、来るな! と身構えた刹那、奴は身をひねって窓へ突進した。
分厚いガラスを微塵に砕いて、佐渡は大地へ身を投げた。ずるるうっ! と胴体が後へつづく。尻尾の端をつかんで引き戻そうかと阿呆なことを考えたのも一瞬で、おれはドアへ急行した。
ちらりとゆきの方を見る。腹のあたりに手をやっているが、苦痛の表情はすでにない。顔色も正常だ。事情は後できかせてもらうぜ。
だが、おれの足はドアの手前で止まった。
暑苦しい恐怖の部屋に突如吹き込んで来た秋風にからめとられたように。
優雅なカーブを描く黒髪の中に、ほの白い顔が浮いている。大きな澄んだ双|眸《ぼう》は、最後に見つめた日よりもさらに濃い哀愁の色を湛えておれを映していた。
あの爺い、とんでもねえことをしやがる。
おれは黙って左手を差し出した。
白い手に握られたクロスマン炭酸ガス拳銃の重みが掌に渡る。右手のM659をホルスターに収めてクロスマンを持ち、左手袋のスイッチをオンにした。
ほっそりした黒いロング・ドレスの脇をすり抜けて廊下へ出た。窓の外でおびただしい悲鳴が渦巻いている。階段の方へ向かった。
「大……」
誰かが名前を呼んだ。
「その|娘《こ》を頼む」
それだけ言っておれは階段を降りた。
中華街は発狂中だった。
目抜き通りからナウい恰好のOLが三人、四つん這いになって逃げてきた。口から泡を吹き、白眼を剥いている。腰を抜かし、失神しながらも本能が身体を動かしているのだ。何人かのTシャツや半袖姿が横丁の入り口にへばりついている。
「中国貿易公司」の屋根の向こうから、ぬうっと苦痛に歪んだ人の顔が浮き上がった。その下に青黒い縞模様の胴体。目抜き通りの真ん中でも、悲鳴と陽光を跳ね返しながらのたうっている。尾の先端がぶん! と走ってどこかのレストランのショーウィンドーを砕いた。
おれは舌打ちして佐渡の顔へクロスマンを向けた。内蔵した高圧ガス・ボンベが、カプセル弾を発射する。だが、間一髪で佐渡の顔は屋根の向こうに消えた。
「くそ」
おれは大通りへ向かって走り出した。
目の前をひと抱えはありそうな胴がズルズルと移動していく。
通りへ跳び出し、そっちを向いた。
目の前に奴の顔があった。
建物の影に隠れて待ってやがったのだ。
ほぼ人間の形を取り戻した唇からシュルル、こればかりはまだ蛇そのものの細長い舌が吐き出された。
理性などどっかへ吹っ飛んでしまった。ぐおっ! と憎悪に狂った佐渡の顔が迫る。牙は蛇のままだ。丸呑みは無理でも、喉を食い破るくらいはできるだろう。クロスマンを向ける暇はなかった。
眼の前で火花が散った。
肉の灼けるいやな匂いが鼻をつく。
右半顔を炎に包んで佐渡は身をそらした。ぐええと人間らしい声でうめく。それはおれの叫びでもあった。一万ボルトのE手袋で顔を灼かれながら、佐渡はその胴をおれの腰に巻きつけたのだ。凄まじい勢いで血液が顔と頭骸へ逆流する。
だが、両手は自由だった。
眼の前を熱気で赤く染めながら、おれは夢中で恐怖の顔へクロスマンを撃ち込んだ。
顔面で砕けたカプセル内の液体を浴びて、佐渡は再度絶叫した。
中国華南省の暗黒界に伝わる伝説の霊薬――眼まで白い白蛇の肝をすりつぶした粉末に七八四七種の薬草と秘伝の煮沸法を施し丸薬としたものを、水でとき、カプセルに封じ込めたのだ。人間に撃ち込めば人面の蛇となって人を食らうというが、逆に使えば、いかなる妖魔をも撃退しうるという。南米の蛇男も。
佐渡はぐんぐん縮んでいった。胴の両脇が盛りあがってぬるぬると光る腕があらわれ、脚も形をとっていく。
しめた! と思った瞬間、奴は最後の力を振りしぼっておれを高々ともち上げ、コンクリートの路上めがけて叩きつけた。
なんとか受け身は取ったつもりだが、胸を激しく打ちつけ、おれは闇に覆われて絶息した。
ほの白い光が明滅しながら顔の形をとった。あの忌々しいノッペリ蛇面ではなく、おれの胸のどこかにある痛みを、そっと引き出す娘の顔を。
銀麗。十六歳――いや、それは別れたときの歳か。
視覚と意識が戻ると同時に、おれはベッドの上に跳ね起きた。
「ぐええ」
胸が痛んだ。本物の激痛である。
「駄目よ、無理しては」
懐かしい言葉が耳朶をくすぐり、真珠色の手がやさしく胸を押さえた。
「骨に異常はないけれど、もろにコンクリートとぶつかったのよ。これ以上、私を心配させないで」
「奴はどうした? 誰か食われたなら、見舞金を出さなきゃならねえ」
邪慳に放ったおれの言葉にも、憂いを帯びた瞳は動じもしなかった。そうだ。宝に狂った半気狂いがどんな雑言を投げつけ、利用するだけ利用して別れたあとも、ひっそりと風のように耐えていた娘。苛酷な運命を運命として受けとることのできる魂の厳しさをもつ女。それが銀麗だったのだ。
かぶりを振っても、つややかな黒髪は動いたようには見えなかった。
「あの生き物はマンホールヘ逃れたわ。白蛇丸を二発も受けて動くことができるなんて、よほど強力な術がかけられているのね。怪我人はありません。インディオたちを捕らえようと窓の外に待機してた腕自慢が三人、軽い脳震盪を起こしただけ」
「すると奴ら、この街から逃げたのか?」
声が驚愕を含んだ。
「ええ」
おれはシーツを剥いで床に降りた。パジャマを着せられている。病院の一室らしかった。窓の外では青葉が揺れ、壁に取り付けられたクーラーが、低い唸りと冷気を運んでくる。
痛みをこらえながら、つくりつけのロッカーから服を出して身につけるおれを、銀麗は声ひとつかけずに見つめていた。いつもそうだった。たった一度だけ、静かに暮らさないかと訊いた。その翌日、おれは北京を去ったのだ。
M659とE手袋を点検し、おれは挨拶もせずに、ドアの方へ向かった。
かける言葉は百万もあった。だからかけない方がいい。訊きたいこともあった。訊ける義理ではない。
廊下できき覚えのある喚き声がした。ノブに手をかける寸前、ドアは外側から開いた。
憤然たる表情のゆきが入ってきた。これはこれは。
後ろから看護人の制服をきた屈強な大男が腹を押さえながら現れた。通せ通さないでひと悶着あったのだろう。ただのグラマー娘と思ったら、相手が悪かったわけだ。
おれの背後[#「背後」に傍点]に目をやり、しかし看護人はすぐうなずいて歩み去った。中国の血が流れている場所で、元大人の息がかかっていないところはない。
「あーら、お邪魔だったかしら?」
ゆきはおれと銀麗を露骨に見くらべながら、にくまれ口の先鋒を切った。
「なーにさ、こいつ。あたしが大ちゃんを病院へ運ぼうとしたら、横からばかでかい男たちを連れてきて手も出させないの。あたしが何訊いたってつんけんして口もきかないしさ。ふん、すこし顔の造作がいいからってお高くとまるんじゃないわよ。なにさ、胸ペチャ。女は顔じゃないんだから。そうでしょ、大ちゃん、ねっねっねっ?」
「そうとも」おれはあっさりうなずいた。
「は?」
「そう[#「そう」に傍点]だから行こう。まだ昼まえだ。深水丸は出てない。別の奴ら[#「奴ら」に傍点]が待ち構えてるだろうけど、黙って見てちゃ仕事にならんからな」
うん! とうなずきかけてゆきは疑惑の眼差しになった。
「あんた、時計も見ないで時間がわかるの?」
「さてね」
まだ何か言いたそうなゆきの肩を抱くようにして背を向けたとき、銀麗が呼びかけた。「インディオたちが乗るのはアルゴー号よ。お父さまから[#「お父さまから」に傍点]の伝言」
おれは黙って外へ出た
病院の玄関前に見覚えのあるスカGが停まっていた。よくおれの車とわかったもんだ。ご丁寧なこったな。
一応用心しいしい車のそばに近寄り、おれは足を止めた。
どうしたの? と言いかけるゆきに離れていろと手で合図する。
バックシートに女がもたれかかっていた。右手を何気なく腰の方へ滑らせ、周囲に気を配りながら目を凝らす。中華街で忽然と消えたあの女性ソルジャーだった。見事な身体には傷ひとつない。だが、様子がおかしい。じっと前方に眼を据えたまま毛すじほども動こうとしないのだ。
すっと女の右手が上がった。おれの方を見ようともせず、こぶしを突き出す。
「なんだ、こりゃ?」
こぶしの両端から白い紙片がこぼれていた。手を出すと、その上へ落としてよこした。
「なによ、それ? 開けたとたんにドカンといくんじゃないでしょうね?」
「阿呆。つまらねえこと言うな。女のくせにくだらねえボーイフレンドと戦争映画だの007だのばかり見るからだ」
「あら、聞き捨てならないわね。そしたら、怪獣映画のファンは手紙がくるたびに、中からゴジラが出てくるんじゃないかって戦戦兢兢としてるわけ? お伽噺愛好家はどうすんのよ? 玉手箱なんか出てきやしないわよ。あんたの好きな宝物もね。それから言っときますけど、あたしのボーイフレンドは国公私立の差こそあれみーんな大学出てるんですからね。高校生は黙っとれ」
おれは構わず紙切れを開いた。
たった一行。墨痕淋漓と、
「小鳥の巣は探さぬが花」
大した内容じゃないが達筆だ。
「なにさ、馬鹿みたい」
ゆきが肩をすくめた。
おれは素早くスカGに近寄り運転席のドアをあけた。女はこちらを見ようともしない。わかった。
「ねえ、どうしたの?」
背後でゆきの声がし、すぐに怒号に変わった。
「また、知らない間に別の[#「別の」に傍点]ひっかけたのね。この外人さんとコンビ組んだわけ? ちょっと目を離すと……ねえ、おかしいわよ、この女」
「ああ」
おれはうなずき、虚ろな視線を前方に向けている女兵士に尋ねた。
「名前は?」
「クレア・ジョーダン」
「出身地はどこだ?」
「イリノイ州ゲイルズバーグ」
「なによ、質疑応答なんか始めちゃってさ」
ゆきが気味悪そうな声でなじった
おれはいったん座席から離れ、病院の玄関を振り返った。
奥の方に黒いドレスの人影が見えたような気もしたが、錯覚だったかもしれない。
「どうしたの?」
「なんでもねえ。助手席にいけ」
「ふん。この女誰よ? 教えるまで動かない」
「商売仇だ」
「え」急にゆきの眼つきが悪くなった。「じゃ、あたし後ろにいくわよ。運転中に爆弾でもぶつけられちゃたまんないわ。――ちょっと待って。その敵が、なぜこんなところにいるの?」
「話せば長くなる。とにかく乗れよ。後ろで番してもいいが、何もしやしねえぜ。この女は完全に洗脳されてる」
「洗脳!?」
おれはうなずき、いきなり女の眼の前に人さし指を突きつけた。瞼を閉じようともしない。
「な?」
わけのわからぬままうなずくゆきを助手席に乗せ、おれはスカGをスタートさせた。
洗脳とは一種の催眠術と思えばいい。薬物、放射性物質、あるいはそのものずばり催眠術を使って人間の考えや行動を規制する非合法行為である。具体的にいうと、こちらの言うなりになるようある人物の思考をコントロールし、殺人や誘拐を行わせるわけだ。
例えば、ある人物を暗殺する場合、刺客に選ばれたもの[#「もの」に傍点]を催眠状態に導き、殺人に対する心理的抑制を取り除いた上で、あるキイワードを記憶させる。これは言葉でも、視覚に映る品物でもいい。そして術にかけられたことを忘れるような処理を施し解放する。
後はいたって簡単。何も知らず平凡に暮らしている哀れな刺客のもとへ、ある日、一本の電話なり手紙が届くのだ。受話器からひびく何気ないひと言、便せんに記された平凡な言葉、図形、漫画――これらを見、聞いた途端、平凡なその人物はただひとつ事前に与えられた暗殺指令の実行のみをめざすロボットに変わる。暗示にはどんな複雑な行為も織り込めるから、彼はそれに従い、拳銃を買い、あるいはナイフを用意して標的のもとへ向かう。眼に入れても痛くない愛娘が背後からアイスピックをかざして忍び寄るなどと、どんな父親が想像できるだろう。
この最も有名な実例が、一九六八年、あるホテルでロバート・ケネディ上院議員を射殺したサーハン・サーハンである。彼が暗殺の直前、ホテルのバーで水玉模様のワンピースを着た女にあるキイワードを囁かれ、拳銃をもらって使命を果たしたのは知る人ぞ知る事実だ。なにせ、そのワンピースの女にきいたんだから間違いねえ。
いま、おれたちの後ろにいる女は、逆にすべておれの意のままに行動するよう暗示を与えられた人間ロボットだった。元大人の贈りものだろう。男の方がどうなったかは神のみぞ知るだ。ヒントは女のもってた紙片だ。
『小鳥の巣は探さぬが花』――探したら、小鳥は死んでしまうのだろう。大統領さえその存在を知らぬ影の米軍。彼らの最優先事項は、むしろ任務達成より機密保持のはずだ。隊員が敵に捕らえられ、死を選ぶことも出来ぬ状況で洗脳される場合も考慮に入れてあるだろう。
彼らの存在を外部に洩らさざるを得ない心的状況に陥ったとき、「暗示」が自律神経をも操作し、心臓は鼓動を停める。あるいは、血液中に混入されたある種の抗素が突如、毒素に変ずる。DNAそのものに手を加え、瞬時に幼児退行を引き起こすことも可能だ。でかい|図体《なり》した赤ん坊からは何も訊きだせまい。そいつはもう七〇年人生をやり直すことになる幸運児だ。男はそうなった。何にしても厄介な相手だ。
おれはグランド・ホテルへと風を切りながら、次々に日本語で質問を発した。英語でききかけたら、あっ、内緒ばなし、とゆきが柳眉を逆立てたのである。
「どこからおれを尾けた?」
「尾けはしない。中華街を張ってたら、偶然見かけたのだ」虚ろな声だった。
「おれのことをどこまで知ってる?」
「名前と職業。詳しい経歴は目下調査中」
よけいなことをしやがる。おれは話題を変えた。
「おまえたちに指令を与えているのは誰だ?」
返事にはよどみがなかった。
「わからない。私はただ、直接の上司の命令で動いているだけ」
「そいつの名は?」
「ダニエル・マクホーガン部隊長」
「どうやってインディオのことを知った? 何人で動いてる?」
「三日前、日本人ルポライターの写真を見せられ、誘拐するよう命じられた。理由は不明。日本へ飛んだのは二日後。私の知る限り、実動部隊は約二〇名。他に軍の支援要員はなし。施設のみ自由使用」
「なんだ、インディオじゃねえのか。施設ってどこの施設だ?」
「横須賀米軍基地」
「ふむ。――やっぱり戦争だな」
少し間を置き、おれは本題に入った。
「インディオたちの乗る船を突き止めたのか?」
「まだだ。しかし、南米向けの貨物船であることはわかっている。港中に全隊員が待機している」
「中継基地は何だ? 車か?」
「ホンダの二トン・トラックだ。ナンバーは横須賀はの七六五X。倉庫街手まえの路上に駐車中だ」
ふん、ご苦労なこった。「深水丸」に乗船しなかった以上、奴ら鵜の眼鷹の眼でインディオたちを探し回っているだろう。
こと横浜に潜伏している限り、元大人と連絡を取れば夕方には居場所がわかる。だが、銀麗が噛んできた以上、それは出来ない相談だった。それに、もう貴重な情報をひとつもらったのだ。あとの成果は、おれの生命でまかなわねばならない。
この仕事が終わったら、二度と横浜へは足を踏み入れないようにしよう。地獄のような未来ならまだしも、暗い過去なんておれにとっちゃ足をすくう罠でしかない。それに甘い色がついてたらなおさらのことだ。
[#改ページ]
第五章 横浜港サブマリン血戦
ホテルに着くや、おれはゆきと女兵士を同室させる手続きを取り、ITHAの日本支部へ電話を入れて調査を中止するように命じた。幸い死人や怪我人は出ていなかった。これ以上、金がかかっちゃ敵わねえ。
胸はまだ痛んだが、食欲だけは虎並みにあった。ルームサービスでゆきともども三センチはある生焼きステーキと野菜サラダを片づけ、ようやくひと心地がつくと、待っていたのは――
「ねえ、あの中国娘だれよ、誰よ、誰よォ?」
「うるせえ」
「あー、はぐらかす気ね」ゆきは腕まくりして「コンビに隠し事するとただじゃすまないわよ。で、どうなの、大学出? 華僑かなにかの資産家のドラ娘? お兄さんいないの?」
「やかましい!」とおれは喚いた。「そんなことより、おまえこそ、なんで横浜なんかにいる? 東大か早稲田のおカマ学生と箱根にドライブじゃなかったのか!? あの蛇男に呑まれた足は誰のだ!?」
「あら、雨が」
「んなもの降ってねえ! こっち向け、このイカサマ娘。コンビだの何だの体裁のいいことばかり抜かす裏で、コソコソ泥棒猫みたいに動き回ってやがる」
ののしり終わった途端、ゆきはきゃははと笑って手を振った。
「やあだ、裏でコソコソだなんて。誤解よォ」
すり寄ってきた。片手をおれの肩に回し、もう一方を胸にあてる。両方いっしょに柔らかい掌でなで回し始めた。
「やめろ、馬鹿、くすぐったい。その手に乗るか」
と言ったものの、自分でも声がうわずってるのがわかる。
ゆきはしてやったりと唇に浮かべた微笑を隠しもせず、妖艶な顔を真正面からおれに向けた。
なんとも欲情をそそる匂いが鼻孔をついた。香水でも何でもない。ゆきの体臭そのものだ。ある種の蛾や蝶の雌はフェロモンという分泌物で雄を誘惑するというが、この娘はまさに男を誘っては貪りつくす肉食蝶の女王だ。腰のあたりがたちまち熱をおびてくる。
「だってさ、大ちゃんには常日頃お世話になりっぱなしでしょ……」
声はしおらしいが、大きな濡れた瞳は、自分の手管の成果をじっくりと楽しむかのように薄い笑いを刻みつけている。
「だからさ、せめてあたしなりに行動して、大ちゃんの手助けをしようと思ったのよ。内緒にしたのは、大ちゃんのびっくりする顔が見たかったから。あなたのそんな顔ってとっても可愛いんだ。いつもはクルーカットでもみあげも長くて、眉毛も眼つきも鋭くって男っぽいのに、眼をぱちくりさせるとべろーんと赤ちゃんみたいになるんですもの。子宮にびんびん感じちゃう」
ゆきの顔がぐっと近づき、生温かい唇が頬にあてられた。すぐにぬめりと舌が動いて、
「……ここの傷痕も……すてき」
「ううううるせえ! この色情狂」
おれは半ば陶然としながらも夢中でゆきを押し放した。我ながら見上げた根性の持ち主である。
「そうやって学生どもを総ナメにしたんだな。だが、おれには通じないぜ。さ、あの男は誰なのか、どうやっておまえがあそこの現場にいたのか、今すぐ白状するんだ。さもなきゃ、マンションから叩き出すぞ。いいや、手回しておまえの貯金も株も全部凍結してやる」
「やーん、そんなこと言わないでェ。あれはふたりの将来のためにためたお金じゃないの」
|理由《わけ》もなくおれはぞっとした。
「とにかく、質問に答えろ。あの女は気にしなくていい。どうせロボットだ」
断固として言い放つ。その途端、ゆきは本性をあらわした。喚く。
「なによ、人が下手に出てりゃつけ上がって! ただで同居させてるからって亭主面するんじゃないわよ。いいわよ、追い出してごらんなさいよ。TVのワイド・ショーに出て、『もてあそばれて捨てられた少女の告白』をやるからね。背中や腿に鞭やロウソクの痕いっぱいつけて、あんたがSM好きの変態高校生で、多額の税金をごまかしてるって吹聴してやるわ。スカートまくって太腿の傷をディレクターに見せれば、出演なんか一発でOKよ。各局のプロデューサーにだってあたしを狙ってる助平中年は多いんだからあ」
こいつ、おれの知らねえとこで着々と人脈をこさえてやがる。ふーむと感心しかかり、おれはあわてて厳然たる表情を取り戻した。
「なんでも勝手にするがいい。だがな、そんな真似して日本にいられるなんて思うなよ。伊達に外務大臣へ個人献金してんじゃねえ。おまえが実は戸籍詐称の東南アジア留学生ってことにして、裸でカンボジアヘ送り返してやる。それともカトマンズの山ん中にしてやろうか、ヒマラヤなら雪男に会えるぜ。いいか、冗談だなんて思うなよ、この露出狂女」
そうそういつもやり込められてばかりいちゃ敵わない。我ながら会心の殺し文句だった。ゆきはうっと口ごもり、それから宙をにらんで「ルンルン」と言った。
「言えなきゃ、おれが言ってやろう。おまえは昨日、おれが氷川丸で機密部隊とやり合っているうちに、通りがかりの船員どもとペチャクチャやってたな。あの中に偶然、インディオを密航させる貨物船の船員がいたんだ。
――その顔じゃ図星だな。そいつは多分、船長と佐渡――あの蛇男さ――が密会してる現場を立ち聞きかなんかしたんだろうさ。何かの拍子にその話が出てピン! ときたおまえは、おれをつんぼ桟敷に置き、直接サイラスと交渉することを思いついた。なんせ、インディオをつかまえなくても、手首さえ奪い返せばダイヤの山が独り占めできるんだ。おまえみたいな欲の塊が見逃すわけがねえ。
で、おれが戻る前にその船員と話をつけといて、昨日の夜だか今日の朝だかに横浜へやってきた。ふたりで見張ってると案の定、佐渡の到来だ。多分、船長と交渉を煮つめにいったんだろう。話をつけて戻る奴を尾行し、こうしておまえたちはあのビルへいき、可哀そうに船員の方は生きたまま呑まれる羽目になったんだ。気はとがめねえのか、この男狂い」
