古典落語 続々   興津 要 編
目 次
子ほめ
そこつの釘
浮世床
藪入《やぶい》り
雛鍔《ひなつば》
お神酒《みき》徳利《どつくり》
お見立て
三軒長屋
ずっこけ
うそつき村
三年目
金の大黒
夏どろ
茶の湯
宿屋の仇討ち
化けものつかい
羽織のあそび
小言念仏《こごとねんぶつ》
突きおとし
碁《ご》どろ
味噌蔵
田能久《たのきゆう》
あくび指南《しなん》
巌流島《がんりゆうじま》
うどんや
≪上方篇≫
野崎まいり
あわび貝
夢 八
宇治《うじ》の柴船《しばぶね》
へっつい盗人
佐々木裁き
はてなの茶わん
解 説
落語家、名人・奇人伝
子ほめ
「こんちは。ご隠居さん、おいでになりますか?」
「おや、熊さん、どうしたい、きょうは、仕事はやすみかい?」
「じつはね、仕事が半チク(中途はんぱ)になっちまったんで、家にいてもつまらねえからお宅へうかがったようなわけで……いま、八の野郎に聞いたんですが、なんですってねえ、お宅にこもっかぶりが一本ついてるんですってねえ。あっしゃあ、酒ときた日にゃあ目のねえ男なんですが、それでも自分で買うてえのは、あんまり心持ちがよくねえんで、おごってもらうのが大好《でえす》きな性分《しようぶん》なんで……どうです、一ぺえ飲ましてもれえやしょうか?」
「飲ましてあげるよ。そりゃあ、飲ましてあげないこともないけれども、なんだな、おまえさんぐらい不器用な人はないな。職人なんてえものは、なにか芸をやるもんだ」
「何かやるったって、あっしゃあ、まるっきり無芸大食の口なんで……」
「うちではそれでいいけれども、よそへいった日にゃあ、お世辞の一つもいわなくっちゃあ、おごってなんかくれないな」
「へーえ……お世辞なんてことは、あんまりやったことはねえんですが、一体《いつてえ》どんなことをいったらいいんで?」
「まあ、なんだな。ちょっと人さまに会ったら、ていねいにことばをかけるんだな。『こんにちは、いいお天気でございます。しばらくおみえになりませんでしたが、どちらのほうへおいでになっていらっしゃいました?』……で、そのかたが、『商用で海岸のほうへ……』とおっしゃったら、『道理で、潮風にお吹かれになったとみえて、たいそうお顔の色が黒くなりました。しかし、あなたさまなどは、もともとお色がお白いから、故郷の水でお洗いになれば、じきにもと通りになりましょう。ご安心なさいまし。まあ、そういうふうにいっしょうけんめいになっておいでになれば、お店のほうも大繁昌、まことにおめでとうございます』……こういうんだ」
「ああなるほど……そういえば、きっと飲ましてくれますかね?」
「それで買わなかったら、いよいよ奥の手をだすんだ」
「相手の財布をかっぱらいますか?」
「それじゃあ泥棒だよ……むこうの年齢《とし》を聞くんだ。『失礼ではございますが、あなたのお年はおいくつで?』……そのかたが、四十五だとおっしゃったら、『四十五にしては、たいそうお若い。どうみても厄《やく》そこそこでございます』」
「なるほど……厄てえのは、いくつなんで?」
「男の厄年は四十二だ」
「へーえ……そういえば飲ましてくれますか?」
「まあ、人情てえものでね、一つでも年齢《とし》を若くいわれれば一ぱい買いたくなる」
「そうですかねえ。そんなくれえなことなら、あっしだっていえまさあ。むこうから人がきたら、聞いてみりゃあいいんでしょう。こんちはとくらあ。いいお天気でごぜえやすと……しばらくおみえになりませんでしたが、どちらのほうへいっておいでになりやしたと……むこうのほうで、商売用で海岸地方へといったら、こっちが、道理で、潮風に吹かれたとみえて、つらがまっ黒だ」
「つらなんていうやつがあるかい。お顔の色が黒くなったと、ていねいにいわなくっちゃあいけない」
「なるほど……お顔のお色が黒くなってと、あんたなんぞもとが黒いから……」
「おいおい、もとが白いんだ」
「もとが白いから、故郷の水で洗えば、じき白くなるから安心しろい、このけだものめ」
「なんてらんぼうな口をきくんだ。そんなことをいったら、けんかになるよ。ご安心なさいとていねいにいうんだ」
「それで一ぺえ買うね。いよいよ買わなかったら、奥の手をだして、年齢《とし》を聞けばいいんでしょ? 『失礼なことをうかがうようでごぜえやすが、あんたのお年はおいくつで?』……むこうでもって四十五といったら、四十五にしては、大《てえ》そうお若いと、どうみても百そこそこだと」
「おいおい、ばかなことをいっちゃあいけない。厄そこそこだよ」
「ああそうか。厄そこそこだ……これで一ぺえ買いますね?」
「買うだろうよ」
「もしも買わなかったら、ご隠居さん、立てかえるかい?」
「ばかをいっちゃあいけない。まあまあ、やってみなさい」
「なるほど、これで一ぺえ買わせることをおぼえた。だけど、ご隠居さん、そううまくいくかねえ?」
「どうして?」
「だってね、うまく四十五の人がくりゃあいいけど、五十の人がきたらどうするんで?」
「五十だとおっしゃったら、『四十五、六ぐらいにみえます』と、そういっときな」
「六十だといったら?」
「五十五、六」
「七十だといったら?」
「六十五、六さ」
「八十だといったら?」
「七十五、六だよ」
「九十だといったら?」
「その順でいきなよ」
「順でいきなったって、その順がわからねえから聞いてるんじゃあねえか。このまぬけめ。なにいってやんでえ。いままで教えておいて、あとを教えねえって法があるもんか。教えねえなら、風の吹く日に、てめえのうちへ火をつけるぞ」
「あぶないやつだな。九十だとおっしゃったら、八十五、六というんだ」
「なるほど……百だといったら?」
「そう生きるかたはめったにないが、もしもいらしったら九十五、六といいな」
「二百といったら?」
「そんな人はいないよ」
「なるほどそうか……それから、もうひとつ聞きてえんですがね、うちのとなりの八公んとこにね、子どもができましてね、それで、長屋じゅうがそろって義理をやるんだとかなんとかいって晦日《みそか》前の苦しいところを二分《ぶ》ふんだくられちゃったんでさあ。だけども、町内のつきあいで、いやだともいっていられねえからやったんで……それで、あっしもしゃくだから飲みにいこうとおもうんだけども、なにしろそんなとこへいって口をきいたことがねえから、まだいかずにいたんで……いま、ほめことばてえものをはじめてならったが、やっぱり赤ん坊をほめるときにも、しばらくおみえになりませんというんですかい?」
「そんなほめかたがあるもんか。わたしは、八つぁんのところの赤ちゃんはみないけれども、たいていほめかたはきまってるよ。『たいそういいお子さんでございます。おじいさんに似ておいでになって御長命の相《そう》がおありなさる。栴檀《せんだん》は双葉より香《かん》ばしく、蛇《じや》は寸にして人を呑《の》む、どうかこういうお子さんにあやかりとうございます』と、そういやあ、自分の子をほめられてわるい気のするものはない。きっと一ぱい飲ませるよ」
「そうですかい。ほんとうに一ぺえ飲ませてくれますか?」
「飲ませるだろうよ」
「そいつぁありがてえ。じゃあ、さようなら」
「まあまあお待ち。うちで一ぱいつけるから飲んでいきなよ」
「いやよしやしょう。いま教えられたことをわすれるといけねえから、さっそくやっつけてきます。さようなら……えへへへ、うれしくなってきやがったなあ。きょうの熊さんは、いままでの熊さんとちがってるんだぞ。しばらくおみえになりませんでしたが……ってんで、酒を一ぺえ買わせる術をおぼえてるんだ。みそこなっちゃあいけねえや。しかし、なんだな、だれかと逢わなくっちゃあ、せっかくの術もつかいようがねえんだが……だれか通らねえかなあ。弱っちまったな……あっ、むこうからきたきた。てえそう色がまっ黒な野郎がきやがった。こいつぁおあつらいむきだ……ええ、もしもしそこへいく人、もし、ねえ、あなた……こんちは」
「こんちは」
「しばらくおみえになりませんでしたが……」
「え? ……あのう、失礼ですが、あなたはどなたでしたかな?」
「ははあ、てえそうお色がまっ黒け」
「大きなお世話だ。ばかにするな!!」
「あれっ、怒っていっちまった。いけねえ、いけねえ。まるっきり知らねえ人じゃあだめだな。知ってる人はこねえかな……あっ、しめしめ、きたきた。伊勢屋の番頭さんだ……ええ、番頭さん、こんちは」
「やあ、どうしたい、町内の色男」
「あれっ、いけねえや。むこうのほうが役者が一枚上だ。まごまごしてると、こっちが酒を買わされちまわあ……ええ、しばらくおみえになりませんでしたな」
「なにいってるんだ。ゆうべ髪結床屋《かみゆいとこや》で逢ったよ」
「あっ、そうだ……ええ、あれからしばらくお目にかかりませんでした」
「けさお湯屋で逢ったじゃないか」
「よく逢うな……そうそう、このあいだじゅうは、しばらくおみえになりませんでした」
「ああ、このあいだじゅうは、ちょっと商売用で海岸のほうへいってたからな」
「ありがてえ。ちくしょうめ、そうこなくっちゃあいけねえや」
「なにをぶつぶついってるんだい?」
「ところで、潮風に吹かれたとみえて、てえそうお顔の色が黒くなりましたと……ああくたびれた」
「なんだい、そんなに黒くなったかい?」
「ええ、黒いのなんのって、どっちがうしろだか前《めえ》だかわからねえ……そういうふうにいっしょうけんめいになっておいでになればお店もご繁昌、したがって旦那の信用もあつくなる。そうなりゃあ帳面づらをうまくごまかしてもわからねえ」
「おいおい、人聞きのわるいことをいうなよ」
「どうです、一ぺえ買いますか?」
「だれが買うもんか」
「買わねえ? ……よし、そうなりゃあ買うように、奥の手というやつがしまってあるんだから……」
「なんだい、気味のわるい」
「ときに、失礼なことをうかがうようでございますが……」
「いやだね、あらたまって、いったいなにを聞くんだい?」
「あなたのお年齢《とし》は、おいくつで?」
「年齢を聞かれると、めんぼくないよ」
「めんぼくない? 年齢はありませんか?」
「年齢のないやつがあるもんか」
「だってさあ、どっかの支払いにこまって質にいれたとか……」
「年齢を質にいれるやつがあるかい……もう一ぱいだよ」
「ああ百で……」
「そうじゃあないよ。これだけだ」
「おや、指を四本だしましたね。四つかい?」
「なにをばかなことをいってるんだ。四十だよ」
「ああ四十か。四十にしちゃあてえそう……えっ、四十?! ……しまった。こんなことがあるだろうとおもったから、四十五から上は聞いてきたんだがね、下を聞いてくるのをわすれちまった。ねえ、番頭さん、すいませんが、四十五になっておくんなせえ」
「ばかなことをいっちゃあいけないよ。自分でそう勝手になれるもんか」
「そこんとこをひとつ、あっしの顔にめんじて、四十五だといっておくんなせえ」
「おかしなひとだな……じゃあ、四十五だよ」
「四十五にしちゃあ、てえそうお若《わけ》え」
「あたりまえだ。ほんとうは四十だもの」
「いくつぐれえにみえるかと聞いてくれませんか」
「いくつぐらいにみえる?」
「どうみても厄《やく》そこそこだ」
「ばかをいうない、いいかげんにしろ!!」
「あっ、いてえ……ひでえなあ、人のことをなぐっていっちまやあがった。いけねえ、いけねえ。もうおとなを相手にするのはやめよう。赤ん坊にしよう。赤ん坊なら、すこしぐれえまちがったってなぐられる心配はねえや……おう、いるかい、八公」
「おや、だれかとおもったら熊さんかい」
「だれかとおもわなくったって熊さんだ」
「こないだは、義理をもらってありがとう」
「うん、きょうは、赤ん坊をほめにきたんだ」
「そうか、そりゃあありがとう。まあ奥に寝てるからみてやってくんな。産婆もそういってたよ。たいそう大きな赤ん坊だって……うちじゅうでよろこんでるんだ。奥に寝ているよ」
「そうけえ……うーん、なるほどでけえや。しかし、ちょいとでかすぎるな。おまけに額《ひてえ》ぎわに頭痛膏《ずつうこう》なんかはって……」
「そりゃ、うちのじいさんだよ。じいさんが、あたまがいてえといって寝てるんじゃあねえか」
「ああそうか。道理ででけえとおもった」
「となりに寝てるのが赤ん坊だ」
「これが赤ん坊か……うーん、なるほど、こりゃあちいせえや……なるほど……おやおや、人形のような赤ん坊だな」
「ありがとう。そういってくれたのはおめえだけだ。くるやつ、くるやつ、猿のようだとか、ほし柿のようだとか、みんな悪口をいっていきやがる。人形のようだなんていってくれたのはおめえだけだ。ありがとう……そんなにかわいいかい?」
「いえね、腹を押すと、きゅっきゅっと泣くからよ」
「おいおい、らんぼうしちゃあいけねえよ。赤ん坊が腹を痛めてしまわあ」
「かわいい手をしてやがるな。まるでもみじのような手だな」
「ありがてえ。いいことをいってくれるぜ」
「こんなもみじのようなちいせえ手をしていやあがって、ちくしょうめ、よくもこれでおれから二|分《ぶ》ふんだくりゃあがったな」
「いやなことをいうなよ。おい、赤ん坊がとったんじゃあないよ。おれがもらったんだよ。そんなことをいうんなら、おまえにだけけえすよ」
「なあに、けえさねえたっていいけども、これがだんだん大きくなって、この手がのびると、泥棒かスリになる」
「おいおい、いやなことをいうなよ」
「まあ、ほめられるだけほめてやるよ」
「ありがとう。ほめてくんねえ」
「わたしは、八つぁんのところの赤ちゃんはみないけれども……」
「なにいってるんだ。みてるじゃあねえか」
「ああそうか。うん、これがあなたのお子さんでござんすか?」
「そうだよ」
「おじいさんに似ておいでになって、長命丸《ちようめいがん》(強壮剤の名)を相当お飲みになる」
「赤ん坊がそんなものを飲むもんか」
「せんだんの踏み台は、かん、かん……棺桶よりもまだ高え……」
「なんだい、そりゃあ?」
「なんだかわからねえ……蛇は寸にしてみみずを呑む。どうかこういうお子さんに蚊帳《かや》つりてえ、蚊帳つりてえ」
「夏じゃねえから蚊帳なんかつらねえよ。わけのわからねえことばかりいうない」
「よしっ、じゃあ、いよいよ奥の手だ」
「なんだい?」
「ときに、しばらくおみえになりませんでしたが、どちらのほうへいっておいでになりましたかと……えっ、商売用で海岸のほうへ? ……道理で潮風に吹かれたとみえて、お顔の色がてえそう……赤《あけ》えね」
「赤えから赤ん坊てえんだよ」
「ああそうか……失礼なことをうかがうようでござんすが、この赤ちゃんのお年齢はおいくつで?」
「おいおい、しっかりしろよ。赤ん坊の年齢なんぞ聞かなくったってわかってるじゃあねえか。きょうは七夜《しちや》だよ」
「ああ、初《しよ》七日《なのか》か」
「縁起でもねえ。初七日てえやつがあるもんか。きょうは七夜だよ。だから、まだひとつだよ」
「ひとつかい、うーん、ひとつにしちゃあてえそうお若けえ」
「ばかをいうなよ。ひとつで若いなら、いったいいくつにみえるんだ」
「どうみてもただだ」
そこつの釘
「おい、おっかあ、荷物はみんな車へ積んだのか?」
「それがねえ、いざ引っ越すとなると、なかなか多いもんだねえ。まだ積みきれないんだよ」
「それじゃあ、そのつづらは、おれがしょっていこう。おう、それから、その用だんすをとって、つづらの上にのせろ」
「おまえさん、これは重いよ」
「いいからだまってのせろ。それからその文庫も……」
「あら、こんなに積んでしょえるのかい?」
「つべこべいわねえで、おれがいう通りにしろ。いいか。それから、針箱、鏡台、紙くず籠《かご》、やかん……」
「おまえさん、こんなに高くなって、ほんとにしょえるのかい?」
「さあさあ、細引《ほそび》きでぐっとしばって……うん、できた、できた。よしっ、これからしょいあげるぞ……うん、うん、よいしょ……おいおい、亭主が重いものをしょうのに、なんだってぼんやり立ってるんだ? ほんとうに不人情な女じゃあねえか。なんの手助けにならなくっても、荷の端《はし》へでも手をかけて力をそえるのが夫婦の情ってえもんだ……いいか、それっ、うん、うん、よいしょ……一番上の紙くず籠をおろしてくれ」
「それごらんな。だから、こんなに積んでしょえるのかいといったんじゃあないか。それに、紙くず籠なんかとったって、どうってことはないやね」
「だまってとんなよ。紙くず籠ひとつだって気分のもんだ。軽くなったなという心持ちで、ぐいとしょいあげることが……うん、うん、よいしょっ……やかんをとってくれ」
「なんだねえ、やかんぐらいとったってしょうがないやね」
「だまってとれってんだ。人間てえものは気のもんだ。たとえやかんひとつでも、とれたとおもやあたいへんちがわあ。いいか、それ、よいしょ、うーん、うーん……おい、針箱をとってくれ」
「おまえさん、そんな軽いものばっかりとってもかわりはないよ……あらっ、おまえさん、いけないよ。荷物といっしょに、うしろの柱まで結《ゆわ》えちゃったんだもの、この家ぐるみでなくっちゃあ持ちあがらないよ」
「えっ……なるほど、こりゃあ重《おも》たいわけだ……うん、柱までいっしょじゃあ、いくら力をいれても持ちあがらねえわけだ。ついでに用だんすと鏡台もとってくれ。このつづらだけしょっていかあ……よいしょ、うん、うん、ああ、立てた、立てた。じゃあ、おれはでかけるからな」
「ああ、おまえさん、表へでたらよく気をつけておくれよ」
と、ようよう亭主を送りだしますと、あとは、おかみさんが、手つだいのひとたちと荷を運んで、新宅のほうもすっかり片づきまして、手つだいのひとたちも帰りましたが、かんじんのご亭主が、つづらをしょってでたっきりまいりません。いまか、いまかと待つうちに、ようようのことで、ご亭主が、重そうにつづらをしょって表を通りますから、
「ちょいとちょいと、おまえさん、どこへいくの?」
「うん、どこへいくもんか。引っ越しだ」
「引っ越しだもないもんだ。おまえさん、なにをしてたんだよ。朝早いうちに家をでて、もうじき夕方じゃあないか。いったいどこを歩いてたんだい?」
「うん、おっかあ、おらあ、じつにおどろいた」
「また、はじまった。おまえさんぐらい、ものごとにおどろくひとはないねえ。猫があくびしたっておどろいて、電車がうごくって感心してさ……いったい、なんにおどろいたんだい?」
「うん、あれからな、すぐに大通りへでて四つ角へくると、大家んとこの赤犬と、どっかの大きな黒犬がけんかしてるんだ。ところが、赤が旗色がわるくって下になっちまった。おれも心やすい犬だから、みてみねえふりもできねえから、そばへいって、『赤、ウシウシ』といってやると、赤のやつ、急に元気づいてぴょいととび起きたんで、おらあおどろいてひっくりけえっちまった。ところが、つづらが重いもんで、どうにも起きることができねえ。足をばたばたやってると、往来のひとが親切に起こしてくれて、やれうれしやとおもったとたん、横丁から自転車がつうーっとでてきて、どんとぶつかると、たまご屋の店へころがりこんで、たまごの箱の上へひっくりけえった」
「あらまあ、あぶないじゃあないか。よくまあ怪我をしなかったね」
「うん、ひっくりけえったのは、おれじゃあねえ。自転車のほうだから、おらあなんともねえ」
「ああそうかい。わたしゃあ、おまえさんかとおもってびっくりしたよ」
「するとな、たまご屋のおやじがでてきて承知しねえんだ。なにしろ、たまごを二百ばかりめちゃめちゃにつぶされちまったんだからな。そこへおまわりさんがきて、みんな交番へつれていったから、おれもかかりあいだ。いっしょについていってみた」
「まあじょうだんじゃあないよ。重いものをしょって、交番へいってみるてことはないやね。で、どうしたの?」
「たまごの損害だけだしてはなしはおさまったから、まあ安心して交番をでたんだが、気がついてみると、きょうは引っ越しだ。そこで、それからどんどんいそいだんだよ。なんでも、こんどの家は、左っ側に豆腐屋があって、その横をまがった角から二軒目だてえことをおぼえてたから、なんでもかまわねえから豆腐屋を目当てにいったんだ。ところが、いけどもいけども豆腐屋がねえ。ようようのことであったとおもったら、これが右っ側よ。しかたがねえからどんどんいくと、左っ側に豆腐屋があったんだが、その横にまがり角がねえ。またどんどんいくと、豆腐屋があったんだが、これが右っ側よ。またいくと、豆腐屋があってもまがり角がねえ。まがり角があるかとおもうと、豆腐屋がねえ……こんなことをくりけえしてるうちに、まるっきり見当がつかなくなっちまった」
「まあ、あきれたひとだねえ。それからどうしたの?」
「うん、もうこうなりゃあ、いままで住んでた家へひっけえして、はじめっから出なおしだってんでもどってみると、家んなかはがらんとして、荷物ひとつありゃあしねえ。おらあくたびれたから、背なかの荷物をおろして一服やってると、いいぐあいに家主《いえぬし》がやってきた。きっとみまわりにきたんだな。ところが、おれがいたからおどろきゃあがったね、『おめえ、一体《いつてえ》どうしたんだ? あんなに朝早くでたくせに、どうしていまごろここにいるんだ?』って、こう聞くんだ。『じつは、大家さん、引っ越すさきがわからねえんで……』『そんなばかなことがあるもんか。おめえがさがしてきた家じゃあねえか』『そりゃあ、あっしがさがしてきた家にちげえありませんが、とにかくわかんねえんですから、大家さん、ご存知なら、どうかつれてっておくんなせえ』『まったく厄介《やつけえ》な野郎だ』ってんでな、家主にそこまで送ってもらったんだ」
「まあ、ほんとうにやんなっちまうね。おまえさんてえひとは、どうしてそうそそっかしいんだろうねえ。おまえさんなんてえものはねえ、ひとりでうっちゃっておいたら、どこへいくかわかりゃあしないよ。それもいいけど、そんなものをしょってさ、いつまで門口《かどぐち》に立っていないで、こっちへはいって、さっさとおろしたらどうなの? 重かあないのかい?」
「え? ああ、そうそう、荷物、荷物……どうも、おれも重いとおもったんだ。おいおい、そういうことはなあ、もっと早く教えるもんだよ。さんざっぱらしゃべらせといて、いまごろになってようやく教えやがら……あーあ、こいつあ軽くなった」
「あたりまえだよ。まあ、きょうのところは、荷物はそのままでいいんだけれどね、こまるのはねえ、そのほうきなのさ。ほうきなんてえものは寝かしとくとしまつにわるいもんだから、それをかける釘を打っておくれよ」
「ああ、おやすいご用だ。おい、ちょいととってくんなよ、そののこぎりを……」
「のこぎりをどうするのさ?」
「どうもしねえさ。鍋を打つ……いや、その釜、じゃあねえ、釘を打つんだ」
「釘がのこぎりで打てるかい?」
「それだから、かんなをだせよ」
「えっ、かんな?」
「かんなじゃあねえ、のみ……じゃあねえ、じれってえな」
「こっちがじれったいよ。釘を打つのは金《かな》づちでしょう?」
「それほど知ってるくせにそそっかしい女だ」
「どっちがそそっかしいのさ。はい、金づち。しっかり打っとくれよ」
「わかってるよ。しっかりもハチのあたまもあるもんか。おらあ大工《でえく》だよ。だまってまかせとけばいいんだ。へん、なまいきに指図《さしず》がましいことをいやあがって……へん、こうやって金づちを持たせりゃあ、だれにもぐーともいわせるもんじゃあねえや……それっ、どうだ? ええ、それっ、どんなもんだよ?」
「おまえさん、おまえさん!!」
「なんだよ? 釘はこの通り打ったよ」
「おまえさん、この通り打ったなんてすましてる場合じゃあないよ。たいへんなことをやっちゃったよ。そこはねえ、壁じゃあないか。長屋の壁なんてえものはねえ、もうほんとうにうすいもんだよ。そこへ釘を打ちこんでしまって……どんな釘を打ったのさ?」
「どんな釘って……大は小を兼ねるてえことをいうから、一番長え瓦《かわら》っ釘を打ったんだ」
「あら、いやだよ。たいへんだよ。そんな長いのを打ったのかい? もしも、そのさきがおとなりへでて、大事な道具へ傷をつけたらどうするんだい? ほんとうにたいへんなことになるよ。こまったねえ、どうも……まあ、やっちまったことでしかたがないから、おとなりからなんともいわれないうちに、早くこっちからいってあやまっておいでな。早くいっておいでよ」
「ああ、いってくるよ」
「いってくるよじゃあないよ。いいかい、おまえさん、おちついていってくるんだよ。おちつかなきゃあだめだよ。おまえさんだってねえ、おちつきゃあ一人前なんだから……」
「なにいってやんでえ。おちつきゃあ一人前とはなんだ? じゃあなにか、おちつかなきゃあ半人前か? ひとをばかにすんねえ。世のなかに半人前てえ人間があるもんかい。ほんとにおれをなんだとおもってやがるんだ。亭主だぞ。亭主関白の位てえことを知らねえか。おちつけば一人前だってやがる。なんてえことをいやあがるんだ……やいっ、半人前なんてえ人間があるか!!」
「おやっ、なんだい、ぷんぷん怒って……おかしなひとがはいってきたな。おい、おまえ、このひとを知ってるかい? そうだろう。おれも知らねえんだが……ええ、いらっしゃいまし。なにかご用で?」
「なにを? なにかご用? なにいってやんでえ。どこの世界に半人前なんてえ人間が……えへっ、こんちは」
「変なひとだなあ。なんです?」
「へえ、どうもただいまなんでございますが……」
「なにがなんでございます?」
「それが、その、へえ、なんでございまして、なんでしょう?」
「なんだかさっぱりわかりませんなあ」
「わかりません? ……ああそうそう……あのう、あっしゃあねえ、引っ越しをしてきた者なんで……」
「ああ、そうですか。道理でみかけないおかただとおもった。で、引っ越しのごあいさつにおみえになったんで?」
「いえ、そんなこたあどうでもいいんですがねえ……うまくこう打ちこんだんで……」
「なにを?」
「その壁をなにしたんですが、どうでしたか?」
「なんだかさっぱりわかりませんねえ」
「へえ、どうもなんでしたってね、なにまあ、おまえさんおちついて……」
「あなたのほうでおちつくんだ」
「へえ……その……じつはなんでございます。壁へほうきを打ちこみまして……」
「え?」
「なにそうじゃあなかった。そのほうきのなかへ壁を打ちこんで……いやいや……そのう……ほうきをかけようとおもってね、釘を打ったんですが、壁と柱とまちがえちまって、そのう……瓦っ釘を壁へ打ちこんじまったんで……なにしろ長屋の壁はうすっぺらだ。ひょっとしたら、おまえさんところの道具へ傷でもつけやあしねえかと、かかあがいうもんですからやってきたんですが、ちょいとみてもらいてえんで……」
「そいつあたいへんだ。瓦っ釘を壁へ打ちこんだりしたんじゃあ……ああ、ちょいと待ってくださいよ。あなたが引っ越してきた家てえのはどこなんです?」
「ええ、あすこなんです」
「あすこっていうと……あなた、おむかいへ越しておいでなすったんで?」
「ええ、ええ……たしかにむこうの家へね、引っ越してきましたよ」
「うふふっ、なんですねえ、しっかりなさいよ。どんなに長い瓦っ釘だったか知りませんがねえ、おむかいからこっちまでとどく釘はありませんよ」
「いえ、それが、たいへんに長えんで……」
「どうもはなしがわからなくってこまるなあ。いいですか? あたしの家はこっち側で、あなたの家はむこう側ですよ。往来をひとつへだてて、むこうからこっちまでとどく釘はないから、ご安心なさいよ」
「なるほど、あなたの家はこっち側だ」
「そうですよ」
「で、あっしの家はむこう側だ。むこうからこっちへとどく釘?! ……うん、こりゃあそんな長え釘はねえや。こりゃあどうも失礼しました。さようなら……あははは、こりゃあおどろいた。そうだよなあ、いかになんでも往来ひとつはなれてる家へ釘がとどくはずはねえや。やっぱりおれはそそっかしいんだなあ。かかあのいう通りだ。おまえさんは、おちつけば一人前だっていやあがったけれど、たしかにおちつかなけりゃあ半人前だ。よし、こんどはうんとおちついてやろう。さて、おちついてみると……あれっ、おれの家はどれだったろう? いけねえ、もうわからなくなっちまった。いまでてきたんだから、なくなるはずはねえんだが……ああ、これだ、これだ……ええと、釘を打ったのは……そうそう、むかって右側だったっけ……すると、釘を打ちこんだのはここの家だな。どうもばつがわりいなあ。まあ、おちついていこう……ええ、ごめんください」
「はいはい、いらっしゃいまし。なにかご用で?」
「ちょいとあがらせてもらいます」
「なんだか変なひとがきたなあ……あなた、どんなご用件で?」
「ええ、おちつかせてもらいます」
「おい、ちょいと……あの、ざぶとん持っといで……おまえ、このひとみたことあるかい? え? みたことない? おれもみたことないんだ……どうぞ、あなた、ざぶとんをおあてください」
「こりゃあどうも……まあ、とにかく一服つけさせてもらいます」
「おい、おまえ、このかたがたばこをお吸いになるんだからねえ、たばこ盆へ火をいれて持ってきてあげておくれ」
「どうもすみません。とんだお手数をおかけしまして……」
「あのう……あなたはどなたさまなんで?」
「いえ、なに……えへへ、どなたさまってえほどの者じゃあねえんで……」
「いったいどんなご用がおありなんで?」
「えへへへ、なあにね、ご用てえほどのことはねえんで……ぐっとおちつかせてもらいます……きょうは、いいあんばいにお天気になりましたな」
「はあ」
「この調子では、あしたも天気はよさそうですな」
「はあ、たぶん晴れましょう……あなた、いったいなにをしにいらしったんで?」
「ちょっとうかがいますが、あそこにおいでになるご婦人は、あなたのおかみさんですか?」
「ええそうです。あたしの家内ですが、あれがどうかしましたか?」
「いえ、べつにどうしたってことはありませんが、なんでございますか、仲人《なこうど》があっておもらいになったんでございますか? それともくっつきあいで?」
「おかしなひとだねえ。あたしんとこじゃあ、りっぱに仲人があってもらったんですが、それがどうかしましたか?」
「いえ、なに、どうしたというわけじゃあありませんがね、なんでも仲人がなくっちゃあだめですねえ。あっしんとこはね、くっつきあいなんで……」
「へーえ」
「あなたご存知でしょ? あそこに伊勢屋という質屋がありましてね」
「いえ、知りません」
「そんなはずは……ねえ、白ばっくれちゃあいけねえ」
「いや、べつに白ばっくれやあしません。その伊勢屋さんがどうしました?」
「あっしゃあねえ、大工《でえく》なんですが、あすこの家へ仕事にいってたときに、いまのかかあが女中ではたらいてましてねえ、あるとき、あっしが弁当をつかおうとしますとねえ、あいつがでてきて、『大工さん、これは、あんまりおいしくはないんだけれどもね、よかったら食べておくれ』ってんで、塩の甘《あめ》え鮭なんぞだしてくれたんで……こいつあ、もう、ただごとじゃあねえとおもったからね、あくる日、前掛《めえか》けを買って持っていくと、『まあ、ありがとう』と、あっしの顔をじーっとみつめてにっこり笑いましたときには、あっしはぶるぶるとふるえました。すると、あれが、『大工さん、おひとりですか?』と聞きますから、『どういたしまして、あっしのような貧乏人のかかあに成《な》り人《て》はありませんや』と申しますと、『うまいことをおっしゃって……雨が降ってお仕事がないときはどうなさいます?』『そんなときは家におります』と申しますと、『あなたのお宅はどちらで?』と聞きますから、『このさきの荒物屋の二階を借りております』と申しますと、『こんど雨の降った日におじゃまにあがってもよろしゅうございますか?』と申しますから、『ぜひいらっしゃい』と申しますと、あれがまっ赤な顔をして、『でも、あたしなんかがおじゃましたら、叱《しか》るひとがおいででしょう?』と申しますから、『なあに、そんなものがいるはずがねえじゃあありませんか』といって、あっしゃあ、あいつの手をぎゅーっとにぎったんで……」
「こりゃあおどろいた。あなた、そんなことをおっしゃりにいらしったんで?」
「そんなことをおっしゃりに? ……いけねえ……えへへへ、どうも失礼しました。さようなら」
「あれあれっ、あなた、お帰りになるんですか? なにかご用がおありなんじゃあありませんか?」
「そうそう、かんじんの用をわすれて帰るところだった。へえ、じつはね、あっしゃあ、おとなりへ引っ越してきたんで……なにぶんよろしくねげえます」
「ああ、さようで……なにぶんお心やすくねがいます。どうもわざわざごあいさつにおいでいただきまして……」
「いえ、そんなことはいいんですがね、じつは、その、なんです……かかあがね、ほうきをかける釘を打ってくれというもんですからね、打ってやったんですが、打った場所がよくねえんで、壁に打ちこんじまったもんで……おまけにそれが一番長え瓦っ釘だったもんでね、かかあのやつがびっくりしましてねえ、あんな長い釘を打って、もしも、そのさきがおとなりへでて、大事な道具へ傷をつけちゃあたいへんだ。いって、よくみてもらってあやまってこなくっちゃあいけねえとこういいますもんで、それでやってきたんですが、すみませんがちょいとみていただきてえんで……」
「えっ、瓦っ釘を壁へ打ちこんだ?! そりゃあたいへんだ。ちょいと待ってくださいよ。ちょっとみてみますから……うーん、こうみたところわかりませんなあ。あなた、釘を打ったのはどのへんですか?」
「ええ、どのへんていわれるとこまるんですが、そうそう、あっしが釘を打ったときに、上にくもの巣が張っていましたが……」
「そんなことは、あたしの家からはわかりませんからね……じゃあ、あなた、もう一ペん家へ帰って、釘を打ったところをたたいてみてください。そうすれば見当がつきますから……」
「ああなるほど……じゃあ、さっそくそういうことにいたします。ごめんください」
と、家へもどりまして、釘のあたまをとんとんと打ちますと、
「あったいへんだ!! ああわかりました。わかりました。もういい。いいから、もう一ペんこっちへきてください」
「へい、どうもすみません。どうなりました?」
「どうなりましたじゃあありませんよ。まあいいから、こっちへきて仏壇をみておくんなさい」
「へえどこで? ……おやおやごりっぱな仏壇ですな」
「ごりっぱはどうでもいいが、阿弥陀《あみだ》さまのあたまの上をみてごらんなさい」
「阿弥陀さまのあたまの上を? ……おや、ずいぶん長い釘が打ってありますなあ。お宅じゃああすこへほうきをかけるんで?」
「じょうだんいっちゃあいけません。ありゃあ、あなたの打った釘ですよ」
「ははあ、こんな見当にあたりますか」
「のんきなことをいってちゃあこまるなあ。ほんとうにあきれちまう。あなたは、まあ、そんなにそそっかしくて、よく暮らしていけますなあ。ご家内はおいく人で?」
「ええ、あっしにかかあに、七十八になるおやじの三人で……」
「へーえ、そうですか? おみかけしたところ、おとしよりはどうもみえませんでしたが……」
「あっ、たいへんだ。じつは、おやじは三年前から中気で寝ておりますが、二階へ寝かしたままわすれてきちまった」
「こりゃあおどろいた。どんなにそそっかしいといって、自分の親をわすれてくるひとがありますか?」
「なあに、親をわすれるぐれえはあたりめえでさあ。酒を飲むと、ときどきわれをわすれます」
浮世床
江戸時代、まだちょんまげをあたまのまんなかへのっけていた時分には、町内の若い衆が、髪結床へあつまって、一日じゅうあそんでおりました。ここには、四畳半とか、六畳ぐらいな小室《こま》がありまして、将棋盤に碁盤、貸本のようなものがそなえつけてありましたもんで……で、看板がまた、ただいまとはちがいます。油障子に奴《やつこ》の絵を描いたのが奴床、天狗の下に床の字が書いてあると、これが天狗床、おかめの絵の下に床の字がついていると、おかめ床てなぐあいで……
「おいおい、ごらんよ」
「なに?」
「なにって、海老床《えびどこ》の看板、よく描けたじゃあねえか。この海老は、まるで生きてるようだな」
「え?」
「生きてるな? あの海老……」
「いや、生きちゃあいねえや」
「生きてるよ」
「生きてるもんか。どだい、絵に描いた海老だよ、生きてるわけがねえだろ」
「いや、生きてるよ。みてごらんよ。ひげを、こう、ぴーんとはねて……たしかに生きてるよ」
「うそをいえ、死んでらい」
「生きてるってえのに……こんちくしょう、なぐるぞ!」
「なにを!」
「おいおい、お待ち、お待ち、おまえたちは、なんだって喧嘩《けんか》してるんだ?」
「へえ、ご隠居さん、いまね、この髪結床の障子に描いてある海老が、じつによくできてますんで、まるで生きてるようだといいますとね、この野郎が『死んでる』と、こういいますんで……ご隠居さんがごらんになって、あの海老は、どうみえます? 生きてますでしょう?」
「生きちゃあいないなあ」
「ざまあみやがれ。生きてるわけがねえじゃあねえか。ねえ、ご隠居さん、死んでますね?」
「いや、死んでもいないな」
「へーえ、生きてなくって、死んでもいねえっていうと、どうなってるんです?」
「ありゃあ、わずらってるな」
「わずらってる? どういうわけで?」
「ああ、よくごらんよ。床についてる」
変なところで、おちをとられたりしております。
「おい、だれだい、むこうの隅でもそもそしてんのは? やあ、留さんじゃあねえか、なにしてるんだい?」
「うん、いま、本を読んでるんだ」
「なんの本を?」
「戦《いく》さの本」
「なんの戦さだ?」
「うん、姉《あね》さまの合戦」
「え? 変な戦さだなあ、姉川の合戦てえのはあるが、それじゃあねえのかい?」
「ああ、ああ、じゃあそれ……」
「なんだい、じゃあそれってえのは? ……すると、本多平八郎てえひとがでてくるな?」
「うん、それに、もうひとり強いのがいらあ……ええと……そら、ほら……まから……まから……」
「真柄《まがら》十郎左衛門」
「そうそう、そのふたりが一騎打ちしてるところだ」
「そりゃあいいや。おもしれえところだな。読んで聞かしておくれよ」
「だめ」
「どうして?」
「本てえものは、ひとりでだまって読まねえと、その味がわからねえ」
「そんな意地のわりいことをいわねえでさ、みんなが、こんなに退屈してるんだからさ、ひとつ読んで聞かしておくれよ」
「じゃあ読んでやってもいいが、そのかわり、読みかかると、とまらなくなるよ」
「そんなに早えのかい?」
「ああ、立て板に水だ」
「立て板に水?! うーん、そりゃあ気持ちがいいや。ぜひともたのまあ」
「途中で聞きのがしても、おんなしとこは、二度と聞かれねえからな」
「そうかい……じゃあ、そのつもりで、しっかり聞くよ」
「しずかにしろ」
「うん」
「うごくな」
「うん」
「息をとめろ」
「じょうだんいうない。息をとめりゃあ死んじまわあな」
「死んでもいいからしずかに聞け」
「うるせえな。まあ、ひとつたのまあ」
「よし、はじめるぞ……えー、えー、えー……」
「ずいぶんえが長いね」
「柄《え》が長えほうが汲《く》みいいや」
「ひしゃくじゃあねえやい」
「だまって聞きなよ……ひとつ……ひとつ……ひとつ……」
「なんだい、いつまで経《た》ってもひとつだね。ふたつになんねえかい?」
「うるせえな……ひとつ、あねがわ……あねがわかつ……かつせんのことなり」
「なんだか、あやまり証文みてえだな。かっせんのことなりかい……おあとは?」
「このとき、真柄《まから》……まから……まから……」
「負からねえかい?」
「うるさいよ……真柄じゅふろふさへへ……さへへ……さへへ……」
「おいっ、どこかで息がもるんじゃあねえかい? ……そりゃあ真柄十郎左衛門だろ?」
「ああ、そうだ、そうだ……で、どうなるんだい?」
「おめえが読んでるんじゃあねえか」
「ああ、そうそう……真柄十郎左衛門が、敵にむかつ……むかつ……むかついて……むかついて……」
「おい、だれか金だらい持ってこいよ。むかつくてえから……」
「なにをよけいなことをするんだよ。ここに書いてあるからよ……敵にむか……むかってだ」
「むかってならわかるが、むかついてっていうからわからねえ」
「なあに、戦さなんてえものは、両方の大将がむかついてはじまるもんだ……敵にむかって、一尺八寸の大太刀を……まつこう」
「なんだ?」
「え? ……一尺八寸の大太刀を……まつこう」
「なんだよ?」
「なんで松つぁんが返事をするんだい?」
「だって、いま、まつこうって呼んだろう?」
「ちがうんだよ……本に書いてあるんだ……敵にむかって、真っこうだった」
「なんだい、だらしがねえなあ。立て板に水なんていったが、ちっとも早くねえじゃあねえか。横板に鳥もちだ……一尺八寸の大太刀ってえが、長えから大太刀なんだろう? 一尺八寸てえと、たいして長くねえじゃあねえか。それでも、やっぱり大太刀かい?」
「横にことわり書きがしてあらあ」
「なんだい、ことわり書きてえのは?」
「もっとも一尺八寸は横巾《よこはば》なり」
「え? 横巾かい? そりゃあどうも大きな刀だなあ……しかし、そんなに横巾があったんじゃあ、ふりまわしたときにむこうがみえねえだろう?」
「ああ、それだから、また、ことわり書きがしてある」
「また、ことわり書きかい?」
「うん……もっとも、ふりまわしたときに、むこうがみえないといけないから、ところどころへ窓をあけ……」
「へーえ、こりゃあおどろいたな。刀に窓があいてんのかい?」
「ああ、この窓からのぞいては敵を斬り、窓から首をだしては、本多さん、ちょいと寄ってらっしゃい……」
「なにをいってやがるんだ。もうおよしよ。そんなばかばかしいものを聞いてられるもんかい」
「おい、退屈だなあ」
「うん、退屈だ」
「どうだい、ぼんやりしててもしょうがねえから、やるかい?」
「なにを?」
「前へ将棋盤がでていて、やるかいって聞いてるんじゃあねえか。将棋だよ」
「将棋か……そうさな……やってもいい」
「いやにもったいつけるじゃあねえか。やるんなら、駒をならべたらいいじゃあねえか」
「あとでいいよ」
「あともさきもねえやな。いっしょにならべようよ」
「いや、さきにならべると失礼だから……」
「失礼にもなにも……それほどの将棋じゃあねえやな。まあ、そういうんなら、おれからならべるぜ」
「ならんだところで、こうやって盤をまわして……」
「おいおい、なにをするんだ? おれがならべたのをてめえのほうにまわしちまって……」
「すまねえ、おめえは、もういっぺんならべて……」
「およしよ。変なことをするのは……さきへならべろってから変だとおもってたんだ。一番で二度ならべたのははじめてだよ。どうもあきれたもんだ」
「まあ、いいやな。ぐずぐずいうなよ。さあ、やろうよ」
「うん……先手《せんて》、どっち? 金《きん》、歩《ふ》……金がでれば金が先手、歩がでれば歩が先手……」
「じゃあ、金と歩」
「両方はだめだよ。どっちかだよ。さあ、金かい? 歩かい?」
「まあ待ちなよ。そうあわただしく『金かい? 歩かい?』っていわれると、どうもまよう性分で……」
「じれってえなあ。どっちでもいいじゃあねえか」
「しかしなあ、勝負ごとは、最初《はな》つまずくとどうも……ええと……歩……いやいや……歩っていうと、なんだか力がぬけちまうなあ……金っていったほうが重味があって……」
「金かい?」
「といわれると、歩にも未練《みれん》があるし……」
「なにいってるんだ。はっきりしろよ」
「じゃあ、金だ」
「金だな? いいんだな? じゃあ、おれは歩だよ」
「おい、ちょっと待ってくれ……『じゃあ、おれは歩だよ』と、あらためていわれると、歩にまた未練が……」
「なにをいってるんだ。いいかげんにしろい。どっちなんだ?」
「じゃあ、まあ、金にしとこう」
「ほんとうに金でいいんだな?」
「ああ」
「ちくしょうめ、手数ばかりかけやがって……さあ、駒を振るよ……ほら、歩だ」
「うーん、やっぱり歩か……歩にしときゃあよかったなあ」
「おいおい、いまさらぐちをいっちゃあいけねえやな……そうだ、どうだい? ただ将棋をさすのはおもしろくねえ。しゃれ将棋というのを一番やろう」
「なんだい、しゃれ将棋てえのは?」
「駒をうごかすたびに、駒でしゃれるんだよ」
「どういうぐあいに?」
「えーと、まずこう角の道をあけてな……『角道《かくみち》(百日)の説法屁《せつぽうへ》ひとつ』とな」
「なるほど、『角道の説法屁ひとつ』か……こいつあいいや。じゃあ、おれも角道をあけて、角道の説法屁ふたっつ」
「ばかっ!! 屁をふやしてやがら……歩をさして、『ふさし坊(武蔵坊)弁慶』」
「うまいっ!!『ふさし坊弁慶』なんざあいいなあ。じゃあ、おれも歩をさして、ふさし坊……」
「おいおい、おまえ、まねばかりしてるねえ。弁慶はいけないよ」
「じゃあ、ふさし坊牛若丸……」
「そんなのがあるもんか。ばかだなあ。できなければ、まあしかたがねえ。やるよ」
「おっそろしく早えな」
「早えたって、おらあ、一時《いつとき》(約二時間)に百番はさしちまうんだから、なんでもとっととやらなくちゃあ」
「おいおい、ちょっと待ってくれ」
「どうした?」
「たいへんなものがなくなっちまった」
「なにがなくなった?」
「王さまがなくなっちまった」
「ええ? 王さまがなくなった? ああ、そんなことか。そんなら心配いらねえ。おれがとったよ」
「えっ?」
「さっき、おれが、王手飛車とりをかけたろう? そうしたら、飛車が逃げたじゃあねえか。だから、王さまをとったんだ」
「ああ、そうか。油断がならねえや……しかし、おれの王さまは、おまえがとったんだけれども、おまえの王さまは、おれがとらねえのに、みえねえじゃあねえか」
「おれのは、初手《しよて》からねえんだ」
「あれっ、王さまのねえ将棋ってえのがあるかい」
「あるかいったって……とられるといけねえから、じつは、ふところへいれておいたんだ」
「そんなわからねえ将棋があるもんか。おらあ、もうやめた」
「おや、この最中《さなか》に、だれかいびきをかいて寝てやがる……おや、半公じゃあねえか。みなよ、こいつの寝てるざまは、どうもいいつらじゃあねえな……おやおや、鼻からちょうちんをだしゃあがったぜ……あれっ、消しゃあがった。またつけたよ。こんどは、すこし大きいや。ちょうちんをつけたり、消したり……うん、おまつりの夢かなんかみてやがるんだな。おい、半公起きろよ、おいっ、半公!!」
「おいおい、だめだよ。そんなことをいったって起きるもんか」
「じゃあ、どうすりゃあいいんだい?」
「なにしろ、こいつは食いしん坊だ。『半ちゃん、ひとつ食わねえか?』といやあ、すぐに目をさまさあ」
「そうかい……おい、半ちゃん、ひとつ食わねえか?」
「ええ、ごちそうさま」
「おやっ、寝起きがいいな。じつは、いまのはうそだ」
「おやすみなさい」
「現金な野郎だな……いいから、もう起きなよ」
「あ、あ、あーあ」
「大きなあくびだな。みっともねえ野郎だ。よく寝るなあ、てめえは……」
「ああ、ねむくってしょうがねえ。なにしろ、からだがつかれてるんでね」
「そうかい、うらやましいな。仕事がいそがしいんだな」
「いや、どういたしまして、仕事どころのはなしじゃあねえんだ。女でつかれるのは、しんが弱ってしょうがねえ」
「あれっ、変な野郎を起こしちゃったな。寝かしといたほうが無事だった。起きて寝ごとをいってやがらあ……なんだい、その、女でつかれるのはしんが弱るてえのは? 女でもできたのか?」
「うふふふ、まあな」
「おやっ、おつに気どりゃあがったな。なにをいってやがるんだ。てめえなんぞ女のできるつらかい」
「なあに、人間はつらで女が惚《ほ》れやあしねえよ。ここに惚れるのさ」
「おや、ここに惚れるって胸をたたいたな。胃弱か?」
「胃弱で女ができるもんか。胸三寸の心意気てえやつよ」
「笑わせるんじゃあねえぜ。てめえが、なにが胸三寸の心意気だ。ひとから借りたものは、わすれるのか、しらばっくれるのか知らねえが、めったにけえしたことはねえし、貸したものはいつまでもおぼえてるし……」
「そんなことはどうでもいいや。こうみえても、おれは、たいへんな色男なんだ」
「ふーん、世のなかには、よっぽど酔狂《すいきよう》な女がいるもんだな。でなきゃあ、おめえに惚れるはずがねえや。きりょうがわるくっても、身なりがいいとか、どっか垢《あか》ぬけしてるとか、読み書きができるとか、遊芸ができるとか、金があるとか、人間には、ひとつぐれえ長所《とりえ》があるもんだが、おめえてえやつは、つらはまずいし、人間がいやしいし、身なりはいつもわりいし、金は持ってたためしがねえし、しゃれはわからず、いきなことは知らず、食い意地が張って、助平で、おまけに無筆ときているから、ひとつだって長所《とりえ》なんぞありゃあしねえ」
「そねむな、そねむな。そんなにおれの悪口をならべ立てることはねえ……じつは、きのう劇場《しばい》の前を通ったんだ。べつにみるつもりはなかったんだが、看板をみているうちに、急にのぞいてみたくなったんで、木戸番の若え衆に顔見知りのやつがいたもんだから、そいつにたのんで、立ち見でいいからってんで、一幕のぞかせてもらったんだ」
「うん」
「おれが、東の桟敷《さじき》の四つ目あたりだったかな……そこへ立ってみてたんだ。すると、前にすわっていたのが、年ごろ二十二、三かなあ……しかし、女がいいと年をかくすから、まあ二十五、六……いや、よくみると、もう七、八……そうだなあ、かれこれ三十に手がとどいてやしねえかとおもうが、ちょいっとおしろいをつけているから、あれをはがすと、もうあれで三十四、五……小皺《こじわ》の寄ってるぐあいで四十二、三……声からのようすでは五十一、二……かれこれ六十……」
「なにをいってやがるんだ。それじゃあ、まるっきりばばあじゃあねえか」
「まあ、二十三、四といやあ、あたらずといえども遠からずだ。持ちものといい、服装《なり》のこしらえといい、五分《ぶ》のすきもねえてなああれだね。五十二、三のでっぷりふとったばあやを供につれて、一間《いつけん》の桟敷を買い切ってよ、ゆったりと見物だ。どこをみたって、肩と肩と押しあっているなかで、ぜいたくなことをしてやがるなとおもってみていた。そのうちに、音羽屋のすることにおつなところがあったんで、おれが、大きな声で『音羽屋!!』ってほめたんだ。すると、女がふりむいて、おれの顔をみあげて、にこりっと笑った。むこうで笑うのに、こっちが恐《こえ》えつらあしてるわけにもいかねえから、なんだかわからねえが、おれもにこりっと笑った。むこうでに(二)こりっ、こっちでに(二)こりっ……あわせてし(四)こりっ……」
「なにつまらねえことをいってるんだ」
「『あなたは、音羽屋がごひいきでいらっしゃいますか?』って女から声をかけたから、『いいえ、ひいきというわけにはいきませんが、ひいきのひきたおしでございますよ』『わたしも音羽屋がひいきでございまして、ほめたいところはいくらもございますが、殿がたとちがって、ほめることができませんから、あなた、どうぞほめてくださいましな』てえから、『ええ、おやすいご用でございます。あっしが、ほめるほうだけは、万事おひきうけいたしやしょう』と、こういった」
「つまらねえことをひきうけたな」
「ああ、銭がかからねえこったから損はねえとおもってね……と、女が、『もしおよろしければ、どうぞおはいりくださいまし』というから、『それじゃあ、まあ、隅のほうをちょいと貸していただきます』ってんで……」
「へえっちゃったのか? ずうずうしい野郎だな」
「女が、おれの膝をつっついて、『おにいさん、ここがよろしいではございませんか?』というから、ここがほめてもらいてえというきっかけだから、『音羽屋!!』とほめた。女がよろこんでね、『お芝居がひきたちますから、もっと大きな声でおねがいします』ってえから、うんと声をはりあげて、『音羽屋!!』……『もっと大きな声で……』というから、『これより大きな声はでません。これが図抜《ずぬ》け大一番《おおいちばん》でございます』といって……」
「早桶《はやおけ》をあつらえてるんじゃあねえや」
「それから、大きな声で、『音羽屋!!』『音羽屋!!』『音羽屋!!』」
「うるせえな、この野郎」
「のべつに膝をつっつくんだよ。ここが忠義のみせどころだとおもったからね、夢中になって、『音羽屋!!』『音羽屋!!』てんでやってると、まわりのやつが笑ってやがる。女が、おれの袖をひっぱって、『もう幕がしまりました……』」
「まぬけな野郎だな。幕のしまったのも気がつかねえのか?」
「おれもばつがわりいから、『幕!!』……」
「ばかっ、幕なんぞほめるなよ」
「そのうちに、女がふたありで、なにかこそこそしゃべっていたが、『どうぞごゆっくり……』ってんで、すーっと下へおりてって、それっきり帰ってこねえ」
「ざまあみやがれ。てめえが幕なんぞほめたもんだから、あきれけえってにげだしたんだろう?」
「うん、おれもそうだとおもったから、帰ろうかなとおもってるところへ、若え衆がやってきて、『お連れさまが、お待ちかねでございますから、どうぞ、てまえとごいっしょに……』と、こういうんだ」
「へーえ」
「『ひとちげえじゃあねえか?』『いいえ、おまちがいではございません。どうぞごいっしょに……』っていうんだ。若え衆の案内で茶屋の裏二階へいくと、さっきの女がいて、上座《かみざ》に席ができていて、『さきほどのお礼と申すほどのことでもございませんが、一献《いつこん》さしあげたいと存じまして……』と、きた」
「へーえ、一献てえと、酒だな?」
「そうよ。水で一献てえなあねえからな……そのとき、おれが、どういう返事をしたとおもう?」
「てめえのこったから、酒なら浴《あ》びるほうでござんす……かなんかいったろう?」
「ばかあいえ。そんなことをいやあ、『こいつは飲んべえで、トラになったらお荷物だよ』ってんで、どーんと肘鉄《ひじてつ》よ」
「じゃあ飲まねえといったのか?」
「そんなことをいやあ、『あらっ、こいつは、酒も飲まない堅物《かたぶつ》で、おもしろくないよ』ってんで、これがどーん……」
「じゃあ、なんともいいようがねえじゃあねえか」
「さあ、そこだよ。おれがあたまをはたらかせたのは……」
「なんていった?」
「うん、飲むような、飲まねえようなことをいった」
「ふーん」
「お酒のところでございますが、くださいますればいただきますが、くださいませんければいただきません」
「なんだい、まるで乞食じゃあねえか」
「『ばあや、おしたくを……』と、目くばせをすると、ばあやが心得て階下《した》へおりる。いれちがいに、トントンチンチロリン……」
「なんだい、それは?」
「なんでもいいから、だまって聞いてろ……トントンチンチロリン、トントンチンチロリン、チンチンチリテンシャン……」
「どっかで三味線でもひいてたのかい?」
「わからねえ野郎だな。女中が酒をはこんでくる音じゃあねえか」
「へーえ、ずいぶん派手な音がするじゃあねえか。そのトントンというのは?」
「女中が、はしご段をあがる音だ」
「へーえ……チンチロリンてえのはなんだい?」
「そりゃあ、おめえ、トントンとあがるから、盃洗《はいせん》の水がうごくじゃあねえか。すると、浮いてるちょこが、盃洗のふちへあたる音が、チンチロリンというんだ。これが、トントンとあがってくるから、トントンチンチロリン、チンチンチリテンシャンというのは、ちょこが盃洗のなかへしずんだ音だ」
「こまけえんだな。で、どうしたい?」
「酒がきて、やったり、とったりしてるうちに、女は、たんと(たくさんは)いけねえから、目のふちがほんのり桜色」
「ふーん」
「おれも、すきっ腹へ飲んだから、目のふちがほんのり桜……」
「やい待て、ちくしょうめ。ずうずうしいことをいうない。相手の女は、色の白いところへぽーっとなるから桜色てんだが、おめえは、色がまっ黒じゃあねえか。おめえなんぞ、ぽーっとなったって、桜の木の皮の色よ」
「なにいってやんでえ。よけいなことをいうない……飲んでるうちに、酒はわるくなかったけれども、からだの調子だとおもうんだ。あたまがいたくなってきやがった」
「うん」
「どうにもあたまがいたくてしょうがねえ。そこで、『ねえさん、ごちそうになった上に、こんなことをいっては申しわけございませんが、すこしあたまがいたくなりましたから、ごめんをこうむって、失礼させていただきます』といって、おれが帰ろうとするとね、『とんでもないことになりました。たくさんあがらないお酒をおすすめいたしまして申しわけございません。すこしおやすみになったらいかがでございますか?』というから、『そうでござんすね、ここへ横になったところでなおりますまいから、家へ帰って寝ます』といったら、『おなじやすむなら、ここでおやすみになっても、おなじことじゃありませんか』と、こういうんだ。いわれてみれば、もっともだから、『じゃあ、まあ、そういうことにおねがいしましょう』『よろしゅうございますわ』てんで、しばらく経つと、『さあ、こちらへ……』というんで、いってみると、となり座敷へふとんを敷いてあるんだ。それから、『失礼させていただきます。あたまのなおるまで……』ってんで、おらあ、そこへへえって寝ちまった」
「うん」
「すると、女が、すーっといっちまったから、こりゃあいけねえ。女が帰っちまっちゃあ大変《てえへん》だ。ここの勘定はどうなっているんだろうとおもって……」
「しみったれたことをかんげえるなよ」
「けれどもよ、そうおもうじゃねえか。ところがね、しばらくすると、すーっと音がした」
「なんだい?」
「障子があいたんだ」
「だれがきたんだい?」
「だれだって、わかりそうなもんじゃあねえか。その女がへえってきたんだ」
「ふーん、どうしたい?」
「女が、枕《まくら》もとで、もじもじしていたが、『あのう……わたしもお酒をいただきすぎて、たいそうあたまがいたんでなりませんので、やすみたいとは存じますが、ほかに部屋がございませんので、おふとんの端《はじ》のほうへいれていただいてもよろしゅうございましょうか?』って、こういうんだ」
「えっ、そいつあ大変なことになっちゃったなあ。おーい、みんな、こっちへ寄ってこいよ。ぼんやりしてる場合じゃあねえぞ……で、おめえ、なんといったんだ? ……『早くおはいんなさい』かなんかいったろう?」
「どうもそうもいえねえから、『どうなさろうとも、あなたの胸に聞いてごらんなすっちゃあいかがでございましょう?』と、おれが皮肉にぽーんと、ひとつ蹴ってやった」
「うめえことをいやあがったな。それからどうしたい?」
「そうすると、女のいうには、『ただいま胸にたずねましたら、はいってもよいと申しました。では、ごめんあそばせ』ってんで、帯解きの、まっ赤な長襦袢《ながじゆばん》になってずーっと……」
「ちくしょうめっ、へえってきたのか?」
「へえってきたとたんに、『半ちゃん、ひとつ食わねえか』って、起こしたのはだれだ?」
「なに?」
「いや、女がへえってきたとたんに、『半ちゃん、ひとつ食わねえか』って、起こしたのはだれだ?」
「起こしたのはおれだ」
「わりいところで起こしゃあがった」
「なーんだ、ちくしょうめ、夢か?」
「うん、そういう口があったら世話してくんねえ」
藪入《やぶい》り
ただいまでは、どちらの商店にも定休日というものがございますから、店員さんもかなり自由でございますが、以前は、正月とお盆の十六日前後だけ、藪入りといって実家へ帰ることを許されたものでございました。それも、奉公にいって三年間ぐらいは、里心《さとごころ》がつくというので、自宅の近所へのおつかいにも、ほかの小僧さんをやるというようなことで、親子が、三年目にやっと口がきけたなんという、まことにあわれなありさまでございました。ですから、与謝蕪村《よさぶそん》に、「藪入りの寝るやひとりの親のそば」なんという、しみじみした句があるほどでございます。
「おとっつぁん」
「あれっ、金坊じゃあねえか。日が暮れようってえのに、なぜ家へ帰らねえんだ?」
「うん……あのねえ、おとっつぁん、あしたっから、もうお仕事にいかないで、家にいておくれよ」
「なにいってるんだ。おとっつぁんが仕事にいかなけりゃあ。金坊が、おまんまを食えなくなっちまうじゃあねえか」
「ううん、おとっつぁんがお仕事にいくと、おいらは、おまんまが食えないんだよ」
「そんなことがあるもんか。おとっつぁんが仕事にいくから、米も買えるんじゃあねえか」
「そうじゃあないんだよ」
「そうじゃあねえ? ……どういうことなんだ?」
「あのねえ……おとっつぁんがお仕事にいっちまうと、おっかさんが、おまんまを食わしてくれねえんだもの……」
「えっ、おっかあがめしを食わせねえ? ……あんちくしょうめ、自分の生んだ子でねえからって……ままっ子いじめをするにもほどがあらあ、めしを食わせねえたあ、なんてえことだ……よしっ、きょうというきょうは、もうかんべんならねえ。あのあまあ、たたきだしちまうから……さあさあ金坊、いばってついてこい。いいか、てめえの家だ、大手をふってへえれ」
「おや、お帰んなさい。おとっつぁんといっしょかい……まあ、金坊、どうしたんだい? 日が暮れるっていうのに、いったいどこへいってたのさ? おっかさん、どんなに心配してたか知れやしないよ。さあ、こっちへきて、ごはんをおあがりな」
「あれっ、このあまっ、この鬼ばばあめっ、おれがいるからって、そんな猫なで声なんぞだしゃあがって……芝居《しべえ》もたいげえにしろい」
「あらっ、おまえさん、なにをそんなに怒ってるの? なにか仕事場で? ……ああ、おまえさん、金坊になにか聞いたんだね。こまるねえ、まったく……」
「なにいってやんでえ。こまるのは、てめえがわりいからじゃあねえか。ふん、いくらままっ子だってひでえことをするない。金坊は、おれにとっちゃあ、天にも地にもかけげえのねえ大事なせがれだぞ。それをひぼしにされてたまるもんか」
「おや、おかしなことをいうじゃあないか。それじゃあ、まるでわたしが、あの子に食べものでも惜しんで食べさせないようじゃあないか」
「なにをしらばっくれてやんでえ。おれがなんにも知らねえとおもって、このひとでなしめっ」
「あっ、いたいっ……おまえさん、なんでわたしをぶつのだい?」
「なんでも、はちのあたまもあるもんか。てめえは金坊の仇《かたき》だっ、このあまめっ」
「いたいっ、いたいじゃあないか」
「なにがいてえだっ、ふざけるない!!」
「これこれ熊さん、熊さん、お待ち、お待ち……どうしたんだ? おいっ……あっ、いたい、いたい、これさ、わしをぶってどうするんだ?」
「あっ、こりゃあ大家さんで……」
「大家さんでじゃあねえ。いきなり人のあたまをなぐりゃあがって……」
「ええ、かかあのあたまにしちゃあ、いやに禿《は》げてるとおもったんですが……いい音がしましたねえ」
