江戸小咄春夏秋冬 冬の二
興津 要
[#表紙(表紙-冬二.jpg、横180×縦240)]
表紙絵
広重作「名所江戸百景」より「浅草金龍山《あさくさきんりゅうざん》」
雪景色の浅草寺《せんそうじ》。風雷神門《ふうらいじんもん》……通称|雷門《かみなりもん》……を通して境内の仁王門と五重塔をのぞんだ構成で、雷門の有名な大提灯を配している。仁王門までの参道には両側に仲見世がならび、参詣人あいてに土産物を売っていた。年の市には、近くの大通りと下谷通りには多くの屋台店が出て、江戸いちばんの賑わいをみせたという。
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目 次
夜の雪
ひらめ
ふぐ
火事
煤掃き
年の市《いち》
餅つき
餅焼く
年忘れ
歳暮《せいぼ》
掛取《かけと》り
古暦《ふるごよみ》
節分《せつぶん》
厄払《やくはら》い
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夜の雪
小便のかずもつもるや夜の雪  貞室
灯火《ともしび》を見れば風あり夜の雪  蓼太《りょうた》
夜の雪は、たしかに美しいが、刻一刻と寒気をくわえて降りつもる。
◆夜噺《よばなし》
雪の降る日、友だち五、六人来る。
「これは、よく来やった。今夜は、鰒汁《ふぐじる》にしよう。咄していきやれ」
「オオ、それはよかろう」
と、下《しも》がかりの咄にしこり〔猥談に夢中になり〕、宵のうちの鐘は耳に入らず。
「ゴンゴン」
「いま打つのは、なんどきじゃ」
と、数えてみれば、八ツ〔午前二時ごろ〕。
「いや、これは、とんで夜がふけた。みな泊ろう」
「さあ、泊ろう、泊ろう」
と、口々にいう。
亭主「オオサ、泊りやれ。しかし、夜着も蒲団《ふとん》もない」
「いい、いい。このこたつぶとんを、みんなして、かぶって寝よう」
と、やがて、ふとん一つへ五、六人いっしょに寝る。
いっちはずれ〔いちばんはずれ〕に寝た男、
「オオ寒い。こっちへもよこせ」
と、はしを引っぱる。
また、こちらのはしに寝た男、
「それでは、こちらがあいて、寒くてならぬ」
と、引っぱる。
たがいに引き合い、押し合いすると、中に寝た男、ひょいと枕もとへ飛び出る。
ふとんのなかから、
「なぜ貴様は出た」
と、いえば、
「ちっと休んで寝よう」……安永二年刊『再成餅《ふたたびもち》』
難行苦行の休養だった。
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ひらめ
ヒラメ科の海魚で、からだは、楕円形で平たく、全長約六十センチから八十センチに達する。
眼は、からだの左側にあり、この側は、黒褐色で白い斑点が散在し、無眼の右側は白色となっている。
冬はシュンで珍重され、季題は冬となっている。
◆ひらめ
「ゆうべ、おらが前の下水へ、二尺ばかりのひらめが游《およ》いで来た。珍らしいことじゃないか」
「それは、とんだことの。しかし、貴様の前の下水は、わずか幅が一尺ばかり。それに二尺のひらめは、きつい万八〔まったくのうそ〕」
「いいや、縦《たて》になって」……安永五年正月序『鳥の町』
苦しい言い訳だった。
◆虚言
「芝の切り通しへ、毎晩、狼《おおかみ》が百ほどずつ出る」
「とんだうそをつく者だ」
「オオ、五十ほど出る」
「江戸なかへ、なに、出るものだ。そんなばかなことをいうな」
