大鷲の誓い デルフィニア戦記外伝
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「それまで!」
|審判《しんぱん》の声が響き渡った。
激しい勝負に決着がついた瞬間だった。
勝者として称えられたのはその身なりからすると、まだ|叙勲《じょくん》前の騎士見習いである。
歳も若い。十六、七といったところだろう。
そんな若者が並み居る強豪を次々と打ち倒して、伝統ある団対抗試合の勝者となったのだ。
見物一同が驚くのも当然だった。
特に対戦相手はいかにも歴戦の騎士という|風貌《ふうぼう》の、屈強な男だっただけになおさらである。
若者はそんな敗者に向かって丁重に頭を下げると、見物席にも一礼した。
「驚いた若者だ……」
その見物席から呆れたような声を洩らしたのは、敗けた側の騎士を|擁《よう》するティレドン騎士団の副団長、エイヴォン・ザックスである。
ザックスは四十絡みの屈強な男で、鍛え抜かれた大きな|体躯《たいく》と陽気で朗らかな風貌の持ち主だった。
悔しそうな表情をしながらも笑いを|滲《にじ》ませている。
「うちのジャービスも若手の中では一番の腕ですが、みごとにしてやられました。先行きが楽しみですな、ラモナ騎士団長」
「いや……」
謙虚に首を振ったラモナ騎士団長のオーティス・ロビンスはザックスよりずっと年上だった。
既に六十に近いだろう。目元には深い|皺《しわ》が刻まれ、髪はほとんど白くなっているが、体つきはさすがにたくましい。何よりこの人は何とも言えない品格を漂わせている。
「それを言うなら勝たせていただいたようなものだ。そちらの騎士はうちの代表をほんの子どもと思って侮ったのだろうが、いささか油断が過ぎたようだな。相手を見た目で侮るなど危険極まりないことだぞ」
「これは手厳しい」
ラモナ騎士団長の指摘は|紛《まぎ》れもない事実なだけに、苦笑したザックスだった。
ロビンスの隣にはラモナ騎士団の副団長を務めるレナート・パラディがいる。
彼はとびきり|寡黙《かもく》な男だったから、自団の代表が勝ったからと言って得意満面に胸を張ったりはせず、手塩に掛けた弟子の自慢をするわけでもない。
あくまで謙虚な姿勢を崩さない。
デルフィニアには数多くの騎士団が存在する。
彼らは普段はまったく別の地域を守っているため、親交を計るために、時にこうして対抗試合を開く。
身内同士の試合であるから無論真剣は使わないが、互いの実力を確かめるいい機会でもあった。
親善試合であるから試合には礼をもって臨むこと、試合の遺恨は残さないことなどが決められているが、剣を取って戦うのが習性の騎士たちだけに、敗北は屈辱的である。
どの騎士団もこの対抗試合には若手の主力を送り込むのが常だった。
それなのに、ラモナ騎士団の代表は叙勲もされていない騎士見習いの若者で、少女のように色が白く|柔和《にゅうわ》な顔立ちで身体つきも細くしなやかで、筋骨たくましい他団の代表にかかればひとたまりもないように見えたのである。
そんな若者が舞うように軽やかに、他団の代表を次々に打ち倒していったのだ。
あっぱれと思うよりも、ザックスとしては呆れる思いのほうが強かった。
その中には当然、|不甲斐《ふがい》ない自団の代表に対して舌打ちする気持ちも混ざっていたわけだが、それは表に出さないのが騎士のたしなみである。
「あれはどこの子息ですかな?」
ザックスが尋ねた時だ。
|控《ひか》えの場から人影が進み出てきた。
背丈は尋常で、足取りも|颯爽《さっそう》としているが、その顔つきはむしろあどけなく、体つきも幼い。
恐らく十二、三歳だろう。見習いとして入団したばかりのような、まったくの子どもだった。
そんな子どもが試台場に堂々と進み出て、勝者に向かって声を掛けたのである。
「お見事なお手並みだった。わたしも一手ご指南に預かりたい」
勝負を挑まれた若者のほうが|訝《いぶか》しげな様子になり、首を傾げている。
身体の大きな、健康そうな子どもだが、若者より三、四歳、年下なのは間違いない。
十代におけるこの年月の差は大きい。
この子どもが若者と戦ったところで若者の勝ちは眼に見えている。それだけに首を傾げたのだ。
審判も戸惑った眼を観客席に向けてきた。
正式な騎士ではなさそうだが、子どもの|外套《がいとう》には勇ましく飛翔する大鷲が描かれている。
|見紛《みまが》うはずもない、ティレドン騎士団の紋章だ。
ロビンスもそれを見て取り、ザックスに尋ねた。
「あれは?」
「うちの問題児ですよ」
こっそりと答えて、ザックスは立ち上がった。
「待たんか! 勝負は既についたのだぞ」
「それは承知しています」
試合用の剣を下げた子どもは落ちついて言った。
「この試合はそもそも他団の騎士との交流を目的としているはずです。自分もデルフィニア騎士としてもっとも強い騎士と戦ってみたいのです」
普段のザックスなら、こんな子どものわがままは|一喝《いっかつ》して下がらせるはずである。
ところが、ティレドン副団長はなぜか苦笑いして自分の上官を|窺《うかが》った。
「どうなさいます、団長?」
「あ、うむ……」
おどおどと|頷《うなず》いたティレドン騎士団長はまだ若く、青白い顔つきの|痩《や》せた男だった。
神経質そうな眼差しで、自分の副官とラモナ騎士団長とを交互に見やって言った。
「まあ、その、やらせてみてもいいのではないかな。ラモナ騎士団長のお許しがあればだが……」
ティレドン騎士団長の名はアンリ・ジャコー。
ジャコー公爵家は首都コーラルでも羽振りのいい貴族であり、アンリが騎士団長の職にあるのもその|家柄《いえがら》によるところが大きい。
その彼にしてこれだけ気を使わなければならない相手となると自然と限られてくる。
察しもついたが、ロビンスは何食わぬ顔で、先程ザックスが尋ねたのとまったく同じことを訊いた。
「あれはどちらのご子息です?」
アンリが答えるより先に子どもは剣を抜いていた。
「いざ!」
若者はちょっと面食らった様子だったが、審判が試合開始の姿勢に入るのを見て剣を構えた。
しかし、勝負は最初から見えていたと言っていい。
若者のほうは見た目こそ少女のように優しげだが、並み居る強豪を打ち倒した|技倆《ぎりょう》の持ち主である。
それに相対するのは、普通より身体が大きいとは言え、まだほんの子どもである。
開始の合図と同時に子どもは猛然と攻め込んだが、若者は難なくその突進を|捌《さば》いた。
見物人があっと思った時は、若者は流れるような足取りで子どもに迫り、眼にも止まらぬ|早業《はやわざ》でその剣を叩き落としていたのである。
「それまで!」
審判が宣言する。
子どもは取り落とした剣を拾おうともしなかった。
くるりと背を向けて席に戻ろうとしたが、勝者の若者がその背中に声を掛けた。
「持ちなさい。礼がまだだ」
「礼?」
「そうだよ。デルフィニアの危機には味方となって共に戦う騎士団の代表との試合だもの。礼に始まり、礼に終わらなければならない。少なくともわたしはそのように教わったが、ティレドン騎士団では違う作法を習っているのか?」
観客席の一部がざわりとどよめいた。
子どももびっくりしたらしい。
大きな黒い眼を見張り、珍しいものを見るような眼で若者を凝視しながら、それでも試合開始位置に戻って礼をしようとした。
それを制して、再び若者が言う。
「剣を拾いなさい」
子どもはまたも眼を|剥《む》いたが、言われたとおりに剣を拾って腰に戻し、今度は少しばかり皮肉な眼を若者に向けた。
「お|手前《てまえ》は実戦でも敵に情けを掛けるのか?」
「これは実戦ではない。親善試合だ。それを思えば、きみはすべての勝敗が決した後になって出てきたりすべきではなかった。この次はティレドン騎士団の正式な代表としておいでなさい」
子どもはますます呆れたような顔をしながらも、素直に頭を下げたのである。
若者もこの礼を受けて軽く一礼した。
これまでの試合の時と同じようにしたまでだが、観客席のざわめきはますますひどくなっている。
ジャコーに至ってははっきり顔色を変え、険しい表情でロビンスに迫った。
「ロビンスどの。困ったことをしてくれましたな」
「ほう? 何故ですかな。勝敗が決した後になって試合場に出てくるとは、うちの代表者が言うとおり、そちらのほうが礼を欠いてはおりませぬか」
ジャコーは|苛立《いらだ》たしげに舌打ちして|囁《ささや》いた。
「ロビンスどの。ご存じないのですか! あの方はグラスメア卿です!」
「それはそれは……」
言われなくてもわかっていたが、ロビンスはさも得心がいったというように頷いてみせた。
「なかなか勇ましい少年のようだ。陛下もさぞかし、お喜びでしょうな」
「何を呑気な! いくら試合とはいえ、あれほどのご身分の方を容赦なく打ち据えるなど滅相もない! 到底許されることではありませんぞ!」
「なんと?」
ロビンスの眼が丸く見開かれた。
どう見ても人のいい老人が驚かされている顔だが、眼の光はそんな可愛らしいものではない。
ジャコーの心の底まで射抜くような鋭さだ。
「では、ジャコーどのは、デルフィニアの伝統ある団対抗試合とは、|試合《しあ》う相手の家柄によって勝利を譲るべきものであると、そう言われますか?」
「いや……そうは申しません。しかし!」
「なるほど。これはたいへんな失礼を致しました」
ロビンスはその先を言わせず、ジャコーに対して心底申し訳なさそうに頭を下げてみせた。
「我らラモナ騎士団は西の端を守る|田舎《いなか》者ですのでそのような作法があることはとんと存じませなんだ。今後はまず相手の家柄を尋ねてから試合うようにと、団員たちに徹底して指導するように致しましょう。実は近日中にコーラルに参り、陛下にお目に掛かる予定になっているのですが、無論、わたしの無知と|不調法《ぶちょうほう》とを丁重に陛下にお詫びして参ります」
ジャコーはたちまち別の意味で青くなった。
ラモナ騎士団長ロビンスは西の|要《かなめ》のビルグナ|砦《とりで》を任されていることからもわかるように、戦闘能力はもちろんのこと、人品博識ともに優れた騎士としてドゥルーワ国王の信頼厚い人物である。
「いや、ロビンスどの。このようなつまらぬことを陛下のお耳に入れる必要などありますまい」
慌てて訴えたが、ロビンスは容赦しなかった。
「いいえ、とんでもない。それではこのロビンスの手落ちを見過ごすことになります。ティレドン騎士団長のご指導のおかげで恥を|掻《か》かずにすんだことをきちんと陛下に申し上げなくては気がすみません」
「ラモナ騎士団長! わたしは何も存じません! よいですか、何も言ってはおりませんぞ!」
ジャコーはほとんど悲鳴を発して腰を浮かせ掛け、ロビンスはさも意外だというように眼を見張った。
「何もおっしゃってはおられない?」
「さよう! 今のはつまり……単なる|戯《ざ》れ|言《ごと》です! それを真に受けられては……困ります」
「戯れ言でしたか。それは重ね重ね失礼致しました。先も申したように、わたしは何分、田舎者ですので、都会の作法には|疎《うと》いのです。お許しください」
すまして頭を下げるロビンスの横で、ザックスが懸命に笑いを|噛《か》み殺している。
同時にロビンスに向かってそっと視線をよこすと、その眼の色だけで『おてやわらかに』と訴えてきた。
今のティレドン騎士団長は完全な飾りものだ。
戦闘に出る時も指揮はザックスが執っている。
団長のジャコーは戦闘の|最中《さなか》に暇をもてあまし、主な仕事はあくびを喘み殺すことだというのだから嘆かわしい話だ。
戦闘集団であるはずの騎士団の長がこんな有様でいいわけはないのだが、こんな騎士団長が存在していられるのも今が平和だからである。
今のデルフィニアは明賢王と呼ばれる偉大な国王ドゥルーワを|戴《いただ》き、隣国との関係も良好である。
何より、ザックスが実質的に指揮していることでティレドン騎士団は優秀な戦績を残している。
どんな形態であれ、うまく機能しているのだから、他団の者が意見を押しつけることは得策ではないと、ロビンスは達観していた。
各騎士団の騎士が試合場から続々と引き上げる際、ロビンスは直々に勝者の若者に声を掛けた。
「よくやった」
「ありがとうございます」
若者はしとやかに答えた。
先輩の騎士たちはそれぞれ自分の馬に騎乗したが、まだ見習いである彼には馬は与えられていない。
ロビンスの従者として自らの足で歩き出したが、ふと視線を転じると、あの少年が馬に乗っていた。
立派な|鹿毛《かげ》である。馬を飾る馬具も豪華なもので、とても見習いの少年の持ちものとは思えない。
さらには少年の周りを他のティレドン騎士団員が取り巻いて、まるで護衛しているように見える。
若者は不思議そうに、水色の眼を|瞬《またた》かせた。
年下の少年の特別待遇を|羨《うらや》むのではなく、自分の疑問を素直に口にした。
「団長。あの少年は何者でしょう?」
「うむ……」
馬上のロビンスは苦笑している。
大きな馬に乗っていく少年の様子はロビンスにも見えていた。
「あの気性ではなるほど、ジャコーの手には負えぬだろうな。――あれは陛下の|甥《おい》にあたる少年だ」
たいていの人ならその身分を聞けば顔色を変えてひれ伏すはずだ。ジャコーもそう考えたのだろうが、見習いの若者は特に驚いた様子は見せなかった。
ただ、上官を見上げて静かに問いかけた。
「相手が陛下の甥御ならば、わたしは負けなくてはいけませんでしたか?」
「何故そう思うな?」
「ティレドン騎士団長のご様子からです。ご不快に思われたようにお見受けしました」
淡々と、しかし、実にはっきりと意見を言う。
ロビンスの笑いは苦笑から楽しげなものに変わり、足下を歩む若者を見下ろした。
「わしはおまえに何と教えた? 相手の身分次第で手控えをせよなどと申したことがあるかな」
「いいえ」
剣の試合に先輩も後輩も関係ない。勝敗は腕前と、剣士の品格によってのみ決する。それがロビンスの――ひいてはラモナ騎士団の教えだった。
だからこそ、迷わず勝負に徹したのだが、自分は何かまずいことをしでかしたらしい。
そのくらいは周囲の雰囲気から読み取れる。
特にティレドン騎士団長の表情は苦々しかった。
明らかに自分を非難する顔だったが、ロビンスは若者の懸念を笑い飛ばした。
「ジャコーのことなら気にせんでよい。ティレドン騎士団長は合戦で戦う敵なら少しも恐れぬ人柄だが、社交界に影響力を持つ名家の血筋には至ってお弱い。陛下の甥とあってはなおさらだ。他の騎士見習いと同列にすることなどできぬと固く思い込んでいる」
それが団長の意向とあっては、下の者が倣うのは当然である。ザックスでさえ苦笑しながら、少年の特別扱いを黙認している様子だった。
「しかし、それはティレドン騎士団内でのみ通じる約束ごとだ。あの少年にとってよいことでもない」
「意外でした」
足を進めながら、若者はまた素直に言った。
「わたしはロビンス団長さましか存じませんので、そのような騎士団長がいらっしゃるとは想像もしておりませんでした」
「うむ。他の騎士団には他の騎士団の決まりがある。ただし、おまえが勝ちを譲ってやる必要はない」
「ありませんか?」
「無論だ。わたしの指導が間違っているのであれば、ジャコーは正式に抗議しただろう。それができずに自説を曲げたのは己の間違いを知っているからだ」
「…………」
「わしがコーラルに赴く時はおまえも一緒に来い。都を見ておくのもよい勉強になるだろう」
「はい」
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2
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首都コーラルはビルグナのような|田舎《いなか》と比べるとまるで別世界だった。
町並みも道行く人の服装も華やかで、特に初めて見るコーラル城の素晴らしさは息を呑むほどだった。
きょろきょろしないように気をつけてはいたが、大手門をくぐり、一の郭へと続く大通りを進む間も、どうしても眼を見張ってしまう。
正門をくぐって一の郭に入り、本宮を前にすると、その威容に圧倒された。
ロビンスは丁重にその本宮に迎え入れられたが、若者は入口で待つように言われたので、従者たちが主人を迎える待合いに足を向けた。
にぎやかな場所だった。
気むずかしそうな老僕がどっしり構えているかと思うと、主人のお供をしてきたらしいまだ幼い|丁稚《でっち》奉公の子どもが居心地悪そうに身じろぎしている。
他にも色々な階層の人々であふれかえっている。
腰を下ろす場所もあったが、そこはすでに一杯で、ほとんどの人は立ったまま談笑していた。
場所が場所だけにみんな大声で話すようなことはないが、口をつぐんでいなければならないほど堅苦しい場所でもないらしい。
若者はそうした人々の話し声に耳を傾けながら、ロビンスが戻った時にすぐに迎えに出られるよう、待合いの入口近くに|佇《たたず》んでいた。
すぐ眼の前は本宮の玄関と奥とを結ぶ通りだから、人がひっきりなしに行き来している。
すると、そこに、親善試合で|試合《しあ》ったティレドン騎士団のあの少年が通りかかったのだ。
いや、通りかかったというのは正しくない。
少年はどうやら若者に会うために出向いたらしい。
にやりと笑って話しかけてきた。
「ロビンス団長がいらっしゃると聞いて、お手前も一緒だろうと思った」
|傲岸不遜《ごうがんふそん》な口調である。目上の相手に話しかける言葉とも思えないが、若者は無言で|会釈《えしゃく》した。
少年は何も言おうとしない若者を疑問の眼差しで見つめていたが、不意に名乗った。
「ノラ・バルロだ」
「ナシアス・ジャンペール」
初めて口をきいたが、それだけだ。
ナシアスは相手の|家柄《いえがら》を聞こうとはしなかったし、自分の名前以外のことも言わなかった。
ナシアスにとってはそれが当然の作法だったが、バルロにはひどく珍しいものだったらしい。
黒々とした眼を見張って、まじまじとナシアスを見つめていたが、また不敵な笑顔になった。
「会えたのはちょうどいい。この間の続きをしたい。俺の屋敷はすぐそこだからな。来てもらおう」
相手が自分の言葉に従うことを疑わない態度だが、ナシアスはゆっくりと首を振った。
「わたしは王宮に遊びに来たわけではない。団長のお供として来たんだ。戻るまでここで待つようにと言われてもいる。団長のお許しを得ずに勝手にこの場を離れたりはできない」
少年も考える顔になった。
相手は違う騎士団に所属する人間で、騎士団長の従者として王宮に来ている。
それを勝手に連れていくのは好ましくない。
最悪の場合、ティレドン騎士団の人間がどうしてラモナ騎士団の指揮系統に割り込むのだと、厳重に抗議されてしまいかねない。
そのくらいの状況判断は瞬時についたらしいが、だからといって諦めるという選択肢は最初からこの少年にはないようだった。
一緒にいた若い騎士に尊大な口調で言いつけた。
「アスティン。ロビンス団長がいらしたら、事情を話してこの人をお連れしろ」
「はい」
若い騎士は慎ましく答え、少年は勇ましく|外套《がいとう》を|翻《ひるがえ》しながら待合いを離れていった。
少年の後ろ姿が見えなくなってから、ナシアスは丁重にアスティンに話しかけた。
「ティレドン騎士団の方ですか?」
「はい。アスティン・ウェラーと申します」
この口調もナシアスには意外だった。
アスティンはまだ若い。澄んだ瞳には思慮の光があるが、整ったつややかな顔立ちから判断する限り、恐らく二十歳そこそこだろう。
それでも|叙勲《じょくん》された騎士であるのは間違いない。
それなのに、その騎士が見習いに過ぎない自分に敬語で話しかけてくる。
自分よりいくつも年下に見える少年が対等以上の口をきき、自分より目上であるはずの騎士がこんなへりくだった言葉で話しかけてくる。
どちらもラモナ騎士団ではあり得ないことだが、他団には他団の作法があると聞かされたばかりだ。
部外者が立ち入ることではないと思い、穏やかに自分を制していると、アスティンが質問してきた。
「ジャンペール家とは、どちらのご領主ですか?」
「父は領主ではありません。卿の称号はいただいておりますが、家は代々ボーンズ・ビィという小さな村の地主を務めております」
「爵位は、お持ちでない?」
「もちろんです」
ナシアスはちょっと笑った。
父は田舎貴族だと先に断っているのに、おかしなことを言う人だと思ったのだ。
それなのに、アスティンはますます奇妙なことを訊いてきた。
「お父上はご健在ですか?」
「もちろんです」
「それでは、あなたは?」
「わたしが何か?」
「お父上は爵位をお持ちでなく、ご健在であるなら、あなた自身のご身分は?」
ナシアスは今度こそおもしろそうに笑って答えた。
「もちろん、わたしは無冠の騎士見習いです」
今度はアスティンまで妙な顔になった。
何やら珍しいものを見るような、検分するような、意外な成り行きに感心しているような、そんな眼でしげしげとナシアスの顔を見つめてくる。
不愉快な視線ではなかった。それは確かだ。
ただ、何故そんなふうに見つめられるのかまるで心当たりがないだけに当惑した。
言いたいことがあるならはっきり言ってほしいが、アスティンには理由を説明する気がないらしい。
やがてロビンスが戻ってきた。
アスティンは丁重に名乗ると、申し訳なさそうに用件を述べたのである。
「まことに恐れ入りますが――グラスメア卿がこの人との手合わせを望んでいるのです」
「今、これからか?」
「はい。既にお屋敷でお待ちです」
ロビンスは微笑してナシアスに言った。
「お相手してさしあげろ。わたしは三の郭の官舎に戻るゆえ、おまえも日暮れまでには戻るように」
「かしこまりました」
ナシアスが連れて行かれた先は、一の郭の中でもひときわ立派な屋敷だった。
立派も何もアスティンに言われるまでナシアスはその建物を王宮の一部だと思い込んでいたくらいだ。
一の郭に屋敷を構えることが許されるのは貴族の中でもごく一部に限られる。それがわかっていても、その屋敷の|壮麗《そうれい》さは眼を見張るものがあった。
ナシアスは|贅沢《ぜいたく》には無縁の家に生まれ、華美とは無縁のラモナ騎士団に在籍している。その彼にして、これなら内部はいったいどうなっているのだろうと大いに興味を持たせる外観だった。
しかし、ナシアスはその屋敷の中を見る機会には恵まれなかった。
門をくぐり、そのまま庭へ案内されたからである。
ちょっと残念に思ったのも確かだが、そのほうがむしろ気楽だった。
庭に行ってみると、少年は既に身支度を調えて、やる気満々で待っていた。
練習用の木太刀をナシアスに投げて寄越す。
「お手合わせ願おう」
「喜んで」
ロビンスの許可があれば、この少年の相手をすることに異存はない。
同じように木太刀を下げてナシアスと相対すると、バルロはまず生真面目に頭を下げた。
顔を上げて、にやりと笑う。
「こうするのがラモナ騎士団の作法なのだろう」
得意そうな少年の様子がおかしくて、ナシアスも微笑したが、剣の稽古となれば笑ってはいられない。
騎士団にはそれぞれ特色がある。
ラモナ騎士団は思慮深さや冷静な判断力等を|尊《たっと》ぶ気風の騎士団だが、それは|怒濤《どとう》の攻撃よりも防御を強いられる土地柄ゆえだ。
決して戦闘能力そのものが劣るわけではない。
いざ戦うとなれば、ラモナ騎士団はしつこい戦をすることで有名なパラストの兵隊に一歩も譲らない。
どんな苦境に陥っても勝負を投げずに、諦めずに、最後の最後まで粘って粘って粘り抜く。
ナシアスの剣技はそんな先輩騎士たちがみっちり仕込んでくれたものだ。
無防備に突進してくるバルロの動きを読むのも、最小限の力でそれを|捌《さば》くのも至極簡単なことだった。
それにしても――と適当に少年の相手をしながらナシアスは思った。
あの親善試合でティレドン騎士団の代表と戦った時にも感じたことだが、この団の人たちは攻撃こそ第一と考えているらしい。
それはよいとしても、考えなしに闇雲に突っ込む傾向がある。
これでは、敵の攻撃を受け流すことを得意とするラモナ騎士団の剣とは非常に相性が悪いことになる。
まして一対一の勝負では、いくら鋭い突っ込みを見せても無駄なことだ。
ナシアスの眼は少年のその動きを見逃しはしない。
常に先手を取って、少年の攻撃をいなし、体勢が崩れたところを見計らって少年の木太刀を打つ。
その繰り返しだった。
バルロもさすがに自分が突撃するばかりなので、|苛立《いらだ》ったのだろう。息を切らしながら言ったものだ。
「たまには、そちらから掛かってこい」
「なぜ?」
ナシアスは真顔で問い返した。
「勝負に、どちらから攻めなければならないという決まりなどないのに?」
この答えにバルロは呆れ返った顔になった。
木太刀を握った手をだらりと下ろした。
「では、お手前が仕掛けるまで俺も攻めない」
「いいとも」
根比べならどう見てもこの少年のほうが自分より気が短い。先に我慢できなくなるのはどちらなのかわかっていたので、ナシアスは|悠然《ゆうぜん》と言った。
「わたしはちっともかまわないよ。ありがたいな。きみが攻めてくるまで休憩できる」
案の定、バルロはかっとなった。
再び木太刀を構えながら憤然と言い返した。
「お手前は確かに腕は立つかもしれないが、それは騎士の戦い方ではない!」
「無闇やたらに突撃して|惨敗《ざんぱい》を喫するのも、騎士の戦い方ではないよ」
「攻撃せずに勝てる戦があるとでも?」
「そうは言わない」
剣の稽古だったはずだが、いつの間にか二人とも木太刀を下ろしたまま戦術論を話している。
しかし、これこそ、騎士団によって教える内容が違うのだろうと容易に想像がつくことだったので、ナシアスは慎重に言葉を選んだ。
「守りの戦を信条とするラモナ騎士団も、必要なら突撃を掛けることを|躊躇《ためら》わない。ただ、少なくともラモナ騎士団では状況も判断せず、むやみやたらに突撃することをよしとは教えない」
「では、どんな突撃を習っている?」
自分はまだ見習いだから習ったことはないが、と前置きした上でナシアスは説明した。
「まず第一に、どこを突くかを考えろと言われる」
意味がわからなかったらしく、少年は首を|捻《ひね》った。 「敵がもっとも防御を固めているところを突いても効果は期待できない。だから大切なのは敵の弱みをいち早く見抜くことであり、その弱みを一心不乱に突くことだと、先輩が話してくれたことがある」
少年は呆れたような顔になった。
「実際の戦で、そんな悠長なことをしていられると思うのか?」
「確かに実践できる騎士は少ない――とても少ない。だからこそ、それを理想とすべきだと思う」
「馬鹿げた理想だ」
今度こそ、鼻で笑った少年だった。
「ラモナ騎士団はずいぶんとのどかな気風らしいが、戦場はのどかさとは無縁の場所だぞ。敵の弱みなど探している暇があるなら一刻も早く攻撃すべきだ。そうとも、攻撃は最大の防御と言うではないか」
ナシアスは口元が笑いそうになるのをかろうじて抑えると、ちょっとばかり胸を張ってみた。
「そうかもしれないが、防御一辺倒でも、わたしのほうがきみより強い」
たちまちバルロの口がへの字に曲がる。
おもしろくないと感じているのは間違いなくてもバルロはその不満をナシアスにぶつけはしなかった。
|憮然《ぶぜん》として言い返してきた。
「お手前は特別なのだろう」
「とんでもない。ラモナ騎士団にはわたしより強い騎士などいくらでもいるよ」
「そんなはずはない。あの代表に選ばれたのだから、お手前が一番強いはずだ」
「見習いの中ではね」
さらりと言ったのは本当のことだったからだが、バルロには信じられなかったらしい。
幼い顔に|露骨《ろこつ》な疑惑を浮かべて詰問してきた。
「お手前より強い騎士がいるのなら、なぜ叙勲前のお手前が試合の代表に選ばれた? 昨年の試合にはもっと年長の騎士が出てきたと聞いたぞ」
「わたしもそう申し上げた。自分はまだ力不足だと思って、一度はお断りしたのだが、わたしのような若手にも対抗試合を体験する機会を与えたいという団長のご意向だったのだ」
ナシアスはあくまで淡々と説明した。
「団長|直々《じきじき》のご命令だもの。それでは仕方がない」
「なるほどな……」
何を思ったのか、バルロは少年らしからぬ皮肉な笑いを浮かべて、不意に言った。
「アスティン。おまえもこちらと立ち合ってみろ」
ここまでナシアスを案内してきた騎士は、今までずっと二人の稽古を見守っていたのである。
突然の言葉に驚くふうでもなく、静かに進み出て一礼した。
ナシアスも礼儀正しく頭を下げた。
木太刀を構えて向かい合う。
先制攻撃を信条とするティレドン騎士団員らしく、仕掛けたのはやはりアスティンが先だったが、その剣先の鋭さにナシアスは|はっ《、、》とした。
強い。
バルロのような子どもと比べものにならないのは当然としても、この人の剣先は先日の試合で戦ったティレドン騎士団の代表より|遥《はる》かに鋭い。
反応するのが一瞬でも遅れたら負けていただろう。
しかし、そこは守りを得意とするラモナ騎士団の剣である。ほとんど無意識にその猛攻を受け止めた。
バルロは何か誤解しているようだが、防護能力が高いということは、それだけ質の高い攻撃を受けた経験があるということだ。
そのためにラモナ騎士団では、時に一人で複数を相手に立ち合うという変則的な稽古も行っている。
通常の倍の攻撃を受け、耐え抜きながら隙を狙い、一撃必殺の気合いを|籠《こ》めて反撃する技を磨くのだ。
ナシアスは騎士見習いの中ではもっとも長い時間、先輩騎士二人がかりの攻撃に耐えることができた。
じっと忍んで隙を拾い、一気に攻撃に転じるのも得意とするところだったが、どうしてもその態勢に移れない。それどころか、アスティンの鋭い剣先はナシアスの防御を少しずつ狂わせている。
押し切られる――とナシアスが覚悟した時だ。
アスティンの足下にほんの少しだけ乱れが生じ、あれほど鋭かった剣先の勢いがわずかに失せた。
それと意識するより先に身体が動いた。
次の瞬間、ナシアスの剣先はアスティンの小手をしたたかに打って、剣を叩き落としていたのである。
勝敗が決しか瞬間だったが、そのことにナシアス自身が驚いた。
|愕然《がくぜん》としてアスティンを見つめてしまったのは、何が起きたかわからなかったからだ。
年下のナシアスに負けてもアスティンは動揺する様子もない。礼儀正しく頭を下げてきた。
「参りました」
しかし、あれだけ激しく打ち合ったにも|拘《かか》わらず、アスティンは汗も|掻《か》いていない。
逆にナシアスは荒くなった息を懸命に整えている。
この人はわざと負けたのだ――そう直感した。大 大きな衝撃と驚きがあったが、ナシアスはそれを口に出したりはしなかった。
二人の勝負の内実をわかっているのかいないのか、バルロが上機嫌で声を掛けてくる。
「アスティンもかなりの腕達者だが、さすがだな。お見事なお手並だ」
「いや……」
ナシアスは|曖昧《あいまい》に首を振った。
いつの回にか晩春の陽射しもだいぶ傾いている。
「すっかりお邪魔してしまった。わたしはそろそろお|暇《いとま》するよ」
「まだ聞きたいこともある。泊まって行くといい」
ナシアスはその誘いを丁重に辞退した。
三の郭にはラモナ騎士団の官舎がある。
自分も含めて、団員はそこに泊まることになっているからと言ったのだが、バルロは退かなかった。
自信たっぷりに断言した。
「ロビンス団長には使いを出してやる。そうすれば俺の屋敷に泊まることに反対なさるはずがない」
これまたナシアスがその言葉に従うことを信じて疑わない口調だったが、ナシアスは|訝《いぶか》しそうな眼をバルロに向けた。
「ティレドン騎士団では、それが普通なのか?」
「なに?」
「わたしは団長から、日暮れまでには官舎に戻れと言われている。それなのに、そんな使いを出したらわたしは団長のご命令を無視することになる。まだ見習いの身とは言え、わたしだってラモナ騎士団の一員だもの。団長のご命令に|背《そむ》いたりはできない。――ティレドン騎士団では違うのか?」
バルロは黙ってナシアスの言葉を聞いていたが、少年らしからぬ大人びた仕種で肩をすくめた。
「そうだな。騎士団員たるもの、常に団長の命令に忠実であるべきだ」
「ティレドン騎士団のやり方は知らないよ。だけど、わたしはそうありたいと思っている」
「結構なことだ」
妙に冷ややかな口調だった。
その口調の陰で少年が何を考えたかは知らないが、バルロは急にナシアスに興味を失ったらしい。
もう帰れと身振りで示してきた。
来た時と同じように、アスティンが屋敷の外まで送ってくれた。
門の外へ出ると、ナシアスは礼を言うために振り返り、その時になってためらいがちに問いかけた。
「失礼ですが、なぜ……」
さすがにはっきり口にすることはできなかったが、アスティンにはわかっていたらしい。
子どもをなだめる大人のような顔で苦笑した。
「なぜ、わざと負けたのかと訊かれますか?」
「はい」
|頷《うなず》いたナシアスだった。
自分がアスティンに勝ったのは実力ではない。
運が味方をしてくれたからでもない。
この人が勝ちを譲ってくれたからだ。
あの時の隙は油断や不覚から生じたものではない。
この人はうまくそんなふうに見せかけてはいたが、あれは明らかに故意だった。
だからといって、それを責めるつもりはない。
ただ、理由を知りたかった。
若い騎士は自分のしたことを恥じているふうでも悔やんでいるようでもなかった。淡々と言った。
「あなたはグラスメア卿に勝ちました」
「…………」
「そのあなたをわたしが負かすわけにはいかないと言ったら、おわかりですか?」
さすがに驚いた。
バルロに勝利したナシアスより腕が立つところは見せられないとでも、この人は言うのだろうか。
ということはつまり、この人はバルロにはいつも負けてやっているということなのだろうか。
そんな馬鹿な話はない。
バルロはまだ子どもである。一人前の騎士であるアスティンに勝てるほうがおかしいのだ。
ましてや、この人の剣技は生半可なものではない。
先日の試合で、ティレドン騎士団代表の手応えに疑問を感じていたナシアスは慎重に口を開いた。
「あなたが対抗試合の代表に選ばれなかった理由を聞かせていただけますか?」
「ジャービスは団長の縁戚に当たる貴族の子息です。わたしは没落した家の出身ですから」
他に何か? と穏やかに微笑みかけてくる。
ナシアスには何も言えなかった。
無言で頭を下げて、壮麗な屋敷に背を向けた。
正門から大手門まで連なる大通りは、行きがけに見た時とはまったく違って見えた。
鏡のように舗装された道も、道の両脇に並ぶ像も、来た時はその豪華さに息を呑み、圧倒されたのに、今は何やら寒々しいものに映る。
(王家の血筋とは、サヴォア公爵家とは、そこまですることを要求されるものなのだろうか……)
今まで考えたこともなかったが、ひしひしと胸に追ってくるものがある。
叙勲されて一人前の騎士となれば、自分は国王に仕える身となる。国王のために戦い、国王のために死ぬことを名誉とするものになるのだ。
それをいやだと思ったことも、恐ろしいと思ったこともない。
まだ実戦を経験したことはないナシアスだったが、死を恐れるくらいなら最初から騎士団には入らない。
まして、彼の所属するのは西の国境を守るラモナ騎士団だ。従者といえども、時に戦場に出なければならない場合もある。
そんな時は決して恐れてはならないと教わった。
|徒《いたずら》に命を捨ててはならないとも教えられたが、国境を守るため、ひいては王国を守るため、いざという場合には我が身を犠牲にすることを躊躇ってはならないとも教えられた。
|矛盾《むじゅん》しているように聞こえるが、ナシアスにはその教えはごく自然に受け止められたのである。
あの少年は王族ではない。
しかし、あの少年の母親は国王の実の妹であり、父親もデルフィニアを代表する大貴族である。
初めてその現実を目の当たりにしたナシアスは、うつむきがちに考え込みながら坂を下っていった。
それから一週間、ロビンスは王宮に滞在した。
ナシアスは他の見習いの少年たちと一緒に官舎の雑用をこなし、先輩騎士たちの世話に働いていた。
あれから一度も一の郭に上がることはなかったが、そのほうが気楽だった。
しかし、一緒に来た見習いの少年たちは一の郭に上がったナシアスをしきりと|羨《うらや》ましがった。
「今度は自分がお供をしたいな」
王宮を訪ねたと言っても三の郭しか知らないのと、一の郭まで上がるのでは雲泥の差である。
見習いの少年たちは、上がどんな様子だったのか熱心に尋ねてきたが、ナシアスは努めてさりげなく彼らの興味と関心を|削《そ》ぐようにしていた。
「わたしだって待合いにいただけだから、そんなにおもしろいことはなかったよ」
あの少年の屋敷に行ったことを、ナシアスは他の見習いたちには話さなかった。
そうして明日には王宮を離れるという夜になって、ナシアスがいつものように馬の世話をしていると、ロビンスが不意に|厩舎《きゅうしゃ》に姿を見せた。
明日は出発だから、馬の様子を見に来たのだろう。
ナシアスは作業の手を止めて、団長に一礼したが、ロビンスはそれを制して言った。
「かまうな。仕事を続けなさい」
他の見習いの少年は官舎の後片づけに回っていて、今の厩舎にはナシアスー人だけだった。
どうやらロビンスはそれを見越してきたらしい。
再び馬に毛櫛を掛け始めたナシアスを見つめて、悪戯っぽく笑いかけてきた。
「おまえは、よほど気に入られたらしい」
「何のことでしょう?」
「サヴォア公爵から直々の打診があった。おまえを譲ってくれぬかとな」
これには驚いた。
思わず手が止まったくらいだ。
「なぜ公爵が?」
ロビンスは含み笑いを洩らしている。
「わしも意外に思った。サヴォア公爵は公私混同をするようなお人柄ではないが、かわいい一人息子のおねだりには弱いと見える」
「あの少年が、わたしを?」
「うむ。ナシアス・ジャンペールをぜひともティレドン騎士団に譲り受けて欲しいと嘆願したらしい」
「ですが、わたしはラモナ騎士団の人間です」
「わしもそう答えた。公爵は見習いの子ども一人を手放すくらいはかまわぬだろうと思われたらしいが、おまえが一人前の騎士になる日は決して遠くはない。そうなったら、おまえはこれからのラモナ騎士団に欠かせぬ人材になるだろうからな」
ロビンスがこんなふうに人を|褒《ほ》めることは珍しい。
ナシアスは嬉しさを感じるより先にひどく戸惑い、恥ずかしくなって|俯《うつむ》いてしまった。
「公爵には何とか諦めていただいたが、その代わり、これからコーラルを訪れる時は、なるべくおまえを同行させるようにとのことだった」
「はあ……」
「と言われても、わしには国境を守る務めがある。そう度々コーラルを訪れてもいられないと言ったら、おまえだけでよいから、できるだけ|頻繁《ひんぱん》にこちらに寄越すようにと言われてしまった」
「はあ……」
こんな生返事をしたのは、いくら公爵の言葉とはいえ、ロビンスがそんな無意味な依頼を聞き届けるはずがないと思ったからだ。
そういう意味ではそれこそ公私混同をするような人柄ではないのである。
だからナシアスはロビンスの話をあまり深刻には受け取らなかったのだが、ロビンスは違ったらしい。
「おまえは、あの少年をどう思った?」
「どう……と言われましても」
ナシアスの心に強烈な印象を|刻《きざ》んだのは、むしろ王家の血を引く少年に対して異常なくらい神経質に振る舞うアスティンの態度のほうだ。
ラモナ騎士団にはいわゆる大家の子息はいない。
従って、特別扱いもない。
見習いの少年たちはみんな、平等の条件で修行を重ねている。
そうは言っても同じ年頃の少年たちが集団生活を送るわけだから、誰それは先輩のお気に入りだとか、|贔屓《ひいき》されているとか、その程度の密やかな|囁《ささや》きならナシアスも耳にしたことがあるが、ナシアス白身はそうした|噂《うわさ》に荷担したことはなく、噂の種にされたこともない。
「あの少年の言動は二度と会いたくないと思うほど不愉快だったかな?」
「いいえ」
驚いて答えると、ロビンスは微笑した。
「では、どんな少年に見えた?」
「それは、あの……」
悩んだ末、アスティンとのやりとりを包み隠さず打ち明けると、ロビンスは真顔で頷いた。
「なるほど……相手はデルフィニア屈指の公爵家だ。そういうこともあるかもしれん」
「ですが、なぜそんなことをするのか、わたしにはわかりません」
「アスティンにはアスティンの考えと事情がある。それは本人にしかわからぬことだ」
「はい」
他人がその事情に首を突っ込むのは慎むべきだと、自分を|戒《いさ》めたナシアスだったが、ロビンスはそんな若者に慈愛に満ちた眼を向けた。
「公爵に公爵の事情があるように、わしにもわしの事情がある。おまえをくれてやることは問題外だが、わしとしては、なるべくなら、おまえがあの少年と仲良くなってくれればよいと思っている」
「ロビンスさま……?」
「しかし、それもおまえ次第だ。あの少年と友人になれるとおまえが判断した時でよい。今後は何かと顔を合わせる機会も増えるだろうからな」
ナシアスにはロビンスの真意がわからなかった。
公爵家の名前や権威に左右されるような団長ではないはずなのにと思うのがやっとだった。
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3
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十八歳の時、ナシアスは|叙勲《じょくん》されて騎士となった。
初めて馬を与えられ、実戦も経験した。
ラモナ騎士団が守るビルグナ砦は、パラストとの国境に近い。
デルフィニア・パラスト両国の関係は今のところ良好だが、波風立たずというわけにはいかない。
この二国はテバ河を国境としているが、時としてパラストの武将が川を越えて|狼籍《ろうぜき》を働くことがある。
普通は、そんなことをしたら立派な敵対行為だ。
コーラルもこの動きを見逃すはずがない。国家として厳重に抗議するのだが、パラストの国王はまだ若いながらもなかなかの|狸《たぬき》で、それは現地の武将が独断でやったことであって、間違ってもパラストの意志ではない。すぐに手を収めて引き上げるように自分からも厳しく|諌《いさ》めると口では言うのだが、実は黙認しているようなところがある。
かくなる上は実力で追い払うしかない。
川向こうの武将の軍勢が国境を侵すたびにラモナ騎士団が出撃して蹴散らし、追い払い、あらためて抗議をすることになる。
ナシアスが叙勲された年はそうした|小競《こぜ》り合いが頻繁に起きたため、ラモナ騎士団は毎年恒例の親善試合を正式に欠席することを表明した。
戦闘と協議を繰り返し、やっとのことでパラスト側に手を引かせ、ようやく落ちついてきたところで、ナシアスはコーラル行きを命じられた。
官舎にしばらく逗留するようにとの命令だった。
今は一応、手を引かせたものの、パラストは依然、国境を狙っている。
王宮との連絡を密にするために、ロビンスは一部隊をコーラルに派遣することにしたのだ。
その中にナシアスが含まれていたのである。
前にコーラルを訪れてから一年が過ぎていた。
その時のナシアスは、あの少年のこともほとんど忘れかけていた。
正直なところ、あの少年も自分のことなど忘れているのではないかと思っていた。
何と言っても大貴族の子息である。お気に入りの遊び相手などいくらでも調達できるはずである。
しかし、その思惑は見事に外れた。
ナシアスを含む一行が三の郭の官舎に到着した時、既に夕暮れが近くなっていたが、騎士団の官舎ではサヴォア屋敷から使わされた召使いが待ちかまえていたのである。
その召使いはナシアスを名指しして面会を求め、お疲れでしょうが若君がお待ちですので顔だけでもお見せくださいませと言う。
言葉こそ嘆願のかたちをとってはいるが、口調も態度も、若君をお待たせするなとでも言いたげで、ナシアスは苦笑を|噛《か》み殺した。
「それでは、明日の夕方以降ならば時間が取れると、若君にお伝えください」
召使いは呆気にとられた顔になった。
「今は、おいでくださらない?」
「そう申し上げています。到着したばかりですし、ここの責任者に報告しなければならない|事柄《ことがら》もある。明日の昼もいろいろと団の用事が入っていますので、その後に|伺《うかが》います」
一口に騎士団と言っても、剣だけ振るっていればいいというものではない。
騎士団の運営に必要な費用は国から支給されるが、二千人の団員が所属する集団である。生活に関する雑事が生じるのは当然だった。特にラモナ騎士団は武具や馬具の手入れや修繕、住居の手入れも自身ですることを修行の一環としている。
平たく言えば、
「明日は官舎と馬房の大掃除をする予定なのです。わたしだけ抜け出して若君のお相手をするわけには参りません」
ということなのだが、この答えを聞いて召使いは今度こそ|愕然《がくぜん》とした。
次に事態を悟って、たちまち真っ青になった。
「そ……そんなことを若君に申し上げられるはずがありません。お願いでございます。どうかわたしと一緒においでくださいませ」
しかし、|柔和《にゅうわ》に見えながら、ナシアスは自分の意志を簡単に曲げるようなことはない。
穏やかに微笑んで言った。
「お引き取りください」
「いえ! あの、そこを何とか、お願い致します」
「お帰りください。お屋敷には明日、伺います」
召使いは断頭台に登るような顔で戻っていったが再び官舎を訪れはしなかった。
ナシアスも放っておいた。
翌日、夕方までかかって官舎の清掃を終えると、ナシアスは木太刀を待って一の郭へ上がっていった。
一年ぶりに訪れるサヴォア公爵邸の門をくぐる。
すると、そこに昨日の召使いが|怯《おび》えたような顔で待っていたので、ナシアスはちょっと|眉《まゆ》をひそめた。
「昨日のことで若君に叱られたのか?」
「いえ、あの……お|咎《とが》めは、ありませんでした」
そう言いつつ、びくびくしている。奇妙なことにナシアスに対して怯えているようだった。
首を傾げながら、その案内に従って庭へ向かうと、バルロは去年と同じようにすっかり身支度を調えて、ナシアスを待っていた。
「よく来たな」
少年とも思えない不敵な(というより、はっきり言ってふてぶてしい)眼差しは去年見た時と少しも変わらなかったが、見違えるほど背が伸びている。
「お|手前《てまえ》と手合わせするのが待ち遠しかったぞ」
自信たっぷりに言って剣を構えるのがおかしくて、ナシアスも木太刀を構えたが、召使いが離れたのを確認してから質問した。
「昨日の召使いをひどく叱ったのか?」
「いいや」
ナシアスの疑問の眼差しに気づいたのだろう。
少年は面倒くさそうに肩をすくめた。
「お手前が今は出向けないと断ったにもかかわらず、何度も何度もしつこく食い下がったと訴えたからな。そんな余計な真似はせず、断られたらすぐに戻れと言っただけだ。――本当だぞ。叱ってはいない」
「それならいい」
微笑して、今度こそ眼の前の相手に集中した。
去年に比べれば格段に上達していたが、それでも少年の剣は実戦を経験したナシアスの敵ではない。
ナシアスは幾度となく少年の木太刀を叩き落とし、小手を打った。そればかりか、身体もできあがって来たようだから大丈夫だろうと判断して、胴や肩を打ち叩きもした。
少年は痛みに顔をしかめながらも、さらに闘志を燃やしてくる。
「もう一本だ!」
何度、打っても叩いてもそんな調子だったから、ナシアスのほうが根負けして苦笑した。
「今日はもう遅い。後は明日にしよう」
一日、騎士団の仕事をこなした後、ずっと|稽古《けいこ》に集中していたのだ。さすがに疲労を感じていた。
そのナシアス以上に少年は息を切らしていた。
汗だくになって、やっと立っている有様だったが、それでも決して自分から終わりにするとは言わない。
