江戸小咄春夏秋冬 秋
興津 要
[#表紙(表紙-秋.jpg、横180×縦240)]
表紙絵
広重作「名所江戸百景」より神田紺屋町《かんだこんやちょう》……櫓《やぐら》から垂れ下がって折からの北風にひらひらとなびく浴衣地《ゆかたじ》は、江戸の晩秋の風物だった。この界隈は紺屋が軒をならべた職人町だった。
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目 次
朝顔
盂蘭盆《うらぼん》
盆《ぼん》の掛乞《かけごい》
二百十日
神田祭り
葡萄《ぶどう》
さつまいも
松茸《まつたけ》
初茸《はつたけ》
椎茸《しいたけ》
御命講《おめいこう》
小豆《あずき》
栗《くり》
九年母《くねんぼ》
新酒
相撲《すもう》
紅葉《もみじ》狩り
神無月《かんなづき》
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朝顔
朝顔や少しの間にて美しき  才麿《さいまろ》
朝顔の語源としては、朝咲いて、昼しぼむ花の意味とか、朝美しい花の意味とかいう説があるが、朝早く開花し、昼にはしぼんでしまう朝顔は、盛りの時間が短いがゆえに、その間に精いっぱい美しさを誇るの感がある。
その全盛期から見れば、夏の季語とすべきだろうが、古来、秋の季語とされて来ている。
朝顔に釣瓶《つるべ》とられて貰《もら》い水  千代女
盛りの短い朝顔であってみれば、釣瓶《つるべ》の綱に巻きつく蔓《つる》をもぎ取るに忍びず、近所で貰い水をしたわけだが、川柳のほうでは、なおも、ごていねいに、
翌年は千代井戸端を去って植え 〔柳119〕
と、釣瓶に蔓が巻きつかぬ距離に植えた翌年の状態までえがいていた。
なかには、異色の朝顔もあって………。
◆寝惚《ねぼ》けたあいさつ
ある所の庭に、朝顔、見事に咲きけるに、ある人、花を見て、「さてさて、この花は、毎朝五ツ〔午前八時ごろ〕前に開き、よき目ざましじゃ」
と、いえば、
「いかにもさよう。なるほど、毎朝よき楽しみ」
と、いいける。
さて、その翌朝、起きてみるに、一輪も咲かず。
四ツ〔午前十時ごろ〕過ぎまで待てども開かず。
これは不思議と、花のもとに立ちよれば、かのつぼみ、ばっちりと目をあき、あたりを見まわし、
「ても、けさは寝すごした」
と、いうた。……延享三年刊『臍巡礼』
――昼顔とのハーフだったのかも知れない。
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盂蘭盆《うらぼん》
御仏《みほとけ》はさびしき盆とおぼすらん  一茶
盂蘭盆は、サンスクリットullambana の音訳という。
略して〈盆〉といい、七月十五日を中心にしておこなわれる行事。
十三日の夕方、家ごとに、門口で苧《お》がらをたいて祖先の霊を我が家に迎え、精霊棚には、こもむしろを敷き、ナスビの牛、キュウリの馬や果物などをそなえる。
毎日夕方には、盆提灯や盆燈籠をともし、十六日の朝、そなえたナスビやキュウリなどを川へ流して〈送り盆〉をし、この日の宵に、〈送り火〉をたいて精霊を送る。
盆にちなんで、精霊に登場してもらおう。
孝子経曰、人之所畏、不可不畏(こうしきょうにいわく、ひとのおそるるところを、おそれざるベからず)
さる独身者《ひとりもの》、昼飯を食いかけ、膳の向うに白無垢《しろむく》着て、色青き女、腰の辺《あたり》も見えず、ドロドロドロと現われける。
独身者おどろき、よくよく見れば、久しきあとに〔ずっと以前に〕死にたる女房なり。
「これかかあ、われは、死んで五、六年になるに、なぜ、いま幽霊となって来たのだ」
「久しくおめえに逢わねえから、逢いたさのまま、迷うて来ましたわいなあ」
「おえねえ〔どうにも手におえない〕間抜けだ。幽霊になって出るならば、夜でも出そうなものだ。昼日中《ひるひなか》ばかな面《つら》な」
と、叱りつければ、幽霊涙ぐみて、
「夜は気味が悪い」……享和三年刊『遊子珍学問』
おお、心やさしき幽霊よ!
幽霊の足はしゃぼんのはなれぎわ 〔柳115〕
という句があるが、幽霊が、死装束、腰から下がかすんでいて足がないというスタイルになったのは、江戸中期の画家|円山応挙《まるやまおうきょ》の女幽霊の絵からだった。そこで、
幽霊に応挙画筆の水を向け 〔柳153〕
この絵にヒントを得て、初代尾上|松禄《しょうろく》〔文化十二年・一八一五没〕が舞台の幽霊をつくりあげ、怪談劇の名作「東海道四谷怪談」の作者鶴屋大南北の売り出しに一役買ったが、ここで、さんばら髪で、両手を胸のあたりに七三にさげ、白装束の薄物の裾《すそ》から下が消えているスタイルができていった。
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盆《ぼん》の掛乞《かけごい》
江戸時代には、日用品を掛帳に記載して買い、盆の前と歳末とに支払う習慣だったから、井原西鶴の『大坂|独吟集《どくぎんしゅう》』のなかにも、
きんか頭に盆前の露
懸乞《かけごい》も分別《ふんべつ》盛りの秋|更《ふ》けて
こらえ袋に入相《いりあい》のかね
という連句があり、ひたいの禿《は》げあがった分別ざかりの借金取りが、盆の節季前に辛抱強く掛取りにまわる姿がえがかれていた。
◆馬鹿男
「この盆前の払いは、どうだった」
「いや、たいがい済《す》んだが、なかには、うさんくさい掛取りの来たぶんは、物騒《ぶっそう》だから、払いをしねえでやった」
と、見栄《みえ》を話すと、
「ウウ、随分うさんくさい掛取りもありそうなものだ。おらがうちへは、ふだん糞《くそ》くさい肥取《こえと》り〔糞尿汲み取り人〕が来る」
……『冨貴樽《ふっきたる》』
肥取りならば、〈うさんくさい〉どころのさわぎではあるまい。
つぎの小咄も、季節的に見ると、盆前の掛乞を扱ったものだろう。
◆雷ぎらい
「そりゃ、また光った。こんどは大きくなるであろう」
と、亭主は、戸棚へはいり、戸を引きたてて息をころして、こころのうちで、観音を念じている。
女房は、思いのほか、なんとも思わず、四つばかりな子を抱いているうち、鳴りもやみ、雲もはれれば、
「もし、もう出てもようござりやす」
と、戸をあければ、亭主|這《は》い出、
「さてさて、大きに窮屈《きゅうくつ》な目をした。たかが知れたことだと思いながら、どうもこわくてならぬ」
と、いうを、ちいさい子が、
「これ、かかさん、とっさんはの、かみなり様にも、あの借りがあるか」
……寛政九年刊『詞葉《ことば》の花』
これはまた、想像力のたくましい幼児だった。
