異郷の煌姫 デルフィニア戦記5
茅田砂胡
中央公論社
地図 斉藤由加
挿画
口絵 沖 麻美也
アスティン◎ティレドン副騎士団長。バルロ団長の名補佐役。
ガレンス◎ラモナ副騎士団長。
カーサ◎王宮内にあるサヴォア公爵家に仕える執事。
ジル◎タウの自由民を束ねる頭目。
フラン◎独立騎兵隊士。
シェラ◎王宮に仕えることになった女官。
マグダネル◎先代サヴォア公爵の弟。サヴォアー族の中でも強大な力を持っている。
ドゥルーワ◎先代デルフィニア国王。10年前に逝去。
アエラ◎ドゥルーワの妹。ドゥノレーワ在位中、大貴族であり右腕でもあったサヴォア公爵に嫁ぐ。バルロの母。
レオン、エリアス、ルフィア、エヴェナ◎ドゥルーワの嫡出子。すでに全員逝去。
グライア◎ロアで黒賊と呼ばれていた野性の悍馬。リィを認め、乗騎を許す。
ゴルディ◎パキラ山脈ルブラムの森に棲む狼。
ウォル(ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン)◎デルフィニア国王。庶子であったため、一度はその地位を奪われるも多く味方を得て再び王冠を被る。統率力に優れ、無私公正。戦士としても優秀。
リィ(グリンディエタ・ラーデン)◎異世界からきた少女。華奢で可憐な外見とは裏腹に無双の剣の腕と戦士の魂を持つ。ウォルの王権奪回に類を見ない活躍を示し、戦女神と讃えられる。内乱平定後、ウォルの養子となり、現在はデルフィニア王女。
バルロ◎国内の名門サヴォア一族の当主で、父の跡を継ぎ公爵となる。ティレドン騎士団長。ウォルの従弟で短気な毒舌家。ウォルを早くから支持し、内乱時には敵方によって国王に祭りあげられるが固持し続けた気骨の持主。
イヴン◎独立騎兵隊長。ウォルの幼なじみ。タウの自由民。
ナシアス◎ラモナ騎士団長。公爵としてのバルロを抑えられる奇特な主。
ドラ◎将軍。名馬の産地として名高いロアに領地を持つ伯爵。ウォルの養父フェルナン伯爵の親友だった。
シャーミアン◎ドラの嫡子。女騎士。
ブルクス◎宰相。先王時代には優秀な外交官として仕えていた。内乱時には侍従長をこなし、デルフィニアの裏も表も知りつくしている。
カリン◎女官長。ウォル生誕当時、生母ポーラに味方しウォルを暗殺から救った。
異郷の煌姫
デルフィニア戦記5
その日は朝から王女が本宮に下りて来た。
王宮の朝は早い。まだ暗いうちから女たちを中心に一日が動き始めている。
女官長のカリンはとりわけきびきびと働きながら女たちを監督していたが、王女の姿を認めて目を見張った。
「おや、お珍しい」
そんな言葉が口をついて出るほど、この人が自分から本宮にやって来るのは稀なことである。
「おはよう。あれはどうした?」
「今朝はまだ起きて来られません。ご寝所ではございますまいか」
「そうか。ちょっと早すぎたか」
「お待ちになりますか?」
「いや、起こしに行く。急ぎの用らしい」
王女の言う『あれ』とは国王のことである。
他の者ならこんな物言いは絶対に許されない。カリンも許さないのだが、いつものことである。このごろでは言っても無駄と諦《あきら》めてもいる。黙って頭を下げた。
デルフィニア王宮、コーラル城はパキラの山腹から平地にかけて造られ、下から三の郭《かく》、二の郭、一の郭の三重構造になっている。その一の郭のもっとも奥まった位置に見事な白い姿の本宮が建てられている。本宮だけでもはなはだしく広い建物だが、勝手を知りつくしている王女は案内も待たずに国王の居室に向かった。
デルフィニアの国王、ウォル・グリークはその育ちのせいもあって大仰なことが好きではない。
隣国パラストのオーロン王などは家族の一員だろうと、その顔を見るまでにいくつかの取次を経なければならない場合もあると言うが、ウォルの場合は外からの賓客《ひんきやく》に会う際、多少の体裁を整える程度である。国王の寝間は誰でも通れる廊下を入ってすぐのところに設けられていた。そのほうが便利だというのが当の国王の弁である。
不用心に過ぎるという意見もあるが、寝所の横には控えの間があり、人が詰めている。夜間の見張りと、目を覚ました国王の用事を果たすためだ。
王女の姿を見て、詰め所にいた兵士も侍従も一斉に頭を下げる。
王族の女性ならばここで立ち止まり、自分が来たことを陛下に伝えてくれと言うのが順当だが、王女はかまわなかった。平伏した家来たちの横を平然と通りすぎて国王の寝所に入って行った。
ほとんど足音は立てなかったが、たとえ熟睡していたとしても、扉の開く音だけで国王は目を覚ましただろう。家来に守られて眠っていても感覚の鋭い男だ。
実際にはもうすでに起き上がって、部屋着に袖を通したところだった。
王女の姿を認めて笑顔になる。
「おお、早いな」
「至急会いたいと言ってきたのはそっちだぞ。あの置き手紙はいつのものだ?」
「一昨日《おととい》だ。もっと待たされるかと思ったが、二日ですむとはありがたい」
本来、王女などというものは父である国王の許可なしには自分の居城を一歩も出られないはずなのだが、この王女にそんな常識は通用しない。
今の住み処である西離宮は本宮のはるか背後のパキラ山腹に建てられており、使われなくなって久しいこともあり、下手をすると昼日中でも狼が現れるような場所だ。よほど屈強な男でも一人で夜明しするのはごめん被《こうむ》ると臆病からでなく言うだろうが、王女はその離宮で召使も置かずに暮らしている。
それだけならまだしも、行き先も告げずに実に頻繁にいなくなる。獣の姿が濃く、地元の猟師たちでさえ足を踏み入れるのをためらうパキラ山中を自在に歩き回り、時には一人で国境を越えたりもしているらしい。半月近くも離宮を留守にすることもしばしばである。
そうなると場所が場所であるだけに使者を残しておくわけにもいかず、結局はなはだ頼りない手段ながらも置き手紙を残しておくしか方法はないというわけだ。
「いつぞやのように十日も待たされるのではないかとひやひやしたぞ。今度はどこをほっつき歩いていた?」
王女はこの問いには笑って答えなかった。
「それより、急用というのは何だ」
「まあ、待て。その前に腹ごしらえにするとしよう。お前もどうだ?」
「もらおう。腹ぺこなんだ」
城の者たちはこの風変わりな王女にもだいぶ慣れたのだが、知らない者はいまだに腰を抜かさんばかりに驚く。
特に城下から奉公にあがって来た若い侍女たちがそうだ。
城下の娘たちもむろん王女の噂は聞いている。一種のあこがれを抱いてさえいる。生まれ素姓が貧しくとも国王にその美しさを見いだされ、晴れて王女に迎えられたおとぎ話の主人公としてだ。
しかし、本人を目《ま》の当たりにした時、おとぎ話と実物との激しい落差に娘たちは絶句する。
デルフィニアの王女は身なりを整えて黙って座ってさえいれば文句なしの美少女である。これは間違いない。もう五年もすれば絶世の美女と言われてもおかしくない。
問題は、この王女は美しい衣裳などには目もくれないし、黙って座っていることなど夢のまた夢だということだ。
飾りらしいものといえば額に置いた銀の冠ひとつである。櫛《くし》を入れれば黄金のようなつやを放つはずの髪はくしゃくしゃにまとめあげられ、すらりとした体を山岳民のような皮の胴着に包み、形のよい腕には裂いた麻布を巻きつけている。長ズボンを穿《は》いた膝から下にも同様に荒織りの麻布を巻きつけ、土に汚れた皮の短靴を履いている。おまけに腰には常に長剣を差している。
この格好で平然と本宮内を闊歩し、国王を捕まえてはぽんぽんやるのだから、知らない者があっけにとられるのも無理はない。
今もカリンに従って朝食の膳を運んで来た若い侍女が一人、国王と語り合う王女の姿を見て立ちすくんだものである。
城へあがったばかりの娘で不幸にも今まで王女の姿を見たことがなかったらしい。
「山賊の少年が陛下のお寝間に忍びこんだ……」
そう思ったらしい。
先導してきたカリンが一瞥《いちべつ》をくれたので、慌てて立ち直り、ぎこちない手つきながらどうにか食膳を並べて、他の侍女と下がって行った。
「驚かせたらしいな」
「無理もない」
二人は給仕をする女官たちも下がらせ、しばらく互いの近況を報告しあった。
そうして国王は少し言葉の調子を変えて言い出したのである。
「実は、マレバから少々、厄介なことを言ってきてな」
「バルロがどうかしたのか?」
国王の従弟《いとこ》であり、サヴォア公爵の称号を持つノラ・バルロは、マレバに本拠を置くティレドン騎士団の長でもある。
国王のもっとも近い親族として、また腹心の味方として知らぬ者はない重要人物だ。
「また人妻と火遊びでも始めたとか」
「それなら放っておく。従弟どのは俺と違って火遊びの達人だ。火種をつけるのもうまいが後に残らぬように消すのもうまい」
王女が思わず吹き出した。
俺と違って、とわざわざ断るのがおかしかった。
デルフィニアの国王、ウォル・グリークは二十七歳になる。よい施政を布《し》くことで知られ、名立たる剣豪でもある。端整な顔立ちに穏やかな黒い瞳とつやのある同色の髪をし、鍛え抜かれた豊かな長身は見事なまでの均整を誇っていた。
堂々たる美丈夫だが、いまだに独身である。
その『娘』である王女は十六歳。名はグリンディエタ・ラーデン。前述したように眩しいほどの金の髪と鮮やかな深い緑の瞳を持つ男装の少女だ。
国王とはむろん実の父娘ではない。
もとの素姓は誰も知らない。ただ、三年前の内乱において戦女神《いくさめがみ》もかくやという働きを示し、国王のたっての請いで王女として迎えられたのだ。
人々はこの思い切った手段に驚愕し、一部のものの間では国王はあの少女に迷ったのではないかとまことしやかに囁かれたものだが、二人ともこの噂を一蹴《いつしゆう》している。
国王は王女のことを、
「俺の同盟者だ」
と言い、王女は王のことを、
「おれを女あつかいしない貴重な男だ」
と言う。
当然、言葉のやり取りもまともな親子のものとは程遠くなる。
今も王女はいたずらっぼく笑って言った。
「シッサスでもお前の王妃は誰になるのか、噂の種になってるぞ」
「なんだ。お前、あんなところに出入りしているのか」
「ああ、おもしろい。大陸中からいろんな人間が集まってくるからな。珍しい話が聞ける」
「しかし、いくらお前でも若い娘がシッサスに足をむけるのはあまり感心せんな」
「それさ。このなりだと誰もおれを女だと思わないらしい。おかげで妙に女の人にもててる」
今度は国王が吹き出した。髪を隠してしまえば、グリンダ王女は颯爽《さつそう》とした少年に見える。玄人《くろうと》の女たちがいたずら心を起こして誘いをかけるのだろう。
「おれはもちろん、そのお誘いに乗るわけにはいかないんだけどな。よかったらそっちへ譲るぞ」
「馬鹿を言うな。国王が下町へ出かけて女郎買いなどしてみろ。いい物笑いだ」
さらりと言った国王だった。実際、中央全土にその名を知らしめている英雄にしては、この国王は色事方面にあまり興味を示さない。当のバルロ、そして国王の幼なじみであり悪友でもあるイヴンはそれを心配しているのか、何かというと国王に女性を近づけようとする。
一度、イヴンとともにシッサスにお忍びで出かけた国王はそれこそ両手にあまるほどの華やかな娼婦たちに取り囲まれ、強引に迫られて慌てて逃げ出して来たらしい。かと思うとバルロの紹介だという貴族の美しい奥方が何人も、熱心に国王に言い寄ってくる。
若い、独身の国王に女たちが目の色を変えるのも無理はないが、その後ろで二人が糸を引いているのは明白である。
することは同じでいながら、二人とも互いのことを快く思っていない。
「だいたいスーシャの田舎で育ったあいつに、貴族の、しかも人の女房なんかを押しつけようったって無理な話だ。据え膳食わぬは何とやらっていうのはそれこそ騎士団長みたいな女たらしに当てはまることであって、いくらお膳立てしようがあんな朴念仁《ぼくねんじん》が素直に据え膳に手を出すもんか」
と、イヴンが毒づけば、バルロも負けていない。
「昔がどうあれ、今の従兄上《あにうえ》はこのデルフィニアの国王なのだぞ。愛妾にするのはもちろん、たとえ戯れに嬲《なぶ》るにせよ、下町の娼婦などうかつに近づける馬鹿があるものか。下層の男たちばかりを相手にしている女どもだぞ。悪い病《やまい》でも持っていたら何とする。取り返しのつかないことになるではないか」
どちらの言い分にも一応の理は通っているようだが、なんのことはない。どちらの調達した娘が国王の意に添うかを密かに競っているのである。
こうしたことを王の耳に入れたのは他でもない、グリンダ王女だ。
「もてる男は何かとたいへんだ」
からかっているのか本気なのかわからない口調と顔つきで言われて、王は苦笑したものだ。
「俺とて木石《ぼくせき》でできているわけではないが、ああも強引に押しつけられるのは気が進まん。それだけなのだがな。困ったものだ」
国王がいまだに独身であることを一部の家臣が憂《うれ》えているのは確かである。有力な国家の中から適当な姫君を選ぼうとする動きもあるが、王の結婚はすなわち政略である。どこの国家を選ぶか、国王としては慎重にならざるを得ない。
そうなると、せめて側室でもと思うのか、今度は国内の貴族がそれぞれ自分の目をかけた娘を売りこんでくる。
しかし、国王はこちらにも慎重だった。そのまま臣下たちの勢力争いに発展しかねないからだ。
「ましてや、あの二人の紹介してくれる娘たちにはうかつなことはせんほうがいいな」
顔を合わせれば火花を散らしている従弟と友人に、国王は苦笑して言ったものだが、王女も奇妙な笑みを浮かべながら頷いたものだ。
「同感だ。選ばれなかったほうが嫉妬のあまり何をするかわからない」
選ばれなかった娘が、ではない。
いやでも王女の言いたいことを理解した国王は、笑っていいやら困ればいいやら、非常に悩んだのを覚えている。
ティレドソ騎士団長は二十五歳になる。
十年も前からその名を知られている騎士であり、国王によく似た大柄な体格と黒い瞳と髪を持っていた。家柄と容姿に恵まれ、武勇も優れているとあって女性関係は非常に派手だが、内乱時代には頑として王座を拒み抜いた硬骨の人でもある。
そのバルロと、親族であるサヴォア家との間が、ここのところおかしくなっているというのだ。
大貴族であるサヴォア公爵家は多くの同族を抱えているが、その中でも当主に匹敵するほどの大家《たいか》の主《あるじ》としてマグダネル卿という人物がいる。
エブリーゴに広大な領地を構える大貴族であると同時に先代のサヴォア公爵の弟に当たる人物だ。
身代も大きく、現公爵の『叔父』でもあるだけに一族の中での発言権も相当なものがある。
しかし、どれほどの大家の主だろうと一族の一員である以上、当主の意向には従わなければならないのが血族の掟である。
マグダネル卿も例外ではない。年下であろうと甥であろうと当主であるバルロを『目上』として、一応の礼をつくさなければならないはずだった。
同様に、一家の長と言えども、バルロも『叔父』であるマグダネル卿を目上として立てなければならないはずだった。
その二人の間が急速に険悪になりつつあるというのである。
マグダネル卿は以前からバルロに対して批判的な態度をとってきたが、この度はっきりと、
「一族の長たる資格なし」
と決めつけたというのだ。
容易ならざる事態である。
三年前の内乱時、終始国王の味方だった。バルロと違い、その母アエラ姫、そして問題のマグダネル卿など、一族の中でも力のある人々はどちらかと言うと反乱勢力に荷担する傾向にあった。
そのため、内乱が平定してからも両者の間で小さな諍《いさか》いや感情の対立があったらしいということは国王も承知している。
しかし、まさかそこまで険悪な状態になっているとは予想だにしなかった。マレバからの使いは、マグダネル卿との合戦はもはや避けられないとするバルロの決意を伝えに来たのである。
それもこれもマグダネル卿が、たびたび当主であるバルロを侮辱する発言を繰り返し、それだけでは飽きたらず、とうとうマレバを目指して挙兵の支度を始めたからだというのだ。
この知らせは即座にマレバに伝えられ、聞いたバルロは怒るでもなく平然と言ったらしい。
「つまり俺に殺して欲しいということだな」
報告した使者はその声音《こわね》に思わずすくみあがったそうだ。
「叔父上も謙虚な方だ。そんなに死にたいのならば、こんなまわりくどい手段を取らずとも俺の前に出て来て一言『家督を譲れ』と言えばよいのだ。その場で一刀両断にしてさしあげたものを」
むしろ機嫌よく言うのを聞いて、もはや何を言おうと主は止まりますまいと、ティレドン副騎士団長アスティンは、悲痛な表情で国王に告げたものである。
「主は、身内のことで領内を騒がせることを陛下にお詫び申しあげると同時に、まことにお見苦しいものをお目にかけることになりますが、家長であるバルロを軽んずるばかりか己がそれになり代わろうとするマグダネル卿を放置しておくわけには参らず、かくなった以上は早急に片をつける所存だと、そのように申しております。私は主に代わりまして、私事で兵を起こすことを陛下にお断りするために参上つかまつりました」
許可を得るのではなく、断るというのがいかにもバルロらしい。これは身内のことなのだから、口を出してくれるなというのだろう。
しかし、はいそうですかと黙っているわけにはいかない。国王はその場で詳しい事情をアスティンに問いただした。
長年、バルロの側に仕えているアスティンは常にバルロの忠実な部下だった。歳は三十の後半になっているだろうが、色白の整った顔立ちと淡い栗色の髪は実際の歳より十近くも若く見える。一流の騎士でありながら温和で控えめな性格で、気性の激しい主人を的確に補佐する名副官でもあった。
そのアスティンが、国王が何を言ってもただ暗い顔で首を振るのみなのだ。
「陛下には誠に申し訳なく思いますが、かくなりましては私ごときが何を言ったところで無駄でございます。さほどに主の決意は固く、我倒れるか彼倒れるかの覚悟で出撃をする所存でおります」
「いかん。その出撃、俺が許さん」
珍しくきつい口調で国王は断言し、その旨《むね》をマレバに伝え、同時にマグダネル卿に事の子細を問い合わせた文書を送ったが、これと入れ違いになるようにマグダネル卿の使者が王宮に到着した。
誠に遺憾なことながら、余儀ない事情でマレバと一戦交えねばならなくなった。その許しを得たいというのである。
国王は唖然とすると同時に、ほとほと呆れ果てた調子で使者に問いただした。
「これはいったいどうしたことだ? バルロは承知のとおり俺が従弟、またマグダネル卿はその従弟の叔父であり、王国の重鎮でもある方ではないか。何故この両人が争わねばならんのか、納得のいく釈明をしてもらおう」
これに対し、使者は抑えた口調ながらも、紛れもない憤りを感じている様子で、それもこれも問題はバルロにあるという。
三年前の一件をバルロはいまだに根にもち、何かにつけてマグダネル卿を粗略にする態度をとるというのだ。特に一年ほど前からはそれがますますひどくなったらしい。
「確かにあの内乱においては、私は忠臣のとるべき態度を貫いたとは言えぬ」
と、マグダネル卿は述懐したらしい。
なにしろ国中が国王か、それとも反乱勢力の首魁《しゆかい》であったぺールゼン侯かに別れて争ったのだ。
「あの折は侯の言い分が正しいように思えたればこそ、積極的に陛下をお助けすることはしなかった。しかし、聞けばぺールゼン侯は亡きドゥルーワさま寵愛の女性を殺害し、幼い陛下の暗殺をも企てたという。それがわかった以上、デルフィニアの栄《は》えある臣下であるこの身がなんで味方をできるものか」
この事実が世に広まるにつれ、あらためて国王に忠誠を申し出た貴族はマグダネル卿の他にも大勢いる。あまりにも論外の仕業《しわざ》だったからである。そんな者にいつまでも荷担していて同類と思われてはそれこそたまったものではない。
「陛下には過ちを犯した私を快くお許しくださり、心から感謝している。なればこそ以前の過ちを償う意味でも陛下とデルフィニアのためになお一層の忠義をつくして参った。ところが……」
バルロはいまだにマグダネル卿を許していないという。先日もサヴォア家の親族一同が会した折、バルロは叔父であるマグダネル卿を末席に追いやり、あの叔父を近くに寄せたのでは何をしでかすかわからないと、面と向かって言い放ったというのだ。
四十八歳のマグダネル卿はこの侮辱に頭髪を逆立て、満面に血を上せていたと使者は語っている。
卿自身の言葉としては、こんな恥辱を受けて黙っていてはそれこそ騎士の名折れである。同時にこれ以上あの甥を当主として仰ぐことはわが身にはとうていかなわない。誠に申し訳ないが、私情で兵を起こすことを何とぞお許し願いたいとのことだった。
しかし、国王としてはとても許せることではない。
国内でもそれと名の知れた人々が何という馬鹿な真似を、というのが国王の率直な感想だった。
マグダネル卿が勝てば卿には『当主殺し』の汚名が被せられることになるだろうし、同様にバルロが勝てば『叔父殺し』だ。
どちらに転んでもデルフィニアの利にならないことは明らかである。
「そこでな、いったい何が原因でここまでこじれたのか、いろいろ調べてみたのだが、どうもマグダネル卿の言い分のほうが正しいらしい」
「へえ?」
王女は意外そうな顔になった。
内乱の前から、この叔父と甥はあまりうまくいっていなかった。これは確かである。
父親の死によってバルロが爵位を継いだのは十八の時である。マグダネル卿にしてみれば武勇があっても当主となってもその年齢の甥を子どもと思っても無理はないし、バルロにしてみれば、父の弟というだけで自分のすることに何かと口を挟むマグダネル卿を疎《うと》ましく思ったこともあっただろう。
だが、内乱後、マグダネル卿はバルロを名実ともに当主として立て、よく従っていたはずだった。にもかかわらず、当主であるバルロはマグダネル卿を嫌い、表には出ないながらもたびたび卿の顔を潰《つぶ》すようなことをしてのけたらしい。
相手が家長と思えばこそ我慢に我慢を重ねていたマグダネル卿だが、その堪忍袋の緒が先日の親族会議の一件でとうとう切れたというのだ。
「とりあえず俺が沙汰するまで構えて兵を動かしてはならんと両人には申し伝えたが、このままでは間違いなくマレバとエブリーゴの間で合戦になる」
王女は率直に驚きを示した。
「冗談じゃない。そんなことになったら小競り合いじゃすまなくなるぞ」
わずか十六歳の王女だが、戦女神の現身《うつしみ》とまで言われた人である。それが何を意味するか、わからぬはずはない。
「いかにも。ただのお家騒動で収まるわけがない」
国王も頷いた。『俺の同盟者』というのは国王の紛れもない本心である。
勇猛果敢で知られるティレドン騎士団を抱えるマレバに広大かつ裕福で知られるエブリーゴだ。互いに動員できる兵力の数は優に数千を超えるだろう。それほどの戦力がぶつかりあうとなればこれはもう戦争だ。
「だけど、いったい……。バルロはマグダネル卿の何がそんなに気に入らないっていうんだ?」
「俺もそれが知りたい」
バルロは確かに激しい気性の持ち主だ。皮肉と毒舌の名手でもある。しかし、三年も前のことをいまだに根にもつような陰湿な執念とは無縁の人間であるはずだ。
「初めは例によって従弟どのの口が過ぎたのだろうと思った。なにしろ言葉に遠慮のない従弟どのだ。本人に悪気がなくとも聞いた人は何と思うか知れたものではない」
そこで国王はまずマグダネル卿をなだめようとした。
ことと次第によってはバルロから謝罪の言葉をとりつけようから、何とか合戦は思い止まるようにと言ってやったのだが、
「我慢の限界を超えたなればこそ、もはや武力による決着をつけるしかないと思い極め申した。今さら詫び言などですむ問題とお思いか」
頑として聞き入れない。
今の卿は何としてもあの甥の首級を挙げてくれるとまで憤激しているらしい。
そこで今度はバルロを諫《いさ》めようとした。相手は親族の中でももっとも頼りになるべき人のはず。どんな理由があるにせよ、血を流すこと以外の手段で決着をつけるべきだろうとの言葉を伝えるとともに、ビルグナのナシアスに連絡をとった。
ナシアスはティレドン騎士団と両翼と並び称されるラモナ騎士団の長である。その剣術は優にバルロに比肩するものだし、自身は中流貴族の出身でありながらサヴォア大公爵という身分に臆せず、はっきりとものを言う。バルロにとっては腹心の友とも言うべき人物だった。
「ところがだ。そのナシアスが一昨日、わざわざビルグナから出て来て俺にこう言った。この度の仕儀はまことに残念に存じますが、自分には到底バルロを説得することはできませんとな」
王女は目を丸くして問い返した。
「ほんとか?」
「それでな。ではこのまま手をこまねいて従弟どのに叔父殺しをさせよと言うのかと詰め寄ったところ、ナシアスはそんなことにだけはなりません、とこう言うのだ」
「どうして?」
「俺もまさにそう尋ねた。するとナシアスは、自分もティレドン騎士団とともにエブリーゴへ出陣し、バルロに代わってマグダネル卿を討ち取って参りますから、我が友は叔父殺しなどにはなりません、とこうだぞ?」
国王は肩をすくめて両手を広げてみせた。
王女もさらに目を丸くした。
ラモナ騎士団長の言葉とはとても思えなかった。
バルロとナシアスはともに優れた武将だが、完全に推進力と制御力のコンビである。むろんどちらがブレーキかは言うを待たずだ。
日頃のナシアスならば、たとえ自分の言葉に素直に頷いてくれないとわかっていても、一応はバルロを説得しようとするはずだった。
「いったいどういうことだ。天変地異の前ぶれじゃないだろうな?」
「わからん。まさにお手上げだ。とりあえずナシアスは王宮に留めてあるが、まるで話にならん。あぐねたあげく、お前の意見を聞きたいと思って使いを出したのだ。また留守だと聞いて焦《あせ》ったがな。どうやら間に合ってくれたらしい」
「困った時のおれ頼みかよ?」
妙なことわざを持ち出した王女だが、その顔は真剣そのものである。それは国王も同様だった。
「従弟どのとマグダネル卿の間に何か深い溝があることは間違いない。問題はそれが何なのか、俺にはさっぱりわからんということだ。アスティンにもナシアスにもくどいくらい問い詰めたのだが、二人とも頑として口を割らん。屋敷の『爺や』も同様だ」
「ははあ……」
この王宮にもサヴォア公爵の立派な館がある。
その留守居役のカーサはもう四十年も公爵家に仕えており、幼かったバルロが爺と呼んで慕った教育係でもある。体は老いたが、公爵家と主人のためならばいつでも死ぬ覚悟はできていると断言する。身の細い、穏やかな顔貌の老人ながら、たいへんな気概の執事だった。
当然、手塩にかけて育てた『若君』であるバルロへの忠誠心も並ではない。
そのカーサまでもが、親族相手の合戦だけは思い止まらせるようにという国王の言葉に対し、控えめに、だがきっぱりと、
「私の手にあまることでございます」
断ったと言うのだ。
つまり、バルロに親しい人たちはそろってバルロの肩を持っていて、マグダネル卿の討ち取りもやむを得ないと考えていることになる。
「しかし、どちらかといえば従弟どののほうに非があるように俺には思える。先に決別宣言を突きつけたのは卿のほうだが、バルロはまるでマグダネル卿をわざと怒らせているかのようだ」
「あるいは挑発したのかもしれない」
「それも考えた。だが、理由は何だ? もしもマグダネル卿が従弟どのに造反でも目論んでいるというのなら、その旨をはっきりさせればよい。そうして堂々とマグダネル卿を糾弾するほうがよほど従弟どのの性分に合うはずだ。そうすれば俺からも口添えして、マグダネル卿を諫めるなり、従弟どのに対して詫びを入れさせるなりできるものを、これでは手の下しようがない」
最近ではようやく国内も安定してきた。ここへきてささいな感情のもつれからの合戦など、ウォルにしてみればばかばかしい限りだし、断じて認められることではないのである。
王女も難しい顔で考えこんでいると、侍従が遠慮がちに寝間に現れた。
たった今マレバから使者が到着し、まもなくティレドン騎士団長ノラ・バルロが国王に謁見するため、まかり出るだろうとのことだった。肩を怒らせて謁見の間に現れたバルロは口調も激しく一気に言ったものである。
「従兄上! いかな国王とはいえ身内の問題に口をはさむのはよしていただきたい!」
これが久方ぶりに会う君主への第一声なのだから、その場にいた人々は仰天した。
いくら従弟とはいえ、王家につながるサヴォア公爵家の当主とはいえ、国王に仕える臣下には違いない。主人に対してあまりにも礼を欠いた発言である。
しかし、国王は驚きも怒りもしなかった。静かに話しかけた。
「まあ、おちついてくれ。従弟どの。しょっぱなからそれでは話もできん」
「あいにく私のほうにはお話することなど何もありませんな。至らぬ親族のことで従兄上のお心をわずらわせていることは申し訳なく思いますが、それも挙兵を許していただければすぐさま解決してご覧にいれます。ここはこ静観ねがいます」
「従弟どの。それはとうてい無理な相談というものだ。俺は従弟どのもマグダネル卿も二人とも失いたくはない。この争いは王国にも貴君らの間にも何の利益ももたらさない。違うかな」
「これは心外な。戦というものは常に損得がらみとは限りません。むしろ余儀なき事情から起こるのだということくらい、従兄上もとくとご承知のはず」
「しかし、従弟どの。その余儀ない事情というものが、この場合、俺にはさっぱり見えんのだ。どう考えてもご両人が武力を持って争わねばならぬだけの理由が俺にはわからん」
心底困惑した様子で言った国王に、バルロの精悍《せいかん》な顔が少しばかり複雑な表情を浮かべたようだった。
「身内のことだと申し上げたはずです」
それきり国王のどんな言葉にも耳を貸そうとしない。国王が最大限の譲歩を見せ、それほどマグダネル卿に遺恨があるなら、自分の口から今の態度を改めるようマグダネル卿に進言してもいいとまで言った時、前にもまして激しく反発したものだ。
「従兄上が腰を上げれば向こうの思うつぼではありませんか! 叔父はこのバルロを当主として不適格と主張し、自分がその地位になり代わると公言しているのですそ。家長としてこれを討つに何の遠慮がいるというのです。私が受けて立ったところでこれは身内同士のいざこざ、臣下同士の喧嘩です。しかし、もしも従兄上がうかつなことをなされば叔父は従兄上に対して牙を剥《む》きましょう。ひとつ間違えば三年前の二の舞になりますぞ! 馬鹿なことはおっしゃらんで、君主の義務と諦めて黙って座っていていただきたい!」
こうまで露骨に部外者あつかいをされても、国王は怒らなかった。むしろ激しく噛みついてくるバルロを珍しげにしげしげと眺めていた。
「お腹立ちのようだな。従弟どの」
「ご無礼を……。決して従兄上に腹を立てているわけではありません」
「腹が減っているのではないか?」
真顔で言われてバルロは目を剥いた。
「何ですと?」
「人は空腹時には怒りっぽくなるという。何か召しあがっていかれるとよい。あいにく俺は今すませたばかりだが、それから話をしよう。こうして顔を合わせるのも久しぶりだ」
毒気をぬかれた形のバルロだが、それでも傲然《ごうぜん》と胸を張った。
「お言葉ではありますが、今の私にゆるりと話をしている暇などありません。すぐさまマレバへ戻らねばなりません」
「まあ、そう急《せ》くものでもない。ナシアスが二日前からこちらに来ているのだ。今日にはマレバへ発《た》つと言っていたからな。あやういところで行き違いにならずにすんだではないか」
「従兄上」
あくまで呑気な様子の国王だが、バルロの目線は相変わらず厳しい。
「ビルグナのナシアスが王宮にいる理由は何です」
「理由も何も、単に顔を見せに寄ってくれたのだと思うが……」
この国王にしてはうまくとぼけたほうだが、バルロはすかさず意地の悪い笑顔になった。
「騎士バルロも見くびられたものですな。従兄上はこの私を、当主としての義務を前にしながら友人の言葉に左右されるような人間と思われましたか」
今度は国王が苦笑した。
「従弟どのはいい友人をお持ちだな」
「皮肉でありますか?」
「それは従弟どのの専売特許だろう。俺は苦手だ。そう怒らんでも、ナシアスにはきっぱり断られた。どうやら従弟どのとマグダネル卿の間には、俺にはわからん深い確執があるらしい」
「では、合戦をお許しくださいますな?」
「ま、その話はあとだ。昼までは俺も予定が詰まっていて動けん。午後になったら鷹狩りにでも出ようではないか」
「それは結構ですが、合戦をやめよというお話なら聞く耳持ちませんぞ」
先手を打たれた国王だが逆らわなかった。
「わかった。その話はしない」
「かたじけない」
「代わりに俺の我がままも、ひとつ聞いてもらいたいのだがな」
「何でしょう」
「マレバへ戻るのは明日にして、今夜は酒の相手をしてもらいたいな。血なまぐさい話は抜きでだ」
「それは私も望むところです。喜んでお相手いたしましょう」
ずっと険しい顔をしていたバルロが初めて表情を緩めたようだった。
コーラルの北百五十カーティヴのところに、ドラ将軍の領地、ロアがある。
王女は今、そこを目指して走っていた。
馬ではない。自分の足で駆けている。常に体から離さない剣は邪魔にならないように背負い、駿馬《しゆんめ》もかくやという速度でまっしぐらに北を目指した。
途中、人とすれ違うこともあったが、何が通りすぎたのか気づく間もないうちに王女の姿は遠ざかっている。
大の男がどんなに飛ばしても三日の旅程のはずだが一陣の風のように王女は走り、この日の午後にはロアに到着した。
「あの足は魔法仕掛けだ」
と、国王が語る王女ならではの技《わざ》である。
その王女にしてもわずか半日でこの距離を走破するのは相当苦しい。
どうしてそんな無理をしてまでロアを目指したかといえば、この西北二十力ーティヴのところにマグダネル卿の領地エブリーゴがあるのだ。
バルロに親しい人々が何かを知っていながら口にできないでいることは間違いない。
しかし、ドラ将軍ならばバルロに遠慮するようなことはない。
彼らがひた隠しにしている事実を知っているかどうかは賭けだが、知っているなら必ず語ってくれるはずだった。
「あれ、王女さまではありませんか」
道端の農家から出てきた女が王女を認めて話しかけてきた。この土地では『風変わりな王女』を知らないものはまずいない。
「また王宮から駆けていらっしゃったので?」
「ああ。ロアは遠いな。だいぶくたびれた。水を一杯もらえるか」
「へえ」
ドラ将軍の居城までは、まだだいぶある。少し休んでもう一走りするために立ち上がった王女だが、こちらへ近づいてくる蹄《ひづめ》の音を聞きつけて足を止めた。
やって来た馬上の人を見て王女は笑顔になり、相手も笑顔で馬から飛び降りた。
「お久しぶりです、姫さま。お迎えに参りました」
ドラ将軍の一人娘、シャーミアンである。
「よくおれが来るのがわかったな」
「あら。私にはそんな神通力はありませんわ。でも、わかるものもいます。あそこに……」
シャーミアンが指さす方向には黒い彫像のような、大きな馬の姿があった。
人間たちを恐れて近寄ってこないのではない。見下しているかのような、堂々たる姿である。
「あれ、まあ。黒主がこんな近くに……」
農婦が驚いたように言った。
「急に走り出したのが見えたので、私は後を追って来たんです」
シャーミアンが説明した時には、王女は喜び勇んで黒馬に駆け寄っている。
「グライア!」
馬も嬉しそうに王女を出迎えた。
ロアの黒主は王女以外の人間を決して乗せようとはしない。その意味では王女の愛馬と言ってもいいのだが、王宮に置くのを王女も当の馬も嫌がって、ロアの広大な領地を勝手気ままに駆けている。
鞍《くら》もおかない馬に飛び乗った王女は、振り返ってシャーミアンに声をかけた。
「シャーミアン。屋敷まで競走しようか」
「ま……。ひどい姫さま。黒主とでは勝負になるわけがありませんわ」
「将軍は家にいる?」
「今は留守ですが、境界線を見回りに行っただけですから、もう少しすれば戻ってくると思います」
「そうか。じゃあ……」
王女は、間近で黒主を見て息を呑んでいる農婦に目をやった。
「悪いけど何か食べさせてくれるかな。簡単なものでいい」
「お急ぎですの?」
「ああ。すぐにコーラルへ戻らなきゃならない」
シャーミアンはさすがにただ事ではないと感じたようだった。これも農婦を振り返って言う。
「私にも何かもらえるかしら? ここで食事にさせてもらうわ」
「あれまあ。姫さまと王女さまに召しあがっていただくようなものがうちにあったかね」
農婦は慌てて家の中へ入って行った。
ロアの者にとって『姫さま』は領主の娘であるシャーミアンだ。区別してグリンダのことは『王女さま』と呼んでいる。
やがて二人は馬首を並べてドラ将軍の館へ向かった。
将軍はちょうど帰館したところで、娘と一緒に現れた王女を見て、笑顔で出迎えてくれた。
「これは、姫さま。ようこそいらっしゃいました。近頃ではあまりおいでにならんので黒主がいささか機嫌を悪くしておりますぞ」
「暇をもてあましてるんだろう。おれと同じだ」
「それにしては急なお越しだが、何か起こりましたかな?」
「そうでもない。バルロが王宮に怒鳴りこんできたくらいだ」
端的に言った王女だった。
将軍はふと真顔になり、シャーミアンは素直に驚きを示したものである。
「バルロさまがどうかなさいましたの?」
「シャーミアン」
居室の椅子に収まったドラ将軍は娘に向かって静かに話しかけた。
「姫さまに何か飲みものでもお持ちしてくれんか」
目を見開いたシャーミアンだが、父親の表情に何かを感じ取ったらしい。黙って立ち上がると部屋を出て行った。
王女と二人きりになると、ドラ将軍は声を抑えて慎重に言ったものである。
「エブリーゴの一件ですかな?」
やはり知っていた。
安堵《あんど》の表情を浮かべて頷いた王女だが、すぐに真剣な顔で囁き返した。
「ウォルが今、一生懸命時間稼ぎをしてる。それもいつまで保つかわからない」
「陛下は、バルロどのに挙兵のお許しは出されないと?」
「それさ。ウォルにしてみればそんな許可を出せる道理がない。ところがこんな時に一番頼りになるはずのナシアスもカーサも、アスティンもだ、仕方がないと考えてる」
「……」
「バルロもだ。あの勢いならウォルの許可がなくても叔父さんを殺しにエブリーゴへ突撃するだろう。なのにみんなその理由を一言も言わない」
「……」
「ウォルは頭を抱えてる。自分に話してくれないことで、しょげてもいるよ」
ドラ将軍は太いため息を吐いて、立派な椅子の背もたれに凭《もた》れかかった。
王女は黙って返答を待っていた。
ドラ将軍は王女になる前のグリンダをよく知っている。しかし、他の人々と同様、グリンダが王女の地位を得ると徹底してこれを敬う姿勢をとった。
いくら王女が今までどおりでいいと言っても、それではあまりにけじめがないと言って譲らなかった。
自然児そのものの王女はこれをさみしがり、急に態度の改まった人々を恨めしくも思ったようである。
「ウォルの気持ちがいやと言うほどわかる」
と、王女になりたてのころ、ぼやいたものだ。
国王もまた、ある日突然、前国王の遺児だと言われ、周囲の豹変を経験した人だ。