大きく|喘《あえ》ぎながら、平静を装って言ってきた。
「今回は、ロビンス団長は、同行されていないと、伺ったが……」
「ああ。ビルグナに残っておられる」
「お手前は、それでも、官舎に戻るのか?」
「戻るが、団長のご命令があるからではないよ」
「では、なぜだ?」
「わたしがこのお宅を訪問するのはこれで二度目だ。帰れないほど遠いなら話は別だが、ラモナ騎士団の官舎は歩いてすぐそこだ。だから戻って寝る」
バルロは何とも奇妙な顔になった。不思議そうに首を傾げ、しきりと何か言いたそうにしていたが、結局、声を呑み込んだ。
この少年は恐らく、自分の言葉に従わない人間が珍しいのだろうと、ナシアスは内心で苦笑しながら考えたが、実際はそんな甘いものではない。
少年は今まで、公爵家の子息の言葉をひれ伏して受け取る人間しか見たことがなかったのだ。
一の郭の邸宅に泊めてやると言えばなおさらだ。
サヴォア公爵家はその格式高い家柄と影響力から第二の王家とも言われている大貴族である。
数少ない同家格の貴族や、サヴォア家に|敵愾心《てきがいしん》を燃やしている野心家の貴族は別として、誰も彼もがその跡取りの歓心を買おうと必死になり、見苦しいまでに競い合った。
少年はそれを当たり前のことだと思っていた。
サヴォアの名にも家格にも、それだけの値打ちがあるのだと、何の疑問にも思わずに来たのである。
誰も彼もが、自分に特別に扱われていると知れば、ひたすら恐縮しながらも涙ながらに感謝してみせた。
それがごく普通の反応だった。
ただし、本当にありがたく思っているかどうかはまた別の話である。涙して見せながらも腹の中ではしてやったりと舌を出している者も少なくない。
十二歳の少年はそれすらも当たり前の事実としてわきまえていたのである。
ところが、この新米騎士だけは違う。
去年も、今も、予想もしない反応を見せる。
特に今は騎士団長の命令に縛られているわけではないと、はっきり言う。
それなのに自分の言葉を素直に受け取らないのはなぜなのかというのが少年の素朴な疑問だったが、それは言えなかった。
面と向かって口にするのは|躊躇《ためら》われたのだ。
ナシアスのほうはそんなこととは知る由もない。
それほど親しくない家の人に甘えられないという自分にとって当たり前の常識を通しただけのことだ。
官舎に戻ってぐっすり眠ったナシアスだったが、翌日、まだ陽が昇りきらない頃に従者に起こされた。
年若い従者は申し訳なさそうに|口籠《くちご》もりながらも、一の郭のサヴォア公爵家からお迎えがお見えですと告げたのである。
他の騎士が呆れと冷やかしの眼差しで見送る中、ナシアスは黙々と王宮の坂道を上って行った。
やれやれと思いながらも、ここまで来ると、腹を立てるよりむしろ感心した。
あの少年は真実、剣術に打ち込んでおり、本気で上達したいと思っているらしい。
ナシアス自身、剣を取れば、何もかも忘れて剣に没頭する少年だった。
上達を望み、そのために努力を借しまない少年の姿勢を好もしいと思った。
この日も朝から存分に厳しい稽古をつけて、昼が近くなったところで、ナシアスは休憩を申し出た。
この少年は恐ろしく負けず嫌いで、意地っ張りのところがある。こちらから言ってやらないと本当に倒れるまで木太刀を振るいかねないのだ。
いったん官舎に戻って食事を摂って来ると言うと、バルロは少し考え込て、注意深く口を開いた。
「当家で召し上がっていかれるといい」
ナシアスはやんわり辞退しようとしたが、少年はすかさず続けたのだ。
「謝礼代わりだと思ってもらいたい」
「……………」
「俺はお手前に剣の指南をお願いしてるのだから、謝礼をするのは当然だ。しかし、金銭で支払うのは、何かと具合が悪いだろう」
「確かに」
正直に言ったナシアスだった。
そもそも、見習いの修行はその団が責任を持って引き受けるものだ。それを、所属の違う騎士団員が指南役を引き受けて(無理やり引き受けさせられているようなものだが)、金銭を受け取ったとなると、具合が悪いどころではない。
少年はどう言えばナシアスを説得させられるか、そのための言葉をちゃんと用意して、しかも入念に練習していたらしい。らしからぬことをさらさらと言ったものだ。
「ラモナ騎士団員のお手前に、時間を割いて稽古をつけていただいているのだ。ロビンス団長には話を通してあるが、お手前にも何か礼をしたい。これが謝礼になるかどうかはわからないが、昼食くらいはこちらで用意させてもらいたい」
ナシアスはちょっと笑った。
これは自分で考えた言葉ではなく、誰かの忠告によるものだろうと思ったのだ。
それを指摘してやるほど、ナシアスは思いやりのない性格ではなかったので、素直に|頷《うなず》いた。
「では、お言葉に甘えてご馳走になる」
そんなわけで、ナシアスは三度目に訪ねて初めてサヴォア公爵邸の内部に足を踏み入れた。
外見だけでも圧倒されたが、内部の|煌《きら》びやかさは想像を絶していた。
庭から直接入れるようになっている小さな部屋はまるで宝の山だった。大理石の暖炉の上には黄金の|燭台《しょくだい》がさりげなく置かれ、黄金に縁取られた鏡が煌めき、床には極彩色の|||絨じゅうたん毯が敷かれている。
後で知ったことだが、バルロはこれでもなるべく質素な部屋にナシアスを通したつもりだったらしい。
そこにはすでに立派な|風采《ふうさい》の召使いが控えていて、|慇懃《いんぎん》に挨拶してきた。
「ようこそいらっしゃいました。わたくしは当家の執事を務めておりますカーサと申します」
「お邪魔しています」
カーサは五十歳くらいだろうか、これだけの家の執事を務めるだけあって品のいい物腰だった。
公爵家の一人息子である『若君』に対する口調や態度は厳しいながらも愛情が|滲《にじ》み出ていて、少年も何かと注意してくる相手をうるさそうにしながらも、その言葉に頭からは逆らえないところがあるという、いかにも大家の若君と、その若君を赤ん坊の頃からお世話していた|爺《じい》やらしい。微笑ましい様子だった。
やがて昼食が供された。
ビルグナのような田舎では見たこともないような珍味ばかりがずらりと食卓に並んだが、ナシアスは臆することなく、どの料理もおいしくいただいた。
バルロは国境に近いラモナ騎士団の様子に興味があるらしい。食事中にもいろいろと質問してきた。
「実戦には出かのか?」
「ああ。何度か」
「めぼしい敵は討てたか?」
「誰を討ち取ったかが問題ではないよ。大切なのは生き残ること、無事に砦に戻ることだ」
ナシアスは注意深く言葉を選んで答えていた。
国境での|戦《いくさ》である。団長の許可があるなら別だが、そうでないなら、相手が誰であろうと、ぺらぺらとしゃべることは慎まなければならないと思っていた。
誰が前線に出てきたか、どんな敵を討ち取ったか、そうした|些細《ささい》なことでも重要な情報となるからだ。
幸い、バルロはそこまで突っ込んだことは訊いてこなかったが、十三歳の少年でも、さすがに大家の跡取りだけあって、普通の少年とは意識が違う。
「パラストもタンガも今はおとなしくしているが、現在の友好国がずっと友好的とは限らないからな。俺もいずれは国境で敵対するかもしれない」
「そうだね」
ナシアスも頷いた。まったく同意見だった。
パラストは現在のところ、デルフィニアに対して、一貫して友好的な態度を取っている。
だが、パラスト国王のオーロンは自他共に認める外交の達人だ。真の思惑を押し隠してまったく別の態度を装うことなど造作もない。
そして、それを見抜ける人は少ない。
現に王宮の貴族たちも、パラストの友情を信じて疑わない傾向が強いらしいと聞いているが、何度か実戦に出たことのあるナシアスはその態度が仮面であることを肌で感じ取っている。
こちらを安心させる|美辞麗句《びじれいく》を並べ立て、顔ではにこにこ笑っておいて、その笑顔のままいっせいに弓矢の雨を降らせてきても少しもおかしくないと、まだ十八歳のナシアスは冷静に分析していた。
しかし、これはあくまでナシアスの受けた印象にすぎない。口でどうこうとは言えないことだ。
何も根拠がないのに、一介の騎士ごときが一国の国王を批判するようなことは避けねばならない。
だから何も言わなかった。
出された料理の見事さを如才なく|褒《ほ》め、午後にはまた剣を取って、少年に稽古をつけた。
翌日も、その翌日も、同じことを繰り返した。
あんまりサヴォア公爵家に日参する日が続くので、同僚の騎士がやっかみ半分に言ったものだ。
「よほど若君に気に入られたらしいな」
「ああ、困ったことにね」
ナシアスは苦笑して言い返した。
少年があまりにも稽古に熱心な様子を見せるので、一度、何気なく尋ねてみたことがある。
「わたしはずっとこちらにいられるわけではないし、稽古の相手なら他を探したほうがいいのでは?」
すると、少年は呆れたように言ったものだ。
「自分より弱いものと稽古しても上達せんだろう」
確かに、その通りではある。
まだ十三歳のバルロより強い剣士などいくらでもいるはずだが、問題は、未来のサヴォア公爵を面と向かって打ち叩く度胸の持ち主は探してもなかなかいないらしいということだ。
この少年はその事実に|憤慨《ふんがい》していた。
こんなことで強くなれるものかと|焦《あせ》ってもいた。
自分を本当の意味で鍛えてくれる教師を、少年は|喉《のど》から手が出るほど欲していたのだろう。
そして何の因果か、自分がその役目を引き受ける格好になってしまったらしい。
もっとも、バルロは教えがいのある少年だった。
ナシアスにとってはそのほうが|遥《はる》かに肝心だった。
十代における五年の年の差は大きい。
自分と互角に打ち合うにはまだ遥かに遠かったが、めきめき強くなる少年を見ているのが楽しかったと言ってもいい。
そんなことが十日ほど続いたある日のことだ。
いつものように一の郭から戻る途中、ナシアスはそっと呼び止められた。
服装も物腰もきちんとしていて、怪しいものには見えなかった。貴族の家に仕える家来のようである。
「少し、お時間をいただきたく……」
「わたしにですか?」
「はい」
「こんな時間に何用です?」
夕闇が追っている。急いで戻らなければ官舎から閉め出されてしまう。
「お時間は取らせませぬ。すぐそこでございます」
三の郭から一の郭を結ぶ大通りの両脇には色々な彫像が建っている。家来がナシアスを案内したのは大きな獅子の彫像の陰だった。
薄暗くなっているせいもあり、相手が深く帽子を披っていることもあって顔ははっきりしなかったが、まだ若い男のようだった。
「ナシアス・ジャンペールどのか?」
「そちらは?」
相手は答えず、別のことを言ってきた。
「貴殿はグラスメア卿と親しくしているそうだな」
「親しいかどうかはわかりませんが、剣術の指導を致しております」
自分のほうが年上であり、剣技においても一日の長があるのは確かなので指導という言葉を使ったがこの言葉は相手には不快だったらしい。
かろうじて見える表情からも|窺《うかが》えたくらいだから、明るいところで見たら、苦虫をかみつぶしたような顔をしているのがわかっただろう。
その不快感を呑み込んで、相手は言った。
「貴殿を見込んで頼みがある」
「どのようなことでございましょう?」
「十日後のことだが、郊外にあるサヴォア公爵邸で夜会が開かれるのだ」
「夜会……ですか?」
ナシアスにはまったく耳慣れない言葉だったが、相手の態度は真剣そのものだ。
「その夜会に……だな。ぜひとも出席したいのだが、わたしは残念ながら招待客から洩れてしまっている。そこで貴殿にお骨折り願いたいのだ」
ナシアスは不思議そうに首を傾げた。
「おっしゃることがわかりかねますが……わたしに何ができるとお思いなのでしょう?」
冗談抜きに本気で言ったのだが、相手はいささか気分を害したらしい。
「貴殿はグラスメア卿のお気に入りだ。だからこそ一働きして欲しいのだ。そのために、このわたしがこうして頭を下げているのだぞ」
ナシアスの感覚では、これを頭を下げているとは言わないが、それを口にしないだけの分別はあった。
この謎の人物の話を要約すると、自分を招待してくれるようにバルロにとりなして欲しいらしいが、名前も明かさずにそんな用件から入るとは、順番を間違えているとしか言いようがない。
それ以前に、頼む相手を決定的に間違えている。
首を振って、ナシアスは言った。
「わたしとあの少年はあくまで剣を通じて関わっている間柄です。剣技に関することでしたら、忠告も指導も容易にできますが、公爵家に関わる領分ではわたしに口出しできることは何もありません」
「そこを、そこを何とかと領んでいるのではないか。これは些少ではあるが……」
相手は急いで|懐《ふところ》から何か取り出した。
ずっしりと重そうなそれは恐らく、金貨を詰めた財布だろうと想像はついたが、ナシアスはもちろん受け取らなかった。
あくまで謝絶して官舎に戻った。
ナシアスはこのことを誰にも話さなかった。
バルロに言わなかったのはもちろんだが、ラモナ騎士団の官舎を預かる責任者にも黙っていた。
わざわざ報告することではないと思ったからだ。
しかし、これ以後、ナシアスは連日のように帰り道で呼び止められるようになったのである。
年齢や風体はその時によってさまざまだったが、頼みごとの内容は見事なくらい同じだった。
ただ、それが夜会であったり、舞踏会であったり、狩猟の会だったりするだけの違いだ。
最初の二、三回は笑って断っていたナシアスだが、五度も六度も続くと、さすがに困惑した。
ナシアスは、名前も名乗らない人たちがこんなに必死になって頼み込むほど、自分があの少年に気に入られているとは思っていない。
そもそも、それほど親しい間柄でもない。
バルロは自分に剣の|技倆《ぎりょう》を求めているだけだ。
その剣技にしても、ナシアスはバルロの身分などおかまいなしに厳しい稽古をつけている。
毎日毎日、容赦なく叩かれて|青痣《あおあざ》をつくりながらバルロは必死にナシアスに食らいついてくるものの、その表情はさすがに険しい。憎しみに近いものすら感じさせる、燃えるような眼で挑み掛かってくる。
もっとも、ナシアスはそれでいいと思っていた。
あの少年は誰が見てもひどく勝ち気な性格である。
そういう性格の子が上達するためには、指南役に敵愾心を燃やすことも有効な手段の一つなのだ。
だから、憎まれていてもかまわないとナシアスは思っているのだが、ナシアスに声を掛けてくる正体不明の高貴な人たちはどうもそうは思っていない。
ナシアスが頼めば、あの少年は何でも言うことを聞いてくれるはずだと考えているのである。
極端な話、金銀財宝だろうと、家屋敷だろうと、気前よくくれるに違いないと思い込んでいるようで、これには少しばかり、うんざりさせられた。
とは言え、少年の前でそんな顔は見せられない。
もちろん態度にも出さなかった。
この頃になると、サヴォア館からの使いは毎朝、ラモナ騎士団の官舎を訪れ、ナシアスが来られるかどうか、お伺いを立てるのが日課になっていた。
その日は騎士団の一員としての鍛錬があったので、稽古は自動的に休みになった。
翌日はまた一の郭に上がり、暗くなるまで少年の相手をして帰ろうとした時だ。いつも昼食時にしか姿を見せないカーサがわざわざ屋敷の奥から現れて、控えめに申し出てきた。
「|率爾《そつじ》ながら、三の郭の官舎までお送り致します」
「あなたが?」
「はい」
「お忙しいのでは?」
カーサは不思議な笑みを見せて言った。
「これも務めのうちでございます」
首を傾げながら、ナシアスはカーサと連れだって大通りを下ったか、大手門まで来て納得した。
今日はナシアスに声を掛けてくる人がいない。
サヴォア家の執事が一緒にいる以上、その執事の見ている前で、若君にとりなしてくれとはさずかに言えないからだ。
なるほどと思うと同時に、カーサにこんなふうに気を使わせてしまったことに対する気まずさと申し訳なさとを同時に覚えた。
それをどう説明すればいいかわからなかったので、官舎の前まで来ると、ナシアスは深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いいえ。こちらこそ、行き届きませず、ご迷惑をお掛け致しました」
カーサも丁寧に一礼すると、低い声ではあったが、はっきり言った。
「これからも、若君をよろしくお願い致します」
「わたしでよろしければ」
この時のナシアスは本心からそう言ったのだ。
しかし、叙勲されて間もない十代の若い騎士にはまだわかっていなかった。
サヴォア公爵家という大貴族がどういうものか、ちっともわかっていなかったのである。
帰り道をカーサが付き添ってくれるようになって、ニ週間ほどが過ぎたある日――。
ナシアスは忘れがたい人に会った。
いつものように一の郭のサヴォア屋敷に行くと、小者が走り出てきて申し訳なさそうに言ってきた。
「若様はすぐにお見えになりますので、今しばらくお部屋でお待ちください」
通されたのはいつもの庭に面した部屋である。
ナシアスが慣れた仕種で腰を下ろすと、ほとんど同時に扉が関いた。バルロがやってきたと思いきや、現れたのはまだ若い貴婦人だった。
年齢は二十代の後半に見えた。つややかな黒い髪、知的な灰色の眼差しをした美しい人だった。
ナシアスは緊張しながら立ち上がった。
騎士団では女性と接することはほとんどないが、婦人に対する礼儀は学んでいるつもりである。
「お邪魔しています」
頭を下げると、その人も|会釈《えしゃく》を返してきた。
「初めまして。レヴィン男爵夫人です。ナシアス・ジャンペールさまですね?」
「はい。申し遅れました」
ナシアスはちょっと焦った。
公爵家の人なら自分のことは知っているだろうと思って、名乗るのを省略してしまったのだが、この夫人は公爵家の関係者ではないらしい。
男爵夫人は親しみのある眼でナシアスを見つめ、腰を下ろすように勧めてきた。
相手が女性となると何を話していいかわからず、沈黙をもてあましていると、夫人が言った。
「この頃は道草をなさらずにお帰りですか?」
|咄嗟《とっさ》に何か当たり障りのないことを言おうとして、ナシアスは男爵夫人の意味ありげな眼に気づいた。
言葉を呑み込んで、あらためて問い返した。
「あれは……あなたのお口添えでしたか?」
「はい」
男爵夫人はにっこり微笑んだ。
「差し出がましいと思いましたが、グラスメア卿はあなたの身辺に何が起きているのか、おわかりにはなっていらっしゃらないご様子でしたので。執事に告げましたが、グラスメア卿は未だにおわかりではないでしょう」
「さようでしたか」
ナシアスも笑顔になって、頭を下げた。
「助かりました。ありがとうございます」
「どういたしまして」
「レヴィン男爵夫人。では、もしかして……昼食を勧めるようにおっしゃったのも……?」
夫人は笑って頷いた。
「グラスメア卿は何かあなたにお礼をしたいのだとおっしゃいまして、どのようなものなら受け取ってくれるか思案していらっしゃいました。わたくしがご助言申し上げた後も、昼食などで本当に礼になるのかと疑問に思われていましたが……お礼になっていますでしょうか?」
ナシアスもにっこり笑って、もう一度頭を下げた。
「充分です。ありがとうございます」
「あの方はああ見えて一本気な方です。それでいてサヴォア公爵家という特殊な環境を特殊と思わずにお育ちです。あなたを悩ませた道草の方々にしても、向こうが金銭をくれるというなら受け取っておけばいいのにと平気でおっしゃるでしょうね」
「とんでもない。そんなわけには参りません」
「ああいうおつきあいは、苦手でいらっしゃる?」
答えに|窮《きゅう》したナシアスだった。
苦手も何も、ああしたことに自分が巻き込まれること自体が、そもそもおかしいのだ。自分は単なる剣術の指南役で、それ以上でもそれ以下でもない。
そうした心境を誰にも語ったことはなかったが、今この人がカーサに口をきいてくれたことを知り、やっと理由がわかって|安堵《あんど》した心も後押しをして、口籠もりながらもその思いを|吐露《とろ》したのである。
とぎれがちな、わかりにくい話だったが、夫人はナシアスの話に注意深く耳を傾けて頷いた。
「あなたのお気持ちはよくわかります。ですけど、ああいう方たちには、あなたのそのお心は未来永劫通じません。理解されることも決してないでしょう。ですから、あなたもそんな無駄な努力だけは避けたほうがよろしいかと存じます」
苦笑を浮かべたナシアスだった。
ナシアスは彼らに、こんなことをされては困ると遠慮したり、自分にはそんな役目は荷が重すぎると|謙遜《けんそん》したりしたことはない。
それでは言い訳になるからだ。仮にも実戦に出た騎士が言い訳など、恥ずべきことだと思っていたが、心の中ではどうしてこんなこともわからないのかと|訝《いぶか》しく思っていたことも確かである。
ところが、この人はそれを無駄な努力だと一刀のもとに切り捨てる。
「無駄でしょうか、本当に?」
「はい。無駄です」
夫人は淡々と言った。
「なぜなら、あなたのお心と、あの方たちのお心は黄金と|綿《わた》ほどに違うものでつくられているからです。どちらが優れているかは、また話が別です。綿には綿の良さがありますが、綿が黄金に絡んだところで馴染むことはありえません。グラスメア卿のお心はあなたに近いものでできておりますから、お二人はお友達になれたのでしょうね」
「いえ、わたしは……」
ちょっと戸惑ったナシアスだった。
自分とあの少年とでは年も五つも離れているし、家柄も違いすぎる。
友達と言われても首を|捻《ひね》らざるをえないのだが、それは黙っていた。
代わりに相手のことを尋ねた。
「男爵夫人は公爵夫人のお友達なのですか?」
ナシアスは今まで、この屋敷でバルロの父親にも母親にも会ったことがない。
この人のような貴婦人がこの館にいるとするならサヴォア公爵夫人の話し相手だろうと思ったのだが、男爵夫人は不思議な微笑を浮かべて首を振った。
「公爵夫人はわたくしのことなど道端の|石塊《いしくれ》同然に思われているはずです。それ以下かもしれません。わたくしは公爵夫人と親しくできるようなものではありません」
「どうしてでしょう?」
自分を|卑下《ひげ》するような言葉が本当に意外だった。
この人はとてもきちんとした女性に見えるからだ。
少し話しただけでも頭のいい人なのがわかるし、落ちついた話し声は耳に|快《こころよ》い。笑顔はしとやかで、快活でもある。そこにいるだけで人の心を|和《なご》ませ、楽しませるものを持っている。
そんな人が自分のことを道端の石塊だという。
顔中に疑問を浮かべたナシアスに、年上の夫人は優しく微笑んで言った。
「わたくしは公爵さまの愛人ですから」
棒を呑み込んだような顔になったと思う。
何も言えなかった。
そんなことがあっていいのかと思った。
サヴォア公爵にはれっきとした夫人がいる。
しかもその公爵夫人はデルフィニア国王の妹だ。
ナシアスの驚きようがおかしかったのか、夫人はくすくす笑っていた。少しも悪びれたところがない、これまでと同じ楽しげな笑い声だった。
「道徳的に問題があると言いたそうなお顔ですね」
「いえ、そんなことは……」
「駄目ですわ。いくら隠したところでお顔を見ればわかります」
修行不足だぞとナシアスは厳しく自分を諌めたが、男爵夫人はナシアスに立ち直る隙を与えなかった。
|悪戯《いたずら》っぼく笑って身を乗り出してきた。
「では、もう一つ、あなたのお気に召さないことを申し上げましょうか?」
「は……」
「内緒ですが、わたくしはグラスメア卿の愛人でもありますのよ」
声が出なかった。
何を聞いたのか耳が受けつけてくれなかったが、それでいながらナシアスの水色の眼は激しい疑問を表していたらしい。
夫人は笑って手を振った。
「誤解なさらないでくださいませ。グラスメア卿は父親の愛人に手を出すような少年ではありませんし、わたくしも公爵さまにお|手当《てあて》をいただいている以上、そんな不義理は感心しません。わたくしのご主人はあくまでサヴォア公爵さまです」
だったら、なぜ。
声にならないナシアスの問いを男爵夫人は正確に聞き分けて、淡々と言葉を続けた。
「グラスメア卿はサヴォア公爵さまの一粒種です。まだお若い、幼いと言ってもいい方ではありますが、グラスメア卿の周辺にはどれだけ誘惑が多いことか。公爵さまはそのことをとても案じられているのです。そのくらいならいっそのこと自分の信頼できる女に、つまりわたくしに――いわば道先案内をさせようと公爵さまはお考えになったのですわ。普通の家ではありえないことですが、サヴォア公爵家ともなると色の道のなさりようも普通の家とは違っております。公爵さまはご自身でわたくしとグラスメア卿を引き合わせてくださいました。グラスメア卿もお父上の深いお考えや志志《こころざし》をよく理解してくださいました。ですから、わたくしがグラスメア卿のお相手をすることは普通で言う不義には該当致しません。愛人と申し上げましたが、この言い方も正しくありません。実際のところ、わたくしは普通の学問では学べない事柄をグラスメア卿にご教授する家庭教師の一人であると思っております」
自分の顔が険しくなるのをナシアスは感じていた。
|汚《けが》らわしいと、はっきり思った。
そこへ息せき切ってバルロが入って来たのである。
レヴィン男爵夫人を見た少年は、まさに貴婦人を前にした男の見本のような仕種で|恭《うやうや》しく一礼した。
「これは、男爵夫人。ようこそいらっしゃいました。いらっしゃるご予定とは伺っておりませんでしたが、お目にかかれて嬉しく思います。今日はどのようなご用件でしょう?」
「あなたがこの頃、夢中になっているというお方にお目に掛かりたいと思いまして」
男爵夫人は優しい眼でナシアスを見つめてきたが、その視線が耐え難かった。立ち上がった。
「帰る」
「ナシアス?」
突然の言葉にバルロが黒い眼を見張る。
「どうした、用事でも思い出したのか?」
「何でもない――今日は帰る」
足早に出て行ってしまったナシアスを、バルロは茫然と見送った。
非難もあらわに男爵夫人を振り返った。
「何を言ったのです?」
「本当のことを」
レヴィン男爵夫人はすまして答えた。
「わたくしが公爵さまの囲い者でありながら、時々あなたのお相手も務めていると申し上げただけです。そうしたら、あの方は帰ってしまわれました」
少年は驚いた顔になった。
次にひどく困った顔になった。
咄嗟にナシアスの後を追おうとして思いとどまる。
椅子に座り、そわそわしながらずいぶん長いこと考え込んでいたが、ついには途方に暮れたような、問いかけるような眼を夫人に向けた。
「……怒ったのだろうか?」
「それはわたくしに訊かれてもお答えしかねます。ご本人に聞いてごらんなさいませ」
「どうやって?」
「そのくらいはご自分で考えなくては」
少年は世にも情けない顔になった。
逆に、それを見た男爵夫人はさもおもしろそうに笑い出していた。
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4
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大通りを歩きながら、ナシアスは大声で叫びたい衝動と懸命に戦っていた。
父と息子が同じ一人の女性と……。
そんなことはナシアスにとってはあり得ない
あってはならない――想像もできないことだった。
しかも、父親が自らその手引きをしたという。
吐き気に似たものがこみあげてくる。
走っているわけでもないのに激しい|動悸《どうき》がする。
脂汗がぬるりと肌にまとわりついてくるようで、何とも言えずに不快だった。
『普通の家ではあり得ない』と夫人は言っていたが、サヴォア家ならその限りではない――仕方がないと思っている様子でもあった。
そんなことをどうしておかしいと思わないのか。
血のつながった父と息子の両方の腕に抱かれて、あの人は何とも思わないのか――。
ナシアスは一度激しく頭を振り、脳裏をよぎった想像を追い払おうとした。
十八歳のナシアスはまだ女性を知らない。それはナシアスー人に限ったことではない。修行と実戦に明け暮れる若い騎士にそんな余裕はないのである。
団長も副団長も若い騎士が身を誤る一番の原因は女であると断言し、交わるべからずと|啓蒙《けいもう》している。
だが、あの少年は――。
考えがまとまらなかった。
身体が震えそうになるのを抑え、大きく息を吐く。
再び足早に歩き出したナシアスは、大鷲の紋章をつけた一団とすれ違った。
その時のナシアスにはその相手がティレドン騎士団員ということもわかっていなかったが、向こうが見逃してくれなかったのである。
「おや、ナシアスどのでは?」
視点を合わせてみると、見覚えのある顔だった。
去年、対抗試合で戦ったジャービスという騎士だ。
取り巻きらしい騎士を何人も引き連れている。
対抗試合の決勝戦で相対した時、ジャービスは対戦相手のナシアスをじろじろ見て、鼻で笑った。
背丈も体重もジャービスのほうが圧倒的に大きく、たくましく見えたから無理もないが、ジャービスは『こんな男か女かもわからん若造』に敗れた他団の代表のことも鼻で笑っていたらしい。
頭から悔りきっていただけに、ナシアスに負けた時の悔しさもひとしおだったのだろう。
試合後、ジャービスが醜悪なほどに顔を真っ赤にしていたのを、ナシアスはよく覚えている。
そのジャービスが今、気味が悪いくらいの笑顔で、猫なで声でナシアスに話しかけてくる。
「これはちょうどよいところでお会いした。貴殿の剣の見事さは我が騎士団でも評判になっているのだ。これも何かの縁と言うものだろう。ぜひとも我らの官舎までおいでいただき、一手の指南を願いたい」
「申し訳ありませんが……」
ナシアスは丁重に断ろうとした。
今はとてもそんな気分にはなれない。
それでなくても胸を悪くするものが治まらない。
「まあ、そう遠慮なさるな。何でもナシアスどのはグラスメア卿に剣術指南をしているそうではないか。同じティレドン騎士団である我らにもご数授願って悪いことはあるまい」
にやにや笑いながらジャービスが話している間に、他の騎士たちがナシアスを取り囲むようにしていた。
ナシアスも決して|小柄《こがら》なほうではない。背丈なら標準以上にあるが、いかんせん身体はまだ細い。
十人近い人数にぐるりと囲まれてしまったのではとても抜け出せない。
「さあ、参られよ」
仕方なく、促されるままに歩き出した。
ティレドン騎士団の官舎もラモナ騎士団と同じく三の郭にあるが、方角はだいぶ違う。
ナシアスはティレドン騎士団の官舎を訪れるのは初めてだったが、つくりはほとんど変わらない。
どの騎士団の官舎も敷地内に鍛錬場を持っている。
屋内の道場の他に、馬術の鍛錬や団体訓練を行う屋外の練習場も完備されている。
こんな官舎が三の郭に何カ所もあるのだ。他にも近衛兵団の官舎があり、市内警備隊の本部があり、何よりこの王宮で働く無数の人々の家がある。
これらがやっと裾野の一部分にすぎないのだから、コーラル城がどれだけ広いか知れようというものだ。
ジャービスはナシアスを屋内の道場に連れ込んだ。
そこでは何人かの若い見習いが|稽古《けいこ》をしていたが、ジャービスと取り巻きの騎士の姿を見ると、慌てて稽古の手を止めて端に下がった。
ジャービスは取り巻きの騎士を振り返って言う。
「メドック。まずおまえがお相手しろ」
「はっ」
「気合いを入れて掛かれよ。何しろグラスメア卿に勝つほどの方だからな」
「心得ております」
メドックはジャービスに負けず劣らず、堂々たる|体躯《たいく》の騎士だった。腰の剣を外して見習いの一人に預け、試合用の木太刀を手に進み出た。
「お手並み拝見」
こうなっては逃れられないのはわかっていたが、ナシアスは一応、言ってみた。
「この練習試合は、そちらから乞われたものということでよろしいのでしょうか?」
「無論のことだ」
「団長に無断で他団のものと練習試合をなさってもよろしいと?」
「貴殿と試合をする分には、よい勉強になるからな。団長は何もおっしゃらんだろう」
致し方ない。ナシアスも腰の剣を外して見習いの一人に預け、木太刀を受け取った。
一手の指南を乞うと言っているが、ジャービスの表情も態度もそんな殊勝な姿勢とはほど遠い。
自分を負かした相手を、数を頼みに叩きのめして、床に|這《は》い|蹲《つくば》らせてやろうという魂胆なのだ。
それだけではない。ジャービスはどうもバルロに穏やかならぬ感情を抱いているように見受けられた。
あの生意気な少年が個人的に気に入らないのか、ティレドン騎士団長がバルロを特別扱いすることが不満なのか、それはわからないが、|忌々《いまいま》しく感じているのは間違いない。
しかし、どんなに不快であっても、腹が立っても、サヴォア公爵家の跡取りには逆らえないらしい。
だったら、それこそ剣の稽古と称して、思いきり打ち据えれば少しは|憂《う》さ晴らしになるだろうに、と、ナシアスは少女のような|容貌《ようぼう》の陰で平然と考えたが、バルロに敵視されることは避けたいのか、公爵家の不興を買うことを考えると尻込みしてしまうのか、ジャービスはそれすらできないでいるらしい。
できないだけに不満は|募《つの》る一方だ。
となれば、当然、代わりの|生《い》け|賛《にえ》がいる。
ナシアスは運悪く、そんな|鬱屈《うっくつ》した不満晴らしの格好の対象にされてしまったのだ。
バルロに剣を教えているナシアスを負かすことで間接的にバルロに勝った気分を味わいたいらしいが、回りくどいにもほどがある。
メドックを入れて取り巻き騎士の数は九人。
ジャービスを含めて十人を倒さないと、ここから出られないことになる。
それもいいかと覚悟を決めた。
この時のナシアスは少々攻撃的な気分でもあった。
「たあっ!!」
気合い声を発してメドックが襲いかかってきたが、ナシアスはひらりと|龍《かわ》すと同時に、メドックの胴を思いきり木太刀で打っていたのである。
「……ぐ!」
剣を放してメドックはその場に|蹲《うずくま》ってしまった。
立ち上がることも困難な様子だった。
|不甲斐《ふがい》ない取り巻きの失態を見て、ジャービスが|苛立《いらだ》たしげに叫ぶ。
「次!」
見習いの少年が二人がかりでメドックを下がらせ、新たな騎士がナシアスの前に立ちはだかった。
しかし、この騎士も二合と|堪《こら》えることができずに、腕を手ひどく叩かれて木太刀を取り落とした。
剣の勝負は身体の大きさで決まるものでも、力で決まるものでもない。ティレドン騎士団員の武器が攻撃力の高さなら、ナシアスの武器は眼と足だ。
相手の動きを読み、剣先がどこから出てくるかを予測し、ぎりぎりのところでその攻撃を躱して打つ。
無駄のない動きだった。
優雅な舞を舞っているような感すらあった。
とは言うものの、いくら何でも数が多すぎる。
八人に勝ち抜いたところで、さすがにナシアスの息が上がっていた。
九人目の攻撃はその事実に力を得て|怒濤《どとう》のように激しかった。ナシアスは何度も追いつめられたが、あと一歩というところで、とどめを|焦《あせ》った九人目に隙が生じた。
ナシアスはすかさず反撃に転じ、相手の木太刀を叩き落としたのである。
見習いの少年たちの間から感嘆の声が洩れた。
敗れた騎士たちも密かに舌を巻いている。
この|華奢《きゃしゃ》な体躯の若者が、よくぞここまで――と思っているのは間違いないが、こうなったからにはますますもって無傷では帰せない。
他の団の新米騎士にティレドン騎士団員が九人も負かされたとあっては恥さらしもいいところだ。
ジャービスが木太刀を取る。
「では、俺もお相手をお願いしようか」
その顔にはあからさまな敵意がある。
手足の一本も叩き折ってやらねば気がすまないと思っている顔だった。
荒い息を懸命に整えながら、ナシアスも木太刀を握り直した。
既に|掌《てのひら》はじっとりと汗に濡れている。
あとどのくらいやれるか正直わからなかったが、ここで引き下がるつもりはなかった。
何より、彼らが見逃してくれるはずがないのだ。
道場の真ん中でジャービスと向かい合い、かたちばかりの礼をして、いざ打ち合おうとした時だ。
静かな声が掛かった。
「これは何事です?」
いつの間にか、入□にアスティンの姿があった。
道場に入って来ると、一年ぶりに会うナシアスに軽く|会釈《えしゃく》して、穏やかにジャービスに話しかけた。
「他団の方との無断試合は禁じられておりますが、団長はご存じなので?」
「いや……これは、試合と言うほどのものではない。こちらに御指南をお願いしていたところなのだ」
ジャービスの声には|狼狽《ろうばい》した響きがある。
意外だった。この二人の力関係は、ジャービスのほうが上だろうと思っていたからだ。
しかし、ジャービスは明らかに、まずいところを見られたと焦っている。
アスティンはそれには気づかないふりで、笑ってナシアスに話しかけた。
「それでしたら順番というものがあります。まずは弱いものからご教授願うべきでしょう。ジャービスどのより先に一手のご指南を願えますか?」
「喜んで」
答えながら、ナシアスは少し残念に思った。
あれから一年だ。今の自分は以前に比べて少しは上達したつもりだが、どのくらいこの人に迫れるか、できることなら万全の状態で戦ってみたかった。
しかし、これが実戦なら敵はこちらの状態になど配慮してくれない。
疲れているなどというのは言い訳にしかならない。
アスティンはもちろん手加減などするはずがなく、全力で攻撃してきた。
ナシアスも|怯《ひる》まなかった。最後の力を振り絞って応戦したが、いかんせん九人と戦った後である。
手足が重く、自分の身体ではないようだったが、気持ちでは決して負けなかった。
これまでのどの試合よりも激しく打ち合った。
何度かアスティンを追いつめさえしたと思ったが、それは錯覚で、実際はあの時のようにアスティンが譲ってくれたのかもしれない。
去年と違ったのはその結末だった。
アスティンは|燕《つばめ》のような速さでナシアスの|懐《ふところ》に飛び込み、その胴を存分に打ち払ったのである。
次の瞬回、ナシアスの視界は真っ暗になった。
気がつくと、天井を見上げていた。
見覚えがあるような、ないような天井である。
どこで見たかと考えていると、アスティンの顔が視界に入ってきた。
「起きあがれますか?」
ナシアスは無言でアスティンを見上げた。
そうして納得した。
どの騎士団の官舎にも、負傷した団員の手当てをする治療室がある。ここは見慣れたラモナ騎士団のそれではなく、ティレドン騎士団の治療室だ。
その簡素な寝台に寝かされていたのである。
ゆっくりと身体を起こしてみた。
|鳩尾《みぞおち》を打たれはしたものの、骨には異常はない。
痛みもさほどひどくない。
寝台の横には、従者に預けた自分の剣がきちんと置かれている。
アスティンは戸棚に向かって何かやっていたが、気付けの酒杯を差し出して言った。
「すみません。少し強く打ちすぎましたね」
ナシアスは首を振った。
詫びてもらう必要はなかった。
アスティンが自分をあの場所から連れ出すためにやったのはわかっている。
「……助かりました」
「こちらこそ、ご迷惑をお掛けしました」
難しい顔で答えると、アスティンは自分も椅子を持ってきて、ナシアスと向き合って腰を下ろした。
「あなたにもわかったと思いますが、ジャービスはグラスメア卿に一種複雑な思いを|抱《だ》いているんです。家柄では到底かなわない。しかし剣の腕なら勝てる。充分に勝てる。それなのに勝ってはならないという|葛藤《かっとう》を|抱《かか》え込んでいるのです」
「わたしには……そこがわかりません」
香りの高い酒を|喉《のど》に流し込み、大きな息を吐いてナシアスは言った。
「あの騎士の腕前ならば、あの少年に稽古をつけることも容易でしょうに」
「はい。グラスメア卿ご自身もそうおっしゃいます。手控えは無用だと。剣の稽古で多少の傷や打ち身をつくるのは当たり前のことだから、遠慮なく自分を鍛えるようにと。ところが、そこまで言われても、ジャービスにはどうしてもできない」
「なぜです?」
「保身のためですよ。そんなことをしたら後が恐い。グラスメア卿がいいと言っても、サヴォア公爵家は見逃してくれないかもしれない。お|咎《とが》めがあるかもしれない。そんなことになったら出世も終わりだとジャービスはひたすら恐れているのです」
顔をしかめたナシアスだった。
それで逆恨みされたのではたまったものではない。
|憮然《ぶぜん》とした表情で黙り込んでしまったナシアスに、アスティンは優しく笑いかけた。
「ずいぶん上達されましたな」
「え?」
「もう少し早く出ていくつもりでしたが、あなたが予想外にお強くなっていたので、遅くなりました」
「……最初から、ご覧になっていた?」
「三人目からは」
こう悪びれずに答えられては文句も言えない。
思わず苦笑したが、アスティンは気遣わしそうに問いかけてきた。
「今日のあなたはずいぶん|心《こころ》乱れていらっしゃる様子でしたが――上で何かありましたか?」
ナシアスは|躊躇《ためら》った。
他人の家の恥を話したりするものではないという気持ちが働いたが、この人が知らないはずはないと冷静に思い直した。低い声で言った。
「……レヴィン男爵夫人にお会いしました」
アスティンはそれで納得したように|頷《うなず》いた。
「あの夫人は自分の身の上を隠したりしませんから。あなたが男爵夫人をよく思わないのはわかりますが、あの人は賢明な方ですよ」
頭のいい人だという点は同意見である。
しかし、あの人の存在が許せるかどうかとなると、話はまた別問題だ。
実のところ、アスティンも同じ考えではないかと、ナシアスは思っていたのだが、これが大間違いで、アスティンは極めてあっけらかんと言ったのである。
「公爵が親しくなさっている女性はあの人一人ではありません。何人もいらっしゃいます。その中から公爵はレヴィン夫人を選ばれてグラスメア卿の側に置かれたのですから、なかなかいいご趣味だと思いますよ」
論点が間違っているとしか思えないそんなことを平然と言うので、ナシアスはますます困惑した。
「しかし、それでは……」
胸につかえているものが何かはわかっていたが、思わず言い淀む。
相手は王家とも縁続きの公爵家の内情である。
赤の他人がとやかく言うことではないとわかっている。よくわかっているのだが、どうにもこうにも我慢できなくなって言っていた。
「それでは……あまりに公爵夫人がお気の毒です」
この時のナシアスは自分の思いで一杯だったので、アスティンがほんの少しばかり顔色を変えたことに気づかなかった。
アスティンも気づかれることをよしとはせずに、不自然なくらい平坦な声で言葉を返してきた。
「おっしゃるとおりです。あの方はある意味とてもお気の毒な方ですが、サヴォアほどの家格になれば、こうしたことはよくあることなのですよ」
はたして、本当にその一言で済ませていいのかと思ったのは確かである。
だが、考えるだけ無駄だと思い直した。
どんなに不快であろうと、嫌悪を感じたとしても、自分にはどうにもできないことだ。
いつの間にか夕陽が室内を赤く染めている。
昼食も採らずに眠っていたらしい。
「お邪魔しました」
剣を腰に戻して、ナシアスはティレドン騎士団の官舎を後にした。
翌日、サヴォア公爵家からの使いに、ナシアスは今日は予定があると言って追い返した。
翌日も同じことをした。
すると、気短な少年は自分の足で三の郭のラモナ騎士団の官舎を訪ねてきたのである。
「何を怒っている?」
答えようがないので黙っていると、少年は今度は慎重に言葉を選んで言った。
「お|手前《てまえ》が気分を害したことはわかっている。だが、その理由がわからない」
だから訊かせて欲しいと言いたいらしい。
ナシアスは深いため息を吐いた。
口出しはよせと自分を|戒《いさ》める思いと、これだけははっきりさせておきたいという気持ちがせめぎ合い、|曖昧《あいまい》な言葉をつくらせた。
「きみは本当に……何とも思わないのか?」
「何を?」
「レヴィン男爵夫人のことだ」
少年はちょっと気まずそうな顔になった。しかし、その気まずさの種類はナシアスが想像したものとは大幅に違っていたのである。
「|叙勲《じょくん》前の身で女にうつつを抜かしてというのなら、それは違うぞ。あの人は別に、俺の思い人ではない。父がつけてくれた家庭教師のようなものだ」
だから、そこが大問題なのである。
まさか騎士団の官舎で(しかも真っ昼間から)、こんな話をするはめになるとは思わなかったので、自然とナシアスの声は低くなった。
「あの人は……きみのお父上の愛人だろう?」
「ああ。そうだ。それがどうかしたか?」
「バルロ。はっきり言おう。それは――不潔だ」
すると、少年は本当に不思議そうに黒い眼を丸くしたのである。
「どこが?」
「…………」「不潔というのは|汚《けが》れているという意味だろう? 何が汚れているというのだ」
脱力した。
これは言うだけ無駄だとナシアスはあきらめた。
自分にとっての禁忌や罪悪、許しがたい非常識がこの少年にとっては非常識にあたらないのだ。
男爵夫人は自分とこの少年がよく似た心を持っていると言ったが、とんでもない。
こんなことを平気と思える神経は自分にはないし理解したいとも思わない。
憮然としていると、少年はさらに胸を張った。
「俺が父に無断で父の側妾に手を出したというのであれば、それは弁解のしようもない、勘当されても仕方のない|不埓《ふらち》な行為だが、父は自らあの人を俺に紹介してくれたのだぞ」
承知していれば許されるという問題ではない。
むしろ承知しているからこそ始末が悪いのだが、それはもう言わなかった。
自分でも不思議だったが、ナシアスがその時この少年に感じたものは、怒りでもなければ苛立ちでもなかった。
どちらかというと哀れみに近いものだった。
同時に、一つだけ男爵夫人の言葉に納得した。
この少年は、サヴォア公爵家という特殊な環境を少しも特殊と思わずに育っている。
確かにその通りだと、苦笑する思いだった。
この少年とわかり合うことは決してないだろうと頭の隅で考えながら、そうは言わずに頷いた。
「わかった。明日からまたお屋敷に|伺《うかが》うよ」
少年はとたん顔を輝かせた。
そのくせ、その表情を懸命に引き締めて頷くと、そっくりかえって官舎を後にしたのである。
ナ ナシアスがバルロに対する印象を少し変えたのは、この五日後のことだ。
その日もナシアスは朝からサヴォア邸に出向いて、少年に稽古をつけていた。
そろそろ昼食にしようかという頃、|馬蹄《ばてい》の響きが聞こえてきたのだ。それも数騎の足音だ。明らかにこちらに向かって近づいてくる。
異常を感じたナシアスとバルロが手を止めた時、けたたましい|嘶《いなな》きとともに、騎馬の群が二人のいる庭に乗り込んできた。
ナシアスは驚いて眼を見張った。
他家の庭に馬上のまま――それも数騎で、こんな勢いで駆け込んでくるとは無礼にもほどがある。
全部で五騎いた。どれも見事な|駿馬《しゅんめ》で、立派な馬具が装着されている。騎手は揃いも揃って若い。
全員が十代の顔立ちだ。
しかし、少年の友人だとしても、この振る舞いはあまりにも傍若無人に過ぎる。
それでなくともバルロは稽古の邪魔をされるのをひどく嫌う。|癇癪《かんしゃく》を起こすかと思いきや、少年はひときわ立派な白馬に乗った騎手の前に進み出て、一礼した。
「いらっしゃいませ、|あに《、、》上」
はっとしたナシアスだった。
この少年に兄弟はいない。
そのバルロが『あに』と呼ぶ人がいるとするなら、該当する人物は一人しかいない。
本当は少年の|従兄弟《いとこ》に当たる、この国の次期国王レオン・ウェルヌス・グェン・デルフィン王子だ。
ナシアスも急いで少年に|倣《なら》った。
緊張に身体を|強《こわ》ばらせながら深々と頭を下げると、|傲岸不遜《ごうがんふそん》な声が降ってきた。
