デルフィニア戦記7
コーラルの嵐
茅田砂胡
CAST
ウォル(ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン)◎デルフィニア国王。庶子であったため、一度はその地位を奪われるも多くの味方を得て再び王冠を被る。統率力に優れ、無私公正。戦士としても優秀。
リィ(グリンディエタ・ラーデン)◎異世界から来た少女。華奢で可憐な外見とは裏腹に無双の剣の腕と戦士の魂を持つ。ウォルの王権奪回に類を見ない活躍を示し、戦女神と讃えられる。内乱平定後、ウォルの養子となり、現在はデルフィニア王女。
バルロ◎国内の名門サヴォア一族の当主で、公爵。ティレドン騎士団長。ウォルの従弟で毒舌家。ウォルのことを早くから国王として支持し、内乱時には敵方によって国王に祭りあげられるが固辞し続けた気骨の持ち主。
イヴン◎独立騎兵隊長、兼親衛隊長。ウォルの幼なじみ。タウの自由民。
ナシアス◎ラモナ騎士団長。バルロの友人。
シェラ◎リィ付きの女官。実はリィを暗殺しにきたファロット一族の少年だったが……。
ドラ◎将軍。名馬の産地として名高いロアに領地を持つ伯爵。ウォルの養父フェルナン伯爵の親友だった。
シャーミアン◎ドラの嫡子。女騎士。
ブルクス◎宰相。先王時代には優秀な外交官として仕えていた。内乱時には侍従長をこなし、デルフィニアの裏も表も知りつくしている。
カリン◎女官長。ウォル生誕当時生母ポーラに味方しウォルを暗殺の危機から救った。
ガレンス◎ラモナ副騎士団長。
ジョシュア◎ラモナ騎士団の新米騎士。
ドゥルーワ◎先代デルフィニア国王。10年前に逝去。
アエラ◎ドゥルーワの妹。ドゥルーワ在位中、大貴族であり右腕でもあったサヴォア公爵に嫁ぐ。バルロの母。
エンドーヴァー(ラティーナ・ペス)◎子爵夫人。ウォルの昔の知り合い。
ゾラタス◎タンガ国王。
ナジェック◎タンガ皇太子。
オーロン◎パラスト国王。
グライア◎ロアで黒主と呼ばれていた野性の悍馬。リィの騎乗を許す。
王宮は上を下への大騒ぎになった。
コーラル城の一の郭《かく》には主に来客用にいくつもの離宮が点在しているが、国王は女官長を呼びつけて、そのうちの一つをエンドーヴァー子爵夫人の住居として整え、身の回りの世話をする女をつけるように命じたのである。
心中仰天していたはずだが、顔にも声にも微塵《みじん》も出さず、淡々と復唱して下がったのは、まさに女官長ならではの名人技だった。下っ端官僚ではこうはいかない。
事実、城内の貴婦人達は突然降ってわいた愛妾《あいしょう》の噂に夢中になった。しかしそれはどちらかというと、批判の色が強かった。
「パラストのエンドーヴァー子爵夫人ですって。聞いたことのないお名前ですけれど……」
「お年も召していらっしゃるようですし……陛下は年増好みでいらしたんですのね」
と、宮廷婦人たちの会話も物珍しさと皮肉の域を出なかったのだが、わずか数日でそれは急変した。
国王は連日この夫人の許《もと》を訪れ、楽しげに語らい、夜には酒席の相手をさせたのである。王女を除けばかつてなかったことだ。
貧乏貴族だろうが年増だろうが、国王の寵愛《ちょうあい》を受けているという厳然たる事実の前では無に等しい。
貴族たちの反応はがらりと変わった。もう品定めどころではない。何とかして取り入ろうとする動きが活発になり、エンドーヴァー子爵夫人はわずか数日のうちに宮廷婦人たちに受け入れられ、コーラル城に落ちついてしまったのである。
しかし、城内の人間すべてがこの愛妾騒動に狂奔《きょうほん》したわけではない。宮内の最高責任者である女官長カリン、軍事外交はもちろん、城内の『民事』にまで細かく眼を通す宰相ブルクスはともに静観の態度を取った。
また、王国の重鎮《じゆうちん》である英雄たちは一様に率直な驚きを見せたのである。
「大変な騒ぎですな」
ドラ将軍が呆れたように言えば、「いやはや、まさか陛下が女性に関して、これほど電光石火でいらっしゃるとは思わなかった」
ヘンドリック伯爵はしみじみと首を振って、至極もっともな感想を洩《も》らしたものだ。
その横では近衛《このえ》司令官のアヌア侯爵が、端整な顔立ちをいくぶん曇らせている。
「しかし、この騒ぎは少しばかり行き過ぎではありませんかな」
「さよう」
「いかさま」
さすがに二人ともわかっている。
時を同じくして北の塔から出てきたバルロとナシアスもこの事態には驚愕《きょうがく》したものだ。
「いったい俺たちが牢にいる間に何が起こった?」
二人にとってはまさに青天の霹靂《へきれき》である。
この間まで無人だった離宮に見知らぬ女性が入ったばかりではなく、進物を持って『拝謁《はいえつ》』しようという人が引きも切らない有り様ときている。
他の国なら後宮への付け届けも国王の気に入りの寵姫へ取り入ろうとする動きも日常茶飯事と言っていい。しかしまさか、「この城内でこうした光景を見ることができるとは思わなかった」
バルロが思わず洩らしたように今のデルフィニア王宮では異様な光景である。
ナシアスが首を傾げて、「陛下が愛妾をお持ちになったのは結構な話だが、それほどのご寵愛となると、どのような女性か気になるな」
と、似合わないことを大真面目に言い出したので、バルロがからかい調子に言ったものだ。
「ほほう。お前でも人並みに女性の話題には興味があるのか?」
「どういう意味だ?」
剣技にかけてはバルロと肩を並べるラモナ騎士団長も、女性関係となるとティレドン騎士団長の華々しさには及びもつかない。
「ビルグナはいいところだが、なにぶんあまりにも田舎でうるおいがないからな。よさそうなところをみつくろってやるから牢暮らしの垢《あか》を落としていったらどうだ?」
ナシアスは笑って肩をすくめた。
「遠慮しておく。垢を落とすのは結構だが、代わりに紅白粉の匂いを移されたのでは配下のものたちに示しがつかん」
こちらも呆れ返って肩をすくめたバルロである。
「お前と言い、従兄上《あにうえ》と言い、なんでそこまで女を毛嫌いするのか俺にはかいもく見当がつかん」
「誰も嫌ってなどいないさ。お前は思う存分羽を伸ばしてくればいい。そんなことより問題は……」
「城内に事実上の『王妃』が誕生してしまったこの事実だ。ふむ。あまり語呂がよくないな」
洒落《しやれ》や冗談を飛ばしていた口調のままでさらりと言ってのける。
ナシアスはそっとため息をついて額を押さえた。
「時々お前の頭の中がどうなっているのか、覗いてみたくなるぞ、私は」
「覗かせてやろうか? 僧侶のような暮らしのラモナ騎士団長にはいささか刺激の強い眺めだぞ」
「もういい。お前と話していると頭がおかしくなってくる。それよりもその愛妾だ」
城内の女性に関することならカリンの管轄《かんかつ》だ。
両騎士団長が女官長に詳しい事情を聞こうとしたところ、ドラ将軍たちとぶつかった。考えることは同じようで、年長の英雄たちも今の状況を憂慮《ゆうりよ》しているらしい。
一方、女官長も普段なら貝より口の堅い人である。
誰に囲まれようと、どんなに問いつめられようと奥の事情を洩らしたりはしないのだが、今回ばかりは様子が違った。
宰相とも相談した上で、将軍たちと両騎士団長に、国王と夫人とのやりとりを語ったのである。
野次馬根性などではない。この人たちには知っておいてもらうべきだと二人は判断したのだ。
はたして五人とも再度、眼を見張った。
「女のほうから愛妾の地位をねだることはないではないが……、何とその日のうちにか」
年長の英雄たちが呆れ果てれば、ナシアスは、「それでは愛妾にいたしましょう……ですか?」
呆然《ぼうぜん》と呟き、バルロは頭を振って、「それこそあの人の頭の中はいったいどうなっているのか、時々さっぱりわからなくなる」
大いに嘆いたものだ。
五人はただ驚いているようだが、カリンはむしろ、この事態に眉《まゆ》をひそめていたのである。
「もちろん、陛下が女性に興味を示してくださったのはいい傾向です。この際、外国人だろうと未亡人だろうとかまいませんが、でも……」
釈然としない様子で言葉を切って沈黙する。
宰相ブルクスが横から助け船を出した。
「わかりますよ、女官長。その気持ちはよくわかります。以前の夫人と陛下の間に何があったのかは存じませんが、愛妾にしてください、はいわかりましたというのは、ちと問題です」
カリンはさらにため息をついて、「一の郭に住まわせるというのもどうかと思います。
二の郭なり、郊外の別荘なり、側室を置くならば他にいくらでも場所はあるでしょうに、あれでは陛下がよほどに夫人を寵愛していると世の人は受け取るでしょう。いえ、もう受け取られています。それが何やら……」
「さよう。困ったことにならねばよいのですが」
その懸念はやがて現実となった。
夫人が一の郭の離れに入ってから十日目、国王はカリンを呼んでこう言いつけたのである。
「実はな、エンドーヴァー夫人が今の住居は何かと不自由だと訴えている。本宮に住まわせたいのだが、そのようにはからってくれないか」
面《おもて》にこそ出さなかったが、カリンはひやりとした。
来るべき時が来たとは思ったが、まさかこれほど早いとは思わなかったのである。
「夫人がそのようにお望みなのですか?」
「ああ。空いている部屋はいくらでもあるだろう」
それはある。山ほどある。しかし、そういう問題ではないのだ。
表情は動かさずにめまぐるしく思考を走らせると、古強者《ふるつわもの》の女官長はいつもと同じように、やんわりと言った。
「もちろんお部屋のご用意くらいはわけもないことですが、そのように取り計らいます前に、姫さまにお話しになってはいかがでしょうか」
王が愛妾を持つのに王女に断ったりはばかったりする必要はどこにもない。普通ならだ。
国王も意外そうな顔になったが、それでも、あの王女がどんな反応を示すかは気になるらしい。首を傾げた。
「怒るかな?」
「お怒りにはならないと思いますが、戻っていらした時に見知らぬ女性が離れに住んでいたら、お驚きなさいますでしょう」
「ふむ……、そうだな。では夫人にはもうしばらく待ってもらうか」
と、国王は実に呑気な口調なのである。
カリンは丁重に色代《しきたい》して引き下がると、その足でブルクスに会いに行った。話を聞いて驚いたのはブルクスも一緒である。
「いや、女官長。それはいけません。そんなことをしたら……」
「わかっております」
国王に王妃があれば問題ない。他に愛妾があるならまだいい。百歩譲って王太后が生きていて奥向きを仕切っていてくれれば、こんな不安は覚えない。
しかし、独身の国王が唯一寵愛する女性が王宮の中心である本宮に住まうとなれば、バルロがいみじくも洩らしたように『王妃』として扱わねばならなくなる。
国王を自在に動かせる者には絶大な権力が与えられる。それが常識である。グリンダ王女もその一人だが、王女は権勢などにまったく興味を持たず、こびへつらおうとする者をこちらからはねつけていた。
「だからといって陛下に、それは夫人に権力を持たせることになりますから危険です、とはまさか申し上げられませんし……」
「夫人は今のところその地位を利用する気配はない。
なかなか懸命で人づきあいも上手にこなしている。
ですからなおのこと申し上げにくいのでしょう?」
「おっしゃるとおりです。陛下も夫人のもとへ足繁く通ってはいらっしゃいますが、ご政道をおろそかにするようなことはなく、夫人も口を出すようなことはなさいません」
「少なくとも今は、でございますな?」
「おっしゃるとおりです」
苦労人の二人だ。まして二人とも国王の私生活が往々にして国政に深く関わってくることを知り尽くしている。
現にあの夫人の元へせっせと通う貴族や豪族がすでに何人もいる。そうした連中はもちろん手ぶらで行くようなことはない。目の眩《くら》むような金銀財宝を贈り物として与えている。
今はまだいい。夫人は贈り物を受けはするが、それだけだ。しかし、夫人が本宮へ入るようなことになれば、その機嫌を取り結ぼうとする連中の動きは必ず激化する。山のような賄賂《わいろ》と引き替えにどんな要求をするかわかったものではない。
奥を預かるカリンにとっても宰相であるブルクスにとっても『好ましくない』事態である。
「女官長。せめて夫人が本宮に入ることだけでも止めさせるわけにはいきませんか」
「それを陛下に進言するためには理由が必要です。
ですが、今の私に言えるのは子爵夫人のなさりようが少しばかり唐突であり、それがその、あまり感心できないというだけです。これでは単なる誹謗《ひぼう》にすぎません」
二人はそろってため息をつき、ブルクスが言った。
「ここはやはり、姫さまのお帰りを待ちましょう」
「はい」
若干十六歳、王家の血を引いてもいない王女だが、とにかくここ一番で頼りになる人なのである。
コーラル城の人々の焦燥《しょうそう》と祈りが天に通じたのか、それから三日目の昼、王女は王宮に戻ってきた。
いつもならパキラから直接西離宮へ戻る王女だが、今回はシェラを連れていたので大手門を通ったのだ。
門番はお帰りなさいませの挨拶もそこそこに慌ただしく角笛を吹き鳴らし、これを受けて廓《くるわ》門、正門でも高らかに角笛が鳴り響いた。
グライアにまたがった王女がその仰々しさに驚きながらおっかなびっくり正門を潜った時には、女官長が飛びつくようにして出迎えたというわけである。
事の次第を聞いて王女も眼を丸くした。
「愛妾? あの朴念仁《ぼくねんじん》がか?」
「はい。あの陛下がでございます」
と、女官長もつられて意外の念を吐露《とろ》したものだ。
最初は驚いていた王女だが、女官長が詳しい事情を語り進むに連れて、今度は首を傾げたのである。
「でも、別に、その女の人が気にいらないってわけじゃないんだろ?」
「ええ。夫人の人柄をどうというのではないのですが……」
「が、なに?」
「あまりにも急なお話だったことが一つ。それに、王妃はもちろん王太后もおわさぬ今のコーラル城内において、一人の女性が陛下のご寵愛を一身に受けることはあまり好ましくありません」
王女はぽりぽり頭を掻きながら言ったものだ。
「で、おれにどうしろって?」
「夫人を本宮に置くことには反対だと、せめて思いとどまるようにと、陛下に進言していただけませんでしょうか?」
またまた王女は眼を丸くした。
「おれが言うのか、そんなこと?」
「ぜひ、お願いいたします」
「どうして? カリンが言えばいいじゃないか。おれが言ったって説得力ないよ」
「それは私も同じことでございます」
「はあ!?」
ためらいがちに眼を伏せて話していた女官長だが、ここで顔を上げてきっぱりと言った。
「これといった理由はないのです。陛下から何故と問われましたら、納得していただけるだけの答えは返せません。ですが、それだけは思いとどまっていただきたいと思うのです」
王女はしばらく考えた。
具体的にどこがいけないのか、カリンの懸念が何なのか、王女にはよくわからない。しかし、女官長の人柄もその判断も信頼できるものである。その人がこうまできっぱり言いきるのだ。無視できないものがある。
国王は今日も大勢の侍従に囲まれて机に張り付いていた。見るからに忙しそうだったが、王女の顔を見て笑顔になった。
「おお、戻ったか。旅はどうだった?」
「おれの旅どころじゃないぞ。ちょっと離れた間になんなんだ、この騒ぎは?」
国王は書類を片手にしたまま、くすぐったそうに笑ったものだ。
「騒ぐほどのことでもないと思うがな。しかしまあ、知っているなら話は早い」
国王はずらりと控えていた侍従たちを室外へ追い出して、王女と二人になった。
これはいつものことである。そうして国王は単刀直入に切り出した。
「実はな、夫人をこの本宮に迎えたいのだが、かまわないだろうか」
肩をすくめた王女である。
書類が広げられたままの机に大胆にも腰を下ろし、椅子に座っている国王をまじまじと眺めたものだ。
「あのな」
「うむ」
「その人、ほんの半月前に訪ねてきたんだろ?」
「ああ、お前とほとんど入れ違いだった」
「昔からつきあいがあったのか?」
「まあな」
「スーシャにいたころか?」
「まあ、そうだ」
国王がちょっと眼をそらしたのを王女は見逃さなかった。
「その人の死んだご主人はパラストの貴族だったんだろ? 夫婦でスーシャに滞在してたのか」
「いや。夫人が子爵と結婚したのはスーシャを離れた後のことだ」
「じゃあ、その時は今とは名前が違ったんだな?」
「まあな。いいではないか。今ではエンドーヴァー夫人なのだから」
王女は机から降り、さりげなく話を戻した。
「おれはお前がその人をどこに住まわせようと問題ないと思うんだけどな。もうちょっと待ったほうがいいみたいだぞ」
「そうなのか?」
「ああ。そういうことはあんまり急にしないほうがいいんだってさ」
「そうなのか。誰が言った?」
王女は笑って手を伸ばすと、国王の黒い髪を荒っぽく撫でた。
「誰でもいいけど、その心配はもっともだな。この王様は底抜けに人がいいからな」
「おい、リィ。かきまわさんでくれ」
国王は笑いながら小さな手の攻撃から逃げた。
「人が何と言っているかは知らないが、心配されるようなことは何もないぞ。愛妾にしてくれと頼まれたからそうしただけだ。お前も一度、夫人に会ってみてくれ。きっと仲良くできるはずだ」
「ああ、そのうちな」
執務室を出ると、カリンだけでなくバルロまでが王女を待ち受けていた。
「団長。釈放されたのか」
「ええ。出たとたんにこの騒ぎでしてね」
バルロは苦い顔である。
「それで? 従兄上に思いとどまるように進言していただけましたか」
「そこまでは無理だよ。一応もう少し待つようには言ったけど、どうかなあ?」
首を傾げている王女の前で女官長とティレドン騎士団長は眼と眼を見交わし、団長が咳払いして王女を一室に誘った。
数人が集まってお茶を楽しむのにちょうどいいような、趣向を凝らした小さな部屋である。
茶を運んできた侍女が下がり、王女と二人きりになると、バルロはおもむろに切り出した。
「どうもあなたは事態の重要性を理解していないようですからな。ご説明いたしましょう」
「ぜひともそうしてもらいたいな。今まで女官長も団長も、ウォルが女の人を近づけようとしないのを嘆いてたじゃないか。望みどおりになったわけだろ? 何がいけないんだ?」
「まったくです。何がいけないんでしょうな」
と、バルロが大真面目に言ったので、王女は眼と耳を疑ったものだ。
「団長?」
ティレドン騎士団長は実に複雑な顔である。
「外国人で未亡人というのでは非の打ち所がないとは言えませんが、文句を付けるほどのことではない。
本宮に入れてくれとのおねだりも、国王の寵愛を受けた女なら誰でも望むことですからな。特に声を荒らげるようなことでもない。しかし、どうも気にいりません。従兄上はその夫人に甘すぎる」
「甘いといけないのか?」
問い返すと、バルロの皮肉の虫がまた騒いだらしい。低い笑いを洩らした。
「百戦錬磨の王女も男女のこととなるとお手上げのようですな」
「そりゃあそうだろ。おれはまだ発情期前なんだ」
バルロは、こんな場合だが盛大に吹き出した。
膝を打って高らかに笑う。
「それはご謙遜というものだ。あなただって洗って着飾ればそう捨てたものでもない。第一、十六なら結婚してもおかしくない歳だぞ」
「そういう問題じゃないんだけど……、まあいいか。
とりあえずその夫人のことを考えよう」
「いかにも」
バルロも真顔に戻り、身を乗り出した。
「つまり、俺の心配は、女官長や宰相の懸念も同じだと思うが、こういうことです。その夫人の身内だという者がパラストから現れ、この宮殿でしかるべき地位をねだったとしたら? あるいは夫人に取り入った貴族たちがこれこれの役職が欲しいとねだったとしたら? 夫人は従兄上を動かしてそのとおりにしてしまうかもしれない」
王女は呆れ返った。
「団長。北の塔暮らしで頭がどうかしたんじゃないのか? ウォルがそんなことを許す王様かどうか、団長が一番よく知っているはずじゃないか」
「わかっていますとも。いつもの従兄上ならば側室の要求だからといって公私の混同など決してなさらない。しかしだ、そこで男女の問題になるんです」
「普段はちゃんとした王様でも、女の人に夢中になると何をしでかすかわからないってことか?」
「そのとおりです」
十六歳の王女と二十五歳の騎士団長の大真面目の会話である。
「従兄上はもはやただの男ではありえない。夫人にしたところで、以前に見知っていた若者が王冠を得たと知ったからこそ訪ねてきたのでしょう。何度も言うがそれを打算と責めるつもりはない。当たり前のことだ。問題は従兄上がそれを呑み込んでいてくれるかどうかなんです」
「お前が国王でなかったら夫人は見向きもしてくれなかった。それをわきまえた上でつきあえって?」
「もっとも残酷な言い方をすればそうなります」
「だけど……、そんなことウォルに言えないよ」
「言えません。俺もそこまで鬼にはなれん。まして、従兄上はこ公務をおろそかにしているわけでもない。
考ええすぎだと一笑されるか、ご機嫌を損ねるようなことにもなりかねない」
言うべき時は恐ろしく思いきったことを言う騎士団長だが、微妙な問題だけにさすがに歯切れが悪い。
王女はしばらく考えて、言った。
「仕方ない。担当者を呼ぼう」
「担当者?」
王女は人を呼んで伝令を用意するように言い、書記官から紙とペンを借りて手紙をしたためた。
手紙と言ってもほんの数行である。
バルロが見守る前で王女は封だけは厳重にして、息せききってやってきた伝令兵にその手紙を手渡した。
「大至急、これをタウ山脈のべノアまで」
「はい。かしこまりました。独立騎兵隊長ですね」
「大事な手紙だ。可能な限り急いで頼む」
「はい!」
伝令は緊張の顔つきで出ていった。
バルロはとたんに不機嫌な顔である。
「あの麦わら頭に何がわかるというんだ」
「その夫人とウォルはスーシャで知り合ったらしい。
だったらイヴンに訊くのが一番てっとりばやい」
「そう簡単にいくかな。従兄上と麦わら頭が行動を共にしていたのはかなり前の話ではないか」
「知らないにしても、イヴンなら昔なじみの強みで思いきったことを言える。団長や女官長が言えないようなことでも遠慮はしない。正直言っておれにはどこがたいへんなのか、いまだによくわからないんだ。イヴンの反応を見て態度を決めることにする」
バルロはますますおもしろくなさそうな顔で肩をすくめた。
「それで? 手紙になんと書いてやったんです?」
「親友の一大事だ。すぐ来い」
この時ばかりはさすがにバルロも喧嘩相手が気の毒になった。
イヴンがコーラル城に駆けつけてきたのはそれからなんと、わずか二日後の昼である。
カリンを見習って、イヴンが現れたら角笛で知らせてくれるように頼んでいたので、王女はさっそく友人を迎えに行った。
いつもと同じ黒ずくめのイヴンだが、季節が暖かくなってきたこともあって、細身の体は埃《ほこり》まみれになっている。城を発った伝令と同様、番所で次々に馬を乗り換えて不眠不休で駆けつけてきたらしく、王女の顔を見るなり文句を言ったものだ。
「リィ。何が起こったか知らないが、もっと詳しいことを書いてよこしたらどうだ。ここまで来るのにずいぶん無茶をやらかしたぞ」
「そうか?」
「そうかじゃねえだろ。伝令は王宮が転覆するかもしれないくらいの大事件が発生したもようですって言ってきたぞ!」
さすがに王女もしまったと思った。
伝令から伝令へと交代するうちに話がどんどん大きくなったらしい。
「まあ、とにかく体を洗って、腹ごしらえでもして、それから話そう」
王女はあらかじめ、点在する離宮の一つに食事の支度と風呂の用意をさせておいた。西離宮まで歩かせるのは気の毒でもあり、時間の無駄でもあるのだ。
わけがわからないながらもイヴンは湯を使って、着替えに袖を通して出てきた。今まで着ていた服は洗濯行きである。
とりあえず食卓に着き、そうして食膳を持ってきた侍女の顔を見て眼を見張った。
「おう、まだいたのかい?」
「はい」
固い顔で頷《うなず》いたのはシェラである。
イヴンは確認を取る眼を王女に向け、その目線に王女は頷いてみせた。
「なるほどね。そういうことか」
おもしろそうに笑って短い頭をつるりと撫でる。
バルロは麦わら頭と連呼するが、これはちょっと気の毒だ。粉砂糖をまぶしたような、きれいな淡い金髪である。
「じゃあ遠慮なしに言えるな。お前、それで中身が男だってのは実にもったいないぜ。いやもう、ほんとにもったいない。この王女さんと体のとりかえっこでもできればいいのにな」
それから並べられた料理を見て首をひねった。
「食えるんだろうな、これ?」
シェラは内心ため息をついた。
ここにも化け物が一匹だ。
王女は答えの代わりに冷たく仕上げた鳥肉を口に入れてみせた。着替えを済ませた山賊もそれに倣《なら》う。
「それで。大事件ってのは何なんだ?」
「まあ、その前にだ。ウォルが愛妾《あいしよう》をつくったの、知ってる?」
唐突な切り出しにイヴンも眼を剥《む》いた。
「愛妾って、女か?」
「そりゃあ普通お妾《めかけ》さんって女だよ。この一の郭に住んでる」
「へええ……。そりゃまた急だが、どんな女だ?」
「パラストのエンドーヴァー夫人だって。まだ見たことはないけど、なかなか感じのいい人みたいだ」
「結構な話じゃないか。あいつ、今まで女っけがなさすぎたからな。で、大事件ってのはなんだい」
「だから。それ」
「なに?」
「その愛妾問題」
イヴンは碧い眼を見開いてまじまじと王女を見た。
食事の手を止め、机に両手を置き、実に疑わしげな顔で、もう一度言う。
「なに?」
「話が途中でずいぶん大きくなった、らしい」
さすがに申し訳なさそうな口調だった。
イヴンは机をひっくり返すような真似はしなかったが、それに近い心境だったのは確かである。
頬杖をつき、それはそれは剣呑《けんのん》な眼を向けた。
「王女さま。俺はそんなことのためにここまで引っぱり出されたんですかい?」
「いや、まあ……」
「政府転覆の危機かもしれないっていうんで、タウ全土に非常召集をかけてきちまったんだがね?」
思わず両手を上げた王女である。
「悪かった。ちゃんと説明しなかったのがまずかった。来て欲しかったのは独立騎兵隊長じゃなくて、スーシャのイヴンだったんだ」
「どういうことだい? 同じだろうに」
「ぜんぜん。独騎長は他の誰かでも代行できるけど、ウォルの幼なじみは一人しかいないからな」
さすがに何となく事情を察したらしい。碧い眼の山賊は考える顔になった。
「つまり何か? そのお妾さんは何か問題でもある女なのか」
「そこがわからないんだ。少なくとも今のところはとても評判のいい人だ。王宮に上がって間がないのに本宮に入れてくれって言い出したのをカリンやブルクスが不安がってるみたいなんだけど、それだって別におかしなことではないって団長は言ってるし、その人にしたって昔のよしみでちょっと甘えただけかもしれない」
「昔のよしみ?」
「ああ。子爵夫人はウォルとは初対面じゃないんだ。だからこんなに急に話が進んだんだよ。スーシャにいたころの知り合いらしい」
「スーシャで?」
果たして、イヴンは記憶を探る顔になった。
「おかしいな。それなら俺も知ってるはずだがな?エンドーヴァーなんて名前は……」
「そのころはエンドーヴァー夫人じゃなかったんだ。
ラティーナ・ペスって……」
いうんだけど、まで、王女は言えなかった。
効果があまりにも絶大だったからである。
イヴンの顔から一気に表情が消えた。食事の手が止まり、碧い眼だけが壮絶な光を放った。
「……なんだと?」
その声もがらりと違う。王女は驚きながらも慎重に続けた。
「ラティーナ・ペス。スーシャを離れてパラストのエンドーヴァー子爵と結婚して、この間、未亡人になったらしい」
底冷えのする眼のまま、唸《うな》るようにイヴンは言った。
「その女がここにいるっていうのか?」
「半月くらい前に現れて愛妾にしてくれって頼んだらしいな」
「それで、あいつはどうしたんだ?」
「わかりました、愛妾にしましょう。だって」
ここがイヴンの限界だった。
食器をたたきつけて猛然と立ち上がったのである。
「あの女狐!!あの馬鹿もあの馬鹿だ!!」
「ちょっと……!」
王女が止める間もない。イヴンは離宮を飛び出して本宮へ躍り込んだ。
途中すれ違ったバルロがいつものちょっかいをだす隙もないほどの形相である。取り次ぎも無視して、邪魔をする者ははねのける勢いで国王の居室へ乗り込んだのだ。
ちょうどその場には役人の他に宰相とドラ将軍がいたが、どちらもイヴンを見て驚いた。
普段の独立騎兵隊長はつかみどころのない飄々《ひょうひょう》とした性格である。宰相や将軍の前でも人を食った、とぼけた笑みを浮かべているのが常だった。
ところが今の彼は一種の凄みとも言うべき異様な気配を漂わせている。むろん、将軍も宰相も一度も見たことのないものである。
「独騎長、どうなさった? 尋常のご様子とも思えないが……」
ブルクスはこの山賊上がりの戦士にも丁重な言葉遣いをする。こうしたところが宰相の人柄である。
「あいすみません。宰相。将軍。急の用件でして、しばらく俺と陛下を二人にさせてくれませんか」
その陛下を見れば、これも驚いたことに冷や汗を流して椅子に小さくなり、顔中で行かないでくれと訴えている。
決断したのは将軍だった。
「そうですな。宰相、我々は席を外しましょう。お前たちもだ」
役人がぞろぞろ引き上げていく間、国王は世にも情けない顔で頭を抱えていた。友人と二人になるとその顔色を窺《うかが》いながら言ったものである。
「もうばれたのか?」
「ばれたのか、じゃねえ」
低く言うと、イヴンは国王の前に進み、大きな体をせいいっぱい小さくしている友人を見下ろした。
「一度しか言わねえぞ。追い出せ」
「イヴン。あのな……」
何か言いかけた国王を、独立騎兵隊長は碧い眼の一睨みで黙らせた。
「お前ができないってんなら俺が叩き出すそ。いいか、今のお前は国王だ。金や権力の亡者どもが放っといてくれるわけがねえ。それはわかる。あの恥知らずの女狐がなにがしかの恩恵に与《あずか》ろうってのこのこ出てきたって腹を立てるつもりはねえ。見下げ果てた女だとせせら笑ってつまみ出せばすむことだ。
だがな、その亡者を王宮で飼ってやるってのはどういう了見だい?」
「別に夫人は金に執着しているわけではないぞ」
「そうかい。じゃあ、狙いは王妃の地位か、権力か。
それも頼まれたらあっさりくれてやるつもりかい」
「イヴン……」
激しい睨み合い、というより国王が一方的に睨まれている。すぐに降参して手を上げるはめになった。
「考えすぎだ。俺はただ……」
「ただ、なんだ? 言いたいことがあるなら言ってみろ。聞いてやる」
国王はますます小さくなって、ぼそりと言った。
「お前、それではリィより恐いぞ」
「なんだと?」
「いや! だからその、見捨てるわけにもいかんと思ってだな」
イヴンはバルロとはまた違う、底意地の悪い笑顔になった。とっておきの猫なで声で慇懃無礼《いんぎんぶれい》に言う。
「国王陛下。いったいいつから国王というものには自分を裏切って捨てた女にまで救済の手をさしのべる義務ができたのか、聞かせていただけますかね」
国王は頭を抱え、すがりつくような眼で友人を見上げたものだ。
「頼むからそういじめてくれるな」
「いじめられてる自覚はあるわけだな? おおいに結構。それならお前をもてあそんで捨てた女なんか、とっとと宮殿から追い出すんだな」
「もてあそんだとは人聞きの悪い」
「他になんて言うんだ? 未亡人だと嘘をついて近づいてきて本当は金持ちの妾だった。さんざん気を持たせて結婚まで考えさせておいて、ばれたらさっさと金持ちのところへとんずらだ」
「イヴン。頼むから少し落ちついてくれ。これでは話もできん!」
たまりかねた国王が懇願《こんがん》の悲鳴を上げる。
イヴンは舌打ちして、円卓の上の硝子瓶《ガラスびん》をひったくった。杯に移しもせずに葡萄《ぶどう》酒を呷《あお》る。
それでようやく息を吐《つ》いたが、目つきはまだ険しいままだ。
「とにかく、あの女だけは止めとけ。ろくなことにならねえぞ」
国王ははじめてちょっと笑った。
「あの時もそうだったな」
「どの時だ」
「ラティーナ……エンドーヴァー夫人が旦那《だんな》の所へ戻っていった時だ。お前があんまり怒るものだから、俺はどういうわけか冷めてしまってな、むしろふっきれた。他に男がいるなら仕方がないと、いくら騒ぎ立ててもどうにもならんと、そんな感じだった。
父も苦笑して、いい勉強をさせてもらったと思えと言ったしな。俺の感想もそんなようなものだった。
本当だぞ? もてあそばれたは言いすぎだ」
「言い訳するな。落ち込んでたくせに」
「多少はな。しかしまあ、昔の話だ」
イヴンは無言で硝子瓶を差し出し、受け取った国王もそのまま一息に呷る。
「夫人が来たと聞いて感じたのは懐かしさだけだ。
これも本当だ。お前の眼にどう映ろうと俺達は納得ずくで別れたのだからな。恨みに思う理由も必要もない。単に会えて嬉しかったし、元気でよかったと思っているんだが……いけないか?」
苦虫を噛み潰したような顔のイヴンである。
ほんの子どものころからのつきあいだ。強がりでもやせ我慢でもない、心からそう思って言っているのはわかっている。わかるだけに始末が悪い。
「あの女に権力を持たせるようなことさえしなければ、馬鹿な幼なじみに呆れるだけですませてやるよ。
……ったく。あの女もどこまで図太いんだか」
苛立《いらだ》たしげに頭を振る。
「昔ちょっとばかり関係してた若いのが国王になったってんで舞い上がるのはわかるがな。いくら金に困ったからって捨てた男のところへのこのこやってきて愛妾にしてくれとはどういうつもりだ?」
「そこだ。どういうつもりなんだと思う?」
「なに?」
「あまりにも突拍子のない話だと思わないか?」
「おおいに思うさ。だから俺が言いたいのは……」
「暮らしに窮《きゆう》して最後の手段として昔の男にすがるしかなくなったのなら、何も愛妾になる必要はない。
金の無心をすればすむことだ」
「そりゃあ単にあの女が欲張りなんだ」
「いいや、お前にはあまり心証がよくないらしいが、夫人は気概《きがい》のある人だ。生きるためにどうしても必要なら割り切って無心もするかもしれないが、やるとしてもいよいよせっぱつまってからやむなくするはずだ。なのに挨拶も早々に実ににこやかに愛妾にしてくれと言う。冗談で言っているのかと思ったが、本気でここに腰を据えるつもりらしい。すでにもう本宮に入りたいと望んでいるからな。そう、それも考えねばならなかった。リィの話だと誰かが難色を示しているらしいが、どういうことかな?」
イヴンは盛大なため息をついて淡い金の頭を掻き、不遜《ふそん》にも国王の机にどっかりと座り込んで、椅子に腰を下ろしたままの国王を見下ろした。
「いいか、ウォリー。怒らないから俺の言うことをよく聞いて正直に答えろよ」
「はい、先生」
この場合の『先生』は『父上』もしくは『母上』でも可である。
「今でもあの女に惚れてるのか?」
イヴンは端的に、かつ慎重に尋ね、国王は笑って首を振った。
「いいや。懐かしい人ではあるがな。それだけだ」
「じゃあ何で愛妾にしてる!?」
思わず怒声を張り上げると、国王は黒い眼を丸くして真剣に答えたのである。
「そうしてくれと頼まれた」
我慢にも辛抱にも限界というものがある。
たとえ不敬罪で投獄されようと、国王侮辱罪で罰せられようとかまうもんか。
その決意と同じくらい固く拳を握りしめて、イヴンはこのふざけた王様に殴りかかり、かろうじて避けた王様は当然ながら不満の叫びを発したのである。
「卑怯だぞ。怒らんと言ったではないか!」
「これが怒らずにいられるか! さあ、その空っぽの頭をこっちへよこしな。目が覚めるまでぶん殴ってやる!」
「ちょっと待て!仮にも国王に向かって空っぽの頭とは!」
「違うとでも言う気か! このかぼちゃ頭!」
「かぼちゃ!?」
さすがに愕然《がくぜん》とした国王が逃げるのを忘れて棒立ちになる。その顔に怒りの鉄拳が見事に炸裂《さくれつ》した。
国王と親衛隊長がどつきあいを演じて(正確には国王が一方的にどつかれて)いる本宮から目と鼻の先にエンドーヴァー夫人の住処がある。
それほど近間にいるのにどうして本宮へ入りたいのかと王女は首を傾げていたが、距離が問題なのではない。本宮に部屋を持つことは愛妾として一種のステータスなのだ。
今、夫人は城外からやってきた客人と二人きりで会談している。城内からの客人は引きも切らないが、外から人が訪ねてきたのは初めてのことだ。
パラストから夫人の知人が挨拶に来たのである。
デルフィニア国王の愛妾の座を得たとなればたいへんな出世である。五十すぎくらいの恰幅《かっぷく》のいい商人は夫人に対してにこやかに祝いを述べ、カリンの配慮でつけられた侍女たちにも祝儀をふるまう心遣いをみせ、「自分は生前のエンドーヴァー子爵にはずいぶんとお世話になった者ですが、今後とも一つ、よろしくお願いいたします」
と、丁寧に頭を下げる。実に行き届いた好人物に見えた。
しかし、人払いをして夫人と二人になってからの商人は少し態度が違う。ものやわらかさはそのままだが、表情にも口調にもなにやら卑しさが窺える。
「首尾よく王のお心を掴むことができたようですな。
まずはおめでとうございます」
「ありがとうございます」
そう言う夫人の口調もどこか硬く、若草色の眼も笑ってはいない。
対して商人のほうはにんまりと奇妙な笑みを浮かべている。
「さっそくですが、王の様子はいかがです。さぞやあなたに首ったけになっておられることでしょうからな。寝物語に何か語りはしませんかな?」
「特にこれといったことはおっしゃいません。取り留めもないことばかりですわ」
「いろいろの悩みや抱え事などを相談したりはしませんかな?」
「語るのはスーシャでの思い出話ばかりですわ。よほどあのころがお懐かしいようです」
「ほほう……。しかし、今に必ず城内でのもめ事や政策についての悩みを打ち明けるようになるでしょう。あなたは国王のただ一人の女性ですからな」
知らず知らずドレスを掴んでいる夫人の手に力がこもっている。そのドレスもこの王宮へ現れた時の着古したものではない。
最高級の絹を高価な染料で染めた贅沢《ぜいたく》なものだ。
「いったい、私を通じて陛下から何を探り出そうとしていらっしゃるのかしら?」
「いやいや。そう堅苦しく考えることはありません。
あなたはただここで最高の贅沢と国王の愛妾という地位を楽しんでいらっしゃればいい。そうして王が話したことすべてを覚えておいてくれさえすればいいのです。別に難しいことではないでしょう」
夫人はまたにこやかに笑ってみせた。
「そう言われましても困ります。何を知りたいのかはっきりおっしゃってくださいな。でないと私もやりにくいんですのよ」
「エンドーヴァー夫人。焦《あせ》りは禁物ですよ。この分ならばあなたはいずれ王宮でもっとも発言権を持つ女性になります。この広大なコーラル城の奥の部分をあなたが支配し、あなたの言葉に誰もが平伏すようになるのです。すばらしいことではありませんか」
夫人は答えなかった。若葉色の瞳には激しい焦りの表情が浮かんでいたが、何も言わなかった。
「それはそうと、王女に会いましたか?」
「いいえ。まだ……」
「名ばかりの王女ではありますが、王への影響力は絶大なものがあります。血の繋がりがないせいでしょうが、父と子というよりも愛し合っている男女に等しいほどの親密さです。あなたはまず、王女から王を奪うことを考えてください」
「陛下に王女を捨てさせ、私を選ばせろという意味ですのね」
「おっしゃるとおりです」
「ですが、そのようになったことがどうしてわかります?」
「簡単ではありませんか。あなたの言葉が王に対してどのくらいの影響力を持つに至るかですよ」
夫人は大きく息を吸い込んだ。
「……それまで、私はここにいなければならない。
そうなった後も。そうおっしゃるのね」
「あなたが賢明な方で助かりますよ。子爵夫人」
どうにも妙な会話だった。一見したところは穏やかだが、商人の態度は押しつけがましい。ほとんど強要していると言ってもいい。
子爵夫人は泰然と構えているように見える。だが、何かが夫人の心を縛り付けている。
「では、私はこれで失礼しますよ。近いうちにまた参ります」
立ち上がって背を向けた商人に、夫人がかすかに震える声で話しかけた。
「あの人は?」
「ご心配なく。近頃ではだいぶよくおなりですよ。
それも皆あなたの働きがあってこそです」
商人が辞去した後も、夫人は長いこと椅子に座り込んでいた。
何をするでもなく、ただいつまでも、口を付けもしなかった茶器を見つめていた。
そのころ、執務室を出たブルクスは、部下の侍従に呼び出されていた。
タンガからの使節が到着したので、いつものように会見の間にお出で願いたいというものだ。
隣国からの使者は珍しいことではない。輸出入の際の関税、通行手形の問題など、頻繁《ひんばん》に取り決める必要があるからだ。
こうした諸事に関しては何も国王に目通りさせることもない。ブルクスが相手をして処断している。
しかし、この時の使者は少しばかり様子が違った。
自分は先触れであり、後ほどゾラタス国王|直々《じきじき》の命令を受けた正式な使者を参らせるので、是非ともウォル王に目通りを願いたいというのである。
何か厄介な問題でも起こったかと訝《いぶか》しみながらもブルクスは愛想良く了解した。だが、そのご使者はいつごろご到着のご予定かと尋ねると、相手は最敬礼して、「陛下のご都合さえよろしければ本日これから参りたいと存じます」
と、言うのだ。
ゾラタス王の親書を携えた使者はすでに国境を越え、コーラル郊外に待機しているというのである。
さすがにブルクスも驚いた。
タンガ国王ゾラタスはその地位にも似合わず性急なところのある人物である。もったいをつけるのが嫌いで、社交辞令で時間を潰すことを快く思わない、合理的な現実主義者だ。
デルフィニアの宰相は名外交官でもある。隣国の王のそうした性格はもちろん知っていたが、それにしてもただごとではない。
隣国の使者をいつまでも郊外に立たせておくわけにもいかず、ブルクスはお待ちしていますと答えて使者を送り出した。ついで慌ただしく侍従達に指示を出した。難しい交渉ならば使者の滞在も長引く。
使節団のための快適な部屋を整える必要があった。
次にブルクスは事態を国王に報告するために急いで執務室に引き返したのだが、重厚な扉の前は野次馬に占拠されていた。それもドラ将軍、ティレドン騎士団長、グリンダ王女という実に豪華な顔ぶれの野次馬だ。
王女はブルクスを見て唇に指を当てて見せたが、何も声を抑える必要も耳をすます必要もない。扉の中からはものをひっくり返す音、罵《ののし》り合う声などがひっきりなしに聞こえてくる。
そのあまりの激しさに、ドラ将軍やティレドン騎士団長ほどの豪傑も止める機会を逸しているらしい。
王女はもちろん最後まで見届ける姿勢である。
これに対し、宰相は少しも迷わず執務室に飛び込んだ。遠慮などしている場合ではない。遅くとも今日の夕刻にはタンガからの使者がついてしまうのである。
「何たることですか、これは!?」
滅多に声を荒らげたりしない宰相の怒声を浴びて、さすがに国王も独騎長も手を止めた。
