風塵の群雄 デルフィニア戦記8
CAST
ウォル(ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン)◎デルフィニア国。庶子であったため、一度はその地位を奪われるも多くの味方を得て再び王冠を被る。統率力に優れ、無私公正。戦士としても優秀。
リィ(グリンディエタ・ラーデン)◎異世界から来た少女。華奢で可憐な外見とは裏腹に無双の剣の腕と戦士の魂を持つ。ウォルの王権奪回に類を見ない活躍を示し、戦女神と讃えられる。後にウォルと結婚、デルフィニア王妃となる。
バルロ◎国内の名門サヴォア一族の当主で、公爵。ティレドン騎士団長。ウォルの従弟で毒舌家。ウォルのことを早くから国王と支持した。
イヴン◎独立騎兵隊長、兼親衛隊長。ウォルの幼なじみ。タウの自由民。
ナシアス◎ラモナ騎士団長。バルロの友人。
シェラ◎リィ付きの女官。実は少年。元・特殊技能集団ファロットの一員。
ドラ◎将軍。名馬の産地として名高いロアに領地を持つ伯爵。ウォルの養父フェルナン伯爵の親友だった。
シャーミアン◎ドラの嫡子。女騎士。
ロザモンド◎ベルミンスター公爵家当主。
エンドーヴァー(ラティーナ・ペス)◎子爵夫人。ウォルの元・愛妾。
アランナ◎ナシアスの妹。
ジル◎タウ屈指の人頭目。イヴンを高く、評価している。
マーカス◎タウの頭目。
パジャン◎タウの頭目。
ブルーワント◎サヴォア一族の実力者。
モントン◎サヴォア一族の重鎮ブルクス◎宰相。デルフィニアの裏も表も知りつくしている。
カリン◎女官長。ウォルを暗殺の危機から救った。
カーサ◎サヴォア公爵家執事。
アスティン◎ティレドン騎士団副団長。
ドゥルーワ◎先代デルフィニア国王。
アエラ◎ドゥルーワの妹。サヴォア公爵家に嫁ぐ。バルロの母。
ゾラタス◎タンガ国王。
ナジェック◎タンガ皇太子。
オーロン◎バラスト国王。
ヴァンツアー◎ファロット一族グライア◎ロアで黒主と呼ばれていた野性の悍馬。リィの騎乗を許す。
1
デルフィニアとタンガが事実上の交戦状態に突入してから五日が過ぎた。
戦端となったランバー付近の住民もタンガ側の国境近辺の住民も息を潜めて成り行きを窺《うかが》い、中には戦火を避けて避難する者も出てきた。
なんと言っても中央の華と言われるほどの大国同士の戦《いくさ》である。地方領主同士の小競り合いとは訳が違う。恐ろしいことになったものだと囁《ささや》きあった。
身分の低い者にとって戦争は不意に襲ってくる嵐に等しい。いつどこで発生するかわからず、ひとたびその進路に飲み込まれたらいかなる抵抗も意味がない。ただ成り行きに任せ、家や田畑を失うことになっても諦《あきら》めるしかない。
しかし、戦という嵐は本物のそれに比べてきわめて変則的だ。ほんの五カーティヴも進路がそれれば他人事《ひとごと》ですむ。直撃されても二、三日で通り過ぎてしまうものなら大した被害はないのだ。
領民がもっとも恐れるのは戦況が膠着《こうちゃく》し、軍隊に長居をされることだ。居座られたらこれほど厄介な質の悪い嵐はない。長引けば長引くほど灰にされる家屋や田畑が増え、数千数万もの殺気だった人間がそこら中に陣取り、合戦のたびに死者の埋葬や負傷者の世話に駆り出されることになる。そうなったら仕事はもちろん、平穏無事な生活などどこかへ行ってしまう。
加えて今回の戦は国境線で起きたものだ。味方が勝って敵国に攻め込めば戦場は移動して事なきを得るが、負ければ血に飢えた敵兵がどっとなだれ込んでくる。死活問題である。
双方ともに滅多に見せない熱意をもって自国の軍隊を支援し、その勝利を願った。
最初は奇襲を成功させたタンガのほうが圧倒的に有利だった。一時はデルフィニア国境の東の要、ランバー砦《とりで》を陥落《かんらく》寸前にまで追い込んだが、デルフィニアは王と王妃の働きでその苦境をひっくり返した。
特に王妃になったばかりのグリンダ王女はタンガの総大将であるナジェック王子を捕虜にするという離れ技をやってのけたのである。
勇者揃いで知られるタンガ軍もこれには慌てた。
デルフィニア軍はこの機を逃さず猛攻撃を掛け、ランバーまで押し寄せていたタンガ軍を国境まで押し戻した。タンガは逆に国境を越えて進入してくるデルフィニア軍を迎え撃たなければならなくなったのである。
主将を捕らえられた状態で猛追を食らったのでは持ちこたえられるはずがない。普通ならそのまま総崩れになるところだが、今回ばかりは違った。
ゾラタス王の率いる一万もの軍勢が国境を目指して進軍中の情報が入ったのである。
先手敗北の知らせにはゾラタスもさすがに驚いたらしい。負けるはずのない戦力を送り込んだはずだからである。
しかし、息子が捕虜になったことを聞いても、この父親は顔色一つ変えなかった。それどころか動揺する部将たちを逆に叱りとばした。
今ここで手を引けばナジェック王子はとらわれ損である。自分が捕虜にされたことで味方の大敗北を招いたと知れば、王子は恐らく生きてはいまい。
次期国王にそんな辱《はずかし》めを与えぬためにも、その王子の身柄を無事に取り戻すためにも、ランバーに駐留しているデルフィニア軍を叩き潰さねばならぬとタンガ国王は激しい決意を示し、さらなる攻撃を命じたのである。
その勅命と強力な援軍の到着に、潰走寸前だったタンガ軍は完全に立ち直った。
デルフィニアはランバー砦を、タンガはこの辺り一帯の領主の城を拠点にして睨《にら》み合う形になった。
双方ともに国王を将とした必勝の態勢である。
戦闘は膠着《こうちゃく》状態に陥った。
「だめだな、これは」
と、デルフィニア国王は居並ぶ諸将を前にして、肩をすくめた。
「連中、捕らえられた王子のことはまるで眼中にない。せっかくの人質も敵がいらんと言うのでは話にならん。処分を考えたほうがいい」
その場にいた武将たちは少しばかりどよめいて、王妃になったばかりのグリンディエタに眼をやった。
今の王妃は小荷駄が到着すると同時に窮屈《きゆうくつ》な花嫁衣装を脱ぎ捨て、あり合わせの麻服を纏《まと》っている。
知らない者が見たら従者と間違われても仕方がないような姿だったが、額に置いた銀環と腰に差した見事な造りの剣は、どんな装飾品よりもこの人の姿を引き立てている。
どうしてその場の視線が集まったかと言えば、王子を捕らえたのがこの人だからだ。
戦場での働きは手柄として評価される。それは一兵卒も部将も変わらない。
敵の主将を捕虜にしたとなれば文句なしの大手柄である。最大の功労と言ってもいい。
武勇を讃えられ、重く賞されてしかるべきなのに、その手柄をふいにされたら、これは武名を重んじる者にとって非常な衝撃であり、屈辱である。
まして王妃は気性の激しいことで知られている。
武将の一人はその心中を慮《おもんばか》ってか、こんなことを言った。
「おそれながら、今一度、王子の身柄と引き替えに降伏するよう、もしくは兵力を削減するよう、勧告してみてはいかがでしょうか」
「それで言いなりになるような可愛らしい父親とはとても思えんぞ」
「しかし、せっかく妃殿下が捕らえてくださいましたものを……」
その妃殿下は国王そっくりの仕草で肩をすくめた。
「ウォルの言うとおりだ。もともと敵を混乱させるのが目的で捕まえたようなもんだからな。その敵はゾラタスの一喝で混乱から立ち直り、攻撃をやめる気配もないとなれば、置いといても仕方がない」
「うむ。お前にはすまぬと思うが……」
「そんなことは気にしないでいい。お前が大将だ。
それで? どう処分する?」
これに関しても部将の間からは処刑すべきであるとの意見が出た。タンガは人質をいっさい無視して委細かまわず攻撃を繰り返しているのである。見せしめとして示すべきだというのだが、国王は頷かず、いたずらっぽく王妃を見た。
「どう思う?」
若い王妃は可愛らしく首を傾げた。
「いらないものを片づけるのにそんなに手間をかけるのもばかばかしいんじゃないか?」
「まさにしかりだ。王位継承者となるとその遺体も丁重に送り返さねばならん。そこでだ。俺としては、お前さえ許してくれるのなら、今のうちに捨ててしまいたい」
武将達は眼を剥《む》いたが、王妃は真顔で答えた。
「それが妥当なとこだろうな」
二日後の夜、タンガの王子ナジェック・ユンクが捕らえられていたランバー砦を脱出した。
王子は捕らえられてからずっと砦内の一室に監禁されていた。敵国のとはいえ、一国の王子を地下の牢獄に入れるわけにもいかず、一応は客人の扱いとしたのである。
しかし、若さと自信と猛々しい精気に満ち溢れているナジェック王子である。おとなしく客人でいてくれるわけがない。デルフィニア側もそれを警戒し、厳しい監視下に置いていた。
じりじりしながら脱出の機会を狙っていた王子はこの夜、密やかな声で起こされた。
「もし、もし……殿下、お目覚めください」
声と同時に王子はむくりと身を起こしていた。
「何者か?」
「陛下の思し召しにより参上つかまつりました」
密やかではあるが緊迫した声である。
すでに真夜中だ。王子が閉じこめられているこの部屋は砦の離れにあたる。一般の兵士があまり近づかないようにという配慮だが、もちろん昼夜を問わず厳重な見張りがついているはずだった。
しかし、扉の外にうずくまっているらしい人影は一人のようだ。見張りがこれを咎《とが》める気配もない。
「見張りには金銭をつかませて遠ざけておきました。
今のうちでございます。さ、お逃げ下されませ」
囁くような声と同時に鋲《びょう》の打たれている重い扉が少し開いた。
王子はすかさず行動を起こした。暗い廊下に出てみると、そこに黒い覆面を被った小さな人影がうずくまっていた。
歳の頃がよくわからない。頭より高く掲げた両手に王子の大剣を乗せている。
その姿勢のまま、かすれた声でさらに言う。
「かような風体で御前に現れますこと、平にご容赦ください。私、外までご案内申し上げます」
「む……」
尊大な仕草で剣を腰に差し込むと、王子はすんなりと謎の人物の後について歩き出した。一国の後継者の誇りはこんな時でも健在である。
何よりタンガ軍が自分の奪回にこのような手段を用いてくることは大いにありそうなことだし、父、ゾラタスが激しい人であると同時に恐ろしく知恵の回る人であることもよく承知している。
恐らくは何年も前からこうした者を密かに敵方に送り込んでいたのだろうと思った。
その曲者《くせもの》は敵兵で溢れている砦の中を楽々と移動して、実に巧みに王子を北側の小さな戸口まで案内した。
やはり、見張りはいない。
「手はずは整えておきました。ここを出てしばらく行きますと右手に茂みがございます。この季節でも葉をつけている大木が一本だけ立っておりますから、それが目印になりましょう。馬をつないでおきましたから、馬と共に川を渡ってお逃げ下されませ」
「言われぬでもわかっておるわ」
王子はむしろ傲然《こうぜん》と言い、それでも慎重に辺りに気を配って砦から滑り出た。
脱出の手引きをしてくれた人影にはねぎらいの言葉一つかけず、名前も尋ねなかった。身分の卑しい者が高貴な人のために働くのは当然のことだからである。
感謝するどころか、王子は苛立ちと憤りを感じていた。
一国の王子たる自分がこんな下卑《げび》た者の力を借りて自由を得るとは何とも情けない限りではないか。
誇りと名誉を何より重んじ、恥辱を何よりも忌み嫌うナジェック王子は、いっそ、この怪しい人物を切り捨ててしまおうかとも考えた。この先、王子の醜態を決して口外できないように、である。
しかし、これが父の手の者であるとするなら、勝手にそんなことをしたら自分の命がない。理不尽な怒りを覚えてはいたが、敵方に深く潜入して働いている者はタンガにとって貴重であると考えるだけの分別は残っていた。
舌打ちしながらも後を振り返らずに砦を離れた。
茂みの中の馬はすぐに見つかった。苦戦続きのタンガ軍は今はかなり後退し、ランバー砦から離れている。濡れた体で夜通し歩かずにすむようにという心遣いなのだろうが、とてもとてもそこまで考えを巡らすことのできる王子ではなかった。
一刻も早く本隊に合流したい}心で馬の口を取り、ランバー砦をぐるりと囲んでいる川にざんぶと身を躍らせた。
相当に深く、流れも速い川だ。王子は全身びしょぬれになり、馬はなかなかまっすぐは進めない。
三月とはいえ、この地方にはまだ雪も残っている。
氷のように冷たい水だったが、王子はいっこうに気にしなかった。だいぶ流されながらもどうにか川を渡って対岸にたどり着いた。
ランバー砦の明かりはここからでもよく見える。
規定の見張りも出ているようだが異常に気付いた様子はない。
凍えそうになっていた王子の顔に初めて笑いが浮かんできた。
明日の朝、自分の脱出を知ったとき、あの砦がどんな騒ぎになるか、怪しげな術を使って自分を負かした、娘と言ってもいいような若い王妃がどんな顔になるか、想像するだに愉快だった。
「阿呆どもめ」
間抜けな見張りに嘲笑を浴びせて、ナジェック王子は馬の首を返して駆け去ったのである。
戦闘意欲こそ失ってはいないものの、初戦で痛い敗北を喫したタンガは、用心のため、国境から十二カーティヴも離れた場所に本陣を布《し》いていた。
単身駆け戻ったナジェック王子を見て、兵士達が驚いたのはもちろんである。皆、若い主君の武勇を褒《ほ》め称《たた》え、王子も得意満面で答えてみせた。
「デルフィニアの牢獄など俺にかかればこの通りよ。
間抜けな奴どもだ。せっかく捕らえた敵の将をむざむざ逃がして気付きもせんのだから、呆れてものも言えん。こうして俺が戻ったからにはあんな腰抜けどもに大きな顔はさせておかぬぞ」
口々にお見事と賞賛され、そっくり返ってみせた王子だが、さすがに父王の下《もと》に出向いたときはいくぶん神妙な顔つきになっていた。
ケイファードを出発するとき、ナジェック王子は必ずランバーを陥落させろと命じられた。それだけの軍勢も持たせてもらい、前もっての工作も効果を上げていた。
戦に絶対はない。が、ここまでお膳立てを調えられていながらランバー攻略に失敗したとなれば、責任を追及されずにはすまない。
緊張の面もちで帰還の報告をし、失敗の原因を報告した。王子にはあの王妃が何か怪しげな術を使って自分を陥れたとしか思えなかったので、そのことを熱心に訴えた。
ゾラタス王は終始無言で息子の弁を聞いていたが、王子が語り終えると、表情一つ変えずに言った。
「そちはなぜ、生きて戻ることができたと思うか」
「はっ。デルフィニアの者どもは将士ともに腰抜けであります。陣中とも思えぬ油断しきった有様にて楽々と抜け出せました」
峻烈《しゅんれつ》で知られるタンガ国王は呆れたような笑いを薄く整った唇に浮かべた。
「たわけ」
「は?」
「日暮れ前にデルフィニアからの使いが参ったわ。
たいせつなご子息をお返ししますので、お迎えをさしのべられませと、小面憎くぬかしおった。ご丁寧にもそちには、お風邪など召しませぬようにという見舞いの言葉まで添えてだ」
呆気にとられた王子である。
「あの若僧め……いや、もしかしたらあの小娘の差し金か。見事にこのわしを手玉に取りおった」
ぽかんとしている息子とは逆に父王は冷ややかな気配を纏っている。
「わしはな、今日までそちの身柄を取りもどすあらゆる交渉を拒否していた。それで奴らがそちを処刑でもすればしめたものと思っていた。兵士の士気は大いに向上し、我々には極悪非道の敵を倒すまたとない好機が与えられる。そちにはこの上ない名誉ある死が与えられる。これぞ万事めでたしというものだ。そうは思わぬか?」
人身|御供《ごくう》にするつもりでいた息子を前にして平然と言ってのける。これがタンガ国王の怖さだった。
「ところが奴らはそちの命が役に立たないとわかるやいなや、あっさり返してよこしたのだ。尋常の方法ではなく、手の込んだ手段を使ってな。どうだ。
生き恥をさらしに戻ってきたことが飲み込めたか」
言われるまでもない。ナジェック王子は血の気の失せた顔でわなわな震えていた。
では、味方と信じていたあの謎の人物は実は敵の手の者だったのか。
何も気付かぬうつけ者と砦の敵をあざ笑っていた時、奴らはまんまと騙された自分を笑っていたのか。
ナジェック王子にとってこれ以上の屈辱はなかった。体中の血が煮えるかと思うようだった。
憎悪に顔を歪ませて、王子は憤然と叫んだ。
「父上。何とぞ、出撃の許可をお与えください!」
「ならぬ。そちは後方へ退き、ケイファードと本隊との連絡に務めよ」
「それは――それは、得心が参りません! 騎士たる者かような恥辱を受けたからにはおのれの手で拭わねばなりません!! 是非とも一軍をお与えください。お許しさえいただければ今度こそ敵の息の根を止めてご覧に入れます!!」
「たわけ!!」
ゾラタスはかっと眼を見開いて息子を睨み据えた。
「貴様、その頭は何のためについておる!? 奴らが逃亡を手助けする形で貴様を放免したことをなんと看ておる!今、貴様を前線に戻せば、三度までもあの若僧にしてやられることになるわ!」
「……」
「敵に情けを掛けられた。この汚辱は自分の手で拭わねば面目が立たぬ。奴らは貴様がその心理になることまでを見越している。逆上した貴様がどんな暴挙に及ぶか、どんなばかげた采配を揮って我が軍を壊滅的な危機に陥れるか、眼に見えるようだわ!タンガの軍勢は貴様の体面を施すためにあるのではない。誇りとやらを重んじるならばこれ以上の恥をさらさぬ内に後方へ退《しりぞ》けい!!」
その凄まじい眼光に貫かれた王子は身動きすることもできなかった。金縛りにあったように疎《すく》み上がった。
そして、たった今の激昂が嘘のように静まり返ったゾラタス王はゆっくりと言ったのだ。
「先手を率いる大将の身でありながら軽率にも敵に一騎打ちを仕掛けたことは許してやる。だが、同じ過ちは二度は許さん。このこと、しかと肝に銘じておけよ」
ゾラタスはナジェック王子の外にも四人の男子を儲けている。
うち二人は正妻の子、二人は妾腹の子だ。
妾腹の子は論外としても、あまり役に立たないようなら廃嫡も覚悟せよと言っているのである。
憎悪に赤黒く染まっていた王子の顔が恐怖のために蒼白になった。
強情で自信家のナジェック王子だが、この父親の怖さは骨身にしみて知っている。無能となれば我が子だろうと冷然と切り捨てる人だ。
総身にじっとりと冷や汗をにじませ、ほうほうの体《てい》で引き下がったが、胸のうちには激しい怒りと憎悪が渦巻いていた。
そんな王子を気遣って家来達がいろいろと慰めの言葉をかけたが、耳に入るはずがない。
「俺に……この俺に情けをかけたのか、小娘!!」
呪詛《じゅそ》の叫びだった。
父王への恐怖心も屈辱をはらす機会を奪われた恨みも、デルフィニアの庶子王と成り上がりの王妃に対する憎悪にすり替えられた。あの二人が今頃どんな顔で自分を嘲笑《あざわら》っているかを思うといてもたってもいられなくなる。
「今に見ておれ。この仇はきっと取るぞ。俺を見くびったことを泣いて後悔させてやる!!」
これ以後、ナジェック王子は父王の命令に従い、しばらく戦の表舞台から身を引くことになる。
その分、デルフィニア国王と王妃への恨みがいかに深く激しいものになっていったかは想像に難くない。しかし、それはまた別の話だ。
その王子を砦から逃がしてやったシェラは安堵の息を吐いて、ことの次第を報告に国王と王妃の前にまかり出た。
深夜を回る時間だが、二人とも戦装束に身を包んだままシェラを出迎えた。
結婚式が済まないうちに戦争が始まり、あわただしく飛び出してきた二人である。新婚らしい時間を過ごす間もなくお気の毒に、と、そんな考えがふと浮かんで、思わず苦笑した。
大きな緑の瞳が不思議そうに瞬きする。
「どうした?」
「いえ、別に……」
「何でもないって顔じゃあないぞ?」
猫のように可愛らしく、女豹《めひょう》のように物騒な顔に迫られて、シェラは苦笑しながら弁解した。
「本当に何でも……、またあなたを怒らせるようなことを考えた自分がおかしかっただけです」
「ま、呑め。体が冷えただろう」
国王が手ずから美酒を勧めてくれるのをシェラは恐縮して受けた。
ナジェック王子を逃がした手際とその後の様子を詳しく報告し、最後にためらいながら付け加えた。
「ご命令通りにいたしましたが……、本当にあれでよかったのでしょうか」
『陛下』の(正確には妃殿下の)とんだ『思し召し』で敵の主将を逃がしたわけだが、それ自体はうまくつとめたつもりだ。
顔を隠し、服を調節して体型をごまかし、声色を使えば、誰も元のシェラを想像することはできなくなる。王子は自分を逃がした者が十六の少年とは夢にも思っていないはずだ。
王妃が首を傾げた。
「あれを逃がしたことが不満なのか?」
シェラは首を振った。そんなことはない。それは自分の考えることではない。ただ、間近に接した王子の人となりが気にかかるのである。
「あの方は私を斬り伏せようとなさいました」
国王は眉をつり上げ、王妃は顔をしかめた。
「礼を言うならともかく、何で斬ろうとする?」
「殺してしまえばよけいなことはしゃべれなくなりますから。敵中から逃れるのに私のような者の手を借りたとあっては自尊心に傷がつくのでしょう」
王妃はますます顔をしかめ、国王はおもしろそうな顔になった。
「少し話しただけにしては詳しいな?」
シェラは黙って頷いた。
ああいう人間のことならよく知っている。
傲慢で、尊大で、自分の生まれや身分に絶対の自信と自負を抱いている。度の過ぎた矜持《きょうじ》を異常なまでに重んじ、これを侵害されたときの怒りも執念深さも常人の理解を遥かに超えるものがある。
人質として使えないにしても、どうしてあのまま閉じこめて置かなかったのかと思った。国王も王妃もたちの悪い敵をわざわざ自分の手でこしらえたような気がするのだ。
「陛下は、誇りを傷つけられた王子が再び指揮を執れば、必ず冷静さを欠き、大失態を演ずるに違いないとおっしゃいましたが……」
「あれは口実だ」
国王は苦笑しながら言った。
「そうしてくれればありがたいのだが、ゾラタスはそれほど愚かな国王ではない。今後、全軍の指揮は自分で執る。少なくとも王子には任せんだろう」
不思議そうな顔になったシェラである。それでは本当にただの逃げられ損だ。
「戦にも駆け引きと規則というものがあってな」
と、国王は言った。
「勝つためになら何でもできるというものではない。
それこそ王という名に伴う矜持を重んじねばならん。
あれがただの部将であれば、お前の言うとおり閉じこめてもおけたが、一国の後継者となるとそれにふさわしい扱いをしなければならん。粗相があってはこちらが後ろ指を指される。かといってあまり大事にしまい込むのも苦況に陥ったときの切り札に取って置くかのような印象を与えておもしろくない。おまけにあの王子は切り札にもならん。第一に俺は負けるつもりは微塵もない」
王妃が笑い出した。
「な? この王様は何も考えていないひょうろく玉のようでいてけっこう強気なんだ」
肝を冷やした。
場末の呑み屋の女将《おかみ》ではあるまいし、仮にも王妃が国王に向かって『ひょうろく玉』とは間違っても言ってはならない言葉である。しかし、慌てているのはシェラ一人で、二人とも平然たるものだ。
「それよりお前、あの王子に本当に斬りつけられていたらどうした?」
「どう、といわれましても……」
相手は高貴な身分の人である。それは確かだ。
この世界の大抵の人がそうであるように、身分の違いを定めた階級制度はシェラの意識の根幹をなしている。
同時に今のシェラにとって王妃の命令は絶対だった。この場合それは王子を逃がすことであり、その報告をすることだ。
首を傾げ、考えながらゆっくりと言った。
「あの方を無事にお逃がししなければならない。これが第一だと思いました。ですが同時に、斬られるわけにはいかないとも思いました。実際にどう処置したかは、やってみなければわかりませんが……」
我ながらはなはだ心許ない答えである。
また怒られるかと首をすくめたが、王妃は怒らなかった。笑って、上出来だと言った。
ロシェの街道に設けられた関所を境にして、デルフィニア側の地名はランバー、タンガ側はカムセンと呼ばれている。その両方に巨大なタウ山脈は屋根のように覆い被さっている。
ランバーはタウの自由民と一種の紳士協定を結び、暗黙のうちに決めた境界線を守ることで今日までもめ事も起こさずに過ごしてきた。しかし、カムセン側はタウは自分の領土の一部であり、管理下に置く権利があると主張してはばからない。住民の登記と納税を強要したのも記憶に新しいところだ。
むろん本気で言っているわけではない。面積こそ広大だが、タウはとっくの昔に見捨てられた土地だ。
せいぜい木材がとれるくらいだが、それならタウでなくてもいい。タンガは国土のほとんどが山であり、森林である。今になってとってつけたように所有権を主張してくるのは政治的な理由に他ならない。
「大国のやり方ってのは山賊なんかに比べてえらいあこぎだねえ」
呆れたように首を振りながら言ったのは独立騎兵隊長、イヴンである。
「ま、きれい事ばかりじゃ戦はできないんだろうが、俺たちを悪者にしてくれたのは気に入らんね」
文句を言いながらイヴンは薄く笑っている。
いつもの飄々《ひょうひょう》とした表情に見えた。余裕すら感じさせた。が、眼は笑っていない。押し殺した危険な炎が燃えている。
独立騎兵隊はイヴンの指揮の下、小勢を率いてカムセン内に出没し、縦横無尽に荒らし回って引き上げるゲリラ戦に出た。
タンガが自分たちの名を騙《かた》って領内を焼き払ったことに対する報復である。そんなに俺たちを悪者にしたいのならお望み通りにしてやろうじゃないかという意趣返しでもあった。
もともとが山賊の彼らである。その手際の良いこと素早いことは、彼らの名を騙ったタンガ勢の比ではない。
民家を徹底的に焼き払ったのはもちろん、カムセンの要所を占める郷士の館に詰め寄せては護衛兵を蹴散らし、屋敷には火を放った。そのどさくさの中にもめぼしい財宝をいただくのは忘れなかった。
「こいつは、強盗とは言わんかね?」
苦笑しながら訊いたのはベノアのジルである。
イヴンより遥かに年長のジルだが、独立騎兵隊の指揮官はあくまでイヴンであるとの立場を崩さず、検分役として同行していたのだ。
「戦争中でなければそういうことになるんだろうが、この場合は立派な戦術だぜ?」
砦になりそうな要所にある館を焼き、財源を奪う。
基本中の基本である。
「なるほど。どうせ燃やしちまうものならいただいちまったほうが得か」
「そういうことだ。おい、ひきあげるぞ!!」
いただくものはいただくが彼らは決して欲張りはしない。あらかじめ見張りを立てて指揮官の号令一下で未練を残さず引き上げる。異変に気付いたタンガ勢が駆けつけてきても一人として捕らえられない。
こんな事件がカムセン内で多発したのである。
郷士たちはたまりかねて領主に訴え、領主は激怒して国王ゾラタスに助力を願い出た。
ゾラタス率いる正規軍の目的はあくまで正面からウォル・グリーク率いる軍勢を打破することだ。山賊退治は筋違いなのだが、連中がデルフィニアの味方をして働いているのは確かだ。放っておけない。
ゾラタスはタンガでも勇将の誉れ高いメッケル将軍に、大事の前にうるさい蝿を追い払うようにと命じた。
メッケル将軍はゾラタスが王になる前から仕えている側近中の側近である。少年の頃から数々の武功を立て、タンガにメッケル将軍ありと中央全土にその名を轟かせている人物だった。旗下にも多くの勇士をそろえている。山賊退治にはもったいないような人材だ。
将軍はあらかじめ諜者を使って山賊どもの動きを調べさせていた。その結果、国境近くのめぼしい屋敷はあらかた荒らし回ったこともあり、次には大胆にも領内深くに入り込んで一働きしようとしていることを突き止めた。
「しゃらくさい。血祭りに上げてくれるわ」
メッケル将軍はこの時五十歳。鍛え上げた体躯は一向に衰えを見せず、髪も黒々とし、眼光炯々たるものだ。
将軍は山賊退治には大仰と思えるような二千の軍勢を率いて意気揚々と出撃した。大事の前の小事ではあるが、それだけに迅速に処理する事が肝心と考えたのだ。
ところがこれが大失敗に終わったのである。
将軍が手勢を率いて到着した時、標的となった屋敷はすでに攻め落とされて火を吹いていた。その中を山賊どもは蟻《あり》さながらにせっせと働き、値打ちのありそうなものを持ち出しているのが、遠目からもはっきり見えた。
(大胆な真似をする)と、将軍は思った。さらには、(山賊ごときにこうまで蹂躙《じゅうりん》されながら手も足も出ないとは、カムセンの豪族たちも情けないわ。人の手を借りねばあんな蛆虫どもを追い払うこともできんのか)と、腹立たしさと軽蔑を感じたが、口にはしない。
大将がそんな態度を見せてはならないのだ。采配を振り、かっと眼を見開いた。
「タンガ領内で狼藉を働く不埒《ふらち》者ども! 眼にもの見せてくれるわ!!」
火を吹くような一声だった。応えて将軍配下の兵士達が一斉に雄叫びをあげ、鉦《かね》を打ち鳴らす。馬蹄の響きに大地を揺らし、弓から放たれた矢のように山賊めがけて襲いかかった。
田舎兵隊ならば蹴散らしてきた山賊どもも、この凄まじさの前には仰天したのだろう。不意を食らったこともあって最初から戦意を欠き、周章狼狽し、せっかく奪った金目のものも投げ出して逃げ去った。
「逃すな!!」
山に逃げ込ませては何にもならない。メッケル将軍らは猛追をかけ、ぐんぐん国境に迫った。
タウ山脈を間近に擁するこのあたりは山野部と平地の入り乱れた地形になっている。追われた山賊が逃げる途中、道の両側が壁のように切り立っている場所があった。せり上がった高い崖は道の上に覆い被さる格好になっている。
山賊は一息にこの場所を走りきった。これを追うメッケル勢も当然後に続いたが、先駆していた部隊が崖下を通り過ぎた頃、背後で凄まじい轟音と仲間達の悲鳴が響きわたった。
「なにっ!?」
悪夢のような出来事だった。切り立った崖が崩れ、本隊のほとんどがその下敷きになったのである。しかも崩れた崖の上に無数とも見える山賊達が現れた。
どうやったものか、待ち伏せしていたこの連中は崖の上部を故意に切り崩し、今また石や大木を抱えて投げ落とし始めたのである。
真下にいた兵士達こそ悲惨だった。
ある者は崩れた崖に押し潰され、ある者は転がり落ちてきた岩に頭を砕かれた。即死を免れた者も後から後から石や木が降ってくるのだ。悲鳴を上げて逃げまどった。
「おのれ! 外道!!」
先行部隊は激怒して馬首を返した。崖の上に駆け上がって岩や木を投げている連中を叩き落とそうとしたのである。だが、ここで、今まで後ろを振り向きもせずに逃げていた山賊達がくるりと向きを返した。血も凍るような鬨《とき》の声を挙げ、逆に襲いかかってきた。
仲間を救うどころではない。先駆の部隊は死に物狂いで戦う羽目になったのである。
メッケル将軍は軍勢の中程にいて指揮を執っていた。おかげで奇襲からは逃れたが、眼前で始まった惨劇には仰天した。しかも幅の狭い道の向こうでは先駆の部隊が懸命に戦って、いや、散々に追い散らされ、ばたりばたりと倒されているではないか。
「山賊相手になんたる醜態!! タンガ騎士の意地はどうした!!」
怒りのあまり眼も眩む思いで不甲斐ない部下を叱咤し、岩や木が降ってくるのもかまわず目の前の難所を突破しようとした。今度はその将軍の背後で騒ぎが起きたのである。
「将軍様! 敵が!!」
いつの間に近づいたのか、横手の道から騎馬の敵が現れて突っ込んでくる。
いっさい無言であり、無音である。正規軍ならば鬨の声を挙げ、鉦や銅鐸《どら》を鳴らして戦意を鼓舞するものだが、物音を立てて現れる山賊はいない。
影のように忍び寄り、狙い充分と見るや、鋼鉄の意志と気合いをもって獲物めがけて襲いかかるのだ。
気付いたメッケル勢は雨のように矢を射かけたが、そんなものでは止まらない。馬にも人にも入念な防護をかぶせ、騎乗の男達は籠手《こて》をかざしただけで突進してくる。
尋常の勇気や覚悟でできる行動ではなかった。鬼気迫る感さえあった。兵士達は思わず怯《ひる》んだが、さすがにメッケル将軍は勇猛の将だった。浮き足立つ兵士達を一喝した。
「迎え撃て! 何を臆することがあるものか! 格好の矢の的ぞ!!」
主立った勇士らも応えて一斉に鬨の声を挙げる。
これで兵士達も気を引き締め、一騎たりとも近づけまいとして矢継ぎ早に弓を引いたが、射れども射れども敵は止まらなかった。ある者は右に左に矢を払いのけ、ある者は針鼠のようになりながら委細かまわず突撃してくる。
攻撃しているのに、間違いなく効果を与えているはずなのに、少しも怯まず平気な顔で向かってくる。
これは攻める側にとっては大変な重圧である。しかも崩れた崖の向こうから、先駆の部隊を残らず平らげた敵が猛然と駆け戻ってくる。
部将達も思わずどよめいた。
相手は山賊である。絶対に負けるはずはなく、負けるわけにもいかないのである。しかし、現実に兵土達はこの不気味な敵に戸惑い、ためらい、恐怖していた。将軍の側近の騎士までが焦りを覚えたとき、追い打ちが来た。
背後で大喚声が上がったのである。
二重三重の伏兵だ。しかも今度のそれに取り囲まれたら退路は断たれたも同然である。ただでさえ動揺していた兵士達はたちまち浮き足立ち、逃げ惑い、大混乱になった。
「ええい、堪えろ、堪えぬか!!」
将軍がいくら激を飛ばしてもこうなってはどうしようもない。たちまち防戦一方となり、防ぎきれずに崩れ立ち、二千のタンガ精鋭軍は一方的に山賊に追いまくられたのである。
こうして将軍はほうほうの体で逃げ帰ったのだが、心中煮えくり返る思いだった。今までのどんな敗北よりその恨みは根深かった。
相手は名だたる将軍でも訓練された軍隊でもない。
簡単に退治できるはずの相手に手勢の半数を倒される惨敗を喫したのだ。このままにできるわけがない。
すぐさまゾラタスに願い出て、今度は五千という大軍を率いて、この恥を雪《そそ》ぐべくデルフィニア軍が本陣としているランバー砦に向かったのである。
山賊どもの後ろでデルフィニアが糸を引いているのは間違いない。主将を叩くことがすなわち屈辱をはらすことになる。
一方、メッケル将軍がこちらに向かっていると聞いてデルフィニア側は色めき立った。ゾラタスが擁する武将の中でも無双の豪傑である。これを倒すことがどれほど有意義か、言うまでもない。
国王はこの名誉ある役目を独立騎兵隊に命じた。
先日の戦いの功績を買ってのことだが、一度は撃破できたとはいえ、メッケル将軍は百戦の将である。
まぐれは二度は続かないと非難する声が陣内からあがった。たかが山賊にそんな重責が務まるのかと懸念する声もあった。
しかし、なんと言ってもタウの人々は初戦に勝利を収めたのだ。それも大勝利だ。こうした場合、引き続き相手をするのが陣中作法の常識である。
メッケル将軍の軍勢が押し寄せてきたのは三月だというのに雪のちらつく寒い朝だった。
五千の軍勢は勇士の名を示す様々な旗印を押しならべ、華麗な具足に身を固めている。比べて、赤と緑の旗だけが翻っている独立騎兵隊はいかにもみすぼらしかった。
家名を示す紋章をつけているわけでもない。金銀で象眼した鎧を纏っているわけでもない。主将のイヴンにしてからが黒一色の具足に身を固めただけの粗末な形《なり》だが、意気込みでは決して負けていない。
仲間達を振り返って陽気に言った。
「いいか、野郎ども。敵は勇猛果敢で知られるタンガ軍だ。普段なら俺達が面と向かって喧嘩を挑めば絞首刑ものだ。ところが今回はデルフィニアのお墨付きでおおっぴらに戦える。こんなおいしい機会は二度とねえからな。存分に腕試しといこうかい!!」
熱狂的な歓声があがる。
タウの自由民の結束の固さはなまじの軍隊を遥かにしのぐ。加えて彼らはタンガが自分たちを利用し、濡れ衣を着せ、戦の口実に使ったことに腹を立てている。
メッケル勢にとっては憎い相手のお出ましである。
小躍りせんばかりに喜んだ。
「山に逃げ込ませたからあんな不覚をとったのだ。
陣形を組んでの野戦ならばこっちのものだ。姿を見せた山賊など丸裸も同然、伏兵も奇策も使えまい。
ひともみに撃破してくれる」
と、勇み立ち、突撃をかけた。
しかし、ここでも結果は予想外のものとなった。
寄せ集めの軍勢に見えたタウ勢は練りに練った精鋭軍のような強さだった。防御よりも攻撃に重点を置き、堅固であることよりも機動力を命とし、縦横無尽に暴れ回った。
その中でも特にイヴンの采配は際だっていた。
相手がしゃにむに突撃してくれば陣形を固め、その隙間からあられのように矢の雨を降らせ、相手が怯んだと見るや、すかさず突撃を掛ける。
こんな戦では機先を制した者が圧倒的に有利だ。
黒衣の戦士はそれを見事に実行していた。勇猛で名高いタウの仲間達が彼の手足のように動いていることからもそれがわかる。この人の指示通りにすれば勝てると固く信じていなければ、こうも恐れを知らない戦い方ができるわけがないのである。
五千のメッケル勢は二千の山賊に散々に翻弄《ほんろう》され、大苦戦を強いられた。
「落ち着け! 敵の動きに惑わされるな!」
メッケル側の部将達は懸命に軍勢を立てなおそうとし、さらなる攻撃につなげようとしたが、させるイヴンではない。
