白亜宮の陰影 デルフィニア戦記 第3巻
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ワイベッカーの戦いから四日目の昼。
追旅中の国王を大将とする国王軍は、残務処理に追われる忙しい日々を過していた。
大勝利を収め、城を占拠したのはいいが、こちらの倍とも思える軍勢がほとんど降伏してきたのだから、後始末も並大抵の労力ではない。その降伏に偽りのないように思えるものは指揮下に置き、疑わしきものはいちおう遠ざけ、あくまで抵抗しようというものは見張りをつけて押しこめた。こまかい審査しはできない。大ざっぱな選別だが、それでも一段落つくまで時間かかかった。
もっとも、敗残兵の処理に頭を悩ませていたのは一部の将校たちで、兵士たちはそれぞれに報酬をもらい、次回に備えて馬や武具の手入れに励んでいたのである。
「あの王様もなかなかたいしたもんじゃないか」
「おうよ。これで味方は一気に倍だぞ。一両日中にはコーラルヘ向けての進軍もはじまるだろう。いよいよもって働き時だ」
奇跡の勝利に兵士たちの意欲も満々である。
武具の手入れだけでなく、空いた時間を使って体のほうもこざっぱりと整える。あるものは髭を剃り、あるものは水浴びを楽しんでいる。
まだ、川で泳ぐには早い季節だが、死にものぐるいの戦闘をくぐり抜けた後だ。攻め落とした城のまわりで水浴びを楽しむ兵士たちの姿がずいぶん多く見られた。
のどかな光景である。
国王軍の中でも異彩を放っているタウの男たちもまた、城から離れた森の中に気晴らしに来ていた。
ワイベッカー城は自然に恵まれた風景の中に建っている。少し城から離れれば濃い緑が広がり、ひんやりと森に抱きすくめられる深い泉がある。
しかし、目的は水浴びの他にもあったらしい。
全裸の彼らはそれぞれ、戦の合間の休息にも似合わない深刻な顔をしているが、その中でも若頭ともいうべきツールのブランが、泉に身を沈めながら低い声で言った。
「そうすると、なんてすかい。コーラルの奴ら、王様の親父さんの命を盾に取ってきたわけですかい?」
「そういうことだ。伯爵の命が惜しければこれ以上、進んで来るなと言いたいんだろうよ」
こちらはタウの男たちの首領格、イヴンである。
若顛より首領のほうが二十近くも若い。
実際、イヴンは彼ら八人の中で一番若かった。
細身ながらも鍛えあげた体躯を惜しげもなくさらして、水の手ざわりを楽しんでいる。
こんもりと生い茂った木立か彼らのいる泉を隠し、岩肌を伝って流れ落ちる水が小さな音をたてている他は|しん《、、》と静まり返っている。
カジクのニモが顔をしかめながら言った。
「しかしまあ、ぞっとしませんな。そういうのが上の連中のやり方ですかい」
「それで上様はどうするんで? ここで軍勢を止めるんですかい」
「そうもいかない」
水に濡れた手でつるりと頭を撫でたイヴンだった。
短い金の髪が頭皮に張りついている。
「こういう要求はひとつ呑むともうきりがない。進軍をやめるだけですむもんか。全面降伏はもちろん、あいつ一人でコーラルヘ来るように注文をつけてくるだろうよ」
「ですけど、王様にとっちゃ実の親父さんみたいな人なんでしょう?」
「実の父親以上の父親だ。奴らもそれをわかっているからこんなことを言ってきたんだろう」
レントのサルジが肩をすくめた。
「しかし、考えるのは俺たちの仕事じゃない。俺たちや副頭目の指示に従うまでだ」
「サルジの言うとおりだ。あんたの意志はどうなんです?」
「俺はウォルの決めたことに従うさ。そのためにここにいる」
「じゃあ、王様の意見はどうなんです?」
「それさ。あの馬鹿のことだ。軍の指揮は誰かに任せて、自分一人で王宮へ乗りこむくらいのことは言いかねないからな」
他の七人がいっせいにため息をついた。
一人が|揶揄《やゆ》する目でイヴンを見たものである。
「あんたも苦労しますな」
「まったくだ」
真剣に答えたイヴンだった。
「ドラ将軍の心配性が俺にも移りそうだ。ちくしょうめ。かといって放っとくわけにもいかねえからな。そこのところを汲んどいてくれ」
男たちは顔を見合わせた。
鼻の頭を|掻《か》きなからブランが言う。
「つまり、俺たちで王様のすることに目を光らせていろと、そういうことですかい?」
「そういうことだ。まあ、こんなことはドラ将軍もラモナ騎士団長もわかっているだろうがな。昼間は将軍たちが見張ってるからいいとして、問題は夜中だ」
「あんな大きな人がこっそり陣営を抜け出そうとしたって必ず誰かが気づくでしょうに」
当然の疑問だが、イヴンは首を振った。
「あの野郎はな、あの|図体《ずうたい》でもやろうと思えば山猫みたいに足音を殺して歩ける。お前だちと同じようにな。スーシヤの森を歩くのには必要な技だったが、都会育ちの騎士さんたちにはとても追いきれまい」
「ははあ……」
「惜しいもんですな。軍勢の先頭なんぞに置いとくより、タウの旗の下に置きたい人だ」
冗談混じりの口調だったが、イヴンだけは真剣そのものだった。
「あいつの命はもうあいつ一人のものじゃない。それがあの馬鹿にはいまだに呑みこめていないときていやがる。だったら、まわりが何とかしてやるしかないからな」
男たちは一瞬、押し黙った。
彼らの若い首領はかなり真剣に、あの国王の独断行動を懸念しているらしい。
ブランが低く笑った。
「確かに、国王のいない国王軍など|洒落《しゃれ》にもなりませんや」
「気をつけましょう」
「すまねえな。こんなことは本来タウの自由民の仕事じゃないってのはわかってるんだが……」
「なあに。相手が山猫なら俺たちの得意でさあ」
「いやにどでかい、王冠つきの山猫ですがな」
静まり返った泉に男たちの笑い声が響く。
その声がやむのと同時に岩場の上から澄んだ声が降ってきた。
「さすがは幼なじみだな。よくわかってる」
まったく気配を感じさせなかったその声に男たちは一瞬緊張したが、上を見上げたイヴンが苦笑しながら言ったものである。
「のぞきとは趣味が悪いぜ。リィ」
男たちの入浴を岩の上から見下ろしているのは、ワイベッカーの戦いで奇跡の勝利を呼びこんだ少女だった。
山猫のように気配を消して歩くのはこの少女も同じである。タウの|山賊《さんぞく》よりスーシャの野生児より、この少女のほうか獣じみているかもしれなかった。
その少女は足下に裸の男の大群を見ながら平然と言ったものである。
「何でのぞき? 覗いたところで別におもしろくもない。混ぜてよ」
「えっ?」
「おい、ちょっ……」
男たちが慌てふためくのを尻目に、少女は手早く靴を脱ぎ捨てて剣帯をはずし、上着とズボンを脱ぎ捨て、胸に巻いたさらしの布さえ取り払って全裸になり、勢いよく泉に飛びこんできた。
「うわ!」
慌てたのは男たちのほうである。
こちらはそれぞれ三十から四十にかけてのいい大人であり、相手は十三歳の少女だ。別に赤くなるほど純情でもないのだが、いかんせん、双方ともに一糸も|纏《まと》わぬ姿である。
「嬢ちゃん!」
皆、おおいに|焦《あせ》った。ほとんどか慌てて泉から飛び出して服を拾い上げたが、少女は平気な顔で、器用に立ち泳ぎをしている。
「気持ちいい。蒸し風呂なんかより、こっちのほうか絶対いいな」
「おい、リィ……」
逃げ遅れたイヴンが頭を抱えながら言った。すでに腰か引けている。
「そんなことよりちょっとは遠慮しろ」
「なんで?」
「なんでってお前……」
複雑な心境だった。相手はほんの子どもだ。何も焦ることはないとわかってはいても、なにしろ自分を軽々と両手に抱えるほどの怪力の持ち主である。
自然、対応も微妙なものになる。
「お前もいちおうは女なんだからな。裸の男がごろごろしてるところにそんな格好で飛びこんで来るんじゃない。嫌でも見えちまうだろうが」
「別に見られてもかまわないけど?」
「お前がよくても俺だちか困るんだ! 男の体にも見られたくないものがあってだな!」
完全に逃げ腰になっている。
しかし、少女はかわいらしく首をかしげ、水面下に隠れている相手の下半身にちらりと目をやって、こう言った。
「別にそんなもの珍しくもないよ。ぼくにだって、ちよっと前までついてた」
あんぐりと絶句したイヴンの頭上から、またあらたな声が降ってきた。
「おお。おそろいだな」
「ウォル!」
その隙にイヴンは急いで泉から這い上がった。
むろん、他の男たちは快く国王に道を譲ったのである。
「何だ、お前。会議はどうなった?」
イヴンの幼なじみにしてデルフィニアの国王、ウォル・グリークは、はた目にも疲労の浮いた顔をしていた。三日の間、残務処理に追いまわされたのがよほどこたえたらしい。大きな身体にもいくぶん力がなく、目の下には|隈《くま》が浮いている。
「一段落というところだな。やれやれだ。戦闘のほうがよほど楽でいい。やっと隙を見つけて抜け出してきた」
並いる監視を振り切って、もしくは気づかれずに脱走してきたということだ。
泉の中から少女が手を振っている。
「ウォル。気持ちいいよ。泳がない?」
「そうだな。ご一緒するか」
止める暇もなかった。これまたあっという間に全裸になって国王は泉に飛びこんだものである。
男たちはあっけにとられてその様子を見守った。
正確にはいつまでも覗いてはいられないので、二人が水浴びを終えて出て来るまで、岩場で待機することになった。
二人の楽しそうな声が聞こえてくる。
ブランがほとほと呆れたように言ったものだ。
「あの王様、やっぱりどこか普通と違いますな」
イヴンが苦虫をかみつぶしたような表情で答えた。
「だからまわりが苦労するんだ」
その泉は少し踏みこめば足の立たなくなるほどの深さがあったが、二人は水泳には自信があるようで楽々と泳ぎまわり、岩へ這い上がって一休みしていた。
濡れた髪を絞りながら少女が言う。
「スーシャって森の中だって言わなかった?」
「そのとおりだ」
「それにしては泳ぎがうまい」
「ああ。大きな湖があって、夏はいつもそこで泳いでいたからな。半日泳ぎ続けたこともある」
見上げれば|木漏《こも》れ|日《び》が美しい。
睡眠不足の目には眩しく映ったのか、国王は少し目を細めた。隣にはやはり裸の少女が岩に腰を下ろしている。
いまさらその姿が眩しく見えるはずもないのだが、男は少女を見ようとはせずに話しかけた。
「リィ」
「なに?」
「コーラルの言い分をどう思う?」
少女も男を見ようとせずに|上《うわ》の空で答えた。
「まあ、たわごとだろうね」
「だろうな」
「ペールゼンだってまさか君がのこのこ出て来るとは思っていないよ。あれはただの|牽制《けんせい》だ」
「だろうな」
こちらも上の空である。
しばらくして男が低い声で言った。
「しかし、このまま軍勢を進めれば、いずれは牽制でなくなる」
「だろうね」
マレバを解放し、近衛兵団を打倒し、コーラルに足をかけたところで、伯爵は絞首台に乗せられることになる。
二人は難しい顔で考えこんだ。
「リィ」
「なに?」
「コーラルの要求を呑むわけにはいかないだろうな?」
「いかないね。それは馬鹿のすることだ」
これにははっきり断言した少女である。
男にもわかっていた。
そんなことをしようものなら|徒《いたずら》に改革派を喜ばせてやるだけのことなのだ。
「王様のいない国王軍なんか洒落にもならない。おまけに君を人質に捕れたらもう終わりだ。こっちは全面降伏するしかない」
「わかっている。俺は軍を離れられんし、軍勢をここで止めるわけにもいかん」
「だろうね」
「しかし、父を見殺しにもできん」
「将軍たちはなんて言ってる?」
男は特大の|拳《こぶし》を握りしめ、低く唸った。
「伯爵を見捨てるべきだとそう言っている」
ドラ将軍にとってフェルナン伯爵は旧知の友であり、ぜひとも生きて再会したい人のはずだった。
しかし、大義の前に公私を混同するような将軍ではない。
少女は足の先でぱしゃんと水面を打った。
「当然だろうね。伯爵本人もその覚悟はしているはずだ」
二羽の小鳥が心地よい声でさえずりながら、舞うように飛んでいる。
ぬけるような青空に、ぽっかりと雲が浮かんでいる。
どのくらいそうしていたのか、ほどいた少女の髪が乾きかけるころになって、男はようやく口を開いた。
「リィ」
恐ろしく重い声だった。
「なに」
「頼みがある」
「だから何」
深く息を吸いこんで、男は一気に言った。
「俺の代わりにコーラルヘ行ってもらいたい」
「いいよ」
あまりにあっさり言われたので、男のほうが拍子抜けした。
「おい、そう簡単に……」
少女はにこりと笑ったものだ。
「馬鹿だな。四日もそんなことで悩んだのか? はじめからそうする予定だったじゃないか」
出会ったばかりの時から、この少女は二人でフェルナン伯爵を助けに行こうと言っていた。男の素姓が国王とわかると、今度は男は軍の指揮のために残し、一人で行くと公言していた。
だが、男は難しい顔で首を振った。
「あの時とは状況がまったく違う。ああは言ったが、決してお仙を信じていないわけではなかったが、あの時は父の救出はまだ話だけのことだったのだ」
とうてい実現不可能な目標を掲げることで、この男は自らを奮い立たせ、行動の|糧《かて》としてきたのだ。
しかし、今の男はまがりなりにも一軍を指揮する身となり、その目標を実現できるかもしれないところまできた。そうなればあくまで軍勢をもって改革派と戦い、王都を奪回し、秩序を築き、父親を取り戻すのが正道というものなのである。
「俺の生還を聞いた時には、まだコーラルは|高《たか》をくくっていただろう。たった一人で何かできるかと鼻で笑っていたはずだ。しかし、今となっては状況がまったく違う。こんな悪辣な手段を平然と用いるほど、連中は目の色を変えて俺を叩きつぶそうと|図《はか》っている。都市の警備も父の監視もどれほど瞰しくなっているかわからん」
どれだけ危険が増していることか。男はそう言いたいらしい。そんな中へ少女一人をやるのは耐え難いと苦悩しているのだ。
だが、少女は首を振った。
「改革派に正攻法が通用しないのはわかりきってるんだ。それに、誰がどう考えても、この仕事にぼく以上の適任者はいないはずだ」
さらに深いため息か男の口から洩れた。
「俺はお前に助けられてばかりだ。まったく、こう続くと自分か情けなくなる」
「王様は、そんなことを気にしちゃいけない」
真理である。
しかし、素直に頷けない王様は、少しばかりいじけて十一も年下の戦友に愚痴をこぼしていた。
「では何か。俺の代わりに敵地の真っ只中まで出向いて父を枚って来いと、そっくり返って命令すればいいわけか?」
少女は楽しそうに答えたものだ。
「そうしたらおれはお前の横っ面を張り飛ばして、コーラルとは正反対の方向へ消えてやる」
お手上げである。
男は自分の髪をくしやくしゃに掻き回し、両手を挙げて降参した。
「わかった。俺の負けだ。いさぎよくお前の厚意に甘えよう。とにかく今のままでは身動きがとれんのだ」
「最初からそう言ってればいいんだ。軍はいつごろ動かせる?」
「おおかたの配置はすでに定めてある。本当ならとうに出発できていた」
少女は頷いて、
「今日で四目。ちょうどいい長さだ。伯爵を救うか、それとも見捨てるか、国王は苦悩して動けなかったのだと連中は判断するだろう」
「悩んだことは確かだぞ」
「自分で行くか、ぼくに行かせるかでだろ? 悩みの種類、が違う」
「確かに」
「そう思わせておこう。君はこのままマレバヘ軍勢を進めるんだ。ただし、ゆっくりだよ。あくまで悩んでいるようにみせかけるのを忘れないように。その間にぼくはコーラルヘ向かって伯爵を救出する」
男は低く笑った。
「お前が言うと難事が難事でないように聞こえるから不思議だな」
「難しいことには違いないよ。誰かの手を借りなきゃならないからね」
どういうことかと聞き返そうとしたが、少女はそこで勢いよく泉に飛びこみ、衣服を置いた岩場に向かった。
「来いよ、詳しいことを相談しよう」
どちらが王だかわからないと思いながら、男は少女の言葉に従った。
その日の夜。日課となった軍議の楊で、少女は個人の意志としてフェルナン伯爵の救出に|赳《おもむ》きたいと発言した。
ただし、自分一人では無理なので、誰かに手を貨してもらいたいという条件つきである。
その場にいた人々は皆、一様に驚いていたが、この前のように血相を変えて止めたりはしなかった。ただ、ドラ将軍が静かに問いかけた。
「それは陛下のご命令か?」
「将軍。ぼくは誰の指図も受けない」
少女が断言し、国王も言葉を添えた。
「いかにも、バルドウの娘に命令などできるはずがない。頭を下げて頼んだのだ」
将軍がため息をつく。
フェルナン伯爵は確かに国王の後見人ではあるが、もともとは単なる地方貴族だ。危険を冒してまで救出するほどの価値はない。
むろん国王にとってもドラ将軍にとってもぜひとも生きていてほしい人だ。いつまでも改革派の手の中に残しておくのは許しがたいのだ。
しかし、個人の感情と戦略とはまったく次元の異なる問題であり、同列に並べることはできないのだということを、勇猛果敢で知られた将軍はよくよくわきまえていた。
それは牢暮らしを続けているフェルナン伯爵にしたところで同じことだ。コーラルとの決戦を前にして救ってもらおうなどとは露ほども考えていないはずである。
ドラ将軍は難しい顔になり、
「陛下のそのお心をはたしてフェルナンが喜ぶかどうか……」
国王は頷いて、
「もっての他だと、大事を控えた身でなんという愚かな真似をと怒られるだろうな」
あっさり言った。
「なんと言われようとかまわん。伯爵は今まで俺のために骨身を砕いてつくしてくれた人だ。見殺しにはできん。かといって連中の要求を呑むわけにもいかん。俺はバルドウの娘に伯爵の命運をゆだねようと思う」
「だから、ぼく一人では無理なんだってば」
ガレンスかおもしろそうに言ったものだ。
「さすがに難攻不落のコーラル城が相手では、バルドウの娘も手を焼くとみえる」
「そのコーラル城をぼくは見たことがないんだ、ガレンス。おまけに助けに行って疑われたんじゃ、目もあてられないよ」
「疑う、とは……伯爵がか?」
「そうだよ。君ならどうする。まわり中敵だらけの状況で、半年もの間、牢屋に閉じこめられているとする。そこへぜんぜん見たこともない、自分で言うのもなんだけど、こんな子どもか現れて助けに来たと言ったところで信用する? 最悪の場合、ぼくは伯爵に追い返されるよ」
「ふむ……」
ガレンスの横で髭の将軍がかすかに口元をほころばせた。
「いかにも。あの|堅物《かたぶつ》ならばそのくらいのことは言いかねんわ」
「堅物なんだ?」
「おお。陛下そっくりの石頭で頑固者で融通がきかなくてな。おぬしの言われるとおり、得体の知れない迎えでは断じて牢を動かんと言い張りかねん難物だぞ」
少女はやれやれと肩をすくめて、王を指してみせた。
「そういう人に育てられたから、あんな難物もどきができあがったのかな」
「大きな声では言えんがな」
苦笑しながら将軍は本当に小さな声で言った。
ワイベッカーの戦いを経て、どうやら、この少女を邪魔物扱いより一段格上げしたようである。
「しかし。おぬし、本気か?」
「何が」
「本気で単独に等しい人数でコーラルヘ潜入するつもりかと聞いている」
「三人でこの城を落としたのはついこの間のことだよ、将軍」
ドラ将軍はまた苦笑した。
「それを言われては返す言葉がないがな。一度、聞いてみたいと思っていた。|何放《なぜ》おぬしはそうまでして……」
言葉を探して口ごもる。
何故そうまでして陛下に忠義をつくすのかと普通なら尋ねるところだが、この少女の態度は自分たちが忠誠を誓う相手に対するものとは大きく異なる。
だからといって好意という感情だけで、命がけで他人の養父を枚いに行けるものだろうかとも疑問に思う。
ひとつ間違えば死ぬことになる危険な任務であり、この少女がそれをわかっていないはずはないのだが、将軍はそれ以上尋ねるのをやめた。
気まぐれを常とする勝利の女神ハーミアのように、もしくは運というものがしばしば偏向としか思えない方向に働いて物事を左右するように、この少女の無謀とも思える行動の理由をいちいち問しただしてもはじまらないと思ったのかもしれなかった。
「将軍は伯爵の救出に反対か?」
国王が尋ね、将軍は首を振った。
「この娘が単独に等しい人数で出向くというなら、反対する理由はありません。この娘一人欠けたところで軍全体には支障はありませんし、この娘の足ならばコーラルの城壁を飛べるかもしれません。またフェルナン伯爵を見殺しにすることは、やむを得ないのだとわかっていても気持ちのよいものではありません。しかし……」
「しかし、なんだ?」
「それでも危険なことには変わりありません。この娘が歳に似合わぬ手腕と|慧眼《けいがん》の持ち主であることは、今となっては認めるにやぶさかではありませんが、それでも生還の確率は五分以下です」
国王もほろ苦く笑った。わかっているからこそ、この頼みを口にするのに四日も悩みに悩んだのだ。
「俺も、自分かとんでもない卑怯者になったような気がするがな……」
それでもだ。それでも伯爵を捕えられたままでの戦はできない。そしてあのコーラル城に忍びこんで生きて戻れる可能性があるものがいるとするなら、それはこの少女ただ一人だ。
軍議に参加していた人々の熱い視線をいっせいに浴びて、少女は居心地悪そうに肩をすくめた。
「そんなに話を大げさにしないでほしいな。ぼくは改革派のやり方が気に入らないから、一泡吹かせに行くんだ。そんなに危険危険と言われたら一緒に来てほしいだなんて誰にも言えなくなるじゃないか」
「それだが、誰を連れて行く?」
「伯爵が味方と認めてくれる人で、コーラル城にも詳しくて目立だない人がいい」
言下に答えて、
「それに、ぼくと一緒に北の塔まで忍びこんでもらわなきゃならないんだ。また塀の上から飛んでもらうことになるかもしれない。それだけの度胸のある、身の軽い、腕の立つ人でなきゃ駄目だ」
ガレンス、がすかさず手を挙げた。
「俺ではどうだ。伯爵とも顔見知りだし、城へは何度も上かったことがある」
少女は難しい顔で首を振った。
「ガレンス。いくらぼくでも君が塀の上から降ってきたら、とても支えられないよ」
「では俺は?」
これはイヴンである。何につけ、おもしろそうなところには顔を突っこみたがるようである。
しかし、横から国王が口を出した。
「お前が顔を出したのでは伯爵が牢の中で卒倒するぞ。伯爵はスーシャの|悪童《あくどう》時代のお前しか知らないのだからな。第一、北の塔がどこにあるか知っているのか?」
肩をすくめてイヴンはロをつぐんだ。
少女はまっすぐドラ将軍を見つめて言った。
「誰か、部下の中から|推薦《すいせん》してくれないかな」
「なぜ、わしに頼む?」
「伯爵とは古い|馴染《なじ》みのようだから。将軍の部下なら伯爵も無条件で信用してくれると思うんだ」
低く笑った将軍である。
「そういうことなら、わし自身が出向いて行きたいところだが、そうもいかぬな」
「あたり前だ。それこそ目立ちすぎる。|御大《おんたい》が自分で動いたりするもんじやない」
「さよう。では誰にするか……」
あれがいいかこれがいいかと思案する将軍の横で静かに口を開いた人かいる。
「私が参ります」
シャーミアンだった。
その場にいた全員が唖然となった。
ラモナ騎士団長も副騎士団長も、イヴンも、むろん国王も驚いて止めようとしたが、シャーミアンは首を振った。
「今の条件に私はぴったりだと思います。リィを除けばこの軍勢で一番軽いのは私でしょうし、馬も剣も一通りは遺えます。コーラル城内の造りもよく承知しておりますし、なにより私か参ればフェルナン|小父《おじ》さまはたちどころに父の無事を悟り、私の言葉に嘘かないことを信じてくださるでしょう」
「シャーミアンどの! いかん!」
国王が血相を変えて立ち上、がったが、シャーミアンは年下の少女に向かって|真摯《しんし》な顔で問いかけた。
「私でよければ連れて行ってくれるかしら?」
「ほんとに危険な仕事なんだよ」
「ええ」
「半年もつかまっていてやっと逃げて来たばかりなんだろうに」
「同じ苦痛を今現在、小父さまも味わっていらっしゃるのよ。日も|射《さ》さない、身動きもできない地下牢での生活を半年も」
決意に満ちた顔で少女を見た。
「手伝わせてちょうだい」
少女は首をかしげて将軍を見た。
「借りて行っていいかな?」
大の男でも厳しい任務と承知のはずだが、ドラ将軍は即座に頷いたのである。
「喜んでお貸し申そう」
「将軍! 馬鹿なことを言ってはいかん! それこそ俺か父にどやされる!」
国王は蒼くなって叫んだが、将軍はどこ吹く風で言い返した。
「陛下。捕われている国王の後見人の救出という重大な任務に部外者の手ばかりを借りているわけには参りません。これはデルフィニアの問題であり、デルフィニア人の戦なのですからな」
「たった一人のご令嬢ではありませんか!!
吠えるような悲鳴をあげた国王にシャーミアンが笑顔で言ったものだ。
「いいえ、陛下。私はデルフィニア騎士の一人にすぎません。ご命令かありしだい、いつでも戦いに赴く覚悟は決めておりますし、お許しさえいただければすぐにでもコーラルヘ向けて|出立《しゅったつ》したいと思います」
「いや、いかん!」
やっとの思いでロにした頼みごとがとんでもない方向へ飛び火しつつあるのに国王は顔色を変えている。
「そんなことをさせるくらいなら、それこそ俺が自分で出向いたほうが、でなければ父を見殺しにするほうがまだましだ!」
少女が冷静に言った。
「落ちつけ、この馬鹿」
イヴンか大きく吹き出しかけて、やっと何とか呑みこんだ。
ナシアスとガレンス、それにシャーミアンの三人はもちろん聞かなかったふりである。
ドラ将軍と副官のタルボはそれこそ|獰猛《どうもう》な猟犬のように低く唸ったが、いちおうは沈黙をまもり、国王と少女とのやりとりを見守った。
「どうして反対なんだ。フェルナン伯爵への|通行手形《つうこうてがた》としてこれ以上の人はいないぞ」
「シャーミアンどのはお前と違ってれっきとした婦女子なのだぞ! しかもコーラルでは嫌というほど顔を知られている。北の塔への潜入など、とんでもない!」
少女は呆れたような顔である。
「お前、変なところで常識的だな。それとも何か? |大事《だいじ》に女の手を借りた情けない王だと言われるのが嫌なのか」
「そんな非難ならいくらでも浴びてやる! いいか、リィ。お前ならおそらく生きて帰って来てくれるだろうと信じることができる。だがシャーミアンどのはただの人間だぞ!」
「それならおれだってそうだ」
平然と言い返した少女に国王はもちろん、その場にいた全員か目を|剥《む》いた。
「少しばかり体か頑丈にできているだけで、魔法が使えるわけでもないし、不死身というわけでもない。危険という点ではたいして変わらない」
さらりと言われて国王が絶句している隙に、少女はシャーミアンに話しかけていた。
「縄登りができる?」
「ええ、得意よ」
「じゃあ、一緒に来て。壁を越える練習をしよう」
少女はさっさと席を立ち、シャーミアンも国にに|会釈《えしゃく》して後に続いた。
残された人々はあっけにとられて二人を見送り、国王は必死の|形相《ぎょうそう》で将軍に迫ったのである。
「ドラ将軍。なぜあんな馬鹿なことを!」
「あなた様こそ、あまり見苦しくあがくものではありません。ご自分で言い出されたことですぞ」
将軍はまっすぐに背筋を伸ばして国王を見つめたものだ。
「伯爵のことはあの娘たちに任せておけばよろしい。そんなことよりも私どもにははるかに重大な仕事があります。マレバを攻略することを考えねばなりません」
「しかし!」
「この|城塞《じょうさい》を攻める時にあなた様がおっしゃった言葉をそのまま返させていただきます。やらせてみて成功すればよし、失敗しても数千の軍勢のうちの娘二人です。なんら実害があるわけではありません。違いますかな?」
|愛娘《まなむすめ》をいともあっさりと死地へと追いやろうとする父親に、国王はなおも抗議の言葉を重ねようとしたが、将軍は髭の口元をかすかにほころばせて言ったのである。
「ご案じめさるな。あれは女ではありますか、私が手塩にかけて仕込んだ|愛弟子《まなでし》でもあります。特に身の軽さにかけては男どもよりはるかに上です」
イヴンが納得したように頷いた。
「そして力仕事はあの嬢ちゃんが引き受けるというわけですな」
「いかにも。あの娘ならば騎士十人分の働きを一人でするだろう。フェルナンにあの娘の言葉を信じさせる役目をシャーミアンが行えば充分だ。よけいな荷物を連れて行くことはない」
まじまじと自分を見つめている主君に気づき、将軍は武張った顔でまじめくさって言ったものだ。
「わしも勝利の女神を信じてみたくなりましてな」
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一方、少女は素早かった。重大な任務だからと深刻ぶる気も時間を無駄にする気もさらさらないようだった。
コーラルはデルフィニアの主要都市だが、人の出入りを制限しているわけではない。従って市内までは変装して潜りこむことができるはずだ。
同じ理由でコーラル城を囲んでいる三つの城壁のうち、第三城壁までは難なく入れる。
問題はその先である。
昼夜を問わず厳重な警戒と堅固な門に守られている第二、第一城壁を通過し、誰にも見|咎《とが》められずに間を占める長い敷地を走り抜け、王宮でも最深部に建っている北の塔に潜入し、牢獄の中のフェルナン伯爵を連れ出して城外へ脱出する。
あらためて並べてみると、とても可能なこととは思えなかった。シャーミアンは早くもくじけそうになったのだが、少女は|怯《ひる》む気配もない。
「北の塔の入口、伯爵の牢屋の入口、これには聞違いなく鍵がかかっているだろう。誰なら入れる?」
「誰ならって、リィ。誰も自由には入れないわ」
「ぜんぜん人の出入りがないってことはないだろう? 囚人に食事を運ぶ係とか、見廻りとか、そんなのはないの?」
「そう……そうね。確かに」
「そういうのはどこから出るの。本宮の中? それとも牢屋の中に詰所みたいなものがあるの?」
シャーミアンは途方にくれた様子で首を振った。
「私にはわからないわ。城内がどういうふうに機能しているのかは知りようかなかったのよ」
捕われの身では無理もない。
少女はすぐさま方針を変えた。捕虜を取り調べている係、中でも近衛兵団の調書を作っている係に端から頼みこんだめである。
「捕虜の中からコーラル城内、特に北の塔について詳しいものを選び出してほしい」
というのがその内容だった。
この少女の存在感、その言動の重みと信用度は国王軍では一気に高まっている。
どの取調官も胸を叩いて明朝までには連絡すると請け負ってくれた。
少女はその間も時間を無駄にはしなかった。ワイベッカー城の城壁を使って壁を越える練習をはじめたのである。
シャーミアンが、
「こんなに暗いのに練習をするの?」
尋ねると、
「本番も夜中なんだよ。明るすぎるくらいだ」
言い返したものである。
確かに北の塔への潜入は夜中に行うしかない。
そして行って帰ってくることを考えると、行きは二枚、帰りは三枚、一晩のうちに合計五枚もの城壁を越えなければならないのだ。
二人は食事もそこそこに城の外へ出て、城壁の真下に立ったのである。
リィは肩に束ねた縄をかけている。
ワイベッカー攻略の時とそっくり同じだっち違うのは一緒にいるの、がシャーミアンで、何をすればいいのか、少し不安な顔でリィを見ていることだった。
「いい、シャーミアン。壁を背にして、手をこう、しっかり組んで前で合わせて」
「こうね?」
「そう。ぼくが走ってきて君の手を踏む。そうしたらカー杯振り上げる」
「わかったわ」
シャーミアンは顔を輝かせて頷いた。そこは十七の娘だ。どんな重大事にも楽しさを見いだせるのは若さの特権である、
少女が懸念したとおり、シャーミアンは最初のうちは少女の身体を城壁の上まで運ぶことができなかった。大の男のウォルとは握力も腕力も違う。
その度に少女は途中で壁を蹴り返し、ちょうど、一蹴りで目的地に飛ぶことのできなかった猫のように空中で身を|翻《ひるがえ》し、見事に着地した。
「できるまでやるよ!」
「ええ!」
シャーミアンは必死だった。あらためて目にする少女の脚力に心底驚き、慣れない運動に戸惑いながらも必死だった。
シャーミアンも運動神経は半端ではない。こつを掴むのも早かった。
リィの跳躍力が人並はずれていることもあり、十回も繰り返すと、何とか城壁の上に立つことを得たのである。
見上げるシャーミアンの顔には|安堵《あんど》が広かったが、安心するにはまだ早かった。すぐさま上から細縄が降ってきた。
これならシャーミアンも得意だ。ほとんどか平原のロアに生まれ育った彼女だが、腕力を|鍛《きた》えることは騎士になるための初歩と言ってもいい。昔、父の教えを請うていた時にはさんざん、腕の力だけで一本ぶら下がった縄を登るようなことをやらされている。
比べれば足がかりにできる壁があるだけ楽なものだった。
若い女性としては信じられない速さで城壁の上へ立つと、少女がすかさず身を伏せるように身振りで示した。
「そんなところにつっ立っていたら見張りから丸見えだよ」
本番さながらに練習するつもりらしい。
シャーミアンは逆らわなかった。もっともなことだからだ。
「コーラル城の夜はどのくらい明るいのかな」
「一の|郭《かく》の私の屋敷からは、あちこちに|篝火《かがりび》が見えたわ」
シャーミアンは答えて、
「ただ、コーラル城の広さは並大抵のものではないから、すみからすみまでを照し出すことはとても無理ではないかしら」
そのあたりも近衛の兵士から聞き出したいところである。
「あとはこの縄を反対側に垂らしてすべり降りればいいわね」
「そう。君が先に降りる。そのあとこの縄を持ってぼくが飛び降りる」
「このまま下げていてはいけないの?」
シャーミアンは疑問に思った。少女は縄の先を|鋸壁《のこぎりかべ》の凸部分にぐるりとまわして縛りつけている。いちいち解くのはかなり面倒なはずだ。
「壁がひとつならこのままでもいいんだけど、もうひとつあるからね」
「それなら私が一本持って登るわ。そのほうが効率がいいはずよ」
「わかった」
少女はふとシャーミアンを見上げて尋ねた。
「フェルナン伯爵はどんな感じの人?」
唐突な質問に困惑の表情を浮かべたシャーミアンだが、久しく会っていない人の姿を思い浮かべて、言った。
「そうね、とても立派な方よ。もの静かで、博学で、武術の達人でもあって、でも少しもそのことを自慢なさらない、謙虚な方だわ」
少女は首を振って、いきなり立ち上がった。
「ちょっと来て」
塀の各所に設けられている詰所のひとつへすたすた歩き出す。シャーミアンは慌てて後を追った。
それ以上に慌てたのが詰所にいた兵士たちである。
見張るものはたいしてあるまいと、座りこんでの無駄話に明け暮れていたのが、いきなり少女とシャーミアンが顔を出したのだ。
「わっ!」
それでもシャーミアンの身分を認めて慌てて立ち上がり、敬礼する。
「い、いったいどこからいらしたんです?」
少女はそんな疑問は無視してシャーミアンに問いかけた。
「この中に伯爵と背格好の似ている人はいる?」
「そう……ね」
ぐるりと並んだ五人ほどの面々を見回して、シャーミアンは一人を指さした。
「もう少し小父さまのほうが細身かしらとも思うけど、この人が一番近いと思うわ」
それは二十歳そこそこの若者だった。シャーミアンより頭ひとつくらいは技きん出ている。
よく鍛えた長身だが筋骨たくましいというのではなく、引き締まった、敏捷性が際立って見える体躯だった。
「よかった。あんまり太い人じゃないんだな」
「ええ、それはもう。剣を持っていらっしゃらない時はちょっと騎士には見えないくらい温雅な方よ」
少女はその若者を上から下まで眺めまわしたので、見られているほうは実に居心地が悪そうだった。
「あの……何か?」
「剣を置いてついて来て」
わけかわからない様子の若者とシャーミアンを従えて、少女は先ほどの縄を垂らしたところまで戻り、そこで若者にこう言った。
「ぼくにおぶさってみてくれる?」
「はあ!?」
「いいから、早く」
と言われても、それでは失礼と断ってその背中にしがみつくわけにはいかなかった。自分よりはるかに身長の低い少女なのである。おぶさるというより乗っかるような形になってしまう。
それにもまして、先日の戦いで披露した働きぶりにより、この少女は地上に降りて来た、バルドウの娘であるとの噂がすでに兵士たちの間でまことしやかに囁かれはじめている。
崇拝を集めることは裏を返せば敬遠されることでもある。若者はぶるぶる首を振り、口ごもりな、がら|謹《つつし》んで辞退すると言った。
「それじゃ困るんだ。噛みついたりしないから早くして。でないと気絶させて担ぎ上げるよ」
若者はそれこそ震えあがったが、シャーミアンには少女の考えていることがよくわかった。伯爵を担いでこの壁を越えられるかどうか実験しようというのだ。
若者はおそるおそる少女の背中に取りつき、少女はあっさりとその身体を抱え上げ、しっかり捕まっているように命じて縄を降りはじめた。
「わ、わっ!」
「騒がない」
若者は宙に浮いている不安感からか、しっかり少女にしがみついている。ややあって地面に降りるのが通路にいたシャーミアンにも見えたが、少女は今度はその状態のまま縄をよじ登りはじめたのだ。
背中の若者は叫ぶのも忘れてあっけにとられている。
十三歳の少女が両腕の力だけで人の男を背負った自分の身体をぐいぐい上へと運んでいくのだ。
恐るべき|膂力《りょりょく》だった。
シャーミアンのいる位置まで戻ってくると、背中の若者は慌てて少女から飛び離れ、その場で直立不動の姿勢をとる。少女はうっすらと汗を浮かべた顔で笑いかけた。
「ありがとう。もういいよ」
若者は|脱兎《だっと》のごとく詰所へと駆け戻って行く。
その後ろ姿を見送り、少女はぼやいた。
「さすがに苦しいな。一枚ならともかく、壁が三枚、おまけに誰にも見つからないようにとなると……。できるかな?」
シャーミアンは少女の|強力《ごうりき》に唖然としながらも、不思議に思って問いかけていた。
「リィ。小父さまならばこのくらい自分でも……」
「腕が使える状態だったらね」
ごく自然に少女は言う。その意味を考えてシャーミアンは青ざめた顔になり、言葉を呑みこんだ。
半年もの間、太陽の当たらない地下牢で拘束されていたとなれば体力は著しく低下する。それにもまして改革派が伯爵に拷問を加えていないとは言いきれない。
「最悪の場合、伯爵は歩くこともできないとぼくは思ってる。だからシャーミアン。君は自分のことは自分でするんだ」
「もちろん……」
「忘れないで。ぼくはできる限り伯爵を助けようと思っているけど、他人の命と自分の命を引き換える気はない。もし、どちらかを選ばなければならない状況になったとしたら、ぼくは迷わず自分の命を取るからね」
シャーミアンは松明の明かりに照らされる小さな顔をじっと見つめて言った。
「それは……私や小父さまが足手まといになるようならば見捨てて行くということなの?」
「そうだよ」
年若い女騎士はずいぶん長い間、ほとんど幼いと言ってもいいような顔を食い入るように見つめていた。
ふたつの緑柱石をはめこんだその顔はきわめて自然であり、|傲慢《ごうまん》や|不遜《ふそん》は|微塵《みじん》も見られない。
脅しではなく、己の力を誇示したのでもなく、この少女にとって当然の哲学を正直に述べたまでなのだと理解せざるを得なかった。
長い沈黙の後にシャーミアンは頷いた。
「わかったわ。あなたの足手まといにはならないようにする」
「薄情なって言わないの?」
シャーミアンはちょっと笑った。
「言わない。そんなことを言える権利なんて誰にもないわ。あなたは……何と言うのかしら。好奇心や気まぐれでここにいる。だから去る時も気まぐれで去って行こうとするのでしょうね。でも、私にはあなたを責めることはできないわ。ここにいてとお願いすることもね」
「どうして?」
「運というものは本来そういうものだからよ」
真顔で言ったシャーミアンである。
リィのほうか驚いた顔になった。
「すごいこと言うね」
「違うかしら? 私はそう思うの。ロアの馬場であなたが弓を引くのを見た時から、いいえ、あなたが黒主にまたがって屋敷に戻って来た時から、ずっとそう思っていたわ。あなたは私たちに運を運んで来てくれたのだと、もしかしたらあなたは運そのものかもしれないと」
「……」
「運は人の努力で呼びこめるものでもなければ、つなぎ止めておけるものでもない。どこからともなくやって来て、人の手の決して届かないところで物事の左右を決していく。そういうものよ。とても歯がゆい、悔しい思いもするけれど、運なくして何かをなし遂げられる人はいないわ」
少女はくすりと笑った。
「この間は勝利の女神で今度は運? ぼくもずいぶんいろんなものに見立てられるもんだ」
シャーミアンは急いで言った。
「決してあなたを当てにしているわけではないの。あなたがいる限り大丈夫だなんて思わない。私は全力で私の仕事をするわ」
「そうしてくれると助かる。それに運なんてのは、当てにすると逃げて行くからね」
「あなたも?」
少女は今度は苦笑した。
なかなかこの女騎士は食えない人だと思ったのかもしれなかった。
「誰かに必要とされていると感じるのは嬉しいもんだよ。|傍《そば》にいてほしいと言われるのもね。でも利用されるのはまっぴら」
さらりと言う少女に女騎士は困った顔になった。
決してそんなつもりで言ったのではないのだが、この少女には年齢に似合わない|厭人的《えんじんてき》なところがある。
基本的に人を好まず、信用していないのだ。
「でも、今はあなたは小父さまを救いにコーラルヘ行ってくれるのでしょう?」
「うん」
「陛下と小父さまを再会させてあげたいと思ってくれているのでしょう?」
「心からそう思うよ」
シャーミアンは少女の両手を取り、その目をまっすぐに見つめて言った。
「こう言っていいのかどうか私にはわからないけれど……。感謝するわ。あなたにも、あなたをここへつかわして下さった闘神バルドウにも」
少女は困ったような顔をして黙っていた。
自分は神様なんかじゃない、と言いたかったのかもしれない。あるいはこの際、開き直って、当分の間は神様の娘をやるしかないかと思ったのかもしれなかった。
夜遅くまで少女の練習につきあわされたためか、シャーミアンが目覚めた時にはすでに太陽が昇っていた。
戦場の朝は早い。今のように小康状態が続いていても、日の出と同時に一日が動き出す。
慌てて身仕度を整え、部屋を出ると、そこに少女が立っていた。
「リィ。どうしたの?」
「君が起きるのを待ってたんだよ」
シャーミアンは赤くなった。
「いやだわ。起こしてくれればよかったのに」
「そうしたかったんだけど、ウォルがね。女の人の部屋へ押しこんだりするもんじゃないって言うんだ。だから待ってた」
「あら。それは、陛下に押しこまれては困ってしまうけれど、あなたならいいのよ。私に何か用事だったの?」
「その前に朝ごはんにしよう」
シャーミアンにも異存はなかった。
戦地の食事では|贅沢《ぜいたく》は望めないが、それでも肉と野菜をやおらかく煮たシチューで腹ごなしをしていると、イヴンがやってきた。
「おはよう。お嬢様方」
「いやみか、それ?」
平然と少女が間いかける。黒衣の山賊はくすりと笑って向かいあわせに腰を下ろした。
「夕べ決まったことだが、俺たちは今日の昼にはここを出発する。もちろん留守役は置いていくが、いよいよマレバ奪還に動き出すことになる」
シャーミアンが食事の手を止めてイヴンを見た。
彼女もすでに一個の騎士として何度か戦に赴いた経験を持っている。現にこのワイベッカーの戦いにおいても勇敢な働きを見せた。
しかし、今度の戦はかつてないほどの激戦になるに違にいない。
「マレバを、すんなりと解放できるでしょうか」
イヴンは両手を広げるだけで答えない。その仕草とひそめた|眉《まゆ》は、前途は多難であると雄弁に語っているようだった。
ワイベッカーで不意を食らい、不覚を取ったことをコーラルはもう知っていよう。国王の次の狙いがマレバであることも承知のはずだ。
当然、かなりの戦力を差し向けてくるはずである。
少女が真摯な顔で言った。
「手ごわいだろうね」
「まあな。だが、そんなのははじめからわかりきってることさ」
|他人事《ひとごと》のような口調である。
それから|碧《あお》い目に少しばかり責めるような表情を浮かべて少女を見た。
「しかし、この肝心な時にいてくれないってのは、バルドウの娘にしてはちょいとばかりもの足らねえな」
「急所を押さえられたままの、役に立だない総大将を担いで戦うのとどっちがいい?」
イヴンはふたたび肩をすくめてみせた。今度の仕草を翻訳すると、つくづくかわいくないガキだ、である。
見ていたシャーミアンは口元に笑い、が浮かんでくるのを感じていた。
この少女が女らしくないのはまだしも、とても子どもとは思えない。イヴンとのやりとりを聞いていると、同い年の喧嘩っ早い若者だちか威勢よく語りあっているようにさえ聞こえるのだ。
「イヴンどの。陛下をよろしくお願いいたします」
「あなたこそ、この暴れ馬にあまり振りまわされんように。まともな神経じゃつきあってられん奴ですからな」
つとめて明るく言って立ち上かったイヴンだが、ふと振り返った。
「そうだ、リィ。二の丸の四階の調書係からお前に伝言だ。ちょうどいいものが見つかったから来てくれとさ」
「それを先に言ってもらいたい」
少女もシャーミアンも急いで食事をすませて立ち上がった。
二の丸四階には捕虜の中でも特に重要な人物を押しこめてある。出向いた少女に係官は丁寧に挨拶して案内に立ってくれた。
少女の後ろにはシャーミアンと、どういうわけかイヴンが一緒である。
「よほど人の後をついて歩くのが好きなんだな」
少女がからかったが、
「ご婦人方だけで|虜囚《りょしゅう》に会うのは危なかろうと思ってのことだぜ。感謝してもらいたいな」
と、やり返した。
少女の希望を受けて、調査官は身分の上下を問わずに捕虜に問いただしたらしい。うまい具合に以前、北の塔に勤務していた将校がいたのだそうだ。
「もっともかなり若い時分のころのようで、お役に立ちますかどうか……」
そう言いながらひとつの部屋の鍵を開けてくれた。
礼を言って中へ入った少女だが、そこにいた人を見て、なあんだと声をあげた。
ルカナン大隊長たった。
相手のほうはそうはいかない。腕に自信のあった自分をこてんぱんに打ちのめした怪力力少女がいきなり顔を出しためだ。思わず飛びのき、腰に手をやり、武装解除されていることにあらためて気づいて何とも無念そうな唸り声をあげた。
「何の用だ。化け物娘」
少女の背後でイヴンが吹き出した。
うまいことを言うと思ったのかもしれない。少女は肩をすくめて、座るように身ぶりで示したが、大隊長は疑わしげな表情と構えをとこうとしない。
