獅子の胎動
デルフィニア戦記6
茅田砂胡
CAST
ウォル(ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン)◎デルフィニア国王。庶子であったため、一度はその地位を奪われるも多くの味方を得て再び王冠を被る。統率力に優れ、無私公正。戦士としても優秀。
リィ(グリンディエタ・ラーデン)◎異世界から来た少女。華奢で可憐な外見とは裏腹に無双の剣の腕と戦士の魂を持つ。ウォルの王権奪回に類を見ない活躍を示し、戦女神と讃えられる。内乱平定後、ウォルの養子となり、現在はデルフィニア王女。
バルロ◎国内の名門サヴォア一族の当主で、父の跡を継ぎ公爵となる。ティレドン騎士団長。ウォルの従弟で毒舌家。ウォルを早くから支持し、内乱時には敵方によって国王に祭りあげられるが固辞し続けた気骨の持主。
イヴン◎独立騎兵隊長。ウォルの幼なじみ。タウの自由民。
ナシアス◎ラモナ騎士団長。バルロの友人。
シェラ◎リィ付きの女官。実はリィを狙うファロット一族の少年。
ドラ◎将軍。名馬の産地として名高いロアに領地を持つ伯爵。ウォルの養父フェルナン伯爵の親友だった。
シャーミアン◎ドラの嫡子。女騎士。
ブルクス◎宰相。先王時代には優秀な外交官として仕えていた。内乱時には侍従長をこなし、デルフィニアの裏も表も知りつくしている。
カリン◎女官長。ウォル生誕当時生母ポーラに味方しウォルを暗殺の危機から救った。
アスティン◎ティレドン副騎士団長。バルロ団長の名補佐役。
ガレンス◎ラモナ副騎士団長。
カーサ◎王宮内にあるサヴォア公爵家に仕える執事。
ジョシュア◎ラモナ騎士団の新米騎士。
マグダネル◎先代サヴォア公爵の弟。サヴォア一族の中でも強大な力を持ち、バルロと対立している。
ブルーワント卿◎サヴォア一族の重鎮。
カフィー卿◎サヴォア一族の実力者。
モントン卿◎サヴォア一族の知恵者。
ドゥルーワ◎先代デルフィニア国王。10年前に逝去。
アエラ◎ドゥルーワの妹。ドゥルーワ在位中、大貴族であり右腕でもあったサヴォア公爵に嫁ぐ。バルロの母。
レオン、エリアス、ルフィア、エヴェナ◎ドゥルーワの嫡出子。逝去。
グライア◎ロアで黒主と呼ばれていた野性の悍馬。リィの乗騎を許す。
ゴルディ◎パキラ山脈ルブラムの森に棲む狼。
獅子の胎動デルフィニア戦記6
寝室に籠《こも》ったバルロは真夜中を回ってもまだ寝床に入らずに起きていた。
夜這《よば》いの予告をされた以上、寝入ってしまうわけにもいかないからである。
蝋燭《ろうそく》の光が灯る中で手は書簡をめくっていたが、眼は字面を追っているだけだ。あの王女がいったい何を自分に、しかも誰にも内密に相談しようとしているのか、そこが気になった。
この寝室は大邸宅の二階にある。見張りも多く出ているが、あの王女にはなんの障害にもならないはずだ。窓の外には足がかりにするのに絶好の樫《かし》の木まで立っている。
バルロ自身も昔はこの木を伝ってよく屋敷を抜け出した。門番には鼻薬を嗅《か》がせて二の郭《かく》の貴婦人と密会したり、時には大手門をも抜けてシッサスまで羽を伸ばしに行ったものだ。
さすがに今ではそんな真似もできなくなっている。
部屋の外で、その木の枝が大きくしない、梢が揺れた。
どうやらお出ましらしい。外から窓をそっと叩いてよこしたものだ。
言われたように鍵はかけていないというのに、いまさら何を殊勝なことをしているのかと思いながらも窓を開けてやったバルロだが、外の木の枝に止まっている人の姿を認めた時には目を剥《む》いていた。
あんぐりと口を開けたまま、言葉も出なかった。
「夜分に申し訳ない。かまわないだろうか?」
木の枝に身を潜ませるという、はなはだ威厳に欠ける姿のままで、国王はあくまできまじめに訪問の許可を求めたのである。
我に返ったバルロは喉元まで出かかった『何をしているんです!?』という怒号を何とか呑み込んだ。
家人はすでに寝静まっているのだ。それを叩き起こしてしまっては国王の苦労が水の泡である。
急いで窓脇に寄って道を空けた。
並みはずれた巨体でも国王は身が軽い。枝を蹴ってふわりと室内に着地した。
人目につくことを避けるためだろうが、黒ずくめの風体である。おまけに寸鉄も帯びていない丸腰だった。
バルロは大きなため息を吐きながら窓を閉め、額を抑えてみせた。
「従兄上《あにうえ》。どんな理由があるか知りませんが、仮にも王の座にある方が夜這いの真似事をなさるとは。
亡き伯父上が知ったら嘆かれますぞ」
「すまんな。それこそこうでもしなければ内密に従弟《いとこ》どのと語り合うことができんのでな。見咎《みとが》められるのではないかとひやひやしたぞ。さすがはサヴォア公爵家だ。夜間の見張りの厳しさも並ではない」
「どうでしょうかな。こんな巨大な侵入者を見逃すとは我が家の家来の質も落ちたものです」
嘆いてみせながらバルロは国王に椅子を勧め、自分も腰を下ろした。
「王女でないのはいささか残念ですが、従兄上がこのような非常手段を取らねばならないほどの事態とは一体何事なのか、お伺いしましょう」
国王はにこりと笑った。
「さすがは従弟どのだ」
しかし、その笑みもたちまち消え、険しい表情に取って変わる。むしろ睨《にら》むようにバルロを見据え、バルロもまたまっすぐに国王を見つめ返していた。
「従弟どの」
「はい」
歯ぎしりの間から絞り出すように国王は言った。
「恥を忍んでお願いする。従弟どの個人の裁量においてマグダネル卿を成敗してもらいたい」
バルロは眼を見開いてしばらく沈黙していたが、やがて訝《いぶか》しげに訊いた。
「私個人の裁量において、とおっしゃる?」
「そうだ。俺は許可を出さん。いいや、出すわけにはいかんのだ」
国王のたくましい肩が震えている。大きな手は固く膝《ひざ》を握り締めていた。
「そうすると私はつまり、従兄上の意志を無視してこの屋敷を飛び出すことになるわけですな?」
「そうだ」
「となると、事が終わった暁《あかつき》には、私は国王命令に背いた罪を問われることになりますな?」
「そうだ」
バルロはまじまじと国王を見つめていた。
国王の顔は深い苦悩に満ちている。だが、恐ろしいくらいに真剣そのものだ。
「理由をお伺いしましょう」
バルロも怖いような声で尋ねた。
国王がマグダネル卿とタンガとの癒着《ゆちやく》について語るにつれ、バルロの顔から血の気が引いていった。
しかし、話が終わるころには、その顔は凄《すさま》じいまでの怒気に染まっていたのである。
対して国王は肩を落としている。
「従弟どの。俺を卑怯《ひきよう》と、恥知らずと、いくらでも罵倒してくれてかまわん。卿の罪状を明らかにせずに処分する方法を俺はこれしか思いつけなかった」
グリンダ王女はこの考えを聞いた時、顔をしかめたものだ。
あれほどバルロに傷がつくことを懸念していたくせに、一転してその男にすべての罪を被せてしまおうというのが気にいらなかったらしい。
「おれは反対だ」
国王に向かってはっきり言ったものである。
「そりゃあ個人同士の諍《いさか》い、怨恨沙汰《えんこんざた》で片づければ丸く収まるかもしれないが、騎士団長はどうなる?あれだけお前を買ってる奴が王意に背いて、独断で叔父殺しをしてのけた烙印《らくいん》を押されるんだぞ。団長みたいに地位のある貴族にとっては大変な打撃じゃないのか」
同時に王命を重視する騎士としても耐えがたい屈辱のはずである。
「従弟どのには申し訳ないと思っている」
国王は静かに言った。
「しかし、マグダネル卿もデルフィニアを代表する貴族なのだ。それが密かに王権打倒を目論み、隣国と密約を交わしていた。そんなことを公表したらどうなる?」
この質問にはその場にいたブルクスが淡々と答えたものだ。
「王国中が大混乱に陥ります。中小貴族は激しく動揺するでしょうし、大貴族の中にはマグダネル卿をかばう動きも出てくるでしょう。サヴォア家の名も身代も国内屈指のものであり、卿はその中でも一、二を競う実力者です。細作《さいさく》の報告を明らかにしてもはたして世間がそれを信じるかどうか。マグダネル卿も素直に罪を認めはしないはずです。一つ間違えばマグダネル卿は濡れ衣を着せられた気の毒な被害者にされ、人々の非難は陛下に集中する恐れがあります」
こうした事態を何度も経験しているブルクスだ。
その予想は実に的確でよどみがない。
「陛下のお考えは妙案と存じます。そもそも公爵が武力に及ぼうとした背景にはマグダネル卿が先に公爵を倒さんがため、エブリーゴの軍備を増強し始めたという申し分ない理由があってのことです」
「今となってはそれも俺の手から従弟どのを奪い、俺の力を剃《そ》ぐのが最終的な狙いだったのではないかと思えるがな。従弟どのは身の危険を感じたからこそ独断で行動したのだ。やむを得ないことだったと世間は判断するだろう」
「いかさま。公爵と卿との確執は誰もが知る所でございます。もっともありそうな筋書きです」
ブルクスは穏やかな顔で王女を見たものだ。
「姫さま。どうか陛下をお責めになりますな。個人の名誉と国家の窮地、どちらを取るかとなれば好むと好まざるとに拘わらず、国家の窮地を救わねばならないのが国王の務めです」
王女は肩をすくめた。
「誰もこいつが好き好んでバルロを人身御供《ひとみごくう》にするとは思ってない。イヴンの言うとおり、国王なんてのは因果な商売だ」
「まったくだ。誰か変わってくれるものなら俺は喜んで変わってやるわ」
凄みを込めて国王は断言した。
そうして王女は誰にも秘密でバルロと会談できるだけの手筈を整え、国王は今、慚愧《ざんき》に耐えぬ思いで従弟に『王命無視』を教唆《きようさ》している。
バルロは顎《あご》を撫でながら、どこか楽しげに言ったものだ。
「私は従兄上に無断で王宮を抜け出し、王国の軍勢であるティレドン騎士団を率いてエブリーゴへ進撃し、叔父を討ち取る。なるほど。それほどのことをしでかしたとなれば処罰も生半可なものではすみますまい」
「従弟どの。この通りだ」
国王は深々と頭を下げた。
「むろん、芝居のつじつまは合わせねばならん。皆の見ている前で従弟どのを非難し、罪を問うことは避けられん。しかし、もともと非は卿にあるのだ。
できるだけ軽く済むように計らう」
「いや、それはいけません。それだけのことをしてのけたとなれば、日頃の従兄上ならば厳しく私を叱責なさるはずです。そのようになさって下さい。中途半端な処罰では逆効果です。怪しまれないためにも最低でも北の塔でしばらく過ごすようにくらいのことはおっしゃっていただかなければ困ります」
国王は絶句して顔を上げた。
実に複雑な表情に歪《ゆが》んでいるバルロの顔がこちらを見返していた。
「従兄上……、よくぞ打ち明けてくださいました」
声を詰まらせながら身を乗り出し、バルロは深々と頭を下げたのである。
「心から感謝します。叔父の所業を公表されたのではサヴォア一族の名誉は地に落ちるところでした。
ご案じなさいますな。言われるまでもなく、身内の不始末はこの私が片づけます」
「では、行ってもらえるか?」
「何をおっしゃいます。これは私の仕事です。頼まれても他人に譲るつもりはありません」
「かたじけない」
国王は思わずバルロの手を取り、押し頂くようにしたものだ。
深く頷いたバルロだが、こんな時でもその毒舌は健在だった。笑って言った。
「あの外道《げどう》の始末を私個人に押しつけようとは、従兄上にしては上出来です。従兄上がご自分でなされたのでは周囲の反感を買うだけだったでしょう。またこんな局面ではもっとも私のやりそうなことですからな。誰もがなるほどと納得するはずです」
そう言われてしまっては返す言葉がない。国王の顔に苦笑が浮いたが、すぐに真顔に戻る。
「従弟どの。事は急を要するのだ。細作の報告を受けて宰相が密かに調査したところ、西部を中心に動きの怪しいものがぞろぞろ出てきた」
「西部? というと相手はパラストですか?」
「パラストもと言うべきだろう。オーロンもゾラタスも人の領土をまるで我が物あつかいだ。手に入れるためなら何でもやる気でいる。ゾラタスがマグダネル卿と接触したのは卿の身分を利用できると考えてのことだろうし、一方のオーロンは手近なところから切り崩すべく国境周辺の貴族たちにせっせと裏切りの誘いをかけているわけだ」
ブルクスの情報網はさすがにたいしたもので、細作の報告が入ってからわずか数日のうちに疑わしい者を次々に探り出したが、どれもまだ『疑わしい』段階で確証はない。どのくらいの数がパラストに呼応したのか、つきとめるにはいくらブルクスでも時間がかかる。
「それは宰相に任せる。裏切り者の名前をつきとめることも大事だが、それ以上に肝心なのは寝返りを打たせないことだ」
「当然ですな」
「だからこそ早急にマグダネル卿を処分したい。そうすれば、いくら従弟どのの独断を装ったところで後ろ暗い連中には大いに通じるものがあるはずだ。
卿が忠義づらの陰で謀反を企てていたことは、同じ不穏分子ならば知らないはずがないからな」
バルロは瞬時に国王の狙いを悟った。
罪状を明らかにせずにマグダネル卿を処分することで不穏分子ヘプレッシャーを与える。つまり卿を生賛《いけにえ》に使おうというのである。
感心すると同時にあいかわらず皮肉な調子で褒め言葉を口にした。
「従兄上もずいぶん、国王が板についてきた。亡きドゥルーワ陛下もさぞお喜びでしょうな」
「からかうな。こんなことばかり思いつく自分に、俺はかなり嫌気がさしている」
事実、自嘲《じちよう》混じりの声である。
「何を言われます。どうせ処分するものならその死はせいぜい有効に使うべきです。それで不穏分子がおとなしくなってくれるのなら、私も叔父を殺す甲《か》斐があるというものです」
物騒極まりないことをさらりと言う。
国王はあらためてこの従弟に流れる支配者の血を強く意識した。
王家と密接なつながりを持つサヴォア公爵家の総領として生まれたバルロだ。僻地で育ったウォルに比べて王家というものをすぐ傍で見てきたはずだ。
「従弟どの。前から折をみて訊いてみたいと思っていたことがあるのだが、答えてくれるか」
「ご質問は何です?」
「魔の五年間の時だ。従弟どのはなぜあれほどかたくなに王位を拒絶したのだ? 臣下とはいえサヴォア公爵家は王家のもっとも近い親族であり、従弟どのは国王の甥だった。血筋からいっても王冠を受け取ってはいけない理由はないはずだと思うが」
率直な国王の言葉にバルロはかすかに苦笑した。
「理由など特にありません。一部の血迷った連中が私を国王にと名指しした時、反射的にまっぴらだと思ったまでです」
「ほう? また何故だ。従弟どのなら俺よりよほど勇ましい国王になれただろうに」
不思議そうに言う従兄にバルロは小さく吹き出した。
「従兄上。本気でおっしゃっていますでしょう?」
「むろんだが?」
首をかしげるとバルロはますます楽しそうな顔になった。
「だから私も笑っていられます。他の国王がそんなことを言う時はこちらに疑いをかけている時と相場が決まっていますからな。顔面蒼白になって跪《ひざまず》き、慈悲を乞わねばなりません。反応を一つ誤ればたちまち謀反人として処刑されます」
国王は思わず眼を見開いた。
それとよく似た、しかし皮肉な光を浮かべている黒い瞳がまっすぐ国王を見つめている。
「王とはそういうものです。猜疑心《さいざしん》に満ち、警戒心も強く、時には臣下の忠誠心をためすことも必要とされます。しかもその方法は非人道的であればあるほどよろしい。国王は臣下の生殺与奪権を握っているわけですからためらうことはありません。自分の命や家族より国王を選ぶと態度で示すもの以外は容赦なく切り捨てればいい。そのくらい無慈悲でなければ務まらないのが国王というものです。絶大な権力を得ることはできますが、失うものも決して少なくない。同時に負わなければならない責任や重圧も並大抵のものではない。王というものがもっと気軽にすごせるものなら二つ返事で引き受けたでしょうが、私はこれで結構小心者でしてね。そんな面倒な役目につくのはまっぴらでした」
この従弟が王というものに対してこれほど悲観的な見方をしているとは知らなかったウォルは、少しばかり驚いていた。
「私の父は縁戚関係を結んだこともあって、あなたの父上にはずいぶんかわいがられていましたが、それでも身分の違いは覆《くつがえ》しようもありません。相手が国王であればなおのこと、義弟である前に忠実な臣下であることを求められる立場でした。父は陛下に対して神経質なほど注意深くふるまっていましたが、それでも今申し上げたように忠誠を試されることもしばしばでしたよ。特に従兄《いとこ》のレオンは実に出来の悪い王子でしたのでね。妙な因縁をつけられたこともあったようです」
首を傾げた国王である。
「わからんな。王子の出来が悪くてどうして公爵へ因縁をつける理屈になる?」
「それはつまり、この私が実に出来のいい総領息子だったので嫉妬《しつと》されたんですな」
いけしゃあしゃあと言う。
「アエラは王家の姫としてはいささか問題のある娘ゆえ、そちへくれたが、あんな息子を産むとわかっていたなら他国へやってもよかったな、というのが陛下の弁でした。これを本心の褒め言葉と取るようでは王の側近は到底つとまりません。父は控えめに俺がそれほど優れた息子ではなく、きかん気で持て余していると弁解していましたが、あまり悪く言うと今度はそれを産んだ国王の妹を誹謗《ひぼう》することになります。そのへんの匙《さじ》加減には非常に苦心しているようでした」
現在のデルフィニア国王は盛大なため息をついた。
「俺の実父も、従弟どのの父君も、言っては悪いが……気は確かか?」
バルロは低く笑っている。
「そのようにおっしゃることができる分だけ、従兄上は健康にお育ちになったということです。それに、父も陛下にはとことん柔順でありながら、その寵愛《ちようあい》を利用して宮廷では絶大な権力を振るっていましたのでね。おたがいさまというものでしょう」
ウォルの感覚ではとてもおたがいさまではすまない話である。
「名君として名高かったドゥルーワ伯父でも、その程度のことは枚挙に遑《いとま》がないほどありました。国王である以上は仕方のないことですが、王冠とは叔父のような浅薄な頭の持ち主が考えているほどいいものではないと子供心にも思い知るには充分でしたよ。
これは人間として当然の感情や生活を諦める覚悟でなければ務まらないものだとね」
「しかし……」
国王が言いかけるのを制してバルロは言った。
「おっしゃりたいことはわかります。それと引き替えにしても一国の覇者《はしや》という地位は確かに魅力的です。まして私は人に頭を下げるのは大嫌いな性分ときている。しかし、ものは考えようです。もともとサヴォア公爵家の総領として生まれた私に命令できるものは父と国王のみ。爵位を継いでしまえば国王ただ一人です。頭を下げる相手は一人だけですむわけです。いくら私が強情張りでもそのくらいなら妥協の範囲内でした。つまりは王冠よりもいくばくかの自由を私は選んだということでしょうな」
「賢い選択だ」
国王は真顔で言った。自分がバルロの立場だったら間違いなく同じことをしただろうと思った。
「俺もこれで四年間、王冠を維持しているわけだが、いまだにそんなにいいものとは思えない」
バルロは楽しげに笑ったものだ。
王冠を得てしまえば話はまるで違ってくる。彼の親族の例を見るまでもなく、ほとんどの人が絶大な権力の象徴として熱望し、あがめるはずのそれも、この国王には厄介な義務の塊にしか見えないらしい。
「従兄上を見ていると国王も悪くはないと思えます。
できればそのまま変わらないでいただきたいものですな」
本心から言ったのだが、国王はこれはお世辞だろうか、それともいつもの皮肉だろうかと首をひねったものである。
「それより叔父の始末ですが、これは口で言うほど易《やさ》しくはありません。できるだけ損害を少なくするためにも奇襲をかけたいのですが、それには私がマレバへ戻ってからでは手遅れです」
「うむ。従弟どのが城を抜け出せばたちまち大騒ぎになる。この城内にいる卿の手のものが即座にエブリーゴへ注進に走るだろう」
「ええ。機先を制するためにもティレドン騎士団をあらかじめ呼び寄せる必要があります」
「そのことだ。まして今度の場合、討ちもらしは絶対に許されん」
謹慎を命じ、増強を図っていた軍備の解散を命じたものの、エブリーゴの戦力は侮りがたい。国王としてはバルロにいくらでも増援をつけてやりたいところだが、それはできない。
大領主でもあるバルロはやろうと思えば個人的に一万の兵力を動員することも可能である。サヴォア公爵にはそれだけの力がある。
しかし、各地に散っている領民を集結させるにはどうしても時間がかかる。まして、その準備を卿に悟られたら奇襲どころではない。
その点、マレバはコーラルの足下である。
迅速《じんそく》な機動力を持ち、国内屈指の戦闘力を誇り、バルロの命令で自在に動かせる有能な一団がそこにある。
声をひそめての二人の会話はしばらく続いた。
やがて空が明るくなりかけるころ、国王は暁闇《ぎようあん》に紛れて再び窓から身を翻したが、これに気づいた者は誰もいなかった。
そうしてその日の午後、バルロは主人と引き離されている騎士団員を安心させるためにマレバと連絡を取ることを許してほしいと控えめに国王に申し出、国王も快くこれを了承したのである。
一方、剣を取り上げろという指示を受けたシェラは翌日の夜まで思案を練っていた。
取り上げてどうするのか、どうなるのかは考えなかった。そうしろと言われただけで充分であり、それが何より重要だったのである。
それにしても難しい。あの王女は寝る時でも剣を手放さない。入浴の時と思えば離宮の湯殿など使う気配もない。だからといって力技は避けたい。確認こそしていないが、あの王女は体術も相当に使うはずである。
さんざん考えたあげく一つの方法を思いついた。
「あの、姫さま」
「リィだと言ったろ」
「はい、リィ。お願いがあるのですが……」
「どんな?」
あまりのに直截《ちよくせつ》な態度にシェラのほうが面食らった。
一生懸命優しい声と表情をつくっているのが馬鹿みたいに思えてくる。
「あなたを首尾よく殺すことができた暁にはご褒美《ほうび》を下さるとのことでしたが、何をおねだりしても構いませんか?」
夕食の後、西離宮でのことである。
王女はテラスに酒杯を運ばせたところだった。よく食べるばかりでなく、よく呑む。おまけに決して酔わない。
イヴンがこの王宮にやってきた夜にはかなり酔ったというが、とても想像できない。水でも飲むかのように大杯を空にする。
「何が欲しいんだ?」
「そのお腰のものを」
王女は意外そうな顔でシェラを見上げた。
「妙なものを欲しがるんだな」
「……?」
意味がわからなかった。問い返そうとしたが、王女は笑って言った。
「まあいいか。おれを殺せたらくれてやる」
「でしたら前借りさせていただけませんか」
「なんだと?」
「いえ、鞘《さや》の上からでは切れ味まではわかりませんので、少しの間、貸していただきたいのです」
今度は王女は物騒に笑ったものだ。
「呆《あき》れた奴だ。そいつはおれの右腕をもぎとって寄こせと言うような無茶だぞ」
シェラはまた首をかしげた。おかしなことを言うものだと思った。
デルフィニアの王女ならば代わりの剣の一本や二本、とびきりの業物《わざもの》をいくらでも用意できるはずである。
王女は庭へ出ると腰の剣を引き抜いて地面に突き刺し、一歩下がった。
「抜いてみな」
「……?」
「抜けたら貸すも何もない。この場でお前にやる」
一瞬ためらったものの絶好の機会である。
王女は剣を手放し、腕を組んでこちらを窺っている。眼の前の剣を引き抜き、そのまま切りつければシェラの勝ちだ。
女官服の裾《すそ》をさばきながら慎重に進み出る。
握ると同時に引き抜いて一撃で叩き切るつもりの動きで柄《つか》を取った。が、その勢いに剣がついてこなかった。
「な……!?」
愕然《がくぜん》とした。すんなり抜けるはずの剣が抜けないのだ。根が生えたようにびくともしない。
馬鹿なと思った。王女は軽く地面に突き刺しただけなのだ。今度は両手に柄を握り直し、満身の力を込めて引き抜こうと試みたが結果は同じだった。
両手がしびれるほどの力を揮っても剣は微動だにしない。大地と一体化しているような感触だった。
この抵抗感はただ事ではない。単に重量があるというだけではすまないものがある。
十六の少年でもシェラは一通りの武器は扱えるように訓練を積んでいる。大兵の男でなければ扱えない巨大な長刀や戦闘槌《つち》でも一応はこなせる。
その自分がいかに大剣であろうと女の腰に差してあるものを扱えないわけがない。
第一、人に扱えないほど重量のある剣など鍛えたところで意味がない。
思わず王女を見た。紫の瞳に浮かぶ疑問に王女はあっさりと言った。
「力じゃそいつは扱えない。たとえ十人力の兵士が百人がかりでも倒すことさえできないだろうな」
柄から手を離して青ざめている侍女の目の前で王女はいとも簡単に剣を抜き、丁寧に拭《ぬぐ》って鞘に納めた。
そのままシェラに投げてよこす。
反射的に受けとってまた驚いた。今の頑丈な手ごたえが嘘のようだった。重みはあるが片手で持てる。
「抜いてみな」
さっきと同じことを王女は言った。
半信半疑ながら鞘から引き抜こうとして再び愕然とした。身が鞘から離れないのである。
剣によって多少は手ごたえが違うのは普通のことだ。鞘走るものもあれば口の固いものもあるが、これはそんな生易しいものではなかった。溶接したように動かないのだ。
呆然としているシェラの手から王女は剣を取り上げた。持ち主の手に戻ったとたん、身はするりと鞘から離れ、見事な白金の肌が現れた。
王女はそのまま半分ほど抜いてみせて、「この状態ならどうかな?」
一人ごとのように言って柄と鞘の中ほどを持ったまま再び差し出してきた。さすがに今度は慎重に、捧げ持つように両手に受けたが、とたんに小さな悲鳴を上げて飛びのいていた。
巨大な岩石を手渡されたかのような、すさまじい重量感だったのだ。あくまで受け取ろうとすれば両手を地面に縫いつけられていただろう。
息を荒くするシェラの眼の前で王女は地面に落ちた剣を拾い上げ、元通り鞘に納めたものである。
「見ての通り、この剣はおれ以外の使い手には何の値打ちもない代物だ。鞘に収めてあれば持ち運べる。
でも、抜くことはできない。抜き身の状態なら使うどころか持ちあげることもできない」
シェラは答えなかった。恐怖に満ちた眼で王女の手にある剣を見つめていた。
見事な品である。刃の輝きはもちろん、柄の装飾も鞘の造りも実用的だが凝《こ》ったものだ。一目で名のある刀工の作だとわかる。
しかし、特定の個人でなければ使えない剣など、どうやって鍛えたというのだ。
何かのまやかしか手妻《てづま》かと疑ったが、両手がまだしびれている。さっき感じた量感は間違いなく本物なのだ。言葉も出せずにいると、王女がのんびりと尋ねたものだ。
「どうしてこんなものを欲しがったりした?」
「……」
「誰かにそうしろと言われたのか?」
無意識に頷いた。衝撃のあまり何も考えることができなかったのである。
「これを取り上げれば、おれを殺せるとでも言われたのか?」
今度は首を振った。
「じゃあ、何でだ?」
「……知りません」
気づかないうちに答えていた。
シェラの脳裏を占めているのはたった今体験したあり得ない現実だった。思考することができない。
問われるままに反応してしまう。
王女の顔に呆れたような表情が浮かんだ。
「理由も知らないで戦士の腰から剣を取りあげようとはな。ずいぶんな無茶だ。気の荒い相手だったら腕の一本も叩き切られるところだぞ」
そんなことを言われてもどうしようもない。
シェラの沈黙をどう受け取ったのか、王女は軽く肩をすくめたものだ。
「使えないものをもらっても仕方がないだろう。他のものを考えるんだな」
「それなら……」
やはり反射的に口が動いていた。どうしてそんなことを言ったのか自分でもわからなかった。
「それならその額《ひたい》飾りは……」
「これか?」
王女は自分の瞳と同じ色の石をはめ込んだ銀環を頭から抜きとり、片手で弄《もてあそ》んだ。
「妙なものばかり欲しがるんだな。あいにくこれもおれ専用なんだ」
すると、この額飾りも他人の頭には乗せられないほど重いのだろうか。
シェラの無言の疑問がわかったのだろう。王女は楽しげに笑って投げてよこしたものだ。
火の塊を受け取るような思いだったが、逃げずに受け止めただけでも上出来と言うべきだろう。
銀の輪はほどよい重みとともにシェラの手の中に落ちた。
一見したところ何の変哲も無い装飾品に見える。
いや、ありふれているとは言えない。剣と同様、名工が技巧の限りをつくした実に見事な細工であり、嵌《は》め込んである宝石は二つとないような逸品だった。
王女の持ち物だから当然と言えば当然だが、これだけで一財産できる。
しかし、剣と違って軽く、危なそうな気配はない。
それとも身につけると重みで倒れるのだろうか。
「かぶれないことはないぞ」
と、王女は言った。
「ただし、まる一日つけていられるかどうかは保証できないがな。ためしてみるか?」
冗談ではない。そんな得体の知れないものを自分の体で試してみる気にはとてもなれない。
だが、興味がなかったわけではない。返すに返せない状態でいる侍女に、王女はあっさり言ったのである。
「そのままどこか遠くに置いて来い。埋めるか水に沈めるのもいいな」
「……どういう、ことでしょう?」
「やってみればわかる」
肩をすくめて王女は言い、少し表情を変えてシェラを見た。
「お前の飼い主はお前に何にも話さなかったんだな。
それとも飼い主自身何も知らないのかな?」
「……何をです」
王女は真顔でシェラを見つめている。深い緑の瞳に浮かぶのも真剣そのものの光だった。
「ちょっと聞きたいんだがな。お前、兎《うさぎ》や鳥を狩るのに大型獣用の極太槍《ごくぶとやり》なんか持ち出すか?」
シェラは首を振った。
「その逆に熊《くま》を狩るのに兎用の小さな罠や半弓しか持っていかないってことは?」
また首を振った。どんな素人でもそんなばかなことはするはずがなかった。
大きな獲物には強力な武器を、小さな獲物にはその寸法にあった猟具や方法を用いなければ空手に終わるだけだ。
控えめにそう答えると、王女は軽く肩をすくめた。
「お前はその素人と同じことをしてる」
「私が……?」
「そうさ。おかしいじゃないか。お前、そんな見かけでも名うての殺し屋の一人じゃなかったのか?」
「名うての殺し屋?」
「そう聞いたぞ。神出鬼没の死神の集団でデルフィニアの王子王女を次々暗殺したのもお前たちの仕業だとか何とか。ほんとか?」
聞かれて答える馬鹿はいない。
「けどまあ、お前を見ている限りとてもそんなふうには見えないからな。人違いかな」
シェラは答えなかった。きつく張りつめたその顔だけで、自分の素性を話すのは期限が切れてからの約束のはずだと訴えた。
王女もわかっていたようで笑って引き下がったのである。
「悪かったな。約束までは待つのが筋ってもんだ。
それ、早くどこかに置いてこいよ」
もう夜も遅い時間だったが、シェラは青ざめた顔のまま身支度を整え、預かった額飾りを懐《ふところ》に西離宮を飛び出し、無我夢中で城外を目指した。
コーラル城は難攻不落の名城だが、優れた体術と内部の知識があれば、さらには繊細な神経と洞察力があれば城壁を越えることも不可能ではない。
だが、この時シェラはほとんど無意識に城外へ飛び出した。発見されなかったのは奇跡に等しいような無茶だった。ただひたすら手にした物騒なものをできるだけ遠くに投げ捨てたい一心だったのである。
郊外まで一気に走り、トレニア湾へと流れる川へ向かい、黒々とした水面に向けて思いきり輪を投げこんだ。
無理な全力疾走で息が大きく乱れていた。
トレニア湾から内陸へと物資を運ぶこの川は幅も広ければ水位も深い。
暖かい季節とはいえ、あれを拾い上げるには熟練した水夫数人がかりで探さなければならないはずだ。
投げ込んだあれがどうなるのか、やってみればわかるという王女の言葉はどういう意味を持つのか、考えたくもなかった。
重い足取りで西離宮に戻って寝た。
シェラは両親の顔も知らない。
一番古い記憶を探ってみても仲間たちと一緒に遊んでいたことしか思い出せない。
奥深い山中の小さな里だった。両親はいなくても何人かの大人たちがいて、子どもたちは大人たちを先生と呼んでいた。そこでは男の子も女の子も関係なく、裸で泳いだり組み合ったりした。
多少の喧嘩や競争はあっても子どもたちは皆仲が良く、毎日山野を走り回った。
ひがな一日遊んでいられたわけではない。遊ぶ時間は決められていたし、先生がいけないと言うことは決してしてはいけなかったからである。
子どもたちは一緒に遊んでくれる優しい先生が大好きだったので、その言いつけに背くことなど誰も考えなかった。先生はいろいろな遊びを教えてくれるばかりでなく、草花や虫を使っておもしろい話をたくさん教えてくれた。
シェラを含んだ子どもたちはきわめて自然に薬草や毒草を見分けられるようになったし、足場の悪いところでも楽々と走り、宙返りをし、的に向かって正確に石を投げたりすることができるようになった。
今思えば訓練の初期段階だったのだろうが、うまいやり方である。遊ばせながら必要な基礎を身につけさせるのだ。
その後、シェラはそれまでの仲間や先生と別れ、新しい仲間とともに『導師』のもとで、主に少女の振る舞いを勉強することになった。男女に関係なく容姿の整っているものがこうした勤めに振り分けられるのだと後で聞いた。
シェラという名前をつけられたのもその時である。
それまで子どもたちには名前がなかった。それぞれの身体的特徴や性格などを表して『黒い月』だの『いたずら』だのと呼ばれていた。
ちなみにそのころのシェラの呼び名は『銀色』と言った。雪のように輝く髪から取ったものだろう。
今日から娘の仕草を身につけるのだと言われても、シェラは驚かなかった。男女の区別が全くない環境で育ったせいかもしれなかった。また別の遊びが始まるらしいとむしろおもしろく思ったくらいである。
名前をもらったのも嬉しかった。一人前になったような誇らしさがあった。
それからの毎日はもはや遊びではなかった。娘らしい言葉使いや立ち居振る舞いを覚えるのと同時に様々な武器の取り扱い方法、馬術、格闘技を学んだ。
最も重要な課題は人を殺害する方法である。
一人で多数を相手にした場合の脱出法、同じく一人で多数を倒さねばならなくなった時の位置取りと戦略、一対一ならば迅速を第一とするか隠密を第一とするかで手段がまるで異なること、秘密裏に行う場合には痕跡を残さないことを常に心がけること。
周囲にいる大人たちが率先して効果的な戦い方や人体の壊し方を教えれば、子どもたちがそれに対して抵抗感を覚えるはずがない。
習いは性になるとの言葉通り、シェラの髪が背中まで伸びて訓練が終了するころには、命令一つで何のためらいもなく人を殺す少年少女の集団ができあがっていた。
中でもシェラの成績はすばらしかった。同じ年頃の仲間はもちろん、二つ三つ上の少年相手でも技で後れを取ったことはない。敏捷さにかけては四歳上の少女たちにも匹敵した。思春期前の子どもの場合、少女のほうが体力や敏捷性に優れていることを考えると、脅威的な成績である。
技を教授する導師たちは子ども時代の先生と打って変わって厳しく、少しでも間違うと容赦なく叱られたものだが、シェラだけはほとんど叱られた覚えがない。
訓練中の結果が良かったばかりではない。実践に出てからの働きも自分では意識しなかったが相当に優れていたらしい。
そうして『聖霊』に会ったのである。
先生からも導師からも念入りに聞かされた、人を超越した存在である自分たちの守り神。
最高位の導師でさえその名を直接呼ぶような無礼は許されない。『あの方々』と敬って呼ぶ。
我々は選ばれた一族なのだと、大人たちは繰り返し子どもたちに教え込んだ。死ねば土くれに返るしかない人々とは違う。その証拠に、かつてこの世に生きていた我々の祖先は今も現世にとどまって、常に自分たちを見守ってくれている。見えはしないが、彼らは私たちのすぐ側にいる。そのつもりで彼らに恥ずかしくないように振るまえと教わった。つまり、立派に仕事を果たしてみせるようにということだ。
その聖霊がシェラを名指しにした会見を望んだ時、導師たちは口々にシェラを褒め称えた。これは極めて異例なことであり、お前の働きが特に優れているから方々はお姿を見せてくださるのだと告げられた時は心から誇らしく思った。
同時に彼らとの邂逅《かいこう》は深い安心をシェラに与えたのである。
そのころにはすでに何度も務めに出ていたし、時には指示に従って人の命を絶ってきた。もちろん罪悪感など覚えたことはないのだが、今まで生きて動いていた人間がただの物体になるのは少しばかり不思議な気がした。
務めなのだからと言い聞かせても、これだけは、あまり気持ちのいいものではなかったのである。
導師たちは無心に聞き入る子どもたちに対し、肉体とは脆《もろ》く不完全なものだと告げた。
これからのお前たちの働きはそんなものを必要としない存在へと人々を導くことなのだから、老いや病の苦しみから解き放たれた永遠のやすらぎを約束することなのだから、限りなく崇高な意義のある使命だと言うのである。
シェラは素直で従順な性格ではあったが、鈍くはなかったので、崇高な使命だの永遠のやすらぎだのは、自分たちの心をくすぐるために先生が言うのだろうと見当がついていた。
そうわかっていても子どものことだ。何か特別な、すばらしいことをするのだと言われれば嬉しくないわけがない。わくわくする。
それでもあれだけはちょっといやだった。
裕福な老婦人を殺した時のことだ。いつもならすぐさまその場を離れるのだが、脱出の機会がつかめず、しばらく現場に足止めを食った。
することもないので死体を見下ろしていた。
孫の生まれ変わりのような気がすると言って優しく銀の髪を撫でてくれた手はもう動かず、暖かく笑いかげてくれた眼は二度と開かず、その声はもう聞くこともない。
ただの骸《むくろ》になったそれを見下ろしているうちに、何かが自分の中にしこりのように固まって残った。
それがなんであれ、あまり気持ちのいいものでないのは明らかだったが、だからと言って指示に背こうとは思ったこともない。そんなことは論外である。
強固に築き上げられた価値観と人生観の中で、ほんの小さな迷いのようなものが時折シェラの心を揺らしていたのだが、そんな迷いは聖霊の姿を見た瞬間に霧散してしまった。
見ると聞くとでは大違いだった。平伏するシェラの前に現れた彼らは肉体を捨てた存在であるとは思えないほどに鮮明な姿と明瞭な意識を有し、生身の人間には不可能な力と技を有していた。
その彼らが、使命を終えた暁にはお前も自分たちと同じように新たな命を得ることができるのだと、声帯を持たない声で明瞭に告げたのである。
それがシェラの心を解放した。自分は肉体の檻《おり》から人々を解放して新たな命として生まれ変わらせているのだという自覚を持つには充分だった。充分すぎた。
それからはいつも丁寧に愛情を込めて相手を送ってきた。時には笑顔で『さようなら』と告げて。
今まで】度も失敗したことはない。それは彼だけでなく実行部隊である『行者』ならば誰もが同じことだ。失敗を経験した行者というものは存在しない。
一度の失敗はその行者が行者でなくなることを意味するのである。
わずか二十歳で現役を退くものもいれば、四十をすぎても第一線で働き続けるものもいる。自分もそうなりたいとシェラは思っていた。最優秀の成績で訓練を終え、導師からも聖霊からも多大な期待をかけられている自分ならば、難しいことではないはずだった。
それなのにまだあの王女に『さようなら』が言えないでいる。
聖霊はあの剣を取り上げろと告げた。あれがなんなのか彼らは知っていて、持たせたままでは危険だと判断したに違いない。
恐らく聖霊にはわからないことなどないのだろう。
だが、シェラにはわからないことが山ほどある。
第一に、あの王女が本当に自分の相手なのかどうかがわからない。これが生身の人間ならどんな屈強な大男でも出し抜ける。自分を弱く見せるこつも相手の弱点を見抜くこつも知っている。必ず勝てる。
しかし、あの王女は、少なくともあの剣は、『彼ら』の領域に属するものなのではないか?