が、宰相の心配はすでに遅かったようで、国王の髪はめちゃめちゃになり、衣服は乱れ、顔に傷までつくっている。
台無しになったのは国王ばかりではない。宰相がこよなく愛している前国王に奉仕していたころからの神聖な仕事の場は、さながら山賊の襲撃にでもあったか、台風が通り抜けたかという様相を呈している。
あまりのことに二の句が継げないでいる宰相を尻目にしてイヴンはさっさと身を翻《ひるがえ》したが、こちらも扉の外で待ちかまえていた王女と騎士団長と将軍に捕まってしまった。
「おや、これはお偉いさんがおそろいで何事です」
服装を直しながら、たった今まで大喧嘩をしていたことなど忘れたかのように、にこやかに言う。
将軍が言った。
「独騎長。これは是非とも詳しい話を聞かせてもらう必要がある」
「詳しくも何もさっきからずっとそこにはりついていらしたなら新たに語ることなど何もないはずですがね」
「いいや、大ありだ。その子爵夫人の詳しい身元を知りたい。特にソブリンでエンドーヴァー子爵と結婚する以前のことをだ。妾あがりだと漏れ聞こえたが、陛下を……当時はフェルナンの息《そく》だった陛下を見限って旦那の許へ戻ったと、それに相違ないか」
イヴンは片方の眉だけを器用に吊り上げて、いつもと同じ軽口で言ったものだ。
「将軍はよほどいい耳をお持ちとみえますな。いかにもそのとおりです」
将軍に代わってバルロが口を出した。
「貴様、そんな女が従兄上《あにうえ》に近づくのを黙って見ていたのか」
「伯爵が公認したことだ。俺に何が言えます?」
驚いたのはドラ将軍である。
「フェルナンも承知の上の交際だったと?」
「最初は貞淑な若い未亡人を装ってましたからね。
伯爵は立派な人だったが女には疎《うと》かった。あいつと同じにね。親子そろってころっと騙《だま》されやがった。
俺に言えることは一つだけです。その女を即刻この城から追い出すんですな。陛下の寵愛《ちょうあい》を受けながら他の男の二、三人、平気でくわえ込む女だ」
この男にしては非常に厳しい、吐き捨てるような口調だった。珍しいことである。
ドラ将軍とバルロは思わず顔を見合わせ、将軍が慎重に言い出した。
「今の状況ではそれは無理だ。人の評判も良く、陛下のご寵愛《ちょうあい》も深い女性だ。お主が言ったように他の男と関係を持ったことでも発覚すれば、姦通《かんつう》の罪で追放どころか処刑ということになるだろうが」
「冗談じゃないよ」
王女がげんなりした様子で口を挟んだ。
「何を物騒なことを話してるんだよ。仮にその人が他に恋人をつくったとしても、ウォルなら怒ったりしないで許してやるよ」
金褐色の肌の独立騎兵隊長は低く笑った。物騒な笑いだった。
「その通りだよ、王女さま。あんたはあいつがそういう性分なのを知ってる。もっともあんたはあのお人好しの陛下に肘鉄《ひじてつ》を食わせるような人じゃないがね、同じことをその女も知ってるとしたらどうなると思う? だまくらかすのにこんな都合のいい相手はないだろうが。寵姫の座はがっちり押さえこんで贅沢のし放題、不義密通のし放題だ、ばれたらばれたで空涙の一つも見せて無罪放免、ためこんだお宝だけ抱えてとんずらって寸法さ。今すぐ叩き出さなきゃ間違いなくそうなるんだ」
三人ともとっさに言葉が出なかった。
最初に立ち直ったのはやはり数え切れないほどの場数を踏んでいるティレドン騎士団長である。
「貴様が子爵夫人に最悪の心証を抱いていることはよくわかったが、まさかスーシャで実際にそうしたことをやってのけたのではないだろうな?」
「さてね。それはご想像におまかせしますよ」
うそぶいたイヴンに騎士団長はかっとなった。
「馬鹿者、まじめに答えろ! 従兄上はもはや単なる地方貴族の子息ではないのだぞ! 側近く仕える女一人に至るまで厳しく吟味せねばならん。まして忠誠や貞節に問題のある女など寵姫にしておけると思うのか!?」
イヴンも倍の勢いで言い返した。
「そんなことをあんたにいちいち言われなきゃ俺がわからんとでも!? 拳骨にものを言わせて説得しましたともさ! なのにあの馬鹿ときたら夫人を見捨てるわけにはいかんの一点ばりだ。こっちのほうが見捨ててやりたいぜ!」
「は! 日頃はおしつけがましく竹馬の友を気取っていながらいざとなるとその言いぐさとはな!従兄上もとんだ友人を持ったものだ!」
「あんたに言われる筋合いはありませんぜ!」
「二人とも待て、待たんか!」
たまりかねた将軍が割って入る。
「とにかく、もう少し詳しい話を聞きたい。お主が夫人を嫌悪する理由は夫人が陛下との結婚を一方的に破談としたから、それだけなのか?」
だとしたらいくらなんでも度が過ぎる。下世話な言い方をすれば、国王はかつてのいきさつを承知の上で夫人とよりを戻したのだ。
それがどれほど常識外れで人の失笑を買うものであったとしても国王の判断である。しかも私生活にあたる部分だ。余人が口を出すことではないのだが、イヴンは苛立たしげに淡い金の頭を振った。
「あいにくですが、将軍。俺にも守らなければならない仁義というやつがありますんでね。これ以上はご勘弁願いますよ。言うべきことはすべて申し上げましたんでね」
怒声を張り上げようとしたバルロを王女が止めた。
強引に問いつめたところで口を割るような独騎長ではないのを王女はよく知っていたのである。
それは王女が国王を裏切るような人ではないことをこの男が知っているのと同じくらい、間違いのないことだった。
顔を負傷した国王は、細心の治療と宰相の懇々《こんこん》としたお説教を受け、それでもどうやら国王の威厳は保てるだけの姿を取り繕って、その日の夕刻、タンガの使者と面談した。
時刻が日暮れに近くなっていたのはデルフィニア陣にとっては都合が良かった。国王の不名誉な顔の有り様をかなり有効に隠すことができたからである。
せいぜい威厳を繕って使者との面談に臨んだのだが、タンガの使者の話を聞くうちに、せっかく整えたなけなしの威厳は春の陽光を浴びた氷のようにがらがらと崩れさったのである。
国王の名誉のためにつけ加えれば、その人柄の高潔なことと同時に老獪《ろうかい》かつしたたかさでも誰もが一目置く宰相ブルクスでさえ一瞬ではあるが茫然自失、完全に言葉を失っていたのだから、国王が使者の申し出にとっさに言葉を返せなかったとしても無理はないのだ。
タンガの使者はそれだけで一財産になりそうな豪奢な衣服に身を包んでいた。裏地に深紅の絹を張りつめて紫地に金糸で華々しく縫い取りをした外套、蛇の形に彫り込んだ大きな翡翠《ひすい》の指輪、もう初夏を迎えようというのに豹《ひょう》の斑紋《はんもん》で上縁を飾った長靴など、悪趣味と紙一重の華美ないでたちである。
服装と同様、タンガ貴族は妙に芝居がかった恭《うやうや》しい仕草で一礼すると、もう一度、丁寧な口調で繰り返した。
「賢き陛下に申し上げます。私は本日、我が主君ゾラタスに成り代わりまして、ゾラタスの三男ナジェックと貴国のグリンディエタ王女との結婚を現実のものとするべく参上つかまつりました」
いかにもタンガというお国柄を表した、率直にして豪快な結婚申し込みである。パラストの使者なら時候の挨拶から機嫌伺いに始まって結婚という言葉を持ち出すのにたっぷり一時間はかけるところだが、これ以上わかりやすい申し出はない。
しかし、長い沈黙の後、国王はおそるおそる問い返したのである。
「まことに失礼だが、プレスコット侯……だったな。
ゾラタス王は何か思い違いをされているのではないか?」
「これはしたり。主は思い違いをするような人物ではありません。ナジェック王子は王の三男でありますが、ご承知のように長男、次男は既に死去しておりますので、王子の妻となる女性は自動的に未来のタンガ王妃となるのです。なおこれは国家を挙げての正式な申し出であることを重ねてお断りしておきます」
言うべきことは言ってしまった。ご返答を、と、使者は目線で促している。
ナジェック王子は今年二十二歳。立派な体躯《たいく》と精悍《せいかん》な風貌《ふうぼう》と数々の武功を誇る。勇敢であると同時に気性も激しく、活力に満ちた人物だと聞いている。
タンガという国の次期国王にはふさわしい人物と言えるだろう。
「たいへん結構なお話だが……」
答える国王の顔はひきつっていた。
「グリンディエタはご存じのように俺の血を分けた娘というわけではない。宮廷作法や貴婦人としての教育も受けてはいない。誤解を招いてはいかんのではっきり申し上げるが、あの娘は確かに王女と呼ばれてはいるが、それもこのデルフィニアにあってのことなのだ。他国に王妃としてさしあげられるような娘ではない」
使者はやんわりと首を振った。
「陛下にご無礼を申し上げるようですが、我らとてそれらのことは先刻承知の上でございます。我がタンガにもグリンダ姫のご麗質は高く響いておりますが、他にも男子に勝る勇気をお持ちであり、剣の達人であるとも承っております。他王家にとりましてはこのようなご性質は好ましくないと判断される向きもあるでしょうが、タンガ王家は代々武勇を尊ぶ質実剛健の家風であります。大華三国に名を轟《とどろ》かせている姫武者ならば次期王妃にはまさにふさわしく、また、我が国との絆を強める意味を含むこの縁談は陛下に取りましてもおおいに好ましいものであるはずと、我が主君は確信いたしております」
ぜんぜん好ましくない。
好ましくないどころか最悪である。
ガマの油のガマ並に冷や汗を流しながらちらりと宰相を見ると、宰相も眼で頷き返した。
さすがにこちらは表面だけでも冷静に戻っているらしく、慇懃《いんぎん》に言葉をかけた。
「確かにまことに結構なお申し出でございます。しかしながら問題の性質上、即答はいたしかねます。
重臣達とも充分な協議を重ねた上で、ご返答したいと思いますが……」
「では、それまで待たせていただけますでしょうか。
私も子どもの使いではありません。確たるお返事をいただかずに国境をまたぐわけには参りません」
たいへんな熱の入れようである。
無理もない。王家の血を持たない娘を自国の次の王妃にしてやろうというのだ。よい返事を聞かせていただけるのでしょうなと使者の顔が語っている。
二の郭に用意した屋敷へ使者が下がっていくと、国王と宰相は互いの顔を見合わせた。
どちらも何とも言えない、複雑怪奇な顔になっていた。
「どうしたものかな?」
「最終的には陛下のご判断によります」
「受けるか断るかという問題なら断るに決まっているぞ。いったいゾラタスめ、何を血迷った?」
「問題はいかにして断るかです。本来なら願ってもないお話なのですから、次期王妃の座を退けるとなりますと、相手が納得するだけの理由が必要です」
「そんなものは!……」
言いかけて国王は口ごもった。
国王にとっての理由は明白である。王女の人柄だ。
しかし、それを口に出したところで、相手が納得してくれるわけがない。
ブルクスも難しい顔だった。
単に王女の性格が男勝りであり、わがままで結婚したくないというのならば、ブルクスは王女を諫《いさ》め、国王を説得する立場を取っただろう。他国に嫁いで両王家の橋渡しをする。ひいては両家の血を継いだ子どもを残す。それが王女というものの役目であり、唯一の使い道である。
「うっかりしておりましたな。あの方は名目上とはいえ、確かに王の娘です。有力な他国へ嫁《か》して我が国との絆を強め、お子を残してくださる義務のある方でございました」
「しかし、おかしいではないか。王家の血筋が欲しいのならリィを指名する必要はない。理屈にあわん。
従妹を、と言うほうがまだ自然だ」
前国王ドゥルーワの弟は兄より先に亡くなったが、二人の娘を残している。もっとも遅くに産まれた子なので、どちらもまだ幼い。
幼いと言っても十二、三にはなっている。王族の姫ならば結婚してもいい歳なのだ。現に国王は姉妹達の母親から、娘達の嫁ぎ先をそろそろ考えてやってくださいませと相談を受けたばかりである。
「リィの代わりに従妹を、というのではどうだ?タンガ王妃になれるのなら従妹にとっても叔母君にとっても悪い話ではないと思うが」
ブルクスは首を振った。
「それではゾラタス王が納得しますまい。わざわざ姫さまを名指しにしてきたのです。陛下の実の姫ではないのですから人質にもならないあの方をです」
「すると、まさかとは思うが王妃として飾っておくのではなく、実際の戦に役立てるつもりか?」
「いや、そう決めつけるのは性急でしょう。私とて間近に接していればこそ、またあの内乱時代を体験していればこそ、あの方を優れた武将として認めることができるのです。しかし、王女となってからのあの方しか知らないのでは、奇行の目立つ男勝りの少女としか受け取れないはずです」
タンガの人々がそのことを知らないはずはない。
「使者の強気も理解できます。それはそのままゾラタス王の強気でもありますが、王女としては欠陥だらけのあの方を次期王妃に迎えようというのですから、どう考えましても我々に断る理由は何一つない破格の申し出です」
「しかし、この縁談は受けられないのだ。どうしてもだ!」
普通なら王族や上流貴族の結婚に本人の意思は関係ない。男の父親が息子の嫁にくれと娘の父親に申し込み、父親が了承すればそれで縁談が成立する。
娘も親の言いつけに従って結婚するのが当然と教育されているから、相手がよほど変なものでない限り不満を唱えたりはしない。
だが、あの王女に向かって隣国の王子に嫁ぐようにと言いつけたりしたらどうなるか。
国王はぞっとした顔で自分の太い首を撫でた。
「俺の首もその日限りの命運だぞ」
「御意」
ブルクスも重々しく頷いた。
「どのみち断らねばならぬご縁です。姫さまのお耳には入れぬように計らいましょう。さらには重臣達にも内密に計らったほうがよろしかろうと存じます。
陛下のお心も姫さまの値打ちも見抜けぬ浅薄なものがいないとは限りません。ちょうどいい厄介払いができると喜ぶかもしれません」
珍しく国王は苛立たしげに舌を鳴らした。
「厄介払いどころか、なぜゾラタスがこんな馬鹿な申し込みをしたのか考えてみることだ。血迷ってとつい口走ったが、むろんそんなはずはない。あれは気の迷いを起こすような人間ではない」
ウォル・グリークはゾラタス・ミンゲに直接会ったことはない。しかし、その言動から人柄を割り出すことはできる。
前国王の右腕であり、名外交官でもあるブルクスはもちろん何度も顔を合わせ、その人柄についても熟知している。タンガ国王は頭が鋭く、激しく、国益のためならいくらでも無慈悲になれる人物だ。
そんな国王が理由もなしに欠点だらけのグリンダ王女を欲しがるはずがない。何か理由があるはずである。
厄介なことになったものだ。
二人はそろってため息をついた。
初夏を迎えた王宮は花も緑も今がもっとも美しい。
デルフィニアのコーラル城は大陸でも屈指の名城として知られている。難攻不落の堅固さだけでなく、その美しさにおいても他国の追随《ついずい》を許さないと絶讃されている。
実際、調和のとれた白亜の建造物はもちろん、その背景となっている庭園の美しさも、城を訪れる大使や賓客《ひんきやく》が辞令抜きに讃美するものの一つだった。
エンドーヴァー夫人の離宮も例外ではない。
花壇には様々な花が植えられ、色彩豊かな華麗な絨毯《じゅうたん》をつくっている。灌木《かんぼく》についた小さな蕾《つぼみ》はもうしばらくすれば甘い香りを発するだろう。こんもりした生け垣とつる薔薇《ばら》のアーチが外の風景を遮《さえぎ》って、こぢんまりと居心地のいい空間をつくりあげている。
エンドーヴァー夫人は夜会や芝居見物よりも外に出て土をいじることを好み、暇さえあれば庭に出ていた。花壇に植えられている花も庭師に頼んで取り寄せてもらい、自分で移植したものである。
服や宝石にはあまり興味もみせず、本宮へ入れて欲しいという願いの他はおねだりなどしないエンドーヴァー夫人が唯一望んだのが、好きなように庭をつくりかえることだった。
今も長いスカートをものともせずにしゃがみ込んで草をむしっていたかと思うと、赤い小さな花をふんだんに咲かせている薔薇のアーチを眺め、曲がりくねったつるの中に鋏《はさみ》を入れた。
「今ごろ、枝を切るの?」
突然かけられた声に夫人は驚いて振り返った。
生け垣の間から少年が覗いている。頭はぼろぼろの切れで覆《おお》い、その顔も埃だらけだ。好奇心に輝く眼で夫人のすることを見つめている。
夫人は笑顔になって答えた。
「これは剪定《せんてい》ではないわ。散り掛けの花を切るのよ。
こうするとすっきりするでしょう?」
少年は肩をすくめた。
「わからない。花なんて好き放題に散らせてやればいいんじゃないかと思う」
「あらあら、それではいい園丁にはなれないわよ。
それとも、違うのかしら?」
「うん。園丁はやったことがない」
「気をつけて。そこを踏まないでね。鈴蘭を植えたばかりなのよ」
夫人の花壇の縁を飾るように白い小さな花が房になって咲き群れている。
園芸には無関心な少年もその仕事に敬意を表して注意深く庭に入って来た。
「こういう花もきれいだけど、山へ行けばもっときれいな花がいっぱい咲いてるのに」
「山? パキラの山のこと? ではあなたは山の民なのかしら」
「まあ、そんなとこ。お姉さんは?」
「私は王の愛妾なの」
『ここの庭師なの』とでも言うようなそっけない口調だった。
少年がちょっと目を見張る。
「愛妾は楽しくない?」
「まさか。そんなことを言ったらばちが当たるわ」
夫人は笑って、間近で少年を見て眉をひそめた。
「あなた、もしかして、女の子?」
「一応ね」
この少年、グリンダ王女である。
イヴンが口を極めて罵《ののし》る夫人の人となりを見ようと思い、剣を外してわざと汚い身なりをしてやってきたのだが、予想外の展開である。
エンドーヴァー夫人は見知らぬ少女の埃だらけの顔や、ぼろきれでくるんだ髪が気になるらしい。鋏を腰に戻して手を伸ばしてきた。
「あらまあ。いくら山の民でもあんまりひどいわ。
せめて顔を洗って、この髪は梳《と》がなくてはね」
「いいよ、そんなの」
まさか薄汚れた身なりの自分に夫人がこれほどの興味と好感を見せるとは思わなかったので、王女は尻込みしたが、夫人はきっぱり首を振った。
「ちっともよくはないわ。男の子だってもっときちんとした身なりをしているものよ。きれいに洗った服より汚れた不潔な服のほうが好きだというなら別だけど、浮浪者や物乞いでもない限りそうした人はいないものよ。あなたも浮浪者と思われたいわけではないでしょう?」
さすがに王女も自分の変装を見下ろした。
「そんなにひどいかな?」
「私があなたのお母さまならすぐさま『入浴、駆け足!』と叫ぶところね」
難しい顔をして言う夫人に王女は吹き出した。
おもしろい人だと思った。
夫人も王女に好感を持ったらしい。大人の女性の余裕と優しさと、少しばかりいたずらっぽさも含んだ笑みを向けた。
「では、決まりね。顔と手を洗った後でお茶もつきあってくれると嬉しいわ。その前にあの枝を切ってしまうから待っていてね」
夫人は頭の上に飛び出している枝を切ろうとしたのだが、手が届かない。諦《あきら》めて脚立《きゃたつ》を持ってこようとした夫人を王女が止め、夫人の膝のあたりを後ろから抱き上げて自分の肩に乗せた。
王女にとっては何でもないことだが、夫人は眼を丸くしていた。
「驚いた。力持ちなのねえ。重くない?」
「ぜんぜん。軽いくらいだ」
あの国王や騎士団長や、時としてガレンスまで持ち上げる王女にしてみれば、羽のようなものである。
夫人は見知らぬ少女の肩に器用に腰掛けながら鋏を使い、刺だらけの枝を切っていった。
「ありがとう。もう少し前に出てくれるかしら?そう、それでいいわ」
「そんなとげとげの枝を掴んで痛くない?」
「こつがあるのよ。握るのではなくて、軽く持つの。
そうすればなんともないわ」
「庭仕事に慣れてるの?」
「ええ。草花を育てるのは大好き。それに私は葡萄づくりの名人なのよ。自分で育てた葡萄でお酒をつくるの。とてもおいしい白葡萄酒ができるんだけど……ここでは無理だわね」
国王の愛妾は酒造りなどしないものなのだ。
散り掛けの花を取り除いてしまうと、蕾と開き掛けの花だけのきれいなアーチになった。
「ね。このほうがきれいでしょう?」
「うーん。きれいと言えばきれいかな」
「あらあら。庭自慢のしがいのないお嬢さんだこと。
いいわ。お茶にしましょうか」
夫人は本当に王女を離宮内に招き、顔と手をよくよく洗わせて、お茶を淹《い》れてくれた。
王女も悪びれずにお茶をごちそうになったが、静まり返った離宮の様子に首を傾げた。
「誰もいないの?」
茶の支度など普通は侍女がするはずである。
「今日の午後はお休みをあげたの。いつも見張られているのでは、私もみんなも疲れるから」
「見張られてる?」
夫人はちょっと笑った。
「そうなのよ。私が愛妾としてふさわしくない振る舞いをするのではないかって、はっきり言えば陛下以外の殿方とこっそり親しくするのではないかって、みなさん心配してらっしゃるのね」
王女は眼を丸くした。
「すごいこと言うなあ……」
「本当のことですもの。今もそこの植え込みの陰に誰かいらっしゃるわ。会わなかった?」
「生け垣を刈り込んでる園丁なら見たけど」
楽しそうに笑った夫人である。
「あの手つきで本物の園丁のはずがないわ。剪定鋏なんて生まれて初めて持ったんでしょうね。帽子で顔は隠しているけど、間違いなく身分のある人よ」
「じゃあ、このぼくも男だと思われてたら困るな」
「困るわね。私、不義密通の現行犯にされてしまうわ」
そう言いながらちっとも困ったような口調ではない。くすくす笑っている。
頭のいい人だと王女は思った。同時に茶目っ気も持ち合わせている、楽しい人だ。
夫人も見張り役以外の話し相手を喜んでいるらしい。変わり者の山岳民の少女とだけ認識したようで名前も尋ねてこなかった。
王女も夫人が喜んで聞いてくれるので、主にパキラ山とそこに咲いている珍しい植物の話をした。
王女には園芸的知識などかけらもないし、興味もないが、見たものは忘れない。夫人は非常に熱心に王女の話を聞いていたが、そのうち、自分も行ってみたいと言い出した。
「パキラヘ? その格好で?」
「だめかしら?」
「無理に決まってるよ。花が欲しいなら取ってきてあげようか?」
夫人は手を打って喜んだが、たちまち真剣な顔になって事細かに指示を出してきた。茎からちぎって来たのでは駄目で、根ごと持ってくること。その際も茎を掴んで引き抜いたりするようなことは厳禁で、花の周りを深く掘って土ごとそっと取り上げること、崩れないように編んだ藁《わら》か何かで固定すれば申し分なく、すぐに移植する必要があるのでできるだけ早く持ってきてくれると嬉しい、等々。
王女は呆れて言った。
「お姉さんは愛妾なんかやめて庭師になったほうがいいんじゃないか」
何の気なしに口から出た言葉は、不思議に夫人の心を揺さぶったらしい。
「そうね。本当に、そうできたらいいのにね……」
たった今まで園芸のことでいっぱいになっていた夫人の脳裏に急に違うものの影が忍び込んだようである。自分の白い手を空虚な眼で見つめている。
しかし、それはほんの一瞬だった。人好きのする笑顔になって首を振った。
「やっぱりやめておくわ。庭師より愛妾のほうが格段にお給料がいいんですものね」
王女はまた呆れ顔になって、疑問の口調で訊いた。
「お給金がいいから愛妾をしてるの? 王様を好きだからじゃなくて?」
若草色の眼に暖かい、懐かしそうな光が浮かぶ。
「あの方を嫌う女はいないわ。おおらかで気持ちのいい、本当に可愛い方よ。昔からそうだった。今も少しも変わっていらっしゃらない」
「答えになってないよ。好きなの?」
「ええ。もちろんよ」
なごやかな表情だった。
しかしその眼は現在の国王ではなく、スーシャの森にいた若い騎士を見ているように王女には思えた。
夫人の見ている『昔』を王女は知らない。逆に王女の知っている『今』をはたして夫人がどのくらい知っているのかは疑問だった。
王女自身にも言えることだが、王宮にいるときのあの男から戦場での姿を想像することはできない。
昔はただの純朴な青年だったとドラ将軍は語っていた。今もその人柄に変わりはないと言えばそのとおりだ。しかし、環境と経験があの男を鍛えた。今のあの男は列強と互角に渡り合い、頭の固い重臣達を手懐《てなず》けて味方に取り込む明敏さとしたたかさを身につけている。
ただ、それを夫人の前では決して見せないだけのことだ。
「さ、今度はその髪をなんとかしなくてはね」
王女は慌てて立ち上がった。ぼろ布の下にはあの額飾りがある。いっぺんで正体がばれてしまう。
「今はいいよ。汚れてるし。もう帰らなきゃ。今度花を持ってくるから、その時とかして」
夫人はにっこり笑った。
「いいわ。でも、花が手に入らなくてもきっとまた訪ねてちょうだい。うんと素敵に結ってあげる」
お茶の礼を言うと、王女は釈然としない思いで夫人の離宮を後にした。
どうにも妙だった。あれは口汚く罵られるような人間ではない。イヴンが何か考え違いをしているのではないかと訝しんだが、あの男は滅多なことでは判断違いなどやらかさない。
イヴンを捕まえて詳しいことを問いただそうにも、あの様子ではこちらの知りたいことを聞き出すのは難しい。
一方、珍しいほどの判断違いをやらかしたのが、国王と宰相である。
タンガの求婚に関して内密にすませようというのがそれだ。二人とも予想外の事態によほど慌てていたのだろう。だいたい秘密というものはそれを知る両者が口を閉ざさなければ守れるはずがない。
タンガからの使節は当然のことながら、この縁談を秘密にする必要などまったく感じていなかった。
そしてまた外交官は他国に顔が利くことを最低条件とする。プレスコット侯も例外ではない。何度もデルフィニアを訪れている彼には城内に多くの知人がいるのである。
本宮で一度、住居に貸し与えられた離宮を訪ねてきた友人に一度、ナジェック王子とグリンダ王女の縁談をまとめるために来たのだとプレスコット侯は語り、それで充分だった。
コーラル城はちょっとした街くらいの広さがあり、王侯貴族から水仕事に働く少女まで住み暮らす人も様々である。その広大な範囲を噂話は電光のごとく駆け抜けた。翌日の太陽が沈む頃には、二の郭より上の区域でこの話を知らないものはないほどの有り様になったのである。
その中で、シェラはもっとも遅く知った人の一人だった。
王女に夕食を食べさせた後、用事を思い出して本宮まで降りてきたところを顔馴染みの娘達に呼び止められたのである。
夜更けのことで娘達は声こそ低くしていたが、興奮を抑えかねている様子で、聞き取るのが難儀なほどの早口で一斉に喋り、ようやく話を呑み込んだシェラは唖然として問い返した。
「姫さまがタンガの王子さまとご婚約を……?」
さすがに驚いたが、考えてみれば王女も十六歳、当たり前のことだ。城づとめの侍女達はすっかり舞い上がっていて、あれこれと話してくれた。
「そうなのよ! ご使者は城内にとどまって陛下のお返事を待っていらっしゃるの。あんな変わり者の姫さまだから陛下もお返事をためらっていらっしゃるんでしょうねって私達みんなで噂してたのよ」
「こんないいお話を断るはずがないもの。姫さまがタンガ王妃になることは間違いないわ。そうしたらあなたは王妃さま付きの女官になるのよ!」
別の娘が心配そうな顔で言う。
「でも、タンガは遠い山国よ。もうシェラに会えないかと思うと寂しいわ」
「大丈夫よ。まずはあの姫さまを少しはそれらしく、ご教育しなければならないもの」
娘達はころころと楽しげな笑い声を上げた。
「本当に。今のままではタンガの人達が腰を抜かしてしまうわ」
「なんでも、カリンさまも宰相閣下も、すぐにでもお后教育を始められるように先生を捜し始めたんですってよ」
そんなことは絶対にあるはずないのだが、そこが噂話の恐いところだ。
シェラはまだ呆然としながら問い返した。
「先生って、何の先生?」
「あら、もちろん会話やお作法や、詩歌音曲《おんぎょく》やダンスの先生よ」
「タンガは殺伐としたお国柄でも、ゾラタス国王は華やかなことがお好きなのよ。舞踏会などはそれはもう盛大に催されるのですって」
「だから姫さまは少なくとも舞踊とたしなみごとは完璧に身につけていかれないと、苦労なさるわよ」
目眩《めまい》がしてきた。
あのグリンダ王女がドレスに身を包み、儀典言葉を駆使して詩を詠み、優雅な舞を披露する?
虎に芸を仕込むほうがまだ易しい、もしくは馬にダンスを教えようとするほうがはるかにましだ。
どうにか次期王妃として見られるようにするまでにはさぞ手間暇がかかるだろう。恐らく自分もそのお后教育に一役買わなければならないはずだ。
聖霊の命令とはいえ難儀なことである。
西離宮へ戻ってみると、王女と顔馴染みの戦士が雑談していた。入れ違いに上がってきたらしい。
男はシェラを見ると話の内容の説明もせずに同意を求めてきた。
「おお、いいところに帰ってきた。この王女さまに言ってやんな。男同士には女にはわからない仁義ってやつがあるんだってな」
王女はシェラを眺め、イヴンに視線を戻した。
「これ、男のうちか?」
「そういうてめえはほんとに女のうちかよ?」
「違うって何度も言ってるじゃないか。女のうちに入らないなら教えてくれたっていいだろう」
「それとこれとは話が別だ」
「あ、あの……」
シェラは急いで割って入り、とりあえず王女に祝いを述べた。
だが、おめでとうございますと言われて、王女はきょとんとシェラを見つめ返したのである。
「おめでたいことが何かあったっけ?」
驚いたのはシェラのほうだ。
「ご婚約なさいましたのでしょう?」
「誰が?」
「あなたが」
「誰と?」
「タンガのナジェック王子さまとです」
王女はまじまじと目を見張ってシェラを見つめた。
さすがにシェラも焦った。同時に一気に気まずくなった。
明らかに王女は何も知らなかったのである。
それだけではない。イヴンは素知らぬ顔で酒杯を傾けているが、軽口の応酬をしていたときとは打って変わって王女をはばかる様子である。おまけにその態度には明らかにシェラに対する非難が窺える。
王女の沈黙も奇妙だった。
この人とはつきあいの浅いシェラだが、それでも何やら胸騒ぎがする。
今の王女は昨日の変装をきれいに落として夜目にも煌《きら》めく金の髪をあらわにしている。緑の瞳は物騒なくらいの輝きを放っている。
イヴンは全身で無関係を主張してひたすら黙々と呑んでいたが、王女は鋭い眼でそんな男を見た。
「知ってたか?」
「まあ、な。昨日から王宮中の噂になってる」
「するとおれはタンガの次期王妃になるわけか?」
「我が愛すべき幼なじみがうんと言えばそうなるだろうが、やっこさんの名誉と命の安全のために言わせてもらえばだ、あいつはなんとかこの縁談を断ろうと必死だぜ? なのに向こうさんがどうしてもお前を欲しいと言って引かないんだとよ」
「なるほど」
王女は言って、腰に落とした剣の柄を握りしめて、おもむろに立ち上がったのである。
「あの馬鹿め。今度ばかりはただじゃおかない」
ぎょっとした。王女語録では(イヴンもだが)『あの馬鹿』すなわち『国王』である。
絶句するシェラの横を王女は無言で通り過ぎ、本宮へ向かった。小さな背中から怒りが噴き出さんばかりになっていた。
何がなんだかわからず立ち尽くすシェラにイヴンが呆れたように言った。
「あほう」
「……!」
言い返そうとしたシェラは男の顔を見て言葉を呑み、深いため息をついた。
「私は何か、まずいことを言ったようですね」
「最悪だ。熊ん蜂の巣を持ち上げて玉座に投げつけるくらいにまずいぞ」
男は最高に苦い顔である。
「まさかあいつに面と向かって婚約おめでとうございますなんてやる命知らずの馬鹿は一人もいないと安心してたんだが、お前を忘れてたぜ」
「お申し込みがあったのは本当のことです。申し分ないお話だと、陛下は必ずこのお話をお受けするに違いないと下では噂しています。王家の姫が他国に嫁いで王妃になるのは当然ではありませんか」
「間違いその一、ウォルの奴は絶対にこの話を断る。
その二、リィは絶対に嫁に行ったりしない。そんなことのためにあいつはここにいるんじゃない」
シェラにはわからなかった。
タンガの申し出は王女にとってもいい話なのではないかと思うのだ。単なる養女の身分から王位継承者の正室になれるのだから。
しかし、男は碧い眼にからかいと哀れみにも似たものを浮かべて立ち上がった。
「さてと。仲裁に行ってくるか」
「仲裁?」
「おうよ。逆上したリィが相手じゃ、いくら頑丈なあの馬鹿でもちと分が悪い。俺も一応国民の端くれだからな。国王が大怪我をするのを黙って見ているわけにはいかないだろう?」
再び唖然とするシェラを置いて、男は王女の後を追っていった。
ここはつくづくわからない王宮である。
シェラはあらためてそう思った。
イヴンの心配は幸い杞憂《きゅう》に終わった。
この夜、国王はお忍びで城を抜け出して魔法街を歩いていたからである。
縁談を断るうまい口実がどうしても見つけられず、王女から聞いた『本物の魔法街』を頼ってみようと思いついたのだ。
本当なら道案内に王女を連れてくるべきなのだが、まさかその前でこれこれしかじかなのだがと相談を持ちかけるわけにはいかない。
とりあえず出かけてみて首尾よく会えればよし、会えないとしても気持ちのいい夜である。散歩がてらに外側の魔法街だけでも見ておこうと思ったのだ。
街はしんと静まり返っていた。住民が寝入ってしまっているわけではないのは気配でわかる。暖かい陽気なのに窓は閉め切られ、隙間から明かりがこぼれている。それでいて夜道には猫の子一匹通らない。
がらんとした通りを国王は注意深く進んでいった。
危険は感じなかった。それどころか散歩道としては申し分ないと思った。
国王は今までにも時折そっと夜の城を抜け出して、一人の散策を楽しんでいた。激務の間のせめてもの気晴らしである。
魔法街は噂に聞いたとおり複雑に入り組んだ迷路のようで、歩いていても少しも退屈しなかった。少し霧が出ているのも好都合である。当初の目的を半ば忘れて、国王は乳白色に煙る町並みを楽しげに探検していた。
薄い霧の作用で壁と地面の区別がつかなくなった街路地を曲がる。すると、今までとは趣の違った道路が現れた。
曲がりくねっているのは変わらないが、霧の向こうまで緩やかに長く伸びている。
ちょっと驚いて立ち止まった。
狭く雑然とした魔法街には不似合いな通りに見えたからである。
いささか飛躍するが、これが王女の言っていた魔法街の入り口だろうかとの考えが脳裏をよぎった。
しかし、問題の道は建物をくり抜いた道の先にあったという。いくら霧が出ているとしても建物の下を潜ったかどうかわからないほどではない。そうした場所は一度も通らなかったと自分に断言できる。
やはり似ているだけで別の場所かと思った時、かすれた声が聞こえた。
「もし、お客様」
声をかけてきたのは道のはしに小さな机を置いた、頭から黒い布をすっぽりと被った易者だった。
国王はすっかり嬉しくなって、わくわくしながら易者に声をかけたのである。
「お主が道案内の骸骨か? すまんが、その頭巾をちょっと上げてみてくれんか」
黒頭巾の易者は肩を落としてため息をついた。
「違ったか? ならばすまんが……」
「いえ、手前は確かに案内役でございますが……」
「ほほう?」
「そこまで楽しげにおっしゃられますと、いささか拍子抜けというやつを起こしまして……」
「これはすまなんだ。驚いてみせねばいけなかったのだな」
あくまできまじめに答える国王である。
骸骨は再びため息をついて、国王の所望通り顔を上げてみせた。
人骨の十や二十で驚く国王ではないが、しゃんと座ってこちらを見上げるしゃれこうべは初めてである。ぽっかりと開いた黒い眼窩《がんか》を覗き込んだ時にはさすがに胸が騒いだ。
「あらかじめ知っていても充分に恐ろしいな。何故そんな姿になった?」
「はあて。なぜでしょうかな。いつごろからかここでこうして皆様の道案内を務めております」
「ならば訊こうが先日、俺の義理の娘がここへ来た。
間口に獅子の紋章を描いた家に住む老婆を訪ねたと言っていた。同じ所へ行きたいのだが……」
「でしたらそこにございます」
驚いて振り返ってみると、霧にかすむ通りの反対側に、確かに獅子の紋章を描いた小さな木戸がある。
「これは面妖な。娘の話ではかなり歩いたそうだぞ。
別の家ではないのか?」
「いいえ。間違いなく同じ家でございますよ。お忘れなさいますな。ここは魔法街、真の魔法街でございます」
どんな不思議もここでは当たり前、そういうことなのだろう。
それならここへ来るときに建物の下を通らなかったのも頷ける。恐らく入り口は一つではなく、その時々に応じて『表の魔法街』の様々な場所が開くような仕掛けになっているのだ。
国王はそれで納得して小さな木戸を叩いた。
返事はなかったが、押してもいないのに扉が開き、聞いていたとおりの内部が見えた。入り口は土間になっていて左手には至る所にものを積み上げてある小さな部屋、床にしつらえられた炉とその向こうにちんまりと腰を下ろしている老婆まで、話に聞いたとおりだった。
ゆっくりと鍋をかき回している老婆は顔を上げもしない。扉が開いたとはいえ、国王は礼儀正しく問いかけた。
「お邪魔してもよろしいか」
「いいや、もうしばらくそこに立っていていただきたいな」
丁重な問いかけに対する予想外の答えに国王は面食らい、老婆は含み笑いを洩らした。
「じきに別の客人がやってくる。王を粗略にするつもりはないのだが、あんな火の玉に乱入されたのでは、この小さな家がもたぬのでな」
嫌な予感がした。
「賢者どのの言われる火の玉というのは、もしや」
「婆でけっこう。さよう、烈火のごとく怒っておる。
婚約の二文字はよほど王女の癇《かん》に触ったと見えるな。
この街の術者全員が飛び上がりそうな気の力じゃ」
天を仰いだ国王である。
「こんな場所から無礼は承知でお尋ねするが、俺が袋叩きにされずにすむ方法をご存じなら、ぜひともご教授願いたい」
「王ともあろうお人が弱気な発言じゃな」
「仕方がない。王女の位など邪魔だと嫌がったのを俺が無理に押しつけた。まさかタンガがあんなふざけた申し出をしてくるとは思わなかったからな」
「ふざけてはおらんよ。連中は大真面目じゃ」
居間に座った老婆は低く囁《ささや》くような声で話しているのに、その言葉は間口に立っている国王にもはっきり聞き取れる。
「連中が何故王女を欲しがるか、おわかりかな?」
「いいや。さっぱりだ。わかるのならそれこそ教えてもらいたい。ゾラタスが気の迷いを起こしたのでないとしたら、そんなはずはないと俺は確信しているが、あの娘を自国に迎えて何の得になる?」
「おおいにあるとも。王がタンガをどのように思っているのか試すことができる。同時に王から王女を引き離すこともできる」
いつ王女が現れるかと背中を気にしていた国王だが、真顔になって老婆を見た。
「……それはまた、恐ろしくふざけた話だ」
「さよう。しかし、狙いは正しい。王はご自分で言うように王女を迎えた一件に引け目を感じているが、連中はそんなことは知らぬ。素性の知れぬ娘を拾い上げて王女の位を与えたとなれば、娘は父となった国王に心からの感謝と忠誠を誓い、王は娘に対して絶対の命令権を持つのが普通じゃ。その素性の知れぬ娘を隣国が次期王妃に迎えると言い出したのじゃ。
もし王が両国の間に波風を立てたくないと思っているなら必ず差し出すはず。そう計算したのだろうよ。
現に王は返答を保留して袋叩き寸前なのじゃろ」
「慧眼《けいがん》おそれいる」
間口に立ったままではあったが、国王は微笑して頭を下げた。
「何が恐れ入るんだって?」
ぎくりとして振り返れば、まさに黄金の炎の塊のような王女が立っていた。左手はすでに剣の口を切り、すぐにも抜き払おうかという体勢である。
「リィ、待て。こんな場所で暴力はいかん」
王女は聞いていない。爛々《らんらん》と眼を光らせて言った。
「どこかの馬鹿がおれを嫁にくれと言ってきたそうだな」
「うむ。開いた口がふさがらんとはこのことだ」
「それならどうしてさっさと断らない!」
「俺も断りたい。しかし、どれほどばかげた言い分でも一国の正式な申し出には違いない。できるだけ穏便に、平和的に断らねばならん。俺が当たり前の父であり、相手が市井《しせい》の若者であれば、おととい来いと罵って水でも浴びせてやるところだが、プレスコット侯を相手にそんなことをしたら即座に戦だ。
ゾラタスは待ってましたとばかりに軍勢を進めてくるだろう。断るにしてもよほどうまく断らんとあの男のことだ。面子《めんつ》をつぶされたとか何とか因縁をつけてくるだろう。これまた戦だ。そんな事態だけは避けねばならん」
これだけ平然と言い返すところはさすがである。
気勢をそがれた王女は舌打ちして言ったものだ。
「お前、最近妙に口がうまくなったな」
「当然だ。これでも国王だぞ」
「それさえ言わなきゃいいんだ」
炉端に座ったままの老婆が低く笑った。
「二人とも、気がすんだならこちらへきて座ったらどうじゃな。いつまでも戸を開け放していられるとわしが困る」
苦い顔をしながらも王女は居間へ上がり、国王が後に続いた。特に国王はそこら中に積み上げてある書物を崩さないように気をつけながら入ってきた。
そうして大きな体を何とか炉端に収めて、老婆に対して頭を下げた。
「先日はありがたいご助言をいただいた。この通り、お礼申し上げる」
「これはこれは……義理堅いお人じゃ」
「その上であつかましくお願いするのも気が引けるが、申し上げたとおりほとほと困っておるのだ。何とか助けてはもらえんだろうか。タンガとの間に波風を立てるわけにはいかんのだ」
「王よ。波風はとうに立っておる」
国王も王女も驚いて老婆を見た。
「王にそのつもりがなくとも隣国が強大になるのを喜ぶ王はおらん。ゾラタスのような王であればなおさらじゃ。三年前の内乱からの奇跡的な立ち直り、その後の順風に帆を上げる復興と繁栄ぶり、それだけで充分な驚異であり、王を警戒する理由になるんじゃよ。だからこそ、この縁談を持ちかけてきた」
王女が何とも言いがたい顔で訊いた。
「するとゾラタスはおれがウォルの王権維持に一役買っているというあの与太話を信じているわけか」
「少なくとも信憑性《しんぴょうせい》はあると判断したのだろう。
でなれけばこんな馬鹿な申し込みはせんよ。ゾラタス王はこれまであの手この手で王女を亡き者にせんとしてきたわけだが、どれも王女の強運と頑丈ぶりを確かめるだけの結果に終わっておる」
驚いたのは国王である。
「ゾラタスがリィに刺客を放ったと?」
「いかにも。王女はどこぞのちんぴらが襲いかかってきたものと気にも留めずにいたようだが……何度ほどか覚えておいでかな?」
王女はちょっと考えた。
「この一年で五、六回はあったかな?」
「それだけ仕掛けて失敗が続けば、どんな愚か者でもただの娘ではないと思うだろうよ。王女が側にいる限り、王には上昇気流が吹き続ける。何とかして引き離さねばならない。しかし、暗殺することは難しい。それなら手に入れてしまえばいい。実に合理的な判断じゃ」
王女は唖然として言ったものだ。
「……ひょうきんな王様ってウォルの他にもいるんだな」
「馬鹿な! どこがひょうきんなものか」
国王が稔るように言う。王女はそんな国王に訝しげな眼を向けた。