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二百十日
日照年《ひでりどし》二百十日の風を待つ  素堂
二百十日には、風雨が強いということになっているので、農作物に影響するほど晴天つづきのときには、二百十日を|あて《ヽヽ》にすることにもなるのだった。
正月の節、立春の初日より数えて二百十日という。このころ、秋の最中にて、金気殺伐の気変動する時なり。ゆえに必ず風雨あり。この時節、およそ中稲の花盛りとす。農民、その花を損《そこな》わんことを恐る。また、二百二十日は、晩稲の花盛りとす。この節、究《きわ》めて大風雨あり。この風雨にあたれば、稲花枯れ凋《しぼ》みて、みのらず。よりて風雨を忌《い》むなり。……『年浪草』
とあるように、立春から数えて二百十日目の九月一日か二日には、稲の花盛りで、暴風雨を恐れたことから、この日に注意したわけだった。
◆二百十日
「二百十日は、いつだの」
「なに、とうに過ぎたろう」
「なに、まだ過ぎるものか」
「いんえ、それでも四万六千日《しまんんろくせんにち》は、いィつか過ぎた」
……安永五年刊『売言葉《うりことば》』
二百十日は、立春から二百十日目であることはたしかだが、観音様の縁日の四万六千日までも立春から数えるわけはない。
残念ながら、一年は、三百六十五日だった。
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神田祭り
祭りにはお貸しなさいと暑気見舞 〔柳18〕
現千代田区外神田二丁目の神田明神の祭礼は、現在では、五月十四、十五日におこなわれるが、江戸時代から明治二十年ぐらいまでは、九月十四、十五日の秋祭りだった。
そこで、富豪の家へ暑気見舞いに行って、祭りに飾る金屏風《きんびょうぶ》の借り入れを予約することになった。
山王と神田でも見た金屏風 〔柳17〕
山の手を代表する山王日枝《さんのうひえ》神社の六月十五日の祭礼に借りて飾った金屏風が、九月の神田祭りにも飾ってあるというケースも見られた。
レジャーのすくなかった江戸時代には、幕府所在地の江戸でさえも、祭礼が最大の娯楽だったわけで、元禄のはじめ〔一六八八ごろ〕、将軍が、江戸城内の上覧所で、山王祭りの山車《だし》を見て以来、江戸市民の祭りに寄せる関心も強くなっていった。
おまけに、宝暦《ほうれき》十二年〔一七六二〕の山王祭り以後、葛西《かさい》ばやし、一名〈馬鹿ばやし〉とも呼ばれるにぎやかな伴奏までが山車についたから、祭り気分も最高潮に達した。
神田祭りは、一年ごとに交替で盛大におこなわれた。
神田明神の祭神は、明治になってからは、平和な五穀《ごこく》の神、大己貴命《おおなむちのみこと》ということになったが、古くは、民間で一種の英雄として崇拝された平将門《たいらのまさかど》といわれ、その胴体もほうむってあるという伝説も残されていた。
江戸の多くの祭りのなかで、山王、神田の両祭礼が、とくに盛大だったのは、巨大な山車を繰り出したことにもかかわりがある。
大きな山車が牛にひかれてつづき、山車には付属の屋台がついて、各町内が趣向を凝《こ》らした太神楽《だいかぐら》や、芸者、町娘の踊りなどの余興もあり、彼女たちは、祭りの日の姿が浮世絵にえがかれて売り出されることも多かったので、あたうるかぎり艶麗《えんれい》な容姿にと心をくだいた。
借金をいさぎよくする祭り前 〔柳3〕
祭礼の費用の大部分を地主が出す習慣はあったが、衣装その他の雑費のために、町内の連中も意外の出費を余儀なくされ、この句のように思いきった借金をする必要もあったし、祭りのあとで、娘を売って借金の穴埋めをする悲劇も起こった。
◆神田祭
田舎の客、馴染《なじみ》の女郎とさし向かいで話している。
女郎、おならが出そうなゆえ、「ぬしゃ、神田祭り見なんしたか」
「たびたび江戸へ出れと、神田祭りは、まだ見ねえ」
「にぎやかな祭りでありんす。まず、練り物、屋台ばやしして、このように太鼓をたたきんす」
と、火鉢のふちを無性《むしょう》にたたき、その音にまぎらせ、おならをぽんとはずせば、客、あきれた顔で、
「それほど結構なにぎやかな祭りに、このように、あとから、こやし持ち〔肥料用の糞尿を持った者〕の行くのは、どうだろ」……天明八年正月序『千年草《ちとせぐさ》』
馴染みの仲とはいいながら、これは、あまりにも香り高き話だった。
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匂《にお》うとも見えずゆかしや桃の花  樗良《ちょら》
桃は中国から渡来したが、幻想的な匂いや象徴的な感じのする花や実ゆえに、中国では、邪気を払うとされて来た。
三月|上巳《じょうし》の節句に、桃を飾り、桃酒を酌《く》むのも邪気払いのためだった。
桃の原産地は、黄河上流地域というが、日本への渡来は相当に古く、弥生《やよい》時代の遺跡から出土して来るという。
語源は、実が赤いので〈燃実《もえみ》〉の意味だとの説もあるが、実が多いところから、〈百《もも》〉で、数が多い実ということであったらしい。
◆猿桃《さるもも》
どこからか、毎日、猿が来《きた》りしゆえ、ある日、桃をやりければ〔やったところが〕、抱《かか》えてうれしがり、それより暫《しばら》く来《きた》らず。
「どうしたこと」
と、いう所へ来りければ、猿にむかい、
「なぜ来ぬ」
と、いえば、
「へへへ、猿桃は日々に疎《うと》し」……弘化ごろ刊『しんさくおとしばなし』
「去る者は日々に疎し」〔親しかった者でも、離れて逢わずにいると、しだいに疎遠になる〕ということわざを洒落《しゃれ》に使うとは、〈敵もさるもの、ひっかく者〉だった。
桃は、鬼を追い払う魔力もあるといわれたから、桃太郎説話が生まれたのも当然だろう。
◆桃太郎
桃太郎、鬼が島へ行かんと、腰にきびだんごを付け、出かけたれば、犬と雉子《きじ》立ちいで、
「どこへ行き給う」
と、いえば、
「鬼が島へ宝をとりに」
「腰に付けたるは何ぞ」
「日本一のきびだんご」
「ひとつください。お供《とも》申そう」
それより両人を供につれ、すたすたゆく向うより、猿立ち出《いで》、
「桃太郎さん、どこへいきねんす〔行きなさる〕。おまえの腰のは、なんでえす」
「日本一のきびだんご」
「ひとつ、くんねんし〔ください〕」
と、しゃれるに、さだめて猿も、じょさいはあるまじと〔まちがいなくついて来るだろうと〕、ひとつやれば、
「ああうまい、もひとつ、くんねんし」
と、これをも食って、
「ああ、うまかった。いって来ねんし〔いってらっしゃい〕」
……安永八年刊『寿々葉羅井《すすはらい》』
――そりゃあないよ!