おれににらみすえられ、ゆきはたじたじとなった。珍しく弱々しい声で、
「なによ……証拠でもあるの?」
「おれとあれだけ一緒に暮らしててまだコンピューターの仕組みがわからねえのか。ありゃ、かかってきた電話の交信内容をすべて記憶しているんだ。今朝かけてみたらおまえが留守なんで、念のため昨日の晩からのストックをコンピューターに吐かせてみると、ちゃんと奴からの声が入ってるじゃねえか。船の名前とか出港時刻とかはさすがに出てこなかったがな。もうひとつの決め手は呑まれた現場におちてたマドロス・パイプさ。だけどよ、桜木町の駅で待ち会わせとは色気がなさすぎるぜ」
おれは会心の笑みを浮かべてソファにふんぞり返った。半分は想像だが、まず九分九厘間違っちゃいまい。ゆきはじっと足元に目を落とし、観念したように低い声で言った。
「旭ソノラマから出てる久地木行秀の『エイリアン司法街』は面白いわよ」
「まだすっとぼける気か、この野郎!」
一発張り倒してやろうかなと思ったが、なんと、怨めしそうにおれを見つめるゆきの眼には、みるみる涙が盛り上がってきた。モス・グリーンの肩が震えた。
「ひどい……大ちゃんにそんな風に思われてたなんて……そりゃあ、あたしは普通の女の子とちがうわよ。両親とも早く死に別れたし、育ててくれたお爺ちゃんもあんな死に方をしたわ。……でも、でも、人間としての最低の道義はわきまえているつもりよ。具体的にいうと恩返しだわ。確かに、あたしがあそこにいったのは、あなたの推察通りよ。あの|男《ひと》の正体もご名算。でも、あたしが自分のことだけ考えて、あなたを裏切ろうとしただなんてひどいわ……それじゃ、あたしは人間以下の女じゃないの」
すすり泣き始めた。具体的だのご名算だの、なんとなく小才を巡らしてるような部分もあるが、まさか泣くとは思わなかった。
「わかったわかった。もういいから泣きやめ」
「いいえ、いいえ」ゆきは首を振った。光る珠が四方へ飛び散る。「それもこれも、常日頃のあたしの言動があなたに悪印象を与えてるせいだわ。あたし、あたし……自分が許せない!」
ひと声高く絞り出すなり、窓辺へ駆け寄ったのにはまいった。窓枠に足をかけ飛び降りようとするのを後ろから抱きとめ、
「わかったわかったってば。お、おれが言いすぎた。ほほほんとは信頼してんだ。な、な、頼むからやめろ。このホテルにゃまだおれの息がかかってねえんだ。銀行預金の凍結もしねえ」
「はいはい」
ゆきはあっさり窓から降りた。
「わかりゃいいのよ。で、これからどうするの?」
おれはため息をひとつついて、ソファに戻った。女兵士はドアのかたわらに突っ立ったままだ。敵が同席の作戦会議というのもおかしな気分だが、しようがない。
「とにかく明日の出港とわかった分だけ、この女の仲間どもよりいいカードを掴んでるわけだ」おれはできるだけ低い声で言った。「まずはそれを最大限に利用する。この女にゃ任務を果たして帰ってもらうんだ」
ゆきがきょとんとするのを尻目に、おれはポケットからライターと銀のシガレットケースを取り出してテーブルに置いた。
ゆきが眉をよせた。おれは煙草を喫わない。
「ひょっとして、この|女《ひと》拷問にかけるの? オッパイの先を焼くとか」
「阿呆。おまえのボーイフレンドと一緒にするな。カーテンを引いてこい。部屋を暗くするんだ」
興味津々の顔でゆきが薄暗い部屋へ戻ると、おれはクレアを隣に座らせ、虚ろな瞳の前にライターを突きつけた。
「わ、眼焼くの!?」
ゆきが少し嬉しそうに驚いた。答えず、最大のボリュームで炎を噴き上げる。クレアの眼はまばたきもしなかった。相当深い催眠状態に入ってる。潜在意識まで支配されているようだ。
ま、元大人のやることだから、ナルコチック300だのスコポラミンなんて下司な薬は使ってないだろう。心身両面にわたり、中国の医術はほとんど窮極の発展段階にまで達している。おれの目撃談でいえば、暗示と針一本で悪性の癌も完治し得るのだ。いかな精神強化訓練を経たコマンドとはいえ人間である以上、コントロールなど児戯に等しかろう。
しかし、お志はありがたいがこの状態じゃあ、こちらの役には立たない。暗示の効果はそのままで、なおかつ正気を保ってもらう必要がある。
おれはシガレット・ケースを開け、右端の|細巻葉巻《シガリロ》を取って火をつけると灰皿に載せた。
「うわ、いい香り」とゆきがつぶやいた。
「おまえは出てろ」おれは冷たく言った。
「なんでよ」ゆきが唇をとがらせた。女兵士の方をジロリとにらんで「ふーん、結構グラマーだもんね。あたしを追い出しといて、何する気よ?」
「後学のために残ってても構わねえが」とおれはテーブルを指で軽く叩きながら言った。「変な気を起こされると困るからな。――ま、好きにしろ」
それから、クレアの肉づきたっぷりな肩を抱き寄せ、耳もとでこう囁いた。いよいよ、始まりだ。
「これはドラムだ。ドラムのリズムだ。おまえがいるのは横浜のホテルじゃない。アフリカの密林だ。きこえるな?」
クレアの顔は無表情のままだ。
「おれたちは今からひとつに結ばれる」おれは真珠貝の|耳飾り《イヤリング》をつけた耳の奥に熱い吐息を吹き込みながら囁いた。右手の|小打《タパ》はおれ自身の耳にも、青暗いジャングルの奥で不気味に響く猥雑なドラム音と化していた。タンタンタンタン・タンタンタン・タンタンタンタン・タンタンタン……四つ、三つ。四つ、三つ……。
燃えさかる炎のそばでひと組の土人の男女が踊り狂っている。身体中に動物の|脂肪《あぶら》を塗りたくり、ドラミングに合わせて動かす身体のパーツは、それぞれが|発電機《ダイナモ》を内蔵させた野性の熱塊だ。
たくましい筋肉が盛り上がった男の腕、リズムに乗り汗の珠を巻き散らしながら揺れる女の乳房、肉の寄り合わさったふたつの腰と太腿――すべての肉体の奥から重くて熱い原始のエネルギーがふつふつと湧き上がってくる。
「おまえは女豹だ」とおれは言った。女豹だ、女豹だとドラムが告げた。
女はうめき声を洩らして地に這った。ボリュームたっぷりの乳房が大地の上でつぶれ、高く揚げた尻を激しく左右に振る。
クレアの顔の裏にようやく微妙な感情の動きを認めて、おれは内心ほくそ笑んだ。
これからが気が抜けない。左手を女の背中から脇の下に回し、ゆっくりとバストを揉みはじめる。凄い量感だ。その辺のあばずれみたいにパットも使ってなきゃ、無理矢理ブラで持ち上げた脂肪の塊でも、整形シリコンの入ったガリガリでもない。男を狂わすためにつくられた、天然の傑作だ。
右手のリズムに合わせて下からすくいあげるように揉む。クレアの眼が閉じられ、熱い吐息がぽってりとした唇を割った。
「おまえはおれのものだ」とおれは二度繰り返した。繰り返しながらワンピースの背に手を回してゆっくりジッパーを下ろす。
「……ねえ、ちょっと、大ちゃん、……何する気よ」
ゆきの声が遠くできこえた。
おれは躊躇せずワンピースを肩からずり落とした。ぽってりと脂の浮いた白い肌にビキニのブラが食い込んでいる。青だ。息を呑む眺めだった。機密部隊のトレーニングでシェイプした腰と腹にはたるみひとつない。パンティはもっと凄い。小さな三角形でわずかに前後の秘部を覆ったきりのストリング・ビキニだ。めりこんだ|紐《ストリング》からはみ出た腰の肉が生々しい。へその脇に黒子がふたつあった。
「おれへの服従はそのまま、しかし、意識は自由になる。誰も女豹をつないでおくことはできない。女豹だ。おまえはおれの女豹だ。大事な女豹だ」
おれは冷静に|小打《タパ》をつづけながら、左手でクレアの顔をぐいと横へ仰向かせた。厚めの唇が迫る。濡れ光っている。眼をとじたままクレアは舌で上唇を舐めた。欲情した女豹の誘いだ。眉毛が震えている。
おれは容赦なく女兵士の唇を吸った。舌が情熱的に滑り込んでくる。おれのをとらえ、ねっとりと絡み合わせ、自分の口腔に引き入れる。強く吸われた。吸ってはゆるめ、ゆるめては吸う。クレアは貪欲で巧みな|性《セックス》のファイターでもあった。ダイナマイトのような肉体の持つ魅力と成熟したテクニック。兵士でなくとも、超一流の娼婦になれたろう。どんな男もただの一度で陥落したに違いない。その激しい唇と舌の前に、スパイは秘密を吐き出し、拷問係は手を休め、暗殺者はナイフをふるうのに躊躇する。そして、快楽の愉悦に身をひたしているうちに野良犬のように射殺されるのだ。
おれはなお執拗に求めつづけるクレアの舌から唇を離した。苦労してブラのホックをはずす。きつかったが、いったんゆるめると、はじけ飛ぶようにわかれた。わずかに揺れただけで、乳房は下がらなかった。見事としかいいようがない。
リズムはつづいていた。葉巻の煙は部屋中に漂い、おれの脳髄まで青白く染めていた。
「よくきけ」とおれは剥き出しの白い肉に唇を這わせながら言った。
「もう、おまえは女豹になった。誰もおまえを束縛はしない。おまえは自由だ。心の底から自由だ。身体の奥から、天と地の精霊の名において自由だ」
口の中でクレアの乳首が凝固してゆくのが感じられた。はじめて、頭上の女は激しくあえぎ、おれの頭を乳房へ押しつけた。おれの暗示と葉巻に仕込んだ秘薬の香りで、自我を取り戻しつつある。
おれは乳首から口を離し、クレアの瞳の中を凝視した。
「駄目、ノー、ノー。離れては駄目。つづけて、リック・イット・アップ!」
必死におれを乳房へ戻そうとする両手の動きに、まだぎごちなさがあった。表層のコントロールは破れたようだが、潜在意識に根を下ろした暗示は容易に解除できない。いや、しては困るのだ。服従の暗示効果を維持したままで、意識のみ呪縛から解き放つのだ。
おれはクレアの背と膝の下に手を回し、一気に抱き上げた。
「だ大ちゃん!?」
さっきから固唾を呑んで見守っていたゆきの叫びも無視してベッドへ運び、放り出す。熟れ切ったヤンキー娘の女体は白蛇のように毛布の上でうねった。
「だ、大ちゃん」とゆきが今度は不安そうな声で呼んだ。「ど、どうしたのかしら、あんたが机叩くのをやめたのに、音がきこえるわ。やだ、やめて、とめてよ、とめて!」
ゆきには悪いが、おれは結果に満足していた。クレアの耳にも幻のドラムが振動しているはずだ。女を獣に――自由な精神の野性に変えるアフリカ・カリム族の変身ドラムが。
かつて原始大陸、暗黒大陸と呼ばれたアフリカが、西欧文明の血生臭い搾取と略奪の光を隅々まで受けて久しいが、このカリム族についてある程度の知識をもっているのは、おれを含めて世界中に五人といないはずだ。あのラヴクラフトは知っていたかもしれない。
紀元前七世紀初頭に繁栄し、三〇〇年もつづかず歴史の闇に消えていった謎の種族たち。彼らは様々な薬草と音楽を武器に、近隣の部族たちを制圧し、西アフリカ――|現在《いま》のチンブクトゥの一角に大帝国を築いたという。
リヴィングストンの失われた日記を求めてキリマンジャロの麓をうろついていたおれは、目的の品の代わりにたった一部落残っていた彼らの末裔と遭遇し、その秘儀を眼のあたりにしたのだった。たったひとつまみの香を焚き火にくべ、単調なドラムのリズムと魔法医師の暗示が加えられるだけで、貞淑そのものの部落の人妻が野獣と変わり、夫以外の男たちと血みどろの性の饗宴を展開する様を。
人間のもつ恐怖、苦痛――あらゆる禁忌を忘却した獣たちの集団に、どんな兵士が対抗できるというのだろう。まして、野獣は男だけではないのだった。
最強のドラッグといわれ、殺人さえ引き起こすLSD25のような副作用もなく、それに数倍する精神の解放度を秘めたその薬草を失敬したおれは、暗記したドラムのリズムともどもアメリカの某研究所に現物を委託し、おれの仕事に役立つよう改良を施してもらうと同時に、有閑マダム相手のフラストレーション解消センターをロスに設立、これが大ヒットを飛ばした。今でも月平均二千万ドルの現金が、スイス銀行宛に振り込まれているはずだ。
それはともかく、クレアをこちらの目的通り動く意思ある人形に仕立てるためには、もうワン・ランク過激な治療を与えなきゃならん。おれは欲情に濡れ光るクレアの裸身に覆いかぶさった。ゆきの息を呑む音がきこえた。
はちきれんばかりに充血しピンクに染まった乳房から、ぬめぬめした腹、そして、パンティの奥へと手を差し入れるにつれて、クレアの肉体と精神は徐々に、しかし確実にコントロールを失いつつあった。
おまえは自由だと囁きつづけると、たまらなくなったらしく、両手でおれの頭を抱き、たくましい腰をすり寄せてきたが、おれはなおも低く規則正しい声で解放を命じる言葉を囁き、クレアを欲情させつづけた。
ついにクレアが絶頂に達したとき、おれは初めてゆきの方を向き、外へ出ていろと命じた。
「いやよ、やよ」とゆきはぼんやり首を振った。「出るなら一緒よ。大ちゃんも出て」
「阿呆。これからが本番だ。向こうの暗示はとれたが、今度はこっちのを叩きこまなきゃならん。あっちへいってろ」
それでも頑なに首を振るゆきの眼に、光るものを見つけておれは驚いた。こいつ、おれを哀しんでいるのか。
だけど、半分楽しみでやることを邪魔されちゃ敵わない。
おれはゆきを強引にリビング・ルームへ追い出し、服を脱いだ。クレアのパンティも引き下ろす。
それからの三〇分はクレアにとって天国と地獄の往復だった。おれの言葉と行為のたびに、彼女は絶え間ない絶叫を放ち、おれの背とシーツに爪を立てた。もうそこに強靱な闇の米軍女兵士は存在しなかった。性の解放を限りなく貪りつづける女豹が一頭のたうち、あえぎ、全身を痙攣させている。その忘我の状態でも彼女はエロチックな女兵士のテクニックを披露した。本来なら脳髄まで溶かされているのはおれの方だったかもしれない。それほどクレアの肉体とその動きは淫猥甘美だった。
だが、ベッドに倒れてきっかり三〇分後、おれは目的を遂げて服を身につけていたし、クレアは汗にまみれた裸体をさらけだしたまま、乱れたシーツの上で荒い呼吸をつづけていた。おれを見る眼が悪戯っぽく笑っている。おれもニンマリと笑い返したとき――
リビングとの境のドアがいきなり開いた。
ゆきだった。顔がこわばっている。ピン! と来たときは遅かった。彼女を押しのけるようにして、ふたりの男が室内に侵入してきたのだ。ひとりはボーイ姿の日系人、もうひとりはグレー・スーツの黒人だ。両手に黒光りするコルト・ガバメント。太いソーセージのような|消音器《サイレンサー》がおれの心臓と頭を狙っている。|撃鉄《ハンマー》は起きていた。
「|拳銃《ガン》を捨てろ。左手でだ」
日系人が達者な日本語で命じた。おれはちょっとためらい、ホルスターから半分ほど抜きかけていたM659を左手に移すや、ベッドの上に放り投げた。
黒人がそちらに目をやり、眉を上げた。おれに目を戻し、助平ったらしい笑いを浮かべて英語で言う。
「この餓鬼、クレアと楽しみやがって。さぞかしいい気分だったろうよ。これから、倍にして払い戻させてやるぜ」
当の女豹は、濡れ光る秘部を隠そうともせず、たくましい太腿を投げ出したままぼんやりとシーツの上を見つめていた。
「怪我はないか、クレア?」
日系人がきいた。仲間の裸体に目をくれようともしない。自制心の塊みたいな男だった。
「……大丈夫よ」とクレアはけだるそうに言った。「でも、まいったわ。この子とっても上手なの」
「早く服を着ろ」日系人が鋭く命令した。「ホテルに張り込んでておまえを見つけたときはびっくりしたぞ。公園の船でブルックスとマクマホンを痛めつけた日本の餓鬼はこいつだな。中華街で消えた五人がどうなったのか、後でおまえの口からゆっくり説明してもらうぞ」
それから壁際で口をへの字に結んだゆきを冷たい眼で見るや、
「ジム。この娘を片づけろ。邪魔だ」
黒人がうなずき、おれの胸からゆきのバストに銃口を向けた。
「ちょっと待て」さすがにあわてておれは叫んだ。「この娘を殺るのはいいが、おれはどうなる? 情報をとったらそいつの後を追わす気か?」
ゆきが目を剥き、日系人はにんまり笑った。
「察しがいいな。それも、楽には死ねんぞ。マクマホンは廃人になったし、ブルックスは降等された。おまえの鼻をそぎとりたくてうずうずしているそうだ。ま、どうたらし込んだかは知らんが、部隊一のグラマーと楽しんだんだ。短いが実りある人生だっただろ」
「まったくだ」とおれは同意した。「だが、おれは手強いぜ。下の仲間を呼んだ方がいいんじゃないのか?」
ケッと黒人が舌打ちした。日本語もわかるらしい。
「このホテルにゃおれたちだけだ。おめえらの世話ぐらい、おれひとりで見てやるよ」
おれはうなずいた。
「こういうわけだぜ、クレア」
呼びかけに応えたのは轟音だった。
側頭部から脳漿を撒き散らしながら、黒人が吹っ飛ぶ。
訓練の成果か、銃声の方を振り向かず床へ跳んだのは見事だが、毎秒三九〇メートルの弾速には及ばなかった。ボーイ服の胸部と腹がはじけ、床に倒れたときは、日系人の生命も半ば消えかかっていた
おれは駆け寄り、必死に持ち上げようとするコルトを蹴り飛ばした。
「な……なぜだ……クレア……」
言葉に血の泡が混じった。
「言ったでしょ」
硝煙ただようSWをなおも戦友の頭にポイントしながら、クレアは艶然たる微笑を浮かべておれを見た。
「この子、とっても上手だったって。あんたより数等ね……」
日系人は最後の努力でおれの方へ顔をねじ向けた。憎悪より驚愕の表情が浮かび、すぐどす黒い死の色に変わった。
「この……クソ餓鬼……」
あまり上等じゃない遺言を残して、日系人はこと切れた。相応な死に方だろう。おれは首を振って十八歳の感傷を追い払い、クレアに服を着るよう命じた。
「ここを出たら、少し時間を稼いで基地へ戻れ。ホテルは大丈夫だが、外にはおまえの仲間がいるだろう。見つからんようにしろよ。――言うことはわかってるな」
「安心なさい、ダーリン。問題の船は五日後の『海神丸』――まかしといて」
いくど見てもよだれが出そうになる見事な乳房を、ぎゅっとブラで持ち上げながら、クレアは微笑みかけた。昨日までの戦友ふたりを一瞬のうちに射殺した後ろめたさなど影も形もない。じろりとゆきを見て、
「でも、その娘は片づけといた方がよかったみたいね。あなたが助けたそうだったから早々と手を打ってしまったけれど」
まずい! と思ったが遅かった。
「なによ、あたしが死ねばよかったっていうの!?」ゆきが柳眉を逆立てて喚いた。「ふん、あんたの助けなんかなくったって、あんな黒人わけなく片づけられたんだからね。なにさ、いい年して、こんな坊やにたらし込まれちゃって。軍人だかスパイだか知らないけど、ベッドでよがり声あげるんなら、もっと上品にやらないとお里が知れるわよ、この牝犬!」
取っ組み合いになっても不思議じゃなかったが、クレアは鼻の先でせせら笑った。ワンピースのジッパーをはめ、おれにM659を放ってよこす。ぶるんぶるんとヒップを振り振りドアの方へ向かった。リビングへ行く途中で振り向き、
「早くそのお嬢ちゃんと寝てやることね、ダーリン。少しは大人になるでしょう。今度会えたら、また可愛がって」
「あいよ」
おれは手を振った。M659をホルスターに収め、ゆきに顎をしゃくる。
「誰かが銃声をきいたかもしれん。さっさと出るんだ」
「ふん」ゆきはそっぽを向いた。「えらそうに命令しないでよ。昼日なかから、裸の女とレスリングしていたくせに」
「ありゃ仕事だ」
「どういう仕事よ。説明するまで動かないからね」
「勝手にしろ。マネージャでも入ってきたら、その死体の理由と身元を説明してやってくれよ」
おれは後も見ず部屋を出た。廊下の途中で足音が小走りに追ってきた。
夜になって霧が出た。
坂の中腹から見下ろす港の灯が白い壁の向こうにしっとりとにじんでいる。異国の地で没した人々の名を刻み込んだ十字架や墓標のまわりを、霧は幻のように這い、その表面に無数の水滴を結んだ。横浜で最もエキゾチックな場所――外人墓地である。
長い髪の娘がスカートの裾をひらめかせつつ足早に石段を降り、少し遅れて、上品なスーツ姿のたくましい青年が追ってゆく。どこにでもある平凡な光景。甘酢っぱい|青春劇《プレイ》。
必死で逃げる少女の手を青年がとらえ、引き寄せた。
「馬鹿野郎、いい加減にしねえか。立ち入り禁止のところを柵乗り越えて入ったんだぞ。見つかったらどうする。おまけに、こんな恰好させやがって」
おれの言葉にゆきは地団駄を踏んだ。
「なによお。せっかく人が気分だしてるのに。ぼくには妻子がいるとか、君といると息が苦しくなるとか、気のきいた言葉のひとつもかけられないの、あんたは!?」
言い返そうとして、おれは必死に我慢した。午後十時とはいえ、夏の宵だ。車でこの辺へやってくる気障なカップルや素人カメラマンは数多い。言い争う声でもきかれた日にゃひと騒動間違いなしだ。
「いいか、もうインディオがやってくるころだ。いつまでも、おまえの少女趣味の相手ばかりはしてられねえ」