「これが評判の剣術指南役か? 顔を見せてみろ」
その声を聞いてナシアスは意外に思った。
傲慢な口調は王族ならばおかしなことではないが、あまり賢そうには聞こえない声だったからだ。
言われたとおり顔を上げて王子の顔を見る。
レオン王子はこの時ナシアスと同年の十八歳。
お忍びで街へ出かけるのか、貴族の子弟のような身なりをしていた。大柄で肉付きのいい背格好だが、特に鍛えているわけではないらしい。無駄に大きな身体つきはむしろ遅鈍な印象さえ受ける。髪も眼も黒々として、自信満々な態度はバルロに似ていると言えなくもないが、声から感じたように、その顔は聡明であるとも思慮深いとも言えなかった。
もっとはっきり言うなら、享楽的で、自堕落で、しまりのない、遊ぶことしか頭にない若者の顔だ。
親の全て道楽三昧に|耽《ふけ》る放蕩息子の顔でもあった。
驚きを感じながらも、そんな感情はかけらも|面《おもて》に出さずに沈黙していると、レオン王子はナシアスに興味を持ったらしい。
色白の顔をじろじろ見つめて問いかけてきた。
「貴殿には女の兄弟はおらぬのか?」
「妹が二人おります」
なぜこんなことを尋ねるのだろうと思いながらも素直に答えると、レオン王子は眼を輝かせた。
「王宮には参られないのか?」
「恐れながら、殿下。父は王宮に伺候できるほどの身分ではございません」
家は代々、村の地主を務めておりますと答えると、レオン王子は途端に興の失せた顔つきになった。
「何だ。|田舎《いなか》者か」
それでいながら|露骨《ろこつ》に好色な眼つきでナシアスを眺め回して、にやりと笑った。
「この器量なら姉妹ともにさぞかし美形であろう。二人とも俺が存分にかわいがってやろうと思ったが、田舎娘ではデルフィニア王子の側には置けんなあ」
そんな耳も汚れるようなことを堂々と言い放って、上機嫌でバルロに話しかけたのである。
「今日は従兄弟を誘いに来たのだ。剣ばかりでなく、そろそろ女についても学ばねばなるまい。これから花街に出かけるところなのだ。一緒に来るといい」
「結構です、|従兄上《あにうえ》」
少年は硬い声で答えたが、レオン王子は年の若い従兄弟が恥ずかしがっていると思ったらしい。
にやにや笑って少年に話しかけた。
「そう遠慮するな。とびきりの女をみつけたのだ。俺のおごりだぞ。従兄弟に馳走してやる」
「ご厚意はありがたいのですが、花街への出入りは十五になるまでならぬと父から禁じられております。何より、わたしにはレヴィン男爵夫人がおります」
レオン王子は急につまらなそうな顔になった。
「それは確か、叔父貴どののお手つきの女だろう。花街の女はそんな素人の年増女などとは比べものにならんぞ。従兄弟も一度味わってみるといい。歳は若くても男を楽しませる手練手管に長けた女たちだ。従兄弟の想像もできぬような振る舞いで男を夢中にさせてくれる。一度やったらやみつきになるぞ」
「まことに申し訳ありません。せっかくの従兄上のお|志《こころざし》ですが、何分わたしもまだ家督前の身です。父の命には背けませんので、お供は致しかねます」
血のつながらない叔父は王子も苦手の存在らしい。
鼻白んだ顔つきになった。
「我が従兄弟は堅物に過ぎていかんな。まあよい。その気になったらいつでも言え。腰が抜けるようなすごい女をいくらでも世話してやる」
|呵々《かか》と笑うと、王子は再び取り巻きを引き連れて土煙を残して駆け去ったのである。
取り残されたナシアスは絶句していた。
本当に開いた口が塞がらなかった。
横を見れば、バルロが無言で眼を光らせている。
澄んで輝く黒い瞳に浮かんでいるのは軽蔑であり、嫌悪でもあり、そして確かに情けなさでもあったと、ナシアスは思った。
「あの方が、レオン殿下か?」
「そうだ」
皮肉な口調でバルロは言った。
「将来、我が国の国王となる方だ」
ナシアスも自分の顔が厳しくなるのを感じていた。
「あの方が即位して、きみが公爵の跡を継がれたら――きみもあの方の臣下となるのだな」
「無論のことだ。サヴォア公爵家は王家を守るため、王家の|楯《たて》となるために存在する」
「我がラモナ騎士団もだ」
ことさら声に力を込めたのは自分に言い聞かせるためでもあった。
国のため、国王のために死ぬことは|厭《いと》わない。
それが騎士の誓いであったし、|嘘《うそ》でもない。
それでも、あの王子が将来その国王になるのかと想像すると何とも落ちつかない気持ちにさせられる。
もっと率直に言うなら|暗澹《あんたん》たる思いに駆られたが、それは言わなかった――言えなかった。
王国を守る騎士の一人である以上、主君の人柄を非難などしてはならないのが騎士の|掟《おきて》でもあった。
その国王に求められるのは何よりも統率力であり、指導者としての能力である。
そうだ、それがもっとも大切なことだ。きちんと統治してくれるなら、どのようなお人柄であってもかまわないではないかと自分に言い聞かせながら、ナシアスは少しばかりこの少年を見直した。
父と同じ女性を愛することは変だと思わなくてもあの王子を情けないと思う気持ちはあるらしい。
同時にナシアスは自分を厳しく戒めた。
自分は単なる兵隊に過ぎないのだ。臣下の身で、仮にも次期国王となる方を情けないなどと思ってはならないのである。
しかし、コーラル滞在中、ナシアスが自分の眼で確かめたレオン王子の|行状《ぎょうじょう》はどれもこれもまさにその目を|覆《おお》わんばかりのものがあった。
下層の人々の間では、酒に|溺《おぼ》れ、|賭博《とばく》に熱中し、花街に通い詰めることを『呑む、打つ、買う』と表現するらしいが、レオン王子はまさにそれだった。
なお悪いことに王子は自分の行いの何が悪いのか、まったくわかっていないらしい。
親の金て遊ぶ放蕩息子――と、あの時ナシアスは判断したが、ドゥルーワ国王は厳しい人で、息子に遊ぶ金など与えないという。
繁華街にも王子を|つけ《、、》で遊ばせてはならぬというおふれを密かに出しているらしい。
一国の国王がそんな通達を出すということ自体、前代未聞だが、では王子は遊びの金をどこから調達するのかというと、取り巻きに無心するのだ。
サヴォア公爵の跡取りの歓心を買おうとする人があれほどいるくらいである。
今のうちに未来の国王に取り入っておけば、損はしないと考える人はもっと多いのだろう。
そうした貴族たち、さらに商人たちまでが王子の遊蕩資金をすすんで出してやっているらしい。
王子も喜んでその金を受け取り、存分に『呑む、打つ、買う』を楽しんでいるようなのだ。
こうしたことがいやでも耳に入ってくるにつれ、ナシアスは、陛下はご自分の跡継ぎのそんな性質をどのように考えていらっしゃるのだろうと、疑問に思うようになった。
幸か不幸か、知る手段はすぐそこにあったので、稽古の合間の休憩時間に問いかけていた。
「なあ、バルロ」
「何だ?」
「ドゥルーワ陛下は、きみにとって血のつながった伯父上だな」
少年は呆れ返った顔でナシアスを見た。
「今さら何を言っている? まさか知らなかったというつもりではあるまいな」
「だから、|甥《おい》のきみなら知っているだろう。陛下はどのようなお人柄だ?」
質問の意図を理解した少年は今度は眼を丸くして、ちょっと皮肉な笑いを浮かべた。
「やっと言ったな」
「うん?」
「おまえが初めてコーラルで俺に会ってからそれを言うまで一年と三ヶ月だ」
呆れるよりおもしろくなってナシアスは尋ねた。
「どうして数えているんだ? そんなこと」
バルロは答えなかった。
夏の盛りに激しい稽古に明け暮れたものだから、二人は洗面器を運ばせて汗に濡れた顔を洗っているところだったが、少年は濡れた黒い髪までごしごし手拭いで拭って、慎重な口調で言った。
「伯父陛下は立派な方だ」
「……そうか」
「明賢王と言われる方だけあって、常に国の利益を考えていらっしゃる。伯父陛下が国王である限り、デルフィニアは安泰だと断言できる」
「では、レオン殿下の御代になったら?」
「…………」
「殿下は政治にも|戦《いくさ》にもあまり興味をお持ちでないお方のようにお見受けするのだが、陛下はご自分の跡を継がれる殿下のことをどうお考えなのだろう」
少年はしばらく難しい顔で考えていたが、前にも増して慎重な口調で答えた。
「伯父陛下には伯父陛下のお考えがあるのだろう。|従兄上《あにうえ》はまだお若いのだ。次期国王としての重責も余人の想像しがたいものがある」
その王子より五つも若い少年が口にする言葉とは思えなかったが、ナシアスは何食わぬ顔で訊いた。
「だから?」
「確かに、今は|市井《しせい》の楽しみに熱中しておられるが、従兄上は偉大なる伯父上の血を引く方だ。いずれはご自分のなさればならぬ義務に気づかれるはずだ」
注意深い言葉だったが、ナシアスにはこの少年が自分で考えて言った言葉と、誰かに|示唆《しさ》されて口にする言葉との区別は容易についた。指摘した。
「それはきみの父上のご意見か?」
「違う。俺の意見だ」
少年は|咄嗟《とっさ》に胸を張ってみせたが、ナシアスには何となく見当がついた。
この少年も従兄の不真面目な態度を不満に思って、あれでいいのかと父親に訴えたのだろう。
その不満に対して、父公爵は、余人にはわからぬことがあるのだと、王子はまだ若いのだから好きにさせておけと、少年を戒めたものと思われた。
「では、陛下もきみと同じご意見なのだろうか?」
「それはわがらんが、伯父上のことだ。きっと何か、深いお考えがあるのだろうと思う」
「お尋ねしてみたことは?」
少年は今度こそ呆れたように眼を見開いた。
「おまえは時々、恐ろしいことを言うんだな。伯父陛下の胸の内についてお尋ねするなど、身内といえども|僭越《せんえつ》が過ぎる振る舞いだぞ」
「それもそうだ。わたしが軽率だった。すまない」
至って素直にナシアスは詫びた。
あの王子に内心でどんな心証を抱いているにせよ、この少年は従兄である王子を|誹謗《ひぼう》するような言葉は断じて言うまいと決意しているらしい。
身内の恥であるばかりでなく、王家の恥でもあり、ひいてはこの国の恥でもあるからだ。
それに比べて自分は一介の騎士に過ぎない。
ラモナ騎士団の誇りにかけて西の国境を守るのが自分の務めだ。
ナシアスは自分のその義務を果たそうと思った。
主君の人柄を気にするあまり忠義が鈍るようでは本末転倒である。
決意を新たに沈黙していると、少年が何か|悪戯《いたずら》を企んでいるような顔つきで話し掛けてきた。
「一度、伯父陛下に会わせてやろうか?」
「なぜ?」
ナシアスは至って自然に、微笑さえ浮かべて問い返した。
「お目に掛かったところで、わたしは陛下のお力になれるような身分ではないし、お役に立てるようなことも何もないのに?」
この返事にバルロは眼を|||む剥いた。
ほとほと呆れたような口調で言ってきた。
「あのな、ナシアス。普通は国王に会わせてやると言われれば光栄に思うものだぞ。それともおまえは国王に|拝謁《はいえつ》したくないと言うのか?」
「いいや。とんでもないことだ。お目に掛かれれば、もちろん光栄に思うとも。しかし、わたしは一介の騎士に過ぎないのだから、それでなくともお忙しい陛下に、わたしのために時間を割いていただいたりするわけにはいかないよ。それこそロビンス団長に怒られてしまう」
たった十三歳の少年はまじまじとナシアスの顔を眺めて、盛大なため息を吐いた。
「おまえは本当に……おかしな奴だ」
何やら異様なものでも見るような表情で言うので、ナシアスは吹き出した。
「おかしいのはきみのほうだ。わたしは普通だよ。どこにでもいるただの新米騎士だ」
国王に拝謁することは断ったナシアスだったが、何と言っても自分の剣と忠誠を捧げる相手だ。
どのような方なのだろうと興味を覚えていたのは確かである。
だが、この少年と、少年の父親が立派な主君だと考えているなら、それで充分だと思い直した。
少年の父親は貴族の最高位の公爵――その中でも筆頭公爵という地位にあり、義理の弟でもある。
公私ともに国王を支える義務を負う人だ。
一方、自分は大勢の兵隊の一人でしかない。
ナシアスは何も自分を|卑下《ひげ》しているわけではない。
彼らに彼らの役目があるのなら、自分には自分の果たす役目があると自然に割り切っているだけだ。
バルロにも言ったが、自分のような一兵卒は直に国王に会うことすら|稀《まれ》なのである。
しかし、その機会はひょんなことから訪れた。
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5
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それは秋も深まった頃、ナシアスが官舎の宿直にあたっていた時のことだった。
団員は皆、夕食の最中で、宿直のナシアスだけが入口近くの小部屋に待機していると、誰かが外から扉を叩く音がしたのである。
「これ、誰かおらぬか?」
その声も、戸を叩く様子も穏やかなものだった。
ナシアスは小部屋を出て、扉についている小窓を開けて外の様子を確認してみた。
ここは城内に設けられた官舎である。不審人物がやってくるとも思えないが、いきなり扉を開けたりしないのは騎士団として当然のたしなみだ。
暗がりの中に大きな人影が立っているのが見えた。
|外套《がいとう》を頭から被っているので顔はわからないが、そのたたずまいや身なりからすると、かなり身分の高い貴族の男性のようだった。
身分のある人に対して、小窓越しに応対するのが非礼にあたるのは言うまでもない。ナシアスは扉を開けてその人の前に出て行き、丁寧に問いかけた。
「どのようなご用件でしょう?」
「うむ。ロビンス団長はおいでかな」
「あいにくですが、ロビンスはここにはおりません。ビルグナに残っております」
「お、さようか。ちと早かったか……」
その人は不思議なことを呟いた。
ロビンスは留守だと言ったにも|拘《かか》わらず、|悠然《ゆうぜん》と官舎の中に入ってくる。
「そなたらは聞かされておらぬのだろうが、団長はもうじきこちらにいらっしゃることになっている。しばし、待たせてもらうぞ」
「ロビンス団長がコーラルに?」
思わず問い返したナシアスだった。
そんな予定があるなら真っ先にこの官舎に使いが到着するはずだった。突然そんなことを――しかも部外者に言われても信じられない。
しかし、その人の態度は|嘘《うそ》を言っているようにも見えなかった。
自分の家に帰って来たような自然な仕種で外套を脱いでナシアスに手渡してきた。
外套の中から現れたのは予想どおり、思わず息を呑むほど立派な|風采《ふうさい》の男性だった。端整な顔立ちに、鍛えられた身体は圧倒的な量感を誇っている。
さぞ身分のある人だろうに、お供の従者が一人もいないというのも妙な話だ。
普通、身分の高い人が外出する時には必ず従者が付き従っているはずである。
ナシアスが渡された外套を手に戸惑っていると、その人は平然と話し掛けてきた。
「そなた、騎士となってどのくらいだ?」
「まだ|叙勲《じょくん》していただいたばかりでございます」
「では、国境の戦に出たことは?」
「何度かございます」
「ほう……」
その人はあらためて興味を持った顔つきになった。
「その数度の出動は、皆、同じ敵か?」
ナシアスは微笑して頭を下げた。
「申し訳ございません。国境の攻防に関することは団長の許可なくしてはお答えできません」
「では、その時々によって敵の手応えはどうだった。違いがあったか、それとも同じであったかな?」
「恐れ入りますが、それも団長のお許しがなくては申し上げられないことでございます」
「よいではないか。ほんの世間話だ。そう堅苦しいことを言わずに聞かせてくれぬか」
「ご容赦を……」
穏やかな微笑を浮かべながら断固として退かない若い騎士に、その人物は楽しげに笑った。
「団長の許可がなくては言えぬか。結構。そなたにとってはロビンス団長が主人なのだな」
「はい」
「では訊くが、そのロビンス団長が仕える主は誰か、心得ておるかな」
「無論でございます。国王ドゥルーワ・ジエンタ・ヴァン・デルフィン。そのお方こそ、我らがラモナ騎士団長の唯一の主であります」
「さよう。つまり、このわしだ」
ナシアスはまさしく呆気にとられて、相手の顔を見つめてしまった。
|漆黒《しっこく》の髪、黒い瞳、そこまでは同じだが、|□髭《くちひげ》と|顎髭《あごひげ》に|覆《おお》われた顔や鍛えられた立派な|体躯《たいく》のどこを探しても、レオン王子との類似点は見つけられない。
それは表情豊かな顔だった。高貴な血筋からなる品の良さと優れた知性に裏打ちされた卓越しか精神、人をうち解けさせる親しみまで感じさせる顔だった。
それでいながら黒曜石のように輝く眼はすべてを見通すかのように鋭く|峻厳《しゅんげん》でもあった。
レオン王子の自信に満ちあふれた態度は肩で風を切るようなところがあったが、この人は違う。
こうして近くにいるだけでも、おのずと|滲《にじ》み出る威厳と貫禄に圧倒されそうだった。
冷や汗を|掻《か》いて手にした外套を見下ろせば、その裏地には|見紛《みまが》いようもない、獅子の横顔と交差した二本の剣の紋章が縫い取られている。
我に返ったナシアスは深々と頭を下げたのである。
「お許しください。ご無礼を申し上げました」
「よい。ロビンスと内密に話がしたかったのでな。わしが参ったことは他の者には黙っておれよ」
ナシアスは緊張しながら国王を客室に案内すると、まず従者を呼んで、代わりに宿直にあたらせた。
さらに|厨房《ちゅうぼう》に走り、来客があったことを告げて、炊事番に|酒肴《しゅこう》を調えてもらった。
といっても質素で知られるラモナ騎士団である。
一般の騎士たちも飲む葡萄酒、黒パン、チーズと、盆の上に並んだのはいっそ粗末とも言える品々で、はたしてこれを国王陛下に差し上げてもよいのかと悩みながら、ナシアスは恐る恐る盆を差し出した。
「お口には、合わぬと思いますが……」
だが、国王はナシアスの心配を笑い飛ばした。
「まことに結構だ。ラモナ騎士団の官舎でこれより高価なものが出てきたら|却《かえ》って驚くであろうよ」
ほっとしながら葡萄酒を注いで国王に差し出すと、国王はその酒杯をナシアスに手渡した。
「そなたもやらんか」
「いえ、わたくしは……」
「毒味をせよと申しておる」
一瞬、身体が|強《こわ》ばるのを感じたナシアスだった。
言われたとおり無言で葡萄酒を一口飲み、酒杯を国王に返した。何でもない様子を装ったつもりだが、内心の思いはやはり顔に出ていたらしい。
ドゥルーワ国王の類目口元に苦笑が浮かんだ。
「不服そうな顔だな。この官舎の台所に国王を毒殺するものなどおらぬと言いたいか?」
ナシアスは|躊躇《ためら》った。国王に口答えなどするのは自分の身分を考えれば慎まなければならなかったが、これは団の名誉に関わることだと思って|頷《うなず》いた。
「陛下のご意志に|背《そむ》くつもりは毛頭ございませんが――正直に申し上げればそうです」
ドゥルーワ国王は、じんわりと笑った。
「……若いのう」
ナシアスは居たたまれなくなって眼を伏せた。
自分の若さを非難されたような気がしたからだ。
国王は自分で黒パンにチーズの切れ端を乗せると、やはりナシアスに差し出してきた。
一口、慎重に|囓《かじ》って、残りを返す。
山海の珍味をいくらでも口にできるはずなのに、その粗末な酒肴を、国王は意外にも実にうまそうに味わって、新たにチーズを切った。
「陛下……」
ナシアスは慌てた。そんなことなら自分がすると急いで申し出たが、国王は平然たるものだった。
「なに、本宮ではよろず面倒なのでな。このほうが気楽でよい」
「…………」
「言うまでもないことだろうがな、わしはおぬしを疑っているわけではない。無論、ロビンス団長にもラモナ騎士団にも全幅の信頼を与えておる。何よりこの城内でわしの命を狙う者など、あるはずがない。それはわし自身がもっともよく承知しておる」
「…………」
「それでもだ、わしが王である以上、毒味を欠かすわけには参らぬ。因果な話ではあるがな。国王とはそういうものであるとしか言いようがないことだ。――許せよ」
「滅相もないことでございます」
ナシアスは恥ずかしさのあまり顔を赤くしていた。
臣下であるならそのくらいのことは察しなければならないのに、身内の名誉ばかりを気にして陛下にこんなことを言わせてしまうとは――言われるまでわからないとは――|愚《おろ》かにもほどがある。
身の置きどころもない様子の若い騎士に、国王は父親のように、あるいは伯父のように笑いかけた。
「西の様子を聞かせてくれぬか?」
「はい……」
ナシアスはそれからしばらく国王に乞われるまま、国境付近の戦闘体験を話した。
本当は、自分のほうにも訊きたいことがあったが、それは断じて口にしてはならないことだった。
一介の騎士ごときが恐れ多くも国王に向かって、ご子息の不品行をどのようにお思いでしょうなどと、訊けるはずもない。
そんなことは自分が言わなくともバルロの父親や他の側近たちが既に指摘しているはずだった。
ドゥルーワはナシアスの語る国境の様子に熱心に耳を傾けていたが、やがて頷いた。
「近々、ビルグナに戻ってもらうことになると思う。川向こうがまたぞろ、うるさくなってきたのでな」
「陛下」
「何じゃ」
「彼の国は我が国との友好関係を望むと申します。少なくとも我らにはそのように申すのです。しかし、現実に彼の国の軍勢は国境を越えて参ります」
国王に向かってこんな大胆なことを言うつもりはなかったのに、気づけば止まらなかった。
「我々はどのように対処したらよろしいのでしょう。団長は敵を追い払うだけでよいとおっしゃいますが、しかし、それでは……」
「それでは、いつまで経っても、元は絶てぬか?」
「……仰せの通りでございます」
ドゥルーワ国王は自分の前で身体を硬くしている若い騎士を見つめて、微笑した。
「そなたの名は?」
「ナシアス・ジャンペールと申します」
「では、ナシアスよ。彼の国の申すことは、確かに|論弁《きべん》かもしれぬ。しかし、真実、彼の国には乱れが生じており、国王の権威をもってしても国境付近の武将どもを抑えることができぬのかもしれぬ」
「…………」
「国というものはな、決して一枚岩ではないのだ。それはこのデルフィニアとて同じこと」
「…………」
「国境を守るそなたたちに負担を掛けていることは承知しておる。しかし、そなたたちの働きがあると思えばこそ安心もできる」
「…………」
「これからも団長を助けて、しっかり働いて欲しい。期待しておるぞ」
「はっ!」
決意も新たに、ナシアスは深々と頭を下げた。
この方のためなら死ねると、この時のナシアスは何よりも純粋な心で思った。
やがて、本当にロビンスが官舎に到着した。
宿直をしていた従者は驚き、慌てて客間に走って、ナシアスに団長の到着を告げたのである。
この時、もし客間にいた客人が国王だと知ったら、この従者は卒倒してしまったかもしれない。
ナシアスも急いで玄関までロビンスを出迎えると、他の誰にも聞こえないような小声で|囁《ささや》いた。
「陛下がお見えです」
「おお、いかん。お待たせしてしまったか」
その後、客間でロビンスとドゥルーワ国王の間にどんな話し合いが為されたかは知らない。
ナシアスはそうしたことを知る立場にないからだ。
翌朝、ナシアスが眼を覚ますと、官舎の中は少しざわついていた。
もちろんロビンスが突然コーラルに現れたことと、それを誰も聞いていなかったことによるものだ。
さらに驚いたことに、この日の朝のうちに、団員全員にビルグナヘの帰還命令が下ったのである。
ロビンスは昨夜到着したと思ったら、今日はもう西へ立つことになる。大変な強行軍だ。
官舎を預かる隊長格の騎士が、さすがに緊張した|面《おも》持ちで尋ねた。
「団長、国境で何か起きているのですか?」
「いいや、何も起きてはおらぬ。一見したところは平和そのものだが、起きてからでは手遅れだ。我らラモナ騎士団はその抑えのために存在する」
この日、ナシアスもロビンスに従ってビルグナに出発した。
コーラルからビルグナまでは普通に進んで七日の旅程である。
しかし、一行は先を急ぎ、六日目にはビルグナに到着した。全員いささか緊張して砦の門をくぐると、留守を預かっていた副団長のパラディが出迎えた。
極めつけに無口な人なので、団長が戻っても特に出迎えの言葉を掛けるわけではない。小さく頷いて見せただけだが、ロビンスは満足そうに頷いた。
「うむ。何よりだ」
端で見ている分には何だかわからないやりとりだ。
団長の留守中は何事もなかったとパラディは示し、ロビンスはそれに応えて何よりと言ったらしい。
翌日からロビンスは国境付近の見回りを強化した。
ビルグナから国境のテバ河までは、実はかなりの距離がある。しかし、それをいいことにパラストの武将にやすやすと川を越えさせてはならないのだ。
いくつかの小隊をつくって各方面に派遣した。
さらに、ロビンスは日々の訓練にもとりわけ力を入れるようになった。
これをバラスト側から見ると、ラモナ騎士団長が突然コーラルに向かい、とんぼ返りしかと思ったら急に見回りと訓練を強化していることになる。
ナシアスは密かに感心した。
一種の|演技《パフォーマンス》には違いないが、こうすることで川向こうの武将に警戒心を抱かせ、これは|迂闊《うかつ》には仕掛けられないと足踏みさせる効果は充分にある。
もしかしたら、ロビンスがあんな変則的な方法でコーラルを訪れたのもその一環だろうかと思ったが、団員の中にはこうした団長の方針を|焦《じ》れったく思う声もあったようだ。
川向こうの敵意が明らかならば、いっそのこと、こちらから仕掛けてしまえばいいのではと主張する者もいたようだが、ロビンスは厳しい口調でその血気に|逸《はや》った言い分を|諌《いさ》めたという。
「それでは連中の思うつぼだ。奴らは『自分たちは何もしていないのに、デルフィニアの騎士団が突然攻撃してきた』と声高に訴えることになるだろう」
「しかし、現実に川向こうの連中には不穏な動きがあります」
「そうです。|頻繁《ひんぱん》に国境を越えて来て何かこそこそやっているのは確かです。旅行者を装っていますが、我らの姿を見た途端に逃げ出す者が後を絶ちません。あれを引っ捕らえて何が目的かを吐かせれば……」
「無駄だな。それでは何の証拠にもならん」
と、あくまで悠然と構えているというのである。
団長は二千人の団員全員に自分の考えを話したりするわけではないので、ナシアスはこうしたことを先輩騎士たちの会話から知った。
だが、この後、ナシアスは個人的に団長に呼ばれ、秘密の任務を命じられた。
「川向こうの人々が農民や旅行者を装ってこちらの様子を|窺《うかが》っているのは知っているな?」
「はい」
「これをやめさせるわけにはいかん。取り締まったところできりがない。それで気がすむのなら好きに探らせておけばよい」
「は……」
「だが、受け身でいるばかりでは、いざという時の行動が制限されてしまうのも確かだ」
「はい」
「そこでだ、こちらからも探りを入れようと思う。戦が始まったわけでもないのに|斥候《せっこう》というのも妙な話だがな、敵を知ることは悪いことではない」
ナシアスは思わず顔を上げてロビンスを見た。
ロビンスもナシアスを見て、一つ領いた。
「行ってくれるか?」
「わたしで務まりますならば、喜んで参ります」
「言うまでもないが、騎士団の紋章は外して行ってもらわねばならん。川向こうの人との間に|悶着《もんちゃく》を起こさぬように行動してもらうのは当然のことだが、仮にそうした事態になったとしても、断じてラモナ騎士団の名を出してはならぬ。それを誓えるか?」
「無論のことでございます」
ラモナ騎士団の白百合の紋章は何より目立つ。
見つかったらそれこそ口実を与えることになる。
「わたしは何を探って参ればよろしいのでしょう」
地理か、誰か特定の領主の武装状態か、それとも地元の人々の領主に対する感想かと率直に尋ねると、ロビンスは満足そうに笑って領いた。
「それでよい。戦を防ぐことは、時として戦に勝つことより遥かに難しいことなのだ」
ナシアスも同意見だった。
翌朝、まだ暗いうちに、ナシアスは従者を連れて、騎馬の旅行者のような格好で砦を出た。
国境のテバ河には関所が設けられている。
手形がなければ通れないところだが、ナシアスは関所を通るつもりはなかった。
こうしたことにはいくらでも抜け道があるものだ。
川で生計を立てている漁師たちに話を持ちかけて馬ごと川向こうに渡してもらう手筈を整えた。
といっても、無料で渡してくれるわけではない。
当然、代金を取られる。
地元の漁師は最初、|美貌《びぼう》の少年であるナシアスを世間知らずの若造と侮って法外な金額を提示したが、ナシアスはその金額を素直に払ったりしなかった。
路銀としてかなりの額を渡されているが、これも騎士団の金なのだから無駄遣いはできない。
穏やかな物腰ながらその漁師と堂々と渡り合って、ついには根負けさせて相場以下に値切ったのである。
テバ河を越えればそこはもう、ナシアスにとって初めて見るパラストの土地だ。
長居はするなとロビンスから言われていたので、ナシアスはまず地理を知ることに力を入れた。
もし自分がこの土地の武将だったら、川を越えてデルフィニアを攻めようと思ったら、どこからどう兵を動かすか、実際に地形を見ながら考えた。
さらには地元の農民たちからも話を聞いた。
地元の人間だけが使っている近道や抜け道を聞き、領主の人柄についても情報を仕入れた。
こうした斥候に出されたのはナシアスー人というわけではない。
ロビンスは他に何人も斥候を出して、川向こうの様子を探らせ、それぞれの成果を報告書にまとめ、隊長格の騎士に持たせてコーラルに出発させた。
ナシアスもその供をした。
その道中、ナシアスは国王との会話を思い出して、あらためて自分に言い聞かせた。
パラストの国王が何を考えているかはわからない。
それどころか自国の国王がそのパラストのことをどう考えているかもわからない。
だが、それは自分の考えることではない。自分は自分の務めを果たすだけだと心に決めていた。
この年、ナシアスはコーラルとビルグナを頻繁に往復した。
ビルグナにいる間は何度も川向こうを調査に行き、コーラルのラモナ騎士団の官舎に滞在している時は必ず一の郭のサヴォア家から迎えが来た。
この頃になると、誰もそれをおかしいとは思わず、ナシアスも当然のようにサヴォア家を訪れた。
二、三ヶ月ごとに顔を合わせる少年は、見る度にたくましくなっていった。
まだどこか幼さを残している顔立ちさえなければ十三歳とはとても思えない。
剣の腕前にしても、ナシアスがいない間もよほど鍛錬に|励《はげ》んでいるのだろう。
手合わせするたびに、別人のような強い手応えになっているのがわかる。
それはバルロの努力を表すものでもあったから、ナシアスは素直に|褒《ほ》めた。
「強くなったね」
「おまえが言うと皮肉に聞こえるぞ」
少年がむっつりと言うのももっともだった。
まだ一度もナシアスに勝てないでいるのだから。
しかし、十三歳の少年に打ち負かされるようでは、逆にナシアスの立つ瀬がない。
「わたしは嘘は言わない。あの試合の時に比べると格段の上達だよ」
この頃になると、ナシアスも、この少年に対して少しは理解を示せるようになっていた。
レヴィン男爵夫人のことだけは感心できないが、少なくともこの少年はレオン王子より遥かに立派な騎士の素質を持っている。
この身体と腕前なら同じ年頃の少年たちを相手にしている限り、誰にも負けることはないはずだ。
自分より弱い相手とだけ|稽古《けいこ》をして打ち負かして悦に入ることもできるだろうに、この少年はそれをよしとはしない。
そんなお山の大将を気取ったところで何の意味があるのかと、この少年は思っている。
もっと強いものがいるなら、自分はそれより強くなってやると思っている。思っているだけではない、そのための努力を借しまない。
言わばたいへんな負けず嫌いなのだが、こうした性質はナシアスには好ましいものに映った。
この少年は必ずもっと強くなるだろうと思った。
騎士としての素質があるだけではない。
恐らくは指導者としての素質も、レオン王子よりこの少年のほうが格段に優れている。
レオン王子は相変わらず『呑む、打つ、買う』に夢中になっており、せっせと下町のシッサスに通い、政治にも軍事にもまったく興味を示さないという。
「あの殿下が王様になったら、さぞかしシッサスが|儲《もう》かるような法律をつくんなさるだろうよ」
コーラルの人々が笑って言うほどだ。
今はまだドゥルーワ国王が健在なので、笑い話で済んでいるが、この状況を|憂《うれ》えている人もいる。
バルロもその一人だった。
彼の場合、ドゥルーワ国王を間近に見ているので、どうしても比較してしまうのだろう。本当にあれでいいのかと思っているのは間違いないが、バルロは一度もそうしたことを口にしなかった。
ナシアスも同じだった。
王冠は血によって受け継がれるものだからだ。
レオン王子がどんな人柄でも、指導者として頼りなくても、それを理由に|廃嫡《はいちゃく》はできない。
バルロがどれだけ優れた素質を示しても、それを理由にバルロを次の国王にはできないようにだ。
十三歳という年齢を差し引いても、レオン王子とこの少年なら、この少年のほうが遥かにましな王になるだろうにと思いながら、ナシアスは言った。
「きみは以前、サヴォア公爵家は王国の|楯《たて》となると言ったね」
「ああ、言った」
「それならわたしは爵位を継いだきみの楯になるよ。それもまた王国を守ることだろうから」
少年は驚いたような顔でナシアスを見つめ、次ににっこりと笑った。
しかし、この翌年。
ナシアス十九歳、バルロ十四歳。
二人の友情が決定的に決裂する事件が起きた。
それはまだ雪が溶けたばかりだというのに、妙に生暖かい晩のことだった。
アスティンがただならぬ様子で、ラモナ騎士団の官舎を訪ねてきたのである。
人払いまでした上で、真顔でナシアスに言った。
「明日はお屋敷へは|伺《うかが》わないように」
「はい?」
「明日もきっと迎えが来るでしょうが、何でもいい。理由をつけて断ってください。いいですね?」
「と、言われましても……」
ナシアスは顔中に疑問を浮かべていた。
何か何だかさっぱりわからないが、アスティンの表情は真剣そのものだ。
「理由は訊かないでください。わたしも言えません。とにかく、お屋敷に近づいてはいけません」
そんな謎のような言葉を言い残して、慌ただしく背を向けたのだ。玄関まで見送ったナシアスが二度驚いたことに、アスティンは馬で来ていた。
この夜更けにこれからどこかへ出かけるらしい。
「アスティンどの?」
「急ぎます。失礼!」
|馬蹄《ばてい》の響きも荒く駆け去っていったアスティンを、ナシアスは呆気にとられて見送った。
彼は理由もなくあんなことを言う人ではないが、その理由の見当がつかない。
寝床に入ってもなかなか寝付けず、朝になっても思い悩んでいると、いつものように迎えの召使いがやって来た。
だが、今朝はもう一人、中年の侍女が一緒だった。
今までなかったことである。
いかにも気位の高そうな侍女は品定めするような眼つきでナシアスを見つめると、抑揚のない口調で告げたのだ。
「サヴォア公爵夫人の使いでお迎えに参りました。公爵夫人はグラスメア卿が日頃お世話になっている方にぜひとも直にお目に掛かり、お話を伺いたいと仰せでございます」
「公爵夫人が?」
「はい」
「上のお屋敷でお待ちなのですか?」
「そのとおりです」
昨夜のアスティンの言葉を忘れたわけではないが、これでは出向かないわけにはとてもいかない。
相手は単にあの少年の母親というだけではない。
国王の妹だ。
王妃も王太后も存在しない今、王国中でもっとも高貴な女性なのだ。
侍女の態度もそれを裏付けていた。
夫人|直々《じきじき》の招待をよもや一介の騎士ごときが断るなどという非礼を働くつもりではありますまいなと、無言のうちに、しかし恐ろしく高圧的に追ってくる。
いつもの召使いは侍女の陰で小さくなっている。
その存在に完全に圧倒され、|怯《おび》えきって、ろくにものも言えない様子だった。
ナシアスも硬い声で頷いたのである。
「ただちに参ります」
しかし、ナシアスが二人とともに官舎を出ようとした時、侍女は明らかな軽蔑の口調で言ってきた。
「お待ちなさい。よもや、あなたはその|形《なり》で夫人にお目にかかるおつもりですか?」
ナシアスが身につけているのは騎士の制服だった。
洗濯したばかりなので清潔ではあるが、いささか着古した服なのは確かである。
「残念ながら、わたしのような新米騎士には礼服の持ち合わせがありません。ご容赦ください」
ナシアスは|慇懃《いんぎん》に頭を下げたのだが、侍女は気に入らなかったらしい。
馬鹿にしたように鼻で笑った。
さらに驚いたことにサヴォア邸の奥にナシアスを案内した侍女は、いったいどうやって用意したのか、礼服一式を差し出してきた。
最高級の絹のシャツに極上の白絹の上着とズボン、上着には金糸でふんだんに|刺繍《ししゅう》をあしらってあり、留め具も金製だ。添えられた剣帯には宝石の飾りが付いている。
何とも豪華な、呆れるくらい|贅沢《ぜいたく》な品々だ。
「公爵夫人にお目に掛かるのですから身だしなみを調えていただかなくてはなりません」
と侍女は言うのだが、ナシアスは首を振った。
「外見を取り繕ったところで、わたしはわたしです。そのような虚飾は却って失礼にあたります」
「滅相もない。そのお召し物のままでは到底、公爵夫人へのお目通りはかないませぬ」
侍女は高飛車な調子で決めつけたが、ナシアスも屈しなかった。やんわりと首を振った。
「このままでお目に掛かります。どうか公爵夫人にそのように申し上げてください」
最後には侍女が折れた。
不承不承ながら、様子を伺うために別室に向かい、しばらくして戻ってきた。
「公爵夫人がお目に掛かります」
何度もこの屋敷に足を踏み入れているというのに、この辺りまでやって来るのは初めてだった。
この屋敷はそれだけ広く、奥深くっくられており、この一画は|貴賓室《きひんしつ》として使われているのだろう。
廊下からして他とは明らかに装飾が違う。
やがてナシアスの前に白地に黄金の装飾を施した巨大な扉が現れ、ずっとその場に|控《ひか》えていたらしいカーサが|恭《うやうや》しい仕種で開けてくれた。
この扉一枚だけでも恐ろしく高価なものだろうが、内部にはまさしく贅を尽くした豪華な空間が広がり、そこに一人の女性が女王然とした風情で座っていた。
サヴォア公爵夫人にしてドゥルーワ・ジエンタの実妹、アエラ・ルシンダ・デル・サヴォア。
この時、結婚十五年目の三十四歳。
若い頃は美貌才媛で|謳《うた》われた人だが、今でも充分、美しかった。|艶《あで》やかに咲き誇る花のようだった。
つややかな黒い髪を結い上げ、肌は抜けるように白く、胸元を開けた|華麗《かれい》な衣裳を身につけている。
|蠱惑《こわく》的な眼差しがナシアスを捕らえ、赤い|薔薇《ばら》の花びらのような唇がゆっくりと微笑んだ。
「ナシアス・ジャンペールどのですね」
この女性はあの方の妹なのだと思うと、緊張して思うように声が出なかったが、ぎこちなく名乗ったナシアスに、夫人は|嫣然《えんぜん》と微笑みかけた。
「ナシアスどのはグラスメア卿に剣術をお教えしているのだそうですね」
「はい。自分もまだ未熟者ではありますが……」
「グラスメア卿はどのようなご様子ですか」
「はい。たいへん覚えがよく、上達もお早い方です。わたしも教えがいがあります」
話があると言って呼んでおきながら、公爵夫人は特にそれらしい話はしなかった。
ただ、しきりとあの少年の様子を訊きたがった。
それでナシアスもいくらか安心して話せるようになったのだが、これからというところで公爵夫人は唐突に話を|遮《さえぎ》ったのである。
「今日はこのくらいに致しましょう。ナシアスどの。また日をあらためてお話を伺います」
これは退出しろという意味だと思い、ナシアスは慎ましく頭を下げた。
部屋を出ようとするナシアスに夫人は言った。
「わたくしに会ったことはグラスメア卿には黙っていてくださいな。男の子というものは難しいもので、母親が口を出すのを好ましく思わないのです」
「かしこまりました」
夫人との会見を終えたナシアスはいつものように庭に向かおうとしたが、カーサがそれを止めた。
「若君は昨夜遅く、夜営訓練に出かけられました。三、四日はお帰りにならないはずです」
従って、この家の召使いは本当は『今日はおいでいただかなくても結構です』と言うために来かのだ。
「そうでしたか。では、今日はこれで失礼します」
「ご案内致します」
一度歩いた廊下を覚えられないほど、ナシアスは方向音痴ではない。それどころか一度歩いた道ならどんなに入り組んでいても迷うことなく戻れるが、カーサの厚意を無にするのも悪いと思い、玄関まで案内してもらった。
カーサは玄関で足を止め、ナシアスを見送ったが、その際、珍しくも何か言いたげに|口籠《くちご》もった。
「ナシアスさま……」
「はい?」
澄んだ眼差しで素直に自分を見つめるナシアスに、いったい何を感じたのか、カーサは何やら苦しげに眼をそらすと、深々と一礼した。
「いえ……何でも、何でもありませぬ。ご苦労様でございました」
その翌々日の夜のことだった。
サヴォア公爵夫人の侍女が突然、ラモナ騎士団の官舎を訪れ、ナシアスに面会を求めたのである。
この間の侍女とは別の若い女だったが、夫人から手渡されたという公爵家の紋章入りの指輪を見せて身元の証明をすると、声をひそめて告げてきた。
「公爵夫人があなたさまをお呼びです」
「この時間にですか?」
既に陽が暮れている。一度しか会ったことのない相手を招くにはふさわしからぬ時間である。
しかもだ。
一の郭ではなく、コーラル郊外のサヴォア屋敷にこれから来て欲しいというのである。
馬で駆けても一時間は掛かる距離だ。
「しかし……」
さすがにナシアスも|躊躇《ちゅうちょ》した。
自分はラモナ騎士団員で、守らなければならない規律がある。夜間に勝手に外出したりはできないし、そんな許可も下りないが、侍女はほとんど半狂乱になって言い|募《つの》った。
「奥さまは明日ではならぬと仰せなのです。内密の大切なご用件があるのだと。だから誰にも言わずに、急いでいらしていただきたいとのことでした」
大いに迷ったのは確かだが、公爵夫人がそこまで言うからには本当に至急の用件なのだろうと思った。
頷いた。
「わかりました。伺います」
「ああ、ありがとうございます。奥さまはどれほどお喜びになりますことか!」
侍女は涙ながらに礼を言った。
こんな夜間に官舎を出るには許可がいる。
しかし、内密にと念を押された以上、公爵夫人に呼ばれたのだとは言えない。
仕方なく、あの少年に呼び出されたと嘘を言って、異例の外出を認めてもらった。
サヴォア公爵家の名前もこういう時は便利である。
|厩舎《きゅうしゃ》から馬を引き出してきたナシアスに、あの侍女がはらはらした様子で話し掛けてきた。
「道はおわかりですね?」
「大丈夫です。――あなたはどうなさいます?」
「わたしは馬車で後から参ります。さ、お速く」
その声に後押しされて、ナシアスは馬腹を蹴った。
既に通用門も閉められていたが、ラモナ騎士団の名を言って通してもらう。
コーラルの街中はこの時間でもちらほらと灯りが点っていたが、街を一歩離れると景色は激変する。
そこには無人の山野が広がっている。
騎士団では当然、夜駆けの修練もしている。
暗夜の行軍に比べれば、今夜は細いながらも月が出ている。火を持たなくても不自由はしなかったが、全力疾走したのでは馬がつぶれてしまう。
だましだまし馬を操作して手つかずの野原を走り、道程の半ばほどまで来た時だった。
春まだ浅い今は草もなく、夜ということもあり、ひどく寂しい荒涼とした風景が広がっている。
暗がりに眼を凝らしていたナシアスはふと表情を変えて、手綱を引き締めた。
道の先に枯れ枝を広げた木があったが、真っ暗な木の陰から不意に騎馬が現れたのだ。
追いはぎだとしたら金目のものなど何もないぞと思いながらも、その眼の前を通過することもできず、ナシアスは腰の剣に手を掛けて|誰何《すいか》した。
「何者だ?」
「ああ、やはり、あなたでしたか」
暗がりから返ってきた意外な声にナシアスは驚き、剣の|柄《つか》から手を放した。
「アスティンどの?」
騎馬は軽快に近づいてくる。頼りない月明かりに見えるのは間違いなくアスティンの顔だった。
「やあ、驚いた。これは奇遇ですね。こんな時間に馬蹄の響きとは何事かと思って見に来たのですよ。そんなに急いでどちらへ行かれます?」
顔は確かに驚いているものの、どこか白々しい。
問いかけてくる言葉にしても、何やら予定通りの|台詞《せりふ》を話しているような感じがする。
「アスティンどのこそ、どうしてここに?」
「申し上げませんでしたか? ティレドン騎士団の一部隊で夜営訓練中です」
「では、バルロも一緒ですか?」
「はい。どうです? 少し寄って行かれませんか。グラスメア卿も喜びますよ」
「まさか。ティレドン騎士団の訓練に部外者が顔を出すわけには行きますまい」
ナシアスは笑って、馬上のまま一礼した。
「急いでおりますので、失礼」
「まあ、そう言わずに」
アスティンは巧みに馬を寄せてきた。
まるでこの先へは行かせまいとするようにだ。
「少しでいいのです。お立ち寄りください」
「いいえ。それでは公私混同になります」
やんわりと、そしてきっぱりとナシアスは言った。
「わたしは確かにバルロに剣を教えておりますが、それはあくまで個人的なことです。彼がティレドン騎士団の一員として訓練中だというなら、わたしは部外者です。ロビンス団長がお許しにならないのはもちろんですが、そちらの団長も他団の人間が自分たちの訓練に割り込むことなど、決してお許しにはなりますまい。――先を急ぎますので失礼します」
あくまで丁重に言ってナシアスは手綱を取った。
前に立ちふさがっているアスティンを|躱《かわ》す格好で、道の先へ馬首を向けたが、その時、まるで体当たりするようにアスティンが馬を寄せたのだ。
「何を!」
馬が驚いてのけぞった。何よりナシアスが驚いて、懸命に体勢を整えながら叫んだ。
そのナシアスの腕をアスティンが掴む。
この時、アスティンは自分の馬の手綱から完全に両手を放していた。
左手でナシアスの右腕を掴んで、|ぐい《、、》と引き寄せ、体勢を崩したナシアスの|鳩尾《みぞおち》に右の|拳《こぶし》を撃ち込んだ。
あっという間に意識を失って落馬しそうになったナシアスの身体を抱き留め、自分の|鞍《くら》に乗せながら、アスティンは深いため息を吐いた。
意識を取り戻したナシアスはすぐに身体の異変に気がついた。
腕が自由にならないのである。
顔には何かひんやりと冷たい感触があり、足にも異様な感触がある。さらに鼻孔は冷たい湿気を――夜の土の匂いを濃厚に|嗅《か》ぎ取っている。
眼を開けると同時に自分の身に何が起きているか、ナシアスは正確に理解した。
後ろ手にきつく縛られ、両足首も縛られ、地面に転がされているのである。
|瞬《またた》きすると、|手燭《てしょく》の灯りが辺りを鈍く照らしている。その灯りにぼんやり照らし出されているのは壁ではなく、ごわごわした粗布のようだった。
ナシアスはこの材質の布を知っていた。どうやら行軍に使う天幕の中にいるらしい。
そこまでの状況は冷静に察したが、肝心の事態がさっぱり理解できなかった。
それこそ追いはぎに遭っている真っ最中のような、自分のこの有様はいったい何としたことだ。
混乱する頭でナシアスは必死に考えた。
アスティンに会ったことは覚えている。
彼が自分に当て身を入れたこともだ。
だが、ティレドン騎士団員の彼がなぜ追いはぎの真似などをする?