大隊長ともなると扱いも悪くなかった。作りつけの寝台があり、壁にはつづれ織りが掛けてあり、大きな窓からは外か望める。
少女が不思議そうに言った。
「牢屋には見えないな」
その目的がわからないだけに不安もひとしおだったのだろう。ルカナン大隊長は再度わめいた。
「何の用だと言うのだ。化け物!」
「グリンダだ。あんまりわめくな、|猪《いのしし》男。|卑《いや》しくも騎士たるものは捕えられても見苦しくあがいたりしないものだと聞いてるぞ」
イヴンが笑いながら尋ねた。
「それはあいつの言ったことか?」
「ううん。ドラ将軍。今回はこのようなことになったが、勝敗は時の運であり、|各々《おのおの》の|技倆《ぎりょう》が劣っていたわけでは決してないのだから恥と思う必要はない。それよりも、かくなる上はすずしく覚悟を決めて、名を|貶《おとし》めることのないようにふるまうことこそ騎士の|誉《ほま》れである。ってね。やっぱり、だだをこねてる捕虜に向かってそう言ってたよ」
ルカナン大隊長は間接的にとはいえ、だだをこねていると言われたのかよほど腹に据えかねたらしい。
どかりと寝台に腰を下ろして少女を睨み据えてきた。
「確かに今の俺は貴様らの捕虜だ。尋問の権利は貴様らにある。しかし、何をされようと主君の不利になるようなことは俺は決してロにせんぞ!」
「そんなことじゃないよ。北の塔のことをちょっと教えてもらいたいんだ」
意外なことを聞かれて、今度は大隊長のほうが不思議そうな顔になった。
「どうしてそんなことを知りたがる?」
「あそこにフェルナン伯爵か捕まってるでしょ」
「いかにも」
「助けに行こうと思ってね。そめためには警備体制がどうなってるのかを確かめないと……」
最後まで言い終えるより先に、大隊長が突拍子もない声を張りあげた。
「助けに行くだと!?」
「そうだよ」
「北の塔に収容されている囚人をり!? 馬鹿な? 不可能だ!」
「そう頭から決めつけられたら話が進まないんだ。猪男」
「誰が猪だ!近衛兵団第一軍第二連隊所属大隊長ルカナンに向かって失敬な!」
少女はため息をついた。
少しばかり荒療治が必要だと判断したのだろう。
ゆっくりと立ち上がり、大隊長を見つめたまま、近づいて行く。相手が怯んでのけぞったところを首根っこを掴んで寝台から引き剥がした。
「うわっ!?」
そのまま大の男の身体をずるずる引きずり、なんと窓から放り投げたのである。
「リィ!?」
見ていたシャーミアンが悲鳴をあげたが、少女は振り返って笑ってみせた。
「大丈夫」
放り投げたと見えたが実際には窓の外にぶら下げただけだったらしい。|襟《えり》を掴んで大の男の体を宙づりにし、今度はよっこらしょ、とばかりにその体を持ち上げて床の上に戻してみせた。
大隊長は首を押さえてへたりこんでいる。
少女はそんな様子を平然と見つめている。
気の毒になったのかイヴンが横から口を出した。
「申し訳ありませんな、大隊長どの。このバルドウの娘はちょいとばかり人の礼儀に|疎《うと》いもんでね」
「おれは精一杯礼儀正しくふるまってるぞ。なのにさっぱり人の話を聞こうとしない礼儀しらずはこの男のほうだ。不可能だとわめくならその理由をきちんと説明してもらおうじゃないか。でないと今度は本当に窓から放り投げるからな」
その大隊長はひとしきり|喘《あえ》ぐと、ほとんど恐怖にも似た目で少女を見上げたものだ。
|軍神《バルドウ》の娘だという言葉を信じたのかどうかはわからない。だが、少なくともただの娘でないということだけは理解したようだった。
シャーミアンも少女に代わって非礼を詫びた。
「申し訳ありません。ルカナンどの。私はドラの娘、シャーミアンです」
ドラ将軍の名を聞いて、大隊長は急にかしこまった。なるほど先代の国王でさえ一目置いたという豪傑ぶりは墟ではないらしい。兵土たちの間での影響力もかなりのものがあるようだ。
「もしも、ルカナンどのの規律に反しないというのでしたら、どうか、知る限りの情報を私たちに提供してはもらえませんでしょうか。コーラルから先日使いが参りました。フェルナン伯爵の命が惜しければ降伏しろというのです」
イヴンも苦い声で言った。
「まったく、ちょっとでも恥を知ってりゃ、そんなことは言えないはずですがね」
少女が締めくくった。
「連中の思いどおりになるのはたいへん|癪《しゃく》にさわるので、伯爵を助けに行くことに話が決まったんだ。協力してくれないかな?」
大隊長はどうやら落ちついたようだが、その間もなんとも薄気味悪そうな目で少女を見やっている。
「お気の毒だとは思うが、それは無理というものだ。バルドウの娯だろうが化け物だろうが、北の塔から囚人を救い出すことなどは不可能だ。素手であの塔を打ち壊すことかできるとでもいうのでない限りはな」
あくまで頑固な大隊長だった。少女は少しも表情をゆるめずにさらに尋ねる。
「だから、その理由は?」
「まず、北の塔は一の郭内、王宮の最深部に建っている。それだけで半分以上、絶望的だ。見咎められずに近づけるはずがない」
「じゃあ仮に一の郭まで無事に行けたと仮定しよう。その先はどうなる?」
「北の塔の二重罪が待っている。鋼鉄製の、中からでなければ開かん扉だ」
「中から?」
「そうだ。中へ入る際には覗き窓から看守を呼び、宮姓名を告げる。その上で看守が中から|錠《じょう》をはずす。たとえ国王だろうと外から自在に北の塔へ足を踏み入れることはできんのだ」
それからルカナン大隊長は北の塔の造りを綿々と語りはじめた。
四階からなる塔の地上部分には、明かりとりの隙間か設けられているだけで窓はない。各階は兵士たちの居住区や調理場、取り調べ室などに使われている。必然、牢として使われているのは地下部分ということになるが、地上部分から地下部分へ行くには厳重な鍵のかかった鉄格子を二か所通過しなければならない。さらに地下は迷路のように入り組んでおり、慣れた看守でなければ目的の牢にたどり着くこともできない。また囚人たちはすべて個室に入れられており、厳重を期す場合は牢獄の中にあっても手足を鎖につなぐ場合があるという。
「つまり地下の囚人と再会し、自由の身にして運れ出そうと思ったら最低でも五つの錠の鍵が必要ということだ。しかしな、合鍵など作れるものではないし、まして塔の外で手に入れようとしても不可能だぞ。それらの鍵はすべて北の塔の内部に収められているのだし、持ち出しは厳禁、係のものでさえ単独で勝手に扉を開けることはできん。第一、あの塔自体、よほどの理由がない限り近づくことも許されん。これでどうやって地下の囚人を救い出せる?」
大隊長の口調には呆れ返った響きがある。
聞いていたシャーミアンもイヴンも厳しい表情になっていた。想像以上の難関だった。
少女が訊く。
「囚人への食事や見廻りは?」
「言ったろう。すべて塔の中で行われる」
「だけど、その塔詰めの兵隊さんたちだって、まさかずっと北の塔で生活しているわけにはいかないだろうに」
「いかにも。調査官、看守、調理係、合わせて十人ほどが詰めているが、交代は一日一回、正午に行われる。囚人の出し入れが行われるのもこの時だ」
「毎日入れ替わり?」
「それこそあんなところに何日も籠もっていたのでは神経がもたん。囚人のほとんどが処刑を待たずに発狂するようなところだぞ」
シャーミアンがきつく唇を噛んだ。そんなところにフェルナン伯爵は半年も閉じこめられているのだ。
「引き継ぎは塔の外、それとも中?」
「中だ。北の塔の備品は書類一枚たりと外へは持ち出せん。出て来た塔詰めの兵士たちも外で持っていた兵士たちにより、身体検査を受ける。また、一度塔へ入った当番は何があろうと次の正午まで塔を出てはならない規則になっている。破れば厳罰に処せられる」
さすがに少女も大きく|呻《うめ》いて顔を覆ったものだ。
「異常だ。いったいなんだって、そんなに徹底的に足下を警備しなきゃならないんだ?」
「自由放免にしては国にとって実に都合の悪い人間ばかり収容しているからだろうよ」
あっさりと言い放ったルカナン大隊長に、少女は珍しいものを見るような目で相手を見た。
「フェルナン伯爵も?」
「あの人は一種の見せしめだ。お気の毒なことだ」
素っ気ない言い方だったが、少女の瞳はますます珍しげな色になった。
「さっき、主君の不利になるようなことは決して口にしないって言ったね」
「言ったとも」
「主君であるはずの国王に剣を向けておいて?」
いかつい顔のルカナン大隊長ははじめて目をそらした。|撫然《ぶぜん》と言った。
「俺は……命令に従ったまでだ」
苦々しい口調だった。
少女はあらためて自分が捕えた男の顔をまじまじと見つめていた。
「その言い方だと好きでやったわけじゃないらしいな」
「いたし方ない。俺は騎士であり、同時に軍人だ。近衛大隊長としての務めがある」
この点が近衛兵団と地方領主軍の大きな違いだった。
領主たちは大勢の配下を従えているが、その関係はそれほど厳格なものではない。部下は部下で小さいながらも一城の主であり、自分の身の安全と財産を守ってもらうために、より大きな主人につくすのだ。従ってこの主人は見こみなしと見れば寝返りをうつ例も珍しくない。
対して近衛兵団は全員が職業軍人である。
一兵卒といえども採用に関しては入隊資格を問われ、正式の訓練を通過したものでなければ近衛兵を名のることは許されない。上官の命令には絶対服従が原則であり、違反した時の規律も相当に厳しく定められている。
それでいてなり手が絶えないのは、近衛兵団に属することが何よりの選良の|証《あかし》であり、てっとり早い出世の方法でもあるからだ。平民出でも連隊長まで大出世した例もある。
「大隊長は今の司令官に忠誠を誓っているのか?」
何気なく尋ねた少女だが、
「あのサングめに忠義だとり!?」
あまりの勢いで吠えた大隊長に思わずのけぞった。
「あんな恥知らずのろくでなしの騎士の風上にもおけんような最低の豚に、紫紺の|外套《がいとう》を纏わせておくだけでもはらわたが煮えくり返るというのに! 誰が忠義など誓えるか!!」
額まで怒りで真っ赤にしている。
その剣幕のものすごさには三人のほうがあっけにとられたくらいである。
ややあって質問を発したのはシャーミアンだった。
「もしかしてルカナンどのは、今の司令官と以前は同僚の間柄だったのでは?」
「そのとおりです。あやつはつい半年前まで、私と同じ第一軍に属する大隊長でした」
相手がシャーミアンなのでいくぶん丁寧な口調になった大隊長だが、すぐさま強い調子で誰にともなく言ったものだ。
「その頃から手柄のためなら何でもやる|下衆《げす》ばった奴だと評判だったが、国王を裏切った功績により近衛司令官ときた! 開いた口が塞がらんとはこのことだ!」
よほど悔しいのか腹だたしいのか、大隊長はぎりぎりと歯ぎしりしている。
イヴンが何げなく尋ねた。
「あんたと同じように思ってるお人はさぞかし大勢いるんでしょうな」
「もちろんだとも!」
「にもかかわらず国王討伐に乗り出してくるってのは命令第一とはいえ、どうかと思いますぜ?」
「他にどんな仕様がある? 拒否すれば俺は降格、代わって部下の誰かが三星の|兜《かぶと》をかぶる。それだけのことだぞ」
吐き捨てるように言う大隊長だが、見事な真理である。
少女の、緑の瞳に興味の色が浮かんでいた。
「じゃあ、大隊長は、できればウォルに王座に返り咲いてもらいたいと思ってる?」
「国王がアヌア侯爵を司令官に再任してくださるというのならな」
「その名前は以前にウォルから聞いたことがある。どんな人?」
大隊長は呆れたように目を見張っていた。
「お前、いったいどこの娘だ。仮にも国王を呼び捨てにするかと思えばデルフィニアでももっとも名誉ある名のひとつを知らんとはり!?」
「大隊長。ぼくはデルフィニア人でもなければ、この世界の人間でもない。国王も盗賊もぼくには意味がない。何か値打ちがあるのか、何か偽物なのか、自分で判断して決めている」
深い緑の瞳がまっすぐに大隊長を見つめている。
「君はなかなか骨のある武将のようだ」
「化け物にほめられても嬉しいとは思わんぞ」
「ぼくに斬りつけてきた時の力も剣さばきも見事なものだった。ガレンスには少しばかり引けを取るかもしれないが、たいていの相手なら力でねじ伏せることができるだろうよ」
大隊長は何とも形容しがたい顔になった。
「ガレンスとは、ラモナ騎士団副団長のことか?」
シャーミアンが言葉を添えた。
「この少女はそのガレンスと力比べをし、勝利を収めたのだそうです。副団長本人から聞いたことですから間違いありません」
ルカナン大隊長はますます妙な顔になった。
「本当なら貴様、人ではないな」
「そうだよ」
あっさりと頷いて、さらに言う。
「君ほどの勇士がふたたび司令官にと願っているのだから、そのアヌア侯爵もさぞかし立派な人柄であり、並はずれた武勇の持ち主なんだろうね」
「無論のことだ」
少しばかり胸を張って断言した大隊長である。
「こちらの令嬢のお父上にも聞いてみるかいい。お父上ご自身の武勇も火のごとく、その栄誉はあまた|煌《きら》めく星のごとくだが、その将軍にして他に人なしと称えられたほどの名指揮官でいらっしゃる」
アヌア侯の他の誰に近衛兵団の司令官が務まるだろうかと賞賛したというのである。
それを語ったのが国内でも勇猛無比の豪傑として知られるドラ将軍であったというのが、ルカナン大隊長にとっても何よりの自慢らしい。
己のことのように誇らしげに語ったが、ここでまた苦い顔になった。
「我々とて同じ思いだった。五つの軍団、二十の連隊、八十の大隊から数百に至る小隊まで、あの方を司令官とあがめることに何の異存もなく忠義をつくしてきたのだ。その方が現在では偽王に荷担したかどで罪人扱い、|蟄居《ちっきょ》の身のとある! それだけでもあまりあるのに、あの豚が、手柄のためなら同輩を押しのけ、部下をも見殺しにするような奴が近衛兵団長だぞ! デルフィニアに唯一無二の紫紺の外套は断じてあんな奴にふさわしいものではない!アスア侯爵の背を飾るためにこそあるものだ。それを今ではあの豚めが得意げにひらめかし、ふんぞり返って歩くのを、我々は指をくわえて見ていなければならん!!」
「だったら取り返せばいい」
当然のことのように言った少女を、大隊長はふたたび疑わしげな目で見つめたものだ。
「いやに自信ありげだが、何か策でもあるのか」
「あるとも。元凶の改革派を叩きっぶしてしまえばいい。ウォルなら必ず、そのアヌア侯爵を近衛兵団の司令官に再任するはずだ」
大隊長は舌打ちを洩らした。
「途方もないことを言うものだ」
「どうして? 大隊長がそれほど毛嫌いしている男にそんな名誉を与えている改革派だぞ。それとも、ウォルはそんなに見劣りする王様か?」
「俺が言うのはだ!」
焦って声を大きくした大隊長である。
これは慌てて否定したと受け取れる。
「俺の言いたいのは今の改革派を相手にしたところで勝ち目はないということだ。近衛兵団はもちろん、コーラル近辺の領主はすべてペールゼン侯爵に手懐けられ、味方を約束している。国王がどんな心づもりでおられるか知らんが、マレバを突破することなど不可能だ」
「よほど大隊長は不可能という言葉が好きらしいが戦に絶対も不可能もない。優位に立っているほうが必ず勝つとは限らない。そんなことは君ほどの武勇の持ち主ならよく知っているはずだ。それに、必ず勝つとわかっている戦に参加していくら手柄をたてたところで、その働きはほとんど報われないぞ。勝ってあたり前なんだから」
意外そうな顔つきになった大隊長だった。
「む?」
「遂に劣勢に見えるほうに味方して、その軍勢を勝利に導いてやったとなれば、大将の感謝も一とおりでないだろう。どんな恩賞も思いのままだ。それこそ騎士の誉れであり、働きの見せどころというもんだ。そうじゃないか?」
いきなり話題を変えられ、意見を求められて、大隊長は真剣に考えこんでいる。
「まあ……確かに」
「ウォルは改革派を倒そうと思っている。そのために一人でも多くの優秀な味方を欲しがっている。もちろん働ぎには充分な恩賞をもって報いてくれるはずだ。といったって、君がいくら活躍したところでまさか改革派のように司令官の|位《くらい》をとは言わないだろうが、連隊長の地位くらいなら快く約束してくれるだろう。あいつはそれほど見る目のない王様ではないからな」
大隊長の目がぎょろりと少女を|睨《にら》んだものだ。
「貴様、何が目当てでそんな|上手《じょうず》をぬかすのだ」
「なぜおだてられていると思うんだ?」
問い返されて今度は黙りこんだ大隊長である。
「ぼくは本当のことを言ってるだけだ。改革派はこのまま君を飼い殺しにする。君が心から慕っている人は地位も名誉も剥ぎ取られて軟禁されたまま、心底卑しんでいる人間は最高指揮官の外套を纏って大きな顔をしたままだ。ウォルは違う。豚は豚小屋に、アヌア侯爵を元どおりの司令官に、そして君を連隊長にする。どっちがいい?」
大隊長は苛立たしげに膝を打った。どちらがいいかと聞かれては答など決まっている。
しかし、こんな小娘の甘言にうかうかと乗れるかと不信の表情もあらわにしている大隊長に、少女はさらりと言ったのだ。
「もちろん、大隊長が命を借しんで安易な道を選ぶというなら止めないし、そんなものをわざわざ味方に引き入れようとも思わないけど」
この言葉は相手の心を痛烈にえぐったのである。
どだい、騎士というものは戦がなければ成り立たない商売だ。勝てばおおいに誇りとし、負ければその恥辱を拭うことに懸命になる。そんな連中にとって臆病者と言われることは死の宣告にも等しいのだ。
大隊長ははた目にも屈辱で顔を真っ赤にし、歯を剥き出して吠えた。
「俺を臆病者と、なぜ貴様に言えるのだ!」
「しなければならないことがわかっているのにしようとしない。望みを果たす方法がわかっているのに実行に移さない。これを腰ぬけと言わずして何と言うんだ?」
大隊長は怒りのあまり、大きな体から湯気を噴かんばかりだった。その眼光は生身の人間を射殺すかのような勢いで少女を凝視しているが、もちろん、少女はびくともしなかった。
見ていたシャーミアンのほうがはらはらしていたくらいである。
長い長い沈黙のあとにルカナン大隊長は唸るように言ったものだ。
「……そこまで言われては引き下がれん」
「じゃあどうする?」
「ぜひとも貴様に俺の意気を見せつけてやらねば気がすまん! 地獄の底までもつきあってやるわ!!」
少女は満面に笑みを浮かべた。
「よく言った。さっそく、その地獄の底へつきあってもらおうじゃないか。ルカナン大隊長」
言うなり立ち上がり、一緒に来るように身ぶりで示した。
こうなれば気合いだ。後には引けない。犬隊長は憤然と立ち上がり、少女に続いたのである。
イヴンとシャーミアンの二人はその様子をあっけにとられて見ていたが、そのうち山賊のほうがしみじみと言ったものだ。
「そら恐ろしい奴だぜ。もしかしたらあいつ、舌先ひとつで軍勢を自在に動かしちまうんじゃないか」
「頼もしい限りですわ」
女騎士は真顔で頷き、山賊を苦笑させた。
あの少女が大隊長を巧みに|煽《あお》って火をつけたのは何のためなのか、二人は興味をもって後を追った。
まだ肩をいからせている大隊長を連れた少女は、その足で国王のところへ赳いたのである。
出立間近の慌ただしい状態だったが、少女はすんなりと国王の前へ通された。今では馬廻りだろうと、国王の親衛隊だろうと、この少女を特別に扱っている。
しかし、一緒にいた大隊長の緊張と困惑はかなりのものだった。今は流浪の身の上とはいえ、戴冠式をすませた正式の国王に何の心構えもなしに突然対面することになったのだから、自己紹介をするのがやっとの有様だった。
一方、少女のほうは北の塔を攻略する策が立ったと報告し、国王その他の勇士たちの耳をいっせいにそばだたせたものである。
その楊にはナシアスとドラ将軍がいた。並々ならぬ様子で身を乗り出してきた。
「その方策とは?」
「こちらの大隊長が協力してくれるそうだ」
一気に血の気を失った大隊長である。が、これだけの人物か見ている中で大声を張りあげるわけにもいかなかった。
青くなったり赤くなったり大忙しの大隊長を尻目に、少女は冷静に話している。
「こちらの大隊長は以前は北の塔に詰めていたことがあるそうだ。塔の内部にも警備の事情にも詳しい。現在の身分も近衛兵団の将校とまことに都合がいい。なんとかこの人の力を借りて中から扉を開けさせてみせる」
「ちょっ……。ちょっ、ちょっと待ってくれ!!」
ようやく悲鳴のような声を発した大隊長であるが、少女は冷たく、それでいておもしろそうに、自分よりはるかに大きな相手を見上げたのだ。
「騎士に二言はないはずだな。さっき、確かに大隊長は地獄の底までつきあうと断言したぞ」
「言ったとも! しかしだ!」
大声で吠え、それから身分の高い人々の前だということに気づいて慌てて態度を改め、国王に話しかけた。
「その、こちらにお味方するに関しましては、私も近衛兵団の将校の一人であります|故《ゆえ》、本来の主君である陛下におつくし申すに異存はないのでございますが、しかしながら北の塔への侵入は、いささか了見が違い申す。私がこちらの捕虜になったことはすでにコーラルも承知のこと。その上でのこのこと舞い戻り、開門願うと声高に呼ばわりましたところで、正門どころか大手門さえもくぐることかないません。合戦後、すぐに駆け戻ったなればともかく、四日も間をおいてでは、私が返り忠したことを、どんな愚かものでも悟るに違いありません」
「門を通る必要はない」
少女が言った。
「何としてでも、門を通さずに、君を北の塔の前まで運んでみせる。必要なのは近衛兵団大隊長という君のその身分なんだ」
わけがわからない様子の大隊長に、国王がためらいがちに話しかけた。
「しかしだ、大隊長。かなりの危険をともなうが、それでも行ってもらえるのだろうか。こんなことはバルドウの娘ならばともかく、人の身には頼めんと思っていたが……」
「いや、その……。私は……」
しどろもどろになっている大隊長の横で、少女がさも感心したように頷いた。
「ルカナン大隊長は、ご自分のことよりも、近衛兵団本来の司令官であるアヌア侯爵が名誉を奪われて謹慎させられていることにたいへんお怒りなんだよ。紫紺の外套だっけ? 司令官だけが身につけることを許されるものだそうだけれど、それに触れる資格もないはずの今の司令官が得意げに纏っていることに、心底、義憤を感じていらっしゃる。そうだよね?」
ドラ将軍とナシアスがそれこそ心からの賞賛を込めて大隊長を見たものだ。
「いかにも、そのとおりだ。今のデルフィニアに、アヌア侯爵の他に近衛司令官の地位を拝命できるものなど誰もおらんのだ」
「ルカナン大隊長。うかつにも君のような|気概《きがい》のある騎士が、まだ第一単にいたとは知らなかったよ。 なにしろ君の同輩の所業があまりに非道をきわめていたのでね。許してもらいたい」
もはや大隊長は身動きもできない。滝のような冷や汗を流して、ただひたすらかしこまるのみである。
少女が駄目を押した。
「そのためならば北の塔への潜入も|辞《じ》さないと申し出てくれた。見上げた心がけだ。その勇気も忠誠心も報奨されてしかるべきだと思うんだけど……」
国王はその先を察して言った。
「無論のことだ。大隊長に止めておくには惜しい気概だ。いまや敵地のど真ん中のコーラルヘ潜入して働いてくれようというその心意気はいくら称えても過分ということはないと思うぞ。あいにく今はこのとおりの身の上ゆえ、何も形にして報いることができないのだが、俺か王座を取り戻したその暁には、貴公に一連隊を指揮する身となってもらうことをこの場で正式に約しておく」
「はっ! 身にあまるお言葉、光栄に存じます」
大隊長は満面に汗を浮かべている。こうなってしまってはもう協力するしかない。なんとも恨めしげな目で横にいる少女を見やったが、すましたものだ。
「ですがその、かくなる上は身を粉にして働く所存でありますが、陛下にはいかにして、北の塔を攻略なさるとおおせられますのでしょうか」
国王は笑って少女を指した。
「それはこの娘の頭の中にあることだ。大隊長もよく御存じだろうが、これはバルドウが我らにつかわしてくださった娘。我らの勝利も敗北も、それはこの娘しだいだ」
「話を大げさにするなっていうのに」
少女はちょっと渋い顔になる。国王は笑って、その小さな肩を叩いた。
「すまんな。だが、俺は、お前がいてくれることが嬉しいのだ。お前を見ていると力が湧いてくる。勝利を信じて戦いに赴くことができる。まあ、騎士たるものは常にそうあるべきなのは言うまでもないが、本来、生き死にの場に挑む者は、軍神の祝福を受けてはじめて、そうした心境になれるとされている。ところがお前はバルドウに祈る以上の効果がありそうだからな」
少女は疑わしげに自分の姿を見下ろした。
「そんなにありがたみのある格好をしているとも思えないんだけどなあ。念のために本物のバルドウにも祈っといたほうがいいと思うぞ」
これには皆、吹き出した。
出陣はもう間近に追っている。ナシアスもドラ将軍もすでに身仕度をすませ、国王の親衛隊となったタウの男たちが馬の用意ができたことを知らせに来た。
国王つきの小姓たちもそれぞれ槍持ち、旗持ちと控えている。国王自身も壮麗な戦装束を纏い、あとは軍勢の中心に立つだけだ。
少女もまた手早く旅仕度を整え、新たに同行することになったルカナン大隊長に剣を返し、馬を用意してくれるよう|小者《こもの》に言いつけた。他にシャーミアンの配下にある小隊もコーラルヘ同行することになっている。
「リィ」
立ち去ろうとする少女に国王が声をかけた。
振り返って首をかしげたその様子はどう見ても十三歳の少女でありなから、両の瞳にはまだ見たこともない大都会、今は敵地の心臓部へ出発する意志が見える。
国王は何か言いかけ、しかし、結局は無言のまま深く頷いてみせた。言葉にしたくともできない思いをすべて込めてのことだった。
少女も頷き返して言った。
「マレバで会おう」
彼らはこれから別々の道筋をたどる。
国王はできるだけゆっくり進むつもりでいるが、無事にマレバヘたどり着けるとは限らないのだ。その前に改革派か攻撃を仕掛けてきたら、彼らの命運はそこでつきると見ていい。そして少女、が無事にフェルナン伯爵を連れて生還できる可能性はもっと低い。
しかし、少女は二度は振り返らずに、シャーミアンと何ごとか話しながら外へ出て行った。
「おい、王様」
いつの間にか傍にいたイヴンが、少しばかり苦い声で話しかけてきた。
「気持ちはわかるが、あいつのことばかり心配しているわけにはいかないんだぜ。俺たちも覚悟を決めなきゃならん」
「もっともだ。しかし……」
国王は苦笑して、
「いかんな。あの娘と行動を共にするようになったのはついこの間のことだというのに、離れ離れになることが無性に耐え難い。これでは頼っているのだと責められても反論できんわ」
イヴンは無言で肩を諌た。人のことを心配してる楊合じゃないだろうにとでも言いたげだった。
窓から外を見ると少女たち、ちょうど外へ出て来ところだった。
この最上階からでもあの髪は見|見紛《みまが》いようがない。
黒ずくめの親衛隊長は低く笑って言った。
「あいつなら大丈夫だ。必ずやってくれるだろうよ。それでも心配なら、俺たちも祈ろうじゃないか。あの娘の無事と成功をさ」
「我々の武運もな。今度の戦はバルドウの娘なくして戦わねばならんのだからな」
不敵な口調だった。
イヴンはその決意のほどに深く満足しながらも、生来のちゃめっけを見せて、今は主君となった幼なじみに尋ねていた。
「なんだい。この王様は。俺がいるだけじゃ不安かい?」
太い笑い声が返ってくる。特大の挙がすらりとした山賊の腹を打つ真似をした。もちろんこちらだって相手の身分などおかまいなしにやり返す。
やがて進軍準備の完了を知らせる貝の音が城内に響きわたった。
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3
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ワイベッカーにおける政府軍大敗の知らせはその日のうちにコーラルに届していた。
ちりぢりになった兵士たちはそれぞれの領地へ逃げ帰っている。近衛兵団はほとんどが捕虜となり、従ってコーラルヘこの報告を持って来だのは戦の見届け役の伝令兵だった。
彼らは戦に巻きこまれないように距離を置いて成り行きを窺う。今度の場合も城のある中州へ渡らずにいたので捕えられずにすんだらしい。
彼らは彼らの目で見た事実を、感情を技きにして客観的に述べた。
友軍は圧倒的優勢であったこと。しかし、城の内部から火が出だのを契機に|怒濤《どとう》のように敵が押し寄せてきたこと、友軍は懸命に反撃を試みたか、大隊長が二人までも捕えられたこと。しかも連隊長はどうやら夜闇に|紛《まぎ》れで討ち取られたらしく、姿が見えなかったこと、各地の領主勢はこれまでと見て降伏したことなどである。
この報告をどう判断するかは聞いたもの裁量いかんということになる。
コーラルを支配している改革派は、その代表たるペールゼン侯爵から|兵糧《ひょうろう》を管理する役人に至るまで、敵はこちらの内部から切り崩しに出、城内に内通者を得て寝返りをうたせ、奇襲をかけたに違いないと判断した。他には考えようかなかったのである。
ワイベッカーの敗戦、捕虜となった近衛二連隊、しかも連隊長の戦死。それらがコーラルを支配する改革派にとってどれだけの打撃であったかは言うまでもない。
しかし、それ以上に、姑息な戦略を用いた国王軍に対する怒りがあった。
この勝利に気をよくした国王はさらに進軍を続け、ティレドン騎士団の総本山マレバヘ向かい、騎士団を解放しようとするに違いない。
「となると我々は敵がマレバに達する前に迎え撃つ必要がありますな」
ペールゼン侯爵は泰然として、自分の閣僚に今後の方針を説明していた。
度重なる打撃などまるで感じていないかのような落ちつきぶりである。
「やはり|日和見《ひよりみ》の領主勢ではあの男の口車に勝てぬと見えます。|砦《とりで》となるべき城内から内通者が出たのではどうしようもありません。今度はそのようなことのなきよう、気を引き締めて当たりたいと思います。よろしいですかな」
聞いている閣僚たちのほうは泰然どころではない。
焦りがあり、苛立ちがあり、怒りがあった。
あの男がロアでドラ将軍と合流したことを間いた時、彼らのほとんどは不安を隠せないでいた。しかし、その後、ワイベッカーを中心とするほとんどの領主たちがこちらに味方を申し送り、総勢は国王軍の倍にまでふくれあがったとの報告を受けて、おおいに気をよくしていたのである。
そうなるとおかしなもので、つい先日まで感じていた不安は流浪の国王など何ほどのものでもないという軽視に変わり、自分たちは敵に勝っているという自信も生まれ、それは必ず勝てるという確信につながった。
これは実戦のことなどほとんどわからない閣僚たちかそう思いこむように持っていったペールゼン侯爵のうまさもあるが、彼らは戦う前から勝利を信じて疑わず、ワイベッカーの戦い後、偽者の国王を担ぐ反乱軍はあっさり鎮圧されるか、もしくは追いつめられて降伏してくるだろうと高をくくっていたのである。
それだけにこの『ささやかな反撃』は彼らの神経を逆なでした。ここで敗れていればまだかわいげもあったものをという腹があるだけに、どの顔にも苛立ちと怒りがある。
「今のうちに叩きつぶしておかねばならない」
この気持ちは全員一致していた。
とりわけ気炎を吐いたのは、現在の近衛兵団の全指揮権を持っているサング司令官である。
「もはや一刻の|猶予《ゆうよ》もならん。近衛兵団全軍を繰り出して、国王の名を|騙《かた》る不届き者を成敗せねばならん!」
「司令官のおっしゃるとおりです」
犬猿の仲のはずのタミュー男爵もすかさず同意する。何といっても敵は|烏合《うごう》の|衆《しゅう》。こちらはらコーラルを含む貴族層のほとんどが味方を約束している。
その数は二万にも三万にも達するはずだ。大きく味方を増やしたとはいえ、総勢数千の軍勢などひとひねりである。
「各々がたのご意見、ごもっともと心得ます。私見を申し上げますが、我々はすでに一度、惨敗を喫しております。二度と同じ不覚を取らぬためにも、また今度こそ確実にあの男を倒すためにも、かくなる上は司令官じきじきに出ていただくのがもっともよろしいかと思われますが、いかがでしょう?」
控え目なペールゼン侯爵の問いかけに、司令官は傲然と胸を張ってみせた。
「言われるまでもない。たとえ誰に止められようと、そうするつもりでいたのだ」
むろん、背後に近衛兵団の勢力あっての発言だが、たいへん勇ましい。
「それでは早速マレバヘ出陣していただきたい」
タミュー男爵が急いで言った。
男爵は金勘定ならば得意だが、戦闘となると管轄外である。こういうことは得意としており、やりたがっているものにやらせるべきだとかねがね思っていた。
「ですが司令官。こちらから攻める必要はありませんぞ。連中がのこのことやって来るのを待てばよいのです」
サング司令官は舌打ちを洩らした。
「そんなまだるいことを……。こちらから一気に寄せて叩きつぶしてしまえばいい」
この意見にペールゼン侯爵が、やんわりとだが、異議を唱えた。
「戦上手の司令官にこのようなことを申しあげるのは何とも|面映《おもは》ゆいのですが、内通者を使うような連中ですからな。うかつに仕掛けてはどんなはかりごとがあるかわかりませんぞ。何も急ぐことはありません。確実に勝利を収めればよいのです」
ジェナー祭司長も言葉を添えた。
「そうとも。奴らがマレバを目指してやって来るのは間違いないのだ。ティレドン騎士団への見せしめのためにも、その目の前で、彼らがいまだに王と仰ぐあの男の首を挙げてやるのがよろしかろう」
侯爵の口元がかすかにほころんだ。
神職についているわりには生臭いことを言うものだと思ったのだが、聖職者などはたいていがこういうものである。神の権威とやらを侵されないためにはどんな殺生ざたでも平然としてのける。その神の権威とやらだって言い換えれば自分の権威にすぎないのだが、本人にその自覚はかけらもあるまい。
聞いていた他の官僚も大きく頷いている。
「祭司長のおっしゃるとおりです。要はあの男の息の根さえ止めてしまえば万事が解決します」
そう言ったのは、あの男が現れた当時、積極的に支持した役人の一人だった。
「いかにも。これ以上もめ事が続きますと、内乱ということもあり得ます。それでなくとも、近頃の町中にはあの男か大軍を率いて戻って来たなどというけしからぬ風評も流れております。今のうちに元を絶つべきです」
強い口調で言ったのは侯爵の下で国政を担当している内務次官。あの男の統治中は厚く信頼され、あの男が何かと助言を求めていた人物だった。
他にもこの会議室にはあの男に目をかけられた人間が何人もいる。それが今では目の色を変え、あるものは迷惑千万、あるものはいまいましげにあの男の命運を絶とうというのだ。
穏やかに彼らに同調しなから、ペールゼン侯爵は心の中で嘲笑していた。
人のすることは所詮はこんなものなのだ。
彼らを非難することはできない。彼らは彼らなりに生きていかねばならないのだから。そのための選択としてあの男を切り捨てたにすぎないのである。
これを罪だと責めることは誰にもできないはずだ。
そのくらいのことがあの男には何故わからないのか。何を頼みに戻って来たのか知らないが、もはやあの男が力とするものなど、この国には何ひとつとして残ってはいないというのに。
侯爵が思索に|耽《ふけ》っている間も、官僚たちの軍議はひとしきり続いていた。司令官自らの出陣に関しては異論はないが、近衛兵団全軍の出陣には難色を示している。そこまでするのは体裁に欠けるのではないか。そんな意見が大勢を占めている。
「相手はたかだか国王の偽者を|擁《よう》する反乱軍にすぎないのですぞ。政府が目の色を変えるようなものではありません」
「そうですとも。なによりコーラルを空にされては困ります」
何しろ、いつどこで造反の煙が上がってもおかしくないご時世だ。
自分たちの身を守る最低限のものは手元に置いておきたいと、本音はそういうことだろう。
「しかし、反乱軍とはいえ、五千を超える勢力にふくれあかっているのだぞ。これに対抗し得るだけの戦力を率いて行かなくては話にならんではないか」
官僚たちの言い分はもっともと思いながらも、司令官は渋い願である。
侯爵はそこではじめて言葉を挟んだ。
「サング司令官。各々がたの言われるとおり、近衛兵団をそっくり動かされては我々が不自由な思いをします。ここはひとつ、剣には不慣れなものどもの臆病ごとと聞き流し、身を守る鎧を置いていっていただきたいと思いますが、いかがでしょう」
「いや、しかし、侯爵……」
「心配はご無用というものです。マレバヘ赴く道すがらにあらかじめ伝令を出し、司令官|御自《おんみずか》らのご出馬と触れまわれば、どの領主も先を競って集まって来るはずです。コーラル周辺にはメディオラ郡のベレー卿を筆頭に、国内でも屈指の大領主たちが軒を連ねておりますが、そのほとんどか我々に好意的で忠誠を誓っておりますからな。彼らが一声かければ東デルフィニアがそっくり動くといっても過言ではありません。ましてや相手はその名も高いロア衆とラモナ騎上団となれば、名を上げるにこれ以上の機会はありません。働きに応じてそれ相応の恩賞を約束してやれば、一兵卒に至るまでが勇みたってやって来るでしょう。そして反乱軍を見事に鎮圧したとなれば、それは皆、指揮官たるあなたのお手柄です。司令官どの」
やんわりと、説得力のある侯爵の口調だった。
巧みに名誉心と功名心をくすぐられて、サング司令官は近衛兵団のほとんどをコーラル周辺に残し、わずか一大隊のみを率いてさっそく出陣した。
反乱軍を討伐すると声高に呼ばわっての行軍である。
この言い分は領主たちの間に大きな混乱をもたらした。
騎士とは戦が商売である。また、戦に参加し、勝利を得ることで名を挙げるのは一兵卒も領主も同じことである。大戦ならなおのことだ。
意気揚々と参戦すべき状況だが、数ある領主たちのほとんどは改革派が|脆弁《きべん》を用いて実権を奪い取ったことを知っている。誘いに応じないものも多くあった。しかし、それ以上に改革派の呼びかけに応えるものが多かったのである。
今回の旗がしらは近衛司令官である。誰もその意義を認めていない司令官だが、官軍の最高峰を意味する名前は魅力的だった。共に戦い、勝利を得ること、が大きな名誉を約束するからだ。これに対する相手はと言えば勇士として知られた追放中の国王と勇猛無類と言われたドラ将軍、国内屈指の戦闘集団のひとつ、ラモナ騎士団である。
名を高めよう、領土を広げようと欲を抱いている者にとっては願ってもない相手だった。運よくその|首級《しゅきゅう》を挙げることでもできれば、国一番の勇士の名を已のものにすることができるのである。加えて味方をした際の恩賞は領主たちの心を惑わすに充分なものがあった。
戦国の時代においては勝者こそが正義である。
ここで勝利を収めれば改革派の政権は磐石のものとなり、それに味方をした自分たちもまた安泰と彼らか考えたとしても無理のない話ではあった。
侯爵の予想どおり、司令官の出陣にともなってその旗の下に馳せ参じる領主たちは後から後から名乗りをあげ、引きも切らない有様となった。
|意気軒昂《いきけんこう》たる司令官がマレバを背にして陣を張るころには、参戦した領主勢の数は二万近くにまでふくれあがっていたのである。
平原に見渡す限りに張られた陣幕、無数の|蟻《あり》のようにうごめきまわる兵士たち、陽光に勇ましくも美しく煌めく槍の穂先や鎧兜を満足げに見下ろしながら、サング司令官は舌なめずりせんばかりに満足していた。
あとは不運な獲物がこの罠の中にのこのことやって来るのを待つばかりだった。
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4
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最近のコーラルで一番の話題は、何といっても舞い戻ってきた国王の動向である。
むろん、今の実力者である改革派は国王の話題を市民に禁じているが、禁じられればかえって盛んになり、ますます熱中するものが増えるのが世の常だ。
劇的な登場から一年を経ての即位、さらに劇的な退陣、国王の身にもあるまじき汚名を着ての逃亡、そして奇跡的な生還、これだけ揃えば市民がその動向に注目しないほうがおかしい。まして改革派がいくら隠そうとしても、こうしたことは必ず衆目の知るところとなるものだ。
今のところ、あくまで物陰で噂をするに止まっていたが、今の市民たちは改革派にも、その手先となって働いている近衛兵団にも、軽蔑と憎悪以外の何物をも感じないでいるらしい。
それどころか、近頃では近衛兵の家族とそうでない市民との間で確執さえ起きているというのだ。
どちらの立場の市民も、一日も早い国王の帰還を願っている。そうして今の改革派を追放してもらいたいと切望しているというのだ。
「不思議で仕方がないんだけど……」
グライアの背にゆられながら、少女は呆れ果てた調子で言った。
「その人たちが一致団結してウォルを王座から追放したのは、つい半年前のことじゃなかったっけ?」
同じく馬の背にゆられながら、ルカナン大隊長が苦い顔で言い返す。
「人の口とはそんなものだ。国王の統治中はまったく逆のことが言われていた。あんな庶子に仕えなければならないとは近衛兵団も落ちたものだと、選良の名か泣くと、兵土たちの間でも不満の声か高かったからな」
そんなことはいちいち驚くに値しないことだと大隊長は言いたいらしい。
顔をしかめていた少女が、今度は不思議そうに首をかしげた。
「でも、それならどうして今の近衛兵団は改革派の言うことを聞いてるのかな。一万の大軍なら改革派の役人だろうと裏切り者のサング大隊だろうと、一息で吹き飛ばせそうじゃないか」
少女の疑問には、同じく騎乗のシャーミアンンが、言いにくそうにしている大隊長に代わって説明した。
「近衛兵団の五つの軍団は決して仲がよいわけではないのよ、リィ。あたり前だけれどそれぞれに競争意識があるの」
「つまり、この危機に一致団結できるほどの結束力がなかった?」
「そのとおりよ。縦の関係は強固だけれど、横のつながりは意外なほどに薄いわ。兵士たちにはどこの軍団のどこの連隊、どこの大隊に属しているかということが重要なのであって、所属が違えば同じ近衛兵士ではないかという理屈は通用しない。どちらが優れているのか、どちらがよい戦績を残せるか、常に競っている相手を仲間とは思いにくいでしょう。つまりは個々の独立した軍団か五つ集まったものが近衛兵団なのよ」
少女は感心し、また納得したように言った。
「それじゃあ司令官の責任は重大だ」
「それはもう。滅多な人には務まらないわ。ご身分や家柄、実績はもちろん、五人の軍団長が敬服できるだけの人格がなければ。ふさわしい人物がいない時には国王が兼任することもあるくらいの重職なのよ」
ルカナン大隊長がそのとおりと頷いている。
一癖も二癖もある、名誉欲と競争意識の強烈な軍勢を切りまわさなければならないのだ。個人の武勇よりも人を扱う管理指導能力と統率力とが強く求められるのは当然である。
アヌア侯爵は大貴族の総領でありなから、一小隊長として近衛兵団に入団。以来二十年の歳月をかけて無理なく着実に出世してきた。その間に横のつながりの薄いといわれる近衛兵団の各部所とも進んで関わり、地軍の兵士にも情のある扱いをした。部下思いでもあり、働きに対して恩賞が不足と思われた時など、叱責を覚悟で国王に行賞のやり直しを申し出たこともあるという。
第一軍の軍団長から司令官に昇進したの、がすでに十年の昔だ。国王不在の期間中、国内を平穏状態に保ったのはペールゼンの政治手腕と共に、アヌア侯爵率いる近衛兵団が一糸乱れぬ動きで政府を援護したからだとも言われている。
それほどの人物ならルカナン大隊長でなくても、ふたたび自分たちの指導者に仰ぎたいと思うのは自然な成り行きと言えた。
その大隊長、少女の口車にうかうかと乗せられて、何の囚果かフェルナン伯爵救出の片棒を担ぐことになってしまったわけだが、最初のうちは盛大に難色を示していた。
無理に決まっているだの、生きて帰れるはずはないだのである。しかし、十三と十七の少女二人が紛れもない本気で、成功を信じてこの難事に当たるとあっては、さすがに男の意地と騎士の誇りにかけて退くわけにはいかなくなったらしい。もちろん成功した場合の恩賞も魅力的だったに違いないが、いちおう、それは隠しておくだけの慎みはあったようである。
出発前に少女が、きっと大隊長には青い裏打ちの外套が似合うよと揶揄した時も、無事に帰れればの話だと憮然とした顔で言っていた。
少女がまた、首をかしげる。
「でも、わからないな」
「何が?」
「つまり、以前の近衛兵団と改革派は仲がよかったわけだ」
「表向きはな」
憮然とルカナン大隊長が言った。
しかし、彼らの蜜月は改革派が国王を追放するまでだった。この暴挙に当たってアヌア司令官はもっとも厳しい調子で改革派の代表であるペールゼン侯爵を非難した。このままでは近衛兵団が自分の敵にまわると懸念したペールゼンは司令官を逮捕、五人の軍団長も個別に拘束したのである。
となれば後は近衛兵団とは名ばかりの、五百人の兵士を要する二十の連隊が残るのみだ。当然のことなから大混乱に陥った。自分たちの指揮官を解放するために働けぼいいのか、それとも改革派に従えばいいのか、そんな基本的な方針すら決定することができず、右往左往するばかりだったという。
そうこうするうちに五人の軍団長と改革派の間で話し合いがもたれ、彼らは改革派の主張を受け入れて復職したが、アヌア侯爵だけは断然と拒否。現在に至るまで自宅に軟禁されているという。
少女はますます不思議そうに首をひねった。
「変だよ。その侯爵が言うこと聞いてくれなかったから司令官の職から降ろして軟禁する。ここまではいいよ。だけどなんだってそんな立派な人の代わりに、他のみんなから嫌われまくっているサング大隊長をもってきたんだ? もうちょっとましな人材がいくらでもいそうなものなのに」
「まったくもってそのとおりだとも!!」
割れ鐘のような声で吠えた大隊長に、グライアがちらりと目をやった。
馬の瞳ではあったが、これまた呆れ果てたような視線である。
大隊長は気づかない。一人で|憤慨《ふんがい》していた。
「俺はそれまでその、いや正直に言うが、それまで国王の醜聞にも改革派のすることにもたいして興味はなかった。権力者の首のすげ替えなどよくあることだと思っていた。しかし! この人事だけは断じて許せん。納得できん! あまりの怒りと驚愕に体が爆発するかと思ったぞ!」
「その爆発原因の中には嫉妬も入っているんじゃないのかな?」
少女がからかった。
あの男に司令官職をやるくらいならば俺にくれればいいのにと思ったのではないか?
