エイリアン秘宝街
菊地秀行
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目次
1 奇怪な遺品
2 マンションは宝物博物館
3 八頭式ハンティング
4 地下室の狂獣
5 住宅街の怪夫婦
6 天人(エイリアン)の子孫がのこしたもの
7 妖獣戦線
8 呪われた手記
9 大狂乱
あとがき
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リチャード・アプトン・ピックマン氏のモデルに。
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1 奇怪な遺品
――あと五分の辛抱で、明日は日曜日だ。
おれを含めたクラス全員が、多分そう考えたとき、教室の前のドアが力なく横に滑った。
爺さんが入ってきた。古めかしい型のオーバーを着て、よろよろと数歩進み、どたりと床に倒れた。
クラス中がおれの方をふり返った。|八頭大《やがしらだい》という名前のおかげで、窓ぎわ最後尾の席をあてられているから、四十六名の視線はもれなく集中する。
「八頭くん――」
と、教壇から吉岡教師が声をかけた。右手に、連立方程式を書きかけの白チョークを握っている。
「お知り合いですか?」
「見た顔ですがね」
おれは愛用のショルダー・バッグをつかんで立ちあがった。老人のかたわらへ到着するまで、記憶を総動員してみたが該当する顔はない。すると、生まれたてに出くわした相手か。
おれは、うつ伏せに倒れた老人を抱き起こした。年齢は七十を超えているだろう。銀髪の下の顔は、髑髏に皮をはりつけたみたいだが、骨格はかなり太く、重い。やせ方も病的ではなく、精神的ショックに原因がありそうだった。
何かが、生きる意欲を奪ってしまったのだ。呼吸もしてるかしてないのかわからない。気の毒だが、あと三分ともたないだろう。おれは溜め息をついた。
「あーら、このお爺ちゃん、コートの下、パジャマよ」
クラス一物見高い鞍馬善子が、机から身を乗り出して叫んだ。アンパン・フェースの真ん中に分厚い眼鏡が光り、ついでに眼の玉も邪悪な好奇心にギラついている。
「精神病院から脱け出してきたのね、きっと」
「おめえと一緒にするな」
おれが低い声でののしると、それが聞こえたのか、爺さんは眼を開けた。
「八頭大って……子がいるかね……」
「おれだよ」
爺さんは笑いかけようとしたが、その表情はもう、就寝まぎわのそれに近かった。ただし、この眠りはさめることがない。
「……ポケットに……」
それだけ言って、爺さんの身体は不意に重くなった。蘇生術を施そうかと思ったがやめにした。こんな歳の爺さんを五分間生き返らせても、苦しませるだけ酷というものだ。
「死んじゃったのォ?」
善子が興味津々のダミ声できいた。
「望み通りにな。おめえの声が心臓に効いたらしい」
おれは爺さんの遺体をそっと床に横たえ、コートのポケットを探った。おかしな手触りが二回。ひっぱり出したのは、うすみどりの水晶みたいな破片と、長さ二十センチばかりの、明らかに生物のものと覚しい触手の先端だった。
どちらも、おれの記憶にある類似の品とは該当しない。殊に触手の方は、ひからびた灰色の吸盤が裏側にびっしりとくっついているものの、どうみても、太い蛸の手足とは思えなかった。早い話が、この世のものじゃあるまい。
――たったふた言と、こいつが遺品か。
おれは、むしろ安らかな老人の死に顔を見つめた。今までの状況と、そのやせこけてはいるが強靱な意志を示す顔の造作からして、爺さんの正体は察しがつく。
――黙っていれば、病院か家で安らかに死ねたものを、誰かに言い残さなきゃ[#「言い残さなきゃ」に傍点]いられなかったのか。|宝《トレジャー》探しハンターってのは因果な商売だな。
そう思ったとき、今日の授業終了を告げるベルが鳴った。
それからおれは吉岡教師に命じて、爺さんの遺体を保健室に運ばせた。調べたいことがあったからだ。クラスの連中の眼の前で死人の身体を裸にできるほど心臓は強くない。クラス・メイトたちは、例によって、好奇心と無関心を適度にミックスした表情でおれたちを見送った。何を知りたくても、おれが動き出した以上、すべては自分たちの所属する世界とは異なる領域へ入りこんでしまったと悟ったのである。お利巧さん、それが長生きの秘訣だよ。
保健室には校医がいたが、おれは爺さんの身体を|走査《スキャナー》ベッドに寝かせたあと、吉岡もろとも部屋の外へ追い出してしまった。どちらも文句ひとつ言わない。
オーバーのポケットを探っても、わずかな小銭以外は発見できなかった。それ以上の身元調査はあきらめ、おれは外傷調査に切り替えることにした。爺さんの死因はまちがいなく精神的ショックだが、ある|仕事《やま》にとりかかる前に、関連人物が不慮の死を遂げた場合は、外傷だけでも調べておくのがトレジャー・ハンターの鉄則だ。同じ手段、同じ存在に襲われる番がまわってきても、生きのびる|機会《チャンス》は飛躍的に増大する。
おれは、爺さんの姿をひと目みたときから、この件に深入りしそうな予感をもっていた。もっとも、まだ少し先になるだろうが。
おれは保健室の設備をざっと見わたし、一応、内傷の方も探ってみることに決めた。
三十畳分は優にある保健室には、大学病院も顔負けの手術設備はもちろん、X線CT(コンピューター・トモグラフィ)、超音波CT、核医学CT用のスキャナーやガンマカメラ、超音波発信器等が整然とならべられている。CTとは、X線や超音波、放射性物質等が体内を透過する際の吸収率をコンピューターが計算、瞬時に患部断層像をブラウン管に映し出すシステムで別名「画像診断」。患部を切開する必要なしに映像として見ることが可能な最新医療技術である。世界にいくつ高校があるか知らないが、これだけの設備がそろっているのは、ここ、都立|吹留《ふきどめ》高校ぐらいのものだ。
ふと気になって、おれは手近なコンピューター・パネルに近づき、『寄贈・八頭大』の文字を確かめた。
近頃は、若手の熱血教師の畜生どもが、校内正常化だの、金権運営の廃止だのを旗印におれの放校を策し、その具体的行動のひとつとして、おれが寄付した品からおれの名を削りとるという陰険姑息な手段に出ている。なんちゅうセコい野郎どもだ。早速、月々の寄付の額を倍に増やし、うるさい奴らには女でもあてがって懐柔、それができなきゃ、どんな汚い手段を使っても追い出せと校長に命じたものの、やはり、くれてやったものから名前が消されているというのは気になる。
のこりのメカ類も全部見てまわろうかと思ったが、手間がかかりそうなのでやめ、おれは、当初の目的を果たすべく、爺さんの着ているものを脱がせはじめた。
オーバーをとり、パジャマの胸をはだけたところで、おれの口からは予想通り、驚きと失望の混じった口笛が洩れた。
|肋骨《あばら》が浮き出た胸部から腹にかけて数条の溝が走っている。粘土の表面をよく斬れる彫刻刀で削り取ったような奇怪な傷痕だった。
おれは、スキャナー・スクリーンの前に座り、電源をONにすると、リモコン・カメラを傷口に近づけた。映像が出た。どうやら、えぐられた傷ではない。
「……こりゃ、溶かされた痕だな。酸か……」
傷の長さはどれも約四、五十センチ、深さ七、八ミリ、繩で縛ったように、筋肉の凸凹に従って走っている。おれはポケットの触手に手を触れた。
「こいつの仕業か……爺さん、どれほどの腕ききだったかは知らねえが、化け物相手じゃ苦戦したろうな」
とはいうものの、爺さんに精神的ショックを与えた元凶が、この触手の主かどうかはわからない。
おれは、ついでに水晶片も取り出してひねくりまわした。きれいな長方形で、縦五センチ、横三センチほどだ。厚さは――。
真横からそれを見つめ、おれは確かに心臓が鼓動を止めるのを感じた。
消えてしまう!
正面や斜めから見ると、確かに長方形の形を維持しているのに、真横からは何も見えないのだ。あわててあれこれひねくりまわしたが、結果は同じだった。この摩訶不思議な物体は、厚みというものを備えていないのだ。
完璧な二次元平面――影と同じだ。
「化け物の触手と厚みのない水晶片――なんてこった」
自分のつぶやきが頭の中で虚ろにひびいた。とんでもない事件に巻き込まれるような酩酊感と、武者震いとが身体をとらえていた。
こうしちゃいられない。
ともかく、おれは三十分ほどかけて爺さんの身体を内も外も綿密に調査し、保健室を出た。ずっと廊下で待ってたらしい校医が、
「校長がお呼びです」
と告げた。
「死体の処置はどうしましょう?」
「行き倒れで届けろ。おれのクラスへ来たことはオフ・リミットだ」
おれは冷たく言い放ってから、校医の肩を叩き、親愛の情をこめて、
「いつも済まねえな。診断書の件はよろしく頼むよ。悪いようにはしない」
校医は頬骨の浮き出た顔を不気味に歪めて笑った。きもち悪い。
「いいえまかせといて下さい。八頭くんのためなら、死亡診断書の一枚や二枚……」
「頼んだぜ」
もうひとつの彼の肩を叩いて、おれは下校する生徒の数もまばらになった廊下を玄関の方へ向かった。校長室へは行く気もしなかった。死体のことで文句をつけたいのだろう。まあ、寄付金の0をひとつ増やしてやれば済むことだ。校舎をでたおれの頭は、校長や爺さんの件よりも、一両日中に転がりこむ黄金の山吹色に染まっていた。
けれども、おれは、一度六本木のマンションへ戻り、服を着替えるとすぐ、愛車フェラリ・ベルリネッタBB512Iを駆って亀戸へ向かった。本来なら日本橋の「現場[#「現場」に傍点]」へ行くところだが、爺さんとふたつの「遺品」が妙に心にひっかかったのである。住所はマンションで調査済み[#「調査済み」に傍点]だ。
土曜の午後だというのに交通渋滞ははなはだしく、高速7号を使っても錦糸町ランプに到着するまで一時間半を要した。亀戸の目的地へはさらに三十分もかかり、午後三時四十分ちょうど、おれは一軒の家の前で車を降りた。
木造住宅が密集した、いかにも下町といった感じの一角だが、その家のボロさ加減は特筆ものだった。瓦屋根はいいとしても当の瓦は七割方はげおち、窓ガラスには丸い紙を貼ってひび割れを防いでいる。家全体がぎくしゃくして、指でつつけば今にも倒壊しそうな雰囲気であった。
墨痕も薄れた表札に「|太宰先蔵《だざいせんぞう》」の名を認め、おれは溜め息をついた。
「強者どもが夢のあと……か」
途端に、入り口のガラス戸を突き破って革ジャン姿の男が路上に激突し、淡い感傷を打ち砕いた。
「あれよあれよ」
という間に男たちの数は三人にふえた。鼻や頭をおさえた指の間から鮮血が噴き出し、服と路上を染めた。全員、もう片方の手で股間をおさえている。
枠だけになったガラス戸をあけて、加害者が姿をみせた。
空気に生々しい女の香りがたちこめたようだった。長い黒髪が腰のあたりで波打ち、全身を震わせる少女の怒りをあらわしていた。男たちが手を下したものか、粗末な白いブラウスの胸元がはだけ、ピンクのブラと、はちきれんばかりの水蜜桃がのぞいていた。「ほう――」と唸ったおれは、少女の怒号で我に返った。
「やくざだか何だか知らないが、ないものはないんだ。今度おかしな因縁つけにきたら、五体満足じゃ帰れないとお思い!」
「はい」
「……畜生、女だと思っておとなしくでてりゃあ、つけあがりやがって」
「また来るぜ」
男たちは捨て台詞をのこして立ち上がり、精一杯のカッコつけに肩をゆすりながら、大股で歩き去った。物音に驚いて路上へ出てきた主婦や子供たちがあわてて顔をそむけ、家の中へ引っ込んだ。
少女はじろりとおれの方をねめつけた。
年齢は十七。都立△△女子高校二年生。うるんだような黒い瞳といい、ほんのり濡れた唇といい、どんな男の下半身にも衝撃を与えそうな色っぽさなのに、鬼女面は惜しい。それでも、上から下まで無遠慮に一瞥して、男たちの仲間ではないと判断したらしく、表情は少し和らいだ。
「なによ、あんた。いま“はい”って言ったわね。なめてんの?」
「とんでもない」
おれは手をふって微笑んだ。人妻から幼児まで、世界中の女をたぶらかしてきた美貌だが、少女は軽蔑したように鼻を鳴らした。
「ふん。餓鬼のくせにスーツに銀バッジなんかつけちゃって――そこの赤い車、あんたの。通行の邪魔よ」
「すぐどけるって」
おれはダンディ笑いを愛想笑いに切り換えながら少女に近づいた。
「――太宰ゆきさんだろ?」
「なんで知ってんのよ――あんたも借金取り?」
「むしろその逆だな、話をしたくてやってきたんだ。聞きたいこともある。もちろん、お礼はするぜ」
「なにを話したいのさ?」
「お爺さんのことだ」
このひと言は霊験あらたかだった。ゆきの顔から戦闘意欲が霧消し、十七、八の少女らしさが戻った。それでも、肉感的な全身からみなぎる色っぽさは少しも色褪せない。おれは先が楽しみになった。
「あんた、ひょっとして――八頭大さん?」
「知ってるのか!?」
おれはわざとびっくりしてみせた。太宰先蔵の孫ならおれの名を聞いていても当然なのだが、反応は大げさな方が次の話にもっていきやすい。
「でっかい声出さないでよ、馬鹿。――入って」
ゆきは赤い顔で周囲をみまわし、おれを手招いた。大の男を三人、素手でぶちのめす腕っぷしと、近所の噂を気にする女の神経が同居してるとは珍しい。おれは、門柱や電信柱の陰から様子をうかがっている下町の情報網たちに、媚びた笑いをふりまきながら、もと[#「もと」に傍点]ガラス戸をくぐった。
「やっぱりお爺ちゃん、あんたんとこ行ったのね?」
二間しかない家の、奥の六畳間へ座るなり、ゆきは光る目でおれを見つめた。
「ああ」
「ちょっと、どこ見てんのよ」
「いや、――いい天気だな。そうそう、さっきのゴロツキはなに? 借金取りか?」
ゆきは軽蔑しきった顔で、ブラウスの前をあわせた。
「まず、あんたの話からきかせてちょうだい。お爺ちゃん、死んだんでしょ?」
「ああ」
おれはなるべくゆきの方を見ないようにして、爺さんがあらわれてからこと切れるまでの事情を話した。
五分でこと足りたが、その間、眼のやり場に困った。見まいとしても、眼が自然にゆきの方へ吸い寄せられてしまうのである。ちょっとめには、大柄で清純そうなただ[#「ただ」に傍点]の美少女なのだが、わずかでも意識した途端、女のエロスそのものに変貌するのだ。
底知れぬ深さと光をたたえた瞳、すっきりと通るギリシャ彫刻の女神みたいな鼻すじ、やや厚めの好色な感じのする唇。ブラウスの前をおさえても、下から押し上げる乳房の力感は覆うべくもないし、腰から太腿にかけてのカーブときたら、否応なしに中身を連想させてくれる。一分もふたりきりでいたら、とびかからない男の方がおかしい。自制心のかたまりみたいなおれだからこそ我慢できたのだ。
「そう。じゃ、もうじき警察から連絡が入るわね」
「そ、そうとも」
心なしか寂しげなゆきの言葉に、おれは内心の動揺を大きくうなずいてカバーした。警察に届けるのは明日まで伏せろと、校医に命じたことは口をつぐんでおいたのだ。警察が動き出す前に遺族にあたり、必要な情報を探り出す心算だったからである。
触手と水晶片のことも伏せておいた。まだ敵とも味方ともわからない娘に手持ちのカードをすべて見せるのは禁物だ。万が一彼女が知っていたとしても、後で何とでも言いくるめられる。まだ輪郭さえおぼろなこの事件の奥に、何やらどえらい結末が潜んでいる気配を、おれは感じていた。おれの心の片隅で、それ[#「それ」に傍点]は当のおれさえ意識しない光を放っていたのである。黄金の輝きを。
「可哀相にお爺ちゃん――働くだけ働いて、最後は化け物にとり憑かれて……」
ゆきがぽつんと言った。女のアクがすべて脱けおちたような美しい表情よりも、おれはその言葉の内容に胸の昂まりを覚えた。
「なんだい、そりゃ――今度はそっちが事情を話す番だぜ」
「その前に――あんた一体何者よ。爺ちゃん、なんで、あんたの学校にまで出掛けたの?」
おれは少し驚いた。
「知らねえのか?――おまえ、太宰先蔵の孫だろ?」
「だからどうしたってのよ?――待って。お爺ちゃん、なんかで有名なの? それから、あたしをおまえ[#「おまえ」に傍点]なんて呼ばないで。初対面なのに、なれなれしいわね」
「はいはいはい」
おれは肩をすくめた。
「要求はすべて呑んでやるからよ。まず、じ、いや、お爺さんがおれんとこへやって来る前後の様子をきかせてくれ」
ゆきは探るような眼で、おれの頭のてっぺんから正座した膝っ小僧まで見おろした。
「イカレてるけど、お金はありそうね――インタビュー三十分で十万円よ」
「三万円」
「九万――あいつらが探してたもの[#「もの」に傍点]もつけるわよ」
おれは内心ニタニタしながら、一応渋い顔をつくって「仕様がねえ」と言った。ゆきが先蔵爺さんの「名声」も知らなそうだとわかったときから、ゆるむ頬をおさえるのに苦労していたのだ。たかが十万のはした金でききたいことを喋り、おまけまでつけるという。今回の事件の到達点に眠る巨大な儲け口に、全く無知なのだ!
喉の奥で笑いが噛み殺され、ギギという音をたてた。フェラリとセルッティのスリーピースで決めた価値があったというものだ。
先蔵爺さんのデータには「家族」欄にゆきの名と性格が記入されていた。ひと言――「|吝薔《けち》」と。しかし、である。たかが女、それも十七歳の餓鬼のケチなど程度が知れている。せいぜい――予想通り――お喋り代を請求するのが関の山だ。もっとも、学生服なんか着てたら、爺さんの死に様だけ聞いて、はい、さようならだったろう。その辺の見極めが、おれのおれたる所以だ。革ジャンで殴り込み、娘の身体にきこうなんていう低能やくざとは格がちがう。
自己陶酔にふけっていたら、ゆきが話し出したので、おれはあわてて現実へ戻った。近ごろの女は礼儀を知らねえ。
「今度の話がどの辺からはじまるのかはよくわからないけど、あたしがおかしいなって思ったのは、ちょうどふた月前よ。気になったので、日記がわりの家計簿に記入しておいたの――まちがいないわ。その日、飯場へいく前に新聞読んでたお爺ちゃんが、いきなり、『やりやがった! 畜生っ!』って、障子がゆれんばかりの大声をはりあげたのよ。台所からびっくりして駆けつけると、茶ぶ台の前で新聞を開いたまま、ワナワナ震えてるじゃないの――」
「そ、その新聞か、さっきのゴロツキが探してたのは?――とってあるだろうな?」
おれは血相変えたが、ゆきは意地悪くニンマリ笑って答えなかった。おれは前途に暗雲を感じた。
「あたしのことも眼に入らず、ずいぶん長いこと新聞を眺めてたわ」ゆきはつづけた。「生まれたときから一緒に暮らしてるけど、あんな怖い顔はじめて」
「どんな顔だ?――悔しそうだったか、それとも、脅えてたのか?」
「へえ、よくわかるわね。両方よ」
すると先蔵爺さんは、誰かに先を越されたと気づいただけじゃなく、そこに何が待ち受けてるかも先刻承知だったってことになる――多分、あの触手の主を。
「つづけてくれ」とおれは言った。
「ええ。あたし、黙ってるのも怖くなっちゃって、声かけたのね。そしたら、びっくりしたように新聞を置いて、あたふたと出ていっちゃったの。あたしにひと声もかけずによ。そのときなんかただ事じゃないって気づいたの」
「ふうん」
「仕事の帰りが遅くなったのも、その日以来よ。それまでは歳も歳だし、夕食前には必ず帰ってきてたのが、急に午前さまになって。そのくせ、朝はいつも通り六時には出ていくのよ」
「君に内証で仕事はやめてたんだろ」
「ううん。お給料は毎日もってきてくれたもの。日払いなんだ」
――さすがは太宰先蔵だな――おれは心の底で感嘆した。
「でも、ずいぶん疲れてるみたいだったよ」
おれの心の中を読んだようにゆきが言った。
「肩もむとわかるの。ぎちぎちに欝血してて、一時間もみっぱなしにしないと散らばんないのよ」
「仕事のせいだけじゃねえのはすぐわかったろ。何をしてるかきいてみたか?」
「仕事ですって」
「ふむ。それがどのくらいつづいた?」
「ひと月半ね」
「その間、変化はなかったか?――いつも通り帰ってきて、いつも通り寝たか?」
ゆきはふと眉をひそめ、小首をかしげた。
「そうね――あった! 消えるまえに一度、なんだか後をつけられてるみたいな雰囲気で帰ってきたよ。玄関から半分身をのり出して、いつまでも通りの両端を眺めてたんだ。そうか、それ[#「それ」に傍点]があいつらか――」
「多分な」
とおれはゆきの推定に自信をもたせてやった。先刻のゴロツキどものことだ。すると、爺さんを出し抜いたのは、あいつらだったのか?
おれは首をふって、まとまりかけた結論を四散させた。早のみこみは早とちりにつながる。そして、この商売で早とちりの行きつく先は死しかない。
「お爺さんが消えた[#「消えた」に傍点]のはいつだ?」
話が核心に触れたのを感じながら、おれははやる心をおさえてきいた。
「ひと月半まえ。一週間帰ってこなかったわ。ちょうど消える日の夕方、四、五日、仕事で関西の方へいくけど心配するなって電話があったから、そんなに気にもしなかったけどさ」
「で、お爺さんは戻ってきた。そのときの様子は?」
「十五万」
いきなりゆき[#「ゆき」に傍点]が切り出した。何日も砂漠の陽に灼かれた遭難者が、ようやくたどり着いたオアシスの泉に口をつけようとした途端、水の請求書をつきつけられたようなものだ。交渉する気も起こさせぬ絶妙のタイミングだった。おれはわめいた。
「わかったよ、この山猫娘! あとで思いっきり|強姦《レイプ》してやるからな」
少女は、挑発そのものの笑顔で舌なめずりをした。
「あーら、いましたって[#「したって」に傍点]いいのよ」
おれは沈黙した。言いまかされたんじゃない。ほんとに跳びかかりたくなっちまったからだ。逆流せんとする血液と激情を我ながらよくおさえつけたものだ。
ゆきはくくくとのけぞって笑った。ああ、その白い喉。もとの位置に戻った顔には、しかし、沈痛の色があった。眼も遠くを見つめているようだった。
「……爺ちゃん、真夜中に|車《タクシー》で帰ってきたのよ。車がとまる音がしたから出てってみると、爺ちゃんが革ジャンきて立ってるじゃないの。ニコニコしながら家へ入って、その途端、三和土んとこでばったりよ。一一九番しようとしても、よせって止めるの。生命にゃ別状ないからって。座敷に寝かせ、ジャンパーを脱がせたら、あたし、きゃっ[#「きゃっ」に傍点]て言っちゃった。下のシャツ、血だらけなんだもの……えらいわ、爺ちゃん、あんな傷を負いながらきっとタクシーでも弱音を吐かなかったのね。ちゃんと料金も払ったし、運ちゃんも機嫌よく挨拶していっちゃったもの」
「ほう」
おれは感嘆の声を放ち、膝でにじり寄った。
「傷をみて、びっくりしたろ」
「あんたも驚いたでしょ。でも、最初はあんなもんじゃなかったのよ。肉が溶けて、ぽっかり穴があいてたんだもの」
「やっぱりな。お爺さんの様子はどうだった? 埃にまみれてたとか、靴が濡れてたとか――?」
ゆきは眉をひそめて考えこんだ。
「そうねえ、ジャンパーは溶けてズタボロだし、靴も埃だらけだったわ」
「ど、どっちもとってあるな」
「ジャンパーは捨てちゃったわよ。靴は――埃をおとしてしまってあるわ。なによ、不貞腐れ面して。文句があるならはっきり言いなさいよ」
「別にねえ。それからどうした?」
「ふん。今度そんな顔したらすべてご破算だからね」
とゆきは毒づいて、急にしんみりとした口調になった。
「でも、寝こんでからの爺ちゃんは、もう昔の爺ちゃんじゃなかった。熱に浮かされて、うわごと言って。そのくせあたしが医者を呼ぼうとすると、どうしてわかるのか、鬼みたいな顔で『よせ』『やめろ』ってわめくのよ」
「うわごとって、どんなだ?」
ゆきは一瞬口をつぐみ、すぐ話し出した。
「化け物だの……地下鉄だの……溶かされちまう……近づくな……それから――食うな」
黒いイメージが脳裡で膨らんだ。一点の明かりも存在しない地の底で、人間を溶かし、骨まで柔らかくして食ってしまう蛸入道に追っかけられている老人の姿。ふと、おれは身体が熱くなりつつあるのを意識した。精神的高揚のせいだ。
「もうひとつあるわ」
とゆきが硬い声で言った。
「八頭大よ。あんたの名前。どうしても会うんだと、しつこいくらい繰り返してた。一週間近くそんな状態がつづいて、夕べようやく熱が下がったの。それで、ひと安心したら……」
「今朝、ふらりとおれのところへきたわけか」
「あたしが買い物にいった留守にね。もう、さんざか探したんだから。――さ、これであたしの話はおしまい。次はあんたの番よ。一体何者なの? お爺ちゃんとはどういう関係?」
「まだ少し残ってるぜ。さっきの奴らは何者だ? 探してたってものは?」
「正体不明よ。探してたものは内証。あんたが、触手と水晶片のことを黙ってたみたいにね」
「……」
一本取られたって合図に、おれは肩をすくめてみせた。こう使う[#「こう使う」に傍点]気で黙ってたのか。強いのは腕っぷしだけじゃなさそうだ。なまじの嘘じゃだませそうにねえし、嘘をつけるような状況でもなかった。ま、爺さんの正体ぐらい、たったひとりの孫娘にはきかせてやっといた方がいいだろう。
「お爺さんは|宝《トレジャー》探しハンターだったのさ。それも、この世界じゃ五本の指に入るくらいのな」
ゆきの濡れた瞳が、みるみるうちに丸くなった。爺さん、よっぽどうまくカムフラージュしてたとみえる。
「宝探しハンターって――あれ[#「あれ」に傍点]? 金塊積んだ沈没船を引き揚げたり、昔のお殿さまが隠した埋蔵金を探すのに穴掘ったりする――」
「あたり」
「うっそだあ――。そりゃ爺ちゃん、現場で穴掘ったりはするけど……そんな……それも世界的な有名人だなんて」
「友人、知人に仕事を勘づかれるようなハンターは素人さ。宝探しのプロは、そうと決めたら、寝食をともにする家族にさえ、一生正体を隠し通す。
アメリカに、毎朝二時間ずつ愛犬をつれて散歩に出掛けるだけが道楽のおっさんがいた。犬の餌と糞の始末をする道具を入れた布バッグひとつだけをもち、いつも同じ時間に帰ってきた。はじめのうちは疲労気味で、家族のものが尋ねると『マラソンのしすぎ』と答えてたそうだ。ひと月もすると、歳のせいかマラソンもやめたらしく、疲れは目立たなくなった。それから二年間、一日も休まずこの日課を果たしてなくなったが、おっさんの部屋を整理した家族はあっと驚いた。床下に、五百本近い金ののべ棒が隠してあったのさ。時価八億円は下らなかったという。なんでも、近所の山に、植民地時代のスペインの軍隊が埋めたものだそうだ。このおっさんは、散歩に出掛けてはひと月がかりで穴を掘り、あとの二年間は毎日、金ののべ棒を布バッグに一本ずつ入れて持ち帰ってたんだな。
こんな例はごまんとあるぜ。家族ぐるみ宝探しに一生をかけ、悲惨な生涯を送ったって話をよく聞くけど、そういうアマチュアに限って、プロが失敬したあとの地面を後生大事に掘り返してるだけの場合が多いのさ」
一気にまくしたてられ、ゆきは目を白黒させていたが、ようやく考えがまとまったらしく、
「でも……まだ、信じられないわ。うちのありさまをみてよ」
突然、大きな両眼が少女漫画みたいにキラリと光った。声をひそめて――
「ねえ、日が暮れたら、こっそり床板ひっぺがしてみない?」
おれは苦笑いして、
「おれの知る限り、お爺さんは金塊ひとかけら残してねえよ」
「あら、どうしてよ? やっぱり嘘なのね、世界的な有名人だなんて。このホラ吹き野郎」
すっくと仁王立ちになりかかるのを制しておれは言った。
「シャーロック・ホームズの生みの親コナン・ドイルに『ロスト・ワールド』ってSFがある。知ってるか?」
「ふん」
「まあ、いい。アマゾンの奥地にでかい台地があって、太古の恐竜がゾロゾロ棲息してるという話だ。こいつは、ドイルも書きのこさなかったし、世間には一切伝わってないことだが、台地は実在する。そして、ドイルにそれを教え、SF史上『ロスト・ワールド』ものと呼ばれる一ジャンルの開祖としての栄光を与えた人物こそ――」
「――お爺ちゃん!? まさか!」
今度こそアングリ口をあけた美しい顔をみて、おれはにやりと笑った。
「大英博物館の地下倉庫へ行ってみな。お爺さんが内証でもち帰ったプテラノドンの子孫がまだ飼われてるはずだ」
「そそそんな。なら、どうして――」
「金がねえのは知ってるが、理由は知らねえ。ただ、天井裏までひっくり返しても、銅銭一枚出てこねえのは確かだ」
一瞬、臍を噛んだが遅かった。ゆきは異様に光る眼と、憑かれたような表情でおれをねめつけた。
「じゃあ、あんたも宝探しハンターとかなのね。お爺ちゃんがあんな身体になっても探しにいった相手だもの。違うなんていわせないわ」
「いや、その……つまり」
「それと、爺ちゃんがあんたを選んだのは何故? あんた、そんなに腕がいいの? それとも、知り合いかなんか? ――もうひとつ。あんたがここへやって来れたのはどうして? 爺ちゃん、姿を消したときお金以外は持ってかなかったはずよ」
口をはさむ間もなくポンポンやられて、おれは苦笑した。
「おれの腕は自分じゃわからねえが、うちの両親がお爺さんと知り合いだったんだ。もう十五年以上音信はないけど、八頭っていやこの世界じゃちっとは知られた名前だし、多分、今度の仕事をはじめる前に、おれの住所や高校やらを調べておいたんだろう。仕事をついでもらえるようにな。本当のハンターほど、自分が死んだあとも仕事の完遂をのぞむものなんだ。ひょっとしたら、お爺さんにはなんか予感めいたものが働いたのかもしれないな。大物の宝探しハンターは勘がよくなきゃつとまらねえ」
「へえ」
ゆきは目を丸くした。これは掛け値なしの真実である。宝探しには危険がつきものだ。なんら意図的な発見防止処置を施していない難破船にしたところで、海という護衛がついている。水圧、呼吸困難、加えて鮫やバラクーダといった自然の防御陣を排除しないことには、一枚の金貨も手に入らない。ましてや、後に掘り出すつもりで隠蔽した宝物ときたら、当時考え得る最高の対ハンター用防御手段が加えられているものだ。
変哲もない石を踏んだとたん、頭上から降りかかってくる大砂塵、崩れおちる数十トンの石壁、永遠に地の底を這いずりまわせるべく、方向感覚喪失角度を計算してつくられた迷路、インカ民族が発明したという無色無臭の毒ガス、くんでもくんでも尽きぬ竪穴の水。どれひとつをとっても、予備知識をもたないハンターには、裸で猛獣の檻へ入るのと等しい。
悠久の歴史の中で、宝物の蓋に手をかけながら倒れたハンターがどれくらいいたことか。目的を果たし、陽光の世界へ巨万の富を抱いて帰還し得た百万人にひとりの幸運児たち。そう、自ら死地へ赴くものの生命を救うのは幸運であり、それを導くものはハンターとしての生得的な勘しかない。宝探しとは、死者の知恵と生者の勘との対決なのである。
「あたし、お爺ちゃんのうわごとでしか、あんたんとこの名字きいたことないわ。どの程度の知り合い?」
やや打ち解けた声でゆきがきいた。
「おれもよく知らねえ。帰って調べりゃわかるがな」
「ふん、ケチ」
ゆきはすぐ元通りのきつい声に戻った。
「とにかく、この事件は『宝』が絡んでいるわけね――やめた。十五万円なんてはした金でペラペラ喋るの」
表面は平静を装いながら、おれは胸の奥で舌打ちした。祖父ひとり孫娘ひとりだと思って情にほだされたのがまずかった。どうやってこの失点を取り返そうかと、めまぐるしく頭脳を回転させるおれを尻目に、ゆきは茫漠たる眼つきで宙をあおいでいたが、不意に、何思ったか、ブラウスをおさえていた手をはなし、むき出しになったふくらみとブラの間へそれ[#「それ」に傍点]を突っこんだ。
「……!?」
思わずおれは後じさった。それほど、ゆきの顔に浮かんだ表情には危険なものが含まれていた。
全身から女のエキスが発散し、獣めいた瞳は上気した顔の中でつややかに濡れ光り、半開きの唇から熱い舌がのぞく。全身を挑発的にくねらせつつ、乳房へさしこんだ片手の動きを一層はやめて、ゆきはおれの方へにじり寄ってきた。熱い吐息とあえぎが顔面へ吹きつける。
「な、なんだ、こら。いきなり色情狂か。まだ陽は高いぞ」
我ながら情ない声だが仕様がない。おれはまだ、状況に対処できなかった。
「なによ、男のくせに……女ひとり扱えないの? あたし、お金のこと考えると我慢できなくなるのよ……」
「金銭妄想欲情症か。こらっ、寄るな。さっきは平気だったじゃねえか」
「十五万じゃ駄目よ。一千万以上でないと。でも、いまの話きいて……ああ、たまらない。……億単位のお金ね……熱いわ……ねえ、いらっしゃい」
驚きのあまりアタフタしていたおれの精神も、なんとか本来の状態に回帰しつつあった。障子はしまってるし、迫ってきたのはあっちだし、後でごたごたもなさそうだ。
「それじゃあ」
と広げた腕の中へ間髪入れず、重く熱い身体がとびこんできた刹那、
「ゆきちゃあーん」
「きゃっ」
「わっ」
おれたちは、すり切れた畳の上から、ばねみたいにはね上がった。
「ンもう、いいところにィ。杉本の――隣の叔母さんよ。なんのかんの理由をつけちゃ、人の家をのぞくのが趣味なの」
ゆきは毒づいて、ブラウスとスカートの乱れをなおしてから玄関へ出ていった。
「いえね、心配で」とか「いいとこのお坊っちゃん」とかいうきんきん声が響き、じき静かになった。
「せっかく、その気になったのに、気分こわれちゃったわ」ゆきはぷんぷん顔で戻ってきた。「あんた、いつまで横になってるのよ」
「いやいや、こりゃどーも」
しぶしぶ起き上がったものの、おれはウキウキしていた。なにせ、いいとこのお坊っちゃんだぜ。
「しまりのない顔ねえ――待っててよ、着替えてくるから」
とゆきは障子をあけながら言った。
「ん? どっか行くのか?」
「あんたんとこよ。こんなとこにひとりでいたら、またさっきの奴らに襲われちゃうじゃない。あたしが攫われたら、あんただって困るでしょ。お目当ての品も持ってくるわ」
一方的に宣言され、おれは少々あわてた。
「そら構わんけどよ、警察からの連絡、待ってなくていいのか?」
なぜか、|警察《さつ》への届け出は一日のばせと指示済みなのを、このときおれは忘れていた。障子の彼方から、淡々たる声が戻ってきた。
「死んじゃったもの仕様がないでしょ。それより、お爺ちゃんが何を探ってたか知るのが先よ。あたし、もう貧乏はうんざり。お爺ちゃんの抜け殻はあとで引き取りにいくわ。そうだ――夕食もおごってよ。銀座でステーキがいいな」
「大したタマだよ、おまえは」
憮然とつぶやいたおれも、しかし、待つほどもなく現れたゆきの姿をみて、彼女に対する考えをやや改めた。安物のワンピースに銀のネックレス、合成皮革のハンドバッグはともかくとして、誰がみても化粧が濃すぎる。
涙の痕を隠すにはそれくらい必要なのだろう。
ソニービル七階にあるイタリアン・レストラン「サバティーニ・ディ・フィレンツェ」を出て、晴海通りの歩道に立ったときは、とうに七時をまわっていた。
土曜の夜だというのに、珍しく人通りも車の数も少なく、空気まですがすがしい。そばには一応グラマー美人もいるし、これで服部時計店の鐘がロマンチックな音でもたててくれたら申し分ないのだが、実はおれは怒っていた。ゆきがどうしても例の新聞記事とゴロツキどもの「探しもの」を渡そうとしないのである。
正直いって、おれにはこの件で頭を悩ます前に大事な仕事がある。今すぐにでもそっちへいきたいのに、ゆきは離れず、それが切り札と知りくさっているから、ハンドバッグを片時も手放さない。
「こうなったら、半分はいただくわよ」
と「わよ[#「わよ」に傍点]」に力を込めて言う。
「明日になったら、お爺さんの始末をちゃんとつけて、すぐ宝探しにかかるんだから」
「宝があるかどうかなんて、まだわからねえよ。化け物がいることだけは確かだが」
「お爺ちゃんほどの大物が、見込みもなしで宝探しなんかするわけないでしょ」
やれやれ、爺さんの本職きかされて、口をポカンとあけてた小娘がこれだ。
いつまでも銀座の真ん中で口論を続けるわけにもいかず、どっかの路地へ引っぱりこんでハンドバッグだけ失敬しちまおうかとおれはあたりを見まわした。すぐゆきの手をとり、半ば引きずるようにして歩き出す。
「なによお、なにすんのよ。どっかの路地へ引っぱりこんで、ハンドバッグかっぱらう気でしょ。そうはいかないわよ」
おれと同じ理由で大立ち回りするわけにもいかず、いやいや引きずられながらゆきがわめいた。
「さすが太宰先蔵の孫だけあっていい勘してんな。黙ってついてこい」
「誰が!」
言うなり、空気を切ってハンドバッグが襲った。予備動作抜きの鮮やかな一撃だ。ゴロツキどものやられっぷりからして、武道の心得があるだろうと踏んではいたが、これほどのものとは思わなかった。バッグの角でこめかみを狙う――プロの手口だ。
かろうじて頭をひき、鼻先数センチのところをかすめさせたものの、手がお留守になった。ゆきの腕の感触が消え、おれが体勢をたてなおしたときには、グラマーな身体はいまやってきた方向へ一目散に駆け戻っていた。
だしぬけに、数個の人影がゆきの周囲に集まった。人の流れを無視した動き。さっき、数寄屋橋の交差点を渡りかかっていた奴らだ。
ゆきの罵声があがり、すぐ静かになった。
「世話かけやがる」
おれは外堀通りの方へ歩き出した一行を追いながら、内ポケットから薄手の手袋を抜き出した。
千疋屋の前で最後尾の奴に追いすがったとき、歩道の両脇から大柄な影がふたつ、すーっとすり寄ってきた。ひとつは、ゆきの家の前で股間をおさえていた男。もう片方は初対面だ。おれ用の迎撃部隊だろう。両脇から腕をかかえ、横丁へ連れこんでいたぶる役だ。何げない素振り、不意をつくための威圧感抜きの歩き方――見事なものだったが、四歳のころから同類相手に大立ち回りを演じてきたおれには通じない。
両脇に立った途端、ふたりはぶるっと全身をふるわせ、おれの肩にもたれかかった。髪の毛が逆立っている。すぐ脇を若いカップルが通りかかったので、おれはとっさにふたりを抱き上げ、アベックの背中にひとりずつ分担してもらった。
「あらーっ」という女の声が聞こえたときには、おれは猛然とダッシュし、晴海通りをテイジン・メンズ・ショップの方へ半ば渡りかけたグループに肉迫していた。
数は三人。うちひとりは亀戸のおなじみさんだ。
うかつな話だが、ゆきの家を出たときから尾けられていたのだろう。尾行を勘づくのと巻くのにかけちゃプロ級のおれをたぶらかすとは、高利貸しの取りたて代行をするチンピラやくざじゃなさそうだ。もっとも、ゆきの揺れるバストと太腿が、おれの眼をくらましていたこともある。奴らがソニービルで襲わなかったのは、銀座へ入ってからの交通渋滞でおれたちを見失っちまったからに違いない。
だが、簡単に尾行できたことと、苦労を重ねた割には育ちのよいおれの童顔が、奴らのネックになった。ゆきを誘い出しにきたイカれたボーイフレンドぐらいに思ったのだろう。先刻のふたりにまかせたきり、おれが攻撃にうつるまでこちらを見ようともしなかったのである。
おれの右手が首筋にふれるや、最後尾のひとりが倒れた。
ゆきの斜め後ろに密着したふたりがふり向くより早く、おれは左側の男が右手をポケットに突っこんでいるのを見てとった。手を触れるまでもう一歩の距離があった。自分の顔が青ざめるのがわかった。
しかし、男は荒仕事のプロではあっても、殺しが本業ではなかった、殺人への忌みと、おれの童顔、銀座のど真ん中という状況が、ポケットの奥でひとさし指に力をこめるのを遅らせた。おれの指先は男の首筋に吸いこまれた。
ゆきの悲鳴が聞こえた。
眼の隅にかすかな動きを認めて体を沈めた瞬間、黒い旋風が頭上をかすめてすぎた。猛烈な風圧で髪が引っぱられていく。凄まじい蹴りだった。頭ばかりか全身が総毛立ってしまう。体勢をたてなおそうとしたとき、ゆきの身体がぶつかってきて、おれたちは路上に転倒した。
