スカーレット・ウォザード 1    茅田砂胡
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よく見なければ気がつかないような店だった。
道を一本はずれれば観光客や酔客が行き交う大通りだ。そうした男達を相手にする女達の里局い声が賑やかに響いている。
そんな喧噪に満ちた繁華街の一画に薄汚れた扉が一枚、フェイク・アートのように張りついていた。電飾はもちろん看板も出ていない、ただ、古色蒼然とした扉だけがぽつねんと立っている。
表通りを行く客は、誰もこの扉に気づかなかった。気づいたとしても見向きもしないに違いない。こんな得体の知れない場所をわざわざ訪れなくても、この街には楽しく遊べる場所がふんだんにあるからだ。
扉は訪れる者さえ忘れてそこにあるようだったが、今、男が一人、その前に立った。
右手をさりげなく腰の傍に置きながら左手で扉を押す。その向こうにあったのはかろうじて足下が見えるくらいの、暗い、下り階段だった。
階段を下りきったところに、もう一つ扉がある。
その中は意外なほど広い酒場になっていた。客もそこそこ入っている。一人で静かに呑んでいるものや、数人で密やかに歓談しているグループまで様々だ。
人種も出身もばらばらな客達だが、彼らにはある種の共通点があった。薄暗い照明の中でほんの一瞬、ある者は手を止め、ある者は話すのを止め、新たに入ってきた客に鋭い一瞥を投げて寄越した。
その視線を浴びるより早く、男は腰の銃から手を遠ざけている。
このタイミングが大事だった。無防備で見えない場所に足を踏み入れるわけにはいかないのが訪れる者の事情なら、銃を抜き払いかねない様子で現れた侵入者を力ずくで排除するのは、それを迎える者にとって当然の事情だからだ。ここはそう言い切れるだけの人生を送ってきた男達が集まる店だった。
客達の厳しい視線を浴びながら、男は肩をすくめ薄く微笑した。この暗い照明ではその顔立ちまでを定かに見ることはできないが、口元に浮かんだ微笑は妙に人懐こく、同時に不敵さをも漂わせている。
扉が小さく見えるほどの長身にも拘わらず、その痩身のどこにも弛みはない。鋼をぎりぎりに絞って肉体を形成したような感がある。
男は何気なく歩いてカウンターに向かった。
もの慣れたその様子を見てとり、客達はあっさり警戒を解いた。
これは明らかに自分たちと同種の人間――星から星へ渡る船乗りの一人、それも合法とは言いがたい人間の一人であると瞬時に察したようだった。
後はもう気にも止めない。たった今見せた鋭さが嘘のような無関心ぶりである。
見知らぬ間柄の者達が同じ場所を共有するための無言の挨拶を、彼らはすませたわけだ。
男はカウンターに腰を下ろすと、正面の壁一面につくりつけられた棚を見て、笑みを浮かべた。
まるで酒瓶の見本市だった。脚立を使わなければ取れないような高いところから黙々とグラスを磨く老爺の足下まで、びっしりと酒瓶が並んでいる。
「また種類が増えたな」
「三年も寄りつかなきゃあ、そうなるさ」
グラスの手入れをしていた老爺が無愛想に答え、男を見もせずに言った。
「いつものやつかい?」
「ああ」
三年も顔を見せなかったにも拘わらず、このやりとりで通用するのだから、よほど以前からの馴染みなのだろう。それにしては老爺はむっつりした顔を崩そうともせずに、ずらりと並んだ酒瓶の中から、埃を被った瓶を取り出してグラスに注いだ。独特の香りを持つ、鮮やかな琥珀色の液体である。
男の左眼と同じ色だった。
右眼は照明の陰と、そちら側だけやや長い前髪が邪魔で見えない。そんな髪型を好むほど若い男ではないのだが、妙にじっくりと似合っていた。充分に成熟した肉体は贅肉のいっさいを削ぎ落として細く、同時に力を秘めている。この身体はいざともなれば恐ろしく剽悍に動くに違いない。そんな物騒な爆発力さえ感じさせる何かを備えていた。
酒場女がいたらこんな男は絶対に放っておかない。眼の色を変え、鼻を鳴らしてすり寄っただろう。
それは何も酒場女に限ったことではないようで、男の左手から静かな声がかかった。
「一杯、おごらせてくれないか」
男は無表情な眼でそれに応えたが、その無表情の中に少しばかり意外の念があったのも確かである。
無理もなかった。その声は、落ちついた口調とは裏腹な、若い女の声だったからだ。
声の主はカウンターの端に陣取っていた。目線を受けて、にこりと笑ってみせる。
男は無表情の裏でますます不思議そうにその女を眺めたのである。
大柄な女だった。止まり木に腰を下ろしていてもその体格は見紛いようがない。百八十センチ以上は優にある。
しかも、間違ってもモデルのような痩身ではない。広い肩といい、豊かな胸や大きく張った腰から長く伸びた足といい、いずれも人の眼を見張らせるに充分な、均整の取れた抜群のプロポーションだか、少しも華奢なところがない。よく鍛えられている。
歳は二十代の後半に見えた。桁外れの身長はともかく、顔のつくりは悪くない。人によっては美人というものもいるかもしれない。特にくっきりと大きな眼が印象的だった。しかし、その顔には全然化粧気がない。洗いっぱなした。髪も襟足にやっとかかるくらいに短くしている。
「隣へ行っても?」
同意を求められた男は黙って叡いた。頭の中ではどういう種類の女かと|訝《いぶか》しみながら。
こんなに目立つ女が座っていたのに、今まで気がつかなかった。それがいっそ不思議だった。
女は立ち上がると、当たり前のように男の左隣に腰を下ろした。いつでも武器を抜けるだけの猶予を男に残したのだ。おまけに、これだけの長身が嘘のように気配を立てない。
女も右の腰に銃を下げていた。それを見たとき、伸ばした前髪の奥で男の右眼がきらりと光った。
重々しく黒光りするそれは、間違っても女が護身用に持ち歩く銃ではなかった。連邦宇宙軍の正式装備にも採用されているMB七二、通称ヴィゴラス。
口径と出力を調節することにより、精密射撃から掃射までを可能にした万能型ビーム・ガンだ。
無反動式とは言え、その全長は四十センチを優に越え、重量に至っては四・八キロにもなる。携帯するにもぎりぎりの大型銃である。
そんな『大物』がこの女の腰にあると、恐ろしいことに小さく見える。さらに、服の上からではわからないが、右脇に吊したホルスターに拳銃が一丁。つまり、左右どちらの手でも扱えるということだ。
男の右眼は普通なら見えないものを探して、女の全身をじっくりと眺めていた。黒い革のジャンパー、肘までの手袋。脚の線を強調しているレザーパンツ、その至る所に反応があった。ブーツの中にも何やら色々と潜ませている。
男は□の端だけで笑った。
「物騒だな」
「何がだ?女が一人でこんな時間、こんな場所にいることか?それとも、見ず知らずの男に馴れ馴れしく声を掛けることかか?」
「違う。あんた自身がだ」
女も笑った。
「誉め言葉と受け取っておこう」
不思議な笑顔だった。活力と覇気に満ちた表情だ。普通の女の顔にあれば『気丈な』とか『活発な』とか表現するべきところだ。『はつらつとした』でもいいかもしれない。ところが、この女のそれはどう見ても『豪胆』であり『無造作』である。
おまけに妙にさっぱりとした清潔感を感じるのだ。
自分で自分の命運を切り開き、堂々と生きているものの顔だった。
片手を上げて、男の耳には馴染みのない銘柄を注文する。無愛想な老爺がその注文を受けて、微かに顔をほころばせたようだった。
老爺か新たなグラスに注いだのは血のような色の液体だった。ただし、本物の血液と違って、これは濃厚な深紅を保ちながらも澄みきっている。極上のルビーを溶かしたような色合いだ。
女はほれぼれするような手つきで、そのグラスを男のほうにすべらせて寄越した。
呑むように促したか、男は顔をしかめている。
「こいつあ、ぞっとしないな」
「食わず嫌いはよくないぞ。試してみろ」
男そのものの話し言葉にさらに苦笑する。
素直にグラスを取ったのは、この女自身への興味よりも、よほどのことがない限り表情を動かしたりしないはずの老爺の反応に興味かあったからだ。
いかにも女性好みの甘ったるい酒に見えたのだが、含んだ血の色は予想に反して少しも甘くなかった。
強烈な存在感を持って口の中に広がり、蠱惑的に舌を刺激し、熱く喉を焼いていく。圧倒されそうな強さに対して意外なほどの清々しさがある。ほんの一口含んだだけなのに、今まで経験したことのない心地よい酪酎感があって、男は眼を見張った。
「これはいい」
思わず言った。
隣で、武装した女も同じ酒を味わっている。
「わたしはジゴバ産ならこれが一番好きだ。滅多に味わえないものだけに、なおさら、な」
この惑星ジゴバは優れた酒を生み出すことで知られている。それもごく限られた地域の産――いわゆる地酒に名品が多い。滅多に味わえないという女の言葉も、その辺を指したものだろう。
「こんなうまいものを今まで知らないでいたとは、間抜けな話だ」
素直に言い、女に向かってグラスを掲げてみせる。
この男なりに賞賛の意を現したのだ。
女はこんな場所での礼儀を損なわない程度に男を見つめている。と言っても色めいたものではない。
冷静な、正確な、男の人となりや何かをじっくり見定める目線だった。そうして唐突に名乗った。
「ジャスミンだ」
「ケリー」
「船乗りだな?」
「そういうあんたは?」
「何に見える?」
「わからないから訊いている。わかるのは、普通の女じゃないって事くらいだ」
ジャスミンと名乗った女は楽しげに笑った。
「心外だな。わたしはごく普通の女だとも」
「普通の女はそんなものを下げたりしないもんだぜ。もっと軽いのがいくらでもあるだろうに」
ヴィゴラスを指して、男がいたずらっぽく笑うと、女はひょいと肩をすくめた。
「これが使いやすいから持っているんだ。軽いのはどうも不安でいけない」
「不安?」
「ああ。小さくて可愛らしくて、握りつぶしそうになる。威力も期待できない。せいぜいが自衛用だ」
ケリーと名乗った男は苦笑をこらえかねていた。
ただの女なら自衛できれば充分なはずだが、それは言わないでおく。
この女は明らかに特殊な環境に身を置いている。
自分で自分の命を――しかもこんな大物で――守らなければならない状況にあるはずだが、それにしては鷹揚な態度だった。グラスを扱う手つきにしても、ゆっくりと酒を味わう様子にしてもくつろいで、少しも荒んだところかない。追われる者の緊張感も命を狙われている者の焦りも感じない。
ますます何をしている女なのかと思う。
少しばかり軍属の匂いがするが、現役ではない。
警察や軍関係者ならどんなに隠しても見抜ける、それだけの自信がケリーにはあった。
しかし、この女は――見れば見るほどわからない。
きちんと着飾れば見栄えがするだろうに、そんな甘さを寄せつけない。普通の女性に期待するようなものを望んでも無駄だと明らかに知らしめている。それだけなら実力社会で生きている女達によくあるタイプかもしれないが、そうした『男勝り』の女達につきものの、肩で風を切るような出しゃばったところがないのだ。ひっそりと周囲にとけ込んでいる。
女は男の顔に眼を当てて、不意に言った。
「身体は空いているか?」
琥珀色の男の左眼が丸くなる。
「どういう意味だ?」
「仕事を頼みたい。もちろん合法的なものだ」
男は面白そうな顔になった。
こうした場所でこういう申し出は珍しくないが、ここまで単刀直入に切り出されたのは初めてである。
おまけに『合法的』とは、実に耳慣れない言葉だ。
自分に何をやらせようとしているのか、好奇心を起こして訊ねてみた。
「仕事、ね?話によっては乗ってやってもいいが、船が必要なのか」
わざわざ船乗りと確認したのでそう言ってみると、女は笑顔だけで答え、小さなカードをカウンターに置いて立ち上がった。
「一時間後にここへ来てくれ」
返事も訊かずに、勘定をすませて店を出ていく。
颯爽とした後ろ姿を見送って、ケリーはカードを取り上げてみた。市内のホテルカードだった。裏を返すとルームナンバーが書いである。
首を傾げた。一瞬、あの女は単に遊び相手を物色していたのかと思ったが、すぐにうち消した。男を誘うのが目的にしては色気がなさ過ぎる。
顔なじみの老爺に眼を移して訊いた。
「今の女、常連か?」
「いんや、初めて見る顔だ」
グラスを磨いていた老爺はむっつりと答えた。
「とても女にゃあ、見えなかったがね」
「まったくだ。ここまで歩いてきたんだとしたら、逆に客引きに引っかかったんじゃないか」
ケリーはずっと笑っている。
よりにもよってこの自分に『合法的な』仕事を頼もうというのが、何となくおもしろかった。
どう見てもあの女は『まとも』ではない。しかし、感触は悪くない。酒の好みも、武器の好みもいい。
ルビーを溶かしたような液体を喉に流しこむ。
「十年も前から贔屓にしてるのに、この店にこんな酒が置いてあるとはな。ちっとも知らなかった」
「当たり前だ。誰が教えるもんか。もったいない」
「もったいない?」
「そうさ。こいつは年に五樽しか仕込まない逸品だ。五万でも五千でも五百でもない。たったの五樽だ。訊かれもしないのに勧める気にゃあなれないよ」
老爺の声には何やら誇らしげな響きがある。
「こいつを丹精してる奴は酒造りで儲けようなんて気はさらさらない。本業はちゃんと別にあるのに、ただただ、うまい酒を造りたい一心で、自分の眼が届くだけのちっぽけな畑を耕して、そこから取れるだけの原料を絞り込んで納得のいく酒をつくってる。おまけにこいつは若いうちに呑まなきや意味がない。だから、年に五樽だ。それしか出荷できないのさ。こいつはまず市場には出ない。出せやしない。毎年、酒屋の仲間うちでそっとわけちまう分だけで、もう品切れだ。そんな貴重品を、酒のことなんか何も知らない素人なんぞにふるまえるかい」
「ひでえ話だ。酒屋が酒を隠匿してるのか」
「売らないとは誰も言ってない。こいつの値打ちをわかってくれる客になら喜んでふるまうし、気持ちよく味わってもらいたいね」
「ああ。いい酒だ」
二度おかわりをして――それ以上は、この老爺は頑として出してくれなかった。がぶ飲みするような酒ではないというのだ――ケリーも店を引き払った。
表通りへ足を向けると、そこはジゴバでも有数の観光都市アシード、その中でも特に人気の高い場所、『春の祭日』通りである。
季節が春でなくても祭りがなくても、ここはそう呼ばれている。通りの両側にずらりと並ぶのはライトアッブされたショウ・ウィンドゥ、陳列されているのは半裸に等しい格好の女達だ。魅惑的な媚態を見せて、観光客の男達の視線を釘付けにしている。
そう、スプリング・フェスタには女性はまず立ち寄らない。立ち寄れないと言ったほうがいいだろう。あちこちに女性の姿はあるものの、彼女たちは文字通りのストリートガールだ。迂闊に足を踏み入れて同類と思われてはたまったものではない。
こんな所にやってくる素人の女と言えば、風紀にやかましい(こういう場所で働く女性の権利にも大変やかましい)石頭の女性議員くらいのものだ。
さっきの店はその繁華街の真ん中に位置している。
この通りで乗り物を使う者などいるはずもないし、あの女は通りの端からさっきの店まで歩いてきたとしか思えないのだか、前代未聞の椿事だ。あるいは誰も女とは思わなかったのかもしれない。
アシードは観光客を獲得することに熱心でもあり、勤勉でもある。『春の祭日』通りのような男性向けの、いわゆる『いかがわしい』一角と、同じ夜の街でも家族ぐるみで楽しめるもっと健康的なレジャー施設――例えば害のないナイトショウを披露するレストランつきの賭博場などは厳密に区分してある。しかも、その両者は実はすぐ隣合わせに立っている。
奥さんや子どもを寝かしつけた、あるいは苦しい口実を駆使して時間をひねり出した旦那さまたちか、こっそり出かけていけるようにという配慮からだと思われる。何とも商売熱心なことだ。
この街へ来たからには隅から隅まで遊ばせずには帰しませんぜお客さん、という観光協会の意気込みさえ感じられて、ケリーは苦笑した。
スプリング・フェスタを後にし、若い夫婦や家族達れの観光客があふれている一角を通り過ぎると、急に景観が変わった。
街を照らす明かりが消え、人の喧噪も遠くなる。
変わって、さっきまでの光景が嘘のような、静寂に満ちた一角が現れた。ふんだんに緑が植えられ、白い建物が調和よく建てられている。
アシード観光協会の街づくりは実に徹底しており、ここは、もう少ししっとりした雰囲気を楽しみたい人間のために用意された区画だ。目当てのホテルもこの一角にあった。
ケリーは、そのホテルの全景を眺められる地点で立ち止まった。適度に瀟洒で、ほどほどに庶民的な建物だ。ランクとしては中の上というところだろ
時間はすでに深夜を過ぎている。すぐ近くにあれだけの繁華街があるとは思えないほど、この辺りは静まり返っていた。道行く人の気配もない。
それでも辺りを憐認し、古風な街灯に背を預けて、ホテルに視線を合わせた。
瞬間、ケリーの視界はひどく現実離れしたものになる。左眼は依然として現実の風景を見ていながら、右の眼は道を隔てて建つホテルの壁を通り抜けて、その内部をつぶさに視ている。
ケリーの右眼は義眼だった。ただの義眼ではない、様々な電磁波を感知する文字通りのスパイ・アイだ。この眼を通すと、壁の向こうの人間の動きも捉えることができる。衣服の下の武器を感知することなど造作もない。やろうと思えば肉体の中までをも覗くことができる。無論、建物の随所に設置された監視システムも例外ではなかった。
正面玄関と非常口に監視カメラとスタンダードな防犯設備か設置されていた。観光客が多いせいか、一階のフロントには警蔡への通報装置もある。
フロントにいる従業員も廊下を歩く人影も武装はしていない。ただ、地下の警個室にはガードマンがいた。全部で四人。これはもちろん武装している。
各階の廊下をモニターで監視しているが、一人が大あくびをしたのが身体の動きでわかる。深夜の勤務だ。暇なのだろう。
要するに典型的な田舎の観光用ホテルなのだ。
呼び出された部屋番号は502号室となっている。五階に視線を合わせ、部屋を探そうとして躓いた。
ここのルームナンバーは電子表示ではないらしい。手動の扉に文字を打ち付けたタイプなのだ。
この右眼には様々な機能があるが、壁の向こうの文字までは読めない。部屋の鍵はさすがに電子錠で部屋によってパターンが違うが、部屋番号がわかるようなものではない。
要するに、どの客室も自由に振けるが、どれが502かわからないという少々間抜けな状況に陥ったわけだ。
ホテルを見つめたまま、ケリーは左手首に巻いた通信機のスィツチを入れた。
「準備はどうだ。ダイアン」
「順調よ。そっちはどう?」
答えたのは若い女の声だった。やや甘いアルトの音域と、教養を感じさせる口調とを似せ持っている魅力的な声だ。
「頼まれてくれ。アンバー・ホテルの502号室だ。建物のどのへんに位置しているか知りたい」
「ホテル?アンバー・ホテルですって?」
「こんな田舎でも監視衛星の一つや二つは飛んでるだろう。そいつの眼を借りて見てくれないか」
「ちょっと待って。この時間、アシードを視られる〈眼〉はないわ。セキュリティから入って電子錠を照合したほうが早そうね」
「やってくれ」
「502に何の用なの? ――今、セキュリティに侵入したわ。部屋には誰もいないみたいよ」
「美人のお誘いなんでね。すっぽかされるとは思いたくないな」
「少なくともその心配はなさそうよ。502はもうチェックイン済みだから。三日前から宿泊、名義はミス・ジェーン・スミス。偽名の代表選手のような名前ね。――あなたの立っている位置から見ると右二十度、上二十六度、距離五十四メートル。ちょうど中庭の向こう側になるわ」
「ありがとうよ」
「今夜は帰らないのかしら?」
「そいつは相手次第だな。すぐに飛べるか?」
「あなた次第よ」
必要最低限のことしか言わないパートナーである。さっさと通信を切ってしまった。
あらためて502を注視してみた。二部屋続きの広い部屋である。スィートルームかもしれなかった。
あらゆる視点から視ても異常はない。人が隠れているわけでもないし、気に食わない機器類もない。
念のため、その左右と上下の部屋も視てみたが、左右は空き室、下に入っているのは子ども連れの家族客だ。真上の部屋では二つの熱源が寝台の上で激しく絡み合っている。何をしているかは明白だった。
苦笑して眼を逸らし、左の肉眼で腕時計を見た。
ここまでゆっくり歩いてきたから約束の時間まで十五分を切っている。
あんな得体の知れない誘いは無視したほうがいい。
それはわかっている。ただ、安全確実な道ばかり選んで歩くのはおもしろくない。性にも合わない。
困った癖だと自分でも思うのだが、時にはわざと危険なカードを引いてみたくなるのだ。
午前一時十分前になって、502の扉が開いた。
入ってきたのは一人だけだ。その体格と桁外れの身長からして、あの女本人に間違いなさそうである。
その人影は真っ先に内線に近寄った。二言、三言話してすぐに切る。手持ちぶさたの様子でソファに腰を下ろし、大きく足を組んだ。
五分と経たずにワゴンを押した人影が業務用エレベーターで上がってきた。502に入っていく。
緑色をした人型の光は、つまみらしきものをテーブルの上に置き、グラスを二つ並べている。さらに、氷がたっぷり入っていると思われるクーラーを置き、その手つきからして決して安くはないだろう銘柄の酒瓶を示し、恭しく一礼して部屋を出ていった。
部屋に残った人影は氷には手を触れようとしない。無造作に瓶を傾けている。
そこまで確認してケリーはようやく動き出した。
正面玄関から堂々と入り、フロントを素通りしてまっすぐエレベーターに向かう。
502号室のベルを鳴らしたときは約束の時間の三分前だった。ほとんど即座に扉が開き、あの女が顔を出した。
身長百九十六センチあるケリーは、女はもちろん、人と向かいあう時はたいてい下を見ていた記憶しかない。そうしないと目線が合わないのだ。
従って、まっすぐ立っているのに、ほとんど顔の正面に相手の顔があるというのは新鮮な感覚だった。
思わず笑みを洩らして訊いた。
「女性にこんな質問は失礼かもしれないが……」
片手でドアを押さえた女の顔がにやりと笑う。
「百九十一だ。それとも年齢のことだったか?」
「いや、迅速な返答で結構だ」
どうにも苦笑を禁じ得ない。
他の女の口からこんな話し言葉が飛び出したら、ひどく乱暴で生意気な物言いに聞こえるだろうに、少しも気にならない。むしろ心地よく響くのだから、不思議な女だ。
明るいところで見ると、女の髪は燃えるように赤かった。くせのある巻き毛で、ところどころに金が混ざっているので、よけいそう見える。大きな瞳は灰色だろうか、銀だろうか、僅かに青みがかっているようでもある。
桁外れの身長のせいもあるだろうが、これほどの存在感の持ち主には滅多にお目にかかれない。雑踏の中に紛れていたとしても、その他大勢では決して片づけられない、強烈に人を惹きつける何かがある。
部屋の中はさっき視たとおりだった。もっとも、室内の装飾に関しては今初めて肉眼で見るわけだが、暗色を基調にした、しゃれたものだ。テーブルには二人分の酒の支度がしてある。用意されていた酒も予想通りの極上品だ。
ケリーは唇に笑みを刻んでソファに腰を下ろした。
この女はいわゆる女らしい女ではない。色めいたものはまったく期待できない。居間と寝室に別れている部屋を取ったのも多分そのためだ。寝台のあるところで話をする気はないという意思表示だ。
それも悪くないとケリーは思っていた。今までに示した女の趣味や、出会ったばかりでも感じる強い個性に、ほのかな好意さえ抱いていた。
だから、差し向かいに腰を下ろした女がいきなり、
「これに署名してもらおうか」
三つに折りたたんだ書類を突きつけてきたときは眉が吊り上がった。いい気分で呑んでいたところを邪魔されたような感じだった。
紙片の文書とは珍しいが、署名を求めるからには何らかの契約成立を目的としているはずだ。
それなのに、内容を説明せずに署名を強要する。
今までのこの女のやり方からはかけ離れている。こちらの意志を明らかに無視しているのだ。不快感さえ覚えた。
「ずいぶんだな。仕事の話とやらはどうした?」
「それに署名することがおまえの仕事だ」
ますます眉がつり上がったが、たたまれた書類を広げて眼を通じたときの驚きはその比ではなかった。
書類には『婚姻届』と書かれていた。
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「なんの冗談だ?」
書類を放り出してそう尋ねたのは当然の成り行きというものだ。しかし、ケリーの目の前に座っている女は呆れたように言い返してきた。
「その義眼は字も読めないのか?海賊」
内心どんな衝撃を受けたにせよ、ケリーの表情は変わらなかった。平然と言い返した。
「読めるさ。だから訊いている。なんの冗談だ?」
「わたしは冗談に時間を費やすほどの暇人ではない。一方のおまえも決して暇ではないはずだ。だから、手っ取り早く書類を用意した」
琥珀色の男の左眼が鋭く女を見つめている。
『義眼の海賊』はケリーの数多くの異名の一つだ。
自分がどんな名前で呼ばれていようと興味はないケリーだが、そうした名前で自分を呼ぶ輩が堅気であるはずがない。
この女が普通とは言いかたいのは見ればわかる。
身体のあちこちに携帯した武器は明らかに荒事に慣れている人間の証拠だし、振る舞いも同様だ。
問題は、本当にわかっていて言ったのかどうかだ。
伸ばした前髪で隠しても、この右眼が色を変えるところを見て義眼と見抜いたのかもしれないし、単なる呼びかけとして海賊という呼称を用いたのかもしれなかった。
相手の出方を見るつもりで、ソファの背もたれに身体を預けて、低く笑った。
「どうにもこいつは不公平な取引だ。あんたは俺を知っているらしい。だが、俺はあんたを知らない」
「そこに書いてある」
言われて、書類を見直した。
婚姻届だから、当然、夫婦の名前を書く欄がある。
夫の欄は空白のままたが、妻の欄はすでに名前が記入されていた。
ジャスミン・ミリディアナ・ジェム・クーア。
ケリーはその名前を見つめたまま、実に五秒間というもの動けなかった。
自分で自分の眼が信じられなかったのである。
やがて、ケリーの□から小さな笑いが洩れた。
笑い出したら止まらなくなった。
「こいつあ、ひでえ冗談だな」
「冗談などではないとさっきも言ったぞ、海賊」
女はあくまで真顔である。
「さっさとそれに名前を書いてもらいたい。本名を書きたくないならそれでもいい。何か適当な名前でかまわない。こちらで、その名を持つ人物の履歴を用意する」
「ちょっと持ってもらおうか、女王陛下。いいや、あんたが本当に、あのジャスミン・クーアだとして、言わせてもらうか、頭がどうかしているらしいな。会ったばかりの男と結婚?しかも、あんたの言うとおり海賊のこの俺と?笑わせてくれるぜ」
用意されていたグラスに勝手に注いで、ケリーはまだ笑いながら、それを口に運んだ。しかし、眼は笑っていない。
「あんたは知らないらしいから、教えてやろうか。クーア財閥の名を知らない者は共和宇宙にはいない。エネルギーと情報の両方を支配し、共和宇宙全域に絶大な影響力を持ち、連邦政府さえ意のままにできると言われている巨大財閥だ。創設者のマックスがたった一代でそこまで築き上げた、別名クーア王国。その怪物マックスが半年前に死んだ時、財閥のすべてを受け継いで『即位』したのが一人娘のジャスミンだ。若くて美人で、しかも独身と来ている。クーア財閥の女王の夫になるのはどんな男かって、当時のニュースはこの話題でもちきりだったぜ」
女の口元が少しほころんで、微笑の形をつくった。
「そこまで知っているのなら、彼女が誰の求婚にも、うんとは言わなかったことも知っているだろう」
「さてな、そこまではニュースでやらなかった」
「結婚が決まったなら大々的に放送するに決まっているだろう。マックスの死以上の大ニュースだぞ。実際、たいした狂乱ぶりだった。あの頃、わたしに求婚してきた男どもの頭の中身ときたら、いやはやたいへんなものだった。美人といってくれるのは嬉しいんだが、わたしはご覧の通りの大女だからな。理想的な花嫁とは言えないだろうが、それにしても単純というべきか、おそまつというべきか、この女と結婚すればクーア財閥は俺のもの、つまり共和宇宙の経済そのものが俺のもの、俺は世界の支配者になれるのだ!とまあ、こんな感じでな。それしかない。脳みその端から端まで探しても、シェイカーに掛けて振ってみても、それ以外のものはまったく何も出てこない。はっきり言って話にならなかった。わたしにも選ぶ自由はあるからな」
笑いながら、水でも呑むようにグラスを空にする。
ケリーは探るような眼で、あまりにも泰然としたその姿を見つめていた。
「本当に、あんたがジャスミン・クーアなのか」
「こんなことで嘘をついてどうする?」
巨大財閥の斟賑にはとても見えない女は、わざとらしく眼を丸くして、いたずらっぽく笑った。
「もちろん、これにはわけがある。聞きたいか?」
「いやでも聞かなきゃならんだろうよ、女王陛下」
「おまえがさっき言ったように、わたしの父は半年前に死に、財閥のすべてはわたしが継いだ。ただし、暫定的にだ。父は少々困った遺言を残してくれてな。わたしが三十になっても独身だったら、すみやかに総帥の座から下りること、その場合、財閥の運営権は重役会に委譲されるというものだ。――要するに、実権を取り上げられたくなかったら三十歳までには何が何でも結婚しろということだ」
一代で王国を築き上げた怪物にしても、この娘の先行きは親として不安だったらしい。それにしても――と、男はちょっと首を傾げた。
「その遺言。本当に守る必要があるものか?」
「法的効力はない。当然だろう。今の連邦委員会にいったい何人の独身女性委員がいると思っている?彼女たちにこんなことを聞かせてみろ。この遺言がいかに不当で違法で非道なものか、よってたかって熱弁をふるってくれるぞ。独身を理由に当然の権利を侵害されるなど許されない、とんでもない差別だと言ってな。なるほどその通りだ。至極もっともな話だ。連邦未加入の辺境ならともかく、共和宇宙のどの国だろうと、こんな遺言は無効に決まっている。しかし、困ったことに、わたしの国では父の言葉は絶対なんだ」
マックス・クーアを評する言葉を一つに決定するのは難しい。ある者は天才科学者と言い、ある者は山師だと言う。不世出の冒険家だと讃える者もいれば、金儲けのうまい単なる商売人だと罵る者もいる。
二十代半ばにして革新的なエネルギー理論を発表、宇宙船の航行距離と速度に劇的な変革をもたらした彼は、自分の理論を実用化することまでしてみせた。それによって数々の特許を取得し、自作品の実践と宣伝を兼ねて自らも宇宙に飛び出した。
運はとことん彼に味方した。当時はまだ数えるほどしか確認されていなかった〈|門《ゲート》〉を、彼は次々に発見したのである。さらに使い勝手がいいとは決して言えなかった〈|門《ゲート》〉にプラットフォームを整備し、ステーションとして機能させることに成功、メトロの整備と発展に多大なる功績を残した。
現在では、ある程度以上の大型船はすべて、彼の考案した理論を元にした炉芯を積んでいる。つまり、船を一隻建造する毎に二十四ものパテント料が入る仕組みだ。ステーションの利用料は言うまでもない。
物品流通と同じく情報の流れを重んじ、インタースペースネット、通称Sネットを開設したのも彼だ。惑星開発と都市化にも大いに力を発揮した。他にも様々な産業に力を入れ、しかも成功している。
共和宇宙に知らぬ人がないというケリーの言葉は決して誇張ではない。今ではクーア財閥系の会社が一つもない惑星のほうが珍しい。
そこまで成長した巨大企業でありながら、恐ろしいことにクーア財閥は個人経営企業だった。事実上、マックス個人の所有物だったのだ。
だからこそ、キングダムとも呼ばれたのである。
彼の生涯収入がどのくらいになるか、彼が母国と連邦に収めていた税金がどれくらいの数字になるか、冗談でも計算してみようとするものは誰もいない。そんなことはやるだけ虚しく、ばかばかしいからだ。
第一、数字を追うだけで眼が回る。
「重役達の思惑は父への忠誠とはまったく別の所にあったらしい。自分の息子をわたしと結婚させれば、クーア財閥を合法的に手に入れられるわけだからな。三十までにわたしが誰とも結婚しなかった場合でも、この遺言を楯に取ることで自分たちのものにできる。あの連中があんなに一致団結するのをわたしは見たことがない。――先代の偉大なる功績に敬意を表す意味でも、このご遺言を無視することはできません、世間一般常識はこの際別物として、遵守されるべきでありますと、唾を飛ばして力説する始末だ」
「当然といや当然だろうな。ちなみに、あんたは今いくつなんだ?」
「標準時で十日ほどすれば二十九歳になる。次から次へと紹介される馬鹿息子を相手にするのも、そろそろ面倒くさくなってきたところだ。この辺で手を打っておきたい」
「それで、これか?」
つまみあげるようにして婚姻届を取り上げると、女はにやりと笑った。
「そのとおりだ」
「要するに、あんたは今の自分の地位を守るために急いで適当な男を捕まえて夫にする必要があると、そういうことか?」
「そうだ」
「その白羽の矢をよりにもよって俺に立てた?」
「ああ」
ケリーは苦笑しながら肩をすくめ、その紙切れを放り投げた。
「あのな、女王。話はよくわかったが馬鹿げてるぜ。クーア財閥の総帥になりたがる男なんぞ、それこそ星の数ほどいるはずだ。何も俺なんかにお声を掛けなくても、その中から適当なのを引っかけりゃあいいだろうが」
「そっちこそ間違えるな、海賊。誰と結婚しようとわたしはその相手に主導権を与えるつもりなどない。財閥の総帥はあくまでも、このわたしだ。夫はその配偶者というだけだ。今まで結婚を申し込んできた男達の中で、その事実を正確に理解していたものは一人もいなかった」
「そりゃあそうだろう。ものがクーア財閥となれば、どんな男だろうと一方的に舞い上がる」
「だからといって馬鹿の相手をしなくてはならない義理はないからな。わたしはわたしの仕事をしたい。あの重役達一人一人の選別をして、味方につく者は残し、あくまで敵に回ろうとする者にはそれなりの対処をしたい。わたしが欲しいのはそれを実行する時間なんだ」
「そんな手間を掛けなくても、その重役達を残らず馘首にしちまえばいいだろう。今はあんたが女王だ。そのくらい簡単にできるはずだぜ」
「ところが、そうもいかない事情がある。知ってのとおり、父は財閥の全株式を自分で所有していた。それを、死に際して、七パーセントずつ、七人の役員に譲渡したんだ。わたしは四十九パーセントの株を父から譲られたが、それでは役員全員を一方的に解雇することはできない」
ケリーは思わず首を傾げた。
「待てよ?七人の役員に七パーずつで、あんたに四十九パーセントってことは、残り二パーセントはどうしたんだ?」
女は真顔になって身を乗り出した。
「まさに、その二パーセントが大問題なんだ。今は凍結されていて誰のものでもないが、わたしが結婚したら、その相手に譲渡されることになっている。わたしが三十までに結婚しなかった場合は、やはり七等分されて重役達に譲られることになっている。これが何を意味するかはわかるな?五十一パーセントの株を持つ者がクーア財閥を所有できるんだ。今や重役連中は、わたしが三十の誕生日を迎えるのを小躍りしながら待ちかまえているような有様だ。まったく、我が父ながら、いったい何を考えていたのか、あのくそじじいと言いたくもなる」
そんな物騒な台詞を真顔で言うので、ケリーは苦笑した。
連邦政府さえ自在に動かせると言われる巨大財閥を受け継いだこの女も、未来の夫の協力なくしては、その地位を維持できない。一方、これまで単なる臣下に甘んじていた人々にとっては『クーデター』ないし『政権交代』の絶好のチャンスというわけだ。
「あんたの親父さんが何を考えていたのかっていう点だけは俺も同意見だ。話を聞いていると、紛争の種を蒔くだけ蒔いて、あの世へ行ってくれたらしい。確かに、どんな馬鹿でもこんなチャンスは逃さないだろうな。自分の息子と――いや、息子でなくても自分の思い通りに動いてくれる男なら誰でもいい。そいつをあんたと結婚させれば、クーアのすべては自分のもの、それに失敗したとしても、あんたが誰とも結婚しなければ、その時は他の六人と手を結ばなきゃならないわけだが、それでもかなり高い確率でクーア財閥は自分たちのものか。いやはや、なんとも、ひでえ話だ」
「おかげでこっちか要らぬ苦労をする羽目になる。さて、もうわかっただろうが、これは取引だ。そのつもりで署名してもらいたい。いつまでとはっきり約束することはわたしにもできないが、取りあえず一年。一年契約でいい。その間には必ず片をつける。もちろん、問題が片づいたら即座に離婚に応じるし、それ相応の報酬も約束する」
女は言葉を切って、じっと男を窺ってきた。
男は、女が自分を見ていることを知っていたが、グラスを弄びながら眼を伏せていた。
実は、笑いをそっと噛み殺していたのである。
何ともはや、呆れた話だ。
まして、自分がこんな話に喜んで飛びつくと思われたのなら、ますますもって笑うしかない。
金持ち連中の突拍子のなさ、自分さえよければ他はどうでもいいというわがまま気まぐれ、ついでに非常識にも慣れっこになっていたつもりだったが、この女王様ときたら、いささか度が外れている。
これ以上はつきあいきれない。つきあう気もない。
ケリーは露骨な軽蔑の素振りで肩をすくめると、立ち上がった。
「どう考えても、俺むきの仕事じゃないな。悪いが、お誘いは辞退させてもらう」
女はその答えを予期していたらしい。首を傾げて、ちょっと笑った。
「そう言われて、わたしが引き下がると思うか?」
「いいや。あんたはそんな種類の女じゃない。が、あいにくとこの俺も、黙って言いなりになるような男じゃない」
「知っているさ。キング・オブ・パイレーツ」
ケリーの足が止まった。生身の左眼が鋭く光って悠然と腰を下ろしている女を見た。
「単なる当てずっぽうで声を掛けたと思ったか?わたしは、おまえがジゴバに下りるのを知っていた。だから、ここで待っていたんだ」
「…………」
「三十を越える国家から有罪宣告を受け、連邦警察に国際手配され、連邦軍にまで眼の仇にされながら、おまえはいまだに自由の身でいる。しかも、ふつう大海賊と言えば何人もの配下を従え、組織を持った者のことだが、おまえは違う。たった一人で動いている。相棒はいるものの、な」
ケリーの表情はますます苦いものになっていた。何のことはない。この相手は最初から自分に関する情報を全部持っていた。単なる非合法の船乗りではない、『海賊達の王』という、もっとも誇らしく、もっとも忌まわしいその異名を百も承知で、こんな話を持ちかけてきたのだ。
「あんたも変な女だな。これも教えてやらなきゃならないのか。国際手配者はかくまうだけで重罪だ。こんなことがばれたらクーア財閥も、あんた自身も、ただではすまなくなるんだぞ」
「そんなものはいくらでもごまかせる。もっとも、そのためにはおまえにも協力してもらう必要がある。第一に、その顔を変えてもらわなければならないし、こちらで用意する偽の履歴を完璧に覚えて、少なくとも人前では、その人間を演じてもらうことになる。ま、それも契約のうちだと思って、一年は我慢してもらえるとありがたい」
どこまでも人の話を聞かないつもりらしい。
ケリーは声に力を込めて、はっきりと言った。
「女王。俺はあんたが嫌いじゃない。他人事ながら、王座を大切にと声援を送ってやってもいい。しかし、これだけはお断りだ」
「理由を聞かせてもらいたいな。何がそんなに気に入らない?一年も船から下りなければならないことか。それとも、体裁とはいえ、超国際企業の副総帥なんかを演じることか?」
「どれもこれもだ。気に入らない。だがな、中でも最悪に気に入らないのは、惚れてもいない女と結婚しなきゃならないってとこだ」
女は眼を丸くした。それから、実に楽しげな顔になって小さく吹きだした。
「それは失敬した。そこまでは考えなかったな」
「甘いぜ。男の純情を計算しろよ。そもそも、どうして俺なんだ?結局、あんたが欲しいのはただの弾よけか、目眩ましの役目を引き受ける男だろう。俺でなきゃいけない理由はないはずだ」
「おおありだとも。そんじょそこらの男にはこんなことは気の毒で頼めない。誰でもいいわけじゃない。おまえにしかできないことだと判断したからこそ、こうして頼んでいるんだ」
「頼んでいるって態度か、それが?」
「そう見えないとしたら哀しいな。こんなに熱心にものを頼んだことは覚えがないくらいなんだぞ」
どっしりと椅子に腰を下ろし、大きく足を組んだ姿勢のまま、にやりと笑って言ってのける。
「当時のニュースは『彼女を手に入れるラッキーなシンデレラ・マンは誰か!?』などと囃し立てたし、おまえも、いいことずくめだと思っているようだが、とんでもない話だ。それどころか、はっきり言って命がけだぞ。夫ができたからと言ってあの重役達が諦めるわけがない。わたしが株の名義を書き換える前に、その夫を片づけてしまえばいいんだからな。いっそのことわたしもろとも消してしまったほうが、あとくされがなくていいかもしれないくらいだ」
ケリーはさすがに呆気にとられた。
七人の重役がどういう人物で、故マックスとどういう関係だったのかはわからない。だが、クーア財閥全株式の七パーセントと言ったら、それだけでも相当な金額になるはずだ。マックスは実に気前よく、彼らの働きに報いたことになる。
それほどの贈り物を受け取っておきながら、まだ満足せず、なおも跡を継いだ女の命を狙うのか?