「おれがいるから王権を維持できるなんて思われて、お前、平気なのか?」
「そんなことを言っているのではない! わからんのか。連中はお前を后に迎えて暗殺する気だ!」
王女は愕然として眼を剥いた。
「妙だと思っていたのだ。ゾラタスは俺に対して好意的な感情は持っていない。お前が俺の実の娘なら人質として使えるだろうが、それもない。しかもナジェックは二十二歳になっている。こんな縁談を不満に思わなかったはずはない。父王の圧力に屈したのだろうと思っていたが、では何故ゾラタスはそこまでお前を欲しがるのか。どうしてもわからなかったが最初から殺すつもりの縁組なら納得がいく。他国でこそこそやるから失敗するのであって、手元に取り込んでしまえばどうとでも料理ができる。次期王妃の座もすぐに空《あ》くのだからナジェックには今度こそ良家の姫を与えて子どもを産ませればいい」
呆気にとられた王女はしばらくものも言えなかった。ようやく叫んだ。
「……おれを始末するのにそこまでやるか!?」
「あの男ならやるだろう。障害があればどんな手段を使ってでも取り除き、目的を果たす男だ。お前とナジェックとの婚儀を済ませたその日に俺に宣戦布告しても少しもおかしくない、そういう国王だ」
邪魔者は取り除いた。ウォル・グリークを守っていた奇跡の娘は掌中に落ちた。今こそ戦を仕掛けてくれる。そうすれば娘の霊験がどのくらいのものか、嫌でも確かめることができる。
「それが本当の狙いか」
「間違いあるまい。しかし……」
国王は苛立たしげに頭を振り、膝を打った。
「参った。いったいどう断る? 下手に扱えば戦の口実を与えるだけだぞ!」
「さよう。タンガの言い分だとこうなる。我が国はデルフィニアと同盟を結ぼうとし、両国の絆をさらに深めんとしてグリンダ王女をナジェック王子の后に迎えたいと申し出たにもかかわらず、答えははなはだ芳しくないものだった。他にお相手があるならまだしも、同盟の証として持ちかけた縁談を拒否するとはまことに遺憾である。これすなわちタンガに敵対する意志があるものと判断する」
「こじつけもいいところだ」
王女が捻ったが、国王は重々しく首を振った。
「こじつけだろうと何だろうと、筋は通っている。
世間はタンガの言い分を支持するだろう。王宮内でこの話を断ろうとする俺に対する非難が続出しているようにな。そのくらい受けて当然、それどころか受けなければならない縁談だ」
王女は忌々《いまいま》しげな舌打ちを洩らした。
だから王女なんか嫌だと言ったんだと顔に書いてあったが、さすがに口にはしなかった。
向こうが戦を仕掛けたくてうずうずしているならいっそのこと受けて立つのも一つの手だが、準備が整っていない。さらには戦端を開くにも駆け引きがある。向こうは悪であり、こちらが正義であるという道理を(へりくつでもかまわないが)立てなければならないのである。
今の状況でデルフィニアがタンガに宣戦を布告すれば、世間はタンガの味方をするに決まっている。
王女は険しい顔で老婆を見た。
「おばば。何とかならないか」
「方法がないこともない」
「ほんとか?」
老婆は一度も声を荒らげたりせず、悠長な手つきで鍋をいじっている。その動作と同じくらいのんびりとした口調で言った。
「王女には先約があることにすればよい」
これまた眼を剥いた王と王女をよそに老婆は淡々と続けた。
「もちろんタンガの王位継承者を袖にするからにはそれなりの相手でなくてはならん。ここが問題じゃな。臣下では不可、小国の王子でもまずい。しかし幸い、王女の結婚相手として誰もが納得する申し分ない人物がいる」
「どこに?」
「わしの眼の前に座っておる」
国王も王女も唖然とした。
何とも言いがたい顔をゆっくりと見合わせると、二人して身を乗り出した。
「気でも違ったのか!?」
「名案だ!」
すかさず殴りつけてきた拳を間一髪で防ぐところはさすがである。だが、見た目は少女の拳でもその怪力は保証付きだ。国王はとんだところで汗だくの力比べをするはめになった。
「怒るな! 口実に使うだけのことだ!」
「だからお前は馬鹿だというんだ! そんなことを公言してみろ! どんなことになると思ってる!?」
あくまで冷静な老婆が口を挟んだ。
「その場しのぎは無理じゃろうな。タンガとて王と王女が本当に婚儀を上げるのを見るまでは納得するまいよ」
「ほら見ろ!」
「それなら本当に結婚してみせればいい!」
腰を下ろしたままの姿勢で王と王女は渾身《こんしん》の力比べをしていたわけだが、王女が急に力を抜いた。
探るような顔で国王を見た。
「何だと?」
「式を挙行すればいいだろうと言ったんだ」
老婆の眼の前で二人はずいぶん長く見つめ合い、もとい睨み合った。
王女はやがて恐ろしく疑わしげな声で低く尋ねたのである。
「念のために訊くけどな、誰と誰の結婚式だ?」
「俺とお前のだ」
断言して、壮絶な殺気を帯び始めた王女の目線に気づいたのか、国王は急いで言い足した。
「勘違いするなよ。あくまで形式上の結婚だ」
王女は長いため息をついて、金の髪をくしゃくしゃにかきむしった。
追い打ちをかけるように老婆がやんわりと言う。
「身分の低い娘が見初められて高い地位につくのは珍しい話ではない。ま、王女の場合は寵姫ではなく養女になったところが変わっているが、当時王女は十三歳じゃった。そこで一時的に娘ということにし、このたびあらためて正室に直すことにした。そう言われてしまえばいくらタンガが強引でも諦めるしかなかろうよ」
「うむ。まさにそのとおりだ」
「いったいどうしてそういう話になるんだ!」
憤然と叫んだ王女である。
「ウォル! おばばもだ。もうちょっと真剣に考えたらどうなんだ!」
「わしは真剣じゃよ、王女」
「俺もだ。お前を手放すわけにはいかん。暗殺されるとわかっているならなおさらだ」
「それならおれがタンガに出かけていって逆にそのナジェックとかいうのを暗殺してきてやる。それでめでたしめでたしだ」
本気で言うから恐い。
なおまずいことに、やると言ったら本当にやる人だ。
タンガのケイファード城がどれだけの警備を誇るとしても、難攻不落のコーラル城に自在に忍び込む王女にかかったら遅かれ早かれ陥落することになる。
国王は腕を組んで考えた。
「絶対に身元がばれんのならそれもいいかもしれんが……冗談だぞ?根本的な解決にはならん。一方この俺もいつまでも独身で通すわけにもいかん。誰も俺には言わんが、恐らく子爵夫人の一件もそうしたことが問題なのだろう。王妃がいれば他に愛妾を何人持ったところで奥向きの乱れがどうとかいう騒ぎにはならんからな」
確かに女官長や宰相は夫人が王妃としての権力を持つことを心配している。
「しかし、その王妃をどこから娶《めと》るかが大問題だ。
大華三国と言われるようにデルフィニアは中央の大国だ。辺境の列国や小国の姫君では到底つりあわん。
かといってタンガやパラストからもらうのだけは避けたい。俺の実父はそれで苦労したからな。その点、お前なら好都合だ」
王女は物騒に笑って言ったものだ。
「話を聞いているといいことずくめに聞こえるけどな。致命的な欠陥があるぞ。子どもはどうする?」
「誰もお前に産んでくれとは言わん。俺もまだ死にたくないからな」
真剣そのものの顔で断言する国王である。
「国王の子を産みたがる女は大勢いる。この俺とて妾腹の生まれだ。お前にしたところで王女と呼ばれていたのが王妃になるだけのことだ。もっとも儀礼祭典の際だけは一応身なりを整えて顔を出してもらうことになるかもしれんが、わずらわしいことと言えばそのくらいだ。それにお前はいずれは自分のいたところへ帰るのだろう。それまでのわずかな間だ。
悪い考えではないと思うが」
王女は深いため息をついた。
この男はつまり偽装結婚をすればいいと言いたいらしい。
確かに悪い話ではない。どうせ型破りの自分であり国王である。王妃に直したところで世間はああまたかと言うくらいだろうが、王女は首を振った。
「外部の連中はともかく宮殿のみんなが偽装結婚を納得してくれるわけがない。女官長や侍従長と顔を合わせるたびにお世継ぎはまだですかとせっつかれるのはごめんだ」
「そこまで直截《ちょくせつ》には訊いてこないと思うが」
「とにかく。気分の問題だ。今はこんな体でも形式上でも男と結婚なんかしたくない」
老婆が相変わらずやんわりと言った。
「王女よ。お前さまは今少しご自分の値打ちというものを省みねばならぬ。前にも言ったが、表の魔法街にいる半端な術者でも王女がただの人でないことくらいは見抜くのじゃ。裸一貫で追放された国王を再び王座に導き、さらなる繁栄をもたらした奇跡の娘を世の人が放っておくはずはない。神々に祈るよりお前さまを側に置いておいたほうがよほど御利益があると聞かされればなおさらじゃ。ゾラタス王はたまたまもっとも早く、いささか違う目的で行動を起こしたわけだが、この先、王女を欲しいと言ってくる連中は増加の一途をたどるだろうよ」
「それは予知か、それとも予言か?」
「単純な推測じゃよ。なぜと言って王女は若く美しい未婚の娘じゃ。手に入れようと思うのなら結婚を申し込むのが手っ取り早い。王女は自分は女ではないと言うのだろうし、このばばにもわかっておることだが、眼に映るものしか見ない連中にそこまで見抜けと言うのは無理な算段じゃ。皆、お前さまを手に入れたならば丈夫な子どもを産ませよう、もしくは夜伽《よとぎ》をさせようとしか考えまい。ならば、この王を選びなされ。少なくともお前さまが当たり前の娘でないことはいやというほど呑み込んでいるお人じゃ。おもしろい夫婦になるだろう」
「かたじけない」
国王は微笑して、老婆に向かって頭を下げた。
「賢者どのにはこの娘の真の姿が見えるのか?」
「いいや、王女にかけられた術はわしらのそれとは根本的に違う。跡をたどることもできんが、今の姿が王女の持って生まれたものでないことくらいはわかる。何より王女には女の気配というものがまるでない」
「あってたまるか」
仏頂面《ぶっちょうづら》で言い返す王女の横で国王が笑いをかみ殺している。
「まあいい。これでプレスコット侯に言い訳が立つというものだ。相手が俺ではまさか破談にしろとも言えんだろう」
王女はもう何を言い返す気力もないらしい。げっそりした顔で立ち上がった。
「邪魔したな。おばば。これ以上話していたら頭がおかしくなりそうだ」
さっさと出ていく王女を国王は苦笑しながら見送り、老婆に向き直った。
「騒がせてすまなかった」
「まったく台風のようなお人じゃの」
文句を言いながらも老婆も笑っていた。
「次はもう少し穏やかに来ていただけると助かるな。
でないとまたこうして家ごと出て参らねばならぬ」
「すると、やはり……この家はいつもはもっと奥にあると?」
「さよう。あの状態の王女を街の奥へ迎えたのでは住民が眼をやられるのでな」
「眼を?」
「さよう。わしらは王がものを見るのとは別の眼を持っている。王とて太陽をまともにごらんになれば目が眩《くら》むだろうが、怒りに身をまかせているときの王女の放つ光は物凄い。目眩《めまい》どころか火傷を負いかねぬのよ」
「……」
「あれは、そういうお人じゃ」
王はここへ来てようやく不思議の世界の住人と相対している実感が湧いてきたらしい。自分の三分の一ほどの大きさしかない老婆を畏怖の眼で見つめ、かたちをあらためると、あらかじめ用意の砂金を詰めた革袋を取り出して手を突いた。
「いろいろとご面倒をおかけした。こんなものでは礼にならぬかもしれんが受け取っていただきたい」
老婆も杓子《しやくし》から手を放し、黒い頭巾の頭を下げてみせた。
「ご丁寧に痛み入る。喜んでいただきましょう」
大金に媚《こ》びたのではない。心を動かされたわけでもない。国王の姿勢に礼を返したのだ。
これほどの人物がどうして世に隠れているのかと国王は不思議に思ったが、それは自分の関与することではない。辞去の言葉を口にして、小さな家を後にした。
外へ出ると、白いもやがふわりとした幕のように顔にかかった。さっきまでとはうってかわって辺り一面真っ白になるほどの濃い霧になっている。
慣れた道ならともかく、これでは右も左もわからない。思わず振り返ったが、たった今出てきた家はすでに消えていた。
眼を疑った。国王の後ろにあるのは単なる壁なのだ。それも老婆の家とはまったく別の建物の壁だ。
覚えず低く稔った。
まさに魔法街である。家に入る前と地形がまるで変わってしまっている。
建物が建ち並ぶ住宅街なのは確かなのだが、霧が邪魔をしているせいもあって、方向がつかめない。
それでもコーラル市内には違いない。とりあえずかろうじて見える道を慎重に進んで行くと、角を曲がったところで王女とばったり出くわした。
「あれ?」
「おお。よかった。道に迷ったかと思ったぞ」
「どうしてお前がおれの前に出て来るんだ?」
「なに?」
聞けば王女は老婆の家を出て、来たとおりの道を帰る途中だったと言うのだ。後に置いてきた国王が先回りできるはずがないのだが、そこはそれ、この街の住人ならではの特技というものだろう。
結果として肩を並べて歩きながら王女は言った。
「そういう便利なことができるなら、いっそ王宮の側に出口を開いてくれればいいんだ」
「うーむ。魔法には素人なだけに何も言えんが……あまり便利なのも考えものだ。夜中にこっそり城を抜け出す楽しみは捨てがたいものがあるからな」
「そんなことを真顔で言う王様がどこにいる?」
「俺は冗談は苦手でなあ。人を笑わせようと思ってできたためしがない」
「おれもだ」
大柄な国王の歩調に少しも遅れず王女は足を運んでいる。いつものことだが、今は表情が硬い。
会話を拒否する気配にもめげず、国王は話を切りだした。
「相手がタンガでは言い抜けは利かん。使節が納得するだけの答えを返さなければならん。それは理解してくれるな?」
「ああ。わかるさ。確かにおれが結婚もしくは婚約してしまうのが撃退法としては最適だってこともな。
だけどどうしてそれがお前でなきゃならない?」
「タンガの次期国王を袖にしようというのだ。俺が言うのも何だが、デルフィニア国王ならば申し分ない当て馬だぞ」
王女が何か言い返そうとして足を止めた。
国王もそれに倣《なら》った。
彼らの行く手、道の真ん中に誰かが立っている。
深い霧に半ば姿をかき消されているが、明らかに二人を待ち受けていたのだ。
禿頭に顎髭《あごひげ》を垂らし、杖を突いた老人である。
「王女。わしを覚えておいでか」
「覚えてる。ブラシアに出てきた幽霊だな」
「幽霊?」
国王が身を乗り出して王女に訊いた。
「あれもさっきの案内役のように死んでいるのか?そうは見えんが……」
「幽霊にも色々いるんだろうさ。何の用だ? また一方的な頼み事はごめんだぞ」
「なんだと。何を頼まれたのだ?」
「お前ちょっと黙ってろ」
「そうはいかん。お前まさか幽霊と自在に話ができるのか?」
「馬鹿言うな。向こうが勝手に出てきて押しつけていったんだ」
「急ぎ王宮にお帰りくだされ」
恐ろしく緊迫した口調だった。
国王も王女も口喧嘩を止めて老人を見た。
肉体を持たない、好《こうこう》々爺《や》の老人の顔が厳しく引き締まっている。
「黒い星が近づいておりまする。あの者に力を貸してやってくだされ」
それだけ言うと老人の姿は霧の中に消えてしまった。二人が慌てて追いかけてもそこにはもう誰もいない。
ただ霧がたちこめているだけだ。
突然のことに王女は舌打ちしたものである。
「いつも言うだけ言って消えやがる。ファロットの幽霊ってのはなんて図々《ずうずう》しいんだ」
驚いたのは国王だ。
「ファロットの幽霊だと?」
王女が手短に事情を説明すると、国王は固い顔になって踵《きびす》を返した。
「戻るぞ。あれがファロットの幽霊なら、あの者というのはお前の侍女のことだ」
もとの素性が刺客だろうと、コーラル城内にいる者に危機が及ぶとなれば見過ごすわけにはいかない。
それが王の信念だった。
王女も頷いて足を速めた。あの少年は決して弱くない。弱くないどころか刺客として一流の腕を持っている。なのにお守り役が現れて力を貸してやってくれと言う。
胸騒ぎがした。
同時に、黒い星という言葉が気になった。
西離宮に一人残ったシェラはまだ起きていた。
主人が帰ってこないからといって召使いが先に寝てしまうわけにはいかないのである。
初夏を迎えた西離宮は深夜に近くなってもどこかなまめいて気持ちがいい。窓を開け放ち、蝋燭《ろうそく》の明かりで縫い物をしていたシェラはふと顔を上げた。
何がどうというのではない。物音がしたわけでもない。眼を凝らしてみてもいつもと同じパキラの山であり、ルブラムの森だ。
狼はおもしろいもので、王女がいるときでなければここへは現れない。それでもなんだか気になって、縫い物を置いてテラスへ出てみた。
やはり何も異常はない。
軽くため息をついた。神経過敏になっているのだろうかとも思った。思えば聖霊の指示があるとはいえ、戻る里を失った身である。彼らが次の指示をくれなければ自分は永久にこのままだ。
それが嫌だというのではない。一生を一つの任務に捧げた行者だって大勢いるのだから。
ただ、不安だった。どうして里は破棄されたのか。
どうして聖霊は自分の身柄を王女に預けたのか。
何もかもわからないことだらけである。
シェラは今まで『わからない』と思ったことがない。何か疑問に思うことがあると近くにいる大人に尋ね、彼らは打てば響くように明快な答えを返してくれたからである。
なのにここには答えをくれる人がいない。
もう一度あの方々に会いたいと思っても、それは自分の自由になることではない。
シェラはため息をついて部屋に戻ろうとした。
「死なないのか」
反射的に振り返る。袖の中に常にひそませている投げ針を掴んで投げようとしたところで行者特有の黒装束が眼に入った。
エブリーゴの郊外でシェラと戦い、圧倒的な力を見せつけた男がそこに立っていた。
息を呑むほどの美貌《びぼう》とそれを裏切る酷薄な目線もあの時のままに、じっとシェラを見つめている。
「ダリエスは破棄された。お前は何故死なない」
相変わらず要点しか言わない男である。
しかし、二度目の邂逅《かいこう》である。シェラも冷静に言い返した。
「その前にお前が何者であり、何故ここに現れ、何故そんなことを尋ねるのか、答えてもらおう」
男は形のいい唇を吊り上げて笑った。
「ずいぶん無駄なことを訊く。命令者を失ってなお生きているお前は裏切り者だ。俺はその始末をしにきたまでのことだ」
「裏切り者? 私が!?」
「そうとも。そう教わらなかったのか? お前を教えた導師も宗師も戻るべき里ももうこの世にはない。
なのに何故生きている? お前は後を追わなければならない。お前の心はそう叫んでいるはずだぞ」
シェラは身構えたまま青ざめる自分を感じていた。
もっとも恐れていたことを面と向かって突きつけられたのである。
男はさらに言う。
「聖霊はお前のところに来なかったのか?」
これでシェラは力を取り戻した。
「いらしたとも。いらして王女に従うようにとおっしゃったのだ。だから私はこうして……」
生き恥をさらしているのだ。子どものころから骨身にしみるほど叩き込まれた教えに背いているのも、そのためだ。
だが、男の表情は変わらない。
「そいつらは違う。ダリエスの処分は連中にも通達済みだ。生き残りがいたらさっさと死を選ぶように説得しろと指示してある」
唖然とした。
男の言葉が頭の中でぐるぐる回っていた。
至高の存在であるはずの聖霊をこともあろうに連中とは、しかも、指示をするとは。
あまりのことに攻撃の構えが崩れ、腕がだらんと落ちた。そのことにさえ気づかなかった。
「……お前は頭がおかしいのだ。狂っているのだ!誰があの方々にそんなことを指示できる!?」
「ファロットの長老達に決まっている」
再び絶句した。
それがお前の素性だと聞かされても無意識に拒否していた名前だった。二度と聞きたくなかった名前だった。これほど平然と聞かされるとは思ってもみなかった。
細かく震えているシェラを無視して、男はさらに平然と言う。
「ファロット一族など知らないと言うのだろうな?当然だ。末端構成員のお前は聞かされていないはずだからな」
「聖霊と一口に言っても色々いる。お前が出会ったのは上層部に非協力的な一部の連中だろう」
「……」
「上の連中はすでに決定を下している。ダリエスは破棄、それに伴い宗師から行者までを一様に処分する。つまりお前はそうして生きているだけで一族に対する重大な反逆行為を犯していることになる」
それから男が語ったことは王女の推理とほとんど違わなかった。ダリエスも大陸に散っている他の里もすべてそのファロットに属する組織であり、最高指導者に見えた宗師は行者達の育成と仕事の受注を任されているだけの代理人にすぎないという。
「もっとも聖霊の管理だけは上の連中が直接やっている。宗師各人に任せると里によって行者の思想にばらつきが出るからな」
淡々と語る男の言葉をシェラは死にものぐるいの気力を振り起こして遮った。
「待て! それでは生身の人々が彼らを……操っているようにさえ聞こえるぞ」
「そうだ」
「……」
「無知蒙昧《もうまい》な子どもを導くのにこれほど都合のいいものはない。種も仕掛けもない、本物の死霊だからな。あれこそは我らの守り神、絶対の救世主として崇《あが》めてみせ、死んだ人間は皆こうした存在に生まれ変わるのだと教えれば、考えることを教えられていない子どもが疑惑を抱くはずもない。もっとも簡単に禁忌を感じさせずに人殺しを仕込むことができる。
お前の信じていた絶対の至高神は上の連中が選んであてがった、単なるかざりものにすぎぬのよ」
どこか楽しそうな男の言葉である。
「逆にお前の見た連中は本物だ。奴等は間違いなく己の意志を持って現世に留まっている『聖霊』だ。
しかし、『己の意志で判断し、行動せよ』などと教え諭《さと》すような者は危なくて修行者には近づけられん。
上の連中は彼らを牽制《けんせい》し、何かと対立しがちだとは聞いていたが、こうもはっきりこちらの仕事を邪魔してくれるとは困ったことだ。戻ったら上の連中に厳重に抗議せねばならん」
シェラはさっきから大きく喘《あえ》いでいた。全身が冷や汗に濡れ、どうしても呼吸が整わない。
足が震えて立っているのもやっとだった。
「……お前の言っていることが本当かどうかどうしてわかる」
「あの世でお前の宗師に聞いてみればいい。ただし、会うことができれば、の話だが」
男はにやりと笑った。
「ちょうどいい。死んだ者すべてが意識を残せるかどうか、お前の体で試してみるんだな」
これがとどめだった。
ほとんどすがりつくように聞き返した。
「……できないのか?」
「そんなことが誰にでもできるならこの現世は聖霊だらけになっている」
「……」
「ファロット一族には確かに特殊な能力を持つ者が多く出るが、それも百人に一人いるかどうかの割合にすぎん。並の人間なぞ死んだらそれきりだ」
口の中がからからに乾《ひ》上がった。
目の前が真っ暗になる。心臓は肌から飛び出さんばかりの早鐘を打っている。
世界が音を立てて崩れていくようだった。
今まで自分の信じていたものは何だったのか。
何のために修行に励み、働いてきたのか。いや、そんなことより何よりそれが本当なら、自分が命を奪ったあの人達は……。
恐怖がシェラを襲った。
男の言葉はシェラを完全に打ちのめす力があった。
武器など使う必要もない。知りたくなかった、聞きたくもなかった隠された真実、それで充分だった。
庭の木も男の顔もぐるぐる回って見える。地面は大波のように揺れていた。巨大な黒い波がぱっくり二つに割れて、シェラを呑み込もうとする。
暗黒に引きずり込まれ、どん底まで突き落とされそうになったその時、一条の光が見えた。
鮮やかな緑と黄金の光だ。
同時に閉ざされていた眼が開き、遥か彼方が見えた。世界が、真の意味での広い世界が洪水のように流れ込んでくる。
激しく身震いして我に返った。足下は揺れてなどいない。頑丈な大地に自分の足で立っていた。
まだ息が苦しい。頭の中では銅鑼《どら》が鳴っている。
しかし自分のいる場所を見失ってはいない。ここは西離宮のテラスであり、ルブラムの黒い森を背にして死神のような男が立っている。
食いしばった歯の間から言葉を絞り出した。
「……そこまで知っていてなぜお前はファロットの道具として動く?」
「他の生き方が俺達にできるとでも言うのか」
今度は血の出るほど唇を噛みしめた。胸に突き刺さる言葉だった。
男はまた低く笑った。
「生きているからてっきり眼を覚ましたのだろうと思えば、いまだに『人形』のままだったとはな。手間をかけさせてくれる」
鋼のような全身から、シェラのもっとも馴染んでいる気配が漂い始める。殺意とさえ呼べない、命のある者がそこにいるなら無造作に奪っていくだけの無機質な冷たいもの。
端麗な顔にぞっとするような笑みを浮かべて男は言った。
「その分、楽しませてもらおうか」
男の意図は明らかだった。捕らわれたままの獲物を殺してもおもしろくないからと言ってわざと放し、獲物が走り出してから狩ろうというのだ。
相手が動物でさえ残酷の感を否めぬものを、この男は生きた人間で、自分で、試みようとしている。
猛烈な怒りを感じると同時に恐ろしいほど冷静になった自分をシェラは感じた。無益に葬った人々のこともその心の痛みも意識の隅に押しやった。
戦わなければ殺される。それだけが確かな事実だ。
むざむざ倒されてなるかと思った。
シェラは身に備えた刺客としてのあらゆる力を解き放ち、一分の隙もなく身構えて相手に対峙した。
この時初めてシェラは男と対等の位置に立ち、りんとした声で問いかけたのである。
「お前は誰だ」
「……」
「私はダリエスのシェラ。お前は誰だ」
男の唇に微笑が浮かんだようだった。
「レガのヴァンツァー」
頭の中で大陸の地図を猛スピードで検索する。はるか南のマランタもしくはフリーセアに確かそんな地名があったはずだ。
「今はもうない。俺が十七の時に破棄された」
シェラは新たな驚きを持って相手を見たのである。
針の先のように尖らせた神経を、攻撃に転じようとしたその出鼻を完全にくじかれた。
「一年がかりの大仕事を終えて戻ってみれば、村が廃墟になっていた。当時の俺に何が起きたかわかるはずもない。とっさに死ななければならんと思った。
ファロットの教育の真価はそこにある。直接の命令を与えなくても状況をつくって刺激してやるだけでいい。俺の場合はお前のように余計なちょっかいを出してくる聖霊もいなかったしな」
「それならお前は……どうして死ななかった?」
「わからん」
「……」
「何故なのか、いまだに自分でもわからん。心から死ななくてはならんと思ったのだが、何度も心臓に刃を当てたが、たった一突きするだけのことがどうしてもできなかった。あの時は恐ろしかったぞ。死ぬべき時に命を絶てないとは自分には何か致命的な欠陥があるのではないかと悩み、自己嫌悪に陥った。
ばかばかしい限りだろう?」
楽しげな声だった。それでいて鬱屈《うっくつ》している。
シェラは思わず身を引いていた。こんな得体の知れない気味の悪い寒気を感じたことはない。
なお恐いのはこの男の心が理解できるような気がすることだ。自分の中には確かにこの男に感応する部分がある。魂のどこかがそのとおりだと頷いている。
それが恐ろしかった。
「私は、死なない……」
「ほう?」
「生きてみせる。お前と同じものにはならない!」
ヴァンツァーの瞳が気のせいか、初めて微笑んだように見えた。陰のある、それでいて眼が離せない微笑だった。
「いいだろう。始めようか」
つられて頷こうとした。が、その暇もなかった。
黒い一陣の風のようにヴァンツァーはシェラに肉薄したのである。
すかさず飛び退いて建物の中に逃げた。技倆の違いはシェラ自身が嫌と言うほど知っている。まともに相手をしたのでは勝ち目はない。
避けた壁に立て続けに鉛玉が打ち込まれる。その音であらためて相手が強敵であることを思い知った。
ヴァンツァーが使う鉛玉はシェラのものと違って重量型だ。なのにこれほど間断なく投げて来る。
並の修練でできる技ではなかった。
恐らくこの建物の間取りについても調べてあるのだろう。
シェラは暗闇にじっと身を潜めた。
自分もあの男も専門家だ。勝負は一瞬で決まる。
ヴァンツァーは音もなく建物に入って来たが、それ以上は動かず、その場にたたずんでいた。
シェラが動くのを待つつもりなのである。
先に家の中に飛び込んだシェラは完璧に気配を消していた。ヴァンツァーの体が闇の中に溶け込んでしまいそうな程の時間がたった。
ようやくヴァンツァーが動き始めた。
闇の中に溶け込み、影のようにゆっくりと離宮の中を移動する。むろんどんな小さな物音も逃しはしない。
居間から王女の寝室、戻って来てシェラの部屋とヴァンツァーは大胆に動き回る。どこにもシェラの姿はない。気配もしない。
窓の一つからそっと表に出た可能性もある。
猫のような動きのヴァンツァーが台所へ近寄ったとき、何かが凄い勢いで飛んできた。
シェラが台所の椅子を掴んで投げつけたのである。
背もたれのない丸椅子をまったく感づかれずに投げつけるのだから凄い。修練の第一は気配を絶つこととの教え通り、シェラは椅子を掴んだまま、じっと待っていたのだ。
ヴァンツァーも驚いて体勢を崩したが、さすがにまともに食らうようなことはない。身を翻《ひるがえ》して何なくかわした。
避けられることはシェラも承知の上である。椅子は相手の気勢をそぐために使ったにすぎない。その上で続けざまに短剣を放った。投げてすぐ身を翻して勝手口から外へ飛び出した。
そのまま屋根の上に飛び上がる。
すでに邪魔な女官服は脱ぎ捨てている。
半袖の肌着一枚でシェラは全身の神経を研ぎすまして、じっと待った。
勝手口にせよ、テラスからの出入口にせよ、あの男が動いたところを感知して先に叩くしかない。
それは向こうにもわかっているはずだ。派手な動きはするまい。互いに気配のさぐり合いである。
夜のパキラ山は意外なほどの音にあふれている。
西離宮も例外ではない。風に揺れる梢の音、闇の中に息づくものたちの気配がすぐ側でする。
全身の神経を研ぎすまして待つ、その背中に何かひやっとしたものを感じた。
本能が体を動かしていた。辛うじてかわした背中を鉛玉がかすめた。
「くっ!」
驚いたことに男はまったく気配を感じさせずに、離宮の屋根へ昇って来たのである。
崩れた姿勢を立て直しつつ屋根から飛び降りる。
相手は自分を追って飛び降りてくるはずだ、そこを迎え撃とうと短剣を構えて振り向いた。
と、思ったらもうそこに男の顔があったのだ。
「……!!」
斬りつけてきた刃をまともに食らわずにすんだのはひとえに反射神経のなせる技だった。が、完全にはかわしきれなかった。左足に熱い感触を受けた。
行者は長い得物は持たない。短刀一本あれば充分なのだ。それで人の体を寸刻みにできる。
相手が動けないのならなおさらだ。
足に傷を受けたシェラは飛び退きかけて体勢を崩し、よろめいた。
この隙を見逃すような行者はいない。ヴァンツァーは一飛びで距離を詰め、斬りつけたのである。
しかもその刃先はこの激しい動きの中で、正確に首の急所を狙っていた。きまれば大出血を起こして即死だったろう。
しかし、シェラは隠し持っていた武器を構えて、この一撃を受けとめたのである。
台所から持ってきた小さな包丁だった。
それでも体勢の不利は変わらない。ヴァンツァーはシェラにのしかかるようにして短刀を押してくる。
懸命にこれを受けとめているシェラだが、力の差は歴然としていた。
刃を交わした状態のままで男は低く笑った。
「往生際が悪いな……」
「言ったはずだ。私は、死なない!」
「おかしなことを。お前のようなものが生きていて何になる?」
「知るものか!」
憤怒の叫びだった。
何に対する憤激なのかシェラ自身にもわからない。
こんなにも激しく強く、死にたくないと思ったことはない。
任務中ならば報告の義務を抱えていた。死ぬわけにはいかなかった。だが、今感じているのはそうした頭で考えてのものではない。心の奥底から何かが熱くこみ上げてくる。
その何かがシェラに力を貸した。ヴァンツァーの凶刃《きょうじん》に屈するかと思えた刹那《せつな》、小さな包丁を翻し、シェラは逆に男に斬りつけていた。
一飛びでヴァンツァーは飛び離れた。さすがの身ごなしである。シェラの刃先は男の服をかろうじて切り裂いたにすぎない。
しかし、この反撃は男にとっても意外だったろう。
真剣そのものの顔になり、短刀を構えなおした。
シェラも立ち上がった。
傷を負った足はまだ動く。が、いつまでもつかはわからない。
死にたくないと思う心に偽りはない。だが、この男がそんなことを易々と許してくれるはずもない。
それならせめて一太刀《ひとたち》浴びせて死にたいと思った。
負傷した足では迂闊《うかつ》には動けない。かかってきたところを迎撃するしかない。
ヴァンツァーがその全身に殺気をはらみ、文字どおりの殺意の塊となって間合いを詰めようとした。
その動きがぴたりと止まった。
鋭い一瞥《いちべつ》を離宮のほうへ投げたと思うと、すっと身を引いたのである。
「邪魔が入ったな」
「……?」
「その首、しばらくお前に預けておく」
いずれ自分がもらい受ける。そう暗に予告して、男は暗い森へ溶け込むように消えていった。
何が起きたかわからなかった。
助かったという感慨もなかった。呆然と立ち尽くしていると、呆れたような声が後ろでした。
「だからお前の図体は邪魔なんだ。気づかれたじゃないか」
「俺のせいか? 物音は立てなかったぞ」
どちらも嫌と言うほど聞き覚えのある声だ。
ゆっくり振り返ると、離宮の影から大きな影と小さな影が現れるところだった。
包丁を引っ提げて立っているシェラに、王女は気まずそうに弁解した。
「悪かったな。邪魔をするつもりはなかったんだ。
この大熊がごそごそ動くから……」
「だから本当に俺のせいか?」
あくまで気にする国王である。
シェラは微かに笑って言った。
「ありがとうございました」
「はん?」
「お二人が邪魔してくださらなかったら私は殺されていたでしょうから。助かりました」
二人は顔を見合わせ、王女が不思議そうに訊いた。
「ずいぶん謙虚だな?」
シェラは首を振った。へりくだっているつもりはない。あの男は恐らく一族の中でも非合法な、相当の危険と困難を伴う仕事をこなしているのだ。
対して自分は一般市民を相手にした経験しかない。
同じ暗殺の専門家でもこの差は大きい。あのまま続けていたら結果がどうなったかは明らかである。
全身から一気に力が抜けた。その場に倒れそうになったが、自分で自分の膝を掴んで踏みとどまった。
「平気か?」
「傷はそんなにひどくないんです。ただ……」
震えが止まらなかった。今になって男の話の一語一語が深く胸を苛《さいな》むのだ。
蒼白なシェラの顔に何を見たのか、王女は黙って血止めをしてくれた。
その前に国王を本宮へ押し返した。
朝になって寝床に国王がいないとなれば大騒ぎになる。タンガの連中も返答を聞こうと待ちかまえているはずだから、というのである。
「肝心なところで俺は仲間外れなのだな」
「今はシェラもくたびれきってる。難しい話は後にしたほうがいい」
致し方ないとため息をついてしょんぼりと戻っていく国王の後ろ姿がおかしくて、シェラは思わず笑いをこぼした。
「あの方は……、こんな言い方をしては失礼ですが、可愛《かわい》い方ですね」
「おもしろい王様だろう?」
「ええ」
あの気性で国王がつとまるのだろうかとも思ったが、今は疲れていてそれ以上考えられなかった。
「傷はそれほど深くない。うまくかわしたな」
「……運が良かったのでしょう」
ぼんやりと答えた。
こうして寝台に横になっていると、さっきまでのことは悪い夢でも見ていたかのような気持ちがする。
しかし、あの男も、あの男が語ったことも紛れもない現実だった。軽くうずく足の傷がすべてが事実であったことを物語っている。
あの暗闇がまた襲ってくるような気がして、シェラは思わず身震いし、救いを求めて王女を見た。
結い上げた金の髪と双眼に輝く緑の色。
何故かはわからないが、この人が自分を引き戻してくれたのだ。
「お前、よっぽど幽霊に気にいられてるらしいな」
王女の言葉に、シェラは思わず身を起こした。
「それはあの、三人の方々ですか?」
「ああ。真ん中にいた禿頭のじいさんだ。いくら場所が魔法街でもウォルの前に堂々出てきたぞ。前の時といい、今度といい、あの連中はよほどお前に死んでほしくないらしい」
「……それで、駆けつけてきてくださった?」
「ああ。だけど来てみれば一対一の勝負だからな。
隠れて見ているだけのつもりだった」
薄情なようでもそれが王女の礼儀であり、哲学である。
そうして王女はシェラを見て笑ってみせた。
「邪魔をされて不機嫌になるかと思ったんだけどな。
何か生きていたい理由でもできたのか?」
「……」
とっさに答えられなかった。
あまりに唐突に起きたことで、まだ頭の中がしっくりしなかった。だが、黙っていたくもなかった。
少なくともこの人には聞いて欲しかった。
順序立てて説明するのは難しく、シェラはヴァンツァーとの会話の内容をとぎれとぎれに語り、語りながら話を整理した。
王女は黙ってその物語に耳を傾けていたが、話が終わるとこう尋ねた。
「その、上の連中っていうのが具体的にどんなものかは言わなかったのか?」
「ええ。でも、もしかしたら……、私が尋ねたなら、案外あっさり語ったかもしれません」
「そうだな。話を聞いただけでもそんな感じだ。殺し以外のことに興味がないらしいな」
「えええ……」
暗澹《あんたん》たる思いだった。
今の自分と変わらない年齢で里を失い、それからあの男がどこでどうしていたのか、どちらから接触したのか、詳しい経緯はわからない。
今のあの男は『上の連中』から直接指示を受ける身になった。それだけがあの男の生きる理由なのだ。
王女が訊いた。
「お前はどうしたいんだ?」
公爵の屋敷で尋ねたのと同じ質問だった。
シェラはあの時とはまるで違った、断固とした答えを返したのである。
「今の私にわかっていることは一つです。死にたくないということだけです」
「上等だ」
王女は満足そうだったが、シェラは自嘲の笑みを浮かべたのである。
「こんな浅ましい願いがですか?」
「生きている者なら誰だって死にたくないと思うさ。
それが当たり前だ」
王女は果実酒を注いだ杯を一つ、シェラに渡し、自分にも注いだ。
「生きている意味を知らない奴ほど簡単に死を選ぶ。
以前のお前がそうだ。死ぬことがどういうことかも知らないで死が何ほどのものかと言い、簡単に死ぬ。
馬鹿な話さ。おれはそんな生意気な奴は大嫌いだ」
「……」
「逆に、死を恐れ、死にたくないと考えている奴が死んでもいいと思って力を振り絞った時はすごい。
もし奇跡なんてものがあるとしたら、それは多分ああいう底力を言うんだ」
「わかります」
ヴァンツァーを押しのけた力がそうだ。
あれほど死にたくないと思ったことはなかった。
同時に生き延びることはできないだろうと思った。
「姫さま」
「リィだ。何度言わせる?」
「すみません。……あの男はきっとまた来ます」
「お前を殺しにか」
「ええ」
「じゃあ、その時までにもう少し実戦向きの戦法を身につけないといけないな」
ごくあっさりと言う王女にシェラは目を見張った。
自分がここにいてはご迷惑になるのではと言おうとしたのだが、思えば間抜けな質問である。
ヴァンツァーの狙いはシェラだけだ。王女を巻き込むことになったとしてもこの人は自分の身は自分で守れる。
シェラの考えていることを察したのか、王女は真顔で釘を刺した。
「出ていこうなんて考えるなよ。お前みたいに重宝する侍女はなかなかいないんだ」
「私は重宝されていますか?」
「もちろん。カリンはお前にいくら感謝してもしたりないと言ってるぞ。お前のおかげでこの離宮も、おれも、こざっぱりときれいになってる、おまけに怯《おび》えて逃げる様子もない、実によくできた娘だって。
嫁入り先はぜひとも自分で、いいところを世話してやりたいって大はりきりだ」
シェラは小さく吹き出した。
いかにもあの女官長らしいと思ったのだが、その心遣いだけはありがたく辞退せねばなるまい。
酒杯を一息で空けると、虚脱状態から立ち直った。
「死にたくありませんからせいぜい鍛えなおします。
手伝ってもらえますか?」
「お前ならその気構えがあれば充分だろうさ。さっそくなんだけどな。その足、だいぶひどいか?」
「いえ、かすり傷です」
「ちょっと遠出することになるんだが、平気か?」
頷いた。このくらいの傷で動けなくなるほどやわではない。
どこへ行くのかとは聞かなかった。王女も説明はしなかった。
翌朝になって、王女は国王のもとへやってきて外出の許可を求めたのである。
もしもこの後の騒ぎを王女が承知していたのなら、まさに計画的な脱走である。
たまたま顔を合わせたイヴンは王女が旅支度をしているのを見て、気楽に声をかけたものだ。
「何だ。また物見遊山かい?」
「そんなようなものかな」
軽く返して、王女は妙なことを訊いた。
「今の季節、タウからどのくらいの数が呼べる?」
独立騎兵隊員たちは、春から夏にかけては仕事に忙殺されている。
職業軍人と違って彼らには山での生活と畑がある。
そう簡単に家を留守にはできないのだ。
イヴンは首を傾げた。
「入り用なら百人かそこらはすぐに集まるだろうが、何でだ?」
「おれにもよくわからないのさ」
言葉を濁して、愛馬に鞍を置き、シェラを連れて出発していったのである。
第一の被害者はプレスコット侯だった。
今日こそは確たる返事を聞かせてもらおうと意欲満々で国王に面談を申し込んだところ、国王はまるで旧知の友を迎えるかのように愛想良く出迎え、折り入って話したいことがあると切り出したのだ。
さては断る気かと身構えた侯爵である。
そのほうが都合がいい。実のところ侯の任務は話をうまくまとめることではなく、きっかけをつくることだった。こんな好条件の話を断るとはどのような真意がおありかと難癖をつけて交渉を決裂させ、タンガに有利な状態で戦端を開く役目だ。
しかし、国王は単刀直入に言ったのだ。
「ゾラタス王にもタンガの方々にも申し訳ないが、あの娘は俺の結婚相手に考えているのでナジェック王子との縁談はお断りしたい」
こうしたことをあっけらかんと語られたのだからたまらない。
プレスコット侯も百戦錬磨の交渉者だが、まさに茫然自失、開いた口がふさがらない体だった。
どうにか気を取り直して、それではご婚儀はいつごろのご予定でございましょうかと恐る恐る尋ねると、「それが実は詳しいことは申し上げられないのだ。求婚はしたのだが返答を保留されてしまったのでな。これから口説き落とそうと思っている」
と、笑いながら返される始末である。
使者が狼狽《ろうばい》の極みに達して宰相に泣きついたのも当然と言えば当然だった。
聞かされたブルクスが腰を抜かさんばかりに驚倒したのも、ごく自然の成り行きである。
「かかる大事を他国の人の口から聞かされるとは、私は大恥を掻かされました……」
宰相は冷や汗を拭いながらおおいに嘆いたものだ。