後できいた話だが、ポケットの拳銃で威嚇していた男が倒れたとき、ゆきは間髪入れず右後ろの敵の胸板に肘打ちを叩き込み、膝から下を後方へはね上げて急所を痛打したという。その手ごたえのなさに茫然とした刹那、おれめがけてつきとばされたのだ。
とっさに受け身をとったので、路上に頭をぶつけずにすんだものの、おれの戦闘意欲はやや減退していた。
ゆきが何かののしりながらはね起き、おれも後につづいた。緊張が転倒の痛みを消している。
強敵は、四十前後と覚しいやせぎすの東洋人だった。他の奴らと異なり、背広着用で顔つきもまともだが、やや腰をおとし、両手を開いて軽く前に突き出した構えは、確かに中国拳法――一分の隙もない。とっておきの用心棒先生だろう。おれは、両手の先を刃に変えた等身大のカマキリを想像した。
ゆきは猫足立ち。こちらも見事な実戦空手の構えだが、実力の差はひと目みて明らかだ。その証拠に、東洋人はおれにのみ目を据えていた。
「かわった手袋だな」
そいつは金属的な声で言った。
「だが、おれに触れるか[#「触れるか」に傍点]?」
言いつつ、一歩踏みこもうとした。
そのとき、凄まじい警笛の響きが路上にこだました。
忘れていた。ここは道路の真ん中だったのだ。眼を走らすと、歩道は鈴なりの人で、近藤書店の前あたりに、こちらへ向かう制服姿が見えた。
男が風みたいに動いた。おれの眼から警官の接近を読みとったとしか思えない。まばたきする間に、路上でうめいてる仲間を両肩にひっかつぎ、人混みに消えた。
感嘆する暇もなく、おれも手袋のスイッチを切ってゆきの手をつかむや、奴の後を追った。
「こら、待てえ」
「待たんと撃つぞ」
警官の物騒な脅し文句が、背後に遠ざかっていった。
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2 マンションは宝物博物館
やむを得ない。おれはゆきを六本木のマンションに匿うことに決めた。
なんとか警官をまき、旧読売別館の隣にある駐車場からフェラリをとばして約十分後、高速3号を下りた。今度は尾けられていないのを確認済みである。外苑東通りを乃木坂方面にむけて走り、防衛庁の手前で右へ折れる。
「あらあ、ここ『アンア』か『ノンノン』に出てたでしょ」
マンションの地下駐車場へ滑り込みながら、ゆきがびっくりしたような声で言った。
「ああ、昔な。気違いみたいな化粧した骸骨そっくりのモデルが、よく入り口やテラスの階段のところでおかしなポーズをとってた。近所迷惑だから、雑誌社に一回五十万円の使用料を要求したら、近頃はとんとお見限りさ。五万円まで下げてやったのに。ケチな根性をしてやがる」
「勝手にそんなことして、よく管理人のひとに叱られなかったわね」
「|管理人《かれ》とは知り合いでな」
「ふーん」
大型乗用車を五十台は収容できるだだっぴろい駐車場にフェラリを入れると、おれはキイをロックし、エレベーターの方へ近づいた。
あと数メートルのところでドアがあき、派手な服装の娘と、肥満体の大男があらわれた。どちらもサングラスをかけ、顔をそむけて通り過ぎようとしたが、娘の方がおれに気づいて愛嬌たっぷりの笑顔になった。
「ねえ、今のふたり……あら、どこへいくのよ、エレベーターここよ」
おれは構わず歩きつづけ、レンガの壁に囲まれた一角に出ると、左手の指輪を顔の前にかざした。
壁に仕込んだ三基のID識別装置が、指輪の発する高周波パターンと持ち主のオーラ・パターンとをマザーコンピューターの回路内記憶と照合、「おれ」たることを確認する。〇・一秒かからず、壁に偽装した専用エレベーターのドアが開いた。
「居間だ」
乗り込んで言うなり、かすかな振動とともにエレベーターは上昇を開始した。
「ちょっと、凄いじゃないの――声に出していえばいいわけ? それに、これ、あんたの専用?」
「そうだ」
「――ひょっとして、あんた、ここのオーナー?」
「大当たり。もっとも、管理人は別だし、住んでる奴らはおれもそのひとりだと思ってる。気がついたようだから教えとくが、さっきの女の子は、お察し通り歌手の松田征子、でぶちんは相撲の朝塩だ」
「嘘ォ。征子ちゃんの相手は業ひろみよ」
「あれは隠れ蓑だ。実はむっちりした男が趣味らしいぜ。――そうも言えねえか。近頃は、おれと顔を合わすたびにウインクするからな」
「不潔。梨本さんに言いつけてやるから!」
つまらんこと言ってるうちにエレベーターがとまり、おれたちは外へ――おれの家の居間へ出た。
このエレベーターは、おれひとりの場合以外、滅多に使わぬ秘密施設だ。お客もガールフレンドも、通常は外の共用エレベーターを利用する。なぜゆきを同乗させたのか、おれにもわからない。
背後でやはり壁そっくりの入り口が閉じた。
三十畳近い居間を埋め尽くす豪華な応接セットやステレオ、ビデオ等の電子機器に、ゆきは茫然と立ちすくんでいる。
きょろきょろと周囲を見まわし、
「ご両親は? ご挨拶しなきゃ」
と言う。
おれははじめてこの娘に好感をもった。
「かてえ[#「かてえ」に傍点]こと言うな。楽にしろよ。あいにく、おれひとりだ」
「お留守なの?」
「天国まで買い物に行ってる」
ゆきは眼を丸くして、
「あら、そう」
と言った。
それからの彼女の反応は、面白いのひと言だった。コンピューター制御のロボット・カートが走り寄り、マジック・ハンドでコーヒーを差し出したといってはぶったまげ、おれの指先ひとつで発光材使用の|室内灯《エレクトロ・ルミネッセンス》が明暗交錯し、ムード・ミュージックが流れたといってはのけぞり、このマンションすべてが、実は地下百メートルに埋められたマザー・コンピューターの制御下にあるときかされては跳び上がった。
「あんた一体――何者なのよ?」
メイプルの長椅子にすわったまま茫然たる口調でたずねる。
「ただの宝探し屋さ。ちょっと年季が入ってるがね。おれで四十五代目くらいだろう」
「あきれた。病気ね、もう。――で、どのくらい稼いだの?」
おれは、あっさりと答えた。
「親父とおれだけで、現行貨幣九千兆円くらいか。ご先祖の分は――やめとこ。単位を説明するのが面倒だ」
「そんなお金……一体、日本にあるものなの? 誰が隠したのよ」
「日本だけじゃないさ。おれの三十七代前の先祖はエジプトへ渡り、ギゼーの三大ピラミッドのひとつを盗掘したって話だ。いま、エジプトのアインシャムス大学とアメリカのスタンフォード大学の連中が、磁気と音響測定で未発見の真の王の間を探そうとしてるが、見つけたら失望するだろうな。『また、先を越された』って――その宝探し屋が日本人だなんて想像もできねえだろ」
「なにが宝探しよ。墓泥棒じゃないの」
「そういう見方もできるな」
おれは、あっさり認めて話題を変更した。
「とにかく、おれの探しあてた宝なんざ、日本全土に埋まってる財宝にくらべると、まだまだはした金さ。太閤秀吉の財宝は時価九兆円といわれ、日本中のハンターが探してるが小判一枚見つかっていない。徳川幕府瓦解の直前、時の大老井伊|直弼《なおすけ》と、後に勘定奉行になった小栗|上野介《こうずけのすけ》が組んで、甲州流の軍学者・林|鶴梁《かくりょう》に八門|遁甲《とんこう》の法をもって埋めさせたという三百六十万両の幕府埋蔵金も未発見だ」
「あ、それ知ってる。赤城山に埋めたって宝物でしょ。テレビで特集してたわ」
おれはうなずいた。
「その他にも、源義経が実は奥州平泉では死なず、蝦夷地――今の北海道へ逃げ、そこで隠したといわれる時価数百億円相当の財宝、徳川家康の下で佐渡の金山奉行を務めた大久保|石見守長安《いわみのかみながやす》が隠匿した三百万両近い黄金――いくらでも黄金の夢は見られるんだ」
おれは言葉を切った。ゆきの眼つきがおかしい。身体から一切の硬さがほぐれ、頬が上気している。また欲情しちまったのだ。
「駄目よ……つづけて……」
赤い蛭みたいな唇が、熱い声をしぼり出した。仕方がない。おれは話をつづけた。途中で昂ぶりを抑えるのも可哀相だしな。
「もっとも、埋蔵金や財宝というのは、今言ったみたいな、世間に知られてるもんばかりじゃねえ。土地の長者が隠したもの、ある部族がみつけて先祖代々伝えてきた秘密の金脈。目を凝らせば、日本の土地はみな山吹色に輝いてるぜ。古代人の残した美術品を国立博物館にも知らせず、こっそり海外の業者に売りとばして巨万の富を築いた罰あたりもいるしな」
「あんたのことでしょ」
ゆきの眼も声も濡れていた。おれの方から仕掛けなくても楽しい目に遭えそうだ。おれは、垂れ下がりそうな鼻の下を気魄でおさえ、咳払いをひとつした。
「これが世界となると、一体どの程度の財宝が発見を待っているのか、おれにも見当がつかねえ。ひとりの人間が巨万の富を得たときから宝の隠匿と探索の歴史が始まったとすれば、今日までどれほどの金銀財宝が人跡未踏の山中へ、凍土の下へ、海底の洞窟へ運びこまれたかしれねえんだ。八頭一族が掘り出した宝など、全埋蔵物の百万分の一にも満たねえだろうよ。
たまに、全くの偶然から、宝の一部が発見されることもある。一九三七年、アメリカのニュー・メキシコ州アラモゴールドにあるビクトリオ・ピークという岩山で、ミルトン・ノスって男が鹿狩りの最中に秘密の洞窟を見つけた。中へ入ったら驚いたね。闇の中さえおぼろに照らすほどの黄金の山さ。ノスは仲間とふたりがかりで三五一個―約九トンの金塊を運び出したが、通路を広げようとしてダイナマイトを使ったために、岩が崩れて入り口まで塞いじまったんだ。残りの金塊は、ふたりが手に入れた量のざっと数百倍はあったといわれてる。
だけど、その全部を足しても、世界の埋蔵金の小指の爪――いや、その間にはさまったゴミクズくらいの量にしかならんのだ。海賊キッドの財宝、アステカ人とともに密林へ消えた黄金、二百五十年にわたって、スペインが中南米から運び出し、そのうち一〇〜一五パーセントが海中に没したといわれる輸送船の宝、ソロモンの黄金、ナチス再建のため、ヒトラーが世界各地に分散隠匿させた三百兆円以上のナチスドイツの遺産。その百分の一を手に入れただけでも、国のひとつくらいお茶の子でつくれるだろうよ。ことによったら、世界を相手に戦争をおっぱじめても勝てるかもしれん」
やり過ぎかな。おれはそっとゆきの方を盗み見た。湯気のたつスポードのコーヒー・カップを手に、眼は茫漠と宙をあおいでいる。景気のいい話をきかせすぎたか。おれは胸の中で苦笑した。女の子をひっぱり込むたびに、メイプルのダブル・ベッドをセミ・ダブルにしなくてほんとに良かったわいと思う。
「ねえ」
とゆきが呼びかけた。
「寝室はあっちだ」
おれはドアのひとつを指さした。
「まだよ、うふふ。せっかちね」
ゆきは例の挑発的な微笑を浮かべて、だらしなく鼻の穴をおっ広げたおれの顔を見つめた。
「ねえ、ここにも記念品はあるんでしょ? 見せてよ。黄金の塊やでっかい宝石を一度見てみたかったの。そのあとで――ね?」
数分後、おれたちは専用エレベーターで一階下に降り、コレクション・ルームへ入った。六階建てマンションの四階まで計二十ルームは、月百万で、さっきのガキ・タレだの、某国大使の何号夫人だの、有名作曲家だのに貸してあるが、上部二階と、地下の三階は丸ごとおれの私室だ。
ドアが開くと同時に自動照明が入り、ゆきが息を呑む音がきこえた。ようよう声らしきものを発するまで、たっぷり二十秒はかかった。
「……これ……全部、あなたの……」
「ご先祖の“稼ぎ”から、代表的なものだけ陳列してある。あとはみな、スイス銀行やらバンク・オブ・アメリカやらの大金庫に眠ってるよ。|現金《げんなま》や金塊に姿を変えてな」
五十畳は優にある空間を埋めつくしたガラス・ケースの中身へ目をやりながら、おれは硬直したゆきの手をとり、ひとつひとつ説明していった。得意そうな口調をおさえるのはえらい苦労だったが、痴呆状態のゆきにはどうでもよかったかもしれない。
「このコーナーは、歴史上、人類最古といわれるエジプト、インド、メソポタミア、黄河文明の名残だ。その黄金のマスクは、クフ王のピラミッドから失敬したものさ。貨幣価値としちゃあ、ツタンカーメンのマスクの百倍はあるぜ。もっとも、どっちも値段なんかつけられないけどな。
こっちの首飾りは、メソポタミアの王妃の墓所から出土した品さ。計算したら、六十カラットのダイヤ十九個、三十カラット八個、ルビー三十個、エメラルドと翡翠がそれぞれ七個ずつ。つないでるリングはもちろん純金さ。これも値はつかねえ。六代前の先祖が幕府に内証で渡航し、発掘したあとでイギリスに渡ったら、話をきいたロスチャイルドの二代目がどうしてもゆずれといってきかなかったそうだ。かわりに、もっと小さな首飾りをくれてやったら大喜びで、今でもパリとロンドンに残ってる子孫は、ヨーロッパの金融市場じゃ便宜を計ってくれるよ」
「この壺は?」
ゆきの声は夢遊病者のそれだった。おれの握った手は熱く湿り、さぐれば脈動さえ感じられた。
「殷墟の地下で八頭家の初代が見つけたもんさ。紀元前十五世紀くらいの黄金づくりだ。北京の博物館の地下にも同じもんがあるけど、ありゃ初代がつくらせたイミテーションなんだな」
それからの数十分、ゆきは桃源境をさまよう気分だったと思う。
古代ペルシアを祖とするゾロアスター教の光神アフラ・マズダを形どった銀面、ギリシャ文明の聖地アテネの土中から掘り起こした純金製五十分の一のパルテノン神殿模型と、誇り高きローマ皇帝ネロの宝剣、インドはマウリヤ朝の全ページ黄金づくりの仏教教典、さらに、中国歴代王朝秘蔵の大真珠、珊瑚、宝冠、金杯、杓。黄金の糸で織ったカロリンガ王朝の王衣。セルジュク朝トルコの栄光を示すダイヤづくりの馬車と純金のハープ。
近世、近代へさかのぼれば、フランスの華ブルボン王朝ルイ十四世所蔵の宝石二百粒三千カラットをちりばめた黄金の手袋。悲劇の主・ロマノフ王朝皇帝ニコライ二世が、革命勃発の日に隠した、二千五百三十六個のダイヤを散りばめたカサリン女帝の宝冠……。
電子照明の光も恥じらう燦然たる「歴史」のかがやきは、それを現在の貨幣価値に換算しようとする功利的な心さえ見る者から奪う。欲情するのも忘れて立ちすくむゆきの頭の中が、おれには手にとるように透視できた。
彼女は歴史絵巻を夢みていた。荒涼たるサハラの夕映えにそびえる大ピラミッド群は、サラミスの蒼い波に炎を映しつつ消えゆくペルシア船団に代わり、月桂樹下を歩むギリシャの哲人の腹を、ドイツ騎士団の長剣がえぐる。アラビアン・ナイトの香炉は月の夜に、ナポレオンの怒号と始皇帝の殺戮を語り、アレキサンドリアの街路を、平安貴族の影が通り過ぎていく。
宝とはそういうものだ。欲望に眼をぎらつかせて海中へ挑む男たちの胸にも、金塊の背後を飾る過去への憧憬が明滅している。
彼ら自身がそれに気づかないだけだ。
おれは、別のガラス・ケースの前にたたずんでいるゆきの肩越しにのぞき込みながら言った。
「それは、グーテンベルグがはじめて印刷したラテン語聖書だ。現存四八部。七、八年前に別の一冊がニューヨークの古書店から三百二十万ドルで売り出されたよ。そっちはエドガー・アラン・ポー十八歳のときの処女詩集『タマレーン、その他の詩』さ。隣がポーの未発表原稿『続/ゴードン・ビムの物語』だ。――さ、こうしててもきりがねえ。上へ戻ろう。ベッドの用意もできてるしな」
「ええ……はやく行きましょ……」
決戦のとき来る。おれは、オペラのプリマ・ドンナのごとく、胸の奥でソプラノ部を誦唱しながら、ゆきの片手をひっつかんでエレベーターへとびこんだ。居間へ戻り、奥の寝室へ駆けこむ。
おれが押し倒すより早く、ゆきは自分からベッドに倒れた。ワンピースがめくれ、スポーツで鍛えたらしい、引き締まった太腿がつけ根まで露出した。
「うっふん……いらっしゃい」
黄金の幻影に欲情した白い腕の中へ、おれはひと声あげてジャンプしようとした。
ドアのチャイムが鳴った。
「あら、なにかしら」
ゆきが平然たる顔で起き上がったので、おれは不自然な姿勢のまま空中でじたばたともがき、やっとのことで体勢をたてなおした。
「ど、どこの野郎だ、今時分」
激怒のあまり、おれは指輪をふって玄関のモニターをオンにした。壁面一杯に柄の悪そうな男の顔が覗いた。ばかでかい洗剤の箱を手にしている。
「なんだ、てめえは!」
おれの怒声をコンピューターがドアのインターホンにつないだ。
「朝売新聞です。よろしくお願いします」
新聞の拡張員だ。
「うるせえ、とっとと帰れ!」
おれはもう一度怒鳴りつけ、モニターもチャイムも切っちまった。
「ゆきちゃーん、ボク寂しいな」
と、可愛らしい声でふり向く。
しかし、ゆきはベッドのふちに腰をおろしたまま、警戒の表情でおれをねめつけていた。欲情の痕など影も形もない。燃えるのも早いがさめるのも早い。一番違いの宝くじみたいな女だ。
「近寄らないで!」とわめく。「なにさ、ちょっとあたしがその気になると、もう鼻の下のばして。そうそう好きなようにはさせないわよ。こんなことしてる場合じゃないでしょ。いやらしいこと考えてる暇があったら、お爺さんが探してた宝物がどこにあるのか考えてよ。さっきのやくざどもの正体だってわからないんだから!」
一方的に雨あられとまくしたてられて、おれは攻撃を一時中止することにした。毒気も抜かれるよな。
「わかった」おれは憮然たる声でいった。「書斎へ来な。お爺さんの方はともかく、さっきの奴らの正体はじきわかる」
おれたちは寝室を出た。出るまぎわ、ゆきがきこえよがしに、
「どH。嫁入り前の娘を、こんなところへ引っ張りこんで」
野郎、いまに見てやがれ。
書斎へ入ると、ゆきは不思議と軽蔑をミックスしたような声をあげた。
「なーにが書斎よ。広いだけで、本棚ひとつ置いてないじゃないの」
おれは言い返しもせず、窓ぎわの机に寄りながら指輪を閃かせた。
天井から五メートル四方の大スクリーンが下りてきた。
スーツの襟元にとめてあった銀バッジそっくりのビデオ・カメラからフィルム・カプセルを抜きとり、机上のコンピューター・ユニットに插入する。ユニットにはVTRが組み込んである。制御はコンピューターの担当だ。
カメラはCIAの要請で日本の某電子機器メーカーが試作したものだが、解像度が抜群なかわりに二十分しかもたない。それでも目下の目的には十分適うだろう。
すぐにスクリーンが像を結びはじめた。ゆがみひとつ出ない。分厚いペルシャ絨毯の上に両足を投げ出してたゆきが、素っ頓狂な声をあげた。
「なによ、これ――さっきの銀座のシーンじゃないの。こんなもの、いつ撮ったの?」
「銀座で奴らをはじめて見かけた時さ。いいか――まず、こいつだ」
おれは、数寄屋橋の交差点をカメラの方へ向かってくる男たちのうち、ゆきに拳銃を突きつけた、いちばん兄貴分らしいのに顎をしゃくった。
「ストップだ。この真ん中の黒シャツの資料をさがせ。協会を叩き出された連中のひとりのはずだ。答えは音声とコピーで示せ」
「了解」
どこからともなく、コンピューターの返事が響いた。指輪の他にも音声指示が可能な最新式なのである。
「ねえ、協会って何よ?」
ゆきがたずねた。
「|世界宝探しハンター協会《インターナショナル・トレジャー・ハンターズ・アソシエーション》――略してITHAのことさ。ポッと出じゃない、腕に覚えのあるトレジャー・ハンターの世界組織だ。支部は一二八、構成人員二百三十万。うちのマザコンはそこのコンピューターと連動しててな。毎日、宝探しに関する最新情報が流れこんでくる。もちろん、古い情報もすべてストックしてあるけど」
ゆきが大きくうなずいた。
「わかった。それで書斎の謎がとけたわ。本という本をコンピューターにインプットしちゃったのね!」
「洒落た言葉知ってるじゃねえか。資料なんてな、かさばらなきゃその方がいいんだ」
ゆきの声がひととき遠くなった。
「宝探し協会――お爺ちゃんも入ってたのね。それであんたがうちへやってきたんだわ」
「あたり――ほら、答えが出たぜ」
机のユニットがコピー用紙を吐き出した。
同時に、スクリーンの片隅に男の顔のアップがうつり、文字が浮き上がった。
「読み上げます」
合成音が降ってきた。
「あいよ」
男の名は黒沢良二といった。三十八歳。一九六七年にITHA日本支部に加入し、翌年除籍処分を受けている。某家の秘宝採掘に関し、非合法な手段――恐喝による傷害事件を起こしたためである。入会時のライフワークは義経の砂金の発掘となっている。除籍後は恐喝二回、婦女暴行三回で実刑をくらっていた。現在はフリーのトレジャー・ハンター・グループに所属、北海道、東北にかけてハンティングを行っているらしい。
他の連中は、あの拳法使いも含めて、協会の資料にはなかった。
「また行き詰まったわね。だけど、協会を抜けてからのことまで、よくわかるものね」
ゆきは感心していた。
「追跡調査をしてるからな。アフターケアは完璧さ。さて、協会はここまでだから別の線を探るか」
おれは机上のプッシュホンを取り上げ、数分間話した。受話器を置くと、ゆきがまた口をあけていた。
「あんた……今の相手……法務大臣じゃないの。黒沢の資料を送ってよこせなんて、どういうコネしてんのよ。……ここのコンピューター、法務省ともつながってるの?」
「国会、警視庁、大蔵省、科学技術庁、通産省、外務省、および各官庁。便利だろ。すべて|お金《ぜぜ》の世の中さ」
「ワイロね!」
「そう怖い顔すんない」
「ひょっとして、あんた、アメリカの――なんつったっけ、――CIAとかソ連のゲジゲジなんとかと付き合ってんじゃないでしょうね?」
「KGBだろ」おれは訂正した。「まあ、年賀状程度だ」
「あきれた。宝探しする人って、そんなに顔が広いの?」
「おれは特別さ」
余裕たっぷりに答えながら、おれは現アメリカ大統領とソ連首相の顔を思い浮かべた。この連中と八頭家代々の当主が直通電話で話し合う仲だと知ったら、ゆきはどう思うだろう。
じき、ユニットの赤ランプが点滅した。外部から資料が転送された合図だ。さすが、法務大臣をつつく[#「つつく」に傍点]と話が早い。
黒沢良二の現状は、案の定きな臭いものだった。新宿にある「羽山不動産」の社員となっているが、この会社がくせもので、社長の羽山|猛行《たけゆき》はもと金沢出身のやくざ。土地ころがし、名義の書き換え、非合法なことならなんでもござれの悪党で、土地がらみのゆすり、たかりには必ず顔を出す。札つきのトレジャー・ハンターとウマ[#「ウマ」に傍点]が合うはずだ。こみ[#「こみ」に傍点]でインプットされた資料の中に「羽山不動産」の社員リストもあり、今日、亀戸と銀座で出くわした連中が全員勢揃いしていた。
中で最も精悍な東洋人の顔写真がおれの眼を引きつけた。
「キム・イーファン――中国人で、南拳の武道家か。道理で凄えキックだと思った。手袋をはずしちゃ歩けねえな」
「なんのこと?」
ゆきの問いに、おれは首をふって話題をかえた。
「とにかく、これで相手の正体は掴めたわけだ。後はどこでお爺さんの仕事に気づいたかだが――何も聞いてないのか?」
ゆきは大きくうなずいた。
「ええ。今日あんたが来る前に、いきなり押し入って家探しを始めたのが初対面よ」
「ふむ――まあ、それは奴らに聞きゃわかる。それより問題は――」
みなまで聞かず、ゆきはそっぽをむいた。両手でしっかりハンドバッグを押さえてやがる。さっき、陳列室へ入っても離さなかったばかりか、ベッドの上で広げた右手にも、ちゃんとひっつかんでやがった。金の亡者め。
「あのなあ」と、おれは背後から猫なで声を出した。「そう、突っぱってちゃ話にならねえだろ。ここは協力体制をとらにゃ。そもそもおまえひとりで、お爺さんが何を探してたか、その内容やありかがわかるのか? どんな資料をもってたって、その使い方を知らなきゃ宝の持ち腐れだぜ。第一、ものが宝だなんて保証はどこにもないんだ」
ゆきがこっちを向いた。かすかに動揺の色は見えるが、眼はまだ疑わしげに細まっている。おれはもうひと押しした。
「確かに、お爺さんは何かを掘ろうとしてた。異常な肩のこり[#「こり」に傍点]がその証拠だ。九分九厘、金めのものに違いあるまい。だけどな、お爺さんの身体の傷――」
ゆきの顔から気迫が消え、動揺と恐怖の色がとってかわった。とどめだ。おれはじっとその顔に目を据え、我ながら陰気な声をしぼり出した。
「見ただろ〜〜〜。あれは、地の底の化け物がつけた傷だぞ」
「ぎゃはははは」
凄まじい嘲笑を浴びて、おれはひっくり返った。いまのいままで、失神してもおかしくないくらい慄え上がってたのに、どういう神経してやがるんだ、この娘は。
「あんたったら、ほんとにばっかね。学校いってんでしょ。いい若いもんが、なにが地底の化け物よ。ンなもの、地球上に存在するわけないじゃないの。いたらとっくに地上へ挨拶にきてるわよ。ふん、あたしが女なもんで、怪談きかせりゃ泣き出すとでも思ったんでしょうけど、お気の毒さま。昨日までは借金取りが怖かったけど、今じゃ怖いものなしよ。
いいこと――奴らが探してたものと新聞は、今夜あたしがとっくり調べてから、必要なことだけあんたに教えるわ。宝探しが終わるまでこの線でいくからね。あんたは、あたしに内証で隠しといたお爺ちゃんの形見を分析して、正体を探っとき。どうせ、ネズミの尻尾かなにかよ。
さあ、すべては明日――あたしのベッドは別にあるんでしょうね。それから、夜中におかしなことしにきたり、TVカメラであたしの寝姿見ようなんて気ィおこしたら、後が怖いわよ。わかったの」
「はーい」
おれはどこか釈然としないまま、ゆきを残して客間の寝具を点検しに立った。反論する暇もなく一方的に押しまくられてしまった。それにしても、怪談をこわがらねえ女がいるとは、悪い世の中になったもんだ。
翌朝、おれはゆきを連れて近くの交番へいき、先蔵爺さんが行方不明になったと届けさせた。失踪日は昨日の夜にした。
校医が警察へ連絡するのは今日の午後だから、時間的に怪しまれる心配はなかろう。どうして学校なんかでと疑念を抱くまとも[#「まとも」に傍点]な警官がいるかもしれないが、なあに、そのために法務大臣がいるのだ。いざとなったら、札びらで顔をはりゃあ済む。
大体、おれは金で買収されない奴は信じない。強固な信念というやつは、仲間を装って近づく相手にはこの上なく脆いものなのだ。たちまち肝胆相照らす仲とかになり、一円の銭にもならず利用されるだけ利用され、用が済んだらポイ、でおしまいである。
その点、金に目がくらむ奴は、敵がその金額以上のものを提供しない限り、忠誠を守るものだ。要するに、逆買収不可能な金額を与えておけば事足りるのである。天井知らずになる恐れもない。十五年も世界中をうろつき、黄金をめぐる修羅の世界をみてくれば、ある人間に対して他人が出せる限度額というのがわかってくるものだ。そして、おれには金がある。
「じゃあな、用が済んだらマンションに帰ってろ」
頭のおかしな重病人と届け出たものだから、監察医務院や救急病院やらへ電話しまくっている警官を横目でみながら、おれはやさしくゆきに言った。一応、従妹同士ということにしてある。
「うん」
ゆきもしおらしくうなずいた。右手の指におれのと同じ指輪が輝いている。出がけに使い方を教えてきたから、自由にマンションヘ出入りできるはずだ。
ゆきは不思議な顔をしていた。指輪を与えた理由を明かさなかったからだ。おれにもよくわからない。昨夜、ゆきの言葉に違反してその寝姿をTVアイでのぞいたとき、お爺ちゃんお爺ちゃんと言いながらすすり泣いているのを目撃はした。しかし、そんなホームドラマで心を動かすほどおれは甘くない。大体、本当に泣いてるのかどうかわかったもんじゃねえ。まあ、いいじゃんかよ。
おれは、しょんぼりと交番の椅子にすわったゆきを後に、フェラリを駆って、本郷のT大附属生物学研究所へ急行した。世界でトップレベルの設備と人材を誇る施設だ。言うまでもないが、年間予算の三分の二はおれの懐からでている。
前もって連絡をつけておいたので、玄関にはぴか一の切れ者研究員が待機していた。腹ん中じゃ、高校生風情がと唇を歪めてるかもしれないが、そこはおくびにも出さない。おれも気にせず、例の触手片をわたすと車も降りずに引き揚げた。無論、万が一の用心に触手の一部は切り取って、二次元水晶ともどもマンションに保管してある。分析結果は夜までに連絡するとのことだった。
これで一段落。ゆきのことがちょっぴり気にかかったが、先夜来ご無沙汰の「作業」にようやく取りかかれると思うと、心はもう日本橋へとんでいた。
日曜の早朝だけあって道路はすいていたが、それでも日本橋まで二十分近くかかった。ブルーバードだのセリカだの、安物の国産車とすれ違うたびに、ドライバーや同伴者が羨望の目つきでおれを見る。なにせ、フェラリ・ベルリネッタだ。その気になれば、通りをうろついてるイカれた姉ちゃんくらい引っかけるのは造作もないが、先のことを考えると面倒になってやめた。今日に限り女とかかずり合ってる暇はない。
日本橋はゴースト・タウンと化していた。
三越や丸善、高島屋といったデパート群の周囲は人がゴミみたいに群がっているが、横道一本入ればとたんに静かになる。大会社や中小企業のオフィス・ビルが多いだけに深閑さはよけい際立ち、冷たい風に背中をなでられるとどことなく薄気味悪い。お江戸日本橋の時代の方が、まだ賑やかだったろう。
おれは八階建てのひときわ広壮なビルの駐車場にフェラリをとめ、愛用のショルダー・バッグを肩に、裏口からビルに入った。
馬鹿でかい貸ビルは、銀行、証券会社のオフィスなど六十件近い店子をもち、平日は人の出入りが絶えない。
いまは幽霊屋敷と同じだ。
おれは、長たらしい廊下にこだまする自分の靴音をききながら、一階ロビーのすぐ脇にある『アダム翻訳会』のオフィスへ入った。
五坪ほどの室内には、洋書や辞書で埋め尽くされた本棚がならび、一応、翻訳事務所らしい体裁は整っているが、無論そんな機能は果たしていない。二週間まえにこの部屋の借り手が変わってから、日中もドアはロックされたままだ。管理人やガードマンの中には首をひねってる奴がいるかもしれないが、そこはそれ、金の世の中だ。
窓にシェードと分厚いカーテンが下りているため、部屋の中は薄暗い。おれはドアをロックし、部屋の中央にすすんだ。
これくらいなら夜目が利く。カンボジアの大鍾乳洞を蝋燭一本なしで丸五日間歩きまわったときも、つまずいたり、転んだりせずに通した記録があるほどだ。
足元の床には二メートル四方程度の正方形の切れ目が入っていた。
コンクリートの床にしゃがみこむと、おれはショルダーから|超小型《ハンド》ウインチを取り出し、やや離れた場所に固定した。フレキシブル・アームをのばし、円筒形の先端部を切れ目の中央に押しつける。圧力式開閉弁がひらいて、円筒内の瞬間接着剤が先端部表面からにじみ出ていく。きっかり三秒待ち、おれはウインチ本体の作動ボタンを押した。
重々しい音をたてて、二万馬力の超小型モーターが作動を開始した。カナダの土木会社が地崩れ事故対策用に試作した代物だが、いつみても凄まじい活躍ぶりだ。分厚いコンクリート塊が、みるみる床から抜け出てきた。五トン近い重量は、自重二キログラムのウインチ本体ヘ影響を及ぼす前に、すべてフレキシブル・アームの圧力平衡関節に吸収されてしまい、ウインチは微動だにしない。
長さ三メートルはある巨大な石の柱が、二十センチ四方の小箱からのびた細い金属の腕に吊り上げられて宙に浮いている光景は、奇跡や悪夢というより皮肉に近かった。おれは苦笑していたに違いない。
コンクリ塊の底部が床から浮き上がると、おれはアームを移動させ、うがたれた黒い竪穴をのぞきこんだ。
この下に、時価一千万円はする元禄大判が、少なくとも五万枚眠っているはずなのだ。
この部屋も、その発掘のために人を使って借りたものである。工業用レーザーでコンクリートを切断するのが厄介だったが、ここまでくればもうしめたものだ。借りてから一週間、授業が終わってから夜の七、八時までレーザーを照射してた甲斐があった。左右の部屋も借り切ってあるから、レーザーの電源の音を怪しまれる気遣いはないが、なにせ、夜ふかしが続くと翌日の授業に差しつかえるので、あまり徹夜仕事はできなかったのである。
こう見えても、おれは学校だけはよくよくのことがない限り出席するように心がけている。さぼって、歌舞伎町で女の子をひっかけてるような低能学生より、出席率はよほどいいはずだ。なぜ出席にこだわるのかは、おれにも不明だがね。
穴の縁から深さ三メートルの暗黒を見下ろしたとき、おれの心は異様に醒めていた。頭の後ろが熱っぽく、膝の裏は小刻みにふるえているのに、精神は同調しないのだ。
毎度のことだ。黄金のかがやきを眼前にみても、それを運び出し金に換えるまで、おれは心底歓びを感じない。多分、自分で思っているより肝が細いのだろう。漁夫の利を狙う不良ハンター、なんのかのと理屈をつけて、ひとさまの苦労の結晶を国庫に没収し、着服しようと企んでいる政府高官――どいつもこいつも、おれの一挙手一投足に欲でぎらつく視線を注いでいる気がするのだ。
もっとも、この用心深さのおかげで、トレジャー・ハンターの荒仕事を、眼の玉ひとつ、手足の指一本失わずにこなしてきたともいえるのだが。
おれは作業にとりかかった。ハーディ・エイミスのブレザーとスラックスを、強化繊維の作業服の上下に着替え、つづいてショルダーから取り出した繩梯子を床からでてるガス管に巻きつけ、穴の奥へ垂らした。宝探し用の道具が次々と近代的になってゆくのに反し、これだけは昔ながらの形態を保っている。
いよいよ、最後の詰めだ。
ショルダーを肩に、梯子を両手でつかみ、ほとんど飛び降りるような速度で穴の底へ滑り降りた。足は途中で一度、梯子にかけたきりである。
ここはビルを支えるコンクリートの支柱の中だ。ただし、目的地じゃあない。すりばち型の底にはもうひとつ、直径一メートルほどの穴がうがたれていた。なぜ、コンクリートの切り出しをここまででやめたかというと、ウインチで持ち上げる際、天井にぶつかってしまうのだ。下穴のサイズが縮小しているのは、もちろん作業終了後にコンクリート塊で蓋をするためである。
おれは遅滞なく、狭い穴に身をおどらせた。二メートルほど下りると、周囲はコンクリートから黒い土の層に変わった。支柱を抜けたのだ。
そっと表面に手を触れてみる。コンクリート同様、すべすべして硬い。崩れる心配はないとわかってはいても、確かめずにはいられない。
地の底で生き埋めになるほど悲惨な死に方はないのだ。地上なら、たとえ人里はなれた山中で行き倒れようと、陽光が励まし、風がささやき、星が看取ってくれる。ここには無限の質量に押しつぶされる、世にも孤独な死があるのみだ。
二十メートルも下りると、下方におぼろな光が見えてきた。一昨日、ここまで掘りすすんだ時点で設置しておいたレーザー照明灯のかがやきである。おれは心底ほっとした。
底に着く。これも残しておいた超小型の音響測定器で、北西の方角に空洞があることを確かめた。
事前に何度となく確認してはいても、本番のときに同じ結果がでるとは限らないのがトレジャー・ハンティングというものだ。六年まえ、リオ・デ・ジャネイロの地下で、インディアンが財宝を隠したという大空洞を探りあて、翌日発掘に取りかかろうとしたら、測定器には無限の土の壁しか反応しなかったという経験がある。空洞には厖大な金属反応まであったのに、一体どこへ消えちまったんだろう。
念のため、三度にわたって測定を繰り返し、ようやくおれは胸をなでおろした。もう間違いない。
おれの前方約十メートル、日本橋三丁目の地表下二十七メートルの地点には、江戸時代の豪商「桐屋」の財宝が眠っているのだった。
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3 八頭式ハンティング
話は二カ月ほど前にさかのぼる。
その晩、おれは岩手の山村にある小さなバーのカウンターで一杯やっていた。隠れキリシタンの遺跡に、黄金十字架やら何やらが埋まっているという情報を得て調査にきたのだが、結局がせねた[#「がせねた」に傍点]と判り、翌日の朝はやばやと引き揚げるつもりだったのだ。
百八十センチ、体重六十五キロの身体つきのせいで、バーの親父も高校生とは気づかないらしく、不審顔もせずに水割りをつくってくれた。
少しはなれたテーブルに、村の青年団らしい四人組がたむろし、ダルマのキープ・ボトルを囲んで馬鹿話に興じていた。他に客はない。クーラーの音だけがBGMのしけた[#「しけた」に傍点]一夜になるはずだった。
道さえ判別しがたい山中を、一日中汗みどろであちこち歩きまわったせいか、いつもよりアルコールのまわりが早く、相対的にグラスを空けるピッチはおちて、五杯目が目の前におかれたとき、入店後三十分はたっていただろう。
背後でドアの開く音と同時に、むし熱い夜気がなだれ込んできた。
さすがに東京の澱んだ空気よりはましだったが、酔いがややさめたのはそのせいではなく、反射的にそっちを向いたマスターの顔が露骨に歪んだからだ。さぞや歓迎しがたいお客にちがいない。背後で四人組の誰かが舌打ちした。これも露骨だった。
ふりむくと、薄汚れたシャツと、無精ひげと垢でどす黒く変色した顔が目に入った。年齢は五十前後だろう。夜気がすえたような匂いを運んできた。なるほど、酒場や食堂じゃ歓迎されっこない人物だ。アル中で村の鼻つまみってとこだろう。
妙に弱々しい濁った眼で店内を見まわす。
一歩踏み出したところで、マスターの声がその足を止めた。
「どうせ、文無しだろ。でていきな」
男の口元に、卑しげな薄笑いが浮かんだ。
「そう言うなよ。――頼む。一杯でいいんだ」
声まで濁っていた。
「駄目だ。帰んな」
男はもう一度何か言おうとして、あきらめて、うつむいた。その眼に急に希望の色が湧いた。震える手をポケットに突っこむ。取り出したのは、古ぼけた一枚の紙切れだった。薄暗い照明の下でも、絵らしい図柄がはっきりと見えた。
おれは、全身から酔いが抜けていくのを感じた。緊張と興奮がアルコール分を中和しつつある。古色蒼然たる地図、正体不明の古文書――こういった、それらしいものを眼のあたりにしたときの、トレジャー・ハンターの|習癖《ならい》である。
男の言葉はさらに興奮を煽りたてた。
「ほら、宝の地図だぜ。これさえありゃ、世界中の酒だって買い占められるんだ――おめえも、こんなど汚ねえ村で商売しなくたってよ――」
ガラスの砕ける音が、男の言葉を断ち切った。
四人組のひとりが、いきなり、男めがけてグラスを投げつけたのだ。距離は二メートルぐらいなのに、ドアにぶつけてしまうとは、よほど運動神経が鈍いらしい。ちんけな丸メガネをかけた細っこい身体が立ち上がり、女みたいなキイキイ声でわめいた。
「毎日毎日うるさいなあ。おまえが来ただけで、まわりがくさくなるよ。寝言ばかり言ってないで、とっとと帰りなよ」
眼が憎悪に燃えていた。こういう奴はたまにいる。体質的に不潔なものに我慢ならないのだ。屋台のラーメンも嫌がる。おカマの証拠だ――汗や垢、屋台などというのは、男の特徴だからである。
「|信《マコ》ちゃん、よしなよ――おい、早く出てけ。行かねえと叩き出すぞ」
マスターが怒気のこもった声で言った。
「そう言わずによお――」
男は哀しげにつぶやき、それでも、ゆっくりとこっちへ近づいてきた。酒への妄執が、多少の危険や苦痛など関知させないのだ。こういう手合いは、一杯の安酒のために平気で人を殺しかねない。サンパウロで、マルセイユで、ヘルシンキで、おれは何人も実例を目撃済みだった。
「この野郎!」
