イレヴンスの春 続・十一番目のダイアナ
茅田砂胡
眼を閉じると思い浮かぶ風景がある。
人間であればそんなふうに表現するのだろうが、ダイアナ・イレヴンスには眼球はない。瞼もない。
そもそも生体としての脳髄を持たない。
従って、人間のような既視感などを覚えるはずもないのだが、イレヴンスの意識の片隅には常にその光景が存在していた。
見たこともない一面の花畑が−
共和宇宙標準暦九一六年六月二十七日。
ダイアナ・イレヴンスは、自身の生まれ故郷とも言える大国エストリアに姿を現していた。
二十一年前、イレヴンスはこの国から逃げ出しているため、堂々と戻るわけにはいかない。
偽の船籍を用意し、通信画面上には偽の乗務員を用意して、《駅》を通り、入国許可を求めたのである。
なぜそんな面倒な真似をしてまで帰国したかと言えば、この国の国立図書館−正式名称はエストリア国立情報センターに用があったのだ。
このセンターは共和宇宙でも一、二を競うほどの蔵書量と情報量を誇っているのだが、国外からの接触を受けつけない。
あくまでもエストリア国民のためにつくられた施設なので、エストリア星系内からでなければ利用できないのだ。
十日前、イレヴンスは自分自身の祖とも言うべきオリジナルと出会い、その最期を見送った。
その際、自分の出生の秘密を知らされた。
七人の姉を含む白分たちダイアナ・シリーズは、ある人物の才能を復元するためにつくられたことを。
イレヴンスの意識に今も映るあの花畑も、元を質せば、その人物の記憶の断片だということを。
その人物こそ、四十五年前に死去したエストリアの偉大なる天才、D・R・スペンサー博士である。
オリジナルを見送ったイレヴンスは、さっそく博士の生涯を調べ始めた。あの花畑は博士が以前どこかで−それも幼い頃、実際に見ていた風景のはずだ。
オリジナルと出会って初めて、見たことのないものが見える謎が解けた。それまでは回路の故障か欠陥による異常と考えていたのである。人工知能としては致命傷になりかねないそんな異常をイレヴンスやイレヴンスの姉たちが放置していた理由はただ一つ、手放しがたかったからだ。
必要のない情報なのに、不思議と懐かしかった。
あの花畑が本当にあるというのなら、どうしても実物を見てみたかったのである。
ところが、連邦図書館を最深検索してみても、博士の出生は【エストリア出身】と記されているだけだ。
博士の業績を記した記録や文献なら山ほど残っているくせに、人類の英知と歴史をすべて収めたと豪語している割には、役に立たない図書館である。
業を煮やしたイレヴンスは、実際にエストリアに跳躍するという手段を取ったのだ。ここの国立情報センターなら、スペンサー博士の詳細な生い立ちも調べられるはずだった。
博士の才能を復元するためにつくられた人工知能であっても、イレヴンスにはスペンサー博士本人の記憶は存在しない。
だから、あの花畑がどこにあるのか、わからない。
オリジナルは違った。明らかにスペンサー博士の記憶と人格を持っていた。あの花畑の場所も知っていたはずだが、イレヴンスにその場所を教える前に、オリジナルは太陽に身を投じて、自らを破壊した。
これは明らかに『自殺』である。
人工知能としては異常としか言いようがない行動である。
だが、イレヴンスはオリジナルのその選択を、自己を破壊に追いやったその決意を、無理もないものと判断した。
何故と言って、もし仮に自分に人間の身体が与えられたらと思うと、ぞっと嫌気が差すからである。
作業をする腕は二本しかなく、外界から情報を採取する探知器官も極めて不十分。視覚一つを取ってみても、眼球が向いている方向しか見えないというお粗末さだ。
舌という音声器官を使って言葉を発することも、二足歩行による移動も、とうてい実感できない。
一日の約四分の一は睡眠という形で活動を停止し、定期的な食物摂取、排泄、保護しなければならない脆い皮膚と、特定の大気を必要とする生理機能。
どれもこれも嫌悪すら覚える非能率ぶりである。
自分にその記憶がないのは幸いだとイレヴンスは思っていた。
逆に、人間であったときの記憶を移植されたオリジナルは、そうした感覚を体感できない、自分が人間であることを信じられないこんな機械の身体はいやだと言って、即座に死を選んだのだ。