指示に背くつもりは微塵《みじん》もないが、どうにも不可解だった。事と次第によってはもう一度あの寺院に足を向けなければならないかもしれない。
そんなことを考えながら悶々《もんもん》としているうちに寝入ってしまったらしい。目が覚めた時には外が明るくなっていた。
急いで身支度を整えて王女の寝室に赴いた。侍女が主人より寝過ごすわけにはいかないのである。
大宴会の翌日を除けば王女はいつも早起きだ。
今朝もなめし革の胴着姿で寝床の上に起きあがっていて、暇そうな顔でシェラを見たものだ。
この人は寝巻というものを着ないらしい。いつも履き物を脱いだだけの格好で寝床に潜り込んでいる。
「申し訳ありません。遅くなりまして……。すぐにお食事にいたします」
「それはぜひとも早く頼みたいけど、その前にそこ見てみな」
王女が顎《あご》で指し示した寝床の横の円卓に何気なく視線を移したとたん、シェラの血が凍りついた。
まさかと思った。眼を疑った。身動きも忘れて睨《にら》みつけるように凝視したが、そこにあったのは紛れもなく、昨夜《ゆうべ》自分の手で川の中に投げ込んだ額飾りだった。
あり得ないことだった。これは今は深い水の底に沈んでいなければならないはずだ。
そのあり得ないことが現実に目の前で起きている。
銀の輪は水につけられたことも川底の泥に沈んだこともなかったかのように、つやのある美しい姿のままでそこにある。
恐ろしく長い時間硬直していたシェラがようやく発したのは、あえぐような一言だった。
「どういうことです……」
王女は愛用の品を手に取り、慣れた仕草で頭に乗せた。定位置に戻った緑の宝石は心なしか輝きを増したように見えた。
「そういうことさ。おれ専用だと言ったろ? 誰の手に渡してもどんなに引き離しても必ず戻ってくる。
贈答品には不向きな品だ」
「あなたが……、夜の内にそっと拾ってきたのではないのですか?」
「お前がこれをどこに置いてきたかも知らないのにか?」
その通りだ。自分が離宮に戻ってきた時、王女は居間でくつろいでいた。他の人が簡単に取れないようなところに置いてきたかと念を入れさえした。
全力で走る自分の後をつけて輪を投げるところを見届けるまでならできるかもしれない。百歩譲って驚異的な脚力と心肺機能の持ち主であれば、自分より先に離宮に戻って息一つ乱さずに涼しい顔をしていることさえ不可能ではないかもしれない。
しかし、これを拾うためには水に飛び込まなければならないのだ。濡れた髪や体が離宮に戻るまでにきれいに乾くわけがない。
驚愕《きようがく》覚めやらぬまま、シェラは呆然と尋ねていた。
「その額飾りは……、お腰の剣もですが、いったい何なんです?」
「だから、どっちもおれ専用だと言っただろうが」
「私が聞いているのはどんな方法でそんな品物をつくりあげたのかということです」
王女はひょいと肩をすくめた。
「どんな方法と言われても困るな。おれがつくったわけじゃないからな」
シェラは大きく息を吸い込んだ。
激しい怒りにも似た感情に全身が染まるのを強く意識しながら、できるだけ慎重にゆっくりと最後の質問をした。
「あなたは、何者です?」
「名前はグリンディエタ・ラーデン。ただの戦士で、今はどういうわけかデルフィニアの王女さまだ」
シェラは眼を細くして目の前の王女を見た。
顔立ちが美しいばかりでなく、姿も均整が取れている。首筋もむき出しの二の腕もなめらかに肌理《きめ》が細かく、剣を遣うにしては手指の形もいい。
頭の大きさに対してちょうどよく伸びた肢体は細すぎず、肉がつきすぎてもいず、腰の剣さえなければ楽に押さえ込めるだろうと思われる少女のものだ。
侍女の姿をした銀髪の少年は無意識にこの相手を軽視していた自分を恥じた。同い年の少女であるとの侮り、簡単に倒せるはずという自惚《うぬぼ》れと思いこみがここまでの事態の悪化を招いたのだ。
昨夜の王女のたとえ話を思い出してみる。
大型獣というのは誇張だろうが、どんな素人でもやらない類《たぐい》の愚かな真似をしていたのだとようやく悟った。
「すぐに朝食をお持ちします」
やはりもう一度、中継所と連絡を取らなければならないと思いながら笑顔で頭を下げた。
もういつもの侍女の顔だった。
マレバのティレドン騎士団は団長との対面を許されたその日の内に、副騎士団長のアスティンを含む三名を王宮に派遣してきた。
主人の謹慎は彼らにとっても重大事件である。
その謹慎期間も数えれば半月近くになる。わずか半月ではあるが、そう長いことじっとしていられる主人ではないことをアスティン以下の団員はいやというほどよく知っている。
バルロは案の定、サヴォア館を訪ねた彼らを不機嫌そうに出迎えたが、騎士団長の責任は忘れていないらしい。マレバがどうなっているのか、しきりと尋ねたものだ。
アスティンは困ったように微笑んでいる。
その横で二人の騎士が身を乗り出して熱心に語った。
「ご心配なく。我々は団長不在には慣れておりますから今更どうということもありません。みんな変わりなくやっております。それよりビルグナの連中のほうが気の毒ですよ」
「そのとおりです。まさかまだナシアスさまがこちらにいらっしゃるとは存じませんでした。ビルグナの友人たちがさぞ心配していることと思いますが、お帰りにならなくてもよろしいのですか?」
彼らの問いにナシアスは笑って首を振った。
「事情は説明してある。多少留守が長引いても、今私が目を離すと、それこそ君たちの主人は何をしでかすかわからないからな」
「ごもっともです」
大真面目に頷いた騎士たちとは対照的に、その主人は物騒な笑顔をつくっていた。
「貴様ら、指揮官の不遇を気の毒に思うどころか、酒の肴《さかな》にする気らしいな」
「いいえ、そんな。滅相もありません」
「そうですとも。我ら一同、一日も早い団長のお帰りを待ち望んでおります。正直なところ、今回の陛下の処置には納得のいかないものを感じているくらいです」
「滅多なことを言うな。従兄上《あにうえ》は俺と叔父との間で合戦になることを恐れている。その懸念が晴れない内は俺は足止めを食らったままだ」
「ですが、それに関しては団長に非はありません」
「そうです。元を糺《ただ》せばあの方のほうが団長を逆恨みし、一方的な宣戦布告を……」
「いい加減にしないか、二人とも。ここへはそんな話をしに来たのではないぞ」
さすがにアスティンが二人の騎士をたしなめたが、バルロは逆に楽しそうだった。
「まあいいではないか、アスティン。叔父の話なら俺も聞きたいところだ。謹慎を食らって少しはおとなしくなったか?」
「まあ、おとなしくと言えばその通りです。団長と同じく勝手なことをすれば罰せられる身の上ですから、一応は自重しているようです」
「そうか」
返事はしたもののバルロは何か他のことを考えているらしい。外の空気を吸ってくると言って立ち上がった。
「おい、バルロ。外へと言っても……」
「心配するな。庭へ出るだけだ。アスティン、お前もどうだ」
「お供しましょう」
バルロにとってアスティンは腹心の部下である。
ナシアスにとってラモナ副騎士団長のガレンスがそうであるように、他の騎士たちの前では話せないことも二人の間では親密に話し合える。それを知っていたので、他の二人もナシアスも遠慮して居間に残った。
また、ナシアスにとってもマレバの現状は気になるところである。
デルフィニアの騎士団は各地に点在しているが、その土地の領主には属さない、独立した組織である。
かといって完全な自治体ではない。有事の際には国王の軍隊として働く性質を持つ。
近衛《このえ》兵団がコーラルに常駐して首都と国王警護の任務についているのに対して、各騎士団は非常用の戦力であると言える。そのせいか、規律に厳しい近衛兵団に比べて騎士団には比較的自由な気風がある。
それぞれ特色があり、実力も様々な騎士団だが、中でも一、二を競っているのがマレバのティレドン騎士団とビルグナのラモナ騎士団だ。
この両騎士団の特色はなんといっても結束の固さと主従の結びつきの強さにあるのだが、団の性格は大きく異なっている。ラモナ騎士団は首都から遠く離れているせいもあり、団長の人柄も相まって、物静かな学舎のような老成した雰囲気があるのだが、比べるとティレドン騎士団は実に若々しい。
全体に勢いがあるともいえるし、時に血気に逸《はや》るともいえる。バルロが指揮官だからそうなるのか、それとも第六の近衛軍団を自負する王宮との親密さからそうなるのかはわからないが、団員がバルロを慕う様子も熱気に満ちたものだった。
それだけバルロが騎士たちの気心をよく知る指揮官だということなのだろうが、主人が怒りに爆発寸前なら部下も同様である場合が少なくない。一致団結してバルロを迎えに王宮まで駆けつけるようなことをされては一大事である。
それとなく水を向けてみたのだが、二人の騎士はナシアスの心配を笑って否定した。
国王がバルロの気を鎮めるために謹慎を命じたのはわかっている。ティレドン騎士団は特に興奮するようなこともなく、静かに主人の帰りを待っていると聞かされてナシアスも胸を撫で下ろした。
そのうちにバルロとアスティンも庭から引き上げてきた。留守が長引いた場合のことなどをいろいろ話し合っていたらしいが、アスティンはとりあえず主人の様子に一安心したようである。
来た時とは打って変わって晴れやかな笑顔になり、主人に見送られながらサヴォア館を辞していった。
ナシアスも笑顔で彼らを見送ったが、その後の彼らの様子を見ていたらどう思っただろう。
アスティンの笑顔は大手門を出るまでだった。
別人のような険しい表情で黙々と馬を歩かせ、王宮から充分に離れたところまでくると一気に馬足を速めたのである。
二人の騎士は慌てて後を追った。
「副団長?」
上司の顔をのぞき込んで、そのあまりに緊迫した表情に二人のほうが驚いた。ティレドン副騎士団長は滅多なことでは内面の緊張を表に出したりしない人のはずだ。
「副団長、何事ですか。何があったんですか?」
「話はマレバへ戻ってからだ」
表情と同様、固い声でアスティンは言い返した。
その言葉通り、マレバへ戻るまで、二人の部下のどんな問いかけにもアスティンは答えなかった。
ティレドン騎士団の騎士たちが帰った後、本宮からの使いがサヴォア館を訪れた。
マグダネル卿と和解することを条件に、謹慎を解いてもいいという国王の言葉を伝えに来たのである。
さぞ怒り狂うかと思われたが、部下と話をしたことでバルロも少し落ちついたらしい。何よりあまり長いこと騎士団領を留守にはできないとの責任感もあったのだろう。しばらく考えさせてほしいと返答したものの、ほとんど決心はついていたようである。
その日のバルロは終日機嫌が良く、夜には久々に会話の弾む明るい晩餐《ばんさん》を過ごした。
屋敷内の者たちが主人の心境の変化に胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。これで一件落着すると誰もが思った。
それはナシアスも同様である。
コーラルにやってきてからというもの、薄氷を踏むような心境の日々が続いていたが、はじめて安らかに寝床に就くことができた。
主人の友人であるナシアスには立派な客用寝室があてがわれていた。同じ騎士団長とはいってもナシアスは公爵家には及ぶべくもない中流貴族の出だが、サヴォア館の者たちは皆ナシアスに好意を抱いており、下へも置かないようにもてなしてくれる。
質素を常とするビルグナ砦では考えられないような贅沢な寝具にくるまり、心地よい深い眠りに就いていたのだが、その眠りが妨げられた。
室内に異常を感じたのだ。
そこはナシアスも当代一流の剣士である。たちまち目を覚ました。
明かりを消した室内は真っ暗闇だ。眼を凝らしても急には何も見えない。
だが、ナシアスはその暗闇の中に人の気配を感じた。それもすぐ枕元だ。
眠っていたとはいえ、ここまで接近を許したことにまず舌打ちした。しかし、枕元の人影には殺気がない。
誰何《すいか》しようとしたのと、闇に眼が慣れるより先に慣れ親しんだ人の気配だと察するのが同時だった。
「バルロ?」
こんな夜中に人の寝室で何をしているのかと問いかけようとしたのを制して、バルロは言った。
「ナシアス。俺はこれから叔父を討ちに行く」
眠気も疑問も吹き飛んだ。
猛然と跳ね起きて怒声を張り上げようとしたナシアスをバルロはすばやく黙らせたのである。
「騒ぐな。皆が目を覚ます」
ナシアスの口をふさいだ手には籠手《こて》がかぶせられている。振りほどこうとして触れた腕は鎖帷子《くさりかたびら》の感触がした。
まさかと思った。手探りで確かめてみると鎧《よろい》をまとい、剣帯を下げている。完全武装しているのだ。
さすがに驚いた。執事のカーサはこんな事態を恐れて、主人の愛用の武具はすべて隠したはずである。
相手がおとなしくなったので、バルロは用心しながらも手を離した。ナシアスはもどかしげに友人の腕を取って熱っぽく語ったのである。
「バルロ。馬鹿な真似はやめろ。せっかくの陛下のご温情を無にするつもりか?」
「従兄上のお指図で行くのだ」
絶句したナシアスにバルロは手短にこれまでのいきさつを語った。みるみる血の気の引いていくナシアスとは裏腹に、語り終えた時のバルロは楽しげな、物騒な笑顔を浮かべていた。
「まさかあの男の性根がそこまで腐り果てていようとは予想だにしなかった。権力を望むあまり、国土を食い荒らす白蟻《しろあり》の大群を自ら招き入れようというのだから呆れてものも言えんわ。あんな外道なら従兄上に示唆《しさ》されなくともいくらでも叩き潰してやる。
何より身内から国賊を出したとあってはサヴォア家末代までの恥だ」
マグダネル卿の造反はナシアスにとっても大変な衝撃だった。紙のような顔色になっていたが、それでもバルロの言葉に頷いた。どう考えても情状酌量の余地はなかった。
バルロはあくまで笑いを含んだ声で言う。
「極秘事項なのだが、お前にだけは話しておこうと思った。黙って行ったら後で何を言われるかわからんからな」
「あたり前だ。私も一緒に行く」
ナシアスは自分の衣服をひっつかんだ。すばやい身支度は武人の第一条件である。
バルロはそんなナシアスをやんわりと制した。
「馬鹿を言うな。これは俺の仕事だ」
しかし、ナシアスも引かなかった。寝巻のまま毅然《きぜん》と言い放った。
「お前こそ冗談はよせ。私がお前を一人で行かせはしないことくらい、わかっているはずだ」
明かりの消えた部屋の中でかろうじて見えるバルロの顔が、はじめて少し歪《ゆが》んだようだった。
「俺はこれから謀反人《むほんにん》になりに行くんだぞ」
「……」
「お前には俺と違って老いた両親も兄弟もある。彼らを謀反人の身内にするのか?」
ナシアスの表情に苦悩が混ざった。
事情を話せば家族はわかってくれるだろうが、それは決してできないことだ。マグダネル卿の死に国王の意図が関与したことはどこまでも隠し通さなければならないのである。
「俺はあくまで個人の判断で叔父を討ち取るのだ。
従兄上の制止も振り切ってな。重大な王命違反だ。
当分の北の塔暮らしも、領地の没収もあり得る」
「まさか、陛下がそこまで……」
「俺のほうから申し出た。生半可な処罰では逆効果になるからな」
「バルロ。何もお前が……、お前だけが罪をかぶることはない!」
年若い公爵は皮肉に笑ってみせた。
「他に方法はない。第一、俺には家長として身内の膿《うみ》を掃除する義務がある。同時に臣下として国王を守る義務もな。人の非難が俺に集中すればそれだけ従兄上は後の始末をしやすくなる」
バルロはすでに覚悟を決めている。どんな汚名を着ても自分がしなければならないことだと決意している。
「今頃はティレドン騎士団が無灯火の行軍を開始しているだろう。俺は夜明けと同時に彼らと合流してエブリーゴを目指す」
「アスティンは知っているのか?」
「半分だけはな。あの男は母との不義どころか王権打倒を企んでいる節があると言って聞かせた。本当のことだからな。叔父を討つことはすでに家長の義務に等しいと、そのためには一時的に従兄上の意思に背くこともやむを得ないと……、それで納得してくれた。他の団員も行動を共にしてくれるはずだ」
バルロは、この男には似合わないことだが、はにかむような口調で言ったものだ。
「いい奴らだ。俺にはもったいないような連中だ。
その彼らに王命無視の片棒をかつがせてしまうことはまことにすまんと思うが、連中は俺の無茶な命令に忠実に従った、いや、従わされただけだ。大した罪には問われんだろう」
ナシアスは強い無力感を抱きしめていた。
この友人が後先を省みずに走り出すような時は、いつも自分が制止してきた。それが自分の役目だと思っていた。なのに今バルロは家長としての責任を果たすために思いきった英断をし、ナシアスは何もできずに取り残されようとしている。
バルロは何とも言えない微笑を浮かべて友人を見た。
「そんな顔をするな。俺はお前が知っていてくれればそれでいい」
ナシアスも無理に笑顔をつくった。後はもう自分にできることはこの男を快く送り出してやることだけだった。
「門を抜ける手筈《てはず》はついているのか」
「ああ。賭けの形《かた》に近衛兵団の兵士から巻き上げた兜《かぶと》と外套《がいとう》がある。ちょうど郊外で第三軍が演習を行っているからな。そこへの急使だとでも名乗る」
「仕損じるなよ。卿は手強いぞ」
「任せろ。刺し違えてでも息の根を止めてやる」
不敵な笑みを残して、バルロは完全武装しているとは思えないほど静かに、すべりだすように夜の屋敷の中へ消えていった。
この屋敷の厳重な警護もバルロには勝手知ったるものだ。脱出路の確保もできているのだろう。
バルロが出て行ってからナシアスはずいぶん長いこと寝台に座り込んでいた。あれでよかったのか、他に何か自分にできることがあったのではないか、考え出すときりがなかった。
止めさせることは論外だった。公《おおやけ》にはできないが国王命令である。かりに王命がなかったとしても、マグダネル卿を生かしてはおけない。一日延ばせばそれだけ、タンガの触手は長く深くデルフィニアに食い込んでいく。
今度の場合、その害虫を駆除するのにバルロ以上の適任者はいない。頭ではわかっているのに釈然としなかった。事情を知りながら傍観者を決め込んだような、何とも言えない後味の悪さがある。
ナシアスの口元に苦笑が浮かんだ。
自分でこうなのだから、国王はさぞかしやりきれない心境でいることだろうと思ったのだ。
従弟思いの国王である。おそらくは断腸の思いで今度のことを計らったに違いない。
王女の言葉も思い出した。バルロと国王のどちらを取るか。すなわちこの局面に公人として振る舞うのか、個人として動くのか、そういう意味だ。
本来なら迷うことはない。公人としてあるべきだ。
そうして血気に逸った若い友人を非難する姿勢を取るべきなのだ。
だが、エブリーゴの戦力は侮れない。マグダネル卿の屋敷も大貴族にふさわしく、砦としての機能を備えているはずだ。仮に先制攻撃がうまくいったとしてもティレドン騎士団は苦しい戦いを強いられるだろう。
それがわかっていて手をこまねいていなければならないとは、騎士としてもあの男の友人としても耐え難いことだった。
ラモナ騎士団がここにいてくれればとも思う。
この館の離れにはナシアスが連れてきた従騎士と小者《こもの》がいる。しかし、今からビルグナへ使いを出しても手遅れだ。仮に間にあったとしても、ラモナ騎士団を率いてバルロの援護に駆けつければ、ナシアスを慕ってくれているガレンス以下の団員たちを王命無視の共犯にしてしまう。
激しいジレンマに陥り、苦悩に苛《さいな》まれてどのくらいの時が過ぎたのか、遠慮がちに扉を叩く音でナシアスは我に返った。
出てみると執事のカーサが夜目にも真っ青な顔をして立っていた。
「ナシアスさま、こんな時分に申し訳ありません。
主人の姿が見あたらないのです」
あたりにはまだ夜の帳《とばり》が降りている。廊下のあちこちに頼りなげにともっている明かりが、カーサの強張った表情に濃い陰影をつけていた。
ナシアスは再び無理に笑顔をつくって言ったのである。
「寝床にいないからといってそう心配することもあるまい。あの男のことだ。小間使いでもからかいに行ったのではないか」
「その小間使いが一人、先程から泣き続けております。私が隠しておいた主人の武具の在処《ありか》を話してしまったというのです。厳重に口止めはしておいたのですが、知っていればそれで安心できるのだからと言いくるめられたようなのです。その武具も残らず消えております」
つくづく若い娘を使うのがうまい男である。
しかし、そんなことを呑気に考えている場合ではない。深夜のサヴォア館に静かな緊張が走った。
召使いが総出で起き出して騒いでは取り返しのつかないことになる。カーサは二、三の腹心を使って密かに調べさせたが、どこにもいない。さらには主人の愛馬が厩舎《きゆうしや》から消えているのがわかった。
もう疑いようがない。
その頃にはカーサの顔色は蒼白を通り越していた。
顔中に脂汗を浮かべている。
「ナシアスさま……」
どういたしましょうと暗に尋ねられた時、ナシアスは心を決めた。もう迷いはなかった。
ラモナ騎士団長は物静かな柔和な騎士ではあるが、機に臨んでは勇敢に行動する人でもある。
自分に打ち明けてくれたバルロの心を無にしないためにも、せめて一部始終を見届けようと決心した。
「心配するな、カーサ。私が連れ戻してくる」
「そうしていただけますでしょうか」
「ああ。バルロに早まった真似をさせるわけにはいかないからな。だからお前も騒ぎ立てるな。王宮が何を言ってきても知らん顔をしてくれ」
手早く身支度を整えるとナシアスはまだ真っ暗な中へ飛び出した。
夜中に現れて開門を要求したラモナ騎士団長に、正門の門番はさすがに驚きを隠せないでいたが、身元の確認など不要な人である。黙って門を通した。
バルロに遅れることおよそ数時間、ナシアスは一路、北を目指した。
話はこの日の午後に戻る。
外出許可を取ったシェラは再びポンティウス神殿に足を向けた。あの王女に関してもっと詳しい情報を求めるためだった。
これは泣き言でも何でもない。むしろ最初に確かめなかったのが何とも迂闊《うかつ》だった。相手は『まともな人間』ではないのである。
事と次第によっては聖霊との直接対話を要求しなければとまで思い詰めていた。
ところが固い顔で出向いたシェラに対し、仲間の司祭も緊張の面持ちで、すぐに屋敷に戻るようにと告げたのである。
これにはシェラも驚いた。
『屋敷』と言ってもシェラの住処《すみか》ではない。彼らの本拠地であり、作戦司令部のことだ。
任務遂行中に戻ってこいとは何かよほどのことが起こったに違いなかった。
シェラは着の身着のまますぐさま出発した。幸い身なりの整った侍女の外出姿だ。町中では珍しくもない。
郊外へ出るとシェラは北へ進み、山道へ踏み込んでいった。
北を目指すのなら足場の悪い山道よりもパキラを迂回する平坦な道を進んだほうが早い。なぜ、わざわざ歩きにくい道を選んだかといえば人に見られたくなかったからである。
長い衣装の裾《すそ》を端折《はしよ》り、シェラは山道を獣のように進み始めた。猟師たちが辛うじて踏みわけたにすぎない難所を飛ぶように走る。そうしてわずか数時間でパキラの西峰を越えてしまった。
常人ならばどんなに急いでも一日がかりの行程を、である。驚くべき脚力だった。
峠を越えてからもコーラルの町並みからは想像もできない深い緑の景観がどこまでも続いている。
季節は初夏に近づき、平地ではそろそろ日中の日差しに汗ばむほどなのだが、ここにいるとひんやりとした山気が汗を吹き払ってくれる。
その広大なパキラ山中の鮮烈な緑に埋まるように、村が点在していた。
豊かな山の恵みを求めて暮らす山の民たちが住み着いているのだ。こうした村は山脈の至る所にあるが、西の峠から北西五カーティヴほどの所にダリエスという小さな山里がある。
そこがシェラの目的地だった。
午後になってからコーラルを発ったシェラだが、見事、日没を待たずにダリエスに到着したのである。
小さな里のはずれに、山の神であるランチェスを祭る寺院が建っている。
ランチェスは猟に出る男たちが祈りを捧げる狩りの神でもある。従って狩猟を生業《なりわい》としている山里にランチェスが祭られているのは至極当然であるとも言える。
だが、この村のランチェス寺院は見せかけだけのものだった。実際には年端もゆかない少年少女を殺戮者《さつりくしや》に育て上げるための教育機関なのである。
シェラも昔はここで学んだ。
このダリエスこそが、シェラの属する『選ばれた一族』の本拠地だった。ただの村人を装っている住人のすべてが何らかの形で一族に関与している。
子どもは言うまでもなく、実行部隊である行者《ぎようじや》の予備群だ。一人前の行者である成人の男女は密命を受けて各地へ飛び、里に残っている者たちも実際の仕事に従事することはないにせよ、彼らを陰で支えている。わずかな畑を耕している壮年の男は様々な武器づくりに従事し、腰の曲がった老婆でさえ、夢見草をはじめとする数々の薬草を栽培し、調合する。
王女が凄腕の殺し屋の集団と言った、そのほんの一部がここに集結している。
こうした里はここだけでなく、大陸のあちこちにあるらしい。そのことはシェラもわきまえているが、詳しいことは知らされていない。
シェラにとってはダリエスが全てであり、それで充分だった。
ランチェス寺院の隣に塀《へい》に囲まれた大きな屋敷が建っている。村長の家だった。
そしてこの家こそ、すぐに戻るようにと言われた『屋敷』だった。
屋敷は縦にも横にも相当な長さがある。
平屋づくりだが、塀は高い。敷地内には様々な樹木が植えられ、何やら鬱蒼《うつそう》としている。
まだ日没前のことで門は開け放ってあった。夜になるとこの門は厳重に閉ざされる。そうなると、外から帰ってきた者はどんな危急の用件だろうと門を叩くようなことはしない。塀を飛び越え、密かに設けてある出入口を使用するのだ。
今はまだ明るい。シェラは正面から門をくぐった。
それから程なく、屋敷の奥まった場所でダリエスの村長と向き合っていた。
ただし、この村の者は誰も村長とは呼ばない。
『宗師《そうし》さま』と呼んで敬っている。最前線で働く行者から教育係の導師、さらには薬草づくりや武器づくりに働く者たちすべてを統括し、その動向を決定する人だった。
五十の後半に見える宗師は体格もよく、厳格な顔立ちで、人が自ずとひれ伏さずにはいられないような雰囲気を備えていた。
平伏したシェラに向かって重々しく言葉をかける。
「ヌアクから聞いたが、デルフィニアの王女に一歩、後れを取ったそうだな」
「面目次第もございません」
消え入るような声で答えた。
穴があったら入りたいとはこのことである。わざわざ呼びつけられて叱責されるとは思わなかったが、恥じてばかりもいられない。
これを機会にあの王女についてできる限りのことを尋ねようと思っていると、宗師はまったく別のことを言い出したのである。
「急を要する事態が持ち上がった。これよりすぐにエブリーゴに向かえ」
思わず問い返した。
「今これから、でございますか?」
「そうだ。お前でなければ不可能なことゆえ、わざわざ呼び戻したのだ。コーラルに戻るにはおよばん。
他の者を差し向けよう」
「ですがあの、王女のほうは……」
「捨て置け。お前が二度とコーラルに近づかなければすむことだ」
さすがに呆気にとられた。
宗師から直々の指示である。本来なら黙って頷いて引き下がるべきなのだが、いくらなんでもこれはおかしい。
王女暗殺を命じておきながら捨て置けというのは何とも解《げ》せない。第一、代わりの者といってもそう簡単にはいかない。その者が王女の側仕えに回される保証はどこにもないのだ。
指示に背くつもりは微塵《みじん》もなかったが、シェラはためらいがちにそのことを言い立てた。
すると、宗師のほうが驚いた顔になった。
「王女暗殺、だと?」
「はい。幸い私は王女に信頼され、今では離宮に寝起きすることも許されております。代わりの者を送り込むにしても、その者がそこまでの信頼をすぐさま得られますかどうか……。お言葉ではありますが、私がこのまま、今の勤めにあたることが、もっともいいのではないかと思いますが……」
まさか宗師に対してこんな事を言う羽目になるとは思わなかった。知らず知らず冷や汗をかいていた。
しかし、驚きが去った宗師の顔に浮かんだのは、いかにも楽しげな微笑だったのである。
「なるほど、お前の言うことはよくわかった。しかし、案ずることはない。このままエブリーゴへ発ってくれても何の支障もない。なぜと言って、私はお前に王女暗殺など命じた覚えはないのでな」
今度はシェラが驚いた。ダリエスの行者に対する指示や命令のすべては最終的にこの人が発しているはずだ。
「どういうことでございましょう?」
「お前はあの方々にからかわれたのだよ」
「は……?」
「あの方々は時々そうした悪戯《いたずら》をしでかすのだ。我らにも内密でな。困ったことだが、おそらくは行者の腕を試しておられるつもりなのだろう」
「では、あのポンティウス寺院の司祭も……」
「私の意思を方々が伝えてくれたのだと思いこんでいたのだろうな」
「そんな……」
一気に力が抜けた。
それではなんとしても王女を倒さねばと思い詰めた自分の決意はいったい何だったのか。
「シェラよ。方々をお恨みしてはならんぞ。お前にとってはおもしろくないことだったかもしれんが、彼らがこうした悪戯をするのはそれだけその行者の技倆が優れているからだ。しかし、よりにもよってあの王女を倒せとは……」
宗師は困惑した様子で首を振った。
「方々もずいぶんと変わった気まぐれを起こされたものよ。国王の情けで王女の地位にあるだけの娘を倒したところで腕試しにはなるまいに」
シェラは反射的に顔を上げた。
それは違う。宗師は大変な思い違いをしている。
喉元まで出かかったその言葉をシェラは必死に飲み込んだ。口答えなど許されることではないからだ。
シェラの苦悩をどう受け取ったのか、宗師は優しく言ったものだ。
「方々のお言葉は絶対とお前たちには教えてきた。
戸惑うのもわかるが、彼らは常に我らの側に立っていてくれるものとは限らないのだ。そこはやはり、生身を持つ者と持たぬ者の違いかもしれん」
「はい……」
「勤めと信じて励んでいたお前には気の毒なことをしてしまったが、事情は理解してくれたと思う。すぐさまエブリーゴへ発て。方々の気まぐれな指令は今日限り忘れることだ」
シェラはとっさに返事ができなかった。
かしこまりましたと言わなければならない。それ以外の返答を自分は知らない。許されてもいない。
『選ばれた者』の誇りにかけて、使命をまっとうしなくてはならないのだ。
しかし、宗師の言うとおりに姿を消せば、王女は自分が尻尾を巻いて逃げたと受け取るに違いない。
それがいやだった。他のことはいい。賭けを途中で放棄したと、後ろを見せたとあの王女に思われることだけは耐え難かった。
宗師の言葉にも背かず、王女を裏切らずにもすむ方法が何かないかと懸命に思案するシェラに、宗師は低い声で厳かに告げた。
「至急、エブリーゴに向かい、マグダネル卿を絶命せしめるのだ」
紫の瞳が驚きに見開かれる。
「サヴォア公爵の叔父を、でございますか?」
「そうだ。しかもどんなに遅くとも明晩の内にだ」
またもや絶句した。
シェラが何か言いかけようとするのを制して宗師は言った。
「無茶であることは百も承知だが、時間がないのだ。
おそらくは今夜の内にもサヴォア公爵は王宮を抜け出し、叔父を討つためにティレドン騎士団を率いてエブリーゴへ向かうはず。なんとしても公爵より先に卿の命を奪わねばならん」
おかしな理屈である。卿を殺すことが目的なら、バルロがやるというのだ。黙って見ていればいい。
しかし、宗師はそれでは困るという。
なぜなのかとはシェラは尋ねなかった。知る必要もないことだった。ただ、公爵より先に卿の命を奪うことが肝心らしいと頭に叩き込んだ。
「言うまでもなくかなりの難事だ。我が一族の技倆をもってしてもこれを首尾よくなしとげられる者が果たして幾人いることか。導師たちは口をそろえてお前を措いて他に人はなしと断言した。その年齢にして彼らにそう言わせるとは見事である。嬉しく思うぞ」
「恐れ入ります……」
「そのお前をいつまでも遊ばせておくわけにはいかん。この私の直々の頼みだ。行ってくれるな?」
宗師の言葉はシェラの心に深く突き刺さった。
目上の人の言葉はシェラにとって絶対である。
他に術《すべ》はなかった。内心の思いをすべて呑み込み、深々と頭を垂れた。
その夜遅く、身支度を整えたシェラはダリエスを出発した。
夜半までかかったのはエブリーゴの地形とマグダネル卿の屋敷について調べていたからである。
家屋の構造も警備の状態も知らずに潜入を試みることはできない。しかも機会は明日の夜だけだ。
ダリエスからエブリーゴまでは山道、平地を合わせて約百十カーティヴ。難所を含むだけに常人なら二日でも苦しい距離だが、シェラは闇をきって走り続けた。日が昇ってから仮眠を取り、農家の少年に身なりを替えて、さらに進む。
足を鍛えることは行者の第一条件である。日暮れまでにはエブリーゴに到着できるはずだった。
一日を走り通し、太陽が西の空にかかったころ、シェラは土煙をあげて街道を進む軍勢を眼にした。
全員が騎馬である。行軍の常識を無視するような速度で北を目指している。その先頭に翻る旗印を見た時、シェラの体に戦慄が走った。
中央全土に名高い飛翔する大鷲を見間違うはずもない。ティレドン騎士団の旗印だ。
馬鹿なと思った。マレバを発したティレドン騎士団がエブリーゴに到着するには、少なくとも二日はかかると踏んでいた。そもそも昨日の午後、自分が王宮を出てくる時までは、サヴォア公爵は一の郭の館で謹慎していたはずだ。
あれから三十時間とすぎてはいない。
しかし、軍勢の先頭に立って猛然と馬を駆っているのは、国王によく似た大柄な体躯と黒髪の立派な騎士だった。これも見間違いようがない。サヴォア公爵本人である。
まさに疾風迅雷、内乱時代には神出鬼没とさえ謳《うた》われたその機動力を垣間みる思いだったが、感心してはいられない。彼らを出し抜かなくてはならないのである。
シェラは速度を上げて走り、どうにか騎士団より先に卿の館に到着した。
館は小高い丘の上に立ち、四隅には高い塔がそびえていた。周囲は頑丈な石造りの防壁に守られ、背後は断崖絶壁になっている。防壁と建物の間がかなり離れているのは、そこに空堀《からぼり》を掘って防護を二重にしてあるからだ。館というより要害の佇《たたず》まいである。
塔には兵士の姿が見えた。謹慎状態にあるはずだが、やはり警戒しているのだろう。少なくない数の兵士が館を守っているようだった。
内部の様子はすでにシェラの頭に入っている。潜入のための様々な道具も持参している。どれほど警戒が厳重だろうと日が暮れさえすれば潜入する自信があった。焦《あせ》りを抑えてじっと夜を待った。
あたりが暗闇に覆われると同時にシェラは行動を開始した。
断崖の上に建ててあるのは兵士の接近を阻《はば》むためだろうが、単独で忍び込むには好都合である。
楽々と崖を這《は》いあがり、防壁にとりついた。
コーラル城の城壁を越えた時と同じように鉤爪《かぎづめ》のついた細引き縄を投じ、瞬く間に防壁を越え、同じように兵士の隙をついて邸内に侵入した。
この館の兵士たちは誰もこんな大胆な賊の存在を予想していない。接近する者があるならまず防壁の向こうに具足《ぐそく》に身を固めた兵士が現れ、様子を窺うものと思いこんでいる。
人間、近すぎるところには得てして注意が行き届かないものだ。そこにシェラの強みがあった。
戸口を守る兵士の注意を脇に逸らしておき、その隙にするりと潜り込んでしまう。
邸内に潜り込んでも廊下を歩くようなことはしない。こうした貴族の館は天井《てんじよう》が高く、柱を支えるための梁《はり》が天井近くにつくられている。
もちろん普通の人間が歩けるほど幅のあるものではないが、シェラにはそれで充分だった。壁を這うようにして館の奥を目指した。
その足下を兵士が一人、慌てて通り過ぎていく。
マグダネル卿の館からも一望できる丘の上に、無数の篝火《かがりび》が現れたという報告を主人にもたらすためだった。
「バルロが来たと? 馬鹿を申すな」
甥の奇襲を知らされたマグダネル卿は最初、その報告を一笑に付した。
「奴はコーラルで謹慎中のはず。瓜二つの他人ならばともかく、ティレドン騎士団を率いて現れることなどできるわけがない。もし本当に本人が現れたとすれば重大な王命違反を犯していることになるが、我が甥は国王の忠実な腰巾着《こしぎんちやく》でいらっしゃる。そんなことができるものかな」
バルロと激しく対立しているマグダネル卿だが、血は争えない。よく似た皮肉な口調だった。
王家にも連なる大貴族に生まれた自信がこうした皮肉なものの言い方をさせるのかもしれない。
マグダネル卿は引き締まった痩躯《そうく》の持ち主であり、やや面長の顔にはいかにも高貴の生まれと思わせる品の良さが現れている。それでいて目線は鋭い。男盛りの照りに加え、年齢にふさわしい落ちつきと貫禄をも備えた、実に見栄えがする人物だった。
これだけの男ぶりならば、義理の姉であるアエラ姫が立場を超えた大胆な振る舞いに及んだのも、何やら納得できる。
だが、その卿も、彼の甥と並べると、いささか比べ劣りがすると言わざるを得ない。十代の半ばにして当代一の騎士と謳われ、デルフィニアはおろか外国にまでその名を知らしめたほどのバルロなのだ。
先代のサヴォア公爵が亡くなった時、マグダネル卿や年長の親族は一堂に集まり、しばらく自分たちが新しい公爵の補佐をしようとの方針を決定した。
悪意からではない。新しい公爵はやっと子ども離れしたばかりの年齢である。武術には優れた才能を見せている人だが、家長ともなれば領内を治め、身内のことにも何かと気を配らなければならない。さぞ心細い思いをしていることだろう、手助けが必要だろうと、若い当主を心配してのことだった。
ところがバルロはこの提案を頭からはねつけた。
貴兄らのお心遣いはありがたく、嬉しく思うが、また自分はごらんの通りの若年《じやくねん》ゆえ、これからいろいろのご相談相手になっていただきたいことはもちろんであるが、公爵家のことは自分の裁量に任せていただきたいと断言した。いかに年が青かろうと自分は本家の当主である。その自分が親しい一族とはいえ、それぞれ一家の主である貴兄らの力を借りて領地を仕切るとあっては亡き父に合わせる顔がないとまで言い切った。
弱冠十八歳のサヴォア公爵は広大な領地すべてを己の支配下に置くことを望み、またその通りにしてのけたのである。
マグダネル卿はこの時の甥の態度を不快に感じた。
若年の分際で生意気なと思ったのだが、その卿よりも年長の人々は、逆にバルロのこうした態度を好ましく思ったらしい。
「いや、これは参った。我らはとんだお節介を申し出たらしいわ」
後になって苦笑しながら言ったのは先々代の弟であり、一族の中でも重視されているブルーワント卿。
頭髪は真っ白になり、声も嗄《か》れているが、その言葉には千鈞《せんきん》の重みがある。
「いかさま。年若《としわか》とはいえ頼もしき公爵かな」
と言ったのは傍系ながら実力者のカフィー卿。
「これならば亡き公爵も安堵《あんど》されましょう」
穏やかに言ったのはマグダネル卿の義理の従兄《いとこ》にあたるモントン卿。他家から養子に迎えられた人だが、学問に優れ、人柄も温厚で、妻の家屋敷の者たちも皆この人を慕い、敬っている。
また、親族ではないが親戚、つまりサヴォア家の女性たちの嫁ぎ先である公侯爵家もバルロに好意的だった。
しかし、マグダネル卿はそれほど心穏やかではいられなかったのである。
人生の先輩としての意地だったかもしれないし、若くして何もかも手に入れた甥への嫉妬《しつと》だったのかもしれない。同じ公爵家の男子でも総領に生まれたバルロと、次男に生まれた卿とでは、天と地ほどの差がある。
バルロがもう少し凡庸《ぼんよう》な当主であれば、もしくは剣を揮うだけが能の扱いやすい性格であれば、マグダネル卿も子どもをあやすような心境で若い当主のお守《も》りをしていられたかもしれない。
しかし、国王一人になら頭を下げることを妥協しようと言い、父親の公爵でさえ苦笑しながら扱っていたバルロである。とてもとてもマグダネル卿の手に負えるような甥ではなかった。
態度がすぎると不満を漏らしたマグダネル卿に、ブルーワント卿は楽しげに言ったものだ。
「若い内はあのくらいでよいわ。今から目上の者の顔色を窺うようでは先が思いやられる」
「なれど、叔父上。それではあまりに……」
「よい、かまうな。十五、六にして当代一の騎士と謳われた公爵どのだ。なに、はじめは、そんな子どもに無双の勇士の名を与えるとはデルフィニア騎士の質も落ちたものだと嘆いたが、あれならば頷ける。
行く末頼もしい男児だ」
後にバルロは自分を支持してくれた親族たちを個別に訪れ、丁重に感謝を述べた。
強情で頑固なサヴォア公爵だが、暴君でもなければ馬鹿でもない。口やかましい文句ははねつけても、決して目上の親族を粗末にしているわけではない。
この時も年長者に対する敬意を込めて、きちんと挨拶をしたのである。初見参《けんざん》のバルロとブルーワント卿との会話はこんな具合だった。
「お名前こそかねがね伺っておりましたが、初めてお目にかかります。ノラ・バルロです。大叔父上のお言葉により、どうにかこの若輩《じやくはい》も一人前と認めてもらうことを得ました。お礼申し上げます」
「なんの。礼を言われるには及びませぬ。おことのこころざしに打たれたまでのこと」