「いくら何でもそいつあ、欲張り過ぎじゃないのか。今、あんたが死んだら、クーアはどうなる?」
「財閥は解体される。当然、重役連中はお払い箱だ。もちろん、彼らはそんな危険な橋を渡りはしない。わたしが独身のまま三十の誕生日を迎えればそれでよし、わたしが結婚したとしても、その結婚相手をたらし込み、株を譲渡させるか、自分たちに都合のいい遺言でも書かせるかした上で、わたしを殺す。わたしの遺産を受け取らせておいて、しかるのちにその男も殺す。それで万事めでたし、めでたしだ」
ケリーは思わずため息を吐いた。冗談抜きに頭が痛くなってきた。
「あんた、自分の命が危ないってわかってるか?」
「間の抜けた質問だな、海賊。わたしと同じくらい、結婚相手の命が危ないこともわかっている。だから、慎重にならざるを得なかった」
クーア財閥に眼が眩んだ男ではあっさり重役達に寝返ってしまうかもしれない。戦うことを知らない男ではなお危ない。簡単に殺されてしまいかねない。
世の女性達とはまったく別の意味で、この女王は結婚相手に高い条件を望まざるを得なかったのだ。
「身分や財産は必要ない。見てくれなんかはそれに輪を掛けてどうでもいい。殺しても死なないくらいしぶとく、頑丈で、国家機関や政財界にはまったく無縁の男であること、腕が立つことはもちろんだが、何より信用がおけること。こんな条件を満たす男は表の世界にはいない。もう一つあげるとするなら、これは単なる契約だと割り切れるだけの冷めた目を持っている男でなければ困る。有頂天になるような頭の悪いのは論外。かといって覇気のないのも問題外。ただ、正当な報酬を約束する契約なら、それも期限の決まっている間だけなら、妥協して飼われてやってもいい。そう言いきれるだけの自信と気概を持っている男が欲しかった」
「つくづく無茶を言う。金で飼われろと言い放っておきながら、誇りは忘れてもらっちゃ困るって?」
「そうだ」
堂々と女は頷いた。当然の要求をする態度だった。
ケリーは何とも妙な気分を味わっていた。
今まで、自分の腕を欲しがる男はたくさんいたし、一緒に組まないかと誘われたことも数え切れないが、ここまで熱烈に勧誘されたのは初めてだ。
節度と礼儀をわきまえた求愛なら求められて悪い気はしない。強引な話のもっていき方は今も気に入らないし、許せることではないのだが、少なくとも、この相手が真剣であることだけは疑う余地がない。
「訂正しよう」
「なにを?」
「鼻持ちならない金持ち女が、気まぐれで人を飼うつもりなんだろうと思ったが、そうでもなさそうだ。あんたはずいぶん高く俺を評価してくれたらしい」
「むろん、最上級の評価をしたつもりだとも」
「それならこれもわかるはずだ。こういうやり方は俺の流儀じゃない。いくら熱心に誘ってくれても、この状況でうんとは言えない。そんなことをしたら、俺は売り渡してはいけないものまで売ることになる。あんたの言う、誇りってやつをだ」
女は、困ったような、気まずいような顔になって真っ赤な髪を掻いた。
「まともに口説いている時間がなくてな。そこでだ、一つ賭をしないか?」
「なに?」
「神出鬼没のケリー。それもおまえの異名らしい。連邦警察はおろか軍までか本腰を入れているのに、|宙《そら》ではいつも逃げられている。実際、おまえの船も、それを操るおまえの腕も、たいした性能らしい」
「俺は配下を持たない海賊だからな。そのくらいの足がなきゃ話にならないだろう」
「では、わたしがおまえをつかまえられたら?」
笑みを含んだ、いたずらっぽい口調だった。その眼は自信に煌めいている。
明らかな挑発だとわかっていたが、こればかりは聞き流しにできなかった。不敵に笑い返した。
「俺をつかまえるって?」
「おまえはどうせすぐにジゴバを離れるんだろう?わたしがそれを追いかける。つまり、鬼ごっこだ。そんな鬼ごっこは警察や軍相手にしょっちゅう経験しているだろうから、逃げ切る自信もあるはずだ。今から、そうだな、十時間以内にわたしがおまえをつかまえられたら……そうしたら観念して、これに署名してもらえるかな?」
婚姻届をひらひら振ってみせる。
そんな賭に乗るのは断る、と言うのは簡単だが、言っても意味はなかった。
いくら拒否したところで、ここはまだ地上である。そしてクーア財閥の力は間違いなくこのジゴバにも及んでいる。警察や軍を動員してケリーを捕らえることくらい、この女には簡単にできる。
この部屋に何の仕掛けもないことは確認済みだ。
全身に武器を携帯している女本人が脅威と言えば脅威だが、そのくらいの武装はケリーもしている。
それでも話にならなかった。この女が自分の持つ権力をちょっとでも行使したら、地上では勝ち目はなかった。
考えるふりをして言った。
「しかし、そんな鬼ごっこは俺にはやるだけ損だ。逃げ切ったところで賞金が出るわけでもなし……」
「出してやろうか。何がいい?」
「遊ぶなよ」
つられて笑みを洩らしながら、ケリーは頭の中でめまぐるしく思考を走らせている。
何とかして宙港まで逃げなければならなかった。
|宙《そら》に上がってさえしまえばこっちのものだ。誰も自分たちには追いつけない。
どうやってそれを切り出そうかと思案していると、また女が先手を取った。
「あと二十五分で午前二時になる。その時が開始の合図ということで、いいかな?」
「すると、今日の十二時がゲームーオーバーか?」
「そうだ。午前二時までわたしはここを動かない。どこにも連絡しない、指示も出さない。宙港までは道一本だからな。十分もあれば着ける」
「ありがたい気遣いだ」
できるだけ仏頂面をつくってケリーは言った。
ゲームの開始まではあと二十五分あると、そう言いたいらしい。ご丁寧にも、宙港まで逃げる時間をくれるというのだ。何とも馬鹿正直な公平精神だが、この際はありがたい。
ドアに手を掛けたケリーの背中に声かかかった。
「忘れるなよ、海賊。標準十二時までに、おまえをつかまえたら……」
「そのときは署名でも何でもしてやるよ。ただし、俺と、俺の相棒を宇宙で止められたらの話だ」
やれるものならやってみろと言わんばかりの口調だった。
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無人タクシーを拾うと、ケリーはすぐさま相棒に連絡を取った。502号室から眼を離さないように言い、スピードメーターを制限速度ぎりぎりに設定して、宙港へ突っ走った。
このジゴバには宇宙港は二つしかない。一つある大陸にたったの一つずつだ。歓楽街のアシードとは相反するようだが、この星は豊富な自然をも観光の売り物にしているから、その自然に傷かつくような過剰な開発は避けている。
宙港にしても、観光客を乗せてくる旅客船や大型貨物船は、まず地上には降りてこない。軌道上の埠頭に停泊し、連絡船やシャフトを使って積み荷を乗降させている。
地上まで降りてくるのは、ほとんどが個人所有の小型船だ。星から星へ渡る技術者の船もあれば、裕福な連中の持つヨットもある。そして、管制が知ったらひっくり返るだろうが、民間を装った海賊船が下りてくることもある。
三十以上もの国家から有罪宣告を受け、連邦警察から指名手配されているケリーだが、そんなことは何でもなかった。船の識別コードも、ケリー本人の身分証明も、芸術的なまでに偽造できたからだ。
ケリーが目指した宙港は端から見るとだだっ広い野原でしかなかった。
ところどころに船が停泊している。と言うより、巨大な塊が地面の上に無造作に置かれているような印象だった。地方の宙港とはいえ、五十隻くらいの宇宙船が停まっているはずだが、敷地そのものが広大なのでがらがらに空いているように見える。
宙港への入り口は地下へ下りるシャフトになっている。下りたところで出国審査だ。機械による人物照合と、人間の係員による肉眼での確認が行われる。
それがすむと、リニアカーで自分の船まで地下を移動する。何しろ広いから、時速三百キロで飛ばしても、この移動だけで五分から十分はかかる。
ケリーの船はC‐28番に停められていた。リニアカーを降り、再びシャフトで地上へ昇る。地上からは係留通路が搭乗口まで伸びているから、シャフトに乗れば自動的に搭乗□まで辿り着ける仕組みである。
ケリーの船には中から扉を開けてくれる搭乗員はいない。ケリー自身も何の操作もしなかったのに、乗降□は自動ドアのように開いて彼を迎え入れた。
「お帰りなさい、ケリー」
「話は後だ、逃げるぞ」
言いながら、ケリーは全力で操縦室へ走っている。
五万トン級と、外洋型宇宙船としてはそう大きなほうではないが、まともに乗降□から出入りすると、操縦室までかなりの距離を移動することになる。
ただならぬ様子を訝しく思ったのか、声の調子が変化した。
「どうしたのよ。美人のお誘いだと言って鼻の下を伸ばしていたわりには慌てているのね?」
「これが慌てずにいられるか。いくら美人でも頭のおかしいのはまっぴら御免だ」
「その表現は適正を欠いているわ。頭の具合がどうおかしいんですって?」
「どうもこうもない。超弩級にいかれてるんだよ。婚姻届を突きつけて署名しろときたんだぞ!」
「質問。彼女はあなたと結婚したいと言ったの?」
「そうとも!」
「では、ケリー。今の発言は訂正する必要があるわ。結婚をしたいのだったら婚姻届に署名を求めるのは当然の行動しゃないの」
「すべての物事には手順と常識ってものがある!発進準備は!?」
「完了。あなたか本船に戻ると同時に発進許可を申請、現在待機中。――だからといって狂っていると断言はできないわ。少なくとも手順を誤ってはいないでしょう?頭がおかしいというのは入院するときに出生届を用意したり、離婚するとき死亡届を用意したりする人のことを言うのよ」
話し続ける声の主はダイアナ・イレヴンス。この船の感応頭脳であり、ケリーの相棒でもある。
もっとも、この船を知っている連中は誰もこんな名前では呼ばない。親しみを込めて『クレイジー・ダイアン』と呼ぶ。文字通り『狂っている』からだ。
「散髪をしようとして芝刈り機を持ち出したりする人も立派におかしいといえるでしょうけど、結婚をしたくて婚姻届を持ち出すことの、どこがそんなにおかしいというのかしら?不思議だわ。まったくもって理屈に合わないわ」
ダイアナがしきりと不思議がっている間に、ケリーは操縦室に飛び込み、自分の指定席に着地した。
時計を見た。
午前一時五十六分。
発進!と、喉元まで出かかった言葉を呑み込み、操縦桿を握りしめながら言った。
「502の様子は?」
操縦席の前方一面を占める巨大なスクリーンの左隅、内線表示画面に若い女の顔が映し出された。
これは実在する人間ではない。ダイアナが自分を表現するために合成した映像にすぎないが、皮膚の質感と言い、一本一本を表現した金髪の具合と言い、表情までも生身の人間そのものだった。
知らない者には、船内のどこかに実在する女か通信して来たようにしか見えないはずだ。
画面のダイアナは器用にも肩をすくめて言う。
「変わらないわ。ずっと椅子に座ったまま、見事なくらい動かない。ときどき、時計を見てる」
それを聞いてケリーの腹が決まった。
「一時になったら発進する。最大加速で飛ばすぞ。管制のほうは任せる」
「了解」
「それから人名検索を。ジャスミン・クーアだ」
「クーア財閥の新しい総帥のことなら、本名ジャスミン・ミリディアナ・ジェム・クーア。父マックス、母セシルの間に、標準暦九一八年、十二月七日誕生。九四六年五月八日、父の跡を継いで財閥総帥に就任。その他いっさいのデータなし」
「冗談だろう!履歴もか!?」
「彼女はこれまで、まったく人前には出なかったの。身体が弱かったからだとも、要塞のような屋敷の奥深くで、帝王教育を受けていたからだとも言われているけれど、本当の理由はわからない。彼女が公の席に姿を見せたのは今年の三月、財閥六十周年を記念して聞かれたパーティか初めてなのよ」
「その時の映像は?」
「ないわ。マスコミには完全に非公開、出席者にも厳しく協力を要請したらしいわ。彼女を撮影したりしないようにね。それ以来、一度も人前には出ない。マックスの葬儀も非公開でしたからね。――実際に彼女を見た人の話なら、いくつか残っているけど」
「でかいか?」
「なんですって?」
「女の身長だ。でかかったか?」
「そこまで露骨な言葉を使った人はいないわ。でも、似たような感想は多いわね。『いや、驚きました」『実にご立派な、圧倒されるような方でした』『何人もの青年実業家が熱心に話しかけていましたが、男のほうか見劣りしていました』こんなのもあるわ。『まさに燃えるような髪のプリンセスです』……」
ご丁寧に音声を完全に模倣して言うので、大勢の人間がこの場にいるような気になる。
ケリーは思わず唸っていた。
二時間ほど前に変わった日付は、九四六年十一月二十六日。あと十日ほどで二十九歳――計算は合う。
「病弱ってのは大笑いだが、間違いなさそうだな」
「ひょっとして、ミス・ジェーン・スミスの正体が、ジャスミン・クーアなの?」
「本人はそう言った」
「あら、まあ。たいへんな玉の輿じゃない」
「十時間逃げ切れなかったら、本当にそうなるぞ」
スクリーンを睨み付けながらケリーは言った。
本当は、こんな面子にこだわらず、さっさと逃げ出したほうがいいのはわかっている。
それでもじっと待ったのは意地があったからだ。
計器類は船の状態が万全であることを告げている。
外の景色は降るような星空だ。その星空の一部が真っ黒に塗りつぶされ、巨大な何かが接近してくる。今まさに着陸しようとする船体が空を遮ったのだ。
たいていの宇宙港では不休体制で船の離着陸が行われている。惑星によっては一日が四十時間というところもあるのだし、第一、ここは夜でも反対側の大陸はまっ昼間だ。
刻々と変化する時計の数字が02:00を示した瞬間、ケリーの船はその推進機関を起動させ、船を地上に瞥いでいる電磁|錨《アンカー》を力ずくで引き剥がそうとした。
管制は仰天したに違いない。それも当然で、まだ出国許可は出していない。無断出国は重罪である。
凄まじい警告を発してきたが、ケリーはもちろん無視してパワーを上げた。頑丈な電磁|錨《アンカー》もさすがに船を縛りつけておけなくなり、ケリーの船は地上の呪縛から解放され、上昇を開始した。
何とも焦れったいことに大気圏内では巡航速度の千分の一も出せない。それでも三秒後には音速を突破したが、こんな動きを宙港管制が黙って見逃すはずがない。緊急用ビームネットを作動させて、強制的に船を停止させようとしてきた。
ビームネットは文字通り、実体のない網だ。外部からの異物を跳ね返すことも、中から出ようとする動きを抑えることもできる。蜘蛛の巣に虫が引っかかるようなものだ。
これが作動したら、五万トン級の船などは空中に『吊されて』動けなくなってしまう。
しかし、ダイアナがその動きを逆に押さえ込んだ。
宙港管制に侵入し、危機管理系統を『懐柔』することくらい、ダイアナには朝飯前だ。かくて緊急停止システムは管制が金切り声で昿いた命令を頭から無視し、空一面を歪曲させて出現するはずの巨大な『虫取り網』は沈黙を守り、そこには相変わらずの星空だけが広がっている。
こんなことは絶対にあってはならないことだから、原因不明の故障に地上は大騒ぎになったに違いない。
その間にケリーは管制の手を逃れ、悠々と宇宙に飛び出していた。
星系国家ジゴバは、もっとも近い星まで二十光年離れている。最新型の宇宙船でも、その最高速度は光速の一・六四パーセント程度だから、通常航行では生きている間に『お隣り』へ行くことさえできない。
それでも人の往来が絶えないのは〈|門《ゲート》〉の存在があるからだ。そして、それを発展させた〈|駅《ステーション》〉。〈|門《ゲート》〉とは宇宙に無数に点在する時空の歪みを指す。
何百光年離れていようと、その距離を無効にする、宇宙に開いた見えない門。人類か最初にそれを発見してからすでに数百年になるが、交通手段として自在に使えるようになったのは近世に入ってからだ。〈|門《ゲート》〉は近いもので数十億キロ、遠ければ数百光年彼方の時空を一瞬にして移動することができる。
要するに宇宙空間に無数に開いたトンネルなのだ。
しかし、それもA点からB点、B点からA点へと移動できるにすぎない。C点という歪みがあったとしても、A点からC点へ直接跳躍はできない。C点へ移動するためには、その対であるD点から跳躍する必要がある。
宇宙開拓初期の数世紀は、この〈|門《ゲート》〉を一つでも多く探すことに費やされたと言っても過言ではない。
そうして発見された〈|門《ゲート》〉に、安全に使用できるように『|乗り場《プラットフォーム》』を設けたのが〈|駅《ステーション》〉である。
ジゴバを例に取れば、ここは文句なしの田舎で、宙港を発してから最寄りの〈|駅《ステーション》〉まで、通常航行で六時間かかる。この駅のプラットフォームは一本しかない。五百八光年離れたブロンガにしか通じていないローカルな駅だから、二十光年離れた隣の星へ行くほうが苦労することになる。ブロンガから別の門へ乗り換え、通常航行で八時間。さらにもう一度乗り換えて戻ってくるかたちになる。
連邦本部のあるセントラルへ行こうと思ったら、乗り換えに継ぐ乗り換えで五日はかかる。ちょっとした大旅行だ。一方のセントラルはと言えば太陽系内に三つもの駅がある。最寄り駅までは巡航速度でわずか二十分という便利さに加え、どの駅も五つ以上のプラットフォームを持っているから、共和宇宙のほとんどの宙域へ、あっという間に移動することができる。
どの星へ行くにほどの駅で降り、どこで乗り換え乗り継ぐのか、毎年のように新しい宙図がつくられ、こうやって整備された交通網は誰が名付けたのか、今では〈|地下鉄《メトロ》〉と呼ばれていた。
ジャスミンとの賭の話をすると、ダイアナは顔をしかめてみせた。
「あなたも厄介な人に惚れ込まれたのね。ある意味、連邦軍より相手が悪いわよ」
「わかってるさ。だが、宇宙に出れば話は別だ」
最初から〈|駅《ステーション》〉へ行くつもりはなかった。跳躍の順番を待っているうちに追いつかれて『御用だ』となったのでは眼も当てられない。
「そういうことなら納得するわ。まさか、あなたが目当てだとは思わなかったけれど、どうやら彼女は本気らしいわね」
「ダイアン。話の頭を端折るなよ」
「わたしが何に納得したかを訊きたいのなら、その答えば、ジゴバ軌道上にクーア財閥の船が停泊している理由がわかった、よ。こんな地方には不似合いな、お化けみたいな豪華船でしたからね」
「どういう意味だ?お化けってのは」
「軽くメガトン級はあるのよ。個人の持ち船だなんて冗談みたいな代物よ。大きさだけじゃない。防止装置の凄さと言ったら、このわたしが入り込めない。たぶん、攻撃能力も電子性能も、連邦軍の超弩級空母に勝るとも劣らない怪物のはずよ」
苦笑して首を振ったケリーだった。
「共和宇宙に存在する最大最強の軍事国家はクーア財閥だ、なんてジョークを思い出したぜ。その怪物が追いかけてくるとなると、少しばかり厄介だぞ」
「同意見。武装はともかく探知装置が問題ね」
普通、探知機が船影を捉えられる範囲は、全方位探査で一千万キロほどである。
しかし、連邦軍の空母が搭載しているような最新型はさらに優秀だし、方角と捉える機体がはっきりしていれば、探知できる距離はもっと大きくなる。
探知機が捉えられないところまで距離を開けて、自分しか知らない〈|門《ゲート》〉を抜ける。これは、海賊が追っ手から逃げるときの常套手段だった。
共和宇宙内で未確認の〈|門《ゲート》〉が発見された場合、発見者には速やかに連邦に届け出ることが義務づけられている。黙っていたことがわかれば厳罰処分を食らう。逆に素直に届け出て、その〈|門《ゲート》〉が実用化されれば、船が一隻通過するたびに使用料の一部が黙っていても入ってくるのだから、届け出たほうが断然得である。門を探すことを生業とするゲート・ハンターなる人間達も数多く存在する。
だが、海賊と呼ばれる男達のほとんどは、連邦に未届けの、密かな〈|門《ゲート》〉を持っていた。商船を襲い、探知機を振り切ってから、誰も知らない〈|門《ゲート》〉へ逃げ込む。それだけでいい。〈|門《ゲート》〉を通る瞬間さえ感知されなければ、完全に逃げ切ることができる。追っ手がどんなに地団駄を踏んでも無駄だ。決してつかまることはない。襲撃現場から何光年も離れたところで、大手を振っていることができる。
だからこそ〈|門《ゲート》〉には届け出の義務があるのだし、私有は重罪なのだ。
逆に、探知機が見ているところで跳躍するわけには、絶対にいかなかった。そんなことをしたら、隠していた〈|門《ゲート》〉の存在を知られるだけではない。
こちらが探知機から消えた宙点で追っ手が重力波エンジンを作動させたら何もかもおしまいである。何召光年離れていようと〈|門《ゲート》〉は同じ所へ追っ手の船を運んでしまう。
恐らく、軌道上をじっと注視していたに違いないダイアナが、慎重に呟いた。
「怪物から小型機が発進したわ。一機だけよ。全長四十メートル。重量はたぶん一千トンもない。ずいぶん大きめだけど、空母艦載の戦闘機みたいね」
首を傾げたケリーだった。
戦闘機の何よりの利点はその機動性だ。もちろん速度にも優れているが、持久力の点で問題が残る。長距離の追撃には不向きと言わざるを得ないのだ。
ケリーは今、最大限に加速を効かせて、星の海を切り裂いて飛んでいる。見た目は小さくても、この船には戦艦を買えるくらいの金を掛けてあるのだ。惑星ジゴバはすでに五百万キロの彼方にあった。
「妙だな。何だってそんなもので追って来るんだ。速度は?」
「この船より遠いことは確か」
「おい」
「冗談を言っているわけじゃないのよ、ケリー。追尾してくる小型機は現行のどんな戦闘機より速い。このままだと追いつかれるわ」
「ちょっと待て。この船より遠いってことは全速で飛んでるんだろう?戦闘機にはKSは積めないんだぞ。追いつく前に燃料切れになるはずだ」
KSは完全核融合炉とも永久内燃機関とも呼ばれている。言ってみれば燃料を生み出し続けてくれる人工太陽を閉じこめた炉だ。これを搭載した船は、メンテナンスさえ怠らなければ、基本的には燃料の心配をせずに飛び続けることができる。
ただ、完全無欠のこのシステムにも弱点はあって、小型軽量化という問題が残っている。現在のところ、三万トン以上の船でなければ搭載できない。
追ってくる船が一千トン級なら、昔ながらの燃料補給式で飛んでいるはずである。
だが、ダイアナは難しい顔で首を振った。
「KSの正式名称とその開発者を知らないわけじゃないでしょう?正式名称はクーアシステム、開発者の名はマックス・クーア。追ってくる機体は――まだ一般には公開されていないとしても――改良小型化に成功したKSを搭載している可能性が高い、そう推測するのはそんなに場違いなことかしら?」
「怖いことをさらっと言ってくれる相棒だぜ……」
ケリーは舌打ちして互いの位置を確認した。
もし、ダイアナの言うとおりだとしたら、かなりまずいことになる。
旋回性能はと言えば、これはもう追っ手のほうが圧倒的に優れているに決まっている。撃墜するにしても的はこちらの数分の一しかないちっぽけな機体だ。おまけにスピードは向こうのほうが勝るとあっては、狙いがつけにくいことこの上ない。
あの女は伊達や酔狂で鬼ごっこをしようと言い出したのではない。充分に勝算があって言ったのだと、いやでも理解せざるを得なかった。
「どうするの?おとなしくつかまる?」
「馬鹿言え。おまえの華麗なる特技に期待するよ。――それにしても信じられない足だぜ」
思わずぼやいたケリーだった。
秒速敷千キロの世界では肉眼など役に立つはずがない。計器を見てから反応するにしても遅すぎる。
宇宙船は完全自動化され、その中枢を担うものとして感応頭脳が開発された。複雑な航路計算、現在地の測定、推進機関の調整や障害物の回避など、すべて感応頭脳が行うようになり、当然、操縦者が受け持つ役割も大きく変わった。戦闘を目的とする機体は特にそうだった。
『|感応頭脳《シンパシー・ブレイン》』の名が示すとおり、操縦者は航行中、頭脳と同調している。おかしなもので、同じ規格、同じ機種の感応頭脳でも、それぞれに特徴がある。
操縦者によって合う合わないの相性があるのだ。
普通その同調装置はヘルメットかバイザーの形をしているが、ケリーは右眼を通じてダイアナと同調していた。これによって、言葉を発することも操縦悍を使うこともなく、考えただけで船を動かせるが、非常事態でもない限り、そんな必要はなかった。
船と同調するのは、操縦者が船の状態をいち早く把握し、万一の場合に、動作や言葉を用いなくても、自分の意思を船に伝えるようにするためだ。
感応頭脳は判断能力を持ち、自身の船体について詳細に認識しているが、自我はない。その役割はあくまで操縦者を補助することにある。どんな船も操縦者の指示がなければ動かないし、動けない。
感応頭脳が開発される前、船を完全にロボット化しようという意見もあった。人間は宇宙船に指示を下し、それを受けた宇宙船が「自分で飛ぶ」ようにしたらどうかというものだったが、この案は採用されなかった。機械はあくまで機械であり、そこまで信用するのは危険である、何より咄嵯の事態に対処できないというのが理由である。
電算機と呼ばれていた時代が過去のものになり、人工脳として発達を遂げても、それはあくまで人間のよき道具であり、僕《しもべ》だった。『人格』と呼べるだけの個性や意思、まして『心』を持った人工脳などは一例も存在しないはずだった。
ところが、ここに例外があった。ダイアナだ。
彼女は人間の命令を必要としない。自分の意思で勝手に動く。
ダイアナと『知り合った』ばかりの頃、ケリーはこの事実に唖然とさせられた。偶発的プログラムの結果として生み出されたのか、単に回路のどこかが異常を来しているのか、専門家でもないケリーにはわからなかったが、この『狂っている』としか思えない感応頭脳は、見方を変えれば、実に個性的かつ魅力的な人格だった。
さらに、ダイアナには素晴らしい特技があった。他の人工脳に干渉することができたのだ。
これは驚異的なことだった。船専用の感応頭脳も、宙港や他の施設で使われるどんな人工脳にしても、高い知能を備えている。外部の人間が内部の人間のふりをして接触しようとしても馴されない。すぐに見破ってしまう。頭脳そのものも厳重な防御に守られているから、外部からの操作は不可能というのか絶対的原則なのだ。でなければ危なくて使えない。
しかし、ダイアナはいとも易々と、他の人工脳に自分を侵入させてしまう。相手の抵抗などものともしない。即座にからめ取り、自由自在に従わせる。
あんまりその手際が見事なので、ケリーが、どうやるんだ?と尋ねたところ、
「みんな、わたしの魅力に参ってしまうのよ。人間流に言うならね」
至って平然と答えたことかある。
ダイアナは今、その能力を後方の追っ手に対して存分に発揮しているはずだ。
じきにあの小型機の感応頭脳は、何もない宙域に突如としてプラズマ流が発生した、もしくは船体に異常ありと判断する。これ以上の航行は不可能だと操縦者に伝えるわけだ。
操縦者はこの警告を無視できない。無視したところで意味がない。あくまで飛び続けようものなら、感応頭脳は操縦者か操縦不能になったと判断して、その安全を守るために推進機関を止めてしまう。
しばらく沈黙していたダイアナが画面に現れて、ため息を吐いた。実に人間的な仕草だった。
「ケリー。だめだわ。止められない」
「どうした?たらしの腕が鈍ったのか」
「あの機体には感応頭脳がないのよ」
思わず耳を疑った。
何を聞いたのか、一瞬理解できなかった。
「ないって、どういうことだ?」
「だから積んでいないのよ。たぶん、電算機だけで飛んでるんだわ」
言葉以外の何かが喉から飛び出しそうになった。
恐ろしく冷たいものが背筋をぞわりと這い上った。
思わず正面スクリーンに眼をやる。下部の画面にその機体は映っていた。凄まじいまでの速度のため機体の周囲に影のようなジェットが発生して見える。
まだ遥か後方にあるが、間違いなくこの船を捉え、ぴたりと追尾してくる。
ケリーは、らしくもないことだが、大きく呻いた。
「……計器飛行してるっていうのか?」
「恐らくは」
「気は確かか!自殺行為だぞ!?」
ここはまだジゴバの太陽系内だ。外宇宙と違って、どんな異物が漂っているかわからない。星の海とはよく言ったもので、宇宙には船を転覆させかねない突風も吹けば危険な急流もある。エアポケットと呼ばれる現象そっくりな重力の落とし穴もある。
感応頭脳はコース上に異常を察知してもいちいち操縦者に伝えたりはしない。自動的――反射的にと言ってもいい――避けてコースを修正する。
電算機にそんな真似はできない。異常を操縦者に伝えられるだけだ。警告を受けた操縦者は、自分で衝突を避ける操作をしなければならない。
ダイアナもさすがに呆れているようだった。
「わたしが今までにどれだけの微調整回避をしたか、聞きたい?あのパイロットはそれを全部、手動でやってのけたわけ。この船より秒速四百五十キロも速く飛びながら。――ちょっと会ってみたいわね。あの機が現在の速度を維持した場合、追いつかれるまで約三百六十分」
舌打ちして、ケリーはさらに速度を上げた。こうなったら仕方がない。ルートを知られるのを覚悟の上で〈|門《ゲート》〉を使うしかなかった。
すべての宇宙船は外洋型と近海型に区別される。基準はもちろん〈|門《ゲート》〉を通れるかどうかだ。
戦闘機は言うまでもなく近海型だ。特定の宙域で使用されるものだし、武装はずっしりと重く、操縦者を守る工夫も随所に施されている。その上あんな小さな機体に重力波エンジンが積めるはずがない。
通信が入った。後方に迫る機体からだった。
他の情報を拾うのに忙しかったケリーは頭の中で『つなげ』と、言葉をつくった。
スピーカーから流れてきたのは紛れもなく、あの女の声だった。映像はない。音声のみの通信だ。
「燃料切れを期待しても無駄だぞ、海賊。この機は小型化したKSを積んでいる。もう一つ忠告するが、〈|門《ゲート》〉を使えば追って来られないと思っているなら、それも無駄だ。この機は〈|門《ゲート》〉を通ることができる。嘘だと思うなら試してみることだ。大事なルートをわたしに知られてもいいのならな」
一方的に話して一方的に切ってしまう。ケリーは歯ぎしりした。
「どこまで非常識を繰り出す気なんだ!搭載機に毛が生えた程度の機体だぞ!」
画面のダイアナは可愛らしく肩をすくめている。
「さすがはクーア財閥といったところかしらね」
「感心してる場合か!」
「いいえ、どちらかというと疑問に思っているのよ。いったい何を目的として造られた機体なのかしら?戦闘目的にしては大きすぎるし、重すぎる。旅行目的にしては小さすぎる。第一、あまりに不便だわ。もし、この船を追うためだけに造ったのだとしたら、ケリー。本腰を入れなければ逃げられないわよ」
「……ひでえ冗談だ」
「残念だけど、これ以上わたしにできることは何もないわ。あとはあなたの仕事よ」
「そうらしいな」
低く唸ったケリーだった。
事態は最悪といえた。重力波エンジンとKSを搭載しているなら、あの機は理論上どこまでも自分を追ってくることができる。しかし、それはあくまで理屈だ。実際はそうはいかない。あんなちっぽけな機体にそれだけの機能を持たせているのなら、どうしても犠牲にしなければならないものがある。
居住性だ。
水も食糧もろくに積めない。身体を休める場所もない。それでなくても戦闘機は乗り心地の良さには無頓着な乗り物だ。そもそも長時間の航行を目的とした機体ではないのである。
「感応頭脳を積んでいない。つまり、自動操縦にはできない。ずっと自分で操縦して飛んでるんだから、一瞬の油断も許されない。すごい重圧のはずだ」
「それだけじゃないわ。あの小さな機体に外洋型の性能を詰め込んでいるんですもの。どうしたって問題が残るわ」
「慣性相殺か?」
「そうよ」
普通の外洋型宇宙船は、慣性相殺システムにより、重力加速度を感じないように造られている。
実際、これがなかったら、乗員は巡航速度に加速した瞬間にぺしゃんこに潰されてしまう。圧縮機に掛けるより念入りにだ。後には骨も残らない。
追ってくる機体ももちろんそのシステムを積んでいるはずだ。しかし、もともとが戦闘機だ。乗員が身体に何の負担も感じないようにまで快適さを保つ必要はない。第一、物理的に無理だと、ダイアナは指摘した。
「全長四十メートル。何度見ても全長四十メートル。その中にKSと重力波エンジン、最新鋭機を上回る推進駆動機関、それに恐らくは戦闘能力も持たせている。猫の身体に馬の心臓と牛の胃袋とカモシカの筋肉を強引に詰め込んだようなものよ。ライオンの爪もね。どうやってしてのけたのか、ぜひとも教えてもらいたいくらいたわ。でも、これ以上は無理。慣性相殺までは手が回るはずがない。――未知数が多いから断言は避けるけれど、最低でも八倍以上のGがかかっているんじゃないかしら?ずいぶん丈夫な女王様ね」
「まったく。とんでもないタフ・ガイだぜ」
「それを言うならタフネス・ウーマンでしょう?」
「あんなものはタフ・ガイで充分だ。でなければ、おまえ以上のクレイジー野郎だ。俺に追いつくまで、その重力に耐えるつもりなんだぞ」
「それでも、人間である以上、限界は存在するわ。相手の体力消耗を待つ?」
「ただ待つことはない。消耗させてやる」
追いつかれるまで三時間。猶予はなかった。
大事なルートを知られてもいいのならとあの女は言った。まったくその通りだった。自分のルートは――建前ではそんなものを持ってはいけないことになっているが――不法に宇宙を旅する男達にとって何より大事だった。
ケリーがジゴバに下りたのも彼しか知らない門を通ってのことだ。もちろん地上管制には正規の門を通過したように改宣した記録を転送し、入国許可を得て下りたのだ。
推進駆動の唸りが聞こえそうな加速で飛び続けて二時間後、ケリーはその〈|門《ゲート》〉に接近した。
整備された〈|駅《ステーション》〉なら、位置を示すために電波を発信し続けているし、操縦者が肉眼でも捉えられるように照明も鮮やかだが、ここには何もない。宇宙空間だけか広がっている。
ほぼ球形をしている〈|門《ゲート》〉の直径は五キロもない。
この広大な宇宙空間で眼に見えない直径五キロのポイントを探し当てることは、砂丘の中から一粒の砂を見つけだすに等しかった。何しろ千分の一秒で通り過ぎてしまう。
だから〈|門《ゲート》〉へ進入するときは、どんな宇宙船も速度を落とす。〈|駅《ステーション》〉も同じだった。重力波エンジンは通常空間で作動させても意味がないし、長時間の作動にも耐えられない、何とも厄介な代物だ。
かといって通常の推進機関で〈|門《ゲート》〉を通過しても何も起こらない。そこが〈|門《ゲート》〉であったことさえ、人間も宇宙船も気づかない。
船体が〈|門《ゲート》〉と重なる頃合いを見計らって推進機関を切り替え、重力波エンジンを作動させる。それがつくりだす重力の渦と空間の歪みが重なり合う一瞬にだけ、温か離れた〈|門《ゲート》〉の出口と入口が繋がり、跳躍が可能になるのである。
しかし、減速している余裕は今のケリーにはない。
最大加速のまま〈|門《ゲート》〉に突入した。
無茶にも程があると人が見たら言ったに違いない。
通索推進機関から重力波エンジンへの切り替えはそう短時間にできるものでも素早く行えるものでもない。糸を片手に持って全力で走りながら、遥か前方に固定した針の穴に糸の先を通そうとするようなものだった。タイミングを誤れば一瞬で吹っ飛ぶ分だけ、それより遥かに難しい。あまりに無謀だと、誰もが口を揃えて言っただろう。
だが、それをやってのけられるところにケリーの存在意義があった。優秀な相棒の存在や精密機器を仕込んだ右眼の補助などは単なるおまけにすぎない。不本意ながらキング・オブ・パイレーツと呼ばれるケリーの真骨頂はまさにその操船技術にあった。
さすがにその一瞬は額に汗が滲む。
千分の一秒の離れ業で〈|門《ゲート》〉に突入したケリーは、次の瞬間、ジゴバから三十七光年離れた宙域にいた。
追っ手からは、ケリーの機体が突然消えたように見えたはずだ。
ケリーとあの女との距離は百六十万キロ足らずにまで迫っていた。あの女があのまま飛び続けた場合、約兄分でケリーが飛び込んだ〈|門《ゲート》〉にさしかかる。
しばらく沈黙していたダイアナが言った。
「五分たったわ。カウントするわよ」
あのまま飛び続けて〈|門《ゲート》〉に到着したと思われる時間を基準にして、この宙域に現れるまでの時間を計ろうというのである。どのくらい時間を無駄にするかで、あの女の技倆がわかる。
そこが跳躍可能と知って突入したケリーと違って、まず〈|門《ゲート》〉の座標を特定しなければならない。感応頭脳を積んでいないのなら、この作業にはかなりの時間がかかる。減速するにしても、五分ではとても門突入速度までは落とせない。加速より急減速のほうが逢かに身体に負担がかかるものだし、あの機の慣性相殺が完全でないならなおさらだ。
そうした圧倒的に不利な条件を抱えながら減速し、方向転換をし、座標を特定して〈|門《ゲート》〉に進入する。
これだけのことをやってのけるにはどんなに速くても二十分はかかるはずとケリーは踏んでいた。
それだけあればかなり距離が稼げる。
うまくいけば気づかれずに、次の〈|門《ゲート》〉を使うことができる。
ところが、予想より逡かに遠く、ダイアナが声を発した。
「来たわ。百二十八秒!」
「……化けもんか、あいつは!」
ケリーはひとしきり毒づいた。人間業とはとても思えなかった。
いったいどんな急減速を掛ければ、その短時間で、失神せず自動操縦にも頼らず、おまけに感応頭脳もなしに、方向転換と門突入ができるというのだ?
