グッバイ万智子
菊地秀行
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)彷徨《ほうこう》
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(例)無駄|遣《づか》い
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Cobalt Selection
菊地秀行 「グッバイ万智子」
集英社
目 次
PART1 ……夏の|こんにちは《ハロー》
PART2 |自然の護衛《ネイチュア・ガード》
PART3 淑女へ捧ぐ薔薇
PART4 死者の香りは甘く
PART5 悪い土地
PART6 霧の中の彷徨《ほうこう》
PART7 さらば友よ
あとがき
[#地から1字上げ]装画 めるへんめーかー
[#地から1字上げ]装幀 岡村元夫
[#改ページ]
グッバイ万智子
PART1 ……夏の|こんにちは《ハロー》
少年は、いまでもその夏の日を覚えている。
いつの夏だったかは忘れても――。
その道が何処《どこ》から何処へつづいていたのか忘れても――。
空は何処までも青く、
道は果てしなく長く、
空気は水のように澄んで、
若草は風に揺れていた。
そして、その道の、どちらかの果てから、万智子《まちこ》はやってきたのだった。
車が脇を走り抜けるまで、少年にはわからなかった。
エンジン音は?
いいや。
車は風に乗って走っていたのだった。
五メートルほど先で、止まった。
少年は急がず歩いた。
車は動かない。
五秒ほどたって、少年は運転席の脇を通りすぎた。
ウィンドーは降りている。
のぞきもせず通りすぎた。いい風だった。
車のノーズから五、六歩離れたとき、
「乗っていかない?」
低い声が呼んだ。
少年の頭の中に、夜がきらめいた。
ガラスのフォークを床に落とすと、その音が黒い街並みと街路をどこまでも辿《たど》り、人々が長いこと耳を澄ませてそれに聴《き》き入る――そんな夜。
少年はふり返った。
ウィンドーはワン・ウェイ・ガラスだった。こちらから内部《なか》は見えず、内部からは、こちらが見える。
車の内部には、夜がつまっているのかもしれない。
怯《おび》えが少年を捉《とら》えた。
一七の年頃には、夏も、見ず知らずの車の中身も未知だ。
歩み戻る。
車のドア・ノブに手をかける。
震えていても、誰も文句は言うまい。
引いて――引いた。ドアを。
鼻の頭に当たった風は冷たかった。
「何処まで?」
娘が訊《き》いた。
冷たい車内。冷たくて、それだけで、明るいのに夜のように思える。
黒い髪が揺れていた。
そこだけ色を抜き取ったような白い貌《かお》。
「強情っぱりね。人にものを頼むのは嫌なの?」
少年は答えなかった。
「乗ってもいいですか?」
礼儀正しく訊いた。
「お乗りなさいと言ったわ」
風景が流れていく。
二度と会うことのない空と雲と道が。
「何処まで行くんですか?」
膝《ひざ》上のバッグを隠すようにして少年は訊いた。
「何処まで行くの?」
前を向いたまま娘が尋ねた。
きれいな女性《ひと》――それが少年の想い。
切れ長の眼《め》、バレリーナの足みたいにのびた鼻、つつましく薄い唇は、水に触れるのが精一杯の努力のよう。
クラウド郡へ。雲海市《うんかいシティ》へ。
娘はうなずいた。
「あの――何処まで連れて行ってもらえるんでしょうか?」
クラウド郡へ。雲海市へ。
「でも――」
「いつかは着くわ」
そうだ。いつかは着く。
「どうして、拾ってくれたんですか?」
あれこれ考えて、少年はこの質問に決めた。
年齢を問わず、| 風 来 坊 《タンブル・ウィーズ》を乗せてくれるような車は、近頃は滅多にない。土地に住む人々は、風を嫌う。風に身をまかせる人間は、もっと嫌いだそうだ。
「ひとりで歩いていたから」
「はあ」
少年は、少し誇らしくなった。
夏だ。
「私、万智子《まちこ》」
不意に言われた。驚きはしなかった。この娘なら、こんな言い方をするだろう。その通りの口調だった。
「あなたは、君、でいいわね?」
少年はとまどった。
「名前を言わないで。――君」
こうして少年は君という名になった。
街道には、奇妙なものが落ちている。
赤錆《あかさ》びたトラック。
白いハンカチを把手《とって》にくくりつけたトランク。
使い古しのテニス・シューズ。
今の今まで誰かが食事を摂《と》っていたようなテーブルと椅子。
崩れ落ちた廃屋。
他にもある。
時々、奇妙なものが。
二人が出喰《でく》わしたそれは、何台もの車と人の形をしていた。
「検問ね」
と娘――万智子がつぶやいた。
少年は身を硬《かた》くした。
街道の交通を警察が邪魔するなど、滅多にない。
それが必要な事件は多くても、人手が足りないのだ。
車は、一列に並んだ制服警官たちの前で停止した。
万智子がパワー・ウィンドーを開けた。
カウボーイ・ハットにサングラスの顔がのぞいた。
少年の倍はありそうで、一〇倍は頑丈《がんじょう》そうだ。
「ワン・ウェイ・ウィンドーは違反だぞ。降りたまえ」
男の胸で黄金のバッジが夏の陽《ひ》にきらめいた。
逆らわず、娘はドアを開いた。
もうひとりいるぞ、と警官は言ってから、
「奇妙な自動車《くるま》だな。チェックは受けてるのか?」
「ええ」
「アドミッション・カードはあるかね?」
「忘れたわ」
「こっちへ来い」
少年は右の肘《ひじ》を左手で押さえた。
助手席の窓がノックされた。
負けず劣らず巨《おお》きな警官がのぞき込んでいる。
出て来いと、手で合図しているのを見て、少年の決心は固くなった。
外へ出た。
空はまだ青い。
万智子は二人の警官に取り囲まれていた。車は三台。外にいる警官の数は六人。
「こっちへ来な」
窓からのぞいていた警官が少年の肩を押した。
一〇メートルほど離れた道端に、小さな木立ちが身を寄せ合っている。その向こうは青い草の波。
肩に乗せた手に力がこもった瞬間、少年は半回転した。
右肘を軽く腰に叩きつける。
手の平に飛びこんできたハイスタンダード・デリンジャーを、少年は警官の胸に向けた。
巨漢は硬直した。
近頃の子供は決してあなどれない。鼻歌まじりに、動くものへ引金を引く。
「何の真似だい、坊や?」
警官は静かに訊《き》いた。
慣れているという感じだ。
右手がゆっくりと腰のホルスターへ下がっていく。
反動消去帯をはめた手から射ち出される四四マグナムの巨弾は、少年の頭ぐらい一撃で飛び散らせてしまう。
「あの女性《ひと》を放せ」
と少年は言った。
怯《おび》えはある。――大したことはない。少年も慣れつつあった。
「殺すのは、ぼくだけでいいだろう。あの女性《ひと》は関係ない」
「なんだ?」
警官は思いきり眼を細めた。
「何を寝呆《ねぼ》けてやがる。――おめえなんぞに」
打撃音が男の声を断ち切った。
激しい、というより鋭い打撃音である。
男も、少年もそちらを向いた。
万智子を囲んでいた警官が車に叩きつけられたところだった。
ボンネットがへこむ。
凄《すさ》まじい力だ。
少年の眼の前に黒い影が迫った。
軽く後方へ飛びのきつつ、少年はデリンジャーの引金を引いた。
右手が小気味よく持ち上がる。
警官の額に小さな穴が開いた。
突然糸が切れたマリオネットのように、巨体は白い舗装路に垂直に落ちた。
死んだ。夏の死。
少年は万智子の方を向いた。
デリンジャーの銃口が青い糸を吐いている。
白い陽差しの下の光景は、静寂に戻っていた。
警官たちは全員、道に這《は》っている。
動こうともしない。
光に押さえつけられた黒い虫のように見えた。
その中で、ひとつの闇《やみ》が動いた。
人型の闇が。
「やっぱり、自分でやったわね」
白い貌《かお》が冷たく微笑《ほほえ》んでいた。
エンジン音が二人をふり向かせた。
いちばん奥に止まっていたパトカーが、耳ざわりなスリップ音をたててバックする。
タイヤは煙を吐いている。
「いけない」
少年がデリンジャーを向けた手を、万智子は左手で押さえた。
パトカーは勢いよくテールから青葉の繁みに突入するや、今度は頭からもと来た方角へ吹っとんでいく。
「逃げてしまうよ。あいつら、偽《にせ》警官だ」
「わかっています」
万智子は答えた。
何もしない。
青空の行方《ゆくえ》を眺めているように少年には思えた。
パトカーは小石ほどの大きさに縮まっていく。
少年の頬《ほほ》を風が撫《な》でた。
顔の線が和《なご》やかになる。
だが――――。
パトカーに当たった風は、そうではなかったようだ。
車体が不意に横倒しになった。
少年の視界の中で、さらに二転三転し、道路を離れて草むらに消えた。
爆発音とともに立ち上がる炎を、少年は何の感慨《かんがい》も浮かべず眺めた。
何を考えていいのかわからないのだった。
「片づいたわね」
万智子が平然たる口調で言った。
「一体――どうやって?」
「事故だわ」
その通りだろう。
少年は周囲を見回した。
警官たちは身動きひとつしない。死んでいるのだろう。
こんなに死人を見るのははじめての経験だが、どうということはなかった。
今はみな、死に急ぎすぎる。
ひとつの死体のそばに万智子が跪《ひざまず》き、制服の内ポケットに手を入れてID(身分証明)カードを取り出した。
じっと見つめ、肩越しに放り投げる。
「偽警官?」
「ええ。カードを見なければ区別がつかないわ。丁寧《ていねい》な仕事よ」
「どうしよう?」
「片づけさせるわ」
少年にはよくわからなかった。
「いいから。お乗りなさい。――でも、コースは変えた方がよさそうね」
二人は車に戻った。
静けさに包まれ、少年は安らぎを感じた。もう何年も座り慣れているようなシートだった。
「勘違いしたようね」
走り出してすぐ、万智子が言った。
「何が?」
「あいつらは私を狙《ねら》ったのよ。君じゃあないわ」
この娘には、少年と警官の会話が聞こえたのだろうか。
かすかなささやきが、夜の街をどこまでも歩いていくように。
「――追われているもの同士が会ったようね」
「…………」
「心配しなくてもいいわ。――後ろを見てごらんなさい」
逆らえないものを感じて、少年はリア・ウィンドーの向こうへ眼をやった。
何があるのか、予想もつかなかった。
驚きの声を、少年は喉《のど》の奥で噛《か》みつぶした。
小さな戦いの繰り広げられた場所は何処にも見えなかった。
パトカーも警官の死体も、白い陽に否定されたものか、跡形もなく消えていた。
「そんな……」
少年も否定しなければならなかった。
そのための材料がひとつだけ残っていた。
窓の外を見て、無駄と悟った。
娘は魔法を使えるのかもしれなかった。
若草の間から噴き上げたガソリンと炎と死は、果てしない青一色に塗りつぶされていた。
消えていく。風景が消えていく。
夏の魔法にかかったのか。
跡形もなく。
標識があった。
『暁暗市《ぎょうあんシティ》/二〇キロ』
『これより私線に入る』
『ベネディクト・タウン三二キロ』
万智子は車を止めた。
「ここなら車の数も多いわ。三日に一台ぐらいは通るでしょう。降りてみる?」
「置いてきぼりですか?」
「私と一緒だと危ないわ。誘ったのを後悔しているところよ」
「ひとりだと、もっと危ないのです」
車が動き出したのを少年は知った。
暁暗市の方向へ向かう。
「安全なところですか?」
少年は当然の質問を発した。
「いいえ。多分、敵の本拠地よ。――何処へ行っても、手は回っているでしょうね。さっきの奴らだけが、不意に現れたわけでもないわ。なら、頭をつぶすのが、一番の手よ」
「そうですね」
少年もうなずいた。
万智子も微笑した。
「変わったタンブル・ウィーズだと思ったけど、想像以上ね。そうとう、危ない目に遭《あ》ってきたの?」
「ええ。まあ」
「私が誰だかも気にならない?」
「いいえ。でも、訊けば教えてくれますか?」
「いいえ」
少年は微笑した。
久しぶりの懸念《けねん》のない笑いだった。
「あの」
「なにかしら?」
「万智子さんは、ぼくのことが気にならないんですか?」
「いいえ」
娘は口だけを動かして答えた。
二、三しか年齢が違わないと思われる娘が、不思議と大人びて見え、その白い横顔を少年は食い入るように見つめた。
「訊けば教えてくれる?」
「ええ」
「いいのよ。知りたくないわ」
「ぼくは、人を殺しました」
少年は出来るだけ感情を押さえて言った。
「少しはショックだったけど、もう治まりました。これまでにも四人殺してるんです」
「タンブル・ウィーズにしては少ないわね」
「そうですか」
「そうよ」
少年は言葉の接《つ》ぎ穂を失って黙った。
風来坊を狙うものは多い。
ドライバー、暴走族、通りかかる村の住人、邪悪なジプシーたち、同じ風来坊も例外ではない。
あるものは金銭を狙い、あるものは知識を求め、あるものは単に楽しみのために、あらゆるしがらみを失った放浪者たちを襲う。
応ずれば死。
応じずとも死。
道の上に、誰かの骸《むくろ》が転がるだけだ。
娘にとっては、少年の体験した死などどうでもいいことなのだろう。
程なく、道の両側に人家が目立ってきた。
ほとんどが廃屋である。
家の形を留《とど》めているのはまだましな方で、多くは、原形も留めぬまでに破壊し尽くされていた。
「略奪者≠フ前線はここまで来ているらしいわね」
「この分じゃ、暁暗市も危ない」
「その点は奴らも考えているでしょう。今のところ略奪者≠ヘ、曇りか雨の日、夜にしか動けないわ。撃退そのものは難しくない。問題は、手を結ばれたらよ」
「手を結ぶ?」
「知らない?」
「いや」
少年にもわかっていた。
略奪者≠フ襲撃を免《まぬが》れるために、彼らにとって大した利益をもたらさぬ小村では、逆にある種の契約を結び、その力を借りて収穫物を増やしては提供するという共存策をとるところが多い。
それが個人の利益にまで及べば、略奪者≠ヘ、きわめて有能邪悪な殺人者になり得る。何の抵抗もなく壁から壁を伝い、信じ難い場所から音もなく現れる彼らを防ぎ得るのは、ただひとつ、陽光のみであった。
「すると――さっきの奴らが?……」
「わからないわ。個人レベルでの略奪者≠ニの接触は、きわめて困難とされているし。でも、念には念を。――怖い?」
少年の首は勢いよく横にふられた。
「痩《や》せ我慢のできる男の子なんて、近頃珍しいそうよ」
「お世辞でもうれしいな」
言ってから、少年は身震いした。
怖かった。
それでいて、少年には、娘とともに行くこの旅が、途方もなく魅惑的なものに思えはじめていた。
暁暗市《ぎょうあんシティ》に入ると、すぐに陽が落ちた。
名前にふさわしい闇は、まだ時の果てにある。
万智子は巧みに高架道路を通って、市のダウンタウンへ車を乗り入れた。
安いホテルやモーテルが並んでいる場所だ。
一度来たことでもあるのか、万智子はためらいもなく、青い光の中につつましくそびえる石づくりの一軒へ車を近づけた。
四階建てのホテルにふさわしい小さなフロントには、マネージャーとボーイだけがいた。
派手な音をたてれば、ひびでも入りそうな気がして、少年は終始無言で通した。
部屋は四階の一室だった。
ツインである。
ソファに腰かけ、
「あいつらの仲間――尾《つ》けてきたかな?」
と少年は訊いた。
「窓から離れなさい」
中型のスーツケースを開いて着替えを取り出しながら、万智子は指示した。
「外から射たれるおそれがあるわ。生命を狙われているのでしょう?」
「多分、うまくまいたよ」
少年は負け惜しみを言った。
「最後に狙われたのは、長野《ながの》の町だった。ここからどれくらい離れてる?」
「八〇キロ――車で一時間」
少年は肩をすくめた。
「先にシャワーを浴びていらっしゃい。私は後でいいわ」
「万智子さん、先に入りなさい」
と少年は辞退した。
「なら、一緒に入る?」
静かな声に驚いて見上げると、吸いこまれるような眼差《まなざ》しが見つめていた。
「どうしたの? 女性と一緒にシャワーを浴びたことがないの?」
「そんな――でも」
「でも、どうしたの?」
「はは」
「いらっしゃい。早く脱いで」
こう言って、万智子は黒いスーツのファスナーに手をかけた。
闇色の布が左右に裂け、肌色の光が現れてくると、少年はあわてて横を向いた。
はじめてではなかった。
タンブル・ウィーズの集団に加わったとき、同じ年齢頃《としごろ》の娘たちとは何度も寝た。セックスに限ってなら、旅に出る前に経験済みである。
愛とも恋とも無縁の営みは、食事や排泄《はいせつ》に等しい感慨しかもたらさなかったが、中には、一夜を徹して語り合った眼の大きな少女とのような、精神の充足を感じさせるものもあった。
そのどれもが、いま[#「いま」に傍点]とは違っていた。
少年は恥じらいを覚えたのだ。
女性の肌を見、自分の肌をさらすという行為に。
「どうしたの?」
背中で万智子の声がした。
問いかけただけの声に、どこか嘲笑《ちょうしょう》が含まれているような気がして、少年は決心した。
「何でもない。すぐに行くよ」
万智子の気配が遠ざかり、バス・ルームのドアが開いた。
閉じる音に合わせて、少年は生唾《なまつば》をのみこんだ。
三日間着っ放しのTシャツを脱ぎ、ジーンズも下ろした。
鏡を見た。
際《きわ》だってたくましいとは言えないが、胸も厚い方だし、手足の筋肉は、はっきりと凹凸がわかる。
喧嘩《けんか》をすれば、そう簡単に|KO《ノックアウト》を食わない自信もあった。
それなのに、胸が痛い。
自分の感情の意味がわからない年頃ではなかった。
わかったと思いたくないのだ。
それが何故《なぜ》かは本当にわからない。
どちらにしても、いつまでも鏡の前にはいられなかった。
ブリーフ一枚になって、少年はバス・ルームに近づいた。
シャワーの音がした。
光景が想像できた。
そんな気はないのに浮かんだのである。
不思議な気持ちだった。
哀《かな》しい、というのが一番近いだろう。
それなのに、胸が鳴っている。
少年はドアを開けた。
右が洗面台、左手がバスである。
万智子はカーテンも下ろさず、熱い飛沫《ひまつ》を受けていた。
湯気と石ケンと――二つの白に覆《おお》われた身体が少年の眼に灼《や》きついた。
「やっと来たわね、|臆病もの《チキン》さん。――早くドアを閉めて」
声が流れてきた。
いま、そうするつもりだったと思いながら、少年は従った。
「君も浴びなさいな。――来て」
万智子がふり向いた。
乳房がきらめいた。シャワーの湯を弾《はじ》いたのである。
「どうしたの?」
からかうような口調はない。それでも、少年にはからかっているように聞こえるのだった。
少年は生真面目《きまじめ》な顔で、娘を見つめた。
女の子の裸など見慣れている、という風に。
それから、意識した、重々しい足取りで貫禄《かんろく》のバランスをとりながら、バス・タブをまたいだ。
湯は少年の身体にも跳《は》ねた。
何か特別なものが前にあるかのように、二人は見つめ合った。
理由もなく少年は、これから長いことこの娘と旅をしていくのだな、と思った。
「洗ってあげる」
万智子が微笑した。
「前からでいい?」
少年は驚愕《きょうがく》した。それが顔に出る前に、後ろを向いた。自分で洗うと言えばいいのだが、言えなかった。
「広い背中ね」
万智子が感心したように言った。
「そうかい」
少年も何気なさそうに言う。
背中をスポンジがこすりはじめるのを少年は感じた。石ケンの匂いが湯気の中に広がる。
少しの間、二人は黙っていた。
少年は何か口にしようと思ったが、何も浮かばなかった。
「いつ、家を出たの?」
「忘れた」
「本当に覚えてないの?」
「うん」
少年はうなずいた。
会話はまた跡切《とぎ》れた。
胸の高鳴りが大きくなってきたことを少年は感じた。
何かしゃべらなくてはならない。
万智子は何を考えているのだろう。
二人以外のものが、この危機を救ってくれた。
シャワーが急にやんだのである。
「あら」
万智子の口調からして、わざとやったのでないことは明らかだ。
「出た方がいいかしらね。――拳銃を用意して」
「誰か来たのか?」
「わからないわ。かなり強烈な相手よ。用心して」
「どうして、そんなことがわかるんだ?」
「何となく」
少年は肩をすくめた。
「じゃ、どんな奴が来たの?」
「わからないわ。シャワーの水は、大地の水じゃないから」
万智子が答えたとき、少年はもう、バス・タブを出ていた。
足早にソファのところへいき、デリンジャーを取り出す。中折れ銃身を折って弾丸を確かめ素早くシャツを着た。
眼には鋭い光が溜《たま》っていた。
「そこにいて」
とバス・ルームに声をかけ、ドアに近づいた。
耳をあてる。
足音が近づいてきた。複数の靴音だ。やや高い。
少年は慣れていた。
でなければ、旅などできるものではない。
左手でライトのスイッチを切る。
足音がドアの前で止まったとき、少年はデリンジャーの撃鉄《ハンマー》を上げた。
ダブル・アクションだから引金《トリガー》を引けば四連射できるが、撃鉄を上げて射った方が狙いは正確になる。
どう来る?
