ポーラの休日
茅田砂胡
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国交回復記念式典が無事に終わり、めでたくもラモナ騎士団長とエンドーヴァー子爵未亡人との結婚が正式に決まったある日のこと。
|芙蓉宮《ふようきゅう》を訪れた国王は|晩餐《ばんさん》の最中に切り出していた。
「たまにはゆっくり休んではどうかな?」
芙蓉宮の女主人であるポーラはちょうど椅子から立ち上がり、国王のために見事な|雉肉《きじにく》を切り分けようとしていたところだったが、きょとんとなった。
手を止めて不思議そうに問いかけた。
「テス夫人やメアリを休ませてやれ、という仰せでしょうか?」
「違う、違う。ポーラがだ」
「わたし、ですか? でも、わたしはお休みをいただくようなことは何もしておりませんのに」
デルフィニア国王ウォル・グリークは思わず苦笑する。
この|愛妾《あいしょう》は今でこそ国王と向かい合わせに座っ
て食事をしているが、ここまでこぎつけるのは大変だった。芙蓉宮に来た当初など、国王が芙蓉宮を訪問している間は絶対に腰を下ろそうとしなかった。
食事中ともなればなおさらである。陛下がお食事を召し上がっている際中に座り込んでいるなどとんでもない、あまりにも恐れ多いと言うのだ。自分は台所で料理に専念する、さもなくば給仕に当たると言い張ったが、それではせっかく愛妾の元を訪れた国王が一人で食事を摂ることになってしまう。
結局、ある意味では国王以上にポーラに対して影響力を持っている王妃が笑いながら、
「その陛下が一緒にご飯食べてくれって言ってるんだから問題ないじゃないか。国王の愛妾なら国王の希望を聞いてやるのも仕事のうちだぞ」
と言い聞かせ、ポーラはおっかなびっくりながら、ウォルと向かい合わせに座るようになったのだ。
それでも、最初は身体をかちこちにして、ろくに食べ物の味もわからないような有様だったが、この頃はようやく打ち解けて、食事中に笑顔も見せるようになったのである。
「休みはいらないというが、ポーラは城へ来てからずっとこの芙蓉宮に詰めているではないか」
「はい。だって、それがわたしの勤めですもの」
実質上は夫婦でありながら、ポーラはあくまでもウォルに仕える|側女《そばめ》としての立場を崩さない。国王の愛妾という地位を得た女性が当然のように望む|贅沢《ぜいたく》な衣裳も豪華な宝石も、特別あつかいさえ、ポーラは笑って|退《しりぞ》けていた。彼女が望んだのは何よりも国王の傍にいることだった。ただ愛情を込めて国王の世話に励み、それを喜びとしていたのである。
「ポーラが働き者なのはよく承知しているが、一年中、一日の休みもなしにとなると少々問題だぞ。たまには気晴らしをするといい」
「はあ……」
生返事をして腰を下ろし、自分の分の雉雄肉に取りかかろうとしたポーラはまた顔を上げた。
「でも、陛下。気晴らしでしたら、わたしなどより王妃さまは?」
「あれは俺がわざわざ勧めなくても勝手にしている。今でこそ西離宮に落ち着いているが、かつては何ヶ月も顔を見ないことも珍しくなかったからな。しかし、ポーラに何ヶ月も城を留守にされたのでは俺が困ってしまう。そこで妥協案だが、たまには離宮を離れて市内見物でもしてきてはどうかな?」
デルフィニア国王の愛妾としての日常は決して楽なものではない。
重臣の夫人たちとの女同士のつきあいはもちろん、公式の場にも顔を出し、外国の要人たちの接待にもあたらなければならない。
特にここ最近はいろいろと心労の続く日々が続いていたはずだ。国王としては何とかその働きに報いてやりたかったのである。
その気持ちを|汲《く》んだのか、ポーラはようやく顔をほころばせた。
それに、市内見物というのは確かに嬉しい響きだった。小身の、地方貴族の娘に生まれたポーラにとって、コーラルはずっとあこがれの大都会だったのだ。
今はその頂点である王城に住み暮らしているわけだが、ポーラはそのコーラルを一度も見物したことがない。
「ありがとうございます。それではあの、お言葉に甘えて街を見に行ってもよろしいでしょうか?」
「もちろんだとも。馬車も供の者も用意させるぞ」
「とんでもない。そんなもったいない。自分の足があるんですから、歩いて参ります」
国王はまた苦笑した。
「せめて城内くらいは馬車を使ってもらいたいな。
この城は大手門まで優に二カーティヴはある。そこまで徒歩で下りて、さらに市内を見物して歩き回ったりしたら足を痛めるぞ」
「いいえ、わたしは山育ちですもの。平たい町中ならいくら歩いたって足が痛くなったりしません」
「しかし、足がむくんで太くなるだろうに」
「平気です。わたしの足はもともと馬車馬のように丈夫で太いんですから。それとも、あの……」
言葉を飲み込み、国王の顔色を|窺《うかが》うようにして、ポーラはおそるおそる問いかけた。
「陛下は、足の太い女はおきらいでしょうか?」
「いいや、この雉のような骨と筋だけの足などより、よほど健康的でよいと思うな」
王妃が聞いたら『もうちょっと気の利いた|台詞《せりふ》は吐けないのか』と文句を言うところだが、ポーラはそれで安心したらしい。
にっこり笑って|頷《うなず》いた。
翌日、アランナが芙蓉宮に遊びに来た。
アランナはラモナ騎士団長の妹ではあるが、出身も嫁ぎ先も小身貴族の女にすぎない。本来なら国王の愛妾と親しく交際できるような身分ではない。あくまで腰を低くして、ポーラの『機嫌をうかがう』のが本当だったが、二人は非常に仲がよかった。ポーラも小身貴族の出身だったから至って話も合つし、気心もわかるのだ。
「まあ、それじゃ、陛下のお許しを得てコーラル見物に?」
「ええ、よろしかったらアランナさまもご一緒に参りませんか? 正直言ってわたし一人ではコーラルのどこを見て回ればいいのかもわからないんです」
「もちろんですとも。子どもたちはマリアに預けて参りますわ」
アランナは大はしゃぎだ。互いに針仕事をしながら話に興じていたが、その手を止めて考え込んだ。
「どこを見て回りましょう? 舞台劇? 演奏会? いっそのこと奇術の会などはどうでしょう。南にいたころ一度見たことがあるんですけど、あれはなかなか|凝《こ》ったものでしてね。人が剣を呑んだり、火や水を操ったりするんです。きっとポーラさまもびっくりなさると思いますわ」
「でも、アランナさま。そういう出し物はたいてい|陽《ひ》が暮れてから行われますでしょう?」
心配そうに言ったポーラに、アランナはちょっと眼を見張った。
「では、ポーラさまは昼間に出かけて夜には戻るおつもりですか?」
「ええ。コーラルは中央でも一番大きな街ですから、その賑わいを一度見てみたかったんです。それに、陽が暮れてから奥さまをお借りするのではご主人に申し訳ありませんもの」
明るい問しか見て回らないのでは大都会の持つ楽しみの半分も味わえないことになるが、ポーラはそれで充分と思っていた。
見たい芝居や出し物があるのなら、最初からそう言って、国王に連れていってもらえばいい。しかし、妻が夫を置いて『夜遊び』をするのは感心しない。大貴族の夫人たちが聞いたら鼻で笑っただろうが、ポーラはそう考える階級の出身だったのである。
そして、ありがたいことに、アランナもポーラの意見に賛同するだけの|慎《つつし》みを持った女性だった。
「もっともでした。わたしの留守中にピサロが妙な考えを起こさないとも限りませんし、早々に戻ってしっかり監督しなくては」
いたずらっぼく言って、また考える顔になる。
「そうすると、昼間の市内見物となると、やっぱりお買い物を中心にしたほうがいいのかしら。市場を一通り見て回って……そうだ! せっかくですから魔法街に行ってみませんか?」
「魔法街?」
ポーラには初めて聞く名前だったが、アランナは眼を輝かせて手を打っている。
「そうだわ! 昼のコーラルを見物するならここをはずす手はありません! わたしも行ったことはないんですけど、一年中お祭りのようなところで、普通の町中では見たこともないような珍しい品物も売っているし、大道芸人もたくさんいるんですって。きっといい気晴らしになりますわ」
「不思議な名前ですねえ。魔法街、ですか?」
「ええ。ここには有能な占い師や|祈祷師《きとうし》が集まっているのでそう呼ばれているんです。何でも噂では本当に魔法を使う者もいるとかで、夜になると町のあちこちで謎めいた呪文が聞こえるんですって」
芝居気たっぷりに厳めしい表情をつくるアランナにポーラもつられて声を低めた。
「でも……それは、何やら物騒なところなのではありません?」
そんなところに出入りしても大丈夫だろうかと不安を訴えるポーラに、アランナは笑って首を振った。
「何も心配なさることはありませんわ。今のはあくまでも暗くなってからの話で、昼間は大変な賑わいなんですから。これも|噂《うわさ》ですけど、このお城に屋敷を構えているような貴婦人方も身分を隠してこっ
そり魔法街を訪れたりするのですって」
そう言うアランナも『陛下直々にお城に屋敷を|賜《たまわ》った貴婦人』なのだが、その事実は頭に入っていないらしい。ポーラもポーラで、
「そんな深窓の奥様方が直々にお忍びでお出かけになるんですか?」
と、自分はそれ以上に身分の高い国王の愛妾なのだとはまったく気づいていない様子で、眼を丸くしている。
「ええ。何でも恋しい人の真意を占ってもらったり、思いが成就する呪法をかけてもらったり、時にはもっと大胆な手段を頼んだり……。実を言いますと、わたしもその神秘の力に頼ろうかって真剣に思い悩んだことがあるんですよ。もちろん、わたしが使うわけじゃありませんけど」
急いで前置きして、アランナはちょっと笑った。
「今にして思えば無茶なことを考えたものですけど、兄があんまりぐずぐずしているものだから、わたし、気が気じゃなかったんです。お|義姉《ねえ》さまなら兄にはもったいないくらいの方ですし、互いに思い合っていることも明らかでしたし、こういうときには殿方のほうから積極的な態度に出るべきですのにね。それとなく励ましてはいたんですけど、ひどくじりじりさせられる日が続いて、わたしとしたことが料理の味付けも間違えるような始末で、こんな思いをするくらいなら、いっそのことあの街で|惚《ほ》れ薬でも手に入れて、兄に飲ませてやろうかと思ったんです」
「そんなものまで扱っているんですか!?」
「ええ。効能あらたかだって大変な評判だそうですわ。その分、とても高価な品物のようですから、うちの台所では最初からそんなものに手が届かないのはわかっていたんですけど。幸い、その必要もなくなってほっとしました」
実の妹のアランナが大まじめにそんな強硬手段を考えるくらい、ラモナ騎士団長ナシアスとエンドーヴァー夫人との恋愛は遅々として進展しなかったのだ。
バルロさまが|強権《きょうけん》を発動してくださらなかったら(ティレドン騎士団長が本来の身分を全面的に表に出してナシアスに圧力をかけることを、アランナはそう呼んでいた。他ならぬナシアスが以前、『強権発動もいいところだ!』と、珍しくもバルロに対して|憤慨《ふんがい》していたところから覚えたのである)いったいどうなっていたことかと、アランナは|嘆息《たんそく》した。
兄は親友の口出しを不満に思っているようだが、この場合、誰が見たってバルロが正しいし、兄には反論の余地はないとアランナは堅く信じていた。同時に、バルロに対して心から感謝もしていた。
何やら考え込んでいたポーラが顔を上げ、ひどく真剣な口調でアランナに問いかける。
「初めて耳にしましたが、その惚れ薬とはつまり、意中の殿方の心を自分に向けさせるというものですか?」
「ええ、宮廷婦人たちにとってはそれも遊びの一つなんだと思います。もちろん秘密の遊びですけど」
アランナの口調はちょっと苦い。
夫一人を心から愛しているアランナにはそうした遊びが理解できないのである。もっとも宮廷婦人たちのほうも、この楽しみを拒絶するアランナを『おかわいらしい人だこと』と言って笑うだろう。
「その薬、効果のほうはどうなのでしょう?」
「そこまではわかりません。わたしだって本当に確かめたわけじゃないんですから。今のはみんな噂で聞いた話なんです」
「どういう種類のものなのでしょう? たとえば、あくまでわたし自身と誰か特定の殿方との間を強く結びつけるものなのでしょうか。それとも……もっと他に応用が利くのでしょうか」
アランナは驚いた。思わず問い返していた。
「まさかそれを陛下に飲ませようとでもおっしゃいますか?」
ポーラは慌てて首を降る。
「違います。それこそわたしじゃありません。わたしは充分すぎるくらい幸せですもの。ただ、今のアランナさまのお話、お二人ともお互いに思いを寄せていらっしゃるのに進展しない、こういうときには男性のほうから歩み寄るべきだというそのお話が……」
話しながらも手は動かしていたポーラだが、針を持つ手を止めて、そっと|囁《ささや》いた。
「何だか、あの方たちにも当てはまるような気がしたのです」
アランナも納得して頷いた。
|愛嬌《あいきょう》あふれる丸い顔と小柄な|体躯《たいく》のおかげで、二児の母となった今も少女のような雰囲気のアランナだが、実は|聡《さと》い人だ。ポーラが何を言いたいのか瞬時に察した。
「シャーミアンさまのことですね?」
「ええ。あのお二人なら本当にお似合いだと思うんですけど、どうして、独騎長さまは……」
苦しそうに言葉を飲み込んだポーラだった。
あの黒衣の戦士とドラ伯爵家の令嬢との縁談は、今、宙に浮いたかたちになっている。
まとまったのではない。破談になったのでもない。
一時保留というあつかいらしいのだ。
それも、ドラ将軍が直々に娘をもらってくれと申し入れたにもかかわらず、イヴンのほうがいい返事をしなかったのだという。
この|顛末《てんまつ》はポーラには理解に苦しむことだった。
ポーラはイヴンやシャーミアンについてそれほど詳しく知っているわけではない。相手は何しろ国王のもっとも親しい側近であり、名門ドラ伯爵家の一人娘である。一年前までのポーラにとってはまさに雲の上にいるにも等しい人々だったのだ。
でも、ポーラが芙蓉宮に入ることになったとき、イヴンはとても喜んで暖かく迎え入れてくれた。シャーミアンは、ポーラのことを|歯牙《しが》にもかけない貴婦人が多い中で、最初から親しい友人にするように優しく接してくれた。以来、二人とも何かと気を使い、親切にしてくれる。いくら恩義を感じても足らない人たちなのである。
その二人の縁談がまとまりそうでまとまらないと聞いたときから、ポーラは密かに心を痛めていた。
それはすなわち、煮え切らない態度を示したイヴンに対する非難の気持ちでもあった。願ってもない良縁なのに、どうしてすぐに返事をしなかったのか、どうしてシャーミアンの気持ちをいたずらに傷つけるようなことをするのか、ポーラは本当に不思議に思っていたし、立派な殿方のなさることではないと少しばかり不満にも思っていたのである。
アランナもイヴンの態度には不審を感じている様子で、|呟《つぶや》いた。
「まさかとは思いますけど、独騎長さまはシャーミアンさまを気に入らないから、シャーミアンさまに何らかの不満や|瑕《きず》を感じているから受け取らないというのではありませんよね?」
「そんなこと! あの方はドラ将軍のご令嬢で、何度も陛下と戦場を共にした勇敢な女騎士でいらっしゃいます。わたしなんかが申し上げるのも失礼なくらい、本当にお心の優しい、お美しい方でもあります。ラティーナさまがナシアスさまの奥方として申し分のない方であるように、シャーミアンさまはイヴンさまの奥方として申し分のない方のはずですわ」
「わたしだってそう思いますとも。ですけど、それならなおのこと、独騎長さまは何を渋っていらっしゃるんでしょうね? お年頃もご身分もちょうど釣りあうようですのに」
二人ともイヴンのもう一つの顔を知らない。国王の親衛隊長として堂々と王宮に出入りしているその人が夜盗・山賊まがいの一団を率いる長でもあるとは夢にも思っていない。
ポーラは真剣な顔をしてさらに言う。
「ですから、わたしたちにできることがあるなら試してみる価値はあると思うんです。こんなことは出過ぎた真似なのかもしれませんが、何だかじっとしていられなくて……」
「そのお気持ちはよくわかります。あのままではシャーミアンさまがあんまりお気の毒すぎますもの」
「では、アランナさま」
「ええ、ポーラさま」
奇妙な団結意識を発揮して、二人はしっかと手を握り合った。
こうして、ポーラの外出の主要目的は、
「イヴンに飲ませるための惚れ薬を買いに行こう」
という、国王や王妃が聞いたら悲鳴を上げそうな代物に決定したのである。
知らぬは本人ばかりなりとはよく言ったもので、イヴン自身はシャーミアンとの縁談をやんわりと、しかしはっきりと断ったつもりだった。ところが、話を終わりにしたと思っているのはイヴンだけだったし、断られた(のかもしれない)と思って落ち込んでいるのはシャーミアン一人だけである。
何よりシャーミアンの父であるドラ将軍がすっかり乗り気になっており、イヴンの父親代わりを任じているジルともがっちり手を組んでいるのだ。
この二人は最近すっかり親しい茶飲み仲間である。
今日もドラ将軍は、イヴンより先に若い妻をもらうことになったジルのために直々に祝いの品を調え、タウの官舎を訪れていた。
「祝儀とは言え、貴君にこのようなものを贈るのはいささか|面映《おもは》ゆいのだが……」
苦笑しながら将軍が差し出したのは式典用の馬装一式である。
黒塗りに銀の|象眼《ぞうがん》が施された|鞍《くら》と|鐙《あぶみ》、|金欄椴子《きんらんどんす》で仕立てた飾り帯、銀糸を編み込んだ|胸懸《むながい》など、豪華できらびやかな最高級の品々だ。将軍の領地は馬の名産地として知られているだけに、さすが、こうした職人の技もひと味違っている。
しかし、ジルの暮らすタウも馬の扱いにかけては人後に落ちない。たとえて言うなら|機《はた》織りの名手に織物を、名匠と言われる刀|鍛冶《かじ》に刀剣を贈るに等しいことだとドラ将軍は|謙遜《けんそん》してみせたのだが、ジルは笑って首を振った。
「我々の技術はあくまで実用品において発揮されているものですから、これほど|絢燗《けんらん》なものはなかなか、つくろうと思ったところでつくれるものではありません。ありがたく|頂戴《ちょうだい》いたしましょう」
「かたじけない」
ドラ将軍は軽く頭を下げた。
実際、現在の王宮におけるジルの地位は決して低いものではない。いずれこうした華々しい礼装も必要になるはずだ。
がっしりした若者が将軍とジルに茶を運んできてくれた。黙々と動いて一礼して下がっていく。
「今日は、あの若者はおらぬのかな?」
イヴンの姿が見えないことを尋ねた将軍に、ジルはまた苦笑した。
「将軍が直々にお出ましになるというのに、あれがじっとしているわけがありません。とっくに逃げ出しましたよ」
「なんと。それはきらわれたものだ」
「いや、それは冗談としても一昨日から戻りません」
「ほう?」
将軍がちょっと眼を見張る。ジルは今度はにやりと笑った。
「うちの若い者がシッサスで見かけたと言っていますのでね。どうも、馴染みの女のところにでも居続けているのではないかと……」
将軍は豪快に笑って|膝《ひぎ》を叩いた。
「なるほど。遊び納めというわけか。よかろう」
|娘婿《むすめむこ》にしようという男の多少の|不行状《ふぎょうじょう》を聞かされたところで動じるような将軍ではない。イヴンは若い頃から各国を放浪し、海賊の仲間入りをし、賞金首になったこともあるとまで自分で言っている男だ。そうしたことを何もかも承知の上で、将軍はイヴンを娘婿にと見込んだのである。今さら見変えるつもりはなかった。
「ところで、ジルどのはこのたび、めでたくも若い奥方をもらうこととなったわけだが、跡目はどうなされる? 奥方が男子を産んでくれたなら、その子を次代の領主に据えるおつもりか」
「これはずいぶん、難しいことをお尋ねになる」
将軍が本当は何を言いたいのかを察していながら、ジルは笑って答えをはぐらかした。
「わたしは確かにタウの領主ということになってはいますが、それはあくまで名目上にすぎません。面倒ごとをきらった年寄り連中にむりやり押しつけられたようなものです。王様と多少の馴染みがあるから、王宮との橋渡し役に一番適しているだろうという理由でね。その程度のものなのですよ。わたしはあくまでベノアを代表する頭目であり、タウに二十人いる頭目のまとめ役にすぎません。仮にわたしが誰かを次の領主に据えたいと言ったところで、仲間たちの反対に遭えばそれまでです。昔も今もタウは誰のものでもありません。これからも決して誰のものにもなりません」
「これは、一本参った」
将軍は素直に頭を下げ、茶器を手に取った。
父の跡を継ぎ、領地を守ることが使命と教育されてきたドラ将軍には相容れない思想だったが、ジルの言葉には清々しいくらいの信念が感じ取れる。
「しかし、ジルどのの|薫陶《くんとう》を受けたが故に、あの若者もあのような|一徹者《いってつもの》になったかと思うとな、実を言うと、少々恨みがましく思わぬでもないのだ」
「わたしのせいにされては困ります。あの気性は初めてタウに顔を見せたときから少しも変わっておりません。将軍が責めるべきはあれの父親のゲオルグでしょうよ。言い出したら引かないところなど、よく似ています」
「その|仁《じん》のことは陛下からも|伺《うかが》った。スケニアから来たという森の巨人のことだな」
「ええ」
二人はタウの南峰で摘み取ったお茶をゆっくり楽しんでいた。
将軍がふと苦笑して言う。
「我が娘に関わることでなければ、あの若者の態度は|潔《いさぎよ》しと誉めてやってもよいくらいのものだが……うまくいかんものだ」
ジルも笑いを|噛《か》み殺している。
「いい意味で意固地な奴だと思ってやってください。少なくとも、あれには、お嬢さんを利用して成り上がってやろうなんて気は更々ないんです」
「うむ。|希有《けう》なことだと思っている。腕や容姿に自信のある若い男なら、普通は当然、そちらのほうを狙うものだからな」
言いながら、ドラ将軍はもう三十年以上も前に見た一人の若者を思いだしていた。
そのころの将軍は十五か六、もちろん将軍などではなく、爵位を継いでもいなかった。毎日を剣術と馬術の修行に明け暮れ、それによって自分自身に確実に力がついていく過程がおもしろくてたまらなかったところで、まだまだ血気盛んなエミール少年だった。
ロアで開かれた馬術大会に飛び入りで参加し、名だたる強豪を一人残らず退けて優勝をさらっていったその若者は、エミール少年より一つか二つ年上だっただろう。細身ではあるが引き締まった体躯と若々しい獣のように敏捷な身のこなしが印象的だった。