反射的に身じろぎすると、すぐ近くで声がした。
「気がつきましたか?」
「アスティンどの!」
不自由な姿勢で、上体だけをかろうじて起こしてナシアスは叫んだ。
「これはいったい何の真似です!」
鈍い灯りに照らされているアスティンの顔は硬く強ばっている。
「グラスメア卿のご命令です」
「何ですと?」
呆気にとられていると、そのバルロが入って来た。
何とも言えない表情でナシアスを見つめている。
「バルロ! 早くこの縄を解いてくれ!」
「いいや、だめだな。解くわけにはいかん」
「何の冗談かは知らないが、わたしは急いでいる! 早く行かなくては――」
その言葉を少年は途中で遮った。
「おまえがどこへ行こうとしていたかは知っている。だからこそ止めたのだ」
「な……?」
バルロは厳しい眼でナシアスを|睨《にら》みつけながら、肩を怒らせて一気に言った。
「少しは身の程をわきまえろ。おまえのような者がサヴォア公爵夫人の館に堂々と乗り込んでもよいと本気で思っているのか」
耳を疑った。
しかし、少年の顔は大真面目だった。どう見ても真剣そのものなのだ。
「俺は確かにおまえに多少の剣術を学んではいるが、それは俺とおまえの間のことだ。それなのに、その|些細《ささい》なつながりを利用して母に近づこうとするとは何事だ。|不埓《ふらち》にもほどがあるぞ」
本気で言っているばかりではない。
バルロの声には押し殺した怒気がある。
「いいか、ものには限度というものがある。たとえ母がよいと言ったとしてもだ。俺は、そんなことは認められん。次代のサヴォア公爵として|氏素性《うじすじょう》の知れぬ者が母に近づくのを黙って見ているわけにはいかんのだ」
呆気にとられながらも耳を傾けていたナシアスの顔からだんだんと表情が消えていった。
誤解を解こうと言葉を尽くして訴えるのでもなく、語気を荒らげて怒るわけでもない。
まるで仮面のような顔で、恐ろしく静かな声で、ナシアスは言った。
「それが本音か、グラスメア卿」
ナシアスがバルロをこう呼んだことは一度もない。
怒りも|苛立《いらだ》ちも、悲しみすらもそこにはない。
ただ永遠の決別を告げるための――見下げ果てた相手を前にした時の冷淡な声だった。
両手足を縛られ、床に転がされているナシアスが|蔑《さげす》んだ眼で少年を見下している。
少年はその眼の冷たさに耐えられずに顔を背けて、低い声でアスティンに命じた。
「朝まで見張っていろ。絶対に逃がすな」
足音も荒く天幕の外に出ると、そこにも何人かの騎士たちがいた。
彼らは皆ジャコー団長のお気に入りで、サヴォア公爵家の名前目当てに、バルロに気に入られようと躍起になっている若い騎士たちでもあった。
彼らにも天幕の中の会話が聞こえていたのだろう。
一人が心得顔に言ったものだ。
「|在郷《ざいごう》者の分際で、あつかましくも抜け駆けして、公爵夫人に近づこうとするとは怪しからぬ奴です」
「そうですとも。取り押さえるだけでは不十分です。少し痛めつけてやりましょうか」
少年はじろりとその騎士たちを睨みつけた。
「あれはラモナ騎士団の人間だぞ。ロビンス団長の気に入りでもある。無傷で返さねばラモナ騎士団が黙ってはいない。やると言うなら止めはしないが、ラモナ騎士団を敵に回す覚悟だけは忘れるなよ」
若い騎士たちはあからさまに|怯《ひる》んだ。
少年の口調は、そうなったとしても俺は貴様らを助けたりはしないと宣言するものだったからだ。
「くれぐれも余計な真似はするな。ただ、あの男を逃がさないようにしていればいい」
そう言って、少年は杭につないだ愛馬に歩み寄り、騎士たちは慌てて後を追った。
「グラスメア卿。どちらへ?」
「お供致します」
追いすがる彼らの足を少年は一言で止めた。
「来るな。俺は一人で行く」
騎士たちはそれでも口々に言い募った。
「いえ、お待ちください。夜道をお一人で駆けたりなさるのは危険です」
「お身の上にもしものことがあっては一大事です。我らが団長にお叱りを受けてしまいます」
「いらんと言っている。誰もついて来るな」
ぶっきらぼうに言って愛馬にまたがると、少年は単身、駆けだした。
ひたすら夜道を駆け抜けたバルロがようやく足を止めたのは自分の別邸の門の前だった。
見上げるような錬鉄の門の両脇に左右対称の家が建っている。|煉瓦《れんが》造りの立派な二階家だが、これが実は門番小屋である。
来訪を告げると、門番は若様の突然のお出ましに仰天して、慌てて門を開けてくれた。
門から館の玄関までは優に五カーティヴはある。
馬でなければ、ちょっとした運動になる距離だ。
樹木の間を縫うように曲がりくねった小道が続き、突然、魔法のように景色が開け、一国の王の居城と言ってもおかしくないような建物が出現した。
ナシアスがこれを見たら呆気にとられて、玄関の|敲《たた》き|金《がね》に手をやるまでずいぶん考え込んだだろうが、バルロにとっては自分の家の一つである。
けたたましく鳴らして玄関を開けさせ、驚き顔の召使いを押しのけるようにして中に入った。
屋敷の者にとってもバルロの登場は思いがけないことだったらしい。慌てふためいているのがわかる。
バルロはそれを無視して、公爵夫人に会いたいと言い張った。
敷地が広いだけに、そこに建つ館も無駄に広く、客間に通されたバルロは母親が現れるまでずいぶん待たされたが、腰を下ろそうとはしなかった。
召使いが気を使って暖炉に火を入れてくれたが、その火に当たろうともしなかった。
やがて部屋着を着た公爵夫人が現れた。
こんな時間にまだ入念に化粧をしている。
「おや、まあ、ノラどの。お久しぶりです。こんな時間にどうなさいました?」
猫なで声で話し掛けてくる母親に対し、バルロはひどくぶっきらぼうな口調で言い返した。
「母上。いくらお待ちになっても無駄なことです。ナシアスは来ません」
夫人は虚を衝かれて|狼狽《うろた》えたが、探るような眼で息子の顔を見た。
「ノラどのがなぜそれをご存じなのです?」
「あの男は母上の名など出しはしません。わたしが勝手に気を回しました」
「おや、まあ……」
「ご身分をお考えください。あのような者と気軽に親しむことは、伯父陛下の面目にも拘わることです。無論、父上の体面にもです。失礼します」
一息に言って、少年は憤然と背を向けた。
本当は、これだけの言葉では到底収まらない。
胸の中では得体の知れない、どろどろしたものが渦を巻いている。
しかし、後年、毒舌と皮肉の名手として知られるノラ・バルロもこの時はまだ、たったの十四歳。
暴れ回るこの感情をどう言葉にすればいいのか、母に対してあれ以上何を言えばいいのか、自分でもわからなかったのだ。
母親の前では無表情を装っていたものの、屋敷を出る頃には少年の顔は激しい感情に歪んでいた。
まとわりっく何かを振り切るように、少年は夜の闇の中を全力疾走していった。
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6
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外がようやく明るくなる頃、アスティンは黙ってナシアスを縛った縄を切ってくれた。
手足を充分にもみほぐし、動くのを確かめてからナシアスは立ち上がって天幕を出た。
アスティンには|一瞥《いちべつ》もくれなかった。
外に出ると、すぐ側の杭に自分の馬がつながれているのが見えた。
ひどい扱いをされてはいないかと心配だったが、水も飼い葉も充分に与えられていたらしい。
それでも、どこにも怪我などないのを確かめて、ナシアスは手綱を取って騎乗し、一気にコーラルヘ駆け戻ったのである。
この時以来、ナシアスは、サヴォア家には決して足を向けなかった。
向こうからも何も言ってこなくなった。
当然のことである。
日々が過ぎ、季節はたちまち本格的な春となった。
色とりどりの花が咲き誇り、太陽はその花たちに明るい光を降りそそぎ、鳥が楽しげに歌っている。
美しい季節だというのにナシアスの心の中だけは厚くて硬い氷に閉ざされている。
その|鬱憤《うっぷん》を晴らすかのように、ナシアスは一心に剣の稽古に撃ち込んだ。
この二年でナシアスは間違いなく腕を上げている。
その彼が一心不乱に稽古に撃ち込む姿は鬼気遣るものすらあった。
同年配の騎士ではとても相手にならない。
ずっと年上の先輩騎士の中でも、今やナシアスを負かせる者は数えるほどしかいないはずだった。
急に一の郭へ行かなくなったナシアスを、同輩の騎士たちはやっかみ混じりに冷やかしたものだ。
「どうした。この頃は上へ行かないのか?」
「ああ。わたしはどうやら飽きられたらしい」
ナシアスは平然と応えた。事実その通りだろうと思っていたからだ。
それでいながら|釈然《しゃくぜん》としない。
思いがけない客人が官舎にやってきたのは『あの事件』があってから|一月《ひとつき》が過ぎた頃だった。
レヴィン男爵夫人である。
外出着の夫人は城外から帰ってきたばかりらしく、極上の葡萄酒やチーズを差し入れだと言って官舎の台所に届けさせ、笑顔でナシアスに面会を求めると、
「少しおつきあいくださいませんか」
と、ナシアスを官舎の外に誘ったのである。
ナシアスは丁重に辞退した。
「わたしは何分、修行中の身です。ご婦人と二人で歩くようなことは慎まなくてはなりません」
「大丈夫です。人に訊かれたら、あなたはわたしの外出を護衛してくださったのだと言いますから」
夫人は二の郭の外れの屋敷に往んでいるという。
当然、夫人の持ちものではない。
サヴォア公爵が与えた屋敷である。
ナシアスは致し方なく、そこまで夫人の供をすることになってしまった。
夫人の屋敷は二の郭の右翼の端にあった。
屋敷というより、こぢんまりと|瀟洒《しょうしゃ》な家である。
花盛りの庭が見事だった。
庭師もついているのかと思ったら、夫人が自分で丹精したものだという。
この家に、夫人は小間使い一人と暮らしている。
「公爵さまからのお手当はなるべく無駄にしたくはありませんので」
笑ってそんなことを言われても困ってしまう。
送り届けたからには早く引き上げようと思ったが、夫人はナシアスをすぐには返そうとしなかった。
「お庭で話しましょうか。修行中の騎士さまには、小回使いの下がった部屋で、女と二人になることも好ましくないのでしょうから」
剣術ならたいていの相手に遅れを取らない自信があるのだが、ご婦人が相手では言いなりになるしか仕様がない。
庭を眺めるテラスにお茶を運ばせると、レヴィン夫人は少しばかり表情をあらためて切り出した。
「グラスメア卿も上のお屋敷の人たちも、固く口を閉ざして何もおっしゃいませんが……いったい何があったのです?」
花盛りの庭を前にしても、ナシアスの心は少しも晴れなかったので、愛想のない声で言った。
「お話しするようなことは何もありません」
「そんなはずはありますまい。あなたはこの一ヶ月、一度も上のお屋敷を訪ねていらっしゃらない」
あれほど仲のよかったお二人ですのにとレヴィン夫人は続けたが、ナシアスは首を振った。
「それは違います。あなたには仲がよかったように見えていたのかもしれませんが、わたしはあくまで一介の騎士に過ぎず、彼は筆頭公爵家の跡取りです。互いに往む世界がまったく違うのですから、こんな二人が真の意味で親しくなれるはずがありません」
どうあっても事情を話そうとしないナシアスに、夫人は小さな息を吐いて問いかけた。
「では、一つだけ、質問に応えてくださいませんか。――公爵夫人にお会いになりましたか?」
ナシアスは沈黙して応えなかった。
しかし、この夫人にとって、十代の騎士の顔色を読むことなど造作もない。
「お会いになったのですね……」
「…………」
「最初にお会いしたのは上のお屋敷ですか?」
「…………」
「その後、公爵夫人は個人的にあなたを呼び出した。何か大切な話があるとでも言われましたか?」
ナシアスが黙っていたのは誰にも言わないという公爵夫人との約束があったからだ。女性との約束を守れないようでは騎士として失格である。
レヴィン男爵夫人は姿勢を正し、生徒に言い論す家庭教師のような口調で言った。
「ナシアスさま。差し出がましいことを申しますがあなたは真実を知るべきです」
「何のことです?」
「あなたはなぜ、公爵夫人があなたを呼び出したと思いますか?」
「…………」
「最初にあなたを呼びつけたのは、きっと、身分もわきまえずに未来の公爵を木太刀で打ち据えるとは何事かとあなたを叱責し、処罰するためでしょう。しかし、あなたに会って気が変わられた――それは変わられるでしょうね。お気持ちはわかります」
夫人は一人で|頷《うなず》いているが、ナシアスには意味がわからなかった。|訝《いぶか》しげに問い返した。
「何をおっしゃっているんです?」
夫人は呆れたように言ったものだ。
「ナシアスさま。あなたは鏡でご自分の顔を御覧になったことはないのですか?」
「洗顔の際、毎日見ています。――それが何か?」
レヴィン男爵夫人は一瞬、絶句した。
次にとことん深いため息をついて、|額《ひたい》を抑えた。
「グラスメア卿があなたに思い|焦《こ》がれるわけがよくわかりますね……」
ナシアスはちょっと戸惑って、|憮然《ぶぜん》と言った。
「レヴィン夫人。からかわれては困ります」
「からかってなどおりません。わたくしは真剣です。あなたは若く健康で、何よりとても美しい殿方です。女であれば誰でもあなたを欲しいと思うでしょう。そう、サヴォア公爵夫人でも」
「レヴィン男爵夫人!」
その言葉の意味を察するにつれ、あまりのことにナシアスは|愕然《がくぜん》とした。次に額まで真っ赤になって、相手が女性ということも忘れて声を荒らげた。
「今のお言葉は取り消していただきたい! それは――それはあまりに侮辱が過ぎます!」
「単なる中傷|誹謗《ひぼう》だとお思いですか。根拠もなしにわたくしがこんなことを言っていると?」
当たり前ではないか。
そう怒号を発しそうになったのをやっとのことで抑えたが、ナシアスはまだ激しい口調で叫んだ。
「あ、あの方はバルロの母君です!」
「そうです」
「国王陛下の実の妹君です!」
「そのとおりです。――それが何か?」
レヴィン夫人の灰色の眼とナシアスの水色の眼が正面からぶつかり合った。
激しい動揺に揺れている水色の瞳に対し、灰色の瞳は真実を見つめるようにと、あくまで静かにしかし厳しく促している。
その瞳には真実を語る人だけが持つ揺るぎなさと、堂々たる落ち着きがあり、知らず知らず気圧されて、ナシアスは大きく|喘《あえ》いだ。
「……|嘘《うそ》です」
「いいえ。本当です。それ以外に、あの方が爵位を持たない一介の騎士に興味を示すはずがありません。あの方にとってはわたくし同様、道端の|石塊《いしくれ》でしかないものなのです。石塊に手を伸ばして拾い上げる理由は一つしかありません。見てくれが|綺麗《きれい》だから、愛玩するのにちょうどよかったからです」
ナシアスが反論するより先に夫人は鋭く言った。
「――当ててさしあげましょうか。あの方は恐らく、誰にも内密にと念を押した上であなたを呼び出した。その場所も上のお屋敷ではなく郊外のお屋敷だった。呼び出された時間も非常識なものだった。恐らくは夜半だった。違いますか?」
ぐうの音も出ないとはまさにこのことだ。
だんだんナシアスの顔から血の気が引いていく。
ついには蒼白になってしまった若い騎士に対して、レヴィン男爵夫人は|諄々《じゅんじゅん》と言い論した。
「話をするなら、なぜ上のお屋敷ではいけないのか。なぜ内密にしなくてはならないのか。なぜわざわざ夜更けに呼び寄せるのか――。少し考えればすぐにわかることです」
ナシアスはそれでも弱々しく首を振った。
「……信じられません。そんなことは。わたしには、到底信じられません」
「はい。わたくしも信じたくはありません。ですが、あの方の――悪い遊びのことは、上流階級の間では半ば公然の秘密です。夫の公爵さまもご存じですが、公爵さまにとってあの方は自分の妻であるより先に主君の妹君です。他の旦那さまのように妻の不貞を|咎《とが》めることはとてもできません。何もかもご承知の上で、あの方の好きにさせていらっしゃいます」
「…………」
「さすがに体面が悪すぎますので、公爵さまもこの噂が広まることを厳しく禁じております。もちろん陛下もです。何よりあの方は理想の貴婦人として、若い騎士たちには絶大な人気があります。ですからなおのこと、こんなことは誰も言えません」
今度こそ息が止まりそうになったナシアスだった。
「……陛下が、ご存じだというのですか?」
「もちろんです」
「それが、もしそれが本当なら、ご自分の妹君です。陛下はどうしてあの方をお|諌《いさ》めしないのです!?」
「下手に咎め立てればこの男が|邪《よこしま》な欲望を抱いて無理やり自分を手込めにした――もしくは手込めにしようとしたと騒ぎ立てるからです」
「…………」
「常に王族並みの警護に守られ、一人になることは決してないサヴォア公爵夫人にそんな真似のできる男がいるはずもありません。しかし、これを嘘だと決めつけることは、ご自分の妹の不品行を認めることになります。陛下にとっても致命的な|醜聞《しゅうぶん》です。もみ消すためには夫人の言い分が正しいことにするしかない。つまり陛下は、何の罪もない、前途ある若者を死刑にしなければならなくなります」
「…………」
「あの方の――悪い遊びがいつから始まったのかは存じません。噂ではグラスメア卿が誕生した後からだということですが、公爵家に嫁ぎ、男子を産んで義務は果たしたのだから、後は自分が何をしようと勝手だとお思いになったのかもしれません」
「バルロも、知っているのですか。その……」
自分の母親の|淫行《いんこう》を。
とても声にできない質問に、レヴィン男爵夫人は痛ましそうな顔で頷いた。
「はい。もちろんご存じです。若い騎士を拾うのはあなたが初めてではないのですから」
絶句するしかなかった。
ナシアスはずいぶん長い間、レヴィン夫人の顔を見つめて、魂まで吐き出すような苦い息を吐いた。
「わたしには……まだ信じられません。上の屋敷でお会いした時、公爵夫人はバルロのことを心配して、稽古の様子を尋ねておられましたのに……」
息子を案じる、優しい母親に見えたのに。
そう言いたかったナシアスだが、夫人は容赦なくその感傷を否定した。
「いいえ。あの方はグラスメア卿には、何の関心も持っていらっしゃいません」
そんなはずは――と、ナシアスは言おうとしたが、夫人はゆっくり首を振った。
「あなたがグラスメア卿に剣術をお教えするようになってから二年が過ぎているのです。息子の成長に関心を持ち、その様子を気遣っている母親にしては、あなたに会おうと思い立つのが遅すぎます」
公爵夫人が息子のバルロに会うのは、身内で何か特別な集まりがある時くらいだと夫人は続けた。
そして、バルロもそんな母親に会いたがらない。
実の母親と息子でありながら、あの二人の間にはほとんど交流がないのだという。
「多分、最近になって身分の低い騎士が次期公爵に手厳しい剣の稽古をつけている、木太刀で容赦なく打ち据えていると聞き及んだのでしょうね。それはあの方には絶対に許せないことです。身分の上下というものを、順列というものを、分をわきまえるということを存分に思い知らせてやらなくては――。恐らくはそんな|嗜虐《しぎゃく》的なお考えであなたと面談し、そして目的が変わったのです」
絶望的な表情で|呻《うめ》いたナシアスだった。
どうしても信じられないと思う気持ちがある反面、今にして思えば納得できる一事がある。
最初に官舎にやってきた時の侍女の態度だ。
犬は飼い主に似ると言う。同じように家来もまた、主人次第でどうとても変わるものだ。
あの侍女の|驕慢《きょうまん》な態度。相手を|露骨《ろこつ》に見下し、自分の意のままに動いて当然だとばかりに高圧的に振る舞い、従わなければあからさまに腹を立てる。
公爵夫人の使っている女にしてはずいぶん出来が悪いと思ったが、あの侍女の態度はそのまま主人である公爵夫人の人柄を表していたのではないか……。
レヴィン夫人は身を乗り出して、熱心に言った。
「ナシアスさま。グラスメア卿とあなたの間に何があったのかは存じません。ですが、グラスメア卿はあなたのために、あなたを守るためにやったのです。それだけはわかってさしあげてください」
ナシアスはまだ呻きながら茫然と呟いた。
「それなら……あんな極端なことをしなくても……それならそうと言ってくれれば……」
レヴィン夫人の眼が厳しい光を|湛《たた》えてナシアスを見た。
「あなたなら、言えますか?」
「…………」
「自分の母親が若く美しいあなたに眼をつけている。二人きりになったら間違いなく寝床に誘おうとする。しかもそれを拒否しようものなら|逆上《ぎゃくじょう》し、身分にものを言わせてあなたを騎士団から追放するだろう。それどころか、あなたのご家族、ご一族そのものを憎悪して、土地から追放しようとするかもしれない。そうなったら自分にもどうすることもできないから、決して母に会ってはならない。そのとおりのことを、ご自分のたいせつなお友達に言えますか?」
返す言葉がなかった。
激しい衝撃に打ちのめされていても、ナシアスは自分が何を為すべきか、ただちに悟った。
立ち上がった。
「すっかりお邪魔してしまいました。レヴィン夫人。わたしは行かなくては」
夫人も微笑して頷いたが、ちょっと声をひそめて、言い出した。
「今のお話はグラスメア卿には内密にお願いします。わたくしが叱られてしまいますので」
「心得ております」
初めて笑顔になって、ナシアスは頭を下げた。
「ありがとうございました。レヴィン夫人。心から感謝します」
「本当に感謝してくださっていますか?」
「もちろんですとも。どれだけお礼を申し上げても足らないくらいです」
「でしたら、一人前の騎士たるもの、こういう時はわたくしの手に|接吻《せっぷん》して謝意を示すくらいのことはなさるのが礼儀ですよ」
途端に赤くなったナシアスだった。
確かにそれは騎士の作法の一つではあるのだが、楽しそうに笑っている男爵夫人を見ると、やっぱりからかわれているような気がしたので、胸を張って言い返した。
「わたしは、そういうことは不得手なものですから、バルロに任せます」
レヴィン夫人に|暇《いとま》を告げたナシアスは、その足で一の郭のサヴォア館に向かった。
ここへ来るのも久しぶりである。来訪を告げると、慌てた様子のカーサが奥からすっ飛んできた。
「こ、これはナシアスさま……」
「ご無沙汰しています。バルロはいますか?」
「はい。お庭にいらっしゃいます」
庭もすっかり春の様相を呈していた。昼下がりの暖かい庭で、一人で剣の稽古に励んでいる少年に、ナシアスは屈託のない様子で近づいて、ごく普通に声を掛けた。
「やあ、バルロ」
少年は驚いて稽古の手を止めた。
その顔には信じられないものを見るような激しい驚愕がある。
どうしてナシアスがこの庭にいるのか、さっぱり理解できていない顔だった。茫然と呟いた。
「……何をしに来た?」
「もちろん、きみに謝りに」
ナシアスは逆ににっこり笑って言ったが、すぐに微笑を消すと、真顔で頭を下げた。
「先日のことはわたしが悪かった。確かに、きみの言うとおり、身分も忘れて思い上がっていたと思う。本当に申し訳ないことをした。謝罪すると同時に、二度とあんなことはしないと約束する」
バルロはぽかんとして突っ立っていた。
これまた何が起きているかわかっていない顔だが、次期公爵たるもの、そんな間抜け|面《づら》は見せられない。
慌てて顔の筋肉を引き締めたが、眼がうろうろと泳いでいる。動揺しているのが丸わかりである。
どう考えても話がおかしい。
ナシアスは自分のことを、信義に値しない相手とみなして見捨てたはずだと、バルロは思っていた。
顔|だけ《、、》は色白で美しく態度|だけ《、、》は|柔和《にゅうわ》なのだが、この若い騎士の性根には鋼鉄の芯が通っている。
無様に縛られながら自分に浴びせてきた眼と声の冷たさときたら、思い出してもぞっとするくらいだ。
それなのに、そのナシアスが自分に詫びるという。
何がどうなっているのか見当もつかなかったが、渡りに船だったのも確かだった。ぼそぼそと言った。
「……わ、わかれば、いい」
「いいや、よくない」
ナシアスはさらに進み出て少年に近づいた。
逆に少年はその接近を恐れて、後ずさりしそうになったのをかろうじて|堪《こら》えたのである。
相手が何であれ、少年の立場では逃げたりしてはならないのだ。もっとも、正直なところ、こんなに逃げたいと思ったこともかつてなかった。
広大な庭の真ん中でナシアスは少年の前に立ち、その顔を見つめて真剣な口調で言ったのである。
「わたしは自分の非を認めて、きみに許しを請うているのだから、今回の無礼を許してくれるつもりがあるのなら、そう言って欲しい」
木太刀を手にした少年は愕然としていた。
何かとんでもないことを言われている――それはわかる。しかし、何を言われたかのか理解しようにも時間が足らなさすぎる。何より肝心の頭がちっとも働いてくれないのだ。
銅像のように立っている少年の顔を、ナシアスはそっと|覗《のぞ》き込んで、悲しそうな口調で言った。
「許すと言ってはくれないのか?」
我に返った少年は大慌てで首を振った。
大混乱に陥りながらも、何とかそっくり返って、せいぜい偉そうに言ったものだ。
「そ、そこまで言うなら、今度だけは許してやる」
「ありがとう」
嬉しそうににっこり微笑む人の笑顔を恐ろしいと思ったことはあまりない。
少なくとも今までは一度もない。
しかし、バルロは顔では懸命に平静を装いながら、実はびっしょり冷や汗を|掻《か》いていた。
何やら徹底的に追い込まれている気がするのだが、相手はにこにこ微笑んでいるのである。
「今日はもう遅いから、明日からまたここへ来るよ。――いいかな?」
どうやら返事をしなくてはならないらしいので、少年は口を開いた。
そうして、ことさらゆっくりと言葉をつくった。
「おまえは俺に詫びを入れて、俺はおまえを許した。――だめだという理由はないな」
「では、また明日」
あっさり言って背を向ける。
一部始終を見届けていたカーサも驚きを隠せない顔だった。慌てて見送りを申し出たが、ナシアスは勝手はわかるからと断って、すたすた歩いていった。
その後ろ姿をバルロは茫然と見送って、カーサは苦笑しながら主人に話し掛けたのである。
「若君」
「なんだ?」
「老婆心ながら申し上げますが、あの方だけは敵に回さぬほうがよろしゅうございますぞ」
「……同感だ」
「もう一つ、男爵夫人にお礼を申し上げなさいませ。これは夫人のお働きがあったに違いありません」
バルロは困ったような顔になった。
「礼など……言えるわけがない。あの人は、白分が何かしたことなど決して認めない」
母親の不品行を話したことは否定するはずだから、それに対して礼も言えるはずがない。
悩む若い主人に、カーサはさらに助言した。
「でしたら、詳しいことは何も言わずに『おかげて助かった』とだけおっしゃいませ。夫人にはそれで充分、通じるはずです」
「わかった。今から行って来る」
|悄然《しょうぜん》としていた少年は木太刀を置いて勢いよく走り出して行った。
三の郭に降りてきたナシアスには、自分の官舎に戻る前に、まだ寄るところがあった。
ティレドン騎士団の官舎である。
「アスティン・ウェラーどのはおいでですか」
取り次ぎの小者に尋ねている時だった。
ちょうど通りかかった若い騎士がナシアスを見て、馬鹿にしたように冷笑した。
この騎士はあの場所にいて、ナシアスが縛られて転がされているところを目撃したのだろう。
よくまあ図々しくこの官舎に顔を出せるものだと思っているのが態度でわかる。
露骨な軽蔑の視線を浴びせてきたが、ナシアスはそんなものにはびくともしなかった。
こんな人間にどんな眼で見られようが、それこそそんなことはどうでもよかったのだ。
客間で待つように勧められた声を断って、官舎の入口に立っていると、アスティンが奥から出てきた。
ひどく驚いた顔をしていた。
どうして自分に会いに来たのかと、アスティンがその疑問を口にする前に、ナシアスは真顔で言った。
「先日のことをお詫びしたいと思って参りました」
この人は知っているはずだった。
あの時、天幕の外にいた若い騎士たちはバルロの口実を頭から信じていたが、この人は違う。
バルロが決して口にできない本当の事情を知っているはずだった。
他の騎士にも聞こえるように、ナシアスはわざとはっきりした声で言葉を続けた。
「まったくもってわたしの思慮が足りませんでした。実に赤面の至りです。バルロにはたった今、謝罪を述べてきたところですが、あなたにも謝らなくてはならないと思ったのです」
アスティンはさらに驚いた顔になった。
慎重な口調で尋ねてきた。
「グラスメア卿に……謝罪していらした?」
「はい。本当にありがたいことに、バルロは快くわたしの過ちを許してくれました」
まっすぐ自分を見つめるナシアスの眼の色を見て、アスティンの顔が初めてかすかにほころんだ。
「それはよかった。何よりです」
「はい」
「グラスメア卿は気性の激しい方ですが、根に持つ方ではありませんから。これからもきっと元通りに親しくしてくださいますよ」
アスティンもわざと他の騎士に聞かせる声で言い、何気ない調子で話し掛けてきた。
「よろしかったら、少し、外で話しませんか」
「はい」
夕方の迫る三の郭は大勢の人の気配でにぎわい、炊飯に掛かる女たちや小者たちの声、仕事を終えて帰宅する兵士たちの声などでごった返している。
逆に、一日の訓練が終わった騎士団の敷地の中は静かなものだった。
特に馬場には誰もいない。
馬はみんな馬房に入り、騎士たちも官舎の中だ。
がらんとした空間だけに、誰かが近づいてくればすぐにわかる。アスティンはその屋外訓練場の真ん中まで歩いてナシアスを振り返り、赤い夕陽の中で軽く頭を下げた。
「許してくれと言わなければならないのはわたしのほうでしょう。ずいぶん乱暴なことをしました」
ナシアスは首を振った。
ああするより他にどうしようもなかったのだと、今のナシアスにはわかっている。
「それはもういいのです。ただ、その……」
ちょっと|口籠《くちご》もって、ナシアスは言った。
「わたしはレヴィン男爵夫人から|伺《うかが》ったのですが、あなたは……どうしてご存じだったのでしょう?」
目的語のない質問だが、その意味がアスティンに通じないはずもない。
秀麗な顔を引き締めて、アスティンは言った。
「わたしは実際にお相手を務めた一人です」
度肝を抜かれた。
予想だにしなかった答えだった。
ナシアスはまさしく呆気にとられてアスティンの顔を見つめてしまい、アスティンは何とも言えない自嘲の笑みを浮かべたのである。
「軽蔑しますか?」
ナシアスはのろのろと首を振った。
公爵家の権威を振りかざして迫られれば、抵抗の仕様がない。仕方がないことだったのだ。
それでも、どうしても、そんな振る舞いはこの人らしくないという思いが消せず、黙っていられなくなって尋ねていた。
「理由を……お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「わたしには家族があります」
アスティンの答えは実に簡素なものだった。
「拒否すれば間違いなく家族に|累《るい》が及んだでしょう。あの方は事実、それを口にしたのです。公爵夫人の寝室に忍び込んだ罪人の家族は処刑されるものだと。ただし、自分が口をきくことで、助命も可能だと」
ナシアスは息を呑んだ。
思わず喘いだ。
「そんな……馬鹿な……」
レヴィン夫人が言っていたことだが、公爵夫人の寝室に一介の騎士が忍び込めるはずなどないのだ。
アスティンは小さな息を吐いている。
「わたしも|迂闊《うかつ》でした。いえ、まさかそんなことがあるはずがないと思っていたのです。夜中に突然の呼び出しを受けても、それでもまだ気づかなかった。――あの方は、何と言っても陛下の実の妹君であり、賢夫人として評判の高い方でしたから」
ナシアスは茫然と呟いた。
「わたしも、そう思っていました……」
「あの方の真の目的に気づいた時には手遅れでした。わたしは家族に累加及ぶことだけは――それだけは避けたかった。そのくらいならわたし一人が犠牲になって終わらせようと思ったのです。翌日、強引にサヴォア公爵にお目に掛かりまして、洗いざらいをお話しし、どうか処罰はわたし一人にしてほしいとお願い致しました」
ナシアスは|はっ《、、》として顔を上げた。
それはまた恐ろしく思い切った真似をしたものだ。
公爵にとっては夫人と|姦通《かんつう》をした相手が眼の前に現れたことになる。
その場で縛り首にされても、八つ裂きにされても、文句は言えないところだが、アスティンは今もなお、こうして生きている。
お咎めはなかったのかと視線で尋ねたナシアスに、アスティンは真顔で頷いた。
「今にして思えば我ながら厚かましい限りですが、公爵は|寛大《かんだい》にも、わたしに命を許してくれました。一度、死を覚悟したのであれば、その覚悟をもってグラスメア卿のために働くようにと」
「失礼ですが、その事情は………バルロも知っていることですか?」
「もちろんです」
アスティンは微笑を浮かべかけたが、すぐにその微笑を消した。
「あの晩――あなたのところへ忠告に行った晩も、あの方が翌日にいらっしゃると連絡があったのです。グラスメア卿はあの方と顔を合わせたくない一心で、さらに言えばわたしをあの方から遠ざける目的で、急いで夜営訓練に出発したのです。ただ、あの方が何の目的でコーラルにお見えになるのかと考えた時、あなたの存在を除くわけにはいきませんでしたので、念のために申し上げたのですが……」
アスティンは再び吐息を洩らした。
「無駄なことでしたね。あの方は何でも思い通りにしなければ気がすまない方ですし、公爵夫人の呼び出しをあなたが断れるはずもない。いやというほどわかっていましたのに……」
「いえ、わたしのほうこそ、せっかくの忠告を無にしてしまって……お恥ずかしい限りです」
色白の顔に|羞恥《しゅうち》と後悔を浮かべてうつむいている若い騎士の姿はアスティンの眼にも初々しく見え、アスティンは思わず苦笑した。
「あなたに会ったら、あの方がどんな行動に出るか、それも火を見るより明らかでした。なお悪いことにあの方の本当の意図を知っても、あなたはわたしのような恥知らずにはなりきれないはず。必ず激しく抵抗し、きっぱりと拒絶するでしょう。――ですが、そんなことをしたら、あなたの騎士としての生命は終わりです」
「…………」
「あの翌日、ラモナ騎士団の官舎に小者を走らせて、あの方の侍女があなたを上のお屋敷に連れ出したことを聞きました。まさに予感的中です。あとはもう、わたしたちにできることは、あなたをあの方の元に行かせないこと。それだけでしたので、夜営訓練中、ずっとあの道を見張っていたのです」
ナシアスは赤い空を見上げて大きな息を吐くと、アスティンに向かって深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした。とんだお手数を――たいへんなご迷惑をお掛けしてしまいました」
アスティンは首を振った。
「いいえ。あなたにはお話しすべきだと、わたしは申し上げたのです。あなたはきっとグラスメア卿の味方をしてくださると思いましたから。グラスメア卿の口から言えないのであれば、わたしが代わりにお話しするとも申し上げたのですが、何と言ってもグラスメア卿にとっては実の母君です。――やはり、どうしても……」
「わかります」
誰が自分の母親のそんな|醜《みにく》い姿を人に話したいと思うものか。
真っ赤な夕陽の中で二人はしばらく黙っていたが、アスティンが不意に、くすりと笑った。
「グラスメア卿は、こんな汚点をあなたに知られるくらいなら、嫌われるほうがまだましだと大見得を切っていましたが、実際に嫌われてみると、それが相当こたえたらしい。この一ヶ月というものずっとしょぼくれていましたから、仲直りしてくださって、ほっとしました」
ナシアスも笑った。
あの少年は、筆頭公爵家の一粒種という恵まれた身分でありながら、それ故にありがたくない連中にたかられ、身内にも大きな問題を抱えている。
それでも、こういう人が側についていてくれれば安心だと思った。
もう一人、レヴィン男爵夫人もだ。
正直に言えば、ナシアスはあの人に対して未だにいろいろと思うところがある。全面的によしとするわけではないが、それは努めて考えまいとした。
あの人は少なくともあの少年のよき理解者であり、味方でもある。心強い存在には違いない。
ところが、このすぐ後、初夏の風の|薫《かお》る頃だ。
夫人は急に二の郭の家を引き払って、コーラルを出て行ったのである。
ナシアスがそれを知ったのは、夫人が引っ越しの挨拶にラモナ騎士団の官舎を訪れた時だった。
「公爵さまとのお約束の期日になりましたので」
と、レヴィン夫人は言った。
「|妾《めかけ》奉公というのはたいていそういうものですが、最初から三年のお約束でお仕えしていましたの」
つまりは任期が明けたということだ。
この人がコーラル城からいなくなるということに、ナシアスは自分でも不思議なくらい動揺した。
思わず尋ねていた。
「それで……これからどうなさるのです?」
「とりあえず、子どもたちを迎えに行きます」
またまた驚いた。
「お子さんがいらっしゃる?」
「はい。娘が二人」
その子たちは遠方の親類のところに預けてあり、夫人はこの三年ずっと仕送りを続けていたという。
公爵からの手当を無駄にはできないという言葉の意味をやっと理解したナシアスだった。
夫人は既に馬車を用意させていた。
これからロシェの街道を西に進み、国境を越える予定だという。
それなら、途中まさにビルグナを通る。
ナシアスは|咄嗟《とっさ》に申し出ていた。
「それでは国境までお送りします」
「まあ、お気持ちは嬉しく思いますが、騎士さまがそんな勝手なことはできますまい」
「勝手ではありません。もともと、近いうちに一度、|砦《とりで》に戻る予定になっているのです」
それは本当だった。
その出発が二、三日早まるだけのことだったから、官舎の責任者もすぐに許可を出してくれた。
ナシアスは夫人の馬車を護衛しながら街道を進み、道中、夫人が公爵の愛人になった経緯を聞かされた。
「二人の子どもを抱《かか》えて夫に死なれて、わたくしは途方に暮れてしまいました。夫は名ばかりの男爵で領地も蓄えもほとんどなかったからです。それでも、何としても、子どもたちを養わなくてはなりません。知人の|伝《つて》でサヴォア公爵さまにお目に掛かる機会がありまして――国内でも屈指の裕福なお方ですから、|藁《わら》にもすがる思いで、少し助けていただけないかと申し出たのです」
道も野原も一面の緑に|覆《おお》われていた。
太陽の光は燦々とその緑に降り注いでいる。
旅にはちょうどよい、気持ちのいい季節だった。
ただ、ナシアスの心だけが晴れやかとは言えず、重い雲がたれ込めている。
まるでニヶ月前の再現のようだった。
「公爵さまは少しも悪びれずに『身体を任せる気があるのなら援助をしよう』と、おっしゃいました。あくまで気の毒な女に手を貸そうという親切心からおっしゃったことはわかっています。ただし、若い女に手を差し伸べるということは身体を払わせるということだと、公爵さまは当たり前のように考えていらっしゃいました。それを侮辱だと感じ、屈辱に思う女もいるなどとは想像もしていらっしゃらない。すべての女は自分が手を差し伸べれば、ありがたく感謝して受けるものと確信していらっしゃいました。わたくし、腹を立てるより、呆れてしまいましてね。これが公爵という身分の方かと思いました」
「それでも、あなたは公爵の元へいらした……」
その声にいくらか非難の響きが混ざっていたのはまだ十九歳のナシアスでは仕方がないことだ。
夫人は年上の女の余裕をもってナシアスを見つめ、静かに微笑した。
「他にどんな仕様がありましたかしら?」
「…………」
「わたくしは二人の娘を養わなければならなかった。どんなことをしてもです」
ナシアスは眼を伏せた。
なぜかわからないが、自分がひどく無力に思えて、それが腹立たしかった。
途方に暮れたような顔をしていると、夫人はまた口調を変えて話し掛けてきた。
「嘘です。あなたはわたくしを軽蔑してくださっていいのです。娘たちを養う方法は他にもあったのに、わたくしは結局、楽な道を選んだのですから」
ナシアスは首を振った。
貧しい貴族の未亡人が子どもを育てるのは決して簡単なことではない。
再婚するか、親類のところに身を寄せるか、男に養ってもらうか、そのいずれかしかないのだ。
だが、夫人にとっては、こうしたことも、今では平気で話せる思い出話に変わっているらしい。
「そんな経緯がありましたから、グラスメア卿には、ことに及ぶ前に女自身の意思を確認することを|努々《ゆめゆめ》怠ってはならないと入念にお教えしたつもりですわ。わたくしのささやかな意趣返しです。とはいえ、確認もほどほどに致しませんと肝心の機会を逸してしまいますから、その辺の|匙《さじ》加減は微妙ですが――幸い、グラスメア卿は物覚えのいい生徒でした」
そんなことをこの人は|悪戯《いたずら》っぽく笑って言うので、どこまで本気なのかナシアスにはさっぱり掴めない。
やがてビルグナ砦が近づいた。
ナシアスは砦に従者を走らせて事情を説明させ、初めてその前を素通りした。
翌日、テバ河の関所にさしかかった。
夫人は河を越えるための出国許可証を持っている。
それを持たないナシアスは川の手前で馬を止めた。
最後に馬車の窓越しに夫人の顔を見ると、夫人もナシアスを見つめて微笑した。
「ここまでありがとうございました、ナシアスさま。あなたが立派な騎士さまになられるよう、陰ながらお祈りしております」
「あなたも、お元気で」
こんな通り|一遍《いっぺん》の挨拶しか出てこない自分が少し情けなかった。
夫人を乗せた馬車は橋の手前に設けられた関所の中に消えていき、やがて橋の向こうに現れた。
緑の道を遠ざかり、小さくなっていくその馬車を、ナシアスはいつまでも見送っていた。
それからしばらくして――。
ビルグナ砦にいたナシアスは、東部の領主たちの間に領地を発端とした|諍《いさか》いが起こったこと、それが互いに武器を取っての抗争に発展したので、これを鎮圧するためにティレドン騎士団が出動したことを、コーラルからの知らせで知った。
その中に、十五歳になったばかりで騎士となったバルロが加わっていたことも噂で聞いた。
十五歳での騎士昇格は異例と言ってもいいくらい早いが、それを親の七光りと言うものは一人もいなかったという。
なぜ誰も言わなかったのか。それは実際バルロに会ってみれば一目でわかることだった。
その頃のバルロは十五の少年とは思えないくらいたくましくなっており、剣も馬も大人顔負けに使うようになっていたからである。
背丈もナシアスとほとんど変わらなくなった。
だからといって剣技で劣るつもりはもちろんないナシアスだが、身長はともかく、体格の点ではそのうち追い越されるかもしれないなと、素直に思った。
バルロは|初陣《ういじん》でもかなりの手柄を立てたらしい。
二人ともレヴィン夫人のことを話題に出すことはなかったが、夫人がいなくなったことを、バルロも寂しく思っていたのは間違いない。
一度だけ、呟くようにしてこんなことを言った。
「父はもう少しここにいて欲しいと言ったらしいが、あの人は、それではお約束が違いましょうと言って、出て行ってしまったようなのだ」
「そうか……」
どのみち、いなくなった人のことばかり考えてはいられなかった。
この頃の二人には、やらなければならない仕事が山ほどあったのだ。
バルロはティレドン騎士団の中で、身分や家柄に関係なしに自分に賛同する者たちを見極めることに忙しかったし、ナシアスもまたラモナ騎士団の中で隊長格の騎士として頭角を現しつつあった。
そして、バルロの初陣と同じこの年の夏――。
ナシアス率いる一隊がいつものようにコーラルを出発し、七日の行程を終えて、もうじきビルグナに到着しようという頃のことだった。
その彼らを追うように、黒い喪章をつけた早馬が街道の東から土煙を立てて駆けつけてきた。
国王の崩御を知らせる急使だった。
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7
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ドゥルーワ王はまだ五十歳にもなっていなかった。
今まで病気らしい病気一つしたことがない。健康そのものの人だったのに、突然、胸を押さえて倒れ、そのまま亡くなってしまったというのである。
あまりにも早すぎる、あまりにも急激な死だった。
陛下は毒殺されたのではないかという|噂《うわさ》も密かに|囁《ささや》かれたが、幾重にも毒味をする王宮の管理態勢を考えれば、それは事実上、不可能だった。
残された家臣たちは、ドゥルーワ陛下は心の臓を悪くして亡くなられたと発表すると同時に、第十八代デルフィニア国王として、レオン・ウェルヌスが即位することを発表した。
この知らせはナシアスにとっても衝撃だった。
(陛下が亡くなられたのか。こんなに早く……)
ビルグナの空の下で、ナシアスはラモナ騎士団の官舎で一度だけ|見《まみ》えたドゥルーワ王の印象を鮮明に思い起こすとともに、いよいよこの時が来たのかと緊張を新たにしていた。
前国王に比べると一枚も二枚も――それどころか格段に質の劣る新国王が誕生することになる。
さらに考えたのはバルロのことだ。
彼は新国王の|従弟《いとこ》として、筆頭公爵の総領として、レオン王子に忠誠を誓うことになる。
それが残念だった。
物事というものはうまくいかない、これが逆ならどんなによかったかと思ったことは否めなかった。
ナシアスは王冠も王座も直に見たことはない。
想像するしかないが、宝石に飾られた|煌《きら》びやかな宝冠を頭に乗せ、獅子の紋章も鮮やかな礼装を|纏《まと》い、大勢の臣下に|傅《かしず》かれながら黄金の玉座に座る。
その主役を務めるのはあのレオン王子ではなく、バルロのほうがよほどふさわしい気がした。
ナシアスのように個人的な思い入れはなくても、レオン王子の国王としての素質に疑問を抱いた人は決して少なくなかったはずである。
そうした民意を反映したわけでもないだろうが、王子の|戴冠式《たいかんしき》はすぐには行われなかった。
噂では、サヴォア公爵がしばらく亡き陛下の喪に服すべきだと、レオン王子に進言したらしい。
何しろ、即位したら、気に入りの女たちを残らず国王の愛妾として取り立てて、全員に本宮の部屋を与えてやると公言するような人である。
王宮にはもともと奥棟といって王妃や女宮たちの往み暮らす部分が設けられているが、王子は自分の馴染みの女たちの名前をいちいち挙げて、これでは全然部屋が足らないと、即位したら真っ先に奥棟を増設しなくてはと、真顔で言ったらしい。
これではとてもとても王冠など与えられないと、側近たちが思ったのは当然のことだ。
しばらくは王座をお預けにしておいて、その間に、何とか次期国王にふさわしくなるよう教育しようと、サヴォア公爵は考えたのかもしれなかった。
公爵はいわば側近中の側近であり、レオン王子の義理の叔父にもあたる。その人の意見を王子も無視できなかったらしく、王子の身分のまま側近たちと協力して施政に当たることになった。