少年の身体は発条《ばね》で弾かれたように旋回した。
右手は伸びていた。
肩から銃口まで、鮮やかな一直線。
紫の炎が暗黒に花弁を広げた。
窓が粉微塵《こなみじん》に砕ける。
その向こうで、跳び込んできた黒い影が宙に舞った。
血煙を上げつつ床に転がった姿は、上衣こそまとっているが、異様に筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》としていた。
グォン、グォン。
少年のデリンジャーがつづけざまに跳ね上がり、新たに跳び込んできた二人が床上に倒れた。何かが風を切った。
間一髪でずらせた少年の頬をかすめ、凄まじい勢いでドアにめり込む。
手斧《ておの》である。
生木を削った武骨な柄の先で、楕円の金属片が鈍く光っている。
破損した窓からさし込む街の灯《ひ》を映しているのである。
少年の右手が斧へと伸びた。
弾丸を入れ替えている暇はない。
窓の光が黒く塗りつぶされた。
もうひとり。
室内に異臭がたちこめはじめた。
侵略者の体臭だ。
少年はデリンジャーを捨て、ドアのロックをはずした。
黒い塊《かたまり》が滑《すべ》り寄ってくる。
足音も気配もない。侵略者≠ヘ睡眠中の暗殺を最も得意とする。犠牲者の額を割り、喉を切り裂く手練は芸術に近い。
「仕止めたぞ!」
妙なアクセントで叫びざま、少年はドアを引き開けた。
侵略者≠ノとって、五〇ワットの裸電球のささやかなフレアも、太陽を直視するに等しい。
淡い光の中で、そいつは悲鳴をあげてのけぞった。
右手が上がる。
二つの人影が跳び込んできた。
絶妙のタイミングであった。
ぶん!
空気が押しのけられる。
嫌な音が、先頭の人影の頭でした。
「この野蛮人!」
怒声を轟音《ごうおん》がかき消した。
後方の影は大口径拳銃を愛用しているらしかった。
床の木片が弾けとぶ。
侵略者≠フ影は窓の方へ跳ねた。
火線がその後を追う。
突然、部屋からひとつ気配が消えた。
「それくらいにしたら?」
硝煙《しょうえん》と血臭の世界に似つかわしくない声が、拳銃を握った影の動きを固着させた。
バス・ルームのドアの前に、白い裸身が幻のように浮かんでいた。
[#改ページ]
PART2 |自然の護衛《ネイチュア・ガード》
皮手袋に握られた大型自動拳銃――「デルタ・エリート」が勢いよく万智子めがけてスイングした。
ドアの陰から躍りかかろうとした少年の足を、次のひと声が止めた。
「およしなさい。無駄なことよ」
本当に言われた方――人影の動きも停止した。
口径一〇ミリの巨弾を吐く銃口の前で、万智子はひっそりと美しい肢体をさらしていた。
おぼろな照明の中で、ぼやけた輪郭《ライン》は湯煙に包まれているように見えた。
「ここはホテルの中だ」
人影は――黒いソフトに背広姿の男は、呻《うめ》くように言った。
「窓が破れているわ。忍び込んでから閉めるつもりだったのでしょうけど。――風が入ってくる[#「風が入ってくる」に傍点]わね」
万智子の声に変化はない。
凄絶《せいぜつ》な戦いの現場で、拳銃の前に立ちながら、途方もない精神力と自信だった。その謎は奇妙な会話に表れているようだが、少年には何のことかわからない。
この部屋で、いま決断を迫られているのはひとりきりだった。
結果はすぐに出た。
デルタ・エリートの銃口が素早く下降した。
「また来るぜ」
低く洩《も》らして、男は拳銃を構えたまま、ドアの方へ移動した。
仲間の襟首《えりくび》を掴《つか》んで引きずっていく。
開け放たれたドアの端から、靴の爪先が消えると、万智子はそっと微笑した。
「お疲れさま。もういいわ」
少年は手斧を放さず、デリンジャーを拾うと、素早くドアを閉めた。
窓の方を見て、
「死体が四つ。――治安隊が来たら、どう説明する?」
「来ないわ」
万智子はあっさりと言って、椅子にかけた衣類に近づいた。
「来ない? ――銃声はフロントに聞こえてるぜ」
「旅慣れてるわりには、都会にはヴァージンね」
万智子はあっさりと口にした。きつい内容だが、この娘に言われると、腹も立たない。単に事実を告げているだけだからだ。感情の介入がなければ、対応の仕様もない。
「このくらい大きな都市の下町になると、いまみたいな事件は日常茶飯事よ。こちらから申し込まない限り、フロントは指一本動かさない。警察への通報など料金外なのよ。その代わり、チップをはずめば、死体の始末から血痕《けっこん》の清掃、弾痕の処置までしてくれるわ」
「無駄|遣《づか》いはできないよ」
少年はきわめて現実的なことを言った。
「大丈夫。窓から放り出せば、野犬が始末してくれます」
と、万智子は恐るべき内容を平然と告げ、サマー・セーターをかぶって身仕度を終えた。
こちらも旅慣れている。
「それもそうだね」
万智子が話している間に、ポシェットから取り出した装填器《ハンド・ローダー》で四発のマグナム弾を込め終わったデリンジャーをホルスターに収め、少年も着替えをはじめていた。
「でも、あなた――ただの坊やじゃないわね」
「おかしな言い方しないでくれ。そっちだって、おふくろほど離れてるわけじゃないだろ」
「気にさわったらごめんなさい」
万智子は微笑した。この娘の軽い笑みは、どこか謎めいている。くすんでいる、とは言えないが、透明とも形容しにくいガラス。
「このお手並みを誉《ほ》めたかっただけ。――ドアの方に気を取られてると見せかけ、安心して入ってきた侵略者≠四発で四人KO。最後のひとりを、外の敵を呼び寄せ、同士討ちさせるなんて……みんな、計算ずく?」
「まあね」
と、少年は照れくさそうに言った。誇らしげな口調は仕方あるまい。まだ一七歳だ。
「あの、『仕止めた』っていう侵略者℃ョの発音も独学したの? あれがなければ、外の奴ら入って来なかったわ」
「西の方へ来る前に、国境でもと侵略者≠フ爺《じい》さんに習ったのさ。高くついたけど、奴らの仲間に化けて危ないところを切り抜けたことは何度かあるよ」
「旅は男を強くするっていうけど本当ね」
「誉めてくれてるのかい?」
「少しは信用してくれたらどう?」
今度は少年が微笑した。
「ホテルを替える?」
と訊く。
「もう大丈夫だと思うわ。彼らが勝つには、不意討ちしかない。感づかれた以上、今夜はもう来ない」
無言で侵略者≠フ死体に近づく。
四体を次々と窓外へ放り出してから、少年はカーテンを閉め、大きく伸びをした。
窓から離れているのは言うまでもない。強盗ならまだしも、面白半分に銃を射ち込むアル中や精神異常者が、都市には群れをなしているのだった。
「寝ようか。疲れた」
こう言って、ベッドに横たわった。
「へえ、ベッドってこんな感じだったっけ。忘れてたよ」
「どんなところで眠ってたの?」
万智子が自分のベッドの縁に腰を下ろして訊いた。
「地面の上。寝袋が嫌いでね。安全地帯じゃ大抵はそうしてた」
「痛かったでしょ?」
「別に」
少年は大きな欠伸《あくび》をした。
「ゆっくり寝るなら、地面がいちばんさ。ベッドから落っこちて頭を打つことがあるけど、地面なら無事だ。それに、朝になると、腰が少し痛いのを我慢すれば、疲れはすっかりとれてしまう」
「本当に?」
少年は、ちらりと万智子の方を向いた。
「本当だよ。逆に、腰が痛いときは、ひと晩で痛みが消える。ベッドじゃそうはいかない。だから、なるべく野宿するようにしてたよ。断っとくけど、お金がないわけじゃないぜ」
「あなた、地面に愛されているのよ」
「もう寝ようよ」
と少年は左手で眼をこすった。右手には、デリンジャーの硝煙――火薬のカスが付着している。
「ねえ?」
「ん?」
「何も訊かないのね」
「訊けば教えてくれます?」
「いいえ」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
明かりが消えた。
闇の中で物音は絶え、甘い香りがゆれた。
「いい匂い」
万智子の声が言った。
「これが侵略者≠フ体臭だなんて、不思議だわ」
返事はない。
「おやすみ」
翌朝、二人はホテルの食堂で朝食を摂《と》り、すぐに車に乗った。
何をしにいくのか、少年にはわかっていた。
敵の本拠地だと知って乗り込んできた娘は、その頭をつぶすと静かに断言したのだ。
アル中や麻薬患者がうろつく通りを何事もなく通過し、交通の激しい交差点に着くと、万智子は車を止めてドアを開けた。
「ミドル・タウンよ。ここなら安全」
少年は顔をしかめた。
「少し危ないことをしなくてはならないの。三時間したら戻るわ」
「戻らなかったら?」
「ここなら、タンブル・ウィーズを拾ってくれる車が通るかもしれない。駄目なら、これで車をお買いなさい。通ってくる途中、中古車のディーラーが見えたでしょ」
左手に押し込められた紙幣の束を、少年は奇妙な眼で見つめた。
「お払い箱かな?」
「もう少し信用してくれない? 誰かとドライブしたいのなら、また、あなたを選ぶわ」
「本当に?」
「本当よ」
「ならいい」
少年は紙幣をポケットに入れ、軽やかに車を降りた。
「三時間、おとなしくしてるよ」
「じゃあね」
万智子はドアを閉めた。
ワン・ウェイ・ガラス――顔はもう見えない。
車は走り出した。
他の車の中に呑《の》まれ、すぐ見えなくなった。
ひとりの男が、少年のそばを通りかかり、びっくりしたようにふり向いた。
一七、八の男の子が、こうつぶやいたのである。
「行ったら戻って来ない。――旅はそれが本当だよ」
走り出して五分もしないうちに、バックミラーが敵の襲来を告げた。
黒いセダンが二台、三分ほど前から、一定の間隔を置いて尾《つ》けてくる。
二〇メートルというところか。
街なかでどんな手を使ってくるか、万智子にもわからない。
大丈夫だろう、という気はした。
タイヤは地面にこそ触れていないが、外には夏の空がある。
もっとも、敵の上層部も、意思の疎通《そつう》を欠くことはあるようだ。
屋外での狙撃《そげき》、攻撃ヘリの襲来、遠距離からのミサイル攻撃――ことごとく失敗に終わってなお、一週間前には、戦車がモーテルへ突っこんできた。
ことによったら、軍人が一枚|噛《か》んでいるのかもしれない。
だとすれば、街なかとは言え、馬鹿馬鹿しいほど大仰な攻撃を仕掛けてくるおそれがある。
或いは――
こちらの力をテストしているのか。
それが近い、と万智子は思った。
できれば、答えを教えて欲しいものだ。私にも、わからないことなのだから。
夏の空の青さの秘密が、誰にもわからないように。
青い空。
その果てへ、どうして人は自由に行けないのだろう?
青い空の果て――地平と空がともに重なるところへ。
官庁街の入り口にさしかかったらしく、車の流れが急に鈍くなった。
早く手を出してくれれば、反対に口を割らせることもできるのだが。この状態では無理だろう。
道路の脇に警官らしい制服姿が見えた。
手分けして、渋滞中の車をのぞきこみ、何か告げている。
万智子の車へ来る前に、アナウンスが届いた。
「官庁街直通路は四重事故のため閉鎖――一〇号から二四号区間内の車は、通常高速を利用して下さい。その他は――」
右手を遠く流れる高速道路まで、道の途中から茶色の円筒がつながっていた。
先行の車は次々に右折し、その中へ消えていく。
折り畳み連結式の簡易道路であった。
二トン・トラックに積めば八車線、五〇キロメートル分を運べるという。設置には四名、二〇分もあれば十分だ。
不安が万智子の背に冷たいものを走らせた。
円筒内で出入り口を封じれば、完全に外部との接触は断たれる。密室と同じだ。
罠《わな》だとすれば、最も巧妙で効果的といえた。
車の列は黙々と大きな口の中へ呑みこまれていく。
他に手はなかった。
「急いで下さい」
警官が声をかけ、車体を叩いた。
万智子は流れに従い、ハンドルを右へ切った。
「準備完了」
と、マイクを耳にあてた中年の男が言った。
「敵はネズミ取りにかかりました」
「アルマジロ≠フ砲は、大出力だったな」
ソファにかけた老人が言った。
「他のネズミに迷惑はかからんだろうね?」
「ご安心を。アルマジロ≠フ電子アイは、三万六〇〇〇キロ先に落ちている腕時計の時刻まで読みとります。小さな穴をひとつ開けるだけで、火事さえ起こしません」
「だが、油断は禁物だ。あの女がここへ来た以上、わしらとの対決を狙っているのは間違いない。六本木《ろっぽんぎ》からは何も言ってこんのか?」
「今のところは何も。今度の作戦に信を置いている証拠でしょう」
「だといいが――」
老人は無意識に肩の記章をいじった。
「今度しくじれば、我々の更迭《こうてつ》は間違いない。一生涯、昇進は望めんぞ」
「照準よし」
と中年男は言った。
「念のため、奴の車には照準用磁性帯を貼りつけておきました。光の速度で飛来するビームを避けられなければ、それでおしまいです」
「幸運を祈る」
中年の男は挙手の礼をして、かたわらの通信器に戻った。
老人は窓外を見つめた。
縦横一五メートルはある巨大な一枚ガラスの向こうに、ビルの街並みが見えた。
ほどなく、天空より一条の光がこの一点をめざして落下する。
それですべてが終わるはずだ。
彼は祈るような気持ちで、その悲劇の彼方《かなた》へ眼をやった。
風景に異常はなかった。
中部平原地帯のビッグ・タウンのひとつ『暁暗市《ぎょうあんシティ》』。
人口三〇〇万、平原地帯に放たれた食肉牛の製品化と加工を主産業とする。
いま、その中心部、ミドル・タウンへと向かう道路の二本をつなぐ臨時の道へ、前代未聞の、そして、以後再び生じることはあるまい、小さなアクシデントが加えられようとしていた。
四重事故の怪我人はゼロ、壊れた車もなし。
車の列はのろのろと、簡易道路へ吸いこまれ、注射針からこぼれる薬液のように高速道路へはみ出し、新たな流れに巻き込まれていく。
何の変哲もない、どこの都市でも見られる光景だ。
午前一〇時〇七分四一秒。
三万六〇〇〇キロの彼方から、一条の真紅のビームが、逆落としに円筒の一カ所へ放たれた。
この瞬間――何が起こったか。
ビームの速度は光と等しく秒速三〇万キロ。地上到達まで一〇分の一秒弱を必要とする。
その間に――
天は暗黒と化した。
光が闇と化したのである。
何が起こったのか、人々が理解もできぬうちに、闇は光を放った。
雷雲であった。
白い塊が激しく地上を打つ。
雷塊であった。
大口径粒子砲のビームは、真正面から異常気象に挑んだ。
万智子は通路を出た。
眼を細め、あわてて、ブレーキを踏んだ。
車の列は停止していた。
ドライバーたちは全員外へ出て、上空を見上げながら、何やら話している。
牧師らしい黒服の男が十字を切っていた。
路面が濡れているのに、万智子は気づいた。
通り雨でも降ったのだろうか。それにしては、空はもとのままだ。通路へ入ってから脱け出るまで、三分とかかっていないが。
万智子は頭上を見上げた。
神に祝福されたかのような青さ。
夏とはこういうものだ。
万智子は大きく伸びをし、クラクションに手を当てた。
「しくじりました。まさか――急にあんな高度《ところ》に雷雲が……」
中年男の両手は震えていた。怒りか恐れかはわからない。
「粒子ビーム砲の破壊源たる超加速帯電子は、濃密な酸素や水蒸気、空気中の結晶等によって大幅にパワー・ダウンされる……か」
老人は人さし指をこめかみにあてたままつぶやいた。
「だが、単なる雷雲ごときに邪魔されるような兵器であったかな? ――つまり、あの雲はただの雲ではなかったということになるが」
「さようで。いかなる状況であろうと、わずか一〇分の一秒足らずの間に、高密度の雷雲が発生し、ビームを霧消《むしょう》させた後、これも一〇分の一秒以内に消失するなどということは、不可能です」
「可能さ。可能になった。ついさっきからな」
「次の手をうたねばなりません」
中年男は気を取り直して言った。
「時間があるまい。奴はもうじき、ここへ来る」
「それは――まさか、我々の本部まで……」
「奴が目的地のあてもなく、ドライブに出たと思うかね? 周りの車には、すぐ退避するよう伝えたまえ」
「了解」
中年男は、マイクに向かって命令を伝えた。隣室にある超短波無線局が、標的を追う各車両に中継する。
中年男はふり向いた。
「どうしたね?」
その顔から、老人は事態を読み取っていた。
「何台だ?」
「一台――マッガモンと高橋《たかはし》を乗せた車ですが……応答無し」
「来るぞ。すぐ、応戦態勢を整えたまえ」
緊張した口で言い、老人はソファから立ち上がった。
午前一〇時三七分ジャスト。
万智子は官庁街の西の入り口にあるビルの前で車を降りた。
風が髪を撫でていく。
荒野の風ではなかった。
含んでいるのは、クーラーの湿気、排気ガス、通行人の汗、コンクリートとステンレスの匂い。
青空の下の荒野が、たまらなく懐かしかった。
早く出て行こう。
夏の香りのする道へ。
その前にしなければならないことがある。
髪を撫でつけ、万智子は軽やかな足取りで、自動ドアへと向かった。
ロビーに人影はなかった。
受付のデスクの向こうに、女子事務員が二人腰を下ろしている。
こわばった表情へ、万智子は微笑を浮かべてみせた。
「お邪魔するわ。できたら、邪魔しないで」
女たちはうなずいた。
万智子は大窓の方へ身体を向けた。
上体を屈《かが》め、右のブーツの内側から、小さな自動拳銃を抜き取る。
コルト・ポケットM25――二五口径六連発の護身用銃である。
咄嗟《とっさ》の防御用だから、頭にでも命中させなければ、一発の殺傷能力はない。
優雅に伸ばした手の先が火を噴いた。
窓ガラスに絵のような亀裂が入る。
弾丸は貫通していた。
コルトをブーツに収め、
「いい風ね」
と万智子は眼を閉じて言った。
受付の女たちが顔を見合わせた。
万智子はエスカレーターに向かった。
目的地は二五階――最上階にある。エレベーターの方がずっと速い。
ビル全体が敵だということはわかっていた。だが、これまでの攻防からして、敵も無謀な攻撃は仕掛けては来まい。
四階でエスカレーターは止まった。
時間稼ぎか、エレベーターに乗せたいのか。
万智子は眼を閉じ、空気の動きを感じた。
わずかだが、排気ガスの匂いがする。
射ち抜いた窓の穴は塞《ふさ》がれていないようだ。念のために開けたが、外部との接触について万智子はあまり気にしていなかった。
どのような堅固なビルでも、その活動中に完全な密閉状態になることはあり得ない。
空気取り入れ口から吸い込まれた自然の風は、張り巡らされたダクトを通じて、常にビル中を吹き巡っているのだ。
万智子はエレベーターに乗った。
「乗りました」
中年男がうなずいてみせた。
「じきにヘリも来ますし、セットも終わりました」
「無駄とは思うが、一応試してみろ」
老人はドアのそばで言った。
左右には屈強な男が二人ついている。ボディ・ガードであった。
「了解」
中年男は一礼し、マイクへ向かった。
「この階へ到着と同時に落とせ」
フロア指示ライトが次々に数字をきらめかせていく。
快い上昇感を万智子は味わっていた。こういうときだけは、文明というやつも捨てたものじゃないと思える。
18……19……20……
高速上昇中のエレベーターの速力が落ちた。
21……22……23……
25の数字が点灯した刹那《せつな》、頭上で鈍い音がした。
両足の底が床面に吸いつく。
ごお、と空気が鳴った。
落ちていく!