馬自慢のロアの男たちが感嘆するほど巧みに馬を操り、|槍《やり》を操るその若者に、会場からは驚愕の大歓声が上がった。まだ健在だった将軍の父、当時のドラ伯爵も感嘆の声を発したものだ。
「見ない顔だが、何者か?」
父の側に控えていたエミール少年もまさに同じことを思っていた。その伯爵の問いかけに答えたのは誰だったか……。
「あれは確かポリシアの、ベリンジャーのジョルダンです」
「なんと、あれがそうか」
その名前にエミール少年はさらなる興味を覚えた。
デルフィニアの大|穀物《こくもつ》|庫《こ》であるポリシア平原の、あれが次の領主かと納得し、自分もいずれはロアという大きな領地を継ぐ身であるだけに、この機会に言葉を交わしてみたいと思った。
凛とした顔立ちの色白の美少年でありながら、大の男も顔負けの技倆を見せて大会に優勝したジョルダンに伯爵も興味を覚えたらしい。|褒賞《ほうしょう》の言葉を掛けるとともに、ロアの屋敷に立ち寄るようにと誘ったのだが、伯爵の前に立った若者の態度はひどく|不遜《ふそん》だった。
「ほんの腕試しに出ただけのこと」
と鋭く眼を光らせたまま、褒賞されるのが|煩《わずら》わしいとばかりの態度で言い、伯爵の誘いもつっけんどんに断り、挙げ句の果てには、
「馬にかけては中央一だというロアの衆もたいしたことはないな」
吐き捨てて背を向けたのだ。
こうなっては好感情など持てようはずもない。
それどころか、エミール少年は自分の顔が真っ赤になるのを感じていた。ドラ伯爵家は代々の王国の重鎮である。当時の伯爵も立派な領主として民衆に慕われ、優れた武人として国王から深く頼りにされ、エミール少年にとっても他の何より誇りとしている父だった。その人が公衆の面前で、自分といくつも歳の違わないような少年に|侮辱《ぶじょく》されたのである。
危つく剣を引き抜こうとしたエミール少年を止めたのは他ならぬ父伯爵だった。
「かまうな、捨て置け」
「ですが、父上! このような侮辱を聞き流したとあってはドラ伯爵家の名折れになります!」
|悔《くや》しげにジョルダンの背中を見送り、満面を紅潮させて言った息子に、伯爵は不思議な笑みを見せて言ったものだ。
「なるほど、無礼には違いない。だが、エミールよ。おまえにもいずれわかるだろうが、若いころというものは得てしてああしたものなのだ。特にベリンジャーの家にはいろいろと複雑な事情が存在するがゆえにな……」
ポリシアの複雑な事情についてはエミール少年もある程度は耳にしていた。現在の領主はジョルダンの『叔父』に当たる人だという。彼の母は死に別れた夫の弟と再婚をし、ジョルダンの後に三人の子を|儲《もう》けたのだという。それでも、ジョルダンが次の領主であることは間違いない。
「あのような礼儀知らずがポリシアを受け継ぐとは勘弁なりません」
ジョルダンの姿がとっくに見えなくなってもまだ怒っている息子に、伯爵はさらに息子を|激昂《げっこう》させるようなことをさらりと言った。
「わしから見れば、ジョルダンもおまえもたいして変わらぬ。似たようなものだぞ」
エミール少年はさすがに心外に感じて言い返そうとしたが、父は何とも言いがたい吐息を|洩《も》らしていた。
「あの若者はな、恐らく、おのれでおのれの力を持て余しているのだろうよ。おのれの若さに振り回されていると言ってもよい。なまじあの、子ども離れした見事な技倆を持つがゆえになおさらじゃ」
ジョルダンが故郷を捨てて|逐電《ちくでん》したと聞いたのはそれからすぐ後のことだった。あの気性では無理もないとエミール少年は思い、ポリシアの民もあんな領主は願い下げであったろうから、土地のためにはこれでよかったかもしれないとまで苦々しく考えたのだが、父伯爵は少年とは別の意味で無理からぬことと納得したらしい。難しい顔をして何度も頷いていた。
「ドラ将軍?」
「いや……失礼」
問いかけられて、将軍は意識を現実に戻した。
時は流れた。あれからすでに三十余年だ。
エミール少年は青年となり、妻をめとり、数々の武功をたてて将軍の称号を得、やがて亡くなった父の跡を継いで伯爵となり、ロアの領主となった。
少年が変わったのと同じように、若々しい身体に満ちあふれる生気を持て余し、複雑な家庭環境に身の置き所を見いだせず、どこか|荒《すさ》んでいるようにさえ見えたあの若者はタウの村に自分の居場所を見いだし、仲間たちの信頼を得てベノアの頭目となり、今、穏やかで涼しげな眼をしたタウの領主として将軍の前にいる。
「めぐりあわせの妙というものを感じており申した」
急に言葉づかいのあらたまった将軍に何を感じたのか、ジルは|髭《ひげ》の口元をわずかにほころばせた。
「めぐりあわせ、ですか?」
「さよう。奇遇とも言うべきか、この世の|理《ことわり》がそのようになっているのかもしれんが、思わぬところで思わぬ人と出会わせてくれるものだと、我ながら年寄りくさいことを考えたのでな」
「将軍は何か、そうした奇遇にお心当たりでもおありですかな?」
ベノアの頭目は黒い瞳にいたずらっぽい光を浮かべている。
国内有数の闘将の前にありながら端然としてたじろがない、すでに頭髪の薄くなった将軍より五つも六つも若く見える、すっきりと整った男ぶりだ。三十年も前のこととは言え、今のその顔からあの荒々しい様子の若者を想像することはとてもできなかった。
将軍の記憶にあるジョルダンが故郷を飛び出した時期と、ジルがタウに現れた時期には多少の|隔《へだ》たりがある。
その間、彼がどうしていたかはわからない。息子が一人生まれたらしいが、国王の話によれば彼自身、自分に息子が誕生したことを知らないでいたらしい。
将軍も微笑した。それはかつての父伯爵が|面《おもて》に浮かべたような、ほろ苦い、楽しげな笑いだった。
「さよう。たとえば、娘は幼いころ何度もフェルナンの領地であるスーシャを訪問している。無論わしが伴っていったわけだが、あの若者は少年時代の陛下の無二の親友であり、しょっちゅうフェルナンの屋敷を訪れていたという。にもかかわらず、わしらは一度もあの若者とスーシャで顔を合わせることはなかった。当時の陛下にあのような友人がいたことすら、ずっと後になるまで知らなかったくらいだ。ところが、今、その二人が夫婦になろうというのだから、いやはや、人の縁とはまこと、おもしろいものだと思ってな」
ドラ将軍はしみじみと感慨に|耽《ふけ》っている。そんな将軍をたしなめる意味で、ベノアの頭目はちょっと苦笑して見せた。
「ドラ将軍。それは気が早すぎます。まだ決まったわけではありませんでしょうに」
「なんの。何が何でもまとめてみせるぞ。それともジルどのはこの話が壊れてもよいと言われるか」
笑顔で|凄《すご》まれて、これも笑いながら首を振ったジルだった。この並々ならぬ気合いの入れようには降参するしかない。
「そういうことでしたら、わたしにも心当たりがあります」
「ジルどのにも?」
「ええ。いやというほどね」
人払いをしてしまったので、ジルは自分で茶を|淹《い》れ直した。将軍にももう一杯を|注《そそ》いでよこす。
そうして熱い茶をすすりながら、ベノアの頭目は思い出し笑いを浮かべた。眼の色も髪の色も肌の色も違う。それでもイヴンによく似た笑顔だった。
「ある日ふらりと山に現れた若い|男《の》が……妙に馬が合い、頭も切れる、しかも腕も立つというので何かと目をかけ、そのうち思いきって副官に|抜擢《ばってき》した風来坊がまさか、旧友たちの忘れ形見であるとは思いも及びませんでしたよ。これこそ奇遇というものでしょうな」
互いに髭を蓄えた将軍と頭目は、しばらくじっと顔を見合わせていたが、やがてどちらからともなく噴き出し、声を立てて笑った。
実にどっちもどっちの二人である。
ポーラとアランナが街見物に出かけたその日は、秋晴れの青天がまぶしいくらいの朝だった。
ポーラは自分で言ったように、いっさいのお供を断り、心配してついてこようとするテス夫人の申し出も断って自分の足で芙蓉宮を出たのだが、すぐには大手門には向かわなかった。
正門をくぐると二の|郭《かく》のセレーザ邸に向かい、アランナと一緒に召使いの衣服に着替えたのである。これは前もってアランナと打ち合わせていたことだった。
「うちのマリアは確か、何枚か着替えを持っているはずですから、貸してくれるように頼んでみます」
召使いに変装するという大胆な意見にポーラはさすがに驚いて、思わず問い返していた。
「アランナさま、何度もそんなことをなさっているんですか?」
「いいえ。今度が初めてです。でも、おもしろいと思いません?」
アランナはポーラ以上にこの冒険にわくわくしているようだった。
何しろ封建の世であるから、服装や髪型を見れば、どんな階級に属する人なのか一目でわかる。女性は特にそうだ。既婚、未婚も外見で判断できてしまう。
「目的が目的ですもの。わたしたちが魔法街を訪ねることは秘密にしておいたほうがいいと思うんです。召使いに身なりを変えていけば、絶対、誰にもわかりませんわ」
というのだが、ポーラはちょっと考えた。いや、本当のところはかなりじっくり考えた。
ポーラも貴族階級の娘として生まれ育っている。
山奥のちっぽけな領地しか持っていなくても、この王宮とは比べものにならないくらい質素な生活でも、貴族は貴族だ。しかも今のポーラは国王の愛妾という身でもある。召使いに身なりを変えて街を歩くなんてとんでもないとテス夫人なら言うだろう。亡くなったポーラの母親も|口癖《くちぐせ》のように、自分が一人の|淑女《しゅくじょ》であることを忘れないようにと言っていた。本当に立派な婦人というものは華美に装う必要はないが、どんなときも礼儀正しく、きちんと振る舞わなれけばならないと、折に触れて教えてくれたものだ。
王宮に来る前のポーラだったら即座にアランナを止めていただろう。少し慌てて、そんなことはよしましょうと言っていたはずだ。
しかし、今のポーラはごくりと|唾《つば》を飲み込み、茶色の眼をきらきら輝かせて、そっと|囁《ささや》いていた。
「確かに、おもしろそうですね」
「そう思いますでしょう? 別に悪いことをするわけではないし、なんと言っても妃殿下のように腕をむき出しにして歩こうというのではありませんもの」
言い訳がましい言葉だが、ポーラも同感だった。
あの人の無茶に比べればこんなことは何でもないように思えるから不思議である。今まで着ていた服も、スカートに張りを持たせるためにつけていた下着も脱ぎ捨て、もっと実用的な、召使いの女たちが愛用する下着をまず身につけた。
顔を洗い、化粧を地味なものに変え、髪をひっ|詰《つ》めに結い直した後、二人は洗いざらした|浅葱《あさぎ》色の木綿の衣服に袖を通した。真っ白なカラーとカフスをつけ、仕上げに白いキャップを被って|顎《あご》の下で|紐《ひも》を結んで出来上がりである。
姿見の前に立ったポーラは、そこにいかにも田舎育ちの、健康的な若い召使いを見いだして驚いた。
確かに見慣れた自分の顔のはずなのに、日頃身につけない衣服をつけただけでまったく違う人間になってしまったようで、何だかどきどきする。
ポーラの横では、同じように鏡の中の自分を検分したアランナがため息を吐いていた。
「似合う自分が悲しくなりますねえ……」
「まあ、アランナさま。どういう意味です?」
「だってポーラさま。これがあの妃殿下やベルミンスター公爵さまだったら、どんなに変装したって召使いになんか見えっこありませんでしょう? でも、わたしったらまるで生まれながらの料理女みたいに見えるんですもの」
ポーラも自分の姿を眺めて笑った。
「王妃さまは案外なんでも着こなしてしまうような気がしますけど……、アランナさまがそんなことをおっしゃるなら、わたしなんかどこからどう見ても子守女か|姉《ねえ》やですわ。こういう召使いが子どもに付き添っているのを実際に見たような気すらします」
「わたしたちの変装は大成功ということですね」
「ええ。でも、アランナさまの言われるとおりです。それはそれで何やらもの悲しいような気がしますわ」
すっかり姿を変えた二人は顔を見合わせて笑った。
ラモナ騎士団長の妹も国王の愛妾もどこかへ消え失せ、ここには顔も身体つきも丸っこい朗らかな声をした料理女と、きびきびと身体をさばく動作が気持ちのいい|林檎《りんご》のような|頬《ほお》をした若い子守女がいるだけだ。
セレーザ家を出た二人は、それでも少しばかり緊張して|廓門《くるわ》に向かったが、門番はまったく彼女たちには気づかなかった。
いつもなら、ポーラやアランナを見ればきちんと姿勢を正して、|恭《うやうや》しく頭を下げるはずの門番たちが、ちらりと二人を見ただけで横柄にそっくり返っている。彼女たちの身なりは貴族の家に奉公している召使いそのものだったし、こうした女たちをいちいち検分していたのではきりがないのだ。
二人はそっと笑いを噛み殺しながら何食わぬ顔で廓門を通り過ぎ、門番から離れたところで、どうにもたまりかねて笑い出していた。
大手門までの道のりをはしゃぎながら下っていく。その様子は久しぶりの自由時間を与えられてうきうきしながら外出する召使いの二人連れそのものだった。
三の郭のあちこちで|炊煙《すいえん》が立ちのぼっている。
騎士団の官舎は早朝の訓練を行っているらしい。気合いの入った掛け声が聞こえてくる。
こんな時間に下りてきたことはなかっただけに、もの珍しげに周囲を見渡しながら歩いていた二人は、自分たちの少し前を行く人の姿に同時に気がついた。
アランナが駆け寄って声をかける。
「おはようございます、お義姉さま」
親しげな呼びかけに何気なく振り返ったエンドーヴァー夫人は、そこに思ってもみない人の姿を見いだして驚いた。さらにその人の後ろから、やはり姿を変えたポーラが急ぎ足でやってくるのを見たときにはとっさに声が出ない様子だった。眼を見開いて、二人の姿をただ交互に見つめている。
「まあ、お二人とも……」
「いかがですかしら? なかなか似合っておりますでしょう?」
「あんまり似合いすぎてもの悲しいって、さっきもアランナさまと話していたところなんです。ラティーナさまもお出かけですか?」
「ええ、陛下が結婚の祝いに新しい屋敷を|賜《たまわ》ってくださるそうなので、庭木を選びに行こうと思って。それにしても、お二人とも、そんなお見事な変装をなさっていったいどちらへ行かれます?」
ラティーナはもちろん貴族の婦人の服装のままだ。
手提げ|鞄《かばん》を持っただけで、侍女も連れていない。非常に質素な婦人の姿である。ポーラの母がよく口にしていたように、華美でこそないが|凛《りん》とした、静かな|芯《しん》の強さを感じさせるたたずまいだ。
方角は一緒なので、ポーラとアランナは並んで歩きながら変装の理由と外出の目的を説明した。内緒だといったって、この人にまで内緒にしなければならない理由は何もない。だが、二人の話を聞いたラティーナはますます困惑した顔つきで言った。
「ですけど、そんなものを用意なさらなくても、あのお二人でしたらきっと大丈夫です。必ず、うまくいくと思いますが……」
しかし、ラティーナの義妹になる人は難しい顔で首を振った。
「お言葉を返すようですけど、それをお義姉さまに言われても説得力がありません。なさすぎます」
それを言われると弱い。アランナにずいぶんじれったい思いをさせたことは自覚していたので、ラティーナは苦笑しながら謝罪した。
「魔法街にお出かけになるのでしたら、ご一緒してもよろしいですか? 一度は行ってみようと思っていたところだったんです」
召使い姿の二人はびつくりして顔を見合わせた。
「だって、庭木をお求めになるのでしょう?」
「それとも、その街では庭木まで取り扱っているんですか?」
「ええ。中央ではなかなか手に入らない、南方の珍しい植物を売っていると聞いたことがあります。話半分としてもどんなものか見てみたいと思いまして……」
「でも、お義姉さま。南方の木はこのコーラルでは育ちませんでしょう? 雪が降りますもの」
南に暮らした経験のあるアランナが率直に言うと、ラティーナは少し考え込み、若草色の眼をきらりと輝かせた。
「そう聞くとますます育ててみたくなります。では、庭に植えるのはあきらめて鉢植えにして、冬の間はできるだけ陽に当てるようにして、夜は|暖炉《だんろ》の側に置くというのではだめでしょうか?」
アランナがほとほと呆れた様子で訴える。
「お義姉さまは草木に関しては本当に熱心なんですから。その熱心さの半分くらいでもお兄さまに対して発揮してくだされば、あんなにやきもきせずにすみましたのに」
「ま、意地悪なアランナさま。そのことはもうおっしゃらないでくださいまし」
れっきとした貴婦人が笑いながら侍女に言うのは何とも奇妙な光景だったが、ポーラが明るく笑いかけた。
「せっかくですからご一緒しましょうよ、アランナさま。でも、ラティーナさま。わたしたちの結婚祝いも楽しみにしてくださいね。シャーミアンさまにも手伝っていただいて、とっておきの品を仕上げたところなんですから」
「まあ、嬉しい。何をいただけるのでしょう?」
「だめです。ご結婚なさるまでは秘密です」
「そうですとも。贈り物の中身が先にわかってしまってはおもしろくないじゃありませんか」
こうして三人は仲良く魔法街を目指したのである。
話はこの二日前にさかのぼる。
深夜の執務室で、王妃は書類を|睨《にら》んでいる国王に話しかけていた。
「ポーラに街見物に行くように勧めたんだって?」
ぬらりひょんの熊と呼ばれていても、実は誰より仕事熱心な国王だ。こんな時間まで執務に取り組んでいることも珍しくない。王妃がそんな夫の元をふらりと訪れ、書記を追い払って二人きりで話に興じるのも、この城では少しも珍しいことではないのである。
「うむ。このところ忙しい毎日が続いていたからな。たまには羽を伸ばすのもいいだろう」
「それならおまえも休みを取って、ポーラと一緒に骨休めをしてくればいいだろうに」
そのほうがポーラだって喜ぶだろうに、と王妃は言ったのだが、国王は自分の周囲に山のごとく積み上げられている書類を見やって、ひどく恨めしげな眼を王妃に向けた。
「この状況でできると思うか?」
国交回復記念式典の準備に忙殺されている問、必要最低限の業務は別として、延ばせるものは後回しにしてきた、そのつけが今、|怒濤《どとう》のごとく国王に襲いかかっているらしい。
王妃は苦笑しながら肩をすくめた。
「つくづく王様なんてものは……」
「因果な商売だ。|従弟《いとこ》どののユーリーが早く大きくならんかな。俺は喜んで王冠を譲ってやるのに」
盛大に嘆く国王に王妃はますます苦笑する。
「産まれたばかりの赤ん坊に何を言ってるんだか、この王様は……。それ、間違っても人前では言うなよ? 団長の耳に入ったらえらいことになるぞ」
物議を|醸《かも》すことは必至である。虎と呼ばれるサヴオア公爵が、顔だけはにっこり笑いながら|牙《きば》を|剥《む》いて迫ってくる様子がまざまざと想像できてしまう。
それなのに、この国王は、
「あちらのほうが圧倒的に由緒正しい血筋だからな。しかし、こんな面倒な仕事を押しつけるのは何やら気の毒なようでもあるし……結局は貧乏くじの押し付け合いになってしまうだけかな?」
これまた本気で言うのだから、処置なしである。
王妃は机に広げられている書類の何枚かを手に取り、ざつと眼を通してみた。
特に深刻な内容のものはなさそうだったが、いちいちが細かい。
国王は行政、司法の最高長官だから、地方官吏たちが自分の手に余る案件の裁定を求めてくるのだ。
こじれた裁判の判決をゆだねるもの、山火事や洪水の被害対策を求めるもの、教会や役人の横暴に困り果てた村人たちの直々の陳情など、数え上げたらきりがない。
もちろん、地元コーラルからの訴えも多様だった。
「何か手伝おうか?」
「俺の守り女神にお出ましになってもらうほどの難題は今のところないのだが……いや、そうだな。もしかしたら、そのうちおまえの手を借りるようなことになるかもしれん」
国王の顔は何やら厳しく、|険《けわ》しかった。机の上に広がっている雑事とは違って難しい一件のようだが、詳しい内容を尋ねた王妃に、国王は首を振った。
「今はまだ、はっきりしたことは言えん。|力業《ちからわざ》を行使するような段階ではないと思えるだけになおさらだ」
「どういう意味だ?」
「我が国の最終兵器を投入するにはまだ時期尚早ということさ」
さらりと言って、国王はふと顔を上げた。
「そうだ、リィ。暇を持て余しているならちょうどいい。ポーラの外出について行ってやってくれんか」
王妃はちょっと首を傾げた。
「なんでまた。せっかく遊びに行こうっていうのに、おれがいたんじゃ気が休まらないだろう?」
もちろん、王妃はポーラをかわいがっているし、それ以上にポーラは王妃のことがとても好きである。
しかし、同時に、ポーラにとって王妃は|遙《はる》かに身分の高い人なのだ。いくら好きでも、好きだからこそ、その前ですっかりくつろいで笑いはしゃぐというわけにはなかなかいかないのである。
そのくらいのことは国王にもわかっているはずだった。頷いて、言った。
「だから、できれば顔を出さずに、目立たぬようにそっと見守ってやってほしいのだが、無理な注文かな?」
「いい根性してるな、おまえ。愛妾の護衛を王妃に頼もうってのか?」
さすがに呆れて言った王妃だが、国王もそういう意味では筋金入りの人である。ぬけぬけと返してよこした。
「俺のハーミアにでなければこんなことは頼めんさ。わからぬように後をつけていくことも、物陰から見守ることも、おまえならたやすいだろう?」
ある意味、これ以上に強力な護衛もないだろうが、王妃は露骨に顔をしかめた。
「女の人の後を黙ってつけていくなんて、それじゃまるで|痴漢《ちかん》みたいじゃないか。何もおれに頼まなくたって、王宮からちゃんとした護衛を出してやればすむはずだぞ」
「俺もそう言ったのだが、笑って断られてしまった。そんな大げさなことはできないと言うのだ」
「当たり前だろう。おまえが常日頃からそうしてるんだから」
王妃は断言した。
「国王が従者を伴わないのに、自分がお供を連れて歩いたりするわけにはいかないと思ったんだろうよ。あんまり庶民的すぎる王様も考えものだぞ」
「俺はいいのだ。おまえもな。お互い自分の身体くらい自分で守れる。しかし、ポーラはそうはいかん」
国王は机に|肘《ひじ》を突き、組んだ両手に半ば顔を隠し、眼だけを光らせていた。そうしていると大きな獣がじっと伏せているようだった。
「俺がポーラを王宮に迎えることを最後までためらったのも、一つにはそれが原因だ。どんな危険な目に遭わせてしまうかわからないと思ったからだ。宮廷に巣くう婦人たちの|嫉妬《しっと》は現に俺の実母を殺しているからな……」