「つまらねえことを感心してちゃあいけねえ……まあまあ、待ちなってことよ。むやみにおかみさんをぶつんじゃあねえ」
「へえ、どうかかまわねえでおくんなせえ。きょうというきょうは、もうかんべんできねえんですから……」
「まあまあ、そんなに青すじを立ててねえで、おちつきなよ。わしがわりいようにはしねえから……」
「まあ、大家さん、お手数おかけしまして……どうか、うちの人の心持ちのなおりますようにねがいます」
「ああ、おみっつぁん、心配するこたあねえ。まあまあ、わしにまかせておきなよ……さて、熊さん、わしは、くわしいことは知らないが、大体の察しはついている。ことのおこりは、金坊のことだろう?」
「ええ、なにしろ大事《でえじ》なせがれを、ひぼしにされちゃあてえへんですからね」
「まあ、あんなことをいって……大家さん、どうかお聞きください。だれが金坊をひぼしになんぞするもんですか。さっき金坊を呼びにいったんですが、あそんでおりまして、どうしても帰ってまいりませんで、どこかへ逃げていってしまいましたので……あの通りお膳立てはできております」
「やいやい、大家さんの前だとおもやあがって、いいかげんないいわけするない。てめえがどういおうと、子どもは正直だあ」
「まあまあ、お待ちよ……おい、熊さん、おまえさんはまことにいい人だが、あの泥棒野郎のことになると、まるっきり夢中になって、わけがちっともわからなくなるんでこまるよ」
「もし、大家さん、おことばの中《ちゆう》でござんすがね、その泥棒野郎てえのは、だれのことなんで?」
「うん、おまえが大事にしてるひとりむすこの金坊のことだ」
「えっ、金坊?! こりゃあ、いくら大家さんでも聞きずてになりませんぜ。ほかのこととはちがいまさあ……どういうわけなんで?」
「うん、いわなきゃあわからねえから、いって聞かそう」
「さあ、うかがいましょう」
「こないだ、裏へ魚勝がきたときのことだ。そこの山田さんでさしみを注文したんで、魚勝がつくって、山田さんの台所へ持っていった。それをおまえのところの金坊がみていたんだが、魚勝のすきをうかがって、鮭の切り身を五枚ちょっとぬすんだ。その早いのなんのって、まったくおどろくばかりだった。はて、どうするのかとみていると、鈴木さんの羽目《はめ》へぴったり寄りかかって、背なかで鮭の切り身をおさえているところへ魚勝がもどってきた。すると、金坊のやつ、『おじさん、いま、犬がおさかなをくわえていったよ』といったんで、魚勝がびっくりして追っかけていった。すると、こんどはそのすきに、あじの干《ひ》ものを持って家へはいっちまったから、『ああ、なんてわるいことをするんだ。親たちは、あれを知らずにいるのかな』とみていたら、おみっつぁんがでてきて、『魚勝さん、いま、犬が裏口からこれをくわえてきましたよ。たいそうおいしそうですね。十枚買いますから、もう五枚持ってきてください』といって、代金を払って買っていた。こういうことがたびたびあるんだ。それをおみっつぁんが、おまえの耳へいれないでなおしたいと、いろいろ苦労してるようだが、金坊のほうじゃあ、それをおまえにいいつけられやあしないかと、あれこれいいたてて、おみっつぁんを追いだそうとしているんだ。まあ泥棒といったのはこんなわけなんだ。かわいい子には旅をさせろというたとえもあることだし、当人のためにもなることだから、奉公におだし。他人のなかへはいってみれば、親のありがたみもわかる。いまのうちに手を打っておかないと、しまいには、あの子が、うしろへ手のまわるようなことになるよ。さいわい、わしの遠い親類が神田にある。堅い一方の家だ。そこへわしが世話をしよう。わしから主人《あるじ》にたのんで、みっちり仕込んでもらおう。もともとあの子はばかじゃあねえんだから、心がけしだいでものになるさ。おまえが、ほんとうにあの子をかわいいとおもうなら、おもいきって奉公におだし」
「大家さん、どうもいろいろとありがとうございます。魚屋さんのことなどは、うちの人の耳にいれましたら心配すると存じましてだまっておりましたが、旦那がごらんになっていらっしゃいましたとは存じませんでした。みんなわたしのしつけがわるいからなんで、お恥かしゅうございます。で、ただいまのご奉公のおはなしでございますが、まことにご親切にありがとう存じますが、なにしろまだ八歳《やつつ》でございますから、せめてもう三、四年|経《た》ちましてからのことに……」
「ああ、どうも感心させられたなあ。おい、熊さん、いまのおみっつぁんのことばを聞いたかい? 相手は……自分のことを追いだそうとした子どもだよ。すぐにでも奉公にだしちまいたいのが人情じゃあねえか。それを、まだ八歳《やつつ》だから、もう三、四年経ってからのことにしてくれなんて、なかなかいえるもんじゃあねえよ。熊さん、おまえは、まったくいいおかみさんを持ったなあ」
「へえ、ありがとうございます」
「さあ、金坊、おじさんのところへきな……いいか、おまえは、あしたっから奉公にいくんだ。奉公にいったら、うかうかしてられねえぞ。みんなまわりは他人なんだからな。すこしでもわりいことをすると、素《そ》っ首《くび》をひっこぬかれるぞ」
「ああ、大家さん、奉公にやるのはよしましょう。たったひとりの大事なせがれだ。首をぬかれちゃあたまらねえ」
「なにいってるんだ。そんなこと本気にするやつがあるか。おまえからも金坊によくいってやりなよ」
「へえ……おい金坊、ここへきな。おまえとおれとは、天にも地にもふたりっきりなんだぞ。それがなあ、親子の縁がうすいというのか、あした、大家さんにつれられて奉公にいくんだ。ことによると、これが親子一生のわかれになるかも知れねえぞ。さあ、おとっつぁんの顔をよくみておけ……おめえも、こっちへきて顔をみせな」
「おいおい、熊さん、なにを縁起でもねえことをいって泣いてるんだ。なにも戦《いく》さにいくってわけじゃあなし、おまえが、もっとしゃんとしてなくっちゃあだめじゃあねえか。なあ、おみっつぁん、じゃあ、善はいそげだ。さっそく先方へはなしにいってくるよ。そしてなあ、気のかわらねえうちに、あしたつれていくから、したくをしといておくれよ。はい、さようなら」
さて、奉公にだしますと、この子どもがりこう者でございますから、ご主人やおかみさんをはじめ、お店《たな》の人たちみんなからかわいがられます。しかし、大家さんからのたのみでございますから、三年間は宿《やど》さがりにはだしません。
月日の経つのは早いもので、きのうきょうとおもううちに、三年という月日が経ちました。主人から、ことしは藪入りにやるからという伝言《ことづて》が大家さんへございましたから、熊さん夫婦はもう大よろこびでございます。
「なあ、おみつ」
「なんだい?」
「金坊のやつ、よく辛抱したなあ」
「ほんとうだねえ。三年だものね」
「奉公はいやだって、よく飛びだしてこなかったもんだ。やっぱりおれの子だなあ」
「なんだねえ、おまえさんてえ人は、いいことがあると、おれの子だ、おれの子だっていうけれども、わるいことがあると、『おめえがわるい、おめえがわるい』って……勝手だったらありゃあしない」
「あはははっ……そんなことよりも、あしたは早く起きて、あったけえめしを炊《た》いてやんなよ」
「わかってるよ。冷やめしなんぞ食べさせるもんかね」
「野郎、納豆《なつとう》が好きだから、納豆を買っといてやんなよ」
「あいよ」
「それからな、しじみ汁がからだにいいから、味噌汁をこしらえておいてな、天ぷらが好きだから、えびのいいところをな……ああ、うなぎも好きだったなあ、中ぐしを二人前そういってやんなよ。さしみもいいな、中とろのところをな……シューマイもよろこぶぜ。西洋料理も食わしてやろうじゃあねえか。ビフテキにカツレツ、オムレツなんてところをな……甘《あめ》えもんもいいなあ、みつ豆に汁粉《しるこ》にぼたもちなんて……」
「ちょいと、ちょいと、おまえさん、そんなに食べさせたら、お腹をこわしちまうよ」
「腹なんぞこわしたってかまわねえ。うめえものを食わしてやれ。食うのがたのしみで帰ってくるんだから……」
「奉公してたって、なにも食べずにいるわけじゃあないよ」
「そうだけどもな、おめえは奉公したことがねえから知るめえが、自分の好きなものが食えねえんだ。とにかくあしたきたら、あったけえめしを炊いてやんなよ」
「わかってるよ」
「いまから起きて炊けよ」
「そんなことをしたら冷《ひ》やめしになっちまうよ」
「冷やめしになってもいいから、あったけえめしを食わしてやれ」
「なんだかいうことがめちゃくちゃだよ」
「いま、なん時だい?」
「まだ三時半だよ」
「三時半? それでこんなに暗《くれ》えのか? きのうは、いまごろ夜があけたのになあ」
「じょうだんいっちゃあいけないよ」
「どうもきょうは、時計の針のまわりがおそいようだぜ。おめえ起きてって、針をぐるぐるまわしてみろ」
「そんなことをしたっておんなじだよ……そんなことよりも、おまえさん、どこかへつれて見物にいくだろうがね、いちばん先にお寺まいりにおいでよ……あの子のおっかさんが、さぞよろこぶだろうからねえ」
「いやなことをいいなさんなよ。相手は死んだ者だ。いやにやきもちをやきなさんな」
「いいえ、なにもやきもちでいうんじゃあないよ。あの子がりっぱになったのを、草葉のかげでさぞよろこぶだろうとおもってさ」
「うん、そういわれてみりゃあそうだなあ。それじゃあ、寺めえりから浅草へまわるか」
「ああ、浅草がいいね」
「浅草をひとまわりしたらなあ、上野へいこう。公園へいって、ブランコに乗って、動物園をみたら、そうだ、品川の山崎さんの家へつれていきてえな。あすこのおばあさんが子煩悩《こぼんのう》だから、お宅で祝いものをもらった子がこんなになったといったら、おばあさん、入れ歯をはきだしてよろこぶぜ。ついでだから、川崎の大師さまへつれてってやりてえな。厄除《やくよ》けになるというからよ。それから横浜へいって、江の島へつれていって、鎌倉もみせて……そうだ、鎌倉の海をじっくりみせてやりてえなあ。男というものは、なんでもときどき、大きなところをみせなきゃあいけねえというから……ここまでくりゃあ、ちょい足をのばして静岡へいって、久能山《くのうざん》から吐月峰《とげつほう》、浅間さまへおまいりをして、豊川さまへもいかなくっちゃあ……名古屋へいって、金のしゃちほこをみせたらよろこぶだろうな。ことのついでに、関西線で伊勢の山田へいって、大神宮さまへおまいりをさせて、伊賀の上野へでて、荒木又右衛門の仇討ちの跡をみせて、近江八景を見物して、それから京都見物をして、大和《やまと》めぐりをして、大阪へでて紀州の和歌の浦をみて、高野山へ参詣して、四国へ渡って、讃岐《さぬき》の金比羅《こんぴら》さまから九州へでて……」
「ちょいと、ちょいと、おまえさん、なにをいってるんだよ。どこをつれて歩かせるつもりなんだよ」
「もう、ほうぼうつれて歩くんだ」
「いつ?」
「あした」
「あした一日でそんなに歩けるもんかね」
「むりかなあ?」
「あたりまえじゃあないか」
「そうかなあ? ……どうも口がすっぱくなっちまった。どうもなんだか眠《ねむ》られねえなあ……なあ、おみつ」
「すこしは寝なさいよ」
「まだ夜があけねえのか?」
「まだあけるもんかね」
「どうしたんだろうなあ? おてんとうさまが寝坊してるのかな?」
「そんなばかなことをいってないで、おやすみよ」
「きのうは、たしかいまごろ夜があけたじゃあねえか」
「またそんなことをいって……おまえさん、まだ四時半だよ。うすっ暗いよ」
「四時半? ありがてえ!! もうじき夜があけらあ」
「ちょいとおまえさん、こんなに早く起きてどうするのさ? 電車もなにも通ってやしないよ。あの子だってこられやしないやね」
「なあに、野郎、帰りてえ一心で歩いてだってくらあ……そろそろめしを炊きはじめねえ。おれは表を掃除するから……」
「まだ暗いんだよ……それじゃあ、わたしが起きるから、おまえさんは、もうすこしおやすみなさいよ」
「そんなことをいったって、眠れねえのを寝ろというのはむりじゃあねえか……おい、ほうきをだせ。おれが表を掃除するから……」
「まあ、おまえさんが掃除を? めずらしいことがあるもんだ。ふだん横のものを縦にもしないのに……」
「ひさしぶりで野郎が帰ってくるんだ。きれいにしといてやりてえとおもうからよ。早くほうきをだせ」
「はい」
「よしよし、おれが表を掃除するから、おめえは、家んなかを掃除して、めしを炊きつけろ!!」
「まるで気ちがいだね、この人は……」
長屋にも早起きの人がおりますから、これをみておどろきました。
「芳ちゃん、みてごらんよ、ふだん無精《ぶしよう》な熊さんが、めずらしく表をはいてるぜ」
「あれあれっ、ふしぎなことがあればあるもんだ。地震でもなきゃあいいが……ああ、そうか、金坊が藪入りで帰ってくるんだ。こないだそんなことをいってたから……」
「ああそうか……あんならんぼう者でも子どもはかわいいんだなあ……熊さん、お早う」
「ああ、お早う」
「お天気でよかったねえ」
「お天気だって大きなお世話だ」
「そりゃあそうだけれども……きょうは、金坊の宿《やど》さがりかい?」
「ええ」
「そりゃあおめでとう。金ちゃん、大きくなったでしょうな?」
「ええ、ちいさくなりゃあなくなっちまいますからね」
「そりゃあまありくつだ……きたら、あそびによこしてくださいよ」
「ええ、当人がなんといいますか、いくといったらやりましょうよ」
「ちょいとおまえさん、いいかげんにおしなさいよ。せっかくあそびによこせといってくださるのに、そんなあいさつがありますかね……芳さん、すみませんね……まるで気ちがいだね、ご近所のかたが笑ってるじゃあないか」
「笑ったってかまうもんか。近所のやつらめ、いやに世辞をいやあがって、おもしろくもねえ……おい、そんなことよりも、金坊のやつ、いやにおせえじゃあねえか。なにしてやがるんだろうな? ……うん、そうか、あすこの番頭が意地のわるそうな目つきをしてたから、あいつがでかけようってえ矢さきに、あれをやれ、これをやれと、よけいな用をいいつけてるんだ。それにちげえねえ……ちくしょうめ、どうするかみやあがれ、もう三十分待ってこなかったら、飛んでって、番頭の野郎、はりたおしてやるから……」
「いいかげんにおしよ……なんといったってはじめての宿さがりだろう? 古い人たちから順にだしてしまって、そのあとで、お店の掃除でもして、おしまいにでてくるんだよ」
「そんなひでえはなしがあるもんか。はじめての宿さがりじゃあねえか。掃除なんぞ主人がすりゃあいいんだ」
「そんなことを怒ってたってしょうがないよ」
「へえ、お早うございます」
「はい、どなた? ……ちょいとおまえさん、みておくれよ。だれかきたから……わたしは、いま、ごはんがふいてきて手がはなせないからさ」
「ああ、いまみるよ……はい、だれだい?」
「こんちは……ごぶさたをいたしました。めっきり寒くなりましたが、おとうさんもおかあさんもお変りもなく、なによりでございます。このあいだ、おとうさんがご病気だということを、大家さんにうかがいまして、ぜひきたかったのですけれども、わけをはなせば、ああいういいご主人さまですから、いってこいとそういってくださるのですけれども……ほかの人の手前もありますものですから、とうとうがまんしてきませんでした。けれども心配でたまらなかったものですから、あの手紙をだしたわけなんですけれど、あの手紙、みてくださいましたか? ねえ、おとうさん、あの手紙読んでくれました? ねえ、おとうさん、おとうさん」
「ちょいとおまえさん、金坊があんなにいってるじゃあないか。なんとかいっておやりよ。ねえ、どうしたのさ? ねえ、おまえさん……」
「ま、ま、待ってくれよ。口がきけねえんだ……へえ……へえ……ど、ど、どうも……ご親切さまにありがとうございます……本日は、また……ご遠方のところを、わざわざおいでいただきまして……どうもごくろうさまでございます……さて、はや……」
「おとうさん、なにをいってるんですよ……そんなに固くならないで、いつもの調子でしゃべってくださいよ」
「ああ、そうか。いつもの調子でな……うん、病気てえのはなあ、おらあ、かぜをひいたんだ。いつでもかぜをひいたときにゃあ、熱い酒《やつ》をひっかけて、熱い湯へとびこんで、ふとんをかぶって汗をだしゃあなおっちまったんだが……もう年齢《とし》なんだな。こんどもそれをやると、四十度からの熱になってよ、苦しくってたまらねえんだ。二日も三日も熱がさがらねえもんだから、おっかあが心配してよ、医者を呼んでくれたところが、急性肺炎だっていうんだ。あとで聞いたんだが、一時《いちじ》はずいぶん先生も心配したんだそうだ。胸と背なかへからしを紙へ塗ってはりつけてな……苦しくって、苦しくって、まるで犬が駈《か》けだしたときのように、はあはあ、はあはあ、息ばっかりきれるんだ。それだもんだから、おっかあもびっくりして、もしものことがあっちゃあってんで、たったひとりの子どもだから、どうにかして会わせてえと、大家さんにたのんだんだそうだ。そしたら、おめえから手紙がきて、お店のご用がいそがしいし、ご主人やほかの人たちの手前うかがえませんが、よほどのことがあったら電報をくださいと書いてあった。それをおっかあが持ってきてみせてくれた。あんまり字がうまくなったんで、おめえが書いたんじゃあねえというと、おっかあは、たしかにあの子だといいやがってな……あらためてみなおすと、たしかにおめえの字だ。おらあうれしくなって、その手紙を持って飛び起きちまった。すると、とたんに肺炎がなおってしまった。あれからっていうもの、かぜをひくと、おめえの手紙をみてなおしてるんだ。ふふふふ、おれには、かぜぐすりなんかよりも、おめえの手紙のほうがよっぽどきくんだ……おい、おっかあ、おいおい、どこへいっちまうんだ? そばにいてくれよ。心ぼそいじゃあねえか。野郎、大きくなったろうな? え? 金坊は大きく……」
「なにいってるのさ。おまえさんの前にいるじゃあないか。よくみてごらんよ」
「ああ、みてえんだけれど、目があかねえんだ。目をあけると、涙がぽろぽろでてきていけねえ。おめえ、かわりにみてくんねえな」
「まあ、なにいってるんだろうねえ。しっかりおしよ。男のくせにだらしがない……」
「うん、そりゃあな、いずれはみなけりゃあならねえもんだから、みるにゃあみるが……お、おう、金坊のやつ、うごいてらあ」
「あたりまえじゃあないか。生きてるんだもの……」
「やい、金坊、立ってみろ、立ってみろ……うん、ずいぶん大きくなりゃあがったな。おい、おみつ、みろよ、おれより丈《せい》が高《たけ》えぜ」
「おまえさん、坐ってるんじゃあないか」
「ああそうだった……おい、よくきたな。おめえがくるってんで、おっかさんは、ゆうべ夜っぴて寝ねえんだ」
「なんだねえ、おまえさんが寝ないんじゃあないか……さあさあ、早くこっちへおあがりよ」
「へえ、おっかさん、まことにごぶさたをいたしました。いつもおかわりがございませんでおめでとう存じます。さて、わたしがちいさいときには、まことに不孝をいたして相すみません。どうかごかんべんをねがいます。先日、ご主人さまと大家さんからいろいろうかがいましておそれいりました。これからは、ご恩がえしに孝行をいたします。ご主人さまが、『うちへいったら、おとっつぁんにあいさつをしないうちに、おっかさんにおわびをしろ』とおっしゃいました」
「なんだねえ、いまさらそんなことを……まあ、そんなことよりも、おまえ、ほんとうにりっぱになったねえ……お、お、おっかさんは……こ、こんなにうれしいことはないよ」
「ばかっ……なにを泣くんでえ、こんなにりっぱになってきたのに、泣くやつがあるもんか」
「なんだい、おまえさんだって泣いてるじゃあないか」
「な、泣いてなんかいるもんか。汗がでるんでえ」
「目から汗がでますかねえ」
「なんでもいいじゃあねえか」
「あのう、これは、ご主人さまから、『つまらないものだが、家へ持っていけ』と、いただいてまいりました」
「へーえ、そうかい。ありがてえなあ、子どもを、これだけに大きくしてくださるだけでも、なみたいていじゃあねえ。その上に、これだけのものを持たしてよこしてくださったんだ。おい、おみつ、おめえ、お礼に寄らなきゃあわるいぜ。わざわざたずねていかなくったって、あっちのほうへいったついでに、勝手口からでもちょっと顔をだしておきなよ。『いつも子どもがお世話になります』って……」
「それから、これはつまらないものですけれど、わたしがお小づかいをためておいて買ってまいりました。お口にはあわないでしょうが、おとうさんとおかあさんでおあがんなすってくださいまし」
「そうかい、すまねえなあ。おい、おみつ、みろよ、うちにいたときにゃあ、おれのつらさえみりゃあ、『銭をくれ、銭をくれ』と、せがんでいたのが、三年経つか経たねえうちに、これだけのものでも自分の小づけえで、『おとうさんとおかあさんで食べてください』とさ、ああ、ありがてえ、ありがてえ。むやみに食っちゃあもったいねえから、神棚へあげておきなよ。あとで長屋へすこしずつくばってやんな。家の子どものお供物《くもつ》ですって……」
「なにいってるのさ。子どものお供物なんてあるもんかね」
「あははは……いいか、金坊、おめえ、ご主人さまのご恩をわすれちゃならねえぞ」
「そうだよ、かならずご主人さまへ忠義をつくさなければならないよ」
「はい、お店におりましても、いつも、番頭さんが、『ご主人へ忠義をわすれるな』とおっしゃいます」
「うん、じつにありがてえなあ。これというのも大家さんのおかげだ。もう大家さんも起きたろう。ご恩をわすれちゃあいけねえ。すぐ礼にいってきねえ」
「そうだよ。早いほうがいいよ、おみやげはね……わたしたちは、その気持ちだけでたくさんだから、これを大家さんへ持っておいでな」
「いいえ、それはどうぞご心配なく……大家さんの分も持ってまいりました……では、ちょっといってまいります」
「ああ、いっておいで……」
「おう、早くいってきなよ……おいおい、その犬にかまっちゃあいけねえよ。このごろ、むやみに食いつくんだから……子どもを生んでから気が強くなったんだ。おめえが家にいた時分にゃあ小犬だったがな……みろよ、犬もかわいいなあ、あいつが、いつもいものしっぽやなんかやってたもんだからおぼえてるんだ。尾っぽをふってついていくじゃあねえか……おい、納豆屋さん、路地をはいるのをちょっと待ってくれ。うちの子がでていくんだから……なんだと? 路地がせめえからいうんじゃあねえか。こんちくしょうめ、ぐずぐずぬかすと、はりたおすぞ……ああ、金坊のやつ、いっちまった……なあ、もう帰ってきそうなもんだな」
「なにいってるんだよ。いまいったばかりじゃあないか」
「だけれどもよ、うしろ姿は、死んだおやじにそっくりだな」
「おまえさんにもよく似てるよ」
「あたりめえよ。おれの子じゃあねえか……しかしまあおどろいたなあ。むかしみてえに、『おとっつぁん、ただいま』ってとびこんでくるかとおもったら、『お早うございます。ごぶさたをいたしました。めっきりお寒くなりましたが……』ときたじゃあねえか。おらあ、胸がつまって、なんともいえやあしねえ。どうなることかとおもったぜ。ありがてえ、ありがてえ。あれだけの行儀《ぎようぎ》をおぼえたんだな。てえしたもんだ……おい、なにしてるんだ? よせよせ、子どもの紙入れなんぞあけてみるなよ」
「だって、おみやげ買っちまって、小づかいがのこってるのかしら? ……あらっ、ちょいとおまえさん、たいへんだよ」
「なにが?」
「五円|紙幣《さつ》が三枚もはいってるよ」
「だから、なんだってんだ? 小づけえにもらったんだろう」
「だってさ、はじめての宿さがりだよ。あれだけおみやげなんぞ買って、まだ十五円もあるのは多すぎないかい?」
「つまらねえ心配するない。多けりゃあどうしたってんだ?」
「だってさ、当人はそんなわるい了見《りようけん》はなくっても、もしも、ほかの小僧さんにわるい人がいて……」
「ばかなことをいうねえ。おれの子だ」
「いくらおまえさんが正直だって……」
「うーん……野郎、むかしのくせがまだやまねえのかな?」
「そんなことはないだろうけど、いま帰ってきたら、よく聞いてごらんな」
「ちくしょうめ、親の気も知らねえで……野郎、どうするかみやあがれ」
「おまえさん、早まっちゃあいけないよ。帰ってきたら、たしかにそうなのか、よくたしかめてからにおしよ」
「ああ、帰ってきやがった。こっちへあがれ」
「へえ、ただいま、大家さんがよろしくいってました」
「この野郎、前へ坐れ。しらばっくれるんじゃあねえ」
「え?」
「やい、ちゃんとネタはあがってるんだ。てめえの紙入れにへえっているありゃあなんだ? 五円|紙幣《さつ》三枚、ありゃあどうしたんだ?」
「ああ、あれですか……あははは」
「あれっ、この野郎!!」
「あっいたい、いたい、おとっつぁん、なにをなさるんです? あっいたい」
「おまえさん、まあまあお待ちなさいよ。わけを聞かないでらんぼうなことをしちゃあいけないよ」
「うっちゃっとけ。おれの子だ。おれがぶち殺したってかまわねえんだ」
「まあまあ、お待ちなさいよ。金坊や、さぞびっくりしたろうねえ。おとっつぁんは、気がみじかいから、口より手がさきなんだから……」
「やい、おれはな、貧乏していてもな、人さまのものは、ちりっ葉一本|盗《と》ったこたあねえんだ」
「へえ? ……なにかお気にさわりましたか?」
「この野郎、まだしらじらしいことをぬかしゃあがって……」
「ちょいとお待ちなさいよ、おまえさん……ねえ、金坊、あまりお金が多いから、おとっつぁんも心配してるんだよ。盗んだんでなけりゃあいいけれども、どうしたのか、おっかさんにわけをはなしてごらん」
「盗んだりするもんですか。あすこの家へ奉公にいってまもなく、ペストがはやるから、ねずみをとれってお布令《ふれ》がでましたので、ねずみをとっちゃあ交番へ持ってったんです。そのうち、一匹十五円という懸賞にあたったので、ご主人さまへさしだしますと、『子どもが、こんな大金を持ってるのはよくないから、わしがあずかっておいてやる』といって、ご主人さまがあずかってくだすって、きょうでかけるときに、『おまえの家も貧乏してるだろうから、このお金を持っていって親たちをよろこばせてやれ』といって、ご主人さまがわたしてくだすったんです。決して不正なお金ではございませんから、どうぞご安心なすってください」
「それごらんな。わけも聞かないでぶったりして……ねずみの懸賞でとったんだってえじゃあないか」
「なにいってやんでえ。てめえが変なことをいいだしたからいけねえんじゃあねえか……へーえ、ねずみの懸賞の金か。うまくやりゃあがったな」
「ねえ、金坊、こののちともにご主人をたいせつにするんだよ」
「うん、そうだ。それも、これもチュウのおかげだ」
雛鍔《ひなつば》
「小児《しように》は白き糸のごとし」とか申しまして、まことに染まりやすいものでございます。
その証拠には、劇場の近くに住む子ども衆は、芝居のまねをしてあそびます。また、国技館近くでは、角力《すもう》ごっこをいたします。刑務所のそばへまいりますと、懲役《ちようえき》ごっこなんてえことをしておりますが、これはあまりいいあそびではございません。
ちいさい子が、もっこをこしらえて、そのなかへ泥をいれてかついであるきますと、そのあとから、棒を持ってあるく子がおります。
それをおっかさんがみまして、
「ちょいと、金坊や」
「なんだい? おっかさん……」
「なにをしてるんだい?」
「あそんでるんだい」
「そりゃあわかってるさ。で、なにをしてあそんでるんだい?」
「えへへ、懲役ごっこ」
「えっ、懲役ごっこ? まあ、なんというあそびをするのさ。いやだねえまあ、ほんとうにあきれるよ。もっとほかのあそびをしたらいいじゃあないか……まあ、それもいいけども、おまえは泥ばっかりかついでいるから、着物が泥だらけじゃあないか。おとなりの寅《とら》ちゃんをごらん、おまえみたいに泥なんかかつぎゃあしないじゃないか。棒を持ってぶらぶらしてるよ」
「うん、そりゃあしかたがないさ。寅ちゃんは、終身懲役《しゆうしんちようえき》だからね、だから、ぶらぶらと楽《らく》してるのさ。おいらなんかね、刑がみじかいから、だから泥をかつぐんだよ」
「へーえ、終身になると楽ができるのかい? そんなら、おまえもたのんで終身にしておもらいな」
つまらないことをいう親があるもんでございます。ですから、子どもの育てかたというものは、まことにむずかしいもので……
「おっかあ、いま帰ったよ」
「おや、きょうは、たいそう早かったね」
「ああ、仕事が早くすんだから帰ってきた」
「そうかい。さぞおつかれだったろう」
「いや、きょうは、おらあ感心したことがあるんだ」
「なにをそんなに感心したんだい?」
「ほかじゃあねえがな、てめえも知っての通り、いま、お屋敷の仕事をやってるんだ。たばこやすみをしていると、そこへでてきたのが若さまだ。お供《とも》が三、四人ついているんだが、どうもてえそうなもんだぜ」
「そうかねえ」
「まあ、植木屋稼業をしていればこそ、ああいうりっぱなところもみられるんだ」
「で、その若さまが、なんでお庭へでてきたんだい?」
「べつになんでもねえんだけれども、ただ、あそびにでてきたんだな。すると、そこに銭《ぜに》がおちていたんだ。その若さまが、その銭をひろった。おらあ、それをみていて、こういうところの若さまでも、銭がおちてるとひろうというなあ妙なもんだなあ、おれたちのがきが、『ちゃん、銭をくれ』というなあ無理はねえ。大名の子が、いきなり銭をひろうのは妙だとみていると、若さまが手にとって、しきりにかんがえていたが、『こんなものをひろったが、なんであろうな?』といって、銭を知らねえんだぜ」
「そうかねえ。さすがお大名の若さまだね」
「そうするとな、若さまのいうことがおもしれえや。『まるいもので、四角の穴があいている。表に字が書いてあって、裏に波形がある。なんであろう? これは、お雛《ひな》さまの刀の鍔《つば》か?』とおっしゃった。そばにいたお供が、『それはきたないものでございますから、おすてなさいませ』というと、『さようか。きたないものか』といって、すてて、むこうへいらしったが、銭を知らねえなんざあ豪儀《ごうぎ》なもんじゃあねえか。それにひきかえて、おれんとこのがきなんざあ、顔さえみりゃあ、『銭をくれ、銭をくれ』とせびりゃあがるが、人は氏《うじ》より育ちということを、横丁の隠居がそういったが、てめえの育てかたがわりいから、がきがだんだんわるくなっちまうんだ。
どうでえ、おそろしいもんじゃあねえか。『お年齢《とし》は、おいくつになりますか?』と、おそばのかたに聞いたら、お八歳になるといった。お八歳だぞ。てめえ、そんなことを知るめえ。八つになると、お八歳なんだ」
「いやだよ、この人は、なにをいうんだねえ。そんなことはだれだって知ってるじゃあないか」
「なにをいやあがるんだ。てめえが、おれをばかにしやあがるから、だから、がきがだんだんわるくなるんだ。あの野郎、どこへいった?」
「どこへもいきゃあしないよ。おまえさんが帰ってくると、うしろのほうで、だまってはなしを聞いてるじゃあないか」
「なに、うしろにいる? ……なるほど……こんちくしょうめ、ちっとも知らなかった。こらっ、いまのおとっつぁんのはなしを、てめえ聞いたか? お屋敷の若さまがな、銭をみて、お雛さまの刀の鍔だとおっしゃったんだ。てめえには、そんなことはいえめえ……おい、おっかあ、こいつは、ことし、いくつになったんだ?」
「いやだよ、ちょいと、自分の子どもの年齢《とし》をわすれたのかい? ちょうど八つになったんじゃあないか」
「なに、それじゃあ、若さまとおんなじお八歳か。こりゃあ、きたねえお八歳だなあ」
「ふふん、なにいってやんでえ」
「なにを?」
「なにいってやんでえ。よそへいっていばれねえもんだから、子どもつかまえちゃあいばってらあ。そのくせ大家さんがくるとふるえてるんだからいやんなっちまう。やーい、ひょっとこ」
「こいつ、親にむかってひょっとことはなんだっ!! だんだんわるくなりゃあがる。家にいねえであそびにいけ」
「あそびにいくから銭をくんなよ」
「なにかっていうと銭をくれっていやあがる。野郎、銭を持たせるとためにならねえから、銭はやらねえ」
「銭をくれなけりゃあ、かんげえがあるぞ」
「かんげえがあるなら、なんでもしてみろ。親にむかって、なんてえことをいうんだ。なんでもしてみろ」
「銭をくれねえと、ぬかみそのなかへ小便するぞ」
「こんちくしょうめ。ぶんなぐるぞ」
「ぶちゃあ逃げらあ」
「なんだねえ、おまえさん、およしなさいよ。こんな子どもをつかまえて、大きな声をだしたりして、みっともないじゃあないか。おまえもそうだよ。おとっつぁんをからかわないで、早く表へおいで。さあ、お銭《あし》をあげるから……」
「銭を持たしちゃあいけねえんだよ。ためにならねえってえのに……」
「いまさらそんなことをいってもしかたがないよ。貧乏人の子どもは、お銭《あし》を持たなければあそびにいかないやね。まあまあ、仕事から帰ってきたんだから、きげんをなおして、お酒でもおあがりな」
「酒なんぞ飲みたくねえ。ああ、いやだ、いやだ。人間をやめたくなっちまった。がきがわるくっちゃあ、さきのたのしみがねえや。あんまりてめえが甘《あめ》えから、あんなになっちまうんだ。なさけねえなあ」
「はい、ごめんよ」
「だれだい? きまってるなあ、いま時分きやあがって、くず屋じゃあねえか? ……くず屋さんかい?」
「いえ、わたしだよ」
「いやっ、こりゃあ、お店《たな》の番頭さんですかい。とんでもねえ、くず屋とまちがえちまって……さあ、どうぞこっちへお通んなすって……」
「なんだい? たいそう大きな声をして……」
「いえ、なあにね、いま、すこしばかりちょっとなんしたもんで……とんだことを申しました」
「さあ、番頭さん、こっちへおあがりくださいまし。毎度|亭主《やど》がでまして、いろいろごひいきをいただいてありがとう存じます。ただいまは、とんだ失礼を申しました」
「いや、もう、なにもかまっちゃこまる。すこし親方にはなしがあってきたんだ。ほかのことじゃあないが、庭の植木の手いれだが、おまえが、くるかくるかとおもって、ご隠居さまが待っていらっしゃるんだが、いまだにきてくれないが、いったいどうしたんだか、ちょうどこのへんまできたんで、ちょっと寄ってみたんだが、どうだい、さっそくきてくれまいか?」
「まことにあいすみません。天気ぐあいがわるかったもんですから、だんだんお屋敷の仕事が長くなりまして、ついついごぶさたになりました。ちょっとお宅までうかがおうとおもっておりましたが、ちょうど今月でお屋敷の仕事がすみますから、来月からお店《たな》のほうへでようと存じておりました。どうかあなたから、ご隠居さまへよろしくおっしゃってくださいまし」
「じゃあ、まちがいなく来月からきておくれよ。そこで、庭の松だが、あれが枯れるとこまるが、枯れる心配がなければ、泉水のわきへひいてもらいたいとおっしゃるが、どうだい?」
「へえ、それは大丈夫でございます。あの松は、根を深くまわして、油っかすの五升もおごりまして、小太《こぶと》いところへするめをまきつけてひけば、枯れる気づかいはございません」
「それじゃあ、そうしてもらいたいな。どうかたのみますよ」
「まあ番頭さん、いまお茶がはいります。敵《かたき》の家へきても口をぬらさずに帰るもんじゃあございません。まあおひとつ……おい、そんなんでねえいい茶があるだろうじゃあねえか。それ、こないだ法事でもらった、あの茶をだしねえ。菓子があるだろう? きのうもらったようかんがある。あれを持ってきねえ。折りごとかつぎだしてはしょうがねえや。切らなくっちゃあいけねえ……おいおい、なにもまないたをださなくってもいいじゃあねえか。手数《てすう》がかかるなあ。ようかんの折りのふたをひっくりけえして切ったらいいじゃあねえか。よしよし、ちょっと楊子《くろもじ》をさして……番頭さん、いま、お茶がはいりますから、ちょっとお待ちなすって……ほら、また、あの野郎が帰ってきた。しょうがねえなあ。お客があると、じきに帰ってきやあがる。ようかんをそっちへかくしておきねえ。いま帰ってきちゃあいけねえよ。お客さまがあるんだから、もっとあそんできねえ」
「こーんなものをひろった。こーんなものをひろった」
「なにをひろってきたんだ? くだらねえものをひろっちゃあいけねえぞ。なんだ?」
「こんなものだ。なんだろうな、おとっつぁん、なんだかあたいにゃあわからない。ごらん、これ、まるいもので、四角の穴があいてて、表に字があって、裏に波がついてる。あたいのかんがえじゃあ、お雛さまの刀の鍔だろうとおもうんだが……」
「おい、親方、おまえのことをおとっつぁんというからには、あれは、おまえさんのせがれさんだろうね?」
「へえ、さようでございます」
「いま聞いていると、お銭を知らないようだね?」
「へえ、さようで……」
「おどろいたねえ。どうも感心だねえ」
「へえ、うちのかかあが、もとお屋敷に奉公しておりましたので、銭を持たしてはためにならないといって、持たしたことがねえもんですから……」
「そうかい。そりゃあ感心だね。わたしのとこの坊っちゃんなぞでも、お銭をつかうことはよくご存知だが、失礼ながら、植木屋さんのせがれさんがお銭を知らないとは、まあじつに感心した。氏より育ちとはこのことだね……まるいうちに四角の穴があいて、表に字が書いてあって、裏に波がある。お雛さまの刀の鍔だろうというのはおもしろいねえ」
「えへへへへ……」
「うん、こりゃあうまいかんがえだ。栴檀《せんだん》は双葉よりかんばし、実の成る木は花より知れるというが、末たのもしい子だね。いい子を持って、おまえはしあわせだ」
「へえ、ありがとう存じます。ちくしょうめ、うまくやりゃあがった。番頭さんがほめてくだすったぜ。どうもそのかわりに、いたずらでしようがございません」
「いや、男の子は、いたずらをしないようではいけないよ。かわいい子だな。いくつになんなさる?」
「へえ、年齢《とし》でございますか? 年は、とってお八歳に相成るんでございます」
「まあ、いやだよ、この人は、まじめになって……」
「あははは、お八歳に相成りますはよかったね。うん、八つかい?」
「へえ」
「うん、かわいい子だ。坊や、おじさんがお小づかいをあげよう……といったところで……お銭を知らない子に小づかいをやるとためにならないな。よし、なにか好きなものを買ってあげよう。なにがいい? おまえが好きなものをいいなさい。こんどくるときに買ってきてあげるから……」
「どうもありがとう存じます。こんちくしょう、よろこべ、番頭さんが、てめえになにか買ってくださるとおっしゃる……あれっ、ひろった銭をまだ持ってやがるな……こら、そんなきたねえものを持ってるんじゃあねえ。早くすてちまえ」
「すてるもんか。これを持ってって、焼きいもを買ってくらあ」
お神酒《みき》徳利《どつくり》
「こんちはあ、八百屋でござい。なにかいかがさまで?」
「いらないよ」
「そんなことをおっしゃらないで、ねえ……前の女中さんのときには、よく買っていただいたんですがね」
「前の女中は前の女中、わたしはわたしだよ。いらないったらいらないよ……いま、手がふさがってるよ」
「ちえっ、乞食じゃあありませんよ」
「まごまごしてると水をぶっかけるから……」
「ひとを犬とまちげえてやがら……」
「はーい、それごらん、旦那がお呼びじゃあないか。おまえなんぞにかまっちゃあいられないよ。あとをちゃんとしめて早くお帰り」
邪慳《じやけん》なことをいいながら、女中は奥へはいってしまいましたが、癪《しやく》にさわったのは八百屋で、
「なんだ、いまいましいやつだな。ここの家の旦那か、おかみさんの身内《みうち》かなにか知らねえが、ひとをばかにしゃあがって、いめえましいやつだ」
なにか仕返しをしてやろうと、そっと台所をのぞいてみますと、神棚へそなえる錫《すず》のお神酒徳利が、一対《いつつい》洗って、小桶のなかへさかさにして水を切ってあります。
「うん、こりゃあいいものがあるぞ。ここのうちの旦那はかつぎやで評判だ。なにしろものを気にする性質《たち》だから、あれをかくして、女中をしくじらしてやろう」
むかしの町家《ちようか》のことで、大きな水瓶《みずがめ》があります。そのふたをすこしずらして、お神酒徳利の片っぽうをとると、ゴボゴボゴボと沈《しず》めてしまいました。さて、どんなことになるだろうと、八百屋は耳をすまして聞いております。
女中が奥からもどってみると、さっきまであったお神酒徳利の片方がありませんから、おどろいて顔色を変え、そここことさがしてみましたが、どうしてもみあたりません。
「はいはい、ただいま持ってまいります……それにしてもふしぎだよ。ここへ水を切っておいたのが、片っぽうだけなくなっちまったんだから……」
「おいおい、なにをいってるんだ。お神酒徳利が片っぽうなくなったなんて、縁起でもないじゃあないか。よくさがしてみろ」
「でもたしかにここへおいたのがないんです。ねずみでもひいたんでしょうか?」
「ばかっ、お神酒徳利をねずみがひくかっ」
「ねずみがひくかったって、ないものはございません。なにもわたしが食べてしまったわけじゃないんですから……」
「だれがおまえが食ったといった? ええ、へらず口をきくなっ」
かげで聞いていた八百屋は手を打って、
「ほーらなぐられやがった。おもしろい、おもしろい。旦那がまっ赤になって怒ってらあ。こりゃあ怒るよ。かつぎやの家で、神さまのものがなくなったんだから……おや、またなぐられた。とうとう泣きだしやがったな。こりゃあすこしくすりが強すぎたかな? もうこのくらいでいいだろう」
がらりと障子をあけてそこへとびこみ、
「まあまあ旦那さま、ちょっとお待ちください。ちょっと……」
と、旦那をなだめて、知らない顔で、
「旦那さま、これはまあ、いったいどうしたというわけなんでございます?」
「おや八百屋さんか。いや、とんだはしたないところをおみせしてきまりがわるいが……まあ聞いておくれよ、こうなんだよ。きょうは、おついたちだからお神酒をあげようとおもっていると、これが、お神酒徳利の片っぽうをどこかへなくしたというじゃあないか。縁起でもないから叱言《こごと》をいえば、ああでもない、こうでもないと一々|口返答《くちへんとう》をするので、わたしもおもわず手荒なまねをしてしまったというわけなんだ」
「なるほど、それは旦那さまがお気におかけになるのもごもっともでございます。しかし、わたしのかんがえますには、これは泥棒にとられたんじゃあありませんな。だってそうでございましょう、もしも泥棒ならば、片っぽうでなくて、一対持っていくはずじゃあございませんか」
「そういえばそうだな」
「ねえ、旦那、ちょっと、そろばんを貸してくださいませんか? わたしが、ひとつその徳利の在《あ》り所《か》をうらなってさしあげますから……」
「ほう、そろばんうらないというやつだな……しかし、おまえさん、八百屋のほかにそんな芸があるのかい?」
「へえ、わたしの履歴《りれき》というのもおかしなものでございますが、いまはこうやって八百屋をしておりますが、もとは易者《えきしや》なんで……」
「ほう、もとは易者かい。失礼ながらなぜそれをおやめなすったね?」
「どうもあれはいやな商売でございまして……ちょっと紛失物《ふんじつもの》をみてくれろといってくる。すると、それがすっかりあたるんでございます」
「それで?」
「ええ、ぬすんだものなら、だれがぬすんだ。ただなくなったものなら、どういうところにあるということでもあたりますし、どこから泥棒がはいったということまでもあたりますが、そうすると、そこへ罪人《つみびと》をださなけりゃあならないというのが、まことにどうも罪な商売でいやでございますから、いっそ気楽な商売がいいとおもって、ただいまでは八百屋をしております。しかし、いまでも、そろばん一挺《いつちよう》あればなんでもわかりますんで……」
「へーえ、わからないもんだねえ。おまえさんがそういうことができるとは、失礼ながらおもってもみなかった。どうもおそれいったもんだ。どうだろう? そのお神酒徳利の在《あ》り所《か》さえわかれば、家から咎人《とがにん》はだしたくない。ただその品さえでてくればいいんだが、さあさあ、そろばんを持ってきたから、さっそくやってみておくれ」
「よろしゅうございます……ええ、きょうは、おついたちでございますから、ここに一をおきます。それで、女中さんの年齢《とし》は? へえへえ二十歳《はたち》ですか。それでは、二十をこうおいて、二一天作《にいちてんさく》の五《ご》となりますな」
「ふーん、そろばんうらないというものは、逆に減《へ》らすのかね?」
「さようで……なにしろ紛失物でございますから、すなわち、これを減らしますので……ははあ、これはなんですな、土に縁があって、水に縁があって、木に縁がありますな……たしかに人手にはわたっておりません」
「そうですか。土と水と木に縁があるといえば、こりゃあどぶかなんぞでしょうか?」
「どぶ? うん、どぶねえ……そうそう、どぶかも知れません」
「それじゃあ、おい、おたけや、早くどぶのなかをさがしてみなさい。これこれ、火箸《ひばし》なんぞでさがしていたんじゃあわかりっこない。手をつっこんでかきまわしなさい……どうしたい? え? なに? みつからない? ……八百屋さん、ないそうだよ」
「これは、なくした当人のおこないがわるいと、なかなかでてこないものですから、水でも浴びて身を清めなくてはなりますまい」
「いや、大きにそうでしょう。おい、おたけ、おまえ、水を浴びろ、水を浴びろ。はだかになって、ざあざあ浴びろ」
女中は、どぶをかきまわしたり、水を浴びたり、もうさんざんでございます。
八百屋も、もうこのへんでよかろうとおもいましたから、
「おお、わかりました、わかりました。旦那さま、これは、水瓶に相違ありません。土でつくって水をいれ、木でふたがしてございますから……」
「なるほど、水瓶か……よしよし、わたしがみよう……おお、あった、あった。うーん、こりゃあおそれいった」
「へえ、たしかにそろばんの表《おもて》にでた通りでございます。いかがです、旦那?」
「いや、じつにおどろいたものだ。まあ、こっちへおあがり。おい、おまえ、八百屋さんにお茶をいれて持っておいで……さあ、八百屋さん、わらじをぬいでおあがりよ」
「へえ、ありがとうございますが、まだ商売をひかえておりますから……」
「そんなことをいわずにおあがりよ。じつは、おまえさんに、もうすこし大きいことでたのみたいことがあるんだから……」
「しかし、まだ商売にでたばかりでございまして、品物がたくさんのこっておりますんで……」
「そのほうは心配しなさんな。おまえの品物ぐらいのこらず買ってあげてもいいんだから、わたしのいうことを聞いておくれ」
「へえ、どんなことで?」
「うん、ほかでもないが、東海道の三島にいるわたしの弟が、こんど田地田畑を売り払って江戸へでてきて、なにか適当な商売をやりたいというので相談を持ちこんできたんだ。その否応《いなや》の分別がわたしにもつかないので、二、三の易者にみてもらったところが、いいというひともあれば、わるいというひともあって、どうにも見当がつかないでこまっていたところへ、いまのおまえさんのそろばんうらないのたしかな腕前をみたので、これは、おまえさんにうらなってもらえば、はっきりわかることと信じます。そこで、ぜひともパチパチとねがいたいというわけですがね」
「いや、旦那、なにしろ本業の商売をひかえておりますんで……」
「だからさ、さっきもいう通り、おまえさんの品物はみんな買ってあげるからいいじゃあないか」
「ええ、ありがとうございますが、こんな稼業《かぎよう》でも、お得意さきでは、もうくるだろうと、ほかの八百屋で買わずに待っていてくださるんでございますから、そういうかたへ対してお気の毒さまでございますから……」
「それはいいじゃあないか。病《や》みわずらいということもある。そういうときに、いく日も野菜を買わずにいる家はない。ほかに八百屋はいくらでもある。これは大事なことなんだから、ぜひひとつやっておくれ。そろばんが一挺でたりなければ、何挺でもあるから……」
「せっかくでございますが、なにしろ、やたらにはうらないをやらないことにしておりますんで……それに、三島なんて遠いところのことを、ここでうらなうことはできません。遠方のことというものは、とかくうまくいきませんので……」
「そうかい。そりゃあこまったな……よし、こうしよう。三島までおまえさんにいってもらって、弟のところで占《み》てもらおう。旅費はもとより、お留守中のまかないからお礼いっさい、すべてわたしがひきうけるから……」
「へえ、わたしは旅はだめなんで……」
「駕籠《かご》か馬でいけば、わけはないじゃあないか」
「ええ、その駕籠だの馬だのってえものが、どうもきらいなんで……」
「船はどうだ?」
「やっぱりいけません」
「じゃあ、ぶらぶらあるいていっておくれ」
「それがまた、足が弱いときていますんで……」
「だって、毎日こうして売りにあるいてるじゃあないか」
「へえ、それがおかしなもので、荷をかつぐとあるけますが、空身《からみ》ではあるけないんで……」
「それなら荷をかついでいっておくれ」
「ではございますが……」
「まあ無理にでもいっておくれよ」
「わたしは、なに、いってもよろしゅうございますが、家内まことに多人数でございまして、七歳《ななつ》をかしらに子どもが十三人、両親が五人、そのほかに奉公人が数知れずときておりますんで……ごめんなさいっ、さようならっ」
と、みこまれてめんくらった八百屋は、わけのわからないことをいって逃げだしました。
「おーい、おーい、八百屋さん!! ……なんだい、ばかげたことをいって逃げていっちまった。おい、小僧や、おまえ、あの八百屋さんの家を知ってるかい? なに、知ってる? そりゃあよかった。じゃあ案内しておくれ」
と、旦那は、小僧の案内で八百屋の家へむかいます。
こちらは八百屋で、どんどんどんどん夢中で駈《か》けもどってまいりましたが、家へとびこむやいなや、
「おい、おっかあ、早くあとをしめてくれ、早く……」
「なんだねえ、このひとは……また喧嘩《けんか》でもしてきたのかい?」
「なんでもいいから、あとをしめて心張《しんば》り棒をかってくれ。とにかく、あとから追いかけてくるやつがあるんだ。おれは戸棚へかくれるから、だれがきてもいねえといってくれっ」
と、戸棚のなかへわらじばきのままではいってしまいました。
女房のほうは、なにがなんだかさっぱりわからず、ただあきれておりますところへやってきましたのが例の旦那で、
「はい、ごめんよ」
「いらっしゃいまし……どちらさまで?」
「わたしは、お宅のご亭主が商《あきな》いにきなさる大黒屋の主人《あるじ》だが……」
「まあまあ、さようでございますか。いつもお世話になりまして……さあ、どうぞ、きたないところでございますが、おかけくださいまして……」
「ああ、ありがとう……しかし、失礼なことをいうようだが、おまえさんの家は、たいへん多人数だということだが、だいぶせまいようだね」
「いーえ、わたくしどもは夫婦かけむかいで……」
「そうかい。まあ、そんなことはどうでもいいんだが、お宅のご亭主というものは、たいそうなそろばんうらないの名人だということを、きょうはじめて知っておどろいてしまってな」
「まあ、うちの人が、そろばんうらないの名人?」
「おや、おかみさんもご存知ない? ふーん、もののできるひとというものは、とかくそういうものだ。ああ、おそれいった。あれだけの腕を持ちながら、おかみさんにもかくしているというのは、なんともはや奥床しいなあ。どうもみあげたものだ。じつは、三島までうらないにいってもらうについて、その手当てもしようと、こういうことでな、どうかまあ、おかみさんからもよくすすめておくれ。さしあたってここへ金を十両持ってきた。これで留守のところをどうか……」
「えっ、十両も……まあ、ありがとうございます。十両|盗《ぬす》めば首がとぶなんてえことをよく申しますが、そんな大金をくださいますんで……ええ、よろしゅうございますとも、良人《やど》がなんと申しましょうとも、わたしがおうけあい申します」
というのを、八百屋が、戸棚のなかで聞いたからたまりません。
「おうおう、ばかなことをひけうけなさんな」
と、あわてて、わらじのままではいだしました。
「いや、八百屋さん……ではない、先生、どうかそういわずにぜひいっしょにいってください」
「ねえ、おまえさん、旦那もああおっしゃるんだからさあ、いっておいでよ」
「だまってろ……旦那、じつはね、どうもこまったことがあるんで……」
「なにが?」
「ええ、すこし……その……ぐあいがわるいんで……毎年、いま時分になると脚気《かつけ》がでるんで……」
「そりゃあいけないな。しかし、まあ、毎日のんびりと一里ずつもあるいて、気まかせにぶらぶらいくようにしたら、結局脚気のためにもいいだろう。なあに、これがいつまでにいかなければならないという旅でもない。わたしだって、どうせ店は番頭にまかせてあるのんきな身の上、おまえさんの留守中、家のほうは、店の者に気をつけさせるから、どうかいっておくれ。じゃあ、おかみさん、ご亭主をお借り申していくよ」
「はいはい、どうかおつれなすってくださいまし。いえ、もう、一年が二年でも……」
「おいおい、よけいなことをいうな」
「あははは、そう長くもかかるまいが、まあ、おかみさん、店の者へはそういっておくから、もしもお金にでもさしつかえたらとりにいっておくれ。さあさあ先生、おかみさんも承知したから、どうかいっておくれ」
「へえ、それが、こういう稼業をしておりますと、ふだん用がないもんですから、さて、どこへいくといっても、着ていくものがないようなしまつなんで……」
「いや、そのご心配にはおよばない。そういうこともあるかとおもって、じつは用意をしてきた……小僧や、そのつつみをこっちへだしな。さあ、これを着ていっておくれ」
と、またくどくどとたのまれ、そばから女房も攻めたてるというわけで、とうとう奴《やつこ》さん、逃げるにも逃げられず、むこうへいったらなんとかごまかして、いざとなったら逃げてしまおうと覚悟をきめ、
「では、いっしょにまいりましょう」
ということになって、旦那につれられて出発しましたが、なにしろ八百屋は気のない旅ですから、二里あるいては泊まり、三里あるいては泊まるというようなぐあいで、およそ十日ばかりも日数をかさねて、やっと小田原へ着き、その晩は、一ぱいやって、八百屋先生は鼻からちょうちんをだしてぐうぐうと寝てしまい、大黒屋の主人《あるじ》もこれから寝ようとするとき、ただいまの十時、むかしの四つというころになって、なんだか家のなかがさわがしいとおもっておりますと、宿の主人と番頭がやってまいりまして、
「へえ、ごめんくださいまし」
「はい」
「おやすみのところをおそれいります。まことに申しあげにくいことでございますが、てまえどもでなくなりものがございまして……」
「なるほど、それはご心配のことで。して、なにが?」
「はい、お金が百両紛失いたしました」
「ほう」
「じつは、今晩はとりわけこみあいまして、夕飯もたいへんにおそくなったのでございますが、そのあいだ、番頭がちょっと帳場をあけましたところ、用箪笥《ようだんす》にいれておきました百両がなくなりました。店はもう早くしめましたし、そとのしまりもあらためましたが、べつにそとから賊のはいったようすもございません。そこで念のために、奉公人の部屋から持ちものまですっかりしらべましたが、かげもかたちもございません。この上は、お客さまにおうかがいするよりほかにしようがないということになりましたので、ごめいわくではございましょうが、これから順にお客さまのお手荷物を……どうも、はなはだ失礼な儀でございますが、なんとか拝見させていただきたいので……」
「なるほど、それはなんにしてもたいへんなことだが、まあ、ご主人お待ちなさい。わたしどもはじめ泊まり客一同、しらべてもらうほうが心持ちはいいようなものの、また、めいわくでもある。そこで……じつはな、ここに寝ているわたしのつれだが、このひとが、そろばんうらないの名人でね、そろばん一挺あれば、どんなことでもかならずあてる。ことに紛失物《うせもの》などは、たちどころにわかるのだ。わたしも、それがために、費用をかけて江戸からつれてきたのだが、ちょうど泊まりあわせたのは、この場のさいわいだ。この先生にたのんで、ひとつうらなってもらったらどうですね?」
「そうでございますか。それはありがたいことでございます。ぜひおねがい申したいもので……」
「ああよろしい。いま起こすから……おいおい八百屋……じゃあない、先生、先生」
「うーん、むにゃむにゃ……」
「なにがむにゃむにゃだ……先生、しっかり目をさましておくれ。ここにいなさるのは、当家のご主人と番頭さんだが、今晩、百両という大金が、帳場で紛失したというさわぎなのだ」
「へーえ、そうかい……あーあ……そんなことは、おれの知ったことじゃあない」
「あれっ、また寝ちまう……寝ちゃあこまるよ。ほかならぬ場合だ。おまえさんが、ひとつそろばんうらないをやっておくれ」
「そろばんうらない? ……あっ、そ、それはいけねえ。おれは、旦那の弟さんの一件だけをうらなうためにでてきたんだから、ほかのことはひきうけられねえ……ああ、ねむい、ねむい」
「ええ、てまえ、当家の主人でございます。おねむいところをあいすみませんが、お客さまがたにごめいわくをかけなければならぬ場合、先生のうらないひとつでわかりますれば、この上もないことでございます」
「主人ともどもおねがい申します」
「さあさあ先生、ご主人も番頭さんもああいってるんだ。骨惜《ほねお》しみをせずにやってあげなさいよ」
八百屋先生、三方から攻められて大弱りに弱りましたが、どうせあしたあたりは逃げようとおもっていたところだから、これを機会《しお》にうまく消えようとかんがえまして、
「しかたがないからやってあげるが、どこかはなれた座敷はないかね? よくうらなうには、ひとのこない、しずかなところがいいんだが……」
「それでは、はなれの二階へご案内いたしましょう」
「それは結構だが、そのはなれは、どっちのほうだね?」
「裏のほうで、低い塀《へい》がございまして、塀のそとが畑になって、そのむこうが街道の並木で……」
「うん、それは結構だ」
「では、そこへご案内申しましょう。それで、なにかおしたくがございましょうか?」
「ああ、いろいろとあるな。金高が百両となると、まず、そろばんが二挺いる。それから、おそなえものに、にぎりめしの大きいのを五つ、あかりは、ろうそくがいい。ろうそくをちょうちんに立てるようにしてな、あとは、わらじが二足に、菅笠《すげがさ》がひとつ……それからと、お賽銭《さいせん》を二、三両、これは財布に入れて……まあ、したくはそんなものだ。おっとっと、待っておくれ。まだある、はしごがいるよ。三間《さんげん》ばしごがいるんだ」
「へーえ、ずいぶんかわったおしたくでございますな」
「ああ、なにしろ紛失の百両をうらなおうというのだから、なみたいていのことではない」
「へえへえ、おそれいりました。では、さっそくしたくをいたします」
やがて、いう通りのしたくができあがり、八百屋先生、そのはなれに案内をされました。
「ことわっておくが、おれが、ポンポンと手をたたくまでは、だれもきてはいけないよ。そっとのぞき見をしてもだめになるからな」
と、うまく人の出入りを禁じておいて、そろえた品物で、ゆうゆうと逃げじたくにかかりましたが、すこしはそろばんの音をさせなくてはまずいとおもいましたので、パチパチパチ、ガチャガチャとならしておりますと、とつぜん、はしごをミシミシとのぼってきた者がございます。
「先生さま、先生さま、おねげえでごぜえます、おねげえでごぜえます」
「えっ、だれだい?」
「へえ、金を盗みましたのは、てまえでごぜえます」
「なに、おまえが盗んだ? ……よし、こっちへはいれ」
「はい、ごめんくだせえまし」
「なんだって百両なんて大金を盗んだ? ……一体《いつてえ》てめえはなに者だ?」
「へえ、ここな宿の女中でごぜえます」
「ははあ、さてはなんだな、情夫《おとこ》にでもやるつもりだな」
「いいえ、そうではごぜえません。きょう、わしらがとっつぁまがめえりまして、かかさまが病気しているだが、くすりを買う金もねえと申しますので、ご主人さまにお給金を前貸ししてくだせえとたのみやしたが、どうしても貸してくだせえません。とっつぁまあ涙をこぼして帰りましただが、そのうしろすがたが目につきまして、なんとかして金えとどけてえとおもっておりますと、ちょうど帳場へ金がへえりましたのをみましたで、わりいことだとはおもいましたが、つい、その、できごころで盗みましたでごぜえます、はい」
「で、その金はどうした?」
「稲荷さまの縁の下にかくしておいたでごぜえますが、いま、ご主人さまのおっしゃるには、そろばんうらないのえれえ先生さまにねがってあるだから、盗んだ者がすぐにわかるということでごぜえますから、わし、はあ、おそろしくなって、先生さまにおねげえにでたでごぜえますだ。どうかお助けなすってくだせえまし」
「いや、そうか……うん、そうにちがいない。おまえのいった通りのことが、このそろばんの珠の数にでている。じつは、いま、すっかりわかったので、主人を呼ぼうとおもっていたところだ。おまえはいくつだ? なに、十九か……そうだろう、ここに十九とでている。名前はなんという? なに、梅? ……梅か、さっきから、この五とでているのがわからなかったが、梅は梅鉢《うめばち》、つまり梅の花びらは五つだ……それで、その稲荷はなんというのだ?」
「白旗《しらはた》稲荷と申します」
「このごろ、当家では、その稲荷の祭祀《まつり》をしたか? なに、二、三年このかたやらねえ? ……よしよし……うん、もういい。心配するな。親を救うためのできごころでやったことだ。おまえのめいわくにならないようにはからってやるから、ここへきたことを、決してだれにもいうなよ。それから、おふくろのくすり代ぐらいは、主人から都合《つごう》してもらえるようにはからってやるから、ひとに気《け》どられないように、そっと帰って寝てしまえ」
「へえ、ありがとうごぜえます。そんだら、はあ、どうかおねげえ申します」