兵士達が固まり、落ち着きを取り戻しかけたところを狙って仲間を突撃させる。ほとんどが騎馬の彼らは疾風のように切り込んではおもしろいように敵を蹴散らしていく。その采配にメッケル勢はきりきり舞いをさせられ、部将達は懸命に堪えながら口々に叫んだ。
「指揮官を狙え! あれさえ討ち取れば敵は有象無象の輩だぞ! 討ち取れ!!」
それっとばかりに大勢の騎士達がイヴンめがけて襲いかかったが、これまた思うつぼである。
「副頭目! また来ましたぜ!」
敵を打ち倒しながら陽気に言ったのはツールのプラン。その横でヌイのフレッカも忙しく働きながら叫んだ。
「今度のも豪勢な鎧を着てますぜ! いい値で売れまさあ! あまり傷をつけんでくださいよ!」
さすが山賊は目の付け所が違う。
イヴンも笑って馬を駆った。
「おうよ、まかしとけ!」
命のやりとりをしている現場で不謹慎なようだが、苦しいときでも平気な顔をして戦うのが山賊流だ。
タンガ騎士は主に重装鎧に身を固め、一撃で敵を砕ける戦闘槌や長槍を抱えている。タウ勢は籠手に胸当てをつけただけの超軽装だ。動きの速さでは圧倒している。
タンガ騎士が躍起になって繰り出す必殺の一撃も当たらなければ意味がない。
「へい、タンガのお偉いさん! 鎧が重くて身動きできませんかね!? お脱ぎになってはいかがで?」
こんなときでもとぼけた男だ。しかし、目線の鋭さ切っ先の激しさはとぼけているどころではない。
死神とさえ陽気に踊り、生死すれすれの綱渡りを楽しみ、自らの敵だけをその手に引き渡し、自分は紙一重のところで身をかわしてきた男だ。
巨大な戦闘槌の攻撃を右に左に受け流し、相手が疲れたところを一撃で馬から叩き落とす。すかさず他の者が襲いかかってとどめを刺していく。
腕自慢の勇士たちが次々と山賊に討ち取られ、予想外の敵の手強さに兵士達の動揺も頂点に達するに至って、メッケル将軍はたまりかねた。一度ならず二度までも山賊風情に後れをとったとあっては将軍の武名は地に落ち、汚泥にまみれる。
一息に片をつける必要があると思った。
「わしが出る! 続け!」
馬の口を取った将軍に従者が驚き、必死に止めた。
「お待ちください、将軍! 山賊相手に将軍がおん自らお出になるなどもってのほかでございます!」
「ええい、下がっておれ!!」
百戦錬磨の将軍もこの時ばかりは頭に血が上っていたらしい。槍をひっ掴み、馬廻りの騎士を従え、一隊を率いて突進した。
重装騎兵団の突撃である。大地は轟音と共に揺れ、鎧に重ねた色とりどりの上衣が風にはためき、実に勇ましい。
この時、イヴンのまわりには精鋭の男達がついていた。身軽さと研ぎすまされた刃と勇気を武器に、斬って斬って斬りまくっていた彼らは将軍が出てきたと同時に馬首を返して逃げにかかった。
「ばかめ、逃すか!!」
嘲笑とともに将軍が追う。ここぞとばかりに他の騎士達も後に続く。
しかし、イヴンが逃げたのは誘いだった。二陣に控えていた弓を抱えた徒の一隊がさっと進み出、この恐ろしい一団に向かって矢継ぎ早に射始めたのである。
入念な防護をかぶせていてもタウの人々の射術は並ではない。狙いも威力も群を抜いていた。滅多に空矢は出さず、当たれば必ず深手を負わせた。眼を射られた馬が暴れて騎手を振り落とし、またある騎士は鎧の隙間を貫かれ、悲鳴をあげて鞍から転がり落ちた。
「おのれ! 山賊! 次から次へと!!」
何本か矢を食らいながら将軍は怒髪天をつく形相で槍を振るって委細かまわず猛進した。鬼神のような勢いであり、気魄である。歯の根が震えるほどの凄まじさだ。
しかし、それでもタウの人々はくじけなかった。
かまわず射続けた。さしもの将軍も無傷ではすまず、突撃の速度が鈍った。
すかさず矢の合間を縫って突っ込んだ男達の刃が馬の足を引っかけたのである。馬は高く嘶《いなな》いて倒れ、もんどり打って投げ出された将軍めがけて容赦のない刃が振り下ろされた。
「下郎ども!」
端からはね除けて立ち上がろうとしたが、それが中央でも勇名を馳せたメッケル将軍の最期だった。
プランの投じた槍が分厚い装甲ごと将軍の胸を貫いたのである。将軍は驚くべき強壮さでそれでも剣を振るおうとしたが、プランは体当たりをかけて将軍を地面に縫いつけ、短剣を抜き放って斬りつけた。
大将分の者ともなれば首級《しゆきゆう》を挙げて実検に備えなければならない。が、山賊稼業の彼らは襲撃は得意でも首を刈った経験などない。馬乗りになって奮闘し、どうにか首級を挙げると、仲間の間からどっと歓声があがった。
その勢いはたちまち全員に広がった。戦いの疲れも忘れ、意気軒昂して、対照的に戦意喪失しているメッケル勢に猛禽のように襲いかかった。
主将を討ち取られたメッケル勢はもはや彼らの敵ではなかった。見苦しく逃げ惑うのを徹底的に追いまくり、散々に蹴散らしたのである。
この戦いぶりには味方の武将たちも呆気にとられていた。国王は最初から高みの見物である。友人の戦いぶりを悠然と眺めていた。
苦戦するようなら援護にまわることになっていたアヌア侯爵とドラ将軍も、独立騎兵隊の働きに舌を巻いたようである。
近衛司令官の証である紫の外套を翻したアヌア侯爵が感じ入ったように言う。
「どうやら我らの出番はありませんな」
その横でドラ将軍は腕を組んで捻っている。
「いかにも山賊流の戦法ではあるが、あのメッケル将軍を討ち取るとは……」
素人には熟練者がわからない。
中途半端に修行したものにもわからない。
だが、どんなに型破りであろうと、達人には達人がわかるのである。
デルフィニアはこの機を逃さずカムセンに進軍を開始した。一気に勝負をつけるつもりだった。
しかし、ゾラタス・ミンゲも俊秀で知られた国王である。ましてここで引けば間違いなくカムセンを取られることを知っている。しぶとく踏みとどまり、あくまで応戦の構えを見せた。
一方のウォル・グリークも引く気はさらさらない。
城の一つを拠点として、次々に敵方の城を奪っていった。ランバーにほど近い領主勢、近衛兵団、ロア勢と、雪の残るカムセンの土地を鬼神のように暴れ回った。
中でもメッケル将軍を討ち取った赤と緑の旗印はタンガ軍に強烈な印象を残したのである。黒一色の具足に身を固めた若い指揮官はタンガ兵士にとって悪魔にも等しい存在になった。
どこからともなく現れ、迎撃する間もなく猛烈な攻撃を仕掛け、慌てふためいて逃げ惑うのをよそに整然と引き上げる。
さらに王妃が出陣するとタンガ勢の混乱と驚愕は頂点に達した。
デルフィニアの人々がいやと言うほど知っている人間離れした力と技と戦いぶりを、グリンダ王妃は存分にタンガの兵士に見せつけたのである。
容貌魁偉《ようぼうかいい》な巨漢が並外れた技を振るうのはわかる。
驚き恐れはしても納得がいく。しかし、刺繍《ししゆう》針や楽器を持つのがふさわしいような小さな手が長槍を片手で振り回し、大の男を一撃でなぎ倒し、圧倒的な強さで寄せつけないとあっては、慣れているはずのデルフィニアの兵士でさえ眼を疑ったくらいだ。
タンガ兵士にとっては悪い夢にしか思えなかったことだろう。
剛強で知られるタンガ騎士たちは目の前で起きている出来事を簡単には現実と信じられなかった。
ナジェック王子がいみじくも考えたように何かの手妻であり、仕掛けがあるに違いないと思った。
「どんなからくりがあるか知らんが我が手で暴いてくれる!」
腕自慢の騎士ほど熱くなって猛然と突撃した。
また、相手が女ということもあって律儀に一騎打ちを挑むのだ。ろくな甲冑《かっちゅう》も纏わない王妃は巨大な黒駒《くろこま》の上で気の毒そうな表情さえ浮かべていた。
王妃の眼から見ると堅固無類を誇るタンガの重騎兵は動きの鈍いかぶと虫のようなものである。装甲は固いが馬から叩き落としてしまえばそれまでだし、必殺の破壊力を誇る重量級の武器も滑稽《こっけい》に見える。
「動きの速さと頭の良さでグライアに勝る馬はない。
力と技でおれに勝る騎士もいない。一対一では申し訳ないような気がするんだがな」
誰にともなく呟くと、その愛馬が非難するように鼻を鳴らした。命のやりとりをする場で不謹慎だと言いたかったのかもしれない。
王妃は笑って馬の首を撫でた。
「悪い、悪い。まじめにやる」
そんなことを優しく話しかけた次の瞬間には槍を一閃させ、向かってきた騎士を馬から突き落としている。動かない的を突くような無造作な仕草だ。
誰がかかっていっても同じだった。まさに一騎当千の強さである。王妃に挑んだ騎士達は皆、馬から転げ落ちるか無惨にも串刺しにされ、まるで相手にならないということを自ら実践する羽目になったのである。
気の毒だったのはこんな光景を目の当たりに見せつけられたタンガの兵達だ。
戦は気合いである。名のある勇士を次々に討ち取られては意気阻喪《そそう》しないほうがおかしい。もう一つ、この少女は本当に人間なのかと疑い恐れる気持ちが兵士達の間に生まれていた。決して倒せないのではないかという絶望的な恐怖感だ。
王妃に従っているのはジル率いるタウの別働隊である。相手が弱腰になったその隙を見逃したりは決してしない、襲撃にかけては玄人の集団だ。
鬨の声を挙げて突撃すると、タンガ勢はたちまち崩れて潰走した。小石を投げ込まれた鳥の群が飛び立つようなものだ。実にあっけない。
こうしてデルフィニアは次第に優勢に転じてカムセンの要所を次々に押さえていったのである。
2
進軍中の軍勢は天幕を張って本陣にしている。
夜ともなれば何千もの篝火《かがりび》が灯り、裸の野原に突然大きな村が現れたかのように見える。勝ち戦《いくさ》が続いているので兵士達の表情も明るく、軍勢全体に張りがあった。
意気軒昂《けんこう》たる軍勢とは裏腹に、総大将である国王は引き上げの時分を計っていた。
ここはもう外国だ。調子に乗ってあまり進むのは危険である。タンガが逃げ出してくれれば堂々と勝ち鬨《とき》をあけて引き上げるのだが、諜者《ちょうじゃ》の報告ではゾラタスに陣払いの気配はないという。
増援を待っているに違いなかった。
タンガ全土から集まってきた軍勢と正面からぶつかるようになったら全面戦争は避けられない。
敵の猛将メッケルを討ち取ったことでもあるし、後はどう引き上げるべきかと思案を巡らしていると、小者がやって来て、独立騎兵隊長が来たことを告げた。
「おお、ちょうどよい。通せ」
連日出陣し、出れば必ず戦果を挙げて帰ってくるイヴンだが、飄々《ひょうひょう》とした態度は少しも変わらない。
国王とは幼なじみということもあって遠慮もしない。勝手に腰を下ろして、勧められる前から酒杯に手を伸ばした。
いつものことなので国王も苦笑して好きにさせておいた。
「今回はお前の大手柄だな」
そう誉めると、イヴンは笑って否定した。
「別に俺の手柄ってわけじゃない。タウの自由民はそんじょそこらの兵隊よりよっぽど優秀だからな。
誰が指揮を執っても同じことさ」
そんなことはないということを国王はよく知っているつもりだ。山賊稼業で鍛えただけに有能には違いないが、その分、個性の強い連中だ。よく言えば誇り高く、悪く言えば扱いにくい。
こんな男達には身分や権威を笠に着た命令は無駄である。金銭のみで動くこともない。彼らを従わせることができるのは真に指導者の風格と才覚を備えた人物だけだ。
国王は感慨深げに言った。
「タウの自由民にとっては国王の威令よりも頭目の命令のほうが恐ろしいらしい」
酒杯を手にしたイヴンも楽しそうに笑う。
「マーカスとパジャンのことか?」
「もちろんだ。ジルも入るな」
ソベリンのマーカスとアデルフォのパジャンは東峰に位置する村を二十年も束ねている、タウでも屈指の名頭目だった。二人とも六十を超す老齢だが、配下に対する影響力は絶大なものがある。
今度の戦は彼らの住処のごく近くで起きたものだ。
協力を申し出て今度の遠征にも同行しているのだが、実際、二人とも大した人物だった。
ジルもそうだが、国王から直々に手柄を誉められ行賞されてもかしこまるでなく、驕《おご》り高ぶるでなく、恬淡《てんたん》としている。ものやわらかな老人に見えながら、何とも言えない凄みと貫禄がにじみ出ている。
だからだろう。山賊として腕に自信のある荒くれ男達も彼らの前では至って神妙にしている。こわい顎髭《あごひげ》を生やしたいかつい顔の男達が別人のようにおとなしくかわいらしくしている様子は、感心すると同時に妙におかしかった。
「タウの住民は血気盛んと聞いていたからな。他の軍勢との間に厄介《やっかい》ごとが起きはしないかと案じていたのだ。が、その心配は無用だったな」
イヴンはまた笑って手を振った。
「そりゃそうさ。頭目の指示は絶対ってのがタウの掟《おきて》だ。ましてやあの三人が揃ってるんじゃあな。タウの自由民がいくら命知らずでも、その眼の前で騒ぎを起こそうなんて度胸のある奴はいやしねえよ」
「しかし、お前もそのジルどのに見込まれただけのことはあると思うのだがな?」
元来が陽気な風来坊のイヴンは男達の心をうまく捕らえてあしらっているようだった。
気《き》っ風《ぷ》のよさばかりではない。知恵も利く。プランやフレッカのような、自分の村では組頭と呼ばれる男達が、この男の指図に喜んで従っていることからもそれがわかる。
男はくすぐったそうに肩をすくめた。
「だから、俺でなくても同じなんだって」
「あまり遠慮をするな。メッケル将軍を討ち取った功績はいくら讃えられても過ぎることはないのだ」
イヴンはそれでも笑って国王の賛辞をまともには取り合わなかったが、ふと、真顔になった。
「なあ、俺は本当に手柄を立てたと思うか?」
呆れ返った国王である。
「当然だ。あれで我が軍がどれだけ有利になったと思っているのだ? 文句なしの大手柄だとも」
「それじゃあ、褒美《ほうび》をねだってもいいかな?」
「おお、もちろんだ」
少しばかり意外に思いながらも国王は身を乗り出した。
この男は今までこんなことを言ったことはない。
それどころか下手に恩賞のことを持ち出すと機嫌を悪くする。
かつての王女もそうだったように、報酬が欲しくてお前の味方をしているわけではないというのが、この男の誇りだからだ。
その潔さと友情を嬉しく思いながらも何も報いてやれない歯がゆさも感じていた。向こうが欲しいというならいい機会である。大きく頷いた。
「望みがあるなら何なりと言ってくれ。地位か、役職か、それとも金銀?」
「領地がいいな」
これには真剣に驚いた。耳を疑ったくらいだ。
何かの間違いではないかとあっけにとられている国王に比べ、イヴンの碧い眼はいたずらっぽく笑っている。
「どうしたよ?」
「いや、その、すまん。珍しいこともあるものだと思ったのだ」
「俺が領地を欲しがるのはそんなに変かい?」
国王は真顔で頷いた。
「あの王妃が『真珠の首飾りが欲しいの』と言い出すことくらい変だと思うが……、むろん他でもないお前の頼みだ。喜んで与えよう」
「ほんとだな?」
「うむ。約束する」
「国王に二言はないな?」
「くどいぞ。――それで? どの辺りの土地を所望なのかな?」
「タウの東峰そっくり全部」
再び絶句した国王である。
今度の衝撃は大きかった。愕然《がくぜん》としていた。
その顔から驚愕が消え、深く考える眼の色になっていくのを、端正な顔が厳しい表情に引き締まるのを、イヴンは酒杯を片手に黙って見守っていた。
タウ山脈の東峰はデルフィニアの国土ではない。
大きくカムセンに張り出しているタンガの領土だ。
すでにタウの人々が住み着いて百年以上にもなり、事実上彼らの土地と言ってもいいのだが、タンガ、デルフィニアそれぞれの書庫に眠る古文書を調べれば、書類上は間違いなくタンガの領土である。
もぎ取ってしまえと言っているのだ。この機会にタウの東をそっくりデルフィニアの領土にしろというのである。
できないことではない。勝利を口実に境界線を引き、今日からこの土地はうちの領土だとやるのは、勝者の当然の権利でもある。
しかし、タンガは決して負けを認めまい。増援を当てにして和睦を突っぱねるに違いない。
自国の領土を敵に譲渡するのは、支配者にとってこの上ない屈辱であり、無念である。
たとえそれが痩《や》せた懸崖《けんがい》の土地であれ、沼地であれ、山賊が住み着いている土地であってもだ。おとなしく渡すとは思えない。
長い沈黙の後に国王は軽く息を吐いたのである。
「なるほど……」
イヴンは眼を伏せたまま呟くように言ったものだ。
「やっぱり褒美にはでかすぎたか?」
「いいや、一度やると言ったものだ。違約はできん。
必ず与えよう」
きまじめな国王の態度に黒衣の男は小さく笑った。
「あっさり言いやがるぜ。そう簡単なものじゃないはずだろうが」
「くれと言ったのはお前だ。それに……」
国王の顔にゆっくりと微笑が広がる。何かうまいいたずらを考えついたときの子どものような顔だ。
「もしかしたら、お前の望みは戦を終わらせるいいきっかけになるかもしれん」
碧い眼が刺すように国王を見る。
しかし、金褐色に灼けたきれいな顔が笑っているところを見ると、呆れたのと賞賛とを半々くらいに示したようだった。
「お前やっぱり、なかなか王様らしくなってるな」
「とぼけるな。お前の狙いもそんなところだろう」
ラモナ騎士団長に西の押さえを任せたと言っても、あまりここに長居をするのは好ましくない。国王が遠い東の国境に離れている間にパラストが何を仕掛けてくるかわかったものではないからだ。
ましてゾラタスは存外にしぶとい。
局地戦では勝ってもこれを完全に撃滅することはきわめて難しい。むきになって仕掛け続ければいずれはこちらも力が尽きてくる。そのくらいなら、ある程度の戦果を挙げたのだから、共倒れになる前に和睦して引き上げるのが、デルフィニアにとってはもっとも好ましい。
「俺が苦しいのと同じようにゾラタスも苦しいはずだ。増援を待って粘ってはいるが、俺達の力は侮れないと思い知っただろう。このままではカムセン全部を取られるかもしれんと危惧《きぐ》しているはずだ」
「ところが、勝ってるお前がカムセンの一部分だけ、それもあんまり値打ちのありそうにないタウの東峰だけを引き渡せば和睦に応じると言えば 、普段なら領土を削られることなんか承知するわけはないだろうが、今度の場合は、なあ?」
「案外うまく片づくような気がするな」
二人は顔を見合わせてにやりと笑った。
国王はさらにいたずらっぽく付け加えた。
「タウの東峰すべてと言えば広大な土地になる。それだけの領地を統《す》べる者となると、デルフィニア広しと言えどもそうはないぞ。今までのように無位無冠のままでというわけにはいかんからな」
ついでに爵位も押しつけて寵臣《ちょうしん》にしてしまおうと思ったのだが、イヴンは両手を広げて肩をすくめた。
「俺はお貴族さまにもご領主さまにもならねえよ。
もらったその場でジルに譲ってやるからな」
「ジルどのに?」
「ああ。それで俺も借りが返せる。タウは誰のものでもない。自由民のものであるべきだ。ジルは土地を独り占めするような奴じゃないからな。東峰を村ごとに分配するか共同で治めるかは、今までと同じように頭目達が話し合いで決めるだろう。だから本当にお前に頼みたいことは、タウがタウでいられるように――保護して欲しい」
国王は即座に頷いた。
「彼らがデルフィニアの国民であることを望むというのなら、もちろん王として庇護しよう」
イヴンは日頃のとぼけた表情が嘘のような真剣な表情で長年の友人を見た。
「ただし、これだけは言っておく。タウの自由民は搾取《さくしゅ》されることも管理されることも断固として拒む。
そのくらいなら山賊のままでいることを選ぶ連中だ。
だから、お前にはタウの自治も認めてもらわなきゃならない。領土の一部に加えてもほとんどうまみがないことになる。それでもかまわないか?」
「言うまでもないことだ。それこそ俺は彼らに借りがある。自治領とはいえ、俺が保護することでその借りが少しでも返せるのなら、喜んで協力する」
本心からの言葉だった。
イヴンは眼を細めて、ゆったりと微笑し、酒杯を掲げてみせた。
「頭目達にそう言っておこう。たった今からこれは他の誰のためでもない、俺達自身の戦だってな」
翌日からのデルフィニア軍の攻撃は熾烈《しれつ》を極めた。
タンガも重装騎兵の壁をつくり、一糸乱れぬ構えを見せた。やはり苦しい展開である。
かといってその固い防御を完全に突き崩すことは近衛兵団の優れた戦闘能力をもってしても難しい。
そこでデルフィニアはタンガの本陣の背後を切り取ろうと試みた。補給路を断ち、増援との連絡路を断つためだ。
機動力ならデルフィニアに利がある。特にタウの軍勢は出ては引き、間隙を突き、猛然とタンガの防衛線を揺さぶった。
しかし、タンガ勢は実によく堪えた。普通これだけ揺さぶられれば兵隊の間に動揺や恐れが生まれるものだが、それがない。
タウの頭目達は一計を案じた。仲間の男達を敵の雑兵に紛れ込ませ、増援が遅れそうだの、誰それは敵と内通しているらしいだの、兵士達が不安になるような噂をばらまいたのだ。
これはさすがに効いて雑兵達の動きが精彩を欠くようになった。
頃合いを見計らって、ウォル・グリークはペンタスの大公に仲裁を依頼した。
タンガやデルフィニアに比べれば取るに足らない、ちっぽけな小国だが、血統だけは由緒正しいものを持っている。大華三国が形を成す前は中央でも随一の大家だったのが次第に没落し、とうとうテバ河の河口にある中州一つを都市として、そこを治めるに留まったのだ。
交通の要所なので大陸中から細工や織物職人が集まり、沖合に浮かぶ海賊島キルタンサスとも手を結び、共存共栄をはかっている。土地ではなく金銭によって栄えている、珍しい国家だった。
小国でも堕落《だらく》した家の主でも矜持《きょうじ》と誇りは別物で、ペンタスの大公は自分こそが中央の正当な君主であり、大華三国には土地を貸しているようなものだと自負している。
ある程度力のある人がこんなことを言えば、血戦沙汰にならずにはすまないところだが、今ではなんの力もない人だ。滑稽《こっけい》であり哀れでもあるが、おかしなもので、何となくありがたみがある。何百年も続く古い家柄の人であることも確かである。
そんな理由でオーロンもゾラタスも、そしてウォル・グリークもペンタスには一応の礼を取っていた。
仲裁役を頼まれた大公は快諾して交渉に乗り出した。血統の尊さを強く意識しながら武将としての実力はゼロの人だけに、世間の注目を浴びるような晴れがましい役目がことさら嬉しいのである。
早速ゾラタスの下《もと》に赴いてウォルの言葉を伝えた。
元はと言えばそちらのこじつけとも言える宣戦布告から端を発したことだが、我らはこれ以上の戦は望んでいない。また国境侵犯との言葉があったが、タウの住民は長年そこに住み着き、デルフィニアの国民となることを望んでいる。そこで、今後はカムセン中部に流れる川を新たな境界線とし、そこから西はデルフィニア領としたい、との主旨。
ゾラタスはこの提言に深く沈思した。
激情家のゾラタスだが、同時に徹底した現実主義者でもある。これ以上無理をしては取り返しのつかないことになるのがわかっている。適当なところで手打ちにするべきでもある。
デルフィニアの意図は明らかで、カムセンの半分というよりもタウが欲しいらしい。物好きなことである。
あんな山賊どもによくもそこまで義理立てするものだと思った。戦上手の若僧も案外馬鹿な真似をすると冷笑し、呆れもしたが、領土は領土だ。この東峰をそっくりデルフィニア領として認めるということは、小国にも匹敵する面積を敵方に増やしてやることになる。
どうにもおもしろくないのだが、現状はそんな感傷を許さない。
入念に下準備をし、満を持して乗りこんだにも拘《かかわ》らず、追いつめられたのはこちらのほうなのだ。
奇襲に失敗し、ランバー砦《とりで》を陥落《かんらく》できなかった件に関してはナジェックの先走りのせいと舌打ちする程度ですんだ。ところがその後が最悪だった。
国内でも無双の豪傑であったメッケル将軍を失い、ランバーを取るどころかカムセンをデルフィニアに取られかねない。
絶対の自信を持って乗り出してきただけにゾラタスの怒りは激しかった。家臣たちはその形相に顔色を失い、身を竦ませながら戦況を報告したくらいだ。
自軍のふがいなさに歯ぎしりしていても、ゾラタスは激情に我を忘れてはいない。きわめて合理的に状況を判断している。味方の劣勢は明らかであり、いったん和議を結んで引き上げたほうが得策だということはわかっている。
それを考えればペンタスの仲裁は渡りに船なのだ。
乗らない手はないのだが、何かが心に引っかかる。
あんな若僧に事実上敗北したことを宣言するのは腹立たしいとする意地はもちろんある。だが、それだけではない。
ゾラタスは戦の合間に見たデルフィニア王妃の姿を思い出した。
武芸自慢の娘と聞いてはいたが、実際にその戦いぶりを見て驚愕した。タンガの誇る重装騎兵を片手であしらう者がいるというだけでも信じられないのに、それがやっと十七になろうかという細い体の娘なのだ。
国王として数多くの豪傑と戦い、星の数ほどの騎士を見てきたが、あの王妃に匹敵する働きをしてみせる者には覚えがない。
ゾラタスは合戦の間にも再び、あの王妃に向けて刺客を放った。
もちろん誉められたことではない。まともな武将のやることでもないが、あの王妃の正体を確かめてくれるとの思いがあったのだ。
警備の厳重なコーラル城や、人目につきやすい城下町では無理でも、戦場でなら話は違う。
合戦の場は日常が通用しない、一種異様な空間である。どんな状況が生まれてもおかしくない。敵の雑兵に紛れて襲いかかってもいい。後ろから矢を射てもいい。どんなことでもできる。
長年、使っている細作《さいさく》の中でも腕利きの者たちを選んで差し向けたのだが、その男達の誰一人として帰ってこない。
王妃は相変わらず戦場を駆けている。
剛胆なことでは誰にも負けないゾラタス王もさすがに唸《うな》った。ナジェックでは歯が立たなかったはずとしみじみ思った。あの娘こそがデルフィニア国王に力を与えている勝利の女神と力説した占い師達の言葉も思い出した。
「……ナジェックの馬鹿ものめ。せっかく剣を交えたのだ。刺し違えて死ぬくらいの機転を利かせてもよかろうに」
幸いにもこの呟きは、かしこまって控えていた家臣達には聞こえなかったようである。
ゾラタス・ミンゲはデルフィニアの提言を受け入れ、和睦に応じた。
和睦の儀式と調印は滞りなく済み、両軍はカムセンから順次引き上げることになったのである。
デルフィニア軍の中で最後まで現地に留まっていたのは、パジャン、マーカス、ジルたちのタウの軍勢だった。
彼らの住処はこのすぐ近くだ。それが期せずして、遠く戻っていく正規軍を守る格好になった。
「ま、わしらもこれでデルフィニアの民人だからな。
そのくらいはしてもよかろう」
パジャンが言った。頭髪は残り少なくなり、短い髭は真っ白になっているが、赤銅色の肌にがっしりした顎をした、眼を見張るような巨漢だった。若い頃の並外れた強靱《きょうじん》さや敏捷さを今でも窺《うかが》い知ることができる大きな姿だ。
一方のマーカスは長身痩躯、細くとがった顎髭を生やし、ちょっと見には枯れた学者のような風貌《ふうぼう》である。その顔に苦笑を滲《にじ》ませてジルを見た。
「それにしても、お前のところの若いのはずいぶん思い切ったことをする。我々には何の沙汰もなしとはな」
「それだ。いきなり何の前置きなしにタウをもらってきてやったぞ、とはな。何事かと思ったわ」
二人の老頭目は顔と言葉は責めるように、彼らにとっては若い仲間を睨《にら》みつけたが、形だけだ。眼も声も笑っている。
ジルも笑って肩をすくめた。
「頼むから俺がやらせたとは思わないでもらいたい。
驚かされたのはこっちも同じなんだ」
この人は歳の頃がよくわからない。浅黒く灼けた肌は若々しく、精悍な容貌は覇気に満ち、物腰には世慣れた人の持つ落ち着きがある。
マーカスはあくまで難しい顔で顎を撫でている。
「しかし、ややこしいことになったな。王様はあの若いのに東峰をやると約束した。その若いのは自分はいらん、ジルに譲るという。それで、そのジルの意向はどうなのだ?」
「どうもせんさ。これは東峰の問題だ。ベノアが口出しするわけにはいかんよ」
「いいや。それこそそうはいかん。今やお前さんは東タウのご領主様だ」
「そうとも。是非ともわしらに土地の分配をお願いしなければならん」
二人は顔を見合わせてどっと笑った。無論冗談で言っているのである。
ジルもわざと大げさにいやな顔をしてみせた。
「やだねえ、年寄りは。ひがみっぽくていけない」
「ほう?言うではないか、若いの」
じろりと睨まれて苦笑したジルだった。不惑を過ぎて若いのと言われてはたまったものではない。
「あんたたちをさしおいてどうして俺が領主になんかなれる? 東峰にしたって同じことだ。デルフィニア領に加えられてもタウはタウだ。何がどうなるわけでもない」
イヴンは国王から自治の約束を取り付けている。
日陰者だった彼らは国民としての節度を守る限り、自由に生活していいというお墨付きをデルフィニアからもらったわけだ。
もっともいくつか条件がある。その一つには、新たな国境線沿いに対タンガの砦を築くことがある。
国としては当然の処置であると同時に、タウを完全に下ったところにあるから、別に支障はない。
デルフィニアの豪商から通行料を取るのをやめるつもりもない。ある意味では彼らの生活には今までと何の変化もないといえる。
「しかし、今度のことはいいきっかけになるのではないかな?」
慎重にマーカスが呟いた。
三人は申し合わせたように、何とも言えない表情を交換しあったのである。
探り合うというのではない。腹の底にありながら口にできない思い、互いの間ではわかりあっている何かを改めて確認したような、そんな表情だった。
ジルが小さな嘆息をこぼした。
「イヴンの奴はあの王様をよほど見込んだらしい」
「そういうお前さんはどうなのだ?」
ベノアの頭目は黒い眼を丸くしてみせた。そんな難しいことを聞かれても困るというような表情だ。
「答える前にまず年長者の意見を伺いたいな」
パジャンもマーカスもわざとらしく考え込んだ。
「ま、あまり利口ではないな」
「うむ。山賊に義理立てして自治を約束するとはな。
わしらにも実にねんごろな言葉をくださった」
「あれでは貴族達にはさぞ、うけが悪かろう」
「しかし、天性の戦上手だ。駆け引きもうまい」
「かと思うと至って鷹揚な好ましいお人柄じゃ」
「王様なんぞやらせておくのはもったいないのう。
タウにおればいい頭目になったろうに」
二人の老頭目は声を立てて笑った。
配下の者たちの畏怖と尊敬を一身に集めていても、意外なほどの茶目っ気を発揮する人たちである。
独立騎兵隊はタウ全土の人員から構成されている。
彼らがこの戦場に出てきたのは自分たちの住処を守るためもあるが、間接的に支援しているデルフィニアの国王がどんな人間か、その眼で見定めるためでもあった。
そしてパジャンもマーカスもウォル・グリークに及第点をつけたらしい。
「のう、ジル。ベノアはあの若いのに譲るのか?」
パジャンが一見関係の無いようなことを言い出し、ジルは困ったように首を傾げた。
「俺はそうしたいんだが、本人はいやだと言ってる。
一つところに縛られるのは性に合わないとかでな」
「ほう? それはまた……」
「二十年前の誰かさんが同じようなことを言っていたな、確か」
ジルは形のいい口髭に苦笑を浮かべた。
相手はタウの生き字引のような二人である。誰もが大頭目と認めるジルもいささか分が悪い。
「まあ、確かに、あいつは昔の俺に似てるよ。俺と違うところは、万事風任せのように見えても将来《さき》のことまで考えてるってところだろうな」
「タウの将来をあの王様に託すか」
「それ自体は悪い考えではないな。大華三国間で開戦というようなことになれば、わしらだけが無傷ですむはずがない。どうでもどこかと手を結ばねばならん」
「そのことだ。試しに三年、あの王様とつきあってみたわけだが、まあ合格と言ってよかろうよ」
「あとは西や南の連中と協議しなければならんな」
タウ山脈はいわば巨大な組合である。この三人は組合の中でも上位三人の実力者であることは間違いないが、それでもタウ全土に関することを彼らの独断で決するわけにはいかない。あくまで全員一致であることが条件だ。
「だがな、ジルよ。その席でお前さんが領主に選ばれることはほぼ間違いないと思えよ」
「あの若いのはお前さんにと言ったのだ。それに、なにぶんわしらは年寄りだからな」
「さよう。この歳になると遠出はきつくてのう」
意味深に笑う二人を横目で見ながら、ベノアの頭目は今度こそ呆れたようなため息をついた。
この実力者達は面倒ごとを全部自分に押しつけるつもりらしい。
「わかった。俺が代表になってタウとコーラルとの橋渡しをすればいいんだな?」
「そうとも。お前さんにはぴったりの役割だろうよ。
問題はそれよりも――」
マーカスは不自然に言葉を濁し、もう一人の老頭目は重々しく頷いてみせた。
「橋渡しはいいとして、どこまでを渡すかだ」
タウの実力者達は再び沈黙した。
天幕の外では若い男達がにぎやかに勝利を喜んでいる。
活気に満ちた空気とは裏腹に、それぞれの思惑に耽《ふけ》る三人の表情は、恐ろしく厳しく張りつめていた。
3
国王軍は五月中頃コーラルに凱旋《がいせん》した。
結婚式の直後、あわただしく出発したときはまだ冷たく地肌を見せていた丘も今は緑の絨毯《じゅうたん》に覆われ、コーラル城の白い外壁に陽光が反射してまぶしく輝いている。すでに晩春を過ぎて初夏の風景だった。
国王軍は市民に大歓迎された。結婚式後の祭りを中止せざるを得なかったこともあって、街は一気に華やぎ、活気に溢れた空気になった。
近衛兵団の兵士達は久しぶりに会う家族と団欒《だんらん》を楽しみ、王宮では諸侯たちを集めて祝賀会が開かれた。
しかし、国王は戻ってきたその日のうちから精力的に働いた。首都を守っていたティレドン騎士団をねぎらい、留守を任せていた宰相と諸事の引き継ぎをし、夜中まで二ヵ月分の書類に目を通していた。
翌日からは中部の貴族豪族が続々と国王の勝利を祝いにやってきたのでその応対に明け暮れた。
ビルグナからはナシアスもやってきた。これは単に凱陣を祝うというよりはパラストの動向について詳しく述べるためである。これまた休む暇もない。
忙しいのは国王ばかりではない。シェラも再び侍女姿に戻って、長い間留守にした西離宮の手入れをしていた。
ここに住み込むようになってから、宮の手入れも家事もシェラが一人で行っている。仕事がきついようなら誰かに手伝わせようかと王妃が言い出したこともあるのだが、丁重に断った。大変だとは思わなかったし、一人のほうが気楽でもあった。
窓を開け放って風を通し、垂れ幕の洗濯をし、夜具を持ち出して陽に当て、雑草だらけになった庭の手入れをしてと、日が暮れるまできびきび働いた。
王妃は例によって森へ出かけて戻ってこない。
一人きりの夕飯を住ませた後、本宮から女官長の使いが来た。
夜分申し訳ないが、妃殿下がお留守のようならば訪ねてきてくれというものだ。シェラは急いで身支度を整え、使いの者の先導で本宮へ降りていった。
「足下によく気をつけてください。昼間とはまるで感じが変わってしまうから」
使いの者はまだ二十歳にもなっていないと思えるような、あどけない顔の侍従だった。その顔が幾分上気している。王妃付きの若い侍女の美しさに心を奪われているらしい。
シェラは微笑して礼を言った。本当は、シェラにとっては手燭《てしょく》の明かりはむしろ邪魔である。闇に眼を慣らせば、本宮と西離宮を往復するのに何の造作もないのだが、この侍従にとっては明かりなしでは一歩も進めない真っ暗闇なのだ。他の人々にとっても同じことだ。
自分も見えないふりをしなければならない。
「本当に、この道がこんなに急な坂だったとは思いませんでした。昼とは何もかも変わって見えますね。
こんなに細い月の光の下では、お城もなにやら恐ろしげに見えます」
固い門と立派な城壁と近衛兵に守られている城の正面ではない。パキラ中腹から細く伸びている、山道のような道なのだ。
若い侍従はシェラよりよほど足下が危ない。はらはらしながらどうにか本宮にたどり着いた。
奥向きの最高責任者である女官長は、血色のいい顔をいくらか強ばらせてシェラを迎えた。
こんな夜更けに呼び出しを受けたことといい、その様子といい、何かよほどの大事が起こったらしいが、カリンはまずシェラを座らせ、優しく切り出した。
「ランバーではご苦労でしたね」
神妙に頭を下げながらも胸が騒いだ。
まさかカリンが知っているはずがない。
女官長の知っているシェラは、長い銀髪を垂らし、白い女官服がよく似合う娘である。黒装束に身を固め、鉛玉や小太刀を操る曲者《くせもの》の姿はこの人には知られてはならないものだった。
シェラの密かな緊張をよそにカリンは手ずから茶を淹れてくれた。
「妃殿下がお前を気に入ってくださるのは結構なことなのだけれど、なんのたしなみもない娘を戦場へ連れていくなんて――生きた心地もしませんでした。
妃殿下もせめて一言断ってくださればよいのに」
心配そうな顔でシェラの顔を覗き込んでくる。
「向こうで何か、怖い思いなどはしなかったかえ?