おれはなるべく穏便にすまそうと諭すように言った。
グランド・ホテルを出ていったん六本木のマンションへ引っ返し、法務大臣に電話してホテルでの射殺事件の揉み消しを頼むは、必要な装備を用意するはでてんてこまいし、さてひと休みと思ったら、せっかく横浜へいくんなら外人墓地もみたい、港の見える丘公園で遊びたい、山手十番館でグレープ・ジュースが飲みたいとゆきが要求、こちらもドア一枚へだてた向こうで頑張っちまった引け目があるから、ついそれを呑んでしまったのである。
しかし、まさか立ち入り禁止の外人墓地へ入り込み、アケミとジョニーという名で別れのシーンをやろうと言い出すとは思わなかった。毎日悪態をつきあってる仲だぜ。いくら霧が出てるからといって、急に「ボクたちにも別れのときが来たネ、アケミ」なんてどの面下げていえる? 何度やっても気乗りがしないもんで、ゆきがぎゃーぎゃー文句をつけ、おれも頭へきてつい「おまえの本名でならうまく言えるんだけどな」と口走っちまい、かくて、最初のごとき場面と相なったのである。
「なにさ、まだ二時間もあるじゃない」
ゆきはダイヤを二〇〇粒も散りばめたパティックの腕時計をのぞいて言った。現金正価二千八百万円。もちろん、おれのふところから出た。畜生。
「それにきっと、敵だって貨物船のまわりに網張ってるわよ。インディオがきたとして、どうやってつかまえんのよ?」
「うるせえ、手は打ってあるんだ」
「へえ、初耳ですわね。どんな手よ?」
「とにかく出よう。いま見せてやる」
まだ渋るゆきを促し、おれたちは柵を乗り越えて外へ出た。
スカGで元町方面へと坂を下り、堀川の河ロヘ到着する。
日曜の夜半だというのに、ばかっ派手なネオンをきらめかせた深夜喫茶が一軒営業中だった。
店の脇にスカGを停め、おれはトランク・ルームから荷物を下ろした。海外旅行用のばかでかいスーツケースひとつと武器や小道具をつめたバック・パック。服装はふたりとも車中でTシャツとジーンズに着換えてある。スーツにロングスカートで殺し合いができるものか。
よっこらしょと河っぷちにケースを運び、人気のないのを確かめる。大桟橋はいうまでもなく、山下公園も氷川丸も白い世界の住人と化していた。
おれはケースを開いた。
「なによ、これ?」
横からのぞいたゆきが素っ頓狂な声をあげた。
びっしり詰まったブリキ箔みたいなものが、常夜灯の光を|鈍《にび》色に跳ね返している。
おれは金属箔の間に手を入れ、B5判の雑誌くらいの金属板を取り出した。押しボタンやスイッチ、デジタル指標計等が表面を埋めているが、雑然とした感じはない。中央制御式リモコンも超LSIができてからナウいデザインになったものだ。
スイッチのひとつを起こす。
インジケーター・ランプが点灯すると同時に、金属箔が動き出した。折りたたみ式の艦底部が広がり、箔を張りつけた多重構造式支持骨格が、その内側から延長部分をせり出しつつ楕円形の船体を形造っていく。
骨格と箔に連結された蓄電池やタービン・エンジン、|海上海中聴音器《ソナー》等の機械部分は限界まで軽量、コンパクト化され、ひっくるめても市販の据え置きビデオ半分程度の容積しかないから、何の抵抗も示さず所定位置に収まった。チェック機構が瞬時に異常なしの青ランプを点し、あとはリモコンをハンドル型操舵の脇に備えつけるだけだと告げる。
「ひょっとして……これ……組み立て式潜水艦?」
喉に何か詰まったようなゆきの声に応えもせず、おれは大きくうなずいた。いつ見ても見事なものだ。
スーツケースの上で膨れ上がった全長三・七メートル、艦橋部全高一・五メートルの船体は、なにより驚異的なことに自重十七キロに抑えられている。四歳児ひとりの重さだ。霧の触手が忍び寄り、驚いたように銀色の船体を滑り落ちていく。
ITHA技術陣が英ヴィッカース社の協力を得てつくり出した|携帯用潜水艇《ハンド・サブマリン》「キッド」――この最新科学技術の結晶を生み出すヒントとなったのが、「ガンダム」だの「ザブングル」だのという子供用プラモデルだと知ったら、業界の連中は腰を抜かすだろう。
冶金技術や化学、エンジニアリング等の驚異的発達は、潜水艦の悪しき宿命とされる耐圧船殻の脆弱さや、大容量蓄電池の重量比効率の悪さ、水中航続時間の少なさを克服し、ひと昔まえのSF漫画に登場したような組み立て式潜水艇を可能にしたのである。
むろん値段はばか高い。ひと箱三億円だ。フォークランド紛争で英戦艦シェフィールドを撃沈したフランス製エグゾセ・ミサイルが一基五千万円だから六発買える。ITHAでは貸し出しの他にローンも扱っていて、五○年月賦という気の長いシステムまである。おれのはもちろん現金払いだ。
「それじゃあな」
おれはスーツケースをトランクにしまうと艦橋のてっぺんによじのぼり、ハッチの粘着テープを剥がした。なんだか頼りなさそうだが、この特殊テープは外から引っ張らない限り、五〇トンの圧力がかかってもびくともしない構造になっている。外へ出るときは内側に貼ってあるのをひっぱがすわけだ。緊急時にはちょいと困るが、その辺のリスクはやむを得まい。なにせ潜水艇を持って歩けるんだぜ。
「ちょっと、大ちゃん、あんたこんなプラモデルに乗るの? 波食らっただけでバラバラになっちゃいそうじゃん。ネッシーでも出たらどうすんのよ?」
おれは胸の内で阿呆とののしり、ハッチを閉めかけた。
「じゃ、いいな。今十一時だ。午前一時にはここへ戻ってくる。それまでドライブでもしてろ」
「ねえねえ。そんじゃさあ、帰ってこなかったら、あのマンションあたしが貰っていいでしょ」
眼が希望に輝いていた。おれは憤然とハッチを閉じた。厚さ○・二ミリのハッチはちっとも怒りの音を立てなかった。
形だけの折りたたみ|座席《シート》に腰をおろし、リモコンをハンドル型舵輪の脇に装着する。たちまちコントロール・パネルに早変わりだ。
スキャナーで船内各部の点検を開始する。船殻異状なし、タービン・エンジン異状なし、圧縮酸素ボンベ異状なし、レーザー・センサー、|聴音器《ソナー》異状なし……
怒りは消えていた。おれは始動スイッチを入れた。地上走行用の車輪を操り、道路のふちに接近する。河面まで約一メートル。構わず前進した。観測窓を霧が垂直に流れた。浮揚感と衝撃。左右に大きく揺れたものの、艇はすぐ姿勢を回復した。自重十七キロでは、おれの体重が|重り《バラスト》の役目をする。水面は艦橋部観測窓の下限まできていた。
「メイン・タンク注水」
おれはつぶやき、船底のタンクに川の水を注入した。
別に口に出す必要はないのだが、これを言わなきゃ気分がでない。よどんだ水面がみるみる窓の下から上昇し、艇は水上用レーザー・センサーのみを残して水中に没した。
通常潜水艦艇の構造には複殻式と単殻式、それに両方式の混合型がある。複殻式というのは、直接水に浸る外殻の内側に居住区・機関区という潜水艦の本体を収めた内殻があり、この中間のバラスト・タンクに海水を注入して潜航と浮上を行う二重構造方式だ。
「キッド」のような小型艦ではそんなスペースがとれないため、内殻底部に直接バラスト・タンクが設けてある。すなわち単殻式だ。
「注水停止。|前進《ゴー・アヘッ》」
タービン・エンジンがかすかな唸りをたて、「キッド」は時速五ノット(約九・二五キロ)の低速で河口へと向かった。
午後十一時三〇分。霧の彼方に浮かぶ「アルゴー号」の巨体は、潜望鏡の奥で七つの海をさまよう幽霊船のように歪んで見えた。
|船橋《ブリッジ》や船窓からは光が洩れているものの、それさえ霧の魔力のせいで、冥府の船体を彩る鬼火とも思える。水上用ソナーを通してきこえる出港間近のざわめきだけが、現実の存在を保証していた。
おれは山下公園岸壁から十メートル沖の海中に静止したまま、大桟橋横に停泊中の「アルゴー号」を監視していた。ただの潜望鏡じゃ桟橋の輪郭しか判別できまいが、レーザー・センサーのスクリーンは、ひと気のない桟橋の倉庫街まで鮮明に映し出している。機密部隊員の姿は見えない。クレアはうまくやったのだろうか。それでもいいが[#「それでもいいが」に傍点]、それでは困る[#「それでは困る」に傍点]のだ。
インディオたちは海からやってくるとおれは踏んでいた。二つのグループに追われている以上、そいつらが手ぐすねひいている陸路を選ぶはずがない。
まてよ、空からって手もあるな。
不安が胸を少し噛じったとき、水中ソナーがかすかな水の乱れを伝えてきた。同時にコントロール・パネルのレーダー・スクリーン上に、青い光点が現れる。
この大きさはゴムボートだ。距離は約七○メートル。
おれは素早くスクリーンの示す方角へレーザー・センサーを向けた。湾の沖の方から、霧にまぎれて黒い影が近づいてくる。ソナーからオールが水をかく音が漂ってきた。
ようし、いよいよだ。
おれはゆっくりと「キッド」をボートの方に向けた。ぎりぎりまで近づいて浮上、有無を言わさず佐渡にクロスマン炭酸ガス拳銃で麻酔薬をぶち込み、ボートごとゆきとの邂逅地点へ曳航する予定だ。
だが、おれは前進しなかった。
ゴムボートの斜め後方から、突如、サーチライトの光が闇を切り裂き、船上の四つの影を霧の中に浮かび上がらせた。
奴ら[#「奴ら」に傍点]、やっぱり来てやがった。かすかな音と、スクリーン上に新光点三つ。
おれはパネルの攻撃用スイッチに指をかけながら待った。
霧を押し分けつつ現れたのは、案の定、大型のモーターボートだった。ふつうと違うのは、乗ってる連中が全員、救命胴衣をつけたダーク・グリーンの戦闘服姿で、消音器付きの拳銃とM16A2自動ライフルを構えていることだ。
三艘のボートはまたたくまにゴムボートを取り囲み、凶々しい黒い銃口を四人に向けた。センサーの倍率を上げる。インディオと佐渡だ。全員サファリ・ジャケット姿。一番近いモーターボートの隊長格らしいのが手で乗り移れと合図している。佐渡の正体も知らずに、馬鹿野郎が。
いきなり、佐渡がジャンプした。三方から殺到する銃火に全身を射抜かれ、サファリ・ジャケットの破片を撒き散らしながら水中に没する。
インディオたちは動かない。はっきりと識別はできないが、ひび割れた泥みたいな顔は、不可思議な死の仮面そのままにジャングルの神秘を刻みつけ、あらゆる感情を拒否していた。次に起こった妖異な|光景《シーン》も、彼らにとっては硬い肉に埋めこまれた神経の末端にさえ触れぬ平凡なものだったのかもしれない。
「早く乗り移れ!」
業を煮やし、英語で叫んだ隊長のボートの背後の水面がぬうと持ち上がったと見るや、どす黒い水はふたつに割れ、佐渡の頭部が宙に舞い上がったのだ。隻眼を爛と光らせた巨大な蛇の顔が!
気配よりも顎の下からしたたる水音に振り向いた兵士たちは、眼前にそびえる生白い胴に顔をしかめ、それからなんとなく見たくなさそうな表情でゆっくり頭上を振り仰ぎ、硬直した。
硬球大の青白い炎がひとつぐいと隊長に近づき、巨大な口がパクリと上半身を呑み込むや、隊長の巨体は軽々と宙に浮いた。
銃声も叫びも上がらなかった。現実の自然法則を無視した夢魔の妖気に打たれたのか、恐れを知らぬ影の兵士たちが凍りついている。
顔に浮かんでいるのは恐怖ではなく、白痴じみた赤子の表情だ。闇にまぎれて仲間がさらわれていった太古の記憶が突如DNAを励起し、彼らを恐れを知らずにすむ子宮の胎児に変えてしまったのだ。
佐渡の長い喉がグロテスクに動いた。人の形をしたものがその中を下方へ、海中へと没してゆく。
つづいてもうひとり三〇半ばくらいの兵士が、これも呆けた顔のまま運命に従った。
この惨劇のときにおれも「キッド」の艇内で金縛りにあっていた。あまりにも凄まじい光景を見てしまったせいもあるが、それよりもレーダー・スクリーン上の新たな光点と独特の水中走行音が、遙か前方の海底へ五感集中を要請したのである。
潜水艇だ! 三艘のモーター・ボートがおれに注意を払わなかったのも道理。専用の接待役は水中に潜んでいたのだ。おれ同様息を殺し、必殺の牙を研ぎながら。
大きさはおれのものよりやや大きめ。全長五メートルというところか。記憶のページを手繰った。
ブリンチャード VII――全長五・二メートル、総排水量七トン、定員二名、魚雷発射管二門。二〇〇ミリ長魚雷十二基搭載――こいつだ。最大速度は? 二〇ノット。同じか。強敵だ。
海上では妖気に満ちた沈黙の大虐殺が履行されていたが、おれの五感はすべて、左前方五〇○メートルの彼方から、分厚い水の分子を押し分けて接近しつつある小さな鉄の死に神に集中していた。
つづけざまに圧搾空気の洩れる音がソナーから轟いた。
魚雷だ! 野郎、問答無用で撃ちやがった! さすが軍隊!
この瞬間、夜霧に包まれた平和な横浜港湾は|戦場《バトル・フィールド》と化したのである。
おれは大きく舵輪を右へ切った。正確にはV字型のハンドルをやや右へ動かしただけだが、前にも言ったように、それじゃ気分がでない。高出力反応ディーゼル・エンジンはわずかに唸りを高めただけで要求に応じた。二〇ノットの最高速度で右旋回する。
推進音が近づいてきた。
通常魚雷か、ホーミングか?
こっちの推進音をとらえて自動追尾するホーミング魚雷なら、迎撃しなくちゃならない。
しかし、推進音は方向を変えることもなく、「キッド」のかたわらを通りすぎていった。
安心する暇もなく、猛烈な爆撃音と衝撃が後方からやってきた。
おれの体重も含めて九〇キロにみたぬ船体は、押し寄せる衝撃波に思うさま翻弄され、海中を転げ回った。絶妙な復元構造船殻とおれ自身をメイン・バラストとする平衡安定装置がなかったら、海底の泥に頭から突っ込んでいたかもしれない。
だが、凄まじい勢いで前後左右に回転しながらも、おれの方向感覚はレーザー・センサーよりも冴え渡っていた。普通の潜水艦乗りなら、三半器官を徹底的に狂わされ、嘔吐するか、まともに立ち上がることもできなかったろう。
山下公園の岸壁に命中か。乳繰り合ってたアベックは大騒ぎだろうな。――そんなことを考える余裕もあった。素早く危険度チェック。どこも異常なし。○・ニミリの極薄ながら、スペース・シャトルの外壁に応用されているチタン合金の改良型チタンS3は、見事衝撃に耐えたのだ。
敵は速度をやや落としつつ接近してくる。
再び発射音。
こっちも右旋回。横浜港は広くて便利だ。よよっ! 魚雷もまわりこんできた。ホーミングだ!
おれの右手は無意識のうちにペンシル・ミサイルの発射スイッチに走った。全長三〇センチ、自重一・五キロのミサイルは四基搭載されている。小粒ながらピリリと辛い先端科学技術の結晶だ。射程は三キロと短いが、ホーミングに勝るソナー・赤外線センサー装備で命中率は百パーセントを誇る。重戦車くらいなら一発で大破だ。四菱重工が海上自衛隊へ納入してるのを横流しした品である。
目標は接近中のホーミング。迎撃コンピューター・スイッチ・オン。千分の一秒で目標データ確認。
発射!
知り尽くした攻撃パターンが脳裡に閃く。
一メートルほど魚雷同様スクリュー前進。
固体ロケット点火。
ブースターから火花を吐きながら水上へ躍り出た金属の杭は、マッチ箱大のコンピューターの指示に従い、一気に目標へ突進する。
ミサイル発射と同時におれはハンドルを前方へ倒し、「キッド」は急速潜航に移っていた。引けば浮上。速度調整は左親指部の押しボタンで行う。
発射後二秒で一〇メートルまで下降したとき、衝撃がやってきた。今度は爆破位置の見当もついていたからもろ食らうことはなかったが、軽い船体は数メートル右方へ押しやられた。
しかし、ホーミングは見事に消滅している。
巧みにハンドルを操り、体勢を立て直すやおれは海面へ向かった。艦橋を水上へ出し観測窓からのぞく。
敵潜は浮上していた。いや、させられていた。霧のただ中で荒れ狂う波間に、ずんぐりした船首と艦橋が見え隠れしている。
断末魔の姿だった。太い電柱のようなものが船体に巻きつき、翻弄し、絞めあげていた。蛇人間――佐渡だ。
消音ライフルのくぐもった銃声が闇を裂き、海面のモーターボートから火線が青黒い胴や頭部に集中する。兵士たちを試食中に最初の魚雷攻撃の轟音で呪縛が解けたのだ。怒り狂った佐渡はその超感覚で敵潜を発見、襲いかかった。その光景を目撃したからこそ、おれはホーミング迎撃時に敵潜へミサイルを放たなかったのだ。
公園の方でパトカーのサイレンらしいものが入り乱れた。|潜望鏡《センサー》を向けると、まだ黒煙を噴きあげている魚雷の命中個所周辺は黒山の人だ。指をさし、声高に喚き合っている。霧のせいでこちらがよく見えないのがせめてもの救いだ。眠れなくなるぞ、お前ら。
突然、ソナーから鈍い破壊音が響いてきた。固い鉄板をひん曲げ、鋼鉄の|竜骨《キール》をへし折る音。何が起きたかは一目瞭然だった。
大あわてで向き直ったおれの目に、ひしゃげたブリンチャードVIIの船体を高々と空中に喰わえ上げた大蛇の姿が映った。
狂ったように銃火を送るモーターボートの一艘に頭を振る。七トンの鉄塊に激突されて、数名の兵士が原形を失った。
共倒れになってくれるといいなァと考えてたのだが、そうはいかなかった。残った二艘はエンジンをフル回転させて港外の闇へ溶け込もうとしている。
追っかけろ! とおれは佐渡に叫んだ。
ば、馬鹿。ちがう、こっちじゃねえ!
どうやって嗅ぎつけたのか、佐渡は空中でぐい! とおれの方を見据えるや、頭から水中へ飛び込み、全長二〇メートルはありそうな身体をうねうねとくねらせながら、水を切って接近してきたのだ。
奴の背後に、「アルゴー号」の船上から垂らされた縄梯子を昇る三つの影が見えた。船長の手助けだろう。だが、甲板には船員が鈴なりだ。怪しまれないはずがねえ。おまけにこんな騒ぎ起こして出港なんぞ出来るものか。
おれは潜航に移った。二〇ノットで十四メートルまで沈む。海底についた。観測窓の向こうに追ってくる佐渡。完全な大蛇だ。怨みと憎悪に燃える隻眼が脳裡に広がった。寒い。艇内にいながら身体がぐんぐん冷えていく。
必死で右の親指に力をこめる。ペンシル・ミサイルのスイッチはハンドルの上だ。くそ、手がかじかんで動かねえ。
狭苦しい船内でつぶされる自分の姿が頭に浮かんだ。構造材に突き破られる胸、へし折れる肋骨、酸素を求めてあえぐ肺に侵入する海水。いくらチタンSとはいえ、それに負けないだけの硬度をもつブリンチャードのHY80鋼の船殻を苦もなくひしゃげた佐渡の胴締めに勝てるはずがない。
おれは絶叫した。叫びと同時に、恐怖にこり固まった気塊を体外に放出する。喉を抜けた! 呪縛がゆるんだ。全弾発射!
波を突き破って海上に飛び出た三条の火線に、岸壁の連中がどよめいた。
観測窓からのぞくおれの眼の中で、再び海中に突入した三発のミサイルは正確無比、迫りくる人間蛇の身体を三カ所、凄まじい火花で覆い隠した。やった!
黒血の太い煙を噴きつつ、四つに分断された蛇男がゆるやかに海中へ墜ちていく。泥の上に横たわる前にそれは収縮し、形を変えて人間の破片となった。ぴくりとも動かない。
偶然こちらを向いた佐渡の白い顔に、おれは奇妙な安らぎを認めて胸が軽くなるのを覚えた。踏み入った南米で未知の魔術に憑かれ、日本におけるインディオたちの保護役を強制された一ルポライターが、忌わしい呪縛からいま解き放たれたのだ。
「成仏しな」
胸の内でつぶやき、おれは浮上した。横浜港の死闘は終わったのだ。
とんでもない。
海上へ出た途端、おれは度胆を抜かれた。
凄まじい波頭が観測窓を叩きつけてくる。魚雷炸裂の衝撃にまさる怒濤のうねりに「キッド」はまたも前後左右に揺れ動いた。
おれはハッチのテープを剥がし、思い切って顔をのぞかせた。
髪がちぎれんばかりになびいた。波の飛沫がとんで顔から下はたちまち重くなった。
ぐおっと「キッド」が持ち上がり、落下する。艇内に海水が流れこんだ。周囲は荒れ狂う黒い波頭と凄まじい突風。ちぎれとぶ波しぶきの打撃を顔に受け、おれは思わず苦痛のうめきをもらした。
嵐だ。
さっきまで優雅な白霧と静寂をまとっていた横浜港は、わずか数十秒のうちに未曽有の雨と風が吹き荒れる地獄と化していた。
だが、おれを本当に驚かせたのは、そのことじゃなかった。天候を自在に操る|超能力者《エスパー》なんて、インドやアフリカの奥地にゃごまんといる。そいつらでもこんな芸当ができるかどうかは疑問だが、少なくとも、七千トン級の貨物船を錨ごと動かすことは不可能だろう。
だが、おれは見た。
投錨口から太い鎖を海中に没したまま、「アルゴー号」の巨体がゆっくりと沖へ向かって動き始める様を。
風が押している。海が招いている。南米へ!
もやい綱がちぎれ、鎖を巻きつけた埠頭の一角が海中に崩れ落ちた。風にしなるマストがついにへし折れ宙に舞う。風速四〇メートルなんてものじゃない。こりゃ百は出てるぞ!
それも港湾内にだけ!