「それでも四、五ひきは、丈夫に〔ほんとうに〕出る」
「まだいうか」
「どうか〔どうやら〕出そうな所だ」……天明ごろ序『年の市』
――これは、苦しい、苦しい。
〈ひらめ〉の語源は、平たくて、片側に目があるので、〈かたひらめ〉の略でもあろうか。
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ふぐ
鰒汁《ふぐじる》を食わぬたわけに食うたわけ 〔拾4〕
おいしいふぐは食いたいが、毒にあたるのがおそろしい。
むかしの日本人にとっては、ふぐは、冬の最高の味覚として珍重されたが、現代のような専門的調理師のいなかった江戸時代には、その毒は、たしかに危険なものだった。
死なぬかと雪の夕《ゆうべ》にさげて行き 〔拾1〕
片棒をかつぐゆうべの鰒仲間 〔柳1〕
いっしょに鰒を食べても、一方は、毒にあたって棺桶のなか、一方は、生命に別状なく、その棺桶をかつぐという、皮肉な運命の図も見られた。
◆盗猫《ぬすびとねこ》
鰒を料理しているところへ、のら猫が来り、ちょいと一ト切れ、くわえて逃げる。
「この畜生め」
と、追っかけそうにするを、友だちとどめて、
「こう、うっちゃっておきやれ。さいわいのことだ。あの猫めが、あれを食うだろうから、あいつめに毒味をさせ、猫が別状ねえようなことなら、それから、こっちも食うがよい」
と、やがて、鍋へ入れて煮てしまい、
「さあ、猫を見てこよう」
と、庇間《ひやわい》〔家と家との間のせまい所〕をのぞいて見れば、猫が、二、三匹寄って食っているゆえ、
「さあ、しめたものだ。あいつらが別状ねえようすだ」
と、打ち寄って、手盛りにしてやり、
「これは、うめえ、うめえ」
と、いう声を聞いて、庇間の猫、
「さあ、もうよいから、食やれ、食やれ」 ……文化八年刊『妙伍天連都《みょうごてれつ》』
|にゃん《ヽヽヽ》ともかしこい猫たちだった。
ふぐの産地として知られる山口県下関地方では、現在でも〈ふく〉と呼んでいるし、古い辞典の『倭名抄《わみょうしょう》』にも〈ふく〉と出て来る。
したがって、語源は、袋、瓢《ふくべ》〔ひょうたんの一種〕と同じく、「腹がふくれているところから」とか、「怒ると腹がふくれるところから」とかいうような〈ふくれる〉意味に由来することばと思われる。
冬の美味である〈ふぐ〉は、そのかたちゆえに、醜女《しこめ》の異称ともなっていた。
◆女房
「先途《せんど》〔さきごろ〕芝居で、貴様の御台所《みだいどころ》〔妻〕を見かけた」
「おれが女房を、どうして貴公知るものだ」
「いやいや、四、五人の女連れのなかで、鰒のようなが貴様の奥様であろう」
「これ、いかに心やすいとて、人のかかあを鰒のようとは」
「なにさ、お腹立てらるるな。うまそうだということさ」……安永六年刊『管巻《くだまき》』
――とは言われても、やはり、女房を〈ふぐ〉のようなと言われてはおもしろくはない。
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火事
◆遠火
火事がある。遠い遠い。
火もと見にゆくとて、若い者四、五人走る。
老人がひとり、同じく火もと見にゆくとて走る。
「やれやれ、せつねえ。年寄っては、ずいぶん近火《きんか》がいいぞ」
……天明八年正月序『千年草《ちとせぐさ》』
いい年齢《とし》をして、無分別な注文!
