0001_表紙
黄金の戦女神 デルフィニア戦記 第2巻
茅田 砂胡
0003_カラー挿絵
003_目次
004_地図
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「ドラ将軍!」
「おお、ナシアスどの!」
二人はしっかと互いの両手を握りあった。
それきり言葉が続かなかった。相手の顔を見つめる目がたちまち熱く潤みかかっている。
横ではドラ将軍の娘のシャーミアン、そしてナシアスの腹心の部下のガレンスが、同じように瞳を濡らしていた。
言葉を詰まらせながらナシアスが言う。
「こうして……こうして再び将軍のお元気なお姿を拝見でき、これほど嬉しいことはありません。蟄《ちっ》居《きょ》を命じられたと聞いて、いても立ってもいられぬ思いでおりました」
「なんの。これしき。ナシアスどのこそ、今までよくこの砦《とりで》を守られた。わしは改革派の連中がナシアスどのに何か非道なことをするのではないかと、気がかりでならなかった」
ナシアスが笑って頷いた。
「あの手この手の理由をつけて何度も王宮まで出向くようにと言ってきましたが、こちらもあの手この手の口実を設けて先伸ばしにいたしました。おびき寄せられて捕えられてはかないませんからな。ドラ将軍こそ、よくぞご無事で脱出を果たされました。お見事でございます」
「それを言われては面《おも》映《は》ゆい。自力で出てきたわけではないからな」
「と、申されますと……」
将軍の小さな目が悪戯いたずらっぽく笑う。
「奴らが出してくれたのだ。シャーミアンを北の塔送りにされたくなければ、陛下を捕えてくるようにとの口上をもってな」
ナシアスも水色の瞳に笑いを浮かべて、将軍の横に控えているシャーミアンを見た。
「誰の差し金かは知りませんが、ペールゼンでないことだけは確かでしょうな。まったく、言いつけるに事欠いて……」
「相手を間違えているとしか言いようがないわ。それにもまして、これで陛下が、このわしを疑うと本気で考えているとしたらだ」
「仕掛ける相手を間違えているとしか言いようがありませんな」
二人は声を揃えて豪快に笑った。
ビルグナ砦はデルフィニアでも屈指の勢力のひとつ、ラモナ騎士団の拠点として知られている。
今の政府に対して好意的とはいえないうえに、首都からはかなりの距離が開いている。
コーラルにしてみれば、まことに厄介な相手と言わねばなるまい。
同じく、未だにかつての主君に忠誠を誓うドラ将軍も、コーラルを支配している改革派にとっては、厄介な難物である。
国王派の人々を何とか押えこみたい改革派は、互いに噛みあい共倒れになってくれるよう、もしくはどちらかがどちらかを倒してくれれば儲けものと考えてドラ将軍を解き放ったのである。
しかし、ビルグナ砦は幽閉されているはずのドラ将軍が突如、数百の手勢を引きつれて味方に現れたからといって、その心を疑ったりしなかった。
ドラ将軍もまた、なぜ自由の身になれたのかを、包み隠さず率直に話した。
聞いてナシアスは感心したように言ったものである。
「さすがはシャーミアンどのだ。お父上じこみの武勇は並ではない。お父上の重荷にならぬよう、お一人であのコーラル城から脱出するとは、大変なお手柄です」
「いいえ、ナシアスさま。私の手柄というよりは彼らの失態です。私の見張りについていたのはろくに剣も遣《つか》えないような男爵家の令息でしたし、監視もお粗末なものでした。私が取りわけすぐれていたのではなく、彼らが私を女と見て油断してくれたのです」玲《れい》瓏《ろう》たる答えに、ナシアスとガレンスがちらりと目くばせを交わした。微苦笑にも似た、何やら意味ありげな目の色だった。
ドラ将軍はそんな彼らの様子には気づかず、身を乗りだしてもっとも気がかりなことを尋ねた。
「して、ナシアスどの。その陛下は今どこにいらっしゃる?」
「詳しいことは私にもわかりません。ただ、この砦を出発する時には、まっすぐコーラルを目指すつもりだとおっしゃっていました」
「ほほう」
予想済みと言えば予想済みであり、意外と言えば意外な答えだった。
王座奪回のためにはどうしても王国の心臓部であるコーラルを取り戻さなければならない。したがって国王が首都を目指したというのはおかしなことではないが、そのためにはかなりの兵力が不可欠なのである。
「すると、陛下にはどのくらいの数の兵隊を連れていかれたのだ?」
これにはナシアスとガレンスが顔を見合わせ、何とも言いがたい微笑を浮かべたものだ。
「兵隊はお連れになりませんでした」
「なに?」
「このラモナ騎士団の兵は、ただの一人もお連れにならなかったのです」
仰天したドラ将軍である。
「で、では陛下は、たったお一人でコーラルを目指しておられるというのか! ナシアスどの! 貴公ともあろう者がなぜそんなことをさせたのだ!!」
ガレンスがなだめるように口を挟んだ。
「いや、お待ちを。ドラ将軍。正確には陛下はお一人ではございません。バルドウの娘がついておられます」
「ガレンス! お前までが何を馬鹿なことを!!」
「父上」
いきり立っている父親にシャーミアンがそっと声をかける。
ナシアスも真顔で言った。
「ドラ将軍。ガレンスは比《ひ》喩《ゆ》やたとえで言ったのではありません。陛下はそうとしか言いようのない者とご一緒なのです。私もこの目で見るまでは到底信じられませんでしたが……事実です」
「いったい何のことだ?」
この質問にナシアスは少し考えて、騎士装束に身をかためた若い令嬢を見やった。
「例えば、シャーミアンどのはお父上譲りの勇敢な騎士でいらっしゃるが、このガレンスを力で叩き伏せることがお出来になりますか?」
乱暴な質問にシャーミアンは榛《はしばみ》色《いろ》の目を見張り、首を振った。
「私には無理ですわ。ガレンスの強《ごう》力《りき》はロアにまで聞こえていますもの。力比べとなれば父でも厳しいのではないでしょうか」
「これ、シャーミアン」
「私は何も父上を軽んじたのではありません。事実と思うことを申しあげたのみです」
「いや、もちろん武術となれば、ドラ将軍にかなうはずもありませんが……」
ガレンスが苦笑しながら会話に加わった。
「お褒めに預かりましたように、私も力には少々自信がございます。ですが先日、力比べでこてんぱんにやられましてな」
「なんと。おぬしを力でねじ伏せるような剛の者が、この近辺にまだおったのか?」
今度はナシアスが頷いて言った。
「陛下が連れていらっしゃったのです。旅の途中に知りあわれたようですが、たいせつな友だと言っておられました。コーラルを攻めるに当たっても、人質となっている方々を救うにも何より心強い味方となってくれるだろうと……。私も同意見です。なにしろ私も見事にしてやられました」
「まあ……」
シャーミアンが目を見張った。デルフィニア全土で美技とまで謳われたナシアスの剣術を打破するとは、並大抵のことではない。
「ふむ。するとその勇者が陛下のお傍についているというのか?」
「はい。一人とはいえ、優に五十人分の兵隊に相当する戦力であることは間違いありません」
「ふうむ……」
将軍とシャーミアンはその勇者を次のように想像した。すなわち、身の丈《たけ》はあの国王を遥かに上回る巨人であり、両の腕には隆々と筋肉が盛りあがり、顔だちは精悍、目線は鋭敏。
剛《ごう》毅《き》朴《ぼく》訥《とつ》にして勇猛果敢。一癖も二癖もある独特の雰囲気を漂わせた、おそらくは中年以上の男だろうと。
力も技もある戦士とはそういうものだからだ。
「しかし、妙だな? それほどの男ならば噂くらい聞きそうなものだが……」
ガレンスが急いで言った。
「いえ、将軍。男ではありません」
「なんだと?」
「いや、初めは少年のように見えたのですが……。娘なんですな、これが」
ガレンスは照れくさそうに頭を掻き、ナシアスも頷いた。
「そうですな。シャーミアンどのより四つか五つ、年下ではないでしょうか」
あっけにとられたドラ父《おや》娘《こ》である。
シャーミアンがおそるおそる念を入れた。
「あの……。あのでもナシアスさま。それでは……十二か三ということになりますけれど?」
「ええ。そのくらいだと思いますよ」
ここで、どうにもこうにもたまりかねたドラ将軍が爆発した。
「二人とも!! い、一体全体、今がどういう時だと思っているのだ!! 悪ふざけにも程があるぞ!!」
真っ赤になって怒声を発した将軍とは対照的に、ナシアスは真摯な表情を浮かべている。将軍。あなたがそうおっしゃるお気持ちはよくわかります。それはもういやというほどわかります。
我々とて自分の目で見たのでなければ、そして実際に剣を交えたのでなければ、こんな話はとても信じられなかったでしょう」
ガレンスも言葉を添えた。
「ですが、掛値なしに本当のことなんです。私だってこんなことは認めたくありませんが、私もナシアスさまも真剣を持って戦って、その娘に敗北しました。それは、この騎士団の主だったものすべてが、実際にその目で確かめたことなんです」
将軍は額から湯気を吹きそうなありさまだったが、真剣そのものの二人の態度に一応は譲歩した。
「すると……何か? 十二、三の娘が剣術で貴公を上回り、力でガレンスを上回ったというのか?」
「まさにそのとおりです」
「話にならん! 諸君らは戯《たわむ》れごとでその娘に負けてやっただけなのではないか!」
「あれほど力を振りしぼったことはかつてなかったんですがね」
「あれほど手強い相手に出会ったのも初めてです」
すかさず答えた二人に将軍は開いた口がふさがらない様子だった。シャーミアンもどう反応したらいいものか、父親と二人の顔を交互に見比べていた。
「ナシアスさま。いったい、その娘というのは何者なのです?」
「わかりません。名前はグリンダ。年頃は十二か三。我々が知っているのはそれだけですが、武術も頭の冴えもとてもその歳の少女とは思えません」
「というより、人間とは思えないと言ったほうが正しいんじゃないですか?」
ガレンスが言い、ナシアスも頷いた。
「まさしく。真剣をとって私とガレンスを相手に戦い、こちらに一すじの傷をつけるでもなく勝利してみせる。それだけでも少女の身に為《な》せることとも思えませんが、この砦の外壁に楽々と飛びあがるのを見た時には思わず寒気を覚えました」
「外壁に飛びあがっただと?」
「はい。もっとも自前の跳躍力のみとはいかず、人の肩を借りて、でしたが……」
まさか踏まれたのが国王本人であるとは言えず、ごまかしたナシアスだった。
「それにしても人の脚にかなうこととも思えません。コーラルの城壁も同じように飛び越えればいいと、そうして捕えられているフェルナン伯爵を救えばいいと、こともなげに言いきりました。常人には到底不可能なことですが、あの娘ならば本当に成しとげてみせるに違いありません」
ドラ父娘は唖然としてナシアスの言葉を聞いていた。この砦の外壁もコーラル城の城壁も、むろん他者の侵入を防ぐに充分な高さがある。
それを跳躍して越えるなど、二人には想像することさえできなかった。飛びおりたら即死しかねない高さなのである。
二人して恐ろしく疑惑的な目線を向けたが、その無言の問いかけに、ナシアスは重々しく頷くことで答えたのだ。
「あれこそはバルドウの娘というものでしょう。あるいは本当に勝利の女神なのかもしれません」
「それにしては見た目がよすぎますがね」
ガレンスが笑いながら口を挟んだ。
「勝利の女神ハーミアが美しいとは今まで聞いたことがないんですが、あのハーミアはちょいとばかりちいちゃいが、そりゃあきれいだった」
「美しい?」
驚いたように尋ねたシャーミアンである。
「はい。その髪はさながら黄金のごときに輝き、顔だちも姿も玉《ぎょく》石《せき》を彫りこんだような端正を誇り、肌の色はたとえるなら薔《ば》薇《ら》色で、瞳はさながら宝石のごとき緑……」
「ガレンス。無理に詩的な言いまわしを使うのはよせ。聞くに耐えん」
若い主人に苦笑しながら言われて、ガレンスは興ざめしたように肩をすくめた。
「私は嘘は言っちゃあおりませんぞ。まあ、少しばかり表現が月並みだったかもしれませんが、とにかくたいへんな美少女でした」
将軍とシャーミアンは思わず目と目を見交わし、軽く咳払いした将軍が慎重に尋ねたものである。
「失礼だが……二人とも、白昼から夢でも見たのではないだろうな?」
「やはり信じていただけませんか?」
「あたり前だ」
ナシアスは低く笑っている。
「ドラ将軍。百聞は一見に如《し》かずと言います。ぜひとも、ご自身の目で実際にご覧になって見てください。そうすればおわかりになるはずです」
「言われずとも、わしはすぐさま陛下の後を追う。その……その少女がどんな力をもっているのか知らんが、陛下お一人でコーラルへ向かうなどもっての他だ。フェルナン伯爵のことで胸を痛めておられるのはわかるが、そのような自殺行為をあの伯爵が喜ぶものか」
言うが早いか身を翻した将軍である。すかさずシャーミアンが続き、そればかりかナシアスとガレンスも後に続いた。
「ドラ将軍。我々も御供いたします」
「馬鹿を言うな。ビルグナを空にする気か。コーラルが何を仕掛けてくるかわからんのだぞ」
「我々もそう思い、陛下に同行することを思いとどまりました。しかし将軍。コーラルの仕掛けた罠はあなたでした。となればこれ以上、ここにじっとしている理由はありません」
一理ある。
将軍にもわかっていた。コーラルを支配している改革派は、ドラ将軍とビルグナ砦、引いてはあの男とが仲違いを始めるようにしむけたのだ。
当然、今は結果待ちの態勢にあるはずで、すぐさま次の手を打ってくるとは考えにくい。
「しかしだ。やつらはまさにコーラルへ向けて進軍させるため、わしを解き放ったのだぞ。そうして我々を本物の逆賊に仕立てあげて一万の近衛兵団を襲いかからせようという魂胆だ。対して我々の勢力は双方合わせても二千五百。一度ロアへ戻ればもう五百は都合がつこうが、どちらにせよ勝ち目はない」
「それなら戦力をかき集めながらコーラルへ向かいましょう。陛下が戻られたことを告げれば日和ひより見《み》の諸侯たちも考えなおさねばなりますまい」
断言したナシアスをドラ将軍が不思議そうに見つめた。
「貴公、いやに自信ありげだが、なんぞ策でもあるのか?」
「いいえ。まったく根拠はないのですが……」
ナシアスは、はにかんだように笑ったものだ。
「おかしなもので、今は相手が誰であろうと負ける気がしないのです。陛下はご無事で戻られ、将軍ともこうしてお会いすることができ、しかも陛下にはバルドウの娘がお味方を約束しているのです。となれば、ここは決断の潮時というものでしょう」
「ナシアスどの……」
再び呆れ顔になった将軍だが、やがてたくましい肩をすくめて言った。
「となると、貴公がそれほど崇《すう》拝《はい》している少女の顔を、ぜひとも確かめねばなるまいな」
「腕前も、です。ドラ将軍」
ここぞとばかりにガレンスがつけくわえた。
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デルフィニアは、アベルドルン大陸中央の異名である大華三国の一として名高い。
特に首都コーラルは中央の真珠とも称えられる貿易港であり、常に活気と熱気にあふれた豊かな町だった。
しかし、今、その平和と繁栄に大きな蔭がさしている。
半年前、官僚貴族を中心とする改革派と称する一派が、当時の国王を、妾腹の生まれであることを理由に追放し、コーラルを手中に収めたのである。
当然、それまで国王派だった人々は権力を奪われ、あるものは幽閉、あるものは逮捕投獄される騒ぎとなった。
一種のクーデターである。
以後、改革派が政令を出すようになり、半年が経過したが、その治世はどうもぱっとしない。一番の理由は、改革派を構成している人々がそれぞれ己の利益のみを考えて国策を決めようとしていることにある。結局、彼らは『改革派』と称してはいても、邪魔な国王を追い払って自分たちがうまい汁を吸いたかっただけなのだと、ここへ来て市民たちも気づきはじめている。
そこへもってきて、辛くも改革派の手を逃れて国外へ逃げのびた国王が、再び王国の支配者となるために舞い戻ってきたのである。
「これで一波乱起きなきゃ嘘だよな」
物騒なことを平然と言ってのけたのは、まだ幼い少女の声だった。
実際、年端もいかない少女である。
簡単な胴着と下履きの衣服に身をつつみ、すんなりした両手足を剥《む》きだしにし、頭には白いきれを巻きつけて髪を隠し、腰には剣を下げている。
「問題はその波乱がどう片づくかだ」
横を歩む若い男が答えた。こちらは鍛えぬいた豊かな長身である。肩も胸も見とれるほどに逞しい。
道行く人のたいていが振り返って見る異色の取りあわせだった。兄妹と見るには風貌に差がありすぎるし、自由戦士と従者と見るには少女の態度は他人に仕えている者のそれではない。ではもしやして、歳の離れた愛人同士だろうかとさえ勘ぐれるが、これも無理がある。二人の言葉のやりとりは、およそ色気というもののまったく感じられない口調であり、それ以上に会話の内容は殺伐としたものだったからである。
「おさらいをしようか。君は危険だからコーラルから離れたところで待っている。その間に、ぼくが城内に忍びこんでフェルナン伯爵を助け出す。それからどこかに引きあげて兵力をかき集めて、もう一度コーラルに向かう、と」
「それなんだがな、リィ」
何か考えこみながら男が言った。
「こっそり忍びよるよりも、兵力を集めながら進んだ方が得策かもしれん。この道中を無駄にすることはないからな」
緑の瞳がくるりと動いて男を見上げた。
「その分、伯爵を助けるのが遅くなるけど?」
「助けた時に兵隊の一つも持っていなかったとなれば、俺が伯爵に叱りつけられる」
「誰が味方で誰が敵だかわからないんじゃなかったっけ?」
「だから、その識別をしたい」
少女は肩をすくめた。
男は真剣な口調で言う。
「お前を疑っているわけではないぞ。ただ、な。北の塔への侵入は決してたやすいことではないのだ。三重城壁の中にある上に、塔と名前はついているが要するに牢獄だ。内部は案内なしでは迂《う》闊《かつ》に歩けぬほどに入りくんでいるし、見張りもいる。加えてお前はコーラル城も、北の塔も、伯爵の顔も見たことがない」
少女は少し考えこんで、妙なことを言った。
「こうなると、君と伯爵が血のつながった親子じゃないってところが痛いな」
「何のことだ?」
「血のつながりがあれば、ぼくには君のお父さんがわかる。たとえ、初めて見る人でも。だけど、二十年一緒に暮らしていても、実際は他人だったとなると、どのくらい『同じ』なのか……」
わけがわからず首をかしげた男である。
「いったい、何のことだ?」
少女は答えず、頭を振った。それから、にこりと笑って男を見上げたものである。
「まかせる。何といってもこれは君の喧嘩だ」
男も苦笑して少女を見下ろした。
「普通、王座奪還といえば家重代の至命であるはずなのだがな。お前にかかっては形無しだ」
すかさず少女が言い返した。
「普通、王座を追われた王様っていうのは、もっと悲壮な決意で首都奪回に挑むものだと思うけどな。君にかかってはまるで遊びごとだ」
男は太い声で笑っている。
男の名はウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。
コーラルがその帰国に震撼し、ドラ将軍が血眼になって援護に駆けつけようというデルフィニアの国王、本人である。
とてもそうは見えない。
物《もの》見《み》遊《ゆ》山《さん》でもしているかのような安《あん》気《き》さだ。至って楽しそうに、景色を見ながら足を進めている。
かえって少女の方が呆れ半分に苦笑している。
少女の名はグリンディエタ・ラーデン。
リィでいい、と本人は言う。どこから来たのか、何者であるのか、はっきりしたことは語らない。
年齢は十三歳になったばかり。そして、見た目と裏腹にとてつもない怪力と、戦闘能力と、並みはずれた頭脳を持っていた。
ビルグナ砦のガレンスが思わず洩らしたように、美しい少女である。歳こそ足らないが、ふっくらした頬にくっきりと線を描く緑の瞳、薔薇色の唇、すんなりした肢体など、金持ちの好事家が目の色を変えて欲しがりそうな少女だった。
玉にきずはその口のききようである。
相手が十以上も年上の大人であることも、それどころか今は放逐されてはいても王という、一国の最高権力者であることも、この少女には敬意の対象にならないらしい。
「君みたいに鈍いのは誰かが目を光らせていないと、どこでどんなへまをやるかわからないからな」
そんなことを正面切って本人に言うのだ。
しかし、王様のほうも負けてはいない。
「俺はそれほど鈍いか?」
そんなことを平気で尋ねる。
「王座から叩き落とされるまで謀反に気づかなかったくせに何を言うんだか」
「それを言われると弱い」
「できるなら味方は多いほうがいい。今のところ、はっきり味方を約束してくれたのはビルグナの二千だけだ。心当たりがあるなら試してみるべきだろうな」ビルグナを出発すること三日目の朝だった。
放浪の国王は少女の承諾を得ると同時に進路を変え、その昼のうちに、とある館の客人になっていた。
デルフィニア南部のポートナム地方と呼ばれる地域の領主の館らしい。なかなか力のある豪族の館らしく、屋敷というより、砦と城の中間のような立派な構えである。
半年もの間、消息不明であった国王の突然の立ちよりに館の主人は驚き慌てて二人を出迎え、もてなしてくれた。
丁寧な歓待の後、男はずばりと切り出したものである。
「ところでこれからコーラルを取り戻しに行こうと思うのだが戦列に加わってはもらえないだろうか。こちらの手勢はビルグナ、ロア、マレバ合わせて四千を越える。またコーラルに捕えられているアヌア侯爵、ヘンドリック伯爵らの家来衆も主人を救出するために味方を約束してくれている。さらに、ここだけの話だが、近衛兵団も全部が全部コーラルに忠誠を誓っているわけではないのだ。三分の一はすでにこちらに取りこんである。そこへもって四千の軍が一斉に襲いかかれば勝機は充分にあると思うが、どうだろう?」
少女は目を白黒させていた。
現時点ではコーラルと連絡など全然取れず、ロアだのマレバだのは初めて聞く名前である。
ましてや帰国したばかりで近衛兵団内部に手を入れているとは、あり得ないことだ。
しかし、男の態度は自信たっぷりであり、まことに自然である。嘘偽りも誇張もあるようには思えない。
館の主は真剣な顔で黙りこんでいたが、やがて考え考え口を開いた。
「臣下の一人として、ご無事のご帰国には心からお喜び申しあげますが、しかしながら、お味方の約束はいたしかねます」
「ほう? 何《なに》故《ゆえ》だ。お前も俺を偽王と思う一人だからか?」
館の主はゆっくりと首を振った。
「陛下。私はあなた様には何の含みもございません。ペールゼン侯が何やら申しておりましたることも、真に受けたことはございません。現在でも真実の国王はオーリゴに誓って、あなた様お一人と思っております。また、あなた様の養父であるフェルナン伯爵にかけられました疑惑もはなはだあやしいと、率直に申しあげればでたらめだと思っております」
「それはありがたい」
主はまっすぐに頭を上げて、
「私は流《りゅう》言《げん》蜚《ひ》語《ご》などに惑わされる人間ではありません。あいにくと伯爵にお目にかかったことはございませんが、ほとんど北部を動かずにいたフェルナン伯爵に前国王の遺児暗殺など現実に不可能です」
きっぱりと言いきった。
「今、あなた様にお味方することを拒みますのは、あなた様のお人柄を疑うのではなく、フェルナン伯爵の正義を疑うのでもありません。ましてやペールゼン侯に怯えているわけでもありません。ただただ、私に仕えてくれている家来どもを無益に死なせたくはない一心からなのでございます。臆病と誹《そし》られましょうとも、中央に名だたる近衛兵団と難攻不落のコーラル城が相手では、やすやすとお味方申しあげるとは言えませぬ」
勝機はあるとあなたは言うが信用はできない。仮に四千の軍勢と近衛兵団内部の取りこみが本当でもまだ確実な勝利には不充分だ。確実でない以上、冒険はできないと言うのである。
ある意味ではそれこそ敬意に欠ける物言いだが、男はあっさりと頷いた。
「もっともなことだな。確かにこれは俺のほうが礼を欠いていたようだ」
「滅相もございません」
「しかし、それこそオーリゴに誓って、また闘神バルドウに誓って、俺は必ず王座と俺の都を取り戻す。俺の指揮する軍がコーラルを包囲したという知らせがここまで届いたなら、その時は味方に来てもらえるだろうか」
「おっしゃるまでもございません。私も武将の端くれでございます。遅参の不名誉など御免こうむりとうございます。あなた様が軍の先頭に立ち、コーラルへ進軍しているとの報がありましたら、必ずやお味方つかまつりましょう」
見ていた少女はおもしろく思った。
いやしくも相手は国王であり、この館の主はその家来である。なのに家来には主君の命令を拒否する権利があるらしい。それどころか、主君の勢いが弱ければ知らぬふり、勢い強ければ得々と加勢しようという。人を食った話である。
一晩ゆっくりしていくようにとの声を振りきり、二人は夕刻迫るころ館を出た。
「近頃このあたりは妙な者どもがうろついていて、何かと物騒です。お泊まりになったほうがようございます」
館の主人はしきりと勧めてくれたが、彼らには野宿のほうが慣れていて都合がいい。まして物取り目当ての曲者の五人十人が襲いかかってきたところで、どうということもない。
また背中に西日を浴びつつ、先を急いだ。
その道中、少女は感心したように言ったものである。
「家来にあんなにはっきり、主人を助けない自由があるとは思わなかったな」
「お前のいたところでは違うのか?」
男にむしろおもしろそうに尋ねてくる。
「負けるとわかっている戦に命を賭けるなど愚の骨頂ではないか。まして自分一人のことではない。庇護しなければならない家来をあの男は何百人も抱えているのだぞ」
「それは確かにそうなんだけど」
少女は首をかしげて、
「ただ、ビルグナの人達の様子や何かから、色々とね。ここのやり方では、死ぬとわかっていても主人につくすのが当然で、それが騎士の誉れだって、もてはやされるのかと思ってたからな」
「それは確かにそのとおりだ」
少女と同じようなことを言う。
「要は時と場合だ。意《い》気《く》地《じ》のないと言われることは騎士には何よりの恥辱だが、同時に猪武者と言われることもまた名を汚す。まして己の軽率から家臣を死なせたとあっては末代までの恥だからな」
「ははあ……」
「あの男は思慮のある人物だ。無駄に人を死なせるような冒険はしない。俺の勢いが本当に確かなものとわかるまでは静観の姿勢を取るだろうな」
「で、四千の兵隊なんて本当に集まるの?」
「あれははったりだ」
少女が目を剥いた。
「はったり?」
「ああ。ものには勢いという。まさか孤立無援のお先真っ暗状態とは言えん。ああ言っておけば、もしやしてどこかに一軍の隠し玉でもあるのかもしれないと思うだろうし、もしやして本当にコーラルを取り戻してみせるかもしれないとも思うだろうしな。あるいは俺のはったりを見抜いていて、この大ぼら吹きと思ったかもしれないが、少なくともあの男は俺を捕えようとも、一服盛ろうともしなかった。それを確かめることができただけで充分だ」
少女は完全に呆れかえった目を男に向けた。
「今までずいぶん色々と人間を見てきたけど……、ほんとに、こんなにおもしろいのは初めてだ」
男のほうが苦笑する。
「これで四度目だぞ。おもしろいおもしろいとお前は言うが、俺はいたって普通の、ただの男だ」
「自分でそんなこと言うやつに限って、普通だったためしがない」
少女は断言して、
「馬鹿なんだか切れるんだか鈍いんだか肝が据わってるんだか、さっぱりわからない。こんなものを普通とは誰も言わないはずだ。ものすごくおもしろいし、変わってるよ」
男はちょっと笑って横を歩む少女を見た。
「以前にも同じようなことを言われたな」
「お父さんに?」
「いや。友人だ。幼なじみだった」
少女の眉がこれもちょっと動いた。
過去形で話すのが引っかかったのだ。
この男はある日いきなり前国王の遺児であることを知らされ、ほとんど自分の意志に反して王座につくことになった。人によっては稀なる幸運と見るかもしれないが、そのことによって失ったもののほうが遥かに多かった。
第一は父親だ。第二に友人たちだ。
彼らは皆、それまでの男と、国王となった男とを別人として扱った。公《おおやけ》の席はもちろん、二人きりで話す時にも敬語を使い、主従のけじめと臣下としての分をかたくなに守り、決してその壁を越えることはなかったと聞いている。
その幼なじみもおそらくは、友人であって友人でなくなったのだろうと少女は思った。
人の古傷を引っかくような真似は少女の好むところではなかった。話をそらした。
「前からたびたび聞いたけど、オーリゴっていうのはどんな神様?」
「そうさな。一口にいうなら学問と契約の神だ。おそろしく厳粛な神でもある。たいていの学舎や図書館にはオーリゴの祭壇が飾られているし、あらゆる契約の際に必ず持ちだされる」
「契約、というと……。例えば同盟条約とか、今度のように味方をするしないとかの約束事とか?」
「もちろんだ。まあ、そんなことをしたところで破られるものは破られるのだがな。現に俺がいい例だ。戴冠式後、多くの貴族たちは俺を主君として敬い、臣下として忠誠をつくすとオーリゴに約したにもかかわらず、わずか半年後にその誓いを破ってくれたというわけだ」
「すると、破ったところで罰則はなしだな?」
「そうでもない。面と向かって誓いを破って気持ちのいい人間はいない。あの時も諸侯たちは、我々は誓いを破るのではなく、偽者を王座に据えてしまった間違いを正すのだと、そういう大義名分を掲《かか》げていたからな」
「ものは言いようだ」
しかつめらしく言う少女に男は苦笑した。
「しかし、オーリゴは一般的には結婚式を執《と》りおこなう神として有名だな」
「結婚式で学問の神様を持ちだすの?」
少女が目を丸くする。
「なんか、担当が違う気がするけどなあ……。もうちょっとその、愛情の神様とか夫婦仲良くの神様とか、他にいないの?」
男はほとんど吹きだしそうになりながら少女を見た。おもしろいのはどちらのほうだとその目が語っている。
大の男も顔負けの冷徹な顔を見せるかと思えば、今のように無邪気な子どもそのままの表情を見せる。
「むろん、愛の女神は他にちゃんといる。だがな、愛の女神を頼むのは恋人たちだ。彼の、あるいは彼女の心を自分のものにしたい、そのために力を貸してくださいと祈るわけだ。結婚はその先、いよいよこの相手と一生を共にすると決めたあとのことだからな。これも一種の誓約には違いあるまいよ。男は女を妻として愛し慈しみ、女は男を夫として愛し敬うことを、契約の神であるオーリゴの前で互いに誓うわけさ」
「ははあ。なるほど」
感心したように頷いた少女である。
あたりはそろそろ薄暗くなってきている。
野宿するつもりだった二人だが、ちょうどその時、前方に集落が見えた。村というほど大きなものではなく、数件の農家が点在している。
「あそこで今夜の宿を借りよう」
ビルグナで路銀はたっぷり持たせてもらったし、農家の者はたとえ流浪の騎士であろうと、士分の者には礼儀正しくしてくれる。金を出して頼めば一夜の客として迎えてくれるだろうと踏んだのだが、その小さな集落は異邦人に対して異常なくらいの警戒をみせた。
まだ薄明るいのに、どの家も固く戸締まりをし、ひっそりと静まりかえっている。中でも一番大きな家に近づき、男が戸を叩いたのだが返答がない。
留守なのかと思いきや、人の気配がする。しかも物音を殺してこちらを伺う異様な気配だ。
いぶかしみながらも、なおもしばらく、つつましやかに戸を叩いていると、ようやく、扉につけられている覗窓が開かれた。
「どちらさんで?」
「旅のものだが、泊まるところが見つからず、難儀しているのだ。ぶしつけではあるが、これで一夜の宿を与えていただけないだろうか」
にこやかに言いながら銀貨を見せる。
戸板の中の目は値踏みでもするようにじろじろと遠慮なく男を眺めまわしていたが、それでも扉を開こうとせず、覗窓から手のひらを見せた。
男は逆らわずにその手の中に銀貨を落としてやった。家の主人は扉の向こうで銀貨が本物であることを確かめ、なおも固く閉ざした扉の向こうから、
「納屋でいいならお泊まんなさい」
とだけ、言ってよこした。
男はこの無礼な仕打ちに腹を立てるでもなく、
「かたじけない」
と、一礼し、少女を促して納屋へ向かった。
少女もこの警戒の強さには首をかしげている。
「そんなに危険人物に見えたのかな?」
「さて。館の主が言っていた妙な者たちというのに関係があるのかもしれんな」
納屋の中は広く、横になるのに充分な余裕があった。埃の匂いのする土の寝床だが屋根と壁がある。
それだけでもだいぶ違う。
横になった少女がふと、小さく笑いを漏らした。
「一国の王様が納屋で寝るなんてね」
「今の俺にはこれで充分だ」
男も小さく答えた。
春の盛りである。宵闇も暖かく、心地よかった。
二人はすぐに眠りについた。
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一日歩き続けた疲れもあって二人の眠りは深かった。しかし、その眠りは存外はやくに破られた。
異様な物音が近づいたからである。
初めに聞こえたのは馬蹄の響きだった。それも数頭、まっすぐにこちらを目指してくる音だ。
今の自分の身が追われる者であるということを嫌というほど知っているウォルである。たちまち跳ね起きた。
「リィ!」
「起きてる」
いつものことだが、どんな状況下に置かれても、この少女の肝の座り具合は歴戦の武将を遥かに凌駕する。
すでに起きあがり、暗闇に目を光らせている。
「多いな。八、九……ちょっと見当がつかないな。だいたいそのくらいだ」
どうやら馬蹄の音を数えていたらしい。
あいかわらず信じられない耳である。
男は急いで立ちあがり、納屋を出ようとしたのだが、少女が引きとめた。
「待って。追手にしては様子が変だ」
馬蹄の響きはどんどん大きくなっている。それと同時にかん高い嬌《きょう》声《せい》が聞こえてきた。
酒に酔った荒くれ男たちが浮かれ狂って馬鹿騒ぎでもしているような声である。
二人は納屋の戸の隙間から、そっと外を見やった。
松明《たいまつ》の明かりが暗闇に猛々しい。同時に男たちの口調も猛々しかった。
喚声と前後して大きな物音が響いた。ついで馬の嘶《いなな》く声、豚の鳴く声、鶏の鳴き声などが静まりかえった闇の中にけたたましく響きわたったのである。
二人は思わず顔を見合わせた。
どうやら、家畜どろぼうらしい。
しかも、これだけの騒ぎになっているのに、近隣の家も、もちろん襲われている当の家の者たちも、飛びだして来る様子も騒ぎたてる様子もない。
下手に逆らって怪我でもしては大変と判断して、じっと耐えるつもりなのか、あるいは家畜だけですむなら幸いと己に言い聞かせておとなしくしているつもりなのかもしれなかった。
男たちはあたりを憚《はばか》ることさえしない。わが物顔で豚を追い、鶏をつかみ取っていく。
納屋の中で、少女が小声で囁いた。
「どうする?」
「どうしたものかな?」
男も小声で言い返す。
「王様としては国民の財産を守る義務があるんじゃないの?」
「時と場合による」
強盗を目の前にしながら二人は冷静に話しあっている。
「もし、この襲撃が定期的に繰り返されているものなら、一時的に追い払っても意味がない。それどころか、よけいな手出しはむしろ事態の悪化を招く」
「意外と冷淡なんだな」
「冷静と言ってくれ。そういうお前はどうなのだ。弱き者のために立ちあがって、やつらを追い払ってやる気はないのか?」
少女は肩をすくめた。
「ここの人達が諦めて好きなようにさせてるのに、他人がどうこうすることじゃない」
「どっちが冷淡だ」
そんなことを密やかに話しあっていたのだが、そのうち、そうも言っていられない事態になった。
彼らが納屋を借りた家の扉が無理やりに叩き壊される音が聞こえ、人間の悲鳴が響いたのである。
初めは若い娘の悲鳴だった。ついで母親らしい女の金切り声、さらには父親の必死の懇願の声がした。
「待って、待ってください! 家の者には手をかけない約束ではありませんか!」
数人の男の卑猥な笑い声が聞こえた。
「そう邪険にすることもないだろうよ」
「そうとも。知らぬ仲でもなし、何も取って食おうというのじゃねえ。酌とりに借してくれと言っているだけではねえか」
「娘を離してくだされ! お金ならばいくらでもさしあげますから、娘だけはお許しください!」
悲痛な父親の声だった。
「しつこいぞ!」
「家ごと焼かれたいか!」
鈍い殴打の音。苦痛の呻き。倒れる夫にすがりつく妻の悲鳴。
「お父さん! お父さん! お父さん!」
娘は半狂乱になっている。
必死にもがいて男の手を逃れようとしているらしいが、男たちはそんな抵抗をもおもしろがり、口々に聞くに耐えない猥雑な言葉を浴びせかけ、娘をからかっている。
二人は納屋の中でとっさに腹を決めた。こうなっては見過ごせない。
少女は納屋の中を見回した。
牛を追うのに使うのか、あるいは鳥を追い払うのに使うのか、手頃な太さの長い棒があった。
一本を掴み、一本を男に投げ渡すと、少女は納屋から飛びだして叫んだのである。
「その手を離せ!」
外では髭面の男たちが、すでに泣き叫ぶ力も失せ、ぐったりした家の娘を馬の鞍に乗せようとしているところだったが、この声に驚いて振り返った。
澄《す》んだ幼い声と有無を言わさぬ口調とが、あまりにも不釣りあいだったからだろう。
五人が馬に乗っている。他に四人が馬を下り、家人に武器を突きつけ、動きを封じていた。
そのうちの一人は、納屋から現れたのが小さな子どもと見て舌うちしながら近寄ってきたが、少女とわかると、にたりと笑った。
「へへえ。こんなところにも娘が隠れていやがった。
ちょうどいい。一人ではとても足らねえところだ。
一緒に来い」
言うや、少女を捕まえようとしたのだが、もとよりさせるわけがない。
両手に自分の背丈と同じくらいの長さの棒を握り、槍のように構え、少女は近寄ってきた曲《くせ》者《もの》を思いきり突いたのである。
「ぎゃあっ!!」
すごい勢いだった。
その男はなんと大きく宙を飛び、地面に叩きつけられて伸びてしまったのである。
「なんだ!?」
ざわっと曲者が動揺する中、少女はもう一度言った。
「その手を離せと言ってるんだ」
不審な男たちも、家の主人も、馬の鞍に乗せられようとしていた娘も唖然としている。ひときわ立派な馬に乗った首領格らしい男が、かつかつと馬を寄せ、馬上から少女を見下ろしてきた。
「何だ。われは?」
「この納屋の客だよ」
「客? 客なら黙っているものだ。家主ならともかく、客に指図される言われはねえ」
「家主は娘を離せと言ってる。その子も嫌だと言ってる。無理を強いてるのはそっちのほうだ。おとなしく帰りな」
しかし、男は聞いていない。ほっそりした少女の体をじろじろと眺め回している。
033_挿絵1
「われ、いったいどうやって奴をふっとばした? そんなやわな体で。魔法でも使ったか?」
「帰りな。これで三度目だ」
頑固な姿勢に盗賊は半分腹を立て、半分おもしろく思ったらしい。
「嫌だと言ったらどうする気だ? え?」
「こうする」
言うが早いか、少女は、ぶん! と棒を振った。
その先は正確に馬上の男の頭を狙っていた。
「ぐわっ!!」
馬上の男は後頭部を横なぐりに殴り倒され、馬から転げ落ちた。
単なる十三の少女の力ではない。大男のガレンスをして屈せざるを得ない怪力である。
それに力一杯殴られてはたまったものではない。
よくても気絶、悪くすれば即死である。
落馬した男には見向きもせず、少女は棒を手にしたまま、ひらりと飛びあがり、たった今まで騎手のいた位置に見事に収まった。
驚いたことに、少女は馬を操作するのに手綱を使わなかった。両手は棒を握ったまま、軽く腹を蹴るだけで走らせ、あっという間に他の四騎に迫ったのである。
馬上にあっても少女の武勇は衰えることを知らなかった。右に左に棒を揮《ふる》って、たちまちすべての鞍を空にしてしまった。
「こ、このど畜生が!」
地上にいた男たちは激怒して、馬上の少女を取りおさえようとしゃにむに突撃してきたが、無駄だ。
一人は馬の前足に蹴られ、一人は片手の棒に頭を殴られ、残る一人は少女の足に蹴りとばされてあっけなく伸びてしまった。
ほんのわずかな時間のことだというのに、少女が鞍を下りた時には優に九人の男が地面に転がり呻いているという、それこそ魔法を使ったとしか思えないような事態になっていたのである。
「なんとまあ……少しは加減してやったらどうだ」
そんなことを言いながらようやく納屋から出てきた男に、少女は皮肉な目を向けた。
「高みの見物を決めこんだ奴が何を言ってる」
「別に決めこんだわけではなくて、出る幕を残らず奪われてしまったのだがな」
少しばかり恨めしげに男は言い、倒れている男たちに目を向けた。
幸い、というのも変だが、皆死んではいない。しかし、当分立ちあがれそうにもない。
まあ、殺されなかっただけ運がいいというものだろう。
二人は納屋にあった荒縄を持ちだしてきて、男たちを数《じゅ》珠《ず》つなぎに縛りあげた。
そうしておいて初めて、こわごわとこちらを伺っている家の者たちと向きあったのである。
かどわかされるところを寸前で救われた家の娘は泣きながら母親と抱きあい、地面に座りこんでいる。
横では父親が、同じように座りこみ、妻と娘に何やら声をかけていた。
「ご亭主。こやつらは何者だ? 家人には手を出さぬ約束と言っておられたが……」
主人が涙にやつれた顔を上げて、二人を見た。
「娘を救ってくださいまして、ありがとうございました」
それだけ言って、またうなだれ、泣き伏してしまう。
「ご亭主……。泣いてばかりいられては事情がわからん。わけを話していただけないか」
主人は泣きながら首を振った。
「お話し申しあげたところで、どうなるものでもないのですから……」
そして、また泣く。
男は困りはてた顔つきになり、その横では少女が片方の眉をちょっと上げて、握った棒でとん[#「とん」に傍点]と地面を突いた。
「あのね。泣くのはどういうことなのか話してからにしてくれないかな」
身も蓋もない。
主人は悲壮な顔つきで、この連中はギルツィ山の山賊だと説明した。
「もともとはタウ山脈の山賊らしいのですが、それが別れてこんな南の外れまで流れてきたらしいので……はい。今では義賊と称し、ギルツィ山に根城を設けて、わが物顔に暴れまわっております」
「今日のようなことはよくあるのか?」
「日常茶飯事です。どこかへ消え去ってくれればいいものを、このポートナムを自分たちが警備してやるだの、我らに逆らうことはタウに逆らうのと同じことだのと言われ、このあたりの農家は皆、唯々諾々と奴らに家畜を提供して参りました。もうどのくらいの被害に遭ったのか数えることもできません。しかし、娘まで……」
その娘は母親にしがみついて泣いている。
「このことを知れば、奴らは必ず報復にやって来るでしょう。そうしたらおしまいです」
「ご亭主。その山賊どもの勢力はおおよそどのくらいなのだ?」
「わかりません。数十人とも数百人とも言われておりますので。誰も確かめたものはいないのです」
「そんなものがこのあたりを拠点にしているというのに、領主は何をしているのだ?」
「ご領主さまはこれほど被害が大きいとは思っておられないのです。何やら妙な者どもが増えて困ったものだとはお思いでしょうが……」
「それなら訴えて出ればよかろうが?」
理解しかねる顔つきで男は言ったのだが、主人はとんでもないことですと首を振るばかりである。
「何故できない? ここの領主はそれほど物わかりの悪い男ではないはずだぞ」
「旅のお方。あなたはすぐさま、この地を去ってしまわれる。ですが私どもはこれから先何代も、この土地で暮らしていかねばなりません。代官などに訴えたと知れたら、それこそ山賊どもに何をされるかわかりません。奴らの背後には、数千とも数万とも言われているタウの山賊がついているのですから」
「では今のまま、奴らに食料と隠れ場所を提供し続けてやるつもりか?」
主人は答えない。
「それに娘ごはどうなる? 今夜は無事ですんだが、これから先も同じような災難が必ず振りかかるぞ」
「娘は明日にも親類のうちへ預けることにいたします」
「ご亭主。それでは一時しのぎにしかならん」
「旅のお方。私どもはこうやって生きのびて参りました。土地と畑がある以上、私どもはここを離れることはできません。他にどんな仕様がございましょうか?」
少女は軽い舌打ちを漏らし、男は小さなため息を漏らした。
気の毒ではあるし、事情も納得できるのだが、ここまでくると同情できない。
しかし、彼らは彼らの生活を守らなければならないのだ。そのための最善の手段は本人にしかわからない。
となればそれこそ、他人がどうこう言うことではないのだが、ここまで来た以上、見過ごすわけにはいかなかった。
「わかった。ではその山賊どもが一人残らず捕えられ、投獄されてしまえばよいのだな?」
「そんなことができるわけはございません」
「やってみなければわからんさ。ご亭主も見ての通り、この娘は大の男十人をあっという間になぎ倒す。俺もまあ……これほど鮮やかな手なみではないにせよ、何とか肩を並べるくらいには遣える。俺たちで山賊のねぐらをつきとめて代官に通報することにしよう。訴えて出たのが旅の自由戦士となれば、ご亭主らに危害は及ぶまい」
「おい……」
少女が呆れて、そっと男の注意を引いた。
「そんな寄り道をしている場合じゃないぞ」
大事の前の小事ともいう。今はまっすぐコーラルを目指し、道々有力な諸侯をかき口説き、できるだけ確率の高い首都奪回のための手段を講じなければならない時なのである。
だが、男は首を振った。
「ここまで聞いては見過ごせん。ほうっておいたら被害はどんどん大きくなるばかりだ」
「それならさっきの館の主人にこのことを伝えていけばいいじゃないか。自分の領地なんだから、後は向こうで何とかするよ」
さらに首を振る。
「山賊退治というものはそう簡単にできるものではないのだ。地の利は奴らにある。下手に攻めこんでいけば領主軍のほうが手痛い目に遭うだけだ」
「だからって何も……」