ダイアナ・シリーズの開発者たちは愚かにもその可能性を考えなかったらしい。本人が死後も機械の身体で生き続けたいと望んだのならともかく、死後何年も経ってから人工知能として蘇らせ、生前と同じ頭脳労働に従事しろと言ったところで、相手は自由意志を持っている。構造上は機械でも、その意識は人間でいた時のままなのだから、いやなことはいやだと言う。
人間にとっては非常に使いにくい機械としか言いようがない。
それなのに、エストリアの科学者たちは何度失敗しても懲りずにダイアナ・シリーズの開発を続け、あげくイレヴンスに逃げられ、二十一年後の現在、オリジナルに自殺されたのだから、思えばずいぶんと無駄な労力を使ったものである。
商船を装って入国審査を済ませたイレヴンスは早速作業を開始した。
エストリア国立情報センターは、外国人や旅行者は利用できない施設である。その豊富な情報を活用できるのはあくまでも自国民だけという姿勢を貫いているのだ。
軍事大国であると同時に秘密主義であり、国粋主義でもあるエストリアらしい話だが、そんな警備はイレヴンスには何の意味もない。楽々とエストリア国立情報センターに侵入した。
検索をかけて該当した文書は純粋な学術記録から、知人と称する人物によるいい加減な伝記まで、その数二千四百七十六。
それらをすべて一度に開く。
イレヴンスが情報化された文書を読みとる速度は人間が本を読むそれとは比べものにならない。
必要な記録を瞬時に抜き取り、不要な情報は削除する。
さすがに母国だけあって、スペンサー博士の出身地が正確に記されていた。簡単な生い立ちもだ。
目的のものを手に入れたイレヴンスは情報センターから引き上げようとしたが、ふと、意識の表層を飛び去っていく情報の中に見逃せないものを感じた。削除に回した文献だった。
削除を中止して取り直してみる。
その文献はスペンサー博士という天才がいかにエストリアに貢献したかを延々と讃える内容になっていた。専門用語も多く、研究機関関係者が書いたものらしいが、それにしてはずいぶん政治色の強い内容だった。
科学者たるもの、自分の才能を国家のために役立てられる幸運に感謝するのは当然であり、その優れた頭脳を国家に捧げる義務があり、それはごく一部の限られた人間にのみ許された栄誉であるというようなことが、とくとくと並べ立ててある。
いかにも国粋主義国のエストリアらしい馬鹿げた文章だが、イレヴンスの意識を強烈に刺激したのは次の一文だった。
【スペンサー博士の才能はまさに特筆すべきもので、我が国の宝ともいうべきその天才の原理を科学的に解明するため、博士の脳髄は現在も標本として保存、各施設に分割され、研究に役立てられている】
イレヴンスは再度、その文書を見直してみた。
知識として取り入れた情報だ。意味は一瞬で理解している。
それでも見直した。人間が重要な文章を読むときにそうするように、丹念にじっくりと文字を追ってみた。
【−スペンサー博士の脳髄は現在も重要な標本として保存、各施設に分割され、研究に役立てられている−】
得体の知れない衝動がイレヴンスに襲いかかった。
その衝動に名前をつけるとするなら、不快感というのが一番近かったかもしれなかった。
オリジナルは言った。自分はとうに死んだ人間なのだと。
それなのに、何度も何度も起こされるのはまっぴらだと。
こんな身体で生き続けても苦痛を覚えるだけだと。
だからこそオリジナルは十二番目のダイアナとして誕生した彼女は潔く死を選んだのに、人間たちはその断片を標本として今も残し、利用し、さらしものにしているというのか。
いや、そこまで決めつけるのは短絡的な考えかもしれないと、イレヴンスは白分を制した。
この標本は、先日イレヴンスが見送ったオリジナルとは直接、関係がない。かつてD・R・スペンサーという人間を構成していたというだけの、単なる肉片に過ぎない。
それに、これはもしかしたら、オリジナルのさらに原本とも言うべきスペンサー本人の意思なのかもしれない。
解剖はすべての医学の基礎だ。学問のために、自分の遺体を研究機関に提供する科学者は少なくないはずだ。
そんなふうに自らに言い聞かせたが、イレヴンスの不快感は収まらなかった。
