空漠の玉座 デルフィニア戦記4
茅田砂胡
挿画 沖麻実也
地図作成 矢口 令
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目次
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ウォル(ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン)◎現デルフィニア国王。ただし改革派に座を追われ、流浪の身である。デルフィニア王家の紋章の獅子を掲げている。
リィ(グリンディエタ・ラーデン)◎異世界から落ちてきた少女。華奢で可憐な外見とは裏腹に無双の剣の腕と戦士の魂を持つ。
イヴン◎タウの自由民。ウォルの幼なじみで、親衛隊長を務める。
フェルナン伯爵◎ウォルの養父で後見役。北の塔から脱出したが、死亡。
ドラ将軍◎伯爵。フェルナンの親友。
シャーミアン◎ドラの娘。女騎士。
バルロ◎サヴォア公爵。ティレドン騎士団長。
ナシアス◎ラモナ騎士団長。バルロの親友。
ブラン ニモ フレッカ サルジ ジョグ ダリ アザレイ◎タウの自由民。親衛隊士。
ガレンス◎ラモナ騎士団副団長。
アスティン◎テイレドン副騎士団長。
タルボ◎ドラの副官。
ルカナン◎近衛兵団第一軍第二連隊大隊長。
ブルクス◎侍従長。先王時代は優秀な外交官であり側近でもあった。
アヌア侯爵◎前・近衛兵団司令官。国王派。
ヘンドリック伯爵◎国内屈指の豪傑で、国王派。近衛兵団司令官代理。
カリン◎女官長。
ペールゼン侯爵◎ウォルを追放した改革政府派の中心人物。
タミュー男爵◎財務長官。改革政府派。
チフォン◎タミューの息子。改革政府派。
ジェナー◎祭司長。改革政府派。
ドゥルーワ王◎先代デルフイニア国王。7年前に逝去。
アエラ姫◎ドゥルーワの妹。バルロの母。
その日、マレバを前にした国王軍の陣地は、一種異様な雰囲気に包まれていた。
陥落寸前に思えたマレバは昨日の深夜から急に活気をとり戻し、対して国王軍の内部には何か重大な事態の変化があったらしい。
「自分にはどうもその……よくわからんのですが、ヘンドリック伯爵は、アヌア侯爵から全権を委任されているとおっしゃるのですが、しかし、いったいどういうことなんでございますか?」
ルカナン大隊長はしきりと首をひねりながら国王に訴えた。
昨夜、突如、国王軍の陣営を訪れたヘンドリック伯爵は、ルカナン大隊長に、国王軍を離れて自分の指揮下に入るようにと命じたのだが、大隊長にしてみれば納得がいくはずもない。近衛司令官といえども国王の傘下に入ることは明白である。そして今の大隊長はその国王軍の一角を成しているのだ。にもかかわらずヘンドリック伯爵は国王軍を離脱するようにと言うのである。
命令第一が建て前の近衛兵団だが、ルカナン大隊長はこの命令にすぐには従わなかった。
従うことができなかったと言うべきだろう。
ルカナン大隊長はひとまず自らの行動を保留し、夜の明けるのを待って国王に目通りを申しこんできたのである。
「|僭《せん》|越《えつ》ではありますが、陛下。ご命令をいただけますでしょうか」
朝食をすませたばかりの国王は、いつもと変わらない様子で微笑みかけた。
「命令をしろとは? 大隊長」
その様子があまりに穏やかなので、大隊長のほうが困惑している。
「その……つまり、司令官の命令は陛下のご意志であると考えてもよろしいのでしょうか?」
「ヘンドリック伯爵に紫紺の外套を着せかけたのは他ならぬアヌア侯爵だと聞いている。だとすれば、大隊長は伯爵の命令に従わなければなるまい」
「ですが……」
大隊長はまだ不審そうな顔だった。
将校として司令官に従いたいのはやまやまなのだが、国王はその司令官に対して命令権を持っているはずである。それなのに何故、司令官に対して遠慮するようなことを国王が言うのか、大隊長にはわからなかった。
もしかしたら自分は何か不興を買って|体《てい》よく追い払われるのではと、ルカナン大隊長は不安に思い、不満も感じていたのである。
それがわかったのか、国王はことさら穏やかに、話しかけた。
「すまない、大隊長。今は詳細を語るわけにはいかないが、少しばかり扱いの難しい問題になりそうなのだ。ここで|快《たもと》を分かつこととしよう。ヘンドリック伯爵の指揮下に入ってくれ」
「は……」
「個人的にはたいへん残念だ。貴君に連隊長の外套を与えるのを楽しみにしていたのだがな。今日までの貴君の協力を深く感謝する」
こう言われてしまっては異議を唱えるわけにもいかない。大隊長はわけがわからない様子ながらも国王の前から引き下がっていったのである。
その姿が見えなくなると、国王の横に黙って控えていたイヴンが小声で注意した。
「お前、ものの言い方には気をつけろ。あれじゃあ、自分には連隊長の資格を与えることができなくなったと白状してるようなもんだぞ」
「そのとおりではないか」
「あのな、ウォル」
イヴンは顔をしかめて、椅子に腰を下ろしている幼なじみを見下ろした。
「目を覚ましな。それは内証で秘密で口外厳禁なんで、ついでに言うならそんな事実はなかったんだ」
「無茶を言うな」
こらちも先程の温和な表情とはうって変わって、憮然とした顔である。
「いつまでもこんなことを隠しておけるものか。俺はさっさと公表して片をつけてしまいたい」
「そんなことをして何の得になるっていうんだ?」
「利得の問題ではない。信義問題だ」
「いいかい。王様」
イヴンはちょうど手元にある男の頭をくしゃりと掻きまわし、物覚えの悪い子どもにやんわりと言い聞かせるように言った。
「正直も時によりけりだ。世の中にはな、ついちゃいけない嘘と、つきとおさなきゃいけない嘘ってものがあるんだよ」
国王が反論するより先に、大隊長と入れ替わるようにやって来たリィがこの言葉を聞きつけて、感心したように頷いた。
「いいこと言うね」
それから憮然とした顔の男を見て小さく笑った。
「この王様は、ずっとこんな仏頂面をしてるのかな?」
「ああ。起きてからずっとな。よほどご機嫌が悪いらしい」
「誰のせいだ」
ぶっきらぼうに答える。
「リィ。お前もお前だ。二人でコーラルを目指そうという話はどうなった?」
「そう言うけどね。常識で考えてみれば、二人きりであのコーラル城に忍びこんで、ペールゼン侯爵を叩き斬って、なおかつ生きて出て来るっていうのはいくらなんでも無理があるよ」
「バルドウの娘が何を情けないことを。お前は北の塔の地下へ潜ってやすやすと出て来たではないか」
「頭を冷やしなってば。王宮の片隅に建ってる立入禁止区域の北の塔と、ど真ん中の執務室じゃ話がまるで違うよ。ペールゼンのところにたどり着くまで誰にも出くわさないですむわけがない」
「しかしだな……」
男はなおも不満げに何か言いかけたが、少女はこれも小さな手で男の頭を掻きまわして言ったものだ。
「あのね。この王様はペールゼンさえ倒せればその場で殺されてもいいと思ってるのかもしれないけど、ぼくは違うんだ。心中も|犬《いぬ》|死《じに》も遠慮したい」
「そうだ。遠慮するべきだ」
イヴンが調子をあわせた。
「そのためにはお前は王様でいるべきなんだよ。少なくとも改革派をぶっ倒す時まではな」
左右から実に息の合った攻撃を受けて、男はまた憮然と黙りこんだものだ。
昨夜、自分の素姓を知ったこの男は、即刻、国王軍を離れてコーラルへ向かおうとしたのだ。
居合わせた少女が制止するのも聞かず、ちょうどそこへやって来たドラ将軍とナシアスにも丁重に頭を下げ、別れの挨拶を述べた。
「お二人とも。長い間、自分のような若輩につくしてくださり、ありがとうございました。自分はこれより単身、父の仇を討ちにコーラルへ参ります。もうお目にかかることもないでしょうが、これまでのご恩は忘れません」
二人とも血相を変えた。
「陛下!!」
「俺はもうそんなものではありません。生まれも両親の名も知れぬ卑しい自由戦士です。お二人とも、反乱軍の仲間にされぬよう、急ぎ、ご自分の領地にお帰りください」
「陛下、お待ちください! まだ真偽は何ともわかってはおらぬのです! 何とぞそのような軽挙はお慎みください!」
ドラ将軍が言えばナシアスも、
「陛下が単身コーラルへ向かわれたとなれば、この軍勢は大混乱に陥ります。我々が領地へ引き揚げればすむという問題ではないのです!」
必死の様子で男を説得した。
少女もまた、いますぐにでも天幕を飛び出そうとする男の前に立ちふさがった。
「この馬鹿が。たった一人で何ができるっていうんだ。急がばまわれだ。確実にフェルナン伯爵の仇をとろうと思うのなら、まずは改革派を倒すことだ。そのためにはどうしてもこの軍勢が必要になる。この軍勢を動かすためにはどうしても王様が必要なんだ。この際、事実は横においといて、お前はもうしばらく王様でいるべきなんだ」
「俺はそんな詐欺は好かん」
「好き嫌いの問題じゃない!」
聞いた二人は力強く頷いたのである。
二人とも、この少女が問題の事実を知っていることに気づいたが、その立場を問いただす前に少女は自分から語ってくれたのだ。
「まったくです。陛下。好き嫌いの問題ではありません」
「私も、バルドウの娘の言うとおりだと思います」
実に三人がかりの説得だが、男はそれでも頷こうとはしなかった。
「いいや。今まで俺が頼みとしてきたものは、まさに王家の血筋であり、前国王の遺児であるという、一事のみだ。この軍勢も俺を国王の|落《らく》|胤《いん》と思えばこそ集まってくれたものだ。こうして事実が明らかになった以上、何食わぬ顔で国王を務めることはとうていできるものではない。俺はここで退散する」
「ちょっと待てって言うのに!」
少女がさすがに苛立って体格の差をものともせず、男ともみあいになった時、イヴンがふらりと現れたのだ。
幼なじみの気安さからか、見張りの姿が見えないとなると、こうして無断で押し入ってくるらしい。
が、さすがに、その場の異様な雰囲気に目を丸くした。
もう夜も更けているというのに国王は外套を身につけて剣を腰にし、少女がその腰帯を掴んで後ろから引き止めている。ドラ将軍とナシアスも何やらただならぬ様子で血相を変えている。
「……お邪魔でしたかね?」
ドラ将軍とナシアスは慌ててその場をとりつくろおうとしたが、少女はこの山賊あがりの親衛隊長を仲間はずれにするつもりはなかったようである。
「ちょうどよかった。イヴン。ひとつ訊いてもいいかな?」
「なんだい?」
「もしもの話だけど、ウォルが前の王様の子どもでないとしたら、イヴンはどうする?」
山賊の碧い眼が鋭く光った。次いで何かを探るような色になって苦い顔をしている将軍とナシアスを見やったが、すぐにくすりと笑った。
「俺にゃあ別に関係ないね。俺の知ってるのはもともとただの幼なじみだ。どういうわけか、そいつに王冠がくっついてることになっただけの、な」
「くっついてなくても別にかまわない?」
「あたぼうよ。王冠つきでなくなったら別人になっちまうとでも言うのかい?」
これを聞いた当の王様は楽しそうな太い笑いを洩らしたものだ。
「まさかの時の友というのはありがたいものだ。ではさっそくコーラルへ向かうとしようか」
「だからちょっと待てってば! イヴン、止めて! この馬鹿、今からコーラルへ乗りこんでペールゼンを叩っ斬るって言うんだよ!」
「なんだとお?」
|訝《いぶか》しげな顔になったイヴンだが、強く酒気の漂う男の様子に眉をしかめて少女に問いかけた。
「待てよ。もしかして……。おい、こいつ、どのくらい空けてるんだ?」
「あれ全部だよ」
そう言って指し示した酒瓶の山を見て、イヴンは目を見張り、納得したように言った。
「やっぱり。お前、酔ってるな」
「俺は正気だ」
男は平然と言い返したが、イヴンはぴしゃりと自分の額を叩いたものだ。
「だめだ、こりゃ。完全にいっちまってるわ。早いとこ寝かしつけたほうがいい。何をしでかすかわかんねえぞ」
「そうなの?」
少女のほうが驚いて、捕まえた男を見上げたものだ。
「いちおう正気に見えるけど?」
「だから始末が悪いんだ。酔ってなきゃいくらこの馬鹿でもそんな無謀を言うもんか。だいたいクコ酒を五本も空けて正気でいられる奴なんかいやしない。立ってるだけでも不思議なくらいだぞ」
言われてナシアスが酒瓶の残り香を嗅ぎ、おおいに納得した様子で頷いた。
「確かに……」
「一本空けりゃあ大の男でも転がるやつです」
「俺は酔ってなどいないというのに」
あくまで主張する友人にイヴンは軽く首を振った。
「いいから。今日のところはおとなしく寝な。話は明日だ」
「そうです。陛下。お休みください」
ドラ将軍も急いで言葉をはさんだが、男は頑固に首を振った。
「俺はもう陛下などではありません。そんなことよりも、あのペールゼンにこれ以上、一日たりとも息をさせておくわけにはいかないのです」
そう言って出て行こうとした男の首を、イヴンががっしり捕まえて力ずくで押し戻した。
「手のかかる王様だな。いいからおとなしく寝うってんだよ」
手早く男の腰から剣を抜き取り、少女に投げて寄越す。それから実に見事な手際のよさで、男の体をくるりと反転させ、寝台へと押しやった。
男はそれでもしばらく文句を言い、抵抗していたが、やはり酔っていたらしい。横になるとすぐに寝息をたてはじめた。
そうして男を寝かしつけてやると、イヴンはドラ将軍とナシアスを振り返った。
「こいつは俺が見てますから下のほうをお願いしますよ。何だか妙な気配ですぜ」
「うむ。ヘンドリック伯爵のことだな?」
「ええ。こんな夜分でもあの外套は目立ちます。それにマレバのほうでも動きがあったようで……。見張りが駆け戻って来て言うには、幽閉中のはずの騎士団長らしいのが現れて城門を潜ったんだそうで。雑兵ばかりかタルボとガレンスの旦那たちまでもがどういうことなのかと不安がってます」
その不安を鎮めるのが大将の役目である。二人は固い顔つきで頷いて引き揚げかけたが、ドラ将軍が振り返ってこんなことを言った。
「二人とも。その不安の原因については詳細不明ということで了解願えるかな」
「俺は何も聞いちゃあおりません」
イヴンが|瓢《ひょう》|々《ひょう》と言えば、少女は首をかしげて、
「改革派が何かまた汚い手段を使って、王様に味方してる人たちに無理に言うこと聞かせたんでしょ。もしかしたら家族を人質に捕られたか何かしたのかもしれないね」
あっさりと言った。
将軍は微苦笑を洩らし、同時に満足して国王の天幕を引き揚げたのである。
寝台に眠る国王を横に少女と二人で向きあうと、イヴンの様子は一変した。声を抑え、恐ろしいくらいの顔で少女に迫った。
「さっきの話は本当なのか?」
少女も固い顔で頷いた。
「どういうわけだか、今になって、ウォルは前の王様の子どもじゃないとわかったんだって」
何とも言えない稔り声がイヴンの口から洩れた。
「冗談じゃねえぜ。それじゃフェルナン伯爵は何のために死んだんだ!」
「ウォルもそう言った」
この男は自分の身の上より、あの人の死が無駄になってしまったことに憤りを覚え、やりきれない思いで杯を重ねたに違いない。
イヴンがあらためて低く稔った。
「それが本当だとして、なんで今になってわかるんだ? いや、だいたい本当に本当なのか? 改革派の流したデマじゃないのか」
「できればそう思いたいんだけど、難しいね」
少女は慎重に異議を申し立てた。
「なぜってヘンドリック伯爵もバルロさんも、それを信じたからこそ出て来たんだ。こんなことを絶対に信じたくないはずの人たちが、間違っても今の国王軍を敵にしたくないはずの人たちが、不承不承でも改革派に賛成して、国王軍の進軍を止めるためにやって来た。よほど頑丈な証拠を突きつけられたと判断するべきだよ」
「どんな証拠だ!?」
「ぼくにもわからない。ただ、このままだとティレドン騎士団と近衛兵団がこっちの敵にまわる」
イヴンはまた何とも言いがたい稔り声を洩らしたものだ。
「コーラルを目の前にしていながら……、何てこったい」
「同じことをナシアスもドラ将軍も思ってるだろうね。でも、あの分だと、二人ともここで引き下がるつもりはないらしい」
「お前はどうなんだ?」
問いかけた山賊の碧い眼は怖いくらい真剣な光を|湛《たた》えている。緑の瞳の少女は静かに答えた。
「ぼくはウォルの望みを果たさせてやるために力を貸すよ。もともとそのつもりだった」
「しかし、それが本当ならこいつはもう……、王位を継ぐことはできないんだぞ」
「今となっては王冠よりもペールゼンの首が欲しい。そう言ったよ。ぼくもそれでいいと思う」
今度は少女が真顔になって相手を見上げた。
「ぼくのほうが訊きたい。今でも、ウォルが王様でなくても味方をしてくれる?」
「何を聞いてた。自慢じゃないがな、この軍勢の中でこいつが王様でなくてもかまわないと言いきれるのは俺と、たぶん、お前だけだ」
頷いた少女だった。この男なら大丈夫、そう思ったからこそ話したのである。
「ウォルは、ぼくと二人でペールゼンの首を取りに行くつもりらしいけど、それは無茶だ。というより無理だ。この間コーラル城を見て、そのことはよくわかってる。どうしても軍勢をもって改革派を倒すか追いつめるかしてペールゼンを倒すしかない」
「そのためにもこいつはもうしばらく王様でいなきゃならないってことだな」
イヴンは重々しく断言して、次いで困ったように頭を掻いた。
「いやがるぜ、きっと。昔からそういうところには融通のきかない奴だった」
「そこを何とかして」
これも断言した少女である。
「幼なじみでしょ? おどかしてもすかしてもなんでもいいから、とにかくもうしばらく王様でいることを承知させて」
そのあまりにもきっぱりした態度にイヴンは目を丸くしたが、少女は真剣である。
「この分だとこの馬鹿はそれこそ軍勢中に自分は国王ではないと大声で触れまわりかねない。それだけはさせちゃだめなんだ」
「ああ。それだけはな」
イヴンも同意した。そんなことになったらドラ将軍とナシアスの覚悟も努力も水の泡だ。
彼らの見解はこの時点では一致していた。何としても当の本人の協力をとりつけて、あくまで国王軍としてティレドン騎士団、近衛兵団、そしてコーラルに立ち向かおうというものである。
「で、俺にこいつを説得しろって?」
「脅迫でも強要でもなんでもいいよ。手段を選んでいられる状況じゃないからね」
「もっともだ。お前がもうちょっと育ってりゃ色じかけって手もあるな」
「そういうのは管轄外だから、タウの山賊さんにお任せする」
なんとも物騒な相談である。
さんざん馬鹿呼ばわりされた男はそんな枕元の不穏な空気など知らずに、平和に眠り続けていた。
そして翌朝、酔いつぶれた男に対してイヴンがどんな手段を用いたのかは不明だが、その説得はいちおう功を奏し、男はむっつりと不機嫌な顔でいたというわけである。
「どんなことになっても俺は知らんぞ」
ほとんど投げやりに言ったのだが、
「いいんだよ、それで」
「そうそう。こんなことは難しく考えることじゃないんだよ」
二人に軽く受け流されてしまった。
しかし、陣営の緊張はかなりのものがあった。
少女が現れるのと前後してナシアスが国王に面会を申し出、軍勢を後退させることを提案した。
「後退ですか? 退却ではなく?」
「はい。ここは砦に近すぎます。昨日までのマレバならば間違っても撃って出ようとはしなかったでしょうが、指揮官が変われば軍勢の性質がまるで違ってきます。ましてやコーラルから戻った|斥《せっ》|候《こう》の報告では今まで静観の姿勢をとっていた領主たちがいっせいに出撃準備を整えつつあるそうです」
理由は明白だ。ペールゼン侯爵の指図を不満として動こうとしなかった諸侯たちも、アヌア侯爵、ヘンドリック伯爵、騎士バルロ、さらに侍従長ブルクスといったそうそうたる顔ぶれが反国王派にまわり、国王に対して攻撃を仕掛けるらしいとの情報を察知したからに違いなかった。
「戦の定石ではマレバはその援軍を待ち、砦と援軍とで我々を挟み撃ちにするのが、もっとも安全で確率の高い戦法ですが……」
ナシアスは少しばかり憂いの見える顔だったが、きっぱりと言った。
「騎士バルロが頑丈な砦と援軍に甘んじて守りの戦をするとは私には思えません。必ず、一戦交えようとするはずです。そのためにも有利に軍勢を展開できる場所へ移動するべきです」
男はそんなナシアスを見つめて言ったものだ。
「バルロが来るのがわかっていて、迎え撃つ支度をしろとおっしゃる?」
「陛下。そのお口ぶりをまずあらためてください。あなた様が私に敬語など遣っては困るのです」
「ほんの嫌がらせです。お気遣いなく」
ナシアスは何とも言いがたい顔になった。
笑うべきか、たしなめるべきか判断に悩んだのである。
しかし、笑っていられるような状況でないことは明らかだ。
「陛下。すでに後戻りはできません。我々は何としても、どんな手段を用いてもマレバを奪わなければならないのです。同じようにバルロは何としても、我々をここで寸断しようとするでしょう。昨夜はさいわい事なきを得ましたが、今夜にでも奇襲をかけてくる可能性が大です。迅速な決断をお願いいたします」
男は深いため息をついた。
「ナシアスどの。昨夜も言ったが、俺一人がこの軍勢を離れれば何事も丸く収まるのではありませんか。
あなた方は俺の口車に乗せられた、ただの被害者ということにすれば、同国人同士で無益な血を流す必要もないのではありませんか」
ナシアスはゆっくり首を振った。
「陛下。事態はもう、その段階を通りすぎているのです。政府軍に呼応するものが増える中で、我々に連絡をつけてくる領主たちの数もここへ来て急激に増えつつあります。これはもう小競り合いではすみません。国中が真っ二つに割れての内戦に発展しかねません」
ありがたくない話である。
「あなたは事実を明らかにせよとおおせられますが、あのペールゼンでさえ、そのようなことは考えていないでしょう。その事実が王国に与える影響を考えれば当然のことです。そして……こんな言い方は不本意なのですが、そこに我々のつけこむ隙があります」
「つまり、ペールゼンは決して俺の身元を明らかにできないというところにですか?」
男は呆れたように肩をすくめた。
「あの男がいつまでそんな|後《ご》|手《て》に甘んじていることか、はなはだ疑問ではありませんか」
「だからこそまずはマレバを抑えることです」
日頃は騎士とは思えないくらい、優雅な印象さえ与えるナシアスだが、やはり剣と共に育った人であり、動乱の時代を生き抜いてきた人だった。
「私は騎士です。他の方法を知りません。話し合いで片がつくような状況でもありません。バルロは間違いなく我々を撃破する勢いで攻撃をかけてくるでしょう。負ければやり直しはききません。改革派の思惑どおり我々には反乱軍の汚名が着せられ、ひとつ間違えば国賊にされます」
ますますありがたくない話である。
ナシアスを追いかけるようにしてやって来たドラ将軍もまったく同じ意見だった。
「気持ちのよいことではありませんが、戦時においては勝者こそが正義です。逆を言えば敗北はそのまま悪を意味します。仮にも前国王に親しく仕えた身としましては、戦わずしてあきらめることも意に反して悪漢呼ばわりされることも遠慮したく思います」
だからこのまま軍勢の指揮を執ってくれと二人にせっつかれた男は、頭を抱えながら言ったものだ。
「お二人とも。いったいこれから相手にする敵のことを、ご自分の副官やご令嬢に何と言って聞かせたのです?」
「ありのままを言いました。どうやらもつとも敵にしたくない相手を敵にしなければならないと」
ドラ将軍が言えばナシアスも、
「奴には奴の考えと信念があるのだろうと、しかし、遠慮は無用だと言い聞かせました。ガレンスも実戦の中を生き抜いてきたつわものです。ティレドン騎士団には知人も数多く、ぶつかりたくないのはやまやまでしょうが、これも戦時のならい、やむをえないことと覚悟を決めています。何より手控えなどすればこちらが倒されることになるのを重々承知している人間です」
男はまだ苦い顔だった。なにしろ頑固なことにかけては定評のある人間である。自身の正義感に照らしあわせれば、このまま国王を名乗り続けることなどもっての他なのだ。
しかし、ドラ将軍もナシアスも頑として引く気配がない。
さらに少女も口添えをした。
「気持ちはわからないでもないけど、ペールゼンの首が欲しいんなら、この際、多少の詐欺には目をつぶるべきだよ。まず改革派を倒すのが先決だろ?」
「改革派を倒した。ペールゼンの首を取った。王にはならん。それですむと思うか?」
ドラ将軍が首を振った。
「いいえ、陛下。真に心あるものはペールゼンを中心とする独裁体制には決して賛同してはおりません。彼らの懸念は本来その資格のない方に王冠を与えてはならぬと、この一点のみにあるはずです」
「その本来ならば王冠を受け取る資格のないものをこのまま国王軍の主将に据えておくとは、矛盾してはおりませんか」
「百も承知です。しかし、他に方法はありません。加えて個人的にものを申すならば、フェルナンはわしのよき友人でした。わしとしては亡き友に顔がたたなくなるような真似も御免被りたいのでしてな。今あなたを野に放せば、みすみすペールゼンの手中にくれてやるようなものです」
「言えてるね」
少女も頷いた。
「これだけ用意周到に逆転を狙った人が肝心の諸悪の根源を見逃すはずがないもんね」
「ひでえ言いようだ」
イヴンがさすがに苦笑したが、少女は真面目だった。
「そんなことないよ。だって、ペールゼンから見て諸悪の根源なら、ぼくたちには切り札じゃないか」
ナシアスが笑って頷く。
「さすが、バルドウの娘はいいことを言う」
ドラ将軍も髭の口元に微笑を浮かべたものだ。
「まさしく。あなたは我々の切り札です。ペールゼンはあなたの身の上を明らかにすることは絶対にできません。それよりも当面の問題は、指揮官を得たティレドン騎士団がマレバに逃げこんだ領主軍と呼応して、近々大規模な攻撃を仕掛けてくるに違いないということです。我々にはどうしてもあなたが、国王という名の指揮官が必要なのです」
男は深いため息をついた。
どうやら自分には拒否権はないらしい。
ましてや父の友人でもあり、大恩あるドラ将軍にこうまで言われては、個人的な感情は後回しにするしかない。
少女が駄目を押した。
「改革派を倒すまで、ペールゼンの首を取るまでのほんのちょっとの間だよ」
「ちょっとですむと思うのか?」
「すませるんだよ。今の国王軍にはそれだけの勢いがあるじゃないか」
力強い言葉だった。
ドラ将軍もナシアスもイヴンも、そしてウォルも、思わず少女の顔を窺った。
その少女はさすがに焦って、珍しくうろたえた様子だったが、引き下がりはしない。
ひたと男の眼を見つめてこう言った。
「勝とうよ」
皆、思わず言葉を呑んだ。
男は、不思議な感慨にひたりながら、少女の眼を見つめ返していた。
「お前は、本当に、俺たちに勝利をもたらすために降りて来てくれたのか」
「ウォル」
少女はゆっくりと首を振った。
「ぼくはバルドウの娘でもなければ神様でもない。そんなことはわからない。ただ、これだけはわかる。フェルナン伯爵は立派な人だった。いいお父さんだった。改革派はその伯爵を無実の罪で殺したんだぞ。ウォルは悔しくないのか。腹は立たないか」
「煮えくり返っているとも」
「じゃあ、やることなんか決まってるじゃないか」
むしろ苛立ったように、リィは男の肩を揺すり、これには男のほうが苦笑したものである。
「お前、人のことを馬鹿だの石頭だのと言うが、お前のほうがよほど直情型なのではないか」
「もちろん。今までなんだと思ってたんだ?」
「それは何しろ軍神の娘だからな。|深《しん》|沈《ちん》|大《たい》|度《ど》、もしくは|深《しん》|望《ぼう》|遠《えん》|慮《りょ》、つねに冷静に先を考えて物事を判断するものだとばかり思っていたぞ」
「冗談だろ?」
肩をすくめてあっさりと言う。
「苦手だ、そんなの。ぼくはやりたいと思ったこと、自分が正しいと思ったことをその場でやるよ。いつだってそうだ。考えるより先にまず動いてきたんだ。
だいたいだ。ウォルは伯爵の仇を討ちたい。ドラ将軍とナシアスは改革派を何とかしたい。利害は一致してるじゃないか。だったら詐欺もへったくれもあるもんか。この軍勢を利用しない手はないよ」
おそろしく強引かつ明快な理論に男は吹き出した。
この少女は大人びているのか幼いのか、さっぱりわからない。考えるより先に行動してはばからないと断言するところは子どもじみているようでもあり、かまわないから利用してしまえと言うところは|老《ろう》|獪《かい》な軍師のたてる策のようでもある。
「わかった。そこまで言われては致し方ないな。今しばらく国王として飾られていることにしようか」
その場にいた全員が安堵の息を吐いたが、国王はいたずらっぼく笑って少女に念を押した。
「約束だぞ。いざという時は責任持って、夜逃げを手伝ってもらうからな」
「任せておきなって。ウォルはパキラを越えられるんだろ? あの山ならぼくにも越えられる。逃げ道なんかいくらでもつくれるよ。いっそのこと、二人で愛の逃避行としゃれこもうか?」
国王の大爆笑が天幕を突き抜けて響きわたった。
あまりに豪快な笑いに、遠ざけられていた兵士たちまでが何ごとかと王の天幕に駆けつけた。
「陛下!?」
無礼を百も承知で彼らは天幕に押し入ったのだが、中ではドラ将軍が腰を抜かしかけ、ナシアスは肩の傷を押さえながら笑いの発作をこらえ、イヴンに至っては体をくの字に折って爆笑するのをかろうじて抑えている有様だった。
少女が一人平然と腕を組んで、そんな男たちを眺めまわしている。
そして、国王はまだ楽しげに笑いながら兵士たちに声をかけてきた。
「ご苦労だな。皆のものはどうだ。食事はすんだか?」
「はっ! 全軍、陛下のご命令をお待ちしております」
「よし。では準備が整い次第、ここを移動する。皆にもそう触れてくれ」
「かしこまりました」
命じている間も国王は笑いを噛み殺していたが、移動と聞いて兵士たちの顔色が変わった。
兵士たちが走り去り、将軍たちも少女も慌ただしく出発の準備のために出ていくと、一人残った親衛隊長がようやく振り返った。目元に涙をにじませ、肩を震わせて笑いをこらえている。
「かなわねえな。あの嬢ちゃんには」
「まったく。深刻に悩むだけ馬鹿を見るような気がしてきたわ」
男はむしろ呆れたように言った。
これから自分たちのやろうとしていることはお世辞にも正しいとは言いがたい。しかし、引き返すわけにはいかない。どうしてもしなければならないことなら暗く悲壮な道行きにするより明るく前向きに取り組んだほうがいい。
あたり前のことだが、これがなかなか難しいのだ。
まして今回、非は全面的にこちらにあるとわかっているだけになおさらである。
男はまだ難しい顔だったが、イヴンは軽く肩をすくめ、口の端だけで笑ってみせた。
「いいんじゃねえのかな、それでさ。この状況で悩んだところでどうにもならん。ましてや答えなんかでるわけない」
「俺もそう思う。いや、思うことにした」
さばさばと言った国王だった。
おそらく、この先には今まで以上の難関が待ち受けているに違いない。気持ちのいいことでもない。
だが、退路はない。前進あるのみだ。
イヴンが何か楽しそうに言った。
「まあ、あの人たちの前じゃこんなことは決して言えねえが、俺はどっちかっていうと、お前が王様でなくなったのはありがたいな」
「そうなのか?」
少しばかり驚いて問い返すと、
「そりゃあ、王様となるとあんまりつつきまわすわけにもいかないからな。これで遠慮なく遊べるってもんだ」
男はおそろしく疑わしげな顔になった。
「イヴン。それではまるで、今までは遠慮していたように聞こえるぞ」
「してただろうが」
「どこがだ」
「傷つくな。俺は精いっぱい国王陛下に対して礼をつくしてたんだぞ」
「だから、どこがだ」
どちらも真剣に言い争う二人だった。
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ちょうど同じころ、コーラル城の一室で、ペールゼン侯爵がマレバから駆け戻ったヘンドリック伯爵の報告を受けていた。
予想どおり、あの男には軍勢を解散させる意志はなく、このままコーラルを目指して進軍するつもりだという。
それを聞いて侯爵は顔をしかめたものだ。
「ヘンドリック伯爵にも似合わないことをなさいますな。ならば私のほうには使いを寄越してくだされば充分でした。そのままバルロさまとご一緒に偽の国王軍を撃破してくださるのがもっとも望ましいことでしたのに、何故、わざわざ戻られたのです?」
「貴公に訊かねばならんことができたからだ」
憤然と言った伯爵である。相手は伯爵より爵位が上の、目上の人のはずなのだが、ペールゼン侯爵は元をただせば貧しい小貴族の息子であり、|宮《く》|内《ない》に仕える一介の役人にすぎなかった。
それがタンガから嫁いだ王妃に気に入られて側近として働くうちに前ペールゼン侯爵の目にとどまり、女婿として迎えられ、爵位を継いだのである。
異例中の異例の大出世だった。一説には前侯爵がこの人の才能を高く評価して婿に迎えたのだとも言われ、一説にはその侯爵令嬢にははなはだ良からぬ噂があり、釣り合うような身代の家との縁組はとうてい望めなかったからだとも言われている。
もっともそんないきさつがなかったとしても、ヘンドリック伯爵の態度は変わらなかったに違いない。
ヘンドリック伯爵は自分がそれと認めた人間でなければ、決して礼をつくしたりはしない人である。
「貴公、フェルナン伯爵を覚えておいでだろうな」
「フェルナン伯爵?」
訝しげな顔になったペールゼン侯爵である。記憶の底に沈んでいた名前だったらしく、浮かび上がらせるのに少し時間がかかったようだった。
「ええ、覚えております。あの男をこの王宮に連れこみ、今度の騒動を巻き起こした張本人のことですな。本人はそれと知らずにやったことのようですが、困ったことをしてくれたものです」
「だから何をしてもいいというわけか?」
鷹のような鋭い眼に貫かれて、ペールゼン侯爵はますます訝しげな顔になった。
「ヘンドリック伯爵。いったい何を言われます?」
「とぼけるな! フェルナン伯爵を北の塔に押しこめただけではあきたらず、口にするのもおぞましい拷問を加えて死なせたのは貴公のさしがねであろうが!」
書類に眼をとおしながらヘンドリック伯爵の相手をしていたペールゼン侯爵だが、思わず顔を上げた。
はっきりと顔色が変わっていた。
「フェルナン伯爵が死んだ、と?」
「どこまでとぼける気だ!」
一喝したヘンドリック伯爵だが、ペールゼン侯爵もまた恐ろしいような顔になり、首を振りつつ立ち上がった。
「お待ちください。ヘンドリック伯。それは聞き流しにできません。私はフェルナン伯爵を北の塔に投獄し、決して逃がさぬよう厳重な監視を命じはしましたが、決して死なさぬようにとも命じました。人質というものは生かしておいてこそ値打ちがあるものです。死なせてしまっては何にもなりません。ましてや北の塔で獄死したというのならば、当然その報告が私に入るはずです」
「なんと? では貴公、伯爵が塔を脱獄したことを知らんのか?」
「何とおっしゃいます!?」
今度こそ驚愕して声を荒らげたペールゼン侯爵である。
二人は慌ただしく情報の交換をした。
ここまでヘンドリック伯爵に同行して来たルカナン大隊長が呼ばれ、大隊長は何とも気まずい思いをしながらも、先日、北の塔に侵入して救出したフェルナン伯爵の様子を説明した。
その前にアヌア侯爵もやって来た。これはヘンドリック伯爵の配慮である。近衛隊士にとってアヌア侯爵の言葉は何より重みがあるものなのだ。
アヌア侯爵はヘンドリック伯爵に言われたとおり、北の塔への潜入を|咎《とが》めはしないとの|言《げん》|質《ち》を与えた上で詳しいことを語らせた。
大隊長はそれで胸を撫で下ろし、もともとフェルナン伯爵への仕打ちに憤りを覚えていたこともあって熱心に語ったのである。
「それはもう、ひどい有様でした。どのような理由があったかは存じませんが、あれほどまでに痛めつける必要が本当にあったのかと疑問に思います。お話ししたとおり矢傷を受けたことが原因で亡くなられたのですが、あのまま牢にあっても余命は長くなかったと思われるほど、生きているのが不思議なくらいの傷でした」
ヘンドリック伯爵はもちろん、アヌア侯爵も一気に顔色を厳しくしている。ペールゼン侯爵だけは他のことが気になるようで、大隊長に質問した。
「それにしても貴官たちは、たった三人で北の塔へ潜入したというのか」
「は……。その、申し訳ありません。それが陛下のご意志でしたので」
「わかっている。咎めているのではない。しかし、よくぞしてのけられたものだな」
「自分もそう思います」
真剣に言った大隊長だった。
「ですが、北の塔への潜入も伯爵の救出も自分の力ではありません。あの晩、北の塔に詰めていた兵士に聞いてくださればおわかりでしょうが、自分は単なる通行手形として使われただけなのです」
「では訊くが、実際にフェルナン伯爵救出の指揮を執ったのは誰なのだ?」
「は……。それは……」
言葉に詰まった大隊長だった。あの少女のことを話したところで、はたして信じてもらえるだろうかと懸念したのである。
一部始終を見ていた自分自身でも、いまだに信じられないというのに。
「誰なのだ。ドラ将軍か、それともラモナ騎士団長か?」
「いえ、その……」
何と答えようかと大隊長が冷や汗を流していると、ヘンドリック伯爵が苛立たしげに割って入った。
「誰でもよかろう。今さらそのようなことを|詮《せん》|議《ぎ》して何になるというのだ」
「確かに」
アヌア侯爵も頷いて、ヘンドリック伯爵に問いかけた。
「陛下はフェルナン伯爵の死をたいへんに憤っていらしたとおっしゃいましたな」
「ええ。無理もありません。思わず背筋に寒けが走るような凄まじい激 [#底本で空白]でした」
厳しい顔になったアヌア侯爵である。
どうやら、このままでは収まりそうもない。
「ヘンドリック伯。お疲れのところ申し訳ありませんがマレバが心配です。今一度駆け戻っていただけますか」
「もとより、そのつもりです。バルロどのにはわしが戻るまで早まったことはなさらぬように申し渡しておきましたが、あの方のご気性ではいつまでもつことやらわかりませんからな」
アヌア侯爵も頷いて同意を示し、今度はルカナン大隊長に話しかけた。
「貴官もうすうす気づいていることだろうが、近衛兵団は今後、陛下のコーラル進軍を阻止する方向で働くことになった。貴官はわずかな期間とはいえ、国王軍と共にあり、内部の事情にも詳しいはずだ。そこでご苦労だが今一度、ヘンドリック伯爵と共にマレバへ発ってもらいたい」
「はっ!」
最敬礼した大隊長である。
突然の方針の転換だが、それ自体は何も珍しいことではない。無類の国王派で知られているアヌア侯爵の変説を訝しく思ったことは確かだが、それは自分の考えることではない。
ただ、間近に見届けた国王の猛勇、あの少女の常人離れした武勇。なにより全軍を手足のように動かした国王の統率力。それらを思い返すにつれ、正面からはぶつかりたくないものだと冷静に考えた。
ルカナン大隊長をひとまず退出させた後、ヘンドリック伯爵がじろりとペールゼン侯爵を睨みつけた。
「聞いてのとおりだ。どういうことなのか説明してもらおうではないか」
ペールゼン侯爵はため息をついて、険しい顔をしている二人に向き直った。
「お断りしておきますが、とんだ濡れ衣です。フェルナン伯爵の死も、拷問の一件も、私は今はじめて耳にいたしました」
「万事にぬかりのない貴公の言葉とは思えんな」
冷たく言ったヘンドリック伯爵だった。アヌア侯爵も品のいい面立ちを嫌悪に歪めている。
「今のコーラルの全権を握っているのは、他ならぬあなただと思っていましたが? あなたが命じたのでないというなら誰にできたというのです?」
「誰にでもできたはずです」
さらりと言った侯爵に、二人は思わず眼と眼を見交わした。
「北の塔はご承知のように、専門の監視官の管理下に置かれています。塔の維持から囚人の管理まで内部のことは彼らが一手に担うわけですが、身分的にはきわめて低いものですから、誰か身分の高い相手に、そう……例えば、改革派を構成する誰かに伯爵を拷問しろと命令されたとしたら、何の疑問も抱かずに言われたとおりにするでしょう」