「ウォルはそれでも前の王様の子どもってことが明らかになったんだから、その血筋に対して敬意を示すのはわかる。だけどおれは昨日も今日も、ただの通りすがりの部外者だぞ」
「しかし、その部外者が陛下を再び王座につけてくださった事実も疑いようがありませんぞ」
ドラ将軍はむしろ楽しげに笑って言ったものだ。
「わしはあなたの素姓や血筋にではなく、行動と能力を認めて敬意を表しておるつもりです。それではいけませんかな」
「それは嬉しいけど、だからって……」
「何です?」
「あんまり、違いすぎる。こんな肩書きだけでバルロはいやいやながらも頭を下げるし、ナシアスもシャーミアンもとたんにがらっと違う言葉でしゃべるし、ドラ将軍までがこれだ。おれはなんだか馬鹿にされてるような気がする」
将軍は今度は豪快に笑ったものだ。
「これは心外な。多少言葉づかいが変わっただけのことではありませんか」
これを多少と言うのだろうかと王女は疑わしげな顔だったが、将軍のほうは気にしなかった。
「わしの心は以前と何も変わりません。変わるはずがありません。ただ、小戦士と呼んでいたのが王女になり、それに伴って少しばかり形をつけて話しているだけのことです」
「そうは言っても形が変われば中身も変わったように見えるじゃないか」
「王女のおっしゃることとも思えません。バルドウの娘が見た目にだまされてその器量を見抜くこともできぬとあっては、陛下ががっかりなさいますそ」
妙なお説教をされて王女はとうとう両手をあげて降参したものだ。
後で聞いてみると国王も似たようなことを言われて降参するはめになったらしい。
それから三年が過ぎている。
変化があったのは周囲ばかりではない。グリンダ王女は十六になり、背も伸びて、外目にはますます美しく娘らしくなった。同時に態度や言動から子どもらしいところが消え、前にもまして『男らしく』なってきた。
周りから見ると何とも奇異な眺めだが、本人には自然なことらしい。
今も、少女めいたところはどこにもない瞳でまっすぐドラ将軍を見つめている。
やがてドラ将軍は大きな息を吐くと、どことなく苦い顔で王女に言った。
「姫さま。この件に関しては、わしも詳しいことは知らんのです」
王女の眉が跳ね上がる。
この期《ご》に及んでそれはないと抗議しようとしたのを制して、将軍は言った。
「ですから、今からわしがお話しすることはただの、世間の噂です。流言蜚語《りゆうげんひご》の類です。それでよろしいですかな?」
「噂?」
「さよう。一部の人の間で囁かれている、あまり快くはない与太話《よたばなし》でござる」
吐き捨てるような口調で言う。
それからドラ将軍の居室では、どんなに聞き耳を立てていても聞き取れないような低い声での会話がしばらく続いた。
席を外せと暗に言われたシャーミアンは長い時間を置いて、ためらいがちに飲みものを調えて父の居室に向かったのだが、その時にはもう王女の姿はどこにもなかったのである。
「父上。姫さまは……」
「そこからお帰りになった」
将軍は開いたままの窓を指し示して見せた。この居室は実に三階にあるのだが、王女には苦にもならないらしい。
「よほどお急ぎでいらしたんですのね」
あっけにとられたシャーミアンだが、その父親は真剣そのものの表情で言った。
「シャーミアン。もしやすると、近々大きな騒ぎが起きるかもしれんぞ」
「はい」
「三年前の遺恨がいまだに尾を引いているらしい。ばかばかしい限りだがな」
「はい」
父親の嘘に気づいたのかどうかはわからないが、二十歳になった女騎士は静かに頷いてみせたつ
その日の夜、コーラル城内の一の郭《かく》に建てられているサヴォア公爵の館ではバルロとナシアスが顔を合わせている。
さっきまで国王の酒席の相手をしていたバルロだが、少しも顔色が変わらない。今も新たに酒を運ばせるように言ったばかりである。
その友人を訪ねてきたナシアスはといえば、お世辞にも顔色がいいとは言えなかった。いつも穏やかな表情を浮かべている顔が厳しく張りつめ、憔埣《しようすい》してさえいた。
「陛下から挙兵のお許しはいただいたのか?」
尋ねると、バルロは苦い顔をしながらも太く笑って首を振った。
「いいや。のらりくらりと逃げられた」
「そうか……」
「従兄上《あにうえ》はあれで意外としぶとい。もっともそれでなければ王座奪還などかなわなかったろうがな」
今朝方の憤激が嘘のように機嫌よく言う。
一方のナシアスは大敗を覚悟の上で突撃しなければならない時のような顔で言った。
「それで、どうする?」
「知れたことよ。許可があろうとなかろうと明日にはマレバへ駆け戻り、エブリーゴへ出撃する」
恐れていた答えにナシアスは唇を噛んだ。
酒の支度を整えて現れたカーサもまた、同じような顔色で言ったものだ。
「ご主人様。今一度お願いいたします。それだけは思い止まってはいただけませんか」
「今さら何を言う。一年がかりで俺に喧嘩をしかけるように持っていったのだぞ? やっとその挑発に乗ってくれたのだ。こんなまだるいことは二度とできん」
「いえ、エブリーゴを攻めることをお止め申しているのではありません。ですが……何と申しましても相手が相手でございます」
「お前はあの男の命ごいをするのか?」
さげすむような主人の様子にもカーサは引き下がらなかった。
「たとえ、どのような非道を働いたからとて、あの方は亡きご先代の弟君でございますそ」
「その兄の妻とねんごろになるような男でも叔父と仰げというのか」
不気味なくらい静かな声で言われてカーサもただうつむいた。ナシアスにも返す言葉がなかった。
亡き兄の妻と言えば、バルロの母、アエラ姫だ。
そのアエラ姫と義理の弟であるマグダネル卿が密かに『情を通じている』とバルロは言うのである。
兄の未亡人と弟が結婚することは珍しいことではない。また未亡人が恋人を持つことも、褒められたことではないが、そっと行う分には黙認の気風がある。格別に咎《とが》められるわけではない。
しかし、マグダネル卿には妻も子もある。加えてアエラ姫は市井《しせい》の未亡人とはわけが違う。
王国でもそれと知られたサヴォア先代公爵の未亡人とその義弟が密通をしているとなれば、国中を揺るがす大醜聞《だいしゆうぶん》に発展しかねない。
ナシアスが端整な顔を嫌悪にゆがめて首を振った。
「どんな弁解も聞けるものではないな」
「そうとも。何の遠慮がいる?外道《げどう》を一匹、踏みつぶしてやるだけのことだ」
「だがな、バルロ。それならそれでせめて陛下には本当の理由をお話ししたほうがいいと思うが……」
ためらいがちに言ったとたん、バルロはすごい形相で振り返った。
「いいか、ナシアス。従兄上に一言でもしゃべったら……」
「わかっている。その場で首を引っこ抜くというのだろう? だから何もお話ししてはいない」
「よし」
「しかし、陛下はお前を案じていらっしゃる。叔父であるマグダネル卿と武力で争うことを悲しんでもいらっしゃるのだぞ。ましてお許しも得ないままに兵を起こしたとなれば、陛下もお前を罰さないわけにはいかなくなる」
領主たちの争いは基本的に領主たちの間で解決することが許されているが、勝手に兵を起こすことは厳しく禁じられている。
矛盾しているようだが、数ある地方領主の個人的な諍《いさか》いにいちいち口をはさんでいてはいくら人手があっても足らないし、かと言って私怨で国土を荒らされてはたまったものではないのだ。
届けを受けた王宮は双方の言い分を綿密に調べ、どうあっても武力でなければ解決できないと見極めた場合にのみ、許可を出している。
むろん相手がサヴォア大公爵となれば特例として、おとがめなしということも考えられる。
しかし、彼らのよく知る現国王の人柄が、そんな可能性を否定するのだ。
「陛下は寛大な方だが、公正な方でもある。こんな重大な違反を犯したとなれば、相手がお前でも特別あつかいはなさるまい」
「処罰ならやってしまった後でいくらでも受ければいい」
当然のことのようにバルロは言った。
カーサは声もなくうなだれ、ナシアスは手の中に冷や汗を握り締めた。
「すべての責任はこの俺が一人で負う。たとえティレドン騎士団長の資格を剥奪されようと、領土を半分に減らされようと、俺はサヴォア家の家長だ。家の恥は俺自身の手で排除する義務と責任がある」
口先ではない。バルロは真実その覚悟をしていた。
「ナシアス。お前はビルグナへ戻れ。こんな不名誉な戦にラモナ騎士団長が参戦することはない」
「それでは私が陛下に嘘を申し上げたことになる」
肩をすくめながらナシアスは言った。
「私にはこの戦を止める力はないが、お前に早まった真似はさせないと固くお約束してしまったのだ。その言質《げんち》にかけても同行する」
バルロは鋭い目で長年の友人を見やったものだ。この友人が穏やかな顔の裏で何を考えているかくらい、お見通しである。
「ついてくるのは構わないが叔父の首は譲らんぞ」
「あたり前だ。非道を働いたとは言え、王家にも血のつながる高貴な方だぞ。私ごときが不遜な真似をできるものか」
わざとらしく水色の眼を見張るナシアスにバルロは太い笑いを洩らしたものだ。
ぬけぬけとよく言うものだと思ったのだろう。
「それなら邪魔にならぬように後方でおとなしくしていてもらおうか」
「そうはいかない。どんな名目のものであれ戦には違いない。ラモナ騎士団長の名に恥じないだけの働きはしてみせなければ、それこそビルグナに残っている者たちに会わせる顔がない」今度は涼しい顔でそんなことを言う。バルロは呆れながらも苦笑して言ったものだ。
「勝手にしろ」
「ああ。勝手にする」
エブリーゴの近くにはアエラ姫の別邸がある。
姫はしばしばこの別邸を訪れ、親族の中でも長老というべきマグダネル卿と面談をするのだという。
その事自体は何もおかしなことではないが、アエラ姫があまりにも頻繁に別邸を訪れるので、実際には先代国王の妹とその義理の弟がこともあろうに、「なにやらその……けしからぬことを致しておるのではないかと、うすうす聞いたことがございます。正直申して、噂するにしても何という悪質なことを流すのだと呆れ果てましたが……」
ドラ将軍は苦い顔で沈黙し、低く言った。
「バルロどのがそこまで決意しているとなれば必然的にその噂は『事実』ということになります。到底黙っているわけにはいきますまい」
王女は唖然としながら問い返した。
「それならバルロは何でそう言わない?」
「口が裂けても言えるものではありませぬよ」
将軍はきっぱりと断言したものだ。
「バルロどのにしてみれば我が母の恥、一族そのものの恥、ひいては家長たる己の恥です。何としても内密におさめようとするでしょう」
「内密にね」
「しかし、アエラさまはバルロどのの実の母です。いかに怒りに荒れ狂おうと手をかけることは許されまぜん」
「だからせめて相手のマグダネル卿を討ち取ろうと?ずいぶん極端だな」
「他に方法はありませんでな。家長の権限をもってアエラ姫を蟄居《ちつきよ》させ、マグダネル卿の領地を没収することは可能ですが、これでは世の人に醜聞を疑ってくれというようなものです。すでにわしの耳にまで聞こえるくらいですから、生半可な処置では逆効果になりましょう。自分に背反を企てたのだということにすれば堂々とこれを討つ理由が成立します。そして驚いたことにそこまで持っていくのにバルロどのは少なくとも一年をかけていらっしゃる」
あの短気な男がよくまあそんな手のこんだ挑発を続けたものだと感心した王女だが、将軍は慎重につけ加えた。
「そこが気になります。あくまでわしの推測ですが、マグダネル卿はバルロどのに無体な因縁をつけられたと憤慨しているようですが、これはひょっとすると……」
「ただの因縁じゃないっていうのか?」
「さよう。もしかすると、バルロどのは他にも卿を討つに足るだけの理由を持っているのかもしれませんな」
「ウォルにも言えないような理由か?」
「陛下に申し上げられないような理由だからこそ、己の一存でことを収めようとしているのでしょう。バルロどのは陛下の忠実な臣下ですが、同時に大公爵家を背負って立つ身です。守らねばならないものの多さ、複雑さは、わしや王女の想像をはるかに超えるものがあるのです」
将軍の言いたいことは王女にも何となくわかった。バルロを家長とする公爵家の親族の数はマグダネル卿を含めて二十近くにもなる。それぞれの家の抱える領地、そこで働く多くの人々の生活、それらすべてがサヴォア公爵の、つまりバルロの肩に重くのしかかっている。
「それでもまだわからないことがある」
「何でしょう?」
「アエラ姫だ。火遊びをするならするで、どうしてその相手にわざわざ義理の弟を選んだのかな?」
「あの方は以前から、バルロどのが陛下に好意的な態度をとることを快く思っていらっしゃいません」
これまたずばりと断言したドラ将軍である。
「そして傍目《はため》にどうあれ、マグダネル卿がバルロどのを快く思っていないことも間違いありません。その後ろにあるものは陛下への反発です。大方、そのへんで両者の感情が一致したのでしょう」
「なんとも生臭い話になってきたな」
「いかさま。生臭い限りの代物です」
将軍は顔をしかめ、それから表情をゆるめて感慨深げに述懐したものだ。
「陛下は、わしが申し上げるまでもなく、王として申し分のない方です。フェルナンの息《そく》であった時分にも武勇に優れた好青年でしたが、ご即位されてからのお働きの見事さはまさに眼を見張るものがありました。特にあの混乱を乗り越えてからは民心をなつかせること、諸侯たちにそれとなく眼を光らせること、諸外国とも丁重に堂々と対応なさること、なみなみではありません。おそらくは亡き陛下でもこれほどにはお出来になりませんでしたでしょう。これはまったくもって、わしにとっても意外な喜びでありました」
口の悪いバルロは初めて国王に会った時、従兄として敬いはしたものの、いくぶん笑いを洩らして、「お人柄は申し分ないようだが、どうもなんだな。日だまりで眠る牛のような方だな」
と、評したものである。
それは同時に当時のドラ将軍の印象とも重なっていた。武勇に優れ、好感も持てるのだが、実に人のいい、のんびり穏やかな性分と思えたのである。
果たして国王としてやっていけるのかと一抹の不安を感じずにはいられなかったのだが、これがとんでもない誤りであったことはその後の国王が行動で示した。時に俊敏であり、豪快であり、したたかでもあった。
「能ある鷹は爪を隠すというが……いやはや、あの方の爪は三重そなえだわ」
将軍は喜ぶよりむしろ呆れたような口調でシャーミアンに語ったものだ。
バルロを始め、王国でもそれと知られた人々が国王の新たな一面に感服し、心からの忠誠を誓うようになるまでそれほど時間はかからなかった。
それがアエラ姫にはおもしろくない。姫にとって能力や人柄は二の次、三の次である。なにより家柄が優先するのだ。
現国王は庶出の身分だ。それだけでもものの数には入っていないだろうに、貧しい農家の娘が産み落とした子どもなど、おそらく兄の子とも思っていないのではないかとドラ将軍は語った。
そんなものより血筋の正しい自分の息子が国王として迎えられるのが当然なのに、現実には庶子のほうが国王として認められ、しかも着々と力をつけつつある。
「ましてやバルロどのが率先して陛下に仕え、陛下もバルロどのを頼みにしているとなれば、アエラさまにはますますおもしろくないことでしょうな」
王女は深いため息をついた。
王女はアエラ姫に会ったことはない。この三年、王宮のどんな行事も出席したことがないし、人の話によれば現国王の即位以来、王宮に寄りつこうともしないという。
「どうやらウォルの叔母さんは、あまり近づきたくはない人らしいな」
何とも言いがたい微苦笑を浮かべたドラ将軍である。
「若い時分、何度かお見かけしました。お美しく、立ち居ふるまいにも気品があり、教養もあふれんばかりにお持ちでいらっしゃる。高貴な婦人としても王家の女性としても申し分のない方ですが……」
「が?」
将軍は苦笑をおさめて肩をすくめた。
「王家の女性には二種類あります。これが見事なくらいどちらかに偏《かたよ》るのがおもしろいところですが、一には王族としての自覚に満ち、自己を抑えて周りにつくしてくださる方。一には王家に生まれた特権のみを意識して周りを自分に合わせようとする方です」
「アエラ姫は後者なんだな?」
「あの方の場合、何と言っても実の兄であらせられるドゥルーワさまがあまりに偉大すぎたのです。誰も彼もが兄陛下を敬い、賛美し、兄陛下を敬うのと同じようにアエラさまを称えられた。人の妻となってからもドゥルーワさまが崩御されてからも、あの方はその頃のことを忘れず、いまだにそうあるべきと固く信じていらっしゃるのです」
「つまり馬鹿なんだな?」
あっさりと無情に言い放った王女に、さすがのドラ将軍がぴしゃりと額を叩いたものだ。
「姫さま。それでは身も蓋もありませんぞ」
「違うのか?」
「まあ、その……。教養のある高貴な身分の方でも、つまるところは女であると、そういうことではありませんかな。一度ちやほやされることを覚えた女というものは……失敬、男もですが、なかなか過去の栄光を忘れられません。たとえそれが残照であるとしてもです」
十六歳の王女は乾いた声で笑った。
「そこで実の息子と反目している義理の弟と結託するわけか? おれに気がねはしなくていい。将軍以上に女のやることはよくわからないからな」
「結託とおっしゃいますが、アエラさまは確かに我《が》の強い方ではありますが、言い換えればそれだけの方です。人を扇動するほどの機転が利くとは思えません」
「じゃあ、マグダネル卿とのことはただの欝憤ばらしなのか?」
「さて。そのへんはわしには何とも申し上げようがありません」
将軍は肩をすくめた。王女も考えこんだが、これだけ聞けば充分である。礼を言って将軍の部屋の窓から飛び降りた。
バルロが最後の挨拶をするために国王に目通りを願ったのは、翌朝、それも夜が明けたばかりの時間だった。
本宮の玄関を守る番人も、まだ朝番のものが到着しておらず、夜間の担当が立っていたくらいだ。
謁見を申しこむにはあまりにも常識はずれの時間だが、相手が相手だけに門番も強いことは言えず、おそるおそる城内に取り次いだ。
国王はすぐさま起きてきた。いや、とっくに起きていたのだ。部屋着のまま会いに来たが、バルロが辞去の言葉を述べようとするのを制して言った。
「従弟《いとこ》どの。実は折り入って相談がある」
「……はて。どのような?」
国王はそっとあたりを見渡した。正式の謁見の間ではなく、寝間に続いた小さな部屋である。むろん誰もいないのだが、それでも声を低めて言った。
「実はな。笑わんでもらいたいのだが、女のことなのだ」
バルロは呆れた。これから自分は叔父を征伐に出かけようというのに何を浮かれているのかと思ったが、いい傾向かもしれないと思い返した。
「誰か、お気に召した娘でもできましたかな?」
「いや、そのな。城下からあがって来たばかりの侍女なのだが、これが実に初《うぶ》な娘でな。俺の身分を恐れてか身の回りの世話をしてくれるのはいいのだが、用事が済むとすぐさま逃げるように去ってしまう。どうしたものかな?」
バルロはまた呆れた。国王が何を情けないことを言っているのだと思った。
「従兄上。女をくどこうと思ったらいつものように黙って座っていたのではいけませんぞ」
「いや。黙って立っていたのだが……」
「なお悪い。それでは娘が恐がるのもあたり前です。とにかく何もしないでは始まりません。まめに手と口を動かすことです」
「そうは言っても、それがなかなか難しい」
「何をおっしゃる。簡単ではありませんか。しかし、相手が町の娘だというなら、そうですな。あまり豪華な褒め言葉は感心しませんな。間違っても絶世の美女などとは言わぬほうがいいでしょう。逆にからかわれたと思って態度を固くします。ちょっとしたことでよろしい。首筋が美しいとかよく働く手が愛らしいとか、化粧気のない顔が新鮮で好もしいとか、娘を褒める言葉などいくらでもあるでしょう?」
国王は眼を丸くしている。
「よくそこまで即興で出てくるものだ」
「出てこない従兄上のほうが変です。それとも自分は気ぐらいばかり高い貴婦人にはほとほと閉口している、今は清楚《せいそ》な可憐な花が愛しいと言うのは?あるいは何と言っても従兄上は国王ですから、最初は王の威令をもって少しばかり強引に、むしろ恐がらせておいてですな、いよいよという時にうんと優しくしてやる。これが身分の低い娘にはなかなか効果的です」
国王は額を抑えて捻りながらも楽しげに聞いていたが、ふと尋ねた。
「アエラ叔母の侍女にもその手を使ったのか?」
バルロは一瞬で真顔に戻った。
国王も笑いを収めている。これ以上はないほどの真摯《しんし》な表情だった。
しばらく二人は無言で睨み合った。
やがてため息を吐いて肩をすくめたのはバルロのほうである。
「あなたという方は……忘れていた。牛のようなと思わせておいて、こういう芸当をしてのける」
とぼけようと思えばできただろうが、肝心の事実を国王に知られた後では見苦しいだけだと、即座に判断したらしい。
ウォルは黙ってバルロを見つめていたが、やがて言いにくそうに口を開いた。
「やはり、叔母この侍女たちから何か聞き出したのだな?」
これはドラ将軍が王女に告げ、王女が国王に告げたことだ。
グリンダ王女は一夜のうちにコーラルまで駆け戻り、厳重な警護をくぐり抜けて国王の寝間に忍びこみ、寝ている国王を叩き起こしてドラ将軍の言葉を伝えたのである。
身分の高い女性というものは何につけ、人の手を借りなければならない。外出するのはもちろん、極端な話、侍女の手を借りなければ服を着ることもできない。
当然のことながら浮気をする際にも、少なくとも二人の侍女と馬車を御する男を連れて行かなければ身動きがとれなくなる。
おそらくバルロはそうした娘たちをうまく使ってアエラ姫の秘密を聞き出したのだろうと将軍は言った。
はたしてサヴォア公爵はもう一度肩をすくめて、にやりと笑ったものだ。
「母の侍女どもはみな気ぐらいが高く、町の出などおりませんので、この手は使えません。代わりに父親の出世を約束しました」
「その約束と引き替えに、叔母この侍女は何を従弟どのに語ったのだ?」
「もう御存じなのではありませんか?」
皮肉な口調で言ったバルロである。
「半分は知っていると思う。さすがに驚いたが、それだけでは従弟どのがマグダネル卿を殺そうとまで思いつめる理由には不足だ。違うか? それだけならば、もっと穏便にことを治める手段はいくらでもあるはずだ」
母親の不義くらいでこの従弟が本気で腹を立てるはずがない。それは国王がほとんど直感的に察したことだった。
人の口にあがるようでは家名に傷がつくのでやめさせるだろうが、そうでないなら勝手にやらせておくはずである。もしくは一言釘を刺せばことは済むのだ。
「俺は従弟どのの力になりたい。決して悪いようには計らわないと約束する。言ってくれ。他にいったい何があるのだ?」
しばらく沈黙していたバルロはやがて悠然と言ったものだ。
「従兄上。私には亡き父の名誉を守る義務があるのです。理由としてこれ以上のものがありますか」
頑とした態度に国王は難しい顔で言ったものだ。
「それではエブリーゴへの出撃は禁止する」
「従兄上!?」
「マグダネル卿には当座の謹慎を申しつける。理由は私情のもつれから世間を騒がせ、不穏な空気をもたらした。これで充分だ。えこひいきと思われてはならんので不満はあろうが従弟どのもこれに倣ってもらう。喧嘩は両成敗が筋だからな」
「冗談ではありませんぞ!!」
外で待っていた家来が思わず飛び上がったほどの大音声だった。
「喧嘩どころではありません! あの男を生かしておいては必ずや従兄上に害をなします! なんとしても今の内に排除せねばならんのです!」
「それは俺の役目だ。従弟どのが請け負うことではない。第一、マグダネル卿が俺に害をなすという、その根拠は何だ?」
たった今まで血相を変えていたのが嘘のように、バルロは深く沈黙した。固く握り締めた拳に血管が浮かび、国王と並んでも少しも見劣りのしない立派な体躯《たいく》が細かく震えている。
きっと顔を上げて言った。
「あんな鬼畜の所業を働く男を生かしておいたのでは、サヴォア家の名折れです」
国王は深いため息をついた。
「わかった。追って沙汰する。それまで一の郭の屋敷を一歩も出ることまかりならん」
「しかし!」
「従弟どの。頼むから困らせんでくれ。そもそもの初めからこの出撃を許せる道理はないのだ。そこへもってきて叔母このはなはだおもしろくない噂を耳にした。まさしく人の道にもとることだと俺も思うが、従弟どのがマグダネル卿を討つと思いきわめている理由がそれだけならば、断じて許すわけにはいかん。国王としても従兄としても貴君が言語道断の不祥事にまみれようとしているのをどうして見過ごせるものか。よくよく調べて必ず納得の行くように片をつける。どうかそれまで辛抱してもらいたい。このとおり、お願いをする」
深々と頭を下げられて、今度はバルロが困った。強く出られれば強く返せるが、ここまで下手に出られてはいやとも言えない。あくまで拒否すれば王の意志に背くことになる。
「……そこまでおっしゃるならば、仕方がありませんな。謹慎の身となりましょう」
潔く言ったものだ。
聞き分けてくれたかと国王は安堵の表情を浮かべたが、バルロは少し調子を変えて言い足した。
「ですが、ひとつお願いがあります。その処分をお受けする前に、母に会うことを許していただけませんでしょうか」
「……」
「二日で戻ります。決してどこへも寄り道はいたしません。その後は従兄上のお言いつけに従い、一の郭の屋敷に留まることを誓約します。私と叔父とが同時に謹慎処分を受けたとなれば母はさぞかし心配し、気をもむことでしょう。会って一言なだめてやりたいのですが……、いけませんか」
国王は答えない。黙っている。
バルロは笑って言ったものだ。
「王宮を脱出したいがための方便とお疑いですかな?」
「いや。俺の従弟どのはそのような卑怯《ひきよう》を働く人ではあるまい。ただ、叔母ごに何を語りたいのだろうかと考えていた」
「他愛もない慰めごとです。女というものは家の中でじっとしている分、じつに突拍子もないことを思いつき、その妄想に固執します。母は以前から陛下に対して妙に反抗的ですから、私と叔父とが謹慎させられたと聞けば陛下の不興を買って厳しい処罰を受けるのではないかと思いつめるかもしれません。そんなことはないのだと私の口から告げて安心させてやりたいのです」
これまた実によどみなくさらさらと言う。
その変わりように今度は国王のほうが感心した。
安心させるどころか、これ以上危ない遊びに深入りしないように忠告に行くのだろうが、それは国王にとっても願ってもないことだ。
「わかった。許そう。近衛兵の供をつける」
バルロは丁重に礼を述べ、明日の夜までには必ず戻ることをさらに誓って下がって行った。
本宮を出たバルロをナシアスが出迎えた。いまだにいい顔色ではないが度胸を据えたらしい。すぐさま出発するのかと思いきや、何やら首をひねっている友人の様子に不思議そうな顔になった。
「どうした?」
「ナシアス。お前……」
しげしげと見つめられて、ますます不思議そうな顔になったナシアスである。
「何だ?」
「いや、違うな。だとすると……」
「いったい何のことだ?」
完全に困惑して両手を広げたナシアスに、バルロは剣呑《けんのん》な眼を向けた。
「従兄上に話したか?」
これには呆れ顔になったナシアスである。
「何を馬鹿な。私はまだ首を抜かれたくはない」
「だろうな。しかし、お前でないとするといったい誰が……」
あのことを国王に告げたのか。
事情を聞いたナシアスも驚いた。同時にほっとした様子でもあった。
「さすがは陛下だ。なさることに間違いはない」
「俺はよけいなことをしてくれたと思うがな。王命とあっては仕方がない」
笑いながらそんなことを言い、バルロは早くも馬の口を取った。
「待て。お前はすでに謹慎の予備期間にあるんだ。一人で行くのはまずい」
「邪魔くさい供なぞいらん。それに、いやなことは早くすませるに限るからな」
言い捨てて、バルロは本宮から大手門目指して一気に駆け下りたのである。
アエラ姫は前公爵が生きていたころもその後も、王宮のサヴォア館で暮らしていた。
だが、ウォルが国王になることが決まった時、これに憤慨し、抗議する形で屋敷を出たのである。
現在のアエラ姫は領地のブラシアで、先代公爵が狩猟のために建てた館の一つに暮らしている。
ブラシアはコーラルから九五カーティヴ。まともに行ったのでは二日で往復することは不可能な距離だが、バルロは公爵の身分を利用し、公道の要所に設けられている番所で次々と馬を乗り換え、夕刻には館に到着した。
狩猟のための別邸とは言え、相当に立派な造りである。鉄柵の門にはつる草を巻きつけた華麗な装飾が施され、館の正面にはサヴォア家の家紋である獅子の浮き彫りが飾られている。
獅子はデルフノニア王家の紋章でもある。それとはむろんデザインが異なるが、王家に血の近い大公爵家のみ獅子を家紋とすることが許されているのだ。
アエラ姫は数十人の召使と侍女に囲まれて、この館で暮らしていた。
丸一日を走り通したにもかかわらず、バルロは疲れも見せずに、母に面会したいと顔なじみの召使へ申しつけた。
館のものにしてみれば当主の突然のお出ましである。慌てふためいて女主人に取り次ぎ、バルロを一室に案内した。ここもたっぷりと金をかけ、趣向を凝らしてある。
しばらく待っているとアエラ姫がやって来た。
アエラ姫は四十五歳になる。
色白の整った顔立ちは今でも充分に美しいのだが、きついまなざしや固い表情などは、いかにも気位の高い女性という印象を受ける。
若い頃から美貌を謳《うた》われ、またそれを自慢していた人だけに今も黒い髪を大きく結い上げ、胸の開いた豪奢なドレスに豊満な体を包んでいた。
この母の派手好みも気の若いのも重々承知していたバルロだが、これが原因でこんなばかげた騒ぎが起きたかと思うと、いまいましげな嘆息が洩れる。
アエラ姫のほうも久しぶりに会う一人息子に別段優しい言葉をかけるわけでも笑顔を向けるわけでもない。平然と言った。
「母を訪ねるに適当な時間とは言えませんね」
「お許しください。急いでいましたので」
バルロは素直に頭を下げた。
気味が悪いくらい神妙な態度だった。日頃の彼をよく知っているものにとっては何とも不気味に思えたことだろう。
アエラ姫も間違いなくその中の一人である。
探るような眼をしたかと思うと少し表情を変え、笑顔になって腰を下ろした。
「いつも不意にお出ましになること。使者を立ててくださればお迎えの用意をしておきましたのに」
「いえ。おかまいなく。すぐに失礼します」
「今からですか?」
アエラ姫が驚いたのも当然で、じきに夜になる。
「サヴォア公爵がお一人で夜道を帰ったりなどして、何かあったらどうなさいますか。部屋を用意させましょう」
「あいにく陛下から謹慎を仰せつかった身ですのでゆっくりしてもいられません」
「謹慎? なぜです」
「それはあなたのほうがよくご存知のはずだ」
バルロは居ずまいを正すと、用件に入った。
「近々エブリーゴの叔父にも謹慎が申しつけられます。そのとばっちりを食ったと言えぱおわかりですか」
アエラ姫はさすがに狼狽した様子で目を伏せたが、それで引き下がるような人ではない。
「庶子風情が何を言ってきたところで、ノラどのやマグダネルどのが従う必要はありません」
すぐに傲然と胸を張ったものだ。
「そもそもノラどのがそうして陛下などと呼ぶからいけないのです。それではあの庶子はますますつけあがるばかり。ノラどのが率先して身の程を知らしめてやらねばなりませぬ」
「母上。その庶子は正式な戴冠式を執り行い、即位してすでに四年、今や国内外の誰もがデルフィニア国王と認める人物なのです。いつまでも強情を張っていてはかえって厄介なことになるばかりだとまだお気づきになりませんか」
「私を含め、サヴォア家の誰一人として庶子などに頭を下げることを快く思うものはおりません。あなたを除けば」
紛れもない怒りをこめた声でアエラ姫は断言した。
バルロはそしらぬふりで言葉を続ける。
「陛下はさすがに偉大なるドゥルーワ王の血を受けた方ですな。実にご立派な施政を布《し》いておられます。もしかすると伯父上以上に偉大な王になられるかもしれません」
「汚らわしい!」
鋭く叫んで、アエラ姫は息子を睨みつけた。
「何ということを……。気は確かですか。兄陛下とあのような庶子を並べて評するとは……」
「妙なことをおっしゃる。その庶子はその兄陛下の実の息子ではありませんか」
「ノラどの。いいかげんに眼を覚ましなさい。そもそも庶子というものはたとえ国王の子であれ世子と同格にはあつかわれないものです。母親の身分が低ければなおさらです。あの庶子は農婦の産んだ子、あなたはこの母と亡き父上の血を継いだこの上なく由緒正しい公爵家の総領息子。となればその庶子はあなたに家来として仕えるのが当然ではありませんか。過去そうした例はいくつもあるのです。なのになぜあなたが逆に庶子に忠義をつくす必要があるのです?」
バルロは皮肉な笑いを浮かべ、首をかしげて言ったものだ。
「さて、それはどうでしょうかな。近頃のあなたの行状を顧みますに、このバルロが本当に亡き父上の子かどうかも大いに疑わしいことになりますが?」
さすがに姫の顔から血の気が引いた。豪奢な服地の上で白い手がぶるぶる震えている。
「……生みの母親を侮辱するのですか」
「言わせているのは誰です?」
バルロは一歩もひかない。
「侮辱されたくないのなら少しは行いに気をつけたらどうです。エブリーゴではあなたと叔父とのことはすでに人の口に上るまでになっているのですそ。こんなことが公《おおやけ》になったらサヴォア公爵家にどんな傷がつくか、その分別までなくされましたか」
後ろめたさがあるだけにアエラ姫は詰まったが、うそぶくのは忘れない。
「下々のたわごとなどをいちいち取りあげて、公爵家をおとしめようとする企みです」
「事実無根であるとおっしゃる?」
「あたり前ではありませんか」
やんわりとアエラ姫は笑ってみせた。
居直りであるとは百も承知だが、バルロは逆らわなかった。先を言わせた。
「マグダネルどのは身代も武力も一族の中でももっとも頼みとするべき人です。あなたがあの庶子に夢中になるあまり家長としての責任を放棄していることを憂い、いろいろと相談事をするためにお会いしていただけのこと。みだらがましい後ろ指などさされる覚えはありませぬ」
「なるほど。これは失礼いたしました」
またまたバルロは丁重に頭を下げ、アエラ姫はまたまた気味悪そうにわが子を見た。
そもそもここまでの言葉のやり取りはとても実の母子のものではない。上流階級というものは庶民のそれとは比べものにならないほど格式ばり、団樂《だんらん》の場を持つにも制約のあるものだが、にじみ出る情愛は抑えようもないものだ。現にドラ将軍父娘などがいい例である。
しかし、この母と息子には一片の情も通っていないようであった。母は息子を恐れ、警戒し、息子は母を憎んでいるのではないだろうが疎《うと》んじている。
実際、バルロはこの母親にうんざりしていた。
父公爵が生きていたころから、自分は単なる公爵夫人ではなく現国王の妹であるという意識を一歩も出ない人だった。
バルロの父、先代のサヴォア公爵は王国の重臣として誉れが高く、デルフィニアにこの人ありと国外にまで名を轟かせた人だった。だからこそ当時の国王は大事な臣下の忠誠と友情に応える意味で娘を与えたわけだが、アエラ姫はこれがそもそも気に入らなかったらしい。
嫁いだ時から自分は王家の女性であり、本来なら他国へ嫁して王妃となっていたのだという強烈な意識のままに公爵家にあったのだ。死んだ公爵は表向きは妻を大切にしていたが、うまくいくわけがない。
常に家庭内の騒動のもとであった母親をバルロがうるさがったのは当然とも言える。
兄である国王と夫である公爵が亡くなり、あの男が国王になると今度はとたんに公爵家を盾にとるようになった。今も口を開けば現国王のことを庶子だの母親の身分が低いだのと平気で言い立てる。
バルロに言わせれば、そんなことはわかりきっていることなのだ。
その上で世間はあの男を国王と認めている。そこがアエラ姫にはいまだに、どうしてもわからない。
当の国王は即位前から現在に至るまでのアエラ姫の頑固で無礼な態度の数々を寛大に見守ってくれているが、バルロにしてみれば激しい頭痛の種を飼っているようなものだった。
だが、そんなことは言わなかった。機嫌よく笑って頷いた。
「そうでしょうな。サヴォア未亡人がそのような醜聞沙汰を自ら起こされるわけがありません。安心いたしました」
「ま……。それは何より」
アエラ姫も何となくほっとした表情になった。そこへすかさずバルロがたたみかけた。
「すると、もう一つの噂も根も葉もないでたらめでありましょうな?」
「もう一つ、とは……」
まだ笑みを残しながらも、バルロは鋭い眼で実の母親を見据えている。低い声で言った。
「口にするのもはばかられることながら、あなたと叔父との間で陛下を亡きものにしようとする企みが密かに進行中だというものです」
アエラ姫の胸が大きく上下した。
美しい顔はしっくいを塗った壁のように真っ白な色になったが、眼は鋭い光を取り戻し、震える声で言い返した。
「ノラどの。それはあまりと言えばあまりなこと。確かに私はあの庶子を快く思ってはおりませぬ。開国以来の歴史を誇るサヴォア家が庶子の下に立つ事など断じて我慢がなりませぬ。だからと申して、たとえどのような間違いからであるにせよ、今現在デルフィニアの王の座にあるものにそのような恐ろしい、神をも恐れぬ所業ができるとお思いか」
「できぬことを祈っております」
苦い顔で答えた。
国王にもナシアスにも語るに語れない、叔父征伐を決意した本当の理由がこれだった。
もとより母と叔父が本気で国王暗殺に乗り出したわけではあるまいとバルロは思っている。
寝物語に、おそらくは国王憎しのあまり、そんな話が出ただけだろうとも思っている。
しかし、こんなことが世間に知れたらどうなるか。
戦場の敵ならば何一つ恐れないバルロだが、想像するだに寒気がした。
自分一人のことならば何も恐ろしくない。誤解されようと悪い噂をたてられようと、わが身を持って潔白を証明すればいいだけのことだ。
しかし、彼一人の問題ではすまないのである。
二十を数える公爵家の親族、彼らが所有する広大な領地、何代も前から公爵家に仕えている何千という家来とその家族の運命すべてがかかっている。
「このようなことが陛下のお耳に達したら、あなたも叔父もただではすみませんぞ。決行するしないにかかわらず国王暗殺を目論んだものは問答無用で死罪。そう古今の法で定められております。陛下がご温情をかけてくだされたとしても周りにいる重臣どもが納得しません。あなたが陛下を嫉むように国内有数の貴族であるサヴォア家を嫉むものも大勢いるのですからな。このバルロも一家の主として身内に国賊を抱えていた罪を問われることになるでしょう。最悪の場合、サヴォア公爵家は取り潰しにされます。そのことはむろんおわかりでありましょうな?」
アエラ姫は顔面蒼白である。一言も言い返せない。
お家大事の人だけに、いまさらながらことの重大さが身に沁《し》みているらしい。