さらにはドラ将軍やアヌア侯爵、内政に関与する老臣達と被害者は続出し、さすがに強引なタンガの使節もこの必殺技の前には双手を上げて降参し、自分の主君の意向を確認するためにすごすごと帰国していったが、そのころにはこの噂は城を飛び出して、コーラル中に広がりつつあったのである。
人の反応は賛否両論まっぷたつに別れた。特に内閣を構成する重臣達はほとんどが渋い顔だった。
養女ならまだ遊ばせてもおける。しかし、王妃となるとそうはいかないというのである。
「王妃というものは一種の飾りには違いありませんが、国を代表する飾りものです。あの方ではとてもとても……大華三国の王妃にふさわしいとは到底申せませぬ」
「さよう。どうしても寵愛なさりたいのなら側室になさればよろしい」
「いや、ですが、一度王女として迎えたものを側室にするのはなお体裁を損ないますぞ」
「うむ。何より陛下は大乗り気でいらっしゃる」
「しかし、陛下といえどこのような大事を一存で決められては……」
「いや、それは僭越《せんえつ》な!」
「ですが!」
侃々諤々《かんかんがくがく》の議論が連日戦わされた。
当事者の王女の意志を確かめようにもすでに離宮はもぬけの空だ。結論の出ない激論を戦わせることしかできない。
王宮の中でも下層に位置する三の郭《かく》の人々はこの話を歓迎した。彼らは王女に好意を持っている。当代の英雄と戦女神の結婚なら願ってもない。日取りはいつになるのか、どんな花嫁姿を披露してくれるのかと噂しあった。
国王に親しい人々の反応は様々だったようである。
シャーミアンはもっとも素直にこの知らせを喜び、ナシアスは態度を保留し、バルロはあまり感心はしない様子だった。あんな王妃ではデルフィニアの体面に関わると反対理由を述べているが、ナシアスが笑いながら語ったところによると、あの王女に王冠を被られてしまってはまさに天下無敵、とても手に負えなくなるから、それを懸念《けねん》しているのだろうということだった。
そしてイヴンはほとほと呆れた調子で言ったのである。
「お前、気は確かなんだろうな。本気であれと結婚する気か?」
国王の酒の相手に呼ばれたのだが、日に日に夏めいてくる夜の本宮の空気を楽しみつつ、君主を差し置いて勝手に手酌でやっている。
「ばか。形式だけのことだ。あの娘と夫婦の契りを結ぼうとするほど俺は無謀ではないぞ」
「だろうな。あっという間に国王の首なし死体のできあがりだ」
ふざけているわけではない。イヴンも国王もあの王女の気性をよく知っているだけのことだ。
「しかし、王妃ってのは王子を産むのが仕事じゃなかったか」
「俺も妾腹の生まれだ。かまわんだろうよ。それに王妃さえ据えてしまえば側室は何人持ってもかまわないらしいからな。子どもはそのうち誰かが産んでくれるだろう」
理屈になっているようななっていないような国王の言い分にイヴンは額を押さえた。
「まさかと思うが、そいつはあの女の入れ知恵じゃないだろうな?」
「エンドーヴァー夫人はそんなことは言わん。だが、俺が身を固めてしまえば夫人も王妃の座を狙っていると言われずにすむ。そのためにも是非ともあの娘と結婚したい」
イヴンは再び盛大なため息をついて天を仰いだ。
もともと何をしでかすかわからないところのある男だったが、今回のそれは超弩級《ちょうどきゅう》だ。
「俺はもう諦めてるけどな、お前のお付きの人達に同情するぜ」
こぼした折りもおり、そのお付きの人の代表格が部屋に入ってきた。
宰相である。
自分が政府の要人とは決して言えないことを承知しているイヴンは席を外そうとしたが、王が止めた。
「いや、いてくれ。どうせ何の用件かはわかっているからな」
「ご明察、恐れ入ります」
どうやら宰相は説得係を仰せつかってきたらしい。
やはりこの結婚は国のためにならないと重臣達の意見が一致し、思いとどまるようにと諫言《かんげん》しに来たのだ。
国王は不思議そうに言ったものだ。
「それだけのことをまとめるのにずいぶんかかったものだな。もう十日は経っているぞ」
「なにぶん微妙な問題です。加えるならば陛下のご意志は固く、なまなかなことでは変節してくださらないこともわかっております」
「それならわざわざ嫌な役目を引き受けてこなくてもいいだろうに」
「誰かが言わねばならぬことでございます」
きっぱりと言った。柔弱に見えても実際は外柔内剛、一刻者の宰相である。
「王の結婚は常に政略でございます。お相手の方個人に抱く印象よりも、その背景やお血筋に着目しなければなりません。さらに申し上げるならば、失礼とは重々承知しておりますが、あの姫さまが本当に陛下の妻となってくださいますか」
「名ばかりの妻にならなってくれるだろう。今でも名ばかりの王女だからな。引き受けてもらいたいと思っている」
「陛下。それはお話が矛盾《むじゅん》しておりまする。ならば他の姫君でよいではありませぬか。もともと王妃は一種の飾りでございます。しかしながら国を象徴する飾りである以上、やはりそれなりの気品が求められます。姫さまは武勇政治に関してはすばらしい才能をお持ちですが、これだけはいささか管轄外ではありますまいか。あの方には今までとおり、あの方に適した舞台をお与えになり、お后には名家の姫君をお選びなさるのがよろしいかと存じます。陛下のお后に名乗りを上げる姫君はいくらでもおります」
国王はいかにも楽しげに言ったものだ。
「俺は無骨な男だからな。育ちのよい姫君をこんなものに添わせたのではお気の毒というものだろうよ。
俺にはあの娘くらいでちょうどよい」
宰相はほとほと手に負えない様子でイヴンを見た。
何とかしてくれと訴えられているのは百も承知だが、独騎長は困ったように頭を掻いたのである。
「お気持ちはわかりますが、こちらの陛下は昔から一度言い出したことは絶対引かない性分ですんでね。
陛下を説得するよりは姫さまを説得なさったほうが早いんじゃないですか」
「ひどい言いぐさだな。味方をしてくれないのか」
文句を言った国王に対して、イヴンは肩をすくめてみせた。
「陛下。俺は王冠を持っているわけじゃありませんし、身分的にも山賊まがいのものですので勝手を言わせてもらいますが、庶民連中が身分の高い人々に抱く気持ちってのは複雑なもんがありましてね。税を取られるときには文句を言うし、都合の悪いおふれには悪口を言いますが、それでも自分とこの王様や王妃さまってのはよその国の連中に対して自慢したいものなんです。三年前の内乱も結局のところは陛下が妾腹の生まれだってことが原因でした。もちろん今ではそんなことを大声で言うやつはいません。
ですがねえ……、お手打ちは覚悟の上で申し上げれば、血筋の正しい他の国の王様に比べて陛下を一段低く見る連中も間違いなく、確実にいるんです。そこへもってきて、どこの馬の骨ともわからない娘を王妃にするとなったら、ちょっとばかりおもしろくないことになるんじゃないですかね?」
「おとなしく手打ちになどされてはくれぬくせに、はっきり言う奴だ」
国王は腹を立てた様子もない。楽しそうに笑っている。
「俺はな、お前も知ってのとおり瓢箪《ひょうたん》から駒の国王だ。年寄りどもの中にはそれを案じて、やれ風雅を学べだの文学を尊べだのいうものもいるが、人には向き不向きがある。ペールゼンの手からこの国を取り戻した時、俺は俺なりのやり方で王座に座ると決めた。結婚相手にしてもそうだ。重臣達がよってたかって協議した上であてがってくれる后など遠慮したい」
「ですが、お世継ぎはどうなさいます?」
ブルクスがここへ来たのもそのためだった。
他でもないのだが、連日の騒ぎの中で、カリンがそっとブルクスを呼び出したのである。
「私の一存でお話しいたしますのですが、あくまで内聞にお願いいたします」
念入りな前置きである。
何のことかと身構えていると、カリンはあたりをはばかり、いっそう声を低めたのだ。
「姫さまは、お子を産めぬお体ではないかと……」
さすがにブルクスも顔色を変えた。
「それは、まことで?」
「はい」
「何故そう思われました?」
「女は女同士と申します。三年もすぐ側であの方を見て参りましたが、その……」
烈婦で名高い女官長がわずかに顔を染めて言葉を濁した。男の宰相にはよほど言いにくかったのだろうが、思いきった様子で打ち明けるには、王女には月の障りがないのではないかと言うのだ。
月経のない女に子は産まれない。常識である。
ブルクスもさすがに考え込んだ。
たとえ国王が何と言おうと日頃からあれほど仲のいい二人である。まとめてしまえば充分世継ぎは望めると思っていた。
しかし、最初から石女《うまずめ》となると話はだいぶ違ってくる。
「もちろん、子がなくとも幸福に暮らす夫婦は多くおります。ですが王家の方々に限って言えば、そうした結婚はあまり幸福な結果をもたらさないのではないかと思うのです。余計なこととは百も承知しておりますが……」
「いや、女官長。よく話してくださいました」
カリンの疑念はもっともだった。
王妃にはどうしても王子を産む義務が課せられる。
周囲の期待もひとえにそこに集中する。その期待に応えられなかった王妃は惨めな境遇に追いやられる。本人の無念はもちろん、周囲の期待に添うことのできなかった罪悪感に責め苛まれることになる。
確かにあの王女ならそんなものを感じはしない。
子を産めぬ女のくせにという非難も蚊に刺されたほどにしか感じないはずだ。他に何人の愛妾がいても、子を得た愛妾が思い上がった態度を取ったとしても太刀打ちできるわけがない。
しかしだ、思えばばかばかしい話である。そんな苦労をしなくても子どもの産める姫を正室に迎えればすむことなのだ。が、国王はきっぱり首を振った。
「世継ぎのためだけに愛してもいない女を妻にする気にはなれん。国王の結婚は得てしてそうしたものだと言いたいのだろうが、俺はごめんだ」
「では、エンドーヴァー夫人のお産みになるお子をお世継ぎになさると?」
「今からそんなことはわからん。だいたい子は天からの授かりものと言うではないか」
「と、おっしゃられましても……」
「あまり深く考え込むな。こんなことはなるようにしかならぬものだ。過度の心配は体に悪いぞ。抜け毛のもとにもなる」
「私の頭のことなどより王座をお譲りになるお方のことを案じてくださいませ。お子がなくば王家の血筋が絶えるのですぞ」
困り果てている宰相とあくまで飄然《ひょうぜん》としている国王とをイヴンは黙って見比べていた。
そうこうしているうちにイヴンのもとへ王女からの手紙が届いた。内容はこの間と似たようなものである。下記の場所まで、信用のおける仲間とともに至急来てもらいたいというものだ。
「あの姫さまは俺を便利屋か何かと間違えてるらしい」
ぼやきながらも、イヴンはタウから呼び寄せた仲間と共に出かけていった。
エンドーヴァー夫人の周辺は前にもまして騒がしくなった。
それというのも国王がこんなに唐突に結婚を決意したのは、夫人を本宮に入れるための布石であるとの見方が広まったからである。
つまり王女はただの当て馬、夫人こそが本命というわけだ。おかしな話だが、素性の知れない王女の場合は身元がまったく不明ということが逆に神秘性を帯び、内乱時代の働きなどもあり、ある程度特別視されている。ところが夫人の場合は他国の貴族の未亡人であること、それもあまり身分が高くない貴族だったことなどを理由に王妃にはできないと言われてしまうのだから、おかしな理屈である。
それでもドラ将軍をはじめとする英雄たちは次々とエンドーヴァー夫人のもとを訪れた。主にその人柄を確かめるためである。
その中でも女性にかけては凄腕のティレドン騎士団長は夫人の印象をこう語っている。
「麦わら頭が言うほどの悪女ではないだろう。王の寵愛を一身に受けているというのに化粧の気もない、地味な女だ。もっともわざとそうしたふうを装って周囲の反感を買わないように振る舞っているのだとしたら、確かに抜け目のない女だと言えるな」
「失礼な言い方をするな。なかなか好感の持てる人ではないか。物腰も落ちついている」
と、ナシアス。
ラモナ騎士団長も夫人のもとへ挨拶に出向いたのだが、こちらはだいぶ違う印象を持ったようである。
「あの女性なら陛下にはお似合いだ。何より少しも気取ったところがない」
「なさすぎるのも問題だぞ。どうも従兄上のお好みはわからん。とびきりの美女というわけでもないし、だいたい国王の愛妾が土いじりなどするか?」
二人の騎士団長が訪れたとき、夫人は例によって庭に出ていたのだ。その熱意と卓抜した才能によって、小さな離宮の庭は今やちょっとした芸術作品になりつつあった。
「陛下はお前と違って地方の出身でいらっしゃる。
華美で退廃的な都の女性よりも健康的な働きものの婦人を好んだとしても不思議はない」
バルロはと言えば、彼はあらゆる意味での女性の美しさを愛する男だったので、そんなことをしていたら手が荒れる一方だろうにと心配しているのだ。
実際、面と向かってそう言ったのだが、夫人は気分を害した様子もなく、お心遣いありがとうございますと笑って頭を下げた。
また、今のうちに夫人に取り入ろうとする貴族たちの攻勢は激化の一途をたどり、久しぶりに訪れた国王を迎えた夫人は苦笑しながら言ったものだ。
「少し、お持ち帰りになりますか?」
庭が芸術作品になりつつあるなら、離宮の内部は宝物倉と化したような有り様だった。
いたるところに置かれた金銀の調度品や細工物はもちろんのこと、螺鈿《らでん》細工の長持にびっしりと詰められた巻絹、積み上げられた宝石箱など、眼も眩むほどのおびただしさだ。
国王もさすがに呆れた顔だった。
「俺が言うのも何だが、王の寵姫に気に入られるとよほどいいことがあるようですな」
夫人はおもしろそうに笑っている。
「本当に。何を期待していらっしゃるんでしょうね。
私の口から陛下に何か申し上げることはできないとお断りしているのに、いっこうに減りません」
「くれると言うならもらっておきなさい。寄こした連中の懐はこの程度では痛みはしませんからな」
「ま……お口の悪い」
「いや、本当のことだ。あなたがもらったものなのだからどう使うかもあなたが一存で決めていいのだ。
この先どんなことになったとしてもまさか返せとは言えますまい」
夫人は答えなかった。さりげなく話題を変えた。
「陛下におかれましては、この度、ご婚約をなさったとお伺いしました。おめでとうございます」
「いや、まだそうと決まったわけではない。本腰を入れて口説き落とそうと思えば、気配を察したのか、逃げられてしまいました」
「まあ。どちらまで、お出かけに?」
「さてな。つむじ風のような娘ですからな」
笑って、国王は夫人の丹精した庭に眼をやった。
「見違えるようですな。お見事です」
「ありがとうございます」
「エンドーヴァー夫人」
「はい」
「本宮に部屋を用意するとの約束、俺は忘れたわけではない。近いうちに必ずと思っているが、本宮はよろず窮屈《きゅうくつ》です。庭仕事も諦めてもらわねばならないのだが、本当にそれでよろしいのかな?」
「ええ。いえ……」
夫人は言葉を濁して、やはり庭へと眼を向けた。
「そう……、このお庭はずいぶんうまくできました。
少しばかり残念ですけれど、仕方ありませんわ」
「エンドーヴァー夫人。いや、ラティーナ」
「はい」
あらたまった国王の態度に夫人はいささか驚いたようである。
「俺では頼りにならないかもしれないが、何か心配事があるなら打ち明けてもらいたい」
「まあ、陛下……」
「あなたさえよければ、もっと世話のしがいのある庭付きの家をさしあげよう。種類のいい葡萄《ぶどう》の棚もつけよう。数人の庭師を使って花や葡萄を丹精して、ご自分で葡萄酒を醸造したり、茶をつくって蓄《たくわ》えたり。あなたにとってはそうした暮らしのほうがよほど楽しく性分にも合うはずと思うのだ。なのに何故好きでもない宮殿暮らしを望まれる?」
夫人は眼を伏せて王の言葉を聞いていたが、やがて静かに言った。
「私を本宮に入れることには、姫さまがご反対していらっしゃるのでしょうか」
「いや、そんなことはないが……」
「でしたら、私は陛下のお側に置いていただきとうございます」
国王の黒い眼が困惑と明らかな問いかけの意味を込めて夫人を見た。
若草色の瞳はいつものように微笑んでいたが、ドレスを掴んだ手はわずかに震えていた。
それからさらに半月ほどが過ぎ、城内の百合が一斉に妍《けん》を競う季節になった。
日が暮れても大きな白い花が楽しげに揺れている。
夫人はテラスに腰を下ろしてぼんやりと花を眺めていた。このごろでは夫人はあまり庭にも出ない。
元気がないのを侍女たちが心配して、お城の外へお気晴らしに出かけてはと勧めたが、それにも気乗りがしないらしい。
今も顔は庭に向いているが、眼はそんなものを見てはいない。物憂《ものう》げに、それでいて不安そうに、何か遠くのものに思いを馳せている。
夫人は無意識のうちに左手にはめた指輪に右手を乗せて握りしめるようにしていた。国王には一度も見せたことはなかったが、エンドーヴァー子爵から贈られた指輪だった。
「あの、申し上げます」
次の間から侍女の声がした。夜更けだというのにずいぶん慌ただしい気配だ。
「何事です?」
国王が来たのかと思い、夫人は指輪を抜いた。
「あの、姫さまが、グリンダ王女さまがお見えです。
ぜひともお目にかかりたいと仰せられております」
突然のことに驚いたが、夫人は冷静に答えた。
「お通しなさい。くれぐれもご無礼のないように」
宝石箱に指輪をしまって、夫人は急いで鏡を覗いた。これは最低限のたしなみである。
しかし、現れた王女の姿を見て、さすがに愕然とした。一つには相手が長旅から帰ってきたその足でやってきたと瞭然《りょうぜん》にわかる姿だったからだ。もう一つはもちろん、初対面のはずがすでに見知っていた顔だったからである。
王女は埃《ほこり》だらけの顔のままでにこりと笑った。
「それこそ『入浴、駆け足!』と言われるかな?」
「……申し訳ございません。姫さまとは存じませず、とんだご無礼をいたしました」
「こっちこそこんな格好で申し訳ない。家の中じゃ落ちつかないな。外で話そうか」
埃だらけの体で室内の家具に腰を下ろすのは気が引けるらしい。
さっきまで夫人が腰を下ろしていたテラスへ出て慎重に腰を下ろした。
「ええと、子爵夫人」
「ラティーナとお呼びくださいませ」
「じゃあ、ラティーナ。こんな時間に突然押し掛けて悪いんだけど、聞かせてもらいたいことがある」
「はい」
夫人はある種の緊張を持って自分より十いくつも年下の少女を見た。王女が何を言い出すかは見当がつくつもりだった。これから自分とこの少女は一人の男をいわば『共有』していくことになるのである。
その『優先権』がどちらにあるかをはっきりさせておこうというのだろう。
だが、王女の質問は夫人の予想をまったく裏切るものだった。
「ご主人はどんな人だった?」
若草色の眼が戸惑ったように瞬《またた》いた。
ふざけているのかと思ったが、王女の顔は大真面目である。夫人のそれよりずっと色の濃い緑の瞳がまっすぐ夫人を見つめている。
「立派な、優しい人でしたわ。それが何か……」
「どうして亡くなったんだ? まだ若い人だったろうに、病気か何かで?」
「いいえ。暴走した馬車に跳ねられたのです」
「亡くなってどのくらいになる?」
「まだ半年にもなりません」
夫人の声はしんみりとして、亡き夫を偲《しの》ぶ風情《ふぜい》も明らかだったが、王女は静かな声で言った。
「じゃあ、ソブリン郊外の蔦《つた》の屋敷で養生しているあの人は誰なんだ?」
夫人の顔が凍りついた。
王女はあくまで静かにそんな夫人を見守っていた。
どれほどの衝撃を受けたにせよ、エンドーヴァー夫人は果敢に立ち直った。大きく胸を上下させて、声を震わせながらもはっきり答えた。
「はい。おっしゃるとおりです。私の夫です」
「どうして死んだなんて言ったんだ?」
「私は陛下のお人柄を知っています。人妻だと言ったのでは見向きもしてくださらないことがわかっていました。未亡人だと言ったほうが、あの方のお心を引きつけ、寵愛を得ることができるだろうと、ずるく考えたのです。それだけですわ」
「ラティーナ」
と、王女は夫人の名を呼んだ。
「子爵はもうあの屋敷にはいないよ」
「……」
「数日前、あの屋敷は強盗に入られた。思っていたほど金目のものがなかったんで、頭にきた強盗は動けない子爵をさらっていった。もちろん身代金目当てで、翌日にはへたくそな字の脅迫状が届けられた。
ところが子爵の看護をしていた医者も女達も主人の親族がどこにいるか知らない。金の用意なんかできないってわけだ。となれば強盗が子爵を生かしておくはずがない。役所の人間は早々に諦めて事件を放り投げたよ。お気の毒だが打つ手はないってことらしい」
蒼白になって腰を浮かせかけた夫人を王女は身ぶりで制した。
「ところが実際には子爵は二頭立ての馬車に乗ってこっちへ向かってる。肩書きはアレザイアのスペンロウ卿。実際にはそんな人はいやしないけど、手形はちゃんとしてるから役人も手が出せない。ついでに言うなら子爵をさらった強盗は立派な身なりの従者になって馬車を守ってる」
言いながら王女は懐から小さな包みを取り出して開いてみせた。
中に入っていたのは夫人が宝石箱にしまったのと同じ指輪だった。少し大きいところだけが違う、対《つい》でつくったものだ。
夫人は信じられない物を見る眼で、震える手で指輪を取り、真っ青な顔を王女に向けた。
その無言の問いに王女は笑って頷いてみせた。
「怪我人を看護するにしては変な屋敷だった。窓には鉄格子、入り口には外から鍵、まるで牢屋だ。でも、おれも友達もああいうところに入るのは得意なんでね。子爵と相談した上で強盗にさらわれてもらった。もう二、三日したらデルフィニアに入る予定になってる」
震える声で夫人は言った。
「本当に……?」
「もうすぐ会えるよ」
王女の顔に微笑が浮かびかけたが、それを消して、何とも言えない重々しい表情になった。
「人質を取られての妾奉公は辛かっただろうな」
指輪を握りしめた夫人の肩が震える。
それはすぐに堪えようとしても堪えきれない、激しい嗚咽《おえつ》に変わったのである。
エンドーヴァー子爵は昨年冬の初め、暴走した馬車に引かれて重傷を負った。
一時は命も危ぶまれる状態が続いたという。
夫人は夫の命を救うためにありとあらゆる手段を尽くした。領地を担保に大金を借り、高価な薬や名医を頼み、自身はつききりで夫の看病に当たった。
そのかいあって子爵はどうにか一命は取り留めたが、寝床から離れられない体になってしまう。
医者は治療と養生次第では再び歩けるようになるだろうと言った。夫人は少しもためらわずに巨額の費用を要する治療の継続を望み、生活を切り詰めにかかった。小間使に暇を出し、わずかな宝石や食器類を売りさばいてどうにかその日の暮らしを賄《まかな》っていたが、そんなことには限度がある。
たちまち進退窮《きわ》まり、このままでは領地を売らなければならないところまで追いつめられた。その一方で夫の治療費を何としても捻出しなければならなかった。
そんな折り、その男が近づいてきたという。
アヴィヨンの商人だというその男はどこで聞きつけたのか、スーシャ時代のウォル・グリークと夫人が親しくしていたことを知っていると言い、コーラル城へ行ってみるつもりはないかというのだ。
あなたなら王の心を虜《とりこ》にすることができる、男はそう言った。ウォル王が身近に女性を寄せようとしないのはいまだにあなたを忘れかねているからに違いない。あなたが姿を見せれば王は喜んであなたを迎え、寵愛するだろう。ご主人の面倒は自分が見てさしあげる。代わりにあなたが寵姫として出世したその暁には自分を引き立ててもらいたいというのだ。
「馬鹿げた話だと思いました。あんな場合でなければきっと笑い出していたと思います。でもとにかくお金のことがありました。私達の小さな家は小銭の数より請求書の枚数のほうが多いような有り様でしたし、何より主人に心配をかけたくなかったのです。
あの男がどれほど奇妙な考えに取り憑《つ》かれているにせよ、一つのことだけは、本物のお金持ちだという事実だけは疑う余地がありませんでした。支度金だと言ってシュルーフ金貨を一袋置いていったのです。
私はその晩、一睡もせずに考えて考えて考え抜きました。……考えるまでもありません。選択の余地などありませんでした。陛下に気に入っていただけるかどうかはわからないが行くだけは行ってみましょうと答えますと、あの男はたいヘん喜んで、主人を用意の屋敷に移したのです。姫さまのおっしゃった屋敷です。窓の格子には私も気がつきました。防犯用だと言っていましたけれど……いかにもきちんとした小間使と看護人、それに料理人が付いているのを確かめたので、約束どおり私はここへ来たのです」
夫人はまだ青ざめていたが、はっきりした口調でよどみなく語った。
「それで、その男はそれから姿を見せたのか?」
「一度ここへ参りました。私がとても……首尾よくやっているので満足そうでしたわ」
「それからは来ない?」
「ええ。一度も」
王女は何か考え込んだが、夫人が固い顔をしているのに気づいて笑いかけた。
「最初から追い返してもらうつもりだった?」
「それでは主人を救うことができません。ただ、できるだけ早くお払い箱にしてもらおうとは思いました。そうすれば夫のもとへ帰れますもの」
王女は呆れたような眼を周囲に向けた。
「確かに、この宝物をほんの一掴み持って帰れば治療費には充分すぎるな」
夫人の表情はますます固くなり、胸が大きく上下した。何か激しい感情に懸命に耐えているように見えた。
「陛下のお計らいですわ。こうなるようにしむけてくださったんです」
「へえ?」
「あの方は本当に相変わらずです。世間ずれのしていない可愛い人のようでいながら、恐ろしいくらい目端の利く方なんです。あなたがもらったものなのだからどう使おうとあなたの自由だと言われたときには……心臓が止まるかと思いました。何もかも見すかされているような気がして。なのにとても優しくしてくださって、それが苦しくて、いっそあの方の前に跪《ひざまず》いて何もかも打ち明けてしまおうかと何度思ったかしれません。でも、そんなことをしたら、あの人は……夫はどうなるのか……」
声が震えていた。両手で顔を覆い激しくわなないたが、すぐに自制心を取り戻して座りなおした。
「私のしたことがどのような罪になるのか、私にはわかりません。ですがお願いです。夫には何の罪もありません。もし、もしも姫さまがそのようなお考えによって主人を連行してくるのなら私が代わってどんな罰でもお受けします。ですから……」、「ばかばかしい」
と、王女は言った。
「そんな心配はしなくていい。夫持ちで愛妾になる人はいくらでもいるんだ。奥さんが王の寵愛を得たなら、そのご主人も厚遇されて出世するもんだ。なのに格子つきの牢屋に入ってるなんておかしいじゃないか。鍵をかけて病人を閉じこめるような連中は悪者に決まってる。引き渡せと言ったって素直に応じるはずはないから、おれは少々強引に子爵を引っぱり出した。それだけだ」
無茶をするものである。もしパラスト当局に知られていたら、ちょっとした紛争に発展するところだ。
「それより、ウォルと知り合いだったことを誰かに話した?」
「夫には話しました」
「いつ?」
「突然に現れたドゥルーワ王の庶子の噂はソブリンのような田舎町にも届きましたから、その時に。さすがに驚きました。夫も驚いていましたわ。彼を選んでいたら私は……、君は、皇太子妃になっていたかもしれないねと冗談で話し合ったくらいです」
「ご主人はそのことを誰かに話したのかな?」
「酒の席で友人に話したことはあるようでしたわ。
でも、そんな噂話がどうしてアヴィヨンまで流れていったのか……」
夫人の言いたいことは王女にはよくわかった。ソブリンは首都アヴィヨンから遠く離れた小さな街だ。
「不思議に思ってその男に尋ねてみましたが、笑うばかりで答えません。陛下にとって私はあまりお覚えの良くない女のはずだと言っても引かないのです。
あなたが王を袖にしたことは知っているが、王は今でもあなたに……未練があるはずだと。でなければ一人の愛妾も蓄えようとしない説明がつかないと。
馬鹿げた話ですわ」
王女はぽりぽり頭を掻いた。
「ラティーナ。立ち入ってることは百も承知なんだけど、どうしてその、そんなことになったのか、話してくれないかな?」
この人にしては恐ろしく歯切れの悪い質問である。
夫人も意味がわからなかったらしく、首を傾げた。
「つまりだ。どうしてウォルとの結婚は急に中止になったんだ?」
夫人はしばらく眼を伏せていた。
思いがけない衝撃を受けて動揺しても夫人は賢く強い人である。王女の言葉や表情、届けられた夫の指輪、それらは自分を脅かすものでも苦しめるものでもないと悟ったようだった。
顔を上げたときには、まだ青ざめた顔に初めて微笑を浮かべていた。
「私のことをひどい女とお聞きおよびでしょうね」
「少なくともあいつの口から聞いたわけじゃない。
おれ自身も納得できない。何か事情があって旦那のところへ戻ったのなら……」
夫人は苦笑して首を振った。
「事情と言うほどのものではないのです。どこからお話ししたらいいのか……。あの男は陛下が私を忘れかねていると言いましたが、そんなことは絶対にないのだと、それどころか婚約していたころからそんなことはなかったのだと、まず申し上げなければなりません」
「はあ?」
「妙だとお思いになりますでしょう? でもそうなのです。確かに私どもは一時期とても親しい間柄にありました。確かにあの方は私に求婚なさいました。
そこがあの方の始末に負えないところです。愛情からではなく責任をとらなければならないという一種の義務感、もしくは信念から求婚なさったのです」
「どうしてそう思う?」
夫人は何とも言えない微笑を浮かべた。
「当時の私はあの方を愛しておりましたから、そのくらいはわかります」
十代で結婚して一年とたたないうちに未亡人になった夫人は転地先のスーシャであの男と知り合った。
そのころはフェルナン伯爵も健在で、あの男はまだ自分の素性も知らなかった。
夫人はスーシャがすっかり気に入った。景観もその住人もだ。伯爵親子も夫人を気に入った。
互いの屋敷を訪ねることも多くなり、父伯爵が若い未亡人に息子をどう思っているかをそれとなく尋ねるころには、夫人は頬を染めて瞳を輝かせて男のことを語るようになっていたのだから、話はトントン拍子に進んだ。
「それが、いつごろからなのか私にもわかりません。
今となっては何が原因だったのかも。私は急に……不安に襲われるようになりました。あの方はとても優しく、私のすることに何一つ反対するようなこともありません。人は理想的な恋人だと言うでしょう。
でもなんだか……本当にそうなのか。何もかも私の一人相撲なのではないか。そんな不安にとらわれるようになりました。歯車が空回りしているような、漠然《ばくぜん》としたものでしたが……、何かがおかしいと。
つまり、あの方は私を愛しているとおっしゃいます。
そのお言葉が信じられなくなったのです」
王女は首を傾げた。
「他の女の人と仲良くしていたとか?」
「いいえ」
「冷たくしたとか? 暴力……あり得ないな」
「ええ、あり得ません」
「じゃあいったい何がいけなかったんだ? 問題になるようなことは何もないのに」
「なさすぎるんです。あの方のすることはあまりにもできすぎていて、いえ、私を愛しているというそのお言葉が嘘だと言うのではありません。本当なのはわかっています。わかっているから余計に……何がなんだかわからなくなりました」
王女は眼を丸くして聞いていたが、疑わしそうに尋ね返した。
「つまり、ラティーナの言いたいのは、あまりにも手応えがなくて掴み所がないと?」
「そうです! まさにそんな感じでしたわ」
「ははあ……」
「この人は本当に私を見ているのか、これから共に生きていこうと考えているのは私だけなのではないか……うまく言えませんが、そんないてもたってもいられない焦《あせ》りに襲われました。どうにかしてあの方の真の気持ちを確かめたくなって、それで……」
夫人はわずかに頬を染めて言葉を切った。
「それで、思い出すだけで冷や汗が出ますけれど、あの方のお友達に浮気の誘いをかけてみたのです」
「はあ!?」
王女は眼を剥《む》いた。夫人もさすがに気まずそうな顔である。居心地悪そうに椅子の上で身じろぎしたものだ。
「馬鹿なことをしたと思いますわ。いくら気持ちが不安定だったとしても、あんなことはするべきではなかったと今ならわかります。でもその時は……いい考えのように思えましたの」
「それで、そのお友達と浮気したわけ?」
「いいえ。それどころか、手ひどく突っぱねられて、さんざん怒られました。あんたはもうじきウォルと結婚するんだろうと、大変な剣幕でした」
「ははあ……」
「後悔と羞恥で身の置き場もありませんでしたが、一方ではこれであの方のお心が確かめられると思いました。ところが、あの方があの方ならばお友達もお友達でしてね。翌日になってあの方は不安そうな顔で現れて、彼と何か仲違いをしたのなら是非とも仲直りをしてほしいのだがとおっしゃるんです。あのお友達は私と別れるようにと諫言《かんげん》はしましたけれど、私が浮気を仕掛けたということはただの一言もおっしゃらなかったんですわ」
「そりゃあ言えないだろうな」
若草色の眼がじっと王女を見つめる。
「言えません?」
「夫人の言うお友達をおれは知ってる。そいつはウォルのことをとても大事にしてる。たぶん、そんなことを話したら傷つくと思ったんだよ」
夫人は呆れたように目を見張り、声を低めて言った。
「そんなことで傷つくような繊細な神経をお持ちの方とはとても思えませんわ」
ひどい言われようである。
あの男が夫人の不安感にまるで気づいてくれないこともまずかった。あなたは本当に私を愛しているのかと思いきって尋ねても、もちろんですと笑って返される。周囲の祝福と、着々と進む新しい生活への準備の中で夫人は孤独に追いつめられ、とうとう最後の手段に出た。
あなたの妻となるに異存はないが、あなたはいずれ戦に出るようなことになるかもしれない。あまり一人で放っておかれると寂しくて他の殿方と親しくするようなことになるかもしれない。それでもかまわないかと持ちかけたのだ。
王女は完全に頭を抱えている。
「そういうことは仮に本当だとしても黙ってるのが仁義じゃないのか?」
「おっしゃるとおりです。私はあの方が何と答えるかを試したのですわ。あの方は眼を丸くして……、今でもはっきり覚えています。やっぱり笑ってお答えになりました。できるだけ自分にわからぬように浮気していただけると助かります」
疲れたように言い返した王女である。
「……冗談のつもりだったんじゃないのかな?」
「かもしれません。でも、私は誰かを愛したらその方のすべてを欲しいと思う女です。あの方のお心は私にはわからず、あの方の見ているものは私には見えない。感じることもできない。それでは共に生きることはできませんわ。お別れする決意をしました。
知人に頼んで、一日だけパトロンになってもらって、私はその人のところへ『逃げ帰り』ましたの」
王女は今度こそ机に突っ伏した。
「何でそんな乱暴なこと……」
「他の方法ではあの方は私を追いかけてくるでしょう。それに……そのくらいしなければ私も踏ん切りがつかなかったのです」
「だったら別れる必要はないだろうに!?」
夫人は首を振った。
「わかっていただこうとは思いません。弁解するつもりもありませんわ。それでも私は自分の選択が間違ってはいなかったと信じています。……あの日の別れも奇妙なものになりました。あの方は私を責めもしない、お怒りにもならない。それどころか『お幸せに』と、まるで心からそう思っていらっしゃるようにおっしゃいました」
「心からそう思ってたんだよ」
ずっと冷静に話していた夫人だったが、泣き笑いのような顔で言った。
「そんなことって、あるものですか?」
「あの男に限って言うなら、ある。保証する。そういう筋金入りの馬鹿なんだよ」
夫人は眼を見張り、今度は微笑して見せた。
「私にはできませんでしたが、姫さまにはあの方のお心がおわかりになりますのね」
「……」
「愛でなくてもかまいません。怒りでも嫉妬《しつと》でも憎しみでもいい。何かしら本物の気持ちを私にくだされば……、いえ、こんなことは愛されなかった女の愚痴《ぐち》にすぎませんわね」
そんなことはない、と王女は言いたかった。あの男が夫人を愛していなかったはずはない。
しかし、それはあの男にとっても夫人にとってもすでに過去のことなのだ。二人とも未来を見て生きている。あの男にとって夫人はもう思い出の人になり、今の夫人には他の誰より大事な人がいる。
「ご主人を愛している?」
「心から」
若草色の眼に夫の身を気遣う思いと激しい怒りが浮かんだ。
「だからこそ、だからこそこんな役目を引き受けたのです! 夫はこのことを知りません。その夫を裏切り、一度ならず二度までもあの方を欺《あざむ》いて……それでも、あの人が生きていてさえくれればいいと思ったのです。私は馬鹿でした。どうしようもない愚か者でした。あの男は立身など望んでいません。最初から夫を人質にして私を密偵に使うつもりだったのです。本当の狙いは用心深くなかなか明らかにしませんが、私を使って陛下の身辺を探りだそうとしていることは間違いありません。それがわかっていながら口を塞《ふさ》がれ、こんな私のことを案じてくださる陛下に何の申し開きもできずに……」
再びこみ上げてきた涙を夫人は急いで拭った。
誰もが羨《うらや》む地位はこの人にとって晴れやかなものでもなければ誇らしげなものでもなかった。針のむしろ同然であり、いたたまれなさと罪悪感に苛《さいな》まれていたのだ。
胸の内に秘めていた重荷を打ち明けたことで、むしろほっとしたらしい。先程までの追いつめられた様子とは違った、静かな眼を王女に向けた。
「これですっかり申し上げました。私のしたことは許されることではないでしょうが、大事になる前に罪を告白することができましたのがせめてもの救いです」
「それを楯《たて》に取るようで申し訳ないんだけど」
と、王女は言った。
「もうしばらくウォルの愛妾でいてもらいたい。少なくともその男がもう一度現れる時まではだ」
王女の狙いを夫人は敏感に察したようである。
「……・わかりました。何者なのかを確かめなければなりませんものね」
「何が狙いなのかもだ。ご主人は偽名のまま近くの屋敷で養生してもらうことにする」
ずっと子爵の側にいたいだろうが、昼間はこの離宮を動かないで欲しい。夜になってからそっと会いに行けるように手配すると王女は言い、夫人もそれで納得したが、ふと尋ねた。
「姫さまは陛下ともご相談の上でいらっしゃったのでしょうね?」
城内に密偵が送り込まれたとなれば一大事である。
どうやって事実を突き止めたにせよ、王女の話していることは国王の意志であると夫人が考えたのは当然なのだが、王女は首を振った。
「ウォルは何も知らない。ソブリンへ出かけたのも、子爵の居所を突き止めて勝手に連れ出したのも、おれの独断だ」
夫人の顔は再び蒼白になった。
一王女にできることでもなければ、していいことでもない。国王本人か政府の中枢に関わっているものでなければそんな判断は下せない。
どんな大問題になるかを恐れて言葉もない夫人に、王女はくすぐったそうに笑ってみせた。
「あいつが肩書きに縛られて自由に動けない分、おれが好き勝手に動く。そういう役割でね。あいつはそれが楽しいらしい」
夫人は探るような眼で王女を見た。
「では、ソブリンまで出かけたのも姫さまご自身のお考えですか」
「ああ」
「どうしてそんなことをなさったのです?」
「そりゃあ変だと思ったからさ。やりたくて愛妾をやってるようにはとても見えなかったからな」
「それだけで、あの屋敷を突きとめて、夫と連絡をお取りになった?」
「友達にそういうことの専門家がいるもんでね」
王女はすまして言った。もちろんシェラのことだ。
一人で王宮に残しておくのは危ないと思って連れていったのだが、予想以上に役に立った。夫妻の元の住所を調べ、出入りしていた人間に次々当たって子爵が連れ込まれた屋敷を突き止め、窓の鉄格子も道具を使ってほとんど音も立てずに外してしまった。
腹に一物ある連中がこぞって使いたがるはずである。
「ご主人には詳しいことは話してない。この屋敷の連中が子爵の身の上を楯にラティーナを脅してるとだけ言った。無茶な説明だけど、それで納得してくれたよ。ご主人も看護人や小間使の様子がどうも妙だとずっと思ってたらしい」
夫人は深い安堵《あんど》の息を吐《つ》いた。
「ありがとうございます。本当に、どれだけ感謝しても足りません。でも、そんなことをして本当に、姫さまがお咎《とが》めを受けるようなことは……」
「大丈夫。あいつなら今度も笑って許すだろうよ」
王女はそこで話を切り上げて庭から出ていこうとしたが、振り返って夫人に声をかけた。
「おれのことより、強盗をやった連中に礼を言ってくれるかな? 一歩間違えばパラストの役人に逮捕されるのを承知でこの話に乗ってくれたんだ」
「もろちんです。必ずお伺いいたしますわ」
「わざわざ伺わなくてもそこにいる」
そう言ってテラスの陰になった庭を指した。
二人が話していた場所からは壁の死角になって見えない位置である。
夫人は急いで庭へ出て、その人の姿を見て立ちすくんだ。暗がりでも数年ぶりの再会でも見間違えるはずはない。
イヴンは苦虫を噛み潰したような顔で夫人を見ていた。庭先にずっと立っていたのだ。今までの話は全部聞こえていたに違いない。
「独立騎兵隊長だ。子爵の馬車は部下に任せて一足先に戻ってきたんだよ」
我に返った夫人は男の前に膝を折った。
「……お久しぶりです」
国王の愛妾に跪かせるほど男の身分は高くないが、かまわなかった。仏頂面で言った。
「馬鹿だな、あんた」
「はい」
「妙な気を起こさなければ今ごろは愛妾どころか王妃様だったぜ」
「私にはそんな地位は似合いませんわ」
立ち上がって、まっすぐ男の眼を見て言った。
「主人を救ってくださってありがとうございました。
私をお怒りでも、許してくださらなくても、心から感謝します。ご恩は決して忘れません」
そこまで言われてしまってはいつまでも仏頂面はしていられない。肩をすくめた。
「気にすんな。強盗の真似事も人さらいも全部このとんでもない姫さんの差し金だ。俺たちゃ言われたとおりに動いただけなんでね」
王女と一緒に庭から出ていこうとして、イヴンはからかい調子に声をかけた。
「ご主人が戻ってきたら愛妾はやめかい?」
エンドーヴァー夫人は何とも複雑な微笑を浮かべて言った。
「どうせ名ばかりの愛妾ですから」
二人は驚かなかった。顔を見合わせて肩をすくめたので、夫人のほうが意外そうな顔になった。
「ご存じでしたの?」
王女がおもむろに断言した。
「ご主人を亡くしたばかりの女の人にほいほい手を出せるようなら筋金入りの馬鹿って言わないよ」
イヴンは頭を抱えて捻りながら笑っている。
「まったく。さて、王女さま。この顛末《てんまつ》をどっちがその馬鹿な王様に教えてやります?」
王女の眼が丸くなる。
「どっちって……そりゃあ幼なじみの役目だろう」
「ご冗談を。そんな大役は姫さまにお譲りしますよ。
俺は謹《つつし》んで辞退します」
「それこそ冗談じゃない。こういうことを上手に取り持つのが親友ってもんだ」