〈火事は江戸の華〉といい、江戸中期に組織された町火消〈いろは四十八組〉の活躍があったとはいっても、からっ風もひどく、防火施設も不十分で、消火対策も決定的なものがなかったのだから、火災の発生を防ぐ警戒が第一だった。
そこで、各町内で召しかかえた〈番太郎〉と呼ばれる雑役夫が、夜間、拍子木を打って廻り、また、鉄棒《かなぼう》をひいて廻ることもあった。
◆浪人
裏店《うらだな》のずっと奥に浪人住みけり。
町の番人、鉄棒《かなぼう》を引いて奥まで来ぬゆえ、かねがね不届きなることと思いしところへ、鉄棒の音するゆえ、浪人、一腰《ひとこし》ぼっこみ〔刀をさして〕待ち居けるに、案のごとく〔思った通り〕、となりの前より引きかえすを呼びとめ、
「おのれ、不届き者。なぜ、おれが前をのこす。おれだとて、火事を出すまいものか」
……安永五年刊『売言葉《うりことば》』
貧乏浪人の|たんか《ヽヽヽ》は、やはりしまらないものだった。
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煤掃き〔煤払い〕
さっぱりと掃除をさせて首をとり 〔柳6〕
元禄十五年〔一七〇二〕十二月十四日夜、大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士四十七人が、江戸本所松坂町の吉良邸に討ち入り、主君浅野|内匠頭《たくみのかみ》の仇討ちをした。
十三日は、年末大掃除の〈煤掃き〉だったから、きれいに掃除をさせておいて襲撃したわけだった。
『江戸年中行事』〔文化二年・一八〇五〕にも、「十二月十三日 煤納め、武家・町方ともに、この日もっぱら煤掃きなり」とある。
煤はきやなにを一つも捨てられず  支考
掃除が終ると、江戸城内、諸大名の奥から町家にいたるまで、胴あげをして祝った。
十三日それ首をもて足をもて 〔柳22〕
腹立てば野暮《やぼ》らしくなる十三日 〔柳1〕
胴あげで大さわぎしたあとは、無礼講の宴会となった。
◆むすこの出奔《しゅっぽん》
しゃれ男、近所へゆきけるに、夫婦ながら〔ともに〕泣いている折りふし、
「これは、どうだ。なぜ泣いていさっしゃるぞ」
「いやさ、聞いてくだされ。伜《せがれ》が、四、五日以前に、近所へゆくとて出ましたが、いまに帰りませぬ。日ごろ、どら〔道楽〕もいたさぬが、どこをたずねても知れませぬ」
「はて、それは気の毒。しかし、気を落さずとも、うっちゃっておいたら、煤掃きには出よう」……安永二年閏三月序『千里の翅《つばさ》』
ひとの心労もなんのその、自分のしゃれや冗談に酔う不心得者は、むかしからいたようで……。
〈すす〉は、〈巣炭・巣墨〔ススミ〕〉の意、〈はく〉は、〈放〔ハフル〕〉、払い除く意などをはじめとする諸説があって、あきらかでない。
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年の市《いち》
押合《おしあい》を見物するや年の市  曽良《そら》
〈年の市〉は、歳末に、正月用の飾り物、三方《さんぽう》、若水桶、縁起物《えんぎもの》、雑貨などを売る市で、江戸では、十二月十四日、十五日の深川八幡宮、十七日、十八日の浅草寺、二十日の神田明神をはじめ各所で市が立ったが、浅草のそれが、もっとも盛大だった。
毎歳十二月十七、十八両日のあいだ、みちに仮屋をもうけ、注連飾《しめかざり》、蓬莱《ほうらい》飾物等、すべて歳首の賀に用うべき種々《くさぐさ》を売買す。浅草大通りおよび下谷通りともに群集す。殊更《ことさら》境内は尺寸の地なく、只《ただ》人を以て地を覆《おお》うに異《こと》ならず。実に此日の繁昌、江戸第一にして遠近に轟《とどろ》けり。……『江戸名所図会』