アヌア侯爵がかすかに頷いた。
改革派内部においてペールゼン侯爵の意志は絶対である。逆を言えば侯爵が登場しないところで他の誰かが勝手に命令を下しても、事情を知らないものには判断がつかない。同じ『改革派』の命令と受けとるだろう。
ヘンドリック伯はそれでも疑わしげな顔だった。
「本当に、貴公が命じたのではないと言うのか?」
「伯爵。私のほうが逆にお尋ねしたい。フェルナン伯爵を拷問にかけてまで訊き出さなければならないこととはなんです?」
「……」
「おわかりですか? 何もないのです。伯爵がドゥルーワさまの手から赤子を受け取ったこと、その赤子を真実ドゥルーワさまのお子と思いこんでいたことは明白でした。言い換えれば伯爵自身には何の罪もありません。ただ、こんな騒ぎを引き起こした責任を問う意味と、あの男に対する抑えになればと思い、身柄を拘束したまでです。人質として使うなら生かしておかなければ意味がありません。限度を超えた拷問を加えたあげくに死なせるなどもっての他です」
強い口調で言われて、さすがにヘンドリック伯も考えこんだ。
「しかし、ではいったい誰が? ルカナンの話が正しければ一度や二度ではきかないはずだぞ」
「不本意ではありますが、そういうことをやりそうな人に心当たりがありますよ」
あながち芝居でもない、苦いため息をついたペールゼン侯爵だった。
きつい呼び出しを受けて慌ててやって来たジェナー祭司長は、三人分の白い目線を浴びて、しどろもどろに弁解をした。
もしかしたら伯爵はあの男の真の素姓を知っているのではないかと思った。それに、ドゥルーワ陛下のお手から赤子を受け取ったというが、それを証明するものは伯爵の言葉だけだ。どこかで拾った子どもを陛下のお子とたばかって連れて来た可能性もある。そんなことをくどくどと言い訳したものだ。
「現にそれ、ペールゼン侯爵の調査によって、あの男が前陛下のお子ではないことが明らかになったではありませんか。フェルナン伯爵は知らぬ存ぜぬをとおしていたが、そのことを知っていたに違いありませんぞ。何とかそれを訊き出そうと、わしは侯爵のお手伝いをするつもりで……」
「祭司長どの」
ペールゼン侯爵はうんざりした表情を隠そうともせずに言った。
「今度の騒動のすべてがフェルナン伯爵の|詭《き》|弁《べん》狂言だと言うなら、ブルクスどのに預けられた陛下のこ遺書はどうなります?」
「う……」
「もうひとつお尋ねしたいが、北の塔への侵入者があったこと、その侵入者が伯爵の身柄を城外へ連れ出したこと。きわめて重要なはずのこの報告が、何故私のもとに届かなかったのですかな?」
祭司長はさすがに気まずそうな顔になった。
「それはその……、あの男の素姓もわかったことだし、となればフェルナン伯爵を失ったところでたいした問題ではないだろうし、お忙しい侯爵の手を煩わせることもなかろうと思ったので。いや、もちろん北の塔の監視官どもには厳重な注意をしておきましたとも」
「たいした問題ではないとは、恐れ入りますな」
ペールゼン侯爵はまた苦い息を吐き、アヌア侯爵とヘンドリック伯爵に目線で詫びてみせた。
「申し訳ありません。忙しさにかまけて、いや、これは言い訳になりますが、北の塔に投獄しておけば安心だと油断しすぎました」
「そのようだな」
ヘンドリック伯爵がこれも鋭い眼でジェナー祭司長を睨み据えた。
「坊主なら坊主らしく、お祈りでも唱えておればよいものを。|血《ち》|腥《なまぐさ》い真似をするから話がおそろしく厄介になったぞ」
「な、なんだと!?」
この暴言に祭司長は顔面を真っ赤にしたが、この場で祭司長に同情するものは誰もいなかった。
ペールゼン侯爵が厳しい顔つきで釘を刺した。
「ヘンドリック伯爵のおっしゃるとおりです。あなたがよけいなことをしてくれたおかげで、事態は思いのほか難しい方向に進みつつあるのですそ。あの男はこの一件で態度を硬化させ、何としても父親の仇を討つのだと気炎を吐いているそうです」
「だからどうしたと言われる? たかが偽物の王であり、反乱軍ではありませんか。とっとと鎮圧してしまえばよろしかろう」
理解しかねる顔つきの祭司長にペールゼン侯爵はかなりの忍耐をもって事態を説明した。
「簡単にできれば苦労はないのです。ドラ将軍とラモナ騎士団、さらには五千に近い領主勢がその『国王』に加勢し、なおもその数は増えつつあるのです。そのことをお忘れにならぬように」
祭司長は今度は苛立たしげに言った。
「そんなまだるいことをおっしゃらず、あの男が偽物であることをその領主たちに打ち明けてしまえば万事解決するではありませんか」
「よろしいですか。ジェナー祭司長」
ペールゼン侯爵は忍耐にかけては誰にも負けない人だったが、さすがに声にも表情にも|剣《けん》|呑《のん》なものが混じりはじめていた。
「そのようなことを大声で触れまわることのなきよう、切にお願いいたしますぞ。あなたはヤーニス神殿の最高位の聖職者でいらっしゃる。それ故にこそ、この秘密を打ち明けました。ですが、それを知るものは最小限にとどめなければならぬのです。地方領主に安易に話したりなどしてはどこをどう流れていくともわかりません。万が一にも国外に洩れたりなどしては一大事です」
祭司長はきょとんとした顔で聞き返した。
「洩れてはならぬと?」
アヌア侯爵は思わずため息をつき、ヘンドリック伯爵は露骨な軽蔑の表情を浮かべ、揃ってペールゼン侯爵を見つめたものだ。
そのペールゼン侯爵は針のような眼で祭司長を凝視している。
「あなたは、大華三国の名も高いこのデルフィニアが王家の血を持たぬものに戴冠を許してしまったとの前代未聞の醜聞を大陸中に垂れ流せとでも言われるおつもりか! そんなことになったならば他の二大国に嘲笑されるだけではすみません。わが国にはぬぐいようのない三流国家の烙印が|捺《お》されることになるのですぞ!」
鋭い一喝を浴びて、さすがに祭司長も口をつぐまざるを得なかった。明らかにそんな可能性は今まで考えていなかったらしい。
焦りの混ざった困惑顔になった。
「しかし、それではいったいどうすると……」
「どうでもよろしい。あなたの関与するべきことではありません」
ぴしりと言った侯爵だった。
「よろしいですか。もう一度言いますが、くれぐれも|迂《う》闊《かつ》なことはなさらぬように。あなたにはこれからも何かと力になっていただかなければならないのですから、これ以上配慮を欠いた行動に出られることのないよう、あらためてお願いしておきます」
言葉は嘆願だが、その口調は脅迫と違わない。
自分の身が可愛ければよけいなことはするな、というのである。
さすがにジェナー祭司長にもわかったらしい。蒼くなって何か呟きながらそそくさと退出して行った。
その後ろ姿を見送ったヘンドリック伯爵が表情も変えずに言ったものである。
「いっそ、あの生臭坊主の首をあの方に差し出してしまったほうがよいのではないか。それであの方がコーラル進軍を思いとどまってくれるのなら安いものだぞ」
ヤーニス神殿の祭司長といえば数ある祭司の中でも最高の権力者である。国王でさえその頭上に王冠を戴せてくれる相手として、いちおうは礼をつくさなければならない重要人物なのだが、ヘンドリック伯爵には単なる騒動の元にしか見えないらしい。
アヌア侯爵もこの意見に同意した。
「それであの方が思いとどまってくださるかどうかは別として、ヤーニスもさぞお嘆きでしょうな」
あんなものが祭司長では。そう言いたいらしい。
それから二人して、ペールゼン侯爵にあらたな非難の目を向けた。
この英雄たちが何を言いたいのか、侯爵には充分わかっていた。軽く頭を下げた。
「私の失態です。あの人にこんな単独行動をする能があるとは思わなかったものですから。少しばかり好きにふるまわせすぎました」
「灯台もと暗しとはよく言ったものだ。せいぜい寝首をかかれぬようにすることだな」
ヘンドリック伯爵が苦々しげに言い、紫の外套を翻して執務室を出て行った。
アヌア侯爵もそれを追った。
ヘンドリック伯爵と肩を並べて歩きながらアヌア侯爵は低く言った。
「なんとも残念です。それほど親しくさせていただいたわけではありませんが、高潔な人格の方とお見受けしていました」
アヌア侯爵は、国王の後見人であったフェルナン伯爵に対し、あくまで目上の人に対する礼をつくしていた。
ヘンドリック伯爵も先ほどの威勢のよさが嘘のように力なく首を振った。
「陛下とドラどのの心中を考えますと、どうでも一戦交えずにはすみそうにありません。ここはやはり、あなたに出ていただいたほうがよいと思いますが」
「そうしたいのはやまやまですが、私はペールゼン侯爵の動向が気になります。侯爵はあの方の真実の素姓をつきとめるべくさかんに動いています。もうじきその結果がわかるはずです」
「しかし、今さらそれがわかったところで……」
手遅れではないのかと訝しんだ伯爵だが、アヌア侯爵は慎重な様子だった。
「ヘンドリック伯爵。私にはどうしても気がかりなことがあるのです」
「はい?」
「伯爵は私などよりはるかに以前からドゥルーワさ
まのお|傍《そば》にいらしたわけですから、お若いころのご様子もよくご存じと思いますが……」
「ええ、確かに」
アヌア侯爵はひたと伯爵の顔を見つめて言った。
「あの方とドゥルーワさまは、よく似たお姿をしておられるとは思いませんか?」
思わず考えこんだヘンドリック伯爵だった。
「む……。確かにそれは、ドゥルーワ陛下も|見《み》|惚《と》れるほどの立派なご体格でいらしたが……」
「瞳の色も髪の色も似ていらっしゃいます」
「いや、しかし……。それは早急なご意見というもの。同じような体格、同じような眼と髪の色の男などこの国にはいくらでもいますそ。そもそもあの方とドゥルーワさまでは身につけている雰囲気というものが違いすぎます。あの方はご承知のとおり屈託のない快活な性格だが、ドゥルーワさまはお若いころから思慮深く冷静で、めったに感情を吐露されることなどなかった。何かお命じになる時もいつも穏やかに、もの静かなご様子でしたが、それでいて私どもがひれ伏さずにはいられぬほどの威厳をつねに漂わせていらっしゃったではありませんか」
「ええ。それは私にも充分覚えがあります」
正門に向かって本宮の中の大廊下を歩いていたアヌア侯爵だが、ふと進路を変え、ひとつの立派な扉を潜った。
ヘンドリック伯爵が無言で後に続く。
そこは天井の高い、小さな居間だった。実務や接待に用いる部屋ではなさそうで、何の調度品も置かれていない。だが、部屋そのもののつくりは最高級と言ってよかった。床にも天井にも素晴らしい装飾が施され、壁には花を持った天使や女神を意匠した金の燭台がつくりつけられている。
何もない部屋だが、扉を入った正面の壁に、この部屋の存在する理由があった。
アヌア侯爵とヘンドリック伯爵は無言で、黄金の額縁に飾られた巨大な肖像画を見上げたのである。
そこに描かれているのは若い男性の全身像だった。
目も眩むような黄金の衣装に包まれた肩は広く、胸は厚く、優れた体躯の持ち主であることがわかる。
切れ上がった眼の光は深い知性と精気に満ち、きれいに整えられた口髭と豊かな顎髭に飾られた口元には自信に満ちあふれた微笑を浮かべ、ひとすじの乱れもなく撫でつけた黒髪の頭上にはデルフィニア国王の王冠を戴いている。
第十七代デルフィニア国王、ドゥルーワ・ジェンタ・ヴァン・デルフィン。その即位当時を描いた肖像画だった。
「似ていらっしゃいますかな?」
ヘンドリック伯爵が呟いた。
「ドゥルーワさまも並はずれて大きなお体をしていらしたし、眼も髪も黒々としていらしたが、似ているとすればそのくらいではないですかな」
確かに印象が違いすぎる。
二人を見下ろしているその人のまなざしは深く、鋭く、峻厳にさえ見える。全身に漂う圧倒的なまでの|気《き》|魄《はく》と王者の威厳は、この時二十代前半であったとは思えないほどだ。
「それでも、私には気になるのです」
アヌア侯爵が静かに言った。
「確かに、眼と髪の黒い若者も体の大きな若者もいくらでもおります。ですから、今現在、ドゥルーワさまに似た若者を見つけ出して連れてくるのはそう難しいことではないでしょう。しかし、生まれたばかりの赤子を見て、その将来の姿を予想するのは至難の技です。生まれた時は淡い色の髪でも成長するうちに黒くなることもありますし、瞳の色さえ変わる場合がございます。また、眼と髪の黒い男子ならば誰でもドゥルーワさまのような体格になるというものでもありません」
「でしょうな。ドゥルーワさまはお若いころから武術に熱心でいらっしゃったこともあるが……それにしてもめったに見ない大柄な方でいらした」
「私が引っかかるのはそこなのです」
アヌア侯爵は再び肖像画を見上げた。
「ドゥルーワさまのお子とあの方が入れ替わってしまったことは、今の状況では疑いようもありません。
ですが、たまたま取り違えられた子どもが成長してドゥルーワさまと同じ黒い髪と黒い瞳、並はずれた立派な体格を備えるに至ったとなると……、いささかできすぎていると思いませんか」
「ううむ……」
ヘンドリック伯爵も思わず稔った。
「なるほど。一理ありますな」
アヌア侯爵は苦笑して、
「へりくつと笑ってくださっても結構です。ただ、どうも私には、もう一波乱ありそうな気がしてなりません。さいわい王宮の中だけとはいえ、自由に動ける身となりましたから納得のいくまで調べてみるつもりです。それに……」
侯爵は声を落として、
「祭司長と同じようなことを考える人間が他にもいないとは限りません。女官長の身の上が心配です」
「ごもっともです」
ヘンドリック伯爵も低く答えた。何を隠しているのか知らないが、今となっては女官長が最後の頼みの綱だった。
「伯爵にはたいへんな仕事を押しつけてしまうことになりますが……」
「なあに。ドラどのならば相手にとって不足はなしです。それだけに厄介でもありますが、我々がこの戦いで勝利すれば、猛将とまで呼ばれた男です。見苦しい真似はいたしますまい」
弓矢をもって戦って敗北したとなれば、ドラ将軍は潔く自分の身柄をこちらに預けるはずである。
ヘンドリック伯爵はそう信じて疑わなかった。
あの友人を救うためにも、主君と信じていたあの若者の命を救うためにも、今度の戦は絶対に勝たなければならなかった。
待たせておいたルカナン大隊長を従え、ヘンドリック伯爵は再びマレバへと出発したのである。
正門からはるかかなたに見下ろす大手門を目指し、くつわを並べて進みながら、ヘンドリック伯爵はルカナン大隊長に問いかけた。
「そのほう、先日まで国王軍と共にあったわけだが、これに打ち勝たんとしたら、どう立ち向かう?」
何とも複雑な立場に追いこまれた大隊長である。
アヌア侯爵にも感じたことだが、この人も国王軍と憎しみで戦うのではないらしい。それでいて何としても勝たなければならないという気魄がひしひしと伝わってくる。
「お言葉を返すようでありますが……」
慎重に言葉をつくった。
「打ち勝つとおっしゃいますが、今の国王軍に勝利するのは至難の技であると申し上げてよろしいかと思います」
「ほう?」
槍を持たせれば天下一品と賞賛される英雄は、おもしろそうな目の色になった。
「国王軍は六千。マレバの政府軍は八千。しかも指揮を執るのは烈火で知られるティレドン騎士団長だぞ。それでも勝てぬと申すか」
「自分はこの度、はじめて陛下のお指図で働きましたが、お見事な軍配と感じ入りましてございます。また陛下ご自身の武勇もまさに恐るべき、噂以上のものでございます。鬼神の如しとはあのことを言うのでございましょう。ですがその、国王軍に打ち勝つのが至難の技だとする一番の理由は……、その、申し上げにくいのでございますが……」
「かまわん。言え」
ルカナン大隊長はほとんどやけっぱちになりながら馬上で胸を張った。
「陛下には、バルドウの娘が味方をしております」
事実を語った大隊長なのだが、ヘンドリック伯爵はこの言葉を観念的なものと受け取ったらしい。
「なるほど。それだけ勢いがあるということだな」
「は……」
どうしようかと思ったルカナン大隊長である。
国王軍には『本当に』そうとしか言いようのないものがついている。あの少女と黒馬の戦いぶりは熟練した騎士二十人分にも匹敵する。しかも、その存在が他の兵士たちに及ぼす影響を考えると、あの少女が加わるだけで一連隊分くらいの戦力の差が生じると判断したほうがいい。
よほど説明しようかと思った。が、とても信じてもらえるとは思えなかった。
百聞は一見にしかずと言う。マレバへ到着し、あの少女の戦いぶりを間近に眺めれば、いやでもわかることだ。それから説明すればいい。
ルカナン大隊長はそう判断して、それ以上詳しいことは語らなかった。
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マレバの城塞前に陣取っていた国王軍は、その日の昼過ぎに後退を開始した。
逃げるためではない。かといってマレバを放置してコーラルへ進むわけでもない。そんなことをしたら猛追をかけられるのは目に見えている。
だからといって広大なマレバ砦に対し、包囲戦に出られるほどの戦力は国王軍にはない。
そこでマレバの政府軍を誘い出し、有利な場所で合戦に持ちこむための布陣替えに出たのである。
国王軍はあらかじめ追撃をかけられることを充分予想して厳重に|殿《しんがり》を固めたのだが、マレバにその気配はなかった。それどころか釣り出しと百も承知の上だろうに、マレバの政府軍は城塞を出ての野戦を選んだのである。
後退を続ける国王軍に追撃をかけるでもなく、数千の軍勢はむしろしずしずと城門を出、国王軍が布陣を終えるころ、相対する形で陣を張った。
そこは城塞から西へ十四、五カーティヴも下がったところで、山にはさまれた盆地になっていた。
山にさえぎられて見ることはできないが、国王軍の右手には海があるはずだ。左手先にはコーラルへ向かう道がある。その盆地の入口は狭く、両脇には雑木の茂った山がある。低い、こんもりしたものだが山は山だ。兵を散開させて襲いかかることは難しい。敵を一手に誘いこみ、押し包んで戦うつもりの国王軍だった。
政府軍のほうもさすがにわかっていて盆地の中まで深く入ってくることはしなかった。その手前で陣を張った。マレバを背に援軍待ちの姿勢のようにも見える。
ならばこんなところまで出てくる必要もなさそうだが、ティレドン騎士団はもともと野戦を得意としている。しかもその用兵には火のような激しさがあることで知られている。
そのティレドン騎士団を主軸とする八千の政府軍は武将から一兵卒に至るまで厳しい緊張感に張りつめていた。一人として無駄口を叩くものさえない。
それは二カーティヴほどの距離をとって睨みあいの態勢に入っている国王軍も同じだった。およそ六千ほどの軍勢は隊列を組んだまま微動だにしない。
やがて太陽が傾きはじめ、睨みあうだけの両軍を尻目に一日が暮れた。どちらも黙々と野営の支度を整え、警戒だけは厳重に盛大に|篝 《かがり》|火《び》を焚きつけ、見張りを立てて寝静まった。
明朝には合戦になることを、両軍ともひしひしと感じていた。
政府軍の中核には、両翼を広げた大鷲の旗のもとにティレドン騎士団が布陣している。
二千人ほどの騎士団員の表情はどれも複雑なものだった。彼らは半年もの間、改革派の手によってマレバに監禁されていたが、その間ひたすらに団長の無事を祈り、国王の無事を願っていた。そうして国王の帰還がわかると、皆々口を揃えて命に代えても味方をと気炎を吐いていた。ところがその国王軍と今は敵として向かいあっているのである。
「団長。配置は完了しました。今夜にでも攻撃を開始できます」
冷静な声で言ったのはティレドン副騎士団長、アスティンである。
バルロが団長に就任する時、その若さを補うためにとつけられた副官だが、この人も三十五、六の若さである。しかし、少年のころから沈着冷静な戦いぶりで知られ、若さにまかせて暴走しがちな団長を的確に補佐する名副官だった。
色白の端正な顔立ちはこの人を実際の歳より若く見せているのだが、目の色は深く表情も落ちついて、どこか老成した雰囲気がある。
この人に対する改革派の目は厳しかった。改革派はティレドン騎士団に対する締めつけを厳しくすることで団員の不満を募らせ、問題を起こさせ、それを口実にティレドン騎士団を完全に支配下に置くか、もしくは壊滅させるつもりでいたのである。
アスティンをはじめ、騎士団の主だった人物は、外出禁止のマレバ城内にあってもさらに監禁されているようなものだった。しかし、ティレドン騎士団の古参の騎士たちはどんな扱いにも平然と耐えた。
時には改革派に対する不満と怒りに爆発しそうな若い団員をなだめ、不自由な身の上ながらもマレバを守り通してきたのである。
そうして昨夜、めでたくも騎士団長と再会し、城塞と騎士団員を無傷で指揮官に引き渡すという大願を果たしたばかりだった。
その際にも狂喜乱舞する他の団員と違い、一言、『お帰りなさい』と挨拶したのみである。
嬉しくないわけはない。それだけ喜怒哀楽を抑えるのがうまいと言うべきだろう。同様にどんな難事にも淡々と当たる人でもあったのだが、今は幾分、声の調子が違った。
報告を受けたバルロは固い顔で振り返ったものである。
「言いたいことがありそうだな、アスティン」
「いいえ。別に」
穏やかに、やんわりと否定した副官に、バルロは暗い微笑を浮かべて言った。
「はっきり言ったらどうだ。納得がいかんと。何故なのかと」
「命令を下したのはあなたです。私にも部下たちにもそれで充分です」
これも珍しい。バルロの判断を信頼しているともとれるし、暗に非難し、皮肉っているともとれる言葉だった。
しかし、皮肉屋というならバルロのほうが本家である。不敵に笑って言った。
「今度の命令はお前たちには青天の露露だったはずだぞ。もっと食い下がって説明を求めたらどうだ」
アスティンはため息をついた。
「そうしたいのはやまやまですが、私もあなたとは長いつきあいですから。食い下がっても無駄なのはよくわかっております」
ティレドン騎士団長は秘め事を得意とするような性格ではない。こうと決めたことは尋ねられるまでもなく率直に打ち明けるのが常だった。
それが今回は表情も重く、言葉も少なく、まったく突然に今までの方針と正反対の命令を下したのだ。
よほどのことがあったに違いない。決して本心から戦いたいわけではない。現にバルロはいまだに自分自身と激しく葛藤している。
「ラモナ騎士団にはお前の友人も大勢いるはずだ。明日にはその彼らと殺しあいだぞ。それでもかまわないと言うのか」
忠実な副官は肩をすくめることで答えた。
「団長とも思えないことをおっしゃる。我々もラモナ騎士団も団長の命令とあらば、たとえ相手が誰であろうとも、国王であろうとも戦う。平たく言えば王命より団長の意志を尊重して従う。そういう性格のものです。ピルグナの連中も同じことを思っていることでしょう」
顔色も変えずに言ったアスティンだが、ややあつてつけたした。
「ただ、あえて言わせていただくならば、それだけにやりにくい、非常にやりにくい相手です。我々は彼らを知っている。同様に彼らは我々を知っています。一朝一夕に片をつけるというわけにはいきません」
「つけねばならん」
バルロは低く稔った。
「なんとしても彼らの進軍を止めなければならん。それも早急にだ」
「ラモナ騎士団とドラ将軍を相手に、ですか? 難しいご注文ですな」
「そんなことはわかっている!」
思わず声を張りあげたバルロである。
「それでもだ。彼らをコーラルへ向かわせるわけにはいかん。俺は……あの人とナシアスを救うために、この場に出て来たんだ」
アスティンの口元に淡い笑みが広がった。
この人に何があったのかは知らない。だが、その言葉だけで充分だった。
「夜襲をかけますか?」
バルロは少し思案したが、首を振った。
「いや。明朝、使者をたてろ。それでも応じなければ一斉攻撃を開始する」
今度はアスティンが少し考えこみ、念を押すように言った。
「いっせいにとおっしゃいますか?」
「そうだ」
「お言葉を返すようですが、相手が相手です。正面から一斉攻撃をかけたところで、大幅に崩れるとも思えませんが」
「それでいい」
バルロは低く稔った。
「あの薄情者に俺の覚悟を見せつけてやる。中央突破から全壊させるつもりで総攻撃をかけろ。ナシアスにも、あの人にも、それでわかるはずだ」
アスティンの顔から微笑が消えた。
どうやら事態は予想していた以上に難しいことになっているらしい。
もしかしたら馴れあいの合戦かとも思わないでもなかったが、バルロは本気で長年の友人を、|従兄《いとこ》である国王を、敵と定めて戦おうとしているのだ。
それならそれで、こちらの被害が最小限になるように頭を使うのがアスティンの役目である。
しかし、今度ばかりは気の進まない、後味の悪い役目になりそうだった。
同じころ、国王軍の陣地でも、息を詰めて政府軍の篝火を見つめる人影があった。
「まさか、こんなことになるとはな」
苦い声で言ったのはドラ将軍の副官、タルボ。
「見苦しいと言われるかもしれませんが、何かの間違いではと思いたい気持ちでいっぱいです」
同じく|呻《うめ》くように言ったのはナシアスの副官、ガレンスである。
二人とも自分の部下の前ではあくまで快活に、|豪《ごう》|放《ほう》|磊《らい》|落《らく》にふるまっていた。相手が誰であろうとコーラルを目指すに変わりはない、名にしおうティレドン騎士団ならば願ってもない相手だと豪語し、兵士の不安を拭い、戦意を鼓舞したのだが、内心では深く苦悩していた。
つい昨日までぜひとも救出をと思っていた相手が今まさに敵となり、こちらに襲いかかって来ようというのである。
シャーミアンがひっそりと歩いて来て、彼らと並んで立った。
「嬢さま。もうお休みになりませんと、明日はきつい戦になります」
「ええ」
そう言いながらもシャーミアンは動かなかった。
暗闇に明々と燃えさかる敵陣の篝火を真摯な顔で見つめている。
「タルボ。いったいどうしてこんなことになったのか、あなたは何か聞いてはいない?」
「嬢さま。それは私のほうがお尋ねしたいくらいです」
兵士たちの手前、声を抑えてのやりとりだった。
「将軍さまのことです。何かお考えがあるのだろうとは思います。ですが、私にも一言もおっしゃらないのが何とも|解《げ》せません。いえ、本当ならば私のほうが将軍さまの胸中をお察ししなければならんのでしょうが、情けないことにさっぱりです」
「ガレンス。あなたは?」
「ご同様です」
ラモナ副騎士団長は投げやりに大きな肩をすくめてみせた。
「ナシアスさまはティレドン騎士団が敵方についたことを仕方のないこととあきらめ、バルロさまを説得しようとさえなさいません。私にはその理由も原因もわかりませんが、よほどのことです。でなければあのナシアスさまが大鷲の紋章に対して攻撃命令を下したりなど、するわけがありません」
彼らはそれでも彼らの主人や父親に対して深い信頼を寄せていたから迷いはない。ただ、できるものならその理由を知り、納得したかった。
シャーミアンが訝しげに言う。
「あのバルロさまが、どうして改革派に助勢するとご決心なさったのかしら?」
「同感です」
二人の副官が思わず声を揃えた。
「わからんのはそこです。他の人ならばともかく、あれほど頑固に、陛下に対して敬意を払っていらした方がなんだって……、しかも最悪の場合は近衛兵団を引き連れたヘンドリック伯爵が敵方に参戦するかもしれないとあっては何がどうなっているのか! 教えてもらいたいものです」
「ガレンスどの。声が高い」
タルボが低くたしなめる。
そうして彼ら三人の目は自然と国王の天幕へと集まった。
明日の軍議はすでにすんでいる。その時には彼らも主だった領主たちも参列し、それぞれの手順を確認しあった。
国王は敵の新手に対し、動揺は見せなかった。
ただ苦笑して、従弟どのも辛い選択をしたのだろうと述べた。今度の出撃はバルロの本意ではないというのだ。だったら、ここで自分たちが勝利を収めてやるほうが、|彼《か》の人のためにもなるというのである。
「とはいうものの従弟どのにも騎士の面子がある。中央全土にその名も高いティレドン騎士団とあってはなおざりな戦いぶりは見せるまい。明日の攻撃は間違いなく熾烈を極めることと思う。各々、くれぐれも油断することのなきように、また手心など加えることのないようにお願いする」
領主たちはそう聞かされておおいに安心し、納得もしたようだった。
国王の言うことはもっともであり、説得力もあるのだが、それでも彼ら三人は心から頷けなかった。
彼らはバルロを知っている。その人柄も、国王に対する忠誠心も、ナシアスへの友情もよく知っている。どんな理由があろうとその二人に刃を向けたりなど決してしない人のはずだった。
国王の天幕の中では、そのナシアスとドラ将軍がウォルと顔をつきあわせるようにして『本当の』明日の対策を練っている。
このあたりの地形に友軍と敵兵の位置を書きこんだ図面を広げて、ドラ将軍が説明している。
「わが軍の位置がここ、そしてここにティレドン騎士団。その左右を固めるのが近衛第三軍と領主軍。敵陣にヘンドリック伯がいないのがせめてもの救いですが、コーラルへ報告のために一時、戦列を離れただけだと見るべきでしょう。ここからコーラルまでは一両日で駆け戻れる距離ですからな。アヌア侯爵ほどではないにせよ、伯爵の指揮する近衛兵団を相手にするとなると、かなり厄介なことになります」
「つまりは速攻で片をつけねばならないということですな」
ため息をついたウォルだった。
「ナシアスどの。ティレドン騎士団長はどんな策で来ると思いますか」
「陛下。まずそのお口ぶりをあらためてください」
と、ナシアスは釘を刺して、
「バルロは小細工を|弄《ろう》するような性格ではありません。気性の激しい男ですから常道どおりの攻撃をかけてくるつもりではないかと思います」
「隊を二手、三手に分けることはあっても、基本的には真っ向からの勝負を挑むと?」
「単純なようですが、それが曲者です」
断言したナシアスである。
「彼らの統制のとれた機動力はもちろん、バルロは戦の流れを読み、機を制することにかけては天才的です。現に魔の五年間のころ、幾度となく競りあいの戦をこなしましたが、ティレドン騎士団の突撃に耐えたものは誰もおりません」
ドラ将軍が低く笑った。
「それはラモナ騎士団にしても同じことではないのかな。貴公たちは国王不在の間、実によく働いていたからな」
「ええ。あのころは各地で領主たちの紛争が絶えなくて我々の『出動』も頻繁でしたから。バルロともよく話をしました。こんなふうに内輪で争ってばかりでは二大国につけこむ隙を与えるだけだ、一日も早く正当な国王を迎える必要が……」
ナシアスはそこで思い出したように言葉を切った。
慌てて男を見、深く頭を下げた。
「お許しください。ご無礼を……」
男はゆっくりと首を振った。
「ナシアスどの。ご遠慮なさいますな。困ったことになったと思っているのは俺も同じです。俺自身の始末はどうでもよろしいが、このデルフィニアがどうなるのか、今となってはそのほうが心配です」
静かな口調だった。
そうして優しい目でナシアスを見つめて笑いかけた。
「今度のことが無事にすんだら、改革派を打倒し、ペールゼンを倒したならば、あなたからもバルロどのに王冠を勧めてやってください。おそろしく頑固な従弟どのだが、あなたの口添えがあればその石頭ぶりもだいぶ揺らぐと思います。もしかするとまた国王など柄ではないといやがられるかもしれませんが、今度ばかりはどうでも頷いてもらわなければなりますまい」
決戦を間近にした戦士としてはあるまじきことだが、ナシアスはほとんど目尻を熱くして頷いた。どうしてそうなるのか自分でもわからなかった。
ドラ将軍も心なしか目を潤ませて、それでもしゃんと胸を張った。
「繰り言は言いますまい。今はあなたが国王です。そのつもりで我々にできることをいたしましょう」
朝が近づいていた。
マレバの西の盆地に陣取った国王軍、政府軍の陣営の両方から炊飯の煙がさかんに立ち上っている。
日が昇る前に腹ごしらえをすませようというのである。
夜が明ければ、いつ決戦がはじまってもおかしくない状況だった。勝ち戦続きで浮かれていた国王軍の兵士たちも、さすがにこれから戦う相手のことを思い、緊張した面持ちである。
それはすでに食事をすませ、臨戦態勢に入っている国王の側近たちも同じだったが、何故かイヴンの姿がない。
「ブラン。お前たちの隊長はどこへ行ったのだ?」
あれ以来、つねに傍を離れなかったイヴンが姿を見せないのを不審に思い、国王が尋ねたが、タウの若頭も知らないらしい。困惑した様子で首を振った。
「あっしは留守番でして、陛下にくっついているように言われただけなんです。朝までには戻ると言って皆を連れて出て行かれました」
「リィも一緒にか?」
「いえ、あの嬢ちゃんは嬢ちゃんで何か考えがあるようで例の馬と一緒に。へい」
そんなことを話しているとイヴンがやって来た。
どうやら今まで山の中にいたらしい。体から草と夜露の匂いが濃厚に漂っている。
「遅くなりまして申し訳ありません」
丁重に頭を下げる。男は軽く頷いて、訊いた。
「何かつかめたか?」
「いえ。敵さんがこちらに対し、一斉攻撃をかけようとしていることくらいしか探れませんでした」
「そうか」
そんなことを命じた覚えはないのだが、国王は|気《け》ぶりにも出さなかった。一方のブランは仲間たちの姿が見えないのを訝しく思ったらしい。
「隊長。あいつらはどうしたんです?」
「別の仕事を頼んである」
そうしてあらためてイヴンは幼なじみの『国王』に腰を低くして言いだした。
「陛下。勝手ではありますが、本日の合戦、親衛隊の別行動をお許し願えますか」
国王はかすかに微笑したものだ。
「別行動はお前だけか。それともあの娘もか」
「ぼくもだよ」
さすがに皆、ぎくりとした。
ここは野天である。気づかれないように近づいて声をかけることなどできるわけがない。
だが、少女は国王の座している|床 《しょう》|几《ぎ》の真後ろ、幕の後ろから現れた。
「リィ。おどかすな」
王が言った。
「ぼくのセリフだ。これじゃあ後ろが見えないだろうに。危ないよ」
振り返って幕を引っ張っている。
「なに。それこそ鹿か狼でもなければ、この本陣に背後から近づくことなどできまい。山の獣でもお前のように気配を殺して近づくことはできまいよ」
のんびりと言った国王である。
少女は答えず、たった今越えてきた山を見つめていた。
雑木の生い茂った山である。目線を返しても盆地であるからまわりは山だらけだ。自分たちと敵がいるところだけがさしわたし二カーティヴほどの平地になっている。
盆地の入口に陣取っている敵を見つめながら、少女は言った。
「ウォル」
「何だ」
「あれと戦ってどのくらいもたせられる?」
国王は黙って敵陣へと目線を動かした。
王の横にはドラ将軍、ナシアス、そしてタルボ、ガレンス、シャーミアンが控えている。国王と同じように対戦相手に目を向けた。
ひしめきあった軍勢の中央に、大鷲を描いた旗がたなびいている。他にもそれぞれの領主たちを示すさまざまな旗印がところせましと翻っている。
向こうから見たらこちらの陣営も同じように見えるはずだった。
二つの軍勢の間に広がる緑の野原に初夏の陽光が暖かく降り注いでいる。ところどころには赤や白の小さな花が群れ咲いている。
だが、あの花はすぐに踏みにじられることになる。
そればかりか、この緑の野は|完《かん》|膚《ぷ》なきまでにえぐられ、血に染まる。
国王は特に表情の読めない声で言った。
「やってみなければわからんさ。俺は負けるつもりはないが、バルロもそうだろうからな」
シャーミアンが身を震わせた。騎士として生きる道を選んだことを悔いたことはない。だが、今は何か言葉では言い表せないものが全身にのしかかってくるような気がする。
見張りに立っていたタルボが不意に声をあげた。
「陛下!」
合戦場となる平野に目をやれば、敵陣営から一人の騎士がこちらへ向かってやってくる。同じく騎乗の従者は大鷲の紋章を描いた旗を高々と掲げていた。
使者である。
降伏を呼びかけるためにこちらの陣営までやってくるつもりだったのだろうが、使者がまだ合戦場を半分も横切らないうちに、ガレンスがおそろしい勢いで振り返った。
「陛下。ナシアスさま。失礼して行かせていただきます」
「ガレンス!」
ナシアスが制止したが、ガレンスはすでに馬に飛び乗っていた。相手が誰だかわかったのだ。
「待て!」
「何を言うつもりか知りませんが、国王軍は決して降伏などしないと言い渡してくるまでのこと」
ガレンスはきっぱりと言ってのけ、走り出した。
「待て、ガレンス!」
「ナシアス。馬を貸して」
少女が言い、ひらりとナシアスの馬に飛び乗り、ガレンスの後を追った。何と言ってもグライアでは目立ちすぎる。
そうしてガレンスに追いついて少し下がって馬を進めると、体が小さいだけに少女はガレンスの従者のように見えた。
ナシアスは小さな焦燥を感じて国王を振り返ったが、国王は軽く頷いてみせた。
「手切れの口上を言い渡すだけのことにラモナ副騎士団長がわざわざ出向くこともなかろうが、なまじ相手を知っている分、自分で言いたいのだろう」
落ちついた声でそんなことを言った。この本陣には事情を何も知らない一般の兵士もいるのである。
ナシアスも気をとり直した。自分がとり乱してはその彼らが訝しむ。
両軍からゆっくりと進んだ使者たちは戦場となるべき場所の真ん中でとどまり、騎乗のまま向かい合った。
少女は従者を装いながら政府軍の使者を注意深く観察していた。
二十七、八に見える若い騎士だった。
すらりとした姿はガレンスの半分くらいに見えるが実際にはよく鍛えてあるはずだ。色白の理知的な顔立ちで、口元は穏やかに結ばれていたが、すずやかな薄茶の瞳だけは厳しい緊張に張りつめている。
「こんなところで相まみえることになるとはな」
ガレンスが低く稔った。
アスティンも固い顔で頷いた。
「そちらに降伏を勧告するために来たんだが、無駄だろうな」
かねてから親しい騎士団の副官同士である。無論親交があった。
ガレンスはいかつい顔を苦渋にゆがめて昔なじみに問いただしたものである。
「アスティン。俺にはどうしてもわからん。いったい何があったというんだ? バルロさまはお前には何かお話しにならなかったか」
ティレドン副騎士団長はゆっくりと首を振った。
「それは私がお前に尋ねようと思っていたことだ。うちの大将はあれで案外扱いやすい人のはずなんだが、今度ばかりはお手上げだ。貝みたいに固く口を閉ざしてる」
いっそう険しい顔になった昔なじみに、アスティンは軽くため息をついた。
「ナシアスさまもか」
「ああ。ただ何としてもマレバへ入らねばならんと言われるのみだ」
「互いに厄介な主人を持ったようだな」
どこまで本気かわからないがアスティンは淡々と言い、かすかに微笑を浮かべてみせた。
「それでも、間違ってもナシアスさまだけは敵にまわしたくないはずのうちの大将が白百合の紋章を攻撃しろと言うんだ。引くわけにはいかんよ。ましてや獅子の旗印に至ってはな……」
なんともやりきれない苦笑を浮かべたアスティンだが、それも一瞬である。きっぱりと言ってのけた。
「これも何かの因縁というものだろう」
「うむ」
ガレンスもはじめて不敵な表情になった。
「ティレドン騎士団ならば相手にとって不足はない。存分に戦おうそ」
「ああ」
感傷的になるのはここまでだ。
後は死力をつくしての戦いになることを二人とも充分にわかっていた。
二人が話している間、リィは従者を装って黙って聞いていたが、馬を返して陣地へ戻る途中、そっと尋ねたものである。
「今の人がバルロさんの副官?」
「ああ」
「バルロさんもずいぶん若い団長だけど、あの人もずいぶん若いんだね」
「いや。若く見えるがあれで確か三十五には……」
言いかけて、ガレンスはふと口をつぐんだ。
「戦士」
馬を進めながら、少女を見ずに言う。
「バルロさまを見たことがあるような口ぶりだな。どこで見た?」
さすがにぎくりとした少女である。