「なにより、タウの山賊がこんな南にまで下ってきて乱暴狼《ろう》藉《ぜき》を働いているというのが気になる。俺の知るかぎり、彼らは仲間以外の人との関わりを避け、無《む》辜《こ》の民に迷惑をかけることを厳しく慎んでいたはずだ。俺の育ったスーシャはタウのふもと、それこそ足元だったが、彼らが山を下りてきて市民から食糧を奪い取っていくなど聞いたこともない」
「だからって何も君がタウの山賊の名誉挽回に働いてやることはない」
もっともな話だが、それでも男は首を縦には振らなかった。
「山賊のためではないさ。俺のためだ。ここは俺の国であり、彼らは俺の人民だ。それを不当に苦しめるものがいるなら何とかするのが義務というものだ」きっぱりと言いきった。
石頭というか、頑固一徹というか、何を言われようとも引くつもりはないらしい。
少女は、とうとう諦めて、それはそれは盛大なため息を吐いたのである。
「ペールゼンが君を追いだした理由が、すごくよくわかるな。扱いにくいったらありゃしない」
「光栄だ」
にこりともせずに男は言ってのけ、少女はさらにため息をついた。
「まったく何でこんな変なのと知りあったんだか」
「それこそバルドウのお導きというものだろう。乗りかかった船と思ってつきあえ」
これまたまじめに男が答え、腹を立てた少女にどつかれた。
ギルツィ山脈はデルフィニア南部では最大の山脈である。
捕えた山賊を役人に引き渡し、北に進路を変えた彼らの目前に、まるで波を打つようにうねうねと広がっている。中心を為すのがギルツィ山、他にも五つの山があり、それぞれ名前がついている。
それがずらりと勢ぞろいしているところはなかなか雄大な光景だったが、男に言わせると、
「タウに比べれば、まるで箱庭だ」
ということになるらしい。
何の因果か山賊退治をするはめになった彼らだが、実際に二人だけで退治できるとはさすがに考えていない。とりあえず居場所をつきとめて領主に通報し、後は彼らに任せようと思っている。
ではその居場所をつきとめるためにどうすればいいかというと、二人はあっさりと自分たちを囮《おとり》にすることにした。
ビルグナを出発した彼らはロシェの街道は通らずに南へ下り、海沿いを回ってコーラルへ入るつもりだったが、このポートナムを含む南部地方の人間が他国へ行くためにロシェの街道へ出ようとすれば、ギルツィ山脈を越えるのが普通である。
箱庭のようなものだと男は言うが、これを越えるのはそう簡単なことではない。
普通旅人は夜明けと同時にギルツィ山のふもとを発つ。順当に行けば峠の手前で昼を迎え、日が暮れる頃には山の反対側、ロシェの街道へ下りられる。
道も整備してあるし、途中には旅人が足を休めるための茶店も出ているのだが、それでも、ほぼ一日がかりの山越えになる。
しかし、彼らはわざと昼過ぎにふもとを発って、ゆっくりと登っていった。峠につくころにはすでに日が暮れているようにしむけたのである。
よほどに切羽詰まった事情のあるもの、でなければ後ろ暗いところのあるものでなければ、夜間の山越えなどは決してやらない。
太陽の隠れた暗闇の恐ろしさは誰もが充分知っているところだ。道を違《たが》えるかもしれないし、足を痛めるかもしれない。獣に襲われるかもしれない。何より、狼藉に出会ってもどうすることもできない。
逆を言えば、夜間越えの旅人は山賊にとって絶好の獲物ということになる。ばか正直に峠道を登ってくるものを見逃すはずはない。
「目のつけどころは合ってるけど……」
巨大に膨れあがったように見える夕陽に目を細めながら、少女が言った。
「襲いかかって来てくれないと話にならないな」
無事に峠を越えてしまうようでは意味がないのだ。
「うむ。少しは金目の物を持っているように見えるといいのだがな」
男は妙な心配をしている。
「いっそのこと、どこかに隠れていて、他の旅人が通りかかるのを待ってみるというのはどうだろう」
「他の人を待ってどうするのさ?」
「いや。金のありそうな旅人なら、山賊のほうでも目をつけていて襲いかかってくるだろうからな。そこを取りおさえるか、獲物をぶんどった後を尾《つ》けていく。そうすれば自動的に根城にたどりつけるのではないか」
少女は呆れかえった。
「何を悠長なこと言ってるんだ。目の前で人殺しをされるのを黙って見てろっていうのか?」
「あ、そうか。いかんな。殺してしまうか」
「ばか」
とても十三の少女と二十四の男の会話ではない。
「だいたい、こんな危険な作戦立てるほうがどうかしてる。大望を前にしてるっていうのに、殺されるかもしれないと思わなかったのか?」
痛いところをついたらしい。
「それは考えなかった、な」
「ほんとに、肝心なところが抜けてるよ。真っ先に考えなきゃいけないことじゃないか」
文句を言いながらも、少女は怒っているわけではないらしい。おもしろそうに笑っている。
「いや、それはそうだ。それはそうなのだが……」
男も困ったように笑って、「どうもな。お前といると死ぬ気がせんのだ」
少女が目を丸くした。疑わしげに尋ねる。
「ウォル。もしかして、ぼくが不死身だとでも思ってるんじゃないだろうな?」
「違うのか?」
「あたり前だ!」
「しかし、あたり前と言われても、それこそ説得力に欠けるぞ」
からかうような口調である。
「その姿で十人力の怪力、名人芸並みの武術と軽《かる》業《わざ》師《し》並みの身のこなしときては、不死身ではないかと疑ったところで誰も俺を責められんだろうよ」
「生まれつきこうだったわけでも、自慢するために覚えたわけでもないぞ。生きるために身につけたものだ」
おそろしく冷めた口調だった。
男はどきりとして、隣を歩む少女を見やったのである。
ほんの一瞬、何か危険なものがひらめいたように感じたのだが、少女は、すぐにそんな気配をきれいに消して、にこりと笑った。
「人間とは言わないけど、同じ生き物であることには違いない。切られれば痛いし、心臓が止まれば死ぬんだ。いざとなったら自分の体を守るだけで手一杯なんだからな。あんまり面倒をかけるなよ」
「気をつけよう」
そんなことを話しているうちに、ますます太陽は傾き、あたりは早くも薄暗くなりはじめている。
峠の近くには茶店がぽつんと建っていた。旅人のためのものらしい。
しかし、まだ日暮れ前だというのに、固く戸締まりがされ、長い間使われていない様子である。山賊が頻繁に出没するので商売にならないのだろう。
二人は茶店の店先を借りて野宿することにした。
出発する前、世話になった農家が食料を持たせてくれた。娘を救ってくれた礼だそうである。
焚火にする木を拾い集め、火を起こし、水筒に詰めてもらったエール酒と干し肉の食事を摂る。
そうこうするうちに太陽は西へ消えてゆき、あたりは真っ暗になった。
空には細い三日月がかかっている。
流れる雲が、その淡い光を見え隠れさせている。
地上では炎がゆらめき、火のはぜる心地よい音がする。
二人はしばらく黙って焚火を見つめていた。
他に聞こえるものといえば、風に揺れる梢《こずえ》のざわめきくらいだ。
時折、なにかの生き物が近くを歩いていく気配がする。火を恐れてか姿は見せないが、そのたびに男は顔を上げ、表情だけで少女に問いかけ、少女は軽く首を振るだけで危険はないと言ってみせた。
二人とも、いざとなれば驚くほど寡黙であり、相手の沈黙につきあった。
「出てきてほしい時には現れないものだな」
他人事のように男が呟き、少女は小さな苦笑を漏らした。
「そんなに襲われたい?」
「面倒は手早く済ませたほうがいいからな。何と言っても大事を控えた身だ」
「まったく。王様がこんなところで野たれ死にしたらコーラルで待っている人達はきっと困るぞ」
「だろうな」
「それなら、自分一人の体じゃないことを、少しは自覚した方がいい」
男は唇の端だけで笑ってみせた。
「俺は一人さ。この大地で俺より一人きりでいるものはあるまいよ」
「……?」
「昔は俺にも家族がいた。友人もいた。知人も、世話になった人も、目上として敬う人も大勢いたが、今は一人だ」
黒い瞳が少しばかり皮肉な色を浮かべている。
「俺は知らなかった。本当にそんなことが起こるとは夢にも思わなかった。父から自分の素姓を聞いた時も、王座に即《つ》くことが決まった時もそうだった。それは驚いたし、たいへんなことになったとも思ったがな。俺は俺だと、何も変わるわけではないと高を括っていた。ところが気づけば、大事な人達を一人残らず失っていた。つくづく王なぞというものはつまらんものだと思ったぞ」
その人たちは好き好んで離れて行ったわけではあるまい。ただ、彼らの意識の中では国王というものは敬わなければならないものなのだ。たとえ、どんなに男の人柄に親しみを持っていようとも、それを率直に表すことは許されないことなのである。
少女は小さく笑った。
「自分だけが一人だなんて思わないほうがいい」
「そうか?」
「そうさ。少なくとも、ここに、同じくらい一人でいる者がいる」
男は黙って、この風変わりな連れを見た。
そのとおりだった。
天涯孤独の身の上だという。しかし、ここへやって来る前は友と呼ぶ人も知り人もいたはずだ。
今、少女は自分の世界の人達と切り離され、帰ることも連絡を取ることもできないでいる。
「なかなか、一人きりになるのは、やろうと思っても難しい」
ため息をつきながらそんなことを言い、男を見つめて、にこりと笑った。
「みんな、きっと心の中では、今までと同じように思ってるはずだよ」
男も微笑して、「俺も一転、かつての知人や友人たちに命令を下さなければならない立場になったのだから、おたがいさまさ」
それでも、即位以来感じている強い孤独感は拭いようもない。
少女は何か言いかけようとして、急に表情を変えた。男も口をつぐんで、剣の柄《つか》に手をかけた。
夜の森は昼間の倍は音を通す。まして獣でもない人の身では、とても足音は殺せない。
その誰かは初めから足音を隠すつもりもないようだった。がさりと、茂みをかきわけて二人の前に姿を現した。
二人は黙って突然の来訪者を見つめたのだった。
「寄せてもらってもよろしゅうござんすかね?」
三十がらみの男だった。つとめて丁寧にはしているが、口《く》調《ちょう》も、身なりも、あまりまっとうとは言えない種類の人間のものである。
「構わんよ」
男があっさり言ったが、近寄って来ようとしない。
探るような目で二人を見比べている。
「こんな時分に野宿とは、よほどお急ぎの旅なんですかい?」
「ああ。出《しゅっ》立《たつ》するのが遅くなってしまってな。どうでも今夜中に越えてしまいたいのだが、この暗がりではどうにもならん。難儀をしているところだ」
「そりゃあお困りでやしょう。よろしかったらあっしがご案内いたしますぜ」
「この暗がりで道がわかるのか?」
「あっしは猟師をしておりますんで。この山は庭のようなもんでさ。どうぞ、ついていらっしゃい」
背を向けながら、さし招く仕草をする怪しい男に、二人とも逆らわずに従った。
願ってもないお誘いである。
猟師だという男はもの慣れた様子で二人を案内した。ギルツィ山に登るのが初めての二人には、どこをどう歩いているのかさっぱりわからなかったが、少なくともふもとへの道をたどっているのではないことだけははっきりしていた。
人一人がやっと通りぬけられるほどの細い小道である。
伸び放題の茂みが手足はおろか、顔までかすめる。
「ずいぶん険しい道を通るのだな」
「こちらが近道なんですよ」
「ふもとまではどのくらいだ」
「もうじきでさ。夜明けまでには着けますよ」
三日月の明かりが頼りなく照らす足元を、慎重に進んでいた彼らだが、不意に正面に明かりが見えた。
「なんだ……?」
民家でもあるのかと思ったのだが、そこは開けた空き地だった。
今までの草木の密生した景色とはうってかわって足元には草も生えていない。
そして明かりの正体は、空き地の回りをぐるりと囲むように生えている大木にいくつも点された蝋《ろう》燭《そく》の光だった。
ここだけがまるで真昼のような明るさである。
目の前には粗末だが、大きな山小屋が建てられている。
そして、極めつけに面妖なことには、蝋燭の光の陰に隠れていたらしい男たちが、一斉に走り出てきて、二人を取り囲んだのである。
あるものは槍を構え、あるものは弓を引き、二人に狙いを定めている。しかし獲物が男一人と子どもと見るや、警戒の必要もなしと判断したのか、武器を収めた。一人が山小屋に声をかける。
「親分。お客人ですぜ!」
「おう!」
応えて山小屋の中から人が現れた。
年齢は四十くらいか。でっぷりと太った大きな体をし、腕は丸太のよう、腹は太鼓のようだった。
見るからに山賊の親分の姿である。
「ようこそいらした。お客人」
割れ鐘のような声でそんなことを言ってきた。
ウォルはそれには構わず、今まで二人を案内してきた男を振り返って言ったものである。
「ずいぶん妙なふもとだな」
男は下《げ》卑《び》た笑いを浮かべている。
「もちろんふもとへはちゃんとお連れしますさ。しかし、その前に出すものを出していただかないとなりませんぜ」
「出すもの、とは?」
山小屋から現れた男が吼えた。
「この山は俺たち義賊の縄張りだ。そこを無断で通りぬけようとは許せん所業じゃ。よって通行料をいただく」
「なるほど。金高は?」
「あり金のこらずじゃ」
「それはまた、法外な額面だ」
「やかましいわ。さっさと懐《ふところ》のものを置いていけ。すれば命まで取ろうとは言わん。死体を始末するのもこれまた面倒でかなわんからな。歩いて去《い》んでくれるほうがありがたいわ」
「その前に一つ尋ねたいが、この山の義賊というのはこれで全部なのか?」
「なんだと?」
山賊の首領はいぶかしげな顔になり、のしのしと近づいてきた。
この状況に遭って少しもひるまず、質問まで発してくる旅人というのは極めて珍しい。珍しいどころか異常である。
「われ、何でわしらの数なんぞ知りたがる? さては代官のまわしものか。だとしたら生かして返すわけにはゆかんぞ」
「とんでもない。ただ、あり金を取られて、この先でまた通行料を取られてはかなわない。そう思ったまでだ」
「ほうほう。殊勝な心がけじゃ。ならば教えてやろうが、ギルツィ山の義賊はわしを頭《かしら》に五十人。そのほとんどがここにおる」
「残りの仲間は?」
「ちょいとふもとへ出かけておるわい」
つまりは農家から家畜を略奪に行っているということだ。
義賊の首領と名乗った男はさらに続けた。
「それだけではないぞ。わしらはもともとはタウの山賊の一派じゃ。一声かければ数千の仲間がたちまちのうちに集まってくる。こんな田舎のこっぱ役人なぞに何ができようかい。下手な手出しをしたが最後、大火傷やけどをするのは役人どものほうだぞ」
「なるほど」
タウの山賊云《うん》々《ぬん》は別にして、全部で五十人。そのうちここにいるのはざっと三十人ほどである。
昨夜捕えたものが九人だから、差し引き十人ほどが、ふもとへ下りているわけだ。
ちらりと少女を見やったが、まるで我関せずの表情だった。そちらの言いだしたことだからなんとかしろと主張しているようでもある。
男は言われるとおりに所持金を取りだそうとした。
山賊どもがこの場所を本拠地にしていることは間違いなさそうだし、後は圧倒的な戦力の出番である。
怪我をしないうちにこの場を引きあげようとしたのだが、男の後ろで、山賊の一人が不意に疑わしげな声をあげたのだ。
「おい、こいつ、もしかして、娘っこか?」
「なに!?」
首領が目の色を変えた。他の男たちも一斉に息を呑んだ。あっという間に山賊どもの視線は男から少女へと移ったのである。
白いきれで頭を包んでいたリィを山賊どもは少年とばかり思っていたらしい。
「娘か、ほんとか」
少女は舌打ちを漏らしていたが、顔を近づけてよくよく見れば、幼いながらも匂うような美しさは隠しようもない。
首領は狂喜して叫んだのである。
「これはいい! われの通行料はあり金全部とこの娘だ。気前よく支払え!」
少女の手を掴んでぐいと引き寄せた。
回りの男たちはよだれを垂らしそうな顔つきで、その様子を眺めていた。
ならず者の間には厳然とした格の上下がある。どれほど飢えていても、首領を差しおいて、下っ端《ぱが》先にごちそうにあずかるわけにはいかないのだ。
大男の首領は舌なめずりせんばかりである。小さな肩を抱き、髭面の顔をなめらかな白い顔に寄せ、嘗《な》めんばかりにして囁いた。
「かわいいのう。いくつだ。十二か、三か? 未通女おぼこだろうな? ちと早いが、なあに、こうしたことに歳なんぞは関係ないわ。わしが一からじっくりと教えて一人《ひとり》前《まえ》の女にしてやるからな。すぐに楽しくて楽しくてたまらなくなるようにしてやるぞ」
聞いていたウォルは肝を冷やした。
こんな場合の恒例とはいえ、どの仕草、どの一言を取っても少女の爆発を誘うには充分すぎる。
拍車をかけるように、他の山賊どもが、卑猥な笑いと羨望の眼差しを向け、早く自分たちに『払い下げて』くれるようにと冷やかしの声をかける。
少女は逆らわない。黙って撫でまわされるままにしているのだが、その目は壮絶な殺気に煌《きら》めき、その手が不気味に動いた。
同時に、男が他人事のように言ったものだ。
「払えと言われても困る。その娘は俺の持ちものではなし、第一、貴様らにはもったいない」
「なんだと?」
首領が目を剥《む》いて少女の手を離した。
男はさらに言う。
「称するに事欠いて義賊とはよく言ったものだ。本物の義賊が聞いたらさぞ迷惑するだろうよ。罪なき農家を苦しめ、家畜を奪い、娘を拐かし、害悪の限りをつくす輩が義賊とはお笑いぐさだ。奸賊、もしくは匪賊とでも改名すればいい。いっそ似合いだ」
「しゃらくさいわ!」
一声吼えた首領は、さっと手を上げた。
この青二才をやってしまえという合図だったのだが、途端、足をすくわれ、その大きな体が前のめりに倒れたのである。
「わっ!」
何が起きたのかと思った。近くには今夜たっぷりかわいがってやろうと下心を抱《いだ》いている少女一人がいるだけだったのだ。
つんのめった男を、緑色に燃える、極めつきに冷酷な炎が見下ろしている。
「おい。どうしてくれる?」
低い声だった。
首領に向かっての問いかけだったが、その首領はもちろん、意味をたどれるものは一人もいなかった。
もとより少女も答などを期待してはいない。
嫌悪に歪んだ苦々しい顔で自分の腕をさすっている。
「体中に鳥肌が立ったぞ。おまけに当分消えてくれそうにない。いったい、どうしてくれる?」
姿の愛らしさとは似ても似つかない凄みの籠った口調に、首領も山賊どもも、あっけにとられた。
その隙を男は見逃さなかった。
大剣を抜き放つなり、左右の二人を斬り払い、囲みを抜けていたのである。
「こ、こいつ!」
男を押さえようとした一人に、今度は少女が襲いかかった。倒れた首領を飛び越えざま、剣を抜く手も見せずに、斬りつけたのだ。
「なにっ!」
山賊たちにとってこの奇襲こそはあり得ないことだったろう。しかし、怒りと不快感に火をつけられた少女の剣先は情け容赦もなく、さらに二人を斬って捨てた。
そのまま広場を突っきり、茂みの中へ飛びこみ、わずかに遅れて男が続いた。
「野郎!」
山賊たちが色めき立つ。首領も立ちあがり、大きく吼えた。
「逃がすな! 追え!」
その声よりも早く山賊どもは二人を追って茂みに踏みこんでいる。
「男は生かして返すな! 娘は殺すなよ! 傷も負わせるな!」
言われなくともそのつもりの部下たちである。
ましてこの森には自分たちのほうが詳しいのだ。
一方のウォルは、茂みの中に身を隠したはいいものの、次にどうするかを測りかねていた。こうなっては山賊どもは何処までも自分たちを追いまわすに違いない。本当なら一度下山して、領主軍に応援を求めるのが相当だが、連中はおとなしく下山させてはくれまい。
それにもまして相方の少女は断じて引く気はないらしい。
そもそも目の色が違う。気配が違う。
戦闘態勢に入っていることが一目でわかる。
先程の侮辱がよほど腹に据えかねたらしい。毛を逆立てた山猫のようになっているのだ。
「かたっぱしから斬り捨てるぞ」
そんなことを憤然と言う。
「おい、リィ……」
「あの親分だけは生かしておけ。役人に引きわたすのに首謀者が必要だからな。他は全員ぶち殺す」
男は軽く肩をすくめた。
「残りはざっと二十数人。しかも地形に詳しい。俺たちには土地勘はまったくない。勝算は?」
「一人ずつ片づける。この茂みの中でなら、おれの方に分がある」
「お前はよくてもだな。俺はとても……」
「うるさい。自分の身は自分で何とかしろ」
言うなり少女はすっと身をかがめて後ずさり、茂みの中へ消えた。驚いたことにほとんど音を立てなかった。
男はほとほと呆れながら、少女の消えた茂みを見やったのである。
人の体がこんな藪の中を自在にすり抜けるとはとうてい信じられないし、真似のできないことだ。
後を追おうかとも思ったがその暇はなかった。山賊の一人が男を見つけて、勢いよく声をあげたのである。
「ここにいたぞ!」
もう仕方がない。男は闇雲に剣を揮《ふる》った。
なにしろ足場は不安定であるし、広場に点した蝋燭の明かりだけが頼りである。自分はほとんど動かずに襲いかかってくるものを撃退するというやり方で、それでも五人は倒した。
あちこちで悲鳴が聞こえる。
少女が縦横無尽に動きまわり、右手の剣にものを言わせているらしい。
あの少女は夜目が利く。加えてこの茂みの中を音を立てずに動ける。山賊どもにしてみれば、闇夜で猛獣を相手にするようなものだ。
たまったものではあるまい。
しかし、この土俵は男には少々不利だった。
土地勘もなければ、少女のように音を立てずに動くこともできないのである。
一方、山賊のほうには、さすがに地の利があった。
孤軍奮闘する男に次から次へと懲りずに襲いかかり、しかも、右から左から巧みに仕掛けて動かざるを得ないように仕向け、先程の広場まで押し戻したのである。
身を翻《ひるがえ》そうとした時には、耳元を矢がかすめていた。
「動くな!」
弓矢を構えている山賊は三人。
蝋燭に明々と照らしだされている男を、ぴたりと狙っている。
「ようし、ぶっ殺してくれるわ!」
首領が吼え、手にした小型の山刀を引き抜いた。
それだけなら交わせるだろうが弓矢がある。それも三人とあっては避けきれるものではない。
やむを得ない。いちかばちか、戦うしかないと覚悟を決めた時、反対側の茂みの中から、山賊の一人が真っ青な顔をして飛びだして来たのである。
少女を追っていった連中の一人らしい。それが、幽霊でも見たような顔つきで叫んだのだ。
「お、親分。大変だ! みんな死んでる! やられちまったんだ!」
「何だと! 馬鹿を言うな!」
「野郎はここにいるじゃねえか!」
広場に戻って来ていた山賊どもが、首領も含めて口々に言ったが、一人飛び出して来た山賊は懸命に首を振った。
「本当なんだ! この野郎じゃねえ! あ、あの娘がみんなをやっちまったんだ! あ、ありゃあ、魔物に違いねえ!」
まさかと思ったろうが、この連中は少女が腰に剣を差しているのも、見事な手さばきでこれを揮うのも実際に見ている。首領が険しい顔になって、横にいた一人に「様子を見てこい」と命じたが、青い顔をした山賊が死に物狂いで制止した。
「だめだ! ありゃあ魔物だ! 人間じゃねえ!
この茂みを動くのにまったく音を立てねえんだぞ!
突っこんで行ったって勝ち目はねえ! みんなの二の舞になるだけだ!」
「いったい何人がやられたって言うんだ!」
「だから全員だ! あの娘を捕まえようとした七人、みんなやられちまったんだ!!」
さすがに皆、顔色を変えた。
無頼者として生きている以上、腕っぷしには嫌というほど覚えのある連中である。
そんじょそこらの役人と渡りあっても、そうそうからめ捕《と》られないだけの自信と、その自信を裏づけするだけの腕力気力は持っているはずだった。
首領が血相を変えて男に迫り、剣先を男の鼻面に突きつけるようにして詰問した。
「おい、われ。わりゃあ、あの娘っこの何だ?」
「何だろうな」
「とぼけやがるか! なにもんだ、あの娘は!?」
「俺も知らん。人ではないと自分で言っているがな。何なのかはこっちが知りたい」
この男も、どこまでも飄《ひょう》々《ひょう》としている。
それも気になったのだろう。髭面の首領は恐ろしく疑わしげな目で男を見やっていた。
「お、親分……」
さすがに、仲間たちも落ちつかず、どうしたものかと顔を見合わせ、首領の顔色を窺っている。
山賊の首領は舌打ちを漏らすと、仲間に向かって顎をしゃくってみせた。
「おう」
応えて素早く他の山賊が男の手から剣を奪いとり、弓を向ける。
そうして男の動きを完全に封じておいて、首領は声を張りあげたのだった。
「おう! 娘! 聞いてるか! 今から十数える! その間に出て来るんだ! でないとお前の男の首をちょん切ってくれるぞ!!」
割れ鐘のような声で、ひとおつ、ふたあつ、と、男の死刑執行までの時間を計る。
その声が七までを数えた時、まったく音を立てずに、細い体が広場の縁《ふち》に現れた。
右手に血糊で染まった剣を下げ、苦々しい顔で男を見ている。
男は精一杯の申しわけなさそうな目で少女を見つめ返した。武器を奪われ、首筋に刃を突きつけられているのだ。どうにも身動きできない。
少女が現れたと見るや、弓矢を構えていた男たちが一斉に狙いを少女に変えた。
「その刀。捨てろ!!」
首領が吼える。
少女はおとなしく、右手の剣を手放した。地面にぐさりと突き立てたのである。
「ようし、いいか。ゆっくりこっちへ来るんだ」
興奮しながらも慎重に首領が言う。
少女は言われたとおり、ゆっくりと歩いてきた。
「と、止まれ!!」
動きを封じられた男と、その男に刃を突きつけている首領と、少女とは、手の届かないぎりぎりの距離を持って相対した。
自分がどういう状況に置かれているか、嫌というほどわかっているはずの少女だが、主導権を握っている首領にはまるで注意を向けていない。いや、鋭く言い返した。
「訂正しろ。誰が、おれの男だ」
「な、なにい……?」
目を白黒させている首領には構わず、少女は男の顔を見つめながら、とびきり苦い声で言った。
「ばかで、石頭で、おまけに鈍い。こんなものを男にしてやるほど、おれは甘くない。自分の身は自分で何とかしろと言ったはずだぞ」
「面《めん》目《ぼく》無《な》い」
さすがに他に返す言葉がない。いや、この状況下でも口元が笑いそうなのだが、そんなことをしたらどのくらい怒られるかわかったものではない。
男は一生懸命まじめな顔をしていたが、どこかでおもしろがっているのを少女は敏感に察したようで、なおも厳しい諫言をした。
「お前は、おれの足手まといになってばかりだ。先が思いやられる」
諫《かん》言《げん》というより、兄弟分か目下の相手を叱りつけるような言葉だが、もっともな話である。
「まことに、相すまん」
さすがに平謝りするしかなかった。本当なら深々と頭を下げたいところだが、そんなことをしたら首の皮膚が切れてしまう。
「しかしな、黙って捕まったわけではないぞ。これでも五人は倒したのだ」
「何だ。それならおれと同じだ」
「ほう? お前にしては切れ味の鈍いことだ」
「仕方がない。あいつら、おれを殺さずに捕えるつもりだったらしいからな。襲いかかって来るのに殺気がない。こっちもやりにくい。どこまでも人を見くびった連中だ」
「まったくだ。俺などに構わず、お前に集中すればよかったのにな」
男の首に刃を突きつけている首領が苛《いら》々《いら》しながら叫んだ。
「何をうじゃじゃけていやがる! 娘! われ、わしの仲間を何人殺《や》りくさった!!」
「だから五人。後の二人は同士討ちだ」
ここまで来ても首領には納得ができないようだった。この小さな娘が、腕自慢の自分の部下を五人もどうして倒せるのかと、ありありと疑っているのがわかる。
「き、貴様。なにもんじゃ……?」
「さあな」
少女の度胸もたいへんなものだった。武器を手放し、仲間の男は人質に捕られ、山賊は十人以上も無傷で残っているというのに、少しも臆するところがない。
むしろ、圧倒的に優位に立っている首領のほうが狼狽している。
しかし、すぐに思いなおしたらしい。
何といっても相手は丸腰、こちらの仲間は十人を数える。この二人を生かすも殺すも自分の自由なのである。
ごくりと生唾を呑みこんだ。
「いいか、この男を殺されたくなければ、いうことを聞くんじゃ」
少女の言葉を借りれば、欲情しているとしか言いようのない口調だった。この期に及んでよくそんな気になれるものだが、つまりはそのくらい、この少女の外見は細く、頼りなく、愛らしく見えるということだ。
「お、親分! そいつは魔物ですぜ!!」
先程の山賊が叫んだが、「やかましいわい! こんなごちそう、何もせんで冷たくしちまえとでも言うつもりか!」
他の仲間からも口々に同意の声があがった。
当然といえば当然の成りゆきだった。たいていの人は多少危険な匂いがしようとも、信じたくないものは信じない。この男たちは何としても少女をなぐさみものにしたいのだから、実際にその目で見ない限り、この少女が魔物だという仲間の言葉を受け入れるはずはなかった。
喉に絡んだような声で首領は言った。
「ぬ、脱げ」
こうなるだろうとわかっていたのか、少女は黙って両手を上げて、頭を包んだ布を解いた。
髪を結いあげている紐をほどくと、束ねていた黄金の髪が、うずを巻きながら流れおちる。蝋燭の明かりに煌めいた色彩の見事さに、山賊どもの間から一斉に驚嘆の声があがった。
年齢を考えればほんの少女なのだ。なのに、妙齢の女性のような華やかさを男たちの目に与えたのは間違いなく、その黄金の輝きによってである。
今日の少女は山歩きをするというので、長袖の胴着を身につけ、長いズボンと長靴を穿き、両袖の上には布を巻きつけていた。
両腕の布をゆっくりとほどき、長靴を脱ぎ捨てる。
腰に巻いた剣帯を地面に落とし、胴着の裾に手をかけて、頭から抜きとった。
山賊どもがごくりと息を呑む。
少女の胸にはさらしが巻いてあるのだが、あらわになった肌の白さ、まだかっちりとした体の線のなめらかさは、飢えた男たちの目を引きつけるのに充分だった。
見ていたウォルは気が気ではなくなってきた。
リィのことだ。何か考えがあって言われるとおりにしているのだろうが、もし、このまま、この少女が山賊どもの蹂《じゅう》躙《りん》を受けるようなことになるならば、冗談ごとではすまない。たとえ首を斬られてでも阻止せねばならないと固く意を決した。
しかし、少女が下半身を覆っている衣類を脱ぐために腰の前で止めた紐をほどこうとした時、新たな騒ぎが起こったのである。
「親分! い、一大事でさあ!」
慌てふためいた声をあげながら、ほうほうの体で広場に姿を見せたものがある。
馬に乗っているところを見ると、食料を調達しにふもとへ下りていた仲間のようだった。よほど急いで駆けあがって来たらしく、大きく息を切らしている。
「何ごとだ!」
「他の連中はどうしたんだ!?」
その男は馬から飛びおり、後ろを振り向き、あえぎながら言った。
「他の連中はみんなやられちまった。残ったのは俺一人だ」
どよめきが起きた。
色事どころではなくなった様子の首領が言う。
「や、役人どもの仕業か?」
ふもとから駆けつけた男は青い顔をして首を振った。
「役人があんな荒っぽい真似をするわけがねえ。昨日から帰ってこない連中のこともあるし、俺たちは十人一組になって、一番山に近い農家を襲ったんだ。いつものことだ。家の連中は固く戸締まりをして姿も見せねえ。楽々獲物を持って引きあげようとしたら、いきなり妙な連中が襲いかかってきやがったんだ。物置に隠れていやがった」
山賊どもはさすがに動揺したようである。
「どういうことだ! 昨日といい、今日といい!」
「親分。どうします!?」
「相手が役人だとしたら、まともに相手にするのは分が悪すぎますぜ」
知らせを持って来た男が、かたくなに首を振る。
「役人なんかじゃねえ! むしろ俺たちと同じような山の男に見えた。それも相当に荒っぽい連中だ」
「ううむ……」
唸ってしまった山賊の首領である。
当然のことながら男に突きつけていた刃はゆるみ、意識も男から離れている。
半裸になった少女がちらりと男に目くばせを送るのと、男が、ぱっと体《たい》を返すのとが同時だった。
「あっ!」
山賊どもが慌てて構えを直したが、ウォルは素早く首領の刃の下から逃れ、目当ての山賊に当て身を入れて、自分の剣を取り戻していた。
同じく、少女も手近の一人に飛びかかった。
一撃で大の男を殴り倒し、その手から剣を奪い取る。ウォルに斬りつけようとしていた首領めがけて、すごい勢いで投げつけた。
「うわっ!!」
間一髪のところで首領は身をかわしたが、刃は空を切った。その隙に男は完全に首領の手から逃れ、包囲を抜けた。
この間、少女は地面に刺した己の剣まで飛びすさり、引き抜いている。
「来い!!」
少女が大喝した。
男に向かっての呼びかけだった。
もとより逆らう理由はない。
外套を翻して、これも一跳びで少女のいる広場の端まで移動する。
「野郎!」
「逃がすか!」
山賊どもは性懲りもなく男と少女を追おうとしたが、その時、突然、暗闇から疾って来た矢が二本、山賊どもに襲いかかったのである。
「あっ!」
その矢は見事に、弓を持っていた山賊二人を地面に打ち倒していた。
これには男も少女も驚いた。
素早く茂みに身をひそめて成りゆきを窺う。
「何だ!」
「何ごとだ!」
山賊どもはあり得ない奇襲に一斉に驚きの声をあげた。
「どこから射込んできやがった!」
首領がわめいた。
あたりはあいかわらず静まりかえっている。
この広場は周囲の蝋燭に明るく照らしだされている。
暗い茂みから見れば格好の的が並んでいたのだろうが、十数人いる男たちの中から弓を持っているものを狙って射たのだとすれば、たいへんな腕前だった。
山賊どもにもそれがわかったのだろう。手に手に武器を構え、油断なく身構えた。
応えるように、ふもとに面した広場の端から、棍棒を持った男がゆっくりと現れた。
四十がらみに見える男だった。
さらに弓を持ったものが二人、山刀や短刀を持ったものが四人。全部で七人が次々と姿を見せたのである。
身なりも装備もばらばらだが、先程駆け戻った男が告げたように、山野でたくましく生きる男たちのように見えた。
「何だ、てめえらは!」
首領が詰問する。
「それはこちらの言うことだ」
七人の後ろ、茂みの中から声が響いた。
意外なほどに若い、凛《りん》とした男の声だった。
木々が邪魔をして、二人のいるところからは姿が見えない。
「同じ稼業の礼儀として先に名乗ってもらおうか。貴様らの首領の名と後ろ盾は?」
同業者と聞いて、山賊の首領はいきりたったようである。
「どこのちんぴらか知らねえが、たいそうなまねをしてくれたな! ふもとでわしらの邪魔をしくさったのも貴様らだろうが、聞いて驚くな! わしはギルツィ山の義賊の首領ガレフじゃ! 後ろ盾にはタウ山脈の荒くれ男どもがそっくり控えておるわい! それを問答無用で仲間を射殺すとは! 覚悟してもらおうかい!」
無頼者の間でタウの山賊の名を聞いて怯まないものはない。しかし、この連中は違った。表情一つ動かさなかった。
先程と同じ声が言う。
「みんな。聞いたな?」
各《おの》々《おの》頷くだけで答に変えた。
「それならこちらも名乗るとしようか。まずはタウの北、ツール村の代表、ブラン」
「おう」
真っ先に現れた、太い棍棒を構えた男が短く答えた。
「同じく北のカジク代表、ニモ。西北ヌイの代表、フレッカ。東北レント代表、サルジ。東はソベリン代表、ジョグ。同じく東のアデルフォ代表、ダリ。東南からはペトル代表、アザレイ」
見えない声が一人一人の名前を読みあげるたび、ずらりと揃った七人の男たちがそれぞれ鋭く答えるのである。
一方の山賊どもの様子はみるみる変わっていった。
それまでの威勢のよさはどこへやらである。皆、顔面蒼白になって震えている。
「この名前は知ってるわけかい?」
あざけるような口調である。
「それならタウの自由民の名を騙ったものがどうなるかくらい、知っているはずだな?」
茂みに隠れてこれを聞いていた二人は、さすがに驚いていた。
どうやら、本物のタウの山賊が、自分たちの名を騙るものを成敗に来たらしい。
「えらくまた義理堅い山賊さんだな」
いつもの調子を取り戻して呟いた少女だが、男は乗ってこない。
驚いたような顔をして、広場の方を食いいるように見つめている。
何が見えるのかと少女も視線を広場に戻した。
「こんな南ですることだから、まさか俺たちの耳には入らないとでも思ったかい?」
若い男の声はあいかわらずおもしろそうに続けている。指揮を執っている肝心のその男の姿だけが見えない。
手に手に武器を構え、今や完全に山賊どもを圧倒しているタウの男たちと、抵抗する気力も根こそぎ奪われたらしい山賊どもが見えるだけだ。
「あいにくとタウには大陸中の旅人が通る関所があるんだぜ。特にこの中央で起きていることで俺たちの耳に入らないことなぞあるもんかい。半月前のことだ。いつものように裕福な商人からほんのわずかの通行料をいただこうとしたら、たまげるじゃないか。デルフィニアの南ポートナム地方にタウの自由民が出張してるときやがった。しかも、何だ? 農家から家畜をぶんどり、牧場を荒らしまわり、村の娘を拐《かどわ》かす? あげくの果てに抵抗した村人を斬って捨てただと? 冗談じゃねえぜ。そんなタウの自由民がいるわけはないし、いるとしたら一大事だ。さっそく、頭目の命令で、俺たちが真偽を確かめに来たってわけさ」
そこまで言って一歩進み出た男の横顔が、二人のいるところから見えた。
若い男だった。
それも山賊にしておくのは惜しいくらいの端正な横顔だった。
すらりとした長身に纏うのは上着から長靴まで黒一色の衣装である。顔も負けず劣らず日に灼けていて、金褐色の肌の色と黒の衣服が暗がりに溶けこむようだった。対照的に淡い金髪をきれいに刈りこみ、腰には長剣を差している。
山賊というよりも、それこそ自由戦士とでも言ったほうが似つかわしい風体である。
少女はこの先どうなるのかと山賊同士の喧嘩を見物するつもりでいたが、連れの男がやにわに立ちあがった。驚愕の面持ちで叫んだ。
「イヴン!!」
それこそ大音声の呼びかけだった。
いきなり名を呼ばれてぎょっとしたのが、指揮を執っていた男である。思わず振り向き、茂みの中から現れた男の姿を認めて、これも驚愕の表情を顔一面に浮かべたのだ。
「ウォル!? お前……」
一瞬棒立ちになって二人は互いを見つめあった。
よほどに信じられない再会だったらしい。とっさに言葉が出てこない。
その隙にギルツィ山の山賊どもが息を吹きかえした。彼らにとってはもう破れかぶれである。
「うわあああ!」
そんな喚き声を発し、一斉にタウの山賊たちに襲いかかって行った。
「ちいっ!」
イヴンと呼ばれた男はすかさず剣を引き抜いた。
男も跳びだした。
少女も続いた。むろん、味方をするのはタウの山賊のほうである。
まだ弓矢を持っていた一人が、急いで弓を引こうとしたところへ少女が襲いかかった。
大剣を一閃させ、弓の弦を切断したのである。
「なに!」
焦ったところで手遅れだ。
すでに弓は使い物にならなくなっている。
一方、剣を握っていた山賊どもは果敢にタウの山賊に向かっていったが、タウの男たちは楽々とこれをあしらった。棍棒を握ったツールのブランや他の仲間は振りまわす刃などものともせずに、相手に棍棒の一撃を繰りこんだ。
たまらず目を剥いたき、がっくりと膝が崩れかかったところを、首筋に一撃。
首領のガレフは、先まで男に突きつけていた山刀を振りかざし、敵方の『頭《かしら》』と見たイヴンに襲いかかったが、相手の長剣の方が遥かに速かった。
すらりとした細身に見えるイヴンだが、その剣先の鋭さは完全にガレフを圧倒していた。しかも力も備えていた。
二合としないうちにガレフの山刀を叩き落とし、動きを封じていたのである。
首領に並んでイヴンを攻撃しようとした山賊がもう一人いたが、これはウォルがあっさりと峯打ちに倒した。
その頃には他の戦いも決着がついていた。
ギルツィ山の山賊は皆、地面に倒れるか、両手を挙げて降参の意を示しており、タウの山賊たちが、かねて用意していたらしい縄を使って、そやつらを縛りあげにかかっている。
「ブラン。こいつも頼む」
それだけ言うと、血をつけもしなかった剣を 《さや》に収めてイヴンは突然の味方を振り向いた。
男も黙って相手を見つめていた。
手を伸ばせば届く距離にいるのに、それが互いに信じられないとでもいうように、言葉もなく相手の顔に見入っている。
少女も、他の仲間たちもどういうことかと成りゆきを窺っていると、イヴンが満面に悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべ、高らかに言ってのけたのだ。
「いよう、国王陛下!!」
ウォルも心から楽しそうな笑い声をあげた。
「夢ではないかと思ったぞ! イヴン!」
固く抱きあった。
「よくまあ……よくまあ、生きてたじゃねえか! てっきり狼に食われちまったかと思ってたぞ!」
黒衣の山賊は相手の肩と言わず背中と言わずに力一杯しがみつき、確かめるように叩いている。
「お前のほうこそ! 五年も音沙汰なしかと思えば、山賊稼業とはな!」
ウォルは相手の短い髪をくしゃくしゃにかきまわしている。二人とも顔中に泣き笑いの表情を浮かべていた。
065_挿絵2
「これはいったいどうしたことだ?」
「ああ。聞いてのとおりさ」
少し息を落ち着けて、「タウのな、村の一つに食《しょっ》客《かく》として厄介になってたんだよ。まあ、ちょっとは山賊のまねごともしてたがな。そうしたら、どこかのふざけた連中がよりにもよってタウの自由民の名前を騙ったっていうんで、頭目に頼まれてここまで来たのさ」
「頭目とは、タウの山賊の頭のことか?」
「いや、まあ……」
イヴンは苦笑している。
よりにもよって『国王』に山賊の構成を説明するはめになるとは思わなかったのだろう。
「つまりは村長なんだがな。いざ一つの村が戦闘集団に早変わりってな時に、そう呼ばれるわけさ。ここにいる仲間たちも、それぞれの村を代表してる。組頭と呼ばれる男たちだ」
「ほほう」
男は目を見張った。
「それほどの実力者たちが偽物退治にわざわざ乗りだしてくるとはな。長年すぐ近くに暮らしていたというのに、タウの山賊がこれほど義理堅いとは、不覚にも今まで知らなかった」
素直に感心している。
そんな様子にイヴンがくすりと微笑した。
「タウにはタウの掟がある。それをこうまで木《こっ》端《ぱ》微《み》塵《じん》に踏みにじられちゃあ、黙って見ているわけにはいかないからな」
「なるほど。仁義というやつか」
「ま、そんなとこだな」
その仲間たちはまだ不思議そうに二人を見やっている。
そんな彼らにイヴンは至って気楽に声をかけた。
「おう、みんな。紹介するぜ。たまげるなよ。これはウォル・グリークっていってな。デルフィニアの王様だぞ」
男たちの顔に失笑が浮かんだのは言うまでもない。
「ベノアの副頭目はきつい冗談を言うねえ……」
「王様がこんな山の中をうろうろしていなさるわけがねえだろうが……」
副頭目と聞いてウォルのほうが驚いた。
「ずいぶんと出世したものだな」
「ちゃかすな。どういうわけかベノアの頭目が俺を気に入ってくれてな。そう呼ばれてるだけだ。あのな、みんな。信じられないのはわかるが、こいつは正真正銘の王様だぞ。半年前、コーラルでごたごたが起きた時、王様は一人でパキラを越えて国外へ逃げたとみんなも聞いただろうが。その本人だ」
ウォルに視線を移して、「無事に国外へ出られたかどうかもあやしいと思ってたが……。戻って来たってことは、もしかしてお前、コーラルと一戦交える気か?」
「むろんだ。俺は何としても俺の都と王冠を取り戻すぞ」
「へへえ? さすがに言うことがだいぶん王様らしくなってやがるな」
「からかうな。俺には必死のことだ」
山賊仲間たちはまだ半信半疑だったが、一人がおそるおそる言いだした。
「もし、よ。副頭目。このお人は本物の王様だっていうのかい?」
別の一人も疑わしげに言う。
「あんた、どうやって王様なんかとお近づきになったんだい?」
これに対するイヴンの答は麗《うら》らかなものだった。
分厚い男の胸をこぶしで叩いて言う。
「俺の知りあいで、昔一緒に真っ黒になって遊んだのは王様でも何でもない、ただの田舎伯爵の小せがれさ。なのに何の因果か、驚くなかれ、その小せがれさんは、実は偉大なるドゥルーワ明賢王の落とし胤《だね》だったっていうわけだ」
タウの山賊たちは一斉に目を剥いたいた。
イヴンは感慨深げに言う。
「旅の空でそのことを聞いた時にはぶったまげたぜ。俺だってデルフィニア人の端はしくれだ。国に王様がいないってのは何とも心細い限りだった。ところが一年前、すったもんだのあげくにようやく新しい王様が決まったと思ったらそれがなんと、もとはスーシャのフェルナン伯爵家の一人息子だっていうじゃねえか。俺はな。その話をしてくれた奴を締めあげて五回も同じことを言わせちまったんだぞ」
男も苦笑を漏らしていた。
「俺に取っても青天の霹《へき》靂《れき》だったさ。真っ先にお前の耳に入れたかったのだが……」
当の幼なじみは気恥ずかしそうに首をすくめてみせた。
「留守にしててよかったぜ。あの頑固者の伯爵には申しわけないことだが、どうにもこうにも、なあ。本来ならもう、こんなぐあいに気安げに話しかけたりするのもいけないんだろうが、なにしろ……」
困ったように頭を掻いたものだ。
「昔が昔だからな。とてもじゃないがお前に向かって陛下だなんて艶《つや》をつけては喋れなかったろうよ。今でもこの有様だ。人前でなら何とかできると思うんだが……。悪いな」
かつての幼なじみでも、今は天地ほどに立場の違う相手である。ためらいがちに言いだしたイヴンなのだが、ウォルはほとんど目元を熱くして、大まじめに頷いたものだ。
「ありがたい。まことにもってありがたい。実はな。お前ならばそう言ってくれるのではないかと、ずっと思っていたのだ」
父親でさえ頭を下げたという現実を知らないからだろうが、昔のままに接してくれる。
口先で言ったのではない。それが男には何より嬉しく、ありがたいことだったのだ。
「お前もたいがい大仰な奴だな」
イヴンのほうが呆れている。
「それで? コーラル奪回に向かうはずの王様が、こんなところで一人ぽっちで何をしてる?」
「いや、一人ではない」
そこでようやく少女の存在を思い出し、振り返って見ると、少女は身じたくの真っ最中だった。
上着をかぶって剣帯を下げ、長靴を履き、両手に布を巻きつけたところである。
後は髪を結いあげるだけだったが、男の目線に気づいて近寄ってきた。