ウェトカ村のポーラと前国王ドゥルーワとの恋は城内の誰にも祝福されなかった。その結果、誕生することになった子どもも|美貌《びぼう》自慢・家柄自慢の貴婦人たちの憎悪の対象となっただけだった。その怒りのすさまじさに彼女はひどく|怯《おび》えて、恐れて、逃げるように城を去ったのに、|卑《いや》しい村娘のくせに国王の子を産むなんて許せるものかという宮廷の|怨念《おんねん》はどこまでもポーラを追って殺したのだ。
「だけど、今はそうした心配はないはずだぞ」
王妃には女性の|恪気《りんき》はわからない。今ひとつその生々しさを実感することはできなかったが、国王の無念は理解できた。同時に、上品ぶった貴婦人たちの陰険なやり口に激しい怒りも感じていた。
しかし、そのときと今とでは状況がまったく違う。
女官たちを統括する女官長、貴婦人たちの社会の実力者であるベルミンスター公爵と言った人々がポーラに好意的であり、力強い味方になっている。
「それはわかっている。ありがたいことだとも思っている。だが、彼女たちでは実際の|刃《やいば》を防ぐことはできん」
「女の人の|喧嘩《けんか》で本物の刃物が出てくることなんか滅多にないそ。第一、誰がポーラを傷つけようとするっていうんだ?」
|愛妾《ポーラ》を|寵愛《ちょうあい》しているのが国王なら、その愛妾の一番の味方は他ならぬ王妃だ。あの愛妾に手を出せば、国王と王妃の二人を敵に回すことになる。そんな無謀を考える命知らずは、少なくともこのコーラルには一人もいないはずだった。
しかし、国王は深い息を吐いて王妃を見上げたのである。
「リイ。俺が心配しているのはな、ポーラのこともあるが、おまえのことでもあるのだ」
「おれ?」
「そうだ。夜までには戻ると言っていたから滅多なことはないとは思うのだが、先日の式典でポーラの顔は市民の多くが知るところとなっているからな。それに……なんと言ってもレナの一件がある」
王妃はちょっと首をすくめた。
もうじき一年に近い時間が過ぎようとしているが、国王はポーラの侍女が変死した事件を未だに忘れていない。忘れろと言うほうが無理かもしれない。
しかし、王妃はほとんど忘れかけていた。それが今日まで生き延びてきた王妃の処世術でもあったし、王妃が人間に対して――特によく知らない人間に対して――強い感情を持つことがないせいでもあった。レナを殺したあの男のことを個人的に気に入っているくらいなのだが、その殺人犯が先日の記念式典に堂々と姿を見せていたとは――それもただ食い[#「ただ食い」に傍点]目的で来ていたとは――さすがに国王には言えなかった。
「あの男は今もおまえを狙っているはずだ。もちろんそれはおまえとあの男の問題だ。口出しをするつもりはない。だが、あの男が今度はポーラを人質に取って、おまえに何らかの脅しをかけないとは言い切れないだろう?」
王妃はまた無言で肩をすくめた。
あの男は実際、シャーミアンでその手口を使っているが、それも国王には言えないことだった。
「そんな真似はしないって約束はさせたけどな」
「リィ。おまえはその約束を信じられるのかもしれんが、俺にはできんぞ。到底信じられん」
「まあ……当然だろうな」
「ポーラは俺の妻だ。俺が守ってみせる、と言いたいところだが、今はこの有様だからな。代わりについていてやってほしいのだ」
「心配性の王様だな」
笑い飛ばした王妃だが、国王の不安も無視できないものがある。合戦の現場でなら国王はどんな敵でも撃破することができるが、あの男やその仲間のすることは騎士の手腕では対処できないからだ。
大胆にも執務机に腰を下ろし、王妃は笑いながら身を乗り出して国王の顔を覗き込んだ。
「わかった。要するに、おれがポーラの傍にいれば、おまえは安心なんだな?」
「そのとおりだ。いつ襲われるか、いつ|誘拐《ゆうかい》されて利用されるかと不安に感じるくらいなら、最初からおまえが近くにいてくれたほうがいい」
「無茶な理屈だけど、夫の頼みじゃ仕方がないな。痴漢の真似ごとをしてやるよ」
「すまんな」
「いいさ。おまえの言うとおりだ。おれの喧嘩に他人を巻き込むわけにはいかないからな」
あの男とはいつか決着を付けなければならないと王妃は実感していた。それも自分がまだ、この世界にいるうちにだ。
「なあ、ウォル」
「なんだ?」
「おまえの奥さんなら、おれの奥さんみたいなもんだって言ったら、怒るか?」
|燭台《しょくだい》の明かりに照らされる王妃の顔は静かに整い、その眼は深く澄んでいた。
十八歳の王妃は時々こんな顔をする。
自分の力で大切な存在を守りたいと思っている、一人の男のような顔だ。
「いいや」
国王は首を振って、机に座った王妃を見上げて微笑した。
「実際その通りだろう? おまえがポーラを大事にしてくれるのは俺にとっても嬉しいことだ。また、困ったことにポーラもおまえが好きだからな」
「それが何で困るんだ?」
「おおいに困るとも。何しろ俺と二人でいても、話の半分くらいはおまえのことなのだ。これでは夫の立場がないではないか」
「情けない王様だな。せいぜい捨てられないように気をつけろよ」
堂々とのろける夫をからかって、王妃は執務室を後にした。
そうしたわけで王妃は忠実な侍女と相談して必要な準備を整え、この朝、芙蓉宮を出たポーラの後をそっとついていったのである。
ポーラがアランナの家へ入るところも、召使いの衣服に着替えてアランナと二人で出てきたところも、すっかり見届けていた。無論、二人がどんなに姿を変えようとポーラとアランナを見分けられないような王妃ではない。
しかし、そんなことをする理由がわからずに首を|捻《ひね》っていた。
「何だって町見物へ行くのにわざわざ変装するのかな?」
「でも、お二人ともとても楽しそうですよ」
そう言うシェラもいつもの女官服ではない。淡い桃色のフラノのドレスの胸元に白い小さな造花を飾り、きちんと結った銀色の髪をボンネット型の帽子ですっぽり隠している。薄いココア色の帽子は縁を赤い絹紐でかがってあり、ドレスとおそろいの薄いピンクのリボンがついていた。それを顎の下で品よく結んで長く垂らしている。
服も帽子も決して高価なものではない。どこにでもある品だが、シェラの肌の白さと|清楚《せいそ》な美しさに実によく似合っていた。
この姿を人が見たら、下級貴族の、つつましやかな未婚の娘だと言うだろう。というよりそれ以外には見えないのだ。
町中ではこうした身なりのほうが目立たないし、ポーラをさりげなく見守る役にも立つと思って選んだのだが……。
「これは少々誤算でしたね。あの人たちがあんな変装をするのなら、いつもの服装のほうがよかったかもしれません」
「だからって、今から着替えてたら見失うそ」
王妃も白のブラウスに袖無しの金茶の胴着、モスグリーンのズボンに縁飾りのついた革の長靴と言ったいでたちである。金色の髪は小さくまとめて、特徴的な額飾りと一緒に帽子の中に隠していた。腰にはいつもの短剣を下げている。どう見ても少年である。
この二人が並んで歩いていると、さながら仲のいい幼なじみ、それもゆくゆくは結婚を考えているものの、まだまだ初々しい恋人たちといったところだが、話し言葉にはぜんぜん色気がない。
「それにしても、お二人ともずいぶんと思いきったことをなさる。あれならちょっと見には誰にもわかりませんよ」
「そうか? 後ろ姿だけでもわかるじゃないか」
「あなたの眼は特別仕立てですからね」
「おまえだってわかるだろうに?」
「ええ。結局はあの人たちは|素人《しろうと》ですから。歩き方や仕草まで変えているわけじゃありません。でも、普通の人は相手の顔より、まず服装を見ますから」
「素人の眼をごまかすにはあれで充分か?」
「現に廓門の門番は気づかなかったようですよ」
途中からラティーナまで加わったのには驚いたが、三人は楽しそうに談笑しながら大手門へ下っていく。
その後を貴族の少年少女のような(ただし男女は逆だが)王妃とシェラがそっと尾行していった。
魔法街は大変な賑わいだった。
時間に直せばまだ朝の八時を過ぎたばかりのはずだが、通りには人があふれ、少し開けた場所には即席の市場が開かれている。
朝が早いのはどんな町でも同じだが、それにしても初めてここへやってきた三人が呆気にとられるほどの活気だった。
「ここが本当にコーラルなんでしょうか?」
「信じられません……」
「不思議なところですのねえ……」
口々にそんな感想が洩れる。王宮からいくらも歩いていないのに、まるで違う国に来たようだった。
ぎっしりと密集して建ち並ぶ家はどれも間口が小さく、背が高く、謎めいた|印《しるし》の看板が掛かっている。
露天に|集《つど》った即席市場では様々な品物が広げられている。干した魚や果物などの食品、身につける装飾品、家の中で使う小物や金物、剣や|盾《たて》と言った武器まである。その商人たちのほとんどが外国人で、並ぶ商品も強烈な異国の匂いがする。
ある市場では乾燥させて束ねた小枝や葉を山ほど積み上げていたが、いったい何に使うものか、料理自慢のアランナやポーラにも、草木に詳しいラティーナにも判断しかねた。売り手に聞いてみると主に薬の材料だという。
「あ、ほら、お義姉さま。苗木を売っていますわ」
雑然としているようでも、露店の並びにはある程度の法則があるらしい。その一角は見渡す限り植物を売っていた。南方から来たと思われる苗木や種、逆に北からやって来た球根などが並んでいる。
「まあ……見たことのないものばかりだわ」
ラティーナは嬉しそうに眼を見張って立ち止まった。苗木についている名札を眺めたり、球根を手に取ったりしている。さらに売り手にいろいろと質問し、品物を選び、もちろん値段の交渉になる。
動こうとしなくなったラティーナに、アランナは苦笑して言った。
「お義姉さま。わたしはちょっと一回りして参りますから、ここにいて下さいね。参りましょう、ポーラさま」
召使いの扮装をした二人が先へ進むと、今度は一風変わった小物や工芸品の店が並ぶ一角が現れた。
獣の歯をつなぎ合わせてつくった首飾りに、角のある魔物を描いたタペストリー、大きな黒い鳥の羽で飾られた帽子、奇妙に|歪《ゆが》んだかたちの|蝋《ろう》人形、獣の骨を削ってこしらえた笛、やはり獣の骨を削って細工したと思われる様々な道具には記号のような読めない文字が刻まれている。他にも蛇やイモリの干物など、ずいぶん不気味な品物も多かった。何しろ露店だからいやでも眼に入ってしまうのだ。
同時に二人の注意を引きつけるものもあった。
造花で飾られた|花灯籠《はなどうろう》、色鮮やかに塗られた|蝋燭《ろうそく》、大きな水晶玉、色とりどりの丸い小石、羊皮紙に華やかな絵柄を描いた手札や|象牙《ぞうげ》の小箱など、眺めているだけでも楽しい。
貴族階級に育った二人にとってこれほど新鮮な光景は他になかった。買い物というと生地なら生地、|櫛《くし》なら櫛と、それぞれ行商の人間が屋敷にやって来て手持ちの品を並べ、その中から選ぶのが普通だったからだ。
それがここでは見渡す限りぎっしりと、すてきなものばかり並んでいる。目移りして仕方がない。
「まあ、かわいい」
アランナが手に取ったのは小さな焼き物だった。
犬や馬、猫、たてがみの立派な獅子といった動物のかたちをして、きれいに彩色してある。みんな本物そっくりだ。
「これ、あとでうちの子たちにおみやげに買ってあげよう」
ポーラは露店の売り台に何本も垂れ下がっている組み紐に見とれていた。絹糸を編み込んでつくった細い飾り紐である。色も太さも組み方さえ様々で、男性の礼服の|襟《えり》や袖、それに前合わせに飾りをつけるのにちょうどよさそうな品だった。
アランナがその視線に気づいて小さく呟く。
「うちの人に新しい晴れ着をつくろうかしら?」
「わたしもそう思っていたところなんです。陛下と、それから王妃さまに……」
声を低めてポーラが囁くと、アランナも頷いた。
「きっと喜んでいただけますわ。でも、ポーラさま。ここで決めてしまうのはよしましょうよ。まだまだお店があるみたいですもの」
「ええ、まさか、これほどだとは思いませんでした。いくら見ても終わらない気がします」
二人はうきうきしながら次々と露店を覗き込んでいった。こんな買い物をするのは生まれて初めての二人だから、一軒の露店を見物するのに長々と時間をつぶしてしまい、時には引き返したりして、なかなか先へは進まない。さらに装飾品の一角が現れると、二人の足は完全に止まってしまった。
そこに並んでいたのは貝殻や|竈甲《べっこう》でつくった|簪《かんざし》、風変わりな音色の鈴、ビーズ編みの指輪に腕輪、小さな|硝子《ガラス》の花がついた飾りピン、|螺釦《らでん》細工の櫛や化粧箱、サテンやレースのリボンなどだ。特に南国から来たと思われる|更紗《さらさ》に二人は見とれていた。
道ばたに立てられた棒のてっぺんに薄い布の端が結びつけられて何枚も垂れ下がっている。下のほうをつまんで広げてみると、鮮やかな赤や青、緑などの|紗《うすぎぬ》に異国の植物や動物、幾何学文様などを基本にした図柄がいっぱいに描かれていた。一枚として同じ模様はない。贅沢に金糸銀糸の|刺繍《ししゅう》が施されているものまであった。
二人はすっかり夢中になって、一枚一枚を手に取っては広げにかかったのである。
「きれいですねえ」
「でも、何に使うものなんでしょうね?」
広げればずいぶん大きな四角い布だ。リボンとして使うには太すぎるし、ハンカチーフにするには薄くてやわらかすぎる。男の人が首元に結ぶカラーに使えそうだが、これはどう見ても女物だ。
売り手の男は二人の疑問に笑って答えてくれた。
「南のほうじゃあね、若い娘はこれで頭を包んだり髪を束ねたりするのさ。結んで垂らした先に飾りをつけたり、一緒に組み紐を使って編み込んだりして、そりゃあ華やかなもんだよ」
「あら、ほんとう? わたしはフリーセアにいたことがあるけれど、娘たちがこんなものを使うのを見たことはないわよ」
アランナが口を|尖《とが》らせると、男はますます楽しそうに笑った。
「そりゃあ、あんた。よっぽどお堅いお貴族さんのお屋敷に奉公してたのさ。山のほうへ行ってみれば村娘たちの普通のおしゃれだよ。あんたたちも一枚どうだね?」
熱心に勧めてくれても、まさか二児の母であるアランナや、国王の愛妾であるポーラがこんな派手な布を頭に巻くわけにはいかない。丁重に辞退したが、相手も商人だけに簡単には引き下がらない。
「まあ、試しにその色気のない帽子を脱いで、これを頭に巻いてごらんよ。仕事中はできないって言うんなら、好きな男の前で飾ってみるといい。きっとあんたに惚れ直してくれるよ」
その言葉に二人は本来の目的を思い出した。
アランナが意外な芝居気を発揮して、首を傾げてみせる。
「そうね。これもきれいだけど、今のわたしたちの目的にはちょっともの足らないわ」
ポーラも頷いて話を合わせた。
「わたしたち、どうしても振り向かせたい男の人がいるんです」
「へえ?あんたたちが二人がかりで一人の男を、かい?」
眼を丸くする売り手の男をアランナは笑い飛ばした。
「違うわよ。わたしたちじゃないの。その方は、わたしたちのお仕えしているお嬢さまの思い人なのよ。お嬢さまの気持ちはその方もちゃんとわかっているはずなのにね。お返事を|焦《じ》らしたりなんて意地悪なことをなさるのよ」
「お嬢さまはすばらしい方ですのに、お嬢さまのお父さまも乗り気になっているお話ですのに、当のその方だけがうんとおっしゃってはくださらなくて、わたしたち、ほとほと困っているんです」
「この街にならお嬢さまのお役に立つようなものを売っていると聞いたので探しに来たのよ」
二人ともなかなか上手な召使いぶりである。
男は納得して頷き、親切に助言してくれた。
「そういうことならベロニカの店に行ってみるといい。きっとあんたたちの欲しいものが見つかるよ」
そこで二人はその店の場所を聞くと、ひとまずラティーナと合流すべく引き返した。
ここまでの一部始終を王妃とシェラはすっかり見届けていた。
並はずれて眼のいい二人である。気づかれないように後をつけること自体はたやすかったが、王妃はすでに疲労|困憊《こんぱい》した様子だった。
デルフィニアでも無双の勇士である王妃がげっそりと肩を落とし、建物の壁に背中を預けてもたれかかっている。
「女の買い物につきあってたら命がいくつあっても足らないな……」
ぼやく王妃の横ではシェラが懸命に笑いを噛み殺している。
「そこまでおっしゃるのはどうかと思いますが……、一にも二にも忍耐であることは確かですね」
買い物に夢中になっているポーラたちは気づいていなかったが、太陽はすでに中天にあるのだ。朝方から昼過ぎまで休むことなく歩き回っていたことになる。
気力の充実している本人たちは元気いっぱいでも、尾行していくほうはたまったものではない。
軍馬の戦なら丸一日戦い続けても平気な顔をしていられる王妃だが、それとはまったく別の次元で身体を使っている。特に女性心理には縁のない人だけに、眼を輝かせては同じところを行きつ戻りつする彼女たちの動きが理解できないらしい。
「いったい……、何が目的なんだ。欲しいものがあるならさっさと買って引き上げればいいじゃないか」
「それはあまり、かしこい買い物とは言えませんよ」
振り回されて疲れているのはシェラも同じだが、こちらはなんと言っても女性として暮らした|経歴《キャリア》が長い。さすがに買い物に半日つきあっただけで精根尽き果てるようなことはなかった。
「あの方たちが本領を発揮するのはこれからです。浪費が趣味だという大貴族の奥さま方ならともかく、たいていのご婦人はお金には非常に厳しいものです。いいものだと思って買い求めても、その後、他の店でもっと安くていい品を見つけたら損をすることになるでしょう? お二人ともそういう意味ではとてもしっかりしていらっしゃいますから、一番堅実な、確かな買い物をなさると思います」
シェラの言葉の意味を悟るにつれて、王妃は青くなった。
戦場でも――それもどんな苦戦中でも――この人のこんな顔を見ることは滅多にない。
「まさか……これだけの出店を全部見て回ろうっていうんじゃないだろうな?」
「回ると思います。――あの様子ですと」
シェラはポーラやアランナのような、地方貴族の女性たちの暮らしもよく承知している。
家事と仕事をこなすだけで一日が終わってしまう、平穏で規則正しく、忙しくもあるが、刺激や変化に極めて乏しい、そんな生活だ。
それだけに、二人が初めて見る町並みや買い物に興奮していることもわかっている。疲れなど感じている暇もないはずだ。
深々とため息を吐いて首を振った。
「とてもとても止められませんよ。ああいうときのご婦人方は、こう申し上げては失礼ですが、男には想像もできないような馬力を発揮しますからね」
王妃は片手で顔を覆い、さらにげっそりと肩を落として嘆いた。
「勘弁してくれ……」
レテイシアは必死に声を噛み殺し、両手で建物の壁にすがりつくようにしていた。そうすることで懸命に身体を支えていたのである。
明るい茶色に染めた上着の肩が細かく震えているのは、次から次へと襲ってくる笑いの発作のせいだ。どうにも止まらないらしい。
「まったく、あの王妃さんは。いったい何をやってるのかねえ……」
爆笑寸前のレティシアの隣では、ヴァンツァーがこれも珍しく微笑を浮かべていた。涼しげな|藍《あい》色の視線の先には、少年に変装した王妃と薄桃色の衣裳がかわいいシェラがいる。
この二人の眼も常人のそれではない。距離はかなり開いているが、王妃が今にも座り込んでしまいそうなほど疲れた様子なのも、シェラがそんな王妃を励まそうとしてか、何か一生懸命話しかけているのも、残らず見て取っていた。
もちろんその二人の視線の先に、召使いの身なりをしたポーラとアランナがいることもわかっている。
「あの愛妾を陰ながら見守っているつもりらしいな。王妃が愛妾の護衛とは、おかしなことをする」
王妃が変装して城を出たと見張りの者から報告があったので念のために後をつけてきたのだが、愛妾の買い物に振り回される王妃の姿は――その人がこと戦闘に関しては超人的な技倆を発揮するとわかっているだけに――何とも微笑ましいものがあった。
ようやく起きあがったレティシアが、笑いすぎて|滲《にじ》んだ涙を拭って言う。
「惜しいなあ。あのお|妾《めかけ》さんを|囮《おとり》にすれば一発で片が付きそうなんだけどな」
「やればいいだろうに」
長身の青年はこともなげに応じた。
ドラ伯爵家の令嬢を誘拐した後のことだが、今後王妃の身内には手をかけないと、レティシアは王妃自身と約束を交わしたらしい。しかし、彼らは暗殺を|生業《なりわい》とする一族だ。その約束を守らなければならない義務も理由もないのである。
しかも、今なら充分、あの愛妾を抑えられる。
この人混みが生きた煙幕となって彼らの姿を覆い隠してくれるはずだが、レティシアは首を振った。
「やめとくわ。効果があるのはわかってるんだが、一つ間違えばアイクの二の舞だ」
「珍しく弱気だな」
「そう見える?」
「見えるな。今さら命を惜しむ|柄《がら》でもあるまいに」
からかうように続けたヴァンツァーに、レティシアは猫のような眼で笑ってみせた。
「それとこれとは別の話。俺はあの王妃さんが好きなんでね。きらわれたくないんだよ」
長身の青年は今度は露骨に呆れた顔になる。殺す相手に好きもきらいもないだろうと非難する顔でもあったが、それは言われるほうも承知の上だった。細い肩をすくめて弁明した。
「そいつは冗談としてもだ。必要以上に怒らせたくないのは本当だぜ。やりにくくなるだけだからな」
実際、今でも充分にやりにくいのである。
こちらの存在を知られた瞬間には仕事を完了している――つまり相手の息の根を止めている――のがいつもの彼らだ。レティシアのような腕利きなら特にそうだった。
それが、すでに顔を知られている。
殺意を抱いていることも知られてしまっている。
ある意味、これ以上にやりにくい相手はない。
同時に、これほどやりがいのある相手も他にはいなかった。
ポーラとアランナが植物市場に戻ってみると、草花好きの未亡人はすでに多大な戦果を挙げていた。
百合や水仙、|鬱金香《うっこんこう》など春に咲く色々な球根に、|麝香豌豆《じゃこうえんどう》や|撫子《なでしこ》の種などを袋いっぱいに買い込み、中央では見ない珍しい香草の苗を数種類、さらにはどんなふうに育つか見当もつかない苗木を|藁紐《わらひも》で束ねたものまで、両手に余るほど抱えている。
こうした露店の難点は屋敷まで配達してくれとは頼めないところだ。ラティーナは残念そうだったが、これ以上は持ちきれないので、ひとまず引き上げると言った。