妃殿下のお傍に仕える娘に狼藉《ろうぜき》を働こうとするような者は、まず、いないとは思うのだけれど……戦の場は男の血を狂わせます。そこにお前のような娘がいたのでは、辛いことのほうが多かったでしょう」
荒くれ男達の中にたった一人放り出された侍女のことをカリンは案じていたらしい。
シェラは顔が上げられなかった。女官長の心配はまるで見当違いの滑稽《こっけい》なものである。なのになぜか笑えなかった。深々と頭を下げた。
「ご心配をおかけしました。ですがあの、妃殿下はとても気を遣ってくださいまして、私もできるだけ人前に出ないようにしていましたので……、何事もなくこうして戻ってくることができました」
「本当に。何よりです」
莞爾《かんじ》となったカリンは、咳払いして態度を改めた。
「ところで、ランバーでの二ヵ月、陛下と妃殿下のご様子はいかがでしたか?」
首を傾げた。
どう、と言われても困る。国王は泰然かつ堂々とした大将であり、王妃は千軍万馬の古強者だった。
それはカリンもよく知っているはずである。
思ったままを口にしたシェラに女官長は何とも言えない顔になって、吐息を洩らした。
「その様子では……やはりと思わぬでもないが……一度もご夫婦らしいことはなかったようですね」
絶句した。
茶器を取りあげて口元へ持って行こうとしていた手が完全に止まってしまった。落とさなかったのは奇跡である。紫色の瞳と愛らしい赤い唇をまん丸にして、シェラはしばらく硬直していた。
カリンは再び吐息を洩らしたが、苦笑を浮かべている。
「どうやら新参のお前のほうがあの方のことをよく理解しているらしい。今のお前の顔ではっきりわかりました」
慌てて顔を引き締めた。赤面する思いだった。
そう易々と心を読まれるようなことがあってはならないのだが、今のはさすがに効いた。
「ご無礼お許しください。妃殿下はあの、そうしたおつとめはあくまでお断りすると常々仰せられていらっしゃいますので……」
「妃殿下はそれでよいとしても――」
言いかけて女官長は言葉を濁した。
その胸のうちはシェラにも充分わかった。今の国王はまったく女性に興味を示さない、ように見える。
しかし、それでは困るのだ。
「王国には後継者が必要なのです。陛下にはどうしてもお世継ぎを儲けていただかなくてはなりません。
ぜひとも側室を置く必要があります」
「はい」
「ただ……名ばかりのご夫婦とはいえ、妃殿下にはおもしろくないことかもしれません」
シェラは微笑した。そんなことはないと即答しようとして、笑みを消した。
女官長の顔は真剣そのものだった。
なまじ王妃の異常とも言える力を何度も眼にしているだけに、夫の愛妾が気に入らないとなれば、何か思い切ったことをするのではと懸念しているのだ。
カリンのその懸念は決して大仰なものではない。
事実、今の国王もそうした血生臭い抗争のために危うく暗殺されかけ、カリンは赤子だった国王の命と引き替えに自分の子どもを失っている。
やっと十七歳のシェラには、初老の女官長の心の奥底に潜む機微《きび》まではわからない。ただ、この問題には細心の注意を払って取り組まなければとする姿勢はわかる気がした。慎重に答えた。
「私は、早くから奉公に出て、いろいろな家の内幕を見て参りました。聡明と評判の奥様が旦那様に激しい悋気《りんき》をぶつけるのも、品のいい、おとなしい奥様がお妾の顔を踏みにじるのも、この眼で見ました。
旦那様の浮気を鷹揚に認めていらしたできた奥様が、ある日、旦那様に刃物で斬りつけたこともあります。
やきもちは女性の方の常のようですから――」
「おやおや。お前はまるで女ではないもののように言うのだね」
女官長は慈愛に満ちた微笑を浮かべていた。年若い娘の潔癖が微笑ましく思われたらしい。
自分の言葉がくしくも真実をついたことは夢にも思わない様子で後を受けた。
「そうですね。殿方は嫉妬は大禁物だと言いながら、ご自分でその災厄の種を蒔《ま》くことをどうしてもやめられない。ただ、殿方の言い分にも一理あります。
お前の言うような奥方様は、事情もあるのでしょうが、あまり感心しませんね。賢いとは言えません」
「私もそう思います。ある奥様は旦那様のする事をすべてご承知でいながら何も知らないふりを装って、表向きは旦那様の言うことに、はい、はいと従っていらっしゃいました。大きな商家の奥様でしたのに少しも気取らず、奉公人達と一緒に楽しそうに働いて、旦那様のお仕事にも何かと気を配って……」
「そういうお宅はご主人が威張っているようでいて、実際には奥様に頭が上がらないのでしょう?」
シェラはにんまりと笑って頷いた。
「あがるはずがありません。猫の前足に首根っこを押さえられた鼠のようなものでした」
「これ……」
たしなめながらもカリンも笑っている。
そうした夫婦はどこにでも見られるからだ。
「妃殿下は私の知っているどんな奥様の型にも当てはまりません。あの方は、夫である陛下がどなたを寵愛《ちょうあい》しようと、何の関心も示されないと思います」
意志の力で悋気を抑えるのではなく、己の立場を慮って無関心を装うのでもない。興味がないのだ。
カリンは再びため息をついて、「多少は妬いていただきたいものです」
と、世間一般常識や旦那様方の希望とは正反対のことを言った。
この夜は他にも事件があった。
本宮近くのサヴォア公爵邸では、当主のバルロが思いきり片眉をつり上げている。
「結婚ですか?」
その前にはブルーワント卿とモントン卿が満面の笑顔で座っている。執事のカーサもにこやかな顔で主人の親族達の給仕に当たっていた。
二人ともサヴォア公爵家の実力者である。凱陣祝いにやってきたついでに一の郭《かく》の公爵邸に立ち寄り、唐突にバルロの結婚のことを言い出したのだ。
「さよう。陛下もめでたくお后を迎えられたのだ。
おことはその陛下の第一の盾じゃ。いつまでも独り身でいてよいわけがない」
七十をいくつか超えているはずのブルーワント卿だが、いまだに矍鑠《かくしゃく》としている。腰もまっすぐ伸び、嗄《か》れた声にも張りがある。
バルロが何か言いかけるのを今度はモントン卿がやんわりと制した。
「何もおっしゃいますな。そなた様にも言い分はいろいろとおありでしょうが、世の情勢というものも考えてくださらなければなりません」
サヴォア家の系図をたどると、この人はバルロにとって大叔父の娘婿にあたる。
他家から養子に来た人だけに万事穏やかで人柄も優れている。マグダネル卿が死んだ今では同世代の親族達のまとめ役にまでなっている人だ。
「モントンどのの言われるとおりじゃ。タンガとの戦にはある程度の勝利を収めたが、噂では今度はパラストと戦だという。おことは今度こそ陛下と共に戦うことを望むだろう」
「いかにも。留守番は性に合いません。この二ヵ月というもの、ひどく退屈な思いをしました」
「そうだろうとも。だがな、公爵どの。おことの武勇は信じているが、もしも、もしもだぞ? 万が一のことがあった場合、なんとする? サヴォア公爵家直系の血をおことの代で絶やすつもりか」
バルロはやれやれという眼で目上の人たちを見ていた。意外なことにあまり嫌がる様子はない。
いつかは結婚しなければならないのはわかっていた。当主というものは当主としての義務を果たして初めて認められるものなのだ。
公爵ともなると結婚したからといって妻に縛られるようなことはない。浮気をしようと、愛人を持とうと、庶子を持とうと咎《とが》められることはない。それに我慢できないような女は公爵夫人などにはなれないことになっている。
だが、彼の父は例外だった。なまじ国王の妹など妻にしたばかりに恐ろしく不自由な思いをしていた。
「俺の好き勝手を我慢してくれる女であれば、またサヴォア家にふさわしい家格の娘であれば、誰でもかまいませんが、大叔父上方のおぼしめしはどなたです?」
「二、三日中には王宮に参るだろうて」
「俺と見合いをするためにですか?」
「いや、いや。陛下の凱旋祝いのためじゃ。何事もご自分でなさらねば気の済まないお人ゆえ、な」
「実を申せば、そなた様とは浅からぬ因縁のある方です。おわかりでしょうか?」
バルロは首を傾げ、唇の端だけでにやりと笑った。
「なるほど。ロザモンドですか?」
「いかにも」
「ご異存は?」
若い公爵は少し考えた。
「俺にはありません。しかし、今頃になって蒸し返してくるのはおかしな話ですな。とうに立ち消えになったとばかり思っていましたが?」
二人はここぞとばかりに身を乗り出したのだ。
「そのことはわしらも先刻承知。じゃから、ここは一つ、当事者同士で話をつけていただきたい」
バルロはますますおもしろそうな顔になった。
「すると? まさかと思いますが、本人はまだこの話を承諾していないとおっしゃる?」
「承知するはずがなかろうが。そこを何とか口説き落とせというておるのじゃ」
「それはまた、ずいぶんと変則的な縁談ですな」
明らかな皮肉だが、温厚篤実《とくじつ》で知られるモントン卿はあくまで丁寧に答えた。
「こんなことを申し上げるのも、あの方のご親族がことのほかご心配のご様子なのです。叔母君であるホールダネス公爵夫人などは、あの方の身の落ち着き先を見るまでは死んでも死にきれないとお嘆きになっていらっしゃいます。今となっては公爵さまをお頼みするほかないと頭を下げられましては我らとしても無下に断るわけにも参りません。実のところ、婚期を遠く過ぎた方ですから、そなた様にはいささか申し訳ないと思いますが……」
ブルーワント卿は義理の甥の弁舌を豪快に遮《さえぎ》った。
「なあに。十も年上というわけではない。まだまだお若いのじゃ。立派な世継ぎを産んでくれるだろうよ。何より家格も身代も申し分なしの良縁じゃ。もともとあの不幸な出来事さえなければとっくの昔にこの運びになっていたのだからな。めでたいことではないか」
呆れたように苦笑したバルロである。
「大叔父上。お一人でめでたがられては困りますな。
頑固なことでは定評のある女ですぞ。いやだというものをどうやって承知させます?」
「ほう。公爵どのの手腕を持ってしても、あの氷の貴婦人の心を解かすのは無理でござるかな?」
ことさらおもしろそうにブルーワント卿が言い、モントン卿はおだやかな表情のまま言ってのけた。
「もっとおとなしやかな、そなた様の意のままになる姫君を、とも思ったのですが、こちらの叔父上が公爵どのはあまのじゃくゆえ、多少は手強い花嫁のほうがお好みに合うだろうとおっしゃいまして」
「これよ、モントンどの。それをいっては身も蓋《ふた》もない。どうじゃな? 公爵どの。一つ働いてみてはくれぬかな?」
バルロはまた皮肉な笑いを浮かべた。
「あくどい方々だ。俺には無断でずいぶんと厄介《やつかい》な仕事を押しつけてくださる」
「ご不満か?」
バルロはまた深く沈思した。正確にはそのふりをしていた。
浅からぬ因縁、モントン卿はそう言った。確かに彼女はバルロにとって因縁のある女性だった。
「本人の承諾を取り付ける縁談というのもなかなかおもしろそうですな」
注意深く答えた。
4
エンドーヴァー子爵夫人は今日も朝から庭に出て働いていた。
国王の凱旋《がいせん》祝いの言上を述べに王宮に出向いたときにはきちんと正装した夫人も、今は庭仕事用の木綿の服を着て、袖を肘までまくり、日焼けしないように麦わら帽子をかぶっている。
まるで庶民の服装だが、この人は一向に気にしなかった。繻子《しゅす》や天鵞絨《ビロード》を着て土の上にしゃがみ込んだり、あぜを起こしたりできるわけがない。
去年の夏に国王からもらった屋敷は、少なくともその庭においては別の屋敷のようになっていた。
秋のうちにせっせと種を蒔《ま》き、木を移植した甲斐があって、人の背丈ほどの灌木《かんぼく》は金色の吹雪のような花をつけ、その手前には真っ白な花の房が幾重にも垂れ下がってゆれている。
もっと低いところには濃い緑の葉と目の覚めるような青や紫の花がすらりと立ち並び、花壇の縁取りも丈の違う色違いの花を二重に植えてある。
華麗な花の演舞場だった。
夫人の趣味は人の眼を楽しませるだけではない。
新鮮な野菜や香草など食せるものも丹精していた。
花壇と菜園の位置はきちんと分けていたが、間に花を付ける香草を植えてある。淡い桃色の可愛らしい花を咲かせるばかりでなく、かぐわしい香りがする。
屋敷で使う香草の類は夫人が自ら摘んで台所に届けている。まるで上流階級の婦人らしくないのだが、屋敷の奉公人達は皆、エンドーヴァー夫人に好感を持っていた。
五月の空はすがすがしいほどよく晴れている。
ちぎった綿菓子のような雲がふわふわと飛び、彼方にはパキラ山脈の緑が見えている。コーラルの町並みから脱出したばかりの人なら感嘆して見とれるだろうが、夫人にとっては毎日見ている風景だ。
馬蹄の響きがゆっくりと近づいてくるのを耳にしてはいたが、これも珍しいことではない。仕事に没頭していると、すぐ傍で足音が止まった。
「エンドーヴァー夫人?」
驚いて顔を上げた。鞍上に意外な人の姿を見いだして、夫人は戸惑った声をあげた。
「ラモナ騎士団長様?」
「お久しぶりです」
ナシアスは馬から下りて丁重に挨拶した。
気まぐれに遠乗りに出てきたような姿だった。従騎も連れていない。
「近くまで来たものですから、どうしていらっしゃるかと思いまして……」
「まあ……それは、ありがとうございます。どうぞ、お上がりください。すぐに着替えて参ります」
自分の身なりを見てさすがに赤面した夫人である。
洗いざらしの木綿の衣服にエプロンという、身分のある男性を出迎えるのにふさわしいとはとても言えない服装なのだ。
「どうかお構いなく。私はこれで失礼しますから」
「いいえ、そんな。だめですわ。せめてお茶を召しあがっていらしてください」
夫人は庭に面したテラスにナシアスを案内すると、急いで小間使いにお茶の支度を命じ、さらに急いで自室で着換えをすませて戻ってきた。
そのもてなしにナシアスのほうが恐縮したらしい。
秀麗な顔に困惑の表情を浮かべてしきりと詫びたものだ。
「申し訳ありません。お仕事の邪魔をするつもりはなかったのです。この時間なら起きていらっしゃるだろうと、そのくらいの気持ちで……」
「こんなに陽が高いのに、ですか?」
誰だって起きているのでは、と暗に尋ねた夫人にナシアスは苦笑して首を振った。
「それがそうでもありません。コーラル城のご婦人方の半数はまだ寝ていらっしゃると思いますよ」
納得して夫人も笑った。
大貴族の奥方達は夜毎の集まりだの舞踏会だの賭博《とばく》だのに明け暮れている。当然朝はお寝坊になるわけだ。
起きてからも顔を洗うところから化粧に髪を結い、ドレスを身につけて人前に出られるようになるまで莫大な時間がかかる。
「華やかな夜会も嫌いではありませんが――何しろ田舎育ちなものですから、どうしても早起きをしてしまいます」
夫人が言うと、ナシアスは庭を見回して頷いた。
「その尽力は充分に報われていると思います。これだけのお庭があればお料理の付けあわせには不自由しませんね」
「まあ、おわかりになりますか? 失礼ながら、騎士様方は段菊《だんぎく》と柳薄荷《なぎはっか》の違いもわからないと思っておりましたが……」
ナシアスは笑って首を振った。
「私の家も田舎にありましたから。私の母は奉公人と一緒に仕事のいっさいを自分の手でこなしました。
子どもの頃の私の主な仕事は、母が料理に使うものを庭から摘んでくることでしたよ」
「ま……王国の盾でいらっしゃるラモナ騎士団長様がですか?」
夫人は楽しそうに笑った。
それにしても、ラモナ騎士団長が供の者も連れずに、ただ一騎、ふらりと現れるとは意外なことだ。
「何か、私にご用があっていらしたのでは?」
尋ねると、ナシアスは茶器を置いて、あらたまって言い出した。
「ご主人のことは……、お気の毒でした。あれからずっと気になっていたのですが、ご存じのように、陛下のご結婚や戦などでビルグナへ戻っていましたので、伺うのが遅くなりました」
夫人は驚いた。
自分とこの人はそれほど親しいわけではない。一、二度、顔を合わせたくらいだ。それにしては丁重な弔辞である。
先日の祝賀会で国王は夫人を丁重に遇した。愛妾を辞した人だからそれほど派手なことはできないが、国王は夫人に何くれとなく気をつかっていた。
王妃もそんな国王の味方だった。わざわざ夫人に言葉をかけさえしたのである。
そのとき、ナシアスはまだビルグナから到着していなかった。人から聞いて、国王がそれほど気にかけている相手ならば一応の礼を尽くそうと思ったのかもしれなかった。
だが、ナシアスの態度にはそれだけではないようなものがある。
夫人に対する特別な感情というのではない。何かもっと別のものだ。
若草色の眼でじっと自分を見つめている夫人に、ナシアスは微笑を返して、今度は花に眼をやった。
「本当にお見事です。春の花がすべて咲きそろっているようですね」
夫人は丁寧に礼を言ったが、それは過分な評価であるとの意見も添えた。
「春の女神はもっと気前良く様々な花を咲かせます。
ここにあるのはほんの一部分に過ぎません」
「いえ、長い間、戦場ばかりを見てきましたから。
コーラル城を除けば、こんなにたくさんの花ははじめて見たような気がします」
会話がとぎれた。
夫人もナシアスもただ黙って庭を眺めていた。
「エンドーヴァー夫人」
「はい?」
「夫人は墓参にはどんな花をお持ちになりますか」
唐突な質問である。だが、夫人はまじめに考えて答えた。
「人それぞれのようですわ。あまり気にしなくてもよいかと思いますが、私は……」
亡くなった人のことが思いだされた。
あれからもうじき一年になる。
「白露草《しらつゆくさ》と呼ばれているものを夫の墓の周りに植えました。蔓《つる》状の、葉のきれいなものです。一度根付けばあれは手がかかりません。緑は一年中ですし、この季節から秋まできれいな白い花を咲かせます」
「私でも植えられますか?」
「もちろん。お教えしますわ」
騎士として名高い人がこんなことを言い出しても夫人は驚かなかった。静かに尋ねた。
「どなたのお墓に供えられます?」
「妻です」
夫人はかろうじて声を抑えた。
剣を持つ人とはとても思えないのに、王国でも有数の騎士として名を馳せている人は、夫人に横顔を見せて花を見つめている。
美しい顔だった。時に剣を取り、二千の軍勢を指揮する人とは思えなかった。透き通るような水色の眼は咲き群れる花の向こうを見ている。
夫人に視線を戻してやんわりと笑った。
「もう何年も前のことです」
エンドーヴァー夫人はそっと眼を伏せた。
どうしてこの優しげな容貌《ようぼう》の若い騎士が、自分を気遣って訪ねてきてくれたのか、わかる気がした。
若いと言っては失礼かもしれない。ナシアスは三十にはなっている。逆を言えばやっと三十なのだ。
考えてみれば夫人と同年代である。
「――奥様はお幸せですわね。旦那様がお手ずから花を植えてくださるのですから」
ナシアスは首を振った。
「今まで一度も墓参に出向いたことがないのです。何年も打ち捨てたままでした。さすがに申し訳ないような気がしましてね」
また言葉がとぎれた。
夫人は黙ってお茶のおかわりを淹れ、ナシアスも黙って頭を下げた。
今はもういない人を偲《しの》ぶ、沈黙での会話だった。
庭から本宮に入ろうとした王妃はふと、開け放してある窓に気がついた。
洗いざらしの衣服に革の籠手《こて》とすね当てという、いつもと同じ服装である。
ランバーでは同じこの格好で勝利の女神とも妃将軍とも言われたものだが、今はどう見ても薄汚れた山岳民の少女だった。
エンドーヴァー夫人やナシアスが上流階級のしきたりに馴染めない以上に、王妃はそうしたきらびやかな世界に馴染めない。
今もパキラの山で狩った山鳥を本宮の台所へ届け、厩舎《きゅうしゃ》に立ちよって顔なじみの馬屋番と話をしてきたところだった。
その年老いた従僕はロアの黒主《くろぬし》に惚れ込んでいて、凱旋した王妃が別の馬に乗っているのを見てひどく落胆したらしい。
厩舎の責任者である彼は王宮御用達の生産者でもある。今、これぞと思う牝馬がいて、ぜひとも黒主と掛け合わせたいと熱望していたらしいのだ。
王妃も見せてもらったが、大きな優しそうな眼をした、栗毛の馬体がつやつや輝いている馬だった。
「ほんとに美人だ」
王妃が誉めると、馬屋番は得意そうに胸を張った。
「でしょう?あのロアにだってこんなべっぴんはいませんや。これならいっぺんで惚れ込んでくれると思ってたんですがねえ」
「仕方ないさ。グライアはおれの馬だけど、おれの持ち物じゃない」
凱陣の途中、ロアにさしかかった時点で、王妃は愛馬と別れてきた。
グライアには手綱がかかっていない。だから騎手である王妃も思いどおりに操縦することはできない。
こうしてほしいと頼むだけだ。
その愛馬が他の軍勢と一緒に西へ進むのではなく北へ別れるというなら、感謝の意を込めて首を叩き、別の馬に乗り換えるだけのことだ。
「グライアは敵味方の中で一番立派な馬だったぞ。
他の武将の馬のように防護や飾りはつけてないのにすごく目立ってた」
「ああ、ちくしょう。そいつが見たかったなあ」
六十を過ぎた馬屋番が身を震わせ、まるで少年のように目を輝かせて言う。
王妃と馬屋番がこんな風に親しげに言葉を交わすことは他国では決してありえない。それどころか馬屋番を雇っているどの家でも決して見られない光景だった。
王妃はこの老僕の誇りと馬にかける情熱と能力を認めている。老僕のほうも王妃が自分を認めていることを知っている。気位の高いお偉方や貴婦人よりよほど話ができる。
「王妃様もご活躍だったそうですねえ」
「それも半分は馬の力だよ。二ヵ月も一緒に戦ってくれたんだ。あいつが故郷へ戻りたがってるんなら、止められないさ。それこそロアにはきれいな彼女が待ってるのかもしれないしな」
「そりゃあ黒主なら向こうのほうから寄ってくるでしょうが、コーラルの美人も忘れてほしかないねえ。
何も一人に決めちまうこたあないんだ」
しみじみと洩らした馬屋番に王妃は真顔で相槌を打った。
「そうだよな。一人に決めちまうことはない」
ところが、その呟きに馬屋番はぎょっとなった。
心なしか青ざめた顔で、おそるおそる言う。
「あのう……王妃様。今のは馬の話でして……」
「当たり前だろ?」
「いえ、わっしの言いたいのは男馬の話だってことでして……、王妃様は一人にしとかないと、何かとその、まずいです。まずいどころの騒ぎじゃねえ。
馬じゃねえんですから、お願いですから王様だけにしといてくだせえ」
精一杯の勇気を振り絞って言った馬屋番を王妃はまじまじと見つめて、爆笑した。
「笑い事じゃねえですったら!」
馬屋番が真っ赤になって抗議する。
「それに……それにですよ。馬じゃねえけど王様は王様なんだから、きれいな腰元に気を引かれたりすることだってあるんです。そういう時は黙って認めてさしあげるのが王妃様ってもんです。間違っても刃傷沙汰《にんじょうざた》なんてこたあよしといてくだせえ」
王妃は笑うのをやめて不思議そうに相手を見た。
「刃傷沙汰って、なんでだ?」
怒っているわけではない。緑柱石の瞳にあるのは疑問の色だけだ。しかし、馬屋番は傍目にも狼狽して頭を下げた。
「いえ、その……」
「おれはそんなやきもち焼きと思われてるのか?」
「そ、そういうわけじゃねえんです……。ただその、王妃様は――ちょっと普通と違うんで、滅多なことがあっちゃなんねえと思っただけで……」
王妃は軽いため息をついた。
「あのな。旦那の妾に嫉妬して刃物を持ち出すのは『普通』の奥方のやることだろ?」
「へえ……」
「おれは『普通』じゃない。だから、そんなことにはならない。打算抜きで、あの馬鹿を好きになってくれる女の人なら、誰だろうと歓迎するさ。醜聞好きの知り合いにもそう言っとけ。王妃は国王の恋愛には興味を示さないってな」
「へ、へい。申し訳ないこって……」
しどろもどろになる馬屋番を置いて、王妃は庭へまわった。その唇に微笑が浮かんだ。
ちょっと普通でないというのは正しくない。
おおいに普通でないというのが正しい。
その違いを口にして説明することの無益はいやというほど知っている。
開いている扉に気付いたのはそのときだ。
本宮には数え切れないほどの部屋があり、一階の庭に面している小部屋にはこうした硝子《ガラス》戸が設けられている。天気のいい日に庭へ出られるようにだ。
通常の入り口まで迂回するのが面倒だった王妃はちょうどいいとばかりにそこから入り込んだ。
中は立派な調度品が置かれた、ちょっとした客間のような部屋だった。事実、客間だった。
繻子《しゅす》張りの長椅子に腰を下ろしていた若い女性が、庭から入り込んできた王妃を見て眼を丸くしたのである。
眼だけではない。顔も丸い。体つきも小柄で丸っこい。
歳は二十四、五だろうか、お世辞にも美人とは言えないが、はちきれんばかりに健康的な、いきいきとした表情が魅力的な人だった。と言っても娘ではない。明らかに既婚者だ。
供の者が誰もいないところを見ると、それほど身分の高い人ではないらしい。しかし、ここは扉つきの個室だ。一応の身分の人と見るべきだろう。
その人は廊下に通じる扉のほうを窺《うかが》って、そっと声をかけてよこした。
「あなた。こんなところに入り込んではだめよ。叱られてしまうわ。今なら誰も見ていないから、早くお戻りなさいな」
王妃は微笑を返した。
自分のことを知らない人間にしては上出来の部類である。たいていは頭ごなしに叱りつけるからだ。
王宮では初めて見る顔である。それでもその人が誰なのか、王妃にはわかった。
「お兄さんに会いに来たの?」
小柄な女性は不思議そうに首を傾げ、すぐに顔を輝かせた。
「わかった。あなたは兄の従者なのね? でもどうして私がここにいることがわかったのかしら? 内緒で来たのに」
「おどかすつもりだったんだ?」
「そうなの。お留守だと言われてここで待つように言われたのよ。あなた、お兄様がどこにいらしたか、ご存じない?」
王妃は首を振った。
「どのくらいここで待ってるのかな?」
「それが、朝からずっとなの」
「それじゃあ、おなか空いたんじゃないか?」
「実はそうなの。今、お城の人がお昼を用意してくれているところなのよ」
ちょうどそこへお昼を乗せた盆が運ばれてきた。
扉が開く寸前、女性は慌てて、垂れ幕の後ろへ隠れるようにと王妃に指示した。見つかって叱られては気の毒だと思ったのだろう。
盆を運び、給仕をしてくれたのは若い侍女ではなく、中年の侍従だった。王妃の隠れている垂れ幕にはまるで気付かない様子で、たいへんお待たせして申し訳ない、もうしばらくこちらにいらしてくださるようにと丁重に述べていった。
扉が閉まると王妃は垂れ幕の後ろから出てきたが、机の上を見て驚いた。二つの大皿に盛られた前菜、極上の葡萄酒が二本、香草を添えた兎肉のロースト、大きなキジが丸ごと一羽、鶏肉と野菜の煮込み、果物の甘露煮を添えたパイが何種類か並べられている。
「……私、そんなに食いしん坊に見えたのかしら」
どこか呆然とした呟きだった。
「ちょっと多いな」
王妃もかなり控え目な感想を述べた。
ちょっとどころではない。晩餐《ばんさん》に匹敵する品数であり、料理である。先程の侍従の態度も実に丁寧なものだった。
城側はこの愛らしい女性をできるだけ丁重にもてなそうとしているらしい。
しかし、その本人は分不相応なごちそうに途方に暮れている。
「どうしましょう。とても食べきれないわ。こんなことなら主人と子どもたちを連れてくればよかった。
あの人たちならこのくらいあっという間に片づけてしまうのに」
本当に悔しそうに言うので王妃はおかしくなった。
この人は主婦なのだ。食べ物を粗末にすることは罪悪と感じる人なのである。
「よかったら片づけるのを手伝おうか?」
この申し出に女の人は楽しそうに笑ったものだ。
「あなたっておもしろい子ね。いいわ。せっかくのごちそうだもの。無駄にしないためにもご一緒してくれると嬉しいわ。私はアランナ」
「リィだよ」
簡単な挨拶を交わしただけで、二人は豪華すぎる昼食に取りかかったが、王妃はアランナが食べている間は何も取ろうとしなかった。
「遠慮しないでお取りなさいな」
「だめだよ。アランナに出してくれたんだから先に気のすむまで食べて、それからこっちへ回して」
アランナは確かに気のすむまで食べた。何しろ滅多にお目にかかれないごちそうである。
まずは海の幸を使った前菜を一種類ずつ片づけたが、それだけでもかなりの量だった。貝、海老、魚を使った料理がざっと十種類も盛りつけられていたのだ。それらを葡萄酒で流し込んで、煮込みとキジと兎を三分の一くらいずつ平らげ、四種類のパイを一切れずつ、やっとのことで詰め込み、とうとう音をあげた。
「これ以上は一口だって入らないわ!」
そこで王妃の出番になった。
前菜も兎もキジもたちまち消えてなくなった。葡萄酒も一瓶はきれいに空にした。パイも同様だが、これは種類によって差があった。
挽肉や鳥の肝臓のパイは平気で口に入れるのに、砂糖や蜜をつかったものは慎重に除けた。
食べている間、王妃とアランナはとりとめのない世間話をした。アランナは大陸のずっと南にある国フリーセアから遠路はるばるやってきたのだという。
夫も、五歳と三歳になる息子も残して、だ。
王妃は思わず食べる手を止め、おそるおそる訊いたのである。
「……まさか、家出じゃないよね?」
アランナはこの問いを笑い飛ばした。
「違うわよ。夫や子どもたちがいたのではゆっくりお兄様と話もできないでしょう。小間使いと子守に預けてきたの」
「久しぶりに会うんだ?」
「ええ。本当に。話さなければいけないことがたくさんあるわ。――お兄様がお忙しいのもわかるけど、今度ばかりはだめ。どうしてもつきあってもらわなくてはね……」
丸い、可愛らしい顔が意外なほどの厳しさに引き締まる。何かよほど思い詰めたことがあるらしい。
王妃はそれ以上立ち入ったことは聞かなかった。
ごちそうさまと言って立ち上がった。
同じ頃、国王は少し風変わりな謁見の最中だった。
凱旋以来、各地の貴族達が競うようにして王宮を訪れている。国王も対応に忙しい思いをしていたが、その中にも格というものがある。
貴族の身分を持たない豪族や名ばかりの小貴族や地方管理職などは広間に一堂に集め、向こうが何か言うのを鷹揚に頷いて聞いていればいい。
しかし、所領、血統、家格と三拍子揃った相手となると、国王も慎重に応対せざるを得ない。
今、国王がいるのは白と金を基調にした、少し大きめの接客用の部屋だった。床はぴかぴかに磨き上げられ、国王が腰を下ろしている長椅子には豪奢《ごうしゃ》な刺繍《ししゆう》が施されている。
顔が映るような机を挟んで座っているのは、二十六、七に見える青年だった。薄いアッシュ・ブロンドの髪を首の後ろで束ね、すらりとした体を贅沢な衣服に包んでいる。白地に銀の縫い取りをした丈の短い上着、真珠色のズボン、紫の繻子帯など、洗練された身なりだ。
華奢《きやしや》な体つきのわりに肩が広く、椅子に腰を下ろしていても背筋をぴんと伸ばしている。腰の帯に差した剣がしっくりと馴染んでいることからも、陽の下にいる人の血の色が匂うような肌をしていることからも、武道をたしなむ人であることを窺わせる。
整った、怜悧《れいり》な顔立ちだった。知性と確固たる信念の持ち主であることが一目でわかる。好もしい人柄に見えるのに、なぜか人と距離を置くようなところを感じさせる。
一風変わった雰囲気を漂わせているこの人はベルミンスター公爵。意匠は異なるものの王族の象徴である獅子を紋章に掲げることを許されている。西のサヴォア、東のベルミンスターと言われるほどの名門貴族だ。
「この度は凱旋おめでとうございます」
抑揚のない声で淡々と言う。国王は礼を返し、咳払いして尋ねた。
「ところで、ベルミンスター公、従弟《いとこ》にはお会いになったかな?」
いいえ、と答えた公爵の表情は変わらない。
「サヴォア公はお忙しい方ですから。私もとりたてて会いたいとも思いません」
「しかし、お二人は幼い時分は親しい友人だったと聞いたぞ。お会いになれば従弟も喜ぶと思う」
青みの混ざった灰色の眼が探るように国王を見る。
そうしてベルミンスター公爵は冷笑を浮かべた。
「陛下が会えとご命令なさるのでしたら、臣下としてお心に沿うようにいたします。ですが、会ってどうしろとおっしゃいます?」
王妃と同じようにはっきりものを言う。王妃と違うところはその物言いには揶揄《やゆ》するような丁重さが含まれているところだ。
これが悪意から来るものならまた対処の仕様もあるのだが、ベルミンスター公はあくまで真面目である。
どう切り出したものかと思案していると、王妃が入ってきた。
来客中なのはもちろん聞いていただろうが、そんなことを気にする人ではない。いつも好きなときに飛び込んでくる。
この時は朝から一室に待たせたままのアランナが気の毒で、客人には申し訳ないが、ほんの二言、三言、その兄の行き先を国王に尋ねるつもりでやってきたのである。
しかし、その来客の姿を見て気を引かれたらしい。
足を止めて、何か珍しいものを見るような顔で、腰を下ろしている公爵をまじまじと見つめたのだ。
「リィ。ちょうどよかった。紹介しよう。お前も名前は知っていようが、こちらがベルミンスター公爵だ」
公爵はまっすぐに自分を見つめてくる緑の目線に苦笑しながら立ち上がった。
今度は王妃が遥かに見上げる格好になる。かなり背が高い。
その長身を折って公爵は丁重に挨拶した。
「お会いできて嬉しく思います。ベルミンスター公、シリルと申します。先だってのご婚儀の折はご挨拶もできませず、ご無礼いたしました。あらためてご結婚、及び戦線でのご活躍にお祝い申し上げます」
いつもなら名乗られたら名乗り返す王妃なのだが、今はどういうわけか、不思議そうに公爵を見上げて首を傾げていた。唐突に言った。
「シリルって、男の人の名前じゃなかったっけ?」
ベルミンスター公爵はわずかに眼を見張った。
ほとんど笑わなかった瞳がわずかに微笑する。
「おっしゃるとおりです。ノラというのが女子の名であるように、普通は男子の名前です」
「女の人の公爵っていうのも珍しいと思うけど……それで男の名前を名乗ってるとか?」
国王が笑い出した。
「リィ。お前は大した目利きだな。公爵に会うのは初めてだろうに、よくまあわかったものだ」
その公爵も意外そうな眼で王妃を見ている。
「妃殿下はたいへんな慧眼《けいがん》の持ち主でいらっしゃる。
失礼ながら、あなたのご夫君は五日というもの気がつかれませんでした。私の名は、正確にはロザモンド.シリル・ベルミンスターと申します」
王妃は納得して頷いた。それなら女性の名前だ。
「ロザモンドのほうがいいのに、どうしてそっちは名乗らないんだ?」
「私をご覧になればおわかりでしょう? その名はもう私には必要のないものなのです」
大胆な主張だが、公爵が自分で言うように、また国王が気づかなかったように、知らずにこの人と会話をしても女性と思う者はまずいないだろう。
整然とした話しぶりといい、引き締まった長身といい、どう見ても美貌の青年である。
「ウォルは五日も気がつかなかったって?」
「はい。以前に王宮を訪ねたときに……。妃殿下は――当時はまだ王女でいらっしゃいましたが、山のほうへお出かけになっていてお留守でした。ちょうど暑い日が続いているころのことで、陛下は私を水浴びにお誘いになったのです。さすがにそれはご一緒いたしかねますので、お断り申し上げました」
呆れ顔で夫を見た王妃である。
「女の人に向かって何てこと言うんだ」
「それを言ってくれるな。実に汗顔の至りだ。誰も話してくれんのだからな」
「言われなきゃ気がつかないほうがどうかしてる」
だが、ベルミンスター公爵は王妃の言葉をきっぱりと否定した。
「恐れながら、妃殿下。爵位を継いだときから私は男のつもりでおります。ですから妃殿下も、どうか私を女とは思わないでいただきたい」
王妃は眼を丸くした。
「どうして? 爵位を継いだら男の格好をしなきゃならないって決まりでもあった?」
「決まっているわけではありませんが、女の当主は何かと甘く見られますから。男でいたほうが都合がいいのです」
「そんなものかなあ……」
王妃が何か納得しかねる様子で首を傾げていると、バルロとナシアスが連れ立ってやってきた。
来客中であることは知っていただろうに、やはり無視して通ってくる。それとも国王の対談の相手を聞いてわざわざやってきたのかもしれない。
バルロは王妃と話しているベルミンスター公爵を見て、にやりと笑い、「これはこれは婚約者どの」
と、言った。
5
ベルミンスター公は顔色一つ変えなかった。軽く会釈して元通り腰を下ろした。
ラモナ騎士団長は苦笑を浮かべながらさりげなく壁際に寄っていた。この部屋にいるのは国王と王妃、二人の大公爵、自分だけが明らかに格下である。
少し大きめの客間は一気に人数が増えていささかにぎやかである。なのに、若い侍従に案内されて、また新たな客人がやってきた。ついさっきまで王妃と昼食を取っていたアランナである。
新参の不慣れな侍従だったらしい。国王の会談の場に連れてきてしまったのだ。
アランナはもちろんそんなことは知らない。部屋には何人もの人がいたが、一人の姿しか目に入らなかったのだろう。少女のように喜びをあらわにして抱きついた。
「お兄様!」
驚いたのは抱きつかれたナシアスである。何しろ国王の面前だ。慌てて妹の腕を引き離そうとした。
「アランナ。ちょっと、ちょっと待ちなさい……」
「もう待ちくたびれました。ああでもお元気そうで本当によかった!」
国王もベルミンスター公爵も何が起こったのかと驚いている。
一人焦《あせ》っているナシアスの横からバルロが平気な様子で笑いかけた。
「アランナどのか。俺を覚えているかな?」
「サヴォア公爵様! お久しぶりです。いつも兄がお世話をおかけしております。何年ぶりでしょうか、ここでお会いできるとは思ってもみませんでした。
お懐かしゅうございます」
「相変わらず元気そうで何よりだ。二人の子の母になったとナシアスから聞いた。が、前にもまして若々しい。おまけに見違えるように美しくなった」
アランナの顔がぱっと上気する。
「公爵様も少しもお変わりありません。おからかいになってはいやですわ」
興奮の口調で言ったアランナはそこでようやく、もう一つ見知った顔があるのに気が付いた。
「まあ、リィ! あなたこんなところにまで――」
入り込んではだめじゃない、と言おうとしたのだろうが、ナシアス。が慌てて止めた。
「アランナ、よしなさい。妃殿下に失礼だぞ」
丸い眼がいっそう丸くなってきょとんと兄を見る。
「お兄様?」
「この方はデルフィニア王妃、グリンディエタ様だ。
知らなかったのか?」
ぽかんとした顔でアランナはナシアスの顔をまじまじと見つめ、王妃に視線を移してその姿を上から下まで眺め、また兄を見つめて言った。
「嘘でしょう?」
「おれも嘘なんじゃないかと思うよ」
王妃は真顔で言って、軽い非難の眼をナシアスに向けた。
「行き先も告げないで今までどこにいってたんだ?アランナは朝からずっとここで待ってたんだぞ」
水色の眼がほんの少し揺れたように見えた。
「申し訳ありません。私用で人を訪ねていました。
――ですが、妃殿下はいつ妹と面識を?」
その妹は真っ青になっていた。この少女が王妃だと知って驚倒したらしい。
仕立てのいい服に包まれたアランナの体がわなわな震えだした。血の気の失せた唇からあえぐような言葉が漏れる。
「私――私、ああ、どうしましょう!」
絶望的な悲鳴だった。
詳しい事情はわからなくても、ナシアスはとっさに、妹をこれ以上この場に置いておくべきではないと判断した。
従者を呼んで、足下のおぼつかない妹を預けて、少し休ませるように言いつけた。何か気付けになるものを呑ませるように指示することも忘れなかった。
自分で付き添っていかなかったのは目上の人々に詫びるためである。
恐縮した様子で頭を下げた。
「妃殿下、妹がとんだ失礼をいたしました。陛下、ベルミンスター公、お話中にお騒がせして申し訳ありません」
男装の女公爵は珍しく微笑して言った。
「ラモナ騎士団長にあんな可愛らしい妹君がいらしたとは知りませんでした」
丁重な口調である。
家柄や血筋は公爵家に遠く及ばないナシアスだが、ベルミンスター公はラモナ騎士団の重要性も、その団長が国王にとってどういう存在であるかも熟知している。
一方、国王はアランナの狼狽ぶりに驚いたらしい。
「リィ、お前いったい何をしでかした?」
「何もしてない。一緒にご飯食べただけだ」
「お前が王妃だと知らずにか?」
「そう」
その場にいた人々は一斉にため息をついた。
アランナの身分はせいぜい地方豪族の奥方にすぎない。眼を回しても無理はないのだ。
ティレドン騎士団長が呆れ顔で意見する。
「王妃、あなたは今後、王妃のグリンダときちんと名乗る習慣を付けるべきだな。でないとアランナのように卒倒する者がこれからも続出するぞ」
「従弟《いとこ》どのの言うとおりだ。でなければ本宮を歩くときはもう少し王妃らしい格好をするしかないな」
その王妃はわざとおおげさに緑の眼を見張った。
「どんな男も結婚する前と後では言うことがまるで違うって聞いたけど、本当だな。おれは王妃らしい王妃になんか絶対ならないって、ちゃんと断ったぞ。
どこに耳をつけてる?」
「うーむ……。それを言われると弱い」
腕を組んで考え込みながらも国王は笑っている。
これにはナシアスも苦笑を禁じ得なかった。ベルミンスター公爵もまるで夫婦らしくない国王と王妃の会話に驚きながらも、その仲の良さを微笑ましく思ったらしい。表情が幾分やわらかくなっている。
だがそれもサヴォア公爵が話しかけるまでだった。
「どうだ、ベルミンスター公。俺と貴公もこういう夫婦になれるとは思わんか」
青みを帯びた灰色の眼が冷ややかに、これ以上はないくらい冷ややかに、バルロに向けられた。
「いかにも貴公らしい戯言《ざれごと》だが、間違いを公言する悪い癖は直したほうがいい」
「どこが間違いだ。俺と貴公の婚約は家同士の間で取り決められたことではないか。当主たるもの親族の意向を無視してはいかん」
「それにも限度がある。当主である私は人の妻になどなれない。そのくらいおわかりにならないか」
「正式に断られた覚えはないのでな」
「それは失礼した。では、今、お断りする」
りんとしたその声までが男性のように聞こえる。
きりっとした顔つきのせいかもしれないし、短く切られた髪のせいかもしれなかった。
束ねられるほどの長さはあるが、これは女性の髪型としては『異形《いぎょう》』と言っていい。無惨にぶっつり切られていると人の眼には映るだろう。
たっぷりした下げ髪、結い上げた髪の美しさは女性たちの魅力の大きな位置を占めている。少女の頃から長く伸ばし、年頃になったら結い上げるのが当たり前なのだ。
女の断髪はとんでもないというような声すら聞かれない。そんな発想自体が存在しないのだ。
だからこそシャーミアンも女騎士として鎧《よろい》に身を固めてはいても髪は長く伸ばして結い上げている。
ロザモンドという名はもう自分には必要ないのだと公爵は言った。ある意味ではその通りだ。髪を切り、女であることを捨てたのだと、世間にも自分にも宣言したことになる。
バルロは面倒くさそうに肩をすくめた。
「強情なところもちっともかわらんな。だいたいその頭は何だ。いかに背ばかりのびてもいかり肩でも扁平胸でもだ。髪だけは一見の価値があったのに、むごいことをする」
「サヴォア公。決闘ならいつでも受けて立つぞ」
「馬鹿なことを。俺は女に向ける剣など持たん」
「これは意外なことを聞く。貴公はこちらの妃殿下とは何度か手合わせをして、その都度、負けたそうだが?」
「こんなものは女のうちに入らん」
しれっと言ってのける。
ナシアスは懸命に苦笑を噛み殺し、国王と王妃は眼を白黒させていた。
王妃がそっと国王に囁《ささや》く。
「なんか……団長が二人いるみたいだな」
「同感だ」
「ほんとにこの二人、結婚するのか?」
「モントン卿やブルーワント卿はそう望んでいる。
俺にも協力してくれというのだが……困ったな」
世にも恐ろしいことになりそうな気がする。
しかし、どんなに困っていても王としてのつとめは果たさなければならない。静かな火花を散らしている二人の間に慎重に割って入った「とにかく、両人ともすでに一家の主なのだ。この問題は互いの間で決したらどうだな?」
「我々の意志は破約に代わりはありません」
と、ベルミンスター公。
バルロは軽く肩をすくめた。
「我々と言われるのは心外だ。俺は結婚してもかまわんと思っているからな」
「それがサヴォア家当主としての申し出ならば、ベルミンスター家の当主としてお断り申し上げる」
「困ったな。頭からそう言われては、求婚した俺の立場がないのだが?」
「貴公の立場など私の知ったことではない」
言い捨ててベルミンスター公は国王に一礼すると、さっさと身を翻した。
歩きぶりも颯爽《さっそう》としている公爵の背中が見えなくなると、王妃は感心したように言った。
「あの人、剣も馬も相当やるみたいだな」
「うむ。あの身のこなしは行儀作法や舞で身に付くものではないからな」
と、国王も賛成し、深いため息をついた。
「しかし、参った。評判通りの烈婦である上に、公爵は従弟どのをひどく嫌っているらしい。あれではとりつく島もないぞ」
「だけど、何か……」
言いかけて王妃は首を傾げた。
「シャーミアンもいつもは男の格好してるけど……ロザモンドのは何か違うな」
バルロが腰を下ろしながらおもむろに言った。
「それはな、王妃。単に動きやすくて便利だからという、いわば好きで着ているのと、こうでなくてはならんのだという義務感からくる違いだ」
なるほどと思った。確かにベルミンスター公にはそうした硬さがあった。
ナシアスもしみじみと頭を振っている。
「昔、一度だけ、ドレスをお召しになったあの方を見たことがあります。すらりとした美しい人でした。
今のあの方は何か、お気の毒な感じすらします」
「いったいどうしてそんな義務を感じてるのかな?男の跡継ぎがいない場合は女の人が爵位を継いでもかまわないんだろ?」
バルロが頷いて詳しく説明してくれた。女伯爵や女公爵自体は珍しいものではない。子がないまま夫が亡くなった場合に爵位を継ぐこともある。だが、ロザモンドのように髪まで切る人はいない。
「今のベルミンスター公――ロザモンドの家にはいささか不幸な出来事があってな」
国王が言い出した。
「俺がまだ即位する前のことだから、五、六年前になるかな。当時のベルミンスター公爵は既に六十を越えた老齢だったこともあり、体の具合が思わしくなかったこともあって、一人息子に家督を譲って隠居した。それがロザモンドの弟の――なんと言ったかな?」
「ステファンです。従兄上《あにうえ》」
「そうだったな。二十歳にもならない若い公爵の誕生だった。その若さで妻もいて、文武両道に秀でた立派な若者だったらしい。ところが、ステファンは爵位を継いでからわずか三ヵ月後に急死してしまったのだ。老ベルミンスターは急遽《きゅうきょ》、再び当主として立ったのだが、一人息子を失ったことで相当落胆されたのだろうな。半年も立たぬうちに息子の後を追うようにして亡くなられた。老公爵の死と前後してステファンの未亡人は夫の忘れ形見である男子を出産したのだが、悪いことは重なるもので、この若妻までが幼い息子を残して息を引き取った。ロザモンドはわずか一年あまりのうちに父と弟と義妹を失い、生まれたばかりの甥と二人きりでベルミンスター家に残されてしまったのだ」
二十二歳の公爵令嬢は、喪服を着て黒いベールに顔を隠して悲嘆にくれたりはしなかった。髪を切り、男の衣服に身を包んで、敢然と立った。
「でも、その甥っ子は? 本当ならその子がベルミンスター公爵になるべきなんじゃないのか?」
「もちろんだ。しかし、その子は今でもやっと四歳、爵位を継ぐには幼すぎる。そこでロザモンドは――早死にした弟君をたいへん愛していたらしいからな――その忘れ形見である幼子が立派に成長するまで自分がこの家を守ると言い出した。もともと男勝りの女性だったと聞いているが、甥が成長した暁には爵位を返還するという誓書をオーリゴの祭司の立ち会いの下《もと》に示し、自分が暫定的な公爵として立った。
立て続けの不幸に呆然としていた親戚一同もむしろほっとして、ロザモンドの行動をその時は歓迎したそうだ」
「今は違うのか?」
「いや、今でもロザモンドは当主としてのつとめを立派に果たしている。甥の成長が何より楽しみだと、無事に爵位を譲り渡すことだけを考えていると言う。
ただ、な……ロザモンドはあくまで女だ。家のため、幼い甥のために一生を棒に振るのはあまりに気の毒だと、子どもが成長するまでの当主代行なら自分たちが引き受けるから、もう自分のことを考えてくれるようにと親族一同は結婚を勧めたのだが……当の本人はまるで聞く耳をもたん」
「だいたい何でその相手が団長なんだ?」
「もともと俺の婚約者です」
王妃は呆気にとられて、サヴォア公爵の男性的な美貌を穴の開くほど眺めた。
「あの公爵が、団長の?」
「ずっと昔、ドゥルーワ伯父が存命中の頃の話です。
そのころは万事平和でした。領地争いの合戦は日常茶飯事でしたが、そんなものは騒ぎのうちにも入らなかった。ところがドゥルーワ伯父の死をきっかけに出るわ出るわ、このデルフィニアは災厄と争乱によほど好かれたらしい。王子王女の立て続けの死、俺の父の死、ステファンの死、老ベルミンスターの死、その最中に俺は何を間違ったか王冠を押しつけられそうになり、親戚どもと――特に母と今は亡きマグダネル叔父とですが――連日の大喧嘩だ。そのうち従兄上がフェルナン伯爵と共にスーシャから出ていらして俺は相続問題から解放されたが、今度は別の意味で天地がひっくり返るほどの大騒ぎ、その従兄上を即位させるべきか否かで|侃々諤々《かんかんがくがく》の大議論。
どうにか反対派を説きふせて即位までこぎつけて、これで一安心と思ったところにペールゼンの反乱だ。
俺は幽閉、従兄上は逃走、それからのことはあなたも承知でしょうが、今思い返しても実に葬儀と陰謀ばかりにあけくれた数年間でした」
この男はこういうことを笑いながら言う。磊落《らいらく》に、ほがらかに、もう終わったことだからと楽しそうに語る。そこが怖い。
国王の甥として権力にもっとも近いところにいたバルロだ。想像を絶する策謀の渦の中に巻き込まれたはずだ。常人なら眼を背けたくなるほどの汚い部分をいやと言うほどその眼で見てきたはずなのに、忘れたはずはないのに、感じさせない。
「従兄上が再び王として君臨し、世の中が平穏に帰した頃にはロザモンドは公爵として立っていた。そうなると確かに嫁にくれとは言いにくい。向こうも何も言ってこない。俺はもう婚約していたことも忘れかけていましたよ。しぶとい親戚に話を蒸し返されるまではね」
国王が注意深く口を挟んだ。
「ベルミンスター家の親族も忘れていたわけではないのだ。今までにも何度かそれとなく話をしてみたのだが、それとなくでは埒《らち》があかんらしい。最後の望みの綱として従弟どのを頼ったようだが、見てのとおりだ」
先程の公爵の態度を思い出して、国王は両手を広げて肩をすくめた。
「どうする? 従弟どの。今でもロザモンドと結婚する意志に変わりはないか」
「変わるも何もそれは俺の自由になることではありませんよ。目付役の大叔父が見つけてきた花嫁です。
かしこまりました、ありがたくいただきましょうと言うのが当主のつとめです。今度の場合、あの鉄の貴婦人を陥落させねばならないのが厄介《やっかい》ですがね」
「――素朴な疑問なんだけど」
と、王妃。
「ロザモンドが団長と結婚してサヴォア公爵夫人になったら、ベルミンスター公爵としての身分はどうなるのかな?」
「どうもなりません。ロザモンドが放棄しない限り、人の妻となっても爵位はそのままです」
「なんだ。それじゃあ、結婚したほうが断然得だ」
バルロの黒い眼がいたずらっぽく輝いた。
「そう思いますかな?」
「爵位はそのままで、公爵夫人の肩書きも増える。
生まれた子どもはサヴォア公爵家の跡取りになるんだから、実家との軋轢《あつれき》も問題ない。おまけに団長は申し分なしの立派な花婿だ。いいことずくめだと思うのに、何であんなに嫌がるのかな?」
「これは嬉しいことを言ってくださる」
にやりと笑ったバルロの横でナシアスがそっと呟いた。
「ベルミンスター公は潔癖なご性格です。バルロの不行状がお気に召さないのかもしれません」
庶民レベルならありそうな話だが、公爵家のような大家同士の縁組では納得できない説明である。正妻の座は絶対であり、他の誰を寵愛《ちょうあい》しようとその座が揺らぐようなことはない。妻のほうでも夫の愛人にいちいち目くじらを立てたりしない。ばかばかしくてやっていられないはずだ。
国王は困り果てたように稔っている。
「とにかくだ。従弟どのに身を固めて欲しいと願う卿らの気持ちはよくわかる。サヴォア公爵として当然の義務だとも思う。できるだけの協力を、と言いたいところだが、正直言ってこういう分野はとんと苦手でな。後押しを頼むと言われても俺に何ができるのか、かいもく見当がつかん」
バルロは笑って言った。
「従兄上。どうかお気遣いなく。この俺は自分の結婚に人の手など借りません。ただ、何か理由をつけて、しばらく王宮に留まるようにロザモンドに要請してくださると助かります。さっさと領地へ帰られては口説くのも厄介ですからな」
サヴォアとベルミンスターの縁組となれば国王にとっても他人事ではない。どちらも王家に深く関わる貴族であり、その所領は公国とも言っていいほど広大なものだ。
足止めくらいなら喜んで協力しようと国王は約束したものの、不安そうに付け加えた。
「だがな、従弟どの。俺が従弟どのにこんなことをいうのは面映ゆいのだが、あの女性は強引に口説けば口説くほどかたくなになる人のように見受けるぞ。
大丈夫か?」
その従弟はにっこりと笑い返した。
「心配なさいますな。ロザモンドは本気で俺を嫌っているわけではありません。むしろ好いているからこそあんなふうに態度が硬化するんです。そういう相手にはそれなりにやり方があります」
これには一同、何でも勝手にやってくれと匙《さじ》を投げざるを得なかった。
その後、王妃が西離宮に戻ってみると、テラスのほうから話し声が聞こえた。
シェラとシャーミアンの声である。
シャーミアンは先日の戦いには同行していない。
あの結婚式の日、勇敢な女騎士である彼女はすぐさま正装のドレスを脱ぎ捨てて具足《ぐそく》を身につけた。
ただ、父親のドラ将軍は娘の出陣を許さず、その命令でコーラルに残ったのである。
先日の祝勝会では、主役の王と王妃のまわりには多くの人が集まり、ゆっくり話もできなかった。
そこであらためて王妃を訪ねてきたのだろう。