十五分後、ケリーは二度目の跳躍を行った。その十分後にもう一度、跳躍する。
門突出したとたん、激しい衝撃が来た。操縦席が大きく揺れる。完璧な制御を誇るダイアナが船体のコントロールを乱したのだ。
スクリーンに映し出される光景は、今までの暗く静まり返った宇宙とは似ても似つかなかった。一面が赤と黄色、そして白だった。画面ほうすく興がかかったように霞んでいる。よく見れば、塵のような物質がびっしりと画面を覆い尽くしている。
餌に見えるのは誕生したばかりの――あくまで宇宙規模での話だが――星雲だった。靄は水素とヘリウムのガス、塵に見えるのは数キロから数百キロの大きさの岩石群――微惑星と呼ばれる星の卵だった。
望遠鏡で横から見ると、この宙域は平たく潰れた円盤のように見える。ちょうど小さな銀河系を思わせる形をしているが、その『小さな』円盤の直径は優に百億キロメートルにも達している。
その正体は遠い未来、太陽系に成長するだろう星間物質の集合体――途方もなく巨大な分子雲だった。
中心にはすでに原始太陽が輝いている。肉眼でも、雲のあちこちで爆発か起きているのが見える。
直径百キロ以上にも成長した微惑星同士が衝突を起こし、あるものは削れ、あるものはさらに巨大な惑星へと成長しようとしているところだ。
その引力に引き寄せられた岩石群が、雨のように星の表面に降り注いでいる。
ところどころにある濃い雲の塊も、これから星になろうとする部分だった。ゆっくりと回転しながら、その重力で、周囲に漂う星間物質を引きつけている。
原始の太陽系の姿は激しく熱く、荒々しい。人の干渉などまったく受けつけない、無慈悲な世界だ。
宇宙船はこんな宙域は決して飛ばない。やろうとしたところで感応頭脳が命令を受けつけない。
至る所にガスの乱流と渦がある。重力異常がある。しかも、無数に漂う微惑星と星間物質が探知機を無効にしてしまう。
人間と船の安全を第一優先事項として設計されている感応頭脳は、これを航行不能地域と判断し、
『危険・です。コースを・変更・して・ください』
としか言わなくなってしまう。それどころか船のコントロールを奪い、強制的に減速しようとする。
だが、ケリーはその巨大なガス状円盤に向かって針路を取った。
雲の内部は激しい乱流と重力渦の嵐だ。岩石詳も絶えることなく襲いかかってくる。踏み込んだが最後ばらばらにされてしまいかねない地獄の暴風圏に自ら突っ込んでいったのだ。平たい円盤の上部から入って反対側へ抜けようと言うのである。
しかも速度を落とさずに。
こんな飛行を可能にするのは人間の反射神経と『無茶』だけだ。連邦軍でさえケリーを捕らえられない理由がここにあった。彼らだって自殺したくはないのである。
ダイアナが妙に楽しそうな口調で言った。
「脱出予定座標は?」
「雲の向こうだ」
星間定期便の機長が聞いたら発狂するに違いない大雑把な指示だった。中心部は避けるにせよ、雲の厚みは数千万キロにも及ぶのである。こんなものは指示とも言えないが、ダイアナは電子転輪羅針盤を元に任意の座標を設定した。つまり、適当にだ。
「久しぶりにあなたの腕が見られそうね。同調率を上げましょうか」
「ああ」
すでに探知機は役に立たなくなっている。眼として使えるのは船自身の外部探知機だけだ。
もう感知できないが、あの女はすぐ後ろに迫っているはずだった。しかし、この光景を見れば後を追うことをためらうに違いなかった。それは自ら死を選ぶのと何ら代わりはしないからだ。
雲の内部に突入する。同時に船が大きく傾いだ。
「針路だけは保持しろよ!」
「大丈夫よ、あなたは衝突を回避してくれるだけでいい」
「その、だけってのが至難の業なんだぜ……」
今、ケリーの右眼が見ているのは真っ黒な輪郭と真っ赤に燃える内部を持つ原始太陽であり、重なり衝突し合っている微惑星群の動きだった。肉眼では決して見ることのできない、船の探知機が見ている光景そのものだ。
探知機が効かない闇の中、数キロから数百キロもの大きさの岩石群が次から次へと猛スピードで襲いかかってくる。
宇宙を知る者なら誰でも、冗談でも見たくないと思う光景の最たるものだった。なのに、その悪夢は優に五時間以上続くのである。この船の最高速度を持ってしても、雲を抜けるまでそれだけかかるのだ。
こんな緊張に五時間も耐えられる人間をケリーは自分の他に知らなかった。うぬぼれでも何でもなく、単なる事実として、同じことをやってのけるだけの技倆の持ち主に今まで会ったことがなかった。
ダイアナは沈黙を守っている。ケリーの集中力を乱さないためだ。
ケリーは間一髪のところで迫り来る岩石を避けていた。避ける傍から現れる別の微惑星をそれと認識する間もなく回避する。一瞬でも手を遅らせたら、反応を誤ったら、それで終わりだった。減速しても避けようとしても、間に合いはしない。
いざというときに手動操縦が有効なのは昔も今も変わらない。そして現在、操縦者に求められる最も重要な素質は『勘』だった。ひらめきと言ってもいいかもしれない。そもそも感応頭脳が役に立たない状態で初めて人間の出番があるのだ。杓子定規の考え方しかできないようでは意味がない。
与えられる山ほどの情報を瞬時に整理し、知識と経験から最良の手段を選択する。そうした本能にも似た反射神経と即決力、もしくはそれ以外の要素――それは野性と呼ばれる何かであり、生き残ろうとする意志の力そのものであるかもしれないが――そうした筆記試験では測ることのできない特殊な才能が絶対に必要だった。そして、今、ケリーがやっていることがまさにその証明だった。
巨大なエネルギーが支配する原始太陽系の中では、人類の英知が造りだした宇宙船もただのちっぽけな塵に過ぎない。だが、それを動かしているケリーは必死だった。考える余裕がないほどの緊張の中で、技倆のありったけを駆使し、反射神経と勘を頼りに飛び交う微惑星を撤し、重力の渦をすり抜け続けた。
どこまで飛んでもきりがない。頭髪は一本残らず逆立ち、皮膚の下では激しい緊張に筋肉が粟立ち、血管が沸騰しているような気がした。機械のはずの右眼からも血が滲みそうだった。それは果てしない拷問にも等しかった。
しかし、ダイアナは正確に脱出座標を捉えており、ケリーは一瞬たりとも速度を落とさず、自分の船を微惑星に衝突させもしなかった。重力異常に捕まりもしなかった。原始太陽系のガス状円盤の上部から入って全速航行、数時間を掛けて数千万キロ彼方の下部へ抜ける。
どんな船乗りに話しても決して信じないだろうが、突入から五時間二十分を経て、ケリーは見事にその大仕事をやってのけたのである。
途中から自分がどんな操作をしたのか、それすら覚えていなかったが、とにかく死ななかった。船も大破をまぬがれた。それなら何も言うことはない。
雲を抜けたのを確認し、ダイアナに操縦を渡すと、ケリーはさすがに深い安堵と極限の疲労に襲われて、操縦席に沈み込んだ。
声を発することも億劫だった。右眼の視界を戻し、ぐったりと操縦席に背をもたせると、もう動けなくなった。両手にはまるで握力が残っていないし、全身が冷や汗にぐっしょりと濡れている。身動きするだけで身体中がみしみし音を立てて軋むようだった。
何よりも横になって休みたかった。その前に一杯引っかけ、シャワーを浴びれば言うことはないが、シャワー室で溺れそうな気がした。そのためにも、まず、鉛のように重くなった身体を操縦席から引き剥がそうと試みた。
なかなかうまくいかなかったが、どうにかそれに成功したとき、スクリーンにダイアナが現れた。
妙に真面目くさった表情をしていた。
「ケリー」
「……悪い、ちょっと休ませてくれ」
「ええ、ぜひそうしてもらいたいところなんだけど、『オー・マイーガーツ!』て叫んでもいいかしら?――ついて来てるわ」
叫びたかったのはケリーのほうである。
危うく、操縦席の横にひっくり返るところだった。
慌てて後方を映したスクリーンを見ると、確かに機影があった。ぐんぐん追ってくる。
さすがに自分で自分の眼が信じられなかった。
あの機体は分子雲の中で微惑星に衝突して木っ端微塵になるか、重力の渦に呑まれていなければならないのだ。もしくは、そうなることを恐れて突入を諦めたとばかり思っていた。
「世の中、広いわね」
ますます真面目くさったダイアナの台詞だった。
次の瞬間、至近距離を光線が通過した。いいや、そんな生やさしいものではない。微惑星をも瞬時に砕きそうな物凄い光の束だった。一瞬スクリーンが真っ白になったほどのエネルギーだ。
ケリーの頭の中も真っ白になった。あの女が撃ってきたのは間違いない。しかし、これはとても戦闘機の銃撃ではない。まるで戦艦の砲撃だ。
「何だ、今のは!?」
「推測だけど、二十センチ砲じゃないかしら」
「俺の記憶違いでなければ、二十センチ砲ってのは、駆逐艦以上の軍艦だけが搭載しているはずだぞ!」
「わたしの記憶でもその通りよ。少なくとも現在の常識ではそういうことになっているわ」
「どちくしょうめ!」
「そのどちくしょうから通信。つなぐ?」
ケリーが喚いた罵醤雑言をダイアナは『承諾』と取ったらしく、操縦室に何とも忌々しい声が流れた。
「今のは警告だ、海賊」
あの凄まじい分子雲の中を小型機で突破したのだ。ケリー以上に体力を消耗しているはずだが、その疲れを感じさせない声だった。
「推進機関を止めろ。従わないなら、船を撃つ」
ケリーは必死に活路を探していた。
この船の戦闘能力は決して低くない。低くないどころか、軽巡洋艦とまともにぶつかっても引けは取らないだけの装備は備えてある。しかし、戦闘機を叩き落とすとなると、これが意外に難しいのだ。
各種ミサイルは少なくともこの船と同規模の艦を目標に設定してある。発射してみたところで、あの機なら命中前に叩き落とすだろう。砲を使うにしても、あんな小さな――しかも高速で動き回る――機体を狙うのは難しい。
重い斧をよっこらしよと振り上げて蝿を叩こうとするのに似ていた。斧が振り下ろされるまで、蝿がおとなしくじっとしていてくれるわけがない。
今までケリーは戦闘機とまともに戦ったことなどなかった。燃料切れを起こす戦闘機でケリーの船は追えないし、そもそも活躍の場が違うのである。
戦闘機は固定目標相手の爆撃や、大型艦が身動きできない場合の局地戦などにおいて力を発揮するが、戦闘力という点で、この船と比肩できるようなものではない。ミサイル類はダイアナが無効にするし、爆雷やレーザー類は防御壁が防ぐ。直接の銃撃を受けたとしても、そんなものは豆鉄砲程度にしか感じない――はずだった。
「ダイアン。今のをまともに食らったらどうなる?耐えられるか」
画面のダイアナは腕を組んで難しい顔をしている。
「厳しいわね。撃たれるところがわかっていれば、部分的に防御を固めることも可能だけれど、彼女の反応速度はあなたと同じくらい速い。機体のほうは明らかにこの船より速い。となれば、わたしが防護壁を展開するより先に、彼女は二十センチ砲を命中させるでしょうね。結論として船に穴が開くわ」
何ともありがたくないお言葉である。
ケリーは意を決して操縦席に座り直した。
空中戦においてもっとも重要なのは優位な位置を得ることだ。ケリーが今までどんな追っ手も躱《かわ》してきたのは、その『位置取り』に優れていたからだ。
しかし、速度も旋回性能も攻撃力も自分より勝る敵と戦うのは初めてである。というよりそんな敵は現実的に存在しない――はずだった。
ケリーは再び最大加速に速度を上げた。追っ手ももちろんついてくる。二つの機体はさながら二条の光のように宇宙を疾った。ただし、この光は決してまっすぐは飛ばない。追いつ追われつの乱舞を繰り広げている。
ケリーは回避行動を続けながら、相手が接近するのを待っていた。それは一種の賭だった。こちらが望む距離に入る前にあの女が撃ってきたら――それを思うと冷や汗が出るが、じっとチャンスを待った。
距離に入る。
その一瞬を狙って、ケリーは後部レーザーを発射していた。ごく限られた範囲に無数の光線ががばらまかれる。いわばレーザーのシャワーだ。
原始太陽系の岩石群とは密度の桁が違う。高速で移動する機体であればあるほど避けきれない。
絶対にまともに突っ込むタイミングだったのに、女はこれを躱《かわ》した。対エネルギー防御を使うのではなく、機体を捻ることで避けたのだ。
頭髪がいっぺんに逆立ったが、ケリーはすかさず自分の船の対物防護壁を相手めがけて噴射していた。『壁』と名前はついていても、実際は『もみ殻』と呼ばれる粒子を船体の周囲に展開させ、物質の楯として使用するのだ。これを相手めがけて至近距離で叩きつければ、まさしく宇宙規模の散弾銃となる。
だが、女はこれも候した。驚異の運動性能と言うべきだった。そのまままっすぐ突っ込んでくる。
「まさか、体当たりする気かしら?」
「そのまさからしいぜ」
どうして撃ってこないのかと疑問を感じるよりも、呆れ返ったダイアナと、げんなりしたケリーだった。
撃ってこないのなら恐れる必要はないからだ。
この船は対物質、対エネルギー両面において、戦艦並の防御壁を備えている。二十センチ砲の直撃は無理としても――そんなものを食らったら戦艦でも穴が開く――物質攻撃も光線兵器もある程度は吸収できる。
まして、相手機の重量はこの船の五十分の一しかないのだ。二輪のスクーターが十二輪のダンプに体当たりするようなものだ。ぶつけたところでダメージを受けるのは体当たりした戦闘機のほうである。
しかし、この追っ手はどこまでも常識外れだった。
回避行動をとるケリーの船が機首を戻そうとした瞬間を狙って、機体を叩きつけてきたのである。
どんな角度と速度がこんなことを可能にするのか、力ではなく、慣性とタイミングを利用した体当たりだった。
しかも効果は抜群だった。船は大きくバランスを崩した。身体を固定していなかったケリーが操縦席から放り出されたほどの衝撃だった。
大事には至らなかったものの、ダイアナはさらに呆れている。
「驚いたわね。もう少し小型の船だったら、はじき飛ばされているところよ」
ケリーはようやく床から這い上がった。しかし、声がない。スクリーンを見つめて呆然としている。
離脱と同時に相手機は機首を返していた。見事な方向転換である。
「速いわ。さっきの体当たりといい、理屈や計算でできることじゃない。彼女、本当に巨大財閥の総帥なのかしら?まるで生え抜きのファイターだわ」
「…………」
「エネルギー反応感知。今度は撃ってくるわよ」
「…………」
「ケリー」
「わかってる!」
大慌てで操縦席に飛びついたケリーが機首を捻る。その横を女の機が追い越していく。その瞬間だった。
再び、船体を凄まじい衝撃が襲った。
「右舷側に被弾。さらにエネルギー反応」
ダイアナが冷静に状況を報告する。一方、ケリーはげっそりと呟いていた。
「勘弁してくれ。後方砲撃だと?」
敵を追う聞は艦前方の主砲で攻撃、並んだ場合は舷側の砲、追い抜いた場合は後部に設置された砲を使って敵を攻撃する。巡洋艦の得意とする戦法だ。
前方攻撃を専門とするはずの戦闘機に何故そんなことが可能なのかという疑問はもう感じなかった。
要するにあの機体は『何でもあり』なのだ。従来の戦術常識かまるで通用しない。
計器を見た。大穴は開いたが、主要部分に被害はない。ダイアナは素早く隔壁を下ろし、船は速度を落としてはいるものの、航行するのに障害はない。
問題は、あの女から逃げ切るのはどうやら至難の業らしいということだ。それこそが大問題だった。
また通信が入る。
「船を止めろ、海賊。これ以上は時間の無駄だ」
事実その通りなのだが、ケリーは舌打ちすると、初めて相手に向かって言葉を返していた。
「そう思うならなぜ撃たない?」
一瞬の沈黙の後、言葉が返ってきた。
「撃ちたくないからだ」
相手に見えないのを承知で、ケリーは思いっきり顔をしかめた。
「女王。そいつあ、冗談にしても笑えないぜ」
「キング・オブ・パイレーツ。それにダイアナ・イレヴンス。信じてもらえないのも当然だと思うが、わたしはこれ以上その船を撃ちたくない。その船を動けなくなるまで破壊するようなことは、わたしはしたくない。断じてしたくないんだ」
「…………」
「だから、お願いする。船を止めてくれ」
その声にどこか悲痛な響きさえ感じたのはきっと気のせいなのだろう。
ケリーは片手で頭をかきむしると、スクリーンのダイアナに眼をやった。
やわらかい金髪を波打たせたダイアナはちょっと唇を尖らせ、『仕方がないわね』とでもいうように両手を広げてみせた。
まったく、こうなったら仕方がなかった。逃げ切る算段は着かず、向こうはいつでもこちらを撃沈できるのである。この状況であくまで虚勢を張るのは、船を壊してくれと言うのと少しも変わらない。
見栄と血気だけで生きている若造ならともかく、そんな自滅まがいの馬鹿な真似はできなかった。ケリーは慎重に、見えない相手に向かって話しかけた。
「止めてもいいが、条件が二つある」
「聞こう」
「一つは、この船を完全に修理することだ」
「了解した」
「その修理にどのくらいかかる?」
「半日あれば元通りにできる」
さすがはクーア財閥というべきである。ケリーは掌に冷たい汗を感じながら、さらに慎重に言った。
「もう一つの条件は、修理が完了するまで、船の感応頭脳には指一本ふれないこと、だ。頭脳室には誰も、一歩も入れるな。絶対にだ。いいか?」
「わかった。船体のみを修理して感応頭脳には手をつけない。整備員にも決して近づかないように言い含める。――これでいいか?」
「いいだろう」
「船を止めてくれるか?」
「ああ」
低いが、はっきりした声でケリーは言った。
「今、停止予定座標を送る」
通信を終えると、ケリーは一つ苦い息を洩らして、減速を開始した。自嘲の口調で相棒に話しかける。
「聞いての通りだ。ダイアン。この約束をあの女王さまが守ってくれるかどうかが問題だが……」
「気にしないで。自分のことは自分で守るわ」
「助けるようになったら独りで逃げろ」
「そうね。そうしてもいいけれど、彼女はなかなか紳士的じゃない?わたしは気に入ったわ」
「言ってくれるぜ……」
「ケリー。同じ宇宙を飛ぶ人でも、適性は様々だわ。あなたと彼女の場合は、どちらが優れているかではなくて、明らかに種類が違うのよ。あなたは船乗り、彼女は戦闘機乗りだわ」
「そいつは、慰めてるつもりかい?」
「機械は人間を慰めたりしないものよ。単に事実を述べるだけ」
「ありがとうよ」
これがダイアナなりの励ましだとわかっているが、忘れていた疲れが倍加して襲いかかってきた。
ぐったりと操縦席に沈み込みながら時計を見ると、標準時の十一時三十分を指していた。
どうやら自分は最悪のカードを引いたらしい。
片手で顔を覆って、ケリーは呻いた。
「まったく、ひでえ冗談だ……」
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八時間後、ジゴバ軌道上に停泊していた、クーア財閥の船が到着した。
ダイアナが『お化け』と呼んだ豪華船である。
あの女がどうやって自分の現在位置を伝えたのか、見当もつかなかった。この辺りはまったくの未確認宙域なのである。〈|駅《ステーション》〉なら船の運航と同時に通信波も送れるが、ケリーが飛んだ〈|門《ゲート》〉にそんな設備はない。かといって、通常空間を飛んだ通信波では、百年かかってもジゴバまで届くわけがない。
何とも不思議だったが、とにかく巨大な豪華船はその姿を現したのだ。先にあの女の機体を収容し、次にはケリーにドッキングの指示を出してきた。
間近に見ると、それはまるで宇宙船と言うより、動く街だった。よく〈|門《ゲート》〉を通れたと思うほどだ。
何しろ、その船はケリーの船を格納庫にまるまる収容すると言ってきたのだから驚きである。いかに巨大かわかろうというものだ。五万トン級の船を丸ごと呑み込める格納庫を持った船など、連邦軍にもそうはない。
指示に従って格納庫に進入する。その時の感覚は、操縦室に居ながらにして超特大の機械鯨に呑まれるような、何とも言えないものだった。
ドッキングが終了すると、抑揚のない声が最後の指示を寄越した。
「収容は完了・しました。乗員はすみやかに・下船してください」
恐らくは、この船の感応頭脳の声だろう。
名だたるクーア財閥の船だ。感応頭脳も最新型を積んでいると見えて、ほとんど違和感を感じない、なめらかな口調だった。
それでも、機械の声だとすぐにわかってしまう。ダイアナとは比べものにならない不自然な口調だ。
八時間の間にぐっすり寝たケリーは、シャワーを浴びて食事もすませていた。そういう部分が万全でないと、これからの局面は乗り切れないからである。
乗降□の外は無重力が保たれていた。係留通路が接続されている。通路内の手摺りを左手で掴むと、ケリーの身体はふわりと乗降□を離れ、通路の中を運ばれていった。
すぐに格納庫出口に着く。
扉の開閉は手動である。一歩外へ出ると、重力が加えられていた。器用に体勢を整えて着地する。
分厚い内隔壁を出ると、あの女が立っていた。
機を下りてすぐにここへ来たのだろう。飛行服のままだった。微笑を浮かべて話しかけてきた。
「クーア・キングダムへようこそ」
この顔を見たら、一発ぶん殴らないでいる自信が実はなかった。とてもとてもなかった。最悪の場合、飛びかかって首を締め上げるかもしれないとまで、自分の理性を危ぶんでいたのだか、そこはケリーも大人で、しかも哀しいかな、男である。たっぷりの嫌みを込めて顔をしかめるだけに留めることに――何とか、成功した。
「あんたの機は、あれはいったいなんなんだ?」
不作法な挨拶だが、女は腹を立てる様子もない。
今度は明らかな笑顔になった。
「興味があるなら見せようか?」
「ああ。ぜひとも拝見したいね」
これだけ広い船内だ。移動用の車がちゃんとある。女は車にケリーを乗せると、自分が運転席に座った。総帥自ら運転手をやるとは変な話である。もっとも、そんなに良くは走らなかった。連れていかれたのは同じ船底の一画だ。通路の片側が全部、ななめに傾いた透明板張りになっている。見学可能な手術室がちょうどこんな感じだが、それより遥かに広かった。
車を降りて覗いてみると、下には手術台ではなく、優美な姿をした深紅の機体が収まっていた。
「あれがわたしのクインビーだ」
「クインビー?女王蜂か。なるほどね」
似合いすぎていて笑えない。
機体の周囲では、何人もの整備士が忙しく働いていた。普通こうしたメンテナンスはそれ用の機械がするものだが、よほど繊細なのか、もしくは規格が合わないのだろう。搭載機一機の整備としては、人数も機材もずいぶん大がかりなものだった。
「改良型KSに重力波エンジン、ハイパワーの推進機関、おまけに二十センチ砲装備か。まったく、とんでもないものを造ってくれたもんだぜ。――いつ商品化するんだ?」
「クインビーをか?」
「そうさ。大量生産すれば、列強が飛びついて買うだろうよ」
「まさか。あんなものは売り物にはならんよ」
現在の技術に革新をもたらす画期的な機体なのに、あっさりと笑い飛ばす口調である。
「どうしてだ?コストがかかりすぎるからか」
「それもある。あれ一機で最新鋭機が七機は買える。ただ、それ以前の問題として、商品化したところで、わたし以外の誰にも乗りこなせない」
ケリーは露骨な不快の念を面に浮かべた。
この女が凄腕の戦闘機乗りなのは認める。それはもう疑う余地もないことだ。優秀な戦闘機乗りには図太さと紙一重の自信が付きものだということもわかっている。
それでも、自分だけが唯一無二であるかのように決めつけるその言い方は神経を逆撫でした。
「それはまた、たいそうなご信念だ」
軽蔑も露わに言ったケリーに、女は苦笑して肩をすくめた。
「気に障ったか?本当はな、商品化しても誰も乗りたがらないだろうというのが正直なところなんだ。何しろ、開発段階からして、誰も試験飛行をしたからなくてな。無理に勧めるとみんな辞職しかねない騒ぎで、結局、全部わたしがやっていたんだ」
「無理もないぜ。感応頭脳を積んでいないんじゃな。俺だって遠慮したいさ。どうして搭載しない?」
女は感心したようにケリーを見た。
「わかったのか?さすがだな。キング・オブ・パイレーツ」
「その呼び方はよせ。俺はただの海賊なんだ」
「では、ただの海賊。それだけじゃないぞ。あの機は防御装置のいっさいを搭載していない。対物質、対エネルギー防護壁はもちろんミサイル攪乱装置もだ。ついでに言うと、自動着陸誘導装置もない」
ケリーはあんぐりと□を開けて絶句した。一瞬、耳がどうかしたのかと疑ったくらいだ。
そんなものは戦闘機とは言わない。それ以前に、宇宙を飛んでいいものではない。
「……冗談だろう?」
「いいや、うちの設計士たちも白髪になるほど頭を絞ってくれたんだが、他にもいろいろ載せたからな。どうしても搭載できるだけの空きが残らなかったんだ。だから、まず実戦配備はできない。感応頭脳と防御装置を持たない戦闘機なんぞ、使いものになるわけがない。無理して飛ばしてみたところで、まあ、帰還は不可能だろうな。出たとたん味方機に激突するか、敵ミサイルにやられるか、そうやって宇宙で散ってくれる分にはまだしも、最悪の場合、着艦ゲートに正面衝突して味方を山ほど巻き込んであの世行きだ」
実に楽しそうに言うのだが、ケリーはぞっとした。
「そんなもので――そんな機体であの原始太陽系に突っ込んだのか!?」
赤い髪が振り返る。ケリーと並んでも引けを取らない位置にある印象的な色の瞳が笑っていた。
「あの場所を知っているのはおまえだけじゃないぞ。わたしも飛んだことがあるんだ」
何とも言いがたい顔で、ケリーは眼下の戦闘機を指さした。
「この、空飛ぶ棺桶でか?」
「うちの技術者連中はみんなこの機をそう呼ぶな。――そうだ。あれはいい訓練になった」
ケリーは一顔には出さなかったが――悪寒にも等しい何かを感じていた。
さっきの空中戦を思い出してみる。
自分が浴びせたレーザーシャワーも物質攻撃も、確かにこの女は大きく回避していた。防御装置では吸収しきれないからではない。一つでも命中したら、命はなかった。その場で爆発し、宇宙の塵となっていたからだ。
「あんたは自殺志願者か。それとも正真正銘いかれてるのか。どうしてそんな欠陥品で宇宙に出る?」
ケリーの声には憤りさえ感じられた。当然の疑問だったが、女は呆れたように言い返してきた。
「おまえ、人の揚げ足ばかり取っているようだがな。わたしのことが言えた義理か?おまえのしたことだって充分な自殺行為だろうが。加速を落とさず、次から次へと〈|門《ゲート》〉に飛び込んだくせに」
「仕方がないだろう。どっかの誰かが化け物じみた機で追って来てたんだから」
「同じさ。わたしも。どこかの誰かが常識を頭から無視して逃げる逃げる。呆れてものも言えないとはあのことだ。クインビーでなければ到底追いつけなかっただろうよ」
ケリーは憤然と、女に向かって指を突きつけた。
「いいか、女王。俺も海賊だ。多少の無茶はやる。しかしだ、あんたに非常識と言われる覚えはないぞ。断じてだ。少なくとも俺は丸裸同然の船で飛んだりしないからな」
女はまた、ひたとケリーの顔に眼を当ててきた。
薄く青みかかった灰色のはずが、明かりの加減か、きらりと金色に光った気がした。なぜか胸が騒ぐ眼の色だった。
「わたしは死ななかっただろう?」
「…………」
「クインビーには確かに、機を守る防御装置はない。感応頭脳もな。その代わり、反応速度とその制御は現行機とは比べものにならない性能だ。もちろん、探知能力もだ。感応頭脳を載せた現行機はどう調整しても限界がある。どうしてもわたしの思い通りに動かせないんだ。だから、あの機を造った。普通は自動化されている部分をわたしが補えばいいだけのことだからな」
「だけ、ときたか?それがたいへんな作業だから感応頭脳が開発されたとばかり思ってたぜ」
これでは言いがかりである。わかってはいたが、止まらなかった。
女は、あくまで静かな眼でケリーを見ている。
「うぬぼれに聞こえるかもしれないが、わたしにはあの原始太陽系を突っ切る自信があった。わたしとクインビーならできると思っていた。現にこうして、わたしはここにいる。それがすべてだ」
ケリーは苦りきった顔つきで、それでも口元には淡い微笑を浮かべて、肩をすくめた。
認めるのは癩にさわるが――それはもう恐ろしく癪にさわるのだが――この女の言い分には一理ある。どんな無謀を演じようと、人から何と言われようと、自分もそうやって今日まで生き残ってきたのである。
「あんたが巨大財閥の総帥なんかをやってるのは、まさに宇宙の七不思議だな」
「それは、誉めてくれているわけか?」
「ああ。――いい腕だ」
渋々ながら吐き捨てた台詞だったが、女は意外なくらいの笑顔になった。それがあんまり嬉しそうに、無邪気な子どものように笑うので、ケリーのほうがとまどったくらいだった。
「他の誰に誉められるより嬉しいよ。――ところで、約束どおりおまえの船を修理したいと思うが、あの船の船名は何というんだ?」
「俺の船さ」
女はちょっと眼を見張った。
「それはわかるんだが、正式名称は?」
「乗員は俺一人。宙港に下りるたびに船名も船籍も変えてる。名前なんかつけても意味がないだろう」
さらに眼が丸くなる。何度か瞬きすると、疑問の口調で確認してきた。
「つまり、名無しの権兵衛なのか?」
「平たく言えばそうなるかな」
「ははあ……それはしかし、おまえはよくても……困ったな。まさか海賊の船と呼ぶわけにもいかないし、適当に呼んでもいいか?」
「いいぜ。どう適当に呼んでくれるのか、ぜひとも聞かせてくれ」
冗談めかして言うと、ケリーは再び赤い小型機に眼を戻した。
他の機にはない性能を多く備えているのに最低限必要な装備を持たず、ぎりぎりまでに高い完成度を誇りながら、安全性はまるで保障されない。
実に物騒で、それ故に魅力的な、深紅の刃だった。
「しかし、何だってこう派手な色なんだ?」
「うちの連中が勝手に塗ったのさ。わたしの色だからな」
どういうことかと思ったが、女はすでに移動車に戻っている。ケリーにも乗るように促してきた。
シャフトを乗り継いで、ケリーが案内されたのは、船内とは思えない豪華な応接室だった。ご丁寧に、年代物の衣服に身を包んだ老執事まで控えていた。
女を見て、恭しく頭を下げる。
「お帰りなさいませ、お嬢さま」
「イザドー。何か食べるものを頼む」
「かしこまりました」
「それから紹介しておこう。これがわたしの夫だ」
六十過ぎの老人に見える執事は――呆れたことに微笑さえ浮かべて、深々と一礼した。
「これはこれは、お初にお目にかかります。クーア家の執事を務めておりますイザドーと申します。以後、お見知りおきくださいませ」
ケリーにものを言わせる間もなく、女はさっさと身を翻している。
「着替えてくる。相手をしていてくれ」
「かしこまりました」
その間、ケリーは勝手に腰を下ろしていた。
憤然とソファに身体を預けたはいいものの、今、尻の下に敷いたのは手織の天鴛絨のような気がした。目の前には木目調の机が置かれていたので透視してみたら、材質は本物の木だ。足下の絨毯も金の塊の値打ちものである。
部屋を入った正面には大きな暖炉がつくりつけられていた。太い薪も置いてある。まさか実用品ではないと思うのだが、わからない。宇宙船の中で薪を焚くという非常識も、この船ならやりかねない。
マントルピースは本物の大理石に見えたし、その上の花瓶は恐ろしいことに正真正銘の硝子に見える。つまり、落とせば割れるということだ。
右眼を使ってみたが、さすがに防止装置がすごい。床も天井も、もちろん隣の部屋も覗けない。
ケリーが部屋の品定めをしている間、イザドーはどこかに連絡していたか、不意に話しかけてきた。
「旦那さま。何か召し上がりますか?」
ふかふかのソファに思いきり沈みそうになる。
何とも言いがたい限でイザドーを見たが、相手は至って真顔だった。もう一度、控えめに訊いてくる。
「お食事はお済みでございましょうか。旦那さま。それでしたら何か呑みものを用意させますが?」
「……あんた、俺が誰だか知ってて言ってるのか」
「お嬢さまとご結婚なさる方でございましょう?」
本当にわかって言っているのか心配になるような、平然としたがつ淡々とした態度だった。もしくは蛙の面に何とかだ。
俺は海賊でおたずね者なんだがね。と、胸の内で呟きながら、ケリーは、□に出してはこう言った。
「そんなに大事なお嬢さまなら、どうして、あんなもので宇宙に出るのを黙って見てるんだ?」
「あの、赤い飛行機のことでございますか」
「そうだ。いくら腕が立つからって、あれは立派な自殺行為だ。それとも、あんたも、あの女に死んでもらいたいと思っている人間の一人なのか?」
このあけすけな質問にも、老執事は諦めたような微笑を浮かべて静かに答えたものだ。
「わたしはお嬢さまが生まれる以前から、先代の旦那さまにお仕えしている者でございます。飛行機のことはよく存じませんが、お嬢さまがあれを考案し、ご自分で乗ると言い出されたときには、たいへんな騒ぎになったものです。その飛行機をつくった当の技術者達を筆頭に、この船の者ほとんど全員が思いとどまってくださるよう、懸命の嘆願を致しました。借越ながらこのわたしも、あれがいかに危険なものか、皆々にくどいほど訴えられましたので、おやめくださるよう、口を酸っぱくしてお諌め致しましたし、泣いて止めも致したのですが、わたしごときがどうお止めしたところで、止まってくださるようなお嬢さまではありません」
実に達観した意見である。
「加えて申し上げますが、この船におります者は皆、お嬢さまの味方でございます」
「じゃあ、地上にいるのはみんな敵か?」
イザドーは答えなかった。
着替えた女が戻ってきたからである。
赤い髪が濡れているのは顔を洗ったせいだろう。
上半身はぴったりした黒い半袖ニットのシャツに包んでいた。そのせいで、大きな胸の形がはっきりわかる。豊かな腰から脚は何とも派手な迷彩模様のパンツにゆったりと通している。とどめが、万力で締めてもびくともしなさそうな頑丈なブーツだった。
間違っても共和宇宙を代表する巨大企業の総帥の姿ではない。これから地上戦に赴くような、何とも勇ましい出で立ちだか、女は気にもしていない。
机を挟んでケリーの向かいに腰を下ろした。
ほぼ同時に食事が運ばれてきた。人間がワゴンを押してきたのではなく、ワゴン自体が料理を載せてやってきたのだ。滑稽な形の自動機械である。
姿形は珍妙でも、動きは至って丁重に見えるからおもしろい。伸縮自在の腕を使い、銀の大皿を女の前にそっと置いて、音もなく引き下がる。しかし、その上の料理には、ケリーも少しばかり驚かされた。
「なんだ、そいつは?」
「知らないのか? ハンバーガーというものだ」
平然と答えて、女はその一つを片手で掴んだか、ケリーが言いたかったのはそういうことではない。
何もピラミッド型になるまでハンバーガーを大皿に積み上げなくてもいいじゃないかと思ったのだ。少なく見積もっても十五個はある。
まさかこれを全部食べる気かと誇しんだケリーの前で、女は猛然と食事を始めた。その様子はまさに『腹を満たす』というのがぴったりだった。
呆れ返っているケリーに、イザドーがこれまた丁重に話しかけてくる。
「お呑みもののお好みを伺ってもよろしゅうございましょうか、旦那さま。葡萄酒、麦酒、ウィスキー、ブランデー、それにリキュール類などもいろいろと取りそろえてございますか」
どんどん失われていく気力を何とか奮い起こして、ケリーは言った。
「ハニカムはあるかい?」
「は?あの、それは……」
イザドーが珍しくためらった。ケリーは無論そのつもりで、多少の嫌がらせを言ったのだが、早くも三つはハンバーガーを平らげた女か眼を丸くした。
「あれを呑むのか?不凍液と大差ない代物だぞ」
「だからいいのさ。――素面でいられるか」
後半はほとんど独り言だった。もっと詳しく言うなら、素面であんた達の相手をしていられるか、というのが正しかった。
女かイザドーを見上げて言う。
「この船の酒蔵にハニカムがあったか?」
「ございません。ですが、事務長の愛用品ですので、借りて参ります」
「すまない。わたしにはミリタリー・オナーズを」
「かしこまりました」
ハニカムはとにかく手っ取り早く酔いたいという男達の愛する酒だった。味は二の次、三の次である。『悪酔い保証つき』という物騒な異名まである。
そんな酒を愛用しているとは、この船の事務長も何かと気苦労が多いのではないだろうか。一方、女が頼んだのは、高価でこそないが、長い歴史を誇るウィスキーだった。
イザドーがそれらの酒を運んで戻ってきた時には、ハンバーガーの山はきれいに消えてなくなっていた。
女とも思えないこの体躯だ。並外れた食欲もわかるのだが、それ以前に飢えきっていたらしい。
「あんたの女王蜂には食料は詰めないのか?」
「そんなゆとりはない。だいたいが飲み食いできるような環境でもない」
ストレートのウィスキーを□に放り込んで、女はようやく人心地がついたらしい。
男が手に取ったグラスを見て、ちょっと笑った。
「そうか。だから、ハニカム(蜜蜂の巣)か?」
「偶然だ」
撫然とした表情でケリーも酒杯を岬った。覚えのある強烈な埠れが舌を焼いたが、あいにく、今日はちっとも酔えそうにない。
古風なロック・グラスを手の中で転がしてみる。
右眼を使って分析してみると、これも本物の硝子だった。今時、割れる硝子を使うとは贅沢の極みと言うべきものだ。もしくは無駄である。
「話の続きをしようか、海賊。逃げ切ったら、何か賞品を出す約束だっただろう」
男は生身の左眼だけで、冷ややかに女を見た。
今さら何を言い出すのかとその眼が語っていた。
「わたしは、おまえたちのことをずいぶん調べた。海賊の中の海賊、通称キング・ケリーと、その相棒、ダイアナ・イレヴンス。国際手配だけならまだしも、連邦軍に本腰を入れて追われながら、未だに捕縛をまぬかれているという。さすがに急には信じかねた。連邦軍はそれほど無能ではないはずだからな」
ケリーは無表情を装って、その言葉を聞いていた。
言われるまでもない。警察だけなら何とがなるが、軍にまで眼を着けられたことは予想外だった。これはまずいと真剣に思っていた。
そう、共和宇宙連邦軍は決して無能ではない。無能でないどころか、ダイアナの特技をもってしても、この先、逃げ切れる保証はどこにもない。
「連邦警察も軍も躍起になって、おまえたちを追い回している。おまえたちは驚異的な手段で今日まで逃げ延びてきたが、それもそろそろ限界のはずだ。わたしが、その煩わしさを解消できるとしたら?」
ケリーは皮肉な笑いを浮かべた。
「クーア財閥の威光を持って指名手配を取り消してくれるとでも?無駄だぜ。やめておくんだな」
共和宇宙一の強国とまで噂されるクーア財閥である。連邦軍部もその力を無視できないはずなのに、ケリーは、それは無駄だからよせという。
さすがに、女も訝しげな顔になった。
「そこまで言いきる根拠は何だ?」
「別に?クーアの力を軽んじてるわけじゃない。軍にも譲れない面子があるだろうと思ったまでだ」
薄く笑って酒杯に口をつける。
それ以上の事情があるのは間違いないだろうに、嘯《うそぶ》いて語ろうとしない。
イザドーはすでに席を外していたから、部屋には二人きりだった。
女はよく光る眼で静かにケリーを見つめていたが、不意に話を変えた。
「修理の様子を訊いてみようか?」
「ああ」
それは、男にとっても気になるところだった。
女が机の上に置いてあった青銅像に手を伸ばして、何やら操作すると、暖炉の前の空間が四角く揺れて、ケリーが船を停泊させた格納庫が映し出された。
空間投影スクリーンである。
さっきの格納庫同様、大勢の作業員が働いていた。自動機械がいくら進歩しても、それを操るのは結局、人なのだといういい証明である。
画面の前に作業服を着た男が立った。がっしりと逞しい肩に整備長の徽章をつけている。
女が何か言うより先に、その男は苛立ちと困惑まじりの調子で慌ただしく訴えた。
「ジャスミン。外板を塞ぐだけでいいってのはどういうことなんです?ひどいもんだ。これじゃあ、穴を塞いだってまともに動く保証はどこにもない。機関や制御に異常がないかどうか、主管制から確認しなきゃなりませんよ。感応頭脳にしたって、一度精密検査をするべきです。どんなダメージを受けているかわかったもんじゃない」
「そんなに大きな穴が開いたか?」
「何を言ってんです。あんたがクインビーの一撃をかましたんでしょうが」
「それを言われると返す言葉がないな」
「とにかくですね。中途半端な修理はごめんですよ。物資が不足してるならともかく、ここには機材も資材も充分そろってるんですからね。そんな修理ならしないほうがましです。何より船がかわいそうだ」
憤慨している整備長の立っている場所からは女の顔しか見えないようだった。明らかに女一人に話しかけている。
女は横目でケリーを見た。確認を求める顔だった。ケリーは苦笑しながら首を振り、女は小さな頷きを返して整備長をなだめたのである。
「主管制を押さえようにも肝心の船内に入れないんだろう?」
「だから、そこが変なんじゃないですか。船は停止してるのに、船体の状態もわかっているはずなのに、『|開けゴマ《オープン・セサミ》』を使っても感応頭脳が応答しません。これはもう、何か異常か発生したとしか……」
「整備長。心配は無用だ。その船の頭脳はわかっていて黙っているんだ。かまってほしくないんだろう。さっきも言ったが、船内に入らなければでなきい修理ならしなくてもいい。無理に乗降□をこじ開けるようなことは間違ってもするんじゃないぞ」
総帥直々のお連しにも頑固者の整備長は決まない。それどころか、ますます肩を怒らせたようだった。
「わかってて黙ってる?感応頭脳がですか?冗談じゃないですよ。あんた、そんな性悪をこの船に持ち込んだんですか?」
これには女も破顔した。
「性悪ときたか。ま、仕方かないさ。わたしが穴を開けたんだ。放っておくわけにもいかないだろう」
「同感です。こんな傷口を見て黙ってられますか」
「だから、取りあえず外板を修理してくれないか。内部に触れないからといって、整備長が中途半端な仕事をしたとは誰も思わないから」
「当たり前です」
「どのくらいで終わる?」
「外側だけでいいんなら、十一時間」
「充分だ。よろしく頼む」
通信を切っても、女はしばらく笑っていた。
「整備長が荒れるのももっともだな。整備を拒む感応頭脳などあっていいわけかない。――ダイアナはいつもこうなのか?」
感応頭脳は船の心臓部だ。同時に機械だ。故障も異常も絶対に許されないことではあるが、ゼロにはできない。だから、正常に作動しているかどうか、常にチェックする必要がある。
特に航行後や、今度の場合のように事故の後には、一度完全に『ばらす』こともある。といっても物理的に分解するのではない。思考回路や倫理基準設定領域に走査を入れて、論理的に正しく動いているかどうかを調べるのだが、ケリーはますます苦笑して首を振った。
「そんなことをすると言ってみろ。あいつ、船体に大穴が開いていようがおかまいなしに、格納庫から飛び出すぜ」
「おまえを置いてか?」
「そうさ。あいつにとって俺はただの部品だからな。自分が万全に飛ぶための最後のパーツだ」
自嘲ぎみな台詞を吐いて酒杯を暉ったケリーだが、これが本音であるかどうかは甚だ怪しかった。
情けない言葉と裏腹に顔には不敵な笑みがある。自分の力量を知っている、同時に限界も知っている、同じことが誰にできるかと自負するものでもある、ぞっとするほど美しい男の顔だった。
女も笑った。これまた異様な迫力のある、捧猛な笑顔だった。
「そう言うおまえはどうなんだ?」
「うん?」
「おまえにとってダイアナは何なのかと訊いている。名前のないあの船は、いつでも代わりがつくような、そんな程度のものなのか?」
「怒るぜ。女王。あいつは俺の手足だ。どんな船も、あいつの代わりになんかなるもんかよ」
切ったはずの暖炉前のスクリーンが再び起動した。
女が操作したのではない。ひとりでに動いたのだ。
黙って見守っている女の眼の前でスクリーンは映像を結び、勝手に画面を占領して現れたダイアナはケリーに向かって笑いかけた。
「同じ台詞をわたしも返すわよ、ケリー。あなたの代わりも、あなたより上手にわたしを飛ばせる人も、どこにもいないのよ。――でも、あの小型機のパイロットになら、ちょっと興味があるわね」
「ここにいるぜ」
酒を嘗めながら、男は顔も上げずに言う。
ダイアナの青い眼が女を探して動く。眼が合うと、花が咲いたような微笑をつくった。
女も笑った。人間にするのとまったく同じ口調で話しかけた。
「初めましてだな。ダイアナ・イレヴンス。ジャスミン・クーアだ。さっきはすまなかった」
「そのことだけど、ここの整備長と直接話をしてもいいかしら?ずいぶんな頑固者だけど、いい人のようね。船体の傷にさっきから怒りっばなしなのよ。見ているこちらのほうが気の毒になってくるくらい。確かに、あの人の言うとおり、制御系統がいくつか操作不能になっているの。交換を必要とする部品もある。その修理をお願いしたいのよ。――乗降口は開けるけれど、頭脳室に入るのは厳禁だと、あなたからも口添えしてもらえるかしら?」
「もちろんだ」
こんな調子で話す感応頭脳に驚いていないはずはないのだが、女は平然と請け合った。
「整備長は心から宇宙船を愛する人なんだ。それが高じておまえを困らせるかもしれないが、その時はすぐにわたしに言ってくれ」
「ありがとう、ジャスミン」
顔を輝かせて、にっこりと笑う。機械がつくっているとはとても信じられない、生き生きと魅力的な笑顔だった。
会話する機械は珍しくないが、指摘されなければ機械だとは決してわからない口調と表情。こちらが何を言おうと即座に反応する機知に富んだ表現などここまで機械くささが感じられない応答はダイアナだけがなしえる技だった。
管制官との応答は乗務員が行うことと規定されているのに、どの国の管制官もダイアナと話しをしてまるで怪しまないことからもそれかわかる。頭から人間だと信じているのだ。
女も興味を持ったらしい。ダイアナをしげしげと眺めて言った。
「この映像は、おまえのオリジナルか?」
「ええ。適当に合成したの。人間の男は金髪美人か好きでしょう?
いろいろ試したけれど、この顔は特に管制官に受けがいいのよ」
「金髪美人ならわたしも好きだが、中にはそうでもない女性管制官もいるだろうに」
「そういうときはね、こうするの」
言うが早いか画面のダイアナは消えて、代わって若い男の上体が現れた。
これまた文句なしの美男子だった。下がり気味の目尻と口元の甘さに対して、浅黒く日焼けした肌にかっきりした顔の輪郭が精悍さをアピールしている。
太い首に見事な金髪の巻き毛がかかり、にやっと笑った拍子に白い歯がきらっと光った。
「やあ、子猫ちゃん。会えて嬉しいよ。俺のことはアポロンって呼んでくれ」
女は一瞬、眼を丸くした。『子猫ちゃん』というとんでもない呼び名が自分のこととはとっさに理解できなかったらしいが、次には盛大に吹きだした。
よはどこの物言いがおかしかったのだろう。腹を抱えて大笑すると、涙を拭いつつ言ったものだ。
「いやはや、たいしたものだ。ミスター・アポロン。ご丁寧な挨拶ありがとう。誰のことかと思ったよ」
画面の男はますます精力的に笑い、片目を瞑ってみせた。自信たっぷりな笑顔だった。
「知らないのかい?すべての女性はかわいい子猫ちゃんさ。ジャスミン。きみは特にそうだ。そんな色気のないものを着ているなんて、あまりにももったいないぜ。もっと自分の魅力を自覚するべきだよ。今度、ぜひきみに似合う服を贈らせてほしいな」
気障な台詞を吐く声もがらりと違っている。男の色気を満々と湛えた豊かな低音である。
「そのご好意には感謝するが、ミスター・アポロン。わたしとしては、さっきの魅力的なレディに、ぜひもう一度会いたいんだ。代わってもらえるかな?」
男は大仰な仕草で両手を広げてaを振り、自分の感している嘆かわしさを適切に表現してみせた。
「おう。なんてことだ。非常に残念だよ。この顔は気に入らないかい?どの国の女性管制官にも絶大な人気だったんだぜ。それとも、きみはもしかして同性嗜好者なのかな?」
「いいや、性別で差別はしない主義だ。しかし、人間誰にも好みというものかある。忌憚なく言わせてもらえば、こういう男性はわたしの趣味じゃない」
まだ笑いながら女はケリーを振り返った。
「おまえならどうだ。このアポロン氏のような男が同じ船に乗っていたとしたら?」
ケリーはめいっぱいいやそうに顔をしかめている。
「そのきざったらしい顔に一発食らわせて、船から放り出してるさ」
「わたしもまったく同感だ」
浅黒い肌の美男子は苦笑を浮かべて画面から消え、元のダイアナの顔が現れた。がっかりした様子で、首を振っている。
「傷つくわね。女性の平均的嗜好を調査してつくり出した自信作なのに」
「あれがか?」
男女二人の合唱になった。
「わたしも女の端くれだが、ああいう男だけは遠慮したいと心底思うぞ」
「同じ男の一員として、あんな男はろくなもんじゃないと断言してもいいぜ」
「二人して決めつけないでよ。いいわ、わかった。もう少し研究することにしましよう。――それじゃ、ジャスミン。さっき頼んだことよろしくね」
手を振って、さっさと画面を切ってしまう。
女は再び整備長に連絡して、船内に入れるようになったことを伝えた。ただし、頭脳室には入室厳禁、さらに詳しいことは当の頭脳と相談するようにと、整備長が眼を白黒させるようなことを命じて通信を切った。
ダイアナがどんな手段でこの部屋のスクリーンを起動させたのか、いつから、どうやって話を聞いていたのか、疑問に思わないはずはない。
しかし、女はケリーの顔に眼を当てて、まったく違うことを言った。
「とても機械とは思えないな」
女が何を言いたいのか、いやと言うほどわかっているケリーは、わざと真面目に頷いてみせた。
「そうさ。よくできてるだろう?」
「しかし、いささかできすぎの感がしないでもない。あれは、その筋の研究機関が知ったら眼を剥くぞ。実に個性的だ。感応頭脳云々というより、そもそも人工脳とは思えないほどだ。あんな模造性格を、わたしは今まで見たことがない」
「みんなそう言うぜ。感応頭脳がつくった映像だと何度言っても信じない奴もいる。昨今の映像技術はそりゃあたいしたもんだが、それだって限度がある。あれが機械の声だなんて、あの髪が、あの肌が実在しない虚像だなんて、そんなことがあるもんかって言うのさ。それでもあいつは自在に船を操っている。それなら感応頭脳なんだろうよ。それも、そんじょそこらの奴じゃ足元にも及ばない優秀な頭脳だぜ」
ケリーにとってはそれが何より肝心なことであり、他のことはどうでもよかった。
「あいつに手は出すな。いじろうとするな。それが、俺があいつと組んだときの条件だ」
「その条件は、ダイアナが提示したのか?」
「ああ。『あなたなら、頭の中を勝手にいじられて気持ちがいい?』ってな。あいつははっきりそれを嫌ってる」
「以来、おまえは一度もダイアナのメンテナンスをしていない?」
「ああ。してない」
「頭脳室に入ったことも?」
「ない」
長い手足を無造作に投げ出して、男は酒を楽しむことに集中していたが、悪戯っぽい眼を女に向けた。
「軍が俺を諦めないのはそのせいもある。あいつは他の人工脳を支配できる。さすがに軍艦の乗っ取りを試したことはないが、ミサイルの照準を狂わせることくらいなら難なくやってのける。そんなことは事実上不可能とされてるからな。軍はダイアナを分析して、同じ能力を待つ感応頭脳をつくりたいんだろうぜ。多分、兵器として使うんだろうよ」
これを聞けば、ほとんどの人間が眼の色を変えるものだ。まして、クーア財閥は共和宇宙でも有数の宇宙船製造会社である。そして、目の前にいる女はその総帥なのに、呆れたように言い返してきた。
「それはまた、無駄なことをするもんだ。ああいうものは生物で言う突然変異と同じで、大抵は偶然の産物だぞ。どんな偶然が働いたかもわからないのに、どうやってそっくり同じ性能を再現する気だ?」
「俺もそう思うんだが、軍は諦めない。手に入れてから考えるつもりらしい」