公爵の教育が効果を発揮したかどうかはともかく、王位の空白期間は国民の予想以上に長く続いた。
実に一年以上もだ。
それでもようやく戴冠式の日取りも決まった頃、レオン王子が突然、亡くなったのである。
落馬事故だった。
ドゥルーワ前国王の死は国民すべてが嘆いたが、この時の人々の反応はあっさりしたものだった。
「あれまあ、亡くなったのかね、お気の毒に」
その程度で片づけてしまったのである。
放蕩者のレオン王子にいかに人望がなかったかを如実に示している。
ナシアスもそうだった。驚いたことは確かだが、心のどこかにほっと|安堵《あんど》する気持ちがなかったとは言いきれない。
第二王位継承者のエリアス王子はまだ八歳。
恐れ多いことではあるが、|愚昧《ぐまい》な王よりは無能な王のほうがまだましではないかと思われたのだ。
ところが、もともと虚弱な体質のエリアス王子は、兄の死からわずか半年後、風邪をこじらせたことが原因で亡くなったのである。
国王直系の男子が一人もいなくなってしまったが、デルフィニアはただちに、エリアス王子の姉であるルフィア王女が即位することを国内外に発表すると、女王|擁立《ようりつ》の動きに入った。
これ以上、国王不在の状況が続くことが好ましくないのは明らかだったからだ。
噂だが、コーラルはこれまで以上に毒味を強化し、強力な医師団を結成してルフィア王女の体調管理に当たらせ、身辺警護もさらに厳重にしたという。
その上で国の威信を懸けて、過去に例のないほど盛大な戴冠式の準備を整えたが、なんと、これほど警戒したにも|拘《かか》わらず、ルフィア王女までが即位を目前に体調不良を訴えて病床につき、ほどなくして亡くなってしまったのである。
さらにはルフィア王女の妹の、唯一残された王位継承者であるエヴェナ王女までが病に倒れた。
デルフィニアはさすがに大混乱に陥った。
中央の華と|謳《うた》われたこの国に何が起きているのか、もしや何かの呪いではないかと、市民たちの間でもひそひそと不安げに囁かれるようになった。
この隙を東西の両大国が見逃すはずがない。
特に西のパラストは、以前から|虎視眈々《こしたんたん》と領土を狙っているのである。
エリアス王子の死の直後から川向こうには不穏な動きが見られたのだが、ルフィア王女の死と同時にこの動きは一気に活性化した。
それでも、異常なくらい用心深い西の国王は正面切っての宣戦布告などはしない。
表向きの理由は川を挟んだ領主同士の|諍《いさ》いであり、その□火を切ったのもパラストの領主だった。
デルフィニアの武将が川を越えてこちらの領内に侵入し、さんざん乱暴|狼籍《ろうぜき》を働いたと言い立てて、我には復讐の権利ありと主張して、テバ河の関所を占拠したのだ。
無論、とんでもない言いがかりである。
デルフィニアの武将たちは事実無根だと訴えたが、無駄なことだった。
相手は最初から聞く耳など持っていないのだ。
これを口実に合戦に持ち込み、勝利を収め、その勢いをもって軍勢を進め、あわよくはコーラルまでなだれ込もうという心づもりなのである。
事実、テバ河の対岸では、パラストの領主たちがあちこちで挙兵の準備を整えつつある。
今のところ積極的な動きに出たのは街道の関所を有するセネグロという土地の領主一人だけで、他の領主たちは静観の姿勢を取っている。
だが、どんなきっかけでセネグロの領主に合流し、|堰《せき》を切ったようにデルフィニア国内になだれ込んでくるかわからない。
だからこそ、騒ぎは早急に収拾しなければならず、絶対にこの水際で食い止めなければならなかった。
コーラルもこの事態を重視した。
デルフィニア西部の領主に挙兵を許すと同時に、ラモナ騎士団だけでは危ないかもしれないと案じてティレドン騎士団を増援として派遣した。
日頃は静かなビルグナ|砦《とりで》は一気に騒がしくなり、ナシアスは久しぶりにバルロに再会した。
バルロは十六歳になっていた。
|叙勲《じょくん》されてから数々の合戦で|手柄《てがら》を立て、今では『グラスメア卿』でも『公爵家のご子息』でもなく『騎士バルロ』と呼ばれることが多いと聞いている。
しかし、ティレドン騎士団長のジャコーは、なぜこんな西の果てまで出陣しなければならないのかと不満たらたらな顔だった。
「川向こうが騒がしいのなど、いつものことだろう。ラモナ騎士団だけで充分、対処できるはずだろうに、何だって我々が……」
そんな上官を副団長のザックスがなだめ、事態の重要性を説明している。
「今、パラスト勢の侵入を許せば、我が国にとってまことにゆゆしき事態となります」
さすがにザックスの顔には緊張感があった。
彼は状況を理解できないような騎士ではない。
ドゥルーワ・ジエンタの在位中ならこんな心配は無用だった。彼の統治のもと国内は安定していたが、既に二年近くも国王不在の状況が続いている。
跡を継ぐべきただ一人の王女も病の床にある。
こんな状況下では何か起こってもおかしくないと、ザックスは思っていた。
タンガ・パラストという東西の国を警戒するのはもちろんだが、不安材料は身内にもある。
今のデルフィニアは屈指の大貴族であるサヴォア公爵、近衛司令官のアヌア侯爵、それに加えて最近、急激に発言力をつけてきたペールゼン侯爵といった顔ぶれが力を合わせて統治しているが、彼らは所詮、臣下であって君主ではない。
それなのに、その臣下にあれこれ指図されるのは同じデルフィニア人であっても――あればこそとも言えるのだが――おもしろかろうはずはないのだ。
今はかろうじて落ちついているが、このままでは『コーラル政府』に対し、はっきりと『反政府』の立場を掲げる豪族が現れても不思議ではない。
だからこそ、国境で起きたこの騒動を一刻も早く鎮める必要があった。
外国に対してデルフィニアの持つ戦力を示すのが大切なのはもちろんのこと、国内の諸侯たちにも『コーラル政府』の有する実力を見せつけなければならないのだ。
そのためにも手間取ってはならなかった。
圧倒的な力を持ってセネグロの軍勢を押し返し、テバ河の関所を解放し、これまで同様、両国平等の管理下に置き、何より国境に秩序を取り戻す。
ラモナ騎士団長のロビンスも同じ意見だったから、ザックスの到着を大いに喜んだ。
「ティレドン騎士団が来てくれるとはありがたい。貴殿がいてくれればまさに百人力だ」
「これは過分なお言葉、恐れ入ります。かなう限り、お力になりますが……」
ザックスは苦笑しながらロビンスに歩み寄ると、その耳元でそっと囁いた。
「この頃、飾りものでいるのがいやになったようで、少しばかり手を焼いております」
「そちらの団長がか? 生意気に」
一見したところ温厚な老人のロビンスだが、実は言葉に遠慮がない。
「あれに飾りもの以外の何ができるというのだ」
「どうもその、他の団の兵士たちが、うちの団長は副官がいないと何もできないらしいと噂していると、どこかで聞き及んだようでして……」
「事実だけに仕方がないとも言えるがな。わかった。わしもせいぜい持ち上げるとしよう」
「お手数をお掛けします」
こんな二人と、無口なラモナ副騎士団長、それにティレドン騎士団長の四人で作戦会議が行われた。
関所を川向こうの領主たちに抑えられている現在、向こうはいくらでも兵隊を送り込むことができる。
まずはこの関所を取り戻すことから始めなければならなかった。
ジャコーは味方の戦力が多いことに気をよくして、真っ正面から一斉突撃を掛ければいいと主張したが、ロビンスはまず、別働隊を編成して河を渡るべきと訴えた。
「ジャコーどのの案はまことに勇ましいものですが、残念ながら危険も大きい。関所から離れたところで、こちらの手の者に川を渡らせ、関所の手前と奥から挟み撃ちにすれば、楽に関所を取り戻せます」
ジャコーは白けた顔になった。
「それはまた、ずいぶん手間の掛かる方法ですな」
「しかし、堅実です」
ザックスがすかさず言った。
だが、ジャコーは今までのように簡単には副官の言葉に|頷《うなず》かなかった。
「そこまでする必要があるとも思えませんがねえ? 敵はセネグロの領主勢のみです。川向こうの布陣と合わせてもせいぜい一千といったところでしょう。我々は両騎士団を合わせれば四千の勢力ですぞ」
「ごもっとも。味方は敵に数倍しております」
表向きは穏やかに言いながら、ロビンスも自説を曲げる気はさらさらない。
「なればこそ手間取ってはなりません。正面からの突撃はもっとも有効な手段ではありますが、場合によっては敵に防御を固めさせることにつながります。他の領主たちに救援を求められてはそれこそ一大事。ここは破壊力を持って敵を壊滅せしめるのではなく、迅速さをもって敵を混乱させることを第一の目標に致したいと存じます。手間が掛かるとおっしゃるが、戦全体を考えた時、これが関所を取り戻すもっとも迅連な手段であることは間違いありません」
「しかし、川を渡ると簡単におっしゃるが、肝心の橋は奴らに抑えられているのですぞ。どうなさる? まさか泳いで渡ると言われますか?」
「この季節ならば充分泳げるでしょうが、その案は無理があります。人はともかく、馬と武器を確実に対岸まで運ぶとなると、やはり船でしょうな」
ロビンスは言った。
「地元の漁師たちに協力させれば、一晩でかなりの数を向こう岸に渡せるでしょう」
ジャコーはまた苦い顔になった。
「今度のことは国内の領地争いとはわけが違います。関所の、いわば国境の所有権を争う大事な戦ですぞ。その戦に漁師の協力を求めると言われますか?」
「さよう。河のことなら彼らが本職です」
「しかし……」
家柄を何よりも誇りとする貴族のジャコーには、そんな『下民』の力を借りるのは抵抗があるらしい。
「下々の者には節操というものがない。その連中が我々に協力しながら、その実、何食わぬ顔で関所を占拠したパラスト勢のところに駆けつけないという保証がどこにあります?」
「さよう。そうした恐れがないとは言い切れませぬ。さすがにジャコーどの。鋭い洞察力をお持ちです」
ロビンスはすかさずおだてた。
「ただ、この砦のものはこれまでにも度々、漁師の協力で向こう側に渡っておりますのでな」
地元の漁師だちとの間にもある程度の信頼関係が築かれているとロビンスは説明した。
「どのみち、大勢を送り込むことは無理なのです。せいぜい百か二百人。それなら夜の間に渡れるはず。後は夜明けを合図に行動を開始すればいい」
ザックスも頷いた。
「こちらも彼らと同時に一気に攻めるわけですな。確かにそれなら迅速に関所を取り戻せます」
「いかにも」
ラモナ騎士団長とティレドン副騎士団長の間では意見がぴたりと一致したが、ジャコーはまだ渋い顔だった。
「そううまくいきますかね? ぐずぐずしていたら、その部隊は川向こうの連中の|餌食《えじき》にされますぞ」
「いかにも。よほど迅速に、なおかつ、思い切って片づけねばなりますまい」
ロビンスは既にこの役を誰に割り振るかを決めていた。
一人はナシアス。他にもう一人、ガレンスという隊長が呼ばれた。
ガレンスはラモナ騎士団の中でも際だって大きな男だった。今のナシアスも標準以上に背が高いが、ナシアスと並んでも優に頭一つ分大きい。
その体格に比例して、ガレンスはビルグナ砦でも一番の怪力を誇る騎士だった。加えて、このラモナ騎士団では珍しい攻撃型の男でもある。
そしてナシアスは川向こうの地形に詳しい。
ロビンスは二人に作戦の|概要《がいよう》を説明して言った。
「おまえたち二人が力を合わせれば、さほど困難な仕事ではあるまい」
二人はさっそく地元の漁師たちに会いに行った。
最初は夜の間に板橋を掛けてはどうかと思ったが、漁師たちは一晩でそれだけのことをするのはいくら何でも無理だと即座に言った。
「ですけど、|筏《いかだ》を組んで、その上に騎士さんたちと馬を乗せてそっと渡すことならまあ、何とか……」
「ぜひ頼みたい」
と、ガレンスが言い、ナシアスも言った。 「ただし、その筏に火を|点《とも》すことはできないんだが、無灯火で河を流れるか?」
「できますとも。テバ河はあっしらの庭でさあ」
話は決まった。後は決行である。
昼の間に大きな筏を組んでおき、曇りの晩を選び、関所から一カーティヴほど下流で、ナシアスたちは地元の漁師たちと待ち合わせた。
やがて上流から静かに流れてきた筏は全部で五つ。
筏はかなり大きくつくられていたが、馬を一頭、人間を四人も乗せるといっぱいになってしまう。
ナシアスとガレンスは真っ先に自分の馬と従者を乗せると、自分も乗り込み、河を渡してもらった。
彼らを乗せた筏は真っ暗な水面をゆっくりと進み、やがて対岸に到着した。
空になった筏の群が静かに河に|漕《こ》ぎ出していき、また新たに馬と人を運んでくる。
後続が揃うのを待つ時間を利用して、ナシアスとガレンスは関所の様子を偵察に行った。
馬で接近すると気づかれてしまう恐れがあるので、二人は離れたところに馬をつないで、徒歩でそっと近づいてみた。
関所にもその周囲にも|篝火《かがりび》が明々と灯っている。
向こうからこちらは見えなくても、こちらからは向こうがよく見える。
時々、夜警の兵士の|具足《ぐそく》が火に反射して光る。
さすがに油断はしていない。
だが、思った通り、その警戒はすべて橋のほうに、つまりは河の向こう側に意識が向いている。
好都合である。
ガレンスはにやりと笑って物騒なことを呟いた。
「これなら楽勝だな。いっそのこと俺たちだけで、今夜のうちに仕掛けますか」
「それはやめたほうがいい」
ナシアスは慎重に言った。
「わたしたちの務めは関所を確実に取り戻すことだ。うまくいけばいいが、ここで必要以上に警戒させてしまうと勝機を取り逃がすことになる」
ガレンスは|焦《じ》れったそうに、そして、少しばかり冷やかすようにナシアスを見た。
「慎重すぎるのも勝機を逃しますぜ」
「そうかな? わたしは勝つために、そして生きて帰るためには何が最善かを考えているだけだ」
「勝つだけでは足りませんかね?」
「ああ、足らない。勝つだけでは不十分だ。それはロビンス団長がいつもおっしゃることだぞ」
ますます慎重な口調で続けたナシアスだった。
なぜなら、ガレンスはナシアスよりずっと年上の男だからである。
既に三十をいくつか超えているはずだから、実に一回り以上も違う。
ナシアスがラモナ騎士団に入団した時、彼は既にラモナ騎士団の『|主《ぬし》』と言ってもいい存在だった。
当然、ナシアスの大先輩ということになるのだが、ガレンスは農民の出身だった。本来なら従者として他の騎士の身の回りの世話をしたり馬の世話をすることで一生を終えるはずだったのだ。
彼自身の話によれば、実際、最初はそうしていたらしいのだが、その従者がおもしろ半分に振り回す木太刀にれっきとした騎士がばたばたと|薙《な》ぎ倒され、実戦に出れば、これまた単なる|雑兵《ぞうひょう》の振るう|槍《やり》に敵の勇士が片っ端から討ち取られるという有様で、そのあまりの|強力《ごうりき》と武勇に感嘆したロビンスが彼を叙勲して騎士としたのだ。
それがガレンス二十二歳の時だと聞いている。
だが、もともとの身分が高くないので、団の中で重要な地位につくことはなかった。いねば『|平《ひら》』の騎士という扱いだったが、それはあくまで表向きに過ぎない。実力も存在感も群を抜いているし、他の騎士たちが一目も二目も置く存在だったが、実際に隊長となったのは今から少し前のことだ。
従って、同じ隊長と言っても、どちらかというとナシアスのほうが先輩というかたちになる。
ガレンスもそれを心得ているから年下のナシアス相手に一応は敬語で話しているわけだが、どうにも荒っぽい。反応を試しているような調子である。
「ガレンス」
「何だ?」
「あんたは農民の子だが、わたしだって|田舎《いなか》の小身貴族の子だ。身分を|笠《かさ》に着て命令するつもりはない。そんな真似はみっともないだけだ」
「…………」
「ただ、わたしはこの辺りの地理に詳しい。何度も来てよく知っている。だから、決断はわたしが下す。――あんたにはおもしろくないことかもしれないが、その決断には従って欲しい」
命令ではなく|懇願《こんがん》する口調でナシアスは言った。
ガレンスは呆れたように、そしておもしろそうに、二十歳を過ぎてもまだどこか少女めいて見える若い騎士を見つめて言った。
「そいつは、命令じゃないのか?」
「違う。この問題に関する限りは、わたしのほうが的確な判断が下せると思うから言っている」
「それじゃあ、俺のほうが的確な判断が下せる状況だったらどうする?」
「もちろん、あんたの判断に従う」
即座に言ったナシアスだった。
「大切なのは勝つこと、そして生きて帰ることだ」
もう一度、繰り返した。
事実、それ以上に大切なことは何もないし、そのためなら手段などどうでもいいのだ。
ガレンスは、自分に比べたら折れそうなほど細く、頭一つも小さい相手をじっと見下ろした。
ナシアスもたじろがなかった。まるで壁のように立ちはだかる相手をじっと見上げていた。
やがて、ガレンスは楽しげに笑ったのである。
「そうさな。人には向き不向きがある。俺が腕ならあんたは頭だ。腕は頭の言うとおりに動くもんさ」
ナシアスも微笑した。
二人はそこで偵察を終えて引き上げると、後続が揃うのを待った。
漁師たちが交代でせっせと筏を漕いでくれたのでやがて二百人が川を渡り終えた。
半分は騎馬で、半分は|徒士《かち》だ。
全員が渡河しても夜明けにはまだ聞かあったので、ナシアスは兵士たちに交代で仮眠を取るように言い、自分もごろりと横になった。
やがて暗闇が去り、空が群青に変わり始める。
ナシアスは真っ先に眠を覚まし、他の兵士たちを起こして身支度を調えた。
各人が携帯した|兵糧《ひょうろう》で腹ごしらえをすませると、白百合の旗印をはためかせながら、ラモナ騎士団の二百人はしずしずと橋を目指した。
彼らが石造りの橋に設けられた関所を自分の眼で確かめた時、朝陽はまだ差していなかったが、空は充分に明るい。
ちょうど起き出してきたばかりの敵の兵士たちが炊事の支度に働いているのが遠目に見えた。
まさに好機である。ここぞとばかりにガレンスが怒号のような声を張り上げた。
「突撃!」
吠えると同時に一直線に関所めがけて突進する。
兵士たちが|喊声《かんせい》をあげながら後に続く。
ナシアスも無論、遅れじとばかりに突っ込んだ。
思いもよらない方向からの突然の襲撃に、関所を守っていた領主勢は仰天した。
|周章狼狽《しゅうしょうろうばい》しながらも|竈《かまど》の側を離れて武器を掴み、慌てて迎撃しようとしたが、ナシアスもガレンスもこの機を逃すような騎士ではない。
「かかれ!」
白百合の紋章が一気に領主勢に襲いかかった。
セネグロ勢は約一千、ナシアス・ガレンス両隊はその五分の一の戦力だが、何と言っても勢いが違う。
たちまち激しい|剣戟《けんげき》となった。
中でもガレンスの働きは凄まじかった。
手にした槍は、槍というより視棒のような大きで、その先に極太の穂がついている。
大の男でももてあますような代物だが、彼はその恐ろしい武器を片手で振り回し、一振りで兵士の二、三人を跳ね飛ばすのだ。
間近にしたナシアスも肝を冷やしたくらいだから、セネグロ勢にしてみれば、これは人間|業《わざ》ではないと震え上がったのも道理である。
しかも、この恐ろしい敵ばかりではなかった。
時を同じくして河の対岸でもラモナ・ティレドン両騎士団の朝の空気を|劈《つんざ》く|鬨《とき》の声が上がったのだ。
大鷲の旗印と白百合の旗印が橋の関所に向かって突進した。
問題の関所は橋の両端に設けられている。
それぞれの国を出国する時の関所と人国する時の関所が別々に設置されているわけだ。
今はその両方の関所が、橋も含めてセネグロ勢に占拠されているわけだが、パラスト側でまず奇襲を食らって動揺しているところにデルフィニア側でも両騎士団の突撃を受けたのだ。
この状況では、よほど実戦豊富な勇猛な戦士でも、|堪《こら》えることは難しかっただろう。
デルフィニア側の関所に立て|籠《こも》もっていた兵隊は味方と切り離されて取り残されることを恐れたのか、我先にパラスト側に逃げ出し、パラスト側の関所を守っていた兵隊も虚を衝かれたことで動転したのか、実に|脆《もろ》かった。
夜間に息をひそめて川を渡ったのは何のためかと、二百人の将兵はもちろん、それを率いたナシアスやガレンスも拍子抜けしたほどあっけなく、セネグロ勢はあっさりと関所を放棄して逃走したのである。
「追え!」
ガレンスがすかさず吠えたが、ナシアスも叫んだ。
「待て! まず関所を確保しなくては!」
大男は|苛立《いらだ》たしげに舌打ちした。
「何を言ってる! 後ろを見てみろ! 関所はもうこっちのものだろうが!」
確かに、奪還した橋を渡ってティレドン騎士団の旗印が続々となだれ込んでくる。
その中にバルロがいるのをナシアスは確かに見た。
そのバルロを守るようにアスティンがいる。
さらに、サヴォア公爵家の跡取りを若い者だけで戦わせるわけにはいかなかったのか、この先鋒隊はザックスが率いていた。大声で指揮を執っている。
「進め! 敵を逃すな!」
バルロを含むティレドン騎士団の先鋒隊は一瞬も足を止めずに突進した。
突進したのは先鋒隊だけではない。後から後から橋を渡ってなだれ込んでくる。
攻撃を何より重視するティレドン騎士団だ。
逃げる敵を眼の前にしながら追撃しないなどとは、彼らにとっては論外なのだ。
団長ジャコーも調子に乗って威勢よく叫んでいる。
「追え! 追って追って追いまくれ!」
そこにロビンスの冷静な声が掛かった。
「ジャコーどの。待ちなさい。深追いは危険です。ここは一度、態勢を立て直すべきですぞ」
その意見にジャコーは苛立たしげに言い返した。
「何を弱気な。この際、デルフィニアとパラストのどちらに、このテバ河の関所の主導権があるのかをはっきりさせておくべきではありませんか」
「いかにも。確かにそれはもっとも大切なことではありますが……」
「そもそも、ロビンスどのがそんな弱気でいるから、セネグロの連中は我が軍の戦力を|与《くみ》しやすしと見てつけあがったのではありませんか。今は我らの力を存分に見せつけてやる時ですぞ」
ジャコーの口調は荒々しい。
ティレドン騎士団の面々はほとんど川を渡りきり、逃げる敵を追って疾走している。
こうなっては自分たちだけ留まるわけにもいかず、ロビンスはラモナ騎士団の四分の一の戦力を割いて二つの関所を守るように命じ、自身は残りの戦力を率いて追撃に加かっか。加わりながらもジャコーに意見することは忘れなかった。
「敵はセネグロ勢だけではないのです。この近辺の領主たちも戦支度をしていることをお忘れなく」
「それならなおのこと、我々の実力を思い知らせてやればよろしい。そうすれば軟弱なパラスト兵など、震え上がって逃げ出すでしょう」
ロビンスは穏和な表情の陰で嘆息する思いだった。
ザックスの心配が見事に的中してしまっている。
どうしてここまで強気に思い上がっているのかと|訝《いぶか》しんだが、今はそれどころではなかった。
ジャコーの言い分にも一理あるのは確かである。
この騒ぎを終結させるためには、騒ぎの張本人のセネグロ領主を捕らえるか、討ち取るかしなくてはならない。さもなくは事態が収拾できない。
敵は四分五裂して逃げたが、両騎士団ともそんな雑兵には眼もくれなかった。
目指すは主将であるセネグロ領主ただ一人だ。
その主将の逃げる先は領主の館に決まっている。
セネグロ領主の館はテバ河のほとんど真西にある。
ティレドン騎士団は西を目指してひたすら進撃を続けた。
機動力にかけては彼らはさすがにたいしたもので、真っ先に飛び出したはずのガレンスの部隊が置いて行かれている。
「後れを取るな!」
ガレンスも叫んで懸命に馬を駆っている。
無論、ラモナ騎士団の本隊も後に続く。
この追撃の間に太陽はどんどん高く昇り、やがてセネグロ領主の館が見えてきた。
その館は小高い山の頂きに、周囲を見渡すように建てられていた。しかし、この山が|曲者《くせもの》だった。
逃げたはずのセネグロ勢が峠の上で待ちかまえていたのである。
坂の下から駆け上がってくる騎士団に、文字通り矢の雨を降らせてきたのだ。
思いがけない逆襲に出くわして苦しくなったが、これで|怯《ひる》むティレドン騎士団ではない。
まして先鋒隊を指揮するのは勇猛果敢で知られたザックス副騎士団長である。
「|狼狽《うろた》えるな! |楯《たて》を出せ!」
雑兵の中でも身体の大きな兵士たちが、自分より大きな楯を持って進み出る。
その楯をびっしりと押し並べて、じりっじりっと進むところは、固い|殻《から》に|覆《おお》われた一匹の巨大な虫が|蠢《うごめ》いているようだった。敵は|焦《あせ》ってさらに激しく矢の雨を降らせたが、巨大な虫の固い殼はなかなか破れない。傍若無人に突き進み、その殼の隙回から負けにとばかりに坂の上に向かって矢を射かけた。
この時、太陽は既に中天にかかっている。
両騎士団とセネグロ勢は峠の上で初めて本格的にぶつかり合った。
追いつめられた領主勢は後がないと思ったのか、峠の上から猛然と攻撃してきた。
しかし、それを待ちかまえていた先鋒隊である。 大鷲の紋章に恥じない勇猛ぶりを発揮した。
峠の道を血に染める激しい戦いはしばらく続いた。
まさに一進一退の戦いだったが、そのうち徐々に先鋒隊が優勢となり、領主勢は気力が|削《そ》がれたのか、次第に押される格好になり、とうとう踏みこたえることができなくなって再び逃走にかかった。
彼らの目と鼻の先にはセネグロ領主の館がある。
館とはいえ、ちゃんと防壁を備え、門を閉ざして、砦とも言える体裁を為している。峠の上に建てられ、迫る敵を|睥睨《へいげい》することもできる。
立て籠もるには絶好の場所だが、ここで予想外のことが起きた。
セネグロ勢は館には向かわなかったのだ。
山を越えて、さらに西へと逃げ出したのである。
ティレドン騎士団の先鋒隊は敵のこの姿勢を見て、さらに勢いづいた。まさに獲物に襲いかかる大鷲の勢いで後を追ったが、ラモナ騎士団の顔ぶれは違う。
経験の浅い若い騎士や徒士はともかく、隊長格のものはほぼ全員、ぎくりとして足を止めた。
ここまでティレドン騎士団と競うように突進したガレンスでさえ、舌打ちして馬を止めた。
ラモナ騎士団はこれまで何度もパラスト領主勢と|小競《こぜ》り合いを繰り返した経験がある。その経験から判断すると、敵のこんな動きは要注意だったのだ。
中でも団長ロビンスはさっと顔色を変え、手綱を引き締めて叫んだのである。
「ジャコーどの! これ以上の追撃はならん!」
「何を馬鹿な! 今この時に何を言われる! 敵が怖じけづいているのが見えぬとでも!」
「そちらこそ|謀《はかりごと》の気配が見えぬのか!」
いつもは温厚なこの人のどこにと思われるような|気魂《きはく》でロビンスは叫び、若い部下を呼んだ。
「ナシアス!」
そのナシアスも厳しい顔になっていた。
彼は常にロビンスに従うようにして側にいたから、至って静かに笞えた。
「ここにおります、ロビンスさま」
「この山の先には何がある?」
「峠を越えれば、すぐにパラスト国王の直轄領です。五カーティヴほど先には古い城塞もあります」
「やはりな。――|猶予《ゆうよ》はならんぞ。ジャコーどの。ただちに引き上げの|鉦《かね》を嗚らせ!」
「ロビンスどの!?」
ジャコーは血相を変えて|喚《わめ》いた。
「何を言われているのかさっぱりわかりませんぞ! 引き上げるからには理由を言ってもらいたい!」
まるできゃんきゃん吠えかかる犬のようだったが、ロビンスは鋭い眼光の一|睨《にら》みで、このうるさい犬を黙らせたのである。
「この状況で、言われるまでわからぬほうがどうかしておると思うがな。敵はまんまと我らをここまで誘い出しかのだ。調子に乗って追っていけば、その古城に立て籠もった近隣の領主勢の総攻撃を食らうことになるぞ」
さすがにジャコーも驚いたらしい。
それでもまだ実感が湧かないのか、訝しげに首を|捻《ひね》っている。
「しかし、本当にその城に待ち伏せがあるかどうか、どうしてわかるのです? ロビンスどのとて実際に確かめたわけではありますまい。今は我々のほうが優勢なのですから、撤退はそれを確認してからでも遅くないと思いますが……」
ロビンスは怒るのを通り越して、ほとんど哀れむ口調で言ったものだ。
「勝ち戦しか経験しかことがないジャコーどのにはこれほど見え透いている敵の|策略《てだて》もわからないか? あまりにもあっけなく橋を手放したこと、ここまで一目散に逃げてきたこと、セネグロ勢だけなら当然立て籠もるはずの館を捨てて山を越えていること、どれもこれもこの先の罠を示すものではないか」
この山の先に何かあるかなど、尋ねるまでもなく承知しているロビンスである。
それをわざわざナシアスに言わせたのは、自分の口から話すより、一騎士の口から聞かされたほうがジャコーも納得しやすいだろうと考えたからだが、それでもまだ足らなかったらしい。
小さな子どもにするように説明してやらなくては理解できないとは――しかもそれが昨日今日軍勢に加わったばかりの雑兵でもなければ農民でもなく、騎士団長だとは嘆かわしい限りだった。
「今度のことがセネグロ単独の思い立ちではなく、近隣の領主たちと示し合わせたものであるとすれば、セネグロ近隣の十数人の領主たちも我らの敵になる。彼らの動員できる兵の総数は優に一万を数えるのだ。これでは数に劣り、地の利に欠ける我々が圧倒的に不利な状況となる」
そこまで言われても、ジャコーは口を|尖《とが》らせた。
「お言葉ですが、我々は今勝っているのですぞ」
ロビンスが苦い嘆息を洩らしたのはもちろんだが、聞いていたナシアスまで呆れてしまった。
自分たちは今現在勝っているのだから、この先も勝機が続くとこの人は思い込んでいるのである。
とんでもない話だった。
そんなものは単なる希望的観測に過ぎない。
さっきまでの優勢があっという間に劣勢に変わり、勝ったと確信した瞬間に足下をすくわれる。
実戦に出ればいやでも思い知ることなのに、騎士団長という地位にありながらそれがわからないとは、いったいどんな戦を経験してきたのかと驚いた。
ロビンスも厳しく表情を引き締めている。
「戦というものは|此方《こなた》の都合のよいようにばかりは進まぬものだぞ。敵は敵でこちらの隙を|窺《うかが》っている。そのために策をめぐらす。ましてパラストの国王は|策謀術《さくぼうじゅつ》の天才だ。領主たちの今度の動きも、実は国王の密かな指示を受けているとしたら、ますますもって慎重にかからねばならん」
「しかし、ロビンスどの。ここまで来ていながら、何の成果も挙げずに引き上げると言われるのですか。それはあまりに情けのうございますぞ」
団長二人のこうしたやり取りの間も、ナシアスははらはらしていた。
駆け下りていった先鋒隊がこの峠から見える。
彼らは一向に足を止める様子がない。嬉々として、逃げるセネグロ領主勢を追っている。
ナシアスは黙っていられなくなり、無礼は承知でロビンスの側に馬を寄せて囁いた。
「ロビンスさま……。ティレドン騎士団の先鋒隊は既にかなり先まで進んでおります」
「わかっておる。――ジャコーどの。こんな議論を続けている間にも味方の一隊は我らと離れつつある。手遅れにならぬうち引き上げさせろ。さもなくば、彼らを見殺しにすることになるぞ」
しかし、少なくともその心配は無用だった。
彼らの耳にも、先鋒隊が駆け下りた|麓《ふもと》のほうから進軍停止の鉦が聞こえてきたからである。
ロビンスはかすかに顔をほころばせ、ナシアスはほっとした。
さすがにザックスは歴戦の勇士だった。
ロビンスが感じたのと同じことを感じ、深追いは危険だと判断して進軍停止の鉦を鳴らさせたのだ。
その合図に気がつき、先に行きすぎた騎士たちも続々と引き返してくる。
ザックスは先鋒隊をとりまとめて再び坂を上り、峠の上で本隊と合流した。
三千五百の軍勢が集結する間、ロビンスは笑顔で戻って来たザックスに話し掛けた。
「さすがにおぬしだ。よく引き上げた」
「いや、あまりにも都合よく行きすぎますからな。用心に越しかことはありますまい」
ジャコーはそれでもまだぶつぶつ言っている。
「何のことだ。我らは合戦するために来たはずだぞ。それをこんなところで引き上げるとは……」
ザックスはそんな上官にはっきりと意見を述べた。
「おっしゃるとおりですが、敵にまともに戦う気がない以上、こちらも構えてかからねばなりません」
ロビンスも領いた。
「その通りだ。とにもかくにも橋は取り戻したのだ。ここはいったん引き上げるぞ」
しかし、ザックスが難しい顔で首を振った。
「いや、今しばらくお待ちください。先鋒隊がまだ全員戻ってきておらんのです」
「引き上げの鉦が聞こえなかったのか?」
「どう考えてもそんなはずはないのですが……」
ザックスが気がかりそうに麓のほうを見やった時、彼らの背後で喚声が上がった。
十人や二十人の声ではない。山を揺るがすような鬨の声だ。
「何事だ?」
「敵か!」
両騎士団がぎょっとして振り返ってみれば、声はセネグロ勢が捨てたはずの領主の館からだった。
いつの間にか、その壁の上に兵士がずらりと並び、こちらに向けて矢の雨を降らせてくる。
同時に館の門が開き、それぞれ剣や槍を手にした兵隊がどっと繰り出してくる。
迎撃態勢を取る間もなかった。たちまち何人かが矢に倒れ、敵の刃に斬り伏せられた。
指揮官たちは何かがあるとうすうす感じていても、三千五百の騎士団のほとんどにしてみれば、これは思い及ばない場所からの突然の攻撃だ。
やっと集結しつつあった陣形に鋭く撃ち込まれた|楔《くさび》の一撃にたまらずたじろぎ、隊列を乱したが、ロビンスはさすがだった。
「慌てるな! 敵は小勢だぞ! 迎え撃て!」
少しも動じることなく味方の戦意を|鼓舞《こぶ》したが、敵の策略はこれだけではなかったのだ。
この峠からは麓の様子がよく見える。緑の野原にこんもりとした林が点在している。美しい風景だ。
ところが、今、一ヵ所、二ヵ所、三ヵ所の林から喊声を上げて走り出してくる軍勢がある。
まっしぐらにこの峠を目指して駆け上がってくる。
館からの奇襲だけでも狼狽えたのに、この様子を目の当たりにしては動揺するなと言っても無理だ。
「計られた!」
「狭み撃ちにされるぞ!」
それはすなわち退路を断たれることを――敵地で孤立することを意味している。
こうも立て続けに奇襲を食らっては、ロビンスをもってしても軍勢の動揺を鎮めることは難しい。
一兵卒はおろか隊長格のものまで顔色を変えたが、その中でももっとも青ざめ、もっとも狼狽したのが、ティレドン騎士団長のジャコーだった。
彼は何度も実戦に出ているが、敵兵の挙げる鬨の声、|刃《やいば》と刃がぶつかり鳴る鋭い音、その刃に倒れる味方の悲鳴と|血飛沫《ちしぶき》、そうした戦の現実をこれほど近くで感じたのは初めてだったのである。
いつも安全な本陣の奥にいたから、敵との距離がこれほど|狭《せば》まったこともなければ、戦場をこれほど生々しく感じたこともない。
今までは勝って帰ってきた。それが当たり前だと思っていた。
しかし、ここは戦場なのである。
いつ自分が死んでもおかしくない場所なのだ。
今さらながらにその恐怖がジャコーに襲いかかり、彼はぞっと震え上がった。
真の身の危険を感じたジャコーは、逃げ道だけは――自分の逃げ道だけは確保しなければならないと|咄嗟《とっさ》に思った。
「撤退だ! ただちに撤退する!」
震える声で叫んで馬首を返し、東の麓を目指して駆け出そうとした。
「団長!」
この上官の行動に驚いたのはザックスだ。
彼は奇襲にも怯まず大胆に馬を乗り回し、敵兵を踏みつぶし、大剣を振り回して激しく戦っていたが、ジャコーの元に馬を寄せて大声で吠えた。
「主将がどこへ行かれるのです! 味方を見捨てるおつもりか!」
「どけ! 退路を確保しなくてはならん!」
「どきませんぞ! あなたは指揮官だ! 最後まで戦場に留まらなくてはならん人だ!」
ザックスはあくまで立ちふさがる構えだったが、そのザックスの横手から数人の敵が襲いかかった。
「しゃらくさいわ!」
大声で吠えるや、怒れるザックスはそれらの敵をあっという間に斬り伏せたが、この隙にジャコーは副官の手を逃れて一目散に駆け出していたのである。
「団長! お戻りください!」
ザックスの必死の嘆願も空しかった。
騎士団長が真っ先に逃げ出してしまったのでは、どうしようもない。ティレドン騎士団の騎士たちは先を競うように団長に|倣《なら》って逃げ出したのである。
逆に発憤したのがラモナ騎士団の勇士たちだ。
「怯むな! 迎え撃て!」
「今こそラモナ騎士団の真価を発揮する時だぞ!」
隊長格のものはそう声を掛けて部下を|励《はげ》ましたが、勝手に突撃して我先に逃げ出すような味方の後衛をなぜ自分たちが務めてやらなくてはならないのかと|憤慨《ふんがい》したのは当然のことだ。
味方のこんな情けない|潰走《かいそう》を目の当たりにすれば、兵士たちの意気が上がるわけがない。
懸命に防ぎながらも、皆、苦々しい思いだった。
特にガレンスのような男は思うだけではすまず、|忌々《いまいま》しさをはっきりと口にした
「涙が出るほどありがたい増援だ!」
ガレンスの近くで戦っていたナシアスも全面的に同意見だったが、一応、言ってみた。
「あんだだって調子に乗って突っ込んだだろう!」
「おうよ! だがな、俺は形勢不利になったとたん、尻尾を巻いて逃げ出すような真似はせんぞ!」
まったくだとナシアスも思った。
調子のいい時の勢いは虎、都合が悪くなった時の逃げ足は|兎《うさぎ》ときては、あてにならぬこと|甚《はなは》だしい。
だが、ラモナ騎士団長のロビンスは、この苦境にありながら驚くほど冷静沈着だった。
「慌てるな。焦れば敵の思うつぼだぞ。敵は奇襲が成功したことで興奮し、目先が利かなくなっておる。これこそ願ってもない好機というものだ。この機を逃さず存分に働けい!」
応える声が一斉に上がった。
領主勢にとっては、ここまで引きずり出しながら取り逃がしてはたまらない。何としても切り崩してやるとばかり、|嵩《かさ》かかって攻め立てたが、守りの戦を何より得意とするラモナ騎士団である。
混乱からすばやく立ち直り、猛然と迫る領主勢をそれ以上の勢いで払い退けつつ、ロビンスの指揮下、|粛々《しゅくしゅく》と峠を下った。
ロビンスの言うように、この状況を苦戦ではなく好機と見るだけの度胸と勇気を彼らは備えていた。
全員一丸となって善戦した。
ナシアスもガレンスも勇ましく戦ったが、ここで存在感を見せつけたのは副団長のパラディだ。
無口な副団長は戦う時もほとんど声を発しない。
他の騎士のように鬨の声を上げることも|雄叫《おたけ》びを発することもない。その代わり、撤退時にはいつも最後尾に陣取り、追いすがる敵を容赦なく|退《しりぞ》ける。
矢の雨を降らせられても槍を回して払い落とし、数人に|蟻《あり》のようにたかられても問答無用で切り崩し、敵兵の返り血で鎧具足がたちまち真っ赤に染まる。
それでいながら|猛《たけ》り立って戦うというのではなく、至って静かなのである。
こういう人だから、パラディを攻める敵のほうがその不気味な存在感に圧倒され、いくら仕掛けても無駄ではないかと怯まされてしまうのだ。
それでもパラディは調子に乗って攻めたりしない。
右に左に馬を乗り回し、あくまで味方を守りっつ、しつこく追いすがる敵を突き崩すことに専念する。
ラモナ騎士団員にとってはこの人がお手本であり、何より頼もしい楯であり、心の支えでもあった。
こうしてラモナ騎士団は、奇襲を食らいながらもほとんど犠牲を出すことなく峠を下ったのである。
先に逃げたティレドン騎士団も麓に集結しようとしているところだった。
ばらばらに逃げ出したかと思いきや、ザックスが懸命にジャコーを|諌《いさ》め、団員をまとめたらしい。
ここから国境まではかなりの距離がある。
潰走と撤退は違う。守りを固めて徐々に退くのと闇雲に突っ走るのとでは危険の度合いが段違いだ。
どこからどんな伏兵が出てくるかわからないこの状況では、充分に用心しながら、全軍一団となって撤退しなくては危険だった。
ザックスはやむなく一足先に逃げる格好になってしまったが、追いついてきたロビンスの顔を見ると、|慚愧《ざんき》に|堪《た》えない様子で謝罪してきた。
「面目次第もありません……」
「いや、無事で何よりだ。急いで橋まで戻るぞ」
「は……」
その間、ラモナ副団長のパラディは沈黙を守り、ティレドン騎士団長のジャコーはふてくされている。
これでは誰と誰が上司と部下だかわからないが、両騎士団はとにかくも平地で陣形を整え、本格的な撤退に取りかかろうとした。
ところが、ここで予想外の問題が発生した。
混乱に陥っていたティレドン騎士団があらためて隊列を組んだところ、バルロが戻っていないことがわかったのである。
さすがにザックスも顔色を変えた。
ジャコーに至っては、身の危険を感じた時以上の恐怖に震え上がり、蒼白になって叫んだ。
「グラスメア卿を置いて撤退などとんでもないぞ! 何をしている! 早くお救いしに行かんか!」
ザックスは歯ぎしりしながら峠を見上げて|唸《うな》った。
「無理です」
「何を言う! グラスメア卿を見捨てるのか!」
「この峠は既に敵兵が充満しています。我らもいつ|何時《なんどき》、奇襲を受けるかわからないのです。どんなに口借しくても救援に行くことはできません」
「ならん! ならんぞ! グラスメア卿を見捨てて引き上げることなど断じて許さん!」
バルロを見殺しにして戻ったとなれば、ここから生きて帰ったところで無事にはすまない。
ジャコーはそれを知っているだけに必死だったが、ザックスは極めて冷静に事実を指摘した。
「敵は三方向から奇襲を掛けてきたのですぞ。彼はその真っ直中に取り残されたことになる。常識的に考えて生きているかどうかすら危ぶまれます」
ジャコーはますます青くなった、
「何を! 何を言うのだ! グラスメア卿をこんなところで死なせたらどんなことになると思うのだ! すぐに救援に向かえ!」
合戦の最中でもジャコーがこれほど必死の様子を見せたことはないが、ザックスは冷静に言った。
「そのご命令には従えません」
ジャコーは怒りも忘れてぽかんとなった。
ザックスは今まで、表向きだけはジャコーに従い、|敬《うやま》ってきた。それだけに反抗されたことが咄嗟に信じられなかったらしいが、たちまち激高した。
「さ、逆らうというのか! わたしは団長だぞ!」
「確かに、あなたはわたしの上官だが、それも時と場合によります。状況判断のできない団長の指示に従うことはできません」
ザックスの表情も緊張に|強《こわ》ばっていた。
彼は今、明らかに上官に造反しているのだ。
それでも、この先の|無惨《むざん》な結果が見えている以上、頷くことはできなかった。
「ここで引き返せば我々は壊滅的な打撃を受けます。グラスメア卿一人のために二千人の騎士団員を無駄死にさせるわけにはいきません」
「馬鹿者! 二千人が何だ! グラスメア卿一人のお命のほうが|遥《はる》かに大事ではないか!」
大声を張り上げたジャコーに、ザックスは何とも言えない表情を浮かべて言った。
「ジャコー団長。後ろを振り返って今の|台詞《せりふ》をもう一度言っていただけますか」
反射的に振り返って、ジャコーは立ち|竦《すく》んだ。
大鷲の紋章をつけた騎士たちが一斉にジャコーを見つめている。
誰も何も言わない。面と向かって非難はしない。
だが、それだけに冷ややかな、呆れ果てたような眼差しだった。
二千人分の視線を浴びて、ジャコーは眼に見えて狼狽した。
追いつめられて大きく|喘《あえ》ぎ、最後の救いを求めてロビンスに取りすがった。
「ロビンスどの! お願いでございます! どうか……どうか! グラスメア卿をお救いください!」
「お言葉だが、ジャコーどの。ザックスの言い分が正しい。グラスメア卿一人のために団員千五百名を危険に|晒《さら》すことはできん」
ロビンスはあくまで冷静だった。
「我々が今しなければならないのは生きて戻ること、取り戻した橋を死守することだ。こんな話で時間を無駄にすることすら惜しい。ただちに撤退する!」
「ロビンスどの!」
ジャコーは絞め殺される鳥のように悲痛に叫び、ナシアスもたまりかねて指揮官に声を掛けた。
「お待ちください。ロビンスさま」
意気消沈しているティレドン騎士団員に向かって大きな声で問いかける。
「誰か! 最後までバルロと一緒だったものは!?」
最初は誰も応えようとしなかった。互いの顔色を窺っていたが、さらに尋ねると、若い騎士の一人が恐る恐る手を挙げた。
その騎士の話によると、バルロも含めて、彼らは先鋒隊のもっとも先頭を走っていた。
そうしたら進軍停止の鉦が聞こえた。その騎士は合図に従ったが、バルロは足を止めなかった。
進軍停止命令ですと声を張り上げたが、バルロはやはり止まらなかった。他にも三十騎ほどが従って、逃げる敵を追って行ったというのである。
「それはあの一本道か?」
「はい。林の手前でした。合図に従って少し戻ったところでいっせいに伏兵が現れまして……後はもう逃げるのが精一杯でした」
そこまで聞いて、ナシアスは指揮官に訴えた。
「ロビンスさま。わたしに思うところがあります。バルロの救援に向かわせてください」
「ならん。生きているかどうかもわからぬものを」
「いいえ。彼はまだきっと生きています」
断言した。
「奇襲を食らったくらいでむざむざと果てるようなバルロではありません。必ず逃げ延びたはずです。こちらから迎えに行って合流すれば助けられます。別行動をお許しください」
「おまえの気持ちはわかるが、許すことはできん」
必死に食い下がる若い騎士にロビンスは|諄々《じゅんじゅん》と言い論した。
「今おまえを行かせれば、おまえもグラスメア卿も失うことになりかねん。ならばわしはおまえ一人を確実に残す。――それが戦術というものだ」
その判断は確かに正しい。
戦況全体を考えた時、一人のために軍勢が犠牲になるようなことがあってはならないのだ。
わかってはいたが、ナシアスは頷けなかった。
この感情はもう理屈ではない。ただ、どうしても、このまま撤退することはできない。
その決意を固めると、ナシアスは大きく息を吐き、ロビンスの顔を見つめて言った。
「ロビンス団長。申し訳ありません。わたしはそのご命令を無視します!」
穏やかならぬことをきっぱりと言い放って、西に馬首を向けた。
ナシアスを隊長と慕う騎士たちがすかさず続く。
さらにどういうわけかガレンスまでがこの動きに同調した。自分の一隊を率いて加わったのだ。
ロビンスの鋭い声が飛ぶ。
「パラディ! 止めろ! 行かせるな!」
常に団長に忠実な副団長は無言で動いた。
ゆっくり馬を進めてナシアスの前に立ちふさがり、馬上で長い槍を構えた。
今まで幾度となく|殿《しんがり》を務め、一度たりとも敵の突破を許したことのない人である。
ナシアスは今や若手の中では一番の実力者だが、それでも到底この人には及ばない。
それはナシアス自身が誰よりよく知っている。
未熟な自分の腕でどうなるものでもなかったが、破れかぶれで剣を振るった。
「ご|容赦《ようしゃ》!」
ところが、パラディはその一撃を受け止めながら、勢いに押されたように槍を取り落とし、のけぞって、ナシアスの突破を許したのだ。
突っ込んだナシアスのほうが呆気にとられた。
あまりにも呆気ない手応えだったからだ。
だが、駆け抜けざま、両手を空にしかパラディの眼が笑っているのを確かに見た。
(行け)
と、その眼は無言で語っていた。
(ありがとうございます、副団長!)