離宮を回って庭に姿を見せた王妃を見て、シャーミアンは笑顔になった。こぼれるような、若い兵士達を釘付けにしている笑顔である。
やはり、違う。
同じような男の服に身を包んでいても、受ける印象がベルミンスター公爵とは大違いだ。
「お帰りなさいませ。妃殿下」
「その妃殿下っていうの、あんまりよくないな。今まで通り姫さまにしないか?」
「だめです。妃殿下は昔、姫さまと呼ばれるようになったころも同じことをおっしゃいましたわ」
「そうだっけか?」
「ええ。ですから今度もすぐになれます」
こうもにこやかに言い切られると反論できない。
銀髪の侍女は苦笑を噛み殺しながら、お茶を淹《い》れてくれた。爽やかな、すがすがしい香りがする。
「あれ? このお茶……」
「おすそわけにお持ちしました。つい先程、下でエンドーヴァー夫人とお会いしていただいたのです。
あの方が自ら丹精なさった香草だとか。とても体にいいのだそうです」
「へえ……」
おそるおそる含んだ王女である。
「悪くないな」
「はい。胸のあたりがすっとします」
それからシャーミアンはあらためて凱旋の祝いを述べた。できるものなら自分も共に戦いたかったと真顔で言うシャーミアンに王妃は苦笑したものだ。
それでも、女だてらに無茶だとも、おとなしく留守番をしていればいいのだとも、王妃は言わない。
「ランバーでの戦いはシャーミアンがわざわざ出るようなものじゃなかったぞ。簡単に片づいたんだ」
そんなふうに言う。
「でも、シェラはお連れになりましたのに」
「男はどんな小者でも立派な戦力だからな。無駄にできない。おれの世話係にその戦力を回してもらうわけにはいかないじゃないか」
理屈は合っている。今のグリンダは仮にも王妃だ。
食膳はともかく、着替えや寝床の支度などの手伝いを男の小者にさせることはできない。
シャーミアンはそれでも納得できなさそうだった。
「ですけど……、それではシェラがかわいそうです。
私はまだ、父の身分もありますし、腕にもいくらか覚えがありますけど……。シェラはごく普通の娘ですもの。気性の荒い兵隊の中で使うのはかわいそうですわ」
王妃はやんわりと微笑を浮かべ、シェラはなぜか、いたたまれずに眼を伏せた。
女官長といい、この女騎士といい、本気で自分のことを心配してくれている。
剣に触ったこともない、重傷者や血を見れば悲鳴をあげるに違いない、性質のやさしい少女だと思って、気遣ってくれている。
ランバーで自分が果たした役割はそんなものではない。一通りは使えると言っていた馬も弓も二カ月の間に格段の向上を見た。夜間には 恐らく敵の武将が放ったものだろうが、王妃の命を狙ってきた刺客を冷酷に片づけさえした。
そんなときには血が高揚した。昼間の、真っ向からの戦闘よりも闇の中での戦闘のほうが性に合っていると実感したものだ。
王妃の寝込みを襲おうとするような連中だから、どれも相当の腕である。年季も入っている。
シェラはそんな彼らを易々とあしらった。暗闇に溶け込むことも気配を殺す術も、彼以上にこなせる者はいなかった。たいていの者は何が起こったのかわからないうちに命を手放し、刀や手裏剣を持って戦った者たちの中にも苦戦するほど手強い者はいなかった。
そのことに密かな満足すら覚えたのである。
騙すのが仕事のはずだった。何も知らない人を欺《あざむ》くのが当然のはずだった。どうしてこんなに苦しいのか自分でもわからなかった。
眼を上げると、まっすぐ自分を見つめている緑の瞳とぶつかった。からかうでもなく、責めているのでもない。まるで励ますような視線に思えた。
「シェラは自分の役割をちゃんと果たしたぞ」
侍女の顔を見据えながら、王妃はゆっくりと言い、シャーミアンに笑いかけた。
「とってもしっかりしてた。すぐ傍まで戦線が迫ったこともあったのに、怯えたり取り乱したりは一度もしなかった。考えてみればこの西離宮に一人で留守番できるんだから、見た目はこんなでもその辺の男よりよっぽど腹が据わってるよ」
シャーミアンも笑った。本当にその通りだと同意する。
「今回はイヴンどのもご活躍だったそうですね」
「ああ。おれなんかよりずっと凄かった。団長があれを見たらなんて言うかな?」
独立騎兵隊長は仲間と共にタウに残った。
用心のためである。撤退したと見せかけてタンガ軍が戻ってくることもあり得るというのだが、実際にはコーラルへ戻った後の祝勝会やら堅苦しい挨拶やらを嫌ったのかもしれない。
王妃はため息をついた。
「戻ってからさんざん大活躍って言われるけど……おかしな話だ。どうも納得できない」
「あら、どうしてですか?」
「戦の目的が勝つことなら、おれもイヴンも当然のことしかしてないからさ」
シャーミアンは不思議そうに首を傾げた。王妃が何を言いたいかわからなかったらしい。
お茶のおわかりを注いでいたシェラには何となくわかった。
領土を争っての戦《いくさ》だ。勝たなければ意味がない。
敵を倒し、自分は生き残らなければならない。そのために技を駆使し、知恵を尽くすのだ。人に誉められようと思って戦うわけではない。
王妃にとっては、褒《ほ》めそやされ讃えられることは、むしろ心外なのだろう。
独立騎兵隊長がここにいたら、恐らく同じことを言ったはずだ。瓢然《ひょうぜん》としているようでもあの男にはそうした厳しさがあった。
シャーミアンが眼だけでシェラに問いかける。
何と答えようかとためらっていると、王妃が唐突に言った。
「シャーミアンは結婚はしないのか?」
普段こんなことを言う人ではないだけに、女騎士は驚いたらしい。
「急にどうなさいました?」
「いや、シャーミアンは将軍の一人娘だろ? 誰かと結婚してその相手に伯爵家を継いでもらうのか、それともロザモンドみたいに自分で爵位を継ぐのか、どっちだろうと思ってさ」
「ベルミンスターのロザモンド様ですか?」
「知ってるの?」
「ええ。すてきな方ですわ。お美しくて、毅然《きぜん》として、近寄りがたく見えますけど、とてもお優しくて、妃殿下とは別の意味で女性とは思えない方です」
「さっき、下で会ったよ」
「まあ、たいへん。ご挨拶しなくては!」
「慌てなくても大丈夫。当分ここにいるはずだ」
王妃は苦笑しながら先程の一連のやりとりを話してやった。
「団長は相変わらず自信たっぷりだったけど、ロザモンドがあの調子じゃあ、どうなるかな?」
シャーミアンが笑って手を振った。
「それ以前に男装のロザモンド様は宮廷の婦人達に大人気なんですのよ。バルロ様はバルロ様でいつも注目の的ですし、きっと近づくのも苦労なさると思いますわ」
王妃は眼を丸くした。
「団長がもてるのはわかるけど、ロザモンドは何で人気なんだ?」
「何でって、とても魅力的な方じゃありませんか」
「魅力って……女の人だぞ?」
「もちろんです。本当は女性だということはみんな知ってますわ。でも、無理もないと思いません?」
あいにく王妃はそういう憧れをいっさい解さない。
不思議そうに首を傾げている。
「おれには普通の女の人に見えるけどなあ」
「まあ、妃殿下。それはあんまりですわ。社交界の女性の半数はあの方に焦《こ》がれているんですから」
「残りの半分は?」
「もちろん、バルロ様です」
王妃はまたまた呆れ返り、シェラは小さく笑いをこぼした。
「私はその方を存じませんが、本当にあの公爵様に匹敵するような『男ぶり』の方ですか?」
シャーミアンは真剣に考えた。
「そうね。もちろん本当は女性だから、バルロ様に比べるとずっと線は細いわ。華奢《きゃしゃ》と言ってもいいくらい。でも、あの方の剣術も馬術もすばらしいものよ。落ちついた物腰なのに一分の隙もなくて、颯爽としていらして、凛々《りり》しくて……。だめね。言葉にするとどうしても似たような印象になってしまうわ。
つまり、立派な、たくましい男の方とは全然種類の違う魅力なの。わかるかしら?」
頷いた。
「その方のお姿が見えるようです。優雅で、鋭さを感じさせて、どこか謎めいている。そんな雰囲気の方なのでは?」
「ええ。本当にそうなのよ」
二人は実に楽しそうだが、王妃は口を挟むこともできない。憮然としていると、ラモナ騎士団の小者が恐る恐る顔を覗かせた。
なぜかと言えば、この離宮には狼が群になっていることがよくあって、何人か逃げ帰ったことがあるからである。
シャーミアンがいるのでほっとしながらも恐縮した様子で、まことに申し訳ないのだが降りてきていただけないだろうかと団長が申しています、と言う。
「……? ついさっき、下で別れたばかりだぞ」
「それが、団長の妹様がたいへんなお取り乱しようで、団長も懸命になだめていらっしゃるのですが、できましたら妃殿下にもおいで願えないかと……」
そこで王妃はシャーミアンを伴って本宮に降りていった。ナシアス様の妹さんならぜひともご挨拶しなければ、というので一緒に来たのだ。
ちょうど同じ扉の前で国王と会った。
中からは半狂乱のアランナの声が聞こえてくる。
「もうだめ、もうだめだわ。私きっと死刑になります。あなた、ごめんなさい。デジー、レニー、ごめんなさい。お母さんは帰れないわ! 二人ともお父様の言うことをよく聞いて、いい子にしてね。ああ、どうしましょう!」
支離滅裂である。
「アランナ。ちょっと落ち着きなさい」
「ひどいわ、そんな言い方! お兄様は私が死刑になってもいいとおっしゃるのね!? 数年ぶりに会う妹に対して何て仕打ちですか!」
「アランナ……!!」
ナシアスの声はほとんど嘆願の悲鳴である。
「そんなことには絶対ならないと言っているじゃないか。妃殿下はそんなことを気にするような方ではないんだ」
「その王妃殿下に残り物を食べさせたんですよ! 私なら絶対私を死刑にします!! 決まってます!よくたって牢屋行きですわ! 妃殿下が許してくださったって陛下がお許しになりません! 私だって私が許せませんわ!」
扉越しにもナシアスの深々とした嘆息が聞こえてきそうである。
扉の前で国王と王妃は笑いを噛み殺していた。
本人が本気で震え上がり、たいへんなことをしてしまったと悲観している分、アランナの嘆きぶりは妙におかしい。
が、いつまでも黙って立っているわけにもいかず、二人はシャーミアンを従えて部屋に入っていった。
滅多に穏やかな表情を変えないナシアスが、お手上げだというように手を広げ、助けを求めるように彼らを見た。
国王が一歩進み出る。これまた間違いなく誰もが見とれる、もっともすばらしい男性の見本のような姿だ。さすがにアランナも泣き叫ぶのをやめて眼を見張った。
「失礼、アランナどの。先程は名乗る間もなかった。
デルフィニア国王、ウォル・グリークだ。兄上にはいつも助けてもらっている」
息が止まりそうになりながらも、アランナはどぎまぎと頭を下げた。
「ご、ご、ご無礼を……わたくしあの、ナシアス・ジャンペールの妹にして、アランナ・セレーザと申します。この度は……この度はとんだ失礼を……」
言いながらも涙ぐんでいる。
王妃も苦笑して、ちょうどそこへ運ばれてきた酒杯を取り上げた。半分ほど干してから、硝子《ガラス》の杯をアランナに差し出した。
「呑んで」
「は!? あ、あの、でも……」
「いいから呑んで」
アランナは恐る恐る酒杯を受け取って中身を全部干した。それで幾分血の気が戻ってきたようである。
王妃はそんなアランナに優しく言った。
「残り物を食べさせたから死刑なら、これでおれも死刑だよ」
「まあ、そんな!」
「いいから、これでお互い様ってことにしよう」
アランナはそれでもまだ何か言いたげだったが、王妃は笑って手を振った。この問題はこれでおしまいと、態度で示したのである。
「しかし、リィ。こちらのご婦人は名乗らなかったのに、よくナシアスの妹御だとわかったな?」
「そりゃあわかるさ。そっくりだ」
これにはナシアスも意外そうな顔になり、アランナは熱心に反論した。
「お言葉を返すようですが、そんなはずはありません。それは白鳥とアヒルを並べて似ていると言うようなものですわ。子どものころからせめてこの兄の半分も美しければと何度思ったかわかりませんから。
わたくしばかりではありません。両親もそういって私の嫁入り先を心配していたくらいですから、幸い物好きな夫と出会えて今は幸せですけど、それは本当に運が良かっただけのことで、まかり間違っても似ているということは……」
「アランナ」
頭を抱えながらナシアスが妹を押し止める。
アランナもさすがに赤くなって黙り込んだ。
「申し訳ありません。嫁いで七年になるというのに、二人の子の母でもあるというのに、いつまでたっても娘気分の抜けない妹でして……」
ほとほと困り果てた様子のナシアスだが、口ではそう言いながらも、奔放な妹に振り回されることを楽しんでいるようだった。
仲のいい兄妹である。
アランナとシャーミアンの間の紹介も済み、それでようやくアランナの気持ちもほぐれたらしい。
ここまで訪ねてきた本題に入った。
一度混乱状態から立ち直れば、アランナはしっかりした強い女性だった。国王に対して、しばらくの間、兄を借りて実家へ帰る許可をいただけないかと丁重に言い出したのである。
国王も驚いたが、ナシアスも驚いた。
「何を言い出すんだ、お前は?」
「お兄様」
アランナは意外なほど怖い表情で兄を見据えた。
「お父様とお母様から手紙が届いていますでしょう。
戻ってきて、お見合いして、結婚するようにと」
「そのことなら、今はそれどころではないと何度も断っているはずだぞ」
「そう言って逃げ続けてどのくらいになります?今度という今度は何が何でも結婚してもらうとお父様もおっしゃってます。手紙では埒《らち》があかないから、私が参りました。首に縄をつけてでも引きずってこいという厳命です。この役は私がもっとも適任なのですって」
ため息をついた兄にアランナはさらに言った。
「それともどなたか意中の人がいらっしゃるの?でしたら引き下がります。その方を一日も早く紹介していただきたいわ。でも、そうでないなら、是非とも一緒に故郷へ帰っていただきます!」
「待ちなさい! いったいどうしてそんなに急に」
「陛下がご結婚されたからですわ。それに、ビルグナにいるお兄様はご存じでしょう? パラストとデルフィニアの間で近々大きな戦《いくさ》が起こるかもしれないという噂のこと。もちろん私はお兄様の武勇を信じています。誰よりも勇敢に戦うに違いないって。
でも、戦に絶対はないと言いますでしょう? お父様もお兄様のことは信じていますけど、ジャンペールの血筋が絶えてしまうのではないかって、それを心配しているんですわ。そのお気持ちはわかってくださるでしょう?」
「ああ、よくわかるよ。だがね、お前の子ども達もいるじゃないか」
「だめです。私はもう家を出た人間なんですから。
あの子たちはセレーザの跡を継ぐんです」
「セレーザとは仲良くやっているらしいね?」
「ええ。とても。そりゃあたまに喧嘩はしますけど――あの人ったらひどいんですのよ、私のことを、怒ると眼が緑色に光る山猫そっくりだなんて言うんです。私、そんなに血相を変えたりしませんのに。
でも、幸せですわ」
「子どもたちも連れてくればよかったのに。もうずいぶん大きくなっただろうね」
「ええ、もう。やんちゃざかりで手が掛かって、大変です。――ところでお兄様、現実から逃げるのは騎士の態度とは言えませんわよ」
アランナはごまかされない。
どう見てもナシアスの分が悪かった。国王が苦笑して言ったくらいである。
「これはこれは。まさかラモナ騎士団長にこんな可愛らしい弱点があるとは意外だった」
そのラモナ騎士団長は本気で主君に救いを求めた。
「陛下。笑っていらっしゃらないで助けてください。
私にはまだまだしなければならないことがあるのです。結婚などしていられません」
「しかし、とめだてすれば、俺がアランナどのとご両親に恨まれる。従弟どのにも縁談が持ち上がったことだし、いい機会ではないのかな? 二人が共に身を固めればこんなめでたいことはない」
国王は楽しげに笑って、アランナに話しかけた。
「あなたの兄上はこの優しげな姿に似ず、王国の支柱とも言うべき騎士であり、俺のもっとも大切な財産でもある。しかし、どうやらあなたはその美剣士に勝てるらしい。奇特なことだ。ご主人とお子さんが寂しがらない限り、王宮に滞在してくださると嬉しいな。おもしろいものが見られそうだからな」
「同感」
王妃が実に無情に言葉を添える。
さすがにナシアスも秀麗な顔を紅潮させて二人に向き直ったが、何か言おうとするのを制して、王妃が訊いた。
「さっきまでどこに行ってたんだ?」
「エンドーヴァー夫人のお宅です。お悔やみに。王宮までご一緒しましたが……」
「ラティーナが来ているのか?」
と、国王。
つい先日、国王の凱旋祝いに出向いてきたのに、たいして日にちもおかずにまた訪ねてくるとは珍しいことである。
さらにはとっくに本宮に入ったはずなのに、知らせが来ないのもおかしな話だ。
首を傾げているところへ侍従がやって来て、その夫人が面会を求めていることを告げた。一つの街とも言えるほど広いコーラル城ではこんなことは珍しくない。
国王はアランナに丁重に断って席を立った。
一方、ナシアスもそそくさと後に続いた。女ばかりの中に取り残されるのは気まずかったのだろうし、妹の攻撃から逃げたかったのだろう。
城内にはラモナ騎士団の宿舎があるが、ナシアスは王宮にいるときはたいていサヴォア公爵邸に寄宿している。かといって、まさかアランナまで厄介《やつかい》にはなれない。男ばかりの宿舎に泊まるのも具合が悪い。王妃の計らいで一の郭《かく》の離宮に寝泊まりすることになった。
「そんなことまでしていただいては……」
と、アランナはしきりに恐縮したが、それがいやなら本宮に泊まるか、サヴォア公爵邸に行くしかないと言われ、横からはシャーミアンが、よかったら自分のうちへ来てくださいと言いだした。
どれもアランナには震え上がる場所である。
渋々ながら離宮に泊まることを了承した。
他でもない王妃を別にすれば、かつての愛妾エンドーヴァー夫人は国王にとって、今でも打ち解けて話せる貴重な女性の一人だった。
バルロに言わせれば王妃は女のうちには入らないそうだから、夫人は堂々の第一位であるとも言える。
実際、この人にはそれだけの魅力があった。
この時も無駄話で時間を潰したりはしなかった。
こぢんまりとした居間で国王と二人きりになると、すぐに用件に入ったのである。
「また、別の者が参りました」
何のことかとは国王は訊かなかった。澄んだ黒い眼にかすかな怒りと痛ましさを滲《にじ》ませた。
「いつのことです?」
「先日の祝勝会にお招きを受け、こちらに一泊して帰りました、その翌日のことです」
眼を見張って驚きを示した国王に、夫人もうなずきを返した。
「陛下からお暇をいただいてからは誰も私に利用価値を見いだしはしませんでした。ですが、私は今でも王宮に出入りを許されております。特にあの祝勝会ではねんごろなお言葉をいただきました。それを聞きつけてきたらしゅうございます」
国王は恐ろしく怖い顔になり、夫人は再び頷いた。
「そうなのです。話が漏れるのが早すぎます。私が王宮を出てから、陛下は一度も私の屋敷には立ち寄られませんでした。それが陛下のお気遣いだということは充分にわかっております。しばらくの間、私をそっとして置いてくださったのだろうと。ですが、宮廷の方々はそんなふうには考えなかったらしいのです」
ここで夫人は困ったような表情になった。
「あの祝勝会の折、そのことがはっきりわかりました。最初は皆様、私に対して奇異と憐《あわ》れみの目線を向けられました。捨てられた女がのこのことこんなところにまでやってくるなんてと、もう一度陛下に寵愛《ちょうあい》されようとたくらんでいるのだろうかと、気の毒そうな、卑しむような視線でした。ところが、陛下が私に御昵懇《ごじっこん》なお言葉をかけてくださったとたんに、その方々の態度は急変しまして、さわりの悪い粗布が最高級の天鵞絨《ビロード》になってしまいました。その後、今度は妃殿下がわざわざ話しかけてくださいまして、そこへ陛下も加わって、しばらく三人でお話をいたしましたでしょう? そうしたらもう……」
「腐りかけた葡萄が極上の美酒ですか?」
従弟の口調をまねて、国王は皮肉に言った。
夫人も苦笑しながら頷いたのである。
「王宮とは、権威とはそうしたものであると承知しているつもりでしたが、あまりにあからさまなので少し驚きました。こんなことを申し上げるのは失礼かもしれませんが、私は陛下があの妃殿下とご結婚されたことを本当に嬉しく、喜ばしく思います。何よりも陛下のためにそう思うのです。それからあの独立騎兵隊長や、お従弟様、ラモナ騎士団長がお傍にいらっしゃることも」
「彼らの存在はまさに俺の宝です。それにあなたもいてくださる」
真面目な口調だった。恋情を示したのではない。
もっと実際的なものだ。夫人も心得ていて真剣にうなずきを返したのである。
「その男は――テラン公国のコフィスと名乗りましたが、無論、本名ではないでしょう 亡くなった父の友人である方の紹介状を持って参りました」
しかるべき人の紹介か、そうした手紙がなければ貴族の奥方は見ず知らずの人間に会ったりしない。
夫人の少女時代にかわいがってくれた人は手紙の中で、コフィスのことを、ごく懇意《こんい》にしている親しい友人であると述べている。
「いやなことを訊くが……その手紙は本物ですか」
「もちろん偽物です」
夫人は平然と言った。
「手紙の内容もその人らしくまねて、筆跡もよく似せていました。誰に見せても本物で通るでしょう。
私はもう長い間、その方にお会いしていませんから簡単にだませると思ったのでしょうね。でも……少しばかりやりすぎたのですわ」
「と、いうのは?」
夫人はやんわりと首を振った。
「陛下ならいかが思われます? 私はごくわずかの間でしたが、この王宮で、陛下の愛妾として、まるで王妃のような暮らしをさせていただきました。それが一転して捨てられて――と、世間は思いこんでいると思いますので――いわゆる忘れ去られた人になり、しかしながら未だに陛下からご懇篤《ごんとく》なるお言葉をいただき、妃殿下にまで友人として手厚く遇していただいていると判明したその翌日です。十数年も消息を聞かない人の手紙を持った、愛想のいい、如才ない地方貴族が現れて、どこから聞いたのか丁寧に主人の弔辞を述べ、いかにもさりげなく、王宮のこと、陛下や妃殿下のことに話題を移していく。
実際そのやり方は非常に巧みでした。私も以前のような経験をしていなければわからなかったかもしれません。けれど、あの一件で私はいろいろなことを学んだつもりです。人は決して見た目通りのものでも、その人が自分で言うとおりのものでもないこと。
同じようなものやわらかな親切な態度に見えても、信用していいものとそうでないものに分けなければならないことなど、今では少しはわかるつもりでおります。それを思えば、コフィスは明らかにやりすぎたのです」
国王はまじまじと夫人を見つめていたが、やがて低く笑い出した。
「惜しいことだ。あなたが男なら俺は謹んで、この城の参謀室に迎えただろうに」
「お戯《たわむ》れを。この程度のことも見抜けないようでは、妃殿下に叱られます」
夫人もやんわりと微笑を浮かべた。が、眼は笑ってはいなかった。国王も同様である。
「これが、その男のコーラルでの住所です。何かのお役に立てばと思いまして……」
夫人が差し出した紙片を国王は注意深く収め、深く頭を下げた。
「かたじけない。よくぞ知らせてくださった」
「いいえ、お知らせするのが遅れまして、申し訳ありませんでした。手紙にしたためるようなことは危険ですし、かといってすぐに駆けつけたのでは怪しまれるかもしれないと思いまして、今日まで日をおきました」
「賢明な処置です。後のことはこちらでやりましょう」
「お願いいたします」
エンドーヴァー夫人の美徳の一つに己の分をわきまえているということがあげられる。
あの男もパラストの諜者《ちょうじゃ》でしょうかとか、どんな探索をなさいますかとは、いっさい尋ねない。
それは国王と王妃の間で交わされる話であり、自分の役目はここまでと悟っている。
国王も笑顔になって、それからはごく当たり前の友人同士のような会話をした。
「お前もとうとう観念するときが来たようだな」
酒杯をもてあそびながらバルロは言った。
ナシアスは疲れた顔で髪を掻き上げている。
もう夜も遅い。とにかく今すぐお帰りをと迫る妹の攻撃をやっと振り切り、サヴォア公爵邸に『逃げ帰って』きたところだった。
「さすがに参った。アランナも思いこんだらてこでも動かない子だ。ここにいる限りは安全だろうが」
「俺の屋敷は緊急避難所か?」
。バルロがわざとらしく眼を見張る。
そんな友人にナシアスは恨めしげな顔を向けた。
「人の災難に同情する気はないのか?」
「ない」
にべもなく言って、手酌で美酒を注ぐ。
硝子の杯も食卓用の瓶も、中身の色を映して真っ赤に染まっている。
「俺はむしろいい機会だと思っている。むろん相手にもよるがな」
ナシアスは深いため息をついた。
その意味を彼の家族ほどではないにせよ、ある程度は知っているバルロは努めて快活に言った。
「俺は昔からアランナどのを非常に高く買っているが、今もその印象は変わらんな。愛らしいばかりでなく、実に鋭い。捜し物や必要なものがあるときはどこを探せばいいのか、ちゃんと知っている女性だ。
――俺にこう訊いてきた。今の兄には誰か好ましいと思う方はいるのでしょうか? エンドーヴァー夫人という方はどのようなお方でしょうか?」
ナシアスはぎょっとして顔を上げた。
「俺はこう答えた。その人ならば教養とたしなみをそなえた本物の貴婦人だ。俺の好みからするとやや地味だが、兄上は非常に好ましく思っていらっしゃるご様子だとな」
「お前……」
絶望的な表情で頭を抱えたナシアスである。
対してバルロはとことん楽しそうだった。
「アランナどののことだ。すかさず行動を開始するだろう。もちろん向こうが何と言うかは問題だが」
「あの人は陛下の愛妾だぞ!」
「元愛妾だ。今は自由の身だ。誰を選び、夫に据えたところで咎《とが》められるわけではない。お前とならばちょうど似合いだ」
「馬鹿なことを……」
言下に否定したナシアスだが、とはいうものの声には力がない。
端正な顔に傍目にも苦悩を浮かべて、呻くように洩らした。
「今さら……私は誰とも結婚などしない」
「決めつけるな。あれから何年になる? 七年……もうじき八年だ。アランナどのの嘆きも、ご両親の心配も、俺はもっともなことだと思うぞ」
ぶっきらぼうな言葉だが、声の調子は意外なほど優しかった。
6
後日、王妃はアランナを伴ってエンドーヴァー夫人を訪ねた。
馬車ではなく、馬である。
妹はたいへんなおてんばだったと、ナシアスが昔話していたことを思い出して、誘ってみたのだ。
あんのじょうアランナは馬車に揺られていくより馬を飛ばすほうが好きです、と答えた。
「でも、乗馬服で訪ねたりしたのではエンドーヴァー夫人に失礼にならないでしょうか?」
「この際だよ。何しろお兄さんと結婚してくれないかって頼みに行くんだろ?」
「そうでした。考えてみればこれも相当失礼な話ですものね」
そこでアランナは乗馬ズボンと乗馬靴に身を固め、王妃と共に郊外の屋敷まで遠乗りを楽しんだ。
前もって来訪を知らせておいたので、夫人はあらかじめ身支度を整え、居心地のいい居間においしいお茶とお茶菓子を用意して、二人を歓迎してくれた。
「よくいらしてくださいましたわ。こんな寂しいところですから、お客様は本当に嬉しいんです」
王妃の紹介で、エンドーヴァー夫人とセレーザ夫人はすぐに仲良くなった。
女主人は二人のお客が居心地よく楽しめるようにつとめ、王妃は楽しげに会話に応じ、夫人の手製のお茶菓子を楽しんだ。
夫人は王妃のためにあまり甘くないお菓子を用意してくれていた。そのせいかどうか、アランナは大きなシードケーキとチョコレートケーキを二つも食べてから、あらたまって話しかけた。
「あの……エンドーヴァー夫人。どうか気を悪くなさらないでください。私のことをさぞ不躾《ぶしつけ》な女だとお思いになりますでしょうが、どうしても聞かせていただきたいのです。――夫人は兄をどうお思いになっていらっしゃいますか?」
夫人は優しい若草色の眼を見張って、少し首を傾げた。少女のようなセレーザ夫人が恐ろしく真剣であることを敏感に察したようだった。
「お兄様は陛下の優れた騎士であり、立派な方です。
誰もが同じことを言うはずですわ」
「他の人と同じでは困るのです。その……」
言葉に詰まるアランナに変わって、王妃が言った。
「つまり、結婚の対象として考えてくれないかってことなんだ」
夫人はこれには率直に驚きを示した。
「ナシアス様がそうおっしゃいましたか?」
「アランナはそれに違いないって言うんだ」
「いえ。私ではなくてバルロ様がおっしゃったことなんですけれど……」
これもずいぶん変則的な結婚申し込みである。
もっとも、親の友人の紹介で顔も見知らぬ相手と結婚するのが貴族の常識だ。従って、夫人も一蹴したりはせず、じっと考えた。
「私とあの方とではあまりにつりあいません。ナシアス様は陛下の腹心であるばかりでなく、王国の重鎮でもいらっしゃいます。私は単なる地方貴族の未亡人にすぎません」
「エンドーヴァー夫人。お願いです。そんなことはどうでもいいのです。もし兄が結婚を申し込んだら、受けてくださいますか?」
アランナは必死だった。その様子は少し熱意の度がすぎるともいえた。
実際、王妃はそう思っていたらしい。アランナや両親の気持ちもわかるが、ナシアスも分別のある大人である。結婚するか否かは本人の意思に任せるべきだというのが王妃の意見だった。
ただ、アランナがどうしてもエンドーヴァー夫人にお会いしたいというので連れてきたのである。
その夫人は静かに問い返した。
「セレーザ夫人。私も一つお尋ねしたいのですが、どうしてそこまで、お兄様のご結婚にお心を砕かれるのでしょうか?世の中には四十を過ぎてから初めて妻を娶《めと》る人も大勢います。それとも何か理由がおありなのでしょうか?」
「どうかアランナと呼んでください。放っておいたら兄は決して身を固めようとはしません。一生を独りですごします。私にはわかるんです」
「それは……」
エンドーヴァー夫人は若草色の眼に戸惑いの表情を浮かべて、ちらりと王妃に眼をやった。
ほんの一瞬、並の人間なら気付かないほどの一瞥《いちべつ》だったが、こういうことには敏感な王妃である。
二人の顔を見比べて、頭を掻きながら立ち上がった。
「ちょっと、その辺を散歩してくる」
「いいえ。妃殿下。いらしてください」
アランナが言い、夫人に向き直った。
「どうかおっしゃってみてください。あなたはきっとおわかりなのだと思います。そうでしょう?」
「詳しいことは何も存じません。ただ、あなたがそれほどご心配なさる理由は、あの方の最初の奥様に何か関係があるのだろうかと思ったのです」
これには王妃が驚いた。
「ナシアスは……結婚してたのか?」
硬い顔でアランナは頷いた。
「エレイヌと言います。私の幼なじみでした。十七で兄と結婚して死にました。――兄はエレイヌのことをどう話しましたか?」
これは夫人に対する質問である。
エンドーヴァー夫人は少し考えて、「それほど多くはありません。ただ……お若くしてご病気で亡くなられたということでしたし、お言葉の端々から、繊弱《せんじやく》な、神経の細い方だったという印象を受けました」
深いため息をついたアランナである。
「やっぱり……。兄は今でもそう思いこんでいるんですね」
「実際には違ったのですか?」
「大違いですわ。確かにエレイヌは美しい人でした。
色白で、線が細くて、一見とてもおとなしい娘に見えました。でも、エレイヌはそのことをちゃんとわかっていて、人が望むように振る舞っていただけなんです。私のように外で遊び回るのは好きじゃなくて、刺繍《ししゆう》や読書や家の手伝いを好んだ人でしたけど、少しもか弱くなんかありません。人は初咲きのすみれ草だと讃えましたが、私に言わせれば鬼百合です。
一度なんか、気に入らない家庭教師の先生を追い払うために外套《がいとう》の中に蜥蜴《とかげ》を放りこんだんですから。
後でこっそり私に教えてくれて、二人で大笑いしました」
懐かしい少女時代を語るアランナの顔は楽しそうに輝いている。
「私はエレイヌが好きでした。おしとやかそうに見せながら芯はしっかりしていて、思い切ったことを大胆にやってのけるエレイヌが大好きでした」
この両家は仲がよく、エレイヌの両親はナシアスを見込んで、娘をもらってはくれないかと申し出たという。
「最初、エレイヌはこの話を嫌がったんです。もちろんご両親の前ではそんなことは決して言いませんでしたけど、いくらアランナのお兄様でも、私は騎士って好きになれない、あの人達はみんな荒々しくて大声で喋るから、なんて言ってました」
「エレイヌはナシアスと面識はなかったのか?」
「はい。兄は子どもの頃から見習いとして騎士団に入っていましたし、休暇はいつも短いものでしたから、たいてい家族だけで過ごしたんです」
十五歳のエレイヌは両親の言いつけで嫌々ながらアランナの兄と見合いをした。
二十一歳のナシアスは健康で美しく、妹の目から見てもほれぼれするような若者だった。エレイヌがこの話に気乗りがしなかったとしても、それはナシアスに会うまでだった。一目で心を奪われた。
それからはもう夢中だった。遠く離れている婚約者に熱心に手紙を書き、その細密画を片時も手放さず、眼を輝かせてその人のことを話した。
十八になるのが待ちきれないと言うのがその頃のエレイヌの口癖だった。
「……そしてエレイヌは十八歳にはなれなかった」
王妃の呟きだった。
アランナは沈痛な顔で頷いたのである。
十七歳のエレイヌを病魔が襲った。胸の病だった。
治る見込みのない死病である。
「ほんの風邪だとばかり思っていたのに、ベッドが真っ赤に染まるくらいの血を吐いて、もともと線の細い人でしたけれど、たった三ヵ月で、折れそうなくらいに痩せ衰えて……、誰にもどうすることもできません。きっと治るからなんて気休めも言えません。お医者様の診断を待つまでもないことでした。
何よりエレイヌ自身が助からないことをはっきり悟っていました。私たちにできたことは、エレイヌの望みをかなえてあげることだけです。そして……死を間近にしたエレイヌがたった一つ望んだのは兄と結婚すること、エレイヌ・ジャンペールとして死ぬことだったんです」
エンドーヴァー夫人も王妃も率直な驚きを示した。
特に王妃はそうだった。自分の結婚もかなり変則的なものである。痛ましいとも思う。それでも感情に流されることなく、冷静に言った。
「そういうのは、結婚とは言わないんじゃないか」
「妃殿下……」
エンドーヴァー夫人がそっとたしなめる。
そんなことはアランナにはいやと言うほどわかっているはすだった。
丸い顔を精一杯厳しくして、乗馬服の膝を固く握りしめている。
「エレイヌのご両親は、泣きながら私の両親に頭を下げにいらっしゃいました。ほんの短い間でいいのだからと。あの子の時間はもう一月も残されていない。その最後の一月くらいは幸福に過ごさせてやりたいのだと。――兄は長期の休暇をもらって帰ってきました」
王妃とエンドーヴァー夫人は申し合わせたように深いため息をついた。
「結婚式から二十日後にエレイヌは亡くなりました。
こんな言い方をしてよければ――とても幸福そうな顔でした。そのことはよかったと思うんです。エレイヌが幸せに死んだことは。でも……」
「ナシアスはちっとも幸せじゃない」
端的な王妃の指摘である。
アランナは両手を固く握りしめたまま頷いた。
「私が言いたいのもそのことです。あの二十日の間に兄とエレイヌの間に何があったかは知りません。
二人は夫婦だったんですから。でも……エレイヌは、逝くときに兄の一部を一緒に持っていってしまった。
そんな気がして仕方がないんです。あれから七、八年にもなるのに。ひどい言い方に聞こえるかもしれませんけど、もう忘れてもらいたいと思うんです」
「ちっともひどくない。当然のことだ。だいたい、その人が死んだのはナシアスのせいでも何でもない。
どうしていまだに引きずらなきゃならないんだ?」
アランナは首を振って王妃を見た。
「妃殿下。妃殿下は眩しいような方です。あのお日様のように強くたくましく輝いていらっしゃいます。
ですからおわかりになってはくださらない。いいえ、私もこの眼で見なければわからなかったかもしれません。病気が進んでからのエレイヌを。兄は婚約者の姿を一目見るなり絶句しました。げっそりと肉が落ちて、透き通るようにやせ衰えて、なのに眼だけは異様に熱く濡れ濡れと光って……、ぞっとするような美しさでした。生きていながら冥界を覗いている人、半分死んでいながらこの世にしがみつこうとしている人の……何と言いましょうか、恐ろしくてたまらないのに眼が離せないような輝きです。あれだけは1実際にご覧にならなければわからないと思います」
夫人が口を挟んだ。
「ナシアス様はその方と二人きりで二十日をお過ごしになったのですか」
「はい」
「日一日と痩せ衰えていく、なのに自分への執念だけで長らえようとする奥様を目の当たりにしながら、ですか?」
「その通りです」
夫人は長いため息をもらし、王妃は苦い顔で首を振った。
「不健康だな」
薄情な言葉のようだが、真理でもあった。
「お気の毒です。まだ若い騎士様には、荷が重すぎたのでしょうね」
夫人の言葉にアランナは熱心に頷いた。
「エレイヌは決して不幸だったわけではない。私は今ではそう思っています。あれほど愛していた兄とわずかでも夫婦として過ごして死んだのですもの。
満足して逝ったのだと考えています。でも、兄は違うんです。エレイヌの死に責任があるように感じているらしいんです。エレイヌのことになると私と兄とではまるで話が噛み合いません。兄の心の中ではエレイヌは生まれつき病弱な繊細な少女で、ちょっとの刺激にも耐えられない、こわれもののような人なんです。そんなことは絶対にないのに」
アランナは元気だった頃のエレイヌを覚えている。
決しておてんばではなかったけれど、いたずら好きで、明るくて、頭の固い大人達の前ではことさらしとやかに振る舞いながら、何食わぬ顔で度肝を抜いてみせる、ある意味ではとてもしたたかだった美少女のエレイヌをだ。
「私が見ている前でも一度同じことがありました。
口やかましい叔母様が――エレイヌは何でもよくできた人でしたのにね。女の子はもっと厳しくしつけなければいけないと延々お小言を言っていました。
エレイヌのご両親の前で、お二人を非難するようなことまで言うんです。あの人ったら従順そのものの態度でお茶を出して、しおらしくそのお説教を聞いていました。ところがその叔母様はしだいしだいに赤くなったり青くなったりし始めて、とうとう飛び上がるようにしてお帰りになったんです。――いったい何をしたの、と訊いたら、すました顔で、お茶の中にヒマシ油を垂らしてやったわって言うんです。
叔母様のお体のために薬草のお茶をいれてさしあげたの、だから味ではわからなかったのよって――、もう本当におかしくって、もちろんいけないことなんでしょうけれど、笑い転げましたわ。……私にはそういう思い出がたくさんあります」
ナシアスは知らない。知っているのは病魔に侵され、幽鬼のような腕を自分に向かって差し伸ばした、枕もあがらない重態のエレイヌだけだ。
「それは、言う相手が違うな」
王妃が脈絡のないことを言い出した。
「もう忘れてほしいっていうのは、ナシアスにじゃなくて、エレイヌに言うべきだ。エレイヌは未だにナシアスを捕まえてる」
非現実的な意見だが、アランナは意外にもその言葉に強く頷いた。
「おっしゃるとおりです。私もそう言いたいんです。
もうお兄様を返してって、もう充分でしょうって」
三人はそれぞれの心情を示す吐息を洩らした。
最初に衝撃的な打ち明け話から立ち直ったのはエンドーヴァー夫人だった。微笑を浮かべた。
「でも、あまり心配なさらなくても大丈夫だと思いますわ。ナシアス様は奥様の墓参に伺うつもりだとおっしゃいましたから」
「そんなことしたらよけい忘れられなくなるんじゃないか?」
これは王妃。
夫人はゆっくりと首を振った。
「いいえ。時間はかかりましたけれど、ようやく奥様と正面から向き合えるお心になったのではないでしょうか。けれど、アランナ様。その原因が私にあるとはお思いにならないでくださいませ。お兄様は強い方です。ご自分で立ち直られたのですわ」
「でも、兄が誰かにエレイヌのことを語るなんて、今までなかったことです。こうしてお会いしてお話ししてみてもエンドーヴァー夫人はとてもすてきな方でいらっしゃいますもの。兄にとっても単に礼を尽くすだけの方ではないはずだと思います」
「ラティーナと呼んでください。あなたのお兄様のお心は私にはわかりません。ただ、これだけは申し上げます。もう結婚はしたくないと考えている人間がいるとするなら、それはこの私のことです」
何か言いたげなアランナを制して、「私は今まで二人の夫に先立たれました。最初の夫は結婚して二月とたたないうちに脳炎で亡くなりました。馬のように丈夫な人でしたのにね。二度目の夫は馬車に轢《ひ》かれてその傷が元で半年後に亡くなりました。お兄様は、だから、私のことを少し哀れみ、同じ気持ちを知っている者としての連帯感をお求めになったのだと思います。――愛していた人を失う悲しみ、その人と共に築き上げていくはずだったものすべてが崩壊してしまった虚しさ、あなたは先程、一部を失うとおっしゃいましたが、本当にその通りです。……実際に経験した者でなければわからないことです」
丸い顔をくしゃくしゃにしているアランナに、ラティーナは優しく微笑みかけた。
「あなたは、お幸せですか?」
アランナは涙ぐみながら頷いた。
「申し訳ないくらい幸せです。だから兄にも幸せになってもらいたいんです。何よりエレイヌのご両親がとても気に病んで……、あの方達は兄が幸福になるまで、娘を失った悲しみばかりではない罪悪感にまで苦しめられなければならないんです」
ラティーナは熱心に身を乗り出した。
「お兄様とご一緒に故郷へお帰りなさいませ。ご両親やその方々が親身になって説得すれば、あの方も心を動かされるでしょう。ナシアス様ならば、気だてのいい美しいご令嬢が何人もお相手に名乗りを上げます。戻るのを嫌がられるようでしたら、こちらの妃殿下にご協力を求められませ。有無を言わさず、力ずくで引っ張っていってくださいます」
「そりゃあひどい」
王妃は真顔で反論したが、アランナはなお真剣な顔で『ぜひともお願いします』と、言った。
コーラルの街はまだ祭りの余韻《よいん》を残して、各地からやってきた行商や大道芸などで賑わっている。
その通りをシェラは一人で歩いていた。
城勤めの娘達の外出は滅多に許されない。その必要もないのだ。衣食住のすべてが城内でまかなわれ、どうしても入用なものは出入りの商家から手に入れることができるからだ。
ただ、今のシェラが欲しいと思っている物はどの商家も扱っていない。王妃に願い出て特別に許可をもらったのである。
ダリエスを失ってから刺客としての身支度は自分自身の手で行わなければならなくなった。
特に重要だったのが、刃物を研ぐことと鉛玉の入手である。シェラの使う刃物は特殊なものばかりで、糸剃刀というべき銀線は仕方なく自分で研いだ。
こんなものを研ぎ師に出したら何に使うのかと奇異の眼で見られてしまう。
それ以外の愛用の小太刀の他、数種類の手裏剣を研ぎに出してある。ランバーでの激戦を経て磨耗が激しかったものだ。
もう一つ、鉛玉のほうはその型を鍛冶屋に注文した。図面を見て相当首を傾げていたが、型どおりに仕上げてくれることになっている。
あとは鉛の屑《くず》を手に入れればいい。
今日は他にも買い物があった。飾り櫛《ぐし》や刺繍を施した帯、香料や砂糖菓子など、城の侍女達から頼まれたものだ。
さすがにそうした贅沢品は城では手に入らない。
裕福な親類が贈り物として届けてくれるのを待つか、今度のように外出する仲間に頼むかだ。
ましてやシェラは王妃の厚意で半日自由な時間をもらっての外出だというのだから、娘たちは羨《うらや》ましいやら妬ましいやらである。それだけに絶対に入手して帰らなければ、つまはじきにされてしまう。
研ぎあがった小太刀は長い衣装の裾に隠し、籐で編んだ買い物籠に手裏剣や鉛玉をつくる型、材料の鉛の屑を入れてスカーフで覆い、その上に頼まれた品物をそっと積んでいった。
シェラも王妃と同じで甘い物はそれほど好きではなかったし、髪や体につける香料にいたっては論外だった。そんなものをつけている刺客など聞いたこともない。
ただ、美しい布地や飾りは嫌いではなかった。
頼まれた品を買うついでに見てまわる。
中でも髪につける飾りを見ると、いつも妙な気分になった。
今まで一度も髪を結ったことはない。女性であれば十七、八にもなれば髪を結い上げて管《かんざし》を挿したり、宝石やリボンのついた網で髭《まげ》を包んだりするのが普通である。
腰まで流れるシェラの銀髪は同僚の娘達の憧れの的だった。結い上げて見せてくれないかと言われることもあった。
自分は編んで垂らしているほうが好きだからと、彼女たちには話した。実際にはもっとはっきりした理由があった。王妃のようにぐるぐる巻きに結い上げるならともかく、優雅に形を整えて留める髭は激しい動きをするには不向きなのだ。
首の後ろで一つに束ねた簡単な髪型でも、まっすぐな銀の糸のような髪は充分に美しく、小間物屋の主人も口を極めて褒めちぎったくらいである。あながち商売だけではない熱心さだった。
「いや、まったく、すばらしい御髪《おぐし》ですねえ。商売がら髪自慢の娘さん達は何人も見ましたけど、こんなにきれいな御髪は初めて見ましたよ。ぜひとも上等の品で飾ってやらなきゃ」
そう言って象牙の櫛や凝った彫金の施された管やらを出してきたが、自分は要らないからと断った。
店を出ながらそっと微笑する。こんなことをしているとまるで本当の娘のようだ。
自分は実際には十七になる少年なのに。
いつまでもこの扮装はしていられないだろう。それはわかっている。問題は、今の自分が仕えている相手が王妃だということだ。
たった一人で離宮で暮らしている王妃。その傍に男の従者が仕えていたのでは、人の口が何と言うかは容易に想像がつく。
王妃は気にしないだろう。今でも本当にその格好で平気なのか、動きにくくないのかと訊いてくる。
なんなら『シェラ』には暇を出し、変わってその『兄弟』を侍従に雇ってもかまわないと言ってくれたが、シェラは笑って、女で通せるうちはこの姿でいますと答えた。
幸い、自分は西離宮に寝起きを許されている。他の侍女達とは私生活の部分を切り離していられる。
これがあのまま本宮に暮らしていたのでは、さすがに厳しかったはずだ。今までの経験でも一つの仕事に二ヵ月以上かけたことはない。どんなに気をつけていても女の勘は微妙なもので、ひょんな拍子に異なる性の匂いをかぎ分ける。
ダリエスを失ったことをあまり悲しんではいない自分にシェラは気付いていた。
最初から悲しくなどなかったのかもしれない。身の置き場がなくなったことを不安に思っただけなのかもしれなかった。
今をどうするか、これからをどうするか、それだけが大事なことのような気がする。
その考えは間違ってはいないはずだ。
ただ、何かが……、うまく言えないが何となく怖かった。自分は何か他の人とは決定的に違うような気がする。
刺客として育てられたから、『選ばれた一族』だからという言い訳はもうシェラを助けてはくれない。
かすかに頭を振って、そのもやもやした感じを振り払った。こんなことは考えてもどうしようもない。
商店が軒を連ねる大通りをシェラはゆっくりと歩いていった。陽光が燦々《さんさん》と降り注ぎ、シェラの白い肌と背中に垂らした銀の髪を照らしている。
通りを行く大勢の人は誰もが瞠目して、銀細工の人形のような娘を見送った。
お前に欠点があるとするならば――と、昔、自分を鍛えてくれた先生の言葉を思い出す。
美しすぎることだと、その教師は言った。人に好かれ、愛される容貌は必要だが、過ぎた容姿はむしろ邪魔になる。一度でも会った人はお前のことを決して忘れないだろう。刺客としては致命的な欠点だ。
女に生まれていれば、妾として、また諜者として並外れた働きができただろうにと、残念がっていた。
恐らくその通りだろう。こうして歩いていても血気盛んな若い男達の眼をいやでも感じる。
城の女官の服装をしている娘をからかうような向こう見ずな若者は地元にはいないが、ここは港町でもある。他の都市、他の国から来た男達にはそんな違いはわからない。
船乗りの格好をした二人の若い男が近づいてきて、熱心に話しかけてきた。
長い船旅で不自由していたらしい。帰るのを遅らせて少しつきあわないかと誘ってくる。
「ほんのちょっとの間でいい。そうしたらびっくりするほど小遣いをやるよ」
シェラはこの誘いを丁重に断って先を急こうとした。すると、二人の男はその体で行く手を遮《さえぎ》った。
「だめだめ、逃がしゃしないぜ」
にやにや笑いながら強引に連れていこうとする。
穏やかに困ったような表情を浮かべていたシェラだが、内心はどうしたものかと思案していた。
白昼の路上である。ここで片づけるわけにはいかない。素直についていってもいいのだが、他にも仲間がいると少し厄介《やっかい》だ。場所にもよる。
おとなしやかな娘を装わなければならない分だけシェラは不利だった。服の下には小太刀も、籠の中には手裏剣も潜ませている。しかし、こんな人通りの多いところでは何もできない。
下卑《げび》た陽気な笑いを浮かべながら男達はシェラを捕まえた。一人はその腕から買い物籠を取り上げようとした。
「だめです、これは……」
何とか守ろうとした。この中には見られては困るものが山ほど入っている。
だが『当たり前の娘としての抵抗』しかできないとなれば、限度がある。同時に二人はとてもさばききれない。まずい、と思ったときには籐の籠は男の手にあった。
「返してください!」
「いいとも。ちょっとの間俺達につきあってくれたらすぐに返すさ」
「さあ、来いよ。楽しませてやるからさ」
籠を持った男は得意満面で、シェラの肩を抱いて歩き出そうとした。その表情が不意に変わり、声をあげる。
すぐ背中で低い声が言った。
「こんなことをされては困るな」
振り返って、ぎょっとした。
見下ろしているのは完壁なまでに整った美しい顔。
鞭のような長身と額にかかる黒い髪。
シェラは大きく喘いだのである。
「ヴァンツァー……」
間違いない。レガのヴァンツァーその人だった。
男の手から取りあげた籐龍をシェラに押しつける。
「早く戻らないと叱られるんじゃないのか?」
からかうような口調だった。
何も言えなかった。荒い呼吸を抑えて、シェラはただじっと男を睨《にら》み据えていた。
陽の光の下で見るとその美貌の何と際だっていることか。鋼の強さを持ったれっきとした男の顔。容姿を誇る女性の誰もが赤面するに違いない妖麗な顔。
今は行者の黒装束ではない。中流貴族の子弟か若い騎士のような姿である。
「何だ、てめえは?」
「横取りしようってのか?」
気炎を吐いた男達に無表情な一瞥《いちべつ》をくれる。その口元は笑っていた。
「勇気があるな、お前達」
「なんだとお……?」
「おい、ふざけてんのか!」
「王妃の侍女に絡んで帰城を遅らせようというんだ。
それ相応の覚悟はしているんだろうな?」
二人の水夫は仰天した。
「デルフィニアの王妃はタンガの精鋭を片手で捻る女将軍だ。お前達二人の首などただの一振りで据え物切りにしてくれる」
男達は血の気の失せた顔を互いに見合わせ、そこで初めて通りを行く人が足を止めて自分たちを見物しているのに気付いて、こそこそと逃げ出した。
人々の間から失笑が沸き起こった。
ヴァンツァーの手がゆっくりとシェラの肩に伸ばされる。歩くように促しているのだ。
その手を躱《かわ》したシェラはまだ動けなかった。身を固くしていた。
こんな緊張感は初めてだった。二度も死闘を繰り広げた相手が眼の前にいる。なのに自分は『侍女』でいなければならない。
やってはいけないのだと自分に言い聞かせる。
服の下に隠してある小太刀を引き抜くような真似は、どんなことがあっても絶対に。
手が震えた。体も震えていた。抑えようにも抑えきれない激しい衝動のためだった。
「いつまで案山子《かかし》のように突っ立っている?」
男が言った。何の関心もない、無表情な声だった。
籠の中に滑り込みそうになる手を必死で押さえて、シェラは訊いた。
「どうして助けた?」
切れ上がった眼がシェラを見下ろした。夜に見たときは黒いと思っていたが、黒に近い濃い藍色の瞳だった。
「ほんの気まぐれだ」
そんなことはどうでもいいとでも言いたげだった。
この男の持つ退廃的な雰囲気は陽の下ではひどく浮き上がって見える。
「私を殺すのではなかったのか」
「殺すさ。だから、生きていてもらわねば困る」
「なぜ、今殺さない?」
「この衆人環視の中で技を揮《ふる》うのか?」
また、からかっているような口調だった。そんなことをすればシェラは二度と王宮には戻れなくなる。
それでもいいのかと言っているのだ。
きつく唇を噛んだ。挑発に乗ってはいけないとわかっているのに、危うく娘の態度をかなぐり捨てるところだった。
この男は危険だった。とてつもなく危険だった。
どうしても殺さなければならない。でなければ自分が殺される。
なのに攻撃を封じられた自分はただ震えていることしかできない。
ヴァンツァーの唇がゆっくりと吊り上がり、何かの包みを差し出した。
「やろう。お前には似合いだ」
警戒しながらその包みを受け取った。とにかく人目が多すぎる。うかつには動けない。
ヴァンツァーはシェラに対して悠然と背を向けた。
自分には決してできないことだった。
真昼の大通りだ。これだけの人の眼があるところでは何もできるはずがない。それでも背中から武器が飛んでくるのではないかという恐怖は拭えない。
男の姿が人混みに紛れて見えなくなるまで眼を離さず、じっと見送った。それから手渡された包みを開いてみた。
中から出てきたのは見覚えのある髪飾りだった。
さっきの小間物屋で主人が熱心に勧めてくれた金細工の管だ。黄金の花弁と葉が彫られ、小さな宝石の花心がついている。
一級の職人が精魂を込めたに違いない精緻な彫金をシェラは呆然と見つめていた。
これは偶然だろうか。
ついさっきのことだ。店の主人がこれなら絶対にお似合いだと、お嬢さんほどの見事な御髪ならこのくらいの品で飾ってやらなければ気の毒ですよ、と熱を込めて勧めてくれたのは。
よりにもよってその品をあの男がくれてよこした。
その意味に気付いたとき、シェラは愕然《がくぜん》とした。
自分はあの男に尾行されていた?