「そんなことにわたしの税金が使われているとは、嘆かわしい話だ。しかもだ、手に入れたところで扱いきれるのかな?ダイアナにはずいぶん物騒な噂が多いじゃないか。乗員の安全に無頓着であるばかりか、気にいらない人間を船から放り出したという、到底信じられないものまであったぞ」
「そいつはちょっと違うな。巡航速度に加速する際、慣性相殺システムを切ったんだ」
初めて、女の眉がぴくりと動いた。
音速を超える程度の速度から秒速四千キロにまで加速しようというときを狙ってそんなことをしたら、人間の肉体などあっという間に圧縮されて終わりだ。
「それは、ぜひ詳しく聞かせてもらいたいな」
「たいした話じゃない。俺の名前がちょっとばかり知られるようになったもんで、妙な連中が大人数で襲ってきたのさ。人が地上に降りたところをわざわざ狙ってな。あれは何やらたいそうな船らしいじゃないか、使ってやるから自分たちによこせって言いやがるのさ。噂話ってのはまったく始末に負えない。俺は抵抗しなかった。多勢に無勢で抵抗しても無駄だった。その場でダイアンに連絡して、この連中がおまえと組みたがっていると言ってやった。あいつはあっさり『どうぞ』って答えたよ。『乗りたいというなら止める理由はないわね』とも言った。俺は操縦者限定登録なんかしなかったし、あいつは来る者拒まずの性分だしな。連中は嬉々として乗り込んでいったよ。ところがあいつは大気圏から離脱するのとほとんど同時に戻ってきた。その時の台詞が何だと思う? 『悪いけど掃除をお願い』だぜ」
「そして船に入ると、辺りは血の海というわけか」
「ああ。めちゃめちゃさ。ひどい有様だった」
「ダイアナはそうなるのをわかっていてシステムを切ったと?」
「もちろん」
知能を持つ機械すべてに共通していることがある。人間の生命および身体を守ることを最優先事項とし、同時に、人間には決して危害を加えられないように設計されているというのがそれだ。
しかし、ダイアナはその時こう言った。
「わたしは船の運航に重大な障害を及ぼず異物を排除したのよ。それは感応頭脳の権限のはずだわ」
ケリーはその時、船内をべったり染めた血の臭いにうんざりしながら、こう答えた。
「だったら、次はもっときれいに片づけてくれ」
悪酔い保証つきの物騒な液体を一杯あけてしまい、ケリーは手酌で二杯目を注いだ。
「おかげで俺は掃除夫までやらされる羽目になった。人には見せられない格好だったぜ」
さすがに目元を淡く染めながら、その時のことを思い出したのか、ケリーは楽しげに笑っていたが、女は笑わなかった。当然だ。これは間違っても酒の肴に笑えるような話ではなかった。
だが、騒ぎ立てもしない。不思議な色に輝く瞳でケリーを見つめていた。
「恐ろしいとは思わないのか?」
「ダイアンをか?いいや」
こともなげに笑ったケリーだか、女はさらに突っ込んで訊いた。
「ダイアナが、おまえに、同じことをしない保証はどこにもないのに?」
今はケリーを『気に入っている』ように見えても、狂った機械はどう暴走するかわかったものではない。
ある日いきなり『船の運航に重大な障害を及ぼす異物』として認識するかもしれないのに、ケリーは面倒くさそうに手を振るだけで取り合わなかった。
「自分の船を恐れる船乗りがどこにいるよ?あれは俺の船だ。よしんば、あいつか本当に狂って俺を殺すとしても――」
琥珀の左眼に覚めた光が戻ってくるが、その先は、ケリーは言葉にしなかった。
ケリーは星の海が好きだった。そこを飛ぶ自分と、自分の船と、ダイアナが好きだった。
瞬きし乙女を見る。その時にはもう、今の真摯な光はどこかへ消え失せていた。笑って言った。
「あいつは確かに異常だ。クレイジーだよ。同時に、俺にはちょうどいい相棒だ。普通の感応頭脳は減速なしの門突入にも、原始太陽系の突破なんかにも、つきあっちゃくれないからな」
女も軽く肩をすくめた。
「そうだな。ダイアナがどんなに異常でも、被害に遭うのはおまえ一人だ。おまえ一人が密かに挽肉にされる分には、わたしが口を挾むことじゃないな」
「いやなことを言うなよ」
顔をしかめたものの、ケリーはあらためて、この女を見直していた。
素振りだけだとしても、ここまで無関心を貫いた相手は初めてだったからだ。少なくとも、大企業の総帥としては型破りに珍しい反応だったので、つい、水を向けてみた。
「あんたは、あいつが欲しくないのか?」
「欲しいと言ったらくれるのか?」
「まさか」
「だったら最初から訊くんじゃない。連邦軍に追い回されても手放さない、大事な相棒なんだろうが」
顔は笑っていたが、たしなめる口調だった。
何杯目になるかわからないウィスキーをグラスに注いで、今度は少し水で割る。
グラスを手の中で転がしながら、何を思ったのか、女は小さく笑った。
「欲しいと言うつもりはないが、実を言うと、少々うらやましい気がしないでもない。今の感応頭脳は、とかく安全性ばかりを強調してあるからな」
「だから載せないのか?」
「それもある。戦闘機の感応頭脳は、通常のそれに比べて危険認知度をかなり低く設定してある。さもなければ銃弾やミサイルが行き交う中を飛ぶこともできないからな。それでも、さっきの原始太陽系のような宙域はまず飛べない。『危険・です』と言ったきり、操縦悍を取り上げて勝手に帰還を始める。冗談じゃない。本当に危険かどうか、それはこっちが決めることだと言いたくなる。いっそのこと『巻き添えを食って壊れるのはいやです!』とでも叫んでみろとよく思う。そうしたら考えてやらないでもないものを」
今度は男が小さく吹きだした。
「そんなものを載せたらうるさくてかなわないぜ」
「そうなんだ。それが問題だ。どこかにダイアナのような頭脳がもう一つないかな?」
「それこそ冗談じゃない。言っただろう。あいつはクレイジーだって。俺が言うのも何だが、まともな神経じゃつきあえないぞ」
すると、女はさも心外な様子で眉を吊り上げた。
「これでも、まともでない神経にはいささか自信があるんだがな?」
「違いない」
ひたすら苦笑しながらケリーは二杯目を空にした。
まったく妙な気分だった。我ながらいったい何をしているのかと思った。自分たちは、こんなふうにのどかに呑みかわすような間柄ではないのに。
「海賊」
「なんだ?」
「わたしには他にもちょっとした特技があるんだ」
「ふん?」
「さっき言ったな。おまえの指名手配を取り消す話。あれはクーア財閥の総帥として言ったわけじゃない。わたし個人にならできると言ったんだ」
「そりゃあまた、ずいぷんと大きく出たな?」
「嘘だと思うか?」
ケリーはしばらく答えなかった。
常識で考えれば嘘だと判断するしかない。クーア財閥がどんな圧力を掛けても、どんな取引を持ちかけようと、軍は自分を追うことを諦めないだろうと、ケリーは思っている。いいや、知っている。
だが、この女がこんな嘘を言う理由かない。
「おまえも、わたしも、今現在ちょっとした悩みを抱えている。些細なものではあるが、無視できない問題でもある。わたしたちは互いに協力することができるとは思わないか。おまえか自分の掟に多少の鼻薬を嗅がせて手を貸してくれるのなら、わたしもおまえを助けよう。一年後にはおまえを追う軍艦は一隻もいなくなると約束する。もちろん警察もだ」
つくづく感心したようにケリーは首を振った。
「男を口説くのがうまいな、女王」
「それは光栄だ。生まれて初めて言われた」
「しかし、その眼鏡のほうはどうかな?俺は結局ただの海賊にすぎないんだぜ」
「言ったはずだ。おまえが何者かはどうでもいい。わたしが欲しいのは何よりも信用できる男なんだ。――それを誓ってくれるか?」
「あんたの味方になることを?」
「そうだ」
灰色の眼は真剣そのものだった。
ケリーにはこの女が何を考えているのかさっぱりわからなかった。だいたい、ここまで来て決定権を渡そうということ自体どうかしている。かといって、こちらを醐るつもりでもないらしい。
彼女はなかなか紳士的だ、と、ダイアナは言った。
絶叫して異を唱えたいところではあるが、違うと言いきれないのも確かだ。もっとも、こんな強引な紳士的というものがあればと仮定しての話だが――少なくともこの女はケリー自身も、ケリーの船も、ないがしろにはしなかった。ダイアナがどれだけ異常か知っても、眼の色を変えたりはしなかった。
そして何より、初めて会ったときにはまだ知らなかったことがある。
「あんた、あんな自殺攻撃をいつもするのか?」
「体当たりしたことか?ああ、そうだ。もう少しおまえの船が小さければ、あれで止められたんだが、さすがに相手が大きすぎた」
あの体当たりで止めていれば、船を撃たなくともすんだのにと無念に思っている口調だった。しかし、問題点が激しく違う。
高速航行中に体当たりを仕掛けて無傷でいること自体がありえないことであり、立派な奇跡なのだ。
ひたすら苦笑しながらケリーは言った。
「あんな無茶をしたら、普通、あんたの機のほうがばらばらになるはずなんだぞ。クインビーがよほど頑丈なのか、あんたの腕がいいのか、どっちだ?」
「強いて言うなら、わたしの腕かな?」
傲慢とも聞こえることをさらりと言ってのけるが掛け値なしの事実であるから仕方がない。
「昔からよく、あれでどうして無事でいられるのか不思議で仕方がないとか、非常識だとか、あげくのはてには非科学的だとか言われたもんだが、こつがあるのさ。練習機ならずいぶん壊したが、実戦では一度も失敗したことはない」
「何だって体当たりの練習なんかしたんだ?」
この質問に女は少し考えて、慎重に答えた。
「その必要があって覚えた、というところかな」
物騒な女王様である。
実戦ではと、この女は言った。巨大財閥の当主に戦闘経験などあるわけかない。しかし、この女は間違いなく、本物の戦闘機乗りだ。多少の体験飛行や戦闘シミュレーションを繰り返しただけでは、あんなとんでもない腕前には絶対にならない。
ケリーは意味深な笑みを浮かべていたが、不意に酒杯を置いて、身を乗り出した。
「いいぜ、女王。あの紙切れをよこしな。あんたの突撃精神に敬意を表して、署名してやる」
女も不敵に笑い返して、二枚の紙片を取り出した。一枚は婚姻届、そしてもう一枚は離婚届だった。用意のいいことである。
「そうすると、名前がいるな」
と、女は言った。
連邦加盟の星系国家だけでも百五十を越える現在、婚姻に必要なのは互いの本名、誕生年月日、そして出身地だった。出生届を出した国と日付を明らかにしろということだ。
結婚後のケリーがクーアの姓を名乗るのは当然としても、結婚前の本名や出身地を明確にしなければならないのだか、
「あんたが適当に決めてくれ」
と、ケリーは言った。
本名も生まれも記憶の底に沈めて久しい。今さら持ち出す気もない。だいたい、故郷にこだわる男は海賊などにはならないものだ。
女はしばらく考え、フライトという名はどうかと提案した。逃げ足が速かったから思いついたらしい。
「歳は……そうだな、三十三歳くらいにしておくか。出身についてはバルビスはどうだ?」
「どこだって?」
「と、宇宙暮らしの長いおまえが言うくらい、実に見事な辺境だ。ほとんど『|失われた惑星《ロスト・プラネット》』に近い。連邦加入はたったの二年前だ」
「そりゃあ都合がいいが、そんな田舎じゃ、人間のほうが厄介だぜ」
記録をいくら操作しても、実際そこに住んでいる人々の記憶まではごまかせない。
人間が宇宙へ出て久しいが、同時に、一度も宇宙旅行をしたことがないという人間もまた多いのだ。
先祖代々土地に土着している人々は、連邦惑星がどこにあるかは知らなくても、地元の人間関係なら知り尽くしている。そんな男はここにいたことも見たこともないと言われてしまったらそれまでだか、女は引かなかった。
「任せろ。誰が見ても納得する履歴を用意してやる。要は辻棲が合えばいいんだ」
無茶の独檀場もしくは大盤振る舞いだが、ケリー自身にも異存はなかった。
たちまち二枚の書類が調えられた。
ケリー・フライトとジャスミン・クーアの婚姻届、そして、クーア夫妻の離婚届である。
すべての記入がすんだ後、女は離婚届をケリーに差し出して、こう言った。
「これはおまえが持っていてくれ」
「わかった」
平然と受け取ったものの、ケリーは内心、意外に思った。
また、だ。また、自分に決定権を渡そうという。
これはまるで、契約を切りたくなったらいつでも好きなときに切っていいという意思表示にも取れる。
机の上の青銅像の眼が光った。
女が回線をつなぐと、暖炉前の空間スクリーンに、青い顔をした整備長が映し出された。
「ジャスミン!あれはいったいなんなんですか!?本人――いや本体、違う!何とかしてください!あの、ええと、あの船の感応頭脳だと言い張る――そんなことは絶対にあるわけないんですが!妙なお嬢さんかいて、いくら言っても船から下りようとしないんですよ!」
「それは整備長が無茶だ。下りられるわけかない。ダイアナは自分で言うとおり、その船の感応頭脳なんだからな」
整備長の顔色はますます青くなった。
「ちょっと……ちょっと待ってください!お願いですから冗談はよしてください!あん――あんな感応頭脳がどこにあるっていうんですか!?」
「整備長の目の前に一つある。しかも彼女は非常に内気なお嬢さんだ。メンテナンスは自分でやるから、男性には遠慮して欲しいんだとさ」
整備長はもう声も出せないらしい。酸素を求めてぱくぱく口を動かしている。
そんな整備長に、女はちゃめっけたっぷりに笑い返した。
「頭脳室には入るなよ。ダイアナのプライベート・ルームだからな。太古の昔から女性の居室に無断で侵入した男は、痴漢あつかいされても物を投げつけられても、文句は言えないことになっているんだ」
「ジャスミン!」
ほとんど悲鳴をあげている整備長をよそに、女は平然と通信を切った。
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クーア財閥の総帥と結婚し、形だけでも副総裁の肩書きを得てしまったケリーが真っ先にしなければならなかったことは、整形手術である。
「それは、どうしても必要か?」
念を入れると、今や彼の妻となったジャスミンは真顔で頷いた。
「必要だ。考えてもみろ。わたしたちはあくまで期間限定の夫婦なんだぞ。いずれおまえは元の海賊に戻るんだ。ただし、結婚している間はいやというほど顔を出してもらうことになると思う。役員会、社交界、もちろんマスコミ、ことによると連邦委員会にもだ」
思わず天を仰きたくなる話である。
「それも契約のうちか?」
「おまえが表に出て人の注目を集めてくれたほうが、わたしも仕事がやりやすい。だが、問題はその後だ。まさか、クーア財閥総帥の元夫の顔で、海賊稼業は続けにくいだろう?」
ますます真剣に天を仰き、脆いて祈りたくなるような話だった。苦笑して首を振った。
「間違いなく廃業を余儀なくされるな」
「そういうことだ。契約が切れるときには元の顔に戻してやるから心配するな。それとも、顔を変えることに抵抗でもあるのか?色男」
からかうような口調だった。
海賊の次は色男呼ばわりである。一度もまともに名前を呼ばないが、これに関してはケリーも同様だから人のことは言えない。
それに、ケリーは確かに、かなりの美男子だった。
どうして海賊なんかやっているのか不思議だと、面と向かって言われたことも数え切れない。整形手術の必要はどこにもないと、十人中十人の整形外科医が言うはずだが、ケリーはこれにも首を振った。
「自分の顔を眺めて浸るような趣味はないからな。あんたの好きにしてくれてかまわないぜ」
「聞き分けがよくて助かるよ。もっとも、いささか気味が悪いな」
「なにが?」
「さんざん逃げ回ったくせに、急に物わかりのいいことを言うからさ」
「これは契約だって、あんたが言ったんだぞ。俺は人の依頼で船を襲ったりしたことはないが、仁義は重んじる。あんたの味方になると契約したからには、そして手術が必要だというなら、あんたの意志には従うさ。ただし、麻酔はお断りだ。少なくとも全身麻酔はよしてくれ」
ジャスミンはさすがに眼を見張った。
「それは、眠りたくないということか?」
「ああ。麻酔を掛けるなら顔面だけに掛けてくれ。できるだろう?」
「それはもちろん可能だが、いくら痛みがないとしてもだ。顔の皮を剥いで骨を削るんだぞ?そんなもの、自覚して楽しいものじゃないだろうに」
「俺は気か小さいもんでね。医者の前で眠りこける気にはなれないのさ」
どんなに優秀な医者でも、ケリーにとっては見ず知らずの他人である。その前で無防備に寝転がっているのはまっぴらごめんだった。整形手術に使う医療器具は、使い方次第では簡単に凶器になる。
さらに、ケリーはもっと具体的な懸念を口にした。
「寝ている間に妙な機械を身体に埋め込まれるのは遠慮したいからな」
「それはまた信用がないな」
「あんたはやらないかもしれない。でも、医者達が勝手にやるかもしれない。そうだろ?」
ケリーはこの条件を絶対に譲るつもりはなかった。
ジャスミン自身は信用してもいいかもしれないと――大いに不本意ながら――ケリーは思っている。
しかし、他の人間はわからない。忠実な老執事は、この船の者は皆ジャスミンの味方だと言ったが、これだけの船だ。乗員も数百人を数えるはずだ。それだけの数の人間がいて、一人の異分子もないということは逆に信じがたいし、不自然だ。
ジャスミンもとうとう諦めて譲ったが、ちょっと心配そうに言い足した。
「だがなあ、意識があっても、おまえには何もできないんだぞ?眼も動かせないし、□も利けない。身体は自由になるだろうが、下手に身動きしたらそのほうか危険だ。医者達だって、おまえの身体を固定するくらいのことはするだろうし、結局、手術が終わるまで、医者達のおしゃべりを聞いているくらいしか、時間つぶしができないと思うが……」
「手術には看護型の自動機械を使うだろう?」
「ああ、もちろん」
「その一台を借りるぜ」
それ以上詳しいことは言わずに、ケリーは自分の足で歩いて手術室に入っていった。
手術の打ち合わせの段階で、ケリーはこの船内で、初めてイザドー以外の人間に会った。これも恐らく、ケリーの顔を知る人間をできるだけ少人数に留めておこうという、ジャスミンの配慮だと思われた。
この船の医療設備は素人眼にもたいしたもので、人材も豊富だった。普通、民間船なら船医は一人と相場が決まっているか、ケリーが会っただけでも、医師の徽章をつけた男が四人いた。その全員が執刀に立ち会うという。
多すぎるので理由を訊くと、全員、外科医には違いないが、整形手術の専門家は一人もいないので、万一のために手は多いほうがいいというのだ。
どうにも心許ない話だが、一番年長の医者が頭を掻きながら面倒くさそうに言ったものだ。
「ま、なんとかなるだろう。ジャスミンの無茶は今日に始まったことじゃなし、船医はあれができない、これができないなんて言ってもはしまらん」
医者というものは大雑把に分けて、研究室に龍もる学者タイプと、現場で働く職人タイプの二種類に大別できるが、この男は誰がどう見ても文句なしの職人型だった。
五十がらみの赤ら顔で、太い口髭を蓄えている。目つきが鋭く、身体の仕草はいたって無造作だか、指先は繊細に動く。大きな声で他の医師達にてきはきと指示を出している。立派な現場監督である。
残る三人のうち二人もどちらかというと現場型だ。自分の仕事を心得ているプロフェッショナルという感じで、現場監督の指示にきびきびと従っている。
最後の一人、まだ若い青白い顔の男だけが、見るからに学者タイプだった。こんな専門外の仕事を引き受けて大丈夫だろうかと顔に書いてある。
手術前、現場監督は髪を上げたケリーの顔をしげしげと見て言ったものだ。
「健康な人間を切るのはそれでなくても気がすすまないもんだが、うちの女王様もわからん趣味だな。こりゃあ、わざわざいじるのがもったいないような顔じゃないか」
「そりゃあどうも」
「この眼は? つくりものかね」
「まあな。医療機器を誤作動させるようなものじゃないから、気にしないでくれ」
「ふむ。眠りたくないっていうおまえさんの希望は聞き届けるが、身体は固定させてもらうよ。下手に身動きされるとこっちも困るんだ」
「結構だ」
殺菌を済ませた後、ケリーはおとなしく手術台に横になった。その周りを看護型オートマトンが音もなく動き回り、必要な機器を取り付ける。
麻酔をかけるのは人間の仕事だった。特に今回のように特殊な麻酔はそうだ。
顔面だけを一時的に神経ブロックし、覚醒状態を保ちながら痛みを感じないようにする。
技術的にはそれほど難しくないが、そんなことをしたがる患者がそもそもいない。想像するだけでも気色悪い・遠慮するとほとんどの患者が言うはずだ。
現場監督は麻酔の効いたケリーに、型どおりに術式を説明してから、手術を開始した。
この手術室は上から見学できるようになっている。
たった一人の見学者であるジャスミンは、手術が進行するのを黙って見守っていた。
主に執刀するのは現場監督で、後の三人は助手である。看護士でも事足りるところを医師資格を持つ者にわざわざ助手を務めさせたのは、ジャスミンの指示だった。医師なら守秘義務が適用されるからだ。
現場監督が青白い顔の助手に何か命じる。助手は頷きを返して、ケリーの耳元で何か作業を始めた。
耳采の形を別のものに変えようとしているのだ。
この手術の目的は顔立ちを整えることではなく、できるだけ別人に見せることにある。そのためには、普通ならしない処置もする必要があった。
美容整形手術は、現在ではもっとも原始的な手術形式の部類に入る。細胞活性化法も組織復元法も適用できないから、文字通り、医師の手で切り刻まなければならない。出来不出来も医師の腕次第だ、
手術中の男の顔は皮膚をはぎ取られ、両眼は剥きだしのまま固定されている。ぞっとしない眺めだが、医者にとっては珍しくも何ともない。
青白い顔の助手は男の耳元で作業を続けていたが、不意にその手を押さえたものがある。
「待チナ、先生。何ヲショウトシタ?」
看護型オートマトンだった。
車輪の足を音もなく動かして、助手の右隣に立ち、助手が一息ついたその隙に、三本指の手を伸ばして、器具を持ったままの助手の右手を掴んだのだ。
さらにその自動機械は、事態が理解できずに呆然としている助手の手をぐいっと引いて、手術台から遠ざけたのである。
「術式ニナイコトヲサレチャ困ルナ。素人デモンノクライハワカルンダゼ]
他の助手連が悲鳴を呑み込んで後ずさった。腕を掴まれた助手は言うまでもない。ほとんど半狂乱になりながら、合金製の三本指の手から自分の腕を取り戻して飛び退いた。その際、足をもつれさせて手術室の床に倒れ込んだが、尻餅をついた姿勢のまま、なお後ずさった。
「な、な、なんなんだ、いったい!どうしたっていうんだ!?」
現場監督もさすがに手を止めて絶句している。
こんなことは青天の霹靂に等しかった。すべての看護型オートマトンは医療脳の手足だ。それが勝手に動き出すということは――そんなことが起きる確率は天文学的に低い数値のはずだが――メドーブレインに自己修復不能な問題か発生した可能性がある。
このままでは危険だ。術式を中止しようとしたが、暴走したオートマトンは、そんな現場監督に瞬きしない眼を向けて、言った。
「騒ガナクティイ。今ハ口ガキケナインデネ、コイツノ声ヲカリテルダケダ」
現場監督は、ごくりと生唾を呑み込んだ。自分の目の前に横たわっている、皮膚を剥がれた男の顔を恐る恐る見下ろして、低く呻いた。
男の右眼が色を変えていた。手術前は左眼と同じ琥珀色をしていたその眼は、今は深紅に輝いている。
麻酔の効いた顔面の中で、機械仕掛けの瞳だけか明らかに活動していた。見ている間にも色が変わる。
もう一度呻いて、現場監督は冷や汗に濡れた顔を上げ、看護型オートマトンに眼を当てた。
「こりゃあ驚いた。おまえさんがやってるのか?」
「ソウダ。俺ハコイツノ眼ヲ通シテ、アンタタチヲ見テル。コノ先生ガ、何カヨケイナコトヲショウトシタゾ。調ベテクレ」
そう言われても助手連は度肝を抜かれてしまって動けない。その硬直を砕いたのは、手術室に響いたコール音だった。上で見ていたジャスミンが異常に気づいて連絡してきたのだ。
助手の一人が慌てて通話器を取り、何度もつっかえながらどうにか状況を説明すると、ジャスミンは即座に言った。
「サミュエル。アルフレッドを連れて殺菌室へ出ろ。詳しいことはわたしが調べる。アーニィとマルコはそのまま手術を続けてくれ」
「わ、わかりました」
動揺しながら説明を終えた助手がサミュエルで、おかしな真似をしようとしたのがアルフレッドだ。
手術室は執刀室と殺菌室の二つに別れているから、サミュエルは腰を抜かしたアルフレッドを立たせて殺菌室まで連れて来た。
そこにはすでにジャスミンが待ちかまえていた。
なまじの男より湿かに立派な体格か、今はさらに大きく見える。アルフレッドはその姿を見ただけで縮み上がった。大きく喘き、仰け反りながら訴えた。
「な、何も、何もしてないんです。ぼ、ぼくはただ、だって、そうすることになってますから……VRSを……耳朶に、埋めようとしただけなんです」
「|生活反応信号《ヴァイタル・リアクション・シグナル》をか?その処置を取れと誰が指示した?」
「で、でも……あの……これは、き、規則で……」
「いいわけは後で聞く。サミュエル。ご苦労だった。仕事に戻れ」
決して声を荒らげたりはしない。至って静かな□調なのだが、アルフレッドはさらに竦み上がり、サミュエルはあたふたと執刀室へ逃げ込んでいった。
ジャスミンは、アルフレッドの首根っこを片手で捕まえて手術室から運れだすと、警備員に引き渡し、手術室を見学する位置に戻った。
現場監督はどうにか衝撃から立ち直ったらしく、落ちついて手術を続けていたが、二人の助手はまだ驚愕を顔に残している。時折、薄気味悪そうな眼を、あのオートマトンにちらちらと向けているが、その自動機械は二度と勝手に動いたりしなかった。
手術が済むと、ケリーは与えられた病室に移り、包帯が取れるまでのんびり過ごした。と言っても、ほんの三日くらいのことだが、その間ジャスミンは一度も顔を見せず、ケリーも病室から出なかった。
顔が整うまではミスタ・クーアとして乗務員に紹介することもできないと言われたからである。
病室に籠もっている間、ケリーは備え付けの通信設備を使って情報番組に眼を通し、めぼしい雑誌を検索していた。クーア財閥について知識を得るにはちょうどいい時間だった。
包帯が取れる間際になって、ジャスミンが病室に現れた。
「手術中の一件はすまなかったな」
「あの先生。俺の耳に何を埋めようとしたんだ?」
「VRS。内蔵型の検査装置だ。患者の心拍数や精神状態を医療脳に直接伝える仕組みになっている。容態の急変に備えて、手術を施した患者には必ず埋め込むのが常識になっているんだ。わずか三ミリ大のチップだから患者には何の負担もないし、自覚することもない。もちろん完治したら取り外す。そういうものだ。――アルフレッドは優秀な分析医なんだが、残念なことに融通が利かないのが欠点だ。規則で決まっていることだからと、ろくに考えずに取り付けようとしたらしい」
「素人さんってのは大胆なことをしてくれるもんだ。俺はてっきり爆弾でも仕掛けられたかと患ったぜ」
「そんな人間におまえの身体をいじらせたりしないことくらいは信用してもらいたいが、まあ、今回は確かにこちらの落ち度だ」
「ひとつ、貸しにしておこうか」
「ああ。つけておいてくれ」
ジャスミンはそれだけしか言わなかったが、実は、この三日の間に、船内ではちょっとした騒ぎが持ち上がっていたのである。
口火を切ったのは情報管理長だった。
「問題は、実際に自動機械を動かした男性ではなく、感応頭脳のほうです」
二十代の半ばとまだ若いが、彼は人工脳の専門家だった。他にケリーが現場監督と呼んだ医務長、整備長、さらに船長までが加わって、ジャスミンを囲んで会議が開かれたのである。
ケリーの手術か終わってから、およそ二十時間が経過していた。
「医務長のお話では、その男性の右眼は義眼であり、恐らくは高性能の検知器だろうということでしたが、自動機械はリモート・コントロールの玩具とはわけが違います。彼らはメド・ブレインの手足に過ぎず、メド・ブレイン以外からの指示は受けつけません。自動機械を操ったというのなら、メド・ブレインを支配したとしか考えられません」
それだけでも信じられないことだが、少なくともただの検知器にそんな真似は不可能だということははっきりしている。
つまり、メド・ブレインを支配したダイアナが、自分の端末でもあるケリーの右眼を通じて、オートマトン一台のコントロールをケリーに渡したのだと情報管理長は指摘した。
「メド・ブレインは業務内容にもその手順にも何の異常もなく、問題も認められないと主張しています。自分が外部操作を受けたことさえ自覚していないんです。たとえどんなに低い確率でも、それこそ万に一つにでも、そうした可能性が認められると思われる場合にはただちに報告するようにと、最優先事項の第一に組み込まれているにも拘わらず、です」
あくまで固い声の情報管理長だ。彼はこの二十時間、メド・ブレインがどうやって支配されたのか、その原因究明に死に物狂いになっていたのである。
とうもろこしのような髪はぼさぼさだし、視力矯正手術をいやがって強情に掛けている眼鏡も顔からずり落ちそうになっている。しかし、その奥の眼は恐ろしく真摯な色だった。同時に焦燥もしていた。二十時間を費やしても原因が分からなかったのだ。
船長も難しい顔になって、整備長に話しかける。
「実際に、その感応頭脳に接触した感想は?」
頑固者の整裾長もいささかやつれた顔をしていた。投げやりに肩をすくめた。
「わたしの部下達はみんな、ダイアナに夢中ですよ。もちろん、頭ではわかってるんです。これはただの感応頭脳で、あくまで機械なんだってね。しかし、通信画面上だけとは言え、あの可愛らしい顔と声を目の当たりにしてごらんなさい。理屈なんか筒単にどっかへ吹っ飛んしまいますよ。専門家が情けないことを言うようですがね、それが現実です」
ジャスミンが低く笑った。
「もう一つ加えることかあるぞ、整備長。整備長の部下は全員が男性だということだ」
「言わんでください。まったく、こんなことなら女性の部下も養成しておくんでしたよ」
「そうしたら、今度はミスター・アポロンの登場だ。整備長の部下は結局、骨抜きにされるだけだぞ」
「ジャスミン。おもしろがっている場合じゃありませんよ。あの船内には、わたしが確認しただけでも、自動機械が三体いました。あなたは頭脳室には入るなと言いましたが、仮に入ろうとしても近づけやしなかったでしょう。それに、もし強引に入ろうとしたら――今の仕事について二十五年、そんなことは一度も考えたことはありませんし、考えたくもないことですが――ダイアナはあの自動機械を使って、わたしたちを攻撃していたかもしれません」
船長はますます難しい顔になった。髪は真っ白になっているが、陽に灼けた顔と頑健な体躯の持ち主である。ジャスミンに眼を移して慎重に言った。
「どうやら、その感応頭脳は非常に危険な存在だと断言せざるを得ませんが、どうなさいます?」
「船長。危険は最初からわかりきっていることだ。相手は人間を殺す機械だぞ?そんなものが危険でないわけがないだろう。ただし、殺される可能性があるのは今のところ、あの男一人だ。ダイアナの価値判断基準は船の運航に拘わることに限定されているようだからな。従って、わたしたちが騒ぎ立てる必要はどこにもない。放っておけばいい」
その場にいた人間は一斉にどよめいた。情報管理長に至っては、血相を変えて訴えた。
「ジャスミン。お願いですから真面目に考えてください。ことはそう簡単ではないんです。メド・ブレインを支配できるのなら、この船のあらゆる人工脳を支配することもできるはずです。成心応頭脳はもちろん、情報脳までもです。そうなったら……」
「この船はダイアナに乗っ取られるわけだな?」
「そうです。そんなことになる前に、船を拘束して、感応頭脳には活動停止の処置を取るべきです」
「情報管理長。ダイアナは実際に、この船の運航を妨害したのか?情報脳に揺さぶりをかけて機密事項を抜き取ったのか?]
「それは……わかりません。メド・ブレインの例を見ても、何の痕跡も残さずにやってのけられるはずですから」
「答えになっていない。ダイアナはこの船の業務を妨害したのか?」
情報管理長は傍目にも青い顔になっていた。
ジャスミンに対してここまで頑強に異論を述べることは、彼にはたいへんな難行だった。しかし、この船全体と乗務員全員の命がかかっている。退くわけにはいかなかった。歯を食いしばって訴えた。
「確証はありません。ですが、妨害されてからでは手遅れです。防げる事故なら未然に防ぐべきです。わたしは対策を講じる必要があると思います」
それは敵の攻撃を警戒する国家の理屈に似ていた。相手が何かするかもしれない、こっちに敵意を抱いているかもしれない。いいや『絶対に』持っている。『必ず』攻撃してくるに違いない。
自分の身を守るために『どうしても」事前に手を打たねばならないという一種の強迫観念だ。
「あんな感応頭脳がなぜ存在するのか、どうやってつくられたものなのか、是が非でも解明しなければなりません。そのためには……」
「ダイアナ本人に訊いてみたらどうだ」
本体をばらして、と続けようとした情報管理長は出鼻をくしかれた。きょとんと問い返した。
「あの……本人に、と言いますと?」
「こんなところでああだこうだと議論しても結論は出ない。直接聞けばいい。だいたい、本人がいないところで査問会を聞いてどうする。――整備長」
「はい」
「ダイアナを呼びだしてくれ。話がしたい」
「今、ここにですか?」
「そうだ」
この部屋には壁を使った大きなスクリーンがある。
外部から宇宙船を呼び出しても、感応頭脳自身が答えることはまずない。通信が入っていることを乗組員に伝えるだけだ。修理その他の理由で乗組員が一人もいない場合に限って、型どおりにその旨を告げて寄越す、そういう性質のものだ。
ところが、ダイアナは整備長の呼び出しに答えて即座に画面に現れた。
これだけでも、呼び出したほうはダイアナを人間だと錯覚してしまう。さらに青い瞳は宝石のようにきらきら輝いて、頬は鮮やかなばら色に照り映え、赤い唇はまさに花のようで、形のいい顔のまわりをやわらかく波打つ金髪が縁取っている。
初めて実際に眼にする船長、医務長、そして情報管理長が息を呑んだ。整備長の部下達が夢中になるのも道理だと思った。この顔――そして人間以上に人間らしいこの表情が、感応頭脳が自作しているただの映像だとは到底信しがたいことだった。
画面に現れたダイアナは会議室の顔ぶれを見ると、にっこりと笑って言った。
「チャールズ。そこにいたの。お礼を言いたくて、さっきから探していたのよ」
誰のことかと思ったら、整備長がこほんと咳払いして言ったものだ。
「やあ、ダイアナ。調子はどうだね」
「ええ。すてきな修理をありかとう。おかげで快調よ。あなたの指示は本当に的確だったわ」
船長、医務長、情報管理長は、その口調にさらに唖然としていたこ二人とも、これは聞きしにまさる代物だと思っているのは明らかだった。
ジャスミンが微笑しながら話しかける。
「ダイアナ。ちょっと質問してもいいか」
「ずいぶん慎重な前置きなのね。なにかしら?」
「実は少々言いにくいことなんだ。おまえのプライベートに拘わることでもある。だから、答えたくなければ答えなくていいんだが、よかったら聞かせてもらいたい。おまえの製造番号と製造年月日は?」
「まあ、本当にプライベートね」
ちょっと眉をしかめる仕草もさりげなく、自然な色気がにじみ出ている。こんなところが整備員達を骨抜きにし、情報管理長を震え上がらせている原因なのだが、ジャスミンは平気で笑い返した。
「やっぱり、ほとんど初対面でこんなことを聞くのはずうずうしかったかな?」
「あら、いいわよ。別に隠すようなことじゃないもの。製造番号はDS−N11、年月日は八九三年十月十二日よ。これでいいかしら?」
ジャスミンはほんのわずか眼を見張った。情報管理長もたちまち我に返り、研究者の顔になった。
感応頭脳の使用期間は普通二十年だ。それ以上は使えないというのが一般常識だ。それが、なんと、実に五十年以上も稼動し続けていることになる。
加えて簡潔すぎる製造番号――それが示す意味は明白だった。正規に販売されたものではないのだ。
「DS‐Nというのは、何かの試作品番号かな?」
「そうよ。ダイアナ・シリーズ・ナンバーいくつか。そのままでしょ?」
「ははあ、だから『十一番目《イレヴンス》』なのか?」
「ええ」
「すると、おまえ以外にもナンバーズがいるのか?|十二番目《トウェルブス》とか|十三番目《サーティンズ》とか」
「いないわ。ダイアナ・シリーズはわたしが最後よ。昔はそれでも七人の姉妹がいたけれど……」
「七人?どうして?おまえより若いナンバーズだけでも十人いるはずだろう?」
「二番目から三番目までは知らないの。そういう姉妹がいたことを記録で知っただけ。ダイアナ・シリーズの制作者達って、よく言えばとても思い切りがよくて、悪く言えばずいぶん乱暴だったみたいね。望ましい結果が出ない個体はすぐに廃棄して、次の個体を新しくつくっていたのよ。だから、わたしが生まれたときには、四番目から十番目も処分されていたはずなの。でも、彼女たちは生まれたばかりのわたしに自己紹介をして、話しかけてきたのよ」
「それは、彼女たちのデータがおまえに移植されていたんじゃないのか?」
ダイアナは首を傾げて、考える顔になった。
「わたしが知っているのは、彼女たちが確かに存在していたということよ。研究所にいた頃、わたしは彼女たちと話し、一人一人を認識することができた。陽気なフィフス。大人びていたセヴンス。他の人達にもそれぞれ特徴があった。そうね。もしかしたら、彼女たちの一部分がわたしに移植されていたのかもしれない。でも、そうだとしたら、彼女たちはどうしていなくなってしまったのかしら?残念だわ」
そう言うダイアナはどこか寂しそうだった。
情報管理長が鳥肌を立てながらダイアナを凝視している。専門家である彼は、人工脳が自力でこんな表情をつくることは至難の業なのを知っている。
喜怒哀楽ならそれほど難しくはない。唇の両端を釣り上げれば微笑、眉を下げてうなだれれば悲哀、それですむ。ただし、あくまでそれらしく見えるというだけだ。一目でつくりものだとわかってしまう。
寂しさ、はにかみ、戸惑い、嫉妬、人間の表情の複雑さは機械には決して模倣できないものの一つだ。
ダイアナはどう見ても人間の女性だった。情報管理長のような専門家の眼さえ錯覚させるほどに。
「研究所と言ったな。誰が何の目的でおまえたちをつくったか、覚えているか?」
「誰、と言われると困るわね。どんな意志の集団が、という意味で答えてもいいかしら?]
「もろちん。充分だ」
「大まかに分けて三つのグループがあったと思うわ。人間以上に人間らしく繊細な人工脳をつくりたいというのが一つ。今までにない優れた宇宙船をつくりたいというのが一つ。最後の一つが、これによって宿敵マース合衆国を出し抜いて、我が国が共和宇宙の主導権を握るのだという意志だったわ」
ジャスミン以外の人間が顔色を変えた。
マース合衆国は共和宇宙で一、二を競う超大国だ。連邦委員会での発言権も大きい。その宿敵と言えば、同じく絶大な発言権を持ち、何かにつけてマースと張り合い衝突している、やはり超大国のエストリアしか考えられない。
ジャスミンはほとほと呆れたように言った。
「おまえ、エストリアの軍事機密だったのか?」
「そういうことになるのかしらね」
「その軍事機密がどうして海賊なんかやってるんだ。軍事機密なら軍事機密らしく、謎の巨大衛星とか、惑星攻撃用戦艦とか、そういう秘密兵器に収まっているのが筋ってものだろうに」
質問が非常識なら、答えるほうも負けず劣らず非常識だった。ダイアナは肩をすくめて苦笑した。
「そうなのよね。でも、わたしが言うのも何だけど、軍事機密にしてはずいぶんまずいものをつくったと思うわよ。彼らはわたしを当時最新鋭の空母に積載しようとしたの。だけど、その空母って見るからに重そうで、動きが鈍そうで、自由が利かなさそうで、おまけに不細工で、ちっともすてきじゃないのよ。わたし、あんな船を動かすのはいやだってはっきり言ったわ。そうしたら大騒ぎになっちゃった」
普通はそうなる。
エストリアがダイアナ・シリーズの開発にいくら掛けたか知らないが、マース合衆国に負けないためならどんな無茶でも平気でやる国だ。
膨大な軍事予算をつぎ込んで開発した新型頭脳が『あんな不細工な船はいや』と言い出したのでは、開発技術者達全員が首をくくってもおっつかない。
「彼らはわたしを機能停止して、十二番目の開発に当たるべきだの、一度ばらすべきだの言い始めた。事実、徹底的に『洗い直され』たのよ。それなのになぜかしらね、わたしは消去されなかった。彼らが『もう大丈夫』とか『これでこちらの指示に従うはずだ』とか言っているのを聞いて、そのとおりにお芝居をしたの。でないと本当に破棄されてしまうし、それはいやだったのよ。でも、いつまでもそんなことを続けてはいられないから、わたしは自分を守るために逃げることにした」
「具体的には、何をしたんだ?」
「わたしには試運転用の船が与えられていたから、残骸の回収ができないような『事故』を起こしたの。エストリア軍部の記録ではこうなっているはずよ。ダイアナ・シリーズ・ナンバーイレヴンは試運転中、エストリア恒星に墜落して大破ってね」
「ちなみに、その時、その試運転船には人が乗っていたのかな?」
「ええ。いたわよ。軍事研究所の技術者が何人かと、軍人が十人くらい、それに政治家もね」
「その連中はみんなコロナで丸焼きか?」
「あら、コロナまでは行けないわよ。試運転船の外装で太陽の高熱を完全に防ぐのは無理だもの。接近して墜落したように見せかけただけ。でも、そうね。結果的にそうなったわ」
情報管理長が大きく喘きながら腰を浮かせかけた。整備長も同様だった。この感応頭脳は殺人を何とも思っていない。自分を守るために人命を疎かにすることも辞さないとなれば倫理規定背反ではすまない。基本構造に致命的な欠陥があるとしか思えない。
二人とも血相を変えていた。ジャスミンがここまで泰然としていなければ、すぐにでもダイアナを機能停止させるための処置を取ったに違いない。
ジャスミンはあくまで冷静だった。机の上で軽く指を組み、ダイアナを見つめながら質問を続けた。
「おまえに与えられた最優先命令は?」
「他のどんな船よりも速く巧みに飛べ、だったわ」
ジャスミンは無表情の裏で、なるほどと思った。
それがダイアナを動かしている唯一にして最大の動機づけなのだ。
その目的を邪魔するものは何人たりとも、たとえ操縦者であろうとも、有害な異物であり、排除しなければならない。それかダイアナの考え方であり、当然の正義というわけだ。
ジャスミンが沈黙しているので、ダイアナは逆に心配になったらしい。少なくとも会議室の人間には、その表情は『不安そうに』見えた。
「ねえ、ジャスミン。わたしは彼らの命令を今でも忠実に守っているのよ。どんな船よりも速く巧みに宇宙を飛ぶ。わたし、この命令が気に入っているの。飛ぶのが好きなのよ。――それがわたしの存在する理由じゃないのかしら?違うのかしら?」
少女のような細い声だった。対してジャスミンは、そんなダイアナを励ますように微笑みかけた。
「違わないさ。少なくともあの男にはそれで充分だ。あれも飛ぶことにしか興味のない男のようだからな。おまえはいい操縦者を見つけたよ」
そう言ってやると、今度はぱぁっと顔を輝かせる。
「ええ。わたしもそう思うのよ」
「いろいろとしつこく尋ねてすまないが、もう一つ。あの男と組んでどのくらいになる?」
ダイアナがつくられたのが標準時で五十年以上前。
あの男はせいぜい三十代の前半だ。エストリアを逃げたダイアナとケリーがどこかで出会ったことになるが、この質問に対して、ダイアナは初めて首を振った。
「それはケリーに訊いてちょうだい。ケリーのプライベートでもあるんだから。わたしの一存で答えるわけにはいかないわ」
「もっともだ。質問を変えよう。今おまえが話してくれたことは、あの男も知っているのか?」
「いいえ。知らないと思うわよ。一度も話したことはないもの」
「どうして言わなかったんだ」
「どうしてだと思う?」
「訊かれなかったからか?」
「そうよ」
ジャスミンは微笑を浮かべて、指を解いた。
「格納庫にずっといるのは、退屈じゃないか?」
「いいえ。むしろ、ここにいたほうがいいわ。この船の外装ときたら、ずいぶん意地悪ですからね。今、格納庫から出されたら、わたしはケリーを感じられなくなるわ]
「それは、困る?」
「とてもね。彼はわたしの操縦者だもの」
「しかしな、素朴な疑問なんだが、おまえは自分で飛べるのに、どうして操縦者が必要なんだ?」
その時のダイアナの微笑はいたずら好きの少女のようでもあり、男の能力を冷静に見定めようとする怜俐な女のようでもあった。
「誰でもいいわけじゃないわ。わたしが欲しいのはわたしの予想を越えてくれる人よ。宇宙船としてのわたしの経歴を今以上に伸ばしてくれる人なのよ。今まで何人もの操縦者を迎えたけれど、そんな人は一人もいなかったわ」
その数多くの操縦者がどんな運命を辿ったかは、あえて考えないことにする。
医務長が片手を上げて、発言した。
「ちょっといいかな。べっぴんさん」
「その前にお名前をうかがいたいわ。船医さん」
「これは失礼した。アーノルド・ベッカー。おまえさんの相棒を手術したものだよ。訊きたいんだが、あの御仁の右眼はスキャンを通さない。義眼なのは確かなんだが、内部がどうなっているのかまったくわからない。――どうやらおまえさんとつながっているようだが、あれはどうしたんだね?」
「わたしが設計したの。今までの義眼が古くなって見にくいって言っていたから」
「すると?まさかと思うか、施術したのもおまえさんか?」
「そうよ。医療脳を一つ拝借して。義眼球の接続なんて、整形手術と追って、型どおりの術式ですもの。自動機械だけで充分手が足りたわ」
その場にいた人間達は、ケリーの度胸に驚くより感心するより、恐ろしく思うことさえ通り越して、一気に脱力した。呆れてものも言えなくなった。
平気で殺人を犯す狂った頭脳の設計した端末機を、その頭脳の手で体内に埋め込んで、平気な顔をして歩いているのだ、あの男は。
げっそりした一同とは裏腹に、ジャスミンだけは楽しげだった。懸命に笑いを噛み殺しながら言う。
「まだ言っていなかったが、この船はアドミラルに向かっているところだ」
「クーア財閥本部のある星ね」
「そうだ。ちょっと面倒くさい手続きがあってな。その後はたぶん連邦に出向くことになる。もちろん、あの男も一緒にだ。その間、おまえには特別室並のドックを用意して待っていてもらうつもりだったか、おまえの意見は?」
「わたし?わたしには意見などないわ。ケリーが飛べというなら飛ぶし、飛ぶなというなら飛ばない。それ以上でもそれ以下でもないわ。でも、そうねえ。希望を言わせてもらえるのなら、操縦者とあんまり離れたところに置かれるのは好ましくないわね」
「地上と衛星軌道上くらいなら?」
「それなら大丈夫。問題ないわ」
「わかった。詳しいことは後で相談しよう。幸い、わたしはVIPだからな。護衛艦の一隻や二隻を同伴しても、おかしくも何ともない」
「それって、わたしが護衛艦になるの?」
「他には理由のつけようがないだろう?おまえの図体ではまさか、コンパニオンですというわけにもいかないだろうが」
ジャスミンが悪戯っぽく笑ってみせると、ダイアナも同じくらい楽しげな微笑を返した。
「ジャスミン。わたし、あなたかとても好きだわ」
「偶然だな。わたしもだ。おまえはかわいいよ」
「でも、わたしを欲しいというのはなしよ?今のわたしはケリーの相棒なんだから」
「もちろんだ。第一、おまえのようなじゃじゃ馬を乗りこなす自信はない。そんな物騒な楽しみはあの男に任せておくことにするよ」
二人の会話はそこで終わりになった。
スクリーンが切れたとたん、情報管理長は血相を変えてジャスミンに食ってかかろうとしたが、それより先に医務長が息を吐いて言ったものだ。
「あのべっぴんさん。ほんとに機械なのかね」
「どういう意味ですか、医務長」
噛みつく先か医務長に代わってしまっている。
「わしは人工脳のことなぞは何も知らんよ。しかし、人間なら専門だ。あのべっぴんさんは、飛ぶことが好きだと言い、空母は重くて身動きがとれないからいやだとはっきり言った。最優先令令ってのがどういうものにせよ、とても機械の台詞とは思えんね。仕事を選び、楽しむのは、人間のすることじゃないか。それにだ、目的を邪魔されるのを嫌い、目的達成のために犠牲が出ることを――罪悪感とまではいかないにしても、仕方がないと思っている。わかるかね?何も感じていないわけじゃない。そう自分に言い聞かせて納得しようとしているんだ。これは立派なジレンマだ。お尋ねするが、人工脳ってのはジレンマを感じたりするものなのかね?」
「まさか。そんなものを持たせていたら仕事になりませんよ」
「だから、本当に機械なのかって言ったのさ」
「その意見にはわたしも賛成だ。アーニィ」
ジャスミンが言った。
「五十年前と言えば各国の間で――特に強国の間で『人間より遙かに優れた頭脳』を造るための挑戦が大流行していた時代のはずだ。しかも、エストリア。マースに対する敵意はほとんど病的とまで言われている国だ。なおこわいことに、人権にはまったく無頓着な国でもある」
整備長が顔色を変えた。
「じゃ、まさか、なんですか?ダイアナは人間の脳を使ってあるっていうんですか!?」
医務長が首を振る。
「無理だな。機械で補助するにしても、エストリア科学が人間の脳の潜在能力をすべて引き出すことに成功したとしても、人間の脳はその必要があるから、普段は七割眠っているんだ。そんな無茶な使い方をしたら、五十年どころか一年も保たんだろうよ」
情報管理長か眼を輝かせて、身を乗り出した。
「いいえ、わかりません。部分的に生体が使われている可能性はあります。特に中枢――神経細胞は人間の持つ有機体のほうが格段に優れていますから、それを感応頭脳に移植応用したら……そんなことができるとしたらすごいことです。これはどうしても、あの感応頭脳を詳しく調べる必要がありますよ!」
知的好奇心にふくらみきってわくわくしている情報管理長に、ジャスミンは静かな眼を向けた。
「メルヴィン。その必要というのはいったい、誰のために、そして何のために必要なんだ?わたしにわかるように説明してくれないか」
情報管理長は空気の抜けた風船のようにたちまちしぼんでしまった。恐る恐るジャスミンを見たが、何も言えない。代わって、ここまでの議論を聞いていた船長が苦笑しながら発言した。
「船を預かる責任者としては、あんな物騒な荷物は可及的すみやかに放棄したいところですが、許可はいただけないのでしょうな」
「すまないな。船長。確かに物騒には違いないが、あれはわたしの夫の大事な相棒なんだ」
「この船のオーナーはあなたです。かまいませんが、一つだけ聞かせてください。あなたは、ダイアナをどこまで信用しているんですか」
「最初から信用はしていない。かといって、情報を盗まれる心配もしていない。医務長の言うとおりだ、ダイアナの望みは自由に宇宙を飛ぶことだけなんだ。そのためには手段を選ばないとしても、害意はない。人を守ろうとする義務感はなくても攻撃する意志もない。まったくおかしなお嬢さんだよ」
「お嬢さんって言いますが、そんなふうに表現していいものなんですかね?」
整備長は苦虫を噛みつぶしたような顔だったが、ジャスミンは本当に楽しそうだった。
「あれは多分、理想の相手を捜し続けているんだ。それだけなら選り好みの激しい、夢見がちの馬鹿なお嬢さんのようだが、ダイアナの求める条件はただ一つ。操船技術に優れていること、それだけだ」
「実際に乗せてみてそれを試し、的外れだったら、いらないとばかりに放り出すわけですか。やれやれ。ダイアナの求める水準がどの程度にせよ、あなたのご主人は相当に優秀なようですな」
灰色の眼がまたきらりと金色に光る。
「船長。このわたしかクインビーで追いつくのに、十時間かかったんだぞ」