という文章が、その盛況を伝えていた。
「市ぁまけた、市ぁまけた。しめか、かざりか、だいだいか」などという派手な売り声が飛び交《か》うなかで、つぎの珍談もあった。
◆大黒
りちぎなる男〔実直な男〕、浅草の市で大黒を盗めば、しあわせがよいということを聞き、いろいろ苦労をして、ようよう一つ大黒を盗んだところを、売り人《て》に見つかり、あとから追っかけられ、とうとうつかまれば、大黒の価《あたい》六十四文やりて、ようよう言い訳をして、売り人を帰し、
「まず、大黒が大事じゃ」
と、ふところへ手をやってみれば、大黒は、追っかけられた時におとした。
……寛政五年正月序『笑府衿裂米《おとしばなしえりたちこめ》』
「大黒は盗んで罪にならぬもの 〔柳34〕」という句の通りに実行した〈縁起かつぎ〉が、うかつにも演じた骨折り損の悲喜劇だった。
こんな|うかつ《ヽヽヽ》な江戸っ子ばかりではなかった。
市と言や女房万事を悟ってる 〔柳110〕
当年中のしおさめと市にそれ 〔末3〕
市の帰りには、吉原に廻って、本年の〈打ちどめ〉という男もいた。
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餅つき
有明《ありあけ》も三十日《みそか》に近し餅の音  芭蕉
江戸の街の歳末における餅つき風景について、『東都歳時記』〔天保九年・一八三八〕の二十六日の項に、つぎのように記されている。
この節より、餅|搗《つ》き、街に賑《にぎ》わし。その体《てい》、尊卑によりて差別あれども、おおよそ市井の餅搗きは、餅搗く者四、五人ずつ組み合いて、竈《かまど》、蒸籠《せいろう》、臼、薪、何くれの者かつぎありき、傭《やと》いて餅搗かする人、糯米《もちごめ》を出して渡せば、やがて、その家の前にて蒸し立て、街中狭しと搗き立つること勇ましく、昼夜の分かちもなし。俗、これを〈賃餅《ちんもち》〉または〈引きずり〉などいうなり。
――このように、一臼の搗き賃いくらという代金を取って搗き歩く業者のできたのは、三、四十年前からだと、『改正月会博物筌』〔文化五年・一八〇八〕はいう。
さて、餅つきが済んでしまうと――。
餅はつく是《これ》からうそをつくばかり 〔柳1〕
同じく〈つく〉とはいっても、これからは、歳末の掛取り〔借金取り〕を迎えて、いかに巧妙に嘘を〈つく〉かという作戦あるのみとなった。
◆七ツ起き
暮れにおしかかり、世間では餅搗く音。寝て居てもつまるまいと、夜の七ツ〔午前四時ごろ〕から出て行く。
道にて知る人に出会い、
「八兵衛どの、どこへの旅立ちだ」
「いや、いまから金をひろいに行きます」
「貴様は、そんな|あて《ヽヽ》があって、うらやましい」
……安永二年正月序『坐笑産』
餅は、糯米《もちごめ》でつくった〈餅飯《もちいい》〉から〈もちい〉、さらに〈もち〉と略された名称だが、餅ということばは、陰暦十五夜の満月を〈望月《もちづき》〉といったように、〈もち〉とは、丸いかたちにかかわりがあるらしい。
なお、餅の別称〈おかちん〉とは、臼でついてできた米を意味する〈搗《か》ち飯《いい》〉に由来している女房ことば〔宮中の女官たちの間から生まれたことば〕だった。
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餅焼く
おのずからくずるる膝や餅やけば  桂信子
男の手|剛《つよ》く哀しく餅焦がす  鷲谷七菜子
餅を焼く光景からは、冬の日の庶民生活の息吹きが、なまなましく立ちのぼって来る。
それは、川柳も同じで、
餅を焼く匂いで上戸《じょうご》いとま乞い 〔柳20〕