万智子ひとりを乗せた鉄の箱は、いま、地上一三〇メートルの高さから、狭隘《きょうあい》な通路の空気を引きちぎりつつ、落下していった。
「どうだ?」
老人が訊いた。
「落ちました。――まっすぐ地上へ――」
口早に告げて、中年男の眼は不意に見開かれた。
「何!? ――馬鹿な……ワイヤーは切ったのか!?」
「どうした?」
尋ねる老人の声に焦《あせ》りはない。事態を見越していたかのような落ち着きすら感じられた。中年男の身から、マイクを握る手が落ちた。
落ちた。
「五階で急激に落下速度が落ちたようです。後はふんわりと一階まで」
「しくじったか――やむを得んな。脱出だ」
「は」
別のエレベーターで二五階まで上がり、万智子は、部屋という部屋がもぬけの殼《から》であることを知った。
エアポートがあることは聞いている[#「聞いている」に傍点]。
屋上だろう。
階段を昇った。
風が吹きつけてきた。
下とは比べものにならない清涼な風であった。
頭上をふりあおいだ。
小猫のような雲が浮いている。
ヘリの姿は見えず、音も聞こえなかった。
万智子は大きく伸びをした。
急に何もかもどうでもよくなった。
敵の本拠地へ乗り込み、屋上で夏の風にあたっている。――それだけでいいような気がした。
鉄柵に近づき、市街を見下ろした。
メカニックな高層ビルの連なりと周辺の住宅地、それを結ぶ高速道路《フリーウェイ》とモノレールの流れ――彼方の青い森。
また、そこへ行けばいい。
ふと、あの少年のことが脳裏《のうり》に浮かんだ。
戻ろう、あの場所へ。
ふり向く顔は明るく、風が黒髪をきらめかせた。
そのとき――
靴底から震動が伝わってきた。
地震ではない。
炸裂音《さくれつおん》であった。
高性能爆薬であろう。
ビルは垂直に落ちた。
そのように爆薬がセットされていたのである。
ビル破壊の場合、周辺のビルに損傷を負わせることなく倒壊へ導くには、下の階から徐々に、垂直に落ちるようつぶしていけばよい。
蛇腹《じゃばら》を上から押すのに似ている。
これを爆薬の力とセットの仕方で下からやってのける。――構造を熟知したプロなら、さほど難しい芸当ではなかった。
万智子は手すりを掴《つか》んだ。
下方から、低いビルの屋上と煙が湧き上がってくる。
爆煙ではない。
ビルに溜っている埃《ほこり》だ。
万智子は静かに青空を見上げた。
視界を煙が覆った。
「消えました。最後まで屋上に。逃げおおせたとは思えません」
一〇キロも離れて滞空中のヘリの座席で、スクリーンを覗《のぞ》いていたパイロットが報告した。
「今度こそ」
と中年男が背後の老人をふり向いて言った。
「そう思うか?」
「いや」
「我々は何を相手に戦っておるのだ?」
老人は鉤鼻《かぎばな》のつけ根を揉《も》みながらつぶやいた。疲れたような声である。
「ことによったら、一生、あの娘には勝てんのではないかな? ――どうだね、林財《りんざい》くん、好きなようにさせてやったら。今までのレポートを読む限り、彼女は気ままな旅を楽しんでいるようだ。それを妨げる権利は誰にもあるまいよ」
「事態を把握なさっていらっしゃらないようですね」
いちばん奥の座席から、低い声が洩れた。
狭いヘリのスペースが、突如、冬に変わったかと思われた。
「それもやむを得ますまい。あなた方軍人に伝えられたのは、完全なる抹殺《まっさつ》だ。あの娘が世界にとってどのような脅威をもたらす存在かは、我々のみが存じております。そのせいで夜も眠れないと、あなたに言ってもはじまりません。ですが、私の独断で、不首尾に終わった結末はとっていただきます」
「何を……?」
中年男が呻《うめ》いた。
「六本木へ帰っても、二度とあなたの地位と栄誉にふさわしいポストは待っておりません。残るは汚辱と絶望の道のみです」
「ふむ」
と老人はうなずいた。
「それもよかろう――と言ってしまえればいいのだが、これでもつまらぬ名誉を気にする性質《たち》でな。君、すまんが席を替わってくれ」
言われた右側のガードが、さっと緊張した。
「これは――准将《じゅんしょう》!?」
中年男が血相を変えた。
「いいのだよ。もっとよく景色が見たくなってな。さ、すまんが」
「准将のお望みだぞ」
背後の声が――言った。
ガードは無言で安全ベルトに手をかけた。
数分後、開いたハッチから、軍服姿の老人は、しわくちゃになった紙屑のように、青空へと飛翔した。
「見事な最期《さいご》だ」
と声の主――林財は心の底から感心したように言った。
「彼は本当の軍人だった。だからこそ、民間人に刃《やいば》をふるう手が鈍っていたのかもしれん。今後は諜報局が全権を掌握する。無関係のものにも、多少の犠牲はつきまとうかもしれんが、大事の前とみなしてくれたまえ。――やれやれ、私は旅など大嫌いなのだが、どうやら陣頭指揮を取らねばならんな」
何の前触れもなく生じたビルの崩壊を見つめる人垣の向こうから、ひとつの影が滲《にじ》み出た。
群衆から少し離れ、万智子は髪の毛を大きくふって埃を払い落とした。
こんな動作をすると、ひどく年上に見える。
困ったような表情をつくり、万智子は通りへ歩き出した。
車はビルの下敷きになっている。
通りの端で、どちらへ行こうかと右手の方へ眼をやったとき、背後で警笛が鳴った。
渋いグリーンの、甲虫《ビートル》を思わす車体の横で、少年が手をふっていた。
「よくわかったわね」
「あなたがいなくなって、ビルがひとつ崩れた。これで気がつかなけりゃ、ぼくは阿呆《あほう》だ」
「今度は私が乗せてもらう番ね」
「これはあなたの車さ」
万智子は何も言わなかった。
少年が助手席のドアを開け、万智子は乗りこんだ。
「どちらへ?」
と少年がハンドルを握って訊いた。
「何処《どこ》へでも。――君の好きなところへ」
「では」
「では?」
二人は顔を見合わせ、微笑した。
「西へ」
「陽の沈む方角ね」
「鳥の帰る方向さ」
どちらでもいいことだった。
二人はそれを知っていた。
東も西も北も南も――そこへ向かえば、旅にはちがいないのだった。
エンジンが低く吠《ほ》え、車は軽やかに滑りはじめた。
西へ。
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PART3 淑女へ捧ぐ薔薇
陽が沈むと、急速に闇が幕を引いていく。
「ひどいなあ。もうライトがいるよ」
少年は前方の道へ、眼を凝《こ》らしながら愚痴《ぐち》った。
ライトのスイッチを入れる代わりに、ディスプレイ・スクリーンへこの付近の地図を映す。
映像はすべて、地方支局の交通管理センターから送られるものだ。
少年が買ったこの『甲虫《ビートル》』は管理局への非登録カー――いわゆる不法車両だが、管理センターからの電波は、可聴範囲が広いため、付属のコンピューターで造作もなく拾える。
映し出された五〇〇分の一の道路地図へ、コンピューターが車の現在位置を挿入。今度はその地点を中心に、画面が再構成される。
「次の街まで二〇〇キロあるよ。二時間だ。どこかで休憩してかないか?」
少年の声に、疲れ以上のものを感じ、万智子は不安げな眼を向けた。
『暁暗市《ぎょうあんシティ》』を出てから四日|経《た》っている。
走りづめできた。
おかしな奴らがくっついてこないようにと、少年が夜も日も明けずに飛ばしたのである。
二〇〇〇キロは離れたはずだ。
その疲労が、安堵《あんど》感と入れ違いに出てきたのだろう。
顔も妙に色艶《いろつや》がなく、眼の下に隈《くま》がある。
「近くには町もモーテルもないわ。私が運転を代わる」
「大丈夫だよ」
「駄目。――顔を見てごらんなさい」
「わかった」
少年の返事を聞いたとき、万智子は事態が予想以上に悪化しているのを知った。
四日もつき合えば大まかな性格はわかる。多少の疲れや熱で、ハンドルを女に渡すような少年ではない。
車を止めた。
助手席を出て、万智子は運転席へまわった。少年は出てこない。ワン・ウェイ・ガラスの内側は見えなかった。
「ね、開けて!」
と拳《こぶし》で窓を叩く。
ロックのはずれる音が、わずかに万智子を安堵させた。
だが――
ドアが開くと同時に、少年はごろりと車外へ転がり出た。
万智子が抱き起こした。額に手をのせるまでもなかった。
ひどい熱だ。四〇度近い。これも疲労のせいである。
「二時間か」
と万智子は眉を寄せた。
少年はとてももちそうにない。
ダッシュボードの救急箱へ手を入れながら、悪い予感がかすめた。ただの疲れではないかもしれない。
風邪薬と解熱剤、疲労回復剤を二錠ずつ熱い唇に含ませ、ポリタンクの水を与える。
何とか飲んだ。
「どう? もう少し頑張って」
とディスプレイに眼をやるが、現実に変化はない。
眼の隅を光がかすめたのはこのときだ。
左は山肌である。
名前もつけられていない巨木が針のように天へ挑んでいる。
万智子は眼を凝らした。
距離も高さもわからない漆黒《しっこく》の奥で、確かに光点が瞬《またた》いている。
家だろう。
地図をもう一度眺めたが、家の印はない。道は? ――それはある。山腹を巡る細い旧道の端は、二〇メートルほど先だ。
躊躇《ちゅうちょ》せず、万智子は車をスタートさせた。
五〇メートルほど後方から、黒い車が現れ、『甲虫』の消えた旧道の入り口で止まった。
「どういうつもりだ、こんな場所で? 山越えか?」
「わからん」
「みんな、用意はいいな?」
ハンドルを握った男の声に、残る三つの影が小さくうなずいた。
ひとりが上衣の内側から、黒光りする拳銃を取り出した。高圧の炭酸ガスで毒薬カプセルを射ち出す暗殺用の無音銃である。
旧道を五分ほど走ると、左手に狭い道が現れた。私道らしい。光はその奥だ。
ハンドルを切ろうとして、万智子は手を止めた。車も停止させる。
冷気が背筋を這《は》ったのである。
わかっている。――警告だった。
行くな。
行くな。
行ってはならない。
守れないかもしれんぞ。
行くな。
これまでの体験から、警告を無視した先にあるものは、想像がつく。それに、今回の警告は、一段と激しいようだ。
だが――
少年が呻《うめ》いた。
声は途中で止まった。歯を食いしばったのであろう。よほどの苦痛に襲われているのだった。
万智子は右手でブーツを上から叩いた。
コルト・ポケット。小さな味方は無言でそこにいた。
もう一度少年を眺め、万智子は車をスタートさせた。
家というよりは、館《やかた》と呼んだ方がふさわしい瀟洒《しょうしゃ》な建物が忽然《こつぜん》と浮かんだ。
庭に設けられた夜間照明が、白い建物を幻のようにゆらめかせている。昼の光の下で見ても、これだけは夢の中の邸宅と映るだろう。
門前で車を止めたとき、万智子は悪寒に包まれていた。
熱っぽく、それでいて体の芯《しん》はうそ寒い。
ひょっとしたら、ここは――?
四方で虫が鳴いている。頭上には眩《まばゆ》い星々――あそこ[#「あそこ」に傍点]なら、こんなことはない、と聞いた。
少年は伝染性の病《やまい》なのかもしれない。
どちらにしても、ここまで来て、引き返すわけにはいかなかった。
門には標札もインターフォンもない。
それなのに、万智子が声をかけようとドアを開けたとたん、
「どなた?」
香気にみちた声が闇の何処《どこ》かでした。
若い娘だ、それも美しい、と万智子は声だけで確信した。
「夜分にごめんなさい。連れが熱を出して倒れてしまって。――休ませていただけないかしら?」
少しの沈黙。
「わかりました。お入りなさい」
口調に変化といつわりはなかった。
言葉の終わらぬうちに、鉄柵の門は左右に開いたのである。リモート・コントロールらしい。
木々の間を縫う白い石の道へ、万智子は『甲虫』を乗り入れた。
館には、光がみちていた。
ガラス張りの玄関の前に、二つの人影が悄然《しょうぜん》と立っている。
万智子は眼を細めた。
腰までかかる黒い髪、そして、白いドレス。
もうひとつは、きちんと蝶ネクタイを締めた、執事《バトラー》用の制服。こちらは、格闘士《グラジエーター》のように巨大だ。
車を止めるとすぐに巨漢が近づき、少年を抱き上げた。
「はじめまして」
と白いドレスの娘が一礼した。
髪がそっとゆれる。透明な、火星草の美貌。
「ローリイと申します。屋敷の主人《あるじ》ですわ」
万智子も名乗った。|旅のもの《タンブル・ウィーズ》だと告げても、少女の澄んだ美貌に変化はなかった。ロマンチックな男なら、無理もないと納得するかもしれない。
このお嬢さまは、生まれてこの方、一度も屋敷の外へ出たことがないのだ。だから、旅のものの評判も知らない。
と。
「お部屋はフランツに案内させます。お好きなだけ居られたらいいわ」
少女――ローリイは、ガラス・ドアの方へと歩きながら言った。
「明日には失礼します」
当たりさわりのない返事に、焦りのようなものを感じて、万智子は自分の精神を訝《いぶか》しんだ。
「そう。――そうなればいいけれど……」
万智子がふと、ローリイの方を向いたとき、二人はすでに豪華なホールに入っており、ローリイの合図で、巨漢のバトラーは、奥に見える水晶の階段へと、万智子を眼で案内した。
口がきけないのか、フランツが無言で立ち去ると、万智子はすぐ、天蓋《てんがい》付きのベッドに横たわる少年の容態を確かめた。
薬が効いたのか、さっきよりは呼吸も楽そうだし、熱も下がっているが、かなり危険な状態にあるのは一目|瞭然《りょうぜん》だった。
フランツに薬を頼んではあるが、取りに行こうかと立ち上がったとたん、ノックの音がした。
「どうぞ」
白い影が幻のように入ってきた。
手にした小さなガラス瓶が万智子の眼を引きつけた。
「それは、この森の毒虫の症状です」
とローリイは言った。
地方の自然条件によって、棲息《せいそく》する動植物の相には大きな違いが見られる。昆虫もその例外ではない。
旅人は、あらゆる状況に備えて豊富な薬を用意するのが常識だが、現実は、その地方ごとに現地で妙薬を調達し、処理していくしかない。
ローリイの薬はよく効いた。
少年はすぐに、リズミカルな寝息をたてはじめたのである。
「効いたようだわ」
「よかった」
白い少女は微笑した。
「あなたも顔色が悪いわ。別の薬を用意させます」
「いいのよ。私は原因がわかってるの」
万智子は手をふってローリイを止めた。
「それより、このお家、変わってるわね」
「そうかしら」
「こんな広いお屋敷に住んでいるのは、あなたたちだけのようね。それに、今昇ってきた階段は『ハリエットの傾斜』がついていたわ。五〇年も前に流行《はや》った型よ」
「そうね」
ローリイも認めた。
『ハリエットの傾斜』とは、ある高さとそこまでの最短距離を崩さず、最も少ない疲労度で行きつくための傾斜角度を示す。
これは、太陽系の星々をめぐる際の、最も効率のよい軌道――ホフマン第三軌道を応用したもので、後に、より力学的な面を取り入れた『バーナビイの角度』が現れるまで、パリを中心とした財閥たちの屋敷で大いに採用された。
「いつからここに?」
と万智子が訊いた。
「生まれたときから」
ローリイの眼は窓の外を見つめていた。
「いつも、その服を着ているのかしら?」
万智子の質問を、ローリイはすぐには理解できなかった。
「え?」
「素敵な服だけど、窮屈じゃないこと?」
「…………」
「泊めていただいたお礼に、ささやかなプレゼントをしたいの。受けて下さるわね?」
「でも……」
「大したものじゃないわ」
万智子は床からスーツケースを取り上げて膝《ひざ》にのせ、少しの間ごそごそやっていたが、じきにブルー・ジーンズと白いブラウスを取り出した。
「私と同じサイズで大丈夫だと思うわ。あのバトラーさんの眼を気にしないでいいなら、そのドレスより、ずっと歩きやすいわよ」
素早く差し出された衣服を少しの間見つめ、ローリイは両手に受け取った。
「ありがとう」
声だけが残った。
万智子が二、三度眼をしばたたく間に、白い少女の姿は、ドアを抜けて消えた。
ドアが閉まっても、万智子は長いこと、見えないローリイの姿を追っていた。
厳しい眼差しの中に、窓の外を見ていた若い女主人と同じ色がゆれていた。
理由はわからないが、哀しみ、であった。
荷物を整理し終えたとき、窓の外で車のエンジン音がした。
万智子の反応は素早かった。
窓辺に駆け寄り、レースのカーテンを細目に開いて、その陰からのぞく。
黒塗りのセダンが玄関前に停車し、家族連れらしい男女が降りてきた。
父と母に一七、八の若者と娘である。
娘は若者の肩に上体を傾けていた。
万智子たちと同じ状況らしい。
「見てくれはただの家族だけど――厄介《やっかい》ね、わたしひとりじゃ[#「わたしひとりじゃ」に傍点]よくわからないわ」
今度はフランツがひとりで現れ、結局、四人を邸内に導いた。
「誰だった?」
少年の声に訊かれて、万智子はふり向いた。
ベッドの上に上体を起こしている。まだ苦しそうだが血色は戻った。
安眠中、車の音で眼を醒《さ》ます。――そうしなければ、生きていけない生活だったのだろう。
「家族よ。道に迷ったか、長女の具合が悪くなったのか」
少年は無言で何度もうなずいた。
無理に世話になるときは、自分でもそうする、ということだ。
「知り合い?」
「わからない。でも、そうだったとしても、おかしくはないね。ぼくの背中には、いつも他人の眼が貼《は》りついている。わからなかったかい? 『暁暗市』でいったん別れたとき、すぐにすれちがった男は、奴らの工作員さ」
「情報局みたいなことを言うわね」
「事実は常に反感を買うものだよ」
「すると尾《つ》けられたのは君の方ね」
「そういうことだ。責任は取らなくちゃあ」
少年はそれだけ言って、ベッドに横になった。
さほど気にも止めず、万智子は窓の外に眼を移した。
緊張を強制する異分子の登場を迎えても、その眼にはやはり哀しみがあった。
隣室から子供たちがやってくると、全員が武器を点検した。
すべて異なる。みな、いちばん性に合うものを身につけているのだった。
「相手も、この階かしら?」
と母親が眼を光らせて言った。
「多分な」
と、長男がうなずく。
「どうするね? 部屋を確かめ、皆で乗り込むのもいい手だが……」
「あの餓鬼《がき》がそんな古典的な方法を承知してないと思うのか? こう正面切って乗り込んで来た以上、奴にもおれたちのことは感づかれてるはずさ。向こうも手はうってる」
これは父親の言葉だった。
「でも、殺《や》るんなら、今がチャンスよ」
と長女が異を唱えた。
「これ以上、何処《どこ》かで顔を合わせたら怪しまれるわ。何とか、今晩じゅうに片をつけなくちゃ」
「わかってるって」
父親は拳で膝を叩いた。
「じき夕飯だと、あのでかいのが言ってた。せいぜい、育ちのいい明るい家族としてふるまうんだな。餓鬼を油断させるにゃ、それがいちばんだ。必要とあれば、おまえたち二人であいつらと寝ろ」
「お安い御用よ」
と娘が嬉《うれ》しそうに言った。
「もう二《ふた》月も追いかけてるのよ。いい加減、共同生活にも飽き飽きしたわ」
「おれ、ちょっと様子を見てくるよ」
長男が立ち上がった。
「でも、静かな場所ね」
と母親が感慨深そうな声で言った。
「この仕事のギャラが入ったら、このくらいの家は建てられるわね」
「そういうこった。でかい獲物だからな」
「一体、何者よ、あの子?」
と娘が訊いた。
「わからん。金額から判断するしかない」
「あんな子供のくせに、もう二〇人近くが殺《や》られてるんでしょ。あたしたちも、その二の舞いにならないよう気をつけなくちゃ」
父と母が叱責《しっせき》するように娘を見つめたとき、ノックの音がした。
娘が立ってドアを開ける。それぞれの持ち分をわきまえている点は、プロ中のプロだ。その気になれば、平和な人々の中で一生、誰にも気づかれず、やさしい家族で通せるだろう。
フランツが現れ、下へ来るようにと手で合図した。
万智子と少年が先に食堂にいた。
家族も席につく。
大広間ほどの広さがある大食堂だった。
テーブルに並べられた食器はすべて金と銀である。
双方、にこやかに微笑し、ローリイが姿を現したときだけ、家族側が眼を丸くした。
白い少女は自己紹介してから、
「もうおひとりはいかがなされました?」
息子のことだろう。
「それが、お屋敷の中を覗《のぞ》いてくると言って……」
父親が困ったように言った。
「危険ですわ。この家にはかなり危ない品が多くありますし。――まさか、外へは?」
三人組は顔を見合わせた。
とにかく、食事を、ということになった。
和気あいあいの光景が進んでいったとき、凄まじい絶叫が、遠くの方で聞こえた。
「陽介《ようすけ》だわ!」
母親が叫んだ。全員が立ち上がる。
「お待ち下さい。フランツ――見ておいで!」
ローリイの命令に、スープや肉を取り分けていた執事は、一礼してドアの方へ向かった。
――――
ほどなく戻ってきた彼の抱えているものは――。
「陽介!?」
三人が同時に叫ばずにはおれないほど、若者の姿は変貌していた。
皺《しわ》だらけの顔、土気色の肌、そして、半分ほどにも縮んでしまった身体――叩けばカツンと鳴りそうだ。
若者はミイラ化していた。
「一体、誰が!?」
と喚《わめ》きとばす父親へ、
「この森にいる毒蜂のせいですわね」
ローリイが屈託《くったく》もなげに言った。
「最初に私がお目にかかって、お伝えしておけばよかった」
全員が居間へ移った。
ソファに横たえられた死体に取りすがって泣く家族を、無感情な眼で見つめながら、
「どう?」
と万智子は少年に尋ねた。
本物の家族かどうか?