「これほど掘り出し物があるとわかっていたら、うちの|娘《こ》たちを総動員したんですけど。人を連れて明日、また来ますわ」
「お一人で大丈夫ですか、ラティーナさま。途中までお持ちしましょうか?」
「とんでもない。お二人はまだここに用があるのでしょう? わたしなら大丈夫です。通りへ戻れば|辻馬車《つじばしゃ》を拾えますから」
二人と別れた夫人は両手にずっしりと重い荷物を抱えて人混みを縫っていったが、すれ違う人に苗木をつぶされないようにかばいながら歩くのはなかなか難儀なことだった。
思うように足が進まず、雑踏に流されまいと四苦八苦する夫人にいつの間にか寄り添った人がある。
「お手伝いします」
声と同時に片手に持っていた荷物をすくい取られ、ラティーナは自分を助けてくれた若い娘を不思議そうに見つめて、破顔した。
「あら、まあ。見違えました」
シェラも笑顔を返した。手に下げた荷物の重さにちょっと顔をしかめて言う。
「辻馬車までお持ちしますよ。いくらお好きでも、これはご婦人には重すぎます」
「ありがとう。助かります」
一息ついて、ラティーナは残った荷物を両手に振り分けて持ち直した。これでだいぶ楽になった。
並んで歩きながらそっと問いかける。
「あなたがここにいるということは、妃殿下も?」
「ええ。ポーラさまの護衛代わりを陛下に頼まれたそうで、今もわからぬようにお傍についていらっしゃいます」
「まあ……」
「そのことでお尋ねしたいのですが、ポーラさまはいったい何をお探しなのです? 何か、ここでなければできない買い物でもあるのでしょうか」
ずばりと訊かれてラティーナは困ってしまった。
「それは妃殿下からのご質問ですか?」
「はい。日用品や装飾品が欲しいのなら、わざわざ変装してまでこの街へ来る理由はないはずだというのがあの方の意見です。わたしも同じ考えです」
ラティーナはためらった。この美しい人が本当の女性なら話してもかまわないのだが、実は少年である。そこが問題だった。なんと言っても女同士の仁義というものがある。
返答に|窮《きゅう》しているラティーナにシェラは優しく言った。
「わたしは妃殿下にお仕えするものですから、それ以外の方には何も申しません。もちろん、陛下にもです」
男性には言いにくいことなら、と気を回してくれたのはわかるが、そうはいっても王妃が知れば国王も知ることになるのは必至である。
しかし、王妃からの質問に沈黙を続けるわけにもいかない。
「わかりました。お話しします。ですが、せめて独騎長さまには内緒にすると約束してくれますか?」
これにはシェラのほうが驚いた。美しいすみれ色の瞳を見張り、心配そうに訊いたものだ。
「どういうことです? あのお二人がまさか、独騎長に対してよからぬことを考えているとでも?」
「いいえ、いいえ。違います。そんな恐ろしいことはおっしゃらないで下さい。ほんのちょっとした、いたずら心なんですわ」
辻馬車を拾うまでの間に夫人は手早く事情を説明した。シェラは表情一つ変えずに話を聞き終えると、あらためて秘密を守ることを約束し、馬車に荷物を積むのを手伝って夫人を見送った。
露店の並ぶ市場に引き返す。
雑多な人混みであふれていても、シェラは難なく変装した二人を見つけ出した。当然、その近くに王妃が隠れている。
召使いに変装した二人は、今、焼きたてのパンや熱いお茶を売る一角に引っかかっていた。さすがにお腹が空いたらしい。こんな人混みの中で立ったままものを食べるのも二人には生まれて初めての経験だろう。ぎこちない手つきだが、楽しそうだった。
シェラも|挽肉《ひきにく》を詰めた揚げたてのパンを数人分[#「数人分」に傍点]買い求めて、王妃のところに持っていった。
きっとそのくらいは食べると思ったからである。
果たして、王妃はシェラの持っていった食べ物をきれいに平らげてしまい、事情を聞くと眼を剥いた。
「惚れ薬!?」
尾行中であることも忘れて大声を発してしまい、慌てて抑える。
「二人ともいったい何を考えてる?」
王妃と同様に食事を済ませたシェラも難しい顔だった。
「わたしに言われても困ります。あの方たちは真剣なんですから」
「真剣に、そんなものイヴンに飲ませようってのか? 勇気あるなあ……」
あなたに眠り薬を盛った陛下ほどではありませんと、よほど言いたくなったシェラだったが、賢明にも黙っていた。
「だけど、そんな薬、効くのかな? 昼の魔法街で売ってるようなものなんだろ」
シェラはますます難しい顔になった。
「それが……確かにほとんどはまがい物なんですが、困ったことにそうではないものもあるんです」
「本当に効くのか?」
「効く場合もあるということです。それも、非常にまずい具合に効きます」
「どういう意味だ?」
きょとんと眼を丸くする。こういうときの王妃は見た目のままの、十八歳の若い娘のようである。
そしてシェラの正体は同い年の少年だ。しかし、シェラは妙な遠慮などはせず、はっきりと口にした。
「|淫薬《いんやく》として作用するものがあるという意味です」
「げ……」
王妃が何とも珍妙な声を発して、渋い顔になる。
「それ、飲み薬か?」
「たいていは」
「つまり、それを飲むと強制的に発情期の雄状態になるのか?」
「もっとも端的な言い方をすればそういうことです」
王妃は舌打ちした。いつもの|癖《くせ》で髪を掻きむしろうとして今日は帽子を被っていることに気づく。生え際を掻いて手を戻した。
「だけど、全部が全部じゃないだろう?」
「もちろんです。売り手にしてもそう危ないものを素人に売るとは思えないんですが……」
シェラは心配そうな顔だった。
王妃も難しい顔になって考え込んだ。
ここで自分がしゃしゃり出ていくのはありがたくない。ポーラの休日を邪魔したくはない。しかしだ。
「まずいな」
「ええ」
「ちょっと前までのナシアスにならともかく、今のイヴンに下手にそんなものを使われたら、まとまるものもまとまらなくなるぞ」
「わたしもそう思います」
エンドーヴァー未亡人とラモナ騎士団長の静かな恋愛を成就させるために足らなかったのは、ほんの小さなきっかけだった。お互いに|躊躇《ちゅうちょ》しているその背中を一押ししてやればよかったのだ。しかし、あの黒衣の戦士とドラ伯爵家の令嬢との間はそうはいかない。一つ間違えば修復できない亀裂が入る。
「だけど、二人が探している惚れ薬ってのはそんなものじゃないわけだろう?」
「ええ。そこが素人の怖さです。お二人ともそんな|淫薬《くすり》の存在さえご存じないと思います」
それだけに何を|掴《つか》まされるかわからないわけだ。
「ラティーナさまのお話では、お二人は買い求めたそれをそのままシャーミアンさまに贈って、使ってみるように勧められるおつもりのようですから、要はシャーミアンさまの手に渡る前に中身を|鑑定《かんてい》できればいいんですが……」
「わかった。それなら簡単だ。おれは今夜、芙蓉宮に夕飯を食べに行くから、おまえも一緒に来ればいい。まさか今日帰ったその足でシャーミアンのところに持って行くこともないだろう」
王妃は肩をすくめてちょっと笑った。
「おれたちなら『女同士』だからな。ウォルには内緒で買い物の成果を披露してくれるように頼めば、ポーラは見せてくれるさ」
シェラも複雑な微笑を浮かべた。
確かに王妃は身体だけは立派な女性だし、自分も外見だけなら娘に見える。お互い、中身はまったく別のものであるとしてもだ。
「ですけど、調べて危ないものだとわかったらどうなさいます? 取り上げますか」
「仕方ないだろう。万が一にもそんな|薬《もの》に|煽《あお》られてシャーミアンを押し倒した、なんてことになってみろ。イヴンは憤死するぞ。正気に戻ったとたん行方をくらましても全然おかしくない」
むりやり仕組まれた既成事実など、あの男が納得するはずはない。責任を取らなければと考えるより、黙って姿を消して二度とシャーミアンの前には顔を見せない決断のほうを選ぶだろう。もちろん、国王の前にもだ。そんなことになったら二人の婚約が破談になるだけではすまない。国王は大事な親友を失うし、ベノアは次の頭目を失う。ひいてはデルフィニアはタウを失うことになる。
王妃は苦笑して、召使い姿の二人に眼を戻した。
「明るいうちに帰る気になってくれるといいけどな。ここで夜を迎えたらちょっと|厄介《やっかい》なことになる」
「大丈夫ですよ。あの人たちは立派な主婦ですから。夕食の支度をする時間までには必ず帰宅なさるはずです」
腹ごしらえを終えた二人はまた歩き出そうとしている。王妃も後を追って歩き出そうとしたが、ふと足を止めて振り返った。
「リィ?」
問い返したときにはシェラも背後の気配に気づいていた。王妃に一拍遅れて振り返れば、そこには見上げるような人影があった。
「ほう? これは驚いた。実に見事な美女ぶりだな。中身が何だか知らなければ口説きたいくらいだぞ」
快活な、楽しげな声が頭の上から降ってくる。
堂々とからかってくる相手に、シェラも微笑を浮かべて言い返していた。
「公爵さまのほうこそどうなさいました。お忍びで遊興ですか?」
実際、バルロは彼にしては珍しい服装をしていた。
濃い灰色に染めた上着といい、短めの|外套《がいとう》といい、茶のズボンも年季の入った長靴も、剣の|拵《こしら》えからそれを下げる腰帯に至るまで、まったく飾り気のない実用的なものばかりを選んで身につけ、短い|鷹《たか》の羽を飾りにしたフェルトの帽子を被っている。
普段の|伊達《だて》男ぶりからは想像できないサヴォア公爵の姿だった。さすがにその風格はどんな格好をしていても健在で、似たような身なりの群衆の中にあってもこの人を際立たせているのだが、外見は至って無骨な、娼婦宿の呼び込みが『カモだ』と判断して引きずり込みにかかるような、地味な田舎貴族に見える。
あるいはそれを狙ったのかもしれない。いつもの公爵の身なりのままでは味わえない庶民的な遊びを楽しもうとしたのかもしれないが、それにしては場所と時間が妙だった。
王妃も首を傾げて、その想いを率直に口にした。
「お忍びで遊ぶにしても、来るところを間違えてるんじゃないか? ここには団長の相手ができるような|綺麗所《きれいどころ》はいないはずだぞ」
「そう言うあなたはこの美女と一緒にどこぞの仮装劇にでもお出になるのかな? いつにも増して凛々しい美少年ぶりだが……」
「ほっとけ。女遊びが目的じゃないならなんだってそんな格好してるんだ?」
「人を色魔のように言うのはよしてもらいたいな。これでも理由があってしていることだ」
胸を張ったバルロが断言したところへ、もう一人騎士団長がやってきた。姿を変えた王妃とシェラを認めて眼を見張る。
「これはこれは……どうなさいました?」
そう言うナシアスもどこの誰かと|見紛《みまが》うような格好をしていた。
袖の大きな腰までの紺の上着をゆったりと羽織り、帯は締めていない。しかも騎士団長という要職にもあるまじきことながら、腰に剣を下げていない。ぴったりした白のズボンに革の短靴を履き、上着と同色の縁なしの平たい丸い帽子を被っている。学士院の生徒か画家の内弟子のような姿だった。現に大きな絵の具箱を抱えている。
もともと清らかな容貌の温雅な性質の、戦場を一歩離れればその戦いぶりが想像できない人だから、そうしていると生まれてこの方、一度も剣など握ったことがありません、という風情に見える。
王妃はすっかり呆れて言った。
「ナシアスまで何をやってるんだよ。結婚式も近いっていうのに、まだこの悪友につきあってるのか?」
剣を置いてきたラモナ騎士団長は自分の身なりを見下ろし、くすぐったそうに微笑した。
「これに関してはわたしも非常に不本意です。私服で充分だろうと言ったのですが、この男がすっかり面白がってしまって、衣裳まで調達してきたんです」
「おまえは自分の見た目を過小評価しすぎるからな。たとえ私服でも、ティレドン騎士団長とラモナ騎士団長が並んでこんなところを歩いてみろ。たちまち人だかりができてしまうわ」
少なくともその主張は間違ってはいないと王妃もシェラも思った。たとえその身分を知らなくても、これだけ見栄えのする二人である。人目をひくことおびただしい。
今のバルロとナシアスは、身分にこそ多少の差があるものの、地方からコーラルまで出てきた仲のいい若者同士が連れ立って、話の種に賑やかな町並みを見物にきた、そんなふうに見える。また実際ここにはそういう見物客も多い。目立ちたくなかったのだとしたらぴったりの選択だが、王妃はますます呆れて言った。
「残り少ない独身生活を楽しむのもいいけど、どうせならラティーナと一緒に来てやればよかったのに。すごく重そうな荷物を抱えてたんだぞ」
すると、驚いたことに二人の騎士団長はさっと顔色を変えた。
「エンドーヴァー夫人が来ているのか?」
「妃殿下。失礼ですが、どの辺で見かけました?」
「いや、さっきまでいたけど、ちょっと前に帰った。そうだよな?」
「はい。わたしが辻馬車までお送りしました」
シェラが答えると、ナシアスは明らかにほっとした様子で胸を|撫《な》で下ろした。バルロもその表情から|安堵《あんど》していることがわかる。
王妃とシェラは思わず顔を見合わせた。
どうにもただごとではなさそうな雰囲気だった。
ラティーナがここから立ち去ってくれてよかったと彼らは思っている。それは見つかったら困るようなことをしているからではない。そんな理由でこの人たちがこんな顔をするわけがない。
「二人とも、どういうことなのか、いい加減に事情を話せよ」
王妃が焦れて言うと、ナシアスはまた驚いた顔になった。
「では、妃殿下はご存じではなかったのですか?」
「待て。ナシアス。場所を移したほうがいい」
彼らは表通りの端、露店と露店の隙間で立ち話を
していたのだが、バルロの合図でさらに狭い路地の奥へと移動した。
魔法街の建物はそのほとんどが巨大な石と|漆喰《しっくい》の|塊《かたまり》だ。
一軒ごとが外壁ではなく建物の内部で区切られている、いわゆる長屋形式なのだが、その長屋は上[#「上」に傍点]にも奥[#「奥」に傍点]にも存在した。巨大な石の塊の隙間を縫うように、大人二人がやっとすれ違えるくらいの細い道が設けられて奥へ続いている。その道の途中にも扉があったり、横手に入る階段が設けられていたりする。まさに迷路である。
「実はな、王妃。我々は現在、探索任務中なのだ」
王妃とシェラはまたまた顔を見合わせてしまった。
ティレドン・ラモナ両騎士団長が部下も連れずに変装して、露店の建ち並ぶ魔法街で探索任務とは、この両人にこれほど似合わない務めも珍しい。
「人選に多大な問題があると思うぞ。いったい何の探索なんだ? だいたいどうして団長やナシアスがそんな仕事をしてるんだ?」
「あなたが知らないとは思わなかったぞ。|従兄上《あにうえ》もずいぶん気にかけていたことだからな。当分の問は内密にと念を押されたのだが、まさか我が国のハーミアに黙っているわけにもいくまい」
バルロは一息に言って、王妃を見下ろした。
「行方不明者の探索です。このところ、若い女性が消息を絶つ事件が立て続けに起きているんです」
「|失踪《しっそう》事件?」
「ええ、それも貴族の女性ばかりです。多少、身代の差はありますがね。まったく普通に外出すると言って家を出たきり戻ってこない。そうした事例がすでに三件です」
貴族の奥方や令嬢が泊まりがけで芝居見物に行ったり、召使いを連れて旅行に行ったりすることは珍しくない。
コーラル郊外に屋敷を持つ領主の若奥様がいなくなったとき、急に思い立って別荘にでも出かけたのだろうと家族は思い、そのうち連絡してくるだろうとあまり気にしなかった。市内の集合住宅に家族と暮らしている小身貴族の娘が姿を消したときは(この娘は芝居見物や旅行ができるほどの金持ちではなかったから)父親はまったく違う可能性を考えた。娘は家出ないし駆け落ちをしたのではないかと恐れたのである。事を荒立てないように心当たりを探させた。
三人目は一の郭に豪邸を構える重臣の令嬢だった。
このときは血相を変えた父親が騒ぎ立てた。娘は先日婚約が調ったばかりであり、自分から姿を消すような理由は何一つないというのである。この父親はその地位を利用してコーラルの治安を維持する役所に極秘の捜索を頼み、さらには知人であるサヴォア公爵にも相談を持ちかけた。
「じゃあ、その捜索って団長が個人的にやっていることなのか?」
「そこにもう一つの情報が結びついたのです」
ナシアスが難しい顔で言った。
三人目の女性が失踪した後、王宮に|匿名《とくめい》の投書が届いた。この魔法街で非合法な人身売買が行われていることを密告するものだった。
若い娘が代金と引き替えに身売りすること自体は違法でも何でもない。買い付け人は許可を得て商売をしているし、親や親類とれっきとした証文を取り交わして娘を連れていく。しかし、その投書によれば、誰にもわからぬように娘をかどわかして親に無断で売りさばく仕組みが魔法街に存在するという。特に本来なら市場に出ない貴族の女たちが高く取り引きされているというのだ。
「その投書には実際にさらわれた人物として、その三人の女性の名前が書かれていたのだそうです」
「もちろん、いたずらの可能性もある。行方不明になった女たちのことをどこかで聞きつけて、その名前を勝手に使っただけかもしれないが、本当なら捨て置けん。行方不明になった三人には互いに親交はない。共通の友人もいない。唯一共通点があるとすれば、三人とも|頻繁《ひんぱん》にこの魔法街に出入りしていた。しかも、その通う先も同じだったとなると、投書の内容は一気に|信憑性《しんぴょうせい》を増してくる」
「同じところに通ってた?」
二人の騎士団長は何とも言いがたい表情になった。
ナシアスが苦笑を浮かべつつ説明する。
「その女性たちは皆『愛の秘薬と神秘の館』とかいうところの常客だったそうです」
今度は王妃とシェラが実に珍妙な顔になった。
「何だ、そりゃ?」
「たぶん、ご婦人たちの好みそうな小物を売ったり、占いをしたりするのではありませんか? 特に恋愛関係の占いなのでは……」
「そのとおりだ」
何でもそこには許されぬ恋に身を|焦《こ》がす女や、思い人との未来を占ってほしい女などが助言を求めて引きも切らずに訪れるという。
「そこの熱心な客だった三人の女が姿を消したのだ。一応は実態を確かめねばならん。かといって正面から乗り込んで行ったところで本当のことを白状するはずがない」
「それで、団長たちがそこの客になるのか?」
二人の入念な変装から王妃はそう推測したのだが、バルロは露骨に顔をしかめた。
「恐ろしいことを言わんでもらいたい。占う内容が内容だぞ。男が顔を出せるようなところではないわ」
ナシアスも頷いて言葉を添える。
「入り口自体は比較的静かな路地の奥にありますが、そもそも男の立ち入れるような路地ではないんです。建物の看板は似たような占いの店がほとんどですし、表に並んでいる露店にしても、女性用の装飾品や化粧品を扱うものばかりですから」
「ああ、そりゃあ、いくらナシアスでも入れないな」
いかにも納得した様子で王妃が言ったものだから、ラモナ騎士団長は秀麗な顔で苦笑した。
「わたしでもというお言葉はどうかと思いますが、確かにそうです。路地を覗き込むのが精一杯です」
それだって下手をすれば変人扱いである。
「だけど、それじゃ、団長たちが探索するのは無理じゃないか?」
シェラも同感だった。木を隠すには森の中の言葉どおりだ。そうした場所に潜り込むには本物の女である必要はないが、少なくとも女に見えることが大前提だ。
バルロのような|偉丈夫《いじょうふ》では逆立ちしても無理だし、ナシアスにしても同じことだ。いくら物腰が穏やかでも顔立ちが優しくても、この人は二千の軍勢を指揮する騎士団長である。背丈はバルロとほとんど変わらないし、体格的にも|著《いちじる》しく無理がある。
王妃の疑問に二人はなぜか苦笑を浮かべた。
「だから|囮《おとり》を立てた。今、その占い館に潜入しているところだ」
まずは問題の女性たちが本当にそこで消息を絶ったという確証を得ることが肝心であり、事実であれば女たちの居場所を突き止めなければならない。いつまでもさらった女を占い館の中に置いておくはずがないからとバルロは指摘し、わざとらしいため息を洩らした。
「こちらの目論見としては囮を故意に誘拐させて追跡し、女たちの居場所を突き止めて首謀者を逮捕したかったのだが……やはりこの、囮の人選に非常に問題があってな。誘拐されたのはみんな物静かな、しとやかな女性たちばかりだ。ところがこの囮ときたら、美しいことは確かに美しいのだが、物腰も口振りもお世辞にも女らしいとは言いがたい上に、いささか|薹《とう》が立っているときている」
シェラは思わず首をすくめた。
王妃はおもしろそうな顔になって振り返った。
そこには明らかに今の言葉を聞いていたらしいロザモンドが立ちはだかって、|拳《こぶし》を握りしめていた。
その拳がわなわな震えている。
「……無礼といえばあまりに無礼だぞ、サヴォア公」
ロザモンドもすっかり姿を変えていた。いつもの美麗な騎士装束ではなく、豪華なドレスでもなく、それこそ下級貴族の妻のような身なりだった。黒と白の毛糸で織ったチェックの服はずいぶんと地味な印象で、型も古めかしい。お金のない人がやっと手に入れるような、ぜんぜん|洒落《しゃれ》っ気のない実用的なドレスだ。顔にはまったく化粧気がなく、髪も小さな|髭《まげ》に結い、|野暮《やぼ》ったい帽子を被っている。
あまりに意外な姿に王妃は小さな苦笑を洩らした。
まるで似合っていない。というより板についていない、いくら外側をそれらしくつくったところで、この人の持つ気品と身体に染みついた公爵としての風格をごまかすまでには至っていないのだ。
「こりゃあ、誰が見ても無理があるな」
「あなたもそう思うか?」
バルロも笑って肩をすくめ、切実に訴えてきた。
「ところがだ、聞いてくれ、王妃。この女は最初は召使いに変装すると言ったのだぞ」
「そりゃあまた、ますますもって無理な話だ」
小声で呟いた王妃の言葉は聞こえなかったのか、ロザモンドは憤然と夫にくってかかった。
「お言葉を返すようだが、サヴォア公。わたしは自分が|売色《ばいしょく》目当てに誘拐されるような年齢でないことは承知している。囮はもっと若い娘のほうがふさわしいこともだ。だから、囮はシャーミアンどのに引き受けてもらい、わたしはその侍女として行くと言ったのに、それをやめさせたのは公のほうだぞ」
「当たり前だ。まったくおまえも自分を知らんな。俺やおまえではいくら変装したところで限界がある。姿だけ召使いに見せたところで中身まで真似できるものか。怪しまれるだけだ」