マコと呼ばれたおカマが血相変えて立ちあがった。全身が震えている。普段はおとなしい、自分のことをボクと呼ぶような兄ちゃんなのだろう。ゲイ・バーにでも勤めているのかもしれない。それがひけ目になって、酒の力を借りては時折威丈高になるのだ。相手が反撃しそうもないと判断したときに。
おれは男に声をかけた。
「来なよ、おっさん。一本おごるぜ――そいつ[#「そいつ」に傍点]と引き換えにな」
店じゅうの目がおれに集中した。
「おい、あんた、困るよ」
渋い顔のマスターを、おれは無視して男を手招いた。
「遠慮するこたあねえ。金払や客だ。いやならバーなんぞやめちまいな。そこのレミー・マルタン一本。早くしろ」
男の顔に喜びの色が湧いた。
「そ、そうとも、そうとも。あんた、話がわかるねえ」
よろよろとカウンターヘやってきた。ここへ来る前に何杯かきこしめしてるらしく、プンと安酒の匂いが鼻をつく。それを別にすりゃ、人の良さそうな男だった。
マスターが渋々カウンターに置いたスリムな瓶を、おれは男の前へ押しやり、片手をさし出した。
「さ、交換だ。ただし、家へ持って帰って飲んだ方がよさそうだぜ」
「もももちろん、そうするとも」
男は紙片をおれに手渡しながら大きくうなずいた。よほどうれしいのか眼が濡れている。
おれは紙片に目をやった。黄ばみ、ぼろぼろになった和紙に、それでもはっきりとふたつの絵が見えた。紙の隅にタイトルらしい文字が二行と、絵にもところどころ説明文がついている。
タイトルは――『桐屋埋蔵金之図』
次の行に、日本橋××町△横丁店舗。
それから絵だ。
字の書き方や墨の変色具合からみて、かなり古いものには違いない。おれは身内が震えるのを感じた。
桐屋のことなら、ITHAの規則より詳しいぜ。宝探しの資料を童話がわりにきかされて育ったおれだ。元禄の大江戸にその名も高い衣裳問屋とその隠し金についちゃ、頭が痛くなるくらいの資料を渉猟済みである。いつかアタックしてやろうとも思っていた。
その宝の地図が、こんな田舎のバーで。
疑惑がなかったわけじゃない。だが、トレジャー・ハンターの勘がそれを抹消した。胸の昂ぶりがどうしても消えないのだ。おれは紙片をていねいに折りたたみ、半袖シャツの胸ポケットヘしまった。
「おれは八頭大。あんたは?」
「一杯たかりの介さ」
おカマの声がして、男たちがどっと笑った。
おれはふりむいて男たちを端から順々にねめつけてやった。すぐ笑い声は消えた。
男の方へ向きなおってもう一度名前をきいた。
それはどうでもいい。男は桐屋のもとで働いていた先祖が残した紙片だと答えた。その名にも覚えはなかったが、
「確かに宝の地図だ」
おれは静かに言った。
男はうなずいた。
「ありがとうよ。兄さん、恩に着るぜ」
「そんな必要はねえよ。商取引だ」
男は笑いながら、カウンターをおりた。
突っ立ったままのおカマの傍らを通りすぎようとして――男の身体が不意に沈んだ。反射的に両手で身体を支えようとして、握った瓶を床に叩きつける。ガラスの破片と中身がとび散った。おカマが足をひっかけたのである。
次の瞬間、ぽくんと鈍い音が湧いた。おカマがのけぞり、小さなテーブルの上で一回転して、向こう側のソファに落ちた。床の上にグラスや皿にまじってアイス・キューブが四散する。
手近のアイス・ペットをおカマの顔面へ叩きつけると同時に、おれはスツールからはね下りていた。
滅多にないことだが腹が立っていた。おれも善人とはいえないが、酔っ払いの足をすくったことはない。このおカマは、酒が入れば赤ん坊さえ殴りつけるだろう。親や妹さえ殺すかもしれない。
「野郎!」
仲間のひとりが罵声を放ったが、ちょっと遅すぎた。酔いがまわりすぎ、ようやく中腰になったところへ、おれは襲いかかった。
戦いは三発で終わった。
顎を砕かれ、泣き声をあげている男たちを尻目に、おれは男を床から抱きおこし、カウンターの向こうで口をあけているマスターに、もう一本レミー・マルタンを注文した。
東京へ戻ると、おれはすぐ、桐屋に関するありとあらゆる資料の整理に取りかかった。
要約するとこうなる。
元禄五年(一六九二)、日本橋で呉服屋を開業し、主人は久兵衛。大阪出身といわれる。商才に長けていたらしく、三年後には時の老中・柳沢吉保の庇護を受け、一時期、同じ日本橋の大呉服店「白木屋」を凌ぐほどの隆盛ぶりを示すが、元禄九年十一月、失火により店は全焼、久兵衛および妻よね、番頭、手代、下女、丁稚にいたるまで、総勢六十名近い焼死者を出したという。夫婦に子供はなく、やがて店の名も、その存在自体も、時の流れの中に忘れられていった。
残された記録が一致して語るのは、桐屋の豪奢な生活ぶりである。元禄十六年に出版された「古今商人記録帳」によると、焼失年の資産は銀七千九百八十六貫八百匁。銀一匁を金一両として約十三万三千百十三両、これに営業開始以来の資産を足すと、ざっと五十万両はくだらぬ蓄財があったという。ちなみに、商売敵の白木屋の江戸資産が、商売の大拡大をみた元文二年(一七三七)で約六万両だ。
主人の久兵衛は病気がちで、あまり店に姿をみせることはなかったというが、病床からの指示は適確この上もなしで、尾州、紀州家等の大大名の他、江戸城本丸御座敷御門の出入札も有し、諸大名から重んじられていたという。また久兵衛は、会えば誰でも惚れこまずにはいられないほどの器量と威厳をあわせもつ大人格者だったそうだが、こっちの方はあまり当てにはならない。
重要なのは次の事実だった。五十万両以上といわれるその財産が、焼け跡からわずか数枚の小判が発見されたきり、妖術にでもかかったみたいに消失していたのである。
これは当時でも騒ぎの的となり、ひそかに焼け跡を掘り返すやつらが後を絶たぬため、幕府は特に禁令を出して、彼らの暗躍を防いだという。
その幕府自体も、かなり熱を入れて捜索したのは明らかだが、試みはすべて失敗に終わった。少なくとも、成功したという記録はない。
かくしておれは、これらの資料と例の地図、および当時の江戸市街図を総動員して、桐屋の所在を突きとめたのである。
それが、おれの頭上にでかい図体をさらけ出している貸しビルだった。空いている部屋の位置を知って、おれはラララとジャンプしそうになった。地図――正確だったとしてだが――に描かれた地下室の真上だったのだ。
ITHAの日本支部から、ひげもじゃで体重九十キロ、どこからみても実業家風という男を借り出し、部屋の賃貸契約を結ぶや、おれは早速、小道具、大道具を運びこんで作業を開始した。
で、二週間後のいま、元禄大判五万枚――時価五千億円の財宝の前で、感慨にふけっているわけだ。
いつまでもぐずぐずしてちゃ始まらない。
おれは狭い穴の底でガスマスクをつけ、機材を目標の壁と反対側の壁面によせると、ショルダーから秘密兵器を引っぱり出した。おとといは、ここまで竪穴を掘った時点で品切れになっちまったのだ。
おれは特殊合金製のボンベのコックをゆるめ、左手に握った細長いノズルから最大圧で中身を噴出させた。
無色透明の液体が激突した石の壁は、みるみる白っぽい蒸気をあげて溶け崩れていった。それでも空気圧が強烈なのと、液の溶解力が凄まじいせいで、煙は思ったより少ない。
おれは直径二メートルほどの大穴を地層にうがち、なお攻撃の手をゆるめず、ゆっくりと前進していった。
気持ちのいい溶けっぷりだ。しかも、溶けたコンクリートや地面自体が瞬時に硬質化するので、土砂崩れの起きる心配もない。
この溶解液こそ、おれだけの秘密兵器なのである。
もとはといえば、英仏海峡に海底トンネルを掘り抜く計画がたてられたさい、アメリカの土木会社の一化学部員が発明した薬品だ。酸と電離物質をベースに、土壌や岩石のみを選択的に溶かすという便利な代物だが、当時は現在の五千分の一程度の効力しかなかったし、会社の機材を無断使用したせいもあって、化学部員はわずかなサンプルをのこし、すべての成果を抹消する羽目に追い込まれた。それをおれの親父が手に入れ、顔のきくアメリカの化学企業に命じて改良品をつくらせたのである。
おかげで穴掘りが随分と便利になった。なにせ、かければ[#「かければ」に傍点]地面が溶けるのだ。ふつうの土木工事で、十メートルの穴を掘るのに、どれほどの労力と機材が必要か考えてみればいい。今のところ、一リットルで縦二メートル・横二メートル・深さ二メートル――計八立方メートルの穴がうがてる。
おれは次々にボンベを変えて前進した。
四本目を捨て、五本目のバルブを開放しようとしたとき、おれは目的地に着いたことを知った。
じゅうじゅうと溶け崩れる黒土の壁が不意に消滅し、粗い石面があらわれたのである。四角い石塊をつみあげたものだ。宝物蔵の壁だった。
「計算通りだぜ」
おれは会心の笑みが口元に浮かぶのを感じた。
石壁に近寄り、液の噴出力をアップし、量を減らして浴びせる。直径三十センチほどの穴がえぐり抜かれた。三百年前の空気が流出しているはずだが、無骨なガスマスクの下じゃ、匂いも温度もわからずじまいだった。
いよいよ詰めである。だが、ここで興奮にまかせ、一気に突撃するほどおれは甘ちゃんじゃなかった。ボンベの噴出力ぎりぎりの距離まで後退し、ショルダーからホルスターに収まった自動拳銃と、例の手袋をひっぱり出し、“武装”を整えた。
拳銃は|SW《スミス・アンド・ウェッソン》のモデル659・十五連発。SWはじめてのステンレス・オートマチックである。十四連の予備弾倉を六個収納したウエポン・ベルトには、他にゾリンゲンの中型ハンティング・ナイフ、麻酔ガス弾二個、手榴弾三発が付属している。重量は三キロ近いだろう。
三百年以上も前の穴蔵にも物騒なやつは存在するのだ。完全密閉されている「はずだ[#「はずだ」に傍点]」に生命を託すわけにはいかない。
アマゾン上流の原始部族の遺跡へ入りこんだときには、全長三十センチ近い巨大蛭がうようよしていたし、アメリカ・インディアンの地下王国を探検中は大蜘蛛の歓迎にあった。なんとか片づけて調べたら、両足を広げた長さが三メートル五十もあったぜ。こんな化け物どもは無論例外だが、毒虫や腹をすかした鼠の群れは、隙き間さえあればどこへでも入りこむ。これからおれのいくところは、陽光あふれる喫茶店じゃないのだ。肉の一片あまさずかじり取られた骸骨になって宝の箱に抱きついてもみっともねえだけだ。
準備万端整え、おれはもう一度穴のところへ寄ると、腰のベルトから麻酔ガス弾を抜いた。発火リングをはじき、投げ入れる。成分が重いので穴から洩れても地面に溜まり、上へ流れ出す心配はない。
きっかり一分待ち、おれは最後の噴射を行った。
白い蒸気の向こうに、明らかに人工の部屋らしきものが姿を現した。右手にM659、左手に照明灯と噴射ノズルをたずさえて、おれはその石造りの宝物殿へ足を踏み入れた。
財宝を隠匿する目的は、大きく分けて四つある。
(一)敗軍の将が埋めた再起のための軍資金
(二)子孫に与えるためのもの
(三)一時保存のため
(四)永久隠匿
二十畳足らずの石造りの空間を眺めながら、おれは桐屋の意図がどれにあてはまるか考えて、皮肉な思いにとらわれた。単なる「金庫」にすぎなかったこの部屋が、火事ひとつのおかげで、宝物殿に格上げされてしまったのだ。盗賊に対して「しまっておく」だけの行為が歴史に対する「隠匿」の役まで果たすことになった。
眼の前の壁を埋め尽くして千両箱が積み重ねられていた。きっかり五十個ある。外気と完全に密閉されていたせいで、木部にも鉄の角あてにも、腐蝕や錆の痕跡はみられなかった。
ひとつおろして中身を確かめる。錠がかかっているので、SWを使った。ごおんごおんと壁にぶつかっては不満げにわめき散らす銃声の中で、おれはまぎれもない元禄大判のかがやきを確認した。重量百六十五グラム、金含有率五二パーセント。大判としての品位は史上最低だが、品不足のため骨董的価値が高く、一枚一千万円はする。
次はどうやって運びだすかだが、これはITHAの人手と機械さえあれば何とでもなるだろう。
千両箱の山と交わる壁に、入り口らしい穴が穿たれていた。奥は土で塞がっている。地図から判断するに、桐屋は地上との往復にエレベーター状の昇降機を使っていたようだ。地震かなにかでその通路は破壊されたとみていいだろう。
とにかく、おれは五千億円の宝を手中にしたわけだ。桐屋にまつわる謎も、すでに頭の中にはなかった。
いつの間にか、霧雨が街路を濡らしていた。コンクリートの蓋をもとに戻し、機材をすべて押しこんだショルダー・バッグを肩に、駐車場へ急ぐ。腕時計をみると、午後二時をまわっていた。
灰色の風景のせいもあるだろうが、腹のあたりが妙に重苦しい。不吉な前兆だ。ゆきの顔が浮かんだ。おかげで、五千億円分の高揚感が大幅に削減されちまう。
「なんか、あったかな?」
おれは、いつもより急いで運転席へもぐりこんだ。助手席にショルダーを放り、一気に発進させる。しけた国産車に数倍する優雅なトルク音をたてて、フェラリは大通りへの道を滑り出した。最後の角を曲がるまで、レインコート姿の女以外、誰ともすれちがわなかった。
マンションヘ戻ってみると、予感は的中していた。ゆきの姿がない。書斎で室内用ビデオ・カメラを再生すると、おれと外出してから戻っていないことが判明した。
即座に閃いた。おとなしく待ってりゃいいものを、例の新聞の切り抜きかやくざどもの探してた品から、何かしらかぎつけて単独行動に出たのだ。多分、爺さんが姿を消した場所でも見つけたんだろう。
警察から留守番電話に、先蔵爺さんの遺体がみつかったから確認にきてくれとの連絡が入っていた。明日も忙しい日になりそうだ。ゆきがいないと、どうにもきまりがつかねえ。
「待つしかねえな。――あの|女《あま》、帰ってきたら今度こそSMショーにかけてやるぞ」
つぶやいて、アムステルダムの地下でみたもの凄い舞台を思い出し、ニンマリしたそのとき――入り口のブザーが鳴った。
カメラを切り替える。警官がふたり立っていた。
おれは、コンピューター・ユニットのマイクにむかって「何だい」ときいた。マイクは入り口のインターフォンと直結している。すぐ返事があった。
「八頭大さんですね。わたしら麻布署のもんですが、太宰ゆきさんのことで、ちょっと……」
しゃべっているのは、四十年配の警官だった。もうひとりはずっと若い。
「ちょっと、なんだよ?」
「いえ、彼女、麻布のスポーツ用品店で盗みをしたところを店員に捕らえられましてね。いま、うちの署で取り調べを受けてるんですが、身寄りがひとりもないというもんで――それで、婚約者の八頭さんに来ていただきたいと……」
「婚約者ぁ!?」
おれは逆上しかかった。とんでもねえ濡れ衣を着せやがる。殺人鬼といわれた方がましだ。
「あ、あいつがそう言ったのか?」
「ええ」
「わかったよ」おれはげんなりした声でつぶやき、何げなく尋ねた。
「なんてスポーツ店だい?」
「『スプリンター』」
おれもよく顔を出す店だ。
「待ってくれ。すぐ開ける」
わざわざ玄関まで出て、手ずからドアを開けた。年配の警官が敬礼して、
「ご面倒でも、署までご足労願います」
「いいよ。待っててな」
奥へいこうと背をむけたとき、ふたつの音がした。ドアを閉める方は誰でもわかるが、片方は一般人にゃ縁があるまい。拳銃の|撃鉄《ハンマー》を起こす音だ。
おれは振り向いた。
警官は土足で三和土から玄関へ上がりこんだ。愛想のよい表情は跡形もない。やくざの本性がむき出しになっていた。近頃は警官かやくざか区別できない手合いが多い。暴力なり権力なりで市民を威圧するのに慣れている輩は、みな同じ顔つきになるのだ。
「なんだ、てめえら」
質問にも答えず、ふたりは|回転式拳銃《リボルバー》をおれの脇腹に食いこませた。
「奥へいきな。おかしな声をたてるんじゃねえぜ」
「こうやって押しつけて撃つと、音はしねえんだ」
若い方がはじめて口をきいた。射撃への意欲がみなぎっている。人を撃ちたくて仕方がないのだ。肩が触れただけで通行人を半殺しにするのは、こういう手合いである。
おれは抵抗せずに居間へ入った。
「こいつは――」
年配の方が絶句した。
「餓鬼のくせにとんでもねえところに住んでやがる。兄貴の言った通りだ――大層なお宝を隠してるぜ」
「それにしちゃ、簡単に罠にかかりやがった」
若いのが、調度をじろじろ眺めながら言った。
「へっ、羽山の兄貴が、年は若えが大した腕ききだっていうから、高え金出してこんな服借りてきたがよ。――餓鬼ぁ餓鬼だ。行きがけの駄賃に、金目のものは貰ってくぜ」
「いくらでもどうぞ」とおれはソファの上で言った。「その前に、用事を片づけたらどうだい。羽山不動産の社員どの。そうじろじろみてると、育ちがわかるぜ」
言うなり、唇の前を重い塊が風を切ってすぎた。チンピラがバランスを崩し、絨毯の上に尻もちをついた。拳銃で殴りかかったのを、おれは鮮やかなダッキングでかわしたのだ。こんな野良犬の拳銃で触わられちゃ匂いがうつる。
「野郎……」
チンピラが低いうめきをもらして起き上がった。表情が消えている。これまでさんざか眼にしてきた、人を殺す前の顔だ。小さな銃口が、徐々におれめがけて上がってくる。
「よさねえか、五郎!」
年配の方が叱咤した。
「先に用事を済ますんだ。この餓鬼、おれたちのことを知ってやがる――兄貴の言う通り、油断ならねえぞ」
「へっ、確かに図体だけはでけえがよ、|拳銃《チャカ》を二挺もつきつけられてて何ができる」
「まったくだ」おれは素直に肯定した。「手も足もでねえよ。さっ、なんでもきいてくれ」
「ふざけた野郎だ」
年配やくざは苦笑いを浮かべた。年季を積んでるだけあって、はるかにおちついている。声にも身ごなしにも重量感が溢れていた。
テーブルの上に腰をおろし、拳銃は膝の上にのせた。もちろん、手首のスナップひとつで、一秒とかからずおれの方を向くだろう。チンピラはソファの端にすわり、蛇みたいな眼つきでおれをにらみ殺そうとしていた。
「おめえ、おれたちのことに詳しそうだな――ま、それはいまんとこどうでもいい。あの娘から預かったものを出しな」
「なんだ、そりゃ?」
「とぼけるな」男の声が迫力を帯びた。「爺いの残した古い本さ。おめえに騙されて盗まれたそうだな。おまけに身体も好きにされたってよ。高校も出てねえ餓鬼のくせに、やるこたあおれたち顔負けじゃねえか。――おお、なに、ぼけっと口あけてやがるんでえ? さっさと物を出さねえか?」
「出してもいいが」おれはようよう言った。「あの野郎、他になんつった?」
「無理矢理マンションヘ引っぱり込まれて、ひと晩中寝かせてもらえなかったってな。どんなスタイルでやられたか、ベラベラしゃべりやがったぜ。あれだけのグラマーだ。おめえがハッスルするのも無理ねえが、若いうちからあれじゃ身体に毒だぜ」
やくざは卑しげに笑い、おれは頭を抱えた。
あん畜生、言うに事欠いてとんでもねえことを。
「ついでに、教えてくれ」しぼり出した声が喉にからんだ。「どうやって、あいつをつかまえた?」
「立花さん、いい加減にしてくれよ。羽山の兄貴が待ちかねてるぜ」
五郎がじれったそうに口をはさんだ。
「ま、いいってことよ」
立花は制服の胸ポケットからしわくちゃの「ハイライト」と金色のライターを取り出した。一本くわえ、火をつける。思いきり紫煙を吸い込んで、おれの顔めがけて吹きつけた。
おれはむせもせず、手で煙を払った。
「あの娘、今朝おれたちが見張ってた場所へ、のこのこやってきたのよ。用心はしてたが、こちとらプロだあな。たちまちとっ捕まえて――といいてえが、えれえ|女《あま》だ。若えのが四人もぶっ倒された。うちふたりは肩はずされて、二、三日は動けねえ。とにかく、とっ捕まえてうちの事務所へ引っぱりこんだ。後はわかるな」
「いいや」おれは首をふった。「そもそも、あんたらなにが目的なんだ? どうやって太宰爺さんとコンタクトした?」
「知らねえな」立花はちびた煙草を机上の灰皿に押しつけた。「おれたちは羽山の兄貴の命令で動いてるだけだ。少ししゃべりすぎたようだな――さ、いただくものをいただいて、一緒に来てもらおう」
「おれにも用かい? 欲しいもの渡すからさっさと帰ってくれよ」
「おれはいいんだが、羽山の兄貴が会いてえとさ。さあ、野暮な真似させてくれんなよ。おりゃなんだかおめえが気に入っちまったんだ。手も足も折りたかあねえ」
立花は手をさし出した。
そこへ乗せるものを、おれは持ち合わせていない。はて、どうしたものか?
「おい」
五郎が爆発寸前の、うなるみたいな声でせかした。こめかみに冷たい鉄があたった。
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4 地下室の狂獣
二時間後、おれと立花は、新宿二丁目の薄汚れたビルの駐車場に車を入れた。飲食店街を少しはずれているが、周囲はスナックや飲み屋の看板ばかりだ。日曜定休が多いらしく、通りにも店にも生気がまるでない。霧雨のせいもある。夕暮れどきなのに、こんなとき外を歩くやつの気分は、真夜中そのものだろう。
これから何が起きるにしても、ロクなこっちゃあるめえ。
「こっちだ」
立花が先に立って入り口のドアを押した。警官の制服は車の中にのこし、今は黒い背広に灰色の開襟シャツだ。どっちもさまになる。
陰気な廊下の突きあたりに「羽山不動産」の看板をかけた部屋があった。
立花はノックもせずにドアを開けた。おれも後ろからのぞく。十畳ほどの空間に、事務机とファイリング・キャビネットが雑然とならんでいる。一応、不動産屋の体裁だけは整っているが、社員の方はそうはいかなかった。
デスクのひとつに両足をのせて、週刊誌か何かを読んでたチンピラが、立花と知るやあわてて駆け寄ってきた。白いシャツにネクタイを巻いてるが、その下の与太公ムードだけは隠しようがない。
「こりゃ、兄貴。みな下でお待ちかねですぜ。――あれ、五郎はどうしたんで?」
立花は答えず身をひるがえした。廊下の奥へ顎をしゃくる。おれもすぐ後へつづいた。
非常階段を地下へ降りた。
狭い廊下へ出た。眼の前に倉庫らしい部屋の入り口があり、これまた白シャツ姿の|兄《アン》ちゃんが、退屈そうに煙草をふかしていた。見張り番だろう。
「あ、立花さん」と、あわてて煙草を踏み消し一礼する。
立花は軽くうなずいただけで中へ入った。
立花に威圧されたか痛い目にあわされたと思ったらしく、両手をポケットヘ突っこんだままのおれが後を追っても、チンピラは不審な表情ひとつみせなかった。
背後で鉄のドアがしまった。
だだっ広い部屋の真ん中に集まってた顔が一斉にこちらを向いた。どいつもこいつも、二度とみたくねえ面ばかりだが、十個のうち六つまでは、亀戸と銀座のおなじみさんだ。キム・イーファンもいた。隅っこの壁を背に、腕組みして立っている。閉じられた瞼が切れ目みたいに開き、一瞬、見開かれた。殺意でも憎しみでもないいやな光が、おれの背筋に冷たいものを走らせた。瞼はすぐ閉じた。
「割合あっさり連れてきたな――さすがは立花さんだ」
折りたたみの椅子にかけたスーツ姿の男が薄笑いを浮かべてうなずいた。
一見、ひとあたりの良さそうな顔をしているが、おれはすぐ、その内側の腐敗臭をかぎ取った。口あたりのいいおべんちゃらを並べたてながら、相手に通用しないとわかると、すぐさま地金を出して凄んでみせるゴロツキ詐欺師の匂いだ。羽山猛行である。
もうひとつの初対面さんにむかって得意そうに、
「警官の服装なんざ、いらなかったんじゃねえのか?」
「どうだかな?」
むっとした声と表情でおれの方をねめつけたのは、セーターとジーンズ姿の大男だった。
胸などミカン箱でも入れてるんじゃないかと思うくらい分厚くたくましい。まわりのやくざとは、また違う凄みがあった。おれと近いものが。
「八頭大――世界最高のトレジャー・ハンターが、こうもやすやすと引ったてられてくるわけはねえよ」
じろりとおれを上から下まで眺め、
「偽者でもなさそうだな。するってえと――おい、五郎はどうした?」
立花は肩をすくめた。
「油断したところをつかれましてね。途中で病院へおとしてきました。かわりに、こいつの両手の指を二、三本逆に曲げてやりましたが」
男たちの間にさっと冷たいものが流れた。殺意をこめた視線がおれの全身に集中する。やくざほど連帯感の強い生物はいないのだ。もっとも、このつながりは、札束や面子でいとも簡単に切断可能なのだが。
「それで両手をポケットに突っ込んでるのか、可哀相に――将来のある学生さんに、あまり手荒な真似しちゃいけないよ、立つぁん」
羽山の声には嘲笑がこもっていた。
黒沢が横をむいて、隣の椅子のグラマーな影に声をかけた。
「あいつか? 間違いねえな?」
「ええ。昨日の晩、あたしをさんざんおもちゃにした男の顔を、誰が忘れるもんですか」
冷たい許嫁があったもんだ。
しかし、女ってのはこうも簡単に、都合よく変身できるものなのかね。おれを凝視するゆきの瞳に、まぎれもない敵意と、ついた嘘を断固貫き通すという継続の意志をみて、おれはあきれ返った。うまいこと言って難を切り抜けたのだろう。拷問された様子もない。眼の前の小さなテーブルの上にハンドバッグと中身がぶちまけられていた。
「で、どうなの。あたしの言った通り、本を持ってたでしょ?」
わっ、先手を打ちやがった。事ここに至っておれもついに頭へきた。
「冗談じゃねえ。そんなもんあるものか。てめえが後生大事に抱えて放さなかったくせに、嘘ばかりつきやがって。おかげで指を五本も折られた。どうしてくれる!」
「なにさ、指ぐらい。下手な抵抗するから悪いのよ。ふん、文句があるなら、やくざのふたりくらい片づけてから一人前の顔をおしよ。とにかく、あたしはあんたにあの本預けたんだからね!」
そっぽむきやがった。しかし、この勝負はゆきの負けだった。黒沢も羽山も、いぶかしげな視線をその横顔へ注いでいる。
羽山がきいた。
「どうなんだ、立っつぁん? その本はあったのか?」
立花は口ごもった。
「その……」
「正直に言ってくれよ、なかったんだろ、なっ?!」とおれはわめいた。
「実はそうなんで。相当痛めつけたんですが」
羽山と黒沢の眼が合った。それから、ふたりはゆっくりゆきの方へ向いた。
「な、なによ。そいつの言うこと信用するの? あたしは全部正直に白状したじゃない。協力するとまで言ったのに」
「なら、全面的に協力してくれよ」
羽山が低い声で言った。恫喝がこめられている。愛想笑いの下の、やくざの地金をむき出しかかっていた。
「指を五本も折られて、嘘なんざつく高校生がいるたあ思えねえ。となると、ホラはおめえが吹いてるんだ」
「そうだ!」
おれは援護の声を張りあげた。
「どこへ隠したんだよ、姉ちゃん」
黒沢がゆきの肩をつかんだ。空手でもやってるらしいふしくれだった指が、ぐりっと筋肉にめり込む。ゆきが顔をしかめた。
「この部屋の壁は防音になってる。悲鳴はおれたちにしかきこえねえんだ」
黒沢の眼が狂暴な光をおびた。
「い……痛い。知らないってば……ほんとに。この|男《ひと》、口が固くて有名なのよ。……自分のお金を一円だって盗られるくらいなら、……死んだ方がましだって……ちゃあんと聞いたんだから……」
「ふむ」
黒沢は力を抜いた。ゆきの言葉を信じたらしい。えらいこった。
「そういや、八頭家ってな、しわくて[#「しわくて」に傍点]有名だからな……指の五本や十本なくしても平気でしらばくれるかもしれねえ――おい」
と羽山に目くばせする。羽山はうなずき、立花へ顎をしゃくった。
「どっちかが嘘をついてるんだ。男の方からじっくりしごいてみな。時間はたっぷりあらあな」
しかし、立花はためらった。
羽山と黒沢の眼が細まった。
もう、ここまでだろう。
おれは、ポケットから両手を抜いた。
男たちは棒立ちになった。ゆきも目を見張った。
音もなく進み出ようとしたキム・イーファンの胸へ、おれはSWモデル659を突きつけて動きを封じた。左手のもう一挺は黒沢の眉間を狙っている。
「動くな。みな、壁ぎわへいってならべ」
低い声で命じた。
「餓鬼が――モデルガンなんぞふりまわしやがって」
チンピラの中でもとりわけ体格のいいのが進み出ようとした。右手を背広の内懐へ突っこんでいる。ドスでも握っているのだろう。
「よせ」とキムが止めたが、男はきかなかった。
轟音がとどろいた。ぎりぎり一杯まで強力な炸薬をつめた9ミリ・パラの弾頭に右足首を破壊されて、筋肉男は宙に舞った。頭からコンクリートの床に激突する。激痛のせいで気絶することもできず、半分ちぎれた足を抱えて転げまわる。
やくざどもの顔から血の気がひいた。すすんで壁ぎわへ寄る。おれが本気だと悟ったのだ。
人を殺すのは平気な外道どもも、殺されるとなれば小羊なみの臆病者になる。実際、おれはそのつもりだった。犬畜生に容赦はしない主義だ。黒沢も羽山も仲間に加わった。
おれは羽山に命じて外の見張りも呼びよせ、標的のひとつにした。
「た、立花、てめえ、しくじったな!?」
羽山がうめいた。立花はうなだれた。
「そのおっさんを怒ってもはじまらねえよ」
とおれは言ってやった。
「相手が悪かったんだ。まさか、部屋という部屋に指一本で作動するレーザーが仕掛けてあるなんて、いくらプロのやくざでも気がつかねえからな。
そっちの不良ハンターに、おれが手強いってことをきいたらしくて、警官のなりをさせたり、実在のスポーツ店名まで覚えこませたのは結構だが、ついでに拳銃も変えてくるんだったな。日本のお巡りのニュー・ナンブは、にぎりがプラスチックと決まってるんだ。ホルスターから木の台尻がにょっきり出てちゃ、ガン・マニアの子供も誘拐できねえぜ。もっとも、このふたりはドアも開けねえうちからTVカメラで監視されてたなんて、とんとご存じなかったようだがな。
それから、五郎とかいうチンピラは、猿ぐつわかませて車のトランクにとじこめてあるから後で出してやんな。このおっさんと同じく、レーザーで手首を焼き抜かれてるから、当分は使いものにならねえだろうがよ」
おれは立花に目をやった。苦笑いしている。クズには違いないが、どことなく愛嬌のある男だ。
「黒沢さんよ」とおれは呼びかけた。「あんたもトレジャー・ハンターの端くれなら、八頭って名のつく男の実力は承知してたと思うがね。クズはクズだ。腕も頭も鈍ったな」
「……ああ。甘くみすぎてたぜ」
黒沢は認めた。憎悪に血走った眼で、おれを灼き殺そうとしている。
「大ちゃあーん」
冷たい許嫁が駆け寄ってきた。
「うるせえ、おまえもあっち並べ」
「やだあ、さっきあたしの言ったこと怒ってんの。だってさ、ああ言わなきゃ、あたし拷問道具見せられただけで本の隠し場所しゃべっちゃうもの。そしたら、あたしたちの宝もの、みーんなこいつらに取られちゃうのよ」
なにがあたしたちの宝ものだ。
おれは憮然たる表情を崩さず、ゆきが一体何を企んでいたのか考えた。どうせ、その本とやらは、記事の切り抜きもろともどこかへ隠し、おれに責任をおっかぶせて知らん顔をするつもりだったのだろう。いざとなったら、こいつらと手も組みかねない女だ。金の亡者――えらい女子高校生がいたもんだ。
「おまえ、こいつらがなぜお爺さんを追いかけてたのかきいたか?」
おれは、ゆきに尋ねた。
「ううん。こっちのことはさんざんきき出しといて、自分たちのことは何もしゃべんないの。ちょっとヤキ入れてやろうか。そのピストル貸してよ」
「阿呆、おまえなんか信用できるか。――人を暴行犯人に仕立てあげやがって」
「やだ、それは方便よ、方便。女の子の言うことにいちいち腹立てないでよ。男のくせに」
おれは溜め息をついた。後ろを見張ってろと命じ、黒沢に視線を移した。
「あんたにゃ一緒にきてもらおう。詳しい事情がききたいんだ」
黒沢の顔に動揺の色が走った。間髪入れず、羽山がいやにおとなしい声でこう提案した。
「そう凄むなよ、八頭くん。愛想のないやり方をしたのはこっちが悪かった。謝る。だからよ、みんな水に流して――どうだ、手を組もうじゃねえか。立花を逆に脅して殴りこむなんざ、君はおれたち以上のプロだ。黒さんの言う通りだったぜ。そういう仲間が欲しかったのよ。なあ、黒さん。――あんたも異存はねえだろう?」
そう言っても、黒沢がムッツリ押し黙っているので、
「ケッ、しょうがねえな、頑固もんは。な、君の条件はなんでもきく。ひとつ話し合おうじゃないか。そうそう、こんな所じゃなんだ。ひとつ、銀座のレストランにでも繰り出そうや」
まくしたててるうちに本気になってきたのか、言葉に親愛感がこもりはじめた。おれでなければ引っかかっていたかもしれない。こいつは天性の嘘つき――病的虚言症なのだ。
「条件は何でもきくといったな――いいだろう」
おれはにこやかに笑い返した。
「そうかい!」羽山も破顔した。「さすが、若いのに一流のプロだ。話がわかる。で、どうすりゃその拳銃をおろしてくれるんだ」
おれは最後通告を行った。
「儲けの九九パーセントを貰おうか――さ、おしゃべりはやめだ。来るんだよ、黒沢さん」
一瞬きょとんとした羽山の顔から、みるみる笑顔が欠落して地がむき出しになった。心が顔をつくるとは良く言ったものだ。
「下手に出てりゃつけ上がりやがって……」とドブネズミは本音を吐いた。「餓鬼が大人をなめやがって……一緒に来いだ?……誰にむかって口をきいてやがる。行きたきゃひとりでいけ。だがよ、忘れんな……羽山猛行ていやあ、この世界じゃちっとは知られた顔だ。東京中のすじもン[#「すじもン」に傍点]総動員して、てめえたちを駆りたててやる。いいか、どこへ逃げ隠れしたって、必ず見つけ出すぜ。今夜からかわりばんこに寝るこったな。それから――」
銃声が下司な脅しを断ち切った。
羽山は右の耳をおさえてのけぞった。SWの弾丸はやつの耳たぶを吹きとばし、壁にめりこんだ。ふたり目の犠牲者だ。両手で片耳を覆ったまましゃがみ込む。指の間から鮮血がしたたり、床を濡らした。
「てめえのごたくをきいてる暇はねえ」
おれは静かに言った。声に鬼気がこもっているのがわかる。やくざの地[#「地」に傍点]をみると、おれは感情抑制がきかなくなるのだ。クズどもにもそれがわかったのだろう。誰ひとり、うめく社長に手を貸すものはいなかった。
「もう片方の耳をちぎってやってもいいんだぜ。黒さん、あんたもこうなりてえか?」
「耳が、おれの耳が……」羽山がうめいた。「連れてけ、さっさと連れてけ。この話をもってきたのはこいつだ。一から十まで知り尽くしてる。おれは金を出しただけだ」
ところが社長命令に黒沢は反抗した。
「冗談じゃねえ! こんな物騒な餓鬼と一緒にいけるか。用が済んだら消されちまう。そもそも最初から、おれは用心しろといったんだ。それを甘くみやがって。社長面してえんなら三下のミスまで責任をとるんだな」
「こ、この野郎――恩知らずが。あとでほえ面かくなよ。今の台詞、てめえの身体にお返ししてやるぜ」
「へっ、できるもんならやってみろ。ペテン師めが」
「この腐れ外道」
「やる気か」
子分どももふた手に分かれてにらみ合う。険悪な、おもしろい雰囲気になった。
ふと、おれは胸騒ぎを覚えた。空気が冷えていく感じ――これまで幾度となく生命を救ってくれた「勘」の教える危険の前兆だ。
不安が一気に膨れ上がってくる。
二種類の鈍い音が同時に木霊した。
重いものが鉄の扉にぶつかり、きしませながらそれを開いたのだ。
ゆきの低い悲鳴。
おれは振りむいた。やくざたちの驚愕の叫びが背後でした。
戸口に立っているのは、先刻、上の事務所でみたチンピラだった。顔つきが変わっている。
そのはずだ。
顔の右半分が消滅していた。削りとられたのだ。
「ば……化け物……」
半分しかない唇が動いた。前のめりに倒れる。
それより早く、チンピラの背後にうごめく人影らしきものを確認した刹那、おれはゆきめがけてダッシュしていた。腰を抱き、部屋の隅へとぶ。
何ともいえない、吐き気を催す臭気が流れこんできた。
照明がふっと消え、扉が大音響とともに閉じられた。
悪鬼の闇が訪れた。
獣じみたうなり声と、やくざたちの怒号が臭気を攪乱した。
侵入者は五名近くいるらしい。まだ、眼が闇に慣れていない。
絶叫がとどろき、閃光と銃声が連続した。やくざと侵入者たちとの戦闘だ――全身毛むくじゃらの、異形な怪物たち。
「眼――眼よ。――真っ赤な!」
ゆきが悲鳴をあげた。口を押さえようとしたが遅かった。血のような赤い点がふたつ、こっちへむかってきた。
気絶しそうな悪臭が面とむかって吹きつけてくる。闇に慣れた眼に、鋭い牙と鉤爪が映った。身長一・五メートルほどの黒い影。
腹にあたる部分へ、おれはM659を三連射した。手ごたえあり! そいつはのけぞり、床へ倒れた。
やくざたちの怒号は悲鳴と化していた。人間相手の喧嘩なら専門のプロたちも、怪物相手じゃ方法論もつかめまい。ぶちぶちっと肉や腱を断ち切る音。例の臭気の中に、濃密な血の香りがこもりはじめた。どっちのものかはわからない。
小気味よい呼吸音と打撃音がきこえた。キム先生も活躍中らしい。
突然、眼の前に|赤光《しゃっこう》が浮かび上がった。
まさか! と思うより早く、鉤爪が横なぐりに襲った。間一髪で身をかわしたものの、思わず顔をカバーした左手の、肘から手首にかけて鋭い痛みが突っ走った。拳銃が離れる。
敵を甘く見すぎていた。三発の軍用弾を浴びて死なない生物だとは!
体勢をたてなおす暇もなく、そいつはとびかかってきた。ほとんど無意識のうちに、おれは頭を前へふっていた。喧嘩屋、空手使い、拳法家、ボクサーにレスラー――ありとあらゆる暴力のプロ相手に鍛えた十五年間の成果が、絶体絶命の極点で炸裂した。
ぐしゃりと軟骨の砕ける音。おれの頭突きは、もろに相手の鼻っ柱をとらえたのだ。そいつは、声もなく後退した。
おれは、このチャンスを見逃さなかった。右手に残ったSWをのばし、再び突進してくる黒い影の顔面を狙った。五連射! ふたつの赤い光は、ほとんど同時に消滅した。
今度こそもの凄い絶叫をほとばしらせ、そいつはひっくり返った。両眼を押さえてのたうちまわる。
だしぬけに、幅広い光流が闇をえぐった。誰かが外側から扉を開けたのだ。
わけのわからない声が響いた。
怪物たちは、毛むくじゃらの背をみせて入り口へ殺到した。信じがたいスピードで消えてしまう。その中には、たったいま両眼を撃ち抜いた奴までいた。
気がつくと、頭上で火災警報が鳴り響いていた。このおかげで敵は退散したのだ。さもなけりゃ、おれたちの最後の一人まで、徹底的な大殺戮の餌食になっていただろう。
照明がついた。最初よりやや薄い。
誰かが非常灯のスイッチを入れたのだ。
「後ろを向いてろ!」
語気荒くゆきに命じてから、おれは右手にM659を下げたまま、周囲を見まわした。左手をかばう余裕はない。
壁ぎわに、キム・イーファンが立っていた。左肩のすぐ脇に電灯のスイッチがあった。例によって無表情だが、さすがに顔色はやや青ざめている。上着の前が何カ所か引き裂かれ、血が滲んでいた。両手の先から手首まで赤い。これは返り血だろう。
少しはなれた壁ぎわに黒沢の姿があった。キムほど肝はすわってないらしく、発狂寸前の顔つきだ。コルト・ガヴァメントを握った両手を前へ突き出している。|遊底《スライド》が後退位置で停止し、全弾撃ちつくしたことを示していた。まさに間一髪で生命拾いしたのだ。小憎らしいことに、傷ひとつ負っていない。正気に戻るまで数日かかるだろうが、それくらいの罰は甘受すべきだろう。
残りは全員、床の上に散乱していた。
そう。バラバラになっちまったのだ。
床は一面、タール状の血の海と化し、そのあちこちに、奇怪な形の島みたいな手足や胴体が転がっている。みな、つけ根からちぎり取られていた。羽山の胴体には右腕と首が欠けていた。探す気分にもなれなかった。
――まるで、世界地図だな。
あまりの酸鼻さに、おれはおぞ気をふるうよりも苦笑してしまった。
ふと、キム・イーファンと目が合った。
彼もニヤリと笑った。度胸がすわっている。そうでもなけりゃ、素手で奴らを追い払えるはずもねえが。しかし、ありゃ一体何者だ?