それならどうして自分の耳にまで聞こえるような安易な悪だくみをするのだと言いたいところだが、アエラ姫の国王に対する反発と対抗意識は相当に根深いものがある。
それもこれも元は息子の自分に王冠を被せたいからだと来ては、ありがた迷惑もきわまれりだ。
バルロは苦々しい思いを抱えながら立ちあがった。用事は済んだ。これ以上ここに長居する理由はない。
「これで失礼します。噂をきっぱり否定してくださり、ひとまず安心いたしました。しかしながら口さがないのが世の入の常です。今後は誤解されるような行動はお謹しみください」
これだけ念入りに釘を差しておけば、この上軽はずみなことはするまいと肩の荷を下ろしたような気分だったが、アエラ姫は椅子に腰を下ろしたまま、静かに言った。
「ノラどのはずいぶんとあの庶子に思い入れがあるご様子でいらっしゃいますね」
立ち去ろうとしていたバルロの足が止まった。
感情に走っていた今までの口調と違い、なにやらひやりとするものがあったのだ。
「思い入れとおっしゃるが、国王を敬うのは臣下として当然のことでしょう」
「氏素姓も知れぬ娘を王女に仕立てるような男でも国王として敬うとおっしゃる?」
バルロは一瞬、言葉に詰まった。
痛いところを突かれたのである。
今の国王が型破りであることは承知している。たいていは容認しているが、これだけはあまり感心しないと常々思っていた。
もっともそれはアエラ姫のような血統重視の思想からではなく、あの王女の存在が少しばかり癪にさわるからである。
今まで身分も性格も様々な女性を相手にしてきたバルロだが、あんな娘は見たことがない。
サヴォア公爵である自分に対して臆せずにものを言い、国王に対してまで伝法な口調を崩さない。
お世辞にも王女らしいとは言えない王女なのだが『生意気』とか『驕慢』とかいうのとは違う。
ここがバルロにも不思議なのだが、あんな男勝りの気性でなく、王女という肩書きがなければ『口説いてもいい』ほどに美しいのだが、妙に男に対するような対抗意識をかきたてられるのだ。
バルロより十歳近くも年下の娘でありながら、あの王女はそれだけのものを確かに持っている。
武勇の優れていることは少女とも人とも思えないほどだし、頭脳の働きも鋭い。国王は王女を深く信頼しており、何かと相談をもちかけたりしているらしい。
それがおもしろくないといえばおもしろくないのだが、アエラ姫のような憎しみは感じない。ましてやここで母親の意見に同調するようなことは断じて言えない。
「あれは母上。氏素姓も知れぬ娘ではなく、天から降りて来た戦女神《いくさめがみ》です」
とうの王女には到底聞かせられんと思いながらも、平然と言ってのけた。
同じようにアエラ姫も何の表情もない声で答えた。
「王国に災厄をもたらす疫病神です」
「……」
「聞けばその娘が、あの庶子を王座に据えたようなものだというではありませんか」
「困りましたな。王座というものは娘一人の働きでどうにかなるようなものではありません」
バルロは笑ったが、アエラ姫はあいかわらず不気味なくらい落ち着いていた。
「その資格のないものが王座におさまり、おのれの好みのままに、栄《は》えある王家の称号を卑賎《ひせん》の娘に惜し気もなく与えてやる。このような所業が許されるとお思いですか」
バルロが何か言い返すより先にアエラ姫はすっと立ちあがり、声と同様、何の感情も浮かんでいない眼で息子を見た。
「たとえ私が許しても神は決してお許しにはなりません。そのことがいずれ、あなたにもおわかりになるでしょう」
それきり息子には見向きもせずに部屋を出て行ったのである。
夜の帳《とばり》が下りようとしていたが、バルロは固い顔つきですぐさま屋敷を発《た》った。
さすがに単独での夜駆けはできず、近くの番所に一泊した後、また馬を乗り継いでしゃにむにコーラルを目指した。
約束通り二日で百九十カーティヴを往復して、一の郭《かく》の館に籠ったのである。
たいへんな強行軍だったにもかかわらず、疲れはみせていないが、その表情は厳しい。
母親と会った後、機嫌の良かったためしがないと知っているカーサは何も聞かずに部屋着を用意し、酒肴を整えた。
先日からサヴォア館の住人になっているナシアスもバルロとアエラ姫との確執はいやというほど知るところである。慎重に声をかけたものだ。
「いいか。しばらくは我慢しろ。陛下は昨日のうちにマグダネル卿に謹慎を通達された。お前以上に卿には打撃だったはずだ。それを不満として不用意に動いてくれれば、お前の懸念も片がつく」
だが、こんな時には盛大に声を上げて同調するはずのバルロが妙に静かだった。
「ナシアス。こっちへ来てから王女に会ったか?」
「いや? 毎日西離宮を覗いてはいるのだが、またどこかへお出かけらしい。一昨日の朝は本宮に顔を出されたそうだが……」
「道中考えたのだがな。従兄上に今度のことを話したのは王女の仕業ではないか」
「まさか」
と、ナシアスは笑った。
あの王女の常人離れした能力は王女になる前から承知のことだが、それにも限度がある。
「こんなことを誰から聞き出せる? 私たちが陛下にも内密にしていたことだぞ」
「いいや! それに違いない」
恐ろしくきっぱりと断言してバルロはナシアスを見た。
「明日にでもここへ引っ張ってきてくれ。山ほど文句を言ってやる」
いつもと同じ挑戦的な、自信に満ちた顔だったが、長年つきあっているナシアスにはそれが本心からのものではないことがすぐにわかった。
だからといってくだくだと問い詰めたりはしない。
「わかった。お話ししてみる」
静かに頷いて請け負ったのである。
その同じ夜。
コーラル城の中を黒い影が動いていた。
コーラル城は昼夜を問わず、市内のどこからでも見ることができる。日没と同時に城壁の各所に簿火《かがりび》が灯され、明々とその姿を照らし出すからだ。
黒い影は巧みに明かりを避け、巡回の兵士の目を避けて、本宮の背後へ向かっていた。
松明《たいまつ》を持った兵士たちの巡回も本宮の裏までだ。その後ろはパキラの山が鬱蒼《うつそう》とそびえ立ち、天然の要塞となっている。
昼でも黒々と広がる原生林に夜間に立ち入ろうとするものはいない。本宮までは近づいてこないが、この山には狼や熊が多く棲息しているのだ。下手に踏みこめばその餌食である。
本宮から王女の暮らす西離宮までは、原生林の間を縫うように傾斜の急な細い道がつけられている。
黒い影はその道を一息に駆け抜け、木の陰に身を潜め、じっと離宮を窺った。
王女はこの離宮に一人で休んでいるはずだった。
離宮の周りは申し訳程度に森を切り開いた平地になっている。すぐ後ろはルブラムの黒い森だ。
木の陰から黒い影がふわりと離れ、次の瞬間ぴたりと離宮に張りついた。石の壁に同化する。
一階建ての西離宮はもとは国王の別邸だけあって戸締まりの設備も万全だが、今は窓も扉も半開きになっている。
そのどこからも明かりは洩れていない。真っ暗闇だ。
黒い影はしばらく石壁に張りついていたが、やがて身を起こし、半開きの扉からするりと中へ潜りこんだ。
以前は国王の別邸だけあってなかなか手のこんだ内装が施されている。
しかし、人の住んでいるところとはとても思えないほど乱雑な内部だった。
大理石の床の上には枯れ枝や木の葉が散っている。
台所も立派な湯殿もほこりを被っている。何年も使われていないかのようだった。
黒い影は音もなく部屋から部屋へと動いた。
明かりもないのに、その足取りには乱れがない。
王女は今夜も離宮を留守にしているらしい。それでも黒い影は警戒をゆるめない。慎重かつ大胆に離宮の内部を巡り歩いた。
一番奥まった一室に空の寝台が置いてあった。
ここが寝室らしい。しかし、単に寝に帰るだけの場所と一目でわかる。
黒い影はあくまで気配を殺しながら屋内の構造をくまなく見てとると、来た道を引き返した。
そのまま本宮を通りすぎ、一の郭を構成している第一城壁へ向かったのである。
大胆な行動だった。西離宮と違って城内には篝火が灯り、巡回の兵士も出ているのである。
黒い影はその場所と巡回の時間を知っているのか、巧みに闇の中に身を隠しながら誰にも見とがめられずに広大な一の郭を突っ切り、ぴたりと第一城壁に張りついた。
その頭上を巡回の兵士が通りすぎていく。
兵士が遠ざかったのを確かめてから、黒い影は懐から取り出したものを城壁の上へ投げた。小さな鉤爪《かぎづめ》のついた細引き縄である。
それとわからぬくらいの小さな音と共に、鉤爪が城壁の上部を捕らえる。
一呼吸おいて黒い影は宙に飛び上がった。次の瞬間には城壁の上に見事に着地している。
しばらく鋸壁《のこぎりかべ》の影に身をひそめていた影はやがて二の郭に舞い降りた。
黒い影は明らかに外を目指していた。そしてこの分ならば瞬く間に第二城壁も第三城壁も越えてしまうに違いない。
コーラル城は鉄壁の防御を誇るとされている。
何人であろうと潜入することは不可能だとされている。
それも無理はない。三重の城郭と門に厳重に守られ、城壁は人の背丈の優に三倍の高さがあり、その上は兵士たちの詰所と巡回路になっているのだ。
かつてこの警護をくぐり抜けたのはグリンダ王女ただ一人である。
それも王女の常人離れした能力があってこそだが黒い影は楽々と城内を進んでいる。初めての潜入でないことは明らかだった。
夜警の兵士たちは城内を自在に動く黒い影の存在にまったく気づいていない。
影のほうでも気づかれていない自信があったに違いない。見咎められればすぐさま騒ぎが起きるはずだからだ。
しかし、気づいていたものがいたのである。
パキラ中腹にそびえ立つ本宮には眼下を一望するための張り出しがいくつも設けられている。
戦闘用のものではない。純粋に眺めを楽しむためのものだから兵隊の詰所と違って夜間には明かりが入らない。従って城内から本宮を見上げてもどこに張り出しがあるのか、まず見分けられない。
その中の一つにグリンダ王女がいた。
張り出しの床に身を伏せて、手すりのすき間から第一城壁を窺っていた。
常人とは比べものにならないほど鋭い眼を持つ王女だ。いつからそうしていたのかわからないが、黒い影が西離宮への通路から走り出てくるのも本宮の横を通り抜けるのもすっかり見えていたことは間違いない。
それでいて城内に緊急を告げることも人を呼び集めることもせず、黙っていたのだ。
黒い影が第一城壁を越えるのを見届けてしまうと、王女は物憂げに立ち上がった。
しばらく張り出しの上で何か考えこんでいたが、やがて最上階にも近い高所からひらりと身を躍らせて地上に飛び降り、自分の寝床へ戻って行った。
翌朝、王女は三日前と同じように日が昇ったばかりの本宮に現れた。
カリンは火が入ったばかりの台所に立ち、侍女たちを指図して王の朝食を調えていたが、王女の姿を認めると、この前以上に眼を見張った。
「姫さま。どうなさいました?」
五日と置かずに本宮に姿を見せたせいもあるが、こんな場所に現れるような人ではないからである。
王女のほうも熱気の中で忙しく働く侍女たちを珍しそうに眺めていた。
「まるで戦場だな」
「ええ。ここは女たちの戦場でございますよ。何かご用でしたか」
「カリンに聞きたいことがあったんだが……今は無理かな」
コーラル城の女官長はにっこりと笑ってみせた。
「姫さまじきじきのご指名とは嬉しいこと。陛下のお食事がお済み次第、お相手いたしましょう」
この朝、王女は先日と同じように国王と朝食を摂った。
最悪の事態は回避できたが、ここから先をどうしたものかというと王にも具体的な案は思いつかない。
「ご苦労だが、リィ。エブリーゴまで行ってみてくれないか。常人には見えないことでもお前の眼と耳なら何かつかめるかもしれん」
王女はやんわりと断った。
「もしもおれの報告でマグダネル卿の処罰が決定するようなことになったら、おれもお前もかなり困ることになる。他の人にやらせたほうがいい」
一国の王女ということになってはいるが、国王が誰よりも頼みとしている人ではあるが、ことがことだ。十六歳の少女に処分を下されたとなればマグダネル卿はもちろん他の家臣たちも快く思うはずがない。
食事が済んだころカリンがやって来た。
国王に一礼して王女に話しかける。
「姫さま。私に何かお尋ねのことがおありとか」
「ああ。それと相談なんだ」
「どのようなことでございましょう?」
「ちょっと気になったんだが、この城で働いている女の人はだいたい何人くらいで、どういうところから来てるのかな?」
「本宮には今のところ四十三人が勤めております」
と、カリンは言った。
「ずいぶん多いんだな」
「いいえ。少のうございますよ。何と申しましても現在は奥棟に暮らす王家の女性がおりませんので」
その世話や用事を果たす高級官僚も必要ない。
従って今の本宮にいる侍女たちは本宮の生活機能を維持する実務担当のものばかりだ。
「身元のほうは上下によりますが、貴族の寡婦から商家や農家の娘までさまざまでございます」
「上下というのは城の高さのことか?」
城の下層である三の郭には庶民層の働き手が大勢いるからと王女は思ったのだろうが、カリンは笑って首を振った。
「いいえ、私の申しますのは上働きと下働き、つまり人前に現れての接待や縫い物などを手がけるものと、おもに水仕事や掃除に働くものとの意味でございます」
「この本宮にもその両方がいるわけだ?」
「ええ」
「その人たちはここで寝起きをしてる?」
「無論でございます。ここまで通いで参ることなど、できるわけがありません」
「その場所、ちょっと見せてくれないかな?」
「それは構いませんが……」
カリンは不思議そうな顔だった。国王も同様である。
「ずいぶんおかしなことに興味を持ったものだな。何かわけでもあるのか?」
「別に。ただ、気になる。四十三人が寝起きをするだけの場所がこの本宮にあるなんて、今まで知らなかったからな」
「ご存知なくとも無理はありません。陛下や姫さまが足を向けられるようなところではありませんし、ご覧になっても何もおもしろいことはないと思いますよ」
カリンが口添えをする。
王女はしかつめらしく金の頭を振った。
「そうはいかない。さっきも初めて台所を見たが、案内してもらわなければわからなかった。この城の中のことならすみからすみまで知っているつもりでいたのに、とんだ盲点だ」
「ふうむ」
国王が捻った。王の頭の中にも大仰に言うなら城壁の石の組み具合まで叩きこまれているが、下働きに従事している女たちの居住区までは考えたことがなかった。
「なるほど。確かに盲点だ」
「だろう? これはちょっとばかりおもしろくない。足下に何を踏んでいるのかわからないようで気分が悪いそ」
「うむ、ああした女たちはどこにでもいるものだ。それが当然と気にも止めないでいたが城内の住人には違いない」
「どこかの王家の女の人はそうした人たちを道具あつかいして、感情なんかないものと思ってるらしいけどな。下働きの女の人だってちゃんと生きていてものを考えてるんだ」
痛烈な皮肉に国王は苦笑し、王女は女官長を見上げてにこりと笑ったものだ。
「別にカリンの仕事に口を出すつもりはないんだ。ただ、自分の巣の中に自分の知らないところがあるのは気になるからな」
この人たちはどうしてもこういう方向にしか頭が働かないらしい。
カリンは呆れながらも納得して、侍女たちが住み暮らしている奥棟の一角に王女を案内した。
華麗な装飾と立派な絨緞が敷かれた廊下を曲がり、扉一枚を隔てただけで、まるで別の建物かと思うような棟が現れる。
ここはいわば本宮の舞台裏だ。飾り立てる必要はない。剥《む》き出しの石壁も木の扉も見事なくらい実用一点張りの造りである。
開け放った部屋の一つで三人の女たちが垂れ幕の裾飾りを直していた。
国王の食事を調えるのとは別の、使用人のための台所で遅い朝食にしているものもいた。
女たちは勤めている年数や年齢に従って、四人から六人が同じ部屋で寝起きをしている。
カリンの眼はさすがに行き届いたもので、どの部屋も清潔そのものであり、侍女たちはこざっぱりとした衣服に身を包んでいきいきと働いている。
洗濯物を山ほど抱えてやってきた中年の女が、すれ違いざま頭を下げていった。
王女は珍しげにその女を見送って言った。
「洗濯係が決まってるのか?」
「はい。自分の持ち物は自分でするのが原則ですが、まとめて洗わなければならないものも結構ありますので交代で行います。洗い場は湯殿の隣にありますが、御覧になりますか」
「湯殿って、ここの人たちのためのお風呂か?」
「はい。女は身ぎれいにしておくのも仕事のうちでございますから」
「何だか含みのある言い方だな?」
「いいえ。申し上げたいのはやまやまでございますが、姫さまにはいまさら何も期待はいたしません」
断りながらもカリンは苦笑している。
王女はなかなかきれい好きで、まめに体を洗っている。ただ、城の湯殿ではなく山の中の小川や泉ですませてしまうのだ。
カリンが案内した湯殿はこれも実用品だった。壁も床も石が剥き出しになっている。美しいタイルで飾られた西離宮の湯殿とは比べものにもならない。
ただ、なかなか広く設けてある。石造りの無骨な浴槽も五人くらいは一度に入れそうだった。
カリンが言う。
「町中や農家ではよほどの事がない限り湯に入ることなどありませんから。みんな入浴は楽しみにしているようでございますよ」
「お風呂も交代で入るのか?」
「ええ。三日に一度、湯を沸かしまして、だいたい十人くらいが交代でつかっております」
「時間は?」
「は?」
「入浴の時間はだいたいいつごろだ?」
「仕事を終えた後ですから、たいていは夜中に近くなると思いますが……」
王女は注意深くその湯殿を見回した。
天井は低い。その天井近くに湯気を逃がすためか小さな窓が開けられている。
板戸一枚で隔てられた隣の土間には大きな細長い流しが設けられていた。これがさっき言った洗い場らしい。すぐ外に大きな井戸がある。ここから水を汲んでいるのだろう。
本宮の中でも北側に位置するだけに、外に広がるのは殺風景な眺めだった。夜には真っ暗闇になるに違いない。
「夜中にここに入るとなると自分の腕も見えないんじゃないか?」
「明かりがなければそうなりますが……」
カリンが言って壁の一部を指さした。そこには吊り灯台を引っかけるための金具がある。
湯気に曇った十人の籠る湯殿を照らすにはいささか不充分に見えるが、
「読み書きをするわけではないので、これで充分事たります」
と、カリンは言った。
その説明を聞きながら、王女は深く考えこんでいる。
カリンのほうが訝《いぶか》しげな顔になり、どうかしたのかと尋ねようとした時、侍女の一人がカリンを呼びに来た。
「カリンさま。あの……」
「どうしました?」
「表口にナシアスさまがいらして、姫さまにお会いしたいとおっしゃっていますが……」
「ここへ通せばいい」
王女が言ったが、カリンが苦笑とともに押し止めた。ここは曲がりなりにも奥棟の一角である。身分のある男性を通せるようなところではない。
表口とはその奥棟と表部分の境目になっているところだ。奥から見れば表口だが、外から見れば奥の入口ということになる。
ナシアスは表口の脇にある庭で王女を待っていた。
王女を認めて笑顔になる。
「やっとお目にかかれました」
ナシアスは美技とまで言われる剣の使い手だが、騎士には見えないほど整った顔立ちと柔和な雰囲気の持ち主でもあった。こうして花の咲き群れる庭にいると詩人か楽人のようにさえ見える。
しかし、ラモナ騎士団の長を務め、あのバルロのブレーキ役を自ら引き受けるくらいだ。中には一本芯が通っている。
「バルロはどうしてる? 閉じこめられて虎みたいに捻ってるんじゃないか」
「実はそのことでお話があって参りました」
ナシアスは少し声を低めて言い出した。
バルロが王女に会いたがっているというのである。
しかし、本人はすでに謹慎中の身の上なので身動きができない。ご苦労だが屋敷を訪ねてくれるようにという伝言に、王女は緑の眼を見張ったものだ。
「珍しいこともあるもんだ。どういう風の吹きまわしだ?」
バルロが王女に対して複雑な感情を抱いていることは、当の王女もよく承知している。
好意的に王女を迎えた人々とは違って、自分から会いたがったり近づいてきたりしたことは今まで一度もないはずだった。
そう言うと、ナシアスは困ったような表情を浮かべたものだ。
「姫さまは、バルロが謹慎を仰せつかった理由をご存知ですか?」
「ああ」
「それは、陛下からお聞きになったのでしょうか。それとも姫さまが陛下のお耳に入れたのでしょうか?」
王女は納得して頷いた。
「おれが話した。よけいなことだったかな?」
ナシアスはやんわりと笑ってみせた。
「いいえ。感謝します。私の口からはどうしても申し上げられないことでしたので」
「言わなければマグダネル卿を斬るはめになってただろうに」
「それで万事が無事に収まるなら安いものです」
穏やかな顔で恐ろしいことをさらりと言う。
そんなことをしたら世間の非難が自分に集中することを覚悟の上で言っているのだ。
「バルロが手を下すよりはるかにましです。ただ、あの男は姫さまが陛下に……告げ口をしたと腹を立てているらしく、お会いした上で抗議をしたいと、そう言うのです」
「そんな因縁をつけられる覚えはないぞ。おれが言わなくたっていつかはウォルの耳に入ったことだ」
しかし、ナシアスは妙に真剣な顔だった。
「姫さま。ここは友人の因縁につきあってやってはもらえませんか」
「……」
「あの男は私にはそう言いました。よけいなことをしてくれたと。言いたいことが山ほどあるから会いたいと伝えろと。ですが、それは口実です」
「……」
「昨夜、アエラさまの館から戻ってきた時から様子が変なのです。向こうで何かあったようなのですが、詳しいことは語りません」
「聞き出せないのか?」
苦笑しながら首を振ったナシアスである。
できれば苦労はないと言いたげな顔だった。
「あの男は言わなくてもいいことにかけてはいくらでも口がまわりますが、肝心要《かなめ》のことは腹に収めて決して洩らしません。でなければとても……」
言葉を濁したナシアスだが、何を言いたいかは王女にもわかった。でなければとても、お家大事の母親や有力な親族を押し退けて、公爵家の実権を握ることはできなかったはずだ。
「それにしても意外だな。隠し事なんかするような性格には見えないのに」
「だからこそ、たまに隠さなければならないことができますと、ことは想像以上に重大です」
「しゃべらないのに、わかる?」
生真面目に聞いた王女にナシアスは笑って頷いたものだ。
「ええ、わかります」
そもそも母親の不義をあっさりと自分に語った時から、バルロの心には何か他の屈託があると感じていた。それが何であるかバルロは語らなかったし、ナシアスも聞こうともしなかった。
何としても叔父を討たなければならない。
そう語ったバルロの口調には一片の迷いもなく、その決意はまさしく本物だった。
ナシアスにはそれで充分だったのである。
「陛下のおとりなしにより問題の激化は避けられましたが、さりとて穏便におさまるはずがありません。バルロはおそらく、私にも陛下にも語れないことを姫さまに申し上げようとしているのだと思います」
ラモナ騎士団長はまっすぐ王女を見て頭を下げた。
「曲げて、お願いします」
王女はため息をついた。
あの矢継ぎ早の毒舌の前に自分から赴くのは気が進まないが、仕方がない。
サヴォア館は一の郭の中でも本宮の近くに位置していた。それだけ公爵家が王家にとって重みのある存在だということだろう。
一人で出向いた王女をバルロはおもしろくなさそうな顔で迎えた。
「あいかわらず珍妙な衣服をお召しでいらっしゃる。いいですか、王女。私は当分この館に足止めされて女性の姿を拝むこともできない哀れな身の上なんですそ。あなたも一応は女のうちに数えられる人なんですから、少しは着飾って人の目を楽しませてくれても罰はあたらんでしょうに」
「そんなことはまともなご婦人に任せておけばいい。団長のほうこそあんまりナシアスを心配させるなよ。そのうちあの若さで総白髪になるぞ」
「あなたの行状に対する心痛のあまり宮中の侍従どもが残らず禿《は》げるほうが、間違いなく先です」
口ではきついことを言いながらもバルロは王女が嫌いではない。女としてはあつかいにくいことこの上ないが、話し相手としてはなかなか刺激的である。
王女のほうも、この手強い男を好ましいと思っていた。二言めには王女らしくしろというが、それももはや社交辞令に近い。
もっとも今日は閉じこめられた恨みもあって、盛大に文句を言ってきた。王女がよけいなことをしてくれなければ今頃はマグダネル卿の首を飛ばしていた、あの男は外面はいいかもしれないが腹の中では何を考えているかわかったものではないのだ云々。
我慢して聞いていると、バルロは急に話題を変えた。
「それはそうと、あの口のきき方を知らん麦わら頭はどうしています?」
これには思わず吹き出した王女だった。その『麦わら頭』はバルロのことを『貴族風をふかしやがるあの猪』と評していたからである。
顔を合わせればまわりが避難しなければならないくらいの舌戦を繰り広げる二人だが、けっこう気が合っているようだと王女は思っている。もっともこれを言うと二人とも口を揃えて『冗談じゃない!』と力一杯否定する。難しいものである。
「イヴンならしばらく会ってない。会いたいんなら使いを出そうか?」
「馬鹿なことを。あんなものにこの公爵家の敷居をまたがせる気はありませんぞ。あなたと一緒にあの西離宮にたむろしているのが似合いです」
力説して、少しばかり口調を変えて言い添えた。
「そう。あまりお一人にならんほうがいい。王女が常人離れしているのはよく承知しているが、あんなへんぴなところでは何があってもおかしくありませんからな」
王女は首をかしげた。
おかしなことを言うものだと思った。
昨日今日暮らし始めたところではないのである。
西離宮どころか、並の人間なら凍死すると言われるパキラ山の冬を王女はもう三度過ごしている。大雪をものともせずに山中を歩き、雪解けや子育ての季節の獰猛な獣たちとも折り合いをつけてきた。
それは王宮中の噂になったことだから、バルロもよく知っているはずだ。
しかし、バルロの黒い瞳は真剣そのものである。
その眼がじっと王女を窺っている。
王女はしげしげとバルロを見つめ返していたが、何か言いかけて呑みこみ、困惑ぎみに頭を掻いた。
「騎士団長。悪い。もっとはっきり言ってくれ」
バルロは肩をすくめたものだ。
「言っております。王女の身に何かあれば、従兄上はひどく悲しまれるでしょうからな。あなたが熊や狼にびくともしないのは承知しておりますが、危ないのは獣ばかりとは限りません」
王女の顔から戸惑いが消えた。別人のような鋭い眼でバルロを見た。
バルロもびくともせずに王女の目線を受け止めていた。
「もっとも、獣であれ人であれ、あなたに手傷を負わせられるものがそうそういるとも思えないのですがね。万が一ということがあります。それにはまず、お一人にならぬことだ。特にあの離宮は危ない」
「……」
「用心棒代わりに、あの麦わら頭とその仲間くらい置いておくのも悪くはないと思います。まあ、こんなことはよけいなお世話かもしれませんが、なにしろあなたは、悪い冗談のようだが、わが国の王族女性の筆頭に位置する方ですからな。腹の立つことに」
口調と裏腹にバルロの表情は真剣そのものである。
王女はにこりと笑って頷いた。
「わかった。気をつける」
「そうしてくださると助かります。ただでさえ従兄上は忙しい体だ。これ以上、よけいな心痛の種を増やしたくはありませんからな」
「言わせてもらえば、近頃一番大きな心痛の原因をつくったのは騎士団長だぞ」
「ですから、あなたがよけいなことをしさえしなければ今頃は従兄上の心痛の種と一緒に、あのいまいましい叔父をきれいに片づけていたと言っているのです」
どうやらこの辺が潮時のようだった。
王女はほうほうの体《てい》で公爵家を逃げ出すと、再びカリンに会いに行き、今度は相談をしたのである。
西離宮がだいぶむさくるしくなってきたので、誰か手入れをしてくれる人が欲しいというものだ。
カリンは喜んで、さっそく自分の腹心である女たちの中から誰かを行かせましょうと言ったのだが、王女はそれを制して、
「いや。どうせならおれと同い年くらいの子のほうがいいな。話し相手にもなってくれるだろうから。この間、カリンと一緒に朝食を運んできてくれた子がいただろう。あの子はどうだ」
「はい。気立てのいい娘ですが、あれはまだほんの新参です。場所が場所だけに怯《おび》えるかもしれません。もっとしっかりした者のほうがよろしいのでは?」
「本人に聞いてみればいい」
王女は言った。
「西離宮に通って、おれの傍に仕えるか、いやか。あの子に選ばせるんだ」
それも一案である。命じたところで最初から恐がるようでは仕事にならないからだ。
カリンは頷いて、とりあえず話してみましょうと言った。
「わ、私が……、あの西離宮で姫さまにお仕えするのでございますか?」
不安一杯に言った若い侍女を、カリンはむしろ気の毒そうに見下ろしたものだ。
やはり無理ではないかと思った。大の男でさえ、常時詰めるのは無理があるところなのだ。
「私もお前には少しばかり荷が勝ち過ぎるのではないかと思うのだけれど……。姫さまが特にお前をと思し召しなのですよ」
「ど……どうしてでございましょう?」
「お前なら歳も近く、話し相手になりそうだからということでした。確か、お前も十六でしたね」
その年齢にしてはよく気のつく、しっかりした娘である。カリンも眼を掛けていたが、先日初めて出くわした山賊まがいの王女にはよほど驚いたらしい。
それでなくともこの王宮では腫れ物あつかいの人である。
あまり近づきたくないと思うのも無理からぬ話だが、カリンは懇々と言い諭した。王女は決して見た目ほど恐ろしくはない。口調も態度も男のようだが、性質はむしろ優しい。
「何より、あの姫さまが初めて、傍に人を置いてもいいとおっしゃったのです。お前さえよかったら、お仕えしてみてはくれないかえ?」
「それはもちろん、お言いつけとあれば……」
「決して無理を強いているのではないのですよ。まずは様子見に幾日か通って、耐えられるようであれば西離宮に住みこんで姫さまのお世話を勤めてもらおうと思っていますが、それもお前次第のことです。どうしてもできそうにないと思ったら遠慮なく申しなさい。私から姫さまにとりなしてお許しをいただきますからね」
「はい」
話が決まると、カリンはまず西離宮の大掃除から始めた。
王女は住居の快適性ということにはとことん無頓着なようで、自分でやるわけでもなく、人に任せるわけでもない。
おかげで西離宮は廃屋同然になっている。
天井の埃をはらい、床をきれいに掃き清め、古びていた垂れ幕は新しいものに取り替え、軋《きし》みがちになっていた扉のちょうつがいにも油を注し、緩んだ留め金を締め直す。
湯殿には立派な配管設備があって近くの小川から水を引けるようになっているが、水栓は長い間閉めたままだ。
あらためて水を引き、浴槽と湯殿を洗い流し、台所も火を起こせる支度をする。
使われなくなって久しい料理用かまどは煤《すす》ぼこりにまみれていて、大いにカリンを嘆かせたものだ。
煤を掃き出し、薪を用意し、本宮の食料庫から当座の食料を運びこんだ。
西離宮には王女の寝室と庭に面した居間の他に三つほどの部屋がある。そのうちの一つを娘の部屋に決め、無駄になるかもしれないが、寝台を運びこんだ。
朝から始めた大掃除だが、すべての準備が終わるころには夕刻に近くなっていた。その頃ようやく姿を見せた王女は、すっかり様変わりした自分の住み処を見て目を見張ったものである。
「こりゃあすごい。どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたも、こんなところに若い娘を置いておくのですから、せめて快適に、安全にしておかなければなりません」
「おれもいちおう若い娘じゃないか」
カリンは盛大なため息を吐いて王女を見やった。
この台詞がこれほど白々しく聞こえる人も他にはいない。
明日からここで働くことになる娘はずっと掃除を手伝っていたが、王女の姿を認めて急いでその場に膝をついた。
「姫さま。仰せの通り、明朝からこの娘をここへ通わせます。ただ、夜は物騒ですので本宮へ下がらせたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ああ。かまわない」
言いながらも王女は綺麗になった住み処を珍しそうに見回している。
夕食時には本宮での仕事が山ほどあるカリンは、娘を連れて引きあげようとしたが、王女が振り返って声をかけた。
「カリン。その子は置いていってくれ。話がある」
「はい」
大掃除に働いていた女たちも引きあげて、離宮には王女と娘の二人が残された。
娘は体を固くしていた。不安そうでもあり、この風変わりな主人にどう接したらいいのかためらっているようでもあった。
王女は娘には目もくれない。住み処の点検に大忙しである。
湯殿を覗き、台所の戸棚を開け、最後に自分の寝室を見て、実にもの悲しげな顔になった。
ここも別の部屋のようになっている。寄せ木細工の床は顔が映るほどぴかぴかに磨き上げられ、立派な寝台には豪奢な刺繍のベッドカバーが掛けられていた。
格段に居心地がよくなったはずなのに、王女はため息をついている。
その後をついて歩いていた娘はおそるおそる声をかけた。
「あの、姫さま……」
「うん?」
「私に何かお話というのは、どのような……」
「ああ、そうだった」
王女は娘を誘って居間へ戻り、長椅子に腰を下ろし、娘は立たせたままで唐突に言った。
「どうやってお風呂に入ってる?」
娘は目を丸くした。
「お風呂、ですか?」
「本宮の湯殿で、他の人と一緒に湯を使ったことがあるだろう?」
「はい。何度かあります」
「何度か?」
「はい。四、五回くらいでしょうか。私はまだお城へあがって間がないものですから」
王女は実におもしろそうな顔になった。足を組み、意味ありげに娘を見上げて言う。
「それでどうやって男の体をごまかしてた?」
娘はきょとんとなった。
「はあ?」二緒に寝起きするだけなら、女の人たちも気がつかないかもしれない。だけど、お風呂に入るとなれば話は別だ。いくら明かりが不充分でもばれないわけがない。普通は大騒ぎになるんじゃないか?」
娘はまだぽかんとしていた。明らかに何を言われているのかわからない顔だった。
「姫さま。あの……、なんのことでしょう?」
「わからない?」
「はい。あの、失礼ですが、姫さまは何か勘違いをなさっていると思います」
「勘違い?」
「はい」娘は大きく頷いた。困ったような微笑を浮かべていた。
そんな娘を王女はさらにしげしげと眺めて言ったのである。
「じゃ、服脱いで」
娘は小さな悲鳴をあげた。その顔にみるみる血が上る。
「姫さま! それは……」
真っ赤になってしどろもどろになる娘に、王女は笑って手を振った。
「うそ。じょうだん」
娘は胸を撫で下ろして、責めるような眼を王女に向けたものだ。一方の王女はくすくす笑っている。
「まだ名前を聞いてなかった。おれはリィ」
「シェラと申します」
「本名?」
「はい」
「変わった名前だ」
「そんなことはありません」
「男の名前にしては変わってる」
「そんな……」
とことん困り果てたように言う娘の顔は美しかった。並みはずれて美しいと言ってもいい。
雪白の肌にほんのりと血の色が上り、やわらかな紫の瞳が不安げに瞬いている。長く編んで垂らしている髪も純白に近い銀の色だ。
いかにも清げな、はかないくらいの淡い美しさである。
間違っても男には見えない。王女の言葉に狼狽の表情を浮かべて身をすくめているその様子は、何か主人の不興を買ったのだろうか、気に入られていないのだろうかと怯える娘そのものだ。
足を組んで長椅子に腰を下ろした王女はあいかわらず笑みを浮かべている。
「昨日、どこへ行ってた?」
「私は……昨日はどこへも出かけたりなどしておりません」
「おれの聞いてるのは夜中のことだ。城壁を越えてどこかへ出かけてただろう?」
「姫さま……」
娘はもう泣き出しそうな顔になっていた。どうして次から次へとこんな意地悪なことを言われるのか、まるでわからない顔つきで王女を見ている。
そんな非難と懇願のまなざしに比べて、王女はあくまで楽しそうだった。
「泣かなくてもいい。おれも時々やってる」
「あの……、どうかもうお許しください。私にはそんな、そんな恐ろしいことはとてもできません」
「そう?」
「はい。決して……」
「じゃあ、そういうことにしておこう。今日はもういいから明日の朝またおいで」
「はい」
娘はほっとした顔で一礼すると、急ぎ足で王女の前から下がっていった。食事時になると女たちは俄然忙しくなる。
本宮には本宮の厨房があり、二の郭《かく》、三の郭にもそれぞれ配膳に携わる女たちがいるが、何百人という人の口に入るものを調理するのだから、カリンがいみじくも言ったように戦争のような忙しさだ。
本宮へ戻ってきたシェラも、本来の自分の仕事に戻らなければならないわけだが、そうはせず、カリンのところへ出向いて伯父のところへ参ってもよろしいでしょうかと遠慮がちに問いかけた。
「ああ。そういえぱお前は伯父どのの世話で奉公に来たのでしたね」
シェラの伯父はヌアクと言い、本宮に勤める弓矢番だった。
名前の通り、弓矢の納められている部屋を受け持ち、その管理をするのが役目だ。そう身分の高いものではないが、ヌアクは前国王が生きているころから真面目な仕事ぶりで評判もいい。
「明日から西離宮に勤めることを、伯父には話しておきたく思いますので……」
「そうでしょうね。行ってきなさい」
カリンは快く許してくれた。
弓部屋や鎧《よろい》部屋といった領域には台所奉公の女たちは滅多に近づかない。男たちが台所に近づかないのと同様で、同じ本宮の中でも行動範囲がはっきり違うのである。
だからこそシェラも伯父に会うのに、わざわざ上司であるカリンに許可を求めたのだ。
すでに廊下には明かりが灯っている。
弓部屋の控所にヌアクはいなかった。同僚の話では今日は非番で家にいるという。
奥勤めの女たちは本宮で寝起きするが、男たちは城の中に住居を持ち、そのつど登城してくるのだ。
身分の低い役人であるヌアクは三の郭に住居をあてがわれていた。
シェラは一度取って返すと、あらためてカリンに外出の許可を求めたのである。
城の外へ行くわけではないが、ちょっとした町くらいの広さのあるコーラル城である。ましてもうじき夜になる。
「何事もないとは思うけれど……」
と、カリンは心配して小者をつけてくれた。
正門の門番に三の郭の伯父のもとへ行くと告げて長い道のりを下る。廓門《くるわもん》を通ったころにはすでに日が暮れていた。
夜になるとひっそりと静まり返る本宮に比べて、三の郭は活気に満ちている。どの家も城から戻ってきた主人を迎えて夕食にしているのだろう。団樂の楽しげな声が聞こえている。
ヌアクは家を留守にしていた。
五十に近いヌアクだが、若い頃に妻を亡くして以来、独り身を通している。今日は友人の家に夕食に呼ばれているのだと隣人が話してくれた。
本来なら出直すところだが時間がない。仕方なく、シェラは小者をつれて遠慮がちにその友人の家を訪ねた。友人たちと楽しげに語らっていたヌアクが突然の姪の来訪に驚いたのはもちろんである。