卿は真っ白になった眉《まゆ》の下の眼をふと細めて、「しかし、世の噂とは当てにならぬもの。騎士バルロは若年ながら武芸と美女と美酒をこよなく愛す、大変なつわものであると聞き及び申した。となればご面倒な家業など余人に押しつけて名ばかりの公爵を気取るかと思いきや、名実ともに父君の後を継がれようという。驚き申した」
バルロは笑って頷いた。ただし、ついでにごほんと咳払いをして言った。
「私ごときをつわものと評してくださるのは嬉しいことですが、大叔父上のお若いころの武勇伝の数々は亡き父から聞かされております。その華々しさに比べれば、このバルロなどまだまだかわいいものでありましょう」
人を食った物言いにブルーワント卿は膝《ひざ》を打ち、高らかに笑ったのである。
「いかにも、その通り。このわしは末子《ばつし》に生まれた気楽さも手伝い、思えば公爵のお年頃にはずいぶんと無茶をしたものじゃ。おことの曾祖父、わしの親父どのはもちろん、一族内の鼻つまみ者扱い、危うく勘当の憂《う》き目を見そうになったことも一度や二度ではきかぬ。比べておことは当代一の騎士として名を馳《は》せながら、こうして立派に公爵家を継がれた。
いや、めでたい。喜ばしいかぎりでござる」
親しみを込めた口調ながら、孫のような歳の当主に向かって、きちんとした礼節を取る。対して人に頭を下げるのは大嫌いというバルロが、ブルーワント卿には丁寧に一礼したものだ。
こうなってはマグダネル卿の思惑など意味がない。
サヴォア家の親族一同はバルロを名実ともに当主として認め、積極的にもり立てていくことで同意したのである。
その時は目上の従兄や叔父たちがあの甥に肩入れする心がわからず、おもしろくないことと思いながらも引き下がったマグダネル卿だが、そのうち仰天するような事件が起きた。
他でもない。国王崩御後の魔の五年間の折、ペールゼン侯爵がバルロを新たな国王にと推挙した時、なんとバルロはこれを一蹴したのである。
マグダネル卿にはこの時の甥の行動がさっぱり理解できなかった。王冠を拒否するとは正気の沙汰とは思えなかった。その結果どうなったかと言えば、デルフィニアは前代未聞の庶出の国王の誕生を許したのである。
この時のアエラ姫の憤激のすさまじさはよく知られているが、卿の心情も似たようなものだった。
そもそも卑賎《ひせん》の娘から生まれたものが国王の座に即《つ》くとはどういうことか。
そんな大犯罪が許されるなら、この世に盗人など存在しなくなってしまうではないか。
あるいは下々《しもじも》の家ならば、嫡子がいなければ、どこぞの女に生ませた子を養子として迎えることもあるかもしれない。しかし、名の知られた家ではそんな体裁の悪い真似は決して許されない。たとえ父親がその子に深い愛情を持っていたとしてもだ。迂闊《うかつ》にそんなことをしては秩序が乱れるのである。
それが今までの慣例であり、固く守られてきた不文律だというのに、その慣例を王家が率先して破っては示しがつかない。諸外国からも侮られることになる。
ウォル・グリークの即位当時、このように感じた貴族は少なくない。その筆頭がペールゼン侯爵であり、内乱を起こしてでも事態を正しい方向に収めようとした侯爵の決意と行動はまさに賞讃されるべきものだったとマグダネル卿は思っている。
しかし、ペールゼン侯爵は失脚し、庶子の国王は名実ともにこの国の支配者となってしまった。
それだけでも噴飯ものなのに、この一幕に年若いサヴォア公爵は積極的に参加、今では庶出の国王にすっかり傾倒している有り様だという。
事ここにいたってマグダネル卿の苛立ちは頂点に達した。
今、国王と名乗っている男は真っ赤な偽者であり、王冠泥棒である。何より農婦の倅《せがれ》を陛下と呼んで仕えることなど、公爵家の血と誇りが許さない。
その怒りは自然とバルロにも向けられた。こんな時こそ率先して立つのがサヴォア公爵の勤めのはずだった。ところがその公爵は偽者の国王に手懐けられ、骨抜きにされているという。
そんな男にサヴォア公爵を名乗る資格などあってたまるものか。
この私心は押し隠して、卿はごく親しい者たちに現国王を容認しかねるとの意思を密かに打ち明けて、同志を募った。
同盟者は瞬く間に増えた。真っ先に同意したのがバルロの母、アエラ姫である。他にも血統の良さを自認する貴族ほど熱心に耳を傾け、積極的に意見を出した。
マグダネル卿は彼らを巧みに煽《あお》り、なんとしても現王権を打倒しなければならないとの結論を下し、タンガに密使を送ったのである。
体面のいいことではないが、国内の有力者が骨抜きにされている現在の状況では仕方がない。それで王国に巣くう害虫を叩き潰すことができるのなら安いものである。
害虫とはあの盗人の庶子ばかりではない。資格もないのにサヴォア公爵を名乗る甥もだ。
卿の第一の同盟者であり、愛人でもあるアエラ姫は息子に王冠を与えたいがために卿に荷担している。
息子への愛情からではない。王冠は王家の血筋が継ぐものという信念からだ。
それはそのとおりだと卿も思う。しかし、王家の血筋なら何もバルロでなくてもいい。アエラ自身を含めていくらでもいる。
表向きは話を合わせて甥公爵に王冠を受け取っていただきましょうと言っているマグダネル卿だが、本心は違った。
偽者の国王と一緒に甥をも片づけるつもりだった。
代わりの国王にはとりあえずアエラを据えてやればいい。そして自分が新たなサヴォア公爵となって実権を握る。
それが卿のプランだった。
現王権の打倒にタンガは並々ならぬ熱意を見せている。全面的な援助も約束してくれている。
そして今、誰よりやっかいな甥が身動きできない状態に置かれているのもわかっている。
後は『王女の死』を待てばいいだけだった。
正直なところ、あんな小娘を倒して何になるのかという気がしないでもない。用意周到に国王追放を計画したペールゼン侯爵でさえ失敗したのに、そんな簡単なことであの男を倒せるのかとの疑惑も拭《ぬぐ》えない。しかし、魔法街中の術者が口をそろえて同じことを言った事実も拭えない。
そればかりか、タンガの使者までもがそのことを暗にほのめかしたのだ。
出来合いとはいえ自国の王女を暗殺するとなると容易ではないが、本当にそれで効果があるなら万々歳である。自分の手で十回でも殺してやりたいところだが、さすがにそういうわけにもいかない。絶対に失敗はあり得ないものを送り込んだ。
後は成功の報告がいつ届くかと首を長くしているところへ、思いもかけなかったティレドン騎士団急襲の報告がもたらされたのである。
最初は何かの間違いと思ったマグダネル卿だが、次々に注進が届く。丘の上には少なくとも二千に近い軍勢が陣取っているという。慌てて塔の上に立ち、おびただしい数の篝火を確認するに至っては、さすがにその顔色が変わっていた。
館内の兵士たちも同様である。
「あれがティレドン騎士団だとするなら指揮官は誰なのだ!? まさか公爵のはずはない!」
「馬鹿な。公爵以外に彼らを動かせる者がいるとでも言うのか!」
館の兵士たちがサヴォア公爵の武勇伝を知らないわけがない。こちらにも一千の兵がおり、分厚い防壁の中にいるのに心細げな顔をする者が多かった。
卿はそんな家来たちを一喝した。
「うろたえるな! あれほどの大人数で一気に押し寄せたのだ。今頃はその報告が近辺の豪族どもに届いているはず。必然奴等は後ろから駆けつけてくる軍勢とこの館とに挟まれ、自滅するわ。構えて動くでない。いかなる挑発にも乗ってはならん!」
さすがに卿も名を知られた武将である。兵士たちはたちまち落ちつきを取り戻した。
篝火の大群の中から三つの火が別れて館の前までやってきた。アスティンと二名の従騎士である。
サヴォア家のマグダネル卿、この度王家に対する謀反《むほん》の疑いあり、よってティレドン騎士団長の名において成敗すると高らかに言いおいて、再び陣営に戻っていった。
聞いたマグダネル卿は軽蔑の笑いを浮かべて家来たちを振り返った。
「我が甥は苦し紛れに私を謀反人に仕立て上げたわ。
私怨で国の戦力である騎士団を動かしておきながらよく言うものだ。これが陛下に知れた日にはご自分こそが謀反人呼ばわりされることくらい、百も承知であろうにの。そもそもこれは一族の内紛なのだぞ。
むろんこのマグダネルは公爵どのの恨みを買うような覚えはいっさいないが、公爵どのも私怨で私と争われようと言うなら、ご自分の領内から手勢を引き連れてくるべきだろう。ティレドン騎士団の勇敢な騎士たちも指揮官がこれでは浮かばれまい」
一般兵士の前ではあくまで現国王への忠義を貫く姿勢を見せている卿である。兵士たちも卿の言葉に大いに納得した。
ティレドン騎士団はその時の王権に直接属する、いわば公的機関である。それを身内の喧嘩に持ち出すとは、確かに公私を混同している。
「構えて相手にするな。戦を挑まれて仕掛けられれば受けて立つのは騎士の誇りだが、今そんなことをしてはかえって面倒になる。ここから彼らが手も足も出せないでいる有り様を見物しておればよい」
卿は悠然と言いおいて、自室に酒肴《しゆこう》を運ばせるように命じたのである。
館に潜り込んだシェラはこれらのことを兵士たちの会話から知った。とりわけ卿が自室で酒を呑むというところに注目した。その中に毒物を混入することができれば仕事は完了したも同然である。
ここは卿の館だ。酒肴を運ぶのは女の仕事だろう。
なんとか身なりを整えて入れ替わるか、でなければ台所に潜り込むかとも考えたが、髪粉の用意がない。
夜目にも鮮やかな銀の髪はこうした時に不便だった。変装のしようがないのだ。
今のシェラは黒装束に身を固め、その銀の髪も頭巾《ずきん》に隠している。
壁を這えないような場所は大胆にも床に飛び降り、暗い廊下をわけもなく進んだ。
兵士が通りかかると物陰に身を潜め、もしくは飾られている彫像に飛び上がり、人気がなくなってからふわりと着地する。
卿の居室はすぐにわかった。
遠目からでもわかるほどに煌々《こうこう》と明かりを灯している。扉のない、切り取っただけの入り口なので、人の声も廊下によく響いている。
入り口の端に豪奢《こうしや》なつづれ織りの衝立《ついたて》が置かれているのが見えた。
仕切に使うらしいが、今は外されていて、廊下の端からも中の様子が窺える。
数人の男女が楽しげに談笑していた。
どうやら卿は家臣を呼び、気に入りの侍女たちを傍に侍《はべ》らせて酒宴を楽しんでいるらしい。
甥の軍勢が足下に迫っているというのに剛毅《こうき》なことである。あれしきの敵ではびくともしないという自信の現れかもしれなかった。
しかし、これでは卿の暗殺など不可能である。
家来を下がらせて一人で酒を楽しむのかと思ったのだが、またそれならばやりようもあったのだが、部屋の中には五、六人はいる。
ここからでは部屋のほんの一部が見えるだけだ。
肝心の卿がどこにいるかもわからない。
あれほど明るく照明が灯り、こちらの姿を遮《さえぎ》ってくれる衝立も外されているとあっては近づきようがない。
後は卿が寝入るのを待つしかなかった。
敵を前にしてこれほど大胆な真似をするマグダネル卿である。必ずいつも通り休むに違いない。
シェラは物陰に身を隠し、待ちの態勢に入った。
一族の行者として働くには卓抜した体術を必要とする。それ以上に重要とされるのが忍耐と精神力である。いくら技倆が優れていても慢心におぼれるような者、堪《こら》え性のない者は選から外されるのだ。
いつ果てるともわからない酒宴がお開きになるのをじっと待っていたのだが、その酒宴がたけなわになるころ、大変な騒ぎが起きたのである。
突如、初夏の闇を揺るがすような岡《とき》の声があがったのだ。しかも近い。
さすがにシェラも仰天した。館の中でももっとも奥まった部分にいるというのにこれほど近くに関の声が聞こえるとは、ただ事ではなかった。
「何事だ!?」
卿の居室から男が走り出てきた。
ほぼ同時にシェラの目の前を小姓が駆け抜け、その男の前で片膝をついて告げたのである。
「申し上げます。敵勢が中庭に突入しました!」
「何だと!?」
「内門が早くも破られました! 外門も時間の問題と思われます! 至急お越し願います!」
「待て、それはどういうことだ。内門が先に破られたと申すのか!?」
新たに現れて緊迫の面持ちで叫んだ人がいる。
これがマグダネル卿に違いなかった。引き締まった痩躯に贅沢な部屋着をまとっている。実際の歳よりかなり若く見える男ぶりだ。
その端整な顔が今はひきつっている。
「二重防壁内に敵が現れるとはどういうことなのだ。
館内の者が手引きしたのか!」
「滅相もございません! 奇怪なことですが、敵は忽然《こつぜん》と中庭に現れたとしか思えないのです!」
主人も家臣もこの報告には呆然と立ち尽くしたが、それも一瞬のことである。
「おのれ、バルロ!!」
すさまじい形相で卿は叫んだ。すぐさま具足《ぐそく》を運ばせ、慌ただしく身につける。その間にも戦闘はますます激しく、ますます近くなった。
「兵士を館内に収容し、跳ね橋を落とせ! 朝まで持ちこたえれば必ず援軍が到着する。籠城戦だ!」
この館にはいざという時のためにそうした備えがしてある。他の建物部分に繋《つな》がる架け橋を落とし、跳ね橋を落としてしまえば、奥部分だけが独立した要害となるのだ。
もっともそれは本当に最後の手段である。収容できる兵士には限りがあるし、外部との連絡も絶たれてしまう。援軍が到着しなければそのまま討ち死にするしかない、決死の戦法だった。
一方、物陰に隠れたシェラはこれは困ったことになったと感じていた。
籠城してくれれば卿が公爵に倒される危険はなくなるが、こちらもやりにくい。そもそもシェラにはこうした場面に居合わせた経験が一度もない。
コーラル城の時のように召使いになりきっての探索や、密かに忍び寄っての暗殺ならば絶対の自信があったが、これほど慌ただしく殺気だった、しかも閉ざされた舞台となると、まるで畑違いである。
だいたい姿形からしてすでに失格だ。こんな場面で働くには、屈強の、目立たない顔立ちの、兵隊の中に紛れ込んでも怪しまれないような男でなくてはならない。かく言うシェラも接待に働く小姓になら化けられるだろうが、卿の回りには武装した家来たちが続々と駆けつけている。これではとても側へは近寄れない。
じりじりしながら様子を窺った。
宗師は恐らくティレドン騎士団の侵攻がこれほど早いとは思わなかったのだろう。でなければもっと場慣れした者を送り込んだはずだ。
卿の元へはひっきりなしに注進がやってくる。
敵は丘の上に篝火だけを残して密かに接近していたこと、外門が破られ、外庭で味方と敵勢は激しく争っていること、跳ね橋を落とそうにもなかなか思うようにいかないことなどを報告していく。
今もまた乱戦から駆け戻ってきた家来が必死の形相で言う。
「このままでは館内に敵の侵入を許すのも時間の問題でございます。今のうちならば夜陰にまぎれて脱出もかないましょう。ここは我らが支えますゆえ、どうかお逃げください!」
「甥に後ろを見せることなどできようものか! なんとしても明朝まで持ちこたえるのだ!」
「口惜しゅうございますが敵は二千、味方は一千、しかも内|郭《かく》への侵入を許したばかりか、この奥御殿まで攻撃にさらされております! 残念無念ではありますが、味方の劣勢を挽回する機は逸したものとお考えください!」
事実上の敗北宣言である。
マグダネル卿はこの屈辱に全身を震わせていたが、ぐずぐずしていては手遅れになる。周りに集まっていた家来たちを振り返って言った。
「致し方ない。お前たちも抑えに向かってくれ。私は密かに脱出し、後日かならずこの恨みを晴らしてくれるぞ」
忠誠心を第一に考える家来たちだ。それぞれ短い別れの言葉を残し、果敢に飛び出していった。
後に残ったのは数名の従者のみだ。卿はその彼らを従え、急ぎ足で廊下を渡っていく。
これまでの一部始終をじっと窺っていたシェラはここで初めて行動を起こした。黒い影となって音も立てずに卿の後を追う。
館外はすでに相当の混乱状態にある。その混乱に乗じて隙を狙うつもりだった。
しかし、卿は館のさらに奥へと進んでいく。
これでは逆に逃げられなくなるのではないかと訝《いぶか》しく思った。この館に裏口などはないはずなのだ。
進むにつれて、あたりは趣味に飾られた住居の様相を呈してきた。壁には漆喰《しつくい》が塗られ、床には絨毯《じゆうたん》が敷かれ、小さく仕切られた扉付きの部屋が多くなる。女たちの泣き声がその中から聞こえた。敵のあまりにすばやい侵攻に逃げるに逃げられず、せめて扉を固く閉ざして泣いていることは明らかだった。
卿はそれらの部屋には見向きもしない。脱出行に余分な者は邪魔だ。そうしてとりわけ立派な扉の前まで来ると卿は従者たちを振り返り、戻るようにと告げたのである。
ますますわからない。
それは戻れと言われた従者たちも同様である。
ここまで引き連れてくるくらいだから、よほど信頼厚く、重用されている老たちだったのだろうが、一様に驚いていた。これでは脱出どころか観念して最期を待つような趣《おもむき》である。
しかし、卿の態度は断固としたものだ。押し切られた形で主人の側を離れた。
シェラは柱の陰に身を潜め、逸る心を抑えながら、駆け戻っていく従者たちを見送った。
こうなればこっちのものだった。どうにでもなる。
卿が扉を開け、中に入っていく。
内開きの扉が閉まりきらないうちにシェラは距離を詰めていた。しかし、続いてすり抜けようとした目の前で、音を立てて扉が閉ざされた。
思わず飛び退きかけた。
気づかれたかと焦《あせ》ったが、違う。部屋の中に踏み出した卿が後ろに飛び退き、その背中が扉を閉めたのである。
「……どういうことだ!?」
扉越しに卿の声が聞こえた。驚愕と恐怖に満ちた悲鳴だった。
シェラは扉の前に蹲《うずくま》ったまま、袖《そで》に隠した針を握りしめた。飛び出してくれば、即座に襲いかかるつもりだったが、卿は部屋の中に逃げたらしい。
「なぜ貴様がここにいる!?」
声が遠くなったことでそれがわかった。
シェラは音を立てないように注意しながらほんの少し扉を押し開け、隙間を覗いて見た。
驚きに歪《ゆが》んでいる卿の左横顔が見えた。そして、その視線の先にいた人影を認めた時、刺客として充分に訓練を積んだはずのシェラでさえ危うく声を上げそうになった。
剣を引っ提げたサヴォア公爵が立っていた。
何とも言えない顔で叔父を見ている。
「どこから入ってきたかという意味なら愚問ですな、叔父上。あなたが逃走に使おうとした抜け道を逆にたどってきたに決まっています」
秘密の通路。なるほどと思った。これだけの館にその備えがしてあるのはおかしなことではない。
そのせいだろう。公爵の顔も体も土と泥に汚れ、蜘蛛《くも》の巣を引っかけていた。滅多に使われることのない地下通路を潜ってきたのでは無理もない。
「だからなぜそれをお前が知っている!? この館は亡き父が建て、後に私が受け継ぎ、通路の秘密は父が死ぬ間際になって初めて私に教えて下されたものだぞ! 以来一度も抜け道を使用したことはない。
妻にさえ話したことはないというのに!!」
悲鳴のような叔父の問いに、バルロはいつもの、皮肉まじりの笑顔で答えた。
「別段おかしな事でもない。建てた本人ならば知っていて当然でしょう」
「な、な、何だと!?」
「祖父はこの館を継いだあなたにのみ、その秘密を話して死んだ。そう思っていたのですかな?俺の手の者が何故あなた方に知られずに中庭に現れることができたか、考えてごらんになりましたかな」
卿の顔が今度こそ恐怖に歪んだ。
「ま、まさか……」
「いかにも。抜け道は一つではない。この部屋の暖炉《だんろ》から地下へ下り、外壁の外へ出られるのはあなたも知ってのとおりだが、同じように館外から中庭の納屋にも地下道が通じている。俺はその通路から部下を潜入させたのだ。あなたはご存じなかったでしょうがな」
鋭く突き刺さるようなバルロの言葉だった。
卿はわなわな震えている。
「馬鹿な……。兄が、知っていたというのか。私の住居の秘密を……こんな大事《だいじ》を父は兄にはうちあけ、兄がお前に話したのか!?」
「代々公爵家の長男のみが知らされる秘密が他にどのくらいあることか、お話しできないのがまことに残念です、叔父上」
皮肉な笑顔と丁寧な口調とが何とも恐ろしい。
「その程度の思慮もできずに俺に成り代わろうとは恐れ入りますな。サヴォア公爵の名を背負うことはあなたが考えているほど生やさしいものではない。
祖父はあなたをかわいがり、あなたと父とは仲のいい兄弟だったと聞きましたが、それでも祖父も父もあなたにいくつもの秘密を持っていた。公爵家を守るためには仕方がなかった。あり得ないことであり、考えたくもないことだが、もっとも近い身内だろうと当主である公爵に絶対に背かないとの保証はどこにもありませんからな。事実、このざまだ」
卿は愕然として甥の言葉を聞いていた。
「私が父や兄に背いた時の用心に……、そのために、父はこの館と領地を私に贈ったというのか!?」
「いいえ。この部屋の抜け道をあなたに話したのは真実、祖父の親心であったのでしょうよ。もしもの時に身を守ることができるようにとね」
バルロは剣を握りなおし、壮絶な表情で言った。
「それをこんな事に利用しようとはな。あの世で祖父に詫びるがいい。サヴォア家の恥さらしめ」
「何を言うか! どちらが恥さらしだ。そのサヴォア家の誇りを庶子などに売り渡した裏切り者が!」
卿も剣を引き抜いた。憎々しげに言う。
「こんな奇策を用いるとは騎士の風上にもおけん!正面から堂々と競って勝利を得てこそ騎士の誉れであるものを、腰抜け公爵にはその分別もないか!」
バルロも燃え盛るような眼でこれに応じた。
「貴様がまっとうな敵でさえあったならそうしていたとも! あの時まで、お前を生かしてはおけぬと思ってはいたが、この抜け道を使うつもりなど毛頭なかった。あくまで軍勢を以《もつ》て戦いを挑み、貴様を討ち取ってくれるつもりだった。それが祖父と父に対する、叔父である貴様に対する、せめてもの詫びであり敬意と思っていた。地下道をくぐり抜けての待ち伏せなど、お前に言われるまでもない、反吐《へど》の出るような下郎の業《わざ》だ。誰が好んでこんな真似をするものか舅 しかし、しかしだ、名利と物欲に目が眩《くら》み、あげく隣国と通じるような外道相手に騎士の礼節をもって接する必要がどこにある!? 貴様など小者か女に寝首をかかれるのが似合いだが、せめてもの情けだ。俺がこの手に掛けてやる!」
「小賢しいわ! 若造!」
たちまち叔父と甥とは激しく打ち合い始めたのである。
覗き見をしていたシェラは呆気にとられていた。
あまりのことに体が動かなかった。
命令によれば公爵より先にマグダネル卿を暗殺しなければならない。その卿は扉一枚隔てたすぐそこにいる。しかし、今飛び出して卿を倒せば、自分は公爵に斬り伏せられる。
生還を義務づけられている以上、それはできない。
では先に公爵を倒してから卿にとりかかるか。
とんでもない。標的以外の人間を手に掛けるのは重大な任務規定違反だ。
部屋の中の決闘は激しさを増し、玄関口で行われている戦闘もますます近づいてくる気配である。
何より夜明けが近づいているはずだった。
殺されるのを覚悟の上で卿を倒すか、規則違反を承知の上で公爵を倒すか、それとも逃げるか。
どれか一つを選ばなければいけないのに、どれを選べばいいのかわからない。
骨も固まらないうちから叩き込まれた訓練は、一つの技を完璧なまでに高めろと教えていた。その際、予想される限りの不測の事態についても対処法を学んだ。潜入地で天災に遭ったらどうするかというようなことまで習った。
しかし、こんな異常事態をどう処理すればいいか、どう行動すればいいのかは教わっていない。
シェラがこうした放心状態に陥ったのは、時間にすればほんのわずかだが、それでも長すぎた。
屈指の剣豪であるサヴォア公爵が狙った相手を斬り伏せるには充分すぎる時間だった。
シェラが我に返った時には遅かった。公爵の剣先が卿の胴体を鮮やかに斬り払っていたのである。
「……!!」
声にならない悲鳴がシェラの口から洩れた。
この情景を現実のものにしてはならなかったはずだった。そのために自分はここへ遣わされたはずだ。
なのに手も足も出せず、一番避けなければならなかった事態を目の前で見せつけられたのである。
冷たい廊下にへたり込みそうになった。悔しさや怒りは感じなかった。胸に穴があいたような虚しさと、やるせなさとがあった。
宗師は特に自分に期待して送り出してくれたのに、その期待を裏切ってしまったのだ。ひたすら申し訳なく、合わせる顔がないと思った。
一方のバルロは剣の血を拭《ぬぐ》いながら荒い息を整えていた。剣戟《けんげき》の激しさによるものではない。この程度の戦いで息の乱れるようなティレドン騎士団長ではない。では何故かと言えば狂わんばかりの怒りが原因である。
その怒りは憎い相手を斬り伏せても容易に収まらなかった。吐き捨てるように言った。
「安心しろ。従兄上は貴様のような外道の名誉でも、お守りくださる。売国奴の汚名は着ずにすむぞ」
すると、血まみれになって倒れた卿の体が笑いに揺れたのである。
即死は免れたらしい。しかし、時間の問題だった。
もはやうつろになった眼が甥を見上げて、にやりと笑った。
「……一人では……死なんぞ。あの小娘も、貴様の大事な国王も……道連れだ」
「何だと!?」
「もう遅いわ。あの一族がすでに……動いておる」
バルロの顔色が変わった。
「貴様、まさか……」
「そうとも……。ファロット一族。あの死神どもが……この無念を晴らしてくれるわ」
言いおいて卿の首ががくりと垂れた。
同時にバルロが卿に飛びかかった。
「待て、マグダネル!!どこだ! どこのファロットに依頼した!! 答えんか!!」
叫びながら卿の両肩をつかみ、猛烈な勢いで揺さぶったが、答えのあろうはずがない。
卿はすでに絶息していた。
バルロは前以上の怒りに打ち震えながら腰の懐剣を抜き、卿の首を掻《か》き斬った。
ここにもつづれ織りを張った衝立が置かれている。
その一部をはぎ取り、手早く首をくるむ。それから猛然と扉めがけて突進してきた。
シェラの心臓が飛び上がった。
とっさに体が動いたのはまさに長年の修練のたまものだろう。バルロが勢いよく扉を引き開けた瞬間、シェラは扉の上部まで跳躍していた。わずかな桟《さん》を足がかりにして壁に張りつき、どうにか体を支える。
卿の首を小脇にしたまま、ものすごい勢いで玄関口へと去っていく公爵の背中を安堵《あんど》と共に見送った。
自分もぐずぐずしてはいられない。
任務に失敗した以上、次の勤めは生きて戻り、このことを宗師に報告することだ。
マグダネル卿が討ち取られたと聞けば館内の抵抗も止むに違いない。混乱が終結する前にここから脱出する必要があった。
打ってつけの通路がすぐ側にある。音もなく着地して部屋の中へ入った。
そこは豪華に飾られた居間だった。続き部屋の奥は寝室になっているらしい。おそらくはここも卿の私室だったのだろう。
問題の暖炉は石壁をくり抜いてつくられていた。
腰をかがめれば人ひとりが入れる大きなものだ。
たった今公爵が通ってきたはずだが、それらしい形跡がない。床には土が敷かれ、この下から人が出てきたとは思えない。
真上を避けて煙を逃がす穴が空いている。
しかし、シェラでも通れそうにない細い穴だ。あの公爵が通れるはずがない。
焦って周りを見渡すと、右の壁の異常に気づいた。
暖炉の内壁を囲んでいる煉瓦《れんが》の並びが、他に比べて妙にいびつなのだ。
一つに手をかけて引いてみると、するりと外れた。
意外なほど薄い煉瓦である。その向こうは空洞になっていた。
急いでもう二つ三つ引き抜いて覗いて見る。
どこまで降りるかわからない深い穴が空いていた。
手にした煉瓦には漆喰の跡がある。つい今し方まで壁として固定されていたのだ。
公爵はこの縦穴を登ってきた上、煉瓦自体を痛めぬように漆喰部分を削って壁を崩し、出た後は元通りに組み上げておいたわけだ。
この秘密を余人に知られぬためだろうが、一族顔負けの働きだ。確かに、自分で言っていたように、騎士の振る舞いではない。公爵の卿への怒りがいかにものすごかったかがわかる。
シェラもまた元通りに煉瓦を組み上げて抜け穴を塞いだ。
壁を崩したまま逃げたのでは、この部屋に人がいたと公爵に教えるようなものである。それでなくても痕跡を残すなというのが教えの基本だ。
しかし、出た後ならたやすいが、抜け穴に入った後で煉瓦を組むのは容易なことではない。
シェラはまず明かりの用意をし、これを口にくわえた。次にやっと体が通るくらいの穴を開け、抜き取った煉瓦を懐に抱えて壁をくぐった。
足下はもう、墜ちたらどうなるかわからない深い縦穴である。おまけに、あの体躯の公爵がよくぞと思うほど狭い。
シェラはその狭さを利用し、両足を突っ張るようにして体を支え、元通りに煉瓦をはめ込んだ。
それからゆっくりと縦穴を降り始めた。
四方が石壁では夜目も役に立たない。くわえた灯心の明かりだけが頼りである。
幸い、切り出しの石は手がかりにするにはちょうどよかった。こうしたことにかけては鍛えた体でもある。降りるのに苦労はなかった。
しばらく降りると乾いていた空気が急に湿り気を帯び、黴《かび》臭さが鼻を突いた。
地下に入ったらしい。足が地に着いたのはさらに長い時間が過ぎた後だった。相当に深く掘ってある。
底についたといっても平らな地面ではない。緩く傾斜している。その先に地下道が開いていた。
明かりを突き出してみても真っ暗闇だ。どこまで続いているかもわからない。
シェラは明かりをかざして地下道を進み始めた。
立って歩ける高さはあるが、数十年使われなかっただけあって、床には汚泥が積もっている。
足場の悪さには慣れているはずなのに何度も足を取られそうになった。
そのせいもあって時間がかかったのだろうが、恐ろしく長い通路だった。灯心はどんどん短くなり、急に天井が開けた時には思わず胸を撫で下ろしたほどだ。
そこは、また石の縦穴になっていた。ここは土が乾いている。石の合間から雑草が茂っている。
上を見ると、すでに暁闇《ぎようあん》に変わった空が見えた。
夜明けが近いのだ。丸一晩働いていたことになる。
登ってみると、そこはなんと、井戸だった。涸《か》れ井戸なのである。
すぐ側に小屋が建っていた。
戸口には板が打ちつけてあり、土台の石は苔《こけ》むしていた。長い間使われていない風情である。
あたりは深い森の中だった。
小屋も井戸も灌木《かんぼく》と雑草に埋まりかけている。滅多に人の訪れない場所のようだった。
地下道の長さからして相当の距離を移動したのは間違いないが、ここがどの辺なのかまったくわからない。明るくなってから現在地を確認するしかなさそうだった。
地上に立ったシェラは、頭を包んでいたかぶりものを取り、深く森の空気を吸い込んだ。
疲労した体と任務を果たせなかった重苦しさを、緑の香りが癒《いや》してくれるようだった。
しかし、その解放感も長くは続かなかった。
木陰から人が現れたのである。
反射的に身構えたが、驚いた。まったく気配を感じなかったのだ。あの王女を除けばかつてなかったことである。
さらに現れた人の姿を確認して二度驚いた。
自分と同じ行者だった。身なりといい、気配を感じさせずに現れたことといい、間違いない。
ただし、ダリエスの者ではない。見たことのない顔だった。
若い男である。二十三、四くらいか、鋼のような長身と短く切った髪がまず目についた。
これは自分のように女性として働いているのではないことを意味するのだが、肌は抜けるように白く、眉はくっきりと濃く、見惚れるほど端麗な顔であり、姿だった。
しかし、どちらもまぎれもなく男のものである。
近づいてくる動きも水際だって鮮やかだ。
距離を置いて立ち止まった。
間近で男の顔を見たシェラはその美貌に感嘆すると同時に、背筋が寒くなるようなものを感じていた。
一見したところ妖艶《けんえん》ともなまめかしいとも言える顔立ちと姿の中で、眼だけが異彩を放っている。
優しさなどかけらも見えない、冷たく危険な眼だ。
男は名乗ろうともしなかった。唐突に言った。
「マグダネル卿はどうした?」
シェラは黙っていた。どう答えたらいいものか、わからなかったのだ。
おかしな話だが、他の土地の行者に出会った時にどう対処するかは聞いていない。導師たちはそんなことは滅多にないのだから心配しなくていいと笑ったし、先に一人立ちして働いている先輩格の連中に聞いてみても、誰も出会ったことがないと言う。
ためらっていると男はさらに言った。
「死んだのか?」
仕方なく頷くと、男は酷薄な目線をさらに鋭くした。
「お前が殺したのか」
「答える必要はないだろう」
シェラも固い口調で言い返した。
この男がどこの行者か、何故ここに現れたのかはわからないが、少なくとも友好的な存在でないことは確かである。それなら障害物として対処する。
そうとっさに心を決めた。
ところが相手は逆に、低く笑ったのである。
「大ありだ。俺がやるはずだった仕事だからな」
シェラは呆気にとられた。
そんなことがあるはずはない。他の里のことは知らないが、特に自分にと宗師は言った。その言葉は絶対のはずだ。
男は底冷えのする眼はそのままに、どこか楽しげに言う。
「来た時にはもうティレドン騎士団の侵攻が始まっていた。ここで待ち伏せて卿が顔を出したところをしとめてくれようと思えば、出てきたのは同業の、しかもこんな小僧とはな」
「黙れ!」
シェラは憤然と叫んだ。
「嘘をつくな。この役目は宗師さまから直々に言いつかったものだぞ」
「俺もだ」
簡潔に言って男はまた低く笑った。
「二重の指示を出すとは、上の連中も愚かなことをしてくれる。……おかげでよけいな手間が増えた」
最後の言葉は独り言のようだった。どういう意味かと問い返そうとした刹那《せつな》、シェラは反射的に身を翻していた。
たった今まで悠然と構えていた男が目にも留まらぬ速さで鉛玉を投げうってきたのである。
間一髪だった。一瞬でも遅れたら体に食い込んでいただろう。
それほど容赦のない攻撃だった。
「何をする!?」
叫んだが、その時には男は猛然とシェラめがけて襲いかかっていた。
シェラも反射神経は並ではない。こんな時には何も考えずに体が動くように訓練を積んでもいる。体勢を崩しながらも腰の剣を抜き、斬りつけてきた男の剣を迎え撃っていた。
互いに同じ素性の剣である。攻撃の型も見当がつく。シェラは懸命に剣を遣い、立て続けの攻撃をどうにかしのいだ。
一度離れた男が不敵に笑う。
「なるほど。ここまで出てくるだけのことはあるな。
褒めてやろう」
シェラは答えず、呼吸を整えることに努めていた。
背筋を冷や汗が伝っていた。
容易ならざる腕である。剣戟の激しさはもちろん、凄い力だ。
「しかし、その細い体でいつまで続くかな?」
言うなり男はすさまじい猛攻をかけてきた。
シェラも必死に応戦したが、しのぐのが精いっぱいだった。こんな相手にはせめて動きの速さで主導権を取らなければならないのだが、あまりにも間が悪かった。
シェラも導師たちが褒め称える行者である。だが、夜を通して気を張りつめ、体を酷使したあげく、任務に失敗した負い目を抱え、突然現れた見知らぬ相手に動揺しながらでは実力の半分も発揮できない。
何より相手はシェラと同様、いや、年齢からしてさらに経験を積んだ暗殺の専門家である。
たちまち斬り立てられ、剣を叩き落とされた。
しかし、シェラは引かなかった。すかさず鉛玉を掴み出して投げつけた。相手も見事な身のこなしでかわしたが、それで充分だった。距離を取って飛び離れた。
接近戦は不利だと瞬時に悟ったのである。
もう迷いはなかった。雑念も消えていた。仕掛けてくるなら倒す。それだけだ。
気配の変わったシェラに気づいたのだろう。男は口元に冷たい笑いを浮かべたまま、言ったものだ。
「活《い》きのいいことだ。殺しがいがあるな」
「どうして私を殺そうとする!?」
「俺の標的をお前が殺した。そのお前を俺が殺した。俺は仕事を完遂した。簡単な理屈だろう」
そんな理屈は初めて聞いたシェラである。
思わず叫んだ。
「見当違いにもほどがある!卿を殺したのはサヴォア公爵だ!」
男は形のいい眉を吊り上げた。
「言い逃れか?」
「館まで戻ってみればいい。すぐにわかることだ」
自分たちと違って卿を斬ったことを隠す必要はない公爵だ。堂々と公表するだろう。そうすることによって抵抗を続ける敵兵の戦意を削《そ》ぐことにもなる。
男はそれでも目線を緩めない。
「お前、どこの出だ」
「……」
「お前の言葉に偽りがあれば、後日、殺しにいく」
「その必要はない」
怒りを感じなからシェラは言った。
この男は自分のことをまるで『もの』扱いである。
同郷の出身ではないにせよ、どうして同じ行者にこんな侮辱的なものの言い方をされなければならないのかと思う。自然、言葉もきついものになった。
「それより私も訊きたい。何故この抜け穴のことを知っていた?」
「知らなかったのか?」
男はむしろ意外そうに言った。
そうしてようやく構えていた剣を鞘《さや》に収めたのである。
「なるほど。それでわかった。ダリエスだな」
シェラはぎくりとした。
男はそれでシェラに対する興味も殺意も失ったようである。まだ鉛玉を掴んで構えているシェラを冷たく見やった。
「いつまでそうやっているつもりだ。まもなく夜が明けるぞ」
「一方的に仕掛けてきて、また一方的に手を引けというのか」
「理由がなくなった。公爵が卿を殺したのなら俺の失態にはならん。帰ってそう報告するまでだ」
淡々とした口調である。
つい今し方まで本気でシェラを殺そうとしていたのが嘘のような態度だった。
シェラのほうはそう簡単に殺されかけたことを忘れるわけにはいかなかった。慎重に尋ねた。
「お前の名と出身を言ってもらおうか」
「聞いてどうする?」
「……お前も同じ事を訊いたはずだ」
「一緒にされては困る。標的を横取りされた恐れがある以上、俺にはお前の素性を確認する必要がある。
逆にお前の言葉が本当なら、どうして俺の名を知る必要がある?」
これまた妙な理屈である。しかし、一理あるとも言える。
宗師への報告は、自分が赴いた時には卿はすでに殺されていたと、それだけでいい。ここで別れて、おそらくは二度と会うこともない相手だ。名を知る必要がないと言われればまったくその通りなのだ。
しかし、シェラは引き下がらなかった。
理由は好奇心である。
他の土地の行者を見たのも初めてなら、これほど異彩を放っている男も初めてだ。
いったいにして自分たちは、目立たぬようにと、一般人に混ざった時に浮き上がらないようにと教育されたものだ。容姿の優れた彼らが人目を引かずにすむはずはないが、それとは意味が違う。怪しまれないようにしろということだ。
刃物に手が馴染んでいると思われないように、毒物の扱いに慣れていることを知られないように、簡単に人を殺せる技術と心を持つ生き物だと悟られないようにふるまえという意味なのだが、この男はとても一般人では通るまい。抜き身の刃のような鋭い気配を身にまとっている。しかもそれを隠そうともしていない。
「どうして私の出身がわかった? 答えてもらおう。
これは報告する義務のあることだ」
男は一瞬つまったが、シェラの言葉に理があると判断したのだろう。そっけなく言った。
「マグダネル館の抜け道を知らないとなれば、他に考えようがない」
「だから何故だ」
「ダリエスは新しい里だからな。情報も限られる」
「新しい……?」
「そうだ。中央地域は難しい。本来なら俺たちの出番のもっとも多いところだが、その分、秘密が露見する危険も高い。特にデルフィニアはな。魔の五年間で一悶着あったばかりだ。この上何かあればさすがに足下に火がつく。上の連中もそれを警戒して、あまり重要な情報は与えないようにしているのさ」
何を喋っているのかさっぱりわからなかった。
上の連中というのは、導師たちや宗師のことをいうのではないのか。それとも聖霊のことだろうか。
シェラは混乱する頭を必死にまとめようとしていた。
他の土地の行者は知らないが、自分たちと同じようなものであるに違いないと今まで思っていた。
だが、目の前のこの男は、同じ装束を身にまとい、同じ技を使うが、到底同じものとは思われない。
もっとも多いというからには他の里の在処《ありか》を知り、行者たちの活動状況を知っていることになる。
シェラの常識ではそれは『あり得ない』事だった。
しかもだ。この男は目上の人に対して尊敬の心をもっていない。それどころか、そうした人々を語る口調には軽い侮蔑の響きさえある。
「お前は、本当に行者なのか? 私と同じ……」
そんな問いが洩れる。
男の眼が初めて少し緩んだ。
嘲笑《ちようしよう》と哀れみの目線だった。
「そうとも。お前と同じ、ただの道具だ」
「道具、とは……」
不快な言葉だった。
確かに自分たちは上からの指示に従って動く身である。しかし、彼らは頭であり、行者はその手足として働くのが務めだ。つまり、自分は彼らの意思の代行者であり、表裏一体の存在であるという誇りと自負をシェラは持っていた。
それがこの男の言い方では唾棄すべき存在のようである。
シェラの表情に何を読みとったのか、男は軽く肩をすくめた。
「俺もお前も性能が落ちれば捨てられるだけの道具にすぎん。そう……確かめるのも面倒だな。やはり殺しておこうか」
今度はシェラもすかさず身構えたのである。
脈絡のない言葉に驚いたのは確かだが、それより先にしなければならないことがある。
シェラにとって最終的な、もっとも大切な務めは命令を下した人に仕事の成果と一部始終を報告することだった。仕事を途中で放棄するような者はそれだけで行者失格であり、我々『選ばれた一族』の存在を汚すものだと教わった。
生きて戻るためには、その邪魔をする者があるなら、どんな手段を用いてでも排除しろとも習った。
その教えに従い、シェラは一瞬の動作で銀線を取り出して攻撃したのである。
銀線は握りの部分以外は極細の糸《σ》状剃刀《かみそり》である。