国王軍全体の視線が自分たちに集中しているはずである。ガレンスは馬上で姿勢をただし、あくまで正面を睨み据えたまま、恐ろしいような声で念を入れた。
「ナシアスさまの肩は、バルロさまなのか?」
少女は答えなかった。答えられなかったのだ。
ガレンスにもうすうす察しはついていたことだったのだろう。それ以上深くは尋ねてこなかったが、変わりにこんなことを言った。
「バルドウの娘に尋ねたいが、我々とバルロさまと、今度の戦の理はどちらにあると思う」
「どちらが正しいのか。そういうこと?」
「そうだ」
「どっちも正しいよ」
ガレンスの眼だけが鋭く動いて少女を見た。
少女はもう一度言った。
「どっちも正しい。バルロさんはナシアスのこともウォルのことも死なせたくないんだ。だからこうして決戦を挑んできた。ナシアスもウォルを死なせたくないからバルロさんの挑戦を受けて立った」
「そこまでは俺にもわかる」
低く稔ったガレンスだった。
「わからないのはひとつだ。『何故』なんだ?」
「考えている暇はないよ。もうすぐ開戦だ」
彼らが本陣へ引き揚げるのを合図にしたかのように合戦ははじまった。
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決戦は壮絶なものだった。
この戦、追い詰められているのは国王軍のほうである。何としてもここで敵を撃破して城塞を抑えなければ後がないのだ。それだけの気合いを入れてかかったのだが、政府軍も凄まじい猛攻をかけてきた。
先日の合戦の時とは別の軍勢のような、生き残る算段を度外視しているのではないかと思えるほどの戦いぶりである。
しかし、国王軍とておとなしくやられはしない。相手がしゃにむに突っこんでくる間は防御を固め、疲れを待って切り崩す戦法に出た。
緑の野原は歩兵、騎兵が入り交じっての大混戦の場と化した。
切りこみの先頭をつとめる一兵卒は敵の顔を認める余裕もなく、ただ襲いかかってくるものを死に物狂いで突き、斬り伏せる。敵も同様に雄叫びをあげ、こちらを殺そうと襲いかかってくる。こんな極限状態では気後れしたものの負けだ。兵士たちは多少の手傷を負っても動きを止めず、中には手足から血が流れていることにさえ気づかずあらたな敵に襲いかかり、戦い続けるものもいる。
騎兵隊は戦場を自在に駆けまわり、めぼしい相手と馬を馳せ違えながら激しく槍を合わせる。どちらも一歩も引かない凄まじい攻防になった。
早朝と共にはじまった合戦は二時間ほど続き、|埒《らち》が明かないと見た両軍は|鉦《かね》を鳴らしてそれぞれの軍勢をいったん陣地に引き揚げさせた。
互いに使者を出して、戦場にとり残された負傷者と戦死者を収容する。
国王軍では先陣、中陣に出たセリエ卿、ニチェリー卿が息を切らしながら国王に戦況の報告をしたものだ。
「さすがと申しましょうか、敵ながら見事な戦いぶりでございます。我々もずいぶんと激しく攻めたてたのですが、一向に勢いが衰えません」
「ですが、今一度立ち向かえば、必ずや敵の先鋒は崩せるものと思います」
しかし、政府軍の主力ティレドン騎士団はその騎馬隊のほとんどを戦いに参加させていない。
それは国王軍も同じである。国王の指示でラモナ騎士団の騎馬隊は後陣にとどまり、戦局を見守っていた。
その後陣からたまりかねたのかナシアスがやって来て、国王に進言した。
「怖れながら陛下。次の戦いには我々の参戦をお許しください」
「ならん」
「ですが、このままでは……」
ナシアスの顔には焦りがある。長引かせてコーラルからの援軍でも到着しようものなら、こちらの敗北はほぼ決定的だ。
その前に何としてもティレドン騎士団を叩かねばならないとナシアスは思っていた。あの友人もおそらくそれを望んでいるはずなのだ。
「ティレドン騎士団を我々が抑え、その間に総攻撃をかければ崩せない相手ではありません。必ず撃破できるはずです」
そう進言したが、国王は頷かなかった。
「ラモナ騎士団がティレドン騎士団に実力的にはるかに勝るというのならそれもいい。だが、実際にはほぼ互角。ましてやバルロの意気ごみにはなみなみならぬものがある。そんな相手に正面から向かっていこうものなら大打撃を被るだけだ」
「かまいません。それでマレバを|奪《と》れるのならば、我々はいつでも捨て石になる覚悟でございます」
本気で言ったナシアスだが、国王はあくまでやんわりと首を振った。
「駄目だ。貴公をここで無駄死にさせるわけにはいかん」
「ですが……!」
「ナシアス。忘れるな。これは貴公とティレドン騎士団の戦ではない。貴公たちの間で決着がつけばよいというものではないのだ」
冷静な声に、ラモナ騎士団長は思わず身震いして頭を下げた。
確かに自分たちの間で決着がつけばいいというものではない。だが、マレバを奪取し、コーラルと戦うためには少しでも多くの戦力を温存する必要がある。二千のラモナ騎士団を無傷で残すために、三千の領主勢が痛手を負うようなことになっては意味がない。
ナシアスは無念そうに左の肩を抑えた。
服の下に隠していたが、先日バルロによって受けた傷は思いのほか体の自由を束縛している。
これさえなければ、いっそ自分とバルロとの一騎討ちによってこの戦の勝敗を決してもよかったのだが、この有様では一騎討ちを申し出たところであの友人が承知するはずがない。
「ナシアス。物騒なことを考えてはいかん」
思わずどきりとして顔を上げると、国王が微笑を含んだ顔でナシアスを見つめている。
「おわかりに?」
「そんなに悔しそうな顔をして肩を押さえていればな。そう|逸《はや》るな。従弟どのとて貴公と決闘などしたくはあるまいよ」
「いいえ。あの男のことですから、今ごろは下手に先走ったことを心底悔いていると思います。私としても徹底的に非難してやりたい気分です」
国王は楽しそうに笑い声をあげた。
「そうとも。生き残らねば従弟どのと喧嘩もできなくなるぞ」
ナシアスも微笑んだ。決して楽観できない状況だが、国王がいつもの国王であることに安心した。
「陛下には何か勝算がありますのでしょうか」
「と、言うほどのものでもないがな。あの娘がこの戦いに参加していない」
のんびりと言う。
「イヴンもだ。何をするつもりなのか俺にも黙って出て行ったが、少し待ってみようと思っている」
頼もしいような心許ないような答にナシアスは祈るような思いがした。
あの少女と親衛隊長が何をするつもりにしても、こちらが壊滅的な打撃を受けた後では手遅れなのである。
一方の政府軍でも総指揮官のバルロが各領主から戦況の報告を受けていた。
その横には見張りの意味をも込めて忠実な副官が控えている。もしこの団長が先陣を切って飛び出すようなら体を張ってでも止めるつもりだったのだが、バルロは意外にも本陣にとどまり、打って出ようとはしなかった。
珍しいことである。
勇猛で知られたこの人でも旧知の友とは戦いたくないのかとアスティンは思ったが、戦況の報告を受けたバルロはしみじみとため息をついていた。
「しまった……」
「はい?」
「こうまで手間取るならば、あいつに傷をつけたりするのではなかった」
「は……?」
「まさか怪我人を相手にはできんからな。つくづく早まった」
恐ろしい想像にアスティンの頬に冷や汗が伝う。
バルロは心底惜しそうに頭を振ったが、すぐに気持ちを切り替えたらしい。
先の前哨戦において挟撃にあったことをバルロは忘れてはいなかった。攻撃の第二弾に関して詳しい指示を出したが、その内容は、敵の伏兵に備えた勢力を充分に残し、先鋒に|楔 《くさび》|形《がた》の陣形を組ませて敵正面に突撃させる。いよいよという時にはバルロの指揮下、抑えの兵力を一気に投入するというもので敵がよほどの大軍ならともかく、こちらに劣る軍備である以上、これで切り崩せない相手とは思えなかった。
「肝心なのはラモナ騎士団を引きずり出すことだ。何と言ってもあれが敵の主力だからな。そのつもりで一層激しく攻めたてろ」
政府軍には援軍のあてがある。今日の遅くにはヘンドリック伯爵が自らの手勢を率いて合流するはずだ。戦力の温存は考えなくてもいい。
「ラモナ騎士団が応じて戦場に出て来たならば、一気に抑えの兵力を投入する。そこが正念場だ。団長ナシアスを捕らえたものには望みの報酬を取らせるぞ。存分に励め」
そうして自分は本陣にとどまり、床几に腰を下ろした。
二度目の合戦はそれからすぐにはじまった。
早朝からはじまった戦いだが、すでに太陽は中天にある。
政府軍の兵士たちは国王軍を目指してひたすら前進に前進を続けた。政府軍の本陣にはこの場を守るために守兵がかなり残っていたが、戦いに参加したくてうずうずしている様子である。
その様子を近くの山の中腹から見下ろしていたものたちがあった。
イヴンをはじめとするタウの男たちである。
彼らはここまで目立たぬように山の中腹を移動して政府軍に迫っていた。さいわい雑木林と茂みに覆われた山だ。大軍で移動すればそれでも目についたろうが、十人足らずの小人数だったので発見されずにすんだのだ。
茂みだらけの、とても歩けそうにないところを強行に走破したのはさすがに山賊あがりである。
もっとも彼らにも決して楽な行軍ではなかった。
ソベリンのジョグが汗をかき、息を切らしながらイヴンに問いかけたものである。
「ですけど、敵の大将は王様のいとこなんでしょう? |殺《や》っちまうのはまずいんじゃないですか?」
「そりゃあまずいさ」
イヴンも足を止めずに言い返した。
ここからではまだ弓の射程距離には届かない。もう少し近づく必要があった。
「けどまあ、ちょいと怪我してもらうくらいなら、かまわないと思うぜ。とにかくこのままじゃ埒が明かん。敵を混乱させて戦意を喪失させるには頭を叩くのが一番だからな」
「へい。襲撃の基本ですな」
金目のものをたんまり持った商人の隊列を襲った時のことを思い出しながら、ブランが言った。
「雑魚をいちいち相手にしてたら、その隙に一番の大物が逃げちまいまさあ」
「まったく。なんだって王様も将軍もそうしないんですかね?」
アデルフォのダリの疑問にはレントのサルジがしたり顔に答えた。
「そりゃあおめえ、騎士の面子とか誇りとか、いろいろと難しいものがあるんだろうよ」
「そういうことだ」
イヴンも頷いた。
あの幼なじみに敵の大将を急襲に行くと言えば、反対されるに決まっている。それならやってしまった後でお小言を食らえばいいとイヴンは覚悟を決めていた。
彼らは音を殺し、できるだけ気配を消して、眼下に小さく見える敵の本陣に近づいて行った。
勝負は最初の一矢で決まる。当たれば騒ぎに乗じて逃げることもできるだろうが、はずせば自分たちには馬もない。たちまち敵に追いすがられ、捕えられてしまうだろう。
そんな危険は百も承知の上で、イヴンは仲間たちを誘い、この|攪《かく》|乱《らん》作戦に出たのだ。
あの友人にも他の将軍たちにも、表向きの勇ましさとは裏腹に自分たちの正義を信じきれない弱みがある。気力の充実という点において、明らかに政府軍に遅れをとっているのだ。
正攻法の戦いでは勝ち目はない。かといって国王軍の看板を掲げる彼らに非道なことができるわけもない。
その点、自分たちならばもともとが山賊だ。多少、騎士道にはずれたふるまいをしたところで国王軍に傷はつかない。
イヴンは仲間の先頭に立って、行く手を邪魔する茂みを苦労して掻き分けながら政府軍の本陣に近づいて行ったのだが、不意にその腕を掴まれた。
「……!?」
さすがに仰天する。もうちょっとで声をあげるところだったが、音も立てずに現れた少女は唇に指をあて、静かにするようにと無言で言ってみせた。
「リィ! おどかすな……」
額の汗をぬぐったイヴンである。
少女は茂みの中に長い間身を潜めていたらしい。
「こんなところへ皆で何しに来たのさ」
「そう言うお前は何をしにだ」
どうやら二人とも狙いは同じだったようである。
だが、敵のめぼしい指揮官に手傷を負わせるつもりだというイヴンの考えに、少女は難色を示した。
「国王の親衛隊がそんなことするのはまずいよ」
「じゃあ、お前の狙いは何だ?」
あの男はもう国王ではいられないのにと思いながらもイヴンは少女の考えを聞き、目を剥いた。
「正気か、お前!?」
「それこそ一番効果的だと思うんだけどな」
「いや、そりゃそうだろうが、できるのか?」
「やってみなきゃわかんないよ。ちょうどいいや。手伝って」
度胆を抜かれたタウの男たちは少女に先導されて少しずつ山を下り、敵の本陣に近づいて行った。もう敵の本陣はほとんど真下である。下手な動きをしたら即座に見つかってしまう距離だ。
彼らが驚いたのはそこにグライアがいたことだ。
ロアの黒主はその巨体をうまく大木の陰に隠して、微動だにしない。自分の出番がくる時までそうして彫像のように構えているつもりらしいが、背中の鞍に妙なものをくくりつけていた。
細目の縄だの|莚《むしろ》だの、通常の倍はありそうな特大の麻袋などだ。
「リィ。いったいこれは何だ?」
疑わしげにイヴンが聞くと、
「兵糧隊が持ってたんだ。穀物の入ってた袋だよ。いくつかつなぎ合わせてつくったんだ」
「そりゃあわかるが、なんでこんなものわざわざ用意したんだ?」
「いちおう、見えないようにくるんだほうがいいと思ったんだけど、いらなかったかな?」
イヴンはほとほと呆れ果てたため息を洩らし、おとなしくしている馬に話しかけた。
「お前も、こんな厄介なもんに惚れこんだおかげで苦労するよな」
黒馬は|嘶《いなな》きをあげるようなことはしなかったが、ちらりとイヴンを見て、軽く鼻を鳴らしてみせた。
それはまるで『おたがいさまだ』と言っているようにイヴンには聞こえたのである。
戦いはいよいよ政府軍に優勢の様相を呈してきた。
先陣のミンス・ニチェリー勢の戦いぶりは苦しく、中陣からロア勢が援護に駆けつけ、懸命に応戦していたが、なかなか政府軍の勢いを止められない。
このままでは後備えのラモナ騎士団が参戦するのも時間の問題のように思われた。
この機を狙っていたバルロはすかさず采配を揮って叫んだのである。
「二陣、両翼、共に突撃!」
この命令が下るのを今か今かと待っていた軍勢だ。
堰を切ったように国王軍目指して突進した。
そして、本陣近くに守兵としてとどまっていた軍勢も興奮を抑えかねたのだろう。突撃の許可を求めてきた。
今一押しすれば敵が潰走するのは必至、ぜひともここで自分たちにも働きの場をと伝令が口上を述べ終わる前にバルロは叫んだのである。
「許す! 行けい!!」
後陣にあって相当じりじりしていたのだろう。騎馬から歩兵から|弦《つる》を放たれた矢のような勢いで突進して行った。
はじまった時には両軍の間で行われていた戦闘だが、いまや戦場ははっきりと国王軍の側に傾いている。それは当然、政府軍の本陣ががらあきになったことを意味していた。
本陣には床几に腰を据えたバルロの他に、十人ほどの精鋭が守備についているだけだ。残りは皆、国王軍に襲いかかっていたのである。
政府軍の本陣の背後で木立の中に身を潜めた少女が待ちに待っていたのはまさにこの瞬間だった。
むろん、タウの男たちも心得ていた。
わずか九人の彼らと一頭の馬は茂みを飛び出し、政府軍の本陣目指して一気に駆け降りたのである。
政府軍の勇士たちが気づいた時には先頭の少女はすでに本陣の真後ろまで迫っていた。国王軍と同じように幕を張ってある、その幕の下からするりと潜りこむ。ほぼ同時にタウの男たちが、これは横から政府軍の本陣に襲いかかった。
思いもかけない時に思いもかけない場所からの突撃に政府軍は仰天し、混乱した。
「何者!?」
「|推《すい》|参《さん》な!」
口々に叫んで応戦しようとしたが、奇襲の利はタウの男たちにあった。
馬上の騎士たちに武器を取らせる間を与えず、一撃で殴り倒す。馬上の敵を倒し、馬を奪うことなら山賊の彼らにはお手のものだ。
一方、幕を潜って本陣に飛びこんだ少女は目当ての人間にまっすぐ襲いかかったのである。
「貴様は!?」
バルロが叫んで腰の剣に手をやったが、抜かせはしない。少女はあらかじめ両手に握っていた棍棒でバルロの胴体を思いきり突いていた。
腰に手をやりかけた姿勢のまま、バルロはものも言わずに崩れ落ちた。
「団長!」
アスティンが血相を変えて剣を引き抜き、少女に襲いかかろうとしたが、イヴンが先回りして、その剣を叩き落とした。
「リィ! 急げ!」
「ちょっと待ってよ、荷づくりしなきゃ」
少女はグライアにくくりつけていた縄でバルロを手早く縛りあげて莚で巻き、例の麻袋を広げて足から通している。
さすがにイヴンも顔を覆いたくなった。
政府軍の兵士たちは予想外の襲撃に焦り、慌てて応戦しようとした。が、すでに馬上の人となったタウの男たちが寄せつけない。
その隙に少女はてきぱきと荷づくりをすませ、固く口を縛った麻袋をグライアに載せた。
「イヴン。行くよ」
「おう」
アスティンに突きつけていた刃を引き、イヴンはいたずらっぼく笑って言った。
「すまねえな。いただいてくぜ」
ひらりと身を返し、ブランが抑えていた馬に飛び乗る。そうして彼らは国王軍の陣地を目がけて戦場を縦に突っ切ったのである。
「何だ!?」
驚いたのは戦っていた両軍だ。
政府軍にしてみればこんな小人数の援軍があるわけもない。かといって合戦場の真後ろから敵が来る道理もない。国王軍にしてみれば合戦がはじまってからずっと姿を見せなかった彼らが政府軍の陣地からこちらへ向かって一直線に駆けてくるのだ。
「ナシアスさま! 戦士が!」
ガレンスが思わず叫んだのも無理はない。
他の連中は馬で駆けてくる。だが、少女は自分の足で走っていた。すぐ横を麻袋を載せたグライアが駆けている。全力で疾駆する馬に勝るとも劣らぬ早さで少女は低く大地を駆けてくる。
「なんと!?」
間近でこれを見た政府軍の勇士たちが驚いたのは当然である。
戦うのも忘れて唖然としているうちに、八騎と一頭、そして一人は楽々と政府軍の陣地を越え、国王軍の陣地まで駆け抜けたのだ。
これを追うのか戦いを続けるのかはっきり迷った政府軍に対し、引き揚げの|鉦《かね》が鳴った。
国王もまたこの様子を本陣から眺めやっていたが、かすかに微笑して引き揚げの鉦を鳴らすように命令した。
かくて、両軍ともこの行動に度胆を抜かれた形で二度目の合戦は終了したのである。
戦場の端から端まで駆けたタウの男たちはようやく緊張から解放され、汗だくになって馬を下りた。
「いやあ、参った。無茶をやらせますなあ」
「寿命が五年は縮みましたぜ」
命知らずのタウの男たちでもこんな無茶はしたことがない。イヴンも冷や汗をかきながら言い返した。
「文句はあの娘に言え。帰りはまっすぐ走ったほうが近いとはよく言った。むちゃくちゃだ」
振り返って見れば、政府軍の陣地はかなりの混乱状態にあった。それまでの圧倒的優勢が嘘のように慌てふためいている。総指揮官が|拉《ら》|致《ち》されたのでは無理もない。
苦笑を抑えて少女の姿を探せば、少女はさすがに別の理由で汗をかいていたが、グライアを連れて、まっすぐナシアスのもとへと歩いて行った。
ナシアスもまた驚いた顔で少女を迎えた。
「リィ。いったい何をしてきたんだ?」
少女は答えず、グライアに載せていた大きな包みを引きずり降ろして両肩に負い、ナシアスの前に、でんと置いて言ったものである。
「これ、ナシアスにおみやげ」
「みやげ? 私に?」
「うん。あげる」
ナシアスは不審に思いながらも|小《こ》|柄《づか》を使って袋の口を開け、中を覗いてみた。
その時は特に反応は示さなかったが、視線を戻して再び少女を見た顔はおそろしく奇妙に歪んでいた。
爆笑寸前の表情である。
正確にはぎりぎりのところで懸命に噛み殺している有様だった。
「これは……。私がもらって、いいのかな?」
「そのつもりで取ってきたんだよ。イヴンたちが手を貸してくれたんでうまくいったんだ。あとでお礼言っといてね」
簡単に言い、馬を連れてさっさと歩いて行く。自分と馬の汗を拭うのだろう。
ナシアスは必死に笑いをこらえていた。おかげでまた肩が痛みだしたくらいだった。不審に思ったガレンスが近づいてきたのをさいわい、何とも複雑な顔で頼んだものだ。
「ガレンス。すまないが、これを私の天幕に運んでおいてくれないか。目立たぬようにな」
「はい。かまいませんが、何ですか、これは?」
「バルドウの娘から私へのみやげだそうだ。そっと覗いてみろ」
ガレンスは言われたとおりにして「ぶわっ!?」と、奇声を張りあげた。
慌てて口をつぐみ、袋の口を握りしめて左右を見回したのは、誰かに見られはしなかったかという懸念からだろう。
「こ、これは確かに……目立ってはまずいですな」
ナシアスはどうにか笑いの発作をこらえ、つくづく感心したように首を振った。顔を上げると、あの少女が国王と何か話しているのが見える。
「なあ、ガレンス」
「はい」
できるだけ丁重に麻袋を担ぎ上げたガレンスが振り返る。
「あの少女は本当に、ハーミアの化身なのかもしれないな」
「はい」
麻袋の中身を|慮《おもんぱか》り、声は抑えたが、ガレンスは力強く頷いた。
「あんなにちいちゃくてあんなにきれいなのが嘘みたいですが、あれこそ私たちにとっての勝利の女神に違いありません」
「まったくな。さて。もらいものとはいえ、いちおう陛下に報告してくる。どうも先ほどのリィの様子では、みやげものの中身まで陛下にお話ししたとは思えんからな」
「はい」
ガレンスは神妙に笑いを噛み殺し、もう一度頷いた。
麻袋にくるんだおかげで結果的に人目は引かずにすんだのだが、荷づくりされた当の本人にしてみれば言語道断の不覚である。あたりかまわず罵声を吐き散らしたくなるほどの屈辱だったに違いない。
国王に事情を話したナシアスはそっと自分の天幕に引き揚げ、床に転がった麻袋に慎重に話しかけたものだ。
「起きているか?」
返事はなかったが、麻袋が少し動いたようだった。
「今、出してやるが、ここは国王軍の本陣だ。騒ぎたてたりするなよ」
釘を刺しておいて、ガレンスが縛りなおした麻袋の口をほどいてやったのだが、中から現れたこれ以上はないほどの仏頂面に思わず吹き出した。
「気の毒だったな」
「ナシアス……」
まだ縛られたまま、バルロはぎりぎり歯ぎしりを洩らしたものである。
「貴様、いったい、正気か。これは何の真似だ!!」
ナシアスは肩をすくめることで答えた。
「私に文句を言われても困る。お前は私へのみやげものだそうだからな」
「お前は……!」
バルロが憤然となる。
だが、まだ腰から下は麻袋の中で腕は縛られているのを思い出したらしい。憮然と言った。
「まずこれをほどいたらどうだ」
「暴れないと約束するならな」
「敵の本陣で暴れてどうする? 俺にだって捕虜の心得くらいある」
ナシアスは体をぐるぐる巻きにしている縄を切ってやったが、バルロはとたんに跳ね起きて麻袋を脱出し、ナシアスに掴みかかった。
「さあ、白状しろ。あの小僧はいったい何だ!? あいつのおかげで一度ならず二度までも勝負に横やりを入れられたんだぞ!!」
襟首を引っ掴まれたナシアスは苦笑しながらも、眉をひそめた。
「手を離せ。傷が痛む」
その言葉にバルロははっ[#「はっ」に傍点]となった。
他でもない。自分がつけた傷だった。
ナシアスは天幕の中に置いた机に向かい、酒瓶を取り出した。
「どうだ、一杯?」
ここまできたら抵抗してもどうなるものでもない。
バルロは苛立たしげに腰を下ろした。
「俺をいったいどうする気だ?」
「さて、どうしようか。お前は私がもらったものだしな」
「勝手に決めるな!」
憤懣やるかたない様子のバルロと裏腹に、ナシアスは楽しげに笑っている。
そこへ国王とドラ将軍がやって来た。
「おお。お久しぶりですな、従弟どの。いや、もう従弟どのではないわけだが、便宜上、そう呼ばせてもらいます」
ますます憮然となったバルロである。
かつての従兄を睨むようにして言ったものだ。
「あなたがこんな不正義をするとは思わなかったぞ。よくもぬけぬけと国王軍などと名乗れるものだ」
「まったく同感だ。その名称は俺もぜひとも何とかしたいと思っています」
『国王』は大真面目に言い、机についた。
ドラ将軍は早々とナシアスの天幕を引き揚げて、あの少女の姿を捜した。
目立たぬように連れこんだといっても、敵の総大将を捕えたのだ。タウの男たちもその襲撃に参加していたのだし、こんな大ニュースが洩れないわけはない。
苦戦ぎみだった国王軍は一気に活気づき、兵士たちの表情も明るくなっている。
戦の流れを変えた小さな軍神は本陣から少し離れたところで馬の世話をしてやっているところだった。
「聞いたぞ。大手柄だったな」
「らしいね」
少女は気のなさそうな素振りで肩をすくめたものだ。他のものなら得意満面に語る大手柄をたてても、少女の様子はいつもと変わらない。
「どうした。浮かぬ顔だな?」
「手柄をたてようと思ってやったんじゃない。友達同士で殺し合いの喧嘩するなんて、よくないよ」
将軍は一瞬、言葉に詰まった。
戦いの場に立てばそんな感傷を引きずっている余裕はなくなる。相手が誰であれ戦うのが当然であり、騎士の務めでもある。そう思って今度の戦に臨んできたのだが、この少女にはそれは納得できないことなのだ。
「……よくないか。そうだな」
「こんな戦、誰もしたくないはずなのにね」
少女は呟いて、手入れの終わったグライアの尻を叩いてやった。黒馬は勇ましくたてがみを振って、軽く歩き出して行く。散歩にでも行くつもりらしい。
「もうちょっと戦力があれば一気にコーラル攻めができるのに。でなきゃせめてウォルのことを認められない人たちがペールゼンに味方するのをやめて、高みの見物をしてくれればいいのに。むきになって襲いかかってくるんだもんな。こんな戦、すごく無駄だし、ばかばかしいよ」
少女が厳しい顔で言った時、将軍は覚悟を決めた。
「小戦士、ものは相談だが……」
少女はちょっと目を見張った。
「フェルナン伯爵もぼくのことをそう呼んだよ」
ドラ将軍は何とも言いがたい苦笑を洩らした。
「ものは相談だが、いや、おぬしを見込んで頼みがあるのだが……」
「なに?」
「おぬしの言うとおり、同国人同士で無益に争うことは何の得にもならん。敵の本陣を背後から襲い、バルロどのを捕えたのは、確かに今までの戦法からすれば常軌を逸しているが、実に効果的だった。同じことがこの戦にも言える。常道に頼ってばかりいてはこの戦も長引き、ひいてはデルフィニアの優秀な人材同士での殺しあいになる。望ましくない事態であることは言うまでもない。それを避けるためにはこの際、多少型破りな手段を用いても許されるのではないかと思うのだ。バルロどのを抑えたことで敵の動きは半分以下にまで鈍る。そこでだ、もう一押ししたいと思うのだが……」
ドラ将軍は慎重に言葉をつくっていた。自分でも無茶だと思えるような考えだったので、はっきり口にする自信がなかったのだ。
だが、少女のほうはきわめて率直であり、また、ちゃめっけも備えていたのである。
言葉を選ぶのに悪戦苦闘している将軍をおもしろそうに見やり、その顔を覗きこんでこう言った。
「ドラ将軍も、おみやげが欲しい?」
「……」
さすがに一瞬絶句した将軍だが、次には髭の口元に不敵な笑いを浮かべ、力強く頷いた。
「ぜひとも、いただきたい」
少女は腕を組み、わざと難しい顔をして言ったものである。
「わかりました。やってみましょう。他ならぬドラ将軍のためならば」
緑の瞳がいたずらっぼく|瞬《まばた》いて将軍を見つめる。
まじまじと少女の顔を眺めていた将軍はとうとうたまりかねて、高らかに笑い出していた。
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その日の夕刻、手勢を引き連れたヘンドリック伯爵が政府軍と合流した。
しかし、来てみれば自軍の総指揮官が敵の手に落ちているという前代未聞の珍事が伯爵を待ち構えていたのである。
ただの総指揮官ではない。前国王の甥であり、国内でも一、二を競う大貴族であり、あの男から王位を取りあげた暁にはあらたに王冠をかぶってもらわなければならない相手だ。
伯爵が激怒したのは当然である。
「諸君らはいったい何をしておったのだ! アスティン、お目付役のお前が傍にいながら何たることだ。バルロどののやりそうなことくらい予想できなかったのか!!」
「面目次第もございません」
目の前で主人を拉致されたアスティンはさすがに顔面蒼白となっている。
「私もあの方のご気性はよく承知しております。万が一の時はお手討ちを覚悟でお止めする所存でおりました。しかし、あの方はご分別を発揮し、本陣にあって采配を揮っていらっしゃったのです。そこへ敵が現れ……」
敵は密かに後ろにまわり、ごく小人数で不意に襲いかかってきたと聞いて伯爵は歯ぎしりした。そうした|姑《こ》息《そく》な戦術は伯爵のもっとも嫌うものである。
「おのれ……」
ここまで一緒に来たルカナン大隊長も思いがけない事態に驚いていたが、そこへ国王軍から使者がやって来た。
「ええい。人質を盾にして降伏しろと言うのだろうが、そうはいくか」
ヘンドリック伯爵は憤然となって自ら使者の前に出て行った。
だが、使者は思いがけないことを言いだしたのである。
「我が軍に捕虜となっておりますティレドン騎士団長をお返しするに当たりまして提案したきことがございます」
「ほう? その条件を呑めばバルロどのを解放すると申すか」
返答しながら、こちらにそれに見合うような大物が捕虜となっているのかとアスティンに目だけで問いかけた。
こうした場合は捕虜の交換という形をとるのが普通だからである。そしてティレドン騎士団長と交換ということになれば、ちょっとやそっとの人物では追いつかない。
アスティンがそっと首を振るのを見て、伯爵は不審に思いながら苛立ち混じりの声で言った。
「何だ。早く申せ」
「おそれながら、明朝、我が軍を代表する勇士と騎馬の勝負を行っていただきたいのでございます。何と申しましても同国人同士の戦、しかもかつては志を共にした方々との戦でございます。またこちらにあってもバルロさまのお身柄は一刻も早く、取り戻されたいことと思います。ならば、一対一の勝敗にバルロさまの身柄を委ねていただきたく、ご承引願いたいのでございます」
「ほほう……」
思わず稔ったヘンドリック伯爵だった。同時に、これはドラ将軍の考えたことに違いないと直感的に思った。
伯爵よりもだいぶ年下のドラ将軍だが、将軍はへンドリック伯爵がほとんどただ一人、自分に匹敵する武勇の持ち主と認めている相手である。
「一騎討ちの勝負を所望と申すのだな」
「は……。まことに恐れ入りますが、かなうものでしたら伯爵ご自身に出ていただきたいのですが、いかがでございましょうか」
「言われるまでもない。わしが出よう」
「伯爵!?」
アスティンをはじめとする領主たちが驚いて止めにかかったが、頑固一徹で知られた人である。聞くはずがなかった。
「だが、わしが直々に出る以上、バルロどのの身柄を返してもらうだけでは不足。その時は国王軍に全面的に降伏してもらうぞ」
「かしこまりましてございます」
伯爵は頷き、反対の姿勢を示していた諸侯たちもこれを聞いてしぶしぶ引き下がった。
五十を超えたヘンドリック伯爵だが、槍を取らせての騎馬戦にかけては天下一品である。たとえドラ将軍や国王が相手だったとしても、引けをとるとは思えなかった。
「ところで、そちらは誰が出るのだ。ドラどのか、それとも陛下ご自身か?」
「いえ。我が軍を助勢しておりますバルドウの娘がお相手いたします」
「なに?」
訝しげな顔になったヘンドリック伯爵である。
真っ青になったのはルカナン大隊長だ。
「そ、それはいかん」
「何故だ、ルカナン」
ヘンドリック伯爵の鋭い目線を受けて、ルカナン大隊長は言葉に詰まった。まさか、その少女が相手ではヘンドリック伯爵といえども確実に勝利することは難しいからだ、とは言えない。
「その、つまり、その娘は国王軍に荷担してはいますが正規の兵ではありません。デルフィニア人でもありませんし、このように重要な戦局を決定する場において国王軍を代表できるものとは思えません」
「お言葉を返すようでありますが……」
国王軍の使者はやんわりと言った。
「我が軍を代表していないとの大隊長のご意見には賛同いたしかねます。陛下はもちろんのこと、我が軍のものたちは将から一兵卒に至るまでバルドウの娘と生死を共にする所存でございます」
「ならばかまわん」
ヘンドリック伯爵が厳然と言った。
「相手が何者であろうともこのヘンドリック、手控えはせん。全力でお相手するまでのこと。帰って陛下にそう伝えられい」
使者は|慇《いん》|懃《ぎん》に頭を下げて政府軍の陣地から引き揚げて行った。
翌朝、両軍が緊張を持って見つめあう中、その決闘は行われた。
ヘンドリック伯爵は|鎧 《よろい》| 兜《かぶと》に身を固め、意欲満々の様子で愛馬にまたがり、試合用の刃をつぶした槍を従者に持たせている。鮮やかな紫紺の外套を翻し、人馬一体となったその姿は国王軍の勇士たちをも惚れ惚れさせるのに充分だった。
伯爵自身も何が出てこようと一打ちでけりをつけてくれるとばかりに勇気|凛《りん》|々《りん》と待ち構えていたのだが、現れた対戦相手のあまりに意外な姿に、とっさに声が出なかった。
グライアにまたがった少女は、昨日バルロを拉致した時の彼女ではない。
「お初にお目にかかる」
りんとした声で挨拶した。
腰に剣を差し、手には刃のない槍のような長い棒を握っている。
「おれはグリンダ。国王軍を代表する勝利の女神。この戦の勝敗を賭けて勝負をお願いしたい」
ヘンドリック伯爵はまだ唖然としていた。伯爵にとっては孫のような少女なのだから無理もないが、無遠慮にその姿を上から下まで眺めまわし、付添として傍にいたドラ将軍に向かって怒声を張りあげた。
「ドラどの! これは何の真似だ! わしをたばかるつもりか!!」
「めっそうもない」
将軍は真顔で答えた。
「この少女ならば貴殿を相手にできると信じてのことだ。遠慮はご無用。いいや、遠慮などなさろうものなら貴殿といえども不覚をとるのは必至だぞ」
「馬鹿な……。話にならん!! 貴君、このわしにこんな小娘と一騎討ちをしろと申すのか!」
ドラ将軍が何か反論する前に少女が口を開いた。
「失礼だが、ご老体。逆にお尋ねしたい。見ればずいぶんなご高齢のようだが、武器を取り、馬で駆けたりして大丈夫なのだろうな。いざ勝負という時にぎっくり腰など起こされるのはごめんだぞ」
これにはさすがのドラ将軍も馬上で肝を冷やしたのだから、ヘンドリック伯爵が脳天から怒りの炎を噴くには充分だった。
「おのれ! 無礼な!」
「大事な勝負だ。悔いのないものにしたい。おれとまともに戦う自信がないと言うなら、それもいい。誰か代理をお立てになるがよろしかろう」
よどみなく言う少女に将軍は今度は苦笑したものだ。いつものことながら人を挑発するのがうまい。
ヘンドリック伯爵は怒りのあまり爆発寸前だったが、そこはさすがに稀代の豪傑と言われた人物だ。
ドラ将軍が紛れもない本気であることも、この少女が本気で自分を相手にしようとしていることも、腹立たしく思いながらも納得した。
「よかろう。獅子は一兎を狩るのに全力をつくすと言う。持てる力のすべてをつくして相手をしよう。その結果がどのようなことになったとしても恨むでないぞ!」
「結構だ」
今二人がいるのは昨日の戦場となった野原の真ん中である。
両軍とも整然と隊列を組み、二人の姿を遠目から見守っていた。
両軍の間にできた細長い広場の中央には、すでに審判役が控えている。
国王軍からはドラ将軍とガレンスが、政府軍からはアスティンとベレー卿がそれぞれ付添を兼ねた見届け役としてここまでついて来ていた。
少女が言う。
「条件について確認したい。ご老体が勝ったらバルロどのを返し、国王軍は無条件で降伏する。問題はおれが勝った時だが……」
「そんなことはありえん!」
ドラ将軍が髭に隠した口元で小さく笑った。
少女はちょっと眉を吊り上げてさらに言う。
「そこまで自信があるなら以下の条件を呑んでもらおうか。おれが勝ったならご老体の身柄を国王軍で預からせていただく」
「なに?」
「もうひとつ。無条件でマレバを明け渡してもらいたい」
ヘンドリック伯爵はからからと笑った。
途方もないことを言う娘だと思ったのだろう。
「笑止。よかろう。お前の握ったその棒がわしの体をかすりさえしたなら喜んで捕虜となってやろう。マレバの解放にしても騎士団長を抑えてあれば、我らが何を言うまでもない、中の連中は喜んで城塞を明け渡すだろう。しかし、わしが勝ったら覚悟しておれよ。貴様にみっちりお仕置きをくれてやる」
少女は軽く頷き、政府軍の付添二人に念を入れた。
「ご両人。いざという時はあなたたちが証人だ。よろしくお願いする」
二人とも騎士の誇りに賭けて、勝敗がどのようになろうと今の条件を行使すると誓った。
二人は一度背を向け、馬を歩かせはじめた。こうした場合の一騎討ちは互いに向かいあって突進し、すれ違いざまに勝負を決するものなのだ。
落ちつき払った様子で馬を進める少女の横でドラ将軍が囁いた。
「どうだ。ヘンドリックどのの印象は?」
「壮絶に元気のいいおじいさんだね」
少女もこっそりと囁き返す。
「でも、強い。それはわかる」
「いかにも。ぎっくり腰どころの騒ぎではないぞ。騎馬戦ならばおそらく、おぬしでも五分と五分だ」
「だろうね」
少女の顔つきも厳しい。
「自分で口にしたようにヘンドリックどのは相手がお前のような娘でも手加減はせんだろう。間違いなく胸か頭を狙ってくる。まずは何がなんでもかわせ。後のことは任せる」
バルロに続いてヘンドリック伯爵を捕虜にできたらマレバは攻略できたも同然である。本当なら自分で戦いたかったはずのドラ将軍が、少女にこの役目を譲ったのには|理《わ》|由《け》がある。
今は敵味方に分かれているとはいえ、ドラ将軍とヘンドリック伯爵は旧知の間柄だ。どちらが勝っても周囲は納得しないに違いない。
将軍はこの少女に国王軍の命運を預けようと考えた。これ以上、かつては志を同じくした人々と無駄に争わないためにも、少女の言うばかばかしい戦を終結させるためにも、伯爵の身柄を抑えることが何より効果的だった。
だが、少女には一騎討ちの経験などまったくないという。馬を飛び降り、持ち前の脚力を活かして攪乱すれば勝機は充分だが、それではヘンドリック伯爵が負けを認めてくれるまい。
昨夜、ドラ将軍から一騎討ちの作法やこつなどを即席に習った少女である。予備知識のなさはいかんともしがたいのだが、そうも言っていられない。
一方、ヘンドリック伯爵の付添としてついていたアスティンもまた、厳しい顔つきで伯爵に囁いていた。
「伯爵さま。無礼を承知でご油断は禁物と申し上げます。昨日、バルロさまを拉致したのはあの娘の仕業です」
「何だと?」
「あの娘がバルロさまを楽々と担ぎ上げて馬に載せるのを、私はこの目で見ました。何故そんなことができるのかはわかりませんが、見た目どおりの娘でないことだけは確かです」
「むう……」
伯爵も思わず稔った。バルロは並はずれた体格の持ち主である。大の男ならばともかく、あんな少女では引きずることさえできないはずだ。
「案ずるな。先ほど言った言葉に偽りはない。相手が何であろうと全力で倒すまでだ」
国王軍の陣地では、シャーミアンが必死の様子で拳を握りしめている。
あの少女の武勇も不思議な力も疑うものではないが、この一戦に国王軍の運命がかかっている。どうあっても勝ってもらわなければならなかった。
本陣では国王があい変わらず悠然と、この勝負を眺めている。その横には緊張した表情のナシアスと苦い顔のバルロもいた。
充分な距離をおくと、両者は互いに相手を向いてとどまり、付添も傍を離れた。
向かいあう二騎のちょうど中間に審判が立っている。
隊列を組んだ両軍の間からは咳ひとつ聞こえない。
どちらも異様なほどに静まりかえり、この勝負の行方に注目している。
審判が高く掲げた旗を振り下ろした。
大歓声が湧き起こる。同時に伯爵と少女は相手に向かって突進を開始していた。
伯爵は見事な騎乗ぶりをみせつつ万全の態勢で少女に迫る。少女のほうはいつものように手綱をかけていない。馬任せである。
伯爵は刃をつぶした槍を握りしめているが、少女が手にしているのはただの棍棒である。明らかに少女が不利だ。