「おかしい」
不意にキムが言った。
「なにがだよ?」
たずねるおれの声はかすれていた。左手が熱く重い。
「死体の数だ。手足が足りない」
おれはまた、見たくもねえ地獄の地図に目をやった。そういやそうだ。羽山の首が見当たらねえし、チンピラどもの手足の数もいやに少ない。
「立花の首も見当たらない――あいつらが持って逃げたらしいな」
キムの声が遠くで聞こえた。なんのためかと考える気も起きなかった。
「ハンドバッグに身元のわかるものは入ってるか?」とゆきにきく。
「ううん」
「よし」
身をかがめて床のM659を拾いあげ、おれは後ろ向きのゆきをかばいながら扉の方へ歩き出した。
「失敬するぜ。近所の奴が消防署に連絡したら面倒だからな。それとも、今、片をつけるか?」
キムは動きもしなかった。シラけちまったのだ。これだけの大虐殺を切り抜けた後で、高校生と殴り合うなんて気が起こるわけはねえ。おれも、十五連発に物を言わせて黒沢をしょっぴいていく意欲なんざ出もしなかった。
ふたりを残して、おれとゆきは用心しいしい地下室を脱け出した。
外には闇がおちていた。人影はない。おれは一刻も早く新宿から遠ざかりたかった。
「ひどい血よ、手当てしなくちゃ」
ようやくゆきが気づいた。
「そんな暇はねえ。急ぐんだ」
おれは上着を脱いで左手に巻きつけた。なんとか六本木までもつだろう。おれは大股に歩き出した。
「ちょっと待って――そんなに早く歩かないでよ」
ゆきが怒ったような声を出したが、おれは黙殺した。本当は駆け出したい気分だったのだ。こみ上げてきた吐き気をかろうじて呑みこむ。ふん、生きてる証拠だ。
「なーにさ、青い顔しちゃって。口ほどにもない。一体、何がどうなったのよ。さっきの奴らなに――ゴリラ? この辺に動物園あるの?」
おまえは幸福だよ、とおれはタクシーの姿を求めながら思った。こっちは当分眠れそうもねえ。何がどうなってんのかさっぱりわからねえが、羽山や立花の首が持ち去られた理由だけは掴んだぜ。あの闇の中で。
おれの眼の前に迫った野獣の顔、全身剛毛で覆われた地獄の人喰い悪鬼――しかし、その顔だけは、まぎれもなく人間のものだったのだ。
しなきゃならねえことは山ほどあった。
まず、ゆきから指輪をとりあげようとしたが、飯田橋での大立ち回りの際、どこかへ吹っとばしてしまったという。確かに女の指には大きすぎたようだ。
おれはすぐにあきらめ、次の作業にかかった。
コンピューターに診断させて傷の手当てを施し、法務大臣に電話して、大虐殺の捜査の手がおれたちにのびてこないよう因果をふくめ、ゆきから話をきき出す。
もうひとつ。T大から、今朝依頼した触手の分析結果がコンピューターに転送されていたから、これも読まなきゃならねえ。
最初のふたつを何とかすませ、おれは、残りを一緒くたに片づけることにした。
勝手にコーヒーを入れ、居間のソファで不貞腐れているゆきに、コンピューターからプリントしたコピー用紙を突きつけ、内容を説明する。
「へえー」と言って読み出したゆきは、目を丸くした。
「何よ、これ? 難しくってちっともわかんない。皮膚組織がどうだの、酸の通過孔が――えーと、角質化してるだの。ふむふむ、構造、組成においても、いかなる現生生物との共通項を発見できず……だからどうだってのよ?」
おれは苦笑した。
「おれにもよくわからないがよ。おまえのお爺さんが持ち帰った触手は、つまり、この地球上の生物のもンじゃねえってことだ」
「あら」とゆきは面白そうな表情をつくり「ひょっとして、エイリアン?」
「かもな」
おれはあっさり同意した。ついさっき、ほとんど不死身の化け物に会ったばかりだ。エイリアンだろうが、アトランティスだろうが、水玉模様の河馬だろうが、いないわけがねえ。
「それがはっきりするもしないもおまえ次第だ。あいつらとお爺さん、どういう関係なんだ? ほんとに知らんのか?」
ゆきがふくれた。
「しつこいわね。あいつら何もしゃべらなかったと言ったでしょ」
どうやら本当らしい。となると、すべては相変わらず五里霧中だ。事件の背後に、なんとはなしに、常識はずれの奇怪な真相が蠢いてるような気がして、おれは身ぶるいひとつ、話題を変えた。
「あのビルへ行く途中、立花からきき出したんだが、おまえ、飯田橋へ行ったそうだな」
ちょうどゆきの口の奥へむかって傾きかけていたコーヒー・カップがびくっと停まり、下向きのでかい眼の玉がじろりとおれの方をにらんだ。
「ああ、おいしい」
「とぼけるな」とおれは言ってやった。「立花は飯田橋のある家を見張れと羽山に命令されてた。奴も理由は知らねえ。黒沢が羽山に何かしら吹きこんだらしい」
「あのふたり、どういう関係よ、ホモ?」
「阿呆。十二、三年まえ、羽山がラスベガスの賭博ツアーを仕立て損なって刑務所へぶち込まれたとき、黒沢と知り合ったそうだ。それが、三カ月ほど前にぶらりとあの事務所へやってきて、以来、羽山は必死になっておまえたちを探しまわってたらしい。そこへお爺さんの方からとびこんでったんだな」
ゆきが、あっという顔をした。
「尾行されてたみたいな日ね!?」
「そう。やはり飯田橋の某所で立花たちにつかまったんだ。もっとも、さすがは太宰先蔵、あっという間にふたりを蹴倒して行方をくらましちまったそうだがな。さ、答えろ。飯田橋の家ってなどこだ?」
「ふーんだ。どうせ、立花ってヤー公からきき出したんでしょ」
「そのつもりだったんだが、あいつもプロだ。黙り通したよ。拷問にかけてる時間もなかったしな」
ゆきの眼が光った。カップを受け皿に戻し、思いつめたような表情で、おれの膝ににじりよってきた。
「大ちゃん……そんなにあたしのこと気がかりだったの? 感激だわ」
なに企んでやがると頭を働かせているうちに、ゆきはおれの顔から視線をずらさず、片手で貸してやったパジャマの前ボタンをはずしはじめた。
白い胸もとから、ずっしりと量感たっぷりの乳房が半分ほどのぞいた。ブラジャーはつけていない。高校生のボディとは思えぬなまめかしい色気が、視覚からおれの脳髄を直撃した。
ゆきが手をのばし、おれの右手をとった。そうっと、自分の腰からヒップの方へまわし、乳房よりもっと大きな柔らかいふくらみの上へ這わせる。十七歳とは信じがたい挑発行為だった。しかも、ノーパンときている。
「どう。こっちの方が好きでしょ。あたし自信あるのよ。買い物に出ると、いつも男どもになでられてたんだから。――ちゃあんとわかるんだ。あんた、あたしに気があるんでしょ?」
ゆきは本気でおれを籠絡しようとしていた。頬も乳房も欲情で濡れ光っている。女の武器を発揮することにかけては超高校生級だった。
おれはゆっくり、ゆきのズボンを引きおろした。豊かなふたつの丘がむき出しになる。ヒップ九二はあるだろう。ゆきは艶然と微笑んだ。
しかし、その笑顔は、小気味よい音とともに消しとんだ。
ぴしゃん! もう一発、おれはなめらかなヒップに平手打ちを喰らわせた。
「きゃっ! な、何するのよ!」
「残念ながら、おれはおまえと違って、目の前に宝物がぶらさがると冷静になるんだ」
おれは石部金吉みたいなしゃちほこばった声で言った。誘惑されかけたなんて、おくびにも出さない。
「それによ、マルセイユやアルジェリアの夜の蝶ときたら、おまえみたいなしょんべん臭い小娘なんぞ、足元にも及ばねえグラマーぞろいなのさ。高校生のくせに勉強もせず色気づきやがって。先蔵爺さんのかわりにお仕置きしてやる。少しは頭を冷やせ!」
手加減せずに三発ほどぴしゃぴしゃやると、ゆきは泣き声をあげて身をよじった。構わず四発追加し、ソファに放り出す。
肩がふるえている。しゃくりあげていた。
「これ以上、色気で迫られちゃ敵わねえからな。悪く思うなよ」
おれは出来るだけ冷たい声を投げつけた。
「思うわよ!」
ゆきは、赤くはれたヒップを隠しもせず、おれをにらみつけた。両眼が涙で濡れ光っている。おかしなことに、親に叱られた年相応の小娘に見えた。あの凄まじいセックス・アピールが影も形もない。
「いつか、お返ししてやるから。覚えといで! この乱暴者!」
「なに抜かしやがる。人を暴行魔にしたてあげやがって。おれがいつ、おまえをおかしな格好でレイプした!?」
「ふん!」
ゆきはそっぽを向いた。片手でズボンを引き上げる。おしいことしたかな。
おれは、ゆきと反対側のアーム・チェアにすわった。ややおとなしい声で、
「もう警察から、亀戸の家にお爺さんの死亡通知が行ってるはずだ。葬式だって出さなきゃならねえぞ。のんびり構えてる暇はねえんだ。さ、知ってることを全部しゃべれ。飯田橋の家てなどこだ? 本には何が書いてある? 切り抜きはどこへ隠した?」
「山分けよ」
向こうをむいたまま、ゆきがポツリと言った。
「ん?」
「半分ずつよ」
寝そべった姿勢から、ぴょんとソファに正座してのけた体技にも恐れ入ったが、全身にみなぎる欲望充足の闘魂に、おれは度肝を抜かれた。確かにこいつは金の亡者だ。
「いいだろう。五分五分だ」
自分でもあきれるほどあっさり、おれは申し出をのんだ。
「ただし、それだけのことはしてもらうぜ。これから行くところにゃ化け物がうようよしてるってことを忘れるなよ。それから、これだけははっきりさせとく。化け物の背後に、宝があるとは限らねえ」
「ばっかねえ、あんた」
いきなり嘲笑されたので、おれはムカっときた。ゆきは構わず、
「さっきの触手、地球上のものじゃない――少なくとも地上じゃ未発見のものって結論がでたんでしょ。なら、化け物の一匹でもとらえて、有名になりたがってる金持ちの生物学者や研究所に売りつければいいじゃないさ。学者なんて、この頃じゃ金持ちのぼんぼんがなるんでしょ。高い金で買うわよ。
あとは、あんたとあたしがモデルなってさ、銀色のトレーナー着てピンボケ写真を撮り、飼い主の金星人だとでもいえば一発よ。学者なんて星までの距離はわかるけど、写真の区別なんざつきゃしないんだから。うまくいけばあれよ、あんた。億万長者どころか、歴史に名が残るわよ。ピタゴラスよ、大ちゃん」
なにがピタゴラスだ。
なおも、怪物をつりあげる竿だの、投網だのとわめきつづけるゆきを黙らせ、おれは質問を再開した。五分五分の申し出をのんだのだから、すぐ口を割るかと思ったが、返事はまたもすげなかった。
「明日、お爺ちゃんの葬式をすませてからよ。そのとき、切り抜きと本を何処へ隠したか教えるわ。あんたも休校にして手伝ってよ」
なぜか、おれはうなずいてしまった。
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5 住宅街の怪夫婦
翌日、おれは高校に風邪で休むからと電話を入れ、フェラリにゆきを乗せて大塚の監察医務院へ向かった。コンクリートの色がやけに冷たい地下室で、爺さんの遺体と対面しても、ゆきは泣かなかった。亀戸へ行く途中、葬儀屋へまわって段取りをつけ、家へ戻ったのは昼すぎだった。
「やっぱり、こそ泥が入ったわね」
悲惨なガラス戸をくぐるなり、ゆきはつぶやいた。家中がひっかきまわされている。畳には泥靴の痕がこびりつき、動くものはすべて投げ出されていた。
ひどいのは本だった。一冊残らず部屋中に散らばっている。畳がひっくり返されているのは言うまでもないが、床板までひっぺ返してあるのには驚いた。
ゆきのものらしいガタピシ木机の引き出しは、中身ごと畳に散乱し、布団までナイフで切り裂かれている。
おれとゆきが立ち去ったあとで、羽山の手下どもが品性にふさわしい仕事を遂行したのである。予想はしていたが、そのハイエナのごとき徹底ぶりに、おれは肩をすくめた。
「欲の皮がつっぱると人間、どんな厄介な仕事もいとわねえんだな、天井裏まで調べたらしい」
「馬鹿の集まりね、やくざって。持って出たと思わなかったのかしら」
ゆきも毒気を抜かれたようだった。
「念には念さ。よっぽどのお宝なんだろう。しかし気になる――黒沢はどうやってそれをかぎつけたんだ。立花の話じゃ、奴はお爺さんとは別個に今度の件にあたりをつけたらしい。で、お爺さんの持ってる本とやらを狙った。ところが、お爺さんの方は、例の新聞とやらを読むまでは、そんなこと気にもとめていなかった――そうだろ?」
「ええ。やくざが来るまで、その本のことなんか、ひと言だって口にしなかったわ。意識して隠してたんじゃないと思う。だったら、いくらあたしが鈍くてもピンとくるわ。物心ついたときから、ふたりきりで暮らしてきたのよ」
「それで、よくおまえ、本を探し出せたな」
「簡単よ。お爺さんの本って一冊しかなかったんだもの。それも凄く古いやつ」
「ふーん。すると――事件のもと[#「もと」に傍点]は、もっと昔にありか……」
ある意味で、おれのこの推測は正しかった。もっと昔――そう、たしかに昔だったのだが……。
「ま、ここであれこれ考えても仕様がねえ。とりあえず、ゴミ箱を片づけて、お爺さんの葬式を済ませなくちゃな」
ゆきも同意した。ふうふういいながら、部屋を整理し、近くの食堂で飯を食っていると、葬儀屋が訪れ、作業がはじまった。
近所の主婦が何事かと駆けつけてきた。ゆきから事情を聞き、たちまち、何人かの有志が集まって坊主をよび、ゆきの身寄りに連絡をつけるだのの騒ぎになった。下町のいいところかな。
おれは騒ぎの渦から身を避け、キムや黒沢一派の襲撃に備えたが、幸い、影も形も見えなかった。マンションを出るとき持ってきた朝刊には、誰かのいたずらで火災警報が鳴り、消防車が出動したという短い記事が出ていたから、うまく真相を糊塗したものの、後始末に追われているのだろう。
とにかく、葬式が済んだら、ゆきだけでも居場所を移した方がいいかもしれない。
ところが、その晩、近所の連中だけがやってきた通夜も一段落してからこの話を切り出すと、ゆきは烈火のごとく怒りだした。
「だあーれがあんたのそばから離れるもんか」と口を三角にして喚く。「うまいことを言って、あたしを監禁し、そのあいだにお爺ちゃんの宝物を見つけて独り占めにする気でしょう。そうはいかないわよ。半分は半分ですからね。そもそもこの宝は、お爺ちゃんが生命賭けで見つけたものなのよ。半分もらえるだけでもありがたいと思いなさいよ。それをなにさ、一度約束しときながら、親切ごかしに丸ごとかっぱらっちまおうなんて。恥を知れ恥を」
これにはおれも頭へきた。喚く。
「この猜疑心の塊り娘。それが、生命の恩人に言う言葉か、ふざけやがって」
ゆきはせせら笑った。
「きいた風な口きかないでよ。あんたが助けにきたのは、あたしがいなくちゃ、宝の有り場所がわかんなくなるからじゃないの。そういうのはね、助けにじゃなく、攫いにきたっていうのよ。あんたの腹ん中ぐらいちゃーんとお見通しなんだから、気をつけて口ききなさいよね。なにさ、脳味噌の右半球も左半球も欲欲欲で制御されてるくせに。動物的人間、色情狂、コンピューター狂いのインポ高校生」
あまりの悪口に、おれの冷静中枢はあっけなく破壊されてしまった。この娘との出会いから、今までもった[#「もった」に傍点]方が不思議なのだ。マンションのベッドで、お爺ちゃんお爺ちゃんとすすり泣いていた少女の面影は片鱗もとどめていなかった。
「勝手にしろ!」
おれは喚いて立ちあがった。
「もう勘弁ならねえ。あとはおめえひとりで処置するんだな。葬儀の費用も何もかも請求書はおれにまわせ。それでお別れだ。この因業娘!」
一瞬、ゆきは鼻白んだが、すぐ澄ました顔で、
「あーら、ほんとにあたしと別れてもいいの? それでトレジャー・ハンター八頭大の面目がたつのかしら。へえ、眼の前の宝をむざむざ見捨ててドロンを決め込むなんて、ハンターだの何だの気取ってみたって、所詮はアマチュアよね。高校生の餓鬼よ。
いいわよ、行きなさいよ。あたし、あいつらと手を組むもの。身体と引きかえでも半分くらいは貰ってみせる。あんたなんかいなくたって、あたしがあの本を握ってる限り、あいつらは寄ってくるんだからね。後で泣き入れたって知らないよ。ばーいばい」
手をふるゆきの顔をにらみつけたまま、おれはもう一度、すり切れた畳の上にすわりなおした。煮えくり返る腹をおさえながら、
「よかろう」
と言う。我ながらぞっとするほど無感情な声だ。そのかわり、表層の真下にある憤怒の内圧は今にも爆発せんばかりである。
「申し出はひっこめる。愛想が尽きるまでおれと一緒に行動するがいい。おまえを閉じこめられなくて残念だがな」
「ほら、本音がでたわね」
と言ったものの、さすがにおれの気分が読めたらしく、ゆきは幾分ものやわらかな口調で、
「じゃ、明日からあんたの部屋へ移るからね。そうと決まれば――待ってて。いま、探しものを見せてあげる」
と立ち上がった。おれはあっけにとられた。
「いま見せるって、連中に捕まる前にどこかへ隠したんじゃないのか?」
ゆきは無言でせせら笑い、おれを奥の部屋へと誘った。
おれは、不意に気づいた。
「おまえ、最初から持って出なかったのか。ハンドバッグはおとりだな!」
「ふん」
あれだけ徹底的に家探しされた後だ。どんなに巧みな隠し場所かと、おれは興味津々だった。ところが、ゆきは奥の壁ぎわまでいくと、くるりと廻れ右してもとの部屋へ戻り、玄関から外へ出たのである。
「?」
おれは黙って後に従った。ゆきがフェラリのかたわらに立ったときも、真相は掴めなかった。
なんの真似だと言おうとしたとき、ゆきはドア越しに、オープン式のフェラリの座席に片手を突っこみ、薄っぺらな和とじの古本を掴み出した。
「……!?」
あっけにとられたおれの前で、さも軽蔑したような笑いを浮かべ、ゆきは「本」を振ってみせた。
「はじめてこれに乗ったとき、助手席のシートの裏に隠しといたのよ。あんたは何も知らずに、宝の地図の隣で、あたしからその隠し場所を探り出そうと頭ひねってたわけ」
おれは少しのあいだ口をつぐみ、ようやく尋ねた。
「さっき、わざわざ奥の部屋まで案内したのは何故だよ?」
「単なる嫌がらせよ」
「糞ったれ」
「ふん」
おれたちは家へ戻った。
ところが――である。
なんと、この期に及んでもゆきは本を見せないと言い張ったのだ。
「家を出るときチラッと見ただけだけど、中身は漢文でしょ。あたしの知り合いにこんなの読める人いないから、結局はあんたかあんたの仲間に読んでもらうしかないじゃない。そしたら、例えば、あんたとその人が打ち合わせて、あたしに出鱈目きかせたって、あたしにはわかんないわけよ。だーれが渡すもんか。あたしが信頼できる人探してくるまで、おあずけよ」
「……」
「なによ、その顔? 腕ずくで取ろうっての? いいわよ、どうぞ。男のくせに約束破るのね。嫁入り前の娘を手ごめにして、暴力で言うこときかせようっての? そうか、本を手に入れたら殺す気ね?」
無茶苦茶言いやがる。
ゆきは、ぐいと白い喉をおれの前に差し出した。
「さあ、どうぞ。お絞めなさいな、絞めなさいってば――そのかわり、絶対化けて出てやるからね。怨霊になったって、あんたに宝を独り占めさせるもんか。憑き殺してやる。あなたの知らない世界よ」
おれは、ため息をついた。
「新聞の切り抜きも見せないつもりか?」
「ああら。そこまで権利は主張しないわ」
さっと喉をひっこめ、パラパラと黄ばんだページをめくる。紺色の厚い表紙には、何も描かれていない。
「はい、これ」
ページの間からゆきのさし出した切り抜きを見て驚いた。新聞の一面を丸ごと折りたたんだものだったからだ。
「いくつも事件があって、どれがお爺ちゃんをびっくりさせたやつかわからなかったのよ」
なるほどな。根性は曲がっていても、さすが太宰先蔵の孫娘。早合点だけはしなかったとみえる。おれはざっと紙面全体に眼を通した。
すぐ的を射た。
一面の上半分をでかい見出しと写真が埋めている。
「狂人がダイナマイト自殺!?
飯田橋の民家全壊」
この事件はおれにも記憶があった。記事で確認する。
「九月×日、午後二時二十分頃、千代田区飯田橋×丁目、会社員・里中郁夫さん(四八)宅へ、ダイナマイト五本をもった労務者風の男が侵入。居あわせた里中さんの妻・伸子さん(四〇)と長男杉男くん(一八)の目の前で、ライターで導火線に点火。約三分後に爆発し、里中さん宅を全壊した。伸子さんたちふたりはとっさに外へ逃げ、『強盗よ、爆弾に火をつけたわ』と大声で連呼。居あわせた通行人と近所の人たちもびっくりして逃げ出し、幸い、けが人はなかった……」
先蔵爺さんは「やりやがった!」と叫んだ。どう考えても、これしか当てはまらねえ――というより、ぴったしかんかんだ。
のこりの紙面は、どっかの銀行支店長のオンライン詐欺事件と、霞ケ関付近の信号機事故で地下鉄が一時不通になったという記事、それにつまらねえコラムと死亡欄がふたつ収まってるきりだった。
「おまえも、これ見て飯田橋へ行ったんだな」
おれの質問に、ゆきはそっぽを向いてうなずいた。
「あいつらも多分そうだろう。するってえと、この爆破された家の下に、何だかしらねえが、血眼になって探すに足る品が眠ってるわけか――それで、ドカンと……」
「待ってよ」とゆきが口をはさんだ。「そんなのおかしい。ほら、記事読んでごらんなさい。犯人も吹っとんでるじゃないの。いくら宝が欲しいからって、自分の生命と引き換えにはしないと思うな」
「そんなこと、わかってらい。すると、この事故は偶然か――かなり話題になった事件だから、TVの『ウイーク・エンド』や『昼のサイドショー』でも取り上げてたな。そうだ、確か労務者の身元はわからずじまいだったんだ」
「ばあらばらだったからね」
おれは天を仰ぎたい気持ちになった。怖いもの知らずの女というのも困りもんだ。ゆきはつづけて言った。
「気違いの犯行らしいということで、一応、警察は|決着《けり》をつけたはずよ。もちろん、捜査は続行してるでしょうけど。――その辺は、あんたなら電話一本で調べがつくんじゃないの?」
おれは答えず、片手で頭の横を叩いた。
「だけどな、お爺さんは、『やりやがった』と言ったんだろ――間違いないな」
「ええ」
「これは、誰かが意図的にやりやがった[#「意図的にやりやがった」に傍点]って解釈するのが妥当だろう。少なくともお爺さんはそう思った――でなきゃ、『やった』とか『やられた』とか言うだろうからな」
「へえ、そういうもんかしら」
「うるせえ、そういうもんだ。するとだな、黒沢たちが労務者に家をぶち壊せと命じた。労務者は死ぬつもりなどなかったのに、逃げ遅れて吹っとんだ――こうなるか」
「そうよ」
「いや、これもおかしい」とおれは首をふった。「爆発まで三分もかかってる。逃げ遅れる理由など考えつかない。例えば探しものに夢中になってたにしろ、おまえの言った通り、生命賭けなんだからな」
「じゃあ、なによ?」
「そいつは、最初から死ぬ気だった――」
自分の眉が寄っていくのがわかった。ある、突拍子もない考えが浮かんだのだが、案の定、ゆきはおれの言葉を誤解した。
「怨恨ね。その家のご主人か奥さんに死ぬほどの恨みがあって、その腹いせに――でも、ふたりとも人に恨みを買う覚えはないって主張してたわよ――あてにゃならないけれど。そういえば、あの奥さん、年の割に色っぽい顔で……」
ゆきの言葉が途切れた。おれの表情に気づいたのだ。
「ひょっとしたら」とおれはつぶやいた。「死ぬ気にさせられたのか」
「なによ、それ!?」
「精神コントロール、洗脳、催眠術、――言い方は色々ある。しかし、黒沢だの羽山だのに、そんな高等技術が使えるわけはない……」
おれの頭の中で、霧に包まれた何かが、次第に形をとりはじめていた。左手が無意識に動いて、上着の内ポケットに収まっている手袋をなでた。おれは、自分でもぞっとするほど低い声で言った。
「昨日、あの化け物に襲われたとき気がついたんだ。間違いない――おれたちには、黒沢一派の他に、もうひとつ敵がいるんだ。やくざなんか比べものにならん、地獄から這いでてきた鬼みたいな奴らがな。そいつらがあの化け物を操り、罪もない労務者の頭を支配して、今度の事件の発端をつくったんだ」
ゆきの声は、少ししてきこえた。
「あのゴリラ……サーカスのじゃないの?」
おめでたい女だ。おれは意識して不気味そうな声をだした。
「そもそも、今度の事件には、どこかしら常識をはずれたところがある。よしんば飯田橋の家の下に宝が眠ってるにしろ、ダイナマイトで吹っとばすなんざ乱暴を通り越して無茶苦茶だ。何かの理由で追いつめられてたにしろ、どっか狂ってる。いや、正確に言や常識をはずれてる。おれたちの常識をな。あの触手、水晶片、不死身の怪物、精神コントロール――おまえ、昨日、エイリアンだって言ったな?」
ゆきの顔は血の気を失っていた。ざまあみろと言いたいところだが、おれの言葉は、おれの心さえ凍りつかせていた。
ぼろ家の天井も壁も周囲から消失し、おれたちは、線香の香りがたちこめる闇のただ中で、思考の果てに存在する夢魔の威嚇に死ぬほど脅えるふたりの子供だった。十八の餓鬼と十七の小娘。圧倒的な恐怖の前で、おれたちははじめて自分自身の正体を探り出したのだ。
「あたし――怖い」
とゆきが泣きそうな声で言った。
「おれもだよ――来な」
広げた腕の中に、わななく身体がとびこんできた。眼と眼が合った。ゆきは抵抗しなかった。おれも、不思議なくらい、邪心に欠けていた。
「明日、飯田橋へ行ってみよう」
おれは励ますように言った。
「家のあとが見たい。爆破からニカ月――もう新居は建っていたか?」
「ええ」
ゆきの声も瞳同様うるんでいた。恐怖が欲情を高進させている。おれの首に腕を巻き、顔を近づけてきた。ふと、おれはなぜ、いままでこの娘をもの[#「もの」に傍点]にしなかったのだろうと思った。ふた晩も一緒に過ごしたのに。
ゆきの唇が、おれの思考と唇に蓋をした。熱い舌を差し込んでくる。おれたちは、近所の連中が残した寿司の桶や酒瓶のちらばる畳の上に倒れた。おれは左手をゆきの腰にそって下へと滑らせ、昼間買ってやった黒いスーツのスカートをめくった。熱い太腿が手に灼きついた。
「ああ……」ゆきがあえいだ。
おれは躊躇せず、手を内側へ、奥へとさし入れていった。首に巻いたゆきの腕に力がこもり、おれの指も目的地に達した――。
その瞬間、
「ゆきちゃーん、もう寝たぁー」
きき覚えのあるとんでもない蛮声が、玄関から静寂を破った。
声だけはあげず、おれたちははね起きた。
「また、隣の婆あか――くそ!」
ゆきは唇に指をあてて、おれの罵声を封じた。さすがに頬は羞恥で紅い。乱れた髪を整え、腰までまくれたスカートをひっぱって、恥ずかしそうにおれの方を見た。待っててと言い、玄関へ消えた。
じきに、あの|男《こ》どこのひと、とか、最近の若者は情熱的だからねえとか、きこえよがしの嫌味が波状攻撃をかけてきた。
不思議に腹はたたなかった。おかげで、このまま野の花をつまず、その香りだけをかいでいられる――そんな心よさがあった。
ゆきが戻ってきたとき、おれは押し入れから引っぱり出した布団の上で、高いびきをかいていた。無論、眠っていたのだ。だから、ゆきが隣の部屋で寝たことも知らない。別れぎわに、おれの頬へ軽い、しかし、心のこもったキスをくれていったことも。
翌日、近所の連中が一丸となって先蔵爺さんの火葬と納骨を済ませ、おれたちはマンションへ戻った。
ゆきは、どことなく吹っ切れた表情をしていた。他に身寄りはないという。たったひとりで人生に対処せざるを得ない女の子の覚悟が、かがやきとなって全身から滲み出ていた。
おれもかつて、そうだったのかもしれない。十二のとき、下劣な黒い手が、おれの眼の前から両親を奪い去って以来、しばらくのあいだは――。
「学校はどうするんだ?」
フェラリの中できいてみた。
「今日、担任がきてたでしょ――ひょろ長いの」
「ああ。おれの方をじろじろ眺めてやがったな」
「退学するって言っといた。明日にでも届けを出すわ」
「ふーん」
「こうなったら、死んでもお金を手に入れなくちゃ。大ちゃん、頑張ってよ」
「へいへい」
「気のない返事ねえ。――で、どうするの。マンションへ戻るより、真っすぐ飯田橋へ行った方がよかない? もう三時よ」
「そうだな」
おれは車の数も少ない首都高速5号を突っ走り、西神田口で地上へ下りた。横手にホテル・グランドパレスの威容が望める。金大中がKCIAに誘拐された場所だ。そこから目的地までは、五分足らずの旅だった。
背後に神社の森を控えた住宅地の一角が、そこだけ周囲の雰囲気と分離していた。
年季を経た、くすんだ家並みの中にあって、その三軒だけがいやにま新しいのだ。ダイナマイトで吹きとばされた里中という会社員の家と、両隣の二軒が新築したものである。
どれも家の脇に車庫用のスペースがあいているが、車の姿はない。
おれは、少し離れた路上にフェラリを停め、家のまわりを観察した。キムか黒沢一派の眼も光っているはずだ。
よほどうまく隠れているのか、発見できなかった。いつまでこうしていてもはじまらない。数メートル先に雑貨屋があるのを眼にとめ、おれはゆきに車で待つように命じた。
「いやよ、ひとりじゃ物騒だもん」
ごねるゆきも、おれがダッシュボードから出したものを見て、目を丸くした。
「なあに、これ? モデルガン?」
「本物だ」とおれは言った。「ブローニング・ポケット。25口径だが六連発だ。腹で重傷、頭で即死。おかしなのがきたらかまわねえ、ぶっ放せ。ただし、なるべく足を狙えよ」
「やーよ、つまんない」
不気味な笑いを浮かべたゆきをみて、手袋を渡した方がいいかなと思ったが、相手もゆきの実力を知ってることを思い出し、小さな|遊底《スライド》を引いて、|薬室《チェンバー》に初弾を送りこんだ。右の親指で引き金の上にセットされた|安全装置《セフティ》をかけ、手渡した。
「いざとなったら、これをはずして撃てば弾丸が出る。いいか、足を狙うんだぞ」
いつもなら、ぶっ殺せと吹き込むところだ。
強い口調に、ゆきも渋々うなずいた。しかし、ふたりともえれえ高校生だよな。あきれるよ。
まわりに気を配れと言い残し、おれは雑貨屋へ向かった。上着の襟をなおすふうを装い、ビデオ・カメラをオンにする。
店の前までいくと、奥から前掛け姿のおっさんが出てきて、積んであったビールのケースを抱え、よたよたと奥へ戻りかけた。チャンスだ。
「大変ですねえ、手伝いますよ」
おれは愛想のいい声を出し、残りのケースをふたつ一緒に抱え上げた。
おっさんは肩越しにふり向き、
「おっ、済まないねえ」と言った。好人物そうな丸顔が笑っている。
奥の大冷蔵庫の前にケースを置き、おれは週刊誌の記者だとホラを吹いた。
「爆破事件のその後って特集でね――ひとつ話を聞かせてくれませんか」
「ああ、いいよ」
おっさんは気軽にうなずいた。当時、取材陣の総攻撃を受けたのだろう。なれた口調だった。
「あの家ですけど、里中さんがまた建てたんでしょうね?」
期待通りの反応があった。おっさんの首がふられたのだ。
「いやあ。里中さんは、土地売ってどっかへ越しちゃったらしいよ。今入ってるのは別の人さ」
「おかしいなあ」おれはわざと首をかしげてみせた。「里中さんが入ってるって聞いたんだけどな」
「ちがうよ、あんた」
おっさんは断固否定した。
「赤の他人さ。――今、留守にしてるが、親戚でもねえな」
「へえ、どうしてわかるんですか?」
おれは、おっさんの言葉に含まれるかすかな棘もきき逃さなかった。
「いやあ、なんとなくね」
と言葉をにごすところへさっと寄り添い、ポケットに忍ばせておいた千円札を二枚、ごつい手に押しこんだ。有無を言わさず肩を抱き、励ますように、
「大丈夫――取材協力費ですよ。会社でおちます。記事にするかどうかだってわからないんだから」
我ながら堂にいった化けっぷりだった。
宝探しの情報を握ってる連中が、こっちの問いにあっさり答えてくれるとは限らない。状況に応じ、話を引き出しやすい人物になりきる瞬間変装術も、トレジャー・ハンターの必須課目なのだ。相手をのんじまえば、顔の若さなんてどうってことなくなる。この名演技に、おっさんも自分を納得させた。
「そうかい――悪いね。いや、大した話じゃないんだ……」
車へ戻ると、ゆきがつまらなさそうに、ブローニングをいじくっていたので、おれはあわててひったくり、ダッシュボードへ収めた。
「なによお、いきなり。横暴」
「阿呆、お巡りにでも見つかったらどうする気だ。モデルガンじゃないんだぞ」
「ふんだ。小心者」
「うるせえ。つべこべ抜かすと、仕入れた情報教えてやらんぞ」
おれは車にもぐりこみながら言った。
ゆきの眼がかがやいた。
「ねえ! 宝のありかでもわかったの?」
「いや、新しい住人の素行が少し耳に入ってきただけさ」
「なーんだ、つまんない」
「そうでもないぜ。かなり興味ある夫婦のようだ」
「へえ――どんなふうに?」
「話せば長くなる。今は留守でいつ帰ってくるかもわからない。この先に喫茶店があるから、そこへ移ろうや。いつまでもここに停まってちゃ怪しまれるばかりだ。この車、目立つからな」
「そうね、喉も乾いたし」
ゆきはそう言って言葉を呑みこんだ。おれの見ているものに気づいたのだ。
中型のバンが一台、黄昏に染まる通りをやってきて、例の家の前に停まった。助手席のドアがあき、毒々しい赤いセーターとジーンズ姿の女が車を降りた。車庫用のスペースへ入る。誘導役だろう。グッド・タイミングだ。
「いくぞ――茶店代が浮く」
セコイわねえというゆきの非難も無視して、おれは運転席にとびこみ、フェラリをスタートさせた。
「シートに伏せろ、顔を見せるな」
「どうしてよ」
「やかましい」
おれは強引に片手でゆきの首根っこをおさえ、シートに押しつけた。
理由はふたつある。左ハンドルなのに、目標は道路の右にあるため、ゆきの身体が襟カメラの障害になること。もうひとつは、まだ生あたたかい九月の夕暮れどきに、東京のどまん中でおれの背筋をそっとなでたもの――未知なる存在への恐怖だ。
ゆきは空手かなんかの逆技をつかって、おれの手をはねのけようとじたばたしていたが、おれはびくともしなかった。なにげないふうを装いながら、精神は緊張しきっていた。
バンは車庫に消えている。
夫婦の姿が見えた。玄関の方へ向かう。
彼らの前を通過するとき、おれは静かにそちらを向いた。
そして――夫婦もこちらを見た。
四十年配の、黒セーターとジーンズ姿の夫。平凡な顔立ちの夫婦。
おれはすぐ前方へ向きなおり、次の角を左に曲がって、神田の方角へと続く大通りに出た。信号は赤だった。
「ちょっとお――手ぇ放してよ!」
激しい抗議に、おれはゆきを押さえつけたままだったことに気がついた。
右手を解放し、無意識に車の時計をみる。午後四時二十分。あと少しで、夜が世界を支配する。
「高速へ入ったらとばすぞ。悲鳴をあげるなよ」
おれはゆきに告げた。一刻も早く、この付近を立ち去りたかった。
十八年間、幾度となくおれの生命を救ってくれた勘が、確信の段階までレベルアップし、やみくもに逃走を命じていた。
おれたちは、六本木のマンションへ戻らなかった。
理由は特にない。黒沢一派が見張っている可能性はあるが、あんなチンピラども、法務省への電話一本で片がつく。そのために大枚はたいているのだ。強いていえば、おれの背中にぴったりはりついた冷たいものが、六本木までついてきそうな気がしたからだろう。
実際、首都高環状線を平均時速百八十キロで突っ走り、自分より速いものをみるとすぐ頭に血が上る低能ドライバーどもの、スカGやらムスタングやらを苦もなくふり切って三宅坂インターを四谷方面に折れると、両肩がすっと軽くなった。
「あら、どこいくのよ?」
あまりのとばしっぷりに、眼を丸くしていたゆきがいぶかしげな声できいた。
「別のアジトだ。心配するな、必要な道具は揃ってる」
珍しく怜悧な星々のきらめく下、おれはホテル「ニュー・オーカワ」の駐車場へ車を乗り入れた。
フロントでキイを受けとり、エレベーターで二十五階のスペシャル・ルームへ急行する。一泊三十万円を誇る五間つづきの部屋をふたつ、十年契約・全額前払いで、オフィスとして借りているのだ。ちなみに、都内にはあと三カ所、同様の部屋がある。
ドアを閉めるや、ゆきがお腹すいたとぐずりだしたので、ルームサービスを呼び出し、特製のロースト・ビーフ・サンドとコーヒーを注文した。
富豪や外人VIP専用の豪華なつくりをみても、ゆきは平然たるものだった。そりゃそうだろう。こんな部屋、おれのマンションにくらべりゃ、ホームドラマに出てくる二流会社の課長の家なみだ。
それでも、なにせスペシャル・ルームだから、十分と待たずに運ばれた食事を腹に詰めこみながら、襟カメラのテープを再生装置にかける。六本木ほどではないが、情報関係のメカはひと通り備えてある。部屋そのものを改造するわけにはいかず、四割方は既製の商品だ。
おれはまずITHAにコンピューター回線をまわし、ある情報を要求してからカメラのテープを再生装置にかけた。
特殊プロジェクターの六百インチ大スクリーンに雑貨屋のおっさんの顔が映った。とばす。
「これだ」
撮影時の車の速度にあわせて横へ流れ去る画面には、はっきりと、夫婦の姿が刻みこまれていた。
おれは、またぞっとし、ゆきの感想は「ふーん」だった。
「これが問題の新夫婦? とっぽいおじん[#「おじん」に傍点]におばん[#「おばん」に傍点]ねえ」
「それが、そうでもねえんだな。人は見かけによらないの典型かもしれんぞ」
「あら?」
おれは、リモコンで画面を|逆戻し《リターン》させながら、雑貨屋のおっさんにきいた事実を話しはじめた。
「爆破事件が起きてから、家の建て直しがはじまるまで一週間とかからなかった。――つまり、里中夫婦は、いともあっさり、このふたりに土地と家を売り渡しちまったんだな。築後十五年ほどで、おっさんがみてもかなり痛んでたようだが、都会の一等地だ。それに見合う額や条件がなけりゃ、こう簡単に売る気にゃなるめえ。この新顔、よほど金持ってるのかと思や、新築した家は、どうみてもオール新建材だ。もっとも、少しつくりに凝ってるがな」
「へえ。どんなふうによ?」
「地面ほじくり返すのに、あんまり時間がかかるんで、おっさん、工事の兄ちゃんにきいてみたそうだ。そしたら答えは『地下室をつくりたい』んだとよ」
ゆきの瞳が爛々とかがやきはじめた。
「地下室ね」と念を押すようにつぶやく。
「そうだ」とおれはうなずき「しかも、義理堅くて評判だった里中夫婦が、事件以後、引っ越しの挨拶にも来てねえそうだ。一体、どこへいっちまったのか。――だけど、ここまでの疑問は、ちょこっと調べりゃ解決する。問題は次さ。――この夫婦、工事のあいだ、一度も姿を見せなかったそうだぜ」
「――ひと前に出たくなかったのかしら。でも、どうして?」
「家はひと月ちょっとで建った」とおれは、|静止《スチル》させた夫婦の顔を凝視しながらつづけた。
「すると、その日のうちにふたりとも入居した。建ててる最中は、のぞきにもこなかったのにだぜ。ところがそれ以来、何で生計をたててるのか、日がな一日、滅多に外出しようとしねえ。もちろん、引っ越しの挨拶なんてどこ吹く風さ。爆発事件以後、突然あの家の主が義理欠き出したって、近所でも評判だったらしいぜ。里中夫婦はともかく、このふたりが外へ出たがらないのは何故だと思う?」
「簡単よ。穴掘ってるから」
「図星だ。土を掘り出した形跡はないが、その辺の細工は、建築屋次第でなんとでもなる。おっさんの話だと、あの辺の土地は都市計画なんて野暮な真似もされず、ほぼ、明治・大正時代の原形をとどめてるそうだ。あの家の下に何が埋まってるにしろ、掘り出す苦労は埋めた奴と大差あるまい。少なくとも、その入り口へは比較的簡単に辿りつけるはずだ。となりゃ、あの夫婦――十中八九まちがいねえ――が上物を吹っとばした理由もわかるな」
「待ってよ」とゆきが画面を指さしながら抗議した。「どうみたって、このふたり、そこいらに転がってる年配のじじばばよ。昨日から、精神コントロールだのなんだのおっかないことばかり言われてその気になってたけど、こういうタイプが土方のおじさんに催眠術かけて、ダイナマイトでドカンするなんて、とっても信じられないわ。ええ、信じませんとも。あんたの話は眉唾なのよね。論理のゴリ押しもあるわ。昨日も、あたしを抱くつもりでホラ吹いたんでしょ。新興宗教的ね。山師」
おれは苦笑せざるを得なかった。なんとでも言ってくれ。そのうち悪態もつけなくなるでよ。
「大体、あんたの話を総合すると、この夫婦、まるで化け物じゃないの」
きた。唾とともに投げつけられたこのひと言を、おれは待っていたのだ。
「そうだ」とうなずく。
「馬鹿」
「黙ってきけ。おっさんの雑貨屋に女房が姿をみせたのは、入居後二週間ぐらいたってからだった。ひと目みたときの感想は――何だったと思う?」
ゆきは無言で首をふった。表情におびえが出ている。おれの顔と声が気に入らないのだ。半分は意図的にやってるのだが。
「うす気味悪いさ。――いいか、時間は昼すぎ。お天気は上々。店の中にまで日がさし込んでた。他に三人、近所のかみさんが買い物にきてた。それなのに、おっさんは総毛だったそうだ」
そうなのだ。女は、その顔にふさわしい平凡な笑顔をつくり、平凡な声で、牛缶を一ケース注文した。それだけだ。それなのに、おっさんはこう言った。
「何が気味悪いって、眼の前にいるのが気違いだとわかってるのに、なにかの事情で逃げられん――こんなひでえ状況はないぜ。いえね、あのかみさんは、誰がみたって正常さ。全身ゾクゾクで声も出ないおれをみて、キョトンってえ顔をしてたしな。だけどな、おれにゃわかるんだ。いや、間近に立たれてみりゃ、誰でもわかる。あの顔の奥にゃ、別のものが棲んでるんだ。
――ええい、なんつったらいいのか、つまりだな、精巧な、どっからどこまで人間そっくりの縫いぐるみをつくってよ、笑やぁ口元にしわが寄る、泣きゃ眼から涙がでる――だけど、ちがうんだ。その内側には別のもんが入ってるのよ。
そいつは、人間のなりで町を歩き、おれの店で買い物をし、愛想よく笑いながら、自分の正体がばれやしねえかと、じっと、おれのこと観察してたんだ。
それ以来、店へは来やしねえ。感づかれたと思ったのかな。とにかく、おれも二度と会いたくねえ相手さ。特に夜道じゃな。この近所で、誰かがショック死したら、おれにだけは犯人がわかるぜ。あの女が、縫いぐるみを脱いだんだ」
おれが話し終えると、ゆきは大きく息を吐いた。画面の中の夫婦はまだ、おれたちをねめつけ、窓の外では、四谷・赤坂のネオンと車の光束が闇に挑戦状を突きつけていた。
「でもさ、そのおっさん、神経過敏なんじゃないの?」
なお解せないという感じのゆきに、おれはもう一発カウンターをくらわした。
「あの夫婦は滅多に外出しないといったが、おっさんにいわせると、今の話と今日のを別にして、これまでに四回外へ出てる。うち三回は、バンから大量の荷物をおろしてるところから見て買い物らしいが、あと一回が面白い」
「なによ?」
「一昨日さ」
「それがどうしたの?」
「忘れたのか? 新宿の地下室で出会った奴らをよ?」
「あの怪物――!」
叫び声だった。
「そうか、あの日だ! じゃあ、あれが夫婦の正体なの!?」
「ちがうよ、阿呆」
おれはずっこけ、ゆきは怒った。
「なによお、失礼ね。あんたの言い方じゃそう聞こえるじゃないの。大体、さっきから、あの夫婦を怪物にしたがってるくせに」
「だが、あれとはちがう。おれは顔をみてるからな。――うるせえ、思い出させんな。――夫婦は多分、バンに乗せて奴ら[#「奴ら」に傍点]を運搬しただけさ」
「どうして、あたしたちがあそこにいるってわかったのよ?」
「あの爆破事件以来、黒沢の要請で羽山の子分どもが見張ってたらしいから、そのうち気がついたんだろう。雑貨屋のおっさんも、おかしなチンピラがうろついてたって言ってたもんな。最初は放っておいたが、そのうち先蔵さんもやってきて、チンピラどもと一戦まじえる。そして、一昨日はおまえの番だ。こりゃ、|危《やば》いと思ったんだろう。悪い芽は早いうちに摘みとるに限る。後をつけたのさ」
「それで、ゴリラをけしかけたの? 待ってよ――あたしが捕まったのは午前十時ごろ、すぐ車に乗せられて新宿へ直行したのよ」
「バンが出たのもその頃さ」
「でもさ、あたしは、あの家の姿も見えない路地で捕まっちゃったのよ。まわりには誰もいなかったわ。あの夫婦にわかるわけないじゃない」
「わかったんだろ」とおれはにべもなく言った。
「だからこそ、立花がおれを捕まえて戻るまで、あの怪物をけしかけずにおいたんだ。どっか、羽山のビルから遠くはなれた薄暗い横丁のバンの中で、じっと耳をすませながら、おまえがおれを暴行犯人だとわめくのをききとっていたんだよ。まばたきひとつせずに。おれたちを、まとめて処分――あいつら[#「あいつら」に傍点]に食わせるつもりだったんだ」
「やだあ。ねえ、あいつら一体、何なのよ?」
「正体はともかく、この世の仮の姿ならじきわかるさ」
おれは、六本木で羽山らの身元を探ったのと同一の手続きを踏んで、警視庁のコンピューターから、夫婦の資料を六本木のマザー・コンピューターに送ってもらい、さらにこちらのファクシミリに電送した。ホテルのコンピューターは、諸官庁と連動しておらず、情報は必ずマザコンを経由しなければならない。
四十秒足らずで結果が届いた。
書視庁のコンピューター・バンクに登録されてるのは犯罪者だけと思ったら大間違いだ。区役所に戸籍を届けた日本国民は全員、超LSIの記憶素子と化している。何のためかは言わぬが花だろう。それはともかく――。
相馬憲夫、四九歳。妻・早苗・四二歳。職業・占い師。本籍・北海道上川郡美瑛町羅毛村四 現住所・東京都新宿区飯田橋△の二六
「占い師か、オカルトじみてきたな。それと、こいつだ」
おれは警視庁の資料と相前後してITHAから送られてきたコピーを取り上げた。
「なによ、それ?」
「おれたちはこれまで、あの家に住みついた奴にはこだわってきたが、なぜ住みついたのかは気にしなかっただろ。これだけ謎が集中し、しかも地下の穴蔵ときやがる。トレジャー・ハンターとしちゃ気になるわけだよ。で、ITHAに照会してみたのさ。あの辺で、コンピューター・バンクに記憶されてるような家や人物はないかって――あったぜ」
「……」
おれは、むしろルンルン気分で、コピーの表面を指ではじいた。
「あの辺一帯は、“よだれ長者”の地所の跡なのさ」
「けったいな名前ね。昔の有名人?」
「江戸時代のな」と、おれは資料に目を通しながら言った。五枚の用紙にコンピューターがびっしり打ち出した文の内容をほぼ正確に頭へ収める。
「こいつは……なるほど、化け物夫婦が後釜にすわりたがるはずだ。いいか――」
「ちょっと、待ってよ」
ゆきがびっくりしたように口をはさんだ。
「あんた、もう内容を暗記したの? 読みはじめてから十秒もたってないのよ」
得意満面の表情を浮かべようとする顔の筋肉を必死で抑え、おれは、できるだけニヒルな表情をつくった。鼻の先でかるーく「まあな」と言う。
速読と記憶術はトレジャー・ハンターの必須条件だ。中でもおれはずば抜けている。数年まえ、真っ暗な家の中で、宝の地図を狙うある情報機関の殺し屋と乱闘になり、地図は奪われたものの、ひと足ちがいで宝の方をかっさらってやった。今でも奴には、おれが秘密の隠し場所へ急行できた理由がわかるまい。取っ組みあいの最中、一瞬閃いた稲妻の光が床の地図を照らし出し――おれの明晰な頭脳にはそれだけで事足りたのである。
「――よだれ長者ってのは、江戸時代に生きてた人間だ」と、おれは話を再開した。
「頃は元禄七――一六九四年、いまの飯田橋△丁目あたりの広大な土地を買い切って、世にも豪勢な屋敷をぶっ建てたひとりの男がいた。年の頃は五、六十。世にもまれな金襴の衣裳を身につけ、家はもちろん総檜づくり、運びこまれる家具はすべて南蛮渡来――わかるよな、このくらいの意味」
「馬鹿にすんな、馬鹿」
「おまけに身のまわりを世話する女中たちもとび切りの美人揃い。――誰もが、あれは大金持ちのご隠居と噂した。ところが、このご隠居、金は腐るほどあるのに、脳味噌の方が少し足りなかったらしい。毎日、美女に囲まれ、ヘラヘラと笑いながら、よだれを垂れ流して日を送っていたそうだ。それで、誰言うともなくつけた渾名が『よだれ長者』」
「へえ」
「ま、それだけなら、物見高い連中の噂になるくらいで、世間に迷惑がかかるわけじゃねえ。ところが、家を建て、半年、一年とたつうちに、噂は不気味な形態をとりはじめた。女中が居つかねえっていうんだな。
それだけの家だ、給金だって悪いはずがねえのに、半月おき、ひと月おきに代わりの女中がやってくる。それどころか、ひどい時には三日おき二日おきだ。酔狂な金持ちの多かった元禄期でも、これは異常だったとみえて、周旋屋が記録をのこしてるよ」
「だけどさ、酔狂な金持ちが多かったんなら、もっと酔狂な奴もいたんじゃないの。元禄時代っていうのは、松尾芭蕉の俳諧、近松門左衛門作の歌舞伎と浄瑠璃、井原西鶴の浮世草子――など、町人文化が最も香り豊かに花開いた時期だとされてるけど、実は幕府の財政も行き詰まりゃ、一六九八年の大火、一七〇四年の大地震と、内政はまさしく危機感一杯の時代だったわけでしょ。
元禄文化があれだけ生命力に満ちてるのも、逆説的にいえば、そんな危機感から逃避するための対象だったんだから、やっぱりいるわよ、毎日女中とっかえる助平隠居ぐらい」
「おまえ、高校の部活は元禄時代研究クラブか」
おれはあきれてしまった。女子高生のくせに、ヘンな学がありやがる。こりゃ腹すえてかからねえとなめられるぞ。
「確かに女中を取りかえるだけなら、おまえの言う通りかもしれん。だけど、入るばかりで出てきた女がいないとなると話は別だぜ」
「――」
ゆきは眉をひそめ、沈黙した。
「女中を世話した周旋屋が気になって調べてみたそうだ。暇を出されたはずの女中はひとりとして家へ帰ってねえ。その数ざっと九十人。
――しかも、なお薄気味の悪いことに、長者が越してきて以降、元禄七年から九年にかけて、江戸じゃ人さらいの数が急激にふえてる。ざっと五倍だ。はじめのうちは、近在の百姓、貧乏人の伜や娘だったのが、最後にゃ大店、武士の家庭にまで広がり、さらわれるのも、赤ん坊から老人とバラエティに富んでる」
「あーら、そんなの初耳よ。嘘ばっかり」
おれは舌打ちしてわめいた。
「世の中にゃ、おまえの知らねえことが山ほどあるんだ、この、おたんこなす。いま言った数字の出所はITHAの極秘資料――当時の庶民にゃ公開されなかった幕府の調査結果なんだぞ」
ゆきはふんといってそっぽをむいた。
「そりゃ、すみませんでしたわねえー」
おれは怒りにふるえる身体をおさえ、なんとか冷静に話を進めようと努力した。
「で、奉行所の密偵がひそかに捜査をつづけるうちに、全員の糸が次第に『よだれ長者』の身辺に集約されてきた。夜中に離れから子供の泣き声がきこえるだの、地下で怪しい物音がするだの、ある晩、屋敷から異様な匂いがただよってきたと思うと、次の日には近所の家で病人が続出するだの、江戸の奇現象を一手に引き受けた感がある。長者そのものも、どこか普通とはちがってた――」
ゆきが思わずこちらを向いた。顔つきが変わっている。おれは資料の一行を指でなぞった。
「こう書いてある。『顔、身体つき、ともに常人と変わらねど、皮の中身は別ものなり。近寄られるだけで、童ども泣き、身はすくむ思い……』――そっくりだろ、え?」
ゆきはうなずいた。
「認めるわ。それからどうしたの?」
「元禄九年の五月、奉行所は三人の密偵を屋敷に送りこんだ。四日後、そのうちのひとりが発狂同然、半死半生、全身を何者かに食いちぎられた姿で戻ったとき、長者の運命は決まった。その日のうちに、南町、北町奉行所の同心、捕り方あわせて五百名近くが一気に屋敷を襲ったのさ。結果は、一応目的を果たした」
「じゃあ、長者に縄をかけたのね。一体、屋敷の奥で何をやらかしてたの?」
「一応成功っていったろ」
おれは溜め息をついた。
「それがわかりゃ苦労しねえよ。捕り方が乱入したとき、屋敷は半ば火に包まれてたんだ。所業を感づかれたと知った長者が自ら詰め腹を切ったんだろうが、一体屋敷の中にどんな品を隠してあったのか、火力もまわる速度も異常に早く、逃げ遅れた捕り方三十四名が焼死するという騒ぎになった。近隣に燃え広がらなかったのがせめてもさ」
「じゃあ、長者は灰になっちゃったの?」
「わからねえ。焼け跡からは、捕り方のものの他に、男女十数名の遺体が発見されたが、どれも真っ黒で、顔の判別もつかなかったという。つうことは、秘密の地下道から逃げ出した可能性もあるわけだ。奉行所の連中にゃ、とうとう見つけ出せなかったがな」
「きっと無事に逃げおおせたのよ。地下に何かあるのはまちがいないんだもの。あの夫婦、『よだれ長者』の子孫よ」
「おれもそう思う。焼け跡にゃ小判一枚おちてなかったというしな。とにかくあそこにゃ、何かがあるんだ。化け物が必死になって欲しがるようなものが」
「何かしら?」
「わからん。だが、とてつもないもんだってことは想像がつく。こうなると、とりあえずすることはひとつしかないな」
「いつ忍びこむの?」
「阿呆。あんな物騒なとこ、下準備もなしでいけるものか。敵を知り己を知れば百戦危うからずだ。自分の性格は心得てるから、のこるは相手の身上調査だ」
「わあ!」
とゆきは胸の前で両手を組み合わせた。こういうときは、欲の皮がすっぽりむけて、平凡な女子高生の顔に戻る。瞳が無邪気にかがやいていた。
「北海道いくの!」
「それしかあるまい。おまえ東京で待ってるか?」
「やあよー、意地悪。一緒にいくー」
べったりと頬をすり寄せてきた。観光気分が血管中にみなぎっている。
「飛行機、ファースト・クラスでしょ」
「残念。スカイメイトだ」
「なによ、お金あるくせに。ドケチ」
ゆきはすっかりふくれ、さっさと寝室へ入るや、どでかいベッドにもぐりこんでしまった。入ってきたら殺すからね、が捨て台詞だったことは言うまでもあるまい。
翌日の昼すぎ、おれたちは羽田から北海道へ飛んだ。
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6 天人(エイリアン)の子孫がのこしたもの
旭川空港からジープで一時間ほど突っ走ると、紅葉に彩られた雄大な山々が前方にあらわれた。大雪山国立公園の一角を構成する十勝連峰の峰々である。
左から順に|美瑛《びえい》富士、美瑛岳、十勝岳。うち十勝岳のみが山頂から噴煙を吐いて、|北国の青い空《ホッカイドー・スカイ》に挑んでいる。
風はもう冷たい。おれは片手で、羽田のターミナル・ショップで購入したアメリカ製ボンバー・ジャケットの襟をあわせた。ゆきは女もののハーフ・コート。内側は小羊の毛で二十万円もした。くそ。
午前十時発のジェットで羽田をたったおれたちは、二時間四十分の空の旅を旭川空港で終え、観光局さしまわしの頑丈なジープで、まっすぐ白金温泉へ向かった。占い師夫婦の故郷、|羅毛《らもう》村は、そこからさらに東へ十キロほど原生林を入った場所にある。
「なーによ、この荷物。ライフルからテントまで揃ってるじゃあないの。あんた、まさかホテルに泊まらず野宿するつもり? あたし、そんなの絶対にいやよ」
道の両側につづく白樺の林も見飽きたのか、後部座席に積んであったリュックをガサゴソやっていたゆきが、不満げな声を発した。
羽田で旅程をきかせた途端、ふくれっ面で口もきかなくなったから、こりゃ静かでいいやと放っておいたら、シート・ベルトをしめた瞬間、えんえんと怨みの筋をまくしたてはじめたものだ。
なんでも、はじめての北海道旅行というので、札幌の時計台や北大のポプラ並木、五稜郭なんぞを巡り、石狩鍋とタラバガニとイカソーメンに舌つづみをうとうと張り切っていたのに、おれのやり方に従うと、直接旭川にとび、その日のうちに相馬夫婦の身元を洗って、東京へ帰るという強行軍。これじゃ北海道へきた甲斐がない、あんたには乙女心がわからないのか、というのである。わからねえと答えると、キイッとわめいて横を向いちまった。
おかげで空の旅はきわめて静かに過ごせたが、ここに到り、黙っているのにも飽きたらしい。
「夫婦のこと調べたら、まっすぐ東京へ帰るんでしょ。ふん、こんな熊の出そうな田舎に誰が泊まってやるもんか」
張り倒したくなるような小憎らしい言い方だが、おれは気にしなかった。なぜか、自分でも原因のわからぬ焦燥感に駆りたてられていたのだ。
急がにゃならねえ――もうひとりの、神さまみたいに何でも知っているおれが、脳味噌のずっと奥でそうけしかけている。
ジープもろともキャンプ用品やライフルを頼んだのも「おれ」だ。羽田を発つ前、某衆議院議員に電話を入れ、それが北海道庁、旭川市長、観光局へと伝わったのである。必要になりそうな勘が働いたのだ。それも、滅多にないほど強力に――。
道路の左側に、「羅毛村へ一〇キロ」と書いた標識が見えた。手前を左へ折れる。舗装路は忽然と消え、細い田舎道が、これから先は観光地じゃないと告げ出した。
かなりのでこぼこ道も、難路用ジープのサスペンションとショック・アブソーバーの前には敵ではなかった。十五分足らずで目的地へ着いたときも、尻はちっとも痛んでいなかった。
羅毛村は、白樺の林に囲まれた人口二百人ほどの小村で、どのガイドブックにも記されていない。おれの知識は、ジープを用意してくれた観光局の局員から得たものだ。
水田のあちこちに民家が点在する古色蒼然たる光景に、ゆきは名所旧蹟巡りの夢がまた遠のいたと悟って、いっそうふくれっ面になった。
おれは構わずジープを乗り入れ、真っ先に出会った農夫に、相馬夫婦の住んでた家はどこかと尋ねた。
劇的な反応が生じた。
こんなに急激な変化を示す人間の表情を、おれは見たことがない。親切そうな中年男の顔が、文字通り、恐怖に歪んだのだ。冗談ではなく、眼の前でぐわっと毛髪が逆立った。一瞬、おれたちの背後に熊でもいるんじゃないかと右手をライフルへのばしたくらいだ。もっとも、熊ごときじゃ人間の顔はここまで崩れまい。男が浮かべたものは、魂すら蝕む根源的恐怖に対する反応だったのだ。
「おら、知らねえ、知らねえぞ……」と男はよろめきながら言った。「おめえら、なんだ? あいつらの仲間か……また、食らう気か?……」
こいつ、気違いか、とおれは思い、間髪入れず悟った。この農夫は真相を語っている。あの夫婦は、何かを食らう[#「何かを食らう」に傍点]のだ。人間が最も怖れ、タブー視するものを!