少年は首をかしげた。
「お気の毒に」
と万智子が家族の背後に近づき、声をかけた。
こちらも、どこまで本気かわからない。一種のたくましいふてぶてしさが、この娘にはあった。
「食事どころではなくなりましたね」
とローリイが静かに言った。
あらゆる物音が絶えた。
フランツを除く全員が少女を見た。そんな声であった。
「どうなさいます?」
と少女はつづけて訊いた。
「埋めますか、それとも?」
「冗談じゃないわ!」
と母親が激昂《げっこう》した。
「戦場じゃあないのよ。明日、町まで連れて帰るわ」
ローリイは不思議そうな顔をした。
「連れて帰る……そうですの」
「いい加減にしたまえ!」
父親が立ち上がった。
「君が最初から警告してくれていれば、息子もおかしなところへは入らずにすんだんだ。泣いてくれとは言わんが、もう少し、この場に応じた言葉があるだろう」
ローリイは無言だった。
無言だが、恥じ入っているようには見えない。
世間の哀しみや怒りと決して触れ合わぬ超然たる冷たさは、むしろこの場とこの少女にふさわしいようであった。
暗い森の館の住人に、感情など不要なのかもしれない。
我慢しきれなくなったか、父親がいきなり打ちかかった。
その手はローリイの頬に当たる前に止まった。
フランツの巨大な手が押さえたのである。
身長二メートル、体重一〇〇キロはある巨人がローリイの護衛だった。彼も奇怪な館の住人なのだった。
「およしなさい」
と言ったのは、少年だった。
まだ具合のよくない気分を押し隠して、
「どっちも死者を送る態度じゃない。今夜は喪に服したらどうです?」
それからローリイの方を向き、
「失礼だが、あなたは席をはずされた方がいい。今夜はご家族だけにしておくべきです」
「そうですね」
ローリイは静かに背を向けた。
「フランツを残しておきます。用事はすべて彼に言いつけて下さい」
「ぼくたちも下がろう」
少年は万智子に言った。
一礼して歩み去る背中に、
「ありがとう」
三つの声が口々に同じ言葉を言った。
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PART4 死者の香りは甘く
一時間ほどして、娘は二階へ戻った。部屋に用はない。
用があるのは、隣室の二人だった。
殺そう、と娘は決心していた。
兄の仇《あだ》討ち――などという気はさらさらない。兄が死ぬことで、彼女の取り分が増えた。この上、直接手を下せば、一家の中で最高額が舞い込んでくる。
タイミングは絶妙と言えた。両親はまだ席から離れられない。邪魔なバトラーもいない。
二階の部屋で、娘はバッグから、武器を取り出した。
小さな金属の箱だ。
蓋《ふた》を開けて、中のものを見た。
蠍《さそり》である。
この恐るべき毒虫を、娘は飼いならしていたのだ。
その通り――白い指を出すと、この悪魔の虫は、毒針のついた尻尾を丸めたまま、その上を渡りはじめたのだ。
娘は丸首のサマー・セーターを着ていた。
手にのった毒虫を、いとおしげに胸元へ運び、――胸の中へ放りこんだ!
「しばらくそこにいらっしゃい。これからひと仕事してもらうわよ」
娘は部屋を出た。隣の部屋を訪問し、さっきのお礼に来たと言って、胸の蠍を捨てる。首尾よくいけば、後は逃げ出すだけだ。
隣室に近づき、ノックしようと手を上げる。
ぞくり、とするものが全身を捕えた。
冷気ではない。
暑気だ。
廊下の端の窓がいつの間にか開いていた。
熱気はそこから吹き込んでいるのだ。
娘は顔をしかめ、ドアを叩いた。
ノックされたので、万智子はどうぞ、と言った。
誰も入ってこない。
ソファから立ち上がりかけたとき、
「ぼくが行くよ」
と少年が声をかけた。
「大丈夫よ」
少年は答えず、枕の下からデリンジャーを抜いて撃鉄《ハンマー》を起こした。
壁に背をつけ、
「どなた?」
と訊いた。
返事はない。
万智子は、どなた? と訊いた。同じだ。
万智子はノブに手をかけて回した。ドアを勢いよく開ける。
廊下には誰もいなかった。
窓も閉じている[#「窓も閉じている」に傍点]。
ほのかな香りが鼻をくすぐった。ジャスミンの匂いだ。庭のどこかで栽培しているのだろう。
だが、いまのノックは?
「今晩は」
背後から声をかけられ、万智子は愕然《がくぜん》とふり向いた。
五〇センチと離れていないところに、ローリイが立っていた。
「ローリイ!?」
「どうかして?」
「いまのノックは、あなた?」
「ノック?」
「ええ」
「いいえ。いま来たばかりだけど、ここには誰もいなかったわ」
「そう……」
「お邪魔していいかしら?」
「それはもちろん」
「さっきの勇敢な男性に敬意を表したいのです。この家もご案内したいわ」
「それはありがとう」
万智子は横にのいてドアを開け、ローリイを室内へ導いた。
「遅いわねえ」
と母親が、フランツに聞こえぬような声でささやいた。
「まさか、あの子も?」
「ここは家の中じゃぞ」
「わかりゃしないわよ。この家、やって来たときから胡散臭《うさんくさ》かったんだから。今度は私が行くわ」
「気をつけろ」
夫は止めなかった。気性は知り抜いている。
妻が階段の方へ向かったとき、三人が降りて来た。
とたんに夫は暗殺をあきらめた。
妻は一礼して階段を昇った。
途中で引き返すなど、みっともない上、勘ぐられるおそれもあった。
三人が夫のところへやって来て、
「お嬢さまは?」
と万智子が訊いた。
「上だろう。会ったかね?」
「いいえ」
夫の眼が光った。
「では、また、邸内を散歩か。呑気《のんき》な娘だ」
夫と遺体を残し、二人はローリイの案内で邸内を見学した。
居間、寝室、図書室、遊戯室、バス・ルーム――驚くべき広さであり、驚くべき豪華さであった。
最後の場所で、万智子が口をおさえて咳《せき》こんだ。
「どうしたの?」
少年が肩を抱いた。
「急にめまいがして。悪いけど、私、部屋へ戻っているわ」
「そうしなさい」
万智子を見送り、二人は奥の部屋を抜けて裏口から外へ出た。
花の香りが少年を包んだ。
軽いめまいを覚えてよろめく肩と手を、そっと白い手が支えた。
ローリイ。
少年が立ち直っても、それは離れなかった。
「どうしたの?」
「あなた、素敵でしたわ、さっき」
ホールでのことだろう。
少年は照れる気分にはならなかった。まだ頭が重く、熱も少し残っている。
「どうでしょう、この家と庭は?」
ローリイが四方の木々を見渡して訊いた。
白い照明に讃《たた》えられた建物と木々は、別世界から降臨した神秘そのもののように見えた。
「ぼくには何もわからないけれど、古くて素敵だ」
「古いものはお嫌い?」
「どうして?」
「そんな言い方だわ」
「好きになるには時間がかかるよ。ぼくはまだ若すぎる」
「幾つ?」
「一七」
「私もよ」
限りなく深い眼に見つめられ、少年は少しあわてて庭の芝生と噴水を眺めた。
「この庭は特に立派だ。土には香りと生命があふれてる」
「本当にそう思う?」
「もちろんさ」
「出ていくの、いずれ?」
「明日」
「この土地はとても古いの。家や私よりずっとずっと昔からここにあるわ」
ローリイは話を変えた。
「この土地は、いつもいつも豊饒《ほうじょう》だった。春夏秋冬、風はいつも歌を歌い、せせらぎは水音をたてて、枝には果実が光っていた。どこにでも光があった。私はその中で走り、土の香りをかいだわ。夏の夜は虫の音が絶えず、ときどき、都会へ行く汽車の音が遠くから聞こえた」
少年は無言で少女を見つめた。
ただの感傷や時間つぶしとは思えぬひたむきなものがそこにあった。
星と月明かりと虫のすだき。
「こんなところで暮らせたらいいだろうね」
少年はぽつんと言った。
「本当!?」
少女が驚くほど嬉しそうな声をあげた。歓喜そのものだった。白い憂愁の翳《かげ》は消え、年齢にふさわしい、弾《はじ》けるような素朴さが全身に溢《あふ》れていた。
「それなら、ねえ。それなら、ねえ」
と少女は繰り返した。
「ずっとここにいればいいわ」
「いや――それはできないよ」
少年はあわてて言った。
「どうして? あなたはいま、ずっとここにいたいと言ったわ」
「違う。いられればいいと――」
「いられるわ。私と一緒に。何も不自由なんかしないのよ。何もかも、この土地が与えてくれるわ。仕事はみんな、フランツがやってくれる」
「それでは退屈すぎるよ」
「ぜいたくを言わないで」
「とにかく、ぼくはここに留《とど》まれない。明日には出て行くんだ。君の薬のおかげで、随分楽になった。ありがとう」
「あげなければよかった」
突然、少女の声に怒りがこもった。
「あげなければよかった、あんな薬。でも、きっとあなたは出ていけないわ。前の人もそうだったもの。ずっと私といると言ったのに、すぐに飽きて――出て行こうとしたの」
白い頬に涙が光るのを見て、少年はひどく驚いた。
「でも、彼は行けなくなった。ずっとこの家にいるしかなくなった。今も私といるのよ。あなたもそうなるわ」
少年は口ごもった。
彼の反論を許さないのは、ローリイの狂気に近い怒りではなく、それを支えるあまりに深い哀しみであった。
「だけど、ぼくはひとりじゃない。万智子さんも一緒なんだ。君より前に、一緒に行くと約束したんだよ」
「じゃあ、あの女性《ひと》も残ればいい。みんなでこの家に、この土地に」
少年はようやく苦笑した。
「だから、それは――」
不意に少女が動いた。
突きとばすようにして森の奥へ数歩進んだ。
何処かで空気の洩《も》れるような音がした。
少女がよろめき、倒れたのは、少年がいるはずの場所だった。
「君! ローリイさん!?」
抱き起こす腕の中で、白い少女の美貌は、見る見るうちに紫の肌へと変化していった。
「ミスったわね」
笑いを含んでつぶやき、妻は炭酸ガス銃を握り直した。二階のテラスである。
少年が四方を見回した。
身を隠すものはなく、森までの距離は優に二〇メートルを越す。
「駄目よ。ずっと待ってたんだから」
妻は狙いをつけた。
「あの娘《こ》を楯に使えばいいのに。――おやさしい坊やね。私はカーテンの陰で見えないし」
引金《トリガー》にかけた指を、ゆっくりと引いていく。限界に達した。あと数分の一ミリで第二弾が送りこまれる。
そのとき――
首筋に何か固いものが落ちた。
蠢《うごめ》いている。
虫だろう。
掴《つか》んで投げ捨てようとした手に、固い痛みが走った。
何気なく見た。
蠍《さそり》だった。
「ひ……」
悲鳴をあげようとした喉の筋肉が、突然、動きを止めた。
心臓が停止した。
先にガス拳銃が床に落ち、わずかに遅れて妻の身体が後を追ったとき、その呼吸は完全に止まっていた。
静謐《せいひつ》な空気を銃声が破った。
あきれるほど長い時間を置いて、フランツが跳び出してきた。
「フランツ――解毒剤《げどくざい》を、早く!」
叫んで、走り戻るフランツを追うように少年も疾走《しっそう》しはじめた。
二階のテラスへ通じる石段を駆け昇り、跳びこんだ。
ローリイが狙撃されたのは明らかだった。
倒れたときの身体の位置からして、狙撃点《エイム・ポイント》はひとつしかない。
デリンジャーを片手に、その窓がある廊下へ出た。
足音を忍ばせつつ、窓の方へ進む。
狙いはローリイではなく自分だ。
やはり、あの家族か。
二発目を射たなかった理由を考えたが、うまくいかなかった。
どちらにしても、もう身を隠しているだろう。
足音が背後でした。
「私よ」
万智子の声だった。
何処か弱々しい。
「来ちゃ駄目だ」
と少年は叱責した。
「ガス圧式の拳銃で、毒入り弾丸をとばしてる。出喰《でく》わしたかい?」
「まだよ」
「すると、まだこっちにいるな。動かないで」
「わかったわ」
少年は壁に背をつけて進んだ。
広い家だが、狙撃した場所から少年に会わず姿をくらますには、この廊下を内階段まで走らねばならない。そちらから来た万智子とぶつからなかった以上、敵はなお、この廊下の何処かに息を潜めている。
小部屋の入り口が見えた。さっき少女に案内してもらった一室である。空き部屋だった。そこにある窓が狙撃点に違いない。
開きっ放しのドアの脇で、少年は足を止めた。
呼吸を整え、両手でデリンジャーを握る。
最も緊張する瞬間だった。
プロの敵なら、こちらの呼吸を読むぐらいのことはする。
少年は、ゆっくりと数を数えはじめた。
一――二――三――
四、五! ――
いきなり走り出した。
身を低くしてデリンジャーを向ける。
「あれ?」
思わず子供っぽい感想が口をついた。
誰もいなかった。
武器もない。
勘違いか? ――そんなはずはなかった。
少年の足下を小さな虫が這《は》っていた。
渦のような尻尾をかざして、踵《かかと》の方へ近づいていく。
「どうしたの?」
ドアのところで万智子が呼びかけた。
「いや、その……」
少年はうつむいた。
次の瞬間、一気に二メートルも後ろへ跳びざま、デリンジャーの引金を引いた。
床が火花をあげ、三発目で蠍は消し飛んだ。
「何事?」
万智子が怪訝《けげん》そうな声で訊いた。
「別に。――確かにここだと思ったが……」
少年はいきなり走り出した。
ベランダへ出るガラス戸に手をかけ、急に止まった。
廊下の向こうからフランツを従えたローリイが近づいてくるところだった。
少年は信じられなかった。
確かに解毒剤とは言ったが、あれには気休めの意味もあった。彼の腕の中で、ローリイは死にかけていたのである。
それが――白い肌は白蝋《はくろう》のごとく澄み、顔には苦悶の表情など破片《かけら》も見られない。
少年は口がぽかんと開くのを感じた。
「どうかしまして?」
とローリイは艶《つや》のある声で言った。
「だって、君はいま、射たれて……」
「フランツの手当てが早かったので助かりました」
「そんな――」
「それより、私を射った犯人は?」
「それが――いないんだ。どうやって逃げたかさっぱりわからない」
「それは――」
ローリイは万智子の方へ眼を移した。
さっきの、炎のような哀しみを叩きつけてきた素朴な少女にかわって、森の中の大邸宅にふさわしい冷たく白い貌《かお》がそこにあった。
「隠さなくてもいいのよ」
そう言ったとき、ローリイは再び少年の方を向いていた。
「何をだい?」
「私を射った人が誰か。――逃げられっこない廊下で、そこには私たちしかいない。私とフランツは当然抜けるし、あなたも射たれたとき私のそばにいた。となると、残るひとりは――」
「よせってば」
少年はあきれて言った。
「この女性はぼくの相棒だ。第一、君を狙う理由がない。あれは、ぼくが射たれたのさ」
「理由ならあります」
ローリイは氷の像のように言った。
「この女性は旅に出たかった。でも、あなたは、ここに私と留まりたいと言ったわ。それを聞いたのはさっきだけれど、あなたたち二人の間では、もっと前から問題になっていたのではありません?」
少年は絶句した。
何とも奇怪な論理――というより、ごり押しもいいところだ。
「おもしろい話ね」
やっと――万智子が口を開いた。
「すると、私以外にあなたを狙撃した可能性のある人たちも、一応は当たってみるべきでしょうね。私が上がってくるずっと前に逃げ出したのかもしれないし」
「それもそうね。フランツ――彼らは何処?」
大男のぶ厚い唇が動いた。
声は出ない。
「ホールだそうよ。行ってみましょう」
ローリイは身を翻《ひるがえ》した。
「わけがわからない」
とその場に突っ立ったまま、少年は万智子に言った。
「あの娘は確かに死にかけてたんだ。それに、狙撃地点は絶対にあの小部屋さ」
「わかっているわ」
そう言ってから、万智子は苦笑しつつ、
「お望みなら、ここの主人になってもいいのよ」
「よしてくれ」
少年は手をふった。
「とにかく誤解を解かなくちゃ」
「解けるとは思えないわ」
「どうして?」
「どうしても。――あなたより私の方が人生の先輩よ」
「二、三年で大きな顔をして欲しくないなあ」
「とにかく、行ってみましょう」
二人は歩き出した。
ホールには、全員が勢揃《せいぞろ》いしていた。
長男の死体のそばに立つ父親と、少し離れて固まった母と娘。
「困ったことになりました」
とローリイが家族たちを指さして言った。
「彼らは、私たちが邸内の散策に出てすぐに集まり、ずっとここにいたそうです」
「彼らは家族だ。当てにはならないさ」
少年の言葉に母と娘が笑った。
ぞっとするような笑いだった。
「失敬な、君――謝罪したまえ!」
父親が青い顔をして怒鳴った。怒りのせいか声が震えている。
「お断りしておきますが、我が家でこのような不祥事が発生した以上、その解決はあくまでも邸内でつけていただきます。外部からの警察力介入等は決して行いません」
「で、どうするの?」
万智子が訊いた。
「まず、皆さんは、犯人が特定できるまでこの家に滞在していただきます。調査の方法と犯人の処分はおまかせ下さい」
「待ってくれ」
抗議しかけた少年を、万智子が止めた。
「どうしても、私を犯人にしたいらしいわね。何故《なぜ》?」
「それしかありませんもの」
「私が知らないと言ったら? 警察の介入がない以上、拘束《こうそく》や逮捕は不可能よ」
「警察と同じことならできますわ」
ローリイは事もなげに言った。
「フランツは力も強いし、この屋敷には決して外へ音の洩れない地下室もあります」
「いい加減にしろ!」
少年が叫んだ。
「どこか様子がおかしいと思ったら、頭がどうかしてるよ、この子。――出て行こう、万智子さん」
「難しいかもしれないわ」
「何とかなるさ」
二人は玄関の方へ移動しはじめた。
「フランツ」
巨影がゆらりと動いた。蜃気楼《しんきろう》のようである。
「近づくな」
少年はデリンジャーを構えた。
装填《そうてん》されたマグナム弾は四発――いかに巨人といえど、一発で牛をも即死させる弾丸をこれだけ食って平気でいられるはずがない。
巨影は少年の視界を埋め、すぐにはみ出した。
「近づくな!」
それが効果なしと見届けてから、少年は巨人の肩を狙って引金を引いた。
弾丸は出なかった。
空射ちである。
つづけざまに空しい金属音が三度鳴った。
無造作に伸ばした巨大な手の先から、少年は身を捻《ひね》って逃げた。
巨人が迫る。
少年はデリンジャーを床へ放った。
すっとセミ・クラウチのファイティング・ポーズをとる。
アメリカン・ボクシングの基本スタイルだ。
巨人が前進した。
誰もがその顔面へ少年の拳が飛ぶと見た。
効きはしない、とも。
予想は半分だけ裏切られた。
構えをとったまま、少年は前方へ転がったのである。困惑して立ち止まった巨人の股間で、青い稲妻が走った。
少年の攻撃は、鮮やかに裏をかいて、靴先を巨人の急所へめり込ませたのである。
だが――
予想は残り半分をまっとうした。
わずかに上半身をゆらせたきりで、巨人は身を屈《かが》め、少年を抱きすくめてしまったのである。
「逃げろ、万智子さん!」
と少年は叫んだ。
「ローリイはぼくと暮らしたがってる。殺しやしない!」
「そうなさい」
と勧めたのはローリイ自身だった。
「わかったわ」
と万智子は静かにうなずいた。
「私たち二人、あなたの気がすむまで、この屋敷に残りましょう。――それでいいこと?」
「あなたは不要よ」
「なら、この取り引きはご破算。私がいなくなったら彼――自殺ぐらいするかもしれなくてよ。何なら説得してあげるわ」
「本当に?」
ローリイの声は真摯《しんし》だった。
「それに、二、三日私がいても、いずれ放り出す気でしょ。邪魔にはならないわ」
「そこまで心得ていらっしゃるんなら。――いいわね、あなた[#「あなた」に傍点]?」
「気易く呼ぶな」
少年は巨大な手の中で呻いた。
「ぼくは絶対に逃亡してみせるぞ!」
「あなた方もしばらくご一緒なさるといいわ」
ローリイの提案に、家族は黙念と首肯《しゅこう》した。
それから二時間後、憤然と武器の点検をしている少年と万智子の部屋に、父親が訪れたのである。
「そこから動くな」
とデリンジャーを向けられた戸口の前の顔は、さっきと同じ蒼白であった。
「何の用だ? ぼくを狙うとローリイが怒るぞ」
「わかってる」
父親はうなずいた。声は震えていた。さっきと同じく……。
「だがよ、どうしても話を聞いて欲しかったんだ。このままじゃ、おれも女房や子供の仲間にされちまう」
少年は眉を寄せた。
「何を言ってるんだ?」
父親は生唾《なまつば》を呑みこんだ。
「娘も女房も、あんたを狙いにいったはずなんだ。それがなかなか戻ってこず、やっとこ帰ったかと思ったら――」
「…………」
「――まるで別人だ。顔形《かおかたち》は同じだが、違うんだ。あいつら、死人なんだ!」
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PART5 悪い土地
「どういうことだい?」
少年がいぶかしげな眼つきをした。
万智子は黙っている。
「おれにだって、わからんさ」
父親は右手で額の汗を拭《ふ》いた。
「ただ、人間が生きてるか死んでるかぐらいは区別がつく。正確に言うと、女房も娘も、生きてもいないし、死んでもいない」
「まるで、吸血鬼だな」
「似たようなもんさ」
「あなた――暗殺者ね」
不意に万智子が言った。
父親は驚いた風もなく、うなずいた。
「私とこの男《ひと》と、どちらを狙っていたの?」
「坊やの方さ。追いかけて二《ふた》月になる」
「あなた、知ってた?」
「追いかけられてるのはね」