「心配せずに早くいって寝ろ、寝ろ」
女中がほっとしてでていくのを見送った八百屋先生、よろこんだのなんのってたいへんなもので……
「こいつぁおもしろいことになってきたぞ。こうなりゃあ、なにもいますぐ逃げるにもおよぶめえ」
と、さっそくポンポンと手をたたきました。
「へえへえ、先生さま、お呼びでごぜえますか?」
「おお、ご主人か。こっちへおはいり。えへん、すっかりわかったよ」
「えっ、おわかりになりましたか? やっぱり泥棒のしわざで?」
「さよう、泥棒が持ちだしたにはちがいないが、いまのところ、人手にはわたっていないから安心をしなさい……ときに、妙なことを聞くようだが、当家に、ことし十九になる梅という女中がいるかな?」
「へえ、おりますでございます……そんなことまでわかりますんで?」
「ちゃーんとそろばんにでているのだ。それから、当家では、庭の白旗稲荷の祭祀《まつり》を二、三年|怠《おこた》っているだろう? どうだ?」
「さ、さようでございますが、ついとりまぎれまして……」
「それそれ、それだ。それがたいへんに白旗稲荷のお怒りに触れているのだ……それから、たしか、きょうあたり女中梅の父が、給金の前借《ぜんしやく》にまいったろうが……しかるに、おまえは貸してやらなかったろう?」
「これはおどろきましたな。どうしてそういうことまでおわかりになるので?」
「ちゃーんとそろばんにでている。それについてもお稲荷さまがご立腹だ。どうもおまえのところは、奉公人のとりあつかいもよくないが、第一、客に食わせるものがわるいぞ」
「さようなことまでもお稲荷さまが?」
「みんなよくわかってる」
「へえ、おそれいりました」
「なにしろお稲荷さまがご立腹だ。あすは、さっそくお梅に給金の前貸しをした上、母親の病気見舞いにいくらか持たして、梅を当分看病にやるがよい。そうすれば、お稲荷さまもごきげんをなおされるぞ。いいか、心得たか?」
「へいへい、万事心得ましてございます」
「うん、その通りにいたすとあれば告げるが、百両の金は、白旗稲荷の縁の下にかくしてあるからいってみろ」
「ありがとう存じます。さっそくみてまいります」
亭主がおどろいて稲荷さまの縁の下へいってみますと、もともとかくしてあったのですから、つつんだままそっくりでてまいりました。
「ございました。ございました。おかげさまでこの金がもどりました。じつに、じつに、先生さまは、たいへんなご名人でいらっしゃいます……そうそう、お梅もさっそく母親の見舞いにやりましょう」
と、にわかにようすが変って、夜のあけるのを待って、お梅に前貸しをして、おふくろのところへ見舞いの金を持たせるなどしてだしてやりました。
宿屋の主人は大よろこびで、大黒屋の主人と八百屋が出発しようといたしますと、
「先生さま、旦那さま、どうかもう一日ご逗留《とうりゆう》ねがいます。お礼のしるしに、なにもろくなものはできませんが、おもてなしをいたしとうございますから……」
と、無理やりにとめて下へもおかないもてなし。八百屋先生は、もとよりぐずぐずしているうちに、すきがあれば逃げようというかんがえですから、その日も遠慮なく飲み食いをしたあげくに、ゆうべうらないをしたはなれが、たいへんしずかで気にいったといって、そこへいって寝てしまいました。
「おやおや、なんだい? 店さきへごたごたと村かたの衆がみえたが……なんですね、おまえさんたちは?」
「旦那、こっちに、はあ、えれえうらないの先生さまが泊まっていなさるってえことだが、三年前に、銭持って紛失したせがれの在《あ》り所《か》をちょっくらうらなってもらいてえでごぜえますが……」
「わしは、はあ、こねえだ、畑で鎌あ盗《と》られましたが、先生さまならわかるべえね?」
「ああ、先生さまにわからぬということはない。じつにそろばんうらないの大名人だ」
「おらがのとこでは、はあ、猫が紛失したでごぜえますが……」
「おいおい、鎌だの、猫だのの紛失なんぞはこまるよ。先生さまに失礼になるじゃあないか……まあ、なんにしてもせっかくきたのだから、先生さまをお起こししておねがいしてあげよう……おいおい、番頭、番頭、はなれへいって、先生さまにそう申しあげておくれ」
「へい」
といって、番頭ははなれへいきましたが、青くなってあたふたともどってまいりました。
「旦那、たいへんでございます」
「どうしたのだ?」
「へい、こんどは、先生さまが紛失いたしました」
お見立て
これは、吉原にまだ「張《は》り見世《みせ》」と申しまして、おいらんが見世にならんで、お客が、気にいったおいらんを「お見立て」したという、現代式にいえば指名していたころのおはなしでございます。
「へい、おいらん、ごめんください」
「だれだい?」
「へえ、わたしで……」
「おや、喜助どんじゃあないか。なんだい?」
「へい、ただいま、杢兵衛《もくべえ》大尽《だいじん》がおみえになりまして……」
「いやだねえ、あのいなかっぺ、またきたのかい? ほんとうにうるさいねえ。なんてえやつなんだろう……ねえ、なんとかいって、ことわっておくれよ」
「へえ……でございますがなあ、おいらん、せっかくおみえになりましたんで、あなたが、ちょいと、一目でもお顔をみせてあげれば、どうにかおさまりがつくんでございますがねえ……」
「いやだよ。なんだか虫が好かないんだから……あいつの顔をみると、胸がむかむかしてくるんだよ。ことわっておくれ」
「だって、おいらん、それじゃあ商売として、まことにまずいじゃあありませんか?」
「かまうもんかね。あたしは、あいつの顔をみると、なんだかいやあな気分になるんだから、からだにゃあかえられないやね。それはね、そこがつとめだというのだろうけれども、あいつの顔をみると、わたしは、心持ちがわるくなって、死んでしまいたくなるほどなんだから、ことわって帰しておくれよ」
「ですがなあ、おいらん、せっかくきたもんですから……」
「せっかくも結核《けつかく》もあるもんかね。いやなんだからそういうんだよ。わたしが病気で寝ているとか、なんとかいって帰しておしまい」
「へいへい、なるほど、病気はうまい工夫ですが……しかし、もしも、その病気はなんだと聞かれたらどうしましょう?」
「そんなことを相談されたってこまらあね。なんか適当にみつくろっておくれな」
「みつくろってったって、酒のさかなをみつくろうのなら心得てますが、病気をみつくろうてえのははじめてで、どうも勝手がわかりませんよ」
「だからさ、そこをおまえさんにたのむんじゃあないか。なんとかおつなことをいっておくれな」
「じゃあなんと申しましょうか? 病気と申しましたところで……ええ、おいらんは、ただいまコレラにかかっておりますとかなんとか……」
「いやだよ、コレラなんぞは……」
「それじゃあペスト」
「なおわるいやね。伝染病は、わたしはきらいだよ。もっとなにかいきな病気があるだろう?」
「おいらんの前ですが、いきな病気てえのはありゃあしませんよ。じゃあどうです、お腹のなかへサナダ虫がわいて、一ぱいになってやすんでるってえのは?」
「きたないねえ……なにかほかにありそうなもんじゃあないか?」
「……じゃあいかがでござんしょう? おいらんは、天どんを三ばい、うなどんを二はい食べて、おすしを十八つまんで、おしるこを二十八はいやったあとで、氷水《こおりみず》を三ばい飲んだんで、とうとうお腹をくだして、目下やすみなしにはばかりにお通いなすってる最中……」
「ばかばかしいやね。そんな色気のないことはいやだよ。なんとかうまいことはないもんかねえ?」
「じゃあ、おいらんいかがでござんしょう、ただなんとなく気分がすぐれず、どんな医者にみせてもわからない病気にかかったてえのは?」
「なんでもいいよ。おまえさんにまかせるからね、とにかく早く帰しておくれ」
「かしこまりました」
「へえ、旦那さま、どうもお待ち遠さまで……」
「やあ喜助かあ、どうした、喜瀬川《きせがわ》は? おらが、はあ、ひさしぶりできて顔をみせてやるといったら、大よろこびだったんべえ?」
「さよう、それは、もうたいそうなおよろこびでございますが……もし、旦那さま、じつは、最前《さいぜん》申しあげようとおもったんでございますが、ちと申しにくいことですから、だまっておりましたようなしだいで……じつは、おいらんは……その……病気でございます」
「なんだと、喜瀬川は、病気で寝ていると?」
「へえ」
「そんなら早くいうがいいでねえか。なんだ、その病気は?」
「なんですか、その……いろいろのお医者にみせまして、医学士だとか、または博士なぞにもみてもらいましたが、なんだか病名がわからないということで……」
「はてねえ、そりゃあ、はあ、とんでもねえことになったもんだねえ。医者がみてもわからねえちゅう病気とはこまったもんだ……うん、そうか。わかっただ。おおかたなんだんべえ。おらがひさしく顔をみせねえから、はあ、杢兵衛旦那はどうなすったろうと、いろいろとおらがのことを案じていて病気になったんだんべえ。女子《おなご》なんちゅうものは、どうも気のせめえもんだからのう。しかたがねえから、こうすべえ。おらがのことで病気になったんだちゅうから、おらが、ちょっくら顔をみせてやったら、はあ、それで病気がなおるべえ。よし、ちょっくら顔をみせてやるべえ。おめえ案内しろ」
「えっ、ご案内を?! ……ええ、じつは、その、なんでございます。その……おいらんは……その……こちらにはおりませんので……」
「ここにいねえで、どこにいるだ? 病院にでもへえっているのか?」
「ええ、それが……その……なんでございます……その……お病気でございますがな、お病気と申しますと、つまり、その……病人でございますから、寝ております」
「なにをいうだ、このばか野郎、病人だから寝ているのはあたりまえでねえか。どこに寝ているだ?」
「へえ、でござんすがね……そのなんでございます……病院にはいりましたもんで……ちょいとお待ちください。ご内所《ないしよ》へいって聞いてまいりますから、ごめんを……もし、おいらん」
「どうしたい、喜助どん、帰ったかい?」
「どういたしまして、帰るどころじゃあありません。『病気ならしかたがない。病間《びようま》へつれてゆけ。見舞ってやるべえ。さだめしおらのことを心配して病気になったんだろうから、おらがの顔をみせてやったら、安心してなおるだんべえ』と、たいそうな熱ですよ。あちらさまのほうが……」
「弱ったねえ。なんてまあ、しつっこいやつなんだろう。じゃあしかたがないよ。喜助どん、こうおいいよ。『おいらんは死んでしまいました』と、おいいよ」
「えっ、死んでしまったというんで? こりゃあちと手ひどうござんすね。で、なんの病気だといったらどうしましょう?」
「なんとかうまくちょろまかしておきなね」
「なんとかうまくちょろまかすったって、じょうだんじゃあござんせんよ。じゃあ、こういいましょうか、なんの病気だといったらば、脳膜炎《のうまくえん》だと……」
「いやだよ、そんな病気は……さっきもいったように、なんとかうまくいっておおきよ」
「じゃあ、どうにかうまくごまかしましょう……へい、旦那さま、お待ち遠さまで……」
「どうした、どこに寝ているだ、喜瀬川は? さっそく見舞ってやるべえ」
「それがでございます……旦那さま、じつは、もっと早く申しあげればよろしかったんでございますが、ただ、わたしは、あなたのことをおもっているもんでございますから、万事をおかくし申しまして、まことに申しわけございません。へい、というのが、旦那さまとおいらんとの仲を存じておりますから、かようなことを申しあげましたら、旦那がどんなにおどろかれるかと心配してかくしておりました。しかし、いつまでもかくし通せるものではございませんから、ほんとうのことを申しあげましょう……じつは……おいらんは、お亡くなりになりました。なんともご愁傷《しゆうしよう》なしだいで、なむあみだぶつ……」
「はははは、よせえ、ばかやろうめ。喜瀬川がおっ死《ち》んだとそういったら、おらが、はあ、おったまげるべえとおもって、そんなことをいってからかうなよ」
「いえ、じょうだんじゃあございません。まったくおかくれになりました」
「えっ、すると、ほんとに、はあ、喜瀬川が、おっ死《ち》んだんけえ?」
「へい」
「なんだねえ、その病気は?」
「なんの病気でございますか、お医者さまがみてもわかりません。ただ、息をひきとるときに、わたしがそばにおりまして……というのが、わたしとおいらんとは、ふだんから仲がよろしゅうございましたから……もう兄妹《きようだい》同様に暮らしておりました。その関係から、わたしも始終《しじゆう》お世話をいたしておりました。すると、おいらんが、お亡くなりになる前でございましたが、『喜助どん、杢兵衛大尽はどうしたんだろうねえ。ちっともおみえにならないが……』と、かようにおっしゃいました。そこで、わたしも、『おいらん、もう、きょうあたりは、大尽がおみえになりますから、気をおしずかに持っているほうがようございますよ。しっかりなさいましよ』と、かよう申しますとな、『喜助どん、わたしは、このまま死んでもいいが、ただ息のあるうちに、一目でいいから杢兵衛大尽にあいたいよ』と、絹をさくような声でおっしゃいました。『へい、大丈夫でござんす、おいらん、わたしが、どうにでも骨を折っておあわせ申します』と申しますと、おいらんは、うれしそうににっこり笑うと、そのまま息は絶えにけり、ツツンシャンとなってしまいました」
「はてまあ、とんでもねえことになったねえ。それで、はあ、その喜瀬川がおっ死《ち》んだのはいつごろだ?」
「いつごろだ? ……そんなこと知るもんか」
「なに?」
「いえ、なに、こっちのことで……旦那さまが、この前おいでになったのは、いつでございましたか?」
「おらが、はあ、ここへきたのは、先々月だ」
「あのさようで、先々月におみえになったあとでお亡くなりになりました」
「ばかやろう、あたりめえだ。で、亡くなったのはいつだ?」
「さいでござんす。あれが……その……なんでござんす。ええと先月で……」
「先月? 先月のいつ日《か》だ?」
「あれが、その、先月の……きょうで……」
「きょう? きょうか? そんなら命日《めいにち》でねえか?」
「へえへえ、そういう見当《けんとう》で……」
「なにいってるだ。そういう見当だなんて、火事の火もとをさがしてるようなことをぬかして……しかし、はあ、やっぱり因縁《いんねん》ひいてるだな。命日に、こうしておらがつらあ見にくるっつうなあな……うん、先月のきょうといえば、おもいあたることがあるだよ」
「へーえ、どんなことで?」
「うん、先月のたしかきょうだ。おらあ、晩めしを食って、寝床《とこ》へへえって寝たが、どうしても眠られねえだ。すると、はあ、夜なかの二時ごろだ。おれの枕《まくら》もとへきて、『旦那さま、旦那さま』とおこす者があるだ、『だれでえ?』と、目をさましてみると、喜瀬川が、はあ、しょんぼりおらの枕もとへ坐っているだあ。『一目お目にかかりにまいりました。どうぞかんにんして……』と、こういうだ。そこで、はあ、おらはかんげえたのう、おおかた狐狸《こり》のしわざだんべえとおもったから、『なにをいやあがるだあ、このばか野郎!!』と、大きな声でどなるとなあ、自分の声で自分の目がさめただ。目がさめてみると、なんにもいねえから、してみると、はあ、あのときに、はあ、喜瀬川が、はあ、おらのところへいとまごいにきたものとみえるな」
「なるほどさようで、おっしゃる通りで……おいらんが、旦那さまのもとへおいとまごいにあがったので、この惚《ほ》れてるというのは、どうもたいへんなもんで……」
「ほんとうにまあ、こんなことをいったらおかしいとおもうか知んねえけんども、はあ、色男ちゅうものは罪をつくるなあ」
「まことにさようで……」
「いくらはあ、稲刈りがいそがしいたってよ、沙汰《さた》せえあれあ飛んできて、つらあみせてやるだに……さだめしあいたがったこんだんべえ。それをおもうとふびんでなんねえだ」
「ごもっともさまで……ところで、旦那さま、いかがでございます。ただいま申しあげたようなわけでございまして、旦那さまが、きょうはきげんよくおあそびになろうというのに、妙なことをおもいださせてなんとも申しわけございません。これから、ひとつきげんなおして、陽気にわーっとさわいでお帰りになりましては?」
「ばか野郎!! なにをいうだよ。喜瀬川とおらとの仲ちゅうものは、夫婦同様の仲だ。その喜瀬川がおっ死んだちゅうことは、おらがのかかあが死んだようなもんでねえか。かかあが死んだちゅうことを聞いて、芸者をあげて陽気にさわげるか、このばか野郎!!」
「ああ、なるほど」
「なにがなるほどだ。この薄情野郎め。おらあ、これからなんだ、坊さまをたのんできて、はあ、経をあげてもらってといったところで、はあ、ここは女郎屋だ。そんなこともできねえ。おらあ、その喜瀬川の墓へ、はあ、線香でもあげてやんべえ。墓めえりをしてやるだあ。てめえ案内しろ」
「へえ、お寺へ? ……あの、なるほど、そりゃあ結構なおぼしめしで……」
「どこだ、寺は?」
「うーん、お寺まいりとは、ちょっと気がつかなかったな」
「なんだと?」
「いえ、なに、こっちのことで、……いや、どうも、お墓まいりとはおそれいりました」
「なにもおそれいることはねえだから、早く案内しろ」
「へえ、では、でかけるということにつきまして、ただいまちょいとご内所へいってことわってまいりますから、ごめんくださいまし……ええ、おいらん」
「どうだい、喜助どん、帰ったかい?」
「どういたしまして、帰るどころじゃあありません。ますます火の手が高くなるばかりで……おいらんが亡くなったと申しましたら、それじゃあこれから墓まいりをしてやるなんて……」
「かまやあしないやね。墓まいりをしてやろうてえんだから、どこへでもいいやね、わかりゃあしないから、つれてって、どこかのお墓へおまいりさしておやりな」
「だって、おいらん、そりゃああんまりらんぼうなはなしで……」
「このひとは、なんてどじなことをいってるんだい。かまやあしないよ。山谷までいきゃあたくさんお寺があるから、どこかのお寺へひっぱりこんで、どのお墓だってかまわないから、『これが喜瀬川おいらんのお墓でございます』といえば、いなか者だからわかりゃあしない。そこへお線香とお花をあげて帰ってくりゃあいいんだよ」
「だって、おいらん、それはあんまりひどい」
「かまうもんかね。さあ、わたしもね、ただはたのまないよ。これはすくないが、おつかい賃。それから、いくらいなか者だって、杢兵衛どんは、そこはお客だあね、いくらかくれらあね。いくらかになるんだから、いってごらんな」
「なるほど、まいりますと、もうかりますかな。へい、じゃあそういうことにいたします……へい、旦那さま、お待ち遠さまで……」
「どこだね、寺は?」
「ええ、寺は、そのただいま聞いてまいりましたところが、おいらんの申しますには……いえ、なに、ご内所の申しますには、おいらんの寺は、山谷だということで……たしかに山谷で……」
「なにをいってるだ。じゃあ、その山谷の寺へいって墓まいりをすべえ。これから、はあ、おめえ、すぐに案内してくれ」
「そりゃあ、もうお供をいたします……で、これから杢兵衛大尽を寺へ案内したら、いくらいなか者だって、いえ、なに、粋《すい》な旦那だから、ただつかうことはない。いくらかくれるだろう」
「ばか野郎、なにを欲ばってるだあ。そんなことはいわなくったって、おらがのことだ。ただはたのまねえ。さあ、これをやるだあ。早く案内しろ」
と、これからすぐに山谷にまいります。
「旦那さまの前でございますが、どうも人間というものはわからないものでございますな」
「ほんになあ、喜瀬川が死んだとは、おらもおもえねえよ。この前、あそびにきたときのこんだ。おらが、はあ、『もうちっと酒を飲むべえ』ちゅうと、喜瀬川が、『よしなせえ。酒はからだのためになんねえから……』ちゅうから、『それじゃあ親子どんぶりをくれ』と、ふたりで、はあ、親子どんぶりを食っていると、喜瀬川め、おらがの顔をみて笑っているだ。『なにを笑うだ? いかに惚れてる男のそばでめしを食っているからって、そんなにうれしいもんか?』ちゅうと、『そうでねえ。おめえさんの鼻のあたまに、めしつぶがふたっつくっついてらあ。それをみたらおかしくなる』と、こういうだあな。罪のねえもんだなあ」
「そりゃあおそれいりました」
「おい、喜助、このあたりは、山谷でねえか?」
「へえ、さようで……」
「さようでちゅうて、きょろきょろしてるたあどういうわけのもんだ?」
「へえ、どの寺にいたしておきましょうか?」
「なんだ? どの寺にいたしておきましょうかたあ、妙なことこくでねえか」
「いえ、その……お寺は、このお寺にいたしておきます」
「いたしておきます?」
「いえ、たしかにこのお寺で……」
「この寺は、宗旨《しゆうし》はなんだね?」
「宗旨? ……へえ、その……宗旨は、その、なんでございます……つまり、お寺の宗旨で……」
「ばか野郎、お寺の宗旨てえのがあってどうするだ。ははあ、葷酒《くんしゆ》山門に入るをゆるさずとしてあらあ、禅寺《ぜんでら》だな」
「さようで、禅寺宗で……」
「なにをいうだ。禅寺宗ちゅうのがあるか。禅宗だ」
「禅宗、禅宗、たしかに禅宗、だれがなんといおうと禅宗、大丈夫禅宗」
「なにいってるだ。早く案内しろ」
「どうぞこちらへおいであそばして……おばあさん、お寺まいりにきたんだから、お花とお線香をおくれ……どうぞ、旦那さま、こちらへ……」
「どこだ、喜瀬川の墓は?」
「たしかにここが入り口で、これからはいると、ずーっと墓がならんでおります」
「墓場だから、墓がならんでるのはあたりめえでねえか」
「どうもこの、墓石にも、長いのや、みじかいのや、いろいろあって、景色がようございますな」
「山や川じゃああんめえし、墓場に景色がいいもわるいもあるもんか。どこへいくだ? このまわりを歩いてもしょうがあんめえ。どこだ?」
「へえ、つい度わすれをいたしまして……たしかにこのあたりで……右側か、さもなければ左側で……」
「ばかべえいってやがって……右か? 左か? どっちだ?」
「へえ、へえ……ああ、ここでございます。この墓で……」
「はあ、これか。これが喜瀬川の墓か? どうも花ひとつあげてねえ。不実《ふじつ》な仲間でねえか。長えあいだ、ひとつ鍋のものを食いあっていながら、遠くもねえところだに、墓まいりひとつしてやる者もねえとは……掃除しろ、掃除しろ。それがために水をくんできただ」
「へえ、お掃除をいたします。おいらんが、さだめしおよろこびでございましょう。恋人がいらしったのだから、どんなにおよろこびか知れません。もし、おいらん、あなた、よくお聞きなさい。杢兵衛大尽がいらっしゃいましたよ。およろこびでございましょうなあ」
「ばかあ、むだ口をきかねえで、掃除をきれいにしろよ。水を墓石の上からかけなけりゃあいかねえさ。それ、ごみがそこについているでねえか……なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……なあ、喜助、こんなことになるとおもえば、おらもあれほどやかましいことをいうでなかっただ。障子の開閉《あけたて》もそうぞんぜい(らんぼう)ではいかねえから、もっとていねいにしろよといって、まあ末長く添いとげべえとおもえばこそ、行儀作法までなおして叱言《こごと》ばっかしいっていたが、それが、はあ、みんなむだになってしまっただ。よく虫が知らすてえことをいうけんども、まったく虫が知らすということも、まんざらねえわけではねえな」
「へーえ、なにか虫が知らせましたか?」
「うん、喜瀬川と最後に逢った晩のことだったなあ……おもいだせば、あの晩にかぎって、おらがのとりあつけえが、まるでちがってただよ。いつも、はあ、邪慳《じやけん》なことばかりいってたくせに、あの晩にかぎってやさしかったからな……おらが、夜なかに目をさまして、『酔いざめで、のどがかわいていかねえから、水一ぺえもれえてえもんだ』というと、いつもならなかなか汲《く》んでくれるどころでねえ、『おめえさまだって手も足もあるべえから、自分で汲んで飲んだらよかんべえ』なんて、邪慳なことをいう人間が、あの晩にかぎって、自分で汲んできてくれた。おらが、湯飲みをとって、ごっくり飲んで、『われが汲んできてくれた水だから、別段にうめえようだ』というと、『世のなかに、女房に世辞《せじ》いう者があるか』と、こういうから、おらが、『なにも世辞いうわけでねえけれども、うめえような心持ちするだ。宵に飯食わなかったもんで、腹あへってなんねえ』と、こうおらがいったら、『わたしもお腹がすいた』というから、『そんなれば、めしにすべえ』というと、『夜なかにめし食ったら毒だから、雑炊《ぞうすい》にしてあげべえ』って、自分がまめまめしく立って、鍋に汁《つゆ》がのこっていた、それへめしをとりわけて、ぐつぐつ煮ていたが、すこし経《た》つと、『できたから、起きて食べたらどうだ』というから、『起きるなあおっくうだから、ここまで持ってこう』と、おらがいっただ。すると、腹あ立って、『病人ではあるめえし、ふとんの上でめし食うやつがあるか。こっちへきて食べたらどうだ』『それじゃあ、そこへいくべえ』って、膳に向えあって、おらは気がつかずにざくざく食ってると、喜瀬川のやつ、おらがの顔をながめてぽろぽろ涙あこぼしてるだ。『なんだって、われ、涙あこぼすだ? あんまりいそいで食って、のどにでもつかえたか?』と、こういったら、『おめえさまは、そんな気楽なことばかりいってるだが、夫婦になるべえと、かねて約束はしてあるけれど、男心と秋の空で、おめえさまの心持ちが変ったら、ひとつ膳のむこうとこっちへ向けあって、もうふたたびめし食うことができねえかとおもうと、案じられて悲しくなるだ』と、こういうから、『決してそんな心配するな。おらは、もう、ほかに女というものはねえとおもってるだから、金輪際《こんりんぜえ》心変りなんぞするもんでねえ』と、こういってやった。すると、涙あふきながらにっこり笑って、『それがほんとうなら、じつにうれしゅうごぜえます』と、こういうから、『なに、そんな心配することはねえ。それよりか、さっさと食ったらよかんべえ』というと、また箸《はし》をやすめてるから、『なんでそんなに泣きてえだな? からだでもわるくしちゃあなんねえ』というと、『おめえさまの心も変らず、わたしの心は決して変るわけのものでねえから、ねがい通り夫婦になるべえが、まだ二、三年は借財もぬけめえとおもう。その二、三年のあいだが、冬は冷えるし、夏はなおさら辛《つれ》えおもいをするだ。こんな稼業をしているから、いつ何時《なんどき》どんな病気でもおこって、おめえさまにふたたび逢われねえようなことができゃあしねえかとおもうと、それが、はあ、案じられて、食いものがのどに通らねえ』と、こういうだ。それから、『はあ、決してそんなくだらねえことをおもうな』って、おらが、しげしげ意見してやっただが、あの晩だけは、日ごろのわがままに似合わねえで、とりあつけえぶりがちがった。あれは虫が知らしただろうと、こうおもうだ……あーあ、それだから、はあ、男らしくもねえ、あきらめがつかねえだ。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、四十九日は、屋《や》の棟《むね》に魂《たましい》がいるとか、宙にまよってるとかいうが、そうしたら、おらがいうことがわかるべえ。もう、はあ、おらは、生涯《しようげえ》やもめ(独身)で暮らすだからな、どうか浮かんでくらっせえよ。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、ええ、戒名《かいみよう》は、なんというだ? ……養空食傷信士《ようくうしよくしようしんし》……養空食傷信士、天保八|酉年《とりのとし》? これ、天保八年といえば、むかしの墓でねえか」
「やっ、まちがえました、まちがえました」
「あきれちまうな。他人の墓を掃除して、花まであげて気がつかねえやつがあるか」
「どうもおそれいりました。となりとまちがえましたので……」
「こっちか。これで、かたちが似てるならまちがえるということもあるが、こんなふてえのと、こんなちっけえのとまちがえるやつがあるか……うーん、これが喜瀬川の墓か……なあ、喜瀬川、縁あって夫婦の約束までしたおらだ。われがこういうことになったと知るからは、どうせはなれているから、線香も絶やさねえというわけにはいかねえけんども、青い花だけは絶やさねえつもりだ。いまもとなりでぐちをいったから、われも聞いてたんべえが、どうぞまよわねえで浮かんでくれよ。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……ええ、戒名は? ……ええ、天垂《あまだれ》童子? ……童子といえば子どもの戒名だ。安政二年|卯年《うどし》……こりゃあ大地震の年だ」
「やっ、またちがった」
「これ、ばかにするな。二度まで他人の墓の前で涙あこぼさせやがって……」
「へえ、あいすみません。じつは、この右どなりのやつで……」
「右どなりだ? どれどれっ、ええ、なに、なに……陸軍上等兵小林七郎之墓?! このばか野郎!! またちがうでねえかっ、一体全体《いつていぜんてえ》あれの墓はどれだ?」
「へえ、ずらりとならんでおります。よろしいのをお見立てをねがいます」
三軒長屋
三軒つづきの長屋がございまして、一番|端《はし》が、勇み肌の鳶頭《かしら》の家で、ときどき若い連中があつまっては、木遣《きや》りの稽古《けいこ》をする、そのあとで酒がはじまって、都々逸《どどいつ》や新内でもやってさわごうというようなことでして、まんなかが、三毛猫が一匹に下女がひとり、鉄びんの湯がちんちんわいていて、火鉢のそばには、赤いふとんが敷いてあって、その上に坐って、一中節とか、端唄《はうた》でもやるというようないきなお妾《めかけ》、そのとなりが、剣術の先生で、楠運平《くすのきうんぺい》 橘正国《たちばなのまさくに》というひとで、通ってくる者は、みじかい袴《はかま》に、刺し子の稽古着、「お面、お小手!!」で、一日じゅうどたんばたんやっちゃあ、
「いや、宮本武蔵と佐々木巌流との試合はでござるの……」
「荒木又右衛門、伊賀の上野、鍵屋の辻の仇討ちのみぎりには……」
とか、そのはなしときたら、どうも色っぽくないことおびただしいものでございまして、こんなひとたちにはさまれたまんなかの家は、まことに災難でございます。
「あねさん、こんちは」
「おや、おいで。こっちへおあがりよ、金公」
「あねさん、すまねえが、すこしたのみてえことがあってきたんでごぜえますが、鳶頭《かしら》はどうしました?」
「仲間の寄りあいででかけたまんま、もう三日も帰らないよ」
「そうですかい。じゃあ品川かも知れねえ。ええ、鳶頭は、つきあいが多うござんすからね。それにまあ、あねさんの前でいうのもなんですが、鳶頭なんざあ、男っぷりはいいし、銭ばなれがきれいで、下の者をかわいがってくれるというのだから、どうしたって女《おんな》っ惚《ぽ》れはするし、品川の女なんぞ、鳶頭にばかなのぼせようで、鳶頭のほうでもまんざらでねえんで……」
「おまえ、なにかい? 夫婦|喧嘩《げんか》でもさせにきたのかい?」
「いいえ、そういうわけじゃあねえんで……じつはね、この家の二階を借りてえんですが、いまもみんなでそういっていたんで……鳶頭の家もいいが、あの山の神がうるせえからってね」
「うるさくってわるかったね」
「あれっ、ねえさん、聞いてたんですか?」
「おまえ、だれとはなしてるんだい? ……そうはっきりおいいでないよ。どうせわたしは山の神だよ」
「そうでしょう? 自分でいうんだから、たしかなもんだ」
「なにをいうんだよ。家の二階をなんにつかうんだい? 寄り合いかい?」
「いいえ、喧嘩の仲なおりなんで……」
「ほんとうにおまえは、よく喧嘩ばかりしているねえ。どうしたんだい、おまえと、相手はだれなんだい?」
「いいえ、あっしじゃあねえんで……」
「おまえはなんだい?」
「あっしは仲人《ちゆうにん》(仲裁人)なんで……」
「ふふふふ、こりゃあおもしろいや。おまえが仲人をするとはねえ……雨でも降らなきゃあいいが……いったい、だれが喧嘩したんだい?」
「へえ、久次の野郎とへこ半なんで……」
「どうしたのさ」
「なあにね、久次の野郎が横丁の湯へへえっていると、半公の野郎が、あとから飛びこんできたんです。まあ、ふたありとも仲がいいんだし、はじめは、背なかのおっつけっこかなんかしやがってね、ふざけていたんだそうで……そのうちに、久次の野郎が……あいつは、のどじまんですからねえ、いい気持ちになって唄ってやがったんですがね、どうしたはずみか、半公のやつ、久次の鼻っさきで、ぶいとやりゃあがったんです」
「きたないねえ、まあ」
「ええ、ですから、久次のやつが怒ったんで……『ふざけるない、するにことをかいて、ひとの鼻っさきで、くせえ屁《へ》をするやつがあるもんか』と、こういったんでさあ。そこんとこで、半公のやつが、どうもすまねえってんで、あやまっちまえばいいものを、野郎もまた口がへらねえもんだから、『くせえ屁でも、おれがひったんだ。くせえ屁のひとつもかぎあうのが、友だちのよしみだ。くさくなけりゃあ銭はとらねえ。ぐずぐずぬかすんなら、いま、かいだのをかえせ』といったんでさあ」
「まあ、あきれたもんだねえ」
「へえ、するとね、久次のやつが、いきなり半公をはりたおして、『ふざけたことをいうねえ。おもてへでろ』というのがきっかけで、流しでもって、小桶の投げあいをはじめて、しまいには、組んずほぐれつやってるうちに、半公のこめかみへ久次のやつが食いついて、肉を食い切っちゃうというさわぎ……」
「まあ、たいへんなさわぎになったんだねえ」
「そこへあっしがとびこんでいくと、久次のやつ、『人間の肉てえものは、酸《す》っぺえもんだ』といって、吐《は》きだしたもんですから、よくみると、半公が、頭痛がするってんでね、梅ぼしをこめかみへ貼《は》っておいたやつをかじったんで……」
「なんだねえ、ばかばかしい」
「まあ、そういうわけで、あっしがあいだへへえって、なんとかおさめましてねえ、このままにしておいちゃあいけねえから、どうか仲なおりをさせようとおもうんですが、待合《まちあい》を借りるでもねえから、鳶頭の家の二階を借りて、ひとつ手打ちをしようということになったんで……」
「そうかい、それじゃあ、貸してやるけれども、しずかにするんだよ」
「へえ、しずかにします。もしも大きい声をだすやつがいやあがったら、あっしがぶったたいてやる!」
「それがいけないんだよ。ほんとうにしずかにしてくれないとこまるよ……で、いつなんだい?」
「いますぐなんで……みんなおもてへきて待ってるんで……」
「気が早いね。それじゃあおあがり……」
「おう、みんな、こっちへへえんなよ。あねさんがな、貸してくださるとよ。早くへえれ。こっちへへえれよ。ぐずぐずするな、このまぬけめ!!」
「なんだねえ、まぬけめだなんて……それがいけないんじゃあないか」
「すいません」
「さあさあ、みんなおはいりよ」
「ええ、あねさん、こんちは」
「おや、松つぁんかい?」
「ええ、こんちは」
「おや、留さんだね」
「へい、こんちは」
「辰つぁんかい、おあがりよ」
「へい、あねさん、こんちは」
「寅さんだね」
「こんちは」
「へえ、こんちは」
「こんちはあ」
「ええ、こんちは」
「こんちはあ」
「まあ、大勢きたんだね。さあ、どんどんおあがりよ。いいかい? しずかにね……」
「おうおう、あねさんが、ああおっしゃるんだ。しずかにあがれ、しずかに……やいやい、なんだって途中でぶらさがってんだ? ちくしょうめっ、ふざけてやがると、ぶったたくぞ!!」
「なにいってんだよ。おまえが一番うるさいよ」
「へえ、あねさん、すいません」
「みろい、てめえがまぬけだから、おれが叱言《がり》食うじゃあねえか……さっさとあがれ。おいおい、亀公、てめえ、なんだ?」
「え?」
「なんだよ、てめえは?」
「いえ、二階へあがって、みんなといっしょに一ぺえ……」
「ばかっ、まぬけっ、とんちきっ、あんにゃもんにゃ!! みんなといっしょに一ぺえだと? てめえなんぞ二階で酒飲むってつらかよ。縁の下へへえって、めめず(みみず)でもくらってろ!! 二階は役つきばかりだ。てめえなんぞ階下《した》へ降《お》りてろい。貫禄《かんろく》がちがわあ。まごまごしやがると、蹴おとすぞ!!」
「またやってるね、それがいけないってんだよ。もうすこしやさしくいっておやりよ」
「へえ、あねさん、すいません」
「ねえ、亀、おまえもいけないんだよ。おまえなんぞ二階へあがったってしょうがないよ。階下《した》にいて、すこし用をしとくれ」
「へえ、どうもすいません。みんながあがるから、あっしもついうっかりあがろうとしちまったんで……へえ、どうも……」
「さあ、こっちへきておいで……だれだい? ああ、魚屋さんかい? ああ、あつらえてきたんだね、さしみを? じゃあ、こっちへおいといて、なにか、かぶせときなよ……えっ、酒屋さんかい? みんな手まわしがいいんだねえ……さあさあ、亀や、ぼんやりしてないで、七輪《しちりん》で火をおこして、お燗《かん》をするんだよ」
「へえ、さっそくはじめます……ええ、あねさん、どうもいろいろとおさわがせしてすみませんねえ。鳶頭はなんですか、まだお帰りがねえんですか? ああ、さいですか……しかし、まあなんですねえ、うちの鳶頭は、ほんとうにおもいやりがあって、いいひとですねえ、あっしみてえな三下《さんした》つかめえても、おもてで会うと、『おう、兄い、もうかるかい?』なんていってくださるんで……こっちはきまりがわるくなっちまうくらいでござんして……貫禄があってそういってくれるんだから、自然とあたまがさがりまさあ……そこへいくと、二階にいるやつらなんざあ、いばる一方なんだからくだらねえや……あれっ、あねさん、いま、家の前を通った女がござんすね?」
「ああ」
「いい女ですね。ありゃあなんです?」
「なんでもいいじゃあないか」
「よかあねえ、心配でさあ。ほんとうにありゃあなんです? ひとり者ですかい?」
「相手があるんだよ」
「相手がある? ちくしょうめ、ふてえ野郎だ。どこのなんてえやつだ。べらぼうめっ、さあ、でてこい!!」
「なんだよ、大きな声をして……ありゃあ、質屋の伊勢勘の妾《めかけ》だよ」
「えっ、あのじじいの? ……うーん、ずうずうしいじじいだ。歯もなんにもねえくせに……」
「歯がなくったって、銭があらあね。おまえなんぞ、歯があったって、銭がないじゃあないか」
「ああ、なるほど……しかし、まあ、くやしいなあ」
「ちょいと、ちょいと、おまえ、さっきから、ばたばたとうちわでやっているけれども、七輪をあおがないで、猫のお尻《しり》をあおいでるじゃあないか」
「ええっ? あっ、こんちくしょう、なんだってだまっていやあがるんだ? ……あねさん、どこかへいくんですか?」
「うん、ちょっと横町の湯へいってくるからたのむよ」
「よござんすとも……へい、いってらっしゃい……うん、しかし、いい女だな。うちのあねさんもいい女だけどね、いくらいいといっても、もう年だ。そこへいくと、となりの女はなんともいえねえなあ。どうも、もう一度みてえもんだな。でてこねえかしら? もう一ペんでてきそうなもんだなあ……顔がみてえな。なんかいい工夫はねえかな? ……そうだ、となりへいって、なんか聞きゃあいいや。『ええ、ちょっとうかがいますが……』『なんでしょう?』『ええ、となりの鳶頭の家は、どこでござんしょう?』……こりゃあまずいや。わかってて聞いちゃあいけねえや……あれっ、となりの障子があいたぞ!! ……なんだい、ひでえものがでやあがった。ありゃあ下女かい? おかみさんにひきかえて、こりゃあまずいつらだなあ。囲《かこ》い者《もの》(妾》なんてえものは、人間の見立てがうめえや。こういうもんを飼《か》っておきゃあ、てめえが引き立つからなあ……おーい、みんな、二階から下のほうをみねえ。となりの家から化けもんがとびだしゃあがった」
「なんか階下《した》で、お燗番がどなってるぜ……なるほど、まずいつらの下女がでやあがった。髪の毛は、とうもろこしのようにちぢれていて、大きな尻《けつ》をふりたてて駈《か》けだしゃあがった。やーい、てめえなんぞ、駈けだすより、ころがるほうが早えぞ!! わーい」
「やあ、こっちみて泣いてやがる。やーい、化けもん、てめえなんぞ泣くつらじゃあねえぞ。わんわん吠《ほ》えろ、やーい!!」
「なにをおまえ泣いてるんだい?」
「わたしは、もうこちらさまにはご奉公ができません。どうかおひまをくださいまし」
「いったいどうしたんだよ?」
「だって、わたしのことを、となりのやつらが、『化けもんだ、化けもんだ』っていうんですもの……くやしくって……」
「だからおまえにいったじゃあないか。わたしが、さっきちょいとみたら、おとなりの二階に若い衆があつまっているから、おもてへでるなというのに、なぜでたんだよ? お泣きでない、みっともない……おや、旦那、おいでなさいまし。まことにおあつうございます」
「たいそうあつくなったね……どうしたんだ? おたけ、なにを泣いているんだ? またおまえがしかったんだろう? どうもおまえは、叱言《こごと》が多くっていけないよ」
「いいえ、そうじゃあないんですよ」
「どうしたんだ?」
「いいえね、これがおもてへでてね、となりの若いひとたちにね、『化けもん、化けもん』といわれて、くやしがって泣いてるんですよ」
「そうか。いやあ、うっちゃっとけ、うっちゃっとけ……まあ、それにしてもにくいやつらだ。いまも、わたしが路地《ろじ》へはいってくると、『やあ、やかんが通る、やかんが通る』というから、なんだろうとおもって、あおむいてみると、となりの二階から大勢若いやつが首をだして、おれのあたまへ指さしをして笑っていやあがった」
「まあ、うまいことをいいますね」
「おい、ほめるやつがあるか。おまえは、敵かい? 味方かい?」
「あのう、わたしも旦那におねがいがございます」
「なんだ?」
「まことにすみませんが、ここの家を越してくださいませんか?」
「引っ越す?」
「だって、旦那の前でございますけど、がまんできゃあしませんよ。となりは剣術の先生でしょう? もう、このごろは、夜稽古《よげいこ》まではじまって、『お面』、『お小手』ってんで、壁へドスンドスンぶつかりますし、こっちの鳶頭《かしら》の家では、酔っぱらいが、『さあ殺せ、さあ殺せ』って喧嘩でしょう? 剣術と喧嘩のあいだにはさまれて、わたし、血のぼせがしちゃいますよ」
「そんなことをいっちゃあこまるな。このあいだ越したばかりじゃあないか。しかし、なんでも越せというなら越してもいいが、じつは、ここの地面は、おれのうちに家質抵当《かじちていとう》にはいっていて、もうすこしで年限が切れるから、そうすると、二軒とも立たしちまって、三軒を一軒にしてしまう。楠さんのほうを庭にして、鳶頭のほうを土蔵にしてしまえば、だいぶ広くなるから、もうすこしの辛抱だ。石の上にも三年ということがある。横町の占《うらな》い者などは、どぶ板の上に七年もいらあ」
となりのほうは、だんだんと酒がまわってまいりました。
「もういいかげんにしろやい」
「なんでえ、もうすこし飲もうじゃあないか」
「飲もうったって、てえげえにしろよ」
「どうだい? このへんで、女の子を呼んできて、ペンとか、シャンとかやろうじゃあねえか」
「おうおう、ここはな、料理屋じゃあねえよ。鳶頭の二階だよ。あねさんにむりにたのんだんじゃあねえか。だめだよ。よしなよ」
「よしなよって、おめえ、いやにおれにさからうじゃあねえか。なにいってやんでえ」
「なんだと?」
「なんだととはなんでえ! え、てめえなんぞ、おれにそんなことをいえた義理かい? やい、いやに兄貴ぶるない。第一《でえいち》、ふだんから気に食わねえ」
「なにが気に食わねえ?」
「八年前の暮れから気に食わねえ」
「古いことをいやあがるな。八年前の暮れにどうした?」
「どうした? おめえ、わすれちゃあすむめえ……ぴゅーっという北風といっしょに、おれんとこへとびこんできやあがって、尻切ればんてん一枚で、『兄貴、どうにもあがきがつかねえんだ。なんとかしてくんねえ』って、ひとを兄貴、兄貴ともちゃあげやがって……こっちも、だれがこまるのもおなじことだとおもって、うちへおいてやった。さあ、一夜あけて元日よ。『どうだい、これから獅子を持って客のところをまわるんだが、てめえも手つだわねえか? どうだ、太鼓をたたけるか?』って聞いたら、『法華《ほつけ》の太鼓か、夜番《よばん》の太鼓よりほかにたたけねえ』ってやがる。じょうだんじゃあねえ、初|春《はる》獅子をだすのに、そんな太鼓をたたかれてたまるもんか。『じゃあ、与助《よすけ》(鉦《かね》)はどうだ?』『手がつめたくって持てねえ』ってやがる。『てめえ、なにをやりてえんだ?』『おれ、獅子がかぶりてえ』とぬかしゃあがる。『ふざけたことをぬかすな。獅子をかぶるのは真打ちの役だ。てめえなんぞに、獅子をかぶらせるこたあできねえ』『いや、そんなことをいわねえで、おれにかぶらせてくれ』っていうから、しょうがねえからかぶらしたが、てめえ、さむいもんだから、獅子をかぶったんじゃあねえか。それでも、『こりゃあどうも下町じゃあうすみっともねえから、山の手へいこう』ってえから、番町の旦那のとこへいって、『どうもおめでとうございます』っていったら、旦那が、『ああ、ごくろうさま、やっとくれ』『あいよ』『たのむよ』ってんで、二分、ご祝儀がでた。『おう、二分、ご祝儀いただいたぜ、いせいよくやってくれ』っていうと、てめえ、二分のご祝儀と聞いたんで、目がくらんじまって、ぐるぐるっとまわって、玄関のところでおとなしくあそんでいる坊っちゃんのひたいに、獅子の鼻づらをこつんとぶっつけやがったもんだから、坊っちゃんが、わーっと泣きだしちまった。『坊っちゃん、すいません。獅子が、いま、ちょっとふざけたんです。かんべんしてくださいまし』ってんで、おれが、坊っちゃんのあたまをなでてると、てめえ、『このがきめ、うるせえ』っていやあがって、獅子の口から大きなげんこをだしゃあがって、坊っちゃんをなぐりゃあがった。おらあ、もう、みちゃあいられねえから、てめえを踏みたおして、旦那に詫《わ》びをいって、とびだしちゃった。どうも山の手はいけねえから、下町へいこうってんで、九段までくると、子どもが大勢あとからついてきて、『あれっ、獅子の鼻から煙《けむ》がでる』っていうから、おかしいなと、ひょいとまくってみると、焼きいもを食っていやあがった。それから、日本橋までくると、魚屋の親方がよびこんで、『さあ、いせいよくやってくれ。一両(一両は四分)祝儀をやるから……』っていうと、てめえ、二分でせえ目がくらんだんだ。一両と聞きゃあがって、ぐるぐるっとまわって、どっかへいなくなっちまやあがった……よくさがしたら、穴蔵のふたがとれてんのを知らねえで、てめえ、そんなかへ落っこちてやがる。『野郎はどうでもかまわねえが、獅子は商売《しようべえ》もんだからあげてやれ』ってんで、ようようひきあげた。ところが、獅子の鼻っつらあぶっ欠《け》えちまいやがったもんだから、塗師屋《ぬしや》へやって鼻をつくろった。そんときの割り前を、てめえ、まだだしゃあがらねえ」
「なにをふざけたことをいやあがんでえ。べらぼうめ、世話をしてもいいことがあるからしたんじゃあねえか。ふざけたことをいうない、こんちくしょうめ!!」
そばにあったさしみ皿をとって、ぽーんとほうりつけると、肩んところをかすって、いいあんばいにぶつからなかったが、うしろの柱へぶつかって、皿はめちゃくちゃ、あたまからさしみがぶらさがるというのは、まことにかっこうのよくないもので……
「さあ、殺すなら殺せ!」
「殺さなくってどうするもんか!」
てんで、ひとりが怒って、二階から駈けおりて台所へいくと、いきなり出刃庖丁を持って、とびあがろうとするところへ、ちょうど鳶頭の姐御《あねご》が帰ってまいりまして、
「まあ、なにをするんだよっ、そんなものを持って、ばかなまねをするんじゃないよ!」
「ねえさん、うっちゃっといてくんねえ。野郎をたたっ斬らなくっちゃあ」
「ちょいと、じょうだんいっちゃあいけないよ。おまえたち、なにしにきたんだい? 仲なおりにきたんだろう? 喧嘩するためにきたんじゃあなかろう? ……おい、だれか、二階からおりてきてとめないかい?」
「さあ、こんちくしょう、殺すんなら殺せ!」
「ああ、殺してやるから……」
一軒おいたとなりも、これに輪をかけた大さわぎでございます。
「いよう、近藤氏、お帰りか。先刻より、貴公の帰りを待ちうけておった。さあ、お手あわせをねがおう」
「いや、拙者、本日は、つかれておるゆえ、まず明日ということにねがおう」
「いや、これはけしからん。現在、太平の御代だによって、そのようなことをいわるるが、武士たるものが、戦場において、敵から勝負を申しこまれ、いざ一騎打ちというさいに、つかれておるからよせといえようか……いざ、したくめされい!」
「うん、しからば、さっそくお手あわせをいたそう」
「さあさあ、お相手をつかまつろう」
「さあ、こいっ!! お面《めん》だ!!」
「お小手!!」
ドスン、バタン……
「さあ、殺すなら殺せ!」
「待ってやがれ、こんちくしょう!」
「お面だ!!」
「お小手!!」
ドスン、ズシーン……
「旦那、これなんですよ」
「なるほど、こりゃあひどい」
「旦那、越してくださいな……たけや、そこらの棚のものは、みんなおろしておしまい。そらそらっ、お神酒《みき》徳利が落っこってきた……越してくださいよ、ねえ」
「まあまあ、お待ち。越すのはかまわないが、それじゃあ、こっちが負けになっちまうじゃないか……まあ、ちょいとがまんしな。さっきもいった通り、この三軒長屋は、わたしんとこで金を貸して、家質《かじち》にとってあってな、もうすこし経てば、抵当流れになるんだから、そうしたら、たかの知れた鳶頭に剣術つかいだ。いくらかやって、両どなりを追いだしちまうから……まあまあ、もうすこしだから、がまんしなよ」
といって、その日、旦那は帰ってしまいましたが、これを下女が、井戸端へいってしゃべったから、たちまち鳶頭のおかみさんの耳へはいったからたまりません。勝気なひとで、おまけに、ご亭主が、二、三日帰ってきませんから、かんしゃくの虫とやきもちの虫がこんがらかって、もうじりじりしております。そこへ鳶頭がぶらっと帰ってきましたが、いくら自分の家でも、二、三日留守にして、どうもばつがわるいから、おもてから叱言《こごと》をいってはいってまいりました。
「やいやい、奴《やつこ》、おもての掃除をしろい。まるでごみの山じゃあねえか」
「いいよ、いいよ、掃除なんかすることはないよ」
「あれっ、このあま! きたねえから、掃除させるんじゃあねえか」
「いいんだよ、掃除なんざあ……どうせ店《たな》立てを食ってるんだから……」
「なんだ、店立てだ? ……そりゃあしょうがねえじゃあねえか。この家を借りるときに証文がへえってるんだ。『いつ何時《なんどき》でも、ご入用の節は、明け渡します』ってな……家主に用があるなら、店立て食ったってしょうがねえやな」
「その店立てじゃないんだよ」
「なにいってやんでえ。ひとが二、三日あけたからって、へんに気をまわすない!」
「おまえさん! あたしゃあ、やきもちやいて、こんなことをいってるんじゃあないよ。そりゃあ、家主さんからの店立てならしかたがないが、となりの伊勢勘の妾から店立てを食うんだよ」
「そんなわからねえはなしはねえじゃあねえか。なにもあすこから店立てを食うこたあ……」
「食うわけがないところから食ってるから、それで、しゃくにさわるんだよ。こういうわけだからお聞きよ。おまえさんの留守に、若い者が、二階でもって仲なおりさせてくれってえから、貸してやったんだよ。すると、飲んだあげくが、また喧嘩だあね……『さあ殺せ』『殺してやる』ってさわぎさ。楠さんとこじゃあ、このごろ夜稽古まではじまって、『お面だ!』『お小手だ!』ってんで、喧嘩と剣術のあいだにはさまって、となりのあの妾が、血のぼせするとか、気のぼせするとかいやあがって、やかんあたまをたきつけたんだよ。ところが、この地面は、伊勢勘のカジキにはいってるんだとさ」
「なんだい、カジキてえのは? まぐろじゃああるめえし……家質《かじち》だろう?」
「ああ、なんでも、そんなものにとってあるんだってさ。だからさ、抵当流れになったら、両どなりは、たかの知れた鳶頭と剣術つかいだから、いくらかやって店立てを食わして、三軒を一軒にして住むってんだよ。そんなことをいわれて、おまえさん、くやしくないのかい? だまっているのかい? 男がすたるよ!」
「よし、わかった。大きな声をするない……ひきだしから、ちょいと羽織をだしてくれ」
「なんだい?」
「羽織をだせよ」
「しっかりおしよ。ひとのうちへ喧嘩にいくのに、羽織なんぞ着ていくやつがあるもんかね。火事|頭巾《ずきん》に手鉤《てかぎ》でも持ってって、あのやかんあたまをぶち殺しておやりよ」
「べらぼうめ、あんな家の一軒や二軒ぶちこわすのに、したくもなにもいるもんか……いいから羽織をだしねえ」
羽織を着た鳶頭が、となりの家へいくかとおもうと、一軒おいた剣術の先生のところへやってまいりました。
玄関の正面には、槍が一本|長押《なげし》にかけてありまして、両がわに高張提灯《たかはりぢようちん》がならんでおりまして、端《はじ》のところに、「一刀流剣道指南処 楠運平橘正国」という看板がかかっておりまして、門弟が玄関番をしております。
「おたのみ申します」
「どーれ……いずれから?」
「えー、あっしは、一軒おいたとなりの、鳶《とび》の政五郎てえもんですが、先生にちょいとお目にかかりてえんで……」
「ああ、さようか。それにひかえていらっしゃい……ええ、先生、申しあげます。ただいま、隣家の政五郎と申します者が、先生にお目にかかりたいとみえておりますが……」
「うん、さようか。しからば、こちらへ通すがよい」
「ああ政五郎どの、どうぞお通りください」
「ごめんくださいまし……ちっともあがらねえうちに、たいそう道場がりっぱになりましたようで……先生、こんちは」
「よう、これはこれは、政五郎どのか。そこは端近《はしぢ》か、いざまず、これへ、お通りくだされい」
「しからばごめん……と、いいたくなるね。先生のは、なにごとも芝居がかりでござんすね。じゃあ、まあ、ごめんなすって……」
「ささ、ずっと奥へ……あまりずっと通ると、裏手へぬける……なんぞご用がござってか?」
「へえ、じつは、先生に、すこーし内密の相談があってまいりましたんで、おそれいりますが、ご門弟衆をお遠ざけねがいます」
「承知つかまつった……石野地蔵《いしのじぞう》、山坂転太《やまさかころんだ》、政五郎どのが、ご内談があるという。つぎにさがって休息いたせ」
「ははあ――」
芝居がかりでございますが、つぎにさがってといったって、つぎもなんにもありゃあしません。井戸端へいって、ふたりとも日なたぼっこをしております。
「して、どのようなご用件かな?」
「じつはね、となりの伊勢勘のことにつきましてね」
「うーん、なにか伊勢屋勘右衛門のことについて……」
「先生、あんまりお調子がお高いようでござんすが、どうか内々《ないない》で……ええ、先生のところでは、このごろ、お弟子さんがおふえなすって、毎晩、夜稽古がはじまり、あっしのうちでは、若え者が、二階にあつまると、あげくの果ては、いつも喧嘩になってどたばたやりますので、となりの囲い者が、血のぼせがするとか、気のぼせがするとかいって、隠居をあおったもんとみえまして……ところが、ここの地面は、伊勢勘の抵当にはいっていて、もうすこしすると、期限が切れて、抵当流れになる。そうしたら、たかの知れた鳶頭に……先生、怒っちゃいけませんよ……たかの知れた剣術つけえだ。いくらかやって両どなりを追いだしちまって、三軒を一軒にして住もうということを、じじいがいってるそうなんで……」
「う、うーん、あの勘右衛門がさよう申すとな? 無礼者めが!! たとえ借家とは申しながら、武士がかように住まえば城廓《じようかく》でござる。それを店立てとは、城攻めにひとしいな……うん、まず表口《おもてぐち》を大手《おおて》となし、裏口を搦《から》め手といたし、前なるどぶを堀といたし、引き窓を櫓《やぐら》といたしておる。先方が、さようなことを申すのなら、当方にも覚悟がある。いや、加勢《かせい》はいらん、手勢《てぜい》をもって一戦におよばん……やあやあ、石野地蔵、山坂転太、ただちに火薬をもって、勘右衛門かたへ地雷火をしかけ……」
「まあまあ、ちょいと待っておくんなせえ。先生のいうことは、どうも大げさでいけねえや。地雷火なんざあいけませんよ。なあに、となりの家なんぞ、うちの若えやつらにひょいと合図《あいず》すりゃあ、たばこ二、三服のうちにひっくりけえすなあ、わけえありませんがねえ、まあ、ご時節がら、そういうこたあ、どうもいけねえし……そこで、ひとつ、じじいの鼻をあかしてやろうとおもうんでござんすが、ひとりじゃあおもしろくねえから、先生のところへご相談にうかがったようなことなんでござんして……すいませんが、先生、ちょっと耳を貸しておくんなせえ」
「ああ、いずれへなりと持ってまいられい」
「いいえ、べつに持っていきゃあしませんがね、もっと、こっちへ寄ってくださいな。じつはね……」
「うんうん、計略は密《みつ》なるをもってよしとす……なるほど、うん、さようであるか」
「わかりましたか?」
「わからん」
「じょうだんいっちゃあいけません。わからねえで返事してちゃあこまります」
「いや、これはとんでもないことをいたした。拙者、壮年のみぎり、武者修行をいたし、日光の山中において天狗と試合をいたし、その折り、木太刀にて横面を打たれ、それ以来、左の耳が聞こえぬように相成ってござる」
「聞こえねえほうをだすこたあねえでしょう?」
「しかし、ひとにものを貸すには、まず不用のほうより貸すが得策《とくさく》……」
「じょうだんいっちゃあいけません……そっちならば聞こえますか?」
「こちらならば、聞こえ申す」
「じゃあ、前を通りますよ。ちょいとごめんなせえ……じつはね、先生、こういうことにしてえとおもいますんで……ねえ……ようござんすか? ……」
「ふんふん、ふーん、なるほど……ふん、これはおもしろい。うん、心得た。さっそくとりかかろう」
と、なにをふたりで相談いたしましたものかわかりませんが、その日は、そのままわかれまして、翌日になると、楠運平先生、黒もめんの紋つきに、小倉の帯をしめ、その上へ団《だん》小倉の袴をはいて、鉄扇を持って、となりの伊勢勘の妾の家へやってまいりました。
「たのもう! おたのみ申す!」
「だれかでてみろ。おもてで大きな声がしているが……」
「はい、はあ、さようでございますか。ちょっとお待ちくださいまし……あのう、旦那、おとなりの先生が……」
「ああ、そうかい。こちらへお通しして……さあさあ、どうぞおはいりくださいまして……」
「ごめんくだされ。まずはじめてお目にかかる。貴殿《きでん》がご主人勘右衛門どのでござるか。拙者は、隣家に住居いたす楠運平橘正国と申す武骨者、以後、お見知りおかれて、ご別懇におねがい申す」
「これは申しおくれました。どうぞお手をおあげくださいまし。てまえは、勘右衛門と申しますまことに不調法《ぶちようほう》者、どうかお見知りおきをねがいます。じつは、ご近所に、こうやって女ばかりおりますが、お宅さまがおとなりで、大きに安心をいたしております。以後どうぞお心やすくねがいます」
「いや、これはおそれいる。いや、もうおかまいくださるな。さて、ご主人、早朝から参上いたして、はなはだなんでござるが、せっかくおなじみとなりながら、どうも道場が手ぜまに相成ったゆえ、急に転宅いたさなければならんので、じつは、おいとま乞いかたがた、今朝《こんちよう》あがりました」
「それはそれは……せっかくおなじみ申しましたものを……まことにお名ごりおしいことで……」
「ついては、はなはだ恥じいった儀でござるが、転宅の費用にさしつかえ、門人どもと相談の上、千本試合をいたし、そのあがり高をもって転宅費用にあてることにいたした。しかし、どこか場所を借りるといたしても金が必要ゆえ、拙者の道場においてもよおすことにいたしました」
「へーえ、千本試合と申しますと?」
「いや、これはな、他流、他門のあまたの剣客がまいって試合をいたすのでござるが、そのときに、なにがしかを、みんな持ってまいる。その金をあつめて転宅をいたすのでござる。本来は、竹刀《しない》試合ではあるが、なかには真剣勝負になるものもござる。ほかの稽古とちがって、ずいぶん意趣遺恨《いしゆいこん》のあるものがないともかぎらん。もっとも、てまえとても、十分に注意はいたしておるものの、なにを申すにも多勢のこと、なかには斬りあいをはじめ、首のふたつやみっつ、腕の五本や六本は、お宅のかたへころげこみ、あるいは、血だらけの者が、お宅の垣根をやぶってとびこんでくるかも知れません」
「まあまあ、ちょっとお待ちねがいます。いえ、そういうことは……あなたがたは、なんともおもわないかも知れませんが、わたしどもは、はなしを聞いただけで身がすくんでしまいます。まして、ここは、女ばかりでございますから、その千本試合ということをおやめいただくということにはいきますまいか?」
「いや、拙者とても、転宅費用をつくりだすために、やむをえずいたすのでな……」
「先生、まことに失礼ではございますが、そのお金というのは、よほどお入用《にゆうよう》でございますか?」
「いや、まず五十両もあればよかろうと存ずるが……」
「へーえ、五十両でございますか? ……ええ、かようなことを申しましては、お腹も立つでございましょうが……こうして、おとなりにおりますのもふしぎなご縁で……てまえは、せがれに世をゆずって隠居をしておりますので、たいしたことはできませんが、その五十両、てまえにださせていただくというわけにはまいりませんでしょうか?」
「いや、せっかくだが、おことわりいたそう。拝借いたしても、返却《へんきやく》のあてもござらぬゆえ……」
「いいえ、そんなことはどうぞご心配なく……てまえのほうからださせていただきたいとおねがい申しあげるのでございますから、ご都合《つごう》がおつきになればご返済《へんさい》いただくとして……いいえ、失礼ではございますが、ご返済になられんければ、ご返済くださらなくてもよろしいので……いかがでございましょうか?」