「それならあんたにだって資格はあるわけだ」
「イヴンは当事者の一人じゃないか」
「いやいや、やはりここは姫さまに出ていただきませんと」
「だから、そりゃあないって」
軽口を叩きあいながら出ていく二人の後ろ姿を見送って、夫人は静かに頭を下げた。
それから三日後、アレザイアのスペンロウ卿と名乗る一行が正門の門番に通行の許可を求め出た。
門番はこれをすんなり通した。日中は人の往来の激しい城だし、馬車の仕立ても従者の拵《こしら》えも立派なものである。手形はもちろん、紹介状も添えている。
城内の誰かを訪ねてきたお客人だろうとしか思わなかったが、よくよく注意してみれば従者の中に見たような顔があったのに気づいたかもしれない。
実際、従者に成りすましていたタウの山賊たちにとってはかなり窮屈《きゅうくつ》な役どころだったようである。
「よりにもよってお貴族さんの従者とはね。冷や汗ものでしたぜ」
と、述懐したものだ。
卿はそのまま城内の客人となり、エンドーヴァー夫人は夜になるのを待ちかねたようにその屋敷を訪ねたのである。
スペンロウ卿ことエンドーヴァー子爵は三十を越したばかりの青年だった。
色白の、金髪碧眼の美男子だが、やつれがひどい。
自由にならない体での長旅の疲れもある。心労もある。連れてこられた屋敷の立派な造りにも驚いているようだった。まして周りにいる人間は親身になって世話してくれるとはいえ、見知らぬ人間ばかりなのである。
その精彩を欠いた顔が妻の姿を見て初めて輝いた。
夫人もまっすぐ寝床に駆け寄って夫の手を取り、枕元に跪《ひざまず》いたのである。
「ラティーナ……」
「あなた、ごめんなさい」
「もう会えないかと思ったよ」
「しゃべらないで、横になって。お願いよ」
車輪に巻き込まれる事故から半年あまり、子爵の病状は一進一退が続いている。
子爵の看病にはカリンの腹心とも言うべき古参の女達が当たっていた。長年カリンの下についているだけにしっかりしているし、口の堅いことは折り紙つきである。
王女の予想どおり、国王は怒らなかった。さすがに事情を聞かされたときは愕然《がくぜん》として言葉もない様子だったが、直ちに子爵を迎える手配を整えた。
知らなかったとはいえ、外からこの城内の様子を探ろうとする何者かを手引きする役目を夫人が務めたことは間違いない。重臣達が聞けば夫人は罪に問われずにはすまないところだが、国王はいっさいを自分の腹一つに収めた。また、夫人に対しては稔るように言ったものだ。
「とんだことに巻き込んでしまった」
それが明らかな悔恨と謝罪の口調だったので、夫人は眼を見張り、急いで首を振った。
「陛下。そんなことをおっしゃってはなりません」
「国王というものが因果な商売だとは重々承知しているつもりでいたが、親しい人にまで累《るい》が及ぶとは思わなかった」
腕を組み、険しい表情を浮かべている国王の眼の光を目の当たりにして、夫人は息を呑んだ。
かねてからの約束のパキラの花を持参した王女に向かって、「別のお方を見るような思いがいたしました」
悄然《しょうぜん》と語ったものだ。
その場にはシャーミアンも同席していた。夫人の話し相手になればと王女が連れてきたのである。
夫人と若い女騎士はすぐに仲良くなった。
シャーミアンもスーシャ時代のあの男をよく知る人である。お下げ髪の少女だったころは一緒に遊んだこともある。それだけに夫人とは話が合った。
「陛下はいつもそうですわ。戦場にいるときなどはまた別の顔をお見せになります」
シャーミアンの言葉に夫人は驚いたらしい。
「三年前の内乱では、あなたのように若くて美しい方までが戦場で働かれましたの?」
「いえ、私の働きなどは何も……。ただ、父の側に控えていただけですから」
「そりゃあ謙遜《けんそん》が過ぎるよ。立派な小隊長だった」
「あら、それなら姫さまはどんな勇士もかなわない副将軍でいらっしゃいましたわ」
「それ以上に、あのちょっと頼りなく見える王様が人の十倍も働くもんで、敵も味方も仰天してたな」
褒《ほ》めているように聞こえない。
シャーミアンは額を抑えながら主君の弁護をした。
「戦場でのお働きばかりではありません。陛下が施政を行われるようになってから三年になりますが、国内の秩序を整えることにも力を込められ、今でもかなりの成果をあげていますわ」
「それがまた人によっては意外だったらしい。どうせ田舎騎士あがりで戦場でしか役に立たないと思われてたらしいからな」
弁護する端から台無しにしてくれる王女である。
シャーミアンはため息をついたが、夫人は深く頷いた。
「わかりますわ。私もあの方には……、スーシャのウォルさまには王冠は似合わないとずっと思っておりました。人は無上の幸運と言うでしょうが、そんな偉大な地位と名誉を得ることが、一国をその肩に担うことが、あの方にとって本当によいことなのかどうか、不安に思えてならなかったのです」
「そのお気持ちはよくわかります。エンドーヴァー夫人」
シャーミアンがしみじみと言った。
「そっくり同じことを私も思いました。ドゥルーワさまの遺児だと聞かされた時は驚きのあまり何も言えませんでした。ご即位が決まったときはおめでたいことだと思うよりも、そんな栄光が果たしてあのウォル兄さまに……」
慌てて口をつぐんだのはその国王の愛妾である夫人を慮《おもんばか》ってのことである。が、横から王女が笑って口を出した。
「お兄さん呼ばわりくらい別にどうってこともないだろう。馬鹿呼ばわりする王女がここにいるんだ」
「姫さま!」
とたんにシャーミアンの雷が落ちる。
「私も今さらくどくは申しませんが、人前でだけはお止めください。陛下の権威に関わります」
こういうところはドラ将軍そっくりである。
王女は平気の平左で言い返した。
「馬鹿であると同時にあいつは本物の国王だ。真に偉大な国王かもしれない。とても見えないけど」
「姫さま……」
女騎士は呆れ返り、夫人は吹き出した。
もっとも有力な花嫁候補にここまで言われるのだから気の毒な国王だと思ったのだろう。
「姫さまは妃殿下におなり遊ばしても、今のような調子をお崩しにはなりませんか?」
「そうですわ。王妃は王を立ててくださらなくてはなりません」
「だから。冗談じゃないって言うのさ。おれは誰の下にもつかない」
王女の華奢《きやしや》な体が、愛らしいその顔が、ひやりと冷気を放った。
相手が夫だから、国王だから、その手綱に素直に身を任せると思ったら大間違いなのである。
誰であろうと命令はさせない。わずか十三歳の少女だったとき、王に向かって厳然と言い放った人だ。
今でもその気性は変わらない。
さすがにシャーミアンも口ごもった。
「でも、そのことは陛下もわかっていらっしゃると思いますけど……」
「シャーミアンさまのおっしゃるとおりですわ。陛下は少なくとも冗談で求婚なさるような方ではありません」
「おれにはひどい冗談にしか聞こえない」
王女はそっけなく言い放った。
問題の男はそれから十日ほどして現れた。
エンドーヴァー子爵が拉致《らち》されたことをこの男が知っていたかどうかはわからない。ソブリンは遥《はる》か遠方の地だ。知らなくても無理はないが、仮に知っていたとしても素振りにも出さなかったに違いない。
夫人も打ち合わせどおり何食わぬ顔で応対した。
陛下のお覚えはますますよろしく、近ごろ取りざたされているグリンダ王女との結婚も、私を本宮に入れるための布石に違いないと夫人は言い、男は非常に満足した様子で、今後の連絡は手紙で行うことを取り決めて帰っていった。
しかし、この男もまさか自分の行動の一部始終が見張られていたとは思わなかっただろう。
夫人の離宮を出ると同時に、庭師や商人に姿を変えた男達がぴたりと尾行についた。国王が抱えている細作《さいさく》の中でも腕の確かな連中である。どこへ行くのか、誰と連絡を取るのか、必ず突き止めて帰るはずだ。
この日から夫人は住まいにしていた離宮を出て、病床の夫につききりになった。
もっとも城内に別の耳がないとも限らない。表向きには、体の具合が思わしくないのでしばらく静養すると発表した。こうしておけば園遊会や茶会など女同士の集まりに夫人が顔を出さなくても、しばらくはごまかせる。
子爵の容体は相変わらずだった。日毎に日差しは強くなり、病人にはよくない暑い季節の到来を予感させたが、妻の献身的な介護もあり、ひとまず落ちついていると側についている女が知らせてきた。
「なんとか、よくなってくれるといいが……」
と、国王は呟いた。
夫人の態度がおかしいのは感じていたが、まさかこんなことになっていたとは予想だにしなかった。
夫人に接近した男の糸を引いているのが誰にせよ、自分に狙いを定めたものに間違いはない。
懐かしい人との再会の喜びが思いも寄らぬ方向へ飛び火しつつあることに国王は心を痛めていた。
さらにはもっと恐ろしい懸念があった。他の誰にも言わなかったが、王女にだけは、低い声で相談を持ちかけた。
「半年前の子爵の事故は、本当に事故だと思うか」
さすがに王女も顔を曇らせた。言いたいことは嫌と言うほどわかる。夫人を金で縛るために何者かがわざと仕組んだものではないかというのだろうが、王女は首を振った。
「事故だろう。殺さないように、それでいて長い治療を必要とする重傷を負わせるように意識して跳ね飛ばすなんて器用な真似はグライアでも無理だ」
「そうか。そうだな」
国王にとって頭の痛い問題は他にもあった。
魔法街の老婆の予想が見事に的中したのである。
タンガをやっと追い返したと思ったのもつかの間、グリンダ王女を妻にもらいたいという申し出が殺到したのだ。
パラストの南やタンガ以北には大小の王国、公国が点在しているが、十四歳の公子から五十歳の首長までが次々と王女の花婿として名乗りを上げてきたのである。
「世の中には馬鹿が多い」
と、バルロが呆れて評したが、先方は大真面目だ。
応対した宰相は、心ならずも、国王がタンガの使節に用いたのと同じ口実を使って断ろうとしたが、それは本当に正式なご婚約なのかと逆に訊き返される始末である。
そう言われては後には退けない。もちろんですと宰相は胸を張った。グリンダ王女は内乱時代の国王を王座につけるために現れた女神の現《うつ》し身《み》であると我々は考えており、その意味ではデルフィニア国王にはふさわしい王妃でありますと、冷や汗を隠して熱弁を振るった。相手はそれでもまだ未練を残しながら国王が相手では分が悪いと諦めて渋々引き上げる。
この繰り返しだった。
おまけに一度は諦めて引き下がったはずのタンガがしつこく話を蒸し返してきた。しかもその口上がふるっている。陛下がそれほど高く評価される姫君ならばなおのこと、是非とももらいうけたいと言うのである。
これまた恐ろしく強引な話だが筋は通っている。
事情を知らない者の耳にはしゃれた言い回しにも聞こえる。
タンガの真意がどこにあるのかを訝《いぶか》しみながらも、人の花嫁を奪おうとはあまり感心しない心構えでありますなと、国王もしゃれた答を返した。
それにしても驚くべきは王女の人気である。
宰相をはじめ、デルフィニアの老臣達もどういうことかと不審がった。
奇跡の復活を遂げたデルフィニアにあやかりたいのかもしれない。幸運を呼ぶお守りだという占い師の言葉を信じたのかもしれない。もしくはデルフィニアがつけて寄こすはずの持参金が目当てなのかもしれない。とにかく、成りゆきとはいえ非公式にとはいえ、各国に国王の結婚を通知してしまったのである。そのままにはしておけない。
「見ようによってはよい潮時かもしれません」
と、老臣の一人は言い、別の一人は、「今の世には、そして陛下のような方にはいっそ、ああしたこ気性の方のほうがよろしいのかもしれませんな」
と、もったいぶった調子で言ったものだ。
宰相も、女官長も、ドラ将軍をはじめとする豪傑達も、こうなってしまっては仕方がないと諦めて結婚を祝うためにあらたまって王の前に伺い出た。
ところが驚いたことに、この期に及んでも国王は王女の同意を得ていないというのである。
忠実な家臣達は一様に呆れ返った。ドラ将軍などは叱りつけさえした。
「言いだしっぺが何をぐずぐずしておいでですか!?すでにコーラル市内はもちろん国外でもお二人の結婚は既成の事実として大評判になっているのですぞ! まさか今さら取りやめというようなことにはならぬでしょうな!」
その剣幕に国王はびっくりして眼をぱちくりさせた。
「将軍はてっきり、この話には反対だと思っていたが、いつの間に風向きが変わったのだ?」
「ぬけぬけとよくおっしゃいますな。賛成せざるを得ない状況にまんまと持ち込んだのは陛下の仕業でございましょう」
「人聞きの悪いことを言うな。俺はただ、タンガを退ける方便として結婚を持ち出しただけだ。しかし、ゾラタスめは未だにリィに未練があるようだからな。
……やはり本当に結婚してみせるしかないか」
「ご自分のご結婚まで冗談にされては困ります!」
あいにく国王は掛け値なしの本気である。
「とにかくだ。俺はあの娘と結婚したい。しかしあの娘はどうも気が進まないらしい。この問題に関して俺と話し合うことさえ避けている。となると、俺としてはあの娘の気が変わってくれるのを待つしかないのだ」
「何を情けないことをおっしゃいますか」
「そうです。そんな頼りない……それではご婚儀がいつになるかわからないではありませんか!」
「うむ。わからん」
こういうことを真顔で断言する国王も珍しい。
年長の英雄たちは一斉にため息をついたが、その場で国王を訓戒するような無駄なことはしなかった。
何としても王女を説き伏せるようにと若い連中に向かって大真面目に諭した。でなければデルフィニアの面目が丸つぶれになる。
「結局こっちにお鉢が回ってきやがった」
嘆きながらも、しょっちゅう西離宮に出入りしているイヴンが一番手として『説得』に当たることになった。
西離宮に行ってみると、王女と侍女に化けた少年は何かの作業に熱中していた。イヴンの眼には床の一部を壊しているように見ええた。
「何をしてるんだい?」
よく見ると床ではなく、床に接した壁の一番低いところを小さな鑿《のみ》を使ってほじくり返しているのだ。
「ちょっと、あちこちに仕掛けをしようと思ってさ。
この離宮も近ごろはいろいろ物騒なんだ」
「私が代わります」
少年は床に這うようにして器用に鑿を使い始めた。
そこに小さな空洞をつくろうとしているらしい。
むろん短剣などの武器を隠しておくためのものだ。
これは王女の発案である。先日、シェラが包丁を取るしかなかったことを考慮したのだ。
天井《てんじょう》の桟《さん》の間や離宮の外の森などにそれとわからないように武器を潜ませておけば、少なくとも素手であの男と戦うような事態だけは避けられる。
「死にたくなければそれなりの努力をするもんだ」
と、王女は言い、シェラもその意見に賛成だった。
イヴンは先日の襲撃を知らない。不思議そうな顔で二人のすることを見ていたが、唐突に切り出した。
「なあ、リィ。ずいぶんこの坊やと仲良くなったみたいだな」
ソブリンでもこの少年は王女の指示によく従っていた。それも好んで、いきいきと働いているように見えた。
「坊やじゃない。シェラだ。これが男のうちなのは内緒なんだからな」
「そうなんだよな。一応、内緒なわけだ」
妙に含みのある口調である。
「どうした?」
「いやあ。あの馬鹿からこのきれいな坊やに乗り換えたのかと思ってさ」
驚いたのはシェラだった。思わず鑿を取り落としかけたくらいである。黒衣の男を見上げて何か言おうとしたが言葉が出てこない。
王女のほうは、それはそれは苦い息を吐いた。
「最高に笑えない冗談だぞ」
「俺もそう思う。まさかお前にあの馬鹿と結婚してやってくれなんて言う羽目になるとはね」
投げ遣りな様子のイヴンに向かって、シェラが控えめに話しかけた。
「やはりあの、そういうお話に……?」
「ああ。本宮のおしゃべり雀《すずめ》達からまた何か聞き出したのかい?」
シェラは首を振った。
「質問攻めに遭《あ》ったのは私のほうです。姫さまのお気持ちはどうなのかとか、どうしてお返事を渋っていらっしゃるのかとか、前以上に興奮した様子で、手が付けられません」
「余計なことは言わなかっただろうな?」
と、王女が釘を差す。
「姫さまが何もおっしゃらないのに私に何か言えるわけがありません。姫さまは一言もご結婚のことはおっしゃらない。いつもとお変わりなく過ごしていらっしゃると言ったのですが……とてもそれで納得したとは……」
困ったように口ごもったシェラである。イヴンがおもしろそうに頷いた。
「そのおしゃべり雀達がなんて言ったかはだいたい想像がつく。若い娘の考えることってのは似たり寄ったりだからな」
王女だけがわからない。首を傾げている。
長身の男は自分より頭一つ小さい王女の肩をつついて言った。
「おう、姫さん。さっさと答えを出さないと、身分違いの縁談に悩むあまりふさぎこんで無口になった恋する乙女にされちまうぞ」
それが自分のことだと察した時の王女の顔こそ見物だった。
しばらく悪寒《おかん》が収まらなかった様子である。
続いてバルロとナシアスが姿を見せた。ナシアスはともかく、バルロがこの離宮へ上がってくるのは初めてのことだ。
犬猿の仲の両人が顔を合わせたわけだが、喧嘩は控えた。日ごろはどうあろうと二人とも国王を中心に連帯している。当面の目的はどちらも同じだ。
シェラはやや緊張気味にお茶を出した。これだけ正体を知られている人がそろうとどうしても動きがぎこちなくなっていけない。
急いで下がろうとしたが、バルロがそうはさせなかった。
「これがもし毒入りだったら息が絶える前にその細首を打ち落としてくれるからな。俺の手の届くところにいるのだ」
と言うのである。
「それならおれが毒味するまで待ってればいい」
王女が言った。実際、北の塔ではそうしていたはずだが、バルロは頑固に首を振った。
「お立場を考えてもらいましょう。どんなに不本意でも未来の王妃に毒味などさせられません」
断言して、いさぎよく茶を含んだ。
ナシアスも同様にして王女の説得に努めた。話が一人歩きを始めてしまった感はあるが、ここまで来たら何らかの答えを出さなければ世間は納得しない。
城下では婚儀の日取りが今日発表されるか、明日発表されるか、誰もが待ちかねているというのだ。
その中にはきっと反対意見があるはずだと王女は主張したが、誰も引き下がらない。
「それとも、姫さまには他に誰か意中の人がおありなのでしょうか」
「怒るぞ。単に結婚なんかしたくないんだ」
「ですが、それではもう通りません」
「おれみたいな変なのが王妃でもいいのかよ」
「よかあないが、妥協しましょう」
イヴンが真顔で言い、バルロも頷いた。
「そのとおりだ。ナシアスも言ったが、ここまできた以上は何が何でも従兄上《あにうえ》と結婚してもらわなければ従兄上の名誉に関わる」
「そういうことです。あんたの素性はこの際どうでもいい。問題は陛下が大陸各地の人間にあんたと結婚したいと宣言しちまったことだ。これで取りやめにでもなろうもんなら、デルフィニアの国王は花嫁に逃げられた情けない男だと大陸中の物笑いの種にされちまうんでね」
「それとも王女は従兄上にそんな大恥を掻かせてもかまわないと言われるか」
両者そろって実に平然とふてぶてしく憎たらしい。
王女は頭を抱えて捻った。こんなのを二人同時に相手にするのはいくらなんでも分が悪すぎる。
しかも、ナシアスはやんわりと優しい口調で何がお気に召さないのでしょうかと聞いてくる。翌日になって現れたシャーミアンは半分泣きそうな顔でお願いですからと迫り、カリンもすっかり諦めた様子でとにかく形だけでも整えていただきたいと訴える。
連日の説得攻勢に王女も辟易《へきえき》した様子だったが、首を縦には振らなかった。しまいには宰相ブルクスまでが自ら足を運び、形だけの偽装結婚でいいのだからと促したが、それでもうんと言わなかった。
そうこうしているうちに百合の季節も終わり、本格的な夏の到来を予感させるころ、事件が起きた。
客人として城に滞在していたスペンロウ卿が急死したのである。
スペンロウ卿ことエンドーヴァー子爵はスーシャ時代の国王の知人であると城内に発表され、それだけに病体を案じられていた。
高名な医師が平癒《へいゆ》に全力を尽くし、夫人の献身的な介護もあって傷そのものは回復の兆しを見せていた。子爵も全快することに意欲を燃やしていたという。苦労をかけた妻に何としても報いたいと思っていたのだろう。
それがあだになった。無理をして床を離れようとしたのがたたり、高熱を発して三日の間生死の境をさまよったあげく、帰らぬ人になってしまったというのである。
子爵の死を聞かされた国王の衝撃は大きかった。
すでに細作から報告が入っている。問題の男から発せられる手紙や使者はすべてアヴィヨン城に届けられ、そこから問題の男に指示が出されているというものだ。
オーロンが直接関与しているかどうかは不明だが、パラストの中枢にいる何者かが指示を出したことは間違いない。
国王はすぐさま夫人のもとへ弔問《ちょうもん》に赴こうとしたが、できなかった。自分が殺したような気がしたせいもある。女官長に止められたせいもある。
カリンには子爵の本当の身元を話してあった。今は悲嘆にくれている夫人についていてくれる。その女官長が言うには、今、陛下が夫人に会いにいらっしゃるのは逆効果だと、もう少し落ちついてからのほうがいいとのことだった。
後になって打ち明けたが、女官長は、夫人が早まった真似をするのではないかと案じていたらしい。
つまりはそれほど夫人の様子は尋常ではなかったということである。
王女も固い顔だった。
ソブリンから遠路はるばる連れてきたことが子爵の体に障ったのではないかと思ったのである。
子爵の葬儀がしめやかに行われた日、王と王女は二人きりで黙然と酒を呑んでいた。
「よけいなことだったか、な」
と、王女が言えば、国王が舌打ちして、「ばかな。お前が思いきった真似をしてのけたればこそ、子爵は夫人に看取られて息を引き取ることができたのではないか」
その国王も夫人がこの城へ差し向けられたことを気に病んでいる。
「ラティーナはご主人と幸せに暮らしていただろうに、昔の俺とささいな関わりがあったばかりに……、とんだことになってしまった」
「それこそ馬鹿な話だ。子爵の怪我は明らかな事故なんだ。パラストの悪者がそこにつけこんだだけで、お前が気にすることじゃない」
互いに相手を励ましながらも、どうしても表情が暗くなる。これは仕方のないことだった。
夫人がどうにか落ちつきを取り戻したのは子爵が死んで一ヵ月もたったころだった。
夫人は国王に、「愛妾を辞させていただきたい」
と、言ってきたのである。
それまで同じ城内にいながら顔を合わせることを避けていた国王だが、さすがに放ってもおけず、夫人の下へと足を運んだ。
今の夫人はもともとの離宮でもなければ、子爵が息を引き取ったのでもない、小さな宮でひっそり暮らしている。少しでも気分を変えることができればと、これも女官長の配慮によるものだった。
夫人は黒い服に身を包んで国王を出迎えた。盛夏だというのに薄汗さえ滲《にじ》ませていない。あれほど血色のよかった顔は透き通るように白く、細くなり、向日葵《ひまわり》のようだった人が今は日陰にぽっかりと咲く花のような、異様な風情になっている。
夫人の無念は国王にも充分に察しがつく。
愛する人を救うためになりふり構わず、忘れていた昔に無理に戻って、しかし、結局すべてが無駄になってしまったのだ。
かける言葉も思いつけずにいる国王と対照的に、夫人は静かに口を開いた。
「罰が当たりましたわ」
「……」
「陛下を欺《あざむ》こうとした罰が当たりました」
「……そんなことを言ってはいかん。あなたのせいではないのだ」
やつとのことで言葉を絞り出したが、お世辞にも効果的な慰《なぐさ》めとは言いがたい。
「陛下には多大なるご厚情を賜りましたが、この上、厚かましく城内に留まろうとは思いません。お暇をいただきとうございます」
「城を出て、どちらへ行かれるつもりです?」
「生まれ故郷へ帰ります。誰も待ってはおりませんが、他に行くところもありませんから」
国王は首を振った。
夫人の故郷がテバ河を越えたところにある小さな公国だと、国王は知っていた。それではとても安心して旅立たせることはできない。せめて自分の目の届くところにいてもらいたいと訴えた。
「私に監視を付けようとおっしゃいますか」
「違う。そうではない」
国王は焦《あせ》りを感じながら言った。
「わかってくれ。俺はあなたを助けたいのだ」
「でしたらそんなに優しくなさらないで。あまりに私が惨《みじ》めですわ」
淡々とした口調だった。
傍目《はため》にも困りきった顔の国王に、夫人はゆっくり首を振った。やんわりと微笑する。
「このごろ、姫さまのおっしゃったことが何となくわかるような気がいたします。あの方はあなたのことを真に偉大な国王であるとおっしゃいました」
「……」
「そのとおりなのでしょうね。あなたは偉大な国王陛下であらせられます。あのスーシャで伯爵の息子として武道に明け暮れていたころから、真の国王でいらっしゃった。常人には及びもつかない寛大なお心で私を愛してくださっていた。そのことがこの愚《おろ》かな女の頭でもようやくわかるようになりました。
ですが、私が望んだのは、本当に欲しかったのは、万人を愛し、万人から愛される偉大な王などではなく、私一人を心から愛してくださる方でした」
長い沈黙の後、国王はようやく苦笑を浮かべた。
「俺は結局あなたの恋人としては落第だったらしいな」
「あなたのせいではありませんわ。私の……ただの女の、つまらないわがままのせいです」
「では俺も一つわがままを言わせてもらおう。愛妾でなくてもいい。王宮にいるのがいやだと言うならこの近くに住居を設ける。出国だけは思いとどまってもらいたい」
「また、どこかの悪者が私を利用しようとするのを防ぐためですわね」
「ラティーナ!」
やはりわかってくれないのかと声を荒らげた国王だが、夫人の顔を見て言葉を呑み込んだ。
再び未亡人になった人はせいいっぱい笑ってみせている。しかし、その眼には涙があふれかけている。
「どうか、そういうことにしておいてくださいな」
今のこの人に必要なのは優しい思いやりなどではない。むしろ断罪されることを望んでいる。それを察して、国王は事務的に話を進めた。
「わかった。今日限りで愛妾の任を解こう。ただし、出国を認めるわけにはいかん。コーラル郊外に住居を授けるので今後はそこで暮らすように」
そこまで言って、国王は苦い顔で言い足した。
「王命だ。従っていただこう」
「謹んでお受けいたします。ただ、夫の菩提《ぼだい》を弔《とむら》うことを許していただけますでしょうか」
「言うまでもないことだ」
「ありがとうございます」
夫人はあくまで静かに頭を下げた。
小さな宮を出た後、国王は中庭へ続く石段に腰を下ろして夜の庭を眺めていた。
斜面に建っているコーラル城だ。庭も傾斜をえがき、石段の縁は野牡丹《のぼたん》の赤と緑で鮮やかに彩られている。
小さな赤い花が一列に並んだ段々畑のようだった。
虫の声も聞こえてくる夏の夜だ。草の匂いと木の香が混ざった濃厚な香りが漂っている。
足音も立てずに王女がやってきて王の横に座った。
夫人が城を出ていくことになったと聞いてきたのだろう。何も言わずに国王の肩を叩いた。
十六歳の王女が男のような、気心の知れた親しい友達のようなことをする。珍しいことではなかったが、国王は思いついた様子で王女の手を取った。
「何だ?」
「いや、小さな手だと思ってな」
「そりゃあ、お前とは体の大きさが違う」
だから手の大きさも違って当たり前と王女は言いたかったのだろうが、国王はしげしげと、すっぽり収まる王女の手を見ている。
「ラティーナの手と比べてるのか?」
「そうもかしれん。あれはよく働く手でな。庭仕事はもちろん、身の回りはいつもきちんと整え、針を使うのもうまかった。見事な料理ばかりでなく酒や茶も自分でつくった」
王女は肩をすくめておどけた笑いを浮かべると、そっと手を取り戻した。
「これは馬鹿力の他には戦うことしか能のない手だ。
勝ち目はないな」
「優劣を比べているわけではない。現世に降臨《こうりん》した戦女神《いくさめがみ》ならば当然のことだ。この手は剣と勝利こそ掴むにふさわしい。縫い針も台所用具も似合わん」
王女はまた肩をすくめた。
二人は同じ石段に腰を下ろしているが、後ろから見ると、まるで月の輪熊と子羊が仲良く座っているように見える。
事実、少し離れた石像の陰に隠れて、二人の姿を見守っている眼がある。
「従兄上、決めるなら今ですぞ」
低く囁いたティレドン騎士団長を、ラモナ騎士団長がやはり小声でたしなめる。
「よさないか、バルロ。はしたないことを……」
「言える立場か」
そのとおりなのでナシアスも反論できない。隣では独立騎兵隊長が難しい顔で首を捻っている。
「しかし、夫人にふられて求婚ってのはちと情けないぜ。リィの奴がうんと言ってくれますかね?」
「確かに……」
「そこが問題だな」
「悪くすると陛下のお顔がまた腫れ上がります」
割り込んだ声に男達はぎょっとして振り返った。
女官服を着た小太りの体が、それでも石像の陰に隠れるようにして、男達を見下ろしていた。
「まったく嘆かわしい。独騎長はまだしも、ティレドン、ラモナ騎士団長がお揃いで覗き見とは」
「そういう女官長は何をしにいらした?」
「覗き見の便乗です」
どっと倒れた三人である。
だったら苦情を言ってくれるなと思ったが、便乗組はカリンばかりではない。ブルクスまでがそっと忍んできている。
この分では探せばまだまだ出歯亀がいそうだった。
彼らの行動は単なる覗き趣味とばかりは言い切れないものがある。それというのも近頃ではタンガの攻勢はますます激化し、本当にご婚儀を挙げられるのか、だとしたらいつごろか、確たるご返答がないということは口実に使ったのかと、実にしつこい。
こちらから手切れの一言を引き出そうとする意図が明白なのだ。
かと思うとパラストの動きも気になる。オーロンはじっくりと策を練り、勝機を確信してから仕掛けてくる国王だ。その代わり一度戦端を開いたら何が何でも勝利をもぎ取る驚くべき貧欲さがある。
デルフィニアはその両国に挟まれた格好になっている。嫌でも準備を整えなければならないのだ。
宰相がため息をついた。
「にもかかわらず、肝心の陛下が女性一人を攻略できないでいるとは……」
「ただの女性ではございません。各国の狂乱ぶりが示すように、一国の命運を変えるだけの力を持った方です」
女官長が大真面目に言った。
神々がすぐ側で息づいている世界だ。そしてあの王女は不思議な力を一身に具現している人だ。
手放すわけにはいかない。
一部の強硬な血統尊重主義者は別として、それが彼らの共通した思いだった。
手に汗握って成りゆきを窺っている人達の前で、大熊と子羊ほど体格の違う二人はのんびりと話している。
「ラティーナはどこへ引っ越すんだ?」
「うむ。郊外に手頃な屋敷がある。叔父の……死んだ国王の弟の別邸の一つだが、広い庭園があってな。
しばらく無人だったせいもあって、うまい具合に草ぼうぼうに荒れているのだ」
「そりゃあいい」
と、王女は言った。
国王の意図はよくわかった。夫人に仕事を与えようというのである。人間、暇を持て余しているとろくなことを考えない。せっせと体を動かしていれば、やがては悲しみも薄れていく。
「庭が元どおりになるころには立ち直ってくれるといいな」
「まったくだ。しかし、あの若さで、何の因果で、二人の夫に先立たれるのか……」
憮然とした表情の国王に、王女が努めて明るく話しかけた。
「ウォル」
「なんだ?」
「前に言ってたことと話がだいぶ違うな」
「何のことだ?」
「女の人を引っかけられたためしはないって言ったじゃないか。事実上の婚約者までいたのに」
「俺と彼女の名誉のために言わせてもらうが、嘘は言ってない」
きっぱり断言した国王である。
王女はしばらく考えて、疑わしげに言った。
「じゃあ、お前が引っかかったのか?」
「言葉が悪いぞ。こういうことはどちらがどうとは言い切れないものだ」
だが、少なくとも国王が積極的に迫ったわけではないらしい。
王女はますます疑わしげに尋ねたのである。
「お前、ラティーナの他に何人に引っかかった?」
国王はちょっと眼を見張った。
記憶を探り、考え込む顔になる。
「何人と言われても……」
「覚えてないほどいるのか!?」
「人を色魔のように言うな! 結婚を考えたのは彼女だけだ」
慌てて言い返す国王の顔を、王女は穴が開くほど見つめていたが、「じゃあ、まあ、そういうことにしとこう」
「それこそ引っかかる言い方だな?」
「おれが心配してるのは、ラティーナみたいに送り込まれてくる女の人が他にもいるんじゃないかってことだ。いないならそれでいい」
国王の顔にびりっと痙攣《けいれん》が走った。
大きな体が怒りのためにむくりとふくれあがったようにさえ見えた。
「パラストともいずれはけりを付けねばならんな」
断固とした口調で言う。
「仮にも一国の王が国取りを企むならもっと堂々とやればいい。俺はこんな手段は好かんぞ。よりにもよってラティーナとそのご主人を利用するとは!」
「……」
「俺にはまだまだ戦わなければならぬ相手がいる。
今度のことでパラストも油断できないとわかった。
タンガにいたっては言うに及ばずだ」
「戦にするのか?」
「俺が動かずとも早晩しびれをきらして仕掛けてくるだろう。どちらも領土を広げたくてうずうずしているからな。他の二国を平らげるとまでは言わんが、一番の強国になろうとしている。しかし、大人しく呑み込まれてやるわけにはいかん」
「当然だな」
「近いうちに必ず一戦交えることになるだろうが、その時に……」
「うん?」
「出陣する俺の横に王妃がいれば兵士達も心強いのではないかと思う」
「そういうの、王妃の仕事か?」
「ま、普通の王妃の仕事ではないだろうが、しかし、毒をくらわば皿までという言葉もある」
「それは悪事を働くときに使うんじゃないのか」
どこまでも漫才である。
隠れて聞いている人々は飛び出したいのを懸命にこらえている有り様だった。
「リィ。いつまでも宙ぶらりんでは俺も困る。重臣達も国民も困る。はっきりさせてもらいたい」
王女はため息をついた。
「あのな、王様。何をはっきりさせうって?」
「何とは無体な。決まっているではないか」
「どう決まってる?」
国王は眼をぱちくりさせた。
「リィ?」
対して王女は顰《しか》めっ面である。
「こっちこそはっきりさせてもらいたいな。お前はまだ何も言ってないんだぞ」
「言ってない?」
「そうだ」
「申し込んでなかったか?」
「聞いた覚えはない」
国王は魔法街での一連のやりとりを思い出してみた。確かにそのとおりだ。結婚するのが名案とは言ったが、求婚してはいない。
「それは、しまった」
王女はくすりと笑った。
「お前は本当に肝心なとこが抜けてるよ。これじゃあラティーナがつきあいきれなくて逃げ出したのも無理はない」
「するとお前が返事を渋っていたのは……」
「お前が言い出さないことにどうしておれが返事をしなきゃならない?」
もっともな話である。
「わかった。では求婚するから立ってくれ。跪いて申し込むのが正しい作法だ」
王女が吹き出した。
石段に腰を下ろしたまま、しばらく笑い続けて、からかうような顔を向けた。
「お前が言うと求婚も冗談に聞こえるよ」
さすがにたまりかねて言い返そうとした国王だが、王女は頬杖をついたまま、何やら頷いた。
「違うな。本気なのはわかってる。ただ、あんまり突拍子もないことを平然と言いすぎるんだ。それで馴れない人はわけがわからなくなる。……でもまあ、掛け値なしの本気だってことは、よくわかる」
「だから俺はお前を后に欲しいのだ」
と、王は言った。
「皆は飾りものを連呼するが、王妃の果たす役割は大きい。そもそも男にとって妻というものは計り知れぬほど大きな意味を持つ存在だ。しかし、自分で探す自由は俺にはない。かといって各国の思惑の絡んだ姫をもらう気にはなれん」
「結婚してしまえば話は違ってくるだろうに」
「そのとおりだ。最初は他人でも、親子ほど年の離れた相手でも、ともに過ごすうちに驚くほど頼りがいのある相手になる。それはわかっている。しかし、見知らぬ姫との間に時間をかけて信頼と同盟関係を築かなくても、気心の知れた即戦力になりそうな相手が目の前にいるとなれば、俺はお前を選びたい」
「どういう理屈だ」
「いかんか? これでも必死に口説いているつもりなのだがな」
「お前はそんなだから女の人を一人も引っかけられないんだ。色気のかけらもありゃしない」
言葉は文句だが、口元は笑っている。
真っ暗な中に篝火《かがりび》の灯っている広大な庭に眼を戻して呟いた。
「まあ、おれにはそのくらいがちょうどいいか」
「そうか。では、受けてくれるか?」
覗き見をしていた一同も思わず身を乗り出したが、王女は国王の鼻先に指を突きつけた。
「条件がいくつかある。まず、寝室は別だぞ」
国王は眼を見張った。今さら何を言い出すのかと呆れた顔だった。
「ものはためしに尋ねるがな、仮に俺がお前に言い寄ったとしたら、どうする?」
「どうもこうも、腕の関節抜いて肋《あばら》の五、六本へし折って、ついでに急所を蹴りあげてやる」
「そうなるのがわかっていてどうしてお前のような物騒なものに手を出さねばならん? 気だてのいい、大人しやかな女がいくらでもいるというのに」
これまた大真面目に言うので、王女は声を立てて笑った。
「王妃になっても、きっと馬鹿呼ばわりするぞ」
「急に変わったらそれこそ気味が悪い」
「他にもあるぞ。堅苦しい行事は端からすっぽかす。
黙って城を抜け出す。狼とじゃれる」
「そんなことはわかりきっている。王妃になったからといってお前の行いが改まるとは最初から思っていない。そんな期待はするだけ無謀というものだ。
それに、俺には今のままのお前のほうが好ましい」
緑の瞳がまん丸になる。呆れ返った調子で言った。
「お前、それ、女の趣味としては最悪だぞ」
とうとう堪忍袋の緒を切らして飛び出そうとしたバルロをナシアスが必死に止める。イヴンは疲れたように楯にしている石像にすがり、宰相と女官長が絶望的な表情で天を仰ぐ。
だが、国王は平然としていた。
「女のお前を欲しいと言った覚えは一度もない。欲しいのはお前という同盟者だ。いいから立ってくれ。
これではいつまでたっても求婚できん」
この言い分が王女は気に入ったらしい。
「そこで言いな。どうせまともな結婚じゃないんだ。
だいたい理由にしてからが世間の噂に合わせなければならないという実にふざけたものだからな」
「うむ。確かにふざけている」
「だから、今さら体裁を気にすることはない」
ほれ言え、と、せっつかれてさすがに狼狽《うろた》えたが、後にも退けない。やけくそのように口を開いた。
「それではと、俺、ウォル・グリークはグリンディエタ・ラーデンに結婚を申し込む。ただし、名目はどうあれ、これは同盟だ。誓詞の代わりに結婚証明書に署名するだけのことだ。そのつもりで受けてもらいたい」
出歯亀一同が手に汗握って見守る中、王女はあっさりと言った。
「名前を書くだけでいいのなら、そうしよう」
「言ったな?」
「ああ、言った」
「本当だな?」
「くどい」
断言して、王女はにこりと笑った。
「お前と結婚しよう」
式は来年三月と決まった。
やっとのことで決まった主君の結婚に家臣一同は胸を撫で下ろしたが、そこからが大変だった。
当人達は偽装結婚と納得しても、事情を知らない家臣達はそうはいかない。喜びと緊張のあまり何かにつけて『王妃らしく』を王女に押しつけ、王女はそれをうるさがり、「しばらく家出する」
と、宣言して、本当に出ていってしまったのだ。
それきり、秋たけなわとなり、枯れ葉が散っても、コーラルが雪化粧をするころになっても戻ってこない。
家臣一同、大パニックに陥った。沈着冷静な女官長でさえ、この事態には焦《あせ》りを覚えていた。
国王の結婚である。式場で誓いを立てればいいというものではない。それまでにしなければならないことが山ほどあるのだ。
「ご婚礼衣装の用意もまだですし、お輿《こし》入れの際のお道具類も揃えねばなりません。本来なれば姫さまのお家が整えるべきものですが、アヌア侯爵さまかヘンドリック伯爵さまかに親代わりを引き受けていただこうと思っておりましたのに、肝心の姫さまがお留守ではそうも参りません。式の手順も覚えていただかなくてはなりませんし、祝宴では皆々様が王妃に祝辞を述べられます。ご挨拶も覚えていただかなくてはなりませんのに……」
と、きりがない。
その不安は王女自身よりも、一緒に姿を消した侍女に向けられている。
「シェラもシェラです。文字を知らぬわけでもあるまいに、今もお側におろうに、なんで手紙の一本もよこさないのか……」
城全体が右往左往する中で、国王はただ一人泰然と構えていたが、年が代わるころにはさすがに心配になってきた。
今までも何度かふらりといなくなることはあったが、これほど長い間、王女が城を留守にしたことはない。
実は、国王には気がかりが一つあった。
貴族階級の一部に、あくまでこの結婚を認めまいとする勢力があるようなのだ。
理由は王女の血統である。両親の名もわからない、家の名もわからない。名誉ある大華三国の王妃には不適格だと強硬に主張しているという。
最初は国王も苦笑するに留めた。思えば自分の時もそうだった。庶子ごときに王冠を与えるなどもってのほかだと、とても臣下として仕えることはできないと、古い家柄の貴族ほど強く反発したものだ。
今度もその類だろうと大して気にしていなかったのだが、どうも違うらしい。
この反対派はなかなか過激で、こんな結婚は断じて許せない。どんな手段をとっても阻止してみせると息巻いているというのだ。
それが王女個人への恨みから来るものか、自国の王家の血筋を尊ぶ見当違いの忠義心から来るのかは不明だが、思いこみの激しい連中ほど危険なものはない。何をしでかすかわからないからだ。
それがある程度の権力を持っている者となると、なおさら危険である。
そんな連中にしてやられる王女ではないと思うが、万が一ということもある。反対派の中でも過激な連中からは眼を離さないように気をつけていたが、何より頭が痛いのは、その反対派の中心にいるのがアエラ姫らしいということだ。
ドラ将軍が苦虫を噛み潰したような顔で言ったものである。
「懲《こ》りぬ方と申しあぐるべきか、よい加減になさっていただきたいと申しあぐるべきか、あの方のお考えになることはさっぱりわかりません。陛下の在位がお気に召さぬのなら誰を王妃に据えようと構わぬはずです。それを……」
あんな娘に王妃の位を与えるのはもってのほかと、国王のすることではないと憤激しているというのである。
理屈ではない。国王のすることは何であれ、気に入らないのだ。反対派はアエラ姫のその感情につけ込み、煽《あお》っているとも言える。
国王は姫に対してはばかるところがある。あまりかしこくない、困ったことばかりしでかしてくれる人だが、何と言ってもバルロの母であり、叔母でもある。厳罰に処すようなことはできるだけ避けたいのだ。
ドラ将軍はさらに言う。