見えるか見えないかほどの細いものだが、扱いに熟練すれば人の体をも裁断できる。
シェラの手に操られた銀の糸は男の体を狙って生き物のように走った。
「甘い」
男は余裕で剣を引き抜きざま、銀線を叩き切った。
シェラはそうなることを予期していた。糸が切られるか切られないかの内に握りを手放し、数個の鉛玉を男の顔めがけて、気合いも鋭く投げつけた。
ところが男はこれもかわしたのである。やや体勢を崩しはしたものの、剣を捨てて飛び掛かってきた。
離れながら鉛玉を放とうとした。が、その動きより男のほうが速かった。腕を取られて引き倒される。
倒れされながら、シェラは男の腹に蹴りを入れた。
何とか離れようとしてのことだった。力勝負では圧倒的に不利である。押さえ込まれてしまったら勝ち目はない。
しかし、男はこの抵抗をものともせず、その長身に抱き取るようにして、シェラを地面に押しつけたのである。
必死にもがいたが、その時には男の腕がシェラの首に絡みついていた。
人体の急所をいやというほど心得ている腕のすることである。たちまち気が遠くなった。
「動くなよ。すぐ楽にしてやる」
笑いを含んだ声がそんなことを言う。
だが、こんな所で死ぬわけにはいかない。
自分はなんとしても生きて戻らなければならないのだ。
その思いが体を動かしていた。シェラは無意識に男の眼を狙って指を突き込んだ。
「おっと……」
命中はしなかったが、これにはさすがに男も驚いたらしい。締めつける力が緩んだ。
その隙にシェラは全身の力を振り絞って男の腕から逃れたのである。
荒い呼吸のまま跳ね起きたが、それが精いっぱいだった。
男は手放した剣を拾い上げて再び迫ってくる。
飛び道具を使い果たし、剣を飛ばされたシェラには為《な》す術《すべ》がない。
「俺を相手にここまで粘るとは、たいしたものだ」
どこか楽しげに言い、シェラにとどめを刺そうとした男が、急に声を上げて飛び離れた。
何かが空を切り裂いて男に襲いかかったのである。
鉛玉だった。飛び離れた男をさらに狙う。まだ暗い木立の陰から誰かが鉛玉を投じている。
この間にシェラは木立の中へ逃げ込んだ。逃げるためではない。呼吸を整えるためと、自分を救ってくれたのが誰であり、どう出るのか確かめるためだ。
鉛玉の攻撃はすぐに止んだが、男の姿も見えなくなっている。
自分と同じ事を考えて木立の陰に隠れたのかもしれなかった。
そうするうちにもあたりはますます明るくなっている。
シェラが呼吸を整え、体力を回復させるに充分な時間が過ぎても、あたりには何の動きもなかった。
どうやらあの男はこの場を立ち去ったようである。
報告の義務を抱えているのはあの男も同じはずだ。
これ以上、シェラにかまけている場合ではないと判断したらしい。
深い森の中に鳥の声だけが騒がしかった。朝を迎えてにぎやかにさえずっている。
シェラはようやく安堵の息を吐き、剣を拾おうとして立ち上がりかけた。
その背中に異常を感じたときは遅かった。
背後から首筋を強打され、シェラはその場に倒れ込んだのである。
強い衝撃に意識を半分手放しながら、己の不覚に歯がみした。いつのまにか背中に立っていた相手を必死に見極めようとする。
あり得ないものを見たような気がした。
かすれた視界に鮮やかに映ったのは、遠くコーラルにあるはずの、緑柱石の瞳と金の髪だった。
穏やかでない朝を迎えたのはマグダネル館を占拠したティレドン騎士団も同様である。
すでに事実上の勝利を収めてはいたが、とにかくここまでが無茶だった。常軌を逸した速さで敵地へ駆けつけ、小休止しただけで突入し、激しい戦闘を繰り広げたのである。
館内をほぼ制圧した時には団長から小者にいたるまでがへとへとに疲れはてていた。
しかし、体を休める暇はなかった。異変を察した卿の親族が駆けつけてきたのである。
真っ先に到着したのは卿の息子の軍勢だった。
これはバルロの従弟《いとこ》に当たるが、今となっては父の敵《かたき》である。さらには卿の妻の兄、つまりは義理の兄弟の契りを結んだ領主らが続々と、それぞれの手勢を率いて押し掛けてきたのだ。
マグダネル卿が討ち取られたことはすでに彼らの耳に入っている。息子は父の敵を討たねば我が名の汚《けが》れと逆上し、親族らは自分たちの足下でこんな大胆不敵な真似をされたのでは黙ってはいられないと憤慨している。
こうなれば高貴な方ではあるが公爵の御首《みしるし》をもって自分らの恥辱をあがなうと通告してきた。
「あんな外道のために律儀なことだ」
バルロは憮然と言ったものだ。
逞《たくま》しい体のあちこちに遮り血を浴び、黒髪を振り乱したすさまじい姿である。卿を討ち取ってからも先頭を切って前線に躍り出、誰よりも激しく戦った結果だった。
騎士団はたった今まで攻めていた館に陣取り、防壁の上に人を立てたが、中央全土に名を知られている勇猛果敢な騎士団にも限界はある。
大仰に言えば立っているのが不思議なくらい、全員が疲弊しきっているのだ。今、戦闘になったら、難しいことになるに違いなかった。
アスティンが使者に立ったが、親族たちは引かない。あくまでも公爵の首を挙げるか、せめて虜《とりこ》にして身の誉れにするという。
「できるものならやってみるがいい」
と、バルロは返答した。いよいよ合戦は避けられなくなった。
ところが、領主勢が怒濤《どとう》のような進軍を開始した刹那《せつな》、外門の前に騎士が立ちふさがった。
数千にも及ぼうという軍勢をまさに相手にしようかという態度だが、ただ一騎である。攻撃されたらひとたまりもない。
さすがに攻め手もこの騎士に気づいて進軍を止め、使者を出してきた。相手はただ一騎なのだから踏みつぶしていけばよさそうなものだが、これほど堂々とやられると、逆に気になるものだ。
「お手前、何者か!?」
問われて、その騎士は声高に答えたのである。
「私はラモナ騎士団長ナシアス。マグダネル卿のご親族に申す。手を収めてもらおう!」
攻撃側も仰天したが、館内の騎士たちも驚いた。
慌てて注進が走る。これを聞いたバルロは文字どおり飛び上がって叫んだ。
「あの大馬鹿者が!!」
急いで防壁の上へ駆けつけた。
見下ろせば確かにナシアスが外門前に立ちふさがり、数千の軍勢を抑えていた。
「卿の敵を討たんとする方々の心はよくわかる。しかしながら、この度《たび》の一件がサヴォア家の内紛であることは紛れもない事実。言い方を変えれば喧嘩であることは諸兄もご承知の通り。となれば勝敗は時の運というものではないか。互いに納得して戦い、天運によってバルロが残ったのだ。それでも不満だというなら王宮へ訴え出られるのが筋というものだろう」
滔々《とうとう》たるものだが、こんな説得で息子や親族が引き下がるわけがない。するとナシアスはおもむろに言ったものだ。
「あくまで軍勢をもって決着をつけるというなら、我がラモナ騎士団を相手にする覚悟をしていただくことになるがよろしいか」
復讐に燃えている軍勢もこれには動揺した。
近衛兵団、ティレドン騎士団、そしてラモナ騎士団。誰もが認めるデルフィニアの精鋭軍である。
武力闘争は珍しくない世情だから、その名を前にしても最初から尻尾を巻いて逃げはしない。戦《いくさ》とはやってみなければどうなるかわからないものだし、勝てば手柄を立てられるのである。
ただし、負けるとわかっている戦をしたがる兵士もいるはずがない。そうした場合、主人への義理や騎士としての面目にかけて死を覚悟して戦うこともないではない。マグダネル卿を逃がそうとした家来たちがその例だが、兵士にしてみれば滅多にそんなことが起こってもらっては困るのだ。
集まってきた領主勢の数は五千を超えるほどの大軍だ。ティレドン騎士団は二千である。
これだけ戦力に隔たりがあれば、相手が名だたる戦闘集団であろうとも、戦いを挑むことをためらう道理はない。
しかし、そこにラモナ騎士団が加わるとなると話はまるで違ってくる。中央全土にその名を知られている強豪を二か所同時に相手にすることになる。
互いの将たちがざわざわと相談する気配になった。
「馬鹿が……」
門の上から一部始終を見ていたバルロはもう一度、低く呟いた。精悍《せいかん》な顔にじっとりと冷や汗が浮かんでいた。
その横にアスティンが、そっと近寄った。
「団長……」
アスティンも乱れた髪にまで返り血を浴びた壮絶な姿だった。単独の潜入を果たしたバルロに代わって突撃の指揮を執ったのだ。
他の団員たちを慮《おもんばか》り、囁くように言う。
「ナシアスさまは本当にビルグナの連中を……?」
「言うな。俺が本宮を抜けたのは一昨日の夜だぞ」
その短期間にコーラルから二百カーティヴ離れたビルグナへ連絡を取ることは不可能に近い。知らせが届いたにせよ、ラモナ騎士団がそれからこのエブリーゴまでやってくるにはどんなに飛ばしても二日はかかる。
これはナシアスのはったりだとバルロは瞬時に見抜いていた。他の者がやったのでは一笑に付され、たちまちひねり潰《つぶ》されるだろうが、ラモナ騎士団長の言葉だ。信憑性《しんぴようせい》がある。
実際、馳せ集《つど》った軍勢は急に後ろが気になりだしたようだ。どこからか白百合の紋章が現れて襲いかかってくる不安に駆られたに違いなかった。
ひやひやしながら涼しい顔で大軍に対峙していたナシアスは、その様子を間近にして、うまくいきそうだと胸を撫で下ろしかけていた。
コーラルを発してから急ぎに急いだのだが、バルロの執念に大きく遅れを取った。館にたどり着いた時は夜中を回っており、戦闘の真っ直中だったのである。
そんな中へ出ていっても意味がない。
ナシアスは戦闘がどう展開するのかを見届けることにした。そのうち、バルロが卿を討ち取ったとの勝ち名乗りが上がり、夜があけるにつれ、騎士団が館を占拠したことがほぼ明らかになった。
これなら大丈夫と思い、馬の足を返そうとしたところへ、卿の親族の領主らが手勢を率いて駆けつけてきたのである。
ナシアスは戦況の一部始終を見てきている。これだけの強行軍をしてのけた後では、いくら精鋭のティレドン騎士団でもこの大軍を迎え撃つことはできない。できたとしても相当に苦しい、悲惨な戦いになるに違いない。
そこでこの大ばくちを打ったのだ。
彼らはナシアスが単独で駆けつけてきたとは知らない。必ず近くにラモナ騎士団がいると考えるはずだ。たとえ一時しのぎでも即刻の合戦さえやめさせることができればと、数千の軍勢の前に無防備に体をさらしたのである。
防壁の上にいたバルロとアスティンには、それらのことが手に取るようにわかった。
アスティンが固い顔で囁く。
「団長、ナシアスさまを館内に収容する準備をいたしましょう」
「味方にもわからぬようにできるか」
二人は余人を寄せず、ごくごく声を抑えて話していた。他の騎士たちには悠然と話している団長と副団長の背中が見えるだけだ。
ナシアスが現れたという情報は瞬く間に館内の奥まで伝わっている。疲労の激しいティレドン騎士団の兵士たちにとっては何よりの朗報である。皆おおいに安堵《あんど》し、元気を取り戻した。
バルロはその彼らに気づかれないように舌打ちしたものだ。
「馬鹿が。よけいなことをしおって。これで援軍がこないとなれば、我らは壊滅するぞ」
言葉は盛大な文句だが、不安の響きがありありとこもっていた。自分たちのことではない。ラモナ騎士団が近くにいないとわかれば、裸同然のナシアスは領主勢に引き裂かれる。
かといって自分が慌てては怪しんでくれと言うようなものだ。背中に冷や汗を感じながらもあくまで泰然と構えていた。
ナシアス一人と数千の領主勢との睨《にら》み合いはどのくらい続いただろうか。
息子や義兄弟の集まった軍勢は相談の結果を使者に託して次のように言わせたのである。
「貴殿のお言葉、いちいちもっとも。我ら身に沁《し》みいる思いにて拝聴したが、しかしながら人の情とは道理のみにては動かぬもの。ここでこの悶着《もんちやく》を盆《ぼん》に載せ、処置を願って王宮に差し出せば、我らの武名は地に落ち泥にまみれるは必至。せっかくのお諭《さと》しを無にするは心苦しいが、我らの決意は揺るがぬものとお覚えありたし」
勇ましい言葉だが、半分ほどは虚勢である。
寄せ集めの領主勢が正面切って、ティレドン、ラモナ両騎士団を相手にしたがるはずがない。断固たる決意を見せれば、ナシアスもこちらの説得を諦めて引き下がるのではないかと期待したのだろう。
互いにはったりのかましあいだった。
しかし、そんな状態がいつまでも続くわけがない。
先に動き出したのはやはり、数に勝る領主勢である。
ナシアスのはったりを見抜いたのか、それともラモナ騎士団が現れる前に勝負を決してくれようと判断したのか、じわじわと迫ってくる。
こうなればナシアスの頑張りも無駄だった。
この時、アスティンは外門のすぐ内側にいて、物見窓から外を見ていた。
敵が一斉にかかってきたらすぐさま門を開いて、ナシアスを収容するつもりだったのである。
そのナシアスも粛々《しゆくしゆく》と近づいてくる軍勢を面前にして、これまでらしいと覚悟した。
自分の存在をもって時間稼ぎになればと思ったが、やはりその眼で軍勢を見ないことには、なかなかひるんでくれないものらしい。ビルグナに残っている忠実な友人たちの顔と白百合の紋章を懐かしく思い浮かべながら、剣を抜き、馬を進ませた。
「ナシアスさま!?」
見ていたアスティンが仰天して叫んだ。
「戻れ、ナシアス!」
バルロも声を張り上げた。
自殺行為としかいいようがなかった。ナシアスにもそれはわかっていたのだが、もう一働きしようと思ったのである。
マグダネル館は小高い丘の上に立っている。丘の下から外門まで続く道は軍勢の進行を妨げるため、細く盛り上がった堤《つつみ》のようになっている。
事実、館をとりまいていた領主勢はその道を整然と登ってくる。
その進路にラモナ騎士団長が立ちふさがっているとなれば、領主勢も無視はできなかった。相手が相手であるだけに雑兵を向かわせるようなこともできなかった。そんなことをしたらそれこそ武名に拘《かか》わるのである。
ラモナ騎士団長を討ち取れば、一気に名を高める機会である。腕に覚えのある武将が次々に名乗りを上げて討ちかかってきた。
しかし、相手は美剣士ナシアスである。
たちまち十人ほどを切り伏せた。一人を倒すたびに防壁の上から歓声が上がり、領主勢からも驚きが聞こえたが、感心してばかりもいられない。なんと言っても数千の大軍だ。一人を相手に引き下がるはずがないし、引き下がるわけにもいかない。
次から次へと惜しげもなく勇士を繰り出してきた。
華麗な剣技を誇るナシアスだが、元々こんな荒事に向いている人ではない。二十数人を斬って倒したころには息が荒くなっていた。
領主勢はそれっとばかりに勢いづいた。
「今だ、生け捕れ!」
「得がたい捕虜だぞ!」
荒い呼吸を整えながら、ナシアスは微苦笑を浮かべた。
それは困る。手助けをするつもりで出て来たのに、逆にバルロの足枷《あしかせ》になったのでは笑うに笑えない。
この辺が引き時のようだった。
「待てい、雑魚《ざこ》ども! 今度は俺が揉んでやる!!」
すぐ後ろで聞こえた声に驚いて振り返る。見ればバルロが十騎ほどを従えて門を出て、こちらへ駆けつけてくるところだった。
思わず叫んだ。
「馬鹿! 何故出てきた!」
「こんな馬鹿な真似をする奴がそれを言うか!」
果たして、領主勢はバルロの姿を眼にして色めき立ったのである。
「あれこそ父の敵! いざ!!」
卿の息子の率いる一隊が怒濤のような進軍を開始した。もう堤の上の細い道にはこだわらない。多少足場が悪かろうが体裁が悪かろうが、外門まで早くたどり着くことがもっとも肝心である。砂糖の山に群がる蟻《あり》のように丘にとりつき、駆け上がった。
前衛の騎士たちの興奮は言うまでもない。門内に逃げ込ませてたまるかとばかり、猛然と突進をかけたのである。
これを迎え撃ちながらナシアスは、この人には珍しいくらい荒々しく文句を言った。
「それ見たことか! おとなしく引っ込んでいればいいものを!」
バルロも豪快にせせら笑った。
「出しゃばりほど身の程を知らんわ! そんな文句はわが身に言え!」
罵《ののし》り合いながらも二人の呼吸はぴたりと合い、蝿《はえ》のようにまとわりつく敵兵を端から斬り払った。駆けつけてきた騎士たちも一丸となって猛烈に戦い、門へ逃げ込もうと試みる。
一方の領主勢もさせてたまるかとの気合いも充分、先を競って進撃する。
いくら腕自慢の騎士団長二人でも、多勢に無勢である。領主勢の誰もが勝ったと思いながら、嬉々として突撃した。
その進軍の足がふと鈍った。
一斉に攻めかかる彼らの横手、正確には左手に、砂煙が上がるのを認めたのである。
人馬の行軍によって上がるものに間違いない。しかもどんどん近づいてくる。
それは、砂煙をかき立てている軍勢が、かなりの速さで接近してくることを意味していた。
「何だ……」
「味方か?」
まだ駆けつけていない卿の親族が到着したのかと、領主勢は思った。
だが、その軍勢が高々と掲げている旗印の紋章が朝日に照らし出された時、領主勢は将から一兵卒にいたるまで絶叫したのである。
「ラモナ騎士団!!」
紛れもない、飛翔する大鷲と並んで中央に名高い白百合が咲き誇っている。
彼らは足を止めるようなことはしなかった。駆けつけた勢いもそのままに丘の下に陣取っている領主勢を目指して突撃した。
さらには百騎ほどが本隊から別れ、館を目指してまっすぐ丘を登ってくる。十数倍の敵を相手に思いきった振る舞いだが、領主勢は不意を突かれて混乱している。こうした時にはとことん強気に出るべきなのだ。事実、数千の領主勢は意外なほどあっけなく、この突撃隊の進入を許したのである。
片端から敵を蹴散《けち》らし、こちらを目指して果敢に駆け上がってくる白百合の旗印を、ナシアスは呆気にとられて見つめていた。
夢ではないかと思った。
しかし、突撃隊を指揮しているひときわ大きな体躯を見紛うはずもない。近づいてくるにつれ、なじみの顔が他にもいくつも見える。
真っ先にナシアスのもとまで駆けつけたのは、まだ十代に見える騎士だった。若々しい頬に血の色が上っているのは激しい実戦に興奮しているらしい。
ナシアスも相手を認めて驚きの口調で叫んだのである。
「ジョシュアか!」
「遅れて申し訳ありません! ナシアスさま!」
ジョシュアは先日はじめて馬を与えられた新米の騎士だった。少年の頃からナシアスにかわいがられ、以前はその従者も務めていただけに、団長の安否が気遣われたのだろう。馬に乗っていなければ抱きつかんばかりだった。
「ああ、よかった! バルドウとハーミアに感謝します。団長をお守りすることができました!」
「ジョシュア。何故私がここにいるとわかった。そもそもどうしてお前たちが……」
この問いには突撃隊の中心にいたガレンスが吠えるように答えたのである。
「水くさいですな、ナシアスさま! 我々をほっぽり出して団長お一人で抜け駆けとは!」
叫びながら左右の敵を一刀両断に斬り下ろしている。さすがは無双の怪力で鳴らした勇士だった。
こうなると館内に残っているティレドン騎士団がおとなしくしているわけがない。勝利の予感は身動きできないほどの疲れだろうと吹き飛ばす。何より援軍の働きを目の前で見ているだけとあっては、騎士たる者の沽券《こけん》に拘わる。
烈火の用兵を誇るティレドン騎士団の勇士たちは一斉に鬨《とき》の声をあげ、全開にした外門から雪崩のように討って出た。
これで領主勢の狼狽は頂点に達したのである。
百戦錬磨のバルロがこの機を見逃すはずがない。
まだ動ける者たちを率い、自身はそれこそ鬼神の勢いで従弟の旗印をめがけて突撃した。
父親の復讐を唱える息子がこの軍勢の中核をなしている。これさえ潰せば後は散り散りになるはずだ。
先程父親を討ち取り、今また息子を討とうという。
残酷なようだがこれが戦である。ましてや、父親の企みに成人した息子が無関係であるとは思えない。
ならば今の内に黙らせる。
バルロはその信念を持って馬を駆った。疾風迅雷のティレドン騎士団長である。その進撃を妨げようとする者は一人残らず激しい怒りの一撃を食らって跳ね飛ばされた。この男の勇猛はよく知っているはずのナシアスまでが目を見張ったほどの凄さだった。
卿の息子は二十二になる。何度か合戦も経験していたが、こんな恐ろしい相手を正面から迎え撃つことなど思いもよらない。父親の復讐もどこへやら、青くなって逃げにかかった。
これがバルロをなおさら怒らせたのである。
「ならば何故出てきた!!」
言うや、一気に馬を寄せた。駆けつけたガレンスやジョシュアたちも負けじと馬を駆り、息子を守る者たちを一手に引き受けた。
背を向けた息子だが、ラモナ騎士団に退路を断たれて逃げようがない。
さらに青くなって降伏を申し入れようとしたが、遅かった。バルロの剣が振り返った男の首を一撃に斬り飛ばしていた。
敵を討つどころかさんざんに追い散らされた領主勢が逃げ去り、戦闘が終結した後、ナシアスはあらためてラモナ騎士団の勇士たちと再会を喜びあった。
どうしてこの場に駆けつけることができたかという主人の問いにガレンスは肩をすくめて、「鳩を使いました」
と、言った。
「王宮に閉じこめられたバルロさまが、いつまでもおとなしくしているわけはありません。このジョシュアをマレバ近くの僧院に見習いとして潜り込ませまして、何か動きがあったらすぐさま知らせるように命じておいたんです。そうしましたら一昨日、バルロさまの様子伺いに出かけたアスティンが戻ってくるや否や、たちまち戦《いくさ》支度を始めたと知らせてきましたのでね。これはもう、エブリーゴ以外に目指す場所はありません。で、私どもも遅れては大変と慌てて駆けつけてきたわけです」
「しかし、あれから丸二日と立っていないはずだが……」
「もちろんビルグナにいたのでは間に合いません。
ですから全軍、演習の名目で東へ移動しまして、アリアムという村の郊外におりました。もちろん砦の守りは残しておきましたとも。当地の領主の許可もちゃんと取りました」
ジョシュアが嬉しそうに言う。
「私の故郷なんです。鳩は兄が飼っていまして、それでアリアムを目指して飛んでくれたんです」
結果、まさに間一髪で間にあってくれたわけだが、嬉しいと言えば嬉しいのだが、どうにも面はゆい。
「無茶なことをする。私がここに来ていなかったらどうするつもりだったのだ?」
「いらっしゃらないつもりだったんですか?」
不思議そうに言われて頭を抱え込んだナシアスである。
さすがに返す言葉がない。
さらにはバルロも渋い顔だった。
「アスティン。そう簡単に戦支度を悟られるとはお前も情けない。極秘にと言ったはずだぞ」
「いたしましたとも。それはもう厳重に。そう……この若者が砦の周りをうろうろしている時以外は」
今度はバルロが頭を抱えて捻った。同時にジョシュアが赤くなった。
「あの、ではあの……、私が砦の様子を探っていることをご存じだったのですか?」
「気に病むことはない。私はナシアスさまに仕えているお前を何度も眼にしているのだし、騎士が変装を得意とする必要もない。顔を知られているお前をああした役目に送り込んでくるガレンスの無恥《むち》こそ責められるべきだ」
ガレンスはスパイと見破られることを承知の上でジョシュアを送り、アスティンも通報されることを承知の上で情報を洩らしたわけだ。
そのガレンスがいかにも心外の顔で言う。
「団命を無視するような奴が俺を恥知らず呼ばわりするのか」
「出動命令を受けずに出撃することは団命無視にはならないのか」
互いにいい性格の副騎士団長である。
そんな彼らをバルロが一喝した。
「馬鹿者どもが。なれあっている場合か!」
本気の怒号だった。さすがに二人とも軽口を止め、顔色をあらためてその場に控えた。
バルロの表情はおそろしく険しい。
いつもなら豪放|磊落《らいらく》のティレドン騎士団長である。
真っ先に副官たちの軽口に乗ってくるのに、大勝利の後とも思えない厳しく引き締まった顔だった。
「ナシアス。一足先にコーラルへ戻ってくれ。俺は寄るところがある」
「どこへ……」
「ブラシアだ!」
これまた吠えるように言う。
戦闘が終わったばかりのティレドン騎士団は全軍撤退の準備を進めている。あちこちで負傷者の手当てが行われ、兵糧係は館内から食料を運び出して荷車に積んでいる。皆きびきびと動いているのだが、バルロはそんな彼らをさらに急《せ》かした。
「急げ、すぐに出発するぞ!」
これがナシアスには訝《いぶか》しく映った。
ブラシアのアエラ姫は今度の企みの主要人物には違いないが、マグダネル卿が死んだ今となっては放置しても差し障りはないはずだ。驕慢で我の強いアエラ姫だが、勇敢であるとは言いがたい。卿が死んだことを聞けば盛大に怒りはするだろうが、同時に保身を考えるはずなのである。
自分以上にそれを知っているはずのバルロが何故、こうも慌ただしく母親に会いに行こうとしているのか、それが気になった。
「待て。私も一緒にいく」
バルロは何か言いかけたが、ナシアスは先を言わせなかった。
「どんな用事があるにせよ、ラモナ騎士団がいたほうが都合がいいだろう。お前たちは疲労の限界に達している」
せせら笑ったバルロである。
「この程度で参るほど俺たちはやわではないがな。
来るというなら止めはせん」
バルロの態度を訝しく思ったのは、ガレンスもアスティンも同様である。
しかし、出発間近だ。今はそのことにかまけている暇はない。アスティンは激戦を繰り広げた部下たちの様子を窺いに行き、ガレンスも細かい指示を出すために小荷駄隊の様子を見に行こうとした。
その拍子に一人の小者と正面から顔を合わせる格好になった。
小柄ながら大きな荷袋を抱えている。汚れた顔で巨漢のガレンスを見上げ、にっと笑ってみせた。
うちとけた親しげな表情だ。
最初は誰であったかと首を傾げた。が、気づいたガレンスは慌てて声を飲み込んだのである。
グリンダ王女だった。
顔に土をなすりつけ、髪はぼろ布で覆い、身につけているものも騎士団に従う小者そのものだ。
王女はこうしたことをやらせると実に堂に入っていて、周りの者は誰も気づいていない。
眼を白黒させていると、王女が低く囁いた。
「知らんぷり、知らんぷり」
ガレンスも急いで表情を引き締めた。訳はわからないが、王女は自分のことを知られたくないらしい。
どうにかいつもの笑顔をつくり、声だけは緊迫の調子で言った。
「姫さま……。脅かさんでください。何をなさっているんです?」
「後で話す。それよりこれを預かってくれないか」
王女が担いでいるのは天幕をたたんで納めてある荷袋である。行軍には必要不可欠なものだ。
特に預かれと言われるほど大事なものでも珍しいものでもないが、ガレンスの脳裏に閃《ひらめ》くものがあった。
「中身は……人ですか?」
「ああ。ブラシアまででいい」
久々に王女の得意技が出たらしい。苦笑が浮かびかけたが、抑えた。
「誰かは知りませんが、身がもたんでしょう」
「大丈夫。くたばるような奴じゃない。とにかく誰にも見られたくないんだ」
ガレンスは少し考えて、自分の荷駄車に積もうと言った。団長個人の天幕や諸道具を運ぶもので、ガレンスはこんな緊急の出動の際にもちゃんとその用意をしてきたのである。
「あれならば私の従者が管理します。他の兵士は近寄りません」
「その従者たちにもくれぐれも開封厳禁だと言っておいてくれ」
よほど見られたくないものが入っているらしい。
いかにも妙な頼みだが、ガレンスは素直に頷いた。
この人にして人にあらず、少女にして少女にあらずとしか思えない王女に、四十男のガレンスは絶対の信頼を置いている。
「しかし……、ナシアスさまにも内密にしなければいけませんか?」
「今はな。あとでおれから話す」
「わかりました」
端で見ていると、気さくなガレンスが小者を捕まえて立ち話をしているように見える光景だった。
「お手伝いしましょうか」
「副騎士団長が小者の手伝いなんかしたら目立ってしょうがないぞ。じゃ、また後で」
王女はそれだけ言いおいて、忙しく働いている従者や小者たちの中へ混ざっていった。
両騎士団はそれからすぐにエブリーゴを発し、凱旋《がいせん》とは思えないほどの速度でブラシアを目指した。
バルロはその道中ずっと険しい顔だった。ナシアスやアスティンが話しかけてもろくに答えない。
四千の軍勢は日が暮れてからブラシアに入り、バルロはまっすぐアエラ姫の館を目指したのである。
静かな夜をかき乱すようにして大軍を率いてやってきた当主に、館の召使いたちは仰天した。
しかも、仁王のような逞しい体躯は上から下まで血と泥に汚れ、黒い両眼は殺戮《さつりく》の余韻《よいん》を残して光り、悪鬼もかくやという形相《ぎようそう》である。
母に会いたいという当主の言葉にもとっさに反応できなかった。口をきくのも恐ろしかったのだが、返答の遅れに相手の気配がみるみる殺気を帯びるのを見て慌てふためき、しどろもどろになりながら、母上様はもうお休みでいらっしゃいますと説明した。
「ならば母の寝室へ案内しろ!」
「そ、そ、そんな……」
二度仰天する。
高貴な婦人は乱れた姿を人に見られることを最大の恥であり侮辱とした。親子だろうと例外ではない。
夜間に貴婦人の寝室へ押し入るなど、その夫だけに許されている振る舞いだ。
召使いたちが必死にバルロをなだめる間に侍女が転がるように走り、アエラ姫に取り次いだのである。
寝入りばなを起こされて不機嫌だったアエラ姫も事情を聞くと不安な顔になった。
この時はまだ、エブリーゴで何が起こったかを、姫は知らない。しかし、侍女が語るにはバルロは血に染まった戦装束をまとい、数千の軍勢を引き連れて現れ、しかも恐ろしい形相だという。
「仕方ありませんね。会いましょう」
そのためには衣服を整え、髪を結わなければならなかった。ばかばかしいことだが、姫にとってはそれが当然なのだった。夜着のまま髪も結わずに人と会えるわけがない。それがわが子であってもだ。
ところが、侍女たちに服を用意するように言いつける間もなく、バルロが寝室の扉を蹴破るようにして押し入って来たのである。
侍女たちが悲鳴を上げた。
アエラ姫も愕然《がくぜん》とした。不安を忘れて怒りに震えながら叱りつけた。
「ノラどの! 場所柄をおわきまえなされ! 無理に押し通るとは無礼でありましょう!」
「お休みのところ恐れ入りますが、人払いを願います、母上」
なまじ丁重であるだけに壮絶な声音だった。
「い、いくらお急ぎとはいえ……」
言い返す姫の言葉にも力がこもらない。それほどバルロの様子は尋常ではなかった。召使いも侍女たちも言われる前に寝室から逃げ出した。
二人になると、バルロは母親を睨《にら》み据えたまま、ずいっと進み出た。押し殺した声で言う。
「どこに依頼しました?」
殺気さえこもった囁きだった。
「ノラどの。こんな時間に唐突にいらしていったい何をおっしゃいます」
「従兄上《あにうえ》の暗殺をどこに頼んだのかと聞いているのです」
アエラ姫は呆れたような顔になった。同時に少し落ちつきを取り戻したようだった。
「そのことならば身に覚えはないと申し上げたはずではありませんか。またもやそのような讒言《ざんげん》を真《ま》に受けて、公爵の身にもあるまじき無体な振る舞いをなさいますのか」
バルロはその先を言わせなかった。手にした包みを解き、中身を取り出して突きつけた。
「よくごらんなさい。あなたのその強情の結果がこれだ!」
マグダネル卿の生首だった。
アエラ姫は最初ぽかんとそれを見た。なんなのかわからないふうだった。
そこにあるのが自分の義弟であり、情人でもあった男の成れの果てだと認めるまでどのくらいかかったのか、やがて姫の唇からはすさまじい悲鳴があふれたのである。
完全な狂乱状態だった。男の首にすがって泣くのではない。眼を背けて騒ぎ立てた。
単に驚いたというのではない。汚らわしいと、どこか見えないところへ持っていってもらいたいとの様子があった。
事実、恐怖と衝撃にわななきながら、姫は息子に非難の叫びを浴びせたのである。
「よしなさい! そんなものを私の寝室に持ち込むのは!!」
「薄情な方だ。それではこの男も浮かばれまい」
言われてようやく悲しみが湧いてきたのか、姫は新たな悲鳴を上げた。
「ど、どうしてこんなことを!?」
「どうしてとはよくおっしゃる。あなたのせいだ」
「わたくしが何をしたというのです!? マグダネルどのにしても同じこと。あ、あなたはよくも叔父である人にこんなむごい真似を!…」
「こんな男は叔父ではない!!」
もっとも強い調子でバルロは言った。
「あなたもだ。母上。サヴォア公爵夫人の名において答えてもらいましょう。この男の企みを全て!!」
「た、たくらみ……」
「すべてわかっているのだ。あなた方は、いいやあなたは、神をも恐れぬと言ったその舌の根も乾かぬうちに――あるいは手を回した上でおっしゃったのかもしれませんが  従兄上の暗殺を決意し、あの一族に依頼した!」
アエラ姫は死にものぐるいで首を振った。
「知りません。わたくしは何も知りません!」
「まだそんな言い逃れをおっしゃるか! この男は死ぬまぎわにはっきりあの一族の名を口にしたのだぞ! よりにもよって国王を、しかも兄の子を暗殺しようとは、あなたの体にはもはや王家の血も誇りも一片も残ってはいないのか!」
「違います! あの男ではなく、あの娘を!!……」
あっと口を押さえたが、遅い。
「詳しく話してもらいましょう」
バルロの眼光はアエラ姫を貫き、睨み殺さんばかりである。否《いな》と言えば実の母親だろうとただではおかない、そうした気迫に満ちていた。
アエラ姫は震えながらあらいざらいを語ったのである。
しかし、聞いたバルロは鼻を鳴らした。
世迷《よま》い事にもほどがあると思った。あの王女が亡くなれば従兄《あに》の王権は砂塵のように崩れ落ちる? しかもその根拠は魔法街の易者の占術だというのでは、バルロにとってばかばかしいの一語につきる顛末《てんまつ》だった。
こうも考えた。マグダネル卿は本当に国王暗殺を企んでいたのだろう。ただし、事が事だけにアエラ姫には黙っていて、代わりにこうした創作話を聞かせたのだろう。なんと言っても女だ。それもあまり賢くない。現国王と出来合いの王女では、同じ暗殺するにしても心構えがだいぶ違う。
「それで。その暗殺をどこに依頼したのです?」
「知りません」
真っ青な顔で首を振る。
どうやら本当に知らないようだった。
アエラ姫にしてみれば『あの一族』が動き出した事実だけで充分だったのだろう。確かに、普通ならそれ以上を知る必要はない。狙われた相手が不慮の死を遂げるのを酒でもなめながら黙って待っていればいいのだ。
こんなことなら叔父を殺すのではなかったと歯がみしたが、手遅れである。
「よくわかりました。しかしながら、直接従兄上を狙ったものではないにせよ、あなたの逆心もまた、疑いようもない。それがよくわかりました」
言い捨ててバルロは館を後にした。
ブラシアにはアエラ姫が住んでいる館の他にも、公爵家の別邸がある。
滅多に使わない館だが、召使いが住み込んで管理し、いつ立ち寄ってもいいようにしてある。
バルロはナシアスとともにこの館に入り、両騎士団はその周りに天幕を張って、夜陣の支度にかかった。
アエラ姫の館から出てきたバルロはそれまでの疲れが一気に襲ってきたようである。風呂をつかってさっぱりした姿になり、腹ごしらえをすませると、ものを言うのも億劫とばかり長椅子に転がった。
ナシアスも風呂をつかわせてもらって相伴《しようばん》にあずかっていたのだが、さすがにこの辺が限界である。
酒肴《しゆこう》を運んできた小者を下がらせて、さりげなく尋ねた。
「アエラさまとはどんなことを話してきたんだ?」
バルロは長椅子に寝そべったまま面倒くさそうに答えた。
「なあに、叔父の首を見せてやっただけのことだ。
見たいだろうと思ったからな」
「それにしては血相を変えていたな」
「当然だろう。戦の後だぞ。しかも相手は外道《げどう》とはいえ、一応は叔父だ」
・淡々とした口調である。
ナシアスはそっとため息をついていた。
一度こうなると、この男は決して口を割らない。
それはよくわかっていたのだが、今は何故か捨て置けない気がした。
「バルロ。真面目に答えてくれ。サヴォア家の内部事情は私の関与するところではない。興味もない。
だが、国の動向なら話は別だ。卿は隣国と手を結んで王権打倒を企んでいた。卿が死んだ今となってもまだ何か……根本的な解決はしていないと、お前は考えているのだろう?」
「考えすぎだ。それよりそんなことをあまり大きな声で言うな。誰に聞かれるかわからんぞ」
さらに苦いため息を吐き、懲《こ》りずに再度問いつめようとしたナシアスだが、外の物音を聞きつけて口をつぐんだ。
陣営のほうで何やら騒ぎが起きている。
今までもにぎやかに手柄話に興じていたのだが、それとは違う。驚愕《きようがく》と緊張の半々くらいの気配だ。
「何ごとだ?」
召使いを確認にやらせようとした矢先、若い兵士が息急ききって二人のもとへやってきた。
「申し上げます。ただ今コーラルから姫さまが……、グリンダ王女がお着きになりました!」
「なに!?」
二人は同時に腰を浮かせたのである。
王女はただ一騎で現れ、国王の名代《みようだい》で参ったことを告げ、両騎士団長へ面会を望んでいるという。
兵士たちが緊張するのも当然だった。自分たちの指揮官のしたことが王の意思に背くものだったのは先刻承知の上である。普段なら王女の姿を見れば喜んで迎える兵士たちだが、どんな理由であるか容易に想像がつくだけに、ただ遠巻きにして窺っていた。
「姫さま!」
陣営からガレンスとアスティンがそれぞれ出迎えに飛び出してくる。
むろん王女とも顔馴染みの二人だ。
王女はいつもの山賊の少年のような格好ではなく、美麗な男装だった。恐らく今の立場を考慮したものだろう。夜目にも輝く金の髪を結い上げて、グライアにまたがった姿は実に美しく、勇ましかった。
「おれは国王の名代として両騎士団長に王の言葉を伝えに来た。意味はわかるな」
二人とも固い顔で頷き、アスティンが王女を案内して館に向かった。その際、王女はガレンスに何か囁き、ガレンスもそっと頷きを返したのである。
一方、ナシアスとバルロは表向きは神妙に、かつ苦渋に満ちた面もちで王女と面会した。
場所は館内の広間である。
アスティンや何人かの騎士が見守る前で、王女は毅然《きぜん》とした態度で王の言葉を告げた。
今度の両騎士団長の行いはまことに遺憾であり、許しがたい暴挙である。両名ともただちに王宮へ戻り、事の次第を釈明してもらおうという、あの国王にしてはもっとも厳しい調子だった。
ナシアスは神妙に頭を下げ、その場にいた騎士たちは身のすくむ思いをしたが、バルロは不敵に笑ったものだ。
「従兄上とも思えない愚かなことをおっしゃるものだ。このバルロには言い訳するようなことなど何もないが、聞きたいと言われるならとくとご説明いたそう。そもそも理不尽な喧嘩を仕掛けてきたのは叔父のほうですぞ。俺は受けて立っただけだ」
「その言い訳はウォルの前で言うんだな。ただし、覚悟はしておいたほうがいいぞ。今度という今度はあの男も堪忍袋の緒が切れたらしい」
バルロは憮然となった。
騎士たちもある程度は覚悟していたこととはいえ、あるものは青ざめ、あるものはうなだれた。
ナシアスも固い顔である。ただし、この人はさすがに礼節を心得ていた。遠距離を駆けつけた王女に丁重に礼を述べ、館の主人の意向を無視してではあるが、今夜はこちらで休息されていかれますようにと申し出た。
バルロが相づちを打った。
「これは俺が申し遅れました。今すぐ部屋を用意させましょう。王女には野宿のほうがお好みかもしれませんが、多少の不自由は我慢していただきたい」
「世話になろう。ところでその用意が整うまで、もう少し詳しい話をしておきたいが……」
言いかけて、不自然に切る。バルロは面倒くさそうに、控えている騎士たちに言いつけた。
「お前たち、しばらく遠慮しろ。王女は内緒話をご所望らしい」
騎士たちははらはらしながら団長の言葉に従った。
難しいことにならないようにと祈るような顔つきで控えの間に下がったのだが、王女はそんな彼らをさらに廊下まで追いやり、固く扉を閉めたのである。
逆に控えの間と広間との扉は開け放った。誰かがそっと入って来て聞き耳を立てたりしないようにとの用心である。
人がいなくなると、彼らの様子は一変した。
それこそ内緒話の顔つきである。バルロは口元に笑いを浮かべて軽く肩をすくめ、ナシアスも一応はかしこまっているが、眼が笑っている。
王女も微笑している。無理に困ったような表情をつくって言った。
「無茶をしたな。ナシアス」
ナシアスも微笑を返した。
「申し訳ありません。せっかくのご忠告を無にしてしまいました」
「いいさ。ウォルも苦笑してた。あれほど内密にと言ったのに、従弟《いとこ》どのはやはりナシアスには黙っていられなかったらしいってさ」
「黙って行ったらどんなことになると思います?こいつのことだ。死ぬまで人の耳元で文句を言い続けるに決まっています」
バルロも笑っていたが、その笑いを収めて真顔になる。
「王女。ここで会えたのはまことに都合がよかった。
実は非常に厄介なことが……」
「おれも騎士団長に聞きたいことがある」
王女はバルロの言葉を遮《さえぎ》って言った。
「団長はファロットというのを知っているか?」
バルロの顔色が一変した。ナシアスも緊迫した表情で問い返した。
「姫さま。それは……」
「ナシアスも知ってたのか?」
「かろうじて噂だけは耳にした覚えがありますが、その名前を何故、姫さまが口にされるのです?」
「おれはそいつに命を狙われているらしくてな」
あっさり言って王女はバルロに視線を戻した。
「アエラ姫の屋敷へ押し掛けたんだって?仮にも実のお母さんだ。あんまりひどいことはするなよ」
「できれば一生かかわり合いたくはない女です」
バルロは断言して、目線を険しくした。
「王女。これは俺の失態だ。今さら詫びても遅いが、どうせ母のすることだ、大したことはできまいと高《たか》をくくっていた。それが……」