大隊長はさっと紅潮し、そんな分不相応なことはほんの一瞬しか考えなかったと、堂々と反論した。
これにはリィもシャーミアンも、彼女の従騎土たちも吹き出した。
彼らは今コーラルを目がけて山道を急いでいた。
もっとも駆け続けでは馬がつぶれてしまうので、こうして時々足をゆるめているのである。
ワイベッカーからコーラルもしくはマレバヘ行くにはふたつの道がある。ひとつはパキラとギルツィ山脈の間を技ける平坦な道。ただし、これはかなりの遠回りだ。もうひとっはパキラ山脈を構成する山の間を縫う道である。こちらのほうが距離としてはずっと近いのだが、猟師が踏み固めた程度の険しい道なのだ。
国王率いる軍勢は今頃、平坦な道をゆっくりと進んでいるはずである。それでもどんなに遅くとも六日か七日目にはマレバヘ到着してしまう。
到着してしまえば戦わなければならない。
そうなればあの国王も一軍の主将として、しなければならないことをするだろう。それまでになんとしても伯爵の身柄を取り戻す必要があった。
総勢十五人ほどの彼らは乗り換えの馬を多数引き連れ、一頭の馬にかかる負担を少なくして道を急いでいたが、グライアだけはまるで平気な顔で駆け続け、山道でも足が鈍らない。
ルカナン大隊長が賛美と驚嘆の目で、少女のまたがる巨大な黒馬を見つめている。
「俺も長い間騎士として働いてきたが、それほどの|逸物《いちもつ》は今まで見たこと、がない」
シャーミアンの従騎の一人が笑いながら言った。
「無理もありません。それはロアの黒主。ドラ将軍さまでさえ手懐けることのできなかった、名馬中の名馬です」
「ほう?」
そんな逸物をなぜこんな娘が、と言いたげな大隊長であったが、今までのような化け物呼ばわりはしなかった。国王がこの娘に並々ならぬ信頼を与え、相当に重く扱っているのか効いたらしい。
「それで、貴様、俺にいったい何をさせる気だ?」
「まずはコーラル城を見てからだ。あとどのくらいかかる?」
シャーミアンが答えた。
「明日の昼には大陸でもっとも美しい、もっとも堅固な城の姿を見ることができるわ」
少女は一人ごとのように呟いた。
「今はもっとも醜い連中に占拠されている気の毒な城の姿をな」
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5
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コーラルは港町の常として、また大都市の常として、国籍、身分の上下にかかわらず、さまざまな人種が|集《つど》っている。
北からは色素の薄い大男が、南からは褐色の肌をしたはしっこい身体つきの水夫がやって来て、互いにお国言葉を交じえながらシッサスの盛り場で賭け事に興じている。市内の目抜き通りを着飾った貴婦人が馬車で走り、その道端には物乞いがたむろし、土いじりなどしたこともない町家の妻の台所に、近の村から泥くさい農婦がやって来て卵を売る。
大きな貴族の館では絹や|天鵞絨《ビロード》で飾りたてた奥方や娘だちから、むしろのようなものを纏い、素足で働いている掃除番の少女もいる。
市内でこれほど色彩豊かなのだから、コーラル城などはさながら|貴賤《きせん》のるつぼである。
現国王の母親もこの王宮の三の郭に勤める馬屋番だったというが、三の郭は王宮内でも身分の低いものの姿が目立つところだ。雑多な人々が自分たちの仕事に働く熱気と活気に満ちている。生きて動いている人間の気配がする。
見上げると、本宮は遥かかなたの山腹に小さく輝いており、まるで別の世界の建物のようである。
三の郭へは市民たちも大勢やって来る。ここで働いている兵士の家族が面会や差し入れに通い、出入りの商家の主人や手代、さらには農家の主人や妻が品物を納めに来たりする。
これだけ人の出入りがあると、いちいち問いただしてもいられない。だいたい大手門を除く四つの門は入城に際して鑑札さえ必要ない。市民であれば誰でも通れるのだ。いちおう、各門の傍に見張りは立っているものの、人が通るに任せ、まことに暇そうである。それでも時々は働いているふりくらいしてみせなければならない。
「待て。お前、見ない顔だな?」
五つの門のうちでももっとも東に位置する門を守る兵士が思わず声をかけたのは、軽く会釈して通り抜けようとした若い娘だった。
年頃は十七、八か、びっくりしたように振り返った顔には化粧気もなく、土埃で汚れている。髪は手ぐしで束ね、身につけているのは洗いざらしの着古した麻服である。
近くで摘んできたのか、草をいっぱい盛った大きな籠を抱えていた。
見るからに貧しい農家の娘の身なりなのだが、見張りの兵士の若い男としての嗅覚に何か訴えるものがあった。
「あ、あの……何か、御用ですか?」
娘はおどおどと言った。何か咎められるようなことをしただろうかと怯えているらしい。
「いや、あまり見ない顔だと思ってな。近くの|娘《こ》かい?」
「は、はい。お城へ来るのは今日がはじめてなんです。母さんの代わりに、お料理に使う葉をお届けに来たんですけど……」
慌てて弁解する娘を観察し、兵士はにやりと笑み崩れていた。やはりそうだ。薄汚れて見えるが意外なほどなめらかな肌をし、目鼻立ちも整っている。
洗えばかなり見られそうな娘だ。
その兵士はにやにや笑いながら娘に話しかけた。
「はじめて来るんじゃ勝手もわからないだろ。ここは広いぜ。案内してやるよ」
「そんな……結構です」
「遠慮するなって。どこまで行くんだい? ここからだと第七宿舎かな。それとも市警隊の詰所かな」
「あの、ほんとに、結構ですから……」
娘は泣きそうな顔になっている。さぞ母親から城の兵隊なんぞに言い寄る隙を与えちゃならねえと、あいつらは若い娘っこと見ればたちまち目の色を変える連中だと威かされてきたのだろう。
あながちはずれてもいない。
見張りの兵士は勤めのことなど忘れてしまい、何とか警戒心でいっぱいのこの娘をなだめようと試みた。ここしばらく非番なしの状態が続いているのである。うまく手懐ければ久々に楽しめそうだった。
「なあ、お嬢さん。そんなに恐がることはない。別に何もしやしないよ」
そう言いながら、早くも娘の手を取ろうとした兵士だが、そこへ誰かが走り寄って来て娘の前に立ちふさかった。
「お姉ちゃんに何するんだ!」
子どもだった。やはり、洗いざらした粗末な衣服を着、頭には帽子代わりにぼろ布をまきつけ、小さな背中には不似合いなくらいの飼い葉の束を背負っている。これも、どこにでもいる農家の少年の格好だった。
少年は娘の手を掴んで早口に言った。
「行こう、お姉ちゃん。兵隊なんかに関わってると遅くなるよ」
「え、ええ」
娘は困ったように立ちすくんでいたが、少年は娘の手をしきりと引っ張り、警戒の目もあらわに兵士を睨みつけた。
「父ちゃんが言ってたじゃないか。こいつらと口きくだけで、若い娘はみんな腹か大きくなるって」
色魔呼ばわりされた兵士は憤慨して叫んだ。
「何だと、このガキめ!」
「そうじゃないか。口説こうとしたって駄目だぞ。うちの姉ちゃんにはちゃんと好い人がいるんだからな。そんなに女が欲しいなら町へ出て、安女郎でも相手にしたらどうなんだい」
「この! こまっしゃくれたことを!」
「あれえ。見張りの兵隊さんが門を離れていいのかい? 偉い人に言いつけちゃうぞ」
その言葉に兵士は我に返った。いくら暇とはいえ、無断で部署を離れれば職務怠慢で叱責されても文句は言えない。慌てて門へと戻って行ったが、少年に|罵声《ばせい》を浴びせることは忘れなかった。
「覚えてろ、このくそガキ!」
少年はけらけら笑いながら振り返り、舌を出してみせた。さすがに本気で腹を立て、門を放り出して追いかけようとしたが、とたんに少年は慌てて娘を急かせて走り去って行く。
ぶつぶつ言いながら兵士は持ち場に戻った。
やがて交代の時間がきて、夜も更け、門を閉める時間となってはじめて、その兵士はあの農家の姉弟が出て行くところを見なかったことを思い出した。
だが、門は他にもある。あのいたずら小僅か自分と顔を合わせることを避けたのだとしても、なんら不思議はない。
久しぶりの非番をもらい、一夜の慰めを求めに町へ繰り出すころには、あの姉弟のことなどすっかり忘れてしまっていた。
昼の間はさまざまな市民たちの行きかうコーラル城も、日暮れと同時に嘘のように人影が絶える。
それは夜の城の持っている一種独特な雰囲気のせいもあったし、用もないのに夜間の城に近づくものは、即座に不審人物と見咎められて詰問を受けることになるせいでもある。
すでに深夜に近い時刻だ。城は寝静まり、城内を動くものは夜警の兵士たちのみである。各所に篝火が|焚《た》かれ、ときおり眠気をこらえた兵隊がゆっくりと巡回しているが、なにしろ広大な城である。闇の中までは目が届かない。
その闇の中に身を潜めた少女とシャーミアンが、三の郭の片隅で戦闘準備を整えていた。
「さっきは心臓が止まるかと思ったわ」
あたりをはばかってシャーミアンが小声で言う。
麻のたっぷりしたスカートの下にはズボンと乗馬靴をつけ、草でいっぱいにみせかけていた龍の中には飛び道具の短剣を山ほど忍ばせてあった。
「ああいう時は図太いくらいにふるまったほうがいいんだよ」
少女のほうは背負っていた飼い葉の束を解き、中から自分とシャーミアンの大剣を引き技いている。
束をゆわえていた細縄は丁寧に巻き直して、肩にかけた。
二人は準備を整え、言葉を交わしながらも風の囁きのように声を抑えている。むろん、周囲には最大の警戒を払っていた。
彼らがコーラルヘ到着してから、今日ですでに三日がすぎていた。
はじめて間近にコーラル城を見た少女は思わず唸り声をあげたものだ。広い広いと聞かされていたが、これほどとは思わなかったのである。
城壁の外から見ると、本宮はまるで山腹に載せられた白い小さなおもちゃの城だ。北の塔はさらにその奥にあるというのだから、ルカナン大隊長でなくてもたどり着けるはずがないと断じたくもなる。
しかし、少女の睨んだとおり、この城の堅固な守りは大軍には有効だが、小さなものに対しては穴がある。見張りの兵隊も、まさかこの城に忍びこむものなどいるわけがないと頭から高をくくっている。
そこにっけこむ隙がありそうだった。
彼らはコーラルから少し離れた農家に宿を求め、必要な小道具を買い集めた。近くの農民たちに頼んだのである。
できるだけ細く頑丈に、水に浸した|藁《わら》で縄を編んでほしいだの、娘と少年の使い古した衣服をわけてほしいだの、さぞ奇怪に聞こえただろうが、身分の高い人々の気まぐれには慣れっこになっている階級の人々だ。何に使うのかとも聞かず、黙々と協力してくれた。
シャーミアンは飛び道具として有効な短剣を野菜籠の底に仕込み、少女は大剣を飼い葉に隠して形を整え、縄を掛けた。きわめつけにリィとシャーミアンの二人は、その日から顔も洗わず、できるだけ薄汚れるように計らった。
少女のほうは意外な芝居気を発揮し、農家の少年と見紛うほどの口調ですらすらと話せたが、貴族の生まれ育ちであり、女騎士でもあるシャーミアンが農家の娘に化けるのは難しい。付近の農家の娘たちと言葉を交わし、まる一日野良仕事なども手伝って、一生懸命彼女たちの言動をまねていた。
その間にも、少女はシャーミアンと大隊長の記憶を頻りに、王宮の見取り図を作り、進路を検討していた。
なぜか、コーラル城には詳しくないはずの少女がこの作戦の全権を担っているのだが、ロアの人間は誰もそのことに不満を言わなかった。唯一、ルカナン大隊長が釈然としない様子でいたくらいである。
「私たちは農家のものに変装して三の郭まで入るとして、ルカナン大隊長はどうするの?」
「城壁の外で待機していてもらう。時間と場所を示しあわせて、中からぼくが縄を垂らす。それを登ってもらうことになるな」
「それなら大隊長にも変装してもらって、一緒に三の郭まで潜入してもらったほうが時間の短縮になるのではないかしら」
リィは首を振った。
「農民に変装した大隊長じゃ駄目なんだ。あくまで大隊長の格好をしている人か必要なんだよ」
つまりルカナン大隊長は一夜のうちに城壁を三枚越えなければならないのである。
この提案を聞いた大隊長は複雑怪奇を通り越して、ほとんど泣きそうな顔になっていた。正気の沙汰ではないと、とてもつきあいきれないから逃げ出そうと思ったことだろう。
が、リィもシャーミアンも大まじめ、シャーミアンの従騎たちも真剣そのものだ。
問題は一にも二にも時間だった。
大手門をくぐってから|廓門《くるわもん》、正門と潜り、本宮にたどり着くまで、徒歩だとゆうに一時間近くかかる。
これはひとえに本宮か傾斜の上に建っているからだ。しかも、夜の闇の中を誰にも見つからないように密かに移動することを考えると、おそらく通常の倍近くの時間がかかる。
しかし、他に方法はない。何としても一夜のうちに行って戻って来なければならなかった。
そうして今、少女とシャーミアンは敵地の真っ只中に身を潜めている。
大隊長の話では、見張りの出ている位置も巡回の時間も決まっているという。
それさえ気をつければ、シャーミアンは内部構造に詳しく、少女は昼間と変わらすにものを見ることができる。自在に動くことができるのだ。
「行くよ」
少女が低く言う。ジャーミアンが頷いた。
二人は足音を殺して、夜の闇の中を移勤しはじめた。
ルカナン大隊長はたくましい総身を冷や汗に濡らして、予定の位置でじっと待っていた。
目の前には三の郭の外壁がある。昼の間は大勢の人でにぎわうこのあたりも、夜が更けて近寄ろうとするものは誰もいない。大隊長も城の見張りに気づかれぬよう、物陰に身を潜めていた。
もうしばらくすればあの城壁から細織が下げられるというのだが、そんなはずがあるものかと疑問に思う声があり、虎の口の申へわざわざ飛びこむ愚か者があろうかと諭す声があり、何の因果でこんな無謀に荷担するはめになったのかと嘆きに嘆く声かある。
何度このまま逃げ出したいと思ったかしれない。
しかし、少女も女騎士も、大隊長の協力を信じて疑わない。
ふたつの強い力が体を別々の方向へ動かそうとしている。逃げ出したいと思う力と逃げるわけにはいかないと思う力が体の中でせめぎあい、ときおり逃げ出したいと思う力が急に強くなる。
その度に大隊長は懸命にその力と戦った。本物の合戦でさえ、こんな苦戦を経験したことはないと思うくらいだった。
一人だけの、心の中だけの激しい戦いが大隊長にびっしょり汗をかかせている。じっと座っているだけなのに息切れを起こして倒れそうだった。
もう何反目か覚えてもいない額の汗を拭った時、小さく、獣に似せた声がした。
はっとなって顔を上げると、城壁の上からはらりと縄が降ってきた。目を疑いながらも大隊長は反射的に動いていたのである。
そこは城壁の各所に設けられている詰所と詰所のちょうど中間に位置していたが、あたりを充分警戒しながら縄を掴んだ。強く引いてもびくともしない確かな手ごたえである。
「全能のヤーニス、剣のバルドウ。誓約のオーリゴ、ええい、他のありとあらゆる神々にかけて! あの娘は気かふれているに違いない」
支離滅裂なことを呟きながら、大隊長は縄を登って行った。
どんなものでもそうだが、表部分の美しさや|清《すが》しさが際立っていればいるほど、その陰に、深く暗い、醜い部分を隠している。
それは大陸でもっとも美しいと評判のコーラル城でも例外ではなかった。
北の塔はさしずめその象徴である。本宮から離れ、めったに人の近づかない奥まったところにひっそりと建っている。むやみに近づくことは禁じられているそうだが、たとえ禁じられていなくとも好き好んで近づこうという人間がいるかどうかはおおいに疑問だった。
建物自体は|瀟洒《しょうしゃ》な細い塔なりだが、|一瞥《いちべつ》しただけでそのまわりに漂っている異様な空気、何とも言えない不気味な雰囲気に誰でも気がつくだろう。この塔に閉じこめられ、苦痛と辛酸をなめさせられたあげく、命を奪われた虜囚たちの無念と怨恨がそのまま目に見えるようなたたずまいなのである。
昼日中でもこの塔の周辺ばかりは|陰鬱《いんうつ》な重苦しさに包まれているのに加え、背後はすぐに狼が多く棲息するパキラ山である。夜間ともなればそれこそ誰も近づかない。というより近づけない。
当番の兵士たちでさえ、ここで一夜を明かすのは身震震いするのだ。分厚い壁で隔てられていても地下の囚人たちのなくき声に悩まされ、狼の遠吠えに脅かされる。神経の細いものなら|梢《こずえ》のざわめきにさえ思わず身構える。
それだけによほどに肝の据わったものでなければ北の塔の番人は務まらないのだが、この日は急に人手が足らなくなり、まだ年若い兵士が二重扉の間に設けられている詰所に入っていた。
入り口の詰所はそれぞれの扉の内側に設けられている。ひとつを通過しても奥の扉を通る時にはもう一度身分を確認し、中から鍵を開けてもらう必要、がある。
「噂には聞いていましたけど、なんとも薄気味の悪いところですねえ」
今日はじめて外扉の詰所に入った兵士は不安をごまかすためか、ひっきりなしに一緒にいる兵士に話しかけている。
「おい。あんまりびびるなよ。狼がいくら騒いだところでこの塔の中まで入っては来れないし、地下の囚人どもがいくら騒いだところで脱獄できるはずもない」
「わかってますよ。そのくらい」
そう言いなからも若い兵士は落ちつきなく、覗き窓から外を窺っている。先輩の兵士はやれやれと苦笑していた。
「ここはお前、塔の中でも一番楽な部所なんだぞ。何なら今度、地下の見廻りをやってみるか? 囚人たちの呻き声が、そうさな。三日の間は耳について離れなくなるぞ」
「よ、よしてくださいよ」
若い兵士は慌てて手を振り、先輩格の兵士はおもしろそうに笑っている。
「まあ、気楽に構えるんだな。ある意味じゃここは暇そのものだ。正午に入り、一晩を過ごして、翌日正午に出る。それだけだからな」
「でも、地下の見廻りや囚人の尋問に当たる日もあるんじゃないですか」
「そういうのは専門の連中がやるのさ。俺たち一般兵には関係ない」
先輩格り兵士は背後をしゃくって言った。
「実を言えば俺だって、ここの地下へは降りたことがないんだ。たとえ入れと言われてもまっぴらごめんだがね」
「ヘヘえ。じゃあ中に入る連中ってのは、どういう連中なんです?」
年かさの兵士は肩をすくめるだけで答えなかった。
囚人への尋問、もしくは拷問を専門とする連中である。仕事の内容もその素姓も知らないでいるに越したことはないのだ。世の中には耳を塞ぎ目を背けていたほうがいいこともある。そう言っているようでもあった。
若い兵士にはそんな処世術はわからない。なおも問いただそうとした時、扉の外で絶対にあり得ない物音がしたのである。
人の足音だった。
それも相当に慌ただしい、息せき切って走ってくる足音だ。
「何だ?」
さすがに年かさの兵士も緊張した。長い間の詰所勤務でこんなことははじめてである。思わず腰を浮かし、覗き窓に目を近づけると、すぐ外に息をきらした男の顔が、ぬっと現れた。
「わっ!?」
思わず窓の内側で飛びのいた兵士である。驚きから立ち直り|誰何《すいか》するより先に、外の人影は大音声で叫んだ。
「近衛兵団第一軍第二連隊所属大隊長ルカナンだ。至急、開門願う!」
「だ、だ、大隊長?」
詰所の兵士たちがうろたえたのも無理はない。
慌てて覗き窓からしげしげと相手を眺めたが、確かに近衛将校の服装である。何より暗がりの中にも鮮やかな赤い裏打ちの外套と、小脇に抱えた星を打った銀の兜は見紛いようかない。
年かさの兵士は慌てて外への通話口に口を寄せて忙しげに尋ねた。
「だ、大隊長どの。この夜分にいったい何のご用件でございますか?」
「おぬしら、知らんのか!?」
ふたたび大きく吠え、大隊長はいまいましげに舌打ちを洩らした。
「いや、そうだな。貴様らは今日の昼からここへ詰めたきりのはず。耳にしていなくとも無理はない。ワイベッカーで我が軍が国王軍に敗れたことは却っていようが、つい先ほど、その国王軍から使者が参り、捕えた近衛兵団の勇士とフェルナン伯爵との身柄の交換を申し出てきたのだ。時ならぬ時に騒がせて申し訳ないが、俺は第一軍団長の命を受け、伯爵の身柄を引き取りに来たのだ。開けてくれ!」
「で、ですが……」
「規律に反することは百も承知だ。しかし、場合が場合、事情が事情だ。一刻を争う。遅れれば国王軍は近衛兵団の勇士を一人ずつ見せしめに殺すと言ってきているのだぞ! 軍団長もペールゼン侯爵閣下も承知のことだ! それとも貴様ら改革政府に逆らう気か!!」
一喝されて二人の兵士は飛び上がり、あたふたと鍵を持ち出した。本当ならこの鍵を使用するには背後の第二詰所の許可を得てからでなければならないのだが、相手のせっぱ詰まった様子と、現政府に忠誠の意志をみせなければならないという強迫観念につき動かされた形になった。
「た、ただいま、お開けします」
「何度も言うが時間かない。第二詰所にも連絡してすぐさま扉を開いてくれ!」
「は、はい」
若い兵士が反射的に扉と扉の間を走り、第二詰所に駆けつけた。外扉と奥扉の間隔は十メートルほどだ。あっという間である。
第二詰所の張り番たちも大隊長じきじきのお出ましと聞いて慌てた。正規軍ともいうべき近衛兵団の将校がこの北の塔へ現れることなどほとんどない。時間外の扉の開閉はむろん厳しく禁じられていたが、外にいるのは自分たちよりはるかに身分の高い人だ。
なによりこんな時間にこれほど慌ただしい命令が、かえって事態の深刻さを表しているように思えた。
外の扉が開かれ、大柄な大隊長が乗りこんできた時には、奥の扉も半開きになり、先に駆けこんだ若い兵士が振り返って敬礼しようとしていた。
「ご苦労」
妙にこわばった低い声で大隊長は言った。
その背を見送った兵士が外の扉を閉めようとした時、外から何かが音もなく飛びこんできた。
「なっ!?」
その何かは一撃で扉の傍に控えていた兵士の腹を打ち、大隊長を追い越して奥扉へ向かった。人の足には決して不可能な速さでふたつの扉の間の距離を一瞬に詰め、何が起こったのか掴めないでいる若い兵士を突き飛ばした。
奥扉の番人があっけにとられながらも慌てて扉を閉めようとする。しかし、この時には大隊長が全力で走り寄り、これを阻止していた。同時に奥扉を潜り技けた小さな影は、そこを守っていた二人の兵士を一瞬の早わざで当て落としていたのである。
大の男に声をあげる暇さえ与えない。信じられないような手並だった。
見ていた大隊長が思わず唸る。
あっという間に四人を当て落とした少女は、一息ついて後ろを振り返った。
シャーミアンが慎重に外の扉を閉めている。
足下に伸びた二人の兵士を認め、少女を見つめて頷いてみせる。少女も頷きを返した。
気絶した兵士たちを後ろ手に縛りあげ、猿ぐつわをかませ、詰所に放りこみ、彼らはそっと北の塔の内部に侵入した。
ふたつの頑丈な鉄の扉を技けたところは天井の高い広間になっていた。
左手に上層部への階段、正面には小さな扉がふたつ、その間に奥への通路、右手にも細い通路がある。
大隊長からの前もっての情報によって、右手の通路の先には台所が、正面のふたつの扉は囚人を出し入れする際の記録を収めてある場所だということがわかっている。
地下牢への入口は正面通路の先だ。
しかし、そこには錠が下りている。まず、鍵を手に入れなければならない。鍵は二階の部屋の中の決まった位置に掛けてあるはずだった。
今の騒ぎはさいわい二階には聞かれないですんだようである。北の塔では二人一組が行動の原則であり、二階、三階とそれぞれ兵土たちが詰めている。
音をたてないように正面の扉を開き、息を殺して部屋を覗いた三人だが、そこには鍵はなかった。空の金具があるだけだった。
大隊長が舌打ちを洩らしたものである。
「いかん。巡回に出ているらしい」
「こんな時間にか?」
「ああ。ここに鍵がないとなると……以前は夜間の巡回などしなかったのだか……」
少女も小さな舌打ちを洩らした。
こうしている間にも二階から兵士が降りて来たら、自分かちの潜入が知られてしまう。
「その地下の入口を見てみょう」
少女が言い、三人は奥へ向かった。
問題の地下への入口は石の床をくりぬいた階段になっていた。階段の一番下に太い鉄格子がある。
あの奥がどうなっているかは大隊長も知らない。
ただ、地下牢まではかなり深く降りること、その間にもうひとつの鉄格子があることなどは、噂として聞いている。
「中に人が入っているなら鍵は開いているんじゃないのか?」
少女の疑問に大隊長は首を振った。
「駄目だ。案内なしではとても目当の房まではたどり着けん。第一、伯爵の房の鍵もないのだぞ」
大隊長はびっしょり冷や汗を掻いている。少女の言うとおりの口上で見事に深夜の北の塔に忍びこんだわけだが、地下への入口で立ち往生してしまったのである。
「どうする?」
緊張にひきつった顔で大隊長は問いかけた。こんな少女に方針の決定をゆだねることへの怒りも悔しさも今は感じている余裕はなかった。
少女もとっさに方針を決めかねていたようだが、不意に首だけで振り向いた。獣のような仕草だった。
足音を殺して入ロヘ戻りはじめる。シャーミアンと大隊長の二人も理由がわからないながらも急いで後を追った。
少女の耳は台所からの足音を聞き取ったのである。
現れたのは兵隊ではない、痩せた初老の男である。炊事番のようだった。
扉の詰所に入っている兵士たちに夜食ができたと知らせに来たものかもしれない。
少女はすかさずその炊事番に襲いかかった。
悲鳴をあげる暇も与えない。大の男を上回る怪力で相手の身体を壁に押さえつけ、腰の短剣を引き抜いて首筋に押し当てた。
相手は戦闘訓練も受けていないただの老人である。完全に度胆を技かれて少女のなすがままだった。
「静かに。騒かなければ何もしない」
これが野太い男の声で言われるならともかく、優しい少女の声なのだから、炊事番もさぞかし驚いただろう。
それでも首筋の刃物の感触は充分脅威だったらしく、がたがた震えながら頷いた。
シャーミアンと大隊長もやって来て、あたりに目を配っている。
少女は捕まえた老人に尋問を開始している。
「地下への巡回はいつ入った?」
「は……」
「いつごろ入って、いつごろ戻って来る?」
「あ、あ、あの……はい」
炊事番は何度も喉喉《のど》を鳴らし、しどろもどろになりなから、もうじき戻って来るはずだと説明した。
「いつもこんなに遅い時間に巡回をするのか?」
「い、いえ、あの、今日の巡回は二度目の巡回でして……」
「どうして?」
「死人が出ましたので、はい。先日入牢したばかりの若い男ですか、昼の巡回の時に死んでいるのが見つかりまして、その後始末やら何やら、いろいろとかかりまして、はい。それでもう一度、地下へ降りているのでございます」
死者が出たと聞いてシャーミアンが息を呑み、伯爵でないと知って|安堵《あんど》の息を吐いた。
「台所には君一人?」
「は、は、はい」
「ご飯食べた?」
「はっ?」
「今、おなかすいてない?」
「は、はい」
「申し訳ないけど君を縛りあげなきゃならないんだ。今日の正午までそのままでいてもらうことになるから、何なら今のうちに食べておく?」
「い、いえその、けけけ、結構で、ございますです、はい」
「わかっているだろうけど、騒いだりしないでじっとおとなしくしていてくれれば、ぼくたちはすぐにここからいなくなるからね」
「は、はい」
その老人は少女の言葉に嘘はなさそうだと思ったのか、兵隊のもめ事に巻きこまれるのはまっぴらだと考えたのか、いそいそと縛られて、おとなしく台所に閉じこめられた。
「大隊長、シャーミアン。地下の入口を見ていて。巡回が出て米たらその楊で押さえるんだ」
「あなたは?」
「上の兵士たちを気絶させてくる」
大隊長が声をかけた。
「最上階には気をつけろ。あそこには非常用の|鉦《かね》がある。一打ちでも鳴らされたら本宮に筒抜けだぞ」
「わかった」
振り返らずに答えて、少女は階段をすべるように昇って行った。まったく足音をたてない。影のような動きである。
大隊長はふたたび額の汗を拭い、シャーミアンに話しかけた。
「あの娘は、得体は知れないが、うまく使えば何よりの戦力ですな」
「いいえ、ルカナンどの。それは心得違いというものです。使ってやろうと思ったとたんに、彼女は私たちを見限り、離れていくでしょう」
勝利の女神ハーミアのように、シャーミアンはそう呟いた。
「私たちも行きましょう。彼女に頼ってばかりはいられません」
「はい」
二人は急いで地下牢の入口に駆け戻り、物陰に身を潜めた。地下から人か上がって来たら即座に飛びかかり、押さえるためだ。
それからどのくらいの時間か流れたものか。
少女が上にいた兵士たちを一人残らず当て落とし、音もなく戻って来た時も、まだ地下への鉄格子は閉ざされたままだった。
夜間のことで時間の感覚も掴めない。しかし、シャーミアンにとっても大隊長にとっても気の遠くなるほどの時が流れたようだった。
シャーミアンは何度も不安にかられ、その度に少女の様子を窺ったのだが、少女は緑の瞳を凝らしてじっと動かなかった。まるで猫科の獣かひとたび獲物を待ち構えると何時間でもその姿勢のまま動かなくなるように、決して緊張を解かず、身じろぎひとつせず、ひたすら地下への入口を見つめたままだった。
シャーミアンはそのたび、自分の焦りを恥じながら息を整え、落ちつきを取り戻すよう己に言い聞かせ、さらに待ち続けた。
やがて、少女かぴくりと動いて、シャーミアンの腕を掴んだ。
女騎士ははっとなり、緊張の頷きを返し、大隊長を見た。
三人が息を詰めて待ち構えていると、鉄格子の向こうに小さな明かりが見えた。
ゆっくりと昇ってくる。
|手燭《てしょく》を待った二人の看守は鉄格子を潜り、厳重に鍵をかけ、不意の巡回に疲れた様子で階段を上がって来たが、そこでいきなり不審人物にかこまれ、剣を突きつけられたのだ。
「動くな」
看守は二人とも中年のがっしりした体格だったが、さすがに一瞬、絶句して立ち竦んだ。こんなことはあり得ないことなのだ。
「な、何者だ。うぬらは!?」
シャーミアンが鋭く言った。
「何者でもいい。ご苦労だがもう一度地下へ降りてもらいたい」
「何だと?」
「目当は何だ?」
看守たちは用心しながらも口々に問いかける。時間を稼ぎ、同僚の助けを待つっもりかもしれなかった。
少女がやんわりと言ったものである。
「おかしなことを考えないように。仲間の助けなら待っても無駄だよ。この塔で今、動いているのは君たちだけだ」
看守たちは絶句していた。この塔へ侵入しようという者があるだけでも充分驚きだというのに、二人は女で、しかも子どもだ。
しかし、看守たちの驚愕はほんの一瞬のことだった。即座に立ち直り、一人が妙に冷静な声で言った。
「子どもの悪ふざけにしてはたちの悪いことだな。今のうちなら罪は問わずに見逃してもよい。騒ぎになる前に立ち去るのが身のためだぞ」
さすがに北の塔の看守だけあって肝が据わっている。
シャーミアンは硬い顔つきを崩さず、看守の一人に突きっけた剣に力を込めた。
「フェルナン伯爵の独房はとこだ? 案内してもらいたい」
看守たちは答えない。無言のままシャーミアンを見つめている。
|蝋燭《ろうそく》の明かりに照らされるだけの暗がりだったが、その顔を見つめているシャーミアンの背筋には冷や汗が伝った。
人間の目とはとても思えなかった。何の感情もない、爬虫類のような目の光なのである、
「無駄なことだ」
「何が無駄だと言うのだ!」
「北の塔の囚人を外へ連れ出すことなど不可能だ。あきらめて帰るがいい」
シャーミアンは激しい|焦燥《しょうそう》を感じていた。ここまで来て目的を達することもできずに、おとなしく帰ることなどできるわけがない。
だが、この看守たちはさすがにただ者ではなかった。筋金入りだ。
大隊長が腰の剣に手をやり、
「伯爵のもとまで素直に案内すればよし。さもなくばたたっ斬るぞ!」
すごんでみせたが、看守たちの態度は変わらない。
それどころか、彼らは薄笑いさえ浮かべてみせたのである。
「我々を殺してどうやって目当の房までたどり着くつもりだ。この地下は案内なしでは二度と地上へ戻れん迷路だ。それでも殺すか」
大隊長もシャーミアンも歯を食いしばった。
二人とも思わず少女を見た。
こんな時に一番頼りになるのか一番年下のリィだというのは何とも奇妙な話なのだが、しかし事実だ。
この時も少女は彼らの期待を裏切らなかった。
苦い顔つきで黙りこんでいたか、何を思ったか、一人に突きっけていた剣を腰に納めたのである。
次の瞬間、少女は思いきり、その男の顔を殴りつけた。
血へどを吐いて男か床に倒れたところを、今度はなんと蹴り飛ばした。これか腹部にもろに入ったのである。
「ぐえっ!」
たまったものではない。看守は腹を押さえ、冷たい石の床の上でのだうちまわった。
そうして相手の動きを封じておいて、少女は一言も発しないまま、床に倒れた男の右手を無造作に掴み、力を込めたのだ。
「ぎゃあっ!」
絶叫があがった。
小指の骨を折られたのである。
「リィ!?」
シャーミアンが悲鳴をあげたが、少女は頓着しなかった。硬い声で言い返してきた。
「あまり見ないほうがいいと思うよ。そっちの人を逃がさないようにしていて」
「で、でも……」
「案内なら一人いればいいんだよ。この人たちは少しばかり痛い目をみないと案内する気になってくれないらしいから、こっちの人に犠牲になってもらおう」
不機嫌な口調である。
「まったく馬鹿だな。ぼくたちの目当はフェルナン伯爵一人だ。案内してくれたって君たちの責任になるわけでもないだろうに、好きこのんで痛い思いをしたいと言う。あんまり時間をかけてもいられたいから、まずは両手の指を全部折って、それでも駄目なら耳をそいで、鼻を切り飛ばして、それでも気持ちよく案内してくれないって言うなら、殺さない程度に薄く皮を切ろう。手加減すれぼ出血多量で死ぬまで結構切れるもんだ。血だるまになるに従って身体が倍くらいにふくれてくるけどな」
シャーミアンは蒼くなった。大隊長と、その手に捕えられている看守がごくりと|唾《つば》を呑んだ。
少女はあくまで仏頂面を崩さず、面倒くさそうに淡々と話している。
「あんまりやりたくないんだよ。こういうこと。人間の血の匂いなんかちっとも嬉しくないし、大の男が泣きわめくのもみっともなくて嫌いだし。ぼくの相棒は得意なんだけどな。にこにこ笑いながら指を掴んではパキッ、腕を掴んではボキッ、あれえ、まだしゃべりたくならない? 困ったなあ、じゃあこの目玉もらっちゃってもいいかなあ。ちょっと友達やってるのがいやになるくらい、嬉しそうに拷問するんだからな。それでもあきたらずに逃げまわるのを捕まえて体の先から少しずつちぎっては捨てるもんだから、しまいには原形なんかわからない肉の塊になっちまう。なのに、そのあとで血の滴るような肉をぺろりと食べて舌なめずりするんだから、ほんと、どういう神経してるのかと思うよ」
看守は指を一本折られただけだった、が、大の男の自分を軽々と手玉に取る力も、この少女の様子も、さぞかし不気味に見えたのだろう。震えあがって後ずさった。
「ま……。持ってくれ」
「持てない。こっちもこれでも命がけで来てるんだ。何度も言うが案内は一人いればいいんだ。君には見せしめに血だるまになって死んでもらう。もちちんその前に折れるだけの骨をへし折って、顔からあらゆる部品を切り落としてやる。耳と鼻と目玉のなくなった人間の顔って見たことある? そりゃあまぬけなもんだよ。あいにく君は自分で見ることはできないけど、お友達かじっくり鑑賞してくれる。おまけに足の先から寸刻みに刻まれて人間だかなんだかわからないくらいぐしゃぐしゃになった君の死体を見れば、お友達も喜んで地下へ降りてくれるだろうよ」
「案内をする!」
思わず叫んだ看守だった。あくまで事務的に話すこの少女に言いようのない恐怖を感じたのと、なんだって自分がそんな貧乏くじを引かねばならないのかと思ってのことだった。
ここに至ってシャーミアンは思わず感嘆の声をあげるところだった。大隊長でさえ目を見張った。二人とも正直言って眉をひそめながら少女の口上を聞いていたのだが、この少女はわざとこうした様子をつくり、お前は捨て駒なのだと巧みに思いこませることで看守に命を惜しませ、その協力を取りつけたのである。
少女はそれでも追及をゆるめなかった。
「信用できないな。ぜんぜん違うところへぼくらを連れて行くかもしれないじゃないか」
看守は必死で首を振った。口の中に|滲《にじ》んだ血の味と、右手と腹部の痛みが恐怖に拍車をかけていた。
「誓って伯爵の房へ連れて行く! 本当だ!」
大隊長に捕えられているもう一人の看守が怒りを込めて叫んだ。
「この愚か者が! うかうかと曲者の術策にはまるとは何事だ! こんなことか上に知れたら厳罰ものだぞ!」
まさに正論なのだが、この正論は仲間の恐怖を|癒《いや》す何の役にも立たなかった。少女は怒っている看守にちらりと目をやり、足万にうずくまっている男を見下ろして、腰に手をやった。
「あんなこと言ってる。やっぱり腕の一、二本、切り飛ばさないと素直になってもらえないらしいな」
その男は悲鳴をあげて同僚を|罵倒《ばとう》し、伯爵の独房の鍵は相方か持っていると訴えた。
「馬鹿者!」
怒声をあげた看守だが、手遅れである。シャーミアンはでき得る限り血走った様子を作って剣を握った手に力を込め、鍵を出すように看守に迫った。
ここで拒否するのはそれこそ愚か者のすることだ。
相手は自分の首を刈り、その後、体を探ることもできるのだから、素直に従ったほうが、首がつながる分、得である。
看守は渋々ながらも鍵を手渡し、大隊長がその男を縛りあげた。
少女は床に倒れた男を引きずり立たせている。
「わかっているだろうけど、ぼくたちは急いでいるんだ。いいな?」
看守は右手を押さえながら必死に頷き、よろめきながらも地下への入口に向かったのである。
手燭はシャーミアンが持った。その顔は緊張に厳しく引き啼まっていた。
今まで誰も覗いたことのない北の塔の地下へこれから降りるのだ。さらにはもう一年近くも顔を見ていない人にようやく会えるのである。
伝えなけれぼならないことが山ほどあった。
何としてもその人を陽の当たるところへ連れ出さなければならなかった。
二十段ほどの石の階段を降りたところが最初の鉄格子である。右手が不自由になった看守に代わって少女が鍵を開けた。それでも自分が先に入るようなことはしない。看守を歩かせる。
一歩、地下通路へ足を踏み出すと、急に湿気が強くなった。同時に陽の当たらない場所に特有の|黴《かび》臭さが、つんと鼻をついた。
看守を先頭に彼らは一列に並んで地下の通路を進んで行った。
人間が三人並んでやっと通れるような狭い通路と下りの階段か交互に現れる。通路の所々には壁をくりぬいた|燭台《しょくだい》かあり、蝋燭か燃えている。換気は充分に行われているらしいが、この臭気を消し去るほどではない。
階段の降り口、昇り口には必ず明かりが設けられていた。でなければ足を踏みはずしてしまう。土と石の壁は光をまったく通さない。昼夜をとおして、ここは塗りつぶしたような暗闇なのだ。おそらくは巡回の度に蝋燭を代えているのだろうが、それでも手燭で足下を照らす必要があった。
階段め底は深くなっていてどこまで続いてるのかわからない。
地下へ地下へと降りていく度、ルカナン大隊長が思わず額の汗を拭ったものである。さなから地獄の底へ降りていくような気がしたのだろう。
そして、とりわけ長い階段を降りたところに、もうひとつの鉄格子があった。
これも鍵を用いて通り技ける。
油を|注《さ》してあるのだろう。極太の、恐ろしく重そうな鉄の格子は音もなく開き、そこに、生きて帰った者は誰もいないという北の塔の地下部分が広がっていた。
明かりを突き出して見てみると、曲がりくねった通路か伸びているようだ。
おそらくこの通路は先々で幾重にも分かれ、時には行き止まり、時には交差し、その合間に独房が設けられているのだろう。
まさに地下の迷路である。
看守の背中をつつき、一刻も早く伯爵のもとまでたどり着こうとした彼らだが、少女が|訝《いぶか》しげな顔になって立ち止まった。
「リィ? どうかした」
シャーミアンが小声で尋ねる。思わず声を低くするほど、そこは不気味な気配に満ちていた。
「嫌な臭いがする」
「それは感じるけど……」
「違う。ひどく嫌な、生き物が生きたまま腐っていくような、そんな臭いだ」
「……」
ごくりとシャーミアンの喉が鳴った。
耳を澄ませば、かすかに人の呻き声が聞こえてくる。それもひとつやふたつではない。中にははっきりと正気を失っているとわかる声もある。
昼も夜もわからないこんな地の底に押しこめられていては無理もない。
シャーミアンも険しい顔になり、看守に突きつけた剣に力を込めた。
「妙な真似はするな。まっすぐに伯爵の房まで案内しろ」
看守は慌てて頷いた。
それから彼らは決して陽の射さない暗黒の世界をひたひたと急いだが、それは、大の男のルカナン大隊長が思わず歯の根を震わすような忌まわしい道行きだった。
湿気と黴臭さに混じって、ときおり吐き気を催すような強烈な腐臭か鼻をつく。まさに少女の言うとおり、生き物の腐敗する臭いが強烈に漂っている。
この地下に閉じこめられた囚人たちが健康な人の体臭を失い、悪臭を放っているのだ。さらには明らかに狂っているとわかるかん高い|嬌声が《きょうせい》闇をつんざいて響くかと思うと、苦痛に耐えかねて呻く声が不気味に闇の底辺を這う。
シャーミアンは身震いしていた。
こんなところに入れられては、自分はとうてい正気を保っていられなかっただろう。
(小父さま。どうかご無事で……!)