「さようか。せっかくご主人がそうおっしゃるのを、拝借いたさんのもおこころざしを無にするというものじゃな。拙者とても人命にかかわることゆえ、千本試合もいたしたくないのだ。しからば、金子は、拝借いたそう」
「さようでございますか。では、おい、その手文庫を持ってきな……へい、先生、ここに五十両ございます。どうぞ、おあらための上、おうけとりをねがいます」
「これはかたじけない。しからば借用いたそう」
「それで、いったい、いつお越しになります?」
「ああ、明日早々に転宅いたすゆえ、もうおいとま乞《ご》いにはあがりません。転宅の上は、お知らせ申す。しからば、ごめんくだされ」
「ごめんくださいまし……ああ、びっくりした。あのいきおいだから、やりかねないよ。まあ、五十両ですめば、やすいもんだな。これで、片っぽの剣術つかいはかたづいたと……え? なに? 鳶頭がきた? ああ、そうかい……こっちへおあがり」
「へえ、ごめんくださいまし」
「さあ、かまわずはいっとくれ」
「どうも、旦那、ごぶさたしてすいません」
「いやあ、ごぶさたはおたがいだが……どうもまあ、女ばかりでこうやっておくから、おまえのところがとなりにあるので、じつに安心しているんだ」
「どういたしまして、お役にも立ちませんで……つきましては、旦那、せっかくおとなりになって、なんでござんすが……じつは、きょう、おいとま乞いにあがりました」
「おやおや、どっかへいくのかい?」
「へえ、こんど大仕事をうけあいまして、うちへたくさんの職人をいれなければなりませんので、どうも手ぜまで都合がわるうございますので、引っ越そうとおもいますんで……」
「ほう、そうかい。そりゃあ、まことにお名ごりおしいが、しかし、商売の都合で越すなら結構だ」
「ついちゃあ、やすく越せねえもんで、その銭《ぜに》をつくらなくっちゃあならねえんでね。花会《はなかい》(祝儀をあつめる目的の宴会)をやってみようとおもいますんで……」
「ああ、そりゃあ結構だ。おまえの顔だから、ずいぶんたくさんあつまるだろう」
「へえ、なにしろ江戸の鳶の者四十八組でございます。その組合の者が、つきあいで大勢きてくれます。つきあいできてくれるんですから、ただはおかれません。けれども、いちいちお燗なんぞをして酒をだすのはめんどうくせえから、座敷のまんなかへ、こもっかぶりの鏡(酒樽のふた)をぬいて、ひしゃくをつけといて、酒をがぶがぶ飲んでもらって、魚河岸《かし》から、まぐろを五、六本持ってきて、出刃庖丁とさしみ庖丁をおいといて、自分で勝手にこしらえて、めいめいで食うってえようなことにしてえと、こうおもうんでござんすが……ところが、なにしろ気の荒れえやつらばかりでございますから、酒に酔ったいきおいでどんな喧嘩にならねえともかぎりません。そうなれば、そこらにゃあ、出刃庖丁がある、さしみ庖丁がある……おあつらえむきってえやつだ。てんでにそれを持って斬りあいをはじめりゃあ、首の二十や三十、胴なかから、手や足の血だらけになったのが、こちらさまのお座敷へとんでこねえともかぎりません。まあ、ごめいわくでもございましょうが、三日のあいだは戸じまりをして、そとへでないようにしていただきてえとおもいまして、おことわりかたがたあがりましたんで……」
「うん、そりゃあ結構だ。おやんなさい……おいおい、鳶頭、おやんなさい。あたしゃあ、そういうことは好きだ。いせいがいいから、さんざんおやり……しかしねえ、そんなことをいうより、『引っ越しができませんので、旦那、引っ越し料をなんとかしてください』と、なぜいってくれないんだ? そういってくれりゃあ、なんとかしてあげるんだが……まあ、それはそれとして、いったい、いくらありゃあ、引っ越せるんだ?」
「へえ、五十両ありゃあ、どうにかなりますんで……」
「五十両? そうかい、じゃあ、その五十両はだしてあげるからね、そんなおそろしい花会なんぞやめておくれ……おい、手文庫を持っておいで……さあ、ここに五十両あるから、これを持って、引っ越しとくれ」
「どうも旦那、すみませんねえ。なんだか、もらいにきたようで……」
「もらいにきたんじゃあないか」
「へえ、ありがとうございます。金さえありゃあ、いつでも越せますから、あしたの朝早く引っ越します。もうおいとま乞いにはあがりません。いずれ引っ越してからうかがいます」
「ああ、いいよ。そんなことは気にしなくても……」
「じゃあ、旦那、ごめんなさい」
「おいおい、鳶頭、ちょいとお待ち」
「へえ」
「いまねえ、となりの楠の先生もおなじようなことをいって五十両持っていったが、いったい、おまえの越すさきはどこだい?」
「へえ、あっしが先生のところへ越して、先生があっしのところへ越してまいります」
ずっこけ
むかしから、酒は飲むべしとか、いや、飲むべからずとか、いろいろとおっしゃるようでございますが、なんといっても、お酒というものは、まことにお陽気なものでございます。なかには、飲むと眠くなるなんという、これは、ごく性質《たち》のよいお酒でございますが、しまつにわるいのが、あとひき上戸《じようご》というやつで、ここでやめようとおもっても、ほかの客が飲んでいるのをみると、ついもう一本、もう一本と、いつになってもおやめになりませんから、まわりの者がたいへんにめいわくいたします。
「若い衆さん、もう一本つけてくんな」
「へえ、親方、ありがとう存じますが、だいぶお長くなりますようで、もうあなたさまおひとりでございます。どうか、またあしたお越しをねがいとうございます。それに、あまりあがっては、おからだのお毒でございましょうと、店の者が心配しております。明日《みようにち》お飲みなおしをねがいます」
「うるせえ野郎だな。大丈夫だよ。おれは、いくら飲んでも、ひとのようにゃあ酔わねえ。だんだんさめてくるという酒だ。たしかなもんだぜ。まあいいやな、もう一本持ってこい」
「最前からずいぶん持ってまいりましたが、お毒でございましょう?」
「いいから持ってこいってんだ。あっははははは……どうかうんと酔ってみてえとおもってるんだが、これがふしぎだな、酔えねえんだ。なにもおめえんところへきて、急《せ》きたてられて飲んでるにゃあおよばねえんだ。家へ帰ってみろ、おっかあが、ちゃんと膳ごしれえして待ってらあ。おいらが仕事から帰って……『おやお帰んなさい。きょうは、たいへんにおそいじゃあないか』……早く帰っても、おそいっていやあがる。『いつよりもきょうは早いんだよ』『ちょいとおまえさん、仕事からどこか変なところへまわりゃあしないかい。家にいる者の身になってごらん』って、こういうんだ……『じょうだんいうねえ。おらあ、仕事からまっすぐに帰ってきたんだ』……『また浮気でもしてたんじゃあないかい?』と、こういうんだ、おっかあがよ……」
「へえ、さようでございますかな」
「『おまえさんが仕事から帰らないうちは、まちがいでもありゃあしないかと、家にいる者は、どのくらい心配だかわかりゃあしない。おねがいだから、仕事をしまったら、すぐ帰ってきておくんなさい。顔さえみれば安心するから……』と、こういやあがるんだ。かかあは、おいらにひどく惚《ほ》れてやあがるんだ……なあ、おい、もう一本持ってきねえ」
「ありがとうございます。いかがでございましょうな、親方、そんなことをいっていらっしゃいませんで、また明日《みようにち》おいでをねがいます」
「急《せ》くねえ。大丈夫だ。なんでも心得てるんだ。おれのこの酒をさ…… とめちゃいやだよ、飲ましておくれさ、まさかしらふじゃいわれない……と、おーい、どっかへいこうか?」
「じょうだんじゃございませんよ。親方……」
「おう、ときに若え衆、おらあ、おめえんところへ、酒がいい、食いものがうめえってんでへえってきたんじゃあねえよ。おらあ、はじめての客だが、ただ、おめえの声に惚れこんでへえってきたんだ……『ええ、おひとりさん、のこで一升……』……あの声が、おらあ気にいった。なにか下地《したじ》があるな、おめえの声にゃあ長唄がへえってる」
「どういたしまして、てまえは不器用でございます。芸事はやったことがございません」
「うまくいってやがらあ。能ある鷹は、へそをかくすってな」
「おもしろいことをおっしゃいますな。能ある鷹は、爪をかくすでしょう?」
「なにいってるんだ。爪がなきゃあ、へそのごみはとれねえや……長唄の、たしか『勧進帳』にあったな、これやこの……のこで一升……と、こうくるだろう? ええおい」
「じょうだんじゃあございません……ああ、みなさん、そこへ立っちゃあいけません。このかたは酔っていらっしゃるんですから……ねえ親方、このおもてへ人が立ってしょうがありません。あなたが、さっきから唄を唄っていらっしゃるんで……」
「なにいってやんでえ。おらあ、なにもわりいことをするんじゃあねえよ。いいじゃあねえか。いくらでも立つがいいや」
「商売のさまたげになりますから……」
「にぎやかでいいじゃあねえか。おもてへ立ってるやつらから、いくらかずつ金をもらおうじゃあねえか」
「そんなことはできませんよ」
「おい、ごめんよ」
「いらっしゃい。まことに相すみませんが、今晩はもう看板にいたしました。また、明日ごひいきにおねがいいたします」
「いや、おらあ飲みにきたんじゃあねえんだ。そこにいるやつにちょいとな……」
「ああ、あなたさまは、この親方になにかご用で? ……あまりあがりましては、おからだの毒でございましょうと、さきほどから心配をいたしております」
「まあいいや。おれがきたからにゃあ……おいおい……この野郎は、どうもあとひきだからな……まあいい、おれがつれて帰《けえ》るから……おい、おう、兄弟、いつまで飲んでるんだい? じょうだんじゃあねえぜ。いいかげんに帰ってやれよ。さあ、おれが家まで送ってやる。おい、おれだよ」
「だれでえ? 肩なんぞ突きゃあがって……おや、兄貴か。いいところへきたなあ。一ぺえやんねえ」
「じょうだんいうなよ。もうおらあたくさんだ。家へ帰ってやろう。さあ、いうことを聞いて、おれといっしょに帰《けえ》んねえ」
「ありがてえ。それじゃあ帰ろう。どうだい、もう一本もらおうじゃあねえか、熱いところを……」
「おめえ、あとひきだからしょうがねえ。もう一本でおしめえだぞ」
「ありがてえ」
「おい、若え衆、こんどは、おれが承知だ。一本つけてやってくんねえ……さあ、もうこれでしめえだから、なるたく安直《あんちよく》(簡単)でいこう」
「安直でなくっていいよ」
「そうはいくもんか……おう、さあ、持ってきた、持ってきた。さあ、おれが酌をしよう」
「うまくねえな、野郎のお酌てえのは……ありがてえ、ありがてえ…… 好きなお酒を飲むなじゃあないが……」
「なんだな、唄なんぞ唄ってねえで、早く飲め。ここの店でもこまるからな」
「まあ、聞いてろやい。おれが都々逸《どどいつ》を聞かしてるんじゃあねえか…… 好きなお酒を飲むなじゃあないが、まだそのくせがやまぬのか……なんてなあ、おい、もう一本もらおうか」
「それがいけねえってんだ。さあ、帰ろう、帰ろう」
「よし、帰る、帰る」
「勘定をしたのか?」
「勘定なんざあ知らねえ」
「知らねえてえのがあるもんか。若え衆、いくらだい?」
「ありがとう存じます。お急《せ》きたて申しまして相すみません。ええ、一円六十五銭いただきます」
「一本十五銭だてえのに、たいへんに飲みやあがったなあ。さかなはなんにもねえじゃあねえか、ええ、若え衆」
「お通しものだけなんで……」
「おやおや、わりい客だな、こいつは……おう、一円六十五銭だとよ、さあ、払って帰ろう。さあ、払えよ」
「なにを手をだしゃあがるんでえ。知らねえや」
「からかうなよ。勘定をして帰るんだよ。金をだせ」
「たりねえよ」
「たりねえよって……しょうがねえなあ。よし、たりねえ分《ぶん》はおれがだしてやろう」
「だしてくれるか。ありがてえ」
「ともかく、いくらたりねえんだ?」
「五銭だよ」
「すると、一円六十銭持ってるんだな?」
「いや、持ってるのが五銭なんだ」
「ふざけなさんな。たった五銭で、いままで飲んでるやつがあるもんか」
「そんな大きな声をするねえ……じつは、風呂の帰りだ。財布なんか持ってねえんだ……一風呂へえってな、いい心持ちになってこの前を通ると、この野郎が、『のこで一升』……その声に惚れこんでとびこんだ。二合ばかりやってでようとおもって、ひょいとふところをさぐってみると、財布を持ってねえ。なじみの店なら、ついでのときに……てえことがいえるが、はじめての店だ。貸してくれともいえねえや。しかたがねえ、やぶれかぶれだから、飲むだけ飲もうと、でーんとおみこしをすえていたんだ。そういう酒はうまくねえなあ……さっきから、おらあ変な声をして唄を唄ってると、この若え衆が気をもんでね、親方、唄を唄っちゃあこまる。そとへひとが立つから……と、こういうんだ。おれのかんげえじゃあ、そのたくさんのひとが立つてえのが、こっちのつけ目なんだ。たくさん立ったなかにゃあ、きっと知ったやつがひとりぐれえいるだろう。もしもだれかやってきて、『おめえ、どうしたんだ?』と、こういったら、『勘定を払ってくんねえ』と、おれがいおうとおもって待っていたところへおめえがへえってきたんだ。ありがてえ」
「なにをいやあがるんだ。なんでも心得てやがらあ……どうだい、若え衆おどろいたろう。こんなずうずうしいやつはねえや……まあ、乗りかかった船だ。しかたがねえ。おれが払っておいてやるぜ」
「えっ、払ってくれる? ほんとうか? ありがてえや。どうだい、どっかへあそびにいこうじゃあねえか?」
「笑わせやがらあ。文《もん》なしのくせに……さあ、勘定を払ったから帰ろう」
「ああ、帰るとも、いてくれったっていたかあねえんだ。これでおらあせいせいした。あばよ……でも、このまんま帰ったんじゃあつまらねえな。じゃあ、ここの家で一ぱい……」
「なにをいってやがる。ここは焼きいも屋じゃあねえか。焼きいもで飲みなおしはできめえ」
「焼きいもの総あげをしよう」
「焼きいもの総あげてえのがあるか。そんなことをしたってつまらねえじゃあねえか」
「なあに、つまらなかあねえよ。この界隈《かいわい》の子どもをあつめて、焼きいもの『福はうち』をやってあそぼうじゃあねえか。いくらもかかるもんじゃあねえ」
「つまらねえことをいってねえで、早く帰るんだよ」
「それじゃあ、このとなりへ寄ろう」
「ここは、瀬戸物屋だよ」
「瀬戸物屋だってかまわねえ。ここへへえって、おらあ、あばれ放題あばれて、こわれただけ払やあ、それですむんだろう」
「そんなことをしたって、つまらねえじゃあねえか」
「いやならいやでしかたがねえ。なまじつれはじゃまということがあらあ。ひとりのほうが気がそろって、よっぽどいい心持ちだ。 ようよう遂《と》げていまさらに、背なかあわせに寝ようとは、ひどい仕打ちじゃないかいな……」
「おいおい、こまるなあ。交番のそばで、そんな大きな声で唄うやつがあるか。じょうだんじゃあねえぜ。つらから火がでらあ」
「物騒《ぶつそう》なつらだな。そういやあ、おめえのつらは、四角張ってて、ときどき火事をだすマッチづらだ」
「よけいなことをいうない」
「おや、ねえさん、こんちは、どうもごぶさたを……ああ、逃げちまやあがった」
「おいおい、おめえ、あの娘《こ》を知ってるのか?」
「べつに知りあいってえわけじゃあねえが、おなじ日本人じゃあねえか。やっぱり人間の女だろう」
「なにをいってるんだ。かわいそうに、まっ赤になって逃げちまった。ええ、おい、こうしよう、しかたがねえから、おれの家まで帰ってよ。ひとつあっさりと飲みなおして、それから、またどっかへあそびにいくなら、新規《しんき》にでかけようじゃあねえか」
「ありがてえ。そいつあありがてえ。はじめておめえが、そんないきなことをいってくれたぜ。おう車屋!!」
「車屋なんぞいやあしねえ」
「そんなら自動車!!」
「自動車だって、ここにゃあいやあしねえ」
「じゃあ、電車を持ってこい!!」
「電車が持ってこられるもんかい。こっちから電車のあるところまであるいていかなけりゃあ乗れねえ。けれども、そんなに酔っ払ってると、わきのひとがめいわくするから乗せねえよ」
「そんなやつがあるもんか。銭せえ払やあいいだろう。借り切りにしちゃあどうだ? いくらのもんでもあるめえ」
「大げさなことをいうねえ。なにしろ、ぶらぶらいこうじゃあねえか」
「それじゃあ、ここでちょっくら飲みなおそう」
「またはじめやがった。そこは居酒屋だ。そんなところへいったって飲めやあしねえ。さあ、いかねえか」
「いくよ。おいおい、おらあ小便がでたくなっちまった」
「なに?」
「小便がでたくなった」
「しょうがねえなあ。そんなむりをいったって……」
「むりなこたあねえ。出物腫物《でものはれもの》ところきらわずということがあらあ。人間だれしも大小便がでなくなったら死んじまうんだ。それをむりということがあるか」
「うるせえなあ」
「おい、人間、大小便が……」
「わかったよ。ああ、そこの河岸《かし》っ縁《ぷち》でやんねえ……さあ、そこでしねえ」
「そこでしねえったって、おめえ、不実《ふじつ》すぎるぜ。ねえ、そこでしねえてえのがあるけえ」
「あるかったって、でてえというから、したらよかろうてんだ」
「したらよかろうたって、おれもしらふじゃあねえ、酔ってるんだ。小便をしてるうちに、前へ突っぷして、川のなかへドブン……それっきりにならねえともかぎらねえ」
「そんなことがあっちゃあしょうがねえ」
「しょうがねえとおもったら、おれが小便しちまうまでおさえててくれ」
「そう世話を焼かしちゃあこまるなあ。さあ、おさえてるから、早くしちまいねえ」
「そんなに急《せ》いたってでやあしねえ。ひとつ号令をかけてくんねえ」
「なんだ、号令というなあ?」
「『しいーっ』と、ひとついってくれ」
「ばかばかしいや。そんなくだらねえことができるもんか」
「ばかばかしいったって、おらあ、子どもの時分からやられつけてるから、『しいーっ』という声を聞かねえじゃあ、どうも小便の出がわりいや。ひとつ『しいーっ』とやってくれ」
「ばかばかしいや。さあ、早くしてしまいなよ」
「早くったって、号令をかけてくれなきゃあでねえよ」
「しょうがねえなあ。ほんとうにばかばかしいや。ひとがみていねえからいいけれども……さあ、いいか? ……しいーっ……さあ、おい……しいーっ……これでいいだろう? ……しいーっ……」
「なんだ、にわとりを追うんじゃああるめえし、しっしっというもんだから、せっかくいいあんべえにでかかったのが、とまっちまうじゃあねえか。長くしいーっとたのまあ」
「ばかばかしいなあ。じゃあやるぜ。さあ、しいーっ」
「あっはははは、ああ、いい心持ちだ。あとをしまってくれ」
「自分でしまいねえな。あとかたづけまでひとにさせるやつがあるかい。ばかばかしい……さあ、おい、こっちへいくんだよ」
「じゃあ、ここへへえろう」
「いらっしゃいまし」
「おい、へえっちゃあいけねえよ」
「ここで、ひとつ飲みなおそう」
「またはじめやがった……おい、ねえさん、酔ってるからかんべんしておくれ……まあ、こっちへきねえ。ほんとうにしょうがねえな」
「なんだ、べらぼうめ、酔ってたってたしかなんだ。おい、車屋!!」
「またはじめやがった。車屋さん、酔ってるからかんべんしておくれ。こまるなあ、やたらによんじゃあ……車屋さん、おまえさん、お客を待ってるんだね。ああ、そうだろう。お医者さまの車夫《おとも》さんに声をかけたってしょうがねえ」
「なんなら、ほかの車をさがしてあげましょうか?」
「いや、ご親切にありがたいが、もうじきなんだから……」
「おう、おらあ、もうあるけねえ。おらあ乗るよ。むこうで車をさがしてやるというんじゃあねえか」
「けれどもさ、こまるよ。ばかばかしい……なにしろ、こっちへおいでおいで……」
「いやだ、いやだ。じゃあ、おれひとりでどっかへ……」
「しょうがねえなあ。そういつまで世話を焼かしちゃあ……さあ、いかねえか」
「おや、こんちくしょう、ひとの襟髪《えりがみ》をとって引っ立てやがったな。こんちくしょう、喧嘩《けんか》か!!」
「喧嘩じゃあねえよ。こまるてえことさ。さあ、おれにおぶさるようになんねえ」
「おや、おれを、ねこの子だとおもってやあがるな。ひとをぶらさげやがって……」
「さあ、そうぶらさがっちゃあしょうがねえ。あるかなくっちゃあいけねえや。おい、足をうごかすんだ。いいか?」
「いいかったって、襟っ首を引っ立てやがって、のどが苦しいやい」
「苦しいったって、あるかなくっちゃあしょうがねえや。もうこれっきり、どんなことがあったって、てめえとはつきあわねえぞ。こんな世話を焼かされたことは、いままで何十ぺんだかわかりゃあしねえ。もうこれが世話の焼きじめえだ。さあさああるかねえか。そうひとにぶらさがっちゃあ、重《おも》たくってしょうがねえ。なんの因縁だか知らねえが、おめえと友だちになって、いつでもこんな目にばかり逢わされるんで、ときどき、おらあかんげえることがある。さあ、あるかなくっちゃあしょうがねえ……おお重い。汗をかかせやあがるな。ばかばかしいじゃあねえか……そうだ、それ、そういうふうにあるいてくれ。ああ、それで楽になった……お梅さん、お梅さん、ちょっとここをあけてくんねえ。また酔っぱらっちまったんだ」
「あらっ、ほんとうにしょうがないひとだねえ。まことにすみません。毎度ご厄介になって……これで酔いがさめると、『兄貴にたいへんに世話になった。つきあって、あんなおもしろいひとはない』なんていってるんですよ」
「おれもな、ふだん、こいつがいいやつだもんだから、長くこうやってつきあってるが、飲むと、ひでえ目にばかり会って、ほんとうにばかばかしいったって……往来を通る女をからかったり、さんざん飲んで一軒でると、また飲みなおそうの、あそびにいこうのって、しまつにおえねえ。酔っぱらいをつれて、どこへいかれるもんじゃあねえ。だましだまし、やっとつれてきたんだが、車へ乗るったって、こんなに酔っていちゃあ、いくらふんだくられるか知れやあしねえ。電車へ乗ったって、ひとと喧嘩しちゃあこまるし、どうせ五、六丁だ、肩へひっかけてつれてきたんだが、ほんとうに弱っちまうじゃあねえか。家でも始終《しじゆう》うわさしてるんだ。銀さんのおかみさんは、よく愛想がつきねえ。子どもでもいりゃあとにかく、毎日毎日酒ばかり飲んでる酔っぱらいの守《も》りをしながら、かせいでいるのは感心だって、うちの女房とほめてるんだ」
「ほんとうに、わたしだって、ときどきかんがえることもあるんですよ。酔っぱらって帰ってきて、むりばかりいわれると、『ああいやだ。もうわかれよう。なにも子どもがあるというわけじゃあなし……』って……ところが、酔いがさめると、そりゃあ親切にしてくれて、すこしからだでもわるいと、そばへきて、からだをさすってくれたり……」
「そんなことをなにも聞きにきたんじゃあねえ。それじゃあ、おめえののろけを聞くようなもんだ。さんざっぱら酔っぱらいの世話をさせられた上、かみさんにのろけられた日にゃあ、なにがなんだってばかばかしいや。こうやって心配して、家までつれてきてやったんだ。いくら酔ったって、なんとかひとことぐらい礼をいったっていいじゃあねえか、生酔い本性《ほんしよう》たがわずってえから、まるっきり知らねえこともあるめえ」
「ほんとうにどうもすみません……もし、おまえさん、どうしたんだねえ、ちょいと……あれっ、つぶれちまった……おやおや兄さん、着物ばかりで、家のひとはいませんよ」
「なに、いねえことがあるもんか。重い思いをしてかついできたんだ」
「それでもいませんが……」
「いねえわけはねえ。襟っ首のところを持って肩へかけてきたんだ。横町をまがると、はてな、だいぶ軽くなったが……ああ、襟っ首を引っ立って、おれが腹立ちまぎれに夢中できたが、野郎、ふところ手をしていたから、ことによったら、ずっこけやがったかな? こりゃあたいへんなことをしちゃった。しかたがねえ。またいってめっけてこよう……厄介なことになるもんだな。ばかばかしいたって、どこでぬけちまやあがったんだか……なんでも、もときた道をいきゃあまちげえあるめえ……ああ、あそこにいやあがる。曲りっ角の赤いポストのそばで、すっぱだかでいばってやがる……やい、てえげえにしろ。往来で、すっぱだかでふんぞりけえって、ぐずぐずいってるやつがあるか」
「さあ、だれだ? おれに追いはぎをしゃあがって……なんだ、兄貴か、この野郎め、おれの着物をはぎゃあがって……」
「くだらねえことをいうな。ばかばかしい」
「やい、こんちくしょう、てめえは、ふだんいいなりをしてるから、どうも変だとおもったら、内職に追いはぎをしてやがるんだな」
「じょうだんいうねえ。てえげえにしろ。ばかばかしい。おまわりさんでもきたらどうする? すっぱだかで往来にころがって、ぐずぐずいってちゃあしょうがねえ」
「なにをいやあがるんだ、この野郎、追いはぎをされた上に、割り前をとられちゃあ、たまらねえや」
「なにをいってやがるんだ。さあ、いかねえか」
「おや、ひとの腕を持ちゃあがったな。こんちくしょう、こんどは、腕を持っていくつもりだな。こうなりゃあ、かんべんできねえ」
「くだらねえことをいわねえで、しっかりしろよ。あきれけえってものがいえねえ。もうこれで、てめえたあ、つきあわねえからそうおもえ。何十ぺん世話を焼かせられたか知れやあしねえ……おい、お梅さん、お梅さん、あけてくれ。四つ辻のポストのところで、すっぱだかでいばっていた。それもいいが、内職に追いはぎをするだろうなんて、大きな声でどなりやあがって、夜がふけてるからいいようなものの、ひとにでも聞かれたら、どんなにきまりがわりいか知れやあしねえ。さあ、いいかい? たしかにつれてきたぜ。うけとってくれ」
「まあ、なんだねえ、すっぱだかで……どうもありがとう存じます。ほんとうにおまえさん、しょうがないね。どんなに心配したか知れやあしない。それでもまあ、よくひとにひろわれなかったこと……」
うそつき村
うそつきは、どろぼうのはじまりなどといいまして、うそというものはよいものではございませんが、しかし、だれが聞いても、すぐにうそとわかるようなうそは、かえってばかばかしくて愛嬌のあるものでございます。
「へえ、旦那、こんちは」
「おや、どうしたい? ずいぶんこなかったが、どこかへいってたのか?」
「へえ、ちょいと旅にでてました」
「どこへいったんだい?」
「ほうぼうへいきましたなあ……旅から旅の旅がらすってやつで……で、あたしがいって、一番おどろいたのが、あの信州てえとこです」
「どうおどろいたい?」
「いや、どうもねえ、さむいんでおどろきました」
「そうだってなあ。いや、あたしゃあ、いったことはないが、さむいそうだなあ」
「えーえ、信州も山のなかとくると、じつにたまりません。なんでも氷っちまうんですから……」
「ほう、どんなものが氷る?」
「へえ、酒なんぞは、こっちでは、飲むといいますが、あちらでは、氷ってますから、かじるといいます」
「じょうだんいいなさんな。酒は、氷らねえもんだというぜ」
「それが、氷るんですから、さむいの、なんのって……あっちで、食べあきたのは、かもです」
「鳥のかもかい? そんなにとれるのか?」
「ええ、もう手でつかまえることができるんで……たんぼに、うすくこおりがはっているのが、日があたってとけますと、そこへかもがとんできまして、ぽちゃぽちゃあそんでいるうちに、こおりがはってしまうから、いくらばたばたやっても、とぶことができません。そこへかごをしょっていって、鎌でもって足をのこして刈《か》っちまうんで……で、それを、どんどんかごへいれてもってかえります」
「ほんとうかい?」
「ええ、ほんとうですとも……なにしろ、いくらでもとれますから、やせたやつなんざあ、どんどんすてちまいまして、むくむくとふとったやつばかりもって帰ります」
「もったいないじゃあないか」
「いいえ、むだにはなりません。そんなくずは、ひろいにくるやつがいるんで……かもくずひろいといって……」
「ばかなことをいうな」
「春になりますとね、刈りのこした足から芽《め》をふきます。これをかもめというんで……」
「いいかげんにしろよ。もっとまじめなはなしはないかい? まったくまあ、よく口からでまかせに、そんなうそがつけたもんだ」
「ええ、うそときちゃあ、めしよりすきなんで……まあ、うそをつかせたら、あっしゃあ、日本一だとおもいますね」
「しかし、あまりいばれないぜ。向島《むこうじま》のずっとさきに、うそつき村という村があって、そこに、てっぽうの弥八《やはち》というひとがいる」
「なんです、そいつは?」
「つまり、おまえみたいなやつで、口からでまかせに、ぽんぽんうそをつくんで、てっぽうの弥八というんだ。こいつには、いくらおまえでも、かなうまいとおもうんだ」
「じょうだんいっちゃあいけません。てっぽうの弥八だろうが、なんだろうが、あっしも神田の千三つで、うそにかけちゃあ、だれにもまけねえつもりで……」
「そうか。なにしろ、その村にいるものは、ひとりのこらずうそをつくんで、だれも、ほかの村のものは、つきあわないそうだ。そのうそつき村でも、弥八という男が、一番うそがうまいそうだ」
「そうですか。じゃあ、さようなら」
「おいおい、どこへいくんだ?」
「そのうそつき村へいって、てっぽうの弥八というやつをまかしてきます」
「よしなよ。まけるといけないから……」
「だいじょうぶですよ。さようなら」
というようなことで、千三つが、うそつき村へむかいました。
「ええ、ちょっとうかがいます」
「はいはい、なんですか?」
「このへんに、うそつき村というところがございますか?」
「ああ、うそつき村ですか。失礼ですが、どういうご用か知らないが、あの村へいくのは、およしになったほうがいいですよ。あの村のやつらは、うそばかりついていて、どうもしょうのないやつらなんですから……わたしどもは、毎日顔をあわしても、口もきかないくらいですよ」
「へえ、ご親切にありがとうございますが、あたしも、やっぱりうそのほうのなかまなんで……ああ、さようでございますか。ありがとうございます。さようなら」
「ええ、すこしばかりおうかがいいたします。このへんに、てっぽうの弥八さんというおかたがおいでですか?」
「ああ、弥八をおたずねなさるんですか? で、あなたはどなたで?」
「ええ、あたしは、神田で、千三つとあだ名をとってるくらいのもので……千のことをいううちに、三つしかほんとうのことをいわない人間で、このごろ、てっぽうの弥八なんて、いいかげんなうそつきがでてきたそうだから、どんなやつだか、一ぺんあってはなしてみて、もしもみこみがありそうだったら弟子《でし》にしてやろうとおもって、わざわざたずねてきたんで……」
「おやおや、それは、まことにお気の毒なことで……いえね、じつは、弥八は、先月、旅へでました」
「えっ、旅へでた? なにしにいったんで?」
「あたらしいうそをしらべてくるといって、でかけていきましたよ」
「ああ、そうですか。家はどこです?」
「むかいがわの、あのひっこんだ家ですよ」
「ああ、そうですか、ありがとうございます」
いわれた家へやってまいりまして、
「ええ、ごめんくださいまし」
「はい、いらっしゃい」
「てっぽうの弥八さんのお家は、こちらですか?」
「あなたは、どなたです?」
「あたしは、神田の千三つといううそつきの名人で、弥八というひとが、うまくうそをつくということを聞きましたので、どのくらいのうでまえか、ためしてやろうとおもってやってきましたんで……」
「そうですか。いままで家にあそびにきていましたが、なんだか、二、三日前から、すこしあたまがおかしくなってきたようなんで……」
「へえー、そうですか……で、弥八さんのお家は、こちらではないので?」
「ええ、むこうがわの、もっとさきのほうですよ」
「ああ、そうですか」
「むこうに、大きな松の木がみえるでしょ? あの木のすぐうらですよ」
「ああ、そうですか。どうもありがとうございます……ええ、ちょっとうかがいます。てっぽうの弥八さんのおたくは、こちらでございますか?」
「いいえ、弥八さんの家は、むかいがわで、もっとさきですよ」
「そうですか。さようなら……こりゃあ、いけねえや。どうも、こうあるかされちゃあ、やりきれねえ。なるほど、うそつき村だというが、どこへいっても、口からでまかせのことばかりいってやがらあ。このまま帰るのもくやしいが、いったいどこなんだろうな……ああ、子どもがあそんでやがる。子どもは正直《しようじき》なもんだから、子どもに聞いたらわかるだろう……坊や、坊や」
「なんだい? おじさん」
「おまえ、てっぽうの弥八さんてえひとを知らないか?」
「知ってるとも、おれのおとっつぁんだ」
「そうか、家はどこだい?」
「おじさんは、だれだい?」
「おれは、神田の千三つという、うそつきの大先生だ。おまえんところのおやじは、なまいきにうそをつくというから、みこみがあるようなら、弟子にしてやろうとおもって、たずねてきたんだ」
「ああ、そうかい、おとっつぁんがいたら、さぞよろこぶだろうな。このあいだから、そういってたよ。みこみのあるやつがいたら、弟子にしてやってもいいって……おじさんは、名人かい?」
「おれは名人だ。おやじはどこへいった?」
「この土手へあがって富士山をみていたがね、『なんだか富士山がたおれそうになった。富士山がたおれたら、日本の名山《めいざん》がなくなっちまう』ってね、けさ、富士山へつっかい棒をしにいったよ」
「うーん、子どものくせに、なかなかやるなあ……で、おっかさんはどうした?」
「おっかさんはね、よごれものがたまったからってね、近江《おうみ》の琵琶湖《びわこ》までせんたくにいったよ」
「うまいな。なかなかみこみがある子どもだ。どうだ、坊や、おじさんの弟子にしてやろうか? おまえ、うめえや。そううそをつかなくっちゃあおもしろくねえからな。おやじが山へいって、おっかさんが湖《みずうみ》へせんたくにいったというのはうめえもんだ。うそもそのくらいもっともらしくなくちゃあだめだ。るすならしょうがねえから、またでなおしてこよう」
「おじさん、せっかくきたのに、うまいものがなくって気の毒だな。けさ、まきが五わばかりあったのを、三ば食っちまったから、あと二わしかのこっていねえが、食っていかねえか?」
「たいへんなことをいう子だなあ……うん、おれも、さっき五わばかり食ってきたから、まだ腹がくちいや」
「そうかい。じゃあ、たどんはどうだい?」
「たどんもたくさんだ。じゃあ、またくるとしよう」
「おじさん、いるんだよ。おとっつぁんもおっかさんも家にいるんだよ。おい、おじさん、お待ちよ」
「ああ、おどろいた。子どもがあれじゃあ、おやじにあったら、とてもかないやしねえ」
「おい、おじさん、そっちへいくと、おおかみがいるよ……ああ、そっちへいくと、うわばみがでるよ」
「あんなことをいってやがる。なんでもかまうもんか。にげちまおう」
「あはははは、とうとうにげちまった」
「やい、なにしてるんだ?」
「ああ、おとっつぁん、帰ってきたのかい。いま、おもしろかったぜ」
「なにが?」
「いまね、神田の千三つってえやつがたずねてきてね、てっぽうの弥八はいるかってえから、おとっつぁんは、るすだっていってやったんだ」
「しょうがねえやつだな。いくらおしえてもわからねえで……いたらいねえといって、いねえときには、いるというんだ」
「けれども、おれが、おどろかしてやったよ」
「なにを?」
「その千三つってやつがね、おとっつぁんのことを、『みこみがあったら弟子にしてやる』なんていやあがったからね、うちのおとっつぁんもそういってた、『みこみのあるやつがきたら、弟子にしてやってもいい』といってたから、さぞよろこぶだろうっていったら、おどろいてやがった。それからね、『おとっつぁんは、どこへいった?』って聞くから、『富士山がたおれないようにつっかい棒をしにいった。おっかさんは、近江の琵琶湖へせんたくにいった』っていったら、『子どもにしちゃあうまい』ってほめてやがった。それからね、『なにもごちそうはないが、けさ、まきが五わあったのを、おれが三ば食って、あと二わのこってるから食わねえか』といったら、あいつも、『けさ、五わ食ってきたからたくさんだ』なんて、やせがまんをいってやがった。『それじゃあ、たどんを食わねえか』っていったら、おどろいてにげだしゃあがった。それからね、『おとっつぁんも、おっかさんもいるんだよ』っていっても、どんどんにげていくから、そっちへいくと、おおかみがいるの、うわばみがでるのってどなってやったら、あわててころがりながらにげていっちまった。そうしたらね、あとへ財布《さいふ》をおとしていきゃあがったので、あけてみたら、十円|紙幣《さつ》が、いっぱいはいってたよ」
「そんな大金を、子どもがもっていちゃあいけねえ。こっちへだせ」
「おとっつぁん、うそだよ」
「ばかっ、親にうそをつくやつがあるか」
「だって、おれは、てっぽうの弥八の二代目なんだから、いまのうちから、うそのべんきょうをしなくっちゃあ……それはそうと、おとっつぁん、どこへいってたんだい?」
「いま、大きな桶《おけ》をみてきたんだ」
「風呂桶かい?」
「そんなんじゃあねえや。この世界が、すぽっとはいるくらいの大きな桶だ」
「ずいぶん大きな桶だねえ。そういえば、おれも大きな竹をみたよ」
「ふーん、どんな竹だ?」
「うらの山へのぼったらね、たけのこがひとつでてたんだよ。みているうちにね、それが、ずんずんずんずん大きくなって、とうとう雲のなかへかくれちまったよ」
「それからどうした?」
「すこし経《た》つとね、こんどは、上のほうから竹がさがってきてね、それが地面につくと、それへ根がはえてね、また一本竹がでてね、ずんずんずんずん大きくなっていって、雲のなかへかくれていっちまったかとおもうと、また上からさがってきて、それが地面につくと、また根がはえて、そのそばからでた竹が、ずんずんずんずん大きくなって……」
「やいやい、いいかげんにしろ。そんなばかばかしい竹があるもんか」
「だって、そんな竹がなけりゃあ、世界がはいる桶のたがにこまるじゃないか」
三年目
たいへんに仲のよい若夫婦がございましたが、あんまり仲がよすぎたせいか、このお嫁さんが、ちょっとしたかぜから床につきました。さっそく医者にもみせましたが、だんだんわるくなるばかりで、もういまは、枕《まくら》もあがらない大病でございまして、ご亭主は、昼も夜も、つきっきりの看病でございます。
「おい、おまえ、薬を持ってきたよ」
「はい、ありがとうございます」
「おあがりよ。先生がね、飲みいいように調合したとおっしゃったから……ああ、それから、口なおしも枕もとにあるからね……もうすこしさすろうか?」
「いいえ、もったいない」
「なにも、もったいないなんていうことはない。なんでも遠慮なくおいい。そんなに遠慮をすると病気にさわるよ。それよりは、薬をどんどん飲んで、一日も早くよくなっておくれよ」
「おそれいります。あとでいただきます」
「あとでといわずに、わたしのみている前でおあがり……いいえ、いけない。わたしがみていないと、飲んだふりをしてすててしまうじゃあないか。薬を飲まなくてはなおらないよ」
「わたしは、もう、薬を飲んでもなおりません」
「そんなことがあるもんか。病《やま》いは気からというんだから、気持ちをしっかり持って、岩へかぶりついてもなおろうという気にならなくちゃあいけない。おまえは若いんだから、その気になりさえすりゃあ……」
「そんなことをおっしゃっても、わたしは存じております」
「存じてる? なにを?」
「このあいだ、お医者さまがおみえになったとき、あなたを屏風《びようぶ》のそとへお呼びになって、なにやらないしょばなしをなすっていらっしゃいましたから、わたしが寝たふりをして耳をすましておりますと、先生が、『どうもわたしの手にあまるようだから、だれかほかの医者にみせるならばみせてください。お薬は、まずあげておきましょうけれども……』と、おっしゃいました。あの先生で、もう六人目、あれだけたくさんのお医者さまに見放《みはな》されるようでは、どうせ長い命ではございません。でございますから、一日も早くあなたのご苦労をのぞき、わたしも早く楽になりたいとおもっておりますが、たったひとつ気がかりなことがあって、死ぬにも死ねません」
「そんな、死ぬなんて縁起でもないことをいうもんじゃあないよ。まあ、おまえが聞いてしまったのなら、かくすわけにもいかないが、あれは、病人には聞かせないほうがいいというから、それでだまっていたんだ。しかし、あのかたばかりが名医というわけではなし、この広い江戸には、ほかにいくらでもいいお医者さまがあるから、ほかの先生をおたのみしようよ。けれども、おまえ、気になることをいったねえ。まあ、そんな死ぬなんてえこともあるまいが、なんだい、その気がかりなことがあって死ぬにも死ねないてえのは? わけをはなしておくれ。それを果《は》たしてあげたら、おまえのは、気病みというやつなのだから、なおらないこともあるまいとおもうから……さあ、遠慮なくいっておくれ」
「いいえ、それは、とてもできませんことで……」
「できないこと? ……そんなことをいわずにいっておくれ。なんでもするから……」
「だめでございますよ」
「そんなことはないよ。なんでもそうおいいよ。きっとしてあげるから……」
「じゃあ、ほんとうにかなえてくださいますか?」
「ああ、かなえてやるとも……で、なにが気がかりなんだい?」
「ほかではありませんけれども、気がかりというのは……おほほほ、あなた、お笑いになるから……」
「なにをいってるんだ。笑ってるのはおまえのほうじゃあないか。だれも聞いてるものはないからおいい」
「それでは申します。わたしがご当家へまいりまして、まだ二年|経《た》つか経たないうちに、この病気でございます」
「うん」
「わたしのようなふつつか者でも、あなたは、ふだんから、かわいがって、やさしくしてくださいまして、この病気になってからというものは、片時《かたとき》もはなれずに、こうやってご看病くださいますが……」
「うん、それがどうした?」
「で、まあ、わたしが亡《な》いのちは、あなたもお若いことでございますから、またお嫁さんをおもらいあそばして、わたしのように、こうして大事にしてあげるだろうとおもうと、うらやましくて、それが気がかりで……」
「じょうだんいっちゃあいけないよ。なにをいうかとおもったら、それだけのことかい? それならば安心なさい。まあ、そんなことはないよ。そんなことはあるまいけれども、もしものことがあれば、わたしは女房は持たない。生涯ひとり身でいるから……」
「いいえ、それはだめでございますよ」
「いくらどんなことがあっても、わたしは持たないよ」
「あなたが、いま、いくらそうおっしゃってもいけません」
「なぜ?」
「なぜって、あなた、まだお年はお若うございますし、おとっつぁんやおっかさんもおありあそばし、ご親類もあり、後妻《のちぞえ》を持てとすすめられれば、どうしても、あなたが、強情を張り通すことはできません。それも、半年や一年はともかくとして、だんだん日が経てば、とても持たずにはいられません」
「じゃあね、こういう約束をしよう。まあそんなことはないが、万一おまえがまちがいがあったときに、親類や両親がいろいろすすめて嫁をとれといっても、どうしても持たないつもりだが、ことわりきれなければ、一応承知をするから……」
「まあ、ご承知なさるので?」
「まあ、お聞きよ。そうなったら、いよいよ婚礼という晩に、おまえがそれほどまでにおもうのならば、幽霊になってでておいでよ。いいえ、おそろしいことなんぞあるもんか。わたしは、おまえがでてきてくれればうれしいくらいなんだから……まあ、わたしはこわくはないが、気の弱い嫁は、きっと目をまわすよ。目をまわさないまでも、あくる日は、実家へ逃げてっちまうにちがいない。そういうことが二、三度つづくと、あすこの家には、先妻の幽霊がでるといううわさが立って、だれも嫁にくる者はなくなる。そうすれば、わたしは生涯ひとり身でいられるじゃあないか。だから、もしもまちがいがあったときには、幽霊になってでておいで」
「じゃあ、わたしが幽霊に……」
「ああ、かならずでておいで。八つ(午前二時)の鐘を合図に……」
「きっとそういたします」
つまらない約束をしたものでございます。しかし、それで安心をしたものとみえまして、とうとうおかみさんは、亡くなってしまいました。
泣く泣く野辺《のべ》の送りもすませ、三十五日、四十九日と経ち、まだ百ヵ日も経たないうちに、若い者をひとり身で置いてはいけないから、後妻《のちぞえ》をもらったらよかろうと、親類からさかんにすすめられるようになりました。はじめのうちは、なんとかいいのがれをしておりましたが、どうにもことわりきれなくなって、後妻《のちぞえ》をもらうことにはなしがきまりまして、いよいよ婚礼の当日になりました。
仲人《なこうど》は宵の口、早くおひらきになって、寝間にはいり、ふとんの上に坐りましたが、ご亭主は横になりません。なにしろ、八つの鐘がボーンと鳴れば、幽霊がでてくるというんですから寝るどころではございません。お嫁さんのほうも、ご亭主が寝ないのに、ふんぞりかえって寝るわけにもいきませんから、これももじもじしております。お嫁さんこそいいつらの皮で……
「おやすみなさい。いいえ、遠慮しないでもいいから、おやすみなさい」
「でも、あなたがおやすみなさらないでは……」
「なんどきだい?」
「ただいま四つ(午後十時)でございます」
「四つか……九つ(午前零時)、八つと……まだ間《ま》があるな」
「なんでございます?」
「なに、よろしいから、わたしにかまわずおやすみなさい」
「でも、わたしだけが……」
「なあに、いいんだから……なんどきだい?」
「ただいま四つ半(午後十一時)ございます」
「四つ半? うーん、そりゃあ、なかなかたいへんだ。あしたつかれるからおやすみなさい」
「あなたも、すこしはおやすみあそばせ」
「わたしに遠慮しなくてもいいから、おまえさん、おやすみなさい。だめなんだから……」
「だめ? なにがだめなんでございます?」
「なに、よろしい。いま、なんどきだろう?」
「ただいま九つで……」
「九つか……そろそろおいでなさるな」
「どちらへおいでになります?」
「いや、どこへもいくわけじゃあない……しかし、つまらん約束をしたもんだ」
「えっ、なにかお約束あそばしましたか?」
「いや、べつに……こっちのことだから……なんどきです?」
時刻《とき》ばかり聞いていて、どうしても寝ないでおりましたが、さすがに嫁がかわいそうだとおもいましたから、横になって枕につきましたが、眠るどころではございません。いまか、いまかと待っているうちに、とうとう夜があけてしまいました。
「とうとうでなかったなあ。もっとも幽霊も十万億土からくるんだから、初日には、間にあわなかったのかも知れないな。してみると、今夜はきっとでるだろう」
とおもっておりましたが、二日目の晩になっても、やはり幽霊はでません。なんだい、二晩もすっぽかしゃあがって、ずいぶんいいかげんじゃあないか。きょうは三日目、いくらなんでも今夜こそでてくるだろうと、おもっておりましたが、三日経っても、七日経ってもでてまいりません。ああなんということだろう、こりゃあ、化けてでるの、とり殺すのということはやっぱりないものだと、はじめて悟《さと》りました。してみれば、後妻《のちぞえ》だって、まんざらいやでもらったわけではございません。しだいに仲もむつまじくなって、間もなく、この二度目のお嫁さんが妊娠をいたし、月満ちて玉のような男の子が生まれました。まあ、たいてい子どもが生まれると、玉のようなと形容いたしますが、なかには、たどんのようなのもございます。
その年もすぎ、翌年もすぎて、先妻の三回|忌《き》の法事になりました。後妻《のちぞえ》も、死に跡を承知できたお嫁さんでございますから、その手前をはばかることもございません。当日は、子どもをつれて、夫婦そろって仏参をすませて帰ってまいりました。
昼のつかれでぐっすりと寝た真夜なかに、ご亭主がふと目をさまして、
「おいおい、坊が目をさましたよ。あれ、りこうなもんだな。もぐりこんでって、おふくろの乳をくわえてる。それでも、昼間、寺まいりにいって、観音さまへまわってあそんできたもんだから、いくら子どもでもつかれているとみえて、乳首をくわえたまま、またすやすやと眠ってしまった……なんどきだろう? ……もう八つかな? ……あーあ、しかし、きょうは墓まいりをしてきたが、神まいり仏まいりをしたあとというものは、まことにいい心持ちのものだ。女郎買いの朝帰りとは大ちがいだなあ……さっき墓へ手をあわせて拝んでるうちに、妙な感じがしたな。この女には聞かされないが、先妻《せん》のがきょうまで生きていて、こういう子どもでもできたら、じいさんばあさんもどのくらいよろこんだか。あの時分には、まだおやじも案じて、ここへ店をだしたからといっても、ものに馴《な》れなかったから、ずいぶん先妻《あれ》にも苦労をさせたが、早死にをしたのはかわいそうだった」
と、おもいますと、どうもいい心持ちではございません。すると、枕もとのあんどんがぼんやりと暗くなると、縁側の戸でもあけたように、さーっと吹きこんでくる風に、障子へサラサラサラサラと毛のあたる音がいたします。
はてなんだろうとふしぎにおもって、腹ばいになって、煙管《きせる》の雁首《がんくび》を屏風《びようぶ》のふちへかけて、ひょいとひらいてみると、先妻が、緑の黒髪をふりみだして、さもうらめしそうに枕屏風のそばにぴったり坐っております。
「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……きょうの法事の礼になんぞくるにはおよばない。なんだっていま時分でてきたんだ?」
「なにをおっしゃるんです。あなたは、ほんとうにうらめしいおかたでございますね。あれほどかたくお約束をあそばしながら、百ヵ日も経たないうちに、こんな美しいお嫁さんをお持ちになって、おまけに赤ちゃんまでこしらえて、仲よく暮らしていらっしゃるというのは、あんまりじゃあございませんか。それではあまり約束がちがいましょう?」
「おいおい、おかしないいがかりをつけちゃあいけないよ。おまえは、生きていたころは、たいへんにものわかりのいい女だったが、死んでしまうと、そうもものわかりがわるくなるのかねえ。なるほど、そりゃあ、おまえのいう通り約束はしたよ。約束はしたけれども、おまえの心配してた通り、おやじや親類の連中が承知しないために、よんどころなくこの女を嫁にむかえた。けれども、かねて約束があったから、今夜はでるか、今夜はでるかと、こうもりじゃあないが、昼間寝て、夜は起きて待っていてみたが、いく日経っても、おまえはでてこなかったじゃあないか。それでいて、こんな子どもまでできたあとで、いきなりでてきて、そういううらみをいわれてはこまるじゃあないか。気のきいた化けものは、もうとっくにひっこむ時分だ。なんだっていま時分でてきて、そんなことをいうんだい?」
「ええ、そりゃあ、死んだって、気はたしかにのこっておりますから、この世のことがわからないということはございません。それどころか、どなたのお世話で、何年何月何日にお嫁さんがおいでになって、いつ赤ちゃんがお生まれになったということまで、よく存じております」
「そんなにわかってるなら、なぜもっと早くでてこないんだ?」
「それは、あなた、無理でございます」
「無理? なにが無理なんだ?」
「だって、あなた、わたしが死んだときに、みなさんで、寄ってたかって、わたしを坊主あたまになすったでしょう?」
「そりゃあ、おまえ、葬式のときの習慣《ならわし》だからね、親類の連中が、みんなひと剃刀《かみそり》ずつ剃《そ》ったさ」
「それごらんなさいまし。坊主あたまででたら、愛想《あいそ》をつかされるとおもって、三年のあいだ毛ののびるのを待っておりました」
金の大黒
「おいおい、みんなあつまったかい?」
「ああ、これでみんな顔がそろったようだ。で、なんだい?」
「うん、大家がなあ、みんなそろってやってきてくれとこういうんだが、どうせろくなことじゃあねえとおもうがなあ」
「なんだろうなあ?」
「まあ、おれのかんげえじゃあ、ちんたなの催促《せえそく》じゃあねえかとおもうんだが……」
「なんでえ、その、ちんたなってえのは?」
「店賃《たなちん》さ」
「店賃? 大家が店賃をどうしようってんだ?」
「だから、催促だてんだよ」
「催促? ずうずうしいもんだ」
「べつにずうずうしかあねえやな……みんな相当たまってるんじゃあねえかい? どうだ? 辰つぁんとこなんざあ……」
「はっはっは、めんぼくねえ」
「めんぼくねえなんてえところをみると、持ってってねえな?」
「それがね、ひとつ払ってあるだけに、めんぼくねえんだ」
「ふーん、なにもめんぼくねえこたああるめえ。店賃なんてのは、月にひとつのもんじゃあねえか」
「いえね、毎月ひとつずつ持っていきゃあ、めんぼくねえことがあるもんか」
「ふーん、そりゃあそうだ。じゃあ、半年も前《めえ》に持ってったのか?」
「いや、半年前なら、なにも赤くなるこたあねえや」
「一年前か?」
「一年前なら、おどろくこたあねえやな」
「二、三年前か?」
「二、三年前なら、大家のほうから礼にくらあ」
「ふざけちゃいけねえや……一体《いつてい》いつ持ってったんだよ?」
「うん、月日のたつのは早えもんだ。きのう、きょうとおもってたが、おれが、この長屋へ越してきて十八年になるがねえ、そのときひとつ持ってったきりだ」
「へーえ、十八年?! 仇討ちだね、まるで……おう、松つぁん、おめえは?」
「おれもひとつやってあらあ」
「十八年前か?」
「おやじの代だ」
「たいへんなやつがでてきやがったなあ……亀ちゃんとこはどうしたい?」
「なにが?」
「おめえんとこの店賃は?」
「どっちでもいいや」
「どっちでもいいってえやつがあるか。持っていったのか、持っていかねえのか?」
「どっちでもまかせらあ」
「まかせちゃあいけないよ……甚兵衛さんとこは、店賃はどうしたい?」
「店賃? ……店賃てなんだ?」
「あれあれっ、店賃を知らねえのがいるぜ。あのね、大家さんとこへ毎月持ってく金だよ」
「ええ?」
「大家さんとこの金」
「ああ、まだもらってない」
「じょうだんいっちゃいけない。大家から持ってくるやつがあるもんか。おまえさんがだすんだ」
「おれが? へーえ、そいつあ初耳だ」
「なんだい、どうもおどろいたね……これじゃあ、みんな、立退《たなだて》をくわせるってえことかも知れねえぜ。どうもこまったことになっちまったなあ……おや、梅さん、いまごろどうしたい?」
「おれもね、店賃のことだとばかりおもって、大家んとこの番頭が、表のたばこ屋にいたので聞いたら、まるっきりちがうはなしなんだ」
「どんなことだい?」
「じつはね、長屋の子どもたちと、大家んとこのせがれと、普請場《ふしんば》で土をいじくってあそんでいたんだ」
「うんうん」
「すると、大家んとこの、せがれの手のさきにあたったものがある。つかみだしてみると、これが金の大黒だとよ」
「へーえ、土のなかからでたのかい? そいつあ、めずらしいや」
「だから、すぐに家へ持っていくと、大家も大よろこびだ。『ああめでたいことだ。大黒さまを掘りだすなんて、こんな縁起のいいことはない。その上|金無垢《きんむく》だ。家の宝物にするのだから、長屋のひとたちを呼んで、お祝いにごちそうしよう』と、こういうわけだ」
「ああそうか……おい、みんな、心配するな。店賃じゃあねえ。大黒さまを掘りだしたんで、ごちそうしてくれるとよ」
「ああ、ひさしぶりでおまんまが食べられるのか……」
「おいおい、辰つぁん、なさけねえことをいうなよ。おめえ、おまんまを食ってねえのか?」
「ここんとこ、わらばかり食ってるんで、目がかすんでしょうがねえ」
「わら食ってるなんて、馬だね、まるで……さあ、すぐにいこうじゃあねえか」
「それについて、大家の番頭のいうには……」
「なんだい?」
「二の膳つきといって、大きなお膳がふたっつでるんだそうだが、どうせくるなら、紋つき羽織の一枚も着て、大家の前へ一同そろって、おめでとうございますと口上《こうじよう》をいって、それからお膳に坐ってくれとこういうんだ」
「へーえ、おはなし中ですが、その羽織というのはなんです?」
「おいおい、なんだい、いい年をして羽織を知らないのかい? どうもだらしがねえなあ。羽織というのは、着物の上に着るもんだ」
「ああ、あれかい。あれなら持ってらあ」
「へーえ、松つぁん、羽織なんぞ持ってるのかい? 紋はいくつついてる?」
「ひとつ」
「ひとつ? 変な羽織だな」
「ああ、背なかに大きく丸に金と書いてあらあ」
「そりゃあ、しるしばんてんだよ。うしろに字なんかなくって、前をひもでむすぶのさ」
「ああ、あれか……袖のないやつね」
「そりゃあ、ちゃんちゃんこだよ。どうもしょうがねえなあ、羽織を知らなくっちゃあ……だけれども、一枚でもありゃあいいんだが……そうすりゃあ、その一枚で、口上をいうときだけ着ていきゃあいいんだ。その口上をいったやつが、すぐに表へでてきて、あとの者が、また交代《こうたい》に着ていこうという趣向だ。そうして、一番しまいにいったやつは、羽織を着ているのも失礼だから、羽織をぬごうといって、それを着ねえで、坐っていりゃあいい」
「なるほど、うまいことをかんがえたな」
「一枚でも羽織がありゃあいいんだが、だれか持っていないかねえ?」
「羽織ならあるよ」
「おや、銀さんのとこにあるのかい?」
「あるんだけどもね、絽《ろ》なんだ」
「絽じゃあ、すこしさむいや」
「それがさむかあねえ。あわせだから……」
「えっ、絽のあわせというのは、聞いたことがねえな」
「それがね、夏になると絽だけれども、さむくなると、裏をつけて……それも針も糸もきかねえから、新聞紙をはりつけてあるんだ」
「変な裏をつけるなよ。しかし、きょうは、おめでとうと口上をいいにいくんだから、紋つきがほしいんだ」
「おあつらいむきだ。家のは紋つきだ」
「ほう、そいつぁてえしたもんだ。で、紋はなんだい?」
「うん、左のほうがかたばみで、右のほうが梅鉢《うめばち》で、背なかが……」
「おいおい、みんなちがうのかい?」
「ああ、そりゃあね、あつめものだからしかたがねえや」
「あつめもの?」
「ああ、右の袖は、古着屋にさがっていたんで……」
「もらったのかい?」
「いや、いただいてきたんだ」
「くれるっていったのかい?」
「だまっていただいてきたんだ」
「それじゃあ泥棒だよ」
「まあ早くいえば……」
「おそくいったっておんなじだ」
「それから、左の袖は火事場でひろって、背なかは、ほたる籠のこわれたやつなんだ」
「変な羽織だな。けれども、よくまあ質へも置かずにいままで持っていたな」
「質屋へ持ってったんだけれど、ことわられちまった。……こりゃあ、着りゃあ羽織だが、脱《ぬ》ぎゃあぼろで、ぞうきんにもならねえって……」
「おやおや、なさけねえなあ。一体《いつてえ》どんなんだい? 持ってきてみな……うわあ、こりゃあきたねえな」
「ええ、きたねえということについちゃあうけあうよ」
「つまらねえことをうけあうなよ……きたねえにしても羽織はできたから、こんどは口上だ」
「口上てえものはどんなものだか、食ったことがねえ」
「食いものじゃあねえやな……だれか口上をやるひとはいねえかい?」
「ええ、口上ということについては、あたしにまかせておくんなさい」
「おや、竹さん、おまえさん、やれるのかい」
「ああ、若え時分に、旅まわりの曲芸の一座にいてね、玉乗りの口上をやってたんだ」
「玉乗りの口上かい。大丈夫かい? きょうの口上は、大黒さまを掘りだしてめでたいという口上なんだよ」
「つまりめでたいという口上ならいいんだろう。そんなものはわけはねえ」
「そうかい。じゃあ、竹さんにお手本をみせてもらおう。わかったら、あとの者がはいればいいんだから……」
「そうだな。みんなで、竹さんが口上をいうのを表で聞いていようじゃあねえか」
「じゃあ竹さん、この羽織を着て……」
「うん、ちょっと拍子木《ひようしぎ》を貸してもらいてえ」
「拍子木? どうするんだい?」
「あれがないと、どうも口上がやりにくくて……え? 拍子木がねえ? それじゃあしかたがねえから、拍子木ぬきということで……ええ、東西、東西!! 不弁舌《ふべんぜつ》なる口上をもって申しあげたてまつります」
「おい、だれかでておいでよ。玄関へ変なひとがきたよ」
「はいはい、どなたですな?」
「長屋一同おひき立てにあずかり、ありがたく御礼な申しあげたてまつります。長屋一同身じたくととのいますれば、いま一|囃子《はやし》、あれあれ、長屋一同あなたのほうよりこなたへといれかわり、あありゃ、これはこれは大黒さまのご入来、隅から隅までずーいと、めでたいな、長屋一同うちそろい、あーらめでたいな、めでたいな、あーらめでたいな、まずは口上、東西、東西!!」
「なんだい、あれは? ええ、竹さん、あんな口上ってあるもんか……さあ、羽織をこっちへ貸しな」
「だって、玉乗りの口上はあんなものさ」
「なにいってるんだ。おれのをよく聞いてろい……へえ、ごめんくださいまし」
「これはこれは、安さんかい。こっちへおはいり」
「へえ、ここで結構でございます……ええ、うけたまわりますれば、こちらの坊ちゃんと長屋の子どもと普請場で土をいじくってあそんでおりましたときに、こちらの坊ちゃんが金の大黒さまを掘りだしたそうで、まことにおめでとうございます。大黒さまのお祝いで、きょうは、まあおまねきくださいましてありがとう存じます。で、長屋の者がきておりますか? え? だれもまだきておりませんか? だれもきていないところを、先へ坐っているのもなんだか変でございますから、長屋の者を呼びにいって、いますぐにつれてまいります。さようなら……どうだ、みんな、うめえもんだろう?」
「こりゃあうめえや。このあとへいくやつは骨《ほね》だ……さあ、だれかやってきねえ」
「ちょいと、おれにやらしてくんねえ」
「甚兵衛さん、おまえ、やれるのかい?」
「やれるのかいって、いまのあのままでいいんだろう?」
「そうだよ。あのままやりゃあいいんだ」
「そんならわけはねえや。早く羽織を貸してくんな……へえ、こんちは、こんちは」
「ああ、なんだい? 掃除屋か?」
「うふっ、ひどいな。掃除屋じゃあねえんで……こんちはあ」
「おや、甚兵衛さんかい。さあ、どうぞおあがりを……」
「へえ、こんちは」
「はい、こんにちは」
「ええ、こんちは」