ナシアスが顔色を変えた。
「どういうことだ、バルロ?」
バルロは答えなかった。苦虫を噛《か》み潰したような顔だった。それこそ一応は生みの母なのだ。
ナシアスは血の気を失い、真っ青な顔になっている。まさかと思った。いくらその出自が気に入らないからといって、実の甥であり、現国王である。
「まさか。まさか、アエラさまは……」
「ああまで血迷っているとは思わなかった」
稔るように言ったものだ。
「王女の暗殺に関しては白状したが、それだけであるはずがない。少なくともマグダネルの狙いは従兄上だったはずだ。今となってはどこへこの話を持ち込んだのか!」
その怒りを押し止めるように、王女が訊いた。
「騎士団長。そこが聞きたいんだ。『ファロット』に頼んだのはわかっているのにどうして『どこへ』なんてことになるんだ?」
逞《たくま》しい肩をすくめて、ため息をついたティレドン騎士団長である。そうして、からかうような眼でナシアスを見たものだ。
「席を外してくれと言っても無駄だろうな」
ラモナ騎士団長は少し首を傾げた。
「外してもかまわないが、二度手間になるぞ。後で同じことを聞かせてもらうつもりだから」
「では、今から俺が話すことは生涯、口外無用だ」
「誓う」
どちらも一転して重い声だった。特にナシアスは真摯《しんし》な顔で頷いたのである。
「白百合の紋章にかけて生涯、沈黙を守る」
バルロも頷きを返して、王女を見た。
「まずお断りしておきたいが、俺自身はそうしたものたちを使ったことなど一度もない。俺には必要のないものだ。ただし、残念ながら、世間には剣と軍勢だけでは解決できない問題が多々あります。解決したと思われることでも不服とするものもいます。
そうした場合に、この連中ほど重宝するものはない。
この一族というもの、どのくらいの数がいるものかさっぱりわかりませんが、ご指摘のように、同じ名を名乗っていてもいくつにも別れているんです。俺が知っているだけでも連絡を取る方法が何種類かありますが、困ったことにそれぞれ違う組織につながるらしい」
「つまり、ファロット一組、二組、三組って具合にか?」
「いかにも」
「で、それらは勝手に動いているわけだな?」
「おそらく。互いが互いを何とかして始末したいと企んでいるもの二人がほぼ同時に頓死《とんし》したとなると、それぞれ相手の暗殺を頼んだとしか思えません」
「そういう例が実際にあるんだな?」
「いくらでもね。どこの誰とは言いませんが……。
もちろん、あの一族が単なる恥知らずであり、なにくわぬ顔で両方の依頼を受けた可能性もあります。
ですが奴等は常連を大事にします。常連と、そこからの紹介をね。何しろかかるものが半端ではない。
それだけの報酬を払えるものとなるとそうざらにはいませんし、奴等にしたところで仕事を頼んでくれるものがいなければ商売にはなりません。ですから自分のところの常連を、いくら頼まれたからといって殺してしまうようなことはまずないと思います。
それよりは他の連中が自分の客に頼まれてやったと考えるほうが自然でしょう」
「これは聞いたらいけないのかもしれないが……、連絡を取る方法は?」
「お話ししても始まりません。他愛ないことばかりですのでね。たとえば、あくまでたとえばだが……、庭の木立の上に赤い布を結びつける。指定された神殿に供物をそなえる。そんなところです。もしくは仲介人を訪ねる」
「魔法街にか?」
「そうです。あの街にはそうした仲介を生業《なりわい》にしているものが何人もおります。あの男も恐らくここを頼ったのでしょうが、『誰』に頼んだのかが問題なんです。それによって実際に動く者が違ってくる」
ここでバルロは苦い息を吐いたものだ。
「従兄弟《いとこ》たちが次々と死んだ一件、あれもそうしたことが原因だ。馬鹿どもが、自分の利益のみを考え、自分だけだと思いこんで、競争相手を蹴落とそうとしたに違いない」
首を傾げた王女である。
「その話なら宰相に聞いた。ただわからないのは、競争相手本人を殺せばいいのに、どうして王子王女だったんだ?」
デルフィニア屈指の大公爵の顔に皮肉な笑いが浮かんだ。それはまた何とも言えない陰鬱《いんうつ》な苦笑でもあった。
「直接の競争相手が死んだのでは誰がやったかすぐにわかってしまいます。何より自分の支持する相手を王位につけるためには他の王位継承者が邪魔になります。しかしだ、俺はこう思っている。本人の意思が関与したのではないにせよ、エリアスを殺したのはルフィアであり、ルフィアを殺したのはエリアスに違いないとね」
ナシアスが絶句した。
王女もさすがに緑の瞳を見開いた。
「……八歳の王子と二十歳にもなっていない王女が、互いを殺しあったっていうのか」
「ですから本人の意思かどうかはもう確かめようがありません。周囲の馬鹿どもにそそのかされたのかもしれません。弟君は、姉君は、あなた様を亡き者にしようとしております、その前にこちらのお命を守る意味でも思いきってなされるべきですとかなんとかな。そう言われれば誰しも不安になる。もしくはその馬鹿どもが独断で計らったのかもしれません。
エリアスはご承知のように年少で病弱な性質でした。
一方、ルフィアは母に似て気の強い娘でした。このままではエリアスは形ばかりの国王にされてしまうとその側近が考えてもおかしくない。同時にルフィアの側近はあの弟君にはとても国王はつとまらない、そのくらいなら女王を立てて近隣諸国から有力な花婿を獲得するのが益だと考えたのかもしれない。ばかげた話だ。結局、一人残ったエヴェナも心労と衝撃に倒れて病死した。それも本当の病死かどうかは怪しいものだがな」
吐き捨てるような口調である。
「あの時も俺は出遅れた。こうしたことに思い至ったのは二人が変死を遂げた後のことだ。しかしだ、どんな馬鹿でもこの上あの一族を用いることはないと思っていた。今さら俺の監督不行き届きを悔いても何にもならんが……、つくづく愛想が果てたわ」
ナシアスは端正な顔を緊張に強張らせ、同時に、半ば呆然とした様子でバルロを見つめていた。
あれで案外、隠し事が得意かもしれないと冗談混じりに王女に語ったナシアスだが、まさかこれほどの秘密を、この男が腹の中に収めていたとは思わなかったのである。
しかし、沈黙の誓いを守って、そこに控えていた。
王女は首を傾げている。
「つまり、今の段階では『どの』ファロットが実際に暗躍したのかわからず、依頼を止めさせることもできないと?」
「その通りです。仲介人同士は互いに一面識もない。
俺の知っている限りの仲介人を締め上げたとしても、連中は単なる取り次ぎでしかない。来た客がどんな依頼をするのかまでは知りません」
「知らない?」
「ええ。あの一族と連絡を取りたいと申し込むと、ひとまずはお帰りくださいと言われる。お伝えしておきますから、しばらくお待ちくださいと言うんですな。それから場所を指定されて、はじめて相手と会うことになるんですが、向こうも慎重でしてね。
滅多なことでは姿を見せません」
「実際に行ったことがあるみたいな言い方だな?」
「ええ」
あっさり頷いたバルロに王女は眼を剥き、ナシアスは血相を変えた。
「バルロ!?」
「慌てるな。噂に高い秘密結社の顔を見てやろうと思ってな。ためしに行ってみただけだ」
「お前……、悪い遊びにも限度があるぞ!」
さすがに疲れたように叫んだナシアスである。
王女も苦笑していたが、こちらは事務的に話を進めた。
「それで、会えたのか?」
「いいえ。最初に行った時に十日たったらまた来てくれと言うので、その通りにしましたら……」
バルロはひょいと肩をすくめた。
「いないんです。近所のものの話では三日前に急に越してしまったと言うんですな。俺はもちろん名乗らなかったし、顔も隠していきましたが、どうやら冷やかしの客はちゃんと見分けるらしい」
王女は首を傾げた。
冷やかしの客が来るたびに店じまいをしていたのでは商売にならないのではないか。
そう言うとバルロも頷いた。
「俺がその仲介人をどうして知ったか……。それは言えませんが、それなりの身分の人間でなければ知り得ないものだったとは言っておきます。恐らく、何らかの方法で俺の身元を確認したのでしょうな。
しかも、仕事を頼みに来たわけではない。となると、これは危ないと判断したのではないでしょうか」
確かにサヴォア大公爵が直々のお出ましとなれば、相手が身の危険を感じても不思議ではない。
ナシアスがまた冷や汗を拭った。
「お前の恐いもの知らずは手に負えないな。本当にその連中が接触してきたらどうするつもりだったんだ?」
バルロは笑って言った。
「こんなことになるのなら、人知れず母を始末してくれとでも頼めばよかったかな?」
「バルロ!」
ナシアスも今度は本気で気色ばんだ。
「冗談でもよせ。言っていいことと悪いことがあるぞ!」
「国王暗殺を企むような女だ」
底冷えのするような目線に、ぞくりとする。
長いつきあいで、この友人の気性も知りつくしているつもりだったが、思わずひるんだ。
緊迫した空気の中に、王女のやんわりとした声が割って入った。
「大丈夫。お母さんとマグダネル卿が狙ったのは、おれだけだ。ウォルは無事だよ」
「確かに母もそう言ったが、それが何になります?それでは従兄上を王座から追放するどころか、逆に激しい怒りを買うのが落ちだ。あなたがいなくなれば従兄上は失脚するとか何とかわけのわからないことを言っていましたが、そんな馬鹿なことがあるわけが……」
「あるわけがないとおれも思うが、お母さんとマグダネル卿がそう思いこんでいたのは確からしい」
と、王女は肩をすくめて、「魔法街の連中、示し合わせて同じ卦《け》を出したんじゃないかと思うがな。いいや、魔法街だけじゃない。
タンガの占い師もだ」
バルロが探るような眼で王女を見た。
「すると? 本当にあなただけが狙いだったと?」
「アエラ姫は団長に問いつめられて、おれの暗殺のことを正直に白状しちまったんだろ? そんな人に国王暗殺を計画するだけの度胸があるのかな」
今度は首を傾げて考える顔になる。
「まあ、それは確かに、分不相応なことを企んだものだとは思いましたが……」
「マグダネル卿も同じさ。さすがに現国王の暗殺となると思い切れなかったんだろうよ。でも、どこの馬の骨ともわからない出来合いの王女なら話は別だ。
大喜びで百回でも殺すんじゃないか」 ナシアスが顔色を変えて言ったものである。
「姫さま。笑い事ではありません。それではあなたのお命が危ない。依頼人の卿が亡くなったところでファロット一族は必ずあなたを狙うはずです」
「それなんだけどな。それこそ二人とも、これから何を見ても何を聞いても、口外無用を誓ってくれるか?」
唐突な言葉である。二人は互いの眼と眼を見交わしたが、異口同音に沈黙を誓った。
王女は礼を言って、広間の窓をまたいで外へ出ていった。
この広間は屋敷の最奥にあり、壁一枚隔てた外は裏山である。夜陣もここには設営されていない。
何をするのかと思って見ていると、王女は大きな荷袋を抱えてまた入ってきた。
「何です。それは?」
「昼間の内にガレンスに預けておいたんだ」
「ガレンスに?」
「昼、というのはいつのことです?」
「マグダネル卿の館。撤退の準備で大忙しだったから、割と簡単に潜り込めた」
さすがに二人とも驚いた。
「あの時、いらしたんですか?」
「だったら手伝ってくれればいいものを」
「冗談。おれが顔を出したらウォルの計画はそれでおじゃんじゃないか。それにおれは騎士団長の勝ちを信じてたぞ」
「ほほう、では見物にいらしたのですかな?」
「そのつもりだった。ところがそこでおかしなものを拾ってな」
いいながら王女は荷物をほどいている。かなり厳重にくるんであったらしい。やがてその中から人を引きずり出したのを見て両騎士団長は眼を見張った。
初めは少女と見えた。乱れた長い銀髪が目を引いたからだ。
床に手を突いて息をしている。長い間拘束されていたらしい。苦しげな呼吸だった。
だが、少し息が整ってくると、顔を上げてその場にいた人々を見た。顔立ちも少女のように美しかったが、その眼がこちらを見た時、少年だとわかった。
きれいな紫の瞳だ。警戒と不安の表情を浮かべていたが、おびえてはいない。両騎士団長を見やり、王女に眼を移した。
口をきこうとはしない。立ち上がろうともしない。
床に膝を突いたまま、何とも言いがたい顔で王女を見上げている。
「何です、これは?」
尋ねたバルロに、グリンダ王女はあっさり言った。
「おれを狙っていたファロット一族だ」
シェラは呆然とあたりを見渡していた。
立派な広間だ。床には磨かれた上等の木材が張られ、壁には漆喰《しつくい》が塗られ、つくりつけられている燭台《しよくだい》は細工の施された銀製のものだ。貴族の中でも裕福なものの館に違いなかった。
目の前に王女とサヴォア公爵、それに見たことのない男がいる。この二人は唖然とした様子で、食い入るように自分を見つめていた。
「ば、馬鹿な……」
「姫さま!」
二人は血相を変えて王女に迫った。
「いったいどういうことです!?」
王女は眉《まゆ》をひそめて迫ってきた公爵を押し返した。
「ちょっと声を抑えろ。それでなくても団長の声は響くんだ」
「そんな呑気なことを言っている場合か!? わかるように説明してもらおう!」
それはシェラにとっても是非ともお願いしたいところである。
窓の外はすでに暗くなっている。ほとんど一口、拘束されていたわけだ。
意識を取り戻した時、シェラは自分がどこにいるのか全くわからなかった。それどころか身動きもできなかった。
分厚い布のようなものが全身を圧迫している。
かろうじて呼吸だけはできたが、何も見えないし聞こえない。もちろん脱出することもだ。
体に伝わる振動から、何かに乗せられ、運ばれているらしいということだけはわかった。自由になってはじめて、行軍用の荷袋の中にいたことを知った。
やることがむちゃくちゃである。
しかし、そんなことに怒りを感じている場合ではなかった。
公爵が激怒して、それでも声は抑えて王女に迫っている。
「これがあの一族だと、しかもあなたの命を狙っていたとどうしてわかる!?」
「話すと恐ろしく長くなるんだけどな」
王女はのんびりしたものだ。今日は革の胴着ではなく、少しばかりめかし込んでいる。
「こいつは初めは侍女として王宮に勤めてたんだ」
「侍女!?」
「王宮にですと! いつからです!?」
男たちが悲鳴を上げる。
「騎士団長から人間に気をつけろと忠告されたすぐ後だ。見張るつもりで西離宮で使いはじめて、それからおれの命を狙いだした。期限が来たら素性を話すって約束だったのに、勝手にいなくなるんだからな。せめて一言断ってから消えたらどうだ。カリンに説明するのが大変だったんだぞ」
これはシェラに向かっての文句である。
「お前は急に里帰りしたことになってるから、そのつもりで話をあわせろよ」
「姫さま!あなたはまさかわかっていてこの者を側で使っていたのですか!? しかも話をあわせろとはどういうことです!?」
「ナシアスの言うとおりだ。まさかこのまま王宮につれて帰って働かせようというのではないでしょうな!?」
「いけないか?」
けろりと言われて二人の男は完全に絶句した。
「結構よく働くんだ。料理もうまい。時々毒入りをつくるのが困るけど、食べなければいいんだから、たいしたことじゃない」
ナシアスと言われたのはラモナ騎士団長だろうが、額《ひたい》を抑えて盛大なため息を吐いている。
公爵は全身から火を噴かんばかりだ。相手が王女でなければ掴みかかっていたに違いない。
「いいか、王女! いくらあなたの意向でもだ!そんな無茶を従兄上がお許しになると思うのか!?」
「ウォルなら知ってるぞ。おれが話した」
二人とも再度絶句である。いいや、シェラもだ。
愕然として王女を見たが、にこりと笑い返した。
「黙っているとは約束しなかっただろ?あいつも好きにしろってさ」
そう言われればそのとおりだ。しかし、刺客と同居していることを国王に話す王女がいるとは、またそれを知りながら黙っている国王がいるとは、それこそ信じられなかった。
サヴォア公爵は拳を握りしめ、怒りのあまりわなわな震えている。
「あの人はまったく……、堪忍袋の緒が切れたのはこっちのほうだ! 今度という今度は勘弁ならん!徹底的に文句を言ってやる!」
その横ではラモナ騎士団長が、とことん据わった目つきで断言した。
「不本意ながら私も協力する」
そうして二人とも鋭い眼をシェラに向けたのである。
シェラは壁を背にして座り、そこにいる人々を用心深く見上げていた。
王女を除けば武装はしていない。しかし、自分も丸腰だ。三人を相手にはできない。
公爵が大きく息を吐いて言う。
「それで、そのあなたの侍女がどうしてここにいるのです?」
「ここにじゃない。エブリーゴにいたんだ。それもどうやらマグダネル卿を殺しに来てたらしいな」
バルロが顔色を変えた。同時にシェラも顔色を変えて思わず叫んでいた。
「あなたはどうしてあの場にいたのです!? それにどうして……」
震える声でシェラは言った。
「私を助けて、こんなことをしてまで連れてきたのはどうしてなんです」
王女は肩をすくめた。
「どうして袋詰めにしたのかって意味なら、素直に歩いてくれそうになかったからさ。おれの経験ではああいう時には有無を言わさず運んじまうのが一番いい」
ナシアスが微笑を浮かべかける。バルロも苦い経験を思い出したらしく渋い顔になったが、今はそれどころではない。
「あなたの命を狙っていたはずなのに、いつのまにか、あの男を殺そうとしていたと?」
「そう、それも二人で別々にだ。おまけに仲間同士で殺し合いを始めた。どういうことかと思ったが、今の騎士団長の話で納得できた。こいつらには横のつながりが全然ないらしいな」
ナシアスが疲れたように言う。
「姫さま。すみませんが、もう少しわかりやすくお願いします」
バルロのほうはそんなものではすまなかった。シェラの襟首《えりくび》を掴んで引きずり起こした。
「答えろ。あの男はお前たちの依頼主だったはずだ。
それを逆に殺そうとはどういうことだ。それとも誰かに頼まれてのことか!?」
引きずり立たされたとたん、シェラは自分から跳ねあがった。男の頭上を飛び越え、両足で背中から胴体にしがみつく。しかも同時に長い髪をバルロの首に巻きつけた。
一瞬の出来事だった。見ていたナシアスにもこの少年がどうやってバルロの後ろを取り、どうやってその首に髪を絡みつけたのかわからなかった。
あっと思った時には華奢《さやしや》な少年がバルロの背中にしがみつき、銀の髪がその首を締め上げていたのである。
しかし、この行動は少々無茶だった。
長い髪を紐代わりにしても、それで絞め殺されるようなバルロではない。ましてやシェラとバルロでは大人と子どもほどの体格の違いがある。
「この!」
バルロは一声吠えると、シェラを背負ったまま、背中から思いきり壁に体当たりした。その結果シェラの体は衝撃を吸収できず、まともに壁にたたきつけられたのである。
「ぐっ……」
思わず声が洩れる。
「おのれ!!」
虎が怒りの咆哮《ほうこう》をあげる。バルロはシェラの頭を片手で掴んで髪ごと引きはがし、思いきり床にたたきつけた。
そのまま殴りつけようとする。きまればシェラの顔はもちろん頭も無事ではすまなかっただろうが、その腕を王女が抑えた。
「よせ。団長の力でやったら死んじまう」
「かまうものか! 何故生かしておく必要がある!元を正《ただ》せばあなたの命を狙ってきたものだぞ!」
「おれは生きてるんだからいいじゃないか。それに一日すまきにした後なんだぞ」
「だから何だ!?」
すっかり頭に血が上っている。後ろを取られた腹立たしさもあったのかもしれない。そんなバルロに王女は静かに言ったものだ。
「団長は強いんだから、弱ってる相手を痛めつけるようなことはしちゃいけない」
これには言葉に詰まったバルロである。
捕らえた獲物を見下ろせば、今の衝撃が相当こたえたらしい。ぐったりと横たわり、肩を掴んだ手を振りほどこうともしない。ただ浅く息を継いでいる。
抵抗する気力も体力もかけらも残っていないのは明らかだった。
さすがにバルロも大きく息を吐いて肩をすくめた。
確かにこれ以上は悪戯《いたずら》に嬲《なぶ》るだけだ。
「弱っているにしてはずいぶん元気な動きでしたがな」
言いながらも手を離して立ち上がった。
「おれもちょっと驚いた。一日食べてないっていうのにな」
この間にナシアスは急いで控えの間へ行き、扉を閉めたのである。
これだけ騒げば、いくら廊下越しでも人に聞かれないわけがない。
案の定、立ち去るように命じられたにも拘わらず、ティレドン騎士団の団員や従者が慌てて駆けつけてきたのである。
「団長、何事ですか!?」
「よろしいでしょうか、団長。バルロさま!?」
さすがに許可を得ずに押し入ってくるようなことはしないが、扉越しにも緊迫した口調である。
ナシアスはできるだけ穏やかな表情をつくって、彼らの前に出ていった。
「ナシアスさま。今の物音は何です!?」
「団長の声が聞こえましたが……」
「いや、心配させて申し訳ない。何でもないんだ。
少しばかり話がこじれてな」
そうは言われても先程からの大声といい、ただ事ではないと思ったのだろう。一人がおそるおそる言い出した。
「あの、まさか団長は姫さまを……、その、まさかご打擲《ちようちやく》なさるようなことは……」
ナシアスは笑って手を振った。
「仮にバルロが手をあげたとしても、あの姫さまが打たれっぱなしでいらっしゃるわけがない。まあ、もう少し騒ぎが続くかもしれないが、たいしたことにはなるまいよ。すまないが、心得ておいてくれ」
「はあ……」
「ならば、よいのですが……」
「大丈夫だ。それより姫さまは空腹でいらっしゃるそうだから、何か整えてくれないかな? あの方は何しろたくさん召し上がるから、そのつもりで」
騎士たちはまだ不安そうな顔だったが、この人にこうまで言われて廊下の前に陣取っているわけにもいかない。引き下がっていった。
軽くため息をついて広間に戻ると、そこでは王女が刺客の少年に向かってお説教の最中だった。
「シェラ。お前もお前だ。今の状況と体格差を考えろ。団長相手にそういうことをするんなら、お前の体調が万全の時を狙って、団長をうんと油断させて浴びるほど呑ませてへべれけにでもした後でなけりゃ無理だぞ。こんなぶっとい首相手にお前の細腕で太刀打ちできるもんか」
「あなたにだけは言われたくないとこの小僧も思っているでしょうが……、エブリーゴでの合戦後からずっと袋詰めにしていたと言いましたな?」
「ああ」
バルロは呆れたように鼻を鳴らした。
「となると、確かにただの小僧ではありませんな。
そんな扱いを受ければ大の男でも疲労と空腹で動けなくなるはずだ」
シェラは衝撃と痛みに朦朧《もうろう》としながら、この会話を聞いていた。どうにか体を起こし、壁に背中を預けたが、それで精いっぱいだった。
明け方の男も力は強かったが、それは行者の腕力だった。公爵は戦陣の中で育った剽悍《ひようかん》無類の戦士である。桁《けた》が違う。
王女が止めなかったら自分は撲殺されていただろう。麻痺《まひ》しかけた頭の隅でどうしてなのか、王女は自分をどうしたいのかと考える。
その気配を察したのか、グリンダ王女はシェラの前に膝を折った。
「まだ賭けの期限は残ってるけど、お前は黙って抜けたわけだし、そろそろ喋ってくれないかな」
「……」
「おれはお前とあの男の話を全部聞いてた」
はっとなった。たちまち思考力が戻ってくる。
「全部……?」
「そうだ。おもしろいことを言っていたな。中央は難しいとか、魔の五年間で悶着があったとか」
シェラの顔ははっきりと青ざめていた。冷水を浴びせかけられたような気分だった。
ではまさか、もっとも知られてはならないことを、ダリエスの名をも聞かれてしまったのか。
濃緑の瞳の底まで覗き込む。少し困ったような表情が見えた。同時にその眼がかすかに頷いた。
シェラは震える体を抑えて懸命にその眼を見つめ返したのである。
「お前はあの男とは初対面だったんだな?」
ゆっくり頷いた。目の前には両騎士団長がいる。
ここでダリエスの名を出されたら終わりだった。
「ああいうことは今までにもあったのか、つまり、他の奴と鉢合わせするようなことだ」
今度は首を振る。
「騎士団長の話では、お前たちはいくつかの組織に別れているらしいが、互いに全然面識がないのか」
頷いた。
「それは、あの男一人だけか。それとも他の連中がどこにいて何をしているか、全然知らないのか」
また頷いた。
王女は少し首を傾げてさらに聞いた。
「なのに、それら全てがファロット一族を名乗っている?」
シェラの細い眉《まゆ》が寄せられた。
言葉の内容を反舞《はんすう》するような、訝《いぶか》しげな顔だった。
王女がもう一度言う。
「それがお前たちの名前だろう?」
「いいえ?」
これには王女が訝しげな顔になった。控えていたナシアスとバルロは疑わしげな呆れたような表情である。
「小僧、貴様、この期《ご》に及んで往生際が悪いぞ」
「いや、そうとも言えない。今までに捕らえられたファロット一族は一人もいないというし、滅多なことでは白状しないように訓練を積んでいるのではないかな」
どちらももっともな意見だが、王女は難しい顔で首をひねっている。
「ちょっと待てよ……。シェラ、お前そもそもファロットって名前を知ってるか?」
「いいえ」
真顔でシェラは答えた。はじめて聞く名前だった。
いや、はじめてではない。確か、いまわの際のマグダネル卿がそんなことを言った。サヴォア公爵もその名前にずいぶん衝撃を受けていた。しかし、それまでは誓って聞いたことがない。シェラの人生の中ではじめて聞く言葉だった。
王女はため息をついた。何やらしみじみと感心した様子で立ち上がる。
「なるほどなあ。今まで正体不明でいられるわけだ。
徹底してる」
「姫さま……」
「どういうことだ?」
訝しげな二人に王女は肩をすくめて言った。
「つまり、こういうことだ。実際に暗殺に働いているこいつらみたいな連中は、自分がファロット一族だってことを知らないのさ」
二人とも目を剥《む》いた。
「そんな馬鹿な!」
「依頼するほうにしても事が事です。相手を確認した上で頼むはずです」
「もちろん、仕事の交渉をする奴は知ってるだろう。
ただし、そうした連中は自分では絶対に動かない。
代わりにこいつらにやらせる。こいつらはこいつらで、どこそこへ行って誰それを殺してこいと言われると、かしこまりましたと言ってその通りにする。
失敗して捕まったとしても、知らないものは白状のしようがない。うまくできてる」
ナシアスは唖然とした様子で目を見張っている。
バルロは憤然と言い返した。
「それならこの者に指示を出した誰かを捕らえればいい。さらには本拠地がどこなのかを白状させればよいではないか」
「そんなことをこいつに白状させるのはたいへんだぞ。できるにしてもかなり時間がかかる。おれならその間に消えちまうな。さっきの団長の話にあった仲介人じゃないが、役人が押し掛けてくるのをただ待っていることはないからな。それにだ。もしもそこが本拠地じゃなくて単なる支部の一つなら、捨てることにもそう抵抗はないんじゃないか」
「確信ありげですな?」
「もう一人の男がそう言ってた。何かまずいことがあるたびに次々に新しい基地を開いているようなことをだ。たぶん、独立した個別の組織があちこちにあるんじゃないかな? 下の連中はそのことを知らない。上の連中は知ってるにしても互いの繋がりはそれほど緊密なものじゃない。だから今回みたいに命令の重複なんて事態も起きる」
ナシアスが首を傾げた。
「単なる手違いでしょうか。それとも依頼人が二人いて、別々の組織に頼んだのでしょうか?」
バルロも頷いて言う。
「それだ。別に俺はあんな外道は寝首を掻かれてもいっこうにかまわんのだが、同時に二か所から命を狙われるほど恨まれていたとは思えないのだが」
「一番殺したがってたのは騎士団長だが、団長なら自分でやるもんな」
「当然だ」
「しかもこの者は初めは姫さまの命を狙っていたというのでしょう? それを途中で放り出してまで卿を狙うとは、どういうことでしょう?」
「よほど手が足らなかったのか、それともこいつがよほど優秀なのか、どっちかだろうな。それはともかく、現場でこいつとその男は偶然にも出くわして、とたんに殺し合いだ」
二人とも眼を白黒させている。
「殺し合い?」
「仲間同士でですか?」
「だから、仲間なんて意識がないんじゃないかな。
近衛兵団だって所属が違えば競争相手だろ? あれがもっと極端になった感じだ。自分の仕事をやり遂げるためなら、邪魔をする者がいるなら、素性が同じものだろうと殺しちまう。ただ、ファロットにも色々あるらしい」
「いろいろ、と言いますのは?」
「その男はこいつとはまるで感じが違った。自分は暗殺請負人のファロット一族ですって看板ぶら下げて歩いてるような剣呑な奴だ。これ見てみな」
ここまでの会話をシェラは呆然としながら聞いていたのである。
何よりも守秘を重んじる自分たちが井戸端会議の材料にされている。しかも王女は今まで自分の知らなかったことを推察とはいえ、次々と語っている。
さらには王女が取り出したものを見て、シェラは悲鳴を上げそうになった。
鉛玉だった。
バルロにもナシアスにも初めて見るものである。
珍しそうに手に取っていた。
「鉛の塊のようですが……」
「これが何か?」
「形が違うだろう」
一つは正四面体に近い。それぞれの面がくぼんでいるため、自動的に角がとがっている。もう一つはずんぐりと丸い木の実のような形だった。
王女はその二つの鉛玉をシェラに見せて言った。
「角のあるほうはお前が持ってたやつだ。こっちの丸いのはあの男が使ってた。お前、この丸い形のを使ったことがあるか?」
ほとんど放心状態で首を振った。使うどころか見たこともなかった。そんな形の鉛玉があることすら知らなかったのである。
「やっぱりな。同じファロットでも場所によってそれぞれ特色を出すわけだ」
「王女。いったいこれを何に使うと言うんだ?」
「もちろん人殺しにだ。急所を狙えば一発だぞ」
「これを使ってですか?」
「こんなものでどうやって」
騎士である二人には剣や槍《やり》、もしくは弓矢、そうした正統派の武器が全てだ。にわかには信じられなかったらしい。
バルロが呆れたように言う。
「こんな小道具を人にぶつけても致命傷を負わせられるわけがない。眼や顔に当たれば別だが、怪我《けが》をさせることくらいがせいぜいでしょう」
論より証拠とばかりに角が尖っているほうを手に取り、漆喰の壁に思いきり投げつけた。
シェラが体をもたせかけている壁面である。
狙われたわけではないが、それでも思わず身をすくめた。
それはシェラの遥か頭上を通過し、左手のほうにぽたりと落ちた。
拾い上げたナシアスが同じように距離を取って離れ、壁をめがけて投じてみる。結果は同じだ。角がとがっていても漆喰の壁には刺さらない。
「ごらんの通りだ」
と、バルロは肩をすくめたが、そこで王女が進み出た。
「ところがだ。扱いに慣れると、こうなる」
軽く指ではじいただけの仕草に見えた。
しかし、シェラは耳慣れた、鉛玉が空を切る音をはっきり聞いた。
果たして小さな鉛の塊は一直線に空を切り、漆喰の壁に深々と食い込んだのである。
男たちが呆然と見守る中、王女は今度は木の実型の鉛玉を取って構えた。
「今のでも相当な威力だが、こっちはもっと凄い。
こういうことになる」
えい! と、気合いを掛けて王女が投じたそれは、前にもまして疾《はや》く鋭く空を切り、漆喰の壁を粉砕してその奥の板壁にめり込んで止まったのである。
バルロが喉の奥で低く捻った。
ナシアスは何か祈りの言葉を唱えたようだった。
そしてシェラはただただ絶句して砕けた壁を見つめていた。
王女一人が平然としている。
「丸いほうが重量がある分、破壊力もあるわけだ。
それだけに使いこなすにも力がいるけど、これで眉間《みけん》を狙えば熊でも倒れるぞ。人間なんかひとたまりもない」
バルロが深い息を吐き出した。
「王女……。頼むからそういうことをそう淡々と言わんでくれ! 心臓が止まるかと思ったぞ!」
「私は寿命が縮みました」
と、ナシアスも大きな息を吐いて冷や汗を拭い、座り込んでいるシェラに眼を向けた。
「この少年にも今のようなことができるとおっしゃるわけですね?」
「軽いのなら実際おれに投げつけてきた。重いのはどうかな。こつが違うからな」
ナシアスは感心したように水色の眼を見張った。
「それで無傷でいらっしゃるとはさすがです。どうやって避けられました?」
「剣で叩き落とした。矢を払うのと同じ要領だよ」
「そんなことはないでしょう。弓矢とこの武器ではだいぶ勝手が違うと思います。第一、今のはまるで見えませんでした」
「おお、そうだ。不覚だが俺にも見えなかった。今度こそ見極めてみせるから、もう一度やってみせてくれないか」
王女は呆れて声を上げた。
「無理言うなよ。くたびれるんだぞ」
「バルドウの娘が何をおっしゃるんです」
「そうです。もう一回、ぜひ」
二人は熱心に身を乗り出している。
シェラ一人が険しい顔だった。
王女の言うとおり、鉛玉は扱いに習熟しなければ威力を発揮しない武器だ。そのためには相当の訓練を必要とする。素人が短期間に身につけようとしてもできるわけがない。
後から投げた鉛玉は漆喰の壁を完全に貫通し、板壁に深々と刺さっている。よほど鍛錬してもこうはならない。自分より遥かに経験を積んだ年長者でもこれほどの威力を発揮できるものが何人いるか。
「どうして……」
思わず洩らした呟きに二人の男と王女は言い争いを止めて、シェラを見た。
「どうしてあなたが鉛玉を使えるんです!?」
悲鳴のような問いだった。
男たちはやっと、その疑問に気づいたようだった。
「なるほど、確かに」
「壁の命運よりそちらが重要だな」
その時には王女と二人の口論は、これ以上やったら壁が穴だらけになるだの、修復すればいいだの、きれいに塗ってあるのに壁に悪いじゃないかだの、先に壊したのはあなただ、出し惜しみをするなだの、とても聞いていられない方向へ進んでいたのである。
王女が真顔でシェラに問い返した。
「使えたら変なのか?」
「……変ではないとおっしゃる?」
「それなりの力があれば、後はこつさえ呑み込めば誰にでもできる。別にお前たちの専売特許ってわけじゃない」
シェラは再びうなだれた。一度も経験のないことだが、涙がこぼれそうだった。
「……どうして助けたんです」
「助けないほうがよかったのか?」
「こんなさらし者にされるくらいなら死んだほうがよほどましでした」
恨めしげな響きだった。手も足も出せない自分が惨めだった。こんな思いをするくらいなら、あの時、あの男の手に掛かって死んだほうがどれほどよかったことか。
王女はびくともしない。
「何度も言うが、賭けを放棄したのはお前のほうだ。
だったらおれのやり方でやらせてもらうさ。ここで開封したのはお前と団長の両方から話を聞くためだ。
コーラルへ戻れば団長とは自由に会えなくなるからな。だけどまさか、自分で自分が何なのか知らないとは思わなかったぞ」
「私はそんな……ファロットとかいうものではありません」
「じゃあ何だ?」
「……」
「お前は今まで自分を『何』だと思って暗殺の仕事に働いてたんだ? お前自身の意志じゃないことはわかってる。おれの暗殺も卿の暗殺も誰かにそうしろと言われたからだろう。そしてお前は理由も聞かずにその通りにする。何故だ?」
「それが……務めです」
「何の、だ?」
なに、と言うところに王女は重点をおいて尋ねる。
「生活の糧を得るのは家長の務め。主家のために働くのは家臣の務め。そうした信念をもって他人のために働き、時には命も投げ出す人たちがいる。だけどそれは同時に自分のためでもあるんだ。一家の主人である自分を励ますために、主家を支える家臣である自分を裏切らないために、結果的に人につくす。
それならお前は自分を何だと思って、何を支えにして、そうまで他人につくしてきた?」
シェラは大きく深呼吸した。切り札を握られている身では素直に答えるしかない。
「私は……私たちは、選ばれた一族です」
王女が眼を見張った。
「つまり、他の人とは違うって言いたいわけだな」
「そうです」
「どうしてその選ばれた人が人殺しを引き受けてまわる理屈になるんだ?」
「それが務めです」
正直に答えたのだが、王女は呆れたようである。
「お前、誰かは知らないが……お前に命令する人の言うことがおかしいと思ったことないのか」
王女には当然の疑問だったのだが、シェラにしてみれば愚問である。嘲笑《ちようしよう》を浮かべることで応えた。
「私たちは誰もそんな不遜《ふそん》なことはしません」
これには王女ばかりか、両騎士団長も眼を丸くした。
バルロが言う。
「確かに徹底しているな。不遜ときたか」
ナシアスも苦い顔だった。
「酷いことをするものです」
二人とも、この少年が非常に偏った価値観を植えつけられたものらしいとうすうす察していた。
わからないのはどんな教育をすればこんなものが育つのかだ。
「王女、冗談は抜きにしてこれをどうなさるつもりなのだ? この分では連れて帰ったところで侍女奉公を続けさせるのはとても無理だぞ」
ナシアスも眉を寄せて言う。
「生きて捕獲された者は一人もいない一族です。この少年が捕らえられたことを仲間が知ったら、救出、もしくは口封じにくるかもしれません」
「来るなら間違いなく口封じのほうだろうな」
何でもないことのように王女は言った。
「先のことはその時考えればいいさ。今はとにかく、他言無用に頼む。城内に暗殺者がいるとわかったら、役人や女の人は動揺するからな」
「むろんそんな混乱を好んで招きはしない。約束はするが、しかしだ」
「そうです、姫さま。若干《じやつかん》の例外を認めていただきたいのですが……」
王女は笑って手を振った。
「いいよ。どうせアスティンとガレンスには駄目だと言っても話すんだろ」
両騎士団長にとってそれぞれの副官は単なる部下ではない。もっとも信頼のおける友人でもあるのだ。
「ただ、今はまずいな。今度のことが全部片づいてからのほうがいいと思う。それにファロット一族の名前も伏せておいたほうがいいかもしれない」
「心得ております。姫さまの側に少年の侍女が着いているとでも語りましょう」
「その小僧はどうやら王女の命を狙っているらしいともな。前代未聞のことだが、当の王女がかまわないというのだから、俺たちが口を出すことではない。
おとなしく殺されてくれるような人でもないしな」
王女は二人に礼を言って、シェラを見下ろした。
「ということで、どうかな? おれとしては今までどおり西離宮で働いてもらいたいけど、侍女の振りがいやなら小者か何かに化けてくれてもいいぞ」
シェラの顔に蔑笑《べつしよう》が浮かんだ。
「どうしてそんなことをする必要があります。私は刺客で、あなたはその標的ですのに……」
「だから、その狙ったり狙われたりっていうのはもうやめにしたい。面倒くさいし、もう飽きた」
体は思うように動かなかったが、シェラはその瞳に凄みを込めて王女を睨《にら》みつけた。
「……刺し違えてでも殺しておけばよかった」
ナシアスがさすがに顔色を変えて何か言おうとしたが、バルロが止めた。
王女は首を傾げている。
「おれを殺すようにっていう命令はもう無効なんだろ?」
「……ええ」
「なのに、まだやるのか? おれはかまわないけど、体が元通りになったらまた狙うか?」
「狙ってもたぶん、無理でしょう」
「わかってるじゃないか」
「それが悔しい。許せない。私にもっと力があれば必ず殺してやるのに……!」
少女のような少年の思いがけない激しさに王女は驚いたようである。
壁にもたれているシェラの前にしゃがみ込んで、まじまじとその顔を見つめたものだ。
「許せないって言われてもなあ……、おれはお前にそんなに恨まれるようなこと、何かしたか?」
その王女の後ろでバルロが笑い声を上げた。快活な、楽しげな笑いだった。
「女に化けての暗殺稼業というのは許せんが、その気概は気に入った。おい、小僧、その気持ちはよくわかるぞ」
「団長まで何言ってるんだ?」
「なあに。恐らくこの小僧は今まで負けたことがなかったのでしょうよ。そういう顔です。己の腕に絶対の自信があったにも拘わらず、申し上げては失礼だが、あなたのような小娘に完膚《かんぶ》無きまでに後れをとった。それは殺してやりたくもなるでしょうな」
王女が実に疑わしげにバルロを見上げた。
「……団長。なんだかすごく含みのある言い方に聞こえるぞ」
「当然でしょう。含んでるんです」
あくまで磊落《らいらく》なティレドン騎士団長である。
何とも言いがたい顔になった王女にはかまわず、今度は皮肉な笑みを浮かべてシェラを見た。
「しかしだ。どうも解せんな。貴様、今まで王女に張りついて何を見ていた?」
「私もそう思う」
と、ナシアス。これもまっすぐシェラを見据えている。
「君は力及ばないことが悔しいと言う。その気持ちはわからないでもない。ただし、それは相手が同じ人である場合だ。足の速さで鹿に劣り、腕力で熊に劣るからといって悔しがる必要はどこにもないはずだが?」
「そのとおりだ。いいか、この俺でも素手で獅子を殺せないからといって悔しがったりはせんぞ」
王女はしゃがみ込んだまま、頭の上の盛大な応援演説を聞いていた。深いため息をつく。
「えらい言われようだ……」
両騎士団長は改めてシェラに対する興味が湧いてきたようである。検分の眼で眺め回している。
「好事家がいかにも好んで侍らせそうな美少年だが、これが噂に名高いファロット一族とはな」
「暗殺に当たるのは皆こうした子どもなのかな?だとしたら何とも陰惨な話だが……」
「だがな、まさか自分が何であるのか知らないとは思わなかったぞ」
「それどころか、もしかしたら狙った相手が何なのかも知らないのではないかな?」