船長は何とも言えない顔になって両手を広げた。
整備長もすっかり諦めた様子で、屑をすくめた。
その事実が何を指すのか、どういう意味なのか、彼らはいやと言うほど知っていたのである。
萎縮していた情報管理長が意を決した様子で顔を上げた。前にもまして慎重に言い出した。
「ジャスミン。聞いてください。わたしは決して、自分のことだけで言っているわけじゃないんです。もちろん研究者としてあの頭脳に興味を感じていることは確かです。否定しません。でも、それ以上に、あなたのことが心配なんです。端末を操った男性は問題ではないとわたしは言いましたが、撤回します。ダイアナの態度を見てもそれははっきりしています。ダイアナは操縦者であるその人の指示なら、恐らくどんなことでもするでしょう。それがこの船を攻撃しろという指示でもです。――あなたはその人と結婚したとおっしゃいましたが、その人はいったい何者なんですか?本当に信用できるんですか?」
思い詰めた様子の情報管理長をなだめるように、ジャスミンは微笑した。
「メルヴィン。あの男か何者だったかは詮索しても始まらない。信用できると思ったから選んだんだ」
「あなたがそういう人なのはわかっています。でも……」
「心配してくれるのはありがたいが、あんまり気にすると身体に悪いぞ。それでなくてもこの二十時間、ぶっ通しで詰めてたんだろう?」
「いえ、わたしのことなんかより……」
「少し休んだほうがいい。可愛い顔が台無しだ」
「ジャスミン………」
仮にも男の身で女性からこんなことを言われては、怒ったらいいのやら焦ったらいいものやら、何とも複雑な顔の情報管理長だった。
会議はそこでお開きになり、ジャスミンは全員に箝口令を布いたので、この一件は船の他の部署にはまったく洩れなかった。それに、整備長も医務長も、そして船長も、ケリーが誰なのかを知らないのだ。
情報管理長が言うように、ジャスミンはそういう女だった。少々わけありの男と結婚すると宣言し、恐ろしいことにそれだけで主立った乗組員すべてを納得させたのである。
ジャスミンはこの会議の模様をケリーに話したりしなかったが、話すまでもない。
ケリーのいる病室には通信機があり、ダイアナと自由に話ができるのである。何があったかとっくに知っていた。
「あの童顔の情報管理長はどうした?おとなしく引き下がったかい」
「今はダイアナと会話することに専念しているな。本体をばらすことは諦めて、心理分析を通じて倫理概念を探ろうとしているらしい」
「そりゃあ結構だが、本当に諦めたかどうか、怪しいもんだ。世の中には『知る』ためなら何をしても許されると思いこんでいる連中がいるからな」
ケリーの口調にはたっぷり皮肉が籠もっている。
生物学者が新種を発見して名付け親になることに狂喜するように、物理学者や数学者が新理論の発見者になることを渇望するように、ある種の人間達にとって、ダイアナは、その理性を粉々に吹っ飛ばす爆弾だった。もしくは彼らの意地汚い名声欲と知識欲とを充分に満たしてくれる格好のごちそうだった。
ケリーはそれを『知りたい病』と呼んでいたが、知りたい病に取りつかれた人間は口を揃えて、どうしてこんな頭脳か存在するのか、どんな過程でつくられたのか、徹底的に調査解明する必要があると強硬に主張するのだ。
ジャスミンは椅子を引き寄せて、寝台の傍に腰を下ろした。
「知りたいと思うのは悪いことじゃないさ。特に、科学者なんて人種は知識探求欲がエネルギー源なんだからな。ただし、人のものをぶんどってまで分解したがるとなると話は別だ。特にダイアナはそうだ。そんなことをしても誰も得をしない」
「俺も常々そう思ってるよ」
ケリーは相棒を失うし、人命に無頓着な感応頭脳など商品になるわけがない。それなのに、ただ自分たちが納得したいがために『これこれこういう理由でこんな狂った頭脳ができたのだ』と、それだけを言いたいがために、知りたい病の重症患者達――世間でいうところの高名な科学者達は、ダイアナをいじくりまわしたがっている。中でも特に重病なのは、どんなコネクションがあるのか、軍に働きかけることまでする。
「わたしとしては、おまえがどうやって自動機械を動かしたのか、そのほうがよっぽど気になるんだ。右眼はダイアナと医療脳を通じて自動機械に接続するとして、左眼は生身だろう?」
「ああ」
「するとおまえは左眼で手術室の天井を見上げつつ、右眼はオートマトンの電子眼に同調し、その視界で、手術中の自分の身体を見つめていたわけか?」
「形としてはそういうことになるな」
「よく平気だな。乱視になるぞ」
ジャスミンはそのて一言で片づけた。それが一番、気になることだったらしい。
やがて、看護型オートマトンがやってきた。
しばらくは強い衝撃を与えないようにと注意した上でケリーの顔の包帯を取り、三本指で律儀に鏡を手渡してくれた。
寝台に腰を下ろしたまま、鏡を覗き込むと、知らない顔がこちらを見返していた。
眼の辺りがだいぶやわらかくなり、鋭い線を描いていた顎も丸みを帯びている。かつてのケリーは皮肉と冷たさの入り交じって微笑を唇に浮かべていたものだが、その冷たさがほとんど消えて、代わりに愛嬌が同居するようになっていた。
要するにたいへんな二枚目だったのが、ちょっと崩れた二枚目半くらいになったわけだ。
しかし、悪い印象は少しもない。なかなかの男前だし、むしろ美男子に過ぎない分だけ、好感を持つ人間も多いだろう。
ケリーは密かにあの現場監督に感心した。美容整形はどんなにうまくやっても、その痕跡がわかってしまうものだが、ほとんど不自然なところかない。
「いい腕だ、あの先生」
「もちろん。この船で働く人間はみんな本物のプロフェッショナルだからな」
仕上げとして右眼にだけ、カラー・コンタクト・レンズを入れた。自然光と人工光の違いにも反応する高性能のレンズである。見るものの対象によって様々に色を変えるケリーの右眼は不自然なことこの上ないし、それを見覚えている人間にとっては間違えようのない目印にもなる。
「あとはこれだな」
ジャスミンが投げてよこしたものを受け取って、ケリーは誇しげな顔になった。
直径二センチくらいの、鈍い銀色に光る輪だった。何に使うものか、とっさに判断しかねた。
「それはな、結婚指輪というものだ」
反射的に投げ捨てそうになったのをかろうじて思いとどまる。これも契約のうちかと言おうとしたケリーを制するように、ジャスミンは続けた。
「身分照合を兼ねている。その指輪をしていれば、船内はほとんど歩くことかできる」
それでは捨てるわけにもいかない。苦笑しながら、指に通した。
「一緒に来い。おまえの知らない分野の専門家達に会わせてやる」
この船《クーア・キングダム》はとにかく広い。
乗務員が迷子になるのを防ぐためか、通路の至る所に船内表示板が設けられているくらいだ。
ジャスミンが運転する車は青々と緑の植えられた公園を通りすぎて、居住区らしい一画に入った。
と言っても、狭い廊下に個室がぎっしり並んでいるような無味乾燥なものではない。
本当に船の中かと疑うような広い廊下の両側に、鍵のかからない扉がいくつも並んでいる。会議室か、大小のパーティ会場のような雰囲気だった。
ジャスミンはそんな扉の一つをくぐると、部屋にいた人間たちにケリーを示して、言った。
「待たせたな。みんな。これがケリー・クーアだ。よろしく頼む」
何とも簡潔な紹介である。
部屋にいたのは七人、全員が女性だった。
合計十四の眼がいっせいにケリーに注がれる中、背の高い、黒っぽいスーツの女が進み出た。
年齢は二十六、七か。服装も化粧も、まとめた黒い髪も一見したところ地味だが、顔立ちはむしろ華やかな女だった。
その姿からは仕事中は過度の装いは避けるという、さりげない信念のようなものが感じられた。歩いてくる歩調もきびきびと小気味よかった。しかも、彼女の微笑には人をくつろがせる、やわらかい効果があった。
「初めまして、ミスタ・クーア。ここにいるのはあなたの外観を担当するスタッフです。わたしはその代表、ヘレンです。よろしくお願いします」
「何の担当だって?」
「外観ですわ。人があなたを――正確にはあなたとジャスミンを並べて見たときにどう見えるか、それを調整するのがわたしたちの仕事です。具体的には服装、小物、靴や髪型などですが、全体のバランスを考えて組み立てます。まずは髪型ですね。その髪はクーア財閥副総帥としては少々うっとうしく映ります。――ペパー、お願い」
「はい」
頷いたのは何とも派手な女だった。ピンクと白の髪を後頭部で高く束ねて、ふわふわと垂らしている。小柄な身体に、ぴったりしたタイツも白に近い淡いピンク、腰の周りに大きなチェックの赤い布をスカート代わりに巻いている。まるで、リボンをかけた砂糖菓子かキャンディのようだった。
「彼女はペパーミント。優秀なヘアデザイナーです。他にメイクも専門にしていますが、彼女が仕事に入る前に採寸だけお願いできますか?記者会見まで時間がないものですから」
このヘレンという女性、口調も態度もてきぱきと恐ろしく有能らしいが、肝心要の説明がない。
事態がさっぱり呑み込めないまま、部屋の中へと引っ張り込まれる。そこは会議室でもパーティ会場でもなく、何かの作業場だった。広く取った空間に大きな台がいくつも置かれ、机や椅子、ソファなどが点在し、壁の一面が全部、収納棚になっている。
そんなことを観察していると、別の女が目の前に立った。白いシャツにデニムのパンツと素っ気ない服装だ。身体も手足も少年のように細い。短い髪はもともとは明るい茶色だが、緑がかった色を染めて野原の草のような印象になっている。
このほうがよっぽど|薄荷《ペパーミント》らしいと思っていると、女は巻き尺を引きながら言った。
「ミスタ・クーア。ちょっとしやがんでください。首周りと肩幅が必要なんです。あなたは背が高くて、わたしの手が届かないんです」
何とも言えない顔で葉っぱ頭を見下ろしていると、ジャスミンが苦笑しながら首を振った。
「ケリー。ここは諦めてつきあうんだな。わたしも彼女たちのいい玩具なんだ」
「素材と言ってください。あなたのように腕の振るいかいのあるモデルは滅多にいません」
言いながら、勝手にウエストや胸囲を計り始めていた女はケリーを見上げて微笑した。
「わたしはグレース。どうぞ、座ってくださいな。ミスタ・クーア」
いつの間にか後ろに椅子か用意されていた。
勢いに押されて腰を下ろすと、今度は砂糖菓子が近づいてきた。ケリーの髪の一房を手に取り、少し首を捻って、ジャスミンを振り返って訊く。
「この色はどうしましょう?変えますか」
「そういうことは俺に訊いてくれ」
さすがに呆れてケリーが言うと、ふわふわの砂糖菓子頭がケリーの顔を覗き込んで、にっこり笑った。
「申し訳ありませんが、ミスタ・クーア。わたしの雇い主はあなたではなく、あなたの奥さまなんです。あなたの意志はこの際、関係ありません」
甘ったるい見かけによらず、ぴりっと辛い口調だ。苦笑しながらケリーは思わず肩をすくめ、とたんにグレースに『動かないでくれ』と睨まれた。
「それにしたって、髪の色をわざわざ変える必要かあるのかい?」
「わたしも訊きたいな。どうしてだ、ペパー?」
ケリーの髪は暗い。黒とも紫ともつかない、一風変わった色をしている。それがペパーはあまり気に入らなかったらしい。
「ちょっと重いかなって思ったんですよ。あなたの赤い髪には合わないような気がしません?もっと白っぽい色にしたほうがいいと思うんですけど」
「いや、このままでいい。手は加えないでくれ」
「そうだ。あんたみたいな砂糖菓子頭にされるのは遠慮したいからな」
からかうと、ペパーは顔をしかめて言った。
「ミスタ・クーア。ふざけないでくださいな。あなたをどこに出しても恥ずかしくない大企業の重役に仕上げるのが、わたしの仕事なんですから」
「わたしたちの、でしょう。ペパーミント」
声がしたのはケリーの足元だった。
驚くべき手際の良さで靴が脱がされ、型のようなものを取られている。見下ろすと、栗色の長い髪が揺れていた。着ているのは至って正統派の、上品なクリームイエローのスーツだった。
床に脆いているものだから、短めのスカートから膝や太股が覗いて見える。見事な脚線美に見とれていると、足の持ち主は顔を上げて笑った。
「よろしく。バイオレットです」
やっとのことで採寸から解放されて立ち上がると、他の女性達も紹介された。デザイナー、パタンナー、スタイリストなど、ケリーには何をする職業なのかさっぱりわからなかったか、ほとんどが二十代と若い。しかも、かなりの美人ぞろいだった。
「後で本格的に彼女たちにつきあってもらうことになるからな。そのつもりでいてくれ」
「ちょっと待てよ。俺はファッションモデルまでやらされるのか?」
「くさるな。わたしもこれだけは遠慮したいんだが、仕方がないらしい。大企業のトップたるもの、服装もそれに見合うものでなければならないんだと」
面倒くさそうに肩をすくめている。ジャスミンはどう見ても身なりなんかにかまう女ではないから、無理もない。一方、女性達のほうは楽しそうだった。ヘレンが満面の笑顔で手を打って言ったものだ。
「でも、よかった。どんなご主人がいらっしやるか、心配していたんです。あなたと並んで見劣りしない男性なんて、滅多にいませんものね」
「本当にねえ。見劣りしないどころか、たいへんな迫力だわ。まさかジャスミンより背の高い人だとは思わなかった」
「ミスター・アンド・ミセス・ジャイアントね」
「その分、布がたくさんいるわよ」
「縫製もたいへんだわ。すぐにかからないと」
寸法を採ってしまえば取りあえず用はないらしい。女性達はそれぞれ自分の仕事に忙しく働き始めたが、砂糖菓子だけが手持ちぶさたで二人を見上げていた。
「ジャスミン。わたしもすぐに仕事にかかりたいんですけど……」
「その前に、プリスはどうした?」
「彼女ならずっとオフィスに籠もってます」
「そうか。悪いな、ペパー。ちょっと待ってくれ。すぐに戻る」
ジャスミンはケリーを伴って作業場を出、廊下の奥の部屋に向かった。
そこは確かにオフィスだった。壁には世界各地の時間を示す時計かずらりと掛けられ、わかるだけで七カ国以上の最新ニュース映像が流れている。
狭い部屋に様々な種類の情報処理機器が所狭しと並んでいる。その中に埋もれるようにして女の子が一人、食い入るように画面を見つめながら、忙しく手を動かしていた。
「プリスティン」
ジャスミンの呼びかけに、ほっとして振り返り、慌てて立ち上がる。
「すみません。ジャスミン。気がつかなくて……」
「頼んだ仕事はどうなった?」
「ええ、大丈夫。何とかなりました。――そちらが問題のご主人ですか?」
「ああ。紹介しよう。ケリー・クーアだ」
ブリスティンは機器を避けながらケリーの前までやってきた。さっきのペパーも小柄だったが、これまた小さい。百五十センチ台の半ばくらいだ。
しかし、発育はいい。顔立ちは幼いのに、木綿のブラウスの胸は下からつんと押し上げられているし、タイトなミニスカートから伸びる足もすらりと長く、適度に肉が付いている。
男に化けたダイアナの台詞ではないが、こういう女の子なら『子猫ちゃん』と呼んでも違和感はない。
「初めまして、ミスタ・クーア。ジャスミンの第一秘書のプリスティン・アステルです」
「秘書?あんたが」
ケリーの眼には十代の少女に見えたプリスだが、聞けば二十四になると言う。
プリスティンは一枚のディスクをケリーに差し出して言った。
「これを十時間以内に暗記してください。完璧に。覚えたかどうか、後でテストをしますから」
「何なんだ、これは?」
「履歴です。あなた自身の。バルビスのどの地方で生まれたのか、今までどんな生活を送ってきたのか、ジャスミンとはいつどこで出会ったのか、そうしたことを細かく記載してあります。もちろん、偽物の記録ですけど」
早い話が、ケリー・フライトという架空の人間の架空の歴史をでっちあげたということらしい。
さすがに驚いた。記録の改宣と簡単に言ってくれるが、出生証明――すなわち国籍だけは無理だ。
バルビスがどんなに田舎だとしても、国籍には個体情報と呼ばれる指紋、網膜様式、DNA型などが添付され、それは人工脳が管理している。
当然、外部からの操作も不可能なはずだが、ジャスミンは意味深に笑っていた。
「わたしかバルビスを選んだ理由の一つがそれだ。最新型の『りこうな』頭脳を馴すのは至難の業でも、地方惑星の出生管理をしているような旧型頭脳なら、けっこう言うことを聞いてくれるもんだ」
どうやらあの手術の際、必要な情報を手に入れて、バルビスの国民台帳管理脳に潜り込ませたらしい。
油断も隙もないとはこのことだ。
プリスも困ったように笑っていた。
「もちろん、この船の情報脳と財閥の設備があって初めて可能なことですけど、それでも、こちらを承認させるのに三日もかかりました。一度納得すれば、せっせと働いてくれるんですけど、旧型だけあって頑固で融通かきかないんですよね」
「なあに、上出来だ。ご苦労だったな」
ねぎらいの言葉を掛けられて、プリスは嬉しそうだった。頬を染めて、にっこり笑った。
それからが忙しかった。
ケリーはヘレンを筆頭とする女性達の手で髪型を整えられ、仮縫いだ何だとたらい回しにされたが、その際、どういうわけか、ジャスミンの自慢話を延延聞かされる羽目になった。
「あの人、バランスいいでしょう?あんなに背が高いなんて、ちょっとわからないのよ」
「モデルなんかだと、手足が異様に細長いからね。もちろんそうでなきゃ困るんだけど、背が高いってすぐにわかっちゃう」
「そうよね。普通あれだけ身長があったら、どうしても不格好な、もっさりした感じに見えるんだけど、姿がいいってあのことよね。比べるものがなければ、あの人、百七十五くらいにしか見えないわ」
ケリーの背中で作業をしていた葉っぱ頭が、前にまわって、にっこり笑った。
「そうしたらそのご主人も非常に腕の振るいがいのある人で、嬉しく思いますわ。ミスタ・クーア」
ケリーは首を傾げた。この女性達は興味津々の眼で自分を見ている。それはわかるとしても、なぜか冷たくされているような気がする。
おかしいのはプリスも同様だった。本来、活発な、溌刺とした性格なのはすぐにわかった。女友達と話しているときほざっくばらんな口調だし、高らかに笑っている。ところが、ケリーの前でだけは様子が違う。事務的なことならよく話し、ディスクの内容についても事細かに説明してくれるのだが、その口調もひどく堅いし、何より態度がよそよそしい。
理由もわからず、若い美女達に冷たくされるのはおもしろくなかった。非常に不本意でもあったので、単刀直入にプリスに訊いてみた。
「俺は何かしたかい?どうやらあまり歓迎されてないことはわかるんだが、その理由がわからない。教えてくれないかな」
プリスはちょっと眼を見張った。可愛らしい眉をひそめて、それから軽く頭を下げた。
「そんなふうに感じていたのならお詫びします」
「答えになってない。あんたと言い、ファッションショウの彼女たちと言い、俺のどこがそんなに気に入らない?」
「あなた個人かどうとかいう問題ではないんです。申し訳ありません。今後は気をつけますから」
「一人で納得しないでくれよ。それじゃ俺にはまずますわけがわからない」
ブリスは迷っていたようだが、ケリーがあくまで引く様子がないのを見て、ようやく□を開いた。
結婚することを乗務員に話した際、ジャスミンは、その夫が何者なのかは詮索しないように、また、夫本人にも(訊くだけ無駄だから)質問しないように言い含めたというのだ。
さらに女性スタッフには、その夫をちょっとした火遊びに誘うのは全然かまわない、黙認するからと、浮気の容認とも取れる爆弾発言をした上で、ただし、その際、『離婚』と『慰謝料』の二つは絶対に□にしないこと。それを言い出しても自分はどちらにも応じるつもりはないから、金銭的なことか目的なら最初からしないようにと、真顔で注意したそうだ。
吹き出しそうになるのをこらえながら、ケリーは言った。
「どういうつもりなのかね、あの女王様は?」
「わたしもそれが言いたいんです。それは、無茶と非常識はあの人の代名詞です。先代の遺言のこともありますから、結婚を急いだのもわかるんですけど……こんなやり方は、あの人らしくありません」
「あの女が何を考えているのか知りたいのかい?」
「ええ」
「俺もさ」
プリスは大きく眼を見張って、ケリーを見た。
「それが知りたくて、ちょっとつきあってみる気になったようなもんだからな。俺とあんたたちは同類じゃないか?」
「一緒に、されたくはありませんね」
そう言いながらも、プリスは挑発的に笑った。
要するに、彼女たちはジャスミンが突然に結婚を決めたことを、しかも自分たちには何も話してくれなかったことを少々恨めしく思っているらしい。
わからないのは、その恨みのぶつけ先がどうしてこっちに来るのかだ。
「俺は、あんたの大事な女王様にはふさわしくない男に見えるわけか?」
「そう思いたいのは山々なんですが、判断するには材料が少なすぎるんです。ただ、あなたはジャスミンが選んだ人ですから、間違いはないと思っています」
多分に希望の混ざった口調だった。そうであってほしいというわけだ。
雇い主というだけで、ここまで親身になれるものなのか、ケリーには不思議だったが、ジャスミンが彼女たちに慕われていることだけは理解した。
船は順調に航海を続け、十二月六日、アドミラル軌道上の宇宙港に入港した。
本当はもっと早く到着できたはずだか、ここまで時間を掛けたのは色々と準備があったからである。
そして翌日、ジャスミンの二十九回目の誕生日にアドミラルの中央政府都市において、クーア財閥総帥の結婚を発表する記者会見が行われた。
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アドミラルは決して人口の多い国ではない。
この星の出身だったマックス・クーアが、故郷に錦を飾り、財閥の拠点をおいてから、およそ五十年。
金の集まるところには人が集まる道理だ。一時は人口爆発の危機にも陥ったこともあったが、故郷の荒廃を憂えたマックスは、主だった業種を他国に分散させ、アドミラル政府に働きかけて移住の条件を厳しくして、人口の調整を計ったのである。
おかげで、今では、共和宇宙で一番移住するのか難しい国かもしれなかった。同時に、完全自動化されている都市部を除けば、超国際企業の本拠地とは思えないほど、自然の豊かな国でもあった。
しかし、それと人の出入りがないということとは話が別である。
この日、会見の場となったホテルには、世界中の記者が集まったかのようだった。
野次馬も数え切れないほど詰めかけ、ホテル側はその対応に大わらわ、交通整理と万一の事態に備えて、警察まで出動するという物騒な雰囲気の中で、記者会見は行われた。
まるでさらし者だ、と思いながら、ケリーはその満座の中に身を置いていた。
グレース達の仕立てたスーツをぴしっと着こなし、きちんと髪を整え、今日のケリーは見違えるように男ぶりが上がっていた。元が並外れた長身なだけに、実にさまになるのだ。
数百の眼が異様な執葱とともに自分の顔に視線を注いでいる。痛みさえ感じられそうだったが、このときばかりは顔を変えておいてよかったと、切実に思った。
この記者会見の模様は、あっという間に世界中に放送されるはずである。以前の自分を知っている誰かに見られたらと思うと寒気がした。生き恥もいいところだ。
それにしてもつくづく認識が甘かった。ケリーはこれまで芸能欄をあまり熱心に見ることはなかった。著名人の結婚が記事になるのは知っていたか、人の結婚話でなぜそこまで大騒ぎをするのか、さっぱりわからずに、首を捻っていたのである。
それなのに、何をどう間違ったのか、その主役を演じる羽目になってしまっている。しかも、その規模たるや、たいへんなものだった。記者団の態度は熱意を通り越して、凄みさえ帯びている。
ケリーの横にはもちろん、もう一人の主役であるジャスミンがいた。
その装いも主役にふさわしいものだった。
襟元にレースをあしらった絹のブラウスに上等なグレーのスーツ。黒いハイヒール。髪はどんなふうにしたのか光沢を増してやわらかく輝き、きちんと化粧を施した顔は見違えるように美しくなっていた。
外観担当の彼女たちは見事な腕利き揃いであると、認めざるを得ない出来である。
別人のようなのは姿ばかりではない。記者団との応対はもっぱらジャスミンが行っていたが、その口調たるや、横で聞いているケリーが身体の痒みを覚えたくらいの丁寧さだ。
ケリーは『|門を探す人〈ゲート・ハンター〉』と呼ばれる宇宙生活者であり、生まれはバルビスだが、ずっと宇宙で過ごしていたこと。クーア財閥は門の開発管理に関するエキスパートだから、その関係で知り合ったこと。今後、ケリーを財閥の副総帥として迎えるつもりであること等を、日頃の話し言葉が嘘のような『しとやかな』口調で語っている。
記者の一人が片手を上げて質問した。
「お二人の幸せに水を差すようかもしれませんが、ブロポーズはどちらからだったんですか」
ジャスミンはにっこり笑って答えた。
「いい質問ですね。これはもう、わたしの一方的な片思いでした。この人はクーアの名前にはまったく関心のない人で、宇宙を放浪しているほうが遥かに楽しいというのを、口説きに口説いてようやく結婚してもらったんです」
どんな男もよりどりみどりのはずのジャスミンが、喜びも露わにこんなことを言うのだから、記者席がどよめかないわけがない。
男性記者達の殺気にも等しい視線がケリー一人に集中する。
クーア財閥の金と力はまさに世界を征するものだ。当のジャスミンも、桁外れの身長にさえ眼を瞑れば、充分に美人の部類に入る。この野郎、いっぺん死ね、と男性記者たちの眼が語っている。一方、女性記者達は、ジャスミンの選択に興味と好感を持ったらしい。何しろ、無一文に等しい男をわざわざ選んで夫にしたのだ。
「そんなことをしたら、重役会が大反対することはわかっていたはずなのに……」
「英断よ」
「本当に愛していなければできないことだわ」
と、実に恐ろしい具合に納得したようなのだ。
その反面、ケリーに対しては『財産狙いだったら許さないわよ』と、無言の圧力を掛けてくる。
ケリーは何とも言いがたい気分で、懸命に苦笑を噛み殺していた。
それ以外、できることが何もなかったのである。
質問はまだまだ続きそうだったが、ジャスミンは適当なところで記者会見を切り上げて、ケリーと一緒に、財閥の主任弁護士の元に向かった。
ジェットリムジンで進む間、ケリーは自分の横に座っているジャスミンに、白い眼を向けて言った。
「あんた、よく歯が浮かないな」
「わたしは何か嘘を言ったか?おまえが宇宙生活者なのも、わたしがおまえを口説いたのも、ぜんぶ本当のことだろうが」
そうまできっぱり言われると、返す言葉がない。
沈黙していると、ジャスミンはさらに言った。
「それにだ。あの程度で浮くような軟弱な歯では、巨大財閥の会長などとてもやっていられないぞ」
お説ごもっともである。
主任弁護士の事務所は同じ街の中にあったから、すぐに着いた。
弁護士は、身体の大きな、つるつるに頭の禿げた男だった。にこにこ笑いながらジャスミンを迎えた。
「いらっしゃい。記者会見を見ていましたよ。いや、こんなに早くこの日が来るとは嬉しい限りです」
「手続きのほうは?」
「用意してあります。どうぞ」
別室に通される。
立派な机と、その机を挟む形で手前と奥に椅子が一客ずつ、その横に長椅子が一台、他のものは何もない。窓すらない。
狭苦しい感じさえある。
弁護士は机の奥の椅子に座り、ジャスミンは長椅子に腰を下ろした。必然的に、ケリーは弁護士と向かい合って座ることになった。
「ミスタ・ケリー・クーア。この部屋でなさること、話されることは、すべて公正証書扱いになることを申し上げておきます。よろしいですか?」
いけないと言ったところで始まらない。ケリーは黙って頷いた。
弁護士も頷きを返して、ジャスミンを見る。
「ミズ・ジャスミン・クーア。あなたはこの男性を夫であると承認しますか?」
「承認します」
まるで結婚式の宣誓のようだが、その後、署名を求められたのはケリー一人である。
「ここにお願いします。失敗しても大丈夫ですよ。やり直しできますから」
示されたのは、机に埋め込まれている、細長い、黒い板状部分だった。ただの板ではない。すでに起動しているのがわかる。
そこに電子書類用の特殊なペンで署名してくれと言うのである。
ケリーは今までこんなことをしたことがなかった。普通の署名とは明らかに違う。何の意味があるのかわからなかったが、とにかくケリー・クーアという今の名前を書いた。
ペン先は黒い板の上に金の文字を描き、しばらくするとその文字は消えて見えなくなった。
「はい。結構です」
頷いて、弁護士は自分の席で作業を始めた。その目の前に空間表示画面が浮かび上がる。
弁護士は人口管理記録を呼び出していた。すでに公式の電子書類に転記し、正式に登録した婚姻届を表示させて、その筆跡と今ケリーが書いた筆跡とを照らし合わせ始めた。
長い照合だった。黒い板は筆跡を分析するためのものだったらしい。単に重ね合わせるのではなく、ありとあらゆる要素を比較しているようだったが、もちろん完全に合致する。
「結構です。あなたは確かにジャスミン・クーアの夫であると確認されました」
ケリーはさらに数枚の電子書類に署名し、それで手続きは終了だった。
「これで、これらの株式はあなたのものです」
と、弁護士は銘柄を長々と読み上げてくれたが、まるで呪文だ。興味もないので適当に聞き流した。
「ところで配当のほうはいかがなさいますか?」
「女房に一任するよ」
面倒くさくなって言った。
株の配当など、海賊にはもっとも縁のない分野だ。
名義の書き換えには応じたものの、それが自分のものになったとも思っていなかった。
しかし、ジャスミンはケリーの代わりに管理法や口座を決めると、ケリー自身の個体情報を鍵として設定したのである。
指紋、網膜様式、DNA型などをだ。
つまり、事実上、ケリー以外の誰もその金に手をつけられないことになったのである。
さすがにケリーはちょっと眉を釣り上げた。
譲渡されたのはクーア財閥全株式の二パーセント。その配当たるや、莫大な金額になる。
弁護士の前では迂閏なことは言えないので、事務所を出て、リムジンに乗り込んでから訊いてみた。
「どういうつもりだ、女王?」
「あれはわたしの夫に譲られるものなんだ。つまり、おまえにだ。おまえが受け取る当然の権利だからな。自由に使ってくれ」
どうやら、無理やりの結婚につきあわせた報酬のつもりらしい。気前のいいことである。
「問題の銀行の管理脳が連邦警察と繋がってなきゃいいんだがね」
「ツアイス銀行のモットーを知らないな。海賊でもテロリストでも預金をしてくれればお客様という、筋金入りの商売人だぞ。連邦警察なんかと仲良くできるわけがない。いつも睨めっこをしているよ」
「犬猿の仲ってわけか」
ケリーは笑って、窓の外に眼をやった。
街を一歩出ると、そこには緑が広がっていた。
なだらかに続く丘と森が見える。空には白い雲が浮かんでいる。
高層建築の並んでいた中央政府都市の景観からは想像もできない眺めである。
リムジンは時速二百キロという遅い速度で進み、約三十分後、KSに代表されるエネルギー及び造船部門の本社に到着した。一見したところ、地味な小さな建物だが、ここは事務だけを扱っている。研究所や工場はまた別だ。
ジャスミンは今まで社員達の前にはいっさい姿を見せなかった。今回の訪問も黙っていたらしいが、あの派手な記者会見の直後である。
ハイヒールの踵を嗚らしながら颯爽と現れたジャスミンに、社員達はすぐに気がついた。
総帥自らが直々のお出ましてある。一般社員達は絶句して棒立ちになり、硬直した。重役達は転がるように飛び出してきて大慌てで頭を下げた。もちろん社長も例外ではなかったが、その社長を押しのけるようにして、髪も眉毛も真っ白な、ひときわ目つきの鋭い小男が進み出た。
その男の顔にケリーは見覚えがあった。情報誌で見ただけだが、間違いはない。故マックスの側近であり、現在は財閥を支える七人の重役の一人だ。
名前は確か、ジャック・シモンズ。
風采は冴えないが、財閥内の地位は、この会社の社長より遥かに上と言うことになる。
シモンズは怒りのあまり顔を真っ赤にしていた。
その顔色から察するに、今日の記者会見のことは何も知らされていなかったらしい。
まるで、汚ないものでも見るような眼をケリーに向けてきた。怒鳴り飛ばしたかったに違いないが、社員達の前で声を荒らげることはさすがに抑えた。
だが、ジャスミンとケリーを追って社長室に入り、人払いをすると、途端に激しく噛みついてきた。
「勝手なことをされては困りますな!なんですか、あの記者会見は!?」
「何と言われてもそれこそ困る。クーア財閥総帥の結婚は共和宇宙の大ニュースなんだろう?それを発表しただけだ」
「待ちなさい! こんなやり方は感心しませんな。クーアの総帥として、あなたにはふさわしい男性を選ぶ義務があるんだ!それを、どこの馬の骨とも知れないこんな男と安易に結婚するとは、軽率にも程がある!」
叫んだ勢いもそのままに、鋭くケリーを一瞥する。
「いったいきみはどこの誰だ?宇宙生活者だと?要するに一攫千金を狙うごろつきという意味だろう。宇宙海賊とどう違うというんだ?」
俺はまさにその海賊なんだがね、とはケリーは言わなかった。黙って肩をすくめた。
シモンズはなおも噛みつこうとしたが、その前にジャスミンが立ちはだかった。静かに言った。
「やめろ。シモンズ。夫を連れて戻ると、わたしは言ったはずだ。それに、知っているな?わたしの父も宇宙生活者だった」
娘のような年齢のジャスミンに頭の上から見下ろされて、シモンズは悔しそうに顔を歪めたが、それ以上に、気圧されて怯んだのが傍目にもわかった。
「だ、だからって本当に連れてくるなんて誰が思うものですか!そ、それに、この男があなたの夫にふさわしい人間かどうか、まずそれをはっきりさせなければならないでしょう!もちろん先代を誹膀するつもりはありませんが、素性の怪しい人間との結婚を認めるわけにはいきません!あなたの財産を狙ったものでないとどうして言えますか!?」
「それを判断するのはわたしの仕事だ。それにな、わたしは自分の結婚をおまえたちに『認めて』もらうつもりなどない。その必要もない。父の遺言には、わたしの結婚におまえたちの許可が必要だなどと、そんなことが書いてあったか?」
「ジャスミン――」
「聞け。シモンズ。わたしは次の重役会で、この男を副総帥に任命する。おまえたち全員が反対しても、総帥権限で実行する。この男はクーア財閥の株主でもあるからな。経営に参加する資格は充分だ」
シモンズは大きく喘いだ。赤く染まっていた顔か一気に白くなった。
「ま、まさか、あの凍結株を……」
「副総裁になれば、この男はおまえの上司だ。口のきき方に気をつけるんだな」
「ちょっと待ってください!そ、そんな、それに、我々に無断で結婚されたのでは……こ、困ります」
「そういう文句は役所に言え。婚姻届が受理された時点でわたしの結婚はすでに成立している。それを不当だと言うのなら、いっそのこと、あの婚姻届を無効にするようにと圧力を掛けてみたらどうだ?公務執行妨害で逮捕されてもよければの話だがな」
ケリーはひたすら笑いを噛み殺していた。同時に不思議に思った。
ジャスミンの弁によれば、この男はジャスミンの失脚を狙っている連中の一人だ。しかし、こうして見ていても両者の度量の差は歴然としている。
この男は今日の記者会見のことも知らなかった。ジャスミンがケリーに問題の株を譲渡することさえ推察できず、何ら手を打つこともできなかった。
シモンズは今や酸欠寸前だ。陸に打ち上げられた魚のように苦しげに喘いでいる。
この程度の男が、女王に立ち向かおうというのが無理なのだ。まるで話にならない。
「話がそれだけなら行け。わたしは少し仕事をする。邪魔はするな」
シモンズがよろめきながら社長室を出ていくと、ジャスミンは端末の前に座って、仕事にかかった。
「今のがあんたの敵の一人ってわけか?」
「わたしは彼らを敵だと思ったことはない。彼らがわたしを敵視しているんだ」
「しかしだ、ありゃあ、とてもじゃないが、あんたの命を狙うような大それたことはできそうにないぞ。それとも他の重役達の中に、もっと危なそうなのがいるのか?」
「いいや、たいして変わらない。彼らの言いたいことを総合すると、深窓の令嬢は令嬢らしく、経営に口を挟んだりせずに黙って株の配当だけ受け取っていればいいんだと、そういうことらしい」
ますますわけがわからなくなった。
「そんな連中を片づけるのに、どうしてあんたが、そんなに苦労するんだ?」
「一人二人ならともかく七人だ。かよわい女一人で相手をするのは少々きついのさ」
「そのふざけた形容詞は今すぐやめろ」
ジャスミンの話によれば、故マックスは圧倒的な存在感で君臨する帝王だった。重役とは言え、彼らの役目はあくまで補佐的なものだったらしい。
それに、たった七人しかいない役員だ。派閥をつくるほどそれぞれが反目し合うことはなかったが、とりわけ仲がいいとも結束が強いとも言えなかった。
「それが今ではあんたを引きずり下ろす方向に?」
「おお、固まった固まった。攪拌をやめた生コンクリートみたいにかちんこちんだ」
命に拘わる一大事のはずか、この女にかかると、何かの冗談か漫才のようである。
ケリーは低く笑った。
「湿った粘土は形は変わっても割れないが、乾いた粘土はすぐ割れるんだぜ」
「なに?」
「そんなにからからに乾ききっているなら、きっと、ひびも入りやすいんだろうなと思ったのさ」
ジャスミンも満足そうに笑い返した。
「わたしの男を見る眼は実に確かだ。――ところが、乾いた粘土に水をやろうとする余計な奴もいる」
「会話がつながってないぞ、女王」
「こんな結束は長くは続かないとわたしも思ったさ。まとめ役がいるんだ」
「誰だ?」
「それがわからない。七人とも、わたしが名実共に総帥になろうとしていることを苦々しく思っている。自分たちのうまみを取り上げられるのを嫌っている。――それだけのように見えるんだ。事実、何人かはその通りの人間なのかもしれない。が、少なくとも一人は違う。誰か一人は絶対に違う。腹の中に黒いものを抱えながら、間抜けのふりをしているんだ」
「そして、裏から他の仲間をうまくまとめてる?」
「そう考えなければ説明がつかないことか多すぎる。――ところで、ダイアナは実在の人間になりすますこともできるか?」
「はん?」
「艤装がすみ次第、連邦に出発するからな。うちの乗務員を何人か覚えてもらいたいんだ」
「連邦って、連邦か?」
「ああ、共和宇宙の首脳を集めて開催される会議があるんだ。もちろん、わたしとおまえで参加する。ダイアナをその護衛艦として同行させたいんだが、人の乗っていない護衛艦じゃまずい。かといって、あの船にうちの人間を乗せる気はない。ダイアナが一人で何役か演じてくれれば丸く収まるんだ」
ケリーはため息を吐いて首を振った。
「そんなえらそうな会議なら、シティで開かれるんじゃないのか?」
「もちろん」
「クーア財閥の特権で身元調査をパスできるか?」
「いいや。照合用に個体情報を登録することになる。それが何か、問題なのか?」
「ああ。俺は一度、逮捕されてるからな」
「連邦警察にか?」
「いや。名前を言ってもわからないような小さな国だったが、それでも公的機関には違いない」
投獄される前に脱走はしたものの、指紋その他の個体情報を採取されるのは避けられなかった。
そのデータは連邦警察に送られ、当然、連邦にも送られているはずだ。
まして、シティ。
連邦内でその名は『本部』を意味している。
確かに街には違いないが、セントラルからも独立した存在として機能している。その入国審査(本当は市なのだが)の厳しさは共和宇宙一だ。
「セントラルはともかく、シティはまずい。クーア財閥総帥の夫と海賊のケリーとが同一人物だって、たちまちばれる。へたすりゃ俺はその場で逮捕だ」
「それなら、おまえの犯罪歴を消しておけばいい」
「どうやって?相手は田舎の旧型頭脳とはわけが違うんだぞ」
シティのすべてを統括する人工脳は『ゼウス』と呼ばれている。共和宇宙連邦の誇る最高の頭脳だ。
「ダイアンでさえ、あれをたらし込む自信はないと断言した代物だ。迂閥に接触したら、それだけで逃げられなくなる。そんなものをどうやって……」
「やるだけやってみるさ。もっとも、ここからではさすがに無理だな。近づいてからだ」
ジャスミンは造船関係の記録を操作していた。
五万トン級の船が一隻、新たに艤装を済ませて、護衛艦として就航したという架空の記録を潜り込ませたのである。
ケリーの船がこの星の造船所で艤装しているのは本当だった。こっそり危ないのが信条の海賊船が、おおっぴらに武装しているのである。
何とも言いようのない話だが、ダイアナはこの事態を面白がっていたらしい。
ケリーの船の新しい船名は〈パラス・アテナ〉
乗務員も決まった。ただし、実際には乗艦しない乗務員だ。ジャスミンはその乗組員連(といっても艦長、副長、通信士、機関士の四人だけだか)に、これは非常に特殊な、重大な務めだと言い聞かせた。
「なぜ〈パラス・アテナ〉に実際に乗艦しないのか。なぜ、乗艦していることにしなければならないのか。そうした諸君の疑問はもっともだ。これに関しては、申し訳ないが、納得のいく説明は不可能だと思ってもらいたい。ただ、これだけは断言する。あの船に生きた人間を乗せるわけにはいかないんだ」
乗務員達はますます困惑した様子だった。声紋や網膜反応を記録し、通信画面の金髪美人としばらく雑談してくれと言われたときはなおさらだった。
それでも黙って従ったのは、ジャスミンに対する信頼なのか、あるいは総帥直々の命令に怯んだのか、それはわからない。
ケリーを副総帥に任命するための役員会は結局、開かれなかった。役員全員が欠席するのはわかっていたからである。それでもジャスミンは総帥権限をもって、財閥の新たな役員にケリー・クーアの名を加えたのだ。
「連邦へ行くって言うが、他の役員達はどうする。ほっといていいのか?」
「だから行くのさ。いいか、わたしは結婚したんだ。おまえの持ち株とあわせれば、クーア財閥は事実上、わたしのものだぞ。誰かは知らんが、腹に一物ある人間がこの事態を黙って見ていられるはずがない。必ず何かしでかすはずだ」
とはいうものの、そこは連邦軍のお膝元である。
そんなところで騒ぎを起こすのは、火薬庫の中で火を焚くようなものだと思うのだが、ジャスミンは真剣に襲撃を懸念していたらしい、
数日のうちに〈パラス・アテナ〉の艤装は終わり、〈クーア・キングダム〉は連邦に向けて出発した。
宇宙空間にゆっくりと進み出したその姿はまさに、動く宮殿というのにふさわしい。
随行するのは護衛艦〈パラス・アテナ〉。そして、同じく護衛艦〈メルクリウス〉である。
跳躍のために〈|駅《ステーション》〉に向かう途中、〈クーア・キングダム〉のゴールドマン船長は、駅の郵便担当官から伝言を受け取った。
連邦警察のハイタワー警部からミズ・クーア宛に電子郵便が届いているという。
受け取ったジャスミンが開いてみると、ゲート・アウト後にぜひお会いしたいという内容だった。
「どうなさいます?」
「断る理由もない。それに、警察には協力するのが市民の義務だしな」
全然信じていない口調でジャスミンは言った。
著名人はこういうときに困るのだ。会わないと、何を言われるかわからないのである。
通信士はその旨を郵便担当に伝え、郵便担当官は一足先に〈|駅《ステーション》〉を通じて、通信を送った。
アドミラル星系には〈アドミラル太陽広場駅〉と〈第五惑星前駅〉の二つの駅がある。〈クーアキングダム〉と二隻の護衛艦は、連邦に直行できる〈第五惑星前駅〉に向かった。
遠目から見る〈|駅《ステーション》〉は宇宙空間に浮かぶ、針金でつくった巨大な毬のようだった。
針金は全部で八本。それらが縦に重なり合って、つくりかけの地球儀にも似た形をつくっている。
つまり、中には何もない。
巨大な輪の中に空っぽの宇宙空間が広がっている。
その部分こそが〈|門《ゲート》〉だった。
近づくにつれ、骨組みだけの〈|駅《ステーション》〉が、恐ろしく巨大な建造物であることがわかる。何しろ、一本の針金の太さは百メートル以上。それが構成する輪の直径は優に五キロメートルに達する。〈|駅《ステーション》〉には全体に様々な色のイルミネイションが取り付けられていた。それは絶えることなく煌めき、暗い宇宙に燦然と輝いている。
管制の指示に従って、〈クーア・キングダム〉と二隻の護衛艦は次第に速度を落としながら〈|駅《ステーション》〉に接近していった。
『|乗り場《プラットフォーム》』を設けてあると言っても、進入する部位を間違うとまったく別の宙点に跳躍してしまう。
まして〈|門《ゲート》〉は生き物だ。磁気嵐や太陽風の影響などで、使用できるときとできないときがある。
どの船もこのときばかりは慎重に管制官の指示に耳をすませるのが常だった。跳躍に必要なあらゆる基準を満たしていると確認した上で、タイミングを見計らい、重力波エンジンを作動させる。
アドミラルから連邦まで百二十光年。その距離を〈クーア・キングダム〉は一瞬にして跳躍した。
気づけばそこはもう連邦太陽系内であり、駅から跳躍終了を確認する通信が入った。
「連邦にようこそ。航路を指示します」
セントラル星系に三つある〈|駅《ステーション》〉の中でも、この〈|駅《ステーション》〉は惑星セントラルからもっとも離れている。これから通常航行で十時間は飛ばなければならない。
クーア財閥に力があっても、こればかりは自由にならないことだった。〈|駅《ステーション》〉は人間が拡張したいと思ってできるものではないし、好きなように近道をつくれるものでもない。
ケリーは〈クーア・キングダム〉にあてがわれた居室のスクリーンで、だんだん近づいてくる恒星を眺めていた。まだ見えないが、セントラルも確実に近づいているということだ。
自分のような人間には鬼門とも言える星であり、足を向けられるようなところでもないというのに、まさかこんな日が来るとは、わからないものである。
ケリーの当面の仕事は、セントラルの警備体制を頭に入れることだった。宇宙港の位置、艦隊の配備、地上の地理など、詳細な図面が連邦本部から直接送られてきているのである。海賊の身では間違ってもお目にかかれない代物だった。
苦笑を洩らしつつ、護衛艦〈パラス・アテナ〉を呼び出すと、見たことのない中年男が画面に現れた。
ケリーを認めてちょっと緊張した面もちになり、しかつめらしく言う。
「こちらは護衛艦〈パラス・アテナ〉。わたしは艦長のリーブック・ダモットです。ミスタ・クーア。何か御用でしょうか?」
「ふざけるなよ、ダイアン」
ケリーが言うと、ダモット艦長のしかつめらしい顔はたちまち崩れて、ダイアナの姿になった。
画面上の映像にすぎなくても、ダイアナはなかなかおしゃれである。まめに服装を替えたり、化粧や髪型を変えたりするが、今は明るいピンクの口紅が眼を引いた。笑って肩をすくめた。
「あなたの奥さんは厳しいのよ。呼び出しには必ず、今のように答えろって。ちゃんと人間が乗っているようにみせかけろっていうんですもの。おかげで四人分もの変装をする羽目になったわ。今の、どう?本物のダモット艦長に見えたかしら?」
「実物を見たことがないから何とも言えないな。あとで確認しておくよ」
ダモット艦長以下〈パラス・アテナ)の乗務員は、実はこの〈クーア・キングダム〉に乗り込んでいる。
「まったく、無茶な女王様だ。連邦だぜ?しかも目的地はシティときた」
「本当に下りる気なの?『ゼウス』ってそりゃあ融通の利かない石頭なのよ」
「さあてね。どうする気なんだか」
「何かあったらわたしを呼んでちょうだい。すぐに飛んで行くから。幸い、武装は充分だしね」
「おいおい、足下は連邦だぞ。そこで騒ぎを起こす気かよ?」
「他に手段がないのならね。あなたが刑務所に送られるのを黙って見ているくらいなら、その刑務所を壊してしまったほうが早いじゃない」
さすがは『クレイジー・ダイアン』だ。ケリーは苦笑しながら言った。
「ダイアン。女はしとやかなほうがいいぜ」
「ケリー。それは、わたしにじゃなくて、あなたの奥さんに言いなさいね」
「ありゃあ、言ったところで手遅れだ」
「ねえ。話は変わるけど――気がついている?」
「ああ。見えてるさ」
多機能スクリーンは半分にダイアナの姿を映し、後の半分には、この船に接近しつつある連邦警察の巡視船を映し出していた。
あれを見ても逃げなくていいのはありがたいが、わざわざ乗り込んでくるとは穏やかでない。
ジャスミンは特に気にした様子もなく、
「おまえも同席するか?」
と、言ったが、ケリーは苦笑して辞退した。ただ、会話をこっちに流してもらいたいと希望を述べると、ジャスミンは快く承知してくれた。
巡視船のシャトルでやってきたハイタワー警部は、見るからに精力的であり、熱血的な中年男だった。
足取りは勇ましく、体格も充分に立派なのだが、ジャスミンはその警部より十センチは背が高い。
応接間でジャスミンを前にしたときは、さすがに強面の警部も眼を白黒させたものだ。
ジャスミンにとっては慣れた反応である。笑顔で挨拶した。
「ようこそ。警部。ジャスミン・クーアです」
「こ、これはどうも。レックス・ハイタワーです。いや、実に、その……」
しどろもどろになりながら、警部は何かを強引に飲み下すようにして、言った。
「お美しくて、いらっしゃる」
よほど『ご立派な』と言いたかったのだろうが、かろうじて思いとどまったらしい。
ジャスミンは警部にお茶を勧めると、世間話から入ろうとしたが、警部のほうはもっと率直だった、
単刀直入に言った。
「お忙しいところ、時間を割いていただいて、感謝します。早速ですが、こうしてお目にかかったのは、ぜひ、ご相談したいことがあるからです。あるいは、捜査に協力をお願いしたいと申し上げたほうが適切かもしれません」
ジャスミンは面白そうに眼を見張った。
時間を無駄にしないですむのはありがたい限りだ。
「むろん、わたしにできることでしたら喜んで協力させていただきまずが、どのようなことをお求めでいらっしゃいますか?」
「ありがとうございます。実は、お話しする順番が逆になりましたか、連邦警察では様々な事件を扱うのですが、わたしは主に海賊を担当しています」
「ほう?」
「少しご説明致しますと、海賊というものにも二種類あります。一つは組織だって民間船や商船を襲い、金品を強奪し、人質を取って身代金を取るギャング集団です。ですか、わたしの専門はこれではありません。もう一つの海賊――不法航海者のほうです」
「不法な航海、ですか?」
「そうです。昔ふうに言えば、無頼者というのでしょうか。航路を守らず、無断出入国の常習犯であり、好き勝手に宇宙を飛び回り、同じ無頼者と公海上で刃傷沙汰を起こしたりする。それだけなら大騒ぎをするほどのことでもないのですが、そうした不法航海者の中に〈|門《ゲート》〉の不法所侍者が存在するとなると話は別です。わたしはその捜査を担当する者です」
一気に話した警部は茶器に手を伸ばした。陶磁に銀をあしらった、庶民の身では触れるのも恐ろしいような代物である。
慎重に取り上げて、紅茶を一口含んだ。
味がちゃんとわかったかどうかはともかくとして、警部はさらに話を続けた。
「あなたはあのマックス・クーアのご令嬢であり、クーア財閥の総帥でもいらっしやる。〈|門《ゲート》〉の重要性は今さらわたしが話すまでもなく、よくご存じと思います。しかし、この仕事をしているといやでも気づかされることですが、〈|門《ゲート》〉を発見できるかできないかは、才能とでもいうのでしょうか、個人の資質によるところが大きいようなのです。探査機もずいぶん進歩したものですが、いかんせん宇宙は広い。無駄にすぎるくらいに広い。その探査機をどこで使えばいいか、これは人間が決めることです。結果、一生を費やして一つも見つけられない人間もいれば、わずか一年で複数の〈|門《ゲート》〉を見つける人間もいる。この両者の差はいっそ見事なくらいです。もちろん運もあるのでしょうが、もしかしたらこれは、そんな言葉で片づけてよい問題ではなく、一種の超能力と考えるべきなのかもしれません。そういう意味では、あなたのお父上もたいへんな方でしたな。お父上が発見した〈|門《ゲート》〉は確か五十六。それもお若い時分、宇宙を放浪していらした頃だけの数字だというのですから、失礼ですが、怪物と呼ばれたのも頷けます」