そうなのだ。公園の岸壁に集まった連中は逃げもせず、平然と顔を見合わせている。彼らには雨も風も襲いかかっていないのだ。
どうしようもなかった「アルゴー号」を停めたくても、ミサイルはすべて撃ち尽くしている。追いかけてどうなるものでもない。
おれは自分の無力を罰するような風雨の打撃を浴びながら、眼の前を堂々と突き進んでゆく黒い船体を見送った。
甲板上で船員たちが陸地へ向かって何か叫んでいる。自らの意思に反する予期せぬ出港のあとで、どんなドラマが彼らを待っているのか、おれには見当もつかなかった。
船はその航海を助ける暴風雨圏に包まれたまま闇の奥に消えた。
「まいったね、こりゃ」
いつのまにか、港内は晴天の静けさを取り戻していたが、おれはもう驚かなかった。
岸辺で拡声機の声が何やら叫んでいる。おれのことだろう。ミサイルがあれば一発ぶち込んでやりたい気分だったが、なんとか抑えておれはハッチを閉じた。ぐしょ濡れの顔やTシャツを拭こうともせず、ハンドルを握り、ゆきとの邂逅地点へと船首を向けた。両手が重いのは、波に濡れたせいだけじゃあるまい。
別れた地点の岸壁にゆきがたたずんでいた。まだ一時間とたっちゃいないが、ドライブにも飽きたんだろう。周囲に敵の姿はない。足元で浮上すると投げキッスを送ってきた。わざとらしいとは思っても、ああ色気たっぷりにやられると、つい鼻の下が長くなってしまう。
ゆきがスカGをバックさせ、トランクからウィンチを下ろすのを待つ。すぐ下りてきた|鉤《フック》の先を船体のループにひっかけ手を上げると、「キッド」はおれを乗せたままみるみる岸壁をよじ登り始めた。
「ね、どうだった?」
ハッチから出たおれにゆきが駆け寄って尋ねた。
「顔見りゃわかるだろ」
おれはそっぽを向いた。意外にもゆきは嬉しそうに胸の前で手を組み、きゃっと言った。
「失敗したのね? よかった。実はあたしもちょびっとやっちゃったのよ?」
不吉な予感が背筋をなでた。
「なんだと……おまえ、まさか……」
ゆきの代わりに白光が応えた。スカGの運転席から放った懐中電灯の光だ。スーツ姿の外人どもが降りてきた。おれたちを取り囲む。消音器つきのコルトを握ってるのは言うまでもない。ひとりだけ、ブルーのツーピースを着た女がいた。クレア・ジョーダンだ。
「左手で武器を捨てなさい。おかしな真似をすると、このお嬢さんが先に死ぬことになるわよ」
冷たい声だった。洗脳が解けたらしい。
おれは命令に従った。
「これがちょびっ[#「ちょびっ」に傍点]とか?」
照れ隠しの微笑を浮かべているゆきに低い声で訊く。うなずきやがった。
「ひとりでドライブしててもつまんないからさあ、関内のスナックでボーイハントしてたら、つかまっちゃったのよね。でもここへは私が案内したんじゃないのよ。この人たち、ちゃあん[#「ちゃあん」に傍点]と知ってたんだから」
なるほどな。おれはそれ以上文句を言わずに、
「この娘に手を出すと、交渉はご破算だぜ」
と、いまいちばん言いたくないことを宣言した。日本語だ。
「承知しているとも。彼女にはもっと別の利用のしかたがある」
ひときわ背の高いサングラスの白人が答えた。渋い英語だった。おれのことを大分調べたらしい。元町方向からおなじみの黒いセダンが現れ、スカGの脇についた。
「乗りたまえ」
サングラスが鉄のような声で促した。おれはセダン、ゆきはスカG。これじゃ勝手に暴れられない。プロの手口だ。シートに着くとすぐ目隠しをされた。両脇をコルトの大男たちに固められ、セダンは暗黒の中を走り出した。
[#改ページ]
第六章 幻の巨大都市
部屋には光が満ちていた。スチール製のデスクをはさんでおれの前にいる大男の微笑も負けずおとらず明るかった。
地味な紺のスーツを着ているせいもあるが、とても軍人には見えない。俳優になってもブロマイドだけで人気を維持できそうなまばゆい中年男だった。実年齢は四〇をとうにすぎているだろうが、口ひげを落とせば三〇代半ばで通用しそうだ。
「どうだね、これで我々の情報収集力の一端はわかったと思うが?」
男はにこやかに笑って、手にしたブランデーグラスから琥珀色の液体を喉に流し込んだ。おれの前にもたっぷり注がれたグラスが置いてあるが、おれは手をつけようともせず、手にした書類に目を走らせていた。
サントリーのインペリアルなんて安物、口に合うものか。ブランデーならクールヴォアジェのナポレオン、ウィスキーならバランタインの十七年、ガスライターは日本の百円使い捨て、これが通ってもんだ。
部屋にはもうひとりメンバーがいた。クレアだ。壁際に突っ立って煙草をふかしている。この裏切り女め。
「よく出来てる。こんなにも念入りに調べてもらえたなんて、あんた、おれに惚れてるんじゃないだろうな」
おれは書類の束を無造作にデスクへ放り出して、薄気味悪そうに言った。
おれの身元調査だ。あきれるくらい細かい。出生地から性格まで三〇ページにわたってタイプ文字が埋めている労作だ。ただし、出来は六〇点。内容もその程度である。調べりゃわかることしか書いてない。時間が早い、人手が多いというだけのことだ。
「安心したまえ。私にそちらの方面の趣味はないよ、八頭くん」大男――ダニエル・マクホーガン部隊長はグラスに残った液体をごつい掌で温めながら微笑した。思わず笑い返したくなる笑顔だ。瀕死の病人のもとへやってきた死に神の表情もこんなものだろう。
目隠しされたまま一時間ほど車に揺られ、やっとこ降ろされたと思ったら、今度はクーラーのきいた建物をあっちこっちと連れ回され、無数の廊下やエレベータを昇り降りして、ようやくこの部屋へ通されたのだ。多分、横須賀の米軍基地内だろう。
机と椅子だけの調度に、ブランデーと極上のハバナ葉巻が用意されているというアンバランスさがなかなか気に入った。目隠しをとると、大男とクレアを残して護衛どもがさっさと退出したのもいい。もっとも、背丈で三〇センチ、肩幅でふたまわりも大きな偉丈夫が、脇の下にコルト45をぶらさげてちゃ、護衛などいてもいなくてもおんなじだ。おれの装備はすべて車の中ではずされちまっている。
大男は名前だけを名乗り、いの一番に見せられたのが今の書類というわけである。
「確かにあんた方の実力には兜を脱ぐよ。なにせ世界最大の軍隊、諜報組織だ。一介の高校生が勝てる相手じゃない。というわけで、明日は学校なんだ。物理の楠田先生てのが案外べっぴんでな、欠席したくないんだよ。来たそうそうで悪いが、帰してもらえませんかねえ?」
怒り出すかと思ったが、大男は腹を揺すって笑った。全く包容力のありそうな好人物にしか見えない。大した役者だ。書類の束を指ではじきながら、
「このどれが一介の高校生の経歴だね? このわたしでさえ君と話すときは帽子をとらねばならん。正直いって十分に満足できる調査とはいえんが、ここに列挙されたものだけでも、男なら感嘆を禁じ得まい。君の送ってきた人生は、まさに男の規範、男の夢だ。この場でトレジャー・ハンターの教えを請いたいくらいだよ。クレアが我を忘れて身も心も捧げたのも無理はない。ただし洗脳は下手くそだな。君の暗示などすぐ見破ってしまったよ。
あ、彼女のことは気にせんでいい。君のしごかれるところが見たいと言うので呼んだのだが、我々は平和裡に話し合えるはずだからな」
相変わらず無表情に紫煙を吐き出しているクレアの方を横眼で見ながら、ふむふむときいていると、突然、声音と眼の色が変わった。
「とにかくそんな豊かな人生を、わずか十八年で終わらせたくはあるまい?」
ほうらきた。おれはわざと顔をこわばらせた。敵さん、効果ありと見たらしい。おれの脅しに耐えられるものがいるか、というわけだ。今度は前よりもっと優しい声で、
「我々としても、君から学びたいものは随分あるのだ。トレジャー・ハンティングのテクニックは、サバイバル・トレーニングとしても大変有効と思われる。君には相応の報酬を――といっても君からみれば雀の涙だろうが――払い、我々にとって最も有能なインストラクターになってもらいたい」
それから書類を取り上げ、
「七歳のとき、トロイの木馬の台座を発見。同年、ミロのヴィーナスの左親指と右薬指をロマノフ王家の宝冠とともにシベリアより出土、十歳で泣く子も黙るバミューダ三角海域から、海賊キッドの財宝の一部を発見……日本の銀行預金だけでも軽く二〇兆円を越え、しかも連日のごとく世界中から入金がある。君の全口座を合わせれば、わが国とソ連だって買収できるのではないかね。第二のアラスカに君の国旗を立てることも可能だぞ」
「あいにくと寒いところは嫌いでね」おれは静かに言った。「お世辞はいい。で、何を知りたい?」
「あのインディオに関して君の知っている事柄すべてだ。なぜ彼らを追っていた?」
「そいつは企業秘密さ」おれはすっとぼけた。「しゃべるにはそれ相当なものがいるぜ。そうさな、そっちの情報だ」
「よかろう」マクホーガンは即座にうなずいた。まぎれもない真摯さがこめられている。これで、おれを生かして帰す気のないことがわかった。
「まず、同盟の証に私からお話ししよう」
彼はグラス片手に殺風景な壁の一面に近寄り、空いてる方の手でその一角をなでた。
みるみる壁面は上下に分かれ、縦横二メートルはある大型スクリーンが登場した。また片手が動く。白いばかりで愛想のない表面に、突如大森林の空中写真が映し出された。かなり高空から――多分軍事偵察衛星から撮影したものだ。一面緑の樹々で覆われた地表の果てを、幾筋かの青い線がゆるやかに走っている。川だ。
「トロンペダス河だな」おれはようやく興味の湧いてくるのを覚えた。「もう少し北上するとギアナ高地。この地球上でまだ文明が足を踏み入れてない数少ない未踏地帯だ。コナン・ドイルの『失われた世界』がまだ存在してるかもしれんぜ」
「仰せの通りだ」マクホーガンはにこやかにうなずいた。「ついでに察しがついてると思うが、このスライドは地上四万キロを飛行中の偵察衛星から撮したものだ。日付は一九六五年、三月一八日。よく覚えておきたまえよ」
スクリーンが色を失い、すぐ新しい画面が浮き上がった。同じ|写真《スライド》だ。
「これが七〇年九月二五日に別の衛星から同じ地点を撮したもの。さすが大アマゾン。たった五年なのに支流は大分変化しておる。この間に、わたしも父を亡くした」
それから続けざまに三枚、同じ情景が映し出されたのにはまいった。変化しているのは日付だけだった。七二年五月、七八年四月、八二年十二月。おれは目を閉じ、わざとらしく高いびきをかいてやった。
「さて、去年の二月に撮ったのがこれだ」
マクホーガンの言葉に、どことなく興奮の調子を感じておれは薄目を開けた。
ひとりでに眼が見開かれた。
マクホーガンの薄笑いも気にならなかった。
画面は同じ角度、同じ高度から寸分ちがわぬ場所を撮したものだった。それなのに、トロンペダス本流から数メートル、実距離にして一○○キロほどの密林のど真ん中に、忽然と広大な文明都市が出現しているのだ。
「驚いたかね?」
声を合図にまた映像が変わった。今度はずっと拡大されている。いやに粒子があれているのは被写体に接近したのではなく、ネガを引き伸ばしたせいだ。
それでも、南米大陸北部の大森林地帯にはっきりと根を下ろした大文明の偉容は少しも損なわれることなく、数層倍の謎と魅惑とを伴っておれの網膜に灼きついた。
ここだ! サイラスがあの腕を奪い、もうひとつの人生を可能にした未知なる王国はここだ。間違いない!
だが、湧き立つ歓喜の裏で、もうひとりのおれは首をかしげていた。
マクホーガンの言葉が正しければ、写真の時期からいって、この王国はわずか一年のあいだに構築されたことになるのだ。プラモじゃあるまいし、そんな馬鹿な。
トリックなら見破らずにはおくものかとばかり、おれはその写真に目を凝らした。
全長数キロはありそうな三つの大建築物とその周辺を整然と秩序立って取り巻く立方体や球形の家屋、三重に張り巡らされた広大な城壁。すべて途方もなく巨大な石を組んだものだ。ああ、城壁の上には人の姿まで見える。だが、何よりおれの目を魅きつけたのは、王国の中央部ともいうべき広場の真ん中に埋め込まれた、これも巨大な一枚岩板だった。まるで蓋のようだ。
想い出した。サイラスは見たと言った。王国の広大な地下室で、泥づくりの巨人たちが動かしていた、天をもつくばかりの長大な石の柱を。
しかし、さらに目を凝らそうと意識した途端、映像はまたもとの何もないジャングルの記録に変わった。
「一巡したようだぜ」
平静を装い、いかにも退屈そうな声で言ったおれは、しかしマクホーガンの次の言葉に、またも眼を剥き出さなくてはならなかった。
「ノーだ。この写真は電送されてきたいまのスライドに驚いたNORAD――北米防空司令部の連中が、次の日の同時刻に撮影したものさ。――つまり前日は確かに高感度フィルムに固定された大都市が、二四時間のうちに跡形もなく消滅してしまったということだ。カメラも夢を見ることがあるのかね、八頭くん」
しばらく、冷たい部屋に沈黙が降りた。
おれもマクホーガンもクレアも、それぞれの想いを抱いてスクリーンを凝視し、ようやくおれはひとつの言葉を口に乗せた。
「一年で建造され、一日で消えた王国か。蜃気楼じゃあるまいな?」
「わからん。ただ、つい最近まで、私も個人的にはそう思っていた。あのインディオと仲間の日本人に会うまではな」
「ほう、どうしてだい?」
「それは…」
マクホーガンはちょっと口ごもり、すぐにつづけた。
「このような謎めいた文明を発見し、我が国の知識人が黙っていると思うかね? 彼らはあれでなかなか行動力がある。核兵器反対のキャンペーンだけが能ではないのだ。この写真が公表されるとすぐに、ある大学の考古学研究室がリーダーとなり、大規模な探検隊を組織して問題の地へ挑んだのだよ」
こりゃ初耳だ。おれは身を乗り出した。掛け値なしの不可解な色が大男の美貌を横切った。
「彼らは三カ月後に帰ってきた。たったひとつの大成果をあげてな」
「なんだい、そりゃ?」
「インコの新種をひとつ発見したのさ」
「――? それだけか? 他には?」
太い首が振られた。
「何も。三カ月にわたる徹底的な探検行の結果、彼らを待っていたのはただのありふれたジャングルだったのだ。切り開かれた大地も、巨大な石の大文明も、跡形もなかったのだ」
「よせやい。道でも間違えたのか?」
「彼らにはずっと、偵察衛星からの進路指定|補助《サポート》があった。地上五センチの物体も鮮明に映し出す電子の眼が、隊員のエレクトリック・マップに四六時中、彼らの現在地と目的地とを映し出していたのだよ」
「すると、機械が間違えたか……」
おれのつぶやきに、大男はうなずいてみせた。
「|最初《はな》からな。今度の任務につくにあたり、この話をきいた私は内心せせら笑ったものだ。ことに再度の探検行が同じ結果に終わったときいたときには、上司の頭を疑ったよ。――おっと、これは|内緒《オフ・リミット》だ」
軽いウィンクより、おれは何気ない言葉の裏に秘められた壮大な事業の執念に驚いていた。
奴ら、二度もやったのか。そのエネルギーを考えてみればいい。厖大な費用と装備、待ち受ける毒虫とアナコンダ、電気ウナギ……そして、有り得ないことが判明している[#「有り得ないことが判明している」に傍点]目的地。
「では、いよいよ本題に入らねばならんな」
マクホーガンはグラスの中身を一気にあおった。
「だが、その前に、これを見てもらおう」
言葉と同時に、おれの向かいの壁がするすると上へ滑った。どうやらただの殺風景な部屋じゃなかったらしい。
ガラス窓がおれとマクホーガンの姿をおぼろに反射させていた。多重構造の防弾ガラスだろう。その向こう――隣室の光景を目撃した途端、おれは思わず大きく腰を浮かしていた。
おれたちの部屋より一段低く二倍も広大な、医療器具や電子装置で囲まれた手術室のど真ん中に、手術台に縛られたゆきが仰臥していたのだ!
手術着の下腹部に円を描く手術部位指示線と、手術台を取り囲んだ医師たちの手もとに並ぶ美しいメスやら鉗子やらが、おれの身の毛をよだたせた。
「……断っといたはずだぞ。あの娘に指一本でも触れてみろ」
「わかっている」とマクホーガンは思いやりたっぷりにうなずいた。「素っ裸という点を除けば、彼女はまだ連行された時点と何ひとつ変わっておらん。手術用麻酔をかけられてはおるがね。
我々はこれでも信義を重んじる集団でな、この光景はあくまでも君の真摯な告白を促すための一手段にすぎん。要するに、彼女を待つのが輝く未来か寒い冬に閉ざされた暗黒か、すべては君次第ということだ」
「悪い手段を選んだもんだな。ハルク・ホーガンさんよ」おれは頭の後ろで手を組み、椅子の上でそっくり返った。「調査の結果に出なかったのかい? おれがあいつをどんなに追い出したがってるか。ありゃ、おれに取っ憑いた厄病神だ。おかげで二百億近い金を損してる。あんた方がロハで処分してくれるなら、おれとしちゃむしろ大助かりさ」
「指一本触れるなと言ったのは誰だったかね?」
マクホーガンは酷薄な笑いを口元に刻んで嘲笑した。美貌がおかしな具合に歪んでいる。本性というのはなかなか隠せないものだ。
「彼女に対する君の情動は、確かにプラトニックな高校生のものとはいえんが――まあ、いい、君さえ正直な告白をしてくれれば彼女はいつでもあの台から解放されるのだ。正直いって私にも同い年くらいの女の子がいる。彼女の無事生還を誰よりも願っているのは君よりも私の方だろう」
哀しげ声で言いながら、こん畜生、窓ガラスにくっついてるマイクを手に取ると、
「例のものを出せ」
と命じた。それに含まれた勝者の優越感をおれはきき逃さなかった。国の権威を嵩にきた兵隊め。
医師のひとりがこちらを見上げてうなずき、自動ドアを抜けて隣室へと消えた。すぐ、二メートル四方もあるガラス張りの箱を押して戻ってきた。内部でなにやら動物らしいものが蠢いている。
「ようく見たまえ」
マクホーガンの声をきくまでもなく、おれは興味津々の視線をその中へ注ぎ込み、次の瞬間、脳天をハンマーで打ち割られたような衝撃に全身を震わせていた。
そいつの顔は、知性の片鱗もとどめていないことを除けば、辛うじて人間の形を維持していた。つややかなブロンドの髪はフケや汗にこわばってもそのかがやきを保っていたし、モデルを思わせる整った鼻筋と口もとはまだ幼いながら、おれの男ごころさえ揺さぶる美しさがあった。かつては、すれちがう女たち全部を振り向かせ、その切れ長の眼は天の与えたもうたものに対する誇らしげな色を湛えていたにちがいない。
だが、いま眼どころか異様にひきつった顔全体に浮かんでいるのは、この世に生を受けたものすべてに対する憎悪と殺戮の衝動だった。無理矢理耳の方へ吊り上げたような唇からのぞく歯は、肉を引き裂き骨を噛み砕く肉食獣の牙そのものだ。何よりも凶暴一色に塗り込められた双眼の凄まじい充血ぶりよ。四肢はねじくれ変形し、粗末な拘束衣の端からはみだしのたうっているのは、尻尾だ!