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葡萄《ぶどう》
雫《しずく》かと鳥もあやぶむ葡萄かな  千代女
江戸時代の代表的な女流俳人|加賀《かがの》千代の句で、秋を彩る葡萄の静かな美しさを詠んでいた。
江戸末期の随筆『守貞《もりさだ》漫稿』に、「古《いにしえ》は葡萄色を、えびいろと訓《くん》ず、紫に近き色なり」とあるように、その色までが、日本人の生活のなかで親しみ愛されて来たのだった。
葡萄〔古くは蒲桃と書いた〕は、中央アジアを原産地とするが、日本には中国から渡来し、八世紀ごろはエビカズラと呼んでいた。
葡萄の語源は、ギリシャ語 botrus《ボトルス》のルスの部分を省略し、中国で音訳して〈蒲萄〉〈葡萄〉などの文字をあてた。
◆殿様
ふだん、|お側《そば》の役人に、女房にまかされている男〔女房の尻に敷かれている男〕あり。
ある時、女房にしたたかくらわされ〔なぐられ〕、顔に大きな疵《きず》をつけられ、番に出ければ、殿様|御覧《ごろう》じ〔ごらんになり〕、おおかた女房にぶたれしものとおぼしめし、
「そのほうが顔の疵はなんじゃ」
「はい、この疵は、お庭の葡萄棚が倒れかかりまして、顔を疵つけましてござります」
「いつわりをいうやつじゃ。おおかた女房にたたかれたであろう。女房を呼びにやれ」
と、ほかの役人へ仰《おお》せ付けられけるを、奥様、襖《ふすま》のあちらにて、ふと、お聞きなされ、
「殿様のお声で、女房を呼びにやれとは、ねたましや」
と、日ごろ、やきもちの奥様、大声をあげて、
「うらめしや」
と言いながら、奥から走り出《いで》たまえば、殿様、肝《きも》をつぶし〔びっくりして〕、
「これこれ、おれが所の葡萄棚も大倒れだ。まず、そのほうから早く逃げろ」
……天明二年ごろ序『笑顔はじめ』
主人も家来に負けず劣らずの恐妻家だった。
この小咄もまた、〈葡萄〉という字と同じく、中国の笑話本『笑林広記』のなかから、そっくりそのまま頂《いただ》いていた。
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さつまいも
ヒルガオ科のつる性多年草で、中南米原産とされている。
いも掘りは、秋の行楽としてよろこばれる。
日本には、江戸時代に、中国、沖縄、薩摩〔鹿児島県〕を経て渡来し、薩摩から東日本に渡って来たので〈さつまいも〉の名がある。
中国名は、甘藷《かんしょ》という。
江戸中期の蘭学者青木|昆陽《こんよう》は、甘藷先生の異名を持つが、それは、とくに江戸を中心にして東日本において栽培し、普及につとめたためだった。
野暮《やぼ》な人間を〈さつまいも〉と呼ぶことがあることでもあきらかなように、卑近な食べ物であることは否定できない。
◆大通《だいつう》
何のなにがしという、きっとした通り者〔有名な通人〕。
着類《きるい》〔衣類〕はいうに及ばず、きせる、たばこ入れ、そのほか、手道具、座敷の物好《ものずき》、なに暗からぬ大通《だいつう》。
毎日毎日、友だち集めての女郎買いばなしにも、世のなかのひとをば、みな野暮と見くだし、われひとり粋《いき》なる者と、けんしきを立てけるが〔気取るのだが〕、ここにふしぎなることは、食事するに、決してひとに見せずに、大屏風を立て廻し、そのなかにたったひとり、給仕さえ入れずに食う。
友達ども合点《がてん》ゆかず、いろいろ気をつけても、さっぱり見せず。
さては、狐か猫のとりつきしにきわまったと、みなみな言い合わせ、何とぞして見届けんと、いつものごとく打ち寄り話しているに、下女が、
「御膳《ごぜん》をおあがりなされまし」
と、言えば、
「皆様、御免なされまし」
と、言って立つと、例のごとく屏風を立て廻して内へ入りぬ。
みなみな、ここぞと手ぐすねして時分を待ち居るに〔用意して待っていると〕、ひとり、
「それ」
と、声をかくれば、一時にばたばたとおっ取り巻き、理不尽《りふじん》に〔無理に〕屏風を取りのくれば、諸手《もろて》〔両手〕で、さつま芋を食って居た。
……天明八年ごろ刊『独楽新語』
通人をふりまわす男の姿としては、どうにも|いもいも《ヽヽヽヽ》しいものがあった。
◆悪推《わるずい》
十六、七のきれいな若衆、十三、四な美しい娘と二人連れてゆく。
娘「もう切ってくんな」
と、言う。
若衆「この町中《まちなか》で切られるものか」
と、言う。
ある男、さては心中そうな〔心中をするらしい〕と思い、あとに付いてゆけば、浅草の門跡《もんぜき》〔本願寺〕へ参る。
「さては、後世《ごせ》を頼むよ〔死後の世を安楽にと願うのだな〕」
と、見ていれば、娘、またもここで、
「切ってくんな」
と、言う。
若衆「ひとの見ているに」
と、目くばせして、御堂《みどう》の裏のかたへゆく。
男、
「さては、心中の場所をたずぬるよ」
と、見えがくれに、あとに付いて行けば、御堂の裏へ行き、
「ここで切ろう」
と、言う。
「さては、心中することよ。とめてやろう」
と、思うていれば、
「さあ切ろう」
と、言うて、袂《たもと》から、さつまいもを出した。