声には出さずに感謝して、ナシアスは馬を駆った。
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8
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走り出したナシアスは峠へは向かわなかった。
それでは敵の真ん中に突入することになるからだ。
山を|迂回《うかい》し、いったん南へ向かう大回りの方向に馬を走らせる。
その後について馬を駆りながらガレンスが訊いた。
「あてはあるのか?」
「ない」
ガレンスが絶句するのが気配でわかった。
そちらを振り向こうとはせず、ナシアスは言った。
「これはわたしの勘だ――賭かもしれない。根拠は何もないんだが、バルロはまだ生きている」
さっきの騎士の話から判断すると、バルロたちが林を通り過ぎた後で伏兵が立ち上がったことになる。
そして、その時点で、既に峠の上にティレドン・ラモナ両騎士団が集結しようとしていた。
当然、伏兵はこの本隊を目指して突撃したはずだ。
バルロたちの先を逃げていたセネグロ勢にしても、逃げるふりをやめて一斉に方向転換をしただろう。
その彼らの眼の前にわずか三十騎ほどの先鋒隊がいたことになる。
普通なら、この|小勢《こぜい》を見逃す道理はない。
|戦《いくさ》の前の血祭りに上げようとするのが当然だが、もっと大きな獲物がすぐ先の峠にいたのだ。
この状況で峠の騎士団ではなく、わずか三十騎に全力で襲いかかるのはあまりに馬鹿げている。
戦力のほとんどは峠に向かったはずだった。
もちろん眼の前の|生《い》け|贄《にえ》を見逃す理由もないから一隊が別れてバルロたちを追ったのは確かだろうが、それはごく少数、恐らく五十人か百人ほどの部隊に違いないと、ナシアスは|咄嗟《とっさ》に思った。
三方を敵に囲まれ、押し包まれたのなら、いかに何でも逃げ切れるはずがない。必ず捕らえられるか殺されるだろうが、今回はそれとは状況が違う。
彼らは峠に向かって一直線に進む大軍のただ中にぽつねんと放り出され、|紛《まぎ》れ込んだ形になったのだ。
それなら、あのバルロがそう簡単に倒されるとは思えない。
何より、あのアスティンがバルロの側にいる。
この二つが、バルロの生存を信じた根拠だった。
バルロはともかくアスティンは突進することしか知らない|猪《いのしし》武者ではない。
不利と悟れば、逃げることを知っている男だ。
いや、激しやすいバルロにしても、あの状況では勝ち目がないことくらいわかったはずである。
逃げ切っていれば――逃げ延びてさえくれれば、まだ生きている可能性は高かった。
彼らがあの襲撃を逃れたという大前提で考えると、その後の選択肢は自然と限られてくる。
峠は越えられない。それはとてもできない。
何とかして敵を振り切り、彼らだけで独自に東へ走ってテバ河に出ることを考えるはずだった。
その進路を予測して合流しようと考えたのである。
しかし、ナシアスとガレンスに従ってきた騎士は総数五十騎ほどでしかない。敵に見つかれば、彼ら自身が生きて戻ることも難しくなる。
昨夜の行軍以上に慎重に進みながら、ナシアスは|訝《いぶか》しげにガレンスに尋ねた。
「なぜついてきた?」
「いけないか? 敵地のど真ん中に突っ込むんだぞ。一隊で行くより手が多いほうがいいだろう」
「そのとおりだ。あんたがいてくれれば百人力だが、どうしてだ?」
「何となくだ」
|曖昧《あいまい》な言葉とは裏腹に妙にきっぱりと言われて、ナシアスは驚いてガレンスの顔を見た。
本隊から充分に離れ、山の南側に回ったところで、ナシアスは一度馬を止めた。
「上着と|外套《がいとう》を脱いで隠したほうがいい」
「おう」
以前にもロビンスに言い含められていたことだが、この土地で白百合の紋章を|纏《まと》うのは危険だった。
デルフィニアの騎士団がここにいるぞと知らせてやるようなものだからである。
二人に従った騎士たちも無言で彼らに|倣《なら》った。
ついさっき駆け下りたばかりの、領主の館が建つ小高い山がここからも見える。
こうして離れたところから見ると、セネグロ勢が曲がりくねった蛇のように峠の道を登り、今まさに味方に襲いかからんばかりに迫ろうとしている。
ぐずぐずしてはいられない。一刻も早くバルロを見つけ出して、合流しなければならなかった。
彼らが逃げてくると予想される進路を逆に辿り、野原を踏み分け、小川を渡った。
その際、各人ともに|喉《のど》を潤潤《うるお》し、革袋の水筒に水を補給することを忘れなかった。
さらに丘を越える。
先鋒隊の姿を求めてあちこちに眼をやりながら、ナシアスは進路を西に変えた。
どのくらい探し続けたか、陽が西に傾きかけた頃、敵の伏せ勢が潜んでいた三ヵ所の林が見えてきた。
バルロたちが奇襲を|躱《かわ》して無事に逃げ延びたなら、ここまで来る間に必ずどこかで自分かちと出くわすはずだった。ところが、ついに行き会うことはなく、林を視認できるところまで来てしまった。
もはやロビンスの言うとおり、彼らを探すことも救うことも絶望的な局面だったが、ナシアスはそう簡単に諦めようとはしなかった。
幸い、付近に敵の姿は見あたらない。
みんな本隊を追って峠を越えて行ったらしい。
伏兵が飛び出してきた林を一つずつ探していると、やがて明らかな戦闘の後に出くわした。
そこは街道から北よりに離れた野原だった。
よほど激しい戦闘になったのだろう。
矢の突き立った死体が点々と倒れている。
ティレドン騎士団の若者だろうと思われる死体も七体あったが、武器も|具足《ぐそく》も身につけていない。
敵にはぎ取られたに違いなかった。
どの顔も若かった。十代に見える少年もいた。
哀れだった。|無惨《むざん》でもあった。ここに野ざらしにするのは忍びなかったが、埋葬してやる余裕はない。
さらに調べると、地面を踏み荒らした|馬蹄《ばてい》の跡が北に向かって続いていた。
国境とは全然別の方向だ。普通に考えれば敵地に深く入り込む北へ向かうはずはないが、奇襲を受け、さらに追撃を受けた結果、やむにやまれずそういうことになったのだろうと思われた。
険しい顔でナシアスは言った。
「まずいな。この先には領主の|砦《とりで》がある」
それはずっと前、隣接する領主との間に|悶着《もんちゃく》が起きた時に建てられた砦だった。
もっとも、現在は隣の領主との関係も良好だから、兵士が常駐しているわけではない。
日頃は誰もいない無人の砦なのだが、今の状況で無人であったらそれこそおかしい。
国境を攻めるセネグロ勢の後援ないし補給場所として機能しているはずだった。
「知っていて北に逃げるはずはないからな。連中、この辺りの地理は何も知らんのかもしれんぞ」
ガレンスの言うとおりだとしたら、彼らの進退はますます極まったことになる。
こんなことをしている間にも、春の陽はだんだん傾きつつある。
ナシアスの表情にも|焦《あせ》りが強くなった。
暗くなってしまったら、彼らと合流することなど、到底、|覚束《おぼつか》なくなる。
どうしても明るいうちに見つける必要があった。
しかし、北を見ればそこには深い草むらが広がり、緑の茂った小山があり、森や林が点在している。
お世辞にも見通しがいいとは言えない地形である。
ナシアスはここで、それこそ|博打《ばくち》のような決断を下した。
一度は脱いで隠した白百合の紋章の上着と外套を取り出して再び身につけたのである。
ガレンスが驚いて尋ねた。
「何をする気だ?」
「砦に気づいたら、わたしなら身を隠して夜を待つ。暗くなってから行動を開始する。彼らも同じことを考えて森や茂みに潜んでいるとしたら、我々の姿を遠目に見かけても用心して出てこないかもしれない。味方だと知らせてやらなくてはならない」
ガレンスはさらに眼を|剥《む》いた。
「冗談じゃない。それじゃあ俺たちが危なくなる。もし敵に見つかったらこっちが先にやられるぞ」
「そうとも。|目印《めじるし》は一人いれば充分だ。あんたは他のみんなと一緒に後から来てくれ」
ラモナ騎士団一の巨漢は呆気にとられて、自分に比べたら半分ほどしか目方のない相手を見下ろした。
この若い騎士は外見はおとなしそうに見えるのに、実際、普段は争いごとも嫌うような至って穏やかな|人柄《ひとがら》なのに、ひとたび戦場に立てば、別人のように|毅然《きぜん》としたところを見せる。
その戦いぶりも、度胸の据わり具合も、同年代の騎士とは明らかに格が違う。
誰が見ても、ひときわ精彩を放っている。
何より、本人はほとんど意識していないようだが、いざという時の決断は眼を見張らされるものがある。
ガレンスはそれをよく知っていた。まだ若いのになかなかのものだと密かに感心もしていた。
しかし、まさか、ここまでとは思わなかったので、呆れたように訊いた。
「グラスメア卿が公爵家の総領だからそこまでして助けようとするのか?」
「いや?」
ナシアスは意外そうな顔になって首を振った。
どうやら、言われるまで忘れていたらしい。
「それは関係ない」
「じゃあ、なんでだ?」
「なんでだろうな。わかしはただ、こんなところでバルロを死なせたくないだけだ」
ずっと後になってガレンスは苦笑を浮かべながら述懐したものだ。
「あの時のあれはまさにわたしたちの|台詞《せりふ》でしたよ。あんなところであなたを死なせるわけにはいかない、その一念でみんなついていったんです」
それなのに、肝心のナシアスがそんな危険な役をやると言いだしたのだ。
ガレンスも呆れたが、ナシアスの隊の騎士たちはもっと驚いた。
それなら自分が代わりにやると口々に申し出たが、穏やかそうに見えながら筋念入りの隊長は頑として首を縦に振らない。
「わたしは彼らにもいくらか顔を知られているから、わたしがやる」
と、白百合の紋章をなびかせて堂々と走り出した。
ここで後を追ってしまったのでは元も子もない。
ガレンス以下の騎士たちは|苛立《いらだ》ちを抑えながらも手綱を絞り、単騎で走り出したナシアスを見送った。
ナシアスも内心の焦りとは裏腹に実にのんびりと馬を走らせていった。
他の騎士たちはその姿が視感できるぎりぎりまで小さくなるのを待って、ようやく後を追い始めたが、ナシアスの読みは正しかった。
後続と離れてしばらくすると、細い野道が現れた。
左手は下った斜面、右手は小高い崖になっている。
どちらも茂みに|覆《おお》われていたが、ナシアスがその道を進んでいくと、不意に上のほうで叫び声がして、茂みの中から人が飛び出してきた。
血に染まった具足と大鷲の紋章の上着を着ている、まだ若い騎士だった。顔に必死の表情を張り付けて馬上のナシアスに問いかけた。
「ラモナ騎士団の方か?」
「無論です! ご無事でしたか!」
ナシアスは満面に笑みを浮かべて声を掛けたが、その騎士はよほど恐ろしい目に遭ったのだろう。
ナシアスの問いかけにも咄嗟には返事ができず、|安堵《あんど》のあまり、へなへなと座り込んでしまった。
「た、助かった……」
「しっかりしなさい。安心するのはまだ早い。他の方々はどうなされた?」
この時、後方のガレンスたちがこの騎士に気づき、速度を上げて一気に迫ってきた。
ところが、勢いよく疾駆してくる騎馬隊の様子は、敗残の騎士には敵襲に見えたらしい。
悲鳴を上げて飛び上がり、一目散に逃げ出した。
情けない格好だが、ナシアスは呼び止めなかった。
案内してもらう手間が省けるからである。
道を少し先に進み、登れるところを見つけて崖を駆け上がり、逃げる騎士の後を追った。
騎士は何度も転びそうになりながら必死に走り、身体中に草を引っかけながら雑木林に飛び込んだ。
どんどん奥へと分け入っていく。
馬に乗っていなかったら見失ったかもしれないが、やがて背の高い木陰にちらりと人影が見えた。
辺りは夕焼けに赤く染まっていて、向こうからはナシアスの胸の紋章がわからなかったのだろう。
たちまち殺気を帯びて、腰の剣に手を掛けたが、その姿形は見知った少年のものではない。
「バルロはいるか!」
大声で問いかけると、呆気にとられた声が木陰の奥から返ってきた。
「ナシアス!?」
「いかにも、わたしだ!」
答えて、ナシアスは馬を駆って一気に近づいた。
そこには四、五人の騎士がひとかたまりになって、必死の様子で武器を握りしめていた。
「落ち着け! 味方だ! ラモナ騎士団の者だ!」
ナシアスの|凛《りん》とした声と夕闇にもようやく見えた白百合の紋章に、騎士たちは一瞬、呆気にとられた。
次に緊張の糸がぷつんと切れたようで、バルロを除く全員がその場にくたくたと|類《くず》れてしまった。
全員がぐったりと疲労|困憊《こんぱい》している。気力はまだかろうじて残っているようだが、身体がいうことをきかない状態なのだ。
バルロはその数人に守られていた。
他の誰よりナシアスの出現に|驚愕《きょうがく》している表情だったが、大きな怪我をしている様子はない。
無事だと見た瞬間、ナシアスの意識は血の臭いを濃厚に漂わせている人へと切り替わった。
「アスティンどの!」
数人の中で、アスティンだけは最初から太い木を背もたれにして座り込んでいた。
ナシアスを見上げて弱々しく笑って見せた。
「……見苦しいところをお目に掛けます」
アスティンは全身血まみれになっていた。
左腕と左の太股に即席の包帯を巻き、右手で腹を押さえている。そこにも傷を負っているらしい。
ナシアスは急いで下馬してアスティンに近寄ると、その手を慎重に外させて傷を調べた。
かなり広い範囲をざっくりと切り裂かれていたが、傷そのものは幸いそれほど深くはない。少なくとも内臓まで達している様子はない。
ほっとしたが、ここはまだ敵地の真ん中である。
ナシアスは硬い顔で問いかけた。
「馬には乗れますか?」
アスティンは浅い呼吸を続けながら首を振った。
「……自信はありません。できないようなら、|鞍《くら》に縛りつけていってください」
「わかりました。最悪の場合はそうします」
真顔で|頷《うなず》いて、力づけるようにアスティンの手を握りしめる。
「もう少し辛抱してください。暗くなるのを待ってここから脱出します」
「本隊は……どうなりましたか?」
「無事に峠を越えて国境へ向かったはずです」
「よかった……さすがはロビンス団長だ」
「おっしゃるとおりです、ロビンス団長とそちらのザックス副団長がいる限り、そうやすやすと国境を明け渡すことはありません。我々も明日には本隊に含流します。もう一踏ん張りです」
ナシアスは努めて明るい声で怪我人を|励《はげ》ましたが、あらためて周りを見ると、この場にいるのは重傷のアスティンとバルロを含めて六人だけだ。
おまけに馬が一頭もいない。
少なくとも二十人以上は生き残っているはずだと思っていただけに、ナシアスは驚いた。
「これだけか? 他の者はどうした」
最初にナシアスに斬りつけようとした騎士が青い顔で言う。
「途中で、ちりぢりになってしまって……ここまで逃げるのがやっとだった……」
「馬は?」
「追っ手を|撒《ま》くために……仕方がなくて……」
彼らに襲いかかった敵はナシアスが思ったとおり、林から飛び出した百人ほどの一隊だったという。
本当ならただちに逃げるべきだったが、予想外の伏兵に仰天したせいもあり、先行している領主勢に挟撃されることを警戒したせいもあって、咄嗟には行動に移れなかった。
その一瞬の判断の遅れが命取りになった。
あっという間に合戦に持ち込まれた。
果敢に応戦したものの、突然のこの逆襲に加え、本隊と切り離された驚きと恐怖で身体は思うように動かない。数も敵のほうが数倍している。
到底|堪《こら》えきれるものではなかった。
たちまち形勢不利となり、ついには|潰走《かいそう》した。
幸い、|馬足《ばそく》はこちらのほうが優れていたが、敵も騎馬だ。諦めずにどこまでも追ってくる。
背後から矢を射られ、何人も倒れた。
彼らの足は自然と見通しの悪いほうへ向かった。
なかなか振り切れなかったが、ここから少し北に細い野道が曲がりくねって続き、左右の枝が大きく道に張りだしている場所があった。
ここでアスティンが「馬から飛び降りろ」と叫び、真っ先に転がり落ちて茂みの中に身を隠した。
バルロを含めた五人だけがその言葉に従った。
視界の悪さが幸いして、追っ手は空になった馬に気づかず、思惑通り馬蹄の響きを追っていった。
その結果、ここにいる彼らだけが何とか追っ手を撒くことができたというのである。
アスティンはその時には既に傷だらけだったが、夜を待って徒歩で戻ろうと主張したという。
ナシアスは厳しい表情でこの話を聞いていたが、再び笑顔になってアスティンに話しかけた。
「さすがに、あなただ。お見事です」
「いいえ、運がよかったのでしょう……」
アスティンの傷は命に関わるほどではなかったが、重傷には違いない。呼吸も|忙《せわ》しい。
他の騎士たちも顔には擦過傷をつくり、服は血に汚れている。激戦の後を物語る生々しい姿である。
バルロは他の誰より青ざめていた。
敗戦がよほどこたえたのか、口をきこうとしない。
ほどなくガレンス以下の騎士たちが追ってきたが、彼らも先鋒隊の生き残りの悲惨な状況を見て驚いた。
あれこれと面倒を見てやったが、生き残りの騎士たちがこれほど弱っている原因は激しい疲労の他に喉の渇きと空腹にもあると知ると、ますます驚いて水筒を差し出した。
すると、生き残りの騎士たちは眼の色を変えた。
水筒を鷲掴みにして|貪《むさぼ》るように飲み始めたので、ラモナ騎士団員たちは再び慌てて水筒を取り上げた。
「馬鹿! 一気に飲む奴があるか! 水の飲み方も知らんのか?」
「だいたい|兵糧《ひょうろう》はどうしたんだ? 水がなくても、兵糧を持っていれば腹が減って倒れるなんてことはないはずだぞ」
口々に問いかけた。それはラモナ騎士団の当然のたしなみだった。
隠密行動を取る部隊や、本隊から離れて突撃する先鋒隊は必ず二食分の兵糧を携帯する決まりなのだ。
今回のナシアスとガレンスの部隊も、今朝使った一食の他にもう一食分を携帯している。
本当なら今日の昼に消費しているはずだったが、先鋒隊を捜し出して国境の本隊と合流するには今夜一晩かかると見て、今まで残しておいたのだ。
ところが、ティレドン騎士団の生き残りは困惑の顔を見合わせて、兵糧など持っていないと答えた。
騎士の役目は突撃にあると、今までそんな荷物を持って戦ったことなどないと――それは小荷駄隊の仕事だというのである。
ナシアスもさすがにこれには呆れ果てた。
短期決戦の突撃なら確かに余分な荷物は禁物だが、今回のように敵地に深く分け入って行動することがわかっていながら兵糧を携帯しなかったとは――。
つまり、この連中は早朝の突撃から今までずっと飲まず食わずで戦い、逃げ回っていたことになる。
それでは身体が動かなくなって当たり前だ。
ナシアスは小さな吐息を吐いただけで済ませたが、ガレンスは|露骨《ろこつ》に顔をしかめている。
持久戦になることが珍しくないラモナ騎士団では、これは士道不覚悟を責められて当然の大失態だった。
どんな時でも充分に戦える状態を維持することは、騎士の最低限の務めだと教わるからだ。
敗残の騎士たちに向かって|罵声《ばせい》を浴びせるような情け知らずはさすがに|控《ひか》えたものの、呆れてものも言えない様子だった。他の騎士たちも同様だ。
ナシアスはそのみんなの気持ちを代弁する意味で、静かに言った。
「機動力を優先することも結構だが、もしもの時の用心というものも少しは考えたほうがいい。敵地の情報を前もって調べておくこともだ。北の砦には今、兵隊が詰めているのだろう?」
一人が力無く頷いた。
石造りの砦に兵隊が物見に立っているのを見て、慌てて引き返したという。
「兵の数は?」
今度は首を振った。
見つからないようにするのが精一杯で、はっきりしたことはわからないというのである。
ナシアスもそれ以上は訊こうとしなかった。
どのみち、北へ向かうことは論外である。
暗くなるにはまだ少し時間があった。
ラモナ騎士団の顔ぶれもここでひとまず休憩して、兵糧を使うことにした。
朝から働きづめに働いていたのは彼らも同じだ。
今のうちに腹ごしらえをしておかないと、この先、働けなくなってしまう。
五十人の騎士たちが、乾し肉と堅パンを少しずつちぎって六人分の兵糧をつくってやる。
飢えきっていた騎士たちはこれも貪ろうとしたが、巨漢のガレンスが頭の上から注意した。
「丸呑みはするなよ。よーく|噛《か》むんだぞ。じっくり噛んで食べたほうが満腹感が味わえるからな」
子どもでもあるまいにと嘆息するが、この連中は言ってやらないと兵糧を喉に詰まらせかねないのだ。
騎士たちは言われたとおり、堅い乾し肉を何度も噛み砕いて呑み込んだが、バルロだけは首を振って取ろうとしなかった。
「俺はいい」
「だめだ。食べろ」
ナシアスが言って、自分の分を分けてやった。
「国境まではまだ先が長いんだ。食べておかないと、身体が|保《も》たないぞ」
静かな声だったが、今のバルロには逆らいがたく聞こえたのだろう。ようやく乾し肉を取った。
食事の後は交代で仮眠を取った。
これから一晩中歩くのだから少しでも眠っておく必要があった。
やがて陽が沈み、辺りはすっかり暗くなる。
みんな眼を覚まして、それぞれ身支度を調えた。
口では何と言おうと身体は正直だ。わずかながら食べものを口にし、睡眠を取ったことで、バルロの顔色もいくらか生色を取り戻したように見えた。
ナシアスは自分の部隊の中から健脚の者を選んで、生き残りの騎士たちに馬を貸し与えるように言い、徒歩で行く者には交代で馬を使うように指示した。
特にアスティンは自力では馬に乗れなかったので、他の者が手を貸して慎重に鞍に座らせたが、その際、本人の希望で両足を|鐙《あぶみ》に結びつけた。
こうしておけば、少なくとも落馬することだけは避けられるというのである。
その気力はたいしたものだが、衰弱した身体では手綱の操作は難しい。
ナシアスは、徒歩の者にアスティンの馬を引かせ、自分も彼の傍につくことにした。
さらに念のため二人の騎士を偵察に出して辺りの様子を探ってくるように指示した。
夜空はよく晴れて、星も輝いているが、彼らが今いるところは伸びた枝に|遮《さえぎ》られて、人の顔もろくに識別できない。
その暗がりの中で自分の部下たちに言い聞かせるガレンスの声が響いている。
「偵察が戻り次第出発する。ここで灯りを使ったら敵に見つけてくれと言っているようなものだからな。どんなに不自由でも我々は無灯火で国境を目指す。はぐれるなよ」
ナシアスもまた相手の姿を眼で確認することなく、声だけを掛けた。
「バルロ」
聞こえているはずなのに、少年は返事もしない。
ナシアスも答えを期待したわけではなかった。
「話がある。来てくれ」
やや一方的に言って、ナシアスは隊列から離れて明るいほうへと歩き出した。
バルロは五十数人の騎士の中から草を踏み分けて離れ、黙ってナシアスの後をついていった。
他の顔ぶれは心配そうに二人の後ろ姿を見つめて、ガレンスは苦い息を吐いたのである。
その彼らに声が聞こえないところまで離れると、ナシアスは振り返った。単刀直入に切り出した。
「進軍停止の合図が聞こえなかったのか?」
その前に立ったバルロは無言で眼を伏せている。
夜目にも硬く|強《こわ》ばった表情とこの沈黙が明らかな答えだったが、ナシアスは容赦しなかった。
「答えろ。聞こえたのか、聞こえなかったのか?」
「……聞こえた」
「では、なぜ従わなかった?」
「…………」
「ザックス副団長は無意味な命令をする方ではない。他団の人間のわたしにもそのくらいはわかるぞ」
バルロが何を考えたかは察しがつく。
眼の前の獲物にあと一歩で手が届くという時に、引き返すのがいやだったのだろう。
その心理はわからないでもない。戦というものは、特に勝ち戦の時は、ジャコー団長ではないが、一種独特の高揚感があるものだ。何もかもがうまく行き、運も明らかにこちらに味方しているように思える。
そんな時は自分が|苦境《くきょう》に追いやられることなど想像もできない。
今の流れを変えたくない。むしろこの勢いを消すほうが害になる。そう思ったのだろう。
しかし、その結果がこの有様だ。
「血気に|逸《はや》って、仲間を巻き込んで|屍《しかばね》を|晒《さら》すのは、騎士の死に様として名誉あるものとは言えないな」
それだけ言って、話を切り上げた。
小声で交わした会話は聞こえなかったはずだが、ナシアスが隊に戻って騎乗すると、すぐ近くの馬にまたがったアスティンが苦しい息の下で|囁《ささや》いてきた。
「あまり、いじめないでやってください。あれでも傷ついているんです」
ナシアスもそっと言い返した。
「――失敗は失敗です。おまえのせいではないとは言えません」
バルロが突っ走ったから他の騎士たちも従った。
サヴォア公爵家の息子を一人で行かせるわけにはいかなかったからだ。
彼にはそのつもりがなかったとしても、結果的に二十数人が討ち死にしたのである。
その責任は噛みしめてもらわなくてはならないと、ナシアスは考えていた。
やがて偵察が戻ってきた。
|松明《たいまつ》も|篝火《かがりび》も見あたらないという報告を受けて、彼らは暗闇の中を出発した。
足下は見えなくても、幸い星がよく見える。
ナシアスは方角を見失うこともなく自信を持って暗い中を進み、一同|粛々《しゅくしゅく》と後に続いた。そのうちガレンスがナシアスに馬を寄せて話しかけた。
「橋は既に敵に囲まれているはずだぞ」
「もちろんだ。最初から橋に向かうつもりはない。来た時と同じようにして戻ればいい」
「漁師たちに話をつけて河を渡してもらうか?」
「ああ。あの|筏《いかだ》も昨日今日で処分はしないはずだ」
ナシアスは馬を走らせようとはしなかった。
敵の気配を警戒しながら無灯火で進むのは彼らにとっても危険が大きいことだったし、何より重傷のアスティンに無理はさせられなかったからだ。
それでも、日中の行軍にも引けを取らない速度で、休憩も取らずにひたすら歩き続けた。
いつもなら待ち達しい夜明けだが、今は少しでも遠のいてくれるようにと、この暗闇が少しでも長く続いてくれるようにと祈ったが、その願いも空しく、彼らが国境にたどり着く前に夜が白み始めた。
しかし、一晩中、必死に急いだ|甲斐《かい》はあった。
その時には、彼らは河まで二カーティヴの距離に追っていたからである。
(ここまで来れば、もう大丈夫)
みんなそう思って、ほっとした。ナシアスもだ。
ところが、河まであと一息というところまで来て、前方に障害物が現れたのである。
明るくなった時点で、ナシアスは偵察を出したが、その偵察の騎士が慌てて駆け戻ってきて、この先で敵が夜営していることを告げたのだ。
わずか五十人の一隊は|さっ《、、》と緊張して足を止めた。
ナシアスが訊く。
「数は?」
「天幕の数から判断すると、ざっと三百ほどです。後衛の部隊のようでした」
ナシアスは|秀麗《しゅうれい》な顔をしかめて考え込んだ。
何のために敵がこんなところで夜営しているのか、それが気になった。
敵に遭遇しないように、自分はできるだけ橋から離れた場所を目指して、大回りしてここまで進んで来たつもりである。
事実、自分かちの現在地は橋から二カーティヴも南に離れている。
それなのに、こんなところに敵が陣を張っている。
とにかくも、自分の眼で見なくては始まらないとナシアスは判断した。
他の騎士たちにはその場に待機するように言って、偵察の騎士の案内で先に進んだ。
緑の茂った小高い丘を示して、その騎士は言った。
「あの丘の向こうです」
騎乗で丘の上まで駆け上がったのでは、それこそ発見してくれと言うようなものだから、馬は雑木につなぎ、ナシアスとその騎士は見つからないように姿勢を低くして丘を登った。
丘の上ではほとんど腹|這《ば》いになってそっと|窺《うかが》うと、テバ河はもうすぐそこだった。
昇ったばかりの朝陽に水面が|煌《きら》めくのが見える。
だが、その手前に天幕が並び、兵士たちが食事を摂っている様子が、それ以上によく見えた。
兵士の中には既に食事を済ませたものもいるが、天幕を片づける様子はない。
しばらく、この場に布陣を続けるらしい。
敵が近くにいないことを知っている陣営だからか、全体的にどこかのんびりした雰囲気だった。
いったいどんな戦略的利点があっての滞陣なのか、首を傾げながら陣地に眼を走らせていたナシアスは、陣営の外れに無視できないものを見た。
外套を|翻《ひるがえ》した武将らしか男たちが、地元民の男数人と何やら熱心に話している。
地元民は農民ではない。遠目ではっきりしないが、漁師の風体に見えた。
現に眼を凝らしてみれば、|川面《かわも》にはその男たちが乗ってきたと思われる船がいくっも浮かんでいる。
ナシアスの顔がますます厳しくなった。
偵察の騎士を無言で促し、そろそろと丘を下って、急いで駆け戻った。皆と合流するなり断言した。
「こう明るくなってしまっては、敵に見つからずに川を渡ることは不可能だ。かといって夜を待つのも危険が大きい。――この戦力で突破する」
バルロが驚いた顔になった。
ナシアスらしからぬ強行策だったからだ。
同じことをガレンスも感じたらしい。眼を剥いて異を唱えた。
「そりゃあ無茶だ。相手は三百人、一方、こっちは五十人だぞ。負傷者も抱えているのに」
「だからこそだ。急ぐ必要がある。矢はどのくらい残っている?」
「ほとんど残ってるが、いったい何を……」
「天幕に火矢を射る。こちらの数をできるだけ多く見せかけて敵を混乱させる」
ガレンスはますます眼を剥き、慌てて言った。
「だからちょっと待て。そんな派手な真似をしたら、橋の周りに詰めてるはずの敵をこっちに呼び寄せることになるぞ」
「そうだ。その代わり、味方も呼び寄せられる」
ガレンスはほとほと呆れた様子だった。
その巨体にものを言わせて、ずいと進み出ると、自分に比べれば小さな同僚を頭の上から見下ろした。
「ちょっとばかり頭に血が上っていやしませんか? ナシアス隊長」
「いいや、ガレンス隊長。わたしは至って冷静だよ。あの軍勢は今日明日中に国境を越える気だ」
「何だと?」
「橋以外の場所を渡る、もしくは即席の橋を架ける。我々が考えたことだぞ。敵が同じことを考えないと、なぜ言える? 現に漁師だちと相談の真っ最中だ」
五十数人の騎士がざわりとどよめき、ガレンスも物騒に|唸《うな》った。
ナシアスは頷きを返して言ったのである。
「近いうちに増援がやって来て、わたしたちの眼の前で橋が架けられることになる。川向こうの味方も黙って見てはいないだろうが、現時点でこの動きに気づいているのは恐らく我々だけだ。だから我々が阻止する必要がある」
途中まで橋が架かった時点で対処するのと、橋が架けられる前に追い散らすのと、どちらが効果的か、そんなことは言うまでもない。
実戦経験の豊富なガレンスもただちに納得したが、味方を見渡して思わずぼやいた。
「もっともだが、これっぽっちの手勢じゃあ……」
「わかっている。取りあえず追い払うだけでいい」
「しかし、怪我人はどうする?」
あくまでその心配を忘れないところにこの巨漢の戦士の人柄がよく現れている。
ナシアスはアスティンの足と鐙を縛った縄を切り、特に選んだ騎士二人にその身柄を預け、河辺に船があることを説明して、真剣そのものの表情で言った。
「おまえたちはわたしたちの突撃と同時に船を奪い、この人を守って必ず無事に川向こうまで送り届けろ。決して死なせるな。これからのティレドン騎士団に必要な人だ」
騎士たちは不満そうな顔だった。怪我人の護衛がいやなのではなく、自分たちだけ逃げたりするのが不服なのだった。それを抑えてナシアスは言った。
「この人を送り届けたら、橋まで走れ。このことを急いで味方に告げるんだ。そうすればパラスト側に味方がどっと繰り出してくる。わたしはその増援をあてにして待つ。わたしたちの命運はおまえたちがどれだけ早く味方と合流できるかにかかっていると言っても過言ではないんだ。そのつもりで頼む」
二人の騎士はたちまち緊張して顔色を引き締めた。
もはや文句を言うどころではない。
ここまでのナシアスの手際の見事さに、バルロは呆気にとられていたが、我に返って短く言った。
「俺は残って戦う」
「当然だ。おまえは怪我人ではないのだから」
最初から残ってもらうつもりだったとナシアスは続けたが、これを聞いた他のティレドン騎士団員が顔色を変えて反対した。
「それはだめだ!」
「グラスメア卿にこんな危険な突撃をさせるなど、とんでもないぞ!」
猛然と抗議したが、白百合の紋章を纏った隊長はびくともしなかった。
「一人でも戦力が惜しい時だ。あなたたちにも無論、参加していただく」
「だ、だが、グラスメア卿に何かあったら……」
「敵は三百人。こちらは五十人。この状況で立派に働ける騎士を一人、戦列から外さなければならない理由がわたしには理解できない。納得できる理由をお持ちなら聞かせていただきたい」
穏やかな口調ながら、その水色の瞳にはバルロが恐れてやまない冷たい光がある。
なお悪いことに今のナシアスは両手足とも自由に動かせる。これ以上つまらぬ|御託《ごたく》を並べるようなら、斬って捨てると言わんばかりだった。
さらにまずいことにナシアスの腕ならこの四人を斬り伏せることなど造作もない。
同僚を斬られてはたまらないのでバルロは慌てて両者の間に割って入った。
「俺は残る。それが騎士の務めだ」
こうして話は決まった。一同はさっきナシアスが偵察した小高い丘を登った。
攻撃直前までこちらの姿を隠しておかなくては、奇襲にならないからである。
丘の上まで来るとナシアスは再び腹這いになって敵の布陣を窺ったが、何を思ったか、バルロがその偵察につきあった。
だが、彼の興味は敵陣よりも豹変した(としか、その時のバルロには思えなかったので)旧知の友にあったらしい。布陣を眺め、ナシアスに眼を移して、ほんの少し不服そうに言ったものだ。
「こういうのは、血気に逸るとは言わないのか?」
「皮肉が言えるほどの元気が出たなら大丈夫だな」
ナシアスはちょっと笑ったが、真顔で答えた。
「負傷した仲間を守るため、さらには味方の危機を救うために戦うのは騎士の|誉《ほま》れと言えるだろう」
バルロの顔に生色が戻った。頷いた。
「そのとおりだ」
ナシアスも力強い頷きを返した。
「ただし、死ぬな。生き延びろ。おまえにはまだ、やらなければならないことがあるはずだ」
バルロは驚いたようにナシアスの顔を見つめて、もう一度しっかりと頷いた。
機を計って五十人はいっせいに突撃した。
河の傍に陣取っていた敵は想像もしていなかった丘の上からの奇襲に仰天した。
冷静になってみれば、ほんの少人数であることは一目|瞭然《りょうぜん》だが、不意を衝かれて動転している時にそんなことはわからない。当然、迎撃することなど及びもつかない。
たちまち浮き足立った。わずか五十人の突撃隊はその隙を逃さず火矢の雨を降らせ、ことさら大声を張り上げながら縦横無尽に暴れ回った。
天幕に火が燃え移り、炎となって燃え広がると、敵の混乱と|狼狽《ろうばい》は一層ひどくなった。
悲鳴を上げて無様に逃げまどった。
陣営に呼ばれた漁師たちは木陰に座り込んで話をしていたが、突然始まった合戦に震え上がった。
慌てて船に飛び乗って逃げようとしたが、敵には眼もくれずにまっしぐらに河をめがけて来た騎士が二人、馬を捨てて漁師に向かって突進してきた。
「お、お、お助け!」
慌てふためいて命乞いをしたが、二人は漁師には見向きもしなかった。
「借りるぞ!」
律儀に断って怪我人のアスティンをまず船に乗せ、思い直したように漁師の襟首をひっ掴み、漁師ごと自分たちも乗り込んだ。
「向こう岸に急げ!」
漁師を|拉致《らち》したのは本職に|漕《こ》がせたほうが早いと判断したからだが、漁師にとっても燃えさかる炎と殺し合いから逃げられるのは願ったりかなったりだ。
死に物狂いで船を漕ぎ出した。
アスティンたちを乗せた船が滑り出していくのを見届けると、ナシアスは心おきなく敵に向き直った。
奇襲は成功し、敵はちりぢりに逃げ出している。
ここまでは上出来だった。
ただ一つの計算違いは増援が駆けつけてくるのがあまりにも早かったことだった。
「隊長!」
騎士の一人が叫ぶ。眼をやれば、橋のある方向に土煙が見えた。明らかに人馬の群が立てるものだ。
たちまちこちらに追ってくる。
火の手が上がるのを確認してから駆けつけたとは到底思えない速さだった。
あらかじめ合流する予定になっていたに違いない。
ナシアスは表情を引き締め、少しも|怯《ひる》まず叫んだ。
「隊列を組め!」
今ここで背を向けても逃げるところがない。
味方が駆けつけてくるまで持ちこたえるしかない。
まさに背水の陣だった。
突撃隊はいっせいに固まった。
たった五十人ではどこまで戦えるかわからないが、命令無視を承知で隊長に従うだけあって、さすがにどの騎士も性根が据わっている。
駆けつけてきた増援は騎馬と|徒士《かち》を合わせて総勢三百ほどだった。これまた合戦するには小勢だから、ここにいた兵と協力して、まずは橋を架ける目的で来たものと思われた。ところが来てみれば、味方は
さんざんに追い散らされ、百にも満たない小部隊が整然と持ちかまえていたのである。
面食らったが、合戦の予定ではなかったとは言え、三百の将兵は立派な軍勢には違いない。
|鬨《とき》の声を上げて襲いかかってきた。
しかし、突撃隊はびくともしなかった。
同じく鬨の声を上げて猛然と迎え撃った。
ガレンスは極太の|《やり》の一振りで敵を跳ね飛ばし、ナシアスの剣はまさに華麗に冴え渡った。二人とも自分に触れようとするものいっさいを許さなかった。
この二人を先頭に、ラモナ騎士団員はその真価を存分に発揮した。
苦しい戦、粘りの戦なら彼らにはいつものことだ。
五十人それぞれが鬼神のように強かった。
その彼らに引けを取らない戦いぶりを見せたのがバルロである。
十六の少年とは思えないほど奮戦していた。
昨日の言語道断の不覚、そのことによって同僚を何人も死なせてしまった後悔、それらが激しい炎となって彼の身体を包んでいるようだった。
たった五十人の突撃隊は敵が舌を巻くほど猛烈に戦ったが、何と言っても多勢に無勢だ。
一度は逃げた敵も味方の到着に力を得て、次々に戻ってきている。数はますます増えている。
ナシアスは|雲霞《うんか》のようにたかる敵兵を片っ端から斬り伏せ、飛んでくる矢を次々払い落としていたが、そんなナシアスを手強しと見た敵に、集中して矢を浴びせられると、とても全部は防ぎきれない。
「危ない!」
声と同時に馬ごと突き飛ばされた。
はっと振り返れば、ナシアスを狙った矢が二本、ガレンスの右肩と左の二の腕に突き立っている。
「ガレンス!」
顔色を変えて叫んだが、ガレンスは委細かまわず矢の刺さった左腕で右肩の矢を引き抜いた。
そこへ第二の矢の雨が降ってきた。
ガレンスはすかさずナシアスの前に立ちふさがり、左腕の矢などお構いなしに両手で槍を回して防いだ。
しかし、数が多すぎる。その防御も空しく、矢は何本もガレンスの大きな身体に命中したのである。
太股にも、腕にも、胴体にまで次々に矢を浴びて、彼はもう|針鼠《はりねずみ》のような有様だった。
それでも馬を駆ってナシアスの前に立ちはだかり、槍を振るい続けることをやめない。
この状態でなぜ動いていられるのか信じられず、恐怖に駆られてナシアスは叫んだ。
「よせ! もういい!」
「いいや! よかあねえな! あんたもこれからのラモナ騎士団に必要な人間だ!」
「だめだ!」
自分をかばって誰かが、ガレンスが――死んだりするのは許せなかった。
彼のほうこそラモナ騎士団に必要な人間だ。
この上は最後の手段を取るしかないと意を決して、ナシアスは馬から飛び降りた。自分の剣をぐさりと地面に突き刺すと、味方の騎士たちを振り返って、大声で叫んだのだ。
「攻撃を中止しろ! 武器を捨てて投降する!」
「ナシアス!?」
血まみれになったバルロが馬上で驚愕した。
騎士の誇りを重んじるバルロにとってそれ以上の屈辱はなかった。そのくらいなら死を選ぶべきだと叫ぼうとしたが、それより先に、ナシアスは敵兵に向かって、さらに堂々と叫んだのである。
「ここにいるのはサヴォア公爵家の総領息子だ! 生かして捕らえることをお勤めする!」
バルロは絶句した。
怒りも驚きも一瞬で吹っ飛んだ。
しかし、バルロの心境とは裏腹に、デルフィニア筆頭公爵の名前は効果絶大だった。
敵は大きくどよめき、ぴたりと攻撃をやめたのだ。
不気味なくらいの静寂の中、バルロは愕然としてナシアスの顔を見た。
汗と|土埃《つちぼこり》と返り血に汚れてもなお、泰然とした美しい顔を痴呆のように見つめていた。
それしかできなかったのだ。
バルロの馬の手綱を押さえて、ナシアスは厳しく、しかし悲痛な声で言い聞かせたのである。
「――死ぬなと言ったはずだぞ。おまえには生きて戻らなければならない義務があるんだ」
「ナシアス……。俺はいやだ! 捕虜の|辱《はずかし》めなど、俺はいやだぞ!」
泣きそうな声だったが、ナシアスは首を振った。
「だめだ。投降すれば少なくとも、おまえは生きてデルフィニアに帰れる。おまえの父上は息子の身代金を借しんだりしないだろうから」
ナシアスのこの態度を見て、五十数人の突撃隊ももはやこれまでと観念したらしい。
一人、また一人と、のろのろと馬を下りて武器を手放した。
ただ一人、ガレンスだけは下馬しなかった。
全身に矢を突き立てた凄まじい姿で鞍にまたがり、荒い呼吸を続けている。その右手はまだ愛用の槍を握ったままだ。
バルロの馬を抑えながら、ナシアスは低く言った。
「ガレンス隊長。ご無念だろうが、槍を……」
「無理だ。手から離れん」
丸太のような右腕にも何本か矢が刺さっている。
その指は槍をきっく握りしめた形のまま硬直して動かないのかもしれず、馬から下りようにも身体がいうことをきかないのかもしれなかった。
他の騎士がガレンスの強ばった手指を開いて槍を引きはがすと、槍は地響きを立てて地面に落ちた。
そのくらい重いのだ。さらに騎士が三人がかりでガレンスの巨体を鞍から下ろそうとした時だ。
敵の様子が急におかしくなった。何やら動揺して陣列を乱したのだ。
投降を申し出た突撃隊ではなく、明らかに背後に気を取られている。
そちらを見れば、新たな土煙があがっていた。
その土煙は移動している。
すばらしい速度でぐんぐんこちらに近づいてくる。
そして何よりここからでも見える。
その土煙の先頭には、紛れもない白百合の紋章が咲き誇っていた。
「騎士団の新手だ!」
「|防《ふせ》げ!」
焦って狼狽した敵とは対照的に、バルロは激しい歓喜と興奮を感じて身体を震わせていた。
同時に足下の友人に向かって猛烈に噛みついた。
「これでもまだ降伏すると言うのか!?」
「何のことだ?」
ナシアスはけろりと言ってのけた。
地面に突き刺した剣を引き抜き、あっという間に馬に飛び乗り、高らかに味方に向かって声を掛けた。
「さあ、もう一息だ!」
たった今投降すると言った舌の根も乾かぬうちに、ナシアスは敵陣めがけて突っ込んだのである。
あまりといえばあまりのことに、バルロは馬上で絶句していた。
これはもう臨機応変とか変わり身が早いとかいう問題ではない。なりふり構わずだ。
バルロの感覚では恥知らずと言ってもいい。
驚きが過ぎて戦うことすら忘れそうになったが、ラモナ騎士団の勇士たちはさすがだった。
彼らは自分たちの隊長の態度に驚きもしなければ、騒ぎもしなかった。状況が変われば戦術も変わる、それが当たり前だと思っているからだ。
ナシアスを見習って一度は手放した武器に次々に飛びつき、馬に飛び乗り、一斉に歓声を上げた。
中でももっとも大声で吠えたのがガレンスだ。
「誰か! 俺に槍を持たせろ!」
ガレンスの隊の騎士がすかさず転がった槍を拾い、馬上の隊長に差し出した。その槍をしっかと握って、ガレンスは矢の刺さった足で馬腹を蹴った。
ナシアスの後を追って飛び出し、再び横に並んでその槍を振るって戦い始めたのである。
「ガレンス。あんたはもういい! 休んでいろ!」
「お断りだ!」
荒い息の下で言い返し、重傷のガレンスは猛然と槍を振るった。少し動きは鈍くなっているものの、その力も勢いも依然として衰えない。
一振りで敵を|薙《な》ぎ倒していく。
「あんたのようにうまく剣は使えないが、丈夫っていうのも取り柄の一つだ!」
気が気ではなかったが、ガレンスの剛勇は確かにありがたい。第一、止めようにも止まらない。
この上は戦闘を早く終わらせることが肝要だった。
焦りと怒りに支配されたナシアスの表情と剣技は冷酷無比に煌めいて、近寄るものを圧倒した。
敵は新手の出現に激しく動揺していたが、そこは|奸智《かんち》で知られるパラスト国王に従う領主の兵だ。
数人がかりでいっせいにバルロに襲いかかった。
それも槍の穂先ではなく石突を使ってだ。
何を考えたかは明らかだった。サヴォア公爵家の総領と聞いたものだから、これを捕まえて|窮地《きゅうち》に活を見出そうという知恵を働かせたのだ。
「なめるな!」
バルロはかっとなった。
向かってくるのを幸いとばかりに敵を跳ね飛ばし、負けにとばかりに暴れ回った。
こうして突撃隊が奮戦する間も、騎士団の増援はまっしぐらに近づいてくる。
挟撃される恐怖に、しぶとさで知られるパラスト兵もついに堪えきれなくなった。
|雑兵《ぞうひょう》が一人二人と逃げ出し始める。その動きはたちまち全員に伝わった。ついには武将格の者まで尻に帆を掛けて、どっと潰走した。
ラモナ騎士団の新手はすかさず追撃に移ったが、国境洽いの戦で深追いは禁物である。
ほとんどはその場に残って突撃隊と合流した。
この時になってガレンスはようやく戦うのをやめ、人の手を借りて馬を下りたのだった。
後にバルロはこの時の友人が取った態度について顔をしかめながらこう語った。
「俺がパラストの武将なら、あんな人質を取るのは絶対にごめんだ。頼まれてもお断りだ。自陣の中に入れたりしたら何をされるか物騒でかなわない」
この感想を聞いたガレンスとアスティンは苦笑し、顔を見合わせて揃って頷いた。
「ま、正しい評価でしょうな」
「右に同じです」
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9
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増援を率いていたのはパラディだった。
ナシアスを見てちょっと微笑し、バルロを見ると、ちょっと頭を下げてみせる。
これだけの仕種で、「よく戻った」と「ご無事で何より」を同時に済ませているのである。
パラディの顔を見たナシアスも大いに|安堵《あんど》した。
出てくる時には形ばかりとは言え、この人に刃を向けている。そのことをあらためて詫びねばと思い、馬から下りたナシアスの後ろで悲鳴が聞こえた。
反射的に振り返る。
最後の|斧《おの》を撃ち込まれた大木のようにゆっくりとガレンスの巨体が倒れるところだった。
「ガレンス!」
「隊長!」
ナシアスもガレンスの隊の騎士たちも青くなって地響きを立てて倒れた男の元に駆け寄った。
地面に横たわった男の身体には、実に十三本もの矢が突き剌さっていた。|具足《ぐそく》が防いだものもあるが、ほとんどは具足を貫いて深く肉に食い込んでいる。
並の男ならとっくに死んでいる傷だ。
ガレンスはそれでもまだ浅い呼吸をしていたが、意識が|朦朧《もうろう》としている。呼びかけても応えない。
この状態でよくぞ今まで動いていたものだ。
「誰か! 担架を!」
悲鳴のような要請に応えて担架が運ばれてきたが、これは無理があった。担架より運ばれる男のほうが|遥《はる》かに大きいのである。とても乗せられない。
代わりに|兵糧《ひょうろう》を運ぶ荷車が急いで用意された。
ガレンスは荷車に乗せられ、他の死傷者ともども橋へと搬送されたのである。
二つの関所は既にラモナ騎士団が押さえている。
さらに橋の手前のパラスト領、橋を渡ってすぐのデルフィニア領にもティレドン騎士団が陣を張って|睨《にら》みをきかせていた。
おかげて攻撃を受けることもなく、彼らは無事に橋を渡ってデルフィニア領に戻ったのである。
この陣営はザックスが指揮していた。
そのザックスの幕舎に戻ったことを報告に行くと、バルロの顔を見たザックスは軽く頭を下げてきた。
反対にバルロは硬く強ばった顔をしている。
その表情には気づかないふりでザックスは言った。
「ジャコー団長はビルグナ|砦《とりで》にいらっしゃいます。戻られたことを報告しに行かれるとよろしい」
「自分はこの最前線に残ります」
「それは団長がお許しになりません。生還されたら必ずビルグナ砦に向かわせるようにとのご命令です。――その前に少し休んだほうがいい」
気づけば丸一昼夜、わずかな仮眠を取っただけで動き続けていたのだ。初めて鉛のように重い身体を意識したが、バルロは首を振った。
この幕舎の中にいても、ナシアスが必死になって負傷した男の名を呼んでいるのが聞こえる。
ぽつりと呟いた。
「……アスティンの容態はどうなのです?」
「重傷には違いありませんが、衛生兵の見立てでは命に別状はないとのことです。どのみち、ここでは充分な治療ができません。ラモナ騎士団の負傷者と一緒にビルグナ砦に搬送します。休む必要がないと言うなら、あなたも彼らとともに出発しなさい」
そこまで言われては拒否もできない。
一礼して副団長の幕舎を引き上げる際、バルロはしばらく|逡巡《しゅんじゅん》して、小さな声で言った。
「……申し訳ありませんでした」
ザックスは真顔で首を振った。
「いいや、ご無事で何よりだった。あなたが生きて戻らなかったら、わかしはそれこそ団長とあなたの父上に死を命じられただろうから」
バルロは何とも言えない顔になり、再び一礼してザックスの幕舎を後にしたのである。
ナシアスはそんなやりとりのことは知らなかった。
負傷者を搬送するティレドン騎士団の兵士たちと、すぐさま陣営を出発した。
一日歩き続けて、やがて夜になる。
本来なら夜営して泊まるところだが、兵士たちは休もうとしなかった。ナシアスがガレンスの容態を気にかけているように、ティレドン騎士団員たちは皆、アスティンの容態が気がかりだったらしい。