おれの眼の前にいるのは、巨大な肉食四足獣と、美しい十代の少年との|混合生物《ミックス・クリーチャー》であった。
それだけなら、これほどの衝撃は受けなかったろう。四つのときから世界中の秘境をよちよち歩きで駆け巡ってきたおれだ。ボルネオの|虎人間《タイガー・ヒューマン》や、スカンジナビアの|魚男《フィッシュ・マン》、ヨハネスブルグの|人狼《ワーウルフ》まで、様々な人獣混合の妖怪たちを知っている。
だが、彼らはすべて、その運命の幸不幸を別とすれば、自然の気まぐれな手で生み出された生き物たちだった。その悲劇に責任を負うべき人間は存在しなかった。ヨハネスブルグの廃ビルの地下でおれの放った銀の弾丸が人狼の心臓を貫いたとき、かたわらですすり泣いていた母親でさえ、彼の運命に関与する必要はなかったのだ。
おれの眼の下で蠢いているのは、明らかに人為的方法で産み出された生物であった。人間が人間を作り変えたのだ。
「君のような快男児にとっては、それほど刺激の強い見せ物ではあるまい」
マクホーガンの声が遠くできこえた。
「人間のDNAに手を加えて、人とライオンを合成したものだ。そう気に病むことはあるまい。その男の子はある業病で死にかかり、彼の家庭では莫大な治療費を捻出するために青息吐息の状態だった。放っておけばその子を道連れに一家心中の末路を辿らねばならなかったろう。
ちょうどその時分、我々もある実験の被験体を求めていた。で交換条件が成立したわけだよ。両親がこれまで浪費した金と今後一生かかっても手に入りっこない金額とをプラスしたもので、彼は我々のものになった」
「……」
「そう恐ろしい顔をしたもうな。考えてみれば、我々は天の使いではないかね。破滅に瀕した一家を死の淵から救い、実り多い人生を与えてやったのだ。我々から受け取った金で彼の両親はブルックリンに小さなスーパーマーケットをひらき、残った子供たちと幸福な老後を過ごしているよ」
「その代わり、子供は獣に変えられてガラスの檻に閉じ込められ、連日連夜、あんた方のモルモットにされてるわけだ。少しずつ肉を剥がれ、血を抜き取られ、毒虫や病原菌を植えつけられてる男の子が、親兄弟の老後が安泰だからといって運命を甘受すると思うかい?」
美しい大男は肩をすくめてそっぽを向いた。クレアはじっと宙天をにらんでいる。おれがここへ入れられてから、ひと言もしゃべらない。おれの言葉など心臓に届く前に鉄の神経にからめ取られてしまったのだろう。やれやれ、今回の仕事は気の滅入ることばっかりだ。
「あんた方の専門は、そういう方面なのかい?」
低い問いに大男は首を振った。
「我々は全米軍施設を自由裁量で使用できる権限を有しているだけだ。あの生き物は遺伝子操作担当部からの借りものだよ。断っておくが、ソ連にも中国にも同様の研究施設はある、君の母国にもな」
今度はおれがそっぽを向く番だった。
DNA・RNAの構造を解明し、二百億以上にのぼる各遺伝子情報をコンピューターの記憶バンクに収めることにも成功した現代遺伝子工学の精髄は、むしろ軍事ベースで発展著しいものがある。これほど戦闘効率の巨大な|秘密兵器《シークレット・ウェポン》は他にないと、軍事関係者たちはとうの昔に気づいていたのだ。
人間の存在を根本的に規定するDNA――ディオキシリボ核酸。髪の色、眼の色、四肢の形状、いや精神状態までが、この二重螺旋状の物質によって決められるならば、それに手を加え、いかなる生命体を作り出すことも可能ではないか。DNA上に存在する数億の遺伝子のうちひとつを大腸菌のそれに移殖したといって歓声をあげたのは、すでに遠い過去のことだ。
黒人や白人、黄色人種――肌の色素の違いから、単なる疾病、精神病、そして大虐殺までを選択的に行うDNAヴィールス兵器、母体に服用させただけで、その子か孫か、好みの代の子孫に思考コントロール可能な殺人鬼を誕生させ得る微生物薬品、そして眼の前のライオン人間。軍事機密の壁の中で、黒い医師たちの手はついに神の領域に触れたのだ。狂った神の。
「さて、もう参考出品はよかろう。で、話に戻るが、なに、簡単な質問に答えてくれればよろしい」
手を振ってガラスの檻を退出させると、マクホーガンはグラスに新しい液体を注ぎながら何気ない調子で話し出した。
「君とあのインディオたちとはどういう関係なのか? また、中華街で消えた我々の仲間はどうなったのか? さっきのスライドにあった幻の都市について、君はどの程度の事柄を知っているのか?――こんなところだ。
自白剤、嘘発見器という手もあるが、どうも私の見たところ、君にすんなり効くとは思えないのでね。君のようなタイプには、君の受けるべき苦痛を大事な人に与える、いわば代替方式が最も効果的なのだ。彼女を八本足のタコ人間にしてもらいたくはなかろう。さ、答えはどうかね?」
「その前にきかせてくれ」と、おれは指でテーブルをはじきながら口をはさんだ。「幻の都市の件はわかった。だが、あんた方が手ずからあのインディオを追いかける理由はなんだ? 在日米軍やCIAの下部組織で十分間に合うはずじゃないのか? いや、それよりも、どうやってインディオや佐渡のことを嗅ぎつけた? どうみたって、あの都市は不可解な蜃気楼としか判断のしようがないぜ。確かにあのインディオたちは巨大都市の住人だろうさ。だが、あんた方はどうやってそれを見破ったんだ?」
痛いところを突いたつもりだったが、マクホーガンはあっさり答えた。
「我々はインディオのことなど知らなかった」
「なにィ!?」
「我々の目をひいたのは、あの日本人のルポライターだよ。一年まえ、彼はほとんど記憶喪失に近い状態で、原住民のカヌーに乗せられマナウスの町にやってきた。なんでも、世界一周の途中、南米に立ち寄ったという。それはどうでもいいが、問題は彼を運んできたインディオ――トロンペダス河沿いに棲むツピー族という原住民の証言だった。
彼らは食料を求めて遠出し、細い支流のほとりで密林から出てくる佐渡に会ったのだが、なんと、彼が出てくる寸前、まるで壁のように身を寄せ合って人の出入りを阻んでいたジャングルの樹々が、あたかも彼の通行を援助するかのように音を立てて左右に分かれたというのだ」
「……?」
「それだけなら無知な土人たちのたわ言ですんでいただろう。しかし、問題は両者の遭遇地点が、あの幻の巨大文明存在地点から、たかだか数十キロ南方の地だったということだ。
知っての通りマナウスには我が軍の基地がある。早速、情報がワシントンへ伝えられ、折り返し、尋問の専門家がマナウスへ飛んだ。
しかし、結果は絶望的だった。別口の調査で佐渡が二カ月前、カトリマンの町から未踏地帯へ侵入したことはわかったものの、以後の足取りは、彼自身の記憶の中からきれいさっぱり拭い取られていたのだ。専門家はあらゆる手だてを尽くしたが、その間の記憶を甦らせることはできず、結局、ブラジリアの日本大使館へ送り届ける他はなかった」
マクホーガンはグラスを干し、おれは無言で壁の一点を見つめた。焦ってる証拠に指のテンポがやや速い。クレアの吐き出す煙草の煙が眼にしみた。
二カ月。その間に佐渡は謎の文明と接触し、蛇に姿を変える魔法を施された上で、文明へと送り返されたのだ。
手首を求めるインディオたちはその時点で、サイラスの所在を突き止めていたのだろうか。いや、ひょっとしたら、彼らを援助する目的で佐渡同様の目に遭った向こう見ずな冒険家たちは、世界中に撒き散らされているのかもしれない。ずっと昔、三人のインディオたちが旅立ってからすぐに。
「あとは簡単だ」とマクホーガンはつづけた。「我々は彼の帰国後もずっと一定の距離を保って、観察をつづけてきた。そして今月はじめ、彼とインディオたちが横浜港で接触するのを目撃したのだよ。まずいことに佐渡に気づかれ、以後、たびたび彼の姿を見失うことになったがね」
しめた、とおれは胸の中で舌を出した。前から気になっていたんだが、ひょっとしたらこいつら、サイラスとインディオたちの関係もまだ知らないんじゃないか。おれが雇い主たるサイラスにあの夜以降一度も連絡を取っていないのは、すでにこいつらの手が回っていることを恐れたからである。しかし、どうやらインディオたちのホテル襲撃事件を知らんということも十分に有り得る。これで動きやすくなったぞ。
「だが、さすがの我々も、まさか彼があんな変身能力をもっているとは気がつかなかった。先程のボート部隊の生き残りの話をきいても、まだ正直、信じられん気持ちだよ」
「そいつはおれが保証するぜ。あんたの部下は真実を語ってるんだ」
「なにはともあれ、これで私の話はすんだ。さ、今度は君の正直さを示してもらおうではないか」
さて困ったぞ。しゃべるのはいいが、そのあとすぐズドンじゃ間尺に合わない。ゴリラとでも結合されたらなおさらだ。思わずテーブルを叩く指に力が入った。
「わかったよ」とおれは片手をあげた。「何でも答える。ゆきはともかく、おれまで河馬人間にでもされちゃ敵わねえからな、あんたはおれの仲間[#「おれの仲間」に傍点]だし、正直に言うさ。でも、その前に教えてくれ。あんたにこの任務を与えたのは誰だ? スプリングゴールド将軍か?」
マクホーガンの眼がカッと見開かれた。殴りかかってくるかと思ったが、彼はなぜか、おどおどしたような視線をおれに向けただけだった。おれはつづけてきいた。
「それとも、クレイグ・ジーン博士――NASAのお偉方か? いくらアメリカ軍に銭金が余ってたって、蜃気楼としか思えねえ密林の王国に、二度も捜索隊を出すわけがないよ」
「ちがう……」とマクホーガンは何かに逆らうように言った。事実、彼は戦っていた[#「戦っていた」に傍点]のだった。
「あの捜索隊は、学術目的で……」
「よせよ、相棒[#「相棒」に傍点]」とおれは嘲笑った。「いくらおれが世間知らずでも、そんな大規模な探検隊が組織されりゃ、いやでも耳に入ってくる。それがいま初耳ってことはだ、探検のすべてが極秘で行われたってことさ。それも二度アメリカ軍の精鋭を集めてな――だろう?」
「貴様……何をした?」
マクホーガンは炎のような眼でおれをにらみつけた。
「別に、こうしてるだけさ」
おれは机を叩く指に力を入れてみせた。
タンタンタンタン、タンタンタン。四つ、三つ、四つ、三つ……。
部屋には、クレアの吐き出す紫煙。
マクホーガンは、はっ! とクレアの方を向いた。
「貴様……その煙草は? まだ洗脳から解けていなかったのか?」
「そう言うこった」
おれはクレアに右手を差し出しながらうなずいた。スーツの内側から取り出したコルト・ガバメントと二個の余備弾倉を、クレアは黙っておれの右手に乗せた。下の手術室からは位置的にここは見えない。
「第一層の暗示だけは解いたんだろうが、あれが見破られるくらいはこっちも計算済みさ。おれとゆきの邂逅地点と時間も承知で教えといたんだ、もっとも、あいつが一時間も早く戻ってきてたなんて予定外だったけどな。インディオは逃がしちまったが、あんた方の部隊だけは叩きつぶせそうだぜ。さ、椅子にかけな」
おれはガバメントの薬室に初弾が送りこまれてるのを確かめ、余備弾倉だけをスーツのポケットに収めた。
そうなのだ。おれはクレアから元大人の暗示を取り除き、おれへの服従の意思を叩き込んだ上で、二重の暗示を施しておいたのだ。まず、インディオたちの船を誤って伝えるように。そして、第二層のより深い暗示として、第一層の暗示が破られたときに限り、「アルゴー号」の件と、おれとゆきとの邂逅地点と時間とを告げるように。
なぜ、こんなことをしたかといえば、たとえインディオの手首を奪えなくても、機密部隊だけは確実に叩きつぶすためだ。
両方の目的を果たせれば最高なのだが、どちらの実力を見てもそれが無理なのは明らかだった。案の定インディオには逃げられ、となると、敵の攻撃がおれに集中する前に、一刻も早く頭を叩きつぶさなければならない。わざわざ「アルゴー号」の名と邂逅地点を教えたのはそのためである。
邪魔が入っても潜水艇には手も足も出ないだろうと踏んだのだが、まさか、奴らも持ち出すとは思わなかった。しかし、なんとか片づけ、こうして奴らの本拠地へ侵入できたのは、インディオたちを捕らえられなかった以上、まあ計算通りと我慢しなくてはなるまい。
もちろん、敵がおれの情報を欲しがっているため、その場で射殺される恐れがないことも計算済みだ。つねに口実を設けておれのかたわらに付き添い、護衛役を務めるようクレアに命じておいたのは言うまでもない。あとは彼女に例のシガリロを渡し、おれがリズムを取り始めたら吸い出すよう暗示を与えておけばよかったのである。
「さ、ゆきを解放するようナチの医者どもに命令するんだ」
強い口調で指示したが、マクホーガンは容易に首をたてに振らなかった。さすがは機密部隊長、クレアとは比較にならないくらい心理面でもタフだ。顔中汗まみれになりながら必死でおれの暗示に抵抗している。
「おまえはおれの部下だ、マクホーガン。従え!」
絶叫が応じた。狂気の咆哮だった。精神が屈服する寸前、マクホーガンは渾身の力を振り絞ってスチール製の椅子を持ち上げるや、窓ガラスめがけて叩きつけたのだ。
防弾ガラスに白い亀裂が走る。医師たちが全員こちらを振り仰いだ。まずい! 奴をおれの支配下に入れ、機密部隊の行動を攪乱する作戦もこれでお流れだ。
医師団の誰かが手を回したのか、部屋中に警報が鳴り響き始めた。
おれは口から泡を吹いて絶叫する巨体へ突進した。端正な顔面に右フックを叩き込む。六五キロの体重に加速度を加え、腰の切れがミックスされていた。岩を殴るような手ごたえ。あれれと思ったが、水月めがけて膝をとばした。粘土のような腹筋だ。それでも、さすがに身体をくの字に曲げる。がら空きのこめかみに横から肘を打ち込もうと上体をひいた。とどめだ。
だが、肘の一撃は、ひょいと跳ね上がった松の根みたいな剛腕に全エネルギーを叩き込んだだけだった。ブロックした右手が唸りを立てて伸びてくる。とっさに左手で顔面をカバーしたがおれは壁際まで吹っ飛んだ。
いくら体重が九〇キロ近いとはいえ、並の状態で出せる力じゃない。狂気の生んだ怪力だ。車の下敷きになった我が子を救うため、体重四〇キロの母親が素手で自動車を持ち上げる現場を、おれは目撃したことがある。
狂った巨人が迫ってきた。
右足が優雅な円を描いておれのこめかみへ走った。狂っても身体で覚えた殺し方は忘れてないらしい。ろくに回復してない左腕で受けざまローキックを返す。げっ、びくともしやがらん!
ドアが開く音。眼の隅にM16A2を構えた隊員の姿が映じた。反射的におれへ銃口を向ける。その喉元へクレアが手刀を放った。のけぞる相手から自動小銃をひったくり、ドアへ向かって乱射する。うまい!
眼の奥で赤い火花が散った。凄まじい右フックだ。注意散慢ケアレス・ミス。浮遊感があった。頭が固いものにぶつかる。床だ。必死で目を凝らす。マクホーガンがスチールのデスクを頭上に振りかざすところだった。やるもんだ――おれはぼんやり考えた。
銃声が轟いた。マクホーガンの胸から腹にかけていくつも小さな穴があき、スーツの破片が飛び散る。デスクを振りかぶったままの姿勢で後方へ吹っ飛び、ガラスに激突した。
「逃げて、大!」
M16を抱えたクレアが叫んだ。ドアのそばには二人の兵士が折り重なっている。
おれは手術室へ目をやった。医師たちがゆきを手術台ごと奥のドアの方へ運んでいくところだった。
「危ない!」
床へ跳びながら振り返ったおれの眼に、背中から鮮血を噴きながら倒れ伏すクレアの姿が映った。M16を抱えた隊員がふたり飛び込んでくる。
クレアの身体が邪魔になって、おれをポイントするのが遅れた。おれの抜き撃ちの方が一瞬早かった。銃口を向けたときは、マニュアル・セフティをはずした親指もガバメントのグリップを固く握りしめていた。小気味よい反動。
ふたりそろってつんのめる。狙いは腹だ。心臓を狙ってはずれた場合、万がいち弾丸が貫通してしまうと敵に与えるパワー・ダメージは極端に削減され、撃ち返される可能性が高くなる。FBIの射撃術だ。
おれはクレアのそばに駆け寄り膝をついた。
七発の五・五六ミリ高速弾に撃ち抜かれた身体はすでに冷たくなりつつあった。生気のない細い眼がかすかに開いておれを見つめた。何か言ってやりたかったが、いい文句を思いつかなかった。おれが殺したのと同じだ。眠れない夜をひと晩増やすしか責任の取り方はない。
クレアは眼を閉じた。おれは頭を振って立ち上がった。M16A2を取り、防弾ガラスへ乱射する。すでに、クレアの身体を貫通した高速弾頭を受け止め済みの防弾ガラスは、数発で砕け散った。なんとか抜けられるくらいの穴があく。おれはライフルで頭をカバーし、一気にダッシュした。
爆音と振動は空中できこえた。
着地した途端、照明が消え、周囲は闇と化した。誰かが発電機を破壊した、と思う間もなく、おれは医師団とゆきを吸い込んだドアめがけて走った。
廊下に出た。数メートル前方の闇を医師団がのろのろ走っていく。
床を狙って数発撃ち込み、ぎゃっと叫んで全員立ち止まったところを、M16の台尻でふたりばかり張り倒し、ゆきを台から抱き起こした。
邪魔は入らなかった。闇のせいで医師たちにはおれの姿が見えないのだ。天井めがけて一連射すると、絶叫を発して床に伏せやがった。
「こら、できればひとりで歩け」
おれはゆきの身体を揺すりながら耳もとで喚いた。む、この手ごたえじゃ、手術着の下は全裸にちがいない。まわりを見渡し、こら、しっかりしろと言いながら、ライフル握った手でヒップをなでる。
「なによォ」弱々しい声でゆきが反応した。「Aだけだって言ったでしょ。東大生のくせにがっつくんじゃないの。お尻に触ったら、一回一万円よ」
ぎょっ。こんな付き合い方をしてるとは知らなかった。おれは逆上した。
「眼え醒まさんか、この破廉恥娘。歩かなきゃ置いてくぞ」
「うっるさいわねえ……ひっく……停電のときはおコタで暖をとりましょう」
「ここは雪国じゃねえ」おれは喚いた。「こっちだ、行くぞ。――もしもし亀よでリズムをとるんだ」
試してみりゃわかるが、酔っぱらいを走らせるにはこの歌がいちばんだ。幸いゆきのリズム感は抜群だった。ひっくひっく言いながら、なんとか走り出す。
何人か、普通の事務職員みたいな奴とすれちがったが、一般兵士はいなかった。警報は鳴り響いているのだが、機密部隊の任務は超極秘――というより、既存の組織とは無関係らしい。まわりの連中に、手を出さんでくれと断ってから殺し合いしてるアパートの夫婦みたいなもんだ。それにこの闇の中じゃ、夜間戦闘の専門家だって一寸先も見分けられまい。
と思ったら、前方の廊下の角から不意に三つの影が湧いて出た。M16を腰だめに、何やらグロテスクなメカで顔を覆っている。レーザー暗視ヴィジョンだ!
ゆきもろとも床へジャンプ。発射音と火線が頭上を薙ぎ払った。横へ転がりながら応射しようと思いきや、射撃は唐突にやんだ。殺し屋どもがきりきり舞いしながらぶっ倒れていく。
角から新たな人影が四つ現れた。
黒色の戦闘服と、機密部隊のものより小型の暗視ヴィジョン。手には消音器つきのオーストリア・ステアー社製AUGアサルト・ライフル。引き金その他の機関部を弾倉より前に置いた“ブルパップ”|型《タイプ》・二〇インチ(五〇八ミリ)銃身モデルだ。
二〇インチといっても弾倉や|排莢口《エジェクション・ポート》が銃床部にあるため、銃身もそこまで後退し、銃の全長はずっと短くてすむ。確か三一インチ(七九○ミリ)。指全体をカバーするようなトリガー・ガードと一・五倍スコープが、外見を妙に未来的に見せている。「007/オクトパシー」で敵側の軍隊が使い、ジェームズ・ボンドのワルサーP5と撃ち合った銃だ。
中にひとつだけ、短銃身の|SMG《サブ・マシンガン》タイプを下げた細身の影があった。
「間に合ってよかったわ」
どこかで聞いた声だ。おれはゆきの腰を抱いて床から起き上がった。
「何しに来た?」
と訊く。どんな顔で質問したのだろう。
それには答えず、銀麗はもときた方を指さした。
「出口はこっちよ、早く来て」
歩き出そうとした。
「いかん、敵だ!」
屈強な中国男が叫び、進行方向へAUGを掃射した。向こうからも銃声。男が肩を押さえてのけぞる。
「別の出口を探さなくては! 大、覚えていない[#「覚えていない」に傍点]?」
澄んだ瞳に見つめられ、おれは当惑した。忘れてはいなかったのか、おれの特技を。
「こっちだ」
おれはゆきに肩を貸したまま反対側の曲がり角を回った。ここへ連れてこられたときの通路である。四人が後につづく。耳のそばを弾丸がかすめた。廊下をいくつも曲がり、階段を降りた。いつの間にか通路には非常灯が点っていた。
「ああら、大ちゃん、何してるのよ?」
ようやくおれを識別できたらしいゆきが、顔の横で素っ頬狂な声をあげた。
「お家へ帰るんだ。黙って走れ」
「そうか――あいつらの基地ね、ここは?」
声にけだるさはない。驚くべき回復力だ。さすが太宰先蔵の孫娘。おれはうなずいてみせた。
「あたりだ」
「出られるの?」
「多分な。もと来た道を一直線さ」
「どうして道がわかるのよ。あんた、眼隠しされてなかったの[#「眼隠しされてなかったの」に傍点]?」
「実はな」
その通り。おれは精確に見知らぬ[#「精確に見知らぬ」に傍点]通路を引き返していた。背後では相変わらず銃声がつづいている。
眼の前に新しい階段があった。ここを下だ。降りかけたところを、ぐいと肩をひかれた。
「!?」
「上よ、大」
「あっ、この女、またしゃしゃりでてきた」
ゆきが憤然と叫ぶ。白い貌が彼女を見向きもせず、
「屋上に乗り物が用意してあるの」
「わかった」
「いやよ、下いきましょ」
「うるせえ」
ぐずるゆきを叱陀し、おれは階段を駆け登った。まだゆきに肩を貸してるのに気づき、冷たく振り払う。怒号が湧いた。
階段の途中で、突如、建物が揺れた。
わっとつんのめりかかり、必死でバランスを保つ。後ろをみると、全員なんとか立っているようだ。さすが元大人の一党。
「じ、地震よ。富士山が噴火したんだわ!」
もちろん、ゆきの台詞だ。
「どこへ仕掛けた?」
再び走り出しながら、おれは銀麗に尋ねた。
「地下の弾薬庫よ。すぐには誘爆しないようセットしてきたけど、早く出ないとこの建物吹っ飛ぶわ」
「相変わらず荒っぽいな」
「ふん、野蛮人」
これもゆきだ。
またも衝撃。壁と天井に亀裂が走り、コンクリートの破片が落ちてきた。下の階はもう火の海だろう。
遮二無二駆け上がり、なんとか屋上へ出た。分厚い闇の中に兵舎の建物が並んでいるのをおれは認めた。どの窓にも灯りが点っている。サイレンと怒号が入り乱れた。
屋上の中央に超小型の組み立て式ヘリが鎮座していた。四機は|羽根《ローター》をたたんだだけだが、組み立て前のが二機[#「二機」に傍点]あった。なるほど、ここへ連行されたとき、おれたちはすでに銀麗の監視下にあったらしい。
男たちが組み立てにかかる。
「あなたたちは、こっちに乗って」
銀麗が自分たちの機を指さした。
応える代わりにおれはAR16を乱射した。
鉄扉が火花を散らし、顔をのぞかせた兵士があわてて内側へ引っ込む。おれは身を低くして叫んだ。
「その娘を連れて先に行け。操縦の仕方は知っている」
「大。わかってちょうだい。わたしたちが何のために危険を冒してここへ来たと思っているの?」
銀麗の静かな声に哀しみが宿った。そうだ。何度哀しませれば気が済むんだ、おまえは。おれは振り向きもせずに言った。
「頼んだわけじゃねえ」
「そうね。でも、あなたが危険な目に遭っているのを知りながら、わたしが放っておけると思って?」
都合よく、扉から人影が飛び出した。おれはつづけざまにふたりを撃ち倒し、胸に浮かんだ想いを銃声とともに四散させた。
わかっていた。横浜にいる限り、銀麗の限りなく憂愁にみちた瞳が、愛児を見守る慈母のようにおれに注がれていることを。
おい、と、もうひとりのおれが尋ねた。おまえ、銀麗が助けに来てくれるのを見越して危ない橋を渡ったんじゃないのか。卑怯もの、腰抜け、どこまであんないい娘を利用すれば気が済むんだ?
「組み立て完了」
男のひとりが振り返って言った。ローターの回転音が風を切る。問題解決だ。
駆け寄ろうとしたおれの足を、凄まじい悲鳴が止めた。
人の形をしたものがふたつ、つづけざまに鉄扉の蔭から宙を跳び、重い音を立ててコンクリートの床に叩きつけられた。少し遅れてもうふたつ。うめき声をあげてのた打ちまわる。
扉の向こうから洩れる光を背景に、たくましい男の影が屋上に出現した。スーツ姿の胸から腹部にかけて、いくつもの赤いしみが広がっている。おれは顔がひきつるのを感じた。
マクホーガン! 生きてやがったのか。狂った頭を憎悪と殺意で支え、おれを追ってきたのだろう。
「止まれ!」おれは声を限りに叫んだ。「止まるんだ、これは命令だぞ、マクホーガン!」
一瞬、びくっと身体をこわばらせたものの、狂ったフランケンシュタインの怪物は、どろんと濁った生気のない目でおれを見据え、一気に突っ込んできた。
おれの両脇で、AUGの消音器がタイプライター並みの発射音を立てた。銃口にはフラッシュ・ハイダーもついているため、炎はあがらない。
蜂の巣のようになりながら、マクホーガンは両手でおれの胸ぐらを掴んだ。
五・五六ミリの軽量弾頭は、初速九七〇メートル――マッハ二・八の高速のため、近距離では人間の身体を貫通してしまう。並の人間ならともかく、途方もない潜在パワーをフル稼動させたマクホーガンの突進を食い止めるインパクトはなかった。
逃げようにも、横にはヘリが、後ろにはゆきと銀麗がいた。
ふわりと身体が宙に浮いた。跳びかかる男たちを片手で跳ね飛ばし、マクホーガンはゆっくりと金網の方へ接近していく。うわわ。屋上から放り出す気だ!