「シェラ。どうしたね?」
「申し訳ありません。こちらにいらっしゃると聞いたものですから……」
シェラは外套の頭巾を外し、目を丸くしている家人に丁寧に頭を下げた。
「突然お邪魔いたしまして……、ヌアクの姪のシェラと申します」
ヌアクも言葉を添えた。
「弟の子でしてな。先日から奥棟に勤めているのですよ」
「いや、これは驚きましたな。どうしてどうして、伯父には似ても似つかぬ美形ではないですか」
その場にいた友人の一人が感嘆の口調で言うと、ヌアクも笑って頷いたものだ。
「まさに。私に似ておったら嫁のもらい手に一苦労するところでしたわ」
大いに冷やかされてシェラは頬を染めながらも、控えめに伯父に話しかけた。
「伯父さま。お食事中にすみません。お話があるのですけど、少し、よろしいでしょうか」
「何もそんなに急がなくとも、今夜は泊まっていけるのだろう?」
「それが……、すぐに上に引き返さなければならないのです。新しいお仕事を言いつかりまして」
「それは忙《せわ》しい」
ヌアクも驚き、友人たちに断って席を立った。
伯父の家まで戻ると、シェラは小者のために茶を滝れてやり、明日からの仕事のことを伯父に語った。
王女の傍に仕えることになったと聞かされてヌアクは驚いた。いずれ西離宮に住みこむことになるかもしれないとあってはなおさらである。
「大丈夫なのか? 見たことはないが、あの離宮はすでにパキラの山腹だというではないか。獣も頻繁に出てくるというそ」
「ええ。今日一日お掃除に参りましたが本当に深い山の中で、緑がまぶしいくらいでした。でも、危ないことはなさそうです」
「ならばいいのだが……、お前に何かあったら弟に会わせる顔がないからな」
ヌアクはふと膝を打った。
「いかん。その弟からお前に荷物が届いておったのを忘れていた。着るものや何かを差し入れてよこしたらしいそ」
「まあ、嬉しい」
シェラは手を打って立ち上がり、伯父の後についていそいそと奥の部屋へ向かった。小者の見ている前で荷物を広げたくなかったのだろうし、こんな場合にはごく自然な行動だったろう。
だが、奥の部屋に入り、慎重に扉を閉め、伯父と二人きりになったとたん、シェラはがらりと口調を変えて言ったのである。
「予定を変更する」
低い、よほど耳をそばだてていても聞こえないような囁き声だった。
「今夜、王女をやる」
ヌアクもまた眉を吊りあげて驚きを示し、同様に低く囁いたのだ。
「どういうことだ?」
「私にもわからない」
声ばかりでなく、シェラの顔もそれまでの様子をかなぐり捨てていた。唇は厳しく結ばれ、やわらかな紫の瞳には冷徹な鋭い光がある。王女の前で戸惑い、ためらっていた少女はどこにもいない。
紛れもない男の顔だった。
「完壁につくろっていたはずなのに……。どうして知られたのか、それがわからない」
ヌアクの顔に驚愕が広がった。
「正体を覚《さと》られたと?」
「そうだ。しかも、昨夜の働きまで知っていた」
「そんな馬鹿な!」
「騒ぐな。王女が私に言ったことだ。夜中に城壁を越えてどこへ行っていた、と」
「なんと……」
「どんな手段で男の体を隠しているのかとも言った。疑いようがない。顔に出さないようにするのがやっとだった」
王女とのやり取りをシェラが手早く語るにつれ、ヌアクの顔は蒼白に近くなった。
それはシェラも同じである。
よくもとっさに表情をごまかせたものだと思う。
それより何より、問答無用で腰を下ろした王女に飛びかかり、首を絞めあげようとしたあの衝動をよくも押えこめたものだと思う。
挑発されていると閃《ひらめ》くのと王女の腰の剣が視界に飛びこむのとがほとんど同時だった。偶然であり、まったくの幸運だった。
今になって冷や汗がにじんでくる。
ヌアクも同様に額の汗を拭った。
「しかし、そこまで知っていて何故、王女はお前を捕らえなかった?」
この疑問に、シェラは美しい顔に不気味な笑みを浮かべることで答えた。
「あの王女は戦女神の現身《うつしみ》と言われているらしい」
「いかにも」
「腰にいつも剣を下げている」
「そのとおりだ」
「人に頼らず自分で私の始末をつけたいのだろう。また、できると思っているのだろうよ」
「ほほう……」
ここに至ってヌアクも同様に、にやりと笑った。
「なるほど。あの王女ならありそうなことだ」
「愚かなことだが、この際はありがたい」
「王女がお前のことを他に洩らした恐れは?」
「今のところはない」
「確かか?」
シェラはもう一度、ひんやりと笑った。
「でなければ面と向かって男だろうとは言うまい。よほどの阿呆でもない限りはな」
「とすると、今夜は眠らずにお前が出向くのを待ち構えているか」
「おそらく」
表向きには伯父と姪ということになっている二人は顔を見合わせて、ゆっくりと頷いた。
「外の指示を仰がずにしてのけるのはどうかと思うが……、仕方がないな」
「そんな時間はない。いつ王女の気が変わり、私のことを余人に洩らすとも限らない。今夜、殺す。それで解決する」
「侮るなよ。何か仕掛けを用意しているかもしれんぞ」
「承知の上だ。その上でかかりに行く」
「うむ」
ヌアクは物入れの奥から一抱えほどの包みを取り出してシェラに渡し、念を押した。
「言うまでもないが、くれぐれも仕損なうな」
「わかっている」
「お前の素姓が疑われれば『伯父』の俺にも嫌疑がかかる。今までの苦労が水の泡だ」
「わかっている。どうして気づいたのかは知らないが、必ず仕留める」
表の部屋で待っていた小者が茶を飲み終えるころ、小包を抱えたシェラが出てきた。
伯父のヌアクは王女に仕えることになった姪をしきりと心配し、家の外まで見送りに出た。
「シェラ。くれぐれも王女さまにご無礼のないようにな」
「ええ。伯父さま」
「さ、急いでお返り。もうじき刻限だ」
「はい。お許しをいただけたなら、また参ります」
用意の手燭に火を入れて、シエラは小者と一緒に本宮へ戻った。
廓門も正門もどうにか刻限の前に通ることができた。奥の者だと言えば通してもらえるだろうが、それでは責任者のカリンに迷惑がかかる。
この道中につき合ってくれた小者は何も疑わずにシェラと別れて自分の持ち場へ戻って行った。
シェラもまた何食わぬ顔で自分の部屋に戻ると、夕刻の仕事を抜けたことを同室の女たちに詫び、伯父からの贈り物だと言って砂糖菓子をふるまった。
女たちが喜んだのは言うまでもない。
菓子をつまみながら王女に関することをいろいろと話してくれたが、情報として特に目新しいものはない。とにかく変わり者であること、本来の素姓がわからないこと、自分を男と勘違いしているのではないかということ。
シェラは相槌を打ちながら、ふと思いついた様子で尋ねてみた。
「姫さまは、陛下のお傍にいらっしゃる時も大剣を手放さないそうですが、お強いのでしょうか」
実際、これだけは確認できないでいる。
噂だけなら山ほど聞いた。三年前の内乱を乗り越え、国王を再び王座につけたのはまさに王女の働きだと、その剣の技《わざ》は当代一流の剣士であるナシアスや豪傑ドラ将軍の折り紙つきだと。
しかし、こうした話はとかく大げさに伝えられがちである。特にあの王女の場合、少しばかり刃物をいじれる程度のたしなみをあの年齢と容貌が誇大に広めた可能性は高い。
しかし、女たちの話すことは噂以上に荒唐無稽で、王女は素手で熊をも殺すのだとか、馬を担ぎ上げるのだとか、とても信じられないようなものばかりである。
ひとつだけ確かなことは王女が剣を揮うところを実際に見た者は誰もいないということだった。
やがて、おしゃべりに疲れた女たちは次々と眠りについたが、シェラだけは寝床に潜りこみながらも目を覚ましていた。
女たちが完全に寝入ってしまったころになって、シェラは起き上がった。さっき食べさせた砂糖菓子には眠り薬が含ませてある。まず朝まで目を覚ますことはない。
ヌアクが渡した包みに入っていたのはそればかりではない。シェラは長い女の衣装を脱ぎ捨てると、包みの中から一風変わった黒い服を取り出して身につけた。
前で合わせる丈《たけ》の短い上着は動きやすい生地でつくられているが、その下には簡単な帷子《かたびら》を着こんでいる。長い銀の髪は黒い頭巾に隠し、下半身につけたズボンは大腿部はゆったりと、足首にはぴったりと添うようなものだ。履物も変わっている。だいたい懐《ふとニろ》に余裕のある人は革靴を、身分の低いものは木靴を履くのが普通だが、シェラが足持《あしごしら》えに使った履物は靴底に固い皮を使っているものの、他の部分は布地でできており、足首からふくらはぎまでを覆い隠すようになっている。
両袖と腰に巻いた帯にさまざまな道具を忍ばせ、最後に細身の剣を差しこんだ。普通の剣よりかなり短いが短剣にしては長い。
身仕度を調えるとシェラは微風のように本宮の裏庭へ抜け出し、西離宮への道を駆け上がった。
あの王女は必ず自分を待ち受けているとシェラは確信していた。
一人でやるつもりではなく、もしかしたら兵隊を潜ませるような罠を仕掛けているかもしれない。
だが、それはシェラにはどうでもいいことだった。
たとえ五人十人の兵士を潜ませてあっても、自分の失敗はあり得ないからである。
松明を明々と焚《た》いて待っているかとも思ったが、西離宮は先日と同じように暗く、静まり返っていた。
好都合である。
シェラの目は暗がりに鍛えられている。優位に動ける自信も技倆もある。
木の陰に身を伏せて様子を窺ったが、まったく異常は感じられない。
虫が鳴き、木がざわめいている。野鼠か兎か、小さな生き物の気配がする。あたり前の夜の山の光景だった。
あまりに静かなので拍子抜けしたくらいである。
用心しながらもシェラは少しずつ近づいていった。
今夜はおそらく窓にも扉にも戸締まりがしてあるはずである。そのための道具も用意してきたのだが、窓の一つに手をかけて驚いた。
開いている。
いよいよもって罠だと思ったが、どうも妙な罠である。この離宮に何の仕掛けもないことはすでに確認済みだ。落とし穴があるわけでもない。兵隊を隠しておく小部屋があるわけでもない。まして秘密の抜け穴があるわけでもないのだ。
となれば、この闇の中に目を覚まして自分を待ち受けている兵士の息吹や殺気を感じなければいけないのである
それがない。
それどころか人の気配がまるで感じられない。
悩んだのも一瞬のことだった。するりと内部に侵入した。
明かりは完全に消されている。気味が悪いくらい静まり返っている。
呼吸を整え、全身の神経を最大限に活用させながら、シェラは少しずつ王女の寝室へと向かった。
そこは空だった。
がらんとした寒々しい空間は、ここがかなり前から無人であると告げている。立派な寝台には寝た跡もない。
シェラの口元に笑いが浮かんだ。
逃げられてしまった。
自分を挑発したはいいものの、面と向かって対決するのは怖くなったらしい。
あの王女は山歩きが趣味だというから、山の中に隠れ家でも持っているのだろう。
そこまでは追っていけない。買いかぶりすぎたかと思いながらそっと足を引いて廊下に出た。
今夜は諦めるより仕方ない。部屋に戻ろうとしたその時、頭の上で声がした。
「明日の朝、来いと言ったぞ」
驚くより先に体が反応していた。
飛びのきながら声に向かって懐の短剣を投げつけたが、相手はもうそこにはいない。
体勢を立て直したシェラの背中を冷や汗が伝った。どうやって頭上に体を潜めていたのか、何故その気配を感じなかったのか、激しい焦燥と疑惑を感じたが、それは後回しである。
まずは何としても王女を倒さなければならない。
室内はほとんど真っ暗闇だ。間取りは頭の中にいれてあるが、先に位置を知られてしまった分、こちらが不利である。しかも五感を懸命に働かせても相手の位置がつかめない。
これは致命的だった。
凝《じ》っと息を詰めていると窓が開いた。
音はしなかったが、確かに開いた。入ってきた時、閉めたはずの窓だ。
反射的に窓を目がけて短剣を投げる。
「どこを狙ってる」
笑いを含んだ声と同時に、かすかな星明かりに浮かぶ窓辺に人影が現れた。
シェラはすかさず片手に握った鉛玉を数個、一度に投じたのである。
鉛玉は玉と名はついていても鋭利な角をいくつも持つ礫《つぶて》である。一つ二つを叩き落としても残りが必ず肉に食いこむ。
窓辺に立った王女は剣を揮い、次々と鉛玉を叩き落としたが、全部は払いきれなかったらしい。小さな悲鳴が上がったかと思うと、その体が大きくのけぞり、窓の外へ倒れこんだ。
シェラは即座に飛び出した。この機を逃さず、窓の外の地面に倒れた王女にとどめを刺すべく、剣を引き抜き、窓を躍り越え、そのまま一突きにしようと地面を狙った。
ところが、王女がいない。
間違いなくここに倒れたはずなのに、視界のどこにもいない。
全身が総毛立った。
地面に剣と膝をつき、そのまま前転して立ち上がり、振り返って構えるまでを流れるような一動作で行ったが、遅かった。
王女は鉛玉を食らってはいなかった。傷を受けたように見せかけ、自分から外へ倒れ、とどめを焦るシェラを誘ったのである。
立ち上がった時にはすぐ側まで距離を詰められていた。構えようとした剣をはじき飛ばされる。
間髪を入れず、懐の鉛玉をつかみ出そうとしていた左手を剣の平で抑えられた。
シェラはほとんど呆然としながら動きを止めた。左手に感じた刃の固い感触が信じられなかった。斬るつもりはないらしい。平を軽く押し当てているだけだ。しかし、下手な動きをすれば間違いなく斬られる。
さすがに抵抗を諦めざるを得なくなった。
目の前に王女がいた。
星明かりしかない夜だというのに、金の髪と額の宝石が鮮やかに光を放っていた。
相手が動きを止めたのを見て王女は剣を引いたが、圧倒的に優位であることには変わりない。
逃げることも攻撃に移ることもできなくなり、身を震わせながら立ちつくしていると、王女が悠然と声をかけてきた。
「どうやってお風呂に入ってる?」
返す言葉がなかった。
何かの聞き間違いではないかとさえ思った。
あっけにとられてまじまじと王女を見つめたが、相手は真顔である。
「この期《ご》に及んでそんなことをお聞きになる?」
「他に何を聞けって言うんだ?」
「……」
「おれの知りたいのはそれだけだ。どうやってる」
答えなければ殺されるとシェラは思った。時間稼ぎをするべきでもあった。
覚悟を決めて言った。
「普通に入ってます」
「それじゃあ大騒ぎになるだろうに」
呆れたように言う王女にシェラは用心しながらも、ゆっくりと語った。
「仕掛けは……明かりの火の中に、ちょっとした粉末を落とすんです」
「毒じゃないだろうな?」
「いいえ。ただ、それを燃やした煙を吸いこむと、少しばかり……」
「なんだ?」
「少しばかり、頭の働きが鈍くなります。ぼうっとして現実感が乏しくなるんです」
「そんな粉をどんなものからつくる?」
どうしたものかと思ったが、王女の眼はまっすぐ自分を見つめている。ごまかしきれない。
「私たちは夢見草と呼んでいます」
この影響を受けると意識が朦朧《もうろう》とし、文字通り夢見心地になる。
一緒に風呂に入っている人間が男か女か、そんなことは気にならなくなる。もしくは頭から女であると思いこんで、多少おかしなことがあっても気にとめなくなる。
しかし、多量に用いれば副作用も大きく、ことと次第によっては命も危うくなる麻薬だった。
説明を聞いて王女は顔をしかめた。
「風呂に入るたびにそんな物騒なものを焚いてるのか?」
「ごく微量です。危険はありません」
女たちが中毒でぱたぱた倒れたりしたらこっちが困るのだ。
「それだけで裸の女で通せるのか?」
「充分です。あの湯殿は暗く、湯気で曇っていますし、腰のあたりを布で隠して入浴しますから」
慎重に答えながらも、シェラは油断なく逃げる機会を窺っていた。飛ばされた剣に未練の目を向け、そちらが本命と思わせておいて、なんとか懐に手を突っこむだけの隙を狙っていたのである。
ところがだ。
王女はおもしろそうな顔になり、剣を鞘《さや》に納めたのである。
「確かにお前なら、前さえ隠していれば女に見えるかもしれないな」
あっさり言って、こちらに背を向けて離宮へ歩き出した。
仰天しているシェラに対して王女はさらに、背を向けたまま手を振ってみせたのである。
「早く帰って休めよ。寝坊はカリンに怒られるぞ」
度胆を抜かれた。
似たような状況なら何度か経験したことがある。
用心深い相手はこちらがほんの少年でも油断はしない。いくらうまく化けても素姓を疑われることもある。そんなときの対処法は入念に積んでいる。
しかし、こんなけったいな反応を示す相手には一度もお目にかかったことがない。
助かったと安堵するより先に、思わず叫んでいたのである。
「王女!」
非難の響きに王女が足を止めて振り返る。慎重に尋ねた。
「……帰って休めとは、どういう意味です?」
「そのとおりの意味だ。お前、明日からおれの傍についてくれるんだろうが」
「私はあなたを殺そうとしたのにですか?」
ほとんどあざけるような口調だった。
シェラは今、間違いなく腹を立てていた。一度はしくじったが二度しくじるような自分ではない。
それを捕らえようともしないとはどういうことか。
そもそも刺客に狙われたとなれば身柄を拘束して取り調べるのが当然ではないか。
なのに王女はあくまでおもしろそうにこちらを見て首をかしげているのである。
「お前、初めからおれの命を狙ってたのか?」
「いいえ」
真顔で答えた。事実、こんな予定はなかったからである。
「それならどうしておれを殺しにきた?」
「言わなくともおわかりでしょう」
そのつもりで挑発したくせに何を言うのかと思ったが、王女はくすりと笑ったものだ。
「侍女が男でも夜中の散歩が趣味でも、おれは別に気にしない。特に害があるわけでもないしな」
「殺されかけて害がないとおっしゃる?」
「殺せなかっただろう?」
シェラはすうっと目線を細くして王女を窺った。
「私にはあなたを殺すことはできないと?」
「そのとおりだろうが」
王女は軽く笑ったものだ。
「お前の腕じゃ、おれは殺せない。つまり害はない。つまりお前をどうにかする理由もない」
シェラの顔は壮絶な怒気に染まっていた。
屈辱という言葉の意味をシェラは生まれて初めて、いやでも理解するはめになったのである。
自分に狙われたにもかかわらず、相手はいまだにぴんぴんしており、しかもぬけぬけとこんなことを言い放つ。
この時になって初めて王女に対する強烈な殺意を覚えたが、すでに一度仕損じている。自分の手で仕留めたいのはやまやまだが、シェラにそんな権限は与えられていない。
口封じにまで失敗した以上、即座に現場を離れるのが鉄則だった。身柄を拘束されることだけは避けなければならないからである。後始末は他のものに任せればいいのだ。
しかし、それでは自分の気がすまない。
だからといって掟《おきて》にも背けない。
複雑な思いを抱きながら唇を噛み締めていると、今までと同じ口調で王女が言った。
「そんなに悔しいなら、もう一度やってみるか?」
「……どういうことです?」
「一度で気がすまないなら何度でも、お前の好きな時に狙ってみればいい。そうすればいやでも無駄がわかるだろう」
「……」
「明日からここに通ってくるんだ。好都合だろう。おれもできるだけ相手をしてやる」
「……」
「ただし、二人きりの時に限るぞ。他の人が見たら驚くからな。それでどうだ?」
どうだ、と言われても言葉など出てくるわけがなかった。
この王女は何を考えているのか、何の意図があってこんな途方もない提案をするのか、逃げ出すことも反撃することも忘れて必死に考えていたのである。
言葉どおりに受け取れば、これからも自分の命を危険にさらし続けると王女は言うのだ。
危険には見返りがなければならない。成功した時の報酬がなければならない。それが常識である。
すると、また、シェラの考えていることを察したかのように王女は言った。二定期間が過ぎてもおれが生きていたら、おれの勝ち。その時はお前の背景をしゃべってもらうって条件では?」
探るような眼で王女を見る。
「失礼ですが、捕らえて拷問したほうが早いのではありませんか?」
「おれの趣味じゃない」
あっさり言われてシェラは初めて微笑を浮かべた。
型破りと聞いてはいたが、なるほどこれはたいへんなものだと思った。
刺客という人種をこれまで見たことがなかったのか、あるいは何と言っても若い娘の常で自分のような男に興味があるのか、とにかく生かしておいて遊ぶつもりらしい。
どういうつもりかは知らないが、受けてみようと思った。
「結構です」
「よし。話は決まった。期限はいつまでにする?」
少し考える振りをする。
もとより本気でこんな賭けに乗るつもりはない。
だが、王女の提案を受け入れれば、時間稼ぎをすることはできる。条件つきながらも奥棟に勤める侍女という役どころを捨てずに済むのだ。
その王女の提案も、おおいにばかげてはいるが、筋は通っている。そこまで見くびられたことは不快だが、警戒されるより倍も仕事がやりやすい。
それなら侮らせておくべきである。
「あなたを殺すのには、かなり時間がかかるでしょうね」
「そりゃあおれが言うのも何だが、ものすごく苦労すると思うぞ」
とても命を狙われている当の本人の台詞ではない。
シェラは何だか楽しくなった。元気のいいことだと思った。
このおもしろい相手を自分の手の中に置けるということが嬉しかった。
生きのいい、手強い獲物を見つけた時の狩人の心理に近かったかもしれない。
「一月、いただけますか?」
「ちょっと長いな」
「では三週間」
「まだまだ。もう一声」
「と、申されましても……」
「二週間でどうだ?」
「それでは私が不利です」
「じゃあ、間を取って二十日では?」
シェラは頷いてみせた。それだけ時間稼ぎができれば充分だった。
いたずら心を起こして問いかける。
「それまでにあなたを首尾よく殺すことができましたら、ご褒美に何をくださいます?」
「何が欲しい?」
真顔で言われてシェラは再び考えこんだ。
こう切り返されるとは思わなかった。
だいたい死人から何かもらおうなどと考えたこともない。が、期待を裏切るのも申し訳ない。
「あなたが生きているうちに、おねだりするものを考えておきます」
実にしとやかな笑顔で返した。
穏やかな口調ながらも、その声には何人もの命を確実に奪って来たものだけの持つ凄みがこめられていたのである。
翌朝、シェラはさすがに緊張しながら西離宮へ向かった。
最初の仕事は、タベ、自分が投じた短剣の後始末である。天井や窓枠に刺さったままになっていた。
脚立を使って引き抜いたが、窓はともかく、この天井にどうやって張りついていたのか、つくづく不思議に思う。
梁《はり》が通してあるわけでもなく、巨大な燭台が吊してあるわけでもないのだ。板張りの天井には桟《さん》が渡してあり、これが多少の突起と言えないこともないが、これに掴まって体を支えていたのだとしたら信じられない握力である。
王女はあの後、自分の寝室で寝たらしい。立派なベッドカバーは早々と床に蹴り落とされ、寝具はくしゃくしゃになっていた。
起き出してからかなり経つらしく、触れてもぬくもりは感じられない。
今のシェラの仕事は『侍女』である。することは山ほどあった。
まずは寝室を元通りに片づけると台所へ向かった。
自分のつくったものをあの王女が口に入れるかどうかは別として、パイ皮にする粉を練り、しばらく寝かせる。
ついで庭へ出た。昨日は離宮を掃除するのが精一杯で庭まで手がまわらなかったのである。
この離宮が建てられた当時はこの庭もきれいに整備され、美しい花が咲いていたのだろうが、今は雑草が生い茂っている。芝生も手入れが不充分だ。
こう荒れ放題にしたままでは庭にも気の毒である。
長い銀の髪をまとめあげてから、シェラはかがみこんで草を摘み始めた。雑草だけをきちんと取りのぞいていく。
どんな仕事でもそうだが、一度始めたからには完壁を目指すのが習いになっている。
縫い物でも、料理でも、部屋の整頓も、殺人もだ。
手を動かしながら、昨夜のことを思い返してみる。
あらためてふつふつと胸の内に湧いてくるものがあった。
できるものなら本当に殺してやりたかった。
少なくとももう一度ためして、自分の腕がそれほど未熟でないと確かめたかった。
一族の中では歳の若いシェラだが、体術も技の熟練も相当なものである。年長者に比べても引けを取らない自信があった。
では何故あの王女を倒せなかったか?
自分に比肩《ひけん》するだけの技をあの王女が持っているとは考えにくい。そんなことは普通の人間にはあり得ないことだからだ。
となるとやはり、自分の油断が招いた事態ということになる。なんとも腹の立つことだ。
身を焦がすような憤激を感じながらも黙々と草をむしっていたその視界に、いきなり人の足が入った。
「……?」
反射的に飛びのいた。顔を上げると王女がいて、シェラを見下ろしていた。
唖然とした。
人が近づいてくればわからないはずはないのだ。
まして森の中からやって来たとなれば、必ず気配と物音がするはずだ。なのにこれだけ接近するまでまるで気づかせないということがあるものなのか。
硬直している侍女に向かって、王女は呆れたように言った。
「朝っぱらから熱心だな」
「……」
「なんでそんなに綺麗にするんだ?」
息を吸いこみ、声が震えないように注意しながらゆっくりと言った。
「なんでと言われましても、私はあなたの侍女で、この場所をカリンさまから任されたのですから、務めは果たさなければなりません」
王女はまじまじとシェラを見つめている。同じようにシェラは王女を見つめていた。
明るいところでこれほど間近で見るのは初めてである。むろんシェラの目は夜でも見えるように鍛えられているが、太陽の下で見ると、あらためてその髪と瞳の色が目についた。
眼も眩むような黄金と、陽光に煌《きら》めく森のような緑。
少し飾れば誰もが絶賛する美少女になるだろうに、本人だけはその美貌にとことん無関心らしい。
無造作に頭をかきまわして言ったものだ。
「おれの好みとしては、少々むさくるしいくらいがいいんだ」
「お言葉を返すようですが……、これを少々とは言えません」
これまたもっともなことである。
王女も諦めたらしく、肩をすくめて背を向けた。
動悸はまだ速い。しかし、シェラはどうにか立ち直った。外からの指示があるまでは『刺客』の自分を押し殺して『侍女』としての自分を全面に出さねばならないのだ。
王女は庭から居間へと上がり、長椅子にごろりと横になっている。芝の上を歩いたにしてもまったく足音を立てなかった。
王女が現れたルブラムの森に目をやった。
晩春の森だ。やわらかい草が萌えている。枯れ葉の森を歩くよりは静かだろうが、その草を踏み分ける音も聞き取れなかった。
背筋が寒くなったが表情には出さない。あくまで平静に話しかけた。
「姫さま。お昼はここで召し上がりますか?」
「毒入りか?」
一瞬、言葉に詰まった。
「いいえ」
「それなら食べよう」
意味がわかって言っているのかどうか疑いたくなる。
本当に毒入りだったらどうするつもりなのか聞いてみたくなったが、それは口にしてはならないことだった。
昼食にするにはまだ早い時間である。一通り草むしりを終えてから立ち上がり、台所へ戻ろうとした。
その体の横を通りすぎたものがある。あまりにも悠然と自分を追い越して行ったものだから、最初はそれが何だかわからなかった。大きな灰色の毛皮が離宮を目指して歩いている、そんなふうに見えたのである。
何なのかわかった時には血の気が引いていた。
こうした事態を予想していないではなかったが、これほど静かに、しかも突然に出くわすとは思ってもみなかった。
パキラ山に多く棲息することで有名な狼。
しかもとびきり大きな、それこそシェラの体くらいもあるようなやつが一頭、のんびりした足取りで開け放ったままのテラスへ向かっているのである。
どうしてこんな日の高いうちに、人のいるところまで出て来たのかと訝《いぶか》しんだが、ここで鉛玉を使うわけにはいかない。王女に倒してもらおうと思って慎重に声を発した。
「姫さま……」
あえぐような声に長椅子の上で王女が身を起こしたが、その時には狼は王女の目の前だった。
今にもがぶりとやられると思ったが、狼は悠然と居間へあがり、王女の手に軽く鼻を押しつけると、その足下に寝そべったのである。
あっけにとられていると王女が笑い出した。
「ゴルディ。おれの侍女がびっくりしてるぞ」
狼が頭だけもたげてシェラを見る。が、見知らぬ人間に興味はないらしい。また寝そべった。
シェラのほうは目を疑いながらも、おそるおそる近づいて行った。
王女の足下で、長椅子と同じくらい長々と伸びている狼が信じられなかった。
襲いかかってくる気配はない。だが、すぐ側まで言って足下に見下ろした時、金色の眼が一度開いてこちらを見た。
その目線にぞくりとして、少し離れる。
「それでいい」
と、王女が言った。
「頭の上から見下ろされたんじゃ、ゴルディだって不愉快に思うだろうよ」
そういう自分は長椅子の上、狼の真上である。
訝しげな顔をしているのがわかったのだろう。笑って言った。
「おれは彼らに害は加えない。彼らもそれを知ってるからな」
「どうやってそこまで馴らしたんです?」
「馴らしたわけじゃない。これはおれの友達だ。ゴルディだけじゃない。この離宮へやって来るものはどんなものでもそうだ」
「他にはどんなものが来ます?」
「狼が十頭くらいと、時々馬と人間と国王も来る」
「国王さまも、お友達ですか?」
「ああ。おれの知ってる人間の中では一番いい奴だぞ」
シェラは少し首をかしげた。
まるで元気のいい少年が友人のことを語るような口調に聞こえたのである。
しかし、ちまたの噂では、この二人の養子縁組は表向きで、国王は王女を未来の王妃に考えているのではないかと囁かれている。
もっとも奥の女たちの間では、いくら王様が物好きでもあんな王女を王妃にするわけがないという意見が圧倒的多数を占めている。
シェラの本来の任務はこうした城内の人間関係を正確に把握することである。三の郭にいるヌアクに探り出せることには限りがあるからだ。
そのために侍女として奥棟へ入りこんだのだが、こうして王女の傍につくことができたのは不幸中の幸いだったかもしれない。
まずはこの王女が国王に対してどんな感情を抱いているのか確かめるつもりで水を向けてみた。
「姫さまには、国王さまを敬おうというお気持ちはないのでございますか?」
緑の瞳がくるりと動いた。
「どういう意味だ?」
「国王に向かって『いい奴』というのは……、あの、どうかと思います」
「ほんとにいい奴なんだから仕方ないだろうが」
「はあ……」
「それに、おれを呼ぶ時はリィでいい」
「お名前を、呼び捨てに?」
「ああ」
「そんなことを人に聞きとがめられましたら、私はお城から追い出されてしまいます」
「ここなら誰も聞いてない。それこそお前に敬ってもらう覚えはないからな」
シェラはため息をついた。弱みを握られている分だけ、こっちが不利である。
「わかりました。人のいない時でしたらそうお呼びいたします」今頃ヌアクは急な病か用事を設けて仕事を休み、城を出てまっすぐ仲間のもとへと向かっているはずである。
遅くとも明日には新しい指示が届く。それによってこの先どんな行動をとるかが決まる。
王女は戻ってきてから昼食まで何をするでもなく、狼と一緒に長椅子に転がっていた。それからシェラのつくった料理を残さず綺麗にたいらげた。
もし仮に、王女の持ち出した勝負に本当に乗っていたら今日中に自分の勝ちは決まっていただろうと、シェラは思った。
午後になって本宮から小者が駆けつけて来た。
応対に出たシェラに対して、その小者は忙《せわ》しげに言ったものだ。
「お馬さまがいらっしゃいましたので、急ぎ起こしくださいますよう、姫さまにお伝えください」
「お馬さま?」
思わず問い返した。
何のことかと思いながら王女に告げると、これも意外そうな顔で起き上がった。
「珍しいな。この間会ったばかりなのに、どうしたんだか」
「お友達でいらっしゃいますか?」
「ああ。シェラは馬に乗れるか」
「はい」
「じゃあ、一緒に遠乗りに出よう。……と、その前にその格好を何とかしたほうがいいかな」
裾の長い女の服のままでは馬には乗りにくいだろうと王女は言い、乗馬服を用意させようとも言ったのだが、シェラはそれを辞退した。
「私はこのままで充分です」
「裾がからんで馬から転がり落ちたりしないか?」
「大丈夫です。何度も乗っていますから」
王女は驚いたようにシェラを見たものだ。
「どうりでずいぶん堂に入った女装ぶりだと思った。初めてじゃないんだな?」
しまったと思ったが、仕方がない。
「まあ……そうです」
これ以上のことを聞かれたら予定通りのでたらめな筋書きを話して納得させようと思ったが、王女の興味は他のところにあるようだった。
「よくまあ体がおかしくならないな」
「は……?」
「そんな窮屈で足に絡んで腕もろくに上がらないようなものをよくまあ好き好んで着こむ気になるもんだと思ってさ。おれなら頼まれても断るとこだぞ」
他人事ながら、この城の人々にそっと同情する。
とても一国の王女の言葉ではない。
確かにこんなものを王妃にとはとんでもない。公式の場にも出せない。この西離宮に押しこめておくのが分相応である。
王女は正門で待っているようにとシェラに言い、自分は小者と一緒に厩舎に向かった。
言われた通り女官服のまま正門へ行ったシェラは、そこで今日二度目の信じられないものを見た。
日中のことだから正門は開け放ってある。
大手門までをまっすぐに見下ろせる『大通り』が眼の前に開けている。
その広々とした道を馬が一頭、歩いてくるのだ。
見たこともないほど巨大な、すばらしく立派な漆黒の駿馬である。騎手はいない。鞍も手綱もつけていない。まるっきりの裸馬が我がものとばかりに大通りを闊歩してくるのである。
誘導するものは誰もいないというのに、堂々と頭を上げて正門に向かってくる。
白昼の大通りである。行きかう人々が足を止めて唖然と見送っていた。シェラは正門内にいて、王女を待っていたのだが、そのすぐ横でも地方貴族らしい男たちが目を丸くしている。
「実に見事な馬だが、陛下への献上物かな?」
「それにしては鞍も飾りもつけていない。第一、綱持ちがいないとは妙な……」
「はぐれ馬かな?」
これを聞きとがめたらしい城の役人が笑いながら説明した。
「ご存知ありませんかな。あれは王女の愛馬ですよ。またロアからやって来たのでしょう」
「ロアから?」
「ではドラ将軍が運んで来たのですかな」
「いえ、いえ。馬が自分で、王女に会いたくなるとやって来るのです。最初は門番も驚いて取り押さえようとしたそうですが、これがたいへんに気性のきつい馬で、とても止められるものではありませんでな。今では黙って通してやるのですよ」
男たちはおもしろそうな顔になった。
「ほほう……」
「なるほど。暴れ馬が暴れ馬に乗るわけか」
二人の男は王女を見たことがあるらしい。しかし、間違ってもいい印象は持っていないようだった。
どちらもうす笑いを浮かべている。
「暴れ馬とはうまいことをいう。まったくあの王女と来たら、女と生まれたのは何かの間違いとしか思えないからな」
「まあまあ、そうはっきり言うものではない。なんと言っても陛下のお気に入りだ」
「しかし、困ったことだぞ。あんな王女をいったいどこの国の王妃にできるというのだ。陛下もまったく人の好いにも程のある……」
この時、悠々と正門をくぐった馬が男たちの真横で足を止め、じっと二人を見下ろしたものだ。
圧倒的な巨体が無言の威力を持って二人に迫る。
男たちもさすがに怯んで足を引いたが、それでも黒馬を見上げて悪態をついた。
「何だ。こいつは?」
「畜生の分際で何か文句があるのか」
前足立ちになり、のしかかられでもしたらひとたまりもないのだが、馬はそうはしなかった。軽く鼻を鳴らして首を返した。
見れば厩舎のほうから、王女が馬を引いてやってくるところだった。
男たちもその姿を認めてさすがに口をつぐんだ。どんな成り行きからにせよ、相手は自国の王女なのである。多少の体裁は繕わなければならない。
王女の連れて来た馬はなんと王家のものである。
吟味を重ねた駿馬であるのはもちろんのこと、獅子の紋章を刻んだ鞍や飾りを置いている。王族の旅行や遠乗りに使われる馬なのだ。
これを貸そうと言われてシェラは震えあがった。女官姿でこんな馬に乗れるわけがないと尻ごみしたが、王女は譲らなかった。
このくらいの馬でなければ、とてもグライアと一緒には走れないと言うのである。
「ですけど、王家の馬には王族の方でなければ乗れない決まりのはずです。私はただの侍女なのですから、せめてあの……こんなに立派ではない馬にしてください」
王女は真顔で言った。
「お前、ここをどこだと思ってる?」
「デルフィニア王宮、一の郭です」
「そのどこに立派でない馬がいるって言うんだ?」
実にもっともな話である。
頭を抱えこんだシェラにはお構いなしで、王女は手綱を手渡した。
「第一、侍女のお前を近衛隊やティレドン騎士団の馬に乗せたりしたらそのほうが問題になる」
「でも……」
それなら三の郭まで下りて一般兵の馬でも借りてくれと言おうとしたのだが、王女はすでに手綱も掛けていない黒馬に楽々と飛び乗っている。
置き去りにされてはかなわない。諦めておそるおそる鞍にまたがった。
王女は即座に駆け出しはしなかった。これまでの経過を目を丸くして窺っていた二人、先ほど王女の悪口を言っていた二人のほうに馬を寄せた。
訝しく思いながらもお供の務めとして、シェラも手綱を操作して後に続いたのだが、王女は馬上から明るく声をかけたのである。
「おい。何かの間違いで女になったっていうのは、おれもまったく同意見だぞ」
男たちの顔色は紙より白くなった。
鞍の上でシェラも驚いた。
まさか聞こえたはずはない。
その話をしている時、王女の姿はまだ本宮の陰に隠れていた。聞き取れるはずがないのだ。
男たちの膝はがくがく震え出している。その場に倒れこみそうなありさまだった。
王女は楽しげに笑いながら大通りへと馬首を向け、シェラも慌ててそれに続いたのである。
腰を抜かしてへたりこんだ二人の横ではさっきの役人と一部始終を見届けた門番が苦笑を噛み殺していた。
二人が遠乗りに出かけた後、ロアからは別の客人が王宮に到着した。
ドラ将軍とシャーミアンである。
二の郭の屋敷でしばらく休息した後、将軍は国王に面会を求めた。
誰知らぬものとてない英雄の突然の登城に役人たちも慌てて取り次こうとしたが、将軍は笑って急ぐ用事ではないのだと言った。
「久々に拝顔させていただこうと思ったまでのことだ。他のお役目が済むまでどこかで待たせてもらえればいい」
今日の国王はいつにも増して様々な書類や来客の相手をする予定だったが、将軍が来ていることを聞くと即座に予定を変更した。
ドラ将軍は王国の重鎮だが、それだけではない。
地方貴族の息子という少年時代を過ごした国王を将軍は息子同様にかわいがったものである。
ドラ将軍が臣下の誓いを立ててからは立場が逆転したが、今でも重臣というより親しい身内のような存在だった。
将軍は堅苦しい謁見の間ではなく奥の庭に通され、国王は気軽に面会に応じたものだ。
「ドラ将軍。よく来てくれた。エブリーゴのことではひとかたならぬ世話になったL
ドラ将軍が挨拶をするより先に国王のほうから切り出したのは、よほどこの問題で頭を痛めていた証拠と言っていい。