一刻も早く砦に届けなくてはとの一念で歩き続け、翌朝、無事にビルグナ砦に入った。
この間、ナシアスはずっとガレンスの荷車の傍に付き添って歩き続けた。
バルロの救出に向かってから丸二日、不眠不休で動いていたことになる。
さすがにビルグナ砦に到着した時は、ナシアスの体力も気力も限界に近づいていた。
しかし、砦に帰還したナシアスにはその場で|営倉《えいそう》行きが言い渡されたのである。
ロビンスの制止を振り切って飛び出したからには当然の処罰だった。
ナシアスは黙ってこの処分に従い、武装解除の上、営倉に入ったが、収まらなかったのがバルロだった。
ジャコー団長の熱烈な歓迎を受けていたバルロはこの処置を聞くのが少し遅れた。
聞いたとたん血相を変えた。
まさに憤然として、足音も荒くロビンスの自室に押しかけ、面と向かって抗議したのである。
「不当な処分であります。納得できません。彼には何の罪もありません。罪を問われるなら、わたしのほうです。わたしを営倉に入れてください」
「グラスメア聯……」
ロビンスは少年の予想外の一本気さに苦笑したが、到底聞ける願いではない。聞き分けのない子どもに言い聞かせる口調で説明した。
「おわかりになりませんかな。あなたはティレドン騎士団の人だ。罰する権限はわたしにはありません。あなたが団の規律に|背《そむ》いて罪を犯したというのなら、処罰するのはティレドン騎士団長の役目です」
バルロは唇を|噛《か》みしめ、|拳《こぶし》を握りしめて、淡々と言った。
「ジャコー団長は、わたしの行為を|咎《とが》めるどころか、わたしの生還を手放しで喜び、救出活動を拒否したザックス副団長を命令無視で処罰すると意気込んでいます。――そんな人です」
「それでも彼はあなたの上官であり、指揮官です。彼があなたを許し、ザックスを処罰すると言うなら、わたしには異議を唱える権限はありません。同様に、あなたもザックスもティレドン騎士団の一員である以上、ジャコー団長の決定に従わなければならない義務がある」
バルロはきっと顔を上げた。
その黒い瞳には激しい炎が燃えている。
「ロビンス団長はどうなのです? ジャコー団長のなさることを正しいとお思いですか」
「それはわたしの判断することではありません」
至って静かにロビンスは言った。
「ただし、あの時点、あの状況で、あなたの救出を不可能だと判断したザックス副団長の判断は正しい。強引に引き返せば、待ちかまえていた敵とぶつかり、大変な被害が出ていたでしょう。わたしも副団長と同じ見解でした。だから行ってはならぬと命令した。ナシアスはその命令を無視して飛び出したのです。いかなる理由があれ、団命に背くことは重罪です。しかるべき処罰を与えねばなりません。さもなくば、騎士団というものが機能しなくなります」
「しかし!」
「グラスメア卿。あなたがわたしに抗議することも立派な規律違反であることを承知しておられるかな。一介の騎士が他団の団長に向かって、団員の処分の取り消しを求める。ラモナ騎士団を率いて長いが、わたしはそんなおかしな話を聞いたことがない」
鋭い眼で見据えられて、バルロは|怯《ひる》んだ。
本当はまだ言いたいことがあったに違いないが、ぐっと呑み込んで頭を下げた。
「……失礼いたしました」
営倉に入ったナシアスは硬い寝台にごろりと横になった。さすがに起きていられなかったのだ。
ぐっすり眠って、午後には眼を覚ました。
砦の地下につくられた営倉には、上のほうにごく小さな窓が開けられている。
そこから入り込む光で時間がわかる。
国境の戦況が気にならないと言ったら|嘘《うそ》になるが、こうなった以上はじたばたしても仕方がない。
罪を犯した違反者らしく、殊勝に過ごした。
アスティンとガレンスの容態も気がかりだったが、自分への面会は禁じられているのだろう。丸一日が過ぎても誰も会いに来なかった。
食事も扉の下の小窓から差し入れられるだけで、ナシアスは誰とも口をきくことなく、たった一人で三日を過ごした。
そうして三日が過ぎた夜、ロビンスがひっそりと、営倉に姿を見せた。
団長が直々に|懲罰《ちょうばつ》を受けている違反者に面会に来るなどとは異例中の異例である。
人目につかないようにロビンスは深夜に現れたが、ナシアスはすぐに気配を察して眼を覚ました。
起きあがり、粗末な寝台に腰を下ろしたところで、営倉に入って来たロビンスと眼が合った。
わずかに差し込む月明かりでも表情が|窺《うかが》えるが、ロビンスは怒ってはいなかった。
ナシアスの顔を見つめ、微苦笑を浮かべて言った。
「お主えが生きて戻ってきたことを、わしが喜んでおらぬと思うか?」
ナシアスもロビンスの顔を見つめて、黙って首を振った。
「グラスメア卿を無事に連れ帰ってくれたこともだ。嬉しくないわけがない。本来ならいかに感謝してもしきれぬところだがな……」
「…………」
「しかし、わしには騎士団長としての立場がある。守らねばならない規律がある。おまえに向かって、よくやったとは言えぬのだ」
「存じております」
ナシアスは静かに言った。
実際、そのくらいのことは覚悟の上だった。
それでも自分はバルロを死なせたくなかった。
あの男はこんなところで死ぬべき人間ではないと堅く信じたのだ。
「アスティンどのの容態はいかがでしょうか?」
「大事ない。傷は多かったがな。じきに治るそうだ。あれもたいした男だの」
「ガレンス隊長は?」
ロビンスははっきりと笑顔になった。
「案ずるな。あの男はあの程度ではびくともせん。治療に当たった医師が呆れるほどの頑丈ぶりだ」
ナシアスはほっとした。思わず笑みがこぼれた。
ロビンスが苦笑しながら言う。
「わずか五十人で三百人に仕掛けるとは無謀だが、おまえたちのしたことは決して無駄ではなかった。あの奇襲を受けたことで、セネグロは震え上がり、これ以上の交戦は得策ではないと判断したらしい。|和睦《わぼく》を申し入れてきた」
「では、|戦《いくさ》は終わるのですね」
|領《うなず》いたロビンスだった。
「終わらせねばならぬ。それもこちらにはいささか不本意な条件でな。本来なら領地の一部をこちらに譲り受けるところだが、おまえも知ってのとおり、それは難しい。無理に割譲させればパラスト国王に絶好の口実を与えてしまうからな」
ナシアスも領いた。
以前ドゥルーワ国王に対して、守るばかりではと不安を洩らしたナシアスだったが、今の彼はラモナ騎士団の存在意義がわかっている。
ロビンスは人のよさそうな笑みを浮かべて言った。
「せいぜい賠償金であがなってもらうことにしよう。幸いセネグロは豊かな土地だからな」
こうして数度の交渉の末、国境の戦は終結したが、バルロはやはり収まらない様子だった。
もともとは向こうから仕掛けてきた戦である。
それなのにこんな中途半端な形で和議を結んだら、戦死した仲間に申し訳ないと盛大に文句を言った。
「セネグロすべてをデルフィニア領にするくらいの要求をしてもよいところだぞ。ロビンス団長は何を及び腰になっているのだ!」
「黙れ。国境の戦に関して、おまえがうちの団長に文句を言うなど百年早い」
ナシアスは冷ややかに言った。
その頃には許されて営倉を出ていたのだ。しかし、まだ武装は認められていないから丸腰である。
これは騎士にとって大変な屈辱だが、ナシアスは平然たるものだった。
戦地で武器を持たないのでは命に拘わるが、現在、ビルグナ砦は戦場ではない。
ならば戦う必要もないと割り切っているからだ。
二人は今、夜間の見張りの名目で、砦の|鋸壁《のこぎりかべ》の上に立っていた。
街道の方向に眼をやりながらナシアスが言う。
「領地の割譲は要求できない。そんなことをしたら、パラスト国王が嬉々として出てくる」
デルフィニアの横暴で土地を奪われたとセネグロ領主に泣きつかれた。家臣の切ない|乞《こ》いを聞き流すことはできない。やむなく取り返しに立ったのだと、あの|奸智《かんち》の国王は言うだろう。
「それがどうした! 願ったりではないか」
「本当にそうか? パラスト国王直々の出陣だぞ。総勢は二万以上、最悪の場合は三万を超えるだろう。それだけの戦力をどうやって相手にする?」
バルロはちょっと怯んだようだが、それでもまだ食い下がった。
「しかし、それなら……そんな心づもりがあるなら、パラスト国王はなぜさっさと挙兵しない?」
「パラスト国内にも臣下同士の対立があるからだ。その彼らを一つにまとめてデルフィニア侵攻という同じ目的に向かわせるためには口実がいる。誰もが納得する口実がな。そのためにセネグロは、恐らくパラスト国王の密命を受けて口実をつくろうとした。しかし、うちの団長はそんな手には乗らなかった。それだけのことだ」
「…………」
「おまえも覚えておくといい。これが国境の戦だ。我々ラモナ騎士団はずっとこうやって戦ってきた」
戦力の充実以上に交渉と駆け引きがものを言う、高度な頭脳戦の場なのだ。
突進するだけの|猪《いのしし》武者ではとても生き残れない。
「領地は取れなかったが、賠償金はどっさり取った。コーラルも喜ぶだろう」
ナシアスはむしろ楽しそうに言ったが、バルロは先程までの怒りも忘れたようだった。
意外なほどの真顔で言った。
「だが、ナシアス。それでは……いつまでも守りに徹するだけでは限界があるぞ」
「わかっている。それはわたしもいつも思うことだ。しかし、現実を考えた時、こちらから乗り込むのは不可能だ。二千のラモナ騎士団だけではな」
「それこそ国内の戦力を総動員すれば……」
「無理だ。コーラルは決してそんな許可は出さない、出せないと言ってもいい。|王《》、|命《、》|も《、》|な《、》|し《、》|に《、》どうやって、国内の有力者に総動員をかける?」
国の総力を挙げて他国と戦をするというからには、そのための手段と大義名分が必要なのだ。
そして今のデルフィニアはその手段を持たない。
国王の号令一下、国内の総力を一つに結集して、ただちに応戦するというわけにはいかない。
そうしたくても、それができない状態なのだ。
表情を強ばらせたバルロと対照的に、ナシアスは星空を見上げて優しい口調で言った。
「エヴェナ王女が早くよくなられるといいな」
「…………」
「そうしたら、わたしは新しい女王に忠誠を誓おう。女王陛下がパラストを攻撃せよと命令なさるなら、喜んでそのご命令に従おう」
「そうだな」
バルロも短く笞えた。
王国には王が必要だった――正当な国王が。
二人ともその時が一刻も早く訪れることを願って止まなかった。
国境が落ちつくと、ティレドン騎士団は本拠地のマレバに引き上げていった。
バルロもナシアスと再会を約束して|発《た》っていった。
深手を負ったアスティンだけは治るまでビルグナ砦で療養することになった。
ちなみに一時は何が何でもザックスを処罰すると息巻いていたジャコーだが、バルロが抗議した結果、渋々ながら処分は取りやめにしたらしい。
それを聞いたナシアスとアスティンはほっとして胸を|撫《な》で下ろした。
「大きな声では言えませんが、副団長に去られてはティレドン騎士団は成り立たちませんからな」
「まったくです」
そのアスティンの傷も|癒《い》え、一人遅れてマレバヘ発とうという頃、立派な服装の使者が獅子の紋章の|捺《お》された手紙を|携《たずさ》えてビルグナ砦にやってきた。
それはサヴォア公爵からナシアスに対する|直々《じきじき》の呼び出しだった。
ぜひ一度会って話がしたいと、折りを見て訪ねてくれというのである。
どうしたものかと思ってロビンスに相談すると、ロビンスは笑って、せっかくのご招待だから行って来るようにと言ってくれた。
「今現在のデルフィニアを切り回している方に一度お目にかかっておくのも悪いことではない。国境も一段落したことだしな」
「それでは、行って参ります」
こうしてナシアスは傷の癒えたアスティンと肩を並べて、東を目指して出発した。
アスティンが思っていたより年上だと知ったのはこの時だった。自分とは二つか三つしか違わないと思っていたが、実は八歳も上だった。
これには驚いた。ずいぶん若く見える人である。
アスティンは途中で南のマレバに進路を変えたが、ナシアスはそのままコーラルを目指した。
いつものように、ひとまず三の郭の官舎に入る。
一の郭のサヴォア館に予定を|伺《うかが》う使いを出すと、すぐに返事が来た。今夜会いたいとのことだった。
ナシアスは湯を浴びて汗を流し、身支度を調えて、指示された時間にサヴォア館に向かったのである。
いつものようにカーサが迎えてくれて、この度は若君を救ってくださってありがとうございましたと、深々と頭を下げてきたので、ナシアスは苦笑した。
「バルロがそう言ったのですか?」
「はい。若君は旦那さまにもそうおっしゃいました。ですから旦那さまはあなたさまを呼ばれたのです」
どういう意味だろうと首を傾げたが、ナシアスは黙っていた。カーサの案内で公爵の自室へ通される。
サヴォア公爵は書きもの机に向かって、羽ペンを走らせているところだった。
カーサがそっと来客を告げて、ナシアスを部屋に通しても、公爵は顔を上げずに手を動かしていたが、ナシアスをその場に残してカーサが|恭《うやうや》しく去ると、ようやく手を止めて顔を上げた。
この父親は息子にはあまり似ていなかった。
ナシアスは無意識のうちにバルロやドゥルーワと同じような、眼も髪も黒い押し出しの立派な人物を想像していたのだが、全然違った。言われなければ親子とは思えない。そのくらい似ていなかった。
眼も髪も息子と違って明るく、品のある|細面《ほそおもて》の顔立ちをしている。人物の雰囲気も立派ではあるが、至ってやわらかい。典雅と言ってもいいくらいだ。
息子が第一戦で戦う騎士なら、父親はどう見ても由緒正しい血筋を誇る高貴な人である。
いや、この感想は正しくない。
バルロのほうが王家に血のつながる大貴族らしくないのだろうと、ナシアスは思った。
同時に思い出しだのはレヴィン夫人のことだった。
あの人と別れたのはもう二年も前のことなのに、この人が夫人を囲い者にし、バルロに与えたのかと思うと、何となく胸が騒ぐような気がしたのだ。
サヴォア公爵はそんなナシアスの胸の内など知るよしもない。さらに言えば公爵は現在のコーラルでもっとも多忙な人物である。
時間を無駄にするようなことはせず、単刀直入に切り出した。
「そなたは息子の命を救ってくれたそうだな」
ナシアスは穏やかに微笑んで頭を下げた。
「そのことでしたら、わたしの力ではありません。ご子息はお一人でも立派に危機を脱されました」
「息子はそのようには言わなんだぞ」
「さようでございますか?」
「自分が生きて戻ることがかなったのは、ひとえにナシアス・ジャンペールあってこそだと、そなたを絶賛しておった」
「過分なお言葉です。それはどのことは何も致しておりませんが、恐縮に存じます」
筆頭公爵の自分を前にして緊張する様子もなく、さらさらと言葉を|綴《つづ》る。そんなナシアスに好印象を持ったらしく、公爵は笑顔で言った。
「そなたを呼んだのは他でもない。|褒美《ほうび》をやろうと思ったからだ」
「と、おっしゃいますと……?」
「わからぬか? 息子の命の恩人に何も報いぬほど、わしは|吝嗇《りんしょく》な人間ではないぞ」
「…………」
「国王が健在であれば一家を立ててやるところだが、なに、国王不在の今でも、わしの力で爵位を授けてやることなど造作もない。王宮に伺候できるだけの身分を与えてやることもだ。さよう、何ならわしの片腕として政治に加わってもらってもよい」
水色の眼が何度か|瞬《またた》きして公爵を見つめた。
公爵は|悠然《ゆうぜん》とした笑いを浮かべて領きを返した。
「望みがあるなら申すがよい。領地でも、身分でも、そなたの望むままに与えよう」
「わたしの望みを叶えてくださるとおっしゃる?」
「さよう」
サヴォア公爵は切れ長の眼におもしろそうな光を称えて、ナシアスを見つめていた。
この若者に褒美をくれてやろうと思い立ったのは、実は公爵の気まぐれだった。
今後も息子のために働けば悪いようにはしないと、子飼いにしておこうという計算でもあった。
ところが、公爵のこの心づもりを聞いたバルロは皮肉に笑って言ったのである。
「無駄なことです。父上。あの男は領地や身分など欲しがったりは致しません」
公爵にとって、そんなことはありえなかった。
事実、眼の前の若者はどんな褒美をもらおうかと思案している。
自分の片腕として王宮で使ってやると言ったのも、領地を与えようと言ったのも嘘ではなかったから、何を求められても即座に対応するつもりで、公爵は|鷹揚《おうよう》に構えていた。
しかし、若者は顔を上げてこう言ったのである。
「では、ジャコー団長の|罷免《ひめん》をお願いします」
「なに?」
「わたしの望みなら何でも叶えてくださると公爵はおっしゃいました。ですから申し上げます。現在のティレドン騎士団長を罷免していただきたい」
これにはさすがにサヴォア公爵も驚いた。
予想外の注文だったからだ。
「それがそなたの望みか?」
「はい」
「ふうむ……」
考え込んでいると、若者は少し困ったような顔になって頭を下げてきた。
「こうした団の人事が公爵の管轄外のことでしたら、ご無理を申し上げましたことをお詫び致します」
「いや、待て」
思わず制して苦笑する。そう出られてしまっては、面子に懸けてもできないとは言えないではないか。
外見は|温順《おんじゅん》そうに見えるが、なかなかどうして食えない若者かもしれぬと印象をあらためながら、公爵は尋ねた。
「なぜそのようなものを望むのかな?」
ナシアスはきっぱりと言った。
「あのような騎士団長では我々が迷惑するからです。あれでは援軍に来ていただいても意味がありません。ご子息が敵地に取り残されるきっかけになったのも、もともとはジャコー団長の|愚策《ぐさく》が原因でした」
「なるほどな。それではそなたを新しくティレドン騎士団の長とすればよいのかな?」
血は争えないものだ。外見は全然似ていなくてもからかうような皮肉な□調はバルロにそっくりだと思いながら、ナシアスは「ご冗談を」と笑って首を振った。
「わたしはラモナ騎士団の人間です。ビルグナ砦を守ることに誇りを持っております。ですが、後任に口を出してもよいといわれるのでしたら、ぜひともザックス副団長の団長への昇進をお願い致します。あの方の指揮するティレドン騎士団ならば、大いに頼もしく、何より心強い味方となってくださるはず。それなら喜んで援軍に来ていただきたく思います」
「ほう……。しかし、それならば……」
|悪戯《いたづら》心を起こして公爵は言った。
「ならは、少し早いが、息子を団長としようか」
「それはいけません」
ナシアスは即座に断定した。
「無論、ご子息は優れた騎士としての素質を充分にお持ちです。将来は優秀な指揮官になられることを疑うものではありませんが、二千人の団員を率いる立場となるにはいかに何でも早すぎます。もう数年、ザックスさまの元で修行をなさるべきと心得ます」
サヴォア公爵は今度こそ皮肉な微笑を浮かべた。
「それを聞いたら、息子はどう思うかな?」
「どういう意味でございましょう?」
「そなたが、自分よりザックスを高く買っていると知ったら、息子はがっかりするだろう」
こう言えば、たいていの人間は慌てて、ご子息を|既るおお既《》めるつもりなどは決してと弁解するものだ。
サォア公爵に面と向かって、次代の公爵であるグラスメア卿の不足や未成熟さを指摘する者など、これまで一人もいなかった。わざわざそんなことを言って公爵の不興を買う必要はないからだ。
実際、バルロは武術にも学問にも優れていたし、誰も彼も公爵の前でバルロを|褒《ほ》めそやし、欠点などないものであるかのように長所だけを並べ立てた。
公爵にとってはそれが当たり前の反応だった。
ところがだ。ほっそりと優しげな若者は微笑して、堂々と言ってのけたのである。
「それは事実ですから仕方ありません。現時点では、ザックス副団長はご子息より遥かに優れた騎士です。実戦の経験も豊富な指揮官でもいらっしゃいます。何より、こうしたことはわたしが指摘しなくても、ご子息ご自身が充分にわきまえておられます」
「さようか?」
「はい」
穏やかに頷いたナシアスたった。
だが、一見したところ優しげなその笑顔の裏側でもしバルロが自分のほうがザックスより優れているなどとふざけた寝言を抜かすようなら、その性根を 存分に叩き直してくれるわと物騒に考えているとは、公爵は知るよしもない。
念を押すように言った。
「ジャコーを罷免し、ザックスを団長に昇格させる。本当にそれでよいのだな?」
「はい。そうしていただければ、これ以上の喜びはございません」
「そなた自身は何も要らぬのか?」
「わたしは一介の騎士に過ぎません。戦うことしか知らない人間なのです。身分や領地をいただいても役立てることはできません」
「ならば、話は早い。そなた自身がラモナ騎士団の長の地位を望めばよかろうに」
「とんでもないことでございます」
これには本当に驚いて、ナシアスは眼を見張って反論した。
「現在のわたしのどこを取ってもロビンス団長には遠く及びません。いつかは団長のお役に立ちたいと思ってはおりますが、わたしもまだまだ未熟考です。団長がビルグナ砦にご健在でいらっしゃるからこそパラストの陰謀を水際で食い止めていられるのです。その代わりを務めることなど、今のわたしには到底不可能です」
「今のそなたには、か?」
「はい」
自分に何かできて何かできないかを知っている。
しかし、決して今のままではいないという自信を同時に|覗《のぞ》かせている。
おもしろい若者だと、公爵はもう一度思った。
微笑を浮かべた公爵につられた形で、ナシアスもそっと微笑した。
「あえて、申し上げてもよろしければ……」
「何だな?」
「ご子息が、わたしの頼みとするべき立派な騎士になってくださること。本当はそれが一番の望みです。そして、そう遠くない将来、ご子息は必ずわたしの期待に応えてくださるはずと確信しております」
「は……」
公爵は完全に呆れて笑い声を立てた。
「息子がそなたの期待に応えるのか? 話が逆だぞ。そなたが息子の期待に応えるべきではないか」
「わたしはご子息がわたしに何を求めているのかを存じません。昔からわかりませんでした。わからぬものには応えようがありません」
これはナシアスの本音だった。
しかし、それはたいした問題ではない。
大事なのはバルロが真の騎士たらんとして努力を惜しまないこと、デルフィニアの未来を真に|憂《うれ》えているということだ。
自分や他の多くの騎士たちと同じように。
サヴォア公爵は真顔になって、一つ息を吐いた。
「そなた、息子は立派な騎士になると思うか?」
「はい」
「しかし、あれはわしの総領だ。いずれは公爵家を継がねばならぬ身だ。勇猛果敢さは確かに必要だが、わしとしてはいつまでも戦場に置くつもりはない。この国にも、じきに新たな国王が誕生するだろう。その時はこのコーラルで、国王の右腕として政務に働いてもらわねばならぬ身でもあるのだぞ」
「存じております」
サヴォア公爵家の家格を考えた時、それは当然のことだった。
バルロは自分のような一兵卒とはわけが違うと、ナシンアスは客観的に考えていた。彼は王国の未来に大きく関わらなければならない立場の人間なのだ。
「それこそご子息にしかできないことでしょうから、反対するつもりはありません。ただ……」
「ただ、何だ?」
ナシアスはちょっと|躊躇《ためらった》ったが、淡々と述べた。
「わたしは|田舎《いなか》者ですから、こちらのような立派なお家のことはわかりかねます。わたしにわかるのは自分と同じ騎士の心だけです。所属は違うとしても、ご子息は今まで確かにわたしの戦友でした」
「…………」
「遠くなってしまうのは寂しいような気もしますが、ご子息が剣を置いて戦場から離れても、王の重臣として王宮に入っても、ご子息がわたしの戦友であることに変わりはないと思っております」
「呆れた奴だ」
公爵は本当に匙を投げたようだった。
「わかっておらぬらしいな。息子は単なる騎士とは違うのだぞ。本人の希望で騎士団に所属しているが、他の騎士のように人に使われる立場ではない。本来人を使い、人の上に立つ立場の人間なのだ。それを同輩扱いするとは何とも呆れた身の程知らずだ」
「自分でもそう思います」
少しばかり|悄然《しょうぜん》とうなだれたナシアスたった。
「ご子息はこれまで一度もそうしたことでわかしを咎めなかったので、甘えさせていただいております。しかしながら、人を使う立場であるならなおのこと、使われる者の心を知り、彼らが納得して従うだけの器量を示していただかなくてはなりません。その点、失礼ながらジャコー団長には、人の上に立つ素質も資格もないと断ぜざるを得ません」
虫も殺さないような顔をしながら、寂しげに眼を伏せながら、恐ろしくはっきりとものを言う。
「ふむ……」
再び苦笑しながら、サヴォア公爵は考え込んだ。
正確には考えるふりをしていた。
ジャコーの団長職は|家柄《いえがら》で得たものなのは公爵も承知している。
指揮官としての適性や能力に欠けていることも、今回の件でも命令に従わなかったザックスが悪いと口を極めて|罵《ののし》ったことも知っている。
罷免するのはさして難しいことでもなかったが、やはり皮肉につけ加えた。
「しかし、肝心のザックスははたしてどう思うかな。そなたの口利きで団長に昇進したことを知ったら、そなたに借りをつくってしまったと思ってひがむ、あるいは|憤慨《ふんがい》するとは思わぬのかな?」
ナシアスは微笑した。胸を張って答えた。
「それはわたしの関知するところではありません。わたしは何もザックスさまのためにこんなお願いをするわけではありません。先程も申し上げましたが、自分自身とラモナ騎士団のためです。現状のままのティレドン騎士団では|我《、》|々《、》|が《、》困るのです。ですから、正常に戦える状態にして欲しいとお願いしました。その真意はザックスさまには充分伝わるはずですが、伝わらずにわたしを恨まれたとしても、大いに結構。わたしはこの人事は両騎士団のためになることだと信じておりますから、喜んで恨まれます」
公爵はとことん呆れたようなため息を洩らしたが、おもしろそうに笑って話を切り上げた。
「わかった。明日にでも手続きに入ろう。そうさな、三日もすれば辞令が出るだろう」
「ありがとうございます。心からお礼申し上げます。これでティレドン騎士団が救われます」
本当に嬉しそうに言って一礼すると、ナシアスは公爵の前から退出して行った。
ナシアスが去った後、その扉とは別の扉がそっと開かれ、隣の部屋からバルロが現れた。
今までの話をすっかり聞いていたのである。
「おもしろい男だの、あれは」
公爵は楽しげに息子に笑いかけた。
「多少、扱いが難しいかもしれぬが、ああいう男は忠実な犬になるぞ。いざという時にはおまえの|楯《たて》となって死んでくれる。その時のために、今のうちにせいぜいかわいがっておくことだ」
「お言葉ですが、父上」
少し|喉《のど》に詰まったような声でバルロは言った。
大きく息を吐いて、努めて冷静な声をつくった。
「そんな打算をした上の、かわいがるふりだけでは、どんな犬も真に懐いたりはしないはずです」
公爵は楽しげに笑っている。
「もちろんだとも。もちろん、ふりとは気づかせぬようにするのだ。自分は本当に愛されているのだと思いこませてやらねばならぬ。うまく手懐けるのだ。そうすれば犬は忠実に主人に従い、発憤して働いてくれるだろう。忠誠心の強い犬なら我が身を省みず、主人のために命を捧げて死んでくれる。だからこそ、かわいがる|甲斐《かい》もある」
そこまで言って、公爵は感慨深げな息を吐いた。
「亡き|義兄上《あにうえ》もそうしておられた……」
これは無論、死んだドゥルーワのことである。
「下々の者を巧妙に手懐け、自分の思い通りに操ることに関しては、義兄上はまさに傑出しておられた。あれはどの手腕をお持ちの方をわしは他には知らぬ。誰も彼もが義兄上のために喜んで働き、命を捧げた。しかし、義兄上は下々の者を死なせたからといって心を痛められることなどはなかった。無論、大いに痛めるふりはしておられたし、ご自分の心の底など人に見抜かせる方ではなかったがな。目的のためにどんな犠牲を出そうと、誰を死なせようと、そんなことはすぐに忘れてしまわれた。そうした|些事《さじ》にはこだわらない――むしろ、こだわってはならない。|惨《むご》いようだが、真の支配者とはそういうものだ」
「身も|蓋《ふた》もないおっしゃりようですな」
父親そっくりの、からかうような皮肉な言葉だが、息子にこんなものの言い方をされても、公爵は腹を立てる様子もない。
微笑しながら、やんわりと言ったものだ。
「真面目な話だぞ。下々の者に親しみを感じるのは悪いことではない。むしろ、日頃は大いに親しんでやればよい。だが、いざという時にはその者たちを容赦なく切り捨てる覚悟を持たねばならぬ。好むと好まざるとに拘わらず、支配者にはそうした温情と無慈悲さとが同時に求められるのだ」
バルロはこの頃見違えるようにたくましくなった肩をすくめた。
「あいにく、わたしは不器用なので、そんなふうに表と裏を使い分けるような芸当には向いていません。支配者でなくてよかったとつくづく思いますよ」
「バルロよ……」
|頑《かたく》なな息子に、公爵は気遣かしげな顔になった。
「騎士として名を|馳《は》せたいというおまえの気持ちはわからぬでもない。しかし、おまえはわしの総領だ。断じて死んではならぬ立場だ。王子二人が死去した今となってはなおのことだぞ」
「…………」
「兵隊ならば替わりが|利《き》く。優秀な騎士の替わりもいくらでもいる。さよう、あの男には替えが利くが、おまえの替えは利かんのだ。それだけは忘れるな」
公爵の言い分が正しいことはよくわかっていたが、バルロはあえて突っぱねた。
「さて、それはどうでしょうかな? このサヴォア公爵家とて王家の家臣のはずです。王家から見れば立派に替えの利く家来の一つに過ぎません。それを、そのようなことを軽々しく口になさるとは、父上のお言葉とも思えません」
「言わざるを得なくなったゆえ、言うておる」
公爵は声を低めた。
椅子から立ち上がり、息子に近づき、その耳元で|囁《ささや》くように言った。
「――エヴェナは恐らく助からぬ」
「父上!」
「声が大きい。医師団の見立てでは、到底、快復は望めぬとのことだった。かろうじて生きてはいるが、それもいつまで保つかはわからぬとな」
バルロの顔は激しい衝撃と恐怖に強ばっていた。
デルフィニアに残された最後の王女が死ぬ。
直系の王位継承者が一人もいなくなる。
まさかと思っていた最悪の事態が起きてしまうと父は言うのだ。
厳しい表情を崩さずに父を見つめる息子に対して、公爵は何とも言えない微笑を浮かべて言った。
「おまえが即位すれば、わしは国王の父、アエラは国王の母だ。さぞかし躍り上がって喜ぶだろうな」
「よしてください。わたしはまっぴらです。第一、そんなことは実現不可能です」
ほとんど反射的に拒絶したバルロたった。
王位継承者がいなくなってしまうことは衝撃だが、この時のバルロにはまだ、それが自分の身に降りかかってくる問題だとは思えなかった。
だから、父親の言葉に半ば怒りを感じ、半ば笑い飛ばす調子で言った。
「母は|降嫁《こうか》した王族でも、サヴォア公爵家が臣下の家柄なのは確かなことです。神殿はもちろんのこと、諸侯らもそんなことは決して認めますまい」
「わかっておる。これはあくまでも、もしもの話だ。殿下の姫君に話が行くのが順当だろう」
ドゥルーワには弟がいた。
存命であればその弟に王冠が与えられたはずだが、この人は兄より先に亡くなって、残された子どもも女の子ばかりだ。
その姫たちが前国王の|姪《めい》なら、バルロも前国王の|甥《おい》である。条件は同じに見えるが、決定的に違う。
前国王の姪たちはれっきとした王族で、バルロは臣下だという点だ。
この状況で自分のところに王冠が回ってくるとは思えなかったので、バルロはことさらきつい□調で父親に食ってかかった。
「もし父上がわたしに王冠を与えようとなされば、それこそ人の口が黙ってはいませんぞ。考えたくもないことですが、口さがない世間は王子王女の死にサヴォア家が関与しているのだと、まことしやかに言いふらしかねないではありませんか」
「そうだ。それがもっとも恐ろしい」
意外なほどの真顔で頷くと、公爵は深いため息を洩らした。
「レオンに生きていて欲しかったと心から思うぞ。あの阿呆なら、首に縄を付けて引きずり回すに何の不都合もなかった。王冠を与えて、王座に座らせて飾っておけば、それでよかった。後のことはすべてこちらで切り回せたはずだからな」
レオン王子の存命中、王子を非難することを注意深く避けていた公爵だが、亡くなった今では遠慮も何もあったものではない。
レオン王子がいくら口を極めて罵っても足らない阿呆だったのも確かなので、バルロも黙っていた。
自分より背の高くなった息子を眼を細めて見つめ、公爵は楽しげに言ったものだ。
「君主というものはな、|義兄上《あにうえ》のように飛び抜けて賢い方を別として、阿呆であるに越しかことはない。それを考えると、おまえでは、いささか扱いにくい王になるだろうからな」
バルロもにやりと笑って言った。
「それなら自信があります。父上やペールゼン侯の手を大いに|煩《わずら》わせてやりましょう」
「はは、恐いの」
公爵がこの時、何を考えていたかはわからない。
もしかしたらどんな手段を使っても息子に王冠を与えてやると考えていたのかもしれないが、それは|面《おもて》に出さず、言い聞かせるように話し掛けた。
「だがな、バルロよ。王国には正当な王が必要だぞ。それでなくとも我が国の国王不在は長すぎる」
「わかっております」
真顔になってバルロは頷いた。
それだけは全面的に父の意見に賛成だった。
父と別れた後、バルロは二階のバルコニーに出て、夜空を見上げた。
満天の星空だった。
|従妹《いとこ》のエヴェナが死ぬかもしれないということは大きな衝撃だった。
だからといって、自分が王冠を継ぐという理屈は納得できない。そんなものを欲しいとは思わない。
自分が欲しいのは――欲しいと思っているものはまったく別のものなのだ。
(ご子息が、わたしの頼みとするべき立派な騎士になってくださることが一番の望みです)。
その言葉をバルロは何度も何度も|反芻《はんすう》した。
柄にもなく眼が|潤《うる》んできた。
それをごまかすために、ますます首を上に向けて、星空に眼をやった。
あの男だけだった。サヴォア公爵の総領でもなく、グラスメア卿でもなく、単なる一騎士として自分に接したのは、互いの身分の違いを知ってもそれでも態度を変えなかったのは、あの男だけなのだ。
バルロが無二の味方だと思っているアスティンも、バルロがサヴォア公爵の息子だから忠義を尽くしているという一面がある。それはそれでかまわないし、アスティンの忠義には感謝しているが、ナシアスの態度は明らかにそれとは違う。
公爵は気づかなかったようだが、さっきあの男を取り巻く空気が明らかに冷たくなった。ザックスとバルロとどちらが優れているかという話の時だ。
今のバルロが『身の程もわきまえず』ティレドン騎士団長の地位を望んだりしたら、ナシアスは絶対、黙ってはいない。剣にものを言わせて「辞退しろ」と追ってくるかもしれないし、もっと悪くすれば、再びあの言葉を冷ややかに投げつけてくるだろう。
「それが本音か、グラスメア卿」
想像しただけで寒気がした。
自分でもまったくもって不思議な気がするのだが、ナシアスには軽蔑されたくなかった。
自分が真になりたいと思うものをあの男も自分に望んでくれている。
だからこそ裏切れなかった。
あの男の望む自分でいたかった。
(剣を置いて戦場を離れても王宮に入っても……)
そのとおりだ。自分はいずれ筆頭公爵家を継ぐ。
その時は、国王第一の臣下として積極的に慟くにやぶさかではない。
だからといって、剣を置く気はさらさらない。
この日、次代のサヴォア公爵にしてグラスメア卿、そして何よりティレドン騎士団員のノラ・バルロ・デル・サヴォアは一つの誓いを立てた。
それは言葉にして為された誓いではない。書面に記されたものでもない。それどころかバルロがその誓いを口にすることは恐らく一生涯ないだろうし、特に当のナシアスに知られるくらいなら恥じて死を選ぶだろうが、それでも|終生《しゅうせい》破られることはない、そのくらいもっとも|厳《おごそ》かで神聖な誓いだった。
星空を見上げながらバルロは考える。
|病《やまい》があの男を連れて行くというなら仕方がない。
どこか遠方で、不慮の事故でというのであってもそれは自分の手の出せることではないから諦める。
だが、戦場では――。
同じ戦場にいる限り、眼の届くところにいる限り、自分は決してあの男を死なせはしない。
そう、ナシアス・ジャンペールがノラ・バルロの楯となって死ぬのではない。
いつでも、どんな戦場でも、必ずノラ・バルロがナシアス・ジャンペールの楯になるのだ。
たとえそのために命を落としたとしても、それは最高の騎士の|誉《ほま》れとして称えられるだろう。
そう決めると心が軽くなった。
その時のことを考えると何だか楽しくなるようで、微笑さえ浮かべて、バルロは家の中へ戻っていった。
デルフィニア暗黒の時代はずいぶん長く続いた。
まずはサヴォア公爵の予想通り、翌年、エヴェナ王女が長い闘病生活の末に亡くなったのだ。
王子王女をすべて失った国内の動揺は非常なものだったが、さらにその翌年、事実上国内をまとめていたサヴォア公爵までもが亡くなったのである。
この時もナシアスはビルグナにいた。
ドゥルーワの時と同じく、まさかこんなに早くと|驚愕《きょうがく》した。次にいよいよこの時が来たかと思った。
バルロはサヴォア公爵となり、今まで彼の父親がやっていたことを代わってやることになるだろう。
しかし、この新しい公爵はコーラルにじっとしているような性格ではなかった。
爵位を継ぐと同時にティレドン騎士団の副団長となったバルロは騎士団員としての活動に重点を置き、時には東の国境にまで遠征した。
実際、この時はそれが必要だったのだ。
隣国は|虎視眈々《こしたんたん》とデルフィニアを狙っていた。
この時、隣国の侵攻を防げだのは、一にも二にもペールゼン侯爵を筆頭とするコーラル政府の働きと、そのコーラルを全面的に支持した近衛兵団、さらに各騎士団の功績が大きい。
そして、バルロが父公爵の跡を継いだのと同じ頃、ナシアスも副団長に昇進していた。
パラディが突然、引退すると言い出したからだ。
年老いた両親が心配なので田舎に帰るというのがその理由だったが、ロビンスは相当パラディを引き留めたらしい。
「隠居するにも順番というものがある。この老骨を働かせておいて、自分だけ田舎に引きこもろうとはあまりに虫がよすぎる話ではないか」
と、かき|口説《くど》いたらしいが、パラディは頑として意思を曲げず、後任の副団長にナシアスを推した。
ナシアスは驚いて、ただちに辞退した。
バルロの場合は身分もあるのでそれほどおかしな人事ではないが、自分にはいくら何でも重責すぎる。
そう言って固辞したが、パラディは聞かないし、ロビンスも苦笑しているし、ティレドン騎士団長となったザックスまでがにやにや笑って言ったものだ。
「諦めて昇進するんだな。そうすれば、分不相応の出世をさせられた者の気持ちが少しはわかるぞ」
ナシアスが亡きサヴォア公爵に□を効いたことをこんなふうに言ってからかってくるのだ。
本気ではないのはわかっているから、ナシアスも笑って言い返した。
「ザックスさまの団長昇進が分不相応であったとは存じませんでした。適材適所のお間違いでしょう」
「そうとも。おまえにも同じことが言える」
思わぬ切り返しに口をつぐむ。
眼を伏せて困ってしまっている若い騎士を見て、ザックスは楽しげに言ったものだ。
「昇進してもらわないといろいろと差し障りが出る。特にうちの副団長が大騒ぎをするからな」
ナシアスがバルロに剣術指導をしていたことは、ティレドン・ラモナ騎士団員ならみんな知っている。
「それとも、サヴォア公爵の|贔屓《ひいき》で昇進したのだと言われるのはいやか?」
「そんな|謗《そし》り|言《ごと》なら何とも思いません。いくらでも言わせておきます。わたしが考えるのは副団長職がはたして自分にふさわしいのかということです」
「やめておけ。考えるだけ無駄だ。それはおまえが決めることではない」
ナシアスは驚いて眼を見張った。
「パラディがおまえを見込んで推したのだ。今度はおまえの番ということだ」
それはわかるが、そうなると今度は自分のような若輩をどうして――と思うのが当然の心理である。
ナシアスは相当パラディに食い下がったのだが、何しろ極め付きに無口な人だ。ほとんど睨めっこで押し切られ、結果的に副団長職を引き受ける羽目になってしまった。
合戦時に受けた傷が元で、ザックスがティレドン騎士団長を退き、後任としてバルロを推挙するのは、この時からさらに二年後のことになる。
二十歳そこそこの若い騎士団長の誕生だった。
その直後、今度はロビンスが年齢を理由に引退し、後任の団長にナシアスを推したのだ。
この時もナシアスは大いに悩んだが、熟考した末、受けることにした。
ロビンスの手並みと功績を間近で見ているだけに、同じことが果たして自分にできるのか心配だったが、団内を見渡しか時、おこがましい言い方ではあるが、これぞと思う適任者ががいなかったのも確かった。
強いて言うならガレンスは例外だった。
彼の剛勇、経験、そして年齢は団長にふさわしいものだったから、あんたが引き受けたらいいのにとナシアスは言ったが、彼は豪放に笑って首を振った。
自分はあくまで誰かの腕となって戦うのが相当で頭にはなれないという。
そこでナシアスが団長となり、自分の片腕としてガレンスを据えたのである。
その後、ティレドン騎士団と行動をともにした時、若い団長の横には当然のように、副団長として従うアスティンの姿があった。
ナシアスと眼が合うと笑って会釈してくる。
ナシアスも微笑して目礼を返した。
血気盛んな団長にはこのくらい人格者の副団長がちょうどいい。今のバルロはかつての失敗に|懲《こ》りて、むやみやたらに突進するようなことはなくなったが、攻撃的な性格や威勢の良さは変わらない。
この頃、騎士団の出勤は国境の争いよりもむしろ国内の乱れを治めるために行われていた。
それというのも、この時点でドゥルーワの死から既に五年が過ぎていたのに、デルフィニアにはまだ新しい国王がいなかったのである。
国民の不安はもちろんのこと、コーラルの焦りも一通りではなかった。
バルロを国王にという動きも活発化していたが、彼は頑として王冠を受け取ろうとはしなかった。
筆頭公爵とはいえ、サヴォア家はあくまで臣下の血筋である。その臣下が自ら王冠を被るとなれば、明らかな王位|簒奪《さんだつ》だと言ってはばからなかった。
そんな不名誉な王になれるかというバルロの言い分は正しく、筋が通っている。それでもコーラルは諦めなかった。今のデルフィニアはそれだけ危機的状況にあったのだ。
とっくに忘れ去られた王弟殿下の遺児の姫より、勇猛果敢で知られる騎士バルロのほうが国王として見栄えがするとコーラルが考えたのは至極当然だ。
そして王冠をめぐるバルロとコーラルとの攻防が最高潮に達した時、前国王の遺児が現れたのである。
この知らせはデルフィニア中を電光のように走り、ナシアスの下にもバルロから手紙が届いた。
既にその人に会って話したバルロは手紙の中で、
「お人柄は悪くない。伯父上にはあまり似ていない。日だまりで眠る牛のような穏やかな方だ」
と、身も蓋もない感想を記してきた。
ナシアスはビルグナを部下に任せ、口実を設けて急いでコーラルに伺候した。
バルロの言葉だけではどうにも掴めない。自分の眼でその人の人となりを確かめたかったのである。
ナシアスが面会を求めると、その人は嬉しそうな笑顔になって右手を差し出してきた。
「お会いできてたいへん光栄です。ラモナ騎士団長。西の国境を守る英雄の名はもちろん存じております。これほどお若い方とは思いませんでした」
差し出された手を取りながらナシアスは注意深くその人を見つめていた。
自分よりもいくつか年下だろうが、身体は遥かに大きくたくましい。眼も髪も真っ黒だ。
そうした部分はドゥルーワに似ていなくもないが、表情が違った。ドゥルーワにも親しみを感じさせるところがあったが、それは身分の低い相手に対して目上の者が一歩を譲ってやっている親しみだった。
比べてこの人の笑顔は本当に明るく屈託がない。
その分、威厳という点に関しては――バルロではないが言わぬが花だと思った。
この人に対する王宮の風当たりは厳しかった。
偽物だ、|騙《かた》りだと評する人は後を絶たなかったし、女宮たちの態度も冷ややかなものだったらしい。
ただ、女官長が全面的にこの人の味方をしたので、いやいやながらも|敬《うやま》っているという有様だった。
それでも本人は至って平然としていた。
「わたしは田舎者ですので、着替えも入浴も自分でするのが当たり前でしたし、食事の毒味に至っては何事かと思います。何よりこんな|煌《きら》びやかな宮殿は|窮屈《きゅうくつ》でかないません」
そうしたことを本当に嘆かわしそうに言うので、ナシアスは思わず笑みをこぼした。
バルロに会って話してみると、この皮肉屋の男が突然現れた『|従兄上《あにうえ》』にすっかり傾倒しているのが、ナシアスには手に取るようにわかった。
そもそも声が違う。かつてレオン王子に向かって呼びかけていた『従兄上』とは声の温度が大違いだ。
「珍しいな」
正直な感想を洩らすと、バルロは「何かだ?」と、問い返してきた。
「おまえはずいぶんあの人を気に入っているように見える。それとも、おまえにそこまで気に入られるあの人のほうが珍しいのかな?」
図星を指されてバルロは面食らったようだったが、すぐに胸を張って言い返してきた。 「そんなことより俺の先見の明を褒めてもらおうか。王位簒奪を拒否し続けた俺は正しかった。ちゃんとふさわしい国王が現れたのだからな」
「ああ、そうだな」
ナシアスはその人の育ての親であり後見人であるフェルナン伯爵とも会って話をした。
第一印象は口数の少ない、無表情な人に見えた。
しかし、私利私欲などはかけらもない。この人は真に王国を憂えて、これまで息子として育ててきた前国王の遺児を返すために王宮にやって来たのだ。
それがわかった時、ナシアスは心から言っていた。
「微力ではありますが、わたしは喜んで、ご子息のお力になりたいと思います」
フェルナン伯爵は厳しい眼でナシアスを見た。
こちらの腹の底まで見通そうとする眼の光だった。
ナシアスは動じなかった。どうぞ好きなだけ御覧くださいと、すべてをさらけ出すつもりでその眼の前に立っていると、伯爵にはその心が通じたらしい。
表情をほころばせて、深々と頭を下げてきた。
「かたじけなく存じます。ラモナ騎士団長がお味方くだされば、これほど心強いことはございません」
ナシアスを見つめてじんわりと笑った瞳は鋭く、それでいて優しかった。まるで引退したロビンスがそこにいるような気がして、ナシアスも微笑した。
この人も恐らく一筋縄ではいかない人だろうが、前国王の遺児に対する忠誠は疑いようがない。
その後、何度も続いた協議の末、やっとのことで前国王の遺児を即位させる方向で話が決まった時、ナシアスは胸を撫で下ろした。
これでようやくデルフィニアにも陽が昇る。
明るい未来が来る。
ナシアスやバルロがそう思っただけではない。
国民すべてがそう信じた。ところがだ。
新国王の即位後、わずか半年でコーラルには再び激震が走ったのである。
口にするのもおぞましい疑惑が発覚したのだ。
フェルナン伯爵が義理の息子に王冠を与えるため、前国王の遺児たちを次々と暗殺したというものだ。
ビルグナにいたナシアスにはその知らせが遅れて届いたが、耳を疑った。
そんな馬鹿な話があってたまるかと思った。王子王女の存命中、フェルナン伯爵は北部のスーシャをほとんど動かずにいたのだ。
計画したところで現実的に不可能だというのに、反国王派の世論操作は実に巧みだった。
その筆頭がペールゼン侯爵である。
結果として国王はコーラルを追われ、フェルナン伯爵は投獄され、バルロは形ばかりの王冠を与える飾り人形として自宅に軟禁され、アヌア侯爵、ドラ将軍といった親国王派の人々も次々に拘束された。
ナシアスは待った。
ビルグナの土地をじっと動かず、改革派と称する反国王勢力に表向き従うふりを装いながら、国王の帰りをただひたすら待っていた。
その祈りが天に通じ、国王は勝利の女神を伴ってデルフィニアに戻ってきたのである。
ナシアスはビルグナに現れた国王を歓喜して迎え、ドラ将軍らの協力を得て国王軍を結成し、バルロを初めとする親国王派の人々を解放するため、そして何より改革派を叩き潰すために意気揚々とコーラル目指して進軍を開始した。
そして政府軍の先手を打ち破り、マレバの解放を眼の前にした時のことだった。
「……ひどい男だ、おまえは」
バルロは声を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で、ナシアスに向かって訴えたのである。
「いったい、この俺にどんな顔をして、どんな声で命じろと言うんだ。ラモナ騎士団を敵としろと? 彼らは反乱軍の一味と化したのでこれと戦い、団長ナシアスを討ち取れと? 俺の部下たちに向かってどんな顔で言わせる気なんだ!?」
ナンアスも表情を強ばらせていた。
バルロが自分と国王のためを思って言ってくれているのはわかっている。それでも頷けなかった。
そして、これほど必死の乞いを聞き流した以上、バルロが何をするかは明らかだった。
白刃を突きつけられても、殺気をぶつけられても、怒りなどまったく湧いてこなかった。
それどころか、嘆息する思いだった。
(おまえは昔からやることが極端だった……!)