少年は認めた。驚いた様子はない。人生そんなもの、と割り切っているようだ。でなければ、こうまで飄々《ひょうひょう》としてはいられない。
「でも、この家族だとは思わなかったよ。一家揃っての殺し屋なんてはじめてだ」
「北の方じゃ珍しくないわ」
万智子は、疲れ切った父親を見ながら言った。
憎しみも怒りもない。むしろ哀しげな眼の光。
「ローリイのせいだね」
少年は低く言った。
口にしたくはない言葉だと、口調が告げている。
少年にもわかっているのだった。
「少し違うわ」
万智子の声に、少年と父親は彼女の方を見、それから顔を見合わせた。
「違う?」
「多分――確証はあるけど、説明できないわ。しても、あなた方には信じられないでしょう」
「思わせぶりだな」
少年が怒ったように言った。
「何かを確かめても、いずれ忘れるわ。でなければ、生きてなんかいけっこない」
「忘れられないものもあるよ」
「本当に?」
「ああ」
父親が頭を抱えた。
「どうなるんだ、これから? あの娘は坊やに惚《ほ》れてる。おれたち邪魔物は殺されるかもしれん。いいや、一生、この屋敷の中を、生ける死者と化してうろつき回るんだ」
「万智子――あの二人は何者なんだい?」
「とにかく、まず、ここを出ること」
万智子は喩《さと》すように言った。
「でないと、いつ夜明けが来るか……」
「夜が明けないって? どういうことだよ」
はじめて少年の顔に驚きの表情が浮かんだ。
万智子は答えず、窓の方を見つめた。
闇が広がっていた。
時間《とき》だけがその終わりを告げる。
それが――
来ないかもしれない、と万智子は言うのだった。
少年は無言でいた。
万智子に付き合ったのである。
語らぬ理由があるから口を開かない。旅をしてきた少年にはそれがわかっていた。
娘が語りたくないのなら――
そのせいで夜が明けないのなら――
それもいいだろうと少年は思った。
「じゃあ、すぐ荷物を整理して。あなたも戻りなさい」
「あの部屋へかよ?」
父親はすくみ上がった。
「いつまでも帰ってこないと怪しまれるわ。ローリイに知らされたらまずい。――一五分したら、外へ来て」
「――わかった。置き去りにしたら怨《うら》むぜ」
殺し屋だけあって度胸はいいのか、父親は案外、あっさりと立ち去った。
荷物をまとめるには五分とかからなかった。
「少し早すぎたわね」
と万智子が苦笑した。
「ローリイって何者だろう?」
少年は本当に知りたいことを口にした。
「朝日を見たことがない女の子」
何となくこの意味がわかるような気がした。
闇と白い花に囲まれて、昼は光の届かぬところで眠り、花に影がさすときに目ざめ――。
そんな娘もいるだろう。
「納得したのね、あなた」
万智子が言った。長いこと見つめられていたことに、少年はやっと気がついた。
「何とかね」
と答えた。
「長い旅をしてきたのね、あなた」
「そうでもないさ」
いつもと違う万智子の声に、少年は軽い動揺を感じた。
「時間の問題ではないのよ」
万智子は静かに言った。喩《さと》すような物言いが、少年にはちっとも気にならなかった。
「人は誰でも老人になって死ぬ。――そういうことではないの。時間《とき》の持つ意味の問題よ。何を見て、何を感じ、何を自分のものにしたか。あなたは、普通のタンブル・ウィーズの一〇年分も何かを身につけているような気がするわ」
「誉《ほ》められているのかな」
「安心しなさい」
万智子は微笑した。
気がついたら浮いているような微笑だった。
少年も同じものを返した。
万智子の顔が近づいてきた。
二人とも眼を閉じて。
セックスに禁忌《きんき》のないタンブル・ウィーズも、口づけは古風なのだった。
少年の唇が甘い感触を受けたとき、ノックの音がした。
照れ臭そうな表情で、万智子はドアへ走った。頬が赤らんでいる。ドア脇の壁に貼りついたときにはもう、硬い表情を保っていた。
少年の右手にはデリンジャー。
「早すぎるね」
「妻子を連れて来たかしら」
万智子はドア・ノブに手をかけた。
ドアが開いた。
廊下の光を人型にくり抜いた影。
父親であった。
他に人影はない。
「気がつかれなかった?」
「何とかごまかしたよ。みな、部屋にいる」
「じゃあ、出ましょう」
万智子は静かに言った。
三人は廊下へ出た。静まりかえっている。ホールへ降りるまで、誰とも会わなかった。もっとも、父親の家族を別にすれば、この屋敷の住人は二人しかいない。
玄関の鍵をはずし、三人は外へ出た。
夜気と花の香りが迎えた。
「ジャスミンだね」
と少年が言った。
「私たちがここへ来てから、もう一〇時間以上たつわ」
万智子が先頭に立って、車庫の方へ移動しながら言った。眼はある方角を眺めている。
「この土地の位置からいえば、空が白んでもいい時刻。なのに、東の空には星がきらめいている」
「本当だ。ここでは時間がたたないんだね」
父親は黙って、二人のやりとりをきいている。
「その方がしあわせな女の人もいるかもしれないわ」
万智子の声に哀切《あいせつ》なものが含まれるのを少年は感じた。
それは、無意識のうちに、万智子の声の中に必ず聴き取っていた響きだった。
この娘は、長い長い旅路の途中で、それしか見てこなかったのだろうか。
ガレージに着いた。
ドアは閉まっていない。車は二台とも無事だ。
ただ――
車の前に白い影が立っていた。
ローリイ。
そして、フランツ。
「何処《どこ》へ行くの?」
ローリイがそっと訊《き》いた。怨みもなく、怒りもなく、むしろ、羨《うらや》ましげな口調であった。
「わからない」
と少年は答えた。
「でも、この屋敷では、おかしなことが起こりすぎるよ。君は――生きていないんだろう」
「どう見えて?」
「立って、動いて、しゃべる。――これだけで、生きてるとはいえないさ。心臓に手をあててごらん」
ローリイの全身が硬直した。
「君の胸は起伏していない。さ、そこをどいてくれ」
「逃げても無駄よ」
「かもしれない」
「フランツ、止めて」
巨人が万智子の方へ手を伸ばした。か細い娘の骨など、小指一本でへし折れそうな、太い指であった。
その下を、白い影が軽やかに流れた。
流れに巻き込まれたかのように、巨躯《きょく》がゆらぎ、空中で弧を描いた。
一〇〇キロはあろうと思われる巨体は、しかし、音をたてなかった。
ローリイは動かない。
「車へ」
万智子が叫んだ。
巨人の小指一本を捉《とら》え、力学の応用で投げとばした興奮もない。
万智子と少年が運転席に並び、娘の手がハンドルを握った。
タービン・エンジンが始動する。
フロント・ガラスの前に、巨影が立ちはだかった。
少年が万智子を見た。
万智子は前方だけを見つめていた。
車は発進した。
鈍い衝撃と同時に、フランツの影は右横へ跳ねとんだ。
『甲虫《ビートル》』は名前に似合わぬ猛スピードで夜気を貫いて走り出した。
「おかしい!」
フロント・ガラスとディスプレイ・スクリーンへ、目まぐるしく視線を移しながら少年は叫んだ。
「確かにこの道なのに、いくら行っても国道へ出ないぞ」
「この土地に国道はないからよ」
万智子は静かにハンドルを握っている。
少年は眼を細めた。
「これから、もっと怖いことが起きるわよ。眼をつぶっていらっしゃい」
「誰が」
少年はデリンジャーを握りしめた。
周囲は深い森と闇。
「来たわ」
万智子が短く言った。
少年の眼はバック・ミラーを見、それから茫然《ぼうぜん》とリア・ウィンドーの方を向いた。
白い影がゆっくりと近づきつつあった。
ゆっくり? ――車は時速六〇キロ近くでとばしている。影の速度は、どう見てもスローモーこの上ない。
それなのに、両者の距離は着実に狭《せば》まりつつあった。
形を整えてくるものを、少年は恐れげもなく凝視していたが、たちまち、
「あれだ。――彼の家族だよ!」
彼とは、父親のことであった。
その妻が、息子が、娘が――まるで幽界のもののように軽々と宙に浮き――追ってくる。
夜目にも白い肌、そこだけ真紅の唇。上衣の裾《すそ》をなびかせて飛んでくるその姿。虚《うつ》ろな眼は何を見ているのだろうか。
「追いつかれる!」
父親が悲鳴をあげた。
疾走する車に、走る人間が追いついたのだ。
ドア・ウィンドーに幽鬼のような顔が広がり、ぴたりと貼りついた。
同時に、ひとつが上方へ流れ、『甲虫』の天井でドン、と何かが落ちる音がした。
「一体、どうなってるんだ!?」
デリンジャーを持つ少年の手に力がこもった。
「無駄よ。この人が、生きてる死者と言ったでしょう」
万智子の声は落ち着いていた。
突然、少年の身体は右側のドアに叩きつけられた。
万智子が大きくハンドルを切ったのだ。
リア・ウィンドーの顔が二つ――ふっと遠ざかった。
「落ちたぞ。天井の奴もだ!」
少年がシートから身を乗り出して喝采《かっさい》した。
「ひと安心だね」
「だといいけど」
万智子の返事はつれない。
カーブが迫ってきた。
曲がり切った途端、少年があっと叫んだ。
ライトが丸く浮き上がらせた円光の中に、白い影が立っていた。
母親と子供二人。
「あいつら……どうやって……」
「あきらめた方がよさそうね」
「いけないよ!」
「何処へ逃げても無駄。この土地を出ない限り、夜はいつまでもつづき、死者は蘇《よみがえ》る。それを破るには、源を断つしかないわ」
万智子の言葉の意味に気づき、少年は口をつぐんだ。
それは少年にもわかっていたことだ。彼を恐怖させたのは、万智子の決意の強靱《きょうじん》さであった。
「幸い、出掛ける必要はなさそうだわ」
少年は万智子と同じ方向を眺め、それから、ため息をついた。
三人の男女たちの背後にそびえるあの水晶の館だった。
「ど、どうなってるんだ? さっきの道は幻?」
少年は感嘆した。恐怖よりも純粋な驚きの声である。
「いいえ、本物よ、すべては。そして、みんな偽物」
奇妙なことを口にして、万智子はドアのオート・ロックへ手を伸ばした。
「どうするの?」
少年が訊いた。
「降りるわ。他に手はないもの。あなた方は残っていて」
「そうもいかないよ。ここがどんな世界にせよ。死も幻とは限らない」
「仰《おお》せの通り」
万智子は手を伸ばした。
少年は不意に首を引き寄せられた。
声をあげる暇もなく、唇にもっと柔らかい唇が重ねられた。
すぐに離れた。
少年は、小さな声をきいた。
ささやきのように。
「グッバイ」
そして、万智子は外へ出た。
少年もつづいた。
館と、その前に三人の男女。
「おどきなさい」
と万智子がやさしく言った。
三人は答えない。
死魚の濁《にご》った瞳に、万智子の顔が映っていた。
「ここは悪い土地よ。私の力はいつもの半分も効かない。でも、あなた方の生命を眠りにつかせることはできるわ」
三人の眼がかっと光を帯びた。
瞳が消滅した。
三方から跳びかかってくる。
その瞬間、何が起こったのか、少年にはついに理解できなかった。
世界は白光でみたされた。
閉じた両眼を開くと、三人は地面に伏していた。
いや、四人だ。
万智子も膝を屈している。
少年は駆け寄った。
「大丈夫よ」
差し出された手を制し、万智子は片手でこめかみを揉《も》んだ。
「世界へ世界を潜り込ませるのに、少し疲れただけ。それより、決着をつけなくてはならないわね」
「わかってるよ」
少年は館の方を見た。
「でも、わからないことがある。ここは、どういう世界なんだ?」
「悪い土地よ」
「悪い土地?」
「汚れた土地、呪われた土地といえばいいかしら。ときどきあるのよ。自然の法則に反した鬼っ子が。恐らくローリイは、この土地で亡くなった霊魂――亡霊ね」
「地縛霊《じばくれい》とかいう奴?」
「よくご存知だこと」
万智子はようやく笑顔を見せた。
「でも、断言はできない。あの娘も屋敷も、あまりに生々しすぎるわ。それに、フランツも」
「どうして、こんな土地へ入ったのさ?」
「誰かさんがへこたれてたからよ」
少年は頭を掻《か》いた。
「ローリイを……殺すの?」
凄まじい言葉だが、生と死はタンブル・ウィーズにとって、至極《しごく》自然な概念なのである。それがどのような形で現れようが、あまり問題にはならない。
「殺せるかどうか。死者を支えるための力はあまりに強すぎるわ」
万智子は立ち上がった。
少年と一緒に家の方へ歩き出す。
父親もついてきた。地べたの家族には眼もくれない。放心したような顔つきであった。
家は森閑《しんかん》としていた。
照明はかがやいているのに、長いあいだ人の住まない廃屋を思わせた。
――これが幻なのか。
少年には信じられなかった。
「ローリイの寝室は何処だろう?」
「寝ていると思うの?」
「そんな気がしたんだ」
「ロマンチスト」
二人は二階への階段に足をかけた。
「戻って来てくれたのね」
声は階段の上から降ってきた。
夜気をゆらさぬように、ひっそりと。
「もう、あなた方はこの家を出られない。いつまでも、私たちと暮らすのよ」
「そうはいかないわ」
と万智子が言った。
「夜の終わらぬ土地で生きつづけるあなた――もうお寝《やす》みの時刻よ」
「私もそうしたかった。でも、無駄なことよ。どれくらい、ここにこうしているのか、私にもわからないの」
「何とかできるかもしれない」
万智子はゆっくりと階段を上がりはじめた。
床板がきしんだ。
朽《く》ちかけた家を歩くように。
手すりに手をかけた。
ぎい、と音をたてて、それは外側へ傾いた。
釘《くぎ》が抜けかかっている。
赤錆《あかさ》びた釘であった。
ローリイは声もなく後じさった。
万智子の放つ何かが、ローリイと家を圧倒しきっていることを少年は知った。
彼の背後で、小さな金属音が響いた。
横に跳びざま振り向いた瞬間、銃声が鳴った。
万智子の上体がぐらりとゆれた。
右胸にでも食らったのか、身体の右側を突き出すように。
息を呑み、振り向いた少年は、小さな自動拳銃を構えた父親を見た。
「貴様!」
「動くな」
抑揚のない声であった。
少年は唇を噛んだ。部屋から戻ってきたとき、彼は家族≠フ一員にされていたのだ。
危険度一〇――少年は咄嗟《とっさ》に判断した。
従わなければ、ためらわず引金《トリガー》が引かれる。流行の拡散プラスチック製弾丸は、たかだか直径三ミリの小口径で、握り拳《こぶし》大の射出孔を人体に開けるのだ。
「止《とど》めを刺して!」
ローリイが叫んだ。
父親の貌《かお》が少年から、万智子の胸へとゆれる。
少年の身体は全身で用意を整えていた。
発条《ばね》が弾《はじ》けるように左へ跳ぶ。
父親の外側だ。
身体の中心から遠ざかれば遠ざかるほど、射撃には狂いが生じる。
空中でデリンジャーを抜いた。
射った。
父親が顔を射ち抜かれて吹っとぶのを確かめ、少年は階段を駆け上がった。
万智子を抱き起こす。
「やられたわね。――後ろに眼があるつもりだったのに」
万智子の胸に赤い花が咲いていた。
「ローリイ」
少年の視界から、館の主は忽然《こつぜん》と姿を消していた。
「無駄よ、多分、彼女も犠牲者」
万智子の低い声がよくききとれず、少年の眼に炎が燃えた。
「頑張っていてくれ。病院へ連れていきたいけど、夜しかない土地じゃどうにもならない」
「わかっている。私も何とかしてみるわ」
最後の言葉の意味が、少年にはわかるような、そうでもないような気がした。
立ち上がりかけた手首を、万智子の手が押さえた。
「無理をしなくていいのよ」
こちらの意味はすぐにわかった。
「大丈夫だよ。人を射つのははじめてじゃあない」
「女を射つのははじめてでしょう?」
少年は何も言わなかった。
傷ついた娘をその場に残して、少年は屋敷の奥へと走った。
「変わった土地ですな」
と白髭《しらひげ》の老人が低い声で言った。
「五〇年ほど前に切り拓《ひら》かれた別荘地です」
答える男も、前方の空間に映し出された3D映像に視線を注いでいた。
上空からの俯瞰図《ふかんず》である。
林の中の白い屋敷。
突然、構図が変化し、真上から見た光景。すぐに水平方向から。
つづいて、家を支える地形へと移り、色彩の濃度で断層を示しつつ、下降していく。
「地質も空気成分も異常はありません。それなのに、種々の異常事態により、別荘地は造成後半年で閉鎖されました」
鷹《たか》のような眼が、老人の横顔を射た。
老人はうなずいた。
この件に関する情報はすべて理解しているという合図である。
「外部からは何の異常も感じられぬ室内だけの地震、住民の急激な衰弱死、別荘地内に限って生じる悪夢、交通事故、天変地異……悪い土地≠セな」
「間違いなく。その後の調査でも原因は杳《よう》としてわからず――どころか、調査隊の何名かが行方不明になるありさまで、ついに地元の開発業者も権利を国に売却し、我々の管理下に委《ゆだ》ねました」
「よくも、こんな場所に別荘地などオープンしたものだ」
老人は侮蔑《ぶべつ》の口調を崩さずに言った。
「辺境はこの近くまで広がって来ておるのだろう。侵略者の爪が伸びるのに、あと二年もあれば事足りる。企業というのは、商売|敵《がたき》以外に恐れるものはおらんのか」
「全くです」
と男は同意の笑みを見せた。軍服が引き締まって見える笑いだった。
万智子を狙う軍人たちの代表――林財《りんざい》である。
「ですが、おかげでとんでもない獲物がキャッチできました。国庫から特別融資を行ってもいいくらいですよ」
「あの娘も、えらいところへ入ったものだな。はたして、生きて出てこられるか」
「彼女のガードは特別製です」
「だが、あの土地は不浄のものだ。いわば、守り神の邪心というか。――どう対処するか見ものじゃわい」
「同感です」
「ところで、あの少年は何者だ?」
「ただの道連れですな」
「名前は何という?」
林財は肩をすくめた。
「わかりません」
「わからん? 防衛庁のマザー・コンピューターは、総理府登録局のグランド・マザーと連動している。あそこは、全世界の人間の戸籍が、米ソ以上の精緻《せいち》さで入力されておるそうだが」
「それでも、目こぼれは出ます。特に、辺境近くの街では混血が日常茶飯事ですからな。放浪者――タンブル・ウィーズともなると、殊《こと》に厄介です。なにしろ、彼らの嫌いなものは――」
「風呂に入るのと、他人に出会うこと、それに、役所通い」
「左様で」
「だが、あの男の子――その辺の素性も知れぬ放浪者とは思えんが」
「調査は続行中です。ですが、今は単なる道連れのつもりで対処しなくてはなりません」
「ふむ」
二つの眼が、空中に固定された白い屋敷とそれを包む森に固定された。
果てしない廊下の奥に、ローリイの後ろ姿を見たような気がした。
曲がった。
少年も後につづく。
ドアの閉じる音。
少年の眼の前に、無数のドアがつづいていた。右に一列、左に一列。
そのすべてが閉じた。
少年は端のドアを開いた。
ドアはすべて開いた。
闇の奥にローリイがいた。
ドアの数だけ。
少年もまた。
白い少女の胸に向けられた、おびただしいデリンジャーの銃口。
「射つの?」
ローリイが訊いた。
「仕方がないだろう。君のところに留《とど》まるわけにはいかないんだ。出ていくには、こうするしかない」
「私、好きでここにいるんじゃないの」
「君は何者だ?」
「わからないわ」
少年はデリンジャーの引金に力を込めた。
指は動かなかった。
「いつ、お寝《やす》みって言ってもらえるのかしらね?」
ローリイの顔は切《せつ》ない夢を見ているようだった。
少年の右手が下がっていった。
背後から、凄まじい力が右の首筋に落ちた。
間一髪で急所をずらしたのは、タンブル・ウィーズとして過ごした日々の勘だったかもしれない。
痛みが神経を麻痺《まひ》させる数分の一秒の間に、彼は前方へ跳び、上体までひねった。
フランツと確認したときに、全身は硬直した。
巨人は迫ってきた。
今までとまるで異なる毒気が少年の顔面に噴きつけた。
階段の上で、万智子は過《あやま》ちに気づいた。
万智子は片手を伸ばして手すりを掴《つか》んだ。何とかなるかもしれない。土地の力も強いが、彼女をかばうものも尋常ではないのだ。
デリンジャーは少年の手に残っている。
「やめて」
ローリイが叫んだ。
おびただしいローリイ。
3D映像を見つめる二人の男たちも事態に気づいていた。
「面白い展開になって来ました」
林財が、像の下に浮かび上がった緑の数字と記号を眺めながら言った。
「あのマイナス値の中で、逆方向のベクトルが増大しはじめています。我々に言わせれば、まずい事態ですな」
「予想し得る出来事だったのではないかね?」
「おぼろげながら」
と軍人は悪びれもせず言った。
「ですが、予想可能な出来事をすべて集めたら、世界中のコンピューターは破壊されてしまうでしょう」
「試してみたのか?」
老人の――こちらは鷹どころか得体の知れぬ生物を思わせる眼差しに、はじめて親愛の情が浮かんだ。
「ちょうど、別班が実験中でしたので。しかし、やや酷《ひど》いことをしたという気がしないでもありませんな」
「だが、時間《とき》にさえ、いつかは終わりがくる。どんな運命も、そう考えれば、感慨に値はすまい」
「職責上、同意はいたしかねます」
「ふむ」
少年がデリンジャーを上げたとき、フランツの影が躍った。
右手首に衝撃が伝わり、デリンジャーが吹っとぶ。
銃声が轟《とどろ》いた。
フランツの額に黒点が穿《うが》たれたのは次の瞬間だった。
弾きとばされた銃は、煙の放物線を描きながら、闇のどこかに落ちて硬い音をたてた。
ショックで暴発したときの銃口が、万にひとつの偶然で大男の急所へ向いたのだ!