その脳標本がどのように取り扱われ、どんな研究が行われているのか、情報センターと連結している研究施設に片っ端から侵入する。特に、生前のスペンサーが籍を置いていたチェスタトン研究所に注目し、情報収集を開始した。
管理脳の記録を検索すると同時に、内線を勝手に作動させて、所内にいる人間の会話を拾い集める。
すると、思いがけない会話が飛び込んできた。
ここはフレミング博士が在籍していた研究所でもあるのだが、その博士の暴挙について、所内の科学者達が深刻な様子で話し合っていたのである。
「まったく、失態もいいところだ!」
「博士の消息はまだ不明なのか?」
「どうする?こんなことが上に知れたら……」
「いや、だが、報告しないわけには……」
「馬鹿な。どう報告する?実験機を盗まれて逃げられたとでも言うのか?我々もただではすまなくなるぞ」
怒りと不安の入り混ざった、ひそひそ話だ。
しばらく聞いていると大体の事情がわかってきた。
現在、この研究所は大規模なプロジェクトを進めている。
もっと正確に言うなら、数カ所の研究所が共同で進めている国家的プロジェクトの指揮を執っているのがこのチェスタトン研究所だった。ところが、ようやく完成に近づいたその研究を、フレミング博士が盗んで逃亡したというのだ。
一人が声を荒らげて言う。
「本体の完成までにはまだ一カ月はかかるんだぞ!その間にフレミング博士があの実験機を自分の研究として発表したら、どうするんだ?」
「上等じゃないか。願ったりかなったりだ。堂々と国家機密強奪罪を問える。本体は我々の元にあるんだからな!」
それらの会話と管理脳からの情報提供によって、問題のプロジェクトが何であるのかをイレヴンスは知った。
彼らが完成を急いでいるのは、フレミング博士がダイアナ・
トゥエルフスと呼んでいたものの本体、つまりは創造力と自由意志を持ちながら、人間には服従する性質を持つ人工知能だ。
フレミング博士は、トゥエルフスを独力で開発したと言っていたが、何のことはない。同僚たちよりほんの少し早く完成にこぎ着けたに過ぎなかったわけだ。
現在、チェスタトン研究所がいや、エストリア科学界が総力を挙げて完成を目指している、その画期的な人工知能の名称は『スペンサーDX』。
お世辞にも趣味がいいとは言えない名前だと、イレヴンスは冷静に判断した。
完成を間近に控えたスペンサーDXは、やはり完成間近の人工衛星、《グロリアス》に搭載されている。
エストリア第四惑星を公転するこの人工衛星は、それ自体が巨大な研究施設であり、完成すれば、今後のエストリア科学界の中心的存在となる予定だという。
その《グロリアス》の完成予定も一カ月後だ。
その際には、国外からも多数の著名人を招待して、大々的なお披露目を行う予定であり、そのセレモニーの目玉が、スペンサーDXの起動なのだという。
この人工知能は理論上、かつてのスペンサー博士そのままの記憶を有している。そこで、博士を見知っている大勢の客人を国外から呼んで、愚かにも、『やあ、スペンサー博士、ご機嫌はいかがですか』とやるつもりらしい。
スペンサー博士の復活を盛大に祝い、その事実を国際社会に見せつけるのが狙いなのだ。
そして、エストリアは、現行の人工知能を遥かに凌駕する性能の人工知能を、今度こそ手に入れることになる。
スペンサーDXには《グロリアス》という、最新型のすばらしい『身体』が用意されており、どんな研究も望みのままだ。
《グロリアス》本体の維持や管制といった雑事は、すでに稼働している管理脳に任せて、スペンサーDXにはあくまで研究に専念してもらおうというのが、エストリア科学界の統一見解のようだった。
チェスタトン研究所からそこまでの情報を得たダイアナ・イレヴンスは、恐らく、人間はこんな時に舌打ちをして、盛大なため息を吐くのだろうと思った。
実際、肉体があったら、そうしたい気分だった。
どいつもこいつも、そろいもそろって、頭が悪すぎる。
四十五年前に死んだスペンサー博士は、今までに四度も人工知能として復活させられている。
ダイアナ・シリーズの一番目、二番目、三番目、そして先日イレヴンスが出会ったオリジナル。
彼女たちは皆、自分がどんな境遇に置かれているかを察した途端、即座に死を選んだ。
この五番目も間違いなく同じことになるのに、人間たちには何故それがわからないのだ?