「なによ、このひと、バッカみたい」
ゆきの声を合図に農夫は走り去った。
「一体、どうなってんのよ? あんた、ジープをチャーターするとき、ここの村役場にも話をつけときゃよかったのに」
ゆきの不満も一理あるが、決め手を押さえるときは隠密戦法がおれのやり方だ。しかし、ゆきはいい事を言ってくれた。
おれは次にすれ違ったおっさんに村役場の場所をたずね、ジープをとばした。
役場に入り、いちばん手近の窓口の男に同じ質問をすると、こいつものけぞりやがった。それでも、年の頃二十四、五と若いだけあって、かろうじて恐怖の色をおさえ、課長を呼んでくれたのは上出来といえる。
課長は、迷惑そうというより、無表情を装った顔で、窓口までやってきた。分厚い丸眼鏡の下で、陰険そうな細い眼がおれたちを凝視している。
いや、おれは気づいていた。役場中の人間が、書類にかがみこみ、ハンを押すふりをしながら、じっとおれたちを観察していることを。無論、田舎の公務員が、都会のナウいカップルに寄せる敵意に満ちた好奇心ではない。役場全体がいやに冷え冷えとした空気に包まれていた。おれは内心舌をまいた。あの夫婦――相当なタマだぜ。
「相馬さんの事でしたね」
と課長は硬い声でいった。無理に感情をおさえているのは子供にだってわかる。
「家は、このすぐ先――役場の前の坂をのぼり切ったところです。庭木がのび放題だからすぐわかる。――あの、失礼ですが、お知り合いの方で?」
「いや――」
「ええ、そうよ」
ゆきの面白そうな声が、おれの隣でした。
「きいたことなくって? 甥と姪ですの。今度、こちらに住むことになりまして、その下見に――」
声が途切れた。どうせ、相手がびくついてるのが面白くて、ちょっとからかうぐらいの気分で口にした言葉だったのだろうが、結果はゆきの予想を越えていた。
今まで、なんとか無関心を装っていた公務員どもが、一斉になんともいえぬ青白い表情で、おれたちを振り返ったのだ。それは、死人の顔だった。
「嫌よ、もう嫌。やめて、帰ってこないで!」
奥にいた女子職員のひとりが不意に立ち上がり、髪ふり乱して絶叫を放った。周囲の数人がとびかかり、半狂乱で手足をふりまわす彼女を運び去った。
おれは背後をふり向いた。ソファにすわって呼ばれるのを待っていた老婆と、おれと同年配の若いのが、これまた茫然とおれたちを見つめていた。おれの胸は急に軽くなった。老婆の瞳は恐怖そのものだが、青年の顔に浮かんでいるのは憎悪の意思だったからだ。相馬夫婦の脅威と戦おうとするものがここにいた!
オフィスの方へ向きなおったおれの眼に、光るものが映った。反射的に左手が動き、大きな裁ちバサミの柄をひっつかむ。あと一秒ふり返るのが遅れたら、もろに顔に命中していただろう。誰かが投げつけたのだ。
おれはハサミを投げ捨て、きょとんとしているゆきの手をとり、素早く入り口まで後退した。右手はいつの間にか、ポンバー・ジャケットの内側にすべりこんでいる。ビアンキのショルダーホルスターに吊ったM659の銃把の硬さが、混迷する意識を脱出の一点に集中させた。
泡を食う必要はなかった。
課長以下全員が奥の方をむいていた。
ふたりの若い職員が、三十四、五の年増女の両腕をおさえて前に出た。
「無礼を働いたのは、こいつです」
課長の声はうつろだった。
「処罰なさって下さい。お好きなように――そのかわり、他の者には」
なんつうとこだ、とおれは思った。これじゃ、悪魔に人身御供を差し出す中世の暗黒世界そのものじゃねえか。
ここは一九八×年九月二×日の日本だ。北海道上川郡羅毛村の村役場だ。オフィスにはコピーマシンだってあるし、カラーテレビも備わってる。車で二時間もとばしゃ、旭川でジェット機に乗れるんだ。いい加減にしろ。
「今回は許してやる」
おれは、カラカラに乾いた口で言った。黙っていたら、平凡な課長以下職員どもが、寄ってたかって女を殺しかねないと思ったのだ。職員たちは顔を見合わせた。
「二度とそんな真似をしてはならん、わかったな。それから、今後一切おれたちの邪魔はするな」
それだけ言うと、おれは反応も確かめず外へ出た。
冷たい外気に触れても、別世界に入りこんだような不気味な違和感は拭い切れなかった。村の家々や樹々は、はじめてやってきたときよりずっと暗く、非現実的に見えた。おれたちは悪魔の支配する二十世紀の村に迷いこんじまったのだ。
「行くぞ」
おれはジープに乗った。ゆきも白ちゃけた顔で後につづく。ひとけのない道を一気に坂の中途までのぼり、役場の方をふり返って、おれは頬が引きつるのを覚えた。全職員が中庭に集合し、うらむような訴えるような眼つきでおれたちを見送っているのだ。
「なによ、あいつら?」
「行ってきいてこい」
おれは思いきりアクセルを踏んだ。
十秒とたたずに「家」は見つかった。あわてて急ブレーキをかける。ゆきがつんのめり、悲鳴をあげた。
低いブロック塀と洒落た柵状の門までバックし、おれはジープを降りた。わめきちらすゆきを制して、車に残れと言う。
「なんでよ?」
「村の連中が何を企んでるかわからねえ。ジープでも盗まれちゃ事だ」
「平気よ。あいつら、あたしたちをここの夫婦の親類だと思ってるわ。不思議なくらいビビってたじゃあない」
「役場の連中はな。だが、みながみな去勢された羊とは限らねえ。とにかく残れ」
おれはM659を抜き出し、遊底を引いてマニュアル・セフティだけをのこし、ゆきに手渡した。
「ここを親指で下へずらせば、あとは引き金を引くだけだ。断っとくが――」
「うるさいわねえ」とゆきが唇を突き出した。「なるべく足を狙え、でしょ」
「ちがう。生命の危険を感じたとき以外は使っちゃいかん、だ」
「へいへい」
ライフルを持っていこうかとも思ったがやめた。かわりに、ジャケットから手袋を取り出してはめる。あの毛むくじゃら|怪物《クリーチャー》ぐらいなら、なんとか渡り合えるだろう。派手な音をたてて、村人の神経を逆撫でするのは禁物だ。
ここまで考えて、おれは吹き出しそうになった。目前の家はどうみてもまっとう[#「まっとう」に傍点]な空き家だ。なぜ、不吉なことばかり考えるのだろう。
家はごく普通の二階建て住宅だった。築後三年ってとこか。課長の言った通り、狭い庭は雑草の巣窟だ。わけのわからん木や蔦が二階の窓までのびている。おかしなことに、窓はやや開いていた。庭に面した廊下は、ガラス戸だけで雨戸は閉まっていない。
うしろからゆきが呼びかけた。
「大ちゃーん、蔦が動いたわよ」
つまらねえ悪ふざけをしやがる。おれは舌打ちして、無駄とは思いながら、門の柵に手をかけた。
あっさり開いた。
玄関のドアも同じだった。
敵は、戸締まりしていかなかったのだ。
中へ入る。
廃屋という感じはしなかった。越してまだ一カ月だろう。玄関から奥へ通じる廊下にも、うっすらとしか埃がたまっていない。
左手に六畳の和室がふたつ、右がトイレとバス、廊下の突きあたりに八畳ほどのダイニング・キッチンがあった。上への階段はキッチンの手前だ。
片っ端からまわってみた。
一階の最終地点へ足を踏み入れるまえに、漠たる疑念がおれの胸に芽生えていた。午後の陽光が白々とわだかまるキッチンで、それは確信にかわった。
きれいすぎるのだ。
風呂場のタイルも、ガス点火釜も、傷ひとつ、焼けこげひとつついていない。この夫婦は、一度も風呂に入らなかったのか。
キッチンの流しやガス台には、さすがに使用した形跡があったが、築後三年にしても、あまりに清潔すぎる。
おれはふと、不動産会社が客寄せにつくるモデル・ルーム、モデル・ハウスというやつを思い出した。その日から生活を営めるのに、徹底的に生活感を欠いた家――あれをひと月放ったらかしにしておけば、まさにこの家になるはずだ。
だが、おれは無言で首をふった。
この気配は一体何だろう。生活感以外の、いわば存在感とでもいうべきもの……そうだ!
いや、まさか。
おれは思わず両手を打ち合わせていた。じじっと青白い火花が走る[#「青白い火花が走る」に傍点]。
牛舎や馬小屋へ入った人間は、そこで暮らしている馬や牛の「生活感」を感じはしまい。しかし、気配は――存在感だけは確実に感知するはずだ。
それこそが、牛馬の「生活感」なのだ。
仮に、動物が、いや、人間以外のものが、この家で人間そっくりの生活を営んでいたとしたら――?
そのもの[#「もの」に傍点]が、人間の姿をとっていたとしたら――?
この「存在感」が、やつら[#「やつら」に傍点]の「生活感」だとしたら――?
あの農夫は言った。“また、食らう気か……?”と。
おれはキッチンの床に膝をついた。端から端まで、四つん這いのまま、執拗な視線を送る。あった。流しのすぐ下の床に、赤黒いしみが付着している。数多くの修羅場をくぐる間に、いやというほど目撃してきたもの。
血だ。
昨日、飯田橋で目撃した平凡な顔が浮かんだ。にこやかな笑みを口元に刻みつつ、小さな村を恐怖の手段で「支配」し、薄暗いキッチンで、人身御供を貪り食らう夫婦のイメージが。
骨の髄を冷たいものがなでた。
おれは立ち上がり、階段の方へ行こうとした。
重々しい銃声が轟いた。M659じゃない。大口径ライフルの轟音だ。一瞬遅れてききなれた爆裂音。
切迫したゆきの声がおれの名を呼んだ。
おれは猛然と玄関へむかった。
予想通りの光景が展開していた。
村人たちがジープを取り囲んでいる。老人も老婆も、若者や娘もいた。数はざっと三十人。猟銃を持った四、五人の男たちを先頭に、みな、棒やら鎌、鍬で武装を固めている。なんとも大時代でユーモラスとも思える光景を、全身からみなぎる殺意が補っていた。
彼らの獲物はジープの上で仁王立ちになり、M659を両手で突き出し、威嚇の姿勢を保っていた。はじめて撃ったにしちゃ、堂に入った構え方だ。九十センチはゆうにあるヒップのせいで、重心が安定しているのだ。
感心している場合じゃない。
おれは門からとび出し、ゆきと村人たちの間に割って入った。
「みんな、落ち着いてくれ! 誤解だ。おれたちは、相馬夫婦の親類でも仲間でもない。赤の他人なんだ!」
「無駄よ、こいつらに何言ったって」頭上から怒り狂ったゆきの声がふってきた。「女の子相手に、声もかけず撃ってきたんだから。見てごらん」
言われるまでもなく、被害はわかっていた。ジープのフロント・ガラスに、直径三〇センチ近い大穴があき、蜘蛛の巣状のひびが縦横に走っている。最初のライフルの成果だろう。
おれは素早く村人に目を走らせた。誰も負傷した様子はない。ゆきは地面へぶっ放したのだ。
今度だけは、肝っ玉の太さが良い方に出た。ヒステリックな女だったら、半狂乱で撃ちまくり、四、五人ぶっ殺していたかもしれない。もっとも、そんな相手にゃ十五連発なんぞ持たせやしねえが。とにかく、まだ話し合いの余地はある。
「いいから、銃をおろせ」
おれはゆきに怒鳴った。
「いやよ、絶対いや」
おれまで撃ちかねない勢いだ。
殺気の輪がぐっとせばまる。
おれはとっさに、輪の最前列にいながら、空手の老人の方へ進み出た。柔和だが芯の強そうないい顔をしている。両手で、左右から突き出た安物ライフルの銃身を押し下げているのも気に入った。村の長老ってとこだろう。ヨーロッパ的な顔立ちからして、アイヌの子孫かもしれない。
「おれは東京の高校生で八頭ってもんだ」と、ホールド・アップの姿勢を取りながら言う。「学生証はないが、顔みりゃわかるだろう。役場でおかしなことを口走ったのは謝る。あいつは妹だが、ちょっとラリパーなんだ」
「なによ、馬鹿」
とゆきが叫び、村人の中から声があがった。
「嘘こくでねえ! 高校生がなんでピストルなんか持ってるんだ!」
おれは、ためらうことなく平然と応じた。伊達にこれまで危ない橋をわたってきたんじゃねえ。
「正直に言っちまおう。先月までアメリカに留学しててな、ピストルはそのとき一緒にもって帰ってきたんだ。向こうで護身用にもってた癖が抜けねえのさ」
「騙されちゃなんねえ!」女の声が叫んだ。「こいつは、おいらの投げたハサミを宙で受けとめた。高校生にあんな芸当出来るもんか!」
おれは腹の中で舌打ちした。あのとき、引き出された女か。
「とにかく、話を聞いてくれ」おれは必死で老人に言った。「なあ、おっさん、あんたなら、おれたちが嘘ついてるかどうかわかるだろう。そもそも、最初に撃ってきたのはそっちなんだぜ」
「その通りだ」老人はうなずいた。「駐在さんが外出してるのもまずかった。事の正否も確かめず、こんなことをしちゃいかん。――だがな、あんたたちが、本当に相馬の血を引くものなら、わしも村の衆を止めるわけにはいかんのじゃ」
「引いてない。ありゃ、嘘だってば。おい、ゆき、訂正しろ」
しかし、今度はゆきの太っ腹が裏目に出た。いきなり撃たれて逆上中の娘は、まだ事の重大さに気づいていなかった。
「どうして隠すのよ、兄さん[#「兄さん」に傍点]。相馬の叔父さんに悪いわよ」
老人の顔がこわばった。
「やっぱりだ」
「やっちまえ!」
猟銃の銃先が、おれとゆきに|焦点《フォーカス》をあわせた。万事休す。一発食うのを覚悟で、老人にとびかかり、楯にするしか手はない。おれは両足に力を込めた。
そのとき――!
輪の後方から絶叫があがった。
全員がそっちをふり向き、凍りついた。
三、四歳の坊主刈りの男の子が宙に浮いている! いや、緑色の縄が少年に巻きつき、空中へ引き上げているのだ。
おれは、まさかという疑念を払いのけ、一瞬にその正体を看破した。庭木の蔦だ! ゆきが、動いている[#「動いている」に傍点]と言ったのは、冗談じゃなかったのだ!
蔦が人攫いに変身した理由を考えてる暇はなかった。
「か、母ちゃあん」
幼い泣き声が空中から湧き上がり、
「ああっ、良平!」母親らしい太った女が、凄まじい形相で塀に走り寄った
誰かが「危ねえ!」と叫んだ。
また悲鳴があがった。
母親の手が蔦にかかった刹那、それはみるみる奇怪な腕と変じ、母親の四肢に巻きつくやいなや、幼児と同じ運命に見舞わせたのである。
ゆるやかな、しかし植物のものとは信じがたい速度で、母子は青空の下を二階の窓へと運ばれていった。いつの間にか、窓は大きく開いていた。
おれは村人たちに視線を走らせた。
ほぼ全員が棒立ちだ。三人ほど地べたに這いつくばっている。ふたりは腰を抜かしただけだが、最後の男は、仰天した拍子におとした鎌で足を切ったらしく、向こう脛を押さえた指の間から血が噴き出していた。
別の蔦が彼の方へのびてきた。
男たちは悲鳴をあげて後じさった。
こいつは、血の匂いも嗅ぎつけるのだ!
おれは、村人の力に見切りをつけた。
まわりを見まわし、道の真ん中でスライド式のショット・ガンを持ってふるえている農夫を選んで近寄り、強引に武器を奪い取った。ジープに運んであるライフルは、まだ未装填だ。
「安全なところにいろ。ついてくるんじゃねえぞ」
ゆきにこうわめくや、返事も待たず門の中へとびこんだ。左上方から蔦がのびてきたが、構わず玄関へ侵入し、後ろ手にガラス戸を閉じた。一瞬遅れて、コツンコツンと何かがガラスにぶつかる、身の毛もよだつ音がしたが、おれを立ちすくませたのは、眼前の光景だった。
階段から緑色の滝が流れ落ちている。
蔦の洪水だった。
それは、数十本の太い先端を、上がり框の手前で蛇みたいに持ち上げ、ぬーっとおれめがけて殺到してきた。
つづけざまに生じた轟音と閃光が、緑の蛇どもを吹きとばした。思った通り、このショット・ガンに詰まっていたのは散弾だったのだ。熊狩り用の一発弾じゃこうはいかない。
だが、この蛇は頭を砕かれても生きていた。わずかに遅れて、ちぎれた先端がショット・ガンとおれの左手に巻きついた。
おれはあわてなかった。アマゾンの奥地から北極の果てまで駆け巡ったトレジャー・ハンターの経験と度胸が、不屈の闘志と冷静さを支えていた。七つのとき、おれはすでにコンゴの大密林地帯で、人を食う植物と肉食蝶の襲撃を経験済みだったのだ。
おれは自由な右手で「|電撃手袋《E・グローブ》」をふるった。
甲の部分に内蔵された水銀電池とエネルギー増幅器は、五本の指先と掌から最高一万ボルトの超高圧電流を放出させて、緑の蛇どもを黒焦げにした。
まだ頑張るやつをひとまとめにして握り、ねじる。いやな匂いと炎があがり、そいつらは燃えかすとなって三和土にわだかまった。
おれは久しぶりに手袋に感謝した。シカゴ・ギャングのボスが護身用に開発した品で、手首のスイッチを切り替えると五百、千、三千、五千ボルトと威力を調節できる。
一万ボルトは、アマゾンの奥地で全長三十メートルのボアに襲われたとき以来だから、四年ぶり二度目の使用だ。人間相手なら千ボルトで事足りる。可哀相に、持ち主のボスは、これが届いた日に、ゴルゴなんとかって狙撃屋に頭を射ち抜かれちまったが。
蔦は二階へと退いていった。苦痛を感じるとはかなり高級な生物らしい。
おれは一気に階段を駆けあがった。
二階の光景を見た途端、中途で足がとまった。ずり落ちなかったのが不思議なくらいである。
二階に区切られた部屋はなかった。ぶち抜きの、畳もしいてないだだっ広い空間に、おびただしい蔦が蠢いている。
壁の一角に白っぽいものが積み重ねられていた。人骨の山だった。夫婦は食事の残りを二階の飼い犬に与えていたのだ。
犬は五匹もいた。全長六十センチ程度のラグビー・ボールを犬と呼べるならばの話だが。
蔦はその両端から伸びていた。部屋中にちらばったボールはぶよぶよと外皮を収縮させ、赤黒くにごったその表面に走る血管状の筋も、吐き気を催すような奇怪な動きを示した。突如、楕円の頂点が十字形に切れ、赤茶色の牙がびっしりと植わった口が現れた。
おれは愕然と悟った。
こいつは動物だ! 誰がどうやって創り上げたかは知らねえが、植物の手を持った獣だ! 奴ら[#「奴ら」に傍点]、とんでもねえものを残していきやがった!
必死に身をもがく少年と母の姿が窓から入りこんできたとき、おれは迫りくる無数の蔦を焼きちぎりながら階段を駆け上がり、ふたりを捕縛した窓ぎわの怪生物にショット・ガンを向けた。
空間がどよめき、そいつは五個の射入孔から紫色の血と肉片をとび散らせて吹っとんだ。
おれは思わず耳を覆いたくなった。
この世のものとは思われぬ異常な、断末魔の絶叫が、そいつの口からほとばしったのである。
母子の身体がどっと板の上へ落ちた。別の蔦がのびていく。
「こっちへ来るんだ――いや、窓からとびおりろ!」
叫びつつ、母子に最も近い怪物に向けたショット・ガンの銃身が、強烈な力で上に引かれた。
「こん畜生!」と、からんだ蔦に手をのばした途端、今度は足をすくわれ、床に転倒した。ショット・ガンはもぎとられてしまった。
電撃手袋で足首の敵を焼き払い、起き上がろうとしたおれの眼に、ラグビー・ボールの頭上一メートルほどの空間にもち上げられた少年の姿が映った。真下には十文字の口が待ち構えている。
おれは必死に片手の手袋をはずし、我ながら信じ難い速度で投げつけた。空中をのたうつ蔦にも奇蹟的にキャッチされず、手袋は見事、怪物の口の中にとびこんだ。
口が閉じた。同時に十文字の亀裂の隙間から青白い炎と紫煙が噴き上がり、怪物は全身を痙攣させて、子供を床におとした。
この期に及んでも、他の怪物は移動する気配をみせなかった。食料の調達は蔦まかせらしい。獲物がないときは、その蔦に光合成を行わせ、生じた有機物を体内に摂取しているのだろう。まさに和洋折衷――真の動植物[#「動植物」に傍点]。おカマみたいな野郎だ。
母親が子供にすがりつき、窓辺へ後退した。外とおれを見くらべておろおろする。
「怪我を覚悟でとびおりろ!」とおれは叱咤した。「子供が食われるぞ!」
これが母親の母性愛を直撃したのだろう。太ったおばんは目をつぶるや、「いえーっ」と景気のよい掛け声一発、でかいもんぺの尻から窓外へ消えた。すぐ、どってんがらがらが響き渡り、もう大丈夫だぞという励ましの声が重なった。
おれの方は、そうはいかなかった。
母子を激励中、素手の左手首に別の蔦が巻きつきやがったのだ。焼き切ろうと動かす右手も同じ目に遭った。なんて野郎だ。右手は肘から肩にかけてだけからみついてやがる。手袋につかまるのを防ぐためにだと悟り、おれは悪寒が走るのを覚えた。こいつら、高等生物だぞ!
身体が床から浮いた。じわーっと、人食いラグビー・ボールの真上に引っぱられていく。
渾身の力をふるって抵抗し、おれははじめて、蔦が鋼線なみの強さを持っていることを知った。眼の下で、毒々しい口が開いた。大変だ、ほんとに危い。
小気味よい連続射撃音がとどろいた。
怪物の肉片と床板の破片がとび散り、あの、夢でうなされそうな悲鳴をあげて、怪物はおれを落とした。
階段の上がり口に、M659を構えたゆきが立っていた。そのかたわらに、猟銃を肩につけた兄ちゃんの姿を認めて、おれは口元に微笑が横切るのを感じた。村役場の若い衆だったのだ。やはり、彼だけは恐れていなかった。
「大ちゃん、怪我は!?」
髪ふり乱してゆきが叫んだ。この時ばかりは雄々しい天使に見えたぜ。
「大丈夫。こっちへ来るな。――危ない!」
おれの警告に、兄ちゃんの|二連銃《ダブル・パレル》が二度応じた。反動と銃声からして一発弾だろう。残りの怪生物は、真ん中からちぎれて床板を紫に染めた。
やっと一段落だ。それでもおれは、手足に巻きついた蔦を焼き切りながら、周囲に目を走らせるのを怠らなかった。ここは化け物屋敷だ。何が出てくるかわかったもんじゃねえ。
床の上でまだしつこくピクピクやっている蔦を踏まぬよう、抜き足差し足でふたりが近づいてきた。ふやけたボール状の残骸を薄気味悪そうに眺めて、
「なによ、こいつら――動物? 植物?」
とゆきがきいた。
「両方だ」
とおれは、焼き殺した怪物の口から手袋を引っぱり出しながら答えた。嘔吐を催す臭気が鼻を刺す。怪物の血や肉は、この世界のものじゃあなかったのだ。
「お爺ちゃんを傷つけたものも、こいつらかしら?」
「いいや」
おれは黙って、蔦に絞められた左手首をゆきの方につき出した。赤黒い筋が走っているが、溶かされた痕跡はない。
「きれいなもんだろ。こいつらの仲間なのは確かだが、こいつらじゃないよ」
「あれも――こいつらの仕業だろうか?」
部屋の隅を向いていた兄ちゃんがうめくように言った。憎悪のこもった声だ。視線の先は白骨の山だった。
「こいつらは、いわば飼い犬だ」おれは、押し寄せる安堵感を払いのけながら言った。「犯人は、階下の住人さ。しかし、こんなに犠牲者が出て、よく大騒ぎにならなかったもんだな」
「みんな臆病だったんだ。あいつら[#「あいつら」に傍点]にかかっちゃ無理もねえけどよ。おれだって、いつか片はつけてやろうと思いながら、ついさっき、あんたが子供を助けにとびこんでいくまでは、手も足も出なかった。恥をさらすけど、あの蔦が動くの見たら、腰が抜けかかったよ」
「だが、君はきた」我ながらやさしい声だったと思う。「おかげで生命拾いしたよ」
「あーら、最初にあんたを助けたのはあたしよ」ゆきが不満そうに口をはさんだ。「これから、大きな顔しないでね。いいこと?」
おれは答えず、白骨の山を指さした。
「運び出して埋めてやりな。もう心配することはない。その後で家は焼いちまうんだ」
兄ちゃんはうなずいた。
そのとき、ゆきがおかしな声をあげた。
「あら、これ変よ。――人間の骨じゃないわ」
その晩、おれたちは、例の“長老”の家で相馬夫婦の行状を事細かに知ることができた。なんつっても、生命賭けで母子を救い出した事実が、村人の気持ちを解いたのである。
こういう横のつながりが強い村落共同体じゃあ、まだ、与作の友だちは三太の友だち式の考え方が根強く残っている。“長老”――野々村長治氏の他に、あの兄ちゃん――沢田和夫といった――と、古顔の村人が三人、それに駐在所のお巡りさんが同席してくれた。
おれとゆきは、相馬夫婦の東京の隣人だと偽った。アメリカ帰りの身分はそのまま、彼らの挙動に不信の点が多いから調べにきたのだと言い張った。
野々村老人たちが信じたかどうかはわからない。ただ、話の前に「ピストルのことは言わんでおきなさい」と耳打ちしてくれたことには感謝している。いくら母子の生命の恩人でも、図体がでかいだけの女の子が自動拳銃を乱射したとあっては、駐在も黙認するわけにはいかなかったろう。村の連中も一切、この件に関しては沈黙を守った。
話の内容は、かなり凄まじいものだった。
正真正銘、羅毛の村は悪魔に魅入られていたのだ。
村人や駐在の話を総合するとこうなる。
三年前、相馬夫婦は占い師としてこの村に越してきた。人口二百たらずの村に占い師。営業の成り立つはずがないと誰もが思った。しかし、的中率一〇〇パーセントなら話は別だった。
面白半分に夫婦のもとを訪れた村人のひとりが青い顔で帰宅して以来、人々は終始笑みを絶やさぬこの夫婦の家に列をつくった。
古風ないい方で言う失せもの[#「失せもの」に傍点]、尋ねびと、未来の運勢まで、夫婦はへだてなく扱い、必ず的中させた。
その特異な占い方も、村人たちの話題となった。カード、水晶球、星座表などの小道具は一切使わない。生年月日もきかず、極端な場合は姓名すら問わずじまいだった。依頼人の名前にすら頓着しなかったのだ。
数学である。
これが的中率十割の秘法だった。
依頼者の用件のみをきき、夫婦のうちどちらかが、机上のノートに数式らしいものを書き散らす。眼鏡を置き忘れた場所程度の質問なら平均三秒、未来の運勢でも三十秒以内に解答を告げた。
驚くべきは未来予知の精密さであった。おびただしい数式がノートを半分ほど埋めると、依頼者の翌日遭遇する現象が、秒の正確さで語り尽くされるのだ。
おかげで、不可避なはずの災難を数多くの人々が免れた。車にぶつかると予言された主婦は、明示された場所を通らず、後に車がそこで横転したことを知って驚愕する暇もなく、車のナンバーがメモ用紙に記されたものと同一なのを確認――戦慄した。
にもかかわらず、夫婦の奇蹟が村の外にもれなかったのは、当人たちの強い口止めがあったからである。また、村人たちも他所ものに幸運を分けたがらなかった。なにしろ、鶏一羽、ないし、それと同額の低料金で、明日の運命が知れるのだ。
一時期、相馬夫婦は確実に村の至宝と認められていた。
それが悪鬼と変ずるのは、村に落ち着いて半年ほどたってからである。
ひとりの青年が夫婦に挑んだのだ。
かつて、羅毛村はじまって以来の神童と謳われ、東京の国立大を卒業後、日本最大の電子機器メーカーに勤務していた彼は、夏期休暇で帰省中に親類から夫婦のことをきき、断固、彼らのトリックを暴いてやるといきまいた。専売特許をもって認じていた数学が、非科学的な占いに利用されるなど、彼にとってはもっての他だったのである。偶然、帰省に使った車の中に、開発したばかりのマイクロ・コンピューターが眠っていた。
その夏でも、とりわけ陽射しの激しいある日、彼はコンピューター片手に夫婦のもとを――あの家を訪れた。興味本位に眼を光らせる村人たちを後にのこして数式の解析に。
中でどのような出来事が生じたのかはわからない。
きっかり一時間後、家を出てきた青年は発狂していた。
騒然となる村人たちの前に、いつのまにか夫婦が立っていた。夫はあのラグビー・ボールを小脇に抱えていた。
「このとき」と野々村老人は言った。「このとき、いままでかんかん照りだった空が急転直下、暗く澱んだのじゃ。雷鳴さえきこえた。夫婦の顔には陰影がつき、形だけわしらそっくりの、なにか別のものが立っているように見えた」
我知らず後じさりしかかった村人たちにむかい、夫婦はにこやかにこう宣言した。
今後一切、わたしたちのことを村人以外のものに話してはならん。たったいま、我らが怒りに触れた愚か者にそれを告げたもの、前に出ろ、と。
青年の叔父が進み出た。
「押されたんだ。みなで押し出したんだ」と、同席した駐在が涙声で言った。「しかたなかったんだ。あの夫婦は笑ってたけど、眼はそうじゃなかった。誰か出さなきゃ殺されると、皆思ったんだ」
夫が近寄り、首位のマラソン・ランナーを祝福する審査員みたいな笑顔で、ボールを手渡した。
村人たちの眼の前で、何が起こったかは言うまでもあるまい。
二人の女性がその場で発狂し、六人以上が以後、廃人同様の境涯を送った。のこりの者も時折、半狂乱状態に陥るようになった。農夫の悲鳴と骨や肉をかじる音が、耳にこびりついて離れないせいだった。
夫婦の命令は、完璧に実行されたといえる。
彼らの行為が一切、外部へ知られることはなかったし、存在もまた秘密にされた。驚くべきことに、駐在所の巡査さえ、右へならったのである。誰ひとり彼を責めようとしなかった。夫婦は村の中で、なおも占い師としての生活を続けたのである。
あれほど恐れていた村人たちも、どういうわけか、数こそ減ったものの、毎日のように悪魔の家の門をくぐった。
村の生活や運営自体は従来通り行われた。相馬夫婦は、自らの存在を外部に隠蔽する以外には、興味を示さなかったのだ。
それでも、ごくたまに、衝突は起こった。
最大の原因は、あの凄まじい虐殺以降、夫婦が占いの代償として、公然と家畜を要求したことにある。どの農家でも鶏ぐらい飼っているが、牛や馬は少ない。鶏にしても商品だ。必然的に金で、ということになった。夫婦は何も言わなかった。
二カ月目くらいから、行方不明の届けが多くなった。
鶏ではない。
人間だ。
三カ月にひとりのこともあれば、ひと月にふたりの場合もあった。最初の犠牲者は、八十二歳の老人、次は七歳の女の子。その数が一年足らずのあいだに二十人を越したとき、四つの家族が猟銃を武器に、ある夜、|熟睡《うまい》を貪っているはずの占い師夫婦を襲撃した。
よくこれまで黙っていたものだが、村人たちはいつのまにか、夫婦の存在に対し、一種の無関心状態に陥っていたのである。
彼らの運命は誰も知らない。相馬夫婦の近所のものだけが、この世のものとも思われぬ悲鳴をきいたという噂だが、彼らは何も知らぬと言い張った。
これを最後に、失踪者のリストに新たな人名が加わる事はなくなった。
かわりに、失踪用のもの[#「もの」に傍点]が製造されることになった。
牛馬を筆頭に、あらゆる動物たちが、なんとも異様な生物を産みはじめたのである。
親たちの遺伝的特質を全く備えていない異形の胎児たち。その四肢は、形容しがたい色の剛毛に覆われており、眼鼻立ちも、ひと目みただけで剛毅な村人を失神させた怪異さであったのに、形状のみは、まさしく人間のものだった。
おののく人々の前に、それらの誕生を予期していたかのごとく相馬夫婦があらわれ、にこやかな笑顔と、次回の見料は無し[#「無し」に傍点]を代償に、異形のものを貰い受けていった。
「それが、あの、わけのわからない骨の山ね」
ゆきがつぶやいた。
「三年じゃ」
と野々村老人が囲炉裏に粗朶をくべながら言った。炎が鳴り、老人の顔を微妙にゆらめかせた。
「三年間、奴らは村に君臨しおった。何を求めるわけでもない、理不尽な要求ひとつするわけでもない。しかし、どう見ても顔かたちがそっくりなだけで中身は人間以外のものが、わしらと一緒に暮らしているというのに、そして、身の毛もよだつような行為を繰り返しているというのに、誰ひとりそれを村の外へ口外できぬ――これは一種の『支配」といえるじゃろう」
夫婦が村を去ったのは、一カ月ほど前のことである。
そのさらにひと月前から、どちらかがひんぱんに村を出るのが目立ったが、ある日、旭川の引っ越し業者を呼び、そこのトラックに半日がかりで荷物を積むや、行く先も告げずに去っていった。唐突な、「支配」の終幕であった。
「それから飯田橋へ来やがったんだ」とおれはつぶやいた。
夫婦が立ち去ったのち、一週間ほどして、村人たち全員が頭の軽くなるのを覚えたという。
「|精神《マインド》コントロールが切れたんだな」
おれは、老人の話を聞いているうちに、霧がかかったみたいになった頭をふりながらつぶやいた。
「何かね、それは?」と駐在がきいた。
「――その、一種の催眠術ですよ」
「ほう」とみな納得してくれた。
「みんな知らず知らずのうちに、奴らに制御されてたんだ。駐在さんが何の手も出せず、みんながそれを責めもしなかったのはそのせいだろう」
ゆきが反論した。
「でも、おかしいわ。中には反抗する人たちもいたじゃない」
「それは多分、夫婦のコントロールにそこまで強烈なパワーがなかったからだろう。ありとあらゆる方面にわたって人間の行動を規制するなんて、いくら化け物でも大仕事だ。それに、今の話をきいた限りじゃ、夫婦の目的は、自分たちの存在を他人に知らせまいとする点にあったとぼくは思うな」
「あんた、いつからボクになったのよ。ふん、人前偽善者。――あたしはさっぱりわかんない。あの夫婦の行動って人間離れしたとこが多すぎる」
「あいつら、人間じゃねえから」
不意に沢田青年が口をはさんだ。ゆきがムッとしてふり返る。沢田青年ははにかんだような笑みを浮かべて頭をかいた。あれれ、とおれは思った。こりゃ面白え。こいつ、ゆきにほの字[#「ほの字」に傍点]らしいぞ。
「沢田君の言う通りだ」とおれは彼の肩をもった。
「奴らの行動を人間の範疇で捉えるべきじゃないよ。例えば、村の人たちをあんなふうに脅えさせときながら、動物の奇怪な子供たちを貰いにいくときは、次の占い料を|無料《ただ》にすると言ってる。あの化け物たちを残しといた事実だってそうだ。あんなもの、他所の連中に見られたら大騒ぎになる。警察が動き出すよ。まして、精神コントロールは切れてるんだ。――もっとも、残留効果はのこってて、それで、誰もあの家を処分しようと思わなかったんだろうけど」
こう言ってから、しまったと思った。そっと斜視で見まわすと、野々村老人をはじめ、村人全員がうつむいていた。
精神コントロールを受けていたとはいえ、当時の記憶は彼らの脳裡に鮮明に刻みこまれている。現在となっては思い出すたびに肺腑をえぐられる心地がするだろう。おれはあわてて話題を変えた。
「奴らが人間以外の存在だってことはわかりましたが、正体はちっとも掴めてません。何か手掛かりはありませんか」
「例えば何を食べてたとかよ――」
今度はゆきが青くなる番だった。全員が顔をこわばらせ――ひとりがすすり泣きはじめた。このど阿呆娘。
なんとか座を活気づけようとあれこれ頭をひねっているうちに、救いの手は、なんと村人全員からさしのべられた。一斉に顔を見合わせ、うなずいたのである。野々村老人が代表して口火をきった。
「その点に関しては、村の意見は一致しておるよ。――いや、絶対に正しいという確証はひとつもないんじゃが……」
「ほ、本当ですか?」
それこそ、北の果てくんだりまでやって来た理由だ。おれは身を乗り出した。
訥々と語る老人の声とは裏腹に、話の内容は衝撃そのものだった。
「相馬夫婦は、まちがいなく、村の伝説に残る、空から来た訪問者の子孫じゃ」と老人は言った。
羅毛村の伝説とは――
元禄二年(一六八九)の春、村から十里ばかり離れた森の中へ、突然、うすみどり色にひかる奇怪な物体が出現した。それは三分ほど周囲の樹木をへし折って荒れ狂い、アイヌたちが肌に粟だてて見守る中、その光の内側から、数名の男女が地上に降り立った。
彼らは、手に手に不思議な光る荷物を抱え、アイヌたちに羅毛村まで案内させ(なぜか、すぐ言葉は通じたそうだ)、村はずれに住みついた。しばらくは、平穏な時期のまま過ぎた。
天から来た人々は、奇怪な荷物を使って、空気から金や銀をつくり、それを食料と交換して、ひっそりと生きていた。誰も彼らのことを詮索するものはなかった。アイヌたちにとって、彼らは天よりきた、共に生きる仲間だったからだ。
しかし、半年もすぎる頃から、アイヌたちの内に、神隠しに遭うもの[#「神隠しに遭うもの」に傍点]が目立つようになった。同時に、村人たちの容貌や|精神《こころ》にも変化が生じた。
伝説によると、光る肌と大きな赤い目が、徐々にアイヌたちに近くなってきたという。
精神の変化は一層凄絶だった。
ある日、ひとりの男が、森の大木のかたわらにしゃがみこんでいる天人のひとりを目撃した。天人は村の娘を貪り食って[#「食って」に傍点]いた。彼らが天から来た悪鬼だと気づいたときは遅かった。
村人たちは全員、その命令に逆らえぬようにされて[#「逆らえぬようにされて」に傍点]いたのである。
彼らは毎月、三人ずつの村人を自らの村へ連れ去った。
この悲劇が一年もつづいた頃、松前藩の武士たちが付近の測量に訪れた。彼らは羅毛村で天人たちと遭遇、その奇怪な言動を詰問したが、意思が疎通せずに殺し合いとなり、天人五名を斬り殺したものの、半数以上が異様な樹木[#「樹木」に傍点]と怪鳥[#「怪鳥」に傍点]に引き裂かれた。
生き残りの武士は福山の藩邸まで引き返し、鉄砲・弓矢を含む大人数をもって天人の隠れ家を急襲、ついに彼らを殲滅してのけたのである。
けれども、藩の襲撃を予知した天人たちは、男女ひと組を例の奇怪な荷物もろともひそかに脱出させ、函館から本土へ渡らせていた。その目的は、天への帰り道をつくるためだという。
「それ以後の消息はわからん」
野々村老人はこうつぶやいて話に終止符をうった。
だが、おれにはわかっていた。天人の生きのこりは江戸へ出、黄金をつくり出す機械をもとに『よだれ長者」になりすましたのだ。そして、人々を誘拐しては、「帰り道」を「つくる」ための作業に加担させたのだ。それにしても、「帰り道をつくる」とはどういう意味だろう。
相馬夫婦が、天人たちの末裔たることはまちがいあるまい。恐らくは、日本人の中にまぎれ込み、人知らず生活をつづけながら、細々と血の命脈だけは保っていたのだろう。羅毛村を訪れたのは、先祖の流れついた土地に心ひかれてのものだと思う。
しかし、おれとゆきを仰天させたのは、伝説の一切を語り終えた老人に、本土へ渡った天人カップルの消息についての手掛かりはないかと食い下がったときだった。
しばらく首をひねっていた老人に、駐在がこう示唆したのだ。
「ほれ、十年以上も前じゃが、やはり、天人の伝説を聞きに来た人がおったろうが」
老人は手を叩いた。
「そうじゃ。たしか、天人のことを書いた本を持っとるとか言っておったがの」
おれとゆきは顔を見合わせた。老人は白髪を指先で丸めながら記憶を辿っていたが、
「そうそう。名前は忘れたが、一緒に撮った写真があるわい。ちょっと前に泥棒に入られて、いちばんいいのは盗まれてしまったがの。――すこし待ってなさい」
もちろん、原生林をバックに老人と肩を組んでいるのは太宰先蔵爺さんそのひとだった。
おれには、すぐわかった。先蔵爺さんは、何らかの手づるで、本土に渡った天人の消息を書いた本を手に入れ、そこに記されていたであろう天人の出自に関する内容を調査しにやってきたのである。
おれは、何かわめきたそうなゆきを眼で制し、それとなく先蔵爺さんのことをきいてみたが、大したことはわからなかった。老人の家に一泊して語りあかすと、翌日はもう出立したらしい。
「そうだ、泥棒に写真を盗まれたっておっしゃいましたね。そんなもの盗む奴がいるんですか?」
おれはさり気なくきいた。
「おるんじゃな、それが。いや、犯人の見当もついとるよ」
「へえ、どんな罰あたりで?」
「盗られたのは写真だけなので、駐在さんに届けもせなんじゃが、実は、夫婦が家を出る二、三日前に、いまお聞かせした伝説のことを調べに来た奴らがおるんじゃ」
ははーん。
「ひと眼でまっとうな人間ではないとわかったから、伝説だけきかせ、すぐお引き取り願ったがの。そのときの話しぶりでは、奴ら、十年前にやってきたあの人のことも知っているふうじゃった。本当に本を持ってるのかどうか、しつこくきいておったからの。
わしは面倒臭くなって、例の写真を示し、これが当人じゃから、直接会ってきいてみるがいいと答えてしもうた。大した考えもなく口にした言葉じゃが、いまは気になる。あのひとに迷惑がかからねばよいがの……」
ゆきが憤然と、「もう、かかってますわ」と言いかけるのを、おれは膝をつねって「もう」まででとめ、別のことをきいた。
「そいつら、どうして、その人のことを知ってたんですかね? きいてみませんでした?」
老人は首をふった。
「あの頃はわしも口が軽くて、お客があるたびに、村の連中に吹聴しとったからな。どこかで、人づてにききこんだんじゃろうて。――ん、そういえば、相馬夫婦のことも知っておるようじゃったぞ!」
今度は一同が眼を丸くした。老人はつづけた。
「天人の子孫みたいな占い師が村にいるそうですねと、意味ありげな言い方をしておった。わしらが、夫婦と天人とを結びつけて考えたのは、あの見せしめ事件が起きて以来じゃから、奴らは、村の誰かが外へ行ったとき、天人と一緒に夫婦のことも聞きつけたんじゃろう」
「でも、それじゃ筋が通らないわ」とゆきが口をとがらせた。「みんな精神コントロールを受けてたのよ。特に、夫婦のことは他言するなってね」
「夫婦がいなくなって二、三日したら、みんな頭がすっきりしたと言ってただろ。コントロール・パワーは距離に影響するんだ。――この村から遠出するとしたら、どこが限界ですかね?」
おれの問いに村人のひとりが答えた。
「そうさね、たいがいは旭川、遠くても札幌だ。たまに苫小牧や函館まで出掛ける奴もいるが、ここ三、四年、本州へ渡ったもんはいねえはずだよ」
「函館あたりまでいくと、効果が多少薄れるんでしょう。それに個人差だってあると思うし。よくわかんないけど、例えばアルコールとかなにかのショックを受けて、一瞬コントロールが弱まるってこともあるかもしれません」
「だったら警察へ駆けこむんじゃない?」
「それほど弱くはならなかったか、あるいはそうなっても持続しなかったかだろう。おまけに、夫婦に対する恐怖感は、正気に返れば返るほど逆に強まったはずさ」
「ふーん」
ゆきも不満そうにうなずいた。
これで、黒沢が先蔵爺さんばかりか、相馬夫婦の家を見張っていた謎も解けたわけだ。
トレジャー・ハンターの端くれだった黒沢は、義経の宝かなにかを探して北海道へ渡ったとき、こういう村人のひとりに出会ったのだろう。天人は単なる伝説、夫婦のことは気違いのたわごとと一笑に付さなかったのは、堕落したとはいえ、トレジャー・ハンターの勘が衰えていなかったからにちがいない。
そして、黒沢たちはきっと、相馬夫婦の家をそれとなく看視していたのではないだろうか。夫婦の引っ越し先もそうやって知り、だからこそ、羽山たちに東京での看視続行もすぐ要求できたのでは?