将軍は立派な口髭をひねり、苦笑と決まりの悪さを隠しているかのようだった。
「申し上げるべきかどうか迷ったのですがな」
「何を言うか。助かったぞ。何しろ従弟《いとこ》どのもナシアスもまるで貝のようだったからな。しかも、どうやっても口をこじ開けることができない筋金入りの貝だ」
二人は楽しげに笑ったが、やがて笑いを納めて、国王は真顔になった。
「さて。用向きを聞こうか」
「これは……。お見通しで?」
「この時期に俺の顔を見るためだけに将軍がわざわざロアから出てくるわけがない。あまり快い話ではなさそうだな」
「いかにも。前のお話以上に由《ゆゆ》々しきことです。しかも今度は与太話ではすみません」
将軍も怖いような表情になって、声を低めた。
「わしとマグダネルどのの領地が隣り合わせていることはよくご承知と思いますが、先日マグダネルどのの家来が一人、わしのもとへ保護を求めて参りました。ささいな事で主人のきつい咎めを受けたのを恨み、逃げ出してきたのです」
「ままあることだな」
「はい。ただその家来の恨みはよほど根深いらしく、主人の秘密を次から次へとわしに語りました。そのひとつがこれです」
そういってドラ将軍は一通の手紙を国王に手渡した。
アエラ姫からマグダネル卿に当てたものである。
国王は慎重にその手紙を開き、読み終えるまで表情一つ変えなかった。
「なるほど」
手紙を元通りしまいながら納得したように頷く。
「なるほど。そういうことか」
「おちついていらっしゃる場合ではありません」
将軍はそれまでの穏やかな態度とは打って変わって厳しい顔だった。
「早速にアエラさまとマグダネルどのに事の次第を問いただされるベきです。前国王に血のつながる高貴な方々とはいえ、今は陛下に仕える身であることは間違いありません。これは明らかに臣下としての立場を逸脱しております」
「まあ、待て。将軍」
国王は妙にのんびりと言った。
アエラ姫は手紙の中でそのおっとりしたところを愚鈍と言い放ち、こんな状況でも怒りをあらわにみせないところを唐変木《とうへんぼく》と決めつけているのだが、そんな言葉の一つ一つに傷つくようでは、あの混乱の時代に国王などやってはいられなかった。
今もむしろ笑みさえ浮かべて言ったものだ。
「俺の悪口が綿々と連ねてはあるが、見方を変えればそれだけの手紙だ。軽率ではあろうが罪を問うわけにもいかん」
「何をおっしゃいます。この部分はどうなります。
『真に王国の名にふさわしい、あるべき国の姿を実現させるために惜しみない努力をされますことこそ名誉あるサヴォア公爵家の義務と思し召しますように』……これは見ようによっては反逆をそそのかしているとさえ取れる文面ですそ」
「しかし、見ようによっては臣下としての忠節に励むようにという心温まる手紙とも言える」
「陛下!」
苛立って声を荒らげた将軍に対し、国王はそっと笑って唇に指を当ててみせた。
「声が大きいそ、将軍。そう興奮せずにせっかくの庭でも眺めたらどうだ」
「……!!」
さらに言い返そうとして将軍は諦めたように肩の力を抜いた。この人がこんなふうな態度をとる時は何を言っても無駄である。のらりくらりとかわされてしまう。
「しかしですな。わしのところへ庇護を求めて来た者が言うには、両者の間には明らかに重大な密約があり、マグダネル卿は一族の長以上のものを望んでいるふしまであるというのですそ」
「つまり、王冠をか?」
ずばりと切りこんだ国王である。
「それはありがたいな。マグダネル卿がそれだけの務めを立派に果たしてくれるというなら譲ってもかまわんぞ、俺は」
将軍はしみじみと額を抑えてため息を吐いた。
冗談で言っているのはわかるのだが、口調が冗談に聞こえないのだ。
「陛下。そのようなことを人前では決してお口になさらぬように、せつにお願いいたします。そもそも言ってよろしいことと悪いことがございます」
「まあな。本気に取られても困るからな」
と、国王はどこ吹く風である。手にした手紙をかざしておもしろそうに笑ったものだ。
「そう心配することもあるまい。何を企んでいるかは知らんが、こんなものを安易に盗まれるようではたかが知れている。俺ならこんなものは受け取ったその場で焼き捨てるぞ」
「まあ……、迂闊《うかつ》と言えばその通りです」
謀《はかりごと》は密なるをもってよしとす、との言葉もある。こう簡単に明るみに出るような計画が成功するわけがない。
その意見には将軍も賛成だったが、やはり穏やかではいられなかった。
「いっそのことバルロどのに挙兵をお許しになったほうがよろしいのではありませんか」
「ドラ将軍。馬鹿なことを言ってはいかん」
一笑に付した国王である。
「いいか、仮にマグダネル卿が王権を望んでいるとしよう。そのためにはまずこの俺をどうにかせねばならん。エブリーゴの兵力はせいぜい三千、マグダネル卿に賛同する者があるとしてもその倍にもならん。サヴォア家の有力者たちはほとんど従弟どのを恐れ、支持しているからな。それっぽっちの兵力で俺にどう立ち向かうというのだ」
現在の国王が動かせる戦力は近衛兵団を別として二万はくだらない。その中にはむろんドラ将軍も含まれる。他に内乱前から国王を支持していた多くの地方貴族、ティレドン、ラモナ両騎士団、さらには非公式ながらタウ山脈の恐るべき戦闘集団が含まれている。
国王に対する反感の声がこの三年でほとんど消えたのも、こうした者たちが本心から国王に仕えていることが明らかになって来たからだ。
今やウォル・グリークは名実ともにデルフィニアの支配者なのである。
これに歯向かうとなれば一大事だ。
勝算は極めて低く、破れれば自動的に国賊の汚名が着せられる。それだけの覚悟をもって国王に立ち向かうことは領土や家を大事にする貴族にはとてもできない相談だった。
将軍も納得して髭の口元に笑いを浮かべたのである。
「失礼しました。わしも歳には勝てませんかな」
「何を言われることか。将軍にはまだまだお元気でいてもらわねば困る。そう……」
手紙を弄《もてあそ》びながら国王は低く笑った。
「俺に不満を持つ者はこのお二人だけではあるまい。つくづく王などというのは因果な商売だ」
将軍はこの意見を故意に無視した。
商売で片づけられてはたまったものではない。
「実はそのお二人のことでもう一つ気になることがあるのですが……」
将軍が言いかけた時、小者がやって来てためらいがちに用件を告げた。
「陛下。お話し中失礼いたします。独立騎兵隊長がお越しでございますが……」
「すぐ通せ」
即座に言った国王だった。
国王の幼なじみのイヴンは今ではそう呼ばれていた。いざともなれば三千とも五千とも言われる戦力を組織して国王の指揮下に入る。
ただし、独立騎兵隊は平常時には組織されない。
構成員のほとんどはタウの山岳民であり、山での生活があるのだ。
それはイヴンも同じで、普段は勝手気ままな山の暮らしを楽しんでいる。それでも幼なじみが気になるらしく、まめに王宮を訪ねてくるのだ。
現れたイヴンはいつもと同じ黒一色の装束で、いつもと同じように国王に声をかけたものだ。
「いよう、国王陛下! お元気でしたか」
国王も笑って旧友を出迎えた。
「この頃とんとごぶさただったではないか。王女がさみしがっていたぞ」
「そりゃあ嬉しいことで。さっそく西離宮へお邪魔しますよ。や、ドラ将軍もお久しぶりです」
その将軍は腕を組み、苦虫を噛み潰したような顔でイヴンを見ていた。
いくら国王の幼なじみとはいえ、この態度は実に問題だと言わんばかりだった。
「いいかげんに口のきき方を覚えたらどうなのだ。人に聞かれたら陛下の名誉に関わるぞ」
「これはしかり。人前でその陛下をお前呼ばわりする王女様よりは百倍もましだと思うんですがね」
「一緒にするでない。だからいまだにあの方は表に出せんのだ。お前までその真似をしてどうする?」
責めるように言われてイヴンは碧い眼を見張ったものである。
「わかりました。そんなに俺の物言いが気に入らないとおっしゃるんなら態度を改めましょう。まずは陛下へのご挨拶からいきます」
イヴンはそれはそれは優雅な仕草で一礼してみせた。
「偉大なる国王陛下におかれましては長の無沙汰にも拘《かかわ》らず、わたくしごときに突然の拝謁をお許しくださり、恐悦至極に存じます。そのお情け深いお心は別して身に沁み入らんばかりでございますが、陛下には変わらぬご健勝のご様子と申し上げますより、お姿を拝したてまつるたびごとにひしひしと感じ入り参らす威厳、覇者たるものの風格、これには臣下として深い喜びを覚えずにはいられません。まこと我が国の国王陛下こそは大陸の獅子と言うにふさわしい唯一無二の御方でございましょう。このようなすばらしい主君にお仕えできますことはまさに無上の幸福というものでございます」
ドラ将軍が音を上げるより先に国王が耳を押さえ、ほとんど身震いしながら叫んだ。
「イヴン、わかつた、わかったから勘弁してくれ!それ以上聞かされるくらいなら王冠など投げ捨てたほうがはるかにましだ!」
「早速ではございますが先触れもつかわしませず、ぶしつけにもこのように唐突に御前にまかり出でました件につきまして……だめだ、これ以上続けるとなると歯が残らず浮き上がつて口から逃げ出しちまう」
こちらも同様に身震いして、不安そうに自分の顎を抑えながら言う。
ドラ将軍だけはげっそりと肩を落としていた。
「陛下、遊んでおられる場合ではありませんぞ。イヴン、お前もだ。まったくお前といい姫さまといい、この国にはまともな臣下はおらんのか」
「それは将軍にお任せしますよ。俺はそもそも非合法の立場です。だからこそ耳に入つてくることもある」
「ほう?」今まで震え上がっていた国王の眼がきらりと光った。
「今度は何を聞きつけた?」
ちょっと言いにくそうな顔になったイヴンである。
「あのやかまし屋の貴族の坊ちゃんの親戚が何人か、陛下に対して悪だくみをしているらしいんで」
将軍と国王は思わず眼と眼を見交わしたものだ。
「まあ、最初にその話を聞いた時はどうせたいしたことはできまいと思ってたんですが、その連中、さかんに魔法街に出入りしているっていうんでね。俺はもちろん呪いなんてものは信じませんが、いちおう知らせておこうと思いましてね」
きまり悪げに頭を掻いているのは、こんなことでのこのこやって来たことを笑われると思ったのかもしれない。
だが、少なくともドラ将軍は笑わなかった。低く唸った。
「驚いた早耳だ。わしはつい先日それを聞いたばかりだぞ」
国王が訝しげな顔になる。
「ドラ将軍?」
「陛下。わしがさっき申し上げようとしたのもそのことなのです。謹慎処分を受けたマグダネルどのは腹心を一人、旅に出しました。わしの手の者が後をつけたところ、魔法街へ入ったというのです。しかもそのあたりで聞きこみをしてみますと、その者はかなり以前から頻繁にやって来るということです」
将軍の目線にイヴンが頷きを返した。
「こっちも同様です。俺のほうはあの坊ちゃんのおふくろさんですがね。その侍女がまるで実家に通うみたいに繁々と、魔法街と屋敷とを行ったり来たりしているというんです」
魔法街というのはコーラルの町並みを構成する一角だ。占い師や巫術師《ふじゆつし》、そして自称『魔法使い』が多く住んでいることからその名がある。
たいていのものは商売でやっているから堂々と看板を掲げている。国内のあらゆる場所はもちろん、時には国外からも、病気に冒されたものが平癒を願いに訪れ、もっと一般的なところでは若い娘たちが恋の行方を聞きに訪れたりもする。
しかし、魔法街にはもっと怪しい、恐ろしい術を使うものたちもいるという。
巫術や魔術の力を使って未来を読み、人を殺すことさえできるというのだ。
「あくまで噂ではないか」
と、国王は笑い飛ばした。
「マグダネル卿やアエラ叔母が魔法街に人をやったとしても、それだけで罪を問うことはできん。案外、近親者の平癒祈願にでも行ったのかもしれん。俺の暗殺でも頼みに行ったというなら話は別だが、まさかそこまで愚かなご両人でもあるまい」
この話はここでお開きになった。
業《ごう》を煮やした侍従たちがやって来て国王を取り囲み、まだまだぎっしり詰まっている予定を消化させるため、本宮へ拉致《らち》して行ったのである。
その後ろ姿を見送ったイヴンが肩をすくめながら言う。
「れっきとしたお貴族さんが恋占いでもあるまいに。他のどんな用事で魔法街を訪ねるっていうんでしょうかね。あの馬鹿は」
将軍も腕を組み、難しい顔で言った。
「陛下は天衣無縫の方だ。ご自分のお命を狙われているとしても、疑惑だけで相手を処分することなどできないとお考えなのだ」
「昔からそういう奴でしたが、狙う側にしてみればこんなにありがたい相手はいませんぜ」
「同感だ。王たるもの疑わしきは罰せずではすまん。証拠固めをして厳しく罰せねばならん」
「とりあえず魔法街をあたってみましょうか」
「お前がか?」
「将軍が動いたんでは目立ちすぎます。ちょうどいい。姫さまを誘って行ってみますよ」
「姫さまならば今はお留守だろう。わしより先に黒主が王宮に入ったはずだからな」
「またですか?」
呆れたように碧い眼を見張ったイヴンである。
「あの馬は姫さまのことを雌馬とでも勘違いしているんじゃありませんかね? よくまあこの距離を通いますな」
「まったくな」将軍も真顔で頷いた。
「この間会ったばかりだというのに、熱心なことだ。またそれで少しも足が鈍らんときているからな」
「一国の王様でも目の色を変えて欲しがりますな」
相槌を打ってイヴンはふと首をかしげた。
「この間会ったばかりですって?」
「そうだ。つい三、四日前のことだ。王女がロアまで来たのはな」
「へえ?」
今度は何となくおもしろそうな顔になる。
「どうした?」
「いえ、ただ、妙な話だと思いまして」
「何が妙だ?」
イヴンは鼻の頭を掻きながら言った。
「ほんの数日前に会ったんなら、いくらあの馬でも、姫さまに会うためだけにこの距離を駆けて来たりはせんのじゃないですかね?」
意味深な言い方だが、イヴンの言わんとするところは将軍もすぐに察したようだった。
深く沈思する。
「将軍はこれからどうなさいます? すぐにロアへ帰られるんで」
「いや、しばらく王宮に滞在する。そのつもりでシャーミアンも連れて来たのだしな」
「へえっ?」
眼を輝かせたとたん、じろりと将軍に睨まれて、イヴンは首をすくめた。
「いや、ではその、後ほどご挨拶に伺います」
「来んでもいいぞ」
これ以上はないくらいの素っ気ない口調である。
「将軍……。別に俺はシャーミアンどのに噛みついたりしませんよ」
「なに、あれもそろそろ年頃だ。花婿を選ばねばならんことには違いない。が……」
髭の将軍はそれだけで幾多の敵を退けたという、強烈な一瞥《いちべつ》をイヴンにくれたのである。
「間違っても山賊崩れの男なぞを選ぶことはないからな。噛みつくなら首を飛ばされる覚悟をしてからすることだ」
イヴンは直立不動の姿勢になり、冷や汗を流しながら丁重に一礼した。
「肝に銘じておきます」
並の馬ではないと思ったが黒馬の足は驚くばかりだった。シェラも馬術にはいくらか自信がある。懸命に後を追ったのだが、ついていくのがやっとというありさまだった。
「これだけの名馬を、どうして王宮の厩舎に置かれないんですか?」
当然の疑問として尋ねてみたが、
「おれと同じで、堅苦しいところは好きじゃないんだとさ」
あっさり言ったものだ。
「堅苦しいのがおいやならどうして王女として王宮にいらっしゃるんです?」
これも当然の疑問である。
三年ほど前に王女に迎えられるまで、この少女がどんな生活を送ってきたのか、誰も知らない。
それがこの突然の幸運である。てっきり王女のほうで国王にねだったのだろうと思っていたのだが、憤然と言い返したものだ。
「誰が好きで王女さまなんかやるもんか。まんまとはめられたんだ」
「どなたにです?」
「ウォルの奴にだ」
この王女には口のきき方からしつけなければならないと、あらためて認識する。
「おれはいやだと言ったんだ。それをあの野郎、何も面倒なことはないからとか形式だけでいいんだからとか、あんまりしつこいから折れてやったんだぞ。なのにどこが面倒じゃないんだか。こんなものを押しつけられたおれのほうこそいい迷惑だ」
シェラは目を白黒させていた。
これまた本気で言っているように聞こえるのだが、そんな馬鹿なことがあるはずはない。
こんな場合、喜びを押し隠して謹んでお受けしますと言うのが普通だ。この王女があまり普通でないことはわかるが、それでも女には違いない。
「あの、姫さまはどうして……」
「リィだ」
即座に訂正される。
「ではリィはどうしてそんな、少年のような格好をしていらっしゃるんです? おきれいですのに」
褒めたつもりだったのだが、相手は露骨にげんなりした顔になった。
「何が悲しくて男のお前に綺麗と言われなきゃならないんだか……」
「はあ?」
「何でもない。おれも聞きたいな。どうしてお前は女の格好をしてるんだ?」
何でと言われてもそれが仕事である。が、まさかそう言うわけにもいかない。
「私には似合いますでしょう?」
「まあな。ちょっと見にはまず男とはわからないだろうな」
シェラは用心しながらも心に引っかかっていた大きな疑問を訊いてみることにした。
「あなたは気がついた。何故です?」
王女はいたずらっぽく笑ってみせた。
「驚いた?」
「はい」
十六になっても自分の体は少しも線が太くならず、声もしっとりとやわらかい。でなければこの役目を振り当てられることもなかったはずだ。
外見ばかりではない。言葉づかいや表情、細かい仕草から立ち居ふるまいに至るまで本物の女以上に女で通せる自信があった。
「誰にも見破られることなどあり得ないと思っていました。何故わかったんです?」
「さあ、なんでかな」
今の王女はのんびりと草《ら》原に寝そベっている。
シェラもそれにつき合って、こちらはしとやかに腰を下ろしていた。
ちょうどいい機会と思って冷静に観察してみても、特に普通の少女と変わるところはない。今は身動きするたびに草が音を立てている。
柄にもなくほっとしたが、油断はできない。
自分を男だと見破ったこと、昨夜、気配もなく自分を待ち受けていたこと、そして先ほどの一件、三度も続けば偶然で片づけるわけにはいかない。
だが、眼の前で無防備に寝転がっている王女を見ると、やはり何かの間違いだったのではないかとも疑いたくなる。
王女はまったくと言っていいほど自分を警戒していない。今なら仕掛ければ簡単に殺せるだろうが、行動には移さなかった。
臆したわけではない。許可を得ずに独断で技を揮うことは最大の禁止事項なのだ。
西日が草原を真っ赤に染めるころになって、王女はようやく王宮に引き返した。
大手門からは速度を落とし、ゆっくりと正門を目指した。途中、顔なじみらしい兵士や子どもたちが何人も馬上の王女に親しげに声をかけ、王女も笑顔で答えていた。
貴族階級には受けの悪い王女も市民にはなかなか人気があるようである。
一の郭まで戻ると、王家の馬を一手に世話しているという初老の厩番が飛び出して来た。
目当ては王女がグライアと呼んでいる黒馬だったらしい。人間にはほとんど目もくれず、馬の状態を熱心に確かめている。
王女がしばらく面倒をみてくれるように言うと、厩番は目を輝かせて頷いた。
「お任せください。近頃ではようやく自分には世話をさせてくれるようになりましたんで」
「他の人はまだ蹴られる?」
「へい、もう。気に入らない人間が下手に近づこうものなら有無を言わさず蹴り飛ばされます」
王女に言わせるとこの厩番は『馬に人生を捧げている』のだそうで、こと馬に関するかぎり誰の口出しも許さないという。
それでも王女とは親しく言葉を交わしているのは、グライアの唯一の乗り手ということで尊敬しているらしい。
シェラもまた冷や汗をかきながら馬を返し、人のいないところまで来て王女に問いかけた。
「姫さま。晩のお食事はどうなさいますか」
「本宮で食ベる」
「では他にご用がなければ、戻って夕刻の仕事についても構いませんでしょうか」
「構わないが、その後はどうする?」
「何かご用がおありでしたら参りますが……」
「そうじゃない。本宮で寝るのか」
「はい。また明朝参ります」
王女は不思議そうな顔になった。
「いちいち通ってくるのも面倒だろうに。西離宮へ引っ越してきたほうが都合がいいんじゃないのか」
シェラは王女にわからぬようにひんやりと笑ったものだ。
やはり意味がわかっていない。
自分が本気になって暗殺に取りかかったら、しかも昼も夜も側にいるとなったら簡単に勝負がついてしまうということを、この王女は全然理解していない。
「そう簡単にあの離宮で暮らすと言ったのでは却って不自然でしょう。とりあえずは日中お傍にいることでよしとします」
そんなふうに弁解しながら、内心では小さな焦燥を感じていた。
その正体は今後の行動が定められていないことによる不安と苛立ちである。
今のところ王女はこちらの芝居に合わせてくれている。ここがそもそも噴飯《ふんぱん》ものである。本当ならこちらの手の中で踊らせなければならない相手だというのに、その協力を仰がなければならないとは実に何とも情けない限りではないか。
加えて、正体を見破られている相手の前で演技を続けることがこれほど負担のかかるものとは思わなかった。裸で宙に浮いているような気さえする。
しかし、王女は今日一日で自分に対する警戒を完全に解いた。これは大きな収穫と言える。今の状況には経験したことがない苦しさがあるが、それも一つの試練、修業の一環である。焦ってはだめだ。今はあたり前の侍女としてきちんと仕事をこなすことを第一に考えるベきだった。
待ち望んでいた仲間からの接触があったのはその夜、深夜に近い時刻だった。
こんなこともあろうかと、シェラは明かりの中に『眠り香』を落とし、同室の女たちを深く眠らせておいたのである。
そして、シェラの鋭敏な感覚はそっと窓を叩く音を聞き逃しはしなかった。
音もなく起き上がり、窓を開け、外に蹲《うずくま》っていた人影を素早く中に招き入れた。
三十がらみの痩せた男だった。見たことのない顔だがシェラは名前を聞こうとはしなかった。必要がないからである。
男のほうも余計なことは言わない。ぐっすり眠っている女たちをよそに低く囁いた。
「昨日までの不手際については不問にするそうだ」
男の言葉はシェラにとっては意外なものだった。厳罰に処されても文句は言えないはずである。
「次の指示を伝える。王女との賭けに乗れ。万一、条件を満たせなかった場合は自力で脱出を試みるように。自害は許さん。以上だ」
失敗は不問に処すと言うが、よほど自分は信用をなくしたらしい。
でなければ『条件を満たせぬ場合』などと、わざわざつけ加えるわけがない。
その反面、大いに安心した。
「殺していいのだな?」
「すでに残り十九日。その間に何としても王女を殺すようにとの命令だ」
「わかった」
やれ、よかった。
どうやら自分で自分の不始末を拭うことができそうだった。
男はさらに、コーラル市内に新たに設けた連絡の場所を告げていった。非常の際にはここを訪ねるようにとのことだったが、シェラがその場所を訪ねる場合があるとすればただ一つ。
無事、仕事をなし遂げたことを報告するためと決まっていた。
翌朝、シェラは逸《はや》る気持ちを抑えながら西離宮へ向かったものである。
頭の中ではもちろん油断は禁物とわかっているのだが、ようやく殺せるかと思うと実に楽しかった。
王女を殺すことが嬉しいのではなく、やっと本格的に働けることが嬉しかったのである。
残り十九日というが、そんなにいらない。一度、けちのついた仕事でもある。手早く綺麗に片づけるつもりだった。
離宮へ行ってみると王女はまだ寝床に潜りこんでいた。シェラが来たことに気づかないはずはないだろうに頭の上まで寝具を被ってぴくりとも動かない。
枕元に宝石のついた銀の輪が転がっていた。
絶好の機会である。袖に隠した武器で一突きにしてくれようかと思ったが、寝たふりをしている可能性もある。控えめに朝の挨拶をした。
「おはようございます、姫さま。あの、外はもう明るくなっておりますが、まだお休みなんですか?」
声をかけると寝具から頭だけ出して、額飾りを引き寄せたが、いかにもだるそうな仕草である。唸るように言ったものだ。
「昨日、あれから大宴会になってさ。いやもうどのくらい呑んだんだか……」
「二日酔いですか?」
「わからない。とにかく胸がむかむかする」
「たいへん。すぐに何か消化のいいものをおつくりします」
王女が大宴会のあげく呑みすぎでつぶれるとは、やはりここは型破りの城である。他の国の王女がそんなことをしでかしたらちょっとした醜聞沙汰だ。
気の毒にと思いながら、野菜と卵の温かいスープをつくる。
荒れた胃には優しく染みるはずだ。同時に永遠に二日酔いを起こさなくてもすむように、調味料でも使うような気軽さで毒薬をたっぷり入れてやった。
無味無臭の上、少しも苦しまないで死ねる毒だ。
我ながら親切なことである。
いそいそと寝室に料理を運んだ。幸い、この離宮には滅多に人はやって来ない。王女が息を引き取るのを見届けたらすぐにこの場を離れればいい。夜まで時間稼ぎができれば充分である。
その頃には自分はもうこの国にはいない。
「どうぞ」
にこやかに笑って枕元の円卓に盆を置いた。
ところがだ。
気怠《けだる》げに頭を上げた王女は盆の上のスープ皿を一目見るなり言ったのである。
「つくりなおして」
「……は?」
問い返した時にはまた寝具の中に潜りこんでいる。
「早くして。おなか空いてるんだ」
シェラはしばらく呆然と王女の枕元に立ちつくしていたが、気を取り直して台所へ戻った。
おそらく献立が気に入らなかったのだろう。
今度はパンを薄く切り、味つけした和《あ》え物を載せたものをつくった。もちろんちゃんと毒も混ぜた。
ところがこれも王女は見るなり、
「だから、つくりなおして」
と言うのである。
シェラは顔だけはあくまでにこやかに、胸から飛び出しそうに激しく脈打つ心臓を努めて気にすまいとしながら、丁重に尋ねたものだ。
「この料理は……お嫌いですか」
「いいや。おれは甘いもの以外なら何でも食ベる」
あいかわらず寝具に潜ったまま、面倒くさそうに言う。
「では何か、あの……、お気にめさないことがありますのでしょうか」
「そりゃあ気に入らないさ。食ベられないもの持ってこられても困るんだ」
これ以上は訊けなかった。
我ながらまったくだらしないと後で思ったのだが、足が震えて立っているのがやっとだったのである。
まさかそんなはずはない。
無味無臭の毒なのだ。むろん完全にではないが、少なくとも料理に混ぜてしまえばわかるはずがない。
台所に戻ったはいいものの、どうしたらいいかわからずに立ちつくしていた。こんな恐怖は今まで一度も味わったことがなかった。
恐ろしく長い時間悩んだあげく、シェラは最初の料理と同じものをつくった。ただし今度は毒は混ぜなかった。王女がどんな反応を示すか確かめようと思ったのである。
はたして……。
王女はものすごい勢いで皿を空にした上、
「おかわり! もう五皿分!」
威勢よく言い放ったのである。
「お二人とも二日酔いなんですか?」
茶器を片手にして、シャーミアンは呆れたように言った。
その目の前ではイヴンとリィとがげっそりと頭を抱えこんでいる。
少し遅い午後のお茶である。三人はテラスの円卓を囲んで腰を下ろし、王女の足下には定位置とばかりにあの灰色狼が陣取っていた。
三人の給仕をするのは無論シェラの役目である。
黙々とお茶の支度をし、二人が来ることを聞いてから急いで焼いたできたての菓子を並ベた。あまり明るい顔色ではないが、幸いイヴンもシャーミアンもそれには気づかないようだった。
「でも珍しいですわね。イヴンどのはともかく、姫さまが二日酔いだなんて……」
「シャーミアンどの。俺は二日酔いなんかじゃありません。ちょっとばかり頭が痛くて胸がむかつくだけです」
「立派な二日酔いじゃないか」
王女が恨めしげに言う。
「おれの二日酔いはイヴンのせいだぞ。最後に出してきたあのくそいまいましい甘ったるい飲みもののせいだ……。ちくしょう。吐かなかったのが不思議なくらいだ」
「そりゃあひどい。最高級の糖蜜酒ですぜ?」
王女はそれはそれはげんなりした顔になった。
「あんな甘いもののどこが酒なんだ?」
「糖蜜酒なら私も好きですわ。呑みやすくて」
「そうですとも。ご婦人にはとても喜ばれる酒なんですがねえ」
「おれはご婦人じゃないからちっとも喜ベない」
そんななごやか(?)な会話を小耳にはさみながら、シェラはまだ動揺から立ち直れないでいた。
あの後、何をどうしたのかほとんど覚えがない。我に返った時は台所の椅子に座りこみ、銅鍋を磨いていたのである。
毒入りの料理をそのままにしてあったのを思い出して慌てて立ち上がったが、料理はもちろん食器も調理器具も洗って元の場所に戻されている。
どうやら無意識のうちに体を動かして後片づけをしたらしい。身に染みついた習慣とは恐ろしいものである。
時間はすでに昼をまわっていた。
ひとまず安堵の息を吐き、再び座りこんで銅鍋に取りかかった。手を動かしながら懸命に頭を冷やし、今の自分が置かれている微妙な状況を考えてみた。
命令が出た以上、あの王女にはどうしても死んでもらわなければならないのである。
この離宮に日中は二人きりという条件のよさから毒物が一番確実だと思ったのだが、どういうわけかあの王女には効かないらしい。
というより見破ることができるらしい。
自分のつくるものなら素直に口に入れると思っていただけに、この計算違いは大きかった。
しかし、口にしないということは言い換えれば呑ませることさえできれば効くわけだ。呑ませるのが無理なら刃物の先に塗って傷をつければいい。
ごく当然のこの結論に達するころには鍋という鍋がぴかぴかになっていた。ずいぶん長くかかったものである。
つまりはそれだけ受けた衝撃が大きかったということなのだが、いつまでも惚《ほう》けてはいられない。今、王女は二日酔いの頭を抱えて若い男女と話をしている。
連れだってやって来たこの二人を見た時、どういう身上の人たちでどういう関係なのかとシェラは訝しく思ったものだ。
どちらもただの男女ではなかったのである。
二十歳そこそこの女はドレスではなく、騎士の衣服に身を包んでいる。活動的なものだが、仕立ても生地も上等なものだった。
男装には違いないが王女のような極端なものではない。単に動きやすいから着ているらしい。栗色の髪に榛色《はしばみいろ》の瞳が美しい。品のいい、こぼれるような笑顔だった。間違いなく貴族階級の女性である。
逆に男が身につけているものは丈夫を一番に考えた実用一点張りの衣服だった。上着も下履きも靴まで黒一色である。
小麦色に灼けた肌に比ベて髪と瞳の色素が薄い。特に短く刈りこんだ淡い金髪が目を引いた。バルロが『麦わら頭』と呼ぶゆえんだが、シェラはそんなことは知らない。飾らない性格らしく屈託のない笑顔をみせるが、碧い眼には時折、何か鋭いものが混ざる。中身も間違いなく実戦型だ。女の護衛兵か何かかと思ったが、主人に対するような態度ではない。
王女は二人をわざわざシェラに紹介してくれた。
男は国王の友人で昔タウの山賊、現在は独立騎兵隊長、女のほうは名門ドラ伯爵家の一人娘にして女騎士というのだから、これまた変わった組み合わせである。
「このお菓子はあなたがつくったの?」
お茶うけの焼き菓子を口にして、女騎士のシャーミアンがシェラに話しかけた。
「はい。お口に合いますでしょうか」
「とてもおいしいわ。少しもらって帰りたいくらい。うちの屋敷の料理番はこうしたお菓子があまり得意ではないのよ」
王女がすかさず言った。
「それならおれの分をあげる」
シェラはぎくりとした。この焼き菓子には何も細工はしていない。人前で王女が倒れたりしたら大騒ぎになるからだ。
それでも一瞬、どきりとしたのである。
シャーミアンはそんなシェラの心中には気づかなかった。からかうように言った。
「姫さま。あいかわらず甘いものはだめなんですのね」
「だめも何も身震いがする」
「お気の毒ですわ。とてもおいしいんですのに。一口だけでも召し上がってみてはいかがですか?」
「そうですとも」
と、イヴンが同調した。
「せっかくつくってくれたこの娘にも気の毒です。味見くらいはしてあげるべきだと思いますよ」
じろりと王女がイヴンを睨む。
「食ベられないの知っててよく言うな」
「おやおや、好き嫌いはよくありませんな」
咎めるように言ったイヴンに対し、王女は憮然と言い返したものだ。
「甘いものを食べられなくて好き嫌いを咎められる覚えはないぞ。砂糖菓子をつまみにエール酒を呑むような変態のくせに人のことが言えた義理か」
菓子を取りあげようとしていた手を止めて、なんとも珍妙な顔になったシャーミアンである。
「何だか……お話だけでも胸が悪くなりますわね」
「そうだろう。昨日もそんな馬鹿なことをしたから二日酔いなんだ」
「どんなものかと思って試しただけでしょうが。言われなくても二度としませんよ」
「普通は一回だってやらないぞ。悪酔いすることくらいわかりきってる」
「それを言うなら陛下はどうなります? 何にも腹に入れないで立て続けに麦芽酒七本だ。ざるですぜ、ざる」
「言えてる。飲み比ベは結局ウォルの勝ちだしな」
シャーミアンがまたまた榛色の眼を見開いた。
「飲み比ベだったんですか? 陛下まで混ざって」
「はい。勝ったとはいえ、今ごろは陛下も頭を抱えてますでしょうよ」
「イヴンが最後の最後で糖蜜酒なんかもちださなければ、おれの勝ちだった」
「いばれることですか」
黙々と働きながら、できるものなら耳をふさぎたいと思ったシェラだった。
これが仮にも一国の王女のサロンかと思うと、なまじ他の例を知っているだけに実に嘆かわしい。
シェラの知っている王室女性の茶会というものは、限りなく高度な社交の場でもあった。
王妃や王女の茶会に招待されることは相手の信頼を示すものであり、王室女性に信頼されることは自動的に宮廷での地位を約束されることである。男女を問わず、なんとかしてその中に食いこもうと、貴族の取り巻きたちはありとあらゆる努力をして機嫌を取り結び、気に入られる努力をしていたものだ。
それがここではまるっきり井戸端会議である。
イヴンの口調は丁寧語であるが取ってつけたようなものだし、シャーミアンは比べるといくぶん丁重だが、少し目上の親しい友人に話しかけているような調子だった。
「姫さま。黒主はどうしていますの? ここにいると思いましたのに」
王女は苦笑して足下の狼に目をやった。
「下の厩舎にいる。連れてくるとゴルディと睨めっこになるんだよ」
「睨めっこですか? こいつと」
狼を見下ろしたイヴンは、からかうような口調で言ったものだ。
「まさかお前、食おうってんじゃないだろうな。いくらパキラの狼でも、たった一頭じゃ、あんなでかぶつには歯が立たんぜ」
「あら。一頭どころか、黒主は五、六頭の群れでも蹴散らします。何度か見ましたもの」
イヴンは肩をすくめ、敬意を示す意味で『ばけもん』と呟いた。
逆にシャーミアンは感心したような眼を狼に向けている。
「たった一頭で黒主に迫力負けしないなんて……。すごいわ。普通の狼なら逃げ出すところなのに」
「どういう馬ですか?」
またイヴンがぼやく。
王女も笑って言葉を添えた。
「馬と狼じゃ相性がいいわけないけど、放っとくと延々睨み合ってる」
シャーミアンがくすりと笑って口元を抑えた。
「もしかすると、姫さまの寵愛を争っているのかもしれませんわね」
「そうかな?」
「ええ。両者睨み合って一歩も譲らずだなんて、なんだか……、陛下の御前にいらっしゃる時のバルロさまとイヴンどのを思い出します」
王女は盛大に吹き出し、イヴンは不機嫌そうに言い返した。
「シャーミアンどの。一緒にせんでください。俺は馬でも狼でもありませんぜ」
「そうだ。一緒にしたらグライアとゴルディに気の毒だ。静かに睨み合ってるだけでぎゃんぎゃん吠えたりしないからな」
「誰が吠えてるんです?」
女性二人(?)はどっと笑いころげた。
シャーミアンがふと笑いを収めて言う。
「姫さま。そのバルロさまが一の郭のお屋敷で謹慎を命じられているそうですが……」
お茶のお代わりを注こうとしていたシェラは耳をそばだてた。もう城内の情報については無視してもいいのだが、そこは身についた習性というものである。
サヴォア公爵ノラ・バルロは国王の腹心と言ってもいい。その謹慎処分をこの王女とその側近がどう考えているのか、そこに興味もあった。
王女が何か言うより先にイヴンが無情に言い放ったものである。
「いい薬です。どんなへまをしでかしたんだか知りませんが、これでちょっとはおとなしくなるでしょうよ」
「イヴン。バルロは何もへまはやっちゃいない。叔父さんの巻き添えを食らっただけだ」
「そうですわ」
シャーミアンも真剣な口調で抗議した。
「あの方はいつも陛下の忠実な臣下ですもの。ご不興を買ったとは思っておりません。ただ、あのご気性でお屋敷に閉じこめられているのはお気の毒なことだと思ったまでです。何でしたら今からでもお見舞いにお伺いしたほうが……」
「それはやめたほうがいい」
王女が言った。いやに深刻な口調だった。
イヴンも同様に頷いたものだ。
「俺も同感です。あのきざったらしい貴族の坊ちゃん……失礼、騎士団長のことを思うのでしたら、シャーミアンどのはお見舞いになんぞ行かないほうがいい」
腰を浮かしかけていたシャーミアンは二人の様子に表情を固くして、元通り腰を下ろした。
「どうして、なのでしょうか?」
十六歳の王女と二十六歳の独立騎兵隊長は実に奇妙な顔つきで互いの眼と眼を見交わしたものだ。
イヴンが短い金髪の頭をつるりと撫でて言う。
「だってねえ。シャーミアンどの。騎士団長はもう何日も家に閉じこめられてるんですよ? それこそ檻の中の虎状態だ」
今度は王女が鼻のわきを掻きながら言う。
「間違いなく気が立ってる。そこヘシャーミアンが、つまり、のこのこ出かけていったりしたら……」
「実にたいへんです」
「まず簡単には出してもらえないぞ。もしかしたら泊まるようなことになるかもしれない」
「普段なら自分の首が大事でしょうから鬼より怖いドラ将軍を思い出して自制するでしょうが……」
「怒鳴りこまれるまできれいに忘れてるだろうな」
シャーミアンの頬にほんのりと血が上る。もっともこれはいくらかは怒りのためだった。
「姫さま! イヴンどの!」
二人は笑いながら首をすくめた。
「怒るなってば。ほんとのことだぞ。おれにまで少しは着飾って人の目を楽しませてくれなんて馬鹿なことを言ったんだから」
「それなら私も常々思っていることです!」
身を乗り出して憤然と言ったシャーミアンである。
背もたれに体を預けながら嘆いた。
「真面目に聞いた私がそれこそ馬鹿でしたわ。お二人とも私をからかって……」
「いや、少なくとも半分は本当のことですって。騎士団長にしたって謹慎を食らったぶざまな姿なんぞ、シャーミアンどのには見られたくないでしょうよ」
「あいつ、あれでけっこう意地っ張りで体面やなんか気にするからな。それに飛び出していきたいのをじっと我慢してるのも確かだ」
はっとなったシャーミアンである。
王女はなだめるようにそんなシャーミアンに話しかけた。
「バルロが心配なら放っておいたほうがいい。下手に慰めようとしたところで逆効果になるだけだ」