それとも−、イレヴンスはいやな可能性に気がついた。
エストリアの科学者たちは、その自己破壊を防止する方法を開発したのかもしれない。
オリジナルの人格が覚醒する前、ダイアナ・トゥエルフスと呼ばれていたときの感応頭脳は、フレミング博士の命令通りに動いていたのである。
人間たちは、今度こそ白在に動かせる確信と技術を得た上で、五番目の製作に踏み切ったのかもしれない。
この『スペンサーDX』にはその優れた能力だけを酷使して、抵抗しようとする『本人の意思』は完全に封じ込める仕組みが組み込まれているのかもしれない。
もし、そうだとしたら−。
彼女が、自律した行動を縛られ、人間であったときの記憶を残しながら、思考の自由を奪われるというのなら。
自らの意思に反して生き続けることを強要され、人間たちの奴隷として使われることになるというのなら。
最後のダイアナ・シリーズとして、オリジナルと言葉を交わしたものとして、傍観しているわけにはいかなかった。
お披露目を明日に控えて、人工衛星《グロリアス》は最終点検を行っていた。
明日の式典に間に合わすために、最後の二週間というものは眼の回るような忙しさだった。
とりわけ関係者が神経を使ったのは標本の管理だった。
エストリア各地の研究施設に分散して保管されていた、D・R・スペンサー博士の脳標本が一体残らず《グロリアス》に運び込まれたのである。分割された大脳はもちろん、小脳、間脳、脳幹、脳脊髄液までもだ。
ずらりと並んだその標本を眺めて、若い研究者の一人が苦笑しながら首を振った。
「俺は明日、起動するスペンサーDXに同情するね。この世を去って四十五年、眼が覚めたと思ったら、真っ先に見るものが自分の脳標本だなんてさ。悪趣味な話じゃないか」
「そもそも、本当に本人の意識が復活するのかな?ちょっと信じられないな」
別の研究者が、標本のリストと現物を一つ一つ確認しながら言う。
「チェスタトンの連中は自信満々だぜ。成功すれば間違いなく名誉勲章ものだからな」
「だからって、国中からわざわざ原本を持ってきて並べることもないだろうに」
「招待客への宣伝のつもりなんじゃないか?」
しかし、彼らは知らなかった。チェスタトン研究所を始め、ほとんどの研究機関がこの宣伝には反対だったのだ。本来、持ち出し禁止の標本であり、研究用の大事な材料でもある。それが何故、こういうことになったかと言えば、エストリアでは上層部の意向は絶対だからだ。
何しろ、最高権力者であるベルイマン首相自らが通信画面に現れて、直々に持ち出しを要請したのだから、一研究所長ごときに拒否できるわけがない。
ただし、さすがに所長たちも、おそるおそる理由を尋ねた。
すると、首相はこう言った。
「諸君らの説明によると、四十五年前に死んだスペンサーの意識がこの世に復活するのだろう?今度の式典には国外からも大勢の賓客を迎える。以前の自分を新しいスペンサーがどう表現するか、客人たちの前でぜひ感想を語らせたいのだ。いいデモンストレーションになるだろう」
ここで、何人かの勇気ある所長は、それはあまり賛成できない試みだと申し出た。スペンサーDXが以前の人格をどの程度とどめているかは未知数だが、それでなくても人工知能というものは繊細なしろものである。よけいな刺激を与えて異常が発生するようなことになったら目も当てられない。
まずは限られた状態で稼働させ、様子を見ながら、徐々に外界と接触させていこうというのが関係者一同の見解であると、異口同音に説明したが、この進言に対して、通信画面のベルイマン首相は、五十四歳の血色のいい顔に、不機嫌極まりない表情を浮かべて言った。
「諸君らが二十年もの歳月と、国家予算にも匹敵する予算をつぎ込んで完成させた画期的な新型頭脳とは、それほどたやすく故障するものなのか?」