巨体がゆれた。
まるで、立ち方を覚えたばかりの幼児のように、尻餅《しりもち》をついてしまう。
一瞬――世界が白く変じた。
少年の眼に映じたのは――
鬱蒼《うっそう》たる樹々と崩れ落ちた廃屋。無数の墓標、そして、銀砂と化して崩壊する少女……。
ふっと消えた。
少年は眼を見開いた。
両手を床について、フランツは起き上がりつつあった。
額の弾痕《だんこん》はそのままに。
少年はふり向いた。
ローリイが立っていた。
前より少しひっそりと、少し哀しげに。
巨影が迫ってくる。
少年はデリンジャーに走り寄った。
痛みは和《やわ》らいでいる。
十分に狙いをつける余裕はあった。
ダブル・アクションの引金はそれでも重い。
グォン。
グォン。
グォン。
全弾連続発射の衝撃が、右手を高々と跳《は》ね上げた。
三弾はものの見事にフランツの胸部を貫いている。二発は心臓の位置だ。
三たびフランツは震え、しかし、倒れなかった。
少年はようやく事の真相に気づいた。
ローリイ。
眼の前に黒い山が立ちはだかる。
「やめて!」
娘の叫びが二人の間に滑《すべ》りこんだ。
嫌な音がして、ローリイの身体が横に跳んだ。
少年は眼を見張った。
空中でローリイは三たび姿を変えた。
銀色の灰と化し、
それが流れ、
ひと粒ひと粒が尾を引いて結合し、
再び――ローリイ。
ひっそりと闇の底に立っていた。
「やっぱり、そうだったのね」
背後の声に、フランツはふり向いた。
「万智子」
声をあげたのは少年だった。
もうひとつの白い美貌《びぼう》が闇の中に立っていた。
ひっそりと。
「ローリイじゃなかったのね」
と万智子は静かに言った。
右胸を押さえた左手の指の間から、赤いものが滲《にじ》んでいる。
「勘違いしていたわ。彼女が主であなたが従――逆だった」
フランツは無言だった。
「でも、何処《どこ》かがおかしい。あなたが悪い土地の根源だったとすると、ローリイは旅人を招き、骨抜きにするための道具。――誰が実体化させたの?」
万智子の声に、負傷者とは思えぬ力がこもった。
少年はフランツが笑うのを見た。
図星を突かれたのだ。
少年の全身を戦慄《せんりつ》が貫いた。
腹と胸を押さえてうずくまってしまう。肺が火を噴くようであった。
空気の成分が腐敗毒と化したのだ。
フランツの全身から噴き出る妖気。
こいつだ。
叫んでいた。
こいつが悪の根源だ。
フランツの両足が床にめりこんだ。
石の床は黒い土に変じていた。
ちがう。
少年は眼を見張った。
土はじわじわとその領土を広げつつあった。
フランツの足首から。
――こいつが、地面を生んでいる。
フランツが両手の袖をめくりあげた。
五指は緑色をしていた。
形は木の根のようだ。
よう[#「よう」に傍点]ではなかった。
根であった。
ぐふ、とフランツが笑った。
口を開く。
その中に、白い建物が見えた。
家である。いま、少年がいる白い屋敷が、真紅の口腔《こうこう》の奥で闇に包まれているのだった。窓から明かりが洩《も》れている。
ローリイの姿が見えた。
手を伸ばして窓を閉めた。
男が口を閉じた。
上体を大きく前傾させ、両手を地面についた。
五本の根が土にめりこむ。
少年と万智子の左右前後に、黒いものがせり上がってきた。
木であった。
木の幹だ。
土の重量を跳ね返して、たわんだ枝が開いていく。
信じ難い光景であった。
天井は消滅していた。
少年は頭上をふりあおいだ。
ローリイもまた。
夜空である。
星は出ていなかった。
屋敷の壁は土くれとなって床に加わった。
柱は木に。
すべては土地に戻るのだ。
万智子も顔をおおった。
フランツの眼球がぽろりと落ちた。
黒洞のごとき眼窩《がんか》の奥で、何かが蠢《うごめ》いている。
びん! と弾き出た。
鋭い杭《くい》か触角を思わせる。
少年は眼をこらし、すぐに正体を見破った。
木の枝だ。
干からびた蔓《つる》のように細く、ごつごつに折れ曲がったものは、次の瞬間、恐るべき速さで万智子の上体に巻きついた。
こいつは土地だ。
少年は胸の奥で絶叫した。
土地そのものだ。悪の本質だ。
万智子の顔が苦痛に歪《ゆが》み、胸に赤い花が咲いた。
傷口がまた開いたのだ。
白い貌《かお》が大きくのけぞる。
骨の砕ける音を少年はきいた。
「やめろ!」
走り出そうとした足が、ずぶりとくるぶしまで床にめりこんだ。
フランツはもう人間の姿を留めてはいない。木と土と草の集合体だ。
妙に扁平《へんぺい》な背中の一隅に、白い家がうずくまっていた。
この屋敷だ。
ドアを開ければ、少年も万智子もローリイもいるだろう。
万智子の苦鳴が少年の焦りをかきたてた。両足は固定されている。
万智子の身体が大きく後方へしなった。
蔦《つた》が引いているのだ。力がゆるまなければ、背骨が折れてしまう。
万智子の身体が止まった。
そこが限界なのだ。
なお、蔦は引く力を絶やさない。
「やめろ!」
少年は根かぎりの声をふり上げて絶叫した。
すべての物音がこのとき絶えた。
不可思議な静謐《せいひつ》が少年を包んだ。
世界は白に満たされた。
その中にローリイがいた。
「ローリイ」
怒りも苦しみも忘れて、少年はその名を口にした。
少女は微笑していた。
この世に、これほどの素晴らしさがあったのだろうかと告げる平穏《へいおん》の歓喜。
少年も万智子もフランツもすべて忘却し去った解放の歓《よろこ》び。
みるみる全身が崩れ、一塊の砂塵《さじん》と化す――と同時に、少年はどこか遠くで、凄絶な断末魔《だんまつま》の呻《うめ》き声をきいた。
五メートルほど前方の草むらに、万智子が倒れていた。
少年は駆け寄った。
足の下で青草が踏みつぶされた。
乱れとぶ朝露を白い光がきらめかせた。
「しっかりしてよ、ねえ」
身体をゆすらず声をかけたのは、さっきの苦悶の姿が記憶に残っているせいだ。
万智子はすぐに眼を開けた。
少年が思ってもいなかったあっけなさである。
「だ、大丈夫なのかい?」
「何とかね」
万智子は両手を地面へ広げ、思いきり伸ばした。
柔らかそうな唇が、深々と息を吸っては、吐いた。
「どうやら、浄化されたらしいわね」
少年も辺りを見回し、納得した。
あの生々しい妖気は何処にも感じられない。平凡な空気と平凡な光――清浄であった。
少年の視線は背後の一点で止まった。
建物の残骸が青く苔《こけ》むし、朝の露に濡れ光っていた。
「あれかい?」
少年の問いに万智子はうなずいた。
「舞台に使われた建物ね」
「幻だったのか、ローリイも、フランツも?」
「私たちと同じ世界に生きていなかったのは事実ね。でも、喜んでいたわ。あの娘――やっと自由になれたのよ」
「やはり、この土地の力のせい?」
「そう。でも、二人の姿を出現させたのは、別の連中だわ」
「…………」
「行きましょう」
万智子は立ち上がった。
「血がついてるよ」
少年はあわてて言った。
「もう止まってるわ。骨も大丈夫」
不安げな彼をなだめるように、万智子は両手を軽くふり回してみせた。
「うわお」
少年は眼を丸くして――何も訊かなかった。
この汚れた土地を浄化し、迷える魂に安らぎを与えた力の源泉は何なのか?
ローリイとフランツを呼び出したものの正体は?
みな、胸に収めて、少年は歩み去る万智子の後を追い、遠くに見える『甲虫』の方に歩き出した。
「しくじったというべきか、計算通りというべきか」
遠ざかる光点を見送りながら、林財がつぶやいた。
「だが、収穫は大きかった。あの女――確かに死にかけておったぞ。それが、ああも簡単に蘇るとは、やはり、ガイアの力か」
「他に何か考えられますか? ウィンダミア老師?」
「考えられることなど何もありはせん。真の思考を、人間はついに身につけずに終わるだろう。わしが考えてみたいのは、あの二人が何処へ行くか、何になろうとするか、だ」
「二人?」
「あの男の子も一緒じゃろう」
「単なる道連れでは――」
「若さというのは常に致命的だな」
老人は顎下《がっか》の白髭を撫《な》でた。
「知識、経験――だが、そこから導き出す以上のものを、年寄りの勘は察知するのだ」
「あの少年――何者です?」
「そこまで勘は働かんよ」
林財は相好《そうごう》を崩した。
はじめて彼は、このアイルランド出身の心霊学者に好意を持ったのである。
「これから、どうなりますかな?」
何処かに仕かけたマイクに、少し注意を向けながら彼は訊いた。
「わしが手を出すか、もう少し待つか――ま、考えることにしよう」
「人間は考えることのできない存在なのでは?」
林財は微笑し、老人は苦笑した。
「気に入った」
「恐れ入ります。では――」
彼はうって変わって鋭い声で言った。
「中継地点――クラウド郡へ向かえ」
「了解」
誰かが答えた。
二人を包むメタリック・ブルーの壁に、かすかな震動が加わった。
二基の磁気出力エンジンを全開し、一〇人乗りのジェット・ヘリは、高度二〇〇〇メートルで北西へ進路をとった。
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PART6 霧の中の彷徨《ほうこう》
霧が濃くなっていた。
二日前までは、沿道の樹々の輪郭《りんかく》も何とか識別できたのに、昨日の朝から、ライトも白い壁を映すばかりだ。
『甲虫《ビートル》』が時速五〇キロとはいえ、停滞もなく進むのは、ライトの効果ゼロと判断するや、超音波識別に切り換えたコンピュータの機転による。
平原のど真ん中だったということもある。
それも、あと三〇分足らずで街だ。
「水中にいる気分だね」
と、少年は万智子の顔を見ないようにしながら言った。
「そうね、私たちは魚。本当の海に入ればろくに呼吸もできないけれど」
万智子が少年の方を向いて、悪戯《いたずら》っぽい笑顔を見せた。
少年は照れ臭そうに笑いで応じ、前方を見つめた。
このあたりは平原地方《プレーリー》である。
かつては、豊醇《ほうじゅん》な牧草地帯だったのだが、気候の激変と辺境の侵寇《しんこう》によって、現在《いま》では黄塵《こうじん》のみが吹きすさぶ廃野にすぎない。
近隣の住民疎開はもう大分以前に完了しているはずだが、土地への哀惜《あいせき》からか、かなりの人数がまだ居住しているときく。
しかし、この霧は――
異常だった。
「ねえ」
万智子が声をかけると同時に、少年は眉を強く寄せた。
ソナー・スクリーンに人影らしい図形が浮かび上がっている。音波の反響を視覚構成するコンストラクターは三次元レベルは不可能だから、像が重なり合って正確な数まではわからない。
数十人は間違いないだろう。
「誰だと思う?」
万智子が訊《き》いた。
「残っていた住人が撤退するんだと思う。こう辺境の侵入がひどくちゃ、波打ち際の砂城みたいなものだ」
「そうね」
程なく、ライトの中に仄《ほの》黒い影が浮かび上がり、少年は車を止めた。
用心のためドアも窓も開けず、マイクのスイッチを入れる。
「何処へ行くんです?」
霧の中でざわめきが巻き起こり、影たちが蠢《うごめ》いた。
「車だぞ」
「誰だ?」
驚きの声は数が多いばかりで弱々しい。
ふわ、と窓やフロント・グラスに人影がへばりついた。
男もいる。女もいる。みな、何処《どこ》か昏《くら》く沈んで見えるのは霧のせいばかりではあるまい。
「君たち、何処から来た?」
髭《ひげ》だらけの男が訊いた。
「暁闇市《ぎょうあんシティ》の方からです。皆さんはどちらへ?」
「馬鹿な――おれたちは、雲海市《うんかいシティ》へ引き揚げるんだ。君たちと同じ方向だぞ。なぜ、向きが違うんだ?」
声には嘘いつわりのない驚きがこもっていた。
「君たち――間違っているぜ」
「いいえ。車には進路修整装置がついています。新品ですよ」
男がふり向き、周りの連中と顔を見合わせた。
たちまち全員の表情が崩れた。
呻《うめ》き声とすすり泣きが車内に立ちこめた。幾人かがその場にへたり込む。
「何だろう?」
マイクを切って、少年が万智子の方を向いた。
「疲れたには違いないけど――方向が違うと言っていたわね」
「霧のせいで迷ったのかな?」
「進路修整器はどう?」
「作動せず。つまり、車と僕たちはミスしていない」
万智子は眼を細めて考えていた。
少年はマイクをオンにし、
「僕らはこのまま進みます。何なら尾《つ》いてらして下さい」
疲れ切った人々の表情に喜色が湧いた。
「ありがたい、願ってもない申し出だ。どれくらい、霧の中をさまよったことか……だが、今日はもう疲れた。ここらで休憩をとらねばならん。急ぎの旅でなければ、つき合ってもらえないか? ――申し遅れたが、私はリーダーのブレイと言う」
「僕は君と呼んで下さい。そちらからは見えないかもしれませんが、隣の女性は万智子さん。――どう、今の申し出は?……」
少年は万智子を見た。
白い貌《かお》がうなずいた。
「お受けします。何処か――野宿できる場所を探しましょう。少し、僕のやってきた方角を戻ったところに、小さな廃家がありました」
一行は四家族、一五名ほどのグループだった。
二〇キロほど北の開拓地にいたが、五年前から辺境の巻き返しが激しくなり、同時期に入植した人々も次々に土地を捨て、彼らが最後の残留グループだという。
どの顔もそれまでの努力を放棄した無念の色が疲れ以上に濃い。
「最後の年は、侵略者≠フせいで、毎日、人間が消えていったよ。都市部から武器や物資の供給はあるのだが、奴らはまるで空気みたいなものだ。いくら警戒を厳重にしても、何処かから忍び込んで町を破壊し、住人を殺戮《さつりく》する。我々の努力はすべて水泡に帰した」
ブレイの声は苦かった。
廃家のホールである。
かなり広い家で、キッチンを加えれば、三〇人近い人数も優に寝られそうだ。
「文明は勝てませんでしたか」
少年はコーヒーのカップを口につけながら訊いた。質問ではなく感想であった。
「昨日までは必ず勝てると信じてきた。みなにもそう言った。だが、今となっては、別の想いが強いな。なあ、君、どう思う? 我々は奴らを侵略者≠ニ呼んでいる。本当にそうかね?」
少年は沈黙に落ちた。
ブレイの質問の意図も答えも察しがついた。だが、彼を前に、それを口にするのははばかられた。
「決まってるさ!」
不意に強い声が、床上から湧いた。
寝袋の用意をしていた若い男が叫んだのだ。
赤茶色をした髪の額の生え際はちょっと縮れていた。ブレイの息子――バイロンだ。年は少年とほとんど同じに見える。
「あいつらは名前を変えるべきだよ。野蛮人≠チてね。だけど、文明は負けない。必ずおれたちは、おれたちの造った町へ戻ってくる」
「だといいけれど」
静かな万智子の声が、バイロンの顔を厳しくした。
「どういうことだい?」
「世界はすべて辺境だったのよ」
「それは――」
若者は絶句し、すぐに気を取り直した。
「だけど、そのままでは、何の進歩もないじゃないか。動物は動物のまま、たくさんの果実や貴重な鉱物は腐り、利用もされずに土になってしまうんだぜ。それを生活に生かすのが文明ってものだろう」
「辺境には彼らがいるのよ。文明は彼らに何をして?」
「あいつら、ただの野蛮人じゃないか。自分たちの住む土地や資源の価値も知らない。少し、知性のあるものなら、黙って見ていられやしないさ。勿体《もったい》なくて」
「勿体なくてね」
万智子の声音《こわね》は、広い部屋にいる全員をふり向かせた。
「知性と言ったわね。でも、本当の知性なら、彼らとともに豊かになることを考えるはずだわ。私たち知性は彼らを何と呼んで? いま、あなたの口が洩《も》らしたように」
静かな声に、少年も驚く鋼の響きがあった。
「私たちは土地の地図をつくり、杭《くい》と針金で所有地を分けた。山を削り、川の流れを変えて、土地にはコンクリートを流しこんでビルを建てた。その結果がどうなって? 技術文明は刻々と進歩しているのに、文明そのものは辺境≠ゥらの退歩を余儀なくされていくばかりよ」
「一時的撤退さ」
バイロンは必死で言い張った。
「だといいけれど」
万智子の声に、はじめて、論敵に対する同情がにじんだ。
「でも、逃げ――撤退の方角が違っていたというのはおかしな話ですよ」
少年は、剣呑《けんのん》な雰囲気を和《やわ》らげようとして言った。
逆効果だった。
ブレイもバイロンも、電子コンロの仕度《したく》をしていた婦人たちも、一斉に顔を見合わせ青ざめたのである。
「どうしたんですか?」
少年の問いにも答えはない。
「霧は――」
ブレイの唇が動いた。
「何でもないのよ」
いきなり、女たちのひとりが言った。
「ね、ブレイさん? ――そうよね?」
少年は、ブレイの頭が上下に動くのを見た。
「何でもないんだ。霧が濃すぎるんだろう。多分、道に迷ったんだ」
「ふうん」
少年は曖昧《あいまい》に返事をした。納得できる言葉ではなかった。
考えてみれば、霧の中で方向を誤っただけのことだ。だが、ブレイのような経験豊かな人間をリーダーに置く集団で、それは有り得ない現象でもあった。
バイロンの方を見た。
顔をそむけている。
「食糧を取ってくるよ」
と言って、少年は外へ出た。目配せの効果で万智子も後につづく。
玄関のポーチを降りたところで、二人は足を停《と》めた。
白い空気の向こうに、車の影が仄《ほの》見える。
万智子は頭上を見上げた。
「星が見えるわ」
「晴れてきたか。もう大丈夫だね」
「そう思う?」
澄んだ目で見つめられ、少年は肩をすくめた。
「いいや」
「何か隠しているわね、彼ら。いくらひどい霧だからって、先導器があれば何とでもなるはずよ」
「罠《わな》だろうか?」
「これは勘だけれど、私たち用のものではないわね」
「じゃあ、彼らが狙われている? ――侵略者の巣へ引き寄せられているのかな?」
「そのくらいですめばいいけれど……」
万智子の声と表情が、少年の胸を波立たせた。
「どういうことだい?」
「わからないわ、私にもよく[#「よく」に傍点]は。――勘よ」
「それが当てになるときてる」
万智子は淡く笑った。
不意にドアが開き、二人の間を小さな足音が駆け抜けた。
その後を、
「ウイリー、外へ出ちゃあ駄目よ!」
母親らしい叫びが呼んだ。
「こら!」
伸ばした少年の手は、六、七歳らしい小さな影の襟首《えりくび》をかすめ、金髪の男の子は車の脇に渦巻く霧の中へ吸いこまれた。
「いけない。――探しに行くわ」
「僕も」
二人は走り出した。
「後ろを見て。――明かりが見えなくならないように」
ふり向いた少年の瞳は、ぼんやりと滲《にじ》む淡いかがやきを捉えた。
少年は足を停めた。これ以上進むと帰る目標を見失ってしまう。万智子の指示もそれを言っているのだ。
「万智子!」
遠ざかっていく足音が不安をかき立てた。
薄らいだとはいえ、霧の膜はなおも厚く深い。子供はともかく、万智子は戻って来られなくなるおそれが十分ある。
素早く車のドアを開け、運転席から懐中電灯を取り出して、少年は後を追った。
五、六歩で立ち止まった。
霧が渦巻いている。
その音さえ聞こえた。恐怖そのものの響きであった。
幾つもの足音が近づいてきた。
「ウイリー!?」
「何処へ行った?」
かたわらを走り抜けようとする影を、少年は片手を上げて制した。
「行っちゃ駄目だ。いま、探しに行ってる」
「馬鹿な!」
と、その若い男は叫んだ。
「この霧の中へか? ――出られなくなるぞ。おれたちはもう、半月も堂々巡りをしてるんだ!!」
「もう駄目よ」
母親らしい女が涙声で言った。