……天明八年正月序『千年草』
これもまた色消しな、|いもいも《ヽヽヽヽ》しさだった。
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松茸《まつたけ》
松茸や知らぬ木の葉のへばりつく  芭蕉
その特有の香りが失われてしまったが、松茸は、秋の代表的味覚として忘れることはできない。
日本特産の松茸は、マツタケ科のキノコで、秋に、主としてアカマツ林に生えるが、寒地では、エゾマツ、ハイマツなどの下に生えることもある。
〈松菌〔マツタケ〕〉の意味だという語源説も故《ゆえ》なきことではない。
ところが、古来、松茸には、男性のシンボルとしての別名もある。
松茸の食傷《しょくしょう》をして嫁は吐き 〔柳106〕
〈松茸〉をたっぷり賞味した嫁が、ついに〈つわり〉になったのだった。
◆松茸
座敷に松茸が、つるしてある。
よその女房、客に来て、かの松茸をにぎってみて、
「ほんに、うちでも、よろしくと申しました」
……安永八年正月序『御笑酒宴』
その体験的発言には、実感が籠《こ》もっていた。
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初茸《はつたけ》
初茸やまだ日数《ひかず》経ぬ秋の露   芭蕉
日本特産で、夏から秋にかけて、アカマツ林のなかの陰湿地に生ずる。
名称は、秋の早い時期に採《と》れることによるという。
淡赤褐色で、傷つけると、たちまち青藍《せいらん》色に変る。
傘は、径《けい》三センチから十五センチメートルぐらいで偏平《へんぺい》だが、中央がくぼむ。
味は淡白だが、広く食用に供せられる。
◆はつ茸
「わしが田舎の山には、とんだ大きな初茸が出るて」
「どのくらいござる」
「まず、おおかた、開いたところが、さしわたし〔直径〕で、五、六尺〔一尺は、約三十センチ〕もあろう」
「とんだてっぽう〔でたらめ〕をいう人だ。そのような初茸があるものか」
「いや、うそでないこと。雨のふる時は、からかさのかわりにする」
……安永八年刊『寿々葉羅井《すすはらい》』
そんな傘では、秋雨もおどろくだろう。
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椎茸《しいたけ》
春から秋にかけて、山林のなかのシイ、ナラ、クリ、クヌギなどの枯れ木に自生するが栽培もされる。
椎《しい》の木に生えるので、椎茸の名があるという。
生品、乾燥品ともに食用に供せられる。
傘は、淡褐色または茶褐色で、径五センチから十五センチメートルぐらい。
椎茸へ松茸を売る小間物屋   〔柳43〕
椎茸のだしで食ってる蓮の茶屋 〔柳142〕
この二つの句にいう〈椎茸〉とは、椎茸髱《しいたけたぼ》の略で、江戸時代の御殿女中の意味だった。それは、彼女たちの髪かたちが左右の鬢《びん》を張り出して椎茸のようだったからにほかならない。
一句目は、男子禁制の大奥の女中たちに、出入りの小間物屋が、女性自慰具を売る図であり、二句目は、上野の不忍池《しのばずのいけ》のほとりのラブ・ホテル〈蓮の茶屋〉で、宿下《やどさが》りをした奥女中が密会をする事情を詠んでいた。
◆髪結床《かみゆいどこ》の喧嘩
髪結床のうちに、若い衆打ち寄りいたるところを、折りふし〔ちょうどそのとき〕、屋敷女中、仲間《ちゅうげん》を供につれ通りしを、さまざま評議のうちに、
「あれは、くさい」
と、いいしを、仲間聞いて、合点せず。
「おのれらは、にくいやつだ。われらが〔わたしが〕供をする女中を、なぜ、くさいといいおった。弓矢八幡、かんにんならず」
と、きっぱ廻せば〔刀の柄《つか》に手をかけて、抜こうとすれば〕、
「はて、頬が赤いから、くさいと言ったが、どうした」
「いや、くさくない」
「いや、くさい」
と、あらそえば、女は、内ふところより手を入れ、そっと中指を鼻にあて、
「団平《だんぺい》殿、こっちゃ負けた」
……安永八年刊『寿々葉羅井』
頬の赤い女性は、陰部がくさいという俗説があった。
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名月や池をめぐりて夜もすがら  芭蕉
冴《さ》え渡る月光にきらめく池の水、名月の光りを受けて、ひときわ色濃い樹木の陰、深い夜空――それらが、月の動きにつれて刻一刻と微妙に変化し、眺めあきることがない。
美しい自然と調和して、時の経過も忘れる心境――自然詩人芭蕉ならではの境地だった。
名月や烟《けむり》はい行く水の上  嵐雪《らんせつ》
照り輝く名月を背景にして、音もなく流れる川面《かわも》をはってゆく川霧――それは、夢幻的な、神秘的な情趣そのものなのだ。
◆引き窓
盗人、引き窓〔屋根につくった明り窓〕より縄にとりつき、ぶらりとさがり、うちのようすをうかがい見れば、亭主見つけて、
「やあ、何者じゃ。月夜に釜をとろうとは、ふといやつ」
と、いえば、
「いやいや、水がめの月をとりに参った」
……安永七年刊『春笑一刻《しゅんしょういっこく》』
なんとロマンチックな詩人の盗人であったことよ!