「バルロどのに一働きしてもらってはいかがでしょうか。我の強い方ではありますが、あの方は我が子であるバルロどのをひどく恐れております。馬鹿な真似は謹んでくださると思いますが……」
しかし、国王は姫の下へ出入りする人間から眼を離すなと命じただけで、バルロには何も言わなかった。
頼めばきっとブラシアまで行ってくれるだろうが、それでなくとも不仲な親子だ。これ以上、その溝を深めるようなことはしたくなかったのである。
しかし、当のバルロは王女が戻ってこないことで爆発寸前だった。彼は立場上、王家の結婚がどういうものかを知りつくしている。
王女の素性に反感を持つ人々がこの事態をおもしろく思うはずがないこともわかっている。
「だいたい結婚を控えた花嫁が半年も住処を留守にするなど言語道断だ!」
と、ナシアスに向かって苛立ちをぶつけたものだ。
ラモナ騎士団の本拠地、ビルグナでの会話である。
「少しは落ちつけ。姫さまだって式までには戻ってこられるさ」
「それでは手遅れだ! 今でも遅すぎるくらいなんだぞ!」
これほど長い間戻ってこないのは国外に出ているからだと見極めをつけて、国境沿いの砦に入国者の管理をいっそう厳しくするように通達し、それだけでは飽きたらず、こうしてビルグナまで飛んできたのだが、怒りは収まるどころかいっそう激しくなったようで、歯ぎしりしている。
「今からみっちり仕込んだとしてもだ。あの王女をそれらしくしつけるには膨大な手間と時間がかかる。
少なくとも来賓《らいひん》の前でドレスを踏んづけたり、大声を張り上げたり、従兄上に対して無礼な態度を……式と祝宴の間だけでもだ! とらぬように。そこまで化けさせねばならんのだぞ!」
確かに前途多難である。
ナシアスも見た目ほど平然としていたわけではない。水色の瞳には深い憂《うれ》いがある。今からでも遅いくらいという意見にもまったく同感だ。
「だからといって我々に何ができる? 姫さまの足は知っているだろう? それに海はどうだ。まるっきり可能性がないわけではあるまい?」
「手は打ってある。トレニア湾、フィカス湾に入る船は残らず調べるように言ってある」
「一隻残らずか?」
「そうだ。船籍に関係なく、積み荷の一袋、下層船員の身元に至るまで確認を取るように命じてある。
少しでも不明なところがあれば上陸不可だ」
ナシアスは何とも言いがたい顔になった。
簡単に言ってくれるが、コーラルには大陸中から商船がやってくる。その積み荷をすべてチェックするとなると気の遠くなるほどの手間と時間を費やす作業になるはずだ。ましてや商人は上陸審査を嫌い、時には役人に賄賂《わいろ》を贈って税のがれをするものだ。
「……今ごろはどっちの港でもさぞ袖の下が飛び交っているだろうな」
半ば本気で言ったナシアスだが、バルロは虎のように笑って見せた。
「甘いな。フィカス湾にはティレドン騎士団、トレニア湾には近衛《このえ》兵団が上陸審査の監察に出向いている。その眼の前で賄賂を受け取る度胸のある役人がいたら、俺のほうがお目にかかりたいわ」
今度こそナシアスは低く唸《うな》って額を叩いた。
では今ごろは袖の下ではなく、苦情と抗議と嘆願の嵐が王宮に殺到しているわけだ。
同時に不思議に思った。いくらサヴォア家が大貴族でも近衛兵団を動かすことはできないはずである。
命令権を持っているのは近衛兵団長こと司令官、そして国王のみだ。
「陛下は姫さまが戻ってこないことをそれほど心配していらっしゃるのか?」
「当たり前だ。お前少し呑気すぎるぞ」
「いや、ただ、姫さまは約束を破るような方ではないだろう? これが他の方なら、私も気になる。事件に巻き込まれた可能性も考えるところだが、姫さまは天変地異に出くわしたとしてもびくともしないような方だから………」
「天災よりも人間のほうがはるかに始末に負えんぞ。
また、あの母がどこぞの馬鹿な連中に担がれて何やら企んでいるらしい」
ナシアスの顔から微笑が消えた。
この団長室からは冬のビルグナが一望できる。
もう二月もすれば緑に染まる丘も山も今は荒涼とした風景だ。
その山野を見つめるバルロは一件平静に見える。
「従兄上《あにうえ》は俺には何もおっしゃらん。が、俺の耳もそう捨てたものではないからな。母が一人で血の道を起こしている分には別に構わん。好きなだけ騒がせておくが、困るのはそうした母の不満につけ込む連中がいるということだ。そいつらが徒党を組んで式を妨害するための暴挙に出たとする。いくら王女が人間離れしていても限界はあるからな、もしものことがあったとする。挙げ句の果てに母の名を出されでもしたら、考えただけでもたまらんだろう?」
顔は笑っているが、眼は真剣そのものである。
ナシアスの白い顔も厳しく引き締まっていた。
「あの方は、まだ陛下をお恨みしているのか」
「あれを恨みと言うかどうかは疑問だな。従兄上のすることなら何でも気に入らんのだ。先日の一件はマグダネルと俺との喧嘩で片づけられたからな。母の罪は事実上不問にされている。それをいいことに次から次へとろくでもないことばかり考えよるわ。
従兄上も叔母だからと言って遠慮などせず、蟄居《ちつきょ》閉門でも言い渡すべきなのだ。王女に万一のことでもあれば、今度こそ従兄上も何らかの処分をとらざるを得んだろうが、サヴォア家の名誉のためにも、従兄上のためにも、俺が断じてそんなことはさせんぞ。
それこそどんな非常手段を使っても王女を従兄上と並べて祭壇に乗せてみせるからな」
「もちろんだ」
ナシアスも力強く頷いた。
そのころ、ラモナ騎士団の新米騎士ジョシュアは、同僚と二人でロシェの街道の近辺を見回っていた。
何のためかと言えば、家出中の王女の捜索である。
しかしこれが雲を掴むような話なのだ。
そもそも王女が北へ向かったのか、南へ下ったのか、本当に国外に出たのか、それすらわからない。
ただ、ティレドン騎士団長をはじめとして、王の近くにいる人々はとてもじっとしてはいられないと、一様に感じているらしい。
「そりゃあ確かに、王様の結婚式が中止になったりしたら一大事だろうけど……。だからって、こんな所を見回っても無駄なんじゃないか?」
荒涼とした風景に眼をやり、ジョシュアは思わずぼやいた。横を走るのは同い年の仲間でマイルスという騎士だが、やはり馬上で相づちを打った。
「河を重点的に見張るべきだよな。もし仮に西から戻ってくるんなら、どうしたって河を渡らなきゃならないんだ」
「テバ河の関所や砦《とりで》にはすでに人が配置されている。
また、無許可の渡りを引き受けることを専門にしている漁師には姫さまの人相書きを配り、もしも現れたら足止めしておくようにと過分な報酬で釣ってある。しかしながらそれでも不充分なのである、だろう?」
副団長であるガレンスが自分達にこの任務を命じたときの口調をジョシュアは真似て、マイルスと二人で声を揃えて笑った。
「姫さまはいざとなれば、テバを泳いで渡るからだ。
まさかなあ……」
「夏ならわかるぜ。漁師の子どもだって渡れるさ。
だけど今の時期にそんなことをしてみろよ。向こう岸につく前に死体になってら」
文句を言いながらも楽しそうな口調である。
二人とも若い。長い見習いの末に騎士の位を得たばかりである。やっと与えられた自分の馬を思いきり走らせることができるのだから、快いに違いない。
丘を越え、林を抜け、森を走り、ようやく一息ついたときは馬の体から湯気が立っていた。
「悪い悪い。無理をさせたな」
馬を大事にしない者は騎士とは言えない。二人は森の中の小川に馬を引いていき、水を飲ませてやった。
ジョシュアも川の水をすくって呑んだ。恐ろしく冷たい。冷たいのを通り越して手が燃えるかと思うほどだ。
「おい……」
マイルスが奇妙な声を上げた。
顔を上げて川向こうの木立を何気なく見やったジョシュアもはっとなった。
細い煙が上がっている。
誰かが森の中で火を焚いている。
「けしからん。ここは騎士団直轄領だぞ」
「おう」
この森は騎士団の冬の食料である豚を放牧しておくためのもので、いわば天然の牧場を兼ねている。
だが、少なくとも豚泥棒ではないはずだ。放してあった豚は冬が来る前に一頭残らず捕まえて、今は燻製《くんせい》や塩漬け肉になって砦の食料庫に収まっている。
二人はそっと火の元に近寄っていった。
十六、七に見える貧しい身なりの少年がまさに焚き火をしている。
しかも、皮を剥いだ兎を堂々と火にくべている。
「何をしている! ここは禁猟区だぞ」
ジョシュアが鋭く詰問すると、少年は驚いた顔で立ち上がった。剣の柄《つか》を握って血相を変えている二人を呆気にとられた様子で見つめている。
「禁猟……?」
「そうだ。知らないとは言わせんぞ!」
「近隣の者ならこの森がラモナ騎士団領だと知っているはずだ。それとも、他から流れてきたのか?」
よそ者に対する警戒心はどこでも変わらない。
今にも剣を引き抜きそうになった二人を見ても少年は怯《おび》えた様子はなかった。神妙に頭を下げた。
「それはすみませんでした。この辺りには不案内なものですから……。お許しください」
みすぼらしい身なりとは裏腹に優雅な物腰である。
それが逆に怪しい。
「いや、だめだ。一緒に来い。領内で悪さを働く者を見逃すわけにはいかん」
ジョシュアがせいぜいそっくり返って貫禄をつけてみせる。と、後ろからその頭をこつんと叩かれた。
「だ、誰だ!?」
飛び上がって振り返る。
振り返りながらも剣を抜いたが、今度はその手を絶妙の呼吸で叩かれた。
何が起こったかもわからないうちに、ジョシュアは剣を取り落としていたのである。
「兎の一匹で固いこと言うなよ。腹減ってんだ」
こちらは恐ろしく伝法な口調である。やはり十六、七に見える少年だった。
洗いざらしの古びた衣服を纏《まと》った少年が棒きれでジョシュアの手を打ち、剣を叩き落としたのだ。
「おのれ、無礼な!」
マイルスが怒って剣を抜こうとした。
それより先に少年がいとも気軽に進み出て、手にした棒で、逆上しているマイルスの腹をひょいと突いた。
ごく軽い仕草に見えたのに、マイルスは何と剣を抜きかけた姿勢のまま、その場にくたくたと崩れ落ちてしまったのである。
この間にジョシュアは我に返り、慌てて剣を拾い上げていた。
手に痛みは残っていない。どうしてあんなことで剣を落とすような失態を演じたのか、歯がみしたい気持ちで、棒を持った少年に狙いを定めた。
「大人しくしろ! 抵抗すると、斬る!」
少年は眼を丸くした。口元には微笑を浮かべさえした。
「そりゃあ、斬れればの話だ」
「き、騎士を愚弄《ぐろう》するか!」
言うと同時に襲いかかったジョシュアを、少年は難なくいなした。斬りつけた刃を軽くかわして、片手でジョシュアの背中をとんと突いたのである。
「わ、わっ!」
それだけでつんのめりそうになる。さっきと同じだ。力ではない。一種のこつとも言うべきものだ。
体勢を崩したジョシュアには見向きもせず、少年は焚き火にくべていた野兎を取り上げた。
「ちょうどよく焼けた。行こう」
「はい。でも……、ここは禁猟区だそうですよ?」
「構うもんか。飢え死にするよりましだ。おまけにまだ生きてるならともかく、こんがり焼けてるんだ。
食べなきゃそれこそもったいないじゃないか」
「はい……、まあ、それは、そうですけど……」
「待てと言うんだ!」
ジョシュアは懲りずにその前に立ちふさがった。
こんなふざけた連中に禁猟区での狩りを許し、あげく騎士の誇りを侮辱されたとあっては、騎士団の一員として団長に合わせる顔がない。
「そんな真似はさせんぞ! ラモナ騎士団の誇りにかけても逃がすものか!」
伝法な口調の少年はジョシュアを見つめて首を傾げたのみである。
「お前、馬で来たのか? だろうな。馬なしの騎士なんていないからな。ちょうどいい。貸してくれ」
「な、な、なんだと!?」
憤死寸前のジョシュアを見て、もう一人の少年は急いで割って入ってきた。
「申し訳ありません。この人はあまりものの頼み方がうまくなくて、こういう直接的な言い方しかできない人なんです。これでも悪気はないんですけど」
「お前、それでかばってるつもりか?」
「言葉が乱暴なのは本当のことじゃないですか。ほら、怒ってますよ」
これで怒らずにいられるのはよほどの大人物か完全な阿呆《あほう》かのどちらかである。
ジョシュアは当然そのどちらでもなかったので、兎の肉を掴んだままの少年に問答無用で斬りつけた。
新米といえどジョシュアもみっちり訓練を積んだ騎士である。農夫の少年など頭から二つにできる。
だが、小柄で華奢《きやしゃ》な、つまり武芸のたしなみなどさらにないように見える少年は、ジョシュアの刃を頭に受ける前に、すっと動いて、小さな拳の一撃を鳩尾《みぞおち》に入れたのだ。
「う……!?」
信じられなかった。それだけで体がずしんと重くなり、振り上げた両手から力が抜けて再び剣が落ちる。左手に兎肉を持ったままの少年にすがりつくような格好になって、ジョシュアは前のめりに崩れ落ちた。
その体を少年が片手で支えて、顔から落ちるのを防いでくれたような気がする。
朦朧《もうろう》とした意識の中で間近に確かめた少年の顔が意外に整っていること、美しい緑の瞳をしていることなどを見るともなしに見て取ったのが最後だった。
「ナシアスとガレンスによろしくな」
団長と副団長を呼び捨てにするとは無礼な、とはもう言えなかった。
どのくらいそこに失神していたのか、蒼くなったマイルスに揺り起こされたときにはすでに少年たちの姿はなく、二人の馬も消えていたのである。
若い騎士たちは呆然と、蒼白になった互いの顔を見合わせた。
ラモナ副騎士団長ガレンスは、真っ青になって震えている二人の新米を呆れ顔で見下ろしていた。
「つまり、何か。土地の者ではない浮浪者の少年に、お前たちはそろって手込めにあい、馬を奪われたと、そういうことか?」
二人は辛うじて頷《うなず》いた。ただでさえ威圧感のあるガレンスの巨躯が今は倍にも三倍にも見える。
あれから近くの農家までたどり着き、馬を借りて戻ってきたのだが、言語道断の不覚である。どんな厳罰に処されても文句は言えないところだ。
しかし、二人は何が起きたのかを隠そうとはしなかった。未熟は本人の修業次第で改善できる。不覚は二度と繰り返さなければいい。だが、失態を隠し、取り繕うとするようなことは、騎士としてもっとも恥ずべき行為であると厳しく教育されていたからだ。
そこにはナシアスもいて二人の報告に耳を傾けていたが、不思議そうに尋ねた。
「しかし、剣も持たない少年がお前たち二人をそうもやすやすとあしらうとは、奇妙なことだな」
「め、面目次第もございません……」
「初心に戻って、一から鍛《きた》えなおします……」
「まあ、待て。十六、七の少年二人だと言ったな」
「はい」
「どちらもみすぼらしい身なりだが、一人はどこへ出しても恥ずかしくないような物腰であり、もう一人は……」
「話にも何にもなりません。生意気を人につくったようなしろものです。禁猟区で狩りをしておきながら、それを少しも悪びれません。無礼千万にも程がございます」
「だが、強かった。お前たち二人に剣を使わせもしなかった。そうだな?」
「く、屈辱《くつじょく》であります……」
「待てと言うのだ。ガレンス。どう思う?」
「予感はしますな。この連中は確かに新米ですが、素手の素人に後れをとるほどのなまくらではないはずです」
「そのことだ。二人とも他に何か気がついたことはないか?」
ジョシュアもマイルスも狼狽《ろうばい》して思わず顔を見合わせた。
きつく叱責されると思いきや、どうも妙な気配である。ナシアスもガレンスも異様な熱意で身を乗り出している。
マイルスのほうはこれ以上語ることを何も持っていなかったが、ジョシュアは恐る恐る言い出した。
「実はその……気のせいだとは思うのですが……」
「何でもよい。言ってみろ」
「その、生意気を絵に描いた奴のほうが、お二人のお名前を口にした、ような……」
とたん、美剣士ナシアスと豪戦士ガレンスの鋭い眼光に射抜かれてジョシュアはますます小さくなり、蚊の鳴くような声で言った。
「……あり得んことですが、ナシアスとガレンスによろしく、と」
よろしくと言われた二人は眼を見張り、そろってため息をついた。
「ジョシュア。その二人の風体は覚えているな」
「は、はあ……」
「そういうことならお前が後れをとったのも頷ける。
あまり気にせんことだ」
わけのわからない二人を残して、ラモナ騎士団の最高責任者達は席を外していった。
ここにいるようにと言われて、身を縮めていたが、その二人の耳にも砦内が騒がしくなったのがわかる。
何事かとびくびくしていると、ナシアスが戻ってきた。バルロも一緒である。
ティレドン騎士団長は顔を真っ赤にしている。二人を見るなり怒号を発した。
「馬鹿者! どうして眼を離した!」
「は!? あ、あの……」
「一人が尾行して一人が知らせに来ればいいものを何をしていたのだ!?」
二人は眼を白黒させている。ナシアスがそんな友人をやんわりとたしなめた。
「無茶を言うな。この二人にはそれが誰なのかさえわからなかったのだ。農家の少年とばかり思いこんでいたらしい」
バルロは舌打ちして若い騎士たちに向き直った。
「生意気の塊のような態度と、暴言の宝庫のような口の悪さと、素手で真剣を払いのける化け物じみた腕の冴えをした、外見だけは幾分ましな十六、七の子どもだったと言うのだろう?」
「はい!」
「そ、そのとおりです」
「そんなものが二人といてたまるか! グリンダ王女だ!! 一ヵ月後にはわが国の王妃となる方だ!ええい、くそ。冗談にしか聞こえんわ!」
「自棄《やけ》を起こすな。半年前には我々も賛同したことだ。とにかくご無事だったことは確かめられたのだ。
何よりではないか」
ようやく事態を呑み込んだ二人の顔から血の気が残らず引き、マイルスがごくりと喉《のど》を鳴らした。
「まさか、あ、あれが、姫さまだった、と……?」
「そんなはずは……! わ、私は以前に遠目ながらお姿を拝見させていただいたことがございます!」
とても同じ人とは思われないと力説するジョシュアに、ナシアスは淡々と諭《さと》した。
「お前が見た時の姫さまは髪をあらわにして銀冠を載せて、例の黒馬にまたがっていらしたのだろう?その印象が強すぎたのだ。あの方はご自分の容姿が人目を引くものであることをよく知っている。時として驚くほど色々な階層の人間に姿を変え、困ったことにそれを楽しんでおられる」
バルロがまた捻った。
「時と場合と立場を考えてもらいたいわ」
「まったく同感だが、洗いざらしの農夫の身なりで騎士団の馬で移動しているとなれば、手はあるぞ」
「うむ。嫌でも目立つはずだからな。捕らえるには絶好の機会だ」
「捕物と間違えるな。次期王妃をお迎えに行くのだ。
二人とも、ご苦労だが探索に協力してくれ」
「はっ!」
ジョシュアとマイルスは顔中に脂汗を浮かべながら、踵《かかと》を合わせて敬礼した。
翌朝から騎士団総出で王女の捜索が開始されたが、発見できたのは馬だけである。
二人が王女と出会った森から東に五十カーティヴほど離れた農家で、駄馬に混ざって悠然と草を食んでいるのを団員が見つけて、家の者に問いただしてみたところ、いずれ騎士団の人達が引き取りに来るからと言われて預かったというのだ。
預けていった二人の人相風体を聞き取ってみると、まさに変装した王女とその連れである。
どうやら王女は夜の間は馬を飛ばし、昼間は目立たないように徒歩でコーラルに向かっているらしい。
「ご無事であり、城へ戻る意志もあるとなれば、事を荒立てないほうがいい」
と、ナシアスは言い、あくまで大捜索をと言い張るバルロをなだめて、早馬を乗り継いでコーラルへ伺候した。
ジョシュアも同行した。陛下は直にお前の言葉を聞きたいだろうからというナシアスの配慮によるものだ。
王女からは馬鹿だの大熊だの身も蓋《ふた》もない形容をされている国王も、ジョシュアにとっては雲の上の人であり、憧れの英雄であり、絶対君主である。
緊張にかちかちになり、声をうわずらせながら、見たままを報告した。
「姫さまはもちろんのこと、おつきの女官も実にお見事な変装でありまして、自分は迂闊《うかつ》にも農家の少年たちとばかり思いこみ、そのまま見失ってしまいました。深く恥じ入る次第であります」
国王と上官の噛み殺していた苦笑の意味は、ジョシュアにはわからなかっただろう。
一方、王女がこちらへ向かいつつあると聞いて色めき立ったのが婚儀を取り仕切る式部省と女官長である。
シェラというお荷物がいるにしても王女が素直に城門をくぐるはずがない。必ず今までと同じようにパキラを越えて西離宮に直接戻ってくるはずだ。
そう判断して、近衛《このえ》兵団に協力を求め、西離宮を厳重に見張らせていたのだが、王女はその裏をかき、西離宮には立ち寄らずに、パキラを越えたその足でカリンの住居に顔を出したのである。
女官長ともなると本宮の中に自分の部屋を持っている。部屋と言っても他の棟とは切り離されているから、小さな家とも言える。
その朝、着替えをすませた女官長が朝食の席に降りていくと、王女が食卓に座っていて、にこにこ笑いながら手を振っていたというわけだ。
一瞬、事態を呑み込めずに立ち尽くした女官長だが、すぐさま立ち直った。安堵《あんど》のあまり泣き笑いの顔で延々と小言を繰り返しながら、空腹を訴える王女に山のような手料理をふるまい、最後の皿を食卓に出してしまうと、胸を張って言った。
「さっさとお食事を済ませてくださいませ。しなければならないことは山ほどございます」
並々ならぬ気合いの入れようである。
半年ぶりに城に戻ってきた王女はやれやれと肩をすくめた。
式まで後一カ月。
厳しい花嫁修業になりそうだった。
10
「長らくご心配をおかけいたしました」
と、シェラは神妙に国王に向かって頭を下げた。
これははっきり言って筋が違う。違うが、国王と重臣達に心配をかけまくった張本人はすでにカリンを中心とする女官たちに捕獲されて、身動きできなくなっている。そこでシェラが代わりに来たのだ。
「いや、お前もご苦労だったな。あれは旅先で何か騒ぎを起こしたりしなかったか?」
きれいな銀髪を垂らした侍女は言葉を呑み込み、何とも言いがたい顔になった。
「お言葉ではございますが、あの、どの程度ならば『騒ぎ』というのでしょうか……?」
腹を抱えて笑った国王である。
「これはしかり。愚問《ぐもん》だったな。あの娘が大人しく遊山だけしているわけがない」
シェラはため息をついた。
「どこへ行っても騒ぎに巻き込まれる方です。いえ、あの人が目立たないように心がけていても、騒ぎのほうがあの人を放っておいてくれないのです」
「よくわかるぞ。かなうことなら俺も同行したかったな。まったく国王とは不便なものだ。不謹慎とわかっていても時々あの内乱が懐かしくなる」
「そんなことをおっしゃられましては……」
狼狽《ろうばい》して言うシェラに、国王はおもしろそうな笑顔を向けた。
「少しは慣れたか」
「は……?」
「あの娘にだ」
シェラは答えなかった。ただ、その紫の瞳に深い翳《かげ》りが浮かんだようだった。
「慣れたと言えば慣れました。ですが……以前にもまして恐ろしくなったような気もいたします」
首を傾げた国王である。
長い髪を垂らした可憐な娘に見えるこの侍女は、れっきとした少年であり、殺人の専門家でもある。
そんな少年があの王女を恐いという。
「確かに常人離れしてはいるが、お前のような者に恐れられるほど物騒でもなかろうに」
思わず洩《も》らすと、侍女姿の少年は優しく微笑んだ。
「おっしゃるとおりです。あまり驚かされることばかり起きますので、つまらぬことを申しました」
国王はまた首を傾げた。なんだか話を逸らされたような気がする。
詳しく訊いてみようかと思ったが、シェラは女官長を手伝うために辞していった。
実際いくら人手があっても足りない作業である。
国王が形だけの結婚を力説しても、それを城内に納得させるのは難しかったらしく、前王妃が使っていた南棟を開けて、そこに国王夫妻の新居を設ける準備が進んでいる。垂れ幕や絨毯《じゅうたん》などの張り替えはすんだが、家具の搬入はこれからだ。
もちろん主役の王女を磨くことにかけても抜かりはない。香油風呂に始まって、卵白での洗髪、脱毛、爪の研磨、マッサージと、女達はありとあらゆる美容法を駆使した。その上でドレスの仮縫い、式の進行の暗記、賓客《ひんきやく》に対する応答など、朝から晩まで息をつく暇もない。
度重なる戦闘にもびくともしない王女だが、さすがにこれには辟易《へきえき》した様子だった。特に、式の夜に催される大舞踏会のためにダンスの練習を押しつけられたときには、盛大な呪《のろ》いの言葉を吐き散らしながらステップを踏んでいた。
運動神経は抜群の人だから踊りそのものはすぐに覚えたのだが、後がいけない。女官長の指導と小言はとぎれることなく、びしびし飛んでいる。
「姫さま。後生ですから、もっとこう、にこやかに軽やかにお願いいたします。常に笑顔を忘れず、優雅に品よく、水の上をすべるように」
「無茶ばかり言いやがる」
「そのお口ぶりもでございます! 仮にも妃殿下が『言いやがる』など無頼の者のようなお言葉を使ってよいわけがありましょうか!」
「いいも悪いも今までずっとこれで通してきたんだがな」
「全面的にやめよと言うのではありません! ご婚儀の間だけ、猫を被っていてくださいと申し上げているのです! 情けない。まったく情けのうございます。それだけのご容姿をお持ちでいらっしゃいますのに。黙って立ってさえいれば大陸一の美姫と申し上げてさしつかえありませんのに……」
語尾はほとんど泣き声である。
確かに、きれいに洗って髪を結い、白粉《おしろい》と紅を刷《は》き、ダンスの練習用に裾の長いドレスを着た王女は、どこの誰かと見紛《みまが》うほどの別人ぶりだった。
せっせと化けさせた女官たちがまず絶句した。女官長は驚愕《さようがく》とともに大きな安堵《あんど》の息をもらし、ダンスのお相手にやってきた教師は一瞬棒立ちになり、シェラは内心悲鳴を上げそうになった。
世の中に美しい女性は数多くいるが、その印象を一目で強烈に焼きつけるほどの『力』を持った美女となるとそうはいない。
若干十六歳のグリンダ王女はまさにそれだった。
その美しさの種類を優しくたおやかなと言っては嘘になる。華麗と言ってもまだ弱い。美という名の圧倒的な力だ。
丹念に梳《くしけず》られ、結い上げられた黄金の髪、匂うような大理石の肌。だが、この人の美貌《びぼう》に力を与えているのは何と言ってもその瞳だ。
どこまでも深く澄んだ緑の宝石のような、決して媚びない、自分の美貌になどまったく無頓着な瞳。
さらには赤く形よく整ってはいるもののほとんど微笑むことをしない唇。それこそがこの顔に硬質な、男のような強さを与えている。
新参の若い娘からカリンと同年代の古参の女中まで、この『完成品』の出来映えには度肝を抜かれた。
魂を奪われたように魅了され、言葉も出せないでいたが、当の王女は鏡の中の自分を見て、鼻の脇にしわを寄せたのである。
「この紅白粉ってやつは予想以上に気持ち悪いな。
ちゃんと落ちるのか?」
居合わせた女達が申し合わせたように超特大のため息を洩らしたのは言うまでもない。
女官長はずきずき痛む頭を抑えながら、踊りと同時に会話とお作法のお稽古《けいこ》に重点を置かなければと決意を新たにしたのである。
花嫁がこれほどたいへんな思いをしているのに、花婿は何もすることがない。次々にやってくる使者たちに答礼するくらいが仕事である。
パラストも素知らぬ顔で祝辞を述べてきた。
エンドーヴァー夫人が王宮を出て以来、問題の男からの接触は途絶えている。利用価値はなくなったと判断したのだろう。
パラストに対する国王の不快感は倍加していたが、微塵《みじん》も顔に出さず、あくまでにこやかに応対した。
それに力を得たのか、パラストの使者は、タンガがデルフィニアはもちろんパラストに対しても不穏な動きをしていることを示唆《しさ》し、この際、我が国と同盟して共にタンガに対抗してはどうかというオーロン王の言葉を伝えたのである。
パラスト国王は腹の中で何を考えているかわからない王だが、ウォル・グリークも引けは取らない。
それは非常に頼もしく心強いと、同盟に前向きの姿勢を見せ、オーロン王にはよしなに伝えてくれと過分な言葉をかけ、使者には贈り物などを持たせて、ほくほく顔にさせて返したのである。
その一方でパラストの動向を逐一報告させている。
式の前日になって、ドラ将軍は半ば感心し、半ば呆れたように言ったものだ。
「いったい陛下はそのような腹芸をどこで覚えられましたか? まさかにフェルナンが教えたわけではありますまい」
「俺は腹芸などできんがな。向こうがこちらと仲良くしたがっているのだ。何が狙いかを確かめるには乗ってやる必要がある」
「仰せのとおりであります」
「それにしても気になるのがタンガだ。隣国の王の結婚にいまだに祝いの使者もよこさん。どういうつもりかな?」
「振られて頭にきておりますかな」
と、将軍は冗談でかわした。
本気で申し込んだ結婚でないことはわかっている。
破談になったところでタンガには何の被害もないはずだ。ただ、素直に祝いを述べるのが癪《しゃく》に触って沈黙を続けているのだろう。
「それはそうとあの娘はどうしている?」
「昨日の昼からカラテアの神殿に移られたそうです。
やっと花嫁修業から解放されたと思えば今度は監禁されるのかと、かなりご不満だったようですな」
国王は思わず笑いを洩らした。
カラテア山の神殿はデルフィニア建国と同時に建立された格式のあるもので、パキラ山脈の中にある。
王家の花嫁は代々、結婚前の数日をここで過ごすしきたりになっている。その間は外出も面会も禁止され、礼拝堂で祈りの生活を送ることになっているのだが、あの王女にはとても無理な相談だ。
「今ごろは宮を抜け出して気ままな山歩きを楽しんでいるのではないかな」
「いやいや。宮のまわりは近衛小隊が警護しております。誰も神殿に近づくことはできませんし、中から出ることもできますまい」
「ふむ。そうか……」
国王は何事か考え込んでいたが、ふと顔を上げて言った。
「今の今まで忘れていたが、あの娘は明日には俺の妻になるのだったな?」
将軍は太いため息を洩らした。
冗談であることを心から願いながら、渋々答える。
「……今さら確認するようなことでもないとは思いますが、そのとおりです」
「こういう場合、夫たるものは、新婚の妻に飾りの一つも贈るべきなのかな?」
将軍はたっぷり一分は沈黙した後、何とも言いがたい顔で首を振った。
「……お気持ちはわかりますが、果たしてあの方が他の女性のように身を飾る品々を喜びましょうか」
「それもそうだな。何を贈れば喜ぶかな?」
「ご本人に聞いてみてはいかがで?」
「いや、それはおもしろくない。剣は……駄目だな。
すばらしい逸品をすでに持っているからな。馬も同じか。ロアの黒主以上の名馬がいるはずもなし、馬具は……あの馬は嫌がるだろうしな。甲冑《かっちゅう》一式はあの娘には不要だし……、うーむ……」
ひたすら頭の痛くなってきたドラ将軍はさっさと一礼して、国王の居室を後にした。
からかわれていると思ったのだろうが、あいにくこの王様は半分くらい本気で考えていたのである。
もともと乗り気でないのを頼み込んで結婚してもらうのだ。今現在も恐ろしく不自由な花嫁修業とやらに縛られている。帰城してから今日までさんざん不平不満を洩らしながらも、とにかく暴れ出さずに投げ出さずにつきあってくれたのだ。
何らかの形で労をねぎらっておかなければ、後が恐い。
ああでもない、こうでもないと悩んでいると、背中のほうで声がした。
「開けっ放しにして寒くないか?」
驚いて振り返ると、窓の外に王女が立っていた。
ここは二階と言いかけて止めた。王女には何でもないことだ。
「近衛兵団も役に立たんな。結婚前夜の花嫁にやすやすと逃げられるとは……」
「あいつらの手落ちじゃないさ。宮から山を下りる一本道を押さえて通行止めにしてるんだ。役目は充分果たしてる。ただおれが、山の人間でも知らないような下山道を知ってただけの話だ」
国王は苦笑して、あらためて、名ばかりとはいえ、自分の妻になる娘の顔を見つめなおした。
しばらくぶりに見る顔は磨き上げたように光沢を増し、金の髪はつややかに輝いている。
「すっかり一皮むけたな」
王女はげっそり肩を落とした。
「一皮どころか、この一ヵ月で半分くらいに目方が減った気がするぞ。まったく、女の人ってつくづく偉いと思ったよ」
以前から下着を含めたドレス一式の入念な装備と重さに驚き、あんなものを身につけて礼儀正しく振る舞うくらいなら、重装|鎧《よろい》を纏《まと》って戦場を走り回るほうがよほどましだと嘆いていた人だ。女官長の徹底した淑女教育がよほどこたえたらしい。
「しかし、その割には口調も物腰もあまり変わっていないように見えるな?」
「いいんだよ。明日一日それっぽく見えれば」
「ま、それもそうだ」
王女は部屋の中に入ろうとはしない。国王に背を向けて、外壁にわずかに張り出している装飾の上に立っている。
「遠慮せんで入ってきたらどうだ。そこでは足場が悪かろう」
「いや、いい。もう帰る」
国王は首を傾げた。
「俺に何か用があって来たのではないか?」
「まあ、な。お前のせいでこんな苦労をしてるんだから、一言文句を言いたくなったんだ」
「……」
「邪魔したな」
言いおいて、王女はひらりと地面に飛び降りた。
外套《がいとう》をひっ掴んだ国王がすかさず窓枠を乗り越えて後に続き、王女の真後ろにずしんと着地した。
「おい!」
「送っていく」
「馬鹿言うな。一人で帰れる。だいたい送るも何も、お前は足下を見ることもできないだろうが」
パキラ山脈は篝火に明々と照らされるコーラル城内とは訳が違う。見渡す限りの原生林が続き、夜になれば月光と星明かりの他は闇に閉ざされる。獣たちの世界だ。
「眼を慣らしながら行くさ。その、土地の者でさえ知らない道というのを見ておきたい。五の門の外で待っていてくれ」
言うだけ言ってさっさと歩き始めてしまう。慌てて後を追ったが、王女は門を通るわけにはいかない。
ここにはいないはずの人だからである。
コーラル城の城壁は常人にはとても歯が立たないだけの高さがあるが、王女は軽く助走をつけて飛び上がる。兵士たちの巡回路になっている城壁の上を音もなく走り、再び飛び降りてしまう。
真昼ならともかく深夜だ。よほど眼の優れた者でも、その姿を捕らえるのは難しいだろう。
国王のほうは外套の頭巾に顔を隠し、家来の名前を借りて堂々と門を出た。
式前夜である。城全体が慌ただしくなっている。
いささか職務怠慢ではあるが、門番は頭巾の下の顔をろくに確かめずに国王を通した。
門外で王女と合流し、カラテア山を目指して暗い夜道を進む。その間も王女はぶつぶつ言っていた。
「どうして結婚式前の夜に山道なんか歩きたがるんだ? あとで案内してやるのに……」
「まあ、いいではないか。明日からは祭りで騒がしくなるからな」
交わした言葉はそれだけだった。
二人は黙々と歩いてコーラル市外を抜け、山脈を目指し、カラテアの山の中に踏み込んだ。
カラテアはそれほど標高のある山ではない。麓《ふもと》から神殿まで整備された道がつけられているが、真正直に登っていったのでは近衛《このえ》隊の詰め所に着いてしまう。
王女は道とも言えないような道に国王を案内した。
冬枯れの山である。暗がりでも足を取られるようなことはなかったが、国王の鍛《きた》えた眼をもってしてもこう暗くてはどこをどう歩いているのかさっぱりわからない。王女の後をついて登っていくと、広い、整備された道に出た。
少し下ったところに明かりが見える。
「あれが詰め所か」
「ああ。で、あれが神殿だ」
上を見ると、そこにも明かりが灯っている。
あの詰め所からこの道を登ってきて神殿の警護につくのだから、役目とはいえ、ご苦労なことである。
「神殿には誰が残っているのだ?」
「シェラが一人で留守番してる。今のあいつは女官長の信頼絶大たるものがあるからな」
「主人はまるで信用されていないのにな」
国王が笑って、神殿へ足を向けた。
「あの侍女一人ならちょうどいい。ここまで来たのだから挨拶していこう」
「入り口には警備兵が張り付いてるんだぞ?」
「お前はどうやって抜け出してきた?」
「二階の窓から飛び降りて……しまった」
王女が困った顔になる。
「帰りのことを考えなかった。ここからだと兵隊に見られるな」
「珍しい失態だな? お前らしくもない」
「うーん。まずった。慌ててたからなあ」
「いったい何をそんなに焦《あせ》って……」
言いかけて国王は口をつぐんだ。
王女も気がついた。
下から人の気配がひたひたと迫ってくる。
詰め所からの交代兵にしては様子がおかしかった。
真っ暗な道を行くのに明かりを持っていない。おまけに大人数だ。しかも急ぎ足で駆けてくる。
二人はとっさに冬枯れの森に隠れて、その集団をやり過ごしたのである。
目の前を慌ただしく駆け抜けていった足音は優に十人分はあった。全員が黒ずくめの風体をして、頭巾に顔を隠している。
「今のは……」
「少なくとも夜這いではなさそうだぞ」
剣を握りしめた二人は謎の一団を追うようにして道を駆け上がった。
神殿の入り口では五人の近衛兵が交代で篝火《かがりび》を焚き、不寝番についている。本来なら二人のところを宰相が口添えして、今回に限り、交代は五人ずつとなっている。
健脚の王女と国王が神殿に着いてみると、その近衛兵たちが黒ずくめの集団と何やらひそひそと語り合っているではないか。
国王と王女の眼が自分達を厳しく見つめているとは思ってもいない彼らは、予定どおりの行動に出た。
十人の黒子たちが玄関からは見えない建物の横に隠れ、近衛兵の一人がけたたましく扉を叩き始めたのである。
「ごめん! ごめんくだされ! 夜分に恐れ入るが、起きてくだされ! 近衛の者です。王宮から至急の使いが参りました!」
これはカラテアの神殿始まって以来の椿事《ちんじ》である。
警備兵は祈りの妨げにならぬよう、決して建物の中に入ってはならず、声をかけてもならないとされている。花嫁についている侍女達もめったなことでは扉は開けないようにときつく言い渡されている。
しかし、王宮からの急な使いと言われれば開けないわけにはいかない。まして、近衛兵の声と激しく扉を叩く音は、静まり返った闇の中に、ぞっとするほど大きく響いたのだ。
深く寝入っていても眼を覚ますに充分な物音だが、呼べど叫べど返事はない。
兵士達はすぐに作戦を変えた。それぞれ覆面を被り、用意の道具で扉をこじ開けにかかったのだ。
建物の脇に隠れていた曲者も入り口近くに集まり、剣の柄《つか》に手をかけている。
扉が開くと男達は殺気もあらわになだれ込んだ。
中へ向かったのは半分ほどだ。残りは入り口を守り、油断なく辺りに眼を光らせている。
ここまでの一部始終を見届けていた国王と王女は作戦会議に入った。
低い声で国王が言う。
「どうする?」
「シェラに任せよう。あのくらいの数ならあいつは一人で何とかする」
「だからといって黙って見ているわけにもいくまい。
それに……」
国王はいっそう声を低めた。
「あの覆面はもしや、全員が近衛兵ではないか?」
麓からここまでは一本道だ。詰め所はその途中にある。あんな怪しげな風体の一団が近衛兵に見とがめられずに昇ってこられるとは思えないのである。
「世も末だな」
王女が呟いた。
神殿に飛び込んだ男たちは】人も戻ってこない。
さらに二人、今度は松明《たいまつ》を持って暗い神殿に踏み込もうとしたが、入り口をくぐるかくぐらないかのうちに中から何かが飛んできた。
二人は悲鳴を上げて松明を取り落としたのである。
「何だ!」
「どうした!」
覆面の曲者《くせもの》は腕を押さえて呻《うめ》いている仲間に思わず駆け寄った。
それを待っていたかのように飛び出してきた影がある。傷を負った二人をあっという間に叩き伏せ、驚いて飛び退こうとする曲者の顔をかすめるように下からすくい上げた。
「ぎゃあっ!」
血まみれになった覆面を押さえて転げ回る。長い銀の髪に返り血を浴びた少年は白い女官服を翻《ひるがえ》し、返す刀でさらに一人の太股の辺りを斬り払った。
その曲者も足を抱えて転がり回る。
シェラには殺す気はないらしい。戦えないように手傷を負わせただけだ。
見た目は華奢《きゃしゃ》な女装の少年でも、暗殺一族としてみっちり修業を積んだ剣である。襲いかかってきた曲者がどの程度の戦闘訓練を受けたにせよ、技倆《ぎりょう》の差は歴然としていた。
無傷で残ったのは三人。しかし、この有り様を見て戦う気力も失せたらしい。重傷を負った者達も痛みによろめきながら逃走した。
侍女姿の少年はこれを追わなかった。
追ったのは木立に隠れていた国王と王女である。
予想通り、その連中はまっすぐ近衛兵の詰め所に駆け込んだが、その時、一人が発した言葉が暗闇を突き抜けて二人の耳に飛び込んできた。
「中隊長に応援を要請しろ!」
確かにそう聞こえた。
国王は壮絶な歯ぎしりを洩らしたのである。
近衛兵団内部にまで反対派の勢力が食い込んでいたこと、結婚式の前夜に花嫁を暗殺しようとしたことは明白だった。
「お前はここにいろ」
そう言って、堂々と姿を見せて詰め所に近寄っていったのである。王女が止める間もなかった。
「何をしているか!?」
襲撃の支度を整えていた曲者たちが国王の怒声を浴びて硬直した。
「陛下!」
「な、なぜここに……」
「何故とはよく言ったものだ! 貴様らの責任者は誰だ!!」
全身から激しい怒りを噴き上げている今の国王をエンドーヴァー夫人が見たらどう思っただろうか。
本当にこれがあの温厚な人かと眼を疑っただろう。
もしくは恐怖すら感じたのではないだろうか。
兵士達も同様だった。詰め所には小隊の残りと見られる十人ほどが残っていたが、全員が金縛りにあったように立ち尽くしている。
さらに詰問しようとした国王は新たな気配に気がついた。麓から何かが近づいて来る。
現れたのはやはり近衛兵隊だった。数はざっと二十数人。優に一小隊分だが、先頭の指揮官は黄の裏打ちをした銀の外套を翻している。中隊長の印だ。
その中隊長は詰め所前で硬直している兵士達と国王を認めて、驚いた顔になった。
「これは、陛下。こんな時間に何事です?」
「それは俺が聞きたいな。神殿警護は小隊の務めだ。
何をしに来た?」
その口調と兵士達の顔色を見て中隊長は大方のことを察したらしい。
国王に顔を見られたことは計算外だったろうが、最初から穏便に済ませるつもりはなかったらしい。
開き直った。
「では、そこを退いていただきましょう。我々には国家のために、為さねばならぬことがあるのです」
「王妃を暗殺することが国家のためだと申すか」
「そのとおりです。あなたにはおわかりにならぬかもしれませんが、あんな化け物に自国の国王がたぶらかされ、そそのかされ、ついには王妃の地位まで与える愚挙に出るとあっては、愛国の士として黙ってはいられません」
合図と共に中隊長の後ろに控えていた兵士たちが走り出て国王を取り囲む。
道幅はそれほど広くない。囲まれたら身動きできなくなる。それを承知で国王は動かなかった。
「呆れたものだな。これも国家のためか」