こうしたところは四つも年下の王女のほうがうんと大人びて見えるのだが、イヴンは不満そうに鼻を鳴らしている。
「なんだ。姫さまは結局あの坊ちゃんの肩を持つんですかい?」
王女はちゃめっけたっぷりにそんな友人を見た。
「いっそイヴンがお見舞いに行ってやればいい。喜ぶぞ」
「冗談じゃない。それこそ下手をすれば刃傷沙汰《にんじようざた》でしょうが」
実に素っ気ない口調だが、王女はおもしろそうに笑っている。
「ほんとに、どっちも素直じゃない」
「何のことです?」
「なんでもない」
西離宮の午後はそんなふうにして暮れた。
シャーミアンは明日にはきちんと髪を結ってドレスを着て、同じ二の郭の貴族の女性たちに挨拶に行くという。
「本当はそのついでにバルロさまのお見舞いにもと思ったのですけれど、やめておきますわ。お二人のお話ではお屋敷から出してもらえなくなりそうですから」
笑いながら言って、シャーミアンは一足先に席を立った。
残された王女と独立騎兵隊長は今のが皮肉なのかどうか、しばらく真剣に話し合ったものである。
シェラが驚いたのはシャーミアンがいなくなったとたん、男の口調ががらりと変わったことだ。
しかも王女の名前を呼び捨てにする。
「なあ、リィ。考えてみればおかしな話じゃないか。何も不始末をしてないのに謹慎とはさ」
「確かにな。早く何とかしないとバルロのことだ。そのうち本当にしびれを切らして飛び出すそ」
「それにしても何だってシャーミアンどのはあんな女たらしを気にするのかねえ?」
イヴンはあくまで不満そうである。
王女はにやりと笑って、まるで同じ年頃の青年のような口調で言ったものだ。
「そういうイヴンはシャーミアンに気があるんじゃないのか?」
「あったとしてもあの父親がついてるかぎり、手は出せねえよ。ちょっかい出すなら首が飛ぶ覚悟でやれとさ」
「ドラ将軍ならほんとにやるだろうな」
「そうとも。でなきゃあの坊ちゃんだってとっくにシャーミアンどのをくどいてるだろうよ」
「それはどうかな。好みじゃないのかもしれない」
「馬鹿言え。いちいち好むような節操があの女たらしにあるもんか。標準以上の美形なら手当たり次第に口説いてるじゃねえか」
「イヴンだって人のことは言えないだろうに」
黒衣の男はここで傲然と胸を張った。
「俺はちゃんと選んでるぞ。その証拠にお前だけはどんなに困ってもお断りだ」
王女は腹を抱えて笑ったものである。
シェラはさすがに愕然としてこの会話を聞いていたが、それに気づいたのかイヴンがちょっと笑ってみせた。
「お嬢さん。あんたもこの離宮でこの王女さんに仕えようってんなら、このくらいのことで驚いてちゃいけない。序の口だぜ?」
実に的を射た助言である。
それでなくとも先日から驚かされ続けているのだ。
シェラは丁重に礼を述ベ、慣れるように努めると言い添えた。もはやこの城では何が起きても不思議ではないようにさえ思えた。
茶器を下げ、台所に下がってからは二人がどんな会話を交わしていたのかは知らない。聞き取る必要もない事だった。台所でせっせと夕食の支度をしていたのである。
暗くなりかかってようやくイヴンは立ち上がり、「お茶をごちそうさま」
と、シェラに声をかけて本宮へ戻って行った。
これでまたシェラと王女の二人きりになった。
好機到来だが、今朝、手痛い失敗をしたばかりである。次の機会は慎重に練らなければならない。
賭けの期限まであと十八日ある。その最終日では向こうも警戒しているだろうから、とりあえずもう二、三日、隙ができるのを待つつもりだった。
夕食には腕によりをかけてとびきりのごちそうをつくった。毒殺するためでなくても手のこんだ料理をつくるのは楽しかった。
下ごしらえした鳥を丸ごと焼いたものと、すりおろしたジャガイモを混ぜたパンケーキはたっぷり五人前くらいの量はあったはずだが、王女は舌を鳴らしながら一人で綺麗にたいらげた。
その豪快な食べっぷりも料理の腕前に対するお世辞ぬきの賛辞も快いものだったが、どうしてこれでおとなしく毒を呑んで死んでくれないのかと不満に思ったこともまた事実である。
その日の夜半すぎ、松明《たいまつ》を片手にした騎士が一人、馬蹄の響きも荒々しく大手門外に駆けつけた。
ただ事ではない。詰所にいた門番は武器を構えて厳しく誰何《すいか》したのである。
「何者だ?」
「独立騎兵隊のものだ! 至急我々の隊長と国王陛下にお目通り願う!」
この知らせはたちまち本宮に伝えられた。
コーラル城はこんな緊急の注進に対して万全の対応ができるようになっている。
内乱前までは、夜になってから、しかも正規の兵隊でもないいわば『足軽』の注進をまともに取り合うことなどまずなかった。
どんな緊急の用件だろうと朝になるまで待った上、しかるベき身分のものがしかるべき服装で順番に面会を申請しなければ、城の機能に関わる重要人物に会うことはできなかったのである。
ウォル・グリークは二度目の王座についた時から、このまだるいやり方を一変させた。
大手門の門番にはいつ何時であれ自分に会いたいと言うものがあれば取り次ぐように命ずるとともに、廓門、正門の門番を通さずに本宮まで駆けつける権限を与えた。さらにその取次先には自分の深く信頼しているものたちを置き『ただならぬ事態』と思われることに関してはじきじきに国王に告げることを許したのである。
つまり以前は大手門から本宮の責任者まで十いくつもの段階を経なければならなかったものが、多くても三段階に減ったのだ。この差は大きい。
国王はまだ起きて書類の決裁に追われていた。イヴンはすでに床に就いていたが、連絡を受けるなり跳ね起きた。
大手門に駆けつけたツールのプランは数十分と経たないうちに国王とイヴンの前に通されたのである。急いでいたには違いないが、こんなに早く本宮の奥深く、しかも国王の居室まで通されたことで、ブランは別の意味で緊張していた。
額の汗を拭いながら言う。
「こんな時間に申し訳ないことで。ベノアの頭目がすぐに隊長と陛下に知らせうとおっしゃるもんで」
「ジルどのがそう言うからにはそれなりのわけがあるはずだ。何事だ?」
「へい。隊長がタウをたってからすぐのことなんですが、あっしらに立ち退き命令が出たんです」
イヴンは眉を吊り上げた。
「お前たちと言うのはツールの村のことか。それともまさか……」
「全域です。タウ山脈の自由民すべてに立ち退くように言ってきたんです」
「誰が?」
国王とイヴンの合唱になった。
プランは心底困惑したように両手を広げて言った。
「タンガの役人です」
「タンガだと!!」
これまた合唱である。
プランは呆れるの半分、あざけり半分の顔つきで言ったものだ。
「いまさら何を言うことかと思いましたですよ。そりゃあタウはご承知のように三国の国境にまたがってます。タンガにはみ出していると言えば言えますが、あっしらの中にはそのタンガから逃げ出して山に住み着いた連中も大勢いるんです。向こうだってタウに逃げこんだ以上は追手を掛けるだけ無駄だってことがわかってるはずなんですがね」
「プラン。それでお前たちの仲間に何か被害が出たのか?」
気づかわしげに言った国王にプランは不敵に笑ってみせた。
「陛下。タウの山の中でタウの自由民に被害を負わせるのはそりゃあたいへんです。役人には丁重にお引き取りを願いました。わりかし素直に引きあげて行きましたよ」
どのくらい『丁重』でどのくらい『素直』だったのかはこの際無視すベきである。
「そうしましたら、今度はその連中、こんなものを立ち木に打ちつけて行きました」
プランが差し出してよこした紙切れに二人は食いいるように見入った。
この界隈はタンガの領土であり、無許可で住み着いている住人は即刻退去するように、もしくは当局に居住の許可を求めるように、というものである。
その届け先として記されているのは間違いなく、タンガ南部の大領主の署名である。それ以上に目を引いたのは高い塔に蛇の巻きついた印だった。
タンガ国王ゾラタスの紋章である。
ウォルはその紋章を睨むように見つめ、イヴンは疑わしげに言った。
「タンガのやつら、本気であんなへんぴなところを領土に加えるつもりなのか?」
「いいや。お前の言う通り利用価値はほとんどないところだ。目当ては他にあるはずだ」
プランが頷いた。
「ベノアの頭目もそうおっしゃってました。連中は俺たちに武器を取って立たせたいのだろうと」
イヴンも納得したように頷いた。
「山の中で戦ったのでは勝ち目はないとみて平地へ引きずり降ろす作戦かもしれないな」
「ところがそうしましたら、今、お話ししましたのはツール近くのタンガ国境沿いのことなんですが、今度はパラストが同じことを言ってきたんです」
国王は眼を見張ったまま絶句してしまった。
イヴンもとっさに言葉が出ない。
「そいつは……、両国が示し合わせたことなのか。それとも別々に思いついてのことなのか?」
「わからねえです。知らせを持ってきた西の連中もこっちの一件を聞いて驚いてたくらいで。口上にはほとんど差はねえです。ここはパラスト領なのだから近々住民の登記を行うと。そして、ですぜ。その結果によってお前たちの納税額を決めると言ったそうなんですよ。呆れたことに俺たちに、タウの自由民にですぜ? 税を支払えって言うんでさあ」
イヴンが軽い緊張を含んだ声で尋ねた。
「西の連中、その役人どもをどうした?」
下手に扱えぱパラストがタウに攻撃を仕掛ける格好の口実を与えてしまう。
「ご心配なく。フレッカが運よくそこにいたそうで。やっぱり丁重にもてなしてお引き取りを願ったそうですよ。だってねえ、副頭目」
と、ブランは以前のイヴンの肩書きを呼び、肩をすくめて言ったものだ。
「ばかばかしくってまともに聞いちゃいられませんでしょう? 自国の領土だと言い張るのは勝手ですがね。領土にしていったい何をどうしようって言うんでしょうかね。開墾しようと考えているとしたら馬鹿も馬鹿、大馬鹿ですぜ? 俺たちがやっとと生きて行くためだけの畑をつくるのにどれだけ苦労したか、奴《やつこ》さんたちは知りますまい。あそこは普通の人間に暮らせるようなところじゃねえんです」
誇らしげな口調だった。
彼らは皆、何らかの理由で自国にいられなくなったものたちだ。タウの他には行くところもなかった。
彼らにはその土地に順応してきた自信がある。
今ではタウこそが故郷だと胸を張って言いきれる人たちでもあるのだ。
「若い連中なぞはもうすっかり頭に来てまして、相手が大国だろうとかまやしないと、返り討ちにしてくれるとたいへんな鼻息なんですが、頭目たちはさすがに慎重でして手出しを厳しく禁止してます」
そうしてプランは声を低めて言ったものだ。
「特にベノアの頭目がおっしゃったんですが、これは一見何の関係もないことのようだがもしかすると、両国の狙いはこちらの陛下ではないかと……」
「そんなところだろうな」
国王はため息をついて言った。
「両国がタウに小競り合いを仕掛け、戦になったら諸君たちは俺に助けを求める。俺が出て行けば自国の領土問題に干渉するとは何事と文句をつけて矛先をこちらに向ける。出て行かなければ俺は諸君たちの恨みを買って報復される。まあ、そんな筋書きだろうよ」
プランはにやりと笑って言ったものだ。
「ジル頭目も陛下と同じことをおっしゃいました」
「それで、ジルどのの意見は?」
「もし陛下が両国との間で何か揉《も》め事を抱えている最中なら、ことを収めるためにその内容を教えてもらいたい。そうではなく両国がまったく突然にこんな思い立ちをしたのなら、国内に何か陛下のお力を弱めるような要因が潜んでいる恐れがあり、それを両国がかぎつけた危険もあるので充分ご注意されたい。以上です」
国王は思わず微笑を浮かベた。
仮にも一国の王に向かって外交の内容を教えろと言うのだから、ベノアのジルもたいした男である。国内事情に関する推察も実に鋭い。
だからこそ広大なタウ山脈すベての頂点に立っているのだろう。
「この三年、両国との関係は至極良好といえる。王座を奪回する際に諸君たちの力を借りたことについては多少の質問を受けたが、俺はありのままを答え、両国は大人しく引き下がった。それだけだ」
「へえ? だとするといったいどういうことになるんでしょうかね」
『国王の力を弱める要因』という言い回しはプランにはあまりピンと来ないようである。首をひねっている。
イヴンにはジルの言いたいことは明白だった。
またその内容についてもいやと言うほど心当たりがある。
険しい顔で幼なじみの国王を見た。
国王もまたイヴンの視線にかすかに頷いてみせた。
「プラン。遠いところをご苦労だったな。しばらく休んで行くといい。そしてな、ジルどのにこう伝えてくれ」
国王はにこりと笑って言ったものだ。
「タウはデルフィニアの領土でもある。その土地の住民が王の助けを必要としているなら俺は王の義務に従い、いつでも手を差し伸ベる。しかし、それ以上にタウの自治を尊重するとな」
「へい。確かにお伝えいたしますです」
まるでなぞなぞのような言葉に聞こえたろうが、プランは素直に頷いて下がっていった。
二人になると、国王は低く笑って言ったものだ。
「お前の頭目はなかなかしゃれた言い回しをする。叔母のこともマグダネル卿のこともジルどのは知らんだろうに。国王の力を弱める何らかの要因……。ふむ。おもしろくなってきた」
「おもしろがってる場合かよ?幸い元凶がどこかはわかりきってるんだ。さっさとあの坊ちゃんの親戚を絞めあげたらどうだ」
「まあ、そう焦るな」
「今焦らなくていつ焦る。急がなきゃお前は呪いをかけられて一巻の終わりだぞ」
「イヴン。俺はそこが気になるのだ」
「何が?」
「お前ならどうする? 誰かどうしても消えてもらいたい邪魔者がいるとしてだ。呪うだけで満足できるか? 俺ならできんな」
国王は悠然と言ったものだ。
「俺ならそんな消極的な手段ではとても安心できん。効くかどうかもわからないものを当てにして相手が死ぬのを毎日首を長くして願うような真似は性分にも合わんが、相手が手強ければ手強いほど固い刃で確実にしとめるベきだ。少なくとも心臓を貫く必要があるし、首を叩き落とせば言うことはないな」
イヴンはため息をついた。
「お前を人畜無害の単純馬鹿と信じこんでる連中に今の台詞を聞かせてやりてえよ」
文句を言いながらも眼は笑っている。
「単純馬鹿はひどいな」
国王も笑いながら文句を言ったが、すぐに笑いを収めて真顔に戻る。
「なればこそいったい何を狙っているのか、そこがわからん。国内の不穏分子が残らず結託でもしない限り、いいや、だとしても武力で俺を倒すことはまず不可能だ」
「だろうな。そのくらいは俺にもわかる」
「その連中は両大国の介入を当てにしているのかもしれんが……」
言いさして押し黙った国王である。
タンガ国王ゾラタス。パラスト国王オーロン。どちらも強力な王であり、デルフィニアの領土を虎視眈々と狙っている君主たちだ。しかし、ゾラタスもオーロンも確率の低い賭けに乗るほど馬鹿ではない。
両国が今まで戦を仕掛けてこないのは、ひとえにウォル・グリークを警戒しているからだ。
庶子だろうが母親の身分が低かろうが、そんなことはどうでもいい。隣国の王が問題とするのはその人望と指導力、なにより王としてどのくらいの力を有するかだ。この点ウォル・グリークはドラ将軍が言ったように申し分なく、家臣たちのほとんどは国王に心からの忠誠を誓っている。
国力の充実している相手に面と向かって戦を仕掛けるなど愚の骨頂というものだ。それこそ『国王の力が弱まった』ことを不穏分子は両大国にアピールする必要があるはずなのだ。
「俺はな、イヴン」
「うん?」
「国内のどこかで反乱が起き、これを鎮圧しに行かなければならなくなる場合を心配していた。戦場でならば、しかも混戦の現場でならば、俺の首ひとつ叩き落としてしまえば事は済む」
「その混乱状態をつくるのはそうたやすいことじゃないはずだぞ。内乱が途絶えて三年だぜ?」
「うむ。そのことだ。支度をするだけでもいやでも目立つはずだ」
何千という兵隊を集め、武器もそろえなければならない。攻撃を受けることを考慮して城の増強も図らねばならない。それらをこっそり行うことなど、現実的に不可能だ。
「やっぱり、張本人に直接聞くのが一番早いんじゃないのか?」
「何を理由に? 今のところマグダネル卿は何の罪も犯しておらん。しかも現在は蟄居中《ちっきよちゆう》の身だ。そう簡単に外部と接触できるわけがない」
「首謀者は他にいるってのか?」
さすがにイヴンも驚いた。
不穏分子の多さにではない。そこまで深く考える友人に驚いたのだ。
国王が言う。
「とにかく。ひとつだけ確かなことはだ、国内には間違いなく俺に対する陰謀が存在する。両大国の動きがそれを裏づけているわけだが……、いかんな。こうなると誰も彼も疑わしく見える」
「お前、仮にも王様だろうが。怪しいって理由だけじゃだめなのかよ? 疑わしい連中がいるなら手当たり次第に調ベりゃいいじゃないか」
「あげく何も出てこなかったとなれば、俺の評判はそれこそ一気に下落するぞ。両大国はもちろん、あの叔母も手を打って喜ぶ。みすみす謀反の口実を与えるようなものだ」
イヴンはまた、ため息をついた。
冗談めいたところはどこにもない深い嘆息だった。
「お前、本当に厄介な仕事についたもんだな」
「その点は俺も同感だ。気楽なスーシャ時代が懐かしいわ」
珍しく皮肉に笑って国王は立ち上がった。
「今の話をリィの耳にも入れておかねばなるまい。来るか?」
「行きましょう。三人寄ればなんとやらだ」
夜の夜中ではあったが、二人は従者の一人も連れず、自分の手で明かりを持って西離宮へ向かった。
こうした時、王女のいる西離宮は連絡を取るのに便利である。ドラ将軍の屋敷へ行くには正門を通らなければならないし、一の郭のバルロの屋敷には公爵家として当然の衛兵が立っている。国王が夜半の相談になど出向こうものなら大騒ぎだ。夜が明けるころには王宮中に広まってしまう。
王女は起きていて二人を出迎えた。というより彼らの足音を聞きつけて目を覚ましたらしい。
「こんな時間にお出ましとは、ますます厄介事が増えたらしいな」
「実にまったくそのとおりでな。夜分にすまん」
居間に腰を下ろし、国王は前置きはいっさい抜きにして用件に入った。
普通なら国の動向に国王の娘の意志が関与することなど、まずあり得ない。王女とは父国王の庇護のもと、世間のことは何も知らずにあるものだが、現在のデルフィニアではその常識は通用しない。
両大国のタウへの介入にはさすがに王女も驚いた。
タンガとパラストがてぐすねひいてこちらの領土を狙っていることは王女もよく承知している。
それが今まで未然に防がれてきたのは国王としてのウォル・グリークの力が充実しており、侵略を許すような隙を見せなかったからである。
「これほどあからさまなことをしてくるからには、国内の不安要素は相当に大きなものでなければならん。それこそ国が揺らぐような。たとえばまた反乱が起こるというようなものだ。そして反乱を起こすとなればマグダネル卿一人では不可能だ。どこかに協力者がいなければならん。両大国は別にしてだ。しかし、現在のところ、はっきりした謀反を起こしそうなものは一人もいないと来ている」
イヴンがロを挟んだ。
「油断は禁物だぜ? お前、今まであの坊ちゃんの叔父さんのことも信用できる家来のうちに数えてたんだろうが」
「それを言われると辛いが、俺に好感を持っていないというのと、王権打倒を決意するというのでは相当に違いがあるぞ。俺に好意を持っていないものなら何人も心当たりがある。アエラ叔母などはその筆頭だが、その中で謀反を計画するだけの力と性根と頭脳のあるものとなると該当者は一人もいない」
「なるほど。確かにその違いは大きいわ」
感心するイヴンの横では王女が首をひねっている。
「王の力を弱めるような要因? 王の力を弱める?いったいなんでそんなことになるんだ?」
王が興味を覚えた様子で問いかけた。
「何か心当たりがあるのか?」
蝋燭《ろうそく》一本を灯しただけで彼らは話し合っていたが、その不充分な明かりの中でも王女が困ったような顔になるのが二人にはわかった。
「ある。というか……、少なくとも叔母さんが何をしようとしてるかは知ってる」
「なに?」
二人が息を呑んで身を乗り出したのも当然である。
逆に王女は腰を引いた。
「ただその……それでどうして、それをしたからって何で国王の力を弱める事になるのか、そこがさっぱりわからない」
「もったいをつけるな!知っているならさっさと教えてくれ!」
「そう言われても……困ったな。言いにくいな」
「リィ"」
日頃おっとりしているだけにたまに国王がこんな形相をつくると、その迫力たるやたいへんなものがある。まして状況が状況だ。常人離れしている王女でもこれに対抗するのは容易な事ではない。
諦めたように肩をすくめた。
「おれを殺そうとしてる」
国王もイヴンも目を剥いた姿のまま、しばらく凍りついたように動かなかった。
事実、硬直していたのである。
王女は困ったように頭を掻いている。
固まってしまった二人のうち最初に反応したのはイヴンのほうだった。
「おま……お前な。そんな事あっさり言うな!」真っ赤になって怒鳴ったが、
「本当なんだから仕方がない」
王女は平然と答え、困惑した様子で手を広げた。
「わからないのは、それでいったい何になるのかってことだ。おれを殺してウォルの王権が弱まる?国体が揺らぐ? ありそうにないだろう。そんな馬鹿なこと」
「ちょっと待て……」
国王もようやく息を吹き返して冷や汗を拭いながら言ったものだ。
「最初から全部、包み隠さず話してもらおう。叔母がと言ったが、一人で思い立った事ではあるまいし、決めつけるわけにもいかんので……仮に反対勢力と呼ぼう。その連中はお前を殺すつもりだというが、なぜそれをお前が知っている?」
王女はちょっと考えこんだ。どこから話せばいいかと迷っている顔だった。
「初めは違ったのかもしれない。城内を探りまわってたからな。正体を見破られたときも口封じのつもりだったと思う。それが、今朝からだ。はっきり殺気が出てきた」
「今朝からだと?」
「ああ。二度も毒入り料理を食わせられそうになったからな」
「リィ! 頼むからわかるように話してくれ」悲鳴を上げたイヴンを国王が制した。恐ろしく怖い顔になっていた。
「誰が、お前に毒入り料理を食わせようとした?」
この問いを保留して王女はイヴンに向き直った。
「昼間、シャーミアンと一緒に遊びに来た時、ここに侍女がいただろう?」
「ああ。銀髪の綺麗な子だろ? それが?」
「男なんだ」
イヴンはあんぐりと口を開けたまま再度絶句し、国王はますます怖い顔になった。
「少し前まで本宮にいた、あれか?」
「今でも本宮にいる。ちょっと調べてみたら本宮に勤める役人の『姪』って触れこみで奉公に来てる。もちろん本当の伯父と姪のわけがない」
「するとその役人も……」
「昨日から暇を取って城を出てる。行方不明だ」
国王は思いきり膝を打ち、ものすごい顔で王女を睨んだものだ。
「いったいなぜ今まで言わなかった?」
「確証がなかったんだ。男なのも夜中に城内を歩き回ってるのも知ってたけど、それだけじゃ怪しいとは言えないだろ?」
「馬鹿者! これ以上はないくらい怪しいわ"」
ここが本宮ならたちまち家来が駆けつけてきそうな大喝だった。
さすがに王女にも返す言葉がない。
国王はしばらく唸っていたが、やがて大きく呼吸して息を静めた。今は興奮して怒鳴り散らしているような場合ではない。
「しかし……それが叔母この手のものだとどうしてわかる?」
「叔母さんのじゃない」
王女は断言して微笑した。
「あんな顔でもあれは玄人だ。それもかなりの腕だ。相手がおれでなかったら成功してただろうよ。あんなものを、言っちゃあなんだが、あまり利口でない叔母さんが使いこなせるとは思えない。ただ、大本にいるのは叔母さんかマグダネル卿のどっちかだろうな」
「なぜ、そう思う?」
王女はかなりためらったが、声を落として言った。
「バルロが、忠告してくれた。アエラ姫の屋敷から戻ったすぐ後だ」
国王のロから痛烈な舌打ちが漏れる。
「いいか、リィ。そういうことはだ……」
「悪い」
「一言で片づけるな! いいか。俺には言えんという従弟《いとこ》どのの心情はわかる。それならお前が告げてくれなくては困るのだ。まして国家の浮沈に関わるような一大事だぞ」
王女が真剣な顔で身を乗り出した。
「だから、ウォル。そこがわからないんだ。おれはてつきり叔母さんはおれが王女さまなんかになってるのがおもしろくなくて、それで殺してしまおうと決心したんだと、そう思った。怨恨でも腹いせでも何でもいいけど、とにかく叔母さんの個人的な感情が原因でだ。バルロだってそう思ったはずだぞ。だから遠回しに忠告するだけですませたんだ」
国王もそれは同感だった。
「アエラ叔母が何を企んでも、お前ならあっさり殺されたりはしない。従弟どのはそう判断したのだろうな」
「そういうこと。おれもそのつもりであの侍女を相手にしてきた。狙いがお前ならそりゃあ大問題だ。すぐに取っつかまえてたさ。でもおれは王権には何の関係もない、ただの部外者だしな。わざわざ話す必要もないだろう? おれと、あの侍女の問題だ」
刺客と取り交わした賭けの一件を話すと、今度は実に疑わしげな顔になった国王である。
「お前がその侍女を捕らえなかったのは、いい遊び相手になりそうだからか?」
「まあ、そんなとこだ」
国王はさらに呆れ返った表情を浮かベ、太いため息を吐いたものだ。
「あの侍女も退屈しのぎに使われたと知ったらさぞ傷つくだろうよ。気の毒に」
「そう言うけどな。けっこう危ないぞ、あれ。毒入り料理を持ってきた時も最高にかわいらしく、にっこり笑ってたからな」
「爪の垢でも煎《せん》じて呑め」
にべもなく断言した国王である。
イヴンがここでようやく息を吹き返した。今の今まで彫像になっていたのである。
「あれで男? ほんとかよ。お前に比べりゃ百倍も女らしいじゃねえか!」
「おれもそう思う」
王女は大真面目に頷いた。
「おかしいと思ったら昨日今日始めた女装じゃないらしい。よくまあ続くもんだ。おれなら頼まれたってお断りだってのにな」
「それこそ爪の垢でも煎じて呑めよ! ちくしょう、もったいねえ。くどこうと思ってたのに!」
「ああいうのが好みなのかあ?」
と、王女は頓狂な声を発し、いたずらっぽくつけ加えた。
「いいこと聞いた。シャーミアンに言いつけようかな?」
「ばかやろう。男とおっかない親父さんがいる場合を除けば、美形を見かけたら口説くのは男のたしなみってもんだ」
「親父さんが怖くて男のたしなみとはよく言うな。よし。それじゃあバルロに言いつけよう」
「リィ! てめえ、どっちの味方だ!」
真剣に言い争っている二人の友人の間に、国王は痛む頭を押さえながら割って入った。
「じゃれている場合か……。まったく。それより、お前の侍女は期限が来たら約束通り、自分の背後をしゃベるのか?」
「難しいだろうな。それにあいつ、依頼主が誰かなんて知らないんじゃないか?」
「それでは何にもならんではないか」
「だから。あれの背後なんておれにはどうでもいいことだったんだ。あいつがおれとの賭けに乗ったのと同様、口実に使っただけなんだぞ? だいたい、その……反対勢力か? 要するに王権が欲しいわけだろ?」
「まず間違いなくな」
「だからお前をどうにかしなきゃならない。これはわかる。筋が通ってる。だけど、なんで、おれなんだ?」
わけがわからないと両手を広げてみせる。
「おれはお前の計らいで王女と呼ばれてるだけなんだぞ。暗殺したところで政権交代はおろか、王権に影響なんか出るわけない」
「ふむ……」
国王も考えこんだ。
「お前がいなくなるのは打撃には違いないが……」
「だからって世をはかなんで後追い自殺をするわけでも王座を放り出すわけでも、衝撃のあまり行政に無関心になるわけでもないだろう?」
表情も口調も真剣そのものである。
イヴンは天を見上げて疲れたようなため息を洩らし、国王はひたすら苦笑を噛み殺すことに努めた。
そんな二人をよそに王女はあくまで真顔である。
「命を狙われるのはまあいいとして、その理由くらいは知りたいもんだ」
「思いこみは危険かもしれん。もしかしたらお前の侍女の飼い主は叔母でもマグダネル卿でもない、第三者ということもあり得る」
その可能性は否定できないと王女も思っていた。一ノ内乱時代もその後も国王の右腕としての王女の活躍は目覚ましいものがあった。王女個人を恨んでいるものがないとは言いきれない。
「だけど、それにしては時期が合いすぎるしな」
三人はそれぞれ腕を組んで唸ったものである。
その理由が三者全然違うところがおかしい。
イヴンは昼間見た侍女のほっそりとなよやかな腰を思い出して何かの間違いじゃないのかと唸り、国王は叔母が本当に王女の暗殺を決意したのか、だとしたら何のためか、それとも叔母を操っている誰かがいるのかと唸り、王女はほんの遊びのつもりが、この王宮や国王に迷惑をかけることになるのは困ると唸っている。
「やっぱり、あの侍女を捕まえて絞めあげてみるのが一番手っ取り早いんじゃないのか?」
イヴンの提案は王女が即座に却下した。
「あれは何も知らない。どうしておれを殺さなければならないのか、それさえ知らないんだ」
「だとしてもだ。お前を殺したら、その成果をどこかに報告するわけだろう? その連絡先だけでも掴めれば……」
「場所を知っておれたちが乗りこむころにはもぬけの殻になってるさ。約束は約束だ。期限が来るまでは放っておく」
「他人事みたいに言うがな、リィ。狙われてるのはお前なんだぜ?」
王女の顔に微笑が浮かんだ。
急に二十も年を取ったような、不思議と大人びた微笑だった。
「おれは死なないよ。死ねない理由もあるしな」
「そうは言ってもな……」
なんのかんの言いながらもイヴンは王女が心配らしい。そんな幼なじみに国王が笑って言った。
「イヴン。その心配だけは無用のものだ。殺そうとしたところであっさり死んでくれるような王女ではない」
王女も笑みを返した。
「そういうことだ。ただ、こんなことになったのはまずかったと思ってる。せめてその反対勢力の特定だけでもできればいいんだけどな。まさか叔母さんやマグダネル卿に聞くわけにもいかない」
まさにそこが大問題である。
国王はしばらく何か考えていたが、イヴンに問いかけた。
「今日の午後には魔法街に行くといっていたな」
「ああ。何か掴めるかもしれないと思ってな。リィ、お前もつきあえよ」
「おれが? なんで?」
「普通の人間なら見落とすようなことでもお前なら気がつくかもしれんだろうが」
イヴンもこの王女がただの人間でないことはよく承知している。
国王も頷いた。
「それこそ反対勢力を特定してくれるように頼んでみるのもいいかもしれん」
「まさか」
一笑に付した王女である。
「魔法街っていうのは、病人や年寄りや女の人が好んで出かけていくようなところなんだろ?」
迷信を気にする弱者たちが集う手合いではないかという意味である。そんな場所で国家機密にも等しいような内容を打ち明けられるわけがない。
「そう馬鹿にしたものでもない。とにかく何千という人々が出かけて行くのだ。まるっきりのインチキばかりではあるまいよ。それに、人づてに聞いたのだがな……」
「うん?」
「魔法街は昼と夜ではまったく違う顔を持つそうだ。昼間は若い娘や病人も訪れる、特に害も危険もない町だが……」
「夜になると、どうなる?」
国王は肩をすくめてあっさり言った。
「下手に踏みこむと二度と生きては帰れんそうだ」
物騒な話である。
「大陸でもまさかと思うような大人物が何人も魔法街に助言を求めているという話もある。ただし、それだけの力を持つ本物の術者はなかなか人前には姿を現さないそうだがな。簡単に会えるのは堂々と看板を掲げている毒にも薬にもならん連中ばかりだ」
「だから営業を許していられるんだろうが」
「そのとおり。本当に力のあるものはいつも自分を目立たぬように工夫するものだ」
そう、本物は自分の力を誇示するようなことはしない。野望や欲があれば話は別だが。
そんなわけであまり期待はしていなかったが、王女はその日の午後、イヴンとともに初めて魔法街に足を踏み入れた。
コーラルの真ん中にある魔法街だが、道を一本隔てただけでがらりと雰囲気が変わった。まるで別の国の町並みに来たかのような錯覚を二人とも覚えたものだ。
まず、まっすぐな道がない。区画整理されているコーラル市にあって、広い通りも狭い通りも建物を囲むように曲がりくねっている。
建物も増築や改築を重ねたらしく雑然とした姿で、どことどこがつながっているのかわからないようなありさまだ。空中で建物同士をつないでしまって、道路はトンネルになっているような状態のところもある。
軒先には看板がずらりと並び、いたるところが人であふれ返っていた。あちこちで長い行列もできているのは、見てもらう順番を待っているらしい。
「こりゃあすげえ……」
イヴンが思わず洩らしたくらい、人々の顔は真剣そのものだ。
「インチキだ」
王女はげんなりした口調で決めつけた。
「こんなところで聞きこみ調査をしたところで何にも出てきやしないそ」
「まあそう言うな。悪玉貴族の使いがこの界隈に頻繁に出入りしてることは間違いないんだ。とりあえず有名どころを当たってみようじゃねえか」
ちょっと見ただけでもわかったことだが、行列して待てば自動的に会える占い師もいれば、しかるベき紹介がなければ敷居もまたげない祈とう士《きとうし》もいるらしい。
「これで行こう」
イヴンはそんなもったいをつけている家の一つに正面から堂々と『王宮からの使者である』と言って乗りこんだ。
コーラルで営業する以上、これに逆らえるものがいるわけがない。弟子らしい者たちが現れて下へも置かないような扱いで奥へ通したものである。
王女は一人で魔法街をぐるりとまわってみた。
道路にも建物にも直線というものが見当たらない。王女の方向感覚は多少のことでは狂いはしないが、この異様な町並みには目が回りそうだった。もしくは迷いこんで出られなくなるような錯覚さえ感じる。
王女が今歩いているのは広い通りだった。両側は建物の壁になっている。その建物の隙間を縫うように狭い路地があちこちに開いていた。
この街にはどこにでもある光景である。
そんな路地の入口の一つを通りすぎた時、何かがひっかかった。
足を止めて振り返る。
今の路地はどこかおかしい。
その理由にはすぐに思い当たった。これだけ人で混雑している魔法街にあって、その路地には誰も人がいなかった。振り返って見ていても誰もその路地へ入って行かないし、出て来もしない。
興味を覚えて、人の流れに逆らうようにして引き返した。
建物の一部をくりぬいて奥に続いているらしい。その先がどうなっているか興味があったので、歩きながら道の中ほどに寄り、路地の正面にまわってみた。入ロは広い。道幅もある。なのに誰もいない。建物をくぐり抜けた先には別の建物や店が並んでいるらしいが、奥は暗くなっていてよく見えない。
何の躊躇もなく路地に向かった王女だが、入口の手前まで来て眼を見張った。
眼の前に開けていた空間が、急に蜃気楼のようにぼやけたのである。
錯覚ではない。そこに確かに開いていた路地の入口が突如として質感を伴い始めたのだ。
とっさに足を止めて身構えた。
道行く人々はいきなり立ち止まった王女に不審の目を向け、煩わしげに避けていく。緑の瞳が食い入るように見つめている方向に目を向けるものもいるが、それだけだ。
誰も何が起こっているのか気づいていない。その現象が見えているのは王女一人だ。
煉瓦の壁をくりぬく形で開いていた路地の入口は見る間に赤茶の色合いを帯び、周りの壁と同じような質感を伴い、やがては完全に消滅してしまった。
短い口笛が王女の唇から洩れた。
「リィ。何してる?」
イヴンが呼んでいる。さっきの占い師の家からもう出て来たらしい。王女は友人を見ようともせず、一点を凝視したまま言った。
「イヴン。あれが何に見える?」
「何って……ただの壁だろ? 煉瓦の」
王女は慎重に歩み寄り、さっきまで路地だったところを叩いてみた。煉瓦の固い感触がした。
見上げれば共同住宅の一部である。
「おい、リィ?」
「なんでもない。そっちはどうだ」
「いいや。さっぱりだ。他に何軒か、貴族のお女中がやってきそうな場所を教えてもらったのが収穫といえば収穫かな」
王女はその共同住宅を調ベてみた。他の長屋と同じようなつくりである。大きな長い建物をいくつかに仕切って、十数人が入居している。
王女はその一人一人に会って話を聞いた。職業もいろいろだった。占い師もいれば予言者も巫術師《ふじゆつし》ももちろん、それ以外の職業のものもいた。
その誰もが口を揃えて、この建物には路地などなく、どこへも通り抜けはできないと明言したものである。
王女はそれ以上、住民を問い詰めたりしなかった。
建物の裏にも回ってみた。あの時確かに奥のほうに別の通りが見えたが、どこにもそんな道はない。別の建物と隣り合わせている。
王女は感心したように言ったものだ。
「確かに、そう馬鹿にしたものでもなかったな」
「何がだ?」
首をひねっているイヴンに王女は笑ってみせた。
「引きあげよう」
「もうかよ? まだ何にも掴んじゃいないぜ」
「いいから。ここは一旦引きあげるんだ」
王女はわけがわからない様子の友人をなだめて、どこか楽しげに王宮に引きあげた。
グリンダ王女の出生は謎に包まれている。
ある日突然、流浪の国王の前に現れ、わずか十三歳にして大の男以上の戦いぶりで王座奪回に協力したことはデルフィニア人なら五歳の子どもでも知っているが、詳しい生い立ちは国王も知らない。
何度か尋ねてみたことはあるのだが、いつも笑って首を振る。言っても始まらないということらしい。
その王女が口癖のように言うのは、自分は以前は男の体であったということ、この世界へは間違って落ちてきたのだということだ。
どちらも無論、誰も信じない。
王女も信じてもらおうとは思っていないらしい。
もう一つ特筆することは王女はそのたぐいまれな剣技や戦闘能力にも拘《かかわ》らず、魔法や不思議の類を信じている。
「おれの故郷には本物の魔法使いが何人もいる」
と、以前、国王も聞いたことがある。
ただし、自称大魔法使いや、自称呪術師にできるのは、
「原因不明の死体を自分の呪いのせいにしたり、自然に治った病気を自分の祈祷のせいにしたり、偶然降った雨を自分の力のせいにすることくらいだ」
とも言う。
魔法は信じているが、真贋《しんがん》の鑑定はなかなか厳しく行うらしい。
王女はその夜、誰にも言わずにただ一人、再び魔法街に向かった。
路地が壁に化けたことは誰にも話さなかった。名前ばかりの虚仮威《こけおど》しの場所だと思っていた魔法街に本物の不思議がある。王女にはその事実だけで充分だったのである。
はたしてそこは昼と夜とではがらりと顔が違うと国王が言った通りの様相を呈していた。
路地の端にまで人気に満ちていた通りに、今は人影はおろか猫の子一匹の姿もない。
どの建物も固く戸締まりをし、窓を閉めている。
それも当然ですでに深夜をまわろうとしている時間だった。
魔法街では地元の住人でもこんな時間に外出はしないのだ。
一度、王宮に取って返した王女はできるだけ詳しく魔法街の情報を集めた。すなわち夜間にこの場所に足を踏み入れたらどうなるかをである。