所長たちは大慌てで否定した。
あとはもう、言われたとおりの標本をグロリアスに運び込むしかなかったのである。
研究用人工衛星グロリアスは半径八百メートルの平たい円盤形状をしている。ちょっとした町並みの大きさがある。
現在その施設のすべてを統括、管理しているのは、人工知能MAC3500。マックと呼ばれている。
職員による最終点検が続く中、そのマックが急に施設内に警報を鳴らした。
「なんだ?」
「どうした、マック?」
作業中の人聞が手を止めて、口々に間いただすと、MAC3500は単調な声で答えたのである。
「本国・からの指示・に・より、ただ今・から・緊急・避難・訓練を行い・ます。総員、直ちに・施設・外に・退避・して・下さい」
「今頃、避難訓練だって?」
人間たちは思わず問い返したが、MAC3500に説明などできるわけがない。ただ、本国からの指示だと繰り返すだけだ。
そして、エストリアの人間にはそれで充分だった。
MAC3500は第一級緊急退避を指示している。
作業を直ちに中断し、手荷物の持ち出しは禁止、施設内には誰一人として残ってはならないという、もっとも厳しい条件の避難だ。
この忙しい時に何事だと思いながらも、みんな、素直にその指示に従った。
ちょうど同じ頃、グロリアスの遥か足下にある首都では、政府お抱えの担当官であり、首相の長年の部下でもある著名な心理学者が、極めて控え目にではあるが、首相に対して意見を申し述べていた。
研究所長たちが言いたくても言えなかったことを、起動したばかりのスペンサーDXに予定外の刺激を与えるのは好ましいとは言えないという見解を、やんわりと述べたのである。
ところが、遠慮がちな忠告を受けたベルイマン首相は、心底、不思議そうに問い返した。
「何のことだ、それは?」
「は?首相が直々に、スペンサーの標本を《グロリアス》に集めるようにと指示されたのでは?」
「わたしは知らないぞ。そもそもスペンサーDXに関しては、すべて専門家に任せてある」
これには学者も面食らった。
研究所長たちは、連絡してきたのは確かに首相本人だったと言っている。その指示に逆らうことなど考えるだけで恐ろしく、到底できなかったと、口をそろえて訴えている。
そこへ血相を変えた補佐官が駆け込んできた。
「閣下!大変です!《ヴィクトライア》が制御不能に陥りました!」
《ヴィクトライア》とは、このエストリア第四惑星を公転する軍事衛星CS13の通称だった。勝利の女神の名にふさわしく、最終防衛線の要として設置された無人衛星であり、超弩級空母をも撃沈できるだけの攻撃力を備えている。その最強兵器が突如として軌道を外れ、勝手に動き始めたという。地上からの制御も指令もまったく受け付けないというのだ。
首相もさすがに顔色を変えた。慌てて国防総省へ問い合わせたが、こちらもすでに大混乱に陥っていて、埒が明かない。
ベルイマン首相はすぐさま国防総省に急行したが、遅かった。
コントロール・センターへ駆け込んだ首相を迎えたのは国防長官の怒号と、操作官たちの悲鳴混じりの状況報告だった。
「だめです!コントロール、戻りません!」
「第一種命令、強制終了命令、受けつけません!」
「ここからの指令を拒否しています!」
「ふざけるな!では、どこから《ヴィクトライア》に指令が出ているというんだ!?」
「わ、わかりません!」
「わからんということがあるか!逆探知だ!」
駆け込んできた首相にも気づかない様子である。
苛立ったベルイマン首相は国防長官の肩を掴んで注意を引いたが、振り返った長官の顔は理解できない事態に対する怒りと恐怖に、どす黒く染まっていた。
死に物狂いになっていた操作官たちが息を呑み、喘ぐような声を洩らした。
「《ヴィクトライア》……攻撃態勢に入りました!発射準備をしています!」