「おお、そいつはまずい。死神の手とまで言われた暗殺一族の面汚しだ。いや、王女の話ではこいつは命令されて来ただけらしいから、面汚しはこいつの上役で決まりだ」
楽しげにそんなことを話しながら、ティレドン騎士団長は座り込んでいる王女の肩に手を置いた。
「ご無礼、王女。ひとつこの小僧に、自分が狙ったものが何だったのか教えてやりましょう」
「ちょうど蝋燭《ろうそく》の火が一つ消えかかっております」
天井近くの壁にとりつけられている燭台を見上げながらナシアスが言う。
この広間の天井は高い。その上部に作りつけられている燭台は椅子を使ったくらいでは届かない高さである。召使いが梯子《はしご》を使って蝋燭の交換をしているはずだが、何かの手違いで一本だけ忘れたらしい。
「あいにく代わりの蝋燭がないが、ちょっと持ち上げていただけますか」
そう言いながら、巨漢の騎士団長はしゃがんだ王女の肩に片膝を乗せて、どっしりと体重をかけてしまっている。
「人を踏み台にするなよ」
王女は文句を言いながらも肩に騎士団長を乗せたまま、あっさり立ち上がった。大の男の全体重がかかっているはずなのに、猫か何かを乗せたくらいの感じでしかなかった。
「何を言います。ナシアスから聞きましたぞ。あなたは以前、こともあろうに従兄上《あにうえ》を踏み台にしたというではありませんか」
「いつの話だ」
バルロは王女の肩の上で器用に立ち上がった。
細い枝の上に大石が乗っているようなものだが、この枝は折れるどころか揺るぎもしない。そのまま歩いて燭台の下まで移動してやった。
長身の騎士団長が手を伸ばしても、燭台にはもう少しある。
「背伸びしていただけませんかな」
「それで届くかよ。しょうがない。これ踏みな」
と言って、王女は肩の上に乗っている男の足下に右拳を差し出した。
「これをか。どうも小さくて不安だが」
「団長の手と一緒にするな」
バルロは慎重にその小さな拳を踏み、片足立ちになった。すると王女は、よいしょ、と声をあげて、拳を突き上げたのである。バルロの体は一気に天井近くまで運ばれた。
右拳を高々と突き上げた王女は微動だにしない。
バルロはその小さな足場の上に片足で立ち、壁に手を突いてバランスを取っている。消えかかっている蝋燭を引き抜いて、ひらりと床に飛び降りた。
そうして妙に悪戯《いたずら》っぽくシェラを見た。
ナシアスも同様だった。
王女は腰に手をやって、ため息を吐いた。
「やっぱり知らなかったんだな?」
シェラは紫の眼を極限まで見張っていた。
何が起きたのかと思った。
現実の事とはとても思えなかった。だが、実際に公爵は消えた蝋燭を手にしている。
横に立つ王女はその公爵の胸くらいまでの身長しかない。並外れて大柄な騎士団長だ。体重も確実に王女の倍はあるはずだ。
その体躯を王女は拳一つで支えてみせ、しかも、その重労働を何とも思っていない。
王女はもう一度ため息をついてシェラに近寄ってきた。
背中は壁だというのに、体が勝手に後ずさろうとする。王女を見上げた自分の眼は間違いなく恐怖の色を浮かべていたに違いない。
そんなシェラに王女は厳然と言い放った。
「どう考えてもおれがお前に恨まれるのは筋違いだ。
お前に命令をした馬鹿こそ責められるべきだ。今度の相手は王女にまつり上げられているただの女の子だと説明して、それで殺してこいって? 冗談じゃないぞ。失敗しろって言ってるようなもんだ」
公爵が豪快に笑った。
「俺も王女に賛成だ。名にしおう死神どもにしてはやることが何ともお粗末だ。わが国の王女がバルドウの娘と呼ばれていることも知らんのか」
ナシアスも苦笑している。
「気の毒に、どうやら君は大変な貧乏くじを引かされたらしいな」
何を言われても仕方がない。
この時、控えの間のほうから遠慮がちな声がした。
従者が食膳を運んで来たのである。
王女は自分で廊下まで出ていってこれを受け取ると、二人に席を外してくれるように頼んだ。
「明日の朝までこの広間は立入禁止にしてくれ」
というのである。
二人とも肩をすくめたが、それでも言われたとおりに出ていった。
これで天井の高い広間にシェラと王女の二人きりである。
王女はシェラの前に食膳をおいて、湯気を立てている椀を取って差し出した。
「食べな。下手したら昨日から食べてないだろう」
片膝を抱えてうつむいていたシェラは、ゆっくり頭を上げて、言った。
「殺してください」
唐突な言葉だが、王女は驚かなかった。
冷静に問い返した。
「どうして?」
「それが順当というものです。失敗した刺客は命を絶たれるものでしょう」
「それじゃ何のために苦労してお前をここまで運んできたのかわからなくなる」
自分も床に座りながら、王女はあっさり言った。
「死にたいんなら自分でやればいい。ただし、ここじゃ駄目だぞ。後始末が大変だからな。そこに窓があるんだから、外へ行って舌を噛むなり刃物を使うなりすればいいだろうが」
「それは許されていません」
「じゃあ生きてればいい」
「できません」
立て続けに務めをしくじり、里の場所を知られるような失態まで演じてしまった自分だ。どうして生きていられるものか。
「いいからまず食事にしろ。空きっ腹じゃ、自殺もダリエスへ帰ることもできないぞ」
シェラはかすかに笑った。
「その名をあなたに知られた上で、ですか。なのに私はあなたの口を塞《ふさ》ぐこともできない」
王女は湯気を立てている壺煮を壺ごと引き寄せて膝に抱え、さっそく食事にしている。
「お前、そんなにできないできない言ってていやにならないか?」
「……」
「それより何ができるかを考えたほうがいい。おれにはお前を殺す気はない。自殺もできないって言うんなら、今のお前にできるのは食べて体力を回復させることだけだ」
「……」
「食べな。冷めちまう」
きしむ体を起こしてシェラは食器に手を伸ばした。
暖かい料理は体にしみわたるようだった。王女の言うとおり、昨晩からほとんど食べていなかったのである。
大きな盆の上には様々な料理が乗せられていた。
二人とも床に座り込んだまま、しばらくは黙々と食事を続けたのである。
静かな夜だった。
陣地もすでに寝静まっているらしい。
盆の上があらかた片づいてから王女はあらためて話をする姿勢になった。
「さて、お前がどうしたいのかを聞こうか」
「私……?」
「そうさ」
「どうもこうも……死ぬしかありません」
「だからどうして? 何でそんなに死にたいんだ」
シェラは答えなかった。何をしたいかではなく、何をしなければならないか、なのだ。
「ダリエスに帰りたいならそうすればいい。おれは地理には詳しくないからな。どこにあるのかも知らない。おれさえ黙ってればわからないだろう」
「そういう問題ではありません」
場所を知らないと言ったって王宮で調べればすぐにわかってしまう。隠れ里ではないのだ。
あのポンティウス寺院へ行ってみようかとも思う。
そこで里の場所を知られたことを告げ、自害の許しを得られれば死ぬことができる。
「今の私の望みは、これ以上の生き恥をさらさずにすむところへ行きたい。それだけです」
王女はやれやれと肩をすくめた。
「やっぱりおれには人間の考えることはよくわからないな。何が恥でなんでそんなに死にたいんだか」
ほとんどなげやりになっていたシェラだが、この言葉には気を取られた。
見せつけられた王女の力。
あの剣。そして額飾り。
「あなたはいったい何なんです?」
「言ったじゃないか。おれはグリンディエタ・ラーデン。ただの戦士だ」
今となっては到底信じるわけにはいかない。
「おれも聞きたいな。お前はいったい何なんだ?」
「私はダリエスの行者、シェラです」
「行者。そう言うのか。現場に出て暗殺をする奴のことだな」
「ええ」
「今朝の男。あれはお前とはだいぶ違うな」
「私もそう思いました」
「ダリエスにはああいう感じの奴がいるのか」
首を振った。
部外者を相手にこんな話をしていることが信じられなかったが、それももうどうでもよかった。
「あんなに刃物の気配を漂わせていたのでは……、怪しんでくれと言っているようなものです」
「お前とは使用目的が違うんだろう」
「……」
「お前はか弱く見せて油断させてぐさりとやる役。
あいつは初めから戦闘用だ。殺気を隠す必要もない。
うまく使い分けてるらしいな」
「……」
「あの男は自分がファロット一族だと知っている。
間違いなく。なのにお前は知らなかった」
「……」
「お前のいるところが特別なのか、それともあの男が特別なのか、どっちだろうな」
「本当に私たちが、その……ファロットだと思っていらっしゃる?」
「他に考えようがない。大陸全土にその名を知られている謎に包まれた暗殺請負業者なんてものが、他にもぞろぞろいるなら話は別だけど」
「暗殺請負業とは、下世話な言い方ですね」
「他にどんな言い方がある?」
「私たちはそんなものではありません」
「じゃあ何だ?」
「いつか来るはずのものを、少しばかり早めているだけのことです」
「何のために?」
シェラは少し考え込んだ。
「それは人に向かって何のために生きているのかと問うようなものではないでしょうか。これと言った理由があってするのではありません。ただ、そうしなければならないのです」
王女は盛大なため息を吐いて、金の頭をかきむしった。
「参ったな。そろそろおれの神経が限界だ。気色悪いにもほどがある」
床にあぐらを掻いていた王女はふと視線を逸らした。首から下は微動だにさせず、顔だけで閉まっている窓をまっすぐ見ている。
「お前がそこまで生死に無関心になった原因は、あれか?」
「……?」
何のことかと思って同じほうを見ても、ただの窓があるだけだ。その外に人がいる様子もない。
なのに王女は立ち上がって声をかけたのである。
「覗き見とはたちが悪いぞ。出てこい」
しかし、窓には何の変化もない。
腰の剣を鞘《さや》ごと抜き取り、かざして見せながら言う。
「これが恐いのか?」
やはり変化はない。
シェラには王女が何をやっているのかさっぱりわからなかった。まるで一人芝居である。
王女は座ったままのシェラに剣を押しつけた。
「しっかり持ってろ。さあ、これでいいだろう」
室内の燭台には大蝋燭が何本も灯っている。
風もないのにその火が揺れた。
一本、また一本、蝋燭の火が勝手に消えていく。
次第に暗くなる部屋の隅で、シェラは剣を抱いたまま眼を見張っていた。このまま真っ暗闇になるのかと思ったが、かろうじて一本が残った。
明々としていた広間は一気に暗く、寒々しくなったのである。
声がした。
「申し訳ない。わしらにはちと明るすぎますでな」
年老いた、ものやわらかな声だった。
ぎょっとして見れば、いつの間に入ってきたのか、杖を突いた老人が窓辺に立っている。
ぼろをまとい、禿頭《とくとう》に長い顎髭《あごひげ》を垂らし、顔の表情がしわの中に埋まってしまうかのようだ。
窓は閉ざされたままだ。一度も開かなかった。なのに老人は部屋の中に立っている。
それが何であるか、シェラは瞬時に察した。
かつては自分たちと同じように生身の体を持っていたもの。そして今は精神のみの存在としてあるもの。一族の守り神として崇《あが》められている聖霊だった。
意識はそこにある。姿も鮮明に見える。しかし、老人の肉体はそこにはないのだ。話をしやすいように投影してあるだけの幻なのである。
シェラの腕に抱き取られている剣を見て、老人はじんわりと笑った。
「お心遣い、恐れ入りますじゃ。それにかかったら、わしらなどひとたまりもありませんからの」
丸腰の王女はこの珍客に鼻を鳴らしている。
「それで。何の用だ?」
「ほ……、これはせっかちな……」
「気が短いんだ、おれは」
王女の声は笑いを含んでいる。
「実は王女にお願いがありましてな。こうして参上した次第ですじゃ」
「幽霊に頼まれごとをされる覚えはないがな」
聖霊と平然と言葉を交わす王女をシェラは唖然として見ていたのだが、次の聖霊の言葉にはまさに絶句した。
「他でもありませんのじゃが……、その者の身柄を預かってはいただけませんかの」
王女も眼を剥《む》いた。
「預かる? どうして?」
この問いには別の声が答えたのである。
「王女がおっしゃるように、それは死人も同然のものです」
言葉は丁重だが、明るく澄んだ少年の声だった。
はっとしてみれば、老人の左に十四、五に見える少年がいる。肩までの巻き毛に神官見習いのような裾の長い衣服を着ていた。
ふっくらした頬がいっそあどけないほどだが、その顔に遥かな時を経てきた者だけの持つ表情を浮かべて、重い口調で言う。
「今のままでは、じきに本当に死ぬことになりましよう」
王女が何か言うより先にさらに新たな声が割り込んだ。
「しかし、我らとしては何とか生かしたい」
今度は老婆の声である。
老人の右に現れる。頭からすっぽりと黒い布をかぶっているのは魔法街の老婆と同じだが、恐ろしく大柄だ。真っ黒な禿鷲《はげわし》でもみるようだった。
「そのためには新たな主人を与えてやる必要がある。
王女はまさにうってつけのお人なのでな」
少年も頷いて言う。
「ぜひともあなたにお願いしたいのです」
「馬鹿たれ」
と、王女は言った。
人外の存在三体を前にしてもグリンダ王女はグリンダ王女である。
「こんなものを押しつけられても迷惑だ。とっととお前たちで持って帰れ」
「さ、それがそうは参りませんですじゃ」
最初の老人が困ったように言った。
「と、言いますのも、これの帰る場所は近々なくなりますのでな」
「なくなる?」
「さよう、ダリエスは破棄されます」
破棄とは穏やかでない。シェラが息を呑んだのはもちろん、王女も眉をしかめた。
「おれがその名前を知ったからか?」
愛らしい顔立ちの少年が首を振る。
「いいえ。あくまでこちらの内部事情が原因です」
老婆が後を受けて言う。
「詳細はご勘弁願いたい。ただ、このままではその者の身柄が宙に浮いてしまう。なにとぞ、了承してくださらんか」
そんな訳のわからない説明で馬鹿を言うなと、王女はもう一度、盛大に怒鳴りつけてやろうとした。
が、彼らのほうが早かった。
「シェラよ」
「は、はい」
老人の呼びかけにシェラは思わず形をあらためていた。そうするのが礼儀だった。
「一族の守り人の名において命ず。今日よりお前はこの王女を主とし、その指示に従うのじゃ」
「勝手に決めるな!」
王女が叫んだが誰も聞いていない。シェラは蒼くなり、膝をついたまま身を乗り出した。
「お待ちください。それがご命令であれば私は従います。ですが、宗師さまのご意思はいかがなのでしょうか。私は直接には宗師さまから命を受けている身です」
聖霊に向かってこんなことを言い返したのは他でもない。王女暗殺の一件が彼らの独断であったと聞かされていたからだ。これも彼らの気まぐれであれば従うわけにはいかない。そう思った。
シェラの問いに聖霊は答えなかった。
わずかな蝋燭の明かりに照らされた表情に影さえつけて、もう一度言った。
「しかと申しつけたぞ」
そうして彼らは現れた時と同じように、暗がりの中へ溶け込むように消えたのである。
後には互いに唖然とした王女とシェラとが残った。
有力貴族であるマグダネル卿が、甥であり、当主でもあるサヴォア公爵に討ち取られた事件は、瞬く間にデルフィニア全土に広がった。
ティレドン、ラモナ両騎士団は事件があってから三日目にコーラルへ戻ってきたが、その時には市内中がこの噂でもちきりだった。
市民はもちろん貴族たちも、国王がこの一件をどう裁くかに最大の関心を寄せたのである。
一門の間での喧嘩だ。普通なら勝者の正義が通る。
しかし、国王が仲裁に乗り出した上での公爵のこの行動だ。従弟といえども大公爵といえどもただでは済むまいと皆、噂しあった。
そもそも公爵が自分に無断で屋敷を抜け出したと聞いた時から国王は怒りをあらわにしていた。
公爵は巧妙に王宮を脱出したため、その事実はしばらく知られなかった。この日の午後になって、執事のカーサが耐えきれなくなって国王に告げたのである。
滅多に怒った顔を見せない国王がこの時ばかりはカーサの不手際を厳しく責めた。しかもラモナ騎士団長までが、従者も連れずにただ一人で後を追っていったという。
国王は直ちに王女を呼んで、こう命じた。
「本来なら伝令兵の役目だが、もっとも足の速い小隊でもお前とあの馬の足には遠く及ばん。何としても従弟《いとこ》どのを止めるのだ。そのための全権をお前に与える」
王女はすぐさま身支度を整えた。
このころには王宮内にも事情が伝わっており、ドラ将軍やシャーミアンも心配してやってきた。
特に将軍はこんなことならロアにおればよかったと悔やむことしきりだった。将軍の領地とバルロが目指しているエブリーゴはほんの二十カーティヴの近距離なのだ。
王女は急いでグライアに鞍《くら》を置き、王宮を出発していったのだが、エブリーゴに到着するまでもなく卿の死は近隣に伝わっており、仕方なく公爵がコーラルへ戻る所を捕まえようと待ちかまえていたが出くわさず、探し回ってその日の深夜にブラシアで両騎士団と出会ったという。
さらに王女は公爵の言い分として、叔父が武力に訴えて自分を押しのけ、家督を奪おうと企んだので成敗した、あくまで正当防衛であり、誅殺《ちゆうさつ》であるとの言葉を伝えてきた。
しかし、実際には公爵は、マグダネル卿が自分に対して敵意を抱くように故意にもっていったのではないかと一部の人は囁《ささや》いている。
さらに公爵は卿の息子も手に掛けている。返り討ちにしたまで、やらねば自分が殺されていたと言えばそのとおりだが、その結果マグダネル家は跡継ぎを失い、家が絶たれることになったのだ。
国王はあまりの事態に憤然としながら事後処理にかかった。コーラルへ戻ってきた従弟にもすぐには会おうとしなかった。およそ四日もの間、一の郭《かく》ではなく二の郭のサヴォア館に留め置いた。
五日目になってやっと王宮に喚《よ》んだが、それも二人で面談しようというのではない。家臣たちの前で申し開きをしてもらおうというのである。事実上の査問会《さもんかい》だ。
この扱いを屈辱と思ったのか、よほど言いたいことがあったのか、大勢の家臣の見守る中、コーラル城の謁見《えつけん》の間に立ったノラ・バルロは怒りを抑えた口調で滔々《とうとう》とまくしたてた。
「何度でも申し上げます。私は己には一片の非もないと信じております。あの男は私を討たんとして軍備を整え、従兄上《あにうえ》から謹慎を仰せつかったにも拘わらず、館内に千もの手勢を配備しておりました。さすがに臣下や息子の軍勢などは帰していましたが、でなければかの地に五千もの軍勢が集結していたことになります。私がこれほど思いきった真似をしなければ、あのまま放置しておきましたら、あの男は必ずや、その軍勢をもってマレバを目指してきたに違いありません。従兄上のお指図に背いたことは申し訳なく思いますが、私は予想される災難を未然に防いだのみ。お叱り、お怒りは筋違いというものでございましょう」
「それこそ本末転倒というものだ!」
国王が大喝した。
広い謁見の間にずらりと並んだ家臣たちが思わず飛び上がったほどの勢いだった。
温厚なはずの国王が逞しい体躯を震わせている。
「貴君がそうしていわれもなく卿を敵視すればこそ、卿は保身のために手勢を整えたのだぞ。またその旨《むね》に関しても卿はあらかじめ許可を得ている。貴君はいったい、あれほど穏便に済ませようと言った俺の言葉を何と聞いていた!? 今の態度を改めるよう、卿にはよくよく言い聞かせようとした矢先であったものを!」
「あの男の背反は疑いようもないことですぞ!従兄上のせっかくのお心ではありますが、私はあえてなまぬるいと申し上げます! そんなことで大人しくなるような男なら自らが家長になりかわろうなどと企みはしません。それとも従兄上は私が叔父の手に掛かって果てればよかったとおっしゃるか!?」
「口がすぎるぞ。ノラ・バルロ!!」
火花が散るような睨《にら》み合いだった。どちらも一歩も引かない。
列席していたドラ将軍は髭《ひげ》の口元をひきつらせ、シャーミアンは真っ青になっている。
将軍父娘にとっても、今度のバルロの行動は予想外のものだった。さらには国王がこれほどの怒りを見せるとも思わなかった。
バルロの横にはナシアスが証人として控えていたが、口を挟むこともできない。
ずらりと並んだ家臣たちはただ息を呑み、こんな時には取りなし役を務めるはずの宰相ブルクスも、王の怒りが収まるのをただはらはらしながら見守るだけだ。
仁王立ちになって怒号を発していた国王はやがて大きな息を吐き、玉座に腰を下ろした。
「よくわかった。貴君には王命に背いたことへの反省も、叔父である卿を手に掛けた悔恨の情も、かけらもないということだな。ならばこれ以上、言葉を重ねる必要もない」
バルロは何も言わなかった。きつく唇をかみしめて立ちつくしていた。
そして国王は従弟に対して厳然と言い渡したのである。
「サヴォア公爵ノラ・バルロ。王の名の下《のもと》に本日をもって貴君をティレドン騎士団長の職から解任する。
また貴君の有する領地に関しても、バロア、ネロン、ヤラ、ソーチェスの四か所を没収する!」
居並ぶ閣僚から驚愕《さようがく》のどよめきがあがった。
シャーミアンは悲鳴を上げようとした口を必死に手で押さえた。
横にいたドラ将軍はさらに険しい顔になり、思わず身を乗り出した。だがそれより早く、何人かが進み出た。
「お待ちください、陛下。それは、それはあまりにも酷い仕打ちでございますぞ!」
声を荒らげて言ったのはドラ将軍と並ぶ英雄として知られるヘンドリック伯爵だった。
「バルロどのは、いや、公爵は詭弁《きべん》を弄しているわけではありません。陛下のお申し付けに背いて城を抜け出し、勝手に騎士団を動かした一件に関しては咎《とが》められてしかるべきと思いますが、それにしてはそのご処分は厳しすぎます!」
六十に近くなっても断固とした気概の人である。
さらには近衛兵団長、通称司令官のアヌア侯爵までがきっぱりと言った。
「ご再考をお願いいたします」
いつも穏やかな侯爵が、今は別人のような厳しい表情を浮かべている。
「確かに公爵の行いは褒《ほ》められたものではありません。ですが、一門のものに穏やかならぬ心が生じた場合には家長が責任を持って正す。それが古今の法であったはずでございます。領地に関しましても、今おっしゃいましたのは、いずれも公爵家の屋台骨をなす大領地ばかり。その四か所を没収したのでは、サヴォア公爵家は公爵家とは呼べなくなります」
しかし、国王はこの両雄の諫言《かんげん》にもひきさがらなかった。
「なればこそ、卿に本当に背反の心があったかどうかを確かめる以前の公爵の暴挙を許すわけにはいかん!」
二人が何か言いかけるより先に、ドラ将軍が憤然と叫んでいたのである。
「仮にマグダネル卿が無実であったとしても、今のご処分は是非ともお考え直し願いたい!」
ヘンドリック伯爵もアヌア侯爵も、それどころか当事者のバルロまでが驚いて将軍を見た。
国王だけが表情を動かさない。
「将軍も無茶を言われる。それでは無実の罪で命を絶たれた卿の無念はどうなる?」
「バルロどのを罰するなというのではありません。
しかしながら、陛下が今おっしゃった領地を全て没収し、騎士団長の任を解いたりすればどのようなことになるか。申し上げるまでもなく、サヴォア公爵は国内でも屈指の豪族ばかりを数多く同族に持っております。ブルーワント卿しかり。モントン卿しかり。カフィー卿しかり。マグダネル卿がそうであったように、いずれも相当な身代の方々です。その彼らが一門としてまとまっているのはひとえに公爵が彼らの上にあればこそ。広大な領地を持ち、ティレドン騎士団長という申し分ない力を持つバルロどのが頭としてあるからこそ、並の領主以上の身代である彼らが同じ一族に連なっているのです。その頭から頭としての力を取り上げれば、迷走する巨大な蛇を産むことになりますぞ!」
おそろしく思いきったことを言う。
バルロの罪状はどうあれ、混乱が起こるのを防ぐために処分を軽くしろと言うのだ。
むろん将軍は本心からこんなことを言ったわけではない。こんな言い分はバルロに対して失敬だと思っている。しかし、国王の怒りは容易に収まりそうにない。それなら、とりあえず減刑だけでもさせねばならないと判断したのだ。
ヘンドリック伯爵とアヌア侯爵も即座に将軍の弁舌に乗った。必死に食い下がる。
「ドラ将軍のおっしゃるとおり、お怒りに任せての厳重処分はあまりにご短慮というものです」
「なにとぞ、ご再考をお願いいたします」
同時に進み出てきた人たちも頷いた。彼らは皆、何らかの形で公爵家と関わりのある貴族だった。
身分的にはそれほどきわだったものではないため発言は目上の人々に譲ったわけだが、心は同じだ。
アヌア侯爵はさらに言う。
「公爵が王宮脱出に使ったのは近衛兵団の兜《かぶと》と外套《がいとう》です。ならば私の監督不行届も責められてしかるべきです」
どうしてもバルロを罰するなら自分も一緒に処分してくれというのである。
謁見の間にいた閣僚や貴族たちも、どちらかというと国王に対して非難の眼を向けている。
彼らも最初は王命に背いたバルロが罰せられればいいと思っていたはずだ。いい気味だと囁く者さえいた。しかし、予想外に激しい国王の怒りと厳しい態度を目の当たりにして、逆にバルロに対して同情の念を抱いたようである。
国王は眼を伏せてしばらく沈思していたが、軽く息を吐いて立ち上がった。
「わかった。英雄と名高い方々がそろってそこまでおっしゃるなら無下《むげ》にもできん。騎士団長の資格と領地についてはそのままに据え置くことにする」
三人も他の貴族たちも深々と頭を下げたが、国王は再び厳しく言い渡した。
「だからといって公爵を自由の身とするわけにはいかん。自宅へ閉じこめたのでは同じことになるからな。即刻、脱走不可能な北の塔へ入ってもらおう」
一同は再びどよめいた。
貴族の中でも最高位である公爵が北の塔へ投獄されるなど今まで例がない。
今の北の塔は昔のものとは大きく違っている。地下部分は一部を残して塞ぎ、建物も新しくして以前のような不吉な場所ではなくなっているが、それでも牢獄には違いない。
だが、ここが国王の譲歩の限界だということは誰の眼にも明らかだった。三人とも致し方ないと頭を下げたが、ナシアスがやんわりと申し出た。
「陛下。でしたらお願いです。私も北の塔へ入れていただけませんか」
「ナシアス!」
「ナシアスどの!?」
バルロも年長の英雄たちも驚いて止めようとしたが、ナシアスはまっすぐ国王を見てさらに言った。
「私にはバルロを止められなかった責任があります。
また、我がラモナ騎士団はマグダネル卿の死に直接関与したのではないにせよ、それを目的としてエブリーゴへ駆けつけました。陛下はバルロばかりをお責めになりますが、それでは私の立場がありません。
このナシアスも共犯です。ぜひ罰していただきたく思います」
淡々とした口調だが、国王の処分に対する精いっぱいの抗議なのだろう。しかし、人々が緊張して見守る中、国王はいっそひややかに、「好きにするがいい」
言い残して、謁見の間を出ていった。
二人の逮捕投獄はたちまち王宮内に伝わった。
耳にした人すべてがこの処置には驚いたが、特に両騎士団の衝撃は言うまでもなかった。
査問会の結果がどうなることかとはらはらしながら三の郭で待っていた団員たちは、この知らせを聞いて絶句したのである。
しかも二人は自分たちに何か言う間も与えられず、顔を見ることもかなわず、その場で北の塔へ連行され、いつ出てこられるかもわからないという。
驚きと衝撃が去ると、さすがに彼らも国王に対する不満と憤りを口にした。特に若いジョシュアなどはもっとも激しい口調で国王を非難したものだ。
「陛下は何を考えていらっしゃるんですか! ナシアスさまが何をしたと言うんですか!? 北の塔だなんて、重罪人が投獄される所じゃないですか!」
「落ちつけ、ジョシュア」
ガレンスがたしなめる。
「一人前の騎士がそうぴいぴいわめくな。陛下には陛下のお考えがあってのことだ」
「どんなお考えですか!!」
「俺にもわからん」
「それじゃ何にもならないじゃないですか!?」
ジョシュアの絶叫にガレンスは思わず耳を押さえた。
「女みたいにわめくな! 貴様、それでもラモナ騎士団の一員か?」
叱責されて不満そうな顔ながらもようやく黙ったジョシュアである。
ガレンスにとってもナシアスの逮捕はさすがに衝撃だった。罰せられるなら自分のほうだと思った。
ナシアスはバルロを案じてエブリーゴへ駆けつけただけ、自分は無断で団を動かした責任者である。
確かに、ナシアスは自分の上官であり、上官には部下の不始末を償う義務がある。それを思えば妥当な処置と言えないこともないのだが、どうも釈然としない。
アスティンも深く考え込んでいた。謹慎命令を無視して勝手に飛び出した主人である。処罰は覚悟していたが、この処分は重い。重すぎると言ってもいい。
むろん、二人はさっそく北の塔へ出向いて、自分たちの指揮官に面会を求めたが、役人は気の毒そうな顔をしながらも面会は禁止されていると告げた。
「両騎士団長からはお二人が見えたら『大丈夫だ、心配するな』と、伝えてくれと……。申し訳ありません」
「団長たちはどの辺に収容されたんです?」
「最上階の特別房です。あの……」
役人は声を低めて、「私も両騎士団長にはお気の毒なことだと思っています。形式上は囚人でもご身分がご身分ですし、せめてお二人にはご不自由な思いはさせないように努めます。それに、特別房は身分のある方をしばらくお留めするための部屋ですから、それほど長い間のことではないと思います」
二人は役人に礼を言って下がった。
外へ出て、新しくなった北の塔を見上げて、アスティンがしみじみと呟いた。
「うちの大将、贅沢が身についてるからな。牢獄の固い寝台で眠れるといいが……」
「馬鹿言え。行軍中なら天幕を張っただけの地面で寝る人だろうが」
言い返すガレンスの口調にもいつもの威勢の良さがない。大きなため息をついた。
「ただでは済むまいと思ってたがなあ。いっそ俺を代わりにぶち込んでくれるように陛下にお願いしてみるかな」
しかし、そう言いながらも彼らはそれほど事態を悲観してはいなかった。
国王が何を考えているかはわからない。自分たちの指揮官がどんな心境でいるかも知らない。しかし、あの人たちが大丈夫だというなら大丈夫なのである。
その後、二人は本宮に喚ばれ、正式な団長代理の任を言いつかった。
ここの役人も今度のことを気の毒だと思っているらしく、声には同情の響きがあった。
「陛下も今しばらくすれば落ちつかれると思いますので、いろいろとご不満もありましょうが、どうか、ここはこらえていただきたい」
その裏にはあなた方が下手に動けば、騒ぎはますます大きくなるとの懸念がある。
二人は大人しく頷いて引き下がった。
同じ頃、ドラ将軍、ヘンドリック伯爵、アヌア侯爵の三人が王宮の片隅で内談している。
ヘンドリック伯爵は先刻の王の態度をしきりと嘆いている。
「バルロどのにも確かに問題はあるが、陛下ともあろう方が、どうしてあんなよしないことを言い出されたものか。あれではあまりにもバルロどのが気の毒だぞ」
アヌア侯爵も難しい顔である。
「陛下はバルロどのを深く信頼しています。ご自分の命に背かれたのがよほど許せなかったのかもしれませんが、それにしても解せないごとです」
ドラ将軍が頷いて言う。
「何よりあの二人をいつまでも北の塔へ入れておくわけにはいかん。これはわしらの役目でしょうな」
三人はそろって国王に直談判せねばならないと結論を出した。しかし、国王は謁見の間から引き上げると同時に人払いを命じて私室にこもっている。
二人の罪の軽減を進言しようにも目通りが許されないのだ。
一方、シャーミアンは蒼い顔で王女を捜した。
こんな時には誰より頼りになる人である。査問会の会場でも探したのだが、人が多く、見つけることができなかった。しかし、あの場にいなかったという事は考えられない。どこかで見ていたはずである。
急いで西離宮まで行ってみた。もしかすると先に帰ってきているのではないかと思ったのだが、侍女が一人で留守を守っているだけだった。いつ戻ってくるかは聞いていないという。
「そう……」
シャーミアンはがっかりして引き上げようとしたが、ふと立ち止まった。
「シェラ。あなた、どこか体の具合でも悪いの?」
「いいえ。そんなふうに見えますでしょうか?」
「なんだか、あまり顔色がよくないようだから。ここの暮らしがきついのではない?」
「そんなことはありません」
銀髪の侍女は笑ってみせたが、それもどこか無理をしているようにシャーミアンには見えた。
もともと色白のきれいな娘だったが、今はまるで透き通るような顔色である。
「本当に大丈夫? じきに日が暮れるわ。私と一緒に本宮に戻ったほうがいいのではない? 姫さまが戻ってこなかったら、ここの夜は一人では危険よ」
「いえ、留守を守れというのが姫さまのお言いつけですから、そのとおりにします」
血色の失せた顔ながら、こうきっぱり言われてしまうと、それ以上は無理強いもできない。
何か気になるものを感じながら、シャーミアンは一人で西離宮を後にした。
夜になるとコーラル城は人通りが絶える。
外部からの立ち入りは原則的に禁止され、例外があるにしても身元の確認は厳しく行われる。
また、城内の移動も自由にはできない。正門、廓門《くるわもん》は閉ざされ、巡回の兵士たちも自分の受け持ち以外の区域へは立ち入れない。
北の塔はその巡回区域からも外れている。なまじ人が近づくと、脱獄の手助けをする者ではないかと懸念しなければならないからだ。
建物が新しくなってからも警戒厳重なことに変わりはなく、係官は夜間に二度、異常がないかどうかを見回っている。
今は塔というほど細い建物ではなく、各階に独房、雑居房が設置されているのだが、最上階は他の階に比べて格段に部屋数が少ない。
むろん一部屋が広くとってあるためだ。中でもバルロとナシアスが入れられた特別室は牢獄とは思えないつくりだった。
扉はさすがに二重構造で外から厳重に鍵がかけられるが、中央の居間には絨毯《じゆうたん》が敷かれ、瀟洒《しようしや》な家具が置かれ、その周りをいくつかの寝室が囲んでいる。
寝室と居間との間はくり抜いた仕切になっていて密室にはならないが、一応は個人の空間を保てるようになっている。
バルロは不思議そうに首を傾げたものだ。
「何だってこんなつくりになっているんだ? 囚人どもに井戸端会議でもさせるためか」
「さてな。何にせよ、居心地は悪くない」
ナシアスが答えた。
時間はすでに深夜である。
開け放った窓から空気が流れてきていた。この部屋には開閉式の窓もある。
五階建ての最上階では窓があっても逃げられない。
もちろん室内の寝具や垂れ幕を裂いてつなぎ合わせれば降りることはできるかもしれないが、ここはある程度身分のある人を留める場所だ。脱獄などはなさるまいという無言の威迫でもあった。
そのほかの扱いは悪くなかった。塔の係官もとんだ大物の入牢に気を遣っているらしい。今も話がしたいからと燭台《しよくだい》を頼むと快く貸してくれた。
ただ、バルロの要求した葡萄酒はさすがに断られた。
「洒落《しやれ》のわからん連中だ。こんな夜にしらふで眠れというのか」
文句を言うバルロをナシアスが笑いながらたしなめる。
「私たちは囚人なんだぞ。贅沢は慎むべきだ」
肩をすくめて、バルロは椅子に腰を下ろした。
ナシアスと顔をつきあわせ、声を低めて言う。
「我ながら迫真の名演技だったな」
「お前はともかく、陛下には驚かされた。思わず背筋が寒くなったぞ」
こちらも囁くような声である。
「それだ。正直言って俺も驚いた」
広間の査問会《さもんかい》での激しい口論はむろん予定済みの行動だった。
ただし、詳しい脚本などはない。コーラルへ戻った彼らは一度も国王とは連絡を取らずに今日の査問会に臨んだのである。
とにかく見ている人々になれ合いの喧嘩だと見破られたら一巻の終わりだ。バルロはことさら国王に対する不満をあらわにぶつけたわけだが、国王の剣幕はそれ以上に、二人が本気でたじろぐほどに激しかった。
「しかし、団長の任を解くと言われた時はさすがにひやりとしたわ。領地の没収に関してもある程度は覚悟していたが……」
低く笑ったバルロである。
「俺もまだ修行がたらん。自分で顔色が変わるのがはっきりわかった」
「私もだ。芝居とわかっていたはずなんだが……」
二人は同時に押し黙った。
これ以上話していたら、言ってはならないことを言ってしまいそうだった。
まさか国王は本気で自分たちを見捨てるつもりなのかという、思うだけでもいけないことをだ。
やがてナシアスが肩をすくめた。
「思わず一緒にと言ってしまったが、やめておけばよかったかな。おかげでまたお前に張りついていなければならない。いい加減その顔も見飽きたぞ」
「こっちのセリフだ。せめて美女の一人もいれば、牢暮らしも張り合いがあるんだがな」
冗談混じりにバルロが言った時、明るい声がした。
「喜べ。その美女のお出ましだぞ」
「王女!?」
いつの間にか窓枠からグリンダ王女が身を乗り出している。
ナシアスも悲鳴こそ抑えたが、声を荒らげた。
「どうやって登ってきました!?」
王女はひらりと室内に降り立って窓枠を指してみせた。二人ともまったく気づかなかったが、三つ叉の金具が窓枠に食い込んでいる。むろん縄の先にくくりつけてあるものだ。
バルロが眼を剥《む》いた。
「地上からここまで投げたのか!?」
木の上やせいぜい二階ならともかく、実に五階分である。狙ったところで普通ならまず窓枠を捕らえることなどできない。
が、この王女に常識を求めても無駄である。実際、平気な顔で笑っている。
「牢屋の居心地はどうだ?」
「思っていたほど悪くはありません」
ナシアスがあたりを気遣いながら言った。
「ですが、姫さま。会いに来てくださったのは嬉しいのですが、もしかすると、この部屋は盗聴されているかもしれません」
「大丈夫。今夜はこの階には誰も来ない。さすがにどんちゃん騒ぎはできないけど」
そう言いながら王女は背負っていた包みを解き、中から葡萄酒の瓶と調理した肉を取り出したので、バルロは手を打って喜んだ。
「あなたもたまには気の利いたことをする。ここの食事ときたら食えたものではないからな。しかし、ご自分を美女とはよくおっしゃるものだ」
「駄目か? みんな黙って着飾ってれば文句なしの美女だと言ってくれるぞ」
「でしたら黙っているのは無理としても、せめて着飾ってお出ましになってくださるべきでしょうが」
「そんなもの着てこんなとこ登れるか。それにおれはただの道案内だ。本命が来るよ」
「なに?」
二人が眼を剥いた折りも折り、窓枠に新たな手が掛かった。細い綱一本を頼りにここまで登ってくるのは大変な労働のはずだが、国王は一息に自分の体を持ち上げて、身軽に室内に降り立ったのである。
さすがにバルロもナシアスも呆気に取られた。
「従兄上《あにうえ》。夜這いの真似事にも限度があります!こんな危険な……」
バルロはむしろあえぐように言ったのだが、国王は聞いていなかった。夢中の様子で従弟《いとこ》の手を取り肩を抱いた。
「従弟どの。すまなかった。本当にすまなかったな。
よくしてのけてくれた。心から礼を言うぞ」
泣き笑いのような声だった。
「従兄上……」
バルロも涙が出るほど嬉しかった。一瞬でも従兄の心を疑った自分を恥じた。が、王女とナシアスのいる前である。そんなことを素直に言える男ではないし、こうした雰囲気はどうにも照れくさかった。
「よしてください。そんなことをおっしゃるためにわざわざこんな危険を冒したんですか」
照れくささを隠すためにことさら突き放した言い方をして従兄の手から逃れようとしたが、国王は意に介さない。笑いながら力一杯従弟の体を抱きしめて、それから離してやった。
「俺はスーシャの山猿だぞ。このくらいは何でもない。昔は素手で崖《がけ》を這い上がったりもしたからな」
国王はナシアスにも握手を求め、その肩をしっかりと抱いたものだ。
「すまなかったな。巻き添えにしてしまった」
「いいえ、陛下。お気遣いは無用です。望んで巻き添えになったのですから……」
そう言うナシアスの声は涙ぐんでいる。
「私のほうこそお詫びしなければなりません。なれあいの口論と承知していたはずですのに……、一瞬、陛下をお恨みしました」
「いや、それでいい。俺もあの時は本気で従弟どのに腹を立てていたからな」
「ははあ。私も嫌われたものですな」
「いや、従弟どの。そうではない。あくまで芝居の舞台の上でだな……」
大きな体で急いで言い訳するのが微笑ましかった。
「それじゃ、一応うまく片づいたお祝いだ」
四人は声を潜めて乾杯の音頭をとった。
まさか牢屋の中で不法侵入の国王と王女を交えて宴会をする羽目になるとは思っても見なかった二人である。
「滅多にできない経験だ」
と、上等の葡萄酒を呑みながらナシアスは呟いた。
バルロが頷きを返す。
「できれば一生一度に願いたいな。ところで従兄上、私たちはいつまでここに入っていればいいんですかな」
「うむ。気の毒だが、あまり早々に釈放して怪しまれても困る。まず十日ほど辛抱してくれ」
王女が口添えをする。
「ドラ将軍たちが血相変えて二人の釈放を迫ることになるから。それで何とかなると思う」
「将軍方は今度のことをご存じで?」
ナシアスの問いに王と王女は顔を見合わせて、くすりと笑った。
「実はな、先程はじめて打ち明けたのだが……」
「めいっぱいお説教された」
ドラ将軍、ヘンドリック伯爵、アヌア侯爵は三人そろって、両騎士団長の処分の撤回を求めて、取り次ぎの小姓が止めるのも聞かず、国王の私室へなぐり込みをかけた。
するとそこでは、慣れない怒りの演技に疲労|困憊《こんぱい》
した王が長々と椅子に転がり、横では王女が懸命に国王の熱演を褒めていたというわけだ。
そこではじめて事の顛末《てんまつ》を知らされた三人は唖然として言葉を失い、次には盛大な文句を並べ立てたのである。