「はい、こんにちは……なんべんあいさつするんだねえ」
「きょうは結構なお天気でございます」
「はいはい、きょうは結構なお天気ですな」
「へえ、しかし、あしたはわからない」
「それはわからない」
「へえ、こんちは」
「またあいさつをするのかい? はい、こんにちは」
「うけ、うけ、うけ……うけたま川へいきますか?」
「いきません」
「あたしもいかない」
「なにいってるんだい。それは、うけたまわりますればというんじゃあないか?」
「そうそう、それからなんというんで?」
「おまえさんがいうんじゃないか」
「そうだった……うけたま、まりまりますれば、ここの家の子どもと長屋の坊ちゃんと……」
「あべこべだよ、それは……」
「あべこべがあそんでいた」
「そんなものがあそぶかい」
「土のなかから掘りだしたのが、金の天神さま……観音さま……不動さま……水天宮さま……ちがうかな?」
「大黒さまだよ」
「そうそう、土のなかから大黒さまがでるとは、なんて間《ま》がいんでしょ」
「変だな」
「長屋の者が、だれかきておりますか?」
「いや、きていませんよ」
「あたしがあがってしまったら、あとの者がこられない。あたしの羽織を、またあとの者が着るとおもいますか?」
「どうだか知らないよ。なにしろあがって待っておいで」
「そんなことをいわずに表へだしてくださいな」
「あがって待っておいでよ」
「ちょいとだしてください。はばかりへいきたいんですから……」
「そんなら、家のはばかりへおはいりよ」
「それがね、いま、表の共同便所から、ぜひあたしにきてくれっていってきましたんで、さようなら!!」
「おい、甚兵衛さん、なんだい、あの口上は? じつになさけねえなあ。さあ、こっちへ羽織をだしな」
「へえ、こんどは、おめえか?」
「おめえかじゃあねえや。ぐずぐずするない。おらあ江戸っ子だ。気がみじけえんだ。おれの早えのにおどろくな。へえるのが早えか、でるのが早えかわからねえぞ。みてろ、おどろかしてやるから……こんちは!!」
「おや、いらっしゃい」
「さよなら!!」
「なんだい、あのひとは? こんちは、さよならだって……おいおい、番頭、でてきておくれよ。みんなが、あすこで羽織をひっぱりっこしてるじゃあないか。気をつかって、かわいそうに……みんな、いいからって、こっちへいれておあげ」
「はい……さあ、みなさん、こっちへおはいり」
「へえ、こんちは」
「こんちは」
「こんちは」
「へえ、こんちは」
「いろいろな声がでるね。さあ、どうぞ遠慮なくあがっておくれ……おや、金さん、しばらくだったねえ。家の子どもが、よくおまえさんの家へあそびにいくそうだが、いたずらをしたら遠慮なく叱言《こごと》をいっておくれ。大家の子どもだとおもわないで、わが子だとおもって、遠慮なく叱言をいっておくれ」
「へえ、それはいいます。このあいだもいってやったんで……」
「いってくれたかい?」
「へえ、夕方ね、あっしが仕事から帰って、七輪《しちりん》で火をおこしてたんですよ。するとね、お宅の坊ちゃんがやってきて、『あたいのおしっこで、その火を消してみようか?』っていうんですよ。まさかそんなことはしねえだろうとおもいましたからね、『ああ、やってごらん』といいますとね、ほんとに消しちまったんで……あんまりしゃくにさわったから、かるくがんがんと……」
「ははあ、げんこつかい?」
「いいえ、金づちで……」
「金づちでやっちゃあこまるな。それじゃあ、このあいだ、こぶがふたつあったのは、おまえさんがやったのかい?」
「へえ、あっしがやったんで……べつに礼にゃあおよびません」
「だれが礼なんぞいうもんか」
「ええ、坊ちゃん、坊ちゃん、りんごをあげましょう。ほんのひとつですが……」
「おや、竹さん、そういうことをしてくれちゃあこまるな。気をつかってくれてすまないな。これ、坊や、おじさんがりんごをくださるそうだ。お礼をおいい」
「なあにね、お礼なんぞにゃあおよびません。そんなにお礼をいわれると心苦しいや……じつは、それは、あっしのじゃあねえんですから……」
「なんだい、おまえさんのじゃあないのかい?」
「ええ、いまね、ちょいと奥へいったら、床の間にたくさん積んであったので、そこからふたつ盗《ぬす》んで、ひとつを坊ちゃんに……」
「おいおい、いけないなあ、盗んだりしちゃあ……さあさあ、みんなお膳に坐っておくれ」
「へえ、どうもおそれいります……おい、みんなもお膳にお坐りよ……ええ、ひさしぶりだなあ、鯛だ。りっぱな鯛だぜ。この鯛はさかならしいや」
「なにいってやんでえ。あたりめえじゃねえか。メリケン粉のなかにあんこのはいった鯛焼きじゃねえやな」
「一ぴきいくらするだろう?」
「安くはねえぜ」
「そうだろうなあ。おらあ鯛はいらねえから、銭《ぜに》でもらいてえ」
「なさけねえことをいうない」
「この酢のものは、せっかくだが、おらあ、きれえだ」
「おめえ、きれえなら、おれにくれ」
「くれったって、ただはやれねえ。買ってくれ」
「しみったれたことをいうな。じゃあ、しかたがねえ。二十銭で買ってやろう」
「二十銭は安すぎらあ。もう一声」
「じゃあ二十五銭」
「もう一声」
「じゃあ二十八銭!!」
「よしっ、負けちまえ!!」
「いけないよ。そんなとこで、ごちそうのせり売りなんぞしていちゃあ」
「さあさあ、すしがきた。あっしがとってやろう……おっと失礼、おとしちまった。いえ、おとしたのは、きたねえから、あっしがいただこう……さあ、あとをとったから、そっちへあげよう。おっと失礼、またおとした。おとしたのはきたねえから、あっしがいただこう……さあ、もう一ペんとってあげよう。あっ、またおとした。おとしたのはきたねえから、あっしが……」
「おいおい、じょうだんじゃあねえ。いいかげんにしろよ。あんなことばっかりいって、すしをわざとおとして、六つも食べちまった。やあ、酒がでてきたぜ。ひさしぶりに飲めるんだ。たらふく飲み倒そう」
「だれだい、飲み倒そうなんていうのは?」
もう大さわぎでございます。どんちゃかどんちゃか……むこうの隅では八木ぶし、こっちのほうでは安来《やすぎ》ぶし、あちらのほうではかっぽれを踊るというように、底ぬけのどんちゃかさわぎになりましたので、床の間の大黒さまもじっとしていられなくなったとみえまして、俵をかついでのこのこと表のほうへあるきだしました。これをみておどろいたのは大家さんで、
「もしもし大黒さま、あまりそうぞうしいので、どこかへお逃げになるのですか?」
「いや、みんながあまりにぎやかにさわいでいるので、わしも仲間にはいってさわぎたいから、割り前を払うために俵を売りにいくのだ」
夏どろ
泥棒なんかは、季節にかかわりないようでございますが、こそ泥は、夏にかぎるそうでございます。つまり、冬は戸がしまっておりますから、これをあけてはいることはなかなかむずかしいものでございますが、夏は、暑いからしめきっては寝られないというので、表のしまりだけして、裏のほうはあけっぱなしにしたまま、うっかりわすれて寝てしまうなんてえのがよくございます。そういうところへはいるのは、どうもたいした泥棒ではございません。
「おやおや、しょうがねえなあ。ここの家は留守なのかな? 物騒《ぶつそう》じゃあねえか。あけっぱなしにして、ほんとうにあきれけえってものがいえねえ。おやおや、らんぼうな家だなあ。こんなこわれたすり鉢《ばち》へ、なんだか古木《ふるき》をいれやがって……ああ、蚊いぶしをしたんだな。こんな家だって、板の間へ燃えつけば火事になっちまうじゃあねえか。あぶねえなあどうも……おいっ、いねえのか? 蚊いぶしをしっぱなしで、どこかへいっちまったんだな。ずいぶんうすぎたねえ家だが、こういうとこにいるやつに、食うものもろくに食わねえで、ちびちびと金をためてるやつがよくあるんだ……おやおや、あすこの隅に寝てるやつがいるぞ。うう、蚊いぶしをして寝ちまやがった。いくらいぶしたって、蚊は遠慮なくでてくらあ。おい起きろい。起きろ!!」
「え、へえ、あーあ……へえ、なんで?」
「あれっ、寝ぼけてやがるな。こんちくしょう。さあ、金をだせ」
「えっ、金をだせ? ……だしぬけに起こして、一体、おまえはなんだ?」
「なんだとはなんだ?」
「なんだとはなんだとはなんだ?」
「いわなくっともわかってる」
「そりゃあ、おめえはわかってるだろうが、おれのほうには、すこしもわからねえ」
「なんだと、わからねえ? ……夜なかに人の家へ案内もなくはいってくりゃあ、いわずと知れた泥棒だ」
「ああそうか。泥棒か。それじゃあ安心だ」
「なにが安心だ? 泥棒だぞ」
「大きな声をだすない。おめえはしろうとだな。となり近所もあらあ。泥棒だ、泥棒だってどなるやつがあるか。泥棒と親孝行はちがうんだぞ。だれもほめてくれねえや」
「なにをいやあがる。さあ、有り金のこらずまとめてだせ」
「有り金にもなんにも、金っ気さらになしだ」
「白ばっくれやがるな。よくかんげえてみろ。こんな家でも一軒の家をかまえていて、なにもねえってことがあるもんか」
「それでもねえんだよ」
「うそをつけ」
「まったくねえ」
「そんなことがあるもんか……第一、いまこの蚊いぶしが燃えあがって、おれが消してやらなけりゃあ、ここの家はまる焼けだ。てめえのためには、いわばおれは命の親だ。さあ、あるの、ねえのといやあがりゃあ、二尺八寸だんびらもの(大きな刀)を伊達《だて》にはささねえ。横っ腹をえぐるぞ」
「暗くってよくわからねえが、二尺八寸だんびらものったって、おめえ、腰になにもさしてねえじゃあねえか」
「今夜はわすれてきたんだ」
「しまらねえ泥棒だな」
「うん、そのかわり、ここに合口《あいくち》(短刀)がある」
「ほう、ふところからだしやがったな」
「さあ、これが目へへえらねえか?」
「へえらねえ」
「なに?」
「そんなものが目にへえるくれえなら、いまごろ手品つかいになってらあ」
「なにをいってやがる。だれが目んなかへいれろてんでえ。みえねえかてんだよ」
「みえてるよ。ぴかぴか光ってるじゃあねえか……それをどうしようってんだ?」
「どうするもこうするもあるもんか。どうしても金をださなけりゃあ、おれは、てめえを殺して金をとっていくんだ」
「ああ、なるほど、どうしてもおれがださなけりゃあ、おれを殺して金をとろうってんだな?」
「そうよ」
「あははは、そうかい。よくわかった。さあ殺せ」
「あれっ、乗りだしてきやあがったな。おかしな野郎だな、てめえは……やいっ、おれは、しゃれやじょうだんでいってるんじゃあねえんだぞ。殺すといったら、ほんとうに殺すんだぞ」
「だから殺してくれよ。おれは死にてえとおもってたところだから、ちょうどおあつらえむきなんだ」
「え?」
「じつはな、おれは、半分死んでるんだよ。けれどもよ、毒を買う銭はなし、刃物だって、切れねえ菜っ切り包丁があるっきり、いっそのこと首をくくろうかとおもったけれども、この家は三軒長屋で、梁《はり》が一つなんだ。おれの家は、ちょうどまんなかだから、おれが、ここでぶらさがってみねえ。あんな細っこい梁だから、三軒ともつぶれてしまうだろうとおもうんだ。両どなりにまでめいわくをかけちゃあ気の毒だから、この上は、自然に息が絶えるのを待つよりしょうがねえとおもっていたんだが、おめえが、そういう刃物を持ってきたのは、もっけの幸《さいわ》いだ。ぶすりと一おもいにやってくれ」
「やいやいっ、てめえみてえないい若《わけ》えもんが、なんで死にてえんだ?」
「食えねえんだ」
「食えねえ? おめえ病人か?」
「じょうだんいうねえ。ぴんぴんしてらあ」
「じゃあ、商売がひまなのか?」
「いいや、おれは大工《でえく》だが、さっきも棟梁がきて、そういってくれた。仕事がいそがしいから、早く仕事場へでてこいって……」
「ありがてえはなしじゃあねえか。それじゃあ、おめえ、いったらいいじゃあねえか?」
「うん、おれだって仕事にいきてえんだ。けれども泥ちゃんの前《めえ》だが……」
「なんだい、泥ちゃんとは?」
「名前《なめえ》を知らねえから、泥ちゃんでまけといてくれ……仕事場へいくのに、大工《でえく》が道具を持たずにはいけねえ」
「なるほど、道具箱はどうした?」
「あずけてあるんだ」
「どこへ?」
「や七《しち》さんのところへ」
「友だちか?」
「友だちじゃあねえが、ごく懇意《こんい》だ」
「懇意だったら、わけをはなして返《けえ》してもらったらいいだろう?」
「それが、どうも、金を持っていかなけりゃあ返してくれねえ。むこうも商売《しようべえ》だからな」
「商売てえのはなんだ?」
「質屋だ」
「質屋なら質屋だと、はじめっからそういえ。や七さんだなんて、さかさまにいうからわかりゃあしねえ。いくらであずけたんだ?」
「三円だ」
「三円?! ……この野郎、いくじのねえことをいうなよ。三円ぐれえの金は、どこへいったって融通《ゆうずう》がつくじゃあねえか。融通つけて、道具箱だして仕事にゆけ」
「ふん、ちくしょうめ。なにいってやんでえ。融通がつくくれえなら、こんなことをしてまごついているもんか。びた一文融通がつかねえから、おれは死にてえとおもってるんだ。で、おめえが殺そうてえからちょうどいいや。さあ、殺せ!!」
「おいおい、よせやい。よせよ。大きな声をしやあがって……近所のやつがくるじゃあねえか。そうすりゃあ、おらあこまらあ。もっとちいせえ声でしゃべれ……じゃあ、三円あれば道具箱がだせるんだな?」
「ああ、そうだよ」
「そうか。それじゃあ、おれが三円やろう」
「おめえが三円くれる? ふふふふ、おかしいな」
「なにがおかしい?」
「だって、おめえは泥棒だろう?」
「泥棒よ」
「泥棒は、金をとるのが商売じゃあねえか。それがあべこべにくれるのはおかしいや」
「そりゃあそうだけれども、どうも、おめえがみすみす死ぬというのを見殺しにもできねえからな、やるよ。さあ三円、これをやるから、しっかりしてはたらけ」
「ありがとう。どうもすまねえ。おめえは、泥棒にしておくのは惜しいや。いい男だ」
「おだてるない」
「だって、そうじゃあねえか。おれもたくさん友だちがあって、ふだんは、飲んだり食ったりのつきあいをするけれども、おれがこうしてこまっていても、金を持ってきてくれる者はひとりだっていやあしねえ。それだのに、おめえは、みず知らずの人間だのに、こうして金をくれる。その親切は涙のでるほどうれしいよ。これは、もらったもおなじだから返《けえ》す」
「どうして返すんだ? 遠慮するねえ」
「遠慮はしねえが、足《た》りねえんだ」
「足りねえ? なにが? いま、てめえ、三円といったじゃあねえか」
「うん、三円は元金《もときん》だ。利息《りそく》がでるんだ」
「利息? えっ、利息もおれが払うのかい? たいへんな家へへえちまったなあ……しかし、まあ、いいや、ものはついでだから、だしてやるよ……あーあ、なんてえおれは間《ま》がわるいんだろう。もっともゆうべ変な夢をみたよ。豚にへそをなめられた夢をみたんだが、まぬけな夢もあったもんだ。ろくなことはねえだろうとおもったら、こんなことになっちまった。しかたがねえから、さあ、もう二円やろう」
「ありがてえなあ。涙のでるほどありがてえが、これは返《けえ》すよ」
「遠慮するなよ」
「遠慮じゃあねえや。まあ、よーくみてくんねえ。おれはこの通りなんにも着てねえ。ふんどしひとつのすっぱだかだ。仕事にいくとなりゃあ、どうしても、はんてんに腹がけ、ももひきがなくっちゃならねえんだが、これが、やっぱりあずけてあるんだ、や七さんとこへ……道具箱だけだしても、はだかじゃ仕事にいかれねえから、この金は返すよ……あーあ、やっぱりおれは死にゃあいいんだ。ああ死にてえ、さあ殺せ!!」
「あれっ、またはじめやがった。この野郎、すぐに大きな声をだしゃあがって、わりい野郎だなあ。やるよ。だからちいせえ声しろてんでえ……さあ、もう三円やるから、これでいいだろう?」
「ありがてえ。涙のでるほどありがてえが、腹がへっちゃあ仕事ができねえ。十日ばかりろくにものを食ってねえんだから察してくれ」
「あわれっぽい声をだすなよ。さあ、一円やるから、これでなんか買って食え」
「ありがとうよ。涙のでるほどありがてえが……」
「よしてくれ。てめえが、涙のでるほどありがてえというたんびに、おらあびくっとすらあ」
「これは、せっかくだが返すよ」
「いやなやつだな。まだ、なにか足りねえものがあるのか? 道具箱がだせて、着るものがだせて、食うものを食やあ、それでなんにも不足はねえだろう?」
「ところがあるんだよ」
「なんだ?」
「家賃が五つたまってるんだ」
「家賃なんざあ、かせいでからいれてもいいじゃあねえか」
「それがそうはいかねえんだ。表《おもて》の米屋が家主なんだけれども、いい人なんだ。道具箱もなくて、おれの都合《つごう》がわりいとみて、決して催促《さいそく》をしねえ。いつでもあるときでいいといってくれたんだ」
「なるほどなあ、わかってる人だなあ」
「『そのかわり、道具箱をかついで通るようになったら、すぐに家賃をいれろよ』と、こういうんだ。どうしても、仕事にいくにゃあ前を通らなけりゃあならねえんだから、やっぱりだめだ……おらあ死にゃあいいんだ。さあ殺せ!!」
「またはじめやがった……しずかにしろい。しかし、こまったなあ、家賃はいくらだ?」
「五円五十銭だ」
「大口がでてきやあがったなあ。五円五十銭が五つか……とてもそんなにはありゃあしねえ。じゃあこうしよう。おれも乗りかかった舟で、ここへへえってきたのが災難だとあきらめて、もう十一円やらあ。それだけ家賃にいれろ」
「二つだね?」
「ああ、二ついれりゃあ御《おん》の字《じ》だ(十分だ)」
「そうかい。御の字かい。どうもありがとうよ」
「なんてえことだ。持っているだけすっかりとられちまった。もしも持っていなかったら恥をかくところだった。しかし、いい心持ちだな、人を助けるというのは……じゃあいくぜ。いっしょうけんめいにはたらきなよ。あばよ」
「もしもし泥棒さん!!」
「しーっ、こんちくしょうめ。おれは一文なしになるまでやったじゃあねえか。なんで泥棒とどなるんだ?」
「すまねえ、名前を知らねえもんだから、ついその……」
「なんだ、まだなにか用があるのか?」
「あとの家賃は、こんどいつ持ってきてくれる?」
茶の湯
蔵前の、あるご大家《たいけ》のご隠居、若いころから、なにひとつたのしみはなさらず、かせぐよりほかに能《のう》がないというおかたでございます。
そのむすこさんは、江戸っ子でございますから、風流も心得ておりまして、根岸に別荘がございます。
これは、さる大家の別荘をゆずりうけ、すっかり手入れをしまして、ときどき、そこへいっては、お客を招待したり、あるいは、お茶をたてたりしてたのしんでおります。しかし、ここをあけておくのもつまらないはなしだということから、隠居をしたおやじさんにすすめて、定吉という小僧をつけて、ここに住まわせることになりました。
「定吉や」
「へい」
「おまえなあ、おもてばかりあるいていないで、うちにいなさい」
「へえ……しかし、ご隠居さま、あるいてみますとこのあたりは、いろいろと蔵前とようすがちがっていますねえ」
「そりゃあそうだ。なんといっても、風流な土地だからな」
「ご近所のかたは、みんな上品なかたばっかりで……」
「そうだな」
「おむこうの垣根のあるお家では、いつもいい音がしておりますから、なんだろうとおもってのぞいてみましたら、十六、七のきれいなお嬢さんが、琴をひっかいていましたよ」
「ひっかくてえやつがあるか。猫じゃあるまいし……琴はしらべるとでもいうもんだ」
「へーえ、そうですか。あのう、自分の爪でたりないんで、長い爪をはめてますね。ありゃあ背なかをかくのにいいですね……で、だれもみてないとおもって安心して、目をすえて、夢中でばりばりやってましたよ」
「ばりばりてえやつがあるか」
「こっちの大きなお庭のある家では、奥さんが、花をいけてました」
「うん、お上品だなあ」
「ご隠居さまも、そうやって、朝から晩までたばこばかりのんでいないで、なにかおやんなさいましよ」
「そうだなあ。なにかやりたいなあ」
「おやんなさいよ」
「うん、じつはな、かねがねやろうとおもってるものがあるんだ」
「なんです?」
「茶の湯だ」
「ああ、蔵前の若旦那が、かきまわしてるやつですね?」
「かきまわすてえのがあるか」
「あれは上品ですから、ぜひおやんなさい」
「やろうとおもうんだがなあ、子どものころに習ったんで、すっかりわすれちまった」
「おかしいなあ、うちのおやじがいってましたよ、ものを習うんなら、子どものうちに習っておかなきゃあいけない。中年でならったものは、どうもわすれていけないって……」
「まあ、それはそうだ。しかし、わたしのは、ちっと子どもすぎたからな」
「へーえ、それでは、おいくつのときに?」
「三つのときだった」
「じゃあ、赤ん坊のときでございますね」
「それだから、すっかりわすれちまった。ひとつ、きょうは、おまえとふたりでやってみようとおもう」
「それは結構なことで……ですが、お菓子がございますか?」
「うん、このあいだもらった羊かんがある。あれを切ってやろう……さてと、まず、茶の湯をやるについては、あの茶わんのなかへいれる青い粉……ありゃあなんだったかな?」
「あれですか」
「知ってるのか?」
「ええ」
と、定吉はおもてへとびだすと、まもなく帰ってまいりました。
「買ってまいりました」
「青い粉か?」
「へえ」
「どこで? なにを?」
「角の乾物《かんぶつ》屋で、青黄粉《あおぎなこ》を……」
「そうそう、おもいだした、おもいだした。伝授《でんじゆ》に書いてあった。ひとつ、青黄粉をいれるべしとな。これさえあれば茶の湯ができる。さあ、おいで」
たいへんな茶の湯があったもんで……
お囲いにはいりましたが、もちろん置き炭なんて知りません。きれいに切ってある炉《ろ》のなかへ山形に組ませます。ため火を手つだわせるなんてまだるっこしいことはいたしません。消しつぼから、消し炭をわしづかみにしまして、炉のなかへほうりこむと、渋うちわでばたばた、ばたばたあおぎはじめました。こうなると、茶の湯だか、やきとりだかわかりません。
「定吉や」
「へい」
「きょうは、わたしが主《あるじ》で、おまえがお客だ」
「へーえ、わたくしがお客さまですか?」
「そうだよ。おいおい、かりにも茶の湯なんだから、行儀《ぎようぎ》よくしなくっちゃあいけない。それそれ、もっときちんと坐って……はなをかみなさい」
「ズルズル……」
「きたないな。なぜすすりこむんだ? ちゃんとかみなさい」
「かんだって、あとからあとからでてくるんですもの」
「でてきたら、またかめばいいじゃあないか」
「そんなことをしてたら、一日じゅうはなをかんでなくっちゃあなりません」
「厄介なはなだなあ……うしろにあるいろんな道具をとってくれ」
「なにをとります?」
「お茶わんをとっとくれ」
「深いのと浅いのとありますが……」
「深いほうがたくさんはいるから、おまえだって得《とく》だろう? それをとっとくれ……長い柄《え》のひしゃくがあるだろう? うん、それだ、それだ……それから、粉いれがあったな。あとでこのなかへ粉をいれるんだ。それから、大きな粉をすくうものがあるな。大仏さまの耳かきみたいなやつが……」
「これですか? これで象の耳をかいてやるとよろこぶでしょうねえ」
「ばかなことをいうんじゃあない。それから、それをとっとくれ。ほれ、布巾《ふきん》を……その絹のあわせになってるやつを……」
「え? 絹のあわせの布巾? これ布巾ですか?」
「ああ、茶の湯は上品だから、よごれたものを布巾でふくんだ。それから、茶をかきまわすものがある。竹でできたやつが……」
「これですか?」
「そうだ」
「これ、なんてんです?」
「そのう……なんだ……こりゃあ、座敷ざさらってんだ」
「座敷ざさら?」
「そうだよ。またの名を、泡立たせともいうな……さあさあ、湯がわいてきたから、はじめるぞ……さてと、茶わんに湯をいれたところで、こんどは、粉をいれるんだが、初日で分量がわからないなあ……よしっ、すこしよけいにいれといてやれ……こうやって、このささらでかきまわしているうちに泡が立ったら、定吉、おまえが飲むんだぞ……あれっ、いくらかきまわしても泡が立たない。どうしたんだろう?」
「おかしいですね」
「泡が立たなくちゃあ、なんだか茶の湯をやってるような気がしないなあ……なにか泡の立つくすりをいれるんじゃあないか?」
「わかりました。あれをいれりゃあ、きっと泡が立ちます」
「そんなものがあるのか?」
「ええ、買ってきますから、お銭《あし》をください」
駈けだした定吉が、まもなく帰ってまいりまして……
「買ってきました」
「なんだ?」
「椋《むく》の皮です」
「うん、なるほど椋の皮か。これなら泡が立つ。そういえば、これも伝授に書いてあったよ。ひとつ、泡の立てかた、椋の皮をもちうべしとな……茶釜のなかへいれちまえ」
らんぼうな茶の湯があったもんで……ぐらぐら沸《わ》いてる茶釜のなかへ椋の皮をほうりこみましたから、かきまわさなくても泡が立ちます。
「やあ、ずいぶん泡が立った。うまくいったな……さあ、定吉や、飲みなさい」
「へえ?」
「飲むんだよ」
「飲むんですか?」
「そうだよ」
「ご隠居さまからおあがんなさい」
「おまえがお客だから、さきに飲むんだ」
「いえ、ご隠居さまがご主人ですから、どうぞおさきに……」
「遠慮しないで、おまえが飲むんだ」
「でも、ご隠居さまが、お手本をみせてくださいよ」
「そうか……じゃあ、よくみておくんだぞ。いいか? ……二本の指で、茶わんのはじをつかむんだ。そうしたら、こうやって、目|八分《はちぶ》に持ちあげるんだ。それから、こう三べんまわすんだ。なぜって、青黄粉が下にしずんでるといけないからさ……で、このまんま飲むと、泡が鼻につくだろう? だから、泡をむこうがわへ吹きつけちまうんだ。こっちへこないすきをうかがって、ぐいっと……こう飲んじまう。あっはっはっは、こりゃあ風流だぞ」
「じゃあ、あたしもいただきます。二本の指でおさえるんですね? 目八分にして、三べんまわして、むこうがわへ吹きつけて、こっちへこないすきをうかがうんですね。空巣ねらいだの、茶の湯なんてえものは、すきをうかがうものなんだな……むこうがわへふーっと吹きつけといて……ぐーっと……うわあ、うん、うん、うーん」
「なんてさわぎをしてるんだ。早く飲めよ」
「うーん、うーん」
「早く飲んでしまえ」
「うーん、うーん……あーあ……あははは、こりゃあ風流だ」
ご隠居も定吉も、毎日、「風流だ、風流だ」とやっておりましたが、なにしろ青黄粉と椋の皮ですからたまりません。五日、六日とやってるうちに、ふたりとも腹ぐあいがおかしくなってまいりました。
「定吉や、おい、定や」
「へーい……きょうも火をおこしますか?」
「いや、きょうはやめとこう。いいからそこへ坐れ。顔色がわるいなあ。どうかしたか?」
「おなかが、ずーっとくだりっぱなしで……」
「おまえもやられたか? わたしも、ゆうべ、はばかりへ十六ぺんもかよったよ」
「わたくしは、たった一ぺんです」
「若いから丈夫なんだなあ。たった一ぺんですんだとは……」
「いいえ、一ぺんはいったきりでられなかったんです」
「そうか。そりゃあたいへんだったな……雨の降る日は茶の湯はやすみにしよう。おしめが間にあわないからなあ……どうだ、おしめのかわいたのがまだあるか? あしたでも蔵前へとりにいってきておくれ。しかしなんだな、こう下っ腹に力がなくなるってえことは、風流だなあ」
「風流なんてものは、おなかがくだるんですか?」
「まあ、そーっとしずかに暮らすことになるから風流だ」
そのうちにご隠居も、小僧さんばかりが相手では、だんだんものたりなくなってまいりまして、だれか客がきたら飲ましてやろうと待っておりますが、だれもまいりません。そこで、ご地面内に家作が三軒ございまして、一軒が豆腐屋、一軒が鳶《とび》の頭《かしら》、一軒が手習いの師匠ということなので、このひとたちを呼んでやろうとこの三軒に案内状をだしました。
「おい、おっかあ、たいへんなさわぎができちまった」
「なんだい、たいへんなさわぎって? 店立《たなだ》てでも食わすというのかい?」
「店立てじゃあねえが、まあまあ、店立て同様の厄介なことをいってよこしたんだ」
「なんだい?」
「隠居が、茶の湯をするから、あしたこいてえんだ」
「ばかばかしい。豆腐屋|風情《ふぜい》で茶の湯なんか知るもんかね。かまわないから、いいかげんにごまかしておいでな」
「ばかなことをいうない。おれだって、この土地で、親方とかなんとかいわれて、口のひとつもきき、なんかことのあったときにゃあ、上座《かみざ》へ坐らせられる人間だ。地主のほうでも、おれを相当な人物とみて、こういってよこしたにちげえねえ。それをできねえといってことわるわけにはいかねえやな。といって、いまから習うたって間にあわねえ。これまで恥をかいたこたあねえおれが、これしきのことで恥をかくなあくやしいし、ここのところは、まあ、なんとかいって、うまくごまかしてしまっても、これからさき、たびたびやられた日にゃあ、とてもやりきれねえ。めんどうくせえから、いっそどっかへ引っ越しちまおう」
「だって、せっかく売りこんだ店をすてて、どっかへ引っ越すってえのも、つまらないはなしじゃあないか」
「そりゃあそうだけれども、どうもしかたがねえ。ここにいりゃあ、恥をかかなけりゃあならねえ」
「おとなりの鳶頭《かしら》のところへは、お手紙はいかないかね?」
「そうよ、鳶頭のところへはいくめえよ」
「けれども、おなじ家作《かさく》にいるんだから、ともかくも鳶頭の家へいって聞いてごらんな。もしも鳶頭のところへもいってれば、ことわるとか、いくとかいうだろうが、これは、おまえさん、鳶頭に相談した上のことにしたらいいだろうよ」
「なるほど、それもそうだな。じゃあ、引っ越すのは、すこしみあわせて、ひとつ鳶頭のところへいってこよう」
それから、羽織をひっかけて、豆腐屋の親方が、となりの鳶頭の家へやってきてみると、なんだか、ごたごたしております。
「やいやい、そうらんぼうなことをしちゃあいけねえ。持っていくさきは、坂本二丁目だ。家は、あとでさがすとして、なにしろ寅のところへ持ちこんでくんねえ。ここさえ立ちのいちまやあいいんだ」
「ごめんください」
「おお、こりゃあ豆腐屋の親方ですか。おいでなせえ。ちょっとお宅へもごあいさつにでるんでござんすが、ついとりこんでるもんですから、まだまいりやせんで……まあ、どうかこっちへおあがんなすって……」
「ありがとうございます。たいそうなおとりこみで……」
「ええ、急に引っ越さなくっちゃあならねえことができて、こういうしまつなんです。せっかくおなじみになりやしたが、どうもよんどころねえことでね……まあ、親方、一服おあがんなせえ」
「ありがとうございます。で、どのへんへお越しになります?」
「まだ、どこへといって、じつは、あてもごぜえやせんが、ともかくも、坂本二丁目の兄弟分の家まで一時立ちのいてね……なあに、遠くへいきゃあしません。どうせ近所へ家をみつけるつもりなんで……」
「へーえ、そりゃあ鳶頭《かしら》、ひどく急なことでございますな」
「ええ、急なんで……」
「なぜ、そう急にお引っ越しなさるんで?」
「よんどころねえ事情でね」
「へーえ……つかんことをうかがいますが、地主からあなたのところへ手紙がきやあしませんか?」
「ええ、きましたよ」
「それで、お引っ越しなさるんじゃあございませんか?」
「まあ、そんなことで……」
「じつは、わたしどもへも案内がありましたんで……」
「えっ、あなたのとこへもいきましたか? いめえましい隠居だ。大きな声じゃあいえねえが、茶の湯の一件で?」
「ええ」
「おまえさん、どうしなさる?」
「ええ、せっかく売りこんだ土地を、ざんねんじゃあありますけれども、できねえとことわって恥をかくのもいやですから、いっそ引っ越しちまおうと、わたしもおもったんです。ところが、かかあのいうにゃあ、鳶頭のところへも手紙がいってるかも知れないから、お聞き申して、もしもいってたら、また、なんとか鳶頭のご工夫《くふう》もあろうからというんで、じつは、うかがったんですが、それじゃあ、鳶頭も、茶の湯はご存知ないんでございますか?」
「まことにお恥ずかしいわけですが、ジャンとひとつぶつけりゃあ、火のなかへ飛びこむ人間で、頭取《とうどり》とか、鳶頭とか、世間のひとにゃあ立てられ、ずいぶん結構なところへも出入りして、きいたふうなこともいいやすが、茶の湯なんてえものは、まだでっくわしたことがねえんです。それを、むこうで買いかぶって、知ってるだろうと手紙をよこされ、いまさらことわるわけにもいかず、まあ、こんどだけうまくのがれたところで、また呼びによこすにちげえねえ。なにしろ、わるいやつに、この地面を買われたのがこっちの災難、しかたがござんせん。こんなことでびくびくしてるより、どこか茶の湯にせめたてられねえとこへ一時引っ越すことにきめて、急にさわぎだしたんでござんす」
「なるほど、ごもっともさま。ご同様にこまりましたな。ときに鳶頭、おとなりの手習いのお師匠さんは、どうでしょう?」
「そうでござんすねえ……こうして二軒へきたくらいだから、先生のところへもきっといってましょうよ」
「そんなら好都合だ。あの先生なら知ってましょう」
「なるほど、こりゃあ知ってましょうね。先生とか、お師匠さんとかいわれる身分だから、茶の湯だって心得てるにちげえねえ」
「ではどうでございましょう? ひとつ師匠のところへいって、たのんでみようじゃあありませんか。仮りにも師匠といわれるくらいですから、深く知らないにしても、ちょっと飲みようぐらいは知っておりましょう。そうすれば、先生のあとへついていって、先生のする通りにしていたら、おたがいに恥もかかずにすみましょう」
「うん、こいつあいいところに気がつきなすった。さっそくいって聞いてみやしょう。引っ越しは、それからあとでいいや。おーい、羽織をだしてくんねえ……すこし風むきがかわったから、おもてへだした荷物を、すこしずつはこびけえしてくれ」
まるで火事のようなさわぎでございます。これから、ふたりそろって、手習いの師匠のところへやってまいりますと、ここもなんだかごたごたしております。
「これこれ、金之助、彦太郎、そうさわぐでない。おまえたちは、お机も、そっくり持って帰んなさい。ああ、お花ちゃん、お梅ちゃん、お春ちゃん、おまえたちのお机はとどけてあげるから、硯箱《すずりばこ》だけをよく始末《しまつ》して持って帰るのじゃよ。いずれ、おとっつぁんやおっかさんにお目にかかって、くわしいおはなしをするが、お師匠さんは、よんどころない事情で、急に引っ越さなくてはならなくなった。いいか、みんな、お師匠さんは、よんどころない事情で転宅を……」
「ええ、ごめんくだせえまし」
「ごめんくださいまし」
「はい、どなたかな?」
「先生、こんにちは」
「おや、これは、鳶頭と豆腐屋の親方、おそろいで……まあ、この通りとりちらしておって失礼だが、まあ、どうぞこちらへ……みんな、すこししずかにしなさい。硯箱やなにか、よく始末をして持ってお帰り。いや、この通りごたごたいたしているところで……」
「先生、だいぶおとりこみで……」
「はい、ちょっとあがらなくてはならんのですが、拙者もよんどころないことで、急に転宅いたすようなしだいで……」
「へえ、そうでございますか……で、どこへお引っ越しなさいますんで?」
「それが、まだきまりませんでこまるのじゃが、一時親戚かたへ立ちのきまして、それからまた、この界隈《かいわい》へ相当の家をさがそうと存じておるので……仔細《しさい》あって、ここに長くおるわけになりませんでな。じつにおなじみのところをざんねんではござるが、これもいたしかたのないわけで……」
「へえ、先生、つかんことをお聞き申すようですが、地主の隠居からあなたのところへ手紙がまいりゃあしませんか?」
「はい、まいりましたが……」
「おう、親方、先生のところへもきたんだぜ」
「へーえ、ねえ先生、茶の湯の一件でござんしょう?」
「いかにも……」
「じゃあ、先生もご存知ねえんですかい?」
「いや、なに……知らんというわけではござらん。すこしは学びましたが、そのころは、学問にばかり心をいれて、とんと風流の道は怠《おこ》たっておりましたために、なにぶん深くたしなみがござらんでな、まあまあ、飲みようぐらいは存ぜんこともないが、それも、とんと失念いたしてしもうてな」
「そうでございますか。それでお引っ越しなさるんで?」
「じつに恥じいったはなしでござるが、あなたがたとちがい、わたしは、たとえ相手が子どもとはいえ、ものの指南をいたし、師匠ともいわれる身が、今日《こんにち》茶の湯の案内をうけて、その席へでられんというは、まことに恥じいりまするによって、ただちに転宅いたすしだい。あなたがたへ対してもめんぼくないわけで……」
「へーえ、だって、先生、飲みようを知ってれば、いいじゃあありませんか」
「それがさ、茶の湯というものは、なかなかにむずかしいもので、会席ひと通り、道具ひと通り知らんければ、あいさつもできん。また、流儀などを問われた節には、何流と答えんければならんが、拙者ほとんど失念いたしてしもうた」
「じゃあ、もしも聞かれたら、流儀は、杉山流とか、神蔭流とか、やっつけたらようござんしょう」
「それは、柔術《やわら》や剣術の流儀で、茶のほうへもちいるわけにはまいらん」
「まあ、いいじゃあござんせんか。こうなったらかまうこたあねえ。でかけやしょう。むこうだって、それほど名人でもごぜえますめえ。いって、あなたの飲みようをみて、なんでもあなたのする通りまねをして、もし、めんどくせえことをぬかしゃあがったら、かまうことあねえから、隠居を踏み倒しちまおうじゃあありやせんか。なあ、親方」
「そうですとも。鳶頭のいう通りでさあ。流儀なんぞ聞きゃあがったら、ぶんなぐるとしましょう」
らんぼうな茶の湯があったもんで……
三人は、ご隠居のをみておぼえよう、ご隠居は、また、三人を呼んできておぼえようという、まことにたよりないかぎりでございます。
例の通り、青黄粉と椋の皮を煎じたあやしげなしろものがでてまいりました。
「どうぞ」
と、すすめられて、上客の手習いの師匠から飲みまわしはじめました。
「では、いただきます……おさきへ……うん、うん……うーん」
と、顔をしかめながら飲んで、豆腐屋の親方にわたしましたから、豆腐屋も「うん、うん」とうなりながら鳶頭《かしら》へ……鳶頭が何気なく飲んだからたまりません。
「うわあ、うん、うん……たいへんだ。その口なおしをひとつ……」
茶の湯に口なおしなんてありゃあしません。
これから三人は、世間ばなしをしてひきあげましたが、ご隠居は、退屈しのぎになりますからおもしろくてたまりません。毎日毎日、茶の湯だ、茶の湯だと、近所のひとたちをむやみに呼ぶようになりました。
「おう、勝つぁん」
「なんだい?」
「ご隠居の茶の湯ってやつに呼ばれたかい?」
「ああ、おどろいたなあ。ひでえものを飲んでやがるねえ。おらあ、はじめて口へいれたときにゃあ、こりゃあとても生きて帰れめえとおもったね」
「だけど、おめえ、菓子は、いいものがでるだろう?」
「うん、いい羊かんがでるなあ。だからさ、おらあ、ちょいちょいいくんだよ。お茶を一服ってんで……飲んだふりをして飲まねえで、羊かんを五本ぐらい食っちゃうんだ。それでね、すきをうかがって、二、三本|袂《たもと》へいれてきちまうのさ」
「へーえ、そりゃあいいや。おれもやろう」
羊かん泥棒がはじまりましたから、ご隠居さんが、晦日《みそか》になって、お菓子屋さんの勘定をみてびっくりしました。
さあ、こうなると、もともと倹約なひとですから、茶の湯もいいが、こう羊かんに金がかかってはたまらない。なにか自分で菓子をこしらえようと、さつまいもを一俵買いまして、よくふかしますと、きれいに皮をむいて、摺《す》り鉢《ばち》のなかへいれまして、黒砂糖と蜜をくわえて、摺り粉木でさかんに摺ります。摺りあがったところで、手ごろな茶わんへぎゅっとつめて、ぽんとぬこうとしたが、ぬけません。そうでしょう。一方が瀬戸もので、一方がべっとりしたさつまいもですから、どうしてもうまくぬけません。そこで、油をつけたらうまくぬけるだろうと気がつきましたが、あいにくごま油がありませんので、灯油《ともしあぶら》を綿へひたして、十分に茶わんへ塗って、そこへいもをつめますと、すぽんとうまくぬけます。いもが黄ばんでいるところへ、黒砂糖と蜜で黒味がついて、そこへ灯油の照りがかかっておりますから、みた目には、いかにもおいしそうでございます。食べないうちは、たいへんに上等なお菓子とおもわれるくらいですが、食べてみると、もうまるっきりいけません。それでも、利久まんじゅうと、勝手な名前をつけまして、くるひとごとにだしておりました。
ある日、蔵前にいたころからの知りあいの客が、めずらしくやってまいりましたので、ご隠居も大よろこびで……
「おや、吉兵衛さんじゃあないか。おめずらしい」
「どうもご隠居さま、ひさしくお目にかかりません。こちらへお移りのよしをうかがいまして、ちょっとおたずね申さなければならんのでございましたが、ついついごぶさたいたして相すみません。どうもいいお住居でございますな」
「いや、それほどのこともないが……とにかく、せがれが、こんな家を買ってくれました」
「どうも、お玄関からお座敷のあんばい、すべて茶がかって、申し分のないお住居で……ときに、ご隠居、うけたまわりますれば、近ごろお釜がかかるそうでございますな」
「え? 釜がかかるとは?」
「いえ、お茶をあそばすそうで……」
「ああ、そうです。このごろ、もっぱら茶の湯をやりますよ」
「それは、おそれいりました。あなたが、お茶をなさるとは、すこしも心づかずにおりました。そうと存じましたら、とうにあがるのでございました。こんちも、お釜がかかっておりましょうか?」
「はい、いつでも、ぐらぐら沸《に》立っております」
「ははあ、ご定釜《じようがま》、釜日をお定《さだ》めがなくって、つねにぐらぐら沸立っているとは、まことにおそれいりました。ぜひ一服ちょうだいを……」
「ああ、あげましょう」
きょうは、客のほうからの注文ですから、青黄粉と椋の皮をいつもの倍いれまして、
「さあ、どうぞ」
「では、いただかせて……う、うーん」
ひと口いれてみましたが、その味のものすごいこと、しかし、吐きだすわけにもまいりませんから、死ぬ苦しみで飲んでしまいます。
なにか口なおしはないかと、前をみますと、例の利久まんじゅうがありましたから、欲ばって三つばかりとって、あぐっとやってみると、とても食べられるようなしろものではありません。甘いような、苦いような、油っこいような……あわてて紙へつつんで袂へかくすと、
「ちょっとご不浄《ふじよう》を拝借」
と、縁側へでまして、
「いや、おどろいたねえ。あの茶の湯といい、この菓子といい、なんてひどいものを飲んだり食ったりしてるんだろう」
と、あきれかえって、紙につつんだ利久まんじゅうをすてようと庭をみましたが、掃除がよくゆきとどいておりまして、ちりひとつみえません。前をみますと、建仁寺《けんにんじ》の垣根《かきね》越しに一面の畑でございます。
ここならすててもわかるまいと、ひゆーっとほおったまんじゅうが、いっしょうけんめいに畑仕事をしているお百姓の横っつらへぴしゃり。お百姓が、落ちた菓子をじっとみて、
「ええ、また茶の湯か」
宿屋の仇討ち
ただいまではみられませんが、むかしは、宿屋の店さきに女中や番頭がでて、さかんに客を呼んだものでございます。
「ええ、お泊まりはございませんか。ええ、蔦《つた》屋でございます」
「ええ、お泊まりではございませんか。吉田屋でございます」
「ええ、いかがでございます、武蔵屋でございますが……」
そこへ通りかかりましたのが、としのころは三十四、五、色は浅黒いが、人品のよろしいおさむらいで、細身の大小をたばさみ、右の手に鉄扇を持っております。
「ゆるせよ」
「はい、いらっしゃいまし。お泊まりでいらっしゃいますか? てまえどもは武蔵屋でございます」
「ほう、当家は武蔵屋と申すか。ひとり旅じゃが、泊めてくれるか?」
「へえ、結構でございますとも、どうぞお泊まりくださいまし」
「しからば厄介になるぞ」
「へえ、ありがとうございます」
「拙者《せつしや》は、万事世話九郎と申すが、昨夜は、相州小田原宿、大久保加賀守殿のご領分《りようぶん》にて、相模《さがみ》屋と申す宿屋に泊まりしところ、さてはやたいへんなさわがしさであった。親子の巡礼が泣くやら、駈けおち者が、夜っぴてはなしをするやら、いちゃいちゃするやら、角力《すもう》とりが大いびきをかくやら、とんと寝かしおらん。今宵《こよい》は、間狭《まぜま》でもよろしいが、しずかな部屋へ案内をしてもらいたい」
「へえへえ、かしこまりました」
「そちの名は、なんと申す?」
「へえ、伊八と申します」
「ははあ、そのほうだな、いわゆる最後っ屁とやらを放《はな》つのは……」
「えっ、なんでございます?」
「いたちと申した」
「いいえ、いたちではございません。伊八でございます。おからかいになってはこまります。へえへえ、こちらへどうぞ……お花どん、お武家さまにお洗足《すすぎ》をおとり申して……それから、奥の七番さんへご案内だよ」
おさむらいが奥へ通りますと、あとへやってまいりましたのが、江戸っ子の三人づれでございます。
「おうおう、そうあわてていっちまったんじゃあしょうがねえやな。宿場《しゆくば》を通りぬけちまわあな。どっかこのへんで、宿をとろうじゃあねえか」
「そうさなあ……」
「ええ、お早いお着きさまでございます。ええ、お三人さま、お泊まりではございませんか? 武蔵屋でございます」
「おうおう、若え衆が泊まれといってるぜ。おう、泊まってやるか? 武蔵屋だとよ」
「武蔵屋?」
「へえ、武蔵屋でございます」
「武蔵っていえば江戸のことだ。こちとら江戸っ子にゃあ、とんだ縁のある名前《なめえ》だ、気にいったぜ」
「ありがとうございます」
「おう、若え衆、こちとらあ、魚河岸《かし》の始終《しじゆう》三人だけど、どうだ、泊まれるかい?」
「へえへえ、これはどうもありがとうございます。てまえどもは、もう、大勢さまほど結構でございまして……おーい、喜助どん、お客さまが大勢さまだから、すぐにさかなのほうへかかっとくれ!! おたけどん、さっそくごはんを、どしどししかけておくれよっ、お客さまは、みなさん、江戸のおかたで、お気がみじかいから……さあさあ、お客さま、おすすぎをどうぞ……どうもありがとう存じます。てまえどもは、これでちょいとみますとせまいようでございますが、奥のほうがずっと深くなっておりまして、なかへはいりますと間数もたくさんございます。もう、みなさんゆっくりとおやすみになれますので……あのう、おあと四十人《しじゆうにん》さまは、いつごろお着きになりますんで?」
「え? なんだい、そのおあと四十人さまてえなあ?」
「いえ、あなた、いま、四十三人とおっしゃいましたでしょう?」
「四十三人? あははは、あれかい? ……おい、おめえ、欲ばったことをいうねえ。おちついて聞きなよ。おれたち三人は、めしを食うのも三人、酒を飲むのも三人、女郎買いにいくのも三人、こうして旅へでるったって三人で、いつもつるんで(いっしょになって)あるいてるから、それで、こちとらあ、魚河岸の始終《しじゆう》三人てんだ」
「えっ、始終三人?! 四十三人ではないので?」
「あたりめえじゃあねえか。赤穂義士が討入りするんじゃあるめえし、四十何人で旅なんぞするもんか」
「ああそうですか。始終三人ね……あなた、妙ないいかたをなさるから、まちがえちゃうんですよ。おーい、喜助どん、さかなはどうした? え? 切っちゃった。おたけどん、ごはんは? しかけた? いけねえなあ、こんなときにかぎって手がまわるんだから……ちがうんだよっ、お客さまは、たった三人だよ」
「おうおう、いやないいかたするなよ。たった三人でわるけりゃあ、どっかわきへ泊まるぜ」
「ああ、申しわけございません。とんだことがお耳にはいりまして……どうぞ、お気をわるくなさいませんように……これは、てまえどものないしょばなしで……」
「ないしょばなしで、どなるやつがあるもんか」
「へえ、ごかんべんねがいます。どうぞ、お泊まりくださいまし」
「そうだなあ、足も洗っちまったことだし、おめえんところへ泊まろうか」
「ええ、どうぞおあがりください。おすぎどん、奥の六番へご案内しとくれよ」
「どこだ、どこだ、どこだ、らあらあらあ……」
なんてんで、宿屋へ着いたんだか、火事場へやってきたんだかわかりません。
この三人が、さっきのさむらいのとなりの部屋に通されました。
「おい、ねえや、おめえじゃあ、はなしがわからねえかも知れねえな。うん、そうだ、さっきの若え衆を呼んでくんねえ」
「かしこまりました」
女中といれかわって、若い衆の伊八がやってまいりました。
「ええ、本日は、まことにありがとうございます。お呼びで?」
「おう、若え衆、手数をかけるな。まあいいや、ずーっとこっちへへえっちゃってくれ。おれたちは、これから一ぺえやりてえんだ。ついちゃあ相談なんだが、酒は極上《ごくじよう》てえやつをたのむぜ。あたまへぴーんとくるようなのはいけねえや。それから、さかなだが、さっきもいう通り、おれたちゃあ魚河岸の人間だ。ふだんぴんぴんはねてるようなさかなあ食ってるんだ。だから、よく吟味《ぎんみ》してもれえてえなあ。それからな、芸者あ三人ばかりたのまあ。腕の達者なところを、ひとつ生け捕ってもれえてえなあ。いくら腕が達者だって、やけに酒の強いなあいけねえぜ。そうかといって、膳の上にあるものをむしゃむしゃ食うってえやつも、これもあんまり色気がねえなあ……とにかく、芸が達者で、きりょうよしで、酒を飲みたがらねえで、ものを食いたがらねえで、こちとら三人に、いくらか小づけえをくれるような、そんな芸者を……」
「それはありません」
「そうかい、ねえかい? いなかは不便だ」
「どこへいったってありません」
「あははは、いまのはじょうだんだが、とにかく、いせいのいいところを、三人呼んでくれ。今夜は、景気づけに、夜っぴてさわいでやるぜ」
やがて、芸者衆がまいりまして、はじめのうちは、都々逸《どどいつ》かなんかやっておりましたが、
「どうだい、もっと、ひとつ、ぱーっといこうじゃあねえか……おれが、はだかで踊るからねえ、角力|甚句《じんく》でも、磯ぶしでも、なんでもかまわねえから、にぎやかにやってくんねえな」
てんで、ひっくりかえるようなどんちゃんさわぎになりましたから、おどろいたのが、となり座敷のさむらいで、ぽんぽんと手を打つと、
「伊八、伊八!!」
「へーい、奥の七番さん、伊八どん、お呼びだよ」
「へーい……ええ、おさむらいさま、お呼びでございますか?」
「これ、敷居越しでははなしができん。もそっとこれへでい。これ伊八、拙者、先刻泊まりの節、そのほうになんと申した? 昨夜は、相州小田原宿、大久保加賀守殿のご領分にて、相模屋と申す宿屋に泊まりしところ、親子の巡礼が泣くやら、駈けおち者が、夜っぴてはなしをするやら、いちゃいちゃするやら、角力とりが大いびきをかくやら、とんと寝かしおらん。今宵は、間狭でもよいから、しずかな部屋へ案内してくれと、そのほうに申したではないか。しかるに、なんじゃ、となりのさわぎは? これではとても寝られんから、しずかな部屋ととりかえてくれ」
「どうも申しわけございません。部屋をかえると申しましても、どの部屋もふさがっておりますので……ただいま、となりの客をしずめてまいりますから、どうぞ、しばらくお待ちねがいます」
「しからば、早くしずめてくれ」
「へえへえ、かしこまりました……ええ、ごめんくださいまし」
「ああ、こりゃこりゃ、どっこいしょ……ようっ、きたな、若え衆……おうおう、この若え衆だよ。さっきたいへんに世話をかけちまったんだ……おうおう、こっちへへえんな、へえんなよ。おい、一ぺえついでやってくれ。若え衆、いけるんだろ? 大きいもので飲みなよ。おい、飲めよ」
「へえ、ありがとうございます。へえ、いただきます。いただきますが……あいすみませんが、すこしおしずかにねがいたいんでございますが……」
「なんだと? おしずかにとはなんだ? ふざけちゃあいけねえや。お通夜じゃああるめえし……こちとらあ、陽気にぱーっといきてえから飲んでるんじゃあねえか。おめえんとこだって、景気づけにいいじゃあねえか」
「へえ、そりゃあたいへん結構なんでございますが、おとなりのお客さまが、どうもうるさくておやすみになれないとおっしゃいますんで……」
「なんだと? となりの客がうるさくて寝られねえ? ふざけた野郎じゃあねえか。そんな寝ごという野郎を、ここへつれてこい。おれがいって聞かせてやらあ。宿屋へ泊まって、うるさくて寝られねえなんていうんなら、宿屋をひとりで買い切りにしろって……その野郎、ここへひきずってこい。ぴいっとふたつに裂《さ》いて、はなかんじまうから……」
「ちり紙だね、まるで……しかし、おとなりのお客さまてえものが、ただものじゃあございませんので……」
「ただものじゃあねえ? なに者なんだ?」
「じつは、さしていらっしゃいますんで……」
「さしてる? かんざしか?」
「かんざしじゃありません。腰へさしてるんですよ」
「たばこいれか?」
「いいえ、二本さしてるんですが……」
「二本さしてる? なにいってやんでえ。二本さしてようと、三本さしてようと、こちとらあおどろくんじゃねえや。矢でも鉄砲でも持ってこいってんだ」
「おいおい、金ちゃん、ちょいとお待ちよ。若え衆のいったことで気になることがあるんだけどもね、腰へ二本さしてるってじゃあねえか」
「なに? 二本さしてる? うなぎのかば焼きみてえな野郎じゃあねえか……もっとも、気のきいたうなぎは、三本も四本もさしてるが……なんでえ、矢でも鉄砲でも持ってこいってんだ……え? 二本さしてる? 腰へ? ……おい、若え衆、ちょっと聞くけどね、そりゃあ刀じゃねえんだろうねえ?」
「へえ、腰へさしてるんでございますから、刀でございますなあ」
「刀でございますなあって、すましてちゃこまるなあ」
「えへへへ……あなた、矢でも鉄砲でも持ってこいとおっしゃったじゃあありませんか」
「矢でも鉄砲でもとはいったけども、刀とはいわなかったぜ……刀を二本てえことになると、さむれえかい?」
「へえ、おさむらいで……おやっ、たいそういせいがようございましたが、急にしずかにおなりで……やっぱりおさむらいは、おそろしゅうございますか?」
「べつにおそろしかあねえけども、こわいじゃあねえか」
「おんなじだあな」
「おらあな、こわかあねえけど、さむれえとかぼちゃの煮たのは虫が好かねえんだよ……よし、わかった、わかった、しずかにするよ……おい、芸者衆、すまねえなあ、じゃあ、三味線たたんで早くひきあげてくれ……ああ、せっかくの酒がさめちまったぜ。とにかくさむれえはしまつがわりいや。気に食わねえと、抜きやあがるからね……しかたがねえ、おとなしく寝ようぜ。もうこうなりゃあ、寝るよりほかに手はねえや……おい、ねえや、早く床《とこ》敷いてくれ」
「もうおやすみですか?」
「こうなりゃあ起きてたってしょうがねえや。床敷いてもらおうじゃねえか……おうおう、ねえや。そうやって三つならべて敷いちゃあだめじゃねえか。となりのやつとしゃべるときにゃあいいが、端《はし》と端《はし》としゃべるときにゃあ、大きい声をださなくっちゃあならねえ。そうなりゃあ、また、となりのさむれえから苦情がでらあ。ならべねえで、こう、あたまを三つよせて敷いてくれ……さあ、床へへえろう」
「ふん、こんなばかなはなしはねえや。ようやくおもしろくなってきたなとおもったら、となりのさむれえがうるせえことをいうじゃあねえか。こうなりゃあ、早く江戸へ帰って飲みなおしといこうぜ」
「うん、江戸といやあ、帰るとじきに角力だなあ。おらあ、あの捨衣《すてごろも》てえやつが好きよ」
「ああ、坊主だったのが還俗《げんぞく》して、角力とりになったてえやつだな」
「うん、名前からしてしゃれてるじゃあねえか。それに、出足の早えとこが気持ちがいいや。なあ、行司《ぎようじ》が呼吸をはかってよ、さっと軍配をひくとたんに、どーんとひとつ上《うわ》突っぱりでもって相手のからだあ起こしておいて、ぐーっと、こう、左がはいって……」
「いてえ、いてえ、おいっ、いてえよ……おめえ、ずいふん手が長えんだな。そんなところから手がとどくとは……おれだって、負けちゃあいられねえや。やいっ」
「あれっ、右をいれやがったな。なにを、こんちくしょうめっ、やる気か? よしっ、さあ、こい!!」
「お待ちよ。寝てたんじゃあどうもあがきがつかなくっていけねえや。さあ、立って組もうじゃあねえか」
「そうか。よし、そんなら、ふんどしをしめなおそう」
こうなると、まんなかの男もだまってみていられませんから、お盆を軍配《ぐんばい》がわりにして、
「さあさあ、双方、見合って、見合って……それっ」
と、お盆をひきましたから、
「よいしょっ」
「なにくそっ」
「はっけよい、のこった、のこった、のこった……はっけよい!!」
ドタンバタン、ドスンドスン、バタン、メリメリメリ……となりのさむらいは、さっそく手を打って、
「伊八、伊八!!」
「しょうがねえなあ、こりゃあ……へーい、お呼びでございますか?」
「これ、敷居越しでははなしができん。もそっとこれへでい。これ伊八、拙者、先刻泊まりの節、そのほうになんと申した? 昨夜は、相州小田原宿、大久保加賀守殿のご領分にて、相模屋と申す宿屋に泊まりしところ、親子の巡礼が泣くやら、駈けおち者が、夜っぴてはなしをするやら、いちゃいちゃするやら、角力とりが大いびきをかくやら、とんと寝かしおらん。今宵は間狭でもよいが、しずかな部屋へ案内してくれと、そのほうに申したではないか。しかるに、なんじゃ、となりのさわぎは? 三味線と踊りがやんだとおもえば、こんどは角力だ。ドタンバタン、ドスン、メリメリメリッと、唐紙《からかみ》からこちらへ片足をだしたぞ……いや、あのさわぎではうるさくて寝られん。しずかな部屋ととりかえてくれ」
「どうも申しわけございません。さきほども申しました通り、どの部屋もふさがっておりますので……ただいま、となりの客をしずめてまいりますから、どうぞ、しばらくお待ちねがいます」
「しからば、早くしずめてまいれ」
「へえへえ、かしこまりました……どうも手がかかってしょうがねえなあ。……ごめんくださいまし」
「よう、きたな、野郎。よしっ、一番くるか!!」
「なるほど、こりゃあ寝られねえや。もしもし、あなたがた、さっきも申しあげましたでしょう? おとなりのお武家さまが、うるさくておやすみになれないと……」
「あっ、そうそう。すっかりわすれてた。わかった。わかったから、もうすぐ寝るよ。いえ、こんどは大丈夫、もうはなしもしない。いびきもかかない。息も……しないわけにいかねえから、息だけはそうっとするけど、すぐに寝るよ。安心して帰れよ……いけねえ、いけねえ。うっかりしちまった。だめだよ。ああいう力のへえるはなしは……もっと力のへえらねえはなしをしようぜ。なにかねえかな、こう力のへえらねえはなしは?」
「どうだい、色《いろ》ごとのはなしてえのは?」
「まあ、それが一番しずかでいいんだけどもね、まあ、おたげえに、いずれをみても山家《やまが》そだちってやつでね、女にゃあ、あんまり縁のねえつらだからな」
「おっと待った。おう、金ちゃん、いかに親しい仲だとはいいながら、すこしことばが過ぎゃあしねえかい?」
「なにが?」
「だってそうじゃあねえか。なんだい、その、いずれをみても山家そだち、女にゃあ、あんまり縁のねえつらだとは、すこしことばが過ぎるだろう? きざなことをいうんじゃあねえが、色ごとなんてもなあ、顔やすがたかたちでするもんじゃあねえんだぜ。人間をふたり殺して、金を三百両|盗《と》って、間男《まおとこ》(密通)をして、しかも、三年|経《た》っても、いまだに知れねえってんだ。どうせ色ごとをするんなら、これくれえ手のこんだ色ごとをしてもれえてえなあ」
「へーえ、してもれえてえなあというところをみると、源ちゃんは、そんな手のこんだ色ごとをしたことがあるのかい?」
「あたりめえよ。あるからいうんじゃあねえか、……なあ、いまから三年ばかり前《めえ》に、おれが川越のほうへしばらくいってたことがあったろう?」
「うん、そんなことがあったっけなあ」
「あんときゃあ、伯父貴《おじき》のところへいってたんだ。伯父貴はな、小間物屋をやってるんだが、店で商《あきな》いをするだけでなくって、荷物をしょって、得意まわりもするんだ。で、ご城内のおさむれえのお小屋なんかもあるくこともあって、商売もなかなかいそがしいのよ」
「ふんふん」
「おれもいい若え者《もん》だ。毎日ぶらぶらしてるのも気がひけるから、『伯父さん、おれも手つだおうじゃあねえか。そんな大きな荷物をかついじゃあ骨が折れるだろうから、おれがかつごう』ってんで、伯父貴にくっついて、毎日城内のおさむれえのお小屋をあるいてた。ところが、ある日、伯父貴がぐあいがわりいもんだから、おれが、ひとりで荷物をしょって、ご城内のおさむれえのお小屋をあるいてると、お馬まわり役、百五十石どりのおさむれえで、石坂段右衛門という、このかたのご新造《しんぞ》さんが、家中《かちゆう》でも評判のきりょうよしだ。おれが、ここの家へいって、『こんちは、ごめんくださいまし』というと、いつもなら女中さんがでてくるんだけども、あいにく留守だとみえて、その日にかぎって、ご新造さんがでてきて、『おう、小間物屋か。よいところへきやったの。遠慮せずと、こちらへあがってくりゃれ』と、こういうんだ」
「へーえ、どうしたい?」
「お座敷へ通されると、ご新造さんが、『そなたは酒《ささ》を食べるか』と、こう聞くんだ。だからね、『たんとはいただきませんが、すこしぐらいでございましたら……』と、おれが返事したんだ」
「へーえ、おまえ、やるのかい、笹を? 馬みてえな野郎だなあ……ははあ、そういわれてみりゃあ、きのうも、のりまきがなくなってから、まだ口をもごもごさせていたなあ」
「なにいってやんでえ。ささったって、笹の葉っぱじゃあねえやい。酒のことをささというんじゃあねえか……まあ、そんなこたあどうでもいいや……しばらくすると、お膳がでてきて、ご新造さんが、おれにさかずきをわたしてくだすって、お酌までしてくださるじゃあねえか。せっかくのお心持ちだから、おれが一ぺえいただいて、ご新造さんのほうをみると、なんだか飲みたそうなお顔をしてるんだ。そこで、『失礼でございますが、ご新造さんも、おひとついかがでございます?』っていうと、ご新造さんが、にっこり笑って、そのさかずきをうけてくだすったから、おれが酌をする。ご新造さんが飲んで、おれにくださる。おれが飲んで、ご新造さんに返す。ご新造さんが飲んで、おれにくださる。やったりとったりしてるうちに、縁は異なもの味なものってえわけで、おれとご新造さんとがわりなき仲になっちまったとおもいねえ」