祈るような思いで歩き続けていたため、どこをどうやってたどったのか覚えていない。気づくと鉄格子をはめこんだ木の扉の前にいた。
「ここです」
危うく手燭を取り落とすところだった。看守の差し出す鍵を取り、錠前に差しこもうとしたが、手が震えてなかなか入らない。それでも扉が開くと真っ先に駆けこんだ。
「大隊長。この人を見張ってて」
少女も言い置いてシャーミアンの後を追った。
房の中には小さな蝋燭か一本灯っているだけで、ほとんどが暗闇に隠れてしまっている。通路に漂っていた悪臭がさらに強くなったようだった。
シャーミアンは懸命に手燭をかざしたが、見えるのは、がらんとした空間ばかりである。
「フェルナン小父さま!」
駆け出そうとしたシャーミアンを少女、が後ろから引き止めた。
「危ない。足下を照らしてごらん」
言われたとおりにして見ると、彼らが立っているのはほんの小さな踊り場だった。下りの階段が長く続いているのである。
降りたところも人ひとりを入れておくにはかなり広い。
「小父さま。フェルナン伯爵さま!」
必死の様子で叫びながらシャーミアンは手燭をかざしたが、塗りつぶされたような濃い闇だ。鈍い明かりにかろうじて照らされるのは石の壁ばかりである。
しかし、不意に、部屋の片隅で低い声がした。
「誰だ」
枯れた、力のない声だった。
「小父さま!」
突きつけるように手燭を向ける。床に近いところに、眩しそうに目を細める人の顔があった。
少女ははじめて、男の養父であるフェルナン伯爵の顔を見たのである。
その人は長い聞の牢暮らしで肌は汗と垢に汚れ、頬はげっそりとこけてやつれ、目のまわりは深い隈に窪み、頬から|顎《あご》にかけて剃ることもできなかった不精髭に覆われていた。
しかし、頼りない手燭の明かりに照らされたのはそればかりではない。この状況にあってもその人の目には不屈の光があった。
「小父さま……」
だがそれは女騎士の見覚えている人とはあまりにかけ離れた、変わり果てた姿だった。シャーミアンは泣くような声を洩らし、自分の顔を明かりにかざした。
「私です。おわかりですか。シャーミアンです!」
「シャーミアンどの?」
呟きながら伯爵は身を起こした。その拍子に鎖が耳障りな音をたてた。
懐かしい人に会えた歓喜に輝いていたシャーミアンの顔に、怒りが混ざった。
伯爵の両手は鎖のついた|手枷《てかせ》で戒められているのだ。これだけ厳重な地下へ閉じこめておいて、なおも戒めをかける、そのことに憤りを覚えたのである。
しかし、こんなものはすぐに解ける。手燭を置き、シャーミアンは膝をついて、興奮もあらわな口調で伯爵の手を取った。
「小父さま! ようやく、ようやくお会いすることができました。こんな鎖は今、はずしてさしあげます」
伯爵のほうは事態がよく理解できていない。訝しみ混乱しながら、焦りの籠もった様子で忙しく問いかけてきた。
「シャーミアンどの。いったい、どうしてこんなところへやって来たのだ? 今は、外は昼間なのか?」
「いいえ。真夜中です。私は小父さまを牧いに参りました」
伯爵は信じられないように旧友の娘を見つめている。
「シャーミアンどの。ドラは、お父上はどうした? あなたは父上ともども捕われたと聞いたが……」
「父は無事です。小父さま」
シャーミアンは別人のようにやつれた伯爵を見つめ、一番重要なことを告げた。
「陛下もご無事です!」
伯爵は大きく息を呑んだ。落ち窪んだ|眼窩《がんか》の中で、その目か異様に輝きを増し、手錠をかけられた痩せ衰えた手がシャーミアンの腕を信じられないような力で掴んだ。
「陛下が!?」
「はい! 父は今陛下と共におります。他にラモナ騎士団が陛下と行動を共にし、現在マレバヘ向けて進軍中です!」
伯爵は天井を仰ぎ、歓喜の声をあげた。
神に対する感謝の言葉のようだった。
「陛下は小父さまのお身をたいへんに案じておられます。それをよいことに改革派は、小父さまの命と引き換えに降伏するようにとの脅迫を陛下に送りつけて参りました。それで私が参ったのです」
伯爵の顔色が変わった。
痩せ衰えた顔が恐ろしい予感に歪んだ。
「まさか、シャーミアンどの。あなたは不法にこの塔に侵入をしたのではあるまいな?」
「はい」
これにははっきり呻いた伯爵である。
枯れた声に精一杯の怒りを込めて、伯爵は若い女騎士を叱りつけた。
「何という無茶をしたのだ! 上には兵士たちが目を光らせているのだぞ!」
「兵隊は一人残らず気絶しております」
「なんと?」
「この少女が奇跡を起こしてくれました」
そう言って後ろを振り返ったシャーミアンだが、紹介は後まわしにした。ここで時間をつぶしてはいられない。
「詳しいことはのちほどご説明します。今のうちに早く。陛下が待ちかねておられます」
しかし、伯爵はゆっくりと首を振ったのである。
「いいや、シャーミアンどの。それを聞いては、ここを動くわけにはいかん」
「何をおっしゃいます!?」
「私には、ここから脱出できるだけの力はもう残っていない。見つかれば、あなたまで巻き添えにしてしまう。そんなことになればそれこそドラに対して申し訳がたたん。陛下がご無事だった。それを聞けただけで私はもう充分だ」
「そんなこと! 陛下はこれからコーラル奪回のための戦に臨まれます。小父さまの助力が必要なはずです!」
「シャーミアンどの。その明かりで私の足を照らしてごらん」
言われたとおりに手燭をかざしたシャーミアンの口から悲鳴かあがった。
地下の闇を引き裂くような悲鳴だった。
明かりに照らされた伯爵の両足は、その膝から下のほとんどが黒く焼けただれ、形を成さなくなっていたのである。
単なる火傷ではない。肌は溶け、焦げた肉が剥き出しになり、|壊疸《えそ》を起こしている。
シャーミアンは震える手で口元を覆った。
うかつにも、この房に強く漂う悪臭の原因に、今ようやく気づいたのである。
「見てのとおりだ。私はもう二度と、剣を取って戦うことも、立って歩くこともできないのだよ」
静かな声だった。
あまりにも穏やかな、現実をしっかりと見据えた人の言葉だった。
この地下へ入れられた時から、二度と陽の光を見ることはできないと、また五体満足で死ぬこともできまいと覚悟していたに違いない。
シャーミアンは石の床に座りこみ、激しく肩を震わせていた。言葉が出てこなかった。顔を上げることもできなかった。
何をされたのか、どんな拷問を受けたのか、想像するにあまりある。
ようやく伯爵を見つめた時には、その顔は後から後から流れ落ちる涙で濡れていた。
「小父さま……」
なのに伯爵は微笑みさえ浮かべて、言った。
「泣くことはない。もはや痛みも感じない。だが、こんな荷物を連れて逃げ出せるほど、コーラルの警備は甘いものではない。私を置いて逃げなさい」
シャーミアンは激しく泣きじゃくった。
「小父さま……。こんな……誰がこんなひどい……。あんまりです!」
伯爵は、身を震わせて泣き続けるシャーミアンの肩を、手錠に戒められた不自由な手で優しく叩いてやった。
「さあ、行きなさい。今こうしてあなたに会え、ドラの無事と陛下のご健勝を知ることができた。私はそれで充分だ」
「あいにく、ちっとも充分じゃない」
伯爵は訝しげに声の主を見た。
少女は伯爵に加えられた拷問の跡に眉をしかめながらも、丁重に初対面の挨拶をしたのである。
「はじめまして。フェルナン伯爵。ぼくはグリンダ。長い名前はグリンディエタ・ラーデン。君の息子さんの友達だよ」
「おかしなことを……。私には息子はおらん」
「向こうはそうは思ってないよ。今でも自分はスーシャのフェルナンのウォルだって、そう言ってた」
伯爵はさすがに驚いて、この少女をまじまじと見つめていた。
「もし、お前の言うのが陛下のことであるならば、友人とは何事だ」
「本当にそうなんだから仕方がない。いい、伯爵。君かどんなに嫌だと言ってもこの牢から出てもらうからね。ぼくらはこれからコーラル相手の決戦をするのに、君がここに押さえられている限り、勝ち目はないんだ」
「私のことなら見捨てるように陛下にお伝えしろ」
「ドラ将軍以下の勇士たちがいっせいにそう言ったよ。でも、納得してない」
小さく舌打ちを洩らした伯爵である。
「あの方は、いつまでつまらん情に捕われているおつもりなのだ」
「他人事だと思って勝手を言わないように」
釘を刺し、少女は階段を昇って言った。
伯爵は身近に迫った|愁嘆場《しゅうたんば》も忘れて目を丸くし、シャーミアンに間いかけたものである。
「ずいぶんと、おかしな態度の娘だが、何者なのかな?」
「彼女は、バルドウがつかわしてくださった娘です」
涙を拭ったシャーミアンたった。今は悲嘆にくれている場合ではない。そんなことよりしなければならないことがあった。
鍵の束を探り、伯爵の手錠に合う鍵を探す。
「シャーミアンどの。かまわず行きなさい」
「いいえ、嫌です。私たちは小父さまを救うためにここまで来ました。それでなくとも、こんな無残な仕打ちを見た以上、一日たりとも小父さまをこんなところに留めてはおけません」
「これ、シャーミアンどの」
「何より、ここまでたどり着きながら小父さまを見捨てて戻るようなことがあれば、私はそれこそ父に対して顔向けができません」
きっぱりと言い切った女騎士に伯爵は焦って何か言おうとしたが、その時少女が階段を降りて来た。
手に何やら布の束を抱えている。
どうやらそれは看守から剥ぎ取ったらしい。一度、裸にして、衣服の中から使えそうなやわらかい布をかたっぱしから取りあげたのだ。
少女は器用に布を裂き、腐臭を放っている伯爵の両足に顔をしかめながらも、てきぱきと即席の包帯を巻いていった。
「鍵はどう? シャーミアン」
「駄目だわ。なかなか合うのがないの。本当にこの鍵の束でいいのかしら」
少女は面倒くさそうに立ち上がった。
「どいて。壊してしまおう」
言うなり、少女はまず手錠と壁をつないでいる鎖を叩き切った。次いで、伯爵の両手を固定している木枠の隙間に刃先を差しこみ、あっさりと外してしまった。
次いで伯爵を壁に|凭《もた》見かける形でかろうじて立たせ、自分の背中に倒れこませるようにして背負い上げた。
「こ、これ」
「いいから。このくらい何でもない」
「しかし、私がいてはお前たちまで逃げられなくなるぞ」
「怪我人にこんなこと言いたくないけど、あんまりわからないこと言うと気絶させて勝手に運ぶよ」
伯爵は痩せ衰えた顔を驚きでいっぱいにしている。
少女のほうは担ぎ上げた体のあまりの軽さに、思わず舌打ちを洩らしていた。
この状態でよくも平然と話していられるものだと思った。生き物が本来持っているはずの力がまるで体に感じられない。
半年の牢生活と度重なる拷問が、伯爵の体から生気と活力を残らず奪ってしまっているのだ。
|強靭《きょうじん》な意志の力で伯爵は一言も苦痛も洩らさず、弱っている様子も見せず、平常の言動を保っている。
だが、状況が決して楽観できないものであることを、この瞬間、少女は悟った。急かねばならなかった。
独房を出ると、そこに待っていた大隊長が伯爵を見て敬礼してみせた。少女の背に負われたフェルナン伯爵もそこにいた大男を見て、訝しげに言ったものである。
「確か、ルカナンどのだったか?」
「はっ! 覚えていて下さり、光栄に存じます」
「堅苦しいのは後だ。行くよ」
看守はほとんど裸で震えている。
手が不自由なので脱がされた衣服をもう一度着ることができなかったのである。
しかし、少女は容赦なく看守を急かせ、歩くように言いつけた。
「そんなもの、両足を焼かれた人の痛みに比べれば、いったいなんだっていうんだ」
すごみのある口調だった。
看守は震えあがり、先頭に立って彼らを出口へ案内したのである。
出口を確認すると、少女は看守を|地下壕《ちかごう》へ置いたまま、鉄格子の鍵をかけた。
「たまには一晩ここで過してみるのもいいだろう。囚人の気持ちがよくわかるようになるだろうさ」
階段を昇り、地下通路を抜け、地上部分へ出ると、石の床の上では縛られた看守がなんとか自由になろうと必死にあがいているところだった。
そんな看守を少女は無表情に見やり、
「もらっていくよ」
言い捨てて北の塔を後にしたのである。
外へ出ると、あたりにはまだ深い夜の|帳《とばり》が降りていた。
少女に背負われたフェルナン伯爵は深々と自由の空気を吸いこみ、夜空を見上げて呟いた。
「美しいな」
「はい?」
「生まれてはじめて星を見るような想いがする」
シャーミアンはその言葉に、あらためて伯爵の置かれていた過酷な境遇を思い、唇を噛んだ。
あの地下はまったくの暗黒に塗りこめられていた。そればかりか伯爵は、騎士にもあるまじき屈辱に耐えなければならなかったのである。
「郊外へ行けばもっときれいに見える。今は|松明《たいまつ》の明かりか邪魔だ」
少女が言う。シャーミアンも頷いた。
「急ぎましょう。第三城壁の外で従騎たちが待っているわ」
少女は伯爵を背負ったまま、一同の先頭に立った。
この少女の暗かりでの目の確かさはかつて国王が実際に確かめたものだが、シャーミアンも大隊長も、ここまで全面的にこの目と耳に頻っていた。
一の郭はすでに山腹に位置している。主要な建物の周囲、またその建物をつなぐ部分には整地が施され、敷石が敷きつめられ、雑草一本見当たらないほどに管理されているが、山を丸ごと整地することなどできはしない。少し外れれば自然の状態がそのまま広がっている。
道などはないに等しいのだが、少女は耳を澄ましながら、できるだけ歩きやすいところを選んで進んで行った。
フェルナン伯爵は、自分を背負っている上にこの暗がりでも確かな少女の足取りに驚いていたようだが、第一城壁までたどり着き、行きに彼らが垂らした細縄を見るに至っては、驚嘆の声をあげた。
「いったい、どうやってこんなものを……」
「話は後です。小父さま」
シャーミアンも緊張に声を低めてあたりを窺った。
城壁を越える時が一番の難関なのだ。
縄はひとつの壁につき一本しか用意できなかった。
つまり三人が一度城壁の上にあがり、それから反対側に縄を垂らさなければならないのである。
「シャーミアン、先に上がって。次に大隊長。ぼくは一番最後に上がって一番最初に降りる」
「いかん。私をここへ置いていけ」
あくまで頑固なフェルナン伯爵である。少女がちょっと笑った。
「ほんとにウォルそっくりの石頭だ」
「これ。陛下を呼び捨てにするとは何事だ」
「別にウォルだけじゃない。ナシアスやガレンスも名前で呼んでるよ」
その間にもシャーミアンが城壁の上に伏せて明かりを避けている。大隊長も同様にして縄を登り、少女は背中の伯爵に言った。
「ぼくの首にしっかり掴まってて」
無茶だと言おうとした伯爵だが、その時には少女は縄を掴み、登りはじめていた。
反射的に伯爵は痩せた腕で少女にしがみついたが、次には驚きに目を見張っていた。
痩せ哀えているとはいえ、大の男の体を背中にぶら下げて、少女はぐいぐい縄を登った。城壁の上にたどり着くと今度は縄を反対側に垂らし、真っ先にすべり降りた。大隊長とシャーミアンが続いて降りて来た。
このために、あらかじめ三人とも両手に頑丈な防護をしている。
ここからは二の郭である。
近衛兵だけでなく、それぞれの貴族の館に勤めている私兵や騎士も多くいるところだ。
上から見下ろすと、どの館にも明かりが灯っている。それも当然で、敵を|威迫《いはく》し、己の威容を誇るのが戦の常である。合戦の場では互いに負けしと篝火を焚きつけるものだ。武人のたしなみと言えばそのとおりなのだが、人が起きている気配はほとんどなかった。ごくわずかに見張りが出ているようだが、それも眠気をこらえなからの形ばかりのもののようである。
難攻不落のコーラル城のいわば二の丸だ。何者だろうと押し寄せてこれるはずはないと思っているのかもしれなかった。
少女がにこりともせずに言った。
「この城が難攻不落とはおもしろい冗談もあったもんだ。ここから一軍をなだれこませれば、ひとひねりにできるぞ」
「恐ろしいことを考える娘だの」
少女の背中でフェルナン伯爵が笑った。
「戦術としてはおもしろい。しかし、ここまでどうやって一軍を誘導する? 背中に本宮があることを忘れてはいないかな」
「その後ろはパキラ山だ。半年前、ウォルは二人で越えた。それなら軍勢が越えられないわけはないと思うんだけどな」
「一人だからこそ越えられたのよ。つけ加えるならば、スーシャの森を自在に駆けていた陛下なればこそだ。パキラは武装した多数の兵隊か越えられるような山ではない。それに、陛下を呼び捨てにしてはならんぞ」
「あいにくと伯爵。ぼくは友達は名前で呼ぶ主義なんだ」
そんなことを話しながら、彼らは暗がりに紛れてひたすら道を下った。ほとんど下山に近い傾斜である。
大手門から正門までの『大通り』の近くは斜面もなだらかに|均《なら》してあり、貴族たちの館も整然と並んでいるが、彼らが今下っているのは二の郭でも|大外《おおそと》の部分だ。|譜代《ふだい》といってもさほど|身代《しんだい》の大きくない貴族たちが館を並べているようで、それぞれの館は別の館の屋根を見下ろし、また別の館の玄関を見上げるような格好で建っている。
帰りは一度通った道でもあり、下りになっていることもあり、行きに比べればずいぶん短い時間で第二城壁までたどり着けた。先ほどと同じようにして壁を越える。後は最後の一枚、第三城壁のみというところで思わぬ障害が待っていた。
先に立っていた少女が急に息を詰めて、馬小屋の陰に隠れた。
城壁はもうすぐそこなのにだ。ところが、そっと見てみると、城壁の上にも下にも松明がいくつも集まり、不気味にさざめいている。
シャーミアンが息を呑み、大隊長は小さな舌打ちを洩らした。
垂らしておいた縄を見つけられてしまったらしい。
三の郭を警備する兵士が偶然見つけたのか、あるいは――戦時中でもない限り行わないということだったが――城壁の上を巡回した兵士が見つけたのかもしれない。ちょっとした騒ぎになっている。
大隊長が低く唸った。
「ここまで来ていながら。何ということだ!」
シャーミアンも激しい焦燥を感じていた。
集まっている松明の数は十を超える。
あと一歩なのである。もう目と鼻の先に安全な、自由が待っているのだ。残り時間も少ない。ここまで順調すぎるくらいにきたが、夜明けは決して遠くないはずだった。
少女が言った。
「大隊長。この人をお願い」
伯爵を引き受けてくれということだ。
「リィ。どうするつもりなの?」
「仕方がない。強硬手段に出るよ。あの兵隊を片づけてくる」
「でも!」
「君らがやったら同じ城に勤めるもの同士だ。後でまずいことになるかもしれない。ぼくがやる分にはたいした問題じゃない」
小声で囁き、少女は帯に|手挟《てばさ》んでいた短剣を取り出したが、シャーミアンは首を振った。
「いいえ、だめ。私も行くわ」
「ここの兵士は直接、戦場に立っている敵じゃない。ただの部外者だよ。殺せるの?」
「それは騎士に対する侮辱と判断するわよ、リィ」
やはり声を低めながらも、きっぱりと断言したシャーミアンである。
「あなたが言ったではないの。他人の命より自分の命を優先させると。そのとおりだわ。今の私たちはたとえ同胞殺しの汚名を着ようとも、ここから無事に脱出することが先決なのよ」
ここでためらえば彼らは捕えられ、おそらくは処刑される。それを避けるためには何も知らない無間係な兵士を何人も殺さなければならない。
だが、戦い争うとはそういうことなのだ。自分が生き残るために他者を押し|退《の》け排除する、できなければ自分が倒される。冷酷とも言える掟だった。
少女は真顔で頷いた。
「じゃあ、塀の上の兵隊はぼくが短剣でやる。下にいる連中を頓む」
「ええ」
「ちょっと待った。シャーミアンどの。それなら私が行きます」
大隊長が早口に言った。自分が留守番で少女二人に特攻を任せるというのが釈然としなかったのだろう。だか、シャーミアンは首を振って大隊長を止めたのだ。
「いけません。ルカナンどのはそれこそれっきとした近衛将校です。城兵たちとは所属は違っても根は同じなはず。北の塔への侵入だけでも申し訳ないと思っておりますのに、この上、城を警備する兵士を斬り伏せたとなれば、のちのち厄介な問題になります」
「いや、しかし」
「シャーミアンの言うとおりだ。伯爵。悪いけど、こっちに移って」
背中を大隊長に向ける。伯爵はロ元に微苦笑を浮かべて大隊長を見上げ、大隊長はとことん複雑怪奇な顔で伯爵を見つめたものだ。
「いたし方あるまい。背を貸していただけるかな、ルカナンどの」
「は……」
伯爵を大隊長に預けると、二人はそれぞれに武器を握り、うごめいている松明めがけてまっすぐに進んで行った。
走りながら、少女が短剣を投じる。
直後に塀の上で悲鳴があがった。
わずかに遅れてシャーミアンが、下にいた兵士の一人を斬った。
「何だ!?」
一声叫ぶ間に少女の短剣が、塀の上にいた四人ほどの兵士をすべて片づけていた。
シャーミアンも目が闇に慣れていたこともあり、奇襲の優位も手伝って、下にいた三人を次々に斬り伏せた。
「今のうちに早く!」
言われるより先に、大隊長は伯爵を背負ったまま駆け寄ってきた。
縄はさいわい下げられたままたった。こうした場合はうかつに手を触れず、現状を維持したまま、上官の指示を仰ぐのが一兵卒の役目だからである。
その連絡を受けた増援が駆けつけて来たら一巻の終わりだ。少女は倒れた兵士の一人が持っていた弓矢を奪い、かなう限りの速さで壁を登った。城壁の上に立ち、手招きする。
シャーミアンは剣を構え、大隊長に言った。
「先に登ってください」
「いや、シャーミアンどの」
「急いで!」
塀の上下を少女たちが警護する中、大隊長は伯爵を背負ったまま縄を登り、鋸壁の内側、見張り用の通路に立った。
一度、伯爵を下に降ろし、塀の外のあちこちに目を凝らす。
「どこかに迎えかいるはずだが……」
「シャーミアン、早く。人が来る!」
少女が鋭く叫んだ。
女騎士は急いで縄を登りはじめたが、ほぼ同時に、松明の明かりと大勢の人のざわめきが急速に迫ってきたのである。
少女は舌打ちを洩らし、弓矢を背負い、シャーミアンのぶら下がっている縄をたぐり寄せはじめた。
人ひとりを背負った自分の体を確実に運ぶ腕だ。みるみるシャーミアンを城壁の上にたぐり寄せたが、兵隊のほうもさすがに素早かった。
「あそこにいるぞ!」
「逃がすな! 殺してもかまわん!」
「弓はどこか!」
彼らの姿は完全に発見されてしまった。何とか城壁の上に登ったシャーミアンだが、足下には続々と兵隊が集まりつつある。
少女はふたたび弓を構え、矢継ぎ早に放ちはじめた。一矢を射ると同時に下で悲鳴かあがる。
その隙にシャーミアンはたぐり上げた縄を城壁の外へ垂らした。
「来た!」
大隊長が叫んだ。シャーミアンの従騎たちが、この騒ぎを察し、馬を駆って現れたのだ。
「リィ! 小父さまを!」
「だめだ。手が離せない!大隊長!」
「おう!」
ルカナン隊長かふたたび伯爵を背負い上げ、鋸壁をまたごうと背を向けた、その時だった。 ほんの一瞬、大隊長の背中が、つまり伯爵の背中が城内の兵土たちのほうにまともに向いた。
誓って、ほんの一瞬のことだったのである。
あたりはまだ薄暗い。狙って射たところで当たるものではないというのに、どんな偶然が働いたのか、あるいはどんな悪意が作用したのか、その一瞬を狙っていたかのように、|暁闇《ぎょうあん》を切り裂いて|疾《はし》ってきた矢が伯爵め背中に突き立ったのだ。
シャーミアンか悲鳴をあげた。
大隊長はあらゆる呪いの言葉を発しながらも、伯爵をかばい、縄をすべり降りた。
その後にシャーミアンが続く。少女に至っては弓矢を投げ捨てて飛び降りた。
「伯爵!」
「小父さま! しっかり!」
駆けつけてきた従騎たちも、傷を受けた伯爵の姿に|狼狽《ろうばい》し、焦っている。
傷は深いものではない。右肩に浅く刺さっているだけだ。これなら技いてもたいした失血はしないだろうが、今はそんな手当をしている暇もない。
少女が叫んだ。
「グライア!」
応えてただ一頭、空の|鞍《くら》を乗せていた黒馬が走り寄って来た。
「非常事態だ。この人も乗せるよ」
馬の黒い目は表情を変えない。まわりで見ていた人間たちには肯定したのか、否定したのかわかりようがないが、少女はまず自分が飛び乗り、傷を負った伯爵の体を後ろに乗せてくれるように言った。
二人を乗せても馬足の鈍らない馬はそういるものではない。ロアの黒主ならばうってつけだ。
シャーミアンも馬に飛び乗って叫んだ。
「皆、かねての手はずどおり、わかっているな!」鋭く答えて、従騎たちは三、四人の組に分かれ、それぞれ別々の方向にいっせいに散った。
少女と大隊長とシャーミアンも伯爵をかばうようにして全力で走りはじめた。
城壁の上にようやく兵士たちが現れ、立て続けに矢を射かけてきたが、そのころには、彼らは矢の届かないところまで距離をあけていたのである。
大成功のはずだった。
生きて戻ったものは誰もいないという北の塔の深部に入りこみ、虜囚となっていた伯爵を救い、難攻不落のコーラル城を見事に出し技いたはずだった。
しかし、少女の背にかろうじてもたれている伯爵の姿に、シャーミアンも大隊長も激しい焦りと自責の念と、不吉な予感を抑えることができなかったのである。
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6
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三人はコーラル郊外に出たところで一度馬を止め、シャーミアンが伯爵の傷の手当をした。
こんなことは戦場ではよくあることである。手慣れたものだった。
「小父さま。どうかお気を確かに」
伯爵は弱々しいながらも笑って見せた。
「なに……。たいした傷ではない」
「これから陛下のもとを目指します。申し訳ありませんが、小父さま。今しばらく馬の旅に耐えてください。ここはまだ危険です」
「うむ」
頷いた伯爵だが、呼吸が荒い。その顔には脂汗、が浮いている。
すでに太陽は昇りきり、あたりはほしいままに見わたせる。もう夜の闇は自分たちを守ってはくれないのだ。
「行きましょう。リィ」
急かすように言って騎乗しようとしたシャーミアンなのだが、少女はじっと伯爵を見つめて動かない。
「何をしているの。急がないと追手が来るわ」
「シャーミアン。ちょっと来て」
有無を言わせない口調だった。
大隊長が不思議そうな様子ながらも伯爵の傍に残り、少女はシャーミアンを木陰へと誘った。
「どうしたの。こんなところで時間を無駄にはできないのよ?」
一刻も早く国王のもとへと焦る女騎士とは裏腹に、少女は硬い顔で言ったのである。
「シャーミアン。よく聞いて。あの人はもう動かせない。馬なんかで運んだら間違いなく死ぬ」
女騎士の顔から血の気が引いた。
だが、少女はさらに恐ろしいことを冷静に言ったのである。
「命がつきかけてる。このまま静かにしていても、そんなに長くもたない」
「リィ!」
思わず声を張りあげたシャーミアンだった。その悲鳴の中にはわずかに怒りも混ざっていた。
「やめて! 小父さまは強い方よ。あんな矢傷くらいに負けたりなさらない。半年にわたる獄中生活にもあの拷問にも耐えてこられたのよ!?」
「だからだよ。並の人問ならとっくに死んでる。あの人ももうじき死ぬ」
「リィ……」
|榛色《はしばみいろ》の瞳に涙をにじませたシャーミアンだった。
「ひどいわ。どうしてそんなことを言うの。私たちはいったい何のために今まで努力してきたの? すべては小父さまをお救いするためではないの。やっとここまで来たのよ。ようやくあの牢獄から小父さまを解放してさしあげることができたのよ!?」
「シャーミアン。信じたくないことと事実とを一緒にしちゃいけない。君にもわかっているはずだ」
少女はまっすぐにシャーミアンを見つめている。
「あの人は本当に強い人だ。こうなってもまだ一言も苦痛を口にしない。なかなかできることじゃない。でも、半年の牢獄暮らしと、おそらくは何度も繰り返された拷問が伯爵の体を外と中から痛めつけて、ぼろぼろにしているんだ。あの足の臭いさえなければ、もっと早くに気がついていたのにな」
「何に……気づいたと言うの?」
「あの人の体の死臭にだよ」
少女はあくまで冷静だった。
「体はかろうじて動いていても、生きているものの匂いがしない。たぶん、今までもっていたのが不思議なくらいだったんだ。そこへ、あの矢傷だ。残っていたわずかな力も使い果たした」
「そんな……」
シャーミアンは涙を浮かべながらも、少女の言葉を疑おうとは思わなかった。
芝の上に座りこんでいる伯爵を振り返る。
肩の落ちたその人は父と同年配であるはずなのに、父よりはるかに大柄な人であるはずなのに、まるで老人のように小さく見えた。
「そんな、ひどい……。ひどすぎるわ」
他に言うべき言葉がなかった。幼い少女のころの自分をかわいがってくれたフェルナン伯爵の姿を思い浮かべた。
穏やかな笑顔の、優しかったあの人がいったい何をしたというのだろう。どんな報いを受けてこんな悲惨な死を迎えなければならないというのだろう。
うちひしがれたシャーミアンの腕を少女が取り、そっと揺すった。
「よく聞いて。あの人はもう動かせない。だから君は今すぐ国王軍の陣営に駆けっけて、ウォルをここへ連れてくるんだ」
「陛下を?」
「そうとも。あの人を動かすことができないなら、ウォルをこっちへ寄越すしかないじゃないか」
「無茶を言わないで! ここはまだ敵地の真っ只中だわ!?」
「シャーミアン。それこそ、ぼくらはいったい何のために、今まで努力しできたんだ?」
濃緑の瞳は真剣そのものだった。
「あの人とウォルをもう一度会わせるため。そうじゃなかった?」
「……」
「ぼくはここに残って、あの人を守る。君の馬術にすべてを託す。何としてでも今日のうちに、ウォルー人だけをここへ連れてくるんだ」
「陛下だけを!?」
シャーミアンは仰天した。
「そんな! 無理よ! 父もナシアスさまも陛下がそんなことをなさるのを許すはずがないわ」
全面戦争を間近に控えた情勢だ。敵地への潜入だけでも許しがたいのに国王の単独行動などとんでもない。忠実な部下たちは必死で止めるだろう。
「だから、まわりの人には何も言っちゃいけない。まだ北の塔に潜入する見通しは立だないので、こちらの様子はどうかと思って一時駆け戻ったとか何とか、言い訳して、このことをウォルに伝えるんだ。そうすれば、あとはあいつがうまくやる」
「でも! 小父さまに会いたがっているのは父も同じよ。なのに、父に嘘をつけと?」
「シャーミアン。頼むからウォルのことを考えて」
この言葉はぐさりと女騎士の胸に突き刺さった。
部外者であるこの少女に、デルフィニア人である自分がこんなことを言われるとは思わなかったのである。
「どういうことなの?」
「ぼくの想像だけど、もしもドラ将軍や|御供《おとも》の人が大勢いたら、ウォルは絶対にお父さんには会えない。会えるのは自分によくつくしてくれた、ただの臣下の一人ということになる。フェルナン伯爵はたいへんな頑国者で、人がいなくてもウォルのことを陛下と呼んで態度を崩さなかった。なのに、大勢にみとられての臨終じゃ、ウォルに対してどういう態度をとるか……。わかるだろ?」
少女のロ調にも緊迫の響きかある。それでいて冷静に事実を伝えている。
「今が最後の機会なんだよ。ウォルとあの人を親子として会わせてあげられるのは今しかないんだ。それには他人がいたんじゃ絶対にだめだ。ドラ将軍にはほんとに申し訳ないと思うけど……。将軍だって伯爵の古くからの友達で、ウォルのことを自分の息子みたいにかわいがっていた人だもの。事情を話せばきっとわかってくれるよ。だから、シャーミアン。お願いだ」
シャーミアンは真摯な表情を浮かべている濃緑の瞳を見下ろしていた。
この少女が懸念しているのは、こんな形で父を失う国王の悲しみであり、何とかしてその心の痛みをやわらげようと一生懸命なのだと悟った。
少女の言うことは正しかった。父やナシアスがいたのでは、フェルナン伯爵はあの男に息子としての発言をいっさいさせないに違いない。自身も父としての言葉を何ひとつかけてやらないに違いない。あくまで臣下としての礼と分を守りつつ、死んでいくだろう。
親子の別れがそんなものでいいはずがない。
シャーミアンは深く息を吸いこみ、自分を|叱咤《しった》し、|毅然《きぜん》とした女騎士に立ち返った。
泣くのは後だった。まだしなければならないことがあった。
「わかったわ。リィ。何とかやってみる」
「ありがとう」
シャーミアンは首を振った。この少女に礼を言わなければならないのは自分のほうだ。
「落ちあう場所を決めましょう。小父さまを安全に休ませてさしあげる場所を見つけなければ」
コーラル周辺のことは何といってもルカナン大隊長が詳しい。相談すると、すぐに思い当たるところがあったようで、彼らは伯爵を馬に乗せ、近くの小さな村まで出向いた。
ついたのは小さな寺院だった。|参拝《さんぱい》るのは村人だけであるような、こぢんまりとした造りである、
大隊長はこの寺院の顔見知りらしい。その頼みとあって、住職は快く別棟を貸してくれた。これも納屋と言ったほうが近いような造りだが、さすがに整然と清められている。
怪我人と聞いて寺院の小姓たちが、急ごしらえの寝床を用意してくれた。床に藁を盛り上げて布を掛けただけの簡単なものだが、冷たい石の地下牢よりははるかにましな場所と言えた。
「小父さま。ここでひとまずお休みください」
横たわった伯爵に話しかけ、シャーミアンは外へ出た。
そこにはリィが困ったような顔でいる。
「ごめんね、シャーミアン。グライアに君を乗せてくれるように頼んだんだけど……」
この状況だ。もっとも足の速い黒主をシャーミアンに貸そうとしたのだろうが、当の馬が難色を示したらしい。
シャーミアンはこんな時だがちょっと笑った。
「いいえ、グライアはあなたの友達だもの。大丈失。私の馬もかなりの俊足よ。散った従騎だちとも合流できるでしょうし、必ず今日中に陛下をお連れして戻るわ」
あれから四日経っている。国王軍がどこまで進んで来ているか、それが問題だった。今となってはできるだけマレバに近づいていることを祈るのみだ。
コーラルからマレバまでは往復六十カーティヴある。
馬で駆ければその日のうちの往復も不可能ではないが、国王軍を捜す時間を考えるとぎりぎりだった。
「一人では危険です。私も一緒に」
大隊長が申し出たが、シャーミアンは首を振った。
「いいえ。大隊長はここへ残って小父さまをお願いします」
「いや、一緒に行ったほうがいい」
少女が言った。
「大隊長はこの農村では目立ちすぎる。ぼく一人ならなんとかなる」
「でも……」
シャーミアンは一瞬ためらった。一人では危険なのはこの少女も同じだ。まして身動きできない伯爵がいる。
だが、そんなシャーミアンに少女は頷いてみせた。
シャーミアンも頷きを返した。その人を託せるのもこの少女だけだった。
「できるだけ急ぐわ。待っていて」
ぐずぐずしている時間はなかった。馬首を南へ向け、シャーミアンと大隊長は馬に|鞭《むち》を当てた。
一人残った少女は小屋の中に寝かせている伯爵のもとへ戻った。今はだいぶ落ちついているが、やはり枯れ落ちる寸前の人の|風情《ふぜい》である。
半年もの間、強い湿気と黴臭さの中で暮らしていた伯爵には、その臭いがしみついてしまっている。
少女は、寺院の小姓が用意してくれた手ぬぐいで垢に汚れた額や頬を拭ってやった。
シャーミアンはこの人のことを、端正な顔立ちの温雅な人だと言ったが、こう痩せ衰え、不精髭に覆われていては、元来の顔立ちを想像するのはひどく難しかった。
顔を探られて、伯爵か薄く目を開く。
「痛かった?」
「いや、顔を洗うのもあまりに久しぶりなのでな。驚いたのだ」
半年ぶりでは無理もない。
「ここは、どこだな」
「ぼくも知らない。このあたりには詳しくないもんでね。何か、欲しいものはある?」
「いや……」
伯爵はぼんやりと天井を見つめている。
間近に迫った死を感じているのか、それとも自由となった実感が湧かないのか、ひどく頼りない、それでいて深い安堵が見られる顔だった。
「こうして、陽の当たる場所で死ぬることかできる。充分すぎるくらいだわ」
「まだだめだよ。伯爵」
声に力を込めて、少女は言った。
「まだ死んじゃいけない。今、シャーミアンがウォルを呼びに行ってる」
伯爵はとたんにかっと目を見開いた。
「なんだと?」
「今日中に、遅くとも夜のうちにはウォルが来る。それまではどんなことをしても生きているんだ」
「こ……の愚か者が!」
|瀕死《ひんし》の床に就きながら、恐ろしいような声で叫んだ伯爵である。
「なんということをしたのだ! すぐにやめさせろ。ここは敵地の真っ只中だぞ!」
少女は興奮のあまり起き上がりかけた伯爵をなだめて、元どおり寝かせてやった。
「だめだよ。ウォルだってきっと伯爵に会いたがるはずだ。ここで知らせなかったら、それこそぼくがウォルに恨まれる」
「馬鹿者! 私のことなどにかかずらっておる場合だと思っているのか! あの方は国王だ。王としての務めと責務を巣たすことを第一に考えねばならんのだぞ!」
一息に叫び、反動で浅く息を乱した伯爵を、少女はじっと見つめている。
「伯爵は、置いていかれるものの気持ちを考えたことがあるのか?」
「何だと?」
「そうじゃないか。昨日から聞いていれば、自分を見捨てろの一点張りだ。だけど、ウォルにとっては伯爵は今もお父さんなんだぞ」
痩せ衰えた顔に、わずかに苦渋が走った。
「それを口にすることは、もはや許されんのだ。あの方にもわかっているはずだ」
「理屈ではそうだろうけどね」
少女は伯爵の額に浮かんだ汗をふき取ってやり、静かに話しかけた。
「俺がいなければ父上はこうはならなんだ」
急に、男のような低い声で、誰かの口調をまねて言った少女に伯爵は目を見開いた。
「俺を引き取りさえしなければ、俺に関わりさえしなければ、父上はこのようなことにはならなかった。スーシャの領主として安泰に、幸せに暮らしていられるはずだった。伯爵にはこの声が聞こえないか? ぼくにはずっと聞こえていたんだ」
少女は言葉を切って真剣そのものの表情で伯爵を見つめた。伯爵もまた深い目の色になって、少女を見上げていた。
「あの方が……そうおっしゃったのか」
少女は首を振った。
「ウォルはそんなことは言わない。でもきっと心の中では考えてる。ぼくにはわかる」
「お前は、人の心の中まで見通すか」
「違うよ。経験したからわかるんだ」
その声ににじむ何かが、伯爵にそれ以上の質問をやめさせた。
この風変わりな少女の心の中にも、何か、人の触れてはいけないものがあるのだと敏感に察したようだった。
少女はかすかに笑って言ったものだ。
「伯爵。今の自分の有様をちょっと見てごらんよ。ひどいもんだよ。顔は頬がこけて、体は肉が落ちて骨が浮いてて、全身傷だらけ。おまけに両足は腐って溶けかかってる。ウォルがこれを見たらどうなると思う? 自分のせいだと|嘆《なげ》きに嘆いて使いものにならなくなるよ」
「身もふたもないことを言う娘だ」
思わず唸った伯爵である。しかし、もうじき死ぬ人間に対して下手な|慰《なぐさ》めごとを言わず、思いきった現実を述べる少女が気に入ったらしい。
ロ元にかすかに笑みを浮かべた。
「私がこうなったのは誰のせいでもない。運命というものだ。あの方が負担に思うことではない」
「だから。それを本人の前で言ってやるように」
少女は念を入れた。
「これが最後だ。言わなきゃわからない。臣下としてじゃなく父親として、息子にこれからどうすべきかを君は言わなきゃいけない。ウォルは君を助けるために戻ってきた。誰にも言わないだろうけど、たぶん、そのためだけにだ。でも君はここで死ぬ。あいつは目標を失う。どうなると思う?」
「心配するな。あの方はそれほど弱い方ではない。私は……よく知っている」
確かに頑固そのものの伯爵である。
こちらの言いたいことはいやというほどわかっているのだろうに、そして、後のことを考えれば、少女の言葉に従うのが正しいとわかっているのだろうに、あくまで自分の信念を貫くつもりらしい。