それに今まで気付かなかった?
標然とした。他愛ない考え事をしている最中にも自分は殺されていたかもしれないのだ。
しかし、全身の肌を粟立たせながらも、シェラの心を襲った大きな感情は恐怖ではなかった。
猛烈な怒りだった。
娘の仮面も侍女の物腰も今すぐどこかへ投げ捨ててしまいたかった。
歩き出すことも忘れて金の管を壊れるほど握りしめた。
ランバーでのデルフィニアの勝利はパラストのオーロン王の耳にも入っていた。
勝敗というものは時に判定が難しい。互いに勝ったと言い張って譲らない場合もある。今度の場合は誰が見てもデルフィニアの大勝利だ。
しかしながら、ゾラタスは負けたとは思っていまい。一時的に譲ってやっただけだと考えているはずだ。必ず巻き返しにかかるはずである。
ウォル・グリークは当分東の国境線から眼を離せないはずだ。
「となれば自然、西側が留守になるというものだ」
オーロンはほくそ笑んだ。
大華三国の中で事実上もっとも豊かなデルフィニアも考えてみれば損な立場でもある。
タンガの周囲にはタンガを脅かすような国家はない。言い換えれば切り取ってうまみのある土地もない。パラストの周辺も同様である。小公国は皆、パラストの庇護下、もしくは友好関係にあり、強引に領土を切り取って敵をつくる必要はない。
パラストとタンガの間には巨大なタウ山脈が壁となって立ちはだかっている。
デルフィニアだけがこの両大国に挟まれ、その動向を常に窺《うかが》っていなければならない。
どちらか一方と抗戦すればもう一方に背中から攻め込まれる。前国王ドゥルーワはそれを警戒して、もめ事を起こさないようにつとめていたものだ。
もっとも外の敵より身内の敵とも言う。
パラストにおいても謀反《むほん》や裏切りは珍しくもないことで、オーロンほどの知略の人でもずいぶん苦労させられた。
自分の権力を確固たるものにするために、オーロンは策謀を駆使した。彼の抱えている諜者は他の二国の王たちの思いも及ばない数になる。
今ではオーロンの権力は末端まで行き届き、少なくとも正面切って背く者はいない。
「それでいい。腹の中で何を思おうと何を恨んでいようと、頭を下げているならそれでよいわ。逆らうだけの力も勇気もないから渋々従っているのだろうしの」
と、オーロンは軽侮を隠して保護してやる。
この点、タンガのゾラタスはそんな二心を決して許さない。不平不満を抱きながら仕える者など信に適わずというのである。
オーロンは逆にゾラタスのような思い切った手段は好まない。宣戦布告をして攻めかけたと聞いて冷笑したくらいだ。そんなことをしたのでは迎え撃ってくるに決まっている。
ウォル・グリークに言わせればどちらも領土拡張のためなら何でもやる王だが、その手段はだいぶ違う。
ゾラタスがいつも思い切った大鉈《おおなた》を振るうのなら、オーロンはもっと緻密な策略を好んだ。
背伸びして木の実を叩き落とすこともないが、落ちてくるものなら残らず拾おうという性分である。
もちろん黙って落ちてくるのを待つことはない。
棒でつつき、小石を投げ、時には人に木を揺すらせる。あくまで他人にだ。そうして落ちてきた実を独占する。
こういう性分の王であるから、他の二国が強大になるのを喜ぶはずがない。
タウ東峰がデルフィニア領に加えられ、ウォル・グリークが住民を完全に傘下に置いた話はゾラタスよりもオーロンを刺激していた。
タウの住民は結束が強いと聞いている。もしかしたらパラストに接している西峰までデルフィニアの傘下に入るようなことになるかもしれない。
土地そのものは何の役にも立たない焦土《しょうど》のようなものだ。未練はないが、デルフィニアの国境線が伸びるのはおもしろくない。
寄らば大樹の陰という。タウの山賊もデルフィニアが自分たちを保護するだけの力があると見極めたからこそ、その一部に加わったのだ。
つまり、ようはデルフィニアの力を削げばいい。
あの庶子は爽快で闊達な人柄だ。庶民には圧倒的な人気がある。だが、あまりにも型破りにすぎる。
特に今度の戦では貴族階級の心を満足させる戦果はほとんどなかった。奪い取ったのは未墾《みこん》の山岳部、しかも山賊にくれてやったというのでは、不満に思う者も少なくないはずだ。
あの男は英雄視されているから面と向かっては言うまい。言えない分だけ腹の中には別なものがたまるのである。
オーロンはそうした不満を持つ貴族達と接触し、巧みに焚き付け、そそのかしてタウへ向かわせた。
ウォル・グリークに向かっては反旗を翻すことができなくても、領内に山賊の被害が頻発《ひんぱつ》しているとなれば、これを討つのは領主の当然のつとめだ。
国王に対する不満を、オーロンはうまく、山賊に対する憤りにすり替えたのである。そうしてあの男がどちらを取るかを看るつもりだった。
先だってはこれをオーロン自らがやったのだが、今度は身内だ。もしあの男が山賊の肩を持つようなら、貴族達の不満なお激しくなる。
領主の肩を持って山賊の誅殺《ちゅうさつ》を認めれば、タウの西峰はデルフィニアを信用できないとし、東峰との間に諍《いさか》いが起こるだろう。
どんなことになるか、その想像は楽しかった。
オーロンはくつくつ笑って、独りごちた。
「後は仕上げをご覧《ろう》じろ、じゃわ」
7
ランバー戦での立役者である独立騎兵隊長がコーラルにやってきたのは六月の初旬だった。
この人の姿は王宮ではすっかりおなじみになっている。従者も連れず、長旅をしてきた埃《ほこり》だらけの姿で本宮を歩いていても咎《とが》めるものはない。
国王の前へ出るなり平然と言った。
「西峰を代表して伝言を持ってきましたがね、陛下。
こちらの西北部のご領主がやたらとタウに進入してきて民家を焼いたり女子どもを手に掛けたりしようとするんで、西の連中がちょいとばかりお相手してさしあげたそうですよ」
これには国王も思わず笑ってしまった。
その西北部の領主達からはまったく異なる訴えが届いている。
このごろタウの狼籍は眼に余る。同じ山賊仲間が陛下の庇護を受けているからと言って増長し、白昼堂々姿を見せては悪さを働いている。その被害は甚だしく、これ以上は勘弁ならんとして討伐のために手勢を差し向けたというものだ。
「さて、さて。困ったものだ。どう裁くかな?」
イヴンの弁を待つまでもなく、タウの人々の言い分が正しいのだろうことは国王にはわかっている。
しかし、西峰はまだデルフィニアの領土というわけではない。その頭目達とも国王は面識がない。
家来ではない者をかばい、ために家来である者の陳情を退けたりしては、君主などやっていられなくなる。
「いっそのこと西も南もデルフィニア領に加わってしまったらどうだ?」
そんなことを大まじめに言い出したので、王妃は爆笑した。その場にいたイヴンも呆れ顔だった。
「そう簡単にはいかねえんだよ。東だってさんざん協議してようやく納得したっていうのに」
「その新領主どのはどうした? 一緒に来なかったのか?」
国王は当然ジルが連れ立ってくるだろうと思っていたのだ。今までが領土ではなかったところの領主だから引継などの手続きは必要ないが、国王との間でちょっとした儀式が必要になる。誓約の神オーリゴの前で国王はその領地を庇護することを、領主は国王に従うことを互いに誓わなければならない。
「土地面積と人口の把握は共に領主の義務だからな。
どんな土地でもだ。測量の方法や人別帳の作り方は覚えていってもらいたいのだが……」
「向こうでの問題が片づいたらおっつけやってくるだろうさ」
と、イヴンはのんびり構えている。
いつもならこの三人が親しげに会話する場所は西離宮と決まっている。本宮からは遠いし、不便でもあるが、誰にも邪魔をされずに話ができる。
今は違った。彼らは広大な庭園に散らばる四阿《あずまや》の一つにいた。
傍に控えていなければと言い張る侍従や近衛兵を追い払うようにして設けた席だった。
今の季節は外にいるのが少しも苦にならない。
ここからだと庭園をほしいままに見下ろすことができる。風は爽やかに彼らの間を駆け抜け、心地よい香りを運んでくれる。
「タウではちょっと望めない贅沢だな」
気持ちよさそうに眼を細めて、イヴンが言った。
「そうかな? こういうきれいな庭もいいけど、おれは山の中の緑のほうが好きだけどな」
と、王妃。
庭園咲きの甘いやわらかい花の香りよりも、どっしりと根を下ろしている木や草の濃い匂い、湿った土の匂い、そんなもののほうがかぐわしいと思う。
イヴンはおかしそうに笑った。
「俺も本当ならきついくらいの山の花が好きだぜ。
やわに見えても崖っぷちに平気で咲くようなやつがさ。ただまあ、たまにはきれいに飾ったお花さんも悪くないと思うわけだ」
王妃は不思議そうに男の視線を追って、納得して頷いた。
色とりどりに咲き群れる花の間を、日射しを除けるために帽子を被った婦人たちが談笑しながら散歩している。
娘と言ったほうがいいほどの若い女性達だった。
散歩着とはいえ、贅沢なものを身につけている。
一の郭《かく》に屋敷のある貴族の令嬢だろう。そうした階級の未婚の女性は滅多に外へは出ないし、出してはもらえない。こうして庭を散歩することだけでも嬉しいらしい。
いかにも籠の鳥の楽しみだが、娘らしい若々しい姿や仕草は見ているだけでも気持ちよかった。楽しそうな笑い声が彼らのいる四阿まで快く響いている。
「いいねえ……」
イヴンは首を振って言い、わざとらしい諦めの眼を王妃に向けた。
「お前じゃ、ああいう可愛らしさは期待するだけ無駄だもんな」
「当たり前だ」
即座に言い返した。その口元が笑っている。
「おれが可愛らしく見えるようじゃおしまいだぞ」
「違いない」
イヴンは真顔で頷いて、金褐色の顔に思い出し笑いを浮かべた。
「お前だけならまだしも、この王宮にはいろいろとけったいな花が咲くからな。何を好きこのんで男の格好をするのかねえ?」
「シャーミアンのことか?」
「いいや。初めて見る顔だった。さっき本宮の入り口で出くわしたんだが、背が高くて、髪をばっさり切ってて、睨《にら》むような眼で人を見る女だ。つくりは悪くないんだぜ? ドレスを着て髪を伸ばせばいい女になるだろうに、もったいない」
すると国王が盛大なため息をつき、王妃が腹を抱えて笑い出したので、イヴンはびっくりしたように眼を見張った。
「なんだ?」
「イヴン。それ……その人、見ただけで女の人ってわかった?」
「当たり前だろ?俺は美人は見のがさねえよ」
ますます落ち込んだ国王である。
王妃はまだ笑いながら事情を説明してやった。
国王の幼なじみは呆れながらも、さもありなんと頷いたのである。
それから、しみじみと付け加えた。
「なるほどねえ。女だてらに公爵さまで、あの猪団長の婚約者とはね。口説かなくて正解だったな」
「イヴンはロザモンドみたいなのが好みなのか?」
王妃が真顔で聞くと、男は笑って手を振った。
「冗談だよ。勇ましいのは嫌いじゃないが、ありゃあ、おっかなすぎる。俺はもうちょっとこう……」
好みの型を説明しようとしているところへ、その『おっかない』人が傍目にも怖い顔でやってきた。
国王は慌てて立ち上がり、四阿の腰掛けを乗り越えて逃げようとした。その服の裾を王妃がつかんで引きずりおろし、元通りに座らせた。
長身のベルミンスター公爵は四阿の入り口に立ちふさがり、国王を睨み付けるように見下ろして口を開いた。
「お話があります。陛下」
「拝聴しよう」
すっかり観念して国王が言う。
「陛下へのお祝い言上も参らせ、妃殿下にもお目見えいたしました。かくなる上は故郷には仕事も残していることですし、帰郷したく思います。私がおらぬので領内にいろいろと差し障りが出ているとのこと、またこのごろ甥の健康が優れず、床に着きがちであると家の者が知らせて参りました。一刻も早く戻ってやりたく存じます。お許しを願います」
口調も態度も相当怒っている。
イヴンと王妃がその剣幕に首をすくめる中、国王は慎重に言った。
「そういう事情ならばどうぞお帰りあれと言いたいところだが……、そうもいかん。貴公をこの王宮に留め置くと約束してしまったのでな」
公爵はちらりと国王を非難の眼で見つめた。
「サヴォア公は陛下や王宮を意のままに動かせると公言してはばからず、鼻高々であるという噂ですが、陛下自らその噂をお認めになるのですか?」
痛烈な皮肉である。
だが、国王は微笑して取り合わなかった。
「そんな噂があるとは不覚にも知らなかった。もし、俺が従弟《いとこ》の言いなりになっているように見えるのなら気をつけよう。しかし、その噂のことは従弟の前では言わぬほうがいいな。王国の臣下としての誇りも自負も、従弟に類する者を俺は知らんのだ」
さすがに言い過ぎたと思ったのか、ベルミンスター公は一瞬ためらって眼を伏せた。
「……お許しください。ですが、サヴォア公との結婚は承諾できないとはっきり申し上げたはずです」
「ベルミンスター公。ではそのことを俺にではなく、従弟に納得させてくれ。何と言ってもあなたと結婚しようと思っているのは俺ではない。従弟なのだ。
その従弟があなたを諦めず、結婚の意志に変わりはないとなれば、従兄《あに》である俺も及ばずながら手を貸さねばという気にもなる。サヴォア一族ばかりではなく、あなたのご親族もそのように望んでいるとなればなおさらだ」
女公爵は苛立たしげに淡い色の頭を振った。
「それは……私の心を知らない連中が勝手なことを言うのです。真に受けられては困ります」
「俺はそうは思わん。あなたはまだ若く、美しい。
ご自分の幸せを考えてなぜいけない?」
反論するかと思いきや、きつい表情がゆっくりとほころんだ。
「そのおこころざしは嬉しく思います。ですが私は自分を不幸と思ったことは一度もありません。当主として、公爵として、当たり前の女には望めない充実した生活を送っております」
二人が話している間、王妃もイヴンも黙っていた。
国王ではなく、名ばかりの婚約者を口説かなければならないと察した公爵が立ち去るまで、二人とも至ってお行儀よく、おとなしくしていたのである。
また三人だけになると、イヴンはおもしろそうな笑いを洩らした。
「どうしようもないな、ありゃ。――お前の従弟の猪野郎はあんなのを相手にしなきゃならないほど、不自由してるのか?」
国王はげんなりした顔で言い返した。
「馬鹿を言うな。少なくとも、お前がタウの山村で不自由しないくらいには選り好みできるだろうさ」
「じゃあ、やっぱり家柄やら義理やらであれを選ぶしかないわけか?」
「そこまでは俺にはわからん。従弟どのの胸一つにあることだ」
イヴンは肩をすくめ、王妃はやれやれとため息をついた。
「ナシアスとラティーナも前途多難だけど、団長とロザモンドも……どうなるのかな?」
これはイヴンには初耳だったらしい。眼を剥《む》いた。
「ラモナ騎士団長とあの女……じゃない、エンドーヴァー夫人がか? どういういきさつだ?」
「それがこっちもなかなか複雑なんだよ」
王妃はナシアスの結婚生活のことには触れずに、妹と両親が何とか身を固めさせようと必死になっているとだけ語った。
ナシアスもラティーナも結婚するつもりはないと言っている。しかし、話は合うようで親しくしている。妹のアランナは無理にでも連れて帰るべきか、はっきりしないながらもこのことを両親に知らせるべきか、思案に暮れている。
イヴンはさらにしみじみと頷いて、「コーラル城はとんだ恋の季節だな」
と、言った。
同じころ、シェラは鉛玉の練習に励んでいた。
今シェラがいるのは本宮の左手にある深い木立の中だった。遊歩道から大きく外れた、鬱蒼《うっそう》と生い茂る雑木林の中である。
まるで捨てられた裏庭のような趣の場所だが、実際にはきちんと計算されてつくられているらしい。
獣道にしか見えない道がきれいに湾曲していたり、緩い傾斜のところには木片を埋めた段々がつくられていたりする。
この城の庭を設計した人が誰であったにせよ、よほどの趣味人だったことは間違いない。太陽の光をいっぱいに浴びる花壇や庭園ばかりでなく、こんな雑木林や迷路のような茂みをわざわざつくる。さらには清水を利用して小さな泉をつくったりしてある。
それも誰も通りかかるはずがないようなところにだ。
シェラが偶然見つけたこの場所は静かで寂しく、昼間でも薄暗い。もちろん人気はまったくない。
絶好の練習場所だった。
今のシェラは女官の服装ではない。髪をまとめて、動きやすい服装で立ち木に向き合っていた。
その木には炭で印《しるし》をした板がくくりつけてある。
七ヵ所の印には既に鉛玉が命中している。
怖いような顔で板を睨み付けていたシェラの右手が一瞬のうちに縦横に動いた。どれも正確に的に命中し、前に命中していた鉛玉に跳ね当たって金属音を立て、下の地面に落ちた。
軽く息を吐き、それらを拾い上げて再び構える。
自分の技倆は捨てたものではないと今まで思っていた。今も思っている。ただ、さらにその上をいく者がいる。それだけだ。
この印を付けた板を王妃が見つけて、おもしろ半分に試射したことがある。
狙いはシェラほど正確ではなかった。板には命中してもほとんど印を外れて刺さった。しかし、二射め、偶然にも前に打ち込んだ鉛玉を叩いたものは跳ね返って落ちはしなかった。
最初の鉛玉をさらに深く板にめり込ませ、しっかり板にめり込んで止まったのである。
王妃は今度は慎重に、その上を狙った。三射めは最初の二つの玉の上にめり込んで止まり、結果として】番最初に打ち込まれた鉛玉は板を突き抜けて反対側に落ちたのだ。
驚くより畏《おそ》れるより、呆気にとられて何も言えなかった。手裏剣ならともかく鉛玉の連射で板に穴を開けるとは、馬鹿力にも程がある。
今の自分には同じことはできない。しかし、あの男にはできるかもしれない。
あの日、外出から帰ったシェラを見るなり、王妃は『顔が怖くなってる』と言ったものだ。
自分でも多少は自覚していた。あれは致命的な失態だった。通りすがりに刃物を突き込まれてもおかしくなかったのである。なのに、殺されていたかもしれないという恐怖よりも気付かないでいた屈辱のほうが強かった。
一部始終を語る間も顔が強ばっているのを感じていた。王妃はヴァンツァーがよこした髪飾りを見て、きれいなものだと素直な感想を述べたが、シェラは思いきり顔をしかめた。
「ひどい侮辱です」
「そうかな? 似合いそうなのに」
「リィ。あの男は私を殺そうとしているんですよ?殺す相手に贈り物をしてどうするんですか」
「……しゃれのつもりかな?」
「そんなかわいいものかどうか。これは恐らくあの男の勝利宣言です。お前では俺の相手にならないと言いたいのでしょう」
王妃は金の答が気に入ったらしい。楽しげにもてあそんでいる。
自分で身につけることはまるで関心のない王妃も、細工の精緻《せいち》さには感心するらしい。シェラを手招きしてその銀の髪に軽く挿《さ》して映りぐあいを眺めた。
「どういうつもりにせよ、見立ての才能はあるな。
せっかくもらったんだから髪に挿せばいいのに」
シェラは顔をしかめた。
こうなると、嫌いな男から贈り物をもらっても少しも嬉しくないという娘たちの気持ちがよくわかる。
「お断りします。よろしかったらあなたに差し上げますよ」
「それじゃあ贈り主に申し訳ない」
おかしなところで律儀な人である。
「使うつもりでなかったらどうして持って帰ってきたんだ? その辺に捨ててくればよかったのに」
シェラはきつい目線のままでちょっと首を傾げた。
自分でもよくわからないのだ。
「……目標にするためでしょうか。これを見る度に間違いなく怒りをかき立てられますから」
あの男は敵だ。それも必ず倒さなければならない強敵だ。身につける気にはとてもなれない。まして自分は本当は男で、いつかはこの髪も切らなければならない。
額に張り付くその髪をかきあげてシェラは黙々と練習を続けた。
あの男は重量型の鉛玉を使っている。今の自分の技倆では同じ破壊力を産むことはできない。それなら手数で補うしかない。
全身がびっしょり汗に濡れるまで練習に没頭した。
一息ついたときは太陽が赤く大きくなり始めていた。夕方まで修行してもいいと許可をもらったが、もう戻って夕飯の支度をしなければならない時間である。
ここなら誰も見ていない。シェラは稽古着を脱ぎ、顔を洗って水を浴びた。
夏が近くなっても泉の水は冷たく、心地よい。
体を拭い、枝にかけてあった女官服を取り上げて袖を通したまさにその瞬間だった。
人の足が枝を踏む音がしたのである。
反射的に飛びすさった。理屈でなく全身の感応で、見られた、と思った。
さらにとっさに口を封じなければ、とも判断した。
長時間、特殊な練習に没頭していたせいもあって、この時のシェラは完全に侍女から刺客に戻っていたのである。
相手の姿を認めるより先に鉛玉をつかみ取り、攻撃しようとしたのだ。
しかし、そこに立っていた人を認め、かろうじて動きを止めた。
シャーミアンだった。
散歩するならもっと他に適した場所がいくらでもあるだろうに、よりにもよってこんな寂しい林の中を歩いていて、シェラと鉢合わせたのである。
いつもの騎士の衣服に身を包んだシャー、・・アンは驚愕《さようがく》と衝撃もあらわにシェラを凝視していた。
それでもどういうことなのかとは訊かなかった。
訊く必要もなかった。王妃の傍に親しく仕えている優しい笑顔の侍女が片手を丸め、得体の知れない構えを取っている。
その構えのなんとしっくり馴染んでいることか。
侍女の仮面が外れたその顔はなんと厳しい戦意に満ちていることか。どうして今まで少女に見えていたのか不思議なくらい、白い顔もほんの一瞬見えた体も戦うことを知っている少年そのものだ。
「なんということ……」
呻《うめ》くような呟きだった。しかし、茫然自失したのもつかの間だった。榛《はしばみ》色の瞳に怒りの火花が散り、美しい顔がみるみる上気した。
「お前は!!」
男が女装して王妃の側に仕えている。
何が目的であれ、怪しいものに決まっている。
彼女も父親からみっちり手ほどきを受けた騎士だ。
抜く手も見せずに斬りつけた。
焦《あせ》ったのはシェラである。
鉛玉の練習だったから小太刀を持ってきていない。
それでも撃退することは易しい。今だって手の中には鉛玉を持っている。しかし、シャーミアンは間合いを詰め、立て続けに斬りつけてくる。この至近距離でこう間断なく刀を揮われては、手加減して投げることができないのだ。
この女騎士に怪我をさせてはいけないのだということを今のシェラは知っている。
同じくらい黙って殺されたりしてはいけないのだということもわかっている。
逃げるべきだった。しかし、どこへ逃げるかが大問題だった。
人気《ひとけ》のあるところへ出ようものならシャーミアンは大声を上げて人を呼ぶだろう。自分の存在が公になったら、いくら国王と王妃の庇護があるといっても以前のままの侍女で通すことは難しい。
西離宮へ駆け上がるのが一番の得策だった。ここからならたいして人目に付かずにいける。しかし、シャーミアンがその前に立ちふさがった。
「不埒《ふらち》者! 妃殿下のもとへは行かせない!」
シャーミアンの腕はなまくらなものではない。
素人の女が刃物を振り回すのとはわけが違う。いくらシェラでも素手でその刃をかいくぐることはできない。
どうしたらいいのかわからなかった。
相手が動きを止めてくれたのを幸い、できるだけ弱い力で鉛玉を打とうかとも思った。
もう一つの気配が割り込んだのはその時である。
「こりゃあ穏やかじゃありませんな」
イヴンの声だった。
いつの間にかシェラの背後から現れ、血相を変えているシャーミアンを見つめている。
「イヴンどの!」
「そこまでになさい」
ゆっくりと言って、二人の間に割って入ってきた。
背中にシェラをかばう格好になる。
「どんな理由があるにせよ、王妃の侍女に斬りつけるとは感心しません」
「イヴンどの。退いてください。その者は侍女などではありません。誅殺《ちゅうさつ》します」
シャーミアンは握った剣に力を込める。
その顔には不審と怒りがあった。危険きわまりない毒蛇を発見し、退治しようとしているのに、どうして邪魔をされるのか。そんな顔だ。
イヴンは困ったような顔で怒れる女騎士をなだめにかかったのである。
「シャーミアンどの。悪いことは言いません。ここはひとまず剣を収めて、誰にも何も言わないで屋敷へ戻ってもらえませんかね?」
「何を悠長なことを! 退いてください。いいえ、力ずくでも退いてもらいます!」
頭に血が上ってしまっている。こんなシャーミアンは珍しい。
それも無理はなかった。どこよりも安全と信じていた王宮で、彼女が誰よりも愛情を注いでいる国王と王妃のすぐ側に、猛毒を持った蛇が何食わぬ顔で潜り込んでいたのである。
イヴンはますます困ったような顔で頭を掻いた。
その後ろでどうしたらいいのかわからず硬直しているシェラに話しかける。
「おい。ひとっ走りして王妃に知らせてこい。俺は何とかこの人に家に帰ってもらう」
黙って頷いて、シェラは踵《きびす》を返して走り出した。
駆け去っていく長い銀髪を視界に認めて、シャーミアンはとっさに覚悟を決めた。
王妃とも国王とも馴染みのこの男を信じていないわけではないが、あの侍女が男だったという事実のほうが勝《まさ》った。
「御免!」
叫ぶと同時にイヴンめがけて斬りつけたのである。
鋭い突きだった。が、教科書通りのきれいな攻撃ではこの男には通用しない。ましていかにシャーミアンが優れた女騎士だとしても、イヴンとの技倆の差は歴然としている。
かわすことも簡単だったろうに、イヴンはそうはしなかった。剣の柄《つか》に手をかけもしなかった。自ら進み出て左腕で剣先を跳ね上げるように受け止めたのである。
鮮血が散った。
イヴンの左腕は深々と斬り割られた。しかも、その衝撃で折れた剣先が顔面を直撃した。
あっという間に血まみれになった男の姿に、シャーミアンは真っ青になったのである。
「いいか、シャーミアンどの」
血を噴いている左腕も真っ赤に染まった顔の左半分もないことのような口調でイヴンは言った。
「少し頭を冷やしなさい。城内での刃傷沙汰は御法度《ごはっと》だ。ドラ将軍の娘が血相を変えて王妃の侍女を追い回したなんてことになれば、お父上にも傷がつく。
王妃も困るだろうし、陛下の立場にも影響する」
シャーミアンは何も言えなかった。ただ震えていた。男が自分の手から折れた剣を取り上げたのにも気付かなかった。
「あの侍女のことは王妃も陛下も知っている。ただ、おおっぴらにはできない。あんたに騒がれると非常にまずいんだ。わかるな?」
シャーミアンは蒼白な顔で頷いた。男の言葉は半分も理解できていなかったが、とにかく頷いた。
「わ、わかりましたから、傷の手当を……」
左腕はだらりと下がったままだ。顔から噴き出した血は片目と金髪をべったりと染め、首まで流れ、黒い衣服を染めつつある。
耐え難い激痛がその体を襲っているはずだ。なのに男は一つ残った碧い眼でかすかに笑ってみせた。
「こんなものはかすり傷だ。それより、いいな。王妃は知ってるんだ。じきに話しに行く。屋敷に戻ってじっとしてろ」
「お願いですから傷の手当をさせてください!」
「いいから屋敷に戻ってろ!」
さすがに息が荒い。
ほとんど泣きながらシャーミアンは男に取りすがろうとした。が、傷だらけの体である。手を触れることはできなかつた。
「あんたは何も見なかった。何もしなかった。いいな。忘れるなよ」
低く呻《うめ》くように言ってイヴンは背を向けた。
その背中はいかなる干渉をも拒むもので、シャーミアンは後を追うことができなかった。
庭園へ飛び出したシェラは急いで本宮を目指した。
王妃に報せろと言われてもどこにいるのかわからない。それよりはまず本宮の国王の耳に入れておくべきだと思ったのである。
以前のシェラならあくまで言われたとおりにしか動けなかっただろうが、今は何が最善かを第一に考えるようになっている。
自分にとって王妃の意志が絶対であるように、シャーミアンにとって国王の意志は絶対だ。シェラにとっても国王は主人である王妃に準ずる人である。
王宮の侍女としてははしたないくらいに裾を乱して走り、国王の居室へ向かったが、幸い、ちょうどそこから出てくる王妃と出くわした。
柱の陰に誘ってできるだけ手短に事態を説明した。
困ったように頭を掻いたのは王妃も同様である。
「そいつはお前らしからぬ失態だな」
「申し訳ありません。それに……イヴンさまがその場に居合わせまして、あまり穏やかではない雰囲気だったのです」
「ますますまずいな」
この侍女のことをもっと早くシャー、・・アンに話しておくべきだったと思っても手遅れだ。
シェラには国王の傍にいるように言いつけて、王妃は一度西離宮に上ってみた。
赤く変わった太陽はすでに西離宮の後ろにかかり、庭に立った王妃の影を長く伸ばしている。
しばらく待ってみたが、イヴンもシャー、・・アンも現れない。
そこで今度は本宮を駆け下りて正門を出、二の郭《かく》にあるドラ将軍の屋敷へ行ってみた。
イヴンはシャーミアンをなだめようとしていたという。説得がうまくいったのならシャーミアンは家にいるはずだ。
王妃のお出ましとあってドラ将軍は直々に出迎えてくれたが、シャーミアンの在宅を尋ねると困惑顔になって、こわい髭《ひげ》を捻《ひね》った。
「それが、つい今し方戻ってきたのですが、礼拝堂に駆け込んで誰も寄せつけません。わしにも会いたくないと言う有様でして……いったい何事です?」
なんとか曖昧《あいまい》にごまかしてドラ将軍を遠ざけて、王妃は礼拝堂の扉を叩いた。
名門ドラ家には屋敷内のものとしては桁違いに大きな礼拝堂が設けられている。
職人がその技倆のすべてを誇るためにつくったとしか思えない扉には複雑な幾何学模様や蔦に絡まる花や葉が描かれている。今その扉は固く閉ざされていた。
「シャーミアン。いるんだろう?」
王妃が声をかけても返答はない。
「開けないと扉を叩き壊すぞ」
それでもしばらくは何の物音もしなかった。
立派な扉には申し訳ないが、いよいよもって叩き壊して入らなければならないかと思ったとき、そっと扉が開いた。
おずおずと顔を出したシャーミアンは眼を真っ赤にしていた。泣き腫《は》らしている。
「どうした?」
「妃殿下……」
顔をくしゃくしゃにしながらシャーミアンはその場に膝をついた。
「お許しください。私……私は取り返しのつかないことをしてしまいました」
取り乱したシャーミアンの説明でも王妃が事情を呑み込むのに要した時間はほんのわずかだった。
厳重に口止めをして、すぐさま現場に急行した。
正門の門番はものも言わずに疾風のように駆け抜けた王妃を呆気にとられて見送った。
辺りは暗くなりつつある。乱闘の跡も見つけにくくなっていたが、王妃の眼と鼻は血の痕跡を逃しはしない。
血の跡は人目を避けながら西離宮に続いていた。
王妃は舌打ちを洩らした。
行き違いになったのだ。
人の足がなせるとは思えないほどの速さで坂道を駆け上がる。シェラはまだ戻っていないのだろう。
離宮は暗く、静まり返っている。
「イヴン!」
テラスを一歩でまたぎ、居間に飛び込んだ王妃はその瞬間、むせ返るような血の匂いに息を呑んだ。
重傷を負った男は火の気のない居間の壁に背中を預けてもたれかかっていた。
「遅いじゃねえか」
力のない声だった。
王妃が今まで一度も聞いたことのない声だ。
急いで近寄って傷を調べた。
調べて思わず呻いた。
傷は骨まで達している。自分からつっこんで受け止めた分、これほど深刻な被害になったのだ。
顔のほうはもっとひどい。折れた剣先は偶然にも左眼を直撃したのだ。
血まみれの顔でイヴンは浅く息を継ぎながら苦笑していた。
「へまをしたもんだぜ。まったく」
「しゃべるな」
王妃は男の衣服を左肩から切り裂いたが、血止めの布が足らない。
立ち上がりかけて居間の入り口に現れたシェラと眼があった。
シェラにとっても血の匂いは馴染みのあるものだ。
無言で明かりを入れ、手早く傷薬と真新しい布を用意した。
しかし、灯りに照らし出された傷の状態にはさすがに一瞬、息を呑んだ。それでもこの侍女は卒倒するようなことはしない。左眼の上に布を当てて手早く包帯を巻き付けた。
だが、腕のほうは手のつけようがない。
それは王妃にもいやと言うほどわかっていることだつた。どうすることもできない。
一番冷静だったのは重傷を負った当の本人である。
「この腕はもう駄目だ。切るしかない」
王妃は再び呻いた。
そうするのが一番だということはわかっている。
外科手術などここには存在しないのだ。化膿を防ぐために唯一可能な処置は切断することだ。
「まともな時なら自分でやるんだがな……今は力が入らねえ」
だから、代わりにやってくれと言うのである。
そのためにここまでこの傷であがってきたのかと思いあたったとき、シェラはぞっとした。
恐怖に強ばった顔で王妃を見た。王妃もシェラ以上に厳しい顔だった。
何も言えなかった。
ぐずぐずしている時間はない。わかっているのに動けない。
固い顔で黙り込んでしまった二人をイヴンは荒い呼吸と共に見つめて、顔を上げて言った。
「よう……みっともねえところを見せるな」
二人は反射的に振り返った。
国王の大きな姿がそこにあった。
黒い眼が驚愕《きようがく》に見開かれている。目の前の光景が信じられないというようにだ。
蝋燭《ろうそく》の明かりに照らされているのは、衣服を血に染めてぐったりと壁にもたれかかる友人の姿と、見たこともないような恐怖を張り付けた王妃の顔。
急いで駆け寄り、膝をついた。
国王も超一流の戦士だ。この男がどんな状態にあるかは一目で理解した。
「いったい何があった」
もう立ち上がることもできないイヴンはそれでも笑ってみせたのである。
「ドジを踏んでな、このざまだ……」
「イヴン……」
「ちょうどいい。ばっさりやってくれ。ぐずぐずしてたら傷口が腐って全身に広がっちまう」
「どういうことかわかっているのか」
「わかってるさ。俺はまだ死体になる気はない。今なら片腕だけですむだろう?」
確かにそのとおりだ。
命を失うよりは片腕ですませるべきなのだ。
戦闘で手足を失った兵士を国王は何人も見てきた。
そういう兵士達をとりわけ手厚く遇してもきた。
同情ではなく、彼らの勇気を讃える意味でだ。
震える腕を包帯を巻かれた友人の顔にさしのべたが、抱きしめることもできない。無事だったほうの右頬に触れるのがやっとだった。
「この傷は?」
「左眼は駄目だろうな」
起こってしまったことは仕方がない。そんな口調だった。冷めてさえいた。
しかし、国王は獣のように唸《うな》った。この男が心底、怒りを覚えたときの、寒気のするような声だった。
「誰の仕業だ?」
ここは激戦地の国境ではないのだ。城内である。
戦場でならこんな不覚をとるイヴンではない。おそらくは刃傷沙汰を避けようとした男に向かって相手はかまわず斬りつけたのだ。
断じて許せぬことである。
「イヴン。誰がお前をこんな目に遭わせた?」
復讐を誓う言葉だった。お前の味わった恥辱も痛みも倍にして返してやると決意する言葉でもあった。
苦しい息の下でイヴンはかすかに笑ったのである。
「俺だよ」
「何だと……?」
「俺が、自分でやったようなもんだ。そうだろ?だいたい……この俺が、そうあっさり……やられるわけはねえ」
呼吸が切迫している。
無理もない。並の男ならのたうちまわって助けてくれと叫んでいる傷だ。
発熱と激痛による意識の混濁に襲われながら、男は驚くべき精神力をもってさらに言った。
「そんなことより、手遅れになる前に、はやいとこやってくれ」
国王はきつく唇を噛み、唸るように言った。
「辛抱しろ」
口にした言葉はそれだけだった。躊躇《ちゅうちょ》している暇はない。錆び付いた刃物を振りかざす軍医などより国王のほうがよほど腕も確かである。
悲壮な決意で立ち上がり、剣を抜こうとした国王を王妃が止めた。
「ウォル、だめだ!」
「つまらぬ感傷に浸っている場合ではない。残念だが、この腕はもう用をなさん。完全に腱《けん》を断たれている」
神経が切れているという意味だ。
まして傷が深すぎる。
医学的知識などない国王だが、経験がものを言う。
この傷は放っておけば腐り始め、全身に広がってしまう。そうなる前に、まだ体の血がきれいなうちに、治癒《ちゆ》の見込みのない患部を切断しなければならないのだ。
王妃はそれでも頑固に首を振った。
「やったのはシャーミアンなんだ」
国王は絶句して眼を剥《む》いた。
その横でシェラが緊張に身を固くしている。
「申し訳ありません。私のせいです。私が対応を誤ったせいで、こんな……」
「よせ。今は誰のせいかなんて言っている場合じゃない」
愕然としながらも、王妃の言いたいことを国王は一瞬のうちに理解した。
何が原因か、誰のせいか、そんなことは問題ではない。問題は片腕を失ったイヴンを見るたびにシャーミアンが何を感じ、何を思うかだ。
「しかし、だからといって他にどうする? どんな仕様がある!? このままでは命に拘《かかわ》るのだぞ!!」
「わかってる!」
王妃は身震いしてイヴンの前に膝をついた。
「……怪我人の眼の前で夫婦喧嘩かよ」
まだそんなにくまれ口を叩いてみせる。が、それももう限界だった。顔色は青黒く変色している。
王妃は意を決したように言った。
「イヴン。腕を切るのはもう少し待ってくれ。それはいつでも……いや、もう少し遅れても平気なはずだ。その前に試してみる」
「……?」
「ちょっと我慢しろよ」
真顔で言うと、王妃は脂汗に濡れている男の顔に顔を寄せ、その唇に口づけを送り込んだのである。
一つ残った碧い眼を見張り、男はかすかに笑ってみせた。
「……とんだ役得だ」
「黙ってろ。これから奥の手を試してみる。うまくいけば傷を治せる」
「うまくいかなかったらどうなるのだ?」
国王が訊くと、王妃はなぜか剣を抜いてその場に突き立て、振り返って固い顔で言った。
「おれもイヴンも黒こげだ」
8
王妃は足を投げ出している男の右側に足をそろえて座り、両手は固く握って膝の上に置いていた。
剣はイヴンの左側に刺さっている。
国王とシェラには王妃が何をしようとしているのかさっぱりわからなかった。それでも国王がまずその場にあぐらをかいて座り、シェラも王妃から少し離れて腰を下ろした。
外はすっかり暗くなっている。
どこかで狼が鳴き出した。
一頭に応えて、二頭、三頭と続き、たちまち大合唱になる。狼の遠吠えはここでは珍しくない。慣れているはずなのに今日のそれはなぜか、ぞっとする響きを持っていた。
王妃は固く眼を閉じ、懸命に意識を集中しているように見える。
注意深く王妃を見守っていたシェラはふと、息苦しさを覚えた。
呼吸が思うようにならず、衣服がひどく邪魔なものに感じる。その原因に気付いて唖然とした。
暑いのだ。
まだ六月だというのに、まるで盛夏のような熱気を感じる。しかもあたりの景色がゆらめいて見えろ。
蝋燭《ろうそく》の明かりも、壁にもたれている男の姿も、王妃もだ。ぐにゃりと歪んで見える。
この現象にはあっけにとられた。日中ならともかく、夜の、室内での陽炎《かげろう》など聞いたこともない。
驚いて国王に眼をやった。やはり汗を掻き、眼を見張っている。自分の気のせいではない。
それ以上に汗だくになり、荒い息をしているのが王妃だった。ただじっと座っているだけなのに肩が大きく上下し、額には玉のような汗が浮いている。
どんなに激しい戦闘でもこの人がこんなに呼吸を乱したことはない。
その苦しい呼吸の中から王妃は言った。
「二人とも外へ出ていろ」
「断る」
「危険なんだ」
「なおのことだ。たとえ離婚されても席を外すのは断る」
私も、と言いかけて、シェラは自分の舌が自由にならないことに気付いた。体もだ。
全身が見えない何かに縛られているというよりも、体の動きを司っている機能を自分以外の誰かに掌握された、そんな感覚だった。
目は見える。耳も聞こえる。なのに他の部分は指一本曲げられず、助けを求めようにも口も開かない。
血の気が引いた。必死に体の自由を取り戻そうとあがいたが、いくらもがいてもぴくりともしない。
恐慌状態に陥りかけたとき、シェラの口は勝手に開き、本人の意志に反して、こう言った。
「力を抑えなされ、王妃」
それはいつものシェラの声とは似ても似つかない、しわがれた老人の声だった。
国王がぎょっとした顔でシェラを見る。
「その声には覚えがある。……ファロットの幽霊」
答えたくてもシェラの舌は別のものに支配されている。自由になるのは意識だけだ。その意識は国王の言葉を聞いて、抵抗をやめた。
国王の知っている聖霊なら、かつて自分の危機を王妃に伝えてくれたものだ。子どものころに見せられた飾りものとは違う。紛《まぎ》れもない本物だとヴァンツァーも太鼓判を押している。その彼らが今度は自分の体を使って王妃に何かを伝えようとしている。
一時的にシェラの自由を奪った聖霊はもう一度、同じことを繰り返した。
「力を抑えるのじゃ。このままでは、離宮ごと蒸発してしまう」
「できればとっくにやっている!」
王妃が叫び返す。その態度には余裕がない。
険しい顔を幾筋も汗が伝い、握った拳の上までしたたり落ちている。
じっと座ったままの王妃が何をしようとしているのかシェラにはわからない。ただ、悪戦苦闘していることはわかる。
今の自分の立場も忘れて、何か手助けをしたいと思った。そのために自分はここにいるはずだった。
また口が勝手に言う。
「王妃。忘れるな。今日の空には満月がある」
その言葉に王妃ははっとして顔を上げた。
「ここにも月がある。今はまだか弱い子どものようなものだが、ないよりはましじゃ」
自分の口が思ってもみない言葉を、それも別人の声で喋るのは何とも妙な気分だった。
「あまり気負いなさるな。何もかも一人でなさろうとは思わぬことじゃ」
何がどうなっているのか、シェラにはさっぱりわからない。紛れもなく自分の口から発せられた言葉なのに、どこか遠くで聞いているような気がする。
じっとこちらを見ている王妃に眼だけで訴える。
私はここにいますと、何か手伝えることがありますかと、目線だけで問いかけた。
王妃が笑い返して、再び眼を閉じた。
その笑みに少し安心する。
「リィ!」
国王の叫びにシェラは反射的に首を向けた。
体が動く。
そのことにむしろ驚いた。しかし、国王が示したものを見たときはもっと驚いた。
床に突き刺した王妃の剣が光り始めている。