「いいや、おもえない。おめえは、わりなき仲ってえ顔じゃあねえもの……薪《まき》でも割ってる顔だよ」
「なにいってやんでえ。そこが縁は異なもの味なものよ。なあ? それからというものは、おらあ、石坂さんの留守をうかがっちゃあ通ってたんだ」
「泥棒猫だね、まるで……で、どうしたい?」
「ある日のこと、きょうも石坂さんが留守だてえんで、すっかり安心して、おれとご新造さんとが、さかずきをやったりとったり、よろしくやってると、石坂さんの弟で大助、こりゃあ家中第一のつかい手だよ。このひとが、朱鞘《しゆざや》の大小のぐーっと長えのをさして、『姉上、ごめんくだされ』ってんで、ガラッと唐紙をあけた。すると、おれとご新造さんが、さかずきのやりとりをしてるじゃあねえか。野郎、おこったの、おこらねえのって……『姉上には、みだらなことを……不義の相手は小間物屋、兄上にかわって成敗《せいばい》(処罰)してくれん』っていうと、例の長えやつをずばりと抜いた。おらあ、斬られちゃあたまらねえから、ぱーっと廊下へとびだすと、大助てえ野郎もつづいてとびだしてきた。おらあ、夢中で逃げたんだが、なにしろせまい屋敷だから、すぐに突きあたりになっちまった。しょうがねえから、ぱーっと庭へとびおりると、つづいて大助てえ野郎もとびおりたんだが、人間、運、不運てえやつはしかたのねえもんだ。大助てえ野郎が、あたらしい足袋をはいてやがったもんだから、雨あがりの赤土の上でつるりとすべって、横っ倒しになったとたん、敷石でもって、したたか肘《ひじ》を打ったからたまらねえや。持ってた刀をぽろりとおとした。しめたっとおもったとたん、おらあ、その刀をひろうと、大助てえ野郎をめった斬りにしちまった」
「うーん、えれえことをやりゃあがったなあ……それで?」
「ご新造さんは、もうまっ青な顔になっていたが、『これ、ここに三百両の金子がある。これを持って、わらわをつれて逃げてくりゃれ』と、おれに金づつみをわたしたから、『ええ、よろしゅうございます』ってんで、これをふところにいれちまった。すると、ご新造さんが、たんすをあけて、持って逃げる着物をだしはじめたから、すきをうかがって、おらあ、うしろから、ご新造さんをめった斬りにしちまった」
「またかい? ひでえことをしゃあがったなあ……なにも、ご新造まで殺すこたあねえじゃあねえか」
「そこが、おれとおめえとのあたまのはたらきのちがうところだ。なぜって、かんげえてもみねえな。あとから追手《おつて》のかかる身だよ。足弱《あしよわ》なんぞつれて逃げきれるもんか……どうでえ? 金を三百両盗って、間男をして、人間をふたり殺して、三年経っても、いまだに知れねえってんだぞ。どうせ色ごとをするんなら、このくれえ手のこんだ色ごとをしてもらいてえなあ」
「ふーん、おどろいたねえ。ひとはみかけによらねえっていうけど、ほんとうだなあ。まったくてえしたもんだ。いや、おそれいった。じつにどうもたいした色ごと師だ。ほんとにおどろいた色ごと師だよ、源ちゃんは…… 色ごと師は源兵衛、源兵衛は色ごと師、スッテンテレツク、テンツクツ、スケテンテレツク、テンツクツ……源兵衛は色ごと師、色ごと師は源兵衛だ……」
「伊八、伊八!!」
「へーい、また手が鳴ってやがるな。寝られやしねえや、こりゃどうも……へーい……お呼びでございますか?」
「敷居越しでははなしができん。もそっとこれへでい。これ伊八、拙者、先刻泊まりの節、そのほうになんと申した?」
「昨夜は、相州小田原宿、大久保加賀守殿のご領分にて……」
「だまれっ、万事世話九郎と申したは、世をしのぶ仮《か》りの名、まことは、川越の藩中にて、石坂段右衛門と申すもの。先年、妻と弟を討たれ、逆縁ながらも、その仇を討たんがため、雨に打たれ、風にさらされ、めぐりめぐって三年目、となりの部屋に、仇源兵衛なる者がおることが判明いたした。ただちに踏みこんで斬りすてようとは存じたが、それはあまりに理不尽《りふじん》(無理)。一応そのほうまで申しいれるが、拙者がとなりの部屋へまいるか、あるいは、となりから源兵衛なる者が斬られにくるか、ふたつにひとつの返答を聞いてまいれっ」
「こりゃあどうもたいへんなことで……少々お待ちくださいまし。となりへいってまいりますから……どうもとんだことが持ちあがっちまった。こりゃあえらいことだぞ……ええ、ごめんください」
「スッテンテレツク、テンツクツ、スケテンテレツク、テンツクツ、源兵衛は色ごと師、色ごと師は……あははは、またきやがったな。わかった、わかった。すこし調子に乗りすぎちまった。すぐ寝る。すぐ寝るから……」
「いいえ、こんどは寝ちゃあいけません。ええ、このなかに源兵衛さんてえひとがいらっしゃいますか?」
「源兵衛はおれだが……」
「あなたねえ、ひとを殺したおぼえはありますか?」
「え? ……ああそうか。廊下で聞いてやがったんだな。おう若え衆、どうせ色ごとをするんなら、おれぐれえの色ごとをやってもらいてえね。人間をふたり殺して、間男をして、三百両盗って、しかも、三年経っても、いまだに知れねえてんだ。どうだ、てえしたもんだろう?」
「いいえ、あんまりたいしたもんじゃあありませんよ。おとなりのおさむらいさまは、石坂段右衛門とおっしゃいます。『先年、妻と弟を討たれ、その仇を討たんがため、雨に打たれ、風にさらされ、めぐりめぐって三年目、となりの部屋に、仇源兵衛……』……あなただ。あなたですよ……『仇源兵衛と申す者がおることが判明いたした。ただちに踏みこんで斬りすてようとは存じたが……』まあ、わたしを呼んでね、『拙者がとなりの部屋へまいるか、あるいは、となりから源兵衛なる者が斬られにくるか、ふたつにひとつの返答を聞いてまいれ』ってんですけどもねえ、あなた、となりへ斬られにいらっしゃいますか?」
「おいおい、ほんとうかい? じょうだんじゃあねえぜ。おちついとくれよ」
「あなたがおちつくんですよ」
「いや、若え衆、まあ聞いてくんねえ。じつはな、半年ばかり前、おれがね、両国の小料理屋でもって一ぺえやってたんだ。そのとき、そばでもって、このはなしをしてたやつがいたんだ。おらあ聞いていて、うん、こいつあおもしれえはなしだ。どっかでもって、いっぺんこのはなしをつかってみてえとおもってたんだよ。そうしたら、さっき、金ちゃんが、『いずれをみても山家そだち、女にゃあ縁のねえつらだ』なんていったろう? だから、両国のはなしをつかうのはこのときだってんで、口からでまかせに、つい自分のはなしとしてやっちまったんだ。だからさ、人間をふたり殺したのは、両国のひとなんだから、となりのおさむれえに両国へいってもらっておくれ」
「へーえ、すると、このはなしは受け売りなんですか? あなたねえ、こんなややっこしいはなしを、口からでまかせに、むやみに受け売りなんぞしちゃあこまりますよ」
「いや、めんぼくねえ。つい調子に乗っちまったもんで……」
「ほんとうにこまりますねえ。あんたがたのために、こっちゃあ寝られやあしねえんだから……まあ、どうなるかわからないけれども、とにかく、となりへいって、おさむらいさまに、よくはなしをしてきますからねえ……しょうがねえなあ、ほんとに世話ばっかり焼かせて……ええ、お武家さま、どうもお待たせいたしました」
「ごくろうであった。で、いかがいたした?」
「へえ……それが、その……なにかのおまちがいではございませんか?」
「まちがい?」
「へえ、源兵衛という男の申しますには、あれは、なんでも両国の小料理屋で聞いたはなしの受け売りだとかいうことで……ええ、人殺しをしたり、金を盗ったり、間男をしたりと、そんなことのできそうな男ではございません。自分のかみさんが間男をされても気がつかないというような顔でございまして……とても人を殺すなどという度胸は……」
「ええ、だまれ、だまれっ……現在、おのれの口から白状しておきながら、事《こと》ここにおよんで、うそだといってすむとおもうか!! さようないいわけによって、この場を逃れんとする不届至極《ふとどきしごく》の悪人めっ。ただちに隣室に踏みこみ、そやつの素っ首たたきおとし、みごと血煙りあげて……」
「もし、少々お待ちください。ねえ、お武家さま、ただの煙りとはちがいますよ。血煙りてえやつはおだやかじゃあありません。あの部屋で血煙りがあがったなんてえことが評判になりますと、てまえどもには、これから、お泊まりくださるお客さまがなくなってしまいます。どうか、せめて庭へでもひきずりだして、血煙りをおあげくださるということにねがいたいもんで……」
「いや、わかった。そのほうの申すところ、一応もっともじゃ。なるほど、仇討ちとはいいながら、死人がでたとあっては、当家としても、今後のめいわくとなろうな……なにかよい思案は? ……うん、しからば、かよういたそう。明朝まで源兵衛の命をそのほうにあずけおこう。明朝あらためて、当宿場はずれにおいて、出会《であ》い敵《がたき》といたそう。しからば、当家へめいわくはかかるまい?」
「へえへえ、それはありがとうございます。もう、そうねがえれば、大助かりでございます」
「さようか。しからばそのようにいたそう。仇は源兵衛ひとりではあるが、朋友《ほうゆう》が二名おったな? これは、朋友のよしみをもって助太刀いたすであろう。よしんば助太刀をいたすにもせよ、いたさぬにもせよ、ことのついでに首をはねるゆえ、三名のうち、たとえ一名たりともとり逃がすようなことあらば、当家はみな殺しにいたすぞ。よろしいか、さよう心得ろ」
「えっ、一名でもとり逃がすと、当家はみな殺し?! へえへえ、いえ、もうかならず逃がすようなことはいたしません。ええ、逃がすもんですか。へえ、かしこまりました。たしかにおうけあいいたしました。どうぞ、旦那さま、ご心配なくおやすみくださいまし……さあ、松どん、善どん、寅どん、喜助どん……みんなきてくださいよ。いえね、へたすると、ここで仇討ちがはじまるところだったんだが、あのお武家さまのおはからいで、明朝、この宿場はずれで出会い敵ってえことになったんだ。そのかわりね、三人のうち、ひとりでも逃がすようなことがあると、家じゅうみな殺しだってんだから、こりゃあおだやかじゃあないよ。え? そうだよ。仇は、あの江戸のやつらだよ。ねえ、そういやあ、いやにこすっからいような目つきをしてたろう? なにしろ逃がしたらたいへんなんだから……うん、縄を持ってきたかい? じゃあね、あたしが声をかけたら、かまうこたあないから、あいつらあ、ぐるぐる巻きにふんじばって、柱へでもなんでもしばりつけとかなくっちゃあ……え? 今夜は寝ずの番だよ。みんな覚悟してくれよ……ええ、ごめんください」
「おう、若え衆か、どうしたい、はなしはついたかい?」
「ええ、つきました。明朝、当宿場はずれで出会い敵ということで、はなしは無事につきました」
「おいおい、はなしは無事につきましたなんていってるけど、じょうだんじゃねえ。出合い敵てえのはなんだい?」
「ええ、宿場はずれで、あなた、殺《や》られます」
「えっ」
「それでね、『仇は源兵衛ひとりではあるが、朋友が二名おったな? これは、朋友のよしみで助太刀いたすであろう』って……」
「しない、しないなあ」
「ああ、しないよ、ふたりとも……」
「いいえ、してもしなくても、ことのついでに首をはねるそうで……」
「おいおい、ことのついでにって、気やすくいうなよ」
「それでね、あなたがたのうち、ひとりでも逃がすようなことがあると、あたしたちの首が胴についていないというようなことで……まことにお気の毒ですが、きゅうくつでも、あなたがたしばらしてもらいます」
「おい、若え衆、おいおい、かんべんして……」
「ええ、かんべんもくそもあるもんか」
「おいおい、なにをするんだっ」
「なにもくそもあるもんか……おい、みんな、かまわないから、ぐるぐる巻きにしちまえ!!」
店じゅうの者が、寄ってたかって三人を荒縄でぎゅうぎゅうしばりあげると、柱へ結《ゆわ》いつけてしまいました。
三人は、さっきの元気はどこへやら、青菜に塩で、べそをかいております。
一方、おさむらいのほうは、さすがに度胸がすわっているとみえまして、となりの部屋に仇がいるというのに、大いびきで、ぐっすりとやすんでしまいました。
さて、一夜あけますと、おさむらいは、うがい、手水《ちようず》もすませまして、ゆうゆうと、朝食も終えました。
「ええ、お早うございます」
「おう、伊八か。昨夜は、いろいろと、そのほうに世話を焼かせたな」
「いいえ、どういたしまして……さきほどはまた、多分にお茶代までいただきまして、まことにありがとう存じます」
「いや、まことに些少《さしよう》であった。今後、当地へまいった節は、かならず当家に厄介《やつかい》になるぞ」
「へえ、ありがとう存じます……ええ、それから、旦那さま、昨夜の源兵衛でございますが……」
「源兵衛?」
「はい。ただいま、唐紙をあけてお目にかけます……さあ、よくごらんくださいまし。あのまんなかにしばってございますのが、あれが源兵衛でございまして、その両|端《はし》でべそをかいておりますのが、金次に留吉でございます」
「ほほう、ひどく厳重にいましめられておるが、なにか、昨夜、よほどの悪事でも犯《おか》したか?」
「いえ、昨夜は、べつにわるいというほどのことはいたしません。ただ、はだかでかっぽれを踊ったぐらいでございますが……」
「それが、なにゆえあのように?」
「でございますから、あの源兵衛が、旦那さまの奥さまと、弟御さまとを殺した悪人でございます」
「ほほう、それは、なにかまちがいではないかな? 拙者、ゆえあって、いまだ妻をめとったおぼえもなく、弟とてもないぞ」
「いいえ、そんなはずはございません。ねえ、旦那さま、おちついて、よくおもいだしてくださいましよ。ゆうべおっしゃったじゃあございませんか……『先年、妻と弟を討たれ、その仇を討たんがため、雨に打たれ、風にさらされ……』って」
「ああ、あれか……あははははっ……いや、あれは座興じゃ」
「えっ、座興? 座興とおっしゃいますと、旦那さまも口からでまかせにおっしゃったんで? ……へーえ、口からでまかせが、いやに流行《はや》ったねえ……しかし、旦那さま、じょうだんじゃあございませんよ。ひとりでも逃がしたら、家じゅうみな殺しだっておっしゃったでしょ? ええ、もう、家じゅう、だれひとり寝たものはおりません。みんな寝ずの番で、あの三人を……あの三人だってかわいそうに、生きた心地はありませんよ。みんなまっ青になって、べそをかいて……旦那さま、あなた、なんだって、そんなくだらないうそをおっしゃったんでございます?」
「いや、あのくらいに申しておかんと、身《み》どもが、ゆっくりやすむことができん」
化けものつかい
むかし、芳町に千束屋《ちずかや》という口入れ屋(職業紹介所)がございまして、ちょうど風呂屋の番台みたいな高いところに番頭さんが坐っておりまして、奉公口をさがす人たちが、このまわりをとりまいております。
番頭がまわりをみながら、
「おい、うなぎ屋の出前持ちの口があるよ。おい、だれかいかないか? うなぎが食えるぜ」
なんてことをいって、みんなにすすめております。
「おい、杢《もく》さん、おめえどうしたんだ? なぜ奉公しねえんだい?」
「だって、口がねえだ」
「そんなこたああるめえ? あんなにいろいろ呼んでるじゃあねえか」
「おらあ陰気な性分《しようぶん》だからな、うなぎ屋の出前持ちなんて派手な仕事はきれえだ。なるたけ人のすくねえうちがいいだ」
「おい、新規《しんき》の口があるよ。給金がいいぜ。だれかいかないかい?」
「おい、杢さん、新規の口があるとよ。聞いてみなよ」
「もし、番頭さん、その新規の口というなあ、なんですかね?」
「ああ、こりゃあばかに給金がいいんだぜ。男隠居ひとりなんだがね」
「おいおい、杢さん、そりゃあ新規じゃねえや。十日も前からあるんだ。ねえ番頭さん」
「おいおい、よけいなことをいっちゃあいけない。おい、杢さんとやら、どうだい、いかないかい? 隠居さんがきびしいんだがね、そのかわり給金は、よそよりずっといいんだ」
「いや、給金なんかかまわねえけどね、わしゃあ陰気な性分だから……」
「そんならちょうどいいや。なにしろ隠居ひとりなんだから……ただ、すこしばかり人づかいが荒いんだ」
「そんなことはかまわねえだ。おらあ、そこへいくべえ」
「いくかい?」
「へえ、いきますべえ」
「おいおい、杢さん、およしよ。およしったら……」
「よせよせったって、おらあ、そういうところが好《この》みだ」
「いくら好みだってね、三日といたものはねえんだぜ」
「なあに、おらあ、もういくときめたら、人がなんといってもいく気性だから……」
「およしよ、およしよ。わるいことはいわないから……だれがいっても三日といたことはないんだよ。たいがいの者が、おどろいて、一日で帰ってきてしまうんだ。およしよ」
「おらあ、よさねえ」
「きっとすぐに帰ってくるんだからむだだよ。およしよ。その隠居てえのは、けちな上に、ばかに人づかいが荒いんだそうだから……」
「なあに、いくら人づかいが荒れったって、人間が人間をつかうだ。天狗さまにつかわれるわけじゃああるめえ。するだけのことさえすりゃあ、だれがなんというものでねえ。おらあ、そこへいくべえ」
「そうかい、そんなにいうなら、もうとめねえからいっておいでよ」
「ああ、おらあ強情《ごうじよう》だから、いっしょうけんめいはたらくだ」
「ほんとうに強情だな。じゃあ、まあ、しっかりやっておいで……おい、番頭さん、この人がいくそうだよ。この杢さんが……」
「ああそうかい。奉公さきは本所だ。この札を持っていっておいで」
杢さんは、奉公さきを教えられると、さっそくやってまいりました。
「へえ、ごめんくだせえやし」
「だれだい?」
「へえ、千束屋からめえりやした」
「なに? 千束屋から? またまぬけなやつがきやがったな。これから奉公しようてえのに、玄関からくるやつがあるもんか。勝手口へまわれ、勝手口へ……」
「へえ、……しかし、勝手口がわかんねえでがす」
「そんなことがあるもんか。玄関がわかって勝手口のわからねえやつがあるか。そのせまい路地《ろじ》をずーっとはいると、右側に腰障子のはまってるところがある。そこが勝手口だ。いいか、わかったか? ……ちえっ、まったくどじなやつをよこしたもんだ。このごろは、ろくな奉公人がきやあしねえ。まったくこまったもんだ……おいおい、むやみにあがってきちゃあいけねえ。そこんとこはなあ、さっききれいに掃除したばかりなんだ。もう、なめてもいいようになってるんじゃあねえか。きたねえ足でずかずかあがられてたまるもんか……そこに手桶があるだろう? そばにぞうきんもあるはずだ。それを持ってって、井戸ばたへいって、足をきれいに洗ってこい……なにっ、もう洗ってきたのか? きれいになったか? おいおい、足をよくふいたか? ぬれた足でずかずかあがってきちゃあいけねえぞ……ふん、世話の焼ける野郎じゃあねえか……え? よくふいたか? じゃあ、こっちへきな……」
「へえ……」
「おめえか、千束屋からきたのは?」
「はあ、わしあ、はあ、杢兵衛《もくべえ》と申します。どうぞまあ、よろしくおねげえ申します」
「なんだ、杢兵衛? ……名前からしてまぬけなやつがきたもんだ。どうせくるんなら、もうすこし早くきてくれりゃあよかったじゃあねえか。おめえのきようがおせえから、掃除でもなんでも、おれがひとりでやっちまった。おめえのやることなんぞ、なんにもありゃあしねえや……まあ、しょうがねえ、きょうのところはね、ゆっくり骨やすめをして、あしたっからみっちりやっとくれよ。いいかい? ……しかし、待てよ……まるっきりねえわけじゃあねえな。すこうしぐらいは、やることだってあるんだが……まあ、仕事ってえほどの仕事でもねえさ、うん……おめえだって、そこにぼんやり坐ってるのも退屈だろうしなあ……そうだなあ、ちょっと待ちな、やることをさがしてやるから……」
「いや、むりにさがしてくれねえでもようがす」
「なにもむりにさがすてえほどの大仕事じゃあねえさ……そうだな……うん、物置きに薪があるからねえ、あれを十|把《ぱ》ばかり手ごろに割ってもらおう。それからね、薪のそばに炭俵があるから、なかの炭を切っとくれ、あまり長すぎてもつかいにくいし、みじかくてもまずいし、まあ、そこを適当にな。で、切っちまったら、縁の下に炭箱があるからな、切った炭をいれておくれ。いいかい、一本一本ていねいにいれるんだよ。ほうりこむと粉になっちまうからな……それからね、表のどぶがつまってるようだから、ひとつきれいに掃除しておくれ。それでな、どぶのほうがすんじまったら、庭の草をむしっとくれ。しばらくむしらねえから、だいぶ長くなってるんでな。そうそう、つかいにいってもらうところがあったっけ。いま手紙を書くからな、用がすんだらいってきとくれ。ゆくさきは品川だ。じきわかるよ。くわしく住所《ところ》と名前を書いとくから……そうだ。つかいといえば、ついでに浅草へまわってきとくれ」
「品川から浅草へでがすか?」
「そうだよ」
「それじゃあ、まるっきり南と北だ。ずいぶんはなれたついででがすな……じゃあなにかねえ、旦那のいった用をすっかりすまして、それから、その手紙を持って品川から浅草へいきますだね?」
「そうだよ」
「こりゃあおどろいた。今夜じゅうに帰ってこられますかね?」
「さあ? 今夜じゅうってわけにもいくめえが、夜のしらじら明けぐらいにゃあ帰れるだろうよ……まあ、きょうはそんなぐあいに骨やすめしといてもらって……」
「え? それで骨やすめ? ……めしは、いつ食わしてもらえますか?」
「めし? なにいってるんだ。きょうは骨やすめだよ。めしなんざあ食わせるもんか」
「えっ、めしは食わしてくださいやせんか?」
「ああ、一日ぐらい食わなくったって死にゃあしねえよ。まあ、きょうは、それくらいのところでからだやすめといて、あしたっから、みっちりはたらいとくれ」
「うへー……かしこまりました」
もうたいへんなさわぎ……この男が辛抱強い男で、いっしょうけんめいつとめますから、隠居のほうでは、いい奉公人にあたったと大よろこびでございます。近所の人たちもおどろいて、世のなかにあんなに人づかいの荒い隠居もないが、また、あんなによくはたらく奉公人もないといって評判をしております。こんなことで、三年という歳月が経《た》ちました。
このご隠居の家の近くに、ちょっと小ぢんまりした家がございます。ところが、どういうものか、そこの家に幽霊がでるという評判が立ちまして、半月と住む人がございません。たいていの人は、一晩か二晩で引っ越してしまいますので、しまいには、だれも住《す》み人《て》がございません。年中貸し家札がはりっぱなしというのですから、持ち主もやりきれません。安く売ってしまいたいものだということになりましたが、これを聞いてよろこんだのがご隠居で、もともとけちな人ですから、そんなに安いのなら買おうと、むこうへはなしをしますと、持ち主は大よろこびで、さっそく相談もまとまり、金と書きつけのやりとりもすませました。すると、持ち主が、
「さて、ご隠居さん、わたしも、あの家は、相当な金をかけてこしらえたのだから、こんなに安く売ってしまったのでは、まことにあわないのだが、これにはすこしわけがある。それも、まるで知らない人ならかまわないけれども、始終お湯や髪結床《かみゆいどこ》でお目にかかっている仲だけに、念のためにちょっとおことわりしておくけれども、あの家には……うそかまことか、わたしは見ないから知らないが、だいぶおかしなうわさがある。どんな変事か知らないが、それはもう、わたしのほうでは関係ありませんから、そのおつもりで……」
というはなしでございます。しかし、ご隠居のほうも、もともと承知の上で買ったのですから、すこしもおどろきません。それに、いままでいた家は、ほかの人がだいぶ欲しがっているので、そのほうに売れば、値をよく売れるという見こみがございます。居古《いふる》した家を高く売って、新規に安い家を買って引っ越せば、たいへんに割りがいいというので、ご隠居は、かえってほくほくとよろこんでおります。
ある日のこと、杢兵衛さんが髪結床へやってまいりました。
「お早うごぜえます」
「おう、杢兵衛さんかい。お早う」
「ひとつ結《ゆ》っておもれえ申します」
「まだ結って間もないから、それほど乱れていねえじゃあねえか」
「それでも、はあ、ひとつ結いなおしておもれえ申してえ」
「ああそうかい。じゃあ、こっちへおいで……ときに、ご隠居は、あの化けもの屋敷を買ったというじゃあないか?」
「へえ、それについて、すこしおめえさまに聞きてえとおもうだ。おらあ、まあ、あすこのうちへきて、三年べえ辛抱《しんぼう》をしたけれども、こんどというこんどは、どうしても辛抱できねえ。おらあ、ちっともそとへでねえだから、世間でどんなはなしがあるか、まるで知らねえだ。つけえにでたところで、用が多くってむだばなしなどしてる間がねえだから、人のうわさなどをあまり聞いたことがねえ。ところがきのうだ。荒物屋のばあさまのいうにゃあ、こんど隠居さんが、化けもののでる家を買って引っ越すだという。家にいても、おらあそんなこと聞かなかった。第一《でえいち》、化けもののでる家へいくなどというのは、はじめて聞いただ。おらがいくら陰気な性分でも、化けものはきれえだからな。ほんとうに化けものがでるようなら、おらあ、とても辛抱はできねえだけれども、まったくかね?」
「ああ、まったくだともさ。だれだってこのごろは、三日と辛抱する者のねえ家だ。隠居さんは、安いものだからと買ったんだが、あの家には、いくらなんでも辛抱ができめえとおもうんだ。もしもやせがまんをして辛抱すれば、しまいには、化けものにとり殺されてしまうだろうと、みんなでうわさしてるんだ。それにつけても、おまえさんのことは、世間でみんなほめてるよ。よくまあ、あんな家に辛抱してはたらいているって……」
「おらもはあ、みんながとめるのもきかずに、強情を張ってあすこの家へ奉公にきただから、意地ずくで辛抱をしているうちに、とうとう三年経ってしまったが、こんどというこんどは、どうしても辛抱できねえだから、ひまをもらうとしますべえ」
「わるいことをすすめるようだが、命あっての物種《ものだね》だからな」
「へえ、ありがとうごぜえます。それでも、店の旦那さまは、隠居さんとちがって気前《きまえ》のいい人だから、つけえにいくたんびに、『これでどこかでそばでも食っていくがいい』といって、いくらかずつ小づけえをくだすったのと、給金をつかわずに貯《た》めておいたのとで十二両二分ばかりある。これだけあれば、国へ帰ってどうにかなるだから、なんとかうめえことをいって、きょうすぐひまもらって国へ帰るべえとおもいます」
「ああ、それがいい、それがいい。国もとで病人がでたとかなんとかおいいよ。じゃあ、これがおわかれだな」
「どうもいろいろとご厄介になりまして、ありがとうごぜえます。じゃあ、ここへ銭置きますから……」
「ああ、杢兵衛さん、きょうはいらないよ。もらわないでもいいよ。それからね、こりゃあわずかばかりだが、餞別《せんべつ》だ。持っていっておくれ」
「あんれまあ、そりゃあどうもすまねえだな。髪をただで結ってもらって、その上に餞別までもらっちゃあすまねえだな」
「そんなことをいわねえで、持っていっておくれ」
「そうですか。それじゃあまことにすまねえだが、せっかくだから、遠慮なくもらっていきますべえ。お世話になりやした。さようなら」
「ああ、おそくなってすみません」
「どこへいってたんだ? やあ、髪結床へいってきたんだな。たいへんにきれいになって帰ってきたな」
「さて、あらためて、おめえさまにすこしはなしがあるだが、どうか聞いてくだせえ」
「なんだい? あらたまって……」
「ほかでもねえだが、きのうつけえにいったとき、国の知りあいにあいやしたが、その人のいうには、おらの兄貴が大病で、とても助かる見込みがねえらしいというだ。もしも兄貴にまちげえがあれば、二番目がおらだから、国へ帰って後をつがなけりゃあならねえ。とにかくひまをもらって国へ帰らなけりゃあならなくなっただ。まあ、そういうわけだから、どうかひまをくだせえまし」
「そうか。そりゃあどうもこまったな。おまえにはまだはなさなかったが、こんどわたしが家を買って、もう引っ越そうという間際《まぎわ》なんだが……」
「なあに、引っ越しぐれえ手つだってもいいだよ」
「しかし、大病人だというなら、すこしも早く帰らなけりゃあいけなかろう?」
「いや、その……おらあ、はあ、うそをつくことは、どうも性《しよう》にあわねえだから、ほんとうのことをいっちまいますべえ。じつは、いまいったことはつくりごとだ」
「なんだい、うそかい?」
「へえ、兄貴が病気でもなんでもねえ。たいげえの者ならば、まあそういってひまをとるだが、おらあ、はあ、そんなうそをつき通すことができねえだから、正直にいうだが、こんどおめえさまが買って引っ越すというのは、化けもののでる家だというでねえか? 化けものときたら、とても辛抱できねえからおひまをいただきやす」
「そうか。まあ、そういうわけならしかたがねえ。おまえのような奉公人は、めったにないから、ひまはやりたくないけれども、もうむこうの家は買っちまったし、この家は、人にゆずってしまったのだから、どうしても引っ越さなけりゃあならねえ。むこうの家へ越すのならひまをくれろというのだから、とてもはなしは折りあわねえな。しかたがねえから、おまえにひまをやろう。けれども、いままでふたりで暮らしていたのに、急にひとりになってはさびしいが……まあいいや、化けものがでるというから、退屈しのぎになっていいだろう」
「おめえさまは、そんな度胸のいいことをいうだけれども、よしたらよかんべえ。世間で、みんながおそろしいとうわさしてるだから、人がわりいということは、よすもんだよ」
「そういわれても、どうもいまさらよすわけにもいかねえやな」
「それじゃあ、まあ、おめえさまの勝手にするがええだが、たしかおらがあずけておいた十二両二分があるはずだ。それをけえしていただきてえ」
「よしよし。それじゃあ、おまえからあずかったのが十二両二分、それに、おれが二分餞別をやって十三両、これを持っていくがいい」
「どうもありがとうごぜえます。それじゃあ遠慮なくいたでえてめえりやす……さて、ご隠居さま、おらも、こうしてひまもらってしまえば、いままでの奉公人ではねえ。もう、主人でもなけりゃあ家来《けれえ》でもねえ」
「いやに薄情《はくじよう》になりゃあがったな……たしかにまあ、主人でもなきゃあ家来でもねえ」
「そんだら、おらあ、ひとこといいてえことがあるだ」
「なんだい? あらたまって……」
「さてさて、おめえさまぐれえ人づけえの荒え人はねえだ。いくら人間すりきれねえといったって、際限《さいげん》のあるもんだ。おめえさまのようにつかわれちゃあ、力も根《こん》もつき果てちまうだ。それもむだに人をつかうだな。早えはなしが、『杢兵衛、豆腐買ってこい』てえから、豆腐買って帰ってくると、『がんもどき買ってこい』……がんもどき買ってくると、『あぶらげ買ってこい』……あぶらげ買って帰ってくると、『生《なま》あげ買ってこい』……豆腐屋と家のあいだをいったりきたりしているだ。それよりも、はあ、『杢兵衛、豆腐とがんもどきとあぶらげと生あげを買ってこい』っていやあ、いっぺんで事がすんじまうでねえか? それから、よそから帰ってきたときだってそうだ。おめえさまの着物の脱ぎようてえなあねえや。まず玄関で羽織を脱いで、茶の間でもって着物を脱いで、奥へいってじゅばんとふんどしをとるでねえか。ええ? 三ヵ所にかわるだあ。なんでもよけいな手数ばかりかけるだ。おめえさまのようでは、とても人をつかうことはできねえだよ。おめえさまは、千束屋へそういってやれば、すぐにかわりがくるなんておもってるだんべえけど、いやあ、とてもこねえ。おめえさまの評判がわるすぎるだからな。それよりも、ほうぼうへたのんで、だれかいい人をさがしてもらいなせえ。よけいなこんだけれど、おめえさまのためをおもっていうだから、わるくおもってくんなさるなよ」
「いや、おまえに叱言《こごと》をいわれてめんぼくないが、どうもこれがわたしの病気なのだ。自分でもわるいとおもいながらよせないのだ」
「それじゃあ、まあ、しかたがねえけんども、できるだけは、人をいたわってつかいなせえよ。まあ、それはそれとして、引っ越しをするのに手がなくってはこまるべえ。おらが手つだうだから、すぐに越してしまいなせえ」
と、わきから車を借りてまいりました、すっかり荷物をむこうの家へはこんで、きれいに掃除をして、晩ごはんのしたくまでしまして、
「もうそろそろ夜になるだから、これでおいとましますべえ」
「いや、大きにごくろうだった。おかげで助かったよ。しかし、おまえのような奉公人は、じつにめずらしいな。これまでずいぶん奉公人もつかったが、おまえのような男は、いままでにひとりもなかった。ひまをだすのは惜しいが、どうもしかたがねえ。感心だなおまえは……そのかわり、いまにきっと出世するよ」
「いや、おらだって、三年のあいだそばにいただから、わかれるのはなんとなくつれえけんども、どうも化けものがでる家じゃあ、どうにも辛抱できねえだから、これで帰りますよ。それから、お店のほうへもおいとま乞《ご》いにいかねえじゃあわるいだけんども、いくと、あの旦那さまのことだから、餞別のなんのって気をつかわせてはすまねえからお寄り申しやせん。どうかおめえさまからよろしくいってくだせえまし。では、これでおわかれ申します。さようなら」
「ああ、とうとう帰っちまったか。惜しい男だったなあ。しかしまあ、どうもしかたがねえ……ひとりになったせいか、急にさびしくなった。早く化けものでもでてくれればいいが……」
晩ごはんをすませましたが、まだ眠るには刻限《こくげん》が早うございますから、あんどんの灯《ひ》をかきたてまして、書見をはじめました。すると、昼のつかれがでましたものか、いつのまにか、こくりこくりといねむりをするようになりました。
「あっ、あっ、あー寒い。いやにぞくぞくするぞ……うん、いねむりなんぞしてたから、ひょっとしたらかぜでもひいたんじゃあねえかな? どうもぞくぞくと寒気《さむけ》がしていけねえなあ……おやおや、障子がひとりでにあいたよ。ああ、いよいよ化けもののご出現か。前ぶれなんぞどうでもいいから、さっさとでておいで。杢兵衛がいるうちはよかったが、いなくなったら急にさびしくなってこまっていたところだ。さあ、早くでてきてくれ……やあ、でてきた、でてきた。なんだ、ひとつ目小僧か。妙なものがでてきやがったな……ああ、おまえか? でてくるときに、ぞーっと寒気をさしたの? ありゃあおよしよ。おい、いつでてきてもかまわねえけども、あの、ぞーっとさせるのだけはやめとくれよ。それにしてもおもしろいやつがでてきたなあ。こいつは、ちいさくってつかいいい化けものだ。おいおい、せっかくでてきて、じいっとそこへ坐ってちゃあしょうがないな。でてきたんならでてきたように、なにかしなくっちゃあいけねえなあ……うん、そうだ。晩めしのあとかたづけをやってもらおうか……おい、おまえねえ、ここにある膳をな、台所へ持ってって早く洗いな……おい、なにをかんがえてるんだ? ぐずぐずかんがえたってしょうがあるめえ? 早くやれ、早くやれ……おいおい、たすきをかけなよ。たすきをかけなくっちゃあ十分にはたらけねえやな……ああそうそう……それからね、尻《しり》をはしょって……台所ではたらくのに、そう着物をずるずる着ていては、裾《すそ》をひきずって、まるでお姫さまがなにかするようで、はたらくのに骨が折れてしょうがねえ。第一着物の裾がたまらねえや……そうそうそれではたらきよくなったろう? ええ? ……いいかい? 茶わんだの、皿だのは、ていねいにあつかいなよ。らんぼうにあつかって、欠いたりなんかするなよ……ああ、水をたっぷりつかってよく洗うんだ。もっと力をいれて、ごしごしよく洗わなくちゃあいけねえ……そうそう、もっとよくごしごし洗って……うん、うめえ、うめえ……で、なんべんもよくゆすいで……ゆすげたか? じゃあ、そのざるの上に伏せといてな、水の切れたところで、上にふきんがあるから……上だ上だ、下のはぞうきんだよ。上にかかってるのがふきんじゃあねえか……うん、それでね、洗ったものをきれいにふいて……ふいたか? よしよし、そこの戸棚へしまうんだ。それからな、ふきんは、よくゆすいで、もとのところへかけておきなよ。あれっ、下が水だらけになっちまったじゃあねえか。よくふいとかなくっちゃあ……おっとっとっと、こらこらっ、ふきんでふくんじゃあねえ。下をふくのはぞうきんだ。しょうがねえなあ、ふきんとぞうきんの区別がつかねえようじゃあ……うん、しっかりふいとくんだ。ふいちまったか? じゃあ、瓶《かめ》のなかをのぞいてみな。水があるか? え? だいぶすくなくなってる? じゃあな、手桶を持ってってな、井戸から二、三ばい汲《く》みこんどけよ。夜なかにまたどんなことで水がいらねえともかぎらねえから……ああ、汲みこんだか? よしよし、こっちへおいで、早くおいで、まだたくさん用があるんだから……さあ、こっちへきて、早く床を敷いてくれ。なに? 床を敷くのはいやだ? こらっ、なまいきいうなっ、用をいいつけられて、いやだのなんだのというと、ひでえ目にあわすぞっ……あれっ、ふるえてやがる。弱《よえ》え化けものじゃあねえか……おい、なにもふるえなくってもいいんだよ。いきなりひどい目にあわすってんじゃないんだからな、おめえがいいつけられたことをしなけりゃあ、ひどい目にあわすってんだから……さあ、早くこっちへきて、そのふとんを敷くんだ……もっと手早くできねえかなあ。おいおい、まっすぐ敷いてくんな。おれは、床のまがってるのはきらいなんだから……敷いたら、枕《まくら》もとにたばこ盆を置いて……そーれみろ。やりゃあ、ちゃんとできるじゃあねえか……こっちへこい、こっちへこい……よし、そこへ坐れ。あれっ、愛嬌のいいやつだな。にこにこ笑ってやがらあ……え? 笑ってるんじゃありません? 泣きっつらをしてるんです? なんだい、笑ってるんだか、泣きべそをかいてるんだかわからねえってえのはおもしろいなあ……さあさあ、ぼんやり坐ってるんじゃあねえ。肩をたたいてくれ。おい、なにをかんげえているんだ? なに? いやだ? こらっ、またいやだなんてぬかして!! ひどい目にあわすぞ!! ……またふるえてやがるな。だらしのねえ野郎だ。いいから、早くたたけ……そうだそうだ、なかなか力があるな……ああ、うめえ、うめえ。どうして、こりゃあてえしたもんだ。杢兵衛よりよっぽどうめえや……ああよしよし。うんよし。もういい、いいといったらよしなよ。なんでもおれのいう通りにするんだ……おい、もういいってんだよ……なに? どうせやけくそです? ばかっ、やけくそで用をするんじゃあねえ。なにごとも素直《すなお》にやるんだ……さあ、おれの前へ坐れ。おい、おまえねえ、あしたは、もっと早くでてこなくっちゃあいけねえぞ。夜なかになんぞでてきたって用がたりゃあしねえ。あしたはな、昼間のうちにでてきて、買いものやなんかしたり、掃除をしたりするんだ。いいか? わかったか? ……おい、小僧、まだ用があるんだよ……ちえっ、しょうがねえなあ。あわててどっかへいっちまって……まあいいや、床は敷いてあるんだから、とにかく今夜は寝よう」
たいへんな人があったもんで、その晩はぐっすり寝てしまいました。
その翌晩になりますと、もう小僧がでてくる時分だと、隠居さんが心待ちに待っておりますと、ぞくぞくっと寒気《さむけ》がしたかとおもうと、障子へさらさらさらっと髪の毛がさわる音がしたと同時に、障子がすーっとあきましたので、ひょいとみますと、色青ざめた骨と皮ばかりの女がそこに坐っております。
「またぞくぞくっとさせやがるな。これは抜きにしてもらいたいな……おやおや、今夜は女だな……おいおい、ねえさん、もっとこっちへお寄りよ。なあに、おれは年寄りだから、そばへきても大丈夫だよ。くどいたりしやあしねえから……安心してこっちへおいで……ちょうどいいところへきてくれた。さっそくだが、その着物の袖口をなおしとくれ。それがすんだら、じゅばんの襟《えり》をかけかえておいておくれ……そうそう、やっぱり女だ。手ぎわがいいや……それからな、戸棚に足袋《たび》のよごれたのが二、三足はいっているから洗っておいておくれ……なに? もう洗った? ずいぶん早えなあ。うん、やっぱりそういう仕事は女にかぎるな……では、そこに爪《つま》さきの切れた足袋があるから、継《つ》いでおいておくれ……ほう、なかなか仕事は早いねえ。いや、うまいもんだ……女というものは、裁縫ができないと、一生肩身をせまく暮らさなければならねえ。おまえのように、なにをしても手早くできる女は、どこへいっても安心だ。あしたもまたでてきておくれ。それからな、でてくるときに、あの、ぞーっとさせるの、ありゃあ気持ちがわりい。あれだけはやめてな……おい、ねえさん……おやおや、消えちまった。まだ床も敷いてねえじゃあねえか。しょうがねえなあ。まあ、自分で敷いて寝るか」
翌晩になると、隠居は、もう化けものを心待ちにしております。「給金をやらないのと、めしを食わせないだけ杢兵衛よりいいが、ただ昼間でてこないので用がたりなくていけねえ。なんとか昼間でてもらうように掛けあおう」なんてことをかんがえておりますと、また、ぞーっと寒気がいたしました。
「よせやい。でるたんびに寒気《さむけ》をさせやがってゆうべあれほどいっといたのにな……これからは、どうしても、寒気を抜きにしてもらおう……ああ、障子があいたな……どうしたんだ? なにもでてこねえじゃあねえか。なにをぐずぐずしてるんだ。早くでねえか……おやっ、なんだろう? ずしん、ずしんとたいへんな音がするぞ。地震かしら? ……あっ、おどろかせやがるな。なんだい、大きな松の木みたようなものがぬーっとでたが……あれっ、こりゃあ毛むくじゃらの足だ。足ばかりで胴がみえねえじゃあねえか。胴はどうしたんだ? おやおや、足を折ったな。なるほど、膝をつかねえと、からだがはいらねえのか。こりゃあどうも大きいや。坐っても天井にあたまがつかえるな。なんだい? 上のほうにぴかぴか光ってるのは? ……なんだ、目玉か。しかも三つあるな。一昨夜《おととい》はひとつ目小僧だったが、今夜は三つ目大入道ときたな。絵じゃあみたことはあるが、なるほどうまく化けたもんだな。きょうは、おまえの番か? ああそうかい。ごくろうさま。いいんだよ、べつにだれだっていいんだから……さあさあ、せっかくでてきたんだ。さっそく用をやってもらおう。なに? 用はいやだ? こらっ、用はいやだなんて、とんでもねえやつだ。なんのためにでてきたんだ? こらっ、この野郎!! ひどい目にあわすぞ!! ……あれっ、大きなくせにふるえてやがるな。どうも化けものってやつは、おもったよりもいくじがねえもんだな……さあ、用をやるんだ……ちょうどいいや。屋根の上の草をむしってもらおう。おう、はしごいらずか? こりゃあ重宝《ちようほう》だな……うん、よしよし、早えなあ、もうやっちまったか? ……それからな、ひとつ目小僧のやつは力がねえとみえて、瓶に水を半分しかいれていかなかったが、きょうは、いっぱいいれておくれよ。なんだい、水瓶を片手でさげていくのか? ……おうおう、井戸のなかへ瓶をいれて、下までとどくのかい? なるほど、手が長《なげ》えからな……おやおや、水瓶へ水をいっぱいいれて、軽々《かるがる》とさげてきやがったな。ああ、そこに屋根から落ちたごみがある。それをちょいと掃きだしといとくれ。なんだ、吹くのか? ああなるほど……きれいに吹いちまったな。もうたくさんだ、たくさんだ。あんまり強く吹いたもんだから、ざぶとんが三枚も飛んじまった。まごまごしてると、おれまで飛ばされちまわあ……なに? 肩をたたいてくれる? こりゃあ小僧よりも気がきいているな……なんだ? そこにいてたたくのか? なるほど、手が長えから、表にいてたたけるのか……ああ、いてえ、いてえ。もっとそっとたたいてくれ……ああ、うめえ、うめえ。ちょうどいいぐあいだ……なに? 指でたたいているんだと? こりゃあおどろいたな。指さきの力がそんなにあるのか? ああ、ごくろう、ごくろう。もうたくさんだから、床を敷いてくれ……なに? 床はいやだ? この野郎!! ……化けものはどうして床を敷くのをいやがるのかなあ……こらっ、敷けってんだ!! ひどい目にあわすぞ……あれ、またふるえてやがるな。そんなにこわけりゃあ早く敷きな……おう、やっぱり表にいて、床を敷くのか? おうおう、ずいぶん長え手だな……まっすぐ敷きな、まっすぐに……それから、たばこ盆を枕もとに置いて……ごくろう、ごくろう……それからね、あしたの晩は、小僧をよこしておくれよ。縁の下を掃除してもらうから……大きいのとちいせえのと、ちゃんぽんにきてくれると便利でいいから……それからな、くれぐれもいっとくけど、あの、ぞーっとさせるのはやめとくれよ。おい、わかったかい? あれっ、またいなくなっちまいやがった。しまつがわりいなあ。すこし用をしたかとおもうといなくなっちまうんだから……まあいいや、あしたのことにしよう」
その晩はやすみまして、また翌晩になりますと、隠居は、化けもののでてくるのを待ちかまえております。
「なにをしてやがるんだろうなあ? 早くでてこなくっちゃあ用がたりねえじゃあねえか……きのうは、いま時分に大入道がでてきたんだが……まあ、だれでもいいや、早くでてくれりゃあいいのに……だれだ? その障子のそとに坐ってるのは? ……おい、障子をあけて顔をみせろ!! 早く障子をあけてみろ!! ……おっ、なーんだ、大きなたぬきじゃねえか……こっちへへえれ。ぐずぐずしねえで、こっちへへえれよ」
「へえ」
「ああ、そうか。おめえだな? いろんなものに化けてでるのは……」
「さようでございます」
「まあまあいいや。もっとこっちへこい……なんだ? どうした? ……涙ぐんでやがるな……どうしたんだ、からだのぐあいでもわりいのか?」
「いいえ……じつは、ご隠居さまにおねがいがございます」
「ねがいがある? なんだ?」
「へえ……いろいろお世話になりましたが、今夜かぎりおひまをいただきとうございます」
「なに? ひまをくれだと?」
「ええ、あなたさまのように、こう化けものつかいが荒くっちゃあ、とても辛抱ができません」
羽織のあそび
「おう、みんな、いま、むこうへとなり町の伊勢屋の若旦那がやってきたんだが、どうでえ、あの若旦那をとりまいて、今夜は、ひとつちょいとおんぶで(相手の支払いで)あそびにでかけようてんだがな」
「こいつはよかろうぜ」
「だがね、それまでにはなしを持っていくにゃあ、なにしろあの通りのきざなやつだから、ずいぶんかんべんならねえことをぬかすか知れねえが、そこはよく心得ていなくっちゃあならねえぜ」
「そのくらいのこたあ、ようく承知してらあな」
「もし、若旦那え、若旦那え」
「おや、こんちは、色男のおそろいでげすな」
「どういたしまして、まあ、若旦那、こちらへいらっしゃいまし」
「では、ちょっとごめんをこうむって、ちょいと寄らせていただきやしょう」
「さあさあ、若旦那、どうぞこちらへいらっしゃいまし。どうもいつもおさかんでげすなあ」
「なんでげすか?」
「きょうは、どこかへおでかけで?」
「いえ、昨夜、楼《ろう》(女郎屋)へふけりましてな」
「へーえ、ちっとも知りませんでございました。若旦那は、昨晩、牢《ろう》へひけたんだとよ……そんなことと知ったら、差しいれものかなんかしたんでございますが、へい、どういう罪で牢へおはいりになりましたんで?」
「これはしたり、いや、おそれいりましたなあ、いえさ、青楼にふけったんでげすよ」
「蒸籠《せいろう》(食物をむす道具)にふけたんだとよ」
「じゃあ、たぶん餅菓子屋へいったんだろう」
「まだおわかりになりませんか? いえ、昨夜な、北国《きた》へくりこみました。吉原へな」
「ああそうでござんすか。そんならそうといってくださりゃあいいのに、青楼へふけたの、牢へへえったのってえから、こちとらにゃあ、さっぱりわからねえんだ。何家《どちら》へおでかけになりました?」
「昨夜は、初会《しよかい》で、角海老楼《かくかいおいろう》へのぼりやした」
「おう、みんな、吉原《なか》に角海老楼《かくかいおいろう》てえうちがあるかい?」
「そんなうちは聞いたことがねえなあ」
「だれか知ってる者があるかい?」
「だれも知らねえね」
「もし、若旦那え、ここにいるやつは、吉原《なか》にカイオイ楼といううちのあるのをまだ知らねえんでございますが、どちらでございましょう?」
「な、な、なーるほど、君がたにはおわかりがないでげしょうな。角海老《かどえび》のことで……」
「ああ、角海老《かどえび》のことでござんすか。ははあ、どうでござんした?」
「いやはや、しょかぼの、べたぼで……」
「弱りましたなあ、またわからねえや。なんでござんす、しょかぼの、べたぼてえのは?」
「初会惚《しよかいぼ》れの、べた惚れをしたというのを略して、しょかぼの、べたぼとな」
「おい、みんな聞いたかい? しょかぼの、べたぼてえのを……それじゃあ、おいらんが、ばかな惚れかたをしたんですか?」
「もちろんでげすな。おひけになると、おいらんなるもののいわくでげすな、『初会惚れしてわしゃはずかしい、裏(二度目)にくるやらこないやら、という都々逸《どどいつ》がありますが、初会でわたしがこんなことをいったら、手練手管《てれんてくだ》(だます手段)とおもいましょうが、真実わたしは、あなたにうちこみました』と申して、二の腕をつねったのが、一時三十五分でげした」
「へえへえ、なるほど」
「『しみじみじれったいよ』と申して、ほっぺたをつねったのが二時十五分」
「へえ」
「あけがたが、のど笛《ぶえ》でげす」
「命がけだな……そうでござんすか。じゃあ、そのお帰りでげすな」
「さようでげす」
「どうも若旦那のことだから、べつにお宅へお帰りになる気づかいもございますまいが、ひとつわれわれも若旦那のお供《とも》をして、どこかへつれてっていただきたいもんでございますが……」
「さようでげすか。では、いかがでげす? これから拙《せつ》とご同伴をねがって、また、ぜひ耽溺《たんでき》をくわだてましょうよ」
「へえへえ、タンデキねえ……おう、みんな、タンデキてえのはなんのことだい?」
「タンデキ? ……おらあ、あいつあきれえだね」
「そうかい」
「うん、どうもにがくていけねえ」
「熊、てめえ、タンデキてえのを心得ているか?」
「知ってらあ」
「そうか」
「一月ばかり前までは、おれのうちにあったよ」
「そうかい」
「棚へのっけておいたんだがな、ねずみがあばれておとしてこわしちまやあがったから、はきだめんなかへうっちゃっちまった」
「そりゃあつまらねえことをしたなあ……吉つぁん、おめえ、タンデキてえのを心得てるか?」
「知ってるよ」
「なんのことだい?」
「なんのこったって、タンデキてえのは、なんだあな、ほら、あの焼きいもみてえな、こういうかたちをしているんだ」
「そうか」
「うん、ちょいとうでてな、塩をつけるとおつなもんだ」
「なんだかみんなのいうことはへんてこだな……若旦那、タンデキてえのは、全体なんのこってござんしょう?」
「どうもおそれいりましたな。いえさ、耽溺と申すのは、早く申せば、あそびにまいろうというようなことで……」
「なーんだ、そうでござんすか……この野郎、とんでもねえうそをつきゃあがって、おれはきれえだってえやがら……てめえ、きらいなもんかい。だれだい、塩をつけて食うとうめえといやあがったのは? べらぼうめ、棚の上からおとしてこわしたから、はきだめへうっちゃっちまったなんて……とんでもねえことをぬかしゃあがら……若旦那、ぜひお供をねがいたいもんでございます」
「そうでげすか。はなはだ失礼のようだが、君たちはお職人衆、拙は、こうやって羽織を着る人間でございますが、てまえどもがまいるのは、むろん大見世《おおみせ》で、ぜひとも茶屋から送られてまいります。ご承知の通り、大見世では、はんてん着《ぎ》をお客にいたしません。拙もお職人衆といっしょにあそびにまいったなんといわれると箔《はく》がおちますから、はなはだ無理なおねがいでげすが、ぜひともお羽織にお御帯《みおび》のご算段《さんだん》をねがいとうございますな」
「な、な、なーるほど、こりゃあ、若旦那のおっしゃるところはごもっともでございます。それじゃあ、羽織と帯を工面《くめん》してくりゃあ、若旦那、つれていってくださるとおっしゃるので?」
「そういうわけで……」
「では、若旦那、すみませんがね、ここで一時間ばかり待っていておくんなさい。算段にいってまいりますから、どうかひとつおたのみ申します」
「ようがす」
「こんちは、ごめんなさい」
「どなた?」
「ええ、もし、おかみさんえ、お宅に羽織がありましょうか?」
「だれだとおもったら八つぁんだね。いやだねえ、表から羽織はございましょうかなんて……羽織の一枚ぐらいはありますよ」
「ありますか……じゃあ、なかへはいらせてもらいます……こんちは……」
「あら、いやだよこの人は……羽織があるといったら、あらためて格子をあけてはいってきたよ。ないといやあ、あれですいっといっちまうつもりだったんだね。おおかた賭《か》けかなんかしてきたんだろう。だれかいないかい? あの、おきよや、たんすの上のひきだしからだしておいで。あたしのうちに羽織があるか、ないか賭《か》けをしてきたんだよ。八つぁん、羽織ぐらい、この通りありますよ」
「おかみさん、怒っちゃあこまりますよ。へい、なるほど、羽織は、これでござんすか? これは、おかみさん、なんでござんしょう?」
「みたらわかりそうなもんじゃあないか。唐桟《とうざん》(綿織物の一種)だよ」
「ああなるほど、あっしもね、唐桟か、ちりめん(絹織物の一種)だとおもいました」
「ばかばかしいね、このひとは……唐桟とちりめんといっしょにするやつがあるかい」
「いい柄《がら》でござんすね」
「胡麻《ごま》柄だよ」
「なるほど、胡麻柄か。いい柄だとおもったんだ。ちょいと着てもようございますか?」
「そうだね、べつに減《へ》るもんじゃあないから、着てごらんなさいな」
「そうでござんす……どうでござんす、着たぐあいは?」
「まあ、おまえによく似合うよ」
「似合いますか? どうもありがとうございます。さようなら……」
「ちょいとお待ちよ、八つぁん、なんだってそれを着ていってしまうのさ?」
「そうそうわすれてしまった」
「おきよや、羽織を脱がしておしまいよ……どうしたわけなのさ?」
「じつは、おかみさん、はなしをしなくっちゃあわからねえんでござんすがね、となり町の伊勢屋の若旦那が、お女郎買いにつれていってくれるんですけれども、職人はんてん着をつれていけない、羽織と帯を才覚してきたらいっしょにつれてってくれるというんでげすから、どうぞお貸しなすっておくんなさいな」
「あきれたねえ、この人は……八つぁん、おまえさんぐらいばかな人はないねえ」
「まったくでござんすよ」
「そんなことをうけあうやつもないもんだ。人のうちへ羽織を借りにくるのに、女郎買いにいくのだからなんて、そんな借りようがあるもんかね。うそにもしろ、祝儀不祝儀《しゆうぎぶしゆうぎ》で羽織がいりますから貸してくださいなんてえことならわかってるが……」
「おかみさん、すっかり当《あ》てられちまった。じつはね、その女郎買いにいくなんてえのはうそでね、まったくは、そのおっしゃる通りの祝儀不祝儀でござんすよ」
「なんだい、その祝儀不祝儀てえのは?」
「へえ、いまね、あの四つ角で、むこうから祝儀がきて、こっちから不祝儀がきて、どーんとつきあたっちまったんで……」
「なにをいっているんだねえ、この人は……祝儀不祝儀というのは、婚礼とか、葬式《とむらい》をいうんだよ」
「でござんすからねえ、不祝儀なんで……」
「おやおや、どっかのお葬式《とむらい》でもあるの?」
「へえ、お葬式がございます」
「どちらで?」
「どちらだって、長屋で……」
「あらまあ、ちっとも知らなかったねえ。だれが死んだの?」
「だれだって、おかみさん、死人は、たいていわかりそうなもんじゃあありませんか。死にそうな人間がありましょう?」
「死にそうな人間てえのはありゃあしないよ。だれだい?」
「だれだって、それそれ、あのくず屋のじいさんでございます」
「くず屋のおじいさん? そりゃあまあ、年齢《とし》に不足はないけれども、いつ死んだんだい?」
「ゆうべの十一時で……」
「ばかにしちゃあいけないよ、八つぁん、くず屋のおじいさんは、さっき鉄砲ざるをしょって通ったよ」
「えっ、さっき通りましたか? ずうずうしいじじいだ」
「なにがずうずうしいことがあるんだよ。いったいだれが死んだんだい?」
「まったくのことをいえば、洗濯屋《せんたくや》のばばあでございます」
「八つぁん、いいかげんなことをおいいでないよ。洗濯屋のおばあさんは、うちの二階へきて、縫《ぬ》いものをしていらあね」
「しょうのねえばばあだな、早くくたばりゃあいいのに……」
「なにをいってるんだよ。しようのないおばあさんてえのがあるかい、死んだのは、だれだよ?」
「だれだよって、おかみさん、まったくのことは、祝儀不祝儀はうそ、やっぱり女郎買いでござんすが、すみませんが、どうぞお貸しなすって……」
「じゃあ貸してあげるが、大事《だいじ》に着ておくれよ」
「へえ、どうぞ……さようなら」
「どうも若旦那、お待ちどうさま、すっかりしたくができました」
「おや、八つぁん、お羽織がようがすな。唐桟でげすな」
「胡麻柄でござんすよ」
「結構でげすな。新ちゃん、あなたのお羽織は、色がだいぶあせているようでげすな」
「ええ、どうもね、すこし年数もんだってえことを聞きました」
「それに、お御帯《みおび》がいいね、古代更紗《こだいざらさ》ときたねえ」
「これがね、若旦那、帯だとおもうと、たいへんなまちがいで……ふろしきをたたんで上へかぶせてわきへはさんでいるんで……羽織を着ているからわからないでしょう? 前帯のうしろ五尺てえやつ」
「ああなるほど、ふろしきとは、こりゃあかんがえましたなあ。松つぁん、あなたは、お羽織を召《め》さないで、ふところへいれたのは、また、かんがえましたな。お召しになったらいかがです?」
「じつはね、となりのうちの子どもの羽織なんで……かように八つにたたんでふところへいれていたら、羽織があるようにみえましょう?」
「なるほど、これも苦しみましたなあ……おやおや、六ちゃん、あなたのお羽織はようがすね。あなたは、お紙いれまでご算段しましたな」
「どうでござんす、このぐあいは?」
「ようがすな。お紙入れは、どうもおそれいったね」
「これがね、若旦那、紙入れだとおもうとたいへんなまちがいなんで……煉瓦《れんが》が一本おっこっていましたから、その煉瓦を手ぬぐいへつつんでふところへいれましたら、金がたんとへえっているようにみえるんでござんす」
「煉瓦でげすと? こりゃあご趣向だねえ。しかし、そうふところがふくらんでいるぐあいは、懐中《ぽつぽ》があったかいようにみえますなあ」
「ところが、若旦那、あったけえどころか、煉瓦だから、冷えましてねえ、ここへくるまでに小便を三度いたしました」
小言念仏《こごとねんぶつ》
信心《しんじん》は徳のあまりということをよく申しますが、まごころこめての信心は、まことにすくないようでございます。
なかには、不景気で、商売もおもしろくないから、ひとつ信心でもしてみようかなどという、でも信心だの、また、おもしろ半分だの、もののついでなどというご参詣もあるようで……
「おい、ついでに観音さまへいこうじゃないか」
という。
いって、ほんとうに参詣するのかとおもうと、お堂からフイとわきへそれて、映画館や寄席のほうへおまいりにいってしまいます。怪しからぬわけのものでございます。
まことのこころというのは、寒《かん》三十日のあいだの寒まいり、こればかりは、しゃれやじょうだんではできません。
寒風肌をさくようなさむい晩、ひとえの行衣《ぎようい》一枚で、わらじをはいて、雪の降る日も、風の夜もいとわず、「六根清浄《ろつこんしようじよう》、六根清浄」と、駈けてあるきます。そのさむいすがたで信心するのですから、神さまもいくらかご利益《りやく》をあたえるだろうとおもいます。
さむい時分に、さむい思いをして、わが身を苦しめてご利益があるものなら、暑い時分に暑い思いをしたら、おなじご利益がありそうなものでございますが、まだ暑中まいりというのはございません。
暑中九十度以上の暑さに、シャツを五枚に、ももひきを五枚はいて、襦袢《じゆばん》を五枚、胴着を五枚、綿いれを五枚、羽織を五枚、上から二重まわしを着て、襟巻《えりま》きをして、ふところへかいろを三つ、背なかへ四つもいれて、午後の一時か二時ごろ、往来を「六根清浄、六根清浄」と駈けてごらんなさい、たいがい目をまわしてしまいます。
むかしは、お賽銭《さいせん》は、一銭がふつうでございました。二銭、三銭あげるかたは、ご利益をよけいさずかろうという、欲から割りだしたので、なかには、また、五十銭銀貨をあげるかたがございましたが、これは、自分で承知してあげるわけではない、色がさびてるところから、一銭銅貨とまちがえて投げてしまって、あとで気がついて、
「あっ、まちがえた、ちくしょう!」
うらめしそうに賽銭箱のなかをのぞいているひとがございます。
「ああ、つまらねえ。もったいないことをした」
どっちがもったいないかわかりません。
わずかなお賽銭で、おたのみあそばすことがなかなか多うございます。
どんなかたでも、神仏にむかって、家内安全なら安全、商売繁昌なら繁昌と、ひとつおねがいあそばすかたは、おそらくございますまい。たいがい五つや六つ、多いのになると、一ダース半ぐらいもたのんでおります。
正面にむかって、ポンポンと柏手《かしわで》を打ちます。あれは、なんのためだかわかりません。人間同士なら、目下の者を呼ぶときに手を打ち鳴らします。親や主人を、手をたたいて呼ぶひとはございますまい。神さまを目下だとおもって手をたたいて呼んでるんでしょうか?