「あの子――霧の中へ行ってしまった。もう、帰ってこないし、探しにもいけないわ」
「そんな――ただの霧じゃないですか」
少年の否定に応じるものはなかった。
彼らは、少年の知らない恐怖を知っているのだった。
すすり泣きだけが、世界の音となった。
そのとき――
別の声が少年の驚きを代弁した。
「帰って来たぞ!」
驚愕《きょうがく》が少年の背を打った。
白い世界の向こうから、ほっそりとした人影があわてる風もなく近づいてくる。胸に抱えたもうひとつの影は、元気よく手足をふり廻していた。
万智子と子供だった。
母親が駆け寄り、むしり取るように抱き取った。
「どうやって帰れた?」
少年を止めた男が、茫然とつぶやいた。
「明かりを頼りに戻ったのよ」
万智子の静かな笑顔を、少年は頼もしく見つめた。
「でも、確かに厄介な目くらましね。私も危なく迷うところだったわ」
「やっぱり、霧のせい?」
「多分、違うわね」
撤退者たちが、畏怖《いふ》の眼差《まなざ》しで見つめる中を、二人は家の方へ向かった。
ポーチにブレイが立っていた。
「ブレイさん。――この娘、ウイリーを救い出して来ましたぜ。あの霧ん中から」
「見ていたよ」
と男は重々しくうなずいた。
「いま、腹が決まった。――みんな打ち明けて力を貸してもらおう」
ブレイの話は奇妙なものであった。
彼らのグループが開拓地を発《た》ったのは、半月前である。
快晴であった。
その晩から霧が出た。
別に異常はない。単なる、濃いだけの霧であった。トレーラーの方角指示器は、ブレイたちの勘と等しい方角に目的地を示していた。
翌朝、出発後、三時間で異常が生じた。
少なくとも一〇〇キロは離れたはずが、眼前に広がる光景は、捨ててきた居住区のものだったのである。
それがつづいた。
いくら前進しても、必ず出発点に戻ってしまうと知ったとき、グループの中から数名の自殺者が出た。
辺境の呪いだ、という声も上がった。
だからと言って、止まっているわけにもいかない。
道路はある。暁闇市へつづく道だ。そこを走ると、出発点へ戻る。世界が歪んだとしか思えぬ怪現象であった。
五日後に、トレーラーのエネルギーも切れた。
それから十日間も歩きつづけている。みな、疲労と絶望の極みにあった。
「途中で何人もが列を離れて消えた。探しに行ったものも、ひとりとして戻ってこない。こんな奇怪な話があると思うかね。万智子さんがいまおやりになったことは、大いなる希望だよ。どうやったのか、ノウハウを教えていただきたいものだ」
「坊やを抱き上げて戻っただけですわ。他に答えようがありません」
「すると、奇怪な現象は収まったのか。それとも、あなただけが平気なのか? ――どうしたね?」
ブレイの問いは、少年がさっきからホールの方を向いているのを訝《いぶか》しんだ故である。
「何でもありません」
少年はすぐにふり向いて微笑した。
「それより、じきに夜が明けます。霧も晴れて来たようだし、出発しませんか」
「しかし――」
「大丈夫。――万智子さんがついています。ただし、目的地は雲海市です」
「わかった。その点については、君たちの意見に従った方がよさそうだ。早速、出発しよう」
ブレイは思い切りよく立ち上がった。
上空に灰色の空が見えた。青空だったらいいのに、とみんな思っていた。
家を出てから一時間が経っていた。
「気がついたかい?」
先頭を行く車の中で少年が訊いた。
「何を?」
万智子の瞳の中に好奇心がゆらめいた。
「グループの人数だよ。ゆうべ聞いたとき、ブレイさんは二二人と言った。ところが、さっき数えてみたら彼を入れて二三人いるんだ」
「ひとり多いのね。誰かしら」
「いま、ブレイが調べているよ。もう話しておいた」
「わかると思う?」
「さあ」
運転席横の窓に、ブレイの顔がくっついた。
「確かに二三人いるね」
低い声であった。
「メンバー以外なのは誰です?」
ブレイは首を横にふった。
「それが――全員、グループのものなのだ」
「すると、数え間違いですか?」
「いや。二二名は正確な数だ。五人に確かめた」
「すると、余分なひとりは――いる[#「いる」に傍点]のに、いない[#「いない」に傍点]のか」
「そういうことね」
「んな、馬鹿な」
思わず口にしてから、少年はフロント・ガラスの向こうに黒い影を認めた。
『甲虫』は時速二キロの超スロー・スピードで近づいていった。
少年は嘆息した。
万智子の手がその肩に乗る。
「やっぱりね」
声は笑いを含んでいた。
「道案内が悪いのかしらね」
霧のカーテンの向こうで形を整えてきたのは、一時間前に出発したばかりの、ゆうべ泊まった廃家であった。
恐怖の呻きが人々の間に広がった。
少年と万智子は車を出た。
「またか」
とブレイの声が背後でつぶやいた。
「どうやら、君たちを買いかぶっていたらしいな」
「ご希望にそえなくて、ごめんなさい」
万智子は周囲を見廻した。
「誰だろう?」
と少年は訊いた。いるはずのないひとりのことである。
「わからない?」
「わからないわ」
万智子はブレイの方を向いた。
「私たち、これで失礼します。あなた方といると、私たちまで目的地へ着けなくなってしまいそう」
少年も驚くほど冷たく、唐突な申し出にブレイも一瞬あっけにとられ、すぐにうなずいた。
「よかろう。これ以上、君たちに迷惑はかけられん。お互い、独自の道を行こう。達者でな」
「一晩だけのお付き合いでしたけど、せめて皆さんにお別れの挨拶《あいさつ》をさせて下さらない?」
「好きにしたまえ」
少年と万智子は、敵意に満ちた人々の視線を浴びながら、別れの挨拶を交わした。
子供を救われた母親だけが、二人の手を固く握った。
運転席に入るとすぐ、少年は車をスタートさせた。
人々の姿がみるみる遠ざかり、霧が世界を支配した。
「少し――一キロほど南へ行って止まって」
「何かあると思ったよ」
少年の声は弾んでいた。万智子が冷たい娘でないのはわかっていたが、もうひとつ納得できなかったのだ。口先では立派なことを言いながら、態度や行動の伴わない人間はあまりにも多い。
「どうすればいい?」
「一キロを歩くには、もう少しかかるわね。少し待って。それから、はじまりよ」
「うん」
少年は答えて、頭上を見上げた。
空の色はなお灰色だ。
「暗いなあ」
と言った。
「辺境でも何処でも、空はみな青いものなのに」
「じきに青くなるわよ。私たちにそう見えるだけ」
「怒っているのかな?」
「何が?」
「この世界がさ。ぼくらとブレイさんやバイロンたちを」
「かもしれないわね。人はあまりにも世界へ手を加えすぎたわ。でも結局、辺境は人のものにならなかった。どんな大出力の改造用マシンを使っても、環境バランス抑制剤を使用しても、それは人間の足を踏み込めない荒野をふやすばかりだったわね。ごらんなさい、今の辺境の進出ぶりを。あと五年もしたら、世界の地図は大きく塗り変えられてしまうでしょう」
「いいことなのかな、それ?」
「わからないわ、誰にも」
それから二人は霧の中で沈黙に落ちた。
――
「来たわ」
と万智子が少年の腰を肘《ひじ》でつついた。
霧の奥から影が近づいてくる。
人の形をとった。
バイロンだ。
車を見つけて、内部を見廻す。
二人は少し離れた立木の陰に隠れていた。
バイロンは困ったような表情をしていたが、やがて、もと来た道を戻りはじめた。
不思議そうな表情をつくる少年へ、
「挨拶したとき、ここへ来てくれと言っておいたのよ。どうせ、あそこで休憩するに決っているわ、抜け出て来られると思ったの」
「でも、何だって誘い出したんだい?」
「あなた方を道に迷わせてるものの正体を教えてあげると言ったのよ」
少年は眼を丸くした。
「わかってるのかい、そいつが!?」
「いいえ」
「そんな――無茶だよ」
「さっきまではね。――でも、今はわかるわ」
「?」
「しっ。――彼が戻るわ」
バイロンはあきらめたらしく、訝《いぶか》しげな表情でもとの方角へ戻っていく。
「――!?」
少年の視線は、彼の前方に吸いついた。
いる。
バイロンの一メートルと離れていない前方を、鮮明な人影が歩いている。
「あれは――!?」
「みなを迷わせたものの正体よ」
「でも、どうして姿を現したんだい?」
「この土地のせい。ここだけは、特別に清浄な場所柄なの。昔から聖なる土地と言われていたはずよ。悪しき土地の生んだものも、ここでは正体を現さざるを得ないのよ」
少年は立木から身を乗り出し、眼を細めた。
「あいつの正体――見てやろう」
そのとき、万智子が動いた。
気配を察してバイロンがふり向く。
影もまたふり向いた。
少年に見えたのは、万智子の背であった。
何か――力のようなものが炸裂《さくれつ》したのを少年は感じた。
その残滓《ざんし》が顔面にふりかかり、少年はよろめいた。
それでも必死に態勢をたて直し、木陰から出た。
万智子とバイロンだけがその場に立っていた。
万智子の息が荒い。
「どうした!?」
バイロンが駆け寄って、万智子の肩を抱いた。少年の胸に苦い怒りみたいなものが湧いた。
「約束通り来たけど――一体、何がどうなったんだ?」
バイロンの額にも汗の珠《たま》が光っている。
「逃げたわ」
万智子は短く言った。
「手加減したの。これにこりて、もう出て来なければいいけど。みんなのところへ戻ってみましょう」
『甲虫』に乗りこんでも、バイロンは事情を知りたがった。
「あれは、悪い大地に憑《つ》いていた一種の力なのよ。迷いこんだもの全員をあの霧に包み、方向感覚を失わせる。あなた方は一生、堂々巡りをして老いていったでしょう。でも、さっきの土地だけは、奴も正体を見せざるを得なかった」
「これでもう出られるね?」
後部座席からバイロンが訊いた。不安と喜びの入り混じった表情である。
「多分。私もそう願うわ」
「ありがとう」
シート越しにバイロンの手が伸び、万智子の腕に触れるのを、少年は見た。
程なく、『甲虫』はあの家――一行の野営地へ到着した。
驚きの表情の中からブレイが進み出た。
「なぜ、戻ってきた? 君も迷ったのかね?」
「いいえ。確かめに」
万智子は静かに言った。
困惑の表情を浮かべるブレイを尻目に一同を見廻す。
「一人、二人……五人……」
不審げな眼差しも無視して、万智子は顔と人数をチェックしていった。
「一九……二〇……二一……二二……」
少年は唾を呑みこんだ。
「――二三」
万智子は固い声で言った。
「やはり――逃げなかったのね。どんな存在でも、ここはあなたの生まれた土地。黙ってこの人たちを行かせてちょうだい。そうすれば、争わなくってすむ」
静かで切実な訴えに、全員が顔を見合わせた。
「仕方がないわね」
万智子は哀しげにうつむいた。
すぐに上がった顔には、強烈な意志の力がこもっていた。
「みんな、隣の人の顔をよく見て。ひとりだけ、知らない人がいるはずよ。教えてちょうだい」
強い声に促《うなが》されるかのように、誰ひとり異議を唱えず、両隣のメンバーとにらめっこに移る。
薄気味悪そうな表情が、次々と安堵のそれに戻っていく。
「知らない人なんていないわ」
「みんな顔見知りだよ」
万智子はうなずき、ゆっくりと背後のバイロンをふり向いた。
「どう?」
バイロンは青ざめていた。
その前に、もっと青ざめたブレイがいた。
「ぼく……」
バイロンの声は怯《おび》え切っていた。
「ぼく、この男を知らない」
ブレイが後方へ跳んだ。
その姿が霧に呑み込まれる寸前、万智子の右手が伸びた。
ブレイと手を、眼に見えぬ糸がつないだかのようであった。
ブレイの身体は空中で歪み、ふっと消えた。
「万智子」
「……終わったわ。今度こそ」
万智子の両肩が大きく落ちた。
「霧が晴れていくぞ!」
喜びの声が少年をふり向かせた。
「見て――青空よ!」
女が上空をさして叫んだ。
人々の顔が、姿が、疲れ切った、しかし、力強い輪郭と色彩を備えて荒野の一角に蘇《よみがえ》りつつあった。
一時間後――
二人は「雲海市」へと向かう一行を無言で見送った。
最後に、バイロンが残った。
「僕も、あなたと一緒に行きたいけれど――」
彼は自分で首を横にふった。
「みんなと行かなきゃ。一人でも減るとそれだけ苦労がふえるから」
「その通りよ」
万智子がやさしくバイロンの肩に触れた。
「でも、あなたには仲間がたくさんいる。私は、この人ひとり」
「素晴らしい道連れだよ」
バイロンが言った。
少年も微笑みを返す。
「さよなら」
バイロンが言った。
「さよなら」
万智子が答えた。
いつも繰り返される旅人同士の会話。
少年に手をふり、バイロンは列の方へ走り出した。
「彼、君が好きだったんだぜ」
少年は言った。小さな胸の痛みと安堵《あんど》をこめて。
走り去る後ろ姿へ、万智子はそっと言った。
「忘れるわ、そのうち」
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PART7 さらば友よ
旅をしている限り、夏は終わらない。
こう言った詩人がいる。
何故《なぜ》なら、旅とは常に夏を追う作業だからだ。
一台の車がこれを体現していた。
荒野を走る一本の道。
「インター・ステート二〇号線」
通称『サマー・ロード』。
茶色の大地を突き抜ける文明の証《あかし》――強化アスファルトの上を、黒い『甲虫』が疾走していた。
ハンドルを握る若々しい腕。まだ大人になり切ってはいないが、間違いなくなれる[#「なれる」に傍点]腕。
「もうじきね」
それを祝うかのような声。
「ほんとうだ」
と少年は答えた。
「来れるとは思わなかったよ。ぼくにはヒッチハイクが似合ってたからね」
「あと五分もすれば見えてくる。そこで誰に会うのかしら?」
少年は驚いて白い顔を見つめた。
この娘が、他人の事情を知りたがるなどとは考えられないことだった。
あの「悪い土地」から二カ月。
はじめてベッドを共にしたときも、情熱の時間が過ぎ、何もかも語りあってしまいたくなる倦怠《けんたい》の時刻《とき》にも、万智子は何も口にしなかった。
それがいま――
決して、変わったとは思えない。
あれからも、凄まじい体験を積んだのは確かだ。
砂漠地帯では、金品目当ての武装ヘリの集団に攻撃され、住民がすべて消滅した「廃滅都市《ゴースト・シティ》」では、巨大|蜘蛛《ぐも》の襲撃を受けた。こいつらはビルとビルとの間に巣を張り、捕食された飛行機も何機か見えた。
毒雨にも出会った。
何十キロにもわたって、草一本生えぬ死の土地がつづくので、もしやと思った途端、頭上からどしゃぶりが落ちてきた。
すべてを切り抜けたことが、今では奇跡としか思えない。
少なくとも、少年ひとりの力では不可能であったろう。
四〇ミリ・バトル砲《キャノン》の砲口をこちらに向けたヘリの一団は、突風にあおられて次々に岩山に激突し、大型トラックほどもある大蜘蛛は、突如発生した大地震で倒壊したビルの下敷きになって消えた。
毒雨の場合は、もっと突拍子がなかった。いや、ある意味では、最も道理にかなっていたといえる。
突然、快晴になってしまったのだ。
万智子。
だが、不思議と少年のこころにも疑問は湧かなかった。
いずれ別れが来る。
多くのことを知れば、それは見えない鋼石の澱《おり》のように少年の中に溜《たま》り、別れの言葉さえ重く、切ないものにしてしまう。
タンブル・ウィーズの持っただひとつの誇りは、別れの鮮やかさだと、少年はいつも思っていた。
だから――
「急に訊きたくなったのよ」
万智子は、吹き込む夏の風に長い髪をなびかせて言うのだった。
「でも、タンブル・ウィーズには、他人に語るべきことはないわね。別れの挨拶以外は」
少年は黙って前方を見つめていた。
その眼が急に細くなった。
白い道の果てに、モダンな尖塔《せんとう》やドーム状の輝きがゆれはじめたのである。
クラウド郡「雲海市《うんかいシティ》」。
少年の旅路の果てであった。
スケールは、ほぼ「暁闇市《ぎょうあんシティ》」と同じだが、こちらは辺境から近い分、物騒な日常といえる。
市に近づくにつれて増えてくる放射状の立体交差も、あるものは途中から折れ、あるものは穴だらけで、車が無事通行し得る道は数えるほどしかない。
破壊にはすべて、人為的工作の跡が明瞭であった。
侵略者≠フしわざである。
雲海市クラスになると、市の中心部でも、夜間は全員武装が必要だ。辺境≠ヘ、着実にその領域を文明地域≠ノ広げつつあった。
少年の運転技術にコントロールされ、『甲虫』は支障なくダウン・タウンに入った。
「まっすぐ、目的地へ向かって」
万智子が言った。
「その前に、一杯やりたくない?」
「いいわ。でも、地理に明るいの?」
「何とかね」
それきり黙って、少年が車を止めたのは、ダウン・タウンの西のはずれにある小さなバーであった。
「短いお付き合いだったけど、はじめてね、あなたがお酒を飲むの」
少年は黙って、不愛想な中年のバーテンにウィスキーのダブルを注文した。
万智子は水割り。
「乾杯」
少年がグラスを上げ、一気に干した。
たちまち咳《せき》こんだ。
「困った人ね」
万智子が苦笑して背中をさする。バーテンは苦笑していた。
「実は、はじめてなんだ」
少年は胸を叩きながら、カウンターにすがって打ち明けた。
「一滴も飲んだことがない。こんなに利《き》くとは思わなかったよ」
「無茶しないで、目的地の足元まで来たけど、まだ着いちゃいないのよ」
「着いたも同然さ」
少年は平手で顔を叩いた。
「もう話してもいいかな」
と言った。
思わせぶりな口調は、ふざけているのである。
万智子は黙って眺めている。
姉のように、母のように。
飲めない酒を飲むことが、少年の別れの挨拶だと彼女は知っていた。
タンブル・ウィーズらしい粋《いき》なさよならをする自信がないのだろう。
ここに至って事情を話そうとするのがその証拠だ。
「ガイア財団って知ってるかい?」
と訊いた。
「ええ」
この惑星一の富を有する一族だ。
「その創始者がヤン・ガイア――ぼくの父親なんだよ」
「へえ」
万智子は少し感心したように言った。
「半年前、父が死んだとき、ぼくは財団の全権利を一枚のカードに入れて託された。どのような形にも使うがいい。ただし、条件つきだ、と言われてね」
「それが、ここまでの旅?」
「ああ」
「理由は尋ねたの?」
「教えてくれなかった」
「狙われるわけね。ガイア財団の資金があれば、太陽系の全惑星も買い占められるわ」
「おかげで、来るのに半年もかかった」
少年はため息をついた。頬に赤味がさしている。酔いが回ってきたのだ。
運転は万智子がしなくてはなるまい。
「誰も知らないが、ここは父の生まれ故郷なんだそうだ[#「そうだ」に傍点]。そのうちの一軒が、ぼくの最後の目的地だよ」
「お父さまの生まれた家? でも、そうだ[#「そうだ」に傍点]っていうのは何故?」
「父にも確信が持てないんだ。物心ついた頃、もう孤児院に入っていてね。誰に訊いても、彼がどうやってここまで連れて来られたか、教えてくれなかった。教えるにも、知っている人間がいなかったのだろうと、父は言ってたけれど」
「そして、お父さんは自分の過去も知らずに一代で世界最大の金融組織をつくってしまったのね。誰の助けも借りずに」
「だから、ぼくひとりに譲渡するのも平気だったんだろう。考えてみれば、ひどい話だ。関係者が怒り狂うのもわかるよ」
「権利を渡して、楽になろうとは思わなかったの?」
「それを決めるのは、ぼくじゃない。父はもう死んでしまった」
「親孝行だこと」
「放っとけ。今度は――今度は――ヒック」