「いかにも。たとえ陛下であろうと口出しは遠慮していただきます。あなたの眼には我々の行動は多少強引に映るかもしれませんが、しかしながら我々はあなたの眼を覚まさせてさしあげるためにこの儀に及んだのです。あなたはあの化け物の正体について何もご存じないのだ。あれは人ではない。このデルフィニアを滅ぼさんとして取り憑《つ》いた魔性そのものなのです。美しい娘の姿を借りて人心を惑わし、狂わせ、破滅に追い込んでいくのです。あなたはその最大の犠牲者であられる。今は一時の激情に眼の眩んでいるあなたも、いずれ我々の行動の正しかったことに気づき、感謝されるでしょう。そのためにも今はこ静観願いたい」
「ずいぶん身勝手な愛国者もあったものだ」
冷静にぼやいた国王の頭の上から、さらに冷静な声が振ってきた。
「身勝手でない愛国者なんているのか?」
王女の声だった。
兵士たちがぎょっとして上を見上げる。その隙を国王は逃しはしなかった。剣を引き抜き、包囲網を斬り払った。
「いいことを言うな! そのとおりだ!」
飛び降りてきた花嫁に陽気に声をかける。
道路はたちまち戦場と化した。
王女暗殺に関しては覚悟を決めていた兵士達も国王を相手にするのは予想外だったらしい。ある者は逃げ出し、ある者はそんな仲間を叱咤《しった》する。またある者は破れかぶれに攻撃に出る。王女は右に左に飛び回り、端から斬り伏せていく。
大混乱になった。
実際に戦った者は兵士達の半分もない。そして国王は中隊長と戦い、刃を突きつけたのである。
「さあ。話してもらおう! 王女の暗殺は誰の差し金だ!」
「わ、我々の考えだ……」
「お前と誰だ!!」
すでに兵隊のほとんどは散り散りになっている。
だが、この時、国王の後ろから一人の兵士が斬りかかった。むろんあっさり斬られる国王ではないが、中隊長に専念していただけに迎撃の体勢がわずかに遅れた。振り返って構える国王の動きより、兵士の剣先のほうが早い。
しかし、振り上げた剣が振り下ろされることはなかった。
その兵士は右手を高く挙げた姿勢のまま、疑問と驚愕《きょうがく》の表情を顔に張り付け、ゆっくりと前のめりに倒れたのである。
背中に剣が刺さっていた。王女の剣だ。
間に合わないと見てとっさに投げつけたのだろう。
中隊長が叫んだ。
「今だ! 殺せ! 国王は私が押さえる!」
「貴様は!」
激怒した国王だが、どうにもならない。中隊長は死にものぐるいで刃を繰り出してくる。それをまず防がなければならなかった。
すべては一瞬のことだった。
中隊長が振り下ろした刃を国王が受けとめたのも、最後まで残っていた二人の兵士が素手の王女に斬りかかったのも。
「リィ!」
中隊長の剣を受けとめながら国王は激しい焦りを感じて叫んだ。
その瞬間、確かに目が合った。
王女の顔が奇妙に歪んでいたように見えた。
兵士たちが必殺の気合いで刃を振り下ろしたとき、そこにはもう王女の姿はなかったのである。
「なにっ!?」
一人が驚愕の叫びを上げる。だが、それはすぐに恐怖の喘《あえ》ぎに変わった。
「うわ……」
仲間が音を立てて地面に倒れ込んだのである。
剣を握ったまま横倒しになり、すでに生気の失せた眼がどんよりと宙を見上げている。
その首が、胸元がみるみる血に染まっていく。
中隊長も国王も呆気にとられた。剣戟《けんげき》を忘れて、何が起きたのかを見極めようとした。
倒れている大きな体を王女の華奢な肢体が押さえつけている。
王女は高く飛ぶことで凶刃を避け、一人の兵士を地面に押し倒したのだ。そこまではわかる。
だが、倒れた兵士の首の辺りに深く顔を埋めているのは何のためだ。
その動き、そして仕草は、何かが根本的に違う。
人が人を押し倒しているように見えないのだ。
首筋に深く噛みつき、前足を使って獲物が動けないように固定する、これは食肉の獣の動作だ。
王女が顔を上げた。
小さな唇が、白い肌が、毒々しい色の液体にべったり濡れていた。
片方の袖で無造作に顔を拭う。
何の感情も持たない緑の瞳が棒立ちに立ちすくむ兵士を捕らえた。動作ばかりではない。その眼の光も到底『人』のそれではない。
恐怖に眼を見開き、喉を細く鳴らしたのが、その兵士の最後の抵抗になった。
王女は地面に伏せた姿勢から獣のように飛んだ。
来るのがわかっていて兵士は避けなかった。剣を使うこともできなかった。王女の動きがあまりにもすばやく、恐怖に竦《すく》んで何もできなかったのだ。
鮮血が散った。
兵士は悲鳴さえ上げなかった。金色の獣と化した王女に首を噛み切られ、地響きを立てて倒れたのである。
倒れた体は弱々しくもがいたが、首をがっちり押さえた相手をはねのけることなどもうできなかった。
すぐにぱたりと動かなくなった。
そこまで確かめて、王女は再び真っ赤に染まった顔を拭いながら、思い出したように二本の足で立ち上がったのである。
国王と中隊長は完全に戦うことを忘れていた。
いつも泰然としている国王の顔が衝撃と驚愕にひきつっている。
何を見たのか、今目の前で起きたことは本当に現実なのか、信じられなかった。信じたくもなかった。
中隊長は顔中に恐怖と嫌悪を浮かべている。喉を笛のように鳴らしながら、一歩、二歩と後ずさり、何度も肺に空気を送り込んで激しく喘いだ。
「ば、ば、化け物!!」
狂ったような悲鳴だった。
「だ、だから、だから言わぬことではない!殺せ! 殺すのだ! さあ早く! 次はあなたの番だぞ!」
王女は服の袖でごしごし顔をこすっている。
顔を顰《しか》めながらも、たった今の非人間的な行動が嘘のような平然とした態度で言った。
「わめいていないで、お前が殺しに来たらどうだ」
「国王! 何をしている! さっさと殺せ! 殺せと言うのに!!」
「……黙れ」
捻るように国王は言った。
「貴様ごときに『国王』呼ばわりされる覚えはない。
黙っていろ」
「殺せと言うんだ!! こ、こんな、こんなものを王妃にだと!? 冗談ではないわ!!」
国王はヒステリーを起こして叫び続ける中隊長の腹を剣の柄で抉《えぐ》った。わずかに呻《うめ》いただけで意識を失い、その場にずるりと崩れ落ちる。
これで、その場に立っているものは国王と王女の二人だけになった。
国王は何も言わない。荒い呼吸を懸命に整えながら王女を見つめている。
王女は国王を見ようとしなかった。兵士の死体に刺さったままの自分の剣を抜き、拭いをかけて鞘《さや》に収めた。
そうしてはじめて顔を上げて国王を見た。
「どうする?」
「……」
「そいつの言うとおり、こんな王妃は嫌だというなら、形だけでも耐えられないなら、何か考えなきゃならないぞ。今さら中止にはできないんだ」
「……」
「式だけ挙げて、その後で海にでも飛び込もうか?この天気なら死体があがらなくてもまず助からない。
少なくとも普通の女の人はそうだ。発作的な自殺で片づけられる。でなければ遺書でも残して山へ消えるとか、何か他にも……」
「リィ!!」
絶叫だった。
何か言いかけたが、後が続かない。懸命に呼吸を整え、必死に考えをまとめる様は端から見ていても痛々しかった。
「お前は……それを言いに、今の光景を俺に見せるために、城へ来たのか?」
「どうしようかと思ったよ」
王女は言った。
静かな声だった。
「友達だと思っていた相手の態度が豹変《ひょうへん》するのは、あげく化け物呼ばわりされるのは、何度経験しても気持ちのいいもんじゃない」
「それなら何故見せた!?」
非難の叫びだった。
「……何故、黙っていてくれなかった」
血を絞るような声だった。恐ろしく意外なことに泣き出しそうな響きすら含んでいた。
王女も悲しそうな顔だった。
「どうしようかと悩んだよ。今日になるまで何度も、何度もだ。おれの育ったところは……厳しいところだったから、生きるために肉や骨を噛み砕くことを覚える必要があっただけで、別に生き物を殺すのが好きなわけでも、人間を食料にしてるわけでもない。
今みたいな場合に限って武器として使ってるだけだ。
なのに、人間にはその区別がつかない。見境なしに殺してまわるように見えるらしい」
王女はちょっと苛立たしげに首を振った。
「おれのほうが聞きたいくらいだ。人間は人間を殺すのに、戦争で殺すのはよくて、剣や弓で殺すのもよくて、どうして噛み殺すのはいけないんだ?」
「……」
「それでも、形ばかりでも何でも、おれはお前と結婚するんだから……、人間がこのことを異常に気にするのは知ってたから、話しておいたほうがいいのかと思った。でも、口で説明してもお前にはわからないだろう? それなら言わないほうがいい。やっぱり黙っていることにしようって、ついさっきまで思ってた。なのに今になってこんな連中が出てくる。
もう仕方がない。黙っていられない。そう思った」
「……」
「化け物と呼んでもいいぞ。同じ理由で偽装結婚も中止にすればいい。おれは死んだことにして、ここから消えて、それで終わりだ」
国王は答えなかった。
答えられなかったのだ。
王女の態度もいつもの毅然としたものではない。
肩を落とし、眼を伏せている。
手をさしのべなければと思いながら国王は一歩も動けなかった。王女もまた拒絶されることを恐れて歩み寄ることができなかった。
まだ春には遠い、冬の夜の寒さ暗さが二人の体に沁み入ってくる。
重苦しい沈黙が続いた後、王女は何を思ったか、麓へ足を向けた。
「どこへ行く?」
「朝までには戻る」
短く答えて、山を駆け下りていこうとする。
「リィ!」
髪や服を血に染めたままの王女が振り返った。
国王はゆっくりと、慎重に言った。
「……今すぐに結論を出すのは無理だ。時間がいる。
とりあえず式をすませて、それから考えよう」
王女は答えず、黙って頷いた。
11
居住棟に戻ったシェラは、再び扉を叩く音を耳にして、首を傾げた。
捕らえた曲者《くせもの》を縛って物置に放り込んだばかりである。性|懲《こ》りもなくまた来たのかと思ったが、扉の外の気配には殺気がない。数も一人のようだ。
王女が戻ってきたのかとも思ったが、念のために声をかけてみた。
「どちら様でしょうか。この建物には今はどなたもお通しできないことになっているのですが……」
「俺だ」
「どの俺さまで?」
「国王だ。王女が中にいないのも、お前一人なのもわかっている。開けてくれ」
さすがに驚いた。だが、急いで扉を開けてもっと驚く羽目になった。
仁王立ちになり、返り血を浴びた国王が恐ろしく真剣な顔でシェラを見下ろしている。その眼光の鋭さときたら、こちらの体に穴が開くのではないかと思えるほどだ。
「あの……何か?」
「先日の言葉の意味を聞きたい」
「は、あの……」
「お前はあの娘を恐ろしいと言ったな? 何故だ」
「何故と言われましても……別にこれといった理由はありません。あんなふうに変わった方ですから」
何とか笑顔で答えたが、国王の浅黒い顔は真剣そのものだ。唸《うな》るように言う。
「今、下で、あの娘が人を噛み殺すのを見た」
シェラの顔がみるみる青ざめた。喘《あえ》ぐように言った。
「誰をです……」
「その前に場所が場所だけに難しいだろうが、酒はないか?」
「供物《くもつ》にする神酒ならございます」
「それをもらおう。今は神よりも人にこそ命の水が必要だ」
居住棟の居間に落ちついた国王は、一息に神酒を乾して、一応は神に対する謝罪の言葉を口にした。
いわく、罰当たりなことは承知しておりますが、非常事態ですので許していただきたい。
問題の非常事態をくまなく聞き取ったシェラは、慎重に尋ねた。
「その中隊長は一部始終を見ていたわけですね?」
「ああ。縛り上げて転がしてある」
「生かしておくおつもりなのですか?」
意外の響きが露骨に声に出た。
国王は苦笑して、「なるほど。お前もあの娘同様、見た目とは裏腹な生き物だったな。虫も殺せないような優しげな姿をして、殺すべきだと主張するか」
「申し訳ありません。差し出がましいことを……」
「構うな。俺も同じ意見だ」
「は?」
「ただ、始末する前に二、三、聞き出したいことがあるのでな。まだ生かしておく」
一瞬ひやりとした空気を漂わせた国王は、次には酒杯を抱えてぼやいてみせる。
「しかしまあ、式前夜に花嫁は祈りをすっぽかし、代わって花婿が侍女と酒盛りとはな。オーリゴにも何やら申し訳ないような気がするが、女官長や宰相がこれを知ったら卒倒するぞ」
今度はシェラが口元をほころばせた。
が、すぐに真顔に戻る。
国王も恐いような顔で言った。
「お前は知っていたのだな?」
「はい」
「旅の途中でか?」
「はい」
「それを見た者は……」
「私一人です。他はみんな……」
最後まで言わなくてもわかった。国王の黒い眼が穴の開くほど侍女の白い顔を見つめている。
「見て、どう思った。平気だったか?」
銀の頭が激しく振られる。思い出すだけで震えが来る。そんな顔だ。
「それならどうして逃げなかった?」
「逃げる?」
「そうだ。縄をつけられていたわけでもあるまいに、どうして一緒に戻ってきた?」
少年は紫の眼を見張って国王の顔を見つめ返していたが、やがて得心したように手を打った。
「それは思いつきませんでした」
長年、暗殺を生業にしていたせいか、この少年も一般の感覚からどこかずれている。
今度はシェラが自分の体験を国王に話す番だった。
話といってもたいしたことはない。陛下がご覧になったのと変わらないと少年は言った。
それでも口元を真っ赤に染めた王女を見たときは食い殺される恐怖を心底感じたという。
「でも、それを言うと、人間みたいにまずいものを食べられるかと、逆に怒られました」
「まずい?」
「はい。ありがたいことに、少なくともあの人にはそう感じるらしいのです。獣の中には一度人間の味を覚えると人間ばかり襲うものがいますが、あの人に限って言えば『食べるためにやったわけじゃない。
噛まなくてすむのなら間違ってもこんなものには噛みつきたくない』そうです」
「ほう……」
国王は、食料にするつもりはないと言った王女の言葉を思い出した。
「あの人には、その、これがいけないことだという気持ちは全然ないのです。相手は武器を持っている。
自分を殺そうとしている。自分も剣を持っていれば当然それで迎撃する。ただ、私の時もそうでしたが、剣が手元にない。だからといって殺されるわけにはいかない。非常手段として自分にできる最善の方法で自分の身を守っただけだ。そうおっしゃいました。
それはそのとおりなんですが……」
「そうだ。それはまったくそのとおりだ。が……」
二人はそろってため息をついた。
だからといって納得できるかというところが大問題なのである。
どこから見ても少女にしか見えない美貌《びぼう》の少年は何とも複雑な顔だった。
「ずっと人の命を奪うことばかりしてきたというのに、ああして自分の命が危険にさらされると、とたんに恐ろしくなる。情けない話です。逃げようとは一度も思いませんでしたが、私はよほど恐怖にひきつった顔をしていたらしく、もちろん態度もですが……、あの人はしばらくして、陛下に話したほうがいいかとお尋ねになりました」
「それで、何と答えた?」
「おやめになったほうがいいと、はっきり申し上げました。陛下が剛胆な方であるのは承知しております。あの人を誰よりよく理解していらっしゃることも存じております。それでもわざわざお話しになる必要はないと思ったのです」
「そもそも何だって今になって俺に言おうとしたのかな?」
「それが……何でも、夫婦の間で隠し事があるのはよくないだろうと……」
神酒を噴出しそうになった国王である。
「あれがそう言ったのか!?」
「はい。それで私は、多少の隠し事があったほうが夫婦仲はうまくいくと申し上げました」
「うむ。見当違いだが、正論ではあるな」
「ありがとうございます」
実にどっちもどっちの二人である。
「一つ訊きたいが、お前は、あれに噛まれることはないと信じたから、側を離れなかったのか?」
紫の瞳がふと真摯な色を帯びた。
「それは私のほうがお尋ねしたいことです。陛下はいかが思われます? 信じられますか」
国王は答えなかった。何とも言えない表情で首を傾げた。
シェラはきちんとかしこまった姿で、淡々と言う。
「人間が肉食動物を恐れるのも、貧しい農民が兵士を恐れるのも、根底にあるものは同じです。相手は絶対的な力を持っている。自分の命など簡単に奪うことができる。しかも自分は身を守る術も持たない。
これで恐れるなと言うほうが無理です。仮に相手がお前を傷つける気はないのだと言ったとしてもです。
もし、相手の気が変わったら? 怒らせたら? それで終わりです。決して平等ではあり得ない相手を少しも恐れず信じることは……、少なくとも私にはできません」
「できないか?」
「はい」
「わりあい仲良くやっているように見えるがな?」
少年の口元に初めて微笑が浮かんだ。
「はい。仲良くさせていただいています。あの人はそれこそ私のことをまったく恐れませんので」
国王は呆れ顔で言った。
「ちょっと待て。なのにお前が恐がっていては話にならんではないか」
「は……あの、それは……」
意外なところを突かれたらしい。少年は眼を丸くして、口ごもった。
「それはあの、仕方がないとわかっていてくださるようなので……」
「俺には全然わからんぞ」
「……申し訳ありません」
少年は明らかに困っている。
不意に饒舌《じょうぜつ》になるかと思うと、根本的なところで口が足らない。先程見せた腕の冴《さ》えからは想像できない姿が妙に可愛《かわい》くて、国王は笑い出したくなった。
「さて、さて。お前のようなものがあれの側にいてくれるとは、心強いことだ」
「そういえば、そのご本人は?」
「明朝までには戻ると言っていた。俺もよほど妙な顔をしていたのだろうよ」
自嘲《じちょう》気味に言う。
ここまで来てようやく国王はいつもの自分を取り戻しつつあった。
衝撃が消えたわけではない。顔を血まみれにしていた姿を忘れたわけでもない。
思い出すだけで背筋に冷たいものが走る。しかし、国王はそれをひとまず呑み込んで、低く笑った。
「俺の花嫁はどうやら本当に人間ではないらしい」
「それでも……ご婚儀を挙げられる?」
「仕方がない。今さら中止にはできんのでな」
悪戯《いたずら》っぽく笑って立ち上がる。
その後ろ姿を見送ったシェラは対照的に固い顔で再び戸締まりをすませ、まんじりともせずに主人の帰りを待った。
エンドーヴァー夫人は静まり返った闇の中でふと眼を覚ました。
顔にひやりとした冷気を感じたのである。
朝になれば召使いが窓を開けに来るが、夜明けはまだ遠い気配だ。
見れば、確かに閉めたはずなのに、バルコニーへ続く扉を覆《おお》っている垂れ幕が揺れている。
夫人はガウンを纏《まと》って起きあがった。
この扉には鍵がない。必要ないのだ。この部屋は二階にあるし、建物の構造上、外から侵入することは出来ないようになっているからである。
何かの拍子に開いたのだろうと思ったのだが、扉を閉めようとして、バルコニーに人が立っているのに気がついた。
はっとしたが、その人影にはやましい気配がない。
むしろ悠然と声をかけてきた。
「やあ」
その声に夫人は息を呑んだ。
「姫さま……。どうなさいました?」
急いで外へ出る。星明かりに相手の姿を確かめて、小さな悲鳴を上げた。
「血が……お怪我を!?」
「大丈夫。返り血だ」
「とにかく、どうぞ中へ」
夫人は軽く髪を束ね、夜着の上にガウンを羽織っただけの姿である。
呼び鈴を鳴らせば召使いが起きてくるだろうが、そうはしなかった。枕元の燭台《しょくだい》に灯をともし、王女を座らせて、口さみしくなったときのために置いてある果実酒を差し出した。
王女は水でも飲むように一息に空けてしまい、単刀直入に言ったのである。
「頼みがあって来たんだ」
「はい。どのような……」
「もう一度、ウォルの恋人になってくれないかな」
夫人は眼を見張った。思わずその眼で問い返したが、王女の顔は真剣そのものである。
しばらく見つめ合った後、夫人は深い息を吐いた。
「申し訳ありません。姫さまのお頼みならばどのようなことでもお引き受けしたいところですが……」
「駄目かな?」
「お許しください。私は身勝手な女なのです」
「誰もラティーナが身勝手だなんて思ってないよ」
夫人は苦笑して首を振った。
「王の愛妾《あいしよう》として栄華を極めるよりも、ささやかな自分の家と夫の愛が欲しいというのですから、わがままと言われても変わり者と言われても仕方がありませんわ」
「そういうの、変人って言うのか?」
「らしゅうございます。おかげさまで以前と違って、この屋敷には滅多に人も訪れません。静かな日々を過ごしております」
実際そのほうがこの人には気楽なのだろう。権勢絡みの人間関係は時に壮絶の一語につきる。興味のない者には煩わしい時間を浪費するだけだ。
夫人は微笑しながら、軽く首を傾げた。
「何か、取り急いで愛妾を吟味《ぎんみ》しなければならないわけでもできましたか?」
「まあ、そんなとこだ。あいつは人間の男だからな。
相手にはちゃんとした人間の女の人がいいだろうと思って。おれはそのどっちでもないんだ」
「そんなことは……」
「本当のことさ。王妃が子どもを産まないなら他に王子を産んでくれる女の人が必要だろう?」
「あなたがお産みになるのでない限り、『王子』は誕生しません。どんな高貴の婦人が産もうとそれは庶子です」
「じゃあ、言い換える。他に男の子を産んでくれる女の人がいるだろう。おれには逆立ちしたって無理なんだから」
夫人は驚いたような顔で王女の話を聞いていたが、やがて、思いきったように尋ねた。
「それはあの、お子ができるようなことを試みるつもりはないということでしょうか。それとも……」
「両方だよ」
と、王女は笑った。
「試みるつもりもない。そんなのは最初から論外の問題外だ。それ以前におれの体は見た目は女でも子どもを産むようにはできてない。自分で知ってる」
「……そのことは、陛下もご存じですの?」
「どうかな? 知らなかったとしても、手を出す気にはなれないだろうよ。今までも妙な真似をしたら肋《あばら》をへし折るって言ってあったんだけどな」
王女は小さく笑った。
下手をしたら、今日から二度と、あの男は自分に近づいてこない。
だからこそ、この人に後のことを頼みたかったのだが、強制できることではない。
「悪かったな。寝ているところを起こして」
夜分に押し掛けてきたことを詫び、テラスから出ていこうとした王女の背中に夫人が声をかけた。
「姫さま」
「うん?」
「陛下はあなたを愛していらっしゃいます」
「……」
「世間一般の男が世間一般の女を愛するようにとは申しません。私には決してわからない種類の愛です。
それでも、あの方があなたを愛し、深く頼みにしていらっしゃることだけは間違いありません。私にはそれ以上のことは何も申し上げられませんが……、それではいけないのでしょうか?」
王女は答えず、大きく天を仰いだ。
その口元に微笑が浮かんでいる。ほろ苦い自嘲の笑いだった。
「やっぱりやめとけばよかったかな」
「は……?」
「何でもない」
自分はその信頼を木《こ》っ端微塵《ぱみじん》にするようなことをした。そうなるとわかっていてやったのだ。今さら愚痴《ぐち》を言っても始まらない。
「明日の……もう今日か。式には来る?」
「ええ。大聖堂の中には入れませんが、外でお待ちしています。花嫁姿を拝見させていただきますわ」
「それを考えると気が重い」
王女は笑って、テラスを飛び降り、まだ暗い道を駆けていった。
12
陽が昇った。
記念すべき一日が始まった。
山道に転がっていた多数の死体は国王の指示で夜明け前に片づけられ、花嫁の身支度を整える女たちは女官長を先頭に、何も知らずに、神殿まで登ってきた。
もちろん、この時、王女は付き添いの侍女と共に神殿にいたのである。
返り血もきれいに落とし、きちんと端座しているその姿からは、数時間前に派手な立ち回りを演じた形跡の片鱗《へんりん》も見ることはできない。
「お迎えに参りました」
と、女官長が言う。
後に付き従ってきた女たちが黙々と作業にかかった。入念に化粧を施し、髪を結い、下着を着せて靴を履かせる。
衣裳はこの日のためにコーラル一の仕立屋が念入りに仕上げてあった。
襟《えり》は高く、上体から袖をぴったりと包む上衣には豪奢《こうしや》な刺繍《ししゅう》がふんだんに施してあり、真珠を使った留め具が襟元からウェストまできれいに並んでいる。
ドレスはウェストからたっぷりと広がって垂れ、裾は床を覆《おお》い隠している。
最後に王女は真珠で飾られた帽子を被った。
この帽子にはやはり刺繍を施した豪華なべールがあらかじめ取り付けられている。
結い上げた髪にしっかりと帽子を固定して、光る靄《もや》のようなべールを長く伸ばして体のまわりに垂らし、手には白い絹でつくった花束を持つ。
そうして出来上がった花嫁は輝くばかりに美しく、この一ヵ月の苦労を補ってあまりあるものがあった。
もちろん黙って立っていればという厳しい条件は相変わらずだが、カリンも女達も滲《にじ》んできた涙を拭ったのである。
「無事に今日の晴れの日を迎えることができるとは、こんなにありがたいことはございません」
女達は心から安堵《あんど》した様子で口々に言い、女官長もひとまずは胸を撫で下ろしながら王女に最後の釘を差した。
「よろしいですか。式が終わるまでは『誓います』この一言しかおっしゃってはなりません。歩幅にはくれぐれもお気をつけて、お教えしたとおりに一歩ずつ、ゆっくりと進んでくださいまし。市民が大勢、見物に出向いて参ります。あなた様を祝福に来るのですから常に笑顔を絶やさないように。また、身動きなさる時はたとえ腕の上げ下げ一つ、頷《うなず》き一つにしても普段の五倍くらい時間をかけてゆっくりと。
練習どおりになさってください。よろしいですね?」
延々と続く注意事項の数々を王女は一応おとなしく聞いていたが、やはり興味も関心もないらしい。
女達の眼を盗んで、愛らしい紅唇《こうしん》が物騒な笑みをつくる。神殿を出る時、側にいたシェラにだけ聞こえるような声で言った。
「一生に一度の猿芝居の始まりだ」
国王と王女の結婚式はデルフィニアのオーリゴ神殿の総本山とも言うべき大聖堂で行われる。
空恐ろしくなるほどの天蓋《てんがい》と美しい薔薇《ばら》窓を持つ大聖堂はすでに満員の列席者であふれ、建物の外にまで参列の人々の列ができている。見物の一般市民の数も警備兵が押さえかねるほどだ。
当事者の一人である国王は祭壇の前に立ち、花嫁がやってくるのを待っていた。
結婚式においては王といえども男は単なる添え物にすぎないが、獅子の紋章を縫い取った黒の礼服を纏《まと》った姿はさすがの貫禄である。
大聖堂の外で市民達の大歓声があがった。
花嫁を乗せた馬車の到着である。
今日の花嫁がどんな人物であるか、市民も警備の兵士たちも嫌と言うほど知っている。それだけに興味津々、あるいは冷や汗もので見守っていたのだが、花嫁が馬車から降りて姿を見せると、見物の人々の間からは一様に感嘆のどよめきがあがった。
純白の衣裳に身を包んだ王女は、侍女がベールを直す間もあくまでしとやかに、優しい微笑を絶やすことなく、落ちついた振る舞いを見せていた。
建物に入れなかった列席の人の中にはタウの山賊達もいた。全員が眼を剥《む》き、これは何かの間違いではないかと真剣に思い悩み、警備兵の一人として大聖堂の端にいたラモナ騎士団のジョシュアは危うく自分の頬をつねるところだった。
この世のものとは思われないほどに美しい花嫁が、しずしずと祭壇へ向かって進んでいく。
ジョシュアは呆気にとられながら、その人の姿を上から下まで穴が開くほど見つめなおした。
これがあの時、自分を叩きのめした薄汚い少年と同じ人だとは、とても信じられない。
ジョシュアばかりではない。列席した貴族、臣下一同がそれこそ我が眼を疑い、愕然《がくぜん》として見守る中、花嫁はすました顔で国王と並んで祭壇の前に立った。
国王も苦笑したいのを堪《こら》えて、真顔で祭壇に向き直った。
オーリゴの司教が式を執り行うことを宣言し、ざわめいていた堂内は水を打ったように静まり返った。
祭壇上に立った司教の声だけが朗々と響いている。
「ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。汝はグリンディエタ・ラーデンを汝の妻とし、死が二人を分かつまで愛することを誓うか」
「誓います」
「グリンディエタ・ラーデン。汝はウォル・グリーク・ロウ・デルフィンを夫とし、死が二人を分かつまで愛することを誓うか」
花を持ち、つつましやかに眼を伏せた王女が口を開き、予定どおりに『誓います』と答えようとした。
それをちょうど遮るように入り口のほうで騒ぎが起きたのである。
「申し上げますぅ!!」
厳粛《げんしゅく》な雰囲気に満ちた大聖堂には実に不似合いな絶叫だった。しかも緊急の響きを濃厚に含んでいた。
王女と国王が即座に振り返った。
国王である前に、王女である前に、戦士という本質を持つ二人である。この突然の悲鳴がどういう性質のものか、どういうときに発せられるものか、いやと言うほど熟知していた。
息を切らせて入り口に立っているのは、果たして激戦地から駆けつけてきたような姿の兵士である。
丈夫なはずの長い上衣の裾《すそ》が破け、全身が土埃《つちぼこり》と血に汚れている。それでも胸に描いた紋章が辛うじて見てとれる。
アザミの花の模様だった。東の国境に近いランバー地方に位置するクリサンス騎士団の紋章だ。
「……いったい何事だ。式の最中だぞ!」
大聖堂の奥にいたヘンドリック伯爵が怒りもあらわに入り口まで駆けつけた。だが、その兵士が二言、三言囁《ささや》くと、伯爵の顔色もみるみる変わっていった。
他の参列者も何事かと身を乗り出し、不安げにざわめいている。祭壇上の司教が静粛にと呼びかけても効果はない。何より新郎新婦両人が式のことなどすっかり忘れて、突然の闖入者《ちんにゅうしゃ》に注意を向けている。
国王が張りのある声で伯爵に言いつけた。
「その者をここへ。話を聞こう」
ヘンドリック伯爵も歴戦の勇士である。緋色《ひいろ》の絨毯《じゅうたん》を敷き詰めた中央通路を臆することなくまっすぐ突っきり、小走りに近寄ってきた。
その顔はすでに主君の結婚式に参列する大貴族のものではない。大将の下で働く武将そのものだ。
国王の顔が緊張に引き締まる。伯爵も恐ろしく険しい顔で囁いた。
「……昨日未明、タンガが国境を越えて進撃、クリサンス騎士団に多大な被害が出た模様です」
国王の黒い眼がきっとなって伯爵を見、蒼い顔をしてうなだれている兵士を見た。
「どういうことだ?」
クリサンス騎士団の本拠地であるランバー砦はタンガに対する国境の押さえである。
一日二日の攻撃で陥落するような弱体なものではない。そもそも騎士団に大きな被害を与えるほどの大軍が国境を越えてくればいやでも目につく。その時点で早馬を飛ばせば、重大な被害を受ける前に、国王に報告することができたはずである。
騎士団の兵士が無念に体を震わせながら語るには、このところ、領内のあちこちで小さな事件が頻発《ひんぱつ》していたという。小人数の夜盗が民家を襲い、家財を奪って火を放っていくというものだ。
じきに春になると言ってもまだ冷えこみの厳しい季節である。焼け出された人々の難儀は一とおりではない。その人々が口を揃えて言うには、賊は国境を越えてやってきたタンガ人に間違いないという。
国境といっても柵《さく》があるわけでもなし、テバ河のような線が引いてあるわけでもない。土地鑑と足があれば山を越えてやってくることは特別に難しいわけではない。
そんな被害が領内の各地で相次いだのである。騎士団は当然、タンガ側に厳重な抗議を申し入れた。
ところが、被害にあっているのはこちらも同じだと言い返された。調べてみると確かにタンガ領内でも火付け強盗が多発しており、住民は焼け出され、金品は奪われ、たいへんな迷惑を被っている。
タンガの役人は苦り切った顔で、これはタウの山賊どものしていることに間違いないと言い、聞けばデルフィニアはそうした者達と懇意《こんい》にしているそうだから、ぜひともそちらからあの者たちを戒《いまし》めてもらいたいと、逆に皮肉を言われる始末。
騎士団ではこのタンガの言い分を面憎く思ったし、困りもしたが、向こうでも被害が出ているとなればこれ以上の苦情も言えない。
「……団長は、ご婚儀が近いことでもあり、ランバー領内で起きたことでもあるのだから、陛下を煩《わずら》わせてはならぬと、我々の手で不坪《ふらち》な盗賊を捕らえてくれようと、団をいくつかの小部隊にわけて被害にあった方面ごとに配置しました。それが……それこそが奴等のたくらみだったのです! 疑いを逸らすために自分の領地にまで火を放ち、こちらの戦力を分散させ、あげく夜の間に山に兵を集め、煮炊きを控える念の入れようで息を潜めていたに違いありません」
昨日の早朝、タンガは大挙してランバー砦《とりで》を攻撃したという。これだけの数がどうして気づかれずに接近できたのか、驚くほどの大軍だったという。
騎士団も果敢に応戦したが、領内警備に大半の人手を駆り出した後でもあり、不意をつかれたことでもあり、苦戦は避けられない情勢である。しかも外に出た小隊が戻ってこない。最悪の場合、それらの部隊は敵に倒された可能性もある。
「……団員一同砦を死守する覚悟でございますが、戦力の隔絶は如何《いかん》ともしがたく、状況は予断を許しません。自分はとにかくこのことを陛下にお知らせせねばとこうして駆けつけ、場所柄もわきまえずに飛び込んで参りました」
慚愧《ざんき》に耐えぬ様子でほとんど涙ながらに語られた報告が終わると、大聖堂は異様なまでの沈黙に包まれた。先程の密やかな緊張に満ちた静寂とはまったく違う。狂おしいものを秘めた静けさだ。
いつの間か祭壇の近くに主だった人達が集まってきている。ドラ将軍が、アヌア侯爵が、宰相ブルクスが、ティレドン・ラモナ両騎士団長が、そして独立騎兵隊長が息を呑んでいる。
全員の顔がそんなはずはないと語っていた。
戦争にもルールというものがある。今度のような王族の結婚式、もしくは葬儀などの式典が行われる場合は、たとえ交戦中であろうと攻撃を控えるのが慣例になっている。敵味方の区別なく王家に対する礼儀としてそうするのだ。
しかもデルフィニアは宣戦布告を受けていない。
どちらも、外交上、あってはならないことである。
タンガは国家としての信用を自ら失墜《しつつい》させる暴挙に出たことになる。
「馬鹿な……」
ドラ将軍が呻《うめ》くように洩《も》らした呟《つぶや》きが、その場の人間すべての心を代弁していた。
そこへ第二の闖入者が飛び込んできた。
「も、申し上げます!!」
息急《せ》ききって駆けつけてきたのは、祝宴の支度のために城に残っていた式部官長である。
よほど慌ててきたのだろう。立場上、礼を欠いた振る舞いなど決してしないはずの人が礼服の裾を乱しながら、文字どおり大聖堂に転がり込んできた。
主君の姿を認めて汗まみれの顔を歪《ゆが》め、よろめきながらも中央通路を進んでいく。
「こ、このような時にご無礼とは思いましたが……一大事でございます! たった今、タンガの使者がこれを……、この書簡を!」
ドラ将軍が飛び出していき、いっこうに歩みの進まない長官の手から書簡をひったくった。駆け戻って国王に差し出す。ざっと眼を通した国王は淡々と、重要部分を読み上げた。
「……さらにはグリンダ王女とナジェック王子との一方的な婚約破棄、国境付近におけるデルフィニア側の傍若《ぼうじゃく》無人な振る舞いなど、我が国と貴国との友好をこれ以上維持することははなはだ困難な状況に陥ったとの判断により、粛清の意味を込めて、わが国はデルフィニアに対し、ここに宣戦を布告する。
よくもぬけぬけと言うものだわ」
最後の一言は、ぞっとするような響きを持っていた。
家臣たちが硬直して立ちすくむ中、王女が花束を手放し、ベールのついた帽子を頭から引き剥がした。
国王は祭壇の上で棒立ちになっている司教を振り返って唸るように言った。
「式は延期だ」
そうして新郎新婦は満座の中を、片や外套《がいとう》を翻《ひるがえ》し、片やドレスの裾を鷲掴《わしづか》みにして、通路を大股に闊歩《かっぽ》しながら入り口へ向かったのである。
「陛下!」
慌てて後を追った人々に国王は矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「近衛兵団に先鋒を命じる。第一軍のみを首都警護に残し、残る四軍は直ちにランバーへ先発! ぐずぐずしているものは俺が切り捨てると伝えろ!」
「はっ!」
アヌア侯爵が早足に歩きながら緊張しつつ頷く。
「ドラ将軍。ロアに残っているタルボに急使を出せ。
ランバーをタンガに渡してはならん!」
「ははっ!」
「従弟《いとこ》どのはティレドン騎士団とともにコーラルに待機! 後詰めに備えろ!」
「御意。従兄上《あにうえ》」
「イヴン。王の名の下に独立騎兵隊に出動を命じる。
タンガの讒言《ざんげん》は我が国への挑戦であると同時にタウの自由民への侮辱でもある。自分達への濡れ衣は自分たちで晴らしてみせろ。やられっぱなしで引き下がるのは許さんぞ!」
「仰せのままに。陛下」
その傍らで紅い唇を一文字に引き結んでいた王女は通路の端を見て一言叫んだ。
「剣!」
すかさずシェラが進み出る。
どうしても近くにないと落ちつかないと言われて、シェラは防寒用の外套に下に隠して、この大聖堂まで王女の剣と額飾りを持ち込んでいたのである。
王女は差し出された剣を引き抜き、膝の下あたりの生地に突き込んで切れ目を入れた。ずっしりと重い絹だというのに無造作に裂いて膝丈《ひざたけ》にしてしまう。
ドレスの一部をその場に置き去りにして、腰に剣帯を手早く巻き付け、きちんと結い上げた金の髪を銀の輪に押し込んだ。
これらは実に二人が祭壇前を離れてから入り口につくまでの出来事だ。
国王と王女はそのまま大聖堂を飛び出した。外で待ちかまえていた人々が二人を見て大歓声を上げる。
しかし、彼らが眼にしたものは結婚したばかりの初々しい夫婦などではなかった。
厳しい戦いを前にした、二人の戦士の姿だった。
「馬を引けい!!」
国王が大喝する。
その大きな体から闘志が噴き出している。
タンガはわざわざ今日を狙って行動を起こした。
これは様子見の、単なる挑発の国境侵害などではない。ランバーを手に入れるのが目的なのだ。
国王の結婚を祝うために東北の各領主も大勢出席している。だからといって備えが甘くなるというのではないが、どうしても機動力は鈍る。
その上、時間が大問題だった。
コーラルからランバーまで約二百七十カーティヴ。
使者が早馬を飛ばしに飛ばしてもこの報告が届くのにざっと三十数時間かかっている。進軍となるとどんなに飛ばしたところでランバーへ到着するのに最低でも五日はかかる。
つまり、計七日もの時間をタンガに与えることになる。
覚えず歯ぎしりを洩らした。今はクリサンス騎士団が持ちこたえてくれることを祈るしかなかった。
「陛下!」
ナシアスが駆け寄ってくる。
「ぜひともラモナ騎士団にも出動のご命令を」
「ならん。貴公はビルグナに戻り、騎士団を率いて西に備えろ」
慮外《りょがい》のことだ。さすがのナシアスが顔色を変えて異議を唱えようとしたが、国王はそれを制して低く言った。
「前ばかり気にしているとその隙に背中を刺される。
この機に乗じてオーロンが動き出さない保証はどこにもない。パラストを牽制《けんせい》するためにはラモナ騎士団の力がいるのだ」
「は……」
ナシアスはそこまで深く考える国王に驚き、恥じ入った。当然考えなければならない可能性だった。
だが、頭ではわかっていても、今この場を離れてはるか西のビルグナへ戻ることは何やら悔しい。
自分の無力を思い知らされるようでもあり、敵前から逃亡するようにも思える。そんな心を見抜いたのか、国王はさらに言った。
「今この場で働けないことを恥辱に思う必要はない。
それより俺は背中は気にしなくてもいいとの安心が欲しい。パラストは決して国境を越えては来ないという強い保証がな。そのためには貴公がビルグナにいる必要がある」
「はっ!」
ナシアスばかりではない。国王は西国境地帯の領主達にも直ちに領地に戻るように命じた。
タンガとの国境に面している領主たちにとっては事態はさらに切実である。ランバーが落ちれば次は間違いなく自分達の領地が狙われる。慌ただしく家来を集め、国王に暇ごいをしていった。一足先に領地に駆け戻って手勢をまとめ、進軍してきた国王に合流するためだ。
その中でも、先日タンガとの癒着《ゆちゃく》が発覚しそうになったメイスン男爵や他の貴族たちは、別の意味で震え上がっていた。
国王はこの侵攻が自分達の手引きによるものと疑っているのではないかという恐怖である。
自分達は無関係だと弁解したかった。実際そのとおりなのだが、まさか言えるわけがない。
結果として彼らにできたことは自ら国王の前に進み出て、ありったけの軍備と資材の提供を申し出ることだった。他の誰よりも熱心に働いて身の潔白を証明しなければ、命が危うい。
国王は彼らの申し出に対し、軽く頷いた。
「殊勝な心がけ、嬉しく思うぞ。ランバーの危機は貴公らにとっても他人事《ひとごと》ではないはずだ。存分に働いてもらおう」
男爵達は全身に冷や汗を滲《にじ》ませながら一礼して下がった。『他人事ではない』とはどういう意味でおっしゃったのかと寒気を感じながら。
その間もひっきりなしに伝令が飛び、各所で隊の編成が行われている。人馬入り乱れての大混雑だ。
何しろ場所が郊外の大聖堂であり、主君の結婚式に参列している最中だったのだ。全員が礼服を纏い、警備兵を除けば誰も武装などしていない。
支度を整えるため、先を争って自分の屋敷へ駆け戻る騒ぎになった。
その混雑の中から身軽なタウの男たちが真っ先に飛びだした。
さらには婚礼衣装のままの国王が鞍《くら》に飛び乗った。
「陛下、お待ちを!」
「供の者をお連れくださいませ!」
国王が単騎で飛び出すなどとんでもないと、家臣達が色をなして止めたが、引くような人ではない。
馬上のまま大音声《だいおんじょう》に言い放った。
「騎士の誇りと意地ある者は俺に続け。何としてもランバーを救うのだ!」
馬に一鞭《ひとむち》くれて矢のように飛び出した。
さらには近衛司令官であるアヌア侯爵が、これも礼装を解きもせず、従者一人を従えただけで国王の後を追って駆け出した。
家臣たちが蒼くなったのは言うまでもない。
「誰か、早く王旗を持て! 陛下にもしものことがあれば何とする!」
「出られる者だけでよい! 司令官をお一人で行かせては近衛兵団の名折れになるぞ!」
「歩兵隊、遅れるな!」
「小荷駄を急がせろ!」
先鋒を命じられた近衛兵団は身支度もそこそこに馬を引き、人数のそろった中隊や大隊から順次飛び出していった。いつもの整然とした行進ぶりからは想像もできない必死の姿である。
王女はこの時、まだ大聖堂の近くにいた。
本来なら真っ先に飛び出す人がこんなに遅れたのにはわけがある。第一に足がない。王宮なら自由に使える馬が何頭も蓄《たくわ》えてあるが、今ここにいるのは主の決まっている馬ばかりだ。横取りはできない。
一瞬、城まで駆け戻るかとも思った王女だが、そこで今後の予定を思い出した。式の後、確か自分は馬車に乗り、市民に笑顔を振りまきながら王宮まで行進することになっていたはずだ。
大聖堂の横へ回ってみると、果たして、いた。