これから拝みます。神仏にむかったら、かならず十本の指は口のところへもっていらっしゃいます。これは、ねがいごとが叶《かな》うという字をこしらえるので、口に十の字、なかには、口の上へ十の字をもっていきます。はなはだしいのは、あたまの上のほうへいっているのもございます。まあ、上でも下でも、手をあわせているのは殊勝《しゆしよう》でございますが、なかには、片っぽうの手をふところ手をして、かゆいところをかきながら、手さきでのみをつかまえまして、それをひねって、賽銭箱の角《かど》でつぶしたりなんかしております。殺生をしながら信心をしてもなんにもなりません。
これからおねがいするわけですが、ざっとねがうところを申しあげてもずいぶんございます。
「四国は、讃州那珂《さんしゆうなか》の郡《こおり》、象頭山金毘羅大権現大天狗小天狗《ぞうずさんこんぴらだいごんげんだいてんぐこてんぐ》、家内安全、息災延命《そくさいえんめい》、商売繁昌、守らせたまえ、悪事災難、剣難、盗難、水難、火難をのがれさせたまえ」
これで一銭なんですから、ひとついくらにつきますか? ……これで、のこらずご利益があったら、こんな安いものはございません。
拝むときには、ほかに気が散らないようにと、目をつぶって拝みます。目をつぶったって、鼻までつぶるわけにはいきませんから、となりに若い女のひとなんかがならんで拝んでますと、おしろいの匂い、香水の匂いなんかが、つんつんと鼻へはいってまいります。そうなると、つい目をあけちまうということになるので……
「妙法蓮華経《みようほうれんげきよう》、南無妙法蓮華経《なむみようほうれんげきよう》……ふんふん、ふんふん、妙法蓮華経、妙法蓮華経、ふんふん、ふんふん、南無妙法蓮華経……うん、こりゃあ、若くてきれいだな……もし、ねえさん、袂《たもと》がひきずってますよ……南無妙法蓮華経、妙法蓮華経、妙法蓮華経……ああっ、こうもり傘がたおれましたよ。お賽銭箱のすみに立てかけておいたらいいでしょうよ。いいえ、どういたしまして……南無妙法蓮華経、妙法蓮華経、妙法蓮華経……きれいだなあ、ほんとうにきれいだ。娘じゃあねえな……ひとのかみさんでもなし、水商売の女でもなし……妙法蓮華経、妙法蓮華経……なに者だろう? うん、そうだ、二号さんかな? こういう女を囲っておくのはどんなやつだか、ちくしょう法蓮華経……」
信心にもなんにもなりゃあしません。
お若いうちは、気のまよいというものがございます。
年をとると、気が定《さだ》まると申しますが、そうばかりもまいりません。
よく念仏三昧《ざんまい》をなさるかたがございます。
こういうひとは、朝起きますと、仏壇の前へ坐りまして、木魚《もくぎよ》や鉦《かね》をポクポクカンカンたたいておりますが、叱言《こごと》まじりの念仏で、なんのための信心だかさっぱりわかりません。
「なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ。おいおい、ばあさん、仏壇を掃除しなきゃあいけねえよ。ほこりだらけじゃねえか。無精《ぶしよう》しちゃいけねえ。なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ。仏壇掃除することと、猫ののみをとることしか用はねえんじゃねえか。なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ。おめえなんぞ、おまえなんぞ、もうじきあの世からおむかえがくるんだぞ。なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ。なに? おじいさんがさきでしょうだと? ばかあいやあがれ。なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ。おいおい、仏壇の花がしおれてしまってるじゃねえか。仏さまの花をしおれさしておくことがあるかい。なむあみだぶ、なむあみだぶ。だれだい、この線香を立てるのに横に立てるのは? 仏壇が灰だらけになってしまうじゃねえか。なむあみだぶ、なむあみだぶ。おばあさん、若い者にさせちゃあいけませんよ。仏壇のことは、おまえさんがおしなさい。なむあみだぶ、なむあみだぶ。おいおい、赤ん坊が泣いてるよ。お念仏のじゃまにならあ。ぴいぴい泣かせるな。なむあみだぶ、なむあみだぶ。なに? 泣くからしかたがねえと? だれだい、よけいな口をきくのは? 泣かさねえようにするのが、おまえたちの役だ。なむあみだぶ、なむあみだぶ。なんだって、けさは、またぴいぴい泣くんだな。ああ、よく泣くとおもったら、金坊、おまえがかまったんだな。兄さんのくせに赤ん坊をかまうやつがあるか、大きいからだをして……早くごはんを食べて学校へおいでなさい。おそくなると、先生にしかられるよ。なむあみだぶ、なむあみだぶ。こんどは、ちっと勉強をしなさい。なむあみだぶ、なむあみだぶ。このあいだの通信簿《つうしんぼ》をみろ。乙《おつ》ばかりじゃあねえか。ちと勉強しろ。なむあみだぶ。なに? 乙ばかりじゃあねえ? 丙《へい》もある? ばかっ、丙や丁《てい》のあるのをじまんするやつがあるか。なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ。おい、赤ん坊のものをとって食べるな。意地のきたねえやつだ。なむあみだぶ、なむあみだぶ。なんだ? ようかんか? うまそうだな。おれにも半分くれ。なむあみだぶ、なむあみだぶ。泣いてもかまわねえ、半分とれというのにな。なむあみだぶ、なむあみだぶ。おいおい、鉄びんが沸《に》え立っているぞ。ふたを切らなくっちゃあいけねえ。早くしねえと、吹きこぼれるぞ。なむあみだぶ、なむあみだぶ。そーら、吹きこぼれちまった。みろ、灰だらけになって……だからいわねえことじゃあねえ。なむあみだぶ、なむあみだぶ。おいおい、ごはんが焦《こ》げてるとみえてくせえぞ。なむあみだぶ、なむあみだぶ。なに? となりのだ? となりのだって焦がしちゃあいけませんよ。となりへいって、そういってやりな。なむあみだぶ、なむあみだぶ。けさは、味噌汁をこしらえたのか? なむあみだぶ、なむあみだぶ。お汁の実はなんにしたい? なむあみだぶ、なむあみだぶ。まだわからない? なにをしているんだ? 子どもが学校へいくのがおそくなるじゃあねえか。なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ。なに? お汁の実はいもだ? そんなものは、ちょっくら煮えるもんか。胸が焼けて屁《へ》ばかりでるじゃねえか。なむあみだぶ、なむあみだぶ。おい、おもてへどじょう屋がきた。どじょう汁にしな、どじょうに……なむあみだぶ、なむあみだぶ。早くどじょう屋を呼ばねえかよ。早く呼ばねえと、いっちまうぞ。おいおい、そんなちいせえ声で聞こえるもんか。もっと大きな声だして呼べってんだ。なむあみだぶ、なむあみだぶ。どじょう屋がいっちまうてんだよ。なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ。どじょう屋! なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ、どじょう屋! なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみや! どじょうや、どじょう……あべこべになっちゃうじゃあねえか。なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ。どじょう屋きたかい? たくさん買わなくってもいいよ。五合《ごごう》買えばたくさんだ。五合いくらだか聞いてみろ。なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ。なに? 十五銭? そりゃあ高えや。高えから、もっと値切んな。十三銭に負けろって……負けなきゃあ買わねえといえば負けらあ。なむあみだぶ、なむあみだぶ。それみろ、負けたろう? 惜《お》しいことをした。もう一銭値切りゃあよかった。なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ。早くいれものをだしてやれ。なむあみだぶ、なむあみだぶ。目方《めかた》ごまかされるといけねえから、そばについてろ、なむあみだぶ……二、三びき負けてもらいな。なむあみだぶ、なむあみだぶ。なにを? 負けなければ、かまわねえから、どじょう屋がよそ見をしてるうちに、ぎゅっとつかまえて、二、三びきつかみこめ……なむあみだぶ、なむあみだぶ、おいおい、ざるなんか持ってったってだめだ。なべを持っていくんだよ。どじょういれたら、すき間からな、ふたをしといて酒をつぎこんでみろい。そうすりゃあ、どじょうがうまくなるんだい。なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ。どうだ、苦しがってあばれてるだろう? え? 平気で泳いでる? 酒が水っぽいんだよ。なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ。ふたをおさえて火へかけろ。ぎゅっとおさえてねえと、苦しがってとびだすぞ。なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ。え? ごとごといってる? 苦しがってるんだ。おもしれえな。なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ……しずかになった? ふたをあけてみろ。なに? 腹をだしてみんな死んじまった? ざまあみやがれ」
突きおとし
「どうだい、これだけそろってるんだ。刻限もいいんだし、いせいよくくりこむかい?」
「ああ、いくさきをいわなくっても、てえげえわかってらあ」
「ところで吉原《なか》へいって、くらいところへあつまって、ねえ、ふところから銭をだしあうなんてえのは気がきかねえや」
「うん、そうだな。なにしろ色気の場所だからなあ」
「そこでだ、ここでもって、まず会費をあつめるとして、おれが会計がかりだ。まあ、ひとりあたま二円もだしてもらおうか」
「そんなもんでいいかな?」
「いいやな……じゃあ、まちがうといけねえから端《はし》からあつめるよ……さあ、文さん二円だ」
「月賦《げつぷ》じゃいけねえかい?」
「おいおい、おかしなことをいってちゃあこまるな。ねえのかい?」
「ああ、どうもおあいにくさまなんだ」
「しょうがねえなあどうも……いつでもおあいにくさまなんだから……」
「ああ、おれんところは、先祖代々おあいにくさまなんだ」
「いつになったら、おあいにくと縁が切れるんだい?」
「そうさなあ、おれの孫の代にでもなったら……」
「あきれたなあ……おとなりは?」
「お留守でございます」
「なんだい、お留守ってえのは?」
「ふところがお留守で……」
「そのおとなりは?」
「空《あ》き店《だな》とござい」
「おやおや……金ちゃんはどうだい? 銭は……」
「ああ、銭ねえ、うん、どっかで聞いたような気もするな」
「おいおい、しっかりしろよ。聞いたような気もするってえことはねえじゃあねえか。なんか買う銭のことだよ」
「ああ、あれかい。ああいう不浄《ふじよう》なものは持たねえ」
「あれっ、大きくでやあがったな。不浄なものだってやがらあ。なにいってやんでえ。おめえ、きのう五十銭玉がおっこってたら、あわててひろったじゃあねえか」
「ああ、ああいう不浄なものはかたづけなくっちゃあいけねえからな」
「勝手なことをいってやがらあ……留さんはどうだい?」
「紙幣《さつ》かい? 銀貨かい?」
「どっちでもいいや」
「両方ともねえや」
「おっ、こりゃあおどろいた……芳さんは?」
「いまここにはねえが、なんなら借りてこようか?」
「感心だ。おめえばかりはみどころがある。どこだい、借りにいくところは?」
「すこし遠いんだが、待っててくれるかい? おれの心やすいひとが、大きな農園をやってるんだ」
「どこで?」
「南アメリカのブラジルで……」
「ばかにしちゃあいけねえや。あんまり遠すぎらあ……おい、そっちの端の……ああ寅さんかい。おめえも銭がねえんだろう?」
「やいっ!!」
「なんだな、大きな声をだすなよ。おどかしちゃあいけねえ」
「銭がねえだろうとはなんだ? やいっ、べらぼうめ、おめえたちとはちがわあ。男は、敷居《しきい》をまたぎゃあ七人の敵《かたき》があるんだ。金で恥をかいたことはねえ。銭金で恥をかいたことなんぞ……」
「そうかい。まあ、ずーっとねえから、たぶんおめえもあるめえとおもって……」
「おめえもあるめえとはなんだ? なにをいやあがるんだ。たぶんあるめえとはなんだ? 敷居をまたぎゃあ七人の敵があるんだ」
「そんなにいわなくてもいいよ……それじゃあ、兄いすまねえが、どうにかしてくんねえ」
「なにをいやあがるんだ。銭があると聞いて、急に兄いだってえやがる。さあ、ぱっぱとつかってこい。つりはいらねえ。べらぼうめ、敷居をまたぎゃあ七人の敵があるんだ。さあ、つかってこいっ!!」
「おいおい、能《のう》書きはてえへんだが、ほうりだしたのは一銭玉がひとつだね」
「ああ、あまさねえでつかってこいっ、敷居をまたげば七人の敵があるんだ。敵を討つつもりでだしてやったんだ」
「ふざけるないっ!!」
「おいおい、おめえは、さっきから、人のふところばっかり聞いてるが、そのご当人のおめえは、一体《いつてえ》いくらあるんだ?」
「だからよ、おれは銭がねえから、みんなからあつめて、自分の分《ぶん》だけどがちゃがにしようとおもうから骨を折ってるんだ」
「どうも相手がよくねえなあ。そうすると、銭のねえやつがそろったわけだ」
「そういうことになるなあ」
「どうだい、銭がなくってあそべる法はねえかね?」
「うん、じゃあ、みんなどうだい? これから日本橋へいってな」
「うん」
「日本銀行の前で、大きなうちわであおいでみるんだ」
「で、どうなる?」
「そうしたら、裏のほうへ紙幣《さつ》がとびだすだろう」
「なにをいってやがるんだ……なんかいい工夫《くふう》はねえかなあ?」
「うん……どうでえ、みんな、今夜は、おれのいうことを聞きゃあ、ただあそばしてやるんだが……」
「へえー、てえへんなことをいいだしたなあ。どうするんだい?」
「こういう筋書《すじが》きなんだ。こんなかで、おれが棟梁《とうりよう》という格になる。おめえたちは、俗にいう仕手方《してかた》、職人という役だ」
「うん」
「で、吉原《なか》へくりこむだろう、どっかの楼《うち》の前へ立つんだ。すると、若え衆が世話を焼きはじめると、おれたちは、すいすい歩きはじめるんだが、ひとりとっつかまるやつができる。そうしたら、こういうんだ。『いけねえ、いけねえ。はなしてくんねえ。みねえ、あそこへいくのは、おれんところの棟梁なんだが、ふだん大見世《おおみせ》でばかりあそんでいるんだ。おめえんとこは小見世でいけねえ、いけねえ。こんど、おれたちできたときにあそんでやるから……』てなことをいうと、むこうは、また、そういうことを聞かされたんだから、『そこをどうぞ、ひとつぜひともおあそびをねがいたいもんで……』というから、そうしたら、おれを呼ぶんだ。『棟梁、棟梁、ちょいと待っておくんねえ』『なんだ、なんだ?』『なにしろ、この若え衆がはなさねえんでございますがね、棟梁なんぞは、まあ、始終《しじゆう》大見世でばかりあそんでいらっしゃいますが、たまには、こんな小見世であそぶのもおつなもんで、こちとらは、大見世なんぞへつれてゆかれるのは、なんとなくきゅうくつでたまらねえんだ。こういう小見世のほうが、ずっとざっくばらんでおもしれえんですが、今夜は、あっしたちにつきあって、ここの楼《うち》であそんでやってくれませんか?』と、こういうと、おれが、『そうか。じゃあ、今夜は、てめえたちにつきあってあそんでやろう』『おお、棟梁がああおっしゃってくださるんだ。みんなを呼びな』……わいわいわあってんで、そこの楼へあがっちまうんだ」
「なるほど」
「さんざっぱら飲んだり食ったりしてな、あくる朝になると、おれんとこへ勘定書き《つけ》がくるにちげえねえ」
「うん」
「そこでなんだなあ、歌舞伎でやると、橘家《たちばなや》、十五代目、市村羽左衛門てえ役があるんだけども、だれかひとり買ってでねえかなあ」
「その羽左衛門、ひとつあっしがねがいやしょう」
「よう、留さんか? ああ、いいなあ。うん、たしかにおめえは羽左衛門てえ柄《がら》だよ」
「やっぱり……おれが? 羽左衛門てえ柄? うふふ、やっぱりなあ、こうみわたしたところ、やっぱりおれが羽左衛門か……」
「おいおい、そうそっくりけえっちゃあいけねえ。ひっくりけえっちまうぜ……そこで、おれがな、『留公を呼びな、留公は、たしかにおれの紙入れを持ってる。きょうは上棟式《たてまえ》にいくんだから……』と、おれがこうやってみんながそろっているところでいうんだ。『おう、留、おめえ、きのうおれの紙入れをあずけたが、持っているか?』と、こういうとな……おい、留さん、そこで、おめえの芝居になる」
「いよいよ羽左衛門の出番だな。なんていうんだい?」
「うん、こういうんだ。『棟梁、どうもとんだことをしちまいました。じつはね、きのう家をでるときに、棟梁から紙入れをあずかりましたが、あとから姐御《あねご》が追っかけてきていうには、なにしろあしたは上棟式《たてまえ》ということをひかえている。棟梁が紙入れを持って家をでると、どっかで一ぱいやって気が大きくなって、また吉原へでもでかけると、このお金をつかってしまうのはなんでもないが、あしたの上棟式に間にあわないと、とんでもないことになるから、この紙入れは持たずにいっておくれ。それでも、もしお金が途中でいるようなことがあったら、つかいをよこしてくれりゃあ、すぐにとどけてやるから、と、こういうことですから、姐御にあずけてまいりました』と、こういうんだ」
「へえー、なるほどね」
「すると、そこで、おれが、『このばか野郎、どじ、まぬけっ!!』ってんで、おめえのあたまをぽかぽかっとなぐらあ」
「羽左衛門をかい? なぐるの? 羽左衛門の役だてえのに、なにもなぐらなくったっていいじゃあねえか」
「そうでないよ。そこが芝居じゃあねえか。ひとつやふたっつなぐらなくっちゃあ筋書きがうまくいかねえんだ」
「どうしてもなぐるの? しかたがねえなあどうも……まあ、なぐるんならことわっとくけど、この右側は、おできができてるからね、どうせぽかっといくんなら、左側へいってもらいたいんだけども……」
「ああいいよ。わかったよ。それにしても、こうみわたしたところ、このなかで、なぐりいいあたまは、おめえよりほかにねえや」
「いいつらの皮でやがる。なぐりいいあたまてえのはねえやな」
「ひどくなぐりゃあしねえよ」
「それからどうするんだい?」
「おれが怒っていうんだ。『とんでもねえ。おれに恥をかかせやあがって、さあ、こうなったらしかたがねえ。おらあ、ここの楼に、三日でも四日でも流連《いつづけ》をしちまうんだ。上棟式なんぞは、六日かかろうと、八日かかろうとかまわねえ。おらあ、家へ帰らねえ』てんで、ぐっと腹を立てらあ。で、なかへへえるやつが、そいつをうまくするんだ。『棟梁、お腹も立つでござんしょうが、なにしろ留のやつは、ふだんからどじな野郎でござんして、その上に、人間がすこしばかで、助平で、欲ばりでござんして……』と……」
「おいおい、おらあよすよ。なぐられたあげくに悪口までいわれりゃあ世話あねえや。なにが羽左衛門の役だ、ふざけちゃあいけねえ」
「まあまあ、だまっていねえよ。『棟梁も腹も立つでしょうが、けさは、ひとつ清く帰っておくんなさいまし。上棟式《たてまえ》にいかないと、何千両という損になるんですから……おお、若え衆、聞いての通りのわけなんだが、棟梁の家へつけえをやりゃあ、すぐに金はくるにちげえねえが、そんなことをしていると、時間ばかりかかっておそくなっちまう。上棟式にいかねえと、請《うけ》あい仕事で、何千両という金をもうけそこなわなけりゃあならねえ。どうだい、これからみんなといっしょに棟梁の家まできてくんねえか? そうすりゃあ、勘定書き《つけ》だけの金はおめえにわたし、こちとらは、すぐに上棟式へいってしまうんだが、棟梁の家の姐御なんてえひとはな、なにしろ苦労人だ。祝儀だといって、三両はきっとくれる。ことによりゃあ五円|紙幣《さつ》の一|枚《めえ》もくれるぜ』といやあ、若え衆は欲ばっているから、『では、お供をいたしましょう』……と、そいつを付き馬にひっぱりだしちまうんだ」
「なるほど」
「お歯ぐろどぶへでて、『おう、ここにどぶがあるぜ。もてたか、もてねえか、小便でわかるてえから、どうでえ、ここで小便をたれてみようじゃあねえか?』と、みんなで小便をたれるんだ。『若え衆も小便につきあわねえか?』『へいっ』ってんで、若え衆が、そこで小便をはじめたなとおもったら、うしろへまわって、若え衆の腰をぽーんと突くんだ。あのお歯ぐろどぶんなかへ若え衆を突きおとしゃあ、なにしろあの深えどぶだ。あがろうったってあがれやあしねえ。ぶくぶくもがいてるうちに、一目散《いちもくさん》に逃げだしちまうんだ。どうでえ?」
「なるほど、こいつぁうめえ趣向《しゆこう》だ。うまくそこで若え衆が小便をすりゃあいいが、しなかったらどうする?」
「そこは、こっちの工夫だよ。『いいからしねえな、棟梁のかんしゃくにさわるとこまるんだから……』てなことをいやあ、無理にでもやるじゃあねえか。さあさあでかけようぜ」
「よかろう」
一同そろってくりこみました。
「ええ、いらっしゃいまし。いかがさまで? 一晩のご愉快をねがいたいもんで……」
「おお若え衆、そうひっぱっちゃあいけねえよ」
「へいへい、おなじみさまもございましょうが、たまにはお床のかわりましたのもおつなもので……」
「よしてくんねえ。ひっぱっちゃあこまるんだよ……おう若え衆、おれんとこの棟梁はな、いつでも大見世でばかりあそんでいるんだ。おめえんところのような小見世であそんだことはねえんだ。これからこちとらも、棟梁のお供をして大見世でたのしむんだ。まあかんにんしてくんな、今夜のところは……」
「そこをひとつぜひおねがい申したいんですが……」
「くどいな。おい棟梁……ええと、棟梁はだれだっけな?」
「なにをいやあがるんだ。おれじゃあねえか。どうしたんだ?」
「じつはね、この若え衆がひっぱってしょうがねえんで……どうしてもはなしてくれねえんですが、どうでござんしょう? 棟梁なんざあ、始終大見世で大尽あそびばかりなすっていらっしゃいますが、たまには小見世のあそびもおつなもんで……へえ、こちとらあ、どうも大見世あそびてえやつは、なんとなく気がひけるんでございます。おなじあそばしてもらうなら、こちとらの好きな楼で、今夜あそんでくれませんか? どうです、こんなうすぎたねえ楼じゃあ、棟梁、あそんでくださいませんか?」
「どれ? どれだい? これ? これが楼かい? おれあ、きりぎりすの籠だとおもったよ……おめえたちがいいっていうんなら、まあ、いいだろう。ここの楼で景気をつけてやろうじゃあねえか」
「どうもありがとう存じます。おう、若え衆、よろこびねえ。棟梁があがってくださるてえんだ。ここの楼はしあわせだなあ」
「えへっ、気の毒だなあ」
「この野郎、よけいなことをいうな……おう、若え衆、あがるぜ」
「へい、ありがとう存じます。ええ、おあがんなさるよ」
「へい、こんばんは、どうもありがとうさまで……おなじみさまは?」
「なじみはねえんだ。総初会《そうしよかい》だ……なじみがあった日にゃあてえへんだが、みんな新顔だな?」
「うんそうだ。なじみがあって、名前でもわかってるようなことがあるとてえへんなことになる。なにしろどぶの一件があるからな」
「よけいなことをいうな……おう若え衆、女の子は、こちとらの雁首《がんくび》に相当したのをみつくろってもらおうじゃあねえか。それから、食いものはなんでもかまわねえ。これだけいるんだからどんどん持ってきねえ。みんな飲《の》み口《くち》だ。酒のほうもたっぷりな。それから、芸者をまあ五つ組もあげてもらおうじゃあねえか。景気よくさわぐんだから……」
「へい、ただいま……」
やがて、酒さかながはいってまいります。もう底ぬけの大さわぎ……あくる朝になりますと、
「ええ、棟梁さん、お早うございます。お目ざめでございますか?」
「だれだ? え? 若え衆か? さっきから起きてるよ。さあ、こっちへへえんねえ」
「へえ、ありがとう存じます……ええ、ごめんくださいまし。どうも、昨夜は、いろいろとありがとう存じまして……」
「ゆうべはな、なにしろ若えやつらだ。ぶちこわしがはじまったようなさわぎで、ほかの客もさだめし怒っていたろうが、よくまあおわびをしといてくんねえ」
「どういたしまして、むこう三軒両どなり、たいへんな景気になりまして、おかげさまでありがとう存じます」
「いやどうも……こんどくるときにゃあ、もっとしずかな連中をひっぱってくるからな」
「どうぞこれをご縁に、またちょくちょくお越しくださいまし……ええ、まことにおそれいりますが、ちょっとごらんをねがいまして……」
「なんだい? おう、勘定書き《つけ》かい? いいよ、そんなもの、みなくってもいいよ。わかってるから……」
「へえへえ、しかし、まあ、棟梁のお目を通していただきませんと……」
「そんなものを、なにもおれがみるこたあねえやな。どうせ勘定はすんでるんだろう?」
「いえ、その……昨晩は、あの通りのさわぎだったもんでございますから、てまえのほうでもちょっと、まあ、申しあげるひまがございませんでしたもんですから、ついそのままにしてしまいまして……」
「えっ、まだすんでねえのかい? しょうのねえやつらだな。いつでもそういってあるんだよ。どこへあそびにいっても、若え衆に紙入れごとわたしておきなよって、おらあ、そういってあるんだが……そうかい、すんでねえのかい。そりゃあ気の毒なことをしたなあ。おれもきまりがわりいや。じゃあ、とにかく勘定書き《つけ》をみようじゃあねえか。こっちへだしてみな。うん、これかい? ほう、ずいぶんこまかに書いてきたもんだな。なにもこんなに書かなくったって、ちょいと合計《しめ》だけつけてきてくれりゃあよかったのに……ええと、五十六円五十銭? ふーん、ゆうべのあそびはこれだけかい?」
「さようでございます」
「やすいなあどうも……まちげえじゃあねえのかい? ……ふーん、あれだけのさわぎをして五十いくらでいいのかい? なるほど、おめえんとこは商売じょうずだ。これじゃあ、またくる気になろうってえもんだ。うん、感心、感心……うーん、娼妓揚げ代金と、うん、なるほど……芸者のご祝儀……ふーん、ビールが二ダースと九本か……酒をあれだけ飲んだのに、おそろしくまたビールを飲んだもんだなあ」
「いえ、お召しあがりになりましたのは九本でございまして、二ダースと申しますのは、おつかいものになさいまして……」
「つかいものに?」
「へえ、なんでも芳さんとおっしゃるおかたが、すぐこの近所にご親類がおありになるそうでございまして、ずっとごぶさたをしているから、ちょいと顔をだしたいんだが、手ぶらでまずいからと、途中で、ちょいとビールを八つぁんというかたとふたりでお持ちになってお顔だしに……」
「ふーん、おみやげものたあ気がつかなかったなあ……おやっ、この鳥打ち帽子てえのはなんだい?」
「ええ、金さんとおっしゃるかたが、ちょいとしゃれに帽子をかぶってみたいからとおっしゃいまして、洋品店からおとりよせになりましたんで……」
「なんだい、まあ、女郎屋へ帽子を買いにきちゃあいけねえなあ……それにしてもわからねえのは、このたらい一つてえやつだ。なんだい、このたらいてえのは?」
「へえ、なんでも寅さんてえかたのおかみさんが臨月だそうでございまして、赤ちゃんができたらうぶ湯をつかわせるんだからとおっしゃいまして、それでたらいを……」
「えっ!! ごていねいなことをしやがるなあちくしょうめ……おい、しかし、なにかい? そういうものもはいって、すっかりで、五十いくら? おどろいたねえ、安すぎるねえ……ところで、若え衆、みんなどうしたい? 目をさましてるんだろう? こっちへあつめてくんねえ」
「ああ、さようでございますか……みなさん、棟梁がお呼びでございますよ。棟梁が……」
「おうおう、棟梁がお呼びだとよ。さあ、みんなあつまれ、あつまれ。留公はどうしたい? あっ、あんなところでぼんやりしてやがらあ。おう、留公、はっきりしろい。おまえが立役者だよ。羽左衛門の出番じゃあねえか。しっかりしろい、羽左衛門、よう橘家!! おめえ、さきへいかなくっちゃあいけねえ」
「なにいってやんでえ……いよいよあたまをなぐられるんじゃあねえか。なにが橘家だい」
「いまさらそんなことをいったってしょうがねえやな。おめえがさきへいかなきゃあ、どうにも幕があかねえよ」
「へい、棟梁、お早うございます」
「ええ、お早うござんす」
「お早うござい」
「ああ、お早う。みんなこっちへへえってくれ。おい、留、おめえ、きのうあれの紙入れをあずけたが、持っているか?」
「へえ、どうもすいません。棟梁にゆうべはなそうとおもってたんですが、酔っぱらってわすれちまったんで……じつは、紙入れを持ってこねえんで……」
「どうして?」
「じつはね、棟梁から紙入れをあずかって表へでると、姐御が追っかけてきていうには、『棟梁は、ふだんからああいう人で、酔っては気が大きい。一ぱいやって、また吉原へでもでかけるようなことがあると、お金なんざあいくらつかったってかまやあしないが、あしたの上棟式に間にあわないようなことがあるとこまるから、紙入れは、わたしに返しておくれ。もしもお金がいるようなことがあったら、つかいさえよこしてくれりゃあ、すぐにとどける』と、こういうことでござんしたから、へい。ええ、右側にはおできができて……」
「なに? 紙入れを持ってこねえ? このばか野郎、どじ、まぬけ、あんにゃもんにゃ!!」
「あれっ、悪口がふえたよ」
「てめえ、こんちくしょう、よくもおれに恥をかかせやがって!!」
「いてえ!! ああ、いてえよこりゃあ……だからそういったのに、とうとう右側をやっちまった……ほうれ、いわねえこっちゃあねえ、膿汁《うみ》がでてきちゃった」
「なにをぬかしゃあがる。この野郎、この野郎!!」
「おうおう、そんなにいくつもなぐる約束はなかったのに……」
「おいおい、留公、あやまれ、あやまれ。まあ棟梁待ってください。お腹も立つでござんしょうが、なにしろ留のやつは、ふだんからどじな野郎でござんして、その上に、人間がすこしばかで、助平で、欲ばりで、もうしょうがねえんでござんすから……まあ、上棟式ということをひかえているんでございますから、棟梁にとんでもねえ恥をかかせましたけれど、とにかくご帰宅をねがいたいもんで……やいやい、留、あやまっちまえよ。おう若え衆、聞いての通りのわけなんだ。これから棟梁の家へつけえをやりゃあ、金はいくらでもくるんだが、そんなことをしていちゃあ間にあわねえんだ。いまもいう通り上棟式にいかなけりゃあならねえんだ。すまねえが、みんなといっしょにきてくんねえか? そうすりゃあ、そこんところで金をわたすてえんだから……棟梁のおかみさんは苦労人だから、おめえが、わざわざいっしょにきてくれたとおもやあ、すくなくって三両、ことによれば五両はくれらあ。どうだい、いっしょにいってくんねえか?」
「へいへい、では、てまえがお供をいたします」
「そうかい、いってくれるかい。じゃあすまねえが、いっしょにいってくんねえ」
「こりゃあ虚弱《かぼそく》ってやりよさそうだ」
「なにをよけいなことをいうんだ……ええ、棟梁、この若え衆がいってくれるてえから、これからすぐに帰ることにいたします」
「そうかい、若え衆、すまねえが、いってくんな」
「へい、承知いたしました」
とうとうだまして若い衆をつれだしました。
「あーあ、ゆうべはおもしろかったなあ」
「ああ、あんなにさわいだことはありゃあしねえや……金ちゃん、おめえ、鳥打ち帽子がよく似合うねえ」
「ああ、おらあ、いっぺんこいつをかぶってみてえとおもってたんだ……それにしても、おれなんざあ、ばかなもてかただったぜ」
「なにいってやんでえ。てめえなんぞどこへいったってもてたことがねえくせに……」
「それが、ゆうべはもてたんだ」
「おい、みんな」
「へえ、棟梁、お呼びで?」
「てめえたちも、もてたの、もてねえのって……だれもふられたてえやつはねえや。いいか、もてたか、もてねえか、この小便のでようでわかるてえんだが、ここのどぶへそろって小便をしてみようじゃあねえか。おれが見分《みわ》けをつけてやるから……」
「おう、みんな、棟梁が見分けつけてくれるとよ。小便しようじゃあねえか。関東のつれ小便てえやつだ。いせいよくいこうぜ……おうおう若え衆、なにごともつきあいだ。おめえもいっしょにやんねえな」
「へえ、ありがとうございます」
「おうおう、小便なんてえものは、なにもありがたがってするほどのもんじゃあねえやな……さあ、やんなよ」
「ええ、てまえは、でかけるときに用を足《た》してきましたんで……」
「よせやい、愛嬌のねえことをいうなよ。おれがたのむんだから、おれの顔を立てて小便をやってくんねえ。いくらでねえたって、しぼりだしゃあ、たらたらぐれえはでるもんだから……おう、しずかにいってるうちにやりなよ」
「ああさようでございますか。お腹立ちじゃあこまります」
「え? やる? やるかい? おう、みんな、若え衆がやるとよ。まんなかへいれてやろうじゃねえか。さあ若え衆、まんなかへへえってやんねえ」
「さようですか。では、そういうことに……」
若い衆は、なんにも知りませんから小便をはじめますと、うしろへまわったやつが、いきなり弱腰を突いたからたまりません。若い衆は、もんどりうってどぶのなかへおっこちました。
「そーら逃げろ、逃げろ、逃げろ!!」
「わあーい、あらあらあらあらっ……」
「おお待ちねえ、待ちねえ。もうここまでくりゃあ大丈夫だ。どうでえ、うまくいったなあ」
「うん、こううまくいくたあおもわなかったぜ。しかし、おらあ、たらいをしょってるから、駈けにくいったらありゃあしねえ」
「おめえも、いくら銭がねえったって、とんだものを買いこんだものだぜ……ときに、あたま数はそろってるのかい? ……えーと、こうみわたしたところ……あっ、留公がいねえや。おい、羽左衛門はどうしたい?」
「しょうのねえやつだなあ。ふだんからあいつはどじだからなあ、若え衆につかまったんだぜ、きっと……」
「つかまったとなると、こりゃあてえへんなことになるぜ……おやおや、そうでねえ。むこうからやってきやあがった。にこにこ笑ってやがるぜ……おーい、留公、早くこいよ!! ……どうした、どうした? 留公、おめえがいねえから、みんなで心配してたんだぜ。どうしたんだい、逃げおくれたのか?」
「いや、おれがね、若え衆のうしろへまわって腰をおそうとおもったらね、いいたばこいれを腰にさげてやがんのよ、もってえねえからね、ぬいてきたんだ」
「なるほど、おちついたやつがあるもんだなあ」
「なにしろうまくいったなあ」
「今夜は品川にしようか」
碁《ご》どろ
碁、将棋《しようぎ》に凝《こ》ると、親の死に目にもあえないということをよく申します。
碁でも将棋でもおなじ勝負ごとではございますが、とりわけ碁のほうが力のいれかたが強いようでございます。というのは、盤面も広し、どうしても勝負がおもしろうございます。もっとも、碁でも将棋でも、ごくおじょうずなかたには、それほど滑稽はございませんが、へぼ碁、ざる碁などというのになると、おかしなことがいくらもございます。つまり、みているほうも夢中になるので、側《はた》からいろいろと口をだします。けれども、ご自分ができるかたが助言をするのは無理はありませんが、ろくにわからないかたが口をだすのがよくございます。
「やあ、こりゃあどうもたいへんな勝負だなあ。待てよ、一目《いちもく》、二目《にもく》、三目《さんもく》、四目《しもく》、五目《ごもく》、六目《ろくもく》……六目は変だな……こっちが、一目、二目、三目と……うーん、こりゃあ負けだ。もう勝負はついてるんだが、どういうわけでまだやってるんだろう? たしかに勝ってるのに……」
「うるせえなあ」
「うるせえったって……ああ、こりゃあ、五目ならべだとおもったら本碁《ほんご》だな」
「なにをいってやがる。ほんご(本郷のしゃれ)も下谷《したや》もあるもんかい。知りもしねえで口をだすない」
「だけれども、おれは五目ならべだとおもったんだ。しかし、芳さん……」
「うるせえな」
「おめえが白を持ってるとこをみると、白の係《かか》りだろう?」
「係りだってやがる。白の石は、みんなおれの石だ」
「おれの石たって、ここの家で借りたんだろう?」
「わからねえなあ、このひとは……打ってるあいだは、白は、おれの石なんだよ」
「おめえの石なら、こっちの端《はし》の、その石があぶねえな」
「それがよけいなことだよ。どの石があぶねえの、あぶなくねえのと、側《はた》からむやみに口をだすにゃあおよばねえ」
「だけれども、あぶねえものを、みすみす……」
「みすみすたって、よけいなことをいうな」
「よけいなことというけれども、あぶねえから教えているんだ……ほーれ、みねえな。おっこっちまった。だからあぶねえっていったんだ」
つまらない世話を焼いております。
わからないひとでさえこの調子でございますから、いくらかできるひととなると、助言をせずにはおられません。将棋などでもおなじようなことがよくございます。
「どうだい、一番やろうか?」
「よそう」
「なぜ?」
「なぜったって、この涼《すず》み台でやってると、横丁の隠居がきやがって、口をだしてしょうがねえ。こないだも、あんまりうるせえから、けんつく(荒々しい叱言)を食わしてやったら、いいあんべえに帰ったかとおもうと、また、あくる日きやがって、つべこべ口だしをしてうるさくってならねえ。あのじじいがくるから、ごめんこうむる」
「もしもきたら、助言をしちゃあいけねえと、ことわってしまおうじゃあねえか」
「ことわったって、性分《しようぶん》だからだめだよ」
「それで口をだしたら、『これは賭《か》け将棋なんだ。百円の勝負だからいっしょうけんめいだ。そばで口なんぞきいてじゃまをするやつは、だれでもかまわねえ、ひっぱたくぞ』と、おどかしてやろうじゃあねえか」
「なるほど、そんなら大丈夫だろう。じゃあ、そろそろはじめよう」
「やあ、これは、あいかわらずやってるな、へぼ同士で……」
「ほーれ、やってきた」
「ええ?」
「やってきたよ」
「あっ、隠居さん、おいでなさい」
「いや、ふたりとも、どうも好きだな」
「なあに、好きってえほどでもねえんですけれども……きょうはね、隠居さん、すこし口をださねえようにしておくんなさい」
「ああ、だしませんよ」
「ださないといいながら、おまえさん、じきに夢中になって口をだすからこまっちまう。きょうは、ただの将棋でねえんで、賭け将棋なんですから……」
「賭け将棋はおよしよ。わずかのことで、心がいやしくなるから……」
「ところが、わずかじゃあねえんで、どうもただじゃあはりあいがねえから、百円ずつの賭けではじめたんで……」
「よしなさいよ。ばかばかしい……」
「よせったって、もう約束をしちまったんで……百円のやりとりだから、たがいにいっしょうけんめいだ。そばで口をだしちゃあいけません」
「そういう将棋では、うかつに口はだせない。だしませんよ」
「ださなければようございますが、欲とふたりづれだからね、一身上《ひとしんしよう》(財産)にありつくか、身上をつぶすかという興廃存亡《こうはいそんぼう》の場合だから……」
「いや、大きくでたな。そういうことなら、決して助言はしない」
「みているだけならようございます」
「ああ、みているだけだ。しかし、はじめのうちは、将棋というものはおもしろくないな」
「そんなことをいわねえでいておくんなさい」
「いや、助言をするわけではない……ああ、失礼ながら、おまえさんたちの将棋は、これだからおもしろいな。もうそこへ喧嘩《けんか》ができた。うーん、とうとうこれは戦争になった」
「うるせえな。戦争も戦《いく》さもねえんだから、隠居さん、だまってておくんなさい。後生《ごしよう》だから……」
「いや、助言をするわけじゃあないけれども……」
「そうぞうしくっていけねえ。百円のやりとりで、いま大事のところなんだから……」
「いや、口はだしません……ああ、留さん、おまえのほうが、すこし旗色が……」
「それがいけねえんだよ。旗色がわるかろうが、よかろうが、大きなお世話だ」
「そうでもあろうが……うーん、こりゃあどうも……」
「おい、なぐるよ。だれだってかまわねえから……こっちゃあ、百円の一件なんだ」
「いや、助言をするわけではないから……」
「助言でなくてもうるせえよ」
「ああ、そら……いや、もう口はださない」
「ださなけりゃあいい。みているだけならかまわねえが、だまっていておくんなさい……こうっと……こういけばこうくると……うーん、どうも弱ったな」
「弱ることはないだろう? 筋違《すじかい》に銀を突っこめば……」
「ええ、こいつ!!」
「いたいっ、ぶったな」
「ぶたなくってよ。百円のいきさつだ」
「うーん、やっ、なるほど、約束だから、ぶたれてもしかたがない。もうこれぎり口はだしません。しかし、おもしろくなってきたな。ああ、そいつを……」
「おい、なぐるよ」
「けれども、このくらいのことはいったっていいだろう? なにも助言したわけではないんだから……」
「いけないよ。うるさくってしょうがねえ。なんでも口をだせばなぐるから、そのつもりでいておくんなさい」
「よし、それでは、これから口をださないことにする。けれどもおもしろいなあ。ああ、詰があるよ。そこには……」
「こいつ!!」
「いたいな、これは……いや、またきます」
「うふふ、いっちまやあがった。おもうさまなぐりつけてやったら、変なつらあしていきゃあがった」
「おい、おめえたち、門口で将棋をさすのはよしなよ。いまみてりゃあ、横丁の隠居さんをなぐったじゃあねえか」
「へえ、親方の前ですが、ありゃあ、約束なんだからかまいません」
「約束だって、若え者は、としよりをいたわるべきものだ。いくら将棋に夢中になったって、としよりをなぐるという法はねえ」
「なあに、むこうも覚悟なんで……」
「いくら覚悟だって、ぴしゃぴしゃ音のするほどなぐるやつがあるか。門口でさすからいけねえ」
「もうこれからさしません」
「これからったって……第一、ありゃあ、ただの隠居じゃあねえぜ」
「へーえ、なんの隠居なんで?」
「もと剣術の先生じゃあねえか。『よくも男の面体《めんてい》を打ったな。恥辱《ちじよく》をそそぐから覚悟におよべ』かなんかいって、いまにくるぞ」
「なあに大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃあねえ」
「おいおい、そうでねえよ。親方のいう通りやってきたぜ。むこうから……」
「どれ」
「あすこにきたじゃあねえか。大きな鉄扇《てつせん》を持って……」
「なるほど、きたきたきた。なにかかぶってるとおもったら、剣術の面をかぶってきやあがった」
「やあ、どうした、勝負は? どうもさきほどは失礼したな。さあ、おやんなさい」
「もうやりませんよ」
「そういわんで、もう一番……こんどは、ぶたれてもいいように、面をかぶってきた」
夢中になると、そんなものでございましょう。碁でも将棋でもちがいはございません。
「こんばんは」
「おや、おいでなさい。どうもお気の毒さま、つい無人《ぶにん》だもんですから、ちょっとつかいでもあげればようございましたが……」
「いえ、なに、べつに用もないから、ぶらぶらきました。また明晩うかがいます」
「いや、すこし待ってください。あしたの晩もいけないんで……」
「じゃあ、あさって……」
「あさってにも、いつにも、当分碁が打てないことができちまって……」
「へえ、なにか?」
「ええ、けさ、家内が、碁のことについて、すこしぐちをいいだしました」
「へえー、しかし、おたがいさまに、碁を打つために、夜ふかしをして、商売をよそにするというわけじゃあなし、昼間一日かせいで、夜のたのしみに打つんで、それも時間をきめて、十時をチーンと打てば、まあ打ちかけていてもやめて、あした打ちなおすということにしているんだから、なにもさしつかえないじゃあありませんか」
「いや、それは、わたしもそうおもった。ところが、女房のいうには、ほかになにもいうところはないが、火の用心がわるいから、どうか碁だけは打ってくれるなというんで……」
「へーえ、火の用心が?」
「なんで火の用心がわるいのかと、聞いてみたところが、奥の六畳へいってみてくれというからいってみた」
「うん」
「六畳といえば、いつも碁を打つ座敷だ。昼間は敷物が敷いてある。この敷物をあげて、この通りだといわれたときには、われながらぞっとしたね」
「どうして?」
「碁盤のまわりは焼けこげだらけ、因果とふたりながら、噛《か》むほどたばこが好きで、夢中になって碁を打ちながらのむので、吹きがらが畳の上へおちる。この吹きがらのために火事になったことが、むかしもいまもありがちのことで、いかにも無用心だから、なにかほかに安心のできるなぐさみと変えて、碁だけは打ってくれるなと、こういわれてみると、それでもやるというわけにはいかない」
「はあー、また因果とたばこが好きだからなあ。こまったねえ、どうも……火事をだしてもかまわないというわけもなし、わたしどもへおいでをねがうといったところが、子どもが多いから、ごたごたそうぞうしくっていかず、どうにかひとつ火の用心をして、これならば安心ということにしてやろうじゃあありませんか」
「そこでだね、安心といったところで、たばこをのまぬということはできない」
「それはできないけれども……じゃあ、庭の池を拝借しましょう。池には水があるから、吹きがらがおちても、じゅうじゅう消えてしまうから……」
「それはいいが、水のなかはつめたい」
「つめたいぐらいがまんをしなければならない。好きな道だから……」
「好きな道だって、わたしゃあ、からだが弱いから、とても池のなかなんぞへはいってることはできない」
「それでは、畳をトタンで張るということにしては?」
「そんなことは、今夜の間にあわない」
「それだから、今夜だけは池でやりましょう」
「どうも池じゃあ、碁盤がしようがない。水のなかに立っちゃあ」
「首からひもをさげて、両方でつっていればさしつかえない」
「どうも首からつるってえのは勝手がわるいねえ。しかし、それはまあいいとして、碁石はどうする? 袂《たもと》にいれちゃあ重くていかず、いちいちつかみだすというのもぐあいがわるいし……」
「それは、腰へ魚籠《びく》をさげて、そのなかへいれる」
「それじゃあ釣りだ。ばかばかしい」
「ばかばかしいなんていってないで、これならばやれるというところをひとつ相談しよう。もうそんなにさむくもないから、あの座敷へふたりでたてこもって……」
「うん」
「なかは全然火の気なし。マッチ一本置かないことにしたら、いくらのみたくっても、火の気のないところではたばこはのめない」
「それはいけない。おたがいに碁が好きか、たばこが好きかといえば、碁のほうは、去年の暮れなどは、十日ばかり商売がいそがしくってやすんだこともあるくらいだから、このほうはがまんもできるが、たばこのほうは、十日はさておいて、ただの一時間だってがまんができない」
「なるほど」
「してみると、碁よりたばこのほうが好きの度が強い」
「もちろん」
「いかに碁がおもしろいといったところで、それより以上に好きなたばこがのめないということになると、ものにたとえてみれば、あたまをさすられて、尻《しり》のほうをぶたれるりくつでつまらない」
「いやいや、全然のまないということはとてもできないはなしだが、一勝負が何時間かかるというものじゃあない。だいたいこりゃあ、どっちが負けだと見切りを立って、なかばでこわしちまうような碁ばかり打ってるわれわれだから、十分か、十五分でかたがつく。そのあいだは、ぴったりがまんして、つぎの間へ火を置いていただいて、勝負がついてから、その喫煙室へいってたばこをのむ。腹にたまるものじゃあないから、ずいぶんのみ置きもできるというもんだ」
「そんなにたくさんのみゃあ目がまわる」
「まあ、目まいのするほどうんとのんで、また盤にむかって碁を打つ。打ってしまったら、たばこをのむ。碁は碁でかたをつけ、たばこはたばこと、こうべつにやれば大丈夫だとおもう」
「なるほど、それは気がつかなかった。碁は碁でやって、たばこはたばこでのむ。いや、それならいいだろう……ええ? そっちでなにを笑ってるんだ? 笑うどころじゃあない。どうか安心なことをしてやりたいとおもって、いろいろ相談しているんだ。なにもおかしいことはないじゃあないか。ええ? そんならばさしつかえないって? あたりまえだ。火のないところでやって、さしつかえる道理がない。さあ、どうぞこっちへ……」
「じゃあ、早いほうがいい。一石もよけいに打ちたいから……」
ということになりまして、奥へ通って盤にむかったら、もうすっかり夢中でございます。
「ええと、碁は碁で打って、たばこはたばこと……」
「あなた、きょうは、最初からひどくかんがえてるのはおかしいね。どうしました?」
「いや、今夜の碁はむずかしい……たばこはたばこと……」
「はあ、おっしゃるね。それなら、こっちでも、たばこはたばこ、碁は碁と……こんなものだ」
「うーん……たばこはたばこ、碁は碁と……」
「おまえさんもたばことおっしゃるから、こっちでもたばこはたばこと……ああ、わるいなあ、これは……うん、こういけばこうと……うーん、どうも……まるでやりそこなった。えーっ、たばことやっちまえ」
「うん、なるほど、ごもっともです。そうくれば、また、こっちでも……たばこといくかな」
「どうもこれは、裏門からおいでなすったな。こうつ……とわたると……わたらせんと、これを打ち切る、のぞいてくる。継《つ》ぐの一手、さあ、わるい石ができたよこれは……たばこはたばこと……待ってくださいよ。ここだけはかんがえものだ」
ふたりとも、もうまるで夢中で、たばこいれをだして、きせるにたばこをつめましたが、火がございません。これはあるはずがございません。
「おい、まだここへ火がきていないよ。どうしたんだ? 火を持ってきなよ」
「そーらはじまった。清や、持ってっちゃあいけないよ。こまったねえ、もういつもの通り、まるで夢中になっていらっしゃるんだから……」
「どういたしましょう? さかんに持ってこいとおっしゃいますが……」
「今夜ばかりは大丈夫だとおもって、いい敷物を敷いて置いたら、あれもまた焼け穴だらけにしちまってはしょうがない。ご自分でやっておいて、あとでお叱言《こごと》だからこまっちまう。持ってっちゃあいけないよ」
「おーい、火を持ってこないか!!」
「あら、またいってらっしゃいますよ」
「ほんとうにこまったねえ。なにか火のかわりになるものはないかい?」
「炭をいれて持っていきましょうか?」
「炭じゃあ黒くっていけないよ。なにかないかねえ。たばこ盆ばかりじゃあ持っていかれないし……ああ、こうおし、縁側のひさしの裏に烏瓜《からすうり》がつるしてあるだろう?」
「え、烏瓜?」
「ああ、あれをひとつもぎっておいで。黄色いのじゃあいけないよ。まっ赤になってるんでなくっちゃあ……さあ、これをたばこ盆にいれるんだよ。なあに、夢中だから、わかりゃあしないよ。すっかり埋《い》けて、すこし赤いところをだしておいてごらん……そうそう、ほら、ちょっとみると火にみえるだろう? なにを笑ってるのさ? 笑って持ってっちゃあいけないよ。笑わずにね、いいかい?」
女中さんがこれを持っていきましても、ふたりは烏瓜とは気がつきません。
「うん、たばこ盆を持ってきたかい。ああ、そこへ置いてっておくれ。あとをよくしめてな……さあ、火がきたから、たばこをつけましょう……はてな、たばこがしめったかな? ばかに火のつきがわるいが……」
烏瓜のあたまへきせるを持っていっては、すぱすぱやっておりますが、いくらすぱすぱやっても、烏瓜のあたまから火を発するわけがありません。きせるをくわえてみては、また烏瓜のあたまをなでております。これならば安心と、妻君は、下女をつれて風呂にはいりました。もっとも奥深で、風呂と座敷とははなれております。
ふたりはさしむかい、表のほうはだれもおりません。
そこへはいったのが、因果と、奥のふたりよりも碁が好きだという泥棒で、大きなつつみをこしらえて、これをしょって逃げだそうとしたときが、もう十時近い刻限《こくげん》で、あたりはしーんとしております。そこへ、パチリパチリ盤石の音が聞こえてきたからたまりません。
「いや、かげで聞いてもいい心持ちだな。どこだろう?」
と、音にひかされて、泥棒が、奥のほうへのそりのそりと、つつみをしょったままはいってまいりました。
「ああ、ここだな。気が散るといけないというので、ぴったりしめきってさしむかいだ。ああ、ふっくりとしたいい石だな。盤石がいいと、つねよりも二目がた強く打てるというが、まったくだねえ。いい石だ。塩せんべいの生《なま》みたように、そっくりかえった石じゃあおもしろくない……ええ、はなはだ失礼ですが、互先《たがいせん》ですな。碁は互先にかぎりますな。はあ、その大きな石が攻めあいになってますな。うん、力のはいる碁だ。こうっと……ここは切れ目と、ここを……ああ、あなた、その黒はわるうございますよ。それは、継ぐの一手だ」
「うるさいな。だまっててくださいよ。見物はだまっててください。みているのはかまわないが、口をだしちゃあ……岡目八目《おかめはちもく》助言はご無用と……ひとつ、これへ打ってみろい」
「助言ご無用とはごもっとも……わたしも助言はご無用と……」
「あああ、ああ、手をはなしちまってはしかたがないが、攻めあいの石を、あなた、だめを埋めてくれなんて、そんな……」
「うるさいな。また口をだして……おやおや、あまりふだんみたことのないひとだ……」
と、主人は、泥棒のほうをみたのですが、あたまのなかは碁のことでいっぱいですから、これをあやしみもいたしません。
「ええ、こーっと……うん、あまりふだんみたことのないひとだと……、大きなつつみをしょってますね。大きなつつみだと……」
「これは大きなつつみと……」
「大きなつつみをしょって、おまえはだれだい? ……と、ひとつ打ってみろ」
「なるほど……おまえはだれだいとはおそれいったな。それでは、わたしも、おまえはだれだいといきますかな」
「じゃあ、わたしも……おまえはだれだい?」
「へへへへ、ええ泥棒で……」
「ふーん、泥棒か……」
「なるほど……おまえは泥棒かと……」
「これは泥棒さん、ああ、よくおいでだねっ」
味噌蔵
屋号がしわい屋、名前がけち兵衛、ご商売はというと味噌屋さんでして、たくさんの奉公人をつかっておりますが、四十になるというのに、いまだにおかみさんを持ちません。そうなると、親類の連中もだまってはおりません。
「けち兵衛さん、おまえさんは、どうしておかみさんを持たないんだね?」
「じょうだんいっちゃあいけません。世のなかに女房ぐらい無駄なものはありませんや。一日中ぶらぶらしていて、食べて、着て……おまけに赤ん坊をこしらえて人間をふやすでしょ? ああいう危険なものとは、あたしゃあかかわりを持たないことにしております」