小さな白い顔の美しさと腰まで流れる黄金の髪の見事さに、今度はタウの山賊たちが一様に息を呑んだものだ。
「こりゃあ、また……」
イヴンが呆れたように言った。
そんな青年を少女は見上げて、にこりと笑い、男に向かって問いかけた。
「友達?」
「ああ。これはな、スーシャのイヴン。昔はしょっちゅう悪ふざけをして遊んだ幼なじみだ」
「よかったねえ……」
少女が、これもしみじみと言う。
何が『よかった』のかイヴンにはわからない。
不思議そうな表情になったが、ウォルも微笑するだけで詳しいことは語らなかった。
「イヴン。この娘はグリンディエタ・ラーデン。そうさな、俺の戦友だ」
再び目を剥いたいたイヴンだった。
くっきりとあざやかな濃い碧の瞳だった。
「戦友、だあ……?」
「そうだ。コーラル奪回のための重要な戦力であり、無二の味方でもある」
今度はイヴンのほうが恐ろしく疑わしげな目で少女を見たが、当然と言わねばなるまい。
少女は長い髪を慣れた仕草でまとめあげて、紐をかけている。小さな手はそうして髪を結ったり、もしくは花を摘んだりするのにもっとも適しているように見えるし、細い体はこんな山中に置いておくのがいっそ気の毒なように見えるのだ。
しばらく考え込んでいたタウの副頭目は、やがて小声で友人に耳打ちした。
「おい……。お前いったいいつから、そんな趣味になったんだ?」
いつから成人した女性ではなく、こんな少女を愛するようになったのかと言いたいらしい。
男は苦笑して、「お前の思っているようなことは何もないぞ。俺はこの娘の恋《こい》男《おとこ》としては落第らしいからな」
先程さんざん非難されたことを言っているようである。
「何だ? 気にしてたの」
元通りに髪を包みながら少女があっさりと言った。
「いや、まあ。あの状況下では止むを得んだろうからな」
「そうだよ。馬鹿も石頭も鈍いのも本当だろ?」
「リィ……」
男はさすがに顔をしかめた。
「自覚があるだけに何とも言えんが……もう少し、何とかならんか」
少女は楽しそうに笑って、「さっきのは嘘。馬鹿も石頭も鈍いのも嫌いじゃないよ。りこうすぎたり切れすぎて自滅したりするより、よっぽどいい」
男も高らかに笑い声をあげた。
「まったく、ものは言いようだ。わかった。そういうことにしておいてくれ」
「いいよ」
妙な合意である。
国王の幼なじみは、さらに目を見張っていた。
その夜はギルツィの山賊の根城だった広場で、一晩中、山賊たちと国王との世間話になった。
数年ぶりの再会を喜んだイヴンはこだわりなく、自分たちの宴席に幼なじみを招待したわけだが、タウの男たちは一人一人言葉少なに名乗った後は何やら気まずそうにしていた。
何といっても自分たちは法を侵している身であるし、相手は今は流浪の身とは言え、その法を建てる張本人であるわけだから、うちとけようにも無理があるのだ。
しかし、国王のほうは至って気さくに、男たちの間に割って入ったのである。
「話に聞いたことはあるが、タウの山賊とはたいしたものだ。こんな遠くまで自分たちの名を汚すものをわざわざ懲らしめに来るとは、なかなかできぬことだぞ」
「間違えるな。自由民だ。タウの村の男たちは自分たちのことを山賊だとは思っちゃいねえよ」
イヴンが言う。
他の一人、ヌイのフレッカと名乗った男が、小さく笑った。
「まあ。それじゃあ、まるっきりの猟師かと言われると、ちと困っちまいますがね。少なくともこいつらみたいな外道はやらねえ」
ツールのブランも力強く頷いた。
「おお。さっき、ふもとで話を聞いて、おりゃあ、頭が煮えるかと思ったぞ。こんな狼藉のしたい放題を働いて、あげくタウの名前を出されたんじゃあ、俺たちの立つ瀬がねえ」
「確かに、そのとおりだ。その心意気だけでなく、遠路はるばる出向いて来てのこの活躍はまことに立派なものだ。ぜひとも何らかの恩賞があってしかるべきだし、俺からも領主に話しておこう」
すると、男たちが慌ててかたちを改め、「いや、その……」
「それはちょっと……」
固辞する構えである。
「何か不都合なことでもあるのか?」
不思議そうに男が聞くと、イヴンが呆れはてた顔つきで言った。
「あのなあ。王様にこんなことは言いたくないがな。俺たちは一応お尋ねものなんだぞ。それが真っ昼間の領主の館なんぞに、のこのこ出ていけると思ってるのか?」
「しかし、実際に、迷惑至極だったこの山の連中を退治したのはお前たちの手柄ではないか?」
「そりゃ、そうだがな……」
「だったら、黙って報酬を受けとって帰っても悪いことはないと思うぞ。悪者を退治したものに恩賞が与えられるのは当然というものだ」
イヴンはとことん呆れたようなため息を漏らし、タウの山賊たちは耳を疑う顔つきで絶句し、そして一人混ざって大人たちの話を聞いていた少女はたまりかねて笑いだしていた。
「ほんとに、変な王様だ」
「同感だ」
イヴンがしみじみと相を打つ。
「王宮へ行って、王様暮らしを始めて、ちょっとは変わってるんじゃないかと思えば、まったく……。仮にも国王陛下の言うことかよ」
「しかし、お前たちにしてもここまでやってくるだけでも、かなりの入費のはずだぞ」
「まあな。加えて被害に遭った農家にも、それ相応の弁償をしなきゃならねえからな」
ウォルは驚いて友人を見た。
「そこまでするのか? お前たちが?」
「そのくらいの金はそれこそ山賊稼業で稼いでるからな。勘違いするなよ? 俺たちは何も正義感からこんなことをするわけじゃない。けじめはつけておきたいからさ。代わりと言っちゃあなんだが……」
イヴンの碧い目が鋭く光った。
「タウの名を騙った奴らはここの役人には引きわたさないぜ。頭目たちが待ってるからな」
「連れて帰るというのか? たいへんな長旅だぞ。たった八人で護送しきれるものでもあるまい?」
「タウにはタウのやり方があるのさ」
イヴンは取りあわない。
「タウの頭目たちも、ここにいる仲間たちも、こいつらに名を汚された。当然その汚辱は自分たちの手で拭わなきゃならない。人任せにはできないから、こうして出てきたんだ。こいつらの裁きはタウの二十人の頭目が決める」
つまりは私刑にかけるということだ。
少女は黙って男を見ていた。どうするのかと思ったのだ。
法を順守する側についている以上、こんな無法を許すわけにはいかないはずだ。
まして国王という最高権力者である。
タウの男たちも厳しい目で男を見つめ、その言葉を待ちうけている。
男はしばらく考えて、言った。
「この連中はおそらく殺人もやってのけているのだろうな」
「ああ。下で聞きこんだところだと、わかっただけで三人殺されてる。それで下の農家の連中、さわらぬ神にたたりなしと思いこんだらしい」
「その、タウの長老たちの裁きで、死刑以外の判決が下る可能性はあるのか?」
「それどころか、一番軽くて死刑だと思うぞ」
「そうか」
ウォルはあっさりと頷いた。
「それなら、お前たちに任せる。三人も殺した以上、どのみちこちらの法律でも死刑だ。手間が省ける」
少女がまた吹きだした。
イヴンが楽しそうに笑いながら、大きく友人の肩を叩いた。
「さすがにお前は話がわかるぜ」
残りの者たちは、ことの成りゆきが信じられないようで、中にはこっそりイヴンにこんなことを囁く者もいた。
「なあ、副頭目。ずいぶんへんてこりんな王様も、あったもんだな」
「俺はてっきり、俺たちもまとめて役人に引きわたされるのかと思ったぞ」
もっともといえばもっともな意見である。
しかし、副頭目はそんな仲間たちに真顔で言い返したのだ。
「おうよ。こんな変な王様、大陸中探したっていやしねえぞ」
嬉しそうな口調だった。
この男はこの男なりに、今は殿《てん》上《じょう》人《びと》となった友人の気性が変わらずにあることを喜んでいるらしい。
上機嫌で酒を傾け、男にも勧めた。
「それで? コーラルを取り戻すのに軍勢はどのくらい集まったんだ?」
「今のところこの娘一人だ」
危うく酒の器を取り落としそうになったイヴンである。
しかし、少女も男も何処吹く風である。特に少女は男たちの呑んでいる強い酒類に興味をそそられたらしい。男の手から木で作った椀を取りあげ、一口含んだ。
「お、おい……」
見ていた荒くれ男たちのほうが青くなったが、もちろん、そんなものでこの少女がどうにかなるわけがない。
「おいしい」
と、目を輝かせた。
横にいたウォルが苦笑して、「俺が変な国王なら、この娘はまさしく、変な娘としか言いようのないものでな」
「だから結構、気が合ってる」
少女が言い、今度はなみなみと椀に満たした酒を一息で呷った。
男たちはあっけにとられて、その様子を見つめていたのである。
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翌日の夕刻、十人に膨れあがった国王一行が、ギルツィ山を越え、ロシェの街道を進んでいた。
イヴンをはじめとするタウの男たちが、そっくり同行を申しでてきたのである。
実は、こう決まるまでには、ちょっとした悶着があった。
山賊たちを捕えた翌朝、タウの男たちと共に街道方面へ下山したウォルは、真っ先に近くの庄屋を訪ね、紙とペンを借り、ポートナムの領主へ当てた手紙をしたためた。
ことの次第を書き記したものだ。
その間、少女が待っているのは当然としても、タウの男たちまでもが動かず、男の用事の済むのを待っていた。
目立つことこの上ない。
なにしろ男たちの足元には、縄をかけられたギルツィ山の山賊どもがずらりと並んでいるのだ。
朝の作業に出ていく農夫たちが何人も目を見張り、時にはひそひそ囁きながら通りすぎてゆく者もいたくらいである。
用事を済ませると、男は少女を連れて街道を目指した。ギルツィ山を下ってロシェの街道に出るには細いながらも皆が使う道が設けられている。
その通路を進むうちに、イヴンがちょっと待ってくれと言いだした。
「俺も一緒に行く」
というのだ。
ウォルは、相手がそう言うだろうことをある程度は予期していたらしい。ほのかに微笑した。
「気持ちはありがたいが、先の見えない道行きだ。まして、この山賊たちを護送するという話はどうなる?」
「だから。ちょっと待ってくれって」
イヴンは笑うだけで取りあわない。
足を止めたそこは一面の野原だった。
遠くに民家が点在し、振り返れば今下ってきたギルツィ山脈が青々と見えている。
前後は細く伸びる一本道で、左手に大きな木が一本立っていた。
彼らは初めからこの木を目印にしていたらしい。
何も言わないうちから仲間たちが立ちどまり、道を外れて木の下で待ちの態勢に入った。
「誰かと待ちあわせか?」
「まあ。そんなところだ」
すでに太陽は高く登っている。
はたしてしばらくすると、別の山から下山して来たらしい男たちが一行に合流したのである。
やはり、山の男たちらしい。年齢はまちまちだが、それぞれがっしりした体つきで、厳重な足ごしらえをし、腰には鉈や山刀を下げている。
十人ほどいる男たちの中から三十半ばに見える男が一人進み出て、親しげに片手を上げてイヴンに挨拶した。
「よう、ベノアの」
「や、マイキー。首尾はどうだい」
マイキーと呼ばれた男は軽く頷き、縄で縛られた捕虜を見てかすかに笑ってみせた。
「うまくいったらしいな」
「ああ。そっちは?」
「なんとか。できるかぎりのことはしてきた」
そんなことを話しあっていた。
イヴンが捕えた男たちを引き渡して護送を頼むと言うと、マイキーは驚いたようである。
「どうかしたのか?」
「ちょっと、な。他に用事ができた」
イヴンは男と少女を振り返り、一緒に来た仲間に言った。
「すまねえな。俺は昔のよしみでこいつに味方する。ここでお別れだ。ベノアの頭目にはそのうち挨拶に行くからと伝えといてくれ」
イヴンは自分一人だけ仲間と離れて友人と行動を共にするつもりだったらしいが、他の男たちは首を振った。イヴン同様、ウォルと共に東を目指すと言いだしたのだ。
「あんたの指図で動くようにというのが、うちの頭目の言いつけだからな」
と、ブランが言えば、「俺も、そう言われてる」
「俺もだ。そのあんたを一人残して、自分だけ村へ帰るわけにはいかねえ」
皆、申しあわせたように言葉をそろえた。
これは建前で、本音は、ひょんなことから間近にすることになった『王様』が引っかかっているらしい。
しかも、この王様、そんじょそこらではお目にかかれないような珍品である。興味を持っても不思議はない。
イヴンもわかっているようで、笑って、「物好きなやつらだぜ」
それだけで済ませてしまった。
「おう、王様。そんなわけで、山賊でよければ一軍に加えてもらいたいんだがね。まあ、訓練された兵隊みたいにはいかないが、それも使い方次第だ。相手がパキラ山なら俺たちにもできることがあるだろうぜ」
物《もの》見《み》遊《ゆ》山《さん》にでも同行しようかという気楽さだ。
本来ならば、もっともらしく体裁をつけて跪《ひざまず》いて、国王陛下にお味方いたしますと申し出るのが当然なのだが、肝心なのは中身である。形式など、後からとってつければいいというのが、イヴンのやり方だった。
男も咎めはしなかった。笑って頷いた。
一方、新たに現れた男たちは、一人異彩を放っている男が国王と聞いて仰天したらしい。
何人かは後ずさりかけ、何人かは思わず身構えたくらいだ。中でもマイキーと呼ばれた男は血相を変えてイヴンに迫った。
「ベノアの。どういうことだ、これは!?」
「どうもこうもない。聞いてのとおりさ。これは、ウォル・グリーク。名前くらいは聞いたことがあるだろうぜ。デルフィニアの王様だ。今は何も持っていない王様だがな」
マイキーを筆頭とする十人は互いに顔を見合わせ、何人かはこわごわとウォルの顔を窺った。
「王様だって……」
「本物のか?」
タウの山賊には百年以上の歴史がある。
もともとは山麓に少数の山岳民が住みついているだけの小さな村落だったのが、逃げこむ男たちが増えるに連れ、次第に山奥へと移動し、女たちも住みつくようになり、今では二十の村ができている。
タウで生まれ育ち、封建のありさまを知らぬ世代も多いのだ。
今のタウ山脈に住む山岳民たちは、自分たちの生みだした一種の共和政治とでも言えるものによって、自らを管理している。
しかし、もとを正せば何らかの犯罪を犯し、捕縛を嫌って逃亡した連中だ。以来、国に対しての義務は一切果たしていない。露見すれば罰せられずにはすまない身であることも充分に承知している。
それだけに、君主というものに対して実感はないにせよ、権威とは自分たちとは決して相容れない存在であることは、タウに住み暮らすものたちが骨身に沁みて心得ていることでもあった。
なのに、タウの村の中でも古い歴史があり、したがって勢力もあるベノアの副頭目が、その権威の側につくという。
見逃すわけにはいかないと思ったのだろう。マイキーの側にいた若い男が目線を険しくして、イヴンに詰めよった。
「呆れた野郎だぜ。あれほどベノアの頭目にかわいがられていながら、俺たちを裏切って国王なんぞに味方をするってのか? しょせん、よそ者はよそ者かよ。こんなことを頭目が聞いたらさぞかし嘆くだろうよ」
「おやおや。タウの自由民がよそ者なんて言葉を口にしていいのかな?」
イヴンは平気の平座でまぜっかえした。
「もともと中央のあらゆる地方の人間が逃げこんだタウだ。よそ者も地元もあるもんかい。タウを目指して逃げこんだものは誰であろうと、誓いを守る限りは快く受け入れる。だからこそ、誇りを持って自由民と名乗る。そうじゃないのかい?」
「それがわかっているんなら、なんだって国王なんかに肩入れするんだ!」
イヴンの碧い目が初めて真剣な色になった。
「お前ならどうするか教えてもらいたい。五年ぶりに再会した友人がたった一人で戦に乗りだしていくとしたら? しかもそれが難攻不落のコーラル城と一万の近衛兵団に立ち向かうのだとしたら? 肩書きが気に入らないからと言って見捨てるのが男か」
若い男はぐっと言葉を呑んだ。
ウォルはこの様子を黙って見ていた。イヴンの応援と弁護に回りたいのはやまやまだが、ここは自分の出る幕ではないとわかっていたからだ。
「ベノアの頭目には後で必ず詫びを言いに行く。とりあえず、一応の目的は果たしたんだ。タウの名を騙った奴らはみんな、ここにまとめてある。ふてぶてしい連中だぜ。後ろ盾にはタウの男たちがそっくり控えていると、堂々と言い放ちやがった」
そのタウの男たちに一斉に白く睨まれたのだから、縛られている山賊どもはそれこそ生きた心地がしなかっただろう。
「しかし、少ないな。お前たちの三倍は数がいると思ったが、さすがはベノアの……」
「いや。残りはその王様が片づけた」
今度は山の男たちは一斉に国王に目を向けたものである。
もっとも、当の王様はこれに異議を唱えようとした。実際はほとんど少女が片づけたのだ。
そう言おうとしたのだが、少女が身ぶりで押しとどめた。
話がややこしくなるし、ここは男の手柄にしておいたほうがいいと、緑の瞳が語っている。
山賊たちの視線を一身に浴びることになった男は一歩を進みでて、初めて口を開いた。
「タウの自由民にポートナム地方の農家を代表して礼を言いたい。このあたりの者たちはずいぶん、この連中に苦しめられていたのだ。本来なら俺のするべきことだが、今はご覧のとおりの身の上だからな。面倒をかけた」
マイキーも他の男たちも、さすがにどぎまぎした様子で頭を下げた。
「その……王様に礼を言われるようなことは何もしちゃあいません。俺たちにとっては当然のことなんで……」
「まったく、ふざけた野郎どもで……」
そんなことをしどろもどろになりながら言う。
男は重ねて、「タウの男たちの心意気、しかと見せてもらった。スーシャに育った俺にとって、タウは常に故郷の自慢だった。その姿も、今はそこに住む人々も、心から誇りに思う。そう頭目に伝えてくれ」
「へ……」
これほど褒められてしまってはどうしたらいいものかわからず、男たちはただもうひたすら頭を下げるばかりである。
マイキーももちろんその一人だった。
しかし、彼は彼で一つの村の副頭目をつとめている男だ。感心したように目を見張り、少し離れたところまでイヴンを引っぱっていき、小声で囁いた。
「ずいぶんと、くだけた王様らしいな」
「あたぼうよ。何と言ってもこの俺の昔なじみだ」
笑いとばしたイヴンだが、マイキーは真顔になってさらに言った。
「お前はそれで、コーラル奪回のために、国王軍に参加しようというわけか?」
「あいつは軍と言えるほどのものは何も持っちゃいないぜ。なにしろ、今のところ、味方はあの娘一人だけという有様らしいからな」
マイキーは盛大に顔をしかめた。
「相手は難攻不落のコーラル城と一万の近衛兵団。その意味がわかっているのか?」
「ああ」
「九分九厘、勝ち目のない戦になるぞ」
「ああ」
「まず、生きては帰れないぞ」
「それはどうだかわからねえよ」
イヴンは言った。決して虚勢ではない笑みを浮かべていた。
「どんな勝算があるんだか知らないが、あの馬鹿、本気でコーラルを取り戻すつもりでいやがる」
「ばかな……」
「俺もそう思う」
イヴンは感慨深げである。
「どう考えたってむちゃくちゃだ。そんなことくらい、俺にだってわかる。あいつの味方をしてくれそうな人達は皆捕まって閉じこめられてるし、傭兵を雇うだけの金もない。偽王の汚名も王子王女殺害の疑惑も拭えたわけじゃない。このデルフィニアに、そんな丸裸の王様に味方しようなんて物好きがどのくらいいるもんか、はなはだあやしい。まさしく孤立無援ってやつだ。なのに、あいつはちっとも悲観しちゃいない」
マイキーは今度は何やら薄気味悪そうな目で、仲間たちと楽しげに話している国王を見やったのである。
「あの王様……。こっちのほうは確かなんだろうな」
自分の頭を指さしながら疑わしげに言った。
イヴンは低く笑っている。
「昔からそうなのさ。何にも考えていないようで妙に腹が座っていやがる。目端も利く。鈍重に見えるのに驚くほどの行動力がある。本当の大人物なのか、それともただの馬鹿なのか、よく悩まされたもんだ。王様になってちっとは変わっているかと思えば、呆れるくらい昔のままだ」
「お前はそれが嬉しいらしい」
にこりともせずにマイキーは言った。
イヴンは唇の端だけで笑ってみせた。悪戯いたずらな笑みの中で、特徴的な碧い瞳だけがこわいくらいに真摯な光を浮かべていた。
「わかってるんなら訊くんじゃねえよ」
軽いため息を吐いたマイキーは、諦め顔で同僚の肩を叩いたのである。
「俺がベノアの頭目に恨まれそうだな。あの人は、ゆくゆくはお前を自分の後継者にとまで考えてたってのに」
イヴンの端正な顔が少し歪んだ。
しかし、すぐにそんな表情は消して、とぼけた笑みを浮かべている。
「ああ。あの人は俺みたいな流れものに、ずいぶん目をかけてくれたからな」
マイキーはかすかに頷いた。
もう仕方がない。いくら引きとめたところで、この男は自分の思うようにするだろう。
「死ぬなよ。イヴン」
「あたぼうよ。頭目に詫びも言わなきゃならないからな」
そうして仲間たちのところへ引き返すと、今度は王様がマイキーに向かって深々と頭を下げたのである。
「今、耳にしたが、諸君らが農家の者たちに、失った家畜の弁償をしてくれたとか。かたじけない」
「よ、よしてくだせえよ……」
大弱りのマイキーである。
「ほんとに、そんな、たいしたことはしちゃいねえんですって……」
常々、貴族や国王が何程のものだと鼻で笑ってはいても、実際にこうして偉い人に頭を下げられてしまうと、どうしても身がすくんでしまう。
これまでも各地を回り、国王だの貴族だのというものは、庶民を家畜同様にしか考えていないとの認識をあらためているマイキーには、この王様はまったく信じられない、桁外れの王様だった。
それから、彼らはしばらく並んで足を進めた。
取りあえずの方向が同じだったからである。
盗賊である彼らが、白昼に堂々と顔をさらしての行軍である。たいへんな度胸だった。
しかも、それだけではない。
街道へ乗るための細い道を彼らが進んでいくと、どこに隠れていたのか、厳重に旅支度をした男たちが現れて、きわめて自然に一行に合流するのである。
先を歩いているものも、後から加わってきたものも一切の無駄口をきかない。
水際立った指揮のもとの軍隊でも見るかのような粛々とした行動である。
そんなことが何度も続き、街道へ出るころには、一行の人数は何と百人近い数にまで膨れあがっていたのである。
「これは、たいへんなものだ……」
ウォルが、感に耐えぬ面持ちで呟いたくらいだ。
応えてイヴンが低く笑った。
「タウの男たちが自分たちを山賊と言わない理由が、ちっとはわかったかい?」
「大いに納得した。タウには二十もの村があるというが、皆、こうなのか?」
「ああ。彼らは国を追いだされ、あるいは自ら国を跳びだし、タウに生きる場所を求めるしかなかった連中だ。それだけに自分たちの生活は自分たちで守る、その意識は強烈だぜ。役人も王様も、タウにはいないからな」
「頼れるものは自分たちだけ、か……」
「それだけ今のタウには人材が揃っているってことでもある。お前は真似するなよ?」
さすがは幼なじみである。
ウォルも笑って頷いた。
「わかっている。いくら俺でも、一人でコーラルをどうこうできるとは考えていない」
「じゃあ、どうする?」
「うむ。ロアを目指してみようかと思っている」
「ロアか。しかしあそこは……」
男の横を歩む少女が尋ねた。
「ロアって、ポートナムの領主の館で言ってたね。どんなところ?」
イヴンが答えた。
「なんだ? 嬢ちゃんはロアに行ったことがないのか?」
「行ったどころか、どこにあるのかも知らない。どんなところ?」
新たに加わったタウの男たちは、男と少女に多少の興味の目を向けていた。
仲間でないことは一目でわかる。しかし、ベノアの副頭目と親しげに話しているのだ。詮索することではないと控えているらしい。
イヴンもマイキーも、そして他の男たちもあえて語ろうとはしなかった。
仲間の中に混乱が起こるのを嫌ったのかもしれなかった。
少女の問いにはイヴンが答えた。
「そうさな。ロアは馬が有名だ。あそこの男たちは代々、馬を作るのがうまい」
「馬を作るの? どうやって」
「つまり……何頭も生まれた中で取りわけいい馬をかけあわせてだな。かけあわせるってわかるか?」
「交配のことでしょ」
「そうだ。そうして、いい馬ばかり生まれるようにするわけだ。もちろん、その後の調教にかけても、ロアの連中はたいしたもんだぜ」
イヴンは笑って、「馬ってのはな。本来、恐ろしく臆病な動物らしいぜ。野生のものはちょっと大きな音を立てただけで驚いて逃げだしちまう。ところが戦場での足に使おうってものが鬨《とき》の声に跳びあがって逃げだしちまうんじゃ、話にも何にもなりゃしないだろ? そこで調教が必要になるわけさ。ロアの男たちはいい馬を見分け、さらに磨きをかけることができる。それだけに本人たちの馬術も相当なもんだ」
少女は感心したように頷き、男を見上げて尋ねた。
「そこへ行って馬を調達する気?」
「それもある」
男が頷いた。
「それもあるが、ロアの領主はフェルナン伯爵の古い友人だ。今はコーラル城内に蟄《ちっ》居《きょ》の身の上だが、俺が無事であることを知れば、必ずや、心強い味方になってくれる人だ。なんとかロアの者たちを頼りに連絡をつけたいのだが……」
「気持ちはわかるがな。ウォル」
この男も国王を呼びすてにする。
「ドラ将軍なら間違いなくお前の味方につくだろうが……そのくらいのことは改革派の連中にもわかっているはずだぜ」
「そうだ。そこが、むずかしい」
当の将軍がコーラル城どころか、彼らと行き違いになる形で西部のビルグナに入ったことを、そして、男を追って折り返す形で急ぎビルグナを出発したことを、彼らはまだ知らなかった。
南ポートナムの領主、セリエ卿《きょう》は困惑の極みに達していた。
朝から立て続けに不思議な報告を受けたのである。
近頃、自分の領内に妙な連中が住みついていることは知っていた。訴えて出るものがほとんどいないので、しかとはわからないながらも、かなりの狼《ろう》藉《ぜき》を働いているらしいということも耳にしていた。
卿としても、何らかの手段を講じる必要を感じていたところ、今日になって家来が言うには、その無頼者どもが一人残らず、何者かによって退治されたらしいという。
驚いてさらに詳しい聞きこみをやらせたところ、被害に遭った農民たちが口を揃えて言うには、タウの自由民と名乗る男たちが、新たな家畜を買うようにと多額の金銭を置いていったという。皆々、その男たちに手を合わせる思いだったともいう。
どういうことかと首をかしげているところへ、紛れもない国王の筆跡による書簡が届いたのである。
内容は、貴殿の領内を荒らしていた者どもは、すべてタウの自由民が捕えた由、その裁きを国王権限においてタウに一任するものであり、追跡も追及も無用とある。
卿は首をかしげっぱなしだった。
突然、流浪の国王の来訪を受けたのは、つい二日前のことである。
その時の国王は子どもの従者一人を連れているだけだった。
タウの山賊は小国の軍隊にも匹敵する力を持ちながら、どこの国の味方も、どんな権力者の指揮下にも入らない存在であるはずだった。
しかし、この状況では、タウの山賊が、あの国王の指揮で動いたとしか思えないではないか。
実際には単なる偶然なのだが、セリエ卿はそんなこととは知らない。感心もし、驚嘆もした。
王権奪回の話を半信半疑で聞いていたが、もしかしたら、あの国王は本当にコーラルを取り戻してしまうかもしれない。
真実デルフィニアの君主として立つ日も、決して夢ではないのかもしれない。
覚えず、武将の血が騒いだ。
味方を要請された時も実をいえば、それも悪くないと思ったのだ。自ら王位を望んだのではないにせよ、どう考えてもペールゼンを筆頭とする改革派は政権を力ずくで奪い取ったのだとしか思えないし、たかだか官僚あがりの侯爵に支配者づらしてあれこれ指図されるのは、それこそ我慢ならない。
むろん、保身を考えれば、まだ動くには早過ぎる時期だ。情勢が見えてくるまでもうしばらくじっとしているべきなのだが、自分の中にあの国王に対する好感情があることは否めない。
これも思い返した。好悪で動くなど軽率かつ単純極まる。大勢の家来の命運をあずかる身だ。もっと深い思慮を持って動くべきである。
しかし、それでは、深慮とは何か。
自問せざるを得ない。
王国がこのままでいいとは思っていない。よかろうはずはない。五年もの間、デルフィニアは主君を持たなかった。卿を含む諸侯たちは仕える相手を失い、やむなくペールゼンらの官僚政治に従ったが、これまた本来同輩であるはずの、もしくは位取りの違う相手の指図を受けるのだから、おもしろかろうはずはない。
ウォル・グリークが現れた時、卿はむしろほっとした。他にもそういうものは多くあったはずだ。妾腹の生まれだろうと何だろうと、ただ一人の前国王の遺児である。喜んで仕えようと思った。
ところが、一度は迎え入れておきながら、ペールゼンを代表とする一派は言いがかりとしか思えぬような理由で国王を追放した。
またもや官僚政治に逆戻りかと苦々しい思いを噛みしめているところへ、あの国王はコーラルに戦いを挑むために、たった一人で戻って来た。
潮時かもしれない。
そう思った。
こうも考えた。あの王は今は一人だ。何も持っていないように見える。味方をするだけ無駄のように思える。だが実際にはペールゼンたち改革派には持ち得ない財産を持っているのではないか。大勢の見えない人の心という宝石を、すでに掴んでいるのではないか。
自分と同じように、現状打開を望んで、あの若い国王に思いを寄せる人は案外の数があるのではないかと、無性にそんな気がするのだ。
思索にふけっている卿の元へ、家来の一人が慌ててやってきたのはこの時である。
「ご主人様。お客様でございます」
「誰だ?」
「ロアのドラ将軍さまとご家来衆五百名。ラモナ騎士団長ナシアスさまと騎士団員二千名。揃ってお越しでございます」
セリエ卿は一瞬、絶句した。
ドラ将軍はコーラルに幽閉の身のはずである。
しかも騎士団員二千名となれば、ラモナ騎士団の全戦力ではないか。
思わず目で確認を取ると、家来もわかっていたようで急いで頷いた。
「皆様、入念な戦支度でございまして、それぞれ大掛かりな荷駄隊を引きつれ、たいへん勇ましいお姿でございます。コーラルへ進軍する道すがら、素通りするも無礼である故、まずはご挨拶までとのご口上でございます」
セリエ卿は低く唸った。
国王の言うことは本当だったのかとまず思った。
ドラ将軍が自由の身とあるならば、現在傍観の姿勢にあるロアからスーシャを含む中北部は一斉に態度を翻し、あの男の味方につくはずだ。希代の猛将と呼ばれるドラ将軍だ。そのくらいの影響力は持っている。
さらにビルグナが動いたのなら、両翼と並び称されるティレドン騎士団の本拠地マレバが足踏みをするはずがない。
もともとマレバは団長であるバルロを救いだそうと血眼になっている。そのため今はコーラルの管理下に置かれ、外部とは連絡が取れないように隔離されているはずだが、騒ぎが大きくなればいつまでも隠しとおせるはずがない。いずれは騎士団内部に知れるところとなる。起爆剤には充分過ぎる材料だ。
「あの……ご主人様。実は、ドラ将軍さまとナシアスさまが、ぜひともご主人様にお会いしたいとのご希望でございますが……、いかがいたしましょう」
これほどの大軍の来訪を受けたことのない執事は口ごもりながら言う。
「お会いしよう。丁重にお通しするのだ」
セリエ卿は張りのある声で言いつけた。
すでに腹は決まっていた。
日が暮れるころロシェの街道に差しかかると、タウの男たちは国王一行から離れて行った。
彼らはこのまま、街道を横断して北上し、スーシャを経由する形でタウに入る。
一方のウォルたちは、つかず離れず街道に沿う形でロアへ向かうことになる。顔を知られているため、街道そのものをたどることはできないが、地元の者が使う細道はいくつもあるのだ。
男は、タウへ向かう一隊の指揮官であるマイキーに、短いが丁重な別れの言葉を述べた。
マイキーは彼ら山岳民が信ずる神に、国王の前途と無事を祈ってくれた。
もっともこれは国王自身のためというより、主に友人のためであったらしい。
名《な》残《ごり》惜しげに肩を抱いていった。
イヴンもまた、いつまでも、別れていく仲間たちを見送っていた。
食客であったというが、実際には相当深くタウの暮らしに馴染んでいたらしい。ましてこれが今《こん》生《じょう》の別れになるかもしれないのだ。
ウォルは見送りの邪魔をするようなことも、先を急《せ》かすようなこともしなかった。ずっと幼なじみの背中を見つめていた。
タウの男たちと少女とはさらに少し離れたところで二人の様子を見守り、少女がタウの男たちを見上げて尋ねたものである。
「ベノアの村ってタウの中では大きい?」
「ああ、大きいね」
フレッカが答えた。
サルジが後を受けて、「タウの中でも古い歴史がある村だ。タウの中心であり、まとめ役でもある」
「それなら、ベノアの頭目っていうのは、かなりの実力者なのかな?」
「もちろんだとも。それどころか、二十人いる頭目の中で、ベノアのジル頭目に肩を並べられるのは、ほんの二、三人だろうよ」
「へえ……」
少女は驚いたように目を見張った。
それほどの大物が、よそ者のイヴンを副頭目にと推したという。
「それじゃあ、ベノアの村の人はイヴンの副頭目に納得したのかな?」
男たちはこれにはおもしろそうに笑った。
「嬢ちゃんはなかなか、いっぱしの口をきくねえ」
「確かに、例のないことだ。ベノアに生まれ育った連中にはあんまりおもしろくないことだったかもしれないな。しかしだ」
男たちはそこで真顔になった。
「それは言ってはならないのがタウの掟だ。俺たちは長い間、独立を守り、俺たちを縛りつけようとする連中と戦ってきた。生まれ素姓は関係ない。肝心なのは俺たちと同じ心を持っているかどうかだ」
「あの副頭目は年は若いが、いい男だぜ。腕は立つし、頭も切れる。きっぷもいい。ベノアの頭目が惚れこむのも無理はないのさ」
「ふうん……」
少女もまた、仲間たちを見送っているイヴンの背中と、その背を見守っているウォルの後ろ姿に目をやった。
「でもそれならウォルだって、その副頭目が惚れこんでも無理はないくらいの、いい男だと思うけどな」
男たちは小さく吹きだした。
「いや、まったく、嬢ちゃんはおもしろい」
「うまいことを言うもんだ。確かに、あの王様も、おもしろい」
「おうよ。王様でなければ、いい自由民になったろうによ」
一人がそんなことを言いだし、他のものは懸命に声をひそめ、苦笑を堪えたものである。
こんなことはとても大声では言えない。まして、役人や偉い人には到底聞かせられないと、そういうわけだ。
「一度、副頭目があの王様のことを話すのを聞いたことがあるが……。いや、その時はまさか、王様のことだとは思わなかったが、今思えば、あの王様のことなんだろうな」
ツールのブランが、何やらしみじみと言いだした。
「こてんぱんにけなしてたな。自分より年上のくせに、とろいわ、鈍いわ、融通はきかないわ……。救いがたいと言ってなさった。珍しいことに、よほど気に入ってなさるんだろうと思ったもんだ」
少女が不思議そうに、緑の瞳をくるりと動かした。
「気に入ってるのに、そんなに悪く言うの?」
尋ねると、ブランは笑って、「ベノアの副頭目はそういう人なんだよ。本気で悪く言ってるわけじゃあねえ。むしろあの人が誰かを褒めあげたりしたら、そのほうが恐いぞ」
「ははあ……」
わかるような、わからないような気がしながらも少女は曖《あい》昧《まい》に頷いた。
「歳もお若いしな。そうそう純に友人の褒めあげもできねえんだろうよ」
「ちげえねえや」
フレッカが笑って同意した。
「あの人には妙にそういう、かわいいところがあるよ。女に対しては気障な口説き文句がいくらでも出てくるのにな」
それぞれ四十がらみに見えるブランとフレッカだが、ほんの若造に過ぎないイヴンを語る時の言葉づかいは丁寧なものだ。
少女はその様子を見ていて、タウの男たちの規律の厳しさも、この男たちがイヴンに寄せている好意のほども、わかるような気がしたのである。
「それならいっそタウへ誘っちゃどうだと言ったもんだが、なんでも家を継がなきゃならない貴族の坊ちゃんで、山賊にはできねえと言ってなすった。それがなんとなあ……」
「ああ。あの王様ならいい頭目になるだろうによ」
この男たちもかなりの無茶を言う。
夕焼けに赤く染まる仲間の最後の背中が見えなくなると、イヴンはようやく踵《きびす》を返し、とたんに至近距離でじっと自分を見つめている幼なじみの目線とかちあわせた。
「な、何だよ」
あんまり真剣な顔をしているので思わずたじろぐと、相手はためらったように言いだしてきた。
「本当に戻らなくともよかったのか?」
「何をいまさら。じゃあお前、俺がいないほうがいいのかよ?」
「馬鹿を言うな。俺はただ、お前を副頭目に推してくれた人に対して、義理を欠くようなことになってはと案じただけだ」
イヴンは低く笑った。一癖も二癖もありそうな、曲《くせ》者《もの》の笑い方だ。この男には妙に似合っている。
「山賊のお頭とその子分の間を本気で心配するんだからな、この王様はよ」
「イヴン……。ちゃかすな」
「わかってる。わかってるよ。大丈夫。ベノアの頭目はそんな肝っ玉の小さい人じゃない」
上から下まで黒一色の山賊は悪戯いたずらっぽく笑ってみせた。
「それより、お前が前の王様の落とし胤だねだったって聞いた時はたまげたぜ」
「それは夕べ聞いた」
「まあ聞けよ。俺はな、これでもう二度とお前には会えないと思ったんだ」
男は不思議そうな顔になった。
「おかしなことを。いかに王宮暮らしが窮屈でも、そこまでかしこまってはいないぞ。城を訪ねて名を告げてくれさえすれば、俺はいつでも喜んでお前に会ったろうに……」
「違う、違う」
イヴンは首を振って、「そうじゃあねえよ。俺の言うのは、二度と以前のお前には会えないと思った。そういうことさ」
男は真顔になって友人を見た。
イヴンは皮肉な微笑を浮かべている。
「権力を握った人間はがらりと変わっちまうからな。
まして文字通りの王様暮らしだ。中央はおろか大陸中からかき集められるありとあらゆる贅沢と快楽、追従を言う取り巻き連中、着飾った貴婦人たち、一声で自在に動かせる強力な軍隊と神にも等しい権力。
そんなものに囲まれて変わらないでいられるほうがおかしい。誰だってのぼせあがる。権力を楽しむことに夢中になっちまう。お前もそうなると思ったのさ。いくらお前が鈍くても、田舎育ちでも、王座が尻になじむにつれ、王冠が頭になじむにつれ、権力と権威に醜くしがみつく連中の一人に、きっとなっちまうんだろうとな」
「あいにく俺の田舎育ちは筋金入りでな。なじむ暇とてなかったぞ。余人ならばともかく、そのくらい、お前ならわかりそうなものだ」
仏頂面のまま男は言い返し、イヴンは声をあげて笑った。
「まったくなあ……。お前、一応戴冠式を挙《あ》げた王様だろうがよ。そんなに地方領主の息子のままで、おつきの従者だの側近だのがよく黙ってたよな。ええ、ウォリー?」
懐かしい愛称で呼ばれて、ウォルも笑みを浮かべた。
「俺のやること為すことにいちいち目くじらを立てていたがな。それこそ仕方がない。諦めてもらうしかなかったし、これからもそうしてもらうさ。そもそも、どんなに環境が変わったところで熊の子が白鳥に化けるはずもない。違うか、イヴ?」
これも昔の愛称で呼ばれて、くすぐったそうに肩をすくめた山賊は、不意に真顔で言ったのである。
「獅子には化けるかもしれないぜ」
「……」
男は、とっさに返す言葉がなかった。
獅子はデルフィニア王家の紋章である。詳しくは咆《ほう》哮《こう》する獅子の横顔に二本の剣を交差させた雄々しいものだ。国王だけが身につけ、旗印にすることを許されているものだ。
「俺は、それが見たくなった」
山賊の碧い目がほんの一瞬、鋭い光を浮かべたが、すぐに消える。かわりにとぼけた笑みを唇に浮かべて、昔なじみの背中を叩いた。
「さあ。行こうぜ。だいぶ時間をつぶしちまった。ねぐらを探そう。明日中にはロアにたどり着きたいからな」
味方をする理由などたいしたことではないと言いたげだった。
あるいは一瞬でも真剣になった自分に照れているのかもしれなかった。
ほんの少年のころからのつきあいである。そんな気性は充分よく知っていたのだが、男は思わず声をかけていた。
「イヴン」
「何だ?」
「いや……」
首を振った。何か友人の厚意に報いる言葉を探そうとしたのだが、面と向かって礼など言うのは気恥ずかしいし、第一、笑いとばされてしまう可能性が大である。
ためらいがちに言った。
「考えたのだが……」
「うん?」
「怒らんで聞いてくれ。仮にだ。俺が王座を取り戻したら、いや、必ず取り戻してみせるつもりだが、その時はお前に褒美として何を与えればいい?」
イヴンはにやりと笑って答えた。
「そういうのをな、取らぬ狸のなんとやらって言うんだぜ。おおっと、失敬。それはこれからの手柄の立て方次第でしょうな。国王陛下」
「こいつ……」
国王は苦笑して友人の後を追った。
緑のはずのあたりは一面、紅《くれない》に染まっている。
いつまでも暮れないように思える夕日に、少女が少し目を細めていた。
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「何とも困ったことになったものですな」
と、ペールゼン侯爵は言った。
言葉とは裏腹に、特に感情の見えない声である。
まさしく現政権を揺るがすような重大な事態となっているのだが、本当にわかっているのかどうか危ぶみたくなるような口調だった。
どのくらい容易ならざる事態であるかは、この会議室にいる人々の中で、平然としているのは侯爵ただ一人という事実を見ても明らかである。
他の面々はある者は苛立ち、ある者は平静を欠き、ある者ははっきりと恐れてさえいる。
そんな中、侯爵はあくまで悠然と言った。
「しかし、起きてしまったことを嘆いても始まりません。対策を協議しなければなりませんな」
「いや、侯爵。それは筋が違う。まずはこの事態を引き起こした責任を追及するべきだ」
苛立っている者の代表、サング司令官が、軽蔑の眼差しを隠そうともせず、タミュー男爵親子に対して吐き捨てるように言ったものだ。
「呆れてものも言えんとはこのことだ。ドラ将軍がロアへ着くか着かぬかのうちに肝心の人質を逃がしてしまうとはな。何のためにあれだけ苦労して将軍をたきつけ、あの男の征伐に向かわせたと思っているのだ」
男爵家の子息、チフォンは不満と恥辱とに破裂せんばかりだったが、司令官の言うことはいちいちもっともなのである。かろうじて反論することを思いとどまった。
司令官はさらに言う。
「だいたいロアに生まれ育ったものが、歳が足らんとはいえ、女の身であるといえ、馬の扱いに未熟であるわけがない。それをみすみす早駆けなどを許すとは逃げてくれというようなものだ。あげく従者を殴り倒され、ご本人は馬から引きずりおろされるとはな! 仮にも男子の端くれがよくもそこまでの恥を立て続けにさらすことができたものだ」
この上、針で一突きでもしようものなら、間違いなくチフォンは破裂して果てたに違いない。
「確かに、令嬢を取り逃がしたのは息子の失敗であり、早駆けを許したのは私の責任です」
どす黒い顔をしながらも、つとめて冷静に男爵が言った。
「しかし、司令官。この半年、あの娘は深窓の令嬢になりきっていたのですぞ。こうまで思いきったことをするとは我々の誰もが予測し得ませんでした。そもそも十七歳の婦女子一人をものものしく警戒することのほうこそ、男子の沽《こ》券《けん》にかかわる行いではありませんか」
タミュー男爵の言うことには一理ある。もし、チフォンが真実シャーミアンを警戒し、例えば近衛兵団の一隊を護衛につけたりしようものなら、司令官は真っ先に、小娘一人をそこまでこわがるかという理由でチフォンを嘲笑したはずだ。
しかし、そこまで思慮の回る司令官ではない。憎い相手の不手際をとことん追及することしか頭になかった。
「あげく逃げられていては何にもならん」
ここぞとばかりに言いつのった。
「ご子息と一緒にされては、はなはだ迷惑というものだ。私は相手が女だからといって、そんな不覚を取ったことなど一度もない」
「さて。それはどうでしょうかな?」
悪意のたっぷり籠った『穏やかな』声だった。
「あくまで人の噂ですが、司令官は、そのご身分の方ならば足を向けるのもはばかられるような、いかがわしい界隈にて夜通し遊ばれるのが何よりのお好みということでしたが……」
ぐっと言葉を呑みこんだ司令官である。
男爵は容赦しなかった。
「確か先日も、シッサスの売色宿でも女の美しいことで名高い酒場をほとんど貸しきりにして騒がれたとか。色とりどりの酌取り女どもに囲まれて、それはもうたいへんなご機嫌で、目も当てられないほどにやにさがって[#「やにさがって」に傍点]
いらっしゃったとのことですがな」
「な、何を馬鹿なことを! でたらめだ!」
真っ赤になった司令官である。その狼狽ぶりを見てもでたらめかどうか容易に推察がつくというものだった。
男爵はしたり顔で頷いた。
「そうでしょうな。司令官ほどのお方が、まさかそのような醜態をさらすはずがございませんからな。それにしてもよく似ておったそうですぞ。ご本人でないなら双子としか思えぬほどに。なんとも奇怪至極な話ですが、それが司令官のはずはありますまいから赤の他人。いやさ、他人の空似ということになるのでしょうな」
「む、むろん……」
「なにしろ司令官に瓜二つというその男、けしからぬことに、腰の剣を置き忘れたことにも気づかず、酒場の女どもと夜が明けるまでしたたかにたわむれあって上機嫌で帰っていったというのですからな。後になって従者らしきものがこっそり剣を引きとりに来たというのですから、何とも呆れはてた話ではありませんか。いやしくも武人の端くれがよくもそこまでの恥をさらすことができたものです」
今度は司令官が噴火寸前の有様だった。
口を開いて何か言いかけたが、声にならない。
握りしめた拳がぶるぶる震えている。
顔面は真っ赤に紅潮し、目は怒りに血走っている。
タミュー男爵は成りあがりの顔に陰険な微笑を張りつけ、口ばかり大きい司令官を睨みすえている。
机の端と端とで火花が散っていた。
不毛な睨みあいに収拾をつけたのは、やはりペールゼン侯爵だった。
「サング司令官も、タミュー男爵も、お気はすみましたかな」
やんわりとした口調なのだが、刃物の冷たさと鋭さをたっぷり含んでいる声だった。
特に声を荒げたわけでも険しい表情を見せたわけでもないのだが、その場を鎮めるには充分な効果があった。