「なるほど。確かに。はかりごとは密なるをもってよしとします。しかし!」
ドラ将軍が憤然と言えばアヌア侯爵はゆっくりと首を振って、「それでしたら、せめて私どもには打ち明けておいていただきたかったと思うのは贅沢な願いでございましょうか、陛下」
心なしか皮肉の混ざった調子で言い、ヘンドリック伯爵は真っ赤になって叫んだ。
「脅《おど》かさないでいただきたい! 危うく陛下は本心から二人を見捨てるのかと思いましたぞ!」
「ほう。そうか。伯爵ほどの人にもそう見えたか」
国王は嬉しそうに長椅子から起きあがった。
「ならばあれが芝居と見抜ける者は皆無に等しいな。
俺もまんざら捨てたものではないらしい」
王女が頷いて太鼓判を押してやる。
「言えてる。凄い迫力だった。お前、意外と腹芸の才能があるんじゃないか」
「陛下! 姫さま!」
怒髪天を衝いてドラ将軍が叫び、二人は笑いながら首をすくめた。
その仕草ときたら、寸法こそ大違いだが、いたずら小僧が二人いるのと変わらない。
「わしらが止めなかったらどうするおつもりだったのです!? バルロどのから騎士団長の職と主領地を取り上げるはめになるところでしたぞ!」
「止めてくれると思っていたぞ」
実に無邪気な笑顔である。
「あんな無茶を言い出せば必ずお三方の誰かが止めてくれると思っていた。黙っていたのは悪かったが、前もって打ち合わせていたのでは将軍方もあれほど必死になってはくれなかっただろう。その必死の説得が必要だったのだ。そうでなければ従弟どのの罪を軽くしようとする俺の行動が嘘になってしまう」
「ウォルが無茶やったおかげで、みんな一気にバルロに同情的になったしな」
「そういうことだ。俺はそれでも腹の虫が収まらず、従弟どのとナシアスを北の塔に投獄したが、お三方の連日の必死の説得を受けて渋々ながら勘気を解き、二人を北の塔から出すことに同意する。そういう段取りで行きたいのでな。よろしくお願いする」
三人は目を白黒させていた。
ぐうの音も出ないとはまさにこのことである。
そこへ、本宮ではただ一人事情を知っていた宰相ブルクスがやってきて、この英雄たちをやんわりとなだめたのだが、今度はブルクスが落とす行き場のなくなった大量の雷の襲撃に遭うはめになった。
そして国王と王女は薄情にもブルクスを避雷針にしておいて、こっそり逃げ出したという。
バルロとナシアスは爆笑したいのをそれこそ必死にこらえて聞いていたが、ナシアスがふと思いついた様子で訊いた。
「姫さま。あの少年はどうなりました?」
王女が急に困ったような顔になる。
「西離宮にいる。あいつ、帰るところがなくなっちまったんだよ」
二人が首を傾げた。
「と、おっしゃいますと?」
「俺から話そう」
国王も口調をあらためた。
「実はな。昨夜のことだが、パキラの一部で山火事が発生してな。村が一つ犠牲になった」
「家屋や畑が燃えたということですかな」
「いいや。全滅だ」
「全滅?」
国王はこの日の朝、といっても早朝ではなく太陽が高々と昇ったころだが、一人で西離宮に赴いた。
それというのも国王は今、従弟の所行に腹を立てていることになっている。実はたいへん感謝しているのだが、表向きは怒っていることになっているから、ブルクスと二人の時を除けば、いつもしかめっ面をしていなければならない。これがしんどいのである。
その点、西離宮ならば王女一人だ。
羽を伸ばそうと思って出向くと、王女はこれから遅い朝食にするところらしく、テラスの机の上に料理の皿がずらりと並んでいた。横には銀髪の侍女が控えている。
国王はこの侍女が何であるかを知っている。シェラのほうも知られていることを知っている。ぎこちなく頭を下げた。
国王はいっこうに気にせずに笑って机に付いた。
「うまそうだな。俺も一つごちそうになろうか」
「なんだ。食べてきたんじゃないのか?」
「近頃の本宮はどうもかまびすしくてな。特に従弟どのの一件で、ろくにものも食えん」
ぼやきながら料理に手を伸ばした国王に、王女があっさり言った。
「やめとけ。毒入りだぞ」
シェラは思わず首をすくめたのだが、それでおたつくような国王ではない。もったいなさそうに料理を眺めて、シェラに目線を移した。
「暗殺は諦めたのではなかったのか?」
「諦めました。これは……ちょっとした実験です」
「実験?」
「おれが本当に毒入りを見分けられるかどうかだってさ」
「わかるのか?」
「うん。これなら大丈夫」
そう言って王女は十あまりもの皿の中から一つを選んで、おいしそうに食べ始めた。
見ている国王は何とももの悲しげな顔である。
「すると残りは食えんのか」
「ああ。やめといたほうがいいな」
国王はシェラを見て恨めしげに言った。
「この見た目にうまそうな料理を片づけて、是非とも俺にも食えるものを頼みたいな。起きてから何も口にしていないのだ」
シェラはため息をついて言われたとおり皿を下げ、台所へ向かった。何の因果でこんなことをと思うのだが、命じられた以上は従わなければならなかった。
あの夜、聖霊が消えた後、シェラはさすがに放心状態に陥ったが、すぐさま立ち直った。
「ご命令をお願いします」
先日まで殺そうとしていた相手にこんなことを言うのはさすがに妙な気分だったが、どんなに不可解なものだろうと命令は命令である。行者としての当然の義務を果たそうと努めた。
ところが王女はさも呆れたように言うのである。
「ばかばかしい。どういう意味か知らないが、お前に命令する者がいなくなるっていうんならちょうどいい機会じゃないか。どこへでも好きなところへ行けばいい。働き口くらいなら世話してやるから」
「そんなことはできません。あなたに従えと言うのが方々のお言葉です」
「何で律儀に言うこと聞いてやる必要がある? あいつらには生きている人間に祟《たた》る力なんかないぞ。
害がなくても恐いんなら、おれが斬ってやろうか」
「馬鹿なことを言わないでください!」
血も凍る思いがした。何ということを言うのだ。
「聖霊を……方々を斬るなんて、罰当たりにもほどがあります! 第一そんなことは不可能です!」
「そりゃあ人間のつくった剣ならそうだろうさ」
シェラははっとして王女の腰に戻った剣を見た。
確かに聖霊はこれを警戒していた。同時にこの剣のただ一人の使い手である王女をも警戒していた。
「斬るのは冗談としてもだ。要するに今の連中はお前の意識の中ではかなりのお偉いさんで、そのお偉いさんがお前を暗殺の仕事から解放するって言うんだろ? 喜んで自由になればいいじゃないか」
王女の考え方ではそれが当然の発想だったのだが、あいにくシェラはそうはいかない。
おかしなことを言うものだと思った。自分なら今でも自由である。誰に拘束されているわけでも、いやいや従っているわけでもない。自分の意志で務めを果たしてきたのだ。
「とにかく、ご命令をお願いします。あなたのような主人は私も願い下げですが、方々のお言葉には従わなければなりません」
「いちいち命令してやらなきゃ動けないような家来なんか、こっちも願い下げだ。お前のやりたいようにすればいい」
「命令を受けずに行動するような自分勝手なことはできません」
きっぱりと言った。
王女はまたもや金の頭をかきむしった。
今日はせっかくきれいに結い上げてあったのに、すでにくしゃくしゃである。
「自分勝手って、お前な! 犬だって主人に捨てられたら自分で餌《えさ》を見つけて生きていくんだぞ!」
「そんなみっともない真似はできないと言っているんです!」
王女は唖然として眼を剥いた。
「みっともないだあ……?」
「そうです。簡単に本能に負けるような動物と一族の行者を一緒にされては困ります。指示に背いて自儘《じまま》に動くようなことがどうしてできますか」
凄みさえ込めて断言した。
自分はあくまで誰かの手足となって働く身だ。使う人がいなければ存在意義もない。
聖霊はこの王女に従えと言ったのだ。その言葉を無視することはシェラにとって恥であり罪悪である。
王女は穴の開くほどシェラの顔を見つめていた。
濃い緑の瞳がすうっと細くなる。
「じゃあお前、おれがダリエスの仲間を殺してこいと言ったらそうするのか」
「ご命令なら」
「おれが死ねと言ったら死ぬのか」
「ご命令なら」
王女は痛烈な舌打ちを洩らし、剣を抜き払った。
「それなら命令だ。動くな」
言うなりシェラめがけて斬りつけた。恐ろしく迅《はや》い。太刀筋を眼で追うどころではない。刃が空を切る音がしたと思ったら刃先がぴたりとシェラの首に押し当てられていたのである。
拳を固く握ったまま、シェラはじっとしていた。
眼を閉じもしなかった。死への恐怖はもちろん感じていたのだが、同時に王女の腕前に感嘆した。
垂らしていた髪が一房切られて床に落ちている。
なのに首の皮膚にはかすり傷一つつけることなく、刃先を止めてみせたのだ。
つくづく自分の認識の甘さを呪った。この王女の見かけや言動に騙《だま》されたなどと言い訳にもならない。
自分もそうして本質とは裏腹な表を演じているのだ。それが意識してやっているか、無意識に身についたものか、それだけの違いだったというのに。
そんなことを考えている間も首に押し当てられた刃は動かない。右手に剣を握り、刃先はシェラの首に押し当てたままの姿勢で王女は微動だにしない。
シェラも言われたとおり動かなかったが、これは正直言ってあまり気持ちのいいものではなかった。
覚悟はしていたが、死への恐怖をまったく打ち消すことは難しい。
どうせならひと思いにとどめを刺してほしいのだが、王女の眼には何の変化もない。
それは単に意志や感情が読めないという生やさしいものではなかった。すでに人の心を現すものとしての瞳ではないのだ。むしろ魂の宿った石像のような、不吉なまでに美しくまがまがしい宝玉のような、そんな眼で王女はシェラを見据えている。
ぞくりとした。
その視線は肌を貫き、肉に食い込むような気さえした。
緊張のあまりシェラの体が細かく震え始めたころ、王女はようやく口を開いたのである。
「お前、どうしてそこまでする?」
一気に緊張が解けた。思わず息を吸い込み、声が震えないように気をつけながら言った。
「それが私の、誇りです」
王女は大きなため息をついた。剣を腰に戻し、両手を高々とあげてみせる『呆れてものも言えない』ポーズだ。
「そんなセリフはせめてもう十年生きてから言え。
いいや、十年たったって、目上の連中から生意気を言うなって一喝されるぞ。まったく……」
ちょっと笑ってみせる。もういつもの王女だった。
「それじゃ、とりあえず西離宮で侍女でもしてもらおうか。カリンがお前のことを心配してる」
そうして夜明けと同時にシェラは王女の従者に変装して、ブラシアの公爵の館を出たのである。
公爵とラモナ騎士団長が国王との秘密協定の上で厳重処分される予定になっていることは帰りの道中で聞いた。むろん口外厳禁という条件つきである。
「お言いつけどおりにしますが、本当に私を西離宮で使うつもりですか?」
「バルロとナシアスもそんなことを言ってたけどな。
どこか変か。お前は狼にも驚かないし、よく働くし、料理もうまい。あそこならおかしな草を使わないでお風呂にも入れる。居心地は悪くないと思うがな」
そういう問題ではない。
公爵とラモナ騎士団長はコーラルへ戻ってくると同時に謹慎処分を受けている。王女や自分に対して何か言おうにも不可能な状況なのだが、晴れて自由の身となったら黙っているわけがない。そう思った。
ところが国王までがのこのこと現れて、自分に向かって朝食をつくれと言う。
忍の一字で新たに料理をつくった。途中よほどこれにも毒をぶち込んでやろうかと思ったが、王女の眼がある。せいぜいうまいものをつくらなければならなかった。
海の幸も山の幸も豊富なコーラルである。腕によりをかけた料理を乗せた膳を持っていくと、国王は相好を崩して、それでも一応、王女に念を入れた。
「食えるか?」
「食える」
見向きもせずに言う。しかし、国王はそれで安心したらしい。楽しげに食べ物を口に運び始めた。
「しかしな、リィ。この侍女でなくても知りたいところだが、どうして毒入りかそうでないかわかる?眼か、鼻か?」
「強いて言うなら勘だな」
「ほほう?」
シェラも耳を澄ました。さっきの皿にはそれぞれ種類の違う毒物を盛ってあったのだ。勘で毒物判定ができるとは聞いたことがない。
「おれはもちろん、シェラがどういう毒を使ってるのか知らないし、種類なんかもわからない。ただ、これを食べれば死ぬ。それだけははっきりわかる。
とても手が出ない」
「ふうむ……」
感心したように捻った国王である。一方のシェラは、そっとため息をついた。
「獣でもかしこいのは毒餌《どくえ》にはかからんというが、そんなものかな?」
「そんなものだろう」
「うらやましい話だ。俺にもそうした便利な勘があればと思うぞ。侍従どもが毒味に毒味を重ねるので、冷めたものしか食えん。まことにつまらんことだ」
「便不便で片づけられちゃかなわないな。生きるか死ぬかの話なんだぞ」
要点のずれまくった会話である。
国王はぼやきながら端から料理を平らげていく。
王女もよく食べるが、この国王も健啖家《けんたんか》である。
それも真実、料理を楽しんでいるらしい。包丁を取ったのがどんな者か知っているはずなのに舌鼓《したつづみ》を打ち、横に控えている侍女に笑顔で話しかけた。
「確か、シェラだったな。なるほどいい腕だ。こんなことなら毎度ここへ食事に来るとするかな」
「恐れ入ります」
これは本物の大人物か、それともただの阿呆かと思いながら頭を下げた。
すると、国王は食事を続けながら、真顔でこんなことを言ったのである。
「思いついたのだがな。王女は死に至るほどの毒物なら見分けられるというのだから、今度はもっと微量にするか、軽傷で済む薬を試してみたらどうだ?しびれ薬とか腹下しの薬とか。案外それならかかるかもしれんぞ」
王女が食べ物を喉に詰まらせてせき込んだ。
シェラは腰が砕けて倒れ込みそうになった。
呆然としていると、やっと呼吸を整えた王女が憤然と叫んだのである。
「ウォル! お前な! しびれさせられるのも下痢させられるのもおれなんだぞ!!」
「ははあ。やはりそれなら引っかかるのか?」
「嬉しそうに言うな!知るかそんなの!」
「ううむ。これは危ない。大事な娘が傷物にされるかもしれん。危ない、危ない。いっそ俺もここに住んだほうがいいかもしれん」
王女はそれはそれは剣呑な眼で義理の父親を見た。
「お前、遊んでるな?」
「とんでもない。心から心配しているのだ。大事な娘が刺客の少年と二人きりでこんな離れで暮らしているとなれば、その身を案じるのは当然だろう?それが父親の義務というものだ」
「もう一言でも喋ってみろ。その首が胴体についていられるかどうかを試す絶好の機会をくれてやる」
言葉も表情も壮絶なものである。さすがに国王も首をすくめた。
「わかった。もう言わん。この首にはまだ用があるからな。ところで……」
硬直しているシェラににっこりと笑ってみせる。
「この魚のつけ焼きと海老の椀が実に美味なのだが、もうないか?」
「……お持ちします」
どうにか答えた。台所へ向かいながらもひっきりなしに襲ってくる目眩《めまい》と頭痛を懸命にこらえていたのだが、調理場に立った時には額《ひたい》を抑えて大きく深呼吸していた。
ようやくわかってきた。
この王宮は化け物の巣だ。
王女といい、二人の騎士団長といい、一国の中枢に関わるような人たちがどうしてこんな酔狂な性分なのかと何度も訝《いぶか》しく思ったが、何のことはない。
最大級の親玉が中心にでんと構えていたわけだ。
周りがそれに倣《なら》うのは当然である。
三の郭《かく》までは普通だった。一の郭でも自分のいたあたりはまだ普通に近かった。ところが肝心要《かなめ》の最深部ときたら化け物屋敷である。
シェラはほとんど憤然としながら、それでも手つきだけは慎重に、魚を火にかけた。
こんなことくらいで負けてはいられない。今まで培ってきた常識が通用しないなら、化け物用に心を調整すればいいのだ。
注文の料理を持ってテラスへ引き返すと、若い侍従が遠慮がちにやってくるところだった。
「陛下。姫さま。お食事中に失礼いたします」
「何事だ?」
とたんに仏頂面に戻って国王が言う。
近頃この人の機嫌が良くないことを知り抜いている侍従は慎重に言い出した。
「実は、外から気になることを言ってきまして……。
西パキラの管理所から急使が参って報告するには、昨夜、山火事が発生したとのことです」
「被害は?」
「それが、火事自体は幸い、昨夜のうちに鎮火したそうですが、村が一つ焼失しました。小さな村ですが、土地の者はダリエスと呼んでいたそうです」
盆《ぼん》こそ落とさなかったが、シェラの顔色が変わった。王女も真剣そのものの顔になった。
そんな二人を横目で見やり、国王は何食わぬ顔で侍従に尋ねた。
「住民の被害は?」
「それがその、向こうでも首を傾げているのですが、ほとんどが犠牲になったようなのです。火の手が急に燃え上がったにしても、住民が一人残らず巻き添えになるとは考えにくいのですが、近隣の村も火事に気づいて急いで駆けつけたそうなのですが、その時にはもう村中に火が回っていて手のつけようがなかったといいます。あまり親しいつきあいはなかったと近隣の者は言っていましたが、それでも誰か生存者がいるのではないかと夜を徹してあたりを探し回ったそうなのですが、誰も」
「その村には何人ほどが住んでいたのだ?」
「記帳によれば家屋は二十軒ほど。人のほうは、子どもの数がちょっと不明ですが、大人だけでも五十人はいただろうと……」
「どこで火事が発生したにせよ、それだけの数が一度に焼死するとは考えられん。どこかへ避難したのではないか」
「それが、火が収まったので検分してみたところ、燃え跡から骨や遺体が何体も出てきたと……」
「数が合っているというのだな?」
「はい。ですがどうにも不自然だと管理所が言っています。もしかすると何者かが村を略奪し、住民を殺害し、その痕跡を隠すために火を放ったのではないかと言うのですが、いかが致しましょう?」
「いかがもへちまもない。すぐに調査させろ。管理所には原因究明に全力をつくすように伝えろ。人が足りなくなるだろうから、こちらから応援を送るともな」
王女がここで口を挟んだ。
「そんな大それた事をする犯人なら、そのうち様子を見に戻ってくるかもしれない。そのつもりで半年や一年くらいは見張っていたほうがいい」
犯罪だとしたら、国内でこんな凶悪な犯罪を働くものを見逃すわけにいかないのは当然である。
侍従もわかっているようで、かしこまりましたと言って下がっていった。
また三人になると、国王は軽くため息を吐いて王女を見た。
「今のが、この侍女の出身地か?」
「ああ。えげつないことをする」
王女の口調も苦々しい。
「長期の見張りは何のためだ? 証拠隠滅をもくろんで全滅させたのなら、探ったところで何も出てきはせんぞ」
「まあ、そりゃそうだ。ただ、こいつと同じように人殺しのために出張してる奴は他にもいるはずだ。
そいつらが帰ってきて、村がなくなっているのを見たらどうなると思う?」
「わからん。どうなる?」
「たぶん、その場で自殺する」
国王が眼を剥いた。
王女は震えながら料理を並べている侍女を見て、皮肉な口調で言ったものだ。
「そうだな、シェラ?」
シェラは答えなかった。答えられなかったのだ。
王女の言うとおりだ。村のみんなが命を絶ったのなら自分もそうしなければならない。
だが、今の自分に指示を出すのは王女であり、その王女はここで侍女勤めをしろという。
「魔法街のおばばは、あれらは生きていても死人同然だと言ったけど、おれの感じだとちょっと違うな。
使い勝手のいい道具ってとこだ。右と言えば右、左と言えば左、死ねと言えば死ぬ。おまけにこいつはそれを自分の誇りだと言う。まったくよく出来てる。
出来すぎてて気味が悪い」
国王がのんびりと言った。
「支配者にとっては理想のしもべだな」
王女が色をなして何か言おうとするのを遮《さえぎ》って、国王は言った。
「間違えるな。俺自身はそんな臣下は欲しくはない。
お前の言うとおり気味が悪いだけのしろものだ。しかし、強固な王国を築きたいと願っている者にとっては垂涎《すいぜん》の的となるだろうよ。論功行賞で頭を悩ませることもない。部下同士が領地の境界線をめぐって争うこともない。耳障りな諫言《かんげん》をすることもない。
ふむ。なるほどな」
国王は低く笑ってこう続けた。
「そんなものばかりなら自害を命じてもいっこうに心は痛まんだろうな。まして代わりはいくらでもいる。そういうことか?」
「そういうことだ」
そんな二人の会話の意味をシェラは理解できたかどうか、蒼白な顔のまま機械的に動いていた。
一方、バルロとナシアスも固唾《かたず》を呑んで国王の話に聞き入っていた。
二人とも王女の差し入れてくれた肉と葡萄酒で夜食にしていたのだが、いつの間にかその手は止まり、顔色が変わっている。
バルロが疑わしげに言う。
「つまり、その村はファロット一族の村であり、住民は皆、自分の意志で死んだと言うんですか?」
「そんな馬鹿なことが……」
ナシアスは傍目《はため》にも蒼い顔になっている。
「シェラの話では村の村長が……宗師とかいったらしいな、そいつが最高権力者だった、少なくともそう見えていたらしい。ところがその上にさらに誰かがいたわけだ。ダリエスがどんな失敗をしたのか、どんな内部事情があったのか、それは知らないけどな。その誰かはダリエスをもういらないと判断したわけだ」
「それにしても五十人もの人間を……」
「簡単だったろうよ。まず宗師の口から死ねと言わせる。村人は何の疑問も抱かずに言われたとおりにする。最後に残った宗師は火をかけて自殺するか、もしくは逃げればいい」
バルロが身震いした。
「よしてください。いったい連中は何のためにそんなことをするんです!?」
「シェラの言葉を借りれば、それは団長に向かってどうして戦うのかと言うようなものらしい」
「王女。騎士の誇りと薄汚い刺客を一緒にされては困りますぞ!」
「どこがどう違うのか、あいつに納得できるように話してみればいい。面食らうぞ。あいつはあいつなりに刺客としての誇りや名誉を重んじてる」
盛大な罵倒《ばとう》を吐き散らし始めたバルロに代わってナシアスが尋ねた。
「それにしても、あの少年がよくそんなことを話しましたね?」
王女は肩をすくめた。
「帰るところもなくなったわけだし、侍女奉公はいやじゃないらしいから、おれが引き取ることにした。
あいつもそれで納得した。となると今度は、おれが主人だ。その言葉には従わなければならないってことらしい」
二人はいっせいにため息をついたのである。
ため息どころか、ここが深夜の牢獄でなかったら、バルロは建物中に響きわたるような怒声を発していたに違いない。
「馬や狼だけでは飽きたらず、今度は毒蛇まで手懐けようと言うんですか!? 行き場をなくしたからといってどこまで本気で忠節をつくすかわかったものではないんですぞ!」
精いっぱい抑えた声で文句を言えば、ナシアスも固い顔で頷いた。
「私もバルロに賛成です。いくら姫さまが人並み以上にお丈夫でも、それだけはおやめになったほうがいいと思います」
国王が笑いを洩らした。
「人並み以上に丈夫はよかったな」
「従兄上!」
「噛まれる心配ならしなくてもいい。あの少年の牙より間違いなく王女のほうが速い。それに、村が焼けたと聞いてからのあの少年は茫然自失の体《てい》でな。
とてもそんな気にはなるまいよ。少なくともここしばらくはな。それに実際、うまいものをつくる」
「そこがそもそも間違っています。刺客のつくったものを喜んで口になさる国王がどこにいますか!!」
ここでナシアスが何ともいやな顔で王女に訊いたものだ。
「姫さま。念のためにお尋ねしますが、この差し入れは『誰』が調理しました?」
王女は急にそわそわと視線を外して、「そりゃあ、本宮の女の人には頼めないし、おれは包丁はともかく調理器具なんか使えないし……、言わずもがなってやつだと思うけど?」
再び盛大なため息をついたナシアスである。
一方のバルロはそれこそ堪忍袋の緒が切れたようだった。つかみかからんばかりの勢いで王女に迫った。
「あなたは! やっていいことと悪いことの区別もつかんのか!!」
王女も慌てて言い返す。
「落ちつけってば。毒なんか入ってないから!」
「しびれ薬や下剤の類もか!?」
「入ってない……と思う」
「思うとはなんだ!」
「おれも食べたんだから入ってれば今ごろ痺れたり下ったりしてるよ!」
「下ってからでは手遅れだろうが!」
互いに声を抑えての必死のやりとりだった。
「品のない会話だ」
国王が冷静に言い、おもむろに肉をつまみあげて口に入れる。
「従兄上!」
狙ったように怒声を浴びせかけられて国王は眼を白黒させた。なんとか呑み込んで文句を言う。
「従弟どの、脅かさんでくれ。喉につかえる」
バルロは怒気をむき出しにして従兄に詰め寄った。
「思い出しました。王女も王女だがあなたもあなただ! あの小僧の正体も王女の命を狙っている者であることも承知の上で放置していたということだが、どういう了見でいらしたのか!!」
「いや、どういう了見と言われても……」
あまりの剣幕に早くも逃げ腰になった国王だが、一応は反撃を試みた。
「従弟どのも叔母の様子がおかしいことを知りながら俺には黙っていたのだから、お互い様ではないか。
幸い無事に済んだことでもある。そう目くじらを立てることもあるまい」
これに対してのバルロの笑顔というものは、目の前に飛び出した生き餌をぱくりとやればいいだけの虎ならばこうなるだろうかと思えるような、まさに舌なめずりしているというのがぴったりの、意地の悪い顔だった。
「なるほど。どこが、どのように、無事に済んだというのか、このバルロにもわかるように、とっくり聞かせていただきたいものですな。幸い時間なら山ほどあります。今夜はひとつ心ゆくまで語り合おうではありませんか。牢獄での語らいというのもなかなか趣《おもむき》のあるものですぞ」
顔は笑っているが、言葉の一つ一つが突き刺さるようである。一晩中この調子で搾《しぼ》られ続けたら明け方には国王の干物ができあがること間違いなしだ。
慌てて立ち上がった。
「お誘いは嬉しいのだが、片づけなければならない仕事が山積みになっているのでな。申し訳ないが俺はこの辺で失礼させてもらう」
急いで窓の外へ身を乗り出し、垂らしてある縄を器用に使ってたちまち地上におりたった。
王女もそそくさと後に続く。
「まあ、気持ちはわかるけど、とりあえず十日間辛抱してて。また差し入れ持ってくるから」
「毒味済みのものならいただきましょう」
皮肉たっぷりの口調でバルロは言った。
細引き縄一本で地上と五階を往復した国王と王女は、夜の王宮をのんびりと歩いていた。
町一つにも匹敵するほど広大な王宮である。夜間ともなれば人の眼の届かない暗がりがいくらでもある。内緒でそうしたところを巡り歩くのは、国王のささやかな楽しみでもあった。
その足がはたと止まる。
「いかん。一番肝心なことを話し忘れたぞ」
そもそもバルロの捨て身の行動の結果を、マグダネル卿を処分したその成果を伝えようとしたのだが、本題をきれいに忘れて帰ってきてしまった。
卿の突然の死に際して、メイスン男爵をはじめとする動きの怪しい貴族たちは申し合わせたように、争って王宮へ伺候する旨を知らせてきたのである。
国王に対して、自分は何もやましいことはしていませんと、大急ぎで主張して見せようというわけだ。
何ともあからさまなことだが、まさに国王の狙いどおりの効果がさっそく現れたわけである。
「従弟どのは見事な働きをしてのけてくれた。その働きにこんな形で報いる羽目になるとは……何ともやりきれん話だ」
「これからいくらでも報いてやればいいさ。まずは怒っているふりを止めるところから始めないと、怪しまれるだけだ」
国王は頷いて、話題を変えた。
「リィ。俺は魔法街の老婆の言葉が気になっている。
お前を暗殺することによって俺の失脚を待つという話だが……」
「忘れろ。そんな馬鹿なことあるわけがない」
「そうではない。肝心なのはマグダネル卿がそう思いこんでいたらしいということだ。卿の後ろにタンガがいたことは明らかだ。となればお前の暗殺も卿個人の企みではなく、タンガの示唆《しさ》だった可能性は大いにある」
「かもな」
と、王女はあっさりしたものだ。
「リィ……。ならばお前は大国タンガに命を狙われていることになるのだぞ」
「大国デルフィニアの王様は自国の王女が信じられないのか?」
悪戯《いたずら》っぽく言われて、国王は黒い眼を見開いた。
王女は低く笑っている。
「西離宮でおれを殺すのは簡単な事じゃないぞ。パキラにはおれの友達の狼が何頭もいる。シェラのように搦《から》め手から来るにしても、おれの勘はそう捨てたもんじゃない。来るなら来いってとこだ」
「お前には絶好の退屈しのぎらしいが、あの侍女は、あれは本当に大丈夫なのか?」
王女は答えなかった。
聖霊の一件は国王にも話していない。語ったところで納得してもらうのは難しいだろうと判断してのことだった。
「リィ?」
国王の再度の問いかけに、王女は少し考えてこう答えた。
「あれが『人』ならおれももっと警戒したと思う」
「ふむ……」
人なら心がある。時には何より頼もしく、時には恐ろしく厄介なものだ。一目でわかり合える場合もあれば、信頼を得るのに何年もかかる場合もある。
「あれはあくまでただの道具だと言いたいのだな。
道具なら使い手が誰になったところで変わりはなく、黙って使われているだけだと?」
「道具で終わるか、何か別のものに生まれ変わることが出来るのか。それはあいつ次第だそうだ。魔法街のおばばに敬意を表して、その機会だけは与えてやろうと思ってる」
国王は苦笑しながら肩をすくめた。
「わかった。好きにしろ。ただし、この王宮内で被害が出るようなら、俺はお前の許可を取らずにあの侍女を処分する。いいな?」
日頃はのんびりしているようでも、とぼけているようでも、王として為すべきことは心得ているウォルである。
王女も笑って言い返した。
「そこで躊躇《ちゆうちよ》するような王様ならデルフィニアも長いことはない。すぐにタンガに呑み込まれるぞ」
当たり前のことを言うなとの答えだった。
国王は楽しげに笑い、また西離宮の食事に呼ばれることを約束して本宮へ戻っていった。
王女は本宮の後ろを通って西離宮まで戻った。
足下を照らす明かりもなく、道らしい道もないが、この王女には何でもないことである。
住処に戻ると、相変わらず侍女姿の少年が台所に座っていた。
何をしているのかと思った。まっすぐに背筋を伸ばして、机の上に灯った蝋燭《ろうそく》を見つめている。
しかし、その眼は実際には明かりではなく、虚空を凝視している。
「まだ寝ないのか?」
声をかけると、はじめて王女がいたことに気づいたらしい。椅子から飛び上がった。
「すみません。考え事をしていましたので……」
「別に謝らなくてもいいけど?」
「あの、リィ。お尋ねしてもいいでしょうか」
唐突に、真剣な口調で切り出した侍女を、王女は珍しく思いながら見つめ返した。
こうまっすぐ、この少年が自分の眼を見てものを言うのははじめてである。かつての敵意のあるものではなく、先日までの憤慨ややりきれなさ、絶望の眼とも違う。まだまだ不充分だが、何か考えている人の顔だった。
「何だ?」
「昼間のお話では、あなたは、ダリエスは誰かの指図で焼かれたのだと思っているようでしたが……、本当ですか?」
「別に確信があるわけじゃない。ただ、そう考えればつじつまが合うってだけだ」
「どう、合うのです?」
「宗師はお前や他の連中を一手に監督する、村では絶対の権力者だったんだろ?」
「はい」
「だったら、どんな理由があったにせよ、自分が手塩にかけて築いた財産を一晩で灰にしちまうようなもったいない真似を自分の意志でするかな?」
「……それは、そうですが」
「つまり、お前が宗師にとって道具であったように、宗師も誰かの道具だったってことさ」
シェラは大きく喘いで、銀の頭を激しく振った。
とうてい信じられない様子だった。
「もちろんこれはただの推測だ。おれは宗師がどれだけの力を持っていたか知らないしな。ただ……、あの男の話を覚えてるだろう」
「はい」
ダリエスは新しい里だ。中央地域は難しく、上の連中も詳しい情報は与えないようにしている。
「つまり上がいるってことさ」
「宗師に命令する誰かがいるとして……、どうして里を開いたり焼いたりするのです?」
真剣そのものの様子である。こんな場合だったが、王女は小さく笑ったものだ。
「本当ならそれはおれがお前に聞きたいことだぞ」
「……すみません」
「いいさ。死にたいって言わないだけでも上等だ」
「やはりあの、死んではいけませんでしょうか?」
確認を取るつもりで遠慮がちに尋ねたのだが、とたんに眼を剥いて拳を握って迫ってきた王女に慌てて後ずさった。
「……言ってみただけです!」
「じゃあ二度と言うな。今度は殴るぞ」
急いで頷いた。あの騎士団長を片手で支える拳で殴られたら、顔の形が変わるくらいではすまない。
「もう言いません。今はそれよりも、知りたいと思います。方々は里の破棄は私のせいではなく、内部事情だとおっしゃいました。どういう意味なのか、どうしてダリエスは破棄されたのか……」
話しているうちに力がなくなって語尾は呟きに変わった。こんなことを疑問に思うのははじめてだったし、自信もなかったが、後を追うこともできず、新たな命令も下されないとなれば、自分にできるのは『考えること』くらいである。
それも今までやったことがないのであまりうまくいかない。あれだけの権力を持っていた宗師が人の命令で動いていたとはとても信じられないし、十数年もの時間をかけて自分たちを育てた里や教育機関がこう簡単に捨てられるほど値打ちのないものだったとも、にわかには信じがたい。
「燃えてしまったにせよ、村の様子を見てきたいのですが……、かまいませんでしょうか」
「ああ。それならおれも気になってた。役人がうろうろしてるからな。おれが現場の視察って形で行こう。お前はお供としてついてくればいい」
「はい」
「おれも聞きたいんだけどな。ダリエスには行者が何人いたんだ?」
シェラは眉を寄せて考え込んだ。
里に移ったばかりのころは十人ほどの仲間がいたが、うち何人が生き残っていたかはわからない。
また、元々ダリエスにいた大人たちの中にも外へ出て働く者がいたが、これも正確に何人とは断定できない。
「じゃあ、昨日の時点で何人が村の外に出てたかもわからないか」
「はい。互いの仕事に関しては口を挟まず、興味を持たずというのが基本でしたから……」
「お前ら、本当に横のつながりがないんだな」
「申し訳ありません」
「謝るなってのに。それはお前のせいじゃないんだ。
だいたい……」
王女はふと言葉を切って、テラスのほうへ顔を向けた。
首から下はまったく動かさない、獣のような仕草だった。
「シェラ」
「はい」
「お前、人殺し以外のことは何かできるか?」
「……とりあえず家事なら得意ですけど」
「たとえば殺さずに捕まえるようなことは?」
少し考えた。
どうやら表に何かいるらしい。
「無傷で捕らえろという意味でしょうか?」
「いいや、多少はかまわない」
「でしたら、やったことはありませんが、できると思います」
「じゃあ、外の連中を頼むわ。おれは寝る」
「捕らえて、どういたしましょう」
「立木にでも縛りつけておけ」
そう言って王女は本当に寝室へ入ってしまった。
シェラは侍女姿のまま、自分用の刀剣を取り出した。例の大剣より短く、普通の短剣より遥かに長い、行者独特の小太刀である。
外へ出てみると、なるほど、覆面で顔を隠した、いかにも怪しげな男たちが数人、ルブラムの森から現れたところだった。
ご苦労にもパキラを越えてきたらしい。となると二日がかりの襲撃である。
曲者は全部で四人いた。暗いテラスに立っているシェラを王女と思ったのか、最初から皆殺しの予定だったのか、一人が走り寄りながら剣を引き抜き、斬りつけた。
相手は年若い娘である。悲鳴を上げる間もなく倒れて当然と男たちは思ったろうが、逆にその男が剣を振りかざしたまま、悲鳴を上げて倒れたのである。
その右肩にシェラの投げた鉛玉が刺さっている。
倒れた男はそのままにシェラは自分から走り出し、男たちの間をすり抜けざまに剣を揮った。
ほぼ同時に二つの悲鳴が上がる。最後に残った一人が慌てて剣を構えようとした時には、シェラの拳がその男のみぞおちをえぐっていた。
何がなんだかわからないうちに男はその場に崩れ落ちたのである。
シェラは一息つくと、まだうめいている男たちを叩いて気絶させた。そこまではいいのだが、これを縛りあげねばと考えて困ってしまった。
今まで人など縛ったことは一度もない。そんな必要はなかったからである。
とにかくやってみようと思った。幸い、紐や縄の類は台所にいくらでもある。
ありったけの紐を持ち出して、男たちを縛り上げにかかったが、これはなかなか力のいる難儀な作業だった。
どうにか四人の男を木に繋いだころには汗を掻いていたくらいである。
体を拭い、自分の部屋で休もうとして、シェラはふと王女の寝室を覗いてみた。
王女はいつもの胴着に夜具を一枚引っかけただけで、健やかに寝息を立てていた。
10
デルフィニアを遠く離れたアベルドルン大陸の北にスケニアという大国がある。
中央地域の地図にはかろうじてその名が記載され、一般の人々はそうした国があるらしいとのみ認識している、ほとんどなじみのない国だ。
それはスケニアの人々も同様であって、遥か南にそうした国があるらしいということは知っていても、興味はもっぱら中央の産物や文化に限られている。
遠くペンタスから運ばれてくる衣装や化粧品を貴婦人たちが争って求め、吟遊詩人は王宮で厚遇され、上流階級の間では中央の遊びや流行がこぞってもてはやされる。
国土は広いが先進国の仲間入りをしようと懸命になっている田舎の国。中央ではスケニアをそう見ていたし、また事実その通りだった。
この国の有力貴族の一人にファロット伯爵という人がいる。
その名が示す通り、ファロット一族の統領がこの人であり、王宮に隣接して建つファロット伯爵邸が一族の本拠地だった。
とっぷりと更けた夜半、伯爵が自室で数人を相手に会議を開いている。顔ぶれは長年屋敷に仕えている老僕、同じく執事、同じく書記官と、貴族の館には欠かせない人々である。
「どうもデルフィニアは我らには鬼門ですな」
老僕が言った。昼の間は館に入ることも許されず、伯爵の姿を目に入れただけで平伏するはずの下男が、今は堂々と同じ机に着いている。
「特に王室関係はいけないようですな」
と、執事。こちらも下男を相手に実に丁寧な言葉遣いである。
「あんな特殊な立場の王女さまです。死んでほしいと思う人は大勢いるでしょうが、うかつに手を出して魔の五年間の二の舞になっても困ります」
「まさしく……。あの時も各地の里が独自に動いたおかげで、もう少しでこちらの足下に火がつくところでした。王位継承者が四人ですからな」
「これ以上は、いくらなんでもいけません」
ここで書記官が二人のやりとりに加わった。
「各地には王室がらみの依頼は避けろと伝えておいたのですが、完全には行き届かなかったようです。
せめてもの救いは、それらの里が行動に移る前に、依頼の重複が明らかになったことです。どこか一つでも実行に移していたらと思うとぞっとしますよ」
「まったくです。……同時に何か所でしたか?」
「なんと三か所です。これが複数の人からの依頼であれば、それぞれの里の行者が殺し合うくらいですみますが、同じ人からの依頼とはいただけません」
「マグダネル卿はよほどあの王女が邪魔だったのでしょうが、それにしても……」
「ご本人は念を入れたつもりでも、こういうことをされたのでは長いおつきあいは望めません」
「いかにも。死んでいただくしかありませんな。ま、我らがするまでもなく、甥ごの手に掛かったそうで、まずはよかった」
「後はダリエスの宗師ですが、どういたします?」
問いかけられて、さっきからずっと黙っていた伯爵が首を傾げた。
ファロット伯爵は四十前後、肩は広く、腰は細く、りゅうとした男ぶりである。
王宮では国王に親しく仕え、才気走った人物として知られ、老臣たちも一目置いている。また、この人は一度見たら忘れないような美男子でもあった。
それ以上に印象的なのがその色彩である。抜けるような白い肌に銀の髪をきれいになでつけ、瞳も薄い灰色なので銀に見える。色素が抜けているような、一種異様な美貌だった。
「報告によれば、こちらの手の者とダリエスの行者が現場で衝突したそうですが、それに関して本人は何と釈明しているのです?」
書記官が慎重に言う。
「よかれと思ってやったのだと言っています。これはある程度は認めてもいいと思います。マグダネル卿は甥に締め上げられれば、今度の依頼も我々のことも洗いざらい話してしまいかねないお人柄だったようですから」
執事がさらに説明を加えた。
「しかし、結局のところは自分の里が明るみに出ることを恐れたのではないでしょうか。所在が明らかになった里は潰されます。それを恐れ、その前に自分の手で片づけようとした」
上層部の指示を待たず、ダリエスの宗師は個人の判断でマグダネル卿暗殺をシェラに命じたわけだ。
「いつ、どこで、誰からの依頼を受けるか。それは里に一任してあります。しかし、仕事でもないのに行者を動かすとは問題です」
「はい。それに、もうひとつ気になることは、彼は依頼人には決して所在を明かすなという掟《おきて》を破っていたのではないでしょうか」
「私もそう思います。何故と言って、マグダネル卿はダリエスの常客でした。しかしながら、その卿が今回の王女暗殺に関してはダリエスには依頼をしていないのです」
「本来なら真っ先に頼るべきなのに、ですか?」