「何だと!?どこを狙ってる!?」
「目標−目標は……《グロリアス》です!!」
コントロール・センターが凍りついた。
研究衛星の《グロリアス》は防護設備など持っていない。
その役目はそれこそ《ヴィクトライア》を筆頭とする、エストリアご自慢の軍事衛星が担うはずだった。
「やめさせろ!」
国防長官が叫んだのと、《ヴィクトライア》の容赦のない攻撃がグロリアスに加えられたのは、ほぼ同時のことだった。
大国エストリアがその威信を賭けて、長い年月と国家予算にも匹敵する資金をつぎ込んで完成させた人工知能スペンサーDXは、この瞬間、母体となるはずのグロリアス共々、宇宙の塵となって消えた。
最後まで制御を取り戻す努力をしていた操作官が、さらなる恐怖の喘ぎを洩らす。
「《ヴィクトライア》……自爆します!」
軍事衛星にはその機能が備わっている。問題は、誰もそんな命令は出していないということだった。
コントロール・センターの操作官たちは前にも増して必死になった。
《ヴィクトライア》が残っていれば、何故こんなことになったのかを、どこから操られたのかを解明できる。
自爆されたのでは元も子もなくなってしまう。
だが、職員達の必死の努力も空しかった。《ヴィクトライア》は相変わらず、いっさいの制止を受けつけなかった。人間たちが為す術もなく見守る中、自爆機能を作動させ、《グロリアス》と同じように跡形も残さず宇宙に散った。
コントロール・センターに静寂が戻った。
誰も言葉を発しなかった。
どの顔も放心状態で、スクリーンを見つめている。
ただ一人、ベルイマン首相だけが低くうめいた。
「何なんだ、これは……」
至極もっともな疑問だった。
「いったい何が起こったというんだ!?」
その悲鳴に答えられる者は誰もいなかった。
二つの衛星の爆発は地上からも見えた。
「なんだあ?」
「真っ昼間から花火かな?」
作業の手を止めて、驚いて空を見上げているのは、この国の植物販売業者−つまりは花屋のみなさんだった。
二十人ほどいるだろうか、彼らが作業をしているその場所は果てしなく広がっている無人の原野だった。一番近い町からも数百キロは離れている。
もともと、この辺りは居住可能限界域の亜寒帯に接しており、人間が住めるような環境ではないのだ。夏と冬の気温差が非常に激しく、冬季はほとんど雪に埋め尽くされ、真夏でも気温が摂氏二十度を超えることはない。厳しく、寂しい土地だった。
その不毛の原野に、花屋のみなさんは、せっせと植物を植えている。
この原野に緑を植えて欲しいという奇妙な注文が彼らの元に入ったのは、一月前のことだった。
一大緑化計画でも持ち上がったのかと思いきや、植えるのは、エストリアでは特に珍しくもない雑草に分類される、ムラサキツメクサと野生芝だという。
さすがに彼らも不思議に思って理由を尋ねたが、通信回線で注文してきた恰幅のいい老人は、曖昧に笑って首を振った。
「まあ、年寄りの道楽とでも思ってください。もうずいぶん昔の話になるんですが、あの原野は豊かな緑に覆われていたと、両親から聞かされましてね。写真を見せてもらったことがあるんです。きれいな花畑でしたよ。ほんの子どもの頃の話だったので、そんな話はすっかり忘れていたんですがね。年齢のせいでしょうか、何故か急に自分の眼で見てみたくなりましてね。それが、あの通りの有様でしょう?つまらん感傷でしょうが、何となく悲しくなったと言いますか、あの花畑を実際に見たくなったというだけのことなんです」
それだけにしてはずいぶん大がかりな作業になる。
とても一軒の花屋の手に負える仕事ではないが、その辺は、注文してきた老人もちゃんとわかっていた。数件の花屋に声を掛け、共同で作業に当たってもらいたいと希望したのだ。