必死で後頭部に蹴りを入れるが、びくともしない。こいつはとっくに死んでるのだ。
背後で女の悲鳴。ゆきに決まってる。銀麗なら死んでもあんなみっともない声は出さねえ。ひょっとすると、あの野郎、喜んでるんじゃねえか。
下方に激しい衝撃を感じて、おれはマクホーガンの手から離れた。必死に身をひねって足から着地する。いてて。
眼と口がぱっくり開いた。
マクホーガンの背に手術着を着た四足獣が食らいつき、地べたに引き倒そうと奮闘している。眼を凝らすまでもなかった。あのライオン少年だ。爆発の衝撃かなんかで檻が破れここまで脱出してきたのだろう。動物の勘で、マクホーガンが怨み重なる敵の一派と見破ったものか、その辺の事情はよくわからん。
鋭い牙がマクホーガンの喉に食い込んだ。巨人の右手が空気をちぎって少年の頭骸へ飛ぶ。苦痛のうなりを残して、少年は跳びのいた。
人間の形をした顔にも人間らしさは片鱗もとどめていない。つりあがった両眼は真紅にかがやき、血まみれの口は執拗に何かを咀嚼中だ。噛みきったマクホーガンの肉片だろう。おれは胸が悪くなった。
「大ちゃん、早く、こっち!」
ゆきの声と同時にビル全体が大きく震動した。床に亀裂が走り、出入り口の奥からごおっ!と火炎の舌が伸びた。機密部隊本部の断末魔だ。
おれはヘリの方へ向かって走った。すでに男たちとゆきの乗った分は宙に浮いている。銀麗だけが狭い|座席《シート》に収まったまま、おれを待っていた。馬鹿娘が。
席につくや安全ベルトも締めず、おれはローターの回転速度を上げた。巧みにバランスを取りながらみるみる上昇していく。脇には銀麗の機がへばりついていた。下方のサーチライトがおれたちに集中する。銃声が上がった。
屋上から十メートルほど離れたとき、建物はふたつに裂けた。赤い亀裂が屋上の真ん中に走り、すべてがその内側へ雪崩こんでいく。絡み合う少年とマクホーガンも。
爆風と火炎がもろにおれたちを叩いた。爆音は後からやってきた。
必死にバランスを取りつつ上昇しながら、おれはなんで宝探しがアメリカ軍基地のビルを破壊しなきゃならないのか首をひねった。
[#改ページ]
第七章 好敵手
「ねえ、大ちゃん。この本読むとさ、ピラニアって結構いけるんだってよ。あたし、たらふく食べてやろ」
助手席で、ブルーのガイド・ブック片手にゆきがあげる屈託のない声に、おれは思わず苦笑した。
昨日の晩、いや今朝の夜明け前、米軍横須賀基地で生体実験のモルモットにされかかり、ライオン少年だの不死身の巨漢だのとんでもないものを見て、生命からがら生還したばかりだというのに、ほんの三時間も寝ただけでもうこの元気のよさだ。
まったく、女ってのはわからない。それとも、ゆきの心臓だけ最近の女の下着みたいに頑丈にできてるんだろうか。
なおも、アマゾン河にそば屋はあるのかとか、「スター・ウォーズIII」は見られるのかとか、常軌を逸した質問を浴びせるゆきを尻目に、時速一七○の猛スピードで高速羽田線を空港めざして飛ばしながら、おれはこれから先の行動予定と、ついさっき六本木のマンションを出るまでの状況を頭の中で整理した。
あれから、ひと苦労だったのだ。
ミニ・ヘリで観音崎まで飛び、待機してた大型トラックに乗ってまた[#「また」に傍点]横須賀を通過し横浜に戻るというカムフラージュ作戦をやってのけた後、おれは銀麗との別れもそこそこに、車を一台借りてゆきと一緒に六本木のマンションへ戻った。
護衛をつけるという申し出は断った。借りをつくるのは一向に構わんが、返せない借りはご免だ。銀麗は何も言わなかった。車に乗って走り去るおれを、闇の中でいつまでも見送っていた。二年まえの雨の日のように。
おれの精神状態がわかったのか、六本木へ着くまで、ゆきも黙りこくっていた。
部屋へ戻るとすぐ、おれは前もって考えといた品をスーツケースに詰め、何本か朝っぱらの迷惑電話をかけてから、ゆきを引き連れて赤坂プリンス・ホテルのVIPルームへ移った。機密部隊の生き残りに襲撃されるのを避けてのことだ。部屋は前回のエイリアン事件で紹介したホテル・オークラと同じく三○年契約、全額前払いで借り切ったものである。
ここでひと寝入りし、起きるとすぐ新聞に目を通した。横浜港での事件は、ダイナマイトを使った残虐なバラバラ事件と報じられていた。三面に小さく、横須賀の米軍基地で火事があり、廃棄された倉庫がひとつ炎上消失したと報じられていた。
うまくごまかすもんだ。敵の技量に感心してから、おれはサイラスのもとへ電話を入れ、手首奪回作戦失敗を告げた。
電話の向こうからきこえる声だけで、あいつ、脳卒中でも起こすんじゃないかと思ったくらいだ。
「……きき貴様……」
と言ったきり、奴は沈黙した。世界最高のピアニストがどんな下劣な罵詈雑言を吐くかと期待に胸をはずませていたが、意外と低い声で、
「……すぐ、南米へいけ」
ときた。自分でも卒中が気になったのだろう。
おれは「あいよ」とOKし、本題に入った。
「ところで、報酬のダイヤモンド鉱の地図だがね。あれを料金先払いで教えてもらいたい」
「なにィ」今度こそ奴は卒中も気にせず逆上した。「貴様……雇い人のくせに、身の程もわきまえず……ふ、ふざけたことを……」
「おっと、そんな口をきくのはまだ早いぜ。おれはあんときうなずいただけだ[#「うなずいただけだ」に傍点]。OKと取ったのは、おまえさんの勝手さ。世の中、自分の好きなように解釈しちゃいけないよ。正式な契約はこれからさ。――さ、どうする?」
遙か帝国ホテルの一室で、サイラスは少し黙り、それから嘲りやがった。
「馬鹿ものめ。ふざけたことを言いおって。わしの指示なしで、どうやって目的地へ到達する気だ?」
「敵さんは貨物船だ。寄港地も到着日もわかってる。ジェットでゆうゆう先回りできるさ」
「おろかな餓鬼め。まだあいつらの力がわからんのか。寄港地へなどおめおめ姿を現す玉か。結局は、わしだけが位置を知っておるあの王国へ侵入するしか手はないのじゃ」
ふむ、ここは奴の言う通りだ。それにもうひとつ危惧があった。機密部隊の奴らが洋上で「アルゴー号」の船脚をとめちまうことだ。
全米軍施設を自由に利用できる輩だ。大統領権限で原子力潜水艦だの大型空母だのを駆り出すくらい造作もあるまい。夕べおれが生きて還れたのは、万にひとつの僥倖に恵まれたからだ。赤道の向こうへいったら、こんなもん通じやしない。
しかし、くよくよ考えてもはじまらん。
「とにかく、おれは今日[#「今日」に傍点]、南米へ発つ。おまえさんのために働くも働かないも、いまの条件を呑むか呑まないかにかかってるんだぜ」
「貴様、まだわからんのか?」
サイラスの横柄な口調は一段とボルテージを上げたが、次の瞬間、何かに噛み切られたみたいに止まった。
「南緯二度二分……東経五六度四分……ほぼ赤道直下。……アマゾン支流、トロンペダス川の流域か……」
「き貴様……どこでそれを!」
サイラスの声は絶望に近かった。
「そんなこたどうでもいい」
おれは冷たく言った。
「おれやあんたの他にも、同じ目的地をめざしてる奴らがいるってことだ。しかも、そいつらの力はおれたちの千倍も強力さ。出し抜くには小回りを効かすしかねえ。こうしてる間にも、インディオをめぐる輪は狭められているんだぜ。
断っとくが、あんたが受けなくてもおれは個人的に出かける。もちろん、手首もダイヤも手に入れたらおれのもんさ。な、有り難く思えよ。内緒でさよならしてもよかったんだぜ」
受話器の向こうでブルルという唸り声がきこえ、突然、もっと渋い、礼儀をわきまえた口調に転じた。
「失礼いたしました。主人は、その、突如体調を崩しまして」
あの秘書――名雲だ。サイラスの野郎、とうとうひっくり返りやがったな。はは、ざまあみろい。
「で、わたくしめが代行いたします……は、左様で………ええ、主人の申しますことには、八頭さまの条件を全面的に呑むと。ただし、こちらからもひとつ条件をつけたいとのことでございます」
「いいともいいとも。なんでも言ってくれ」
おれは鷹揚にうなずいた。どうせ正式な契約書を作れぐらいのところだろ。
「ここでは申し上げられません。今回の旅に必要な費用をお届けする際に提示いたします」
「おっおっ。おっかねえな。まさか、サイラス大尽自ら旅行に参加するってんじゃなかろうな」
「……」
「わかったよ。だがな、おれは今日午後いちに羽田から発つ。会えるのはそこぐらいだぜ」
「――!? 失礼ですが、ビザ等の手続きはどうなさいます? それに確か羽田は現在は国内線のみで……」
「あんな頭のネジがイカれたご主人様についてるわりにゃ、常識がありすぎるな。いろんなところにわがままが利くのはサイラス旦那ひとりじゃないんだぜ」
「承知いたしました。あなたさまの御力には感服いたします」
名雲は、ちっとも感服してないような声で言った。
「ですが、今後一切、わたくしの前でサイラス様を誹謗なさる言動はつつしんでいただきます。よろしゅうございますか?」
おれはつい、はい[#「はい」に傍点]と言ってしまった。なにせ、この事件に首を突っ込んでから初めてきく、本物の凄みを含んだ声だったからだ。マクホーガンだってこうはいかなかった。つかえている相手がどうだろうと、秘書の方は最高級らしい。
「それで、お時間と場所は? ……はい、承知いたしました。それでは万難を排して参上いたします」
最後は例の石みたいな声に戻って電話は切れた。
これで用事はすべて片づいた。
一時間後、日本で最後の朝食を済ませ、おれたちはホテルを出た。
「ねえ、大ちゃん、気がついた? さっきから変な車が二台も尾けてくるわよ。きっと米軍だわ。――やる?」
バックウィンドーの方をのぞきながら、ゆきが面白そう[#「面白そう」に傍点]な声で言った。
やれやれ。おれが南米へ出掛けるといったら、最初の約束はケロリと忘れ、あたしひとり日本に残ってもし米軍機密部隊につかまったらどう責任をとる気だと喚き出し、おれも渋々同行をOKしたのだが、やはり判断を誤ったようだ。安全装置の壊れた爆弾抱えて歩いてるようなものである。
おれが黙ってるあいだに、二台の豪勢なリムジンはぴたりとおれたちの車――ポルシェの前後に張りついた。
「来たわよ、来たわよ」
ゆきが舌なめずりしながらジバンシー作サマー・ジャケットの内懐へ右手を滑り込ませた。
ビアンキのショルダー・ホルスターごと渡したワルサー・PPK/Sの握り具合を楽しんでいる。護身用だが、一度人を撃ちたくて仕様がないのだろう。気狂いにピストルだ。
だが、それきりリムジンは何も仕掛けてこず、おれは欲求不満のゆきを乗せたまま無事羽田空港の出発用ゲート・駐車場へポルシェを乗り入れた。
「あ、来たわよ、来たわよ」
とゆきが低い声で顎をしゃくる方を見るまでもなく、二台のリムジンから目つきの鋭い男たちに両脇を固められた貫録たっぷりの大男が現れ、おれたちに近づいてきた。ふたりとも苦笑いを浮かべている。
「ご足労かけて申しわけがない」
おれは無言で双方と握手を交わした。ボディガードたちは互いに険悪な視線を浴びせかけている。
「報道関係を巻くのにひと苦労だったよ」
と典型的なアングロ・サクソンの顔立ちをした老人が言った。
「出張の予定はないし、今夜はアカサカでミスター・アベときれいどころをあげるはずだったんだがね」
「わたしの方は都合がよかった」
もう片方の、いかにも切れ者といった感じの老人が微笑を浮かべて言った。
「明日から休暇で家族ともどもハバナへ行くことになっとってな。帰る途中に降ろしてもらえるとはありがたい。おお、これは可愛らしいお嬢さんだ。モスクワにもこれほどの美人はおらん。楽しい旅になりそうではないか」
「紹介しよう。おれの妹でゆきという。こちらは……」
ゆきはぽかんと口を開けて、知ってる、とつぶやいた。
「TVで見たことある……アメリカとソ連の駐日大使さん……でしょ?」
「ご名答」おれは手を叩いた。「お忙しいところを用心棒を兼ね、リオまで同行してくださるそうだ。おれたち目をつけられてるからな。――粗相のないようにしろよ」
それだけ言って、おれは足早に空港ビルの方へ歩き出した。
アタッシェ・ケースにネクタイといった社用族や、一族の法事らしい黒服の集団、これから国内旅行に出掛ける新婚のカップルたちの間を縫って、約束の日航カウンター前へ行くと、名雲はもう来ていた。
半袖半ズボンのサファリ・ジャケットの上下をまとい、やせこけた身体の両脇に、なんともばかでかい海外旅行用スーツケースをふたつも置いてある。おれのあきれ顔を見ても無表情に、
「これは八頭さま。お約束通り参上いたしました」
黒皮ブーツの踵をカッと打ち鳴らして一礼した。
「参上してくれたのは結構だがよ」おれは頭をかいた。「あんた、まさか……」
「ご推察通りで、主人の代わりにわたくしめが今回の探検行に同行させていただきます。これが主人の条件でございまして、あなたさまも電話口で了承なさいました。たとえ口約束でも、一度受けられた以上は死しても遵守される方とうかがっております」
何か言おうとしたおれの前に白い封筒を突きつけて口を封じ、老秘書はつづけた。
「こちらが今回の捜査費用で。いかなる辺地の銀行でも換金が叶います。また、南米でお力を貸して下さる元首クラスや財界、司法関係諸氏のリストも同封してございますから、機内でご参照下さい。
なお、不要なご心配をおかけせぬ意味で申し上げておきますが、わたしめの仕事は、あなたさまが主人との契約を履行なさるのをご援助、ないし見届けることで、他意はございません。なにとぞお気にかけることなく仕事にお励み下さいませ。また、ご用の節はお申し出下されば、出来る限りのお力添えをいたします」
「他意がないのはうれしいんでございますがねえ」
おれは体重六〇キロもあるまいと思われる老人のひからびた身体を眺めながら訊いた。
「あんた年はいくつだ。体重は? 密林踏査の経験はあるのか? ドライブ用の道路は通ってねえんだぞ」
「年齢は当年とって六五、体重五五キロでございます。密林踏査はしょっ中――」
「しょっ中!?――若い頃、探検家でもしてたのか?」
「いえ。暇を見つけてよく公園の中や近所の密林を回ります」
「そりゃ密林じゃなくて、雑木林と言うんだ!」
「左様で」
喚きかけたおれの腕を、ゆきがぐいと引いた。
「およしなさいよ、こんなところでお爺さん相手に。みな、見てるじゃないの。みっともないわねえ。恥を知れ」
「おや、確かそちらのお嬢さんでしたな」名雲が少し驚いたような声を出した。「一昨日、あの手首を持参するから、報酬はすべてこちらへ回せと申し込んでこられたのは? 一緒に暮らしてはいるが、実は親の仇と八頭さまをつけ狙っていらっしゃる――こう伺いましたが、仲直りなさったので」
「ルンルン」
売店の方へ歩き出すゆきの襟首を、おれは手を伸ばしてひっつかまえた。
「その辺の事情は、後ほどゆっくりきかせてもらうぜ。自分が許せない[#「自分が許せない」に傍点]孝行娘さんよ」
「なによ。そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。済んだことをいつまでも話題にしないでちょうだい」
ゆきはそっぽを向いて、さっきからこちらを見つめている背の高い外人にウィンクを送った。
「えいくそ。どいつもこいつも人の足引っ張ることばかり考えやがって」
精一杯低い声でののしったものの、蛙の面に何とやらで、名雲は眉ひとすじ動かさない。鉄面皮のくせにどこか素っとぼけた愛嬌のある爺さんだ。向こうでは、米ソ駐日大使が不可解な表情で見つめている。おれは覚悟を決めた。
「勝手にしろ」
と言い残して、日航のカウンターへ向かい、電話を一本入れる。
揉み手しながらやってきた空港幹部の案内で、関係者専用ゲートをフリーパスで通過し、ジープに乗って格納庫へ。
愛機[#「愛機」に傍点]は、すでに飛行準備を整え、四基のターボジェット・エンジンの唸りも高らかにおれたちを待っていた。
「失礼ですが」と、自動タラップの降りてくるのを見ながら名雲が訊いた。「これは、ひょっとしますと、八頭さまの個人財産で?」
「まあな」おれはできるだけ平静を装って答えた。
「ダグラス・マクダネル社製ジェット旅客機AFD1を改造したもんだ。二○人乗りと小さいが、推力二○トンのターボ・ジェットを四基装備して大気圏外をマッハ一・五で飛ぶ。リオ・デ・ジャネイロまで、まあ、ノンストップで二〇時間だな。航路申請は国連事務総長の名で取ってある。もちろん、彼には名前の使用料をたんまり払ってあるがね」
すでに何度か搭乗経験のあるアメリカ大使とソ連大使は、さっさとタラップを昇り、自動ドアの向こうに消えている。
おれはどちらにも個人的にこれを利用させたことがあるのだ。一度などは、バンコクで浮気中のソ連大使が女房に勘づかれ、そこは社会主義の国で、あわや更迭という騒ぎになりかかったとき、こっそりアンカラへと運び、アリバイづくりに協力してやった。
今度の同乗飛行をOKしてくれたのも、年間百万ドルを超す個人寄附の他に、そういう陰の努力があったからである。人間、付き合いが肝心だ。
三メートルほど頭上にそびえる楕円形の操縦室の窓の向こうで、ふだんは日航づきになってるおれのお抱えパイロットが、早く乗ってくれと手を振った。おれはおう[#「おう」に傍点]とうなずき、スラックスごと揺れるゆきのでかい尻を追ってタラップを上がった。
石畳の道から噴き上がる熱気に、車を降りた途端、汗腺が解放された。出てくるだけならともかく、顔や胸をしたたり落ちる感触はいつまでたってもいい[#「いい」に傍点]もんじゃない。
「なによォ、日本が夏なら南米は冬だって言ったくせに。これじゃサウナじゃないの」
ノースリーブのシャツにショート・パンツという勇ましい格好のゆきが背後で文句をつけるのをきき流し、おれは目の前にそびえる古ぼけた赤レンガ造りの建物へと歩き出した。
赤錆びた鉄の銘板が入り口の脇にかかり、ポルトガル語で「ベレン港湾事務局」と彫り込まれた文字が読めた。すぐ横に英語の訳がついているが、こちらは白ペンキのなぐり書きだ。ブラジルの公用語はポルトガル語なのである。時刻は午後四時二〇分。十二時間の時差がある日本では、翌日午前のほぼ同時刻にあたる。
「なにさ。飛行機の中じゃ、リオのコルコバード・キリスト像見ようなんて乗せといて、知らないうちにこんな田舎町に着陸しちゃってさ。おまけにジェット機も帰しちゃって、日本へ戻れなくなっても知らないからね。――んもう、ホテルの部屋も確かめずこんなところへきて、一体どうしようっていうのよ」
ざっと見積もって、着陸以降三百回はきかされたゴネ文句をゆきはまた繰り返した。
ま、無理もないか。
確かにいまおれたちが踏みしめているのは、最初の予定地、世界三大美港のひとつとされているリオ・デ・ジャネイロの大地ではなく、直線距離にしてその二二八○キロ北西、大西洋に注ぐ大アマゾン川の河口から一二○キロほど遡った都市ベレン――つねにアマゾン河探検の発起点となる港町の熱い石畳の上だったのである。
空の旅は順調そのものだった。窓外に望む地平線は、はっきり円弧と見分けられる優雅な曲線を、暗黒にも近い濃紺の空に描き、眼下には、白い雲海とその下に横たわる本物の黒い[#「黒い」に傍点]海が見えた。
食事はゆきがコンピューター制御のオートキッチンでこしらえ――といっても、すでに調理済みのメニューの中から好きなものを選んでスイッチを入れ、温まって出てきたのを運ぶだけだが――最高級のワインとブランデーでそれを胃に流し込んだ米ソ両大使は、すこぶる上機嫌で得意の喉を披露したが、なんと日本で覚えたという広沢虎三の浪花節と、中森明菜の『少女A』だった。
その後、ゆきの指導で野球拳をおっぱじめ、それぞれあと一枚で映倫カットというところまで追いつめられて、笑いながらふかふかのソファ・ベットにもぐり込んで寝てしまった。どっちも根はいいおっさんである。ゆきはTシャツ一枚脱がず終いだった。
あきれたのはサイラスの回し者で、この爺さん偏屈っ! という顔丸出しのくせに、両大使やゆきと妙に気が合い、酒は飲む、「赤城の子守唄」はやる、ついでにゴーゴーまで踊り出し、それを全篇仏頂面で通すものだからユーモラスなことこの上もなく、さんざか座を湧かせた揚げ句、ついにひと言も口をきかずに床についてしまったのである。
石みたいな声をきいたのは約十七時間後、遙か下方に粘土細工みたいなベリハ山脈を見下ろすコロンビア上空で、おれがある決心をしたときだった。
可愛らしいナイト・キャップに水玉模様のパジャマとナイトガウンの“正装”でおれのキャビンへくるや、
「ほんとにリオへいらっしゃるので?」
ときいたものだ。
さすがのおれも、内心ぎょっとして、爺さんの顔をまじまじみつめたが、別に返事を求める風もなく、ノコノコと客室へ戻っていっちまった。
それでもしばらくのあいだ、おれは爺さん、人の心が読めるんじゃないかと本気で考えたほどだ。
彼がキャビンをノックする少し前、おれは手ずから操縦室へゆき、|自動操縦装置《オート・パイロット》と航路慣性誘導装置にベレンへの進路変更をインプットしたばかりだったからである。
理由はない。強いていえば勘だ。
機密部隊の手を逃れてからろくに休養もとらず、半ばがむしゃらに南米へと飛んだのも、よくよく考えてみれば言いようのない不安と焦燥感にせきたてられていたからだ。それが進路変更可能なぎりぎりの地点の上空で、最後の断を下させたのだ。
勘の分析をしてもはじまらない。ただ、それが正しかったことは、国連緊急任務機の権限を振りかざし、半ば強引にベレンのパラ空港へ着陸してから、パイロットに米ソ大使を希望の場所へ送り届けるよう指示してフリーパスで税関を通過、市内の最高級ホテルのフロントに荷物をぶち込んだ後、大急ぎでタクシーを飛ばしたこのグワジャラ湾港湾事務局で明らかになった。
局内がやけにざわついている。そういえば、河口から一二〇キロも上流だというのにまだ潮の香が漂っているような外の街路でも、人々の足取りは妙に急いていた。
おれは受付らしい黒人のところへいって、何かあったのかと訊いた。正直、他に訊くこともなかったのだ。
おれの流麗なポルトガル語に、この町の住人とでも判断したのか、黒人はひびの入ったガラス窓の向こうからあっさり答えを返した。
「『アルゴー号』が入港したんだよ」
おれにはよく呑み込めなかった。黒人はそれでも辛抱強く、
「つまりだな、絶対入港しねえはずの、それもあと四〇日しなきゃパラ川の河口近くを通るはずもねえ船が、どういうわけかリオへはいかず、今日のお昼すぎにこの港の第一号埠頭に入ってきちまったのよ」
後ろでゆきと名雲秘書がどんな顔を見合わせているか確かめもせず、おれは狭苦しい待合室を飛び出した。目の前は少し先に満々と水を湛えた岸壁で、はしけや観光用らしい小型船が列をつくっている。
どっちがその埠頭かはきかずともわかった。
左手奥の夕映えに染まった空気がざわめいている。憑かれたように走った。残飯や魚の破片をあさっていたウルブー(ハゲワシ)があわてて飛び立つ。背後でゆきの呼ぶ声がきこえた。
百メートルも走ったろうか。人だかりが見えた。走り寄る。何十という単位の視線が絡まる中心に船らしい影がいた。
それを「アルゴー号」と識別させたのは、船首脇の白い船名だった。でなけりゃ、機雷にでも触れて引き揚げられた沈没船と思ったことだろう。四〇日を二五時間でこなした奇蹟の航海は、それなりの代償を要求したのだ。
「アルゴー号」はまともな形状を留めてはいなかった。
マストというマストは根元からへし折れ、|艦橋《ブリッジ》が、というより、船全体が不気味に歪んでいる。
軒並みガラスが砕け散った船窓は、眼球をえぐり取られた虚ろな眼窩か弾痕のように黒々と船腹を蝕み、突如襲った凶事を生々しく伝えていた。
船舶の形状を有したものを音速に近い速度で疾走させた場合、前方に立ちはだかる空気と水の膜は、高密度の透明な|障壁《バリヤー》と化して、|海神《ネプチューン》の怒れる御手のごとく、鋼鉄の船体に痛打の罰を与えるのではないか。船は投錨口すれすれまで水につかっていた。
おれは近くにいたいかにも物見高そうな主婦らしい女に、この船はこのままの状態で入港したのかときいた。
返事はええ[#「ええ」に傍点]、だった。
インディオか乗組員を見なかったか、船にゃ人気がないが?