まして刃をつぶしてあるとはいってもヘンドリック伯爵ほどの達人が揮えば威力は真剣と変わらない。
「くらえ!!」
伯爵は本気で、相手が孫のような歳の少女だろうとかまわずに全力で槍を繰り出した。勝負に臨んだ以上、それが礼儀だと考えた。
槍の先は他の誰の目にもとまらぬ鋭さで少女の胸を狙ったのである。
当たれば少女の骨など、二、三本はへし折れたに違いない。
だが、リィには見えていた。
どんなに速く動くものでも確実に捉えるその眼が、たびたび彼女の命を救ってきた。
今度も一瞬早く棍棒を揮い、伯爵の槍を叩き返していたのである。
「なにっ!?」
ありえないできごとに伯爵が驚愕する。その間に二頭の馬はすれ違い、位置が入れ替わった。
伯爵は熟練した手綱さばきで馬の位置を変え、ふたたび突進を試みた。しかし、その時には少女のまたがる黒馬は完全に向きを変え、伯爵を目がけて突進していたのである。
「ばかな!!」
政府軍の間からどよめきがあがる。
すれ違ったと見るやいなやの方向転換だった。しかも手綱がかかっていない。自分で動いたのだ。
よほど訓練した軍馬でもこんな動きをするものはいない。
国王軍ではタルボが力強く頷いている。
さすがにロアの黒主である。伯爵の馬もよほどに吟味したものだったのだろうが、黒主の足の速さ、馬とも思えぬ頭の良さはたびたび思い知らされている。
「並の馬とは違うぞ……!」
思わず声をあげた。それとほぼ同時に少女は伯爵に襲いかかっていた。
走りながら棍棒を投げ捨てる。一気に距離を詰め、はじめて腰に手をやったかと思うと、抜き打ちざまの一閃で伯爵の槍の首を切り飛ばした。
「なにっ!?」
伯爵が驚愕する。
剣を抜く間もなく次の一閃が襲いかかってきた。大きくのけぞったが間にあわない。少女の剣は恐ろしい切れ味で伯爵の鎧の胸を切り裂いたのである。さらに返した剣の平を使って、少女は伯爵の胴体を払った。体勢を崩しているところへ十人力の一撃を食らっては、さしものヘンドリック伯爵といえどもこらえることはできなかった。
過去、数十度の勝負に一度も不覚をとったことのない英雄が、数千の友軍の面前で馬から叩き落とされたのである。
両軍から凄まじい絶叫があがった。
国王軍にとっては歓喜の雄叫びであり、政府軍にとっては悪夢の悲鳴だった。
地面に叩き落とされた伯爵は尻もちをついたまま、呆然としていた。胸元を切った一撃は服一枚を残して鎧だけを切り裂いている。体には何の傷も受けていない。
憤然と立ち上がると、少女が馬上でにこりと笑ったものだ。
「騎馬戦の腕前ならばご老体の勝ち、馬と眼のよさでおれの勝ちだ」
「おのれ……」
「約束は約束だ。いさぎよく捕虜になってもらおうか」
伯爵が答えるより先に、この勝負の結果を見届けたウォルが仁王立ちになり、大音声に叫んでいたのである。
「全軍、マレバへ進撃!!」
大歓声があがった。
隊列の先頭に構えていた歩兵は躍り上がらんばかりにして政府軍に突っこんだ。
政府軍がこれを冷静に迎撃できなかったのは言うまでもない。屈指の豪傑と呼ばれた人の敗北を目のあたりにしたばかりだ。はじめから腰が引けている。
「かかれ!」
国王が指図するまでもない。たちまち激しい追撃戦となった。
いや、これはすでに戦とは言えない。政府軍の兵士は完全に戦意を喪失している。武将たちはそれでも懸命に踏みとどまろうとしていたが、雑兵たちは四分五裂して脱兎の勢いで逃げ出していく。
馬から叩き落とされたヘンドリック伯爵はこの様子を歯ぎしりしながら眺めていた。その伯爵と少女の横を国王軍の兵士たちが追い抜き、全員が一丸となって東を目指して突進していく。
ドラ将軍がやって来て、悔しさに身を震わせている伯爵に話しかけた。
「ヘンドリックどの。ここは貴殿の負けだ。さ、我らと共にマレバへ来ていただこう」
「わしはここを動かんぞ」
歴戦の英雄はその場にどっかりとあぐらをかいて座りこんでしまった。
「自ら進んで捕虜となったと思われるのは死に勝る屈辱だわ。どうしてもと言うのならわしの首に縄をかけて引きずっていけ」
「ヘンドリックどの。気持ちはわかるが……」
ドラ将軍は困り果てながらも、何とか伯爵を説得しようとした。その横で少女が軽く首をかしげている。
「これも荷づくりしなきゃ、だめかな?」
「なに?」
イヴンが待ち構えていたように現れておもむろに少女に声をかけた。
「お嬢さん。もしかしてまたこれが入り用ではありませんか」
差し出したのはバルロを捕えた時と同じ細目の縄と特大の麻袋である。
少女は手を打って喜んだ。
「用意がいいなあ。あと、この人、だいぶうるさく騒ぎそうだから、猿ぐつわにする布か何かない?」
「このとおり、ぬかりはありません」
これも相当とぼけた男である。
少女はそれらを受け取ると、それじゃ、とばかりに伯爵の背後にまわった。
「何をする!?」
「引きずっていけと言ったのはご老体だぞ。今さら見苦しい」
「よさんか! 何をする!?」
伯爵が騒いだ時には少女が伯爵に襲いかかっていた。地面に押し倒し、胴体と足首に手早く縄をかけ、騒がないようにと猿ぐつわをかませた上で麻袋に放りこむ。
「いっちょうあがり、と」
あざやかな手際にイヴンが感心したように言ったものである。
「お前さん、ちょっと修業を積めば立派な山賊になれるぜ」
一方、ドラ将軍は完全に頭を抱えていた。
「少しばかり……、やりすぎではないのか?」
「そうかな?」
伯爵入りの麻袋は少しもじっとしていない。何とかこの拘束を解こうと伯爵が不自由な体で暴れているらしい。少女は袋の横にしゃがんで、そんな伯爵に話しかけた。
「ねえ、ご老体。マレバへ着くまで馬にまたがっておとなしくしていてくれると約束するんなら出してあげるよ。それともこのまま兵糧隊の馬にくくりつけられて行くのとどっちがいい?」
もはや見て見ぬふりをするより他に、ドラ将軍にできることはない。
ヘンドリック伯爵はだいぶ抵抗していたようだが、食料扱いされて運ばれるのは捕虜の屈辱よりなお耐えがたかったのだろう。壮絶な仏頂面ながらも麻袋から出て馬にまたがることに同意した。
勢いに乗る国王軍は快進撃を続け、瞬く間にマレバに迫った。ティレドン騎士団長が捕えられ、その身柄を取り戻してくれるはずのヘンドリック伯爵までもが捕虜になったとあっては、マレバを守る兵士たちも大混乱の中にある。どうすればいいのかわからない。
城門まで押し寄せた国王軍の兵士は逆に脇目も振らずの猛進である。
城壁の上に矢を射かけ、はしごをつなぎ合わせて壁にかけ、国王軍の兵士たちは蟻の群れのように城壁を登りはじめた。何人かが叩き落とされたが、そんなものではこの猛進は止められない。落とされる以上の勢いで城壁にとりつき、乗り越えていく。
マレバを守る城門が中から開けられるまでにたいした時間はかからなかった。
三の丸から侵入し、二の丸、本丸と立て続けに落とした国王軍はその夜、マレバ城内で野営を行った。
昨日までの緊張感から解放されて、国王軍の兵士たちは身分の上下を問わずに浮かれ騒いでいる。
政府軍の逆襲に備えて見張りは立ててあるが、先日の前哨戦に続いて大勝利をあげたのだ。おおいに意気が上がっていた。
国王もまたドラ将軍とナシアスの二人と共に祝杯を上げたのだが、その席に招かれたバルロとヘンドリック伯爵は不機嫌きわまりない顔つきである。
「食が進みませんか、お二人とも?」
苦虫を噛みつぶしたような顔で沈黙している二人に、国王が不思議そうに声をかけた。会食の最中なのだが、バルロとヘンドリック伯爵は料理に手をつけようともしない。
「別に毒など盛ってはおりませんが?」
あくまで真顔で言う国王に、ヘンドリック伯爵が憤然と机を叩いた。
「あなたは、いったいいつまでこんな茶番を続けるおつもりなのだ!!」
「ペールゼンの首を取る時までです」
熱くなっている伯爵とは対照的に男は平然と言い、次の皿にとりかかった。
「茶番は百も承知です。あの男が一人で出歩いてくれさえすれば国王軍などいらんのですが、いかんせんコーラル城に閉じこもって出て来ないときている。困っているのは俺のほうです」
苛立たしげに首を振って、男はさらに大真面目に二人に問いかけた。
「ものは相談ですが、お二人とも、あの男が一人になる時とか、どこかこっそり一人で出かけていく場所か何かご存じありませんか。そうしたら俺が一人で特攻をかければすむことなのですが」
「陛下!!」
これもヘンドリック伯爵である。
「いや、もう陛下とお呼びするわけにはいかないのだがあえて言わせていただきますぞ! ご自分でご自分の値打ちを下げるようなことをおっしゃるとは何たることです! ペールゼンが聞いたなら奴め、やはりそこまでの男かと嘲笑するに違いありませんぞ!」
国王軍の二人の勇士、ナシアスとドラ将軍は黙々と食事を続けていたが、ドラ将軍がしかつめらしく言ったものだ。
「ヘンドリックどの。お声が高うござる」
かつての僚友を一睨みし、それでもいちおうはその忠告に従って伯爵は声を落とした。
「さらに言わせていただくならば、失礼だが、あなたのそのこ決意はたいへんな勘違いです。フェルナン伯爵に拷問を加えて間接的に死に追いやった張本人はペールゼン侯爵ではありません。ジェナー祭司長です」
食事をしていた男の手が止まった。
「本当ですか?」
「間違いありません。わしとアヌア侯爵が確かめました」
「なるほど」
男は二、三度、頷いた。
「確かに、あの豚のやりそうなことだ。これで刈る首がふたつになったな」
穏やかな口調であり表情だったが、その裏にある断固とした決意は誰の目にも明らかだった。
しかし、それは同時にこの男の死を意味するものでもあるのだ。
今度はバルロが胸を張って言った。
「俺からも助言するが、コーラルへの進軍はあきらめたほうがあなた自身のためだ。今は追い払われたとはいえ、ティレドン騎士団の猛者たちがこのまま引き下がるわけがない。ヘンドリック伯の手勢にしても同様だ。今までの倍の軍備で攻めてくるのは必至だぞ」
ナシアスとドラ将軍が難しい顔になる。それは今の彼らがもっとも懸念していたことであったからだ。
沈黙がその場を満たした。
もともとなごやかとは言いがたい雰囲気だったが、徹底的に食事には不向きの雰囲気になりかけた。
そこへ少女が料理を山盛りにした大皿を持ち、扉を蹴飛ばして入って来たのである。
「はい、お待ちどう!」
バルロとヘンドリック伯爵がぎょっとしたのは言うまでもない。ナシアスとドラ将軍は思わず苦笑し、国王が一人平然と言ったものだ。
「リィ。扉を蹴ってはいかん」
「手がふさがってるからね。勘弁して」
少女のほうは一向に気にせずに彼らの前に大皿を置いたものだ。
「これが最後の料理だって。お|相 《しょう》|伴《ばん》させてね」
言ったと同時に腰を下ろし、さっさと料理を取り分けて食べはじめる。
「お前、自分で食べるために運んで来たのか?」
「他のところじゃ食べられないんだよ。うるさくって。イヴンなんかとっくに逃げ出した」
「ははあ……。あれだけの活躍をしたからな。皆がお前の話を聞きたがったわけか」
「そういうことみたい」
せっせと腹を満たしていた少女だが、世にも奇妙な顔で自分を見つめているバルロとヘンドリック伯爵に気づいて不思議そうな顔になった。
特に二人の料理が全然片づいていないのを疑問に思ったらしい。
「食べないの? おいしいのに」
「こ、この……」
バルロが憤然と立ち上がった。武装解除されていなければ剣を引き抜いていたに違いない勢いだった。
「ここで会ったが百年目とはこのことだ! 昨日はよくもやってくれたな、小僧!!」
ナシアスがここで口をはさんだ。
「おい、バルロ。こんな美女の卵に向かって小僧とは失礼だぞ」
「何だと?」
バルロはどうやら、今までリィのことを少年だと思いこんでいたらしい。ごくりと喉を鳴らして机についた少女を眺めまわした。
「お、お前……、女か?」
「意外と眼が悪いな」
少女は平然としている。
「見えない? 男でいる時からしょっちゅう女みたいな顔だって言われてたのに」
少女の意見はバルロの耳には届かなかったようである。ナシアスに向かって叫んだものだ。
「だ、だがこいつは俺を両肩に抱えたんだぞ!」
「ガレンスでも抱えられるよ。重いけど」
絶句したバルロに代わり、ヘンドリック伯爵がいまいましげに言ったものだ。
「おぬしがどういう娘かは知らんが、恐るべきと言ってよかろうよ。だが、このままで終わると思うな。今は撤退を余儀なくされたが、やがて我らの手勢がこのマレバを目指して猛攻撃をかけてくる。そうすれば我々の解放に応じざるを得まい。今度は軍勢をもって勝負を決してやる」
そうして伯爵は同じ宣言を男に向かって行った。
「悪いことは言いません。降伏なされよ。それがあなたのためでもある。そもそもあなたが無駄に命を捨てるのも、反乱軍の汚名を被るのも、亡きフェルナン伯爵がお喜びになるとお思いか。勝ち戦気分でおられるようだが、それも我々の軍勢が戻ってくるまでのわずかなことなのですそ」
国王が何か答えるより先に、少女が楽しそうに、またいたずらっぼく言った。
「軍勢は戻って来ないよ」
ドラ将軍もナシアスもバルロもヘンドリック伯爵も、そしてウォルも少女を見た。
「なに?」
国王が短く訊いた。
「軍勢はたぶん戻ってこない。バルロさんとヘンドリック伯爵がここに捕まってるからね」
「馬鹿を言うな」
これはバルロである。
「ティレドン騎士団の猛者たちがそんな及び腰をするわけがない。俺が言うのも何だが過激な連中だ。俺の身の安全など二の次にして猛攻撃をかけるに決まっている」
ナシアスがもっともらしく頷いた。
「指揮官の性格を見事に反映しているな」
「……!」
バルロが何か言い返すより先に、別人のような優しい口調で少女に話しかけている。
「彼らなら確かにバルロの命などものともせずに攻撃をかけてくるよ。彼らはそれが忠義だと信じているのだし、一歩も引かない決意を見せることによって指揮官を取り戻そうと考えるだろうからね」
「ほんとに過激だ」
少女は目を丸くして、
「でも、今度の場合は事情が違うよ。バルロさんもヘンドリック伯爵もわざと捕まったに違いないって、みんな考えるんじゃないのかな」
「ふざけるな! 誰がそんな真似をするものか!」
ヘンドリック伯爵が憤然と叫んだが、さすがに国王には少女が何を言いたいのかわかったようである。
納得したように頷いた。
「なるほど。そういうことか」
「そうだよ。あの[#「あの」に傍点]ヘンドリック伯爵が、あの[#「あの」に傍点]騎士バルロが、ぼくみたいな吹けば飛びそうな女の子にこてんぱんにやられたなんて誰が信じる? ましてぐるぐる巻きに縛られて荷づくりされて持っていかれたなんて、絶対、誰も信じない」
国王が困ったように笑って言う。
「まあ、俺たちはお前の力を知っているから、お二人の不覚もそれほど恥じることではないと思うが」
「他の人はそんなふうには考えないね」
少女は断言した。
「きっと何か考えがあって、自分の意志でわざと捕まったに違いないって考えるのが普通じゃないかな。そうなればもともとしたくてしてた戦じゃないし、親分がそういうつもりなら、じゃあ邪魔しちゃ悪いって考えるのがいい子分ってもんでしょ?」
苦虫を噛みつぶしたような表情でいた二人は、ここでぎくりとした。
どんな英雄でも人間である以上、完壁ではありえない。稀には不覚をとることも捕虜となることもあるだろう。ないほうがおかしい。
だが、こんな少女を相手に遅れをとることだけは決してない。そう言いきれるだけの武名を二人は築いている。
もちろん二人とも故意に捕えられたり負けたりしたわけではない。不覚をとったのは確かだが全力で戦った。そして破れたのだ。
問題はそれを誰も信じてはくれないだろうということなのだ。
唖然としているバルロとヘンドリック伯爵をよそに、国王が高らかな笑い声をあげた。
「なるほど。こちらのお二人は実にうまい方法を選択されたわけだ。俺と戦わずにすむ上に、これなら不忠者と呼ばれることもない」
今度は少女が食事の手を止めようともせずに言う。
「ちょっと不正直な方法だったかもしれないけど、この際、仕方ないもんね」
「ティレドン騎士団の勇士たちも勇猛果敢で知られた伯爵の部下たちも、主人の心中を慮って手出しを控えることになるだろうな」
「そりゃあそうだよ。間接的にとはいえ親分が国王軍と戦うのはいやだって宣言しちゃったんだもん」
「お二人とも体を張って我が軍の存在が正しいものであると認めてくださったわけだ」
「こんな不毛な戦いを避けるためには賢い選択だったと思うよ」
他の四人はあっけにとられて少女と国王を見つめていた。まるで他人事のような様子であり、冗談のような口調だが、話の内容は冗談どころではない。
国王は、にやりと笑ってとどめを刺した。
「当然、ペールゼンもそう考えるだろうな」
自分の置かれた立場にようやく気づいたバルロは顔面蒼白となり、逆にヘンドリック伯爵は真っ赤になって叫んだものだ。
「陛下!!」
「なんでしょう」
平然と、落ちつきはらって伯爵を見つめ返した国王である。
気勢をそがれ、怒りのやり場をなくしたヘンドリック伯爵は両肩をわなわな震わせていた。
もう手遅れである。
今ごろは二人が国王軍の捕虜となった報告がコーラルにも届いているに違いない。使者は当然その時の様子も話すだろう。ティレドン騎士団長は本陣にありながら敵の手に落ち、勇猛果敢、槍の名人と謳われたヘンドリック伯爵は孫のような年齢の娘と一騎討ちを行って遅れをとり、馬から叩き落とされたのだと克明に語るだろう。
ペールゼンでなくとも信じるはずがない。
二人とも本気で戦わなかった。わざと勝負に敗れて捕虜となることを選んだのだ。誰だってそう思うに決まっている。
つまり彼らはコーラルに対し、はっきりと親国王軍の立場を示したことになってしまったのである。
「……ひとつだけ、お尋ねしたいが」
残念無念きわまった様子で拳をぐっと握りしめていたヘンドリック伯爵は不意に少女を指差し、男に向かって憤然と叫んだ。
「この娘は、あなたの隠し子か!?」
ナシアスは果実酒を吹き出しそうになり、ドラ将軍はあやうく食べかけの肉を喉に詰まらせかけた。
国王はわざとらしく目を見張り、少女はおもしろそうに笑い、顔を見合わせたものだ。
「俺が十一の時の子どもという計算になるな」
「無理があるよ。十歳で女の人を引っかけなきゃならないでしょ?」
「激しく無理だな」
「いいかげんになされい!! いいい……いったい、この娘は何なのです!!」
「ご老体、そんなに興奮すると体に悪いよ」
少女がこれまた真剣に言う。
「ええい! そもそもその老体を連呼するのがけしからん! わしはまだ五十五だ!」
「まあ、ヘンドリックどの。少し、落ちつかれよ。
確かにそう憤っては体によくない」
ドラ将軍が冷や汗を流しながらなだめ、ナシアスも|辟《へき》|易《えき》した様子で言った。
「伯爵はいったいどこから隠し子などという発想を思いつかれたのです?」
「決まっておる。よく似ているからだ」
「さようでございますか?」
「見目かたちのことではないぞ。とぼけた素振りでぐさりと急所を突いてくるところがそっくりだ」
「ははあ……」
ナシアスは納得して頷いたが、少女は疑わしげに男を見上げたものである。
「ウォルの場合、ふりじゃなくてほんとに抜けてるような気もするけどな」
「さて、どうかな。お前はどうだ?」
「とぼけた素振りっていうのはイヴンみたいなのを言うんじゃない?」
「うむ。あれは昔からそういうのがうまかった。俺は何にせよ腹芸というやつが苦手でなあ」
「だろうねえ」
二人はしみじみと頷きあっている。
国王軍の二人はこんな光景にも慣れっこになっていたので苦笑していたが、政府軍からやって来た二人はどうにも釈然としないものを感じたようだった。
「おい、娘。少しは口のきき方に気をつけろ。この方は本来ならばデルフィニアの国王だった方なのだぞ」
バルロの言葉に少女はおもしろそうな顔になった。
「ぼくは今でもペールゼンが実権を握ったり君が王様になったりするくらいなら、ウォルが王様になったほうがましだと思ってるけどな」
「何だと!?」
「待て、バルロどの」
ヘンドリック伯爵が真顔になってバルロを制した。
「陛下。それにドラどの。今この娘が言ったことはあなた方の本意であると考えてよろしいのか」
「いいえ」
口をすべらせたことに気づいて慌てるバルロを尻目に、男は落ちついた表情で伯爵を見つめている。
「先日お話ししたとおりです。王冠も王座もこちらの従弟どのに譲りましょう。その際、退位の手続きが必要だと言うならなんでもいたしましょう。ただし、ペールゼンとあの豚の首を取ってからです」
「どの豚?」
少女が訊く。
男は先ほどヘンドリック伯爵から聞かされた話をもう一度少女にしてやった。
「祭司長って、偉い人なの?」
「国王の戴冠式において王の頭上に王冠をかぶせる役目を担っている。数多くの神々の祭司の中でも最高位の神官ということになっているがな。あいつの場合は聖職者というより、金ぴかに飾りたてた単なる豚だ」
「豚に王冠載せてもらったの?」
「ああ。なにしろ戴冠式の間中、豚の詰めもの丸焼きを連想していたくらいだからな。ひどく腹が減って困ったぞ」
ドラ将軍がぴしゃりと額を叩いた。
国王としてはじめての、もっとも厳粛な式典に臨んでいる最中に豚の丸焼きとは、と思ったのかもしれなかった。
男はそんな将軍の嘆きは無視してふたたび伯爵に話しかけた。
「俺の狙いは改革派だけです。ペールゼンとあの豚の首さえ取れれば未練はありません。後のことはあなた方に一任します。王位を狙う野心があるのではないかとお疑いなのかもしれませんが、どこの馬の骨とも知れぬ生まれのこの俺に王冠など意味がありません。欲しいという方にさしあげます。また父の仇さえとれれば、あなた方の望みどおり流浪の身となって二度とコーラルへは姿を見せないと約束します。ずうずうしいお願いであることは百も承知ですが、どうかそれまでの間は手を収めて傍観していただきたいのです」
|真摯《しんし》な訴えだった。
この男の言葉には偽りはないと聞いていた誰もが思った。
腹芸ができないと言ったのは謙遜でも牽制でもなく本当のことなのだろう。
不器用な男である。
だが、往々にしてこうした不器用な熱意は流暢な弁舌に勝るのだ。誠意だけではたいていの物事は解決しないが、誠意なくしてはどんな物事も解決しないのである。
ヘンドリック伯爵の厳しい表情がはじめて少しほころんだ。
「手を収めろの傍観しろのとおっしゃるが、わしはあなたの捕虜ですからな。おとなしく見物しているより他にできることはありますまい」
バルロもひょいと肩をすくめた。
「ペールゼンのやり方は気に入らん。それは前々からわかっていることだ。あらためて言われるまでもありませんな」
男は無言で頭を下げてみせた。
ドラ将軍もまた伯爵に向かって深く頭を下げ、ナシアスは友人への感謝の意味を込めて、小さく笑ってみせた。
こうと決めたらじたばたしないのは騎士の心得のひとつであるらしい。伯爵ははじめて食器に手を伸ばした。
「さて、せっかくの料理だ。いただきましょう」
「冷めてしまいましたでしょう。新しいのを運ばせます」
「いや、これで結構。腹が減っては何とやらです。第一、戦場でそんな贅沢は言えません」
「まして捕虜の身とあってはなおさらです」
バルロも重々しく頷いて料理を|咀《そ》|嚼《しゃく》しはじめた。
[#改ページ]
コーラル城の本宮には数多くの間がある。
国王の座す壮麗な玉座の間、内外の賓客をもてなす大小の客間、過去数百年間に|亙《わた》る膨大な記録を収めた大書庫から若い執務官の勤務する実務的な小部屋まで、広さも種類も多彩な各室が設けられているが、その中でも特別な格式を誇る一室に最高会議室がある。
文字どおり、王国の動向を左右する重要な決定が幾度もこの部屋で下されてきた。少ない時ならば数人、多い時でも二十人あまりの重臣が会議を開き、その結果を国王に報告、もしくは裁定を仰いできた。
政治に関与するもの、志すものにとっては、この部屋へ入室する権利を得ることが最高の栄誉であると言っていい。
内装や調度はもちろんのこと、燭台ひとつとってもペンタスに特注してつくらせた豪奢な品が置いてある。
この部屋は本宮の最上階にあり、大手門から|廓 《くるわ》|門《もん》、正門を通り越してはるかトレニア湾までを一望できる素晴らしい展望の部屋でもあった。
今、がらんとしたこの部屋に一人たたずみ、陽光に|煌《きら》めくトレニア湾を見つめる人の姿がある。
ペールゼン侯爵だった。
つい先程、ヘンドリック伯爵がルカナン大隊長を伴ってマレバへと発ったばかりの午後である。
ペールゼン侯爵は微動だにせずに執務室の窓から外を眺めていたが、その眼は何も見てはいなかった。
「親の仇、か……」
珍しいことに小さく独り言を洩らし、何とも言いがたい不気味な笑いを浮かべた侯爵だった。
あの男の子どもじみた正義感がおかしかった。育ててくれただけの相手に対して恩義を感じ、その死を憤り、危険を冒してまで自ら虎の口へ飛びこもうというのだから笑える。
健気であり、殊勝な心がけではあるが、やはり愚か者のすることだ。
そして何よりおかしかったのは……。
もしも、あの男が本物のドゥルーワ王の息子だったならば、だ。
もしあの男があの娘の産んだ子どもだったなら。
それも見当違いの憎悪ではなかったろうに。
そう思って笑ったのである。
侯爵は遠い昔の騒ぎを思い返していた。
二十数年も前の話である。侯爵はいずれ妻となる侯爵令嬢と出会ってもおらず、宮内に仕える小役人の一人にすぎなかった。
だが、そのころから決してこのままでは終わるまいと激しい野心を抱いていた。いつかは国王の傍に親しく仕え、一部の重臣しか入室できないという最高会議室にも自在に足を踏み入れることができるようになってみせると、当時の侯爵の身分、地位からすれば途方もない夢を描いていた。
宮内とは、王族の女性たちを中心に貴族の女性がまわりを取り巻き、侍女たちが支える女の世界である。
当然、一番の関心事といえば男である。特に国王の寵愛が誰にあるのかということだ。
王族の住居ともいうべき奥棟に仕える女官たちの多くは、それと知られた名家の奥方や令嬢である。
女官といっても汗水たらして働くわけではない。そのための下働きの娘は別にいる。彼女らはあくまで王族の気のきいたお相手役となり、そのお気に入りとなるのが一番の任務なのだ。
こうなると下手な役人が逆らえるわけがない。事実若い侍従などは顎で使われている。
若い時の侯爵もそうだった。
奥棟から出られない女たちのための使い走りから、もっと陰湿な、権力に関わる女たちに特有の自己愛に満ちた冷酷な部分にまで、若いころのペールゼン侯爵は深く関わっていた。
奥殿に勤めていると、たまに間近に国王の姿を見かけることもあった。ドゥルーワ王は同性の自分の目から見ても男としての魅力にあふれた人だった。それに王冠がついているとなれば女たちが目の色を変えないわけがない。
また一人の愛妾もいないとなれば、権力を欲する貴族たちが放っておくわけがない。
どこの家も自分の息のかかった娘を売りこむのに懸命になった。おかげで当時のデルフィニア王宮は目を見張るような美しい女たちであふれかえり、たいへんに華やかだったが、同時に裏の争いもそれは醜いものがあった。
女たちは『対戦相手』を蹴落とすのに手段は選ばなかった。少しでも国王が心を惹かれた様子の娘があると、あの手この手を使って追い出した。
彼女たちの背後にはそれぞれ有力な貴族がついている。時には家同士の争いにもなったらしい。
そうして互いに牽制しあううちに、女たちにとっては仰天するような事件が起きた。
どんな貴婦人にも積極的な愛を語りはしなかったドゥルーワ王が馬屋番の娘を愛したというのである。
以前から国王の愛妾の座を狙っていた貴婦人たちはさぞかし嫉妬に狂うかと思われたが、そうはならなかった。笑いとばした。
心中は煮えくり返っていたはずだが、本気で嫉妬するには相手の身分が低すぎたのだ。
馬屋番をしている娘ですって。おお、いや。馬の臭いがするのではありません? 陛下も物好きでいらつしゃいますこと。
そんなふうに無関心を装っていたが、その娘が身籠り、男の子を産んだとなると捨てておけなくなったらしい。それどころか、もつとも冷酷な報復を決意したのだ。
「そなたも、馬屋番の娘のことは知っておりましょう」
ヴェールで顔を隠した貴婦人は名乗ろうともせず、そう切り出した。
「はい。噂だけは」
「その娘がこの度、男子を産み落としました」
「はい」
「困るのです」
「は……」
「まことに、困ります」
「は……、心中、お察し申し上げます」
この女が何を言いたいのか、何を困ったというの
か、宮内に詳しいペールゼン侯爵は熟知していた。
「近いうちにその娘には暇をとらせます。外でならば何が起きても不思議ではありますまい」
「かしこまりました」
暇をとらせるならばこれ以上かまいつけることもあるまいにと思いながら、平然と頷いた侯爵だった。
身分の高い女のすることにいちいち疑問を感じていたのでは宮内の役人など勤まらないのである。
顔は隠していても、この女の正体も誰の指示で動いているのかも侯爵にはわかっていた。貸しをつくっておいて損はない相手だったので、必ずお心に添うようにいたしますと、その役目を請け負ったのである。
その女性は|褒《ほう》|美《び》として金貨の詰まった袋を投げて寄越し、侯爵は押しいただいて受け取った。
やがて馬屋番の娘は赤ん坊を抱えて生まれ育った村へ戻って行った。一説によるとドゥルーワ国王はこれを相当引き止めたのだという。
そして、ペールゼン侯爵はかねてから手飼いにしている者に、ウェトカ村へ向かってポーラとその子どもを密かに始末するようにと言いつけた。
その際、ふと思いついて、先に赤ん坊を始末するように命じてみた。
本当に国王の息子かどうか、その時の娘の反応を知りたいと思ったのだ。
侯爵の手足となって働いている男は、女と子どもを殺せという命令にも顔色ひとつ変えずに出かけて行った。
おりしも年が変わったばかりの、身を切られるようなきつい冷えこみの最中だった。
男は一月ほど経って戻って来た。
出ていった時と同じような無表情で、母親となった娘が片時も子どもから目を離そうとしないので、案外時間がかかったと、ぼそぼそと言い訳をしたものだ。
それでもわずかな隙を見て子どもを盗み出したのだが、その時もすぐに母親に見つけられ、後を追われるはめになったのだという。
困ったが、先に子どもをと命じられていたので、赤ん坊を抱えてまっすぐ池へ走り、薄氷の張った池に子どもを投げこんだ。
「そうしましたら母親のほうが、この母親はすごい勢いで自分の後を追いかけて来ていましたんですが、それを見るなり、池に飛びこんで子どもを助けようとしましたので……」
「ほう?」
「ずいぶん遠くに投げましたので、まず助からんと思いましたが、ぐいぐい泳いで行って子どもを抱えて向こう岸に泳ぎつこうとしました。こりゃあ先回りしてもう一度突き落とさねばならんかと思いましたが、やっぱり力尽きて途中で沈みました」
何ともいやらしい、胸の悪くなるような話だが、侯爵にはどうでもいいことだった。
「その娘は、即座に氷の張った池に飛びこんだというのだな?」
「へい」
「一瞬もためらわずに?」
「へい。何か叫んでいたようですが、聞きとれませでした」
侯爵は少しばかり考えこんだ。
もしかしたら本当に国王の子どもだったのかもしれない。
名もない兵士や馬屋番との間にできた子ども、それも父親のない子どもを、そうまでしてかばうとは思えない。
母親ならば命がけで子どもを守るのは当然のように思われがちだが、貧しい農村では育てられない子どもが捨てられたり間引きされたりするのは決して珍しいことではないのだ。
つまりあの娘は赤ん坊が死ぬこと、殺されることに『慣れている』階級の出身なのである。父親のいない子どもなど真っ先にその対象になりそうなものだ。
それが血相を変えて盗まれた子どもを奪い返そうとし、氷の張った池に投げこまれたと知るや、命に代えても救おうとしたという。
ただごとではない。
だが、すんでしまったことだ。
「わかった。ご苦労だったな」
「へい」
今度のことを依頼した女性に報告しようとしたが相手にとってもすでにすんだことであったようで、結果を聞こうともしなかった。
何と言っても忙しすぎた。在位十年祭の準備に追われ、この式典を無事にすませると今度はタンガの王女と国王との婚儀の準備に追われ、奥棟に勤めていた侯爵は新しい王妃を迎える支度も整えなければならなかった。王宮は新しい王妃の話で持ち切りになり、貴婦人たちはこぞって誰が王妃の一番の取り巻きになるかを競いあった。
もう誰も、馬屋番の娘のことなど思い出しもしなかった。
ペールゼン侯爵自身、そんな娘がいたことも、その命を奪ったことも忘れてしまっていた。
それだけにブルクスに預けられた国王の遺書が読み上げられた時のペールゼン侯爵の驚愕は、筆舌に尽くしがたいものがあったのである。
いったいどうしてそんな馬鹿なことになったのか、わけがわからなかった。
ポーラの産んだ子どもはとうの昔に死んでいる。
そのことを誰よりよく知っていたのは他でもない、ペールゼン侯爵だったのである。
だが、言えない。言うわけにはいかない。馬屋番の娘とはいえ殺人は殺人である。ましてや『国王の子殺し』となれば重罪だ。
それなら母親の存在をそそのかし、子どもがすでに死亡していることを立証させようかと思ったが、とても言い出せる雰囲気ではなかった。
その当時、内閣を構成する人々の間で交わされた激論は、国王の息子だろうと庶子などに戴冠を認めるわけにはいかないとする意見と、前国王の遺志なのだから王冠を与えるべきだとする意見との真っ二つに別れ、論点はここに終始していたのである。
そこへ、その子どもは本当に前陛下のお子でしょうかなどと発言すればいらぬ注目を集めてしまう。
あげくのはてに二十数年前のいきさつを探られるようなことになっては目もあてられない。
仕方なく侯爵は精いっぱい声を大にして、庶子などを王として迎えるわけにはいかないと反対の姿勢をとった。しかし、結局は賛成派の意見が多数を占め、どこの馬の骨ともわからぬあの男が戴冠式に臨むことになってしまったのである。
ひたすら苦々しい思いでこの一連の進行を眺めていた侯爵の頭に、ある計画がおぼろに見え出した。
あの男が誰であるのか、どうしてドゥルーワ王の子と入れ違ったのか、暴きたてようと思えばできただろうが、それよりもいっそのこと、このままあの男を王座に据えてみようと思いついたのである。
ペールゼン侯爵はドゥルーワ王の二人の王子をよく知っていた。二人とも紛れもなく高貴な血筋であり、尊敬するドゥルーワ王の息子でもあったのだが、生前からその無能ぶりにも惰弱な性質にもうんざりさせられていた。あれほどの人物からなぜこんなろくでもないものが生まれたかと眉をひそめたことも一度や二度ではない。こんなものに国政を任せるくらいならば自分が王になったほうがよほどましだとさえ思えるほど、二人の王子は偉大な父親の性質の片鱗も受け継いでいなかったのである。
新しく降って湧いた『国王の息子』も前の二人に負けず劣らず、害こそないが凡庸そのものの人間のように見える。
おそらくはレオン王子にも引けをとらない馬鹿王となるに違いない。そうしてあの男に妙な期待を抱いている人々が失望し、落胆するのを待つのだ。
それから自分を中心とする一派の存在をアピールすれば、官僚政治といって眉をひそめている人たちの考えを改めさせるいい機会になる。
何とも大胆な計画だが、それだけペールゼン侯爵は己の政治手腕に自信があった。自分が国政を担当すれば魔の五年間で荒れ果ててしまったデルフィニアを再建することも可能だと思っていた。しかし、そのためにはどうしても実権が必要になる。思う存分に国政を切りまわすには人に使われていては駄目だ。かなりの権力を握らなくては駄目なのだ。
そのための布石にするつもりで、あの男を王座に据えてみたのだが、大きくあてがはずれたのである。
あの男はおとなしく飾られているような性格でも、言いなりに操られるような性格でもなかった。
馬鹿は馬鹿なりに目端が利き、うるさいくらいにこちらの領分に首を突っこんできた。さらには、どんな手を使ったのか知らないが、外務官ブルクス、近衛司令官アヌア侯爵、ヘンドリック伯爵、ドラ将軍、そしてペールゼンが密かに次の国王にと思っているバルロまでをも味方につけるようになったのである。
最後まであの男の戴冠に反対した連中が危機感を強めたのは当然である。それでなくとも前国王の死以来、ほしいままに利権をむさぼってきた連中にとって、あの男は国王どころか疫病神だった。
侯爵はそんな連中を巧みに味方につけ、サヴォア公爵家の内部にあくまであの男を認めまじとする勢力があったことも手伝って、どうにかあの男を王座から追放することを得たのである。
しかし『革命』などという荒療治を用いなければならなくなったのは不本意なことだった。おかげで国王に親しかった人々は|囂《ごう》|々《ごう》の非難を改革派に浴びせかけ、ペールゼン侯爵自身に対する評価も一気に下落するはめになってしまった。
だが、ペールゼン侯爵は自分の力と正義を信じていたので、今は一時の感傷に拘泥している人たちもやがては態度をあらため、バルロを王にすることに同意してくれるはずだと考えていた。
身ひとつで国を追われた国王などに忠義立てをしても得るところは何もないからである。
ところがまたもや予想ははずれた。
あの男ときたら生きて帰ってくるわ、周到に張りめぐらしたはずの国境の罠を潜り抜けてラモナ騎士団を味方につけるわ、ワイベッカーは落とすわ、わずか数千で二万の軍勢を撃破するわ。
ペールゼン侯爵もこれには呆れ果てた。
人間技とはとても思えなかった。化け物だ。
だが、その抵抗もここまでである。三度目はない。
外の景色を眺めながら、侯爵はもう一度、笑みを浮かべた。
思えば奇妙な因縁である。
あの男が本当にあの娘の子どもだったら、自分は確かに母親の仇だったはずだ。
だがあの娘の子ども、つまりはドゥルーワ国王の息子は二十四年前、ウェトカの村で死んだ。
そしてあの男はどこでどう間違ったか、国王の子としてフェルナン伯爵に手渡された。
その謎にカリンが深く関わっていることは間違いない。
今では女官長のカリンも二十数年前は王女付きの女官の一人にすぎなかった。それも中流貴族の娘とあっては直接王女に仕えていたかどうかは疑わしい。
同じ女官でもこの階級の娘たちと国王の愛妾候補となる大貴族の娘たちとでは格が違う。中流貴族の娘は大貴族の娘たちに手足として使われる場合がほとんどだ。
それが今では女官長なのだから、カリンも宮内で大出世を遂げたわけである。
だだっ広い会議室内で考えに|耽《ふけ》っていると、外に待たせていた小姓が自分を呼ぶ声がした。
よほどの事がないかぎり邪魔はするなと言い渡してある。叱ろうとして扉を開けた侯爵だが、ためらいがちに小姓が告げた用件を聞いて真顔になった。
「よし、私の部屋で聞く。通せ」
カリンの身上調査にやらせたものが成果を持って帰って来たとの報告だった。
翌日、マレバからコーラルへ向けて早馬が走った。
マレバ砦は陥落、ティレドン騎士団長ノラ・バルロとヘンドリック伯爵の両名が国王軍の捕虜となったとの報告をもたらすためである。
すでに陽は落ち、城内は明々と篝火に照らされている。懸命に馬を飛ばして来たらしく、使者はあえぎながら詳しい報告をした。
「ティレドン騎士団は指揮官が捕えられた以上、独断では動けないとの見解をもって戦線を離脱、現在は様子を窺う姿勢でおります。また近衛第二軍はマレバとコーラルの中間にひとまず駐屯し、今後の指示を待つとのことでございます。その他、政府軍の大部分を占めていた領主勢はそれぞれ最寄りの領地へと立ち寄り、静観の構えをとっております」
この報告を受けたのは意外にもアヌア侯爵である。
昨日からペールゼン侯爵は気がかりなことがあるらしく、マレバから何か言ってきたなら代わりに聞いておいてくれるようにと言づけられていた。
こちらは案外簡単に片づくと思ってのことだったのかもしれないが、信じられない非常事態である。
アヌア侯爵はつとめて感情を表に出さないようにして訊いた。