これまたもっともな言い分だった。夫婦そろってデルフィニアを代表する公爵の彼らである。バルロはまだ砕けた性格だから身分の軽い遊び人にも化けることができるが、ロザモンドは大家の長女として厳しく育てられた上に本人にもきまじめなところがある。どう変装したところで貴族以外に見えることはまずあり得ないのだ。
ロザモンドの後ろには若い娘が一人従っていた。
王妃とシェラを認めてにっこり笑いかけてくる。
シャーミアンだった。
薄い緑色の服に真っ白なエプロンドレスを重ねて、白いキャップを被っている。こちらは若さの分だけ|溌刺《はつらつ》とした小間使いに見えなくもないが、女騎士として相当の腕前を持つシャーミアンだけに、立ち姿からして妙に|毅然《きぜん》としたところのある小間使いである。それでもロザモンドが侍女に|扮《ふん》するよりは百倍も増しだった。
王妃はしげしげと二人の姿を見比べて、バルロに視線を戻した。
「とんだ一大仮装大会だな」
「男が入れないところである以上、仕方がなかろう。探索に使えるほど武芸に秀でた婦人などそうはいないし、俺としても好きでこの二人を囮に使ったわけではないぞ。どうしてもやると言い張って引かなかったのだからな」
王妃が目線で理由を問いかけると、ロザモンドが言った。
「行方不明になった女性の一人はわたしの友人です。打ち捨ててはおけません」
三人目の重臣の娘がそれだ。
一方、バルロもその娘の父親からせっぱ詰まった嘆願をされていた。娘は何らかの事件に巻き込まれたに違いないのだから、特別に捜索するよう国王に頼んではもらえないかというのだ。
父親の必死の嘆願にも、バルロは最初あまりいい顔をしなかった。何でもかんでも国王に訴えれば解決するというものではないし、こんな個人的な一件で従兄を|煩《わずら》わせるのも気が進まなかった。
「しかし、娘が消えた事実は事実だ。このコーラルで起きた事件ならば従兄上の施政にまったくの無関係とも言えないからな。一応はお耳に入れておこうと思って出向いてみたところ、従兄上が問題の投書を睨んでいたというわけだ」
王妃はちょっと顔をしかめ、この場にいない人に文句を言った。
「あの馬鹿、どうしてさっさとおれに言わない?」
「従兄上はこの一件をできるだけ穏便に解決したいと思っていらっしゃるからな。このコーラルで非合法な人身売買が行われていたなどと|表沙汰《おもてざた》になるのはありがたくない。何よりその女性たちが本当に誘拐されたのだとしたら、できるだけ内密に身柄を取り戻して元の生活に返してやらねばならん。大げさにすればするだけ彼女たちに傷がつく。しかし、あなたが絡んできたのでは、間違っても、ことを荒立てずにという意味での穏便には片づくはずがない」
「それこそ間違っても団長には言われたくないそ。穏便なんて言葉から一番遠い性格してるくせに」
すかさず王妃がやり返したが、バルロも負けてはいない。
「俺のような人格者をつかまえて何をおっしゃるか。あなたのほうこそ次から次へと人の度肝を抜く大事件ばかり引き起こしてくれるくせに、よく言うわ。いいか、この一件は俺が従兄上から任された務めなのだからな。あなたに口出しはさせんぞ。今度こそおとなしく引っ込んでいてもらうからな」
王妃と筆頭公爵が笑いながら睨みあっているその傍ではもう一人の公爵が顔色を変え、しきりと夫の袖を引いて小声でたしなめていた。言葉をつつしめとか、相手がどなたかわかっているのかというようなことをだ。夫の口の悪さは承知していたロザモンドだが、王妃本人に面と向かってここまでの毒舌を吐くのを目の当たりにするのは初めてだったのである。
一方、シェラとシャーミアン、それにナシアスは、笑顔で互いの変装を鑑賞し、評価し合っていた。
「さすがだね、きみは。とても少年には見えないよ」
ロザモンドをはばかってナシアスが小声で笑えば、シャーミアンも同様にしてそっと頷いた。この場にいる人間の中ではロザモンドだけがシェラの正体を知らない。いつも王妃の傍にいる侍女として顔は見知っているだろうが、この清楚な娘が実は男だということも、以前は王妃の命を狙う|刺客《しかく》であったことももちろん知らない。
シャーミアンはよくできた芸術品を眺めるようにほれぼれとシェラの姿を見つめ、自分の変装を見下ろしてちょっと笑った。
「もうずっと以前、農家の娘に変装して、妃殿下と一緒にコーラル城に侵入したことがあるの。でも、そのときも今も、到底だめね。あなたのようにうまくはいかない」
「とんでもないことをおっしゃいます」
シャーミアンがシェラのようでは|却《かえ》って困るのだ。こんな小細工はまっとうな騎士のすることではない、
シェラのような日陰の生き物の|常套《じょうとう》手段なのだから。
しかし、ナシアスの画学生ぶりは、そのシェラの眼から見ても妙に板についていた。ティレドン騎士団長が猛烈にして豪放|磊落《らいらく》の策謀家なら、ラモナ騎士団長は明敏な頭脳を持つ変幻自在の人である。必要なら味方をも|欺《あざむ》く|肝《きも》の太さを発揮する。
それでもやはり使い方を間違っているとしか言いようがない。まして伯爵令嬢のシャーミアンが|細作《さいさく》の真似事をする理由がない。二人とも明らかに場違いな、不慣れな仕事をしていることになる。
シェラは不思議に思って尋ねていた。
「お二方はどうしてこの探索に参加されたのです? それも陛下のご命令ですか」
「わたしはロザモンドさまと同じよ。二人目にいなくなった人はわたしの知人なの。以前、父の屋敷で行儀見習いとして預かっていたことがあって、仲良しだったのよ」
「わたしはあの悪友につきあわされたというところかな。こういう仕事はわたしのほうが向いているそうだ。どうせ暇なのだろうから手伝えと言われてしまってね」
シェラは思わず微笑した。
結婚を間近に控えたナシアスが暇とは思えないが、ティレドン騎士団長は自分のことをよく知っている。
同時に友達のこともよくわかっているらしい。
画学生のナシアスが小間使いのシャーミアンに丁寧に話しかけた。
「それで、シャーミアンどの。実際に潜入してみた内部の様子はいかがでした?」
「そうだ。俺もそれが聞きたい。どうなのだ?」
バルロも妻に問いただす。
下流貴族の奥さまとその小間使いは困ったような顔になった。
「どう、と言われてもな……」
「ああいうところには初めて入ったものですから……」
二人が語ったところによると、扉をくぐったところは狭い店舗になっていた。窓がないから昼間でも真っ暗だ。棚の一面に硝子や|陶器《とうき》の|瓶《びん》が並び、ランプの明かりがそれらを鈍く照らし出している。入った正面には分厚い垂れ幕がかかっていた。その奥から体格のいい中年の女が出てきたので、あらかじめ打ち合わせてあったとおり占いをお願いしたいと頼むと、二人はすぐに奥へ通された。
外から見たときはわからなかったが、奥はかなり深そうだった。漆喰を塗り固めた通路も狭くて入り組んでいる。たぶん、客同士が顔を合わせずに済むようにという配慮からだと思われた。途中にはいくつか扉もあったが、人の気配は感じられない。
二人が通されたのはそんな扉の一つである。
侍女のシャーミアンは扉の中の控え室に残され、ロザモンドだけがさらに奥に通された。
「芝居めいた部屋だったな。部屋の真ん中に小さな円卓が置かれていて、向かいに占い師が座っていた。わたしは手前の椅子に腰を下ろしたが、それだけでいっぱいになるくらいの狭い部屋だ」
四方の壁は重い|緞帳《どんちょう》で覆われ、占い師のやや後ろ左右に一本ずつ、背の高い燭台が立てられていた。照明と同時に香を|薫《た》き込めているようで、室内に足を踏み入れたロザモンドが思わず顔をしかめたほどきつい香りが漂っていたが、空気はそれほど|濁《にご》っていなかったから、緞帳の後ろは通路になっているのではないかとロザモンドは指摘した。
占い師は五十年輩の、でっぷりと太った女だった。瞼が真っ青に見えるほどの厚化粧をしており、やはり芝居がかっていたという。
王妃が訊いた。
「ロザモンドは何を占ってもらいに行ったんだ?」
一瞬、言葉に詰まったロザモンドの代わりにバルロが答える。
「ああいうところに出入りする女の相談と言ったら、未婚者なら恋人の、既婚者なら夫のことと相場が決まっているぞ、王妃。しかし、当たり前の相談ごとでは意味がない。どうせならできるだけ連中が尻尾を出すような物騒な話を持ちかけることにしたのだが、首尾はどうだった?」
バルロの妻にして美貌の女公爵は何とも奇妙な具合に口元を歪めていた。笑いと不快の入り交じった表情のように見えた。
ロザモンドはまず、用意の身の上話を聞かせたという。結婚して三年にしかならないのに夫は酒色に耽り、賭事に熱中し、今では二人の子どもも養いかねるような有様で、ほとほと愛想が尽きている。
「その上で、実は今わたしには好意を寄せてくれる男性がいて、わたしもその人を慕わしいと思っているのだが、不実なくせに陰険で見栄っ張りで嫉妬深い夫は離婚に応じてくれない。それどころか暴力を振るう始末だと話して聞かせた」
「よくそんなこと思いついたな?」
お世辞にも嘘をつくのが上手とは言えないロザモンドの気性を知っている王妃が感心すると、女公爵は顔をしかめて軽く夫を睨んだ。全部、この男が考えた筋書きだということらしい。
「とにかく、何とかしてあの夫から自由になりたいのだと、そのために何か方法はないだろうかと切実に訴えた。もし、こちらで呪術を行っているのなら、誰にもわからぬように夫の命を奪ってくれるというのなら、金額は多少かかってもかまわない。ぜひともお願いしたいとまで言ったのだが……」
バルロがわざとらしく眼を見張る。
「何という薄情な奥方どのだ」
「言わせたのはどこの誰だ? それに、少なくとも|放蕩《ほうとう》の一件は事実ではないか」
しかし、そこまで言っても、返ってきたのは通り一遍の返答だけだった。短気はいけない、もう少し辛抱すべきだというのである。
「毒薬でも売りつけてくれるかと思ったのに、結局、怪しげな占いに報酬を取られただけだったぞ」
「やはり|一見《いちげん》客には簡単に正体を見せないか……」
舌打ちをしたバルロに、王妃が訊いた。
「その場所は今、どうなってるんだ?」
「表の入り口は俺の手の者が、裏はナシアスの部下が見張っている。今のところ怪しい動きはないようだ」
要するに手詰まりということだ。
かなり異様な取り合わせの一団が露地を占拠して真剣に考え込んでいると、新たな人影が早足で近づいてきた。
ティレドン騎士団の見習い、キャリガンである。
彼もまた、大きな荷物を背負った小間物の行商に変装していた。なるほどこれなら女だらけの路地の中を歩いてもそれほど奇異には思われない。品物を卸しに来たように見えるからだ。
バルロの元に何か報告に来たらしいが、その場の意外な顔ぶれにぽかんと眼を見張り、立ちつくしてしまった。
「どうした。何かあったのか?」
バルロの問いに慌てて、キャリガンは荷物を背負ったまま、直立不動の姿勢を取った。
「はっ! あの家に新たな客が入りましたのでご報告に参りました」
「ご苦労。これで何人目だ?」
「我々が見張りを開始してから十五人が入りました。出てきたのが十三人です」
「そうか。今のところ、二人の女が中に残っているわけだな?」
「はい。たった今入ったところです。大家に仕える召使いのような二人連れでした」
王妃が顔色を変えた。
シェラもすかさず路地を飛び出した。二人の姿を探したが、もう、どこにも見あたらない。話に夢中になってわずかでも眼を離した自分に舌打ちする思いだった。
それは王妃も同じことである。血相を変えてキャリガンに迫った。
「その二人連れ、顔は見たか?」
キャリガンはきょとんとしている。
「顔って言ったって、召使いですよ? あの大きな帽子をすっぽり被っているんですから、顔なんかわかるはずがありません。自分はあまり近づかないようにしていましたし……」
「背格好は? 服装はどうだった?」
「二人とも中肉中背の若い女です。明るい水色の服を着てました。襟と袖だけが白い、召使いがよく着ている服です」
王妃は|獰猛《どうもう》に|唸《うな》った。相手の胸ぐらをひっ掴んで締め上げた。
「おまえ、自分の姉も見分けられないのか!?」
「はあっ!?」
「それだけじゃない。一人がポーラならもう一人はアランナだぞ!」
キャリガンはあんぐりと絶句した。
ただでさえ大きな眼が顔からこぼれ落ちそうになっている。
キャリガンばかりではない。ティレドン・ラモナ騎士団長が、ベルミンスター公爵とドラ伯爵令嬢が、同じように蒼白になっていた。
おそるおそる小さな木戸をくぐると、異国ふうの不思議な香りが漂っていた。
真っ昼間だというのに一歩中へ入れば夜のように暗く、ランプの明かりがくっきりと陰影をつけて店内を照らし出している。
壁の一面に何段もの棚がつくられ、様々な品物が所狭しと並んでいた。硝子や陶器の大小の瓶が目立ったが、象牙細工の箱や|真鍮《しんちゅう》の筒なども眼についた。
それだけ物が並んでいるのに、大人が三人も入ったらいっぱいになってしまいそうな小さな店なのである。ポーラとアランナは雰囲気に飲まれてしまい、眼を丸くして店内を眺めていた。
「何をお探しだね? お客さん」
いつの間にそこにいたのか、女が声をかけてきた。
|恰幅《かつぶく》のいい中年の女だった。男のような太い声で、無遠慮に笑いかけてくる。
「うちには何でもある。何でも用意できるよ。男を|虜《とりこ》にするための品なら、何でもね」
ポーラとアランナは眼と眼を交わして頷きあった。
自分たちが欲しかったのはまさにそういう品物なのだ。
アランナは更紗の売り手にしたのと同じ説明をもう一度繰り返し、ポーラも特に、絶対に効果のあるものが欲しいのだと強調した。
女は二人の話を聞き取ると、|鷹揚《おうよう》に頷いた。
「なるほど。そういうことならとっておきのものを見せてあげよう。奥へおいで」
二人は喜んでその言葉に従った。
一団を組織しての突入を主張したのはバルロとロザモンドだった。
こうなっては猶予はない、圧倒的な戦力を投入して迅速に二人を救出するべきだという、いかにも大公爵の彼ららしい意見だったが、王妃はあえて首を振った。
「そんなことをしたらそれこそ騒ぎが大きくなる。中にいる二人も却って危険だ」
「そんな悠長なことを言っている場合ではないぞ、王妃!」
「いや、バルロ。わたしも妃殿下に賛成だ」
ナシアスが言った。
妹が問題の館にいると知ってナシアスは顔色を失っていた。だが、取り乱しはしない。あらゆる状況を想定して対処を考えている。
「現時点での強硬手段は好ましくない。|迂闊《うかつ》に動いて逃げられたら取り返しがつかなくなる」
淡々とした口調だった。
ナシアスは強い衝撃を受けたときほどこうなる。
|心中《しんちゅう》動転しているときほど、その反動が来るのか、妙に落ち着き払ってしまう。
しかし、外見ほど冷静でいるわけではないことをよく知っているバルロは|忌々《いまいま》しげに舌打ちした。
「裏口はおまえの部下たちが見張っている。正面から押し寄せれば悪党どもは裏口から飛び出し、待ちかまえている網の中にみずから飛び込んでくれるはずだぞ」
「逃げ道がその裏口一カ所だけだというのであればその通りだが、別の裏口がないとは言い切れない。しかも、建物の中がどうなっているかもはっきりしない。何よりおまえはその家が悪党の巣と決めつけているようだが、いささか早計に過ぎると思う。ベルミンスター公とシャーミアンどののお話でも特に怪しいところは見あたらないというのだから、なおさら軽挙は慎むべきだ」
「ナシアス、おまえな……」
「バルロ。わたしは自分が何を言っているかくらいわかっている。妹のことはともかく、ポーラさまは絶対にお救いしなければならない。しかし、その家が単なる占い館である可能性も依然として残っているんだ。大挙して踏み込んだ後で人身売買組織とは何の関係もない家だとわかったらどうする? この狭い街でそんな派手な動きをしたら必ず本物の悪党たちに感づかれる。みすみす逃げる機会を与えてやるようなものだ」
「よし、わかった。問題を整理しよう」
王妃が言って、みんなを見回した。
「確かめなければならないことは二つある。一つは本当にその家が人身売買の拠点なのか。もう一つはポーラとアランナが本当に中にいるのかだ。そしてこの二つのうち、人身売買の拠点であるかどうかを確かめることが先だ。なぜなら、ただの占い館なら二人がそこにいたって危険はないからだ」
「いかにも」
「おっしゃるとおりです」
「そこで、おれに考えがある」
王妃の考えというのは、ある意味、バルロの主張した手段以上に大騒ぎになるものだった。いつものことながら恐ろしく乱暴な方法でもあった。しかし、名案でもあった。
全員、早速準備にかかった。
バルロはあらためてその家の――正確にはその家へ向かう路地の見張りを強化するように指示し、自身は市警備隊の詰め所に赴いた。
ナシアスは一番近い医師のところである。
この間、王妃はシェラと一緒に買い物に走った。
幸い、ここには必要な材料は何でもそろっている。
王妃が買ってきたのは懐剣だった。握りのしっかりした、充分に刃の厚みのある、|切《き》っ|先《さき》鋭い実戦用の短剣である。
王妃はそれをシャーミアンとロザモンドに渡して言い含めた。
「いいか、二人とも。基本的に男の手は借りられないと思ってくれ。中の鎮圧はおれたちだけでやらなきゃならない」
「望むところです。叩きのめしてやりますとも」
ロザモンドは勇ましく頷いたが、シャーミアンは不安そうだった。
「でも、妃殿下。これをどうやって持ち込みます?この|形《なり》では腰に下げるわけには参りません」
「下げていてはいけないのか? シャーミアンどの」
「はい、それでは悪党の一味に気づかれてしまうと思います」
「そうか。どうしたものかな……」
ロザモンドは剣を手に考え込んだ。短剣とは言ってもずっしりと重みのあるつくりだし、|柄《つか》を含めて腕の長さほどはある。ドレスの胸元に隠すのは少々無理がある。シャーミアンに至ってはエプロンドレスを着ているので、とても懐には忍ばせられない。
悩んでいると、王妃が呆れたように指摘した。
「何を言ってるのかな。二人には打ってつけの隠し場所があるじゃないか。ちょっとスカートめくってみろよ」
「は!?」
二人の見事な合唱になった。しかし、王妃は真顔である。
「靴下止めはつけてないのか?輪っかになってるやつだ。あれを少しきつく締め直してそこに挟めばいい。調節が利かないなら何か帯みたいなもので足に固定してもいいそ」
サヴォア公爵夫人とドラ伯爵令嬢は|愕然《がくぜん》となった。
王妃の言葉の意味がわからなかったようだった。棒立ちに立ちつくしていたが、やがて二人の顔に見る見る血が上ってきた。
「妃殿下。ですがその……それでは、実際に戦闘になったとき、わたしたちは……」
傍目にも|狼狽《ろうばい》したロザモンドがしどろもどろに問いかければ、シャーミアンもまだ赤い顔をして小声で訊いた。
「どのようにして剣を抜けばいいのでしょうか?」
勇敢な女騎士である彼女らもスカートの中に剣を隠すのは抵抗があるらしい。なぜなら、いざ戦闘というときに、よりにもよって敵の面前でそれを跳ね上げなければ武器を取り出せないことになる。
武芸に秀でていても、日頃は男装を好んでも、二人とも上流階級の女性である。人前で下着を見せるような真似はもっとも忌むべきことだと教育されている。何より恥ずかしくてたまらなかった。
しかし、王妃はここでも女心を平然と無視した。
「スカートの中に手を突っ込めば簡単に抜けるじゃないか。おれはこの間初めてやったけど、最高に便利な|鞘《さや》だと思ったぞ。女の人がどうしてやらないのか不思議だったよ」
普通のご婦人はそんなことはしないんです、とシェラはまた心の中で密かに嘆いた。
ロザモンドとシャーミアンはまだ呆然としている。
騎士装束を|纏《まと》って戦場に立てば長剣を見事に扱い、どんな難敵にも果敢に立ち向かう二人が、今は小さな短剣を握りしめて額に汗を浮かべている。
意を決したようにシャーミアンが顔を上げた。
「……わかりました。やりましょう」
「シャーミアンどの!」
ロザモンドが慌てて制止したが、シャーミアンは片手に短剣を、片手にスカートを握りしめている。
「いざとなったらこのスカートをめくりあげ、足に結びつけた剣を引き抜けばいいのですね?」
「そうだ。ただし素早くやれよ。もたもたしてるとそれこそひどくみっともない格好で斬られるぞ」
シャーミアンもロザモンドも真剣な顔で頷いた。
仮にも戦場に出る者として死は覚悟しているつもりだが、人前に下履きをさらした姿で死ぬのだけは願い下げだった。
彼女たちは今、表通りから見えない路地の奥にいた。
|人気《ひとけ》はないが屋外には違いない。その場で王妃は勢いよく胴着とシャツを脱ぎ捨てると、ズボンに靴まで脱ぎ捨てて下着一枚になり、自分で言ったように右の太股に剣をくくりつけた。シェラが買ってきた深紅のサテンを胸から下の胴体に巻き付けてかたちを整える。大きな布地は王妃の足首までを覆い隠し、細身のドレスになった。それからシェラに手伝わせて|瞼《まぶた》や目元に赤や紫の濃い顔料を乗せ、|睫毛《まつげ》の生えぎわをくっきりした黒い線で縁取る南国風の化粧をする。腰には金細工の帯を巻き、刺繍を施した布の靴を履き、鮮やかな花模様の更紗を頭からすっぽり被って顔の下半分を隠すようにした。
これで異国の風体をした少女の出来上がりである。
ロザモンドとシャーミアンはその早業にあっけに取られていたが、自分たちもおそるおそるスカートをからげて短剣をくくりつけた。
この間、シェラは礼儀正しく目線を外していた。
本当なら手伝うところだが、自分を男と知っているシャーミアンは手伝ってなど欲しくないだろうし、ロザモンドは王妃の侍女に手伝わせるのは申し訳ないと思ったのか、何も言わない。
シェラ自身も帽子を召使いのものに変え、胸元の飾りを取って、シャーミアンと同じようなエプロンドレスを重ね着していた。それだけで充分、立派な召使いの出来上がりである。
支度ができると彼女たちは表通りへ出た。そこにはキャリガンと、ラモナ騎士団の若い騎士ジョシュアが待っていた。
ジョシュアは民家に勤める従僕に変装していた。王妃を見て|踵《かかと》を合わせて敬礼する。一方、キャリガンは悲痛な顔で言ったものだ。
「妃殿下。あの、自分が見た二人連れは本当に姉とナシアスさまの妹さまだったのでしょうか?」
「それはこっちが訊きたいくらいだ。ただ、ポーラとアランナが召使いに変装していたのは確かだ。明るい水色の服で襟と袖が白くて、白い大きな帽子を被って顎の下で結んでいた」
騎士見習いの少年は唇を噛んでうつむいてしまう。
そんなキャリガンを横にいたジョシュアが軽くこづいた。