死を間近にした人の決意を翻させることなど、誰にもできはしない。ましてや初対面の他人には。
少女は軽い焦りを感じながらも口をつぐんだ。あとは伯爵の息子の到着を待つしかない。
ふと、この人はいくつなのだろうと疑問に思う。今は痩せ衰え、老人のように老けて見えるが、ドラ将軍の友人なら四十をいくつも出ていないはずだ。
あの男が二十四ということは、二十歳そこそこ、もしくは十代であの男の父親になった計算になる。
先代の国王も、ずいぶん思いきった決断をしたものだ。それだけこの人のことを高く評価していたのだろう。
伯爵がふと首をめぐらして少女を見た。
「シャーミアンどのは、お前をバルドウがつかわしてくれた娘だと言ったが……」
「君の息子さんもそう言っている。ただ、あいにく、ぼくの父親はバルドウって名前じゃなかった」
「だろうな。では、お前は何者で、どこから来だのかな?」
「ぼくにもわからない」
真剣に答えた少女だった。
「ここは、ぼくの生まれ育った世界じゃない。わかるのはそのくらいだ。どうしてぼくはここにいるのか、どうして戦女神だの軍神の娘だのと言われて、こんな大きな動乱に関わっているのか、さっぱりわからない」
「はてさて。難儀なことだの」
「まったくね」
死にかけている病人と、異世界から来た少女との会話は妙にゆったりとしたものだった。
互いに『この世界』には執着するものがないからかもしれなかった。
「ひとつ気になっていたのだが、お前の持ち馬は、もしや……」
「ロアの黒主だよ。今はグライア。ぼくの友達だ」
「その名は、お前がつけたのか?」
「そう。本人も気に入ってるみたいだな」
痩せ衰えた体で、伯爵は何がおかしいのか、含み笑いを洩らしたものだ。
「なるほど。ロアの黒主を友にできるのならば、デルフィニアの国王もたやすいか」
少女はちょっと目を見張った。が、すぐに、いたずらっぽく笑ってみせた。
「そうとも。軽いもんだった」
伯爵の目も笑っている。
「ドラはさぞかし、脳天から火を噴いたろうな?」
「もう、たいへんだったよ。ぼくがはじめてグライアに乗って帰った時なんか、|顎《あご》と目玉か顔からおっこちそうな有様だったからね。タルボもね。また、ウォルがその横で一生懸命笑いをこらえてるんだ」
横たわったまま、伯爵はまたひとしきり笑いを洩らした。
「目に見えるようだわ。やれ、嬉しいのう」
少女はナシアスやガレンスなど他の国王軍の勇士の様子も語り、先日のワイベッカーでの勝利を語った。
イヴンのことを話すと、伯爵は少しばかり意外そうな顔になった。
「ほほう。あれはたいへんないたずら小僧だったが、少しは役に立つようになったか」
「強いよ。連隊長を討ち取るくらいだからね。さあ、もう休んで。あんまりしゃべらないほうがいい」
「そうさな」
一息ついた伯爵は、何が見えるのか、枕元にいる少女の瞳の奥底までを見通したいとでもいうように、ひたと目線を合わせている。
「どうかした?」
「知らぬ間に冬がどこかへ行ってしまったわ」
地下の壁は二年を通して気温をほぼ一定に保つ。
伯爵が牢へ入れられた時はこれから冬を迎えようとする季節だった。今はもう春の盛り、すでに初夏である。
「夕べは気づかなんだが、お前の瞳は懐かしい色をしているな」
「懐かしい?」
「ああ。故郷の、五月の森を思い出させる」
やんわりと笑って、
「スーシャではな。五月の森を宝石のような緑と称えるのだ。長い冬が終わり、人は重い外套を脱ぎ、草木は押さえつけられていた|鬱憤《うっぷん》を晴らすかのように芽吹いて、大地と|梢《こずえ》を鮮やかな緑に染めていく。他のどんなものより美しく、懐かしい色だ」
そう言って、痩せ衰えた手を少女に伸ばした。
「救ってもらった礼もまだであったな」
「まだ早いよ」
少女は切迫した口調で言い、しっかりと伯爵の手を握った。
「まだだめだ。伯爵」
「なに。心配するな。陛下のお顔を見るまでは、死にはせん」
伯爵はそう言って目を閉じた。
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7
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シャーミアンと大隊長に先導された国王が駆けつけて来たのは、その日も暮れようとするころだった。
あらかたの事情をシャーミアンから聞き取ったのだろう。すでに血相が変わっている。
しだいにかたむいていく夕日と、しだいに弱っていく伯爵の容態を交互に睨み、ひたすら気を揉んでいた少女は|馬蹄《ばてい》の響きを耳にするのと同時に飛び出し、男を迎えた。
両者ともいっさい口をきかなかった。
青ざめた国王の顔と緊迫した少女の顔は、互いに言葉など必要としなかった。
伯爵は今、寺院の小姓たちがつききりで看てくれている。その者たちに礼を言って引き取ってもらい、少女と男は病床の伯爵の横に膝をついたのだ。
待ち望んでいた再会のはずだった。
しかし、男の口からは低い呻きが洩れた。実際に我が目で確かめた伯爵の状態に、言葉が出ない様子だった。
「伯爵。起きてる?」
少女がそっと問いかける。
浅い呼吸を続けていたフェルナン伯爵は、弱々しいながらも目を開いて少女を見上げた。それから、そこにいたもう一人の顔を見て、何とも言えない表情を顔いっぱいに浮かべたのだ。
「お久しゅうございます、陛下」
「父上……」
「心ならずも、見苦しい姿をお目にかけます。ですが、こうして、かわらずお|健《すこ》やかな陛下のお姿を目にすることができ、これほど嬉しいことはございません」
「父上!」
男が悲鳴をあげた。この|期《ご》に及んでも、あくまで臣下として死んでいこうとする父親への非難の叫びだった。
少女の顔も険しいものになる。自分がいてはだめだと思ったのだろう。腰をあげて出て行こうとしたところへ、伯爵が声をかけた。
「小戦士。おられるか」
「いるよ」
反射的に答えた少女だった。自分のことだろうと考える間もなかった。
「この病人の最期の頼みを聞いてくれるかな?」
「いいよ。なにっ?」
「|懺悔《ざんげ》を聞いてほしい。今まで、誰にも言わなんだことだ。いや、死ぬまで口にはすまいと思っていたことだが、聞いてほしくなった」
「相手が違う。それは君の息子さんに言って」
伯爵は深く息を吸いこんだ。
「私に息子はおらん」
男も少女も思わず声を荒らげかけたが、伯爵は続けてこう言った。
「それを察せられたのか、この世の神とも思っていた力が、息子をくださった」
男ははっとなった。少女も真顔になって、伯爵の枕元にきちんと足を戻した。
伯爵は血の気のなくなった唇に、それは優しい、温かい微笑を浮かべている。
「もう、二十四年も前のことだ。どうしてあの方が私を選ばれたのか、なぜ、私の子として育てるようにと仰せられたのか、今考えてもさっぱりわからぬ。あまりに突然のことで、驚き、うろたえてばかりいたものだが、妻は体が弱く、子は望めないと思っていただけに、喜びもひとしおだった。ただ、あくまで私の妻が産み落としたことにするのが、少しばかり難しかったがな。さいわい、妻はめったに人前に出ない女であったし、日頃から床に就きがちでもあったので、領地にはうまく説明ができた。ただ、友人たちにはな。あまりに急な話で、特にドラには、息子が生まれたとだけ知らせたものだから……」
ふふ、と笑って、伯爵は昔を思い出しているのだろう。懐かしそうな表情になった。
「あやつめ、顔色を変えですっとんで来おったわ。持ちきれぬほどの祝いの品を抱えてな。まるで我がことのように喜んで、妻の体をいたわってくれた。反対に私は、奥方懐妊の知らせもくれんとは何事と、ずいぶん叱られたものだ」
伯爵の脳裏に浮かぶ光景が、少女にも男にも見えるようだった。
まだ年若い、頭髪も黒々としたドラ将軍が息せき切って友人の祝いに駆けつけ、寝台に横たわった伯爵夫人に笑顔で語りかけ、その横の赤子を目を細めて見つめるさまが。
そうして薄情な友人に顔だけはしかつめらしく、|懇々《こんこん》と説教をしながらも、手放しで喜び、その肩を叩くさまが。
「ドラにだけはな。よほど打ち明けようかと何度も思った。しかし、わが子と思って育ててくれとの、あの方のご命令であり、願いであったのだ。結果として|欺《あざむ》くことになってしまった。そのことだけが、生涯ただひとつの侮いとなって残っている。今となっては詫びも言えぬが、機会があったら伝えておいてくれ」
ドラ将軍はそんなことを怒ってはいない。だが、少女は黙って頷いた。
伯爵は昔話を続けている。
「いただいたとはいえ、神ともあがめている方の子だもの。粗末には扱えん。かといってわが子である以上、甘やかすわけにもいかん。私は、金言をかけて、その子をひとかどの人物にしようと思った。知る限りの知識を伝え、武術を伝え、なにより気性を鍛え、どこへ出しても恥ずかしくない男に仕上げようと誓った」
一息ついた伯爵の目には、故郷のスーシャの森と、男の少年時代とが交互に映し出されていたのかもしれない。
枯れた唇は優しい微笑を浮かべていた。
「その子は素晴らしい子だった。妻と二人の暮らしも悪くはないと思っていたが、息子が来てからの生活は、それは楽しいものだった。あっという間に五年がすぎ、十年がすぎ、十七年がすぎた時、あの方が亡くなられた」
心から楽しげに話していた伯爵の|声音《こわね》に、はじめて苦いものか混ざった。
「どうなることかと思った。レオン王子は確かにあの方の嫡男であり、正当な王位継承者であらせられたが、そのお人柄は……。ひどいものだった。あの方のお子であるとはとうてい信じられないくらいにな。あの方が英雄であるなら、レオン王子は鈍才としか言いようがない。頭の中にあるのは女と酒と|賭博《とばく》のことばかり。加えてそれらを楽しみとしておくだけの思慮分別もない。王国の財源をすべて、己の享楽に注ぎこみかねない方だったのだからな。これではこの国の未来も明るいものではないと案したが、そうこうするうちに、あの事故だ」
王冠を手にすることは、もっと贅沢なおもしろい遊びができるようになることだとのみ認識していた|放蕩《ほうとう》王子は、その楽しみを味わう前に落馬して死んだのである。
「こんなことはロにしても思ってもならんことだが、しかし、死を間近にして飾りをつけてもはじまらん。私は、正直に言って、このほうがよかったのかもしれないと思ったものだ。後に残ったエリアス王子は病弱な、八歳の少年だったが、その分、重臣たちがよく教育すれば、武勇はなくても思慮分別のある国王になるだろうと思った。ところがだ」
それから何を言いたいのかは少女にも男にも充分よくわかった。エリアス王子の死、さらに残った二人の王女の立て続けの死。
「最後の王女が亡くなられた時、国中が嘆いた。デルフィニア王家の血がとだえてしまったと。王冠を継ぐものか誰もいなくなってしまったと、王国の未来を憂えた。私だけがそうではないことを知っていた。他でもない。私の息子は、本当はあの方のお子なのだ。確かに嫡出ではない。母君の身分も低いものであったらしい。しかし、あの方の二人の王子より、はるかに王たるにふさわしい資質を備えている。私は誰よりそのことを知っていた。知っていながら、世間に知らしめることかできなかった」
伯爵はそこで言葉を切った。
沈黙が小屋を満たし、少女は自分の役目を悟り、静かに問いかけた。
「どうして?」
「私は、息子を借しんだのだ」
已を呪うかのような、低い声だった。
「妻はすでにこの世を去り、私には息子だけが残されていた。私は息子を手放したくなかった。生まれ育った領地を、愛するスーシャの森を息子に譲りたかった。やがては気だてのいい娘を選んで妻に迎え、息子夫婦と共に孫にかこまれた余生を送りたいと、あさましい夢を見ていたのだよ」
少女は思わず男の顔を見た。男は震える手で自分の両膝をきっく握り締めている。
どこがあさましいものか。男の顔がそう言っている。人として当然のつつましやかな夢ではないか。
だが、伯爵はそんな自分を断じて許せないと言うのだ。
「王国が崩壊の危機に瀕しているというのに、私はその現実から目を背けていた。エリアス王子が亡くなられた時も、ルフィア王女、エヴェナ王女が亡くなられた時もだ。もっと早くに、私が気づかなければならなかったのに……!」
自分を責める怒りの声である。
「王子王女がすべて亡くなられてから、二年も、私は時間を無駄にした。王弟殿下の姫君をはじめ、王位を継ぐ資格を持つ方は他にもいる。そこへ嫡出でもない息子が現れても混乱を招くだけだと無理に自分に言いきかせ、安穏と日々を過していたのだ。しかし、混乱はいっこうに収まる気配を見せず、それどころかペールゼン侯爵を中心とする一派がしだいに力を増し、このデルフィニアをまるで己のものであるかのように切りまわしはじめ、さらには自分たちにもっとも都合のいい国王としてバルロさまを据えようと計った。冗談ではない。それはつまりサヴォア公爵家とその親族に王権を与えるに等しい。代行ではすまされん。れっきとした王家の交代劇だ。公爵家の親族は改革派以上に王国の利権をむさぼろうというものばかり。しかも、息子に王冠が与えられると聞けばアエラさまは飛びつく。さいわい、当のバルロさまが改革派を嫌悪してこの案は難航したが、それでも、バルロさまが王冠をかぶることになるのは時間の問題と思われるところまできた時、私は気づいたのだ」
「何に?」
また少女が尋ねる。
伯爵は真剣そのものの口調で言った。
「あの方が、天上から私を見ていることに」
少女は何と言うべきか一瞬ためらい、男も思わず目を見開いたが、伯爵は真剣だった。
やんわりと少女に徴笑みかける。
「信じられないと言われるかな?」
少女は首を振った。
「いないはずの人の姿が、あるはずのない気配が、感じられたんだね」
「いかにも」
伯爵は頷いて、
「まさしくそのとおりだった。あの日、確かにあの方の視線を背に感じた。振り返った時には誰もいなかったが、あの方が私を見ていることだけははっきりとわかった。いいや、もっとずっと前からあの方は私を見ておられた。ずっと私に、行動を起こすようにと訴えておられたのだ。遅きにすぎたが、私は、そのことにようやく気づき、そして悟った。息子を私に与えたのはこの時のためであると、くださるとおっしゃったのは|一時《いっとき》あずけるとの意味であったと」
「……」
「私は恐ろしくなった。同時に気づくのが遅すぎた罪の意識に|苛《さいな》まれた。もっと早く息子をあの方にお返ししていれば、こんなことにはならなかったのではないかと、せめて王女たちの命は救うことができたのではないかと、言いようのない寒気に襲われた。その後悔の中、私は誓った。今からでも遅くはない。息子をあの方にお返ししようと。二度と、息子とは呼ばぬと」
伯爵は一度もウォルの顔を見ずに話している。だが、枕元に座った男はずっと伯爵の顔を凝視している。
やはり天井を見つめたままの伯爵が呟いた。
「俺がいなければ、父上はこうはならなんだ」
ウォルは反射的に身を乗り出そうとした。それを少女が押し留める。
話はまだ終わっていない。伯爵は苦しい息の下で、懸命に話を続けている。
「小戦士。おぬしは、陛下がそう考えておられると言っていた。そのとおりかもしれぬ。私の知っている息子は優しい子だった。だが、違うのだ。断じて陛下の責などではない。王宮へ出向き、あの方のご遺言を聞いた時、私は自分の罪の重さを知った。あの方はやはり明賢王とまで呼ばれた方だった。ご自分の子どもたちの素質を、誰が王冠にもっともふさわしいかをよくよく御存じだったのだ。それを私は、己のあさましい夢にとらわれ、息子を失うことを惜しむあまり時を無駄にし、むざむざと二入王女を死なせ、王国の荒廃を招いてしまったのだ。どれほどの厳罰に処せられようと、足りるものではないのだよ」
「……」
「二度と、息子とは呼ばぬ。己に誓いを課した以上、騎士たるものが破るわけにもいかぬ。だがな、小戦士。甘いとお笑いになるかもしれんが、私はいつも、できるものなら、息子と呼びたかったのだぞ」
この言葉は少女に向かってのものではなかった。
もう一人の人間に聞かせるためのものだった。
「しかし、あの方は国王だ。ドゥルーワ陛下の残された最後の男子だ。いやでも私との因縁は断ち切らねばならぬ。あの方ならば、父陛下の跡を継ぎ、誰よりも立派な国王となられるだろう。私はもうそのお姿を拝することはできぬが……、歴代の王の誰より立派な、国王となられるだろうと、信じている。小戦士。おぬしが何者であるかは知らぬ。だが……、おぬしは、陛下の友だと言うてくれた。ならば、くれぐれも……」
「わかったから、伯爵」
伯爵の呼吸は急に切迫している。
少女はこれ以上話さないように制止しようとしたが、フェルナン伯爵は喘ぎながらも言葉を絞り出したのだ。
「くれぐれも、陛下をよろしゅう……」
「約束する」
強く頷いて伯爵の手を握り返す。それで満足したのか、深く息をついて伯爵は体の力を技いた。
言うべきことはすべて言い残した人の、満足げな表情になっていた。
「あの地下で、誰にも知られぬままに果てるのが、当然の報いだと思っていたが、こうして自由の身となって死ぬことができる」
少女を見上げる伯爵の顔に、ゆったりと嬉しげな微笑が広がった。
「ありがとう」
ほとんど力のない、かすれるような声だった。
少女には何も言えなかった。
罪を犯したと伯爵は言うが、いったいどこが罪なのだろうかと思う。だが、伯爵には伯爵の壮絶な掟かあるのだということは理解した。死んだ先代の王に限りない忠誠を誓っていることも、その反面、今の国王に実の親以上の深い愛情を感じていることも理解した。
少女はそっと立ち上がった。後はもう自分の出る幕ではない。己の掟に殉じようとしている父と、その息子の、二人の問題だった。
小屋を出る間際、少女はそっと背後を振り返った。
振り返って、深い後悔とともに目をそらした。
伯爵の枕元に端座した、|巌《いわお》のようなたくましい背中が、声のない男泣きに泣いていた。
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8
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フェルナン伯爵は明け方に息を引き取った。
息子に看取られての、眠るように穏やかな死に顔だった。
国王は涙を見せなかった。心ならずも伯爵の死に場所となった寺院に丁重に礼を述べ、伯爵の埋葬に立ちあい、その日のうちに陣営に引き返した。
道中、一言もロをきかなかった。
少女もシャーミアンも大隊長も、今は国王にかけるべき言葉は何も見つけることができないのを知っていた。
夕刻前に国王は陣営に帰り着いた。
国王軍は予想外に陣地を進めていた。マレバまであと二十カーティヴを切る近距離まで接近していたのである。
マレバにはすでに二万以上の政府軍が集結している。まともにかかることはできない。政府軍はサング司令官を総大将に抑ぎ、馬、人、武器|申冑《かっちゅう》、まことに勇ましい。押し寄せてこないのがいっそ不思議なくらいである。
国王の単独行動をさぞかし怒るだろうと思われたドラ将軍は、しかし、国王と娘の顔色を見ただけで事態を察したらしい。何か言いかけたが呑みこんだ。
きっく唇を引き結び、拳は血の気を失うほど強く握り締められ、震えている。
だが、公私混同はできない情勢だ。
「今後はこのようなことはお控えください」
押し殺した声でそう言った。
国王は答えない。将軍を振り向きもせずに自分の天幕へと向かった。
「陛下!」
将軍は後を追いすがる。
「酷いようですが申しあげます。あなた様は一国を担う君主であらせられます。臣下の一人をなくしたからとて、己の責務を|放擲《ほうてき》することなど許されませんぞ」
「放棄するつもりはない」
その声に将軍は息を呑んだ。すぐ後ろにいたシャーミアンも思わず顔色を変えた。
骨の芯まで凍りつくかのような声だった。
「このままにすますつもりはない。仇は取る」
「陛下。重ねて申しあげます。あなた様は個人的な復讐の念などにとらわれてはならぬのです!ましてやそのために軍を動かすようなことは断じて許されません!」
「ドラ将軍。部署へ戻れ。それから誰も俺の天幕に近づけるな」
将軍は絶句して立ちすくんだ。国王が紛れもない本気であること、およそ見たこともないほどの激しい怒りを感じていることか、その背中からだけでも明らかだったのだ。
ナシアスもガレンスも国王に声をかけられない。
イヴンでさえ、その顔つきを見ただけで言葉を呑みこみ、道を譲った。
あたりは|黄昏《たそがれ》に染まりつつある。あちこちで炊事の煙が上がっている。
国王の突然の軍勢離脱も、突然の帰還も、あまり注目を集めずにすんだらしい。ただ、将軍配下の部下たちが心配そうにこちらを窺っている。
シャーミアンが泣くような声で言った。
「父上、申し訳ありません。小父さまは……」
ドラ将軍は優しく娘の肩を撫でてやった。
「いや、お前はよくやった。その話は後だ。お前も何か腹に入れねばなるまい」
将軍は目線だけでナシアスたちにも下がって食事にするよう促した。話は夜になり、陣営が寝静まった後でとであったのである。
彼らもさすがに歴戦の勇士だった。即座に呑みこんで、それぞれの部署に戻った。ガレンスは自分の腹心に国王の天幕の護衛を務めるように、そして誰も通してはならぬと申しつけた。
夜か更け、兵士たちが交代で寝静まる時間になると、国王軍の勇士たちは次々とドラ将軍の天草に集まり、シャーミアン、大隊長、そして少女も出向いて来た。
どの顔も緊張に硬くなっている。重苦しいまでの空気がその場に漂っていた。
「シャーミアンどの。それにリィ。何があったのか、詳しいことを聞かせてください」
ナシアスが言えば、イヴンも硬い表情を崩さずに頷いた。
「伯爵は亡くなられた。それはわかる。だが、俺はあんなに怒ったあいつを今まで見たことがない」
「ええ。そうです。陛下がお怒りになるのはもっともです。尋常のお亡くなり方ではなかったのです」
大隊長が|悄然《しょうぜん》と肩を垂れて呟いた。
「私の責任です。面白ない」
「何を言われますか、ルカナンどのには申し訳ないくらいの助力をいただきました。誰のせいでもありません。小父さまを死なせたのは、他の誰でもない、口にするのも汚らわしい改革派の者たちです!」
憤怒の声だった。この女騎士がこれほど激しく敵を憎むことなど滅多にない。だが、伯爵の死に様を語るにつけ、国王軍の勇士たちからも次々に怒りの声があがった。
それはむしろ呪いの声に近かった。
伯爵から地位と名誉を取りあげて拘束するまでは、譲歩することができる。敵の有力者を野放しにしておくことはできないし、自分かちが同じ立場に立たされたら、やはり同じことをしただろう。
しかし、幽閉するにも投獄するにも方法というものがある。まがりなりにも名を知られた騎士に対して行うにはあまりにも卑劣な、残酷な処置だった。
「両足の傷ばかりではありません。ご遺体を清めましたところ胸と言わず背と言わず、鞭の跡、が残っておりました。小父さまはそれでも一言も苦痛をロになさらず、陛下にお会いできたことを喜んで、亡くなられました」
シャーミアンの目からはあらたな涙があふれている。
ドラ将軍は険しい顔つきのまま、深く沈黙している。
その副官タルボが唸るように言った。
「これは少しばかり、厄介なことになりますな」
「同感だ」
これも岬ように言ったドラ将軍である。
「陛下はご即位後もフェルナンを慕い、頼みとしておられた。その後見人にそれほど酷い死に方をされたのでは確かに、お怒りになるなと言うほうが無理な話だ。しかし、それでも、ここは抑えていただかなくてはならん。あの政府軍に向かって正面から突撃するようなことだけは避けねばならんのだ」
今の国王はそのくらいやりかねない。それは一同が密かに感じている不安だった。
いや、不安と言うならもっと恐ろしいものがある。
「陛下は今はどうなされておる?」
ガレンスが首を振った。
「天幕に籠られたきりです。部下をつけてありますが、お食事と声をかけてもお答えかなく、お目通りも許されないと……」
「一晩くらい食わなくても死にゃしません。今は、うかつに近づかないほうがいい」
イヴンが言った。
「あいつは、たいていのことなら一晩で立ち直る奴です。いつでもそうだった。ただ、今度ばかりはどうなるか……」
いつも|飄然《ひょうぜん》としている彼らしくもない、難しい顔だった。ドラ将軍も今ばかりは、その言葉遣いを改めようという気力もなかった。
大隊長が言う。
「明日の軍議はすでにおすみなので?」
「いや、陛下があのようではどうにもならん。加えて敵方には押し寄せてくる気配がない。一糸乱れぬ陣構えで、我々が襲いかかるのを待っている」
だからこそ将軍は国王の先走りを懸念している。
激怒のあまり我を忘れ、あれほど整然と構えている敵に正面から突入するような判断を下したとしたならば、兵士たちに総大将として失格の印象と失望を与えるばかりではすまない。虎の口へ自ら飛びこむようなものだ。
平常時ならばそんな愚行は決してやらない男であることを将軍は知っている。だが、怒りであれ悲しみであれ、激しい感情は人の判断力を狂わせる。
それ以上に恐ろしいのは、あの男の王としての資質に影響が現れることだ。コーラルを解放することはすなわち父親を解放することだった。だがその人はすでにいない。こうした時、一軍の指揮官としての気力がもつかどうか。
「どうなさいます? ご機嫌伺いに参られますか」
タルボが気づかわしげに主人に尋ねたものだが、髭の将軍は首を振った。
「今夜はそっとしておいてさしあげよう。さいわい、今すぐにどうと言うほど緊迫した状況でもない。明日になれば、いやでも立ち直っていただかねばならんのだからな」
他の勇士もこの意見に賛成し、それぞれの陣営へ帰って行った。
その間、リィはといえば、語るのはシャーミアンと大隊長に任せ、ずっと黙っていたが、一番最後に立ち上がった。
天幕の中にはドラ将軍だけが残っている。いつも傍を離れない忠実な腹心も、自分の配下に指示を出しに行っている。
少女は将軍を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「どうした」
こちらを見ずにドラ将軍か尋ねてくる。
その背中に少女はいやというほど見覚えがあった。
あの時の男の背中と同じだった。
「伯爵のこと、黙っていて、ごめんなさい。シャーミアンにはぼくが口止めしたんだ」
将軍は首を振った。
「気にするな。お前は陛下にもフェルナンにも、よいことをしたのだ。わしらがいたのでは、奴のことだ。あくまで臣下としての態度を崩さなかったろう」
顔を上げて少女を見る。
「フェルナンは、最後には陛下のお心に添うてやったのか」
頷いた少女だった。
「本当は、いつでも息子と思っていたって」
「うむ。そうだろうな」
「ドラ将軍。フェルナン伯爵はとても立派な人だったよ」
「……」
「死を間近にしているのがわかっていただろうに、星を見上げてきれいだと言っていた」
「……」
「ぼくの瞳を見てね、宝石のような緑だとほめてくれたよ。故郷の五月の森の色だって」
真顔になって少女を見つめた将軍である。
「それは、奴が何より愛したものだ」
「……」
「わしが何度宮仕えを勧めても笑って拒否した。ここを離れるのは耐えがたいと言ってな。あいつは都の華やかさより、立身出世や名声より、故郷の森と四季を愛していた」
少女の瞳に本当に故郷を見たのか、それとも地下牢から救ってくれた相手を伯爵なりの最大級の賛辞をもって称えたのか、それはもう誰にもわからない。
「将軍のことを話してたよ。ウォルをもらった時のことを。自分のことのように喜んでくれたのに、本当のことを打ち明けることができなかった。それだけが唯一の侮いになっていると、そう言っていた」
ドラ将軍は小さく笑ってみせた。
「最後の最後まで馬鹿な奴だ。どうしてわしが、そんなことに腹をたてると思うのだ。フェルナン、まったく、貴様は馬鹿な……」
声が震えていた。
|面《おもて》には出さないように努めていたが、伯爵を失った痛みを感じているのはあの男ばかりではない。ドラ将軍もまた、激しい怒りと深い悲しみを感じていたのである。
青年時代を一緒に過した人だ。昔を知っている親しい友人の一人だった。年を経るにつれ、自分の若いころを知ってくれている友人は少なくなる。将軍や伯爵のように戦いの中に身を置いているものならなおさらだ。
将軍とて今まで何度も友人を見送ってきた。だがそれにしても死に様というものがある。
少女も低く、言葉を添えた。
「本当に、立派な人だった。あんな死に方をする人じゃなかった」
「そうとも」
強い口調で断言する。振り返った将軍の瞳には、もう悲しみの色はなかった。
「そんな死に方をする男ではない。させていいはずもない。神がよく御存じだ。陛下もな」
少女は頷きを返し、将軍の天草を出た。
ドラ将軍の天幕を出ると、少女はまっすぐ国王の天幕へ向かった。見張りに立っていたのはラモナ騎士団の中でも名の知られた騎士だった。むろん、少女とは顔なじみである。
だが、通してくれるようにと頼んだ少女に、その騎士は慌てて首を振ったのだ。
「誰も通すなとのきついお|達示《たっし》なんだ。いくらあなたでもこればかりは駄目です」
「それなら力ずくで通る」
相手はとことん困った顔になった。
「お願いですから。グリンダ。王命に逆らう訳にはいかないんです」
「大丈夫。ぼくが悪者になって、君を叩きのめして入って来たんだって、そう言っておく。ウォルは君を叱ったりしないよ」
「いえ、ですが……」
「あくまで通してくれないって言うんなら、本当にそうするよ」
十三歳の少女がれっきとした騎士に対して言うには何とも場違いな脅し文句だったが、ただの脅迫ではない。
その騎士は自分自身の中でだいぶ激しい|葛藤《かっとう》を繰り広げたようだが、結局は少女の言葉に従った。このままここで我を張ったところで、この少女は自分を排除して通るだろう。第一、王の命令ならばあらゆる人に有効だろうが、この少女ばかりは例外である。
これは人ではない。神の娘なのだから。
そんな妙な理屈をつけて自らを納得させたらしい。
あたりを見回して、こっそり道を譲ってくれた。
天幕の中はほとんど真っ暗だった。燭台にもランプにも明かりが入っていない。支柱の掛燭台の小さな蝋燭だけか頼りなげに揺れている。
文字も読めないような薄暗がりの中で国王は簡易の寝台に腰を下ろし、組んだ両手に顔の下半分を乗せ、瞬きもせずに目だけを光らせていた。
少女を見ようともしない。人が入って来たことにさえ気づいていないのかもしれなかった。
身じろぎひとつせずに虚空を見つめていたが、やがて岬ように旨言った。
「慰めごとならばいらん。出て行ってくれ」
「そんなんじゃないよ」
少女は入口から動かなかった。
動こうとしない男の姿をじっと見つめている。
ドラ将軍が懸念するのも無理はない。どんな説得も|諌言《かんげん》も、そしてどんな慰めも今の男には意味がない。
怒りと同時に、無力感とやりきれなさが男の胸を占めているらしい。疲れたように息を吐いて言ったものだ。
「お前も俺に王としての責務を果たせと言うのだろうな?」
この男には似合わない、皮肉な口調である。
「心配するな。今だけだ。明日には王として軍の先頭に立つ。嫌でもそうせねばならんだろうさ」
必ず仇は取ると誓ったにしては無気力な響きだった。好きでするわけではないようにさえ聞こえた。
少女はかすかに眉をひそめ、入口を離れて男の前に立った。
「ウォルはどうしたいんだ? 伯爵の仇を取りたいのか、それとも何もかもここで投げ出してしまいたいのか」
「両方だ」
投げやりに男は言った。
「俺が王になることが正しいのだと、それが王国のためであると、父は最後まで信じていた。その遺志には添ってやりたい。だが……」
低く唸る。
「お前の言うとおりだ。何もかもどうでもいい」
今の男の心を占めているのはあの言葉だった。
俺がいなければ父上はこうはならなかった。
自分に関わりさえしなければ、あの人はこんな悲惨な死を迎えることはなかったのだ。
立派な王になってくれと伯爵は言い残した。しかし、今となっては何の意味があるというのか。もともと王冠など欲しいと思ったわけでも何でもないというのに。
そんな男の心を察したのかどうか、少女が唇を開いたのである。
「おれの父も、血のつながらない育ての親だった」
口調が変わっている。
「おれを救うために、おれの目の前で死んだ」
男は、はじめてゆっくりと頭を上げて少女を見た。
少女の顔には特に何の感情も浮かんでいないように見える。だが、その瞳の奥底には火が燃えている。
「おれと仲間を逃がすために、父はわざと飛び出して囮になった。追手は数人がかりで父をなぶり殺しにした。おれは、父が傷つき倒れるのを、血まみれになって息を引き取ってしくのを、ただ隠れて見ていることしかできなかった」
男は何も言えず、驚きの表情で少女を見ている。
まだ幼い顔に、その唇に壮絶な微笑が浮かんでいる。
「おれがどれほど自分の無力を呪ったか、どれほど奴らを呪ったか、お前にわかるか?」
わかる。と言いかけて、男は頷いた。
「これが一対一の決闘なら、おれはあれほど相手を憎みはしなかった。それにもし……あり得ないことだが、父が何かの罪を犯してその報いとして命を奪われたというのなら、悲しみ嘆きはしてもあきらめることができた。だが奴らはおもしろ半分に父を殺し、その死体をさらしものにしたんだ」
「……」
「おれは九歳だった。戦うことを教えてくれた友人に賭けて、八歳の時にもらった剣に賭けて、生まれてはじめて誓った。奴らを必ず殺してやると」
「……」
「仲間は止めた。そんなことをしても父は喜ばないと、その五人にも家族があると言って止めた。そんなことくらいわかっている。だがそれならなぜ、奴らは父を殺してもよく、おれは奴らを殺すことが許されない? なぜ父は無駄に命を奪われてもよく、奴らには助命の権利か与えられる? そんな馬鹿な話がどこにある。おもしろ半分におれの養い親の命を奪った、その償いをさせてやってどこが悪い?」
男はしばらく黙っていた。真顔で少女を見つめていた。
「お前は復讐はいけないとは言わないのだな」
少女は壮絶に笑った。
「そんな御託はな。目の前で肉親をなぶり殺しにされたこともなく、無実の罪で拷問されたあげくに殺された身内を持っているわけでもないくせに、武器を捨てよだの、汝の敵を愛し許せよだの、歯の浮くようなお題目を平気で人に押しつける頭のいかれた連中に言わせておけばいいんだ」
男も頷いた。
「ぜひとも俺たちと同じような目にあってから言ってもらいたいものだな」
「そうとも。その上でまだ敵を許そうと言えたら、おれは無条件でそいつを尊敬してやるぞ」
大切なものを無理やり奪われた痛みを知らない連中のきれいごとなどに耳を傾ける必要はない。
「お前はそれで……、父を救うことに積極的に協力してくれたのか」
「お前が実の父親でないことを少しも気にせずに伯爵を募っていたからさ」
少女は身を乗り出し、ゆっくりと、言いふくめるように男に話しかけた。
「お前には伯爵の仇を討つ権利がある。あの人の無念を晴らす義務がある。ここで敵を見逃したら、伯爵の無残な最期は、一生、お前の胸の中にしこりになって残る。伯爵を殺した連中はお前の心まで殺す。他の誰も言わないのならおれが言ってやる。黙って殺されたりするな。倒すべき相手を見定めて、一人も|逃《のが》すな。そうして自分のまわりを敵の|屍《しかばね》でうずめてから、はじめて復讐なんて空しいことだったと言えばいいんだ」
座っている自分と目線が合うほどの小柄な姿を、男はまっすぐ見つめている。黒い瞳に深い、落ちついた光が戻ってきていた。
「お前は父君の仇を討ったのだな」
少女は頷く。
「今は空しいことだったと思っているか」
若干、十三歳の少女は不敵に笑ってみせた。
「おれは一生、後悔はしない。いつか奴らの子どもたちが現れて、父の仇と襲いかかって来たとしても、後悔はしない。命を無駄に捨てるか、親の非を認めて生きるかは、その時、その連中が自分で決めるだろうよ」
男ははじめて、かすかに笑った。
「お前、本当は、いったい何年を生きている?」
「正真正銘、今年で十三年目だぞ」
「とてもそうは思えないから聞いているのだがな」
男の言葉に少し、いつもの調子が混ざる。
深く息を吐き、真摯な顔になって少女を見上げて言った。
「すまなかったな」
「何が?」
「父を救ってもらったというのに、俺はその礼も言わないでいた」
少女は首を振って、
「謝るのはおれのほうだ。なんの力にもなれなかった」
「いや。お前は父を北の塔の暗黒から解放してくれたのだ。どれほど感謝しても足らぬというのにな。すまなかった」
立ち上がって深々と頭を下げる。そうしてもう一度少女を見た時には、並々ならぬ決意と激しい闘志が、男の顔を鮮やかに彩っていた。
「俺も誓うぞ、リィ。仇が誰であろうと何人いようと、俺は決して逃しはせん。あの父にあんな酷い死に方をさせた、その償いは必ずさせてやる」
少女も頷いた。何を思ったか、腰の剣を抜き、逆手に握り直した。刃先を斜め下に向ける。
男もすぐに呑みこんだ。同じようにして剣を抜き、少女の剣と合わせるように刃先を下に向けた。
戦士が誓いをたてる時には神仏にではなく、その命綱ともいうべき剣に誓うものなのだ。
「父の死に賭けて」
わずか一言だが、|千鈞《せんきん》の重みのある言葉だった。
少女も厳かな口調で言った。
「この剣と戦士としての魂に賭けて。グリンディエタ・ラーデンは、ウォル・グリークがそめ誓いを果たす時まで剣と助力を与えることを、ここに誓う」
男は目を見張った。ついで満足げに頷いた。少女の言葉が耳に快かった。
「この剣と戦士としての魂に賭けて。いい言葉だ」
「そのためにはとりあえずマレバだぞ。わかってるな」
「ああ。わかっている」
「なのに総大将が明日の軍議も放り出して、お籠りしてるんだからな。ドラ将軍が困ってたぞ」
男は思わず苦笑していた。
この少女の存在をこれほどありがたいと思ったことはなかった。
「いいだろう。思いついたこともある。他の者たちにも集まってもらおう」
「呼びに行ってくる。そうだ。見張りの人を怒らないように。無理に脅かして入って来たんだから」
そう言いつつ国王の天幕を出て、おもだった人たちを呼び集めようとした少女だが、出たところで目を丸くした。
見張りの兵士はとっくにどこかへ消え失せてしまい、入口のすぐ傍にはイヴンが気配を潜めて立っている。すぐそこの木の陰にはいちおう隠れてはいるものの、ガレンスの大きな体がはみ出しているし、当然その主人もいるはずだ。
おまけに反対の茂みを見れば、これまた出るに出られずといった風情のドラ将軍が背を向けているし、シャーミアンもおそるおそる顔を覗かせて、少女を認めて手を振ってみせた。
他にもタウの男たちやラモナ騎士団の勇士、ロア衆の代表格など、うじゃうじゃいそうな気配である。
天幕の入口で立ちつくしてしまった少女に、イヴンが|飄々《ひょうひょう》と言った。
「抜け駆けとはずるいぜ、リィ」
「……何してるの?」
「何ってお前、そういうことは聞くもんじゃねえ。見てわかんねえか?」
今夜はそっとしておこうと意見は一致したものの、気になってここまで様子を見に来てしまったということらしい。
何のことはない。みんな抜け駆けである。
少女は笑って言った。
「呼びに行く手間が省けたな。ナシアス、ガレンス。ドラ将軍にシャーミアン。入って。今から作戦会議をやる」
「おい、俺は?」
「もちろんイヴンもだ。他の人はもう帰って休んだほうがいい。明日はきっと忙しくなるんだ」
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9
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その翌々日の早朝、マレバ攻防の合戦の火ぶたが切って落とされた。