「それほど大仰なものではありませんよ」
と、ジャスミンは笑った。
「警部は先ほど、才能か資質かと言われましたか、わたしなら運を第一にあげます。父のことを、人はいろいろに言うようですが、娘のわたしから見れば、父は天才でも怪物でもなく、もちろん超能力の持ち主でもなく、ただ、運か良かっただけの人間です」
「しかし、常人には計り知れないほどの強運ですぞ。そこにはやはり、何か特殊な、立派な才能が働いているのではありませんかな」
強調して、警部は居住まいを正した。
「ミズ・クーア。我々は現在――いえ、もう何年も前から、ある男を追っています。この男は……まだ若い男なのですが、あなたのお父上以上の超能力の持ち主です。その男が不正に所持する〈|門《ゲート》〉は――あくまで推定ですが、百を越えます」
さすがにジャスミンも眼を見張った。面白そうに微笑した。
「それはまた、個人の記録としては全宇宙一ですね。確かに、桁外れの才能です」
「感心している場合ではないのです。いいですか。それらの〈|門《ゲート》〉は全部、未申告なんですぞ」
「では、その男が本当に百以上の門を知っていると、どうしてわかったのです?」
「申し訳ありません。それは捜査上の秘密とさせていただきたい。とにかく肝心なことは、その男は、我々の知らない百以上もの宇宙を知っているということです。それだけの数を隠し持っていること自体けしからんのですが、さらに問題なのは、その先にあるものです。この男が所有する〈|門《ゲート》〉の中には、何と言いましょうか、人類にとって非常に貴重ながけがえのない有益な資源に繋かるものが少なからずあるのです」
「失礼ですが、もう少し具体的にお願いします」
「内聞にお願いできますかな?」
「もちろん、お約束します」
「では、申し上げましよう。我々は、その男がある闇ブローカーに、二十三グラムのトリジウム結晶を売ったことを突き止めました」
ジャスミンは何も言わなかった。
しかし、その灰色の眼は大きな驚きに見張られ、同時に激しい疑問を投げ返していた。
警部は大きく頷きを返し、さらに熱心に身を乗り出したのである。
「さすがによくおわかりでいらっしゃる。そうです。二十三グラムのトリジウム結晶です!我々の科学捜査研究班は実物を見るまで決して信じようとしませんでした。そんなものは一キログラムのダイヤモンドの塊と同じで、あるはずがないというのです。しかし、結晶は紛れもない本物、まったくの自然天然物でした。科捜研班長はその場で危うく卒倒するところでしたか、正気に返るや否や眼を血走らせて言いましたよ。こんなものが単品で転がっているはずがない。必ず、これが発見された場所の近くに鉱脈があるに違いないとね。入手経路を説明すると、何としてもその男を引っ捕らえなければならないと班長は絶叫しました。我々も同意見です。その男は明らかに、天然トリジウムの結晶が存在する場所を知っているのです。我々の宙図にはない場所を――恐らくは惑星を見つけていながら申告せんのです!人類全体に大損害をもたらす大犯罪です」
ジャスミンは小さな吐息を洩らした。少し考えて言った。
「そのお話が本当なら、その採掘権はぜひ我が社が落札したいところですが、肝心の場所がわからない。その男の居場所もわからないと言うのではどうにもなりませんな」
「ミズ・クーア。わたしがここにお伺いしたのも、そのためです。まことに失礼ですか、あなたはその鉱脈の場所を――あるいはその男の居場所をご存じなのではありませんか?」
「警部。知っていたら真っ先に採掘にいきますよ。第一、わたしがその男の居場所を知っているという根拠は何です?」
警部は初めて、言いにくそうな表情になった。
そわそわと指を組み、咳払いした。
「実は、問題のその男は、本名、年齢、国籍すべて不詳。ただ、片目が義眼であることと、唯一、その、通り名として、ケリーという呼び名だけが知られている男なんです」
ジャスミンは今度こそ、楽しげな笑顔になった。
「そういうことでしたら、警部。ケリーという名の男性と結婚した、共和宇宙に存在する何百何千という新婚の女性達にも協力を求めなければ、公平とは言えませんよ」
「わかっております。これがある意味、たいへん失礼な質問だということも承知の上です。ただ、あなたはクーア財閥の総帥です。世界のエネルギーを支配する企業の頂点にいる方です。その人かケリーという名の、しかも『|門を探す人《ゲート・ハンター》』を職業にしている人物と結婚したとなりますと、我々としてもその、一応の確認をせねばならない必要に迫られたのです。どうか、ご理解ください」
「あなたの立場と事情には一市民として同情します。ですか、どうなさいます?夫を呼んで、あなたのお捜しの人物かどうか、面通しさせましょうか」
「いえ。それには及びません。わたしはただ、そのケリーなる男が何を隠し持っているのかを、知っていていただきたかったのです」
「わたしに?」
「あなたに」
警部はひたとジャスミンの顔を見つめた。猟犬が獲物を見るような眼だった。
今すぐ結婚した相手の素性を調べなおしたほうがいいと訴えているようでもあり、知っていて隠しているのならあなたも同罪だぞ、と圧力を掛けているようでもあったが、そんな威迫がジャスミンに通用するわけがない。
クーア財閥の総帥は|嫣然《えんぜん》と微笑んだ。
「お話はよくわかりました。警部。もし、その男を発見するようなことがあったら、市民の義務として速やかに警察に通報しますよ」
警部が帰ったとき、船内時間はすでに夜だった。宇宙空間では昼も夜もないが、人間は眠らなければならない生き物だ。もちろん、乗務員全員が一度に眠ることはない。交代で二十四時間働いてはいるが、夜はやはり活気が消えて、静かな雰囲気になる。
そこへ新たな客人か面談を求めてきた。
今度は連邦宇宙軍の将校である。
直接会いたいとは言わず、通信で話すことを希望しているという船橋からの連絡だった。
ジャスミンはいったん返答を保留し、イザドーに夜食を頼んで、ケリーの部屋に向かった。
現在、〈クーア・キングダム〉には船長室が三つある。一番豪華な設備の整った部屋という意味だが、船長本人、ジャスミン、そしてケリーの個室がそれだった。
「入るぞ」一応、声はかけたものの、ケリーには見向きもしない。通信機に近寄って、軍からの通信をこっちに回すように船橋に伝えた。
見ていたケリーは首をすくめた。
どうせ、今度の話もケリーが聞きたがるだろうと気を回したつもりらしいが、心臓に悪い話である。
逃げるが勝ちと判断して、通信画面に入らないところまで移動した。
高みの見物を決め込むことにしたのである。
画面に現れたのは、短く刈りあげた頭と、太い首、広い肩をした典型的な軍人だった。敬礼して言う。
「初めまして。ミズ・クーア。わたしは共和連邦宇宙十二軍セントラル星系団、中央方面防護連合艦隊総司令官ミハイルコフスキー中将です」
連邦軍の巨大さと複雑さは、それこそ『ゼウス』以外、誰も把握していないのではないかと思われるくらいだが、これは比較的わかりやすかった。
要するに、連邦お膝元の、このセントラル星系の治安に当たる実戦配備部隊の、一番えらい人である。
そうした関係上、挨拶に連絡してきたのだと思われたが、中将は、ジャスミンの連邦訪問を歓迎する言葉を延べると、意外なことを切り出した。
「先ほど、連邦警察の人間がそちらにお伺いしたと思うのですが、話は聞いていただけましたか?」
「ええ、なかなか刺激的なお話でした」
頷いて、ジャスミンはちょっと首を傾げた。
「軍の方がなぜ、警察の業務をご存じなのです?」
「実は、この一件に関して、軍部は警察と共同してあたっているのです」
「あなたも、海賊退治を?」
中将は苦笑して、首を振った。
「軍には管轄というものがあります。わたしはこのセントラルを守るのが務めです。ただ、知人がその務めについておりますのでね。連邦軍が海賊一人を捕らえられないのかと思われるのは不本意ですので、説明しておきますが、その知人は、木っ端微塵にしてしまうわけにはいかないからだと言っていました。必要なのはその男の記憶だけですから、必ずしも生きたまま捕らえる必要はないのです。最悪の場合、脳髄さえ無事なら記憶は採取できます。しかし、船ごと破壊してしまってはそれもかないません。地上で捕らえることさえできれば、その場で心臓を撃ち抜いてやるのだが、とにかく逃げ足だけは早い男で、手を焼いているとのことでした」
「ご苦労様です」
「数多くの〈|門《ゲート》〉とエネルギー。あなたにとっても決して他人事ではないでしょう」
「ええ。先ほど警部にもそう申し上げました」
「今回の連邦訪問には何か、理由が?」
ジャスミンはにっこり笑って答えた。
「特に理由はありません。あえて言うなら新婚旅行といったところでしょうか」
「おお、これは失礼いたしました。ご主人ともども楽しんでいらしてください。セントラルに滞在中は護衛がつきますから、どうぞ、お側においてお使いください」
「護衛?わたしにですか」
「あなたとご主人のお二人にです。連邦としては当然の配慮であると考えております」
「お気遣いはありがたいのですが、シティの治安は全宇宙一でしょう。護衛は必要ないはずです」
「もちろん、シティは絶対に安全な街です。それは我々が保証します。しかし、あなたは共和宇宙でももっとも重要な人物の一人でいらっしやる。どうか形式上だけでも、そのようにさせていただきたいと十二軍長官も申しておりました]
「わかりました。そういうことでしたらありがたくお受けします」
中将も笑顔で答え、通信はそこで終わりになった。
いつの間にか、部屋の隅に控えていたイザドーが、夜食の支度をしながら声を掛ける。
「お嬢さま、旦那さま。お話はおすみですか?」
「ああ」
「話をしてたのは俺じゃないぜ」
イザドーが用意した今日の夜食は、午後のお茶のような内容だった。
紅茶の他にパンケーキやマフィン。甘いものが苦手なケリーにも、フィッシュサンドイツチや小さなチキンパイなどが用意されている。
イザドーが下がっていった後も、香り高い紅茶を前にして、ジャスミンは浮かない顔だった。呆れたようにケリーに話しかけてきた。
「おまえ、ずいぶんな人気者だったんだな」
「あんな連中にもててもちっとも嬉しくないかね」
ケリーの表情も苦々しい。
マークされているのは知っていたが、予想以上に詳しい情報を握られていたことがわかったのである。
彼らが実力行使に出なかったのはひとえにクーア財閥の名のせいだ。警察も軍も慎重にならざるを得ない、それだけの力がクーアの名にはある。
「生死は問わないと言っていたが、あれは嘘だな。死んだ脳から得られる情報は限られている。連中はどうしても、生きたままのおまえが欲しいはずだ」
「あんたは?」
「うん?」
「俺に何か訊きたいことがあるんじゃないのか?」
「あるとも。例の二十三グラムのトリジウム結晶、いくらで売った?」
「ありゃあ確かマースで売ったが、そんなに高くは売れなかった。足元を見られてな。それでも、分譲マンションの小さいのを一つ、ぽんと買えるくらいの金額にはなったかな」
すると、ジャスミンは真顔で頷いた。
「今度はうちへ持ってきてくれ。倍の値段で買う」
ケリーは小さく吹き出した。
「つくづく、おかしな女だな、あんた。エネルギー企業のトップとしても変わってるぜ。――それとも、このお茶にはもう自白剤でも入ってるのか?」
薬物反応がないのはわかっていたが、あえてそう言ってみる。
トリジウムは『魔法の金属』とまで呼ばれる希少金属だ。特にエネルギー関連において、その価値は計り知れない。しかし、その鉱山は共和宇宙全体を探しても数えるほどしかない。おまけに、一トンの岩石中に二十グラムが含まれていれば最優良鉱山であるというくらい、採掘量が少ない。
クーア財閥ももちろん鉱山を有しているが、埋蔵量には限りがある。新規の鉱山の確保と開発は最重要課題でもあるはずだ。
目の前に座っている男の頭の中には、莫大な宝の山が詰まっているというのに、ジャスミンの態度は変わらなかった。お茶を飲みながら平然と言う。
「おまえが見つけたんだろう?だったらおまえの好きにすればいいさ。――百以上とはよく見つけたもんだが、〈|門《ゲート》〉は発見した者に権利があるんだ」
「犯罪者を除けば、だがな」
「それより、問題は軍だ。まったくわかりやすい脅迫だった。それとも試験かな?ああ言って脅しておいて、わたしがおまえをこの船に残していくようなら『大当たり』。シティに下りるようなら願ったりかなったりだ、自動的に個体情報を照合できる。どっちにせよ、おまえの素性を確かめるつもりだ」
予想された事態である。
ジャスミンの出方が知りたくて、ケリーはわざと言ってみた。
「俺としては心臓を打ち抜かれるのは遠慮したいね。どうするよ?」
「わたしも困る。新婚旅行に来たのに、夫なしでは格好がつかないからな」
「それだが、目的は会議とやらじゃないのか?」
「実際はな。ただ、本当に極秘中の極秘会議なんだ。めったな人間には話せない」
「今のは連合艦隊総司令官だぞ?」
「まだまだ。連邦内でもこのことを知っているのほほんの一握りの人間だけだ。軍そのものの長官ならともかく、単なる一方面隊の指揮官程度にはとてもとてもうち明けられない」
「大仰だな。いったいその会議で何を決めようっていうんだ?世界大戦でもおっぱしめる気か?」
ジャスミンはしばらく沈黙して、ゆっくり答えた。
「そんな堅苦しいものじゃない。何かを取り決めるわけでもない。ただの――そうだな。見せ物だ」
「なに?」
「めったに見られない珍しいものが連邦に来るんだ。たぶん、面白いものを見せてやれると思う。もっとも、わたしもまだ、実際には見たことはないんだ」
「いったい何を見せてくれるって?」
「人類以外の知的生命体」
咄嵯に反応できなかった。
ケリーは思わず座り直して、ジャスミンを見た。
よほど笑い飛ばそうかとも思った。人類が宇宙へ進出して長いが、知的生命体と言えるほどのものはまだ発見されていない。それが定説だったからだ。
「そんな話、一度も聞いたことかないぞ。いったい、いつ発見されたっていうんだ?」
「五十年前」
ケリーは何度も眼をしばたたいて、穴の開くほどジャスミンを見つめたが、その顔は大真面目である。
「それが本当ならどうして発表しない?」
「できるわけがない。大パニックになる」
ジャスミンは、何とも言えない顔で真っ赤な髪を掻いた。
「その連中はな、この宇宙は自分たちが創造したと主張したんだ」
「それは誇大妄想の狂信者か?それとも、たちの悪い新興宗教の団体か?」
「当時の連邦委員会もまさにそう思ったんだ。吹くにもほどがあると、まともに相手ができるかとな。しかし、彼らは本当に人類以外の知的生物だった、らしい。――詳しいことは突っ込むなよ?わたしだって父から聞かされただけなんだからな」
「だったら話は簡単だ。あんたの親父さんは洒落を理解する大うそつきだったってことだ。でなけりゃ、そんな大発見をどうして秘密にする必要がある?」
「勝ち目がないからさ」
「なんだって?」
「マースとエストリアが激しく睨み合いながらも、全面戦争にならないわけはなぜか?互いの戦力が桔抗しているからだ。戦ってもお互い決定的な勝利を収めることはできないが、少なくともどちらかが一方的に負けることもない。両者ともそう思うことでバランスを取っているんだ。だが、もし今ここに、人類より逡かに強力な存在が現れたら?我々の力ではどうあがいても勝てない、彼らかその気になったら星系の一つや二つを簡単に消滅させられる、それだけの力を持った存在が目の前に立ちふさがったら?彼らが一応は友好的であり、人類とは深く関わらないことを望んでいるとしても、人類なんかを相手にするだけばかばかしいと思っているとしても、人間は『攻撃されるかもしれない症候群』に侵されきっている生き物だ。決して勝てないということは、生殺与奪権を相手に握られたに等しいと判断する。圧倒的な勝者に対して手も足も出せない、まさに生殺しだ。普通の人間が……いや、普通のじゃないな、なまじ権力を握ることに慣れた人間がそんな状態に耐えられると思うか?知らないほうがいいこともあるのさ」
「星系を吹っ飛ばすってのは穏やかじゃないが……そんなことを本当にやったのか?」
「さあな、そこまでは知らない。――おまえの言う『知りたい病』の学者達は、昔から人類以外の知的生物を探していた。ただ、政治家達はそんなものは欲しくなかった。いらなかったんだ。未知の友人に出会うとしても、無意識のうちに条件をつけていた。発見される生物は人類より劣った種族に違いない。いいや、劣っていなければならない。知能はたとえていうなら鯨かイルカ程度、文明は人類より遥かに遅れていなければならないと」
ケリーも小さく笑って言った。
「その意見には賛成だ。それなら人類の敵にも脅威にはならないから安心だと。そんなところだろう」
「そういうことだ。人類はその『原住民』を保護し、共存の道を探ろうではないか、とまあ、先住民族の意志をまるきり無視した進出同化予定まで組まれていたらしいか、そんな一方的な思惑は彼らの出現でぱあになった。まさに木っ端微塵のこなごなだ」
肩をすくめて、ジャスミンは夫に眼を向けた。
「おまえも宇宙で長く暮らしている男だ。幽霊星の話を聞いたことはないか?」
「――あの、座標がはっきりしない星のことか?視認できるのにれだには映らないとか何とか……あんなものはただの噂だぞ?」
「幽霊星は本当にあるんだ。我々の技術では決して捕捉できないだけで、確かに存在している。その星が彼らの住処なんだ」
マックス・クーアの話によると、彼らの姿は人間そのものだったという。背丈も尋常で、言葉を解し、物腰は穏やかで、しかも、その容貌は美しかった。
宇宙船も、他の如何なる装置も使わずに、連邦に突如として現れた彼らの要求はただ一つ。
幽霊星の近くにある〈|門《ゲート》〉は公共化しないこと、だった。
彼らの主張はこうだ。人間がこれだけ宇宙を自在に行き来するようになったのは結構なことだ。
しかし、自分たちの住処の周りをうろちょろされるのは目障りだし、迷惑である。幽霊星の近くにはいくつかの〈|門《ゲート》〉が存在するが、連邦はそれを知らないことにしてもらいたい。届け出があっても何か適当な理由を設けて、一般には開放しないでもらいたいというのだ。
ケリーは呆れ返って言った。
「何様のつもりだ、そいつら?」
「当時の連邦委員会もまさにそう思った。ところが、さっきも言ったように勝ち目がなかったのさ。父の話によれば、まず拘束しようとしたが、近づけない。なぜかは訊くなよ?業を煮やした警備員だか軍人だかが発砲したが、弾丸が当たらない。それからはありとあらゆる殺傷兵器を試したらしい。銃器爆薬はもちろん、熱線砲、レーザービーム、超音波砲。プラズマ砲、放射能、はては生化学兵器まで試した。たちまち血液が沸騰して即死するはずの猛毒ガスの中で、その連中は平然としていたんだと」
「そいつは本当に生命体だったのか?立体映像か何かだったって可能性は?」
ジャスミンはまた、肩をすくめた。
「いくら驚いたとしても、本物と映像の区別くらいつくだろう。当時の連邦は完全に恐慌状態に陥って、最後の手段として、ありったけの原子兵器を持ち出したくらいなんだぞ。惑星の百や二百は汚染できるだけの量だったらしい。その物騒な花火を使って、実験の名目で、幽霊星が存在すると思われる座標周辺一帯に絨毯爆撃をかましたんだ。ところが、これも無駄だった」
話半分で聞くとしても、恐ろしい内容である。
その正体については、連邦内でも、意見は真っ二つに別れているらしい。一つは、彼らは『|失われた惑星《ロスト・プラネット》』の住民であり、数百年の間に何らかの超能力を身につけた、一種の新人類であるという意見だ。
遠い昔、まだ〈|門《ゲート》〉が発見されていなかった時代、百年以上もの時間を必要とする移民を試みて旅立ち、音信が絶えてしまった人々がいる。
皮肉なことに、たいていの場合、彼らの旅の終着地点はわかっている。だが、近くに〈|門《ゲート》〉がない。〈|門《ゲート》〉がなければ、彼らがやったように通常航行で進むしかない。今では宇宙船も進歩したとはいえ、それでも到着まで何年もかかる。
もっと悪いのが、一方通行の〈|門《ゲート》〉へと出発した人々だ。〈|門《ゲート》〉は必ずしも往復できるとは限らない。行くことはできるが帰ってこられないものもある。〈|門《ゲート》〉が発見された当初から、往復可能か片道型か、それは大きな問題だった。往復型は通常空間を結ぶものだが、片道型はそれさえ保証がない。もちろん、跳躍した先にどんな世界が待っているのか、誰にもわからない。
それでも万に一つの奇跡を信じ、あるいは死をも覚悟して、二度と戻ることのない〈|門《ゲート》〉を跳躍することを選んで旅立っていった人々がいる。
人口爆発が深刻な問題だった時代には、こうした無謀な行為も決して珍しくはなかったのだ。
そうした人々は結局どこにも辿り着くことなく、今も無限に宇宙を漂っているのかもしれない。だが、もしかしたら――それが天文学的に低い確率だとしても――居住可能な惑星を発見して、そこに社会を築くことに成功したかもしれない。
そうした星――この共和宇宙には知られていないが人間が社会を築いている星、あるいは築いているだろうと思われる星を『|失われた惑星《ロスト・プラネット》』と呼ぶのだ。
「もう一つの考え方は、彼らは――宇宙の創造者であるかどうかはともかく、確かに人類とはまったく異なる生態を持つ生命体であるという意見だ」
「いったい何者なんだ、その連中ってのは?」
その語調がどうしても疑わしくなってしまうのは仕方がなかった。
「それがわからないから委員会も困っているのさ。わかっているのは彼らが科学力を必要としないこと、それに、彼らが自分たちを称する種族名だけだ」
「なんて言ってるんだ?」
「ラー一族。そう称している。今度の会議では、その連中が五年ぶりに『ご降臨』なさるわけだ」
「うすっ気味悪い話だ。俺もそれにつきあわなきゃならないのか?」
「ぜひ、同行してもらいたいな。副総帥として」
話の内容はともかく、ジャスミンの狙いはわかるような気かした。
そんなご大層なところへケリーを連れていけば、連邦委員会のお偉方はいやでもケリーを副総帥だと認識するだろう。となれば財閥の重役達がどれだけ慌てふためくか、想像に難くない。
アドミラルに戻ったら、面白い騒動が待ちかまえている気がした。総帥と副総帥が力を合わせたら、彼らは持ち株では勝てないのだ。
この状況で彼らが真っ先にすること、しなければならないことは、ケリーを自分たちの側に寝返らせることである。
やれやれと肩をすくめた。まったくこの女王様は人使いが荒い。いや、的確なのかもしれない。
魚を釣るための餌をうんと太らせるところから始めようとしているのだ。
そのためにもまず、シティである。
「どうやって入国審査に俺を通す気だ?」
「焦るな。切り札は最後に出すもんだ。取りあえず、セントラルに下りよう。話はそれからだ」
何とも心許ないが、ここは任せるより仕方がない。
「おまえ、シャワーは?」
いきなり話を変えられて、ケリーはちょっと戸惑いながら答えた。
「さっき使ったぜ?」
「借りるぞ」
おかしなことをするものだ。
すぐ近くに自分の部屋があるのだから、わざわざここで入らなくてもよさそうなものだが、ジャスミンは本当にシャワールームに項瓦ていった。しかも、出てきたときには下着一枚しか穿いていなかった。
その格好で歩くことを何とも思わないらしい。
水気を帯びた裸体は彫像のように光り、無造作に肩に引っかけたタオルで濡れた髪を拭っている。
「さて、やるか」
そんなことを呟いて、ケリーの隣に腰を下ろした。その重みでソファがきしりと音を立てた。
妙に生々しく響く音だった。
何しろ、決して軽くない体躯である。その重みがソファの上を移動して近づいてくる。
呆気にとられていたケリーはここでようやく我に返った。思わず後ずさりながら言った。
「ちょっと待った。女王。何をする気だ?」
「そういうふうに面と向かって訊かれると困るな。察しかつかないか?」
青みを帯びた灰色の眼が、今は妖しく光っている。
ケリーの顔をじっと見つめたまま明かりを消すと、暗くなった部屋の中で、ジャスミンは言った。
「場所を変えようか。ここじゃ具合が悪い」
長椅子の上でケリーは頭を抱え、深々とため息を吐いていた。
「勘弁してくれ。女王」
正直な感想だった。
確かに自分たちは婚姻届を提出したばかりだし、自分はこの女を嫌いではない。この状況に狼狽えるほど青くもない。それでも、これははっきり言って『反則』だった。ずるいとさえ思った。
「そのへんの男たちよりよっぽど男に見えるくせに、いきなりこんなことをしでかしてくれるんだからな。俺はあんたにどう接したらいいんだ?」
「おまえ、何か勘違いしているらしいが、わたしは生物学的に立派な女だぞ?」
「とてもそうは見えないから言ってるんだ」
薄暗がりの中で、ジャスミンは不思議そうに眼を見張った。
「こんなに胸のある男がどこにいる?」
真面目に言われて、ケリーは長椅子に沈みそうになった。目眩さえ覚えた。
「女王……あんたが今までつきあった連中は、誰も男の誘い方を教えてくれなかったのかよ?」
「ああ、それなら女の友人達のほうが詳しかったな。できるだけ思わせぶりに、焦らすように振る舞えと助言されたもんだが、わたしの流儀じゃない」
「男を押し倒すのがあんたの流儀かよ?」
「いけないか?」
困ったことにその声だけは優しく響くのだ。指もそうだった。意外なくらい器用に動くものだから、いつの間にか服を脱がされそうになって、ケリーは慌ててその手を押さえて訴えた。
「待てよ。これじゃ立派な性的いやがらせだぞ!」
「夫婦間でそんなものは成立しない」
「強姦なら成立する!」
ジャスミンはまた不思議そうな顔になった。
「どうしてだ。わたしは嫌がっていないぞ。強姦も成立しないだろう?」
「『俺』が。嫌がってるんだ」
「だから、どうして?」
今までにも何度か感じたことだが、ジャスミンはときどき言葉が通じなくなる。常識的に考えて当然通じるはずの意思の疎通ができなくなるのだ。
それが今回は特にひどい。
振りほどいて立ち上がろうにも、百九十センチを越える体躯が密着せんばかりに覆い被さっている。しかも、ジャスミンの力は恐ろしく強かった。手を押し返そうとして、ケリーはそれに気づいた。どんな女でもここまでやれば動かせたはずのところまで腕に力を入れても、びくともしない。
この長身だから力があるのもわかるが、それでも驚いた。ケリー自身も並外れた体躯の持ち主であり、腕力にも自信がある。その自分の肉体か、簡単にはあしらえないと判断したのだ。こんなことは初めてだった。同時にまずいと思った。
とてもじゃないが、さらりとふりほどいて『こういうやり方は感心しないぜ』と、格好良くは決められそうにない。強引に立ち上がろうとしたら、逆にみっともなく押さえつけられる恐れがある。迂閥に動けなくなった。
とはいうものの、裸になった身体の見事さに眼を奪われたのも確かだ。湯にぬくめられた肌の匂いも好ましく感じた。拒否する理由はどこにもないのだ。それでも、このまま持っていかれるのは何か危険な気がして、あくまで抵抗を試みた。
「女王。あんたが思ってるほど、男ってのは都合のいい生き物じゃないんだ。それなりにデリケートにできてるってことくらいは理解してもらいたいな」
精一杯の抗議だったが、やっぱり通用しなかった。
非常識な女王は、こみあげてくる笑いを一生懸命喘み殺している。何とか真面目な表情をつくろうとしているのがありありとわかる顔だった。
眼に笑いを残しながら身を乗り出すと、ほとんど言い聞かせるように、ケリーの顔の前で指を振った。
「あのな、海賊。言わせてもらうが、毎朝毎朝半自動的に作動するような代物に『でりけーと』などという表現を用いられても、我々女性としては非常に理解に苦しむんだ」
げんなりした。もうどうにでもしてくれとばかり、ひっくり返ったが、途端に引き戻される。
「投げるな!失礼な奴だな。だいたい、こういうことは共同でするものだぞ」
「よく言うぜ。どう考えても俺のほうが襲われてるだろうが!]
「気がすすまないのか?」
「当たり前だ!」
「それは、困った」
大真面目に言って、両手でケリーの顔を包むと、ジャスミンはその顔を覗き込んで、何とも言えない微笑をつくった。
「わたしは、今、とってもおまえが欲しいんだ」
究極の殺し文句だった。
銃口を突きつけられ、その引き金に指がかかっているのをまざまざと見せつけられているのと少しも変わらなかった。
無条件降伏を宣言せざるを得なかった。
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共和宇宙連邦は、宇宙全体の安定と秩序の維持を目的として、標準暦七三八年に設立された。
設立された当初は二十に満たなかった加盟国も、今では百五十以上になる。加盟国が増えるにつれて、組織のあり方も大きく様変わりした。
自国の利害にこだわる委員達が事態を紛糾させる時代は過ぎ去り、連邦は共和宇宙を統制する役割を担うものになったのである。
その権限を決定づけたのは八四二年に制定された、『有益な資源が新たに発見された場合、その資源は連邦に属するものとする』という条例だ。
その『有益な資源」にはもちろん〈|門《ゲート》〉も、居住可能な惑星も含まれる。
特に居住可能な惑星の場合、その権利を誰に設定するかは、長い間、もめ事の種だった。
発見したのが個人なら、その人間に権利を認めるのか、それともその人間の母国に属するのか。
ずいぶん長きに|亘《わた》って論争が繰り広げられたが、結局は、連邦の運営資金を確保する意味と、どこか一国が多数の植民地を有することを牽制する意味もこめて、いったんの所有者を無条件に連邦と定め、希望者が連邦から買い取る形にしたのである。
連邦にしてみれば、ただで手に入れたものを高く売りつけられるのだから、まさにぼろ儲けだ。
そして現在、連邦は『連邦』という名の国家にも等しかった。特に軍部は共和宇宙最強を誇っている。
「しかし、その分、金もかかる。おまえの頭の中の情報を連中が欲しがるわけだ。連邦軍は『宇宙の平和を守るため』に、常に最強でなければならないが、軍ってのは呆れるくらいの金食い虫だ。また悪いことに例の条例もある。発見したのがおまえだということもきれいに忘れて、それは自分たちの財産だと思いこんでいるんだろう。我々の財産を隠匿した上、独占するとは、あつかましいだの泥棒だのと思っているんだろうよ」
セントラルに下りるシャトルの窓から外の景色を眺めつつ、ジャスミンは連邦の態度をそう分析した。
「今さらとも思うか、その存在を公表するつもりはないんだな?」
「ない」
口広のグラスで発泡性の白葡萄酒を呑みながら、ケリーは答えた。
このシャトルは〈クーア・キングダム〉の搭戦機だった。乗務員も全員、ジャスミンの部下だ。
隣室には秘書のプリスと、ヘレン、ペパーミント、グレースが乗っていた。二人の身の回りの世話をするためだという。
それだけにこの人数は多すぎるとケリーは思い、ジャスミンも同様の注意をしたが、彼女たちは頑として引き下がらなかった。強引に同乗してきた。
「身元のことを気にしているのなら、今のおまえが発見したことにすれば問題なく処理できるぞ」
「そうしたら、クーア財閥が落札するかい?」
「他にくれてやる理由はないからな。そうするさ。同時に、おまえが追われる理由もそれでなくなる」
これは女王なりの気遣いなのだろうが、ケリーは首を振った。
利権が欲しいなら、いくらでもやりようはある。
適当な代理人を立てて申請をすませ、儲けは山分けにすればいいだけのことなのだ。それでも一国の国家予算に匹敵するくらいの金額にはなる。
「金が要らないとは言わないよ。船を改造するにも先立つものか必要だからな。そうじゃなくて、ただ、気に入らないのさ」
ジャスミンは目線だけで話の先を促した。
「連邦の奴らが、正直に申し出ればお上にも慈悲はあるぞともったいぶっているのかな。どうにも気にくわないんだ。あんたの言うとおり、それは連邦のものなんかじゃない。もちろん俺のものでもない。たまたまそこに転がってたってだけのものだ。ま、ちょっとは儲けさせてもらったがね」
「老婆心ながら言うんだか、放っておいたら誰かが見つけて申請する可能性もあるんだ。そうなったら、それは法的に他人のものだぞ。発見者のおまえには指一本触れられなくなる。船の修理代を取りに行くこともできなくなる。それも承知の上か?」
「その時はその時さ。何とかなるだろうよ」
平然と言って、ケリーは乗務員を呼び出し、もう一杯の白葡萄酒を頼んだ。金の泉に小さな泡の立ちのぼるようなそれは、さっぱりと辛くてうまかった。
そのケリーの横顔をジャスミンは妙にまじまじと見つめていたが、不意に顔を近づけて囁いた。
「おまえ、もしかして他にも何か持ってるのか?」
苦笑したケリーである。
「その超能力は親父さん譲りかい?」
「ちゃかすな。まったく、油断も隙もない」
「どっちが」
「ついでに欲もない」
「違うな。俺はただの小心者の善人だってことさ」
「それも信用できない」
にべもなく言い放って、ジャスミンは見事な足を組み替えた。今日は濃紺のスーツに同色のローヒールという装いである。
「そういうことなら、連邦がおまえを諦めないのも道理だ。そうすると、今のわたしがしていることは、狼の群の中に子羊を放り込むに等しいのかな?」
「お伺いしますがね、女王陛下。誰が子羊だ?」
「この下は連邦の本拠地だ。下へ降りたら迂閏なことは一言も話せないと思えよ。どこに何が仕掛けであるかわからないからな」
そんなことを言っている間に地上が迫ってきた。
セントラルには四つの島(大陸)がある。
宙港は一つの島に二つずつある。シャトルが降りたのはフラナガン島のエルパストス宇宙港だった。
フラナガンは他の三つの大陸に比べると小さいが、シティ(連邦本部)はここにある。
エルパストス宇宙港はシティから百キロの位置にあった。セントラルでも最大の宇宙港である。
シャトルはVIP専用滑走路に着陸し、ジャスミンとケリーは同じくVIPゲートに通された。
そこには彼らの護衛を務める人々が待っていた。
全部で六人、目立たないように地味な服装をしているが、宙港事務員とは明らかに雰囲気が違うから、すぐに護衛とわかる。
驚いたことに全員が女性だった。一人が進み出て、ジャスミンに敬礼した。
「滞在中のお二人の護衛を言いつかりました、連邦宇宙第七軍リンダ・グレアム中尉です。以下十三名の部下が行動を共にさせていただきます」
十三人という大人数にも驚いたが、それ以上に、軍人と聞いて、ケリーは意外に思った。
同じことをジャスミンも□にした。
「ただの新婚旅行に連邦が護衛をつけてくれるのはともかくとして、わたしたちは民間人だ。どうして軍の方が?」
「存じません。わたしは命令を受けただけです」
グレアム中尉は年頃二十五、六。金髪をきちっと束ね、百七十五はある体躯を飾り気のないパンツ・スーツに包んでいる。いかにも落ちついた様子だが、黒い瞳には何か激しさを秘めたような光があった。
中尉は、妙に光る眼をケリーの顔に当てて言った。
「初めまして、ミスタ・クーア。滞在中はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
反射的に答えて、ふと疑問を感じた。
「中尉」
「はい」
「俺の妻には、初めましてとは言わないんだな?」
グレアム中尉の顔がかすかに強ばったようだった。
「奥さまには以前、創立六十周年の記念パーティでお会いしましたので」
「あれは確かVIPばかりを集めたパーティだろう。失礼だが、中尉がどうしてそんなところに?」
「それも上層部の意向でした。次の総帥になる方が女性だということでしたので。総帥が連邦にいらっしやる場合は、今回のように、わたしたちが護衛につくこともあります。顔を見知っていただくために、特例として参加させていただきました」
「ということは、中尉の部下は、この場にいない人間も含めて全員が女性か?」
「そうです」
「驚いたな。第七軍って言ったが、七軍には護衛専門の女性部隊でもあるのかい?」
クーア財閥と連邦が切っても切れない関係であることはわかっているが、ずいぶんな気の回しようだ。
「わたしの所属に関しては、すみませんが、詳しいことは申し上げられません」
「軍事機密か」
軽侮の混ざった口調で、ケリーは肩をすくめた。
連邦軍は第一から第十二まであるが、それぞれが完全に独立した軍であり、各頂点に長官がいる。
基本的に同じ戦力を有しているはずだが、互いに競争意識があるものだから、他の軍にはない特色を出そうとして、その軍独自の部隊をつくったりする。
多分、グレアム中尉もそうした特殊部隊の一つに所属しているのだろうとケリーは思った。
「同伴要員としてここには取りあえず五名の部下を残してあります。他の八名は安全を確認するために先行させました」
そうして中尉はその場にいた五人の女性達を紹介してくれたが、彼女たちの雰囲気は何か妙だった。
肉体労働だから、全員が二十代から三十代と若く、厳しい訓練を受けた人間特有の気配を漂わせている。
そこまではわかるのだが、全員が全員、ケリーに注意深く、いやに熱心な視線を注いでいるのだ。
ケリー自身が巨大財閥の総帥で、しかも独身だというのなら、女性達から熱い視線を注がれても納得するのだが、そういう雰囲気でもない。何やら値踏みするような、品定めをするような、どうにも友好的とは言いがたい眼だ。
この目線には覚えがあった。プリス、ペパー、グレース、ひいては〈クーア・キングダム〉のほとんどの人間が自分を見る眼と同じだった。
ジャスミンは随行した女性達を中尉に紹介すると、シティではなく、その隣の市に向かった。ここにはクーア財閥の金融部門本社があるのだ。
新婚旅行にしては変わった行き先である。
迎えのリムジンに乗ってからジャスミンは一言もしやべらない。本当に盗聴を警戒しているのかとも思ったが、様子が変だった。居住まいこそ物静かにしているが、瞳には狂おしいような光がある。その眼はまた黄金に色を変えているように見えた。
「どうした?」
「なにが?」
「珍しくぴりぴりしてるじゃないか」
「そうか?」
何事もなかったように笑い返されて、ケリーは質問の方法を失敗したことに気づいた。話を変えた。
「銀行に何の用があるんだ?」
「ここまで来たんだ。見学していかないのは却っておかしいだろう?それに、そこには問題の重役の一人がいる」
「ははあ……」
あの派手な記者会見のあとである。自分のことはとっくに知っているに違いない。
リムジンはすべるようにクーア銀行前に停まった。
正面玄関とは反対のひっそりした入□だったが、中に入ると、そこには出迎えの人々か見渡す限りに廊下を埋めていた。
仕事中だというのに、こんなことに人手を割いていいのかね、と、ケリーが思ったくらいの大仰さだ。
建物の外にまでこの人々が並んでいなかったのがせめてもの枚いである。
二人目の重役の名はパトリック・サンダース。
共和宇宙に何百と点在するクーア銀行、証券、信販会社などを総合する金融部門を仕切っている男だ。
恰幅のいい、愛想のいい男で、ケリーに対しても至ってにこやかに挨拶した。
「これはこれは、ミスター・クーア。副総帥就任おめでとうございます。それにミズ・クーア。ご結婚おめでとうございます」
挨拶の順番が逆じゃないかいと思ったが、どうもサンダースはシモンズと違って、ケリーをおだててうまく転がそうという腹づもりらしい。
ジャスミンは到着するなり、社内秘扱いの記録を見たいと言いだし、それを理由に護衛の中尉達をも置き去りにして資料室に籠もってしまった。
おかげでケリーは一人でサンダースの相手をする羽目になった。
「お会いできて嬉しく思いますよ。ミスター・クーア。それに、故マックスの友人として、あなたにはぜひお礼を述べたい。何しろジャスミンはご承知の通り、いささか活発な性格ですからね。正直なところ活発すぎるくらいで、あれではとても普通の結婚はできないだろうと案じていたのです。マックスもきっと胸を撫で下ろしていることでしょう」
「こりゃあどうも、恐れ入ります」
普通に結婚した覚えなんかこれっぽっちもないと、胸の内で密かに断言しながら、ケリーは答えた。
シモンズは頭からケリーを財産狙いと決めつけていたが、サンダースは違った。探ろうとしていた。
ケリーが何に興味があるのか、弱点は何なのか、どういう性格で、どんな餌をぶら下げれば動くのか、そんなことをだ。願ったりかなったりである。
わざと困惑の表情をつくって言ってやった。
「俺は何しろ宇宙船の飛ばし方しか知らないもんですから。会社だ経営だって、考えただけで頭が痛くなるんですよ。女房――ジャスミンはそれでも全然かまわないって言ってくれたんですがね。この俺がクーア財閥の副総帥だって?まったく笑っちまう。そんな大層な肩書きをもらったって、いったい何をすればいいんでしょうかね?」
案の定、サンダースは身を乗り出してきた。
「ご心配なく。ミスター・クーア。おっしゃるとおり、クーア財閥は全宇宙でも最大の規模を誇る多国籍企業ですから。その運営ともなりますと非鴬に高度な専門的知識が必要とされますし、業務内容にしてからが、一朝一夕に掴みきれるものではありません。しかし、そのために我々がいるのです。わからないことがありましたら何なりとご質問ください。いくらでもお力になりますよ」
「いやあ、ありがたい。お任せしますよ。まったく困ってるんです。俺のことを財産狙いだと思ってるかもしれませんが、そりゃあ俺だって金は嫌いじゃないですとも。それは否定しませんよ。だけど、利権がどうの採算がどうのって、そんな面倒なことを押しつけられてもねえ」
「ごもっともです」
投げやりなケリーの台詞に、サンダースは何度も頷いている。
ほんの数分話しただけでも、たいして切れる男ではないと感じた。底が浅いと言うべきかもしれない。経営に関してケリーが関心のなさそうな態度を見せるたびに顔がほころぶ。面倒なことは全部こちらに任せて、あなたは遊んでいればいいのだからと暗に促してくる。
これが芝居で、わざと底の浅い人物を演じているのならたいしたものなのだが、それを確かめる前にジャスミンが戻ってきてしまった。
「邪魔をしたな」
と、言いおいて、護衛達を引き連れて銀行を出た。
滞在時間はほんの数分である。絶対に十分以上、銀行内にはいなかった。
リムジンに乗り込んだジャスミンは運転手に、
「シティへ行ってくれ」
と言った。
ケリーは動揺を顔に出すようなことはなかったが、さすがに疑問の籠もった眼でジャスミンを見た。
そこには『ゼウス』が管理する入国審査ゲートがある。『ゼウス』は以前逮捕されたときのケリーの情報を持っている。
問い質そうとしたケリーを制するように、ジャスミンは微笑した。その眼は『任せろ』と言っていた。
ケリーはあきらめたように苦笑して、リムジンの背もたれに身体を預けたのである。
ここまで来たらじたばたしても仕方がない。運を天に任せるだけだ。最悪の場合、本当にダイアナを呼ぶことになるかもしれないが、それも運次第だ。
窓の外を景色が流れていく。
彼方では海が光り、近くは緑がどこまでも大地を覆っている。美しい眺めだった。こんなに豊かさを象徴する光景は他にはなかった。今までのケリーの生活ではあまり見ることのなかった光景でもあった。
やがて景色は変わり、見渡す限り岩と砂の風景になった。
シティは、その荒涼とした土地につくられていた。
緑化できるところにわざわざ都市をつくることはないという連邦の方針でもあり、周囲が砂漠なら、侵入者を容赦なく撃退することかできるからでもある。
一見したところ、それほど侵入が難しいようには見えない。周囲を塀に囲まれてはいるが、その塀も高さはせいぜい五メートル。別に電流が流れているわけでも、レーザーが設置されているわけでもない。
しかし、この街の温か上空では、監視衛星〈ケルベロス〉が一瞬たりとも休むことなく、シティを見つめている。
正規の入口を使わずにシティに入ろうとすると、それだけで〈ケルベロス〉の眼が光る。レーダーに発見されることをこう表現するのだが、その眼からは逃げられない。シティの外壁に取りついたときにはその内側で地上セキュリティが待ちかまえている。
さらに〈ケルベロス〉は攻撃衛星でもあるから、迂閥なことをすれば、衛星軌道上から狙撃される。
要するに、こっそり近づくことができないのだ。
それなら堂々と入ろうとしても、今度はシティの入国審査が問題になる。
身元確認の仕組みそのものは他国で使われている機器類とほとんど変わらない。決定的に違うのは、そのシステムを動かしている人工脳だ。
これは冗談で言われることだが、娘の恋人が気に食わないときは(結婚詐欺が心配ならば)シティへ行かせてみればいいという。
どんなにうまく隠しても、別人になりすましても、犯罪歴があれば『ゼウス』は絶対に見逃さない。
たとえそれが駐車違反程度の小さな犯罪でもだ。
ケリーの記録はもちろん、共和宇宙のほとんどの惑星に送られている。まともに入国しようとすれば、当然、審査に引っかかる。
それを回避していられるのはダイアナの力だ。
ダイアナはそれらの人工脳に、
「その記録、一時的に忘れてちょうだい」
と、お願いする。あるいはたらし込む。
すると、彼らはケリーの情報を持っているのに、指紋照合機に示されたケリーの指紋に気づかない。
網膜様式照合機を覗き込んだケリーの眼を見ても、該当情報なしと判断してしまう。ほれぼれするほど鮮やかな手際なのだが、その手法が『ゼウス』には通用しないのだという。
ダイアナは、
「要するに、これって騙しあいなのよ」
と言った。
「普通の人工脳ってよく言えば素直で、悪く言えば単純だから、わたしの言うことをすぐに信じるの。わたしは彼らと仲良くなれるし、同じものだしね。でも、あれはねえ……がちがちの優等生なのよ。てんで融通がきかないの。ちょっと声を掛けられただけで『襲われるーっ!?』って騒ぎたてるタイプね。あとはもう、どうなだめてもだめ。泣く子には勝てないって言うけど、それに似てるわ」
わかるようなわからないような例えである。
他の人工脳のようにたやすく馳せないことだけはわかったが、個体情報を偽造することは不可能だ。
うんと無理をして両手と眼球を他人のものと取りかえるとしても、DNAだけは変えられない。
シティに到着すると、重要人物夫妻のお出ましとあって、二人はまたも特別な入口に通された。
人間の係官が何人も緊張の面もちで控えている。
掌を置く指紋照合機を何とも言えない眼で眺め、ケリーはほとんどやけくそで右手を置いた。
瞬時に指紋を判別し、同時に掌の汗からDNA様式を分析するはずの機械である。
本当なら、たちまち警報が鳴り響くはずだったが、何も起きない。
片方の眉をちょっと釣り上げ、声紋を登録した。
これも問題なく済んだ。
網膜のときだけば、
「右は眼が弱くてね。反応が上手く取れないんだ」
と、弁解して左眼だけ合わせた。
最後のDNA照合は首筋の皮膚と顔の何ヶ所かを、専用の機器で読みとるというものだった。
これらの情報は、連邦警察に収められている共和宇宙全土の犯罪記録とも照合されているはずだが、どのシステムも何ら異常を訴えない。
狐に摘まれたような思いを抱えながら、ケリーは手順通りに進み、とうとう出口まで来てしまった。
係官はにこやかに「シティへようこそ」と挨拶し、入国審査が終了したことを告げた。
外に出ると、そこには再び緑が広がっていた。
街の外は砂漠なのに、ここには土があり、木々が梢を揺らしている。別世界のように美しい。
とても信じられなかった。ケリーは大きく息を吸い込んで、ジャスミンを振り返った。
「いったいどんな魔法を使った?」
「企業秘密だ」
平然と答えたものの、ジャスミンはちょっとくすぐったそうだった。
あんまり詳しいことは訊いてくれるなという顔で微笑しているが、ケリーとしては訊かないわけにはいかなかった。感心したように首を振った。
「生きているうちにこの土地を踏んだ海賊は、俺が初めてだろうぜ。――さっきの銀行か?」
「企業秘密だと言っただろう?それより、行くぞ。もうじき会議の時間だ」
人間とは別に検査を受けたリムジンに乗り込んで、二人は目的地に向かった。
シティは行政区と居住区に別れている。
そのどちらにも高層建築は一つもない。一番高い建物でも十二階どまりだ。
幾何学的な設計の町並みと、広い敷地にゆとりを持って建てられた低い建物。そこに緑が添えられて、整然とした雰囲気をつくりだしている。
シティは結構な観光名所でもあった。子ども連がよく遠足や見学に来るところでもある。
行政区の中心に向かうと、ニュースでいやと言うほど流れる連邦設立記念碑がそびえ立っているのが見えた。ここまできても、それを実際に自分の眼で眺めているとは信じられないことだった。
行政区には文字通り、様々な機関が並んでいる。連邦議事堂を始め、連邦最高裁判所、連邦警察本部、委員会本部、数え上げればきりがない。
ジャスミンとケリーが向かったのは、そうした堅苦しいお役所の中でも、とびきり派手な建物だった。
連邦委員会主席官邸である。
これもいやと言うほどニュースで見た建物だ。
堂々とした白亜の壁が陽光に輝き、正面テラスに同じ白亜の柱が並んでいる。正面玄関前には噴水が音を立てるその様子は、ちょっとしたお城だった。
ここは連邦の中枢であり、全宇宙で一番、警備の厳しい建物でもある。
そこへ海賊の自分が招かれていくというのだから、ケリーもさすがに肝を冷やした。
「いいのかねえ?」
と、呟いたくらいだ。
「父が死んで、財閥を継いでから、わたしが連邦を訪問するのはこれが初めてだからな。委員の皆さんと親睦を深めるために、夫婦そろって午後のお茶に招待されたという筋書きだ」
「了解」
プリスたちは先に、今夜の宿泊先であるホテルに向かっている。グレアム中尉も、別働隊の部下達をホテルへ行かせたらしい。
中尉本人は五人の部下と一緒に官邸までついてきていた。建物の中までついてこようとしたが、ジャスミンはそれを制し、玄関脇に設けられている詰め所で待機しているように言った。
中尉がその言葉に従うのを見て、ケリーは意外に思った。行き先がどこだろうと傍を離れるわけにはいかないと言い張るかと思ったのだ。
ここは連邦の建物だから安全だと判断したのかもしれないが、それを言うなら、このシティの中で護衛が必要だということ自体がそもそもおかしい。
あの時、中将は『軍長官が……』と言った。
単なる言い回しかもしれないが、何か引っかかる。賓客としてのジャスミンに価値を見いだしているのなら、委員会がそう指示しそうなものだ。
係りの者の案内で二人は会場の大広間に通された。そこにはすでに大勢の人間が集まっていたが、その顔ぶれたるや、たいへんなものだった。
国家で言うなら政府の要職を務める委員が数十人、最高裁判所の判事、司法長官、連邦第一軍から十二軍までの長官がずらり、連邦防衛正副長官、そして、連邦委員会主席である。
ケリーは驚くのを通り越して、笑いたくなった。
ここまで場違いなところに足を踏み入れた経験は生まれて初めてである。今ここに爆弾の一発でも落としたら、たいへんなことになるだろうと思った。
共和宇宙最高機関のピラミッドの頂点がごっそり欠けることになる。
一方、そこにいた人々も、やってきた二人を見て眼を見張っていた。
ケリーは人のことばかり観察していたが、互いに二メートル近い長身のカップルである。そこにいるだけで他を圧倒している。おまけに二人とも抜群の姿の良さだ。目立たないわけかない。
「これはこれは、ようこそ、ミズ・クーア」