空気から金や銀をつくり出す「荷物」――野々村老人や村人と談笑する好青年の仮面の下で、おれの心は、黒沢に負けず劣らぬ欲望の構図を描いていた。
みなと別れ、老人の家の別間へ通されるや、おれはジープから持ち出したハンドバッグをはなさぬゆきに、例の古本をみせろと要求した。
「あの本には多分、本土へ渡った天人の行状が記されてるんだ。どこで何をしてたかはこの際どうでもいい。問題は宝の隠し場所だ。金や銀じゃねえ。それをいくらでも造れる機械が、あの家の下のどっかに眠ってる。だが、あの夫婦や化け物のいる限り易々と侵入できるとは思えない。ひょっとしたら、本には別の入り口が書いてあるかもしれないんだ。さあ、そのバッグを渡せ」
「………」
ゆきは渋った。おれはもっと強い口調で、
「まだ、わからんのか。こんな宝は今後一生かかったってお目にかかれやしないんだぞ。黒沢だのキムだのいうクズどもの手に入るまえに失敬しちまうんだ。考えてみろ、そうなりゃ、国際金市場、いや世界経済そのものが、おれたちの意のままだ。――よこせ。いやなら、腕ずくだ」
ゆきは恐怖の表情を浮かべて後退した。
ざまあみろ、いくらツッぱっても本気を出しゃ所詮はおんな[#「おんな」に傍点]の子――とかさにかかって前進したおれの水月に、やや太目の足が食いこんだのは次の瞬間だった。
「ぐ……」
としか言えず、おれは海老みたいに身体を曲げて膝をついた。
「ざまあごらん」とせせら笑うゆきの声がきこえた。「男でちょっと図体がでかいと自惚れるから、このざまよ。なにが腕ずくさ。女の中にも例外がいるって覚えとき」
ゆきの自慢ももっともだった。天性の素質に相当の修業を積んだのだろう。プロ相手の喧嘩でひけをとったことのないおれの眼にもとまらぬ前蹴りだったのだから。
だが――。
「おとなしくおねんねおし」とおれの肩にかけたゆきの手は、その途端、ぴくりとも動かなくなった。
おれはグラマラスなボディの下で身をひねり、関節の逆をとったまま、ハンドバッグごとゆきの身体を布団の上へ投げとばした。
はね起きたゆきの眼は驚きと怒りに燃えていた。腰を落とし、猫足立ちに構える。おれは軽く息を吐きながら言ってやった。
「実戦空手か。これじゃ、やくざどもがまとめて叩きのめされたのも無理はない。それを思い出して寸前に腹を引き締めなかったら、一生おまえに頭が上がらないとこだったぜ」
「あんたも何かやるのね。面白い。いま、拝見するわ」
「お見せするほどのもんじゃねえがな。――危ねえ橋を十八年も渡ってきたあいだに身につけた技さ」
低い吐息とともに、何の予備動作も見せずとんできたゆきの左回し蹴りを、身を沈めて空を切らせると同時に、おれは右足でゆきの軸足をなぎ払った。
たまらず引っくり返るのを、今度ははね起きる暇も与えずとびかかって押さえつけ、親指を喉仏にあてる。ゆきの力が抜けた。
「勝負あったな」とおれは低い声で宣言した。
「おまえもやるが、レベルが違うよ。次は闇討ちでもするんだな。――遊びはここまで、本はもらうぞ」
おれは一見いやらしい体勢のまま、布団に転がったハンドバッグを奪った。
中をのぞいて「どこへ隠した?」ときく。ゆきが出し渋ったのは、出したくなかったからではなく、出す本がなかったからなのだ。
「ふん」ゆきはそっぽを向いた。「独り占めは許さないわよ。あたしたち、コンビなんですからね」
なにを抜かしやがると思ったが、おれはうなずいた。
「そうとも。約束は守る。儲けは山分けさ」
「こんなことして、信じられるもんですか」
「信じる他ないだろ。おれは独り占めにしたくて焦ってるんじゃねえ。先を越されるのが心配なんだ――ははーん、おまえこそ、おれに内証でなにかする気だったな。ただ隠しただけなら、そう言や済む」
ゆきは明らかに動揺の色を浮かべた。
「何をした? 言ってみろ」
おれもやや堪忍袋の緒が切れかかっていた。声にそれが出た。
「漢文の先生にあずけたのよ」つき合い出して以来はじめてきく素直な返事だった。
「ほら、お爺さんを焼いたときに、あたしと話してた担任の先生よ。あの人に、これはお爺ちゃんがいちばん大事にしてた本だから、思い出に読んでみたい。現代文に直してちょうだいと依頼しといたの。
でも、誤解しないで、ふたりのためにした事よ。あなただって、漢文読めないでしょ。内証にしてたのは、後でびっくりさせようと思って。あなたの喜ぶ顔が見たかったのよ」
最後は哀願の口調だった。信用するとでも思っとるのか、この女は。その教師が他所の奴にベラベラしゃべったらどうする気だ、え? 一発、はたいてやろうかなと考えていると、障子の向こうで咳払いの音がした。困ったような声が、
「……その、若いから無理もないが……もう少し静かに……」
野々村老人だった。
「はい、すみません」
いいながら、おれはあっけにとられた。ゆきが身体の下で吹き出した。
「お爺さん、ヘンに勘違いしてるわよ」
「うるせえ」おれは声をひそめて命じた。「いいか、明日の朝いちばんにその担任に電話して、翻訳がおわったかどうか確かめるんだ。済んでたら……」
「ざーんねんでした。昨日の午後から金曜日まで三日間の出張であります。連絡先は存じません」
おれは歯をむき出して唸ったが、野々村老人の介入で消滅した迫力は、取り戻すべくもなかった。
「ねえ、どうするの。あたしの上から下りてお爺さんの誤解をとく? それとも、正解にしちゃう気? ――あたしはどっちでもいいのよ。ふふ、お爺さんを眠れなくしちゃおうか?」
ゆきは濡れた眼でおれを見上げていた。赤い舌が、もっと赤い上唇をなめた。たったいま、腕ずくで押さえつけたばかりの肉感的な娘――おれは体内の黒い獣が頭をもたげるのを、はっきりと意識した。
「エネルギーの無駄遣いはやめだ」
おれは、あっさりゆきの上から下りた。
「明日は真っすぐ東京へ帰る――その日のうちに、ドンパチはじまるかもしれん」
「ふん、意気地なし」
ゆきは布団の上で、なんとも刺激的に身をくねらせつつ言った。
「なに焦ってんのよ。あたしたちの手にだって負いかねる宇宙人の子孫相手に、やくざごときがどうこうできるわけないでしょ」
「わからん女だな」おれはなじった。「そんなこと百も承知さ。気になるのは、相馬夫婦の目的だ」
「……?」
「天人――|宇宙人《エイリアン》の子孫なのは動かないところだろう。天人の生き残りは、帰り道をつくる[#「帰り道をつくる」に傍点]ために本土へ渡った。奴らもそのひそみにならった――先祖の使命をいま遂行しようとしてるんだ」
「どういうことよ、帰り道をつくる[#「つくる」に傍点]って?」
「わからん――きっと、あの本に書いてあらあ」
ゆきは眼を輝かせた。
「あーら、やっぱり訳を頼んでよかったじゃないの。ね、あたしにまかせときゃ、万事うまくいくでしょうが。今まで遠慮してたけど、これからはどんどん発言しますからネ」
おれは、ゆきの声も耳に入らなかった。
相馬夫婦は、あんな怪物をこの地へ残して去った。村人を脅やかし、後々まで口封じするためにしちゃ、他所から来た人間に見つかる可能性が高すぎる。
となると、答えはひとつ。もういらなくなったのだ。奴らの行動は常識に当てはまらないといいながら手のひらを返すような意見だが、そうにちがいない。
自分たちの正体がばれても構わないところまで、夫婦の行動はその目的達成に近づいていたのだ。すなわち、「帰り道」を「つくり」つつあるのだ!
一瞬、悪寒めいた冷気がおれをとらえたが、十八年間、骨の髄にまで泌みついた職業意識がそれを打ち消してくれた。
世界の破滅より地底の宝を選ぶ――これがトレジャー・ハンターなのだった。
[#改ページ]
7 妖獣戦線
その見出しが眼に入った途端、おれはロビーの真ん中で立ちすくんでしまった。
「なによお、東京の新聞がそんなに珍しいの?」
揶揄するようなゆきの声も無視して記事に目を通す。正午間近の羽田の雑踏は無声映画のフィルムと化していた。
よほど血相が変わっていたのだろう。ゆきが、どうしたのよ、と心配そうに近づいてきた。無言で新聞を差し出す。ゆきの眼もかっとむき出された。声に出して読む。
「『飯田橋で暴力団員四名噛み殺さる。野犬の仕業か、抗争の果てか?』――えーと、十×日午後九時……」
つまり、昨日の午後九時すぎ、飯田橋△丁目の空き地に、暴力団羽山組組員の死体が四体、通行人により発見されたというのだ。しかも、全身に噛み傷の痕があったという。新聞発表は、暴力団同士の抗争の犠牲者らしいとされているが、おれにはすぐピンときた。
「あいつら、あの家へ忍びこんだのね」
「四人もそろって、こっそりというわけにはいかねえよ。押し込み強盗の挙句に返り討ちってわけさ。写真でみると、キムも黒沢もいねえな。すると、こいつら尖兵か」
「なんだ、一緒に食われちゃえば世話なくて助かるのに」
「まったくだ」おれは同意した。「とりあえず、マンションヘ戻って仕度しよう」
「なんのよ?」
「いいから」
マンションへ着くと、黒沢やキム一派が潜んでいないのを確かめ、おれは直接「武器庫」へ入った。エレベーターのドアの前で、ゆきが立ちすくむ気配がした。
「あんた、軍隊ともコネつけてんの!?」
それほどの代物じゃねえさ。石斧から使い捨てバズーカまで、核以外の個人用兵器はひと通り揃っているがね。
武器はすべて、厚さ五センチの耐熱耐衝撃鋼板と超硬質防弾ガラスのケースに収めてある。おれは各コーナーをまわり、事前に考えておいた品を選び出した。
|拳銃《ハンドガン》は愛用のSW・M659と、コルト・パイソン357マグナムの四インチ銃身モデル。
パイソンを選んだのは、M659の作動不良を考えたからだ。オートマチックというのは完璧にみえても、仕組みが複雑な分、作動ミスを起こす可能性が高い。そのかわり、弾丸の収納量と装填速度はパイソンのような|回転式《リボルバー》の比じゃあない。M659の|弾倉《マガジン》と薬室、合わせて十五発の九ミリ弾は、これだけで、六連発パイソン三挺分に匹敵するのだ。
おれは九ミリ弾に限って通常弾薬ではなく、エクスプローディング・ビュレット――すなわち炸裂弾を選んだ。弾頭部に速燃性の|火薬《ガン・パウダー》を詰め、目標に命中すると同時に爆発する一撃必殺の弾丸で、ジョディ・フォスターにふられたヒンクリーとかいう半気違いが、腹いせにレーガン米大統領を狙撃して名を上げた。もっとも、このときは弾丸自体がお粗末な出来で役に立たなかったが、おれのは、コルト社が極秘裡に製造した|特殊弾《スペシャル・ビユソフト》。軍用手榴弾五〇パーセント程度の威力を保証されている。パイソンは通常弾オンリー。それぞれ、弾倉とスピード・ローダー(弾丸を円型のクリップに詰め、ワン・タッチでリボルバーに装填する道具)を五個ずつ、ばらで三十発を用意した。
炸裂弾を選んだのは、言うまでもなく、あの獣人用だが、これには少々不安が伴っていた。戦場は地下になるだろう。超重量の土砂を支える地下構造に余力がない場合、滅多やたらに小型手榴弾なみの銃弾を発射したらどうなるか、三つの子供でもわかる。かといって、357マグナムならともかく、通常の九ミリ弾ではまさしく鳩に豆鉄砲の口だ。
おれは胸中の不安を打ち消し、|SMG《サブ・マシンガン》のケースから、|H&K《ヘッケラー・アンド・コック》社の秘密兵器、HK・G11|突撃《アサルト》ライフルを取り出した。
特製レーザー照明スコープ付き、口径四・七ミリ五十連発のこの銃は、セレクター・レバーの切り替えによって、セミ・オート、三射バースト、フル・オートに使い分けができ、三射バーストにおいては、発射速度毎分二千発、百メートルの立ち撃ちで三発が直径二○センチの円内に集弾するという桁はずれの性能を有している。
しかし、これが秘密兵器と謳われる所以は、全銃器関係者の夢、|金属薬莢《メタル・ケース》なしのケースレス・カートリッジ(弾丸)を使用する点にある。メタル抜きのおかげで弾丸のコストと重量は飛躍的にダウンし、突撃銃で五十連という弾倉収容能力も可能になったわけだ。去年の秋口から西ドイツ陸軍で軍用テストが開始されたというが、おれのところにまわってきたのも、その中の一挺なのだろう。すでに徹底的に撃ちまくり、長所も弱点も知り尽くしている。弾薬は五十連マガジン五個だ。
最後にセレクトした品をみて、ゆきが眼を細めた。
「粘土の塊をどうする気よ?」
「阿呆、気楽に触るな。プラスチック爆弾だぞ。小指の先くらいの量で、お前なんぞ木っ端微塵だ」
さし出された手がさっと引っこみ、ゆきは吐き捨てるように、
「近頃の高校生がいくらワルったって、あんたにくらベりゃ天使みたいなもんね。なによ、この殺人道具は。あんたトレジャー・ハンターなんかじゃない。殺人狂よ。こんなもの持って、どこの軍隊相手に戦争するつもり?」
「うるせえ、トンチキ」
おれは用意した武器とその他の道具を、備えつけのキャリー・ケースにしまいながら、悪態娘をにらみつけた。
「相手はエイリアンの子孫だぞ。核爆弾使っても倒せるかどうかわかりゃしねえんだ。軍隊や秘密諜報機関とドンパチやってた方がなんぼか楽さ。それに、羽山組のうすら馬鹿どもがあんな真似しくさりやがって。用心しなさいって言ってるようなもんだ。敵はますます作業を早める。――黄金製造機をいただくなら今のうちさ」
「そりゃ、そうだけど。でもさ、あいつらが宇宙人の子孫なら、先祖の宝は法的にあの夫婦のものなんじゃないの。あんた泥棒になるわよ」
今度はおれが「フン」と言う番だった。
「宇宙人に地球の法律が適用されてたまるか。それに、あの土地は不法な手段で手に入れたものじゃねえか」
「そんなの、あなたの想像でしょ。正しいとしたって、証明しなきゃなんにもならないのよ」
「るせえ。とにかく、夜になったら出かける。おまえはここを動くな」
「なんですって!」とゆきは柳眉を逆立てた。「あたしたち、コンビなのよ。これまで何回あたしに手を出したかわかってるの!」
「コンビとちょっかい出した数とどんな関係があるんだ!」
おれも負けずにわめき返した。
「おまえはここで、漢文の先公とやらに連絡をとるんだ。現代語訳ができてるかもしれねえからな。奴の出張先がわからなかったら番号を教えるから、おれんとこの校長にきけ。八頭くんの許嫁ですと言や、五分で探し出してくれる。
ただし、訳ができ上がってたにしろ、コンピューターに錠はロックさせとくから、ここからは一歩も出られやしないぞ。電話できくんだ。
おまえこそ、ひとりにしたら何やらかすかしれたもンじゃねえ。黒沢やキムの眼は必ずこのマンションに光ってる――忘れんなよ」
「ええ、ええ。ついでにあんたがどうしようもない横暴男だってこともね」
「うるせえ!」
おれは、キャリー・ケースを肩から下げるとゆきを伴って居住区へ上がった。
「おれは、留守中の来客を調べる。おまえは飯をつくれ」
自分も減ってるものだから渋々とキッチンへ入るゆきを尻目に、おれは書斎で、月曜日以来の来客と電話・電報・衛星通信の内容チェックを開始した。
まず来客だが、三人いた。ひとりはガス会社の整備員で、火曜日の午前と午後に二回顔を見せている。
おれはひと目で正体を見破った。あの警官に化けた立花たちと同様、格好だけは本物そっくりだが、眼つきが正業を告げていた。人間の生涯は眼にあらわれる。つくり笑いも、その卑しさ、猛々しさは隠しようがない。黒沢かキムの配下だろう。おれがドアをあけたら、拳銃で脅す気だったのだ。
立花の失敗でこりたと思ったら、今度はガス会社の社員か――おれは噴き出すところだった。奴らは一歩先を読み、まさか二度と同じ手で攻めてはこないだろうと考える盲点を狙ったのだ。この程度の頭じゃ、なるほど、やくざになるしかあるまい。四たびもご苦労さんでした。
ふたり目は、おれの平和な日常生活でおなじみの顔だった。矢島という古文の教師である。
サラリーマンに徹してりゃいいものを、熱血教師とやらで血の気が多く、そのぶん頭の方へまわる量が足りなくて、おれを学校を毒するガン細胞の元凶と思いこみ、ひそかに退学処分を策してる陰険野郎だ。そのくせ根っからのエリート志向で、“ボク頭がいいから”が口ぐせ――そのせいで女房に逃げられ、目下独身だ。
ベルを鳴らし、返事がないとわかると、ドアを蹴とばして帰っていった。しめしめ、このテープのコピーを校長と教育委員会へ送りゃ、転任間違いなしだ。おれが土曜日以来休校と知り、文句をつけにきたんだろうが、てめえで墓穴掘ってりゃ世話はねえ。
三人目は木曜の朝、つまり、今朝きていた。
びっくりしたね。一瞬、宝のことも、宇宙怪人ソーマン[#「ソーマン」に傍点]のことも忘れたほどだった。階下の住人、天下の清純歌手、松田征子その人だったのである。両手のひらに大きな赤い包みを捧げ持っている。超一流洋菓子店のものだった。テレビの画面で見る以上の愛くるしい笑みを浮かべてベルを押し、留守と知るや、寂しげな表情で立ち去っていった。
おれは首をかしげるより、有頂天になった。彼女とは数回顔を会わせただけで、言葉をかわした覚えもない。それがケーキの箱もって早朝訪問とは……知らなかった。あのなだらかに起伏する胸の下には、おれの顔が熱く息づいていたのである。
いつ挨拶にいこうかなとうっとりしているそばから、ゆきの「飯できたよ」とわめく声が聞こえ、おれはキッチンに移った。
厚さ三センチはあるステーキと大型サラダボール一杯の生野菜を平らげるのに十分もかからなかった。
「おいしかった?」
コーヒーをのみながら郵便物をチェックしているおれに、ゆきが何となく照れくさそうにきいた。
「ああ」
「ねえ。――さっきの話だけど、どうしてもひとりで行くの」
「くどいぜ」
「あんた、いつもあたしを危険な場所から遠ざけようとしてるのね。――最初は危ない橋もふたりで渡るみたいなこと言っておいて」
「そうかい」
「どうして、そうかばってくれるの?」
「別におまえをかばってるわけじゃない」
おれはぶっきら棒に言った。おかしな雲行きになってきたもんだ。
「嘘。――あんた、口が悪いくせに、お爺さんのこと、絶対じいさん[#「じいさん」に傍点]っていわないわね。借りでもあるの?」
おれは黙って天井を見上げ、征子のことを考えようとしたが、うまくいかなかった。
「あんたって変わってる」
ゆきは不思議な表情を浮かべて言った。
「ワルかと思えばそうでもないし、すれてるわりには馬鹿みたいに純情だし、あたしが何言っても怒らないくせに、やくざが逆らうと、大したことでもないのに耳を撃ちとばしたり……怖かったわ、新宿の地下室」
「なんで急にそんな話をする。これから大仕事が待ってるのに、いきなり辛気くさくなりやがって」
ゆきは肩をすくめた。
「質問してるのはこっちよ。きかせて」
なぜか、おれは左肩を指さしていた。
「ここに、古い傷がある。九つのとき、あるクズどもにつけられた傷だ。そいつらは笑いながらおれの肩を撃った。おれの隣には親父とおふくろがいた。――それが答えさ」
「さっぱりわかんないわ」
「わからんでもいい。おまえは、おれよりましな暮らしをしてきたんだ」
ゆきの表情は、ますます困惑の度をました。まともな暮らしとは金のある生活のことではない。この娘には、それがまだわかっていないのだ。
郵便物と電話は大したことなかった。
腹がこなれると、おれは武器庫の隣にある射撃場へ下り、武器を試射してみた。それぞれ、休みなく二百発ずつトライし、照準の狂いを調整する。
武器はすぐ身体になじんだ。戦う道具は先天的におれを好いてくれる。トレジャー・ハントとは、戦うことに他ならないからだ。
調整と点検、クリーニングが終わると午後六時をすぎていた。外にはどす黒い闇がおちている。おれは居住区の設備を、電子機器以外はすべてゆきの自由になるよう調整し、一本電話を入れてから、キャリー・ケースを肩に駐車場へ急いだ。
午後七時。おれは国電飯田橋駅近くの派出所で車を降りた。机の前で事務をとっていた警官が待ちかねたように立ちあがり、おれが中へ入ると、不審そうな表情になった。車とおれの顔を交互に見くらべる。苦労を積んだ思慮深さは隠しようもないが、どうみても二十歳以上には見えまい。
「失礼ですが……きみ、いや、あなたが八頭さん?」
「ああ」おれは仏頂面で言った。「車みりゃわかるだろ。本署から連絡があったよな」
「ええ」
警官は露骨に嫌悪の表情をうかべた。
制服の権威が、おれのようなイキがった若造の言いなりになるのを、たとえ警察庁の大幹部からの命令とはいえ潔しとしないのだ。訓練された飼い犬は、狼の匂いを敏感にかぎわける。
「本署から、非番のもの含めて六十人が動員され、飯田橋二丁目のあたりをうろついていたやくざ風の男はすべて留置してあります。といっても二名だけですが」
「結構」とおれはうなずいた。「会わせてもらうぜ」
警官はおれを奥の留置場へ案内し、すぐ元の席へ戻った。おれの行動に水をささぬよう、きつく命じられていたのだろう。警察庁へ電話を入れといた甲斐があったぜ。
鉄格子の向こうにふたつの顔があった。どちらも二十二、三のチンピラだ。
黒い安ものの背広を着ている。見覚えのある方が、おれを認めてぎょっとし、いきなりつかみかかってきた。鉄格子の間からのびてきた憎悪の腕を、おれは手袋をはめた手でひっつかみ、男の身体を鉄格子に張りつかせた。
「イテテテ」と五郎は派手な悲鳴をあげた。「はなしやがれ畜生――おい、ポリ公助けてくれ。暴力団がいるぞ」
いきなり、五郎の隣で低い悲鳴があがり、もうひとりのやくざが、もんどりうって板張りの床へ叩きつけられた。仲間の危機を救おうと突進してきた出ばなを、手袋の一撃でくじかれたのだ。二、三十分は正気に戻るまい。
なおも警官の名を呼ぶ五郎に、おれは「無駄だよ」と諭した。
「警官てのは、ときどきつんぼになるんだ。おまえらが一番よく知ってるはずだがな」
「ち、畜生、買収しやがったな、てめえ」
「そんなことどうでもいい。質問に答えてもらおうか。おまえらの仲間が食われた|経緯《いきさつ》さ」
「だ、誰が、てめえみてえな餓鬼に」
「この野郎、おれの部屋でレーザーに手首焼かれた痛みを忘れたのか」
おれは迫力たっぷりのかすれ声で五郎の肝を冷やした。
世界中のギャングや暴力人間と渡り合ってきたおれの脅し文句は、田舎のチンピラ出身の三下やくざと桁がちがう。
青ざめたところへ「近頃の高校生をなめんなよ――どうだ」とばかり、奴の手首へ軽い電撃を流す。なあに、皮膚がそそけ立つ程度の力しかないが、精神的ショックを受けていた五郎には数倍の効果があった。
「ぎええ、言う言う、なんでもしゃべるから殺さねえでくれ」
チンピラの根性てなこんなもんである。
電圧を弱めてやると、おれが質問しないうちに、勝手にしゃべり出した。
「新宿のあの事件のあとで、おれたちゃ羽山の兄貴たちの死体を始末し、黒沢さんたちと組むことにしたんだ。することはふたつ。まず、あくまでもおめえたちを追っかけて、あの|女《あま》っ子のもってる本を手に入れる、次に、例の家へ押しかけて頂くものを頂いちまおうってわけだ」
「馬鹿だな、おめえら」おれは心の底からしみじみと言った。「あんな目にあって、よくそういう気になったもんだ。あの化け物を操ってたのが相馬夫婦だとは思わなかったのか?」
「おら知らねえよ。黒沢さんの命令だ」
「ふん。子分が低能なら親分はもっとひでえらしいな。で、殴り込んだわけか」
「そ、そうとも」
五郎はもがきながらうなずいた。
「四人だけでか。装備は何だ?」
「そうび?」
「武器だ、武器」
「そら、おめえ、拳銃と|匕首《やっぱ》と猟銃だあな。あの[#「あの」に傍点]日と次の日は事件の始末に忙しくて、三日目からおめえたちを探しまわったんだが、六本木のマンションにも、亀戸のボロ家にも戻ってねえ。これじゃらちがあかねえってんで、直接行動に訴えることにしたのよ。|警察《サツ》の眼も光ってたしな。で、さきおとついの晩、黒沢の兄貴の陣頭指揮で、六人揃ってお邪魔したわけだ」
「六人? 死体は四つだったろ?」背筋に冷たいものが走った。
「おら知らねえ。おれはおめえに手えやられたんで外で張り番よ。ところが、いつまでたっても誰も帰ってきやしねえ。穴ん中のぞいても、真っ暗で何も……」
おれは興奮を抑え切れずに訊いた。
「どんな穴だ。どこに開いてた?」
「台所――みてえなところさ。家の奥のそこだけ、床がねえんだ。そのど真ん中に直径二メートルもあるでかいのがぽこりとよ。木の梯子がかけてあったぜ」
「夫婦はどうした?」
「最初からいなかったよ。家の中もなんかおかしな雰囲気だった。家具はそろってるんだけど、どれも使った形跡がねえんだ。それに、どことなく生臭え匂いが……」
「わかった。で、それからおめえはどうした?」
「二時間もたつと、どうしても我慢できねえほど怖くなってきてよ――何がでてきたわけでもねえ。あの家それ自体がおっかなかったんだ。あとで兄貴たちからヤキ入れられるのを承知で外へとび出しちまったよ。
後で考えると、あんな不様な話はねえぜ。後ろに誰もいるわけねえのに、追われてるみてえに夜道を突っ走ったんだからな。でもよ、深夜喫茶の灯りがみえたときは、心底ほっとしたわな。
黒沢さんたちにゃ悪ィが、その日はどうしても戻る気にゃならなかった。喫茶店で夜明かしして、次の日、そっと戻ったのよ。ところがおめえ、開け放して逃げたはずのドアがちゃあんとしまり、鍵までかかってるじゃねえか。昼ごろ出直してきて、近所の雑貨屋できいたら、朝、夫婦の姿を見かけたってよ」
五郎は肌に粟を浮かべていた。狸なみの頭にも、ようやく記憶と恐怖が舞い戻ってきたのだ。
「じゃあ、黒沢さんや兄貴たちはどこへ行ったんだ? おらあもう何が何だかわからなくなって、事務所へ帰り、ひとりでみなを待ってたのさ。そしたら、今日の朝刊にあの記事だ」
「……」
「もういけねえと思ったよ。事務所の地下にあらわれた化け物に、みんなやられちまったんだ。それで、こりゃ仇を討たなきゃならねえと……」
やくざって奴の、この辺の心理がおれにはよくわからない。口をはさんだ。
「また飯田橋に舞い戻って、様子をうかがってたわけか。せっかく助かった生命を粗末にする野郎だな。――話はわかった。こいつは何者だ?」
おれは倒れてるチンピラを指さした。
「別の組にいるおれの|友達《ダチ》さ。ひとりじゃ心細いんで助っ人を頼んだんだ。――なあ、教えてくれよ。あいつら一体何なんだ? 人間か、化け物か? 五人忍びこんだのに、死体は四つしかねえ。黒沢さんはどうなっちまったんだ?」
おれは無言で奴の手をはなした。
「これから確かめてきてやるよ。おまえは当分ここにいろ。一度拾った生命だ、ヘンな気起こして無駄に捨てるんじゃねえぞ」
三十分後、おれは相馬家の窓の下にへばりついていた。新建材の壁の向こうは台所のはずだ。明かりはついているが、人の気配はない。
時刻は九時ちょうど。闇のおちた通りに人影こそ絶えているが、近所の家からはまだ明かりが洩れ、夜は生気に満ちていた。夕食後の、お茶と果物とくつろぎの時間。脳にまわるべき血液が消化のため胃に集中し、思考と感覚が最も弛緩する時刻。密事はいま[#「いま」に傍点]成すに限る。
寝静まった深夜、人の家へ押し入るのはアマチュアのすることだ。いまなら通りでマグナム弾をぶっぱなしても、自動車のバックファイアーだと強引に精神が納得してしまうことを、おれは経験で知り抜いていた。宝の地図を失敬しに、他人の家へお邪魔したのは一度きりじゃないからだ。どこからともなく、クインシー・ジョーンズの「夜の熱気の中で」が流れてきた。風が吹いている。
おれは、背中にしょったキャリー・ケースからガラス切りを取り出し、窓ガラスを丸く切り抜いた。すぐさま、腰のウェポン・ベルトにくくりつけた麻酔ガス弾を投げ込む。
ガスマスクをつけ、きっかり十秒後、穴から手を突っこんでロックをはずし、窓をあけると同時に家の中へ忍びこんだ。
ガス弾を探す。
穴の縁におちていた。チンピラの五郎が告げた通りの、巨大な穴の縁に。
穴の周囲はコンクリートで固められていた。のぞきこむと五メートルほど下はコンクリートの床で、一方の壁に、横穴がうがたれている。
おれは、もう二個ガス弾をはずし、三個まとめて穴の中へ投げこんだ。八重洲大地下街全部を眠りにつかせるだけの分量である。
人の気配は感じられなかったが、念のため家の中を見てまわった。家具調度は整っていたが、生活の匂いを欠いているのは羅毛村の家と同じだ。奴らはもう地下にいる。
おれは上着を脱いでケースへしまった。
黒一色の戦闘服の上下になる。
ITHAの装備課が製造販売した品に手を加えたものだ。金属繊維とグラスファイバーをベースに、弾性物質を多量に使い、日本刀の一撃くらいなら皮膚へ届かない。45口径銃弾もなんとか食いとめるが、衝撃で肋骨の二、三本はへし折れるだろう。断熱、耐寒、保温、発汗吸収性も抜群だ。他にも色々仕掛けがあるが、なるべくなら使わずに済ませたいものだ。
ウェポン・ベルトには、M659やゾリンゲン・ナイフ等のおなじみの他、HK・G11|突撃《アサルト》ライフルの予備弾倉二個をテープでとめてある。形状が異なるため、ベルトのケースには収納できないのだ。あとはM659の予備弾倉三個と手榴弾三発。麻酔弾も三発補充する。
一個小隊ぐらいならゆうに戦える量だが、おれは不安だった。おかしな言い方になるが、武器の影が薄いのだ。虎狩りにいく直前、頼みの大口径ライフルが故障し、357マグナムあたりの拳銃一丁しか手持ちがないハンターなら、この気分がわかるだろう。
しかし、今さら中止するわけにもいかなかった。目の前にぽっかりあいた虚空の下には、いかなる量の黄金、宝石にも勝る宝が眠っているのだ。奴らが、「帰り道」を「つくって」しまう前にいただいとかなきゃ、トレジャー・ハンター八頭大の名が泣く。
梯子はまだかかっていた。
おれは突撃ライフルを肩に、頑丈な木の段を下りはじめた。この穴は明らかに、家を建てるとき「地下室」と偽った部分だろう。建設業者は首をかしげたに違いないが、もしかすると、精神コントロールを受けていたのかもしれない。
キャリー・ケースには照明灯も用意してあったが、横穴からは淡い光が洩れていた。奴らも、視覚だけは人間なみなのだ。やや気分が楽になった。
ガス弾はすでに放出をやめていた。
五感ばかりか六感までを緊張に張りつめながら、おれは穴の中に入った。
かなり広い。縦横ともに三メートルといったところか。四方の壁は土の層そのものなのに、支持構造の形跡すら見られない。
手近な表面に触れてみて驚いた。ガラスの手触りである。おれの溶解液もこうはいかない。土を掘り抜いたあとで、信じがたい技術をふるったのだ。相馬夫婦が? いや、ひょっとしたら、天人が。
十メートルほど進むと、道は急勾配になった。下り口のところの壁に、大型の照明灯がとりつけられ、赤いコードが傾斜の奥へと消えている。夫婦の買い込んだ大量の荷物とはこの照明灯とコードのことだろう。
耳を澄ませたが、物音ひとつしない。ガスは下まで侵入しているはずだ。
傾斜は百メートルほどつづき、さらに反対側へ向かっていた。ジグザグの行程である。垂直距離にして二百メートル下りた頃、さすがのおれも、こりゃ生半可なトンネルじゃないと察して、うすら寒くなった。
ようやく前方に新たな明かりが見え、別の横穴へもぐり込んだとき、それは確信にかわった。
だだっ広い広場だったのだ。
天井まで優に五メートルはある。三個の照明灯がかろうじて四方の壁を照らし出していた。前方には三つの穴が黒々とおれを招いている。すべて人工のものだ。
いくら相馬夫婦がエイリアンの子孫だとしても、たかだか一、二カ月で誰にも知られずこんな大工事を成し遂げられるはずがない。三百年前に「よだれ長者」がつくりあげたものだろう。できる。彼が天人とするならば。外宇宙から飛来したエイリアンならば。驚愕が言葉になって洩れた。
「どえらいものこさえやがって。こりゃ東京の下は蟻の巣だぞ」
地下室からつづく電気コードは、ここで三方にわかれ、壁づたいにそれぞれの穴の奥へと消えていた。
進むべき道はすぐわかった。真ん中の穴の奥だけ明るい。敵のお誘いだろう。それとも、地上の人間の動きなど気にもとめていないのか。
ともかく、ここに突っ立っていても始まらない。おれは、キャリー・ケースから引っぱり出した音響測定器で、それぞれの穴の奥を探ってみた。どれも、奥の方にかなりの枝道があるとわかったきりだ。
誘いに乗るしかあるまい。
おれはG11突撃ライフルを握りしめ、黒い洞窟へ足を踏み入れた。
トンネル自体はさほど怖くはない。三歳のとき、ティオティワカン遺跡の地下にひそむ大トンネルヘもぐってこの方、ヴェルヌの「地底旅行」そこのけの体験を、手指足指の倍ぐらいは経ているのだ。
問題は、これを掘り抜いた奴とその子孫である。人間の形をした人間以外のもの。人間社会の中に同居しながら決して消滅せず、一年がかりで甦った異世界のどす黒い心。
おれはふと、科学技術の高みと精神の深さに思いをはせた。知的とは、ロケットを月へ送ったり、核ミサイル・ネットワークを張りめぐらすことじゃないのだ。|宇宙植民地《スペース・コロニー》をつくり上げても、やがてはその中で殺人が起こり、人の血を要求する奇怪な宗教が誕生するだろう。おれになど想像もつかぬ方法で地球へやってきたエイリアンもまた、そのもつ科学技術と同等の精神の高みには到達していなかった。
だからこそ恐ろしい。
二十分も歩いただろうか。不意に、部屋みたいな空間へ出た。
奴らがいた。新宿の地下室で会った不死身の怪物どもが。だが、ガスマスクの下の頬が痙攣したのはそのせいじゃなかった。奴らは眠っていた。銃弾には平気でも、麻酔ガスは効いたのだ。
おれがあらためて闘志を奮い起こさねばならなかった理由は、この巣の光景だった。
壁には石づくりの「寝台」がはめこまれ、各々に腐りかけた綿布団がしかれていたのだ。巣の片隅には古い木箱を積み重ねたテーブルさえあった。いや、「寝台」の脇の窪みには、石の台と、どこの家庭の台所にも見られるステンレスの包丁さえ置かれていた。そして、血と脂のこびりついた金属製の皿までが!
あちこちに散らばっている生肉の破片や、奥の壁の前に積まれた人骨の山などどうでもよかった。
おれは夢中で、手近に伏せている怪物をあお向かせた。毛むくじゃらの顔に見覚えがあった。
羽山だ。
首筋の剛毛をかきわける。縫合の痕があった。
「フランケンシュタインの実験をなぞりやがったな」
おれはつぶやいて前進を開始した。足元がいやにふらついている。やくざなぞどんな目にあおうと構わねえが、縫いあわせた奴の実力が底知れないのは困りもんだ。
通路はまた細くなり、ゆるやかに下降していた。途中、いくつも枝道があったが、おれは照明の道標に従って歩いた。
奴らの巣とおぼしいものも眼についた。住人はみな昏倒していた。ガス弾に頬ずりしたい気分だった。
石造りの部屋も覗いてみた。
ひとつは「手術室」だった。わけのわからねえ機械らしきものと、血だの、薬品だのをいっぱいに満たしたビーカーや試験管で埋まっていた。木製のスイッチ・ボードみたいなやつもあったが、木部はすっかり腐り、使いものにはなりそうもなかった。手術台とメスやら鉗子やらの手術道具は現代の製品だったが、古い品ととりかえたのは、壁際の残骸から一目瞭然だった。
ここで人体改造手術が行われたのだろう。あの夫婦がそろって、羽山の首を化け物の体に移植したのだ。この地底王国を守る護衛兵をふやすために。
部屋は他にもあった。何やらわけのわからん液体の詰まった酒樽の貯蔵室、人骨の折り重なった牢らしき部屋――言いたくはないが、怪物どもの餌だろう。
そして、餌は現在も同じものなのだった。
黙々と歩くおれの前方に、広大な地下広場が口を開けた。その中央に見覚えのある巨体がならんでいる。今まで考えつかなかったのが不思議なくらいのものだ。
地下鉄だった。
丸の内線と千代田線の車体が数輌、壁の小さな照明が描く不気味な淡い光の輪の中に浮かびあがっている。
おれは周囲に気を配りながら近づき、内部を点検した。
どんな惨劇が繰り広げられたのか、ひと目で見当はついた。
怪物どもは地底を自在に闊歩し、餌を入手していたのだ。
恐らくは、人々を満載した通勤途中か、帰宅時の電車だろう。少しレールを曲げておきさえすればよい。
脱線転覆時に死んだものは幸福だったろう。奴らは、あの怪力で乗客ごと電車の車体をもちあげ、自らうがった横穴に引っぱりこんだのだ。
塞がれた穴の向こうの地獄図は、ズタズタに切り裂かれたシート、巻き散らされた血痕、車内と車外に四散する人骨が物語っている。まさしく、闇の奥から出現した地獄の生物と血の飽食絵巻だ。
足元におちているものを拾いあげる。
子供のランドセルだった。裏側が真一文字に裂かれ、教科書や筆入れが露出している。持つ手がふるえた。怒りのせいだった。
奴らは、「よだれ長者」につくられて以来、三百年にもわたって人間を貪ってきたのだ。「寛政奇譚」や「文化鬼書集」には、江戸の夜をうろつく幽霊や食人鬼の話が集められている。江戸の人々も知っていたのだ。
その瞬間おれは車内で凍りついた。
地下鉄の失踪は報道されなかったのだ――いや、報道はあった。事故によるダイヤの乱れという形で、先蔵爺さんの見たあの新聞に!