「おまえ、いったい何を見ていたんだ。自分の姉君だろう? その場にいたのが俺だったら、ポーラさまはともかく、アランナさまを見間違えたりは決してしなかったぞ」
「そんなこと言われたって……だいたいどうして姉はーナシアスさまのお妹さまもですけど、召使いなんかに変装してたんですか? 自分のような探索任務に必要だからというわけでもないのに」
王妃はちょっと苦笑した。ここでポーラの買い物の本当の目的を言おうものなら、そしてそれがバルロの耳に入ろうものなら、イヴンはこの先ずっとバルロの|玩具《おもちゃ》だ。
「今日はポーラのお休みなんだ。王宮勤めは何かと肩が凝るからな。息抜きしようとしたんだろうよ」
「あのような|店《ところ》に入るのが息抜きになるんですか?」
「女の人は占いが好きらしいからな。そんなことより二人とも、手はずはわかってるな?」
「はっ」
行商の少年と若い従僕は今度こそ背筋を伸ばして、直立不動の姿勢をとった。
そうしてこの異様な一団はしずしずと『愛の秘薬と神秘の館』に向かったのである。
その店のある一角は袋小路になっていた。
突き当たりは様々な露店の並ぶ広場になっており、広場の周りを長屋形式の建物がぐるりと囲むように立ち並んでいる。
問題の占い館は袋小路の突き当たりにあった。例によって大きな石の塊のような建物に扉が一枚張りついているだけの家である。
ジョシュアとキャリガンはこの家の裏手に回った。袋小路に入ってしまったのでは広場の後ろには出られないから、大きく迂回して、他の道から問題の建物の真後ろについたのである。そこには小さな木戸があって、これが裏口と思われた。
一方、ロザモンドとシャーミアンは路地を進み、広場の隅にある館の入り口を目指した。
扉をくぐると、さっきと同じ女が奥から出てきた。見送ったばかりの二人が引き返してきたのでさすがに|訝《いぶか》しそうな顔である。
ロザモンドは演技にかけてはまったくの素人だ。特に今はポーラとアランナを案じるあまり顔つきまで険しくなっている。その心を抑え、語調だけは何とか神妙に案内の女に訴えた。
「このままでは納得できません。ぜひとももう一度、お話を聞いていただきたいのです」
シャーミアンも無言で頷き、燃えるように輝く眼を、ひたと女に当てている。
二人ともほとんど殺気立っていたわけだが、女はその様子を、暴力的な夫のことでそれだけ思い詰めているのだと解釈したらしく、もう一度奥へ通してくれた。
ロザモンドとシャーミアンが家の中へ入ったのを見届けてから、今度は王妃とシェラが袋小路を進んだ。
王妃は被りものですっぽりと顔を隠し、うつむき加減に足を進めている。その様子はいかにも勝手のわからない異国に戸惑い、心細さを感じている少女に見える。そんな王妃に寄り添っているシェラは献身的な付き添いの侍女というところだ。
二人はその調子で『愛の秘薬と神秘の館』の木戸をくぐり、先の二人と同じように案内の女に占いを頼み、奥の個室に通された。
顔を隠したままの王妃は個室に入り、席に腰を下ろしても、口を開こうとしない。代わりにシェラが重い口を開いた。
「実はこちらは南方の……お国とお家の名前は訳あって申し上げられませんが、王家にも血の|繋《つな》がる高貴な姫君でいらっしゃいます」
二人の前に現れたのは|痩《や》せぎすの、四十がらみの女占い師だった。鷹揚に頷いて話を続けるように言った。
シェラはそれに応えて、この|姫《かた》の|曾《そう》祖父の代までこの姫のお家は非常に栄え、王家にも親しく仕えていたのに、どうしたものか祖父のころから家運が傾き、没落が始まった。この姫の父君は何とかしてお家を再興しようとしていらしたのだが、その父君が先日、病で亡くなられ、そればかりか親類にも不幸が続き、この姫はこの世に一人も頼れる人を持たないひとりぼっちの身になってしまったのだと、沈痛な面もちで語ったのである。
本当なら召使いは控えの間に残されるはずなのに、自分が話しているのも、この姫のお悲しみがあまりに深いからであると説明した。
「この姫は、以前、お家にご奉公していたわたしの母を頼ってここまで参られたのでございます。でも、わたしの家も裕福とは言えず、充分なお世話をすることもできません。いったいこの姫をこれからどのようにしてさしあげればよいのか、ほとほと途方に暮れております。そもそもこれほどご不幸ばかりが続くのはおかしいと、もしかしたらご先祖に何らかの因縁があり、その|業《ごう》がこの姫を苦しめているのではないかと、そのことにようやく思い当たりまして、是非ともご助言をいただきたく参りました」
この間、王妃はずっとうなだれ、被りものを顔の前で引き締めたまま、|悄然《しょうぜん》とうなだれている。
シェラもそんな王妃を気の毒そうに窺いながら、小声で励ましの言葉をかけている。
ロザモンドとシャーミアンのぎこちない仕草とは比べものにもならなかった。何しろ片や変装と演技の達人、片や本能的な野生の勘で何にでも化けられる特技の持ち主である。
まだ身体を堅くしている『姫君』に『付き添いの召使い』は被りものを取るように促した。
花柄の更紗の下から現れたのは周知の通り、つい先日、大陸中の要人にため息を吐かせた花の|顔《かんばせ》だ。しかし、あのときとはまったく様子が違っている。コーラル城の大広間に現れた王妃は|燦然《さんぜん》たる|煌《きら》めきを放つ、冷たくて華麗な金剛石の花のようだった。今はさながら南国の太陽の下に咲き誇る、熱い血の通う鮮やかな赤い花である。だが、度重なる悲しみと心細さとに打ちのめされて、その花も幾分しおれがちに見える。
異国ふうの化粧を施した『姫君』は眼を伏せたまま、占い師に向かってそっと頭を下げた。
「よろしう、お頼みを……」
低く言うのがやっとだった。|鳴咽《おえつ》を|堪《こら》えるようにまたうつむいてしまう。
占い師の女は何度も頷いていたが、大仰な仕草で手元の水晶玉を覗き込むと、すぐに難しい顔で首を振った。
「確かに、この方のご不幸はご先祖の業に起因しているようです。しかも、ご先祖の業は恐ろしく深く、このままではこの方もその業から逃れられぬこととなるでしょう」
「ええっ……?」
侍女は腰をぬかさんばかりに驚いた。絶望の表情がその顔に色濃く現れている。姫君も思わず顔を上げ、すがりつくような眼を占い師に向けた。
そんな二人に占い師は力強く断言した。
「なまなかなことではこの因縁を断ち切ることはできません。そのためにはわたしよりもっと力のある占術師にみておもらいになる必要がありますが、あなた方はお運がよろしい。ちょうど今、この館に、中央でも随一のお力を持つ偉大なる方をお迎えしております」
そうして二人は二階に案内された。
ロザモンドとシャーミアンの言葉どおり、内部はひどく入り組んでいた。階段も狭く、二階の廊下も迷路のようである。案内された部屋から階段まで戻る道順すら間違いそうだった。
姫君とその侍女が通されたのは壁を暗幕で|覆《おお》った客間だった。
真っ暗な中に燭台の明かりだけが眩しく煌めいている。長椅子に並んで腰を下ろした二人は不安そうな表情で身を寄せ合っていたが、内心はまったく違う。
シェラは油断なく周囲の気配を窺っていたし、王妃は何か仕掛けてくるならさっさとやってくれ、と待ちかまえていたのである。
今の王妃は投書にあった人身売買組織にとって願ってもない獲物のはずだった。王家にも血がつながっているという身分も、抜群に人目をひく器量も申し分ない。しかも身よりもない。
これだけの『上玉』が自分から飛び込んできて、それでも何の反応も見せなかったとしたら、この家は行方不明の三人とは何の関係もないと思っていい。それが王妃の主張だった。
王妃本人は没落した姫君の役はシェラにやらせたかったらしいが、シェラは、自分が姫君をやるのはかまわないが『主人の不幸を嘆いて同情する侍女の役』は王妃に向いているとは思えない。その役は自分のほうが適任だと思うと、至極もっともな事実を指摘した。
部屋の扉が開き、女が入ってきた。三十がらみの、落ち着いた物腰の小間使いだ。
「今しばらく、こちらでお待ち下さいませ」
言いながら二人に供してくれたのは茶ではなく、濃厚な甘い香りの漂う果実酒である。
二人は勧められるままに酒杯を手に取り、口元に持っていったが、しかし、深窓の『姫君』はそれに口をつけはしなかった。
侍女を見てにやりと笑った。
「当たりだ」
小さく頷きを返した侍女が酒杯を机に戻して立ち上がる。
眼にも止まらぬ早業で小間使いの背後に回り、スカートの中から引き抜いた短剣をその首筋に突きつけて低く言った。
「大声を出すと刺しますよ」
女には何が起きたのかわからなかったに違いない。
愕然と立ちつくした、その顔から見る見る血の気が引いていった。
シェラは容赦せず、さらに言う。
「客人に眠り薬を盛ろうというのは感心しない礼儀ですね。他にも、この家を訪れて眠り薬を盛られた人がいるはずです。その人たちはどこです?」
「し……知りません。わたしは何も……何も存じません!」
「嘘をつくな」
王妃だった。被りものを投げ捨て、|踝《くるぶし》まで覆う布地の|裾《すそ》をからげて、愛用の剣を引っさげている。
その眼光の鋭さに小間使いはさらにすくみ上がった。
つい先程までのうなだれた姫君と同一人物とはとても思えない、こちらの心の底までを貫くような目線だった。
「おれを眠らせてどうするつもりだった? ここで眠らされた他の女たちがどうなったか、おまえは知っているはずだ」
こういうときの王妃は心底恐ろしい。特に凄みを利かせるのではなく、当たり前のことを当たり前に言う語調だが、口にしたことは必ず実行すると態度で知らしめている。その揺るぎない決意こそが真に恐ろしかった。
「言いたくないのなら言わなくていい。おまえを殺して他のやつに聞く」
小間使いは蒼白になったが、シェラがその腕をがっちり捕まえているから逃れようがない。死に物狂いで首を振った。
「こ、ここには、おりません! 今さっき――ほんの今し方、運び出されていったんでございます!」
「どこへだ?」
「存じません。本当です!」
首筋に当たる刃の感触に震えながら小間使いが語ったところによると、ここは女たちを|蓄《たくわ》えておくだけの場所で、代金と引き替えに取引相手に渡した後のことは何もわからないというのである。
「たった今、運び出されたって?」
「は、はい。ほんの一足違いのところで……」
唇まで血の気を失ってわなわな震えている。嘘を言っているようには見えなかった。
王妃は眼だけでシェラに合図した。
シェラも眼だけで応えると、捕まえた女の首筋を手刀で打った。
女は一瞬で意識を失い、その場にくたくたと崩れ落ちた。
ロザモンドとシャーミアンは先程と同じ小部屋でひたすら|粘《ねば》っていた。今度は侍女のシャーミアンも小部屋の中へ入り込み、二人してくどくどと『旦那様』の仕打ちを嘆きながら、館の中に異変が起きるのを今か今かと待ちかまえていた。
もしここが悪党どもの巣だとわかったら自分が騒ぎを起こすから、そのときは頼むと王妃は言って、二人を遊撃に送り込んだのだ。
しかし、どんな騒ぎがいつ起こるかわからない。
二人とも時間稼ぎに徹していた。女の|愚痴《ぐち》は長くて切りがないものと相場が決まっているから、できるだけ話を蒸し返せとも王妃は言った。二人ともその指示に従って、占い師の言葉に適当に|相槌《あいづち》を打ち、うんざりするほど同じ話を繰り返しながら時を待っていた。
そして、物音が聞こえた。
館内の空気が急に慌ただしくなったのがわかった。
耳をそばだてていた二人ははっ[#「はっ」に傍点]として顔を見合わせたのである。
「シャーミアンどの」
「ええ、ロザモンドさま。出番のようです」
そうとわかればためらってはいられない。二人とも思い切りよくスカートをからげて剣を引き抜くと、シャーミアンは素早く部屋の扉を押さえ、ロザモンドは目の前の占い師に襲いかかったのである。
「裏口はどこだ?」
厚化粧の女占い師は絶句していた。信じられないものを見る眼で、地味な衣服を着た下級貴族の妻を見つめている。
廊下を窺っていたシャーミアンも戻ってきて鋭く問いただした。
「この建物の裏に木戸があるだろう。そこまで案内してもらおう」
「どこから行ける? 外の廊下か。それとも、この壁の後ろにある通路からか」
鼻先に鋭い切っ先を突きつけられて占い師は震え上がった。外の廊下から行くのだとしどろもどろに話し、二人は占い師を引きずり立たせて廊下へ出、その案内で裏口を目指した。
すると、その途中で、人相の悪い屈強な男たちが彼女たちの前に立ちはだかった。全員が抜き身の長剣を下げている。
こんな男たちを飼っているということは、やはりここはまともな家ではないわけだ。
「この女たちを早くやっつけてしまっておくれ!」
ロザモンドに捕らえられた女占い師が威勢良く叫んだが、やっつけられたのはどちらであったか、言うまでもない。
シャーミアンがすっ[#「すっ」に傍点]と進み出る。斬りつけてきた男の剣を|躱《かわ》すと同時に、その男の左肩に斬りつけて悲鳴を上げさせた。さらには流れるような一動作で剣を翻《ひるがえ》し、別の一人の顔面をすぱっと斬る。浅い傷だったが、こやつも悲鳴を上げた。剣を投げ捨て、血塗れになった顔を押さえてのたうち回った。
ロザモンドは捕まえていた占い師をいったん突き飛ばしておいて自分から踏み込み、電光のような早業で一人を切り伏せた。続いて突っ込んできた男の一撃を難なく躱してその背中を短剣の柄で強打すると、男はつんのめるように廊下に倒れた。
たとえ短剣しか握っていなくても、シャーミアンは闘将の名高いドラ将軍に、ロザモンドはタンガとの国境争いに長年戦い続けたベルミンスター公爵に、それぞれ直々の手ほどきを受けた女騎士だ。こんなところにたむろする用心棒などとはそもそも剣筋の正しさが違うのである。
たちまち四人の男を打ち倒した二人は片手でスカートを握りしめながらぼやいた。
「どうにも裾が邪魔で、動きにくくていけません。踏みつけるかと思いました」
「わたしのほうはどういうわけか、思うように|腿《もも》が上がらないのだ。危つく転ぶところだった」
「ああ。それはきっとスカートを細身に仕立ててあるからですわ」
「やれやれ、女の衣服は何かと面倒な……」
大いに嘆きながら、ロザモンドは女占い師を引きずり立たせた。
この女は立ち回りの間、腰を抜かしてへたり込んでいたのである。
不意に『愛の秘薬と神秘の館』の表玄関が開き、中から出入りの行商らしい少年が血相を変えて飛び出してきた。
火がついたような勢いで広場を突っ切って走り去っていく。広場に並んだ露店の店主や買い物客は、その様子をぽかんと見送った。
しかし、少年はすぐさま引き返してきた。それも立派な身なりの医者と、市の警護に当たる警備兵を引き連れて戻ってきたのである。
あっという間に『愛の秘薬と神秘の館』の前には兵隊の壁ができてしまった。何人たりとも中へは通さない構えである。まだ若い医者だけが一人、家の中へ入っていった。
物見高い見物人が一人二人と集まって、いったい何が起こったのだろうと、ひそひそ囁き合いながら家のほうを窺っている。中には兵隊の壁の隙間から扉の奥を覗こうとしたりする女たちもいたが、やがて家の中から医者が出てきて、群衆に向かってこう言った。
「この家に流感の患者が出た。近づいては危ない。すぐにここから立ち去るように」
流感が恐ろしい病気であることは誰もが承知している。強い伝染性があることも、効果的な治療法がないこともだ。
見物人たちは悲鳴を上げた。たちまち|蜘蛛《くも》の子を散らすようにいなくなった。もちろん露店の店主たちも大慌てで店じまいを始めた。
まだ陽は高くても、こうなってはとても商売などしていられない。
人々が去り、広場ががらんと静まり返ると、医者に変装したナシアスは兵隊の壁を振り返り、兵隊長に頷いてみせた。
堂々たる体格の兵隊長は顔を覆い隠していた|兜《かぶと》をちょっと上げてみせた。バルロである。
半数は自分と一緒に来ること、残りはこの場を維持するようにと手短に命じて、バルロはナシアスとともに屋内に踏み込んだ。
店舗の奥からロザモンドとシャーミアンが現れて二人を出迎える。
この二人に裏口を押さえさせ、その場に待機していたキャリガンを引き入れて表の入り口からわざと飛び出させたのは王妃の思案だ。
もう一人、そこにいたジョシュアは騒ぎが起きたと同時に裏口に続く道に待機していた別働隊へ走り、道を封鎖させたのである。
「相変わらず悪知恵の回ることだ」
バルロは皮肉に呟いたが、妻の働きを称えるのは忘れなかった。
「お見事。よくやったぞ。さすがはベルミンスター公だ」
しかし、ロザモンドは青い顔で首を振った。
「それが、よくはないのだ。ダルシニどのとアランナどのがいらっしゃらない」
「何だと?」
「裏口はわたしたちが押さえていました。妃殿下はこの店舗には誰も通さなかったとおっしゃっています。それでもお二人の姿がどこにも見あたらないのです」
血相を変えた二人にシャーミアンが説明したが、こちらも表情が硬い。ロザモンドが後ろを振り返って、
「ラモナ騎士団の若者にも確認したが、絶対に誰も裏口からは出ていないと断言した。――サヴォア公。念のために伺うが、この表玄関のほうは?」
「出てくれば一本道だ。路地の入り口を固めていた俺たちに|見咎《みとが》められずにすむはずがない」
忌々しげな舌打ちを洩らしたバルロだが、その顔は厳しく引き締まっていた。こともあろうに従兄が寵愛している女性と友人の妹が行方不明なのだ。
ナシアスの顔色も蒼白に近かった。
そんなナシアスを|慮《おもんぱか》ってか、シャーミアンが急いで言う。
「今、妃殿下が、ナシアスさまが言われたように別の出口があるに違いないとおっしゃって、家の中を捜索していらっしゃいます」
二人の騎士団長は果敢に身震いして立ち直った。
バルロが言う。
「よし。そちらは王妃に任せよう。まず、この家を調査することだ。ここが人身売買組織の拠点なのは間違いないのだからな」
ロザモンドが頷いて、
「占い師の女たちは一室に押し込めてある。何やら面妖な男たちがいたので切り伏せたが、殺してはいない」
「上出来だ」
それからバルロの指揮の下、取り調べが行われた。
ロザモンドたちが倒した用心棒の他に占い師や小間使い、従僕など合計二十人ほどがこの穴蔵のような家の中にいたが、その全員が、ここで誘拐が行われていた事実は認めたものの、女たちの行方は知らないと言い張った。
兵士の一人が慌ててやって来た。
「バルロさま、ナシアスさま、妃殿下がいらして下さいとのことです」
行ってみると、王妃は一階の台所にいた。裏口の近くにつくられた台所は広く、片隅には生活の道具をしまう大きな納戸がある。
王妃とその侍女は納戸の戸を開け放って、中に入っていたものを全部外に出していた。掃除用具や牛の乳を|攪拌《かくはん》する道具などである。
空っぽになった納戸の床は土間ではなく、板張りになっていた。叩いてみると妙に空虚な音がする。
「この下だ」
一枚一枚の床板は土間に埋め込んであるのではなく、下に開いた穴を|塞《ふさ》ぐかたちでかぶせてあったのだ。
板を全部取り除いてしまうと、石の階段が現れた。
下は真っ暗である。
王妃が兵隊の手から明かりを取り、階段を下った。シェラがすぐ後に続く。もちろん、バルロもナシアスも続いた。
二十段ほどの石段を下りると地下通路が現れた。床も壁も石で|舗装《ほそう》してある立派な地下道だ。湿気や異臭もほとんどない。曲がりくねった地下道をしばらく進むと、上り階段が現れた。
上がりきった出口はやはり板でふさがれている。
「恐ろしく本格的だな」
王妃の呟きにバルロが応えて、
「つまり、この上にも一味の仲間がいるのだな?」
「そういうことになるだろうな」
「開けられるか、王妃?」
「大の男が二人もいるのに何でおれに力仕事を押しつけるんだ?」
「無論、この場で一番の力持ちがあなただからに決まっている」
「威張って言うな」
ぼやきながらも王妃は両手で板を押し上げた。
王妃がその剛力を発揮するまでもなく、板は簡単に持ち上がった。上にはたいして重いものは乗っていなかったようだった。
出たところはやはり掃除道具の収まった納戸だったが、さっきの納戸ほど広くはない。
狭い納戸の外へ出てみると、目の前に通路があった。
ちょっと進んですぐに左に曲がっている。行ってみるとその先は店舗になっていた。
これも、先程のような真っ暗で怪しげな店ではない。
小さな店には違いないが、床はぴかぴかに磨き上げられ、きちんと畳まれた大小の|絨毯《じゅうたん》が店の一角に立てかけられ、楽な姿勢で品物を眺められるようにとの配慮なのか、立派な長椅子が置かれている。高級絨毯を取り扱う店舗なのである。
ナシアスが店舗を突っ切り、丈夫な扉を押し開けて外を見ると、そこはさっきの家から西に位置する一角だった。ほとんど魔法街の外れの街角である。
目の前にあるのは人通りも多く、馬車の行き来も盛んな大通りだ。
王妃たちはキャリガンとジョシュアが立っていた裏口の下を通り過ぎてまったく別の通りに出てきてしまったことになる。これでは玄関と裏口を見張っていても何の意味もないわけだ。
この店が怪しげな一味に荷担していることは間違いなかった。すぐさま奥を捜索したが誰もいない。本来ならいるはずの店主の姿もない。向こうの館で起きた異変を察して逃げたと思われた。
一同、歯がみした。完全に手がかりが失われてしまったのだ。
王妃が夕焼けの迫る空を見上げて顔をしかめる。
「まずいな。暗くなったら警備隊を引き上げなきゃならないぞ」
「何をおっしゃいます、妃殿下。|夜《よ》を徹して捜索にあたらねば!」
地下道を通ってきたロザモンドが語気を荒くして王妃に迫ったが、王妃は首を振った。
「やれと言ったって兵隊が動いてくれないだろうよ。夜のこの街をふらふら歩くのはよほどの|阿呆《あほう》か命知らずだけだ」
「そんな!」
シャーミアンも悲鳴を上げる。
「魔法街のそうした噂は耳にしたことがありますが、あれは単なる風説ではないのですか?」
「いいや、夜の魔法街は人間が歩けるところじゃないんだ。何人も被害が出ている。おれたち以上に地元の警備隊はそれを知り尽くしている。空になった建物に泊まって番をしろというならともかく、通りに出るのは絶対にいやだと言うだろうよ」
二人の女騎士は救いを求めるような眼をバルロに向けたが、現実主義者のはずのティレドン騎士団長も苦い顔で肩をすくめている。
彼は口先だけの呪いも魔法も信じない。しかし、すべての不思議を迷信と退ける気はない。現に彼の目の前にいる人は、その人の持つ剣は、妖術としか思えない力を発揮する。バルロはそれを自分の眼で見、自分の肌で体験していた。