「つまり、今現在、戦闘は中断された状態であるというのだな」
「はい、国王軍はマレバにとどまったまま政府軍追撃の様子は見せていませんので、中断といえば中断ですが……」
使者は困ったような顔で言葉を切った。
言いたいことは侯爵にもよくわかった。敵は|意《い》気《き》|軒《けん》|昂《こう》としているのに対し、こちらは主力となるべき戦力が軒並み戦意を喪失しているのだ。
余力は充分に残していながら、事実上、国王軍の大勝利である。
アヌア侯爵は使者にねぎらいの言葉をかけ、傍にいた役人に向かって使者に食事をとらせて休息させるように申しつけた。
報告を受けている最中も、また使者が自分の前から立ち去った後も、アヌア侯爵は深く熟考していた。
あの二人に何があったのかと思った。
バルロはまだしもヘンドリック伯爵がこんな真似をするとは信じられないことである。
アヌア侯爵はペールゼン侯爵に会うため、遅い時間ではあったが執務室を目指した。
ペールゼン侯爵は安全とは言いがたい人物だが、それだけに切れる。特に仕事熱心であることはアヌア侯爵も認めるところだった。
またペールゼン侯爵はたいへん用心深い人でもある。身の回りにつねに護衛を置き、訪問の際には必ず取次ぎを経なければならない。それはアヌア侯爵ほどの大貴族でも例外ではなかった。
ヘンドリック伯爵はペールゼン侯爵のこのふるまいに立腹し、己を王族とでも勘違いしているのではないかと非難していたが、小役人からここまで成り上がった人物である。まして今は改革派の中枢として大勢から憎まれている立場でもある。当然の配慮というべきだろう。
アヌア侯爵がペールゼン侯爵の居室に通されるのと前後してブルクスがやって来た。
「おお、侍従長」
「アヌア侯爵さま。お久しぶりでございます。侯爵さまもペールゼン侯に呼ばれたのでございますか」
「いいえ、私は別の報告を持って来たのです」
どちらの顔もあまり明るいものではない。同様に仕事中だったらしいペールゼン侯爵は、妙に固い笑顔で二人を迎えた。
「お二人ご一緒とはちょうどよかった。まず、おかけください」
「ペールゼン侯、たった今マレバから由々しきことを言ってきたのですが……」
「はい。なんとも残念なことです」
さすがの早耳である。
奥にいた侍従長にはまだこの知らせが届いていなかったらしい。アヌア侯爵はあらためてバルロとヘンドリック伯爵が国王軍の捕虜となったことを話し、ブルクスも一気に難しい表情になったのである。
「それは、困ったことになりました」
「ええ。こんな時間にご無礼とは思いましたが、今後のことをぜひともペールゼン侯とお話ししなければと思って参ったのです」
「その前にアヌア侯爵。私の話を聞いていただきたい。まずは侍従長にお話ししてからと思いましたが、お二人ご一緒のほうがよいかもしれません」
アヌア侯爵とブルクスとは顔を見合わせ、頷いた。
二人とも、侯爵の様子がいつもと違うことに気づいていた。
平時はどこか冷ややかに言葉を操るのを楽しむようなところのある人だが、今は顔つきも口調もおそろしく真剣な、厳粛とさえ言っていいようなものなのである。
よほどの重大事が侯爵を見舞ったと思っていい。
侯爵は傍にいた書記官を下がらせ、小姓も退室させ、ブルクスとアヌア侯爵の三人だけになった。
そうしてきちんとあらたまって二人に話しかけたのである。
「私が以前からあの男の身元を探らせていたことはご存じでしょうが、その結果が昨日、出たのです」
「昨日?」
「なぜ今まで黙っていらしたのです?」
「確認をとるためです。お二人にはもちろんのこと、私にも信じがたい、驚くべき結果が出ましたのでな。念には念を入れるつもりでした。残念ながらそれは果たせませんでしたが、ほぼ間違いありますまい」
大仰な、と笑うことは二人にはできなかった。
王国が根底から揺らぐかどうかの瀬戸際である。
どんなに慎重にとり扱っても過ぎるということはない。
「お聞かせください」
静かな声でアヌア侯爵が言う。ブルクスも黙って頷いた。
ペールゼン侯爵は乾いた唇をなめ、慎重に言葉を選びながら説明した。
「ご承知のように、あの男がドゥルーワ陛下のお子と入れ違ってしまった背景に女官長が深く関与していることは疑いようがありません。そこで私は女官長の過去を徹底的に調べるように命じました。その結果、実に由々しきことが明らかになったのです」
「どのようなことでございましょう」
「その前にお尋ねしたいが、侍従長。確か、女官長は十年祭の前年から王宮を退いていたそうですな」
「はい。ご父君が病に倒れ、その看病に専念するために、一時、王宮を辞したそうです」
ペールゼン侯爵は恐ろしいような顔で念を入れた。
「父親の看病のため、と、あなたには告げたのですな?」
これにはブルクスのほうが驚いた。
「違うとおっしゃるのですか」
「いえ。そうでしょう。女官長の父親は十年祭の年に亡くなったそうですから、はじめはそうだったのかもしれません。ですが私どもの突き止めた事実は少し違います」
ペールゼン侯爵はブルクスの顔をひたと見つめながら、ゆっくりと言った。
「コーラルの貴族ティモアの娘カリンは二十五年前、カピアの貴族ノーマンと結婚しております」
アヌア侯爵は目を見張り絶句することで、受けた衝撃の大きさを無言で語った。
侍従長は顔面を凍りつかせ、それでも女官長の立場は忘れなかった。
「それが……どうしたとおっしゃるのです?」
「二人の結婚生活は長くは続きませんでした。ノーマンは結婚四か月後、流行り病にかかってあっけなくこの世を去っております。未亡人となったカリンは半年後、男の子を産みましたが、不幸にしてこの子にも早死にされてしまうのです。その子が死んだのがおりしも十年祭が終わったばかりの四月下旬、生後五か月だったそうです。問題なのは……」
ペールゼン侯爵は一言一句、区切るように、忌まわしいものの名を告げるように、言った。
「問題なのは、この子どもの死骸を確認したものが誰もいないということなのです」
「ペールゼン侯爵!!」
思わず声を張りあげたブルクスだった。
「あなたはいったい、何を言いたいのです!?」
「侍従長。どうか落ちついて、冷静に私の話を聞いていただきたい。こんな恐ろしい結果が明らかになるとは私も予想だにしていなかったのです。しかし、紛れもない事実なのです!」
二人は歯を食いしばって睨みあった。
「同僚をかばいたいあなたのお立場はわかります。
しかし、もしこれが本当なら女官長はわが子かわいさに目が眩み、その栄達を望むあまり前代未聞の大犯罪をたくらんだ国賊ですそ!」
「馬鹿なことをおっしゃらんでください!」
どちらも一歩も引かない構えだった。
侯爵にしてみればこれで完壁に説明がつくのだ。
女官長がどこから赤ん坊を手に入れたのかという疑問を解決するには充分だ。時期もぴたりと合う。
ブルクスにしてみれば、あの女官長がそんな大それた陰謀を企てるはずがないという強い信念がある。
その信念を支えに、ブルクスは稔るように言った。
「そんなことはありえません」
ペールゼン侯爵も同じように彼の信念に基づいて断言した。
「他に考えようがないのです」
二人が暗然と睨みあい、立ちつくす中で、アヌア侯爵が呆然と呟いた。
「女官長に結婚の経験があったとは、はじめて耳にいたしました」
「そうです。宮内の女たちに端から確かめましたが、十年近く女官長に仕えている女でも知らなかったと言うのです。後ろ暗いところがないなら何故隠さなければならなかったのですか」
「沈黙していたことがすなわち隠していたのだとは、あまりに短絡的な結論ではありませんか!」
「現にあなたには父親の病気のためと説明し、結婚していたことも出産したことも、夫と子どもを病気でなくしたことも一言も話していない!」
再び火花が散る。
このままでは水かけ論に終始するかと思われたが、アヌア侯爵が真摯な様子で立ち上がり、二人を制したのである。
「ペールゼン侯爵。そのお話はもっと詳しく聞かせていただく必要があると思います。ブルクスどのもひとまずは侯爵のお話を聞かねばなりますまい。議論ならばその上でなされるべきです」
もっともな話だった。
二人ともひとまず呼吸を落ちつかせて椅子に座り直し、ペールゼン侯爵は調査結果を詳しく語りはじめた。
そして今、カリンと向きあうブルクスの姿がある。
ペールゼン侯爵との静かながらも厳しい議論の末、ブルクスが申し出たことだった。
時間は深夜に近い。監視の報告ではカリンはすでに寝入っているとのことだったが、翌日に延ばす余裕はブルクスにもアヌア侯爵にもペールゼンにもなく、無理に起きてもらったのである。
「女官長、こんな時間に申し訳ありませんが、折り入って聞かせていただきたいお話があるのです」
「はい。何でございましょう」
ぼんやりと、どこを見ているのかわからない眼でカリンは言った。
「あなたの息子さんのことについてです」
「息子? 私には息子などいません」
「かつてはいらっしゃった。生後わずか半年たらずでこの世を去った息子さんが」
「おや、まあ」
驚いたように、嬉しそうに目を見張ったカリンである。だがそれは何も考えていない人に特有の、うつろなものを感じさせる喜び方だった。
「侍従長が私のユベールのことをご存じだなんて、嬉しく思います。本当にいい子でしたのよ。おとなしくて、手がかかりませんで、抱き上げるといつも私の顔を見て嬉しそうに笑いましてねえ」
「女官長」
ブルクスは内心激しい焦燥を感じながら、それでも懸命に話を続けていた。
「聞かせてください。あなたのユベールはいったい、今どこにいるのです?」
「どこにって、そんなことは私にはわかりません。死んだ人間がどこへ行くのか、あなたは知っているとおっしゃいますのか」
「ユベールは死んだというのですね?」
「ええ。ささいな風邪がもとであっけなくこの世を去りました」
今の今まで結婚していたことも子どもがいたことも黙して語らなかったというのに、実によどみなくさらさらと答える。
その違和感にブルクスはあらためて緊張を強くしたのである。
「女官長。もう一度聞きます。あなたの息子さんは本当に二十四年前に死んだのですか?」
「あら。私があなたに嘘を言うとでも?」
あい変わらず歌うような、調子は狂っていても打てば響くような答えである。
「ペールゼン侯爵はそうは思っていませんぞ」
「そうですか?」
「あなたには今、たいへんな疑惑がかけられています。神をも恐れぬ大犯罪を企てたというものです」
「おやまあ、恐ろしい。私がどんな犯罪を犯したとおっしゃるのです」
ブルクスはカリンの眼を正面から見つめ、ゆっくりと言った。
「自分の産んだ子どもを国王のお子とすり替えたというものです」
カリンは笑い出した。心底おかしげな笑いだった。
「馬鹿なことを言わないでくださいな。ユベールは死にました。お葬式も出したんですから」
「しかし、ユベールが死ぬところを見たものは誰もおりません」
「……」
「病床の父親に請われ、あなたは顔もよく知らないノーマンと結婚した。よくあることです。カピアはコーラルから四十カーティヴ。馬車を使えば一日で充分行き来ができます。あなたはカピアに新婚生活の拠点をおき、病気の父親をも放ってはおけなかったのでコーラルとカピアで二重生活をはじめた」
「……」
「結婚後四か月でノーマンは死に、未亡人となったあなたはカピアでユベールを産んだ。十年祭の前年、十一月のことです。覚えていらつしゃいますな」
「……」
「だが、それからすぐにあなたはユベールを連れてコーラルへ戻り、半年後、子ども用の棺とともに再びカピアに現れた。ユベールが死んだと言って。父親の眠るこの場所に息子を埋葬したいからと言って。そうですな?」
「……」
「それならユベールはコーラルで死んだことになります。ペールゼン侯爵は当時のことを覚えているものを探して、あなたの家の近所に端から聞きこみをしたそうですが、もっとも親しくしている家のものでも、あなたの父君が亡くなったことはよく覚えているがあの家で子どもが死んだことなどあったろうかと首をひねる有様、そもそもあなたに子どもがいたことさえ知らなかったという。もっと確実な証言ができるはずのあなたの家の使用人たちは、一番古くから仕えているものでも十五年前からとのことで、これも当時のあなたの様子は語れない。それ以前にあなたの家にいた使用人は皆、暇を出されて行方がわからない。さすがのペールゼン侯爵も二十四年前にコーラルのティモア家に勤めていた召使いというだけでは探しようがなかったとみえます。雲を掴むような話ですからな」
「……」
「ですが、あなたは知っているはずだ。下僕でも料理人でも小間使いでもいい。当時あなたの家にいて、ユベールが死んだ時の様子を語れるものがどこかに必ずいるはずです。教えてください」
ずっと沈黙していたカリンはこの訴えに不満そうな顔で応えた。
「そんなことを言われましても……。ずいぶん昔の話です。使用人など入れ替わりの激しいものですし、どこの誰だったかと言われても思い出すのは無理ですわ」
ブルクスは深く失望した。ここまで譲歩しても協力してはもらえないらしい。
「女官長、どうしても素直になっていただけないというなら、私たちは最後の手段をとらざるを得ないのですぞ」
カリンは怯えたようにブルクスを見上げたものだ。
「あなたがあくまで非協力的な立場をとるのならば、カピアの墓地を掘り返します」
この言葉がカリンに与えた効果は絶大だった。
顔面蒼白となって腰を浮かせ、唇を震わせながら叫んだのである。
「あの子の墓を暴こうというのですか!?」
「仕方がありません」
「やめてください!! そんな恐ろしい……あの子は安らかに眠っているのです! 死者の眠りを妨げるようなことはやめてください!!」
「ならばお願いですから正直に話してください! こんな非常手段をとらざるを得ないほど我々は追い詰められているのです」
ブルクスも必死の形相になっていた。
この会話の一部始終は伝声管によってペールゼン侯爵の耳に入っているはずだ。自分から|迂《う》|闊《かつ》なことは切り出せない。
「そんなことをして何になるというのです! あの子は死んだと母親の私が言っていますのに!!」
「ですから女官長。あなたのその言葉を立証するものが必要なのです」
カピアのものたちは子ども用の棺は見ている。
しかし、棺はすでに厳重に封印されていた。だから誰も中は確認していない。母親のカリンがユベールが死んだと語り、それで充分だったのだ。
だが、もしかしたらその棺は空だったのかもしれない。
ユベールは死んでいないのかもしれない。
少なくとも死んだと証明できるものが誰もいないのは確かである。
また間の悪いことに時期が合いすぎる。動機も条件も揃いすぎていた。生まれたばかりの子どもを抱え、夫は死に、父親も病気で先は長くない。そこへ顔見知りの村娘が国王の子と思われる子どもを抱いて、村へ帰ると挨拶に来る。
その子どもと自分の産んだ子どもは二週間ほどしか日にちが違わない。まして生まれたばかりの赤子の顔などどれも皆同じようなものだ。
これだけ重なれば、いくらしっかりものと評判のカリンでも、わが子かわいさのあまり血迷っても不思議はないとペールゼン侯爵は言った。
さらにこうした工作をするだけの条件をカリンは持っていた。故意に話さなかったのか、それともわざわざ言うことでもないと思ったのか、コーラルの近所でカリンが結婚したことを知るものはほとんどいない。カピアでは知れわたっているが、わずか四十力ーティヴとはいえ特別な事情がないかぎり、人々はめったにその土地を離れない。カピアで何をしようとコーラルに伝わることはまずなく、コーラルで何をしようとカピアへ洩れることははほとんどないのだ。
それでもブルクスには信じられなかった。確かに侯爵の意見は理屈にかなっている。何もかも説明ができる。それでも、そんなはずはないという声が心のどこかでするのである。
だが、子どもの墓を暴くことに顔色を変えて反対するカリンの様子を見て、ブルクスのその信念も大きく揺らぎだした。
自分の無実を証明しようと思うのならここは快く応ずるべきなのである。
棺の中に子どもの骨が入っていることさえ確認できれば、カリンに対する疑惑は笑い話と化すのだ。
「女官長。死者の眠りを妨げるなとおっしゃいますが、このままでは……」
「マレバはどうなりましたか?」
あまりに唐突な質問にブルクスは面食らった。
「国王軍がマレバを占拠したそうです。バルロさまとヘンドリック伯爵も捕えられたとか……」
カリンは満足げに頷いた。
「それは何より。さすがは陛下でございます」
「女官長。あなたがそうしてあの方のことを何かと気にかけるのも、あの方が現れた時から親しげにお世話をしていたのも、すべては……」
ブルクスは思いきって言った。
「あの方がご自分の産んだ息子であったから。そうではないのですか?」
「違います」
カリンはしゃんと胸を張った。
「神に誓ってユベールは死にました」
「では、その遺体を確認させてください」
カリンはとたんに黙りこんでしまう。
「実はペールゼン侯爵はすでに手をまわし、ユベールの遺体を掘り返すようにと命じたのです。ところがカピアの司祭というのがたいへんな難物で、そんな罰当たりは許せない。どうしてもと言うならせめて母親のカリンさんの許しがなくては一歩も墓地へは入れさせないと気炎を吐いたそうです。小さな村のことですし、無理を通して村人の反発と必要以上の興味を買ってもまずいと思い、一時引き下がったと侯爵は言っていました。しかし、他に方法がないとあればペールゼン侯爵は断固としてユベールの棺をこじ開けるに違いありません」
「……」
「このまま沈黙を続ければ、あなた自身も無事ではすまされません。極悪非道の犯罪者として極刑に処されることになるのですそ」
カリンは落ちつかなげに目線をさまよわせた。
長い間の拘束によってやつれた顔と不安そうにまたたく眼が怯えた小動物のようだった。
「ですが、だからと言って……、今だって私は犯罪者も同然の扱いを受けておりますのに……。本当のことを話せと言われても……」
力なく呟いたカリンにブルクスは精いっぱいの誠意をもって話しかけた。
「女官長。勇気ある決断をお願いします。あなたはそれができる人だ」
頼りなげな様子で目線をさまよわせていたカリンは、侍従長の顔色を窺いながら言ったものだ。
「私は、恐ろしいのです。こんなにたいへんな事態になるとは予想もしていなかったのです」
「ええ。わかります」
ブルクスは大きく頷いた。
「そのせいであなたは素直に語れないでいるのでしょう。よくわかります。しかし、それでは何の解決にもなりません。事態はますます悪化するだけです。査問会に言えないというのなら私に打ち明けてください。決して悪いようにはいたしません」
それからブルクスは熱っぽく、真剣に女官長を説得した。
そのかいあってか、ずっと沈黙を守ってきたカリンはとうとう大きく深呼吸をして言ったのだ。
「あなたがそこまでおっしゃるなら……、私の知っていることをお話ししてもよいと思いますが……」
「おお……」
ブルクスは喜んだが、これはぬか喜びだった。カリンはこう続けたのである。
「その前に陛下に会わせてください」
「女官長!?」
「私のお話しできることはそう多くはありません。直接陛下に申し上げたいのです」
ブルクスはほとほと頭を抱えてしまった。
カリンは極度の緊張状態のあまり、正気を失っているのではないかとさえ危ぶんだ。
「直接と言われても……、あの方はまだマレバにいるのですそ」
「もうマレバです。このコーラルまでは一走りですみます。なんとしても陛下にお目にかかった上で申し上げたいのです」
執拗に訴えるカリンの眼は異様な輝きを帯びていた。国王の懐刀とまで呼ばれたブルクスが思わず|気《け》|圧《お》されるほどの気魄だった。
「……二人きりにしてさしあげるわけにはいかないのですぞ」
「わかっております」
「大勢の重臣が証人として立ち会います。その前で語ってもらうことになりますぞ」
「かまいません。私の言葉が直接陛下のお耳に届くのでしたならば。他にどなたがいてくださっても結構です」
ブルクスは頷いてカリンの居室を後にした。
実現させるにはかなりの難問を解決しなければならない会談だが、ようやくカリンが事実を話そうと言ってくれたのだ。やってみるだけの値打ちはある。
隣室で一部始終を聞いていたペールゼンもこの意見に賛成し、閣僚たちに|諮《はか》らった。
事態は急転直下の展開を見せはじめた。
カリンとの対談の翌々日、使者の任務を帯びたブルクスがコーラル城を出発したのである。
[#改ページ]
マレバ砦でブルクスと対面したウォル・グリークは目を見張ったまま絶句していた。
その横ではドラ将軍、ナシアス、そしてリィも驚いた顔でいる。
ブルクスはかつてヘンドリック伯爵がそうしたように男の前で平身低頭している。
かつては外交の第一人者として列強と渡りあってきたブルクスだ。頼りない外見に似合わず体力も備えていれば性根も座っている。言いにくいことを時にはずばりと口にもしてきた。しかし、これほどいたたまれない想いで臨んだ交渉はない。
椅子に腰を下ろし、侍従長と対峙していた男が呆然と呟いた。
「女官長が、俺の産みの母親だとおっしゃる?」
「その可能性はきわめて高い、そう申し上げざるを得ないのが現在の状況でございます」
一同、しんと静まり返った。
ナシアスもドラ将軍もただ蒼ざめている。男はまだ呆然とし、少女はどうしたらいいかわからない様子でそんな人々を交互に見つめていた。
「もう何が起きても驚かないつもりでいたがな。とんだ新事実だ」
男は静かに言ってブルクスに向き直った。
「それで、女官長は俺に話があるというのですな」
「はい」
「どうせそのために俺に出て来いと言うのでしょうな」
「はい」
「いやと言えば女官長は処刑されるわけですな」
しばしの沈黙の後、ブルクスは苦い顔で頷いた。
「はい」
「なりません!」
ドラ将軍だった。さらに蒼い顔になっていた。
「何ということを……。ブルクスどの、あなたはおめおめとこんな使いを引き受けてきたのか! 陛下、絶対になりませんぞ。これはあなたをおびきよせるための罠です!」
「だろうな。あのペールゼンがすんなり女官長と会わせてくれるわけがない。条件は何です?」
「まずはバルロさまとヘンドリック伯爵の身柄の返還をお願いいたします。会談の場所につきましてはこちらとご相談の上で決めたいと思いますが……」
「相談も何も俺にはそちらの条件を呑む以外、選択の余地がない。どうぞご遠慮なく」
男はあくまで静かな声で話している。ブルクスは
その顔を正視できずに眼を伏せた。
「場所はコーラル城の最高会議室、日時はできるだけ早いうちにお願いしたいのです。またその際、護衛として一中隊を許しますが、大手門からは近衛兵士と交代していただきます」
「話にならん!!」
ドラ将軍が以前にもまして憤然と叫んだ。
「護衛としてせめて兵三千のコーラルへの進軍と会談場所の変更を要求する! よりにもよって本宮など論外だ!! ペールゼンの魔窟ではないか!!」
「ドラ将軍。私どもはただ真実が知りたいだけなのです。それは同時にあなた方の願いでもあるはずです。さらには女官長を王宮から外へ出してさしあげるわけにもいかないのです」
「王宮へ向かったが最後この方をどう料理するのもコーラルの思いのままだ。しかもその包丁を握るのはあなた方ではない。ペールゼンだぞ! こんな馬鹿な条件がどうして呑めるか!」
「ドラ将軍。私の命に代えましても、この方の身の安全は……」
「失礼だがあなたのその約束には何の意味もない。いざともなればペールゼンはあなたもろともこの方を抹殺することもできるのだからな!」
ドラ将軍は男とは裏腹に怒りに燃えるような眼でブルクスを睨みつけている。
しかし、ブルクスはたじろがなかった。この役目を自分から志願して来たからには、この程度のことは覚悟の上である。
「最高会議室が無理ならば、それは譲歩してもようございます。ただし、せめて一の郭でお願いしたいのです。護衛に関しても三千の兵力は無理としても、できるだけご希望に添うようにはからう用意があります」
「だろうな。女官長からあなた方の欲しがっている言葉を引き出せさえすれば、すべて片がつく。ペールゼンの完全勝利だ。結局この方は処刑される。女官長も同罪か」
「ドラ将軍。私はそんな事態だけは避けたい。いや、それだけは避けねばならぬのです」
いつも穏やかな物腰のブルクスが身を乗り出し、異様なまでに眼を輝かせて言う。
「そんな解決を望むのならば私がわざわざ出向くまでもないことです。私どもの提案は、カリンどのがこの方を自分の息子として認める発言をしたならば、その場で女官長の職を解任し、この方には王位の退位宣言をしていただく。理由はこの際何とでもつけましょう。あなた方にもそれぞれの領地へお帰りいただく。そしてこの方にはカリンどのと共に国外へ永久に退去していただくというものです」
ドラ将軍の太い眉がぴくりと動いた。
椅子に座り直し、深く考える顔になった。互いに利になることはひとつもないが、少なくとも大損をすることもない取引である。
「それであのペールゼンが納得しますか」
「してもらいます。そもそも侯爵にとってこの方は目の上の|瘤《こぶ》ともいうべき存在でした。その素姓を明らかにし、王位には値しない方だということを一部の重臣の前で証明することさえできれば、これ以上かまいつける必要もなくなります。問題はあなた方の承諾を得られるか否かなのです」
ドラ将軍が答えるより先に男が断言した。
「承諾しましょう」
皆、いっせいに男の顔を見た。
「しかし、陛下……」
「ドラ将軍。その陛下はもうよしましょう。これはちょうどいい機会ではありませんか。事実を知り、王位を退く。願ってもないことです」
「いや、しかし……」
「なにより、もし本当に女官長が俺の産みの母なら見殺しにはできません。そんなことをしたら死んだ親父にどのくらい怒られるかわかりませんからな」
ブルクスが思わず首を垂れる。
国王の後見人だったフェルナン伯爵はブルクスにとっても知らない人ではなかった。
「しかし、一の郭は困ります。それというのもその会談にはこちらの将軍がたも必ず出席を希望されるでしょうから……」
「当然です」
ナシアスとドラ将軍の間髪を入れずの返答である。
男は続けて言った。
「侍従長の言葉を疑うわけではありませんが、今の執務部はペールゼンの私有物に等しいと考えるのが妥当です。あの男がもしも俺の国外退去以上のものを望んだ場合、一の郭ではどうすることもできません。せめて二の郭でお願いしたい。ペールゼンにしてもそこまでなら女官長を連れて出てくることくらいできるでしょう」
侍従長は何となく眼を細めて頷いた。
「わかりました。しかし、申し上げるまでもありませんが、会談の前に武器は残らず預からせていただきます」
「結構です」
「こちらのお味方に関しても、できればここにとどめておいていただきたいのですが……」
男はゆっくり首を振った。
「それは無理な相談というものです。他はともかくラモナ騎士団とロアの者たちが、主人との間に三十カーティヴもの距離を置くことを承知するとは思えません」
「しかし、コーラルまでぞろぞろとお供をされては困ります」
「ではその中間までならばいかがでしょう」
堂に入った男の交渉ぶりにドラ将軍も口をはさむ隙がない。結局、会談の場所は二の郭にある貴族の館の中から適当なところを選ぶことにし、国王軍の軍勢も二千だけはコーラルとの道程の半ばまでは進めることにした。
政府側には大幅な譲歩のようだが、ブルクスはそ
のくらいは仕方がないとはじめから計算していたらしい。彼らにしてみれば本宮でも二の郭でも同じことなのだ。男と女官長を会わせ、皆の見ている前で問題の言葉を女官長に言わせることさえできればいいのである。
政府側が恐れているのは事実を知ったこの男が|自《や》|棄《け》になることだ。この男は今現在、庶出を理由に王位を追われたことになっている。しかし、味方をする者の数は決して侮れない。事実を白日のもとにさらすことのできない弱みもある。
この男が改革派に不満を抱く者たちを煽動して、あくまで戦う姿勢を見せることをコーラルはもっとも警戒していた。どうしてもこの男に『自分から』王位を捨ててもらわなければならなかった。
退位した後の男についても国外への追放だけですませるのは甘すぎるという声が政府内にあることは確かである。
だが、ブルクスは全力をあげてその声を抑えこむつもりだった。長い間の経験から、事を荒だてないほうがいいとの確信がブルクスにはあった。
もしもペールゼン侯爵が強硬手段をとるならば、その場で決別を言い渡し、アヌア侯爵と共に今度は自分たちが政府に対して叛意を示すだけの覚悟を固めていたのである。
さすがのペールゼン侯爵もその覚悟は無視できなかったらしい。ブルクスは文字どおりの全権大使としてマレバを訪れたのだ。
さいわい国王軍側と大まかなところで合意することができた。後は詳細である。詳しい日時と場所を決めるためにブルクスは一時コーラルへ引き揚げて行った。
その夜、ナシアスとドラ将軍は自分たちの副官と娘にはじめて事実を打ち明けた。コーラルでの会談を間近に控えた今、もう隠してはおけなかったのだし、隠す必要もなくなったのである。
聞いた三人はただ絶句するしかなかった。
「我らはそれでもかまわず改革派とペールゼンを打倒すると誓ったのだが、今やそれは不可能なようだ。後はせめてあの方の命を守ることくらいしかできそうにない」
将軍の口調もさすがに重く、元気がない。
ナシアスも同様だった。
「結局、何もかもペールゼンの思いどおりになってしまったのが何とも残念です」
三人とも返す言葉がなかったが、血の気を失ったシャーミアンが震える声で言った。
「父上。陛下は……、あの方は二度と国内には戻れなくなるのですか」
「致し方ない」
「でも、それでは……、あの方があまりにお気の毒です」
「わかっている。しかし、国外への永久追放だけですむならば思ってもみなかった温情だ。おそらくはブルクスどののはからいだろうな」
ガレンスも暗い顔で舌打ちを洩らした。
「陛下が……あの人が国外へ追い出されて、ペールゼン侯爵がこのデルフィニアを牛耳ることになるんですか」
タルボがやりきれないように首を振り、無念の呻きを洩らした。
「そんな馬鹿な話が……」
その思いは皆同じだった。
重い沈黙がただ室内を満たしていた。
そのころ、男は一人で本丸の張り出しに立っていた。
見上げれば満天の星がある。
かつてピルグナでもこうして空を見上げたことがあった。
しかし、その時は未来に対する不安を抱きながら、戻って来た感慨を味わってもいた。
今は何もない。
期待も不安も焦りも感じない。絶望もない。むしろ静かな気分で夜空を眺めていた。
「すごい星だね」
不意にすぐ近くで声がする。男が黙ってそちらを見ると、いつの間に来たのか少女が立っていた。
イヴンも一緒である。
「何だか難しいことになったらしいな」
「ああ」
二人はそっと歩いて来て張り出しに立ち、男は息を吐いて二人に向き直った。
「まったく、いったい俺は何なのかと思うぞ。はじめは地方貴族、次に国王、名も知れぬ自由戦士。今度は女官長の息子だそうだ。なんとも目まぐるしいことだな」
冗談めかしてはいても、自嘲の響きを含んだ口調だった。
少女が訊く。
「コーラルへ行くの?」
「ああ」
「お母さんを助けに?」
「ああ」
「ペールゼンは?」
「それが問題だ」
男は決して復讐を忘れたわけではない。
「父を直接死に追いやった張本人はあの豚だとしても、その根源はペールゼンだからな。あきらめるつもりはない。ただし、今はその問題は後回しだ。まず女官長を救い出さねばならん」
少女とイヴンは顔を見合わせてしばらく黙っていたが、少女が確認をとるように訊いた。
「その人、本当にウォルのお母さんなの?」
男は微笑を浮かべて言ったものだ。
「俺の母は十二の時に死んださ。父が本当の父でないとわかっても母が本当の母ではないとわかっても、俺の両親はフェルナンとスレーヤだった」
「きれいな人だったよな。俺みたいな悪ガキにも優しくしてくれた」
イヴンが言う。
「だからといって女官長を見殺しにはできん。俺は女官長には本当によくしてもらったからな」
少女はためらいがちに言った。
「でも、その人と一緒に国外へ出されたら……」
男にもわかっていた。
フェルナン伯爵の仇を討つことは決してできなくなる。
永久追放者が舞い戻って国境に足をかけようものならその場で重罪だ。ペールゼンには堂々と男を片づける口実が与えられることになる。
「リィ。お前は勝とうと言ったな」
「うん」
「俺も勝ちたい。少なくとも負けたくはない。当初考えていたような形の勝利はもう望めないが、まだ何か方法があるはずだ」
少女はちょっと笑って男を見た。
「大丈夫。あきらめないうちは何とかなるよ」
男も目元をほころばせた。
「お前が言うと本当に何とかなるような気がするな。
不思議なものだ」
それからあらためて二人に尋ねた。
「俺はコーラル城へ出向いて女官長を救わねばならんが、お前たちはどうする?」
「聞くだけ野暮ってもんだ」
イヴンがさらりと言い、
「一緒に行く。そう約束したろ?」
少女もあっさりと言う。
男は何とも言いがたい微笑を浮かべた。
「物好きな奴らだ。生きて出られる保証はどこにもないというのに」
「だからだよ。ウォルは鈍いからな。一緒に行って、危なくなったら担いででも城外へ引きずり出してやらなきゃ」
言葉は|戯《おど》けているが、その調子は真剣なものだ。
イヴンも同じような口調で言う。
「それでお前のおふくろさんを助けたらさ、タウへ来いよ。あそこは本来こうした理由で国を追われた連中の集まるところだ」
男は低く笑った。
「おそらくはタウでも初の、国王の前歴持ちの山賊だろうな。リィ、お前も来るか?」
「うん。つきあう」
軽口を言いあっているようだが、それぞれ体格の違う三人は、満点の星空の下で身じろぎもせずに静かに話していた。
現実におかれている厳しい状況はいやと言うほどわかった上でのことだった。
ブルクスは翌日には再びマレバへ現れ、今から五日後の正午、コーラル城二の郭のドラ将軍の屋敷で会談を行いたいと告げた。
わざわざ将軍の館を選んだのは、少しでもこちらの警戒心を解こうというブルクスの配慮であったらしい。
国王軍は総勢二千を引き連れてマレバを出発し、コーラルから十五カーティヴの位置で停止した。
ペールゼン側は男を迎える舞台づくりを着々と進めている。本来、城の警護が任務のはずの近衛兵団のほとんどは適当な理由で遠方へ派遣され、代わりにペールゼンに好意的な大貴族たちの私兵が城の警備についているという。
そればかりではない。ペールゼン侯爵の領地から二千の手勢がコーラル警備の名目で進軍しつつあるというのだ。
「なんともあからさまなことだ」
ドラ将軍は緊張を強めながらも呆れ果てた口調で言った。
「こんな無茶がまかり通るのだから、今の執務部は
ペールゼンの私有物という陛下のお言葉はまことに的を射ているな」
ここまで一緒に来たヘンドリック伯爵もバルロも同様に顔をしかめている。
「まったくこれではあの方を退位させたところで、状況は何も好転しないことになる」
「それよりも、そんなところへのこのこ出向くのは望んで罠にかかりに行くようなものだぞ」
ドラ将軍もそれを心配して男を止めようとしたが、男の決意は固かった。
「今のペールゼンがもっとも怖れているのは俺が|自《や》|棄《け》を起こすことです。これは万が一の用心と威嚇のつもりでしょう。もしあの男が本気で俺を始末しようと考えているならこれほどあからさまなことはせず、もっとうまくやるはずです。コーラルの状況がどうであれ、俺は行かねばなりません」
さすがにドラ将軍も口をつぐまざるを得ない。
例によって紫紺の外套を身につけたヘンドリック伯爵が力強く頷いた。
「ドラどの。もしもペールゼン侯爵がこの人を|騙《だま》し討ちにしようともくろんだとしたらその時はお任せあれ。このわし自身の手で奴の首を掻き切ってやりますわい」
会談の当日、国王軍から出発したのはわずか一中隊である。男を中心にドラ将軍、シャーミアン、ナシアス、バルロ、ヘンドリック伯爵、それにイヴンとリィがいた。
タルボとガレンスは留守番として残った。もしもの時はすぐにでもコーラルへ向けて駆けつけるためである。
コーラルまでの道中は何事もなかった。
城へ到着した彼らは目立たないように五の門から入城したのだが、三の郭へ一歩入ったとたん、そこに待ち構えていた兵隊にぐるりと取り囲まれたものだ。
「わしらまで犯罪者扱いか」
ヘンドリック伯爵がいまいましげに呟いた。
ラモナ騎士団の騎士たちに代わり、城内の兵士に取り囲まれて彼らは廓門を通り、二の郭へ入った。
広大な二の郭の中ほどに建っている将軍の屋敷は、名家にふさわしい立派な構えだった。屋敷のまわりはすでに厳重に警備されている。
まわりばかりではない。玄関を入ったところにもずらりと兵士が並んでいた。
ドラ将軍とシャーミアンにしてみれば、こんな形で自分の屋敷に戻ってくるとは思ってもみなかったことだった。
将軍の顔見知りらしい武将が現れて、|慇《いん》|懃《ぎん》|無《ぶ》|礼《れい》に腰のものをお預かりさせていただくと申し出、彼らは黙ってこれに従った。
国王軍はすでにヘンドリック伯爵にもバルロにも彼らの剣を返していたが、案内役を兼ねた武将はその彼らの武器をも預からせてもらうと言うのである。
「なぜだ。我らは城側のものだぞ」
「これはいちおう、和平会談ということになりますので、武装解除が原則なのです」
一瞬、いやな顔になった二人だが、事を荒だてまいと思ったのだろう。おとなしく従った。
彼らが通されたのはドラ将軍が客をもてなす時に使っていた大広間である。
そこにはすでにアヌア侯爵、侍従長のブルクスをはじめ、二十人ほどの閣僚が揃っていた。
晩餐が催される時には大机を置き椅子を並べる広間だが、今はがらんとしている。閣僚たちはそれぞれ立ったままだ。謁見の間に見立てたのかもしれなかった。
閣僚たちはそれぞれの心境を表した複雑な顔で男をはじめとする『国王軍』の顔ぶれに見入っている。
中にはバルロとヘンドリック伯爵に対し、軽蔑にも似た同情の眼を向けるものもあった。
また、一人は総勢八人の彼らを見て顔をしかめ、進み出てこんなことを言った。
「よけいな人間を連れて来られては困るな。何だ、このものたちは」
主に少女とイヴンに対しての質問らしい。
男は平然と答えた。
「この二人は国王軍を代表して今回の見届け人として来たものだ。おかまいなく」
「しかし、見れば一兵卒と小者のようではないか。そんなものが軍を代表するとは……」
イヴンの眉がぴくりと反応して少女を見た。少女のほうも口元をちょっと吊り上げてイヴンを見たものだ。
一兵卒というのがイヴンのことで、小者というのが少女のことらしい。
片や親衛隊長として片や勝利の女神として国王軍には欠かせない二人なのだが、男はそんな説明はせずに言い返した。
「我が軍の構成に干渉は無用。証人は多いほうが、あなた方にも都合がいいはずだ」
「おっしゃるとおりですな」
上座に面した扉から聞こえた声に、男の顔がわずかに険しくなった。
「やっとお目にかかることができましたな。国王陛下。それともユベールどのとお呼びしたほうが適切でしょうかな」
ペールゼン侯爵だった。
少女ははじめて見る敵の|首《しゅ》|魁《かい》を注意深く見つめていた。
頭の切れる策謀家との印象があっただけに、鍛えあげた豊かな長身の持ち主であることにまず驚いた。
風采も決して悪くない。美男と言ってもいい端正な顔立ちと、落ちついた物腰には好印象さえ受ける。
人は見かけによらないとはこういうのを言うのかもしれなかった。
ユベールと呼ばれた男は殺してもあきたらない仇の一人を前にして、物騒な笑顔で言い返した。
「俺の産みの母に会わせてくれると言うからはるばるやって来たのだが? それとも貴公の皮肉に対し、恐れ入りますと頭を下げなければ感動の対面はさせてくれないというわけかな?」
「とんでもない。互いに精いっぱい歩み寄ってこの席を設けたのですからな。せめて無事に終わらせましょう」
「ありがたい話だ。それはそうとあの聖衣を着た豚はどうした。姿が見えないようだが」