〈つき〉の語源については、光彩が日に次《つ》ぐことから〈次〉の意味、毎月一度輝きが〈尽く〔ツキル〕〉ことによるなどの説がある。
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菊の香や奈良には古き仏達《ほとけたち》  芭蕉
九月九日、菊の節句に奈良を訪れると、この京都《けいと》には、菊の香がただよい、寺には、清潔、典雅な菊の香にふさわしい古い仏像が並んでいた。
高雅な菊の花と、閑寂、蒼古《そうこ》の仏像との微妙な調和に心打たれる芭蕉だった。
菊は、かなり古く中国から渡来した花で、〈きく〉は、中国語〔音〕の〈キク〉から出たといわれている。
◆菊作り
「この間は、お使いくだされ、かたじけない。丹精《たんせい》の菊の花、進上いたした〔さしあげました〕。いかがご覧くだされたか」
「千万、千万かたじけない。さてさて、みごとなこと。さっそく賞翫《しょうがん》いたした。少々おしいことには、苦味があるように存じた」
「さてさて、貴様は、不風雅《ぶふうが》な儀《ぎ》を仰《おお》せられる。この間の花を、ひたし物にでもなされたか」
「いかに私がような者じゃとて、御丹精の花を、ひたし物にいたすものか。汁《しる》の実にいたして給《た》べた」
……安永六年刊『管巻《くだまき》』
丹精の風雅な菊の花も、舌と胃袋とで鑑賞されてはたまらない。
◆菊見
「今年は、よく出来たと聞いたが、拝見しようか」
と、見に来る。
「なるほど、新花もあり、まず、あの通り」
と、書院を見せ、
「新花は、土蔵の後《うしろ》じゃ。御覧あれ。それ、お供して、お目にかけよ」
と、腰元に言い付ければ、腰元、庭下駄を直し、案内《あない》して連れ行く。
しばらく隙《ひま》取りて、座敷へ帰り、
「さてさて見事な、きつい〔たいへんによい〕出来じゃ」
と、誉《ほ》める。
亭主「その膝の土は」
と、問われ、
「これは」
と、縁端《えんばな》へ出て払えば、腰元は、顔を赤めて尻をはたく。
……安永二年刊『さしまくら』
「下女尻をたたけば男まえをふき」という句があるが、土蔵のうしろで、男女の間にいかなる光景が展開されたかは説明するまでもあるまい。
本尊は蓮華座和尚菊座《れんげざおしょうきくざ》なり 〔柳67〕
〈きくざ〉とは、菊の花とかたちが似ていることから、肛門、さらには男色の異称。
そこで、寺の御本尊の仏像は、台座の蓮華座に鎮座ましますが、和尚は、好きな男色にふけっているというのが句の意味だった。
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御命講《おめいこう》
菊鶏頭切り尽くしけり御命講  芭蕉
御影講《おえいこう》、日蓮忌《にちれんき》、御会式《おえしき》ともいう御命講は、宗祖日蓮の亡くなった十月十三日の法会《ほうえ》をいう。
日蓮上人〔中略〕弘安五年|壬午《みずのえうま》、六十一歳にして大化畢《だいげひっ》す〔死ぬ〕。十月十三日、武州池上金吾が家にて涅槃《ねはん》に入る。同六年十月十三日、身延山《みのぶさん》において、六老僧、祖師の忌辰《きしん》を執行す。当代に及びて日蓮宗門の僧侶、毎十月十三日、御影講とて祖像を祭る。〔以下略〕……『滑稽雑談』
以上のような事情から、十月十三日に日蓮上人の忌日《きじつ》法会がおこなわれる。
東京都大田区池上本町の本門寺は、上人|示寂《じじゃく》のゆかりの地であることから、十月十一日から十三日まで、もっとも多くの参拝者でにぎわう。
ただし、御会式は、古くは、陰暦八日にはじまり、十三日の忌日に終了した。
〈御命講〉という名称は、「俗にお命講というは、御影供の転訛せるなり」〔『東都歳時記』〕というように、大御影供《おみえいく》から〈おめいく〉になり、さらに、「春の弘法大師の御影供《みえいく》というに紛《まぎ》るゆえ、おめいこうという」〔『栞草』〕という語源だった。
子をつれてひまどる道や御命講  涼花
〔商店の〕手代、旦那の子をつれて、御命講へまいりしが、日が暮れて、うちへ帰り、朋輩《ほうばい》にいうには、
「今日、お坊《ぼん》さんのお供《とも》して、|雑司ヶ谷《ぞうしがや》〔日蓮宗の法明寺〕へいったところが、みちみち、『あれを見よう』の、『これを買ってくれろ』のと、だだをおいいなさったので、大きにひまどったゆえ、帰ると、旦那が、おしかりなされたが、とんだありがたいことであった」
朋輩聞いて、
「なぜ、しかられたのがありがたい」
「はて、ありがたいのさ。おそし、おそしとおしかりだから」
……嘉永四年刊『俳諧発句一題噺』
「遅し、遅し」と「お祖師《そし》、お祖師」とをかけた落ちだが、御命講の日のにぎわいが感じられる咄だった。
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小豆《あずき》
淑《しと》やかに磨《みが》きしごとき新小豆  中村草田男
原産地は中国といわれ、日本には古く渡来した。
夏、黄色の花を開き、花が終ると、さやのなかに十粒前後の暗赤色の種を結び、通常、十月ごろ収穫する。
種は、赤飯用、餡《あん》など、食用となる。
〈あずき〉の語源説は、〈赤粒草〔アツキ〕〉の意、〈赤粒木〔アカツブキ〕〉の意をはじめ諸説あるが、あきらかではない。
◆小豆餅
友だちの病気見舞に、小豆餅百が取りにやり〔百を取りにやり〕、持たせやり、しばらくして見舞えば、
「これは、かたじけない」
と、枕をあげ、さきの餅の礼いえば、
「ちっとずつもこころよいか」
と、聞けば、
「いやもう、絶食同然。いまの小豆餅も、この通り」
と、重箱を出《いだ》す。
客、蓋《ふた》をあけてみれば、たったひとつ残ってあり。
病人「それ、そのひとつが、どうも」
……安永十年正月序『はつ鰹』
「そのひとつが……」とはいっても、見舞いとして届いた小豆餅は百個だったのだよ。
〈健康〉のサンプルみたいな病人!