苦手とする餅を焼く匂いで、酒飲みが、ただちに退散をする光景もほほえましい。
これが、〈焼き餅〉となると、いささか状況が変って来る。
◆赤貝
亭主、赤貝を、ひとつ買って来て、まず盥《たらい》へ水を汲んで、なかへいれて、朝夕眺めています。
女房も初手《しょて》〔はじめ〕は、ふしぎに思いしが、のちには腹が立って来る。
亭主「これ、かかあ殿、おれがふんどしを洗ってくだされ」
女房「ええ、ひさしいもんだ〔相変らずだ〕。赤貝にでも洗ってもらいなさえ」
……天明ごろ刊『間女畑《まめばたけ》』
奇妙な〈焼き餅〉もあったもので……。
焼きはしやせんと女房いぶすなり 〔柳籠裏《やなぎごり》3〕
|いぶす《ヽヽヽ》程度に適当に焼き餅を焼くのがいい女房だという句だが、嫉妬を意味する〈焼き餅〉は、〈否気持《いやきもち》〉だとか、気をもんで〈やきもき〉する意味だなどの説もある。
しかし、心を悩ます、胸を焦《こ》がす意味の〈焼く〉に、焼くの縁で餅をつけたものと思われる。
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年忘れ〔忘年会〕
年一年と盛大になり、年末の行事として定着した忘年会だが、むかしの中国では、別歳、分歳などと書いて、年忘れの宴《うたげ》を意味した。
これは、歳末に、家じゅうの者が集まって先祖の祭りをおこない、そのあとで、酒宴を開き、家族の者や、家ではたらいている連中に対して、主人から、金、銀、銭などを贈ったというから、忘年会のさいにボーナスが出たというような風景が展開されたのだった。
日本でも、平安時代には、除夜《じょや》は、亡きひとの魂を祀《まつ》る夜だといい、先祖の霊を祀ったが、これには、特別の行事や呼称はなかったらしい。
日本で〈年忘れ〉ということばが使われはじめたのは、室町時代からで、ある大名の家などでは、毎年、大晦日になると、家来たちを集めては連歌の会を開いて年忘れと称し、酒宴が元旦の暁にまでおよんだというから、中国でも、日本でも、年忘れには酒が付きものだった。
江戸時代にはいると、
酔い臥しの妹《いも》なつかしや年忘れ  召波《しょうは》
若き人にまじりてうれし年忘れ  几董《きとう》
などという句もあるように、〈年忘れ〉ということばも風習も普及した。
井原西鶴の『世間胸算用』〔元禄五年・一六九二〕巻三の「神さへ御目違ひ」という章を見ると、泉州《せんしゅう》堺の町人は、日常生活を優雅に送っているように見せながら、その実は、倹約して、経済的に生きていることを述べ、その例として、彼らは、先祖からの茶道具を持ちつたえているので、「年わすれの茶の湯|振舞《ぶるまい》」〔忘年会としての茶会〕を開くが、これは、世間に対して優雅に聞えるうえに、それほど費用もかからず、しかも体裁《ていさい》がいいといっている。
元禄十五年十二月十四日、赤穂浪士が吉良邸へ討ち入りをしたのも、「年忘れの茶会」のために上野介が在宅したためだった。
しかし、
年忘れ忘れずとよい顔ばかり 〔拾1〕
という句もあるように、現金買いの多い現代とちがって、万事を掛買いの帳面で済ませていた江戸時代の年末は、庶民にとっては、多忙をきわめた時期だった。したがって、年忘れの会などを開けるのは、経済的にも、精神的にも余裕のあるひとたちばかりで、一年間の苦労を忘年会によって忘れたいというような苦しい顔など見るべくもなかった。
しかし、すこしでも余裕のある連中は、乱痴気《らんちき》さわぎをやったらしい。
来年の樽に手のつく年忘れ 〔拾1〕
と、底抜けにさわいだ翌朝ともなれば、
年忘れ隣りでも今朝おそく起き 〔傍5〕
ということになり、度を越したさわぎの果てには、