「私の番ね。――いいわよ」
「よしてくれ」
少年はカウンターを叩いた。小気味よい音がした。
「自分の過去を話すだけでも照れ臭いのに、君のまできかされちゃかなわない。いいんだよ。さ――でましょう」
「はいはい」
万智子は少年の手をとった。いいよ、と抵抗したが、すぐに熄《や》んだ。へべれけになっている。
「手伝いましょうか?」
バーテンが申し出たが、辞退した。
いざとなれば、風か地面が動いて、好きなところへ運んでくれる。
包囲網が狭まっていることを、万智子は感じていた。
敵がどうカモフラージュしようが、空気はごまかせない。そして、風は空気の流れなのだった。
少年を助手席に横たえ、万智子はドライバーズ・シートに収まった。
「さ、行くわよ。場所は何処?」
「雲海区雲海町Bの二九」
「しっかりしてること」
車はスタートした。
少年が口にした住所までは一五分とかからなかった。
ダウン・タウンを抜け、閑静な住宅地に入ってすぐの一角であった。
周囲には、広い高級住宅が軒を連ねている。
そのうちの一軒――抜きんでて豪華な大邸宅の前で『甲虫』は止まった。
少年に肩を貸し、万智子は車を降りた。
家をひと目見た途端、少年に筋金が入った。
「いいんだ。自分で歩くよ」
と万智子の肩を押す。
「コケるわよ」
「見栄ぐらいはらせてくれ」
「はいはい」
万智子はそばを離れた。
少年は玄関まで歩き、ベルを押した。
一分ほどでドアが開き、中年婦人が顔を出した。女中頭といったところだろう。
驚いたような表情で退った。
少年がこちらを向いてウィンクした。
すぐにいまの婦人が現れ、奥へとさし招いた。
少年が手を振って万智子を呼んだ。
少しためらい、万智子は応じることに決めた。
彼女の目的地は、なおも遠く、時間だけは十分すぎるくらいある。
道草もいいだろう。
二人は邸内に通された。
贅沢《ぜいたく》の極みを尽くした邸内であった。
二人の人間が居間に待っていた。
ひとりはマスター・チェアにふんぞり返り、もうひとりはかたわらに立っている。
「よく来た。TVアイで見ておったよ」
チェアに腰を下ろしてた老人がうなずいてみせた。
「倅《せがれ》に生き写しだ。やはり血は争えんな。――かけなさい。そちらの方も」
二人はちゃんと向き直った。
「自己紹介が遅れたが、私はシン・ガイア。ヤンの父親です。こちらは、顧問弁護士のウッドさん」
二人は挨拶してから、老人の次の言葉を待った。
「倅の、ヤンの成功はこちらの耳にも入ってきた。才能があるとは思っていたが、まさか一代で世界最大の金融財団をつくってのけるとはな。さすがに奴の息子だ。利口そうな顔をしておる」
「どうも」
少年は赤面した。ほんとは、とっくに赤い。
「ここへやって来た理由だけお話しします」
こう言って、手際よく、父の死亡からこれまでの旅を要領よくまとめたのには、万智子も驚いた。
「ヤンの奴め――思い切ったことをする。さすが我が息子だ」
「でも、どうして父は、ここへ来いと遺言したのでしょう? 何か、ぼくの知らないようなことを、ご存知ではありませんか」
「遺憾ながら、NOだ。わしにわかることと言えば、何十年かぶりに訪ねてきてくれた孫の気持ちと、わしの感謝だけさ。いつまでもここにいておくれ。婆さんはとうの昔に亡くなったし、寂しい身の上なんじゃ」
「二、三日でよければ」
「そう言わずに」
「いま、わかったんです。ぼくには、こっちの方が性に合っていると。何十回も危険な目に遭《あ》いましたが、ちっとも怖くないのです。それどころか、また経験したいくらいで」
老人はあきれたように弁護士を見上げた。
「ま、好きにおし。だが、せめて、おまえがここにいる間は仲良くしておくれ」
伸びてきた皺《しわ》だらけの手を、少年はしっかりと握った。
「この屋敷も慈善団体へ寄付するつもりだったが、ようやく、正当な引き取り手が見つかったわけだな」
弁護士に言ったのである。
どこか鷹を思わせる顔は、しかし、笑みひとつ浮かべなかった。
「残念ですが、それには顔の相似以外の問題――決定的証明が必要になります。――IDカードを持っているかね?」
「いえ」
少年につづいて、万智子も首をふった。
「タンブル・ウィーズか――困ったものだ」
弁護士は宙に眼を据え、何やら考えていたが、
「身分を証明する何物も身につけていない以上、失礼だが、ヤン・ガイア氏のご子息の名をかたった偽者と思われても仕方がありませんな。こちらの調査が済むまで、あらゆる権利は発生しないものと思っていただかなくては」
「これのこと?」
少年は首の前で光るものをふってみせた。
金色のペンダントである。
軽く引いてスプリングをはずし、テーブルの上に置いた。
「渡したよ。お祖父さん、この家はやっぱり、慈善団体に寄付なさい」
少年は立ち上がった。
「待ちなさい。怒ったのかね?」
「いいえ。ただ、ぼくの調査をするには、二、三日はかかるでしょう。事によったら、一生わからないかもしれない。どんな理由だろうと、束縛されるのはご免です」
「依怙地《いこじ》になってはいかんよ」
済まなげな祖父の顔に、少年は穏やかに笑いかけた。
「こんなに素直な気分は、旅に出てはじめてですよ。自分の行くべきところが、やっとわかりました」
「ほう、どこかね?」
「道の果て」
「ふむ」
老人は好もしげに顎《あご》の髭《ひげ》を撫《な》でた。
「だが、せめて、今夜ひと晩ぐらいは、お祖父《じい》さんを喜ばせてくれんか。な?」
少年に否応はなかった。
二人が退出すると、老人と弁護士は顔を見合わせた。
微笑はない。
これから自分たちのやろうとすることと、いまの二人の印象を重ね合わせ、幾分か、慙愧《ざんき》の念にかられているのだった。
「決定は動かせませんが」
最初につぶやいたのは弁護士である。
鷹のような容貌に、林財《りんざい》の顔が重なった。
「今度ばかりは少々、気乗りがしませんな」
「軍人にあるまじき怯濡《きょうだ》未練な心根だな」
祖父は、ウィンダミア老師の面影をダブらせながら揶揄《やゆ》した。
「しかし、わしもいま、君らに雇われたことを後悔しておるところだ。もう少し若ければ、彼らのような生き方を選んだだろう」
「弱気になられては困ります」
「承知の上だ」
「どのような手段を使っても、人間は自然を征服しなければなりません。すでに文明地域の資源は枯渇《こかつ》し、辺境は文明を圧しつつあります。枯れ葉剤、焼夷《しょうい》弾、火炎放射器、レーザー焼却器――あらゆる方策を総動員してもなお、情勢は予断を許しません。まして、人間の中に、あのような裏切り者がいたのでは……」
「ガイアに見込まれた女か」
老師は、二人の若者が消えていったドアの方へ眼をやった。
ガイアとは、大地の女神を示す言葉ではないか。
「女を倒すのに男の子を利用する――あまり気分のいいものではないな。あの男《こ》の素姓《すじょう》が判明してから思いついた作戦ではあるが」
「本物[#「本物」に傍点]の家へ辿《たど》り着いたら、彼、驚くでしょうな」
「しかし――その本物[#「本物」に傍点]があのありさまとは……一体どういうことなのだ?」
「わかりかねます」
「雲海市」の空に月が出た。
太陽光が反射してきらめくとは到底思えぬ、芯から光を噴き出すかのような、眩《まばゆ》い月であった。
眠りつづける都市。
侵略者≠フ脅威におびえて、街路に人影もなく、走るイオン・カーも絶え、高層ビルは照明も失い……。
アスファルトの路上を、歯ぎしりしながら転がっていく丸まった新聞紙。
ふと、止まった。
何かに驚き、きき耳をたてる。
ぎいい……
がしゃん……
きりきりきり……
重いものがもち上がり、歯車と歯車が噛み合い、ピストンが回転する音……
遠く遠く、分厚い地の底から響いてくるメカニズムのささやき……
新聞紙は血相変えて走り去った。
よく耳を澄ますと、その音は一カ所だけではなく街じゅうの何処かからきこえてくるのだった。
二人は窓の外を眺めていた。
万智子にあてがわれた寝室――そのベッドの上である。
少年がやって来たのだ。罪の意識などどちらもない。肌を重ねたもの同士が、別々の寝室をとること自体おかしいのだ。
二人とも素裸であった。
少年は万智子のぬくもりを感じ、万智子は少年の筋肉の固さを感じている。
「父さんの素姓はわかったの?」
「ああ」
少年はうなずいた。
「夕食の後、お祖父さんが話してくれたよ。でも、何処にでもある話さ。貧しくて捨てた――その子が世界一の大金持ち。捨てた親は、ノコノコ顔を出せる立場じゃない」
「本当に?」
「お祖父さんの言うことが本当ならね」
「どっちにしても、お別れね」
「そうかな」
「あなたにその気がなくても、私は別れるわ。本当はカモフラージュのためもあって乗せたのよ」
「わかってるさ。文句は言いっこなし。ぼくのカモフラージュにもなったしね」
万智子は少年の肩に頭を寄せた。
「細いだろ。痩《や》せてる方だ」
「今はね。これから、うんと太くたくましくなるわ」
少年は万智子の頭を強く引き寄せた。
「何処へ行くのかな、ぼくたち?」
「わからない。昔から、みんなそればかり考えつづけてきたわ」
万智子は眼を閉じた。
固く閉じた目蓋《まぶた》の間から光るものが滲《にじ》み、小さな粒になって目尻からこぼれた。
「あなたは目的地を見つけたわ。でも、私は……」
「言っただろ、さっき」
と少年はやさしく言った。
「ぼくの目的地は道の果てさ。つまり、どこまで行っても無いんだ。もし、君さえよかったら」
「駄目よ」
万智子は横を向いた。
涙は首筋へ光る軌跡を描いた。
「私といたら、あなたは……旅はひとりでするものよ」
「ぼくには、よくわからない。まだ、よくわからないんだけれど、これだけは訊いておいた方がいいような気がする。君は何者なの? 何処から来て何処へ行くの?」
「訊かないで。訊いても仕方のないことよ」
少年は万智子の肩に手をかけ、引いた。強い抵抗があった。あきらめずに引くと、万智子は自分からもたれかかってきた。
眼は閉じられていた。
わななく唇が眼の前にあった。
少年は、これからの旅の想いをこめて、そっと唇に触れた。
異変はそのとき生じた。
塔がビルが道路が大地が一斉に崩れたのだ。数億トンの構造物を支える大地が突如、陥没したかのように、「雲海市」は長方形――全長約一〇キロの市街のほぼ中央から二つに裂け、それぞれがさらに二つに分かれて、巨大な破片を構成しつつ、暗黒の空洞へと落下していった。
やがて、――二〇〇メートルの深さに設けられた大地の底から、重々しい衝撃音と地響きが湧き上がってきた。
「やったかな」
上空五〇〇メートルに滞空するヘリの中央司令室で、林財は深々とうなずいた。
「脱出した様子はないか、最大限のチェックを行え、ミスは許されん。三分以内に結果が出る」
彼とその相棒――ウィンダミア老師の前には、砂漠の中央に開いた巨大な穴が、映し出された。
待機していた調査ヘリが武骨なガトリング砲をきらめかせつつ、穴の縁へ降下する。
たった二人の若者たちを抹殺するために、丸半月かけて砂漠に大空洞を穿《うが》ち、コンクリートで固め、その上に、カモフラージュ用の都市を設定する。無論、使用材料はすべて本物。「雲海市」はビルの傷ひとつに至るまで正確に再現される。
これに要した膨大な人員と費用――。
「生命反応無し」
調査隊のチーフから連絡が入った。
「さすがですな、老師」
林財の口元がゆるんだ。
「瓜二つの都市を砂漠上に建設し、油断させる。いかにあの娘がガイアの力に守られていたにせよ、コンクリートで固めた穴からは出られません。あの女を救う力は、自然界においてのみ作用するのですから。そこへ、老師の呪法が加われば、もはや彼らが逃亡し得る可能性はゼロに近い。あの少女の力は見事に封じ込めましたからな。完璧です」
「ゼロに近いということは、ゼロであることを意味せん。ほぼ、完璧といいたまえ」
「ご謙遜ですな。あの悪い土地からヒントを得て、逆に彼らのための土地をつくる。すべて老師のアイディアです」
「後は、この穴の底から、二人の死体を探し出さねばならん。どれほどの時間がかかると思うかね?」
「捜索はいたしません」
「なに?」
「静止軌道に、ミサイル衛星が待機しています。幸い、ここ三〇キロ四方に生物の兆候は見当たりませんし、射ち込まれるのは、中性子ミサイルです。放射能汚染の心配は皆無です」
「軍人というものは、これほど荒っぽい存在だったかな」
老人は皮肉な口調で言った。
「わしは、あくまでも――」
このとき、穴の周囲に群がっていたヘリが一斉に上昇、離脱を開始した。
「林財くん」
「もう遅すぎます。我々も時速六〇〇キロで退避中ですよ」
ほんの一瞬、老師は、空中から穴の中へと走るオレンジ色の光を見たような気がした。
次の瞬間、アイスクリームを思わせる形状の白い光が盛り上がり、ビールの泡みたいに溢れて、砂漠へと広がっていった。
茫々《ぼうぼう》たる草原を風が渡って行った。
巨大な円錘《えんすい》の丘を埋め尽くした若草がゆれると、丘自体が生物のように形を変えたかのごとく映るのだった。
そのひとつ――小高い丘陵の麓《ふもと》に、二台の自動車が停止した。
甲虫を思わせる車体と、平凡なスポーツ・カーである。
運転席のドアが開いて、若い男女が顔を出した。
万智子と少年である。
「この丘の向こうが、あなたの住所ね。何があるのかしら?」
「一緒に見ていってくれないか?」
万智子は首をふった。
「さよなら」
少年は何も言わなかった。
「今でも信じられないくらいだよ。あの瞬間、砂漠のど真ん中に立っていたなんて」
「私の守り神は自然神そのものよ。多少の奇跡は起こせるでしょう。でも、よくわからない。あのとき、私は救われたという実感[#「救われたという実感」に傍点]がなかったの――とにかく、会わなくても済むわね」
「…………」
万智子は顔を突き出した。
唇が重なる。
すぐに離れた。
万智子はふり向き、スポーツ・カーの方へ歩き出した。
ドアを開け、閉めた。
一度もふり向かなかった。窓ガラスはワンウェイ・ガラスだった。
車が走り出し、道路へ出るのを見届けてから、少年は丘を上りはじめた。
父の生まれた場所はその向こうにある。
二分少しで頂《いただき》に出た。
眼を見張った。
何もない。
一面の草原。緑の丘の連なり――その彼方に、青い青い山……。
父はここで生まれた……?
誰からか?……。
解答は一瞬のうちに閃《ひらめ》いた。
ここだ。
まぎれもない、この自然。草原が、山々が、風が、父を生んだのだ。
そして、少年も。
はじめて、彼は旅の目的を知った。
「万智子!」
叫んでふり向いた眼に、青い草原と道だけが果てしなくつづいていた。
会いにきたのだ。
少年は彼女に。
グッバイと告げたばかりの娘に。
二人して、共に行け、と。
最後の奇跡を起こしたのが、万智子ではなく自分であったことを、少年は、悟った。
万智子はもういない。
だが、車の行った方角はわかるし、いまは大きな味方がついている。
いや、それすら不必要だと、少年の眼には力がみなぎっていた。
あてどのない旅に、ようやく目的ができたのだ。
自然が何を求めているかは知れないが、それこそが少年の求めるものであることもまた疑いはない。
ゆっくりと、力強い足取りで丘を下っていく少年の顔には、限りない憧れが湧いていた。
旅の空――この何処かに、|別れ《グッバイ》を告げた娘がいる。
すぐに会おう、万智子。
別れの挨拶が再会の誓いだと、少年は自分に言いきかせた。
[#改ページ]
あとがき
昔、「風の名はアムネジア」という小説を書いた。
ある日、人間という人間が記憶喪失に陥《おちい》った北米大陸を旅する若者と美女の物語である。
その少し前にアメリカへ旅行した。
大都会には別段驚かなかったが、ラスベガスからグランド・キャニオンへ向かうバスの旅はなかなか感動的であった。
とにかく、一本の道以外、左右は茫々《ぼうぼう》たる平原の広がりなのである。
これにはまいった。
天候不順でガスに包まれ、ツアーの客が「もう一回、ツアーをし直せ」と、運転手兼ガイドに食ってかかったとき、霧の奥から悠然《ゆうぜん》と現れたグランド・キャニオンの雄姿も凄《すご》かったが、この大平原の虚無的な広がりには到底及ばない。
ひたすら茶色の土と草(これも茶色だったような気がする)の連なり。それだけ。
だが、である。
ここが単なる未開の荒野であったなら、私は一時的な好奇心に取り憑《つ》かれただけで、とうに忘れていただろう。
荒地には、柵らしきものがつくられ、その修理をしているらしい人間と、痩《や》せこけた牛が数頭散らばっていた。
何のために、あんなところにいるのか?
彼と牛は、何処《どこ》からやって来たのか?
そんな風に考えると、私はもう止まらなくなってしまうのである。
挙句《あげく》の果てに、道の端には馬鹿でかいトラックがひっくり返り、運転手と警官が立ち話をしている有様だ。
あれも、シュールな光景ではあったな。
どうやれば、あんなものぶっ倒れるんだろう。いくら考えてもわからない。出無精の私が、少しは旅に出る回数が多くなったのも、あの風景のせいかもしれない。去年、東欧を旅したとき、ウィーンからハンガリーへ向かうバンの国境越えも大した経験であった。
小型車に一〇人ほどを詰め込んで、とばしにとばすのである。
軽く一〇〇キロは出ていただろう。ひっくり返ればそれっきり、というのは、爽快だがスリル満点である。
しかし、私は今度は旅自体よりも、このツアーの主催者――つまり、運転手のおっさんに興味を持った。
ラグビー選手のごとき体格のアメリカ人で、数ヵ国語がペラペラ、国境での交渉もてきぱきとこなし、運転はもちろんプロ級である。アロハシャツもよく似合う。
彼のような生き方に、どこか共鳴する部分が私にはあるらしい。ろくに話もできなかったがホテルまで送ってくれ、フロントとの話もつけ、グッドラックと握手した手の頑丈なことよ。
今でもウィーンとハンガリーの間を、豪快にすっとばしているのだろう。達者でね。
まあ、ざっとこんな経験と想いから、「グッバイ万智子」は出来上がっているのである。
舞台はどこなのか、自分でもわからない。
この二人が、今後どうなるかも不明だ。
それでも、私の中にある旅への感じ方はよく出ているだろう。
この少年や万智子みたいな生き方は、案外誰もの夢なのかもしれない。
うん、そうだ、と言ってもらえれば幸いである。
季刊「コバルト」連載時、及び書き足しに際し、加藤恒雄編集長には――例のごとく――ご迷惑をかけた。
ありがとうございました。そして、ごめんなさい。
一九八八年七月某日
「ハリーとトント」を観ながら
[#地から1字上げ]菊地秀行
[#改ページ]
底本
集英社 Cobalt Selection
グッバイ万智子
著 者――菊地秀行《きくちひでゆき》
一九八八年一一月三〇日  第一刷発行
発行者――若菜 正
発行所――株式会社 集英社
[#地付き]2008年10月1日作成 hj
[#改ページ]
置き換え文字
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
填《※》 ※[#「土へん+眞」、第3水準1-15-56]「土へん+眞」、第3水準1-15-56
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71