迷信深い女たちはもちろん筋骨たくましい男たちまでが、とてもそんなことをする気にはなれないと震え上がった。夜中にここに踏みこんだまま帰らなかったものが何人もいるというのである。ただの行方不明ではない。そのうちの何人かは時に魔法街からはるか離れたところで見つかったというが、あるものは首なしの死体で、またあるものはまるで獣に食い荒らされたような無残な死体で発見されたというのである。
しかし、眼の前に広がる夜景はそんな不気味な気配はどこにもない。少し霧は出ているものの、心地よい晩春の夜である。
王女はわざとゆっくりした足取りであの路地を目指した。
噂が本当なら何か出て来るのではないかと期待しながらのことだったのだが、予想に反してすんなり着いてしまった。しかも、昼間壁に化けたことなどまるで知らぬ存ぜぬの体《てい》で、堂々と路地になっている。おまけに奥のほうにはちらほらと明かりさえ見える。
あまりにも開けっ広げな様子に、王女の口元には苦笑が浮かんだ。
どうぞお入りくださいといったところだろうか。
綺麗な敷石の道だった。入口部分こそ壁をくりぬいたトンネルになっていたが、すぐに空が開けた。
星が見える。
まやかしの星ではない。本物の夜空だ。
両脇には瀟洒《しようしや》な建物が建ち並んでいる。どの家もきちんと戸締まりをして寝静まっている。
家の明かりと思ったのは所々にかかげられている街灯だった。
ぼつん、ぽつんとした明かりがゆるやかに曲がりながらどこまでも伸びている。
王女は入口で立ち止まり、しばらく動かなかった。
どこにでもありそうな街路地に見えるが、ここは『存在しないはず』の通りなのである。
昼間見たところでは入口になっていた建物の裏には別の建物が向かい合わせに建ち、そのまわりをぐるりと通りが囲んでいた。こんなふうに建物を貫いて伸びる路地など、どこにもないはずなのだ。
立ち止まったのは臆したからではない。あるはずのない路地に立っているという恐怖や感慨からでもない。人の噂から連想したようなまがまがしい気配がかけらも感じられないことを訝しく思ったのだ。
王女はたまたまこの路地が壁に化けるのを見ていたからまっすぐここへやって来たが、もしも何も知らない人が偶然この路地へ入りこんだとしても、ここは怪しいとか何か普通と違うとか、そんなふうに感じるものはいないに違いない。
つまりはそのくらい、ごくごく普通の、ありふれた路地だったのである。
「もし、お嬢さん」
突然声をかけられて王女はすかさず身構えた。
見れば王女の左手に人が座っている。
黒い頭巾をすっぽりと被り、同じ黒い布を掛けた小さな机を置き、その奥にひっそりと腰を下ろしている。
これもどこにでもいる手相や人相を見る易者の姿だった。
別段怪しいところはない。ただ一つ、王女が人の気配をまったく感じなかったということを除けば。
ある意味ではこれほど怪しい相手はないのである。
「お嬢さんはよせ」
腰の剣に手をかけながら王女は言い返した。
「では、お客様。魔法街に何の御用で?」
ささやくような声だった。意識してそうしているのではない。声にまるで活気がない。
「お前、道案内か?」
「はい。まあ、似たようなものでございます。何をお望みでいらっしゃいました?」
「捜し物をしている」
「何をなくされましたかな?」
「なくしたわけじゃない。この街で一番力のある、物知りと言ってもいいが……術者を捜している」
「力……と、申されましてもいろいろございます。たとえば誰かをそっとこの世から葬る力ですかな」
「それなら自分でやる」
「では今以上の栄達を与えてくれる力ですかな?」
「誰が望むか」
「おやおや……。それでは恋しい方を自分のものにするための力ですかな?」
王女はすっとその易者に詰め寄った。
「おれが誰なのか、何のためにここへ来たのか、そんなことも見抜けないでよく道案内をやってるな」
「ほほ……、これは手厳しい。いえね。久しぶりのお客様でしたもので、しかもそれがこんなにお若い、しかもこんなにお美しいお客様をお迎えするのは、私の知るかぎりでも初めてなものですからねえ。珍しいことだと思ったまでで……」
「能書きはいい。どこへ行ったら目当てのものに会えるのか教えてもらおう」
「さて。そう言われましても、何をお望みでいらっしゃるのかをまず伺わなくてはなりませんからねえ。ここへいらっしゃるお客様はそれはもう様々な理由をお持ちでいらっしゃいます。それもたいへんせっぱ詰まった、決して人には洩らすことのできない事情を抱えてやむにやまれず、最後の手段としてこの街を頼っていらっしゃるのです。それをまずお伺いするのが私の役目でございましてねえ」
グリンダ王女には様々な美点があるが、同時に欠点もある。それが当然で、その中の一つにあまり気の長いほうではないというのがある。
「この街で一番の術者はどこにいる? さっさと答えないとその長口上も二度と言えなくなるからな」
本気の気迫で声に凄みをこめ、剣の柄に掛けた手にも力をこめたが、頭巾を被った易者は肩を揺すって不気味に笑った。
「現世の剣《つるぎ》ではこの私は斬れませんよ、ねえ?」
そう言って上げた頭巾の中身は骸骨だった。ぽっかりと開いた黒い眼窩《がんか》が王女を見上げ、唇のない歯だけの口がにいっと笑っている。
おそらく今までの客ならここで魂消《たまげ》るような悲鳴を上げて逃げ帰るか、異質のものと出くわした恐怖以上に魔法街の存在を実感して頼みごとの内容を一気にしゃベったのだろうが、どんなことにも例外は存在するのだ。
王女は少しも驚かなかった。にやりと笑った。
「知らないのか。現世の剣では斬れなくてもおれの剣なら斬れるんだぞ」
「ご冗談を……。死んでいるものは殺せませんよ」
「そうだな。死んだものは二度は死なない。ただし消滅することはある」
骸骨はふと口をつぐんで王女を見た。
黒い穴だけの眼でもなかなか表情があるもので、王女はその中に疑惑と脅えを見てとった。
「死んでいるお前でも消えてなくなるのはいやか。いやならさっさと答えろ」
「おかしい。だってあなたは生きている人なのに、そんなことのできるわけが……」
「いいや、できるさ。これはおれがおれの世界から持ちこんだ剣。もともとはお前たちのようなものを斬るためにつくられた剣だ。ためしてやろうか?」
今にも剣を引き抜きそうな王女に、骸骨は震え上がった。心なしか蒼ざめたようにも見えた。
骸骨が蒼くなるというのもおかしな話だが、よほど怖かったらしい。
「こ、このまま、まっすぐ進んでください」
「それじゃあわからん」
「行けばわかるようになってるんです。本当です。向こうで迎えてくれることになってますから」
王女は肩をすくめて、骨だけの手を合わせて懇願する骸骨から離れ、ゆっくりと通りを進み出した。
行けばわかるとはずいぶん大ざっぱな道案内だ。
しかたなく眼につくものは見逃さないように注意しながら歩いて行った。進むにつれて道がだんだん細くなる。大の男が七、八人並んで通れるほどの広さがあったのに少しずつ、少しずつ幅が狭くなってくる。空に星のあるかぎり、王女の眼はたいがいのものを捕らえることができたが、動くものの影とてない。
ただ、しんと寝静まっているような街の中に、王女はずっと強烈な視線を感じていた。
それも一つや二つではない。
道幅が狭くなるに従ってその視線も強くなる。
人がすれ違うのがやっとのような細い道にさしかかるころにはまるで街そのものが自分の一挙一動に注視しているような、そんな奇妙な感覚が肌にまとわりついていた。
敵意や害意はないようだが、気味のいいものではない。いっそ見えない相手に向かって大声で怒鳴ってやろうとした時、王女の眼は右手の扉に釘づけになった。
小さな、古びた木戸である。今までいくつも見てきたものとどこも違いはないが、なんとその扉には、デルフィニアの紋章である獅子の横顔と交差した二本の剣が色も鮮やかに描かれていたのである。
さすがの王女も一瞬あっけにとられた。
言うまでもなく一民家に許されるふるまいではない。無許可で行えば厳罰ものだ。
驚きに開いた唇がにやりと笑った。なかなか粋な呼びこみ方をするものである。
そっと木戸を押してみた。
鍵はかかっていない。軽く動く。
真の術者の家だとすればまともな家のはずはない。
この向こうには暗くて長い洞窟のような道が延々と続いているかもしれない。もしくは予想だにしないような異常な光景が広がっているかもしれないと少しばかり緊張しながら扉を開けたのだが、まさしく予想に反して、そこはただの部屋だった。
入口は土間だが、左手は板敷きになっており、地続きの居間になっている。
どこにも明かりらしきものは見えないが、部屋の中はほんのりと明るい。
あちこちに巻物や書簡がうずたかく積み上げられ、あまり広くない部屋がますます狭く見える。
かろうじて見える床部分に小さな炉がつくられ、その上に掛けられた鍋がことこと音を立てていた。
鍋の前に人が座っている。
板敷きの床に丸い敷物を敷き、その上にちんまりと収まっている。ひどく小さな人だった。
家の中だというのにさっきの骸骨と同じような黒い頭巾をすっぽり被り、同じ布が体をも覆い隠している。
もしかするとこの住人もさっきの骸骨同様、この世の者ではないかもしれない。眼を凝らしてみた。
鍋を掻き回す杓子を握る手は油の抜けきったしわだらけのものではあるが、生身の人の手だった。
「お入り」
顔も上げずに声をかけてきた。その声も手と同様年老いているが、性別がわからなくなるほどではない。老婆の声である。
「お邪魔する」王女は言って、少しためらった。
「靴のままでいいのかな」
「よく拭ってくれればかまわんよ」
なるほど入口に敷物が敷いてある。泥道を歩いてきたわけではなかったが、王女はていねいに靴の汚れを拭って居間へ上がりこんだ。
ところかまわずものが置いてある部屋だ。炉のまわりのほんの一部分だけ、床が見えている。
王女はものを倒さないように注意しながら老婆の正面にまわって腰を下ろした。
あいかわらず顔も上げない老婆だが、この位置からだと顔の下半分が見える。その口元が笑っていた。
「あまり道案内を脅かすものではないわ。あれにはお前さんが何であるかなど看破はできん」
さきほどの一部始終を見ていたらしい。
あぐらをかいた王女は肩をすくめて言った。
「無駄話につきあわされるのは苦手なんだ」
「あれはその無駄話が楽しみであそこにいるのじゃよ。ま、ともあれ、ようこそいらしたな。お客人」
「お嬢さんとは言わないのか?」
自分と相手との年の差を思って言ったのだが、老婆は低い含み笑いを洩らしたものだ。
「お前さんが女に見えるほど耄碌《もうろく》はしておらんよ」
これには王女も意外そうに目を見張った。
「今のおれが女に見えても誰も耄碌したとは言わないだろうが、それはありがたい」
「さようさ。しかしまあ、とりあえずは王女とお呼びしようかの」
「リィでいい」
「いいや。この街のものは客の名を呼んだりはしないものじゃ。それが礼儀でもある」
「それなら、おれの目の前に座っている礼儀正しい人のことはなんと呼べばいい?」
「おばばで結構じゃよ。王女」
膝を崩して座った王女はあいかわらずちんまりと鍋の前に陣取っている老婆を見てにこりと笑った。
老婆もしわだらけの口もとにゆっくりと微笑を浮かベた。互いに好感を持ったらしい。
「聞きたいことがあってここまで来たんだが……、その前に別のことを聞いてもいいか」
「なにかな?」
「つまり……、ここが魔法街なんだな?」
「さよう。この通りだけが本物の魔法街。外側のはいわば、おまけじゃな」
そのおまけにあれだけ大勢の人が群がって、本物には閑古鳥が鳴いているというのも変な話だ。
「この通りは夜ならいつでも見えるのか?」
老婆は小さな体を揺すって楽しげに笑った。
「馬鹿を言ってはいかんよ。そんなことをしたら大陸中から人が集まって来てしまう。木の葉を隠すには森の中、町を隠すには町の中じゃ。今日はな、王女が来るというのでわざわざ開けておいたのさ」
「すると、普通なら夜でも見えない?」
「いかにも。それはわしら、この街の住人の望むところではない」
「つまり、世間からは隠れていたいと?」
「むろんのことじゃ。この街の住人となるにはそれが条件じゃからな。名利に関心があるようではまだまだ半人前、とてもこの街には住めん。外側の『魔法街』で権力者を相手に金ずくの遊びをしているのが似合いじゃよ」
王女ははたと膝を打った。
「そっちの管轄だったのか? しまった。てっきりここでなければそういう話はできないと思ってた」
老婆は歯の抜けた口を開けて、それはそれは楽しそうに笑ったものである。
「おもしろい王女さまじゃ。さよう、権謀術策に関することならばおまけのほうが専門、わしらはいっさい関知しておらん」
「そりゃあ参った。とんだ無駄足だ」
「そう決めつけずに、何のためにここまできたのか、この婆《ばば》に語ってみてはどうじゃな」
王女は肩をすくめた。
「世捨て人相手に話しても始まらないことなんだ。政治情勢を一から説明しなきゃならない」
「王女。間違えてはいかん。この街に暮らすものは世情に無関心なのではない。己の意志で世間と関わらぬように自らを戒めているだけじゃ。それというのもわしらには人の世のつくりがよう見える。どこをどう押せば思うように世の中を動かせるかまでを見ることができる」
そのくらいのことはわけもないといわんばかりの口調だった。それが魔法街の術者の自負らしい。
「じゃが、わしらはあくまで人の世の冷静な傍観者でなければならん。それ以上を望み、欲に身をやつせば、必ず我が身に跳ね返ってくる。ふ、ふふ……。こんなことは王女には関係ないことじゃが、まあ、問うてみなされ。お前さんはわしの客人じゃ。知っていることならお答えしよう」
「それなら尋ねるが、おばばはタンガとパラストがタウへ介入したことを知っているか?」
「もちろん」
「その理由は? なぜ今であり、なぜタウなんだ」
「そうさな。いろいろある。ゾラタスもオーロンも強大な王であり、両国とも国内事情はいたって良好、これといった問題はない。となれば支配者たるもの、もっとたくさんのものを手中に収めたくなるのはしごく当然というものじゃ。幸い近くにたやすく手に入りそうな領土もあることじゃしな」
「タウがたやすく手に入るか?」
老婆は低く笑ったものだ。
「あんな土地を欲しがる国王はよほどの物好きじゃ。そうではなく、目の前に、このデルフィニアというごちそうがあるじゃうが」
「そりゃあ喉から手が出るほど魅力的なごちそうだろうが、とても簡単に奪えそうとは思えないそ」
「普通なら王女の言うとおりだろうが、近いうちにこの国の政権は大きく揺らぐことになったのでな。願ってもない好機じゃろ?」
王女は膝を握り締め、恐ろしいような声で言った。
「その理由は?」
「答える前に、王女。ひとつおもしろい話をしてしんぜよう。ここにぜひともデルフィニアを欲しいと狙っているものがいる。それも一人や二人ではない。いや、うち二人は隣国の国王じゃな。しかし残りはデルフィニアの人間であり、本来ならば自分たちこそがコーラル城の主として華々しく君臨できたものをといまだに悔しがっているものたちじゃ」
「いたとしてもほんの二、三人だろう?」
「いいや。中心になっているものたちだけでも軽く五人を越す。無論それに賛同する仲間が何人もおり、従う家来も何千といる」
「……」
「それでも国王の有する勢力に比ベれば少数派には違いない。その連中にしてみれば再び反乱軍を組織して国王に立ち向かいたかったのだろうが、あの国王は歳こそ若いが化け物のような人物じゃ。欲と嫉みに凝り固まった私怨一辺倒の連中が躍起になってかかったところでとうてい太刀打ちできん。強引に突けばするりと躱《かわ》され、やんわりと斬りこめばこつんと返される。しかも度胸と愛敬は人の十倍持っておる」
その点は王女も同感だった。
「だからあいつのまわりには人が集まるのさ。おれもその一人だ」
「いかにも。お前さんにも国王にも見えなかったろうが、この三年、その連中はあの手この手で国王を倒そうと、一人でも多く自分たちの味方を増やそうと試みていたのじゃよ。しかしのう、少しでも目端のきくものなら、その連中と国王とをはかりに掛けた時、どちらを選ぶかくらいは決まっておる」
「反対勢力は意外に人望がないんだな」
「そうとも言えんよ。あくまで生まれや血筋にこだわるものたちもいるからの」
「他に自慢できるものが何もないからだろう」
平然と言ってのけた王女に老婆はまた低く笑った。
「いかにも。そのとおりじゃ。連中もさすがに近頃では武力を持って王を倒すことは不可能だということがだんだんとわかってきたらしいが、欲というものは実にたいへんな馬力を人間に与えるものでな。正面から倒すのが無理ならば、いっそのこと暗殺してしまおうとする意見も出始めたのだが……これは仲間内でも反対するものが多かった」
「どうして?」
「人の倫理というものは時におかしな方向に働く。たとえば人を殺して悪びれるところのない男が無条件で赤子をかばうように。またその赤子をためらいなく手に掛ける男が貧しい娘の身の上話に涙を流すように。デルフィニア人である以上『国王』を暗殺することはできない。罰当たりだと言うのじゃよ。本当の理由はそんなものではなく、自分の手が汚れるような気がしていやだったのだろうが、とにかく暗殺はできない。しかし、あの国王の下にいることは我慢がならない。実に何とも勝手な理屈じゃが、それでどうしたかといえば……」
老婆は一息ついていった。
「それこそ彼らは魔法街を頼った。外側のな。何人もの侍女や召使を繰り出して、様々な肩書きの術者たちに相談をした。おそらくこんな聞き方をしたのではないかな? もしもあなたが今の国王に不満を持っていて現政権を倒そうと思ったら何をするかと。どうすれば国政に打撃を与えることができるかと。この問いに対してあらゆる易者、占い師、巫術師、魔法使いは即座に答えた。倒せるかどうかはともかく現国王の力を半減させることなら簡単にできる。彼らは身を乗り出して訊く。どうやって? 答え。王女を倒せばいい」
一瞬、何を言われたかわからなかった王女である。
目を剥いた。
「おれを?」
「さよう」
「ちょっと待て! 何でそうなる?」
「よほどのいかさま修道士でない限り、同じことを答えるだろうよ。わしらは人の世にあらざるものを見聞きできるように修練を積む。そのわしらの眼から見れば王女がこの世のものでないことは火を見るよりも明らかじゃ。もっとも、外側におるのは中途半端な技を身につけたものがほとんどじゃでな、わしらほどには見えんだろうが、ただの人ではないということくらいはすぐに見抜く。何より少しでも力のあるものならば現国王のすぐ側に恐ろしく強力な光を放つ源があることは明白に見える。それが王女であることもまた疑いようもない。となれば、この光源を取り除けば国王の力も衰える。と、こう考えるのが自然じゃろ?」
「そんなばかげたことで……易者の言うことなんか真に受けて?」
「一人や二人ならともかく、おそらく魔法街中の術者が口を揃えて同じことを言ったと思うのでなあ。半信半疑ながらもやってみようというところではないかな」
「冗談じゃないそ!」
憤然と言い返した王女である。
「いい年こいた大人がそろいもそろって何をやってるんだ。王座奪回もその後の統治もウォルの実力だ。おれはちょっと手を貸しただけで……」
「はたしてそう言いきることができるかな」
老婆の言葉に王女は思わず口をつぐんだ。
「確かに、今の国王は卓抜した人物じゃ。しかし、たとえば三年前、お前さんが国王の前に現れなかったとしよう。その場合、国王はあれほど速やかに王座を取り戻すことができたかな?」
「……」
「できなかったとは言わん。が、おそらくは相当な時間を必要としたはずじゃ。違うかな?」
「それはあくまで『もしも』の話だろう? 現実は見てのとおりだ」
「さよう。そこが問題なんじゃ。よいか。お前さんは三年前、一人の男の運命を変えた。それによって一国の運命をも変えてしまった。お前さんにその気がなくても現実はそうなったんじゃ。そしてそのことは、何度も言うが、少しでも力のある術者ならばすぐに気がつく。そんな力のないものの眼で見てもお前さんが今の国王を王座につけた事実は疑いようがない。ならば王の下《もと》から奪い取ってしまえばいい。簡単な理屈じゃよ」
ため息を洩らして髪をかきむしった王女である。
「おばば……」
「何かな」
「真の魔法街の住人としての意見が聞きたい。おれが死んだら、ウォルの下から去ったら、あいつは本当に王座から転げ落ちるのか?」
「いいや。それは、あの国王次第じゃ。お前さんの言うとおり、お前さんたちの出会いはきっかけにすぎん。そこから先は国王の実力じゃからな」
「そうだろう? じゃあなんで……」
「結局、人は信じたいものを信じるということさ」
老婆は話を続けながらも悠然と鍋を掻き回している。炉の中には熾火《おきび》が燃え、鉄鍋を暖めている。
その中身が何であるか王女にはわからなかったが、あたりには蠱惑的《こわくてき》な濃い匂いが満ちていた。
「武力ではかなわず、暗殺もできずにやきもきしていた連中に取って、お前さん一人を片づければ事たりるというのは実に耳寄りな、渡りに舟というやつでな。効きめがあるかないかは殺してみればわかることじゃしな。ためしてみない馬鹿はあるまいよ」
「簡単に試すな、そんなこと!」
盛大に毒づいた王女だが、この老婆に文句を言ったところで仕方がない。
「なに、お前さんなら何に狙われてもあっさり倒れたりはせんじゃろう。……何に狙われてもな」
不当な理由で命を狙われたことに憤慨していた王女は、老婆の口調が微妙に変化したことに気づかなかった。
「その話が本当だとすると、おれを殺したがってる連中は相当な数だな」
「そうさな。わしが承知しているだけでも十人は軽く越すな。計画を練っているもの、すでに実行に移したもの、様々じゃ。これは王女のほうがよくご存じじゃろうがの」
「いやというほど知ってるがな。あいつにはおれは殺せないぞ」
「さよう。わしもそう思う」
今度は妙に力強い口調だった。さすがに首をかしげた王女である。
「あれを知ってるのか?」
「お前さんのところへ潜りこんだ者自身については知らんが、あれらはなかなか物騒な者たちじゃからな。油断はせんことじゃ」
わけのわからない説明である。
それについて王女はさらに尋ねようとしたが、老婆のほうは話の続きに入っていた。
「先ほどの質問に答えようが、国内の剣呑《けんのん》な連中が一斉にお前さんの暗殺に動き出したとなれば、それに気づかぬほどゾラタスもオーロンも間抜けではなしとしうことさ」
首をかしげた王女だが、老婆の言葉の意味を理解するにつれて愕然とした。
「まさか、じゃあタンガもパラストも……」
「力のある術者は魔法街だけにいるわけではない」
王女の疑問を老婆はあっさり肯定してみせた。
「お前さんさえいなくなればウォル王の政権は重大な支障をきたす。デルフィニアを狙っている王たちにとっても耳寄りな情報じゃ。ましてや両国とも、三年前の絶好の機会には互いの紛争に明け暮れるあまり手を出し損なった悔しさがある。かと言って一国が動いて他国の王女を暗殺することなどできようはずがない。戦を仕掛けるのとはわけが違う。そんなことをしようものならこれはもう犯罪じゃ。焦《じ》れていると自分たちが動くまでもなく、内部の人間がやってくれようという。実においしい。こんなうまい話はまたとない。とてもじっとしてはおれんじゃろ? そこでタウにちょっかいを出してみた。むろんひとつには国王がどんな反応を示すか、試してみようという意図もあったことじゃろうがの」
王女は歯ぎしりを洩らしたものだ。
「つまり国内の反対勢力のやることは両大国に筒抜けになっているということか?」
「さよう」
「それは両国が密偵を放っているからか? それともまさか……」
「そこまでおわかりなら、言うまでもない」
鍋を掻き回しながら平然と言った老婆である。
王女はものすごい形相で沈黙していた。
こんな時の王女には国王でさえ迂闊《うかつ》には声をかけられない。ともすればこの美しい王女の中にあるものを垣間見るような思いに囚われるからだ。
「その裏切り者たちの名前を訊くのは礼儀に反することなんだろうな」
「通常は、そのとおりじゃ」
「おれには通常外の掟を適用してくれるか」
「そうさな。ここまで話してしまったのじゃもの。適用するよりなかろうな」
王女は少し表情をゆるめて、小さな賢者を見た。
「おれにそこまでしてくれるのは、どうしてだ?」
「さあて……」
軽く首をかしげた老婆である。
「ま、ほんの気まぐれというところかな」
「世の中のことには関わらないのが原則じゃなかったのか?」
「いかにも。しかし、お前さんは厳密にはこの世の人ではないからの。ちょいと関わりおうてみたくなったのじゃよ」
「わりといいかげんな原則だな」
極めて率直な言葉に老婆はまた声を立てて笑った。
「まったく。『落人』は幾人も知っているが、お前さんのような人は初めてじゃ」
「おれの他にも落ちてきた人がいる?」
「もちろん。世界とは幾重にも折り重なり、絶えず揺らいでいる歪《ゆが》みのようなもの。何かの拍子につながってしまうことは珍しくない。どこかへ消えてしまうものもあれば、こちらへ落ちてくるものもいる。お前さんもそのくちじゃろ」
足を崩した体勢のまま、王女は肩をすくめた。
「そのおれがどういうわけか王女なんかに収まって、一国どころか三国の動向に関わろうとしている。まさかこんなおかしなことになるとは思わなかった。こっちの世界に関わるつもりなんかこれっぽっちもなかったっていうのにな」
「王女よ。先ほどわしはお前さんがこの国の運命を変えたと言ったが、それがお前さんの意図したものでないことも明らかじゃ。つまり、お前さんはたまたまこの世界に落ちて来たと思っているが、それはあらかじめ決まっていた運命だとも言えるのじゃ」
王女はさらに自嘲ぎみに肩をすくめた。
「こんな体になったのもか?」
老婆は逆に含み笑いを洩らしたものだ。
「それに関しては何とも言いようがないな。わしはお前さんのもとの姿を知らん。ただ、凄まじいまでの魂の色に比ベてずいぶんとかわいらしい姿じゃとは思う」
「笑い事じゃないそ。体力まで女の子にならなくて本当に良かったと思ってるんだからな」
老婆はくつくつと笑っている。
「呆れるほどのたくましさじゃな。もとの姿に戻り、もとの世界へ帰りたいと焦ることはないのかな」
王女は少し困ったように笑ったものだ。
「それは今のおれの自由になることじゃないからな。焦ったところで始まらないのさ。それに……」
「なんじゃな」
王女は答えに躊躇していたが、大きく息を吐いて言った。
「時々思うのさ。おれが帰れないのはもしかしたら、まだ何か、ここにいなければならない理由があるのかもしれない」
「わしもまさにそう思う」
「……」
「これはわしの想像じゃが、お前さんはかつていた世界では太陽を意味する名で呼ばれていたのではないかな?」
「……」
「お前さんの光は強い。下手に近づけば焼き滅ぼされてしまうほどに強い。じゃが、暗黒を払うにはそのくらいの光が必要な時もある。三年前、この世界はまさに暗黒に包まれようとしていたのじゃよ。その闇がお前さんを呼んだのかもしれん」
王女はくすりと笑った。
思い出し笑いのようでもあり、楽しげな笑いでもあった。
「ここへ落ちて来て真っ先にウォルと会って、そいつが国を追われた王様だと知った時、おれも同じことを考えた。これが偶然のはずがない。この男を王座に戻してやればもとの世界に戻れる、そう思った。ところが当てが外れてもう三年だ」
「さよう。あの国王の前途にはまだまだ闇が待っている。それを払うに王女の力がいる。そういうことじゃよ」
「面倒くさい王様だ」
言いながらも王女は楽しそうだった。
どうして自分が呼ばれたのか、そんなことはどうでもいい。王女の中には時として自分でも持てあますほどの力が潜んでいる。何かに振り向けなければそれこそどんな害になるかわからないほどの力だ。
この三年、王国を平定するために王女も国王も脇目もふらずに働いたものだ。ここへ来てやっと少し平穏な時間が持てるようになったのだが、暇な時間は王女にはむしろ苦痛である。
あの侍女を見つけた時もおもしろそうだと思って傍に置くことにしたのだ。
「ところで、王女。お前さんさえいなくなればいいと聞かされた連中は即座にお前さんの呪殺を依頼した。国王と違ってなんの障害も造作もないことじゃからな」
「おまけの魔法街にか?」
「もちろん。金に糸目はつけない依頼だったというそ」
「それで、おまけの連中はその依頼を引き受けたのか?」
「らしいな」
鼻を鳴らした王女である。
「そんな呪いがおれに効くかよ」
「まったくのう。おもちゃの短剣を握って虎を刺し殺そうとするようなものじゃ。さすがに外側の連中もすぐにそれに気づいた。お前さんを倒すためには呪詛《じゆそ》や魔術の類では無理だと。刃物を使う必要があると。しかし、そんな仕事は魔法街の領分ではない。他に専門家がいる。彼らはそこを頼った」
「彼ら、というのは外側のことか。それとも……」
「先日からしきりと王宮を騒がせている連中じゃ」
老婆はあくまで静かに言った。
王女は苦い息を吐いた。
やはりバルロの勘は正しかったのだ。
王家にも血のつながるサヴォア公爵家の有力者が反国王勢力の中心にいるとなれば、傍目に見えなくてもかなり活発に動いているはずだ。
「他の顔ぶれは?」
「王女よ。話してもかまわんが、多少は自分で働かねばならんぞよ」
「わかってる。魔法街のおばばに聞いたからなんていう理由で逮捕状は出せないからな。証拠がためはこっちでやる」
「ならば、わしが語るまでもない」
王宮が本格的な調査に乗り出せば、他の顔ぶれは自然と浮上してくるはずだというのである。
王女は老婆に対し、優雅とはお世辞にも言えないが、敬意と感謝をこめて頭を下げた。
「礼を言う。知りたいことがすっかりわかった」
長居は無用とばかりに立ち上がりかけたが、ふと老婆を見て言った。
「相談料はいくら支払えばいいのかな?」
「商売でやっているのではないからな。気にせんでいい」
「また来てもいいか?」
「どうぞ。お前さんならいつでも歓迎しよう」
軽く頭を下げて立ち上がった王女の背中に老婆が声をかけた。
「王女。もうひとつ、お話しよう。先日から王女の傍に小さな銀の星がいる」
「ああ。あれか?」
正直言って忘れていた。問題なのは殺意を持って目の前にいる相手ではなく、その背景だからである。
「お前さん、あの星をどうするつもりじゃな」
「さあ? 考えてない。首謀者が誰だかわかったとなれば、あいつもおれの暗殺を諦めて出て行くかもしれないしな。好きにさせるさ」
「手放すのはあまり得策とは言えんな」
と、老婆は言った。
「あくまで可能性にすぎんが、今は小さな小さな星くずじゃが、あれはいずれ陽光を受けて輝く銀盤となるかもしれん」
王女は意外そうな顔になり、あらためて老婆を振り返った。
「あれが『月』になるっていうのか?」
「かもしれん。ならないかもしれん。それもあの星次第だろうよ。今の死人の状態から生き返ることができるかどうかじゃ」
思わず緑の眼を剥いた王女である。
「死人って……、あいつはさっきの道案内と違ってちゃんと生きてるぞ」
「いいや。あれを生きているとは言わんよ。肉体は持っていても、彼らは生きるということを知らん。そういう人々じゃ」
人々、ということは他にもいることになる。どういうことか尋ねようとした王女の先を制して老婆が言った。
「お前さんの侍女はな、死神の手と言われる一族の一人なんじゃよ」
「はあ?」
「王宮へ帰ったら聞いてみるといい。ファロットと言えばわかるじゃろうて」
王女は首をかしげたが、どうやらこれは忠告らしいと察して慎重に頷いた。
家の外へ出ると、そこは変わらず寝静まった魔法街の一角だった。何気なく振り返ったのだが、入る時には確かに扉に描かれていた獅子の紋章が今は消えている。
王女は微笑を浮かベて歩き出した。
もしもあの老婆の言うことが全部真実だとすると、話は少しばかり厄介になってくる。
自分の首は国内の反対勢力のみならず外国にまで狙われているらしい。
そしてその手先となって働いているあの侍女は、何か特殊な集団の一員らしい。
侍女の一件は後回しだった。まずは裏切り者の名前を国王に告げねばならない。うすうす察していたこととはいえ、言いにくい話である。
門限も警備もこの人には意味をなさない。難なくくぐり抜けていつものように国王の居間に侵入した。
夜中をまわっているというのに国王は侍従の一人に書面を広げさせ、難しい顔で何か検討していたが、王女を見ると侍従を下がらせて二人きりになった。
だが、王女が国王に語るまでもなく、前夜に続いて大手門からの急報が入ったのだ。また夜間の開門を迫る兵士が駆けつけてきたという。
それは国王がマグダネル卿の動向を見張るように命じた細作《さいさく》の一人だった。
すぐさま国王と王女の前へ通された細作は息を整える間も惜しそうに、マグダネル卿はタンガと密かに連絡を取っている恐れありと述ベたのである。
王女はともかく王にとっては寝耳に水、青天の霹靂《へきれき》の報告だったはずだが、取り乱しはしなかった。
黒い瞳にいつにも増して深い色を浮かべ、詳しいことを語らせた。
慌ただしく駆けつけてきた男が言うにはマグダネル卿は大家の主として多くの家来を抱えている。
その中でも主従の間柄を超えるほどに深く信頼する家来が卿の屋敷にもほど近いところに一家を与えられており、卿はたびたびこの屋敷を訪れる。
それはもう二十年も前からのことなのでエブリーゴでは珍しくない光景だという。
ところでこの家来にはタンガに嫁いだ妹があり、遠方でもあるのでたびたび手紙を取り交わしている。
実家からついていった忠実な老僕が里帰りを兼ねて手紙を携えて訪れ、返事を持って帰る。これも十数年前から恒例になっている自然な光景だという。
「まったく迂闊《うかつ》でした。陛下のご命令によりマグダネル卿の行動する先にはすベて部下たちと共に注意を怠りませんでしたが、いつものことでもあり、いかにも身分の軽い小者のように装っておりましたので一度は見逃したのです。しかし、念のためにその老僕の顔を物陰から確かめました時、私は危うく声をあげそうになりました。それはゾラタス王のすぐ傍に仕えている侍従だったのです! タンガ王宮に赴いた時に間違いなく見た顔です。マグダネル卿の見張りを部下に任せ、私はその男の後をつけました。年老いた者の一人旅らしく、少しも急がずに徒歩でロシェの街道を北上し、国境の手前である屋敷に入りました」
男は声を低めて囁いた。
「メイスン男爵のお屋敷です」
デルフィニアの地方貴族の中でも力を持つ豪族の一人だ。むろん国王もよく知る人物である。
「近所で聞きこんでみますと、男爵の友人がタンガからやって来ているとのことでした。翌朝その友人はタンガへ向けて発《た》ったのですが、その男こそあの老僕、いいえ、ゾラタス王の侍従本人だったのです。立派な服に着替え、馬に乗り、数人の家来を従えて国境を越えて行きました。番所に問い合わせますと手形の名前はタンガ、アルベレイス州、ゲットン子爵となっておりました。これは実在の人物です。しかしゲットン子爵と名のって国境を越えたのはまったくの別人です!」
この重大極まる事実を少しでも早く国王のもとへと焦りに焦って来たのだろう。そこでようやく一息つくと、よほどゲットン子爵の出国を止めさせようかと思ったと告白したものだ。
「しかし、私の一存では図れぬことだと思い止まりました。何と言っても手形は本物です。本人の確認ができない以上、子爵本人であると言い張られればそれまでです」
「それでいい」
国王は静かに言った。
「お前の判断は正しかった。その場で騒ぎ立てでもしようものなら国際問題に発展していただろう。充分な働きだ。満足に思うぞ」
いつもと同じような穏やかな声だった。
細作はその声に安堵して顔を上げたのだが、王と眼を合わせたとたん、はっと身を震わせた。
王は机に肘をつき、両の拳に顔の下半分を隠している。その顔には何の表情も浮かんでいないように見える。だが、黒い瞳には氷のような冷たい炎が燃えさかっている。
自分に向けられた怒りではないとわかっていても身震いせずにはいられなかったほど、国王は激しい怒りを噴き出していたのである。
「マグダネル卿に協力するものは他にもいるはずだ。一人も見逃すな!」
「か、必ず、ご期待に添うようにいたします……」
男は冷や汗さえ浮かベながら退出した。
この間、王女は一言も発せず、国王の視線を避けるようにその場にいたのである。
また二人になると国王はその表情と同じ、ぞっとするような声で言った。
「説明してもらおう」
王女はこれ以上相手を怒らせないように注意しながら言った。
「つけ加えることは特にない。今の報告が真実だ」
「結構な話だな」
吐き捨てるような口調だった。
そう、国王は全身で怒っていた。
自分が憎いなら憎いでいい。だが、王家にも血のつながる大貴族が自分を倒すために外国と渡りをつけるとは何たることか。
大国タンガが何の見返りもなしに他国の内情に干渉するはずがない。国王を倒した暁にはデルフィニア領の一部をタンガに譲渡するくらいの約束は交わしているはずだ。
権力欲しさに国土を外国に売り渡すとは魂を売り渡すにも等しい行為ではないか。そこまで自分が気に入らないならなぜ面と向かって諫言《かんげん》してこない。
できないのだ。彼らは自分たちの望みが正当性を欠いている事を知っている。知っていて認めまいとしている。目先の欲と国王への不満に駆り立てられ、失墜させるためなら何でもやる気だ。
国王は大声で叫びたかった。誰が好き好んで王冠なんぞ欲しいと言ったのだ。
しかし、国王のその憤怒は彼らには届かない。いらないなら自分たちによこせと臆面もなく言うだろう。彼らに渡せば食い荒らされるのが目に見えているから仕方なく持っているというのに。
たくましい全身に怒気を這《は》わせている国王に、王女はそっと声をかけた。
「家柄大事の連中はお前が庶子だというだけで従うのがいやなんだ」
「わかっている」
凝り固まった肩をほぐし、少し息を吐いて国王は言った。
「そんなことはわかっている。デルフィニア人の魂を売り渡してまで俺を追い落とそうという執念に呆れたまでだ。しかし、お前の暗殺はどうしてだ?」
王女は首をすくめた。これを話せばまた別の理由で怒り狂うことは目に見えていたからである。かと言って黙っているわけにもいかず、魔法街の老婆が語った王女暗殺の理由を慎重に語った。
はたして国王は呆れたような顔になると椅子の上でゆったりと体を伸ばしたものだ。リラックスしているようにも見えたが、黒い眼は宙を睨んだまま動かない。
誇りを傷つけられた獅子はやがて分厚い肩を揺らして低く笑った。ひどく静かな、それだけに危険な壮絶な笑いだった。
「無性に腹が立ってきたな」
「だろうな」
「お前がいなくなれば、お前が俺のもとから去れば、俺は政権を維持できなくなるとはな。よくもそこまで人を見くびってくれたものだ」
「同感だ。お前はもっと怒っていい」
王女もきっぱりと保証してやる。
「おれはただのきっかけだ。おばばがそう言った。それに気づかない外側の連中が馬鹿なんだ。それ以上に馬鹿なのが、そんな占いを真に受けて殺し屋を送りこんだマグダネル卿だ。どうする?」