夜明けに近い時刻というだけの薄闇が、あたりをひたひたと満たしており、二万の政府軍はそれぞれ厳重に陣営を張り、見張りを立てて休んでいた。
そこへ、突如、|鬨《とき》の声が響きわたったのである。
政府軍は敵の数倍の勢力に安心しきっていた。相手はこちらのわずかに四分の一、しかもその陣営ははるか先だ。まさか突っこんでくることはないと侮りきっていた。まともにくらった。
国王軍は深く突撃してきたわけではない。味方をそれぞれ百人ほどの|小勢《こぜい》に分け、敵の陣営を浅く切り取る形で右から左へと一気に突っ切らせたのだ。
政府軍の陣営は大混乱に陥った。
駆け抜けざまに国王軍が天幕に次々と火矢を射掛けたことも混乱に拍車をかけた。
政府軍が何とか立ち直り、反撃しようとした時にはすでに手遅れだ。
国王軍は一兵残らず風のように消え去り、あとにはいいように|蹂躙《じゅうりん》された政府軍の惨状だけか朝日にさんさんと照らされたのである。
人的被害はもちろんのこと、火矢を射掛けられた陣営のあちこちで、まだ火がくすぶっている。
「見張りは何をしておったのだ!」
具足をつけながら憤怒の形相で叫んだ司令官である。
「奴らは横手からかかってきたのだぞ! 正面の敵がそこまで移動するのに気づかなかったとは、どこに目玉をつけておるか!!」
見張りは必死になって、夜間の見張りは難しく、人を見張るのではなく火の動きを見、物音を聞くのだと、こちらに近づく明かりも人馬の響きもどんな小さなものだろうと見逃さなかったと訴えた。
「馬鹿者!! 夜討ちを掛けようというものがご丁寧に明かりを持ち、物音を立てながら移動してくれるというのか!! このたわけめが!!」
見張りはほうほうの|体《てい》で司令官の前から引き揚げた。
不覚を食らい、夜討ちをかけた国王軍に対する怒りはいやがおうでも政府軍をかきたてた。なにより司令官の激情を|煽《あお》った。かくなる上は武人としてすべきことはひとつである。即座に有力領主と司令官の間で軍議が開かれ、全員一致で攻撃を決めた。
マレバの抑えに数千を残し、二万の政府軍は国王軍を狙って大々的な移動を開始したのである。
|先鋒《せんぽう》に弓兵、続いて騎馬兵、さらに|弩《いしゆみ》兵、その数十倍の歩兵で編成された隊列を押し並べての、見るからに勇ましい姿である。しかもこれはほんの先手だ。後続には大領主の軍勢がそっくり控えている。
どうしても今日のうちに合戦に持ちこんでくれようとの意欲満々の軍勢は、粛々と行軍を続け、昼前には国王軍を見上げる盆地の窪に立っていた。
距離にして一カーティヴもない。国王軍は小高い丘の上に陣を張っていた。幕舎や天幕がいくつも作られ、ロアの旗とラモナ騎士団旗が翻っている。
肝心の王旗か見当たらないが、用意する時間がなかったものと政府軍は判断した。
国王軍は作法どおり、陣地を背にして整然と兵を並べている。
しかし、戦力の差は歴然としていた。国王軍は総勢五千、こちらはその数倍である。さらにこちらは背後にマレバという城塞があるのに対し、国王軍は裸で野に立っているようなものである。一押しすればたちまち蹴散らせる。
しかし、圧倒的な戦力を見せつけながらも、政府軍はうかつに突進はしなかった。戦いにはそれなりの作法と作戦がある。まず弓兵を進ませ、互いに矢を射掛け、槍を持ってしばらく立ち合い、場をもたせ、はじめて騎馬軍団の突撃というのが陣法の基本である。
それ以前にも踏まねばならない手順があった。
政府軍の先手は南部ピオニー郡の大領主、ジャンセン卿である。その命令を受けて伝令兵が走った。
国王軍に降伏を呼びかけるためである。
これほど戦力が隔絶しているとなれば勝機がないことぐらい、貴方にもおわかりのはず。同じ国の人間同士で無駄に血を流さないためにも、いささかお苦しみではあろうが、一軍の将として正しい判断をしてはいかがと問いかけたのだ。
聞き入れるはずはないとわかっていても、それがいちおうの礼儀というものだ。
案の定、伝令は手厳しい拒否の言葉を持って戻って来た。我々が降伏する理由は何もなく、あくまでも合戦によって自らの正義を貫く方針という。
「やれやれ。勢いだけは勇ましいことだわ」
卿は鼻で笑った。
「となれば勝ってあたり前の戦だ。ただ勝利するはおもしろうない。我が勢だけでしとめてみせよう。司令官どのに伝えろ。ピオニー騎士の戦いぶり、とくと御覧あれとな」
主将の勢いはそのまま兵士の勢いである。
合戦開始の角笛と共にピオニー勢は国王軍に襲いかかった。
まず弓が出た。ピオニー勢は堅固な矢盾を押し並べつつ、じりじりと国王軍の本陣へ向かって進み、その間から次々と矢を放った。
すぐ後ろに槍が続く。相手の勢いが少しでも衰えたなら、味方の矢盾を踏み越えて突撃するためだ。
国王軍もあらかじめ矢盾を並べ、槍を並べ、決して破られまいとする構えでいたが、劣勢はいかんともしがたい。その矢盾にはピオニー勢の矢が次から次へと浴びせかけられ、射返すこともできない。国王軍の矢盾はあっという間に針ねずみのようなありさまになった。
「いやあああ!!」
「おおう!!」
機は今と見て矢盾の後ろで待ち構えていた歩兵たちは手に手に得物を握り、猟犬の群れのように勇ましく吠えながら突進した。それこそ脇目も振らずの猛進である。
時の間を置かずにその槍の穂先が国王軍の先手に食いこんだ。
国王軍も必死に応戦し、懸命に踏みとどまっていたが、すでに敗色は濃厚である。
丘の上の本陣でこれらのことを見届けていたジャンセン卿はそれっとばかりに采配を振った。
この合図を受けて、卿自慢の、かねて鍛えに鍛えあげてあるピオニー勢の騎馬軍がいっせいに突撃したのである。
一刻も早く戦に参加したくてじりじりしていた騎馬軍だ。鬨の声をあげ、|堰《せき》を切った水のように、国王軍へ襲いかかった。
この突撃を相手方が受け止めきれるか、それとも屈するか、勝敗はここで決まると言っても過言ではない。
武装した騎馬軍団が一丸となっての突撃は、端で見ていても凄まじい。重装鎧に身を固めた騎手の一撃は盾などものともせずに貫き、鉄の馬蹄は逃げ遅れた兵士を骨まで踏み砕く。その破壊力と轟音はさながら人馬でつくられた、生きた雪崩だ。
しかもこの雪崩は丘を駆け上がる。
この時のピオニ一勢の数は、およそ二千。色とりどりに武装した人馬の群れは地響きを立て、土煙を上げ、大地そのものを揺るがす勢いで突撃した。
この凄ましさにただでさえ劣勢の国王軍が耐えられるわけがない。かろうじて踏みしめていた戦場も譲り、兵士たちは思い思いの方向に逃げはじめたのである。
「|雑魚《ざこ》にはかまうな。本陣を突け! 国王を捕えたものには莫大な恩賞を約束するぞ!」
勝利目前と見て、ジャンセン卿も躍りあがったが、政府軍の歓喜の声が驚愕の悲鳴に変わったのは、次の瞬間だった。
今の今まで無人に見えた幕舎、天幕の中から、国王軍の歩兵たちがいっせいに飛び出して来たのである。
手に手に弓を持ち、背負いきれないくらいの矢を背負っていた。彼らはすぐさま弓をつがえ、丘を駆け上がろうとしていた騎馬軍に向けて次から次へと矢を放ちはじめたのである。
突撃を掛けたピオ二一勢は人も馬も重い鎧に身を包んでいる上に、上り坂だ。とても機敏には動けない。射る側にしてみれば斜め下の的だ。実によく飛ぶ。今度はピオ二ー勢の騎士たちが、あられのような矢を浴びることになったのである。
「おのれ! またしても|謀《はかりごと》を!」
見ていた卿は歯がみして悔しがった。
「騎士ならば堂々と名のりをあげ、討ちかかってしかるべし! 国王軍とは名ばかりの卑怯者の軍勢に違いなし! 押せ、押して押して押しまくれ!」
夜討ちに続いてまたも出し抜かれたのだ。卿が激怒するのは無理もないのだが、指揮官としてはいささか軽率な判断だった。敵が待ち構えているところへ正面から突っこめと命令したのだから。
ジャンセン卿にしてみれば、相手は少数、しかも裸に近い弓兵ばかり、重装騎馬軍の圧倒的な突撃を受ければ必ず崩れると確信してのことだったのだろうが、国王軍ではこうなることを充分予期していたのだ。
政府軍の先手は弓兵槍兵ともに一とおりを働かせ、充分と見て退かせている。今向かってくるのは騎馬兵だけだ。それならそれでやりようがある。
丘の上ではタルボがここぞとばかりに叫んでいた。
「いいか。今こそ日頃の修練を見せる時だ。中央全土にその名も高いロア衆の弓の味を、敵の旦那方にたっぷりと味わってもらえ!! 鎧の隙間、兜の合わせ目。射るところはいくらでもあるぞ! どんなに重い鎧で身を固めようと、我らの弓の前には無力であることを教えてやるのだ!!」
弓矢にかけてはなみなみならぬ熟練を誇るロア衆である。タルボが指示したとおりのことを実行するだけの腕は充分備えていた。それでも完全武装した人馬が自分たちを目がけて丘を駆け上がってくるのだ。身を守る盾もない。恐ろしくないわけはない。
タルボは声を張りあげ、兵士たちを励ました。
「落馬させてしまえば敵は鉄の鎧でがんじがらめだ。身動きもできん! 馬を狙え!」
騎馬軍はさすがに大軍だった。どんな攻撃もこの勢いを殺すことはできないかのようだった。
しかし、ロア衆の射術も音に聞こえたものである。
前後三列に分かれて隊列を組み、前衛は片膝をついて、中陣はその肩越しに、後陣はさらにその肩越しに矢をつがえての三段構えの攻撃である。
だが、敵は倒しても倒しても後から後から湧いてくる。
弓を射ている兵土たちは気の狂いそうな恐怖と隣り合わせながら、ただひたすらに弓を射続けた。恐ろしく苦しかったが、それは突撃をかけている政府軍の騎士たちも同じことだ。
仲間か次々と倒されるのを目の前で見せつけられるのだ。恐怖がないわけはない。
ためらった。
突撃に衰えが出た。
中にははっきりと狼狽して、指揮官であるジャンセン卿を振り返り、このまま突撃していいのかと態度で窺う騎士まで現れた。
「それっ!」
タルボはこの時とばかりに采配を振った。
それを合図に丘の上から身を乗り出すようにして矢を射かけていたロア衆は、いっせいに後退をはじめたのである。
「な、何だ!?」
抑天したのは政府軍のほうだ。
今の今まで、多少なりとはいえ優位に戦を進めていたはずの軍勢が、戦場を放棄して退きはじめたのだ。
かと言って一目散に逃げ出すようなことはしない。
前後三列がたちまち二手に別れ、厳重に矢盾を押し並べる。右手が退く間は左手か残り、右手が警戒する間に左手が退く。交互にたぐり寄せられるような見事な撤退の仕方で、丘の向こうへ消えて行った。
「いったい、何を考えている!?」
卿の副官が唸った。敵の意図が掴めない、苛立ちの混ざった声になっていた。
追撃をかけるのにこれ以上はない好機なのだが、先ほど散々射落とされたばかりだ。うかつに突っこんで行ってはまた何が待ち構えているかわからないと疑心暗鬼になっていた。
だからといって、ここで敵を追うのをやめるべきとは露ほども考えない。
馬も持だない弓兵にこてんぱんに打ち負かされて、しかも戦えば必ず勝つに違いないとわかっている大軍で、一勝もあげることができずに引き揚げたとなれば騎士の名誉は地に落ちる。逃げたと言われても一言も弁解できない。
ジャンセン卿が唸り、勇ましく断言した。
「敵は正面からの戦を嫌がっておるのよ。まともにかかっては勝ち目がない故、こざかしい策ばかり弄するのだ。となれば立て直しの時を与えてはならん。味方はゆうに敵の数倍、しかも卑怯な逃げ技ばかり使う相手が何ほどのものか。敵が小手先の技で来るならば我らは力をもって敵をねじ伏せてやろうぞ!」
重苦しい空気が一度に吹き飛んだ。あちこちで勇ましい声があがり、ついで全軍がさっと静まり、気力を取り戻した。
合戦に持ちこめさえすれば勝てる。その一念でビオ二ー勢はさらに前進を開始したのである。
先ほどの失敗から防御を固め、矢盾を並べて慎重に進み、先ほどまで国王軍の本陣があった丘の上まで登りつめてみると、国王事はもうずっと向こうまで後退していた。
これ以上、先手ばかりか進むことはできない。何かあった時、後続が駆けつけることかできないのでは軍勢の意味がない。
間が空きすぎるとそこを狙われるからである。
先手と本陣との間でひっきりなしに伝令が走った。
敵の様子を窺う物見も盛んに出された。その者たちが駆け戻って報告する。
「敵はこの先の山のふもとの平地に集結しております。その場を本陣とさだめた模様です」
「あのあたりの山は、すでにパキラ山脈の入口ではなかったか?」
「はい。ここからでも御覧になれますが、正面にあるのが女山、右手にあるのが男山としますと、男山の尾根の向こうはパキラ山脈め裾続きになっております」
巨大な山脈が近くなり、複雑な地形だった。
女山の左には雑木ばかりの小山がある。
この山と女山との間は、なだらかな道になっている。|山間《やまあい》の道だから幅は限られているが、ここを抜ければギルツィ山脈の裾へ出られ、北上できる。
実際、国王軍もこの道を通ってやって来たのだ。逆を言えば、国王軍の援軍がやって来るのもこの道なのだ。
ジャンセン卿はからからと笑い声をたてた。
「背水の陣ならぬ背山の陣か。よくわかった。あくまでまともな戦をせぬつもりだな。そうはいくか」
ちょっと仕掛けては逃げ、またちょっと仕掛けては逃げる。こんなけったいな戦術に出くわしたのははじめてであるが、国王軍の意図は呑みこめた。
ひとつは味方を待つまでの時間稼ぎだ。あの道からじきに援軍がやって来る手筈をすでに整えてあるものの、それまで戦わないでいるのは武名に関わるからいちおうの体裁をつけておこうという算段。
もうひとつの狙いは、そうしてうるさくっきまとうことでこちらの兵力を徐々に削ごうという計算。
こしゃくな真似をと言いたいところだが、その計算に今のところ見事にはまってしまっている。昨夜の夜討ち、先ほどの突撃の失敗はかなりの痛手だった。
それだけに今度こそ確実な勝利を収めねばと、先手の主将であるジャンセン卿は考えた。もちろん後続の各将も考えた。
サング司令官に至っては言うに及ばずである。
敵は援軍待ちの戦をするつもりと聞いて歯ぎしりして唸ったものだ。
「やはりな。そのような惰弱者を一度は王と呼んだかと思うと、胸くそが悪くなるわ」
その惰弱者相手に、これ以上の恥をさらすことだけは何としても避けねばならなかった。兵と兵とをぶつけ合い、剣と剣とを交え、勝ったという成果をあげねばならない。
敵の敗走を確かめるか、山のような屍を築くか、名の知れた武将を捕虜に取るか、もっとも理想的なのは敵の主将である国王を捕えるか、いっそのこと首級を挙げるか、とにかく勝ったという名目を立てねばならないのである。
紫紺の外套を得意げにはためかせながら、司令官はどうやって国王軍に戦をさせようかと思案した。
敵はすでに、夜討ちと先はどの矢合戦において、かなりの成果を収めている。うかつに刺激しては、このままじりじりと後退を続け、背後から迫ってきている援軍と合流するだろう。
そうなると、少しばかり厄介なことになる。敵に勢い、がつき、こちらの士気が衰えることは誰が考えても明らかだからだ。
有力領主たちも盛んに意見を出した。
「要は敵をこれ以上退却させなければよいのです。手勢を三隊に分け、二隊を両脇に配し、正面と合わせて三方から同時にくるんではどうでしょうか」
「いかさま。奴らは思いのほか素早い。逃げ足ならば我らよりも上でしょうから、逃げられないようにした上で戦えばよいのです」
野戦において、敵に包囲されることはその軍勢の敗北を意味した。それだけにどの戦でも、これだけは食らわないようにするのが武将の務めである。
しかし、戦は生き物だ。
そんな用心など通用しないだけの勢いを持ってねじ伏せてしまえばいい。
政府軍は全力を投入して、決戦に持ちこむことにした。
何といっても戦力の隔絶は相当なものなのだ。三方向からかかれば、こちらの数分に一にすぎない軍勢などひとたまりもない。
伝令が飛び、二万の軍勢の内、五千ずつが本隊から離れて左右に散開しはじめた。
本隊から離れて粛々と進む兵隊の動きは、大地を這う巨大な蛇さなからだった。右から一匹、左からも一匹、不気味に|蠢《うごめ》きながら離れだし、整然と進む。
一隊は男山を目指し、もう一隊は山間の道を目指した。特に後者の一隊は雑木の山を背にして、山間の道を塞ぐ形で陣形を整えた。こうすればたとえ国王軍の援軍がやって来たところで即座に迎え撃てる。
人でつくられた大蛇はしだいしだいに縮まり、固まっていき、やがては槍や弓の攻撃にもびくともしない人の鉄壁にと変化した。
高々と掲げられて翻る旗印、初夏の陽光を反射して鋭く目を射る槍の光、色鮮やかな装束の騎士の群れ、足並揃えた軍勢がたてる乾いた土埃。
国王軍の本陣は女山を背にした少しせり上がった高みにある。それらのことがすっかり見通せた。
ルカナン大隊長は中陣に位置していたが、先ほどからその背中を、北の塔へ侵入した時以上の冷や汗が絶えることなく流れ落ちている。
まさに絶体絶命だった。
前衛に出ている兵士たちはおそらく生きた心地もしないに違いない。それも当然だ。この状況で怯えるなとは、言うほうが無理である。
ドラ将軍はタルボとともに前衛に赴いていた。
すでに騎乗し、槍持ちを従えた姿は微動だにしない。
その姿は浮き足立つに違いない兵士たちを無言で鎮めている。
ルカナン大隊長も冷や汗を手のひらに隠し、あくまで表情を据えて、国王の命令を待っていた。
それが軍勢を率いるものの心得である。指揮を担当するものは自身の怯えを決して部下に見せてはならないのだ。
ちらりとでも外に出したら、その不安はすぐさま近くの兵に移り、たちまち軍勢全体に伝染する。そうなればもう合戦どころではない、戦わずして潰走するはめになるのは明らかだった。
中陣のほとんどはルカナン大隊の指揮する近衛大隊が占めている。彼らは少なくとも隊長の命令には従うように訓練されているだけに、ルカナン大隊長が平然と構えているこの状況で逃げ出そうとするものはいない。前衛に出ている兵士たちがときおり不安にかられて振り返っても、そこには悠然と構えたドラ将軍と、一矢乱れぬ落ちつき払った近衛大隊がいるわけだから、おおいに頼もしく、幾分、敵がせり出してくる恐怖にも耐えられるだろう。
だが、それにも限度かある。
本陣でも、ずらりと並んだ国王側近の勇士たちが硬い顔を崩さず、食い入るように敵の動きを見つめていた。彼らには彼らの考えがある。正確には国王の考えだ。試みるに値する作戦と思ったからこそ、こうしてわざと自分を窮地に追いこんでいるのだが、今の状況は目の前で鋭い刃物を見せつけられ、それがゆっくりと首筋に押し当てられていくのを感じていながら、手も足も出せずにいるのに等しかった。
異様な緊張感が国王軍全体に漂っている。
いつもの黒装束のイヴンが固く拳を握りしめて、ひたすら敵を睨み据えていた。
懸命に自分を制しているのである。
イヴンのように何度も修羅場を経験してきたものでも、今の状況は決して快いものではなかった。
敵の威容と戦力の違いに、ときおり、歯の根に震えが走る。闇雲にあれに撃ってかかるか、さもなくば一目散に逃げだしたい衝動に強く駆られる。さっきから一言もロをきかないナシアス、ガレンスも同様だろう。シャーミアンに至っては、ひたすら国王を仰ぐことでその恐怖に打ち勝とうとしている。
彼らでさえこうなのだ。他の兵士たちが怯えないわけはない。
張りつめた空気の中で平然と構えているのは総大将である国王、そしてその参謀とも言うべき金髪の少女だけだった。
国王は胸に獅子の紋章を縫いとった戦装束を身につけ、長い外套を翻した姿で腰を下ろしている。
少女は珍しくきっちりと髪を編みあげ、いつものように銀の宝冠を載せて、国王の横に立っていた。
二人とも敵の動きを注意深く見守っている。
三方に分かれた軍勢がいっせいに動くことは戦術上あり得ない。まずどこか一手が動き、それによってこちらの陣形が乱れたところを押し包む。これが基本だ。
「どこから来るかな。右か、左か、正面か」
少女が呟き、国王が低く笑った。
「正面はない。正面からの攻撃になら我々も充分耐えられる。そのくらい敵もわかっている」
すると左右のどちらかだ。
左手の男山を背にした軍勢、右手の雑木山を背にこちらの増援を阻む形で広がる五千。どちらも今にも堰を切って突っこんできそうだ。
不意に国王が言った。
「左右のどちらが来るか、賭けるか?」
さすがに少女も絶句して国王を見た。が、すぐに小さく笑って言った。
「いいだろう。おれは左だと思う」
「では俺は右だ」
「何を賭ける?」
国王は不敵に笑った。かつてこの男のことを獅子には化けるかもしれないとイヴンは言ったが、今の国王にはまさしく獅子の風格と威厳があった。
「この戦の勝利を」
少女は黙って、腰を下ろした国王の姿を見下ろした。不安になっているのかと訝しむ顔になっていた。
「おれたちは必ず勝つさ」
「そうとも。俺たちは必ず勝つ。その勝利をお前に捧げよう」
落ちついた声だった。焦りも不安もかけらも感じられなかった。
少女は安心し、笑って首を振った。
「それじゃあ賭けにはならない。勝利は大将のもの。つまりはお前のものだ。そう決まっている」
政府軍の攻撃はその直後にはじまった。
陣形を整え、国王軍を完全に包囲した政府軍は、ころはよしと見たのだろう。
男山を背にした五千が前進を開始したのである。
前列には二重三重に矢盾を並べ、まことに堅固な構えだ。己の優位を確信しているだけに勢いもある。すぐさま突撃してひとひねりにしてくれようと|熱《いき》りたっている。
この五千を指揮するのはピオニー郡に隣り合っているメディオラ郡の有力領主、ベレー卿である。
「ピオ二ー勢は奇策にはまり、見事にしてやられたが、二の舞など踏んでなるものか。兵法とはいかなるものか、俺がとっくり見せつけてくれる」
自信満々のベレー卿である。領主たちはそれぞれ戦に備えて手持ちの兵隊の鍛錬を怠らない。その成果をライバルに見せつけるいい機会でもあった。
メディオラ郡の兵士たちは、足並揃えて粛々と進み出た。行進の足音と具足の擦りあう音だけが緊迫した陣地に響きわたった。
国王軍は微動だにしない。あくまで迎え撃つ構えのようでもあり、気分の充実に欠けるようにも見える。
ベレー卿は国王軍が戦いを長引かせようとしていると判断し、早くも叫んだのである。
「かかれ!」
兵士たちも待ち構えていた。大将の声と同時に、五千の軍勢はいっせいに勇み立ち、居諌でいる国軍め、がけて襲いかかろうとした。
ところかその時、まさにメディオラ勢の背後から|鬨《とき》関声があがったのである。
「なにっ!?」
将兵ともに慌てて振り返った。樹林に覆われた男山の中腹に、いっせいに旗印が立ち上がり、それこそ雪崩のように襲いかかってくる。それも百や二百ではない。千騎を超す大軍である。
卿の顔から一気に血の気か引いた。
主将が青ざめたくらいだ。兵士たちの狼狽、恐怖はもっとひどかった。たちまち浮き足立った。
前方には国王軍がいる。そして背後に一千の敵が現れ襲いかかってくる。
こうした時に冷静に迎撃できる軍勢はまずない。
そもそも陣形とは正面からの攻撃に備えて組んである。前方は強固でも背後は丸裸状態に近いのである。やおらかい腹をさらしているようなものだ。
軍勢にとって背後を突かれることほどいやなものはなく、退路を断たれると感じることほど恐ろしいものはないのである。
「落ちつけ! 陣形を立て直すのだ!」
叫んだ卿だが、これもそう簡単にはいかない。歩兵、弓兵、槍兵、騎兵などを効果的に組むのが陣形であり、こうして組んだ陣は前方になら自在に展開させ、動かすことができるが、百八十度向きを変えるのは容易なことではない。
もちろん、襲いかかった国王事は敵に方向転換する隙など与えなかった。
この一千の軍勢はワイベッカーで国王軍に合流したポートナム・ミンス混合軍である。ワイベッカーでは働く機会がなかったため、今回が国王軍としての初陣だ。本陣では国王がこの戦ぶりを残らず観戦しているはずである。煽りたてなくとも兵士たちの戦意は最高潮に高まっている。
「これが仕事始めだ。存分に働け! 陛下の御前であるぞ!」
ポートナムの領主、セリエ卿が大音声に叫び、自ら馬を駆って突き進めば、後続の騎士たちも藪をかきわけ、枝をへし折り、重量にものを言わせて突進する。
呼応して、これまで端然と構えていた国王軍の前衛がいっせいに鬨の声をあげ、槍を振りかざした。
メディオラ兵の闘志はこれで完全に吹き飛んだのである。
もう攻撃どころではない。命あっての物種である。真っ先に雑兵たちが崩れ、|退《ひ》き足になった。つられて騎士たちまでが逃げの態勢にまわった。
こうなってしまっては軍隊とは呼べない。一刻も早くここから逃げだしたいとの恐怖に支配されている人の集団である。
思いもかけない国王軍の奇襲と先制攻撃に、政府軍の本陣も、雑木山を背に構えていた軍勢もあっけにとられた。
ついで唸った。
まんまとおびき出されたことに政府軍はようやく気づいたが、手遅れである。
男山のメディオラ勢は完全に不意を突かれた。武将だちが懸命に兵を鎮め、態勢を立て直そうとしているがうまくいかない。襲いかかってきた一千の勢いもまた凄まじい。明らかにこちらが不利である。
「おのれ!!」
何とかしなければならなかった。味方の敗北を目にした兵士は十の力の五以下しか出せなくなるのだ。
しかし、うかつに救出にはいけない。雑本山の勢にしてみれば、そのためには国王軍の正面を横切らなければならないのだ。問題外だ。
本陣も同じ思いだったが、ここで見殺しにしては戦は負けだ。激しく伝令が飛び、整然と構えていた本陣の左端から一隊が分かれて、苦戦しているメディオラ勢を救いに駆けつけようとした。
国王軍の本陣でじっと構えていた国王がそれまでの態度をかなぐり捨てて立ち上がり、全軍に届けとばかりに叫んだのは、まさにこの時だった。
「突撃!!」
待ちに待った命令だった。今まで押さえに押さえられていた国王軍の兵士たちは放たれた矢のように全軍一丸となって、右上面、雑木山の軍勢目がけて突っこんで行ったのである。
仰天したのはその目標となった領主勢だ。
ここまで立て続けに奇襲を食らい、敗北を見せつけられ、ただでさえ全体が動揺している。そこへ闘志を満面に噴き出した軍勢が土埃にかすむほどの勢いで突進してくるのだ。
思わず怯んだ。
そこへ領主勢にとってはだめ押しが来た。
悪夢としか思えなかったろうが、彼らの背後で、いっせいに鬨の声があがったのである。
血の気を残らず失って振り返れば、背後の山に、敵の旗印がいつの間にやら二百以上も立ち上がり、勇ましく風にはためいているではないか。
「伏兵だ!!」
「計られた!」
「挟撃されるぞ!!」
たった今、男山の中から敵兵が大軍となって押し寄せてくるのを見たばかりだ。大混乱になった。
一人が恐怖して足を引けば、両隣の兵士もすかさず|倣《なら》う。その怯えはたちまち全体に伝わる。武将格のものや騎士たちが懸命に励まし、留まるよう命じたところで、彼らはもともと雑兵だ。そう簡単には立ち直れない。
雑兵ばかりではない。士分の者も動揺していた。その主人である領主たちとて同じことだ。現政府に請われ、これについたほうが得と思われるからこうして来たのだ。恩も義理もない。ましてや命がけで忠義をつくすなど思いもよらない。勝つと聞かされていたから出て来たのだ。こんなところで死ぬいわれはないのである。
武人としては後ろを見せることに抵抗があるのは確かだが、兵士たちは挟み撃ちの恐怖に早くも退き足立ち、陣形は完全に崩れている。こうなってはどうしようもないではないか。
「引け! 引けい! ひとまず撤退する!」
長い時間思案したようだが、実際には挟撃を受けたのとほとんど同時に指揮官は叫んでいた。
願ってもない命令である。将兵ともに後をも見ずに逃げにかかったが、逃げるにしても正面も背後も塞がれている。
唯一開いていた方向、つまり、国王事の増援が来るだろうと思われていた山間の道を目指して、五千の兵隊はひたすら潰走していったのである。
全速力で走り続けるグライアの上からその有様を認めた少女はひそかに感心していた。
あの雑木山の兵隊は偽物なのだ。
二百の旗が勇ましく翻り、今にも山を駆け降りて来そうに見えるが、左右に軍勢を分けるだけの余裕は国王軍にない。そこで近隣の農民をかき集め、念のために五十人ほどの兵士をつけて、今この時にいっせいに旗を上げるようにとあらかじめ言いふくめて配置しておいたのである。
少女はこの作戦に少しばかり懐疑的だった。
少しずつ仕掛けながら政府軍をこの位置まで引き寄せるのはいい。そうなったらおそらく敵は三方向に分かれてこちらを包囲しようとするだろう。これもいい。しかし、うまく男山のほうから攻撃を仕掛けてくれるとは限らない。もし、こちらの山の攻撃が最初に行われたら、後ろで旗がひらめいているだけでは領主勢はびくともしないのではないか。
しかし、国王は笑って言った。
「リィ。自分を基準にして考えてはいかん」
少女には意味かわからなかった。首をかしげた。
「お前は特別の勇気と並はずれた技を持っている。なればこそ挟撃を食らうとわかっても、勇ましく潔く、覚悟を決めて戦うだろう。しかし、それほどの度胸は並の人間にはなかなか持ち得ないものだ。間違いなく彼らは恐れる。たとえ旗印だけであったとしても動揺する。ましてや、彼らのすぐ横には逃走にうってつけのこの道があるのだ。逃げないとしても退き足立ちになるだろう。それで充分だ。それでもう、戦力と数える必要はない」
そんなにうまくいくものだろうかと少女は疑問に思ったのだが、歴戦の武将であるドラ将軍も国王の意見に賛成だった。
「バルドウの娘は軍勢をぶつけあう戦には不慣れと見える。さればお教えしようが、戦をするのは大多数の兵士たちだ。むろん我々と意志を通じ、最後まで命運を共にしようという精鋭も数多くいるが、その十倍を占めるのは我々の理念とは何の関わりもない兵士たちだ。彼らには彼らの生活かある。それをある時は恩賞を約束し、ある時は義理で釣り、またある時は命令をもって戦場に立たせているのだ。旗色悪しとなれば、わが身がかわいいに決まっているからな。一目散に逃げ出すことは珍しくない」
つまりは負けるような戦をする大将が悪いということなのである。
ドラ将軍はさらに言った。
「合戦に打ち勝つにもっとも大切なことは、いかにして味方の士気を高めるか、またいかにして敵を恐れさせるか、これにつきる。鋭気を充分に養った上で恐れ怯んでいる敵に向かえば、どんな難敵だろうと討ち取れないものではないのだ。不意打ちや先手の必勝が何より効果のあることをもっても明らかなことだがな。その点、おぬしには感謝するぞ」
ドラ将軍がこんなことを言うのははじめてだ。
くるりと首をかしげて意味を問うと、将軍は笑って言った。
「おぬしの存在は我が軍にとって大きい。おぬしがいてくれることで、兵士たちは恐怖を忘れることができている。我々にはバルドウの娘がついている。彼女は間違いなく我々に勝利をもたらしてくれる。兵士たちはそう思うことで勇気を奮い立たせているのだよ。知っていたかな?」
少女は驚いた。
自分はどうやら知らない間に国王軍のシンボルにされつつあるらしい。
「それは困ったな」
「困るかな?」
「だって、ぼくがバルドウの娘じゃないっていうのはぼくが一番よく知ってることだし、本当のことがわかったらみんながっかりするんじゃないかな」
「なあに、気にするな。勝利を意味するもの、その象徴としてそう言っているだけのことだ。本当なら勝利の女神と言いたいところなのだろうがな」
将軍は言葉を濁して苦笑したものだ。
「それではおぬしに申し訳ないと思っているのだろうよ。ハーミアは若くもなく、美しくもなく、おまけにたいへんな|悋気《りんき》もちの女神だからな」
「ははあ」
少女は何となく納得して、頷いた。
「つまり、ウォルが以前に言ったみたいに、この顔がけっこういい宣伝になってるわけだ」
「いかにも。その姿であの腕前はきわめて効果的だ」
太鼓判を押した将軍である。
「じゃあ、今度の戦でも派手に暴れてみせたほうがいいな」
国王もにやりと笑って言った。
「俺も負けじと暴れてくれるつもりだがな」
突撃をかけた国王事の騎馬勢は、雑木山の領主勢が崩れ去ったと見るや、方向を変えた。
といっても加速度的に駆けている軍勢だ。危な方向転換はできない。弧を描くようにきれいに、ゆるやかに、進路を左へ変えた。
その先にあるものと言えば、ひとつしかない。
唯一残った政府事の本隊は覚えず唸った。敵の騎馬隊が一丸となって側面めがけて突進してくるのである。
「いかん!」
「迎え撃て!!」
「だめだ。間に合わん!! 突撃だ!!」
突撃型の陣形を取っていた彼らだ。横へ動くには不向きでも前への進撃は充分な体勢だった。国王軍に側面を突かれるより先に相手の側面を突けば優位に戦を展開できるのだ。
政府軍の騎馬勢は全速力で突進を開始した。
退くことはできなかった。わずか五千にすぎない国王軍に両翼を撃破され、二万の兵力を持ちながら一勝もあげずに引き下がったとなれば、武人としての彼らの名誉は地に落ちる。
本陣にはさすがに有能な武将が残っていた。とりあえず騎馬勢に任せ、崩れかけた兵をまとめ、司令官を護りつつ、ひとまず陣地を下げたのである。
一勝もせずに押し返されたことに対し、司令官は歯ぎしりせんばかりに悔しがった。憤怒の形相で叫んだ。
「数はこちらが勝る! 巻き取れ!!」
国王勢は領主勢の腹を突こうと斜めに走り、領主勢は国王勢の腹を突こうとこれまた全力で走る。
ふたつの軍勢はきれいな|巴型《ともえがた》を描きながら全力で走り続けた。さながら互いが互いの尾を狙い、先に噛みついてくれようと牙を鳴らす二頭の竜のようだった。
先に一撃を加えたのは数に劣る国王軍である。
この中には馬にかけては中央一を自負するロア衆がいる。さすがの働きだった。馬足にものを言わせて駆けあがり、敵を輪の中に追いこみ追いこみ、あられのように矢を降らせたのだ。
「しゃらくさい!」
政府軍の騎土たちも矢を叩き落として応戦する。しかし、何人かが馬から転がり落ちた。重い鎧に身動きがままならない。後続の馬に惨たらしく踏みつぶされた。
槍を交え、馳せ違いながら戦ったのは、ラモナ騎士団の勇士たちだ。騎馬戦は人の技量ばかりではない。馬同士の戦いでもある。巨大な体を揺すり、激しくぶつかりあう。騎手たちも必殺の一撃を繰り出し、相手を馬から叩き落とそうとする。
避けきれずに落馬したらそこで終わりだ。
騎士が落馬することは敗北を、死を意味した。全速力で走りながらの攻防である。
しかし、何といっても凄まじかったのは、突撃の中ほどを行く国王と少女だった。
たくましい胸に鮮やかに彩られた紋章は、男が誰であるかを何よりも雄弁に物語っている。
「あれだ! あれが国王だぞ! 討ち取れ!!」
主将さえ倒してしまえばと敵は躍りあがり、次々と襲いかかってきた。国王の側についていたイヴンたちがすかさす迎え撃とうとしたが、国王は無言で彼らを押さえ、自ら進み出た。
「陛下! 待ってください!」
イヴンが慌てて止めたが、
「下がっていろ。名乗られて挑みかかられれば、騎士たるもの、人任せにはできん」
「ですが、数が多すぎます! 第一、陛下に自分で働かれては、親衛隊の俺たちのすることがなくなっちまう!」
「かまわん。見物していろ」
イヴンはさらに何か言いかけたが、あきらめた。
今のあの男に何を言っても無駄だ。
舌打ちして仲間たちに声をかけた。
「いいか、卑怯なことをする奴がいたら、かまうな、背中からでも切り捨てろ!」
その心配はなかった。さすがに敵も心得ていて、まず最初の一騎が進み出、正式に名乗りを挙げた。
「参る!!」
「いつでも」
殺気だった名乗り声に、国王は落ちつきを含んだ声で返した。微動だにしなかった。
勝敗は一瞬で決まった。
国王に挑みかかるくらいだから、その騎士も腕に覚えのある、武名もある者だったのだろう。
だが、迎え撃つのは、どこにこんな勇士が隠れていたかと、国でも屈指の英雄たちがこぞって称えた腕だ。政府軍の騎士が国王の馬を狙って槍を突きこもうとした時には、国王の槍が相手の胴を貫いていたのである。
「面倒だ。まとめてかかってこられい」
どうと倒れた騎士には見向きもせず、国王はなりゆきを窺っていた政府軍の騎士たちに声をかけた。
「うぬ!」
「御相手つかまつる!」
口々に喚いて、十数人ほどが一団となって飛び出した。
同時に国王が馬腹を蹴っていた。
単身、馬を乗り入れ、ほとんど表情を変えもせずに並いる騎士たちを次々に槍玉にあげていく。全身にすさまじいまでの|気魂《きはく》がみなぎっている。
ほとんど人とは思えないほどの国王の強さだった。
一方、小柄な体に長槍を抱え、目を見張るほどの黒馬にまたがった少女の働きもすごかった。派手に暴れてやろうとの宣言どおり、厳重に武装した騎士を相手に一歩も引かない。馬足にものをいわせて寄ったと見るや、|一合《いちごう》もさせずに馬から叩き落とす。
ほとんど鎧も纏わない小さな体に、黄金の冠のように結い上げた頭髪だ。それでいながら大の男を寄せつけず、出合うを幸いとばかりに打ち倒していくのだ。嫌でも目を引く。
下がって見物していた政府軍の間からも驚きの声があがった。
「あれは何者!?」
「体は子どものように小さく見えるが、まさか!」
圧倒的な強さと格の違いを見せつけられて、敵の勢いは急に衰えた。
国王軍の強さもさることながら、一騎当千の戦いぶりを見せる国王と、この謎の敵に対する恐れもあったのである。
これは勝負にならないと見て、合戦場に出ていた騎士たちは次々に本陣に引き揚げはじめた。
それを見て国王軍もひとまず軍勢を引き揚げ、態勢を立て直した。男山の領主勢を打ち破ったポートナム・ミンス勢もこれに加わり、先ほどの陣地よりはるかに進んだところで突撃型の陣形を作って停止したのである。
立て続けの戦いの後だ。兵士たちは皆疲れていたが、あいつぐ勝利におおいに気をよくしていた。
「お見事な軍配でございました」
ドラ将軍が笑顔で言う。自身も相当に働いたらしい。あちこちに血を俗びている。
それは国王も同じだった。突撃の真っ只中にあって縦横に槍をし萍ったのだ。
「味方の損害は?」
「将兵あわせましても三百とはございませに
「今の敵の勢力は?」
「八干もありますまい」
「よし。もう一戦交えてくれよう」
将軍は少しばかり驚いた。
こうした場合はここで手を引いたほうがいいのである。
優勢に戦を進めたとはいえ、相手にはまだ八千の兵力が残っており、戦場に踏みとどまっている。逃げだした領主勢のように気後れはしていない。これを撃破できるほどの余力は味方にないとは言わないが、ぎりぎりである。うかつに手を出して、ひとつ間違えば難しいことになる。
それよりも、こちらの強さを充分に見せつけ、少ない人数で見事な勝利を収めてみせたのだから、ここは日をおいたほうがいい。一日、二日と経つにつれ、敵の中からこちらに恭順してくるものが必ず現れるものなのだ。
将軍はそれらのことを国王に述べようとしたが、国王はくるりと将兵を振り返り、穏やかとさえ思える声で言った。
「敵はすましてこちらを見ているようだが、あれは虚勢だ。内心では一刻も早くここから立ち去りたいと震えあがっているだろう。また敵はこうも考えるだろう。国王軍は予想以上の勝利を収めたのだし、戦い疲れているのだから、これ以上撃って出ることはないに違いないとな。そこまで期待されては、騎士として、応えてやらぬわけにはいくまいよ」
歓声があがった。
二度目の合戦に不平を言うものは一人もいなかった。ドラ将軍も笑顔になった。今仕掛ければ必ず勝てる。兵士にとってそれ以上の興奮剤はないのだ。
国王の読みは正しかった。
政府軍は何とか態勢こそ立て直したものの、すでに戦意を喪失し、引き揚げの時分を計っていたのである。
国王軍も勝ったとはいえ、少ない人数で激しい戦を戦ったのだから、これ以上仕掛けてくることはないと判断して、各部に連絡を取り、撤退の準備をはじめようとしていた。ところがそこへ、国王軍が雄叫びをあげて猛然と突っこんだのだ。