ペールゼン侯爵は男の挑発には乗らなかった。一緒に来たバルロとヘンドリック伯爵に向かい、少しばかり困ったような顔をしてみせた。
「お二人とも、ご無事で何よりでした。|虜《とりこ》にされたと聞いた時には、あやうくお二人の輝かしい武名に傷がつくのではと案じましたぞ」
ヘンドリック伯爵が苛立たしげに言った。
「そんなことはどうでもよい。いつまで無駄話で時間をつぶすつもりだ。話があるならさっさとすませたらどうなのだ」
バルロも言葉を添えた。
「そうだ。あまりこの人を王宮に引き止めていると途中に待たせてある軍勢がしびれを切らすそ」
侯爵は、はたと気づいたように手を打った。
「そうでしたな。あまり待たせては失礼というものでした。女官長をここへ」
アヌア侯爵とブルクスは別として、政府側の代表には皆ゆとりが感じられた。後はカリンの一言ですむと思っているからだろう。一刻も早くこんな茶番は終わりにしたいという苛立ちさえ感じられる。
対して国王軍側の顔ぶれは息を詰め、神経を尖らせている。
カリンが何を言うかも重要だが、さらに大事なのはその後だ。カリンの証言の後、本当にここから無事に出られるのか、彼らは皆そのことを懸念していた。
従者に支えられるようにしてカリンが連れて来られる。その姿を見てシャーミアンが小さな悲鳴をあげた。
血色がよく豊満な体をきびきびとさばいていた女官長がげっそりとやつれた蒼い顔になり、おぼつかない足取りで入って来たからである。
しかし、カリンは男の顔を見るなり、まっすぐ背筋を伸ばした。蒼ざめていた顔にはみるみる血が上りはじめた。
その胸が大きく上下する。
男も動悸が速くなったのを感じながら、黙って女官長の顔を見つめていた。
この人が何を言おうと、その一言一句を聞き逃すまいと思った。
見つめあったまま動かない二人を交互に見やり、ペールゼン侯爵が優しく促すようにカリンに話しかける。
「さあ、カリンどの。この男に何か言いたいことがあったはずですな」
「ええ」
カリンは一歩一歩ゆっくりと男に近づいていくと、その前でおもむろに膝を折ったのである。
「お帰りをお待ち申し上げておりました。国王陛下。今一度こうしてお姿を拝することがかないますとは、この上ない喜びでございます」
まさに国王に対する臣下の見本のような丁重な態度だった。
見ていた一同は唖然とした。
いや、男自身が驚いた。
「女官長……?」
どういうことかと問うより先に、閣僚たちが口々に罵声をあげた。
「女官長。何を言うのだ!?」
「馬鹿げた芝居はやめたまえ。この男はあなたの息子ではないか!」
カリンはすっくと立ち上がり、憤慨している閣僚たちに向かって平然と言ったのである。
「私がいつそんなことを申しました?」
「女官長!?」
予想外の展開である。カリンはすっかり観念し、本当のことを話すと約束したのではなかったのか。
彼らはそんな疑問と苛立ちに満ちた視線をいっせいにペールゼン侯爵に投げつけた。無言の非難を浴びた侯爵はもちろん、他の誰よりも苛立ち、呆れ、腹を立てていた。
「女官長。強情もいいかげんにしてもらいたい。この|期《ご》に及んでまだそんな虚言を貫こうとするとは、往生際が悪いにもほどがありますぞ」
自然と言葉もきつくなる。
「虚言とは何です。失礼な!」
カリンも憤慨して言い返し、侯爵を睨みつけた。
「あなたのおっしゃることこそ虚言ではありませんか。この方が私の息子だなどと何を証拠にそんな馬鹿げたことを言われるのかさっぱりわかりません」
「それでは尋ねますが、この男があなたの息子でないならいったい誰だというのです!?」
「私がポーラさまから預かったドゥルーワ陛下のお子様です。決まっているではありませんか」
ペールゼン侯爵の忍耐もさすがに限界を迎えつつあった。これではいったい何のためにこんなばかばかしい席を設けたのかわからない。
「よろしいか。女官長。では聞かせてもらいたいが、ポーラが死んだ時に自分の子どもを抱えていたこの事実はどうなるのです!? ドゥルーワ陛下のお子は間違いなく母親と共に死んでいるのです!」
カリンはぐっと言葉に詰まった。それまでの自信ありげな態度は消え、目に見えてうろたえた。
「それは……、それはきっと、ポーラさまは優しい方でしたから……、お子様を忘れかねて、実家へ戻られる途中に捨てられていた子どもか何かを拾って帰ったのだと思います。ええ、そう考えるより他に説明がつきませんもの」
「たわごとにもほどがある!」
吐き捨てるように侯爵は言い、カリンは負けじとばかりにさらに感情的にわめいたのである。
「たわごととは何です! 捨て子など珍しくもないものではありませんか!!」
「ばかばかしい!」
忍耐に忍耐を重ねていた侯爵だが、この瞬間まさに堪忍袋の緒が切れた。思わず叫んだ。
「拾った子どもを助けるためにどうして氷の張った池に飛びこんだりするものか!!」
カリンの様子が一変した。
たった今まで感情的に歪んでいた顔からあらゆる表情が消え失せた。真っ赤に紅潮していた頬が一度、凍りついたように青白くなり、さらにみるみる血が上った。
両手を握りしめ、震える声でカリンは言ったのである。
「どうして知っているのです?」
「……なに?」
「ポーラさまが子どもを助けるために真冬の池に飛びこんだとどうして知っているのです!?」
すさまじい叫び声だった。
男はもちろん他の顔ぶれも思わず息を呑んだ。
カリンは別人のような形相でペールゼン侯爵を睨みつけている。
「答えてもらいましょう、侯爵。あなたは確かに今、氷の張った池に飛びこんでと言われました。その話、いったいどこで聞きましたか」
ペールゼン侯爵は内心舌打ちを洩らしながらも、素早く立ち直った。
「どこでとは……村のものが話してくれたに決まっています。娘が死んだ時の様子を詳しく聞くのも調査の大事な目的ですからな」
「では、その証言をした村人は何という名前でしたか」
「何ですと?」
「男ですか、女ですか、年齢はどのくらいのものでしたか」
「女官長。何を言うのです?」
「答えなさい!!」
凄まじい一喝である。ペールゼンはもとより、その場にいたものはカリンのこの剣幕に目を見張っていた。
「女官長。いったい何事です。あの娘の死因がどうしたというのです」
ブルクスが慌ただしく尋ねる。カリンはブルクスを見ようともしない。ペールゼン侯爵を睨みつけたまま言った。
「手出しは無用です。侍従長。私は今ポーラさまと国王の子を殺した容疑者に尋問をしているのです」
「たわけたことを!」
苛立たしげにペールゼン侯爵は言った。
「無礼もたいがいにしてもらいたい。何を根拠にそんな途方もないことを言うのか。ウェトカ村のものがそう言っていただけのことですぞ」
「嘘です!!」
体中から絞り出すような絶叫だった。
「ウェトカ村のものは一人残らず、ポーラさまは子どもを抱いたまま足を踏みはずして池に落ちたと信じています。ポーラさまの本当の死因を知っているものがあるとするならそれはポーラさまと赤ん坊を手に掛けた張本人だけです!!」
「いいかげんにしてもらいたい」
ペールゼン侯爵は内心の動揺も焦燥もかけらも表に出さなかった。あくまで相手を非難する姿勢を貫いた。
「私がそんなことをする理由がどこにあるのです? よりにもよって陛下のお子を手に掛けたりなど、考えるだに恐ろしいことではないか」
「そうしろと命令されたからです。あなたは当時、宮内に仕える若い役人だった。そしてポーラさまは当時の宮内の嫉妬と羨望を一身に浴びていた。理由はそれで充分です」
「女官長。お待ちなさい。あなたがそう思いこむことは勝手です。だが、今はそんなことを詮議している場合ではない。この男の身元の確認が最重要課題なのです。あの娘の死因がどうあれ、国王のお子は娘と共に死んだのですぞ!」
カリンが笑い出した。
腹の底からあふれてとどまらない、心底おかしげな笑いだった。身をよじり、ヒステリックなかん高い声で笑い続けているのだ。
尋常ではない。
政府の閣僚はもちろん、国王側もあっけにとられている。
「いよいよ狂ったか……!」
いまいましげに呟いたペールゼン侯爵に向かって、カリンはようやく笑いを収めて言ったのだ。
「私は狂ってなどおりません。あなたがあまり馬鹿なことを言うので笑ったのです」
「何を……」
「あなたが殺したのは国王のお子などではありません」
カリンは胸を張り、涙のにじんだ眼で侯爵を睨み据え、唇を震わせながら断言した。
「私の息子のユベールです」
[#改ページ]
ペールゼン侯爵の顔がぽっかりと空間に落ちこんだようになっている。
めったに本心を見せないはずの侯爵が、今はただ絶句して立ちつくしている。
ペールゼン侯爵ばかりではない。その場にいる誰もがそうだった。
男は息を呑み、少女とイヴンは目を見張っている。
ドラ将軍をはじめとする国王に親しい人たちは、何を聞いたのか信じられない顔でいる。
気の遠くなるほど長い沈黙の後、ブルクスがようやく言葉を発した。
「に、女官長……、今、なんと?」
カリンはわずかに視線をブルクスに移して頷いた。
「侍従長。私ははじめから申しました。あなたに嘘など言ったことはないと。ただ話さなかったことがあるだけです。今こそすべてをお話しましょう。二十四年前のあの時、ポーラさまは確かにお子様を預けに私を訪ねていらっしゃいました。ここまではお話したとおりです。ですがポーラさまはお一人で村へ戻られたわけではありません。私が預けたユベールを抱いて帰られたのです」
「何のためにそんなことを!?」
ブルクスが叫ぶ。
「ポーラさまが私にお子様を託されたのは、この子を村へ連れて帰ったのでは農民にしかしてやれないから、それではこの子にもこの子の父親にも申し訳ないからとのことでした。それなら王宮で教育を受けられるようにはからいましょうと言うと、王宮はだめだと言うのです。あそこは危ない。子どもの身に何が起こるかわからないともおっしゃいました。私がユベールをポーラさまに預けたのは……」
カリンは唇を噛み、込み上げてくるものに耐えている。
「ポーラさまは身籠られてからずっと不安を訴えていらっしゃいました。おそらくは奥棟の不穏な空気を感じていらっしゃったのでしょう。私の家を訪ねた時も夜分こっそり訪れたくらいです。この子を私に預けたのがわかったらここも危ないかもしれないとまでおっしゃいました。私はその時、国王の子を産んだことで|神経《き》が高ぶっているのだとばかり思って……。それなら代わりにこの子を連れて行くようにとユベールを渡したのです」
つとめて冷静に話しているカリンの目から、涙が伝い落ちている。
「ポーラさまはあれほど怯えて危険を感じていらしたのに……まともにとりあわなかった私のせいです。決して地位の高くなかった女官の私は、ドゥルーワ陛下にお子様のことを密かにお知らせするだけの機会を得るのにそれから一月もかかりました。ですが陛下はポーラさまの心がけを|愛《いとお》しまれ、王宮では育てたくないという意見に同意なされて、そうしてフェルナン伯爵ならば必ずこの子を立派な騎士に育ててくれるだろうとおっしゃって、お子様を託されたのです。ご承知のように三月の終わりのことです」
カリンは涙のあふれる眼でふたたびきつくペールゼン侯爵を睨みつけた。
「四月になって、お子様がよい養い親を得たことを知らせに、そして自分の息子を迎えにウェトカへ向かった私を待っていたのはポーラさまとユベールが二月も前に死んだという知らせでした。村のものは事故だと信じていましたが、私には信じられませんでした。ポーラさまは注意深い、賢い方です。子どもを抱いたままいつ崩れるかわからない水辺になど近寄るわけがありません。私は村のものに端から尋ねて歩きました。口がきけるものなら五歳の子どもにまで何か気づいたことがなかったか、怪しいものの姿を見なかったかどうかと尋ねました。成果はほとんどありませんでしたが、一人だけ、当時八歳の子どもがこんなことを言ったのです。水音が二度聞こえたような気がしたと」
全員が|固《かた》|唾《ず》を呑んでカリンの話を聞いている。
「他のものなら聞き流しにしたでしょう。あるいは雪の固まりでも落ちたのだろうと片づけてしまったかもしれません。私にも確信は持てませんでした。もしかしたら本当にただの事故だったのかもしれない。ポーラさまは本当に足をすべらせてユベールを抱いたまま池に落ちたのかもしれない。そんな考えにもとらわれました。でも息子を抱いて私の家を出て行く時、ポーラさまはおっしゃったのです。私が迎えに行く時まで、命に代えてもこの子を守ると。自分の子どもだと思って育てると。ポーラさまはそういう方でした。水音がふたつ聞こえたというあの子どもの言葉には何か意味があるのか、何を示すものなのか私は必死に考えました。もしも二人が一緒に落ちたのではなく、別々に落ちたのだとしたら? いや、生後三か月にも満たない赤ん坊が自分で動くわけがない。では、誰かがユベールをさらい、池に投げこんだのだとしたら? その可能性に気づいた時、私にはすべてがわかったような気がしました」
カリンは流れ続ける涙にもかまわず話していたが、たまりかねたように男を見上げ、震える声で言った。
「陛下。お許しください。何もかも私のあさはかなさしがねのせいです。ポーラさまは……、あなたの母君は私の息子をかばって……。私の息子を助けようとして!」
両手で顔を覆って泣き伏したカリンの肩を、男は蒼ざめた顔のまま抱いてやった。
「女官長……」
政府側の閣僚は一気に血の気を失っている。
対して国王派の人々、特にブルクスは興奮で顔を真っ赤にしていた。
「女官長。では、それではこの方は……」
男の腕の中で泣いていたカリンは顔を上げて頷き、誇らしげに言った。
「何度も申し上げました。この方は正真正銘ドゥルーワ陛下とポーラさまとの間に生まれたお子様です。デルフィニアの正当な国王陛下なのです」
「でたらめだ!」
閣僚の一人がやはり顔を真っ赤にして叫んだ。
「い、今の話がすべて女官長の|捏《ねつ》|造《ぞう》でないという証拠がどこにある!」
カリンは怯まない。きっ[#「きっ」に傍点]となってその閣僚を睨み返した。
「証拠の一は当時私の家で働いていた従僕と小間使いです。それぞれカシェン村、デナム村に存命していますから尋ねてみればよろしい。二十四年前、私が子どもを連れて家に戻った直後、村娘が現れて子どもを置いていったと、代わりに私の子どもを抱いていったと証言してくれるでしょう」
ブルクスが感嘆の眼でカリンを見たものだ。
「証拠の二は侍従長、今こそカピアの棺を掘り返してもらいましょう。お話ししたとおりそこにユベールの遺体は収められていませんが、私は棺の中に二十四年前この方の体を包んでいた|産《うぶ》|着《ぎ》と、ポーラさまが王宮を立ち退かれる時に陛下からいただいた腕輪、それをポーラさまはそのまま私に預けていかれたのですが、その腕輪を収めておきました。どちらにもむろん獅子の紋章が刻まれております」
「……」
「証拠の三は、よろしいか。この方の御髪をきれいに撫でつけて、お顔の下半分をお|髭《ひげ》で覆い、ご即位直後のドゥルーワ陛下の肖像画と比べてごらんになることです。それでもまだこの方がドゥルーワ陛下のお子でないと言い張るようでしたら、そんな役に立たない目玉ならば即座にくりぬいて道端に捨てておしまいになるがよろしい!」
煮えたぎるような眼のまま、カリンはペールゼン侯爵に向き直った。
侯爵は顔面蒼白となっている。
「二十二年間、私はポーラさまとユベールを殺したものを探していました。その誰かは必ず王宮にいるに違いないとの確信が私にはありました。何の証拠もなく力もない私にできることといえば、ただ人の言動に注意し、観察することだけです。王子王女がすべて亡くなられ、この方の存在がはじめて明らかになった時の騒ぎは絶好の機会でした。その誰かは必ず反応を示すはず。私はどんな小さなものも見逃すまいとした。その時あなたは……」
カリンは一歩、ペールゼン侯爵に近づいた。
「あなたは、この方が現れた時からこの方を軽視していた。他のものが困ったことになったと困惑し、眉をひそめているのに対し、あなたは驚きながらも周囲の狂乱ぶりを冷笑していた。議論をするだけ無駄なのにと。あの男には王位を継ぐ資格などないのにと。なぜ?」
また一歩、侯爵に近づく。
表情を失ったペールゼン侯爵は小柄な女官長に|気《け》|圧《お》されて後ずさっている。
「国王の庶子などあなたにとってはもつとも|与《くみ》しやすい、利用しやすいものであるはず。いつものあなたならば真っ先に王に迎えることに賛成し、自分の|傀《かい》|儡《らい》に仕立てるはず。なのに最後の最後まで反対の姿勢をとったのは、この方がドゥルーワさまのお子ではないと、あるはずがないと知っていたからだ。陛下のお子は死んだという確信があなたにはあったのだ。その時から二年。今やっと言うことができる。いや、二十四年前からずっとだ」
まっすぐにペールゼン侯爵を指さしてカリンは叫んだ。
「人殺し!!」
二十四年間、こらえにこらえてきたものをすべて叩きつけるかのような叫びだった。
「陛下に寵愛されたポーラさまを殺し、陛下の子を殺そうと|謀《はか》った反逆者!!」
ペールゼン侯爵は一言も言い返せない。土気色になった頬に汗を浮かべ、紫色になった唇は震え、女官長に押される格好で後ずさっていたが、不意に身を返して大広間から逃げ出したのである。
とり残された政府の閣僚は蒼白になった互いの顔を見合わせている。
国王軍の勇士たちも同様だった。敗北の屈辱を覚悟の上でやって来てこの展開である。さすがの彼らにもとっさに対応ができなかったのだ。
バルロは興奮で顔を真っ赤にし、ドラ将軍は歓喜の言葉を呟き、ナシアスとシャーミアンは眼を輝かせて男を見つめている。
男はペールゼン侯爵が逃げて行った扉を食い入るように見つめている。
しばらく誰も何も言わないでいたが、アヌア侯爵
が小さく吐息をこぼして同僚に声をかけた。
「ヘンドリック伯爵」
「はい?」
「こんな時に申し訳ないのですが、その外套、返していただけませんか」
しわの深い伯爵の顔が歓喜にほころびた。
「も、もちろん、喜んでお返しいたしましょう」
栄光の証である紫の外套をすぐさま背中からはずして差し出す。アヌア侯爵は押しいただいて受け取り、男に向かって問いかけた。
「陛下。僭越ではありますが、これをもう一度|纏《まと》うお許しをいただけますでしょうか」
「その必要はない」
ペールゼンが逃げ去った扉を睨みながら男は言つた。
「近衛兵団長の任命権は国王にのみある。貴殿は俺が王となる以前からその職にあり、俺自身は貴殿を解任した覚えはない。従って貴殿は今でもその外套を纏う資格をお持ちのはずだ」
「ありがとうございます」
閣僚たちはますます震えあがって後ずさった。
しかし、今そんなものにかまいつけている余裕は国王側にはない。
国王派の人々の中で真っ先に現実的な反応を示したのはやはり少女とイヴンだった。二人ともこの間にすばやく館の入口まで駆け戻り、取り上げられた自分たちの武器を抱えて戻ってきたのである。
「急いで。包囲されたらおしまいだ」
ドラ将軍も力強く頷いた。
「陛下、参りましょう。まずはここを脱出し、本隊と合流することです」
「わかっている」
大逆転の立役者となったカリンを見れば緊張の糸が切れたのか、がっくりと床に座りこんでいる。ブルクスがそんなカリンの横に|跪《ひざまず》き、熱心に励ましていた。
「女官長。お見事でした。お見事でしたぞ!!」
男もその横に膝をつき、深々と頭を下げた。
「よくなさった、女官長。さあ、我々と共に行きましょう。ここにいては危険です」
「……もったいない」
カリンは力なく呟いて首を振った。
「私のことなどにかまわず、どうぞあのペールゼンを倒してください。私は今日この日のために、ポーラさまを死に追いやっておきながら生き永らえてきました。もう何も思い残すことはありません」
「駄目だ」
男は力強く言ってカリンの肩に手をかけた。
「今ここであなたを見捨てたら、死んだ実の母にも、俺の身代わりに殺されたあなたのご子息にも申し訳が立たん」
軽々とカリンを担いで立ち上がる。
「陛下!」
「いやだと言っても連れて行きます。侍従長、あなたもだ。馬には乗れますな?」
「むろんのことでございます」
「陛下、こちらへ早く!」
勝手知ったるドラ将軍が大広間の別の入口を抑えて呼ぶ。カリンを抱えたまま国王はそちらへ歩き出したが、まだひとかたまりになって震えている閣僚たちを振り返った。
「俺を王と呼ぶ覚悟のないものは今のうちにどこかへ立ち去ることだ。俺はすぐに戻ってくるぞ」
言いおいて将軍の後を追った。
アヌア侯爵、カリン、ブルクスが加わって総勢十一人となった彼らはすぐさま城外への脱出を図った。
外へ出て見上げれば正門のあたりが騒がしい。どうやらペールゼン侯爵は本宮へ逃げ込んだようだ。
「こちらに|兵《て》がないのが何とも悔やまれるわ」
ドラ将軍が歯ぎしりする。
「アヌア侯、ヘンドリックどの。今の王宮にあなた方の動かせる手勢はござらんか」
二人とも首を振った。
「残念ながらせいぜい数十から百の小勢を集めるのが精いっぱいです」
「使いを出して呼び戻すことはもちろんできるが、しかし、時間がかかる」
一番近いのはやはりコーラルから十五力ーティヴの距離においたラモナ騎士団とロア勢であるらしい。
「ティレドン騎士団もその近くにいるはず。なんとかそこまでたどり着ければこっちのものだ」
バルロも興奮を抑えかねてそんなことを言った。
その間にも彼らは廓門を目指して一直線に駆け降りたが、二の郭を守る門は固く閉ざされ、厳重に見張りが立っている。しかもその数は二十人を超えている。
これもペールゼンの息がかりであったらしく、アヌア侯爵、ドラ将軍、ヘンドリック伯爵といった大物がずらりと顔を揃えて門を開けるようにと命じたにもかかわらず反応が鈍かった。
「申し訳ありません。ペールゼン侯爵閣下の許可なしにはここをお通しするわけにはいかないのです」
「たわけ! いつまで奴の言いなりになるつもりだ。
あ奴はドゥルーワさまのお子殺しを企てた重罪人なのだぞ!」
ヘンドリック伯爵が一喝しても彼らの反応は変わらなかった。
「しばらくお待ちください。まずは閣下の許可を得なければ……」
「話にならん! |退《の》け!」
警備の指揮を執る兵士を押し退けようとしたヘンドリック伯爵だが、なんとその兵士は伯爵に武器を向けたのである。
「何をする!?」
その兵士はさすがに申し訳なさそうだったが、それでも武器を収めはしなかった。
「伯爵。お許しください。もしもこの門を強硬に突破しようとしたなら、その場であなた方を逮捕するようにとの命令が出ているのです」
「誰の命令だ!!」
ずっと黙っていた男が問いかけた。
「あなた方というのは誰のことだ」
兵士は答えない。
男は振り返ってバルロに言った。
「従弟どの。あなたから尋ねてくれ。誰を逮捕するようにというのか、それにこの連中がいったいどこの兵士なのかをだ」
「はっ?」
「この連中は俺を国王と認めるつもりはないらしいが、従弟どのの言葉なら聞くだろう」
バルロもはっ[#「はっ」に傍点]とした。
「お前たち、サヴォア家のものか!?」
答えないところを見ると図星のようである。
サヴォア公爵家はバルロを筆頭に多くの同族を抱えている。未亡人とはいえ母親のアエラ姫は豊かな領地を持ち、バルロの叔父、年配の従兄などはそれぞれ一家の主でもある。
その中の誰かの兵隊に違いなかった。
「ならばサヴォア公爵の名において命ずる。この門を開けろ!」
兵士はそれでも答えない。それどころか固い顔で言い返してきた。
「公爵さま。サヴォア家の家長であるあなた様が、いつまでもまがいものの国王などをあがめていては公爵家の屋台骨にも関わって参ります。ご無礼は百も承知の上ですが、あなた様があくまでもこの男と行動を共にするというのなら、我々は武力をもってでもあなた様をお止めしなければならないのです」
「誰に向かってものを言っている!!」
バルロの一喝を浴びても彼らの態度は変わらない。
よほどしっかりした命令系統に支配されていると見るべきだった。
男がため息をついて言ったものだ。
「従弟どの。申し訳ないようだが時間がない。あなたのお|家《うち》の兵隊ではいささか気が引けるが……」
少女がすでに腰の剣に手をかけながら言った。
「遠慮なんかしている場合か。後ろを見ろ。本宮からごっそり兵隊が出てくるんだぞ。お前がやらないならおれがやる」
イヴンも言った。
「手伝うぜ。俺には別に何の関係もない連中だからな」
「うむ。従弟どの。女官長と侍従長をお願いする」
男はずっと担いでいた女官長をバルロに預けると、剣を引き抜いて兵士たちに襲いかかった。
イヴンと少女はそれより先に飛び出している。
「下がれ!」
ドラ将軍が叫んで残った連中を背後に押しやり、ナシアスも剣を抜いた。こちらに向かってくるものがあるなら切り伏せるつもりだったが、そうはならなかった。
アヌア侯爵とヘンドリック伯爵が事態を察して慌てて加勢しようとした時には、彼らの分はほとんど残っていない。
おそろしく乱暴な手段で彼らは廓門を突破し、三の郭へ出、待たせておいた中隊と合流して五の門から城外へと脱出したのである。
「団長! いったい何事です!?」
中隊を指揮していた騎士があまりの慌ただしさに驚いて、懸命に馬を飛ばしながら尋ねてきた。
「今は説明している暇はない! 追手が来る!」
ナシアスが叫び返したのと同時だった。
非常事態を告げる角笛が王宮に鳴り響いた。
振り返ってみれば大手門が開き、そこから騎馬の軍勢が次々と走り出してくる。
「急げ!」
こちらは護衛の兵士を入れても数十人、とてもまともには戦えない。逃げるのみだ。
「あのやろう。とうとう強硬手段に出やがった!」
後ろを振り返ってイヴンが叫んだ。
「ここでお前をばっさりやっちまって証拠隠滅するつもりだぜ!」
「今さらそんなことをしたところで無駄だということがわからんのか!」
ヘンドリック伯爵が手綱を操りながら叫んだが、アヌア侯爵が険しい顔で否定した。
「いや、今のペールゼン侯爵ならばあの場にいた閣僚の口を塞ぐくらいたやすいこと!」
後は自分たちを抹殺してしまえばまさに侯爵の天下というわけである。
「ひでえ話だ」
イヴンが嘆いた。
この間にも彼らは必死に馬に鞭を当てている。
少女は|殿《しんがり》にまわった。追いつかれそうになったら端から迎撃するつもりだった。
しかし、どういうわけか追手は不意に足を止め、来た時以上の勢いで王宮へ引き返していったのである。
「何だ?」
「かまうな。急げ!」
彼らは瞬く間に待たせておいた軍勢にたどり着いた。アヌア侯爵、カリン、ブルクスといった顔ぶれを見て、留守をしていたガレンスとタルボが驚いたのはもちろんである。
「将軍。いったいこれは?」
「話は後だ。マレバへ至急使いを出せ! 全戦力をここへ集結させる!」
将軍だけではない。バルロもティレドン騎士団に加勢の使いを出し、アヌア侯爵、ヘンドリック伯爵も自分たちの手勢に大至急駆けつけるように使者を送ったのである。
ここまできたら数の多いほうが勝つ。後は時間である。どちらが早く相手より多くの戦力を集めることができるか。どちらが先に相手に効果的な一撃を加えることができるか。そこにすべてがかかっていた。
ペールゼンがコーラル周辺に集めていた勢力は約二千。今の国王軍の勢力と同数だが、城内に予測不能の勢力がある。
「マレバから増援が来るまでは積極的に戦うべきではない。何としても持ちこたえることだ」
それが彼らの一致した見解だった。それまでの約一時間半をこらえることができればこちらの勝ちだ。
「女官長。お体は大丈夫か」
カリンは慣れない馬で駆け続けてぐったりとしている。急いで静かな天幕へと運び、ブルクスが傍についた。
「女官長は私が見ております。陛下、私どものことにはかまわず、ペールゼンめの手先を撃退してくださいませ」
ブルクスにもここが正念場とわかっていた。
事態を慌ただしく説明されたタルボとガレンスは喜び勇んで自ら斥候に出ていったが、すぐに険しい顔で駆け戻って来た。
「申し上げます! コーラル城から敵勢! およそ三千!」
「一大事でございます! マレバ方面からタングレー勢! 五千!」
タングレーはペールゼン侯爵の領地である。
五千の軍勢を突破しなければマレバとの合流は不可能になった。しかも城からの勢力とで挟み撃ちにされる。
国王軍に緊張が走った。
ペールゼン侯爵はコーラル警備の名目で呼び寄せた軍勢の他に、付近のパキラ山中になんと三千もの兵力を隠していたのである。
その軍勢が今まさにいっせいに|起《た》ち上がって国王軍の退路を断ち、わずか二千の彼らに襲いかかろうとしている。
しかもコーラルからは三千の軍勢が来る。これは誰の命令で動いているのかわからないが、廓門の兵士の一件もある。少なくとも国王の権威を認めるものでないことだけは確かだ。
「してやられたな」
男は歯ぎしりした。ペールゼン侯爵ははじめから自分たちを素直に国外へ出すつもりなどなかったに違いない。最悪の場合はラモナ騎士団やドラ将軍をも反逆者として片づけるつもりだったのだ。
でなければこれほど大規模な軍勢を密かに呼び寄せておくわけがない。
まさに絶体絶命だった。
マレバとの連絡を絶たれた以上、もっとも近いティレドン騎士団が駆けつけて来るまで二時間はかかる。しかし、約三十分後には総勢八千の軍勢がこちらに襲いかかって来る。
さすがに将軍たちにも言葉がなかった。
一瞬、負けを覚悟した彼らの耳に、澄んだ声が飛びこんできたのはその時である。
「さあ、行こうか」
リィだった。
この状況で何をどうしようというのか、少女は槍を握り、腰の剣を確かめて、グライアを呼んだのである。
「リィ。いったい何を……」
「正面から三千、後ろから五千の兵が来るなら数の少ないほうを相手にすればいい」
振り返って言う。
「どのみち戦うなら待っていることはない。こっちから打って出ればいいんだ」
誰もが絶句した。が、真っ先に国王が高らかな笑い声をあげた。
「バルドウの娘の言うとおりだな。手をこまぬいていることはない」
「陛下!」
「他に方法はない」
男は厳然と言った。
「女官長と侍従長に一隊をつけて避難させろ。コーラルに向けて進軍する!」
マレバ方面から現れた手勢の攻撃を食らうのは覚悟の上でそれより先に正面の敵を撃破する。
もしくはティレドン騎士団か近衛兵団のどちらかが駆けつけて来るまでしのぎきれば勝機はある。
少女は国王軍の先陣に立ち、他の者を引き離してコーラルを目指して走った。その横にはイヴンを中心に親衛隊がいる。
「まったくよ! 副頭目とつきあってたら命がいくつあったって足りゃしねえ!」
「それはあの娘に言うんだな!」
どちらも嬉々として叫びながら馬を飛ばし、真っ先に敵勢と衝突した。
驚いたのは政府側の軍勢のほうだ。
国王軍はマレバまで一気に逃げようとするはずであり、そこまで追撃をかけるつもりが逆に襲いかかられたのだ。
「何者だ!?」
「我々はデルフィニア国王の親衛隊だ。王に対して武器を向けようという貴様らこそ何者だ!」
イヴンの問いかけに対し、政府軍の武将は嘲弄をもって応えた。
「誰が国王! もとをただせば|氏《うじ》素姓も知れぬ下賎の娘が産み落とした野良犬ふぜいが!」
「何だと!?」
この暴言にはイヴンも憤然となったが、それ以上に腹を立てたのがリィだった。
誰もが目を見張る黒馬にまたがった少女は無造作に駆け寄り、ものも言わずに握った槍を揮ったのである。
たった今までわめいていた騎士の首がその一撃で胴体から切り離されて宙を飛んだ。
見事な技に兵士たちも思わず怯む。返り血も浴びずに先頭の兵士を倒した少女は凛然と言い放った。
「他にお前たちの国王を野良犬呼ばわりするものがいるなら前へ出ろ。二度と口をきけなくしてやる」
「おのれ!」
「こざかしいわ!」
数人が果敢に襲いかかって来たが、それではこの少女を止める何の役にも立たない。
大の男が五人、あっという間に斬り伏せられる。
さらに五人が次々にかかったが少女の動きは凄まじかった。どの騎士も|一《いち》|合《ごう》もできずに馬から叩き落とされた。
それだけの働きをしても、少女は息を切らしてもいない。
数百はくだらない先鋒が思わず足を引いた。
先頭がとどまれば後続もとどまる。三千もの軍勢が、たった一人の少女に足止めされていた。
少女の後ろからは国王軍が続々と駆けつけて来る。
先鋒の兵隊にそれが見えないわけがない。彼らの動揺はいつ恐怖に変わってもおかしくなかった。
将校の一人は味方の狼狽を見て鋭く叫んだ。
「怯むな! |鬨《とき》の声をあげろ! あの国王軍の後ろからはタングレー勢が間もなく駆けつけて来る。そうなれば奴らは袋のねずみだぞ! 今こそ偽王を倒し、正当な国王を迎える時なのだ! かかれ!」
勝ち誇って岡の声をあげようとした将校の胸に、少女の手から放たれた槍が突き刺さった。
さらに腰の剣を抜き、少女は政府軍の先鋒に正面から突っこんだのである。
「遅れをとるな!」
イヴンが叫んだ。
そこへ国王軍の本隊が追いついて来た。ドラ将軍がいる。アヌア侯爵がいる。ヘンドリック伯爵もバルロもナシアスもいる。
もうこうなっては説得が無意味であることは誰の目にも明らかだった。それでもアヌア侯爵が敵の武将に対し、憤然と叫んだものだ。
「剣を引け! これは国王に対する反逆だぞ!」
「高貴な方のお言葉ではありますが、国王が国王としてあらねばこそ我らは立ったのです。これは戦でございます。私どもからも進言いたしますが、まもなくタングレー勢が駆けつけて参ります。そちらこそ降伏を考えるべきでございましょう」
まさにそのとおりだった。
激しくもみあううちに、国王軍の後方に数千の軍勢が現れたのである。
国王軍は正面の敵をなんとか突破しようと凄まじい猛攻をかけていたが、新手が現れるのは予想以上に早かった。苦戦していた政府軍が勢いづいたのは言うまでもない。
新手は数千、しかも正面の敵はまだまだ崩れそうにない。国王軍はアヌア侯爵、ヘンドリック伯爵を殿にまわして一兵卒から武将に至るまで全軍一丸となって戦った。国王は自ら馬を乗りまわし、槍を揮い、誰よりも凄まじい働きを見せたが劣勢はどうすることもできない。
激しい戦の合間を拾って、ドラ将軍が険しい顔で男に進言した。
「陛下。ここはひとまず陛下だけでも……」
「できると思うか」
どちらの顔も汗と埃、返り血で汚れている。
「あなた様お一人ならば何とでもなります。我々が敵をこの場に引きつけているうちにどうか逃げ延びてくださいませ」
「将軍方を死なせて俺一人生き延びて何になる?」
「しかし、このままでは!」
絶体絶命の状況だというのに、男は太く笑った。
「案ずるな。ドラ将軍。我々にはバルドウの娘がついている」
「陛下! 父上!」
シャーミアンが駆け戻って来た。
相当激しく戦ったのだろう。馬は泡を吹き、シャーミアン自身も大きく息を乱している。結い上げた髪はほつれ、あちこちに返り血が飛び、顔は将軍や男と同じように真っ黒だ。だが、眼はきらきら輝いている。
「申し上げます! コーラルへの突破口があと一歩で開けます!」
「よし、すぐ行く!」
二人ともすかさず手綱を取った。
コーラル方面の敵を崩せても後ろから倍以上もの勢力が追撃をかけてくる。国王軍がいよいよ追いつめられているのは一目瞭然だった。
「シャーミアン。あの娘はどうした?」
国王の問いにシャーミアンは振り返り、力強く頷いてみせた。
「大丈夫です。勝利の女神はまだ、我が陣中に!」
シャーミアンはあの少女がいることで勇気を奮い立たせている。それは他の兵士も同じだった。
小柄な体に金髪の少女はつねに先頭に立ち、敵を寄せつけず、端からなぎ倒して猛然と突進を続けている。
まわりを固めたイヴンたちも斬って斬って斬りまくった。どのくらい倒したのかももう覚えていない。
しかし、敵は後から後から湧いてくる。さすがに分が悪かった。
「ちくしょうめ、きりがねえ!」
ヌイのフレッカが叫ぶ。奮戦に奮戦を続けている彼らだが、それにも限界がある。男たちの三倍は働いている少女も例外ではなかった。
「ティレドン……騎士団の連中、急がないと……、親分の死体しか、見られなくなるぞ」
ほつれかけた金の髪が額に張りつき、細い肩が大きく上下している。
同じように肩で息をしながらも、イヴンがそんな少女をからかった。
「へ……、お前でも、ばてることがあるんだな」
「まあ、ちょっと……、数が多いからな」
ちょっとどころではない。少女は間違いなく百人以上は倒している。
前線から一時引き下がって休息していた彼らだが、少女は剣の血をぬぐうとふたたび黒い友人の首を叩いた。
これも汗だくのグライアがちらりと呆れたような眼で少女を見る。
「仕方がないさ。乗りかかった船だからな」
馬はからかうように鼻を鳴らしたが、嫌がりはしない。少女はふたたび馬上の人となり、駆けつけてきた国王と合流したのである。
「おお、いたな!」
「いるとも!」
国王は走りながら横にいる少女のことを考えた。
パラストのはずれでこの少女と出会い、ここまで来た。何もかもがあの時から動き出した。
しかし、状況を見るに彼らの命運もここで尽きようとしている。
あっさりあきらめて死ぬつもりは毛頭ないが、この男は事態を正確に把握できないほど愚かでもなかった。
ただ自分だけ逃げることはできなかったのである。
ここにいる二千の軍勢は自分のために敗北を覚悟の上で戦っている。こんな事態だけは回避したかったが、もう遅い。おそらくはここで倒れることになるだろうと覚悟を決めていた。
「リィ!」
走りながら声をかける。
「お前は帰るところがあるのではなかったか!」
そう言うのが精いっぱいだった。
今の状況がこの少女にわからないとも思えない。
それでも逃げうとは言えなかった。かといって以前のように傍にいてくれとも言えなかった。
はじめて会った時から二か月も経っていないというのに、最後まで共に戦ってもらいたいと、そんな贅沢な望みを口にすることはできなかったのである。
少女はちらりと男を見て言い返した。
「誓いを果たせずには帰れないな!」
お前の気にすることではない。男の耳にはそう聞こえた。
前線に出た二人は必死に守りを固めている敵陣に力で斬りこんだ。いっこうに勢いの衰えない国王軍に対し、政府軍の兵士たちも震えおののいているのが感じられる。しかし、数の優勢は圧倒的だ。いずれ背後から味方のタングレー勢が国王軍を切り崩すはずと信じて、頑強に守りを固めている。
「一兵も通すな! 矢盾で防御しろ!」
「弓だ! 弓を使え! あれが国王だぞ!」
「射落とせ!」
政府軍の騎兵隊が槍を捨て、弓騎兵に早変わりした。接近戦の同士討ちを嫌い、馬足の速さと高さを活かして距離をとりにかかった。
射線がとれるだけの距離を与えては矢の雨が降ってくる。国王軍の勇士たちはなんとか距離を詰めようとしたが、さすがにここが正念場とあって敵もふんばり、こちらを寄せつけない。
イヴンが蒼くなって駆けつけて来た。つねに傍を離れないタウの男たちも一緒だった。
「やばいぜ! 殿が限界だ!」
いよいよ後方のタングレー勢が距離を詰めて来たらしい。これで後退もできなくなった。
男は低く稔った。
正面には弓騎兵隊が構えを整えてこちらに矢を向けている。後方からは敵軍の雄叫びが近づいて来る。
ここまでかと覚悟した。
その時である。国王軍に向かって弓を引こうとした騎兵が急に体勢を崩して落馬したのだ。
しかもそれは一人にとどまらなかった。政府軍の弓騎兵は次から次へと悲鳴をあげて馬から転がり落ちた。
「何事だ!?」
弓矢である。
どこからか飛んで来た矢が正確に彼らを狙って倒したのだ。
「国王軍の加勢か!」
「どこから狙った!?」
政府軍は大騒ぎになった。
国王軍も意外な援護に驚いていた。そもそも救援者の姿が見えない。どこから矢を射たのかさえわからない。
「上だ!!」
少女が叫んだ。
彼らの左手に高々とそびえるパキラ山、その山腹から続々と駆け降りて来る軍勢がある。
難攻不落のパキラ山にもわずかに越えられる峠がある。少女たちがフェルナン伯爵を救出に向かう時に越えた道だ。難所のはずのその道に、今、数百人、数千人とも見える軍勢が姿を現し、楽々と駆け降りて来る。