あくる日は店《たな》を追わるる年わすれ 〔柳1〕
――激怒した大家から立ち退《の》きを命じられる結果にまでなった。
この時代になると、先祖の霊を祀るどころか、とんだお祭りさわぎの年忘れになってしまい、この乱痴気さわぎ状態が、現代にまで受けつがれてしまった。
年明れば月も出てあり年忘れ  南汀
◆すこしおろかな男、友だちのところへ来て、
「おれは、ゆうべ、福徳屋の年わすれによばれていったが、浄瑠璃やら声色《こわいろ》やら、踊るやらで、とうとう月の出る時分までさわいで、みな帰るとき、『今晩は、よい年わすれをいたしました』と、礼をいって帰ったが、おればかりは、年をわすれないから、礼もいわずに帰った」
と、いうに、友だち、
「どうしてまた、おまえばかり、年をわすれないのだ」
「いや、わすれないはずだ。ぜんたい、おぼえぬから」
……寛永四年刊『俳諧発句一題噺』
たしかに覚えなければ忘れもしまいが、変な理屈……。
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歳暮《せいぼ》
宵過ぎの一村歩く歳暮かな  一茶
歳末に、知人や親戚に贈る〈お歳暮〉の品は、江戸時代には食べ物が多かったらしい。
井原西鶴の『世間胸算用』〔元禄五年・一六九二〕巻一の二「長刀《なぎなた》はむかしの鞘《さや》」のなかで、ある女性の家主への贈り物として、つぎのように記されている。現代語訳で紹介しよう。
家主殿へは鮪《まぐろ》一本、その娘には絹緒の小|雪駄《こせった》、お内儀《かみ》さんには畝足袋《うねたび》〔薄く真綿をいれて、キルティングした足袋〕一足を付け届けして、七軒の長屋のひとたちにも、餅にゴボウ一把ずつ添えて配り、礼儀正しく正月を迎えた。
というのがそれだが、主要な贈り物が食品であったことは、江戸後期においても変りがなかった。
『東都歳時記』〔天保九年・一八三八〕にも、「……歳暮と名づけて、餅・乾魚等贈る」とある。
〈歳〉は、〈さい〉という音が一般におこなわれるが、正式には〈せい〉で、年の暮れゆえ〈歳暮《せいぼ》〉という。
一年の感謝の気持ちから贈る品なので、〈歳暮の礼〉〈歳暮の祝《いわい》〉などというのが正式の呼称だった。
◆比目魚《かれい》
「歳暮の御祝儀申し上げます」
と、肴台《さかなだい》をさし出すを見れば、比目魚四枚あり。
亭主、大きに物いまい〔縁起かつぎ〕にて、さんざん気にかけ、
「そのほうは、かれいをくれた。志《こころざし》は、かたじけないが、とても〔どうせ〕くれるなら、三枚か五枚ならきこえた〔わけがわかる〕。四枚とは、| 合点《がてん》がゆかぬ。さてさて、ものを知らぬ」
と、いうて、しかりちらせば、ちっともさわがず、
「わたくしは、おしまい〔一年のおしまい〕よかれいと、お祝い申す心で、四枚あげましたものを」
と、いえば、亭主、ことのほか、きげんなおり、
「おれは、また、そのようなことは知らず、ただ、そのほうを、よかれいということと思った」
……安永八年刊『鯛の味噌津』
〈おしまい〉〈よかれい〉とは、みごとにこじつけたものだ。
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掛取《かけと》り
大晦日さだめなき世の定め哉《かな》  西鶴
万事が現金買いの現代とちがって、江戸時代には、日用品の購入から商取り引きのすべてにいたるまでを帳面に記載しての掛買い、掛売りにして、七月の盆前と大晦日とを決済期にしていた。
とくに大晦日は、一年間の総決算日だったから、人生は無常で定めないものだなどと仏教的感慨にひたっていることなどはできず、なんとしても決着をつけねばならぬ日だった。