政府軍は仰天した。まさかと思った。
サング司令官が部下の前だということも忘れて叫んだくらいである。
「気でも違ったか! 国王!」
男が聞いたら、あいにく至って正気だと言い返しただろう。
その国王は軍勢を引き連れて突撃しながら大音声に命令を下していた。
「本陣を突けい! 紫紺の外套が目印だ! 他には目をくれるな!!」
少女がその横にいた。
「狙いは司令官か」
「そうだ。あやつだけは今討ち取る」
「いいだろう。お前の仇の一人だ。協力する!」
この戦場にいる何百頭もの馬の中で一番の俊足が少女のまたがるグライアだ。国王以下の部隊をおいて、ぐんと技きん出た。
素晴らしい足たった。
少女は手綱には触れもしない。馬任せである。
その馬は何をすべきかをちゃんと知っていた。
敵の射手が狙いをさだめる暇を与えず、矢盾を踏み倒し、歩兵を蹴散らし、一番乗りで敵陣営に躍りこんだ。
「おのれ!!」
この不遜な敵に斬りつけようとした兵士たちは一人残らず、馬上の少女の手痛い一撃を浴びることになった。小さな手が操る槍の鋭さは峻烈をざわめ、大の男を穂先に引っかけて軽々と跳ね上げた。
もともと逃げ腰になっている軍勢だ。あっさりと侵入を許した。少女はただ一騎、敵陣をまっすぐに駆け上がったのである。
「続け!!」
国王の|檄《げき》が飛ぶ言われなくともまわりにいるのは機にさとい豪傑ばかりだ。少女の後を追って、決壊の勢いで突進した。
政府軍の兵士たちは一人残らず震えあがった。
漆黒の駿馬にまたがった小さな戦士の突撃をきっかけに、味方はふたつに分断されようとしている。
その裂けめから敵が一直線になだれこんでくる。
もし、この政府軍に闘志が残っていれば、ふたつに分けられたことをさいわいとし、両側から中央の敵を包囲しようと試みたろうが、彼らにそんな気力は残っていない。それどころか追い散らされた兵士たちはこれ幸いと撤退にかかったのだ。
国王はそれらの敵には見向きもしなかった。頭さえ叩きつぶせばいいのである。
怒濤のように攻めかかってくる国王軍に、サング司令官は肝を冷やした。国王がいちおうの勝ちでは満足せず、決定的な勝利を望んでいることは明らかだった。
「いかん! 退けい!!」
司令官のまわりは以前からの部下である近衛大隊が護っている。それら百数十人が一団となって逃げにかかったが、国王軍が猛迫撃をかけた。
とりわけ、少女は逃げる近衛大隊にたちまち追いすがり、大の男を子犬か何かのように払い飛ばしながら、澄んだ声で|凛然《りんぜん》と言い放った。
「話にならんな。名にしおう近衛兵団とはこんなものか!!」
一刻でも早く逃げだしたい心境の兵士たちだったが、少女の声で言われただけに、この侮辱は聞き流しにできなかった。思わず足が鈍った。
少女はさらに言う。
「そこの指揮官。見れば先ほどからお仲聞に護られ、居竦んでばかりだが、その外套はどうしたことだ! 紫紺の色を纏えるのは近衛兵団でもただ一人と聞いたが、まさか近衛司令官を名乗られるか! 裏切りの報酬にその栄誉を得たと聞いたが、なるほどお見事なまでの臆病ぶりだ!!」
「おのれ!!」
額まで真っ赤になった司令官だった。
隊員も憤然となった。無視して撤退すべきなのは嫌というほどわかっていたが、それでも聞き逃しにできなかった。全体が足を止め、くるりと向き直った。
「しゃらくさい!」
「何者だ!! 我らを臆病者呼ばわりするからには、それなりの武名あってのことだろうな!!」
「おれはグリンダ。|闘神《バルドウ》の娘だ! そのつもりで、腕に覚えのあるものだけかかってこい!!」
「何だと!」
あまりにも大胆な言葉に兵士たちは気色ばんだが、同時に怯んだことも否めなかった。
名乗りをあげるさいに多少の化粧をするのはよくあることだが、それにしても闘神の娘とは、よほどの自信がなくては言えはしない。
巨大な黒馬にまたがった少女はただ一人、従騎も置かずに戦場に立ち、逃走しようとしている近衛大隊を睨み据えている。
及び腰になった部下たちに司令官が檄を飛ばした。
「ええい、何をしている! 相手は小娘だぞ!!」
その声が引き金になり、サング大隊の騎士たちは、いっせいに少女を目がけて襲いかかったのである。
グライアの背中で、少女は厳しく顔色を引き締め、槍を構え直していた。いくら強くても一人で百人を相手にはできない。そんなことはリィ本人が誰よりよく知っている。だが、何としてでも敵勢の逃走を食い止める必要があったのだ。
しかし、少女とサング大隊がぶつかる前に、国王軍の勇士たちが追いついて来た。
にっくき相手を間近に認めて躍りあがったのは、ルカナン大隊長である。
「サング! この人でなし! 人の皮をかぶった豚野郎めが!!」
大隊長の部下たちも躍りあがった。
サング大隊は以前は彼らの同輩だったが、半年前から司令官直属の兵として特別扱いされている。
それをよいことに彼らは威張ること威張ること、鼻もちならなかった。同じ近衛兵士であるはずなのに見下げられ、|苛《いじ》められ、何度悔し涙を呑んだかしれないのだ。恨み|骨髄《こつずい》に達している。
今こそ目にもの見せてくるとばかりに、ルカナン大隊はサング大隊に襲いかかった。
こうなればどちらも全力でぶつかりあうのみだ。
騎兵、歩兵が入り乱れての大混戦になった。
国王もまた、命知らずに襲いかかってくる騎士たちを次から次へと返り討ちにしてしたが、その混戦の中で肝心の近衛司令官の姿を一瞬、見失った。
「ちいっ!」
思わず舌打ちか洩れる。ここで頭を逃がしては何のための突撃だったかわからない。
横にいたイヴンが声をあげた。
「ウォル!!」
指さすほうを見ると、少女が司令官の守兵と激しく切り結んでいる。
司令官は必死になって逃げようとしていた。しかし、少女はそうはさせなかった。いまだに司令官を護るものを端から断り捨て、なぎ倒し、司令官を戦場に留めている。見慣れた、常人離れした勇猛さであり気魂だが、多勢に無勢だ。やや少女のほうか旗色が悪く見えた。
「リィ!!」
馬腹を蹴り、国王は全力で少女のもとへ急行したのである。
少女は司令官の従騎と激しく戦っていたが、男がやっで来たのを見て怒声をあげた。
「遅い! お前の仕事だぞ。さっさと片づけろ!!」
司令官を早く討ち取れと言うのだ。
「すまんな」
男は笑って、少女と並んで従騎を蹴散らしながら猛進した。
デルフィニアーの豪傑とバルドウの娘とまで言われる二人だ。従騎ごときが相手にできるわけがない。
目にも鮮やかな紫紺の外套を纏っている司令官は、どうにも逃げられないと思ったのだろう。この期に及んでようやく従者から槍を取りあげ、おそらくは絶望的な勇気を振り絞って国王めがけて突進して来た。
「偽王めが!!」
男は口の端だけでかすかに笑った。相手の言葉がおかしかったのではない。敵がようやく向かって来たことに対する安堵と、感謝の意味を込めてのことだった。
「ありがたい」
馬を走らせながら低く呟いた。実際ありがたかった。これでこの戦にも決着かつく。
片や紫紺の外套を翻し、片や緋色に黒の外套を風にはためかせ、両者は真っ向から激突したのである。
全速力ですれ違いざま、司令官は死に物狂いで槍を繰り出した。刃か空を切る鋭い音が響いた。
しかし、司令官の渾身の一撃を国王はあっさり受け流した。自分の心臓を狙ってきた槍をふたつに切断し、返す刃で司令官の首を跳ね斬った。
司令官を乗せた馬はそれでもしばらく走り続けた。
馬上で風に翻る紺紫の外套がみるみる赤く染まっていく。
鞍の上にあった体がぐらりとかしぎ、地響きを立てて地面に落ちちその時には司令官はすでに絶息していたのである。
これを見て、最後の力を振り絞っていたサング大隊の勢いも急に衰えた。他の政府軍に混ざって脇目も振らずの潰走をはじめたのである。
相手の怯みを見て国王軍は勇躍した。逃げる敵を追って追って追いまくり、瞬く間にマレバヘ追いこんだ。
政府軍は城門を閉めてやっと防いだが、反撃する力かないのは明らかだった。その門前で国王軍は勇ましい勝ち鬨をあげたのである。
国王軍の大勝利だった。
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10
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マレバ前哨戦における政府軍大敗の報告がコーラルに届くころ、本宮の一角で極秘の会合が開かれていた。
改革派の閣僚たちにも内密の会議である。
それというのもその顔ぶれは――サヴォア公爵である。バルロをはじめとして、もと近衛司令官であるアヌア侯爵、名門ヘンドリック伯爵、侍従長ブルクス、他にも追放された国王に忠誠をつくし、現在は軟禁されているはずの人々がずらりと揃っているのである。
異様な、重苦しい雰囲気がその場を支配している。
どの顔も深い苦渋に歪み、沈黙している。
この会合を主催したのは彼らの仇敵であるはずのペールゼン侯爵である。その侯爵も気の毒そうな顔つきで、衝撃を隠せない人々の様子に同情と共感を示していた。
バルロは大きく顔を歪め、震える手で頭を支えている。血の気を失ったその顔は、彼の受けた衝撃の大きさを何よりも雄弁に物語っていた。
先代国王の甥に肩を並べられる二人の英雄、アヌア侯爵とヘンドリック伯爵も深い沈黙を守っている。
前近衛司令官のアヌア侯爵はこの時四十五歳。
武骨ものの軍人が多い中、この人は学問好きで知られていた。元来が国内でも屈指の大貴族だ。風雅の趣味もある。幽閉生活め間も興が乗ると楽器を弾き、|吟詠《ぎんえい》をたしなんでいた。風貌もそれに似つかわしく、すらりとした立派な体格と雄々しい美男顔に誰もが認める品のよさがあった。
その端正な顔立ちに今は苦悩がにじんでいる。
ヘンドリック伯爵は侯爵より十歳年長だらた。髭は真っ白になっているが、深いしわの刻まれた風貌、鋭い眼光は今も闘志に満ちている。
この人こそは豪傑の名にふさわしいと思うものは多いはずである。若い頃は快男児で知られ、五十の半ばになっても曲がったことが嫌いで、臆病なことが嫌いで、信念を貫くためなら負けとわかっている戦にも槍一本を抱えて飛びこんでいくような人でもあった。
その伯爵が、真一文字に唇を噛み締めて、何かを必死にこらえて宙を睨み据えている。
他の顔ぶれも事態の深刻さに頭を抱え、ため息をついていたが、彼らは一様に、アヌア侯爵、ヘンドリック伯爵、そしてバルロを窺っていた。
この場にいる人は皆、この三人にそれぞれ肩入れして国王|擁護《ようご》の立場にまわったのである。上司と部下の関係ではなかったが、あの人がそのように判断したのならと、行動を共にしたのだ。今度も彼らの決断を待っていた。
自分たちはあなた方次第ですと言っているようでもあった。その視線がなおさら、彼らを苦しい立場に追いこんでいる。
国王派の人々に影響力を持つもう一人の実力者、侍従長のブルクスも、何とも言いがたい思いを抱えながら、重い緊張に満ちたこの部屋にたたずんでいた。
誰も動こうとしない部屋の中でペールゼン侯爵がそっと立ち上がり、控えの間から大きな銀盆を捧げ持って来た。
この場にはそんな雑用をする小者さえ同席していないのだ。侯爵がいかにこの会合を重要視し、極秘の必要性ありと考えているかがわかる。
|恭《うやうや》しい手つきで、侯爵はその銀盆をアヌア侯爵の目の前に置いた。
意外なものを見る驚きに侯爵の目が見開かれる。
アヌア侯爵ばかりではない。他の顔ぶれも思わず声を発していた。
そこに載せられていたのはアヌア侯爵がもっともよく馴染んでいるもの。半年前まで常にその人と共にあったもの。だが今はマレバで血にまみれ、地に落ちたはずのものだった。
「もう一度、身につけていただけますな?」
きちんとたたまれた金の房と留め金の美しい紫紺の外套を指し示して、ペールゼン侯爵が静かに言った。
この状況下で、アヌア侯爵以外に、これを受け取れる人はいないはずだった。十年間、侯爵とともにあった近衛兵団の指揮官の証である。
だが侯爵は、しばらくの沈黙の後、ゆっくりと首を振った。
「申し訳ないが、ペールゼン侯。受け取るわけにはいきません」
意外そうな顔になったペールゼン侯爵である。
「アヌア侯。それはまた何故……。事態を考慮していただけなかったのでしょうか」
「いいえ。何らかの手を打つ必要があることはよく理解しております。あなたのお話が正しいことも充分にわかったつもりです。ただ、私は昔気質の人間なのですよ。あの方に、一度は主君と呼んだ方に、剣を向けることだけは勘弁していただきたい」
「ですが……」
「ええ。あなたのおっしゃるとおり、陥落寸前のマレバを放置するわけにもいきません」
そうして侯爵は同僚の一人に穏やかな目を向けた。
「ヘンドリック伯。申し訳ないのですが、この外套、私の代わりに着ていただけませんか」
「こ、これは侯爵。無茶をおっしゃる」
慌てた伯爵だった。
「あなたでなくて、なんで兵たちが納得しましょうか。ましてや……」
ましてや、今この時に。
伯爵の言いたいことは嫌というほどわかっていたはずの侯爵だが、この人には珍しいくらいに頑固に首を振った。
「そこを何とぞ、曲げてお願いいたします」
「いや、しかし……」
「伯爵に向かって生意気を申すようですが、私が出向いたのでは、かえって難しいことになるような気がいたすのです。無理は承知の上で、このとおり、お願いいたします」
深々と頭を下げた侯爵にヘンドリック伯爵は言葉を呑みこんだ。
誰かがやらねばならないことなのだ。
「わかり申した。では、一時、お預かりいたします」
「かたじけない」
「今、この時だけ、ということで」
「はい」
そう決めてしまうとさすがに彼らは素早かった。
他の顔ぶれも二人に合わせるようにいっせいに椅子を離れた。
アヌア侯爵は銀盆の上の外套を取り上げ、立ち上かった伯爵に自ら着せかけてやった。
「あなたにこんなことをしていただくとは……。何やら罰でも当たりそうですな」
伯爵が低く呟くと、侯爵のほうがすまなさそうに首を振った。
「申し訳ありません。伯爵。部下たちには私からよく言いふくめます」
「して、あなたはどうなさいます」
「ペールゼン侯爵が許して下さるならば、女官長と面談してみます。かまいせんか」
「もちろんです。許すも何も、そうしていただければ助かります。あの人もアヌア侯にならば事実を打ち明けてくださるかもしれませんから」
頷いた侯爵は、まだ腰を下ろしたままのバルロに向かって、同情と懇願の入り混ざった口調で話しかけた。
「バルロどの。ラモナ騎士団はお任せいたしましたぞ」
バルロは低く唸った。他に返事のしようがなかったのだ。
だが、結局は己の義務を果たすために立ち上がった。
国王派の人々が重苦しく席を立ち去ると、後にはペールゼン侯爵とブルクスだけが残された。
侯爵はこの会合の結果に深く満足したようである。
晴れ晴れとした表情で、丁重にブルクスに頭を下げた。
「ご協力を感謝します。侍従長。私の言葉だけではあの方々を説得することはできなかったでしょう」
礼を言われてもブルクスは言葉を返さなかった。
まっすぐ侯爵を見つめ返した。
「お見事でございますな」
「はい?」
「あなたはまんまと私を利用なさいました」
何か言いかけて侯爵は口をつぐんだ。が、ロ元にはかすかに笑みかある。
「バルロさまも他の方々も、あなたが何を言おうと、どれほど正確な調査結集を出そうと、おそらく耳を傾けようともなさらなかったはずです。しかし、私の言葉ならば信じてくださる。あなたはそう踏んだのでしょう」
「利用したとは穏やかでない。あなたは、ご自分の調査に基づき、真実と思われたことをそのまま述べたのではありませんか」
「確かに」
ブルクスもそのことは認めた。ご自分で調査されればよろしいという侯爵の言葉を待つまでもなく、かねて手飼いのもっとも信用できる者たちをいっせいにこの調査に当たらせた。万にひとつの奇跡を願ってのことだった。ところが調べれば調べるほど侯爵の主張が正しかったことがわかってくる。
心底頭を抱えた。ペールゼン侯爵はそんなブルクスを気の毒そうに窺いながらも、国王派の人々の前でその調査結果を明らかにしてもらいたいと再三要求してきた。自分の口からはとても言えないとするブルクスと、何としてもあなたの口から話してもらいたいとする侯爵との間で一進一退の攻防が続いているところへ、政府軍の大敗北とマレバ陥落寸前の報告が入ったのである。
もう猶予はない。ブルクスは断腸の思いで侯爵の主張を受け入れ、今夜の会合に臨んだのだ。
「実際、お見事です。マレバが奪われるとなれば、バルロさまは動かざるを得ません。ラモナ騎士団が相手となればなおのことです。またロアのドラ将軍と相対に話し、説得できるものがあるとするなら、アヌア侯爵かヘンドリック伯のどちらかしかございません。あの方々を効果的に動かすために私が必要だった。違いますか」
侯爵は苦笑して首を振った。
「侍従長。考えすぎです。私は単に私の口から話すよりは、あなたから打ち明けていただいたほうが、あの方たちの受ける衝撃も軽くすむだろうと思ったからこそ、お願いしたのです」
しかし、ブルクスはそんな脆弁にはごまかされなかった。ずばりと言った。
「サングどのもお気の毒に。近衛司令官と祭りあげられ、総大将とおだてられたあげく、|生贄《いけにえ》にされるとは夢にも思わなかったでしょう」
「おや、おや、侍従長。穏やかでないことを……」
「おとぼけはよしましょう。侯爵。政府軍が敗北し、司令官が戦死したのはつい先刻のこと。報告が入ったばかりです。なのになぜ、二枚とないはずの紫紺の外套が新たにつくられ、ここにあるのです?」
「おお。それは万か一の時のために備えてですよ。当然のたしなみです」
「そうでしょうかな?」
珍しく皮肉な口調の侍従長だった。
「あなたは知っていた。サングどのが指揮官である限り、またドラ将軍とラモナ騎士団、何よりあの方がいる限り、戦力がどれほど隔絶していようと、マレバの政府軍は敗北すると。少なくとも勝つことはできないと」
侯爵は答えなかった。その目がじわりとブルクスを見つめ返した。
「二万の政府軍が完全に撃破されたのは予想外でしたか。それとも、それも計算のうちだったのですかな? 我々に危機感を抱かせ、あの方を排除せぬばと思わせることかできますからな」
「……」
「あなたは伏せておいた真実を明るみにすることで、今までの敵対者を味方に引きこまれた。となると今までの味方が、私利私欲からあなたに荷担した人たちが邪魔になる。長年にわたる功労者であり、譜代の忠臣でもある方々が、成りあがりの裏切り者である今のあなたのお味方と析りあうはずもありませんし、また、あなたのお味方もせっかく得た今の地位を手放せといっても聞くはずもありません。はじめから|体《てい》のいいところで交代させるための司令官だったのでしょう。誰でもよかった。いや、むしろ、大失態をやらかしてくれそうな人物のほうがよかった。いつでも好きな時に|罷免《ひめん》する理由をつけられますからな。せいぜい、あの方に感謝なさいませ。敗北の責任を負わせる手間を省いてくれたのですから」
侯爵は低く笑った。
「侍従長はもう、あの男のことを陛下とはお呼びにならないのですな」
痛烈な皮肉である。
侍従長もやり返した。
「他の面々はどうするのです。タミュー男爵やその子息などは? サング司令官と同じようにどこぞの戦場へ送りこんで殺しますか?」
ペールゼン侯爵は平然と答えた。
「いいえ。|収賄《しゅうわい》の疑惑がいくつもありますので、そちらから追及しようと思っております。汚職に手を染めるような財務長官では国の経済が破綻しますからな」
「祭司長は?」
「あの人はもともと害かない。少しばかり神の権威とやらに酔っていらっしゃるだけのことです」
「ぬかりはないというわけですか」
吐き捨てるようなブルクスの言葉に、微笑みを浮かべた侯爵だった。
「ではお尋ねしますが、私の主張はどこか間違っておりますか?」
「……」
「私は常にデルフィニアのことを思って働き、国家のためにもっともよい方法を選択しようと心がけて参りました。私利私欲から国家の内政に関与したことなど一度もありません。今度のことにしてもそうです。このまま、王家の血筋を持たぬものが国王に返り咲くようなことがあっては一大事と思ったからこそ、あえて、ごく限られた方々に打ち明けたのです。それでも私を非難なさいますか」
「国家の一大事になるというご意見には賛成いたします。ですが、国家のためになると同時に、あなたのおためでもあったのでしょう」
侯爵は思わず苦笑したものだ。
「あなたはよほど私がお嫌いらしい」
ブルクスは答えなかった。苦い顔で目を背けた。
対してペールゼン侯爵はおもしろそうな顔である。
「しかし、わかりませんな。ならばどうして、私に肩入れしてくださったのですかな?」
「私は誰の肩入れもいたしません。あなたのお話に嘘がないとわかった以上、黙殺はできなかった。それだけのことです」
またやんわりと侯爵は笑った。
「得がたい信念ですな。しかし、感謝しますよ。結果的には私の味方をしてくださった」
「そうです」
ブルクスは頷いたが、一言つけ加えるのは忘れなかった。
「今のところは、です」
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11
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マレバヘ押し寄せた国王軍は、ひとまず攻撃を中止し、陣地の設営にかかった。まだ日も高いのだから、このまま勢いに乗ってマレバヘ乗りこむこともできたのだが、国王は進軍停止を命令した。
ドラ将軍が考えたように、時間をおく作戦に出たのである。
領主勢の中にも骨のある者がいるようで、マレバの城門はいまだ固く閉ざされているが、所詮は痩せ我慢である。いつまでも続くものではない。一晩経つうちにますます心許なくなり、こちらに帰順を申し送ってくるものが現れるのは間違いなかった。
「明朝は城攻めになるぞ。そのつもりで傷を受けた者はその手当を、健常な者は充分に休息をとっておくように」
国王はそう命令したが、勝利を間近にして国王軍の兵士たちは興奮状態にあった。太陽が傾き、夜になっても、とても寝静まるどころではない。
皆、国王の軍配に感心し、その武勇に驚嘆し、見事な働きをしたイヴンやタウの男たちを称賛している。もちろん、自分たちがいかに勇敢に戦ったかという自慢話も怠らなかった。
明日には間違いなくマレバヘ入れる。その確信が彼らの興奮を煽っていた。とりわけラモナ騎士団の兵士たちはそうだった。
マレバを本拠とするティレドン騎士団とは浅からぬ親交がある。顔なじみの連中が大勢いるのだ。その彼らが、この城塞の中に監禁されている。
マレバはビルグナとはまた違って、本丸、二の丸、三の丸からなる、外庭まで備えた巨大な城塞である。おそらく騎士団員たちは武装解除されて、改革派の監視下に置かれているのだろう。
ナシアスもまた内心の興奮を押さえかねて、篝火に赤々と照らされているマレバの城壁を見上げていた。
この時を夢にまで見ていた。
どんなに遅くとも明日の夜にはマレバを陥落させ、懐かしい顔の数々と再会することができるだろう。彼らとともに、かつて何度もそうしたように互いの紋章を押し並べて、一丸となってコーラルヘ進軍するのだ。
そうして、柄にもなく飾りたてられて柄にもない国王代行などを押しつけられている友人を必ず救いだしてみせる。
一人たたずんでいると、不意に声をかけられた。
「ナシアスさまでいらっしゃいますか」
緊張を含んだ若い声だった。振り返ってみると見覚えのない兵士である。騎士ではないが雑兵でもない。いっそあどけないくらいの若い兵士だった。
その兵士はミンスのニチェリー卿に仕える兵士であると名乗った後、伝言を頼まれてきたと言った。
「伝言。誰から?」
「お名前はおっしゃいませんでした。ただ、非常に立派な、身分の高い騎士でいらっしゃいます。お話ししたいことがあるので、ご足労ですが、お一人で、この先のルダラ村の入口まで来ていただきたいとのことでした」
はて、と思った。奇妙な伝言である。
ルダラ村とはマレバから北へ道一本である。ほんの一カーティヴほどだ。このマレバで戦がはじまりそうなので、村人はいっせいに避難しているはずである。
兵士の様子は純朴そのものである。英雄として名高い人を間近にし、秘密めいた用事を言いつけられたのが嬉しくてならないらしい。言われたとおりのことを復唱しているのがよくわかった。
しかし、仮にも一軍の指揮官に一人で出向いてくるようにとはきわめて訝しい。
「それから、これをお渡しするようにと言われました。そうすれば自分が誰なのか、ナシアスさまにはおわかりのはずだと」
若い兵士が思い出したように差し出した品を見て、ナシアスの顔色が変わった。
手のひらより少し長いくらいの|小柄《こづか》だった。武器というよりも装飾として、身だしなみのひとつとして、騎士たちが常に携帯しているものだ。鉛色の鞘に白金の口の地味なつくりである。特に珍しい物ではない。
だが、ナシアスには見紛いようのないものだったのだ。せわしく尋ねた。
「その騎士が、これを?」
「はい。何やら内密のお話をなさりたいようで、必ずお一人でお出でくださるようにとのことでした」
「そうか。わかった。ありがとう」
呷くようにナシアスは言い、このことは他言無用と、その兵士に口止めをしたのである。
まさかと思った。是が非でも確かめなければならかった。
顔色を変えて馬の口を取ったナシアスだが、陣をけ出そうとしたところで、ばったりとリィに出くした。
今にも騎乗しそうな騎士団長を見て、少女が目をくする。
ナシアス。今頃どうしたのさ。ウォルが訪ねて来てくれないかって言ってるんだけど」
「ああ。すまない。急ぎの用ができてね。陛下にはすぐに戻るからとお伝えしてくれ」
それだけ言い、あっけにとられている少女を残して、ナシアスは|逸《はや》る心を懸命に抑えて馬を歩かせた。
陣営の中で馬を飛ばしたりしては、いらぬ注目を集めてしまう。
陣地を抜けるとナシアスは思いきり馬に鞭を当て、全速力で走りはじめた。
二千の軍勢を指揮する身でありながら、単身、陣地を遠く離れることの意味はもちろん考えた。だが、行かないわけにはいかなかった。
空には月がある。明かりがなくとも道はよく見える。瞬く間に村の入口まで駆けつけた。馬から飛び降り、手綱をつなぐのももどかしく、相手の姿を捜し求めた。
そんなに捜す必要はなかった。相手はナシアスを待っていたのだ。馬をつなぐと同時に、木の陰からうっそりと現れたのである。
月明かりに照らされたその顔を認めた時、ナシアスは何とも言いがたい安堵と、はじけるような歓喜を感じたのである。
相手も同様だった。困ったような、何だか泣きだしそうな、そんな顔でナシアスを見つめていた。
「久しぶりだ」
「バルロ。いったいどうして……。どうやってコーラルを抜け出して来たんだ!?」
信じられなかった。この友人がどれほど厳重な監視下に置かれているか、ナシアスは充分すぎるほど知っているつもりである。
だが、その人は間違いなく本物だった。
再会の挨拶をすませると、ナシアスは興奮を隠せない様子で旧友の腕を引いた。
「おかしな奴だな。どうして私一人を呼び出したりしたんだ。さあ、行こう。お前の顔を見たら陛下、がどれほどお喜びになることか」
「ナシアス。待ってくれ」
「ちょうどいい。明日には間違いなくマレバを解放できる。お前がいることを知れば騎士団の皆も勇躍するだろう。その勢いをもって一気に……」
「ナシアス!」
バルロは叫んで、興奮冷めやらない年上の友人の肩を掴んだ。
「ナシアス。よく聞いてくれ。この俺の一生に一度の頼みだ」
ナシアスも笑顔を消した。相手の様子は尋常ではなかった。いつも陽気な、自信に満ちあふれた表情を絶やさない友人が、今は顔色を失い、|傍目《はため》にもわかるほどに苦悩しているのだ。
「……何があった?」
バルロは目を伏せて答えない、ナシアスの肩を掴んだ手が細かく震えている。
「何があった、バルロ」
再度促されてティレドン騎士団長はようやく顔を上げた。ナシアスが今まで一度も見たことのない、悲痛な表情だった。
「無理を承知で言う。今すぐに、騎士団をまとめてビルグナヘ帰ってくれ」
ナシアスの水色の瞳が驚愕に見開かれる。ついでその目はすっと細くなり、別人のようにうちひしがれている友人の姿を厳しく見つめた。
「笑えない冗談だぞ。バルロ」
「そうとも。こんな……こんなばかげた、笑えない話があるものか!!」
抑えに抑えていたものが一気に噴き出したような絶叫に、焦りを感じたナシアスだった。
「落ちつくんだ。どういうことなのか最初からきちんと話してみろ」
「これが落ちついていられるか!!」
なだめるように指し伸ばしたナシアスの手を振り払ってバルロは吠えた。ますますもってただ事ではない。ナシアスは激しい危機感に駆られて忙しく問い正したのである。
「バルロ。とにかく理由を話せ。お前の言ったことはこの正念場で陛下を見捨てろというのに等しいぞ。仮にも国王であり、お前の従兄に当たる方に対してどういう……」
「違う!」
バルロは低く呷いた。魂を絞り出すかのような、悲壮な叫びだった。
「違うんだ。ナシアス」
「何が違うと言うんだ?」
「あの人は俺の従兄ではなかったんだ」
ナシアスは仰天した。耳を疑った。
「何を馬鹿な!」
「本当だ。俺だって信じられない。信じたくない。だが事実なんだ。あの人は伯父上の、ドゥルーワ王の血筋ではなかったんだ!」
ウォルは黒い瞳を見張り、少し首をかしげ、よくわからないといった様子でヘンドリック伯爵を見つめていた。
紫紺の外套を着た伯爵はその目線を正視できない。
汗さえにじませながら無言で平身低頭している。
国王軍の本陣は厳重に人払いがされていた。今この場にいるのはウォルの他にはにドラ将軍のみである。
ドラ将軍は、一カーティヴ離れた場所でナシアスが言ったのとまったく同じ言葉を、静かに口にしていた。
「笑えない冗談ですぞ。伯爵」
「ドラ将軍。そう言われるであろうことは重々承知の上で参ったのだ。私とて同じ思いです。致し方なくこの役目を引き受けて参りましたが、ここへ来るまでの足がどれほど重かったことか。また、どうしてこんなことを告げねばならないのか、情けない思いでいっぱいです。が、事実は事実です」
苦渋に満ちた顔つきのへンドリック伯爵である。
「私とて、これがペールゼン侯爵の言うことならば、何をばかげたことをと鼻で笑ったでしょう。しかし、ブルクスどのの調査した結果です。聞き流しにできません。おそらくは侍従長も万一を信じて徹底的に調査なさったのでしょう。水も漏らさぬとはこのことだろうと思えるような報告書でした。ウェトカ村の過去帳にはじまって、当時を覚えている幾人もの村人の証言、当時の三の郭で働いていた者の証言、どれも疑いようのない確固たるものです。もはや、嫌でも信じないわけにはいきません」
「待たれい、伯爵。では百歩を譲って、この方がドゥルーワ王のお子ではないとしよう。ではいったい、この方は、どこのどなただとあなた方は言われるおっもりか」
伯爵は首を振った。
「それを知っているのはおそらく女官長のみでしょう。侍従長もかなり手をつくして聞き出そうとしたのでしょうが、あの婦人も頑固でして、あの方はドゥルーワ陛下のお子であるとの一点張りです」
「そしてあなた方はそれを信じられないと言われるのですな」
「貴君ならば信じられるのか。ドラ将軍」
問い返されて将軍は低く唸った。
疑う余地はない。過去帳の記載によればマルクの娘ポーラは二十四年前の一月下旬に死亡享年二十歳。生後二か月の男子も共に死亡。冬の|最中《さなか》の水死とあって、葬式を出した村人もすぐに思い出してくれた。
「子どもは間違いなく一緒に埋葬したのかと問うと、村人は驚ぎに目を丸くしたそうです。どうしてそんなことを聞くのかと。生まれたばかりの赤ん坊と母親を何で別々に葬ったりしなきゃならんのかと」
しっかりした娘だったんだが、大雪で足下が見えなかったんでしょう。うっかり水際へ近寄って、地面と思って水際を踏み抜いて池に落ちたんでしょうな。若い身空でかわいそうなことでした。父親とは一緒になれなかったらしいが、その分、そりゃあ子どもを大事にしていたのに。
村人はそう話してくれたそうだ。
「この方の身の上のことは確かに不明ですが、今、アヌア侯爵が懸命に女官長から聞き出そうとしておられます。とりあず、何をさておいてもこの事実を知らせなければと思い、こうして参りました」
「ヘンドリックどの」
さらに呷いた将軍である。
「それはどういう意味なのか。お聞かせ願いたい」
「ドラどの。貴君にはわしか何を言いたいのか、もう察しかついているはずだ」
二人の英雄は火花を散らして睨みあった。
「アヌア侯爵は、たとえどのような間違いであったにせよ、一度は主君と呼んだ方に剣を向けることだけは勘弁してもらいたいとおっしゃった。その思いはわしも回じだ。なればこそ、こうして頭を下げに来たのだ。これ以上、騒ぎが大きくならないうちに、この軍勢をそれぞれの領地に帰していただきたい」
「嫌だと言えばどうなさる。ヘンドリックどの」
「ドラどの。それをわしに言わせるつもりか。何のために侯爵がこの外套をわしに着せかけてよこしたと思うのだ。その意味が貴君にわからぬとは思えん。このうえのことは聞かんでくれ」
これ以上、国王の資格を持たない人物の、軍勢を率いての首都接近は容認できない。拒否するのならば武力を用いても阻止すると伯爵は言うのである。
ドラ将軍は憤然となった。
「あなた方は! ペールゼンの思惑にまんまとはまって、あやつに国を売り渡そうと言うのか!」
「ドラどの! わしやアヌア侯が好き好んでペールゼン侯爵に与したとでも思うのか!」
互いに必死の面持ちである。
この時、ずっと沈黙していた国王がはじめて声を発した。
低い笑い声だった。
「陛下……」
ドラ将軍の焦燥と懸念をよそに、男の笑いはだんだん大きくなる。含み笑いからやがては声をたてた笑いに、しまいには顔を覆って、おかしくてたまらないとでもいうように笑い出した。
「陛下、お気を確かに!」
「俺は正気だ。ドラ将軍」
男はやっと呼吸を整えたが、顔にも声にもまだ笑いが残っている。
「つまりこういうことか。ヘンドリック伯爵。ドゥルーワ王が自分の息子と信じていた赤ん坊と赤子の俺が、どこかで入れ違ってしまったというのだな」
「さようで、ございます」
「本物のドゥルーワ王の息子は東北の小村で死に、この俺は、どこの誰ともわからぬ生まれだと、そういうことなのだな」
「まことにもって。なぜ、このようなことが起きたものか不思議でなりませんが……」
ひたすら苦々しい表情の伯爵である。一方の男はようやく一人笑いを収めて、相手に微笑みかけた。
「礼を言うぞ。伯爵」
「はっ?」
「ならば俺は、これで堂々とスーシャのウォルを名乗ることができる。誰にも苦情を言われずにな」
「陛下!?」
ドラ将軍が蒼くなった。そんなに簡単に認めてしまっていいことではないのだ。訂正を求めようとして身を乗り出したが、男の様子を見て思わず怯んだ。
男は顔中に晴れ晴れとした、それだけにいっそ不気味とも思える笑いを浮かべている。
瞳は危険な色を浮かべて伯爵を凝視している。
じわりと斬りつけるような口調で言った。
「だがな、伯爵。ならばなぜ、もっと早くに教えてくれなかった?」
両の瞳に怒りの炎が|奔《はし》った。
「どうして今になってそんなことを言いに来た! ではいったい父は何のために死んだのだ!!」
すさまじい|一喝《いっかつ》を浴びて、ヘンドリック伯爵は竦みあがった。ドラ将軍も息を呑んだ。
男は全身から火炎を噴き上げている。
「今になって! なぜ今この時になってなのだ!! どうしてもっと早くに教えてくれなかった!!」
「陛下!!」
ドラ将軍が必死になって男を制した。一方のヘンドリック伯爵も目を見開いた。
「父……とは、フェルナン伯爵のことですか。伯爵が亡くなられたと!?」
「御存じないとな?」
たった今の爆発の余波を抑えこんで、男はやんわりと伯爵に迫った。
「では教えて進ぜよう。父は半年もの間、北の塔の地下に投獄されていた。先日、俺のもっとも頼みとするものが父を救いだしてくれたのだが、その時の父の姿をぜひとも一目お目にかけたかった。骨と皮ばかりに痩せ衰え、全身に鞭の跡が刻まれ、二度と、剣を取ることも馬に乗ることも立ち上がることさえできぬように煮えた油を注がれ、炭化するまで焼かれていた。しかもだ! そこまでの苦痛と|辱《はずかし》めをえておきながら、さらに逃げられぬように両手は鎖でつながれていたというのだぞ!!」
息を呑んだヘンドリック伯爵だった。聞いた内容にはもちろんだが、男の様子に思わず身を引いていた。
「俺がドゥルーワ王の息子だというのは間違いだった。ありがたい話だ。まったくもってありがたい話だ。俺はずっとそうあることを願っていた。父が俺の目の前で膝を析った時から、これは何かの間違いであってくれと何度願ったかしれない。それを今になって、他に道はないのだと、それが王国のためなのだと、うるさいくらいに言い続けて、父があんな無残な死を迎えた今になって、何をさかしらぶって言いに来るのだ!! では貴様らは何のために父を投獄した! 何のために拷問を加えたのだ!! 答えてみるがいい!!」
凄まじいまでの怒りの炎に貫かれ、また背筋の凍るような気魂にがんじがらめに体を縛られ、ヘンドリック伯爵はしばらく声も出せなかった。
男はぎらぎら光る目でそんな伯爵を射抜いている。
「コーラルヘ戻って、あなたの主人に伝えなさい。スーシャの小せがれは王座も王冠も望んではいないと。ただ、父の仇を討ちたい一心でここまでやって来るだろうとな」
「陛下……」
ヘンドリック伯爵はようやく言葉を発した。
陛下と呼ぶことにためらいはなかった。
それどころか、どうしてこの男が王ではないのかと無念の思いにかられていた。
鮮やかな気性であり、見事な決意だった。こんなことにさえならなければ両手を挙げて迎えたかった相手だったのだ。
「私がどれほど、この結果を残念に思っているか、できるものなら察してくださいませ。私はあなたが戻って来られる時を、ふたたび王座に即かれる日を、一日千秋の思いでお待ち申しあげておりました、私はあなたを陛下とお呼びしたかった。心からお呼びしたかったのです」
ただでさえしわの深い顔が、ひときわ老けたように見える。
「ですが、私もデルフィニア騎士の一人です。その義務には従わなければならんのです」
男は頷き、厳然として言った。
「俺も、人の子として当然の義務を果たします」
伯爵はそれ以上の説得をしようとはしなかった。
どんな言葉もこの男の決意を変えることはできないと敏感に察したようだった。
ひたと男の顔を見つめて言う。
「フェルナン伯爵はお若いころから宮廷を嫌い、名利を嫌って地方におられましたが、お人柄といい、勲功といい、それは優れた、立派な方でした。ご冥福をお祈りいたします」
丁重な|弔辞《ちょうじ》だった。
伯爵は最後まで男に対して敬意を払い、重い足取りで本陣を去って行った。
同じ頃、バルロもまた友人の説得に必死になっていた。
「俺はあの人を追いつめたくない。あの人には何の罪も責任もないことだ。こんな間違いをしでかした官僚どもこそ罰せられるべきだ。だから、無理を承知で頼む。お前たちがビルグナヘ引き揚げてくれれば、あの人もコーラル奪回をあきらめてくれるかもしれない。そうすれば何ごとも丸く収まるんだ」
ナシアスは顔面蒼白となっている。
とても信じられない話だった。今頃になって明るみに出るには、あまりにも衝撃的な事実だった。
「それは……確かなことなのだろうな?」
「俺だってそのくらい考えた! アヌア侯爵もヘンドリック伯爵も、デュボーもロンゾもエメリオンもウィンコートもだ! くどいくらいに侍従長を問い詰めた。それともお前は、あの侍従長がペールゼン侯爵の手先になって俺たちにでたらめを言うと思うのか!」