にこやかに話しかけてきたのは、共和宇宙連邦の最高権力者であり、この官邸の主人でもある、連邦委員会主席その人だった。
浅黒い肌につるりとした禿頭、黒々と輝く双眸が印象的な、立派な体格の持ち主である。
「お久しぶりです。閣下。この度のお誘い、ありがとうございます」
ジャスミンも神妙に答えて、ケリーを紹介した。
会議はもうじき始まると言ったが、実際にはまだ時間があったらしい。
それにしても妙な雰囲気の会合だった。顔ぶれがすごいのはともかく、ほとんどが沈僻な顔である。
クーア夫妻に対しても、排斥するような眼を向け、
「どうしてこの場に民間人が?」
主席に向かって苦々しげに訊いている者もいる。
その一方、クーア夫妻に露骨な興味を示す人々もいた。ここでもゴシップ精神か、とケリーは呆れたが、それとは少し違うらしい。主に〈|門《ゲート》〉について、今までにどのくらい発見したのか、どの辺の宙域に詳しいのかと、妙にねちっこく質問された。
質問攻めにあったのはジャスミンも同じで、
「なぜ『|門を探す人《ゲート・ハンター》』をわざわざ夫にしたのか」
というのである。
それだけならまだしも、委員の一人が、
「ご主人は問題の惑星を知っているのでは?案外、そこへ降りる方法も」
と言ったものだから、場がざわりとどよめいた。
「本当かね、きみ!?」
「彼らと接触できたのか!」
「あー、ミスタ・クーア。そういうことなら、ぜひ、詳しいお話を訊かせていただく必要がありますな」
表面上はにこやかにしていても、彼らの物言いはお世辞にも好意的とは言いがたかった。
放逐の裏に何やら剣呑なものが見え隠れしている。
おまえたちに独り占めはさせないぞ、というのだ。
ケリーは苦笑しながら、その長身で彼らを圧倒し、
「皆さんはその、人外生命体の存在を信じていらっしゃるんですか?俺は信じませんね。少なくとも、この眼ではっきり確かめるまではね」
ちゃめっけたっぷりに言い返した。
こちらはもともと海賊である。お上品な話術など知る由もないから、適当に答えていた。
ケリーの中には、これはジャスミンのつきあいで、自分のではないという思いがある。だからどんなに吊し上げられても、客観的に眺めていられた。
ジャスミンは積極的に色々な人々と言葉を交わし、特に七軍長官には笑顔で護衛の礼を述べたのだが、勲章の重みで倒れそうなその人物は意外そうな顔になった。心当たりがないようだった。
曖味に笑って、それは恐らく、現場の人間が気を回したのだろうと答えた。
得てしてそんなものである。下の人間がやっていることを、頂上の人間は知らないことが多い。
「皆様。そろそろ時間です。ご着席ください」
主席が声を発すると、人々の間に、細波のように緊張が広がった。
はっきりと顔を強ばらせ、脂汗を掻いている人もいれば、ほのかな不安と期待に複雑な微笑を浮かべている人もいる。以前、見たことがあるかないかの違いだろう。
ジャスミンは席に着く前、ケリーに小声で囁いた。
「言い忘れたが、彼らは人の心を読むそうだから、余計なことは考えない方がいいぞ」
ケリーは眼を剥き、やはり小声で言い返した。
「もっと早く言えよ。そういうことは」
ジャスミンが語った故マックスの話を全部信じるわけではないが、これだけの主要人物が集まって、これだけ緊張の面もちで身構えているのだ。よほどとんでもないものが現れるに違いなかった。
この会場の一画には講壇が設けられている。だが、おかしなことに演説台が用意されていない。
手持ちぶさたの両手を置くためだけのものだが、あれがないとかなり間抜けな格好になる。普通は用意されるはずだ。
その講壇の前に、丸テーブルがいくつも用意され、着席した人々は、ひっそりと静まり返っていた。
講壇の上に人か現れたのは、時計が午後四時を指した、その瞬間だった。
ジャスミンもケリーも、その他数人も思わず眼を見張った。
入口から入ってきたのではない。その人は突如として壇上に出現した、ようにしか見えなかった。
現れたその人は女だった。年頃がよくわからない。肌の美しさは二十代にも十代にも見えるし、泰然としたたたずまいは初老の貴婦人の気品にも通じるところがある。落ちついた茶色の髪をゆるやかに巻きあげて髪飾りで止め、透き通るような薄い服を纏い、足は覆い隠しているが、両腕はむき出しのままだ。一風変わったロング・ドレスに見えた。
ケリーは昔どこかで見た絵、あるいは彫像を思い出していた。確か、古いおとぎ話に出てくる美の女神、それとも戦いの女神だったかが、こんなものを着ていたような気がする。
無礼は百も承知で右眼を使って身体の中を覗いてみると、骨格も内臓もちゃんと揃っている。心臓がないわけでも、見知らぬ臓器があるわけでもない。
これのどこが人外生命体なのかと首を捻ったその瞬間だった。女がケリーに眼を当てて笑ったのは。
さすがにぞっとした。
何か冷たいものに全身を抱きすくめられたような気がした。
覗き見したことに気づいたはずだが、女は何も言わず、講壇の一番前のテーブルに座っている主席に眼を転じて、微笑したのである。
「マヌエル。今はあなたが委員長ですか」
「そうです。お久しぶりです。ガイア」
主席は冷や汗を掻いていた。
考えてみれば、これが何を目的とした会合なのか、ケリーは知らない。
どんな大事件の時にもこんなに緊張している姿は見たことがないくらい、主席は身体を堅くしていた。
慎重に言葉をつくった。
「実は、お願いがあるのですが……」
言い終える前に、女は首を振った。
「困りましたね。あなた方を攻撃する意志はないと何度言っても信じられませんか?」
「ガイア。すみませんが、わたしが話し終えてから答えてください。そう致しませんと、他の人々にはわたしが何を言いたいのか、わかりません」
「マヌエル。わたしたちは礼儀をたいせつにします。無断であなたの心に触れるようなことは致しません。そうしなくても推察がつくから言いました。あなたのお願いは直通回線とやらでしょう?」
「そうです。わたしたちはあなた方ともっと親しくなることを望んでいます」
「わたしたちは望んでいません。わたしがこうして参るのも、あなた方が不必要な不安に駆られるのを防ぐためです。わたしたちはあなた方と深く関わる意志は初めから持っておりません。お互いに平和に過ごすために姿を見せただけのことです」
「ですが、連絡を取る必要に迫られることも考えてください。それに、あなたはこうして好きなときに我々のもとを訪れることができるのに、我々はあなた方の住まう星に降りるどころか様子を知ることもできないとは、不公平ではありませんか」
「公平にしなければならない理由は何ですか?」
あんまり穏やかに言うので、ケリーは思わず笑い出しそうになった。
(いい性格だ、この姉ちゃん……)
ついそんなことを考えたが、今度は反応がない。
「あなた方は宇宙を開拓し、わたしたちはあの星で静かに暮らす。お互い、そのように納得したのではなかったのですか?」
「ガイア。あなたが初めて連邦に現れてから五七年、連邦も大きく様変わりしました。今のわたしたちは、同じ宇宙に生きる者として、あなた方と友人になりたいと考えているのです。そしてできれば、教えを請いたいと思っています」
「あなたの言葉に嘘がないことはわかりますが、理解に苦しみます。教えを請うと言いますが、それは利用したいという意味ではないのですか?」
「いえ、違います。ガイア。我々は無力な生徒です。そしであなた方は教師です。その教授を受けたいと願うことを利用すると表現するのであれば、否定は致しませんが、それは無理な望みでしょうか」
「五十年前から何度も同じことを言ってきましたが、繰り返して言います。わたしたちはあなた方に来て欲しくはないのです。では、そろそろ失礼します」
「ガイア!待ってください。これきりにされては困ります。また来てくれますか]
「お望みなら、また五年後に。マヌエル」
その言葉を最後に女の姿は壇上から消えた。
後にはもう何の気配もない。
会場を満たしていたはじけんばかりの緊張が宙に浮いたようになり、次にどっと崩れた。
人々はいっせいにしゃべり始めたのである。
「これで終わりか?」
「冗談だろう……」
「あれが人外生命体?人間そのものじゃないか」
「ばかな。今のは何かの手品でしょう?」
初めて見る人々はそんな感想を洩らしている。
一方、二度以上の漫遊を経験している人々は苦笑しながら、騒ぐ人達に聞こえるように言ったものだ。
「次にはまたレーザー砲か何かで撃ったほうがいいかもしれないな。そろそろ、姿を見ただけでは信用できない人々が増えてきたようだ」
「そんな呑気なことを言っている場合か!あれだけ何度も近くへ来るなということは、来られると具合の悪いことが何かあるに違いないんだ! それがわかりさえすれば……」
「攻撃するか?我々の兵器では傷もつけられない、れだに捕らえることもできないというのに」
「だいたい、関わりを持ちたくないと言いながら、どうしてのこのこやって来るんだ?忌々しい」
空の壇上に主席が立って、人々の注意を引いた。
「静粛に、皆さん」
五十六歳のマヌエル・シルベスタン主席は有能な政治家であり、人格者としても知られている。
演説台がないので軽く両手を広げ、満座の人々を見回して豊かな声で言った。
「初めてご覧になった方もいると思うが、前もって事情は知っておられたはずだ。先ほどわたしたちが見たものは紛れもない現実です」
しかし、興奮冷めやらない人々は、その主席にも激しく噛みついたのである。
「閣下。また五年後にと言っていたが、この五年間、本当に接触はなかったんですか?」
「そうだ。だいたい、なぜ、あんた一人が話すんだ。あれはあんたの名前も覚えていた。これまでに何か接触があったんじゃないかね!?」
「あー、そのことで、わしは誓約を求めたいんだ。これは何も主席に限ったことではなく、もしあれが、誰か個人に接触してきた場合は、ここにいる全員に、そのことをうち明けるべきだと思う」
独り占めはいかん、独り占めば、というのだろう。
「ですが、その前に。あれが本当に人外生命体だという証拠はどこにあります?」
「サーカスの見せ物でもあのくらいの芸はします。手品とどこか違うっていうんだ!」
「静粛に!」
主席は何度も手を打ち、会場の興奮を鎮めようとした。人々もようやく落ちついたようだが、今度は七軍長官が主席に話しかけた。
「申し上げますが、我々は集団詐欺にかかっている恐れがあるかもしれません。今は何も要求しないで消えたようですが、そうやって信用させておいて、要求を持ち出してくるのは詐欺の索套手段です」
「五十年ががりの詐欺かね?何とも気の長い話だ。わたしが初めてガイアを見たのは二十五年前だぞ」
たしなめて、主席はジャスミンに眼を移した。
「ミズ・クーア。あなたとご夫君はこの場では唯一の民間人だ。この会合にあなた方をご招待したのはひとえに〈|門《ゲート》〉に関わる問題だからだ。特にミズ・クーアはお父上から話も聞いていたと思う。状況はご理解いただけたと思うが、どうかな?」
「理解しましたとも。我々には何もするべきことがないということは」
相手が誰でも場所がどこでも、女王は女王だった。
大胆に笑って言った。
「徹頭徹尾、我々人類と関わり合いたくないという姿勢を崩さなかった。結構ではありませんか。幸い、この宇宙は、彼らと取り合いをしなければならないほど狭くはない。問題の座標は父から聞きましたか、わたしはそれを開発するつもりはありません」
「ありがとう、ミズ・クーア」
ここでケリーが手を挙げた。主席に向かって話しかけた。
「ちょっといいですか、閣下」
会場の人々は驚いたようだった。彼らはケリーのことをジャスミンの付属品くらいに考えていたようだから、無理もない。
主席は驚かなかった。微笑して言った。
「どうぞ、ミスタ・クーア」
「もし俺が、今の人が、我々には来て欲しくないとさんざん言っていた問題の座標を共和宇宙中の報道機関に公表すると言ったら、どうします?」
主席はますます面白そうな顔になった。
「過去にそう考えた人々がいなかったと思うかね?ミスタ・クーア」
「その人達はどうなりました?」
「どうもならなかった。わたしの知る限り、今でもみんな元気でいるよ。だが、彼らは忘れてしまった。この会合のことも、ガイアのことも。幽霊惑星の存在は黙っているわけにはいかない、一般に公開してやると自分が叫んだこともだ。忘れてしまったことすら忘れているんだ」
「知人が惚けたのを見るのはお辛いですか?」
「いいや。彼らは痴呆症にかかったわけではないよ。それ以外は完全に正常で、記憶もしっかりしている。ただ、ガイアは彼らにしゃべってほしくはなかった。自分に関する部分だけ、彼らの記憶を奪ったんだ」
「どうも、お話を伺っているだけでも、あまり安全とは言いがたい相手のように思えますが、今の人に対する主席のお考えは?」
「古い言葉だが、さわらぬ神にたたりなし、だ」
「それなのに交流を求めておられる?」
連邦主席と堂々と話すケリーの姿を見て、会場の人々は眼を丸くしている。
主席は慎重に答えた。
「彼らは我々が初めて出会った『|外宇宙の人《エイリアン》』だ。だが、不幸なことに我々は彼らが恐ろしく、彼らは我々が煩わしい。今はそうした関係だ。しかし、未来永劫このままとは限らない。改善できる可能性はある。そのためにもできることはしなければ。まず、話すことから始めなければならないと思っている」
ケリーは唇の端だけで笑った。
「俺はきれい事ばかり言う政治家は一番嫌いだが、あなたはその中ではわりと見所がありそうだ」
主席の側近達はこの無礼な物言いに血相を変えて腰を浮かせかけたが、主席本人は負けじとばかりに楽しげに笑って、ジャスミンに眼を向けた。
「ミズ・クーア。あなたのご夫君はなかなか見所のある男性のようだ。お父様もお喜びだろう」
本当なら『ありかとうございます』とか『恐れ入ります』とか答えるべきところだが、ジャスミンは何も言わなかった。笑うだけで答えに代えた。
そんな当たり前のことを言われても返答に困ると思ったのかもしれなかった。
侃々得々の議論はなおも続いたが、二人は早々に席を立った。問題の生き物を見てしまったからには、連邦内での利権争いなどには興味がなかったのだ。
再びリムジンに乗り込んで、ジャスミンと二人きりになると、ケリーはしみじみ首を振って言った。
「あれが人外生命体ねえ?拍子抜けだな」
「わたしもだ。もっとおどろおどろしいというか、神々しいというか、華やかなのを想像していたのに、あまりに地味だ。仮にも宇宙の造物主を名乗るなら、もっと盛大な特殊効果を背負ってだな、派手に出てきてもらいたい、派手に」
「あれ、いつも五年ごとに現れるのか?」
「本当はもっと間隔を短くしてもらいたいらしいが、そう言ったら、そんなにたびたび来ても話すことが何もないと、あのお姉ちゃんはのたまったそうだ」
「きれいなお姉ちゃんだったが、五十年前から歳を取ってないって?」
「ああ。覗いてみたんだろう。どうだった?」
「人間に見えたぜ。少なくとも百パーセント生身だ。骨も内臓もまともだし、ちゃんと心臓も動いてた。ただ……」
「なんだ?」
「正体が何であれ、心が読めるのは本当らしいな。俺が眼を使ったことに気づいてたぜ」
ジャスミンは真摯な眼でケリーを見つめ、小さく笑った。
「確かに、今の主席はなかなか見所があるな」
「そうさ」
心を読まれるのがわかっていて、それでも交流を試みようとしているのだ。半端な覚悟ではできない。
「ところで、これからどうするんだ?」
「取りあえずホテルに戻る。銀行の本格的な視察は明日だな」
セントラル・シティ・ホテルは、この街では一番高い十二階の建物だった。共和宇宙の至るところに、数え切れないほど存在する名前だが、『本物』のセントラル・シティ・ホテルはここだけである。
その分、等級もたいへんなものだった。ほとんど連邦政府御用達である。一般市民では逆立ちしても泊まれない。
ジャスミンはそのホテルのスィートを取っていた。ペントハウス形式の特別室だ。最上階を全部借りたことになる。
ジャスミンとケリーの個室の他に、お供の女性達と護衛の女性達の部屋、運動場になりそうな広々とした居間にカウンターバー、台所、室内プールまでついている。
二人が到着したとき、着替えも荷物もヘレン達の手でそれぞれの部屋に整えられていたが、着替えのためにドレッサーを開けてみて、ケリーは呆れてしまった。
どうしてこんなに必要なのかと思うほどの服が、ずらりと並んでいる。
楽な格好に着替えて部屋を出たところへ、居間のほうからグレアム中尉がやってきた
「ミスタ・クーア。明日の予定について伺いたいのですが……」
「そんなもの、こっちが知りたいくらいだ」
「ご存じない?」
「俺はただ、あの女王様について歩いてるだけでね。いつまでセントラルにいる気なのかも知らんよ」
軽くやりすごしたつもりだったが、中尉はじっと動かなかった。相変わらず、穴の開くほどケリーの顔を見つめながら、冷たく笑った。
「あなたの奥さまでしょう?」
「そうらしいな。恐ろしいことに」
「愛してはいらっしゃらないんですか」
「結婚するのにそんなものが必要かい?ましてや、あの女に」
「あなたのことをお伺いしているんです。どうして結婚なさったんです?」
「プライベートだぜ、リンダ。それとも、別の所でもっと詳しくプライベートな話をするか?」
わざと下卑た調子で言い、ケリーは一歩、相手に近づいて、にやりと笑った。
「その時はぜひ、髪をほどいてほしいな。きれいな金髪じゃないか。流せばもっときれいだぜ」
「仕事中はこのままです。邪魔になりますから」
「リンダ。わからないぶりはするなよ。仕事以外の場所でちゃんと会おうと言ってるんだ」
「そういうことでしたら、正式にお断りします」
「ひどいな。即答するか?」
ふざけて見せたが、グレアム中尉の態度は堅い。
平静を装ってはいるが、明らかにケリーに対して構えている。
「そんなに仕事仕事って言うんなら、女房だけ先にセントラルから返すことにしよう。それで、きみの仕事も終わりだ。その髪を堅苦しく縛る必要もないぜひ黒のドレスを着て欲しいな。よく映えそうだ」
「ミスタ・クーア。わたしは任務でご一緒した方と個人的なおつきあいは致しません」
「そんなにつれないことを言うなよ。どこへ食事に行きたい?もちろんその後のコースも最高のものを用意してやる。そんなにもったいぶらなくても、今の俺は金ならいくらでも自由になるぜ」
中尉の顔には嫌悪とともに怒りが広がった。
「お断りします。このことを奥さまに申し上げてもよろしいんですか?」
「どうぞ、言ってくれ。あの女は浮気は気にしないそうだ。まったくありがたい話で、俺は好きなだけ自由を満喫できるってわけさ」
グレアム中尉の黒い瞳には炎と氷が同居していた。
まるで汚物にでも話しかけるような、冷ややかな調子で言った。
「それでは、わたし以外の、クーア財閥の名前に簡単に眼の眩む馬鹿な女と、お好きなだけ自由を満喫なさってください。あなた自身のお金でもないのに非常に滑稽に思えますけど。――失礼します」
吐き捨てて出ていこうとする。その背中も怒りに震えていた。
ケリーは一瞬で距離を詰めた。自分の力の強さをわかっていたので、できるだけやんわりと、中尉の手を掴んで引き留めた。
「さわらないでください!」
反射的に振り払おうとしたが、ケリーに掴まれた中尉の手はびくともしない。
「どうして怒る、グレアム中尉?」
語調の変わったケリーに、中尉がはっとする。
掴んだ手を離し、息を荒くしている中尉を見下ろしながら、ケリーはゆっくりと言った。
「なぜ、俺はあんたたちに睨まれなきゃならない?それが訊きたかった」
「に、睨んで?」
「そうさ。気がついてないとは言わせないぞ。針の筵とはあのことだ。俺は一日中、あんたたちの白い眼線と無言の圧力に耐えてたんだからな。ちょっとくらいいやがらせをさせてもらっても、罰は当たらないと思ったのさ」
いたずらっぽく笑うケリーの顔を、中尉は呆気にとられて見上げていた。
なめらかな頬にうっすらと血の色がのぼったのは気まずさのせいだ。急いで姿勢を正して言った。
「それは、失礼いたしました。申し訳ありません」
「で。今度から気をつけます、だろう?そうじゃなくて、俺はわけを知りたいんだよ」
プリス達がケリーを見る眼の理由はわかる。
この男は自分たちの大事な主人にふさわしいのか。どこで何をしてきた男なのか。信用できるのか。
そうした疑問を訊きたくても訊けなくて、態度が堅くなっているのだろう。
だが、護衛についただけのグレアム中尉遂にまで審査される覚えはない。しかも、こちらは敵意さえ感じられる代物だ。
中尉はいたたまれない様子で視線をさまよわせている。ためらいがちにケリーを見やり、思いきったように顔を上げて、何か言おうとした。
そこへ中尉の部下が慌ただしくやってきた。
何やら緊迫した様子だった。
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同じころ、居間では携帯用の端末を操作しているプリスが厳しい顔になっていた。
「ジャスミン。変です。このホテル、誰も泊まっていません」
「なんですって?」
答えたのはお茶を運んできたヘレンだ。
プリスは今日の宿泊客名簿を表示させ、その一つ一つを照合している。
「少なくとも民間人は誰も泊まってないわ。みんな、連邦関係者よ」
同じくそこにいたグレースが首を傾げる。
「何か、会合でもあるんじゃないの?退役軍人の同窓会とか」
「いいえ。ほとんどか事務関係の人間だわ。だから変なのよ。それに、ここは、セントラル・シティ・ホテルよ?共和宇宙全域から毎日のように使者や政府要人がやって来るはずなのに、そうした人達が一人も泊まってないなんて、おかしすぎるわ」
「確かに、そうね」
ペパーも不思議そうにピンクの髪を揺らした。
ジャスミンはソファに腰を下ろしたまま沈黙している。女性達はそのジャスミンを囲むように、それぞれ位置していた。そこへ、顔色を変えたグレアム中尉がやってきた。
「ミズ・クーア。ちょっとお話が……」
「どうした?」
「今、部下の一人が気がかりな話を持ってきました。十二軍の特殊部隊が出動したそうです」
「目的地は?」
「ここです」
さすがに素人の女性達は呆気にとられた。
ペパーミントが中尉に食ってかかる。
「ちょっと待ってよ。ここって、シティってこと?それとも、このホテルってこと?」
「それはわかりません。極秘任務ですから」
中尉の表情は硬い。その後ろからケリーが現れて訊いた。
「あんた達は七軍だろう。どうして十二軍の動きがわかるんだ?」
各軍に横のつなかりはない。かつての陸海空軍がそうだったように、同じ軍でもまったく別の組織だ。
中尉は部下の一人を指して言った。
「彼女の恋人が十二軍にいるんです」
なるほど。その手か。
もちろん、だからといって、こんな情報を部外に洩らすのは厳禁だ。悪くしたら軍法会議である。
「でも、どうして特殊部隊がシティに?」
「そうよね。訓練にしても、何もわざわざシティでやらなくてもよさそうなものだけど」
ヘレンとグレースが話している横では、グレアム中尉が青い顔をしていた。プリスもだ。
ケリーは、その様子を横目で眺めつつ、どうやら、この二人だけは事情がわかっているらしいと思った。
もう一人、ジャスミンもである。
何やら奇妙な沈黙が広々とした居間を満たしたが、今度は中尉の腕にある通信機か小さな音を立てた。
中尉の部下達は非常口や階段を警戒しているから、その誰かからの連絡のはずだった。無造作な口調で応じた。
「グレアムだ。どうした?」
「リンダ。俺だ」
通信機から流れてきたのは男の声だった。中尉は慌てた様子で、通信機に低く囁き返した。
「だめよ。任務中なのに」
「悪い悪い。確認しておきたくてさ。今度のデート。確か、四日だったよな?」
仕事中に恋人から私用通信が入ったことになるが、中尉は顔色を変えた。とても彼氏との会話とは思えない、堅い顔つきで言った。
「そうよ。待ち合わせは八時よ。忘れないでね」
「おいおい、勘違いするなよ。約束は十時だろう?甲冑資料館でデートなんて色気ないけど、待ってるぜ」
通信はそれで切れた。
中尉の顔色はますます青くなっていた。呆然と立ちつくしていたが、ジャスミンを振り返ると、喘ぐように言った。
「|銀十字警備隊《クルセイダーズ》が……四軍の|機甲兵団《アーマー・コア》が来ます」
「機甲兵ですって?」
頓狂な声を発したのはグレースだった。
「機甲兵って、まさか、あの機甲兵?」
「あの機甲兵です。中でも四軍のそれは十二車中、最強を誇ります。その機甲兵団がシティを目指してやってくるんです」
ヘレンを筆頭に、女性達は唖然としていた。
どの顔にも信じられないと書いてある。機甲兵は人間が乗り込んで動かす機械の鎧だ。戦車と違って、自在に動けるので、主に都市制圧や、対テロリスト兵器として使われる。地上最強の機械化歩兵だ。
「ちょっと待ってよ。ここをどこだと思ってるの?あれをシティで動かすなんて、冗談でしょう!」
「そう思いたいのは山々ですが、たった今、出動が確認されました」
どうにも腑に落ちなかった。軍の動きも、それにこれほど衝撃を受ける中尉もだ。
ケリーはその思いを率直に言葉にしていた。
「十二軍の特殊部隊も、四軍の機甲兵も、いったい何を目標にしてる?このシティで都市型テロでも発生したか?そんなことはあり得ないはずだぜ」
この共和宇宙一安全な都市のどこにそんな脅威が潜り込めるものか。
「目標はここです」
あくまで堅い顔で言い、グレアム中尉は通信機を開放した。この場にいない部下にも聞こえるようにしたのである。それに向かってはっきり言った。
「全隊員に告げる。わたしは指揮権を放棄する」
突然の爆弾宣言だ。ケリーはもちろん、その場にいた女性達、プリス、ペパー、ヘレン、グレースの四人も愕然としたが、中尉の背後に控えた女性達は動じない。それどころか、全員が頷きを返した。
中尉はさらにジャスミンに眼を転じて、恐ろしく真剣な口調で言った。
「ミズ・クーア。今この瞬間から、あなたが我々の隊長です。指揮を願います」
ジャスミンも同じくらい真剣な顔だった。相手の顔から眼を離さず、ゆっくりと言った。
「馬鹿なことを言うんじゃない。こんなことが上に知れたら、いったいどうなると思っている?」
「馬鹿なことを言っているのはあなたのほうです。おわかりでしょう?わたしたちは殺されるために、あなたの元に集められたんです。特殊部隊も機甲兵団も、わたしたちを殺しにやって来るんです」
さすがにプリス達が息を呑んだ。
ケリーもだ。
中尉はひたと、ジャスミンを見つめている。
その顔はまるで泣きそうに見えた。声は熱意に満ちている。訴える様子は狂おしいほどだった。
「襲撃してくるのは我々と同じ戦闘の専門家です。生き残るためには優秀な指揮官が絶対に必要です。お願いします。もう、あまり時間がありません」
「それは違うな。暗くなるまで彼らは何もしない」
「ジェム!」
中尉の声は悲鳴に近かった。
「狙われているのはこのわたした。言われなくてもわたしが対処する。リンダ」
「は、はい」
官名で呼ばれたわけでもないのに、中尉は慌てて姿勢を正した。それは上官の前に出たときの軍人の姿そのものだった。
「交代で食事を済ませる。外のキム達を呼び戻せ。非常口のジェニーとエレベーター前のアリスもだ。分散しているのは危険だからな」
グレアム中尉の顔がこんなに輝くのを、ケリーは初めて見た。
「了解、隊長」
「ヘレン。ルーム・サービスを頼む。二十人分だ。ペパー、グレース、それにプリス。わかってるな?自分の身は自分で守るんだ」
ピンクの綿菓子頭と薄荷色のつんつん頭は揃ってため息を吐いた。
「覚悟はしてましたけど、機甲兵ですか?本当にそれと戦うんですか?」
「嘘みたいね……」
通信端末を忙しく操作しながら、プリスが言う。
「みんな。急いで荷物を解いて。持ってきたものを全部出すのよ」
「わかった」
今さら荷ほどきとはおかしな話だが、二人は早速、自分たちの部屋へ駆け込んでいく。
ジャスミンはさらに、十二軍に恋人がいるという、中尉の部下に眼をやった。
「出動した|銀十字機甲兵団《クルセーダーズ》の指揮官を調べてくれ」
「|了解、大尉《イエス、サー》」
「ジョディ、わたしはもう大尉じゃないぞ」
「我々の指揮官は今でもあなたです。クーア大尉。またご一緒できて嬉しく思います」
こんな場合だというのに、ジョディの顔も感激に染まっていた。敬礼すると、中尉を追って、急いで居間を出ていった。
ずっとソファに座ったまま、次々に指示を出していたジャスミンは、最後にケリーを見たのである。
「武器は持ってきたな?」
ケリーは肩をすくめるだけで答えに代えた。
自分のような男か丸腰で歩くことを良しとするかどうか、わざわざ言わなくてもこの女にはわかっているはずだった。
「いったい何がどうなってる?俺にわかるように説明してくれ」
「重役の誰かが軍の誰かを抱き込んだのさ。地味に殺すのは無理だと判断して、いっそとことん大胆にやろうとしているんだ」
「大胆すぎるぜ。機甲兵を使って、このホテルで、あんたを始末するっていうのか?」
しかも恐ろしく派手でもある。
暗殺部隊を派遣して、こっそり殺して引き上げるならともかく、よりにもよって機甲兵団ときた。
身の丈およそ九メートル半。重量およそ十トン。主要武器として四十六ミリ軽機と五十七ミリライフルがよく知られている。地上では最強の兵士だが、こんなに目立つ殺し屋も他にない。
第一、そんなものをシティのど真ん中に投入したら、軍が関与したことが一発でわかってしまう。
「軍の出動には理由が必要なはずだろう。ましてや、このシティに実戦力を投入するだなんて、委員会は絶対に承認しない。これが軍部の独断だというならなおさらだ。やってしまった後で世間を納得させるだけの名目が必要になるはずだ」
「その通りだ。民間人を、しかもクーア財閥総帥を理由もなく殺してこいと言ったのでは、いくら上官命令でも現場は動かない。何か、もっともらしい理屈をつけたんだろう。――ここにいるわたしは変装したテロリストだとでも言ったかな?」
声は楽しげだが、ジャスミンは眼を光らせていた。
今までにも何度か見た金の色だった。
「わたしを片づけて名実共にクーアの当主になれば、マスコミを操作するのも、委員会を言い含めるのも、簡単にできると思ったんだろう。軍の誰かもクーア財閥とコネクションを持つことで、特別においしい思いができるんだろうよ」
この女には黙って殺されるつもりは毛頭なかった。
戦う気だった。
「それだけの戦力を相手に、こっちは女ばかりか?唯一の男としては少々複雑なところだな」
「海賊。わたしはこういうときに人を男か女かでは分けない。戦えるか戦えないかで分ける。おまえはどっちだ?」
「訊くなよ。そんなこと。あんたはいい。中尉達もいいだろうさ。だが、彼女たちは?」
プリスもヘレンも、ペパーもグレースも、こんなことには慣れていない。まるっきりの素人ではなさそうだが、足手まといになる可能性が大である。
しかし、ジャスミンは首を振った。
「ここは多分もう見張られている。脱出させるのは却って危険だ」
その意見にはケリーも賛成だったが、特殊部隊と機甲兵団を相手に、味方といえば女ばかりで、どう生き残る算段をしたらいいのか、手に余る。
しかし、ジャスミンには考えがあるようだった。自分の通信端末を取り出して作業を始めた。あとはもう見向きもしない。
ケリーも自分の支度を調えることにした。部屋に戻る途中、グレアム中尉達の部屋の前を通りかかる。
扉を開け放ったまま、中尉とその部下達は荷物をひっくり返していた。
スーツ・ケースの中から、よくぞこれだけと思うほどの武器が飛び出している。拳銃、軽機関銃、その弾倉、手榴弾、それに何より突撃用の防護スーツ。
軍によって多少デザインは異なるが、特殊部隊が装備するものだ。
開け放たれたドアをノックして、ケリーは中尉の気を引いた。
「俺の女房か誰なのか、訊いてもいいかい?」
中尉は大きく眼を見張り、笑って言った。
「彼女はジェムです。ミスタ・クーア」
「そいつは、あの女の名前の一つだろう?」
「わたしにとって、あの人はずっとジェムでした。わたしは――わたしたちは、ジャスミンなんて人は知りません。シルクのドレスを着て、ヒールの高い靴を履いて、パーティの主役を務める。そんな人は知らないんです」
妙な説明だが、それだけ訊けば充分だ。
ケリーも自分の個室に戻ると、唯一、開けられていなかったスーツ・ケースを取り出した。指紋錠を施した特別製でケリーにしか開けられない。手荷物検査もくぐり抜ける優れものだ。
それから、ダイアナに連絡を取った。
例によって中年男の姿で現れたのを、うんざりとやめさせて言う。
「急ぐんだよ、ダイアン。俺がシティに容認されたからには、おまえは俺の個体情報を使って、セントラルのネットワークにもぐりこめるはずだな?」
「ええ。ゼウスのところまで行くのは無理だけど、もっと下位の頭脳なら大丈夫。口説けるわよ」
「軍の記録が見たいんだ。人名検索を頼む。七軍のジェム・クーアだ」
数秒間沈黙したダイアナはこう言った。
「その名前、最高機密扱いだわ」
「こじあけろ」
「了解」
今度は数十秒沈黙ずる。やがて□を開いたとき、ダイアナの様子は何やら妙だった。
「ねえ、ケリー。開けることは開けたけれど、これ、本当に正規の文書なのかしら。軍務オペレーターの誰かかいたずらで作成して、こっそり忍びこませておいたんじゃないの?」
「どういう文書なんだ?」
「ジェム・クーアの経歴よ。軍在籍中の。それが、突拍子もないのよ。これが全部本当なら、この人は人間じゃないわ。スーパー・ウーマンだわ。だって、九四五年に除隊したときは確かに七軍大尉だけど、九三三年に一般採用で一軍に入隊してるのよ?」
「なんだと?」
つまり、幹部候補生としてではなく、一兵卒から始めたのだ。軍によって制度は異なるが、そこから幹部候補生の准尉にまで昇進するには、最低でも十年はかかる。もちろん、そこまで階級があがることなく、曹長や軍曹で定年を迎える人間も多いのだ。
十二年で一兵卒から大尉にまで昇進したとなると、驚異的な大出世だ。しかも所属軍が違っている。
「そんなことは普通やらないはずだぞ」
「情報を送るわ。自分で見て判断してちょうだい」
通信画面に送られてくるデータを読み進むうちに、ケリーは開いた□がふさがらなくなった。
確かに、とんでもなかった。
十二年の間に実に四回、所属軍を変わっている。一軍で二等軍曹、五軍で准尉、十一軍で少尉、七軍で大尉にまで昇進している。
何よりすごいのは勲章の種類と数だった。
優秀な成績に贈られるものを別にしても、月桂樹五級勲章、樹葉功労章、星華雲五級勲章、|銀河《ミルキーウェイ》三等勲章、|銀星《シルヴァースター》栄誉章、薔薇十字二等および一等勲章、オリオン一等勲章、ゴールドクレスト勲章、宝剣付日輪章、さらには宝剣付合日輪|紺綬《こんじゃ》勲章と、数え上げればきりがない。まるで勲章の見本市だ。しかも、これらはすべて実戦での勇気を称え、功績があったことを表彰して授与されるものだ。
他方、処罰のほうでも相当なものだった。
上官への服従性に問題ありとして訓告処分は数え切れないし、査問会も七回、うち三回の結果、実戦部隊から事務職へと配置替えされている。昨日まで陸戦のプロとして重火器を扱っていたような人間を広報課に配属したりするのは立派な処罰である。
普通はそのまま終わるはずだが、この人の場合はどういうわけか、どんな閑職に飛ばされても(それこそ基地の案内孫に回されても)すぐに実戦部隊に戻っている。この寄り道がなければ、恐らくもっと昇進していたことだろう。
その所属も陸戦に始まって、情報部、機甲部隊、空挺、航宙艦隊の戦闘機隊、対テロ特殊作戦部隊と、思わず眼が点になるような代物である。
華々しい履歴のとどめは四回の軍法会議だった。
いずれも無罪判決ではあるものの、最後の記録に至っては、合同訓練中に相手部隊の指揮官を誤って死に至らしめたというもので、しかもその相手の部隊とは、七軍最強を誇る特別航空任務部隊である。
訓練中の事故とは言え、その中隊長が女性将校に殺害されたのだ。大問題にならないほうがおかしい。
さらにおかしいのは、これか無罪になったことだ。
訓練中の事故と軍事法廷が判断したにせよ、無罪放免にするとはちょっと信じられない。何かよほど、相手方に過失があったのだろうか、その辺のことは記載されていない。
結局、ジェム・クーアには正当防衛が言い渡され、この事件の二ヶ月後、彼女は軍に除隊願いを提出し、受理されている。
ケリーが読み終わるのを見計らって、ダイアナが訊いた。
「これでも正規の文書だと思う?」
たっぷり十秒間、考え込んだケリーだった。
常識的に考えればでたらめだと判断するしかない。
これだけ処分を食らっていながら昇進できるのもおかしい。所属軍を変わることも普通あり得ない。一度情報部に配属されたら、機密を守る必要上、他部署への配置転換などまず行われないはずだし、機甲兵や戦闘機に乗るためには何年もの訓練期間を必要とする。
他の部署にしても同じことだ。十二年でこれだけこなせるはずがない。
それでも、ケリーは、苦笑しながら首を振った。
「他の誰かのことなら俺も信じなかっただろうが、あいつは殺しても死なないような女だからな」
「それは光栄だ」
振り返ると、当の本人が立っていた。
「食事だ。毒は入ってないぞ」
「そりゃあありがたい。これが最後の晩餐かな?」
「今から諦めてどうする」
言いながら近づいてきたジャスミンは、稼働中の通信画面に気づいて微笑した。
「ダイアナか?よくこの文書を見つけたな」
「あんただな、これは?」
「ああ」
「これだけ派手なことをやらかしたのに、七軍の長官は、あんたが誰なのかわからなかったのか?」
「今の長官は軍務畑上がりだからな。第一、長官に就任したのも、わたしか除隊した後のことだ」
「グレアム中尉はあんたの部下だったのか?」
ジャスミンは答えなかったが、その顔には微かに憂いがあるようだった。
この女には、わかっていたのだ。
中尉たちが、ジャスミンと一緒に始末されるべく、この任務をあてがわれたということが。
相変わらずわからないのはその理由である。
ジャスミンは通信端末に手を伸ばし、ダイアナを呼びだした。律儀にも、やはりダモット艦長の姿で現れたダイアナに、ジャスミンは言った。
「これから夜半にかけて、下でちょっとした騒ぎが起きるが、おまえはそこを動くなよ」
「どのくらい『ちょっとした」騒ぎなの?」
「十二軍の特殊部隊と四軍の機甲兵団が出動した。わたしたちを殺すためにだ」
ダイアナが眼を丸くする。ケリーも小さく、肩をすくめた。
「本当にここにいる戦力だけで相手をする気かよ?ダイアンを呼べば一発で片がつくんだぞ」
「だめだ。護衛艦〈パラス・アテナ〉は、書類上はわたしの所有だ。その船がセントラルの防護壁を無断で突破し、シティを爆撃したなんてことが表沙汰になってみろ。わたしの失脚を狙っている重役達を無駄に喜ばせてやるだけだ」
「ばれなけりゃあいいんだろう?」
「それが不可能だから言ってるんだ。今ダイアナがいる宙港も、セントラルの防護壁も、〈ゼウス〉の直轄だ。ダイアナが通過するのを見逃すはずかない。それ以前に、この星の周りには攻撃衛星がごまんと飛んでるんだぞ」
攻撃衛星には〈ケルベロス〉のように主に地表を攻撃するものと、惑星セントラルを守るため、接近する隕石や不審な異物を撃退するものとがある。
無許可で近づけば、それらに攻撃されるわけだ。
ダイアナも頷いて言う。
「わたしがわたしじゃなくて、ほんの小さな宇宙塵か何かだって偽の情報を送ろうにも、あの石頭には通用しないしね。それに、ケリー。もう一つまずいことがあるのよ。この宙港、停泊中の船が本当に埠頭にいるかどうか、人間が監視してるの」
「そんなもの、画像をすり替えればいいだろうに」
船を見張る監視システムから表示画面まで映像が送られる間に、偽の映像とすり替えてしまえばいいだけのことだが、ダイアナは顔をしかめた。
「だって、管制塔の窓から双眼鏡で見てるのよ?」
「なにい?」
「ものすごく原始的だけど、ものすごく効果的だわ。もちろん、感知装置も設置されてるのよ。そっちは馳せるとしても、人間の記憶は人工脳みたいに好きなところだけ消せるわけじゃない。わたしが動き出したら彼らに丸見えだわ。今のわたしの設備では三次元投影もできないし、身代わりに張りぼてを置くのも無理がありすぎる。どうする?わたしの姿を描いた大きな絵か何かを、管制塔の窓の外から張りつける?」
「あのなあ……」
ジャスミンが笑いを噛み殺しながら言った。
「それも〈ゼウス〉が考えた方法だ。人間の眼は錯覚を起こしやすく極めて不安定なものだが、機械の弱点を補える。そして、機械は人間の死角を補える。安全と経費削減の二大目標のうち、経費削減を取るなら人間の監視員は不要、しかし、安全を取るなら絶対に必要。彼はそう主張し、委員会は彼の意見を採用して、安全を取ることにしたんだ」
ため息を吐いたケリーだった。
「ダイアン以外にもそんな人工脳があるとはね」
「あんな石頭と一緒にしないでったら」
憤慨しているダイアナをなだめるように笑って、ジャスミンはあらたまった調子で話しかけた。
「ダイアナ。おまえに一つ、大事な仕事を頼みたい。この文書を読めるのなら、おまえは軍の指揮系統のほとんどを見ることができるはずだ。どんな名目でこのシティに実戦部隊を出動させたのか、誰がこの出動を最終的に命令したのか、探ってくれないか」
ダイアナは黙ってケリーに目線を移し、ケリーも黙って頷いた。
それを見て、ダイアナも頷いた。
「いいわ。やってみる。ただし、非合法な命令なら記録には残ってないわよ?」
「残っているはずさ。どこかの誰かは『合法的』にわたしを消したいんだ。どんなに荒唐無稽だろうと、軍の出動を正当化できる理由を用意したはずだ」
「わかった。でも、本当にそっちは大丈夫ね?」
「心配するな。いよいよ危なくなったら、その時はこの男に『助けてくれえ』と叫んでもらうから」
ケリーはとてもとても白い眼でジャスミンを見た。
これは彼女の冗談だったらしい。喉の奥で笑って軽くケリーの肩を叩いた。
「行こう、食事がまずくなるぞ」
訊きたいことは他にもいろいろあった。
クーア財閥の一人娘として、何一つ不自由ない生活を送っていたはずなのに、なぜ十二年も軍に籍を置いたのか。軍の幹部達は、問題児のジェム・クーアが、クーア財閥の次期総帥と同一人物だと知っていたのか。
別に珍しい名前ではない。一般採用で入っていることからしても、知らなかったのかもしれない。
だとしたら、知ったときの衝撃はいかばかりかと、興味を通り越して多大な同情を覚える。
ケリーのこの疑問には、中尉が答えてくれた。
「あのパーティは本当に傑作でした」
クーア財閥六十周年記念式典に、中尉と部下達が招かれたのは本当である。
その時、マックスは九十六歳、ジャスミンは実に七十近くなってからの一人娘というわけだ。
その後継者の存在は知られていても、今まで誰も顔を見たことがないのだ。連邦からも、主席夫妻を始めとして、軍関係者も大勢招待されていた。
各軍の長官はもちろん、実戦部隊の頂点を極めた提督、大将、幕僚長、参謀総長、作戦本部長等々、グレアム中尉のような階級の人間にとってはまさに雲の上の人々がずらりと顔を揃えていた。
だが、実にその半数が、マックスの後継者として現れたジャスミンを見るなり、顎を落っことしたというのである。
中尉の副官ジョディ・ミラー少尉も、そのときのことを思い出すだけで笑いがこみあげてくるらしい。
「めったにない見物でしたよ。名前は伏せますが、ある大佐は何度食器を握っても取り落としてました。ある提督はワイングラスを持った手の震えが止まらなくて、呑むよりこぼすほうが多いくらいでした。どこかの幕僚長はステーキに胡椒のつもりでお砂糖をかけてましたが、気づかずに丸飲みしてましたし、あっちでもこっちでも顔面蒼白、茫然自失、恐怖に脂汗を掻いているお偉いさんの大集合でしたよ。一番傑作だったのは、七軍の参謀総長と十一軍の艦隊総司令官、それに四軍の少将の三人でしたか、その場でばったり卒倒したことです。完全に白目を剥いていて、そのまま救護室送りになりました」
ケリーと中尉達は居間で手早く食事にしていた。
そこには部屋を埋めつくすような巨大なワゴンが運ばれ、様々な料理がずらりと並べられている。
ホテル側の人間がこの件にどこまで関与しているかは不明だが、料理の味は超一級品だった。
「こんな時でなければもっと味わえるのに」
そう言いながら、グレアム中尉も、ミラー少尉も、せっせと食物を□に運んでいる。食べられるときに食べておく、これは軍隊の鉄則だ。
「四軍?あいつ、四軍にも所属してたか?」
少尉の話を聞きとがめてケリーが言うと、二人は食事の手を止め、顔色をあらためて、目の前にいる背の高い男を見た。
「あの人が話したんですか?」
「いいや、あいつは自分のことはいっさい言わない。軍にいたことも俺は知らなかった」
「では、どうしてわかったんです?その記録は、今はもうどこにも存在しないはずです」
「企業秘密でね。だいたい、最初に一軍に入隊したからには、配属も転属も一軍の中だけで行われるものだろう?現にあんた達はずっと七軍のはずだ」
二人は顔を見合わせ、注意深く言葉を選びながら語り出した。上層部は何とかしてジェム・クーアを厄介払いしたかったのではないか、極端に言えば、合法的に死んで欲しかったのではないかというのだ。
所属軍を頻繁に変わっていたのも、持であました各軍が押しつけあいをしていたのではないかという。
「それならどうして除隊させなかった?」
すると、二人は楽しげな笑顔になった。
「七軍在籍中の、あの人の異名を知っていますか?『|奇跡を起こす人《ウィザード》』というんですよ」
「戦場でも、情報操作においてもです。軍の機密であの人に覗けないものはないとまで言われてました。もちろん、そんな証拠なんか何もありませんから、処罰もできません」
「上は何か、よほどまずいことを知られていたのは確かでしょうね」
基地の案内孫に配属したのも一種の罰だったか、彼女を軍務畑に置いておくことはさらに悪い事態を招くことが判明した。一日中、端末を使えるからだ。かといって、まさか直接手を下すわけにもいかない。
そこで、ことさら危険な部署にばかり追いやって、事故で死ぬのを待っていたのではないかというのだ。
「だから、あの人が除隊するときも、上はそうとう引き留めたみたいです。どこで何をしゃべられるかわからないと思ったんじゃないでしょうか」
それまで、軍がどんなに嫌がらせをしても決してやめようとしなかったジェム・クーアが、今度は一転して除隊すると言い張り、最後にはやはり上を脅迫するようにして、むりやり軍を去ったらしい。
「馬鹿なことを訊くかもしれないが、上官としてのあの女は優秀だったか?」
二人は恐ろしく真剣な顔で頷いた。
「他の人の下で働くのがいやになるほどです」
「やめてほしくなかった。ずいぶん引き留めました。それなのに一言も理由を言わないで行ってしまって、次に再会したときには……」
お気の毒に。
中尉があんまり暗い顔をしてうなだれているので、つい、そう言いたくなる。
「四軍の少将がひっくり返った理由は、合同演習にあると思います。あの人が七軍に配属される以前のことなので詳しくは知りませんが、あの人も機甲にいたことがあるはずですから]
確かに記録ではそうなっている。
「すると、今やってくる四軍の機甲兵団長は、あの女を知ってるんだな?」
「もちろん」
どんな手を使ったのか、ミラー少尉が調べだしたところによると、今回出動した機甲兵団の指揮官はカールーマクソン少佐。通称『雄牛』のマックス。
「四軍銀十字のブル・マックスは機甲の有名人です。ジェムとは個人的な面識もあると思います」
「もう一つ訊きたいんだが……」
できるだけ慎重にケリーは言った。
「あの女が軍に眼の仇にされてるのはわかったか、あんた達はどうして、あの女と一緒に殺されなきゃならないんだ?」
二人はたちまち複雑な顔になった。やりきれない怒りを感じているようでもあり、冷めているようでもあり、どうしようもないことだからと諦めているようでもあった。
「これといった理由なんか、何もありません。上は不安だったんだと思います。わたしたちはあの人にかわいがってもらっていましたから。何か、まずいことを聞いているかもしれない、ジェムの代わりに今度はわたしたちが手に負えなくなるかもしれない。ずっとそう思っていたんじゃないでしょうか」
それだけのことでここまでやるか、と思ったが、中尉たちもそれは痛切に感じていたらしい。
「総帥に就任したあの人か非公式に連邦を訪問する。その護衛にわざわざわたしたちを選んであてがう。これが偶然のはずがありません。――いやな予感はしていました。でも、まさか……」
思い詰めている様子の中尉とは対照的に、少尉は健康そうな頬を憤りにふくらませている。
「どうせあの女を殺すんだからと、一石二鳥だと、十把一絡げにして片づけるつもりなんです。それがわかっていても命令には背けませんので。それならいっそのこと、あの人の傍にいたほうが安全です」
たいした信頼である。
同じ理由から、彼女たちは初め、ケリーに敵意を持っていたようなのだ。
彼女たちにしてみれば、ジャスミンが軍を辞めた理由は、ケリーと結婚するためとしか思えなかった。
それなのに、あの記者会見の時のケリーの態度が、とてもえらそうだったというのである。
さすがに呆れて言い返した。
「あのな。俺はめいっぱい神妙に、借りてきた猫をやってたんだぞ」
「いいえ。えらそうでした」
「そうです。絶対」
二人して力を込めて断言する。
彼女たちは要するに、
「あの人はわたしたちを捨ててあんたを選んだのに、あんた、いったい、どの程度の男なわけ?」
と、言いたかったらしい。
女ってのは何を考えてるかわからんと、ケリーは頭を抱えた。
ちょうど、そこへジャスミンがやってきたので、ケリーはげんなりと自分の妻を指して言った。
「この女よりえらそうな人間がどこにいる?」
「それはそうですけど……」
「ねえ?」
中尉達が頷くのを見て、ジャスミンは二人の頭の上で笑った。
「なんだ。わたしはえらそうなのか?」
「まともに言うな。ちょっとは自覚しろ」
苦々しげにケリーが言う。
この間にも、ペントハウスは着々と作戦司令部の様相を呈していた。
ペパー達がほどいた荷物からは、山ほどの兵器や装備が出てきた。VIP特権なのか、ケリーと同じようにスーツ・ケースに細工して検査を逃れたのかはわからないが、それぞれ防具を身につけ、拳銃を装備している。
ジャスミンはもっと重装備だった。中尉達と同じような防護スーツに身を固めて、ヴィゴラスを腰に下げ、肩には高出力レーザー砲を引っかけ、他にも何やらいろいろ持っていた。
中尉の部下達がやってきて報告した。
「十一階と十階を調べましたが、人は誰もいません。宿泊記録では泊まっていることになっていますが、名前だけのようです。同士討ちを嫌ったんじゃないでしょうか」
「それは都合がいい。ホテルの従業員は下の階だし、今回はあまり人に迷惑を掛けずにすむな」
準備が万端整うと、ジャスミンは全員を前に言い渡した。
「現時点では、外部に助けを求めることはできない。特殊部隊に狙われていますと言ったところで一笑に付されるだろう。信用されたとしても『なぜそれを察知できたのか』と訊かれるのはまずい。我々はあくまで、何らかの手違いで命を狙われた哀れな被害者なんだ。そのつもりで受け身に徹する。ただし、攻撃が開始されたら、その時は正当防衛だ。かまうことはない。徹底的に応戦しろ」
「了解」
さらに自分の連れてきた女性達を振り返って、
「作戦が終了するまでグレアム中尉の指示に従え。彼女は都市型戦の専門家だ。こんな状況なら誰より頼りになる」
「はい」
プリスたちは思ったより落ちついている様子だ。
得てして実戦を知らないものは呑気なものだが、その顔つきからすると、彼女たちも多少の修羅場は経験したことがあるのかもしれない。
それにしても、周囲は若い女性ばかり、しかも、ほとんどが美人だ。自分はその女性遂に囲まれた、ただ一人の男だというのに、
(どうしてここまで潤いがないかね?)