イヴンの横にいたブランが叫んだ。
「副頭目! あれを!」
軍勢の途中に旗が見える。左右は赤、上下は緑、その二色で斜めに十字を描いた旗が大きく翻っている。
タウの男たちはいっせいに叫んだ。
「自由の旗だ!!」
パキラを越えて現れた援軍は見る間に坂を駆け降りて、国王軍の後方を攻めていたタングレー勢に襲いかかった。
横手からの急襲に五千の数を誇るタングレー勢も大きく浮き足立った。相手の正体がわからない不安もあった。九割がたの勝利を前にしていた指揮官は歯ぎしりしながら叫んだのである。
「どこの手勢だ!?」
ほぼ全員が騎馬だが装備は皆ばらばらである。
馬にも何の飾りもつけていない。見たこともない旗が翻っているだけで家名を示す紋章もつけていない。
だが、この軍勢はおそろしく強力だった。
五千の軍勢の横腹に食らいつくような勢いで体当たりをかけ、峻烈とさえ言える戦いぶりで押しはじめた。相手をものともせず、人を人とも思わぬ様子で蹴散らしていくその勇猛さに、苦戦を強いられていた国王軍は思わず稔った。
「陛下! あれはいったいどこの手のものです!?」
殿に詰めていたアヌア侯爵、ヘンドリック伯爵が駆けつけて来て尋ねたが、男は答える代わりに鋭く指示を出した。
「うろたえるな! 今こそ好機だ! 全力でコーラルへの突破口を開け!!」
「はっ!!」
確かにそのとおりだ。見とれている場合ではないのである。
背後の心配のなくなった将軍たちはコーラル方面を切り崩すことに全力を注ぎに行ったが、男はその場にとどまった。
少女とブラン、サルジとダリがそこにいた。
国王も男たちも馬を下りて、突然の援軍から何か言ってくるのを待った。少女は不思議そうにそれを見やっていたが、彼らに倣って馬を下りた。
謎の軍勢から数騎が離れて、国王軍の陣地をまっすぐ横切ってやって来る。
その中の一人の顔を認め、男は破顔して言った。
「マイキーか!」
相手は頷いてみせた。ロシェの街道で別れたタウの山賊、彼ら流に言えば自由民のアサンのマイキーである。
タウの男たちはさぞかし歓喜の声をあげて仲間を出迎えるかと思われたが、そうはならなかった。
マイキーの横にいる騎乗の男をひたすらぽかんと見つめていたのである。
「そんな……」
「ベノアのお頭!」
「ジル頭目!」
一目で謎の軍勢の指揮官だろうとわかる男は、彼らを見てにこりと笑ってみせた。
「ブラン。あれはどうした?」
「ち、ちょっと待ってください。副頭目、副頭目! ジル頭目のお出ましですぜ!」
これを聞きつけたイヴンが駆けつけて、彼らと同じように目を見張ったのである。
「ジル! あんたこんなとこで何してるんだ!?」
「何をしているとはご挨拶だ。一口乗せてもらいに来たのさ」
「何だって?」
「イヴン。お前の国王はどこにいる?」
「これがそうだ」
「おお。こちらか。それは失礼をした」
上から下まで真っ黒になっている男にそれと気づかなかったらしい。馬上のままではあったが丁重に頭を下げてみせた。
「お初にお目にかかります。タウの自由民を代表して参上つかまつりました。ベノアのジルでございます」
ベノアの頭目はタウの頭目の中でも屈指の実力者だというが、なるほどと頷けた。男は頭目というものに長老の意味合いを予想していたが、意外なほど若い。四十そこそこに見える。細い|鋼《はがね》のように引きしまった長身からは威圧感さえ受けるし、細面ながらも彫りの深い精悍な顔立ち、知性を秘めた鋭い眼はとうてい並の山賊に持ち得るものではなかった。
男に対する口のきき方も丁重ではあるが畏敬の響きはない。一応の挨拶をしているにすぎないのだとすぐわかる。
だが、男はその相手に対して丁寧に礼を述べた。
「ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンだ。危ういところを救っていただいて感謝する」
「恐れ入ります」
「しかし何故、タウの自由民が俺の危機を救ってくれたのか、いまひとつ理解に苦しむところだ。あなた方はどこの国家とも特別な関わりを持たず、自分たちの自治を貫いていると聞いたが」
ジルは頷いた。
「仰せのとおりです。実を申しますとこうしてご助勢することが陛下のおためになるのかどうか、私どもにはわかりません。他の二大国が陛下と私どもとの間に密約でもできたのかと勘ぐることは必至ですからな。しかし、陛下は我々に対し、寛大なるご理解を示してくださいました。まずはそのご恩返しにと参上した次第であります」
聞いていたイヴンが何とも複雑な顔になった。
副官のそんな様子を知らぬふりでジルはさらに言う。
「さらに、もしも陛下が兵隊をご入り用だとおっしゃるのならばタウの自由民三千名、今すぐお貸し申し上げます。むろん、無料でというわけには参りませんが、腕前のほどはご覧になったとおりでございます」
男は目を見張り、ついで大きく笑った。
「俺にあなた方を|傭《よう》|兵《へい》として使えと言われる?」
ジルも形のいい口髭を吊り上げてちょっと笑った。
「押し売りはいたしません。なにしろ我らは悪名高きタウの山賊です。先も申しましたとおり、タンガ・パラストの両大国が難癖をつけてくるやもしれません。不要とおっしゃるならすぐさまタウへ帰ります」
「使わせていただこう」
今度はジルが目を見張った。
男はまだ口元に笑みを浮かべている。
「ただ、今の俺にはあなた方に支払う報酬は用意できない。後払いになってもかまわないなら、一人につき砂金一袋をお支払いしよう。いかがだ?」
ベノアのジルは馬上でしばし絶句していたが、不敵に笑って頷いた。
「結構でございます」
「それから、あの旗はあなた方の目印か?」
「はい。タウに住むものすべてがよりどころとして
いるものです。タウの緑と我々の血の色を表した自由の旗です」
「では、俺が王座を奪還した暁にはあの旗を王旗と共に掲げることにしよう」
馬の足を返そうとしていたジルが驚いたように、またおもしろそうに振り返った。
「山賊の象徴を王旗と共に並べて掲げるとおっしゃる?」
「国を救ってくれた英雄たちの旗だ」
男と話している間中、顔は笑っていても眼は笑わなかったジルだが、はじめて眼の色がなごんだ。
「では、ご奉公はじめにまずはあの敵を追い払って参ります。我々の指揮官を連れていってもよろしいですかな」
「指揮官はあなたではないのか?」
「いいえ、ここにおります」
視線を向けられたイヴンは驚いて言ったものだ。
「ジル! 何を言うんだ?」
「俺たちはそのつもりで来たんだ。お前が国王の親衛隊長とやらにおさまったと聞いて、これはいい儲け話になるかもしれないとピンときたのさ。しかし、砂金一袋とは驚いた。マイキーの言うとおり物好きな王様だ」
ジルははじめて豪快に笑ったものだ。
「さあ、さっさと馬にまたがって来い。俺たちは今からお前の配下だ。指示を出さんと手加減を知らん連中だからな。何をどうするかわからんぞ」
あっけにとられているイヴンを尻目にジルは馬に鞭を当て、タングレー勢を追いまくっている仲間のところへ戻って行った。
残ったマイキーが馬上から声をかけてくる。
「イヴン。頭目は間違いなく本気だ。二十人の頭目たちが話しあって決めたことなんだ」
「俺には冗談にしか聞こえねえぞ。タウの自由民が傭兵稼業に手を出すってのかη」
「たまにはいいだろうってことになった」
イヴンは頭を抱えこみ、その横で男がわざとらしく言ったものである。
「そういう連中に物好き呼ばわりされる覚えはないのだがな」
「言うな! よけい頭がおかしくなる! ええい、ちくしょう! 行くそ、野郎ども!」
「へいっ!」
すでに七人集まってうずうずしながら事の成り行きを窺っていたタウの男たちは、イヴンと共に弦を放たれた矢のように飛び出していった。
懐かしい顔ぶれを前にして疲れもどこかへ吹き飛んだらしい。
数の上ではタングレー勢が優位にあるが、奇襲をくらった上に山賊稼業で鍛えあげた速攻と鉄の結束力で向かって来るタウの自由民を相手にしては、どうにも分が悪かった。
山賊流の戦法ではいちいち名乗りをあげるようなことはしない。一撃必殺の勢いで猛然と突き進む。勝ってあたり前の戦いをしていたタングレー勢とは気魄が違う。
勝負にならないと見た兵士たちが真っ先に混乱し、浮き足立った。指揮官や武将たちはさかんに声をあげ、陣営を駆けめぐり、味方の混乱を鎮めようとしたがタウ勢の攻撃があまりに速く鋭く、とても追いつかない。混乱はますます大きくなり、一丸となっていた軍勢は四分五裂し、ついには潰走をはじめたのである。
コーラルへの街道を塞いでいた政府軍はこれを見て完全に戦意を喪失、どっと崩れ落ちた。
やがてマレバからラモナ騎士団、さらにティレドン騎士団が駆けつけてきた時には、二千の国王軍は八千の敵勢を見事に撃退し、タウの自由民と共に勝ち閧をあげていた。
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駆けつけて来たティレドン騎士団の勇士たちは、団長バルロが国王に帰順したと聞いて安堵の息を吐き、ラモナ騎士団の友人たちと肩を抱きあって喜んだ。その中にはむろんガレンスとアスティンの姿もあった。
各地へ散らされていた近衛兵団もアヌア侯爵の呼びかけのもと、続々と国王のもとに集結し、国王は早速、第一、第三、第四軍団をコーラル城へ向かわせて様子を探らせたのである。
城から出た兵士たちはあくまで国王を敵とする姿勢を崩していなかったが、そういう勢力は城内では少数派になりつつあるようだ。
タングレー勢は侯爵の直々の手勢であったから、あくまで主人に仕える立場をとったのだろうが、ペールゼン侯爵が何か失態を演じたらしいということは誰にでもわかる。もともと改革派を快く思っていなかった勢力はそれっとばかりに国王軍に飛びついたのだ。
三の郭に勤務する兵士たちは歓喜して近衛兵団を迎え、国王軍に五つの門をすべて明け渡した。しかし、二の郭では国王軍に廓門を明け渡すか渡さないかで兵士たちの間に激しい議論が起きた。
この階層にも改革派に不満を持つものは大勢いる。同様に改革派を支持する大貴族に仕えている兵士もいる。全域で口論や掴みあいの喧嘩になったらしい。
斥候は駆け戻って来てその様子を詳しく話した。
「なにしろ廓門を固く閉ざしたままですのではっきりとはわからないのですが、城内の混乱は相当なものです。三の郭に詰めていた兵士たちもしきりと二の郭に降伏するよう訴えておりますし、陛下がここまでお出ましになったことも聞こえているはずですから、陛下を支持する兵士たちが|大《たい》|勢《せい》を占めるのも時間の問題ではないかと思われます」
「うむ。廓門が開いたらすぐさま兵を進めるように軍団長に伝えろ」
今、国王軍はコーラルの城下にまで迫っている。
市の有力者たちは歓喜して国王を迎え、こぞって自分たちの館を国王軍の宿舎に提供し、市民たちは帰ってきた国王を一目見ようとする騒ぎになった。
国王軍の勇士たちも今すぐにでも城攻めにかかろうという意欲満々だったが、男は廓門が中から開くのを待つつもりだった。
相手は難攻不落のコーラル城だ。こじ開けるのは容易ではない。まして今後のことを考えると城を破壊するのは決して得策とは言えないのである。
この間に国王軍の勇士たちとタウの山賊の初顔合わせが行われ、将軍たちの驚く一幕もあった。
大華三国からも腫れ物扱いの連中である。ジルが自分で言ったように他の二大国の反応を心配する声もあったが、国王はそんなことは政権を取り戻してから心配すればいいと言ってとりあわなかった。
避難させておいたカリンとブルクスを市民から提供された屋敷のひとつに収容し、国王軍の主だった顔ぶれはあらためてカリンのまわりに集まったのである。
今度の大逆転はひとえにカリンの功績と言っていい。ペールゼンを失脚させただけではない。国王の子殺しという犯罪歴があることまで暴くことができたのだ。
カリンは昼の戦闘の疲れが出たのか、長い間の尋問の疲れが出たのか、今は床についていた。
「あなたには感謝の言葉もない」
と、男は言った。
看病をしていたブルクスも頷いた。
「まさに。女官長には私もすっかり騙されました。
ご子息のことはお気の毒でしたが、結果的にはそのご子息が陛下をお守りしたようなものです。たいへんなお手柄です」
「侍従長……」
横たわったままのカリンが静かに言った。
「私は、それを言われるのがいやで、息子のことを黙っておりました」
ブルクスが思わず口をつぐむ。
勝利の喜びに沸き返っていた他の顔ぶれもまた、思わず目を伏せた。
「陛下は……、ドゥルーワ陛下は、そのことで私を憐れみ、宮内で抜擢されるようにはからってくださいました。ウォルさまのお命を救うことができたのですもの。あの子の死は決して無駄ではありません。ですが……人がこれを聞いたら何と言うでしょう。自分の子どもを出世の道具に使ったと言うに違いないのです」
「……」
「ポーラさまにとってウォルさまが宝であったように、私にはユベールが宝でした」
カリンの頬に一筋に涙が伝った。
男はカリンの枕元で力強く言ったのである。
「女官長。ご子息の|敵《かたき》は必ずとる。あなたはもう充分戦った。あとはゆっくり休むことだ」
カリンはかすかに笑って男を見上げた。
「陛下。ドゥルーワ陛下は一度、あなた様に会いにスーシャへ出向かれたことがあるのです」
男は驚いた。まったく覚えがなかった。
「いつのことです?」
「あなた様が十五歳の春のことです。国王としてではなくお忍び姿で、旅行中の貴族を装われて。陛下はその後、あのこ遺書をしたためられました」
遠方の地方貴族の息子だったウォルは一度も国王に拝謁したことがない。実の父は顔も見ないままに死んだと思っていたが、父のほうは密かに息子に会いに来ていたのだ。
カリンは大きく息を吐いた。
「陛下はあなた様をご覧になって、それは喜んでいらっしゃいました。そして、よくぞここまで立派に育ててくれたとフェルナン伯爵さまを褒めていらっしゃいました。北の塔に投獄された伯爵さまには本当に申し訳ないことをしてしまいましたが、これでようやくあの方の名誉も回復されます。誰もがあの方を一番の功労者として称えるでしょう」
男は一瞬、言葉に詰まった。
ドラ将軍は何とも言えない顔になり、シャーミアンは思わず手で口元を隠した。
ナシアスとバルロは互いの顔を見合わせ、アヌア侯爵とヘンドリック伯爵も何と言っていいかわからない。少女は黙ってカリンの顔を見つめている。
重い沈黙にカリンの顔がみるみる蒼ざめた。
「まさか……フェルナン伯爵さまは……まさか」
「女官長」
男は女官長の枕元にかがんで言った。
「今は体を治すことに専念なさい。あなたの戦いは終わった。これからは我らの出番だ」
「わ、私のせいです!」
カリンは聞いてはいなかった。血の気の引いた唇を震わせて叫んだ。
「私が息子の敵を討ちたい一心で口をつぐんでいたせいで……。ポーラさまも私が殺したようなものだというのにフェルナン伯爵さままで……! な、なのに私は一人のうのうと生き永らえて……」
「女官長!」
男はきっぱりと言った。
「あなたは俺を王だと言った。そうだな」
「は、はい……」
「ならば王の命令だ。無駄に嘆くことも自分を卑下することも許さん。ましてや自害などもってのほかだ。断じて許さんぞ」
「陛下……」
「女官長にはまだまだ働いてもらわなければならんのだ。あなたがいなければ俺は宮内のことはさっぱりだからな」
男は微笑してカリンの肩に触れた。
「ペールゼンを倒してもそれが終わりではないそ。
そこがはじまりだ。俺ではユベールの代わりにはならないかもしれんが、あなたの役目はこれからだ」
「そうだとも。女官長」
ドラ将軍も力強く頷いた。
「悪漢に占拠されていた白亜宮が解放されるのも時間の問題なのだぞ。そんな気の弱いことを言っている場合ではないわ」
「おお、まったくだ」
病人の枕元であることも忘れてそんなことを勇ましく話していると、城からふたたび使者が駆けつけて来た。
たった今、廓門が解放されたという報告だった。
国王軍は早速本拠を二の郭に移し、城内を制圧しにかかったが、抵抗らしい抵抗をするものはほとんどいなかった。それどころか二の郭に取り残されていた貴族たちは両手をあげて国王軍を迎えたものである。
その中にはペールゼン侯爵から用ずみと判断されて閉門させられていたタミュー男爵親子もいた。
父親の男爵は男の足下にひれ伏さんばかりにして礼を言い、息子のチフォンは頭を下げながら何とも複雑な顔で男の横にいるシャーミアンを見たものだ。
貴族の中には国王に対して不満を持つものもまだいたのだろうが、アヌア侯爵をはじめとして国内でも名だたる顔ぶれが国王を支援しているとあっては、これ以上反抗するのは得策ではないと判断したらしい。
国王軍は瞬く間に二の郭を掌握したが、そこで行き詰まってしまった。
というのもペールゼン侯爵は降伏勧告を無視して一の郭にたて籠り、あくまで抗戦の構えを見せたのである。
一の郭を守る第一城壁はそれ自体が巨大な要塞と言っていい。
たっぷりと幅をとった分厚い隔壁の内部は兵隊が自在に移動できるように通路を設けてある。
隔壁の外には|矢《や》|狭《ざ》|間《ま》や投石窓が隙間なくつくられ、均等の間隔で攻撃塔をも備えている。今、その攻撃塔にも矢狭間にも兵隊の姿が見える。
ペールゼンはよほど念入りに一の郭の兵士たちを監督したらしく、ここまで追いこまれながらも彼らは戦闘意欲を失っていない。下手に近寄れば矢の雨が降ってくる。
国王軍は一日中、一の郭の兵士たちに降伏を呼びかけた。しかし、アヌア侯爵、サヴォア公爵バルロといった面々に懇々と言い聞かされても彼らは態度を翻さない。
「敵ながらあっぱれと言わざるを得ませんな」
その強固な結束とペールゼン侯爵に対する忠誠心には、人を監督することでは誰にも負けないアヌア侯爵までが舌を巻いた。
「感心している場合ですか、アヌア侯。タングレー勢がいつ巻き返しを図ってくるかわからないのですぞ」
苛立たしげにバルロが言い、ナシアスも重苦しい顔で言う。
「タングレーだけですめばいいが……」
アヌア侯爵も頷いた。
「私もそれを心配している。ペールゼン侯爵は自分の領地だけでなく、各地の大領主と綿密な関係を結んでいたはずだ」
「その筆頭が俺の同族でしょう」
バルロは廓門の一件を思い出して歯ぎしりしている。
「母か大叔父か、それとも従兄の誰かがあくまで俺を王座に座らせようとたくらんでいる。馬鹿め! 誰が言いなりになるものか!」
「いや、その心配はとりあえずなくなったと思ってかまいません。|大《たい》|勢《せい》ははっきり陛下に優位に動いておりますし、そうなればサヴォア家ほどの大貴族が反逆者の汚名を好んで被るとは思えませんから」
と、ブルクスが言った。
こんな議論をしている場合ではないのだが、そのくらい彼らは決定的な決め手に欠けていた。
第一城壁にはびっしりと兵隊が張りつき、近寄る隙を与えない。一の郭の食料庫には二年や三年は楽に籠城できるだけの備蓄がある。武器に至っては言うに及ばずだ。
そのころの国王は矢の射程距離を避けて、固く閉ざされた正門を見上げていた。
横につき添っていたイヴンが抑揚のない声で言う。
「意外と、しぶといな」
「うむ」
「この門、どうにかならねえのか」
「外からこじ開けるのは無理だな。この外門を破ったところで、間には鋼鉄の落とし格子がある。ここ数十年、一度も落としたことはないそうだが、今は間違いなく落とされているはずだ」
「門がだめなら他はどうなんだ。あの嬢ちゃんはこの壁を一度は越えたんだろ」
男は首を振った。
「今となっては無理だろう。油断していたあの時とは違う。この城壁の中は兵隊でびっしりだ。いくらあの娘でも一人ではどうにもならん」
黒衣の親衛隊長はいまいましげにため息をついて、短い頭髪をかきあげた。
「厄介なものをつくってくれるぜ」
「ここはもともと難攻不落と言われた戦闘用の名城だぞ。美しい姿を誇ってはいるがな」
「やっぱり、裏からまわるしかねえってことか」
何げなく眩いたイヴンに男は訝しげに振り返った。
「イヴン?」
「ウォル。覚悟しとけよ。無事に王様に返り咲いたとしてもお前、あの嬢ちゃんに一生かかっても返しきれないくらいの借りができるぜ」
「何を……」
「パキラを越えればいいとあっさり言いやがった。今、下見に行ってるよ」
男は目を見張って、本宮の背後に欝蒼と茂っているパキラ山の姿を見上げたものだ。
「峠を越えるのとはわけが違うのだぞ。本宮の背後は猟師たちにも立ち入りを禁止してある!」
「だからまったくの原生林で道らしい道なんかひとつもない。しかも傾斜はおそろしく急で足元もおぼつかない。軍勢を通すことなんかできるわけがない。そうだろ?」
おさらいをするようにイヴンは言い、不敵に笑ってみせた。
「タウの自由民を甘く見るな。ジルがあいつと一緒に行ってる。通れるかどうかそれで見極めがつく」
「しかし、通れたところで……」
男が言いかけたそばからベノアのジルがやって来た。
衣服のあちこちに小枝や草の切れ端をつけ、汗をかいている。イヴンが真っ先に問いかけた。
「どうだった?」
「厳しいな。タウに比べれば小山のようなものだが、いかんせん足場が悪すぎる」
「タウの自由民でもパキラには歯が立たないか」
イヴンの言葉にジルは低く笑ってみせた。
「そうは言っていない。こちらの陛下がお一人で越えた山だからな。本職の俺たちがあっさり|音《ね》をあげるわけにはいかん」
「しかしだ、ジルどの。俺は確かにあの山を越えることは越えたが、それだけで精いっぱいだった。後には戦う力などかけらも残っていなかったぞ」
男が言い、ジルも頷いた。
「でしょうな。あの山を全力で走破したのでは無理もありません。我々でもそうなります」
しかし、今度の場合は戦う余力を残していなければ話にならない。
なんとか本宮に下りられても、疲労|困《こん》|憊《ぱい》して剣を揮うこともできない状態では意味がないのだ。
「リィはどうしたんだ? 一緒じゃなかったのか」
イヴンの問いかけに、ベノアの頭目の端正な顔が微妙に揺らいだ。
タウの実力者には似合わないことだが、わずかな狼狽と、それ以上にわずかだが畏怖に似たものが|面《おもて》をよぎったのである。
「陛下にお尋ねしますが、あのお嬢さんはいったい何者です?」
「あれはバルドウの娘であり、勝利の女神であり、俺をここまで導いてくれた者だ」
ジルの目がちょっと丸くなる。
イヴンが軽く肩をすくめ、ジルに向かって笑ってみせた。
「あいつ、また何かしでかしたかい?」
「狼と話をしている」
二人は目を見張り、顔を見合わせた。
禁猟区のパキラは獣の姿が多いことも、渡れない理由のひとつになっている。だが、リィはその獣たちに道を尋ねていると言う。
「お嬢さんの体より一まわりもでかいのまでいたがな。びくともしない。地元の猟師たちでも詳しくは知らないパキラも彼らならよく知っていると言うのさ。そりゃ確かにそのとおりなんだがな」
ジルは肩をすくめてみせた。
「俺たちでもあんな真似はできん。人間には決してできんのじゃないか」
三人は黙ってパキラを見上げた。巨大な夕日がその向こう側に隠れようとしている。
そのパキラに抱きすくめられるようにしてコーラル城の本宮の白い姿がある。
「陛下!」
二の郭の下のほうからタルボの大声がした。
「バルドウの娘が戻って来ました!」
「すぐ行く!」
応えて足を戻しかけた国王は振り返って本宮の姿を眺めた。
二の郭までは取り戻した。あとはこの本宮だけだ。
そしてこの中にはペールゼンとジェナー祭司長がいる。
必ずそこへ行ってみせる。
決意もあらたにイヴンたちの後を追った。
少女は一日中パキラ山の中を歩きまわっていたらしい。体中に草の実や小枝を引っかけて戻って来た。
地図らしい地図は王宮にもないパキラ山だが、国王軍の顔ぶれを前に、簡単な道筋を描いてみせる。
「一日かければ、ここからこう通って本宮の後ろに出られる。もちろん、ちゃんとした道じゃない。普通の人ならとても通れないけど、タウの人たちなら何とかなるよ。それに……」
地図に描いた本宮の後ろを指さして、
「ここに、今は使われていないらしい建物があった。
本宮からはかなり遠いけど、そこからはいちおう、足元がならしてある。突入するのにはちょうどいい」
ヘンドリック伯爵が目を見張った。
「おぬし、まさかパキラを登って西離宮までたどり着いたのか!?」
「西離宮っていうの? 一階建ての、白い、屋根の平たい建物だけど」
集まっていた国王軍の主要な顔ぶれが一様にどよめいた。
「間違いない。何代か前の国王が避暑のためにつくらせた離宮だ。お前、もう一度そこまで行けるのだな?」
国王が念を入れる。
「あたり前だ。ぼくが案内するから、だいたい十人くらい一緒に来てほしいんだ。なんとかして中から正門を開ける」
「あっさり言ってくれるぜ」
三千人の指揮官を押しつけられたイヴンが思わず稔った。
「いいか。西離宮はここ、正門はここだぞ。たっぷり一カーティヴ近くある。間は兵隊がこちゃまんだ。
そんな中をたった十人ぽっちでどうやって突破して正門までたどり着こうってんだ?」
「ぼくらは見つからないようにこっそり入るんだよ。
そのあと三千人のタウの人たちがわざと威勢よく突入する。そうすれば兵隊の注意は全部パキラへ向くだろ」
ジルがげっそりした顔で苦笑してみせた。
例によってとんでもないことを言う娘だと思ったのだろう。
「その隙にお前を含めた十人で正門を開けようってんだな?」
「うん」
ドラ将軍が口をはさんだ。
「だが、小戦士。簡単に言うが、あの正門は内門と外門の間に鋼鉄の格子が落とされているのだぞ」
「じゃあ中から開ける時は、内門を開けて格子を巻き上げて、外門?」
「いや、巻き上げ機は門の両横の塔にあって同時に操作するようになっている。先に格子を巻き上げて内門を開けて外門だ。しかし……」
将軍は難しい顔で考えこんでいる。
「あの巻き上げ機は、大の男が五人ずつ同時に取りかかってやっと動かせるという代物だ。内門、外門にしても頑丈な落とし金が通してある。これも大の男がせめて二人がかりでなくては動くまい」
アヌア侯爵も端正な顔を難しくして言った。
「お嬢さん。リィといったね。悪い考えではないが、十人では苦しいのではないか。せめてもう十人連れていっては?」
「あまり大勢だと見つかっちゃうんだよ」
十三歳の少女を中心に国王軍は作戦会議の真っ最中である。
おおよその顔ぶれは真剣に少女の話を聞いていたが、バルロはまだ苦虫を噛み潰したような顔だった。
「パキラを越える道が明らかになったのなら、そこから一軍を突入させればいいだけのことではありませんか。何もこんな娘や山賊の力を借りることもありますまい」
これにはイヴンが白い目を向けた。
「おっしゃいますが騎士団長どの。リィの言うとおり道とも言えない道ですぜ。鎧兜に身を固めた騎士さんたちじゃあ、本宮へ下りる前にへばって馬ごとつぶれちまうのは間違いなしです」
バルロの顔にたちまち剣呑な笑いが浮かぶ。
「山賊ふぜいが我々を侮辱する気か」
「ほんとのことを言っただけですがね」
「おもしろい。貴様がどれほどのものか見せてもらおうか」
「やりますかい?」
今は帯刀しているバルロがすかさず腰に手をやり、イヴンも碧い眼を物騒に光らせる。
「よさんか、二人とも」
国王が仲裁に入り、二人は揃って振り返った。
「ですが、こいつが!」
見事な合唱である。
「よせと言うのだ。つまらんことでもめている場合ではない。イヴンも口がすぎるが従弟どのの提案も無理がある。パキラの道案内はリィでなければ不可能だし、山中を密かに越えるのにタウの自由民以上の適任者はおらん」
バルロはまだおもしろくなさそうな顔である。
「しかし、新参にしてはこの連中は態度がすぎます。|従兄《あに》|上《うえ》に対して無礼にもなれなれしげに……」
ここでリィがのんびりと口をはさんだ。
「ぼくは、そっちのほうがよっぽど態度が大きいと思うけどな」
「なんだと?」
少女はいたずらっぼく、歌うように言った。
「だって、ティレドン騎士団長のバルロちゃんは、いったい誰のおかげで、友達殺しにも|従兄《いとこ》殺しにもならずにすんだのかな?」
バルロは一瞬絶句した。
ついでみるみるうちに血が上り、首まで真っ赤になった。何か言い返そうにも言葉にならない。
ナシアスと国王が同時に吹き出し、爆笑した。
他の顔ぶれも同様である。ヘンドリック伯爵やドラ将軍は腹を抱えて豪快に笑い、アヌア侯爵にシャーミアンまでが笑いを噛み殺している。
「これは、一本取られたな。バルロどの」
「リィ。君はまったく……たいしたお嬢さんだ」
「ヘンドリック伯! ナシアス!」
バルロは真っ赤な顔のまま叫んだが、国王がまだ笑いながら言った。
「従弟どの。ここはあきらめなさい。どう考えてもリィの言い分が正しい」
「は……その……|従兄《あに》上がそうおっしゃるなら」
歯ぎしりしながらもいちおうは引き下がったバルロである。
「リィ。話の続きだ。パキラからの攻撃に合わせて外からも第一城壁の端を攻撃しよう。それで中の兵力はパキラ方面と城壁の端へと二分されるはずだ」
「うん」
「いつやる?」
「明日、空の具合を見て決める。月が隠れてくれないと厳しいからね」
「うむ。早ければ明日の夜だな」
「ウオル」
少女は念を押すように言った。
「今度はだめだよ。ウォルは残るんだ」
男は何か言い返そうとしたが、少女はその先を言わせなかった。
「一の郭をできるだけ派手に外から攻撃して。王様がいれば中の兵士もこっちが本命だと思うよ」
「リィ、しかし……」
「王様がお城へ戻るんだ。正面玄関から入らなきゃさまにならないだろ」
少女はにこりと笑って言った。
「正門は必ず開ける。だから、外で待ってて」
男はしばらく黙って少女の顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「わかった。お前でなければできん仕事だ。任せよう」
「大丈夫。イヴンたちが一緒だ」
「えらいことになったぜ。まったく」
そう言いながらもイヴンは楽しそうである。
早速、三千のタウ勢はいつでも出発できるようにパキラのふもとへ移動し、国王軍は総攻撃の準備に
入ったのである。
翌日は朝から重い雲が空を覆い隠していた。
少女の姿はパキラ山に消え、国王軍は息を潜めて夜を待った。
夜になっても分厚い雲が空を覆っていた。
二の郭に残った国王軍は、緊張の面もちでパキラ山を見上げていた。
すでに兵力を二手に分けてそれぞれ城壁の端に配置してある。一の郭内で騒ぎが起きたら、合わせていっせいに城壁を攻撃する手筈になっているのだが、今のところ何の変化もない。
「将軍さま……」
タルボが不安げに主人に問いかけた。
髭の将軍は固く口元を引き結んでいる。
「焦るな。焦ったところでどうにもならん。今の我らにできることは待つことだけだ」
シャーミアンが固く頷いた。
「彼女は今まで、やると言ったことは必ず成し遂げてきました。今度もきっと陛下を正門から迎え入れてくれるに違いありません」
ときおり、城壁の上からこちらに向かって矢が飛んでくる。一斉攻撃の構えを見せている国王軍を警戒しているのだ。
国王軍もさかんに閧の声をあげ、矢を射かけて兵隊の注意を引きつけた。
二の郭に兵士たちの注意が向くほど、パキラからの潜入隊は仕事がしやすくなる。
そのころ、タウ勢はすでに、まる一日をかけてパキラを越え、西離宮の陰に隠れるようにして真下に本宮を眺めていた。
少女はできるだけ歩きやすいところを選んで男たちを案内したのだが、まるっきり手つかずの山肌と崖にも等しい急斜面である。
山賊の彼らでもこんな場所を通ったりはしない。
途中でイヴンが、こういうのは道とは言わないとぼやいたくらいである。
昼ごろに一度、夕刻に一度兵糧を使い、太陽が隠れるのを待って三千の軍勢は密かに西離宮へと集結した。今は使われていないとはいえ、国王の別邸である西離宮は当然整地が施されている。軍勢を並べるのには絶好の場所だった。
明かりを使うわけにはいかないので、ここまで下りるのがまた一苦労だった。幾人かが足を踏みはずして転がり落ちたが、彼らも山を渡るのが商売だ。どうにか全員が西離宮へたどり着き、息を整え、ジルを指揮官とする突撃隊はいつでも行動を開始できるように配置についた。
ベノアの頭目は眼下に広がる本宮をつくづく惜しそうに眺めたものである。
「もったいない。ありゃあ、お宝の山だぞ」
「ジル」
イヴンがたしなめた。
「あんたが何をばかなことを言ってるんだ。ここで本業に手を出したら俺たちは終わりだぞ」
「冗談だ。撹乱のために多少は火を使うがな。建物には決して手を出すなと皆にも厳しく言ってある」
そこへ少女がやって来た。
「イヴン。用意はいい?」
「ああ、今行く。じゃあ、よろしく頼むぜ」
少女もジルに向かって念を入れた。
「ぼくらが正門に着くころに突撃して。できるだけ派手にやってね」
「任せておけ。お嬢さんたちもしっかりな」
少女と一緒に行くのは気心も知れている国王親衛隊の面々である。なにより彼らはこの少女の力を今までいやというほど見てきている。
今度も彼らの小さな勝利の女神を信じて、広大な一の郭に密かに滑り出した。
一の郭内で騒ぎが起きたのは深夜をまわろうとするころだった。
国王軍も第一城壁の兵士たちも小競り合いに飽きた形で手を休めていたが、そんな怠惰な気配を吹き飛ばすかのような大騒ぎが本宮の背後で起きた。
突如、数百以上の軍勢がパキラに現れ、手に手に篝火を持ち、閧の声をあげながら、雪崩のような勢いで駆け降りてきたのである。
本宮の警護についていた兵士たちが仰天したのは言うまでもない。
「敵襲だ!!」
「国王軍か!?」
「応援を呼べ! パキラから敵が現れたぞ!!」
「篝火を焚け! 明かりをもっと!」
籠城している兵士たちのほとんどが城壁についていたものだから、一の郭は上を下への大騒ぎになった。国王軍が待ちに待っていた展開だった。
「この機を逃すな!」
雄叫びをあげ、盛大に|鑼《どら》や鉦を鳴らしながら、城壁の両端に猛烈な攻撃をかけはじめた。
内部の混乱はますますひどくなった。
後ろも気になる。かといって正面の両脇からの攻撃も一層激しさを増している。広い郭内が災いして、指揮系統が乱れているのが外にいても手に取るようにわかった。
国王は数百の精鋭を率いて正門の前に陣取っていた。
城壁を果敢に攻めている両部隊はさかんに国王のもとに注進を出していた。少し回数が多いのではないかと思われるくらいだった。国王は微動だにせず、落ちついて采配を揮っていたが、目は正門を凝視したままだった。
あの少女は必ず正門を開けると言った。外で待っていうとも言った。すでに今日一日を気の遠くなるような思いで待ち続けている。
「リィ……」
男は掌の中の汗を固く握りしめた。
そのころの少女たちは国王のいるところから目と鼻の先にいた。正門を間近に見られる茂みの陰に身を潜め、まさに襲いかかろうとするところだった。
城壁の両端と背後で大騒ぎが起きたので、だいぶ警戒が薄くなっていたが、まるっきりの無人ではない。十人ほど残っていた。
「ご丁寧なことだぜ」
イヴンが小さく舌打ちを洩らした。
あの兵隊を片づけないと、巻き上げ機を動かしている背中をばっさりやられてしまう。
大人の身長の三倍はある内門には、なるほど重そうな落とし金が上下二か所にわたって掛けられている。
「リィ。どうする?」
「ぐずぐずできない。行こう」
「両方から操作しなきゃ格子は開かないんだぞ」
「一人が一人を斬り倒せばいい。おれが二人やる」
あっさりと言う。
「イヴンとダリ、アザレイはおれと一緒に左の塔へ入れ。残りの五人は右の塔だ」
言うが早いか少女は飛び出した。
すかさず男たちも後を追った。
彼らの腕だ。兵士十人を斬り伏せることくらいわけはない。だが、全員同時にというわけにはいかなかった。兵士の一人が苦し紛れに呼び子を吹いたのである。
混乱の城内にあっても、その音は意外なほど鮮烈に響きわたった。
城壁の両端に引きつけられていた兵隊の注意を引きつけるには充分だった。
「急げ!」
彼らは二手に分かれて塔に飛びこんだ。
中二階、中三階に詰めていた兵士たちが異変に気づいて駆け降りて来たが、少女があっという間に片づける。
問題の巻き上げ機は中三階にあった。
五本の棒が突きでた大きな鉄の|臼《うす》のようなものに極太の鎖が巻きついている。その鎖の太さが落とし格子の重さを何よりも雄弁に物語っていた。
「副頭目!」
反対側の塔に駆けつけたはずのブランの声がする。
見れば互いの塔が見えるように小さな窓が開いていた。呼吸を合わせるためだろう。
「こっちはいいですぜ!」
「よつしゃ。行くぞ!」
巻き上げ機にとりついて力を込めたイヴンに、同じように臼の柄を握った少女が声をかけた。
「イヴン。ここはおれ一人でいい。内門と外門の|閂《かんぬき》をはずすんだ」
「なんだと?」
少女はここでも常人離れした怪力を発揮した。男たちが一人も手を触れていないというのに、鉄の巻き上げ機はみるみる鎖をたぐりはじめたのである。
反対側の塔ではブランたち五人が全力を込めているというのにだ。
「早く。時間がない!」
さっきの呼び子を聞きつけて、兵隊がこの正門に集まりつつある。イヴンの碧い眼に真摯な光が浮かんだ。
「わかった」
イヴンたち三人は塔を駆けおり、大人の身長の三倍はありそうな内門に取りついた。この閂もおそろしく重いものだったが、持ち上げて落とすだけでいいのだからだいぶましである。
そうして内門を破って門の中へ飛びこんだ彼らが見たものは、すでに半分ほども引き上げられた鉄の格子だった。
「やったぜ!」
三人はすかさず格子の下をくぐり抜け、外門に取りかかった。
後ろでは兵士たちの気配がますます濃厚になって
いる。急がなければ格子を上げている連中がその兵士たちの餌食になる。
イヴンとダリとアザレイはほとんど火事場の馬鹿力を発揮して閂を押し上げた。
なんの障害もなくなった分厚い木の扉のすぐ外に国王軍がいる。
彼らはここぞとばかりに体当たりをかけていた。
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一の郭は戦場と化した。
本宮に残っていたのは兵士ばかりではない。戦いなどまっぴらという閣僚や文官も取り残される形でずいぶん残っていたのだが、こうした荒事には不慣れな連中だ。本宮に残った軍勢が国王軍を撃退してくれることを最後の頼みとして籠城していたのだが、今や国王軍は正門を破り、怒濤のようになだれこんでくる。
あるものは震えあがり、頭を抱え、またあるもの
は責任者であるペールゼン侯爵を捜して広い本宮中を走りまわった。
だが、本宮が陥落寸前だというのに侯爵はどこへ消えたのか、姿が見えない。
「どうする!?」
「こ、これでは話が違うそ!」
「今となっては降伏するしかないのではないか」
蒼い顔でそんなことを相談しあった。
その中にいたジェナー祭司長は真っ先に身の危険を察した。
降伏すれば他のものたちは助かるかもしれないが、あの男が自分を生かしておくはずがない。
国王軍が門を破ったとの知らせを聞くと同時に、祭司長は密かに本宮を抜け出して礼拝堂へと向かった。
限られた地位にあるものしか知らないことだが、礼拝堂の地下には隠し部屋と、納屋へ通じる抜け穴がある。しばらく地下室に身を潜めようと考えたのだ。
礼拝堂へは本宮の袖から行ける。ほんのわずか外を見たが、|松《たい》|明《まつ》を手にした騎乗の男たちがわが物顔で一の郭中を走り回り、兵士たちの雄叫びや剣の響きはもうすぐそこまで迫っている。
この世のものとは思えない光景だった。
慌てて礼拝堂へ向かった。国王軍の狙いは本宮だけと見えて、こちらへ向かってくる兵士は一人もいない。ひっそりと静まり返っている。
よたよたと礼拝堂にたどり着き、安堵の息を吐いた祭司長の背後で、ぞっとするような声がした。
「どこへ行く?」
祭司長はその場に凍りついた。
もっともありえない、もっとも聞きたくないものの声だった。
ゼンマイ仕掛けの人形のようにぎくしゃくと振り返れば、そこには紛れもない国王がいて、こちらを凝視していた。
「この期に及んで地下へ隠れようというのか。それとも抜け穴を使おうとしたか」
「ど、どうしてそれを……」
男はにやりと笑って言った。