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栗《くり》
行く秋や手をひろげたる栗のいが  芭蕉
|いが《ヽヽ》のなかで発育する栗は、ゆで栗、焼き栗、栗飯、栗|鹿子《かのこ》など、魅力ある秋の味覚として、松茸や柿などとともに逸することはできない。
◆柿栗
秋の末《すえ》つかた〔終りごろ〕、山の片かげに、柿と栗と咄している。
「さてさて、栗どのは果報人《かほうじん》〔幸せ者〕だ。幾重《いくえ》も幾重も着物を着てござるが、おれほど情けない身はござらぬ。ひとえ物一つで、寒うなると、赤い顔でりきんでいます」
と、涙ぐみて語れば、栗も気の毒さに、
「一重《ひとえ》でも着ているは、ありがたい。この松茸を見な。この年になれど、まだ、ふんどしさえかかねい〔ふんどしさえ、しめていない〕」
……天明八年正月序『千年草《ちとせぐさ》』
松茸も、変なところで引き合いに出されたものだ。
〈栗〉の語源については、黒っぽい果皮の色によるという説もあり、果実が固いところから、石を意味する古語の〈くり〉に由来するとか、〈凝〔コリ〕〉の意味とかいう説があるが、固さにもとづく語のように思われる。
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里古《さとふ》りて柿の木持たぬ家もなし  芭蕉
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺  子規
古い歴史を持つ柿は、人間生活に深く根をおろしたかの感があるし、赤い果実が木の上に熟した光景には、秋らしい風情もある。
柿は、中国にも古くからあり、日本でも有史以前から栽培されていたようだが、その語源は、赤い実のなる木だから、赤木《あかき》の〈あ〉を略したもの、実の色から〈赤き〉の〈あ〉を略したもの、実が赤いところから、〈カガヤク〉を略し、転じたことばであるなどと、諸説があってあきらかではない。しかし、〈赤〉という色彩にもとづく説が中心をなしている。
ちなみに、柿は、アメリカでも、イタリアでも、kaki〔カキ〕という呼称で通用しているという。
渋柿や嘴《はし》おしぬぐう山がらす  白雄
という句もある〈渋柿〉は、酒のあき樽に入れ、酒気で渋味を抜いて甘くするが、これもまた、捨てがたい秋の味覚となっている。
◆大下戸《おおげこ》
酒屋の前を通っても、むかむかして来るような大の下戸あり。
「つらつら思うに〔よくかんがえてみると〕、おらほどの下戸も、またとあるまい」
と、思うていたるに、上方から、このごろ、隣り町へ越して来た大下戸があると聞いて、
「それは、どれほどの下戸だやら、行って、くらべて来う」
と、かの上方下戸のところへたずねて行き、
「私は、江戸の下戸でござるが、おまえのお噂うけたまわり及んで参った」
と、いえば、
「これは、ようこそおいで。おまえのことも聞いておりました。そうして、おまえの下戸は、どのくらいでござる」
「されば、まぁ聞いて下され。先日も樽ぬきの柿を食べて、棒鱈《ぼうだら》〔酔っぱらい〕になり、私は覚えませぬが、すっぱ抜き〔刀を抜いてあばれること〕などいたしたげにござります〔したそうでございます〕。さめてからうけたまわり、面目をうしないました。まあ、このくらいの儀でござります」
と咄すうちより、亭主の顔が真っ赤に。
……安永二年三月序『聞上手』二篇
樽ぬきの柿に酔った話を聞いただけで真っ赤になるとは、この下戸くらべ、まさしく上方下戸の勝ち!
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九年母《くねんぼ》
九年母のたわわな垣や登校道  佐藤|紅緑《こうろく》
インドシナ原産で、古く中国を経て渡来したという九年母は、ミカン科の常緑小高木で、秋に熟す。
ミカンよりも皮が厚く、種子が多いが、甘味があって生食する。
◆九年母
出見世から本店へ手紙を添えて、九年母|十《とお》、田舎より到来〔贈り物がとどくこと〕のよし、申しつかわせしに、使いの者、あまり食いたさのまま〔食いたいので〕、ひとつ袂《たもと》へくすねて〔ごまかして自分の物として〕差し出せば、旦那、手紙を読み、
「これは、手紙には十《とお》とあるが」
と、いえば、使いの者、一大事|露顕《ろけん》の心地にて、
「これは不調法《ぶちょうほう》、一年母《いちねんぼ》、ここにござります」
……安永七年刊『乗合舟《のりあいぶね》』
――ざんねん〔三年《ヽヽ》〕、むねん〔六年《ヽヽ》〕、合計くねん〔九年《ヽヽ》〕ぼということで、あきらめるさ。
〈くねんぼ〉の語源については、垂仁《すいにん》天皇の御代に、田道間守《たじまもり》が、常世《とこよ》の国への香菓を求めに派遣され、持ち帰るまでに九年かかったという伝説によるという説もあるが、ヒンズー語で柑橘《かんきつ》をいう kumlanebe の略という説のほうがよさそうに思える。
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新酒
松風に新酒を澄ます山路かな  支考
新酒《にいざけ》や天窓《あたま》叩いてまいる人  召波
新酒には、今年酒、早稲《わせ》酒の別名もあるように、その年の新米でつくって神にそなえる習慣があった。
近世以降、酒が商品として大量生産されるようになってからも、酒造業者は、新酒を神にそなえる習慣をつづけている。
◆酒
「今年は豊年だに、ちと酒をつくって飲もう。貴様、米を出しやれ。おれは、水を出そう」
「水は有り物、米は買わねばならぬ」
「そのかわり、出来たとき、上水《うわみず》ばかり取って、あとは、貴様にやろう」
……天明ごろ刊『うぐいす笛』
ちゃっかりした条件もあったもので……。
古くは、濁り酒が多く、米を|こしき《ヽヽヽ》で蒸し、麹《こうじ》と水をくわえ、醗酵させて|もろみ《ヽヽヽ》をつくって、それを布でこし、澄み酒を得る方法だった。
のちには、米を蒸して、麹と水をくわえて醗酵させ、それに蒸し米をくわえて醗酵させて、ふたたび蒸し米をくわえて、じゅうぶんに醗酵させて、袋にいれて、しぼって、新酒を得るようになった。
◆禁酒
「聞けば、貴様は、禁酒したというが、ほん〔ほんとう〕か」
「おお、五年が間、禁酒だ」
「それは、ええことだが、同じことだから十年にして、昼ばかり呑むがよい」
といえば、少し考えて、
「いっそ二十年にして、夜昼呑もう」
……寛政八年刊『廓寿賀書《みせすががき》』
わかったような、わからないような禁酒だった。
◆上酒
ある飲んだくれ、夢に上酒をもらいければ、かぎりなくよろこび、燗《かん》をせんと、燗徳利へうつし、土びんへいれしが、茶が多くありて、ふきこぼれ、チゥプゥー。
このさわぎにおどろきて、たちまち夢さめて、大きにくやみ、
「ちょっ、いめえましい。こうと知ったら、冷やで飲んでしまえばよかった」
……安政三年正月序『落噺笑種蒔《おとしばなしわらいのたねまき》』
酒飲みの意地のきたなさ!