何人かは病院へ運ばれたよ。インディオは知らないね。
気がつくと、港は紅蓮に染まっていた。高みにたゆとう積乱雲を夕陽が灼き、それはまさに崩れ落ちようとする壮大な炎の城壁と見えた。
何かがああなろうとしている――そんな予感があった。
足音がふたつ仲間に加わった。おれは振り返り、驚きと無表情――対照的なふたつの顔にウィンクを送って、港湾事務局の方へ引き返した。
さっきの黒人はまだ窓の向こうに座り、鼻毛を抜いていた。指先の成果を検分中の顔は哲学者のようだった。近寄っても顔も上げず、「何かね?」ときいた。
「あの船を見てきたよ」と、おれは意味ありげな微笑を浮かべながら言った。「乗組員はどこにいる? 荷揚げは済んだのかい?」
「もともと入港するはずじゃなかったんだから、積み荷はそのままさ」と哲学者は答えた。「もっとも甲板上の分はみーんな吹き飛ばされちまったらしいがね。こりゃ悪魔の仕業だというんで、マナウスから腕のいい|魔術師《マタンペーロ》を呼んで祈祷してもらうことになってる。市長が税金で飛行機をチャーターしたから、もう着くころだ」
「すると船員はまだ船の中か?」おれは声を低めて、「三人組のインディオを見かけなかったか?」
哲学者は沈思の状態に入った。鼻毛から大宇宙の真理を解き明かそうとしているわけじゃない。
おれは空港の銀行で両替したクルゼイロ紙幣の束から十クルゼイロを一枚抜き出して、哲学者の手と顔の間に差し込んだ。
次の瞬間、紙幣は跡形もなく消えていた。
ようやくおれの方を見た哲学者の顔に、真理探究よりも利潤追求の色が浮かぶのを見て、おれは満足した。一クルゼイロは日本円で約一・二円の価値しかないが、物価の安いブラジル、それもこんな僻地じゃ大金だ。
「インディオならここにもわんさかいるからな。よくわからん。船長と一等航海士が公安係のとこで事情を説明してたがね。おれが見たときにゃ、ふたりで船と反対側の方へいくとこだったよ。まるでマラリヤにかかったみたいな歩き方だったな」
酒場かどっかだろう。一杯やりたくなる気持ちもわかるさ。
おれは三年まえここへやってきたときの記憶を引っくり返した。船乗りが行きそうな酒場はいくつもある。いちいち捜す手間が勿体ない。
おれは折り畳んだ十クルゼイロ紙幣をもう一枚、黒人の鼻先に突きつけた。
ひょい、と消えた。
下へではない。筋張った細い指が横からつまみ上げたのだ。黒人が憤然と見えない椅子から立ち上がる。
名雲秘書だった。怒りの視線にも顔色ひとつ変えず、紙幣をおれの手に戻す。
「おい?」
「賄賂も結構ですが、状況に応じてお使いになるべきです」
名雲秘書は諭すように言った。おれのいちばん嫌いな言い方だが、この爺さんに言われると、どうも腰が砕けてしまう。大体、言うことに一理あるのだ。
「で、どうしようってんだ?」
おれはやや挑戦的に尋ねた。
「わたくしが交渉してみましょう」
「おい、おれはこれでも四つのときからこの仕事で食ってるんだ。金で動く奴と動かない阿呆の区別ぐらいつくぜ。動く奴の値段も、そうじゃない奴の人数がゼロに近いってこともな」
「まあ、ここはわたくしめにおまかせを」
老秘書は静かにおれを取りなし、激怒のオーラを全身から発散させている黒人に向き直った。おれはゆきと顔を見合わせた。
ぺらぺらぺらぺらぺら。
あっあっあっあっあっ。
最初のは名雲秘書の薄い唇から洩れたポルトガル語の連打、後のはおれとゆきのびっくり表現だ。まるで速射砲だ。この爺さん、ポルトガル語もいけるのだ。しかも、おれさまよりずっと流麗に、母国語のごとく。
おれは黒人が椅子にへたり込み、ぶつぶつと口を動かすのを見た。
振り向いた老人は相変わらずの仏頂面で言った。
「近頃、日本人に人気のあるのは『ダリアラビ』という酒場だそうです。ご存知で?」
「ああ」
「結構。では、まいりましょう」
老人が脇へのき、一礼して戸口の方を指さした。
おじさま素敵! と秘書の腕にすがりつくゆきの声をききながら、おれは歩き出した。
「なによその仏頂面は」とゆきがののしった。
結局、おれはひとりで『ダリアラビ』に乗り込む羽目となった。名雲の爺さんと一緒じゃどうしても調子が狂うなと弱っていたところへ、ゆきが暇のあるうちに買い物をしたいと言い出し、これ幸いと老人にお伴を頼んでおさらばしたのである。
ゆきが空港で土地のガイドブックを買い込んでたのは言うまでもない。まるっきり観光気分だが、怒る気にもなれなかった。
酒場は港に近い繁華街ジョアン・アルフレド通りの片隅にあった。
派手派手しいスィング・ドアをあけると、女の嬌声や紫煙、安ウィスキーの匂いがまとめて鼻孔に突進してきた。安物の蓄音器が石川さゆりの『津軽海峡冬景色』を唸ってるところは、確かに日本人客の多い店らしかった。
そういえば通りでも、インディオや混血のブラジル人に交じって、白衣姿の日本人をよく見かけたものだ。秘境アマゾンの門口とはいえ、日本料理店は進出の手を緩めはしない。
おれは店へ入るまえに、背後の通りを振り返った。どうも背中のあたりがすっきりしない。ここへ来るまでは何ともなかったのに。
アマゾンのイメージにふさわしくない瀟洒なビルにはさまれた通りには、観光客やインディオやブラジル人たちの、奇抜だが平穏な姿しか見当たらなかった。
しようがない。暑苦しい夕暮れどきに、そこだけ冷たいものを感じながら、おれは『ダリアラビ』に入った。
戸口は狭いが、その分店内は奥が深かった。
板敷きの床に丸い木のテーブルと頑丈そうな椅子が並び、頭上では古ぼけた扇風機の|羽根《フィン》が、きしむような擦過音を立てながら、寿命と任務を全うすべく旋回中だった。
攪乱される熱風の中を、おれは酔客たちの好奇に満ちた視線を浴びながら、標的に近づいた。
奥のテーブルに突っ伏していたのは、まだ四○前後の日本人だった。航海士の襟章がついた白いシャツと、足元の床に転がった船員帽から身元が判明した。
テーブルの上に安ウィスキーの空き瓶がひっくり返っているが、鼻をつくアルコール臭は、彼の吐息が原因だった。完全につぶれている。文字通り殺しても起きやしまい。
眼の下を塗りつぶす黒い膜が、おれの首筋にひんやりしたものをあてがった。奇蹟を眼のあたりにした報いだ。
彼を覚醒させる試みは即座に放棄し、おれはカウンターでこちらをためつすがめつしているひげもじゃのバーテンに近寄って訊いた。
「この日本人にゃ相棒がいたはずだ。どこへ行ったか知らねえか」
バーテンはグラスを拭きながら、あっさり天井を見上げた。この店の二階が日本でいうラブ・ホテルになってることを、おれは思い出した。
「何号室だ?」
「お伴はベロニカだから――五号だ。ちょっと前に上がったばかりだぜ。罪なことするなよ」
「|ありがとよ《オブリガード》」とサマー・ジャケットの胸ポケットから十クルゼイロつまみ出す。
「|結構《ノン》」とバーテンは辞退した。
顔に似合わずまともらしいが、おれは無理矢理、関節技まで使ってシャツの胸ポケットへねじ込んでやった。迷惑そうな愛想笑いを見て、なんとなく気が晴れた。
二階へ上がるには、いったん奥のドアを出て、外の階段を昇らなきゃならない。
おれは、ぎしぎしときしむ鉄の踏み板を踏んで二階へ上がった。すでに陽はおちてオレンジ色の電球が弱々しく点り、古ぼけた廊下の左右に並ぶ粗末な木のドアを照らし出していた。ほぼ赤道直下のこの街は、朝六時に夜明けを迎え、夕六時には闇がすべてを支配する。
上がり口の右手ドアが奇数|番号《ナンバー》、左手が偶数番号だ。なんとか読み取れる程度のペンキ書き。船長が行為に熱中する前に押し入ろうと歩き出したら、目的のドアは向こうから開いた。つづいて何やら激しくののしる女の声がきこえ、叩きつけるようにドアを閉めて、ハンドバッグ片手のなんとも肉感的な美女が姿を現した。
茶色につや光りしてる肌ときらきら輝く挑発的な瞳。厚めの唇からみてスペイン系の混血と思われた。いたいけな小学生でも生唾を飲み込みそうな豊かなバストを、ノースリーブの真紅のワンピースの下でゆさゆさ揺らしながらおれの前まできて、くるりと後ろを向いた。
「とめてよ」と腰のあたりを指さす。
肉づきのいい肩からヒップの半ばまでが剥き出しになって、強烈な女の体臭とともに襲いかかってきた。なんと、ノーパン、ノーブラだ。
うほほ! と躍りあがりたくなるのを必死でこらえ、おれはワンピースのジッパーを引き上げた。五号室で何が起こったかは一目瞭然だった。この女――ベロニカは、部屋の中に向かって「不能者!」と浴びせかけたのだ。
「ありがとう」
ひっかからないよう持ち上げた長い黒髪を下ろすと、高級娼婦は背筋を羽毛でくすぐるようなセクシーな声で礼を言い、ゆっくりとこちらを向いておれを見つめた。
彫りの深い美しい、そして何とも好色そうな顔と、大胆極まりない胸ぐりのカットからのぞくはちきれんばかりの肉の山が、おれの目を吸いつけた。
「あなたも、|日本人《ハポン》? 若いけどたくましいのね。――使えるんでしょ、あれ[#「あれ」に傍点]?」
ベロニカは品定めする肉屋みたいな視線で、おれの性感帯をちくちくと刺激しながら、脂肪の乗り切った腕をねっとりとおれの首に巻きつけた。
「ねえ、わたし、あぶれちゃったのよ。河岸を変えてどう? 特別なテクニック使って、誰もみたことのない天国へ連れてってあげるわ。料金は普通。あなた、あたし好みなんですもの」
「残念でした」と、おれはむしろ自分に言い聞かせるように言って、巻きついた熱い腕をそっとほどいた。「ぼく、まだ高校生なんです。父が今夜ここへ来る予定なので、下見にきたんです」
「まあ」
ベロニカは思わずぞくっとするような形に赤黒い唇を丸め、肩をすくめた。つられてバストも一緒に上がる。
「残念だこと。お父さんでもいいけど――その気になったら、いつでも下のお店へ来て。午後四時からならいるわ。あなたなら、どんな客でもキャンセルよ」
毒々しい赤い布地にぴっちり包まれた豊満なヒップが、ぼよんぼよんと揺れながら階段を下っていく様をしばらく見つめ、おれはあわてて五号室のドアに駆け寄った。ノックしたが応答はない。
下腹のあたりが急にむず痒くなった。虫の知らせだ。
壁に身を寄せ、左手でノブをつかむ。右手は右腰の|SIG《シグ》・ザウエル・P226へ。
横須賀でかっぱらわれたSW・M659のかわりに、マンションから持ってきたオートマチックだ。口径九ミリ、十五+一発の収容弾数は複数の敵を相手にした場合圧倒的に有利だし、ダブル・アクションとオートマチック・ファイアリング・ピン・ブロック・セフティは、早撃ちと安全性において、数あるオート中最高の性能を保証されている。
おれはグリップの形やメカに手を入れ、オートマチックの泣き所である|弾倉《マガジン》から|薬室《チェンバー》へ弾丸を送るフィーディング機構を完璧にした上で、コルト四五・ガバメント並みに、砂塵、湿気、泥土、雨等あらゆる苛酷な条件で百パーセント作動するようスイスのSIG本社に徹底調整を命じ、半年後ようやく受け取ったのである。
もう三万発は試射をこなしたが、|作動不完全《マルファンクション》回数はゼロだ。現存するオート中、ただ一丁の最高傑作といえる。
第一弾はすでに薬室に入っている。
おれは軽くドアを引いた。
ひとの三倍くらい敏感な鼻に、おなじみの匂いがふたつ侵入してきた。血と硝煙である。
全神経を体表面に集中し、敵の気配を感知しようと試みる。ヨガの訓練で、おれの勘は飛躍的に鋭さを増している――はずだ。雑念を払い、吹きつける「気」の本質を吸収しようとする。
殺意は感じられなかった。代わりに、弱々しい冷たい「気配」だけが伝わってくる。
おれはSIGを抜いて部屋の中へ滑り込んだ。
粗末なベットとつくりつけのロッカーを裸電球が照らしているだけの寒々しい部屋だった。すぐドアを閉じ、ドア・チェーンをかける。
船長は全裸で床の真ん中に突っ伏していた。たくましい身体の下に血溜まりができている。
時間的にみて、一戦交える用意を整えた途端に消音拳銃でボンとやられたのだろう。あの、糞ったれ女。
機密部隊かどっかのスパイかだな。用を済ませて部屋を出たときおれと出喰わしたんで、わざと大声でののしり、ドアを閉めたのだ。ジッパーはドアの陰で引き下ろしたんだろう。なら、さっさとどっか行っちまえばいいものを、わざわざおれと関わり合うとは馬鹿なのか、ホントにセックス・アピールを感じたのか。
それどころじゃねえ。おれは船長のかたわらに膝をついて仰向けにした。胸に一発食らってる。致命傷だが即死ではなかった。傷口からみて中口径――三八か九ミリ・ショートだ。
「しっかりしろ、すぐ医者を呼んでやる」
耳元で囁くと、船長はうっすらと目をあけた。
「すまんが、ききたいことがある」
おれはつづけて言った。左脇の下にある血流のツボに小指をあてる。死の淵に立った人間にこれを施すといつもそうだが、指先から精神エネルギーがぐんぐん吸収されていく。体温も急降下だ。
船長の蝋みたいな顔がやや生気を取り戻した。その場しのぎだがね。
「インディオはどうした? いま、どこにいる?」
「着くと同時に救命ボートで降りた。……だが、あいつらは……人間じゃないぞ……さっきの女にも言った……あきらめろ……」
「教えてくれ。奴ら、どんな力をもってるんだ?」
「……よくわからん。だが……ひとりは船が港に着くと同時に……死んだ」
死んだ!?