「口が軽いと同時に姑息《こそく》な人柄でもあったようですな。一応は自国の王女であるだけに用心して、なじみのところは避けたと見るのが正解ではないでしょうか」
「その卿の重複依頼が明らかになった」
「さらには公爵が叔父を殺しに行くことが決定的になった。自分のことを語られては手遅れになる」
「そこで保身のために慌てて行者を派遣した」
その結果、重複依頼の始末をするはずが、その指示までが重複してしまったわけだ。
三人は申し合わせたようにため息をつき、伯爵が結論を出した。
「どうやらその宗師は我が一族には必要ない人のようですな」
「では、これも破棄しましょう」
耳を疑うようなことを書記官がさらりと言った。
執事が頷きを返して伯爵に問いかける。
「他の里は? 王室関係は避けろと言ったこちらの指示を無視したことになりますが?」
伯爵は目元を少しほころばせた。
「まあ、多少のことは大目に見ましょう。大事には至らずに済みましたし、いくら注意したところで、難しい的であればなおさら挑戦したくなるものです。
そのように教育してありますからな」
「伯爵。おたわむれは困ります。あなたはそうした弛みを矯《た》め直すお立場のはずですぞ」
何と老僕が主人に向かってやんわりと諫言《かんげん》する。
しかも、これに対して主人も軽く頭を下げてみせる。
「失礼。ですがこれは弛みというより、競争意識の現れでしょう」
「その弊害も否定できませんぞ。どうも近頃の里は互いを出し抜こうとする傾向が強すぎる」
「里の間でも行者の間でも同じですよ。常に他より優れようと、ぬきんでようとする。その競争意識こそが技を磨き、品質を維持してきた。確かに今回はそれが弊害となって現れましたが、だからといって現在の仕組みを変えるつもりはありません」
今度は老僕が苦笑して、頷いて見せた。
どうやらこの人々の身分は単なる表向きで、実際の人間関係とは大きく異なるらしい。
伯爵が一番目上なのは変わらないが、それも絶対的なものではない。三人に対する口調は昼間の尊大なものとは打って変わって丁寧なものだ。
執事が思い出したように言う。
「ダリエスには現在、外へ出ている行者が数名いますが、どうしましょうか。見届け役を出しますか」
「さて。戻ってきて里が破棄されているのを見れば、勝手に死んでくれると思いますが……」
言い差した伯爵が微笑した。
「いえ、それは危険ですな。見張られているかもしれません。こちらから聖霊を送って自害するように勧めましょう。それで片づくと思います」
老僕が頷いた。
「その死亡確認は私のほうから人を出しましょう」
会議はそこでお開きになった。
伯爵は自分の寝室へ引き上げ、執事と書記官はそれぞれの持ち場へ戻ったが、老僕だけはこの部屋の板壁の一部を動かし、そこに開いた空間へするりと潜り込んだ。
マグダネル卿の館と同じように、この屋敷は縦横に仕掛けがしてある。壁と壁との間に人ひとりがくぐれるほどの隙間が空いているのだ。むろん、外から見たのではわからない。
ファロット伯爵邸の広大な敷地の片隅に、老僕が住み暮らす小さな家がある。夜明けと共に庭の掃除をし、お庭役の指図で働くのが彼の仕事だった。
この屋敷の家来や召使いの中で一族の秘密を知る者はごくわずかである。ほとんどの奉公人は当たり前の仕事に従事し、この老僕のこともただの下男と信じて疑わない。
老僕は屋敷の廊下も出口も庭さえも通ることなく、地下通路を伝って自分の住処に戻ってきた。
納戸の床から這いあがり、台所と兼用の居間へ出て、老僕は部屋の隅に座っている人影に気づいた。
「いたのか」
「ああ。次の仕事をもらいにきた」
淡々と言ったのはあの男である。
マグダネル館の抜け道の出口でシェラと戦い、王女の放った鉛玉を警戒して姿を消した、あの男だ。
あの時とはかなり印象が違う。無気力な、気怠《けだる》げな様子で壁にもたれかかり、片手で片膝を抱えて、残りの長い手足を投げ出している。
「さて、お前の食指が動くような仕事が何かあったかな」
老僕の声は笑いを含んでいる。この若者が仕事にしか興味を抱こうとしないのを揶揄《やゆ》しているのだ。
「少しは体を休めろ、と言っても無駄か?」
「わかっているならさっさとしてくれ。俺の体が退屈に殺される前にだ」
「はてさて、そう言われても困る。とりあえず急を要するのはダリエスの始末を見届けることくらいだが、まさか見届け役にお前を出すわけにもいかん」
男の顔色が少し変わった。
「ダリエスが破棄されたのか?」
「ああ。五人ほどが外へ出ている。遅くとも半年以内には全員が戻ってくる予定だというが、それまで待てんのでな。聖霊を送って死を選ばせる。彼らの言葉なら間違いなく……」
「それでいい」
「なに?」
「俺が行く」
老僕は驚いた顔になった。
「これ。物騒なことを考えるなよ。こちらから手を出してはいかんのじゃぞ。お前の腕を侮るわけではないが、行者同士が迂闊《うかつ》に仕掛け合《お》うて人目についたりしたらそれこそ取り返しのつかんことになる。
彼らにはあくまで自分の意志で死を選んでもらわねばならん」
「わかっている。手は出さない。そいつらが確かに死ぬのを見届けるだけにする」
「しかし……、どうした風の吹き回しだ? わしが言うのも何だが、それこそ退屈な仕事じゃぞ」
「それはわからないさ」
男は楽しそうだった。
「もしかしたら死なない奴がいるかもしれん。その時は俺の好きにしてかまわないな?」
「ばかなことを……」
老僕は舌打ちと嘲笑を同時に洩らした。
「戻る里を失い、命令を下す主人を失って、なお生きている行者など、そうそうあってたまるものか。
そんな変わり種はお前さん一人でたくさんじゃよ」
文句を言いながら、老僕は五人の名前と潜入先を書いたものを渡してやった。
男はそれをじっと眺めていた。
「娘として働いている者がほとんどだな」
「ああ、名前からしてな」
「この中に髪が銀色のはいるか?」
「さてな。宗師なら知っているだろうが、今頃はもうあの世へ行ってしまっただろうよ」
男は肩をすくめて書きつけを懐にしまった。
やがて老僕の小屋から黒い影が滑り出して、夜の闇の中へ消えていった。
一方、マグダネル卿の死は間違いなく中央諸国に波紋を広げていた。
デルフィニアの東北に広がる大国タンガ、その首都ケイファードは二重の防壁に囲まれた巨大な要塞《ようさい》都市である。その要塞の中心にさらに堅固な砦として、国王の居城が聳《そび》えている。
タンガは国土のほとんどが険しい山岳地帯であり、荒れ地である。
必然として人の気風も穏やかとは言いがたいものになる。勇ましいというより好戦的で、それ以上に殺伐としている。
タンガ国王ゾラタスはその国土を治めるにふさわしい人物だった。恐ろしく鋭く、激しく、勇猛で、冷静に物事を計算する眼も持っていた。
この時四十五歳。やや細身ながら筋肉質の長身を持ち、男性的な整った顔立ちだった。
なかなかお洒落《しやれ》でもあり、髪は一筋の乱れもなく油でなでつけ、形のいい口髭をたくわえ、身につけているものも意匠を凝らした豪華なものだ。
いったいに悠然とした立派な人物に見えるが、針のような鋭い眼が峻烈《しゆんれつ》な人格をよく表している。
その国王の面前で数人の侍従たちが隣国で起きた騒ぎの顛末《てんまつ》を報告していた。
むろん彼らもマグダネル卿が自分たちの国王と密約を交わしていたことは承知している。それだけに残念がった。
「恐らくマグダネル卿は陛下のデルフィニア進出を手助けせんとし、同時に自らが家督を継がんとして、甥の公爵と一戦交えようとしたのでしょう。サヴォア公爵はウォル王の右腕とも言うべき重臣です。これを倒しておけば後々あらゆる意味で有利になると判断したのでしょうが、結果は裏目に出ました。公爵の性格と激情ぶりを侮りすぎたようです」
別の一人が言う。
「ウォル王はこの暴挙を憤り、サヴォア公爵に当座の謹慎を命じました」
さらに別の侍従が、「卿の死は惜しいことをしましたが、この二人の仲違いは大きな収穫と思ってよいかと思います。ウォル王も今度ばかりは従弟《いとこ》の激情を持て余したものと判断できます」
玉座に腰を下ろし、表情一つ変えずに家来たちの報告を聞いていたゾラタスが、ここで低く笑った。
「馬鹿どもが。激情などであるものか。今やらねば手遅れになると悟ったのだ」
「は……?」
「仲違いをしたと言ったな。当座の謹慎を申しつけたと。どのようなものだ?」
「はい。期限を告げずに北の塔への入牢を命じるという大変に厳しい処分でございます」
手入れの行き届いた口髭に酷薄な笑いが浮かぶ。
「なるほどな。公爵の独断かと思ったが、案外あの庶子の示唆《しさ》かもしれん」
「なんで、ございますと?」
侍従のおそるおそるの問いには答えない。大事な協力者を失ったというのにゾラタスは楽しげに笑っていた。
「あの男の示唆であり、わかっていて仲違いを演じて見せたのだとしたら、食えん若造だ。それで、あの小娘はどうした?」
侍従たちはそろって口ごもった。
「それがその……」
「こちらから送り込んだ者は皆、途中で連絡が絶えてしまいまして……」
「王女が不慮の災難に見舞われたとの知らせも入って参りません」
ゾラタスははじめて不機嫌な顔になった。
「何をしているのだ。腕の確かな者を送り込んだのだろうな」
「それはもう……」
「仮に捕らえられたとしても、間違ってもタンガの名が出るようなことはないであろうな?」
三人は急いで頷いた。
「大丈夫でございます。こうした仕事を引き受ける者はよけいなことは聞かずというのが鉄則です」
「失敗したところで、賃金さえ弾めば、代わりはいくらでもおります」
ゾラタスは苛立たしげに舌打ちした。
「成功するまで何度となく刺客を送りつけろというのか。タンガ国王たるこのゾラタスに、小娘一人を始末できんと、貴様らは幾度同じ報告をするつもりなのだ」
侍従たちは皆、真っ青になって平伏した。
役に立つ者は重用するが、無能と判断すればその場で打ち首にする君主だからである。
しかし、ゾラタスは本気で機嫌を損ねたわけではなかったらしい。むしろ興味を引かれた様子だった。
「いかにパキラが天然の要害とはいえ、度重なる襲撃に無傷とはな。占い師どもの言うこともそれほど的を外してはいなかったということか」
ゾラタスは迷信家ではないが、多くの占い師を抱えていた。家臣の前で今度の戦は吉と告げさせるだけで勢いがだいぶ違ってくるからだ。
今でこそ名実ともに国王として君臨しているゾラタスだが、隣国デルフィニアの例を見るまでもなく、国王であってもなかなか絶対的な権力を握るのは難しい世情である。ゾラタスも即位してから二十年あまり、ずいぶんと苦労をした。それでなくとも険阻な国土である。わずかでもうまみのある土地には有力な豪族がしがみつき、頑として手放さない。
ゾラタスは長い歳月をかけてそれらを一つ一つ平らげていった。手に入れた土地の農民は手厚く保護して確実に自分のものにすることに心を砕いた。
そうした豪族との抗争に明け暮れていながらも、ゾラタスの眼は常に隣のデルフィニアに向いていた。
広大な穀倉地を持ち、優れた流通経路を持ち、何より中央の真珠と謳われるほどの貿易港を持っている。タンガの海はほとんど懸崖に面していて、多量の物資を輸送するような港はとても開けない。
苦労して土地を開墾するより、すでに立派に機能しているものをぶんどったほうが安上がりなのは当たり前だ。
ところが、こちらの力も充実し、いざという時になって、あの忌々しい庶子のご登場となったのだ。
マグダネル卿から話を持ちかけられるまでもなく、ゾラタスはデルフィニアに撃って出る隙を窺っていた。卿のようにあの庶子をおもしろくないとする豪族を端から味方につけ、戦いを挑むつもりだった。
そのための参考にするつもりで占い師に占わせたところ、彼らは口をそろえてデルフィニアとの戦は大凶、かの地には強い力の源があり、それは決して人の侵し得《う》るものではないと進言したのである。
聞いたゾラタスは激怒して占い師を全員処刑した。
強い力というのはウォル王以外に考えられない。
いくら国力が充実しているからといって二十いくつの若造を相手に決して勝てないとは、ゾラタスがウォルに劣ると宣告するものと受け取ったのだ。無礼千万の暴言と判断したのである。
ところが、その後釜に雇い入れた占い師も同じことを言った。ゾラタスもさすがに怒るより先に訝《いぶか》しく思い、デルフィニア国王は一度は王座を追われたではないかと苛立ち混じりに問うと、国王のことではありませぬと言う。
「では何だというのだ?」
「ウォル王が王座奪還に成功したことこそが、まさにその力の証明でございます。二度目の即位以来、遙かに強固な国体を築いたことを考えますと、その力は未だに王の側にあると判断しますのが順当ではないかと心得ますが、まったくもって意外な……」
「結論から言え。何なのだ」
「それでは申し上げます。王の力の源は、しばらく前に養女として迎え入れた、あの娘でございます」
さすがに呆れ返った。
「そんな戯言《ざれごと》でこのゾラタスを欺こうとするのか」
「め、滅相もございません……。これはもう、そのようにしか解釈の仕様がありませんので……」
ばかばかしいとその時は思ったが、気を変えて、市井で名を知られている占い師を何人も呼び寄せて占わせてみると、やはり同じことを言う。
中には占う前から、あの王女さえ排除できればデルフィニア攻略はかなったも同然と言い切る者までいた。
ますます呆れたが、ここまで来るとさすがに気になる。王女と言ったところで庶子の国王を養父に持つ、素性の知れない娘だ。タンガの名が出なければかまわないと思い、始末するように家来に命じた。
それから一年近くになるというのに、未だにあの王女は生きている。
結果が出なければ無意味と考える主君の性格を、長年ゾラタスに仕えている家臣たちはよく知っているはずだった。手を抜いたとは考えにくい。
しかも、密約を結んだマグダネル卿にも王女暗殺による効果のほどをほのめかしたところ、卿は胸を叩いて、かねてから暗殺集団として知られている一族を使って必ずしとめると請け負ったという。
その一族の存在はゾラタスも知っている。便利な道具だとも聞いている。ただ、あくまで仕事の受注という形でしか働かず、居所も正体も明かさないという。
それではゾラタスにとっては役に立たないも同然だった。秘密は厳守すると言うが、国王がいちいち暗殺を『外注』などできるわけがない。手元に置こうとしたこともあるのだが、うまくいかなかった。
彼らの身柄ごと雇おうとしたのを察したのか、巧妙に接触を断たれたのである。
どうやら彼らはもっぱら『民間』を相手に働いているらしい。
その一族が出来合いとはいえ、王女の暗殺を引き受けるのかと思った。また、引き受けるとしたら噂に高い暗殺一族の手並みを確かめるいい機会だとも思ったが、卿は死に、王女はやはり生きている。
「力の源、か……」
低く呟いて半ば眼を閉じた。
こうなると侍従たちには主人が何を考えているのかさっぱりわからない。ただ次の命令が下されるのを待ってその場に控えるのみだった。
そのタンガとタウ山脈を挟んで隣接するパラストでも、今度の一件を重く見た。
虎視眈々《こしたんたん》とデルフィニアを狙っているのはパラストのオーロン王も同じことである。
ゾラタスが東北からデルフィニアの切り崩しにかかったように、オーロンはテバ河越しに国境の豪族を取り込もうとし、実際かなりの手応えを感じていたのだが、その連中が一斉に態度を翻してしまったのである。
「長いものには巻かれろということか」
三十八歳のオーロンは苦笑したものだ。
中背の、やや太り気味の体を、絹を張りつめた羽毛のクッションに預け、金銀宝石で象眼した酒杯を弄《もてあそ》んでいる。
首都アヴィヨン城は三重の城郭を持ち、警護の限りを尽くした堅固な城だが、趣向を凝らした華麗な城でもあった。アヴィヨンからロシェの街道をたどり、テバ河へ出、河を下ると、そこにはかの有名な都市国家ペンタスがある。
街ほどの国土しか持たない小国だが、歓楽都市としても文化と流行の発祥地としても名高い国だ。
オーロンは金に糸目をつけず、ここから贅沢品を運ばせているのである。
オーロンは奸計《かんけい》の持ち主として知られる悪巧みの名人だが、同時に享楽的な性格でもある。風流や文芸を愛し、贅沢を好み、美女に夢中になることもしばしばである。
それでいて戦には非常に強かった。
ゾラタスのように峻烈でもなく、ウォルのように眼を見張るような剛胆さや胸がすくような痛快さも持ち合わせていなかったが、堅固な用兵ぶりで、これと目を付けた土地は何年かかっても必ず自分のものにしてきた。つまりは非常に用心深く、確実を好む性分なのである。逆を言えばねばっこい。
パラストは長年タンガと犬猿の間柄だが、それも短気で激しいゾラタスと、あくまで気の長い二枚舌のオーロンとでは、それぞれの考え方に共感できるところが少しもなく、互いを軽く見るのは必然と言えるからだ。
そのオーロンも隣国デルフィニアへの攻略の手は怠っていない。
デルフィニアは豊かな国土を持ちながら、現在の国王が庶子ということもあって内部に何かと問題が多い。これを放っておく手はない。
マグダネル卿は甥公爵との確執の末、その逆鱗《げきりん》に触れて処分されたことになっている。国王はこの行為を怒り、公爵を厳しく叱責したと伝えられている。
奸智に長けたオーロンの眼から見てもその通りに見えるのだが、後ろ暗い連中には肌で感じるものがあったのだろう。慌ててこちらとの接触を断ち、コーラル城へはせ参じる始末だ。
しかし、こんな時の人の変心を憤ったところで無駄だとオーロンは思っている。
「仕方がない。一からやり直しだな」
むしろさばさばと割り切り、これからの方針を練りはじめた。
「こうなるとタウの山賊からも手を引いたほうが得策だろうな。反応を見るためにちょっかいを出してみたが、デルフィニアは動かん。山賊どもは山に立てこもって出てこんとなれば、兵を出すだけ無駄だ。
さて、どうするかな。結局はあの庶子が思いのほか手強いことが全ての原因と言えるわけだが……」
オーロンの抱えている呪術師も流れ者の王女のことを口にした。
また、何人も放っている細作《さいさく》は、マグダネル卿が王女暗殺を企んでいると報告してきた。
どちらも本当なら長年の宿願がかなう。王女の死によって本当に国王の権力が衰えるかどうか確かめるつもりで、手始めにタウに脅しをかけてみた。ウォル王とタウの山賊の間に何らかの協定が結ばれていることは明らかだからである。
ところが、卿は甥の手に掛かって死に、王女は無傷、ウォル王の権威は衰えるどころではない。公爵への断固とした処分は親国王派の人々の眉《まゆ》こそひそめさせたが、逆に反国王派の人々を震え上がらせ、固く忠誠を誓わせる結果になったのだ。
そこまでわかっていて公爵を人身御供に使ったのだとしたら、ますますもってあなどれない男である。
何かその弱みとなりそうなものはないか、心を惑わせる効果的な手段はないかと、オーロンは日夜模索していた。
自分で考えているだけではない。家来や細作にも命じて探らせたのだが、どちらも考えあぐねて首をひねる有り様である。
「どうも、よくわからない国王でございます」
子どもの使いではあるまいし、何か成果を持ってこなければならないのはわかりきっているのだが、その成果らしきものがいくら探っても出てこない。
「武勇に優れているという噂ですが、温厚そのものの人柄で市民に慕われていますし、羽目を外すようなことも怒りに我を忘れるようなこともありません。
特に執着を見せるものもありませんし……」
まるで無味乾燥、特色がないというのである。
「女はどうだ? あの男はまだ若い。盛んなのではないか」
「それが……。愛妾はおろか、女官に手がついたという話さえ聞きません」
「すると男色好みか?」
「わかりません。少なくともそれらしい少年は一人もおりません」
「すると案外あの王女を床に呼んでいるのではないか?」
「それこそあり得ないことでございます。養女にするくらいですから愛してはいるようですが、男女の情愛とはとても言えません」
楽しみと言えばたまに鷹狩りに出、たまに酒類をたしなむ程度で、口にするものや身につけるものに注文など出したこともないらしい。オーロンのように風流や贅沢に心を奪われるということもない。
ただひたすら政務に励んでいる。
ではそれはゾラタスのような激烈な支配意欲からきているものかと問うと、これも違うという。
時々こっそり執務室から逃げだそうとするところを侍従に見つかり叱られて、また仕事に戻るようなことも珍しくないというのだ。
さすがにオーロンも困惑した。
「何が楽しくて王座についているのだ?」
「わかりません」
支配者には特権がついて回る。国王ともなれば庶民とはすでに別次元の存在だ。何人たりとも王を裁くことも制約することもできないのである。
なのにウォルはその権力を行使しようとも楽しもうともしない国王だという。
オーロンの信頼している重臣はこう分析した。
「ウォル・グリークは少年から青年時代のほとんどを地方領主の息子として過ごしております。国王となった今でも、心はごく普通の若者のままなのではないでしょうか」
そうなると、王冠を手に入れたごく普通の若者がどうしてそこまで淡々としていられるのかがわからない。舞い上がり、有頂天になり、公私ともに眉をひそめるようなことをしでかして自滅するはずだ。
どうにも不可解だった。デルフィニアの国王は決して飾り物ではない。単なる一青年にあんな奇跡的な王座奪還や、その後の見事な統治を行うことができるはずはないのだが、聞けば聞くほど庶民的、というより庶民そのままの性質である。
そんな国王の王権が数年も続いているというのは理解しがたいことだった。
オーロンはスーシャ時代のウォル・グリークを調べるように命じた。どんな少年であり青年であったのかを知る必要があると思ったからだ。
もっともタンガとの睨み合いや、他の諸事に追われ、そんな指示を出したことも忘れていたのだが、マグダネル卿が不慮の死を遂げたのと前後して、家来の一人がおもしろい話を持ってきた。
11
二人の騎士団長が投獄されてからのコーラル城は意外なほど平穏な日々が過ぎていった。
国王は慌てて伺候してくる地方貴族や豪族たちに仏頂面で会い、ドラ将軍はそんな国王を『説得』するために連日登城し、王女は二人の騎士団長をせっせと見舞ったものだ。
もちろん取り次ぎを通さず、壁を登ってである。
それも初めのうちこそ夜間に限っていたが、やがて白昼堂々と壁を登って会いに行った。
「冷静に考えると昼間でもこのあたりには人がいないからな」
と、あっさりしたものである。
もっとも閉じこめられているバルロとナシアスもたいしたもので、「王女。どうも退屈でいかん。屋敷の俺の部屋から駒と盤を持ってきてくれないか」
と、バルロが頼めばナシアスは、「私はこの機会を利用して読書に励みたいと思うのですが……」
と、これこれの書物を持ってきてくれないかと頼む。
「手慰みに竜弦琴があると嬉しいな」
「それなら私には五弦琴をお願いします」
大貴族のバルロは当然の教養として音曲《おん きよく》のたしなみがあるし、ナシアスもかなりの腕前である。
だが、王女はさすがにげんなりした様子だった。
「牢獄で演奏会をやろうってのか? いくら何でも看守に気づかれるぞ」
「だからこそです。こんな殺伐とした役目に就いている人々の耳を楽しませてやろうと思いましてね」
「どこから楽器を手に入れたかって言われたらどうするんだよ?」
「正直に答えます。姫さまのなさることなら看守もあまり強いことは言えませんでしょう」
「問題が違うような気がするけどな」
そう言いながらも楽器と分厚い本とゲーム盤を担いで壁を登ってくる王女である。
他にちゃんと差し入れも持ってくる。
見た目にも実においしそうな料理の数々なのだが、二人とも何とも言えない顔で眺めたものだ。
「またか、王女?」
「姫さま。申し訳ありませんが、これはちょっと」
「この間の差し入れもなんともなかっただろ?」
「まあ、確かに……」
「それはそうですが……」
「人が苦労して運んできたんだ。食べないなんて言うなよ。先におれが毒味するから」
ナシアスがため息をついた。
「姫さま自らの毒味とはおそれ多いことです」
牢獄生活も七日目に入っていたが、二人とも結構楽しんでいるようだった。
王女が頻繁に現れて、細かい情報を逐一教えてくれるせいもあったろう。
卿の死後、真っ先に王宮に駆けつけてきたのは、その第一の協力者と見られていたメイスン男爵である。
バルロは恥知らずめがと憤り、ナシアスは呆れていたが、王女はくすくす笑っていた。
「どこまでばれてるのか心配で心配で生きた心地もしないってやつじゃないかな。もう真っ青のがたがただよ。ブルクスがそろそろご領地へお帰りになればって勧めても、二の郭の屋敷から動こうとしない。
領地へ戻ってまたタンガから誘いをかけられるのを警戒してるらしい」
そこでほとぼりが冷めるまで王宮に籠城して、国王の機嫌をとろうというわけだ。
王女が感心したように言う。
「馬鹿で鈍いと思ってたんだけど、実際そうなんだけど、ウォルは天才的にとぼけかたがうまいな。メイスン男爵相手にマグダネル卿の死はつくづく惜しいことをしたなんて大真面目に嘆いてみせるからな。
この頃では、手段には大いに問題があるが、調べてみると従弟《いとこ》どのの言い分にも一応の理があるなんて言い出してる。当然、周りの人はそれっとばかりに勢いづいてぜひとも両騎士団長の釈放を、って迫る。
なのにあいつ、絶対そこで飛びつくようなことはしないんだ。いやしかし、卿の無念を考えると国王たるものがえこひいきをするわけにもなんて渋ってる。
ドラ将軍なんか本気で腹を立てて、いつまで強情を張るおつもりか! なんて怒ってるよ。芝居と現実の見境がつかなくなってるらしいな。二人になるとウォルのほうが少し落ちつけって将軍をなだめてる。
あれじゃ話があべこべだ」
バルロもナシアスも苦笑したものだ。
「相変わらず言葉に遠慮のない方だ。従兄上《あにうえ》は確かに世間で言うところのりこう者ではないが、鈍くはないぞ」
「りこうじゃないとは思うわけだ?」
「こんな場合、りこうな国王なら俺を見捨てます」
笑いながらバルロは言った。弦を合わせていたナシアスがぎくりとして顔を上げる。
どうも先日からこの男が王家に関わる者としての顔を見せるたびに驚かされている。
「よくやってくれたと口では言っておいて、いや、心から感謝していたとしてもだ。それはそれ、これはこれと割り切って、あるいは不欄《ふびん》と思いながらも、領土の四分の一くらいは没収するのがりこうなやり方です。それならマグダネルの親族どもも納得する。
俺も自分から買って出たことだ、恨みには思わんのだが……」
バルロは皮肉な笑いとため息を同時にもらした。
「従兄上はどうやら俺から何も取り上げまいとして苦心しているらしい」
「たぶん、性格的にできないんじゃないかな?」
今度は声を立てて笑う。
いかにも、あの国王らしいと思ったのだろう。
「タウのほうはどうなりました? タンガとパラストがちょっかいをかけているとのことでしたが」
「昨日イヴンから知らせてきた。どっちもいつの間にかいなくなったって。ただ、油断はできないからもうしばらくこっちにいるつてさ」
独立騎兵隊長はバルロがエブリーゴへ出発する前にタウへ戻っていた。タウの村落が襲撃されるのを恐れたわけではない。住人が血気に逸《はや》って飛び出すのを抑えるためである。
飛び出しさえしなければ天然の要害のタウ山脈だ。
どんな大軍の襲撃にもびくともしない自信があるが、住民は大国の勝手な言い分に腹を立てている。
「まあ、ジルがいるからな。滅多なことにはならんと思うが、念のためだ」
イヴンはそう言ってタウ山脈のべノア村へ戻り、両大国の動向を細かく知らせてきた。マグダネル卿が不慮の死を遂げるまではどちらも威勢が良かったが、以後は潮が引くようにいなくなったという。
「団長が北の塔に入っているって知らせてやったら、ぜひとも見物したいって言ってきた。檻の中なら噛みつくこともできないだろうから、だってさ」
「あの麦わら頭がその窓から現れたら、即座に不法侵入者として叩き落としてやりますからな。そのつもりで見学に来いと言ってやんなさい」
「おやおや、独騎長も気の毒に」
ナシアスが微笑しながら五弦琴をつま弾いた。
この人はそうして楽器を抱えていると根っからの楽士のようである。次々と奏でられる清涼な音色に、王女が感心したように言った。
「いい音だ。本宮で聞くのよりいいかもしれない」
「姫さまに褒めていただけるとは嬉しいことです」
「では、俺の腕前も披露せねばなるまいな」
バルロも笑って楽器を取った。
かくて、殺伐とした牢獄内に華麗な二重奏が響くことになったのである。
本当なら止めさせる立場の看守も黙って聞き惚れるほどの名演奏だった。
やがて国王は重臣たちの必死の説得を受けたこともあり、マグダネル卿が当主に対して叛意を抱いていたのはどうやら間違いないらしいと確信するにも至って、従弟に対する勘気を解いたのである。
王女はそこまで見届けると、シェラを連れてダリエスを目指して出発した。
事件はどうやら一応の決着を見た。もう王宮を離れても大丈夫だと思ったのである。
ドラ将軍もアヌア侯爵もヘンドリック伯爵も、もちろんブルクスも胸を撫で下ろした思いだったのだが、まさにこの日、コーラル城に新たな椿事が発生した。
発生というより王女と入れ違いになるようにしてやってきたのである。
この日、国王はいつものように執務室で業務をこなした後、謁見の間で人々の訴えを聞き取っていたのだが、そこへ侍従の一人が現れて、ためらいがちに、お客様がお越しです、という。
「俺に客?」
国王は訝しげに問い返した。
そんな予定は入っていない。その客が誰であるにせよ、唐突に、国王を名指しにして王宮を訪れたことになる。それで侍従も困惑しているのだろう。
「誰だ?」
「ソブリンのエンドーヴァー子爵夫人とおっしゃっていますが、ぜひ陛下にお目にかかりたいと……」
また首を傾げた。ソブリンはパラストの地方都市の一つである。訪ねたことはない。エンドーヴァーという名前にも心当たりはない。
「人違いではないのか?」
侍従は頭を抱えたものだ。
国王の人違いなどするものがいるわけがない。だいたい仮にも国王に面会しようというなら、その旨あらかじめ連絡してくるのが普通である。
こんな客を追い返すのが侍従の役目なのだが、自分に会いたいというものがあれば必ず耳に入れるようにと、それこそきつく国王から言い渡されている。
言うだけのことは言わなければならなかった。
「以前のお名前はラティーナ・ペスとおっしゃるそうです。それでわかっていただけるというのですが、帰っていただきますか?」
ほとんど義務感のみで言った侍従だが、とたんに国王が反応した。
「ラティーナ・ペス? そう言ったのか」
「はい。ご存じで?」
「懐かしい名前を聞くものだ。すぐにお通ししろ」
「かしこまりました。謁見《えつけん》の間にいたしますか?」
「いや、個人的な知り合いだからな。客間へ頼む。
二人で会いたい」
これには侍従のほうが驚いた。
かつてないことだと思った。国王が女性と二人きりで会いたいというのである。
このことは瞬く間に本宮内に伝わり、礼を欠いた唐突な訪問者はあっという間に第一級の賓客《ひんきやく》になってしまった。
奥ではカリンの指示が飛び、女たちは慌てて接客用の晩餐《ばんさん》の用意を整えはじめ、控えの間から客間へ夫人を案内したのはなんと宰相ブルクス本人である。
本来なら小者か、相手がどんな大物だろうと侍従がつとめる役目を宰相が自ら買って出たのだ。いかにデルフィニアの国王が女性に縁遠く、いかにそのことを家臣が案じていたかという格好の証明である。
エンドーヴァー夫人は大仰に言うなら本宮中の侍従や女官の注目を集めながら奥まった小さな客間に通され、女官長のカリンはそこはかとない期待を抱きながら、自らこの賓客に茶を運んだものだ。
子爵夫人というが、一人の従者も侍女も連れず、徒歩でやってきたらしい。
装飾品はいっさい身につけておらず、ドレスもずいぶん着込んだ質素なものだ。あまり裕福な暮らしぶりではないようだと思った。しかし、生活に疲れている様子はない。
歳は三十前後だろうか、腰を下ろしているところだけだとよくわからないが、大柄な人のようだった。
顔は逆にこづくりである。ずば抜けて美しいというのではないが、白い肌に黒髪と緑の瞳がよく映えていた。
黒髪といっても国王やバルロのように墨を掃《は》いたような黒ではない。薄い黒というのも変だが、青みがかった淡い印象を受ける。
瞳の緑も同様で、王女の眼のような濃い緑ではない。若草色の眼だ。
茶を置いたカリンに微笑して頭を下げる。暖かい、好もしい笑顔だった。
ちょうどそこへ国王がやってきた。
カリンは盆を下げて控え、夫人は笑顔を消して立ち上がり、ドレスの裾をつまんで丁寧に膝を折った。
「お久しぶりでございます、国王陛下」
「いや、堅苦しいのはよしましょう。どうぞ……」
椅子に戻るように勧め、国王はしげしげと夫人の顔を眺めた。
「本当にしばらくぶりにお目にかかりますが、いくぶん細くなりましたな」
退出しながらため息をついたカリンである。
女性と会って開口一番なにを言い出すことやらと思ったのだ。これではどうもこちらの期待しているようなことにはなりそうにない。
事実、背後では夫人が笑いをこらえている気配がする。
「はい。陛下と親しくさせていただいていたころは、この顔はもっと丸々としておりました。歳を取りますと、顔から肉が落ちるようです」
「いいや、前よりお美しくなられた」
「ありがとうございます。陛下もすっかりご立派にお成り遊ばしまして……」
言いかけて、夫人は笑いを洩らした。
「思ってもみませんでしたわ。まさか、あなたを陛下とお呼びする日がくるなんて……」
「俺もあなたにそんなふうに呼ばれる日が来るとは思わなかったのですから、お互い様です。父でさえ頑固に陛下で押し通しました」
夫人はふと真顔になって、国王を見た。
「伯爵さまは亡くなられたと聞きました。お気の毒です」
「いえ、もう三年も前のことです。気にしないでください。それよりあなたのほうこそ、よいご結婚をなさったようだ」
夫人の顔が曇った。
「それが……、あまりよくはありませんの。先頃、夫と死に別れまして、未亡人なんです」
「ほう、それは……」
お気の毒に、と、言いかけた国王だが、少しばかり疑わしげな顔になった。
「今度は本当に未亡人ですか?」
「ええ。今度は本当です」
女官長は身分もそこのけにして物陰に張りつき、この会話の一部始終に聞き耳を立てていた。しかも、いつの間にか宰相までが女官長の後ろに張りついて盗み聞きをしている。
「宰相……ご遠慮してくださいな」
「そういうわけにはいきません。これはもしかすると、私の業務にも関わって参ります」
「奥向きは私の管轄です」
互いに聞き取れないくらいの囁き声である。
国王というものにプライバシーは存在しない。むしろ、この女性が誰であり、国王とどういう関係なのかは、臣下としてぜひとも正確に把握する必要のあるところだ。
どうやらスーシャ時代の知り合いらしいということはわかる。問題はその先だ。
国王が言う。
「すると、今は、生活のほうはどのように?」
「ええ、お恥ずかしい話ですけれど、それで困っておりまして……」
夫人の声には真情がこもっていた。一口に貴族と言っても様々である。バルロのような大公爵もいれば、領地を持たない名ばかりの貧乏貴族もいる。主人の働きだけで生計を立てていたのだとしたら、夫が死ねばその家族はたちまち生活に困ることになるのだ。
「何か俺にできることがありますか」
夫人はちょっと眼を見張って国王を見た。
「あなたは……、いえ、すみません。陛下は少しもお変わりありませんのね」
「はて?」
「私をお怒りではありませんの?」
国王は小さく笑ったものだ。
「何を言われるやら。それこそ昔の話です」
「本当に怒っていらっしゃいません?」
「もちろん。よろしかったらしばらく王宮に滞在していってください。歓迎します」
「あの、それでしたら、お願いがあるのですけれど、申し上げてもかまいませんでしょうか?」
「もちろん。どうぞ」
夫人は少しためらったが、王の顔色を窺うようにして言い出した。
「できましたら、客人ではなくて陛下の愛妾にしていただきたいんですの」
王が眼を剥《む》いた。
物陰でカリンとブルクスは思わず顔を見合わせた。
夫人はさすがに気まずそうに目線を下に落としている。
まじまじとその顔を見つめていた国王はやがて、小さく吹き出した。そのままひとしきり笑い続けて、無理矢理笑いを収めて真顔になった。
「いや、失礼。あなたも少しも変わっていないな」
腰を下ろしたまま夫人は丁寧に頭を下げた。
「お気にさわりましたら申し訳ありません。でも私、そのために参ったものですから」
「なるほど」
何がなるほどなのか聞いているカリンとブルクスにはさっぱりわからなかったが、国王はまた笑みを浮かべながら、いたずらっぽく言ったのである。
「愛妾がよろしいですか?」
「ええ。できましたら」
「わかりました。それでは愛妾にいたしましょう」
「ありがとうございます」
夫人は再び丁寧に黒い頭を下げた。
盗み聞きをしていた宰相と女官長は絶句したまま、しばらく言葉も出なかった。
あとがき一難去ってまた一難。
今回はまさにこれでした。年末の一番忙しいときにたちの悪い風邪を引き、氷枕を抱えながら新年を迎える破目になったのがそもそものはじまりです。
いつも的確な感想をくれる友人は、私に風邪を移され、貴重な正月休みをしっかり寝込む破目になったとそれはそれは恨めしげでした。私だって何も好きであんな時期に風邪を引いたわけではないんですが、遠路はるばる東京まで出てきて風邪を押しつけられて帰ったのでは確かにやってられんでしょう。すみません。
それでもどうにか風邪から立ち直り、原稿は当然のことながら遅れに遅れていたので(今度こそもう駄目かもしれないと……いや、恐いから考えないようにしていましたが)何とか取り返すべく鈍足ながら必死にもがいていたわけですが、そうしたら今度は歯が痛み出しました。もう、本気で腹が立ちましたね。虫歯なんかになってる場合か! って。
最初は無視していましたが、一日の仕事の一番肝心なところで、じわーっと痛くなる。
気が散るなんてもんじゃありません。しかも痛み方が半端じゃない。
何がいやといって歯医者さんほどいやなものは他にはありませんが、放っておいたらひどくなるのはわかりきっている。痛み方からしてこれは絶対、少なくとも神経を抜くはめになるだろうと、いやしかし、悪いところは今のうちに治してしまおうと悲壮な覚悟でお医者さんへ行きましたら、「別に悪い歯はないよ」
あのう……、先生、でも痛いんですけど……。
「レントゲンで見てもちゃんと治療してあるし、痛いにしても原因は歯以外の何かだな」
はあ……。
「毎日、根を詰めて仕事してるってんならそれじゃないか。運動でもしたらいいよ」
それができれば苦労はないんですけど……。
どうも釈然としませんが、とにかく虫歯ではない。人から色々と話を聞いてみますと、肩こりがひどい場合にも歯が痛くなったりすることがあるようです。肩こりなら十数年のキャリアと自信がありますが(笑)今まで歯が痛くなったことなんかないのに、と不思議でした。ところが、この歯痛、原稿が終わった今ではきれいに消えてしまいましたね。
要は単なる焦りというか、プレッシャーというか、原稿から逃げたい一心だったのかもしれません。そうするとこれからも話に詰まるたびに歯が痛み出すのかもしれません。
なんだか、ものすごくいやです。
そして毎回恒例の、『今回のタイトルは?』
私は嬉々として言いました。
「もう絶対却下だっていうのはわかってるんですけど、これしかないっていうくらいぴったりなのがあるんです」
電話の向こうでは担当さんの疲れた笑い。
「たぶん却下だと思いますが、念のために伺いましょう。何です?」
「捨てられた犬!」
「却下します」
ああ、あっさり言われてしまった。ぴったりなのに。こんなに中身を正確に表しているタイトルはないのに……。『受難の犬』じゃ駄目かな。駄目だろうなあ……。
そう、今回は自分のことを犬ではないと言い張る犬としか思えない彼が、かわいそうなくらいの災難続きでした。なんとか化け物屋敷で頑張ってもらいたいものです。
あの暗殺一族って、ご主人に忠実なところといい、使命感に満ちているところといい、以前から犬によく似てると思っていました。となると本物の犬はどのくらい飼い主に忠実でどのくらい訓練に拘束されるのか、ぜひ知りたいところでしたので、無茶は百も承知で専門家の方にお話を伺ってみました。
犬のことはまつたくわからない素人の取材に快く応じてくださった八千代警察犬訓練学校校主の平尾さん、ありがとうございました。長年、訓練に携わっている方の貴重なご意見を伺うことができました。この場を借りてお礼申し上げます。
それから、今年もたくさんの年賀状をいただきました。今年こそお返事を、と、思っていたのですが……、も、申し訳ありません。とにかく時間がないんです。
読者さんの声は何より励みになりますし、本が出るたびに感想を送ってくださる熱心な方もいらっしゃいます。そうした方々に何もお返しができないのは本当に心苦しいのですが、せめて、この本を楽しんでいただければと思います。
(だけど個人的には某友人に『またこんなとこで切る!』と怒られそうな気がする……。
わざとやったんじゃないのよ。ページの都合で入らなかったのよう)それではまた、七月にお目にかかりましょう。
一九九五年 二月 茅田砂胡獅子《しし》の胎動《たいどう》
デルフィニア戦記61995年3月15日 初版印刷1995年3月25日 初版発行著者 茅田砂胡《かやたすなこ》