ところで、酒の語源については、残念ながら定説がない。
「酒宴は、皆人のさかえ楽しむゆえ」に、〈栄《さかゆ》〉と同じ語源だという説が広まり、現代でも、〈咲《さく》、幸《さきほい》、盛《さかり》、酒《さか》〉は同語源だという説がある。
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相撲《すもう》
秋の雨|小《ちい》さき角力《すもう》通りけり  一茶
しとしと降る秋雨に濡れながら、下《した》っ端《ぱ》らしい小柄な角力取りが、うすら寒そうに通る。
それは、まことに哀れな、もの悲しい姿だというこの句には、弱く、貧しいものに心ひかれる一茶らしさがあった。
この句のように、はっきり〈秋〉を詠んでいなくても、相撲は、秋の季語になっている。
相撲は、宮中で、はじめは臨時的におこなわれたが、桓武天皇の延暦十二年〔七九三〕からは、〈相撲の節会《せちえ》〉と称する恒例の行事になり、これが七月の終りだったことから、相撲は秋のものとされたのだった。
〈すもう〉の語源は、力によってこばむ、力を競うなどという意味の古語〈すまふ〉の名詞形、〈すまひ〉が、のちに〈すもう〉になっていった。
〈相撲〉も〈角力〉も当て字で、〈相〉は相手、相互などの〈相〉、〈撲〉は〈打つ〉の意味であり、〈角〉は、中国語で〈競う〉意味で、〈力〉は、〈力《ちから》〉をいう。
現在、関取といえば、幕内と十両の力士の敬称だが、本来は、大関を取る者を意味した。
いまは、横綱が最高位だが、もとは、大関が最高位で、横綱は、大関のうちの最優秀者に許された称号だった。
大関のうちの最優秀者は、吉田|司家《つかさけ》から、土俵入りのさいに、化粧まわしの上に白麻の太い綱をしめることを許されたが、のちに、〈横綱〉は、力士最高位の階級の称になった。
番付《ばんづけ》に横綱の称号が出たのは、明治二十三年〔一八九〇〕の西の海嘉治郎からだった。
幕内力士とは、前頭《まえがしら》以上の称だが、江戸時代、将軍の相撲上覧のさい、将軍の座のある幕の内に出入りを許された優秀な数人の力士が〈幕の内力士〉と呼ばれ、その略称が〈幕内〉になり、現在にいたっている。
◆角力場
釈迦《しゃか》が嶽《たけ》に仁王堂《におうどう》と来ては、近年にない大入り。札を買ってもはいられぬ木戸の混み合い。
仕方なければ裏へ廻り、囲《かこ》いを破り、犬のように這《は》ってはいりかかったところ、うちに居る世話やき見つけ、
「こりゃこりゃ、そこからはいる所じゃない」
と、頭を取って押し戻され、得《え》はいらず〔はいることができない〕。
しばらく工夫《くふう》して、今度は、尻からはいりかかったところ、また、うちの世話やき見つけ、
「こりゃ、そこから出る所じゃない」
と、帯をつかんで引きずりこんだ。
……明和九年刊『|鹿の子餅《かのこもち》』
落語のマクラにも使われる小咄だが、当時の唯一のスポーツだった相撲場の熱気がつたわって来る。
◆角力場
角力場へ行き、よしずからのぞいて見る。うしろから、
「これこれ、そこからのぞくまい」
と、引き退《の》ける。この男、
「これは、『鹿の子餅』の咄の伝《でん》〔前の小咄のような方法〕がよい」
と、よしずの間から尻をずっと出しているうちに、きせるを抜かれた。
……安永二年四月序『芳野山』
二番|煎《せん》じの効果が薄いのは薬ばかりでない。
興行としての大相撲の源流は、寛永元年〔一六二四〕、四谷塩町《よつやしおちょう》〔現東京都新宿区四谷四丁目〕笹寺境内における初代横綱明石志賀之助たちによる晴天六日間の勧進《かんじん》相撲だというが、この説には異論が多い。
貞享元年〔一六八四〕、相撲年寄|雷《いかずち》権太夫が、寺社奉行に興行を願い出て許可され、春と冬の二回にわたって深川八幡境内でおこなった勧進相撲が、実質的には、現在の大相撲の源流と見てよさそうに思う。そして、ここを中心として最初の黄金時代を迎えた。
寛政元年〔一七八九〕、谷風《たにかぜ》梶之助〔二代目〕、小野川喜三郎の両力士が、同時に横綱伝授披露をして、ライバルとして人気を集め、雷電為右衛門《らいでんためえもん》が、優勝二十七回〔大鵬が三十二回で記録更新〕で実力をしめし、身長二メートル二十八、体重百七十二キロの巨漢釈迦が嶽雲右衛門が、二度の優勝後、二十七歳の若さで急死するなど、スター力士も輩出した。
◆釈迦
角力寄り合い、あみだの光〔あみだくじ〕をしたところが、釈迦が嶽、使いの役にあたり、是非なく、暗闇を、四ツ〔午後十時ごろ〕過ぎに豆腐を買いに行き、力にまかせて戸をたたく。
亭主、目をさまし、
「二階をたたくやつは、だれだ」
……安永二年正月序『坐笑産』
二メートル二十八センチは巨大だった。
当時は、晴天八日間興行で、春、冬の二場所制で、うち一場所は深川八幡で、もう一場所は、神田明神や蔵前八幡などを持ち廻った。
のちに両国|回向《えこう》院境内を定場所とし、「一年を二十日《はつか》で暮らすいい男〔柳44〕」の句もあるように一場所は十日間になり、明治四十二年〔一九〇九〕、両国国技館が完成して、小屋掛け興行の時代は終った。
なお、「女ひでりは晴天の十日なり〔柳40〕」という句があるように、江戸時代には、女性の相撲見物は許されなかったが、
府下の相撲は、従来、勧進のゆえをもって、婦女の覧観を許さざりしが、当暮れ場所、第二日昨二十三日より、婦女の見物を随意とせりと。実に方今《ほうこん》、自主自由の権を賜うの際、角力に限りて婦女を禁ずるの理あらざるはず、もっとも至当の事といわん。〔以下略〕……明治五年十一月二十四日「東京日日新聞」
と、相撲は、女性をも熱狂させることになった。
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紅葉《もみじ》狩り
山くれて紅葉の朱《あけ》をうばいけり  蕪村
晩秋、落葉樹の葉が、赤や黄色に変色するのを〈もみじ〉と総称する。
普通は、楓《かえで》を〈もみじ〉というが、それは、楓の紅葉が、紅絹《もみ》の布地に似ていることに由来している。