男爵も司令官も、ぎくりとした。
侯爵は口元に笑みさえ浮かべているのだが、その目は蝮《まむし》か蜥蜴とかげのそれである。
この会議室からつまみだされたいのか、いやいや今の地位を根こそぎ奪われたいのかと脅迫されているのを感じ、司令官は青ざめ、男爵の背には冷や汗が伝った。
侯爵はあくまでやんわりと言う。
「王国が存亡の危機に瀕しているこの際に、お二《ふた》方《かた》が仲違いをなさるとはいただけませぬ。今こそ我ら力を合わせて王国の敵を撃退し、正しい国王を擁《よう》立《りつ》せねばならない正念場です。お二方には一にも二にもそのための力となっていただかなければならないのですぞ。さあ、つまらぬわだかまりは捨てて、今後どうすればよいのか知恵を出しあってはくださいませんか」
飴と鞭である。
それがわかっていても二人とも大きく安堵の息を吐き、侯爵に目礼した。
「侯爵の言われるとおりでしょう。愛娘と合流したドラ将軍が次に何をしでかすか、そこが問題です」
狼狽を隠そうとして答のわかっていることを男爵はわざわざ口にした。
男爵ばかりではない。この会議に参席しているすべての人が、この後どんなことが起こるか、同じ答を予期していた。
あの男に密かな期待を抱く二大勢力のうち、マレバはコーラルの足元だ。つまり監視も容易だ。団長バルロは城内に抑え、他の勇士にもいちいち見張りをつけてある。まず、今のところは勘定に入れなくていい相手だ。
対してビルグナは、これまでも最大級の警戒を要する相手だったが、ここへ来て完全に敵に回ると見て間違いない。
ジェナー祭司長が、福々しい顔を不安に歪めて侯爵を窺った。
「侯爵。もし、あの男と一戦交えるようなことになったとしてもこのコーラルが戦火に焼かれるようなことだけは避けていただきたい」
恐ろしい予言に、その場にいたものの間に一斉に動揺が広がった。
「やはり、戦に……」
「相手はビルグナとドラ将軍となれば……」
「さよう。無傷では済みますまい」
半年前の内乱ではほとんど流血を見ることなく無事に終わっている。ましてこの場にいるのは実戦経験のない官僚がほとんどだ。それだけに不安を隠しきれないらしい。
しかし、サング司令官が憤然と反論した。
「何を嘆かれることがあるものか。ビルグナとドラ将軍の戦力を足しあわせても、我が近衛兵団の四分の一に過ぎないことをお忘れか。ましてこのコーラルが三千足らずの兵力に破れるわけがない。さらに言うなら、もしもその連中がマレバに助けを求めようとするならば、まさに好都合ではないか。敵が自分から近づいてきてくれるのですからな。我々は獲物が罠にかかるのをただ待っていればよいのだ」
来るなら来い、と司令官は言いたいらしい。
むしろ当初の計画どおりに進んでいるのだ。何の問題もないはずだった。
「さて。そううまくいけばいいのですがな」
皮肉の混ざった目を司令官に向けておいて、男爵はペールゼン侯爵に話しかけた。
「マレバの警戒をこれまで以上に厳重に為されるべきです。ドラ将軍とビルグナの戦力を合わせて、すでに三千。その上ティレドン騎士団を奪われては敵の勢力は優にこちらに匹敵するものになりますぞ」
「わかっておりますよ、男爵」
言わずもがなのことであるが、侯爵は穏やかに微笑んだ。
「一口にティレドン騎士団と言っても、それは全員一丸となって初めて驚異となるものです。既に今のティレドン騎士団は英雄とまで言われた指揮官を失っているのです。あとは戦力になるほどのまとまりを持たせなければ、さして危険な存在とは言えますまい」
「と、おっしゃいますと……」
「騎士団の中でもそれと知られた、まとめ役になりそうなものたちは一人一人隔離して、厳重に他との接触を禁じてあります」
「これは……恐れ入りました」
さすがにこの人のすることには抜かりがない。
しかし、侯爵は他には特にこれといった方針を打ちだすこともなく、相手の出方待ちという結論で会議を閉会した。
首をかしげたタミュー男爵である。
現在の状況が決して楽観できないものであることを男爵は知っている。ましてペールゼン侯爵は誰よりよく知っているはずである。
はからずもあの男と自分たちとの間で正邪を争うことになったわけだが、正しいのがどちらであるかは明白である。
自分たちはしょせん先代の国王に任命された官僚に過ぎないのだ。国王の指示によって内政を動かしてはいたが、王国の正当な主人である資格など持ちうるはずもない。
誰に言われるまでもなく、あの男を追放した男爵にも司令官にも、そんなことは嫌というほどわかっている。
その上で、彼らは権力を欲した。
そのためにはあの男が邪魔だった。
だから追放した。
欲しいと思う強い力の前には、白を黒と言いくるめることなど簡単である。
まして妾腹の生まれである上に突然降ってわいたという経歴だ。
市《し》井《せい》の人々にも何のなじみもない。
薄暗い疑惑をかぶせ、王たる資格なしと決めつけるのに、ほとんど手間はかからなかった。
しかし、彼らの処置に底辺から疑惑の声が起こり、野火のように広がっている今、口先だけでこれを鎮めることはもはや不可能だった。そのくらいのことがわからない侯爵ではないはずなのである。
なのにこうまでのんびりとしているのは何故なのか。何か、自分たちにさえ内証の奥の手を隠しているのか。
タミュー男爵はそう思った。
デルフィニア王宮はさまざまな建物で構成されているが、その中でも、文字どおり中心を構成しているのが本宮である。
いくつもの小さい宮を従えた姿は翼を広げた鳥のようでもあり、八重咲きの花のようでもある。
王宮内のもっとも高い敷地に立つ本宮はそのままデルフィニアを象徴する姿でもあった。
本宮にはさまざまな部分がある。
特に表部分は施政の場だ。改革派がさまざまな議論や決裁を行うのもここである。しかし、奥部分は王族と王族の世話をするものたちの私生活の場となり、宮《く》内《ない》府《ふ》という部署の管轄に置かれている。
内閣に勝るとも劣らない重要な部署であり、現在の責任者は二人。
王族の身の回りを整え、侍女たちを総括する女官長のカリン。そして庶務のいっさいを担当する侍従長のブルクスである。
最高会議室を出たペールゼン侯爵はそのまま本宮の深部に向かい、取次の者に来訪を告げ、侍従長にお会いしたいと希望を述べた。
宮内は政権が変わると、そのまま改革派の支配下に入った。
女たち、侍従たちで構成されている宮内ならばこその処世術である。
しかし、頭を垂れているのは表向きだけだということも侯爵にはわかっている。
たいして待たされることもなく、ペールゼン侯爵は立派な取次の間でブルクスと向きあっていた。
「お久しぶりです。侍従長」
「珍しいことでございますな。侯爵。私に何か御用でしょうか?」
やんわりと挨拶したブルクスは侯爵と同年代の五十がらみに見える。しかし、顔も体もひょろりと痩せていて、まるで風采があがらない。堂々とした侯爵の体躯の前では、吹けば飛びそうなほど貧弱に見える。
人柄も温順そのもの、物腰も言葉づかいも至って丁重でやわらかい。一見したところ、頼りない印象さえ与える人物だった。
しかし、外柔内剛とはこの人のためにあるような言葉だとペールゼン侯爵は思っている。
ブルクスは、前国王の統治期間中のほとんどにおいて、優れた政治手腕を発揮した人だ。
国王のふところ刀として、また国を代表する外交官として、その名は国内ばかりか外国にもよく知られていたのである。
ブルクスの役目は政府高官であると同時に、国王の側近でもあった。外交の結果を政府に通すより先に国王の耳に入れ、相談の上で国王の意向を政府に伝える役割を担っていた。
ペールゼンとしては、こんな人を敵に回したくはなかった。何とか改革派の中に取りこもうとしたのだが、ブルクスは、自分が仕えるものはデルフィニア王家であり王家の血筋でありますと、かたくなに協力を拒んだ。
結果、すべての権限を剥いた奪され、ただ城内を管理する侍従長として、城の奥に押しこめられているというわけである。
今まで第一線で働いていた人が、いわば閑職に左遷されたわけだが、そうなればなったで少しも慌てず、まして見苦しく役職にこだわるようなことなく、さっさと身を引き、前国王の残した書簡や収集品の整理などを淡々とこなして過ごしている。
並の度胸、そして並の精神ではこうはいかない。
惜しいことだとペールゼンは思う。
心ならずも今の自分の同志である連中は、知恵はあっても品位と勇気に欠け、勇気はあっても知恵と品位に欠け、品位を備えているものは知恵と勇気に欠けている。
一度にその三つをとは言わないが、せめて二つを備えていてもらいたいものだと、侯爵は冷ややかに考えていた。
目の前に座っている風采のあがらない男は、まず間違いなく、知恵と勇気を備えている。問題は三つめだが、品位と侯爵が呼んでいるものの代わりに、良心というもので自らを厳しく律している。
そこが厄介だった。
侯爵にとっては何の値打ちもないものなのである。
もちろんそんなことを口にはしない。かたちをあらため、真剣な表情口調で話しかけた。
「実は、折り入ってあなたにご相談したいことがあります。あの男がデルフィニアに舞い戻ってきたとあなたもすでにお聞きおよびでしょう」
「陛下とお呼びするべきではありませんか、侯爵」
あくまでやんわりと、それでいてきっぱりと、ブルクスは言った。
「あの方はドゥルーワ陛下の血を受け、ヤーニスの神殿で戴冠式を行われ、誰もがこの城の主《あるじ》と認めた方なのですから」
侯爵はわずかに苦笑した。
「あいかわらず頑固な方だ。そう……田舎領主の息子に過ぎなかったあの男が、偉大なるデルフィニア国王の血筋だと認められることになった、そもそものきっかけはあなたでした」
ブルクスは沈黙している。
侯爵は何とも言いがたい様子で頭を振り、理解に苦しむ表情である。
「あの時……私を含め、妹君であらせられるアエラさまをはじめ、誰一人としてそんなことは信じられませんでした。確かに城の奥向きのことはあなた方宮内府の管轄です。奥棟で何が起きようと、陛下の血を引くお子がこの王宮で幾人生まれようと、あなた方が口をつぐめば、それは決して我々の耳には入りません」
「さようでございますか?」
ブルクスがやんわりと問い返す。
「侯爵は、奥殿に針が落ちても、聞きつけてしまわれる耳をお持ちと承っておりますが……」
ペールゼン侯爵は思わぬ相手の皮肉に、かすかに苦笑した。
侯爵の情報収集能力は確かに、奥向きのことまでほとんど把握している。
ただし、それはあくまで今現在、詳しくはここ数年の話なのだ。
「残念ながら、いくら私が優れた耳を持っていたとしても二十四年前のことまでは聞きつけることができません。今となってはそれが何とも悔やまれてなりませんよ。そうすれば昨年、喉を枯らしてあなたがたと議論をすることもなかったでしょうに」
「はて……」
ブルクスは不思議そうな表情になった。それはもうとっくに決着がついているはずだ。
しかし、侯爵は当時を思いだすかのように言葉を綴っている。
「あの時……フェルナン伯爵は、今はわが子となっている若者は実はドゥルーワ陛下のお血筋であると言いはり、二十数年前、この本宮で直接にお手から賜った赤子であると主張しました。そんなばかげた話をどうして信じられますか。仮に、本当に国王のお血筋がこの城内で誕生したのなら、なぜわざわざ城外へ出す必要があったのか? しかもスーシャのような僻地にです。国王の愛重深い女性の子だというならなおのこと、あの方のご気性からして我が子を山野に捨てさるようなことをなさるはずがありません。そうそうに名誉を与えて世間に知らしめるはずです。我々は一斉にそう反論し、フェルナン伯爵を、その息子ともども、王族詐称の罪で投獄しようとしました。ご記憶でしょうな?」
「陛下には陛下のお考えがあってのことでございましょう」
ブルクスは答えた。しゃんと背筋を伸ばしていた。
「私は臣下に過ぎません。主君の意向をいちいち確かめるような不遜な真似は慎むべきですし、そのとおりに実行して参りました。陛下が亡くなられる寸前にデルフィニア王家の紋章で厳重に封をした書簡を私に預けられたのも、そして極めて奇妙なご遺言を為されたのも、私は誰にも口外せずにこの胸一つにしまいこんでおりました」
恐ろしいような顔になって、低く言う。
「その奇妙なご遺言とは、この書簡の存在は誰にも知られてはならず、私の全責任において管理すること。ある一つの場合をのぞき、決して開封すべからざること。そしてもし、その一つの場合が私の存命中に現実とならなかった場合は、この書簡をすみやかに極秘に処分すること」
そんな奇妙極まりない遺言を主君から受けても、ブルクスは本当に誰にも他言せず、書簡を開いてみることもしなかったのだ。臣下の鑑《かがみ》とも言うべき人だった。
「その一つの場合とは……実を申せばご命令を受けながらもさっぱりわけがわかりませんでしたが……
陛下のおっしゃったとおりのことを申しあげます。
もしも自分の死後、後継者のことで何らかの問題が起こるようなことになったならば、そしてもし後継者問題のさなかにスーシャのフェルナン伯爵が息子を連れて王宮へ来ることがあったならば、最高会議の席上において、これを自分の遺志として公表するようにと……」
ペールゼン侯爵は再び、かすかに苦い笑みを口元に浮かべた。
「お気の毒にアエラさまは、その場で卒倒しておしまいになった」
それは誰しも同じだった。
何よりかにより、書簡を持ちこんだブルクス自身が卒倒するかと思ったのだ。
大司教も秘書官も血《ち》眼《まなこ》になって書簡の信憑性をただそうとしたが、筆跡は紛れもないドゥルーワ王自身のものであること、そして他の人間には触れることさえ許されない王家の花押がその書簡にくっきりと捺されていること、どちらも明白だった。
内容はいまさらくだくだしく述べる必要もない。
スーシャのフェルナン伯爵家の総領ウォルは、本名をウォル・グリーク・ロウ・デルフィンと称し、紛れもなく自分の血を分けた男子であり、この書簡が公表された時点で王子二人が何らかの事情で王位を継げない状況にある場合は、ウォル・グリークに、デルフィニア国王の持ち得《う》るものすべてを与えること。
それらのことが闊達な男性的な文体で朗々と記載してあったというわけである。
「会議は大混乱に陥りましたな」
当時を回想して侯爵はさらに言う。
「偽造はあり得ませんでした。陛下の筆跡、陛下の使われた印紙、そして花押、これらをすべて偽造もしくは使用できるものなど、あるはずもありません。まして陛下が他の誰に打ちあけないことでも、あなたにだけはお話になったことは、城内のものなら皆知っていました」
「恐れいります」
前置きを終えたらしい侯爵は、少し口調を変えて言い出した。
「ところで二十四年前と言えば、陛下の在位十年祭の年でしたが……」
いよいよ、本題に入るつもりらしい。
「思い出深い年でありましたが、ご記憶でしょうかな。そのめでたい式典が四月に行われ、九月にはタンガ王女との縁組を整えられ、折よく農作物も大豊作で、まさに喜びに沸いた一年でした」
「よく覚えております」
「さて、フェルナン伯爵がこの年の三月、折しも十年祭の用意に城内が騒然となっている中、この城を単独訪れたことが記録に残っております。おそらくは密かに陛下に召されたのでしょうが……それとも召喚状はあなたがお書きになったのでしょうかな」
「さ、それは……」
「なかなかうまいやり方ですな。常時ならいざ知らず、あの時は正門までもが日中に限りは開放され、城内は職人と言わず商人と言わず、そしてもちろん地方貴族と言わず、あらゆる種類の人であふれておりました。多少知らぬ顔が城内にあったところで誰もさしたる注意を払ったりはしなかったでしょうからな」
「おそらくは」
ブルクスは相を打つばかりで相手に一方的に話させている。定めて要点を尋ねたりしないところがこの人のこの人たる所以《ゆえん》だった。
「さて……ところで亡き陛下の寵愛を受けたというあの娘は、名を何といいましたかな。確か……ポーラとかいいましたか。東北の小さな村の出自でしたな」
「そのように聞いております」
「その娘が男児を産みおとしたのは十年祭の年より前の冬、年も終わろうとするころでした」
「よくご存じでいらっしゃる」
「あの娘を取り調べたのは私です。むろん真っ赤な嘘だと思いましたがね。それでも日付けだけは承知しております」
「さようで」
「年変わって翌三月に、陛下はわざわざスーシャからフェルナン伯爵を呼び寄せ、赤子を託された。驚いたことに、あなたにも内密に」
ブルクスはかすかに微笑を浮かべた。
「何と申しましても、こういうことは女性の領分ですから。女官長には打ちあけられ、立ちあわれたそうでございますよ。もっとも当時は女官長ではなく、王女づきの女官でいらしたわけですが……」
「ほう? 初耳です」
侯爵は少しばかり驚いてみせた。
本当に初めて聞くことだった。
「しかし、女官長もあなたも以前には、そのようなことを一言もおっしゃいませんでしたが……」
「申しあげる必要もないと思いましたので……」
「とんでもない。それを話してくださればずいぶん事情は違ってまいりました。あなたにも物事の真実をきちんと知っていただけたでしょうに」
「何のことでございましょう?」
変わらず平静な態度を取っているブルクスだったが、小さな不安が芽生えたのは仕方がない。
侯爵のほうも相変わらず、ものやわらかな態度だった。
「そうすると女官長は、生まれたばかりのあの男のことをよくご存知なのでしょうな?」
「おそらくは。なぜです?」
「そこだけがどうしてもわからないことだからですよ。ポーラという娘が赤子を産みおとしたのが十二月。フェルナン伯爵が赤子を受けとったのが翌三月。その三か月の間、赤子がどこでどうしていたのか、誰が面倒を見ていたのか、そこだけがどうしてもわからない」
ブルクスは不思議そうな表情になった。
「そこまで気にかける必要もないと思いますが。陛下がこの王宮にいらっしゃったのはほんの三月たらずのことなのですし、誰か一時雇いの者がお世話をしていたのではありませんか」
王宮に仕えている女たちは、王族の乳母とはいっても、めったに自分の乳を含ませるようなことはない。
彼女たちはあくまで『教育係』として選ばれ、幼い主人に仕えるのだ。実際に乳を呑ませる女は、授乳期の間だけ雇われるに過ぎないのである。
そんな事情は侯爵も知っているはずだ。
「ところがこの場合は大問題です。それというのも、そのポーラと申す娘は、子を産むと早々に暇を取らされました。それこそ当時の女官長に素行不良という理由でね。当然のことでしょう。どこの誰ともわからぬ男の子を身籠ったのですから」
「デルフィニア国王のお子です。お言葉に気をつけられませ」
「どこまでも頑固な方だ。よろしい。では陛下のお子であるとしましょう。しかし、今も申しあげましたとおり、子を産むとすぐにその娘は暇を出され、王宮を立ち退きました。産みおとした子どもも一緒に[#「産みおとした子どもも一緒に」に傍点]、です」
ブルクスの表情が初めて変化した。
「何ですと?」
「ままあることです。奥棟に勤める侍女たちでさえ、時にこうした問題を引き起こします。まして馬屋番の下女ともなれば無理もありません。当時の女官長はすでに亡くなられていて話を聞くことはできませんでしたが、同じ馬屋に勤めていた者、当時の様子を見知っている門番などから話を聞くことができました。ポーラは年が変わる少し前に、産み落とした子どもを連れて村へ帰ったと、どの男もそう証言してくれました」
ブルクスは大きく喘いだ。
「その、その娘は、子どもを連れて王宮を立ち退いたと言われますか……?」
「いかにも。下女に過ぎない娘です。いなくなったところで誰も気に止めなかった」
「……」
「娘は当然のように生まれた村へと帰りました。タンガとの国境にも近いウェトカという小さな村です。娘の両親もすでにこの世の人ではありませんが、ポーラは戻ってきた時、生まれたばかりに見える赤ん坊を抱いていたと、何人もの村人が証言してくれました。問題なのはそこから先ですが、なんとも面妖なことに、その娘と赤子は年が変わるとほとんど同時に亡くなったと村人は言うのです。つまりフェルナン伯爵がこの王宮で赤子を受けとる、二月も前にです」
ブルクスは顔面蒼白となっている。
侯爵はわざとらしくため息をついている。
「この話を聞いた時、私がどれほど驚いたか、察していただけるでしょうかな?」
意地の悪い響きがある。一気に色を失ったブルクスの顔を見れば、尋ねるまでもないことだった。
「まったく……なぜ今まで誰もこのことに気づかなかったのか。むろん、あなたの提出された陛下のご遺言が疑いようもない立派なものであったからに相違ありません」
「で、ですが……」
ブルクスは茫然自失の体だったが、それもほんの一瞬のことである。すぐさま立ちなおった。
「ですが、あのご遺言は、間違いなく陛下の……」
「ええ、わかっております。陛下がその娘の子を我が子と信じていらしたこと。おそらくは宮廷内の争いを嫌ってフェルナン伯爵家に里子に出されたこと、どちらも真実でしょう。しかし、よろしいか。仮にそのポーラと申す娘の産みおとした男児がまこと陛下のお血筋であったとしてもです。その子は生後二月にも満たないうちに、母親ともども東北の小さな村で短い生涯を終えているのですぞ。ではいったい、今あなたが陛下と呼ぶあの男は誰なのです?」
しかし、ここまで揺さぶられながらもブルクスはまだ崩れなかった。
鋭く問い返した。
「侯爵。そのお話がすべて事実として、あなたはなぜ今までこのことを黙っていらしたのです?」
「私もあのご遺言に惑わされた一人でした。初めは失礼ながら陛下も何という軽はずみをと思い、たとえ本当にオーリゴの祝福を受けてもいないものを名誉あるデルフィニア王家の一室に陛下のお子であるとしても、加えることはできないとの理由をもって、あの男を迎え入れることに反対したのです。対して陛下のお血筋とご意向を大切にするべきだというあなたがたと一年も議論に議論を費やし、結果、我々はあなたがたに一歩を譲りました。しかし、ふと不思議に思ったのですよ。馬屋番の下女の生んだ子どもを陛下の子として奥棟に入れるとなると、これは大《おお》事《ごと》です。それだけで大騒ぎになるはずです。なのに十年祭の準備に追われていたとは言え、官僚の我々がいっさい気づかなかった。それどころか陛下のもっとも親しい側近である待従長ブルクスどの、あなたさえもご存知なかった。これは少しばかり話がおかしいのではないか。もしかしたら何か、どこかに大きな間違いが潜んでいるのではないか。そのように思ったのです」
侯爵のことだ。もっと以前から疑問を抱いていたに違いない。確実な証拠が揃うまで疑っている様子をかけらも見せなかっただけのことなのだ。
「男たちの記憶では、あの娘は産み月まで王宮で働いており、親しくしていた兵士の厚意で、その家で子どもを生んだということでした。男たちは子どもの父親のことは何も聞かされておらず、娘が勤めをやめて実家へ帰ると言いだしたのを当然と受けとめていました。意外でしたが、あの娘は親しい人間には何も言わなかったのですな」
「にもかかわらず、あなたには陛下のお子だと告げたとはどういうことでしょう?」
侯爵は軽く肩をすくめた。
「そういえば職を失わずに済むとでも思ったのでしょう。
浅《せん》薄《ぱく》な娘の考えそうなことです。問題なのはそんなことではありません。男たちの話してくれた娘の行動はこんな場合に当然のものだったのです。
あの娘は間違いをしでかして、どこの誰ともわからぬ男の子を身籠り、王宮に勤めてはいられなくなったので、子どもを連れて実家のある村へ帰ったと。
まったくよくある話です。これなら完全に納得がいきます。もしくは宮廷に出入りしている貴婦人の誰かが陛下のお子を身籠り、親族の期待を一身に背負って出産をしたというのならば、何もおかしなことではありません。しかし、いったいどうしてフェルナン伯爵は誰も気づかぬうちに陛下のお手から赤子を賜ることができたのか。あぐねたあげく、当時のことを娘本人の口からもう一度聞きだそうと思いたち、ウェトカへ人をやらせて調べたところ、この驚くべき事実をつきとめたというわけです」
ブルクスは青ざめたまま沈黙している。
今やその顔色は紙よりも白く、指先がこまかく震えている。
「まったく驚くべき事実です。なお驚くべきことは今まで誰もこの簡単な証明をできずにいたという事実です」
一方の侯爵は顔つきも語調もしだいに熱を帯びてきた。ブルクスに指を突きつけるようにして、ほとんど叩きつけるように一気に言った。
「大至急、女官長に問いただしていただきたい。事と次第によっては最高会議への出頭を要請します。すなわち、十年祭の前年、陛下のお情けを受けたという娘は子どもを連れて王宮を立ち退いたというのに、その子も母親もそれからすぐにコーラルから遠く離れた地で命を落としているというのに、なぜ、翌三月、陛下はフェルナン伯爵に赤子を託されることができたのか。その三か月の間にこの王宮の最深部でいったい何が起こったのか。そして今、あなた方がおぞましくもこの王宮の主人だと主張するあの男がいったい何者であるのか、早急に明らかにしていただきたい!」
反論することはできなかった。
ブルクスは凍りついた表情のまま小さく頷くことで、この絶対的な命令を受けいれたのだった。
115_挿絵3
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連日の暖かい陽光に、少女は頭を包んでいるのが嫌になってきたようである。
まとめあげた髪をあらわに、男たちと並んで行軍を続けていたが、タウの男たちはこの少女が何者なのか、なぜ国王と一緒にいるのか、そろそろ気になりだしてきたようだった。
「ええと、ですね。王様」
ツールのブランが頭を低くしながら言いだした。
どう接していいやら、態度に困っている様子がありありとしている。まさかベノアの副頭目を倣って呼びすてというわけにもいかない。一応『王様』で統一することにしたらしい。
「何かな?」
「へえ。あの嬢ちゃんなんですがね。どこまで連れていかれるおつもりなんで?」
「むろん、コーラルまでだ。あの娘は俺の横で戦ってくれると申しでてくれたからな」
「おい、ウォル」
イヴンがこれも声をひそめて言った。
「俺はお前をりこう者だと思ったことは一度もない。それどころかはっきり言って馬鹿の部類だと思ってたが……」
「そこまではっきり言わんでくれなくても構わんのだがな」
国王の嘆きを幼なじみの山賊は頭から無視した。
「状況判断はできる奴だと思ってたぞ。あんな小娘を連れて行って何の役に立つってんだ?」
「じきにわかるさ」
国王は平然としている。
あの少女がどのくらい少女離れしているか、語ったところで彼らは信じないだろうし、自分もさんざん驚かされたのだ。他人にも同じ目に合ってもらわなければ驚き損である。
奇妙な理屈を持って国王は沈黙を守ったし、少女のほうも取りたてて必要がない限り、常人離れした自分の力を見せつけるようなことはしない。そうなると多少変わってはいても、ごく普通の少女のように見えるので、タウの男たちはひたすら首をかしげ、少女の身の安全を心配し、いざという時の足手まといを(大笑いだが)懸念している。
少女がその能力のかけらを男たちに見せたのは、まずは聴覚においてだった。
街道沿いの細道をたどる一行の後方を歩いていたのが不意に振り返り、じっと耳を澄ましている。
「どうした。リィ?」
「何か来る」
過去、何度もこの耳に助けられている男は即座に立ち止まり、身構えた。
しかし、イヴンをはじめとするタウの男たちには、この緊張の理由がわからない。
「何が見えるってんだ?」
不思議そうに言うとおり、春の日に燦《さん》々《さん》と照らされている緑の野には何の変化もないように見える。
鳥が鳴き、丘の上を雲の影が流れていく。平和そのものの光景である。
しかし、少女は構えを解こうとしない。今来た方向に目を凝らしている。
「多いな。ちょっと普通じゃない多さだ」
「五十か、百か?」
「そんなものじゃきかない。たぶん、どんなに少なくても二千はいる」
「なに!」
国王は驚き、他の男たちはあっけにとられた。
「おいおい、嬢ちゃん。ばかを言うもんでねえ」
「そうとも。それじゃあまるで戦に出ていく兵隊さながらじゃないか」
「だと思う。半分近くが騎馬だ。それにおそらく全員が武装してる」
「冗談だろ?」
イヴンが疑わしげに言ったが、国王は迷わなかった。すぐさま身を翻し、仲間たちにも隠れるように身振りで示した。
「おい、ウォル」
「黙っていろ。イヴン。西から来ると言うなら、その軍隊は俺たちの目の前を通るはずだ」
「お前……信じてるのか?」
「すぐにわかる」
そのとおり、すぐにわかった。
山の男の目は鋭い。遠目に槍の穂先が煌めき、それより先に無数の旗印が天を指してはためいているさまが、じきに男たちにも見えたのである。
「こりゃあ驚いた……」
イヴンが正直な感想を漏らした。少女の言うことが当たったからではない。すぐさま戦場へ赴こうという一軍のものものしさに驚いたのである。
さらには軍勢の中にたなびく旗印を認めた時、国王が低いうなり声をあげた。
「なんと! ロアの旗ではないか。ラモナ騎士団旗もだ!」
皆、まさかと思った。
ロアの領主はコーラルに捕まっているはずである。
家臣の者たちが主人の留守中に勝手に主人の旗を掲げることができるわけはないし、第一方向が逆だ。
これではまるでロアへ戻っていくように見える。
「あれ、味方なの?」
少女が訊いた。
「旗印のとおりならばな」
男は答えた。
様子を見る構えだった。
この国王は何も考えていないようでいて、案外の思慮が働く。
喜び勇んで飛びだすようなことはしない。
「しかし、旗印の偽造だなんて……まともな人間のやることじゃないぜ」
イヴンが言った。戦場において旗印は敵味方を識別する第一の材料なのだ。
名と武勇のすべてが、身分を証明する旗印に込められている。騎士の誇りにかけても素姓を偽るようなことができるはずはなかった。
「そうとも。外道のやることだ。だが、ペールゼンならばやりかねん。悪魔のように悪知恵が働く上に、良心のかけらもない男だ。俺を吊りあげるために近衛兵団にロアの旗を持たせるくらいのことはやってのけるだろう」
「でも、本当にロアの人だったら?」
少女が言った。
「それにラモナ騎士団の旗もある。確かめたほうがいい」
「うむ」
彼らは一度、軍隊の目の届かないところまで引きあげ、木陰から近づいて来る軍勢を見守った。
こちらは十人しか数がないのである。
確かめると言っても迂《う》闊《かつ》に声をかけるわけにはいかないのだった。
しかし、白昼のことである。軍勢が近づけば本物か偽物かは嫌でもわかる。まして男の目は長年親しんだ懐かしい人を見誤るようなものではなかった。
「真昼の夢でなければ、ロアの旗の中心にいるのは紛れもないドラ将軍だ」
断言した。
一方のドラ将軍は、この半年ほとんど思い焦がれていた人が黙々と馬を進めていく道端に立ち、笑いながら手を振っているのを見た時、ロアの男としてはまったくあるまじきことながら、鐙《あぶみ》を踏みそこねて落馬しかかったと後に語った。
進軍停止のほら貝が鳴り響いた。
ドラ将軍は転がるように馬を飛びおり、抱きつかんばかりにして国王の足元にひざまづいたのである。
「よく……よくぞご無事で、よくぞご無事でお戻りくださいました!」
後は言葉にならない。国王のほうもこの忠実な臣下の手を取り、立たせてやりながら、ただ頷くだけだった。
生きて再び会いまみえることを、一度ならずも、諦めなければならなかった人なのだ。
「お元気そうで何よりだ」
かろうじてそれだけ言った。どちらの目も熱いもので濡れていた。
国王健在と聞いてロアの勇士たちが次々に馬を戻し、あるものは一言挨拶をと駆けつけて来る。
危うく混乱に陥りかけたのをドラ将軍が鎮めた。
「ここで軍勢を止めてはならん。陛下。取りあえずロア止まりといたしたいのですが、異存はございますまいか」
「あろうはずがない。俺もそのつもりだった」
国王帰還を全軍に知らせる角笛が高々と鳴り響く。
応えて先鋒からも後衛からも次々と音色の違う角笛が鳴り響いた。
「陛下。どうぞ……」
ロアの男たちが馬を連れてくる。
おそらくは自分たちの替え馬なのだろうが、国王はありがたく受けとり、自分の連れにも馬を与えてくれるように頼んだ。
ほんの一瞬前までわずか九人の仲間しか持っていなかった国王は、今や、二千五百の軍勢を率いる総大将だった。しかも、ドラ将軍が短く語ったところによると後続にポートナム領主軍、ロシェの街道を戻ったところのミンス領主軍、合わせて一千が参戦の予定だと言う。
「俺よりよほど味方を集めるのがお上手だ」
男が言うと、「ご冗談をおっしゃられては困ります。ロアへ着きましたら早速、陛下が戻られましたことを知らせに近隣の領主に早馬を走らせますぞ。それでも出て来ぬようであれば、大声で不忠者呼ばわりをしてやります」
男は低い笑い声を立てた。ドラ将軍の気性はあいかわらずであり、それが嬉しかった。
騎乗のナシアスとガレンスが近寄って来て、これは声をかけずにただ目礼していった。
全軍一体となっての行進である。歩兵の歩みも蹄《ひづめ》の音もきれいに揃って、その勇ましいこと、心弾むようだった。
そんな中でタウの男たちだけは、少しばかり居心地の悪い思いをしていた。
自分たちはお尋ねものであり、この軍勢はいわば役人の集まりである。
馬を与えられ、国王のすぐ傍に控えてはいるものの、自分たちはここにいていいのだろうかと誰もが一瞬考えたが、イヴンが無言でそんな動揺を鎮めた。
彼はまるでそれが当然とでもいうように、男の右にぴたりとつき、堂々と頭をあげて行軍している。
左にはこれも当然と言うように、少女がいる。
タウの男たちは負けてはいられじと、あるものは男の後ろに、あるものはイヴンの横に並び、ぐるりと囲んだ。
ロアの男たちは天性の騎手だというが、それは、タウの男たちも同じことである。
巧みに馬を駆り、一騎、また一騎と、国王の回りを固めていった。自分たちは国王のもっとも親しい兵なのだと暗に主張したのである。
ドラ将軍がそんな彼らにいぶかしげな目を向けたが、国王がわずかに首を振るのを見て、頷きを返した。
国王の目の色を見ただけで詮索を控えるのはさすがである。あるいはロアへ着いてから詳しいことを聞きとろうと思ったのかもしれない。
馬を少し先へ進めて行ったのは、この男たちが両翼を固めるのなら、自分は前衛を引き受けると、そういうことのようである。
ゆっくりと馬を打たせている男と少女の横に、一頭の鹿毛が軽やかな音を立てて近寄ってきた。
タウの男たちは自分たちに断りなく国王に近づこうとするものを一睨みしようとしたが、騎手が若い女性なのを認めて、目を丸くした。
シャーミアンである。
ロアを代表する女騎士は国王に対して礼儀正しく目礼し、横を進む少女に優しく話しかけた。
「はじめまして。私はシャーミアン。あなたがグリンダね?」
「リィでいいよ」
それだけ言ってから、少女はちょっと目を見張ってシャーミアンを見た。
「男の兄弟はいないの?」
「え? ええ」
「お父さんはだから女の子なのに、君を戦に連れていくの?」
「あら。父を知っているの?」
「ドラ将軍でしょ?」
「ええ、そうよ。陛下に聞いたのね?」
シャーミアンがそう言ったのも無理はなかった。
自慢ではないが、名乗りをあげずに自分と父とを親子と見る人は、稀と言うより皆無だったからである。ところが少女は首を振った。
「聞かなくてもわかるよ。よく似てるもん」
「まあ」
顔をほころばせたシャーミアンである。
おもしろいことを言う少女だと思った。
同時に、この少女のことを話して聞かせた時のラモナ騎士団長と副団長の様子を思い出して、おかしくなった。どうやら自分と父はあの二人にからかわれたらしいと思ったのだ。
かなりの熱演だったが、この少女にガレンスを叩き伏せ、ナシアスを打ち負かすことなど到底できそうにない。想象するのも難しかった。
二千五百の軍隊は堂々の行進を続けている。
粛々として街道を進む軍勢に、道行く人が目を見張っている。
驚くものもいれば、いったいどこの軍勢だろうと不思議がる者もいた。そのたびにドラ将軍配下の者が馬上から、謀反人どもを追放するための国王軍であると大《だい》音《おん》声《じょう》に説明をする。
その情報は軍勢と同じくらいの速度で進み、ロアへ到着するころには、国王軍の存在は付近一帯にくまなく知れわたっていたのである。
ドラ将軍の館へ到着した国王一行は、家臣のものたちに熱狂的な歓迎を受けた。
ここからスーシャまでは三日の距離である。近いとは言えないが、ドラ将軍とフェルナン伯爵は若い頃からの友達で、年に一度は必ず互いの屋敷を訪問しあう間柄だった。
男も父伯爵の供をして、このロアまで何度か足を運んでいる。
そうなれば当然、娘のシャーミアンとも家来たちとも顔なじみになる。
将軍家のものは主人から下働きに至るまで、フェルナン伯爵家の息子に好意を持っていた。
前国王の落とし胤《だね》とわかってからも、彼らが男に寄せてくれる好感情にはいささかも変わりはない。
「王様! 王様! よくご無事で!」
門番が歓喜の声をあげれば、女中たちが安堵と喜色を満面に表して出迎えてくれる。将軍家に長年仕えている執事はすぐさま、国王をもてなすための晩餐と客用の寝室を用意させた。
しかし、困ってしまったのが衣類である。
現在、この屋敷には国王に袖を通してもらうような衣服がない。あるとすれば主人のドラ将軍のものなのだが、あいにく寸法が違いすぎる。
国王はたいていの男と並んでもぬきんでる長身だったし、中肉中背のドラ将軍とは背丈に差がありすぎるのだ。
執事は申しわけなさそうにそのことを告げ、至急、女どもに仕立てさせますと弁解した。
男は笑って、「そんなことでご婦人方の手を煩わせては申しわけない。俺はこのままで充分だ」
「いや、充分ではありませんぞ、陛下」
具足を解き、楽な姿になった将軍が厳しい声で言う。
「これからあなた様には国王軍の先頭に立っていただかねばなりません。あなた様こそが我らの旗印にございます。となればその旗印にむさくるしい服装などさせられましょうか。むろん、戦は身なりでするものではありませんが、誰の目にもあれが国王と明らかになるようなお姿でなければなりません」
将軍の言うことは正しい。戦と言えば生身の人と人とのぶつかりあいだ。まず外見で他を圧倒するのが戦の初歩でもある。兵の指揮をする武将、大将、まして一国を代表する王ともなれば、たとえ華美ではなくとも趣向を凝らした身仕度をして出るのが常識であり、たしなみでもあるのだ。
「至急、最上級の生地を扱っている商人を呼びよせます。あいにくと我が家の女どもは王家の紋章など目にしたことはないものばかりですが、シャーミアンならば縫いとりができるでしょう」
男は少しばかり驚いた顔でシャーミアンを見た。
「ほう? シャーミアンどのが人並み以上に剣を使われるのは知っていたが、針も使われるのか?」
「ま……、陛下。それはあまりなおっしゃりよう」
うら若い伯爵令嬢は少しばかり紅潮して言った。
「私は、これでも、女の端くれでございます」
「これは失敬」
男も顔を赤らめ、大きな体を丸めるようにして頭を下げた。
夕刻が迫ると、外では二千五百の軍勢が一斉に炊きだしを始めたらしい。
広大なロアの領地に白い煙が幾筋も立ちのぼるのが、屋敷の二階の窓からよく見えた。
そしてドラ将軍以下の部将たちはもちろん食事もそこそこに、王を囲んでの作戦会議を開くはめになったのである。
しかしながら、その会議の参加者たちの顔ぶれは、いささか風変わりであると言う他なかった。
ドラ将軍と副官のタルボは当然として、シャーミアンもロアでは名《な》代《だい》の女騎士であるということだから、よしとしよう。ラモナ騎士団長のナシアスと副団長のガレンス。これも順当な顔ぶれである。
だが、他の二人、イヴンとリィとはどう見ても、この場にはふさわしくない人間だった。
この二人は初めてドラ将軍と名乗りを交わしたわけだが、将軍はまじまじと少女を見やり、ナシアスとガレンスの二人に問いかけるような目を向けた。
むろん、二人ともここで無駄な議論をするほど愚かではなかったので、すました顔で黙っていた。
どう見ても足手まとい以外の何物にもなりそうにない少女に加えて、黒衣の男がタウの山賊と聞いては、将軍は呆れるよりも怒るよりも、一気に脱力したようである。
「陛下。お気は確かでございますか」
「この上もなく」
澄んだ黒い瞳で見つめられて、将軍はげっそりと肩を落とした。
将軍が若い国王のお目付役としての責務をひしひしと感じるのはこんな時である。
というよりも自分がついていなければ、この人は何をしでかすかわからないという、一種の父性にも似た感情だった。
「お言葉を返すようでございますが、確かに今現在の我らの状況を省みますとお味方は一人でも多いほうがよろしいかと思いますが、山賊どもの力を借りてまで王位を取り戻したとあっては、のちのち世の人から何を言われるかわかりませんぞ」
至極もっともな意見だが、男はあっさりと、「言わせておけばいい」
と、躱《かわ》してしまった。
「それにイヴンを初めとする八人は、もはや山賊ではない。この俺の身を守ってくれる親衛隊士だ。そんなものはないとは言うなよ。今つくった」
ぴしゃりと自分の額を叩いたドラ将軍である。
「陛下。勘弁していただきたい。我々やラモナ騎士団を差し置いて、よりにもよって山賊にお身の回りの警護をさせるとおっしゃるか」
「いけないか?」
真顔で問い返すのだから、どこまでもとぼけた男である。
「俺は堅苦しいのは苦手だ。何より、彼らは孤立無援の俺に味方してくれると言いきった。その心意気を無下にしてみろ。コーラル奪回など到底おぼつかなくなるぞ。そんな不届き者にバルドウが加護をくれるはずがないからな」
こうなるとこの人は決して引かない。将軍も相当の頑固な性格だったのだが、諦めてため息を吐いた。
「まったく……あなたは、フェルナン伯爵によく似ていらっしゃる」
男の顔にかすかな苦痛の色が浮かんだ。
似ていてあたり前だと思う。あの人は二十二年もの間、自分の父だった。今でも、できることなら父と呼びたいのだ。
だが、国王としてはそれは避けねばならないことだった。
「問題は、できるだけ少ない被害でコーラルを取り戻すことだ」
男は平然とした素振りで元の議題に戻った。
驚くべき精神力である。
「そのためにも味方は多ければ多いほどいい。ドラ将軍は先ほど近隣の領主に早馬を走らせると言われたが、俺は少なくともこの中北部で二千の兵を集めたいと思っている」
「となると、いささか時間がかかりますな。今からかき口説いても、彼らが決心をするまでには一朝一夕とはいきますまい。かなりの時間を必要といたしましょう」
それというのも、男に着せられた濡れ衣は未だ晴れずにある。有力領主にしてみればどちらに味方していいものかためらうのも無理はない。
「ならば俺たちだけで先に出発してもよい」
男が言った。
「時を無駄にはできん。むやみな突撃は避けるべきだが、ここからではコーラルは遠すぎる。少しは軍勢を進めて置くべきだろう」
ロアからコーラルまで徒歩で走破すれば三日だが、軍勢を進めるには七日かかる。戦う余力を残しながら進まなければならないからだ。
ガレンスが、ためらいながらも口をはさんだ。
「ですが、陛下。後からやってくるポートナム・ミンス軍を足し合わせても、我々の勢力は五千を越えるか越えないかです。近衛兵団のやっと半分に過ぎませんが」
「そこまで楽観はできんだろう」
ドラ将軍が慎重に言いだした。
「コーラル近隣の領主たちはペールゼンの威勢を恐れているはず。乞われればコーラルに荷担するだろう。実際に我々が相手にせねばならぬ軍勢は一万五千。もしくは二万……」
重苦しい雰囲気が会議場内に漂った。
およそ十倍にも近い軍勢を相手にすることになるのだ。どう考えても勝ち目はない。
ナシアスが遠慮がちに言いだした。
「しかし、五千の兵力があれば、コーラルは無理でもマレバは解放できるかもしれません」
「俺もそれを考えた」
男が頷いた。
「ティレドン騎士団が参加すれば、我々の勢力は七千を越える。それでも相手方に劣るといえば劣るが、戦の優劣は単純に兵の数で決まるものではない。ティレドン・ラモナ両騎士団、加えてロアの衆を相手にしたがる領主がどのくらいいるかは大きな疑問だからな。我々に味方はしてくれないとしても手を合わせたくないと考えて傍観の姿勢を取ってくれれば、話はだいぶ違ってくる」
ナシアスとガレンス、それにドラ将軍が力強く頷いた。自《うぬ》惚《ぼ》れでも何でもない。先王の頃より以前から、屈指の戦闘集団と呼ばれている自負だった。
加えてティレドン騎士団を解放できれば、彼らは自分たちの長であるバルロを救うために一団となってコーラルへ進軍を開始するだろう。
それこそ国王軍にとっては願ってもないことであるが、タルボが気の進まない顔で言いだした。
「しかし、そんなことをしては、バルロさまのお命が危うくなりはしませんでしょうか」
国王が低く笑った。
「コーラルの連中がどんな手管を使うかはわからんが、ことバルロに関するかぎり、何を言っても無駄だろうよ」
「は……?」
ナシアスがそれは楽しそうに後を受けた。
「こんな場合の常套手段としては、騎士団員たちに向かって、諸君たちの団長はこの暴挙をたいへんに嘆き、すぐさま思いとどまるように訴えていると伝えるものですが、彼らは一笑に付すでしょうな。騎士バルロが己の保身のためにきたない命乞いなどするわけはなく、もし本当に命惜しさに我々に思いとどまるよう訴えているというのなら、それは偽物に違いないとね」
一同、この時ばかりはどっと笑った。
目的の一はティレドン騎士団を解放し、戦力に加えることと決まったが、本来の目的、コーラル奪回となると皆これといった思案が出ない。それほどの難問だった。
「近衛兵団をなんとか城壁から誘いだせればいいのですがなあ……」
ガレンスが悔しげに言う。
「いや、今度の場合、城外でもだめだ。町がまともに被害を受けてしまう」
「ううむ……」
「できるものなら郊外で決戦に持ちこみたいのだが、向こうがおとなしくさせてくれるわけはない」
「うむむ……」
ガレンスばかりではない。ドラ将軍もタルボも、ナシアスも難しい顔である。
頭ではわかっていたことだ。
相手はコーラルという最高の砦《とりで》を得ているのだ。