剣ばかりではない。王妃もだ。
額の銀の輪、その中心にあるくっきりと濃い緑が動き始めている。石の内部に変化が起こったとしか思えなかった。
紛れもない器物のはずが燦々《さんさん》と光の当たる水面のように煌《きら》めき、炎を凝縮して閉じこめたように揺らめき、それ自体が生き物であるかのように脈打っているのだ。
国王もシェラも呆気にとられた。
もちろんこんな現象を見たことはない。呼応するように白い刃も輝きを増している。こちらは人の眼を射る新雪のような眩しさだ。
緑の輝きは見る間に王妃の全身を包み、金の髪がさらに光を増し、淡い陽炎に包まれた王妃の瞼《まぶた》が少しずつ開いていく。
その瞳もまた異様なまでに煌めいて、自分の拳を真剣な表情で凝視している。
ゆっくりと握り拳を開いた、その手のひらから眩しいほどの光が飛び出した。国王とシェラが思わず眼を細めたほどの強い光だった。
王妃の手のひらの上で電光が踊っている。
まるで小さな稲妻を載せているかのようだ。
それは光でできた小魚にも似ていた。勢いよく飛び跳ね、空中で身を翻し、王妃の手のひらという『水』に沈んでまた飛び上がる。
イヴンは傷の痛みも忘れたのか、呆気にとられて見入っていた。しかし、王妃がゆっくりとその手のひらを自分の腕にかざすに至っては、自由の利かない体で後ずさろうとした。
「ちょっと……ちょっと待て、おい」
そんな言葉を洩らすのと、王妃の全身がさらに眩しく光り輝くのが同時だった。
「……!」
固唾《かたず》を呑んで見守っていた二人は固く眼を閉じ、顔をかばった。
こんな光を正視したら失明しかねない。それほど強い閃光だったのだ。
眼を開けたときには光も稲妻も消えていた。
辺りはしんと静まり返っている。
いつもと同じ夜の西離宮だった。暗い静寂の中、蝋燭の明かりだけが揺れている。
どこか遠くで狼の遠吠えが聞こえている。
シェラはぶるっと身震いした。さっきまでの暑気が嘘のように夜の冷気が辺りを満たしている。
しかし、汗に濡れた衣服はあれが現実だったと教えている。
暗い床に王妃が倒れているのが見えた。
「リィ!」
国王が駆け寄って抱き起こそうとする。
王妃はその手を振り払って上体を起こした。まだ肩で息をしている。ぐったりと力のない動きだった。
その隣ではイヴンが同じようにぐったりして壁に体を預けている。意識がないのか、ぴくりとも動かない。
左腕に軽く触っただけで、王妃は微笑を浮かべた。
「よかった……」
「何がだ?」
「自分で見てみろ」
立ち上がりかけて王妃は大きくよろめいた。慌てて国王が支えてやろうとする。その腕をさらに振り払った。
「いいから、少し休めば治る。ちくしょう……」
何に対する罵倒なのか、王妃は急に声を荒らげた。
「いいか。二度はごめんだぞ。頼まれたって二度はできないからな!」
ふらりと離宮の外へ出ていく王妃をシェラはまだ座り込んだまま見送った。体に力が入らなかった。
どうにか立ち上がったが、なぜか足が震えている。
ゆっくりと足を踏みしめながら王妃の後を追った。
やわらかい草の上に大の字になった王妃は懸命に呼吸を整えていた。
全身が鉛のように重く、目の前に腕をかざすのさえ億劫だった。おまけにその指は細かく震えている有様だ。
王妃の唇に自嘲の笑いが浮かんだ。
長い間、離れている相棒を思いだしたのだ。
(きみの力は強すぎる)
そういう自分は破壊神とも死に神とも呼ばれていたくせに、真顔で注意した。
長い呪文も特別な儀式も必要ない。心の中で思うだけでいい。それだけで手を使わずにものを動かすことも遠くへ飛ぶこともできる。しかし、それはたとえて言うならいつ決壊するかわからない堤防のようなもの。もしくはほんのちょっとした物音で怒濤《どとう》のように押し寄せる雪崩《なだれ》のようなものだというのだ。
(一番怖いのは、きみが人間嫌いだってことだ)
無意識の怒りや憎しみがどんな形で現れるかわからないというのである。
そう言われても全然実感がわかなかった。そんな力は必要ないから取り除いてしまうか使えないように封じてしまうことはできないかと訊くと、笑って首を振った。
(どっちも無理。でも、簡単に崩れないようにすることならできると思う)
あの相棒が自分の心に何をしたのかは知らない。
だが、暗示は見事に効いて、それからは『ある一定の条件下』でなければ力を使えなくなった。
そうして「鍵』をくれた。
(いい?ぼくはきみの力に扉をつけて鍵をかけた。
その扉がきみの力をせき止めている。使いたくなったらこの鍵で扉を開ければいい。簡単に開くから。
ただし、鍵なしで扉を無理にこじ開けようとしないこと。危ないからね)
わかった、絶対やらない。と九歳の自分は答えたのだ。
その鍵が今はない。
この世界に落ちてきた時、向こうに置いてきてしまったのだ。
草の上に寝転がったまま、王妃はため息をついた。
あの相棒が止めたわけだ。予想以上にきつかった。
中天には銀盤のような月が輝いている。
あれのおかげで何とかなったようなものだ。人の姿をした王妃だけの『月』もだ。横からちょっかいを出してきた聖霊は気に入らないが、礼は言わなければなるまい。
すぐ近くで声がした。
「無茶をなさったな、王妃」
魔法街の老婆の声だった。
普段なら反射的に起きあがる王妃だが、今は気怠げに、首だけをそちらに向けた。
老婆の姿は右手の先にあった。黒い布をすっぽりとかぶり、ちんまりと座った見慣れた姿だ。もちろん実体ではない。
本体は魔法街のいろりの前にあるはずだ。
「見てたのか?」
「いやでも見えてしまうわさ。コーラルはわしらの縄張りじゃ。そこで、あんな派手な真似をされたのではの。コーラル以外の術者の間でもちょっとした騒ぎになっているそえ」
「悪かったな。……非常事態だったんだ。もうやらないよ」
「そう願いたい。仲間うちの力の均衡というものが崩れるでな。それは別として、王妃よ」
老婆の声に深い憂《うれ》いが加わった。
「あまり、こちらの人々に入れ込まぬことじゃ」
「……」
「その分、別れが辛くなる」
大地に転がったまま、王妃は微笑を洩らした。
「別れか……」
考えなかった。というより忘れていた。
自分はこの世界の部外者で、いつかは元の世界に戻らなければならない。
わかっていたはずのことだった。最初はそのつもりで気をつけていた。だが、もう四年になる。
ひどく遠いものに感じた。
ぽんやりと月を見上げていた王妃の視界に不意に銀の糸が降り注いだ。
シェラが心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫ですか?」
「ああ。お前は? だるくないか」
「平気です」
寝転がった王妃の横に慎重に膝をついた。
老婆の幻はもういない。
「悪かったな。巻き添えにして……」
「私は何もしませんでした。あの方々――聖霊は私に何かできるような口ぶりでしたが……」
「してくれたさ。おかげで助かった」
戸惑いを顔に浮かべて、シェラは身を乗り出した。
「でも……私に何ができたんでしょう?」
「何ができたんだろうな」
「……」
「おれの故郷ではな。月は太陽を助け、太陽は月に力を与えるものなんだ。――魔法街のおばばの言うことはあたっていたのかもしれないな」
中天の銀盤を見上げたまま、王妃は淡々と話している。
「お前、体から力が抜けてるだろ?」
「少し……ですけど」
「だから、そういうことさ」
シェラには相変わらずさっぱりわからない。
だが、自分が何かの役に立ったことは間違いないらしい。それでよしとすることにした。
それよりも王妃の疲労の度合いが気になった。
「何かお持ちしましょうか? お酒か、でなければエンドーヴァー夫人がくださったお茶でも……」
「お茶がいいな。あれは胸がすっとする」
「わかりました」
立ち上がりかけたシェラに王妃は急に口調を変えて話しかけた。
「シェラ」
「はい」
「今のはな、本当なら禁じ手なんだ」
「……」
「おれは、ここではあんな力を使っちゃいけなかったんだ。なかったことにしておきたい」
黙って頷いた。王妃が何を言いたいか、不思議に呑み込めた。
「イヴン様は斬られたりしなかった。ですね?」
「そうだ。イヴンの顔を斬った剣先は飛んであの辺に落ちたはずだ。血の跡も残ってる」
そういう後始末ならお手のものだ。
「わかりました。お茶をお持ちしたらすぐに参ります」
「いや、先に行って来てくれ。何しろ、おれはこのざまだからな」
立て続けに十人の騎士を斬って倒し、なお平気な顔で馬と共に駆け回る人が、話すのも億劫そうだ。
やはりお茶を先にしたほうが、と、言いかけて、この人の指示に従うべきだと思い直した。
立ち上がったシェラに王妃が寝たまま手招きする。
不思議に思いながらもう一度、腰を下ろした。
王妃の手が髪を緩く掴んで引き寄せる。途中までは素直に引かれたシェラだが、顔と顔が触れあうほど近づいた時点で、慌てて飛び離れた。
どう考えても唇を重ねようとしているとしか思えなかったのだ。
「リィ!?」
「別にふざけてるわけじゃない」
それならなおまずい。
焦《あせ》っているシェラを後目《しりめ》に王妃は自分の口元に指をやった。
「お前、疲れてるだろう? 疲労回復に利くんだ。
これは」
シェラは何とも言いがたい顔で黙り込み、やがて恐る恐る尋ねた。
「……キスが、ですか?」
「そう」
横になったままの王妃をシェラはじっと凝視した。
王妃もじっとシェラを見上げて心外そうに言った。
「噛みついたりしないって」
痛いところを突かれた。
さっきイヴンは役得だと言ったが、冗談ではない。
彼はあれを知らない。
両手足を獣の四肢のように使って、顔を真っ赤に染めて人に飛びかかったあの姿をだ。
それでなくてもこの人は『王妃』なのである。簡単にそんなことをしていいわけがない。
冷や汗を流しながら、じりっと後ずさる。
情けないと思いながらもどうしようもない。
「自分はその……まだ、修行が足りませんので……失礼します!」
ようやくのことでそれだけ言って、脱兎のごとく駆け出した。
離宮の中では、意識を取り戻したイヴンが自分の左腕を凝視している。
国王も同じものをじっと見つめている。
「どうだ?」
「痛みはどっかへいっちまったな」
慎重に言った。
むき出しの左腕はまだ血に汚れている。しかし、少なくとも表面上には傷は見あたらない。
イヴンは嬉しさよりも恐ろしいものを感じているような顔だった。さっきまで激痛に襲われていた、死んでしまったはずの指先を恐る恐る動かしてみる。
鈍い動きだが、自分の意志で動かすことができる。
指が曲がるのがわかる。
そこまで確かめて、イヴンは再びぐったりと壁にもたれかかり、深いため息をついた。
「お前……、本当にとんでもないものを王妃にしたもんだ」
「俺もそう思う」
国王は顔を覆っている血に染まった包帯を慎重にほどいてみた。
乾きかけた血の固まりが肌に張り付いていたが、それだけだ。どこにも傷はない。
潰れてしまったはずの碧い眼が瞬いて国王を見た。
深い吐息を洩らし、壊れ物に触れるかのような手つきでその顔に触れ、左手を取った。
指先まで暖かく、血が通っている。弱いながらも国王の手を握り返してきた。
「生きているな」
「もともと死ぬような傷じゃないぜ」
「違う。この腕がだ」
腱《けん》を切られ、骨を断たれた腕が命を取り戻すなど、国王の経験ではあり得ないことだ。
イヴンにもわかっていたのだろう。冗談めかして言ったのである。
「……昨今の王妃さまは魔法まで使うらしいや。腕一本もうけたな」
あいにく国王はとても笑い飛ばすような気分ではなかった。危うく自分が切断する羽目になっていたかと思うと、そのぬくもりが、この手が生きて動いているということが無性に愛おしかった。
ごく自然に唇で触れた。
イヴンが眼を見張り、くすぐったそうな顔になる。
「王様がそんなことをするもんじゃないぜ……」
手の甲への接吻は、本来臣下が主君に対して行うものだからである。
「気分はどうだ?」
「悪くない。ちょっとばかり、だるいが……」
確かに、さっきまで激痛と戦っていた男は、今は疲労|困憊《こんぱい》しているように見えた。
濁った意識をはっきりさせようとするかのように頭を振る。
「なんか知らんが、あのキスが強烈だったぜ。火の固まりでも飲み込んだような気分だ」
ランバーでの接吻を思い出して国王は首を傾げた。
「俺はそんな気分にはならなかったな?」
するとイヴンは疲れた顔にからかうような笑みを浮かべたのである。
「陛下。今更ながらに弁解させてもらえば、あれは不可抗力です。身動きできない俺に、王妃が勝手にくれていったものですから、どうか不義密通の罪で俺を咎《とが》めるのはご勘弁願います」
「ばか」
笑って、短い金髪の頭をくしゃりと撫でた。
「少し休め。お前の体にどんな処置が施されたのか俺にはわからんが、お前は休息する必要がある」
居間の長椅子に友人を寝かせると、国王は外へ出ていった。
王妃はまだ地面に寝ていた。
近づいてみたが、眼を閉じて、浅く呼吸をして、まるで本当に寝ているようである。
その隣に腰を下ろして、額に張り付いている髪に手を伸ばした。触れるか触れないかのうちに、眼を閉じたままの王妃が言った。
「今のおれに触らないほうがいいぞ」
「火傷でもするのか?」
「たぶんな」
これであっさり引き下がるような国王ではない。
太い指で器用に髪をなおし、額に手を当てた。
「火傷するほどではないが、熱があるな」
「すぐに収まる」
王妃はそのまま、緑の絨毯《じゅうたん》の上に転がっていたが、おもしろそうに笑い声をたてた。
「お前、やっぱり平気でおれにさわるんだな」
怖くないのか、と言っているのだ。
岩を砕く馬鹿力に、人間を噛み殺す牙に、今度は発光である。悲鳴を上げて逃げ出すのが普通だ。
国王はゆっくり首を振った。
「以前にも何度も言った。お前が何者であれ、俺は恩人を恐れるほどの恥知らずではないつもりだと」
「……」
「その気持ちに今も変わりはない。変わらぬどころか、他のどんなものよりも、あの腕と眼を救ってくれたことを心から感謝する。イヴンのためにも、シャーミアンのためにもだ」
いくらイヴンが自分のミスだからと、気にするなと言ったところで、それをシャーミアンが納得するはずがない。自分のせいだと、自分の先走りのせいで不具の体にしてしまったと、一生を悔やんで過ごすだろう。
寝転がったまま、王妃は真面目な口調で言った。
「ウォル」
「何だ」
「おれはな、これが戦場での怪我なら放っておいた。
めちゃくちゃ疲れるんだ」
「らしいな。――まだ立てんのか?」
「気持ちがいいんだ。もう少し……。それに本当はこんなことはしちゃいけないんだ。今も魔法街のおばばに苦情を言われたしな」
「今――ここでか?」
「満月がある。影をここまで届けるくらいのことは何でもない」
「ははあ……」
「おれみたいな部外者が力を使うのは混乱のもとになるらしいな。以後は慎んでくれとさ」
「ふうむ……。魔法使いにも縄張りのようなものがあるのかな?」
「じゃないかな。だから……」
「うん?」
「お前は怪我したりするなよ?」
真剣な、照れたような響きの声だった。
国王は微笑を浮かべて、王妃の肩を撫でた。
「お前の口づけは火の固まりを呑んだようだったとイヴンが言っていた。――どうしてかな?」
「あれは一種の魔除け。お前にしたのはただのキス。
さっきもシェラに疲労回復のキスをしてやろうとしたんだけど、逃げられた」
「口づけにそんなに種類があるのか?」
「おれの場合はな。――あの世行きのもある」
にやりと笑った王妃に、国王は真顔のまま覆い被さって唇を重ねたのである。
王妃は眼をぱちくりさせた。
ついで盛大に毒づいた。
「お前な! 人が動けないのに何するんだ!」
いつもの王妃ならすかさず跳ね起きて殴りつけているところである。今は悔しいかな、起きあがる力もない。
「いや。火を呑み込むとはどういう気分かと思ったのだが……、この間と変わらんな?」
「疲れてるのにいちいちできるか」
「力がいるのか? それはまた不思議な接吻だ」
と、あくまで真面目な国王である。
「あの世行きは遠慮したいが、魔除けの接吻はそのうち俺にもしてくれると嬉しいな。俺は仮にもお前の夫だ。そのくらいの権利はあるだろう?」
王妃はますます脱力して、げんなりと言い返した。
「まったく……。フェルナン伯爵が生きてたらぜひ訊きたいところだ。どう育てればこんな妙なものができるんだ? 人間にしては珍品中の珍品だぞ」
「誉め言葉と受け取っておこう。それよりいつまでこうして寝ている気だ? 眠いのならすぐそこに部屋があるだろうに」
「お前が疲れさせてるんだろうが……」
鍵がないのに扉をこじ開けようとしたのだから、どうしても無理が生じている。体が地面にめり込みそうだった。
「立てないのなら抱いていこうか?」
また真顔で言う。
王妃は最高にいやな顔になった。
「そんなことしたら本当に離婚だぞ」
「それは困る。王妃に離婚される国王など前代未聞だからな。しかし、ここで寝られるのも困る。お前が狼に食われたりしないことは知っているが、万が一ということもある」
かまわずに華奢《きゃしゃ》な体をすくい上げようとした国王だが、王妃の激しい抗議にそれは諦めた。
戦士を自負する王妃にとっては『身動きできない体を勝手に運ばれる』ことなど我慢できないのだ。
どうにか自分の足で立ち上がった。
国王は王妃に手を貸して部屋まで連れていった。
翌日の朝、落ち着きを取り戻したシャーミアンは処罰を願って国王の前に進み出たのである。
独立騎兵隊長は身分こそ高くないが、国王の腹心とも言うべき存在だ。その腹心に城内で斬りつけて重傷を負わせたのだ。
王妃は黙っているようにと言ったが、隠していられることではない。ことの次第を詳しく説明した上で、シャーミアンはきっぱりと言ったのである。
「厳罰に処してくださるよう、お願いいたします」
この時、国王は西離宮での朝食を終えて戻ってきたところだった。
王妃の侍女一人が調理や給仕をし、毒味もおいていないとあって、侍従達は国王が西離宮で食事を摂ることを快く思っていない。陛下がお食事を召し上がるなら本宮から人を差し向けますと何度も言っているのだが、王妃も国王も西離宮に他の料理番や毒味役を置くことを断固として承知しない。
「たまには息抜きをさせてくれてもよかろう」
そんなふうに言う。
この朝も西離宮でゆっくり過ごして降りてきた国王は機嫌よくシャーミアンを出迎え、その申し出を真面目に聞いてはいたが、口元には微笑があった。
「シャーミアンどの。失礼だが、何か勘違いをされているのではないかな?」
「そんなあやふやなことでこんなことを申し上げはいたしません。ですが、すべての罪は私にあります。
何とぞ、父にはこれまで通りのご奉公をお許しください」
被保護者が犯した罪に関しては家長の責任が厳しく追及される。息子の犯した罪なら父親に、妻の犯した罪なら夫に、使用人の犯した罪なら主人にだ。
それだけ家長の権限も強く、身内を管理する事が望まれる。知らなかった、関係ないでは通らないのである。
だからこそシャーミアンも父の名誉は守ろうとしたのだ。
日の射し込む明るい部屋でシャーミアンは硬い顔つきで直立不動の姿勢をとり、国王は部屋着に着替えて椅子に腰を下ろしてくつろいでいる。端から見ると妙な対比だった。
「しかしな、シャーミアンどの。はっきり言ってお話の主旨が俺にはよくわからんのだ」
「陛下!」
そんな呑気なことを言っている場合ではない。
シャーミアンが苛立っていると、口笛でも吹きそうな軽い足取りでイヴンが現れたのである。
「や、すみません。お話中でしたか」
「いいや。かまわん。入ってくれ」
国王は笑顔で友人を出迎えたが、シャーミアンは幽霊でも見るかのような眼でイヴンを見た。
「おや、シャーミアンどの。どうなさいました?顔色がよくありませんな」
イヴンの言うことなどシャーミアンは聞いていなかった。いたずらっぽく笑っている顔を呆然と見やり、いつもの黒い服で覆われている体にこわばった視線を向け、押し殺した声で言った。
「……服を脱いでください」
これには小さく吹き出したイヴンである。
「すてきな申し出だが、仮にも未婚の女性が男に向かって言う台詞じゃありませんぜ? ましてこんな真っ昼間に」
あくまで楽しそうにシャーミアンの顔を覗き込んで言う。
「せめてもう少し暗くなってから人気のないところで言ってくださると非常に嬉しいんですがね?」
「服を脱いで左腕を見せてください!」
榛《はしばみ》色の眼はきつく男を見据えたまま動かない。
その剣幕にイヴンも眼を見張り、頭を掻いて、どうしたもんでしょう? というように国王を見た。
国王も困ったような顔だったが、それで気が済むのなら脱いでみてはどうかな、と口添えした。
半分は渋々と、また半分は楽しげにイヴンは上着を脱ぎ、長袖の下着も頭から抜いて上半身裸になり、肩をすくめて見せたのである。
「これでお気に召しましたか?」
鍛え上げた、引き締まった体だ。その肌は単なる日焼けばかりでなく、わずかに金味を帯びている。
西南の人の血の混ざった、きれいな色合いの肌だ。
シャーミアンは穴が開くほどその体を凝視していたが、あるはずの傷がどこにもない。
わけがわからず混乱して首を振った。
「でも、そんな、そんなはずは……」
「何がそんなはずは、なんです?」
「私は昨日あなたに斬りつけたはずです!」
イヴンは実に可愛らしく碧い眼を丸くした。
「あなたが? 俺に? いったいどうして?」
「あの侍女が……そうです。シェラのことで……」
言いながらもその声には力がない。自信を失った口調だった。
「そのことなら今し方、上で聞いてきたところだ。
俺から話そう」
咳払いして国王が言い出した。
「確かに、あなたも見知ったとおり、あの侍女は実は少年なのだ。もちろん公には娘で通さねばならんが、いささか事情があってな。知ってのとおり尋常の娘では西離宮暮らしも王妃の側仕えもつとまらん。
かといって王妃を一人にしておくわけにもいかん。
あの少年は……侍女と言うべきだろうが、その意味では実に重宝しているのだ。いささか風変わりな武術も心得ていてな、護衛としても役に立っている。
今まであなたに黙っていたことは申し訳ないが、お父上にも話していないことなのだ。なにしろお父上のご気性では『もってのほかでございます!』と、たちまち雷を落とされる」
イヴンが肩をすくめて、違いない、と、笑った。
「他にこのことを知っているのは従弟《いとこ》どのとラモナ騎士団長のみだ。そのつもりでいてくれると助かるのだが、どうだろうか?」
もちろん秘密は守るとシャーミアンは誓った。
国王と王妃がわかっているのなら自分があれこれ言うことではない。ただ一つ、どうしても納得がいかない様子で首を振り、不安そうな顔でイヴンを見た。
「本当に申し訳ありませんでした。あれからずっと考えていたのです。どうすればこの償いができるのか、罪滅ぼしのために何をすればいいのかと……」
「シャーミアンどの。それはみんな夢です。俺のどこに斬られた傷があるんです? 何なら下も脱ぎましょうか?」
これには勇敢な女騎士も実にらしからぬ悲鳴を上げて、必死でやめさせた。
イヴンは楽しげに笑っている。
「いいですか。俺はこの通り、どこもなんともない。
なかったことに対して罪滅ぼしだの償いだの言うのはおかしな話じゃありませんかね? 気にするのはおよしなさい」
碧い眼は二つ揃ってシャーミアンを見つめている。
金褐色の男の肌によく映える、真夏の海のような深く澄みきった碧の色だ。
なぜか、体がかっと熱くなった。
「あの、では、それではあの……失礼します」
そんなことをしどろもどろに呟いて、シャーミアンはその場から立ち去った。
二人になった国王とその親友は吐息をついて互いの顔を見合わせた。
「あれでごまかせたかね?」
「無理だろうな。しかし、証拠の傷がどこにもない以上、納得せざるを得まい」
服を着ようとしたイヴンは自分の左腕に眼を留め、つくづく呆れたように首を振った。
「まったく……自分の眼で見たんでなけりゃとても信じられねえ」
「だがな、イヴン。今だから言うが、どうしてあんな無茶をした? お前ならシャーミアンどのを取り押さえることなど簡単にできたはずだ」
「王様が馬鹿を言いやがる。城内で真剣を振り回すことは御法度《ごはっと》だろうがよ」
「その度に腕一本投げ捨てられてはこっちの神経がもたんぞ! これも今だから言うが……、あのままお前の腕を切る羽目になっていたら、今までのようにシャーミアンどのに接することができたかどうか、自信がないのだ、俺は」
そんなことは絶対にないとイヴンは知っている。
鈍くても単純馬鹿に見えても国王としての資質は本人が考える以上に備えている男だ。自分の感情は押し殺してシャーミアンを許すだろう。
もともと義侠心《ぎきょうしん》の強い男だが、フェルナン伯爵の死後は特に、身近にいる人の難儀や不当な暴力に対して強い反応を示すようになった。あの時の無念がよみがえってくるのかもしれなかった。
イヴンはため息をついて首を振った。
そんな心配をさせるつもりは更々なかったのだ。
「もう言うなよ。あれは単に俺の失敗。それも大失敗だ。受け止めるつもりだったんだよ」
「素手で剣をか?」
「だから。籠手《こて》を巻いてるつもりだったんだ。ランバーでの戦闘を見ただろう? タウ製の籠手は矢を通さないすぐれもんさ。細い剣ならはね上げることだってできる。てっきりそのつもりでいたわけだ。
間抜けなことに」
イヴンは最高に苦い顔である。
「しまった、と思ったのはざっくりやられてからさ。
けどまあ、自分でやったことだ。泣き言は言えんだろうよ」
国王は逆に微笑していた。いかにもこの男らしいことだと思った。
「それでは、以後は俺のためにも、王妃の健康のためにもだ。もう少しうまく対処してくれるとありがたいな」
「しかと心得ました。陛下」
イヴンはふざけて敬礼してみせた。
本宮を出て、通い慣れた西離宮への道を上りかけて、シャーミアンは立ち止まった。
しばらくそこにたたずんでいたが、くるりと背を向けて本宮内へとって返した。呼吸を整えて、もう一度、外へ出る。
だが、やはりどうしても上まで登る勇気が出ないらしい。西離宮へと続く小道をため息とともに見つめ、とぼとぼと引き返した。
「何をしておいでかな?」
その声にシャーミアンは飛び上がった。
「バルロ様! いつからそこに……」
「あなたが三度ほど行ったり来たりするのを見たが、その前から堂々巡りをしていたのかな?」
真っ赤になったシャーミアンだった。
では最初から見られていたわけだ。
「あの、バルロ様、少し……よろしいでしょうか。
剣術について、ご教授をいただきたいのですが」
「これはお珍しい。もちろん美女のお誘いとあればいくらでも時間をあけましょう。剣談というのはいささか色気に欠けますがな」
そんな軽口も今のシャーミアンの耳には入っていなかった。従僕にお茶を運ばせ、人を遠ざけて二人きりになると、思い詰めた様子で切り出した。
「お尋ねしますが、骨まで斬り割られた傷が一日で完治するようなことがあると思いますか?」
バルロは片方の眉を軽くつり上げて、否定の意を示した。
「俺の知る限り、そんな馬鹿なことは起こり得んな。
自然の摂理に反します」
「ええ……。そうです。本当にその通りです。聞いてください」
シャーミアンは昨日の出来事を洗いざらいバルロに語った。誰かに聞いてほしかったのだ。
この人ならあの侍女のことも知っている。
何より人並みはずれた剣を使う。
「確かに斬りつけたのです。今でも顔を真っ赤に染めていた姿がまざまざと目に浮かぶのです。左眼は……左腕も、駄目だと思いました。剣を取って以来、あんな恐ろしい思いをしたのは初めてです。戦地で敵を斬り伏せるのとはわけが違います。大変なことをしてしまったと、取り返しのつかないことをしてしまったと一晩中悔やみました。なのに、あの方の顔にも腕にもかすり傷一つ残っていません」
「ならば麦わら頭の言うとおり、あなたは白昼夢を見たのだ。それでいいではないか」
「ええ……」
得心がいったかというとそうではない。
バルロが言ったように骨まで達する傷が一日で治癒《ちゆ》することはあり得ない。だからあれは何かの間違いだったのだろうと、納得できなくても自分に言い聞かせるしかない。
まだ暗い顔をしているシャーミアンに、バルロは低く笑って言った。
「それにな、シャーミアンどの。これは決してあなたを軽んじて言うのではなく、単なる事実として述べるのだが、麦わら頭の腕前は少なくともあなたよりは上だ。――俺には遠く及ばないとしてもな」
シャーミアンは飛びつくように身を乗り出した。
「そうお思いになりますか? 本当に!?」
これがバルロの言葉の前半部分を指したものであることは言うまでもない。
「疑うのでしたらお父上に聞いてみるといい。俺は実際に見たわけではないが、お父上のおっしゃったことだ。麦わら頭はタンガの重騎兵を相手に一歩も引かずに立ち回り、両手に余るほどの鎧甲冑《よろいかっちゅう》を馬から叩き落としたという。その話だけでもわかる。
失礼ながら、あなたに同じことができるかな?」
シャーミアンは素直に首を振った。
彼女も優れた剣士だ。新米の騎士の五人や十人は難なく打ち据えるだろう。
しかし、本当に鍛え上げた肉体と卓抜した技を持つ男に比べると、やはり一段落ちる。それは女の身体である以上、仕方のないことだとも言える。
「そこで、だ。その麦わら頭があなたに斬られるというのはいささか奇異に聞こえる。あなたを傷つけずに取り押さえることもできたはずなのだからな。
あの男も負傷を恐れるような意気地なしではないが、好きこのんで斬られるほどの馬鹿でもあるまい?」
しばらく考え込んでいたシャーミアンはゆっくりと頭を振った。
「そう……ですわね。あの方は陛下の親衛隊長――私ごときに斬られたりするはずはありませんわね」
そうして何を思い出したのか、しんみりと言った。
「私は幸いにも、大きな負傷を経験したことはありません。父の部下達には生きるか死ぬかの大怪我を乗り越えた者が何人もおります。ーあれは私の夢なのでしょうが、あれほど果敢に苦痛に耐えた人は、豪傑自慢の父の部下達の中にも一人もおりません」
「それはどうかな。単なるやせ我慢かもしれんぞ」
シャーミアンは吐息を洩らして席を立った。
「お時間をありがとうございました。バルロ様。バルロ様は本来なら私などではなく、ロザモンド様のお相手をしなければなりませんのに」
「いいや、それがなかなか相手にしてもらえんのだ。
一つあなたの口から俺の値打ちというものを話し聞かせてやってはくれんかな?」
「私でお役に立つなら喜んで進言いたしますわ」
どこかぎこちない微笑を浮かべて立ち去ったシャーミアンをバルロは複雑な顔で見送った。
9
だだっ広い本宮をぶらぶらしていたイヴンは苦手のティレドン騎士団長に出くわした。
内心舌打ちしながら何食わぬ顔で通り過ぎようとしたところ、相手がそうはさせてくれなかった。
身振りだけで話があると伝えられ、中庭へ出るように促される。肩をすくめながら後に続いた。
「シャーミアンどのに斬られたそうだな?」
今度の舌打ちを心の中のものだけにしておくのは非常な技術を要したが、どうにかそれをやってのけ、顔ではきれいに笑ってみせた。
「そりゃあ何かの間違いでしょう。俺はこのとおりぴんぴんしてますぜ。シャーミアンどのは悪い夢でも見たんでしょうよ」
バルロはどこかおもしろそうに言った。
「お前と従兄上《あにうえ》はよってたかってその苦しい説明をシャーミアンどのに聞かせたらしいが、彼女は納得していないぞ。当然のことだ。彼女もあれで何度も戦場を経験している騎士だ。血の匂いや斬りつけた手応えはそれに慣れた者には誤りようがない」
イヴンはほんの一瞬探るような眼でバルロを見たが、すぐにいつものとぼけた表情で肩をすくめた。
「だったら俺はこうしてあんたと世間話なんかしていられないはずですがねえ?」
「治るはずのない傷が消えた原因なら心当たりがある。どうせあの王妃が何かしたのだろう?」
「ご冗談を。そんな馬鹿なことがあるわけがないでしょうに」
するとバルロは思わずたじろぐような真剣な眼をイヴンに向けた。
「あの王妃がまともとは言い難いことくらい、城の者なら誰でも知っている。下級兵士に至っては本気で勝利の女神と信じているくらいだ。何をしでかしてもおかしくないと思っているはずだが、それでも夢の話にしておかなければならないことなのか?」
言葉に詰まった。
こうずばりと切り込まれると返しようがない。
イヴンには理解できない力で傷を治した王妃は、今度のことはあくまで例外だと、なかったことにしておかなければならないと言い張った。
幸い、イヴンは誰にも見られずに西離宮にたどりついている。シャーミアンさえなだめてしまえば秘密を守ることは難しくない。
国王ともあの少年ともそう口裏を合わせていたのだが、この男の耳に入ったのはまずかった。
でなければシャーミアンの話を笑い飛ばしてくれればよかった。イヴンの知るかぎり、普段のバルロならそうした反応を示しそうなものだった。
なのになぜかシャーミアンが語ったことは事実に違いないと信じて疑っていない。非常にまずい。
イヴンの沈黙をどう解釈したのか、バルロは笑って話を変えた。
「シャーミアンどのの話では、お前は剣を腰にしながら抜こうともせず、体で止めたというが……」
「夢の話だと言ってるでしょうが。それとも夢でも人の間抜けぶりを笑いに来たんですかい?」
「いいや。たとえ夢でも上出来だ」
眼を白黒させたイヴンである。
どうも勝手が違う。いつも自分の顔を見れば露骨にいやな顔をするはずのこの男が、からかうような口調である。
「瓢箪《ひょうたん》から駒、いや、怪我の功名かな? シャーミアンどのは夢の中のお前の態度にいたく感銘を受けたらしいぞ」
これにはイヴンも碧い眼を丸くした。
「ちょっと待ってもらいましょうか。あんたが何を勘違いしてるかは知らないが、そんなのは問題外だ。
相手は名門の一人娘だ。俺は天涯孤独の身でおまけに山賊だ。どうにかなりようがないでしょう」
バルロは楽しげに笑っている。
「勘違いして欲しいのならもっと身を入れて口説くことだな。あれではせいぜい社交辞令だ」
さすが、伊達《だて》に浮き名を流しているわけではないらしい。
「しかし、なぜおとなしく斬られた? 形だけでもシャーミアンどのに剣を向けるのはそれほど抵抗があったのか?」
イヴンはまた肩をすくめた。
「ご自分の夢をどう解釈しようとそれはあちらの勝手ですがね。別にシャーミアンどのだからどうってわけじゃない。戦場以外では女に剣を向けたくないだけなんでね」
「それは今まで女を殺したことがないからか?」
今度こそ碧い眼が殺気を帯びてバルロを見た。
国王と同じ血を持っていながらまったく違う光を浮かべている黒い瞳は微動だにしなかった。
「それとも戦場でならば女を相手にする事も厭《いと》わず、何人も斬り捨ててきたからか?」
二人は無言で睨《にら》み合った。
女兵士の数はそう多くはないが、稀少と言うほどでもない。まして女の身で兵士として出てくるのだ。
時として男以上によく戦う。それは転じて男以上に始末が悪いということでもあった。
イヴンは舌打ちして言ったのである。
「……あんたに言われる筋合いはありませんがね」
ティレドン騎士団長は唇の端だけで笑ってみせた。
皮肉屋の騎士団長ではあるが、いつもの笑いとは似ても似つかない凄惨《せいさん》な微笑だった。
豪放|磊落《らいらく》に見えても、この男は王家にも匹敵する古い家柄の嫡男に生まれ、二十代の若さで堂々たる当主として、一癖も二癖もあるサヴォア一族の上に君臨している。
単に陽気で剽悍《ひょうかん》な騎士というだけではできるはずのないことだ。別の顔をいくつも持っていなくては不可能だ。
「あれは実際いやなものだ。殺すのはもちろんだが、傷を負わせるのもな。男なら顔や体に傷が残ったところで勲章ですむが、女はそうもいかん。おまけに、ずるがしこい者は非戦闘員のふりをして泣き叫び、よそ見をした隙に後ろから斬りかかってくる」
イヴンは苦い顔になってため息をついた。
「……あんたみたいな大部隊の指揮官でもそうした経験があるわけだ」
「お前もな」
そうしたときにお前は――あんたは、どうしてきたのかとは彼らは尋ねなかった。
聞くまでもないことだった。彼らは一軍を率いる指揮官である。死んではならない義務がある。
友軍すべてに対して責任を負う立場でもある。
「できるものなら……戦わずにすむのなら、間違っても女に剣など向けたくない。さんざん手を汚しておきながらきれい事を言うようだがな」
重い響きを持った言葉だった。
きれい事と言えばその通りだ。一人殺したのなら同じことだと人は非難するかもしれない。自分の心の中にもそうした声がないとは言いきれない。
しかし、彼らは生死をかけた戦いの非情さ、残酷さを骨身にしみて知っている。
知っているからこそ平和な時間にはその生臭さを持ち込みたくないのだ。
空しいことでもきれい事でもいい。戦場とそうでないところとでは一線を引いておきたかった。
イヴンはかすかにため息をついた。
「そうでもしなけりゃやってられんでしょうよ」
「確かにな」
バルロは言って、陽気さを取り戻した皮肉な眼でイヴンを見た。
「それを思えば、お前の態度は実に立派なものだ」
まっすぐ誉《ほ》められて素直に礼を言うのが国王なら、顔をしかめて舌打ちしてみせるのがイヴンである。
「別にあんたにほめてもらおうと思ってやったわけじゃありませんがね」
楽しげに笑った。バルロである。
「口の減らない奴だ。もっとも、夢の話だからな」
「そうですとも」
「しかし、シャーミアンどのの見る夢は事実とは相当の隔たりがあるな。なんでも骨を断つほどの手応えだったということだが、それほどの手傷を負って声も洩らさずに痛みに耐えてみせる兵士など滅多にいるものではないぞ。いるとするならそれはまれにみる勇気を備えた真の戦士だろうな」
無表情を装いながらイヴンは必死でむず痒《がゆ》さをこらえていた。バルロの口調は明らかにわかっていて大まじめに誉めているのだ。しかし、夢の話にしてある以上、言い返せない。
手の込んだ嫌がらせである。
歯ぎしりしながらイヴンは話を逸らそうとした。
「まあ、この城には王妃を筆頭に女とも思えない女性が大勢いますからな。あんたの婚約者もその一人でしたが」
「ロザモンドがあんなふうになったのは弟が死んでからのことだ」
何か言いかけて飲み込んだ。
あの女公爵の私生活に興味があるわけではないし、覗き趣味があるわけでもないのだが、バルロの口調には何か黙って耳を傾けざるを得ないようなものがあったのだ。
「ステファンは老ベルミンスター公が愛人に産ませた子でな。正妻亡き後、母親ともども公爵家に迎えられて相続人に指定された。ステファンが十二かそこらの時だったか……。母親のほうはそれからすぐに亡くなり、ロザモンドはこの異母弟を不欄《ふびん》に思ってかわいがった。弟のほうも父や姉の期待に応えようとして懸命にがんばった。それは主に姉に誉めてもらうためだったらしい。……ロザモンドにとってステファンはかわいい弟だったが、ステファンにとってはそうではなかった。離れて育ったことが憧れにつながったのか、妾の子の自分をかわいがってくれたことから思慕したのか、それはわからんが、姉として以上に愛していた。もろちんステファンはそのことを誰にも秘密にしていた。相手は異母姉であり、他でもないこの俺と婚約もしていたのだから、打ち明けてみたところで何の利もない。憧れは憧れのまま胸の奥にしまいこみ、当主の義務として結婚もした。新妻は夫に心からの愛情を注ぎ、ステファンも妻を愛していたが、やはり心の中には姉の姿があったらしい。ーロザモンドはそのことを、弟が自分を愛していたことを、ステファンが死ぬまで知らなかった。別に気付かなかったからといって咎《とが》められるわけでもないと思うのだが、本人は気に病んでいる。死んだ弟に申し訳ないとでも思っているらしくてな。髪を切り、男装を始め、今ではあの有様だ。弟がするはずだったことを自分が変わってしなければと、それが供養《くよう》だと思いこんでいる」
イヴンはため息をついた。
どうも見当違いの義侠心《ぎきょうしん》に思える。
「その弟さんがそんなことを喜びますかねえ?」
「まさにまわりが口をそろえて同じことを言ったが、頑として耳を傾けない。意固地な女だ」
顔は苦笑していてもその声の中にはしんみりしたものがある。
「お話はよくわかりましたが……、何だってそんなことを俺にぺらぺらしゃべるんです?」
。バルロはいつもの不敵な笑顔になって答えた。
「決まっている。貴様のような無神経な奴が事情を知らずにいるのはかえって危険だからだ。知らずにロザモンドの傷をえぐるようなことを言いかねん」
イヴンは実にいやそうな顔になった。
「前から思ってたんですがね。騎士団長どの。あんた、もう少し別の言い方はできないんですかい?」
バルロは高らかに笑い返した。
「その台詞はそっくりそのまま貴様に返してやる。
山賊の分際で、俺に向かってそんな口のききかたをするのはお前くらいのものだ」
憎らしい物言いである。
倍くらい言い返してやろうと思ったが、こちらへ近づいてくるシャーミアンを認めて口をつぐんだ。
シャーミアンはイヴンを探していたらしい。バルロに遠慮するような視線を向けた。
察しのいい騎士団長はシャーミアンに一言二言話しかけて、その場を離れたのである。
イヴンと二人だけになると、シャーミアンは恐ろしくまじめな顔で言い出した。
「よろしかったら、少しお時間をいただけますか」
「そりゃあかまいませんが、さっきの話の蒸し返しならお断りですよ?」
シャーミアンは首を振った。
「私と立ち会っていただきたいのです。木剣で」
黒衣の戦士は軽く首を傾げた。
「つまり、剣術の稽古相手に俺をご指名で?」
「はい。ご迷惑でなければ……」
「迷惑ってことはないが、俺のは我流ですよ。それどころか山賊流だ」
正統派の剣術を学んだ女騎士の練習相手には不似合いだろうと言外に匂わせたが、シャーミアンは固い顔のまま頷いた。
「結構です」
「いや、でもね……」
「私も手加減はいたしません。未熟ではありますが、全力であなたを倒しにかかります」
「はい?」
ぱちくりと眼を丸くしたイヴンだった。