血の気を失った顔でナシアスは首を振った。
今は単なる侍従長のブルクスだが、以前は外交の最高責任者であり、国王の|懐刀《ふところがたな》とまで言われたほどの内政の中心人物だ。
その豊富な人脈と、融通がきかないくらいの国と王家に対する忠誠心をナシアスはよく知っている。自分たちと同じように、あの男を再度王座へ座らせたいと心から望んでいる人のはずだった。
深く沈思したナシアスと対照的にバルロは激情を抑えかねている。もともと気性の激しい男だ。
「俺はあの人に王になってほしかった。一日も早く無事で戻って来てほしかった。ちくしょう! どうしてなんだ。紛れもなく伯父上の跡を継ぐにふさわしい人だと思っていたのに!」
「今は、思っていないというのか」
「ナシアス。話をすり替えるな。それとこれとでは問題がまったく違う」
虎のような目のバルロだった。
いかに優れた勇者だろうと、王冠にふさわしい人柄だろうと、この事実が明らかになった以上、あの男を王と呼ぶことはできないのだ。バルロの目はそう言っていた。
「俺は自分が王になりなくて言うのではない。こんな間違いを見過すことはできないだけだ。俺ばかりではない。アヌア侯爵も、ヘンドリック伯爵も、侍従長も、同じ考えだ」
青ざめた顔でナシアスも頷いた。デルフィニアの重臣として当然の選択だった。
バルロはさらに言う。
「公表はできん。しかし、公表しなければあの人を慕って集まって来る諸侯たちに説明がつけられん。さすがに一度は王と呼ばれた方だ。単身舞い戻り、明らかな劣勢であったにもかかわらずワイベッカーを陥落させ、数倍の勢力の差を跳ね返して、こうしてマレバまで押し寄せたのだからな。軍勢の意気はおおいにあがっているだろう。この後はますます、あの人に期待する者が集まって来るだろう。改革派を倒すまではいい。ペールゼンやその一派などどうなろうと俺の知ったことではない。だがな、ナシアス。その後はどうなる?」
この勢いのままいけば、あの男はおそらく改革派を打倒し、コーラルを解放するだろう。市民たちは歓喜してあの男に熱狂的な支持を与えるだろう。
しかし、熱狂した民衆は必ず何かの形を求める。
たとえあの男が拒否しようと、行動を共にした諸侯たちや市民たちが、間違いなくあの男をふたたび王座に据えるに違いない。
「俺はっい先日まで、そうなることを心から願っていた。それが今では全力を挙げて阻正しなければならんときている。まったく何の因果で、あのペールゼンと仲良く手を組むはめになったのかと思うがな。心あるものたちは、おそらく俺を改革派に屈服した軟弱者と|罵《ののし》るだろう。だが、それでもだ。何と言われようとも黙認はできん」
吐き捨てるような、苦い言葉だった。
バルロのような男にとって、ある意味では死を選ぶことよりもつらい覚悟のいる選択のはずだった。
そうしてティレドン騎士団長は、あらためて必死の様子になって、ラモナ騎士団長に訴えためである。
「ナシアス。俺は、その屈辱をあえて共に披ってくれと、こうして頼みに来た。ラモナ騎士団が国王軍を離れたとなれば、自然と諸侯たちの勢いも衰えるだろう。ドラ将軍もおそらく伯爵の言葉を聞き入れてくれるだろう。頼む! 今ならまだ間にあう!」
懇願する友の顔を、ナシアスは苦悩に満ちた目で見つめていた。
「私たちに軍勢を引かせ、国王軍を解散させ、では陛下は、あの方はどうなる? 反乱軍の首領として刑罰に処すのか」
「馬鹿を言うな! あの人には何の責もないことだ。表舞台から身を引いてくれさえすれば、それでいい。そうすればあの人も無事でいられる」
「一介の戦士として人知れず、どこかへ落ちてもらおうと、そういうことか?」
「そうだ」
力強く頷いたバルロたった。
「このことが無事にすんだら、アヌア侯爵はふたたび近衛司令官を奉職することになっている。ペールゼンも少しばかりやりすぎたと思っているらしい。今後はこちらの意見も交じえて政策に当たると言っている。むろん、今まで悪行の限りをつくしていた改革派の顔ぶれは一掃される。あの人が軍勢を率いてコーラルを目指さなくてもよくなるんだ」
「よくはないぞ。それでは結局のところ、ペールゼン侯爵の暗躍を許したままだ」
バルロは驚きに黒い目を見張った。
「それに、今の陛下に手を引けと言っても無駄だ。諸侯たちにしたところで、これだけの大勝利を収めた後だぞ。聞きおけるはずがない」
「ナシアス!」
怒りの混ざった悲鳴をあげた、バルロである。
「お前は、いったい何を聞いていた! あの人には王冠を受け取る資格はないのだということがわからないのか!?」
「違う! そんなことを言っているのではない!」
ナシアスも叫び返した。
「お前の話は充分によくわかった。お前の覚悟も、陛下の身を案じていることもよくわかったつもりだ。しかし、なぜだ? 生まれたばかりのドゥルーワ陛下のお子と、今の陛下がどこかで入れ違いになったと言うが、なぜ、そんなことが起きたのだ? お前の話も侍従長の調査も疑うつもりはないが、私には納得ができない。ドラ将軍とてそうに違いない」
バルロは呆然として、かたくなな友人を見つめていた。拒否されたことが信じられない様子だった。
「お前、自分が何を言っているのか、わかっているんだろうな」
「そのつもりだ」
だが、バルロは恐ろしいような声で、確認を入れたのである。
「このままあの人と行動を共にすることは、この俺を敵にまわすことになるんだぞ」
ナシアスは思わず言葉を呑みこんだ。
考えないことではなかったが、バルロがそこまで決意していたとは思わなかったのだ。
「それも笑えない冗談だな」
「このままでは冗談ではすまなくなるんだ!」
大声で吠えたバルロである。
「だから俺はここへ来たんだ! ラモナ騎士団が、あの人が、反乱軍として討伐されるところなど誰が見たいものか! だが俺には先代国士の甥として、ティレドン騎士団長としての義務がある! 王位を継ぐ資格のないものが大軍を率いてコーラルを目指してやって来るとなれば、俺はティレドン騎士団を率いて、その進軍を阻止せねばならないんだ!!」
「バルロ。私にも私の務めがある。信念もある。それがお前と食い違ったとしても、こればかりは譲れない。私の主君は今もあの方だ」
大きく目を見張った。バルロだった。
月の光が互いの顔をいっそう白く見せている。
今まで必死の形相だったバルロの顔が奇妙に歪み、毒のある、痛々しい笑いをつくっていた。
「ナシアス……。それがお前の答えか」
激しい苦痛に苛まれながらも、ラモナ騎士団長ははっきりと頷いたのである。
「まだ間にあうとお前は言ったが、もう遅い。遅すぎる。国王軍の存在はすでに広く知られている。ラモナ騎士団が手を引いてもそれで収まるとも思えない。何より、あの方を先頭に私はここまで来た。今さら……引き下がるわけにはいかない」
その覚悟を読み取ったのか、説得の無駄を悟ったのか、バルロはひきつった笑顔で言った。
「ひどい男だ、お前は」
ナシアスには答えられなかった。こうして出向いて来てくれた友人の心を|木端微塵《こっぱみじん》にしてしまったような罪の意識があった。
バルロは声を震わせ、泣き笑いのような顔つきで、ゆっくりと話している。
「いったい、この俺にどんな顔をして、どんな声で命じろというんだ。ラモナ騎士団を敵としろと? 彼らは反乱軍の一味と化したので、これと戦い、団長ナシアスを討ち取れと? 俺の部下たちに向かってどんな顔で言わせる気なんだ!?」
吠えるような悲鳴だった。
ナシアスもまた悲痛な顔で言い返した。
「バルロ。ラモナ騎士団はティレドン騎士団の紋章を目がけて攻撃を仕掛けたりはしない」
「それですむと思うのか」
抜き身の剣のような、殺気を含んだ声である。
「ペールゼンを甘くみるな。奴は奴で子飼いの領主が何人もいる。領地に五千もの兵力を確保してもいる。それにアヌア侯爵、ヘンドリック伯、そしてこの俺だ。総勢はゆうに三万近くを数えることになるんだぞ。俺でなくとも誰かがお前とぶつかるはめになる」
「……」
「二千人の騎士団員を反乱軍の一味として死なせるか、惰弱者の名を着た勇気ある功労者にするかは、お前しだいなんだ」
ナシアスはそれでも頷かなかった。ゆっくりと首を振った。
「お前のその気持ちはありがたいと思う。だが、バルロ。私にも陛下にも、今ここで引き下がるわけにはいかない事情がある。お前がお前の信条に従ったように、私は私の信条をまっとうしたい。たとえ、お前と命がけで争うことになったとしても、悔いは残したくない」
互いに信ずる道を行こうと、言外に力を込めた。
思いがけない決別の言葉がよほどの打撃だったのか、よほどに意外だったのか、バルロは微勤だにせず、ナシアスを凝視している。
「すまない」
短く別れを告げる。
それだけ言うのが精一杯だった。
こんな形で再会し、こんな形で別れを告げることになるとは思ってもみなかったのだ。
いたたまれずに顔を背け、陣営へ戻ろうとしたその背中に声がかかった。
「待て」
ぞくりとするような声だった。
振り返ればバルロの様子が違う。明らかな殺気を全身に纏って、剣の|柄《つか》に手をかけている。
「それがお前の答えなら、人には譲れん。今ここで、俺が片をつけてやる」
ナシアスは思わず目を伏せた。
昨日までの友が今日の敵になる。よくあることだ。また、謀反人として処刑されるくらいならいっそのことと、親しい者が進んで手を下すこともないではない。
やめろと言っても無駄だ。バルロの気性は知りつくしている。他の誰かの手にかかって死なせるくらいなら自分の手でと考える男だ。
「わかった」
低く答えるのと同時に、バルロの剣が空を切ってナシアスに襲いかかった。
間一髪で|躱《かわ》し、剣を引き技いた。だが、その動作を行ったために、充分な体勢で剣を技くことができなかった。
「く……っ!」
かろうじて受け止めたが、交わした剣の圧力に押される。何とか振り払い、一度は飛び離れた。体勢を整えなければ押される一方である。
だが、バルロも剛強で知られた剣士である。ましてナシアスの腕前を誰よりよく知っている。怒濤の勢いで肉薄し、立ち直る隙を与えず、続けざまに斬りつけた。
防戦一方にまわるしかナシアスには手はない。しかし、不充分な体勢でいつまでも受け流せるものではないのだ。
何度目かに斬りかかったバルロの切っ先が、ナシアスの剣先を大きく払った。そうして、がら空きになった上体を下からすくい上げたのである。
よけようとした。が、よけきれなかった。左肩に激しい痛みが走った。
ナシアスは大きく体勢を崩し、切られた左肩をかばって、その場に倒れこんだのである。
何とか顔を上げると、自分を殺そうとしている男が剣を引っ提げてこちらを見ていた。
今にも泣き出しそうな顔に見えた。それでも剣を引く気がないのは明らかだった。
むしろ、こんな時、長引かせるのは礼儀に反するとされている。
長年の友人の息の根を止めるためにディレドン騎士団長が剣を振りかざした、その時。
「うおっ!」
驚愕の叫びをあげてバルロは剣を取り落としかけた。空を裂いて飛んで来た何かに強く腕を打たれたのだ。
「誰だ!」
その問いかけと同時に、小さな人影が二人の間に飛びこんで来た。
リィである。
ナシアスが危ないと見て石を拾って投げつけたらしい。傷を負って倒れたナシアスを背中にかばい、倍も身長のありそうな相手と対峙した。
「そっちこそ誰だ」
相手の意外な姿にバルロは驚いていた。ほんの子どもが立ちふさがって、自分を威嚇しているのだ。
「子どもの出る幕ではない。引っこんでおれ!」
「曲者が何を言う」
「小僧!」
怒声を発してかまわず斬り捨てようとしたバルロだが、いささか相手が悪かった。一対一の斬るりあいでこの少女に勝るものはデルフィニア全土を捜しても幾人いるかわからないのである。だが、バルロはそんなこととはもちろん知らない。頭から侮りきって斬りつけたのだから隙だらけである。
少女にとっては|木偶《でく》人形を斬るのと変わらない。
すっと身を沈めて腰に手をやる。抜き打ちざまの一太刀で相手を叩き斬ることができるはずだった。が、倒れたナシアスが傷を押さえながら、必死の面持ちで叫んだのだ。
「リィ、駄目だ! 斬るな!」
ちらりと驚きの目でナシアスを見た少女は今しも引き抜こうとしていた剣先を何とか止めた。
相手の攻撃を待って斬りかえした。
「なにっ!?」
予想外の反撃に、バルロの顔が驚愕に染まる。
少女は容赦しなかった。その足と強力にものを言わせて激しい|剣戟《けんげき》に持ちこんだ。一気に相手を圧迫し、その手から剣を叩き落としたのである。
「おのれ!」
バルロは憤然となった。かまわず短剣を引き技いて再度襲いかかろうとしたが、その時には少女の剣がぴたりとバルロの心臓に突きっけられていた。
身動きできなくなった相手を鋭く見つめながら、少女は背後のナシアスに問いかけた。
「ナシアス。これは誰だ。どうして止めた」
「それは……バルロだよ」
さすがに少女も驚いた顔になった。
「ウォルのいとこの、ティレドン騎士団長か」 「ああ」
眉をひそめた少女は今度はバルロに向かって言ったものだ。
「お前はナシアスの友達だと聞いてるぞ。どうして友遂に斬りつけたりしたんだ」
「な、な、何者だ、貴様!」
「おれはグリンダ。ウォルの友人で、そうだな。国王軍の勝利の女神だ。答えろ。どうして友達に斬りつけたりした」
時に応じて人か変わったようにさまざまな表情を見せる少女だが、その中でももっともきつい口調になっている。返答しだいではすぐさま右手の剣にものを言わせる構えだった。
ナシアスは肩を押さえて、よろめきながらも立ち上がり、優しく話しかけた。
「リィ。いいんだよ。いいんだ」
少女はしばらくナシアスとバルロの顔を交互に見比べていたが、やがて肩を諌て剣を納めた。
バルロもまた、ナシアスと突如現れた少女を驚きの目で見比べている。そんなバルロにナシアスは、傷を押さえながら言った。
「バルロ。ここは引いてくれ。どのみちこの傷ではお前の相手にはならん。お前も怪我人を相手にする気はないだろう。いずれまた、あらためて決着をつけよう」
「お前は、あいかわらず、ひどいことを言う」
また顔を歪めた。バルロである。
「もう一度お前に斬りつけるなど俺はごめんだ。だが、お前がどうしてもあの人に味方をするというのなら、今度会う時は俺たちは敵同士だ。その時は軍勢をもって決着をつける」
言い捨てて、バルロは剣を拾い、くるりと背を向けた。
どこかに迎えを待たせてあるのか、一度も振り返らずに闇の中へ消えて行き、ナシアスは黙ってその背中を見送っていた。
少女はそんなナシアスを見上げて、もう一度肩を竦めたものである。
「男同士は面倒だな。喧嘩をするのに命がけか」
「まったく。私も、そう思う……」
息を吐いて座りこんだナシアスの衣服を、少女は手早く裂きにかかった。
左肩と髪の先が真っ赤に染まっていたが、さいわい傷口自体はそれほど深くはない。
「それで。喧嘩の原因は何なんだ」
「リィこそ。どうしてここへ?」
「あれからすぐに本陣でちょっと騒ぎが起きてね。ヘンドリック伯爵が訪ねて来たんだよ」
「……近衛司令官として?」
「わからない。けど確かに司令官と同じ紫の外套を着てた。ドラ将軍を挾んでウォルと話していったらしいけど、あんまり穏やかじゃない雰囲気だった」
ナシアスは深い息を吐いた。
やはりあの友人の言うことは本当だったのだ。
「何だか妙なことになったみたいでね。ドラ将軍がものすごく怖い顔をしてナシアスに来てくれって。それで追いかけて来たんだ。出て行くところを見てたし、一本道だったしね。だけど来てみれば今にも殺されそうになってるし、おまけにその相手がバルロさんときてる。どういうことさ? ガレンスか聞いたらひっくり返るぞ」
「同感だ。内緒に頼むよ」
「だから、口止め料。どういうことなんだ? バルロさんはコーラルに軟禁されているはずじゃなかったか」
ナシアスは一瞬、なんと言おうか迷った。
国王軍の存亡にも関わる大事である。言葉を濁したが、――思えば、この少女が国王と共にビルグナヘ現れた時から何かが動きだしたのだ。
「リィ……」
「なに」
「もし、その、陛下が王座を取り戻されたら、君はどうする?」
「どうって?」
「だから。その後のことだよ。ずっとお傍にいてくれるのかな」
少女の緑の瞳がとまどったように瞬いた。ナシアス。が何を言いたいのか。よくわからない様子だった。
「ずっと傍にって、ナシアス。ぼくはいつかは自分のいたところへ帰るよ。それがいつ頃かは、ちょっとわからなくなってきてるけど」
「長引きそうということかな」
「まあね。どうもウォルの王座奪回は前途多難の雰囲気だからね」
前途多難。まったく前途多難だ。
応急手当をすますと、少女は馬を連れて来た。
ナシアスは少女が遠慮するのを押しきって、鞍の前に座らせた。
そのほうが話しやすかったのだ。
もっとも喧嘩の理由は一言も話さなかった。少女が手綱を取り、馬に揺られて陣営へ帰る道すがら、ナシアスはあの友人のことを少女に語った。聞いてほしいというより口をついて止まらなかった。
少女も逆らわなかった。背中で語られる思い出話につきあっていた。
「ナシアスより五つ年下なんだ?」
「そう。はじめて会ったのは私が十七、バルロは君と同じくらいだったかな。その頃から体も大きくて、武術にも非凡な才能をみせていたし、サヴォア公爵家の総領でもあったしね。向かうところ敵なしの性格だったよ」
「言い換えれば生意気だった?」
「それはもう。あれを生意気と言わずして何を言うのかと思うくらい、ロも態度も大きな少年だった。無理もないがね。二つ三つ年上の少年でも、相手になるものは誰もいなかった」
「だけど、ナシアスは別でしょ?」
「そう。私は別だった。いくら公爵家の総領だろうと、まさか十二の少年に引けをとるわけにはいかないからね。バルロにはそれが新鮮だったらしい」
途方もなく生意気な少年は、まわりの人間が皆、自分の身分に遠慮していることを敏感に察し、憤慨していた。
腕を競うのに身分が何の関係があるのだと、あの少年は考えていた。
「私にも新鮮だった。大貴族の中には……何というのかな、学問にせよ、弁舌にせよ、武術にせよ、こちらがわざと負けて顔を立ててやらなければ不機嫌になる人たちかいるからね」
少女は軽やかに笑った。
「やっぱり、どこにでもいるんだな。そういうの」
「そう。どこにでもいる。バルロはその中にあって本当に珍しかった。負けることを何より侮しがったが、勝ちを譲られることも何より嫌った。それを屈辱と考える人間だった。そのせいだろうね。ものすごい努力家だったよ。十五になる頃には私でも手を焼くほどの腕前になっていた。もっとも、それだけにものすごい自信家でもあるから、利かん気の暴れん坊だの、傲慢にすぎるだのと悪く言う人もいる。私は言うだけのことはあると評価しているんだがね」
楽しそうに話すナシアスの前にいて手綱を操作していた少女は、何を思ったのか、納得したように頷いた。
「なるほど」
「うん?」
「どうしてナシアスが比較的早くぼくに慣れたのか、よくわかった。|免疫《めんえき》があったんだな」
ナシアスは水色の目を見張って、盛大に吹き出した。
日頃もの静かなラモナ騎士団長にしては信じられないくらい高らかに、少女の背中になつかんばかりに身をよじって笑っていた。
「そんなに笑うと傷にひびくよ」
少女のほうが心配になって注意したのだが、ナシアスは聞いていない。目の端ににじんだ涙を拭って言ったものだ。
「いいや、とんでもない。バルロに比べたらリィは立派な淑女だよ」
「淑女!?」
恐ろしく複雑怪奇な表情になったリィである。
何の因果で自分が淑女呼ばわりされるのかと思ったのがひとつと、イヴンに暴れ馬と言われたこの自分が淑女だというのでは、かのバルロは狂犬くらいに扱わなければならないのではないかと思ったのがひとつである。
もし、むやみやたらと友達に斬りつけるのが趣味だとしたら、まさに狂犬だ。
「よくそんな人と友達やってるね」
「そうかな?」
「危なくない?」
「まさか。どうして?」
「さっきみたいなことがしょっちゅうあるんじゃ、危ないだろうに」
ナシアスは深く息を吐いて、首を振った。
「いいんだよ。あれは私が悪いんだ」
バルロは感情が激しい分、一本気な男だ。どうすればいいのか、何がもっともよい方法なのか、おそらく狂うほど悩んだに違いない。
傷ついた左肩が実際の傷の深さ以上に痛みを訴えている。
どうしてこんなことになったのか。
立て続けに撃ちこんできながら、バルロが声に出さない悲鳴をあげていたのをナシアスは知っている。
自分も同じだ。
だから反撃ができなかった。
だから少女を止めたのだ。
もし、バルロと同じ立場に立たされたら、自分も同じことをしたかもしれないのだ。
「リィ」
「なに?」
ナシアスは少女の背中に凭れるようにして、つとめて何気ない様子をつくって訊いた。
「もしも、陛下が、ふたたび王座に即くことができなくなったら……、君はどうする?」
「ナシアスの言うことはまるでなぞなぞだな」
少女は肩を竦めた。
「じゃあ他の誰を王様にするんだ。国には王様が必要だって、ぼくはさんざん聞かされたぞ。前の王様の子どもたちはみんな死んじゃってる。王家の血につながるお姫様はまだみんな小さい。バルロさんは嫌だと言ってる。それにフェルナン伯爵が言ってたけど、バルロさんに王冠を与えることは、サヴォア公爵家とその一族に王冠を与えることだって。代行ではすまない王家の交代劇だって」
「伯爵が?」
「そう。それだけはだめだと伯爵は言ってた。とんでもないことになるってね」
ナシアスは低く唸った。
「そうだね」
「さいわい、バルロさんが王冠はいらないと言ってくれたんで伯爵は安心したらしい」
「ああ。そうだね。あの連中は俺を王冠で釣るつもりだと、だいぶ憤慨していたよ。バルロは確かに自信家で、大貴族に生まれた自分を当然と思っているが、分はわきまえている男だ」
「だったらちょうどいいじゃないか。ウォルは田舎育ちの上に馬鹿で鈍くて石頭だけど、妙に人を引きつける才能があるからね。いい王様になるよ」
「そうだね」
答えたナシアスの声はわずかに震えていた。
そのウォルは一番肝心な王の資格を持ちあわせていないのだ。
侍従長ブルクスが、近衛司令官のアヌア侯爵が、屈指の豪傑へンドリック伯爵が、そしてバルロが。
自分たちの敵にまわるというのだ。
ナシアスは震える手で顔を覆い、きつく唇を噛み締めて|鳴咽《おえつ》をこらえた。
そうでもしないとどんな醜態をさらしてしまうか、わからなかった。
背中の様子がおかしいことに気づいていただろうに、少女は振り返らなかった。正面を向いたまま、黙って手綱を取っていた。
少女にはわかっていた。今は振り返ってはいけない時なのだと。
今後ろを振り返ったら、また見てはいけないものを見てしまうことになるのだと、わかっていた。
陣営に帰り着いた二人を真っ先に出迎えたのは、心配でたまらない様子のガレンスである。
いつも冷静で思慮深い主人が自分に黙って単独行動に出ただけでも驚きだったのに、やっと戻って来たかと思えば負傷しているとあって、一気に狼狽のきわみに達したようだった。
「ナシアスさま! いったい何があったんです!? そのお怪我は!?」
「すまない。心配をかけた。たいした傷ではない」
「何をおっしゃいます。大事ではありませんか! 戦士、これはどういうことなんだ!?」
少女は困った顔でナシアスを見た。内緒にしてくれと言われた手前、言いにくい。
ナシアスはやんわりと笑ってみせた。
「すまなかった。月に誘われて出たのはいいのだが、一人で歩くものではないな。おそらく物取り目当てだったのだろうよ。暴漢に襲われて、不覚をとってしまった」
ガレンスはゆっくり首を振った。
「ナシアスさま。冗談はよしましょう。ラモナ騎士団長に傷を負わせられるような暴漢、がどこにいるというんです?」
「……」
「先ほど突然、コーラルに幽閉されているはずのヘンドリック伯爵が陛下を訪ねていらっしゃいました。内密のお話とかで、私どももいっさい陛下の天幕に近寄れません。伯爵がお帰りになったかと思えば、今度はドラ将軍が鬼気迫るようなご様子でナシアスさまにお話があるとおっしゃる。いったい何ごとです?」
「ガレンス。すまない。今は私にも何も言えない。ドラ将軍はご自分の幕舎にいらっしゃるのか」
「はい。あ……」
言っている傍からドラ将軍が肩をいからせてやって来た。左肩を血に染めたナシアスの姿に、やはり驚愕する。
「ナシアスどの。どうなされた」
「面目次第もございません。油断したところを暴漢にやられました」
「ひどい出血ではないか。すぐに手当をなされよ」
「いいえ、たいした傷ではありません。私のことより何かお話がおありとか。お伺いいたします」
「む……」
頷いた将軍だが、ガレンスと少女をちらりと見やる。少女は察してガレンスの腕を引いた。
「行こう。邪魔しちゃ悪いよ」
ドラ将軍は軽く会釈して感謝を示し、ナシアスを急かすようにして天幕に籠った。
ガレンスはどうにも不安の去らない顔である。
リィを見下ろして問いかけた。
「いったい何があったんだ?」
「ぼくにもわからない。ただ、あんまりいい話じゃないのは確かだ」
厳重に人を遠ざけてナシアスと二人きりになると、ドラ将軍はまず傷の具合を尋ねた。
「見た目ほどひどいものではありません。ほんのかすり傷です。お気づかいなく」
「ナシアスどの。貴公に手傷を負わせるほどの暴漢とは、もしや……」
ナシアスはかすかに頷いて、
「ガレンスには黙っていてください。翼を広げた大鷲にやられました」
ドラ将軍は思わず唸った。飛翔する大鷲はティレドン騎士団の紋章である。
「バルロどのもか……!」
「今のうちに手を引いてくれるようにと勧められました。将軍も……?」
「そうすればこれ以上の騒ぎにならずにすむというのがヘンドリックどのの見解だ、ナシアスどの。わしはそのことで貴公に伺いたい。朋友の勧めに従う意志があるのかどうかをな」
「将軍。承諾していればこんな傷を負わずにすみました。リィが来てくれなかったら、私はその朋友に首を掻き切られていたところです」
ドラ将軍は苦悩の濃い顔つきながらも、口元に苦笑を漂わせている。
「あの方も、意外と純粋なご気性だからな」
「私も将軍にお尋ねしたく思いました。侍従長の調査結果をお聞きになったことと思いますが」
「うむ」
「将軍はどうお思いです。赤ん坊の入れ違いなど、そんなことがあるものでしょうか?」
天幕のすぐ外に張りついていたとしても聞き取れないほどの小声で、彼らは話している。
将軍は何かを睨むような顔つきで首を振った。
「わしには何とも答えようがない。ただ、なぜ、そんなことが起きたのかと疑問に思ったのは確かだ」
「陛下のお耳にもこのことはすでに?」
「うむ」
「それでも、あの方は、今ここで軍勢を解散されるつもりはないのでしょうね」
「無理だ。あまりにも遅すぎた。おそらくフェルナンが死ぬ前ならば、陛下は素直にヘンドリックどのの言葉に従い、軍を解散させただろうが、恐ろしいほどに激昂されていた」
「やはりこのままコーラルを目指すと?」
「話というのはそのことなのだ。ナシアスどの」
ドラ将軍は言葉を切り、これも恐ろしいような目でナシアスを凝視した。
「陛下は、自分に王家の血が流れていないとわかった以上、わしらが臣下としての務めを果たすにはあたらないとおっしゃるのだ」
目を見開いたナシアスだった。
「それは……私たちに、コーラルの要求を呑むようにということですか」
「陛下はわしらを義理で縛りたくはないのだろうよ。確かに、王家の血を持たない相手に忠誠を誓うなど愚の骨頂だわ。我々はデルフィニア騎士であり、王家の臣下なのだからな」
「将軍!」
「だがな、ナシアスどの。わしは今ここで手を引くなどまっぴらなのだ。そんなことをしてみろ。何もかもペールゼンの思惑どおりに事が運ぶ」
将軍の瞳にも火が燃えている。
「奴め。まんまとヘンドリックどのやバルロどのの忠誠心につけこみおったのだ。これで我らが言いなりに手を引いてみろ。ペールゼンは国を救った功労者だ。アヌア侯もブルクスどのも奴に頭があがらなくなるわ。ましてや王家にもっとも近い男子としてバルロどのが王になってみろ。サヴォア公爵家は躍り上がって喜び、ペールゼンめに感謝するだろう。これまた奴の言いなりだ。デルフィニアはペールゼンの私有物と化すぞ」
「私も、さように感じました」
「さらなる問題は陛下の進退だ。ヘンドリックどのはこのまま手を引いてくれれば見て見ぬふりをすると言ったが……」
「バルロもです。一介の戦士として落ちてもらえば、陛下もご無事でいられるというのですが……」
将軍は激しく首を振った。
「わしはな。あのペールゼンが陛下を自由の身のままにしておくとは、とても思えんのだ」
ナシアスも頷いた。
たった一人で戻って来て、瞬く間に軍勢を集め、二万の政府軍を撃破してみせた男だ。
むろん、それがすべてあの男一人の力というのではない。半ば以上は王家の血筋に助けられてのことだった。運もあった。だが、自分やドラ将軍をはじめ、この人にならば賭けでもいいと思わせる何かがあの男にはある。
そんなものをむざむざと野放しにしておくなど、危険きわまりないではないか。
そのくらいのことがわからない侯爵ではない。バルロやヘンドリック伯爵に何を言ったか知らないが、ドラ将軍にもナシアスにも、侯爵の本心がどこにあるかは火を見るよりも明らかだった。
ドラ将軍は歯ぎしりをしている。
「これはもう、わしの意地だ。デルフィニア騎士としてあるまじきことでも、王家の臣として誤った選択だろうとかまわん。たとえ反逆者の汚名を着ようとも、ペールゼンの筋書きどおりに踊らされてたまるか!」
「同感です。あの方は王にはなれないかもしれない。ですが、ペールゼン以下の改革派を倒せるのはあの方だけです。そしてそれこそが今のデルフィニアに必要なことではないでしょうか」
二人は、互いの目を見つめ、しっかと頷いた。
「このことは娘にもタルボにも話さないでおく。よけいな混乱を招きたくはない」
「私もガレンスにも伏せておきます。ただ……」
「なんだ?」
「あの少女には話しておいたほうがいいかもしれません」
「バルドウの娘にか? しかし、武勇はあろうが、ほんの子どもだぞ。こんな秘密を抱えこんで洩らさずにいられるか」
苦笑したナシアスである。
「将軍。いまさらそれを言ってもはじまりますまい。それに、私は、彼女がどんな反応をするのかを見たいと思うのです」
「ほう?」
「ワイベッカーを落とし、先ほどの戦いで勝利を収めることができたのは、半分は陛下のお力によりますが、後の半分はあの少女の存在によるものです。わが騎士団の兵士たちがあの少女をどのような目で見ているか、将軍にもお目にかけたいと思いますよ」
これにはドラ将軍も苦笑した。
「それなら、わしのところの若い者も同様だわ」
「彼女は、間違いなく我々に運と勝機をもたらしてくれました」
ナシアスは考え深けに言う。
「その彼女がこの問題をどう判断するか、私は興味があります。確かに大声で触れまわられては困りますが……、ある意味で今の私たちに答えを出してくれるのではないでしょうか」
ナシアスの言いたいことは将軍にもよくわかった。
ペールゼンの思惑どおりに動きたくないという思いに嘘偽りはない。だが、このまま進むことにもいまひとつ自信がもてない。それが現在の状況である。
ドラ将軍は低い笑いを洩らした。
「バルドウの託宣を得るかわりに、その娘の助言を仰ぐと言うわけだな」
「はい」
ナシアスも頷いた。
そのころ、少女は男の天幕に顔を出していた。
突然のヘンドリック伯爵の訪問が気になったのだ。
男の天幕のまわりは妙に静かだった。不用心なことに見張りも立っていない。かまわず中へ入って、少女はぎょっとした。
男はこちらに半分背を向けて机につき、酒杯を傾けている。それはいいのだが、机の上には五本の酒瓶が空になっていた。
「ちょっと……ウォル。まさかこれ、全部一人で呑んだのか!」
慌てて近寄って、男の顔を覗ぎこんで、さらにぎくりとした。
男は、どこを見ているのかわからない、底冷えのするような目になっていた。
「どうした?」
尋ねる少女の声も思わず硬くなる。
男は答えず、向かいの椅子を指して座るようにと促してきた。
「まあ、呑め」
少女は逆らわずに酒杯を受け取って口をつけた。
かなり強い。
これでは頭のてっぺんまで酒漬けになっているのではないかと危ぶんだが、男は、少なくとも見た目は平常のままだ。
泰然自若として、姿勢もまっすぐなまま、ゆっくりと杯を傾ける。いくらでも入りそうな様子だった。
「リィ」
「なに」
「お前の父君のことを訊いてもいいか」
少女は軽く首をかしげ、無言でかまわないと言ってみせた。
「血のつながりはない父君だったというが、どんな父君だった?」
肩を竦めた少女である。
「変なことを訊くんだな」
「そうか?」
「そうだよ。それならフェルナン伯爵はどんなお父さんだったのさ」
これには男は真剣に考えこんだ。天上を仰ぎ、腕を組んで唸り、鼻のわきを掻き、しまいには片手に顎をくるんで笑ってみせた。
「よい父だった」
「だろう? 同じだよ。他に言いようがない」
少女も笑った。
でなくてどうして、その人の無念を晴らしたいと強烈に思ったりするものか。
「リィ」
「なに」
「もしも、だがな」
「うん」
酔っているのかどうかわからないが、男の言葉はいつも以上にのんびりと、抑揚を楽しんでいるようだった。
「お前、俺に王冠をかぶせてくれると言ったが、もしもだ。俺が国王の資格を持たないとしたら、どうする」
完全に困惑顔になって首をかしげた少女である。
「それは、新手のなぞなぞか何かなのか?」
「なぜ?」
「さっき、ナシアスが同じことを言ったからさ」
「ははあ……。ドラ将軍から聞いたかな?」
「何を?」
「俺が、ドゥルーワ王の子ではなかったということをだ」
さらりとこぼれた言葉に、少女は呑みかけの酒杯を止め、机の上に置いていた。
「何だって?」
「何だってと言われても、いや、俺も何だってと言いたいが、とにかく、そういうことらしい」
男はまじめくさって頷いている。愛敬さえ感じさせる仕草だった。
少女のほうは一気に表情を険しくしていた。酒の|肴《さかな》ですむ話ではない。
「どういうことなんだ。まる一年かけて、お前の素姓を徹底的に洗ったんじゃなかったのか?」
「俺もそう思っていたんだが、今になって間違いがわかったらしい。役所の人間のやることというのは、どこか抜けているな」
そういう男の態度のほうこそ、よほど抜けている。
顔色も変えずに平然と呑み続け、とぼけた表情を崩さない。
「俺はもうどちらでもいいんだがな」
「ウォル」
「父が聞いたら、さぞやがっかりするだろうと思ってな。無駄死にもいいところだ」
「ウォル!」
少女は声を強めた。
男は低く笑った。今までの様子とはうって変わった、ひどく危険な笑いだった。
「今も話したとおり、俺はどうあがいてもデルフィニア国王にはなれん人間らしい。馬鹿げた話だがな。国王軍はここで解散だ」
「ドラ将軍がそう言ったのか?」
「いや。俺のほうから申し出た。彼らはれっきとしたデルフィニアの臣下だからな。反逆者の仲間にはできん」
「そんなことか一人で決めるもんじゃない。だいたい、軍勢を解散させて、お前はどうする気だ?」
男はふたたび笑った。紛れもなく牙を含んだ笑いだった。
「どうしようかと思っている。王座も王冠も、俺はもう欲しくはないからな」
「代わりに何が欲しいんだ?」
冷静な声だった。
男は笑いを収めて少女を見つめ返した。
今の話はこの少女になんの打撃も与えていない。それこそ、そんなことはどうでもいいとばかりに、深い緑の瞳で男を見つめている。
パラストのはずれで、この少女に命を救われた時、自分は何も持ってはいなかった。
父を枚いたい一心で戻っては来たが、それは途方もない夢だった。王位|簒奪《さんだつ》の汚名を着せられた流浪の王などに誰が味方をしてくれるだろうかと危ぶみ、それでも何もしないではいられないから戻って来たのだ。
その父はすでにこの世の人ではない。
「お前とはじめて会った時と同じになったな。俺は軍勢も国王の資格も持たない、一介の自由戦士ということだ」
「おれが味方をしようと思ったのははじめからただの自由戦士だぞ」
言い返した少女である。
「お前が前の王様の子であろうとなかろうと、おれには関係ない。王冠をかぶせてやろうとは言ったが、それが一番大事なことというわけじゃない。おれの誓いはお前の望みを果たさせてやること。その手助けをすることだ」
男の口元に微笑が浮かんだ。少女は重ねて言う。
「今のお前には王冠より欲しいものがあるんじゃないのか?」
「ああ」
低く唸った男の手にカが籠る。ひびが入るほどにきつく酒杯を握り締めた。
「王冠も王座もいらん。俺には受け取る資格がないとわかったものだ。喜んで人に譲ろう。だが、俺にもひとつだけ譲れないものがある」
男め手の中で分厚い|硝子《ガラス》の酒杯が砕け散った。
黒い瞳に壮絶な光を浮かべ、全身から殺気を噴き上げながら、男は寒気のするほど穏やかな声で言った。
「欲しいのはペールゼンの首ひとつだ」
あとがき
前回のあとがきで、この欄で苦しんでいると書きましたところ、読者の方々からたくさんのお手紙をいただきました。ありがとうございました。
いろいろなご意見をいただきましたが、まず、お返事を出すことができなかったことをお詫びします。ワープロを使い、小説を書くようになってはや数年。原稿(小説)ならば書けるのですが、いざペンを握って便せんに向かい、お手紙を書くとなると五分たっても一文字も書けないこともしばしばで(こうなると立派な職業病でしょう)、原稿を取るか、お返事を取るかとなれば、すみません。原稿を取ります。
そのお手紙の中で、カバーデザインについて、いろいろご意見がありました。
私の本に限らずC★NOVELSファンタジアのカバーデザインは、主にイラストレーターさんが原案を出しています。ですから、沖さんはあらかじめ、タイトルの入る四角があることを前提としてイラストを描いているわけです。
一部に、イラストが六分の一も隠れてしまうというご意見がありましたが(笑)そんなことはないんですよ。
逆にカバーやロゴ、イラストがとても合っているというご意見も多数いただきました。
私もそう思います。
沖さんにイラストを描いていただく際、一番の難関は服です。次に建物です。現実の歴史に添っているわけではありませんが、人物の名前も地名もカタカナですから、参考にするのはどうしても洋物になります。中世ヨーロッパなどが、まあ雰囲気があっていいんじゃないかと安直に考えたわけですが、そのころの男性はおそろしいことに脚線美を強調するぴっちりタイツだの、ちょうちんブルマーだの、エリマキトカゲもどきのレースのカラーだのをお召しになっていて(この間、二百年くらいあったと思いますが)どれもとても華やかなのですが、こんなものをウォルに着せた日には情けなくて涙が出ます。きっと誰も王様だと思ってくれないでしょう。
個人的には映画のロビンフッドのコスチュームが実に趣味の世界で好きなのですが、そうすると今度は建物がいまいちなんです。ベルサイユふうにきんきらでも困るけれど、床の上に|藁《わら》だのごみだの山積みになっていても、ちょっと悲しい。
服も建物も、あまり史実に添うのもなんだし、かと言ってあまり現代ふうになってもまずいし、結局はろくな資料も渡せないままに、何とかしてーっ! と、沖さんに泣きつく始末です。出来の悪い物書きと組んだおかげで、沖さんはさぞ苦労していることでしょう。ごめんね。いつもありがとう。
また続いてしまいましたが、コーラル奪回編は次回で完結します。
ちなみにもっと早く本が出ないかというお便りもありましたが、これははっきり言って無理です。
私は決して書くのが早いほうではありませんし、角川さんの仕事もありますし、正直なところ三か月に一冊でも息切れ寸前状態なんです。
もどかしいことと思いますが、とりあえず六月をお待ちくださるようお願い致します。
一九九四年 二月茅田砂胡