わざわざ堅い殻を出て決戦を挑むことはない。こちらが手も足も出ずに悔しがっているのを厳重な守りの中から見物していればいいのである。
鼻のわきを掻きながらイヴンが言った。
「あらかじめ住民を避難させておいて、その上で市街地を決戦場にするってのはどうでしょうね」
「市民がぞろぞろと逃げだしていくのを、改革派が黙って見ていると思うか?」
「そりゃそうですけどね。多少の被害は覚悟しなけりゃなりませんでしょうが」
「もっともだ」
唇に微妙な笑みを浮かべながら国王は言った。
この幼なじみが一応の体裁をつけてくれようというのが、なんともくすぐったかったのである。
「俺は人命を第一に考えたい。市民の被害が最小限で済むなら、建物のほうはやむを得ないと考えている。だが、それはあくまで理想だ。実際には市民の被害を考えている暇もない激戦になるだろう。何より、コーラルで決戦ということになれば……」
「十中八九、こっちの負けだ」
冷静に言った声に、一同は一斉に声の主を見た。
少女は涼しい顔である。
「それより、その近衛兵団をこっちに取りこむことを考えてみたらどうかな」
「これ。口を慎まんか」
窘《たしな》めたのはタルボだった。彼も正直いって何故こんな少女がこの席にいるのか不思議でならなかったし、邪魔だとも思っていたので、叱りつける口調になった。
「子どもが口を出すことではない。黙っておとなしくしておればよいのだ」
少女が肩をすくめる。しかし、国王は賛成の意を表して頷いた。
「近衛兵団の取りこみは悪い考えではないな」
「確かに」
ドラ将軍も頷いた。
「今の司令官のサングに人望はほとんどありません。元は単なる大隊長ですからな。それが頭を飛びこしていったとなれば当時の連隊長も、まして五人の軍団長も快くは思わなかったでしょう」
「近衛兵団の構成はどうなってる?」
と、少女。
タルボはまた声を荒らげかけたが、国王がそれを押さえた。
「全軍の指揮権を持つのは文字どおりの兵団長だが、一般には司令官と呼ばれることが多いようだ。その下に五人の軍団長がいる。一人の軍団長は二千人を指揮下に置き、数人の連隊長を持つ。一人の連隊長は四、五百人を指揮下に置くわけだが、やはり数人の大隊長を持つ。その下に中隊小隊と続くわけだ」
つまり近衛兵団とは五つの軍団からなり、五人の軍団長を指揮するのが司令官ということになる。
首をかしげた少女である。
「今の司令官は大隊長あがりだって?」
「いかにも」
「連隊長も軍団長もすっとばして? なんでそんなおかしなことになったの」
「平時ならば、こんな破廉恥きわまりない人事がまかり通るものか」
ドラ将軍が憤《ふん》懣《まん》やるかたない口調で答えた。
「あやつは真っ先にペールゼンにたぶらかされたのだ。それまでもせっせと謀反の誘いをあちこちにかけていたのだろうがな。おそらく真っ先になびいたのが恥知らずのサングめだ。半年前、奴の指揮する大隊がもちまわりで王宮の警備に当たり、城内の謀反人どもと呼応して一斉に動きだしたわ。開国以来、夜間は常に厳重に閉ざされていなければならない三つの門を開け放ち、ペールゼンその他の反乱軍どもを招き入れ、王宮を押さえたのだ」
イヴンが皮肉っぽく笑った。
「その功績で司令官とはね。よくまあ五人の軍団長が納得したもんだ」
「せざるを得なかったのだろうよ。いやと言えば自分たちの部下が自分になり代わるだけだ」
「しかしそれで今の近衛兵団は司令官の指揮どおりに動きますかね?」
「少なくとも今の状況では、命が惜しければ従うしかなかろうな。たとえ腹の中は煮えくりかえっていようともな」
男がいたずらっぽく笑い、イヴンも低く笑った。
「陛下。俺はこの嬢ちゃんの意見に賛成しますね。軍団長の一人も口説けばそっくり二千人、こっちのものにできる勘定だ」
「黙れ、山賊。そう簡単にいくものか」
すかさずタルボが反論した。
「確かに五人の軍団長のうち二人は以前から陛下に好意的だった。だが、そんなことは相手もわかっていることだ。我々に好意的な人物を先鋒に出してくるわけがない。仮に出てくるとしても、軍団長はつねに全軍の最後尾にいて指揮を執っているのだぞ。そう簡単に接触できるものではない」
ところが少女がけろりと言った。
「違うよ。後ろにいる軍団長や連隊長なんかほっとけばいいんだ。先鋒に出てくる大隊長をかたっぱしから口説けばいい。十人も口説けばそれで千何百人取りこめるよ」
国王とイヴンが吹きだした。
「いやあ、嬢ちゃんはいいことを言うなあ」
「まったくもってそのとおりだな」
「陛下! これは冗談ごとではないのでございますぞ!」
すっかり石頭の役をやるはめになってしまったタルボがまた声を荒らげる。
「誰も冗談なんか言ってないってば」
と、これまた少女が大真面目に言う。
タルボはもちろんドラ将軍も、額から湯気を吹きそうになっている。
本気で言っていることを嫌というほど承知しているナシアスとガレンスは、気の毒に、笑いを堪えるのが精一杯という有様だった。
「ナシアスどの。何がおかしい?」
「いえ」
美剣士ナシアスも、ほんの少年の頃からの英雄である髭の将軍に睨まれては神妙に頭を下げるしかない。
「ですが将軍。戦力的に我々は圧倒的な後れを取っております。となれば常道をもって向かったところで自滅の道を歩むだけのことではないでしょうか。ここは、多少型破りであろうとも、かつて例のないことでありましょうとも、有効と思える手段はすべて試みてみてはいかがでしょうか」
言いたいことは将軍にもよくわかる。いかに敵が強大であり、味方が貧弱であろうとも、引くわけにはいかない戦でもある。むろん負けるわけにもいかない。ここまで悪条件が重なっては、好むと好まざるとにかかわらず、正攻法ばかりを用いてはいられないのだ。
しかし、それをこんな少女の口から言われると、どうも直《じき》に耳を傾けることができないのである。
これも当然だろう。
国王は、早々にマレバへ向けて兵を起こすことを決定すると、ひとまず会議を切りあげた。
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普段は閑散とした牧草地であるロアは、急な熱気に包まれる土地となったようである。
将軍は言葉どおり、近隣の領主たちに次々と使者を送り、自らの領地からも、さらに五百の兵を募った。
ラモナ騎士団もロアの男たちも、戦の支度に余念がない。
タウの男たちは、ロアの男たちになかなかの好感をもって迎えられたようである。
彼らも命知らずの屈強の男たちであるし、馬もよく使う。王の警護を正式に言いつかってもおごり高ぶることなく実直に勤めていたのもよかったようだ。
ドラ将軍は国王の戦装束を用意させた。
緋色の絹で裏打ちした漆黒の外《がい》套《とう》、金で象《ぞう》眼《がん》した兜《かぶと》と剣帯に拍《はく》車《しゃ》など、まばゆい品々が次々と館に運びこまれた。
裾の長い上着の胸には、獅子の横顔と交差する二本の剣の紋章がずっしりと輝いている。
シャーミアンが意匠を描き、女たちが一針一針丁寧に縫いとったものだ。図案が複雑な上、金系銀系をふんだんに使う、刺繍としてはかなりの大物なので、シャーミアン一人の手には負えなかったのである。
試着した国王は誰もがため息をつくような立派な大将ぶりだった。
後は馬である。
ドラ将軍はロア一の名馬を国王の愛馬として贈ると約束した。ちなみにタウの男たちと少女も馬を選ばせてもらうことになった。軍馬で名高いロアならではの大《おお》盤《ばん》振《ぶる》舞《まい》である。それほど、よく調教された軍馬とは高価なものだった。
ロアの人々の馬への接し方は一種独特である。
名産地と言われるくらいだから、ある程度の家では必ず馬を飼っているのだが、厩《きゅう》舎《しゃ》というものがない。放し飼いである。さすがに、馬どろぼうを警戒してか、騎乗の見振りが幾人か出ているが、放牧地には柵というものがない。見渡すかぎりの草原を馬は好き勝手に歩きまわっているように見える。
「そんなことをしたら自分の馬も人の馬もわからなくなっちまいませんか?」
イヴンが尋ねると、将軍は高らかに笑ったものだ。
「このロアにはな、自分の馬と人の馬を見分けられないようなものは一人としておらん。たとえ持ち馬が何百頭を数えようともだ。知らない馬が迷いこんでいたなら一目でわかるし、隣近所の馬をも見覚えているからな。誰の馬かもだいたいわかる」
「ははあ。たいしたもんですなあ」
素直に感心してみせたイヴンだった。
領主であるドラ将軍はむろんロアでも一番の馬主である。男たちはとりあえず今までの馬に跨がり、将軍の牧草地まで出向いたのだが、そこにいた馬はどれもすばらしいものだった。
季節は春真っ盛りだ。木々も地面も一面の緑である。色とりどりの馬がゆっくりと草を食んでいる。
生まれたばかりの仔馬もたくさんいた。母馬の乳を呑んでいるものもいれば、大勢の人間たちを好奇心たっぷりに見つめてくるものもいる。
「きれいだねえ……」
眺めていた少女が感心したように言った。
「馬が? 景色が?」
「両方」
「なあ、嬢ちゃんならどの馬にする?」
「イヴンは?」
「俺は、あれがいい」
イヴンが指さしたのは、そこにいた馬の中でも、ひときわ立派な黒鹿毛だった。両前足の先が白く、額にも白い星が流れている。
「いや。あれはだめだ」
と、将軍が言った。
「あれは陛下のためにと思っている馬でな。すまんが他を選んでくれ」
「ははあ。残念ですなあ」
惜しそうに首を振ったイヴンだが、相手が国王では仕方がない。あきらめて、他の馬を選ぶことにした。男たちもそれぞれ馬を選びだした。
ここで活躍したのが将軍の従者たちである。
こちらももちろん騎乗である。ただ、彼らは皆、手に手に奇妙な竿を持っていた。
細長い竿の先に、やはり細い革の紐を結びつけ、少したわめて竿の途中で縛りつけてある。
あの馬がいいというと彼らは片手にその竿を持ってさっと進み、逃げる馬を追いかける。
たちまち追いすがり、竿を一振りして目当ての馬の首を捕えてしまう。そうして急停止する。
馬は相当暴れるが、首を捕えられているからどうにもならない。そのうち疲れて足を止めてしまう。
さすがに軍馬の名産地を自負するだけあってあざやかな手際である。
見ていた少女がはしゃいで手を打った。
「おもしろい。馬釣り竿だ」
タウの男たちも感心したようにその様子を眺めていた。
「なるほど。ロアの衆ってのはたいしたもんだ」
ブランが言えばイヴンも頷いて、「あっさり捕まえてるようだが、ありゃあ、よほど力がないと竿を持ってかれるぞ」
将軍が国王のためにと言った黒鹿毛も捕え、彼らは屋敷へ引きあげようとしたのだが、その時、タルボが鋭く主人の注意を引いた。
「将軍さま! 黒《くろ》主《ぬし》です」
「おお……」
将軍が思わず手綱を引き、馬を止めた。
黒主と言われてもイヴンたちには何のことだかわからなかったが、ロアの男たちの間には緊張が走ったようである。
「どこ、どこですか、タルボさま」
「あそこだ。木の間にちらりと見えた」
男たちは並々ならぬ熱意で、その何やらが現れるのを待ちうけている。むろんタウの男たちも少女もタルボが指さしたほうを見やったのだ。
やがて、木の陰から悠然と現れたのは一頭の馬である。
だが、ただの馬ではなかった。
ロアの男たちのみならず、タウの男たちもいっせいに感嘆の声を漏らしたのである。
彼らにとって馬は単なる動物ではなく、戦における重要な機動力だ。当然その性能を見分けることにかけては鋭い目を持っている。
現れた馬はその彼らが今まで見たことのない姿をしていたのだ。体のつやといい、筋肉の張りといい、ほれぼれするほどの見事さだ。
全身真っ黒、黒を通りこして紫光りするような、すばらしい馬体である。
そればかりではない。大きい。将軍が王のためにと選びだした馬よりも確実に一回りは大きいに違いない。
たてがみを振るしぐさも勇ましく、ひとかたまりの人間たちを見ても素振りが変わらない。
それも人に馴れているからではない。警戒するに値しないものと見ているからだ。こちらを一《いち》瞥《べつ》した目の光ときたら、人のほうが怯むほどの鋭さである。
威風堂々という言葉を馬に使うのが適当であれば、この黒馬はまさしくそれだった。
イヴンが小さく口笛を吹いて言ったものである。
「将軍。何だってあの馬を陛下に持ってかないんです?」
「できれば苦労はないわ」
将軍が言った。
しかし、苦い口調ではない。むしろ感嘆したような響きさえあった。
「あれはな、ロアの黒主。その名のとおりロアの主であり、誰のものでもない馬だ」
「誰のものでもない?」
「そうだ。もう百年以上も前から、な」
イヴンが碧い目を見張ったのは当然である。
「あの馬は百年以上も生きてるんで?」
「馬鹿を言うな。むろん、代替わりしている。今の黒主は五代か六代目だろうよ」
馬の代替わりとは奇怪至極なことを聞くものである。タウの男たちは耳をそばだて、もっと詳しい話を聞きたがった。
「初代の黒主がいつ、どの家から現れたのかもはっきりとはしない。ある日、突然あらわれたという話もある。その当時からあのとおり、ふるいつきたくなるような名馬であったことは確かだ。何人もの馬主が目の色を変えて、これを捕えようとしたそうだが……」
「できなかった?」
「そうだ。当時のことはわしは知らんが、馬とも思えないほどに賢く、馬力のあることは数人掛かりでも捕えられなかったと聞いている。以来、黒主はいつも黒主なのだ。常に全身漆黒の姿で現れ、決して人に慣れない。捕えられない」
タウの男たちは多大なる驚きを持って、悠々と草を食《は》んでいる『黒主』を見やった。
そんなことがあるものかと思った。
「将軍。俺はあなたがたに比べればそれほど馬には詳しくないが、人が手がけたわけでもないのに、百年近くもの間、同じ毛色の同じ性質の馬が出続けるなんてことがあるんですか?」
「ある。というよりなかろうな。わしは先代の黒主も先々代の黒主もよく知っている。今の黒主同様、ほれぼれするような姿だったぞ。できるものなら何としても馴らしてみたいと思ったものだが……」
将軍の口調には苦笑と懐古の響きがある。
その横でタルボが同じような口調で言った。
「ロアに生まれた若者ならば、誰でも一度は夢見ることですからな」
「違いない。しかし、誰もがしまいには諦めるしかないと気づかされる。あれは人の手に負えるものではないのだとな」
従者たちが無言で頷き、同意を示した。
そこにいた馬たちも黒馬が近づいて来ると自然と進路を譲った。牝をたくわえた牡馬には当然、縄張り意識があるはずだが、群れのリーダーは割りこんで来た黒馬を追いだそうとはしなかった。
どうやら馬にとっても、ロアの黒主は特別な存在であるらしい。
「先々代から先代に代替わりした時、わしはまだほんの若造だったが……目がおかしくなったかと思ったぞ。まったく同じ姿、同じ毛色、ずば抜けた足も首を振るしぐさも、表情までもがそっくり同じ。知らないものが見たら同じ馬だと思ったろうが、歳が違った。いつの間にか若くなっていた。嫌でも信じるしかなくなるわ」
ロアの男たちは神妙な目線で、巨大と言っていいほどの黒馬を見つめている。
「先代から今の黒主に代替わりしたのは、ついこの間のことだ。それまでの黒主がどうなるのか、どこへ行くのか、わしらにもわからん。わかっていることは、あれはまさしくロアの主だということさ」
イヴンがおもしろそうな顔になって将軍を見た。
「領主のあなたがそんなことをおっしゃる?」
「そうとも。このわしがだ」
将軍は豪傑の笑みを浮かべている。
「わしらは馬を飼い、これを馴らし、戦場での足として使う。人が主人で馬が家畜のように見える。実際そう言うものもおるが、とんでもない話だ。わしらのほうが馬に助けてもらっているのさ。馬は人などいなくともどうということもなかろうが、我々は馬がなくてはどうにもならん。それを忘れてはこのロアでは一日たりとも生きてはいけぬのだ」
潔い信条とたしなみに、イヴンは一種の心地よさを感じながらも、残念そうに首を振った。
「しかし、惜しい。あれこそデルフィニア国王の愛馬にふさわしい馬でしょうに」
「わしも同感だが、さすがに人死にを出してまで、陛下に差しだそうとは思わんのでな」
男たちは目を剥《む》いたが、馬上の将軍は大真面目である。
変わってタルボが説明をした。
「先ほど貴公は馬を捕える際、力がなければ竿を持っていかれると言ったが、まさしくそのとおりだ。
ただし、あの黒主はな。首の一振りで竿どころか、馬に跨がっている人間を引きはがしてしまうのだ。
思いきり地面に叩きつけられ、あるいはあの蹄《ひづめ》に蹴られ、あげく命を落としたものが今まで幾人いるか数えきれん」
出るものは嘆息ばかりの男たちだった。
ヌイのフレッカが呆れたように皆の心境を代弁したものである。
「そんなに人死にを出してるのに、あの馬を放っとくんで?」
髭の将軍は勇ましく笑ってみせた。
「殺すべきだとでも言いたいか? あいにく我々にとって馬は何より親しみのある生き物だ。それに、捕えられないのはこちらの未熟だからな」
「だからって、ねえ……」
タウの男たちは顔を見合わせている。
「危ないじゃないですか。いつどこに現れるか、わからないんでしょう?」
「こちらが何もしなければ、黒主ほど安全な馬は他にいないぞ」
太鼓判をおした将軍だった。
「そもそも、捕えられる際に抵抗するのはどの馬も同じことだ。それを制するのが人の技量だ。己の技量も省みずに血気に逸《はや》る愚か者をたまたま黒主が返り討ちにしたとて、わしはあの馬を恨む気にはなれん」
勇み足をした未熟者が相応の罰を食らうのは当然であり、恨みつらみを述べるよりは教訓とするべきであると将軍は考えているらしい。厳しいが正しい意見だ。
そしてもう一人、この意見に賛成を示したものがいたのである。
「それなら、乗ることができれば誰が乗ってもいいわけだ」
少女である。
ドラ将軍はちょっと目を見張った。
「むろん、そのとおりだ。しかし、百年もの間、誰にもできなかった。それも馬にかけては中央一を自負するロアの男たちがだぞ」
「手なずけてやろうなんて考えるからだよ」
あっさりと言った少女は、近くにいた男から『馬釣り竿』と呼んだ道具を借りうけた。
「ちょっと行ってくる」
「お、おい、嬢ちゃん」
イヴンが慌てて止めようとしたが、少女はさっさと馬を歩かせ、草を食んでいる黒主に近づいて行ったのである。
「嬢ちゃん。危ねえよ! 何人蹴り殺したかわからない馬なんだぞ!」
「なに。放っておけ」
タルボが苦笑しながら言った。
「黒主は頭がいい。あんな子どもを相手にはせん。自分から引いてくれるだろうて」
将軍も笑っている。
「ましてや一度見ただけで、いきなり捕《と》り竿を振りまわしてみたところで、かすりもせんだろうよ。あれはそう簡単に使いこなせる道具ではないからな」
「まったく。運よく引っかけられたとしても、竿を奪い取られるのが落ちでしょう」
竿ごと体を持っていかれるためにはそれ相応の握力がいる。あんな小さな手では、ちょっと引っぱられれば竿を手放してしまうとタルボが考えたのは無理のないことだ。
問題の黒馬は少女が近寄っていくと食事をやめて、首を上げた。
妙なものが近づいてきたな。とでも言いたそうな様子である。
あくまで悠然と尾を振って、他のところで食事にしようと歩きだしたが、葦毛に乗った少女が並足でそれを追った。
黒馬は一度うるさそうに振り返り、足を速めた。
少女も馬足を速くした。
普通の馬ならそのまま走りはじめるところだが、驚いたことに黒馬は足を止めて向きなおった。
決して脅かしがましい態度ではないが、何か仕掛けるつもりなら見てやろうという姿勢である。
すると少女も馬を止める。
まるで気のなさそうな素振りで、乗っている馬の首を叩いてやったりしている。
「ほほう、あの小娘、なかなかやりよるわ」
ドラ将軍がおもしろそうに言った。
男たちはこの先どうなるのかと興味津《しん》々《しん》の様子で、めったにない見物に見入っている。
「しかし、走り始めるまでだ。あの葦毛ではとても黒主は追いきれん」
「当然でしょうな。相手はロア一の名馬です。あの巨体で動きの速いことは保証済みですからな」
「そんなに速いんで?」
またフレッカが尋ね、将軍もタルボも重々しく頷いた。
「先代の逸話だが……何としても捕えてくれようと、五人がかりで取りかこもうと試みた者があったが、あっさり囲みを抜かれ、置きざりにされたそうだ」
タウの男たちは一斉に目を剥いたいた。
「しかもその足の続くことときたら。それなら疲れたところを捕えようと、昼夜を通して追いまわした者もいたのだが、代え馬五頭つぶしたあげく、逃げられたそうだ」
つまりあの馬は、並の軍馬五頭分の持久力を持っているということだ。
今度はツールのブランがおそるおそる尋ねたものである。
「ほんとに馬ですかい?」
「わしらも常々同じことを考えさせられる。あげく強引な手段であれに手をかけることはできないのだと思い知らされる。あの娘にもいい経験になるだろうよ」
しかし、将軍は知らなかった。
ロアの黒主が並の馬でないのと同じように、グリンディエタ・ラーデンも並の少女ではなかったのである。
黒馬が再びゆっくりと歩みだすのを見計らい、少女は一拍の間を置いて、自分の跨がる馬を一気に走らせた。
絶妙の呼吸だった。黒主が異変を感じて走りだそうとした時には少女はすぐ側まで迫っていた。
間髪を入れずに竿を閃かし、見事に黒馬の首を輪の中に捕えたのである。
「おお!」
男たちは歓声をあげたが、これはまだ序の口である。問題はここからなのだ。
黒馬は、かっと目を見開いた。その全身から火を噴いたようにいきり立ち、体の色はさっ[#「さっ」に傍点]と鮮やかにつやを増したようだった。
今までも自分に対してこんな無礼を働くものには手ひどい仕返しをしてきた馬である。
後ろ足で立ちあがり、首に絡みついてきた異物を振りはらおうと思いきり体をひねった。
見物の誰もが、竿を奪い取られて終わりになると思ったが、その動きこそ少女の狙っていたものだった。
待ち構えていたように鐙《あぶみ》をはずし、馬の背に片足をかけ、黒馬が首を振るのに合わせてむしろ自分から鞍を飛びだし、次の瞬間には黒馬の背中に見事に着地したのである。
「何だと!!」
ロアの男たちはほとんど悲鳴をあげた。
「いかん! 振り落とされる!」
イヴンも蒼くなった。
黒馬の激怒したことは言うまでもない。今まで一度も人を乗せたことのない馬だ。土をえぐるほどに飛び跳ね、猛烈に首を振り、突然背中に飛び乗ってきた不届き者を振り落とそうと地響きを立てる勢いで荒れ狂った。
145_挿絵4
手綱も鞍も乗せていない裸馬である。これほど暴れられては屈強な男でもひとたまりもないはずだったが、少女は飛び跳ねる馬のたてがみをしっかと んで離さない。
両足はどこを抑えているのかわからないが、荒れ狂う馬の背中にしがみつき、いくら振りまわされてもびくともしない。
馬はすぐに戦法を変えた。
暴れまわることで振り落とせないのなら、距離を走ることにしたのだ。
ロアは南半分が草原だが北半分は森を含む斜面である。川もある。崖もある。横倒しになった大木も岩石もある。
馬はそれらを飛び越え飛び越え、駆けぬけてくれようと考えたらしい。首を北へ向けた。
「いかん!」
ここへ来てドラ将軍が馬腹を蹴った。
「将軍さま!」
タルボも続いた。さらにその後をイヴンが追う。
他の男たちは残った。手綱を繋いだばかりの馬を八頭も連れていたからだ。
たてがみにしがみついている邪魔な荷物を乗せていても、黒馬はすばらしい速度で走っている。
しかし将軍もロアの男だ。かろうじて追いつき、大声で叫んだ。
「馬から飛びおりろ!」
無茶な注文だが、今までの動きを見ていて、この少女ならできるはずと踏んだのである。
「森へ入れば黒主が跳ぶものはいくらでもある!
そんなところで振り落とされたら一巻の終わりだぞ。
今のうちに飛びおりるんだ!」
「大丈夫!」
少女はたてがみにしがみついた状態のまま、叫び返してきた。
「馬鹿者! 黒主は跳躍もよくする! お前などひとたまりもないのだぞ!」
ロア一の名馬というのは嘘ではない。
みるみる将軍の馬との距離を開けている。懸命に鞭をふるい、引き離されまいとした将軍だが、いかんせん馬足が違いすぎる。とても追いつけない。
ぐんぐん引き離され、たちまち小さくなっていく馬の背中で、少女がさらに何か叫んだ。
「夕方までには……帰るから……」
後はもう聞こえなくなってしまった。
少女を乗せた黒馬は、ロアの北に鬱蒼と茂っている森へと消えていったのである。
将軍はしかたなく馬を止め、大きく喘いだ。
「何ということだ」
苦々しい口調だった。
「将軍さま」
追いついてきたタルボも不安な顔だ。
力量も考えず、たわむれにあの馬に挑みかかるものなど命を落としたところで自業自得と将軍は考えていたが、相手はほんの少女である。しかも国王の気に入りとあっては放ってもおけない。
「森を捜させますか?」
タルボが尋ねたが、将軍は首を振った。
「人を出すにしても手が足りん。まずは陛下にご報告せねばならん」
館まで急いで駆け戻った将軍たちは、すぐさま国王の居室へと注進に走った。
しかし、忠実な臣下が青ざめて報告するのを聞いて、国王は軽く首をかしげたものである。
「何もそこまで心配することはないと思うが」
「陛下はあの娘が死体で発見されることになっても構わないとおっしゃる?」
将軍のその懸念は至極もっともと言うべきものである。一緒にいたロアの男たちは皆、あの少女は黒主に蹴り殺されるか、落馬して命を落とすか、どちらかに違いないと確信していた。
口々に国王に訴える。
「子ども離れした見事な技でしたが、いかんせん相手は、決して人にはなつかない荒馬でございます。それでも年を経た黒主はそれなりに穏やかになるものですが、今の黒主はまだ四歳。普通の馬でも一番血気盛んな年齢です」
「今のうちに人を出して森を捜させるべきです。落馬しても軽傷で済む場合もありますし、仮に重傷を負ったとしても手当て次第でずいぶん助かるものですから」
国王は苦笑半分、気の毒そうな表情半分、それぞれ浮かべて部下たちを見た。
「どうやら、諸君たちはあの娘が黒主に踏み殺されると思いこんでいるようだな」
「陛下。あなた様も以前からたびたびこの地を訪ねていらしった方です。ロアの黒主がどんなものかはよくご承知でございましょう」
「ああ。俺が見たのは先代だったが、見事なものだった。騎士なら誰でも恋をしそうな名馬ぶりだった。知らぬ間に代替わりしていたとはな。俺も今の黒主を見てみたいものだ」
と、国王はあくまでのんびりとしている。
「夕方までには戻るとあの娘が言ったのなら、そのとおりになるだろうよ。何も心配することはない」
「冗談をおっしゃられては困ります」
将軍が言い、タルボも他の男たちも口々に同意を示した。
将軍はさらに言う。
「仮に死なずに済んだとしてもです。あの勢いではどこまで走り続けることかわかりません。到底、今日のうちには戻れないようなところまで黒主ならば走りぬけます。人里離れた森の中であんな子どもがただ一人で放り出されたら、どうなることか。一夜を無事にすごせるとでもお思いか」
もっともな意見なのだが、国王の黒い目は変わらず笑みを浮かべている。
「そうかな。俺は案外、黒主にまたがって、この屋敷まで戻って来るような気がするがな」
「……!」
即座に怒声をあげそうになった将軍を制して、「そんな馬鹿なことは絶対に起こるはずがございません! と言いたそうな顔だな」
「……仰せのとおりにございます」
「それなら日暮まで待とうではないか。あの娘ならば、絶対に心配はいらん」
日が暮れようと森の中で一人になろうと、あの少女は怯えたり恐怖を感じたりはしない。ましてや傷つけられるものなどいるはずもない。それは国王が自らの身をもって学習済みである。
よほどの遠距離に置き去りにされたとしても自分の足で駆け戻ってくる。
さらに、ふと悪戯心を起こして、国王は問いかけてみた。
「将軍。もしも、あの娘が本当に黒主と共に戻ってきたならどうする?」
「あり得んことだと申しあげたはずです。確かに、あの歳の子どもにしてはなかなか見事な騎乗ぶりでしたが、あの細い体で続くわけがありません。必ず力負けします」
「さて。それはどうかな?」
ますますおもしろそうに国王は笑い、その後ろではラモナ騎士団副団長が、これまた神妙な面持ちで頷いている。
「それではと、何を賭けようか」
「陛下!」
「いいから言わせてくれ。あの娘は三度も俺の命を救ってくれた。どれも人間離れした技を持ってだ。俺は間違いなく、無事に戻ってくると思う。それに、ロアの黒主ならバルドウの娘の愛馬には似合いではないか」
楽しそうに言う主君に将軍は疲れたようである。
「まだそんな戯《ざれ》言《ごと》をおっしゃるか」
「それなら将軍。もしあの娘が無事に帰ってきたら、あるいは黒主を連れて戻ってきたら、あの娘を国王軍の参謀として俺の横に並べても、苦情を述べずにいてくださるかな?」
思いきった提案に、将軍はさすがに驚いたようである。
「何ですと?」
「俺はあの娘と約束をした。いや、俺が一方的に自分に約したのだ。軍を率いてコーラルへ進む時が来たら、あの娘を国王の友として扱い、助力を仰ぐと。将軍方のおかげで意外に早くその時が来た。となれば王たるものが己に課した誓いを破るわけにもゆかぬでしょう」
ドラ将軍は低く唸った。
「陛下。そのありさまを……あんな少女を特別に扱い、ありがたがる国王の姿を世の者が見たなら何と言うか、それがわからぬあなた様ではありますまい」
「そうかな? あれだけの美少女がロアの黒主にまたがっての進軍となれば、実に絵になるだろうに。軍の先頭を進んでもらえば、よい宣伝にもなる」
聞いていたイヴンが相を打った。
「そりゃあ、確かに絵になる姿だ」
途端、ドラ将軍にすさまじい目で睨まれて、首をすくめた。
「信じられないと言われるのはもっともだが、あの娘にはそれだけの能力があるのだ。人とも思えぬ、不思議な力がな」
頑固そのものの主君の態度に将軍はとうとう諦めたようにため息を吐いた。
そもそも、あの娘の命を案じて捜索に当たらせようという話が、どこでどう間違えば、軍の先頭を進ませるの参謀に迎えるだのという話になるのだ。
「わかりました。そこまでおっしゃるならよろしい。あの娘は死んだものと私は判断します。それにもし、もしもです」
将軍は実に苦々しい顔つきで一気に言った。
「陛下のおっしゃるようなことが現実になったならば、わしはこの髭をむしり取って食《しょく》してみせますぞ。そんなことはあり得ないことですが、もしあの娘が無事に戻ってきたならその時はどうぞ、あなた様の好きになさるがよろしい」
言いすてて、さっさと立ち去ってしまった。
よほど怒らせたらしい。
国王はただ苦笑している。
その場にいて一部始終を聞いていたシャーミアンが心配そうな顔で国王に迫った。
「陛下。あの、さしでがましいようですが……」
「どうぞ。おっしゃってみてください」
「私も父の意見に賛成です。あの少女を見殺しになさるようなことは、どうか……」
「やれやれ。俺はすっかり悪者だな」
国王は困ったように笑っている。
「大丈夫だ、と俺がいくら言っても信じていただけないかな?」
優しく問いかけるとシャーミアンはどこか悲壮な顔をあげた。
「よその土地の方にはわかっていただけないかも知れませんが、ロアの黒主は馬であって馬ではないものなのです。あれは人の手に負えるようなものではありません」
なるほど主《ぬし》とまで言われている馬だ。『人の』手には負えないかもしれない。では相手が『人』でなかったら?
国王はそう思ったが口にはせず、長年の友人を見た。
「イヴン。お前の意見は?」
黒衣の山賊は軽く肩をすくめてみせた。
「まあ、あの歳の子どもとは思えないほど、よく頑張ってたのは確かです。これには俺もちょいと驚きました。でもねえ……。あの嬢ちゃんはロアへ来るのは初めてなわけだし、あの馬はこのあたりを縄張りにしてるわけだし、またあの馬が、馬とも思えないくらいに頭がいいってことは俺にもわかったくらいですからね。どうも、嬢ちゃんのほうが分が悪いんじゃないでしょうか」
「となると、賭けにならんな」
国王はぼやいた。
「黒主を連れて戻るか、一人で戻るかが問題なのに、あの娘の生還を信じているものが俺一人では賭けにならん」
「陛下!」
シャーミアンが悲鳴のような声をあげる。
あの少女の命が危ないというのに、いつも優しいはずの国王がどうしてここまで冷淡でいられるのか、シャーミアンには理解しがたかった。
「それなら、私一人でも森へ捜しに参ります」
シャーミアンはあの少女に好感を持っている。それでなくとも、あんなに幼い体が馬の蹄《ひづめ》に踏みにじられるところを想像するだけで、痛ましさに胸が締めつけられるのだ。
「シャーミアンどの。頼むから落ちついてくれ。日暮までそう間もない」
「ですから、時を逸せば手遅れになります!」
どうも国王に対する風当たりはかなりきついようである。
ガレンスが側にいるものの、こんな時に気のきいたことを言える男ではない。相手が若い女性となればなおさらだ。
そこへ救いの主がにこにこ笑いながら部屋に入ってきた。
ナシアスである。
「陛下。今、外で聞きましたが、あの娘がロアの黒主と取っ組みあったそうではありませんか」
「おお。そうなのだ。絡みあったまま森へ消えたそうだぞ。それでこの屋敷の者どもが、あの娘の身をたいへんに案じてな。森へ捜索隊を出すというのを、やっとのことで思いとどまらせた」
「それはお疲れさまでございました」
男にとっては苦労話だが、ナシアスにとっては笑い話である。残念そうに首を振った。
「しかし、惜しいことをしました。その勝負、ぜひとも見たかったですな。陛下はどちらが勝つと思われます?」
「それはもちろん、リィのほうに軍配があがるだろうよ」
「いや、それはわかりません。相手が四つ足となれば、あの娘でもいささかてこずるのではないでしょうか。ましてこの界隈では神か魔物のように言われている名馬ですからな。私は黒主に利があると思いますよ」
「おもしろい。では賭けるか」
「よろしいですとも」
すっかり意気投合して盛りあがったところに、シャーミアンの雷が落ちた。
「ナシアスさままで! 馬鹿なことを!」
こちらも腹を立てたらしい。くるりと背を向けて退出していった。
国王は首をすくめながらも、驚いたように言ったものである。
「さすがに父《おや》娘《こ》だ。腹を立てたところなど、そっくりだな」
ナシアスも困ったように笑っている。
「我々の確信は、この土地の人々には理解していただけないようですな」
実際、口でいくら説明したところで無駄だ。
ナシアスもガレンスもその目で見るまで信じられなかったのだ。
そのガレンスが、もったいをつけて言いだした。
「ですが、陛下。これはよい機会ではありませんか。ロアの黒主と組みあって無事に戻って来たとなれば、たいへんな勲章です」
ナシアスもうなずいた。
「この土地の人々が黒主を敬うさまは、戦士がバルドウを敬うにも似たものが、ありますからな」
あの少女の生還を信じて疑わない二人の口調に、男は思わず笑みを漏らした。
「それにもまして、黒主にまたがって戻って来たとなれば、あの娘は黒主と同じくらい、この土地の者の尊敬を集めることになるだろうよ」
ラモナ騎士団長の水色の瞳に、少年のような微笑が浮かぶ。
「さて。そこまでうまくいきますかどうか」
「賭けるか?」
どこまでもちゃめっけのある王様である。ナシアスも笑いながら頷いて、「お受けいたしましょう」
と、言った。
太陽が大きく西に傾き、緑の草原が一面の朱に染まるころ、ドラ将軍の屋敷のまわりに張られた陣営で騒ぎが起きた。
この屋敷の周囲は将軍の手勢が固めている。ラモナ騎士団は二千名という大所帯であることもあり、屋敷の中にナシアスとガレンスを残して、少し離れたところに陣を張っていた。
つまり、将軍の腹心の部下たちが、屋敷の回りを固めていたわけだが、その中でもかねて名もあり、歳も行き、つまりは相当しっかりしているはずの武将がほとんど半狂乱になって屋敷内の将軍の居室に駆けこんで来たのである。
「ご、ご領主さま! 将軍さま! い、い、一大事でございます!」
後は言葉にならない。
「何ごとだ。騒々しい」
将軍は不満そうに言ったが、外で何やら大騒ぎになっているのが家の中にいても聞こえた。
自然、表情が引きしまる。
「何が起きたのだ。コーラルからの先兵でも現れたか」武将は死に物狂いで首を振った。
「と、と、とにかく、急ぎお越しください!」
ほとんど悲鳴のような声を残し、脱兎のごとく駆け戻っていく。
ただ事ではない。
将軍もとっさに愛用の槍を掴み、後を追うようにして屋敷の外へ駆けだしたのだが、出て驚いた。兵士たちが皆、陣営から飛びだして総立ちになり、同じ方向を食いいるように見つめているのだ。
「いったい……」
言いかけて、将軍も絶句した。
危うく手にした槍を取り落とすところだった。
その後ろでは、後から駆けつけて来たらしいシャーミアンが小さな悲鳴をあげている。
同じく屋敷を飛びだしたナシアスとガレンスは感嘆の声を漏らし、イヴンは碧い目を真ん丸にし、国王はにんまりと笑ってナシアスに言ったものだ。
「賭けは俺の勝ちのようだな」
およそ数百人以上もの人々の視線を一身に受けながら、少女は軽快に馬を走らせている。
手綱の変わりにたてがみを掴み、ゆるやかな速歩に近い足並みで屋敷をめざし、鐙《あぶみ》もないのに馬が走るのにうまく体を合わせている。
ドラ将軍が、うめくような声を漏らした。
祈りの言葉のようだった。
急ごしらえの兵舎にぐるりと囲まれている将軍家も玄関への通り道だけは開かれ、そこだけは整然とした通路になっている。
少女は当然ながらその道を進んできた。
両脇にずらりと並んだ兵士たちは思わず足を引き、馬と少女のために道を譲ったのである。
少女は馬上で何の操作もしていない。馬が歩くにまかせている。そして馬はまるで道を知ってるかのように軽快に建物の玄関に近づいて行くのだ。
兵士たちはそれぞれ固唾を呑み、妖《あやかし》を見るかのような目で、すぐ目の前を通りすぎて行く黒馬を見送った。
「これは……夢か?」
そんなことを呆然と呟いた兵士もいたくらいである。
まさに同じことをドラ将軍もタルボもシャーミアンも思ったはずだった。彼らにとっては決してあり得ないことが現実に目の前で起きているのだ。
少女のほうはそんな人々の緊張と驚愕にはまるでおかまいなしで、将軍や国王が立っている玄関までやってくると、ひらりと飛びおりて「ただいま」と言った。
人も馬も汗まみれである。
たった今までまたがっていたのはもちろん『ロアの黒主』だった。
足を止めた黒主を間近にして、将軍たちは言葉もない。
これほど目のあたりにこの馬を見るのは初めてなのである。
驚いたことには先ほど見た時と馬の様子がまるで違う。あれほど激怒していたというのに、今は機嫌がよさそうにさえ見えるのだ。
出迎えた人達が生きたまま銅像のようになっているのを尻目に、少女は軽く馬の首を叩き、「おいで。汗拭いたげる」
と、言ったものだ。
馬は大量に汗を掻く上に、その汗をふきとらないで放っておくと体調を崩して使い物にならなくなってしまう。
野生馬は自分でそれを知っている。しかし、黒主は相当の長距離を走ったのだろう。全身汗だくである。
だが、ついてこいと言われて従う野生馬はいない。
まして人に馴れないことでは百年の歴史のある系統の馬である。
ところが、黒馬は実にあっさりと少女の言葉を聞きわけ、おとなしくその後をついていったのだ。
ドラ将軍の横では、先ほど駆けこんで来た従者が蒼白となって主人を窺ったが、主人もその腹心も紙のような顔色になっている。
将軍家には非常用の馬をたくわえておく厩舎がある。馬の手入れをする場所も戸外に作られている。
少女はていねいに馬の汗をぬぐってやったが、いかなる種類の緊縛もかけなかった。当然、馬は自由に歩ける状態のままだ。
手入れが終わると、少女は馬の尻を軽く叩いてやり、馬は今来た道を悠々と引き返していった。
兵士たちは二度のけぞって、ロアの黒主が通るのを見送ったのである。
それはロアの領主も同じことだった。
巨大な黒馬が言われたとおり少女の後をついていくのも、汗をふきとる間おとなしくしていたのも、さらに手入れの後、馬が単独で草原へ軽やかに走り去っていくのも見ていながら、硬直したまま動けなかったのである。
国王はと言えば目《もっ》下《か》の大仕事は笑いを堪えることだとばかりに懸命に口元を引きしめていたし、ナシアスも気の毒そうな顔つきで、黙って将軍の様子を窺っている。イヴンはひたすら呆れたような表情で少女と駆け去っていった馬を交互に見比べていた。
黒馬を草原へ送りだしてやると、少女はやっと自分のことに気持ちが向いたらしい。
真剣な顔で国王を見上げて尋ねた。
「ものすごくおなかすいてるんだけど、何か食べるものあるかな」
「お前のためならロア中のご馳走をここへ並べてやるとも」
国王は満面の笑顔で請け負い、黒主が走り去っていった方向を見て問いかけた。
「一日でずいぶん親しくなったらしいな」
「おかげさまで。鞍があるといいんだけど、一つ用意できる?」
まだ茫然自失状態のタルボが、同じような茫然自失の口調で尋ねた。
「鞍だと……?」
「そうだよ」
言葉の意味が頭の中でつながらないらしい。
さらに放心の態で機械的に尋ねてきた。
「鞍を用意して……どうするのだ」
緑の目が丸くなる。
「どうするって、ふつう、鞍っていうのは馬の背に乗っけて使うんじゃないの? あのままじゃ乗りにくいんだよ」
衝撃に衝撃を重ねた彼らの、これが限界だった。
この言葉を聞きとった兵士たちもタルボもドラ将軍も目を剥《む》きだして一斉に叫んだ。
「黒主に鞍を置くだって!!」
まさしく絶叫である。
どよめきは大波のように伝わっていき、その中で、とうとうたまりかねた国王が高らかに笑いだしていた。
飢え死にしかかった浮浪児のような勢いで食べ物を摂っている少女を、ドラ将軍とタルボが言葉もなく見つめている。
横ではシャーミアンが給仕に当たり、国王は少女と向かい合う位置で腰を下ろし、頬杖をついて、くつくつ笑っていた。
「まったく、お前という娘は……おかげで賭けは俺の一人勝ちだ」
「何賭けたの?」
食べ物をほおばりながら問い返す。
「ナシアスからは首尾よく金貨一枚をせしめたぞ。それにドラ将軍は、そのお髭をむしり取って食してみせると言われたが……」
将軍はわずかに頬をひきつらせたようだが、勇敢に胸を張った。
「むろん、陛下。そうせよとおっしゃるなら……」
「冗談だ」
国王はどうにも笑いが止まらないらしい。忍び笑いを続けている。
原因の多くは、将軍とタルボの表情があまりにもおかしいということだろう。二人ともまだ自分を取りもどせないでいるらしい。ナシアスでさえ、気の毒そうにしながらも、時折そっと口元を隠しているのだから。
一気に五つくらいも老けこんだような将軍だが、いつまでも呆けてはいられない。なんとか気をとりなおして少女に話しかけた。
「その……だな。娘」
「なんだい、おじさん」
国王の口元で、ぐふっと奇妙な音がした。
笑いを噛み殺すのにちょっと失敗したのである。
ドラ将軍は横目で国王を睨み、髭の口元を噛みしめ、特大の拳を握りしめて再度挑戦した。
「一つ尋ねたいが、あれだけ苦労して乗りこなした馬を放してしまってよかったのか。次も捕えられるとは限らんのだぞ」
「大丈夫。向こうから遊びに来るよ」
机につっぷしそうになった将軍だが、どうにか踏みとどまった。タルボも、今までならここですかさず怒声をあげたものだが、つい先刻、あり得ない現実に出くわした後である。どうにもこうにも次の言葉が出なかった。
代わってシャーミアンが問いかけた。
「黒主が、ここへ来ると言うの?」
「そう約束した」
「まあ。あなたはまるで、黒主と話ができるように言うのね」
「シャーミアンはできないの?」
緑の瞳が無邪気に自分よりいくつか年上の令嬢を見上げる。これを見下ろす榛《はしばみ》色《いろ》の瞳は、困ったような微笑を浮かべていた。
「私もロアの人間ですもの。馬とはよく話をするわ。でも、それは人に馴れている馬の場合。相手が黒主ではとても話せないわ。恐ろしくて」
シャーミアンは比較的はやく衝撃から立ちなおったようである。同時にあの馬を乗りこなした少女の技量に深く感心しているようだった。
「リィは恐ろしくなかった? 黒主は相当怒ったでしょうに」
「最初はね。でもほんの初めだけ」
肉の固まりを取りあげながら、少女は大真面目に言ったのである。
「動物は人間と違って話がわかるから、友達になるのも難しくないんだよ」
「なるほど」
国王が感心したように頷いた。
「黒主はお前の友達になってくれたのか」
「そう。人間はだめだよ。全然話が通じないんだからな」
「俺もか?」
悪戯気を起こして尋ねると、少女はかわいらしく首をかしげて、「ウォルは人間にしては、ずいぶんましなほうだ」
と、言ってのけた。
その場にいた忠実な臣下たちは半数は顔を真っ赤にし、半数は苦笑を禁じ得なかったのである。
「リィ。陛下にそんなことを言ってはだめよ」
シャーミアンがたしなめたが、眉をひそめるというよりは苦笑に近い口調だった。この伯爵令嬢は歳の若さの分だけ、父たちよりも精神が柔軟であるらしい。
国王と少女の間にあるものが、自分や父の抱いているものとは少し違うのだということを、理屈でなしに感じとっている。
少女の食事を眺めている者の中にはイヴンもいたのだが、何気なく問いかけてきた。
「なあ、嬢ちゃん。あんた、あの馬で戦に出かけるつもりなのか」
「そのつもりだよ」
「だけど、あんたは馬で戦うには背丈が足らないぜ。腕の長さもだ。あんたにはあの馬はもったいないと思うがな。いっそ陛下に譲ったらどうだい?」
これがイヴンの本心からの発言かどうかはわからない。なにしろ表情を偽ることなど朝飯前の男である。わざとこんな言動をして少女の反応を見ようとしたのかもしれなかった。
ただ、この提案が将軍たちにとって渡りに舟だったことは確かである。
「いかにも、イヴンどのの言われるとおりだ」
タルボが生色を取り戻して頷けば、ドラ将軍も力強く同意したのである。
「いや、もっともだ。あれほどの名馬は一軍の総大将にこそふさわしいものだ。わしも頭から考えに入れなかったが、黒主が人を乗せてくれるというならまったくそれに越したことは……」
「ありがたいお言葉だが、俺はつつしんで辞退するぞ。将軍」
やんわりと国王が言う。
「ロア一の名馬ならば、バルドウの娘にこそふさわしいはずだ。それに、おそらく黒主もこの娘だからこそ譲ってくれたのだろうよ」