紅葉狩りどっちへ出ても魔所ばかり 〔柳3〕
北の吉原にせよ、南の品川にせよ、江戸の紅葉の名所は、女色《にょしょく》ぬきでは語れなかった。
◆海晏寺《かいあんじ》
この寺は、鮫洲《さめず》の東海道筋〔現東京都品川区南品川五丁目〕にある曹洞宗《そうどうしゅう》の禅林で、建長三年〔一二五一〕、近くの海で捕えた鮫《さめ》の腹から正観世音《しょうかんぜおん》の木像が出たので、観音の浄土になぞらえて補陀落山《ふだらくせん》と号し、執権|最明寺時頼《さいみょうじときより》が、その木像を本尊として建立したという。
海辺に近い当寺は、紅葉の名所として、晩秋の候には、多くの遊客を集めた。
紅葉より飯にしようと海晏寺 〔柳20〕
飯盛り女〔宿場女郎〕のいる品川に近いので、紅葉狩りから出かける遊客も多かった。
品川海晏寺境内の紅葉する樹木残らず伐《きり》取ってしまいましたから、アレ見やしゃんせと唄うのも間外《まはず》れになりましょう。これが根っ切り葉っ切りのもみじ狩。
……明治九年十一月二十七日「仮名読新聞」
江戸市民を集めた紅葉も明治初期には往年のおもかげを失い、その後に植えられた樹木も、京浜一号線を疾走する車のために、ホコリにまみれ、排気ガスに痛めつけられて、紅葉鑑賞というおもむきは消えた。
◆正燈寺《しょうとうじ》
海晏寺とともに話題を集めた正燈寺は、浅草|竜泉寺《りゅうせんじ》町〔現東京都台東区竜泉一丁目〕にある臨済宗《りんざいしゅう》の寺で、承応三年〔一六五四〕に愚堂和尚が創建したという。
『江戸名所図会』にも、
「当寺の後園、楓樹多し。晩秋の頃は、詞人・吟客《ぎんかく》ここに群遊し、その紅艶を賞す」とあるが、ここもまた、
「吉原は紅葉踏み分け行く所〔柳7〕」と、近くの吉原に出かける口実に使われた。
寛延四年〔一七五一〕の『江戸|惣鹿子《そうがのこ》』には、
「当寺境内は紅葉の名所也……遊客群集して道もさりあえず」とあるが、『武江年表』天明年間〔一七八一〜八九〕の項には、「下谷正燈寺庭中、楓樹数株ありて、毎秋斜陽を惜しむの名所にてありしなり。昔は紅葉見といえば、当寺の事と心得たるほどにて有りしとなり」とあって、近世中期には〈過去の名所〉だったらしい。
『東都歳時記』〔天保七年・一八三六〕にいたっては、
「下谷正燈寺は、古《いに》しえ楓樹の名所にして、都下の貴賎遊賞の勝地なり。其頃は、もみじとのみいえば当寺の事と心得たるほど賑いしよし、中古の諸書に見えたれど、過半枯れて名所を失えり」と記述し、その絶滅に近い状態をつたえていた。
これらの記事から推測すれば、『江戸名所図会』にえがかれた同寺の紅葉は、過去への郷愁と二重写しにされた姿でもあったろう。
◆弘法寺《ぐほうじ》
今はむかし、やんごとなき御方《おかた》、三浦の高尾がもとに通わせ給いぬ〔身分の高いお方が吉原三浦屋の高尾太夫のところへお通いになった〕。
それが禿《かむろ》〔高尾に付きしたがう少女〕に、名を、もみじと呼ぶものありけるが、ある時、もみじを召されて、
「こりゃ、もみじよ、そちは、何《なに》とて〔どういうわけで〕、この廓《さと》には身を沈めしぞ。父《てて》は、血をわけし親か、母は、そちをうみたるものか」
と、ありければ〔と、お聞きになったので〕、もみじ、顔をあからめつつ、
「いいえ、真間《まま》でおざりいす」
と、いうた。
紅葉の名所|葛飾真間《かつしかまま》〔現千葉県市川市真間町〕に継母《ままはは》の継《まま》をかけた落ちで、文化八年〔一八一一〕春、初代|三笑亭可楽《さんしょうていからく》が、両国柳橋の大のし富八《とみはち》楼で咄の会を開いたさいの配り物のうちわに載せた自作の小咄だった。
真間の紅葉とは、日頂《にっちょう》上人を開祖とする日蓮宗真間山弘法寺のそれで、『江戸名所図会』にも、
「楓樹《かえでのき》釈迦堂の前にあり。今は枯株《こしゅ》となりて、その形を存するのみ。むかしは、わたり四、五丈にあまりしとなり。所謂《いわゆる》真間の楓と称するもの、これなり」とあるから、江戸中期には枯れていたのだが、江戸から三里という散策の好適地として、純粋に秋色を探ろうという風流人が足を延ばした。
真間へ行く人は女にびれつかず 〔柳3〕
色気ない紅葉こんにゃく土産《みやげ》なり 〔柳29〕
女にでれでれせず、近くの中山名物のこんにゃくを土産に買う健全な紅葉狩りだった。
うそでない紅葉は二度と見に行かず 〔柳17〕
|紅葉だけでは《ヽヽヽヽヽヽ》という連中は敬遠していた。
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神無月《かんなづき》
禅寺の松の落葉や神無月  凡兆《ぼんちょう》
神無月は、陰暦十月の異称で、時雨月《しぐれづき》、神有月《かみありづき》などの別名もある。
……当月、諸社の祭なきゆえに、この名あるか。この月、万《よろず》の神たち、大神宮へ集まりたもうなどいう説あれども、これも本説〔もとづく説〕なし。〔『徒然草』二百二段〕
というのが古い語源だが、一般的には、諸神が出雲へ集まるために、神々が留守になる月であるがゆえの名称とされており、このとき、出雲において、諸神が、男女の縁結びの相談をするという俗説もある。
◆縁結び
醜男《ぶおとこ》のくせに、美しい女房を持ちたがり、湯あがりの美人香、日の暮れの硝子鏡《びいどろかがみ》ときて〔湯あがりには美人香をつけておしゃれをし、日暮れどきには鏡を見て〕、
「おれも、まんざらな男ではないわえ」
と、しきりによい女房を持つ気になり、十月は、出雲の大社で、神々様が縁結びをなさるといえば、なんでも、この月にこそと、九月の末から旅立って、出雲の大社へこもりけるに〔こもったところが〕、七日満ずる夜に、四方わるくさき匂いして、後架神《こうかがみ》〔便所の神さま〕、忽然《こつぜん》とあらわれたまえば、醜男、一心不乱に、
「南無、後架神さま、神変不思議の奇特《きどく》にて、美しい女房を」
と、いいきらぬうち、
後架神「くそをくらえ」
……寛政五年正月序『落咄梅の笑』
後架神にふさわしい罵倒のことばだった。
◆江戸小咄春夏秋冬 秋
興津 要著