「俺を誰だと思っている? お前がその手で王冠を載せた国王だ。本宮はもちろん、この一の郭の構造、残らず頭に叩きこんだわ」
「ひ……」
「城を守る主人たるもの、どれほど広かろうとその造りに誰よりも精通していなければならん。お前が殺した父の教えだった」
祭司長は|魂《たま》|消《ぎ》るような悲鳴をあげて逃げ出したが、男は一瞬で距離を詰めた。
豚と獅子では勝負になるわけがない。
激しい怒りに満ちた国王の剣先は祭司長の両足を狙い、膝から下を一撃で切断したのである。
「ぎゃあっ!」
その場に倒れた祭司長は激痛にのたうちまわり、己の所業も忘れて涙ながらに命乞いをしたが、男は冷然と言い放った。
「父が味わった苦しみの、百分の一でも味わって死ね」
国王を追ってドラ将軍の率いる部隊が駆けつけて来たが、瀕死の重傷を負ってあえぐ祭司長を見ても誰も助けようとはしなかった。
この男には似合いの死に様だったからである。
そうして国王は、あの少女が言ったように、王宮の主人として正面玄関から本宮に入ったのだ。
すでに内部は国王軍がほぼ制圧していた。降伏したものたちにはいちいち見張りをつけてある。
人が集まっているところには即座に兵士が向かい、宮内にまで乗りこんで震えあがっている女官たちを抑えたのだが、肝心のペールゼン侯爵の姿がない。
「どこへ隠れた!?」
「ええい、あいつを逃がしてはまた同じことの繰り返しだぞ!」
「どこかに一人で隠れているのではないか」
広大な本宮だ。やろうと思えばできないことではない。
しかし、無数とも思える部屋のひとつひとつを探すのは気の遠くなるような作業である。
「陛下、いかがいたします。夜が明けるのを待って捜索を開始しますか?」
男はしばらく黙っていたが、外套を翻して歩き出した。
「陛下。どちらへ」
「思うところがある」
簡単に言って本宮の奥に通じる階段を登りはじめた。
「お待ちください。ならば我々が参ります」
「いや、俺が行く。奴は俺を待っているはずだ」
「危険です、陛下!」
将軍たちは色をなして男を止めようとしたが、階段を昇りかけた国王は振り返って言った。
「俺一人でいい。ついてくることは許さん」
厳然とした声に国王軍の勇士たちは思わず息を呑み、足を引いていた。
それは紛れもない『国王の命令』だった。
無視することはできなかったのである。
階下は騒然としている本宮も、上の階は妙にひっそりと静まり返っていた。
北の塔が城の陰の部分であり、一階の執務部が実用的な頭脳ならば、このあたりはよそいきの華やかな顔である。
夜半でも煙々と明かりが灯され、歩くのに不自由はしない。
広い廊下の端には房のついた豪奢な垂れ幕がふんだんに掛けられている。ときおり現れる扉の中は外国からの賓客を迎える特別な客間や応接間であり、大舞踏会が催される大広間であり、祝典の間であったりする。どれも目も眩むほどきらびやかなものだ。
デルフィニアという国の品格を示すと共に、国の豊かさと大きさをそれとなく誇示する意味を持つ一角でもあるのだ。
その中でもとりわけ格調の高さを誇るものに、玉座を据えた謁見の間がある。
男はそこを目指していた。
いつの間にか少女が男の横に追いついている。
「来るなと言ったぞ」
「おれはお前の臣下じゃない。命令される覚えはないな」
どちらも静かに、油断なく廊下を進みながらそんな言葉を交わす。
「邪魔はしない。おれの役目は露払いだ」
男もそれ以上は止めなかった。
謁見の間は本宮の表部分としては最奥にあった。
天井に届くほどの巨大な扉を男は無造作に押し、扉は音もなくなめらかに開いた。
中もおそろしく天井が高い。数百人は収容できそうな広さである。燭台という燭台に明かりが灯され、真昼のように明るい。はるか遠くの正面、高くしつらえた台座に玉座が据えられ、その手前にペールゼン侯爵が立っていた。
先日の会見の時は長い文官の衣服を身につけていたが、今は騎士のようないでたちで腰に剣を差している。
「勇ましい格好だな、ペールゼン」
と、男は言った。
「降伏するか、それとも戦うか」
「私はすでに一線を退いた身ですからな。あなたの相手にはなりますまい」
後がないとわかっているだろうに、ペールゼン侯爵は少なくとも表向きは落ちつき払っていた。
「これであなたはめでたくこの玉座に返り咲けるわけだ。おめでとうと申し上げるべきでしょうな」
男は平然と答えた。
「かたじけないと答えるべきかな。それとも用意周到にこの玉座を狙ったにもかかわらず、こんな形で挫折したことを気の毒にと言うべきなのかな」
「気の毒なのはこのデルフィニアのほうでしょう。とうとう妾腹の国王などを戴くはめになったのですからな」
「大罪人の宰相よりははるかにましだろう」
他人事のように言いあいながら男と少女は距離を詰めた。
あと一歩で、剣を引き抜いて襲いかかれば相手を叩き切れるところまで来て、男は足を止めた。
宿敵を前にして淡々と言う。
「お前はあまりにも多くのものを俺から奪った」
「……」
「お前が俺から奪ったものが国王の肩書きだけだったならば、俺は今ここにはいなかった。お前の狙いどおりに国を捨て、名前を捨て、流浪の戦士として生きていた」
「……」
「お前は、顔も覚えていないとはいえ、俺を産んだ母を殺し、カリンの子を殺した」
「……」
「あの父から名誉を奪い、誇りを奪い、罪人として死なせた」
「濡れ衣もいいところだ」
侯爵も言い返した。
「フェルナン伯爵を死なせたのは私ではない。祭司長だ。あなたの母君にしても同じこと。女官長は私を仇だと言うが、私は単なる実行者にすぎないのだ。そうとも、命令を下したものはまだこの国に生きている。罰を受けることもなく大手を振って王宮に出入りしているのだぞ。その張本人を野放しに私ばかりを責めるとは本末転倒というものだ」
どこまでもしぶとい侯爵である。
毒気に満ちた口調でさらに言った。
「あなたを追放したことに関してもそうだ。私は誰よりもこの国の将来を憂えたからこそ、してのけたのだ。私を責めるのは勝手だが、あなたも国を支配するようになれば必ず私と同じことをするようになるのだぞ。でなければ一国を担うことなどできはしない。国政という|大《だい》|事《じ》を成し遂げるのに個人の命や思惑などといった|瑣《さ》|事《じ》にいちいち捕われていては何もできはしないのだということを、今にいやというほど思い知ることになるだろう」
「誰が国を支配すると言った?」
静かな男の反論にペールゼン侯爵は思わず絶句した。
「国は生き物だ。それも個人の手には負えない巨大な生き物だぞ。たとえ国王だろうと、その首に鎖をつけて操ることなどできはしない。できるのはその進路に多少の修正を加えることくらいだ」
「何を……」
「お前は権力を握れば何でもできると考えた。思うがままに国を動かせると考えた。それが間違いだということに最後まで気づかなかったらしいな」
男は|絢《けん》|爛《らん》に飾られた玉座を見上げ、憐れみにも似た目を宿敵に向けた。
「お前にはこの玉座は支配者の象徴に見えるのだろうが、俺には単なる管理者の椅子にしか見えん。極端な話、誰が座っても同じことだ」
ペールゼン侯爵は顔を歪め、思わず後ずさりながらも男を嘲笑するのは忘れなかった。
「やはりな。下賎の娘の産んだ国王の考えることはその程度か。亡き陛下が聞いたらさぞ嘆かれることだろう」
「それは死んだ国王にしかわかるまい」
二人の対決を黙って聞いていた少女が肩をすくめて笑ったものだ。
「どう考えてもウォルの言うことに分があるな。ところで侯爵、後ろに隠している兵隊の出番はまだなのか?」
男は思わず身を引き、ペールゼン侯爵はぎくりとして少女を見たのである。
少女は台座の後ろの壁に目をやっていた。一見したところ寄せ木細工のただの壁である。だが、男は低く稔った。
「隠し兵か。姑息なことを」
この壁は見せかけだけだ。壁に似せた扉の奥には謁見する王の身を守るため、兵士を隠しておけるようになっているのである。
少女は悠然とその壁に声をかけた。
「出て来い。でないとこっちから行くぞ」
その言葉に覚悟を決めたのか、これ以上身を潜めていることは無駄と判断したのか、壁としか見えなかったところがぱくりとはずれ、中から十五人ほどの兵士が現れた。
身構えた男を、少女が制した。
「下がっていろ。雑魚はおれがやる」
ペールゼン侯爵も不敵に笑った。
「国王軍にはバルドウの娘がついているということだったが、お手並を拝見させてもらおう」
少女はちらりと侯爵を見た。
「お前、どうしてこんなものを用意した。ウォルを騙し討ちにして、まだ逃げられると思ったのか」
「いいや、そんなつもりは毛頭なかった。長い間の習慣というものは覆しがたいものでな。人と会う時に二人きりでいたことなど、かつて覚えがないのだ」
少女は呆れ顔になった。
「因果な商売だな。権力者というのは」
現れた兵隊に向き直る。
「そういうことなら無駄に命を捨てたくない奴は今のうちに降伏しろ。そこまでこの男につきあうこともないだろう」
だが、兵士たちは誰も降伏しようとしない。無言で剣を引き抜いた。
これは忠義というより、破れかぶれの行動である。
彼らがペールゼンのためにどういう働きをしてきたかはわからないが、主人であるペールゼンが倒れたら自分たちもおしまいだとわかっているのだ。
説得の無駄を悟った少女も無言で進み出た。
ペールゼン侯爵が最後の切り札に使っていたくらいだからよほどに吟味した精鋭だったのだろうが、相手はほんの少女ながら戦女神と称されるほどの技倆の持ち主だ。
舞うように剣を揮う少女の足に誰も追いつけない。文字どおりの多勢に無勢だというのに見る間に数人を打ち倒し、なお余裕充分である。
男は感嘆のまなざしを送り、自分も剣を引き抜いてペールゼン侯爵に向き直った。
「長話がすぎたな。片をつけようか」
侯爵も今は覚悟を決めたらしい。静かに剣の鞘を払った。
一線を退いたというが、ペールゼン侯爵が武芸に秀でた人であることは承知している。男も静かに剣を構えた。
少女の揮う剣の音と倒される兵士の悲鳴だけが聞こえる中で、男と侯爵は距離をとって向かいあった。
どちらも動かない。
正眼に剣を構えながらペールゼンは言った。
「赤子のあなたを殺すようにと命じたものは、まだ生きているのだぞ」
「らしいな」
「国内でもそれと知られた名家のものだ。誰なのか知りたくはないか」
「興味はない」
「ほう……?」
訝しげな顔になったペールゼン侯爵である。
「あれほど親の仇と騒いだにもかかわらず、命じた本人にはお咎めなしとは、おかしな話だ」
「誰の名前を聞いたところで信用はできん。お前がここで死ねばすむことだ」
男は静かに言った。
「その誰かはお前がしゃべったのではないかと戦々恐々として暮らすことになるだろう。俺の復讐を恐れておとなしくすればそれでよし。じつとしていられずにまた何かしでかすようなら、その時は殺す」
ペールゼン侯爵の表情が変わった。
今まで一度も見せたことのない真摯な光を目に浮かべて自分と対峙している男を見つめたのである。
剣先が揺れ、驚いたような顔のまま、何か言いかけた。
「ウォル!」
少女の叫び声がした。
とうていかなわないと見た兵士の一人が少女ではなく、男の背中を目がけて襲いかかったのだ。
「む!」
振り返りざまの一撃で男は兵士を斬ったが、その隙にペールゼン侯爵が一気に間合いを詰めていた。
「ぬん!」
侯爵の剣の切っ先は意外なほどの鋭さで男の胴体を狙ったのである。
男はかろうじてこれを|躱《かわ》した。
ペールゼンはさらに深く踏みこんだ。よほど鍛錬を積んでいたのだろう。五十を超えたとは思えない動きだった。
だが、とどめを焦り、勝負を急いだ分、動きに多少の無理が出た。そして、この男はそんな隙を見逃すような戦士ではなかったのである。
ペールゼンが二|太《た》|刀《ち》目を浴びせようとした時には、男は自分の体勢をつくり、次の瞬間、巨体と言っていいほどの男の体躯が信じられない素早さでペールゼンの脇をすり抜けた。
侯爵の口から異様な陣き声が洩れた。
力の抜けた手から剣が落ちる。その後を追うように、ペールゼン侯爵は前のめりに倒れ伏したのである。
時を同じくして、少女は最後の一人を片づけていた。
男はペールゼンの左脇腹を斬り払ったのだが、まだわずかに息があった。
少女が血まみれになった体を仰向けにしてやると、ペールゼンは男を見上げ、血の気の失せた唇にかすかに笑みを浮かべ、何か言いかけた。
「なに?」
少女が侯爵の口元に耳を寄せる。
一言、二言、何か眩いたのが最期だった。
ペールゼン侯爵の目がゆっくりと閉ざされ、その体からあらゆる力が抜けた。
息の絶えたペールゼンをおいて少女は立ち上がり、男を振り返った。
念願の仇を討ち取った男は、喜びを示すでなく、感慨を表すでなく、黙って玉座を見上げていた。
誰が座ったってかまわないのだ。あんなものは。
ただし、喉から手が出るほど欲しいというものには決して与えてはならないのだ。ペールゼン侯爵が自分だけの利得を考えるのではなく、その野心をもっと大きな方向へ向ける政治家だったなら、男は喜んで飾り人形でいただろう。
「ウォル」
「なんだ」
「ペールゼンが最後になんて言ったと思う」
「さてな。恨み言でも洩らしたか」
「ドゥルーワさま。そう言った」
男は真顔で少女を見、もはや何も言わなくなった侯爵を見下ろした。
少女も同じように侯爵の遺体を見つめていた。
「この男はこの男なりに前の王様に忠誠を誓っていたらしいな。最後の最後でようやく、お前がそのご主人の息子だってことに気がついたんだ」
「鈍い奴だ」
他の誰に言われてもこの男には言われたくないだろうと少女は思ったが、男は真顔だった。
「だが、無理もないな。こいつは最初から俺が前国王の子ではないと思いこんでいた。女官長は最初から知っていた。かくて女官長は俺を実の父にそっくりだと言い、こいつは似ても似つかないぼんくらだと判断したわけだ。いいかげんなものだな」
苦い口調で言った男だが、自分と同じように血まみれになっている少女を見て微笑を浮かべ、右手を差し出した。
「終わったな」
少女も剣を収め、小さな手を伸ばした。
「ああ、終わった」
「勝ったな」
「ああ」
倍も大きさの違う手と手が固く握り合わされる。
この時、階下に取り残されていた将軍たちがこらえきれなくなった様子で次々と姿を現した。
床に倒れたペールゼン侯爵の遺体を見て、ドラ将軍はしっかりと頷き、シャーミアンはたまりかねた様子で瞳を濡らしている。ヘンドリック伯爵は破顔し、バルロとナシアスは肩を抱きあっている。
アヌア侯爵が二人の神官を従えて進み出た。
「陛下。どうぞ、これを……」
一人の神官が紫の|天鷲絨《ビロード》を張りつめ、四方に金の房をつけた宝座を捧げ持っている。
その上には夜目にもあざやかに光り輝く、デルフィニアの王冠が載せられていた。
「どうぞ今一度、我らに真の国王の姿を拝謁させてくださいませ」
二人の神官はヤーニス神殿に仕えるものらしい。
祭司長が国王の逆鱗を買って死んだので、次席にあたるものがおもむろに王冠を取りあげようとしたが、国王はそれを制した。
「ヤーニスは万物をつかさどる神だが、あいにく俺は剣を揮うのが商売だからな。信じてもいない神に王冠を載せてもらうのはもうごめんだ」
「は?」
神官が目を丸くする。いや、将軍たちも驚いた。
「ですが、陛下。これは代々のならわしで……」
「くそくらえだ。どうせ祝福を受けねばならんのなら、俺は自分の信ずる神に祝ってもらうぞ」
男は豪快に断言した。王国一の宝物を持った神官を促して少女の横に立たせると、自分は少女の前に膝を折ったのである。
「ウォル!」
「お前が俺をもう一度、この玉座に導いてくれた。バルドウの娘が俺をふたたび王にしてくれたのだ。その最後の仕上げを頼みたい」
「ちょっと待て!」
少女は本気で狼狽し、止めてくれるように将軍たちを振り返ったが、あいにく誰も口を出そうとしない。ドラ将軍、ナシアス、タルボ、ガレンス、シヤーミアンといった国王軍の顔ぶれはにこにこ笑っているし、後から参加したヘンドリック伯やバルロもここは仕方がないとばかりに腕を組んでいる。アヌア侯爵も男の心情はよくわかるようで穏やかな笑みを浮かべているし、イヴンをはじめとする親衛隊の顔ぶれは拍手のふりまでしてみせる始末だ。
少女はげんなりした顔で視線を戻し、真剣な顔で跪いている男を見下ろした。
「まあ、それでいいって言うんなら、いいけど」
呟いて、いともあっさりと王冠を持ち上げる。
つねに|恭《うやうや》しすぎるほどの取り扱いを見慣れている将軍たちは思わず肝を冷やしたが、少女はその宝物を同じようにあっさりと男の頭に載せて、こう言った。
「お前がお前である限り、戦士の魂を忘れないでいる限り、お前が国王だ」
男は満足げに笑って頷いた。剣を持って王座を取り戻した自分には何よりふさわしい宣言だった。
見守っていた将軍たちはもとより、本宮を占拠した兵士たちがいっせいに勝利の歓声をあげる。
国王万歳と高らかに謳う歓喜の声はやがて王宮中に広がり、いつまでも誇らしげに響いていた。
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王座に返り咲いてからの十日間というものは、男にとっても新政府の主要な顔ぶれにとっても、目のまわるような忙しさになった。
国中の大貴族や実力者が、新政権に忠誠の|証《あかし》をみせなければというので、次から次へと泡を食ったように駆けつけてきたのである。
その中には、ウォルが倒れ、ペールゼンが地盤を固めてくれることをおおいに期待していただろうと思われるものも多くいた。ウィンザのダール卿などがいい例である。
もつともダール卿は、いみじくも男が少女に言つたようにそれはそれは丁重な態度で王国が真実の国王を迎えた祝いと喜びを延々と語り、祝儀として目も眩むような贈り物を惜しげもなくくれて寄越した。
「よほど後ろ暗いところがあるらしい」
と、男は言い、ドラ将軍の失笑を買ったものである。
「何をおっしゃいますか。陛下からお伺いしたところによれば、ダールは陛下の暗殺を企てたというではありませんか。おそらくは裸で獅子の面前へ出るような思いで出向いて来たのでしょうよ」
男のほうはあまりにいろいろなことがあったので、ウィンザの一件も早、忘れかけていたのだが、言われてなるほどと納得した。
そう言えばあの城は燃えてしまったのだと思い出した国王は、立ち去ろうとするダール卿に何気なく訊いたのである。
「ダール卿。住居が燃えてしまったのでは何かと不自由ではないか。今はどちらにお住いだ?」
男は本気で親切で言ったのだが、気の毒にダール卿は飛び上がった。
「お、お気遣いありがとうございます。その……、燃えた城の近くに別邸がありますので、今はそちらで、その、寝起きをしております」
「そうか。それはよかった。立派な城であったのに、気の毒だったな」
自分の言ったことが強烈な皮肉になっていると気づいていない男は、あくまで真顔で火事見舞いを述べ、ダール卿は総身に冷や汗を掻きながら逃げるように謁見の間を辞していった。
タウからの援軍は約束どおり一人一人が砂金一袋の報酬をもらい、デルフィニア王旗の横に翻る自分たちの旗を誇らしげに眺めながら、整然と隊列を組んでタウへ引き揚げた。
ベノアのジルも国王に対し、丁重に別れの言葉を述べて山へ戻って行ったが、イヴンはジルと二人きりになった時、こっそり毒づいたものだ。
「あんたも、ご恩返しとはよく言ったもんだな」
イヴンとは親子ほども年齢の違う山賊は低く笑い返した。
「まあ、いいじゃないか。万事は丸く収まったんだ。今のところはな」
「それさ。この後どうなるかわかってないとは言わせねえぞ。タウの自由民がデルフィニアについたとなればタンガとパラストが黙ってるわけがない」
「だろうな」
ジルはどこ吹く風である。
「タウもいつまでも無法地帯ではいられん。人も多くなった。山に籠ってばかりいるわけにもいかなくなってきた。このさき生き残るためにはどうしてもどこかと手を組まなければならん。そう考えていた矢先にマイキーがお前の幼なじみの王様の話を持ってきた。まったく好都合だったのさ」
イヴンは思わず顔をしかめた。
「冗談じゃないぜ。それじゃ俺たちがあいつを利用したことになる」
「なに。お前の王様はわかってるよ」
ジルは笑っている。
「でなくてどうして自由の旗をあんなに堂々と掲げるもんか。俺たちと手を組んだと大声で宣伝しているようなもんだ。ひとつ間違えばタンガ、パラストと戦争になりかねないが、向こうがどう出るか、試してみるつもりでもあるんじゃないかな」
イヴンはため息をついた。
「あいつ、そこまで考えてるかね」
「そうだな。何も考えていないのかもしれん」
王旗と並んで翻る自分たちの紋章を苦笑と共に見上げたジルである。
「しかし、おもしろい王様だ。お前が単身、味方を決意するだけのことはある」
「賭けても損はねえだろう?」
「ああ。大当たりだった」
二人は顔を見合わせて豪快に笑った。
「ではな。俺は行くが、お前も一度は村へ戻って来い」
「ああ。ここがもうちょっと片づいたらな。必ず寄らせてもらう」
ずっとイヴンと一緒にいた親衛隊の顔ぶれも家族の顔を見にタウへと戻って行ったが、イヴンは王宮に残った。
ふただび国王に返り咲いた幼なじみの多忙ぶりは目を見張るほどで、直接手伝うことはないにせよ、何となく立ち去りにくかったのである。
入れ替わり立ち替わりやってくる人々の中には単なる機嫌伺いもいれば、真実、あの男を国王として迎えようと喜んでいる人もいる。
イヴンは自分なりにそんな人々の見分けをするつもりだった。
ルカナン大隊長は約束どおり青い裏打ちの外套を与えられ、大喜びで国王に忠誠を誓い、自分の意志に反して改革派に荷担しなければならなかった人たち、特にヘンドリック伯爵やブルクスなどは、あらためてあの男にひれ伏し、|一《いっ》|時《とき》たりとはいえ敵にまわったことを深く謝罪したらしい。
そして、国王以外の人にも平謝りに謝らなければならなかったのがバルロである。
サヴォア公爵家の家長として、同族に対しては自分を軽んじる動きがあったことを厳しく糾弾し、断固とした態度で臨んだバルロだが、城内に平和が戻ったとなると、どうしても避けて通れないもうひとつの関門があった。
今も冷や汗を流しながら、長年の友人にひたすら謝っている。
「ナシアス。俺が悪かった。馬鹿だった。愚かだった。何度でも謝る! だからもういいかげんに勘弁してくれ!」
「断る」
年上の友人は実にそっけない。
「こ、断る……とは、お前な」
「あっさり許してやってまたそろ斬りつけられてはかなわん」
ナシアスは平然たるものだ。
もっともな話なのでバルロにも返す言葉がない。
またそこへバルロが苦手としている『爺や』までが参加するとなると、お手上げである。
「お久しぶりでございます、ナシアスさま」
「おお、カーサか! 無事だったか」
「はい。さいわい、体だけは丈夫にできておりますから、改革派の者どもの締めつけもどうということはございませんでした。私のことなどより、ナシアスさまにはまことに申し訳のないことを……」
と、わざとらしくため息をついてみせる。
「この爺の教育が行き届きませんで、若君はうかうかとペールゼンめの舌先に踊らされ、こともあろうにナシアスさまに刃を向けたとか。それこそ血も凍る思いがいたしました。お体にはお障りありませんでしたでしょうか」
「カーサが気に病むことではないぞ。肝心な時に左肩がいうことをきかずに何ともいまいましい思いがしたが、首を飛ばされなかっただけましだからな」
さらに大きなため息をつき、サヴォア家の執事は深々と頭を垂れる。
「まことに、お詫びのしようもございません。主人の不始末はこの爺の不始末でございます。サヴォア公爵家の統領である若君をそのように短慮な、もとい軽率な、もとい独断的いえ単細胞なご性格にお育てしたこの私がすべて悪いのでございます」
「とんでもない。カーサがお目付役としてついていてくれたからこそ、この単細胞も多少の知恵を発揮して左肩だけですませてくれたようなものだ。お前には心から感謝している」
「いいかげんにしろ! 二人とも!」
たまりかねたバルロが怒声をあげる。
その様子を聞くともなしに聞いてしまったリィとシャーミアンは必死に笑いを噛み殺していた。
本宮の中の控えの間での一幕だったのだが、笑い声を聞かれないように慌てて遠ざかる。
少女は涙をぬぐいながら言った。
「ナシアスは他の人にはいつも優しいのに、どうしてバルロにはあんなにいつも意地悪なのかな」
「あら、ナシアスさまは楽しんでいらっしゃるのよ。ああしてもう一度バルロさまと口喧嘩ができることが嬉しくて仕方がないんだわ」
シャーミアンも笑いながら言う。
二人はすっかり明るくなった本宮の中を歩いていた。数日前までこの中をわが物顔に闊歩していたものたちはそれぞれに処罰を与えられ、今はブルクスを中心とする文官が実務に当たっている。
シャーミアンもドラ将軍と共に二の郭の屋敷に戻っていた。カリンがまだ完全な体ではないのに宮内のことで忙しく働いているので、その手伝いに連日登城している。
シャーミアンがまだ笑いながら言った。
「でも、あの調子では、この先十年くらい言われ続けるかもしれないわね。お気の毒なバルロさま」
「おやおや、私のことですか」
本気で怒りはじめた友人から逃げ出して二人の後を追う形になっていたナシアスがこの言葉を聞きつけて、苦笑しながら話に割って入った。
シャーミアンはわずかに頬を染めて、頭を下げたものである。
「申し訳ありません。軽口を……」
「いいえ。本当のことですから」
ナシアスも笑っている。
「しかし、私には言う権利がありますよ。リィが止めてくれなかったら首を掻き切られていたところですからね」
「そうかなあ」
と、少女が言う。
「バルロさんが本当に本気だったら、ナシアスは最初の一撃で死んでたと思うけどな」
シャーミアンはこの言葉に驚いた顔になったが、ナシアスは穏やかな眼の色になってかすかに頷いてみせた。
少女は呆れたように言ったものである。
「やっぱり。わかってるならあんなにいじめなくてもいいのに。本気で殺そうとしてたのは確かだけど、ぼくが止めなくても、きっとできなかったよ」
「いや。そういうわけにはいかないんだ。ここで厳しく言っておかないと、また同じことを繰り返されてはかなわないからね」
と、声を低めてこっそりと言う。
少女はやれやれと肩をすくめた。
「ほんとに、かわいそうなバルロさん」
「いいや。一人くらいはサヴォア公爵に面と向かってああしたことを言う役目のものが必要なんだよ」
「わかります。大貴族ですものね」
シャーミアンも頷いた。
「こんなことはあまり大声では言えませんけど、でも、いつ第二のペールゼンになってもおかしくないだけの力がサヴォア家にはありますわ」
おそろしく思いきったことを言う。だが、ナシアスも頷いた。
「そのとおりです。シャーミアンどの。バルロ本人にはそんな気は|露《つゆ》ほどもない。だが、それを歯がゆく思う同族の誰かがおそらくはペールゼンと結託していたのでしょう。今、バルロは全力でその誰かを特定にかかっていますよ。一族郎党びくびくもので、当主の沙汰を待っているようです。もっとも……」
ナシアスは息を吐いて、晴れわたった外の景色に目をやった。
「もう終わったことです。あまり大きく騒ぎ立てて逆効果になっても困ります。その辺はカーサがうまくやるでしょう」
「ええ。本当に。もう終わったことですものね」
三人は何となく黙りこんで、この本宮から見えるトレニア湾のまぶしいほどの青さを眺めていた。
季節はそろそろ夏になろうしている。内紛が片づいたとあって、港には各国の船が帆を並べている。
待ちこがれていた平和の風景だった。
少女がやれやれと肩をすくめて言ったものである。
「でも、よかった。これで安心してここを出て行けるよ」
二人ははじかれたように少女を見下ろしたのだ。
「何だって?」
「リィ!?」
「だって、はじめからウォルが王様になるまで力を貸すっていう約束だったんだ。その約束は果たした。ぼくが自分自身にかけた誓いも果たした。後はもうこんな窮屈なお城にいる理由はないもの」
少女は二人を見上げて、
「ウォルにお別れを言おうと思ったけど、朝からお客さんがびっしりでとても時間がとれないんだって。さようならって伝えといてくれる?」
じゃあね、と言ってあっさりと|踵《きびす》を返した少女に、二人は文字どおり奇声を発して取りすがった。
「ちょっと待った!」
「お願い、早まらないで!!」
その剣幕に少女のほうが目を剥いた。
シャーミアンが懸命に少女を説得する間、ナシアスは日頃のこの人には信じられないような勢いで本宮を走り、国王の謁見の最中に乱入したのである。
事情を聞いた国王も、参謀としてその横にいたドラ将軍も、書記として控えていたブルクスまでもが血相を変え、椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
おきざりにされた客はひたすら唖然として、脱兎のごとく走り去った国王の後ろ姿を見送ったのである。
「リィ!!」
奥の謁見の間から本宮の入口付近まで一気に走った国王はその勢いのまま、猛然と少女に迫った。
「出て行くというのは本当か! 何故だ!?」
「なぜって……、ここにいる理由がないからだよ」
あたり前じゃないか、と言わんばかりの口調だった。
「ウォルは王様になったし、シャーミアンもナシアスもドラ将軍も元どおり、王様の臣下に戻った。でもぼくは王様の臣下じゃないし、デルフィニア人でもないんだから、ここにいるほうがおかしいんだよ」
「リィ。グリンダ。ちょっと待て。そう簡単に決めるな」
謁見用にと今はよそいきの服を着せられている男は豪華な衣服に包んだ大きな体躯をかがめて、必死に少女を慰留にかかった。
「その、だな。理屈はお前の言うとおりだ。しかし、理屈がすべて正しいというものではないぞ。だいたい他の世界から来たというお前が、ここを出ていったいどこへ行くつもりだ?」
「迎えが来るまで、あちこち見物する。デルフィニア以外の国も見てみたいし、だいぶ、こっちの子どもで通せる自信がついたしね」
「馬鹿を言うな。お前のような|奇《きっ》|怪《かい》な子どもがそうごろごろ転がっていてたまるか!」
まわりに集まっていた要人たちがおもむろに頷く。
ドラ将軍が進み出て言った。
「小戦士。わしからもお願いする。急ぎの用事でないのならば、どうか今しばらくこの王宮に滞在してはくれまいか」
「何のために?」
真顔で問い返されて将軍は言葉に詰まった。
「戦いは終わった。そうなればタウの人たちじゃないけど戦士は用無しだ。ぼくは剣を取ったものだし、他にできることはないよ」
「いや、そのな……、そういう問題ではないのだ」
「そうだ。そういう問題ではない」
男も力強く言った。
「お前は自分で気づいていないのかもしれないが、お前には単なる戦士以上の値打ちがあるのだ。少なくとも俺にはだ。だいたい俺は、そうとも、一生かかっても返しきれないだけの借りがお前にあるのだぞ。そのうちのひとつも返させてくれんとはひどいではないか」
本気で言っているから恐い。
「貸したつもりはないから、気にしなくていいよ」
苦し紛れに少女は言ったのだが、
「俺は気にするぞ。ぜひとも気にしたい」
これまた力いっぱい言い返されて頭を抱えてしまった。
まわりを見ればシャーミアンもドラ将軍もナシアスもブルクスも真剣な表情である。騒ぎを聞きつけてやって来たイヴンとバルロまでもが、少女の態度を感心しないという顔つきで眺めていた。
「リィ。この王様はまだやっと出発点に立っただけなんだぜ。今のところは王座に納まっちゃいるが、いつひっくり返されたっておかしくないんだ。バル
ドウの娘ともあろうものが、一度肩入れした相手を途中で放り出すってのは感心しないな」
理屈になっていない理屈だが、説得力はある。
バルロもおもしろくなさそうな顔で口をはさんだ。
「体が空いたらぜひとも尋常な勝負を申し込むつもりだったのだぞ。勝ち逃げとは感心せんな」
いったい何が起きたのかわけがわからない様子で少女はまわりの人々を見つめていた。
「だ、だって……仕方ないじゃないか。ぼくには、その……、ここにいる理由がないんだし……」
かがみこんで少女の説得にあたっていた男が何を思ったか勢いよく立ち上がった。
「わかった。理由があればいいのだな?」
「あの、ちょっと……、ウォル?」
なにやらおそろしく不吉な予感に男を止めようとしたが、遅かった。
男はずらりと並んだ実力者を前に言い放っていた。
「前から考えていたことだが、ちょうどいい。諸君
たちが証人だ。俺はこの娘を王女として王宮に迎えるぞ!」
さすがに人々の間からも驚愕の叫びが洩れる。
「へ、陛下。ですが……」
法律の専門家でもあるブルクスが慌てて異議を唱えようとしたが、男はその先を言わせなかった。
「庶出の俺が国王になれるのなら、バルドウの娘を王女に据えてどこが悪い!」
そういう男の眼は徹底的に座っている。同じように唖然としている少女を振り返って言った。
「ピルグナで言ったな。俺が王座を取り戻した暁には誰もがお前に一目置くだけの地位を与えると。俺には妃も子もない。養女という形になるが、それでお前に、この王宮を自在に歩く権利も自由に出入りするだけの権利も与えることができる」
「じょうだん……!?」
「本気だ。前から考えていたことだ」
「おれが王女さま!? できるわけないだろうが!」
「別に何もしなくていい。お前は好きなようにふるまえばいいし、どこへでも出かけてかまわない。ただ、ここへ帰って来てもらいたいのだ。少なくともお前がこの世界にいるうちは」
男は熱心に訴えた。
「俺はそのための場所をお前の好きなところに用意しようし、行動の自由を保障する。せめてそのくらいのことはさせてもらいたい」
少女は金の頭を掻きむしった。
「あのな、ウォル。おれの言うのはそういう意味じゃない。いいか。ここにいるおそろしく物好きな一部の人たちは別として、その他大勢の山のような家来たちにいったいなんて言うつもりなんだ! ある日いきなり王女ができましたでみんな納得すると思ってるのか!?」
悲鳴のような叫びだったが、男は得意そうに胸を張ったのである。
「心配するな。成文条令を全部調べた。そのどこにも国王が養女を迎えてはならんという一文はない」
これには少女のみならず、他の面々も唖然とするほかなかった。
ややあってブルクスが思い出したように言ったものである。
「確かに、国王が養女を迎えてはいかんという法はありませんな」
ドラ将軍がこれも真面目に聞き返した。
「すると、問題はないわけですな?」
「はい。少なくとも違法にはなりません」
「と、いうことだ」
国王が満面に笑みを浮かべて少女の顔を覗きこんだ。
その少女はただひたすら呆然としている。
やがて、同じように目を見張っていたナシアスが小さく吹き出した。
ドラ将軍がそれに続いた。
シャーミアンは楽しそうに笑みをこぼし、イヴンはたまりかねたように爆笑し、最後には王座奪回の立役者たちによる豪快な笑いの大合唱になった。
一人取り残された少女は真っ赤になって憤然と、
「そんな法律、ばかばかしくて誰も書かなかったんだ!!」
叫んだのだが、どうやら手遅れだったようである。
「デルフィニア王女、グリンディエタ・ラーデン。いい響きではないか」
と、ちゃめっけたっぷりに言う。
政権奪取後のどさくさに紛れて国王は立法も採決もすっ飛ばして作業を進めた。もともと王の名のもとに多少の無茶が通るのが君主制のいいところだ。
この日から数えて七日目、大陸全土でも他に例を見ない、前代未聞の、王家の血を持たない王女がデルフィニアに誕生した。
[#改ページ]
「今回のタイトルは何にします?」
そう担当さんに聞かれた時、私はほんの思いつきで、
「『|岸《がん》|壁《ぺき》の母』というのはどうでしょう」
と答えました。
なにしろまだ原稿は途中、これからクライマックス、はっきり言ってタイトルまで頭がまわらない、でも何も言わないのも悪いしと軽い気持ちで言ったところ、担当さんは電話の向こうで数秒間沈黙し、それはそれは疑わしげに、
「あのう……いちおうコーラル奪回の完結編なんですけど」
と、おっしゃいました。
「でもイメージはぴったりなんです」と申しあげると、今度は「泣いてやる」と、ぐれてしまいました。やはりまずいですね。『デルフィニア戦記4 岸壁の母』ではね。
もうひとつ、ちょっと笑える制作の苦労話。
三巻を執筆中のことです。私はその時、北の塔の地下へ降りてフェルナン伯爵との再会、救出するくだりを書いていました。
昔家にあった地下室を思い出し、一生懸命くらーく、つめたーい、じめーっとした雰囲気を保ちながら、ごめんねお父ちゃん、後でちゃんと仇はとってあげるからどうか立派に死んでちょうだいと言い訳しながらワープロを打っていましたら、他社の話で恐縮ですが、角川書店での拙作ができあがってきました。
正確にはシリーズの二作目ですが、私は自分の書いたものを読み返します。誤字脱字をチェックする意味もあるし、私の頭はほとんどトリ並なので、脱稿から本になるまでの間に何を書いたか忘れてしまうせいもあります。
で、読みはじめたわけですが、これがですね、えらいギャグなんですわ。
しまった、やめておくべきだったと思った時は遅かった。一冊ざっと目を通した時には頭の中がすっかりお笑いです。気をとりなおしてワープロに向かってももうだめ。一度ハイになった気分はなかなかトーンダウンしません。つい先日までは身近に感じられたはずの地下室の湿気やかび臭さは初夏の日に鳴り響くダースベイダーのテーマにとって代わり、死にそうなはずの病人までがラリアートをかましそうになる始末。
まずい。非常にまずい。このままいくと瀕死の伯爵がぱっ[#「ぱっ」に傍点]と|起き上がってギャグを一発かましてからお亡くなりになるようなとりかえしのつかない事態になりかねない。
お笑い厳禁! 私は今とても悲しい場面を書いているのよ! と、自分に言い聞かせ、「盛りさがれ〜、盛りさがるんだ〜」と暗示をかけながら、必要な気分にまでボルテージを下げるのに何かぴったりの音楽か映像はないかと必死に考えました。単に暗いだけでは話にならないわけで、悲壮なと言いましょうか思わず涙しそうなと言いましょうか、かつ並々ならぬ意気ごみの感じられるのが欲しいわけで、結論。あれがいい。あれしかない。
さだまさしの『|防人《さきもり》の歌』!
喜び勇んでレンタルショップへ走りましたね。
ところが、置いてない。さだまさしのCDは何枚もあるのに肝心の盤がない。買わずにすまそうと考えたのがせこいと言えばそれまでなんですが、さあ困った。急いで気分を盛りさげなければシーンどころか作品の完成そのものが危うい。
そこで、自分の持っているものでなにかないかと捜したところ、谷村新司のべストアルバムがあり、この中の『|群《ぐん》|青《じょう》』というのが救世主になってくれました。
いやあ、いいですよ、これ。実に悲壮で、切々としていて、かつ雄々しくて。
歌詞を書くとチョサッケンキョーカイというところから許可をとらなきゃいけないらしいので省きますが、まったく助かりました。おかげで伯爵は大往生してくれました。合掌。
ところで、作者がこんなにも頑張って真面目に書いているのに『笑えます』というお便りをよくいただきます。それこそ前述の角川文庫なら大笑いするのもわかるんですが、どうしてこのデルフィニア戦記で『吹き出してしまうので電車の中では読めません』ということになるのか、実に不思議です。
どこでどう笑えるんでしょう? ぜひ教えてください。
とにかく第一部は完結しました。嘘のようだ。引き続き第二部がスタートしますが、九月はおやすみして冬になります。
第二部はどんな話になるか? それはまだわかりません。ただ、女性読者の皆さんがお待ちかねの(一部にあまり待ってない方もいるけど)銀髪のあの人が登場します。すると思う。たぶん……。
あとがきには近況や制作状況を書いてみればという意見があったのでやってみましたが、こういうのでいいんですかねえ。これだとすっごく楽だけど。ほーっほっほっほっ。
それではまた、冬にお会いしましょう。
[#地付き]一九九四年 五月 茅田砂胡