そこで、大晦日における〈掛〉の攻防は、死力を尽くす決戦となった。
掛取りのほうが、
大晦日首でも取って来る気也 〔柳3〕
と決死の覚悟で攻勢に出れば、
大晦日うそで鬼神を感ぜしめ 〔拾1〕
掛取りの帰らぬうちはうなって居 〔宝七・十〕
――取られる側は、仮病を手はじめに、あらゆる嘘で守備を固めた。
◆大晦日
この暮れは、大家の、米屋の、薪屋《まきや》のと、手づめ〔困窮〕の上の絶体絶命。
思い付きの早桶《はやおけ》〔棺桶《かんおけ》〕を買って来て、その内へはいり、
「おれが死んだことにして今夜を送り、元朝《がんちょう》〔元日の朝〕に蘇生《よみじがえり》〔生きかえり〕したといえばよい」
と、女房に呑み込ませ、死んだふりしているところへ米屋が来たを、女房が段々のくどきごと〔亭主が亡くなったというぐちをいった〕。
「さてもさても笑止な〔気の毒な〕ことではある。ここに、いま取って来た銭二貫。これでまあ、取りおかしゃれ」
「いいえ、これは思いかけもない。八貫から上の借りをあげぬのみか、どうまあ、これがいただかれましょう」
「はてさて、取っておかっしゃい」
「でも」
「はて」
と、あちらへやり、こちらへやり、果てしなければ〔注、亭主が棺から手を出す図あり〕、
「はて、くださるものなら、取っておきやれさ」
……安永二年五月ごろ刊『仕形噺《しかたばなし》』
「元日にいけしゃあしゃあとよみがえり 〔拾1〕」という句以前の蘇生は早すぎた。
年の瀬の波は、紅燈《こうとう》の巷《ちまた》にも押し寄せていた。
◆掛取り
「もし梅が枝さん、さあ掛取りに来やした。この暮れは、どうぞ払ってくれなさい」
「わっちも、どうぞ、この暮れはと思いんしたが、あてが違いんして、いっそ〔ほんとうに〕工面《くめん》が悪うありんす〔金ができません〕。春まで延ばしてくんなまし」
「どうもわりい。半分でも払ってやんなな」
「半分もできんせん。了簡《りょうけん》して〔許して〕おくんなんし」
「それでも、そうそう済まねば〔払ってくれなければ〕、親方の前が立ちやせんから〔親方に申しわけないから〕、首でもくくらにゃなりませぬ」
「この暮れは、どうぞ、そうでもしておくんなんし」
……安永二年刊『再成餅《ふたたびもち》』
「この暮れは、どうぞ、そうでもして……」と言われても、そう注文通りにはいかない。
戦い済んで、夜が明けて……。
掛乞いの夜あけに重き革財布
かつぎし肩もはるは来にけり  宿屋飯盛
――掛取りの持つ革財布が、夜明けには、集金も済んで重くなり、その財布をかついだ肩も張るほどだが、そのころには、心ゆたかな春を迎えていたのだった。
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古暦《ふるごよみ》
酔って寝た日の数々や古暦  几董《きとう》
来年の暦が配られると、一年間使って来た暦のなかの思い出をたどることにもなる。
古暦といえば、年が改まったのち、旧年の暦をさすはずだが、歳末に、残りの日数もすくなくなったころにいう場合が多い。
◆古傘《ふるかさ》
「八兵衛というやつは、物を知らぬやつだ。おれが、先日、あそこへいった時、雨がふり出したら、古い傘でも貸してやろうと、ぬかしやぁがる。おのれ、見ろ、この意趣《いしゅ》返し〔仕返し〕をやらかしてくりょう」
と、ふくんでいる〔恨みをいだいている〕ところへ、
「どうだ三公、変ることもなしか。ときに、おれは、近いうちに京へのぼるが、いつが日がいい。ちょっと見てくだっし」
「おお、古い暦でな、とくと見てやろう」
……文政二年刊『恵方棚《えほうだな》』
変な仕返し!