対抗試合で初めて会った時から十年が過ぎている。
その時に比べると別人のような重い手応えの剣で立て続けに斬りつけられ、防戦一方に追い込まれる。
それでもナシアスは本気で反撃できなかった。
今のバルロが何を考え、何を感じているか、手に取るようにわかったからだ。
怒濤のような攻撃でナシアスを追いつめながら、バルロも自分自身に問いかけている。
(俺に斬れるか――ナシアスが斬れるのか!?)
そう問いながらも、できるかできないかではない、やらなくてはならないのだと必死に言い聞かせる。
ここで別れたら、このままナシアスを見逃したら、ラモナ騎士団の名が地に落ちる。
ナシアスが何よりも――自分の命よりも重んじている騎士の名誉が汚泥にまみれることになる。
冗談ではない。そんなことはさせられない。
それだけは防がなくてはならなかった。
たとえナシアスの命を絶つことになったとしても、彼の名誉だけは守らなくてはならないのだ。
内心の激情を|堪《こら》えながら、泣きそうになりながら、友人にとどめを剌すためにバルロが剣を振り上げた、その時。
夜だというのに|眩《まぶ》しいくらいに煌めく黄金の光が、二人の間に飛び込んできた。
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10
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ナシアスの顔は緊張と|焦燥《しょうそう》に|強《こわ》ばっていた。
長椅子に腰を下ろし、両手を硬く握りしめ、眼は意味もなく床を見つめてさまよっている。
かと思うと急に立ち上がり、落ちつかない様子で辺りを歩き回り、また腰を下ろす。
その繰り返しだった。
沈着冷静で知られるラモナ騎士団長のこんな姿は極めて珍しい。
同じ部屋の中にティレドン騎士団長もいるのだが、困ったように言うのが精一杯だった。
「少しは落ちついたらどうだ?」
答えはない。バルロも答えるとは思っていない。
ここは二の郭にあるナシアスの屋敷である。
二人がいるのはその居間だった。
一の郭のサヴォア館に比べれば簡素な屋敷だが、なかなか立派なつくりで、部屋数もそれなりにある。
妻と二人の生活でこんな大きな家は分不相応だとナシアスは言ったのだが、仮にも騎士団長の屋敷だ。
いくら何でもこれ以上小さくはできないと国王に真顔で言われてしまった経緯がある。
いつもは明るく|和《なご》やかな笑い声の絶えない家だが、今の雰囲気は非常に重苦しい。
バルロの執事のカーサが奥から戻ってきた。
この頃、真っ白になった頭をしきりと振っている。
「やはり、まだまだかかるようです。何と言っても、三十を過ぎた方の|初産《ういざん》ですから……」
そこまで言って、カーサは口をつぐんだ。
長椅子に腰を下ろしたナシアスから、ただならぬ気配を感じたからだ。
バルロも|焦《あせ》って『余計なことは言うな!』と眼で合図を送る。
忠実な執事はいささかわざとらしい|咳《せき》払いをして、話題を変えた。
「旦那さま。そろそろお時間ですが……」
「ああ、そうだな」
生返事をしたところへ、サヴォア公爵夫人にしてベルミンスター公爵でもあるロザモンドが現れた。
二見の母となった今でもまだ男装を続けているが、すっきりと引き締まった身体にはよく似合っている。
短く切られていた髪も今ではだいぶ伸びて、首の後ろで一つにまとめている。一種独特の美しさだ。
ロザモンドは既にお祝いを述べる意欲も満々で、笑顔で現れたのだが、室内の雰囲気に面食らった。
「なんだ? まだなのか」
はっきりとものを言うのはこの人の|癖《くせ》だが、今は非常にありがたくない。
「そうか、やはりな。三十歳をいくつも過ぎた方の初産だから難産なのは仕方がないか」
部屋の温度が一気に下がった。
サヴォア公爵とその執事は|主従《しゅじゅう》揃ってただちに直立不動の姿勢となり、公爵夫人もさすがに失言に気づいて慌てて弁解した。
「いや、ナシアスどの。そう心配なさることはない。わたしだってあまり若いとは言えない初産だったが、無事に生まれたからな。女の一大事には違いないが、大丈夫だとも」
ナシアスは答えない。
ただ、物騒な気配がますます強くなる。
このままでは妻の身が危ないと判断したバルロは引きつった笑顔を浮かべ、努めて何気なさを装って、その物騒な気配の発生源に果敢に声を掛けた。
「さてと、俺はそろそろ本宮に向かうが、おまえはどうする? もうすぐ始まるぞ」
「……先に行ってくれ」
|呻《うめ》くように言ってくれたのが、いっそ幸いだった。
執事と妻を促してそっと部屋の外へ出て、足音を殺してそこから離れると、バルロは冷や汗を拭って妻を叱りつけたのである。
「ロザモンド! その首が大事なら今のナシアスに|迂闊《うかつ》なことは言うな! 寿命が縮んだぞ!」
「わ、わかった……」
この時ばかりは青い顔をして、夫の言葉に素直に|頷《うなず》いたロザモンドだった。
そこは彼女も剣を取って実戦に出る人間である。
思わず身が|諌《すく》むような、あの凄まじい殺気を感知できないはずはない。
とはいうものの、納得はできない様子だった。
不思議そうに言ったものだ。
「ナシアスどのも、あんなに神経質にならなくても……もっと|鷹揚《おうよう》に構えていたほうがよいのに」
「ほう。自分があっさり二人も産んだからといってベルミンスター公は気楽なことを言うものだ」
夫のこの軽口に妻は憤然と言い返した。
「あっさりとはいかなかったぞ。今も言ったが女の一大事だ。たいへんなことには違いない」
「だから、そこが問題なのだ。――ナシアスは前に妻を死なせているからな」
これはロザモンドには初耳だった。眼を見張って夫の顔を見つめ、夫も真顔で頷き返した。
「その妻は出産で亡くなったわけではない。胸の病だったと聞いているが、やはり、一度そういうことがあるとな……」
吐息を洩らした主人にカーサも相づちを打った。
「年月が過ぎても忘れられるものではありますまい。どうしても思い出されるのでしょうな」
「そうか……」
ロザモンドはあらためて痛ましそうな眼で居間を振り返った。
「しかし、どうする? もうすぐ時間だぞ」
「わかっている。そちらも気になるが、俺としてはここも立ち去りがたい。しばらく待つことにする」
「では、わたしもおつきあいしよう」
そんなわけで二大公爵は玄関横の小部屋に陣取り、執事は他人の家の台所に入り込んで、勝手に|酒肴《しゅこう》を調えさせてもらった。
何しろ女たちは|産屋《うぶや》に掛かりきりになっている。
こんな状況で何か用意してくれと言おうものなら、たとえ相手が公爵だろうと張り倒されてしまう。
執事の差し出した果実酒を傾けながら、バルロは|暫《しば》し物思いに|耽《ふけ》った。
ナシアス・ジャンペールという男は|愚《おろ》かではない。
愚かではないどころか、戦略と駆け引き、交渉と化かしあいに関しては、隣国の王に引けを取らない正真正銘の天才だとバルロは思っている。
そもそもあの内乱時、コーラルとビルグナという立地の違いがあったとは言え、バルロはむざむざと改革派に捕まって軟禁の|憂《う》き目を見たというのに、ナシアスは最後までビルグナで自由の身だった。
改革派がナシアスを警戒しなかったわけではない。
むしろその逆だ。ラモナ騎士団という勢力は油断できぬと、その真意はどこにあるのかと疑っていた。何度も忠誠を試すような難題をふっかけては反応を|窺《うかが》っていたし、落ち度があればただちに騎士団の活動停止を命じてやると|爛々《らんらん》と眼を光らせていた。
それなのに、あのペールゼンでさえ、ビルグナを叩き潰すことはついにできなかったのである。
そんな隙と口実をナシアスが与えなかったからだ。
優しげな外見をめくらましに使って、穏和そうな態度を最大限に利用して、改革派のあの手この手の|執拗《しつよう》な要求を柳に風と受け流し、表向きはいかにも自分は改革派に忠誠を誓っておりますという態度を貫き通して、しかもそれを一応は信じさせた。
そのくせ実際は、最初から最後まで、コーラルを追われた国王に忠誠を尽くしていたのである。
バルロは深いため息を吐く。
(それはどの天才的手腕を、どうして色事にだけはまるっきり発揮できないのだ、あの男は……)
女性を前にすると、ナシアスは戦略も駆け引きもきれいさっぱり忘れてしまうらしい。
なまじ戦場や政治の場での交渉事で、ナシアスの水際だった手並みを間近で見ているだけに、驚きと脱力感もひときわ大きかった。
これはまずい。どう考えてもまずい。色事方面は俺が補佐しなければと、バルロは一種の義務感さえ感じていたのである。
その|甲斐《かい》あって(というのも変だが)ナシアスは一昨年めでたく二度目の妻を|娶《めと》った。
その妻が今、初産を迎えている。
この時のために屋敷の奥の一室を産屋として調え、夫人は今そこに入っているが、たとえ夫であっても男は産屋には入れない。それが決まりだ。
出産が長引くに連れナシアスの口数は少なくなり、その顔は見たこともないくらい硬く強ばっていった。
バルロとカーサが案じたように最初の妻のことがどうしても脳裏をよぎるらしい。
もちろん、その時と今とでは状況がまったく違う。
ナシアスの最初の妻は不治の病だった。
治らないのを承知の上で形ばかりの結婚をして、ナシアスは哀れみとともに妻を見送ったのだ。
現在のジャンペール夫人は健康そのものの人だが、出産で命を落とす女性の数は決して少なくない。
それだけにバルロも滅多なことは言えなかった。
せいぜい普段と変わらない軽口を叩くくらいしかできないが、間の悪いことに、今日は本宮でもぜひ顔を出したい大切な用件がある。
王妃の肖像画の完成|披露《ひろう》が行われるのだ。
と言っても、国の内外から客人を招いての正式な除幕式は後日あらためて行われる予定である。
今日は特に王妃に親しかった人を集めての内輪のお|披露目《ひろめ》だった。
今現在、デルフィニアに王妃はいない。
その人は昨年の春、天に帰ってしまったからだ。
これは普通なら、どう考えても『亡くなった』と判断される言葉だが、あの王妃に限っては違う。
本当に空へと昇って行ってしまったのだ。
その一部始終を、現地で戦っていたものたちは皆、見届けている。
あの方は本当に天から降りてきた方だったのだと、国王のために地上に留まってくださっていたのだと、全員が|敬虔《けいけん》な気持ちで空を見上げ、祈りを捧げたが、収まらなかったのは現場を見ていない女性陣だった。
女官長も、ジャンペール夫人も、ナシアスの妹のアランナもそうだったが、王妃が突然いなくなってしまったことがどうしても納得できなかったらしい。
中でももっとも激しい衝撃を受けたのが、国王の愛妾のポーラだった。
王妃は自分の国に帰ったと、王宮にはもう戻ってこないと聞かされて、ポーラは泣き崩れた。
身重の身体だというのに、一時は何も|喉《のど》を通らず、侍医団が血相を変えて駆けつける騒ぎになったのだ。
国王も困ってしまい、愛妾を|慰《なぐさ》めるため、苦肉の策として王妃の肖像画を描かせることにしたのだが、何と言っても肝心の|制作対象《モデル》となる人が既にいない。
王宮お抱えの絵師たちは、この難しい注文によく応えた。こぞって国交回復記念式典時の王妃の姿を|描《えが》いたのである。
純白の衣裳に金剛石の飾りも|眩《まばゆ》い王妃が描かれた数枚の肖像画を見て、ポーラは一応は喜んだものの、あまり感銘は受けなかったらしい。
国王に至ってはもっと露骨に首を傾げた。
「美しいことは美しいが、どうも王妃らしくないな。これではまるで知らない人を見ているようだ」
「そりゃそうでしょうよ。この時の妃殿下は目一杯よそ行きの態度をつくろってらしたんですからね」
国王の幼なじみの独立騎兵隊長が苦笑して言えば、国王も真顔で頷いた。
「うむ。そうだな。あれはやはり剣を取って戦場に立っている時がもっとも輝いていた」
この意見には、戦場に出たことのない絵師たちが、揃ってお手上げの状態となった。
戦場の王妃の凄まじさ、その輝きの強さを骨身に染みて知っていて、なおかつ絵心のある人となると、自然と限られてくる。
その絵がやっと完成したのだ。
早く見たいのは山々だったが、ナシアスのことも気になってバルロは動けなかった。
じりじりしていると、歓声が聞こえた。
|紛《まぎ》れもなくナシアスの声だった。
バルロが|咄嗟《とっさ》に立ち上がって居間に駆けつけると、ナシアスが産屋にすっ飛んでいくところだった。
即座に後を追おうとしたが、そのバルロを中年の小間使いが慌てて押しとどめた。
「公爵さまはこちらで。どうかご遠慮ください」
「生まれたか!」
「はい。元気な男のお子さまです」
「奥方は!?」
「はい。少しお疲れのご様子ですが、お元気です」
それを聞いてバルロはようやく胸を撫で下ろした。
後をついてきたロザモンドも笑顔になった。
「こうしてはいられん。すぐに祝いを届けさせる」
ロザモンドにとってもジャンペール夫人は親しい友人だ。急いでジャンペール家を飛び出していった。
出産直後の妻を|労《いたわ》るのは夫の役目だ。
バルロにとってはその妻よりも夫のほうが|遥《はる》かに心配だったのだが、これでひとまずは大丈夫と思い、ロザモンドに続いてジャンペール家の玄関を出た。
ナシアスに長男が誕生したことを、国王にも報告しなくてはならない。正門に向かおうとしたところ、隣の家の庭先で談笑していた婦人たちが話を止めた。
一人が立ち上がったのを眼の端に捕らえていたが、バルロはほとんど気にしなかった。
こうした場所で自分に話し掛けてくる貴婦人には慣れっこだったし、応対することにも慣れている。
声を掛けられたらその時のことと思い、急ぎ足で通り過ぎたが、思った通り、その背中にしとやかな声が掛かった。
「ご無沙汰しております。サヴォア公爵さま」
足が止まった。その声には聞き覚えがあった。
振り返ったバルロは息を呑んだ。
「……レヴィン男爵夫人!」
夫人は笑って首を振った。
「今はハイデカーですの。あれから再婚しまして、七歳になる息子もおります」
「おお、それは……おめでとうございます」
意外な再会に驚きながらも、そこはバルロである。
一礼して、丁重に祝いを述べた。
今の夫人は四十歳を越えているだろう。さすがに年齢は争えず、目尻に少し小じわが寄っているが、全体的にふっくらと|豊麗《ほうれい》な印象だった。
そのことに素直に感心して、バルロは言った。
「お歳を召しても、あなたは変わらずお美しい」
「あなたはすっかりご立派になられました。数々の|武勲《ぶくん》の|噂《うわさ》も耳にいたしております」
「ナシアスもきっとあなたに会いたがるだろうが、残念ながらあれは今、手が放せないのです」
「|伺《うかが》いました。奥さまが初産だそうですね」
「ええ、たった今終わったところですよ。めでたく男子が誕生したそうです」
「まあ、よかった。それは何より」
夫人は隣のジャンペール家を優しい眼で眺めると、バルロに眼を移して、|悪戯《いたずら》っぽく問いかけてきた。
「それで? あなたは今でも、色事以外のことではあの方に勝てないままですか」
「それは違いますぞ、ハイデカー夫人」
バルロは胸を張って断言した。
「色事と|家柄《いえがら》に関すること以外は、です」
「威張って言うことでもありませんでしょうに」
たしなめながらも夫人は楽しそうだった。
バルロも、久しぶりに会ったこの人が相変わらずなのが嬉しくて、ぜひ屋敷に寄ってくれるようにと招待したが、夫人は首を振った。
「わたくしのような女をお屋敷に招いたりなされば、公爵夫人がご不快に思われましょう」
なるほど確かにかつての公爵夫人はそうだったが、バルロは笑って首を振った。
「いやいや、夫人は誤解しておられます。俺の妻はそんなことを気にするような女ではありません」
ハイデカー夫人の灰色の眼に|真摯《しんし》な光が宿った。
「そのお言葉、信じてもよろしゅうございますか」
「もちろんです」
「では、わたくしの代わりに公爵さまの家に入れていただきたいものがいるのです」
夫人の視線を受けてこちらにやってくる人がいる。
十四、五歳に見える少年だった。
背が高く、よく発達しか健康そうな体つきだ。
黒々とした眼が生き生きと輝いている。髪も黒く、顔もよく陽に焼けている。
「息子のブライスです」
バルロは呆気にとられて少年の顔を眺めていたが、ようやく言った。
「……七歳にしては、実に大柄なお子さんですな」
「いやですわ。それは下の子のフリックのことです。ブライスはフリックの兄で、十四歳になります」
|嫣然《えんぜん》と微笑んで、夫人は少年に向かって言った。
「ブライス。お父さまにご挨拶なさい」
少年は何とも言えない顔で立ちつくしていたが、覚悟を決めたか、バルロに向かって小さく名乗った。
「ブライス・レヴィンです」
突然、父だと言われたバルロには返す言葉がない。
あんぐりと絶句していた。
|驚愕《きょうがく》しながらもこんな時の男の常で、反射的に眼の前の少年の顔に自分との相違を探そうとしたが、それどころではない。我に返り、慌てて夫人の袖を引いて、少年から離れたところで|囁《ささや》いた。
「あなたは相変わらず俺を驚かせるのが上手ですが、あれは本当に俺の子ですか?」
かつてのレヴィン夫人、今ではハイデカー夫人は悪戯っぽく笑って首を振った。
「実を言いますと、わかりませんのよ」
「ほほう。では、あれはもしかしたら俺の腹違いの弟かもしれんと、そういうことですか?」
「はい。まさにそういうことです」
夫人は少しも悪びれない。にこにこ笑っている。
「ですけど、今をときめくサヴォア公爵さまの異母弟だというよりは、いっそ|庶子《しょし》だといったほうが、あの子のためにもよかろうと思いまして……」
この人のことだ。わからないはずはない。
実際は何もかも承知の上で言っているのだろうと、バルロは思った。恐らくは突然、十四歳の子どもの父親となる自分の負担を軽くするためにだ。
今のバルロはそうした思いやりに気づかないほど幼くはない。もっともらしく調子を合わせた。
「しかし、どちらにせよ、サヴォア公爵の息子には違いないわけだ。となると庶子とはいえ、野に置くわけにはいきませんな」
「はい。まさにそのことなのです」
夫人はまた真顔になって頷いた。
「わたしはブライスを連れて今の夫と結婚しました。夫は小さい頃のブライスをとてもかわいがってくれまして、ブライスも夫に懐いているのですが、夫は商人です。一方、あの子は……血は争えませんのね。昔から剣術の|稽古《けいこ》に熱心で、商いに身を入れるのはあまり気が進まない様子でした。そして、とうとう、どうしても騎士団に入りたいと言い出したのです」
バルロはそれ以上を言わせなかった。頷いた。
「わかりました。お引き受け致しましょう」
「ありがとうございます」
それから三人は王宮の大通りまで一緒に歩いた。
夫人はこれからハイデカー氏と幼い息子と一緒に、氏の故郷に向かうところなのだという。
「しばらくデルフィニアには戻れなくなりますので、息子を預けるなら今しかないと思ったのです」
大通りまで来るとバルロは二人を促して一の郭に向かおうとしたが、夫人は首を振った。
「わたくしは公爵夫人の前に出られるような身ではありません。下に夫を持たせていますので、これで失礼致します」
こうした|潔《いさぎよ》さも変わっていないなと思いながらバルロは言った。
「お身体に気をつけて」
「公爵さまも」
「ブライスには手紙を寄越してください。俺からもお返事を差し上げます。やっとお会いできたのだ。これきりにはしないでいただきたい」
「まあ、嬉しいことを言ってくださいます」
「本心です。あなたがどこでどうしているか、俺はずっと気になっていた。今は幸せな結婚をなさっているというなら何よりですが、あなたは俺の息子の母親でもある。ないがしろにはできません」
ハイデカー夫人は笑顔で頷いて、息子に|二言三言《ふたことみこと》、声を掛けると、二人に背を向けて歩き出した。
その背中をバルロは敬意と賞賛とともに見送り、息子を振り返って、にやりと笑った。
「さて、どう考えても王妃の肖像画を見に行く前に、おまえを俺の奥方に会わせるほうが先だな」
ロザモンドは召使いに山ほど祝いの品を持たせて屋敷を出ようとしているところだった。
ブライスを紹介されるとそれこそ呆気にとられて声もなかったが、やがて|額《ひたい》を抑えて物騒に|唸《うな》った。
「……遅かれ早かれいつかこの日が来るだろうとは思っていたが……」
少年のほうが緊張に青ざめ、逃げ腰になっている。
自分はこの人にとって、夫の昔の愛人の子なのだ。
不興を買ったらどうしようと|怯《おび》えているのである。
実際、サヴォア公爵夫人はたいへんな剣幕で夫の胸ぐらを掴まんばかりにして叫んだのだ。
「どこまでも呆れた好色漢だな! まさか十四歳の庶子を連れてこられるとは思わなかったぞ!」
「人聞きの悪いことを言うな。驚かされたのは俺も同じだぞ」
「母親はどこの誰だ?」
「レヴィン男爵夫人だ」
ロザモンドはその名前を知っていたらしい。
驚いた顔になって、怒りを引っ込めて頷いた。
「なるほど……あの人か。――会ったのか?」
「ああ。今はハイデカー夫人だそうだ。おまえにも会って欲しかったのだが……」
「なんだ。帰してしまったのか?」
「帰ってしまわれたのだ。あの人は俺の思い通りに動いてくれるような人ではないからな」
「色事の達人のサヴォア公爵の言葉とも思えないが――さすがと言っておこう」
と、ハイデカー夫人を賞賛する言葉まで述べると、ロザモンドは物騒に笑って(と、その時の少年には見えたので)恐怖に震えている少年に話しかけた。
「よろしく、ブライスどの。難しいかもしれないが、わたしのことは母上と呼んでくれるとありがたい。わたしはブライスどのの父親の妻だからな」
夫の昔の愛人が産んだ子どもとの初顔合わせを、ロザモンドはそれだけで済ませてしまった。
バルロはバルロで、楽しげに召使いに命じている。
「ユーリーとセーラはどこにいる? こんな大きな兄上ができたのだから二人ともきっと喜ぶだろう。すぐに連れてこい」
もしかして、自分はかなりとんでもないところへ来てしまったのかと少年が悩んだのは当然だった。
大仕事を追えた妻を見舞い、我が子の顔を眺めて産屋を出たナシアスは、お祝いに駆けつけた隣家の夫人から予想外の客人のことを聞かされた。
「最初はお子さまを連れて、こちらのお宅をお尋ねするおつもりだったようですよ。ですけど、今日は奥さまのお産だと申し上げたら、しばらく持たせてもらいたいとおっしゃいましてね。ええ、もちろん喜んでと申し上げました。なぜってそのお子さまは、あのサヴォア公爵さまのお子さまだとおっしゃるのですから、わたしももうびっくりしまして……」
しゃべり続ける夫人にはかまわずナシアスは家を飛び出した。迷わず大通りを駆け下りた。
あの人は一の郭へ上がりこんだりしない。
その確信がナシアスにはあった。用を済ませれば、ぐずぐずすることなくあっさり身を引く。女ながらそうした引き際のよさは見事な人だった。
厳しい表情でぐいぐいと大通りを|闊歩《かっぽ》するラモナ騎士団長を見て、通りかかる人たちが驚いている。
十数年も経っているのに、後ろ姿だというのに、どうしてその人がわかったのかいっそ不思議だった。
「レヴィン夫人!」
声を掛けると、その人は立ち止まって振り返った。
ナシアスが追いつくのを待って、微笑した。
「ハイデカーです。――ご無沙汰しております」
ナシアスも息を整えて、嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。お会いできました」
「奥さまとお子さまは?」
「今は二人とも眠っています。わたしがいたのでは妻が落ちついて休むことができないという理由で、召使いたちに追い払われてしまいました」
そこまで一息に言って、ナシアスは十数年ぶりに会う人の顔に見入った。
「意外でした。まさか……今日のこの日にあなたに会えるとは……」
「それはわたくしもです。まさか、奥さまの初産と重なるとは思ってもみませんでした」
「バルロの息子を連れてきたと伺いましたが?」
「はい。どうしても騎士になりたいというもので。よろしかったら、ナシアスさまも、あの子を鍛えてやってください」
「心得ました」
言葉が途切れる。二人はしばらく互いを見つめて、過ぎ去った年月を思っていた。
今のナシアスはかつての十代の少年ではない。
夫人も、今は年期に|括《くく》られている愛人ではない。
それでもハイデカー夫人はいかにもこの人らしい茶目っ気を発揮して言った。
「しばらくお目に掛からない間に、ナシアスさまもご立派になられました。特に、わたくしを奥さまに会わせようとはおっしゃらないところが……」
ナシアスはちょっと|瞬《またた》きして、苦笑した。
「実は今、それを考えていたところだったのですが、いけませんか?」
「いけませんとも」
断じた夫人だった。
「旦那さまのお子さまを生んだばかりだというのに、そこへこんな訳ありの女を連れてこられたのでは、奥さまはおもしろく思わないはずです」
「そうでしょうか? わたしは案外、あなたは妻のいい話し相手になってくれるのではと思いますよ。わたしの妻は少し、あなたに似ていますから」
「まあ、ナシアスさま。それも禁句です。奥さまのお気持ちを察してさしあげなくては……」
ナシアスはゆっくり首を振った。
微笑を浮かべて、あらためて夫人に話し掛けた。
「マキシーン」
これには本当に驚いたハイデカー夫人だった。
「わたくしの名前をご存じでしたか?」
「あなたがいなくなった後、バルロに聞きました」
「…………」
「わたしは今の妻を愛しています。わたしの愛情は現在も、これからも、妻一人のものですが、あの頃、わたしの心には確かにあなたの面影がありました。――それだけ言いたかったのです」
|厳《おごそ》かなくらいの口調で言ったラモナ騎士団長は、ハイデカー夫人の右手を取り、腰を屈め、|恭《うやうや》しい仕種でその手の甲に|接吻《せっぷん》した。
接吻を送られた夫人のほうが驚いて苦笑している。
「本当に年月は偉大ですね。あなたにこんなことができるようになるとは……」
「いえ、バルロと違って、誰にでもは無理です」
至って正直にナシアスは答え、その生真面目さがおかしかったのか、夫人は小さく吹き出した。
ナシアスも笑って、夫人の顔を見つめて頷いた。
「どうか、お幸せに」
「あなたも」
本宮の一室には、大勢の見物人が集まっていた。
国王を筆頭に宰相、女官長、独騎長、近衛司令官、他にもコーラルに滞在中の各地の領主や英雄たち、各騎士団長、そしてもちろん愛妾のポーラがいた。
彼らが揃って見つめる部屋の壁には布で|覆《おお》われた大きな絵が掛かっている。
描いたのはサヴォアー門のモントン卿だ。
モントン卿は本職の絵師ではないが、その腕前は一流の絵師たちが|玄人跳《くろうとはだし》だと絶賛するものであり、何より何度も王妃と戦場をともにしている。
国王はこの人に白羽の矢を立てて『デルフィニア王妃らしい肖像画』の制作を依頼したのだ。
モントン卿は今日までどんな絵を描いているのか、いっさい秘密にしてきた。
国王もこの場に来て初めて、壁に掛けられた絵の寸法を知ったのだが、その大きさにまず驚いていた。
「……いやはや、これを覆う布地をつくるだけでもかなりの労力なのではないか?」
と、妙なところを気にしている。
後はこの布地を落とすだけでいい状態だったが、モントン卿はその合図を出しかねていた。
「はてさて、サヴォア公もベルミンスター公もまだお見えになりませんが、いかがいたしましょう?」
「いや、いい。開けてくれ。早く見たい」
「それでは……」
モントン卿の合図で、恭しく布が払い落とされる。
歓声が上がった。
人々の眼をまず射たのは黄金の流れだった。
見事な黒駒に乗った女性がその金髪をなびかせて、右手に握った剣を振り上げている。
花のような唇が大胆な微笑を浮かべている。
だが、その顔はどちらかというとうつむきがちで、眼の部分に濃い影が差し、詳細がよくわからない。
わからないのも当然だった。
この肖像画には眼が描かれていないのだ。
顔の輪郭、|薔薇《ばら》色の|頬《ほほ》、通った鼻筋から|顎《あご》の形、花のような唇とそこからこぼれる白い歯まで鮮明に描かれているのに、眼は緑色に|惶《きら》めいているだけで、人の眼としての形がとられていないのだ。
よくよく見ると、両の眼の部分に本物の緑柱石を細かく砕いて張り付けてあるのである。
眼だけではない。その人の額を飾る宝冠にも同じ緑の宝石が使われていた。
さらに言えば、その人の顔の周りでうねるような金髪にも本物の金糸がふんだんに使われている。
この絵は間近で見たのでは意味を為さない。
眼の部分が粗すぎて人の顔として捕らえられない。
だが、充分に離れて鑑賞した時、精密に描かれた顔の輪郭や肌の色、鼻筋や口元と相まって、そこに一つの面影が完成する。
一度でも王妃に会ったことのある人ならもちろん、一度も会ったことがなくても、この絵の前に立てば、|凛々《りり》しく|猛々《たけだけ》しく美しい勝利の女神の姿を鮮やかに思い描くことができる。
見物人一同は声もなく、その絵に見入っていた。
「絵師としては敗北宣言もいいところですが……」
モントン卿は苦笑しながら嘆息した。
「この一年、絵師たちが嘆くほどの絵の具を消費し、何度も描こうと試みてはみたのですが、どうしても妃殿下のあの眼を描くことがかないませんでした。いっそのこと、見る人の心に任せようと思いまして……苦肉の策です」
「いいや、モントンどの。上出来だ」
断言して、国王はつくづくとその絵に見入った。
「……ありがたい。王妃がそこにいるようだぞ」
同じことをポーラも思っていた。
その胸が感動に大きく上下する。思わず進み出て、モントン卿に両手を差し伸べた。
「ありがとうございました。モントン卿さま」
「少しはお慰みになりましたかな?」
「はい。本当に王妃さまがいらっしゃるようです。もちろん、わたしは戦場に出たことはありませんし、戦場にいる時の王妃さまを存じませんが……」
こぼれるような笑顔で絵を振り仰いで、ポーラは晴れやかな□調で言った。
「王妃さまの明るさ、優しさ、凛々しさ、女性とは思えないほどの勇ましさ、そんな王妃さまの魂まで、この絵は見事に描ききっていると思います」
モントン卿も笑顔になった。
国王の愛妾に向かって恭しく一礼した。
「ありがたい。何よりのお|褒《ほ》めの言葉です」
賞賛の言葉を惜しまなかった見物人が去った後、ポーラは再び、一人で肖像画の掛かった部屋を訪れ、離れたところの床に|脆《ひざまず》いた。
その絵を見上げて、心の中で話し掛ける。
(王妃さま。聞こえていらっしゃいますか?)
もちろん答えはない。
それでもポーラはかまわなかった。
(昨年、陛下のお子を授かりました。男の子です)
それは丈夫な子どもだった。今ではしきりと動き回るようになって侍女たちに手を焼かせている。
この子が将来、王冠を|戴《いただ》くことになるのかどうか、ポーラにはわからない。
だが、国王は息子をとてもかわいがっている。
ポーラにはそれが嬉しかった。
それだけで充分でもあった。
(この秋にはもう一人生まれます。今度は女の子が欲しいのですが、陛下はもう一人、息子を欲しいと思っていらっしゃるかもしれません。王妃さまさえよろしかったら……もしご都合がつくようでしたら、どうかお願い致します。一度でいいですから、ぜひ子どもたちの顔を見にいらしてくださいませ)
話し始めたらきりがなかった。この一年の出来事、王妃に会ったら聞いてもらおうと思っていたことを次々に並べていると、背後で驚いた声がした。
「ポーラ? 何をしている」
国王と独騎長が立っていた。
「王妃さまに、いろいろお話をしていました」
「だからといって、冷たい床に直に座ったりするな。身体にさわるぞ」
「はい」
この頃ふくらんできた腹を抱えて立ち上がろうとする愛妾に国王は手を貸してやり、優しく言った。
「明日にはタンガからビーパス王もお見えになる。そのもてなしについて、女官長が相談したいことがあると言っていたぞ」
「はい。すぐに伺います」
ポーラが立ち去ると、国王とその幼なじみの独立騎兵隊長は、もう一度、あらためて絵を眺めた。
黒ずくめの独騎長が感嘆の吐息を洩らして言う。
「よく描けてるな」
「ああ」
「しかしなあ、考えてみれば、この姿も幻となって消えちまったんだよな」
「まあな」
二人とも、その時のことを思い出して苦笑した。
王妃に親しかった人たちの中で、この二人だけは王妃の本当の姿を見届けていた。
どこがどう変わったというわけではない。
黄金に輝く髪も印象的な緑柱石の瞳も、薔薇色の頬も、赤い唇までそのままだった。つまり際だって美しい顔立ちのほとんどが変からなかった。
王妃を王妃たらしめていた魂に至ってはちっとも変わったりしなかった。
それでも『デルフィニアの王妃』はまったく違う生き物となって自分の世界へ帰って行ったのだ。
独騎長はさらに|感慨《かんがい》深げに言った。
「あれから、小さいのがころころ増えてるからよ。たまには会いに来てくれると嬉しいんだがね」
三ヶ月前、独騎長にも待望の男子が誕生している。
持ちこがれた男の初孫の誕生に、豪傑と|謳《うた》われたドラ将軍の表情は緩みっぱなしだ。
他にも若い妻をもらったタウの領主には女の子が生まれている。彼らはまだ知らないが、ナシアスのところにもめでたく男子が増え、バルロのところに至ってはかなり大きいのが増えたわけだ。
子どもが生まれるたびに、母となった女性たちは王妃のことを口にした。妃殿下に子どもの顔を見てもらいたいと異口同音に言い、王妃を懐かしがった。
しかし、王妃が本来の姿で戻って来たとしても、それが誰なのか、見る人には決してわからない。
複雑な顔をしている独騎長とは対照的に、国王はのんきに笑っていた。
「俺はどんな姿の王妃でも会えれば嬉しいがな」
「簡単に言ってくれるぜ。俺はそこまで楽観的にはなれねえな」
「そうか?」
「そうともよ。考えてみろ。あのリィは俺が見てもかなりの美少年だったぜ? まあ、うちの奥さんは俺にぞっこんだけどよ。ポーラさんなんかは熱烈に王妃が好きなわけだし、その王妃があんな美少年になって戻ってきたとしたらどうする? 俺としてはあんまり穏やかじゃあいられねえな」
国王は何とも言えない顔になり、イヴンはそんな幼なじみに鋭く突っ込んだのである。
「おまえ、言われるまで考えてなかったな?」
「う、いや、まあ……それはそれとしてだ」
しどろもどろになったものの、絵を見上げながら国王は感慨深げに言った。
「俺はな、イヴン。リィならもう何でもいいような気がするのだ」
「はあ?」
「女の姿でも、最後に見た時のような少年の姿でも、いっそのこと狼の姿でもだ。本当に何でもかまわん。もう一度会えるなら素直に嬉しいと思うぞ」
イヴンは|碧《あお》い眼を丸くした。
さらに深いため息をついて、短い金の頭を掻いた。
「まったくなあ……このデルフィニアでたった一人、王妃が女でなくてもかまわないと言い切れる奴が、よりにもよってその王妃の夫の国王なんだからよ。――皮肉なもんだぜ」
「そうか? 俺は至って順当なことだと思うぞ」
その王妃に、かつて変な王だとさんざん言われた国王は堂々と胸を張った。
「だからこそ、あれは俺と結婚したのだろうよ」
「そこのところだけは否定しねえよ」
イヴンも笑った。
再び絵を見上げて、懐かしそうに言った。
「俺の奥さんも会いたがってるが、もう一度、この王妃に会える時が来るのかね?」
国王は答えなかった。
二人して部屋を後にする時になって、自分にだけ聞こえるような小さな声で呟いた。
「大丈夫。きっとまた会えるさ」
その時が来ることを確信しているように微笑して、国王は自ら部屋の扉を閉めた。
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あとがき
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久しぶりのデルフィニアです。いかがでしたでしょうか?
ずっと頭の片隅に放置していましたが、この話はデルフィニア本編を書き上げた直後の
八年前、既に大まかな構想だけはあったものです。
ですが、その時にはストーリーも決まっていない|蜃気楼《しんきろう》のようなものでした。
頭の引き出しにしまいっぱなしで、実際に書ける時が来るとも思っていませんでしたが、それがこうして形になったのですから、感無量です。
同じくその蜃気楼を、眼に見えるイラストという形にしてくださった沖麻実也さん。
ありがとうございました!
表紙を見た時は本当に懐かしかったです。だけと予想外に若い彼らが可愛くて楽しくて、思わず顔が笑ってしまいました。
後はこれを読んでくださった皆さまに少しでも楽しんでいただければと思います。
茅田砂胡