単なる練習相手にしては様子がおかしい。
イヴンはもちろんシャーミアンを相手に本気で打ち返すつもりはなかった。適当に相手をするだけの稽古台だと思っていたのだが、傍目にも思い詰めた顔である。
「失礼ながら、あなたと私のどちらが強いか雌雄を決したいと申し上げたらお怒りでしょうか」
あんぐりと開いていた口をようやく閉じて、イヴンはぼりぼり頭を掻いた。
「あー……。それじゃ俺は、つまり……、あなたに勝てばいいのですか?」
「はい! ぜひ……」
それができるものなら、と、シャーミアンの眼が言っているようだった。
何となくわかる気がした。
イヴンはため息をついて、苦笑を浮かべた。
「もっと色気のあるお誘いなら嬉しいんですがねえ。
それで気がすむのでしたら、失礼にならない程度にお相手いたしましょう」
「ありがとうございます」
ナシアスはエンドーヴァー夫人の庭や屋敷の趣味がすっかり気に入ったようだった。
きれいな空気と緑豊かな田園風景、華美で豪華な王宮の建物にはない落ち着きのある館、その風景にしっくりととけ込んでいる女主人。
それらはナシアスの眼には好ましいものに映った。
エンドーヴァー夫人もこの若い騎士を客人として迎えることを嬉しく思っていた。王国の重鎮とも言うべき地位にありながら礼儀正しく、明晰《めいせき》で、人を心地よくさせる雰囲気を持っている。話し相手としては申し分ない。
「先日は妹がお邪魔したそうですが……何か失礼なことを申し上げはしませんでしたか?」
ナシアスの声は穏やかで耳に快く響く。
声ばかりではない。身分こそ同僚のサヴォア公爵に劣るが、魅力的な人である。この人にあこがれている娘達は決して少なくないはずだ。
そうした男性を自分の居間に招待していることを夫人はある程度率直に楽しんでいた。
この点、夫人は自己|欺瞞《ぎまん》とは縁のない人である。
ただ、自分がこの人にふさわしいとは、この人を欲しいとは、夫人は夢にも考えなかった。あくまで話をしていて楽しいお友達である。
「アランナ様はとても可愛らしい方ですわね。私、あの方が大好きになりました」
「少しばかりそそっかしいところもあるんですが、あの子は昔から人に愛される性質なんですよ」
「それはお兄様のほうも、でしょう?」
ものやわらかな口調だった。
「あなたの奥様がひたむきにあなたを愛されたのもわかる気がしますわ」
ナシアスはちょっと眼を伏せた。
「妹はやはり、あなたに相当な無理を申し上げたらしい……」
「いいえ。ご相談を受けただけです。アランナ様はあなたのことをとても心配していらっしゃいます。
――私は人様のことをあれこれ申し上げられるほど立派な人間ではありませんが、それでも、あなたがいつまでも苦しまなければならない理由はないと思います」
ナシアスは何事か考えて、ゆっくりと首を振った。
「苦しんでいるというのは違います。もう何年も前のことですから。ただ、エレイヌの死は私には重荷でした。彼女は本当に一途に、私だけを愛して死にました」
「酷いことをお尋ねするようですが……、あなたは本当に奥様を愛していらっしゃいましたか?」
ナシアスが答えるまでにはわずかな躊躇《ちゅうちょ》があった。
「愛らしい人だとは思っていました。哀れだとも」
「答えになっていませんわ」
「当時の私にそんなことがわかるはずはありません。
婚約者ということで愛しく思い、病に倒れたと聞いて哀れに思い、できるだけのことをしてやりたいと思いました。それがすべてです」
夫人はため息をついた。
若草色の瞳に慈愛と、憐憫《れんびん》と、ほんの少しばかり非難を込めて、たいせつな友達を見た。
「あなたは……優しすぎます」
「その時はそれが当然のことのように思えたのです。
今となっては正しかったのかどうか自分でもわかりません。――最初の妻をあんな形で死なせてしまったことで臆病になっていると自分でも思います。幸せにしてやることができなかった、その負い目ばかりがのしかかってくるのです」
夫人が何か言おうとするのをナシアスはやんわりと制した。
「わかっています。エレイヌの死は誰にもどうすることもできない運命であり、天命だった。理性ではわかっているのです。ただ……、恐らく私は臆病な人間なのでしょうね。また同じことになるのではないかと恐れているような気がします」
「わかります」
夫人も頷いた。
「そのお気持ちはよくわかります。正直に申し上げれば、あんなことはもうこりごりですわ」
急に明るく夫人が言ったので、ナシアスは驚いて水色の眼を見張った。
「こりごりですか?」
「だって、ねえ? ひどいじゃありませんか。いつも一緒だと約束しましたのに一人でさっさと逝ってしまうなんて。私は悲しいの半分、恨みがましく思うのが半分でしたわ。……忌憚《きたん》のないところを申しあげれば『嘘つき』とさえ思いました」
「これは、手厳しい……」
「ですけど、逝ってしまった人は帰ってきはしませんものね……」
「ええ」
夫人はまた明るい微笑を浮かべて、言った。
「とりあえず私たちはこうして居心地のいい居間におちつき、おいしいお茶を楽しむことができます。
気の合うお友達とおしゃべりもできますし、その気になればちょっと贅沢な晩餐《ばんさん》も味わえますわ。実は豚を一頭始末しましたの。夜までには焼きあがると思います。召しあがっていっていただけますか?」
「それはすてきだ。喜んで」
ナシアスも笑顔になって頷いた。
ベルミンスター公爵のテラスには多くの客人が思い思いの場所に腰を下ろし、おしゃべりを楽しんでいた。
女公爵はにこやかに多くの客人の話し相手をつとめていた。お客は十代から二十代にかけての貴婦人達である。凛々《りり》しい男装のロザモンドを取り囲み、楽しげに笑いさざめいている。
色とりどりの羽扇子《せんす》や豪奢《ごうしや》な服地、複雑な形に結い上げられた髪を飾る宝石類などをバルロは好ましげに眺め、この華やかな一団に近づいていった。
それまで笑顔で会話していたベルミンスター公はバルロの姿を見たとたんに微笑を消し、一緒にいた婦人たちのほうは一様に眼を輝かせたのである。
「まあ、サヴォア公爵様!」
「いらっしゃいませ、バルロ様」
当主のベルミンスター公は不意の来客に対して軽く会釈しただけですませたが、客人達はそれぞれの身分に応じた、総じて熱心な好意的な挨拶を口々にかけてよこした。
「今も、あなたの噂をしていたところなんですのよ。
あなたとシリル様のうわさ」
「いくらバルロ様でもシリル様を口説き落とすのは無理ではないかって、申し上げましたのよ」
「いいえ。お二人はきっと、この王宮が誇る、もっとも華やかなご夫婦になりますわ」
「でも、手練れのサヴォア公爵様もシリル様がお相手では勝手が違うのではありませんこと?」
「シリル様は本当に『男らしい』方ですもの」
ここにいる貴婦人達は皆、ベルミンスター公を男名前で呼ぶ。本人が望んでいることでもあるし、そのほうがふさわしいと皆思っている。
実際、光沢のある繻子《しゅす》や蜘蛛《くも》の糸のようなレースで着飾った婦人たちとロザモンドが同じ生き物であるとはとても思えなかったが、バルロは大いに心外だと眼を見張ってみせた。
「俺は自分の婚約者は誰よりも美しく、心の優しい人だと信じていますよ」
淑女達はこの言葉に上品な笑い声で答えたものの、軽やかな笑い声の中には意外の響きがあったことも事実である。
バルロも何食わぬ顔でしばらく世間話をした。
もっとも女性達の関心はこの二人の結婚が現実になるかどうかという点にある。しばらくしてベルミンスター公はきわめて丁重に礼儀正しくではあるが、客人達に引き取って欲しいと申し出た。
こんなに部外者がいたのでは話し合いもできないということなのだろう。
集まっていた婦人達は上流階級の人の常で、情事や結婚問題に関しては異常なまでに眼を輝かせる人たちだったが、それ以上に体裁を気にする人たちでもあった。二大公爵家に対する遠慮もあった。
花が動くような華麗さで立ち上がると、ベルミンスター邸を辞していったのである。
ご婦人方が帰っていくと、バルロは公爵家内の庭にロザモンドを誘った。
邸内では小間使いの耳目がある。自分たちの話をそんなものたちに聞かれたくなかったのだ。
「貴公と話をするのは一苦労だな。いつもああした綺麗なとりまきに囲まれていらっしゃる」
「楽しい方たちだが、私にとっては別段嬉しいことでもない。貴公はだらしなく鼻の下を伸ばしているのだろうがな」
「これは心外だ。俺がいつ鼻の下を伸ばした?」
「私の知る限り、常にだ」
にべもない言葉である。
バルロは半ば苦笑し、半ば驚いて尋ねた。
「もしかして、妬いているのか?」
女公爵は痛烈な舌打ちを洩らした。
「そんなばかげた台詞は他の女性に言えばよかろう。
私は貴公がどこで誰と何をしようと興味も関心もない。いい加減、私と結婚しようなどというばかげた考えは捨ててもらいたい」
「それはできん。俺は貴公と結婚したい」
一見したところ、誰もが美青年と言うに違いないロザモンドは明らかに苛立った様子で足を止めた。
頭半分ほど自分より背の高いバルロをまっすぐに見つめて、問いつめた。
「いったい『なぜ』だ? 理由を説明してもらおう。
ベルミンスターは確かに大家だ。しかし、私でなければならない理由は何もないはずだ。サヴォアに釣り合う家格の貴族なら他にもあるだろう」
「至って簡単な理由だ。愛した女なら大勢いるが、妻にしたいと思った女は貴公一人だからだ」
ロザモンドはぴくりとも表情を動かさなかった。
「いかにも貴公らしい戯言《ざれごと》だ」
「ひどいな。信用しないのか?」
「女たらしの求愛など信用できるものか。貴公のことだ。あの王妃にも似たような言葉を吐いているかもしれん」
手厳しい意見である。
だが、バルロはこの意見を笑って否定した。
「それは違うぞ。いいか。ベルミンスター公。俺は女が好きな男だ」
「そんなことは今さら言われぬでもわかっている。
私が承知しているだけでも、メレンティン男爵夫人、ホールデン公爵夫人、グレイス夫人、歌姫ユーロウ、ドブナー夫人、ジョヴァンニ卿の姉だか叔母だか、花街のジョイス、グラディス、他にも数え上げればきりがない」
「俺は別に愛した女性の数や手管を誇るつもりはないぞ。彼女たちは皆それぞれに実に魅力的だった。
彼女たちも俺に魅力を感じた。それだけだ」
バルロの恋の中には合意の上の遊びだったものもあれば、相手が本気でのぼせあがったものもあった。
もちろん公爵家という玉《たま》の輿《こし》を狙ったものもある。
いずれの場合もバルロはきれいに恋を清算し、別れたあとも誰からも恨まれていない。うち何人かとは今でも親しい友人としてつきあってすらいる。国王がひたすら感心するわけである。
「話を戻すが、俺は女性が好きな男だ。そしてな、人間、好きなものには自然と詳しくなる」
「貴公ならばそうだろうな」
「まじめな話だ。たとえばエンドーヴァー夫人は草花にたいへん詳しい。ロアの連中は馬のことなら何でも知っていると豪語する。うちのアスティンは古書にかけてはちょっとした見識家だ。好きこそものの上手なれと言うだろうが」
ベルミンスター公爵は呆れたような吐息をついた。
「苦しい弁明だな。単なる好色ではなく、その対象にどれだけ精通しているかと言いたいのか?」
「弁明なものか。事実だ。もちろん完全に理解できるなどとおこがましいことは言わん。男にとって女は永遠の謎とも言うからな。またそうでなくては楽しみも半減する。しかし、先にも言ったが、俺は女というものがどういうものか、多少は知っているつもりだ。その俺の経験から断言するが、あの王妃は女ではない。何か別のものだ」
女公爵の形のいい眉がちょっとつりあがる。
「 では何か?陛下は女ではないものと結婚をしたというのか」
「従兄上《あにうえ》は物好きという点においてはあらゆる好事家《こうずか》をしのぐ人だからな」
バルロは腕を組んでしみじみと言った。半ば以上、本心だった。
「しかし、俺は少なくとも結婚をするなられっきとした女がいい」
「それでは、私ではなく、他の誰かをお捜しになることだ」
言い捨てて屋敷のほうへ戻ろうとした公爵をバルロは体で遮《さえぎ》った。その顔には苛立ちと、かすかに憐憫《れんびん》のようなものが窺《うかが》える。
実際のところ、この鉄の貴婦人を口説き落とすための切り札をバルロは持っていた。
ただし、決して使ってはならない切り札なのだ。
あくまで別の手で勝負するつもりだった。使わずに済ませたかった。しかし、それでは埒《らち》があかない。
『禁じ手』であることは百も承知の上で、バルロは慎重に切り出したのである。
「お前はそうして一生、ステファンに義理立てしてすごすつもりなのか?」
公爵の顔色に特に変化はなかったが、印象的な眼の色にわずかに苛立ちが交じったようだった。
「貴公に言われる筋合いのことではない。甥はまだ四歳だぞ。私が守る義務がある」
死んだ公爵の息子は父親の名を付けられていた。
ステファン・ジュニアである。
バルロはそれでも引かなかった。
「伯母として幼い甥の面倒を見るのはかまわんさ。
だがな、ロザモンド。なぜお前がステファンの死に殉じなければならない?責めを負うのはあの女のはずだぞ」
公爵はきっとなってバルロを睨《にら》みつけた。
「いったい何のことを言っている?」
「言われなければわからないのなら言ってやろう。
お前の義理の妹だった女、ジュニアの母親にして、ステファンの妻だった女、そのステファンを殺した女のことだ」
今度こそロザモンドは血相を変え、凄まじい眼でバルロを睨み付けたのである。
「サヴォア公。その虚言、撤回してもらおう!」
「真実をなぜ撤回しなければならない?」
問題をはっきりさせるためにバルロはさらにたたみかけた。
「ジュニアが大きくなって両親の死の真相を尋ねたら、どう答えるつもりだ? 自分に嫉妬した母上が用意した毒杯を父上が誤って呑んだ。だから自分は責任を感じて今日まで公爵家を守っていた。その通りのことが言えるか? いいか、ロザモンド、ステファンは確かにお前を愛していた。おそらくはただ一人の女性として愛していた。だがそれは罪のない憧れだったとも言えるのだ。それを見当違いの嫉妬に狂ってお前を殺そうとまで計ったあの馬鹿な女こそ墓の中から引きずり出してでも罪を償わせ、罰してやるべきだ。毒を仕込んだ杯を誤って呷《あお》ったステファンは気の毒だと思うが、なぜ、お前が責任を感じなければならない? 本当ならお前が殺されていたのだぞ」
ベルミンスター公爵は大きく喘いでいた。さっきまで怒りに紅潮していた顔は蒼白に転じている。
その表情が受けた衝撃の大きさを物語っていた。
「……どうして……知って……」
「俺がもう一つ、あの女を許せないのがそこだ。亡き当主の忘れ形見を、公爵家の立派な世継ぎを産んで妻としてのつとめを果たしたのなら、犯した罪も墓の中まで持っていけばいいものを、懺悔《ざんげ》をしたいとか罪滅ぼしとか言い訳をつけて洗いざらいお前に喋った。聞いたお前がどれほど衝撃を受けるかはまるでおかまいなしにだ。本人はそれで安らかにあの世へ行ったのかもしれんが、どこまでも愚劣な、汚いやり方だ。悪意の固まりだぞ。それを最後の良心だと善意に解釈しているお前も相当の愚か者だが……誰が見てもすべての罪はあの女、お前の弟の妻だった女にある。間違ってもお前にではない」
「……どうして、いつから知っていた!?」
「愚問だな。俺にもそれなりに情報の手蔓がある。
ましてあんな大事件だ。ベルミンスターの災難なら当時の俺には他人事ではない」
最初は暗殺の疑いもあったのだ。ベルミンスター家には政敵と言うほどの敵はいなかったはずだが、所領も身代も相当なものだ。いつどこでどんな恨みを買っているかわからない。
「あの若妻はステファンの死と同時にほとんど錯乱状態に陥って床に伏した。その状態のまま半年後に男子を出産して死んだ。本人の希望で臨終にはお前だけが立ち会った。ところがそれからというものはお前のぼうが半分死んだような、この世の不幸を一身に負ったような有様ときている。あの若妻は夫を深く愛していたが、その愛は本人の激情的な性格も災いして、異常な情熱と独占欲に支配された偏《かたよ》ったものだった。それに俺はステファンがお前を愛していたことを知っていた。誰に聞かなくてもな。となれば答えは自ずと明らかだ」
「どうしてそんなことが……ステファンの気持ちがわかったというのだ!?」
「男なら誰だってわかっただろうさ。老ベルミンスター公がお前の結婚について話したときのステファンの顔。ほっと安堵しているような、それでいて絶望的な狂おしさ。――そのときはわからなかった。
俺も幼かったからな。ステファンは姉をとても慕っているらしい。姉の結婚はあまり嬉しくないらしいなと、そのくらいにしか思わなかった。その後……、いつだったか騎士団出動のおりに、ベルミンスター家に立ち寄ったことがあったな。俺もステファンも十八、お前は十九か二十歳、その時ステファンには縁談が進められていた。老ベルミンスター公はご機嫌でカーストン公爵令嬢のことを話していた。後にその女に息子を殺されるとは夢にも思わずにな。ステファンは俺と違って父親に逆らったりするような息子ではなかったから、愛想よく相鎚を打っていた。
光栄ですとかなんとかな。ーしかし、その合間にほんの一瞬お前を見た眼、それで充分だった。本人は懸命に隠しているつもりでも見紛いようがない。
恋をしている者の眼だ」
血の気の引いた唇を震わせてロザモンドは叫んだ。
「……どうしてその時私に教えてくれなかった!そうすればあんなことになるのを防げたかもしれないのに!」
「俺はそうは思わん。あの女は夫の心が自分以外の誰かに向けられているのがもう許せなかったのだ。
第一、教えてなんになる? 血のつながった姉と弟ではないか。それに、そのときには俺とお前の縁談も調いつつあった。対象であるお前が結婚すれば、当人もまだ若く、妻も娶《めと》ったのだ。いやでも思い切れるだろうと思っていた。陳腐な言い回しだが、時間がすべてを解決してくれるはずだったのだ。あの若妻さえ馬鹿な真似をしなければな」
大きく喘いでいたロザモンドは整った顔に壮絶な怒気を浮かべ、腰の剣に手をかけた。
「サヴォア公爵ノラ・バルロ。それなら貴公は弟を見殺しにしたことになる!!」
今にも剣を抜き放とうとする婚約者を前にしてもバルロは微動だにしなかった。
むしろ静かな眼で相手を見つめ返した。
「俺を恨むことで気が晴れるのか?」
「……」
「それで気が済むのならいくらでも恨まれ役を引き受けるぞ」
剣の柄《つか》に手を掛けたまま、ロザモンドは男の顔をじっと見つめていた。その胸が大きく上下していた。
「……私だってあの子を愛していた」
「知っている。弟としてな。ステファンは違った。
ただし、その気持ちをお前に知られることは決して望んでいなかった」
剣の柄に手を掛けたまま、ベルミンスター公は長いこと動かなかった。
バルロも黒い瞳に深い色を湛《たた》えたまま、みじろぎもせずにいた。
二人の姿を夕日が照らそうとしていた。
その頃、シャーミアンとイヴンは互いに木太刀を構えて対峙していた。
ドラ将軍邸の中庭である。
武勇を謳われる人だけあって将軍家の庭には剣の試合や騎馬試合が行える場所が設けられている。
シャーミアンは汗だくになり、肩で大きく息をしていた。イヴンはそれほどではないが、やはり汗をかいていた。
今まで十本ほど立ち会ったが、すべてイヴンの勝ちに終わっている。シャーミアンは最初から全身に闘志をみなぎらせ、裂帛《れっぱく》の気合い声を発して襲いかかった。それでも一度もイヴンの体に打ち込めないでいる。
逆にイヴンは巧みに木太刀をつかって、シャーミアンの手から木刀を絡み取り、あるいは小手を打ち据えて叩き落とした。できるだけ胸や胴は打たないように気をつけた。立ち会いに勝つことよりもそのほうが難しかった。
軽く首を傾げて尋ねる。
「まだやりますか?」
するとシャーミアンは構えを解いて首を振った。
「いいえ。これで充分です。――ありがとうございました」
イヴンに向かって深々と一礼する。そうして顔を上げたときには晴れ晴れとした笑顔になっていた。
「よかった……」
「何がです?」
「あなたは決して私に斬られたりするような方ではない。それがよくわかりました。バルロ様は少なくともとおっしゃいましたが、とんでもない。私より一段も二段も上でいらっしゃいます」
シャーミアンは本当に嬉しそうだった。
彼女も優れた剣士だ。ようやく、あれは何かの間違いだと、自分が真剣に斬りかかったとしてもあんなことにはなるはずがないと納得できたのだろう。
こうした心からの賛美の言葉はイヴンにとっても心地よいものだった。
あいまいに笑っていると、シャーミアンは汗を拭うための水場に案内しながら明るく言った。
「今夜はぜひともうちで晩餐《ばんさん》を召しあがってください。父も喜びますわ」
これにはイヴンが、うっと詰まった。
あのドラ将軍が食卓についていることを考えると、おいしい晩餐どころではない。
閻魔《えんま》大王と会食するようなものだ。食べ物も飲み物も喉を通らないような気がする。
「どうかなさいました?」
シャーミアンが至って無邪気に、またいくらか心配そうに、イヴンの顔を覗き込んだ。
「何かお嫌いなものがあるのでしたら、あらかじめおっしゃってください。調理番に話しますから」
「いいや、とんでもない。喜んでご相伴に与りましょう」
さながら敵陣へ攻め込むくらいの決意をもって、ランバーの英雄は果敢に言ってのけた。
10
ベノアのジルが王宮を訪ねてきたのは七月の初旬、本格的な夏の到来の季節だった。
ジルは無論、仲間であるイヴンがほんの半月前に危うく腕を落とすような大怪我をしたとは知らない。
イヴンも語らなかった。シャーミアンも不完全ながら納得し、あの一件は完全になかったことで片が付いた。
もちろん、シェラはイヴンに対して神妙に謝罪し、礼も言った。こういうことが原因で人に謝ったことなどないのでかなり戸惑ったが、跡形もなく消えたとはいえ、この男の負傷は自分のせいだとしか思えなかったからである。
ぎこちなく頭を下げるシェラに対して、イヴンは煩わしげに手を振った。あれはみんな自分の失態だから気にするなと言い返した。
「俺はそこまでお人好しじゃない。嘘みたいな話だがな。本当に忘れてたんだ」
そうして革でつくられた籠手《こて》を左手につけた。肘まである丈夫な長手袋のようなものだ。
「ちょっとあの妙な刃物で斬りかかってみろよ」
シェラがつかっている小太刀のことである。もちろん慌てて辞退した。
その後、タウの男達がふざけて腕試しをしていたとき、イヴンが飛び入り参加して仲間の真剣を左腕でまともに受け止めるのを見た。
思わず肝を冷やしたが、どちらも平然としている。
タウ製の籠手は優れものだというイヴンの言葉は正しかったらしい。ただし、誰でも同じ真似ができるわけではないらしい。
ツールのプランがしみじみ感心した様子で、「副頭目はまあ、細っこいくせに鋼みたいな頑丈な体をしていやがる」
というのを聞いた。
純情な娘を装って、あんなことをしたのでは危なくないですか、と訊いてみると、「それはね。自分と相手との力量をよく見ることだ。
副頭目も相当な肝っ玉の持ち主だが、相手が王様やあの王妃様だったら、まあ同じことはやらないだろうね。どんなに丈夫な籠手でもあの人達ならまっぷたつにしちまうよ。その代わり近衛兵あたりが木刀で殴りかかったって、折れるのはあの人の腕じゃなくて木刀のほうだ」
なるほどと思った。
つまり、シャーミアンの剣先なら、あれで充分防げると思ったわけだ。その判断は正しいとシェラも思う。
それにしてもだ、ついこの間、ざっくり斬られたばかりの腕でよく同じことができる。
感心すると同時に少しばかり怖くなった。
「……その防護を忘れたのは確かにあの人の失敗でしょうけれど、何となく、寒気がしました」
すると、王妃は真顔でこう反論した。
「別に不思議でも何でもない。イヴンはウォルの幼なじみで一番の友達なんだぞ」
「それはよく存じ上げておりますが……?」
「幼なじみはたまたま家が近所だったからですむけどな。今でもあの馬鹿の親友なんだ。そのくらいの神経の持ち主でなけりゃやってられるもんか」
給仕の手を止めて、しばらく立ちつくしたシェラだった。
以前から思っていたことだが、この人はその『馬鹿』が自分の夫だということを故意に忘れているとしか思えない。
イヴンの傷を治したあの翌朝、王妃は遅くまで寝床から出てこなかった。
あの力がどんな種類のものであるにせよ、この人が相当消耗したことは明らかだった。いつもあり余るほど活力に満ちている人が精彩を欠き、いつもなら三人分は一人で平らげるくせにろくに食べない。
シェラのほうが蒼くなった。自分は前の晩、少し脱力したくらいで今はなんともない。
王妃が絶対不機嫌になるとわかっていなかったら、急いで侍医を呼んでいただろう。
もっとも王妃はだるそうに長椅子に伸びながらも、わりと平静だった。そうして前の晩に言ったのと同じ言葉を繰り返した。
「無茶をしすぎた。少し休めば治る」
である。
夕刻には起きあがってシャーミアンのところに顔を出しに行った。もちろんシェラもつきあった。
普段ならともかく、今のこの人を一人にはしておけない。
ところが行ってみると(二人とも門番を通さずに勝手に入り込んだ)そこではイヴンとシャーミアンが木剣で試合をしている最中だった。
場所が伯爵邸ということはシャーミアンのほうから申し出たものに決まっている。どうやらこのまま放っておいても大丈夫そうだと王妃は思った。シェラを促して黙って引き返した。
そうして今度は一の郭《かく》のベルミンスター邸を訪問した。他意はない。当主の女公爵はなかなか律儀な人で、型破りの王妃に対しても親切に接してくれ、一度屋敷にもお立ち寄りくださいと言っていたのを思い出したのだ。
表面だけは取り繕っていても、身分の高い人々の間で王妃の評判が決して芳しいものではないことを考えると、ベルミンスター公爵はなかなか奇特な人でもあった。
もう夕暮れが近くなっていたし、簡単に挨拶だけ済ませるつもりで出向いてみたのである。
玄関横の小部屋にシェラを待たせて、王妃が庭に回ってみると、薔薇の咲き誇る華麗な庭園で公爵とバルロが奇妙な様子で立ち尽くしていた。
王妃の姿に気づいて、はっと振り返る。
どうやらまずいところに来合わせたらしい。すぐさま引き返そうとしたのだが、さすがはティレドン騎士団長である。すぐに陽気な表情をつくった。
「これは王妃。ちょうどよかった。こちらの公爵はあなたが尋常ならざる怪力の持ち主であることをどうしても納得してくれんのだ。見た目があんまり華奢《きゃしゃ》で細すぎると言ってな」
公爵もすぐにこの軽口に乗じた。
「サヴォア公のお話はいくらか割り引いて聞かなければならない場合が多いからな。もちろん妃殿下の剣術は妃将軍と謳われるほどのものですから、私もよく承知しておりますが、片手でこの公爵を持ち上げるというのはいくら何でも誇張が過ぎます」
「よし。誇張かどうか見せてくれよう」
バルロはその圧倒的な体躯で、ずい、と、王妃に覆い被さるように進み出たのである。
控え室で借りてきた猫のように行儀よく待っていたシェラは、急に聞こえた大声に飛び上がった。
悲鳴というほどではないが、複数の驚愕《きょうがく》の声だ。
うち一つは間違いなく王妃のものである。
侍女として不自然でない程度の素早さで庭に駆けつけたシェラは、その場の光景に絶句した。
ティレドン騎士団長が地面に腹這いになり、片手で体を支えている。唖然とした表情だった。
その巨体の下に『押し倒されて』いる王妃は実にげんなりした顔だった。
「……本格的に調子が悪いな」
ぼやいた王妃はバルロの大きな体を押して、上体を起こした。となれば自然の動作として、バルロの体を自分の上からどかさなければ立ち上がれないはずだが、王妃は相手の体に手を回し、座った自分の肩の上に男の胴体をのしかからせると、その状態のまま、よいしょ、と、立ち上がったのである。
そうして眼を白黒させているベルミンスター公に向かって申し訳なさそうに言った。
「悪いね。今ちょっと調子が出なくて……、いつもなら片手で持てるんだけど、今日は無理みたいだ」
肩の上に人一人、それも並外れた巨躯の持ち主を乗せたまま、平然と言う。それから折れそうな細い腕で丸太のように太い男の胴体をつかまえて、一度完全に宙に浮かせる形で地面に降ろした。
ベルミンスター公爵はもちろん驚愕の表情を顔に張り付けたまま絶句している。
おとなしくただの荷物をやっていたバルロは半ば呆れ、半ば心配そうに言った。
「これで本調子でないとは悪い冗談のような話だが、俺がちょっとのしかかったくらいであっさり倒れるとは、確かにいつもの王妃らしくないな」
「油断してたんだ。うわ……泥だらけ」
二人が倒れたところがあいにくぬかるんでいたらしい。王妃の背中や足はべったり汚れている。
ここでベルミンスター公は我に返り、屋敷の湯殿を使ってくれるように申し出た。王妃をこんな姿で帰したのでは公爵家の名折れになる。
横で聞いていたバルロがつまらなそうに言った。
「俺もひどく汚れたのだが、風呂は貸してもらえんのか」
「貴公の屋敷は目と鼻の先だ」
簡潔明瞭なお言葉である。
ベルミンスター公はさらに丁重に、よろしかったら今夜はここにお泊まりくださいと申し出た。
公爵ほどの身分のある人なら王妃に対してこんな申し出をしても無礼にはならない。
王妃も快く受けて、シェラを先に帰した。
本当は身の回りの世話をするためにも王妃付きの召使いが側にいたほうがいいのだが、昨日のこともある。
この少年は相当に巧妙な変装者だが、よけいな危険は冒さないほうが得策である。シェラもそんな王妃の意をくんで、黙って引き上げていった。
体を洗って食堂に座った王妃は公爵邸の料理番が仰天するような量を一人で平らげた。
公爵も機知に富んだ会話で王妃をもてなしたが、うわべだけだ。
心ここにあらずといった様子である。
女公爵の態度が無理につくったものらしいということには気づかないふりを貫き通して、王妃は愛想良く会話に応じ、料理と屋敷を誉《ほ》めた。
「団長には言えないけど、ノラってやっぱり女の子の名前なんだ?」
「おや、ご存じない? サヴォア公爵家は代々そうですよ。直系の男子には必ず一つ女子の名を付けることになっているのです」
王妃は眼を丸くした。
「代々の公爵みんな?」
「はい。先代サヴォア公はヘザー・クロイドン、弟のマグダネル卿はエディス・マグダネル。現公爵がノラ・バルロです」
「へええ……」
王妃は感心して稔った。
ヘザーとエディスではちょっとした美人姉妹だ。
「だけどなんでまた?」
「災厄を避けるためのようです。いつ頃のことかは知りませんが、直系の男子が皆早世してしまう不幸が続いたことがあり、なんとか無事に成人して欲しいと願った親が女子の名を付けて女子として育てたところ無事に成人したという、その先例に基づいているようです。我々のような貴族にとって跡継ぎを失う恐れは拭えないものですから。さすがに女子として育てることは今ではやめていますが、女子の名を付ける習慣は残っているようです」
「じゃあ、ロザモンドとバルロが結婚して男の子が生まれたら……」
「そうなのですよ。それも困ります。自分の息子にダイアナだのジュリアだの、妙になやましい名前を付けるのはぞっとしませんでしょう」
「そこまで露骨な名前はつけないと思うけどなあ」
明るい様子の王妃にベルミンスター公のうつろな顔にも微笑が浮かぶ。
やろうと思えば王妃はなかなか楽しい話し相手になれるのである。
そのせいだろうか、食事が終わったらさっさと退散するつもりでいた王妃に、ベルミンスター公は、「よろしかったら軽いお酒でも……」
と、言い出した。
しかし、さすがに相手が相手である。はっとした。
「失礼しました。妃殿下を酒席に誘ったりなどして、自分がこんな形をしているものですから……」
「おれでいいなら喜んでつきあうけど、軽いお酒っていうのは気に入らないな」
「お気に召さない?」
「ああ。もっとしっかりしたのがいい」
そこで、王妃と公爵は女だけの(?)酒盛りに興じたが、王妃の呑みっぷりに公爵は驚いたらしい。
かなり強い酒を用意させても、きれいに空けてしまう。公爵自身は果実酒をゆっくり傾けていた。
「妃殿下がこれほどの酒豪とは思いませんでした。
酒蔵から一番強い酒を運ばせたのですが……」
まだまだ、と首を振った王妃である。
「強いのだったらシッサスの火酒に限るよ。あまり上品な酒じゃないけどな」
「あのようなところに出入りしていらっしゃる?」
「ロザモンドはやめといたほうがいいな。品がよすぎるから。あっという間にむしられるよ。たまに世間知らずの若いのなんかが迷い込んでくると一晩たたずに丸裸にされるようなところだから」
ベルミンスター公の唇に微笑が浮かんだ。
「あなたは不思議な人だ」
どうやら少し酔ったらしい。ほんのりと紅潮した頬の公爵は王妃を見つめながら言った。
「今おいくつでいらっしゃいます? 確か、十六か七でしょう?」
「この間、十七になった」
「まるで私よりずっと年上でいらっしゃるような気がします」
「それは単におれが傍若無人の無礼者で、おまけに王妃という肩書きまでついてるから、そんな気がするだけだ」
ロザモンドは声を立てて笑った。
「でしたら私は傍若無人がたいへん気に入りました。
おおいに結構です」
王妃はほんのりと血の色がのぼったロザモンドの顔を眺めて残念そうに言った。
「男装するにしてもせめて髪は伸ばせばいいのに。
結い上げたらきっときれいだと思う」
ロザモンドはちょっと笑い返した。
「以前、サヴォア公にも同じことを言われました。
どう見ても女装の男だが、髪でも結えば多少は女に見えるだろう、と」
あの公爵にしてはずいぶんな失言である。
いったいいつの話だと訊くと、ロザモンドは思い出し笑いを浮かべた。
「無理もないのです。公爵どの十三歳のみぎりでしたから。当時はまだグラスメア卿でいらした」
それからロザモンドは淡々と昔話を始めた。
サヴォア家とベルミンスター家は互いの領地が離れているため、日頃の行き来はほとんどなかった。
ただ、両家とも冬になると南部の別荘で過ごす習慣で、この別荘は目と鼻の先の近所にあったという。
つまり、子ども時代のバルロとロザモンドは毎年必ず顔を合わせる関係にあったわけだ。
「ベルミンスター家は女傑の歴史のある家でしてね。
私は父の初めての子で、これがまた遅くにできた子だったものですから、父は私にシリルという名を付けて、剣や馬などの武術を教えてくれました。でも、それから二年後にはステファンが生まれて、私が十四の時にはそのステファンを正式な跡取りにすることができたので、父は急に私の行く末が心配になったらしいのです」
「今度は女らしくしろって?」
「まあ、そういうことです。ですが、人間には向き不向きがありますよ」
「それ以前にずいぶん勝手な話だな」
不機嫌に言った王妃に公爵はちょっと笑った。
「そう思われますか?」
「死んだお父さんはそんなつもりじゃなかったのかもしれないけど、ようは自分の思うように教育できる男の子が授からなかったもんだからロザモンドで間に合わせていた。でも、ステファンという本物の跡取りができたら、代用品にはもう用はなくなった。
そういうことじゃないのか」
女公爵は苦笑して首を傾げた。
「そうかもしれませんが、そこまで断言されると亡き父が気の毒になります。いくら武勇を尊ぶ家柄だとしても私の武道好きは少しばかり度が過ぎると父は感じたのでしょう。髪も今のように短くて、いつも少年の服装をして外を飛び回ってばかりいましたから。家にじっとして刺繍《ししゆう》やお作法を学ぶのはどう考えても性に合いませんでしたし、弟に馬や剣を教えるほうがずっと楽しかったのです。――その年の冬は何か事情があって別荘へは行かずに、翌年、二年ぶりに今のサヴォア公と再会しました」
「その時にはドレスを着てたんだ?」
「ええ。父の懇願《こんがん》に屈したというよりも――公式な場に出るならやはりドレスを着用しなければなりません。少しは慣らしておこうと思って……」
「もしかして、団長に見せたかったとか?」
揶揄《やゆ》するでも推理でもない、ごく自然な口調で王妃は言った。
ロザモンドは酒杯を片手に楽しそうな表情である。
「そうだと思います。今思えば見苦しいくらい自分自身にいいわけをしていましたから。もう十五にもなるのだし、いつかは着なければならないのだから、父をなだめるためにも一度くらいは袖を通す必要があるのだとか……。結局はそれまでの遊び友達の反応が気がかりだったのでしょうね。でも、結果は芳しくありませんでした」
「髪でも結えば女に見えるって?」
「正確にはもっと痛烈な言葉でした。『髪くらい結えばいいのに。その格好でシリルと名乗ったんじゃまるで花街の男娼だぞ』と……」
王妃は危うくのみかけの酒を吹き出すところだった。
「そりゃあひどい」
しかし、ロザモンドは怒っているわけではないらしい。青と灰色の入り交じったような印象的な眼に微笑を浮かべている。
「そのときはあんまり腹が立ったので何も言い返せませんでしたが、グラスメア卿はなかなか律儀な少年でしてね。後になって、仏頂面で謝りに来ました。
『その格好、似合わないとは言ってない』……いったい私にどうしろというのかと思いましたよ」
「それは……言葉通りじゃないのかな?今まで男の子みたいだったロザモンドが急にドレスを着て現れたからびっくりした。でも気に入らなかったわけじゃない。それだけじゃないのかな?」
この時、女公爵は豪華な長椅子にその長身を沈め、優雅に足を組んでいた。王妃の前で大胆な態度だが、それだけくつろいでいるらしい。
湯浴みした王妃は公爵のチュニックを借りて帯を締めただけの姿だ。おまけに素足である。
貴婦人から見れば裸同然の格好で、平気で酒杯を傾けている。そんな王妃を公爵は楽しげに眺めて、含み笑いを洩らした。
「おかしな人だ。およそ人が望むものは何でも持っていらっしゃるのに……。輝くような若さも、美しさも、王妃の称号も、男達に尊敬されるだけの力も。
なのに他人のこんな他愛ない昔話を真に受けて、本気で案じてくださる」
「今の話、嘘なのか?」
「いいえ。掛け値なしに本当のことです」
「おれが羨《うらや》ましいのか?」
この恐ろしく直接的な質問に、公爵は首を傾げた。
「わかりません。いえ……そうかもしれません。王妃の称号に関しては欲しいと思ったことなど一度もありません。あなた以上にその称号にふさわしい方がいるとも思えません。ただ、あなたの強さは羨ましく思います」
「だけど、ロザモンド。おれは団長を持ち上げることも剣術で打ち負かすこともできるけど、自分から謝りに来させることなんか絶対できない。そういう意味で団長を動かすことはおれにはできないんだ」
「……」
「ロザモンドにはそれができる。自分でもわかってるんだろう? それでもおれのほうが強いのか?」
ベルミンスター公爵は酒杯を置いて顔を覆い、片手を挙げてみせた。
「降参しましょう。あなたは、まったく……、あのサヴォア公が一目置くだけのことはある方だ」
王妃は何も言わなかった。
わかっているのならどうしてバルロの求婚を受けないのかと言いたかったのだが、それは自分が口出しすることではない。
ゆっくりと呑んでいる公爵は弟が小さかった頃の話を始め、王妃は黙って酒の相手をつとめた。
それからしばらくしてシャーミアンがイヴンに背中を押されるようにして西離宮にやってきた。
王妃に合わせる顔がないということもあり、何よりどんな顔をしてシェラに会ったらいいのかわからなかったのだろう。イヴンがそれをどうにかなだめすかしたらしい。
離宮の入り口でシャーミアンに会ったとき、シェラもとっさに言葉が出なかった。
シャーミアンも実に複雑な顔でシェラを見つめていた。
硬い顔で立ちつくしてしまった二人を交互に見比べて、イヴンがおもしろそうに言った。
「お見合いでもしてらっしゃるんですか?」
これで気がほぐれたのか、シャーミアンは大きく息を吐いて言った。
「この間はごめんなさい。私ったら本当に全然気がつかないで……」
「いいえ。私のほうこそ……」
またお見合いになりかける。
王妃とイヴンが二人の間に入って場を取り持ち、みんなでお茶を楽しんだ。
その合間もシャーミアンは給仕に忙しく働くシェラをつくづく感心したように眺めていた。
こうして見ていても少年とはとても信じられない。
姿形の美しさばかりではない。立ち居振る舞いに至るまで娘そのものだ。
自分が騎士の装束に身を包み、腰に剣を差しているものだからなおさらである。
「なんだか、シェラと私は男女があべこべのようですわね」
これにはイヴンが笑いながら反論した。
「冗談じゃない。それならここにいらっしゃる妃殿下はどうなります?もっとも、こちらはもともと女のうちに勘定されるような人じゃないが……」
「当たり前だ」
王妃は力を込めて断言した。
「そんな心配しなくたってシャーミアンはちゃんと女らしいよ」
「もう一人、女性と判断するのが難しい方がいらっしゃいましたが……、どうなりましたかね?」
「ロザモンド様なら、なぜでしょうね。このごろは少し感じがやわらかくなりましたわ。バルロ様ともなごやかにお話をされているようです」
王妃とイヴンは何とも言いがたい顔で互いの眼と眼を見交わし、イヴンが恐る恐る尋ねた。
「つかぬ事を訊きますが……、それは本当に『なごやか』なんですか?」
これにはシャーミアンも困ったような顔になって、「そのう……、つまり以前に比べればいくらか、なごやか、でしたと思います」
王妃はこの言葉に微笑を浮かべた。
「よかった。それなら近いうちに求婚を受けてくれるかもしれないな」
「妃殿下。妃殿下は何だっていつもあの騎士団長の肩を持つんです?あんな女たらしに束縛される女公爵が気の毒じゃないですか」
「だってなあ。ロザモンドはバルロが好きなんだし、バルロはロザモンドが好きなんだ。結婚しないほうがおかしいだろ?」
「すてきですわ。妃殿下。その通りです。お二人はきっとお似合いのご夫婦になりますわ」
「愛情と献身よりも皮肉と毒舌で結びつくご夫婦に、ですな」
「まあ……」
シャーミアンは眼を丸くし、王妃は笑い出した。