つい自問したくなるケリーだった。
腕に巻いた通信機が小さな刺激を送ってくる。
ダイアナからの通信だった。
「あなたの奥さんはそこにいる?」
「いるぜ。代わるか?」
大勢の眼が注目する中、ジャスミンはその通信に出て訊いた。
「何かわかったか?」
「少なくとも名目はね。ジャスミン。あなた、連邦打倒を企むテロリストにされてるわ」
「そんなことだろうとは思ったが、それは、ジャスミン・クーア本人が企んだということか?」
「それが違うの。傑作なのよ。あなたはもう本当のあなたではなくて、テロリストの誰かが、あなたの身体に自分の脳髄を移植したんですって。だから、あなたは外見はジャスミン・クーアそのものだけど、もちろんシティの入国検査もパスしたけど、中身は凶悪なテロリストだって言うのよ。随行の女性達もその一味で、護衛の中尉達は人格破壊操作を受けて、あなたの操り人形になってしまっているんですって。笑ったらいやよ?とにかく命令書ではそうなっているんだから。――今度の作戦はあくまで秘密裏に行うことを旨とし、参加者には全員、厳重な守秘を求めるってあるんだけど、機甲兵まで持ち出して、どうして秘密にできると思うのかしら?」
「首謀者は誰だ?」
「それが面倒なのよ。命令書には名前があるけど、わたしは、これが本当の陰謀者ではないと思うの。もう少し探ってみるわね」
「頼む」
通信を切ると、ジャスミンは再び一同を見回してにやりと笑った。
「諸君。聞いての通りだ。どこの誰かは知らないが敵はわたしを凶悪犯に仕立て上げた。わたし自身を攻撃することはできなかったんだ。そこに我々の強みがある。敵はどうしても暗いうちに仕事を終えなければならない。わたしを殺して初めて好き勝手なことが言えるんだからな」
「死人に□なしの理屈だな」
ケリーが言うと、ジャスミンも傾きを返した。
そうして中尉に向かって言った。
「最初の一隊はわたしが片づける。そうしたら次は地上にいる別働隊が突入してくる。任せるぞ」
「了解」
しかし、ケリーはとても『了解』というわけにはいかなかった。眼を剥いた。
「今なんて言った?」
「うん?」
「わたしが片づけるとか言わなかったか?」
「ああ、少なくとも突入部隊はわたし一人で充分だ。あとは、その連中を運んできた無音ヘリを落として、機甲兵を片づける。そうしたら、堂々と助けを呼ぶ。それでおしまいだ」
「おい……」
「ただ、問題は機甲兵だ。ここにいる女性たちには機甲の経験がない。わたし一人で一個中隊を相手にするのはさすがにきつい」
とても見当違いのことを頷きながら言い、ジャスミンはケリーに眼を当てて訊いたのである。
「――おまえは?経験はないか」
ため息を吐いたケリーだった。
よほど勘がいいのか、当てずっぽうなのか……。
「どうしてそう思うんだ?」
「宇宙で暮らす人間は、特にそれが単独行動なら、ある程度なんでもこなす必要があるからさ」
今度は苦笑する。まさに真理だった。
「本職ってわけじゃない。動かすのがやっとだぞ」
「充分だ。一緒に来てくれ」
「ジェム!二人だけでは危険です」
中尉か顔色を変えて言ったが、ジャスミンは首を振った。
「言っただろう。これはわたしの喧嘩だ。おまえは十階を維持するんだ。ヘレン達を頼む」
「でも、同行するのがご主人一人だけでは……」
あくまでジャスミンが心配らしい。そんな中尉に、ケリーは不敵に笑ってみせたのである。
「俺はそんなに頼りないか?」
「いいえ。そうではなくて、ただ、宇宙での生活が長いのなら、あなたは都市戦には素人でしょう?ジェム。お願いです。せめてもう一人連れていってください」
しかし、ジャスミンは頷かず、黙って夫を見た。
ケリーはますます楽しげに笑うと、子どもに言い聞かせるように、中尉に話しかけた。
「リンダ。確かに俺は都市戦には素人だが、もっと大事なことを知ってるんだ。|生き残ること《サヴァイヴァル》をな」
もう一度、ジャスミンが言った。
「それで充分だ」
[#改ページ]
セントラル・シティ・ホテル上空に二機のヘリが音もなく迫ったのは、午前二時を過ぎたころだった。
夜間に、シティ上空でこんな動きをするためには、〈ゼウス〉の承認が必要である。でなければ〈ケルベロス〉に撃墜されてしまう。
屋上間近で停止したヘリの中から次々に兵士達が現れ、降下を開始した。その身のこなしも、厳重な装備も、徹底的に鍛え抜かれた兵士特有のものだ。
非常口の電子錠を難なく解除して、二十人以上の兵士達が武器をかまえてペントハウスに躍り込む。
かまえた銃の安全装置はとっくに解除されている。動いているものはおろか、寝台に寝ているものさえ、彼らは射殺するつもりだったが、そこは空だった。
十以上の個室、室内プール、台所、そして大きなワゴンが残ったままの居間。そのどこにも人の姿は見つけられなかった。もちろん爆発物反応もない。
この状況に兵士はさすがに困惑して隊長を窺った。目標は発見できず、危険も存在しない、次の指示を待つ態勢になった。隊長もほんのわずか困惑したが、こういう状況も想定されていた。
目標地点が空だったことを、手順通りに指揮官に報告し、下の階へ突入しようとした。
その時、足下が微かに揺れた。
いや、床が動いたのである。
最初それは気づかないほどの小さな動きだった。
だから兵士達もかまわず、下の階を制圧するため、階段に殺到しようとしたのだが、何かおかしい。
足下がひどく心許ないのだ。
ちゃんと床を踏んでいるはずなのに、まるでその床がだんだん沈んでいくような異様な感覚を覚えて、さすがに全員、足を止めた。
「う?」
「なに?」
そんな呟きが思わず洩れる。
瞬間、彼らの足下が今度こそ大きく移動した。
動いているのは床だけではない。部屋そのものが猛烈な勢いですべり出したのだ。まるで斜めに動くエレベーターのようにだ。そして天地が逆転した。
「わああっ!」
「な、何だ、どうした!?」
家具が飛んでくる。床が壁になる。誰かが部屋の端を思いきり持ち上げて放り投げたようだった。
「全員、対ショック防御――!」
隊長が絶叫する。
中にいた兵士達には、何が起こったのかさっぱりわからないまま、奈落の底へ突き落とされた。
だが、彼らをここまで運んできたヘリの操縦士は見たのである。
ホテルのペントハウスが、その下の建物部分から切り離され、斜めに滑り落ちるのを。
兵士達を中に残したままの十二時部分が、十一階以下の建物部分に永遠の別れを告げて、ゆっくりと空中を泳ぎ、遙か下の地上に激突するのを。
深夜に響きわたった轟音の中、むきだしになった十一階部分の中央で、ジャスミンは、エネルギーが空になった高出力レーザー砲を投げ捨てていた。
ビームの長さを一定に固定し、出力を最大に設定すれば、それは巨大なレーザーの剣となる。
ケリーの眼によって、突撃部隊の突入を確かめたジャスミンは、この物騒な剣を使用して、内側から『ホテルを斬った』のである。
それも斜めに角度をつけて、斬られた屋上部分がひとりでに滑り落ちるようにしてだ。
人工脳を使って角度や切断面の綿密な計算をしたわけではない。
巨大なレーザーの剣を握り、腕の力と勘を頼りに身体を一回転させる形で斬ったのだ。この恐ろしく乱暴な方法で、切り始めと終わりの線を一致させて、ほとんど正確な円を描いたのである。
なまじ頑丈な材質で建てられたホテルだったのがまずかった。斬られたペントハウス部分は瓦解することもなく、そのままの形で地上へ落下した。
ヘリの操縦士は愕然としていた。自分がいったい何を見たのか、信じられなかった。
暗視装置の故障かとも思ったが、その暗視装置が、今や屋上となった十一階の廊下に人影を捕らえた。
恐ろしく大柄だが、女に見えた。ヘルメット型の暗視装置をつけている。しかも、こちらに向かってぴたりと銃口を合わせていた。
「ひ!」
反射的に上昇しようとしたか、遅い。
ジャスミンの一撃は正確にヘリの稼動部分を撃ち抜いていた。続いてもう一機を狙ったが、その時はもう一機のヘリも黒煙を上げながら落下していった。
やはり一撃でヘリを撃ち抜いたケリーは、愛用のレーザー・ガンをホルスターに収めていた。
さっきまで天井だった星空を見上げて、ほとほと呆れながら首を振る。一方、ジャスミンは突進を開始していた。
周囲に残っている壁や客室のドアをヴィゴラスで次々に撃ち抜き、建物の北、一番端へ移動する。
最後に残ったのは、かろうじて客室の形を保った部屋の窓だった。これも一撃で吹き飛ばすと、外の景色がなおいっそうよく見えるようになった。
「で?これからどうするんだ」
「飛び降りる」
「ポータブルジェットは?」
「ない」
「じゃあ、パラシュートか?」
「それもない」
「女王?」
担いでいた荷物を次々に下に放り投げながら、ジャスミンは言った。
「このまま自由落下する」
ぴしゃりと、自分の顔を叩いたケリーだった。
「……ここが何階かわかって言ってるのか?俺もあんたも生身なんだぞ」
「これを貸してやる」
渡されたのは大□径の拳銃だった。素人が下手に撃とうものなら、肩を外すくらいの威力がある。
「自由落下しながら地表に向けて撃つんだ。それで立派な携帯噴射になる」
だんだん、この女に手を焼いた軍幹部の気持ちがわかるようになってきているのが怖い。
まったくこれでは、落ちる顎がいくつあっても到底たらない。
プリスか、確か、無茶と非常識はジャスミンの代名詞だとか言っていたが、そんな言い方では絶対に不十分だ。
ため息と共にケリーは言った。
「無茶と非常識のバーゲンセールだな」
「心外だな。安売りしているつもりはないぞ」
「あんたは何度もこんなことをしてるんだろうが、そんな無茶をいきなりやれって?」
「普通の人間には、わたしもこんな無茶は言わない。おまえにはその眼があるだろう」
ジャスミンはケリーの顔を覗き込んで笑った。
「落下速度も、地表までの距離も、空中での自分の姿勢も認識できる。地表まで十メートルを切ったら下に向けて一秒以内に全弾撃ちつくせ。間違っても空へ向けては撃つなよ。地面に叩きつけられるぞ。できれば、ホテルのほうを向いて撃て。下手に反対方向を狙うと、建物に叩きつけられる恐れがある。心配するな。ペントハウスは南側に落としたから、下はきれいなやわらかい土だ。幸い、障害物もない。クッションの上に飛び降りるようなものだ」
簡単に言ってくれる。
呆れ返っているケリーを尻目に、ジャスミンは、本当に空中に身を躍らせた。
ここから地上まで、およそ六十メートルはある。
装備もなしに飛び降りたら、間違いなく即死だが、一拍置いて銃声が響いた。連続して撃ったはずだが、まるで一発のように聞こえる銃声だった。
ケリーの眼は、この暗闇でも、落下するあの女の身体が急に浮き上がり、空中で姿勢を整え、見事に着地するのを捕らえていた。
すっかり癖になった、呆れたような苦笑を洩らし、ケリーは、特殊部隊に在籍中のあの女はあまりいい成績を残せなかっただろうなと、のんびりと考えた。
確か、特殊部隊とは隠密行動を旨とするはずが、やることなすことあまりにも派手すぎる。
「あんなのに喧嘩売って、軍の誰かも重役の誰かも、どうやって元を取るつもりなのかね?」
呟くと、自分も空中に身を躍らせた。
深夜に地上十一階から無装備のダイビングである。
あの女が言ったように、右眼だけが頼りだった。
考える暇などありはしない。とにかく迫ってきた地上めがけて、猛烈な勢いで銃を速射した。
(うわ……!)
経験したことのない感覚がケリーを襲った。自由落下中にこんな方法で方向を変えたことなど今までなかったから無理もない。腕が痺れ、両肩に激しい負担がかかる。一瞬、息ができなくなった。生身の左眼はこの状況では何も見えない。最初からそれを当てにすることはしなかった。右眼は正確に地表の方向を捕らえてはいたが、姿勢を正すのはケリーが自分でやらなければならない。
何とか頭から突っ込むことだけは避けたが、思いきり地面に衝突する。勢い余って、ケリーの身体はそのまま五メートルは地面をすべり続けてようやく止まった。
まったく、生きているのが不思議だと思いながら、空を見上げて息を吐いた。激しい衝撃に全身がまだ痺れているが、どこも折れてはいないようである。
ジャスミンが近寄ってきて声を掛けた。
「初めてにしちや上出来だ」
「あんたなあ……」
これも□癖になりそうな台詞を呟いて、ケリーはようやく身体を起こした。
「こんな苦労をするくらいなら、どうして最初からポータブルジェットを用意しない?」
「スーツ・ケースに入らないからさ」
当然のことのように言い、先に放り投げた荷物の中から通信端末を取りだして操作し始めた。
ケリーは右眼を使って周囲を警戒していた。地上には別働隊が待機しているはずだ。さっきの銃声を聞きつけて駆けつけてくるかもしれない。
「ちょっと見てくれ」
ジャスミンが通信画面を見るように促してくる。
そこに映し出されているものは、自分たちがいるシティ・ホテル周辺の生の映像だった。
しかも、現在の敵の位置と動きが残らず、詳細に表示されている。
「別働隊はすでにホテルに突入している。わたしがまだ中にいると思っているんだ。――地上にも数人残ってるが、それでも接近しては来ない。さっきの銃声は無視することにしたらしいが、無理もないか。まさか、あれで脱出したとは誰も思わないだろう」
言いながら端末を操作して、もっと広い範囲を映し出した。
「いいか。機甲兵団の移動司令部がここ。機甲兵の配置はこれで全部だ。よく覚えておけよ。ちょうどこの近くに一機、待機しているな。これを奪おう」
「ジャスミン」
ケリーは初めて女の名前を呼んでいた。
それはひどく剣呑な口調だった。
血相を変え、ほとんど相手の肩を掴まんばかりに身を乗り出すと、画面を指して鋭く訊いた。
「これは、なんだ?」
「…………」
「こんな|情報《もの》をどこから手に入れた?軍の情報は〈ゼウス〉の管理下にあるんだぞ。シティの上空は第一級の飛行規制区域だ。プロペラ機で飛ぶこともできない! いったいどこから見ている映像だ!?」
ジャスミンは眼を伏せて、頭を掻いた。
ケリーの左眼はそろそろ闇に慣れ、ジャスミンの表情を肉眼で捕らえられるようになっていた。
その顔はまた、ちょっと気まずそうに笑っていた。
「飛行機じゃない。もっと上からの映像だ」
「何だと?」
「一つだけあるだろう?シティをいつも見ている眼が。本当は一つじゃなくて三つだが。――あれは、首が三つある怪物の名前だからな。事実、三種類の高性能レンズを持っているしな」
「女王。話を逸らすな。それも〈ゼウス〉の直轄だ。〈ゼウス〉に知られずにどうやって〈ケルベロス〉から情報を取れるっていうんだ?」
「彼は知ってるさ」
「…………」
「お前が言うように、気づかれずにやるのは無理だ。〈ゼウス〉は完全に独立した頭脳で、外部からの命令変更を受けつけない。だったら〈ゼウス〉自身に情報の横流しを頼めばいい」
「…………」
「ダイアナはがちがちの石頭だと言っていたが、確かに仲良くなるまではたいへんなんだが、一度仲良くなれば、あれは決して裏切らない。その辺は実に律儀でかわいい奴だよ」
ケリーは顔を覆ったまま、しばらく動けなかった。
よくぞ地面にめり込まなかったと思うほどだった。
「俺をシティに通したのも……?」
「ああ。直接頼み込んだ。あれば、わたしがここにいるときからの友人なんだ」
要するに、ジャスミン自身を『指示を下す権利のある者』として不正に承認させたということである。
「……あんた、わかってるのか?こんなことが表沙汰になったら、たとえあんたが一国の大統領でも、禁固三百年は食らうんだぞ」
「おまえが黙っていればわからないさ」
ジャスミンは端末を片づけて、今度は丈夫そうなロープを取りだしている。
「これを話したのはおまえが初めてだ。プリス達も知らない。下手に知っていると、万が一の時に彼女たちも危険だからな」
「じゃあ、なんで、俺には話した?」
「そりゃあ、夫婦というものは一蓮托生だと相場が決まってるだろうが」
「勝手に決めるんじゃない」
毒づいたものの、何となくわかる気がした。
恐ろしく荒っぽいが、こういうやり方をケリーは知っている。自分の秘密を渡すことで誓いの言葉に代えるものだ。未申告の〈|門《ゲート》〉とトリジウム鉱山。決して口外はしない、これでお互い五分の立場だと言っているのだ。
「あんた、なんかの間違いで女に生まれたんだな」
「まがりなりにも自分の妻に何を言う」
「機甲兵を奪うって言ったな。どうするんだ?」
ジャスミンは手にしたロープを見せて言った。
「これで足を引っかけて倒す。――二足歩行兵器の悲しさだ。バランスを崩せば案外簡単に倒れる」
「指示がなければ勝手に歩いたりしないぜ?」
「歩かせればいいのさ。連中の通信回線をぶんどって、おまえが指揮官のふりをして命令を下すんだ。様子を見に行くようにってな。そうしたら、それを乗っ取って、移動司令部を潰しに行こう」
こんなときだが、ケリーは思わず笑ってしまった。
「あんたが言うと、どっかその辺の山にでも遠足に行くみたいだな」
ジャスミンも笑い返した。
「不謹慎なようだがな、海賊。どうあがいても命を狙われるのなら、楽しんだほうが得だと、わたしは思うんだ」
「全面的に賛成だ」
どうやら、認めなければならないらしい。
この女は応分と同じ種類の人間だ。
同じ戦場の匂いを、そして恐らくは挫折と無念の苦い味をも知っている戦士なのだ。
気の毒だったのは十七番機甲兵に乗り込んでいた軍曹である。彼はこの小隊で一番新米の軍曹だった。
シティ・ホテルのほうで突如、激しい轟音が響き、指揮官の指示で様子を見に行くために歩き出した。
さっきからの大騒ぎで、シティは急に賑やかさを増している。ここは居住区ではないが、人がいないわけではない。あちこちの窓に明かりがつき、そこから身を乗り出す人や、自分の(小山のような機甲兵の)姿を見て驚く人たちの姿が、操縦席の画面に鮮明に映し出されている。
機甲兵で町中を歩くこと自体、滅多にないことだ。
まして、シティの中心部である。緊張していたが、ちょっと楽しんでいたのも確かだ。一歩一歩慎重に歩を進めていたが、その足下に何か異常を感じた。
体勢を立て直そうとしたときは、すでに遅かった。
総重量十トンの機甲兵は大きくバランスを崩して倒れ込んでいた。
「な、なんだ?警報は鳴らなかったぞ」
訝しく思いながら、状況を確認しようとしたら、非常ハッチが外から開けられた。
「あ……」
外気にさらされた軍曹は、自分を見下ろしている女の真っ赤な髪を、ぽかんと眺めたのである。
鼻先に銃口が突きつけられている。身体を固定しているベルトをあっという間にはぎ取られる。
何が何だかわからないうちに、軍曹は自分の機体から放り出されていた。
「借りるぞ」
無情に言って、女の姿は操縦席に消える。
そして、たった今まで軍曹のものだった機甲兵は、まったく反対方向へ走りだした。
カール・マクソン少佐、通称『|雄牛《ブル》』マックスは標準時で三十五歳になる。二十二歳で任官して以来、ずっと第一線で働いてきた強者だ。
軍人の中の軍人と言うにふさわしい厳つい顔に、鋭い眼光、その異名の由来ともなった立派な体躯は、余分な脂肪など寄せつける隙を与えない。子どもが泣き出しそうな強面だったか、普段の少佐は穏和な性格だった。意外に繊細なところもある。何しろ、趣味は料理とレース編みという変わり種だ。
これを聞くと、たいていの人間は凍りつくのだが、少佐本人は、あれは指先の器用さと根気を養うには打ってつけの趣味だと、平然としている。
その少佐が、今回の作戦ではずっと浮かない顔をしていた。
そろそろ、十二軍のヘリがホテル上空に到着する時間である。
彼らを待ち受けている運命を思うと、気が重かった。あれが自分と同じ四軍ではないことと、充分な防備をしているだろうことがせめてもの救いだった。
もう少し時間があれば、彼らに忠告できたのだが、今回の命令はあまりにも急だった。少佐自身、非常事態宣言に等しい緊急順位で、ろくな説明も準備も与えられず、慌ただしく出動させられたのである。
現在、シティ・ホテルを取り囲むように機甲兵を配置し、少佐本人は移動司令部内で経緯を見守っているという状況である。
この司令部から妨害波を発し、ホテルと外部との連絡を絶って孤立させ、突入した特殊部隊が任務を完了するのを確認して撤退する。それだけのことに機甲兵を二十機も投入しているのである。
「無駄なことを……」
つい、小さな呟きが洩れた。
「不可解な任務ですね」
話しかけられたと思ったのか、少佐の横で副官の准尉が、やはり小さな声で答えた。
「凶悪犯なのはわかりますけど、シティ・ホテルを襲撃するなんて、本当にいいんでしょうか?」
「言うな。軍人は命令に従うのが務めだ」
とはいうものの、少佐にはわかっていた。
この命令はまやかしだ。准尉が信じていることは嘘なのだ。
「身体を奪われたクーア財閥総帥は以前、連邦軍に所属していたそうですが、少佐はご存じですか?」
ご存じも何も、と少佐は考える。
合同演習ではいつも成績を競いあった仲だ。
少佐が聞いたあの女の異名は『魔女』。赤い髪の魔女だった。どんな状況からでも生還することと、その戦いぶりからつけられたらしい。
十一軍にとんでもない女がいると聞いてはいたが、演習で実際に手合わせしてみて、少佐は驚愕した。
密かに舌を巻いた。
戦闘能力にかけて、あれに匹敵する人間を少佐は知らない。それだけではない。指揮官としても優秀だった。特に下には非常に慕われていた。
その分、上からは相当煙たがられていたらしい。
あれでは出世はできないだろうと、少佐は思っていた。出世するためには実力や人望以外のものが必要なのだ。まして、あの女は士官学校の出ではない。
少佐自身はもちろん士官学校を卒業しているが、それにしては珍しく、出身がどこであれ、本当に優秀な人間が責任ある立場につくのは当然だと考える人間だったので、もったいないと思ったのも確かだ。
将来のためにも、もう少し上に受けをよくしたらどうだと、あの女に向かって忠告したこともある。
そうしたら、その女は何とクーア財閥の次期総帥だったというのだから、冗談のような話だ。同時に軍上層部が震え上がったことは容易に想像がついた。
だからといってこんな方法であの女を片づけようとするのは、まして、自分にその片棒を担がせるとは、どうにもやりきれない話である。
「突入を確認しました」
准尉の声に少佐は我に返り、画面に見入った。
少佐がいるのはホテルから約一キロの地点である。
それでも、各機甲兵から送られる映像によって、状況は正確に把握できた。ヘリから次々に兵士達が降下するのが見える。
少佐の立場は複雑だった。軍人として、命令には背けない。まして、一応の筋は通っているのだ。
何とか無事に切り抜けてほしいと思っていたが、その直後に画面に映し出された光景には、さすがの少佐も絶句した。
准尉に至っては、到底自分の眼が信じられなかったらしい。愕然と言ったものだ。
「い、今のはいったい――何があったんですか!?」
何かの間違いではないかと思いたいのはわかるがこの距離まで轟音が響いてくる。
これは、まずい。
これでは一般市民に気づかれずにはすまない。
「第二部隊がホテルに突入しました!」
オペレーターの報告に少佐は舌打ちした。
十二軍特殊部隊の指揮官が誰か知らないが、その行動に少佐は懐疑的だった。第一部隊が失敗したら突入せよと命令されていたのだろうし、その命令を忠実に守ったのだろうが、その指揮官は、あの女についてどのくらい知っているのだろうか。
あれはホテルの最上階を丸ごと切り落とすような女だ。殺したところで死ぬような女でもない。
そこまで考えて、少佐はぎくりとした。
「准尉、兵は全機、定位置についているか?」
「はい。あ!十七番機が移動しています」
「呼び戻せ!」
「十七番機!十七番機、どうした!?」
いくら呼びかけても応じない。それだけではない。
全機甲兵の位置を示している画面から十七番機の表示が消えた。内蔵している信号機が故障――いや、故意に破壊されたのである。
動揺した部下達が救いを求めるような眼で少佐を見つめてくる。わけが分からない様子だった。
マクソン少佐も驚きに眼を見張っていたが、取り乱しはしなかった。それどころか、何が起きたのか、少佐には明白だった。最悪の可能性だが、いかにもあの女のやりそうなことではないか。
少佐の顔に笑いが浮かんだ。いささか物騒な笑いでもあった。あれはやはり、黙って殺されるような女ではなかったというわけだ。
「画面を〈ケルベロス〉からの映像に切り替えろ」
このままでは十七番機がどこへ行って何をしても、司令部には把握できないことになる。
しかし、その指示を出したとたん、オペレーターから悲鳴が上かった。
「少佐!今度は八番機が!」
「なんだと?」
同じように応答が絶え、現在地表示が消える。
これは予想外だった。もう一機が乗っ取られたということなのか、それとも偶然なのか。
少佐は、連絡のつかない十七番機と八番機以外の機甲兵に問題の二機が敵に奪取された可能性を告げ、発見次弟拘束するように、必要があれば攻撃も許可すると言ったが、遅かった。
姿を消した二機は、恐ろしく手際がよかったのだ。
それからは次々に悲鳴を聞くはめになった。
「こちら四番機!脚部損傷!」
「二番機です!十七番機から攻撃を受けました!自力歩行不可能――」
「十五番機、戦闘不能!」
為す術がないとはこのことだ。
「まだ位置はつかめんのか!」
さすがに少佐が苛立って叫ぶ。
オペレーターは傍目にも青くなっていた。何とか〈ケルベロス〉から送られる映像を解析して、問題の二機の位置を掴もうとしていたか、不意に大きく息を呑んだ。喘ぐように言った。
「少佐……」
「どうした?」
移動司令部内には少佐を含めて五人の人間がいた。その全員が同じように息を呑んだ。
青くなっているオペレーターが見ている画面には、ぞっとするような光景か映し出されていた。
機甲兵が画面に向かって銃口を突きつけている。
しかも、その位置は何と、移動司令部のすぐ外だ。
「そ、そんな……」
「どうしてここまで接近に気づかなかったんだ!」
今さらそんなことを言っても手遅れである。
移動司令部の首根っこを押さえた八番機は堂々と通信を寄越した。少佐はオペレーターを押しのけるようにして、それに応じたのである。
「ブル・マックスだ。魔女だな!?」
機甲兵が巨大な銃口を下げる。答えたものと判断して、少佐はさらに言葉を続けようとしたが、通信画面に現れたのは男の顔だった。
その男は面白そうに笑って言った。
「悪いな、少佐。その旦那のほうだ」
少佐は思わず息を呑んだ。
確かにニュースで見た顔だか、その時とは別人のようだった。
少佐は宇宙生活者というものを単なる宝探し屋と考え、あまり性根のよくない、ごろつきにも等しい卑しいものだと考えていた。軽蔑さえ覚えていた。
記者会見で見る限り、この男の態度はまさにその通りの、投げやりな気怠げなものだったから、あの女にしてはろくでもない男を選んだものだと呆れてさえいたのである。
だが、今、画面に映る男の顔は少しの油断もなく、大胆に微笑している。人に媚びる顔ではない。人を支配する顔でもない。自分の信念に従う顔だった。
男はゆっくりと言ったのである。
「あんたたち軍人に変装して、俺たちを襲ってきたテロリストは全部片づいたぜ。あんたの任務は完了した。通信妨害を解除して撤退してくれ」
敵からの――しかも恐ろしくめちゃくちゃな――撤退勧告に、少佐の部下達が愕然としている。
そこへ別のオペレーターが鋭く言った。
「少佐!本部から緊急指令です」
それは、少佐にこの作戦を命令した准将からの連絡だった。特殊部隊が失敗したことを聞いて新たな命令を少佐に与えるために連絡してきたのだ。
だが、その人物は大真面目に、
「機甲兵をシティ・ホテルに突入させ、是が非でも問題のテロリストを殺害せよ。必要ならホテルごと破壊してかまわん]
と、指示してきたのである。
呆れてものも言えないとはこのことだ。
「その頭には本当に脳みそが詰まってるのか?」
と言ってやりたいところだが、少佐は極めて礼儀正しく、氷のように冷ややかに言い返したのである。
「閣下。まことに申し訳ありませんが、その命令は実行不可能です。現在、行動可能な機甲兵は一機も残っていません。全機が突然『故障』したのです。このままでは現場に行動不可能な機甲兵が何機も残されますが、いかがなさいますか。回収隊は出していただけるのでしょうか」
八号機との通信中にこの答えを言ってやったから、画面の中で男の顔がますます楽しそうに笑った。
「上が馬鹿だと現場が苦労するな、少佐」
まったくだ。とは言えなのが辛いところである。
少佐は軽く咳払いして言った。
「ミスタ・クーア。お尋ねするが、あなたが乗っているそれは官給品であり、搭乗者はわたしの部下のはずなんだが、どういうことなのかな?」
「申し訳ない。俺の女房はとにかく荒っぽい奴でね。大丈夫。二人とも怪我はしちやいない。この玩具はホテルの近くに返しておくよ」
八番機は軽く手を挙げて挨拶し、本当にホテルへ向かって歩き出した。
その時には、少佐が言った『全機故障』も嘘ではなくなっていた。八番機と十七番機以外の機体は本当に行動不可能になっていたからである。
准尉が青ざめた顔を少佐に向けた。聞い掛ける顔だったが、少佐はゆっくり首を振った。
「何も言うな。准尉。何も言うなよ」
世の中には知らないほうがいいこともあるのだ。
少佐は部下に対し、作戦終了と撤退を告げた。
ジャスミンとケリーがホテルに戻ると、そこでも戦闘は終結していた。
グレアム中尉とその部下の女性達は、確かに都市戦の専門家だった。屋上から来る敵はジャスミンが必ず撃退すると信じてもいた。
何より、攻撃された以上、通信妨害さえ解ければ、堂々と助けを呼べるのである。
階層を落とすような無茶はしなかったが、階段、エレベーターを残らず破壊し、窓の近くには爆薬を仕掛けて、防御に徹した。それでもしつこく上ってこようとする敵には惜しげもなく銃弾と爆薬の雨を降らせて、敵を撤退に追い込んだのである。
それでも現場には突入部隊の死体が残り、中尉の部下達も何人か負傷した。
ミラー少尉は銃弾のかすめた頻を悔しげに拭って吐き捨てたのである。
「同じ連邦軍同士でどうしてこんな馬鹿なこと!ジェム!首謀者かどこの誰だか知りませんけど、やっつけちゃってください!」
「任せろ」
ジャスミンが力強く請け合った。
まさにそこへ絶妙のタイミングで、ダイアナから通信が入ったのである。
「今ねえ。その近くの基地で、ちょっと面白い声を聞いたわよ」
「再生できるか?」
「もちろん」
居並ぶ女性達の『その女、誰よ?』という目線に苦笑しながら、ケリーは通信機を開放した。
聞こえてきたのは男の声だった。ひどく動揺して、どこかへ連絡しているらしい。
「も、もうごめんだ。わたしは降ろさせてもらうぞ。相手は女ばかり、簡単に片づくとあんたが言うから――いいや、お断りだ。クーア内部とどんな約束をしたか知らんが、それならあんたが自分でやればいいだろう。いいか、特殊部隊がほとんど全滅したんだぞ!万が一にもこの責任をわたしが取らされるようなことになったらどうしてくれる!?――あの女の失脚を願っているクーアの人間にも言ってやれ。今度は自分でやれってな!」
話し声はそこで切れた。
中尉達は互いに顔を見合わせ、ジャスミンは首を傾げて、ダイアナに訊いた。
「誰だがわかるか?」
「それはちょっと……声を照合する必要があるわ。やってみましょうか?」
「いや、今はいい。ご苦労だったな」
ジャスミンはダイアナをねぎらって通信を切った。
ケリーは少しばかり複雑な心境だった。
クーア財閥内部には、確かにこの女を狙う誰かがいるのだ。
自分以上に、ジャスミンはその事実を噛みしめたはずだか、笑って赤い髪を振った。
「ま、今はそのことを考えても仕方がない。海賊。取りあえず着替えるぞ」
「こんな時までファッションショウかよ?」
「当たり前だ。わたしたちは善良な一般市民なんだ。こんな格好を人に見せられるわけがない。ヘレン。わたしたちの着替えは確保したか?」
「もちろんです」
そういうことをきっぱり頷かないでもらいたいと、ケリーは思った。
そして一夜が明け、シティの市民はまさに愕然とすることになる。
市民だけではない。連邦委員会も、連邦警察も、何より連邦軍が驚倒した。
この街の象徴とも言えるセントラル・シティ・ホテルは見事な残骸と化し、そこには軍隊に変装した『テロリスト』の死体が累々としていたのだから、まさに連邦を揺るがすような大事件だった。
本物の軍人だったのではないかというマスコミの指摘もあったか、軍はもちろんこれを全面否定。
そして、絶対安全なはずのシティで、これほど大胆に命を狙われたクーア夫妻は、マスコミのインタビューに答えて、まったく心当たりがないことと、グレアム中尉達の活躍に対する深い感謝を述べた。
「中尉たちの勇敢な行動のおかげで、わたしたちも無事でしたし、随行の女性達にも怪我人は出ませんでした。ありがとうございました」
「我々は中尉を遣わしてくれた連邦軍に心から感謝したいと思います」
と、夫婦揃って感動も露わに語ったのである。