〈こよみ〉の語源は、〈日《か》読み〔日を数える意〕〉にもとづくという説がよかろう。
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節分《せつぶん》
節分やよい巫女誉《みこほ》むる神楽堂《かぐらどう》  召波《しょうは》
現在では、節分といえば、立春の前日に当る二月三日、または四日をさす。
もともと〈節分〉ということばは、季節の分かれ目を意味するように、古くは、立夏、立秋、立冬の前日も節分と称していたが、とくに春の節分が重視されるようになった。
節分には、旧正月におこなわれた行事から移行したと思われるものが見られる。
たとえば、家の入りぐちに、イワシの頭やヒイラギの葉をさすのもそれで、この行事を旧正月におこなっているところもある。
節分は金がほしいの声だらけ 〔安七・智〕
「鬼は外、福は内」と、節分の夜に豆をまいて鬼を追い払う〈追儺《ついな》〉の行事は、中国から伝来したもので、鎌倉時代までは、宮中でも大晦日におこなっていた。
井原西鶴の『世間胸算用』巻五「平太郎殿」のなかにも、節分料理として、イワシのナマスと塩焼きとが出て来るが、江戸時代には、節分の食膳にイワシは欠かせなかった。
◆節分
「これこれ折介《おりすけ》〔武家につかえる下僕〕、今夜は節分だから、赤いわしを買っておけ」
と、旦那いい付ければ、
折介「いえいえ、この倹約の世に、そのような物をお買いなさるは、きついごいらえ〔大変なむだの意?〕でござります。わたくしが脇差で、お間に合わせなされますが、ようござります。それでも、これ、ご覧《ろう》じまし。鞘《さや》が、ひいらぎで、身〔刀身〕が、赤いわしでござります」
……天明九年正月序『有福茶大年咄』
折介の手入れの悪い|さび刀《ヽヽヽ》の赤いわしが、思いもかけぬ廃物利用の役を果たすことになった。
なお、旧暦では、閏月《うるうづき》があると、正月よりも前に節分が来ることもあった。
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厄払《やくはら》い
厄払い跡はくまなき月夜かな  蓼太《りょうた》
厄は、わざわい、災難を意味する。
厄払いは、大晦日、または節分の夜に、厄難を除き去るためにおこなった。
節分夜にありく。払いを望む者、煎大豆《いりだいず》に銭包みて取らすれば、寿命長久の好《す》いたことを高らかにわめく。ただ二時《ふたとき》ばかり、世上に大豆《まめ》を打つ間にめぐる所作なれば、忙しきこと限りなし。
……『人倫訓蒙図彙《じんりんきんもうずい》』
とあるように、〈厄払い〉の男が、「厄払いましょう、厄払いましょう」と呼び歩き、呼びとめられると、豆と銭をもらって縁起のいいことばを唱える。
それは、「やぁら、めでたいな、めでたいな。今晩今宵の御祝儀に、めでたいことにて祝おうなら、まず一夜明くれば元朝《がんちょう》の、門《かど》に松竹《まつたけ》、注連飾《しめかざ》り、床《とこ》に橙《だいだい》、鏡餅、蓬莱山《ほうらいさん》に舞い遊ぶ鶴は千年、亀は万年……」などとめでたい文句を並べたあげくに、「悪魔外道を掻《か》いつかみ、西の海へさらりさらり」などと唱えおさめる。
厄払いの対象となる年齢については、「あるいは云う、わが国、俗に四十二歳を厄にする。けだし四二の音、死《しに》の字訓に同じ。ゆえにこれを忌《い》む。はなはだ笑うべし」〔『滑稽雑談』〕というように、一般的には、男性が四十二歳で、女性は三十三歳とされる。
◆折介《おりすけ》
「ヤアラ、旦那の御厄申さば、右の松が千歳《せんざい》、左の松が万歳、合わせて万千歳の齢《よわい》を保ち、あまたのおめか〔おめかけ〕へうらみなく、御ふち方〔お手当て〕を渡さるる。これも旦那の御十分、悪魔外道を打ち払い、西の海へ、さらり、さらり」
折介、台所に居合わせ、
「おれも二十五の厄を払おう」
と、呼び戻す。
厄払い、立ち帰り、
「ヤアラ、旦那の」
と、言いければ〔言ったので〕、折介、
「これ、おれがのだよ」
……安永二年正月序『坐笑産』
折介の|ささやかな《ヽヽヽヽヽ》自己主張も厄払いなればこそだった。
◆江戸小咄春夏秋冬 冬の二
興津 要著