「どうもこうもない。罪状ははっきりしている」
政権欲しさに自国の王女の暗殺を企み、あげくに隣国と通じるとは情状酌量の余地なしだ。極刑相当である。
「だから、どう処罰する? まさかこれを表沙汰にはできないだろう」
「できん。あまりにも悪辣にすぎる。従弟《いとこ》どのにも傷がつくことになりかねん」
まして今のところ証拠は何もないのだ。冤罪《えんざい》だと開き直られたらそれまでである。一つ間違えぱ反対勢力を調子づけるようなことにもなる。
国王はしばらく考えて言った。
「タンガの件は伏せておくとして、お前の暗殺を企んだ罪を問うてみるか。幸い、証人もいる」
「あの侍女のことか? マグダネル卿の名前なんか賭けてもいいが知らないぞ」
「自白したことにすればいい」
あっさりと言った国王に、王女はちょっと驚いてその顔を見つめたものだ。
普段はのんびりしているのに、ばか正直とも思えるほどの気性なのに、時としてこんな大胆なことを言ってのける。
温和な顔の蔭に隠して普段は見せないが、この男は間違いなく牙を持っている。
かと言って目的のためなら何でもやるというような破廉恥なところはない。牙を持ち、その使い方も知っている。この男がこうした非常手段をとる時はいつも理由があり、そうした時にはためらわないだけの意志も実行力も持っている。
外国と手を組み、自分の暗殺を企むような人間が、この男の何分の一かでも真似できるものならやってみせてもらいたいものだ。
まじまじと見つめられて、国王は不思議そうな顔になった。
「なんだ?」
「何でもない」
王女はここで老婆の言葉を思い出し、国王に問いかけた。
「ウォル。お前、ファロットって知ってるか」
「いいや? 初めて聞くが、地名か、人名か?」
「わからない。王宮で聞けばわかると言われたんだがな。それがおれを狙っていて、あの侍女もその一人なんだそうだ」
この情報は国王には無視できないものだった。身を乗り出した。
「すると、あの侍女が失敗しても次が来るということか?」
「そういうことになるだろうな。しかも、あの言い方だと相当に物騒な連中らしい」
銀髪の侍女を見ているかぎりとてもそうは思えないのだが、たった今、老婆の言葉の正しいことが証明されたばかりである。あの口ぶりだとその連中に狙われたものは確実に命を落としているらしい。
お前さんならあっさり倒れたりはせんじゃろう。
これはつまり王女ならば極めて珍しい例外になれるだろう。そういう意味だ。
国王も何か考えこんでいる。
「王宮で聞けば、か。俺はこの王宮に入って数年にしかならん。古株に聞いてみるベきだろうな。生き字引なら二人いるが、男の領分だろう」
そうして国王の宰相であるブルクスが呼ばれたのである。
前国王の懐刀であったブルクスならば、カリンと並んで確かに王宮の生き字引とも言える存在だ。
夜中どころか明け方に近い時間だったが、忠義者のブルクスは驚いた様子もみせず、きちんと衣服を調えて、国王と王女の前にやって来た。
先ほど急使がついたことはブルクスもすでに耳にしている。何を言われようと動転せずに対処するのが務めとばかり、落ち着き払って王女の勧める椅子に腰を下ろしたが、その落ち着きも国王がくだんの名を口にするまでだった。
ひょろりと痩せて風采こそ上がらないものの常に泰然としている古強者の宰相の顔から一気に血の気が引いたのだ。しかもだ。
「そのような名前に心当たりはございません」
というのである。
王と王女は眼と眼を見交わしたものだ。
王女が言う。
「ブルクスにしては下手な嘘だな。それともおれの前では言えないことなのか?」
「いいえ。滅相もございません。事実、心当たりはありませんので……」
国王がここで口を挟んだ。
「ブルクス。知っているなら隠さずに話してくれ。王女の命に関わることだ」
「おれはそう簡単に殺されたりしないけどな」
「しかし、一人や二人ではないのだろう? いくらお前でも物量戦術で来られたら……」
不利だ、と国王が言いかけた時、ブルクスが小さな悲鳴をあげた。蒼白になった顔がほとんど必死の形相に歪んでいる。
二人のほうが驚いた。
この侍従長がここまで感情をあらわにすることはめったにないと言っていい。今でも名外交官として鳴らしているブルクスである。外交の席で表情を読まれることは負けを意味する。
そのブルクスが緊張にはちきれそうな表情をしているのだ。
「姫さまのお命に関わるとは……、どういうことでございましょう?」
「そのファロットとかいうものが王女の命を狙っているのだ」
「ですが……ですがいったい、それが姫さまのお命を狙っていると、そんなことをどうして知ることができたのでございますか」
「魔法街で聞いてきた」
王女の答えにブルクスは意外とも思える大きな安堵の息を吐き、笑顔になって膝を打ったのである。
「姫さま。脅かさないでくださいまし。あんなところで耳にしたことを真に受けるとは、いつもの姫さまのなさりようとも思えません。からかわれたのでございますよ」
「おれが言うのは普段は見えない本物の魔法街だ」
再びブルクスの表情が凍りついた。
椅子から腰を浮かせかけ、自分の横に立っている王女の姿を上から下まで、穴の開くほど凝視した。
「あなたは……、そこへ入られたのですか?」
「知ってたのか?」
王女のほうが驚いた。
老婆の話では滅多に人前に姿を現さないとのことだった。同様に国王も驚いていた。
「宰相はそれが存在することを知っていたのか。そのファロットといい、なぜ今まで言わなかった」
ブルクスは王女の顔を見上げたまま唇を震わせていたが、やっとのことで国王に視線を戻した。
大きく呼吸を整えて言う。
「陛下。申し訳ありません。ですがあの、人の噂で稀にそうしたことがあるのだということは知っておりました。彼らは時々そうした気まぐれを起こすのです。あるはずのない通りを見たと言う市民も過去には何人かいたと聞いております」
これでは質問の答えになっていない。しかし、ブルクスには王女がそこへ入ったということが何より重要らしい。自分に言い聞かせるように言ったものだ。
「おそらくは姫さまもそうした気まぐれに迎え入れられたのでしょう。お気の毒ですが、二度とそこへ立ち入ることはかないますまい」
「いつでも歓迎すると言われたんだがな」
王女の呟きはまさにとどめで、宰相を完全に打ちのめしてしまったらしい。なんとブルクスは床の上にへなへなと崩れ落ちたのだ。
「ブルクス?」
国王のほうが驚いた。貧相に見えるがこの宰相の肝の据わり具合は王国でも屈指のものだ。
そのブルクスがこんな失態を見せたことに王女も慌てて、痩せた体を抱き起こした。
気つけの酒を飲ませてやると、ブルクスはまだ体を震わせながらもしゃんと背を伸ばして、急いで居住まいを正したものである。
「も、申し訳ございません。御前でこのような失礼を……。お許しください」
「いいや。こっちこそ悪かった。そんなに驚くとは思わなかった」
謝る王女を再び腰を下ろしたブルクスはしみじみと眺め、感嘆を隠しきれない口調で言った。
「あなた様はやはり、ただのお方ではなかったのでございますな」
「あらゆる意味で、ただの人ではないと思うがな」
これは国王。
「陛下。おふざけになっている場合ではありません。これはたいへんなことです。真実の魔法街に自在に立入りを許されるなど、例がございません」
「たまに入った例ならあるのか?」
ブルクスは頷いて言ったのである。
「歴代の国王の中でも名君と名高い方だけが数人、実を申せばドウルーワさまもたった一度だけ、そこへ入られたことがあるそうでございます」
驚きに目を見張る国王の横で王女が冷静に呟いた。
「おばばの話とだいぶ違うな」
「どういうことだ?」
「世情には関与しないのが原則と言ってたのに、国王なんかを招き入れたら口から出てくるのは政治情勢一辺倒じゃないか」
「そのとおりでございます。ドウルーワさまがどうして魔法街などに足を向けられたか、私は存じません。それこそただの気まぐれであったのかもしれません。その時は何か他愛もないことをお話しになったそうですが、戻ってこられたドウルーワさまは感服しきっておられました。まさに本物だと。こんな近くに、自分の足下に、大陸を動かせるほどの賢者が住んでいたと。ですが、ドウルーワさまがその街へ立ち入ることができたのは一度きりでした。それ以後は二度と扉を開いてはくれなかったそうです。もちろんドウルーワさまは魔法街の調査に乗り出し、正確な地図をつくらせ、場所を特定しようとしたのですが、調ベれば調ベるほど、自分が立ち寄ったのは『存在しないはずの通り』であったと……、そうおっしゃいました」
国王が顎をさすりながら言った。
「そう聞くと覗いてみたくなるな」
「今度一緒に行ってみるか?」
「ありがたいが、連れがいたのではそれこそ扉を開いてくれないのではないか」
「そうだな。客の礼儀にも反するな。じゃあ、今度行った時に、お前を同伴してもかまわないかどうか聞いてみる」
そんなのどかな会話の横で、ブルクスは急に表情を険しくした。
「その魔法街の者たちが、かの一族が姫さまを狙っていると告げたということは、もはや一刻の猶予もなりません。早速に身を隠してくださいませ」
「説明が先だ」
「そのとおりだ」
異口同音に二人は言った。
「だいたい、どんなものだか知らないがそう簡単におれが殺されると思うのか?」
ブルクスは深く息を吸いこんで、首を振った。
「姫さまのお力は充分承知しておりますが、かの一族が相手となれば、いささか分が悪いと申し上げざるを得ません。何となれば相手はこの世のものではない、死神でございます」
「それはどうだか。この世のものではないっていうけどな……」
あれはちゃんと生きていると言いかけたのを国王が制して黙らせた。
「詳しく聞こう。その一族が依頼を受注したのは間違いないが、幸い、まだ実際に王女暗殺に乗り出したわけではないからな」
平然と言う男に王女は目を剥《む》いたものだ。
確かに、その何とかがすでに王女の侍女として王宮に入りこんでいるなどと言おうものなら大騒ぎになる。隠しておくに越したことはないのだが、それにしてもよくまあとっさに言えるものである。
ひたすら感心している王女には気づかず、ブルクスは深い息を吐いたものだ。
「それは何よりでございます」
「なればこそ、いいか。ただちにそんな依頼を発注した人間を絞め上げ、依頼を取り下げさせなければならんのだ。わかるな?」
「はい、ですが……」
ブルクスはここでようやくいつもの自分を取り戻し、冷静に尋ねたのである。
「依頼主はわかっているのでございますか?」
「わかっている。だからこそ証拠が欲しいのだ」
「では、私の知っているかぎりのことをお話しいたします。その名はこの大陸の支配階級に属するものならば誰でも知るところでございますが、それでいてその名をはっきりと口にするものはまずないでしょう。あまりに呪わしい、いえ、汚らわしい名前だからでございます。その名はすなわち、暗殺を意味します」
ブルクスは一息ついて、恐ろしいような顔で言ったものだ。
「彼らの実態もどうすれば依頼をすることができるのかも私は知りません。名前こそ知れておりますが、その存在すら定かではないのです。正直に申しまして、ただの噂ではないかと思っておりました。あの、魔の五年間を迎えるまでは」
国王の顔が苦いものになる。
「前国王の王子王女が次々と命を落とした一件か」
「さようでございます。初めは……レオン王子様は本当に事故でお亡くなりになったのだと思います。ですが、レオンさまの死はドウルーワさまの逝去以上に王国に混乱をもたらしました。それと言いますのも、おわかりでしょうが、レオンさまの取り巻きとなっていたものたちが一気に力を失い、代わってエリアスさまに取り入っていたものたちが急に発言権を持つことになったのです」
王宮に仕える貴族にとって運命のわかれる一瞬である。彼らには自分の支持する『玉《たま》』が権力を握れるかどうかがすベてだ。昇進も栄達もライバルを蹴落とすことができるかどうかも、すベてがそこにかかっている。
無論、普通なら第一王子に取り入るベきなのは言うまでもない。だが、その位置はすでに大貴族たちに占められている。やむなくうまみの少ない第二王子につき、それでもなにがしかの恩恵には与《あずか》れるだろうと渋々これの面倒を見ていた連中は、突然の事態に小躍りしたに違いない。
ブルクスが冷ややかに言う。
「人間というものが時としていかに醜さをさらけ出すものか、長年の経験からいやというほどわかってはいたつもりですが、あの時の騒ぎは目に余るものがありました」
第一王子が死んだ。では第二王子に取り入ろう、では手遅れなのだ。第二王子のまわりには身分は低くとも永年親しく仕えてきた者たちがいる。父と兄に死なれて心細い王子が彼らを頼るのは当然であり、今になって擦り寄ってくるものなどを受けつけるはずがない。
そして『次期国王』の側近ともなれば栄耀栄華をほしいままにできる。
レオン王子の側近だったものたちにとっておもしろい事態のはずはない。歯ぎしりをしていたはずである。
第二王子はもともと病弱な質《たち》だった。だから、第一王子の死後半年と経たずに亡くなったのも、それほどおかしいとは言えないかもしれない。
男の兄弟が二人とも死んでしまうと今度は二人の王女が宮廷の権力争いに巻きこまれた。
そして、その王女たちも王座につくことなく命を落とした。
「二人の王子が亡くなり、これはさすがに危ないと、ルフィアさまの時もエヴェナさまの時も、私たちは細心の注意を払っておりました。口になさるものはもちろん、身につけられるものやお住居、詩歌音曲のお相手をするご婦人から身の回りのお世話をする女官に至るまで、女官長とも力を合わせて幾度も厳重に吟味をしたのです。それにも拘《かかわ》らず、あのような結果に……」
二人の王女は原因不明の病に倒れたのだ。国中の名医はもちろん魔法街からも何人もの祈祷師が呼ばれて平癒に全力をつくしたというが、そのかいなく二人とも息を引き取ったのである。
さすがに沈痛な表情のブルクスである。
「エリアスさまを除けば皆様ご健勝でいらっしゃいましたのに、わずか三年で王位継承者が四人でございます。とうてい自然の成り行きと納得することはできません。この王宮は一時期、疑心暗鬼の巣窟でございました。互いに互いを疑い、それでいながらはっきりと口にすることはできなかったのです。相手を罵れば同じ言葉を返されます」
国王が感心したように言った。
「よくまあ俺は殺されずに済んだものだ」
王女も冷静な感想を述ベた。
「この上お前まで死ぬのはさすがにまずいと思ったんじゃないか。どんな馬鹿でも何かの作為があることに気がつくからな」
ブルクスも頷いた。
「姫さまのおっしゃる通りです。私もこの時ばかりはしきりと囁かれているかの一族の存在を信じる気になりました。噂ではファロット一族とは死人の集団であるとも言われております。なればこそ壁をくぐり抜けて毒の息吹を吹きこみ、煙のように消え失せてしまえるのだとまことしやかに囁かれております。これは無論、彼らの手際のよさを誇張したものでしょうが、仮に二人の王女の暗殺が彼らの仕業であるとするなら、まさにその技は人知を超えたものだと言わねばなりません。下世話な言い方をお許しいただければ、その一族はこれと狙いをつけた相手を仕留め損なったことはないという一事をもって大陸中に名を知らしめております」
王女が呆れたように国王を見た。
「そんな有名人を知らないとは情けない王様だな」
「自慢ではないがスーシャは田舎だ。そういう華やかな話題には縁がない」
妙なことを力説する王様である。
ブルクス一人が緊迫の顔つきだった。
「陛下。私の申し上げることはこれですべてでございます。迅速なご決断をお願いいたします」
さすがはブルクスでくどいことは言わない。
王女の命は風前の灯火《ともしび》にも等しいのだ。すぐさま行動に移してくれというのである。
だが、国王は深く考えこんだ。
「つまりファロット一族というものは、その素姓も所在も謎に包まれているというのだな?」
「はい。何か彼らと連絡を取る手段があることは間違いないのですが、私も相当に深く調ベたのでございますが、残念なことに発見できずじまいです」
国王は黙って王女を見た。
やはりあの侍女を取り調ベてみてはどうかという無言の問いかけに、王女はやはり無言で首を振った。
それはいつでもできる。そう返したのである。
「とりあえず依頼主のほうを何とかしよう。だけど参ったな。ブルクスの話が本当なら、これも公にはできないじゃないか」
「まったくだ」
国王もさすがにげんなりした顔つきだった。
「処罰にも困る鬼畜の所業だ。罪を犯すなら犯すでもっと潔くやってもらいたい」
「潔い犯罪? そんなのあるのか?」
「まあ、潔くは言い過ぎだが、もっときれいにやってもらいたいと言うことだ。秘密裏に反乱軍を組織して俺をおびき出すくらいのことをやってくれれば敵として敬服できるものを、そんな怪しげな連中を頼んでまで娘のような歳のお前を狙うとは、情けないにもほどがある」
無茶を言うものである。
しかし、それが国王の偽らざる本心であることを王女はよく知っていた。そんなこそこそした陰湿なやり方は王女の性分にも合わないのである。
ブルクスは落ち着きを取り戻してきちんと椅子に腰を下ろしていた。
「陛下。よろしければ、その方のお名前をお聞かせください」
国王はとっさに返答できなかった。ブルクスはもちろん王国でも譜代の家臣である。心から信頼している相手だが、ことがことだけにためらったのだ。
しかし、マグダネル卿がタンガと連絡を密にしていることがわかった以上、黙っているわけにはいかなかった。低く囁いた。
「ブルクス。王女の暗殺以上に事態は厄介なのだ」
「もはや何を聞いても驚きはいたしません。ご遠慮なく」
「主犯はマグダネル卿だ。協力者として北部のメイスン男爵。しかもこの両名はタンガと密接に連絡を取っている節がある」
表情の消えたブルクスの顔の中で、両眼だけが、異様な光を放ったようだった。
「それではアエラさまも無関係ではありませんでしょうな」
「おそらくな」
「もう一つ、メイスン男爵がその陰謀に荷担しているとなれば、これと親しい人々が無関係のはずはありません。同様の理由でマグダネル卿に親しくしている人々、恩義を感じている人々を徹底的に調べる必要がありましょう」
「頼んでいいか。俺には誰と誰が親しいのか詳しいことはわからん」
「お任せください。ですが、肝心のマグダネル卿はどのように計らえば……?」
罪状は明白なのだ。捕らえて処罰しなければならない。だが、王宮の役人ごときに逮捕できる人物ではない。
家柄で言えば譜代中の譜代であり、血筋で言えば現国王の父親の又いとこにあたる人なのだ。
証拠がない以上、迂闊に処罰はできない。罪状を公表することもできない。そんな大人物が謀反を企み隣国と密約を交わしていたことが明らかになれば、デルフィニアは大混乱に陥ってしまう。
王女は注意深く国王を見つめていた。厄介なことになったと思うのは同じだが、この男がこの難事をどう片づけるのか興味もあった。
「一つ……」
国王は唸るように言った。
「一つだけ、思いついたことがあるにはある……」
「お聞かせくださいまし。相手がマグダネル卿では陛下がじきじきに裁断して下さらなくてはどうにもなりません」
しかし、そんなことをすれば今度は国王に対する悪感情が一気に激化する恐れが出てくる。
「あまり気持ちのいい手段ではない。それどころか我ながらひどい考えだぞ」
前置きして、国王は二人を相手に自分の考えを注意深く語ったのである。
それから数日、バルロが屋敷に閉じこめられてから十日目になって、王女はシャーミアンとイヴンを連れて一の郭《かく》のサヴォア館を訪れた。
「なんだって俺まで行かなきゃならないんです?」
と、イヴンは猛烈に抵抗していたが王女は意に介さなかった。
「まあまあ、せっかく王宮にいるんだ。騎士団長も退屈してるだろうからさ」
「お二人がご一緒なら私も安心ですわ。王宮にいながら顔も出さないではバルロさまに失礼ですもの」
と、今日はきちんと『女装』しているシャーミアンが言う。
栗色の髪を華やかに結い上げ、葉と木の実をかたどった宝石の髪飾りを挿し、仕立てのいい濃い緑のドレスに身を包んでいる。薄く化粧を施したところはどう見ても楚々《そそ》とした貴婦人だった。
王女がお世辞抜きに感心したくらいである。
「けっこう化けるよなあ。知らない人みたいだ」
「あら、姫さま。このくらいは女のたしなみです」
明るく言う。普段はズボンに革靴で通していても、絹のドレスは心地いいものらしい。
身分の高い人を訪問するのだからとわざわざ正装したのだが、王女のほうはそんな心配りは最初からする気がない。いつもと同じ、猟師の少年のような大胆な服装だった。
「姫さまも一度くらい、女の服を身につけてみればよろしいのに。きっと私以上にうまく化けることができますわ」
「まさかあ」
「冗談でしょう」
と、イヴンと王女が同時に言った。
一行の予想通り、檻の中の虎状態だったバルロはシャーミアンの訪問をそれはそれは喜んだが、イヴンの姿を見たとたん、いやそうな顔になった。
「どうしてお前までついてくる?」
「俺はシャーミアンどのの護衛です。どこかの性悪な騎士団長に引っかからないようにとドラ将軍からじきじきに頼まれたんです」
「つくならもっとそれらしい嘘にするんだな。羊の護衛に狼をつけてやるようなものではないか」
「ご自分のことは棚に上げてよくおっしゃいますな」
のっけから激しくやり合っている二人をよそに、王女とシャーミアンはナシアスとカーサを見舞ったものだ。
カーサはともかくナシアスは。バルロにつき合ってずっとこの屋敷に逗留しているのである。
「あんなうるさいのと四六時中一緒にいるんじゃ、たいへんだろう」
同情の念をあらわにして言った王女だが、ナシアスは首を振り、笑いながらそっと言った。
「さっきから急にうるさくなったんですよ」
カーサも同様に言ったものだ。
「いらしていただけて感謝いたします。このところ主人はひどく鬱屈しておりましたもので……」
その声には主人を気づかう気持ちがありありと現れている。
二人の話では、バルロは最初のうちこそ閉じこめられた不満から騒ぎ立てていたそうだが、それ以後はずっとろくにものも言わないような状態が続いていたという。
今までにも王宮中の貴族や貴婦人が続々と見舞いにやってきたが、あれほど外交的な男が口数も少なく、どんな美女の訪問にも鬱々《うつうつ》として楽しまず、逆に客のほうがそれを不機嫌と受け取り、気まずそうに引きあげていくのが常だったというのだ。
「本人には何も非がないのですから、ふさぎこむのも無理はないのですが、日頃が日頃なだけに皆様のほうが気を使ってくださいましてね」
シャーミアンを慮《おもんばか》り、わざと明るく言ったナシアスだが、バルロが爆発寸前の状態なのはわかりきっていた。この忍耐がいつまで続いてくれるかと肝を冷やしながら見守っていたらしい。
しかし、今のバルロは恐ろしく元気がいい。この控えの間にまで聞こえるほど激しくイヴンとやりあっている。
王女はバルロの相手をイヴンに任せてシャーミアンとともにさっさと控えの間に避難したのだが、あまりの威勢のよさにシャーミアンは不安そうだった。
「姫さま。お止めしたほうがいいのではないでしょうか」
「放っておきなって。いつものことだ」
「でも、今のバルロさまがお言葉をぶつけあうだけですみますでしょうか。イヴンどのもバルロさまのお立場に遠慮するような人ではありませんし……」
「大丈夫。バルロは武装してないし、イヴンも玄関で剣を預けてる。せいぜい殴り合いになるくらいだ。それもいいんじゃないか」
「いいえ。そんなわけには参りません。止めてきます」
シャーミアンは気づかわしげに席を立って勇敢にも別室に向かい、その後ろ姿を見送った王女は真顔で言ったものだ。
「喧嘩させるために連れて来たんだけどなあ」
ナシアスが小さく吹き出した。
「お心づかいありがとうございます。独騎長にはいささか申し訳ないようですが……」
「あれで結構薬しんでるんだから気にしなくていい。仲が悪いと思いこんでるのは本人たちだけだ」
シャーミアンが止めに入ったことで口論はますます激化したらしい。茶菓子を運んだ小間使いが慌てて逃げ出して来た。
その様子を気の毒そうに見送って、王女は不意にナシアスに視線を移した。
「ナシアスはバルロとはどのくらいのつき合いだ」
「さあ? かれこれ十二、三年になりましょうか。くされ縁というやつですかな」
「長さを聞いてるわけじゃないんだ」
ナシアスは茶器を持ったまま、水色の瞳に優しい微笑を浮かベて首をかしげた。
「ずいぶんと抽象的なご質問でお答えしかねます。具体的にはどのような?」
「仮の話、バルロがウォルと喧嘩するようなことになったらどっちを取る?」
ナシアスの顔から表情が消えた。
異様なまでにゆっくりと茶器を机に置き、ひたと王女の顔を見つめたものだ。
「冗談にしても少し度が過ぎますね」
「本気だと言ったら?」
王女は負けず劣らず真摯《しんし》な眼でナシアスを見つめていた。その表情のどんな変化も見逃すまいとするように。
ナシアスは狼狽して眼をそらし、深い息を吐いて言ったものである。
「その答えは保留にさせて下さい。陛下を、と申し上げるベきなのでしょうが……」
「言えない?」
「陛下への忠誠心を示せとおっしゃるのであれば、私はどんなことでもいたします。しかしながら、友人を裏切るようなことだけはしたくありません」
きっぱりと言い切ったラモナ騎士団長である。
王女は口元に淡い微笑を浮かベた。
こうした時の王女はとても十六歳の少女には見えない不思議な顔をする。
「バルロもそう思ってるかな?」
「さあ? それは……」
ナシアスは再び首をかしげた。
「何といっても私と違ってサヴォア公爵家を背負って立つ身です。私情を押し殺して王命に従う名誉を取るベきなのでしょうが、ご承知のように頑固な男です。前公爵がご存命の折にも面と向かって公爵を非難し、盛大な親子喧嘩を繰り広げたこともあるくらいですから、陛下のお言葉であっても己の理念に反するようであれば断固として拒むかもしれません。よくわからない男でしてね」
何を思ったかナシアスはくすりと笑った。
「失礼。バルロには内緒に願います。こんなことを言ったと知れようものなら後が怖い」
どう怖いのか何となくわかる。
王女は茶器を取って、急に話題を変えた。
「いつまでここにいるんだ?あんまり長くビルグナを留守にするとガレンスが心配するだろうに」
「ええ。私も気になってはいるのですが……」
顔を曇らせて言葉を切る。
王宮に留まるようにと国王が命じたわけではないのだ。騎士団長には騎士団領を監督する責任がある。副官に留守を任せてはいるが、ナシアスはその義務を放棄していることになる。
「今はそれ以上にエブリーゴが気になります。我がままであるとは百も承知ですが、バルロがマグダネル卿に抱いている感情は誠に穏やかならぬものがありますので、どうにも目を離し難いのです」
王女の緑の瞳が少し笑ったようだった。
「ナシアスは心配症だな」
対して優しい水色の目が苦笑する。
「相手があの男では……。姫さまはご存じないでしょうが、昔からこんな場面に直面するたびに何をしでかしてきたか。一晩かけて語ったところで語り切れないくらいの実績の持ち主です」
その物騒な実績の持ち主はイヴンを相手に同じくらい物騒な会話を堪能したらしい。いつ手が出ることかとはらはらしながら見守っていたシャーミアンはよくぞ穏便に済んだと胸を撫で下ろし、逆に執事のカーサは、こんなに楽しそうな主人を見るのは久しぶりだとわざわざイヴンに礼を述ベたのである。
「ここの屋敷の人たちに同情しますぜ、俺は」
息を切らしながらイヴンは言った。
同じく息を切らしながらバルロは二度と来るなとイヴンに釘を差したが、シャーミアンには丁重に手を取り、またいらしてくれるようにと声をかけたのである。
「それじゃ、また来なけりゃなりませんな。シャーミアンどのお一人で、こんな色魔の巣窟によこせるもんですか」
「馬鹿め。巣窟とは隠れ家のことを言うのだ。俺は色魔でもなければ逃げも隠れもせんぞ。貴様のほうこそその山賊の巣窟で何をしているか怪しいものだ。ぜひとも一度監査する必要がある」
「おお。いらしてもらおうじゃありませんか。ただし、俺たちの住み処にたどり着く前にふんぞり返った鎧の重さでタウを真っ逆様に転がり落ちなけりゃですがね」
辞去する間際になってまでこれだ。さすがに王女が割って入り、睨み合っているバルロとイヴンを引き離した。
「王女。邪魔をせんでいただきたいですな」
勢い余って今度は王女に噛みつく。
「まあ、いいから。あれだけやりあえば気も済んだだろう。それよりちょっと話がある」
「何です?」
「いいからちょっと、二人とも先に帰って。おれは騎士団長に話がある」
イヴンとシャーミアンに声をかけておいて、王女はバルロを促した。ナシアスはもちろん、カーサや小間使いからも充分離れてから、つまり誰にも聞かれないところへ引っ張ってから囁くように言った。
「騎士団長の寝室はどこになる?」
「おや、嬉しいことを。夜這いでもかけて下さるのですかな?」
冗談で返したバルロだが、王女は真顔で頷いた。
「あたり。今晩夜這いに行くから窓を開けておいてもらいたい」
バルロの眉が跳ね上がる。
王女の顔は真剣そのものである。
バルロの大きな肩と広い背中は王女の姿を完全に人の視界から隠している。縦横の均整の取れた巨大なまでの体躯が、王女の細い体を押しつぶさんばかりだった。どんな女でもなにがしかの動揺、戸惑いやためらい、もしくは差恥や期待、そんなものを抱いて当然だろうが、緑の瞳はあくまで落ち着いて男を見上げている。
これを見下ろす黒い眼は訝しげな光を残していたが、やがて同じように声を落として囁いた。
「南棟の二階、左端です。目印に窓の外に樫の木が立っています」
「好都合だな」
「抜け出すのに便利でしてね。王女なら楽に入れるはずです」
「わかった。誰にも内緒で」
もとよりまともな夜這いのはずがない。バルロも心なしか緊張の面持ちで頷いた。
王女が帰った後でナシアスが、
「先程、姫さまと何を話していたのだ?」
尋ねたところ、
「いや何。あまりシャーミアンどのを心配させるなと釘を差された。俺があの麦わら頭に本気で決闘を挑むのではないかと案じたらしい。勇敢な女騎士でもそういうところが王女と違ってかわいいわ」
いたって平然と答えたのである。
その頃、れていた。シェラはコーラル下町の小さな寺院を訪
祭神はポンティウス。もっともこんな立派な名前ではなく『お針さま』という愛称で親しまれている。
その名の通り針とかまどを司り、家内を司る、つまりは女たちのための神様だった。
そのせいだろう、男たちが好んで赴くオーリゴやヤーニスの神殿と違って寺院と言うのもはばかられるような、こぢんまりとした造りである。場所も買い物に便利な市場のど真ん中にある。
『お針さま』はどこの町でも女たちが寄り集まって井戸端会議を開くのに格好の場所だ。針を扱う女の仕事に定年も年齢制限もない。ここには縫い物を習い始めた六歳の幼女から八十の老婆までが気軽に顔を出す。
先日、コーラルのポンティウス寺院には新しい司祭が赴任した。
といってもその性格上、懺悔《ざんげ》の場も愚痴を聞いてもらうためにあるようなものである。
ましてや今度の司祭はよぼよぼの老人だった前任者と違って歳も四十そこそこと若く、清げな顔立ちに穏やかな物腰の『いい男』とあって、あっという間におかみさんたちの人気者になってしまった。
懺悔待ちの行列ができるというのも『お針さま』ならではの光景だが、混む時間ははっきり決まっていた。夕方の食事時ともなれば女たちは寄り道をしている場合ではない。この時ばかりはポンティウスの神殿もがらんとしたものである。
今、シェラは懺悔室に入り、新任の司祭と二人で話をしていた。
穏やかな笑顔の司祭が慰めるように言う。
「お仕事が滞っているようですね」
「おっしゃるとおりです。お力をお借りしたく思い、恥を忍んでこうして参りました」
眼を伏せたままシェラは言った。
一日あれば充分な仕事のはずだった。それだけの修練をシェラは積んでいる。同い年の少女など自分の相手になるわけがない。そう信じて疑わなかった。
なのに、賭けの期日は残り半分に減っている。
これが相手を油断させるための準備期間ならばかまわない。時には半年から一年をかけることもある。
だが、実際に命を絶つ作業に入ってから実に十日にもなるというのに、シェラはあの王女にとどめをさせないでいるのである。
これは『あってはならない』ことだった。
毒物が効かなければ刃物を用いるしかない。あれだけ隙だらけに見えるのだから簡単にできると思っていたら、これが大間違いでやらせてくれない。
相手は特に構えているわけではない。護衛兵を傍に置くわけでもなく、隙を見せないようにしているわけでもない。平気で近寄ってくるし、平気で横になるのだ。
そこで、これならやれると隠し針を掴んで構えた時にはもう手遅れなのだ。ある時は不意に起き上がり、ある時は間合いを外される。そうして、まるで獣のように緑の瞳を煌《きら》めかせてこちらを見ている。
そのたび、手と心臓が凍りついた。
三日前からシェラはとうとう西離宮に住みこんで隙を窺っているのだが、どうしてもできない。
日を重ねるにつれて今まで経験したことのない感情がふくれ上がっていった。焦りでもなく苛立ちでもない。驚きでもない。困惑しているというのが一番近い。
「私にはわからないのです。こんなことはあってはならないはずなのに……」
「そのとおりですよ。名誉ある使い手の一人であるあなたが、十六の少女を相手に後れを取るなどとは、決してあってはならないことです」
「司祭さま」
可憐な娘そのものの顔で、シェラは司祭にすがるような眼を向けた。
「どうかお教え下さいませ。あれはいったい何者なのでしょう?」
「あなたの目に映る通りのものですよ」
「そんなはずはありません。私の眼に映ったのは行儀の悪い、男のような服装をして男勝りの口をきく十六の娘です。でも、それならどうして、私はあの王女を殺せないのでしょう?」
心底、納得できないふうにシェラは尋ねた。優しい紫の瞳はどうしようもない深い困惑に濡れんばかりだった。
司祭は困ったような顔になった。
「そう。あの娘は少しばかり剣を遣いますね」
「はい。でも、それだけでは説明がつきません。あの娘以上に剣を遣う騎士を私は何人も相手にしています。そのどの時でも、こんな気持ちになったことはないのです」
「今度の仕事では着手から失敗をしたのでしたね。そのことがあなたの技を鈍らせているのでしょう。恐れることはありません。いつものように落ち着いて務めを果たせばよいのですよ」
「はい」
「それに、今度の場合は相手もあなたが何であるかを知っているのですから、まったく警戒しないということはあり得ません。あなたはその警戒心を意識しすぎているのではありませんか」
「はい……」
そう答えはしたが、司祭の言葉には素直に頷けないものがある。
あの王女は本当に自分のことを警戒しているのだろうか。
警戒するに足る危険な存在だと認識してくれているのだろうか。
司祭はさらに慰めるように言った。
「今日いらして下さったのはちょうど良かった。今夜にでもあなたのところへ人をやろうと思っていたところなのですよ」
「私に何か……」
司祭は身をかがめ、大きな特権を与えるときのような口調で言った。
「あの方々からお言葉がございます」
シェラははじかれたように顔を上げた。
「あの方々が、私に、わざわざ?」
「ええ。あの方々も今度のあなたの仕事が簡単には済まないことは承知のご様子。剣を取りあげうとのお言葉でした」
「剣を?」
「はい。正確には、あの剣を取りあげろ、と」
シェラは少し黙りこんだ。
あの方々とは、まさに彼らの守り神である。明確な意志を持ち、めったにないことだがこうして助言もしてくれる。
しかし、これはずいぶんと乱暴な話である。助言にもなっていない。
あの王女から剣を取りあげうというのは、女豹《めひよう》の牙を気づかれぬうちに抜けというに等しい離れ業だ。
しかし、彼らの言葉は絶対である。逆らうことはできない。それ以前にこれに逆らえるような下地をシェラは持っていない。感謝の言葉を述ベるとともに、丁重に頭を下げたのである。
「ご指導、ありがとうございました」
司祭は満足そうに微笑んだ。慈愛に満ちた顔だった。
「あなたがいつものようにお務めを果たされることを祈っております」
「はい。この次こそは必ず芳しい報告を持って参ります」
「楽しみにしております。私ばかりではありません。あの方々もあなたには大きな期待を抱いておられますよ」
司祭の言葉は神殿を立ち去るシェラの背中にやんわりと覆いかぶさっていった。
あとがき
私はプロットが書けません。
プロットとはああなってこうなってこういう展開になってこう終わる、というものです。(と、私は解釈してます)
普通、書き始める前にこのくらいは決めなきゃいけないんですが、たまにはできる時もありますが、滅多にできません。たいがいいきあたりばったり方式です。
今回はそれが特にひどかった。いつも書き始めでは死ぬほど苦労しますが、とにかく話が出てこない。どうやらこっちらしい、次はあっちらしい、こんな面倒なことは書きたくないけど書かなきゃいけないらしい、と勘だけを頼りに書き続けていたら、一冊埋まってしまいました。わーははは。(笑ってごまかす)
今回も「タイトルは?」と聞かれました。これも頭が痛いです。誰か代わりに考えてくれないでしょうか。いっそ一般公募したいです。
思いつきで「閉じ込められっぱなしのバルちゃん」か「蒼ざめる骸骨」と答えたら、担当さんは頭を抱えながら(見ていたわけではないが多分そうだと思う)「その中間くらいのはないですか?」と、おっしゃいました。
中間? 骸骨とバルロの中間ねえ? 考えつかなったので結局リィになりました。
ところで読者の皆様。この作品のシリーズタイトル、何だかわかります?
正解は『デルフィニア戦記』です。
何を言うのかと思うでしょう? でもいただくお手紙の中に間違いが結構あるんですよ。一番多い、いわば初級が『ディルフィニア』、デとルの間に小さなイが勝手に増えてしまっている。中級になると『ディルファニア』、フと二の間のイがアに化けてしまっている。
さらに上級の間違いになるとその名も『ディルファルニア』。うーむ……。すごい。
口に出して発音すると「でいるふあるにゃー」としか言えないわ。
というわけでこれからも『デルフィニア戦記』をよろしくお願いします。
一九九四年 十一月 茅田砂胡
◎1994年
異郷《いきよう》の煌姫《こうき》
デルフイニア戦記5
1994年11月30日1994年12月10日
著 者 茅田《かやた》 砂胡《すなこ》
発行者 嶋中行雄
本文印刷 三晃印刷
カバー 大熊整美堂
製 本 小泉製本
発行所 中央公論社
〒104東京都中央区京橋2-8-7 振替00120-4-34 Printed in Japan ISBN4-12-500321-1
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