少女も笑って頷いた。
「ウォルみたいに重そうなの、乗せろと言ったって向こうで嫌がるよ」
「おい。俺は確かに自重はあるが、その分、馬術には自信があるのだぞ」
「わかるもんか。ぼくの十倍くらい重そうな図体してるくせして」
「十倍もあってたまるか。せいぜい三倍だ」
むきになって言い返した国王である。そんな様子を見ながら、イヴンは小さくため息をついていた。
この幼なじみが国王だというのは、やはり何かが間違っているし、無理があるし、信じられない。
しみじみとそう思ったのだが、もちろん声に出したりはしなかった。
翌朝、黒主は本当に将軍家の近くに現れた。
発見したのは例によって戸外の陣地にいた兵士である。
野生馬が自分から人家に近づく。しかもその人家のまわりには数百の人間が陣取っているというのに平然と近寄って来るという事態に人間のほうが慌てふためき、どうしたらよいものかと、また将軍に注進が走った。
しかし、少女は当然のようにこの友達を出迎え、屋敷のものたちは身分の上下にかかわらず、初代から百年を数えて初めて、土地の守り神とも思ってきた黒馬に鞍が置かれるところを固唾を呑んで見つめたのである。
昨夜国王が言ったことは正しかったようで、黒馬は少女以外の人の手をまるで受けつけなかった。
鞍を乗せるのを手伝おうとしてこわごわと近寄った従者がいたが、あやうく噛みつかれそうになって慌てて飛び離れる始末である。
馬が苦笑するということがあるなら、少女が鞍を置いて腹帯を締めている間の黒主がまさしくそれである。不本意ではあるが仕方がないとでも言いそうな様子に見えた。
そして少女はイヴンの言った自分の体格の不足を充分わかっていたようである。
鞍だけを置いた馬と共に、さっさと騎射の練習に入ったのだ。
これはロアの男たちのお家芸である。そして実はタウの自由民の得意とするものでもあった。
文字どおり馬を走らせつつ次々と矢を放つのだが、揺れる馬の上からすることだから、よほど修練を積まないと命中率は高くならない。しかし、奇襲に際してこれほど効果のある戦法もないのである。
ロアの男たちは皆、矢継ぎ早の腕前だった。むろんそれだけの練習をする馬場もある。
少女が弓矢を携え、黒馬にまたがって練習場へ向かうと、兵士たちがぞろぞろと後に続いてしまった。
ロアの兵士たちばかりではない。ラモナ騎士団からも、あの少女が今度は弓を引くというので主要な騎士が見逃してはならじと見物に来る始末。
「こら! 何をしておるか!」
ドラ将軍がかけつけて、馬場に溜りになっている兵隊を叱りつけたが、なにしろ先頭に立って見物しているのが国王なのだから、どうしようもない。
「どうして嬢ちゃんはハミを掛けないんだ?」
イヴンが尋ねている。
「両手が自由なほうが弓を引きやすいのだろうよ。実際まるで不自由する様子もない。これで賭けは俺の勝ちだな」
「ちっくしょうめ。俺はもう、あの嬢ちゃんに関するかぎり絶対にお前とは賭けねえぞ」
国王は昨夜ナシアスからせしめた金貨一枚の他にこの山賊からも銀貨五枚を巻きあげることに成功したようである。
「陛下! それにイヴン! 陛下を呼び捨てにするとは何ごとだ。陛下も陛下です。この危急の時に何を遊んでいらっしゃいますか!」
雷を落とすのに忙しい将軍に、そこにいたシャーミアンが青ざめた顔で話しかけてきた。
「父上。あれをご覧になってください……」
シャーミアンの指さしたものは、練習場に立て並べてある弓の的である。
見て将軍も一気に血の気が引くのを感じていた。
均等の間隔をおいて立てられた、十あまりもの的のすべてに矢が突き立っている。
それだけならば何も珍しくはない。だが、どの矢もきれいに、丸い的の真中心を射抜いているのだ。
思わず目を疑った。
こんなことはほとんど不可能に近いはずだった。
足を止め、姿勢を固定して引いたとしても、なにしろ距離がある。騎射用の弓では難しい。
将軍配下の精鋭でも駆け抜けざま全部真ん中に寄せて撃てればそれこそ上出来、たいへんな腕前と賞賛される。
「どのくらいの速さで、だ」
しわがれた声で将軍は娘に尋ねた。
命中率が高いのなら馬の速度は遅い。もしくは反動が少ない。これが普通だ。
「もう一度参ります」
シャーミアンが指さしたほうを将軍も見た。
黒馬は位置に着いたところだった。
はるかに遠い。巨大なはずの黒馬が仔馬くらいの大きさに見える。
それが土煙を蹴立てつつ、ぐんぐん近づいてくる。
他のどの馬にも出せないような、すばらしい速度で疾駆してくる。
これほどの馬足では背中の矢筒からいちいち抜いて射たのではとても間に合わない。一矢、二矢を射る間に通りすぎてしまう。
ところが少女は矢継ぎ早の名手だった。
小さな手は一度に数本の矢を背中の矢筒から抜き、的の前を通りすぎる間に次々に放った。
ほとんど絶え間なく弓弦が響き、黒馬が的の前を駆けぬけた時には、すべての的の中心に新たな一矢が突きたっていたのである。
兵士たちの間から割れんばかりの大歓声と拍手が沸きおこった。
どの兵士も抑えきれない興奮に顔を紅潮させ、その目は熱狂的な讚美に輝いている。その様子は単なる技量の賞賛というより、崇拝に近いものがあった。
無理もない。この土地では馬を扱いこなし、弓の扱いに熟達しているものがもっとも尊敬されるのだ。
ところが今まで誰も馴らすことのできなかった黒馬を乗りこなし、男たちの誰もが真似できないような腕前で弓を引いてみせるその人は、まだ幼い、ずば抜けて美しい少女なのだ。
ビルグナ砦《とりで》の塀の上に跳躍した少女を見た時の騎士団員と同じ、あるいはそれ以上の効果があったかも知れない。
シャーミアンも小さく呟いた。
「あの少女は本当にバルドウの娘なのでしょうか」
舌打ちを漏らした将軍である。
「お前までそんなことを言うとは」
「ですが、父上……」
真剣な目を弓の的に向ける。
「あれをどう思われます」
「むう……」
「あんな真似はとても私にはできません。精《せい》兵《びょう》と名高い者は幾人もおりますが、それでも……」
おそらくは誰にもできない。
将軍にもそれはわかっていた。シャーミアンはさらに言う。
「ロアの黒主は人には馴れないもの。私は今でもそう思っています。ですが、陛下のおっしゃるとおり、相手がバルドウの娘となれば鞍を置くことを許してくれるのではないでしょうか」
低く唸った将軍だが、目の前には二本の矢が刺さった的が十、ずらりと並んでいる。
視線を戻すと、馬を下りた少女に国王が笑顔で話しかけているところだった。
「もうしまいか。兵たちにも何よりの目の保養だったようだぞ。もう少し見せてやればよいに」
「後は実戦でいくらでも」
その声を聞いた時、将軍は国王との約束を思いだした。友として扱い、助力を仰ぎたいと国王は言ったのだ。
本気にはしなかったが、この分ではあの少女は本当に国王の横を進むことになるかもしれない。
イヴンの言葉も思いだした。
あれほどの美少女。黒主に乗せて軍の先頭を進ませれば、どれほど絵になることか。
苦い息を吐いた将軍である。
確かに子どもとも思えない見事な弓を引く。乗馬ぶりもまことに見事だ。しかし、戦場に連れていくには幼すぎるという意識が抜けない。そういう将軍だって実は十五にもならないうちに初陣を迎えているのだが、何と言っても少女である。
低く唸った。
「こたびの国王軍の布陣は、かなり奇妙なものになるようだな」
シャーミアンが笑顔で言った。
「型破りは陛下の常道ですわ。それに父上は以前、戦は体裁でするものではないとおっしゃいました」
苦笑した将軍だった。
「つまらぬことをよく覚えているものだ」
「よく馬を扱い、武器を扱うことができれば男も女も関係ないともおっしゃいました。私も、そのとおりだと思います」
それは他でもない、シャーミアンに剣の稽古をつけている時の言葉だったのだが、将軍は少しばかり寂しそうな表情を浮かべたものだ。
「わしに男の子があれば、お前を騎士として仕込むこともなかったろうに」
そうすればあたり前の女としての生活を送らせてやることができたのに、という父親の愛情から出た言葉だったのだが、うら若い女騎士はこの言葉を、たとえ相手が父親であろうと、侮辱と受けとったようである。
「父上のお言葉とも思えません。私は今の自分に誇りを持っておりますし、女と言えどもデルフィニア国民である以上、自分の信ずる王のために戦う権利があるはずです」
髭の将軍は自らの失言に再度苦笑し、娘の勇気を称えたのだった。
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シャーミアンはその武勇をもって王のために戦うと宣言したが、今、改革派に支配されているコーラル城内において、まったく別の方法で国王のための戦いに挑む女性の姿があった。
先日、ペールゼン侯爵と侍従長ブルクスとの密かな話しあいが持たれた部屋よりもさらに奥深い、本宮の中でも政治とはほとんど無縁な、奥棟と呼ばれる部分である。
ここは王族のための私的な住居だった。
衣装部屋、寝具を置く部屋、物置部屋、遊戯室、特別の調理室、今は亡き国王、王妃の居間など数えあげたら切りがない。
当然、これだけの設備を管理、維持するためには人手がいる。
奥棟にはそのための召使いや持従が多く出入りするし、また、王族の世話をする侍女、女官たちの住居もここにある。
ただ、彼女たちが自分たちのために使える部屋は限られているし、私室へ男性を連れこむなどはもってのほかだった。
宮内に勤める男性と顔を合わせるのは、白昼、仕事上の問題を話しあう時に限られており、そのための場所も設けられている。
だが、そんなところはどこにどんな目と耳が隠れているかもわからない。
今、宮内を代表する二人の長としてはあるまじきことだが、とっぷりと日の暮れた夜ふけに、侍従長のブルクスと女官長のカリンとが、雑然とした物置部屋で密やかに忍び逢っていた。
若い侍女と侍従ならば何やら色めいたことのためであろうと推察もつくが、登場人物がこの二人ではそんなものとは無縁であり、しかも極めて重大な用件のためだとすぐにわかる。
しかし、この忍び逢いは、はじめから不毛の様相を呈していた。同輩の侍従長に慌ただしく呼びだされ、ペールゼン侯爵との一連のやりとりを聞かされても、女官長はその態度を微塵も揺るがさなかったのである。
「あの方は、れっきとしたデルフィニア王家のお血筋でございます」
頑として言ってのけた。
長年、王宮に勤めているカリンは、ブルクスと同年配の五十がらみに見える。ただし、外見の量感は大違いだった。背丈は普通の女性より小柄であり、顔も体もふっくらと丸かった。
歳の割には血色もよく、小さな目も意志の光に輝いている。半白の頭をきっちりと結いあげ、背筋をぴんと伸ばして寝かせた脚立に腰を下ろしている。
侍従長のほうは横にした塵取りに座っていた。どうにも意気の上がらない密談場所だが、二人の表情は真剣そのものである。
「侍従長にも似合わぬことをおっしゃる。今さら、あの方のお血筋に疑いを持たれるなど、愚の骨頂というものではありませんか。反逆者の侯爵が何を言ったところで、彼らの行いが正当化されるともお思いですか」
しかし、相手の様子はかなりに深刻だった。
「女官長。今はそんなことを論議しているわけではありません。あなたの知っていることを残らず話していただきたいのです」
「私の知っていることは、あの方がドゥルーワ陛下のお子だということです」
「ですから、その確信は恐ろしい誤りであるかもしれないと言っているのです。侯爵の言葉を全面的に認めるつもりはありませんが、確かに陛下のご遺言ばかりに気を取られ、生みの母親の確認を怠ったことは否めません。なにしろあの方がこの種の問題を起こされたのは一度きり。それも当時の意見では、あの娘の狂言であるとの見方が強く、私でさえ娘の行方も赤子がいつ生まれたのかも気に止めなかったという情けない有様でした。まったく、なぜあの時、もっと詳しく確かめなかったのか、それが悔やまれてなりません」
「侍従長がご自分を責められることはありません。当時の女官長でさえ一笑に付したのですから」
「せめてポーラというその娘が生きていたなら真実を確かめることもできたでしょうに……」
「ポーラさまとお呼びしてください。仮にも現国王の母君です」
「今にして思えば奇怪でなりません」
何とも噛みあわない会話である。
ブルクスはカリンの言葉をほとんど聞いていないようで、額の冷や汗をぬぐっている。
「当時の国王がたとえ一度きりと言えども、あの娘を召されたのは間違いのないことなのに、月日も合うというのに、誰も子どもの父親が陛下であると考えなかったとは……。なんとも不思議でなりません。そのせいであの娘は王宮を追いはらわれてしまった」
「それも侯爵の仕業です」
吐きすてるようなカリンの口調だった。
「よってたかって、頭から他の男の子どもだろうと決めつけて……、無礼にも尻軽の娼婦か強請ゆすりたかりの下郎のような扱いをして! 奥棟に勤めていた侍女ではないというそれだけの理由で!」
「娘の貞節が問題となった。そうですな?」
「そうです」
あの娘は王宮の最下層に勤める馬屋番だった。つまり通用門を通って自由に市街に出入りすることができた。同じ馬屋で働く者の中には若い男もいた。
顔見知りの兵士や出入りの商家の奉公人など、子どもの父親になれる男はいくらでもいると怪しむのは当然だ。
だがそれは見方を変えれば、他に男がいたと決めつけることも簡単だということにもなるのだ。
難しい顔でブルクスは言った。
「侯爵はああ言ったが……案外、娘の言うことが真実だとわかっていたのかもしれませんな。その上で王の庶子……特に男子の誕生を嫌ったのかも……」
王子が二人いるだけで、官僚が二派に別れて派閥争いをくり広げる例もあるほどだ。
自分の政敵が幼い庶子を盾にして勢力をのばすことを案じたのかとも思えたが、それにしても不可解なのは、なぜ、王位継承権を持たないはずの庶子誕生をそうまで警戒したのかだ。もしかしたら、まだ何か、人が知っている以上の理由があるのかもしれない。
めまぐるしく頭脳を働かせていると、カリンが確信をこめた口調で断言した。
「それに違いありません」
どうやらカリンは自分の考えにとらわれているらしい。顔つきも険しく、一気に言った。
「でなければ身重のポーラさまを王宮にとどめる理由がありません。そもそも一度詰問しただけで半年以上も放置しておいて、生まれた子供が男子であるとわかったとたんに不義を理由に解雇を命じるとはどういうことです? 本当にそう思っていたのなら身籠った時点で暇を取らせれば済むことです」
「女官長。あなたは何を知っているのです?」
ブルクスは鋭く尋ねた。
「当時、あの娘はいくらでも代わりのいる馬屋番の一人にすぎなかった。なのに、あなたはなぜ、その娘のことにそこまで詳しいのです?」
「私は当時ルフィア王女さまの侍女の一人でした。というよりも元侍女と言ったほうがいいかもしれません。家の都合で一時、王宮を退いていましたので」
「それは知りませんでした」
城に勤めている侍女たちが王宮から退くのは、主に結婚や親の不慮の死などが理由である。
だが、後に復職してくる者もいる。
カリンはコーラル市内の中流貴族の娘だった。
父親が重い病にかかり、看病に専念するために王宮を辞したのだという。
「王宮を退いた身となれば廓《くるわ》門《もん》をくぐることもできませんが、私は宿さがりの間も、たびたび通用門を出入りしていました。このお城というのはおかしなもので、勤めている間はそれほどでもないのですが、離れてみると無性に懐かしくなるものなのです。ここには同僚もおりましたし、王女様のご様子も気がかりでしたし。幸い私の実家は市内にありましたので、父の病が重くなるまでは、週に一度は必ず城を訪ねて、下層に勤めている者たちと話をするのが私の楽しみになりました。ポーラさまともその時に知己の間柄になったのです」
「なるほど」
カリンは身分の上下にこだわらない、面倒見のよい女だ。そうした者たちからは、きっと慕われたことだろう。
「陰ひなたのない勤めぶりも、明るい性質も、私は好ましく思っていました。陛下が同じように思われたところで何の不思議がありましょう」
きつい目線を上げてカリンはきっぱりと言った。
「ポーラさまから陛下のご寵愛を受けたと聞かされた時も、陛下のお子を身籠ったと聞かされた時も、私にはそれが真実に違いないとわかったのです。大嘘つきの恥知らずはペールゼン侯爵のほうです」
「女官長……」
ブルクスはげっそりと肩を落としていた。
「今はそんなことを話しているのではありません。大事なのは、教えてもらいたいのは、その娘が子どもを産みおとした後、何があったのかということなのですぞ」
カリンは答えない。
「それにもまして重要なのは、生まれた赤子がいったいどうなったのかということなのです。もしあなたがご存知ならば、ぜひとも大事になる前に、私にうちあけていただきたい」
「どうなったのかとはおかしなことを。侍従長もよくよくご存じでいらっしゃいますでしょうに。そのお子はスーシャでお健《すこ》やかにご成長あそばされ、今ではこの国の国王陛下にあらせられます」
「女官長……」
ブルクスは頭を抱えたくなっていた。
彼はこの同僚を、女性には珍しい深沈たる大度の人だと思っていたが、これではまるで言い逃れだ。
「こちらの言いたいことをわかっていてそのように言うのは、ペールゼン侯爵の主張を認めているとも取れますぞ」
カリンは答えない。きつく唇を引きむすんでいる。
「女官長。いいですか。侯爵はあなたに最高会議への出頭も辞さない構えでいるのです」
こう言われれば大の男でも震えあがるはずだが、カリンはわずかに眉を動かしただけだった。
「私を脅迫なさいますか。侍従長」
そんなことはあらかじめ覚悟の上であるらしい。
確かに、この女官長は並の女ではなかった。たいへんな肝っ玉の持ち主だった。
ブルクスは辛抱強く話を続けた。
「最高会議へ召喚されれば、あとは侯爵の思うがままに裁判が進みます。彼らはあなたを虚偽の供述をしたとして罪人に仕立てあげ、北の塔へ送るに違いありません。どうか、そんなことになる前に、つつみ隠さず真実を話してください。それしかあなたを救う手だてはないのです」
「心外でございます。私は先程からあなたの質問に正直に答えておりますのに」
「それならば、もうひとつだけ、正直に答えていただきたい」
声に力を込めたブルクスだった。嫌でも込めざるを得なかった。真実を確かめねばならず、この同僚を獄中で果てさせるわけにもいかない。何より王国の未来がかかっている。
「二十四年前、十年祭の年、正確にはその旧《きゅう》臘《ろう》、ポーラは男児を産みおとしましたな」
「ええ」
「その赤子に産着を着せ、乳を含ませたのは誰なのです?」
「むろん、ポーラさまです」
「それならば、その赤子はポーラと共に母親の生まれ故郷の村へ帰ったのですか?」
「いいえ」
侍従長の胸が騒いだ。
「村へは帰っていない?」
「あたり前です。それから三か月、失礼ながら私がお世話いたしました」
「あなたが?」
「はい。ポーラさまは国王の子にふさわしい教育を望んでいらっしゃいましたので、私にお子さまを託されて帰られたのです。それからすぐに私は復職し、陛下にこのことを密かに告げ、陛下はポーラさまを憐れみ、城内で育てるのは却ってお子さまのためによくないと判断され、スーシャのフェルナン伯爵を選び出されたのです」
ブルクスはいらだたしげに膝を打った。
「女官長。それではつじつまが合わないのです。まるっきり合わないのです。その娘は子どもを連れて村へ帰ったと、少なくともこの王宮を出る時には子どもを連れていたと証言するものを、侯爵は何人も捜しだしているのですぞ」
「それはそうでしょう。何もおかしなことではないと思います。ポーラ様はお子さまを連れてお城を出、そのままコーラル市内にある私の家を訪ねられたのですから」
「しかし、その赤子は母親ともどもウェトカの村で亡くなっているのです!」
ブルクスは思わず声を荒らげていた。
「あなたは、その娘は赤子をコーラルに残し、一人で村へ帰ったと言う! ですがペールゼン侯爵は、確証もなしにこんなことを言いだす人間ではありません。あなたか侯爵か、どちらかが嘘をついていることになる!」
「あらゆる神々に誓って、私は真実を述べました」
顔色を失いながらも、あくまで頑固な女官長である。ブルクスは疲れたように息を吐いた。
「女官長。ではその娘が村へ戻った時に連れていたという赤子はどうなるのです? 生まれた子どもは一人。なのにあなたはその子はコーラルからスーシャへ渡ったと言い、侯爵は東北の村で死んだと言う。いったいどちらが正しいのです? 教えてください」
女官長は突然口調を変えて、やんわりと言ったものだ。
「侯爵の調査はつい最近のことだそうですから、村人の記憶に誤りがあるのかもしれません」
ブルクスはゆっくりと首を振った。
「そんな曖昧なことで、あの侯爵がこんなことを言ってくるとは思えません。ああまで断固とした態度に出る以上は、よほどの自信があるのでしょう」
まして問題の性質が性質である。侯爵にとっては起死回生の大勝利を掴むための隠し玉だ。あやふやなことでこんな勝負に出るわけがない。
となると、どうしてもカリンのほうが何かの思い違い、もしくは虚実を取り混ぜているとしか思えない。
思えば、カリンはあの男が現れた時から丁重きわまりない態度で接していた。まだあの男が国王と決定する前からだ。
よほどに好意を抱いていたのだろう。
しかし、それとこれとは話が違う。一国の政権を担う重大事なのだ。肝心なのは真実であり、好《こう》悪《お》は関係ないのである。
なのにカリンはますます私的なことを言いだした。
「それにしても、一緒に亡くなられたというのはどういうことなのでしょうか。ポーラさまは丈夫そのものの方でしたのに。出産後の経過もとても良好でしたのに。どうしてそれからわずか二月もしないうちにお亡くなりになったのでしょう」
「さて……。それこそ昔のことです。原因などたいした問題ではありません」
王家の血を継いだはずの子どもは生後二か月で命を終えた。ブルクスにとってはそれが肝心であり、他の興味はない。しかし、カリンはこの意見には賛成できないようだった。
「それほどはっきり共に亡くなられたというからには、侯爵はポーラさまの死因を知っているのでしょうね」
「女官長?」
「私は、あの方とは、ごく親しくさせていただいておりましたから、どうして亡くなられたのかが気になるのです。それに、王宮を立ち退いたとたんに不慮の死とは奇妙ではありませんか」
「何を言いたいのです?」
「あなたは私ばかりを責めていらっしゃいますが、相手が違うと申しあげております。侯爵のような奸《かん》知《ち》の持ち主は何をしでかすか、わかったものではありません」
きつく唇をかみしめていた女官長が、呻くように言ったものだ。
「もしやして……密かに手を回してポーラさまを暗殺し、その上で子どもを連れていたと、いけずうずうしくもあなたに吹きこんだのかもしれません」
「女官長!」
ブルクスの顔から一気に血の気が引いた。
恐ろしいような声でたしなめる。
「言っていいことと悪いことがありますぞ」
「なぜいけませんか。ペールゼン侯爵はそのくらい、やりかねない人ではありませんか」
「女官長、たわごとはよしなさい!」
低い、切りつけるような鋭い声だった。血の気の引いた唇をかみしめ、ふるえる拳を握りしめ、ブルクスは押し殺した声ながらも一気に言った。
「あなたらしくもない。そんなことを人に聞かれたらどんなことになるかわかりませんか!」
この侍従長がここまで血相を変えて人を叱責することなど極めて珍しい。カリンにもそれがわかったのだろう。顔を赤らめ、深く頭を下げて謝罪した。
「……申しわけありません。口が過ぎました」
「どうもあなたは、ポーラという娘を贔屓ひいきするあまり、自分を見失っているようですな」
大きく息を吐き、額の汗をぬぐったブルクスだが、カリンは何やら目線を遠くにさまよわせている。
「私が正しいか、侯爵が正しいかは陛下がお戻りになれば明らかになるでしょう」
「さて。戻ってこられますかどうか……」
「侍従長?」
ブルクスは一気に十も老けこんだように、がっくりと肩を落としている。そんな同僚の様子を見て、カリンの顔もいぶかしげなものになった。
「侍従長は城内に巣くう魑《ち》魅《み》魍《もう》魎《りょう》どもの味方をするとおっしゃいますのか?」
「女官長。私がなぜこうまでしつこく質問をしているかわかりませんか? 侯爵は、陛下のお生まれが正しいものではないということをまたもや攻撃の材料にするつもりなのですよ。改革派のやり方に苦しみ、妾腹の王でもかまわないとしている市民たちですが……それが譲歩できるぎりぎりのところです。今の陛下が王家のお血筋を受けていないというようなことにでもなったら……」
深いため息をもらしたブルクスだった。絶望的な表情になっていた。
「もう終わりです。いくら改革派の圧制に喘いでいる市民たちでも、まさかそのような方を国王とは認めますまい。何よりも問題なのは、あの方の手足となって働くはずの諸侯たちがこのことを聞いたら……。いったい、どういうことになると思いますか?」
庶出とはいえ、前国王の息子と思ったからこそ、アヌア侯もヘンドリック伯爵も、あの男に忠誠を誓い、改革派に反対の姿勢を貫いてきたのだ。
他にも、改革派の横暴を許してはおけないと密かに思っている領主たちの数は、決して少なくないはずである。
だが肝心のその男が、実は国王の資格を持たないとしたら?
「あの方に味方をしようという者は一人としていなくなるでしょう。そうなればコーラル奪回など単なる絵空事、机上の空論です。お一人でどうあがいてみたところで、勝利の女神はあの方に微笑んではくれません」
カリンは首を振った。
血色のいい顔に苦悩の表情が浮かび、両手を白くなるほど握りしめていたが、きっぱりと言った。
「神は真実の王の味方をしてくださいます。闘神バルドウも誓約のオーリゴも必ずや、あの方に加護を授け、このコーラルまで導いてくださるでしょう」
ブルクスはもう一度ため息をついた。
女はとかく感情に走り、迷信深いものだというが、なるほど、まるで理屈が通じない。
「どうしても、真実を語ってはいただけませんか?」
「私は、あなたに対して嘘を述べたことなど、一度もありません。これ以上、申しあげることは何もありません」
固い表情のカリンである。
これはブルクスにとっては実に意外であり、不可解なことだった。
こうして腹を割って話しあえば、どんな形であるにせよ、カリンの口からはっきりした真実が聞けると思っていたのである。
「残念です。女官長。まことに残念です。こんな事態だけは避けたかったが……。私は、あなたの言われたことを侯爵に伝えなければなりません」
カリンは緊張の面持ちながらも、ゆっくりと頷いた。
「それが、あなたの務めでありましょうから」
かなりの長きに渡った物置部屋の密談は、それで終わりになった。
侍従長はため息をつきながら城の表部分へ向かい、すでに深夜に近い時刻だったが、ペールゼン侯爵に面会を求めたのである。
女官長の態度を聞いたペールゼン侯爵は、明らかな蔑笑を浮かべることで、応えたものである。
「私は、いささか、あの女性を高く買いすぎていたようですな」
「は……」
「王国の存亡の時に、問題の主旨もおわかりにならないとは、困ったことです」
ブルクスは青ざめた顔を見られまいとうなだれている。反論することはできなかった。まさしく同じことを彼も思っていたからだ。
しかし、言うことは言わねばならない。
「女官長は、実は、ポーラとその子の死に関する貴方の調査に多少の疑問を持っているようなのです。私も同じことをお尋ねしたいのですが……」
侯爵は含み笑いを続けている。
「侍従長は人の赤子というものが路傍の石のようにどこにでも転がっているとおっしゃる?」
「いえ、まさか、そのようなことは……」
「でしたら、あなたと女官長の疑問はまったくの論外です。その娘は間違いなく、生まれたばかりの子どもを連れて村へ帰っているのです。私の言葉では信じられないと言われるなら場所をお教えしましょう。当時のことを覚えているものは、あの村にたくさんおります。侍従長ご自身で確かめられればよろしい」
侯爵がそこまで言うからには真実なのだろう。
ペールゼン侯爵は善人とは言いがたい人物だが、阿呆ではない。何よりすぐ露見するような嘘をついても仕方がない。
「それから娘の死因についてですが、これも確認してあります。東北の辺境の冬がどれほど厳しいものか、あなたにもおわかりでしょうが、娘は野良仕事の帰りに誤って薄氷の張った池に落ち、凍えて死んだのです。一人なら岸に這いあがることもできたかもしれませんが、おそらくは子どもを助けようとしたのでしょうな。しっかり赤子を胸に抱いた姿で、水から引きあげられたそうです」
ブルクスは思わず唸った。
「なかなか感動的な話ではありませんか。わが子でなければできないことです。デルフィニア国王の血筋に連なるお子が冷たい水中などで亡くなられたのかと思うと胸が痛みますがね」
表情だけは悲しそうだが、実際には蚊に刺されたほども感じていないに違いない。
「命を投げだしてまで救おうとしたのは、それが実の子どもであるから。違いますかな? しかもこの場合は母親が命を投げだすのに充分な、高貴の血を継いだ赤子でした」
侯爵はあくまで穏やかに微笑さえ浮かべている。
「ポーラが子どもを抱いたまま死んだと証明してくれるものは、あの村にいくらでもおります。対して、女官長に赤子を託していったと証明できるものは、当の女官長の他に誰もおりません。あなたはそれでも女官長を信じると言われますか?」
「いえ……、私は……」
問われるまでもない。
だが、ブルクスには言えなかった。
侯爵の言うことが正しいとは、実際にそう思っているのだが口にすることはできなかったのである。
ペールゼン侯爵も答を求めはしなかった。聞くまでもないと判断したのかもしれなかった。
深夜に呼び出されたにもかかわらず、侯爵は執務中の服装のままだった。政治の中心人物として処理しなければならない用事は並大抵の量ではない。すべてを決済するのに深夜までかかるのだろう。
近頃ではめったに屋敷にも戻らず、王宮に泊まりこんでいるらしいとも聞いていた。
「女官長を最高会議へ召喚されますか」
ブルクスが悲壮な決意で尋ねると侯爵は意外にも首を振った。
「こうして、はっきりと確かめることができた以上、そこまでするつもりはありません。ただ、あの男自身が何者であるのか、それを確認できなかったのは心残りですが……」
少し考えこんだ侯爵だった。
人の赤子とは路傍の石のように転がっているものではない。今、侯爵が自分で口にした言葉だ。
しかしそれなら女官長はあの男をどこから連れて来たのだろう。
やはり、この問題はもっと詳しく確認したほうがよさそうだと思った。が、口にしては違うことを言っている。
「私はできるものならこの事実を公表せずにすませたいと思っています。徒《いたずら》に混乱を招くだけのことでしょうし、その資格も持たないものに戴冠を許してしまった。こんな醜聞を自ら世間に公表することもありますまい。何より、亡き王の名誉を守らねばなりません」
「確かに……」
どうしてこんな間違いが起きたのか、今となってはそれを悔やんでも仕方がない。王国のために最善の処置を取らなければならなかった。
「ただ、あの男を熱心に支持する方々にはうちあけなければなりませんでしょうな。特に、あの男を従兄と信じている方」
「……」
「さらには、この王宮内にあって、あの男のために働こうと無謀なことを考えている方々にはぜひとも早いうちに間違いを正してさしあげなければ。デルフィニアの貴重な人材を無駄に失ってしまうことにもなりかねませんからな」
懸念していた事態の早速の到来に、ブルクスは唇を噛みしめた。
バルロ。アヌア侯爵。そして、正当な国王の帰りを待って捕虜の身に甘んじている人々の絶望を思うと、やりきれない思いがする。
それにもまして気がかりなのは、あの男の行く末だった。ドラ将軍、ラモナ騎士団らの味方を得て、このコーラルまでたどり着いたとしても、その後、あの男を待ち受けている運命を思うと、冷たいものが背筋を流れ落ちるのだ。
「侯爵は……あの方をどうなさるおつもりです?」
おそるおそる尋ねたブルクスに侯爵が見せた微笑、その答というものは、まさに奸雄としか言いようのないものだった。
「侍従長。たとえ誤ってとはいえども、相手は一度は王座についた人間ですぞ。まさか、不遜なことはできますまい」
「いかにも……」
「あの男の命を奪おうとは、はじめから考えてはおりませんよ。サング司令官などは絞首刑にしろと騒ぎたてるかもしれませんが、あまり事をおおげさにしては後々にもさし障りがでます」
「ごもっともで……」
「だからといって放念するわけにも参りません。北の塔で一生を終えてもらいましょう。バルロさまも今度こそは我々の意見に耳を傾けてくれるでしょうし、数年もすれば、そんな男がいたことなど国民はきれいに忘れて、新しい国王の統治に感謝していることでしょう」
「……」
今現在、英雄視されているあの男の命を無下に奪えば、市民の間にくすぶっている不満の炎に油をそそぐ結果になる。
侯爵はそのことを十分よくわかっているのだ。
それなら死ぬまで日の目を見せることなく、飼い殺しにしようというのだ。
ブルクスは顔面蒼白となってうなだれていたが、「あなたにも、今度こそ、協力していただきたい」
この言葉に、はっとして顔をあげた。
「あの男は今、ロアにおります。すでにラモナ騎士団とロアの兵隊を手なずけ、さらにあの男を慕って集まってくるものが引きも切らないという有様です。彼らの思い違いを正すわけにも参りませんが、さりとて、やすやすとコーラルへ近づけてやるわけにも参りません。民衆の間によからぬ動きが生まれますからな」
「では、どうなさると?」
「ま……無駄かもしれませんが、手はうってあります」侯爵の顔には微苦笑が浮かんでいる。
どんな手段かは知らないが、あまり効果は期待できないようだった。
「何もしないよりはましでしょうからな」
妙な事を呟いて、侍従長を見た時には、真剣そのものの表情になっていた。
「陛下が亡くなられてから五年もの間、様々な問題がもちあがりましたが、私は今度こそ終わりにしたい。ラモナ騎士団もドラ将軍も恐るるに足りません。あの男さえ確実に抑えることができれば、今度こそ、デルフィニアに真の夜明けが訪れるのです」
「は……」
「よろしいですな?」
それは、この先何が起きても黙認しろという強要でもあり、宮内府の不満や怒りをすべて抑えろという命令でもあった。
限りない苦痛だった。あの男に好意を持ち、今の施政に疑問を抱いている分だけ、その命令に従うことは激しい痛みを伴った。
だが、どれほど苦痛に満ちた選択であろうとも、ブルクスには頷くより他になかったのである。
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国王がロアへ到着してから十日後、総勢三千になった国王軍はコーラルへ向けて進軍を開始した。
コーラルを攻めおとすには心もとない軍勢だが、だからといって、ではやめようとは言えないのが戦《いくさである。
》特に今度のような戦はそうだ。
後続の領主軍が集まって来るまで出発を待ってはどうかという意見もあったが、それではコーラルに時間を与えることになる。
ここからコーラルまでの主要な領主には国王帰還のことを知らせてある。改革派のすることをおもしろく思っていないものもずいぶんあるだろうから、途中で味方に加わって来るものもいるはずだ。
よしんば加勢しないまでも手を控えてくれれば、それだけでずいぶん楽になる。
何より肝心なことは、これが当初の目的なのだが、ティレドン騎士団の本拠地マレバはコーラルの足下なのだ。いやでも出かけていかねばならない。
国王はかねて用意の戦装束を纏い、黒鹿毛にまたがって軍の先頭に立った。本来ならば胸の紋章と同じ王旗を立てるのだが、それはさすがに用意できなかったのである。
イヴンはあいかわらず黒一色の姿だった。それも鎖《くさり》帷子《かたびら》もつけていず、鎧《よろい》も纏っていない。
それではあまりに心細い、防護を固めたほうがよいと勧める声もあったのだが、そんなものを身につけていては重くて動けないと笑って辞退していた。
他のタウの男たちも同様である。
もっとも、タウにはタウのやり方があるようで、衣服の下に厚手の肌着を重ね、その間に何か仕込んであるらしい。身軽く、すばやく動けるようにしてあるのだ。
ラモナ騎士団は鎖帷子にそろいの紋章を染めぬいた長い上衣を纏っている。
シャーミアンは栗色の髪を結いあげ、濃い茶の騎士装束の上に水晶づくりの鎧を纏い、細身につくった銀の剣を差していた。
その一種不思議な美しさは兵士たちの注目の的になったが、何と言っても特筆すべきは王の横を進むことになった少女である。
だいぶ暖かくなった今ではもう、頭をきれで覆うことはやめている。細紐でまとめあげた黄金の髪と、銀の額飾りが嫌でも陽に映えている。
屋敷の女たちが仕立ててくれた衣服は軽く、動きやすくできていた。長袖の肌着の上に袖無の厚地の上着をかぶり、帯を締めただけのものだ。足はゆったりしたズボンに通し、膝までのやわらかい長靴を履いている。
タウの男たちより、まだ軽装だった。
「あんな華奢な体で、鎧も纏わないでいて大丈夫でしょうかな?」
ドラ将軍が心配そうに尋ねると、「弓矢のほうでよけていくだろうよ」
国王が笑いながら答えた。
少女は馬の鞍に矢筒と弓をつけ、他の男たちと同じように食料を括りつけた。黒主は軍馬としての訓練はまったく受けていないはずだが、何度も戦いに出向いているかのような落ちつきぶりである。
少女は、いつまでも黒主と呼んでいるわけにもいかないというので、グライアと名前をつけた。
黒馬もこの名前が気に入ったようで、少女に名を呼ばれるとちゃんと聞きわける。
頑固者のドラ将軍も、融通のきかないその副官もあの馬は本当に少女になついているのだと、それどころか少女だけになついているのだと認めないわけにはいかなくなった。
ロアを立って数日の間は何ごともなく過ぎたが、三千の軍勢がロシェの街道を越え、パキラ山脈にも近づいたころ、斥《せっ》候《こう》が慌てて駆けもどって来た。
マレバへ行くにもコーラルへ行くにも、パキラ山脈とギルツィ山脈の間を通らなければならないのだが、その近辺の領主たちが慌ただしく戦の気配だという。
もちろん国王軍のことは前もって知らせてある。
中にははっきりと味方を申し送ってくれた者もいたのだが、それにしてはこちらに一言もないのが妙である。
それどころかパキラ山脈の入口にある領主の城に続々と軍勢が集まり、厳重に城の守りを固めているというのだ。
「どうやらマレバへたどりつく前に一戦交えなければならないようだな」
国王は領主たちの二《ふた》心《ごころ》を憤るでもなく淡々と言い、副将を振り返った。
「将軍。この近くに陣場を張れそうなところはあるか」
「ございます。少し先に村が」
戦が始まりそうだとなると土地のものは素早い。
家財道具を抱え、家を残してどこやらへ避難してしまう。申しわけないような気もするが、野営地にするにも宿舎に使うのにもこれ以上のものはない。
三千の軍勢が村を中心に落ち着くと、国王はわずかな手勢を連れて城の様子を見に出かけた。
このあたり一帯はワイベッカーという領地である。
したがって問題の城はワイベッカー城と呼ばれている。
小高い丘の上に登って見ると、ワイベッカー城は水に囲まれていた。川の中州に作られているのだ。
遠眼鏡を使わなくても、塔にも鋸のこぎり壁《かべ》にも兵隊が立ち、油断なく目を光らせているのが見える。中州の半分ほどを城が占め、残りは川原の空き地だが、そこにも川に対して柵が設けられ、陣幕がいくつも張られ、騎兵歩兵取り混ぜてさかんに行き来している。総勢は城外の者だけでも四千は越えるかと見えた。
国王は思わず唸った。
こちらの進軍を阻止しようという意欲満々である。
「これは早晩仕掛けて来るな」
「まさしく」
ドラ将軍も厳しい顔で頷いた。
こちらの兵力は向こうにわずかに劣るくらいだが、向こうには城がある。
城塞を相手の戦は難しい。正面きっての勝負は避けねばならないのが鉄則である。兵力は実に十倍が必要とされ、その上の時間をかけての兵《ひょう》糧《ろう》攻めなり、もしくは圧倒的な攻城用兵器が不可欠だった。
しかし、国王軍にはそんな時間も資源もない。
そして一斉攻撃をかけられたら、今の村ではひとたまりもない。
「いかがいたしましょう?」
ドラ将軍が尋ねた。早くも正念場が訪れたと思った。将軍はこの若い国王の武勇をよく知っていたし、信じてもいたが、戴冠式よりわずか半年で王座から追放された国王にはまだ軍を率いての戦の経験がない。
「集まっているのは近隣の領主勢だけか」
「いえ……」
将軍は目を凝らし、「どうやら近衛兵団の一部も派兵されて来ているのではないでしょうか」
「なるほど。それでは領主たちは嫌でも張りきらざるを得ないな」
国王軍を撃破した時の恩賞は、たっぷりと約束されていると思って間違いない。
ざっと敵の勢力を見てとると村へ引きあげ、村人に変装させた細《さい》作《さく》を放ち、相手方の様子を詳しく探らせた。
やはり近衛兵団から二つの連隊が派遣されて来ているという。その戦力がおおよそ一千、ワイベッカーの城主とその同族の戦力が千五百。近隣から集まった領主の手勢が合わせて四千近くというから総勢六千以上だ。
こちらの優に倍である。
さらに堅固な城があることを考えると、早くも勝ちは絶望的かと思えた。
一つだけ優位があるとすれば、国王軍は自らの理を信じ、意気軒たるものだということだ。
「しかし、気合いだけでは戦はできん」
これもまた真実だった。戦力の不足を何かで補わなくてはならないのだ。
その日の夕暮れ、国王の宿舎である。
慎重な口調ながらもドラ将軍が決然と言った。
「私はこのまま進むべきだと思います。戦は気合いだけのものではありませんが、しかし気合いが大きな勝因となることも確かです」
「もっともだが、こちらの損害も少なくない。まだ先は長いのだ」
「嬢ちゃんの言ってたように、向こうの取りこみを始めますかね?」
イヴンである。
ナシアスとガレンス。それにシャーミアン。ドラ将軍の屋敷以来、すっかりなじみになった顔ぶれが並んでいた。
ナシアスが心配そうに言う。
「ですが、陛下。合戦が始まってしまってはそんな悠長なことをしていられるかどうか」
ガレンスも頷いた。
「味方を待ったほうがよいのではないでしょうか。ポートナム・ミンス勢が来れば兵の数ではそれほど差はなくなりますが」
マレバに近づくまではコーラル側は何も仕掛けて来るまいという腹があっただけに、歴戦の武将である彼らも迅速な決断がむずかしい。
国王は最後に少女に尋ねた。
「お前の意見は? リィ」
「味方を待っているわけにはいかないと思う」
慎重に答えた少女だった。
「あれだけの軍勢だ。態勢が整いしだい、いっせいに襲いかかって来るだろうし、そうしたらこっちの兵力はどのくらい残っているか疑問だと思う」
「そこまでは俺もまったく同感だが、ではお前ならどうする?」
少女は少し考えて、「ダール卿がやった手はどうかな。敵さん、あの城を頼りにしているんだろうから」
「城を焼《や》き討《う》ちにすると?」
国王は驚いて聞きかえした。
「だめかな?」
「いや。戦術としてはまことに効果的だ。城が燃えおちたとなればどんな大軍であろうといっぺんに闘志も吹きとび、ちりぢりに逃げだすに違いないからな。しかし、どうやって焼討ちにする? 夜陰にまぎれて奇襲を掛けても火矢を射掛けても、石の壁に跳ねかえされるが落ちだぞ」
「だから、中から火をつければいい」
イヴンが碧い目を剥いたいた。
「どうやって?」
少女は黙っている。軽く首をかしげて国王を見つめるその様子は許可を求めているようでもあった。
国王はおおいに焦り、急いで言った。
「リィ、待て。いくらなんでも……」
「総大将は君だからな。やってもいいって言うんなら行ってくる」
「だからちょっと待て! お前、まさか一人で城内へ忍びこんで火を掛けようというのか!?」
呑み物を口へ運んでいたガレンスが盛大に吹きだした。
他の顔ぶれも愕然としている。
「な……?」
「ちょっ……。戦士、そいつは」
ラモナ騎士団の代表二人はそれでも控えめに反対の意を示したが、イヴンとシャーミアンはほとんど悲鳴をあげた。
「だめよ! そんなこと!」
「いくらなんだって無茶苦茶だ!」
シャーミアンの顔からは血の気が引き、イヴンは憤慨の口調で机を叩いたものである。
「あのな、嬢ちゃん。あんたがそりゃあ並の嬢ちゃんじゃないのはようくわかった。けどな。あんたも見ただろう。城の外にも塀の上にも兵隊がびっしり張りついて目を光らせてるんだぞ。そんな中をどうやって突破するっていうんだ。しかも一人で? 死にに行くようなもんだ」
「でもそれで向こうが戦意喪失してくれるんなら、やってみる価値はあると思うけどな」
「嬢ちゃん。あんた、死ぬ気か?」
「まさか」
少女は否定したが、他の人の耳にはとてもそうは聞こえなかった。ナシアスも優しい面立ちに心配の表情を浮かべて言った。
「リィ。君のことだから、警戒厳重なあの城にも入ることはできると思う。しかし、出てくることは不可能だ。いくら君でもね。運よく敵兵に見つからずに済んだとしても、自分でつけた火に囲まれて出られなくなってしまう」
「同感だ」
国王が頷いた。
「あまりに危険すぎる。俺はそんな博打ばくちでお前を失うつもりはないぞ」
「だけど、時間がない」
少女は一つ一つ丹念に述べはじめた。
「兵力は向こうのほうが圧倒的に多い。合戦になってまともにぶつかればこっちはどのくらい人手を失うかわからない。でもまさか一矢も交えずに退却するわけにはいかない。かといって味方の領主軍が来るまで踏みとどまるには地形的に無理がある。おまけに敵は明日にでも総攻撃を仕掛けようという態勢だ。となると、どうしても今夜のうちに何か手を打たなきゃならない」
「今夜!?」
全員の合唱になった。
「そう。うまく行けば明日の夜明け頃、城から火が立ちのぼる。そうしたら敵さん、慌てるよ。そこへこっちの軍勢が一気に襲いかかる。どうかな?」
タルボがほとほと呆れはてた顔つきで言ったものである。
「陛下。この娘は頭がどうかしているようです。少し休ませるか、後方へ下げられたがよろしい」
「まあ、待て」
国王は何か深い目の色になっている。少女の顔を見つめながら慎重に言った。