こうしてしばらくは平和な時間が過ぎた。
ナシアスは相変わらずまめにエンドーヴァー夫人宅を訪問し、いい茶飲み友達になっているらしい。
時々夫人を名前で呼んで、これは騎士らしくない態度だと思うのか急いで言い直すものだから、恋愛問題にかけては一枚も二枚も上手の年下の友人に、ラティーナ・ジャンペールというのもいい名前ではないか、と、からかわれている。
女官長は本格的に国王の愛妾候補の選定に入った。
その参考意見として他でもないエンドーヴァー夫人とイヴンに国王の女性の好みを尋ねたものだから、(むろん別々の面談だった)二人とも困ったらしい。
「どうして私が陛下の気を引くことができたのかと言われましても……どうしてでしょう?」
夫人は正直に答え、子どもの頃からのつきあいのあるイヴンは思わず捻って首を傾げた。
「どんな女が好みなのかって言われてもねえ……?別に黒髪でなきゃだめとか、大柄なのでなきゃだめとか決まってるわけじゃなかったですからねえ」
女官長はすかさず身を乗り出した。
「それらの、つまり、陛下が以前ご興味を引かれた婦人方のことをそっくり話してくださいませ。年頃も顔立ちも気性もです。参考にいたします」
「ええ!? ちょっとそいつあ……まずいですよ」
「イヴンどの! お世継ぎがなくば王家の一大事になるのです! そのことをよくよく呑み込んだ上でお答えください」
「いや、それは重々わかってますが……」
と、這々《ほうほう》の体《てい》で逃げ出してきたらしい。
もっとも当の国王は愛妾問題どころではない。
両大国の動きに眼を光らせつつ、国内の内通者の割り出しに全力を注いでいた。
パラストはやはりテバ河越しの領土を狙っているらしい。以前、被害を訴えてきた西北部の領主達のもとをパラストの家来がしばしば訪ねていることがわかった。
タウの東がウォル・グリークの臣下になったように、彼らがこっそりとオーロンに忠節を誓っているとしたら大問題である。
そうするうちに建設中のカムセン砦《とりで》からも報告が入った。新たに設けられた国境線の外に頻繁にタンガ兵の姿を見る。国境を見回り、備えを固めることは武将の常識だが、まるでこちらを見張っているようでもある。今のところ、すぐ背後にクリサンス騎士団という備えがあるので大事には至っていないが、穏やかでない気配であると述べている。
「ここが思案のしどころだな……」
戦うにしてもこの両大国を一度に相手にはできない。どちらか一方を相手にしている間、もう一方を抑えていてくれる拠点がいる。
ウォル自身は裏切りの誘いという手段を用いたことはない。従って相手の内紛は期待できない。
中央各地に散らばる公国の中にはデルフィニアに好意的な国家ももちろんあるが、力不足だ。
こんな時、国王の思案はいつもタウに向いた。
見捨てられた土地の住民と思っている分だけ、両国も深く警戒はしていない。だが、国王の見るところ、あれはなかなかの勢力だ。せめて足止めの役を務めてくれればずっとやりやすくなる。
しかし、彼らはデルフィニアの臣下になったとはいえ、そこまで身を砕《くだ》いてくれるだろうか。
イヴンは言った。搾取《さくしゅ》されることも支配されることも断固として拒む気風だと。
彼らの労働を当てにする代わりに国王が与えられるものは、他から侵されない自由の保証でしかない。
これがはなはだ当てにならない保証であることは乱世の常識である。
とりあえずカムセンの警備を増強し、西北部の領主達には王宮へ伺候するように通達した。これで出てこないようなら、いよいよ籠絡されているとみなければならない。
ジルがタウから出てきたのは国王がこんな事象に頭を悩ませているときだった。頭目達の間で協議をした結果、自分が名目上だけでもタウの代表として参りましたと淡々と述べた。
国王は喜んで有力貴族並のもてなしをした。
ウォル・グリークはゾラタスほど極端な現実主義者ではないが、役に立つ者なら身分に拘《かかわ》らずに登用し、重んずる。
これに不満を持つ者がかつての、そして自分では当然だと思っている権利を取り戻すために、領地を保証してくれる敵と内通するわけだ。わかりやすい図式である。
国王とジルはわずかな立会人の下《もと》に臣下と君主の誓いを済ませた。ただし、タウの自治は尊重すると国王は自発的に付け加え、領主の証《あかし》として太刀一振りを与えた。
その夜、国王は個人的にジルを酒席に招いた。
タウについてもう少し詳しく聞きたかったのだ。
他国が認めるかどうかは別として、今やタウの東は名実ともにデルフィニアの領土である。
だからといってすぐに働いてくれというのではない。まずはどのくらいの住民がいて、どのくらいの生産力があるのかを聞いておきたかった。
国王がその領地の住民数や生産高を把握するのは別に特別なことでも何でもない。なのにこれを訊くと、それまで機嫌よく呑んでいたジルは杯を置いて、かたちを改めたのである。
「その前にお人払いを願います」
おかしなことを言うと思いながらも、国王は言われたとおりにした。もともとこの場にいたのは小姓だけである。
実はこの席にはイヴンも誘ったのだ。ジルを交えて三人でゆっくり呑むつもりだったのだが、なぜか遠慮すると言って、西離宮に引き上げている。
小姓たちが席を外し、国王と二人きりになってもジルはすぐには口を開かなかった。いつも魅惑的な微笑を浮かべている口元にも笑みがない。
「念のため確認いたしますが、陛下は真実、タウの施政はタウに任せてくださいますか」
「嘘だったらこの首をやろう。あの土地はタウの自由民のものだと、俺は王の名において認めた。他国がどう判断するかはいざ知らず、デルフィニア内でこの約束が破られることは決してない」
「パラストが昔の書類を持ち出して、自分たちに所有権があると主張してくるかもしれません」
「西峰に関してはまだデルフィニア領ではないので何とも言えんが、そうなれば貴殿らは仲間を救うために戦うのだろう。その結果、俺に救援を求めてきた場合にはもちろん、力を貸そう」
「それがきっかけになってパラストと戦《いくさ》になるかもしれないとしてもですか」
「どちらに理があるかはまた別の話だ。臣下の誓いを行ったものの請いを聞き流しにはできん」
ジルはしばらく国王の顔を見つめていたが、形のいい口元にあの魅惑的な微笑を浮かべた。
「では、陛下にタウの秘密をお話ししましょう」
「秘密?」
「そうです。部外者にお話しするのは陛下が初めてです。二十ある村の頭目達の間で代々守られてきた秘密ですが、陛下は我々を庇護してくださるとおっしゃる。話さないわけにはいきますまい」
大仰な前置きである。何事かと思っていると、ジルはあっさり言った。
「銀が採れます」
国王は一瞬何を聞いたのかわからなかった。
思わず眼で問い返すと、ジルはあらかじめ用意の地図を差し出した。東峰一帯の主立った鉱脈の場所と予想産出量が克明に示されている。
地図を見つめる国王の顔色は次第に真剣なものになっていき、しまいには低く唸《うな》った。
あくまで予想だが、その産出量たるや驚くべき数字だった。他の二国を相手に楽に数年戦争できる。
国王の厳しい視線を真っ向から受けてタウ屈指の名頭目は頷いてみせた。
「我々が単なる山賊で終わらず、ある程度整った組織をつくることができたのも一つにはその銀の力があります。しかし、我々の先祖が最初にタウに逃げ込んでから実に二百年、我々の望みは財宝ではなく、常に自由と独立でした」
タウの歴史の間にはその取り扱いに対する議論が浮上した時期もあった。これだけの資金を眠らせておくことはない。いっそのこと自分たちだけの独立国家を築くべきだという意見が出された時もあったが、先人達はあえてそうはしなかった。
「危険すぎると判断したのです。確かにこの資源は膨大なものですが、いかんせん人力が追いつかない。
大華三国に本気になって攻め込まれたら――銀だけが欲しいのなら大国は山を丸ごと焼いてしまうこともできるのです。勝負は目に見えていました。我々を単なる山賊と思えばこそ、大国は我々を歯牙にもかけずにきたのです。多少はうるさく思っていたでしょうが、それも頭の上で時々動きまわる蝿《はえ》程度です。しかし、このことが公になればどんなことになるか、火を見るよりも明らかでした。タウがいかに天然の要害であろうと銀に眼の眩んだ大国はどっとタウに押し寄せてくるでしょう。我々の自由も独立もそれまでです」
銀山の場所は極秘にされた。頭目を含む一部の人だけがその場所を知り、代々伝えてきた。
その彼らにしてもこの財産を私物化することは厳しく禁じられ、どうしても必要なときに限って一定量を採掘する他は銀のことは忘れて過ごした。仲間内でこれをかぎつけ、私腹を肥やそうとする者がいれば、いかなる理由があろうと極刑に処した。
父親の様子からこの秘密を知った息子が銀を盗掘した時には、その父親自ら息子を斬り捨てた。
「酷《むご》いと言われるかもしれませんが、その団結力こそがこの二百年で築き上げた我々の、銀鉱脈以上の財産です。何を誇りとすべきか、守らなければならないものが何なのか、言葉や形にしなくても我々の中に根ざしています。この心を有する者はたとえよその土地の生まれでも自由民として受け入れ、この心を理解できない者はたとえ頭目の息子であろうと自由民とは呼べません。陛下の庇護を受けることに関しても二十人の頭目は慣例通りの協議を開きました。彼らが承知した以上、自由民の意志は一つです。
我々は喜んでデルフィニアの民となりましょう。タウに逃げ込んだ逃亡者はならず者ばかりではありません。国の施政に逆らって逃げ出した知識人や学者などが多くおります。今の頭目のうち五名は西方に留学までしています。もしかしたらタウは地方としては大華三国中もっとも識字率の高いところかもしれません。この地図は測量の知識のある者、地層を視る者たちが共同で作成しました。皆優秀な人材です。予想ではありますが、ほぼ正確な数字に間違いないと自負しております」
ここでジルはごほんと咳払いをして、「ただし、陛下はタウの自治も認めてくださいました。従ってタウで採れる銀はすべて我々の管理下に置かれます。しかしながら我々は陛下の民でもあります。陛下が必要とされるのであれば、国民の義務として、喜んで軍資金を提供いたしましょう」
国王はこの信じられない打ち明け話を半分驚き、半分呆れながら聞いていた。
二つ尋ねたいが……」
と、地図を取り上げて言う。
「イヴンはこのことを承知しているのか?」
ジルは何とも言えない微笑を浮かべた。
「何年も前に話してあります」
彼らが一番恐れたのは、自治を認めると言っておいて、実際には銀目当てにデルフィニア政府が乗り込んでくることだ。
頭目達の中にははっきりとその恐れを口に出す者もいた。彼らはかつて国に裏切られ、国を追われた人々だ。そんな危険を冒すことには賛成できないと渋ったのも無理はない。
それをイヴンが説得した。
大華三国の間で近々戦闘が起きることはほぼ間違いない。今まではひっそりと孤立してきたが、それではすまなくなる。そんな大戦に巻き込まれたら、そしてそのどさくさの最中にこの秘密が漏洩《ろうえい》したら、三方からよってたかってむしられ、しかも二度とタウには戻れなくなるのだ。
そのくらいなら信用できる相手にタウの将来を賭けたほうがいいと熱心に訴えた。
「中には、あれは陛下に丸め込まれて、我々を騙《だま》し、一人だけ何かうまい汁を吸うつもりではないのかと陰口を叩く者もいましたが……」
国王が思わず顔色を変え、何か言おうとするのをジルは制して、「ご心配なく。あれの信奉者《しんにうしや》たちがその男をつるし上げました。イヴン本人は胸を張って、失礼ながら、あの馬鹿に俺を丸め込むような器用な真似ができるもんかと堂々と反論しました。さらには、もしも陛下が我々との約束よりも利益を重んじ、寛大な庇護者であることをやめて恥を知らない搾取者に成り下がるようなことがあれば、自分が責任をもって……陛下の首級《しゆきゆう》を上げてみせると、そう宣言しました。
1お許しください」
さすがに非礼を詫びたジルである。
主君に対して間違っても言ってはならない言葉を連発しているのだ。気が引けたのだろう。
しかし、同時にイヴンの言葉は自分たちの決意を表したものであると言っているのだ。
国王は地図を睨《にら》んだまま、沈思黙考していた。
ジルも黙ってそんな国王を見守っていた。
やがて国王は再び手元の地図を取り上げて訊いたのである。
「なあ、ジルどの。このことをタンガが知ったらどうなるかな?」
ぴくりとも表情を動かさずにジルは答えた。
「はげ鷹《たか》の前に肉を投げてやるようなものですな。
カムセン半分銀鉱脈付きでだまし取られたと激怒するかもしれません。いずれにしても協定も忘れてタウめがけて押し寄せてくるでしょう」
「すると、タンガ軍は一方的に国境を越えて我が国の領土を侵犯することになるな?」
日に灼けたジルの顔がわずかに動いたようだが、やはり平然と答えた。
「そのとおりです」
「となれば、俺は堂々とタンガに戦いを挑むことができる。戦のきっかけというものはきちんと立てておかないと世間がうるさいからな」
そう言って国王はにこりと笑った。
特別に力を入れたわけでも凄みを込めたわけでもない、当たり前の微笑だった。
「俺と貴殿は臣下と君主の誓いを立てたが、同盟の誓いに変更したほうがよさそうだ。そこで相談だが、何とかタウの西峰を説得して貴殿に同調させてはもらえないだろうか? 無論西に関しても自治は必ず守ると約束する。故意に洩らさなくてもこの財産のことはいずれ必ずパラストの耳に入る。軍資金として徴用しただけでもその動きを見逃すようなオーロンではないからな。そうなればあの強欲者のことだ。
必ずタウに向かって牙を研ぐ。西峰にとっても他人事ではあるまい。−しかし、オーロンが銀鉱脈のことを知ったときにはタウの西はデルフィニア領に加えられている、としたら?」
「……」
「これも正当な領土侵犯を相手に問うことができる。
その時点でタンガの相手は勇猛果敢を自負するタウの自由民に任せて、俺は西北部に出陣し、銀目当てにしゃにむになって向かってくるバラストの相手をしよう。それというのも恥を述べるようだが、パラストとの国境沿いの西北部にはいささか不心得者がいてな、盛んにオーロンと連絡を取っているようなのだ。俺にとっても貴殿らにとっても災いの種だ。
証拠がないので今まで手を着けずにいたが、俺が大軍を率いて出陣し、バラストと合戦になるとしたら、その連中がパラストの示唆《しさ》で動くか、辛抱できなくなってテバを越えて逃げ出すか、それとも――それほど度胸のある者どもとは思えんが、味方面して俺の軍勢に加わるか。それはその時になってみなければわからんが、とにかく大掃除ができる。オーロンにしてもゾラタスにしても、このデルフィニアを己の領土と勘違いしているらしい。俺がこうしてしゃんとしているのを見れば諦めるだろうと思っていたのだが、なかなかその心得違いは改まりそうにない。
この辺で思い知らせてやらねばこちらが危ないのだ。
――どうだろうかな?」
すっきりと整った顔立ちのタウの頭目はしばらく返事をしなかった。
やがて吐息を洩らし、呆れたように笑った。
「以前にお会いしたときは、失礼ながら、こんなに朴訥《ぼくとつ》な好もしいお人柄で国王が務まるのかと思わされましたが、意外に猫かぶりでいらっしゃる」
「それは違うぞ。イヴンに聞いてくれればわかる。
俺は単に必要だと思ったことはできる性分なのだ」
「ご主義やご信条に反することでも、ですか?」
「さて、自分でもそこがよくわからん。俺にはもしかしたら信念などというものはないのかもしれん」
髭《ひげ》の口元を上品に歪ませてジルは笑い出した。
笑い声も暖かく、豊かで、好感が持てる。
「他の誰かが言ったのでは意地も誇りも知らないのかと罵《ののし》るところですが、陛下がおっしゃるとなぜか微笑ましい」
「かたじけない。西峰の頭目達にもよろしくと伝えてくれ」
「陛下」
山賊の頭目にしては惜しいくらい風采のいい新領主はゆっくりと首を振った。
「陛下は何か思い違いをされていらっしゃる。私はタウすべてを代表してここにおります。西峰も南も今や陛下のもの。ただし……彼らは我々ほどには陛下のことを存じません。イヴンに従っている者たちの口からある程度のことは察しているでしょうが、我々のような身分の者にとって国王を信じるということはたいへんなことなのです」
「うむ。中にはこのデルフィニアから逃げた者もいるのだろうな。しかし、彼らが善良な領民として暮らすことを望み、その通りにふるまうならば王として保護するのは当然のことだ。ー俺の故郷はタウの足下にあり、山賊の恐ろしさだけは何度も聞かされたが、一度もそうした狼藉があったとは聞いたことがない。タウの自由民が悪業を働くのも見たことがない。彼らには安心するようにと伝えて欲しい」
「ありがとうございます。実はその彼らから伝言を預かっておりますが、よろしいでしょうか」
「おお。伺おう」
「寄る辺を失った自分たちにもう一度ちゃんとした身分を与えてくれようというお心はまことにありがたく思います。しかしながら、自分たちは何と言っても一度は罪人と呼ばれて国を追い出されたものの子孫です。そこで、まことに失礼ながら、陛下のお志をよく確かめるまでは、自分たちの縄張りにある金脈の場所を申し上げることはご勘弁願います」
国王は耳を疑った。
聞き違いではないかと思った。
「金?」
「西と南は金鉱脈のほうが多いのです。実を申せばこの地図にも銀の場所だけを記してあります」
黒い眼を見開いたまま、ぽかんと口を開けて何も言えなくなった国王を見て、ジルはすまして言った。
「誰が言ったのか知りませんが、タウは遺棄された土地どころか、誰も確かめようとしなかっただけの宝の山です」
「その秘密を……二百年も!?」
「いえ。銀が採れるとわかったのはずっと後のこと、これほど詳しい地図がつくれるようになったのはごく最近のことです。我々は自分の住む土地の調査も怠りなく実施しておりました」
ここでまたジルはかたちをあらためた。
「陛下。これは我々タウの指導者にとっても重大な賭なのです。申し上げたようにほとんどの者はこの財産のことを知りません。人は弱いものです。俺達はそんなお宝の上に知らずに暮らして番をさせられていたのか。だったら少しばかり分け前をもらったって悪くはないはずだ。そんなふうに考える者がいないとは言いきれません。いえ、必ず出てくるでしょう。ですから、今日からはタウはデルフィニア領であり、その財源も基本的には国王のものだと示しておいたほうがいいのです」
仲間内にはこれは国王のものだから手をつけるなと言い、その国王には自治を認めた以上、口出しをするなという。よくまあこれで人を猫かぶり呼ばわりするものだ。とんだ狸である。
しかし、それは身内に動揺を起こさせまいとする彼らの自衛手段なのである。
国王はすかさず腹を決めた。
莫大な財源はもちろん欲しい。だがそのためには自分がまず彼らに信用されることが肝心なのだ。
「わかった。このことは当分、俺の腹一つに収めておく。ごく限られた腹心の者たちにも銀が採れるということだけを話しておこう。ただ、王妃に黙っているわけにはいかん。それは了承してくれ」
ジルは莞爾《かんじ》となって頷いた。
「あれが同じことを申しました。こちらの妃殿下はお姿はどんな女性よりもお美しいが、女性の性質は何一つ持ち合わせず、剛毅《こうな》な戦士の魂と冷徹な政治家の眼を持っているのだと。お任せいたします」
それから二人は他の二、三の事柄を話し合い、会談はお開きになった。
ジルは自分にあてがわれた離宮に戻っていったが、国王は一人で西離宮へ向かった。
いつもと同じゆっくりした足取りは上るに従ってだんだん早くなる。勢いよく西離宮に走り込むと、国王は大声を発して長年の友人に襲いかかった。
「この悪党!」
笑いながら短い金髪の頭を抱き込んで締め上げる。
机についていたイヴンは椅子に座ったまま盛大に苦しがってもがいた。
「離せって、おい!」
文句を言いながらも声は笑っている。
イヴンと賭け札の最中だった王妃はもめている男達には見向きもせず、散らばった相手の札を眺めて、「おれの勝ちだな」
と、言った。
「ちょい待て。今のはなしだぜ!? おい、ウォル、でかい図体でいつまでもなつくなよ」
「黙れ。お前のおかげで両大国と本格的に戦だぞ」
さすがに驚いた顔の王妃である。
「そりゃあ穏やかじゃないな」
「うむ。まことに穏やかではないのだ」
国王も机についた。
その場にいたシェラを見上げて問いかける。
「これから話すことは極秘なのだが、お前は王妃が沈黙を守れと言えばその命令に従うな?」
西離宮の侍女はむしろ心外そうな顔で頷いた。
『わざわざ確認なさるようなことではありません』とでも言いたげだった。
そこで国王は手短に事情を説明し、問題の地図も見せた。
普通の女性なら(男でもだ)金山銀山と聞けば眼の色を変えるところだが、王妃の緑の瞳は別の意味でいたずらっぽく煌《きら》めいた。
「呆れた。タウ山にはとんだ狸が住んでたんだな」
「俺もそう思う。よくまあ今まで隠し通せてきたものだ。閉鎖的なのは知っていたが……」
友人を振り返って、「お前が以前、ジルどのに借りがあると言っていたのは、このことか?」
「ああ。俺なんかのどこを見込んだんだか、顔なじみになってすぐに鉱脈の場所を教えてくれたのさ。
ペンタスへ運ぶ予定の銀塊も見せてもらった」
彼らはそれをわざわざ遠いペンタスまで運び、一度金《かね》に換えてから使っていたらしい。その際も身元を明らかにするようなことはしない。仲介人を立て、決して出所がわからないように細心の注意を払っていたのだ。
「それほどの秘密を部外者のお前になぜあっさり話したのかな?」
イヴンは笑って手を振った。
「続きがあるんだよ。ここがその場所だといかにも謎めいた洞窟を教えて、銀の塊を見せる。これはな、連中の試験なのさ。信用できるかどうかのな。強烈な試験だぜ。あんなにたくさんあるんだったらひとかたまりくらい失敬したってわからないだろう、たいていの人間はそう考える。夜中にこっそり洞窟へ忍んでいく。とたん落とし穴に真っ逆様って寸法だ。
中の仕掛けには異様なくらい手を掛けてあるからな。
まず、生きては出られない」
二人ともごくりと喉を鳴らして顔を見合わせた。
「過激だ……」
「お前はそれで、洞窟には行かなかったのだな?」
「行ってたらこんなよた話をしていられるかよ」
「なんでまた? 銀は好きじゃなかったとか?」
「いやあ、好きだぜ? ただ、その時は借金取りに追い回されてるわけでもなかったし、それほど金のかかる女もいなかったしな。夜中にこそ泥するほどの理由が何もなかったんだ。それだけなんだが、どういうわけか義理人情に厚い侠客《きょうかく》の士にされちまったのさ。上の連中、特にジルが俺をきちんと扱うもんだから、ベノアの連中もいつの間にか取り巻くようになってた。俺は間違ってもそんな柄じゃないんだがねえ……」
碧い眼は皮肉に笑っていたが、国王は破顔した。
「ベノアの頭目の眼は確かだな。現に今のお前は身も心もタウの自由民ではないか。俺を相手に詐欺《さぎ》を働き、頭目達を相手に駆け引きをして、まんまとタウをもぎ取った」
「詐欺はひどいな。俺はタウの掟《おきて》に則って黙ってただけだぜ」
「ほほう、他に何を黙ってる?」
「言えるか、阿呆」
「また締め上げるぞ」
「おお。やれるもんならやってみやがれ」
不気味に笑いながら睨《にら》み合う夫とその友人を楽しげに眺めて、王妃は素直な感想を洩らした。
「遊べる友達がいるってことはいいよなあ」
でかい図体でなつくなというイヴンの言葉には思わず苦笑した。昔さんざん同じことを言った覚えがあったのだ。
長い黒髪のきれいな友達。自分よりずっと大きく、いつも見上げていた。なのになぜか自分の背中に覆い被さるのが好きで、特にこの金色の頭がお気に入りだった。
その度に『大きな体でなつくんじゃない』と言ってやめさせた。
自分はまだあの友達よりも小さいだろうか。
「――リィ?」
国王の声に王妃ははっとして我に返った。
「ああ。悪い。何だっけ?」
「このことをできるだけ大事にならぬように、ゾラタスの耳に入れたいのだが、どうしたものかな?信用できる誰かに裏切り者になってもらって、実はあそこは銀が採れるんですぜ、とやるのがもっとも一般的なのだが……」
「それじゃ世間がひっくり返るような大騒ぎだ」
「うむ。パラストに知られるのを遅らせるためにも、ごく限られた人間だけにこっそり教えたい」
「しかしそいつあ、都合のよすぎる話だぜ?」
イヴンが呆れたように言う。
「まさか道で呼び止めるわけにはいかないもんな」
王妃がまじめくさって答える。
ここでシェラがためらいがちに言い出した。
「知らせるだけでいいのでしたら、タンガ国王の枕元に忍び込んでみてはどうでしょうか?」
三人はそれぞれ色の違う眼を見張ってシェラを見た。国王が言う。
「それはまたずいぶん思いきった意見だ」
「申し訳ありません。出すぎた口を……」
「いや。かまわんが、それを誰がやる?」
「お許しさえいただけるなら私が参ります」
「要塞とも言うべきケイファード城の、王の寝室にだぞ。できるのか?」
「はい。難しいには違いありませんが、不可能でもありません」
控え目ではあるが、いくらか謙遜の響きがある。
ということはまちがいなくできるということだ。
国王は苦笑を浮かべて言った。
「ゾラタスが今の言葉を聞いたら怒りのあまり発狂しかねんな」
「そうでしょうか?」
「そうさ。俺とて、コーラル城に忍び込むのは簡単です、などと言われてはおもしろくない」
「いえ。それは話が別です。決して易しくありませんでした。ここにはリィがいますから」
「番犬か、おれは?」
おもしろくなさそうに王妃が言う。
「なに、似たようなものだ。この王妃も間違いなくケイファード城に忍び込めるからな」
「簡単に言うな。おれはその城を見たことがないんだぞ。時間がかかる」
「だから、この侍女に行ってもらおう。お前は頼むから、いいか、頭を下げて頼むから、この城におとなしくじっとしていてくれ」
王妃は真顔で言う友人の姿を呆れたような眼で見つめ、疑わしげに言った。
「お前、家庭を持ってから、いやに保守的になってないか?」
どこまでも真剣な口調だった。
シェラは何とも言いがたい珍妙な表情で口元を歪ませ、イヴンはしみじみと友人の不幸に同情し、国王はたくましい肩を震わせて堪えきれずに爆笑した。
王妃も笑い出した。
しまいには全員が交じって笑いの大合唱になった。
11
その建物は暗く、灯りが入っていなかった。
神殿のような石の柱と石の壁、やはり石でつくられた冷たい窓際に人が腰を下ろしていた。
窓の外には満天の星が見える。月はない。
まさに降るような星空だった。
足首まで隠れる衣装を着た人はぼんやりと外を見つめている。深い陰りのある顔だった。
豊かな黒髪が背中を覆って膝の上でゆるく波打ち、床に届きそうな所まで流れている。黒には違いないが、人の髪とは思えないほどに眩しく輝いている。
対照的に肌は雪のように白く象牙のような光沢を持っている。顔のつくりは小さく、くっきりした瞳は紺碧《こんぺき》の青さを持ち、わずかに開いた淡い色の唇からきれいに並んだ歯がこぼれて見えた。
男にも女にも見えない不思議な顔だった。
肢体のほうも同様である。たっぷりした長い衣服越しに浮き上がる絶妙な体の線は華奢《きやしや》な青年にも見え、少し背の高い女性にも見える。
見る人によっては天使のように無垢だと感嘆し、魔性の美しさだと戦慄する者もいる。その時々に醸し出す印象によって様々な人の心を捕らえてしまう。
そんな不思議な雰囲気を持っていた。
「ルウ」
名を呼ばれて振り返る。
とたん顔つきが変わった。
それまで子どものように邪気のない顔だったのが、一瞬で引き締まった。十も大人びたようだった。眼の青までが紺碧から氷のような極薄の色に変化した。
表情の消えた眼が声のしたほうを見る。
呼んだのは一頭の黒豹《くろひょう》だった。
顔が映るほどなめらかな石の床を音もなく歩いてきて、知性の窺える青い眼でその人を見上げた。
「いいかげん何か食べたらどうだ」
「……そんな気になれない」
声を聞いても男か女か判断に困る。
黒豹は……正確には黒豹の姿をしている別の生き物は辛抱強く言った。
「そんなんじゃリィを探しに行く前にお前のほうが倒れるぞ」
「……」
「あいつなら大丈夫だ。どこにいても心配ない」
今度は暗い、夜の海の瞳が鋭く黒豹を見据えた。
「どうしてそんなことがわかる?」
「お前のほうが詳しいだろう。誰だろうとあいつに危害を加えるのは容易なことじゃない」
「それも、これを持っていればの話だ」
軽やかな音を立てて広い石の窓辺に転がったのは、銀色の小さな指輪だった。
必ず身につけているように言ったのに、あの日、異変を察して駆けつけた現場にこれが落ちていた。
以来、魔法惑星ボンジュイの総力を結集して捜索しても見つけられない。少なくともこの次元枠のどこにもいない。完全に行方不明になってしまった。
この星に無数にある小さな穴の一つが偶然にも開いてあの相棒を呑み込んだとしか思えない。
すぐにでも探しに行きたかったが、そうした穴は既に管理されている門とは違う。周期の読めないきわめて自然発生的なもので、無理に操作することは危険が伴う。
『こちら』はいいとしても『向こう』にどんな被害を与えるかわからないからである。
黒髪の麗人は銀の指輪をもてあそびながら、深いため息をついた。
「これさえ持っていてくれたら……、そうしたら、どこにいても大丈夫だと思えるのに」
「焦《あせ》るな。いいか、あの穴はもうじき開く。ここで無茶をしたら元も子もなくなるんだぞ」
ルウは苛立たしげに頭を振った。貴金属のような光沢のある髪が揺れて、ちょうど窓の外に見えている星空のように輝いた。
「……力も使えずに、今頃どうしているんだか」
「それだけは幸いだった。どこの世界に落ちたにせよ、被害は最小限ですむからな」
窓辺に座った人は答えなかった。
草原のざわめき、遠くかすかに聞こえる波の音に耳をすませた。
12
タウの西峰がデルフィニア領に加えられたことを知ったオーロンはすかさずデルフィニアに抗議した。
問題の土地は明らかに我が国に属する領地であり、山賊どもと合議してむりやり奪い取るとはいかなるご所存かと言うものだ。
対してウォル・グリークは、タウの某《なにがし》は先祖代々その地に暮らしており、これに対し貴方はなんら異を唱えていない。土地を奪い奪われるのは武将の常であり、問題の土地は昔は貴方のものであったかも知れないが今はタウの某のものである。先日貴方が住民の登記と納税を求めたときも、某は拒絶し、貴方は黙って引き下がったではないか。問題の土地の権利は既に某に移っており、それを貴方もお認めになった何よりの証拠である。こう言い返した。
オーロンも呆れたらしい。
「あの若僧は賢いのか阿呆なのか……?」
権力者が土地に執着するのはそこから利益があがるからだ。農産物しかり、牧場しかり、物品流通を行う町しかり。泥地や沼地を欲しがる領主がいないようにあんな山を欲しがる領主はいない。
もちろんタウについての資料はオーロンの手元にある。土地は傾斜が険しく土壌は開墾《かいこん》には向かず、山は雑木ばかりで建築用資材にもならず、何の役にも立たない。
いったいどうしてこんな土地を欲しがり、タウをかばうような行動までとるのか、オーロンには理解できなかった。どう考えてもデルフィニアの利得はきわめて少ないと計算せざるを得ないのだ。
ウォル・グリークはたとえ銀のことがなくても、かつて裸同然だった自分を助けてくれた彼らに報いるために力を尽くそうとしただろうが、オーロンにとってそうした義理や恩義などは効力の切れた証文同然である。何の価値もない。
人がそんなものを基準にして動くことをあてにしない、信用しない、もっと実質的な利潤がなければ決して動かされない性格なのである。
しかし、タウ全土があの若僧になびくとなると、放ってはおけなかった。地図を開いて、デルフィニアが設けた新たな国境線を記してみると、とんでもないことになる。
中央にタンガ、パラストを遥かにしのぐ巨大国家ができあがってしまうのだ。
だからといってタウを取り戻すために戦うのはあまりにばかばかしい。諸将に相談してみたところで反対されるに決まっている。
アヴィヨン城の豪華な装飾に埋まるようにして、オーロンは一人思案に耽《ふけ》っていた。
夏の夜風が心地よかった。空には真円の月がある。
オーロンの側には贅沢に着飾った愛妾が侍《はべ》っていた。思索の邪魔をすると不機嫌になる主人の性格をよく知っているので、声を掛けたりはしない。つつましく酌をしていたが、不意に小さな悲鳴を上げた。
「陛下……!」
オーロンはかすかに舌打ちを洩らした。邪魔をするなと言われなければわからないのかと言いかけて、窓のすぐ側に人影が立っているのに気がついた。
たっぷりしたフードをかぶり、同じその布が足の先までを覆っているので、面体がわからない。
しかし、間違っても城内のものの服装ではない。
享楽的で奸智に長《た》けた性格だが、オーロンは臆病ではない。武芸のたしなみもかなりのものだ。
素早く立ち上がり、背後の壁に飾りとして掛けてあった長槍をひっ掴んだ。
「出会えい、曲者《くせもの》じゃ!」
国王の声に答えて扉の外に控えていた衛兵が飛び込んできた。オーロンは用心深い性質でもある。
この部屋も三重城壁の奥深くにあり、厳重な警護に守られているのだ。
「陛下。何事でございますか!」
ほんの一瞬オーロンは彼らの姿を確かめるために眼をそらした。この曲者を引っ捕らえろ、と、命じようとしたその声が喉の奥に張り付いたまま消えた。
そこには誰もいなかった。
窓辺に垂らした紗《うすぎぬ》がただ風に揺れている。
「曲者は、いずこに?」
不安そうな兵士達に、オーロンはしわがれた声で命じた。
「さがせ……」
「は?」
「この部屋のどこかに潜んだのだ! 探し出せ!」
「ははっ!」
しかし、もともとどこかに人が隠れることのできるような部屋ではない。
扉と、二つの窓と、上座の壁にオーロンが取り上げた槍と甲冑《かっちゅう》が一組、南国の君主達の風習をまねて、床に豪奢《こうしやじ》な絨毯《ゆうたん》を敷いただけの部屋なのだ。
衛兵達はすぐに途方に暮れた顔になったのである。
「外の見張りはどうしていたのだ?」
「むろん一歩も持ち場を離れておりません」
「窓の外は?」
「ここから落ちれば即死でございましょう」
オーロンは今まで家来達が見たこともないような顔をしていた。血の気が失せ、脂汗までかいている。
さすがに兵士達は心配そうな顔で主君を窺《うかが》った。
万事に並外れて賢い人だが、一時的に錯乱でも起こしたのではないかと思ったのだ。
「誰か。すぐに侍医を……」
「いや、待て」
かすれた声でオーロンはそれを止めた。
「大事ない。持ち場に戻れ」
兵士達は不思議そうな顔をしながらもその命令に従った。
オーロンは女も下がらせ、代わりにかねてから信頼を置いている腹心を側に呼び、さらには扉の外の警備を倍に増やさせた。
夜更けの突然の呼び出しとあって、数名の腹心はいささか緊張しながらやってきたが、来てみると国王は絨毯の上にあぐらを掻いて酒を運ばせている。
狐に摘まれたような思いをしながら、相手をせよと言われるままにそれぞれ酒杯を取った。
それは、すぐに現れた。
また窓際だった。幽霊のように気配も感じさせず、いつの間にかそこに立っていた。
もちろん王のまわりに集まっていた屈強な男達は血相を変え、すぐさま衛兵を呼ぼうとした。
「待て」
上から下まで布で隠した人影を睨《にら》み、オーロンは腹心の一人に飾ってある槍を示したのである。
「それで、あの者を突いてみよ」
「はっ!」
座ったまま一礼すると、その腹心は立ち上がって槍を掴んだ。不審人物は問答無用で切り捨ててもかまわないのが城内の掟《おきて》だ。
手練の早業で、胸のあたりを一突きにする。
だが、その男はぎくりとした様子で槍を引いた。
曲者は相変わらずそこに立っている。
「馬鹿な……」
喘ぐように言ってもう一突きしたが同じだ。
肩から殴りつけるように斬りつけても、首と見当をつけた辺りを横なぎに斬り払っても、曲者の姿は少しも揺るがずにそこにある。
「もうよい、やめい」
オーロンが声を掛けたとき、その男はびっしょりと汗をかいていた。
曲者は顔を隠したまま、オーロンに向かって軽く頭を下げてみせた。
「よくぞ、ご理解くださいました」
「貴様。妖術士じゃな。その姿はまぼろしか」
「いかさま。生身でこの城内へまかり越しますのは我らでは無理でございますので……」
「たわけ。誰であろうと無理に決まっておるわ」
腹心の一人が腹立たしげに口を挟んだ。恐ろしさを感じるより先に自国の王宮の中を影だけとはいえ、こんな得体の知れない輩《やから》をうろつかせていることが悔しかったのである。
顔を見せない妖術士はゆっくりと首を振った。
「できる者がおります。またその者は我々のごとき術を使うこともできるのです」
肉付きの豊かなオーロンの顔が恐ろしく厳しく引き締まった。
「誰じゃ」
この問いには答えず、曲者は淡々と話を続けた。
「我らはあやかしを操るもの。生身を斬り裂き、血を流す刃物は扱えませぬ。それを得意としておられる武将方は我らのごとき妖術は使えませぬ。この世はそれで丸くめでたく、収まっておりまする。この治を乱すものはまさに害悪の輩でございます。退けなければなりません」
「それは何者かと訊いておる」
曲者は答えず、さらに言った。
「陛下はデルフィニアの勢力がこれ以上大きくなることは望んでおられない。そうですな?」
オーロンは用心深く答えた。
「隣国が強大になることを喜ぶ王がおろうか。貴様ら妖術士とはそのくらいのこともわからぬ輩か」
「では、デルフィニアの力を弱めるために、陛下のお力をお借りしたいと申し上げたら……」
数名の腹心がそれぞれ短い怒声を発し、腰を浮かせかける。
オーロンはそれを片手の一動作で抑えた。
「妖術士ふぜいが何をしようと言うのだ。貴様らにできることはせいぜい効きもせぬ呪詛《じゅそ》くらいだ」
「陛下。この相手が呪詛に倒れてくれるのならば、また陛下の軍勢で打ち破れる相手ならば、こうして姿を見せたりはいたしませんでしたでしょう」
「手打ちにすることができぬからと言ってつけあがるなよ。デルフィニア軍がいかに手強かろうと、わしは必ず勝つ。打破してみせるわ」
「あの王妃がいる限り、それはかないませぬ」
その言葉には底の知れない重みがあった。
反論しようとした腹心達を沈黙させ、オーロンをして思わず唸《うな》らせるだけの何かがこもっていた。
「よかろう。お前の考えを申してみよ」
「あの王妃は誤ってこの世界に落ちてきたのです。
ご自分の世界へ戻ってもらえばいいだけのこと」
この言葉はオーロンには理解できなかった。
腹心達にもできなかった。
曲者も理解させようとはしなかった。生身を斬る剣を使う者には決して理解できない言葉なのだ。
「王妃の故郷は遠い。このアベルドルン大陸を遥か遠くに離れたところにあるのです。そこまで強引に王妃を送り返せば、デルフィニアは見る間に傾き、どうとでも陛下のお望みのままです」
「その、強引に送り返すとはどういうことじゃ?」
「それは我らの領分に属すること。ただ、これには大がかりな支度と供物、このパラストのある場所が絶対に必要なのです」
そのためにオーロンの力を借りたいというわけだ。
「なかなか、おもしろい話じゃ。気に入ったぞ」
「恐れ入ります」
「顔を見せい。詳しいことを訊きたい」
しかし、曲者はゆっくりと首を振った。
「時が過ぎました。次の満月の晩にまた参ります」
オーロンとその数名の腹心が固唾《かたず》を呑んで見守る中、曲者の姿はかき消すようになくなった。
後には金箔を刷り込んだ紗だけが揺れていた。
あとがき
前回、強引な力技で一時的に復活させたパソコンですが、もちろんあれからちゃんとした修理に出しました。ところが、きれいに直って戻ってきたはずの機械は『その日のうちに』再び画面が焦げつき、修理センターに!!ターンしました(怒)。どうも困ったことに、専門の人たちにも故障個所が特定できないようなんです。それというのも修理センターへ運んだ時には故障の現象が出ず、いたって正常に作動するからです(怒怒怒)。
馬鹿な子ほどかわいいと言いますが、馬鹿な機械は全然かわいくありません。
何とか安心して使えるようになって欲しかったんですが、それから一月半後、『一応、基板を交換しておきましたけど……』と、申し訳なさそうに言われてしまいました。
いいかね、|486NAVYlJW《パソコンちゃん》、今度壊れたらその時は中身の総取り替えなんて面倒なことはしないよ。粗大ゴミに出すからね。
おかげで今回の原稿は代替機製です。ところが内容はと言えば、表紙とは裏腹になぜか『めろどらま』です(笑)。でなければ『恋の季節なの〜』です(爆笑)。
この分では次回は『らぶさすぺんす』かもしれない(……冗談です)。主役の二人は一段落ついたことだし、今まで書けないでいた他の人たちの私生活を紹介して、ちょっと春めいたことを、と思ったらこうなりました。せっかく、こんなに戦記らしいかっこいい表紙をもらったのになんだか申し訳ないのですが(テレカになるのが非常に楽しみです)、沖さんは中身を読んだらこうなったと言っているので、その言葉を信じることにしましょう。
沖麻実也さんは今回、呪文のように、ある人達を表紙に描くと唱え続けていましたが、(ええ、美貌の現殺し屋さんと、それに狙われている銀髪の元殺し屋さん)なのに本編を読んだらイヴンに取って代わられてしまいました(笑)。いつも中身に忠実な方です。
ところでイメージアルバムですが、発売が伸びることになりました。来年以降になる予定です(これもジャケットはすんばらしいのを麻実也さんがもう描いてくれています。ウォルが実にパンサムです)。
デルフィニア戦記も八巻を重ねて、物語りも少しは進展したつもりです。今後の展開は……キーを叩く両手が知っているでしょう(あれ?)。
いささか息切れ気味ですが……、今後ともよろしくお願いします。
一九九五年 十月 茅田砂胡