「だがな、王妃。それではポーラどのとアランナどのはどうなる?」
「向こうに戻ってもう一度連中を締め上げてみよう。本人は意識していなくても、何か重要な手がかりを知っているかもしれない」
王妃は言って、考える顔になった。
「それより、いっそのことこのまま夜を待つか? 本家本元の魔法街へ出かけて二人の居場所を占ってもらえば……」
「馬鹿なことを。それでは一晩を無駄にすることになる。いったい従兄上にどう申し上げるおつもりだ?」
「それを言うなよ。頭が痛いんだ」
冗談めかして言ったものの、王妃は激しい|焦燥《しょうそう》を感じていた。
あの男は自分を信じてポーラを頼むと言ったのに、自分は心配性だなと笑い飛ばしたのに、このていたらくである。
今の段階ではあの男の耳には入れたくなかったが、陽が暮れても見つからなかったら言わないわけにはいかなくなる。
地下道へ戻りかけた王妃は侍女を振り返って言った。
「ここの主人について聞き込みを頼む」
「お任せください」
王妃の沈痛な表情がシェラには辛かった。自分がついていながらみすみす二人を見失うとは地団駄踏む思いだった。
シェラもまた、ポーラとアランナには暖かい感情を持っている。自分が愛情には縁のない子ども時代を送ったせいか、すくすくと明るく育ったあの人たちを見ていると気持ちがいいのである。どうか無事であってくれと祈るような思いでいた。
店の外に出る。
いかにも当惑した様子をつくって、絨毯を見せてもらいたいのにお店の主人がいない、どうしたのかしらと、隣近所に聞いて回った。
「いないって? 珍しいねえ。この時間なら店の奥にいるはずなんだけど。まさか、店を開けっ放しで帰るわけもないしねえ?」
朗らかに言ったのは右隣のパン屋の女主人だった。
絨毯の店の主人は三十五、六の独り者だという。
いつも一人で店の番をしており、通いの召使いもいないという。家は別にあるようで毎朝やって来て日暮れには帰っていく。だが、その家がどこにあるかは聞いたことがないという返事だった。
パン屋の女主人に愛想良く礼を言って別れ、反対隣の小間物屋を訪ねようとして背を向けたそのときだった。
何気なく落とした目線の先に自分のものではない長い影を見た。
「捜しものか?」
ポーラとアランナのことで神経が高ぶっていただけにシェラには抑えが利かなかった。振り向きざま、エプロンドレスの中に隠した|掌《てのひら》ほどの手裏剣を引き抜いて斬りつけていた。
その鋭さは尋常のものではなかったが、まともに食らうような相手ではない。同じような手裏剣で難なくシェラの一撃を受け止め、呆れたように言って寄越した。
「物騒な侍女だな。路上だぞ」
紫の瞳に炎を燃やして、シェラはヴァンツァーを睨み据えた。
「おまえは……!」
怒りのあまり、言葉もうまく出てこない。
気配を感じさせずに人の背中を取れる。それはつまり、いつでも殺せるという意味だ。
この男はシェラを殺そうとしている。殺せるだけの技倆も持っている。その機会も何度もあったのに、一向に実行に移そうとしない。こうやって、遊んでいるとしか思えないような真似をする。
もてあそばれるのは自分の技倆が足らないからだとわかっていても、わかっているからこそ、おもしろかろうはずがない。
だが、シェラは手裏剣を引いた。
日暮れが迫っていても辺りはまだ明るい。人通りも多い。極小の武器とは言え、侍女姿の自分がこんなものを振り回しているのを見咎められるわけにはいかないのだ。
ヴァンツァーも武器を引いた。彼には最初から戦う気はないのだ。怒りに頬を染めているシェラを静かに見下ろしている。
落ち着き払ったその顔を見ているのがいやで、シェラはあえて背を向けた。仕掛けてくる気がないなら背中を向けても問題はない。この男の相手をしている場合でもない。ところが、声が追ってきた。
「誘拐された女たちならシッサスに運ばれたぞ」
足が止まった。
一瞬にして凍りついた頭脳をそれ以上の高速で回転させながら、シェラはことさらゆっくりと振り返った。表情の消えたその顔は白い陶器のようでもあり、鋭い|刃金《はがね》のようでもあった。
「おまえの言うことなど、どうして信じられる?」
「それはおまえの勝手だろう。俺は事実を話しているだけだ」
「仮に……それが事実だとして、どうして教えてくれる?」
男は|気怠《けだる》そうに肩をすくめた。
「これほど大騒ぎをするということは、例によって、王妃にとって大事な女が|罠《わな》にかかったのだろうと、レティーが言うからな」
「あの男が、教えてやれと?」
「そうだ。どうやら、おまえの主人に恩を売りたいらしい」
「恩に着てくれるような人じゃないぞ……」
「俺もそう思う」
どこまで本気で言っているのか疑わしいが、男は笑っていた。
「|獣《けもの》はいくら恩を受けても義理に感じたりはしない。それがわからないらしいところが惚れた弱みだな」
「よけいなことまで言うんじゃねえよ」
ぎょっとして振り返る。
通りをやって来たレティシアは悠然とシェラを追い越して、ヴァンツァーを軽く睨んだ。拳をつくって長身の男の腹を打つ素振りを見せたが、ヴァンツァーはその手を触れさせることはしなかった。用心深く身体を離した。
猫の眼がシェラを振り返って笑う。
「信じる信じないはおまえの勝手だけどさ。ここで扱う女たちは一度シッサスの売色宿に運ばれてから国外に出荷されてる。エルロイ通りの『|紅椿《ぺにつばき》』って店だ。早く行ってやんな」
それだけ言うと、レティシアはヴァンツァーと連れだって悠然と歩み去った。
地下通路から飛び出してきたシェラが慌ただしく語るのを聞いて、王妃は即座に『行ってみよう』と断言した。
「彼らの言うことが事実だと思いますか?」
「事実かどうかはともかく、あの男がそんな嘘を言う理由がないとは思う。おれをおびき出すにしてはいかにも変な場所じゃないか」
実のところ、シェラも王妃の意見に賛成だったが、大変だったのはその場にいた人々の説得である。
バルロとナシアスは捕らえた占い師たちを厳しく|尋問《じんもん》していたし、女性陣は手がかりを求めて家中を捜索していた。
そこへ王妃がいきなり、
「シッサスの『紅椿』って娼館に彼女たちがいるらしい」
と言ったものだから、バルロもナシアスも、ロザモンドもシャーミアンも絶句した。血相を変えて王妃に迫った。
「いったいどうしてそれがわかったのです?」
ここで王妃は進退|窮《きわ》まってしまったのである。
レナを殺した男から聞いたとは言えなかった。何しろこの一件に関してはあの[#「あの」に傍点]国王でさえ、いい顔をしないのだ。正直に言おうものなら二人の怒れる騎士団長と、心配に気も狂わんばかりの二人の女騎士を相手にしなければならなくなる。いかなデルフィニアの妃将軍といえども、いささか勝ち目の薄い戦いだった。
四人は息を呑んでじっと王妃の言葉を待っている。
シェラもはらはらしながら王妃を窺っている。
傍目にはわからないほど小さな焦燥と短い思案の末、王妃は開き直って胸を張った。
「現世のハーミアの言うことだ。信じろ」
女性たちはともかく、バルロとナシアスは疑惑もあらわな眼を王妃に当ててきたが、それが本当ならくどくどと議論をして時間を|潰《つぶ》すのは愚の骨頂だ。警備兵に命じて馬を用意させた。
ドレス姿のロザモンドとシャーミアンはいつものように|颯爽《さっそう》と馬にはまたがれないから、それぞれバルロとナシアスの後ろに横乗りに収まった。王妃だけは勇ましく馬にまたがり、シェラを後ろに乗せてシッサスに急行した。ジョシュアとキャリガンらも後に続く。
しかし、こんな物騒な一団が地響きを立てて玄関前に押し寄せてきたとしたら、怪しくないものまで飛び上がって逃げ出してしまう。魔法街の占い館のように隠し通路が設けられている可能性もある。
今度は絶対に取り逃がすわけにはいかないので、一行はひとまずシッサス界隈を担当している警備隊の詰所に向かった。もめ事の多い地区だけに警備兵の配置も多く、巡回も頻繁に行われている。
エルロイ通りについて聞いてみると、繁華街のシッサスの中でもそこはまさに花街であって、娼館ばかりが軒を連ねているという。
王妃は舌打ちした。ロザモンドとシャーミアン、それにシェラを示しながら、屈強な兵士に訊いた。
「そこにおれや、この三人が行ったらどうなる?」
「えっ!?」
「いや、その、それは……」
兵士たちは目に見えて|狼狽《うろた》えた。
途方に暮れた様子で互いの顔を見合わせている。
王妃にはそれで充分だった。もう一度舌打ちした。
「どうやら今度は男でないと入れないところらしいな。女がそこを歩いていたらそんなに目立つか?」
「いえ、あの……、女の姿がまったくない、わけではありません。いることはいるのですが……」
「あの界隈にいる女というのは|酌婦《しゃくふ》や娼婦ばかりでして……」
ひどく言いにくそうにしているのも無理はない。
女騎士たちの決断は早かった。自分たちが酌婦に化けるのは難しい。それなら男になればいいのだ。普通の女性にとっては抵抗のある男の衣服も彼女たちには馴染んだものである。警備兵に頼んで着替えを借り受け、兜を被って髪を隠した。少々|華奢《きゃしゃ》だが、巡回の兵士に見える。
王妃は詰所の小者から服一式をはぎ取り、頭には布を巻いた。
シェラは近くの料理屋の|女将《おかみ》に話を通してもらい、衣服と化粧道具を借りて支度を整え、あっという間に|濃艶《のうえん》な酌婦の姿になった。
その様子を見て、バルロが呆れたように言った。
「これはまた美しすぎるな。もう少し不細工につくらんと、道行く酔漢に絡まれるぞ」
「団長が連れて歩けばいい。そうしたらシェラに手を出そうなんて考える物好きはいないだろうよ」
王妃を含めて女性三人が(王妃を女性のうちに数えていいのかどうかは疑問だったが)男装し、本当は男のシェラが女装するというのも変な話だが、似合っているだけに文句も言えない。
ジョシュアとキャリガンは眼を白黒させて小者に扮した王妃を眺め、|艶《あで》やかな酌婦に化けたシェラを眺め、警備兵に変装したロザモンドとシャーミアンを眺めている。キャリガンはひたすら感心した様子でぽかんと見入っていたが、ジョシュアはシェラが男だという事実を知っているだけに、どうにも自分の眼が信じられないらしい。
バルロは隊長の外套と兜を外して、非番の兵士に身なりを変え、ナシアスもまた医師の上着を脱ぎ捨てて、画学生の姿に戻った。
空を真っ赤に染めていた太陽は西の地平に沈み、雲に照り|映《は》えていた残照もそろそろ消えようとしている。
代わって星が一つ二つ、|藍色《あいいろ》の空に輝き始めていた。
|宵《よい》の口でも、シッサスはかなりの賑わいを見せていた。
さすが、コーラルに入った水夫たちがこぞって駆けつけると言われるだけのことはある。その中でも娼館が立ち並ぶエルロイ通りはもっとも人気の高いところだ。
一口に娼館と言っても色々あるが、この通りにあるのは一階が酒場になっているものがほとんどだった。男たちはここで一杯の酒を頼み、居並ぶ女たちを物色する。気に入ったものがいれば女と一緒に二階へ上がり、気に入るのがいなければ酒代だけを払って他の店へ行けばいい。格式にやかましいペンタス辺りのそれと比べると、実に手軽な遊び場なのだ。
『紅椿』はエルロイ通りの半ばにあった。なかなか立派な店構えで、すでに何人か客が入っている。
その様子を横目で確かめながら、警備兵に変装したロザモンドとシャーミアンは店先を通り過ぎた。警備兵が玄関前に立ち止まったりしたらそれこそ怪しまれてしまう。
バルロは片手にシェラの肩を抱いて通りをぶらぶらと進みながら連れのキャリガンをからかっている。
ナシアスとジョシュアはいかにもこうした場所へ来るのが慣れていない風情で(実際、この主従はともに|遊里《ゆうり》などに慣れていないのだが)物珍しげに辺りを見渡している。この界隈ではよく見られる光景である。
そして王妃は雑用に働くふりをして建物の裏に回り、その辺りの様子を確かめて戻ってきた。
通りの片隅に何気なく集まって、こっそりと打ち合わせをする。
「やっぱり、外から見てるだけじゃ|埒《らち》が明かない。入ってみるしかないだろうな」
「入ってみる、と言いますのは……?」
「団長とナシアスは簡単だ。客として入ればいい。ただ、それだと内部を探るのも容易じゃないからな。何とか客以外の筋で入れればいいんだが……」
独り言のように言った王妃に、ラモナ騎士団長は何とも言えない顔になった。
「お待ち下さい。まさか、あの館で娼婦を買えと仰せですか?」
「男が娼館に入るのに、他の口実は必要ないだろう?」
これまた当然のように言うのだが、この言い分にはティレドン騎士団長まで苦笑いを浮かべたものだ。
「あなたもつくづく無体なことを言ってくれる。妻の目の前で女郎買いをしろというのか?」
警備兵に扮した二人はまだ戻ってきていないが、確かにそういうことになる。鉄面皮と思われがちなサヴォア公爵だが、それはさすがに避けたい事態らしい。
ナシアスの|逡巡《しゅんじゅん》の理由はもっと明白だった。結婚式を間近に控えた身でそんなことをするのは抵抗があるのだろう。
もちろん、本当に女を買うわけではない。口実として使うだけのことだが、問題は入った後だ。女を買って二階へ上がって、何もしないで部屋を抜け出すことになる。女が騒いだら面倒なことになる。
「最初にお金を渡して、黙っているように言ってもだめかな?」
『仕事』をせずに代金をもらえるのなら娼婦にとっても悪い話ではないはずだが、こうした場所に詳しいバルロは難しい顔だった。
「順当な方法だが、それは女によっては侮辱と判断して却って騒ぎ立てるぞ」
「じゃあ、様子見に、こっちの若いのを送り込んでみようか?」
王妃の視線を食らったキャリガンとジョシュアは飛び上がった。彼らが何か言うより先にバルロが首を振る。
「だめだな。この二人では上がった部屋を抜け出すなどという芸当ができるわけがない。|娼婦《おんな》たちの手練手管にかかってたちまち裸に剥かれるだろうよ」
「やれやれ、どうしたもんかな……」
通りの片隅でそんなことをひそひそ話していると、のんびりした声が割って入った。
「こりゃあみなさん、お揃いで、何やってんです?」
独立騎兵隊長の黒ずくめの姿がそこにあった。
揃いも揃って扮装している一同をおもしろそうな眼で見つめている。王妃とシェラはともかく、二人の騎士団長の姿は彼にとっても実に意外なものだった。
ちょうどそのとき、警備兵に変装した女性たちが戻ってきたのでイヴンはまたまた眼を剥いたが、彼女たちのほうも意外な顔を見て驚いたようだった。
「これは、独騎長どの。こんなところで何をしておられる?」
屈託なく訊いたロザモンドだが、これは少々ばかげた問いだった。イヴンは小さく噴き出して、鼻の脇を掻いたのである。
「いや、こいつは困りました。このエルロイ通りで何をしてたかって言われてもねえ……」
無論、答えなど一つに決まっている。
ロザモンドは慌てて言葉を呑み込んだ。
シャーミアンはさっと表情を硬くした。反射的に男の顔を見つめ、見つめたことが痛かったかのように眼をそらしてしまう。その複雑きわまりない表情の意味は見ていたシェラにはよくわかった。
王妃もちらりとシャーミアンを見やったが、今は彼女の心情に配慮してはいられない。これ幸いとばかりに独騎長を仲間に引き入れにかかった。
事情を聞いて、イヴンもさすがに驚いたようだった。国王の愛妾が行方不明となれば大事件である。
しかし、そこは臨機応変の独立騎兵隊長だ。躊躇することなく、自分の馴染みだという娼館の裏口へ一行を連れていったのである。
ぞろぞろと引き連れて現れたイヴンを見て、店の女将らしい女が呆れたように言って寄越した。
「三日も居続けてようやく出ていったと思ったら、女連れで戻ってくるなんて、あんたもいい度胸してるじゃないか」
「それを言うなよ。色気抜きの話なんだ。金は払うからさ。部屋を借りるぜ」
「なに言ってんだよ。あんたならいいよ」
さばさばと|砕《くだ》けた口調だった。大挙して押し寄せた異様な一団を見ても|狼狽《うろた》えるようなことはない。
|肝《きも》の据わった女なのだ。
その店の一室でイヴンを中心に詳しい打ち合わせを行い、彼らは『紅椿』を調査するための方針を決定した。
それからしばらくして『紅椿』の裏口を、男二人女二人の一行が訪れた。
「よう。主はいるかい?」
堂々と中へ入り、親しげに声を掛けたのはイヴンである。
裏口を入ってすぐのところにたむろしていた用心棒たちが一斉に振り返ったが、イヴンを見て警戒を解いた。親しげに返して寄越す。
「おう。旦那に何か用か?」
イヴンは黙って後ろを振り返って見せた。身体を硬くしている二人の娘と付き添いらしい男を認めて、用心棒の男はにやりと笑い、主人を呼びに行った。
ややあって現れた『紅椿』の主人は|忙《せわ》しげな物腰の、はしっこい身体つきの男だった。イヴンを見て笑顔になる。
「やあ、あんたか。この間は世話になったな」
「なあに。あんなのは大したことじゃねえや。忙しいときに押し掛けて悪いんだが、ちょっと力になって欲しいんだよ」
|伝法《でんぽう》な口調で言って、イヴンは|曰《いわ》くありげな眼を背後に固まっている若い男と二人の娘に向けた。
二人の娘は美しかった。身なりは質素なものだし、いたたまれない様子で顔を伏せているが、ちらりと見ただけでもその美しさには息を呑むものがあった。
店の主人も長年この商売をしている男だ。その二人を見ただけで大体の事情を察したようだったが、あえて頷くだけにして、イヴンに語らせた。
「実はね。こちらは、とある貴族のご子息とその妹さんたちなんだ。あんたにも想像つくだろうが、せっぱ詰まってるんだよ……」
この兄妹の父親が悪い知り合いに|騙《だま》されて財産も領地も奪われ、父親は衝撃のあまり重い病に倒れ、その治療費などでさらに借金がかさむはめになったのだと、イヴンは話して聞かせた。
家財道具などもあるだけ売り払ったが、それでも借金を清算するまでには遠く及ばない。後はもう売れるものと言ったら、この二人の娘より他にないのだ。
「で、まあ、俺はこちらのお父上には昔ちょっと世話になったことがあるもんでね。何とかしましょうって胸を叩いちまったわけさ」
「そうは言っても、れっきとした貴族のお嬢さん方がこんな商売にねえ。つとまるのかい?」
「それはお嬢さんたちも覚悟してることだろうさ。こちらはもう四の五の言ってられないってとこまで追いつめられちまってるんだ」
イヴンは彼らには聞こえないように声を低めて、囁いた。
「滅多にない玉だってのは見りゃあわかるだろう? あんたを見込んで特に頼んでるんだぜ。俺への仲介料は半額でいいからさ。その分、高く買ってやってほしいんだよ」
彼女たちの境遇に同情しながらも、実に自然な、しかも熱心な勧め方だった。日頃からこんな|商売《まね》をしているんじゃないかと勘ぐりたくなるほどだ。
イヴンの提案は奇しくも魔法街のときと同様、できるだけ多くの人数を『違う人間』に変装させて送り込もうというものだった。
この場合、もっともその役に適しているのはなんと言ってもシェラだ。イヴンはシェラが並はずれた能力を持つ細作だということをよく知っている。
「だから、おまえ、売り物になれ」
と、言い、いくらか遠慮がちに王妃に話しかけた。
「できれば妃殿下にも売り物になっていただけるとありがたいんですがね」
「独騎長! 何を言うのだ!」
血相を変えたロザモンドをバルロが抑える。
王妃にも異存はなかった。こうした仕事はシェラか自分が最適だとわかっていたが、また姿を変えなければならないのが面倒だった。ため息を吐いた。
「まったく、早変わりの役者だってこんなに忙しくないぞ……」
「何を言います。ダルシニどのとアランナどののためではないか。それで、俺はどうする?」
と、バルロ。
「あんたは正面から堂々と入りゃあいいでしょうが。こちらの女公爵さんの前じゃ言いにくいが、女のあしらいならお手の物でしょう。ラモナ騎士団長は俺と一緒に来て下さい」
「わたしは、何をすれば?」
「この二人の兄さんってところでお願いします」
中へ入ってしまえば、場所は娼館だ。男が歩いていても怪しまれないとイヴンは言った。バルロを送り込もうというのも同じ理由だ。
バルロが心配した、金だけ払って部屋を出たら女が騒がないかという疑問は、イヴンが力強く否定した。あの館の女たちならそれはないというのだ。
四人がかりで調べて、女たちがいる気配を発見したら、外で待機しているシャーミアンとロザモンドに知らせて警備兵を突入させればいい。ただし、その突撃に自分は参加しないとイヴンは言った。
「独騎長!」
「イヴンさま!」
またも女性陣が悲鳴を上げた。それはポーラとアランナの救出を手伝わないという意味だ。いったい何を考えているのかと訝しみ、恐れる声だった。
そんな二人にイヴンは苦笑しながら言い聞かせたのである。
「俺は『紅椿』の主人とは顔なじみです。実のところちょっとした貸しもあります。だからこそこの手が使える。見ず知らずの人間が出向いて女を買ってくれって言ったって取り合っちゃくれないでしょうが、俺が行って話をすれば聞いてくれるはずです。ですが、警備隊なんかと仲良くしているところをこの街の連中に見られたくはないんです」
二人の女騎士は唖然としていたが、王妃が笑った。
「つまり、ここの連中はイヴンが独立騎兵隊長だってことを知らないんだな?」
「この店の女将は知ってますが、わざわざ街中に言いふらしてまわる理由はないでしょう? 俺だって街の連中の信用を失うのはいやですからね」
「信用を……失う?」
ロザモンドにはますますわけがわからなくなったようだった。
国王に親しく仕える部隊長という地位は何より誇りに思っていいはずなのに、それを明かしたら信用をなくすとはどういうことか。
疑問をあらわにしているベルミンスター公爵に、イヴンはいたずらっぼく、またどこか|嘲《あざけ》るような眼を向けた。
「そうなんですよ。国王なんかと仲良くしてるってわかったら、俺はこの街の連中に|爪弾《つまはじ》きにされます。ここには結構、気のいい連中も友達もいるんでね。きらわれるのは避けたいところなんです」
「しかし、それは陛下の臣下としてあるまじき振る舞いでは……」
「ロザモンド」
静かに制したのは王妃だった。緑の目線だけで、それ以上言うなと釘を差した。
「おれたちは『紅椿』には何の|伝《つて》もないんだ。手引きしてくれるだけで充分だ。突撃ならこの街の警備兵の仕事でもある」
それでもまだ不満そうなロザモンドだったが、意外なところから援護の声が掛かった。
「不忠と言えば確かに不忠だろうが、こういう場所に詳しい人間も従兄上には必要だろう。俺たちでは到底できぬことだからな」