ふたつの考えが閃いた。当局は、地底の存在に気づいているのだ。奴らによる人間の捕獲は、この地下鉄だけだったろうか。
断じてちがう。
地下鉄ができてから、いや、この地下道ができてから、奴らはいくたびとなく地表近くまで忍びでてきたのだ。
当局はそれを知っていた。だからこそ、報道を変えたのだ。それまでは、ひとりふたりと小規模な失踪だったものが、ある日突然、数百名単位で勃発した。事実をもみ消すのに何十億円の金が動いただろうか。
ある考えが稲妻のように閃いた。
先蔵爺さんの切り抜きだ。
ひょっとしたら、先蔵爺さんの「やりやがった」は、こっちをさしていたのではなかろうか。
急に心臓の鼓動が早まりだした。
誰かそばにいる!
おれは素早く電車の床に身を伏せた。
嘲笑うような声が響いてきた。
「出てきたまえ。君はもう取り囲まれている。隠れても無駄だ」
窓からそっと覗く。
十メートルほど向こうにふたつの人影が立っていた。相馬夫婦だ。この異常な地底世界の住人にふさわしからぬ、ありふれたセーターとジーンズ姿が、かえって状況に悪夢のイメージを与えていた。
背後におびただしい影と真紅の眼。三百年の長きにわたって製造されてきた呪われた地底獣人たち。ふり返れば、後方の闇の奥にも血塗られた眼光が蠢いていた。包囲は完璧だ。
といって、ノコノコ出ていく馬鹿はねえ。
おれは窓からG11の銃身をつき出した。3に合わせたセレクター・レバーを1に戻す。|単発射撃《セミ・オート》用だ。0で|安全装置《セフティ》がかかり、3で3点|連続発射《バースト》、50で|全自動射撃《フル・オート》にうつれる。スコープ内の中心に相馬の額をポイントし、おれはガスマスクをはずして声を張りあげた。
「こっちはスコープでてめえを狙ってるぞ。動くと撃つ。その化け物どもを引っこめろ」
ふたりは顔見合わせて嘲笑した。
「撃ちたければどうぞ。絶望に苛まれるだけだがね。おかしなガスなど使うから、どんな相手かとここまでお招きしたのだよ。このあいだやってきたチンピラやくざの仲間ではあるまい。顔ぐらい見せてはくれないか」
「何もしないと約束するか」
別に、いい返事など期待してはいない。おれはG11の狙いを崩さず、素早くキャリー・ケースをおろした。女房の方が応じた。
「あなた次第よ。わたくしたちの質問に答えてくれれば、無事に地上へ帰してさしあげるわ」
上品な笑みに支えられた穏やかな声だった。
「取引といこうじゃねえか」とおれは声をかけた。「こっちはある品が欲しいだけだ。あんた方のやってることを誰にも言わねえ代わりに、ひとつ譲っちゃくれないか?」
言いながら背後にも目をやる。獣人に動く気配はない。糞ったれ夫婦の命令で動くだけのロボットだ。せっせと左手を動かしながら[#「左手を動かしながら」に傍点]、おれは気分が悪くなった。
「ある品とは何だね? ――それと、私たちのしている事とは?」
亭主の声に異様な威圧感がこもりはじめた。おれはズバリ指摘してやった。
「おまえたちのケタクソ悪い先祖がもってたもンさ。空気から黄金をつくり出す機械だ」
沈黙がおちた。夫婦は顔を見合わせもしなかった。同じことを考えていたのだ。おれの処分を。女房が笑みを崩さず言った。
「そこまで知られているんじゃ、隠すこともないわね。とにかく話し合いましょう。出てらっしゃらないこと?」
「よし。――お伴を遠ざけろ」
女が手をふった。黒い影はゆっくりと四、五メートルほど後退し、立ちどまった。
ここが潮時だろう。おれはケースを背負いなおし、G11を構えた姿勢を崩さず外へ出た。電車から五メートルほど進んで立ちどまる。敵まで三メートル強だ。
夫婦はおれを見て、ほおっという表情をつくった。まだ地球人らしさは名残をとどめているようだ。
「やはり君か。すると、あいつはしくじったわけだな[#「あいつはしくじったわけだな」に傍点]。――まあ、いい。一体何者だ。武器からして警察関係じゃあるまい。自衛隊か、諜報組織のものか?」
「こんなまずい面をご存じとは光栄だな。残念ながら、ただの宝探し野郎さね」
「宝探し――? 冗談は……」ここで何か考えるふうに「――そうか、あの老人もそう言った」
やはり、先蔵爺さんはここまで来ていたのだ。
「わかったようだな。さ、質問てな何だい?」
「あなたの正体と、私たちのことを本当はどこまで知っているか、ね」と女房がいった。
こんな場所で、こうはっきり切り出すようじゃ、おれを帰すつもりがないのは明々白々だ。何と答えても同じことだろう。
おれは宝探しのハンターさ。
「おれは宝探しのハンターさ」
よだれ長者の地所の地下に、おかしな機械があって、怪物が守ってるというから探しにきたんだ。
「よだれ長者は宇宙人だという証拠を羅毛村でにぎり――」
ちがう! 声が本音を吐いてやがる! でたらめを言って、奴らを安心させるつもりだったのに。しかし、おれの口は勝手に動いた。
「――お前たち子孫が、地下で『帰り道』とやらを『つくる』と聞いた。多分、故郷へ帰る気なんだろう。その前に、お宝はいただかなくっちゃな。それに、この地所を手に入れるため爆死させたおっさんや羅毛村の人々の仇も討つ」
声はとまった。おれ以外のものの意思で。忘れてた。精神コントロールか! おれは唇を噛んだ。
「十分ね」と女房がいった。笑いは消えている。
「十分だ」と夫が答える。
「殺せ」
周囲の獣たちが輪をせばめはじめた。
「銃をおろしなさいな」
おれは従った。
後方で空気がざわめいている。獣人たちが電車に乗る気配があった。逃げ込むのを防ぐためだろう。
女が手をふった。
獣人の輪が前後左右からせばまる。
次の瞬間、おれは口の中にたまった血を吐き出しざま、地に伏せた。左手を後方へのばす。隠しもった磁気発火装置の信号を受けて、地下鉄の車内にばら撒いておいたプラスチック爆弾が次々と炸裂した。
闇は紅蓮の炎に呑まれ、大音響が地底の静寂をゆるがした。空気がふるえ、天井の土砂と電車の破片がバラバラと降りそそぐ。怪物のかけらもあったろう。良心の呵責は感じなかった。いまのこいつらは血に飢えた野獣に等しい。
精神コントロールにかかったと察したとき、おれは文字通り唇を噛みちぎったのだ。激痛が支配されかかった精神を覚醒させてくれた。
G11ライフルのレバーを3に切り替えざま一気に立ち上がったとき、右往左往する怪物たちの混乱とどよめきの中に、「殺せ!」と叱咤がとんだ。
夫婦は立ったままだった。さすがエイリアンの子孫。
おれは亭主の顔面へ三点バーストを叩きこんだ。四・七ミリとはいえ、拳銃弾とは桁ちがいの高速カートリッジを至近距離で食らってはたまらない。亭主の顔は唇から上がきれいに四散した。
四方から獣人が殺到してきた。前と左右の三頭の頭を吹っとばしてから、おれはなお炎に包まれている地下鉄の車体へとダッシュした。走りながら戦闘服の手榴弾をはずし、フードを顎まで引っかぶる。眼の部分には特殊レンズ、口には簡単な濾過装置がついていて、呼吸には困らない。
炎の中にとびこみざま、おれは前方の包囲網へ手榴弾を投げた。プラスチック爆弾より重々しい衝撃がつづき、一角が崩れた。左右で車体の炎がうずまいているが、耐熱加工の戦闘服はびくともしなかった。獣人たちも近寄ってはこない。
一気に駆けおり、突破をはかった。あわてて追いすがってくる連中を確実に三点バーストで仕留めてゆく。半分は銃のおかげだ。毎分二千発の発射速度ともなると、反動は弾丸がとび出した後でやってくる。あの怪力と牙につかまったら終わりだから、一匹も仕損じなかった。
前方に通路の入り口があった。もう一発背後へ手榴弾を投げて追撃をふり切り、おれはそこへとびこんだ。
前とそっくりの通路だった。
背後から野獣の足音とうなり声が追ってくる。意外な速さだ。背から吹きでる汗がみるみる冷たくかわっていく。
G11をフル・オートに切り替え、ふりむきざま乱射した。高速弾のインパクトを受けた野獣たちの最前列がはじかれるようにすっとび、後ろの連中にぶちあたって前進をとめた。
それも束の間だった。胸や腹をおさえながら起き上がってくる。こいつらを仕留めるには脳味噌を粉砕するしかないのだ。
四秒ほど撃ちつづけると五〇連の|無薬莢《ケースレス》弾倉はたちまち空になった。詰めかえてる暇はない。おれは右腰のコンバット用ホルスターからM659を抜いて走りだした。
どこをどう走ったのかわからない。やみくもに枝道へとびこみ、傾斜を下り、あるいは上り、奇怪な部屋を通り抜けた。
足音はなおも追ってくる。
一時間近くあちこち走りまわった挙句、おれはついに通路の一角ではさみうちにされた。
左右から巨体が突進してきた。
M659に込められた炸裂弾に頭部を砕かれてのけぞる。ヒンクリーが使ったような安物じゃあないから当然だが、あまりの威力に残りの怪物たちはその場に立ちすくんだ。少しは知能的らしい。
しかし、それも束の間だった。再びじりじりと接近してくる。形容し難い腐臭がただよってきた。
おれは無意識に手榴弾をさぐった。二発しか残っていない。これで敵中突破など不可能だ。全身を噛み裂かれるみっともない姿が浮かんだ。それでもおれは、前方の怪物どもに手榴弾を投げつけた。
一頭が腕をふり払った。奴らの真ん中へ落ちるはずの手榴弾は空中ではね返され、おれから三メートルほど離れた通路の壁際へころがった。
戦闘服を着ていなかったら、いくら頭をかかえて伏せても、石や手榴弾の破片か爆風でやられていただろう。
壮絶な轟音と衝撃が収まったとき、起き上がったおれの眼の前には、もうひとつの通路が口を開けていた。
土壁の向こうに、吹きとばされたコンクリートの壁面がさらけ出されていたのだ。それどころか、地下トンネルとは比べようもない量の光が皎々と流れこんでくる。
理解不能のまま、おれは救いの道へ駆けこんだ。
こっちは人間の手になる新しい通路だった。縦横ともに五メートルはある。頭上を何本もの鉄パイプが走り、遠くで警報が鳴っていた。右手の奥で靴音が入り乱れた。
おれはとっさに左手の方角へ走った。
ふり返ると、怪物たちも通路に侵入したものの、今までとは桁はずれの光量に圧倒され、眼のあたりを押さえてうろうろしている。そこへ、ガードマンみたいな服装の連中が駆けつけてきたからたまらない。
「な、なんだ、こいつらは!」
「化け物だあ!」
絶叫につづいてサブ・マシンガンの連続音が鳴り響いた。怪物たちは新しい相手を見つけたのだ。
おれはすでに通路の曲がり角にさしかかっていた。
前方から足音が響いてきた。三、四人だ。隠れる場所はない。壁に身を寄せ、タイミングをはかって一気に通路の真ん中ヘダイブする。
先頭のふたりがひっかかった。悲鳴をあげて転倒するのを尻目に、おれははね起きざま、棒立ちになった残りふたりの手近な方を、G11の銃床でやさしく[#「やさしく」に傍点]張り倒し、あわててマシンガンを向けた残りのひとりへ体当たりをくわせた。つんのめる脇腹へ右前蹴りを叩きこむ。そいつが地面へぶっ倒れる前に、おれは先にひっくり返ったふたりへM659の銃口を突きつけていた。駆けてきた方を指さす。
「早くいってやれ。仲間が苦戦中だぜ」
「な、何者だ、貴様?」
「余計なこと気にするな――来やがった!」
黒い、毛むくじゃらの巨躯が角を曲がってきた。口と爪が真っ赤に濡れている。
ふり向いたガードマンが悲鳴をあげてマシンガンを構えた。
おれは一秒とかからぬ三連射で三頭の頭部を四散させた。こんな騒ぎを巻き起こしたせめてもの罪滅ぼしだ。ガードマンたちも、次々に現れる強敵に向かって必死の乱射を開始した。
「頭を狙うんだ! そこしか効かねえぞ」
おれはわめきながら、ぶっ倒したふたりのガードマンに活を入れていった。
正気に戻ると、眼の前にギォオーと怪物が立ちふさがっている。ガードマンはおれに構うどころじゃなかった。四人いりゃなんとかなるだろう。通りの向こうの銃声も勢いを増しつつあった。増援が駆けつけたらしい。
おれは再び通路を疾走した。
二、三百メートル走ると、突きあたりに階段とエレベーターがあった。エレベーターの前に、数人のガードマンとスーツ姿の男たちが立っていた。
その刹那、このトンネルの正体が脳裡に閃いた。
「止まれ!」おれの姿を見たガードマンが叫んだ。おれは足を止め、両手を高くあげた。三人のガードマンが駆け寄り、おれを壁際へ連行して両手を壁につかせ、武器を奪いとった。
フードもはずされた。水際だった手並みだ。装備からして民間のガードマン風情じゃあるまい。激烈な訓練を受けたプロだ。両手の拳だこ[#「拳だこ」に傍点]が証拠である。
ガードマンの静止をふりきってスーツ姿のひとりが近づいてきた。いちばん小柄だが、残り三人には一人のガードマンしかついていないのに、この男だけは、屈強そうなのが両脇をかためている。
「おかしなところで会うね」とそいつは言った。「だが、ここに宝物はないよ」
おれは苦笑いしてみせた。
「詳しい話は勘弁してくれよ。寄付を増やすからさ――総理」
首相官邸にまつわる伝説に、官邸で殺害された総理はいない、というのがある。
事実、その通りで、五・一五事件、二・二六事件、終戦日等のクーデター、暴動時にも、首相官邸で襲われた首脳陣に死者は出なかった。
ま、これだけじゃ伝説にならんもんで、その後に、実はクーデターに備え、永田町の首相官邸には、秘密の地下トンネルが安全地帯まで掘り抜かれている――という尾鰭がつく。
おれが逃げこんだのは、まさしく、その非常用脱出トンネルだったのである。しかも折り良く、定期的に行われる首相自らの脱出演習にぶつかっちまったのだ。それにしても、飯田橋から永田町までよく走りまわったもんだよ。時計をみたら午前二時すぎだった。こんな時間に脱出訓練てのもヘンだが、閣議が長引いたんだろ。
ガードマンども――正体は内閣諜報室直属の護衛隊――は、おれを連行して正体を究明すると息まいたが、なにせ、この総理が当選したのは、巷で噂されてるような某大物の資金力ではなく、おれの寄付のおかげだから、彼は首相命令でこれを拒否、じきじきに諜報室へ連絡をとり、十分とたたぬうちに自由の身にしてくれた。
怪物とガードマンとの戦闘の結果も、トンネルの破壊口がどう処理されたかも知らぬまま、おれはトンネルの出口――遺憾ながら場所は内証だぜ――から、総理さしまわしのリムジンで六本木のマンションヘ直行した。
完全な負け戦である。
黄金製造機――元素変換マシンとでもいうのかな――を手に入れるどころか、そのありかさえわからず、トンネルを走りまわっただけで初戦を飾ったのだ。
もう飯田橋の地下通路は閉鎖されているだろうし、さっき吹っとばしたトンネルの破砕口だって、政府筋が絡んじまっちゃのこのこ利用しに行くわけにゃいかない。
あれだけ広いトンネルだ。どこかに別の出入り口がありそうだが、それに関する手掛かりは、ゆきが逐語訳を依頼したあの古本だけである。
マンションにゆきの姿はなかった。
驚いたね。室内で死のうと生きようと自由だが、外へだけは出られないようコンピューターに命じていったのに、このざまだ。密室から消えた悪たれ美女――まるで推理小説やんけ。
しかし、謎はコンピューター連動のVTRカメラがあっさり解決してしまった。モニター・スクリーンには、なくしたはずの「指輪」を使ってドアをあけるゆきの姿が映しだされたのだ。
「あの根性悪――飯田橋でつかまったときに失くしただと!」
わめいても仕様がねえ。おれは、ゆきの持ち出したものはないかチェックした。武器庫から、コルト・パイソンの二インチ|銃身《パレル》モデルと、弾丸二ケース計百発、手榴弾五発、金庫から現金百万円がさよならしていた。
原因は言うまでもない。漢文の教師と連絡をつけやがったのだ。恐らく、おれに言った教師の出張など嘘っぱちで、とうの昔に訳は完成していたにちがいない。で、受け取りにいったのだ。
カメラ・モニターによると、昨日の午後六時三十二分――おれの外出後三十分足らずでお出掛けになっている。そして、まだ帰っていない。
「なんかあったな。あの本で別の入り口でも見つけたか? それとも……」
わからない。確かめる手だてはあった。こちとら、現代メカの申し子だい。
カメラを戻し、ゆきが出掛ける前にセットすると、案の定、興奮した様子で電話をかけてやがった。音声も再生し、青山というその教師の家で会うことにしたとわかった。訳もできてるようだ。
幸いなことに、場所を記憶するため、いちいち声に出して確認している。杉並の浜田山にある浜荘とかいうぼろアパートの二〇一号室だった。
ふと気になって、おれは電話を入れてみた。電話線もコンピューター末端のひとつなのだ。
あの女、訳を手に入れるためとはいえ、おかしな手段をとらなかっただろうな。そういやあの教師、青っちろいくせに、助平ったらしい眼つきでゆきの身体をみてた。ああいうのに本物の色気違いが多いのだ。かといって、嫉いてるわけじゃない。
話し中だった。夜中の三時すぎだぜ。不吉な予感がおれの背中を指先でこすった。
「くそったれ、何の因果で。もう、ヘトヘトなんだぞ」
わめいてもはじまらねえ。おれはM659だけを身につけて駐車場へ下りた。
フェラリは飯田橋へ置きっぱなしなので、アストンマーチン・ラゴンダを選んだ。V8・5341CC・最高速度225キロ。加速と操作性でややフェラリに劣るが、いったん走り出せば、その辺のスポーツ・カーじゃあらゆる点で太刀打ちできまい。
午前三時の道路をとばしにとばし、三十分ちょっとで浜田山に着いた。井の頭通りを左に折れ、一、二分チョロチョロ進むと鉄筋のマンションが目についた。まさか、ここじゃあるまいと眼をこらしたら「浜荘」のネーム入りプレートがかかっていた。
古いがなかなかしっかりした造りだ。数えたら八階建てだった。ひとつをのぞいて窓の明かりは消えている。二階のはじをのぞいては。不吉な予感がにぎり拳で背中をこづいた。
おれは外の非常階段をのぼってその部屋の前に立った
二〇一号・青山喜一郎
スチールドアのノブをまわす。鍵はかかってない。
そっと押して入った。八畳ほどのキッチンだった。よく整頓されてる。男のくせに陰険な証拠だ。おれは靴のまま、足音を忍ばせ、急いで台所を横切った。かぎなれた匂いが鼻をついたからだ。仕切りのガラス戸が開き、奥の部屋にも明かりがついていた。
十畳ほどのワン・ルームの端にでかいダブル・ベッドが置かれ、その上に、想像通りのものが横たわっていた。大の字になった若い男の死体だ。見覚えがある。青山喜一郎だろう。
紺のナイトガウンの左胸にばかでかい血の花が咲き誇り、身体の下のシーツにはもっと巨大な花弁が開いている。
倒れた角度と弾痕の位置からして、ベッドのふちあたりに腰かけてたところを直撃されたのだ。ガウンの焼けこげ具合は、かなりの巨弾が侵入したことを示している。357マグナムか。二メートルの距離から心臓を一発――ゆきならやれるだろう。
ベッドの横に丸テーブルが倒れ、ウイスキーの瓶やグラスが散乱していた。電話機もひっくり返っていた。踏まないよう気をつけながら、ベッドとは反対側の隅にある書机にむかう。
十分後、おれは車の数もまばらな井の頭通りを疾走していた。
手袋をつけて家中ひっくり返したが、逐語訳の原稿も古本も発見できなかった。
ゆきが持ち去ったのか。
何が起こったのか想像はつく。夜、女の教え子を独り住いのアパートへ呼びつける野郎のすることだ。酒をすすめ、礼金の他にも要求をだしたのだろう。ゆき自身を。で、争いになり、逆上したゆきがパイソンで一撃した――妥当な図式だ。
しかし、本当にそうだろうか。
血の気は多い。悪態はひと一倍。腕っぷしもたつ。しかし、やさしい子だ。いやらしいくらいの理由で人を殺すだろうか。第一、あんな青びょうたん、廻し蹴り一発でKOできるはずだ。じゃあ、誰が? ゆきはどうなった?
頭の中は五里霧中のまま、おれは六本木へ帰りつき、シャワーも浴びずにベッドへぶっ倒れた。
闇の奥から獣人が迫ってくる。口にゆきの生首と地下鉄のミニチュアを食わえていた。そいつはおれの眼前へくると、なんとも可愛らしい声で吠えついた。ドアのチャイムそっくりの声で。
重い瞼の間から光がさし込んでくる。おれは眼をさまそうと努力中だった。
チャイムが鳴っている。押し売りでもあれほどしつこくはあるまい。おれのチャイムに怨みのある野郎のしわざだ。
指先まで重く、モニターで確認するのも面倒だった。電子時計は午後二時を告げている。押し売りだったら一発かましてやるつもりで、玄関へ出た。
そのまま直接ドアをあけないのが十八年間の成果といえばいえるだろう。
インターフォンのスイッチを入れ、誰でえ? ときく。
「吹留校の矢島だ。開けたまえ」
居丈高な答えが返ってきた。全情熱をおれの放校処分にそそいでいる古文の教師だ。無断欠席が長いから難癖でもつけにきたのだろう。ちょうどむしゃくしゃの真っ最中だ。面白え。
おれはそれでもガード・ミラーを覗き、奴がひとりきりなのを確かめてからドアを開けた。
「なんですか、先生」
まずは下手に出た。
「なんですかじゃないよ、ひとりかね?」
矢島は細い眼を巧みに入り口の奥へそそぎながら言った。
「ええ。ご存じでしょうけど、僕には両親も親戚もいませんし……」
「そんなこと知っとるよ。私の頭は伊達についてるんじゃないからね。君、ここ四、五日、無断で欠席してるじゃないの。電話連絡くらい入れなさいよ」
「はあ。でも、よく担任でもない先生がご存じですね」
矢島は鼻を鳴らした。
「君のことなら大抵はね。少々の寄付で学長を丸めこんだらしいけど、いい気になるのも大概にしたまえよ。君みたいな不良生徒を締めだそうとしてる良心的教師は、私ひとりじゃないんだ。生徒の分際で学校を私物化したなんて自惚れてると泣きをみるよ」
おれは胸の中でほおと感心してしまった。
この野郎、今日は本気で喧嘩を売りにきたらしい。これまでは、熱血教師どもが集まって隠密行動をもっぱらにしてたのに、突如、正面攻撃を挑んできやがった。なんか掴んだな。ちょっぴりスリルも味わえそうだぞ。嬉しくなってきやがる。
おれは闘志と喜びを抑えつけ、あくまでも優等生の仮面をつけたままきいた。
「そんな……怖いな、いきなり。今日の矢島先生って別人みたいだ――で、僕にどうしろというんですか? ご用件をおっしゃって下さい」
矢島の両眼に陰惨な光が宿った。昔のナチスの指導者の眼もこれと似た光を常にたたえていたにちがいない。もっとも、スケールと格が異なるが。
女みたいな細い手が、ビニールのブリーフ・ケースから一枚の書類をとり出し、おれに突きつけた。
「退学届――そんな。理由を教えて下さい。理由を」
おれは内心舌なめずりしながら哀れっぽい声を出した。矢島はますます図に乗った。
「黙って必要事項を書き込み、明日の昼までに提出したまえ。そうすれば、すべては穏便に収まる。金権学長、それに君との癒着が眼に余る教師陣にも、同じく学舎を去ってもらうがね」
「そんな。できません。理由をきかせて下さい」
勝利の快感と自信が矢島の口を軽くしていた。マンションの廊下にいることも忘れ、こう口を切った。
「校医の松宮先生が我々に協力してくれたのだよ。君の脅しに負けて、偽の死亡診断書を作成したと告白した。これだけでも十分に退学の理由になる。犯罪だからね。しかも、先生の勇気ある告白によって、学長・教頭以下の収賄行為も明らかになった。神聖なる学舎を汚染する元凶どもは、来週にでも教育委員会へ呼びつけられ、呉越同舟に首を切られるだろう。むろん彼らの黒幕たる君の退学処分は動かないところだ。しかし――」
矢島はひとつ咳払いしてケースから別の紙をとり出した。
「君の行為は許すべきではないが、それにより、わが校が幾分なりと設備、財政とも潤沢になったことは否めん事実だ。そこでだな――この紙に、君が寄付した機材設備などなかったと署名捺印してもらいたい。つまり――」
つまり、そうすれば、不良学生の寄贈になる汚れた設備を、道義的に返還しなくても済むわけだ。大した熱血教師がいたもんだぜ。どうせ、校医だってみなで吊るしあげ、罵倒し、正義の名のもとに精神的私刑を断行した挙句、証言を引き出したに決まっている。
おれは黙って二枚の書類を受けとり、矢島の鼻先で引き裂くや、まるめてやさ男面に叩きつけてやった。
「き……貴様あ……」
みるみる形相が激怒のそれにかわっていく。殴りかかってくりゃ正当防衛で半殺しと期待したのだが、矢島はなんとか自制心を取り戻しちまった。
陰火のような眼でおれをねめつけ、
「忘れるな――貴様。餓鬼だからって手加減はせん。刑務所へぶち込んでやる。貴様のような奴は、洗えばどんどん|前科《まえ》がでてくるんだ」
まるでやくざの台詞だ。
一発かましたろうかと前に出かかったとき、横あいから、世にも愛くるしい声がおれの名を呼んだ。
松田征子が立っていた。両手の上に、モニターで見た赤い紙包みが載っている。
自動的に笑顔をつくり、おれは唖然たる表情の矢島の方を指さした。
「あ、これ、ボクの学校の先生――ちょっと用があってね」
「ずいぶん待ってたんですよ」
と征子ちゃんはうらめしそうな表情でいった。くくー。ざまみやがれ、ひろみに朝塩。退学なんざ糞くらえだ。
「あたし、前から八頭さんのこと好きだったんです……」
矢島とやり合ってたせいで、この超アイドル歌手が、第三者のいる廊下のど真ん中でこんな告白するのを、おれは不思議と思わなかった。征子ちゃんは包みをさし出した。
「これ、あとで召し上がって下さい」
このとき、矢島は仏頂面で帰りかけていたのだが、なに思ったのか、いきなり横あいから手をだし、包みをひったくった。
「あっ……」
「何しやがる」
おれがとびかかるより早く、包みは矢島の足元に叩きつけられた。
「この野……」
おれの悪罵はそこで止まった。
矢島の両眼がカッと見開かれた。
せいぜいクリスマス・ケーキひとつ分くらいの大きさの包みから、びゅるると音をたてて巨大なハサミが四本、いちどきにとび出してきたのだ。どれも四、五十センチはある。
目にも止まらぬ一撃が矢島の足を襲い、ふくらはぎのあたりで、ジョキンとやわらかいものを断ち切る音がした。
鮮血がとび散った。
金切り声をあげて、矢島は床に倒れた。血を噴く足をかばうのも忘れ、必死に包みから遠ざかろうとする。
おれは征子を見た。生気を欠いた、どこかうつろな表情が惨劇を凝視していた。いくつかの思考が、ほとんど同時に頭骸で炸裂した。
精神コントロールだ! 昨日、あの地下で相馬は言った。「あいつ[#「あいつ」に傍点]は、しくじったわけだな」と。征子はすでに操り人形化されていたのだ!
記憶は新宿の地下にとんだ。実はあのとき、おれとゆきは相馬夫婦につけられていたのではなかったか! 邪悪な作業にいそしむ彼らは、そっとマンションに忍び入り、おれが一番油断しそうな征子の精神を呪縛し、とんでもない土産をもっておれを訪問しろと吹きこんだのだろう。
包みは本性を現していた。
底の部分を破って、二本のイソギンチャク状の「足」が出現し、地上四十センチほどの高さに「立ち上が」ったのだ。羅毛村のやつ[#「やつ」に傍点]とはまた違った「番犬」か「兵器」だろう。血に飢えた異世界の化け物だ。
血の匂いを嗅ぎつけたらしく、そいつは思いがけぬ速さで矢島の方へ走り寄っていった。熱血教師の悲鳴が廊下にこだました。
だが、矢島の喉元へ突きたてられるはずのはさみは、凄まじい火花とともにつけ根から吹きとばされていた。
昨日の疲労困憊ぶりに礼を言うがいい。おれはM659をつけたまま眠ってしまったのだ。炸裂弾をこめた拳銃を。
二、三発目の連射でもう一本のハサミが砕け、包み紙が四散した。カニの甲羅と爪ふたつの硬そうな胴体部がのぞく。真ん中からつきでた三個の残忍そうな眼が、はったとおれをにらみつけた。炸裂弾をくらったはずなのに、甲羅にひびが入った程度だ。
べたべたべたっとおれめがけて前進してくる。こら、早いわ。
胸のあった位置でジョキンと噛み合うハサミの音に肝を冷やしながら、おれは横っとびに廊下へ伏せ、まばたきする間に五連射を放った。
奇怪な全身から火花と肉片が噴き上がり、ハサミがひとつはじけとぶ。手榴弾三個に相当するインパクトを受けて平気な生物など存在するわけがない。その例外をおれは見た。甲羅をほぼ真っぷたつに裂かれ、紫色の血潮(だろう)をしたたらせつつ前進をやめぬカニイソギンチャクを。
「わわわ」
と銃を向けても無駄なのはわかっていた。遊底は|後退《ホールド・オープン》したきり、残弾なしを告げている。トンネルで消費した分を足してなかったのだ。
身をひねった刹那、頬の横手をハサミがかすめた。まだ運は尽きねえらしい。
はね起きざま、おれは夢中で部屋の中へとび込んだ。こんな化け物相手にゃ、超科学兵器しか通用しねえ。
おれを追って廊下をすり寄ってくる化け物の甲羅に、ぼっと小さな穴があいた。二メートル先からでも周囲が黒く炭化しているのがわかる。立花と五郎の襲撃を防いだレーザーが、またも任務を遂行したのである。
しかし、そいつは一瞬身体を震わせただけで平然と向かってきた。おれは逆上した。
「撃て撃て撃て!」
金切り声に、レーザーの照準・発射を司るコンピューターが応じた。無色透明のレーザー・ビームはまたたくまにカニイソギンチャクを蜂の巣に変えた。
「うわ、まだ生きてやがる!」
半ば感心の気もある悲鳴のまん前で、大バサミが持ちあがった。逃げる余裕はなかった。
だが、異世界の妖獣は、すでに力尽きていた。ハサミが力なく廊下に垂れ、硬い音をたてた。てらてら光る足から紫の液体が噴き出し、足ばかりか硬質の身体まで収縮していった。
崩壊は数瞬のことだった。一メートルとはなれていない床にわだかまった濃密な液体には目もくれず、おれは部屋をとび出し、もとの位置に突っ立ったままの松田征子に駆け寄った。白痴面の頬っぺたを思いきりひっぱたく。痛そうな顔もしなかった。四発目でようやく眼に表情が湧いた。ほっときゃ、そのうち羅毛村の連中みたいにコントロールも解けるだろう。抱き上げて彼女の部屋へ送り届けようとしたとき、
「い、痛い……助けてくれ……」
そうか、あいつがいやがった。
どちらかというと、あっちの方が重傷だな。おれは征子ちゃんをその場に立たせ、右脚をおさえてうめいている矢島に近づいた。床は血まみれ、のっぺり顔も涙と汗でぐしゃぐしゃだ。血の気を失ってるのは、出血多量のせいだけじゃあるまい。
「かすり傷だな」おれは嫌味たっぷりに言った。「あの娘を部屋へ運んだら医者を呼んでやる」
「やめてくれ。嫌がらせをするな。こんなに血がでてるじゃないか。……ああ、身体も冷えてきた。今すぐ医者をよんでくれないと死んでしまう。き、君は先生を見殺しにする気か?」
「すぐ退学届を書くよ」奴の太腿をこれも奴のベルトできつく締めながらおれは言った。傷も出血も大したことはねえが、本人は致命傷に思えるんだろう。二階の医者に見せりゃ五分で治療してくれるよ。
「もう、いい、退学届など書かんでいいから。早く、早く医者を呼んでくれ」
矢島は冷や汗をまきちらしながら哀願した。
「あんな、あんな怪物が関係してるとは思わなかった。君みたいな生徒のいる学校にはもう勤めていられん。私は本日限りで職を辞す」
「あんたの方が退学するのか」おれはもうひといじめすることにした。「だが、この出血で字が書けるかな?」
矢島は死人の表情になった。うわごとみたいに、「まだだ。まだ間に合う。いま、医者を呼んでくれれば……頼む、助けてくれ」
泣き声だった。まだ当分来そうもない「死」が、こいつには眼の前に見えるのだ。
「何でもいうことをきく。いいものもあげる。か、鞄の中に昔の古文書があるんだ。宝の隠し場所が書いてある。本当だ。頼む、医者を、医者を、早く……」
「そうかい、そうかい。まあ、気を確かにもてよ――ほうら」
おれは泣き叫ぶ矢島を背負い、立ち尽くす征子の手を引いてエレベーターへ向かった。
[#改ページ]
8 呪われた手記
困ったもんだ。手の打ちようがない。
矢島を医者に預け、征子を自室へ連れ帰ってベッドに寝かせてから、おれは|自動清掃器《オート・クリーナー》で廊下の血と紫の液体を洗い流し、玄関も掃除し、ついでに頭を抱えた。
相馬夫婦の刺客は撃退したものの、いつなんどき、アタック再会とくるかしれたもんじゃない。
ゆきのことも気がかりだ。テレビをつけても青山教師射殺事件の報道はない。まだ死体に気づかぬままなのだ。おれには知らせる義務もないが、ゆきが殺ったかどうか気にかかる。
それにしても、何処へ行きやがったのか。よだれ長者の資料を読み返しても、新しい事実は浮かんでこなかった。
その子孫は、今も地下トンネルの何処かで、おれたちには想像もできない作業にいそしんでいるのだ。
それ自体はどうでもいいが、元素転換装置はどうなる。
ある筋から内謀の方に探りを入れてみたら、あの破砕口は、いつのまにか外から[#「外から」に傍点]塞がっていたという。飯田橋の家も同じだろう。溶解液でごり押しする手もあるが、下にゃ奴ら[#「奴ら」に傍点]と新種の仲間がぱっくり口をあけて待っているはずだ。
お手上げですな。
しゃくにさわるから、朝塩の多古砂部屋と業ひろみのプロダクションに電話を入れ、征子が急性脳膜炎でひっくり返ったから見舞いにくるようにと、同じ時刻を指定してやった。
デブとやせ鉢あわせの図を想像すると少し気が晴れたが、所詮はその場しのぎのアスピリンだ。五分もたたないうちに不安が昂じてきた。泣き叫ぶゆきの白い身体に群がり、鋭い牙で食いちぎっている獣人どものイメージが、異様な明晰さで浮かんでしまうのだ。
他人の身を案じることが、こんなにも精神を脆弱、不安定にするものとは思わなかった。あの|厄病神娘《カラミティ・ジェーン》! 平気で臓腑をえぐる悪態をつき、人をペテンにかけ、必要とあらば色仕掛けでにじりよってくる女子高校生。
ほっておけ、と心のどこかが冷ややかに命じた。おまえは今度も裏切られたんだ。奴はまだ現代語訳ができてないとおまえを偽り、こっそりとそれを受けとって姿を消した。何もかも独り占めにするためだ。そのせいでどうなろうと、それは自業自得というものだ。おまえに責任はないさ、ほっておけ。そんなことより、元素転換器のことを心配しろ。
そうとも。別のおれがおずおずと答えた。まさにその通りだ。だが、そうもいかんのだよ。
心がまとまらず、おれは居間の長椅子にぶっ倒れた。テーブルの上のブリーフ・ケースに目をとめ、ひっつかんで壁へ叩きつけた。衝撃で止め金がはずれ、中身が四散した。手帳やら出席簿やらと一緒に白い紙がぱさりと絨毯の上へおちた。
おれは身を起こし、紙束――原稿用紙を拾いあげた。
ケースは矢島が残していったものである。廊下を清掃後に持ってきといたのだ。確か、中に宝の隠し場所を書いた古文書があると言っていたな。
焦慮と絶望に苛まれながらも、トレジャー・ハンターの好奇心が動いた。
おれはさほど期待せず、クリップでとめられた原稿のタイトルに目を通した。
「医師良順堂之覚書」とある。
文章に移ったとたん、おれは全身が緊張するのを覚えた。
いのいちばんに「桐屋」の文字がとびこんできたのだ。あの日本橋の大店か!
三十分後、おれはアストン・マーチンを駆って、夕暮れが静かにおちはじめた高速環状線を猛スピードで疾走していた。
時間は四時ちょっとすぎ。あと三、四十分もすれば帰宅のマイカーで身動きとれなくなる高速も、百七、八十でぶっちぎりのできるくらい空いている。
助手席のキャリー・ケースには、先夜の戦闘兵器と、この事件に深入りする前、日本橋のビル地下で使った小道具一式が出番を待っていた。そうそう、ひとつ秘密兵器があるぜ。
どうして、もっと早く気がつかなかったのだろう。宝探しに関しちゃ絶妙の勘を誇るこのおれが。
「桐屋」と「よだれ長者」が同一人物だったとは。
そうなのだ。
強引な追い越しに怒り狂った先行車の放つ怒号と警笛をものともせず、ひたすら夕闇の彼方を凝視するおれの頭の中で、ついさっき読み終えた原稿の内容が驚愕の炎を放っていた。
『迫り来る捕り方の足音におびえつつ、私、桜井良順はこれを記すものである。
思い返せば、私が、この世に存在する人鬼の所業に加担して、今夜でちょうど二年を経過した。この手記を読む人々は、仏経典に語られる地獄の鬼が実在し、しかも、我らと同じ人間の形をとって我らの中に暮らしているなどとは想像もつくまい。ましてや、その人鬼が、暗く深い地の底などではなく、聖なる菩薩と等しく、天の彼方から舞いおりてきたなどとは。
しかし、すべては事実だ。半時(約一時間)まえ、そいつは、私の前で、口にするのもおぞましいもの[#「もの」に傍点]を頬ばりながら、自らの故郷の情景を語った。
桐屋久兵衛。日本橋、いや、江戸一の呉服問屋にして、柳沢吉保の被護を受けた才人、万民に慕われる温厚篤実の人。その彼が、つい先日、柳沢の意をうけた奉行所の捕り手たちの夜襲を受けて失踪した外道『よだれ長者」と同一人物であることは、私と久兵衛の妻および腹心たち数名のみの秘密である。
久兵衛は、日本橋の店を彼らにまかせ、自身は、奇怪な仕掛けを使って江戸の地下に張り巡らせた通路を俳徊、おびただしい数の出入り口(ただし、今は飯田橋、原宿、日本橋本店の地下の三つのみを残して塞いだものと推定される)から夜な夜な市中に出没し、夜鷹、遊び人を含む若い男女を連れさらってきては、飯田橋の屋敷地下と、日本橋本店の地下で、世にも恐ろしい手術を施していたのである。
その逐一を筆にたくすわけにはいかぬ。泣き叫ぶ男女とその周囲で蠢く不気味な仕掛け――あれが天より持ち帰ったという品であろうか。いや、薬一滴、板切れ一枚とっても、すべて「よだれ長者」の仮面の下に、市中より買い入れた品だ。それがなぜ、あのような鬼畜の所業を可能にし得るのか、私には見当もつかない。
ただ言えるのは犠牲者が確実に、たった一夜の手術で人間以下の生物に堕していったということだ。ああ、あの血走った瞳、毛むくじゃらの狒々を思わせる身体、血のしたたる生肉にむしゃぶりつき、えぐり、引き裂く牙と爪。なにとぞ、なにとぞ、我が身に救いのあらんことを……。
久兵衛は、これを護衛だという。時の果つるまで地下の穴蔵に棲みつき、彼らの作業を妨げるものを排する護衛だという。しかし、その作業なるものを私に語ろうとはしない。
彼は別の仕掛けも持っている。大きさは六尺(約一八○センチ)四方の箱で、丸い玻璃(ガラスのこと)があちこちにつき出し、美しく輝く。鉄製らしい挺子を引くと、なんと、金銀の塊が無尽蔵に、下の穴から出てくるのだ。桐屋が、結束した他の大店の妨害を平然と受けとめられたのも、一介の商人の身で老中・柳沢吉保殿と意を通じられたのも、すべてはこのおかげであろう。
それすら、久兵衛は「くずじゃ」と言って笑う。彼の目的が何かを知らなくとも、私にはそれを負けおしみととることはできない。彼は、誰も知らぬ地下の底深くで、今宵も妻よねとともに、我々には到底理解しがたい何かにいそしんでいるであろう。
そうだ、妻のよね。この女と私との淫猥快美な関係だけは告白しておこう。久兵衛とこの女は、想像するに、他人を意のままに操る力のようなものを有しているにちがいない。何やら談判に訪れた奉行所の手のものが、久兵衛のひとにらみで諾々とその意に従うとうなずく姿を私は目撃済みだ。番頭、丁稚、出入りの商人のほとんどすべてが、この力の虜になっていたのではあるまいか。
例外は私のみである。私を呪縛したのはよねの白い肉体であった。生き恥をさらす覚悟でいえば、よねの心は久兵衛に劣らぬ鬼女のそれでありながら、身体は天女そのものであったのだ。
久兵衛の家に一室を与えられて二日目の昼下がり、犬の悲鳴をききつけて広大な中庭へ出た私は、痙攣する野良犬の胴体食わえて立ちはだかる、世にもまれな美女の姿を見た。魂の底から湧きたつ恐怖に脅えながら、なぜ私が久兵衛の家を離れなかったかは記す勇気もない。
その夜、私はよねと関係した。全裸のよねが寝所へ忍び入り、私を誘ったのだ。悔悟の告白をしたためるつもりが、あの晩のよねの狂態を思い出すだけで、頭の奥に霞でもかかるようだ。あの珠玉のごとき滑らかな肌、甘酸っぱい吐息を吐く蛇のごとき口と、手指の動き、舌使い……いま一度彼女を抱けるものなら、私は甘んじて地獄の責めも受けよう。
よねもまた、私に満足していたようだ。愛していたとは言わぬ。あの女に人間の心はあるまい。せいぜい、人が飼い犬に抱く程度の愛情でしかない。私にはよくわかる。
しかし、それもこれも、じきすべてが終わる。
私のみ意志の自由を残しておいたことが、ふたりにとっては致命的な事態を引き起こした。人間は所詮、鬼とともに暮らすことはできぬ。
半年まえ、奉行所の一隊が『よだれ長者」の屋敷を襲い、居あわせたものすべてを火炎の中に葬り去った。仏の御手が悪鬼に鉄槌を下されたのだ。久兵衛はからくもそれを逃れたが、もはや、そうはいかぬ。
私も覚悟を決めた。
昨日、知る限りの彼らの悪業をしたためた手紙を、奉行所へ投げ入れてきたばかりだ。遅くとも今夜、この店の運命は尽きるだろう。私もまた、雇い主と運命をともにするつもりだ。仏道に背き、人命を救うべきこの手を汚れた業につかせた私自身の心を許すわけにはいかぬ。恐怖にわななく男女を変形させるべく、久兵衛の指示に従って奇怪な道具をふるったのは、この私なのだ。
五年まえ、生命の神秘は体内にひそむと信じ、獄門にかかった罪人の臓腑を秘密裡に調べたがゆえに獄につながれた私と、それを救ってくれた久兵衛とよね。ともに地獄へ墜ちるのに、これほどふさわしい道づれはあるまい。
元禄九年十一月四日
桜井良順 記す』
この手記とともに三つの入り口の地名(当時)と地図がついていた。
なぜ矢島がこれを持っていたのか、おれにはわからない。どうでもいいことだ。少なくとも、突破口はひらけたのだ。ずっと、おれの手元にあった突破口が。
日本橋の、あのビルに到着するや、おれは超小型ウインチでコンクリート塊をとりのぞき、我ながら信じがたいスピードで桐屋の宝物蔵へとびこんだ。全重量八十キロの装備も苦にならなかった。照明灯を設置し、音波探知器をふりかざして、四方の壁を走査する。
今となってみりゃ単純な仕掛けだ。本物の財宝を貪欲な宝探しの目から隠すため、その手前に目くらましを置いただけのことである。百科事典で宝探しの項目を引きゃいくらでも見つかる実例だ。はじめてここへ来たとき、ゆきのことが気になり、すぐバイバイしてしまったのが間違いのもとだった。
良順の手記では触れられていないが、桐屋夫婦には隠し子がいたのではあるまいか。ひょっとしたら良順とよねの子供だったかもしれない。
彼らは万一に備え、子供は別の場所で育て、自らの目的を継がせるべくこの入り口を用意し、自身は奉行所の手勢に殺戮されたのだ。そうでなければ、とうの昔に江戸は想像を絶する惨禍に見舞われていただろう。
原宿の入り口――そこは、先蔵爺さんの侵入口にちがいない。ゆきもそれを知って乗り込んだに決まっている。阿呆が。三五七マグナム一丁で片のつく相手かよ。
西側の壁にスキャナー部を向けた途端、発信機が低くうなった。この奥だ。
しかし、喜ぶのは早すぎた。壁の前には、もうひとつの壁が立ち塞がっている。千両箱の堆積が。手榴弾で吹っとばすのは簡単だが、相馬夫婦――亭主は仕留めたはずだが、なんとなく自信がない――の耳に入る恐れがある。ゆきの立場が不明のまま、派手な行動をとるわけにはいかない。
スタミナを消耗するのを承知で、おれ自身が移動させる手だ。
決めるや一瞬の躊躇もなく、おれは荷物を石の床におろし、千両箱に近寄った。
こんな超人的作業を成し遂げることは、おれの一生に二度とあるまい。
五十近い干両箱を、おれは正確に三十分間で部屋の真ん中に移しおえたのだ。元禄大判は一枚百六十五グラム。千両で百六十五キロになる。プラス箱と金具の重さだ。ひとつ百七十キロ近い。五十個で総計八・五トン。
にもかかわらず、おれは休憩もとらずに次の作業に移った。息も大して乱れず、腕の筋肉も痛まない。人間、無我夢中になると、潜在意識に潜む恐怖感が消え、想像を絶する筋肉パワーを発揮するというが、まさしくそれだ。胸をぶっ叩いて雄叫びをあげたいところだが、そうもいかない。
石壁の開閉スイッチは発見できなかった。じっくり時間をかけて探しゃなんとかなるだろうが、目下は溶解液に頼る方が早い。
「頼むぜ、おい」
言うなり、おれはボンベのスイッチをひねった。
宇宙人のこしらえた物とはいえ、石壁はふつうの材質だった。みるみる溶け崩れ、ほぼ一分で直径二メートルの空洞が出現した。向こう側に土の層は存在しなかった。闇の彼方に向かって幅の狭い石段が下降している。
やった!