「船が狂ってるあいだ、そいつは船首で何か祈っていた……そのせいだろう。……あとのふたりは……おれたちを閉じ込めていた……船倉に。殴っても銃で射っても死なない……触れただけではじき飛ばされてしまう……畜生、佐渡の奴……なにが……いいアルバイトだ……」
「しっかりしろ。奴らは他にどんな……」
突然、指先の流出感がピタリとやんだ。息絶えた身体をおれはそっと床に横たえ、立ち上がった。ベロニカのこともききたかったがしようがない。本当なら五分前に死んでいた男だ。
廊下に足音が入り乱れた。警官だろう。歩き方まで威丈高だ。ベロニカが連絡したに違いない。日本の仲間からおれの話をきいていたのだろう。
問答無用でドアが引っ張られ、チェーンと木が打ち合って激しく鳴った。
開けろ! という声が重なって響いたとき、おれはもう窓辺へ飛んでいた。
隣はオレンジの屋根瓦を載せた平屋のボーリング・センターだ。落差は一メートルもない。
猛烈な体当たりを食ってドア・チェーンがちぎれ飛び、茶色の制服を着た警官らしい影が折り重なって侵入してきたとき、おれは軽々と宙に舞っていた。バランスを崩さず着地し、膝に吸収したショックに筋肉パワーを加えて全開、通りめがけて跳んだ。
突如、空中から落下し、猫みたいに一回転して眼の前にすっくと立ったハンサムを見て、派手なアロハ・シャツの少年が感嘆の声をあげた。
「イェイ! すっげえ! スーパーマンだ!」
首からカメラを下げた白人観光客や買い物カゴ片手のインディオの主婦たちでごった返すアルフレド通りを、裏道へと走り抜けながら、おれは少年に片手を振ってみせた。
どんな街でもそうだが、来訪者に取りつくろう上品な外見の裏には、長い間に生活の薄汚れた澱だけが沈殿し、腐臭を放つようになった素顔がへばりついている。
トレジャー・ハンターとしてのおれの強みは、そうした裏の世界にあらゆる意味で精通していることだった。
陽もろくにあたらぬ、子供の泣き声と犬の小便の匂いが立ちこめる香港のスラム街に棲む孤独な老人が、ただひとりの友である小猫の首輪の中に、セントヘレナへ幽閉される寸前のナポレオンが地中海の孤島に隠匿した、ルイ王朝の隠し財宝の地図を折り込んでいたこともある。
世界中の名トレジャー・ハンターがついに発見できず、ITHA総本部から幻の七大秘宝のひとつに指定されたノアの箱船に届けられたオリーブの若葉を、落魄した大富豪が場末の歌姫に譲り渡したこともある。
決して昼の世界には届かず、闇から闇へ人知れず囁かれる血塗られた情報は、信じがたい速度で世界の裏町へと飛び交い、そこに分け入ることを許された者のみの知識と懐を潤すのだ。そのために連夜どす黒い血が流れ、ナイフの閃きと拳銃の閃光にいくたりかの生命が失われようと、人間の欲望は悲嘆と空しさを食い荒らして未知なる財宝を、秘宝を求める。
おれもそうだ。
三年の空白はあったが、おれの記憶は細部まで鮮明だったし、ベレンの裏町もほとんどその姿を変えてはいなかった。
『ダリアラビ』を脱け出して二〇分もたたぬうちに、おれは前からそこの住人だったような顔で、口笛を吹きながら怪しげな連中が渦巻く暗い路地を闊歩していた。
八つばかり町角を折れ、廃ビルの中を通過し、闇市の雑踏をくぐり抜け、不意にビルの谷間ともいうべき、四方をコンクリートの壁で囲まれたひと気のない一角へ出たとき、おれは初めて足を止め、ひょいと屈身をしてから背後の闇へ呼びかけた。
「ご苦労さんだな。鬼ごっこはおしまいだ」
声を合図に闇が膨張し、数個の人影を生んだ。
手に手に獲物をもった黒人や混血のハイティーンたち。月光と一本だけ割られずに残った街灯の光に、チェーンやナックルが重く輝いた。
すでに何名もの犠牲者の頬骨を砕き、腕の肉を裂いた実績があるのだろう、持ち方も構えも堂に入っている。これだから裏通りってのは面白いのだ。誰が命じたわけでもないのに影たちは整然と動き、おれの退路を断った。不注意な観光客の財布をいただくためにしては水際立った行動ぶりだ。殺気に脅えたのか、月も雲に隠れた。
「そうとぼけるなよ」
チンピラどもの背後にそびえる壊れた街灯に向かって、おれはもう一度呼びかけた。
「あの酒場を出たときから、尾けられてるのはわかってたんだ。感服したよ。別に助けてくれとは言わねえ。顔ぐらい見せてくれ」
チンピラたちの間に動揺が走った。
闇は動かない。
正直、おれはチンピラなど眼中になかった。
相手の技量を測るためにわざと尾けらせたんじゃない。本気で巻こうと秘術を尽くしたのだ。
ロスのダウンタウンじゃ、パトロール歴二〇年のベテラン警官を翻弄し、おれを見失わせるついでに奴の現在位置も不明にして、脱け出すのに三日もかけさせたことがある。都市構造が複雑になればなるほど街は迷宮的度合いを増し、人間の方位感覚を狂わす物理的魔力を持つ。それに惑わされず利用することにかけて、おれは天才的技量を有しているのだった。自慢じゃないけどな。
街灯の蔭にいる奴は、そんなおれを、焦りも動揺もせず、影のように追尾し抜いたのだ。おれは初めて、真の好敵手に巡り合ったことを知った。
「しようがねえな。言葉が通じないわけじゃあるまい。こいつらを片づけてからお顔拝見といくか。あんまり手の内は見せたくねえんだが」
いうなり街灯が消えた。
さっき屈身したとき拾っておいた小石でぶち割ったのだ。真の闇がおちた。
月にすら見放された光なき夜の世界を文明人は知らない。未経験の原始的恐怖はたやすく恐慌を生むのだ。チンピラたちも同様だった。突発的な盲人と化した衝撃に、おれへのアタックも忘れ、夢中で武器を振った。
おれは音もなく背後の奴を襲った。
目標もとらえず振り回すチェーンをかいくぐり、金的を蹴りあげる。固い手ごたえ。うめいたが倒れない。ほう、プロテクターをつけてやがる。なら、喉だ。
空手でいう二本貫手に気管支を叩きつぶされた黒人が、血反吐を吐きながら地べたに倒れたとき、おれはすでに三人目の顎を叩き割っていた。
喧嘩に際し、党派を組む奴には容赦しない主義だ。しかもこいつらは身なりもいい。銀のブレスレットに本皮のブーツ――金が目当てというより、他人を叩きのめすサディスティックな欲望を満たしたいだけの輩だ。たまには犠牲者になってみるんだな。
死に物狂いの勘で状況を察したのか、残るふたりは逃走に移った。
おれは足元のレンガを拾い、先頭の奴を狙った。距離は八メートル。モーションなしで無造作に手を振った。わずかに遅れて|目標《ターゲット》は頭から前方につんのめった。良くて頭骸陥没、悪けりゃ廃人だ。金持ちの親に一生面倒見てもらうがいい。
不公平をなくすべく、もうひとつ石ころを手にしたとき、本物の不公平が逃亡者を襲った。
路地の角を曲がりかけた途端、凄まじい白光が彼を包んだ。一瞬、身体の輪郭が光の中にくっきりと浮かび上がり、ブレーキの苦鳴とともに、ゴム人形のような格好で横へ跳ね跳んだ。激突音は後からした。
車のヘッドライトに照らし出される前に、おれは手近な、高さ七〇センチほどの崩れた石壁の蔭に身を伏せていた。
なぜここがわかったかは不明だが、正体は見当がつく。
五メートルほど距離をおいて停車した二台のセダンから、四つずつ人影がこぼれた。
この暑苦しいのに全員スーツにネクタイ姿。しかも不格好な防弾チョッキを首から下げている。おなじみM16A2自動小銃の他に、ふたりの男はベータ・ムービーくらいの金属箱を手にしていた。ふたりずつ地面に伏せ、残りは開いたドアの蔭に隠れる。
「手を上げて出て来たまえ、八頭くん」
鮮やかなキングス・イングリッシュで呼びかけられるより早く、おれは戦闘準備にかかっていた。
SIG・P226の銃身の先に、腰のパーツ・ケースから取り出したジョイント付き二○センチの|延長銃身《ロング・バレル》をはめ込み、フレキシブル・ショルダー・ストックを引き伸ばすや、ワンタッチで|銃把《グリップ》と連結する。マガジン・キャッチを押して抜け落ちた十五連|弾倉《マガジン》をポケットに収め、パーツケースから抜いた三〇|連長弾倉《ロング・マガジン》を装填した。
本来SIGにはついてない全・半自動|切り換え《セレクター》スイッチは|半自動《セミ・オート》のまま残す。|全自動射撃《フル・オート・シューティング》での発射速度は毎分六〇〇発に抑えてあるが、三〇連弾倉なら三秒で撃ち尽くしてしまうし、今回収まってる弾丸は、ちょっと特別なのだ。
ともかく、きっかり七秒で|拳銃《ハンド・ガン》は|自動小銃《アサルト・ライフル》に早変わりした。
ジャケットの下に戦闘服を着といてよかったぜ。素早くフードを引っかぶる。ついさっきチンピラ相手に解放した暴力への渇望が、全身の血をたぎらせていた。冷静なのは頭の中だけだ。ハンター仲間じゃ平和主義者で通ってるんだがなあ。
「もう一度言う、手を上げて出てきたまえ、もう逃げ場はない」
渋い声が冷たく宣言した。
「君の日本での活躍ぶりは我々にも伝わっている。君の情報を取得するため最大限の努力はするが、それが不可能な場合は速やかに抹殺せよとの指令が出た。
観念したらどうかね。君の相手はあまりにも強大だし、別働隊がすでにインディオを追って出発した。数日中に捕らえられることは自明の理だ。これでトレジャー・ハンターの君の努力も水泡に帰すのではないかね? 素直に協力してくれれば、名誉にかけて生命は保証しよう」
|合成人間《キマイラ》にされてか? おれは苦笑しながら言った。
「その前にひとつ頼みがある。ここに寝てる餓鬼どもを――」
安全な場所へ、と言いかけたとき、何を勘違いしたのか、今までひっくり返ってた三人がぱっと跳ね起きるや、反対側の出口めがけて走り出した。
「よせ!」
闇を貫いて三条の閃光が走った。
小さな炎が背と胸を灼き、三つの影は声もなく地に伏した。
レーザー・ガンだ。六本木のマンションにも仕掛けてあるから、威力のほどはおれもよく知っている。自分が狙われるのが初体験なだけだ。戦闘服の冷却装置が急に強度を増したような気がした。
アメリカ陸軍が兵器としてのレーザー・ライフルを試作したのが一九六三年だったから、もう二〇年以上たつ。レーザー・メスやレーザー信号等、平和利用の瀕度も大きいが、この散乱なしのエネルギー増幅光が本来の力を発揮するのは、やはり殺人兵器としてだ。
おれは戦闘服の胸をなでた。重機関銃の弾丸ですら遮断する|剛性粘材《ハード・ゲル》も、秒速三〇万キロで飛来する一万度の超高熱の前には一秒ともつまい。幸い石壁の厚さは約三〇センチ。これだけが頼みの綱だ。あとは敵の|発電機《ダイナモ》が、容積からみておれの想像通りのエネルギーしか生み出す力のないことを祈るほかない。
「五秒だけ待とう」と声が言った「それがすぎたら、全力を尽くして君の抹殺を実行する」
おありがとうございだ。だが、おれは待たないぜ。
敵が数を数え始める寸前、おれは上半身を上げざま、腹這いでレーザー・ガンを構えている左側の奴へ初弾を放った。全身を震わせてのけぞる。レーザー・ガンが火に包まれた。
伏せた周囲に、鈍い炸裂音とともに白い煙が立ち昇った。
手首のゲージがみるみる赤化する。催涙ガスだ。せこい手を使いやがる。戦闘服の特殊フィルターは、細菌、ガスを含むどんな化学・生物兵器も遮断するのを知らねえな。
おれは続けざまにP226を連射した。右側のセダンの鼻先が電光に包まれ、ドアを楯にしてたふたりが、それぞれドアとの接触部位を押さえながら後方へはじけ飛ぶ。特殊弾丸は見事、初陣を飾ったのだ。
敵に向いてる石壁の表面が炎を噴き上げた。相手も本気で殺意に燃えたらしい。こうこなくちゃ。
消音器特有の低い発射音が響き、石壁の縁が凄まじい勢いで砕け散った。絶え間なく破片が飛び、背後のビルの壁にも無数の射入孔が穿れていく。直撃を食っても戦闘服は優にもつが、頭を上げる気分にはならなかった。
三つの影がM16を撃ちながら突進してきた。殴り込みだ。
気分がどうのと言ってる場合じゃない。おれは降りそそぐ五・五六ミリ高速弾頭の中に雄々しく立ち上がり、援護をつづけるレーザー・ガンめがけて三連射を放った。
特殊弾――ハイパワー・エレクトリック・ビュレットは、命中と同時に頭部の絶縁カバーが四散し、弾頭内の超小型|蓄電池《コンデンサー》から一気に放出される電気エネルギーが、標的の全身を一万ボルトの電圧で包み込む。二発命中! 伏せてた兵士が全身を硬直させて跳ね上がる。耳たぶだろうが指先だろうが防弾チョッキだろうが何だろうが、絶縁体を身にまとっていない限り、当たれば即、失神だ。運が悪ければ死ぬ。
母体は、LSD25等の強力な麻薬に神経を侵され、怪物じみた力を発揮して暴れる中毒患者を取り押さえるためロサンゼルス市警が開発したテイザーガンだが、おれのは戦闘用だからもうちょっと強力である。無益な殺生を避けるよう、おれが筆頭株主になってるアメリカの銃器会社につくらせた代物だが、値段は一発五万円。民間人を狙う部隊になんざ使ってやるのも惜しいくらいの貴重品だ。
だが、おれも左肩に激しい熱気を感じて思わず膝をついていた。戦闘服が燃えている。敵のレーザー・ビームも一矢を報いたのだ。
顔といわず胸といわず命中しては、運動エネルギーのすべてを吸収されて落下していく弾頭のパラパラ鳴る音をききながら、おれは突進してくる三つの影を片手で迎え撃った。
先頭の奴が電光に包まれて吹っ飛ぶ。高速弾がおれの顔面にあたる感触。二人目ものけぞった。
三人目がはずれた。余備パーツがついてる分、片手撃ちでは命中率が低下する。
宙を跳び、猛烈なショルダー・アタック。おれの体重では百キロ以上あるラグビー選手の突進を支え切れっこないが、戦闘服は別だ。頭と肩を打ちつけただけで、男はででんと地面に落下した。びくりとも動かない。
おれは体勢を整え、なおも撃ちまくる敵に、今度は|全自動《フル・オート》で応射した。地面といわず、車といわず電気火花が飛び、束の間闇を白昼と変えた。
弾丸はたちまち尽きたが、ついでに|決着《けり》もついた。
八名の機密部隊兵士は、全身を硬直させて地に伏していた。生死を確かめる気にもなれない。HPE弾の直撃を食ったセダンの車内から炎と煙があがっているのは、一万ボルトの電撃に電気系統の回路がショートしたためだ。
ようやく左肩が灼けるように熱くなりはじめた。全身から急激に力が抜けていく。必死で精神を統一し、気力を体内に封じ込めようと奮戦しながら、おれは体当たりを食わせた大男に近づいた。
倒れ方が気に入らなかったのだが、思った通り、背中に血が円を成していた。おれに突っかかった瞬間、狙撃されたのだ。
仲間の誤射かもしれんが、全自動射撃で命中弾が一ということはあるまい。スーツの射入孔からみても、九ミリか四五・○の大口径弾丸の仕業だ。
おれは闇の中に目を凝らした。街灯の蔭に人影はすでにない。
何の目的でおれを助けたのか? あるいはおれを狙った弾丸が|はずれた《ミス・ショット》だけなのか?
答えは別の場所で考えた方がよさそうだった。機密部隊の上層部が手を回したのだろう。P226自動小銃を分解してホルスターへ戻したおれが、タクシーを拾える手近な大通りの方角へ歩き出したときも、パトカーのサイレンはきこえず終いだった。
いつの間にか、地面に淡い影が落ちている。
月が出ていた。
おれの喧嘩も見て見ぬふりか、冷たいぜお月さま。
警察の検問にも引っかからず、ホテル「エクアトリアル・パラッセ」に辿り着いたときは、九時を回っていた。ベレン一の高級ホテルの名に恥じず、夜間照明に浮かぶ玄関の大噴水は、人工の水の大輪を宝石のようにきらめかせていた。
名雲秘書とゆきはとうに夕食を済ませ、五間続きのデラックス・ルームでおれを待っていた。
部屋に入るとすぐ、おれはふたりの仲が気になった。
老秘書の仏頂面は千年たとうと変わりゃしないだろうが、彼を見るゆきの視線がいつもとちがう。特におれを見る眼つきとは大ちがいだ。名雲秘書の一挙手一投足が気になってたまらないらしく、彼が移動するたびに気づかわしげな視線を送り、ついに彼が、おれ用のコーヒーを入れようと席を立ちかけたところへ、あたしがやりますと大急ぎでキッチンへ飛んでいったときは、正直、ぶっ飛んでしまった。
自慢じゃないが、ゆきに食事だのお茶だのの用意をさせて無事に済んだことはない。キッチンへいく前に、お手伝いの時給は幾らだの、家事労働はきついわねなどと嫌味を言うのは序の口で、最近ではわざわざ食事中のおれの前に身を乗り出し、ああ肩がこってねえなどと、これみよがしにぶっ叩いたりする。頭へきて怒鳴りつけると、さあ殺せ、だ。
「アルゴー号」が三○時間足らずで太平洋を横断したことより、この変わりようの方がおれにはよっぽど奇蹟だった。
「なるほど、そういう組織が動いているとは存じませんでした。すると、我々の任務達成は、きわめて困難と言わなければなりますまいね。加えて、八頭さまが殺人犯人に仕立てあげられてしまっては」
シャワーを浴び、やっと人心地ついてから、アマゾンの地図や資料を前にあらためて今日の事件と日本での出来事を話してきかせると、名雲秘書は静かにうなずいた。
「必ずしもそうとは限らねえよ」
おれは景気をつけるために、わざと強い口調で言った。
「ブラジルの警官、それもこんな僻地の連中なんざ、まとめて一万クルゼイロもつかませりゃ、おれが原爆をドカンとやっても目をつぶるさ。
それによ、今も話した通り、機密部隊の奴らは米軍の装備は何でも自由に利用できるが、人間はそうもいかないらしい。少なくとも殺し合いの場には投入できないんだ。なにせ大統領もその存在を知らない秘密組織だ、そんなに人数もいるわきゃない。おれが片づけた分と、あと二、三〇人ってところだろう。だったら、この広いアマゾンでふたりのインディオ探すなんて、考えてみりゃ大変な仕事だぜ。
確かに一歩先は越されたが、それだってたかだか十何時間の差さ。うまく計画立てて時間と足を使えば大丈夫、必ず先を越せるって」
「あーあ、どこまで抜けてんのかしらね。あんた、それでもトレジャー・ハンター?」
予想はしていたが、なんとも憎々しげなこの言い方におれは頭へきた。ドン! と総大理石のテーブルをぶっ叩いて、
「どこが抜けてるってんだ、このラリパッパ娘」
「ぜんぶよ、全部。いいこと、機密部隊の連中があたしたちと十数時間の差しかなくても、インディオともその差は六、七時間しかないのよ。しかるにあたしたちはですね、ほぼ丸一日、インディオに遅れをとっているわけ。このタイムラグは絶対よ。
まして彼らは――あなた、米軍の機材は何でも自由になるって言ったわね――ヘリでも、ボートでも、必要とあればジェット機だって駆使できる立場にいるの。そんな連中にとって、たかだか六、七時間の差なんて物の数じゃないわよ。インディオは川を遡っていったと、あなたはっきり言ったじゃない。どう、目標のコースまでわかっているのよ」
「コースてのはひとつじゃねえんだ、この桃尻娘」
おれはばんばんテーブルを叩きながら喚いた。
「アマゾン河にはな、それこそ数百数千、毎年その数を変える厖大な支流があるんだぞ。その中のひとつにこっそり入り込んじまったら、どうやってヘリやジェットで見分けるっていうんだ?」
「まあまあ」
と名雲秘書が割って入った。しかし、穏やかになだめるって顔でも口調でもないから、おれとゆきは憤然とにらみ合い、眼と眼の間で見えない火花が飛んだ。
「どちらの御説もごもっともと存じますが、わたくしの見ましたところ、。ゆきさんの方にやや分があるようで――」
「きゃっ、おじさま素敵!」
ゆきがやせこけた右手にすがりついた。おれにはべえと舌を出す。
「つまり、いかに数多くの支流がありましょうとも、発動機もない貨物船の救命ボートでは、ペレンから六、七時間で辿り着ける場所など、距離的にみて、非常に狭い範囲に限定されてしまうのでございます。
よしんばどこか付近の密林に身を隠して捜査の目をやりすごそうにも、これまでのお話を総合したところ、彼らはなんとしても早急に、彼らの国へ辿り着く使命を帯びているように思えます。数少ない仲間の生命を捨ててまで奇蹟の航海を成し遂げましたのも、すべて、一刻も早く故郷の土を踏まんがため。とすれば躊躇なく、我々も存じております目的地までの最短距離――すなわちアマゾン本流を遡行してトロペダス川へ入り、あとは徒歩で密林を走破するというコースをとることになりましょう。
従って、米軍機密部隊という不浄な輩どもの手にかかるのは時間の問題、いえ、すでにその手中におちていると考えた方が妥当ではございますまいか」
「そうよそうよ」とゆきが手を叩いた、「わかった、大ちゃん? これが論理っていうものよ」
「ですが」
「きゃっ!?」
「これは先ほどから八頭さまのお顔を拝見しておりまするに、とうにご存知と思いますが、いまの推論には最も肝心な|要素《ファクター》が一つ抜け落ちてございます」
おれはニヤリと笑い、ゆきは、なによそれ、と唇をとがらせた。
「米軍機密部隊の精鋭をもってしても、単なる貨物船にわずか三〇時間足らずで太平洋を横断させますのは、まず絶対の不可能事。彼らの敵は奇蹟を可能にする人間だということでございます」
ゆきがあっ[#「あっ」に傍点]と言った。
「そのような能力をもった人間、加えて炎のような目的意識と使命感に支えられた人間が、たとえ世界最強とはいえ、行く手に立ち塞がる敵におめおめ投降しようとはどうしても思えません。これはわたくしめのとうに色を失った頭脳による推測でございますが……結論と致しまして、わたくしどもにもまだ、インディオたちに追いすがるチャンスは十分残っていると言わざるを得ないのでございます」
おれは哄笑したくなるのを必死にこらえてうなずいてみせた。
「これが論理ってもんだ、なあ、ゆき」
「ふん」
「ですが、八頭さま」
感情のこもった名雲秘書の声をきいて、おれは仰天した。それが「不安」であろうとも。
「なななんだい?」
「なぜ米軍はそのような犠牲を払ってまで、あなたさまやインディオの故郷に固執するのでございましょう? それに――」
「それに?」
だが、名雲秘書は首を振って言葉を呑みこんだ。おれも訊こうとしなかった。
「なにはともあれ、おれたちも最短コースとやらを辿って、幻の大帝国へ発つしかないようだな」
「左様でございます」
「荷物と船と人手を集めにゃならない。明日から大忙しだぜ」
「お言葉ですが」と秘書は言った。「あなたさまとお別れ申し上げてから、すべて手は打っておきました。明日の朝六時までに、三カ月の船旅と密林行に必要な品が、すべて港湾第一四号埠頭につながれたスクーナーに積み込まれるはずでございます」
少しして、おれはようよう言った。
「そんな話、よくそんな顔で言えるもんだな。――あんたの主人は、幸運の女神に愛されているにちがいない。いい秘書をもった」
「恐縮でございます」
「さ、もう休もう。明日はアマゾンだ」
老秘書は無言で一礼した。ほんの一瞬のことではあったが、おれはその冷酷な現実の相すべてを知りすぎた化石のごとき瞳の奥に、不思議な凝縮のゆらめきをみたような気がした。
無限の未来に輝きを信ずる子供たちと、自らの卑小な人生を知り尽くしてなお、未来に心ときめかす大人たちにのみ共通するあの炎――未知なるものへの恐怖、おののき、畏怖、そしてそのすべてを圧して燃えさかる冒険心という名の炎を。
そうだ。おれたちは明日、アマゾンへ行くのだった。
翌朝、波止場へ急ぐべくホテルの豪華なロビーに勢揃いしたおれたちを、想像もしなかった客が迎えた。
「お久しぶりね。やはりあなたと楽しみたくて、やってきてしまったわ」
黒髪の下で女豹の瞳が妖しく光るセックスの塊みたいな美女は、米軍機密部隊隊員・娼婦ベロニカだった。
「エイリアン魔獣境 I」完
[#改ページ]
あとがき
探検という言葉が、なんとなく縁遠いものになってしまったのは、いつ頃からでしょうか。
小さいとき、探検家というものは、未知の土地で凶悪な人喰い人種や全長百メートルもある大蛇やライオンやゴリラと戦いながら莫大な財宝を発見する職業だと考えておりました。
いつの間にか、そんな胸の高なる思い入れは消え、自分は「探検」がしたかったのではなく、「未知の土地」が見たかっただけなのだと気がついたのですが、実はそれにも条件がつく。
私のいう未知の土地とは、決してこの世には存在しない土地の意味らしいのです。もはや大秘境と呼ばれる場所でさえ、TV局のカメラが、ひとりの犠牲も出すことなく(と思っていたら、近年フランスかどこかのTV局員がアマゾン奥地で傍若無人なふるまいをした揚げ句、インディオの手にかかって殺害されたと聞きました。あー。怖わ)入っていけるご時勢ですが、たとえ、一〇や二〇の探検隊(というより学術調査隊)が全滅し、生き残ったひとりがやっとの思いで辿り着いた謎の処女地だろうと、所詮は今まで知られなかった普通の土地がひとつ増えるだけでありましょう。
一夜明け、海上を覆っていた霧が晴れたとき、忽然と姿を現す孤島、彼方には、巨大な城壁と大門がそびえ、大密林の上を得体の知れぬ怪鳥が不気味な声で鳴き交わしながら旋回している。
あるいは、ギアナ高地の一角を占め、そこを訪れた探検家が奇怪な生物の絵を残して生き絶えた平頂垂壁の大台地。その頂はジュラ紀の植物に覆われ、かと思えば、時折きこえる異様な生物の胞哮……
これは映画「キングコング」(33年版じゃ!)と「ロスト・ワールド」(「失われた世界」ではないのだ!)の一シーンですが、五〇年以上も前に創られたこの二作が今も私の脳裡を去らないのは、私の言う「未知の土地」を、これほど鮮やかに現実へ甦らせてくれた例が他にないからです。その内側がただのジャングルなら腰砕けですが、この映画はどちらも、後になればなるほど、凄くなる。猿人はでるわ、プテラノドンは出るわ、ティラノザウルスはでるわ、ブロントサウルスはでるわ、あり得ない生物のオン・パレード。それを取り巻く道具立ても、土人だの霧に包まれた沼だのジュラ紀のジャングルだの大洞窟だの、これぞ秘境これぞ映画の大賑わい。
で、この二作の特殊効果を担当し、あり得ない世界とその住人に生命を吹き込んだのが、ウィリス・オブライエンであり、「ロスト・ワールド」の原作者こそ、シャーロック・ホームズの生みの親コナン・ドイルなのです。
私はこの作品で彼らふたりに挑戦しようと思います。その結果がどうでるか、八頭たち一行の大アマゾン探検行をどうぞお楽しみに。
ある学者の説によりますと、この世界にもう秘境など存在しないそうですが、私もそう思います。
現実には。
83年10月12日「シンドバッド七回目の航海」を観ながら。
菊地秀行