「お前が今言ったことが本当に起これば、この戦は俺たちの勝ちだ。しかし……」
「本当にできるのかって言うんでしょ?」
「いや、お前がそこまで言うのだからできるのだと思う。しかしだ」
国王は真剣そのものの顔で念を入れた。
「お前はどうなる? 無事に戻って来てくれるのだろうな?」
少女はにこりと笑った。
「あたり前だ。まだマレバもコーラルもある。フェルナン伯爵も助けなきゃならない。明日の朝には合流するよ」
他の面々はこの成りゆきを信じられない思いで見つめている。
少女はあっさり立ちあがったが、そこで念を入れた。
「明日の朝まで他の人たちには黙っていて。うまくいかないかもしれないしね」
「待て! そんなあやふやなことでこんな突拍子もない提案をしたのか?」
ドラ将軍の鋭い詰問だったが、少女は平然と、「いけない?」
と、問い返した。
「絶対確実なんて戦術があったら見せてもらいたいもんだ。それでもできると信じているから行くんだ。何か文句ある?」
将軍は憤然と立ちあがり、机を殴りつけた。
そう言うより他ないくらいの勢いだった。
「お前は! この重大事を何と心得ているのだ!!」
空気が震えるような一喝である。とうとう完全に怒らせたらしい。
国王も含めてその場にいた皆が首をすくめる中、少女は軽く首をかしげて言った。
「あのね、将軍。ぼくはこの軍勢の中でははっきり言ってただの部外者だ。デルフィニア人でもないし、ましてこの国の政権だの未来だのに興味はない」
火に油を注ぐようなものである。今度はタルボが自分の年齢も忘れ、相手がほんの少女だということも忘れて叫んだ。
「こ、この不《ふ》埒《らち》者が!」
「興味があるのは、ここにいる全然王様らしくない王様を玉座に座らせて王冠をかぶせてみたい。それだけだ」
イヴンの碧い瞳がちょっと笑ったようだった。
ナシアスもガレンスも微笑を浮かべて、頷いた。
しかし、将軍は苦い顔をゆるめないし、タルボは額から湯気を吹いている。
とりわけタルボは、生意気な少女の言い分に、よほど腹が立ったのだろう。
国王がこの少女を甘やかしていることをかねてから苦々しく思っていたせいもあって、未熟な部下を叱責する時のように、すごい剣幕で叱りつけた。
「いいか、娘。戦に勝つためには軍規というものが何より重要なのだ。各人が部署をわきまえ、おのれの役割を心得、大将の指揮下いっせいに動いてこそ勝利の女神を呼びこむことができるのだぞ! お前のように自分勝手に、ましてやできもしないことを大口叩いて規律を乱すような愚か者は必ず自分自身の命を縮めることになる。そればかりか、軍にとっても致命傷となるのだ。よく覚えておけ!!」
もっともな正論だが、少女はびくともしなかった。
がらりと声が変わった。
「あげく軍規を重んじて共倒れになれというのか」
将軍もタルボもあっけにとられた。
思わず目を剥いたいた。
「な……?」
「規律を重んじるのはたいへん結構だが、それで勝てない時はどうする? 有効な手段があるとわかっているのに規律に反するから用いないで、あげく惨敗を喫するのか。どうなんだ」
どうなんだと言われても男たちには二の句が継げなかった。
無理もない。今の今まで多少風変わりではあっても愛らしい少女だったのが、突然何か違うものに化けたのである。
緑の瞳に火が燃えている。
「お前たちが自滅するのはお前たちの勝手だが、おれはごめんだな。そんな犬《いぬ》死《じ》にの巻きぞえにされてたまるか。少しは頭を冷やして考えろ。単独行動はいけないとお前たちは言うが、何故いけない? 三千の大軍だぞ。おれ一人が欠けたところでなんの支障がある? 仮に失敗したとしても、その時は腹をくくって総攻撃をかければいいだけのことだろうが。もともとこの状況ではその戦法を取るしかないんだからな」
恐ろしいことをあっさりと言う。
そんなことをしたらどのくらい戦力を失うかわからないと、たった今、口にしたばかりなのだ。
「だがな。少しでもその負担を軽くしてやるために、お前たちに何の義理立てもないこのおれが、身を挺して敵方の城を攻略に行くと言っているんだぞ。礼を言われこそすれ、文句を言われる筋合いはない! ぎゃあぎゃあわめいていないで気持ちよく送りだしたらどうなんだ」
二人は目を白黒させていた。
今までこんな無礼なものの言い方をされたことはなかったのだろう。怒りを感じるより度胆を抜かれて反応できない。
国王を除く全員が同じように唖然としていた。明らかに何を聞いたのかを耳が受けつけていない様子だった。
少女は厳しい顔つきのまま、国王を振り返った。
「城に来ている連隊長の名前はわかるか?」
「わかるが……なぜだ」
「その連隊長二人はお前にとって生きていてほしい人間か。それとも無用の人間か」
国王は口の端だけで笑って断言した。
「いなくなってくれるのなら、まったくそれに越したことはない連中だ」
「一目で連隊長とわかる目印は?」
「簡単だ。青い裏打ちをした白銀の外套と、四つの星を打った兜をかぶっているのがそうだ」
「わかった」
頷きを返して少女は宿舎から出ていった。
まだ愕然とその後ろ姿を見送っているドラ将軍に、国王がそっと話しかけた。
「将軍。言葉は乱暴だが、今のはあの娘が正しい」
「陛下。いったい、あれは何です。あの娘は……」
将軍には言いたいこと聞きたいことが山ほどあったろうが、国王はそれをさえぎった。
「あの娘にはわかっているのだ。状況打開のためにはいちかばちかの全軍攻撃をかけるしかないと。しかしそれでは我々の戦力が激減することもわかっているのだ。その上で城を何とかしようと申し出てくれた。激励こそすれ、苦情を言う筋合いではあるまいよ」
「しかしですな、陛下! 大法螺を吹くにもほどがあります! できもせんことを……」
「将軍は今度こそ、そのお髭をむしり取って食するはめになりたいのか?」
あくまでやんわりと国王は言った。
「あの娘には大言壮語癖などない。それに、我々の考える不可能は必ずしもあの娘の不可能ではない。それは黒主の一件で証明済みだ」
「確かに」
ナシアスが同意したが、今の少女にはさすがに驚いたらしい。一度、あんな口調で国王にものを言うのを見たことがあるが、迫力が違う。
ドラ将軍の顔色を窺いながら、そっと尋ねた。
「それにしても……怒らせると恐いと陛下がおっしゃったのは、このことでございますか」
「あのくらいならまだ序の口だ」
何とも言えない沈黙がその場を満たした。
あれで序の口とは、では幕が上がったらどうなることかと全員が思ったのである。
ガレンスが不思議そうに首をかしげた。
「しかし、連隊長の目印なぞ尋ねてどうするつもりなんでしょうな」
「あわよくば討ちとろうと考えているのだろうよ。夜陰にまぎれてでは、あまり褒められた戦術ではないが、それでも大助かりだ。配下の大隊長を口説くに直接の障害はなくなるわけだからな」
大真面目に断言した国王に、その場にいた人は、あらためてため息をついたのである。
「将軍。兵士たちにはこのことは言うな。明朝、敵城に一斉攻撃をかけるとだけ通達してくれ」
「陛下」
固い顔の将軍だった。
どうしてもこれだけは言わねばなるまいと思ったのだろう。
「あなたはそこまであの娘を当てにしていらっしゃるのか」
国王はちょっと笑った。
「当てにしているわけではない。信じているのだ。あの娘ができると言うのだからできるのだろうよ」
「陛下。戦というものは一人二人の働きでどうなるものではありません。一人の勇士は決して、兵を率いた一人の指揮官にかなわないのです。それは、あなた様ならばよくご存じのはず」
「もちろん。わかっている」
「ならば、そこまで個人を頼られるのは非常に危険であると申さざるを得ません。ましてや」
「あんな少女を、か?」
ドラ将軍の気持ちはよくわかる。
自分に対して厳しい諫言をするのも、こちらの身を案じ、先のことを案じているからだということもわかっている。
以前は父の友人であり、少年のころの自分を実の子のようにかわいがってくれた人なのだ。
思ってもみなかった因果により、今は忠実な部下となったわけだが、その愛情の一通りでないことは以前と少しも変わらない。
国王はなだめるように笑いかけた。
「頼っているように見えたなら申しわけない。だがな、将軍。公正に考えてあの娘の言うことは的を得ていると思わないか」
将軍は苦い顔で黙っている。
そんなことはない、と言えば嘘になる。だからといってそのとおりだとは、とても言えない。
「あの娘が成功してくれれば俺たちの勝ち、失敗したとしても、なんら損害があるわけではない。ならばやらせてみてもいいと思った。それだけなのだが、何か異存があるなら伺おう」
反論するものは誰もいなかった。
会議はそれで解散となった。
ワイベッカー城はなかなか堅固な造りだった。
全体的に土を盛りあげた上に建ち、本丸、二の丸の二つの城から成っている。城壁の上は刻みこんだ鋸壁になっており、壁の五か所に塔が建っている。
一つは風車塔だが、残りはもちろん見張りのためのものだ。
さらに敷地全体が川の中州に当たるわけだから、何か近づけば一目でわかるというわけだ。
城外でもさかんに火が焚かれ、兵士たちが交代で見張りに立っている。
中州の陣営から見上げると、篝《かがり》火《び》をともした城は夜空にそびえる巨大な山のようだ。
この城は守るに易く、攻めるに難い、理想的な陣地と言えた。そのせいか、兵士たちの間にも、戦う前から勝ち戦の気分が広がっている。
対して目の前は川だ。あいにくの好天続きでそれほどの深さはないが、人の胸まではくるだろう。馬で渡るにしても浅いところを選んで進まなければならない。
「国王軍とは言っても総勢こちらの半分以下ではな。もう勝ちは決まったようなもんじゃ」
「おお。お気の毒だがの。王様はコーラルをもう一度見ることはできんだろうて」
ふるまわれた酒を飲んで、ほろ酔いになり、いい機嫌でそんなことを言うものもいる。
その野営の明かりを、少女は対岸に身を伏せた状態で眺めていた。
頭上は覆い茂った木立や茂みが隠してくれている。
ドラ将軍が不可能と断言した難事だが、少女は自分の能力を知っている。一人ならば正面から入っていって出てくることも可能だとわかっている。
しかし、野営に出ている兵隊が思ったより多いのは誤算だった。まずはあれを何とかしなければ、迂《う》闊かつには近づけない。
それにしても、つくづく、おかしなことになったものだと思う。戦い方を習い、剣の扱いを習っても、それをこうして実戦で役立てる時がくるなど思ってもみなかったというのに。
これはいったい、何なのだろう。
どんなめぐりあわせで、自分はあの男と出会い、こうして命がけで味方をすることになったのだろう。
腹ばいになったまま、思わず自問した少女だった。
ドラ将軍に言ったように、本来、自分には関係のない戦である。
デルフィニアの国王が誰になろうと、この世界で何がおきようと、自分には無関係なことのはずだ。
こうして首を突っこみ、手助けをすることも、実を言えばいいことなのか悪いことなのか判断しかねるのだが、少なくとも、あの男に対する好意だけは疑いようがない。
おもしろい男である。出会ったばかりの自分を本当に信じているようだし、友人だと思っているらしい。
そうした潔さは少女の好むところだった。育ての父親を命がけで救いにいくというのも気に入った。
この先、どんなことになるにせよ、何とか、あの男を父親に再会させてやりたいと、そう思う。
その時、少女の常人離れした耳は後ろからそっと近づいて来る人の気配を聞きとった。感づかれたかと腰の剣に手をかけたが、現れた人影を見て構えを解いた。
イヴンである。
低く伏せたまま近寄ってきて少女と並んで腹這いになった。
「何してる?」
「なあに。こんなおいしい役目を嬢ちゃん一人にやらせることもあるまいと思ってさ。何かできることはないかい」
これも、あの国王とは別の意味で、とぼけた男である。
「物好きだな。こんな危険な役目をわざわざ手伝うこともないだろうに」
イヴンは軽く顎をしゃくって背後を指してみせた。
「俺もな。後ろの連中に同じことを言ったんだよ。あの嬢ちゃん一人に手柄を立てさせるのはどう考えても癪《しゃく》にさわるんで、一枚加えてもらいに行くってな。ただし、命がけのことになるからついてこなくてもいいって断ったんだが、命がけなんざ副頭目とつきあってりゃあ、いつものことだと言い返されちまった。まあ、確かにそのとおりなんで、返す言葉がなかったわけだ」
腹這いになったまま、少女は小さく吹きだした。
「タウの顔ぶれがみんな来てるのか?」
「ああ」
「それなら頼みがある。あの野営を何とかしたい。一時的にでも城の回りから引きはがしたいんだが、頼まれてくれるか」
「やってみよう」
これも相当の難事のはずなのに、平然とそんなことを言う。それから不意に何か思いだしたらしく、小さく笑った。
「いやもう、さっきのドラ将軍にかました啖《たん》呵《か》にはたまげた。知ってるかどうか知らないがドラ将軍といやあ、先代の王様でさえ、何か言う時には王座から下りてきて相対の目線で話をしたってなくらいの大物だ。気の毒に、おっさん、顎が外れそうな顔してたぜ」
その大物をおっさん呼ばわりするこの男も相当である。
「おれは本当のことを言ったまでだ」
「確かにな。ところでどうやってあの中に忍びこむつもりだい?」
「ここから泳いで向こう岸に上がる。後は塀をよじ登ればいい」
「だからどうやって?」
少女は抱えていた荷物を解いてみせた。
中からは数本の短剣や棍棒など物騒なものがいろいろ現れたが、その中に大きな鉤《かぎ》爪《づめ》のついた、頑丈に編まれた長い細縄があった。
「こういうこともあるかと思って、鍛《か》冶《じ》屋やに作ってもらっておいた」
「用意がいいねえ」
一見して泥棒用具である。城壁の上に引っかけて縄をよじ登ろうというのだ。むろん、誰にでもできる技ではないが、この少女ならば、わけもないことである。
そこへ第三の声が割りこんだ。
「そういうものがあるなら、俺でも何とかなりそうだな」
少女は仰天した。身を伏せていることも忘れて飛びあがるところだった。
「ウォル! 何してる!?」
抑えた声ながら叱責の口調になったのはもちろんである。
国王は絢爛な戦装束を脱ぎ捨て、放浪時代と同じような自由戦士の服装だった。
これも身を伏せながら進んで来て、少女と並んで腹這いになる。
「いや。どう考えても、お前一人にこんな危険な仕事をまかせて高いびきというわけにはいかんのでな。手伝いに来た」
少女は獣のように唸った。ついで抑えた低い声とは言え、矢継ぎ早に国王に浴びせかけられた悪口雑言のあまりのものすごさには、山賊のイヴンでさえ顔をひきつらせたくらいである。
少なくとも十回は不敬罪で牢屋に放りこまれても文句は言えないだけの罵倒をつくすと、少女は断固として陣営に帰れと命令した。
「いいか。お前は国王軍の総大将なんだぞ! 三千の軍勢はお前一人を神《み》輿《こし》に担いで戦をするんだ。明日には決戦が始まるっていうのに、当の神輿が何を馬鹿なことを言ってるんだ! こんなことは人に任せてお前は本陣でじっとしてればいいんだ。それが仕事のはずだぞ」
「普通の大将ならそれでいいのだろうがな」
男も譲らなかった。
「何しろ俺は今までずっと先陣を切って飛びだす戦ばかりして来たのでな。いきなり飾り物をやれと言われても困ってしまうのさ」
「ウォル。お前は王様らしくないところが取り柄の王様だがな、それも時と場合だ。ここは国王にふさわしい態度を要求される場面なんだぞ!」
「しかし、これは俺の戦だ」
男は太い笑みを浮かべている。
「お前が言ったのだぞ。自分は部外者だと。確かにそのとおりだ。一番の当事者はこの俺だ。だから、この難関もせめて参加するのが義務だろうよ」
起きあがって怒声をあげようとした少女を男は慌てて制して、元通り地面に伏せさせた。迂闊な動きをしては対岸に気づかれてしまう。
「すまんな。人の身の俺がバルドウの娘を案じるなどとは、おこがましいことなのだろうが……。どうしてもな。お前一人にこんな難事を押しつけて、俺の目の届かないところでお前にだけ戦わせるのは嫌なのだ」
懇願と弁解の混ざった口調だった。
少女の目が丸くなる。怒りを消してまじまじと男を見つめていた。
横にいたイヴンが低く笑う。
「どうせ、そんなことをするのは卑怯であると言いたいんだろ。この王様は?」
「うむ。まあ、そういうことだ。高みの見物は性に合わん」
腹這いの少女はがっくりと肩を落とした。
冗談ではない。総大将というものは高みの見物が商売なのである。
味方が苦境にあってもそれを顔に出さず、好調に過ぎてものぼせることなく、常に泰然としていることが優れた指揮官の第一条件なのだ。
いや。ある意味では泰然としていると言えなくもない。鈍いくらいの神経の太さである。
しかし、総指揮官が夜陰の遊撃に参加するとはまさに前代未聞。それこそ規律違反の最高峰だ。
呆れながらも確認をとる。
「ドラ将軍には、内緒で来たんだな?」
「あたり前だ。話したら寝床に縛りつけられる」
少女は頭を抱えて呻いた。それから隣の山賊に同情の目を向けた。
「お前がこの馬鹿をブランに嘆いた気持ちがすごくよくわかるな」
「だろう。な? 嘆きたくなるだろう」
少女の右側からイヴンが妙に勢いづいて身を乗りだしてきた。
「もう何考えていやがるんだ、この馬鹿はって思うだろう?」
「おい。お前に言われる覚えはないぞ」
今度は左側からウォルがむきになって反論する。
「こんなところまでのこのこ出てきたお前に人のことが言えるか。下手をすればこの娘の足手まといになるだけだ」
「あ、このやろう。タウの自由民を甘く見るなよ。嬢ちゃん一人じゃ難儀するだろうと思って加勢に来たんじゃねえか。お前のほうこそ、ドラ将軍に特大の雷を食らうことを覚悟しとくんだな」
「何を言うか。城を攻め落としたとなれば雷の矛《ほこ》先《さき》も自然とそれてくれるだろうさ」
「さあて。そううまくいくかね。相手はお前に負けず劣らずの石頭だぜ」
「うぬ。言ったな」
「言ったとも」
頭上で交わされる男たちのやりとりに少女はそれこそ頭を抱えこんでいたのだが、二人は急に真顔になって少女をのぞきこんできたものである。
「さあ、嬢ちゃん。どうやるんだ?」
「時が惜しい。急いだほうがいいぞ」
人の気力を根こそぎ奪っておいてよく言うものだ。
少女はそう思ったが、賢明にも口にはせず、簡単な作戦を説明した。
戦う前からすっかり勝ち戦気分で盛りあがっていた野営に緊張が走ったのは、その直後のことである。
暗闇にまぎれて敵陣を視察に行ったのか、もしくは何か物音を聞きつけたのか、何人かが慌てて橋を渡り、張り番の兵士に囁いたのだ。
「おい、たいへんだ。国王軍は今夜のうちに川を越えてコーラルを目指すつもりだぞ!」
「何だと!」
「ほんとか?」
「ああ。間違いない。すぐそこだ。明かりを消した大軍が移動中だ!」
本当なら一大事である。浮かれ騒いでいる場合ではない。願ってもない好機だ。
報告を持ってきたのは騎士ではなく、戦のために駆りだされた農夫のようだったが、この情報はたちまち武将格の連中のところまで伝わった。
「国王軍が川を渡ると? 確かか?」
「いえ、なにぶん下郎どもの噂で、はっきりとはしないのですが、抜け駆けを試みたものが密かに移動する大軍を見かけ、急ぎ駆けもどって注進したのは間違いないようです」
「それが本当なら捨ておけん。間違いにしても確認せねばならん」
城外の中州に陣取っていた勢力が早速動いた。
城内も慌ただしくなった。
二の丸に待機中の部隊も国王軍の探索に加わり、城内に残る兵士たちは、うごめく松明たいまつの明かりと、勇ましく駆けだしていく部隊を頼もしく見送ったのである。
城壁は、壁づたいに自由に移動できるようになっている。そこに立つ見張りは、塔につめる者は別として、本来なら各方面に目を光らせなければならないはずだが、今は当然のように、部隊が駆けだして行く城門の方向、つまりは城の西側方面にしか注意を向けていなかった。
「正面からの戦では勝ち目がないと見て、姑息な手段を用いるものだ。逃げおおせられると思ったか」
見張りの一人が呟いた。軽蔑の言葉だが、興奮のほうが強い口調だった。
勝利が近づいたことを予感したからにほかならなかった。
その騒ぎを正反対の東側の塀の下に張りつくようにして聞いていたものがいる。
小さな影が一つ、そして大きな影が二つ。
少女と国王、それにイヴンだった。
「どうしてお前までついて来るんだ?」
川を渡る前に二人ともそう尋ねたのだが、答は、「こっちのほうがおもしろそうだ」
であった。
少女はため息をついたものである。
類は友を呼ぶとは、よく言ったものだ。
さらにはこんな大きな男を二人も面倒みなければならないとは難儀なことだと思ったのである。
一度、衣服を脱いで頭上にまとめ、三人は音もなく川を渡り、塀の下であらためて衣服を身につけた。
その頃には中州で大きな騒ぎが起きており、イヴンは満足そうに言ったものである。
「ブランたちがうまくやったらしいな」
「しかし、彼らのほうは大丈夫か?」
「心配ない。こんなことならあの連中はうってつけだ。ましてこの暗闇ならな。それより俺たちのほうが遥かに厳しいぜ」
イヴンの言うとおりである。今は大部分が西側に引きつけられているが、城内にはまだ警備の兵士が大勢いるに違いないのだ。
そこで泥棒用具の出番になるはずだったが、少女は何を思ったか縄を束ねて肩にかけた。短剣は帯にはさみ、片手に棍棒を握って、男に声をかけた。
「手を貸せ」
「また踏み台か」
「いや、もっと手っ取り早い方法がある」
それからしばらく彼らは何か話しあい、男は納得して頷いた。
「やってみよう」
少女は少しさがり、男は壁を背にして少女のほうを向いて立った。
何が始まるのかとイヴンが見守っていると、少女は男に向かって短く走り、男は体の正面で両手を組んで低く構え、勢いをつけた少女が組んだ手を踏んだところで、全身のバネを使って思いきり両手を振りあげたのである。
軽《かる》業《わざ》師《し》がよくみせる技だった。反動を利用して空中高く舞いあがったり、回転してみせたりするものだ。
しかし、この場合、男はほとんどまっすぐ上に少女を放り投げ、少女も見事に塀の上に着地したのである。
すぐに上から細い縄が降ってきた。
唖然としているイヴンを尻目に男は縄に取りついて、その巨体が嘘のようにするする登っていった。
さすがに山育ちである。イヴンも慌てて後を追った。
城壁の各所には篝火が設けてあるが、作戦の効果もあって壁を登る二人の姿は見咎められずにすんだようである。
塀の上にたどりついて内側を見ると、すぐ下に、張りだし部分があった。
ただの張りだしではない。人が五人並んで通れるほどの幅がある。
見張りと移動を兼ねた通路である。
この通路は壁の内側すべてに設けられ、壁の各所にある塔につながっていた。
三人は素早く通路に身を沈めてあたりを窺った。
左手は長くまっすぐ伸びて塔に続いている。かなりの距離だった。くらべると右手の塔はだいぶ近い。
少女は身をかがめたまま、右手の塔に向かって音もなく忍びより、無造作に飛びこんだ。
驚いたのは塔にいた見張りの兵士である。
国王軍が移動の気配というので、大部分の兵士が見物がてらに移動したが、さすがに塔を空にするほどではない。五人ほど残っていた。
「何だ!?」
一人が叫んだ時には少女の拳がその兵士の腹をえぐっている。
他の四人は突然の事態に驚愕しながらも、この侵入者を撃退、あるいは仲間に知らせようとしたのだろうが、少女のほうがはるかに速かった。
たちまちに三人当て落とす。
「くせもの……」
最後の一人が、かろうじてそう叫ぼうとしたが、声に力を乗せる前に棍棒の一突きを食らって、床にずるりと崩れ落ちた。
まさに一瞬の早わざである。
後から駆けつけたイヴンとウォルが手を出す間もない。
「行こう」
階下へ通じる階段を窺っていた少女が短く言う。
男たちは無言でそれに従った。
これで城《じょう》塞《さい》へ入ることはできたが、ここから先は少女にとっても賭けだった。
どこに火を放つか。二人の連隊長を倒すのは火を放つ前か、後か。火をつけた後の脱出手段はどうするのか。詳しいことは何も決めてはいない。
幸い、一階へ駆け降りるまで他の兵士には出くわさなかったが、彼らが闇の中へ滑りだそうとしたところへ人の話し声が近づいてきた。
交代の兵士のようである。
飛びだしかけた三人はとっさに塔の内部に逆戻りして身を潜めた。
入口の両脇にウォルとイヴンが張りつき、入って来た連中が何も気づかずに階段へ向かう、その背中に襲いかかった。
「うわっ」
「な……」
ほんの一声を漏らし、たちまちその兵士たちも床に崩れ落ちる。
その間、少女は外の様子を覗き見て、現在地を確認していた。
目の前が本丸だった。
ところどころに篝火を設けた巨大な姿が、暗く、重々しくそびえたっている。にぎやかな二の丸とはうってかわって静まりかえり、荘厳な雰囲気に包まれていた。
どんな攻撃をかけられようとも陥落しないという自信と安心の現れだろう。
首を戻して地上に目をやれば、穀物を挽くための風車塔、家畜小屋、馬屋、台所、それに一般兵士のための兵舎が見える。
火をかけるものはいくらでもあるということだ。
いや、もっと好都合なものがあった。
壁に添うようにして大きな薪《たきぎ》の山が積みあげられている。
あれが燃え始めたとなれば城内は大騒ぎになるに違いない。
「ウォル」
小声で男を呼んだ。
「コーラルから来た連隊長はどの辺にいると思う」
男は顎で目の前にある本丸の最上階を示した。
「おそらくあそこだ。もっとも安全で、もっとも見晴らしがよく、主人の寝室にも近いところだ」
「なるほど」
ますます好都合だった。
「あそこから火が出たとなれば、遠くからでもよく見えるな」
さすがにイヴンが顔色を変えたものである。
「嬢ちゃん。あんたまさか、あそこまで乗りこむつもりじゃないだろうな」
壁を一枚越えるのと、本丸の天守閣まで潜りこむのとでは話がまったく違う。
「毒を食らわば皿までだ」
男が冷やかした。
「これも乗りかかった船だろうよ」
特に感情の読めない声で少女が言った。
最初に異変に気づいたのは、塔から移動用の通路に出ていた兵士だった。
動き始めたという国王軍の気配がないかと目を凝らしていたのだが、こっそり通過しようというのに明かりをつける馬鹿もない。加えてこう遠くては人の目に確認できることではない。諦めてひょいと城内に目をやり、仰天した。
煙の立ちのぼるのを見たのである。
しかもそれは一か所ではすまなかった。薪の山からも、食料を貯蔵してあるはずの風車塔からも、台所からも白煙が立ちのぼり、薪の山からはすでに赤い炎がちらついているのさえ見えた。
一大事だった。
「火事だ!!」
絶叫したが、さすがにその時には地上の者たちも気づいていた。
どこが燃えているのか、なぜ火が出たのか、暗がりであるだけに把握しにくいのだろう。松明を持った兵士たちが右往左往している。
騒ぎを聞きつけて、武将格の連中も城内から走りだしてきた。
大声で何か指図している。一刻も早く火を消しとめろというようなことを言ったに違いなかった。
幸い目の前は川だ。城門を大きく開け放って、兵士たちは中州へ走りでた。手に手に水をくむものを抱えていたのはいうまでもない。
大掛かりな消火活動が始まった。
こんなところを国王軍に攻撃されたらひとたまりもない。その不安が胸の底にあるだけに、どの兵士も必死だった。
一方、城主をはじめとして、この戦の中心となる者たちは男の睨んだとおり本丸の最上階にいた。
味方は優に敵の倍とあって、城主は安心して床についていたのだが、城内出火の報告はすぐさま城主のもとまで届けられた。
この城の主は信義からでもなく、また同志意識からでもなく、利得を計算した上で改革派につくことを決めた人物である。国王軍と改革派の両方から、ほぼ同時に手を貸してくれるよう要請があったのだが、裸一貫の国王に味方をしても得るものは何もない。加えて今現在コーラルを掌握している改革派に睨まれるのは損だと計算した。
そこで、国王軍が近づくまで味方につくようなふりをし、油断させておいて迎え撃ちましょうと持ちかけた。
改革派は喜び、必ず国王軍を阻止するよう、もしくは国王を討ち取るよう、名高い近衛兵団の一部を派遣してくれた。すべての首尾がうまく運んだあかつきには目の眩むほどの恩賞をも約束してくれた。
それだけに不覚を取るわけにはいかない。
前祝いにほどよく呑んで、いい機嫌で眠っていたが、瞬時に跳ね起きて身仕度にかかった。
それはコーラルから派遣されて来た近衛連隊長も同じことである。
こちらにも慌ただしく身仕度を整えたらしい。取次ぎの小者も通さず、城主の寝間に押しこんできた。
「城主どの。いったい何ごとです」
「いや何。お恥ずかしい話ですが、城内から火が出たようなのです」
「何ですと?」
「まさか、敵の仕業ではありますまいな」
「いやいや」
城主は首を振り、「おおかた炊事の際、火を始末しそこなったりしたのでしょう。城壁の外から矢を射かけたところで届くものではなし、そこまでの接近を許すはずもありません。すぐに消しとめますゆえ、ご安心を」
焦りと冷や汗を笑顔でくるんだ言いわけだった。
連隊長二人は黙ってその弁解を聞いていた。城主が消火のために階下へ下りていくのを眺めながら、お手伝いしようとも言いださなかった。
自分たちは今のところ客であるし、家の不始末は家の主人が責任持って処理すべきことなのである。
城主が階下へ降りていくのと入れ違いになって、連隊長の腹心からも報告が入った。城内からの出火には違いないが、城壁ぞいの数カ所に渡って一斉に火が出たという。それがいぶかしかった。
「どういうことだ」
一人が首をかしげる。もう一人も難しい顔になっていた。
「事故や不始末による出火とは思えん。かといって城外にいる敵にこれほど派手なことができるはずもない。もしやして、この城内に敵と通じているものがいるのではないか」
「うむ。ありうる話だ」
こうなると城の固い守りに安穏としてもいられなかった。身内に裏切り者がいるならば下手に城内に籠ることは大きな危険をともなう。退路を失うことになりかねないのだ。
「敵と一矢も交えぬうちに何たることだ」
ひたすら苦々しい。
詳しいことを確かめようとしたが、城内はすでにかなりの混乱状態にあった。
そもそも、ここに駐留しているのは、自分たちの近衛連隊の他は数人の領主たちの混合部隊だ。
寄せあつめの軍勢である。
なお悪いことに月の隠れた闇夜も手伝って、誰の部下やらわからないものが走りまわっている。
味方と偽って近づいて来るものがいたとしても、まず見分けられない。
二人は巻きぞえは避けねばならないと、とっさに判断した。城内に陣取っている部下に対し、ただちに武装して城外の中州に集まり、敵襲に備えるよういいつけた。
敵が潜んでいるかもしれない城に籠城するくらいなら、中州へ出たほうがよほど安全である。
ましてここは最上階だ。高みの見物にはいい場所だが、下から追いあげられたら逃げ場がない。
「それにしても、あの男はともかく、勇士と知られたドラ将軍もラモナ騎士団も落ちたものよ。こんな奇策を用いねば戦に踏みきれんとはな」
「それだけ向こうは苦しいということだ。何と言っても主将がまがいものの国王ではな。意気が揚《あ》がらなくとも不思議はないわ」
「まさしく」
そんなことを口々に言いながら、自分たちも従者を引きつれて階下へおりようとしたのだが、その前に仁王のように立ちふさがった影があった。
「久しいな、二人とも」
暗い城内だったが、通路にともした松明の明かりに照らされた姿、そしてその声に二人は愕然としたのである。
213_挿絵5
呼吸が止まった。
目と耳を疑った。
「ま、まさか……」
主人の怯みをまともに見て、従者たちも思わず一歩を引く。
相手は応えるように一歩を踏みだしてきた。
揺れる炎が相手の顔にきつい影をつけている。
暗がりに半分隠れたその顔は、ぞっとするような笑みを浮かべていた。
「どうした。主君の顔を見忘れたか」
屈託なく言うのはまさしく、半年ぶりに見る『国王』の顔だった。
生きていることは知っていた。近くにいることも知っていた。だがこの顔は今は川の対岸にあるはずなのである。
二人の連隊長は狼狽して立ちすくんでいた。
敵の主将がここにいると大声で呼ばわるべきなのだが、あまりに意外な遭遇に言葉が出なかったのである。
その時、さらに二人の狼狽を煽るような悲鳴が、すぐ近くでした。
「火事だ! 火が出たぞ!!」
階下ではない。同じこの最上階のどこかである。
もう疑う余地はなかった。
「こ、これは……あなたの仕業か」
喘ぎながらも一人が問いかけ、国王は不敵に笑って答えた。
「いかにもそのとおりだ。ここの城主が実は俺の手飼いであることに気づかなかったと見える」
まさしく仰天したが、同時に納得もした。
彼らは国王がわずか三人の人数でここまで乗りこんで来たとは知らない。夢にも考えていない。
そんなことはできるはずがないからだ。
内部から誰かが手引きをし、大軍に守られた上で城門をくぐり、この天守までやって来たに違いないと判断した。
同時に城主に対する怒りがわいてきたのは言うまでもない。よくもぬけぬけと味方づらをつくって、だましてくれたものだ。
血の気を失った自分たちと裏腹に、国王は泰然としている。そのことも城主の二心を裏づけている。
「すでにこの城内は我々の配下が占領しつつある。この上は無駄に命を縮めることもなかろう。すぐに降伏すれば悪いようにはしないつもりだ。むろん」
国王はにやりと笑って、「半年前、かたく忠誠を誓っておきながら、諸君たちの部隊が真っ先に王宮に駆けこんで来たその理由わけは、ぜひとも詳しく聞かせてもらいたいがな」
二人は抜き身の剣で切りつけられたような寒気を覚えた。
自分たちの行状が決して褒められたものでないことは王に言われるまでもない。彼ら自身が誰よりよく知っている。
「御免!」
一人は叫んで剣を抜き、一人は城主軍を敵とするよう、大声で命令を下していた。
その声で近くにいた従者が我に返った。
こちらも一瞬棒立ちになっていたのである。
主人の命令に活を入れられて息を吹き返したが、目前に立ちふさがっている国王の横をすりぬける勇気はない。慌てて踵《きびす》を返し、反対側の階段を目指して突進した。
「城主の裏切りだ!」
「城主は国王に通じているぞ!」
そんなことを口々に叫びながら駆け降りていったのである。
仰天したのは地上でようやく消火を終えた城主のほうだ。
まったく身に覚えのないことだ。
「な、何をいわっしゃる!」
憤然となったが、連隊長の従者たちはその目で国王の姿を見、国王が城主は味方と言ったのをその耳で聞いている。連隊長配下の者たちは一斉に警戒を強め、城主に詰め寄った。
「この出火も極めていぶかしい。おのれで火をつけ、国王軍に通じようとしたのであろう!」
「何を言われる! 知らん!」
汗だくになって弁明の最中、今度は城主の従者が悲鳴をあげた。
「ご主人様! あれを!」
指さす方向を見上げると、何と本丸の最上階から煙が立ちのぼっているではないか。
「こ、これは、何としたことだ!?」
立て続けにこんなことが起きては、騎士たちはともかく寄せあつめの雑兵たちが平常心を保てるわけがない。
「裏切りだ!」
「城内に敵が潜んでいるぞ!!」
不安と恐怖の入り交じった声があちこちであがった。本丸に火の手があがったということもあり、近衛兵団の二連隊が城主勢を敵とみなしたこともあり、城内は先とは比べものにならないくらいの大混乱に陥ったのである。
誰を敵とすべきかわからず、闇雲に走りまわるもの。逃がしてはなるまじと城主勢に斬りかかる近衛兵団のもの。同じ理由で斬り返す城主の配下のもの。
早くも戦意を喪失して城門を目指し、一目散に駆けだすもの。
それこそ蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
その中でも最上階の混乱は著しいものがあった。
すぐ近くで火の手があがったのはもちろん、近衛連隊長自らが剣を抜き、二人がかりで、よりにもよって国王と激しい剣戟を繰りひろげているのである。
連隊長のほうは必死だった。どうしても今ここでこの男を倒しておかなければ自分たちは破滅である。
技倆を考えれば男のほうがはるかに上なのだが、死に物狂いの人間の力は侮れない。平常時では考えられないような能力を発揮し、一時は二人のほうがやや優勢にさえ見えた。
ここぞとばかりに、二人は口々に、「何をしている! かかれ!!」
忙しく刃を交わしながら従者たちにそう叫んだ。
仮にも国王に、しかも数人がかりで刃を向けろという命令に、従者たちはさすがにためらったが、結局は主人を助けるために動いた。
士官二人のほうは卑怯も正義も関係ない。必死である。とにかく今この男を倒しておくことが肝心なのだ。
二つの鋭い切っ先をもてあました男の背中が、一瞬、従者たちのほうにまともに向いた。
絶好の機会である。剣を振りかざし、すかさず切りつけようとしたその額に、どこからともなく飛んで来た短剣が正確に突き立った。
短剣は一本ではすまなかった。見事な技で国王に襲いかかろうとした従者たちを狙い撃ちにした。
「卑怯者ども。一人を相手に何をする!」
紛れもない少女の声でりんりんと言われて、従者たちはうろたえ震えあがった。連隊長ふたりの困惑は言うまでもない。
今までどこにいたのか、物陰からイヴンが進みでた。
「二対一とは連隊長どの、四つ星の兜が泣くというもの。卑しき下郎ではありますが、これなるはスーシャのイヴン。お相手つかまつりましょう」
人を食った物言いだ。
国王はにやりと笑ってイヴンと入れ違い、次の瞬間には背中合わせになって敵と対峙していた。
こればかりはイヴンのほうが適任だったろう。少女と男とでは身長にかなりの差がある。
背中合わせになっても男の背中を無防備に開けてしまうことになりかねない。
その少女はというと、連隊長は男たちに任せて、せっせと自分の仕事に働いていた。油をみつければ床の敷物、壁の垂れ幕かまわずぶちまけ、火を放った。もちろん邪魔をするものは片端から斬り伏せた。
これだけ働いて城が無事でいられるわけがない。
あちこちから火があがり、すでに最上階は煙が充満しつつあった。
窓から外を見れば夜明けが近づいている。
太陽はまだ昇っていないが、真っ黒だった空が、次第に群青に薄まりつつあるのだ。
夜が明ければ国王軍の総攻撃が始まる。
それまでにここから引きあげ、あの国王を軍勢の先頭にすえねばならない。
少女が決闘の現場に駆けつけてみると、ちょうど決着がつくところだった。
二人の連隊長は近衛兵団ではそれと知られた人物だったのだろうが、片やタウの山賊の中でも屈指の腕利きであり、片やスーシャの厳しい自然の中で鍛えあげられた剣である。
イヴンを目がけて斬りかかった連隊長は、的確にこれを交わされ、逆に首筋をはね切られた。
渾身の力を込めて国王の頭上を狙った連隊長は、国王の一撃に剣をへし折られ、次の瞬間、ざっくりと胴を切られて絶息した。
どちらも即死である。
「よく働く王様だ」
少女はにこりともせずに妙な皮肉を言った。
「ちょいと手間取ったな」
イヴンが言い、剣を拭った。
「長居は無用だ。出るぞ」
ウォルも剣を拭ったが、二人とも鞘には収めなかった。そんな暇はないのを知っていた。
少女が先頭に立って階段へ飛びこんだが、そこで急に二人を制した。
人が来る。階下から大勢の人が駆けあがって来る気配がする。
本丸内部には貯水場が設けられている。飲料にするための貴重なものだが、今はそうも言っていられない。消火に用いることにしたらしい。
階下では大混乱が起きていたが、この城が燃え落ちたらおしまいだということは兵士たちもわかっている。手の空いているものは貯水場から水をくみ、死に物狂いで消火のために最上階へ駆けつけようというのだ。
いよいよもって肉弾戦である。
後戻りはできない。すでに最上階は火に包まれている。死にたくなければどうしても、群れ集まって来る兵隊を蹴散らして階段を下るしかない。
イヴンはやれやれといった調子で、物騒な笑みを浮かべた。
「もうちっと考えて火をつけてもらいたかったもんだぜ」
男は剣を握りしめて壮絶に笑った。
「ここまでは上出来だ。後は俺たちが生き残るか、それとも刀の錆《さび》になるかだ」
少女が締めくくった。
「錆になることを考えてどうする。弱気になったら負けだぞ」
そのとおりである。
言葉どおり、少女は真っ先に飛びだした。
螺《ら》旋《せん》階段を上がって来た兵士たちに正面から向かって、体当たりの勢いで突っこんで行ったのだ。
「なに!?」
見ていたイヴンが一瞬、絶句したくらいである。
それ以上に驚いたのが、健《けな》気《げ》にも火を消そうとして階段を昇ってきた兵士たちだった。いきなり上から何かが降ってきたかと思うと、すごい力で突きとばされたのである。
「うわ!」
たまったものではない。
先頭の一人は完全にバランスを崩して、後ろにいた人間に衝突する格好になった。
「な、なんだなんだ!?」
後から後から数《じゅ》珠《ず》つなぎになっている兵隊である。
どこかで歯止めが利いたのか、全員まとめて転がりおちることだけは避けたが、そこへ第二の衝撃が来た。
少女がもう一度、あおむけの亀のようになっている先頭の兵士を突きとばしたのである。
とうてい踏みとどまれるものではない。皆、ひとかたまりの団子のようになって階段を転がり落ちていった。
少女は足を止めなかった。そのまま一階下の階層に飛びこみ、ここにも火を放った。
唖然としている男たちを見上げて手招きする。
二人は慌てて従った。
そもそもここまで昇って来る間も、少女の活躍はすさまじかった。時には姿を隠すように指示し、時には通り掛かった兵士を暗がりに引きこんで当て身を入れ、油壺を見つければ即座に布地を浸して細縄の端に火をつけた時限発火装置を仕掛け、ほとんど二人を働かせることなく、最上階まで引っぱったのである。
イヴンは少女の手なみに感心するより驚くより、呆れはてていた。
「とんでもない嬢ちゃんだ」
今、少女は、階段を下りながら次々と火をかけることによってこの城を落とそうとしている。
火の手が多くなればなるほど、消火しようという意欲も吹きとび、逃げようという心理になるからだ。
そして、この火は対岸にいるドラ将軍やナシアスに彼らの成功を知らせるものでもある。
問題があるとしたら、いったいどうやってここから脱出するかということだった。城内の敷地も城外の中州も、今頃は城主勢と近衛兵団入り交じっての混戦になっているはずだ。
そんな中へわずか三人で飛びだしていくのは、あまりにも無謀である。
どうするのかと男たちはよほど尋ねたかったのだが、その暇はなかった。少女は中二階まで一気に駆け降りると、そこにあった窓から外をのぞき、二人を振り返った。
「このくらいなら飛べるな?」
「ああ」
少女が真っ先にひらりと飛びおり、男とイヴンがそれに続いた。一階層くらいなら、この二人にとってはわけもないことだ。
そこまではよかった。ところが少女は地上へ飛びおりると、まっすぐに近くの塔へ走ったのである。
「お、おい!」
イヴンが叫んだ。
慌てて後を追いながらも、何を考えているのかと危ぶんだ。せっかく地上に降りてきたのにまた高台へ昇ろうとは、まして外壁の高台へ昇ろうとは常軌を逸している。
しかし、ウォルのほうには閃《ひらめ》くものがあったようである。
「城壁の外へ降りるつもりだ」
「どうやって!? 縄はもうないんだぞ」
できれば最後の手段に取っておきたかったのだが、よけいな荷物を持って戦えるほど悠長な戦いではなかったし、発火装置にしたりやら何やらで、侵入の時に使った縄は使いはたしてしまっていた。
加えて城のまわりを囲んでいる川は、跳びこめるほどの深さはない。
空はますます明るくなっている。今はもう群青から藍色に変わっている。太陽が昇るのも時間の問題だった。
三人は大混乱の城内を突っきった。
正門とは反対側の東側におりたので、人の密集しているところは避けられたが、まるっきり見とがめられずにはすまない。時には目聡いものがいて誰何すいかしてきたが、むろん無視した。それでも咎めてくるものには剣をふるった。
一晩の労働としてはかなりの重労働である。塔を昇りつめ、鋸壁の内側、移動用の通路に出た時は、三人とも肩で大きく息をしていた。
振り返れば、城内は敵味方の区別もつかない有様だった。本丸はもうもうと白煙をあげ、消火はもはや不可能な状態である。
しかもこれがたった三人の仕業なのだ。
参加したイヴンでさえ信じられない心もちだった。
「上出来だな」
少女が言った。
「そうとも。上出来に過ぎるくらいだ」
国王が力強く応えた。
「我々が生還したあかつきには、この戦いは奇跡の勝利として語りつがれることになるだろう。むろん、勝利を呼びこんだ戦女神の名とともにだ」
「気楽に言うな。最大の難関はここからなんだぞ」
少女がぼやいて、ため息をついた。
「この上、疲れることはやりたくないんだが仕方がない。他に方法がないからな」
男も困ったような顔になった。
「すまん。結局、足手まといになってしまったな」
「でもない。仲違いをさせたのは上出来だ」
そのとおり、せっかくここまで混乱させたのだ。
再び結束する時間を与えてはならなかった。
国王軍には猛将と呼ばれるドラ将軍を筆頭に、希代の勇士がずらりとそろっている。兵の数には劣るものの、この機を逃すような連中ではない。城を焼け落とす勢いで猛攻をかけるだろう。
つまり、どうしてもその前にここから脱出しなければ、味方の弓矢に倒されるという笑えない事態になるのである。
「二人とも。剣を貸せ」
少女の言葉にウォルは素直に従ったが、イヴンは目を剥いたいた。
「何だって?」
「ぶつかると危ないから貸せっていうんだ」
「おい、いったい何を言って……」
少女はその先を言わせなかった。無理やり男の手から剣を奪いとり、腰から鞘を引きぬいた。
「お前たちがもう少し軽ければ楽なんだがな」
そんなことを呟くと無造作に鋸壁をまたぎ、その向こう側にひらりと飛びおりたのである。
仰天したのはイヴンだった。
「嬢ちゃん!」
慌てて身を乗りだした。こんな高さから落ちたのでは無事ですむはずがない。
ところがそこで再び目を剥いたくはめになった。少女は自分の足で川原に立ち、二本の剣を地面に置いたところだった。
こちらを見上げて「来い!」と声をかけてくる。
それだけでも唖然としたのに、横にいた友人が、なおも度胆を抜くようなことを言った。
「よし。イヴン。飛びおりろ」
「ば! 馬鹿言うな!!」