おれは大型の懐中電灯をひっぱり出し、装備一切を肩にかつぐや、周囲の気配に気を配りながらゆっくりと石段を下りはじめた。
五分とたたないうちに、例のトンネルの中にでた。敵の気配はまるでない。相馬夫婦はこの入り口のことは知らないか、知ってはいても、侵入者などないとたか[#「たか」に傍点]をくくっているのだろう。気にする暇もないのかもしれない。
なにはともあれ、照明のともるあの「本道」を探すことだ。
「さて、ドライブと洒落こむか」
おれはつぶやいて、背負った“秘密兵器”をおろした。懐中電灯を地面に置き、付属品のスパナとモンキー・レンチをつかむ。三分間で組み立ては完了した。
ミニ・バイク、というより、おもちゃのスポーツ・カーといった方が近いかもしれない。デパートで売ってる幼児用のあれだ。
二個の車輪の上に、半楕円形のフードをとりつけただけの携帯用バイクだ。全長八十センチ、車高四十七センチ、重量二十キロ――まさに子供のおもちゃだが、なあに、外見は子供、中身は地上最強のプロレスラーなみの性能を誇っているのだ。
超小型の四気筒ハイパワー・エンジンは、わずか1リットルの高純度ガソリンで、時速六十キロ/二十四時間の連続走行を可能にし、最高時速二百四十キロをしぼり出すのだ。○→四百メートル加速七秒ジャスト。この重量では自殺用の高速性能である。プロのライダーでも、自在に乗りこなすことは難しい。
アンデスの地下都市で有尾人どもに丸三日間追撃された経験をもとに、米科学技術省に注文した品だが、三年目にして初陣を迎えたわけだ。愛称は「|黙する狂馬《サイレント・クレージー・ホース》」。
おれは勘と磁石と東京都地図帳を頼りに目標を定めた。現在位置と飯田橋、原宿を結ぶ三角形の中心地点だ。そこに何があるというわけじゃない。わざわざ残した三つの出入り口だ。等距離のところに作戦本部があるんじゃないかと思ったのだ。
しかし、東京の地面の下を疾走することになるとはね。組み立て道具をケースにしまい、バイクにまたがる。意外に座り心地の良いシートだ。ハンドルも小さいとはいえ、手にぴたりとなじむ。
高速走行のときは身体を前傾させねばならないが、椅子やハンドルもそれに応じて稼働し、長時間走っても、腰や背骨に過度の負担はかからない。高い金を要した分だけ、人間工学にも気を使っているのだ。昨日の晩もこれを持ってくりゃよかったが、まさか、地底旅行するとは思わなかったもんな。
キイをさしこみ、グリップ・スターターを軽く握りしめただけで、エンジンとフロント・ライトが目醒めた。かすかな震動が背骨を伝わってくる。グリップをまわし、おれは時速四十キロの安全運転で、トンネルの風を切りはじめた。
ぶれの少なさよりも、安定性よりも、おれは小さな狂馬の寡黙さに満足した。エンジン音は、ほぼ完璧に抑えられていた。こいつを注文するときの要請に、米技術陣は見事に応えたのだ。
闇を貫き、時速二百キロで疾走する黒い影を捕捉するのは至難の業だろう。不意打ちかけて秒単位の宝もの引っさらいを演じるにはもってこいだ。「黙する狂馬」のニックネームは伊達じゃない。宇宙人だって、こんなの持ってねえだろ。
トンネルは徐々に下降していた。分かれ道にくるたびにおれは狂馬をとめ、目標に近い方を選んで走った。
こうも枝道が多いところをみると、元禄時代は江戸中に出入り口が散在したのだろう。一体、何人の男女が陽光の世界から暗黒の魔窟へ引きずりこまれ、良順の「手術」を受けたのか。おれは首をふっていまいましい光景を追い払った。すべて三百年前のことだ。いまの奴らは、人間を食らうおぞましい獣人だ。しかも、ひょっとしたら、ゆきの肉を――。
途中に幾つもの鉄扉や石壁の部屋を見かけたが、どれも錆を吹き、開けた形跡はなかった。飯田橋のときと同じ獣人どもの棲み家も発見したが、居住者は消え失せていた。
不安と疑惑が焦燥感を呼び醒ました。もう二十分近く走りまわっているのに、生きものの気配がまるでない。奴らは何処に消え、何処に集合しているのだ? 音波探知機も、こうもだだっぴろい地底王国が相手じゃ歯が立たなかった。
おれはひたすら目標地点へと狂馬を走らせた。だが、はたしてそこへ近づいているのかどうか、保証は何もない。地の底とはいえ、これほど焦ったのははじめての経験だった。
バイクの光があるものの、周囲は完全な暗黒と無限の質量を誇る土の壁である。滞在時間が長びけば長びくほど、その心理的重圧は増大し、精神は破綻する。待つのは発狂だ。
さらに十五分ほど無音の疾走をつづけ、焦りが絶望に変わろうとする寸前、ようやく「光明」が現れた。
彼方の闇がおぼろな黄色に変じている。そればかりか、その下を流れるように移動してゆく黒い影法師。奴らだ!
おれはバイクを二十キロまで減速させ、ライトを消して、明かりの洩れるトンネルヘ近づいた。走破してきたトンネルと直角に交差する道である。土壁をコードが走り、照明灯の光が断続的に奥へとつづいている。これだ。
バイクを壁ぎわに据え、G11を手に少し待つ。さっきの影は右手に消えた。反対側からは何もやって来ない。
五分後、おれは再びバイクを駆った。といっても、ぎりぎりの低速、時速十キロだ。人間の歩行速度とあまり変わらない。曲がり角にさしかかるたびに前方をのぞき、さっきの連中がいないのを確かめてから走り出す。素通しの道の真ん中でふりむかれでもしたらアウトだ。
緊張しながらも、おれは全身に力がみなぎるのを感じた。いよいよ最終戦という予感があった。元素転換装置をかっぱらって逃げのびられるか。ついでにゆきも救出できるだろうか。――いつの間にか、おれは生まれながらの職業人に戻っていた。
四つめの角の向こうに無数の気配が感じられた。
そっとバイクを壁にたてかけ、覗き込む。
頭の中に「万事休す」の文字が鮮やかに浮かんだ。
石壁の薄暗い照明灯に照らし出されたどえらい規模の地下広場を、なんとも怪異な住人どもが埋めつくしている。
広さは畳三、四百畳、獣人たちのどす黒い姿だけで――ざっと三百体、その周囲の壁の穴には、羅毛村でみた怪生物や、蛸みたいなぐにゃぐにゃした手足に、棘だか針だかをびっしり植え込んだみたいな軟体生物、巨大なハサミをもった蜘蛛そっくりな生物など初対面の顔触れが蠢いていた。他にもいたが、なにせ広すぎて、全部の壁穴を確認するのは不可能だった。こいつらも獣人同様、護衛の一種なのだろう。
目を凝らすと、どっかで見覚えのあるハサミが土中から盛り上がり、手近な地面に腰をおろしていた獣人の胴を、いきなり半分ほど切断した。悲鳴もあげず倒れたそいつの血の匂いにひかれたのか、周囲の壁穴の内部が激しく動揺し、おびただしい触手や手足が遺体めがけて殺到する。
こちらもなかなか面白そうだが、おれは、広場の中央にぽっかり口をあけた巨大な穴と、その周囲をかこむ木の柵に身をもたせかけたジーンズ姿の女に目を奪われた。
相馬夫人である。
亭主が同伴してないのをみると、G11の三連射から立ち直れなかったのだろう。泣くほどきれいに決まったもんな。
あまり鮮やかならぬ照明の下でみるその顔は、昨日の晩以上にグロテスクな影をこびりつかせていた。
獣人のひとりが宙に浮いた。壁穴からのびた触手にとらえられたのだ。奇妙なことに、他の連中は声ひとつあげず夫人を凝視している。気づいた夫人が何か叫んだ。
どこの国の言葉でもない。宇宙語だろう。
とっさに触手が獣人を解放したのには驚いた。奴らにもきく耳[#「きく耳」に傍点]はあるらしい。鈍い落下音。夫人はそれで終わりにせず、何やら演説らしきものをおっぱじめた。どこから出るのかと思うくらい、不気味な低音である。女の声でも人間のものでもねえ。
「さっぱりわからねえ。お行儀よくしろって言ってんだろ」
おれのつぶやきに背後の声が答えた。
「その通りだ。よく戻ってきたね」
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9 大狂乱
人影は三つあった。
おぼろな光の中で一瞬のうちに確認したおれの表情も三度変わった。
相馬の亭主、その左右に全身傷だらけのゆきとキム・イーファン!
頬骨の突き出た東洋人の顔が、おれに舌打ちをさせた。飯田橋へ押し入って食い殺された黒沢一派の中にこいつは入っていなかったのだ。
羽山たちがやられた時点で黒沢と袂を分かち、独自に相馬やおれを見張っていたのだろう。翻訳原稿をとりに出掛けたゆきを見たときは舌なめずりしたに違いない。
「無駄だよ。昨日のことを忘れたのかね」
おれのむけた銃口を相馬は嘲笑した。
「もっとも完治に今までかかったが――おかげで君にお返しできるわけだ。とっくりとおもてなししよう。――よしたまえ。お仲間が苦しむだけだ」
相馬の言葉が終わらぬうちに、ゆきが身悶えした。キムはちょっと肩をふるわせただけだ。
ふたりの首筋に、何やら半透明のナマコみたいなものがへばりついているのに気がついたのはこの時だ。
「我らが先祖の星のもの[#「もの」に傍点]だが――ここでは手錠の役をする。神経電流の動きから対象の行動を予知して電波刺激を送るのだよ。かなり苦しいものらしい。他の連中ともども、この地下で三百年ものあいだ、よくぞ生き抜いてきた。さ、入りたまえ。胸の手榴弾以外、武器は持ったままで結構」
ためらっていると、もう一度、ゆきが悲鳴をあげた。会ってから口をきかないのは、それすら許さぬ電波刺激のせいだとおれは悟った。
本来なら、人質の運命など歯牙にもかけず敵を倒すか、逆に人質にとるのだが、相手は頭をふっとばしても一日で回復する化け物だ。それに、一発でも撃ちゃあ、広場の連中すべてを敵にまわすことになる。
おれは黙ってG11をおろした。
「結構だ。来たまえ」
相馬を先頭に、おれたちは広場へ入った。
女房がにやりと笑って右手をふると、おれたちの方を見もしないのに、前方の獣人たちが左右にわかれ、柵まで通路ができた。
「やっぱり来たのね」と女房がおれに笑いかけた。
「ああ、ご苦労なことだ。わざわざ死にに戻ってくるとはな」
亭主がまた嘲った。
「その侠気に免じて、最期の別れをかわさせてあげよう」
「けっ、きいたふうなことぬかしやがる」おれは毒づいた。「宇宙人のくせに侠気だあ?」
「私たちは東映のやくざ映画のファンでね」
亭主は平然と言い放ち、ゆきの首筋から生きているコンニャクをむしり取った。
「大ちゃあーん」
とすがりついてくるゆきを、おれは邪慳に押し放した。
「馬鹿たれが。この期に及んで独り占めなんて考えるからこんな目に遭うんだ。おまけに人殺しにまで手え染めやがって」
「ちがうちがう」
ゆきは夢中で首をふった。まだ硬直したままのキムの方を指さし、
「あいつが殺ったのよ。あたしが原稿取りにいったら、あの助平教師、前から好きだった、翻訳料のかわりに好いだろってとびかかってきたの。で、くんずほぐれつしてたところへ、あいつが入ってきて、原稿と本を奪ってズドン」
「ふむ――おまえ、よく助かったな」
「それがね」ゆきは状況も考えず、口に手をあててクククと笑った。「あいつ、日本語が読めないんだって」
「なるほど。悪運の強い女だ。それでおまえ、今度はこいつと組む気になったのか?」
「よしてよ、馬鹿」
ゆきは回虫を見るような視線をキムに浴びせて言った。
「そりゃ、今までは背信行為もあったけど、誰がこんな奴と。拳銃を突きつけられて、泣く泣く一緒に動いたのよ。信じて」
「ふーん」
おれは無表情に突っ立ってる相馬にむかって言った。
「一人も二人も今となっちゃおんなじだろ――こいつも自由にしてやってくれや」
相馬の右手が動いた。一瞬遅れて鈍い音が二度ひびき、キムがおれの足元に転がった。
さすが、というべきか、コンニャクの支配を離れた刹那、左肘打ちを相馬の胸板へ叩きこんだのだが、無論通じず、逆に頭部を一撃されてしまったのである。
敵の正体はゆきから聞かされていたのだろうが、おれみたいに渡り合ったことがない哀しさだ。もっとも、キムじゃなくても、地の底に宇宙人の子孫が巣くってるといわれて、素直に信じる馬鹿はいまい。頭をふりながら起き上がったキムに、おれは、よう[#「よう」に傍点]と挨拶した。
「おれの妹が世話になったようだな」
「なにを言うか。――黙ってきいてりゃ、ホラばかり吹きやがって」
キムはゆきをにらみつけながら吐き捨てた。凄まじい形相に、ゆきはさっとおれの背後に隠れた。
「確かにおれは日本語が読めん。だから、この女に口述させてから片づけるつもりだったんだ。それを、一緒に連れてかなきゃひと言もしゃべらない、分け前は四分六であたしが六と、人を脅しやがる」
「あーっ、嘘うそ」とゆきがキムの顔を指さして叫んだ。「大ちゃん、こいつ殺して」
「うるせえ。この無節操娘」
おれの一喝にあい、ゆきはたちまち話題を変えた。
「でも、よく来てくれたわね。原宿の穴がわかったの?」
「いいや。だが、ある男が本のコピーをもってたのさ」
「あ、それ知ってる。あのスケベ教師がさ。あたしを押さえつけながら、おとなしくしないともうひとりの同僚と宝探しにいくぞって脅迫したの。もう、コピーも渡してあるんだって。どうせ嘘八百だと思って、急所蹴り上げてやったけど、本当だったのね」
「懐旧談はその辺でよかろう」
相馬が低い声でさえぎった。
「私たちはもうすぐ退散する。三百年は長かったが、それももう終わりだ。君たちにも力を貸してもらうとしよう」
それから、女房の方を向き、さっき彼女が妖獣どもを下知したのと同じ言葉で何か話しかけた。女房はうなずいた。
「君たちは幸運だ。まさか、このショーを目撃する地球人がいるとは思わなかったよ」
「彼らはどうだ? おまえの先祖があんな姿にしたんだぞ」
おれは黙念と座している黒い獣人たちへ顎をしゃくった。
「脳までいじられ、もはや知性などというものは破片程度しか残っておらん。私たちの指令に従うにはそれで十分なのでね。君らの星では、知性なきものを獣と呼び、彼らの肉で自分たちの胃の腑をみたしているではないか」
「知性か。――宇宙旅行するような連中だから、おれたちより少しはましな心をもってると思ったが、当てがはずれたぜ。もっとも、こちとらだって、月へ人間を送ったと思や、どっかの国で難民集めて皆殺しを楽しんでる奴らもいる。おあいこか――」
相馬は答えず、女房にうなずいてみせた。女房の温顔がみるみる地顔をむき出した。あらゆる表情と生気を失った能面。ゆきが喉の奥で悲鳴をあげた。キムでさえ不安げな表情をつくった。何をおっぱじめる気だ?
「脇へのきたまえ」
相馬が命じると同時に、女房が右手を上げ、穴の方へふりおろした
獣人たちがいっせいに立ち上がり、前進を開始した。
ギゲゲだかグヘヘだか、わけのわからん声をあげて、頭上から鳥みたいな、トンボみたいな影が穴めがけて降下していった。ぽとぽとと音がする。四方の壁穴という壁穴から怪奇な住人が落下し、触手で、ハサミで、剛毛のはえた足で、これまた無言の行進に参加しだしたのだ。
まさか、と見つめるおれたちの眼の前を、怪物たちは脇目もふらずに通りすぎ、次々に柵を乗り越えるや、冗談でしょう、ためらうふうもなく巨大な穴へ身を投げはじめた。
「な、なんの真似だ。この底に元素転換機があるんじゃねえのか?」
あわてて尋ねるおれに、相馬はにやりと笑いかけ、
「それが目当てかね。――安心したまえ。この洞窟を出たすぐ左の部屋にある。まだ作動するはずだよ」
「もらってっていいか?」
「いいとも。ただし材料は江戸時代のものだ。大きくて重いぞ。生きていられたら三人で運び出したまえ」
「あいよ」
答えながら、おれは覚悟を決めた。やはりこいつはおれたちを抹殺する気でいやがる。
その間にも、獣人たちの死の行進はつづいていた。穴の奥には何があるのか、あるいはいるのか、激突音ひとつきこえてこない、とてつもない深さなのだろうか。獣人や怪生物たちの数は、もう三分の一にも満たない。
と、いきなり、ゆきが悲鳴をあげた。
穴へ身を躍らせたはずの獣人が、すうっと空中に舞いあがったのだ。三頭も。
「へ、蛇よ」
「いや、触手だ」キム・イーファンがつぶやいた。
穴の中から、太さ二メートルはあろうかと思うほどの、半透明の触手が顔を出し、獣人たちの身体を支えているのだった。三本も。その形状を見た途端、おれは悟った。
先蔵爺さんを襲った触手はこれだ!
しかし、しかし、大きさは五十倍近くある。成長したのだ。獣人たちを食って!
「あっ、と、溶ける」
ゆきの絶叫とともに、宙づりの獣人たちが身悶えした。触手にからみとられた部分が白っぽい煙を放ち溶け崩れていく。ゆきが両手で顔を覆った。
「行進をやめさせろ!」
おれは無駄と知りつつG11を相馬にむけた。
「私は知らん。精神コントロールはワイフの役目だ」
おれは引き金を引いた。高速弾に胸を撃ち抜かれたショックで相馬は地べたに叩きつけられた。すぐ起き上がってくる。
再射しようとしたおれの肩とG11を、凄まじい力が押さえた。獣人だ。女房の指令を受けたのだろう。阿呆が。おめえらのためにトラブってんだぞ。
股間を狙って踵をはね上げたが、サンドバッグみたいな手応えがあったきりで、力はゆるまず、おれは軽々と持ち上げられ、地面へほうり投げられた。とっさに受け身をとり、すぐはね起きたものの、武器は獣人の手でふたつに折られている真っ最中だった。弾倉に残った無薬莢弾がパラパラ地面にこぼれる。
「わからん子だな」相馬が服の泥をおとしながら言った。「暴れるのは、我々の帰り仕度を見てからにしたまえ」
「今度無鉄砲なことをすると、三人ともこいつらの後を追ってもらうわよ」
女房の声を合図に、ゆきがふらふらと柵に近づき、よじ登りはじめた。術にかけられたのだ! おれはあわてて、でかい尻をおさえた。だしぬけにゆきは手をはなし、おれの顔の上へおちた。
「黙ってみてらっしゃい」
鼻をおさえてフガフガやってるおれへ冷たく命じ、女房は両眼を閉じた。
むやみと宙をさまよっていた触手の動きに、不意に統一があらわれた。そろって下降し、バリバリバリンと柵の一部を押しつぶすや、獣人たちの姿も絶えた広場の一角に這い寄り、なにやら奇怪な動作を示しはじめた。
「なにかを、なでさすってるみたい」
とゆきがつぶやいた。
おれは思わず両頬をおさえた。いや、両頬ばかりか、おさえた両腕まで引きつるような気がした。なにか、空間が歪んだような。
「空間が――空間がかわっていくぞ! 見ろ!」
キムの声さえひきつっていた。
三本の触手の動きにつれて、それらの愛撫する空間が不気味に色づいてゆく。やがて、約五メートル四方の、うすみどり色にかがやく空間がそこに出現した。
おれの位置からみるとほぼ正方形なのに、首の角度を変えると、みるみる横が縮む。真横にまわれば影も形もなくなってしまうのだろう。完璧な二次元平面だった。
しかし、おれたちは、その緑の入り口の奥に無限の広がりを感じ、向こう側から吹きつけてくる異様な風の匂いを嗅いだ。
おれは茫然とつぶやいた。
「……そうか。帰り道をつくるとは、このことだったのか。あいつは、おまえたちの星への通路をつくる生物だったんだな……」
「そういうことだ」
はじめて相馬の口調に満足感がこもった。
「空間移動をするものは、必ず種子状のあれ[#「あれ」に傍点]を携帯しているのだ。時空間の歪みや乱流に巻き込まれることも珍しくないのでな。しかし、先祖は不運だった。こうまであの種子育成用のエネルギー形態が異なる宇宙へとびこんでしまうとは。北の果てを追われ、必死の思いでこしらえた元素転換装置の資本をもとでに、岩を削って鉱物を収集し、薬品を合成してようやく役に立つ大きさにまで育てたと思えば……」
「役人の邪魔が入るしな。で、またこいつは穴ん中で縮まっちまい、三百年もお前たちがくるのを待ってたわけか」
「そうだ」
「この獣人たちは護衛兼餌だな」
「その通り。この星であれ[#「あれ」に傍点]の栄養分となる元素をかろうじて含んでいるのは、人体だけなのだ」
「お前らにとってもだろう」
揶揄するつもりで言ったのだが、喉にかかる声は苦かった。
「人を食らう知的生命体と異次元通路構成器か、おそれいったよ」
「口がきけたら、牛も豚もそういうだろう」
おれはぎゃふんとして口をつぐんだ。
そのとき、ゆきのあっという声が聞こえた。
ふり向くと、触手の動きに乱れが生じていた。統一と調和が失われ、うすみどりの空間の下端に波みたいな歪みが生じたかと思うと、それは、ガラスのようにきらめく破片を地面にまき散らしつつ、音もなく崩壊した。先蔵爺さんがおれに届けたのはあれだったのである。結晶化したできそこない空間の断片。
「失敗だ――やはり、この星で育てたもの[#「もの」に傍点]には無理がある。もう一度だ」
触手は再び同じ空間をなでまわしはじめた。
「ところでさ」とゆきが相馬にきいた。「あんた、その異次元空間とやらができ上がったら、そこ通って星へ帰るんでしょ。じゃ、もう黄金をつくる機械はいらないわけね――もらってもいいでしょ」
阿呆が。おれと同じ質問をしやがる。しかし、答えは違っていた。
「いいとも。だが、使えるのはせいぜいひと月がいいところだぞ」
「あら、そんなにボロなの」
「黄金の製造量は無限大だが、それを使う世界がなければ役にはたつまい」
「?」
ゆきはきょとんとし、おれはどきりとなった。相馬は平然といった。
「実験中わかったのだが、やはり、あれをスムーズに成長させることはできなかった。いわばミュータントなのだよ。したがって、あれのつくる空間もまた特殊な性質をおびる。ひと言でいうと、出来あがった空間は、向こうからならともかく、こちらから閉じるわけにはいかんのだ」
「なにィ……すると、おまえら、あけっぱなしで行く気か?」
おれは自分でもわけのわからん質問を発した。
「いや……ちがう」
とキムが口をはさんだ。顔色が青ざめている。おれより早く何かつかんだらしい。虫の好かねえ野郎だ。
「……異なった性状の空間同士が重なり合えば必ず相互に影響を及ぼす。向こうから閉じれば[#「向こうから閉じれば」に傍点]、向こうはこちらの影響を受けない。しかし、こっちから閉鎖できない[#「こっちから閉鎖できない」に傍点]となると、我々の世界は向こうの空間に浸食され……」
「ふん、待ちやがれ」とおれは言った。「いま、話し合いの主導権を握ってるのはおれだ。おまえ、どこの大学でたのか知らねえが、余計な口をはさむな――で、一体、こいつらがあの緑の扉をつくっちまうと、何がどうなるってんだ?」
キムの答えは、恐怖に満ちた独り言であった。
「この地下も……東京も……、いや、地球と銀河全体が、あの空間そのものになってしまうだろう……」
「そういうことだ。みろ、今度はうまくいきそうだな」
言われるまでもなく、おれたちは今度こそ恐怖に凍りついた瞳で触手の先端を凝視した。世にも美しいうすみどりの「入り口」が、またもや完成しつつあった。
暗黒の宇宙の秩序にいだかれて眠る直径三万キロの小さな星。その表面の、小指の先ほどもないちっぽけな島国の地下から、ほのかな、四角い[#「四角い」に傍点]光が湧き上がり、じわじわと世界を覆ってゆく。――地図の上に広がるインクのしみのように。
徹底的に現実主義者のおれでさえ、限りないあこがれと希望と夢とを重ねて瞼に映したこともある無数の星々――火星、金星、天王星。そのすべてが淡い光の中に消えて――食われて[#「食われて」に傍点]いく。先蔵爺さんの叫びのように。
壮絶な滅亡のイメージが浮かぶと同時に、おれの両手は腰に動いていた。爆裂弾を装填したM659と、コルト・パイソンへ。
目を閉じたまま突っ立っている女房の脳天を吹きとばすのと、キムめがけてパイソンを放った速度は、おれにとっても最高のスコアだったろう。
下顎の上あたりから鮮血をほとばしらせながら、女房は倒れず、おれはとびかかってきた獣人の腹に直径三十センチもある風穴をあけて叫んだ。
「おれのケースのところに手榴弾がある。穴へぶち込め! こっちはおれが援護する!」
M659とは異なる重々しい轟音が空気をゆるがせた。相馬と獣人の頭が四散する。なおもつかみかかってくる相馬の腕をかいぐり、キムが走り出した。
悲鳴がふたつ重なった。
ひとつは、地べたに転倒したキムのあげたものだ。右のくるぶしをおさえた指のあいだから鮮血が噴き出している。足首近くの地面から、巨大な鎌状の爪が突き出し迫ってくるのを、キムは357マグナムで真っぷたつにした。なんとか立ち上がり、片足を引きずりながら、必死で出入り口の方へむかう。
彼の援護ばかりもしていられなかった。
ゆきも悲鳴をあげていたからだ。
上半身血まみれの顔なし相馬に抱きすくめられ、抵抗の真っ最中だ。急所を蹴り上げ胸板へ突きを入れるが、首がとれても死なねえ野郎に効くわけがなかった。外見は人間でも中身の神経や筋肉構造は異星のものなのだ。
相馬がゆきを頭上高くかかえあげたとき、おれは二連射で奴の腕をつけ根からはじきとばしてやった。
ゆきが落ちたと思った瞬間、背後から数本の腕がからみつき、今度はおれが宙に浮いた。凄い勢いで柵の方へ運ばれていく。E手袋を使う暇もなかった。
「うわ、よせ、馬鹿」
「大ちゃん、ピストル!」
下でゆきの声が聞こえた。
四肢の自由を奪われたままなので、ほうり出すのが精一杯だった。
ぐーっと柵が近づく。その向こうにおれは見た。巨大な穴の底深く、どこまでもつづいている触手の途中にひっかかり、吸収されて、必死にもがいている獣人と怪物たちを。
身体が半分柵越しに押し出された。わっ、おしまいだ!
矢継ぎ早の銃声。支えが不意に消え、おれは腰のあたりで柵にひっかかった。ほっとひと息つく暇もなく、上半身があお向けのまま、ぐーっと向こう側へ傾斜する。わっ、やっぱりおしまいだ!
両足首を猛烈な力がとらえ、引っぱった。挺子の要領で、おれは前へつんのめるような格好で宙をとび、地面に叩きつけられる寸前、腕立て伏せの姿勢をとって衝撃を防いだ。夢中でE手袋のスイッチを入れる。
また銃声。ふりむくとゆきが駆けよってくるところだった。
背後から、相馬と生きのこりの獣人たちが迫ってくる。
顔と両腕を消失しながらも、ぎごちない足どりでむかってくるとは大した根性だが、女房の方をちらりと見た途端、謎はすぐ解けた。
さっき消しとんだ頭部に、赤く肉芽みたいな部分が盛り上がっているのだ。目を凝らすと、目鼻立ちまでなんとか見分けられた。トカゲの尻尾みてえな女だ。
ゆきがふり向きざま、先頭の獣人の頭を吹っとばした。なんといっても十五連発はいいねえ。リボルバーじゃこうはいかない。
「弾が切れたわ!」
ゆきが叫んだ。拳銃ってのはどうしようもないねえ。
「大ちゃん!」
ゆきが抱きついてきた。獣人が三頭、うなり声をあげて駆け寄る。弾倉をチェンジする暇はなかった。
おれはゆきの身体もろとも左へ身をよじりつつ、おおいかぶさってきた獣人の胸へ手袋を押しつけた。最強一万ボルトだ! 青白い火花をあげて獣人はふっとんだ。しかし、その背後から第二、第三の影。わっ、三度目のおしまいだ!
だが、二頭は、おれたちの目前でどっと地に伏していた。
片方は地面から突き出たハサミに足首を切断され、もう一頭は、天井から舞いおりてきた蜘蛛そっくりの生物に頭を噛みとられて。
「いまだ、逃げろ!」
「大ちゃんも!」
おれたちは起き上がりざま、手をとって走った。むろん、おれは電流を通してない方の手を使っている。走りながら、顔を見合わせてニヤリと笑った。この瞬間おれたちは史上最高の名コンビだった。
あと三メートルで出入り口というとき、ぬっとキムが姿をみせた。その無表情さと右手のパイソンを見た瞬間、おれはゆきを突きとばして身を伏せた。
凄まじい轟音と衝撃が、頭髪を二、三十本ちぎってすぎた。
「動くな! こいつを殺すぞ!」
キムの声はゆきに、銃口はおれにむけられていた。武器をもってるのはあっちだからな。もっとも、弾丸は入ってねえが。
「なにすんのよ、卑怯もの!――いま、地球の一大事なのよ!」
ゆきが叫んだ。
「そんなこと知らんね」キムは冷笑した。「おもしろい乗り物があるじゃないか。おれはこれで失敬する。君たちは今すぐ、厄介な化け物と一緒に吹っとびたまえ。これで追いかけられずに済む」
キムは左手のこぶしを口にもっていった。手榴弾だ。安全リングを歯でひき抜く。あとはレバーをはなせば、撃針が信管をうち、数秒でドカンだ。背後にうなり声がきこえた。
「くたばれ、卑怯もの!」
ゆきがいきなりM659を構えた。もちろん弾丸はでない。昼間ならキムもひと目で|遊底《スライド》オープンの状態を見抜いただろう。しかし、薄闇と足の傷と異様な状況が、彼の冷静な判断力を奪っていた。手榴弾を握ったまま、パイソンをゆきにむける。
間髪入れず、おれは左手のE手袋をキムめがけて投げた。いちいちはずしたりしない。羅毛村でもみせなかった、左手のひとふりと、手袋自体の重さに頼った秘密の特技である。
パイソンが吠えた。電気の火花があがった。キムが後方へすっとぶのを見届けて、おれは地面におちた手榴弾めがけてダッシュした。シューシューといやな音をたてている。ひっつかみざま、迫りくる化け物どもの方へ投げた。
パイソンなぞ比べものにならない大音響が広場をゆるがした。追っ手は四散し、おれはそれを見届ける暇もなく、出入り口へ駆け出した。
一万ボルトの直撃をくらってショック死してるキムの身体を押しのけ、さっきのこしてきた手榴弾のうち二発をポケットへ収める。キャリー・ケースにはあと半ダースある。照明灯やら余計な小道具をほうり出すと、プラスチック爆弾へ|遠隔《リモート》信管をさしこんで作業を終えた。爆弾の重さは約二キロ。小さなビルひとつくらいなら倒壊可能だろう。
「大ちゃん、大丈夫だった!?」
ゆきが駆けこんできた。
おれは無言でM659をひったくり、新規の十四連弾倉を叩きこむと、遊底を引いて彼女の手に戻した。これで薬室に初弾が送りこまれ、もう一度弾倉を抜いて一発装填すれば計十五発になるのだが、そんなロス・タイムは許されない。もう二個余備弾倉をわたし、頭上に走る電気コードを指さした。
「これに沿って逃げろ。入ってきた場所を覚えてるならそこでもいい。うまく戻れておれが帰らなかったら、あの家はお前の好きに使え。すまんがこの車は貸せねえ。もうひと仕事残ってるんでな」
「やっつける気ね、あいつ[#「あいつ」に傍点]らを――あたしも手伝う」
「阿呆。言うこときかねえとあの穴へぶち込むぞ」
「なによ。あたしたち、まだコンビでしょ」
「うるせえ。解消だ」
おれの声に本ものの凄味を感じとったのだろう。ゆきは口まで出かかった反抗の言葉をおさえてうなずいた。
「わかったわよ。でも、これだけは教えといて。あんた、何のためにここへ戻ってきたの?」
「黄金製造機を探しにだ。つまらねえこときくな」
「うーそばっかり。なら、次の日すぐ来ることないじゃない。それに、助平教師のことも知ってたし」
おれはケースのベルトを右手でひっつかみ、ミニ・バイクにまたがった。
「だからどうした?」
ゆきは首をふった。その眼の奥に光るものを認めて、おれはちょっと驚いた。
「なんでもない」とゆきは言った。「最後まで、あたしをかばってくれるのね――一体、どうして?」
おれは出入り口の向こうを一瞥し、追ってくる影のないのを確かめてから、左肩を指さした。
「おれの親父とおふくろは、九歳のおれの肩に一発撃ち込まれるまで、宝の隠し場所を吐かなかった。同じ目に遭ったとき、二つのおまえにナイフを突きつけられただけで、お爺さんは全財産を盗っ人どもに譲り渡したんだ。そればかりか、お前の身を案じ、二度とトレジャー・ハンターに戻らなかった。
太宰先蔵の引退がこの世界にどれほどの騒ぎを巻き起こしたか、おまえにはわかるまい。ゼニには縁のない暮らしだったろうが、おまえはお爺さんが死んだとき涙を流すことができた。おれはカナダでおふくろを埋めるとき、金目のものを持ってねえか棺桶をひらいて点検したよ。――えれえ違いだ」
ゆきの両眼から涙がおちた。
「あばよ」
プラスチック爆弾のリモコンを口にくわえ、おれはバイクを突進させた。一気に穴と触手へ向かう。生き残りの獣人どもが走り寄ってきた。地面からとびだすハサミと鎌。
おれは絶妙のハンドルさばきで、障害物どもの間をすり抜け、はねとばし、蹴り倒して前進した。上空から襲ってきたわけのわからんものを、羽根音頼りにケースで叩きおとす。左前方二十メートルほどのところで、相馬夫婦がおれを指さし、何やら叫んでいた。亭主の方は約半分、女房は八割方、顔が復活している。
精神コントロールの餌食になる前に、おれは追いすがる敵すべてをふりきり、柵の周囲をまわるように疾走しながら、ケースを投擲した。
「うわ!?」
絶望の響きが胸の内で洩れた。
見事、穴の中央へと弧を描いたそれを、滑空してきた怪鳥の両脚がとらえたのだ。いや、形からするに、そっちが嘴だったのかもしれない。
ケースの重みで一度はバランスを崩したものの、そいつは蝙蝠と鷲の合いの子みたいな翼で思いきりはばたき、みるみる上昇していった。リモコンを右手に構えたが、穴の外で爆破させても無意味だ。残る手はひとつ。おれは、バイクを加速させ、一気に異次元空間の入り口めがけて突進した。体当たりが効くだろうか。
銃声がとどろいた。
ふり返ったおれの眼に、ケースをつかんだ怪鳥の胴が火花に包まれるのが映じた。ケースもろとも穴の中へ落下してゆく。急ブレーキをかけ、つんのめりながら、出入り口の方へ視線をとばす。わかっていた。ゆきだ。逃げなかったのか、トンツクが。
おれは触手の先をみた。奇怪な芸術家の作業は、ほぼ終幕を迎えようとしていた。うすみどりにかがやく正方形は、わずかに下端が半透明なだけだ。
おれはリモコンのスイッチを押した。
一瞬の間。
鈍い揺れが地の底から湧き上がってきた。穴の縁から亀裂が四方へ走る。獣人と相馬夫婦も地に伏していた。
わずかに遅れて、とてつもない爆風と火炎が穴から噴き上げた。薄闇は瞬時に消滅し、穴の上空を旋回中の化け物鳥や蜘蛛型生物は、炎の絵と変わってナパームの業火に呑みこまれた。火炎地獄の現出だ。
天井まで噴き上げた炎は、そこで反転し、岩盤づたいに走って、頭上から灼熱の分身をまき散らした。獣人が、怪生物たちが、炎に抱きしめられ、死の舞踏を踊っている。
無我夢中で出入り口へとバイクを駆りながらおれは見た。炎のオブジェと化した相馬夫婦の姿と、のたうつ触手が自らの傑作を粉微塵に打ち砕くさまを。
さっき別れた場所にM659片手のゆきが立っていた。
おれはバイクを左折させ、五メートルほど先の、鉄扉の前で停止した。
ゆきが駆け寄ってきた。
「大ちゃん。何があるの?――ひょっとして、あれ[#「あれ」に傍点]?」
「そうだ。材料なしの黄金ざくざくマシンよ。くそ、錆ついてやがる、おまえも手伝え」
「うん。――きゃああ!」
ゆきの絶叫は、何げなく後ろをふり向いたからだった。あの出入り口から巨大な触手が三本、白い大蛇か蛸の足みたいにくねくね這いずり出てきたのだ。なんてしつこい悪夢だろう。
「だ、大ちゃん……」
「背中に乗れ!」
黄金よりとりあえずは生命が先だ。
おれはゆきを背負ったままグリップ・スターターをひねった。一気に百まで加速する。トンネルの幅とひん曲がり具合のせいで、それ以上は無理だ。
ゆきが悲鳴をあげた。
急激な加速にびっくりしてかと思いきや、
「お、追っかけてくるわよお!」
ちらっとふりかえり、おれは血が凍りついた。あの太い蛇が、時速百キロに劣らぬスピードでトンネルをうねくり進んでくる!
声にならない悲鳴を洩らしつつ、おれは必死で狂馬を駆った。
曲がり角があった。スピードを落とさず左折した途端、凄まじい白光が網膜を直撃した。
ブレーキのきしみと空中をとぶ感覚。
衝撃と闇が意識をかっさらう直前、おれはサーチライトや自動小銃で武装した、おびただしい人の群れを見たような気がした。
気がついたら、おれたちはふたりとも病院のベッドにいた。
おれは左肘と肋骨三本を骨折する重症だったが、ゆきは打撲のショックだけでピンピンしていた。医者の話だと、おれが無意識にかばったそうだが、あんな糞ったれ娘、クッションにこそすれ、こっちがなってやるわけはない。悪運の強い野郎だ。
おれたちを発見したのは、営団地下鉄の測量隊ということだった。路線拡張中におかしなトンネルを見つけ、あちこち歩きまわっているうちに、引っくりかえったおれたちと対面したそうだ。
医者はそう言った。もちろん嘘っぱちである。いつの間にか、バイクをはじめ装備一式は行方不明になっていたし、おれたちがあそこにいた理由をロクに尋ねようともしなかったからだ。第一、なんで測量隊が自動小銃だの火炎放射器だのを持ち歩く必要がある?
だが、おれは余計なことを訊かず、ゆきとふたりで記憶喪失に陥った恋人同士の役を演じつづけた。猿芝居とはこのことだ。
地底での事件は、ついに陽の目をみなかった。
ひと足先に退院したゆきは、毎日見舞いにきたが、ある日、病院の庭を散歩しながらこうきいた。
「追っかけてきた触手や生きのこりの怪物はどうなったのかしらね。それと、あの黄金製造機」
おれはまばゆい午後の太陽に向かって思いきりのびをし、真面目な声で応じた。
「どっかの野郎どもが見つけて隠したか、――あるいは、まだ地の底で眠ってるかだな。夜、ひと気のねえところで地べたに耳でもつけてみな。ずうっと遠い、深い深い地の底で、悲鳴と銃声と獣のうなり声が聞こえるかもしれねえ」
ゆきは黙ってうなずき、さしめぐむ光に目をやった。それからコンクリートの舗装路にかがみこみ、掌をそっと押しあて、
「この下でねえ」
と言った。
「世の中、一寸下[#「下」に傍点]は闇ってことだ」
「そうね。で、どうするの?」
「どうする、とは?」
おれはゆきの顔を見つめた。セクシーな顔が不敵な笑みを浮かべていた。太宰先蔵――世界最高のトレジャー・ハンター、その孫娘の微笑だった。
「そうさな。そのうちお邪魔するさ。地の底へでも、内閣諜報室の機密研究所へでも――そこに宝がある限り」
こう言って、おれは左手奥に繁る黒い木立に目をやった。盗聴装置かなんかで立ち聞きしてたらしい看護婦が、大あわてで走り去っていくところだった。
「いいパートナーも見つかったことだしね」
ゆきが静かに言った。
「コンビは解消したと思ったが」
「当然、延長でしょ」
ゆきが片手をさし出した。
「物を手に入れてねえんだ。延長もへちまもあるか。断っとくが、おれは病人だ。今度はメインで働いてもらうぞ」
なぜか、ゆきは嬉しそうにうなずいた。
おれはその白い手を握り返すかわりに、ため息まじりの笑顔を送ってやった。
『エイリアン秘宝街』完
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あとがき
去年の秋、「幻想文学会」作製の「クトゥルー地名リスト」片手にボストン市街を歩きながら、私は足の下に有り得べからざる広大な空間を感じ、ひとり微笑したものです。確固たるコンクリートと地層の消失感は、北端の街ノース・エンドを訪れたときさらにつのりました。
寒々しい空の色のせいもあったかもしれません。ひとけのないだだっ広い通りと、石造りがゆえに朽ちるのを免れているだけのくすんだ家並み。五十年近くまえ、この荒涼たる一角から、暗黒の彼方へ消えていった狂気の画家は、今なお、地下鉄の轟音が遠くきこえる地底で、忌わしいモデルたちを相手に絵筆をふるっているようです。バッテリー街の古色蒼然たるアパートの、あまりな怪奇のムードに魅かれてのぞいた入り口の奥は、昼ひなかから重い闇をわだかまらせ、私は心底、やってきた甲斐があったと、ひとりの作家とリストのつくり手たちに感謝いたしました。
私たちを取りまく現実という名の閉鎖空間にも、先人たちが血まみれの努力で掘り抜いた異次元への風穴が無数に存在します。重苦しい空に見張られた古都の一角で、私はその穴のひとつが寂れた街並みに、住所も定からぬ一軒の下宿屋に、その地下にある蓋つき[#「蓋つき」に傍点]の古い井戸に、そして、スポーツカーが疾走しガラスとコンクリートの高層ビルが建ち並ぶ大都会の地下を不気味に走るトンネルヘとつづいているような気がしました。
江戸の町と現代の東京へむけた私の風穴は、無事通り抜けたでしょうか。
83年4月7日。
「ブラッケンシュタイン」を観ながら。
菊地秀行
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◎参考文献
「ピックマンのモデル」H・P・ラヴクラフト
「江戸店犯科帳」林玲子
「眠ったままの埋蔵金」畠山清行