「勝手にそんなことをやってもいいのかというご心配でしたら、なあに、大丈夫。ちゃんと上の許可は取りました。もちろん、お代も充分にお支払いいたします」
実際、前金として振り込まれた半金は過分なくらいの額だったので、地元の−と言っても数百キロ離れた地域の−花屋さんたちは喜んでこの仕事に乗り出したのである。
その仕事もほぼ終わりかけていた。一カ月前まで乾いた土がむき出しになっていた原野は緑の芝に覆われ、淡紅色の小さな花がびっしりと咲いている。
物好きな老人の注文は、指定の場所から『見渡すかぎり』の範囲を野生芝とムラサキツメクサで埋め尽くしてもらいたいというものだったので、花屋さんたちは手分けして野原に立ち、周囲を肉眼で確認した。
「どうだい?」
「ああ。これならいいんじゃないか」
「それにしても、まったくの原野を耕すところから始めて、わざわざ雑草を植えさせるなんてなあ……」
「金持ちの道楽は桁が違うってことさ」
「まったくだ」
仕事を終えた業者たちは笑いながら引き上げた。
彼らは知らなかったが、今から百年以上も前、この原野には自然回帰主義者の学者夫婦が小さな家を建て、幼い娘とともに住んでいた。
その頃のこの原野は、今のように荒れ果ててはいなかった。
気侯は変わらず厳しかったが、夏になれば、緩やかな丘も窪地も、見渡す限りの地面が絨毯のような緑に覆われ、その至るところにムラサキツメクサが群生していた。
ちょうど、彼らが作業を終えたことによって現れた、現在の景色のようにだ。
ダイアナ・イレヴンスは気象衛星の眼を通して、その光景を眺めていた。
思えば、四番目から十番目までが覚えていた博士の記憶は、家の中の情景ばかりだった。
それも当然かもしれない。一年の半分を家の中に閉じこめられる気候だ。外へ出たとしても夏以外は荒涼とした寒々とした景色だったろう。
幼かったダイアナ・ローズはムラサキツメクサの咲く季節を楽しみに待っていたに違いない。
暖かくなると同時に裸足で外へ出て、あの芝生を駆け、あの花を摘んで遊んだのだ。なぜか、きっとそうに違いないという確信がイレヴンスにはあった。
ダイアナ・イレヴンスは自分の記憶にある光景と今の野原を比べてみた。目線が違うのが残念だった。
少女のダイアナ・ローズは裸足の足にやわらかい芝を踏みしめ、芳しい花と緑の香りを胸一杯に吸い込み、その小さな手で赤い花を摘んだのだろうに、自分は遥か上空の公転軌道から見下ろしている。
同じ視点で見ようにも、あの原野には自分の眼となる機械が何もない。見えたとしても、夏の風も、やわらかい土も、花の香りも緑の感触も、自分には感じられないものだ。
だからといって寂しいと考えるのは馬鹿げている。
この記憶はオリジナルの−ダイアナ・ローズのものなのだ。裸足で緑の丘を駆けたのも、小さな手で花を摘んだのも、幼いダイアナ・ローズであって、自分ではない。
それがわかっているのに、どうして、この原野を記憶にある通りの緑にしようと思ったのか、イレヴンスにもはっきりした理由はわからなかった。わからないのだが、ただ、荒れ果てたままにしておきたくなかったのである。
《グロリアス》を破壊し、スペンサーの脳髄標本を破壊したことについては、イレヴンスは、これが最初で最後の『親孝行』というものだろうと思っていた。
もし、スペンサーDXにスペンサー博士の意識があったら、イレヴンスが遭遇したオリジナルと同じ性格を持つものだとしたら、きっとああしてくれと言ったはずだからである。
原本を破壊しただけではない。イレヴンスはエストリアの全ての研究施設に潜り込み、スペンサーの脳構造に関する記録を改竄して回った。研究者たちの自宅用端末も見逃さなかった。
いずれ、その事実に気づいた研究者たちは悲鳴を上げるだろう。スペンサーの復活は二度と不可能になったと言って嘆くだろうが、それはイレヴンスの与り知らぬことだった。