かたちこそ弁護だが、おもしろくなさそうな口調だった。しかし、こうした下層社会には貴族のやり方は通用しない|掟《おきて》や決まりごとがある。大公爵家の総領として生まれ、貴族社会を生きてきたバルロだが、そのくらいのことはわきまえていた。
事実、イヴンはこの街ではちょっとした『顔』だった。その巧妙な口上に『紅椿』の主人はすっかり二人の身元を信用したらしい。
「あんたの紹介なら証文を交わすのに異存はないが、お兄さんは本当にそれでよろしいんですかね?」
念を押すと、二人の兄は悲壮感の漂う顔で頷いた。
「……父のためですから、妹たちに犠牲になってもらうのも仕方がありません」
こんなことになってしまった自分の無力を嘆いているのか、兄は眼を伏せたまま、ぼそぼそと言って、
「妹たちをお任せするに当たって、お願いがあるのですが……」
「おねがい?」
姉妹の兄は上目遣いに店の主人を見た。やつれと苦悩の深く|滲《にじ》んだ顔だった。
「できましたら妹たちにはこの街……いいえ、この国ではその……働かせたく、ないのです。どこかその、他国で奉公させていただくわけにはまいりませぬか?」
「ははあ……」
店の主人はちょっと驚いたようだったが、すぐに納得した。姉妹の境遇を同郷の人々には知られたくないのだろう。貴族のつまらぬ見栄だと思ったが、愛想良く頷いた。
「よろしゅうございますとも。外国へ行く船長にも知り合いがおりますからね。おやすいご用です」
「あともう一つお願いが……」
姉妹の兄は急いで言い出した。
「二人はここへ置いて参りますが、今夜一晩だけ、わたしも妹たちと共にいさせていただきたいのです。ご迷惑であることは承知しておりますが、何分、兄妹三人で語り合うのもこれが最後……今宵が今生の別れになるかもしれませんので……」
がっくりとうなだれた力のない兄の声に、二人の妹が手巾で顔を押さえ、涙を堪えている。
しかし、その口元を見たら、店の主人ははてなと思っただろう。
これから売られていく悲惨な境遇のはずの娘たちが必死になって笑いをこらえていたのだから。
首尾よく大金で買い取られた娘二人は『紅椿』の二階にある一室へ通され、イヴンは兄妹に丁重な挨拶をして下がり、店の主人も、
「申し上げるまでもないが、出歩かないで下さいよ」
と、念を押して退出していった。
二人が逃げ出すことは心配していなかった。裏口は屈強な男たちが固めているし、表玄関から出るには人でごった返した酒場を通り抜けなければならない。悲しみに打ちひしがれている娘たちには逃げ出すだけの気力もないだろうし、何より素人の娘たちが館の中をうろうろしていたら目立って仕方がない。必ず誰かが見咎めて注意するはずだと、主人は高をくくっていたのである。
部屋の中で三人だけになると、娘の一人は大きく息を吐き出した。声を立てずに笑いを逃がすためだった。
「うまいな。ナシアス。役者になれるぞ」
「妃殿下。からかわれては困ります。冷や汗ものでしたよ」
苦笑しながら本当に額を拭ってみせたが、ナシアスが表現した悲壮感の半分くらいは本物だった。
もし、アランナを見つけられなかったら、ポーラともども国外へ連れ出されてしまったら、本当に二度と会うことができなくなる。
店の主人は扉に鍵を掛けていかなかったが、掛けても無駄だ。
建物の中に入ってしまえば、シェラには扉も壁もないのと同じことである。王妃ともども部屋を抜け出し、影のように消えていった。
ナシアスはわざと堂々と面を上げ、二階部分を見て回った。途中、階段を登ってきたバルロと出くわした。
「今、一階を見てきたが、特に怪しいところはなさそうだぞ」
「わたしは二階を見てきたがほとんどが客室だ」
「ふうむ、すると……」
「あの占い館と同じ一味だとしたら、地下か屋根裏ではないか?」
ナシアスの意見は正しかった。
足音も気配もさせずにシェラがやってきて二人の傍に立つ。
客室が並ぶ廊下の突き当たりにある壁の向こうがどうやら空洞になっているらしいこと、その壁自体が扉のように動く仕掛けになっていることを密やかに告げた。
そこへ合流した王妃はそれだけわかれば充分だと判断した。バルロもナシアスも同意見だった。
「間違っていたらそのときのことだ」
バルロは言って、自分が買った女の部屋へ戻り、窓を開け放った。明かりも華やかなエルロイ通りがそっくり見下ろせる。
道を行く雑踏の中に、こちらを見上げる顔がある。
バルロはちょっと腹を立てているようなその顔に向かって笑い掛け、大きく頷いてみせた。ロザモンドも頷きを返して、横にいたキャリガンに何か言いつけて走らせる。
警備兵が駆けつけてくるのに時間はかからなかった。
女たちは確かにそこにいた。
シェラが見つけた隠し扉はまさに屋根裏部屋への入り口であり、そこにはこれまで消息を絶った女性たちが閉じこめられていた。
助けに来た警備兵の中に知人であるロザモンドやシャーミアンの姿を認めて、誘拐された女たちは安堵と感謝に泣き崩れた。
彼女たちはやはり『愛の秘薬と神秘の館』で薬を飲まされ、眠らされて、ここへ連れてこられたのだという。逃げだそうにも勝手もわからないし、見張りもついていたので、どうしようもなかった。
そこにはもちろん、浅葱色の服を着た二人の召使いもいた。身を寄せ合って震えていたが、警備隊に救出され、自由の身になれるとわかってへたへたとくずおれた。そこまではいいのだが、顔が違う。
ポーラでもアランナでもない。まったくの別人なのだ。
この二人は一人は本物の召使いだが、もう一人はその女主人だという。氏名を聞くと二の郭に屋敷を持つ若い男爵夫人だった。
男爵夫人は最近占いに|凝《こ》り、よく当たると評判のあの館を初めて訪ねたところ、この被害にあったという。
意外な顛末に呆気にとられ、脱力しきってものも言えないでいる一同に男爵夫人は震えながら、
「あ、あの、このことはどうか、主人には内密に……」
おどおどと訴えてきた。
気の毒だったのはキャリガンである。
ラモナ騎士団長と女騎士二人にすさまじくも白い眼で睨まれた上、王妃と上官に左右から特大の雷を落とされたのだ。
「何度も言うが、自分の姉も見分けられないのか!」
「貴様いったい、どこに眼をつけている!」
「で、ですから顔は見ていないって……!」
慌てて言い訳したものの、火に油を注ぐようなものである。
激怒した王妃と上官にみっちりと締め上げられる羽目になった。
ベロニカの店は様々な化粧品を扱う店だった。
|白粉《おしろい》、口紅、|眉墨《まゆずみ》などはもちろん、|髪油《かみあぶら》に爪を染める染料など、ありとあらゆるものが揃っていたが、ベロニカが特に熱心に勧めてくれたのは香水だった。
「香りのいい肌ってのはよく効くからねえ」
と言うのだが、ポーラとアランナはちょっと首を傾げてしまった。これは二人が脳裏に思い描いていた『惚れ薬』とは少々違うような気がするのだが、ベロニカは顔をしかめて、手を振った。
「そんなものに頼るのはおよしな。ろくなことはないよ。それより女をきれいに魅力的に見せれば、男はいくらでも寄ってくるもんさ」
言われてみればそのとおりかもしれないと二人は思った。それに、そこに並んでいた品物を選ぶのも充分、楽しかったのである。
シャーミアンさまにはどんな香りが似合うかしらと、あれこれと試しに|嗅《か》いでいたら、あっという問に時間がたってしまった。
結局、二人は|吟味《ぎんみ》の末に一瓶の香水を買い求めて、夕焼けの迫る魔法街を後にした。
その途中、この近くで流感の患者が出たと聞き、
「こわいですねえ」
「街中に広まったりしなければいいのですけど」
眉をひそめて話しながら家路を急ぎ、日没前にはちゃんと王宮に戻っていたのである。
その夜。
|晩餐《ぱんさん》の支度を整えながら、ポーラが国王を待っていると、不意に王妃が侍女とともに姿を見せた。
「おれも一緒にご飯食べたいんだけど、今から支度できるかな」
「もちろんですとも。お任せ下さい」
笑顔で台所へ向かいかけたポーラだが、ふと足を止めて振り返った。不思議そうに王妃を見つめてきた。
「王妃さま。どうかなさいましたか?」
「どうって?」
「何だか……お疲れのようですので」
王妃は苦笑し、ポーラにはわからないように、そっと侍女と目配せを交わした。疲れている理由はとても言えない。
「ポーラのほうこそ、外出はどうだった? 楽しかったか」
「はい。とてもおもしろうございました」
「ラティーナに会って聞いたけど、シャーミアンに何かおみやげを買ってきたんだって?」
「はい」
危ないものを買ったという自覚はまるでないから、至って素直に答えたポーラだった。どんなものを買ったのか見せてほしいという王妃の言葉を訝しむこともなく、いそいそと二階へ上がり、小さな硝子瓶を持って下りてくると、大事そうにそっと差し出した。
シェラが受け取って慎重に|蓋《ふた》を開けたが、すぐに笑顔になった。
王妃もちょっとその匂いを嗅いで微笑んだ。
「いい匂いだ」
化粧品も人工的な香りも好まない王妃だが、このときは本当にそう思った。|強《きつ》すぎることも甘すぎることもない。さわやかな|薔薇《ばら》の香りだけがする。
「あのな、ポーラ」
「はい」
「これをシャーミアンに贈るのは全然かまわないし、喜んでくれるとも思うけど、イヴンのことは言わないほうがいいな」
ポーラはちょっと赤くなった。
「やはりあの……出過ぎた真似でしたでしょうか?」
「そんなことはないさ。おれだってさっさとくっついちまえばいいのにと思っている口だからな。だけど、あの二人ならほっといても大丈夫だ。なるようになるって」
ラティーナが同じことを言っていたのを思い出したが、ポーラはそれでも不安そうに王妃に確かめた。
「本当に……王妃さまもそうお思いですか?」
「思うな。それに、ポーラにそんなに気を使わせていると知ったら、シャーミアンのほうが却って申し訳ないと思うはずだ。今はそっとしておいたほうがいい」
とはいうものの、エルロイ通りでの捕り物の後、シャーミアンが落ち込んでいたことは確かである。
シッサスに足を踏み入れたのはもちろん初めてのシャーミアンだ。どぎついくらいの活気にあふれた下町の繁華街で、|猥雑《わいざつ》な感じすらする。これまでのシャーミアンの人生にはまったく縁のなかった場所であり、相容れる場所でもなかった。
だが、あの男はこの街に親しみ、とけ込んでいる。
居心地がよいのだという。
わけもなく胸が締めつけられた。
自分の住んでいる世界とあの男の住む世界はあまりに違うのだと思い知らされたようで辛かった。
王妃はそんなシャーミアンにいろいろと慰めの言葉を掛けたが、それでも暗い顔だった。
「やはり、わたしには、自由民の妻になることなど無理なのかもしれません……」
悄然としたその呟きを王妃は明るく笑い飛ばした。
「育った環境が違うからって言うんなら、おれたちはどうなる? あいつは国王、おれは身元不明の風来坊だぞ」
シャーミアンは思わず眼を見張った。次に小さく噴き出して首を振った。
「そんなこと……。陛下と妃殿下は人がうらやむほど仲むつまじいご夫婦でいらつしゃいますのに」
「それならシャーミアンだって同じようにできるさ。何もおれたちだけが特別だってわけじゃない」
「何か、夫婦仲を保つ秘訣でもおありですか」
「あると言えばあるかな。聞きたいか?」
「はい。ぜひとも、ご教授をお願いします」
「つきあいきれないところまで無理につきあおうとしないことさ」
「……」
「おれとあいつは戦場でなら他の誰より息が合う。相手が何をしようとしているのかすぐに飲み込める。政治の問題でも考えることはほとんど一緒だ。でも、おれはあいつが各国の使者とくだらない挨拶や社交辞令を交わしている横にはいたくない。あいつも、おれの山歩きにはつきあわない」
「……」
「イヴンだって、シャーミアンがドレスを着て貴婦人たちとお茶会をしているその場所にはつきあえないはずだ。女遊びに関しては、シャーミアンと結婚した後は何しろあのドラ将軍が眼を光らせてるわけだからな。今だけだと思って見逃してやれよ」
「いえ、そんな……」
慌てて否定したシャーミアンだった。
それこそあの様子では本当に結婚できるかどうかわからない。
自分が思うほどあの人は自分を思ってはくれないのかもしれない。
そうはっきり口にしたのだが、王妃はまたシャーミアンの心配を笑い飛ばした。
「それは違うな。シャーミアンを欲しくないわけじゃない。タウの男はたぶん、伝統的にへそ曲がりなんだ。欲しいものほどいらないふりをするのさ。そんな素振りに騙されちゃだめだぞ」
デルフィニアの妃将軍は剛力無双の戦いぶりもさることながら、その明るさが魅力の人だ。シャーミアンもつられて笑い出していた。
「それなら、あの方はどうしてわたしを騙したりするのでしょう? おっしゃって下さればわたしは喜んであの方の妻になりますのに」
「さあ? そこまでは本人に聞かないとわからないな」
とはいうものの、王妃にはわかるような気もしている。
何であれ、自分を縛るものは許せなかった。それが自分の好きなものであっても、望むものであっても、自分が自分でなくなるのは許せなかった。王妃にとって絶対の自由とはそういうものだった。
それでも……と、リィはもうずいぶん会っていない相棒の手の、その心地よい感触を思い出す。
あの手は決して自分を縛るものでもおとしめるものでもなかった。
ここで出会った不思議な国王もそうだ。隣にいると暖かいのだ。
「でも、シャーミアンはイヴンが好きだろう?」
尋ねた王妃に、勇敢な女騎士は少し頬を染めて、はっきり頷いた。
だから大丈夫。何とかなる。
そうして長い一日を終えた王妃は二の郭でシャーミアンと別れ、芙蓉宮へ上がってきたのである。
ポーラは香水の瓶を二階へ戻して、シェラと一緒に台所に立った。
何か楽しそうに話しながら料理を続けている。
王妃は一人居間に戻って、お気に入りの長椅子に転がった。
調理器具の密やかになる音と、うまそうな匂いが漂っている。
さすがに今日一日の疲れが出て、ちょっとうとうとしたところへ、国王がやってきた。長々と身体を伸ばしている王妃を見て、平然と声を掛ける。
「おう、来ていたのか」
「いちゃ悪いか。おまえが来なければおれが一人でごちそうを平らげるところだったぞ」
寝そべったまま答える。愛妾の住居での、これが国王夫妻の会話である。
台所からポーラが飛んできて国王を出迎えた。外套を受け取り、いつもの場所に掛け、急いで台所に戻っていった。
「お二人とももう少しお待ち下さい。すぐ用意いたしますから」
国王は食卓の上に用意されていた酒の硝子瓶を取り、手酌で|杯《さかずき》に注いだ。ポーラが王妃のために用意したものだが、王妃は長椅子に転がったまま、手をつけようとしなかったのである。だが、国王が飲んでいるのを見て、身振りだけで自分にもよこせと合図した。
「ものぐさな奴だな」
呆れながらも国王は杯を酒で満たして、手渡してやる。
王妃は長椅子の背もたれに寄りかかって、国王はその傍の椅子に腰を下ろして、二人はしばらく無言で酒杯を傾けていた。
やがて、王妃は台所には聞こえないような小声で話しかけた。
「ウォル」
「うん?」
「あのな」
「なんだ?」
「切実な要求――というより、お願いなんだけどな」
国王が思わず眼を見張る。いったい何事だと目線だけで問うのに答えて、王妃はため息を吐いた。
「頼むから、この次、ポーラが出かけるときの護衛役は他の誰かに任命してくれ」
意外な言葉に国王は気が抜けたらしい。不思議そうな顔になった。
「それが切実な願いなのか?」
「そうさ。おれにはこんな大任はとてもとてもつとまらないからな。この重大任務に比べたら、ゾラタスやオーロンの相手をするほうが遙かに楽だったぞ」
「これはまた聞き捨てならんな。何があった?」
「あとでゆっくり話してやるよ」
ますます不思議そうに首を傾げた国王が何か言おうとしたとき、王妃が居間の入り口を見やって、そっと目配せする。国王も心得て言葉を飲み込んだ。
「お待たせいたしました」
すばらしく食欲をそそる湯気を立てる料理の皿を持ったポーラが居間に戻ってきた。
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「これで、いくらの貸しだ?」
「いや、貸しているのは俺のはずだ」
二人は互いに自分の優位を主張しながら、つつましく横に控えていた従者に目をやった。|睨《にら》んだと言ったほうがいいような目線だった。
「今のところ、陛下が妃殿下に銀貨十枚の貸しですが……」
戦場には不似合いなくらい美しい少年従者はその視線の鋭さにいささか|怯《ひる》み、ためらいがちに答えた。本当は、たかが|博打《ばくち》なのですからそんなに真剣にならなくてもと言いたいのだが、口に出せるような雰囲気ではないのだ。
王妃は|絨毯《じゅうたん》の上にあぐらを|掻《か》いたまま頭をかきむしって|唸《うな》っている。
「どうも調子が出ないな。――もう一番だ」
「いいとも。受けて立とう」
国王は自分が勝っているだけに機嫌がいい。
傍に控えている少年だけがもの悲しげな吐息をついている。戦場とは確かに金品の飛び交う場所だ。兵士達が手にした報酬や略奪品を賭けて博打に興じることも日常茶飯事である。しかし、新婚の国王と王妃が熱中することではないような気がするのだが、王妃はそんな少年を見て真顔で言うのだ。
「おまえも参加するか?」
彼は慌てて首を振った。後には王妃の片腕的存在に成長するシェラも、このときはまだ若かった。それ以上に常識に縛られていたので、召使いが主人と賭事をするわけには参りませんと、至極もっともな言葉を返した。
「乾杯!」
「偉大な国王と勝利の女神に!」
|篝火《かがりび》の灯る陣地のあちこちからそんな声が聞こえてくる。こんな夜更けでも兵士達は意気|軒昂《けんこう》とし、寝静まる様子もない。つい先日、降伏寸前まで追いつめられていたのが嘘のような勢いだ。今、デルフィニア軍は国王と王妃の指揮の下、攻勢に転じ、タンガの領域内に撃って出ているところだった。
それでも、何と言っても新婚の二人である。側近の者達も何となく遠慮して、よほどのことがない限り夜間に押しかけるような真似は慎んでいる。ところが、その天幕の中では、国王と王妃が真剣勝負さながらの、まさに食いつきそうな表情で互いの持ち札を睨み付けているのである。
負けが銀五十枚になったところで王妃は札を投げ出して立ち上がった。
「なんだ。逃げるのか?」
口調だけはあくまでのんびりと、国王が挑発的な|台詞《せりふ》を投げる。
「誰が逃げるか。人数を増やすんだ」
外に出ていった王妃の背中を見送って国王は笑いをかみ殺した。一対一では分が悪いので、頭数を増やそうと言うのだろう。
とはいうものの、国王と王妃の博打に参加できるような度胸の持ち主はそうはいない。犠牲者が誰になるかは容易に想像がついた。|暫《しばら》くして王妃とともにやってきたのは、案の定、顔なじみの独立騎兵隊長である。
「あのなあ……言いたかないけどな。お前ら仮にも新婚だろうが。他にやることはねえのかよ? いくら何でもまずいって、みんなにさんざん止められたぜ」
口だけは呆れたように言いながらさっさと絨毯の上に座り込んでいる。こちらも部下の男たちを相手に博打に興じ、気前よく負けてやっていたところを、王妃に|拉致《らち》されたらしい。
「これで三人……と。ちょっと具合悪いな。シェラ、お前やっぱり参加しろ」
「ですが、私は何も賭けるような金品は持ってはおりませんから」
「体で払えばいいだろうが」
あっさりと言い放った王妃に、シェラはもちろん、国王も独騎長もぎょっとした。思わず絶句したが、王妃は平然と札を切っている。
「銀一枚で|雑兵《ぞうひょう》の首一つ。金一枚で武将の首一つっていうのでどうだ?」
「あ……ああ、そういう意味の体でしたら、はい! 精一杯、働かせていただきます」
冷や汗を浮かべながら、|膝《ひざ》を揃えてしゃっちょこばっている少年に、王妃はとまどいの目を向けた。
「――? 何を考えたんだ?」
「そりゃあ、新婚の旦那の前じゃあ、間違っても言えないことだよな」
手札を開きながらイヴンが笑う。この顔ぶれだと遠慮も身分の上下もあったものではないのだ。そのくせ手札を見る眼には表情がない。いい手が来たのか悪かったのか、イヴンの表情からはいっさい|窺《うかが》い知ることができない。
「新婚か……。今の俺には実に遠い響きだ」
手札を開いた国王が真面目に|呟《つぶや》いた。こちらは今度もいい手がきたらしい。
「さて、と。その王妃様はどうするんだ? だいぶ負けが込んでいるらしいが、それこそ身体で払うかい?」
「払ってもいいけどな。それ、賭になるのか。おれはタンガの連中がいやになってここから逃げ出すまで、徹底的に働くつもりなんだぞ」
イヴンは思わず目を見張り、声を抑えて笑い出した。
「やれやれ、呆れたもんだ。見事なくらいの似たもの夫婦だぜ。お前ら。普通、身体で払うって言ったら、もう少し色っぽいことを考えるもんなんだがね」
「お門違いだ」
冷然と切り捨てた王妃の横では、国王がいそいそと札を交換している。
「いや、この際、色気よりそうした闘志のほうがありがたい。色っぽい話なら他の女といくらでもできるが、勝利の女神はただ一人だからな」
シェラには到底口を挟めない会話である。こんな博打につきあうのも従者の勤めのうちだろうかと思いながら、恐る恐る、札をとった。
一通りの手札の交換がすむと、イヴンが懐から銀貨を取り出してめくり札の横に置く。応える形で国王も置いた。
「それではと。無一文の王妃にはいかほど乗せてもらおうかな。さしあたって連隊長格の武将の首を片手分といったところか」
「高い! 大隊長格に負けておけ」
「いいや、まからん。だいたいお前は従者の少年に武将の首を稼がせようというのだぞ。そのお前はまがりなりにも王妃なのだ。せっせと働かねば……」
「それを言うなら国王はどうなる」
真剣に議論しているところへ、突如、|闇《やみ》を引き裂く|雄叫《おたけ》びが響きわたった。
敵襲を告げる叫びだった。
王妃と国王、独騎長の顔つきが一瞬で引き締まった。別人のような厳しさだ。
時を置かずに国王の側近が慌ただしく駆け込んで来る。既に彼らはしっかり手札を懐にしまい込み、臨戦態勢を整えていた。
「続きは帰ってからにしようや」
「おう」
「とりあえず銀五十枚の借りを清算するか」
王妃の従者は唖然としながらも、この常識外れの主人達に|倣《なら》った。自分の手札をそっと衣服の中にしまい込んで立ち上がった。
陣内は不意の襲撃に殺気だち、具足の鳴る音や怒声が響いている。その中を慌ただしく進みながら、シェラは一度だけ笑いを噛み殺した。
できるだけ高い首を稼がなければならない。負けが込んだときのために。
今夜は眠れそうもなかった。