さすがにタウの山賊も蒼くなった。
それはつまり死ねということだ。
「心配いらん。あの娘が受けとめてくれる」
「じょ……! ウォル!! 気は確かか!!」
いたって正気だった国王は議論の無駄を悟った。
そこで実力行使に訴えた。
いきなり友人の首を抱き、膝をすくいあげ、その体を塀の向こうへ放り投げたのである。
悲鳴を呑みこんだのはこの男の意地だったのかも知れない。それでも次の瞬間には川原に激突して死ぬだろうと信じて疑わず、固く目を閉じたのだが、それにしては意外にやわらかいものに、ずしん、と沈みこむように落ちたようだった。
目を開いてみると、驚いたことに自分の体は少女の腕で支えられていた。どう考えてもありえないことだった。
体重は自分のほうが優に倍、その上即死しかねない高さから落ちたのである。子猫一匹でも受けとめることができれば上出来なはずの細い腕なのだ。
何が起きたかもわからないうちに川原に置かれる。
まったく置かれたとしか言いようのない扱いだった。そして尻餅をついたイヴンの目の前で、今度は国王が塀の上から飛びおりて来たのである。
全身が冷や汗に濡れたが、足が動かない。間に合わない。目の前が真っ暗になったが、代わって少女が進みでた。
イヴンは、ますます蒼くなった。無茶だと叫ぼうとした。
ところが、どう考えても一緒に押しつぶされるはずの少女は両足をふんばって、この重たい荷物を両手で受けとめたのである。
が、さすがにかなりの衝撃だったらしい。
なんとか踏みとどまりはしたものの、両足は川原にめりこんだし、口からは低い唸り声が漏れた。
相当、体に無理をさせたようである。
一方、大きな体を丸くしてその腕にちょこなんと抱かれた国王は精一杯しおらしく、かつ神妙に、「今の落ち方では……どうだろうか?」
と、尋ねたものである。
「前よりは、だいぶいい……」
少女はもう一度唸った。
「けど……重いぞ!」
そこで支えきれなくなったらしい。男の体を放りだし、自分も川原にへたりこんでしまった。
「まったく、冗談じゃない。体に悪いぞ、こんなこと」大きく喘いでいる。
奇跡の脱出を果たした三人は川原に座りこみ、それぞれ深く息をついた。
イヴンは、信じられない面持ちで、たった今飛びおりた(というよりは無理やり飛ばされた)塀を見上げてみた。ぞっとするような高さだった。
ついで、腕を押さえて顔をしかめている少女を見た。国王が不安そうな顔をしてそんな少女を窺っていた。
「どこか痛めたのか?」
「いや。たいしたことはないけど……」
軽く手首をひねっている。
「さすがにきついな。あまりたびたびこんなことを繰りかえすと、腕が使いものにならなくなる」
驚き、うろたえた国王である。
「そ、それは困る」
「誰のせいだ?」
白い目で見られて、国王はまたまた大きな体を縮めて弁明したものである。
「いやその……俺が重すぎるせいであろうが……」
「そう思うんなら、次からはおとなしく留守番しているんだな。大将には大将の仕事があるんだ」
今度は低く唸ったのはイヴンのほうだった。
背筋に冷たいものが流れ落ちるのが、はっきりと目線が険しくなるのが自分でもわかった。
「ウォル……」
「何だ?」
尋ねたいことは山ほどあった。いったいどういうことなのだと、この娘は何なのだと言いたかった。
これはもう十人力だの常人離れしているだのという範囲を越えている。
厳しく問いただそうとしたのだが、友人の目と出会って思わず言葉を呑みこんだ。見つめ返してきた男の瞳にはまったく邪気がなく、よく澄んで、微笑すら含んでいた。
しかも、こちらの言いたいことを重々わかっている顔だった。
気が抜けた。
まじまじとその瞳を見つめているうちに、自然と苦笑が浮かんできた。
黒衣の山賊は何度か言葉を呑みこむと、短い金髪を撫であげて、ため息をついたのである。
「なるほど。こりゃあ確かに、ただの嬢ちゃんじゃないらしい」
「今頃気づいたのか、鈍いやつめ」
ここぞとばかりに言い返した王様である。日頃さんざん鈍いのなんのと言われている仕返しらしい。
その国王も塀を見上げた。決戦の前だというのに感慨無量の面持ちになっていた。
誰に話してもこんな快挙は信じないだろう。ドラ将軍が決して不可能と断じたのも無理はないのだ。
わずか数人でこの塀を越え、城内に火を放ち、当面の難敵を見事に討ちとり、そして今、彼らは生きて安全な川原にいる。
男は深い感謝を込めて少女に笑いかけた。
「また、借りが増えてしまったな」
「今頃気づいたのか。鈍いやつだ」
これまたちゃめっけたっぷりに少女が言い返す。
川原に座りこんだ男たち、そして少女はしばらく声をあげて笑った。
この時、太陽の最初の一筋が川原をまばゆく照らしだした。
そして、その陽光に照らされて、国王軍の軍勢が掲げる槍の穂先や鎧の反射が美しく煌めくのが、彼らのいるところからもよく見えたのである。
「さあ、第二幕だ」
少女が言って立ちあがった。
まさしく戦女神としか思えない口調だった。
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少女たち三人が暗闇にまぎれて敵城の本丸に突入しようというころ、自分の宿舎に引きあげたドラ将軍は深い憂《ゆう》鬱《うつ》に取りつかれていた。
他でもない。国王の言動が原因である。
あらぬ濡れ衣を着せられ、国を追われ、半年も放浪生活を送っていたにもかかわらず、その人柄が以前と少しも変わらずにあることを心から安堵し、喜びもしたのだが、どうもそれはぬか喜びのようである。
明朝には早くも第一の決戦が始まるというのに、よりにもよってわずか十三の少女を頼って、手控えをするとは何たることであろうか。
明朝、合戦開始ということに異存はない。だが、もしあの少女がしくじっていたら……。
そこまで考えて将軍は舌打ちを漏らした。
もしではない。はじめからしくじるものと仮定して策を立てねばならない。
そうなれば、あの堅固な城と六千の兵士を相手にしなければならないわけだ。正面からの一斉攻撃など、たとえ、その方法しかないのはわかっていてもあまりに危険すぎる。
こちらの数を少しでも多く見せる工夫、もしくは敵の内部を攪《かく》乱《らん》する必要があるのに、国王は盲目的にあの少女を頼りきり、何の策も立てずにいるのだ。
見すごせないという想いは寝床に入ってからもしきりとついてまわった。勝手気ままに動くことの許された地方貴族の子弟時代とは違う。あの男は大華三国の一、大国デルフィニアを擁する君主なのである。
今は王座を追われているとしても、だからこそなおのこと、我が物顔で王宮にのさばるものどもを放逐し、あの国王を本来あるべき場所に戻さねばならない。
なのに、当の国王はそのしょっぱなから首をかしげるようなことばかりしているのだ。
とても寝つかれるものではなかった。将軍はとうとう起きあがって衣服を整え、深夜ではあったが、国王の宿舎を訪ねたのである。
村の長の家と覚しい建物に国王は休んでいる。
仮にも総大将だ。部屋の前はもちろん、玄関にも不寝番が立っていた。
若い兵士だったが、将軍の姿を認めてかたちを改め、その場に片膝をつこうとしたのをやめさせ、「陛下はお休みか」
尋ねると、「はい。明朝、攻撃の始まる間際までは、誰も声をかけてくれるなとのことでございました」
「そうか。しかし、大事な用件だ。通してくれ」
ドラ将軍ほどの人にこう言われてしまっては、見張りの兵士ごときが我を張れるものではなかった。
部屋の前を受けもっていた兵士も同様に道を譲った。
「ご苦労」
ねぎらいの言葉をかけて室内に入り、無礼を百も承知で寝室の外から声をかけた。
「陛下。お休みのところ申しわけございません。ドラでございます」
ところが返事がない。
「陛下……?」
将軍はいぶかしんだ。武将たるもの、決戦を間近にして人の声に気づかないほど深く寝入るとは考えられない。それがあの国王ならなおのことだ。
そっと室内をのぞいて見て、仰天した。
寝台は空だった。
しかも、近寄って触れてみると夜具はすっかり冷えきって寝た跡もないのである。
開け放たれた窓の下は家の裏庭だった。あの国王は誰も通さないようにと口止めして、ここから密かに抜けだしたのだ。
将軍の口から壮絶な歯ぎしりが洩れた。
しかし、表向きには平然と国王の寝室を出たのである。
廊下で待っていた見張り番が屈託なく、「御用はお済みですか?」
尋ねてきた。
将軍も笑みをみせて、「いや、よくお休みであったので、申しわけなくなり、黙って出てきてしまった。明日が正念場だからな。お前もそろそろ誰かと代わるとよい」
優しく言って遠ざけた。
こんなことが兵士たちの間に知れたら一大事である。絶対に隠し通さなければならなかった。
将軍はその足でナシアスの寝所を訪ねた。というよりも取次ぎも無視して相手がまだ床を離れないうちに強引に押し通ったのだ。
「いったい……どうなさいました。将軍」
ラモナ騎士団の指揮官はさすがに驚いて、寝床の上に起きあがった。
「陛下がいらっしゃらん。寝床はもぬけの殻《から》だ」
低く、呻くように言った。行き先を尋ねる調子も含まれていた。
ナシアスも、とっさには言葉が出なかったが、すぐに納得したようである。
「おそらくは城へ行かれたのでしょう」
再度呻いた将軍だった。そんなことではないかと思っていたが、こうまであっさり言われると拍子抜けする。
「ナシアスどの。落ちついている場合か。陛下のお命にかかわることだぞ!」
「ですが将軍。今からでは我々にできることは何もありません。下手に騒ぎたてをして城に兵をよせたりしようものなら、却って陛下のお命が危うくなります」
そのとおりだった。
国王は既に城へ潜入したはずだ。となればどんなに国王の身が案じられようと、じっと待っているより他にできることはない。
誰に言われなくともよくわかっていたのだが、それでも愚《ぐ》痴《ち》めいたものが洩れるのはどうしようもなかった。
「わしにはもうさっぱりわからなくなってしまった。いったい陛下は何を考えておられるのか。この正念場をどう受けとめていらっしゃるのか……。大将軍たるお方がこんな無茶をして、兵たちの士気にどれほどかかわるか、あの方にはわかっていらっしゃらないのか」
眠りを妨げられたばかりか、枕元でこうまで深く嘆かれるとは、ナシアスには思わぬ災難であったに違いないが、放ってもおけない。寝衣のまま、懸命に年上の英雄をなだめにかかった。
「ドラ将軍。陛下は機運を見るに聡《さと》い方です。この戦の重要性もよくよくわかっていらっしゃいます。そのようなことは私が申しあげるまでもなく、将軍がよくご存じのはずではありませんか」
「だがな。一軍の主将が寝床を抜けだして敵城への潜入をはかるなど、正気の沙汰ではないぞ。こうしている間にも、もしも……」
ナシアスはかすかに笑ったものだ。
「あの少女と陛下の組みあわせならば大丈夫です。城の一つや二つ、あっという間に落としてみせるに違いありません」
またため息をついた将軍である。
何か言いかけたのをナシアスが遮った。
「ドラ将軍。私はビルグナで申しました。あれこそはバルドウの娘、もしくは勝利の女神だと。本当にそのとおりなのです。劣勢の我々が見事この戦を手中にするには、あの少女の協力なくしては不可能ですし、おそらくは陛下も同じお考えでいらっしゃるはずです」
将軍は何とも答えなかった。
戦は個人の働きでどうなるものではない。その信念に今も変わりはない。
「まったく、わしはすっかり頭の固いおやじの役割だな」
思わずぼやいた将軍だが、ナシアスは首を振って、「お気持ちはよくわかります。何と申しましても、将軍は幼少のころから陛下をご存じでいらっしゃるのですし、ご家族ともども親しくされていたと伺っておりますから。ご心配もひととおりではないのでございましょう」
またため息をついた将軍だった。
「貴公の言われるとおりだ。まったく、あの方は、外見は実父の前陛下によく似ていらっしゃるが、中身は育ての親に似たらしい」
「さようでございますか?」
「そうとも。フェルナンも昔からたいへんな頑固者で、一度こうと決めたら決して引かない。そのくせ妙な愛敬があるところもそっくりだ」
思わず、くすりと笑いを漏らしたナシアスだった。
その口調からして、この髭の将軍は、国王の養父にもたびたび頭を抱えさせられてきたらしいと思ったのだ。
「夜明けを待ちましょう。将軍」
「……確かに、それしか、今のわしらにできることはないのだからな」
どこか悄然と呟いて、将軍は邪魔をしたことを詫び、ふらりと自分の陣営に戻った。
寝床へ入っても一睡もできず、まんじりともしない朝を迎えた。
敵城の焼討ち、そして連隊長の討ちとり、どう考えても不可能だ。
加えて、およそあるまじきことに主将不在のまま敵城に向かわなければならない。
さらに事態を憂慮するなら、国王が無事である可能性も極めて低い。
身をもむほどの苦悩があった。
その苦悩が吹きとんだのは、明るくなりつつある夜空を見上げながら、早い朝食を摂っている最中である。
物見に出した兵士が興奮を隠しきれない様子で駆け戻り、慌ただしく注進したのだ。
「申しあげます! 敵城から火があがりました!」
「何だと!?」
「やったか!」
ドラ将軍は思わず問いかえし、ナシアスは快哉を叫んだものだ。むろん、何も聞かされていない他の武将たちは驚きのあまり、一斉に腰を浮かせかけた。
斥《せっ》候《こう》は興奮の面持ちでさらに言う。
「煙に遮さえぎられ、詳しいことはわかりませんでしたが、本丸から火が出ているのは間違いございません。しかも城内にもめ事がおこりました由《よし》。今現在、城主の手勢と近衛兵団が中州にて争っております!」
ドラ将軍は耳を疑った。
成功を喜ぶ気持ちさえ浮かんでこなかった。それほど信じがたい報告だった。
横ではナシアスが勢いづいて斥候に尋ねていた。
「その城主勢と近衛兵団の諍い、どちらが有利に見えたか」
「五分ではないかと思えます。数には圧倒的に劣る近衛兵団ですが、さすがに中央一の精鋭でございます。領主勢もこれとまともにぶつかりたくはないものと思われます」
「よし。ドラ将軍!」
ナシアスの問いかけに将軍は我に返った。
デルフィニアにこの人ありと言われたほどの英雄だ。何をすべきかをすぐさま察した。
「全軍、騎乗!! ただちに出陣する!!」
大音声で叫んだ。
自身もたちまち身仕度を整える。命じられる前から将軍の小姓が馬を引いてくる。
ナシアス、ガレンスにとっては予想済みの展開だ。
これも素早かった。
兜《かぶと》をかぶり、ラモナ騎士団の紋章を記した長衣を翻し、供の者に槍を持たせた姿は勇ましく、兵の士気はいやがおうでも高まった。
シャーミアンも出遅れてはならじと食事も途中で切りあげ、愛馬にまたがった。あちこちで従者らが主人の馬を引き、もしくは武具をそろえて自分も騎乗する。陣営はにわかに活気づいたが、そんな中で乗り手のない馬が一頭、悠然と進み出すのがシャーミアンの目に留まった。
「グライア!」
今はその名で呼ばれているロアの黒主である。
シャーミアンの呼びかけに一度振り返ったが、立ち止まらない。小者たちがさすがに気づいて遮ろうとしたが、相手が相手だ。手綱もかかっていないときてはとても止められない。
黒馬は陣営を抜けると、明らかに城を目指して軽やかに走りだした。
「父上! 黒主が行きます!」
「おお……」
シャーミアンの報告を受ける前から将軍も気づいていた。
あの黒馬がなぜ乗り手もないまま走りだしたのか、どこへ行って何をするつもりなのか、おぼろげながらわかるような気がした。
すでに騎乗し、兜の前盾を下ろしたナシアスが、真剣な口調で言う。
「あの馬は勝利の女神に呼ばれて行くのです」
現実的な視点をもって聞くならばこれほど理屈に合わない言葉はない。しかし、この際、常識は関係ない。
ドラ将軍も同意を示し、低く唸ったのである。
「となると、出遅れてはならんな」
馬上に並んだナシアスとガレンスは目と目を見交わし、微笑を浮かべた。
ドラ将軍も苦笑してみせた。
三千の軍勢は、黒馬を追う形で一斉に進軍を開始したのである。
黒馬は昨日来た道を覚えているかのように、また後ろから追ってくる人々の狙いがわかっているかのように、巧みに速度を調節しながら城を目指した。
負けてはならじとその後を人馬の集団が追う。
黒馬と三千の軍勢は、たちまち白煙をあげている城に迫った。
川に近づくと、城門は開け放たれ、兵士たちが右往左往しているのが将軍たちからもはっきり見えた。
さすがにこちらの接近に気づき、慌てて仲違いをやめて守りを固めようとしているが、それも最後のあがきに近い。
その様子を間近に見て国王軍の士気はますます高まった。今一押しすれば、勝利はこちらのものになるのは明らかだった。
「この機を逃すな! 橋を奪え!」
北から一気に下った将軍の手勢は本丸には見向きもせず、二の丸前まで怒《ど》濤《とう》のように押しよせ、一斉に攻撃をかけ始めた。
「弩いしゆみ隊たい! 前へ!」
ナシアスの指示でラモナ騎士団から一隊が進みでる。弓を引くのに時間のかかる弩だが、効果は抜群である。三列、五列にそれぞれに並び、一矢を引くとすぐさま次の列と交代する方法で、鋸《のこぎり》壁《かべ》の上を掃射しにかかった。
その間も将軍は国王の身が案じられてならない。
おそらくは城壁の中にいるのだろうと思った。
一刻も早く城を攻め落として国王を救わなければと思ったのだが、この時、彼らをここまで先導して来た黒馬が首を返した。城門を離れて本丸の方へ走りだした。
ドラ将軍は思わず叫んでいたのである。
「シャーミアン!」
「はいっ」
父親の言いたいことを察し、シャーミアンが一隊を引きつれて戦列を離れた。
あの馬は少女のいるところを知っている。
今ならそれがシャーミアンにもわかる。
そして国王は少女と一緒にいる。
目の前は川だ。渡れないことはないが敵もしぶとい。塔の上から鋸壁の上から、しつこく矢を射かけてくる。
迂《う》闊《かつ》には乗りこめない。
黒馬は城に並走する形で土煙を立て、半周もしないうちに自ら川に飛びこんだ。少し遅れたシャーミアンはその対岸に望む人の姿を見つけたのである。
「陛下!」
国王は思ったとおりあの少女と黒衣の山賊と一緒だった。城壁の真下にいた。
城壁の上に陣取った敵勢は彼らに気づいていない。
ただ、急接近してきたシャーミアン一隊に警戒を強めたらしい。城壁の上に見える兵士の姿がにわかに多くなった。
シャーミアンは一瞬も迷わなかった。黒主に続いて川に馬を乗りいれ、乗りいれつつ、振り返って叫んだ。
「弩隊をこちらにまわせ!」
この思いきった渡河には城壁の上の兵士も驚いたらしい。だが、やみやみと渡らせるわけにはいかない。シャーミアン率いる一隊に向かって雨のように矢を降らせ始めた。
幾人かが川に倒れたが、女騎士の突進は止まらなかった。兵士たちを励まし、頭上に向かって矢を射かけつつ、川を押し通ろうと果敢に試みた。
「あのお嬢さんもたいがい無茶をやるもんだ」
対岸で見ていたイヴンが思わず感想を漏らしたくらいである。
「のんきなことを言っている場合ではないぞ」
男が上を見上げて唸った。
彼らは何も見物していたわけではない。だが、まずは機動力を確保しなければならない。
ここからの戦いにはどうしても馬が必要になるのである。
一番乗りはやはりロアの黒主だった。
ぐいぐい川を押し通り、少女の待つ対岸へ渡り、少女はあっという間に馬上の人になった。
「手伝ってくる。ここを動くな」
男二人にそう言いわたしておいて、黒馬はたった今渡ってきたばかりの川に再び乗りこんでいった。
「リィ!?」
驚いたのはシャーミアンのほうだ。雨のように矢が降っている中へ、この少女は自ら飛びだしてきたのである。
「離れて! 危ないわ!」
「馬鹿を言うな。そっちのほうがよほど危ない。弓を貸せ!」
女騎士の従騎から弓を借りうけると、少女は川の只中から鋸壁の上を狙って矢を引き始めた。
恐ろしく正確な弓だった。
一矢としてはずすことはなかった。馬場で見せた腕前は実戦でも少しも衰えず、衰えないどころか冴えわたるようだった。弓弦が十鳴ると城壁の上では十人が倒れていたのである。
「なんだあれは!」
「子どもか!」
「娘のようだぞ!?」
そんな声が寄せ手にまで聞こえる。
シャーミアン率いる一隊が川を半分ほど渡った時、今度はタウの男たちが駆けつけてきた。
喜んだのはイヴンである。
「遅かったじゃねえか。野郎ども!」
「悪い。引っぱりだした奴らを撒くのに手間どっちまったい!」
そんなことを叫びつつ、こちらも川に乗りいれ、ぐんぐん近づいてくる。
呼応するように弩隊も駆けつけてきた。指揮を取るのはガレンスである。
「標的! 対岸の城壁!」
割れ鐘のような声で叫んだ。それでも決して陛下を救え、などと叫ばないところがさすがだった。
今はまだ国王は敵の足下なのだ。迂闊なことを喚いては敵に主将の存在を知られてしまう。
「一兵も残さず討ちとれ! 邪魔物がなくなったら徒《かち》で川を渡れ!」
そんなことを叫びつつ、とにかく国王の頭上だけは守らなければと、弓矢の大盤振舞をする。
その甲斐あってシャーミアンの一隊もタウの男たちも川を渡りきり、それぞれの指揮官と合流することを得たのである。
「陛下! ご無事で!」
「副頭目。よくまあ生きてたもんだ! それによくまあ本当に火をつけられたもんだ!」
他の従者たちも口々にその手際を褒めたたえたが、国王も、タウの山賊も謙虚に首を振ったのである。
「俺たちはほとんど何もしてはいない」
「まったく。えらいお荷物になっちまってな」
それぞれ言って、川からあがってきた少女に目をやった。
黒馬は大きく身震いして水気を払った。
馬上の少女はすでに矢を打ちつくしていたが、ここで手を緩める気は少しもないようだった。
「さあ、仕上げだ。城門を破るぞ」
言うが早いか、今度は従者の一人から槍を借りうけ、さらに他の一人から矢筒を借りうけ、一気に馬を走らせたのである。
「後れを取るな!」
国王が叫んだ。
すでに国王もイヴンもシャーミアンの配下から馬を借りうけ、馬上の人になっている。
少女を先頭に国王、イヴン、それにシャーミアンの一隊とタウの男たちは、城門めざして川原を突進した。
驚いたのは城門を守っていた敵兵である。
彼らは城門前の中州に柵を設けて、川を渡ろうとする敵を防ぐ砦《とりで》にしていた。ところが正面からの猛攻撃にあぐねているところに、いきなり横から新手が押しよせたのだ。
しかもただの新手ではない。
当国名代の勇士である国王と、将軍が手塩にかけて鍛えあげたシャーミアン以下のロアの勇士たち、さらにはイヴンをはじめとする、無頼者の間でさえ恐れられているタウの男たちの集団である。
城方はたちまち苦戦に陥ったが、その中でもひときわ激しく城勢を押したのが、黒馬にまたがった少女だった。
ほつれかかった金髪をなびかせ、巨大とさえ思える黒駒を軽々と操り、持てあますような長槍を棒切れのごとく振りまわし、大の男を突きのけ、払いとばし、斬り捨てる。
誰が見ても唸るほどの働きぶりだった。
あまりの勢いのすさまじさに近寄るものは誰もいない。加えて、これが大兵の武士ならともかく、折れそうな細い肢体の少女ときては、敵はもちろん対岸の味方まで目を見張った。
しかし、この時、敵の中から一騎が進みでた。
白銀に赤い裏打ちの外套を翻し、こめかみに三つ並んだ星を打った兜をかぶっている。
「おのれ! 小娘!」
よほど意外であり、いきり立っていたのだろう。
名乗りもせずにいきなり斬りつけてきた。
楽々とこの一撃をさばいた少女がおもしろそうに問いかけた。
「名を聞こうか。見れば雑魚《ざこ》でもないらしい」
相手はかっと目を見開き、すさまじい声で吼えた。
「近衛兵団第一軍第二連隊所属、ルカナン大隊長を雑魚呼ばわりするか!」
「大隊長とは相手に取って不足はない。おれはグリンダ。ウォル・グリークの友人にして勝利の女神。来い!」
「しゃらくさい!」
筋骨たくましいルカナン大隊長である。
味方がほんの少女に苦戦していると聞き、何たることと苦々しく思いながら駆けつけたのだ。
すでに指示を仰ぐべき連隊長は二人とも討ち死にし、大隊はそれぞれ独自の判断で動いている。
同輩の中にはこうなった以上、国王軍に降伏してはどうかという声もあった。しかし、負けるにしても負け方というものがある。武人の端くれとして、武勇のかけらも見せつけずに折れることができるかというのがルカナン大隊長の意地だった。
こんな少女を相手にするのも正直に言えば気が引けるが、敵の勢いの半分はこの少女の働きだという。
それなら一つ揉んでやろうとばかりに名乗りをあげたのだが、たちまち血の気を失うはめになった。
「ぬ!!」
繰りだされる刃の速さも力も大隊長の予測をはるかに越えていた。
一撃で斬り伏せるつもりが追いまくられて防戦一方になる。これを見ていた城方に焦りが出たのはいうまでもない。
たった今まで争っていた相手だが、当面の敵は国王軍だ。今は近衛兵団にとっても国王軍は敵のようだ。それなら協力してこの強敵に立ち向かうべきである。
見事な戦争哲学をもって、城内の責任者は叫んだのである。
「大隊長を救え!」
城門が開き、中からどっと徒《かち》武《む》者《しゃ》が繰りだしてきた。
城主勢にしてみれば、手早く寄せ手を片づけて大隊長ともども城に籠ろうとしたのだろうが、国王率いる一隊がそうはさせなかった。
取りわけ突撃隊の先頭に立った国王の働きはすさまじく、鬼神のごとくだった。少女と新手の兵との間に立ちふさがり、一兵も通さぬ構えで縦横に槍を揮《ふる》い、実際、一人として逃さなかった。歩兵は突きのけられ、騎士は空中に跳ねあげられた。
「手ごわいぞ!」
「押しつつめ!」
城の兵士はまさかこれが国王とは知らない。
身なりも粗末であるし、こんな抜け駆けにまさか総指揮官が参加しているとは思えない。
身分の低い騎士と見て、なりふり構わず数人掛かりでかかったが結果は逆に終わった。雑兵では無理と見て武将格のものが立ちむかっても同じだった。
もしも相手がデルフィニア一の剣豪と知っていたら、おそらく彼らは、その場で逃げ出していたことだろう。
王にとってはここが正念場であり、慣れた騎馬戦である。気魄が違う。国王と刃を合わせて二合までこらえるものは一人もいなかった。
しかもその横にはイヴンとシャーミアンがぴたりとついている。国王を守りつつ、飛びだして来るのを幸いとばかり、端から斬り捨てる。
敵に動揺が走った。
その合間も馬上の少女は大隊長と切りむすび、互角以上の戦いを繰りひろげている。
「ルカナン! 何をしている!?」
朋《ほう》輩《ばい》の苦難を見かねたのか、あるいは子ども一人に手間取る様子がじれったく思えたのか、大隊長と同じ装束の騎士が中州からかけつけ、援護にまわった。
「嬢ちゃん!」
イヴンが駆けつけようとしたが国王が止めた。
「あの娘に任せろ! 敵を寄せるな!」
これ以上二人の騎士に味方する敵を近づけるなというのだ。シャーミアンが応えて従騎とともに中州へまわり、川を渡ってきた味方と合わせて敵の接近を阻んだ。
大隊長二人を相手にすることになっても、少女の勢いは少しも衰えなかった。次々繰りだされる二本の槍と太刀を的確に防ぎ、倍の勢いで押し、一瞬も馬を止めずに五分の攻防を続けている。
あまりの激しさに敵も味方も近寄れない。
人間業とは思えない戦いぶりだが、外見はあくまでほんの少女だ。戦っている大隊長には疑惑と苛立ちがあった。いつまでも手間取っては騎士の名折れになるばかりと懸念した。
「おのれ!!」
ルカナン大隊長が死に物狂いの一撃を繰りだした。
交わそうとして少女は大きくのけぞった。が、とどまれずに馬の背から転がり落ちた。
やった! と、二人の大隊長は思ったろう。すかさず馬を寄せたが、これは少女の誘いだった。
わざと落馬したのである。
着地した時にはすでに万全の態勢を取り、勝利を確信して急接近した大隊長をめがけ、槍を片手に襲いかかっていた。
「うおっ!!」
慌てて飛びのこうとした時には、ルカナン大隊長の眼前に少女の顔があった。
(馬鹿な……!)
みぞおちに強烈な一撃を食らって、目の前が暗くなる。気づかないうちに馬から転がり落ちていた。
大きく飛びあがった少女は、槍の刃先ではなく柄《つか》の先で大隊長の腹を抉《えぐ》ったのだ。
すかさず空になった大隊長の馬の手綱を取り、半乗りの態勢でもう一騎の大隊長に迫る。そうしながら鋭く叫んだ。
「グライア!」
黒馬も呼吸を合わせ、大隊長目がけて突進する。
相手は人も馬も仰天した。それでも騎手はかろうじて少女に切りつけようとしたが、槍の一振りに打ちはらわれ、そこへ黒馬が体当たりをかけた。
「なにっ!?」
態勢を崩したところへこれもまた槍の柄の一撃を食らって馬からたたき落とされたのである。
地面に倒れた大隊長にはすかさずロアの男たちが飛びかかり、手早く縄をかけ、大隊長を捕えた勝ちどきをあげたのである。
この一部始終を対岸で見届けたドラ将軍の口からは、何とも言えない唸り声が漏れていた。
横にいたタルボも絶句している。何か言おうにも言葉が出てこないのだ。
二人は、初めてあの少女の戦いぶりを間近に見たわけだが、とうてい十三歳の少女の技倆とは思われなかった。
それどころか、これほど見事な仕業は今まで見たことがなかった。ドラ将軍は百戦の猛将と呼ばれ、タルボはその副官として、武勇にかけてはなみなみならぬ自負を抱いているが、それでもあんな真似はできないと思った。
あの少女ははじめから敵を大隊長と見て、殺さずに捕えるつもりだったのだ。殺すつもりならもっと手早くできたと今は信じて疑わなかった。
「バルドウの……娘か!」
ドラ将軍の口から思わずそんな呟きが漏れる。
横に控えていたナシアスが頷き、「もしくは我々を勝利に導く戦女神です」
真剣そのものの口調で言った。
「敵方に青い裏打ちの外《がい》套《とう》が一度も見えないところを考えますと、連隊長二人はおそらく昨夜のうちに討ち死にしたのでしょう」
将軍の口からは、さらに唸り声が漏れた。
鍛えぬいた逞しい体が震えるのをこらえきれなかった。
「いったい、あの娘は何なのだ。どこから来たというのだ」
ナシアスもそれは何度か考えた。だが、問いかけてみたところで望む答は得られない。それに、そんなことはおそらくたいした問題ではないのだ。
「あの少女は陛下の友だと名乗ってくれました」
厳かな口調だった。
「真実の国王を王座につけ、王冠をかぶせてやるのが筋だと、その時の王の姿を見てみたいと、あの少女は言いました。どこから来たのか、何者なのか、そんなことよりもその言葉の中にこそ、無二の宝があるのではないでしょうか。名もない自由戦士を装い、孤立無援であった陛下にあの少女は無償で味方を申しでてくれたのです。私は陛下の臣下として、深い感謝を覚えてやみません」
ドラ将軍はさらに唸ったが、今度のそれは感嘆の呻きに近かった。
「あの娘は人ではなく、どこからか遣わされたものなのだな」
「そうです」
「バルドウの娘が……戦をつかさどる神の化身が、陛下のお味方を申しでてくれたのだな」
「そのとおりです」
二人とも半分は自分に言いきかせる言葉だった。
だが、半分は何か宗教的な、崇拝にも似た心から出た言葉だった。
243_挿絵6
ドラ将軍は鞭をかざし、後続を振り返って叫んだのである。
「戦神の娘おん自らに働かせては騎士の名折れぞ! かかれ!!」
言うや、一鞭当てて飛びだした。
その後ろにいた騎馬隊が怒濤のように続き、たちまち橋を奪う勢いで城門に迫ったのである。
連隊長を失い、大隊長を二人までも捕えられ、加えてこのすさまじい総攻撃を目の当たりにしては、城方の気力が持つはずがない。
慌てて城門を閉めて防ごうとしたが、襲いかかった国王軍はそうはさせなかった。
何と言っても勢いが違う。一気に押しよせ、門を突き破り、城方の抵抗をものともせずに歓声をあげながら城内へ乗りこんでいったのである。
国王とイヴンはそれまでに敵方の勇士を多数討ちとっていたが、突撃隊が出たと見るや、身分下の者たちに道を譲った。
こうした突撃は武将格の連中の仕事ではない。身分の軽いものたちの仕事だからだ。
「引くぞ、イヴン」
「おお。もうこうなりゃ時間の問題だ」
中州に残っていた兵士たちも戦意を喪失し、次々と降伏している。
ほとんどが近衛兵団の兵士たちのようだった。
シャーミアン以下の騎馬隊が、兵士たちの武装解除をはじめている。
そちらに気を取られていると、ドラ将軍とタルボ、それにナシアスが橋を渡って駆けつけてきた。
「陛下!」
条件反射で首をすくめた国王である。さぞや超特大の雷が落ちるだろうと覚悟したのだが、予想に反して将軍は心なしか青ざめているようだった。
「お見事なお手なみでございました……」
国王はまた首を振った。
「俺の手柄ではないのさ。それは将軍にもおわかりのはずだ」
彼らの目は自然とあの少女を捜した。
その存在を敵味方に強烈に焼きつけた小さな戦神は馬を下り、借りた槍をシャーミアンの従騎に返し、やはり馬を下りたイヴンと何か話していた。
黒衣の山賊は、自身も相当働いたわけだが、大隊長二人を捕えた少女の手際にはそれこそ驚愕し、目を疑ったらしい。
昨夜から立て続けに、この少女には驚かされ続けている。表情をつくろうのがうまく、めったに真意をあらわにしない男だが、今はさすがに相手に対する疑惑と、少しばかりの恐怖の色が浮かんでいた。
目を上げると、そこに城壁が見える。
つい先ほど自分はあの上から落ち、この少女がそれを受けとめてくれたのだ。
しかし、こうして見ていても、あれが現実のことだったとはとても信じられない。
見下ろせば、自分の胸のあたりまでしか背丈のない少女なのである。
「嬢ちゃん。あんた、やろうと思えば、ここの連中皆殺しにできたんじゃねえのか?」
皮肉な言葉だった。
まともな人間にできることではないと暗に示《し》唆《さ》した言葉でもあった。
少女は男を見上げて、唇の端だけで笑ったものである。
「タウの山賊は無駄な殺しをするわけか?」
「お前みたいなもんと一緒にするねい」
何とも妙な気分だった。相手が自分より十も年下の少女だということを忘れそうになる会話だった。
あの幼なじみがこの少女を戦友と言ったのはこういう意味だったのかとも思ったが、その言葉を素直に信じるにはどうしても視覚が邪魔をするのだ。
「嬢ちゃんは、何でここにいるんだ?」
思わず問いかけていた。
「イヴンは?」
逆に問い返される。思えばいつもそうだ。何か尋ねると先に答えるはめになる。
男はぶっきらぼうなしぐさで頭を掻いた。
「俺は……まあ、いろいろだな。長いつきあいだし、あいつならおもしろい王様になるだろうしな」
「おれも、だいたいそんなもんだ」
「知りあったばっかりなんだろ?」
「それでもわかるさ。あいつが相当おもしろいことくらいはな」
一人前の男のような物言いだが、そこでくすりと笑った。
「もう一つあるとしたら……」
「何だ?」
「ウォルは一度もおれを化け物とは言わなかった。だからかな」
冷めた口調だった。
イヴンは黙って少女を見下ろした。
緑の瞳に同じように冷めた光が浮かんでいる。
背筋に寒いものを感じたイヴンだった。同時に、そういうことかと納得もしたのである。
この少女にとって、化け物呼ばわりされるのは普通のことだったのだ。いちいち憤慨してもいられないくらい、あたり前のことだったのだ。
十三歳という年齢で、しかも誰が見ても美少女というに違いない姿で、あれだけの怪力とこの気性とあっては無理もない。頭の固い連中が何を言ったのか、だいたいの想像がつく。さぞや不愉快な思いをしてきたのだろう。
苦笑したイヴンだった。
危うくその連中の仲間入りをするところだったと思うと苦笑するしかないではないか。
あの友人は、この少女のすることに心から驚いたものの、それ以上のことは詮索しなかったのだろう。
少女はその反応を少しばかり珍しく感じたのだろう。
そうして気に入って、味方をしてやってもいいかと気まぐれを起こしたわけだ。
何のことはない。わかりやすい理屈である。
現金なもので、この少女に対する疑惑も恐怖感も嘘のように消えていった。
「さっきの、ちょいと気持ちよかったな」
男の独り言に少女はくるりと首をかしげたものである。
「なにが?」
「空を飛ばされたやつさ。そのうち、またやってもらいたいな」
少女は目を見張って、にやりと笑った。
「蒼くなって震えてたくせに」
「……!!」
さすがに憤然となったイヴンである。
十も歳下の少女にこうまで言われては引っこむわけにはいかなかった。
「あたり前だろうが。俺はな、お前と違ってまともな人間なんだ。そうそう塀の上から飛んだことなんぞねえんだよ。うっかりそんなことをやってみろ。こんないい男があっという間に挽き肉だぞ。もったいないだろうが」
少女は腹を抱えて笑った。涙が出るほど笑い転げた。
「ほんとだ。もったいないな」
「そうとも。たいへんな損失だ。お前が受けとめてくれればそんなことにならずにすむってもんだ」
妙な理屈に、少女は苦笑していたが、最後の提案には首を振った。
「もう無理だな。あれはものすごく腕に負担がかかるんだ。第一、何でおれが、お前たちみたいな大きな男をそうしょっちゅう抱きかかえてやらなきゃならないんだ」
「あいつ、前にもお前めがけて飛びおりたことがあるわけか?」
「そう。その時は受けとめそこねて気絶しかけた。重いの何のって、もう二度とやりたくない」
身震いする少女に、イヴンは吹きだしていた。
あんな大荷物が空から降ってきたのでは、確かに受けとめるほうは楽ではあるまいと思ったのだ。
「じゃあ、もう一つ聞こうか。お前は、いつまであいつの味方でいてくれるんだ?」
少女は首をかしげて、「敵にまわる理由はないし、とりあえずコーラルを取り戻すまではここにいる。頭の固いおやじさんたちが認めてくれればだけどな」
金褐色に灼けた顔に悪戯いたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「それならいっそ、力づくで黙らしちまったらどうだい? 嬢ちゃんならたいして難しいことでもないだろうに」
今度は少女がおもしろそうに笑って男を見たものである。
「イヴン」
「なんだ?」
「お前はいつまでおれを嬢ちゃん呼ばわりするんだ?」
とっさに言葉が出なかった。
緑の瞳がこちらを見上げて笑っている。
愛らしいというよりは鋭いものが底にひらめくような、物騒なくらいの悪戯気を含んだ瞳だった。
何か言いかけてごくりと喉を鳴らし、二度、三度、ためらってからイヴンは言ったのである。
「そいつあ……失敬」
「うん」
「確かにいつまでも嬢ちゃんはねえよな」
「ねえと思うよ」
まじめくさって言う。
この時、汗だくになったシャーミアンがやってきてイヴンに目礼し、少女に話しかけた。
「おめでとう。たいへんなお手柄だったわね」
「そんなことはないよ」
今ひらめかせた危険な気配など、どこへやらだ。
もう、ごく普通の口調である。
「仲違いをさせたのはウォルの考えだし、連隊長二人を倒したのはイヴンとウォルのお手柄だ。ぼくは火をつけただけ」
「おい、嬢……。リィ」
顔をしかめたイヴンだった。
「そいつあ話が逆だ。俺たちゃお前の後をただついていっただけだぞ。誰が考えたってお前が一番の功労者だろうが」
「そんなことはない」
真顔で言い返した少女である。
「一番の功労者は国王で、それに継ぐ第二の功労者は国王の親衛隊長。そういうことだ」
「いや。そりゃあ確かに連隊長の一人は俺がやっつけたが……」
「たいへんなお手柄じゃないか」
と、少女がまたまじめくさって言う。
シャーミアンも頷いて、「それが本当ならぜひともイヴンどのは報奨されるべきですわ」
「そうだよ。おかげで大隊長を口説きやすくなったんだから」
「その大隊長を取っつかまえたのはお前の手柄じゃないのか?」
どうも釈然としない。
少女は面倒くさそうに肩をすくめている。
「どうでもいいよ。そんなこと。今はとにかく体を洗っておなかいっぱい食べたい。さすがにくたびれた。昨夜から働きづめなんだ」
「それなら大丈夫。今夜はご馳走よ。城の食料も手に入ったんですもの」
「シャーミアンが料理するの?」
女騎士は笑って、「まさか。私一人の手には負えないわ。三千人分の食事なのよ? 炊事番がするでしょう」
「何が出るかなあ」
すっかり愛らしい少女になりきっているリィの背中を見送りながら、イヴンはほとほと呆れはてた様子で頭を振った。
長年の友人に問いかけの目を向ける。
相手はその視線に気づいて肩をすくめて見せた。
自分に聞かれても困ると言いたいらしいが、イヴンはそれですますつもりはなかった。
後であの幼なじみを締めあげて、どこでどうやって知りあったのか、今まで何があったのか、どんな手段を使ってでも残らず聞きだしてやると、固く決意したのである。
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11
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大勝利に沸く国王軍の元にコーラルからの使者が届いたのは、まだ事後処理に追われている最中のことだった。
さだめし、捕えられた近衛兵団の士官の身柄を返還するよう求めてきたと思われたが、使者はこの地で戦があったことなど知らぬ存ぜぬの調子で、ものやわらかに述べたのである。
「スーシャのご子息に、コーラルに客人として滞在しておられますフェルナン伯爵がお体を損なわれ、床につかれましたことをお知らせいたします。ただいま平《へい》癒《ゆ》に全力をつくしておりますが、医師の話ではどうも思わしくなく、最悪の場合はこのまま回復されないこともありうると申しております。伯爵もすでにご自分の病状を楽観できないものと覚悟され、たった一人のご家族であり、後継ぎでもあるご子息にそれは会いたがっておられます。ご子息にとりましてもたった一人のお父上でありましょうから、よもやこのままなおざりにはできますまい。今は何かと物騒な折も折ですので、ご面会をお望みでしたら急ぎコーラルまで参られますよう、こうしてお知らせに参りました。またその際には、ご子息お一人に限り、コーラルへの通行証を発行する用意がございます」
国王は仁王立ちになり、表情を作ることを忘れたかのように使者の口上を聞いていた。
その横では国王の側近たちが顔面を真っ赤に紅潮させ、全身をわなわな震わせていた。
ドラ将軍が声すら震わせて使者に詰めよった。
「それは……それは誰の提言だ。いやそもそも正気の物言いか!!」
使者はあくまで丁重に、白い壁のような顔つきで穏やかに言った。
「これはペールゼン侯爵様のご厚意でございます。本来なればご面会は許しかねますところなれど、フェルナン伯爵は亡き陛下のご寵愛も深く、由緒正しい家柄の方でもいらっしゃいます。その血筋がとだえてしまうことを侯爵様は憂えていらっしゃるのです」
イヴンが痛烈な舌打ちを漏らした。いつもとぼけた笑みを絶やさないはずの男が、今は恐ろしいくらいの厳しい表情になっている。
イヴンばかりではない。
「恥を知らぬか! ペールゼン!!」
ドラ将軍は使者の前でそう叫び、「どのような舌を持ってぬけぬけと!」
温厚なナシアスでさえ、この詭弁には怒気をあらわにしたのである。
国王は特に表情を変えはしなかったが、血が滲《にじ》むほどに唇を噛みしめていた。
父親の命が惜しければ、即座に降伏、もしくは指揮権を放棄しろと脅してきたのは明白だった。
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あとがき
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私はあとがきが苦手です。これを書くくらいならば本編をもう二十枚書いたほうがはるかにましだと思うくらい、苦手です。
なのに、編集の方々はいつも私にあとがきを書かせたがります。
今回もあとがきと言われて開口一番私の言ったセリフは、「書かなきゃ駄目なんですか?」でした。
「駄目です」と、編集者さんは言います。
「どうしても書かなきゃ駄目ですか」
「駄目です」
世の中ってなんて無情なんでしょうか。
以来、この原稿を書くまでに費やした日数、実に七日間。
その間、私は唸りに唸り、落ちこみいじけて暴れまわりました。
世の中にはあとがきが得意という書き手さんが大勢いらっしゃいます。羨ましい限りです。ぜひともその才能の百分の一でも分けていただきたいものだと思います。
どうしてそんなにあとがきが苦手なのか。
一つには恥ずかしいからです。照れくさいんです。裏表紙に『あおり』がありますね。
ほら、本編の内容をそれはそれは美化して文章化したやつですよ。
あれは編集者さんが考えてくれるんですが、私にとってのあとがきは自分で作品のあおりを考えるような、顔から火を吹きたくなるような恥ずかしさがあるんです。
もう一つには、もっと切実な問題です。
文章をつづる作業は編み物に似ています。といっても私はマフラーひとつ編んだことのない人間ですが、似たような印象を受けるんです。頭の中に複雑な(私の頭で可能なかぎりの範囲において複雑な)模様を描きつつ、一本の編み針を持って、誰にも頼らず一人で黙々と編み続け、時折ほぐし、模様を直しながら大きな一つの図柄を描き、やがては完成を迎え、ささやかながらも充実した喜びを味わうようなものです。
なのにあとがきというおまけがある!
書くべきことはすべて本編に放りこみ、詰めこんだはずなのに、まだあとがきという『しっぽ』がある。しかもまったく予想外のしっぽが私の意志に関係なく、編集者さんの鶴の一声でにょっきり生えてくる。
これがぐれずにいられましょうか。
もう完成したものなんです。これでおしまいなんです。つけたすところも直すところも(今の時点では)考えつきません。後になればあっちもこっちもああ直したいということになるんでしょうが、今はこれがせいいっぱい(古いなあ……)。
そう、あとがきによって、私のささやかな完成の喜びは木端微塵になるような気がして、それで嫌いなんです。でも、何とか行数も埋まったようです。人間やれば何とかなるものだと感心し、あと数カ月はあとがきの心配をしなくてもすむかと思うと実にほっとしますが、次回のことを考えるとまた頭が痛くなります。
読者の皆様。どうか作者を助けると思って、編集部宛にお手紙を送ってください。そうしたら次回からは、こんなお手紙がきた、こんな感想をいただいた、というあとがきにできますから。ちなみに作者はあとがきに利用する気がなくても、お手紙はたいへん喜びます。
どうかよろしくお願いします。
[#地付き]茅田《かやた》砂胡《すなこ》