緋色の胸掛け、尻掛けをつけた見事な白馬が二頭、豪華な拵《こしら》えの馬車に繋がれている。
御者《ぎょしゃ》の姿はない。突然の騒ぎに何が起こったのか確認にでも行ったのかもしれない。好都合である。
走り出そうとして、王女は忌々しげに靴を脱ぎ捨てた。こんな踵《かかと》の高い靴では歩くのがせいいっぱいだ。
「私も行きます」
振り返ると従者の衣服を着込んだシェラが立っていた。銀の髪を掻《か》き上げてまとめ、布で包んでいる。
「どうした、その格好」
「その辺にいた人にお願いして……、少々強引ではありましたが、借りました」
つまり問答無用でぶんどったということだ。
「これから行くのは戦場だぞ。お前の得意の暗殺の場じゃない」
「剣も弓矢も一とおりは使えます。その辺のお小姓衆よりは役に立つはずです。よしんば役に立たないとしても……」
少年従者に姿を変えたシェラはきっぱりと言った。
「あなたを矢から守る楯《たて》くらいにはなれます」
王女はちょっと顔をしかめた。
この少年が自分を恐れていることはわかっている。
それでいながら逃げようとしない。さらには自分を守って矢に当たることも辞さないという。
「お前、なんでそこまでする?」
また狼狽《ろうばい》して答えに詰まるかと思いきや、少年は真顔で言った。
「それしかできそうにありませんから。戦場では、という意味ですが」
「それならここに残ればいい」
「あなたが出陣していくのに私が残る理由がありません。従者は主人の側にいるものでしょう?」
王女はまじまじと少年の顔を見つめ返した。
ブラシアの屋敷で似たような言葉を聞いた。が、明らかに違う。
あの時の口調には命じられたからそうするのだという、どこか捨て鉢なものがあり、それが王女には不快だったのだが、今は違う。
ごく当たり前のことを言う時の自然な口調だ。
王女は肩をすくめて言った。
「さっさとそっちの馬を外しな。強行軍になるからそのつもりでついてこい」
確かにとんでもない強行軍だった。
王女は最初から全力で馬を飛ばした。長道中だということを忘れているとしか思えない、わずか数カーティヴ先へ急行する時のようなめちゃくちゃな飛ばし方だ。
先行していた近衛《このえ》隊にみるみるうちに追いつき、追い越した。それでも速度を緩めない。馬を並べて走っていたシェラだが、遅れないようにするだけでせいいっぱいである。
馬の疲労が限界に近づくと、王女は街道沿いの番所に飛び込んで馬を替えた。
役人に国王がどのくらい先行しているかを尋ねると、もうずっと以前にお立ち寄りになりましたとの答えである。王女は少しも休もうとせず、新たな馬にも鞭《むら》を入れた。
しかし、この行動はシェラには疑問だった。
ランバー砦を救うために一刻でも早く駆けつけなければならないのはわかる。しかし、肝心の軍勢は遥か後方だ。国王や王女は身分上いくらでも替え馬を使えるが、彼らはそんな贅沢《ぜいたく》はできない。自分の馬が潰《つぶ》れないようにだましだまし駆けてこなければならない。
道筋にある領地からも軍勢が合流するはずだが、この分ではそれさえ間に合わない。
砦を苦しめるくらいだから敵は相当な大軍のはずである。少し歩調を緩めて、時間はかかっても軍勢と共にランバー入りしたほうがいいのではないか、そう思った。
ほつれ毛を風になびかせながら王女が笑いかけてくる。
「どうしてこんなに急ぐかわかるか!?」
「いいえ!」
「ランバーを取られたらおれ達の負けだ! 砦が落ちる前に駆けつけることさえできればおれ達の勝ちだ!」
「ですが、私たちだけでは戦えません!」
「いいや! 明日中にランバーへ着くことさえできれば、その時まで砦が持ちこたえてくれていれば、戦わなくても勝てる!」
どういう意味かシェラにはわからない。ついていくだけでせいいっぱいだ。
王女は夜になっても馬を止めようとしなかった。
それどころか相変わらずの全力疾走を続けている。
これではランバーについたところで戦う力が残っているかどうかも怪しかった。さらに驚くべきことはこれほど力を振り絞っているのに、まだ先行する国王に追いつけない。
不眠不休で夜通し走り続けた二人は、翌日昼ごろ、ロアにさしかかった。
先行する国王から聞かされていたのだろう。ドラ将軍の家来達はあらかじめ街道まで出向いていて二人を迎え、水と食料と馬を渡してくれた。
「陛下はつい先程お立ち寄りになりました。とりあえず二十人ほどお供をしております。私達も将軍さまがお戻り次第、直ちに向かいます」
王女は短く頷いて馬に飛び乗った。
シェラも息を荒くしながら新たな馬に乗り替えた。
相当体に無理をさせている。ただ鞍に揺られていればいいというわけではない。手綱を握りしめ、身を乗り出しての全力疾走をずっと続けているのだ。
並の人間ならとっくに馬から転がり落ちているところである。
王女も肩を弾ませていたが、その気力は衰えない。
「ランバーまではもう一息だ。急ぐぞ!」
「はい!」
疲れた体に鞭打つようにしてシェラは王女の後について走り出した。その時、丘の向こうから裸馬が一頭、駆けてくるのに気がついた。
騎手を乗せてもいないのに恐ろしく速い。漆黒《しつこく》の大きな馬だ。
街道を疾駆する王女の横にぴたりと並行して走り始める。
王女は笑い声をあげて愛馬を迎えた。ロアの黒主ことグライアも地響きを立てて駆けながら、それに答えたようだった。
「シェラ。この馬を引いて後から来い!」
言うや、走り続ける馬から馬へ飛び移った。そのままみるみる速度を上げる。
シェラは慌てて乗り手のいなくなった馬の手綱を自分の馬に繋いだが、その時には王女の姿はもう見えなくなっていた。
単独で走り始めた王女はしばらくして、少し前を行く隊列を眼で捉えた。
しかし、その様子はもはや進撃とも言えない。命からがら逃走するときのような、火に追いまくられているかのような、常軌を逸した走りっぷりである。
近づいてみると驚いたことに、馬には絶対の自信を誇るロアの男たちが血相を変え、必死に馬に鞭を当てている。先頭を行く国王に置いていかれまいとしているのだ。
王女はグライアの足を速め、国王の横に並んだ。
鬼神のような勢いである。一日を走り続け、汗と埃に汚れた男の顔は険しく、黒い瞳には炎が燃えている。
その眼が隣に並んだ王女を見て少し緩んだ。
王女も眼で笑い返した。
二人とも一言も口をきかない。そんな労力を割くことはできなかったし、必要もない。
コーラルを出てから丸一昼夜、さらに一時間半。
彼らは二百七十カーティヴをほとんど走りきった。
13
ランバーは土地そのものが天然の要害である。
懸崖《けんがい》で知られるタウ山脈の一部に古人がロシェの街道を開き、通行を可能にしたのだが、土地のほとんどは手つかずである。四方に険しい山並みが広がり、その間を縦横に川が走る、難攻不落の地形だ。
ランバー砦《とりで》もまた堅固なつくりだった。広い川に突き出た固い岩盤の上に建ち、川向こうに街道を見下ろす形になっている。敵がこの街道をやってきたものであれば見逃しはしない。どんな大軍だろうと確実に防げる。
さらに言うなら、クリサンス騎士団は守りの戦にかけてはデルフィニアでも一、二を競う巧者である。
ティレドン騎士団のような激しい闘志や高い攻撃力は持たないが、その戦ぶりの堅固なことは一枚岩ともたとえられるくらいである。決して血気に逸《はや》ったり、調子に乗ったりはしない。
自分達がこの砦にある限り、どんな敵もここを通すものではない。騎士団はそう確信していたし、国境の防波堤としての自負と誇りも持っていた。
決して自分達の能力や砦の性能を過信していたわけではないが、結果としてそうなった。
タンガにしてみれば、こんな敵とこんな砦を正面から相手にするなど、ばかばかしい限りである。
そこで機略を用いた。
さしも堅固なランバー砦も、兵力の大半を領内の警備に回したところを大軍に襲われてはどうしようもない。砦を死守するのがやっとだった。
騎士団は兵力のほとんどを失いながらもまだ砦に立てこもり、防御戦を得意とする身上に従って耐えに耐えていたが、陥落も時間の問題と思えた。
今しも太陽が西に沈もうとしている。
川越しにランバー砦を包囲しているタンガ陣営の天幕や旗印が、その西日に不気味に煌《きら》めいている。
さらに彼らは川に即席の橋を架けようとしていた。
この砦は三方を水に囲まれ、南だけが陸に続いている。むろん、その南も敵が押さえて砦とデルフィニア軍との連絡を遮《さえぎ》っている。ただしそれはずっと下ったところだ。だからこそ川に仮橋を通して、街道から砦までを直結させようというのだ。
それらのことがすっかり見下ろせる崖の上に、今、国王と王女がいる。
二人とも髪は風になぶられ、顔も体も汗に濡れている。懸命に呼吸を整えていたが、激しい疲労は隠しようもない。
ここへ来るまでに国王はさらに一度、馬を替えた。
ロアの男達も自ら引いていた替え馬に乗り替えて馬の負担を減らすことに努めたが、王女の愛馬はそのまま走り抜け、今も一緒に砦を見下ろしている。
敵の数はざっと五千。しかもまだ増えつつある。
国境の障害がなくなったと判断して、タンガが増援を送ったに違いなかった。確実にランバーを取るのだという気合いが嫌でも見て取れる。
戦況を見て取った国王が呟く。
「さすがはクリサンス騎士団、よく堪えた」
しかし、明日中にでも救わなければ、その辛抱が無駄になる。そのための方策を国王は簡単に言った。
「南を塞《ふさ》いでいる敵を倒すことだ」
王女も頷いた。
「包囲のどこか一方を切り崩すとしたらあそこしかない」
「軍勢さえ到着すればあの敵はけちらせる。砦との挟み撃ちを恐れるだろうからな」
「あの南側の敵を追い払えれば、砦と、こちら側の連絡も回復する」
「そうすれば川向こうの敵は恐るるに足らずだ」
問題はその軍勢がないということである。
ここまで来る道すがら、各地の領主に国王の名で出陣を布《ふ》れてある。また、今ごろはドラ将軍もロアに入っているだろうし、山に向かったイヴンも至急の号令をかけて陣容を整えているだろう。
しかし、数千の人、数百の馬、それらをまかなう糧食や軍備をかき集めるのは一朝一夕にできることではない。
さらに、ここまで駆けつける時間も考えなければならない。彼らも急ぎに急いで来るだろうが、甘い見通しはできない。
厳しい顔で砦を見下ろしていた王女が言った。
「日が暮れる。とにかく今日は休もう」
馬上で、国王が低く笑った。
意味ありげな笑いだった。
「久々に二人きりだな」
「うん?」
「思い出さんか。昔は俺とお前とで、ずいぶん多くの敵を相手にしたではないか」
王女も微笑した。
この男がまだ流浪の国王だったころの話だ。自分はこの世界へ落ちてきたばかりで、もちろん王女などではなかった。
「あれを二人で相手にするのはちょっと厳しいな」
王女がふと洩らした呟《つぶや》きを聞きとがめて、国王はまた笑った。
「敵は五千人、こちらは従者を入れてわずかに二十四人だぞ? 逃げようとは思わないのか」
「それならお前はどうなんだ。逃げないのか?」
「俺は逃げるわけにはいかんさ。ここは俺の国だ。
あそこで頑張っているのは俺の臣下だ。救わねばならん。しかし、お前はどうしてだ? 何もわざわざ俺につきあって危険を踏むこともないだろうに」
王女は呆れたように緑の瞳を見張った。
横にいた国王に向かって、もっとこっちへ近づくようにと手招きをする。
「……?」
不審に思いながらも馬を操って触れんばかりに近づいた。その国王の顔がぴしゃんと鳴った。
馬上にいながら国王に平手を食わせた王女はせいぜい難しい顔をしていた。が、口元は笑っている。
「おれがいなきゃ困るんだろ?」
「まあ、な」
国王も笑っていた。
「いてくれれば嬉しいな」
「だったら余計なことは言うな。おれはまだお前の同盟者だぞ。たとえ……」
肩をすくめて、王女は馬を離した。
「たとえお前がそう思っていないとしてもだ」
「リィ……」
「少なくともお前はおれを化け物とは言わなかったからな。それで充分だ」
「待て。驚いたのは確かだぞ。人間にできることではないとも思った。しかし……だからといって……お前がお前でなくなるわけではないだろうに」
「顔がひきつってる」
すかさず言われて国王は自分の顔に手をやった。
「……ほんとか? 自覚症状はなかったぞ」
「じゃあ、困ってた」
「そんなはずはない」
「いいや。困ってたし、ひきつってた。無理に気を使ってくれなくたっていいんだ。おれとお前は違う生き物なんだからな」
これに国王は腹を立てたのである。
驚いたのは確かだ。恐怖も感じた。しかし、人は食べないと言ったのは王女のほうだ。
国王はそれで納得したつもりだった。第一こんな時に気を使うのは思いやりではない。偽善だ。
そう抗議しようとした時、王女が振り返った。
「たとえばだ、あのまま式が続いていたとしたら、お前、誓いの接吻《せっぷん》ができたか?」
言葉に詰まった。
確かに王女が『誓います』と答えていたら、そう続いたはずだった。
脳裏に鮮やかによみがえったのは、顔の下半分を真っ赤にしていた王女と、首からの大出血によってほとんど即死した兵士の死体である。
国王は努めて平静に答えた。
「儀式の一環だからな。誓いの接吻を、と、司教に言われたら、そうしただろうよ」
「あまり心中穏やかではなさそうだな?」
「絡むな。俺もまだ修業が足らん。確かに……まったく平静でいることは難しい。だからといって逃げ出したりはせんぞ。それは誓って言えることだ」
「じゃあ、今、できるか?」
「なに?」
「今、ここで、式の続きをだ」
国王が答えないでいると、王女は笑って言った。
「できる。なんて言うなよ? 本気で殴るからな」
馬上で深々とため息をついた国王である。
「わかった。気を使うのはやめにする。その代わりお前も俺を試そうとするのはやめてくれ。こういうやり方は……気持ちのいいものではない。はっきり言われるほうがはるかにましだ」
「悪かった。もうやらない」
王女は真顔で謝罪した。
主将から雑兵まで合わせて二十四人の小部隊は、一時的に空き家になった民家を勝手に借りて宿舎にしている。戦が始まりそうだというので、家の者はどこかに避難したらしい。家財道具はほとんどそのままになっている。
そうして国王が異様な輝きを眼に秘めて一同と向き合ったのは、太陽が沈んでから一時間ほど過ぎたころだろうか。
国王は何と、「明朝、ランバー砦に入る」
と、言ったのだ。
一同|仰天《ぎょうてん》して、いったいどのようにしてと訊くと、「正面から行く」
というのだ。
「夜明けを待って南の軍勢を突破する。他に方法がないのでな」
人々は絶句した。耳を疑い、互いの顔を見合わせた。どの顔にも驚愕《きょうがく》と不安がありありと現れていた。
思わず王女を見たが、この人も平然としている。
「それが一番効果的だ。一昨日の昼までコーラルにいた国王が姿を見せれば敵は必ず動揺する。後続に大軍団が来ると宣言されたようなものだからな」
理屈は合っている。挟撃は籠城《ろうじょう》攻めと同じくらい兵土が恐れるものだ。調子に乗って攻めていても、後ろを切り取られ、包囲されるとなったら、どんな剛胆な者でも堪えられるものではないのだ。
しかし、それなら、味方の軍勢を待ってから砦に入るべきである。この小人数で強行突破などして、国王にもしものことがあったら取り返しがつかなくなる。
ロアからついてきたのはドラ将軍の旗本を務める勇士である。思いとどまるように口々に訴えたが、国王の決意は固かった。
「タンガ側は明日にも再び猛攻をかけようかという態勢だ。クリサンス騎士団はよく持ちこたえているが、それももはや限界に近い。今日までもったのが不思議なくらいだ。一刻の猶予《ゆうよ》もならん」
断固たるものである。ロアの人々も何も言えなくなった。かくなる上は最後までお供つかまつると、自分達の決意を述べて引き下がり、シェラだけがその場に残った。
本当にやるつもりなのかと眼で王女に訴える。
あまりにも無謀な作戦だと思った。何よりおかしいのは明るくなってからやるというところだ。見つけてくれと言わんばかりではないか。
暗いうちに行動を起こすべきだった。それなら、たとえ一万の軍勢が砦を包囲していても通れる。
少なくともこの人と自分には、それができる。
しかし、そんなことを言上するのは僭越《せんえつ》なような気がして、蒼い顔をしたまま黙っていた。
王女がそんなシェラに笑いかける。
「お前、針と糸持ってきてないか」
「は……?」
「この服さ。丈夫なのはいいんだけど、腕の自由がほとんど利かない。胴体もきつい。直せないか?」
そう言って女官達が丁寧に着せかけたドレスを眼を覆いたくなるほど乱暴に脱ぎ捨てたので、シェラはため息をついた。
宿舎にしている家を物色すると、裁縫箱はすぐに見つかった。無惨に裂けた裾《すそ》をもう少し切り取って当て布を取り、身頃をほどいて、その間に注意深く縫いつけていく。
普段なら何でもないことだが、今は体も眼も疲労しきっているだけに、シェラは何度も眼をこすりながら仕事を続けた。それでも時々針の先で指を突きそうになった。
楯《たて》になるつもりで戦場へ出てきたのに、おかしな成りゆきである。だが、これでは戦いにくいという王女の言葉はもっともだ。
いつ仕事を終え、いつ寝たのか覚えがない。動き出した人の気配で眼が覚めた。
まだ太陽は昇っていない。ようやく明るくなりかけたころだが、ロアの人達は既《すで》に起き出して炊事に働いている。作戦行動開始にはちょうどいい時間だ。
急いで起き出して顔を洗った。
いつの間に自分の手元から持っていったのか、王女は既につくりなおした衣裳に袖を通していた。
「すごく楽になった。どうして最初からこういうふうにつくらないんだ?」
「仕立屋にも色々と事情があるのでしょう」
「もう一つ、頼みがある」
「はい?」
「髪を結って。一昨日みたいにきちんとだ」
シェラの紫の眼はまん丸になってしまった。
この人がこんなことを言うのは初めてだ。しかし、これでは話が逆だ。城にいるときは鳥の巣のような頭で平気なのに、戦に行くのに体裁を整えるとは。
また眼で問い返したが、王女は真面目である。仕方なく、裁縫箱と一緒にしまってあった櫛《くし》を借りて、できるだけきっちりと結い上げてやった。
陽が昇ってきた。
三月初旬の朝日だ。まだ冷たい。
その朝日を眺めながら、シェラは、もしかしたらあれがこの世で見る最後の太陽になるかもしれないと思った。
命を粗末にするつもりはない。しかし、事実から眼を背けることもできない。
味方は二十四人。当面相手にしなければならない南側の敵だけでも優に二千。
それが現実だった。
仮の宿を出ると、国王と王女はまっすぐ敵陣営に馬を向け、砦の南側にあるほんのわずか盛り上げたような丘の上に立った。
傾斜はここからなだらかにずっと向こうまで下り、何も生えていない裸野が続いている。突き当たりにぽつんと小さく飛び出しているのがランバー砦だ。
その途中にタンガの陣営がある。
ところどころに固まって陣幕を張り、幕舎を建て、色とりどりの旗がなびき、人々が蟻のように動いているのが手に取るように見える。
折しも朝食時だったと見え、煙が幾筋か上がっている。そのうち、陣営の動きに少し乱れが出た。
こちらに気づいたのだ。丘の上に堂々と姿をさらしているのである。気づかないわけがない。
何人かが様子見に駆けてくる。
こちらは国王と王女を先頭に、二列縦隊に整然と並んでいる。
従者が主人の後ろにいるのだ。これでは後々将軍さまに怒られるとロアの人々は異議を唱えたが、国王は笑って、前にいようが後ろにいようが、あれだけの大軍に囲まれてしまえば同じことだと言っていた。
タンガの物見は用心しながらもこちらへ近づいてくる。だが、顔が認められるくらいの所まで来ると、その足がぴたりと止まった。
王女の後ろにいたシェラにはその兵士の顔がみるみる青ざめるのがはっきり見えた。
一、二歩後ずさったと思ったら、たちまち脱兎《だっと》のごとく駆け戻っていったのである。
王女が笑って愛馬の首を叩いた。
「さ、行こうか」
「うむ」
国王の声も笑いを含んでいる。
が、たちまちその笑みは消え、黒い眼が爛々《らんらん》と輝き始める。熱くなり始めたその眼の色とは裏腹に、背後の兵士たちが寒気を覚えるような声で言った。
「デルフィニア国王とその王妃に正面切って挑むだけの度胸を持つ勇士が果たしてタンガに何人いるか、とくと拝見させてもらおう」
国王が馬腹を蹴ったのを合図に彼らは進み始めた。
ただし、疾駆ではない。かといって並足でもない。
規則正しく、一定の馬足を保って、一直線に砦を目指したのである。
部将以上の身分の者は、先頭を進む立派な体躯の若者の胸に輝く紋章を見ただけで蒼白になった。
デルフィニアでこの紋章を纏うことができるのはただ一人しかいない。しかも、その横を進むのは、見事な金髪の、眩《まぶ》しいほどに美しい娘である。身につけているのはどう見ても婚礼衣裳だ。
国王だけなら、これは替え玉ではないかと訝《いぶか》しむ余裕があったかもしれないが、王妃もいるとなれば疑念を挟む余地はない。
とても手出しできない。タンガ軍はそう思った。
計算ではない。本能的な恐怖である。
最後尾の陣営はこの一行が通り過ぎると、大慌てで川向こうの本隊へ伝令を走らせせた。
先頭を進む国王は襟や袖に金をつかった最高の礼服を纏い、見事な毛皮の外套を翻している。胸には金糸でずっしりと縫い取った獅子の紋章が輝いている。
横を進む王女の黄金の頭髪は本物の純金と並べても見劣りすることのない眩しい光を放ち、額に置いた銀の宝冠と宝石は大理石のような肌と緑の瞳に映え、またがっているたくましい馬の漆黒の色は雪のような純白の衣裳を神々しいほどに引き立てている。
唯一、難があるとすれば、この花嫁は素足に革の短靴を履いていた。途中で適当な従者の足からぶんどったものだ。
しかし、そんなものはほとんど気にならない。というより眼に入らない。
上体をまっすぐ伸ばして前を見据え、その気迫で他を制し、軍勢などどこにもいないものであるかのように進む国王と王女にタンガ軍は完全に圧倒されていた。
従者を含めてわずかに二十四人である。関《とき》の声をあげて押し包んでしまえば勝敗などわかりきっている。しかし、その声が出ないのだ。
王女の後ろに続くシェラも何となくわかってきた。
前を歩いている王女の背中から恐ろしいほどの闘志を感じる。
手出しをする者があれば命と引き替えにしてでも討ち取ってくれるという、すさまじいまでの決意だ。
隣を進む国王も同様である。もともと大きな体が今は恐ろしくて正視できない。
主人がそれほどの決意を固めて敵を威圧しているとなれば、従者も怯《ひる》みや恐れは見せられない。
逆に恐れているところを見せたら負けだ。ロアの男達もシェラも胸を張り、眼光鋭く、びくともせずについていった。
後陣から中陣、最前線である先陣までを、二十四人の隊列は堂々と通り過ぎたのである。
ランバー砦はもう彼らの目の前だった。
タンガ勢の最前線から砦まで、かなり広い範囲がぽっかりと空いた広場になっている。
これは当然の用心である。あまり砦の近くに布陣すると矢が飛んでくる。
国王一行はその広場を粛々《しゅくしゅく》と行進していた。
砦のほうでもこの光景の一部始終を見ていた。先頭に立つ人が誰であるか、砦の人々にはもちろんわかっただろう。知らせは砦の中を駆けめぐったに違いない。物見台の上に一人、また一人と兵士の姿が増えていく。
広場の中程まで来て、シェラはそっと息を吐いた。
どうやら、今日の夕日を見ることができそうだと安堵《あんど》したその時、思いがけない方向から声がした。
「お見事だ、デルフィニア国王!」
川である。
見れば、対岸から大きな筏《いかだ》がこちらへやってくる。
棹《さお》を操る従者と数人の歩兵、そして見事な白馬にまたがった立派な拵《こしら》えの騎士が一人、乗っている。
その騎士は見事に手綱をさばいて、筏から陸地に飛び移り、堂々と近づいてきた。
大胆不敵な行動だが、対岸では弩《いしゆみ》隊がずらりと並んで矢をつがえ、こちらに狙いを定めている。
また、たった今通り過ぎてきた陣営もにわかに活気づき、戦意を高めている。
どうやらこの騎士はかなりの大物のようだった。
また、これだけの援軍があればこそ、こんな大胆な行動ができるとも言える。まだ若く、国王と並んでも見劣りしない偉丈夫である。岩を削ったような魁偉《かいい》な容貌は精力と自信に漲《みなぎ》り、眼光は白く炯々《けいけい》として、唇は厚く濡れている。
お世辞にも美男子とは言いがたい。好感が持てる顔でもない。ただ、ある種の力は感じられる。
常に人の上に立ち、またそれを当然と思っている、もしくは思っていることさえ自覚しない。支配すること傅《かしず》かれることに慣れきったものの顔だった。
手にした槍《やり》で国王を指して、声高に言う。
「重ねて言うがお見事だった。さすがは中央に名高い勇者の振る舞いと感じ入った。ついてはタンガ軍総大将たるこの俺と一騎打ちを願いたい」
「ほう? 総大将とな」
「いかにも」
その騎士はここぞとばかりにふんぞり返った。
「タンガ国王ゾラタス・ミンゲの息、ナジェック・ユンク! お見知りおき願おう!」
しかし、国王がこの名乗りに答えて進み出るより先に、王女が進み出た。
凛《りん》とした口調で言う。
「ナジェック王子なら、おれがお相手しよう」
友軍の見ている前で敵の主将を叩き伏せてくれるとの意気込みに燃えていた王子は、気を削がれたことを不愉快に思ったのだろう。うるさそうに言った。
「退けい。俺の相手は国王のみ」
「いいや、退かぬ。このおれを嫁にもらいうけたいという王子の技倆《ぎりよう》を試させていただく」
王子は相手をあらためて眺めて、初めて、それが美貌の少女であることに気づいたらしい。
厚い唇がにやりと笑った。
「なるほど。武芸自慢の姫君らしいお言葉だが、お転婆もほどほどになさらぬと怪我をしますぞ」
邪魔だから引っ込んでろ、という態度だ。
ロアの男達とシェラは思わず苦笑を噛み殺した。
王女はあくまで腕試しにこだわる様子で言う。
「タンガのナジェック王子ともあろう者が勝負を挑まれて逃げるのか? 一つお断りしておくが、このグリンダ、自分より弱い男など男のうちとは思っておらぬ。あくまで逃げるというなら今日より王子を男のうちとは数えぬことにするが、よろしいか」
シェラはそっと天を仰いだ。国王もだ。
それでは、この大陸に、男と呼べるものは一人もいなくなってしまう。
さすがに王子もむっとした様子である。女はこれだから始末が悪いと言わんばかりだ。
国王が口を挟んだ。
「ナジェック王子。この娘は見てのとおり、負けん気だけはたいへんなものだ。少しばかりお灸《きゆう》を据えてやってくれ。その後で俺がお相手しよう」
後でこっちがお灸を据えられるかもしれんと内心冷や汗を感じた王の心など王子は知らない。
白けた顔で鼻を鳴らした。
「王の許しがあるのなら遠慮なく参る」
手っ取り早く片づけて、本来の目的を果たそうと思った。後続の援軍が到着する前に、敵の主将を捕らえるが倒すかすればもうこっちのものである。
国王がわずかな従者だけ連れて駆けつけてきたと聞いて、ナジェック王子は小躍りした。
デルフィニア国王ウォル・グリークの武名は現在、中央諸国にもっとも高く鳴り響いている。しかし、自分も決して劣りはしないと王子は確信している。
劇的な王座奪還だかなんだか知らないが、高く評価されすぎだとも思っている。
そんなかねてからの不満を晴らし、勝利をも掴む機会が一挙に押し寄せたのだ。
王子は再び気分が高揚するのを感じていた。この成り上がりの王女さえ片づけてしまえばその念願が叶うのだ。
もちろん本気で決闘するつもりはない。軽く打ち合って剣を叩き落としてしまえば済むことだ。
目の前の相手を侮りきっているナジェック王子は、国王の従者達が意味ありげな目配せを交わしたのも、国王がさりげなく砦の入り口までの距離を目で測ったのも気づかなかった。
突撃の速度も甘く、どこかのんびりと槍を繰り出した。その結果がどうなったか、言うまでもない。
王女は剣を使いもしなかった。
繰り出してきた王子の槍首を掴んで奪い取った。
「なにっ!?」
意外な手応えに王子が馬上で棒立ちになる。
さすがにすぐさま腰の剣を抜こうとしたが、王女はそうはさせなかった。目にも止まらぬ速さで奪った槍を一閃《いつせん》させ、石突で相手の腹を突いたのである。
「ぐあっ!」
たまらず、王子が落馬する。同時に王女も馬から飛び降りた。
見守っていたタンガの人々の間から恐怖の悲鳴が上がった。
悪夢さながらの光景だった。岩のような王子の巨体が地響きを立てて地面に倒れたかと思うと、ほっそりと華奢《きゃしゃ》な花嫁衣裳の王女が王子の両足を小脇に抱えて走り出したのである。
歩いているのではない、人ひとり引きずりながら、王女は手ぶらで走っているのと変わらない猛烈な勢いで砦を目指した。
「は、離せ! 離さんか!」
ぐいぐい引きずられていく王子がもがいて叫んだが、手も足も出ない。
「遅れるな!」
国王と従者たちはすかさず馬腹を蹴り、王女の後を追った。川向こうでもこちらの陣営でも大騒ぎが起きている。殿下を救え、という声も聞こえる。
王子にしてみればたいへんな屈辱だったろう。
仰向けにされ、両足首を掴まれて、吹けば飛びそうな少女にものすごい勢いで引きずられているのだ。
起きあがることも抵抗することもできない。背中は盛大に土にこすられている。
「姫さま。我々が代わります!」
さすがに気の毒になったのか、ロアの男達が王女と交代した。馬を走らせながら、見事な身のこなしで王子の両腕を左右から掴み上げた。
王子は左右に腕を取られ、今度は足を引きずって馬と同じ速度で運ばれる羽目になった。
今までこちらの様子を窺っていた先陣が大慌てで突進してきたが、弓矢は使えない。王子に当たる危険がある。砦に逃げ込ませてはならんと今さらのように血相を変えて迫ってきたが、すでに手遅れである。
砦の門扉《もんぴ》が開き、兵士が四、五十人、走り出てきた。物見台の上にも弓兵が現れ、渾身《こんしん》の力を込めて迫ってくるタンガ勢に矢の雨を降らせる。
その間に国王一行が砦に走り込み、門扉が固く閉ざされた。
タンガ勢は健気《けなげ》にも門扉を打ち破ろうとかかってきたが、弓兵は城壁の上からさんざん矢を射かけて追い払った。
砦内から大歓声が上がった。
大勝利をあげた時のような雄叫びだった。
ランバー砦の人々は部将から小姓まで国王一行を熱狂的に歓迎したが、中でも騎士団長コンフリーは実直そうな顔を涙でくしゃくしゃにして国王の前に膝をついた。
「陛下。かたじけのうございます!」
口にしたのはそれだけだった。言いたくても雨のような感激の涙にくれて声が出ない。
「コンフリー。よく堪えた。よくぞもちこたえてくれた。大手柄だぞ!」
クリサンス騎士団長は四十二、三になるだろうか。
責任感の強い人だけに、むざむざと敵の好計《かんけい》にかかって兵力の大半を失ったことをたいへんな恥辱と思い、このまま砦を敵に渡すくらいならいっそ焼き払って共に死のうかとも考えたらしい。
「陛下の信により、この砦を預かる身でありながら……このような、このような失態を招き、かくなる上は敵の将なりを道連れに潔く果てるのみと覚悟を決めておりましたるところ、御自らお運びとは……かたじけのうございます!」
「案ずるな。じきに援軍が来る。それに敵の主将はここにいるぞ」
てきぱきと縄を掛けられ、そこに座らされていたナジェック王子は、歯ぎしりしながら国王と王女を睨《にら》みつけている。
王女を見る眼の中には、腹立たしさと同時に何か訝しむような、薄気味悪いものを見るような疑念の光がある。
国王は王子に向かって丁寧に話しかけた。
「ようこそ、ナジェック王子。できるかぎり丁重におもてなししよう。もっともこの砦は先刻までそちらにきつく攻められていたのでな。行き届かぬ所もあろうが、それはご勘弁願いたい」
王子は顔を真っ赤にしていた。国王の言葉など聞こえていない。女に負けた。それしか頭にないようだった。
「……いったいどんな手妻を使った」
吐き捨てるように言った。こんな少女に自分を倒せるはずはない。何か仕掛けがあるに決まっている。
そう言いたいらしい。
「この娘に敗れたからといって悔やむことはないぞ。
王子は生身の人だ。勝利の女神に勝てなくても何の不思議もない」
王子は相変わらず白い眼で国王を睨《にら》んでいる。
味方の圧倒的な優勢を頼みにして、総大将の身でこんな軽率なことをしてのける人だ。自らの華々しい働きによって勝利を掴みたいという見栄の強い人なのだ。敗北を素直に認めることも捕虜としての覚悟を潔く決めることも、王子には未知のものだ。
こんなことをしてただですむと思うな、と、相変わらず強情な目線が語っている。
国王はとりあえず王子を適当なところに収容するように命じ、自ら物見台に立った。
タンガ軍は蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。正面に見える軍勢などは明らかな逃げ腰だ。
川向こうの混乱はもっとひどい。伝令兵が右往左往している。
無理もない。先刻までの圧倒的優勢から一転して、八方ふさがりの戦況である。
軍勢の被害を最小限に留めるためにも身の安全のためにも、即刻撤退すべきなのはわかっている。
しかし、主将を置いて逃げるわけにはいかない。
まさに進退両難である。
逆にランバー砦は完全に息を吹き返した。
どんなに遅くても三日後には援軍が来るのだ。それまでもちこたえればいいのである。
後になって、クリサンス騎士団の団員たちは、この戦いを他の兵士に自慢する時、必ずこう言った。
「勝利の女神が醜女《しこめ》だってのは、あれは嘘だな。他はともかく、このデルフィニアの勝利の女神は敵も魂を奪われるほどにお美しいからな。本当だぞ?俺たちはこの眼で見たんだ。婚礼衣装の軍神バルドウとその妻ハーミアをな!」
日が暮れ駆けるころ、国王と王女は馬で砦を出て、敵の様子を見に行った。
従騎は一人もつれていない。二人きりである。
正面の陣営はじりじりと後退を続け、砦からではもう見えないところまで下がっている。
本隊も少しずつ川辺を離れ、街道を目指して後退の構えだった。しかし、なかなか撤退に移ろうとしない。引き上げの決心がつかない様子である。
タンガ兵士は苛烈な土地に育った分、鍛え抜かれた精兵ぞろいと聞いている。それがこうまで判断に悩むのは、王子を置いて逃げた後、主君に何と言われるかを恐れているのだろう。
馬上の国王はやはり馬上の王女に話しかけた。
「魔法街の老婆がここにいれば、いつ援軍が来るか予見してくれるだろうが、お前でもそれは無理か」
「一緒にするな。後続が遅れてるのは仕方がない。
おれ達が先行しすぎたんだ」
「そのおかげで間一髪で間に合った」
砦内の軍備と人員を点検してみたところ、今まで降伏しなかったのが不思議なくらいの有り様である。
もし国王と王女が無茶をして駆けつけてこなかったら、この砦は今日中に陥落していただろう。
そうなればタンガにデルフィニア攻略の絶好の足がかりを与えることになり、タンガは勢いに乗って近隣の領地を切り取りにかかったはずだ。
「リィ」
「なんだ?」
また助けられたな、と言おうとしてやめた。
代わりにこう言った。
「とんでもない結婚式になったな」
王女はくすぐったそうに笑ったものだ。
「これもおれ達らしくていいんじゃないか。敵が攻めてきたっていうのに王妃がこんなことを言うのは不謹慎だろうけどな」
「なに。ここにもっと不謹慎な国王がいるぞ。早く援軍が来てくれないと、みすみすあの敵を逃がしてしまう。いっそ行かないでくれと引き留めたいくらいだな」
言葉は冗談のようでも剣呑な笑顔である。王女も同じように笑って言った。
「追い払うだけでは不充分か?」
「足らんな。王子を捕らえたといっても、軍勢を無傷で返せばゾラタスはまた同じことをするだろう。
それに近衛兵団も独騎隊も血相を変えてやってくるはずだ。その出動が空振りに終わっては困る」
戦闘能力が高いということは、その分荒々しい、原始的な衝動を身の内に持っているということだ。
戦意を高めるだけ高めておいて、ぶつける対象がなくなるのは好ましくない。何かで発散させてやらなければならない。部将格の者はその衝動を理性で抑えることができるだろうが、一般兵士たちはその激しい力を持て余してしまうのだ。
王女が頷《うなず》いた。
「おれの暗殺、欺瞞《ぎまん》だらけの宣戦布告、騙《だま》し討ちに等しいランバー攻め。確かに何でもやる国王だ」
「逆を言えば損になることはしない男だ。それなら俺達を敵にするのは損だと思わせればいい」
「同感だ。ちょっと駆け戻って、どの辺まで味方が来てるか、見て来ようか?」
国王は首を振って、何を思ったか馬を下りた。
不思議そうな顔をしながらも王女もそれに倣《なら》う。
丘の上だった。砦もロシェの街道も一望にできる。
真剣な顔で王女を見下ろして、国王は言った。
「式の続きをやろう」
緑の瞳が丸くなった。
「ただし、俺達のやり方でだ」
剣を抜き、刃先を下に向ける。
王女はすぐさま呑み込んだ。同じように剣を抜き、刃を重ねた。
「この剣と戦士としての魂にかけて」
それが彼らの誓いの言葉だった。
他のどんなものよりも有効な、彼らが彼らである限り、絶対に破られることのない誓約だった。
死が二人を分かつまで愛するのではなく、命ある限り共に戦うことを誓って、剣を収める。
その王女の頬に大きな手が触れた。
驚いて顔を上げると、息がかかりそうなほどすぐ近くに国王の顔があった。
「ウォル?」
「結婚式は本来こう続くのだろう?」
さらに驚いた。絶句して相手をまじまじと見つめ、ようやく言葉を絞り出した。
「……無理するなよ」
「お前が嫌ならやめるが、これを誓いにしたい」
国王の右手が王女の顔を手のひらに包んでいる。
黒い瞳が真剣な光を湛《たた》えて王女を見つめている。
相手に引く気配がないのを知ると、王女は小さなため息をついた。
「おれはやろうと思えばお前の頭蓋骨《ずがいこつ》くらい簡単に噛み砕けるぞ。それでもか?」
「わざわざ脅かすな!」
事情を知らない人が見たら何事かと思ったろうが、国王は恐ろしく真剣だった。
王女は自分との間に今までとは違う関係を築こうとして、一歩を踏み出した。今度は自分の番だ。
大きな両手が慎重に王女の頬を包む。
動こうとしない王女の紅い唇に国王の唇がそっと重ねられ、軽くついばむようにして離れていった。
そのとたん息を吐いたのは、やはり相当緊張していたらしい。
無理もない。猛獣に接吻するようなものなのだ。
それでも逃げることをよしとはしない。眼をそらさない。これでいいかとまっすぐ見つめてくる。
王女のほうが、らしくもなく眼を伏せている。
何も言えなかった。ほとんど涙さえ感じた。いかにもこの男らしい、不器用な優しさが嬉しかった。
「無理するなって言ったのに……」
「いいや。ここは無理をしなければならん正念場だ。
自分の妻を恐れていては何もできないからな。まあ、ある意味ではとても恐いものらしいが……」
またまた王女の眼が丸くなる。
ついで盛大に吹き出した。声を上げて笑いながら、夫になった男の太い首を抱きしめた。
間近にその顔を覗き込んで微笑する。
「馬鹿だよ、お前は」
「わかっている」
「底抜けの大馬鹿だ」
「そこまで言わんでもいい」
国王も新妻の体を抱きしめた。
細い体だ。自分に比べれば折れそうなつくりだ。
しかし、それはあくまで見た目だけのことでしかないのだ。
両手で軽々と抱き上げて目よりも高く差し上げる。
「しかし、賢人と言われて小粒に収まるくらいなら、馬鹿と罵《ののし》られて大きく生きろという言葉もある」
「誰が言った?」
「俺だ。今思いついた」
王女がまた高らかに笑って、国王の髪をくしゃくしゃにかき回した。
ふと、その手が止まる。
訝しげに街道の西のほうを見ている。
「どうした?」
「いや、何か光ったような気がした」
国王も眼を細めてみたが、真っ赤な太陽が地平線にかかり、よく見えない。並外れた眼を持つ王女も同じらしい。
「ちょっと肩借りるぞ」
国王の左肩に腰を下ろして、もう一度眼を凝らす。
やがて王女は歓声を上げた。
国王も気がついた。
こちらを目指して軍勢が進んでくる。
掲げた槍の穂先、様々な旗の先が夕日に反射して煌めいている。
向こうでも気がついたのだろう。進んできながらそれぞれ大きく旗を振った。
赤と緑の独立騎兵隊の旗が見える。近衛兵団旗も、ロアの旗も見える。
国王の肩の上で新王妃が不敵に言う。
「来たな」
「ああ」
「やるか?」
「ああ。さっそく夜討ちをかけてくれよう。行けるな?」
「当たり前だ。勝利の女神なしで出陣する気か」
国王は肩の上の王妃を見上げて太く笑った。
王妃も物騒な笑いを返した。
軍勢はどんどん近づいてくる。
デルフィニア国王と王妃は再び馬上の人となり、味方を迎えるために駆けて行った。
あとがき
今回のテーマは『ラヴロマンス』でした。
これのどこが! と、絶叫される方々も多々あるかと思いますが、それはつまり、私が書くとこうなってしまうわけです。これでも立派な『らぶろまんす』なんです。少しばかり笑える要素が加味されているかもしれませんが、書いた本人が言うんだから本当です。
苦手の分野なので苦労したのなんの。ただでさえ時間がないというのに。
時間がないのはいつものことですが、今回それに拍車をかけたのが、機械の事故!私は今までずっとワープロで原稿を書いてました。前作からパソコンを使っていますが、何しろ『ダブルクリックってなに?』という人間なので、詳しい方にお願いして、「ワープロとして動けばいいんです。他のことはぜんぜんできなくていいです」
と、機械をつくった人には申し訳ないような注文をしてワープロ専用機にしてもらいました。だってねえ……ゲームもやらないし、パソコン通信にも興味はないし、何よりこんなややこしい、説明書があっても役に立たないような機械は好きじゃありません。これは私なんかの触っちゃいけない品物だ、と思っていましたが、使ってみると確かにワープロより反応が速い。許容量も段違いに大きい。
なるほど、これはちょっと便利かもしれないと喜んでキーを叩いていましたら、〆切までどん詰まりに詰まったある日、画面が焦げついて動かなくなりました。
さすがに精密機械は壊れ方も堂に入っている。コマお、おお、く、り、もで、ででできき、き、ま、すよ。こんな感じです。
さあ困った。修理に出すような時間はない。そんなことをしていたら原稿が上がらない。
かといって『メモリ不足ってなに?』というような人間に応急処置などできるわけがない。
この窮地を人に話したところ『手で書けばいいのに』と言われまして、確かにその通りなんですが、便利な道具になれるととてもとてもペンでは書けません。
仕方がない。機械がうまく動かなくなったときの常套手段『叩いてなおす』を実行に移しました。軽く叩いたのでは効果がないので床に置いた座布団の上に、どしーん! と。
そしたら動くようになりました。
おそまつさまです。
一九九五年 六月 茅田砂胡
コーラルの嵐《あらし》
デルフィニア戦記7
1995年7月15日 初版印刷
1995年7月25日 初版発行
著者 茅田砂胡《かやたすなこ》