「そんなことをいってちゃあこまるねえ。その年齢《とし》になって女房を持たないなんてえなあ、世間に対してもみっともなくっていけません。あなたがね、どうしてもおかみさんを持たないというんなら、親類一同、おつきあいをおことわりするよ……もちろん商売のとりひきもやめさせてもらうから……」
「えっ、あたしが女房を持たないと、つきあってくださらない上に、商売のとりひきもやめるんですって? そりゃあひどいじゃあありませんか。それにね、女房を持つとなると、婚礼の入費《にゆうひ》だってばかになりませんからね……うーん、こまった……そうだ。いいことがあります。あたしもみなさんの顔を立てて女房を持ちますから、婚礼の入費をあなたがたがお持ちなさい」
「ずうずうしいことをいっちゃあいけないよ。まあ、とにかくお持ちなさい」
「そんなにすすめられちゃあ、あたしだって持たないわけにはいきませんがね、さっきもいったように、女房を持つと子どもができる。これがこまるなあ。なにしろものを食べるんだから……」
「ものを食べない人間がいるもんか。おまえさん、そんなことをいうけれど、子宝といって、子どもぐらい結構なものはありませんよ。一家繁栄の基《もと》だ。まあまあ、とにかく女房をお持ちなさい」
親類のひとたちの骨折りで、いいお嫁さんをむかえて婚礼の式もとどこおりなくすませましたその晩、
「ああ、いろいろと都合《つごう》があるんで、お嫁さんは二階へあがって寝てください。あたしは、階下《した》でやすみますから……」
てんで、赤ん坊ができないようにはなればなれにやすむという……妙な婚礼があったもんで……
こんなことで日を送っておりますうちに、あるとき、ひどく寒い晩がございました。けち兵衛さん、あまりの寒さに、ふとんにはいっても寝つかれません。
「ううっ、さむいっ、ああさむいなあ。今夜はまた、やけに冷えるなあ。もっともさむいわけだよ。あたしのふとんが薄過《うすす》ぎるんだ。世間でいうせんべいぶとんてえやつなんだから……あたしだって、これだけの身上《しんしよう》(財産)なんだから、綿がたっぷりはいったふとんの一枚ぐらいこしらえられないことはないんだけれどねえ、人間てえものは、どういうわるい夢をみないともかぎらないからなあ、いいふとんをこしらえたその晩に、いやな夢でもみて、あっこわいとおもって、手足をつっぱったとたんに、ふとんに爪でもひっかけて、ぴりっと破きゃあ、もうそれまでだからね。そうなりゃあ、とんでもない無駄をしてしまうことになる……いや、それにしてもさむいなあ。むかし、あたしが奉公してた時分だったら、仲間同士で抱きあってあっためあうこともできたんだが、まさか主人のあたしが奉公人のところへあったまりにいくわけにもいかないし……ああ、なんてさむいんだろう……おやっ、なんだろう? 二階でみしみし音がするが、泥棒でもはいったのかしら? そうなりゃあ一大事だが……あっ、そうそう、すっかりわすれてた。二階には、かみさんが寝ているんだっけ。そういえば、婚礼の晩にちらっとみたけども、綿がたっぷりはいったふとんをずいぶん持ってきたねえ。そうだ、かみさんにたのんであっためてもらおう……しかし待てよ。女の尻《しり》てえものはつめたいなんてことをいうからなあ、うしろのほうへまわるのはよそう。なんてえことはねえ、水がめをかかえるようなもんだからなあ、よけいに冷えちまわあ。よし、前へまわってあっためてもらおう」
てんで、その晩、二階へあっためてもらいにまいりました。たいへんいいぐあいにあったまることができまして……あくる晩もさむいから、またあったまりにいく。そのあくる晩も……毎晩毎晩あったまりにいっているうちに、おかみさんのお腹《なか》にあったまりのかたまりができてしまいました。
「ねえ、おまえさん、お気づきになりませんか?」
「なにが?」
「ほんとうにお気づきになりませんか?」
「ああ」
「では申しあげますけども、みるものをみないんでございますよ」
「みるものをみない? ……なんのことだい? ……ははあ、芝居でもみたいっていうんだろ? おやめなさい。あんなものに木戸銭を払うだけもったいないから……」
「いいえ、そうではございません。あのう、すっぱいものがいただきたいんでございます」
「なんだ、そんなことかい……いくら夫婦の仲でも、おまえが、すっぱいものがいただきたいか、甘いものが食べたいかなんてえことまでは気がつきゃあしないよ。そんなにすっぱいものが食べたかったら、梅ぼしでもしゃぶったらいいじゃあないか」
「そうじゃあありませんよ。ちいさいのができたんです」
「ちいさいのができた? どこへ?」
「どこへって、きまってるじゃあありませんか。お腹《なか》へですよ」
「お腹へできた? そりゃあ場所がよくないねえ。いまのうちに吸出膏《すいだし》でも貼《は》っておきなさい」
「おできのはなしじゃあありませんよ……なんていえばわかるんでしょうねえ……赤ちゃんができたんでございますよ」
「えっ、赤ちゃんができた? おまえのお腹のなかに? ……さあたいへんだ。だからいわねえこっちゃあねえってんだ。いつかこういう災難がきやあしねえかと心配してたんだが……あーあ、せんべいぶとんで寝てりゃあ、なんてえこたあなかったんだ。まさか凍《こご》え死をすることもなかったろうからなあ……とほほほ、あーあ、あたまがいたくなってきた。おまえは、早く梅ぼしでもなんでもおあがり……それから、番頭を呼んどくれ、番頭を……ああ、番頭さんかい。こっちへはいっとくれ……ねえ、番頭さん、えらいことができちまった」
「どうなさいました? たいそうお顔の色がわるいようでございますが……」
「そんなにわるいかい? そうだろうねえ……えらいことになったよ。かみさんのお腹のなかへねえ、赤ん坊ができちまった」
「そりゃあ、まあ、まことにおめでとうございます」
「おいおい、ひとのことだとおもってめでたがってちゃあいけないよ。薄情なひとだねえ、おまえさんは……赤ん坊ができたということは、たいへんな物いりなんだよ」
「へえ、ご心中のほどお察し申しあげます」
「いくら察してくれても、まさかおまえさんが入費のほうをひきうけてくれるわけじゃああるまい?」
「へえ、そりゃあまあ……しかし、それほど入費をおかけになるのがおいやでございましたら、おかみさんを、いっそお実家《さと》かたへお帰しになりましては?」
「ばかなことをいっちゃあいけないよ。そりゃあねえ、あたしゃあ、人間はしみったれだよ。けれどもねえ、妊娠したからって、女房を実家《さと》に帰すなんて……」
「いいえ、なにも離縁するのどうのってことではございません。ご当家は、こうして男手《おとこで》ばかりでございますから、なにかとゆきとどきません。でございますから、身ふたつにおなりになるまで、お実家《さと》かたでおあずかりいただきまして、ご安産ののちに、またこちらへおもどりいただくということに……」
「うん、えらいっ!! いやあ、おそれいりました。さすがにしわい屋の番頭だ。目のつけどころがちがうねえ。するとなんだね、お産の入費はみんな実家《さと》のほうでだしてくれるってえわけだ」
「ええ、そりゃあもう……それに、あちらでお生まれになりますれば、ご親類を招《よ》んでのお誕生祝いのごちそうも、みんなあちらさまでなさってくださいます」
「ほんとうかい? そんなに金のかかることをみんなやってくれるのかい?」
「へえ、じつを申しますと、あちらのご両親さまは、初孫のことだからとおっしゃって、きょうは知らせがあるか、あすは知らせがあるかと、首を長くしてお待ちになっていらっしゃいます」
「へーえ、そんな入費のかかることを? 首を長くして待ってるのかい? ……ふーん、実家の連中は、みんな気でもちがってるんじゃあないかい? あきれたねえどうも……しかしまあ、なんにしてもありがたいねえ。それにねえ、かみさんが実家へいってるあいだの食べるものだけでもえらいちがいだよ。そういうことなら、さっそく実家へはなしをしておくれ」
お実家かたでは、大よろこびでひきとりまして、やがて無事に安産ということになりました。
「おい、番頭さん、番頭さんや」
「へい、お呼びでございますか?」
「ああ、呼びましたよ」
「なにか?」
「いえね、いま、実家から知らせがあって、生まれたそうだ、男の子が……」
「そりゃあおめでとうございます」
「ああ、ありがとうよ……ふふっふ、しかし、ふしぎなもんだねえ。これで、自分の子どもが生まれたとなるとねえ、なんだか顔をみたいような気もするしね、また、顔をみにいって、その子が、あんまり丈夫そうで、大きくなってごはんをたくさん食べるようだとがっかりするだろうし……うれしいような、こわいような、くすぐったいような、痛いような……着物を着たまま風呂へはいってるような妙な心持ちだよ……それにしても、とにかくあたしはいってくるよ」
「ええ、いってらっしゃいまし。お実家のほうでもおよろこびでございましょう」
「今夜は、むこうへいったぐあいで、ひょっとしたら泊まるようなことになるかも知れないが、ひとりじゃあ、なにかと不便だから、小僧の定吉を供につれていくから呼んでおくれ」
「結構でございます……おい、定どん、定どん、定どん!!」
「へーい、旦那さまお呼びでございますか?」
「呼んだらすぐにこなくてはだめじゃあないか。なにをしてたんだ?」
「へえ、おまんまをいただいておりました」
「どきっとするようなものをいただいてるな。どうでもいいけど、うちのやつらは、なんだか呼ぶたびにめしを食ってるような心持ちがする。めしはもういいかげんにしておやめなさい、あのなあ、定吉、これからおかみさんの実家へいくんで、おまえをなあ、供につれていくから、重箱の大きいのをひとつ持ってきなさい」
「へえ、商売物のお味噌をつめまして、おみやげに持ってまいりますか?」
「ばかなことをいうんじゃない。みやげなんぞ持ってくわけがないじゃないか」
「じゃあ、重箱は、なんにつかいますんで?」
「うん、むこうへいけばねえ、赤ん坊の祝いで、ご親類をあつめて、なにかごちそうがでるそうだ。それでな、おまえは、あたしのとなりに坐っていて、でてきたごちそうをその重箱のなかへそうっとつめてきちまうんだ。お吸いものとごはんぐらいはいただいてもいいから……それからな、まわりにいて、すこうし酔っぱらってるひとなんざあ、前の皿んなかになにがあるかわかりゃあしねえや。そういうのをみんなごまかしていれてきちまうんだ。そうなりゃあ、うちへ帰って、みんなのおかずができるってもんだ。それからな、げたは、なるべくわるいのを履いていきなさいよ」
「どういたしますんで?」
「帰りにまちがえて、いいげたを履いてきちまうんだ。あたしもそうするから……それからねえ、番頭さん、きょうは風があるようだから、火の用心に気をつけとくれ。もしもご近所から火事がでたら、商売ものの味噌蔵、あれをすぐに目塗りしてくださいよ」
「かしこまりました。用心土《ようじんつち》をねりまして……」
「そんなことをしていちゃあ間にあわないよ。それこそ商売ものの味噌で目塗りをしてしまいなさい」
「えっ、お味噌で? そりゃあ、もったいのうございます」
「べつにもったいなかあないさ。あとで、かわいたやつをはがして、おまえさんたちが、お茶づけのおかずにすりゃあいいじゃあないか。香《こう》ばしくっておいしいよ」
「へえへえ、そりゃあ無駄がありませんことで……」
「じゃあ、でかけるから、みんなも、しっかり留守をたのむよ」
「へい、いってらっしゃいまし」
「いってらっしゃい」
「いってらっしゃい」
「ええ、いってらっしゃい」
「いってこい」
「おいおい、らんぼうなことをいっちゃあいけないよ。さあさあ、みんな、きょうはもう旦那は、あちらへお泊まりだよ。え? さっきのこと? うん、番頭さんにたのんでみようか……ええ、番頭さん、店の者一同からおねがいがございますが……」
「なんだい?」
「へえ……ご当家へご奉公にあがりまして、もうずいぶん長いことになりますが、ごはんのときに、おかずというものをいただいたことがございません。いつでも商売ものの味噌汁ばかりでございます。それも、ご当家の味噌汁には実《み》がはいっておりません。でございますから、旦那さまに、たまには実をいれてくださいとおねがいいたしましたら、『実は、はいってる。味噌をするすりこ木がだいぶ減《へ》ったところをみると、あれが自然と実になってる』と、こうなんで、じつにどうもおどろきました。……このあいだ、めずらしく田にしがはいってましてねえ、しめた、ありがたいとおもって、箸でつまもうとしましたら、溶《と》けちまいました。『おかしいな、田にしが溶けるわけはないんだが……』とおもって、よくかんがえてみましたらねえ、味噌汁《おつけ》がいくらかうすかったんですね、そのために、あたしの目玉がうつってたんで……こんなことじゃあ、とてもからだがつづきませんから、旦那のお留守をさいわいに……といってはなんでございますが、番頭さんのおはからいで、店の者一同になんかおいしいものを食べさせていただきまして、その入費は、帳面のほうを、どがちゃが、どがちゃがとごまかすということに……」
「おいおい、なにをいってるんだ。あたしゃあ、旦那のいない留守をあずかる番頭だよ。そのあたしにむかって、帳面をごまかして、うまいものを食わせろとは、なんということをいうんだ」
「へえ」
「なにもおまえさんたちがいわなくっても、あたしもそのつもりだ」
「なんだ、そうなんですか、おどかしちゃあいけませんよ……で、ほんとうに食べさせてくださるんですか?」
「ああ、こんないい機会《おり》はめったにないからね……みんなも、ふだん猫をかぶってるけど、いける口だろ? ちょうどいいや、あたしも一ぱいやりたいとおもってたんだ。きょうは、ひとつじっくりと腰をすえてやろうじゃあないか」
「ありがとうございます」
「さて、そうなると、さかなは、なにか好きなもんでいきたいなあ。そうだ、みんな、好きなものを順にいってもらおう。それをここに書きとめてあつらえてあげるから……ええ、松どん、おまえさんからいいなさい」
「へえ、あたくしは、お酒をいただきますと、なんにも食べられないんで……もうほんのすこし、かたちだけあればよろしいんで……」
「まあまあ、そんなことをいわずに、箸をつけなくてもいいんだから、なにかいいなさい」
「そうですか? ほんとうにいただけないんですが……じゃあ、おさしみをとっていただきましょうか」
「おさしみかい?」
「ええ、それから、ちょいと酢のものがあって、なにかこう塩焼きがあって、甘煮《うまに》がありまして、そうですね、寄せ鍋《なべ》かなんかあって、天ぷらがあって、ほかにうなぎどんぶりの三ばいもありゃあ、もうなんにもいりません」
「なにをいってるんだ。それでなにも食べられないもないもんだ……ひとりでそういく品《しな》もいっちゃあいけないよ。みんなに一品《ひとしな》ずついってもらって、それを人数分だけとろうじゃあないか。だから、一品いっておくれ……え? おさしみかい? で、梅どんは?」
「へえ、酢のものをおねがいします」
「うん、おまえさんは、かなりいける口だったな。金どんは?」
「照り焼きをどうぞ……となりは?」
「さつまいもで……」
「さつまいも? ……酒のさかなだよ」
「ええ、あたくしはねえ、むかしっからさつまいもが大好きなんでございまして、一ぺんいやというほど食べたいとおもっておりましたんで……で、さつまいもを山と積みましてねえ、これを端《はし》のほうからぱくぱくと片づけながら、ちびちびやっていきたいとおもいますんで……」
「いやな酒だねえどうも……おい、権助、おまえも遠慮せずに好きなものをいいなさい」
「こりゃあありがてえこんで……そんだら、おらあはあ、ししとってもらいますべえ」
「え?」
「ししとってもらうべえ」
「猪《しし》をとれ? おまえ、ものすごいものを注文するんじゃあないよ。猪をとれったって、鉄砲もなんにもありゃあしないじゃあないか」
「そのししでねえだよ。ほれ、めしの上へさかなだの、貝だの乗っかってるしし、ほれ、まぐろのしし、赤貝のしし……」
「ああそうかい。ししというからややっこしくなるんだ。すしといいなさい……留どん、おまえは?」
「ええ、でんがくをいただきます」
「でんがく? 木《き》の芽《め》でんがくといって、ありゃあ春さきのもんだが、どこかでやってるのかい?」
「ええ、さっき、横丁のから屋の前を通りましたら、でんがくありと書いてございました。ぜひ、でんがくをおねがいいたします」
「うん、こりゃあおつだね。いや、おんなじ味噌をあつかったものだが、でんがくとなるとちょいと変ってておもしろいなあ……しかし、どこでやってるんだい?」
「へえ、横丁のから屋なんで……」
「から屋? ……でんがくをやってるんなら豆腐《とうふ》屋だろう?」
「へーえ、豆腐屋ってんですか? あたしは、いつもおからばっかり買いにいきますから、てっきりから屋というのかとおもってました」
「なにをばかなことをいってるんだ……さあ、これでみんなの好きなものが出そろったな。おい、長松、おまえ注文にいってきておくれ。表のさかな屋で仕出しをやってるからな……そうそう、長松、おまえは、まだ、お酒はだめだな。よし、大福でも、まんじゅうでも、なんでも好きなものを買っておいで……ああ、それからなあ、いちばんしまいに豆腐屋へ寄ってでんがくをあつらえるんだが、いっぺんに焼いて持ってこられると、飲んでるひともあるし、すぐに食べるひともあるしね、冷《さ》めてしまうとうまくないもんだからね、『お手数でおそれいりますが、二、三丁ずつ焼いて持ってきてください。二、三丁焼けたら、また、あとからどんどん持ってきてください』ってたのんでおいで……さあ、みんなしたくにかかっておくれ」
やがて料理もとどきまして、ひさしぶりの酒で、みんなたいへんなごきげんで、はじめのうちは、ちいさな声で都々逸《どどいつ》かなんかやっておりましたが、小唄がはじまる、角力《すもう》甚句《じんく》がはじまる。 磯で名所は……と、いせいのいい「磯ぶし」になって、ひっくりかえるようなどんちゃんさわぎでございます。
「さあさあ、早く歩きなさい。おい、定吉、おまえってえやつは、なんてまぬけなんだい、せっかく苦労をしてごちそうをつめたというのに、その重箱をわすれてきちまって……いまさら照れくさくってとりにもいけないじゃあないか。こんなことなら、最初《はな》っから持っていかないほうがいいくらいのもんだ。わるいげたを履いていって、いいのとまちがえてくるように、あれだけいいつけてあるのに、あわてやがって、足駄《あしだ》と長ぐつと片っぽっつ履いてきやがって……なに? 『どっちも雨降りに履くもんです』……ばかっ、それにゃあちがいないけども、片っぽっつでどうするんだよ? 気がきかないったらありゃあしない……あれっ、どこのうちだか知らないけども、ご近所で、えらいさわぎをしてるうちがあるな。うん、酒を飲んでさわいでるんだ。主人の留守かなんかにみんなで羽を伸ばしてるんだな。あんな奉公人を持った主人てえものは、まことに気の毒なもんだ。そこへいくと、あたしんとこなんざあ、番頭さんがしっかりしてるから……おやっ、いま唄ってる声は番頭さんに似てるなあ……あははは、まさかうちの番頭さんにかぎって……世間には似た声がよくあるもんだ。いや、あたしのうちじゃあないさ。いや、決して……あれあれ、あたしのうちじゃあないか。なんだい、こりゃあ……えらいさわぎをして、ご近所の手前みっともない……どれどれ、この節穴《ふしあな》からのぞいてみよう……あっ、番頭がさきだちで踊ってやがる。どうもあきれたやつらだ」
「 磯で名所は大洗さまよ……おい、みんな、旦那がいないてえのはいいもんだなあ、こうやって毎日うまいものが食えるんなら、旦那には、生涯帰ってきてもらいたくないもんだ。なにしろけちの国からけちを広めにきたようなけちなんだからな。こないだも、お供をして歩いてたら、うすぎたねえげたが片っぽ落っこってた。『おい、留吉、げたが落っこってるからひろいなさい』『だって、旦那、片っぽう……』『片っぽうでもいいから、早くひろいな。だれかにひろわれちまうから……』って……だれがそんなものをひろうもんか。しょうがねえからひろって持ってきて、店へ帰ってから、『旦那、このげたは、なんになさいます?』『なんになさいますって、すこしはあたまをつかいなさい。鼻緒とって手ごろに割ったら、いいたきつけになるじゃあないか』『じゃあ、鼻緒はすてましてもよろしゅうございますか?』『なにをもったいない!! あたしの羽織のひもにするんだ』だって……どうもあきれかえってはなしになりゃあしねえ。あのしみったれの旦那の留守中に、これだけうまいものをならべて、この入費を、帳面のほうでどがちゃがにするなんざあ、じつにどうも番頭さんのはたらきはたいしたもんだ。正一位番頭大明神!!」
「えっ、なんだい? あれだけのごちそうがどがちゃがかい? なんてまあずうずうしいやつらだ。どうするかみていろ」
「えっ? なに? 旦那が帰ってきたらどうするって? なあに、帰ってなんぞくるもんか。おかみさんの実家《さと》へ泊まって、一食でも二食でもありつこうってえひとだよ。帰ってなんぞくるもんかい。しかしねえ、この鯛《たい》の塩焼きなんぞみせてやりたいなあ、あの旦那ときたら、塩焼きといったら、いわしよりほかに知らないんだからあきれちまう。あのくらいいわしの好きなひともないねえ。だから、この鯛の塩焼きなんぞみせてごらん。『ああ、これがうわさに聞いてた鯛の塩焼きか』と気がついて、ねだんをかんがえたとたんに、旦那は卒倒して人事不省《じんじふせい》におちいっちまう。そのまんま寝床へはこんで、万事を夢にしちまって、帳面のほうをどがちゃが、どがちゃが……」
「あれっ、またどがちゃが、どがちゃがだってやがる。あのくらいどがちゃがの好きなやつはないなあ……おいっ、あけとくれ」
「へえ、どなたでございます? 本日は、もう店をしめましたので、お買いものは明朝《みようちよう》にねがいます」
「なにが明朝にねがいますだ!! 早くここをあけろ!! おいっ、あけろ!!」
「いやにいばってやがるな。なにが、おい、あけろだい……あれっ、どっかで聞いたような声だが……うわっ、旦那だ。番頭さん、番頭さん!!」
「なんだ? また料理でもきたのかい?」
「なにをのんきなことをいってるんですよ。旦那ですよ。旦那のお帰りですよ。これじゃあ約束がちがう……」
「なにをぐずぐずしてるんだ。早くあけろ!! おいっ、番頭!!」
「へえへえ、ただいまあけます。ちょっとお待ちください。さあさあ、みんなね、こまかいものはふところへいれちまうんだ。徳利なんかたもとへいれておしまい……おいおい、金どん、なにをあわててるんだ。そんな大きな酢のものの皿がふところへはいるもんか。いいから、その上へ坐っておしまい」
「坐るんですか? この上へ……うわあ、つめたい!! ふんどしに酢がみんなしみこんじまった。あとでこれをしぼって、また酢のものをこしらえますか?」
「ばかなことをいってる場合じゃないよ。いいかい、あけるよ……へい、旦那さま、お帰りなさいまし」
「へえ、お帰り」
「ええ、お帰りなさい」
「ええ、お帰り」
「ああ、ただいま帰りましたよ。定吉、しっかりと表をしめろ。物騒だから……番頭さん、ただいま帰りました。おまえさん、たいそう結構なことをしてくれたねえ。あたしゃあねえ、こんな結構なことをしてくれとたのんだおぼえはありませんよ」
「へえ、それがそのう……であるから……これがこういうようなことでございまして……」
「なにいってるんだ。わけのわからないいいわけはおやめなさい。はなしは、あしたつけましょう。なんだい、おまえさんがさきだちで、そんなまっ赤な顔をして、こんなときに、ご近所に火事でもあったらどうするつもりなんだ? ほんとうにあきれかえってものもいえやあしない。あのね、ことわっておくが、これだけの入費は、みんなおまえさんがたの給金から差しひくからね。そうなりゃあ、生涯はたらいても一文も手にわたらないひとがでてくるかも知れないから……決して帳面をどがちゃがになんぞさせるもんか……あっ、これだ。鯛の塩焼きてえのは……さっき、かみさんの実家でみといたから、目をまわさずにすんだんだが、なるほど、こりゃあ、はじめてみたら目をまわしますよ。じょうだんじゃあない。どうもあきれかえったやつらだ」
といっておりますと、表の戸をドンドンたたく音がして、
「ええ、こんばんは、こんばんは」
「はいはい、どなたでございますか? お買いものなら明朝にねがいます」
「ええ、焼けてまいりました。焼けてまいりました」
「えっ、焼けてきた? だからいわないこっちゃあない。わるいときに焼けてきたもんだ……ええ、わざわざお知らせいただきまして、どうもご親切にありがとうございます。どこから焼けてまいりました?」
「はい、横丁の豆腐屋から焼けてまいりました」
「なんだって? 横丁の豆腐屋から? いま通ったとき、そんなようすはみえなかったんだけど、これだから油断はできないよ。よっぽど焼けてきましたか?」
「二、三丁焼けてきました」
「二、三丁? こりゃあ火足《ひあし》が早いや……で、あとはどんなようすでしょう?」
「ええ、あとからどんどん焼けてきます」
「そりゃあたいへんだ。ただいまあけます。ちょっとお待ちください」
焼けてきたと聞いて、旦那もすっかりあわてております。表の戸をガラガラッとあけたとたんに、でんがくの味噌の匂《にお》いが、鼻へぷーんとはいりましたから、びっくりして、
「あっ、いけない。味噌蔵へ火がはいった」
田能久《たのきゆう》
そのむかしは、お百姓にもずいぶん器用なかたがございまして、村芝居というものがいくらもございました。とりわけて、四国の阿波《あわ》へまいりますと、ずいぶん芸のさかんなところで、阿波人形芝居、阿波浄瑠璃、阿波おどりと、さまざまございまして、村芝居もたいそうさかんだったそうでございます。
阿波の国徳島の在|田能村《たのむら》というところがございます。ここに久兵衛さんというお百姓がおりましたが、まことに芝居がじょうずでございます。近村でお祭りやなにかございますと、たのまれて芝居を演《や》りにでかけます。そのうちに、だんだんと芝居好きな連中があつまってまいりまして、ついには田能久一座というのができました。
だんだんこの評判が高くなりますと、伊予《いよ》の宇和島というところからたのみにまいりました。
はなしがまとまり、宇和島へ乗りこんで、いざふたをあけてみますと、たいそうな評判でございます。田能久一座はおもしろい。役者がそろっているし、とりわけ田能久がうまいといって、連日の大入りでございます。すると、ちょうど五日目に、国もとから手紙がまいりましたので、ひらいてみますと、おっかさんが大病で、この手紙が着きしだい帰るようにとの文面でございます。もとよりこの久兵衛さんは、たいへんに親孝行なひとでございますから、もうなにも手につきません。そこで、あとのことは一座の者にたのむと、自分が日ごろ大事にしておりますかつらを四つ五つふろしきにつつんで、これをしょって宇和島を出発いたしましたが、その途中に、法華津《ほけつ》峠に鳥坂《とさか》峠というのがございます。いましも久兵衛さんが法華津峠を越え、鳥坂峠にかかろうといたしますと、秋のことで、いままで雲ひとつなかった空が、急に暗くなってまいりまして、ぽつりぽつり雨がふってまいりました。そこへ山から木こりがおりてまいりまして、
「もし、旅のおかた、おまえさん、この峠を越すかね?」
「はい、いそぎますから、夜になりますが、越すつもりでございます」
「そりゃあよしたらよかんべえ。この峠を無事に夜越しした者はねえだよ。なんでもわるいものがでるというこんだ。よさっせえ」
「ご親切にありがとうございます」
といいましたが、久兵衛さんにしてみれば、すこしも早くおっかさんに逢って安心させようとおもいまして、とめられたのも聞かずに峠へのぼってまいりました。ちょうど頂上にきましたときには、雨はますますはげしく降ってまいりました。まっ暗ではあるし、道はすべるし、うかつに歩こうものなら谷底へころげおちるかも知れませんから、どうしようかと思案に暮れておりました。すると、左のほうに黒く、家らしいものがみえますので、近づいてみますと、これは、昼間、木こりたちが仕事にきて、弁当をつかったり、やすんだりする小屋でございますから、しばらく雨やみをしようと、これへはいりこみました。なにしろからだが濡れておりますし、寒さがはげしいものですから、そのへんにある木の葉や枯れ枝などをあつめて火をつけて、濡れたものをかわかし、持っていたにぎりめしを食べて、雨がすこしでも小やみになったらでかけようと、ようすをうかがっておりますうちに、お腹がいっぱいになって、からだもあったかになってまいりましたから、なんともいえない眠む気をもよおしました。かたわらをみますと、さいわいむしろがありますから、それを敷いて横になりますと、昼のつかれがでて、ぐっすりと寝こんでしまいました。それからどのくらい寝たかわかりませんが、さーっと吹いてくる山風が身にしみて、
「おお寒い……ああ、寒いはずだ。火がすっかり消えて……あれっ、変なにおいがするぞ。なんだか生《なま》ぐさいにおいだ。青くさいような、おかしなにおいだが……なんだろう?」
と、ひょいと枕《まくら》もとをみますと、白髪で、白いひげをはやした、年のころ七十ばかりの老人が、白い着物を着て、杖をついて立っております。
「おやおや、なんだろう? 変なじじいが立ってるな。ははあ、この小屋の持ち主だな。おれがここでだまって寝てるもんだから、それで怒ってるんだろう。うん、それにちがいない。すごい目つきをしてやがる……こりゃあ弱ったな。こんなときは寝たふりをしてるのがいい……ぐう、ぐう、ぐう……」
と、目をあいて、ようすをうかがいながらいびきをかいております。
「おいおい、旅人《たびびと》、目をあいたまんまいびきをかいてるやつがあるか。おいっ、こらっ」
「へえへえ、どうかごかんべんをねがいます。あなたさまのお小屋とは存じませんで、無断《むだん》でやすませていただきまして……なにしろひどい雨でございますので、このなかへはいりまして、雨やみをさせていただいておりましたようなしだいで……どうもあいすみませんでございます」
「いや、べつにおれの小屋じゃあねえから、そんなことはどうでもいいんだ。おめえ、このふもとで、山へのぼるのをとめられやしなかったか? この峠を夜越しをするのはよせとかなんとか……」
「へえ、よくあなたはご存じでございますな」
「やっぱりそうか。どうも、このごろは、人間がじゃましていけねえ。しかし、まあ、よくきてくれたな。おらあ、味《あじ》をわすれかけていたところだ」
「え? なんの味でございます?」
「うふふふ、人間の味よ。おれのほうで礼をいうよ。よくきたなあ」
「なんのことでございます? いったいあなたは、どなたでいらっしゃいますんで?」
「おれか。なにもそんなにおそれることはねえ。おれは、この山に古く住んでいるうわばみだ」
「えっ、うわばみ?! ……うわさまでいらっしゃいますか?」
「なんだ、うわさまとは? ……おめえが、ふもとでとめられたのをふりきってのぼってきたというのも寿命の尽きるところだ。さあさあ、いさぎよくおれに呑《の》まれちまいな。さあ、観念しておれの口へとびこめ!!」
「じょうだんいっちゃあいけません。すぐにとびこめったって、風呂やなんかとちがいますから、そう気やすくぴょこぴょことびこめるもんですか……どうぞお助けを……」
「やいやい、おめえも男じゃねえか。ぐずぐずいわずに覚悟しろ」
「まま、待っておくんなさい。わたくしは呑まれてもいたしかたございませんが、たったひとりの母親が病気で寝ておりますから、その母親を見送るまで、どうかお助けをねがいます」
「ばかにするな。ようよう人間にありついたというのに、逃がしてたまるものか。あれっ、泣いてやがるな。男のくせにめそめそするなよ。なんてまあ意気地のねえやつだ。おめえは、どこのなに者なんだ?」
「わたくしは……あ、あ、阿波の国の、と、と、と、徳島の在で……」
「しっかりいえ」
「た、た、た、た、田能久と申します」
「なんだ、たぬきだと? ふーん、阿波の徳島といやあ、たぬきの本場だというな。うん、そうか。たぬきかい。どうもそういやあ、さっきからおかしいとおもったよ。目をあいて、いびきをかいてやがったが、なるほど、あれがたぬき寝いりなんだな。おれも人間だとおもったから、やれうれしやとおもって、いそいで呑もうとしたんだが、そうではなくてたぬきとはなあ……たぬきを呑んじゃあ仲間の者に外聞がわるいや。呑むものがなくなって、けだものを呑んだと笑われらあ。それにしても、おめえ、ほんとうにたぬきか?」
「へえ、たぬきでございます。たぬきでございますとも……どうか命ばかりはお助けをねがいます」
「ああ、わかったよ。呑んでくれったって、たぬきなんざあ、おれのほうでごめんをこうむらあ。ああ、それにしても、せっかくのたのしみが無《む》になってしまった。そうだ。たのしみのなくなった埋《う》めあわせに、おめえひとつ化けてみせろ。きつねは七化け、たぬきは八化けとかいって、おめえ、たいそう化けるのがうめえそうじゃあねえか。おい、化けろ、化けろ」
と、いわれて、久兵衛さん、こまったことになったとおもいましたが、ふと気がつきましたのは、しょってまいりましたかつらで、なかから女のかつらをとりだしまして、ひょいとかぶって、うわばみの前へ顔をだしました。
「なるほどうめえもんだ。女に化けたな。こりゃあふしぎだ。もうひとつなにか化けてみろ」
「よろしゅうございます」
と、坊主のかつらをかぶって、ひょいと顔をだしました。
「うん、こりゃあおもしれえや。よくまあそううまく化けるな。うん、うめえもんだ」
「じゃあ、もうひとつ化けますから……」
こんどは、石川五右衛門みたいな百日かつらをかぶって、大きな口をあいて、
「かあっ!!」
と見得《みえ》を切りましたから、
「おいおい、気味のわりいもんに化けるなよ……もういい。もういい。もとのすがたになれ」
「へえ」
と、かつらをとって、ふろしきにつつみまして、
「いかがでございます?」
「いや、じつにおそれいった。おめえがこんなにうまく化けるとは知らなかった。そこへいくと、おれなんざあ、めんぼくねえはなしだが、このとしよりすがたに化けるのが精いっぱいなんだ。以前は、このすがたでふもとへおりていってもだれも気がつかねえから、ちょいちょい人間を呑んだが、このごろじゃあ、このすがたもすっかりおぼえられちまったもんだから、すぐに鉄砲をむけられたりなんかしてしょうがねえ……おめえは、ちょっとの間になんにでも化けるが、ひとつその化けかたを教えてくれ。どうだ。二、三日おれの穴に逗留《とうりゆう》していかねえか?」
「いえ、もう……その……おふくろが病気でございますんで……」
「そうだったな。親だぬきが塩梅《あんべえ》がわりいなんてことをいってたっけ……それじゃあ、帰って、病気がなおったら、たずねてきてくんな」
「へえ、きっとおたずねいたします」
「うん、おれの穴はな、ここから半丁ばかりいったところに大きな杉の木が二本ならんでいるが、そのすぐそばだ。きっときてくれよ。ついちゃあなあ、仲よくつきあうにゃあ、たがいにうちあけばなしをしようじゃあねえか。どんなやつでも、ひとつはおそろしいものがあるというが、おめえなんぞはなにがおそろしい?」
「へえ、まあ、なんと申しましても、おそろしいのは、金《かね》ではないかと存じますが……」
「かね? ……寺でつく鐘か?」
「いいえ、人間がつかう金でございます」
「へーえ、そりゃあまたどういうわけで?」
「なにしろ金が仇《かたき》の世のなかなんてえことを申しますが、金のためには、命をとったり、また、とられたりすることが、いくらあるかわかりません。まあ、あのくらいこわいものはあるまいとおもいます」
「そんなもんかなあ……しかし、おれなんざあ、そんなものはすこしもこわかあねえ」
「あなたは、なにが一番こわいのでございますか?」
「おれはな、たばこのやにが一番こわいな」
「へーえ、たばこのやにがですか? どうしてこわいので?」
「あいつがからだにつくと、肉から骨までしみこんで、ついには死んでしまうからな。それから、つぎは柿渋《かきしぶ》だ。あいつがからだにつくと、からだの自由がきかなくなっちまっていけねえんだ。まあ、世のなかで、おれのおそろしいというのは、このふたっつだけだな」
「へーえ、そんなもんでござんすかねえ」
「いいか、こうやっておたげえにうちあけた以上は、けっして人間にこんなことをいっちゃあならねえぞ」
「へえ、けっしてしゃべりはいたしません」
「もしもおめえがしゃべったりしたら、おめえのところへ踏みこんで、すぐに仕返《しけえ》しをするから、そうおもえよ」
「へえ、けっして他言はいたしませんよ」
「あーあ、おめえとこうしてしゃべっていると、なにか他人のような気がしねえ。まあ、これからも親戚づきあいをしようじゃねえか」
「ありがとう存じます」
「それじゃあなあ、おふくろがなおり次第《しでえ》に、おれんとこへたずねてこいよ」
「へえ、かならずまいります」
といいますと、老人のすがたはかき消すごとくみえなくなりました。
ほっと一息ついた久兵衛さんは、やれうれしやとおもって、一目散《いちもくさん》に駈《か》けだしました。そのうちに雨もやみ、東も白んでまいりましたので、道もわかるようになりましたから、ただ夢中で峠を駈けおりてまいりました。
ふもとのほうへくると、すっかり夜もあけて、木こりたちが山へ仕事にいこうというのに逢いました。
「もしもし、旅のお人、どうなすった?」
「へえ」
「どうしなすった? まあ、まっ青な顔をして……なにか峠の上にいたかね?」
「はい……わたくしは、すこしいそぎの旅でございますので、きのう鳥坂峠の手前で、人がとめましたのをふりきってあがってまいりますと、頂上で雨があまりひどく降ってまいりましたから、雨やみをしようとおもい、小屋でたき火をして、とろとろとしましたところへ、うわばみがでてまいりまして、あやうく呑まれるところでございました」
「へーえ、うわばみがでたかね」
「はい、鳥坂峠に古くから住んでいるそうで、としよりのすがたに化けておりました」
「はあ、そりゃああぶなかったなあ」
「『なにものだ?』と申しますから、『わたくしは、阿波の徳島在の田能久でございます』と申しましたところが、うわばみが、たぬきと聞きまちがいまして、『人間なら呑んでしまうのだが、たぬきだから呑まない。そのかわりに化けてみせろ』と申しますので、おはずかしゅうございますが、わたくしは芝居が道楽で、ちょうどかつらを持ちあわせておりましたから、それでさっそく化けてみせましたので、うたがいが晴れて、ようよう下ってまいりましたのでございます」
「そりゃあしあわせだ。おまえさんが田能久さんか。そうか。たいそうな評判だよ。それに親孝行だというから、それで、神さまが、お助けくだすったのだ」
「どうもおそれいります。それで、うわばみの申しますには、『おまえのこわいものはなんだ?』と聞きますから、わたしが、『金です』といいましたところ、うわばみの一番こわいものは、たばこのやにに柿渋だそうでございますよ。柿渋がからだにかかると、からだの自由がきかなくなるそうで……また、やには、骨まで染《し》みて、しまいには死んでしまうと申しました」
と、久兵衛さんが、ゆうべのことをのこらずはなしてしまい、それからいそいで田能村へ帰ってまいりました。
こちらは木こり連中、
「どうだ、聞いたか。この山にうわばみがいるというじゃあねえか。そんなものがいては、おれたちもおちおち仕事はできねえし、旅人もどんなにこまるか知んねえから、みんなで退治しようじゃあねえか」
「よかんべえ」
と、これから村の若い者がみんなあつまってまいりまして、たばこのやにと柿渋を、それぞれ樽につめて、これを四、五人でかついで、あとのものは、おのおの鋤《すき》や鍬《くわ》や天びん棒なんというものを持って、わーわーといいながら鳥坂峠をのぼってまいりました。
うわばみは、なにがはじまったかとおもいまして、穴から首をだしたところを村の連中がみつけまして、
「そらっ、あすこにうわばみがいた。柿渋をかけろ。やにをぶっかけろ!!」
と、やにと柿渋をかけましたから、さあおどろいたのはうわばみで、
「あっ、あっ、わあー……こりゃおどろいた……まあまあ、よりによって、おれの一番苦手なものをぶっかけやがって……だれがこんなことをしゃべったんだろう? ……あっ、そうだ。たぬきだ。あのおしゃべりだぬきめ!! さあ、こうしちゃあいられねえ。なんとかして逃げなくっちゃあ」
うわばみのやつ、まごまごしていれば命がありませんから、法をつかって雨風を一時に起こして脱走いたしました。
こちらは、久兵衛さん、家へ帰ってまいりますと、おっかさんの病気もそれほどたいしたことではなくて、ただせがれのことを案じてわずらったのでございますから、久兵衛さんの顔をみますと、すっかり安心しまして、
「久兵衛や、おまえが家にいないと、なんとなく心ぼそくていけないから、どうか旅になんぞいかないでおくれ」
「はい、わたしがわるうございました。これからは、おっかさんのおそばにおりますから……」
と、親孝行な人ですから、おっかさんと女房と他人をまじえず、一ぱい飲んで寝床へはいりますと、真夜なかごろに、表の戸を割れんばかりにたたくものがあります。
「あけろ!! おい、あけろ!!」
「だれだろう、いま時分くるのは?」
「おい!! あけないと、ぶちこわすぞ!!」
「はいはい、どなたでございます?」
「なんでもいいから、早くあけろ!!」
「おい、おまえ、表のようすがおかしいから、おっかさんをつれて裏から逃げてくれ」
と、母親のことを女房にまかせまして、がたがたふるえながら、久兵衛さんが戸をすーっとあけてみますと、鳥坂峠で出会った白衣の老人が、血だらけのすがたで、うらめしそうに立っております。
「こ、こ、これは、よくおいでなさいました」
「やい、たぬき、よくおいでなさったわけじゃあねえぞ。このおしゃべり野郎め!! おれのきれえなものを、ふもとの村のやつらにしゃべったな」
「いいえ、そんなことはございません」
「きさまがしゃべらねえで、だれがおれのこわいものを知ってるんだ? よくもしゃべったな。どうするかみろ!!」
「どうかごかんべんをねがいます」
「いいや、かんべんならねえ。おれのこわいものをしゃべった仕返しに、きさまにもこわいものをやるからそうおもえ!!」
と、うわばみは、かかえていた大きな箱をどーんと土間へたたきこんで、いずこともなくすがたを消しました。久兵衛さんは、こわいものをやるといわれたので、なんだろうと、ふるえながら箱のふたをあけてみると、なかは小判の山、勘定してみると、ちょうど一万両はいっておりました。
あくび指南《しなん》
これで、お稽古《けいこ》ごともずいぶんございます。
上品なところで、茶の湯、生け花なんてものがございます。
音曲となりますと、義太夫《ぎだゆう》、長唄、常磐津《ときわず》、清元、新内、あるいは、哥沢《うたざわ》、小唄なんていろいろございます。
ところで、江戸時代には、ずいぶん変ったお稽古所があったそうで……喧嘩《けんか》指南所なんてのがございました。
「あれっ、おかしな看板がでてやがるな。『喧嘩指南所』だってやがる。うん、おもしれえ。ひとつ喧嘩の稽古をしよう……やいっ、喧嘩を教えるてえのはてめえか?」
「やいっ、このばか野郎! なんてえいいぐさだ? おめえは、喧嘩の稽古にきたんだろ? 教わりにきたんだろ?」
「そうよ」
「だから、てめえはばかだってんだ。そうじゃあねえか。おめえは弟子で、おれは師匠なんだぞ。その師匠にむかって、てめえってえやつがあるか!」
「なんだと? この野郎、大きくでやあがったな。おれは師匠で、てめえは弟子だと? なにいってやんでえ。笑わせるない。まだ弟子入りするともなんともいってやしねえや。してみりゃあ、師匠でも弟子でもねえじゃあねえか。こんちくしょうめ、大きなことをぬかしゃあがって……野郎、まごまごしやがると、はりたおすぞ!」
「あははは、はははは……」
「あれっ、この野郎、なに笑ってやがるんだ? まごまごしやがると、蹴たおすぞ!」
「おいおい、すこーし待ちな。いいから待ちなよ……おまえをしこんだら、ものになるだろう」
「なあ、おい、すまねえが、つきあってくんねえな」
「ああいいとも……つきあいなら、こちとら、じまんじゃあねえが、どんなむりをしてもいくよ。なんだ、そのつきあいてえのは?」
「なあに、稽古にいこうとおもってな」
「よしたほうがいいよ。おめえは、あんまりいい声じゃねえから……」
「唄のほうじゃあねえんだ」
「じゃあ三味線か?」
「そうじゃあねえんだよ。横丁にな、前に医者の住んでいた家が長くあいてたな?」
「うん」
「あすこの家が、こんどふさがったんだ。通ってみると、りっぱな看板だ。檜《ひのき》の節《ふし》なしでな、字のうまい、まずいは、こっちにはわからねえけれども、墨黒々《すみくろぐろ》と大きく『あくび指南』としてあるんだ」
「なんだい?」
「あくびを教えるというんだ。おもしれえじゃあねえか。世のなかがかわったね。そこへひとつ稽古にいこうとおもうんだがな」
「あきれけえったな、おめえは……稽古をするったって、よりによって、あくびの稽古なんて、まぬけすぎるじゃあねえか。あんなものは、稽古しなくってもできるよ。おれなんざあ、退屈で毎日やってらあ」
「そりゃあおたがいさまだ。あくびをしねえやつは、ひとりもねえさ。けれども、むこうで銭をとって教えるんだから、どっかあくびのやりかたがちがうんだとおもう。どうもきまりがわるくって、ひとりでいけねえんだ。いってくんねえな」
「ごめんこうむろう。ほかのものならともかく、つきあう気になれねえじゃねえか」
「ごめんこうむるなんて……おれだって、ずいぶんてめえにゃあつきあっていることがあるぜ。五、六年前によ、踊りを稽古してえというので、とめたけれども、つきあいだとおもうから、おめえといっしょに横丁の師匠のところへいった。また師匠も師匠だ。『熊さん、あんよをあげるんですよ』といったら、おめえもまたずうずうしいね。あげたのをみると、大きなあんよだ。まあ、普通|九文《ここのもん》ぐれえまではあんよの部へいれてもいいが、おめえのは、十三文|甲高《こうだか》、大きなやつをぬーっとあげたのをみて、おれは、ぞーっとしたね。そのとたんに、おめえ、尻《しり》もちをつきゃあがって、猫が逃げだす、近所のひとは、おどろいておもてへとびだす……」
「おいおい、そんなことをいってくれるな」
「いいたかあねえが、あんまりわからねえから……」
「つきあうよ。なにも古いことをひっぱりださなくってもいいだろう?」
「そんなら、いっしょにいっておくれよ」
「いくよ。いきゃあいいんじゃあねえか」
「そんな変な顔をしなくっても……」
「変な顔にもなんにも、この顔しきゃあねえんだ」
「さあ、ここの家だ」
「なるほど、看板に書いてあるな」
「ごめんくださいまし」
「どーれ……どなたじゃな? さあさあ、あいにくとりつぎの者もおらんのでな、どうぞこちらへ……」
「じつは、なんでございます。町内の若い者でございます。こちらさまで、あくびのお稽古をなさるということをうかがいましてな、ひとつお稽古をしていただきたいと、こうおもってまいりました」
「いや、これはよくおいでくだすった。そこではいけません。どうぞこちらへ……ああ、そちらのかた、あなたもどうぞ……」
「いいえ、わっちは、なんでございます。稽古はしねえほうなんで……わっちは、よんどころなく、つきあいできたというようなわけなんで……ここで待っておりますから、その野郎だけおねがい申します……早くやってきな。おらあ、待っているから……」
「これこれ、それでは、あちらのかたへ、お火鉢とおふとんをあげておくれ。いえ、お供《とも》さんではない。お連《つ》れさんだ。あちらでお待ちなさるというのだ……あなた、どうぞこちらへ……」
「どうもすみませんでございます」
「いやいや、よくおいでくだすった。ただお年若のお職人衆、唄、三味線のお稽古をなさろうというご年配、それをまげて、あくびのお稽古をなさろうという、そのお心持ち、じつに感服つかまつりましたな……まあ、お敷きあそばせ。さあ、粗茶でな」
「へえ、ありがとうございます。ごちそうさまになります。へーえ、こりゃあ結構な粗茶で……」
「いや、結構な粗茶はおそれいりましたな……ああ、これはなんでございます。愚妻でございまして、どうぞお見知りおかれて、ご別懇《べつこん》に……」
「ははあ、こちらの愚妻さんでいらっしゃいますか。はじめてお目にかかります。へーえ、あなたが愚妻さんで……そいつあ気がつかなかったな。愚妻さんということを存じませんものですから……」
「いや、おもしろいおかただな……はあ、これは月謝で……それは、どうもありがたくちょうだいをいたしておきます……つきましては、あくびは、どういうところが、お好みでいらっしゃる?」
「どういうところにも、こういうところにも、まるで見当がつかないのですがなあ。あすこに待ってる野郎のいうには、『あくびなんてえものは、稽古をするもんじゃあねえ。退屈のときに、いくらでもでるから、そんなものを稽古をするな』と、こう申しますから、それから、わっちは、『ともあれ、先生のほうでは、いくらでも銭をとって教えるんだから、ずうずうしいけれども、どっかにあくびのやりかたがちがうんじゃあねえか』と、いってやったんで……」
「あはははは、ごもっともで……おっしゃる通り、退屈の折りには、あくびなどというものは、だれでもなさる。けれども、あなたがたがなさるあくびは、われわれのほうでいうと、これを駄《だ》あくびと申します」
「はあ、駄あくびといいますか」
「さよう。これは、一文の値打ちもないあくびでな。もともと、あくびというものは失礼なもので、ひとさまの前で、大きな口をあいてすべきものではない。失礼なもの、無礼のものを、まげて芸事にしようというところに、なにぶんの趣味がありますので……」
「はあ、むずかしいものでございますな」
「お稽古はじめには、四季のあくびと申しまして、春、夏、秋、冬とございます」
「へーえ」
「そのなかで、ひとつ夏のあくびをご指南いたしましょうかな。これが、いちばんお楽《らく》じゃから……」
「へえ、なるほど……」
「まあ、夏は、日も長く、退屈もするからというので、まず船中のあくびですかな」
「へーえ、おもしろそうでございますな」
「では、ご指南をする。まず心持ちはというと、八つさがり(午後二時すぎ)、大川の首尾《しゆび》の松(浅草御蔵の川端の松)あたりに船をもやって(つなぎとめて)、胴の間(船の中央の客席)に客ひとり、艫《とも》(船の後部)のほうに船頭がひとりぼんやりたばこを吸っているところからお教え申そうかな。からだをこうゆすってな。これは、船にゆられている。船に乗っているという気分でな」
「ああ、なるほど」
「むだなことをいってはいけません。よろしいか? はじめますよ。ええ、右の手にこうきせるを持って、で、左の手は、この膝の上へ、こうおきます。からだは、あまり大きくうごかさないように……くどいようだが、これは、もやった船ですからなあ、そのおつもりでやらないといけません。よくごらんなさいましよ……『おい、船頭さん、船を上手のほうへやってくんな。水神《すいじん》(向島の浮島社、近くに料亭「植半」あり)へでもいって、ひとっ風呂とびこんで、日が暮れたら、堀(山谷堀)からあがって、吉原《なか》へでもいって、いきなあそびのひとつもしてこよう。船もいいが、一日乗っていると、退屈で……退屈で……あーあっ、ならねえ』と、なあ」
「あはははは、ありがてえね、こりゃあ。へーえ、たいしたもんですな。そこで、あーあっと、あくびになろうとはおもわなかった……ざまあみやがれ、あの野郎、駄あくび野郎め。ぼんやり待っていやあがる。だから、わっちはね。いわねえことじゃあねえんだ。どっかあくびのやりかたがちがやあしねえかって……ありがてえね。やってみとうございますね」
「ああ、おやりになれるなら、やってごらんなさい」
「へえ、すいませんが、たばこを、あいにくわすれてきたんですが……」
「ああ、どうぞめしあがって……」
「ありがとうございます。さっそく一服いただきます。へっへへへへ、だから、わっちはね、いわねえことじゃあねえんだ。なにか、あくびのやりかたがちがうんじゃあねえかって……なんでもぶつかってみなくっちゃあわからねえもんですね」
「そうたばこばかり何服もめしあがっているだけではいけない。たばこは、一服にかぎるので……」
「ああ、そうか」
「はじめる前に、こうからだをゆすぶってな……やってごらん……いやいや、それではゆすぶりすぎる」
「浪のきたところで……」
「よけいなことをいってはいけません」
「ああ、いい心持ちだ……ええ、はじめは、なんというんでしたっけね?」
「わすれてしまってはいけませんな。船頭を呼ぶので……」
「ああそうか……やいやい、船頭!」
「なんだい? それじゃあまるで喧嘩だ。もっとやんわり、退屈そうに……『おい、船頭さん』とな」
「ああ、そうか……おい、おーい、船頭さんか……」
「そんなところへ節《ふし》をつけてはいけません。もっとやんわりと……『おい、船頭さん』とな」
「へえ、おい、船頭さん、船を上手のほうへやってくんなと……それからなんだ……水神からとびこんで……」
「水神からとびこむのではない。水神へいって、料理屋で風呂へはいろうという心持ちで、水神へいって、ひとっ風呂とびこんで……とな」
「ああ、そうか……水神へいって、ひとっ風呂とびこんで、日が暮れればもうこっちのものだ。日が暮れたら、堀からとびこんで……」
「よくとびこみなさるな。堀からあがるので……」
「ああ、こんどは、あがるのか……堀からあがって、吉原《なか》へひとつくりこんで……」
「くりこむんではない。吉原へでもいって……」
「ああ、なるほど……」
「『吉原へでもいって、いきなあそびのひとつもしてこようかの、おい、船頭さん』、とな」
「ところが、なかなかそうはいかねえんで……このあいだ、いったところが、一貫二百勘定がたりなくって……」
「なんだい、そんなことは、どうでもいい。あくびのほうで……」
「ああ、そうか」
「わすれてしまってはいけません。やってごらんなさい」
「日が暮れたら、堀からあがって、吉原へでもいって……」
「そうそう」
「いきなあそびのひとつもしてこようかのってんですかい? 先生……」
「先生だけはよけいだ。それから、すぐにあくびになるので……いきなあそびのひとつもしてこよう。船もいいが、一日乗っていると、退屈で……退屈で、あーあっ、ならねえ、とな」
「あははは、おもしれえな。その顔ののびたところなんざあ……」
「そんなことをいうものではない。さあ、やってごらんなさい」
「日が暮れたらば、堀からあがって、吉原へでもいって、いきなあそびのひとつもしてこようと……へへへへ、船もいいが、退屈で……退屈で……そりゃあ、まったく一日乗っていれば、どうかんがえたって退屈にちげえねえ」
「りくつをいってはいけません。それからすぐにあくびです」
「船もいいが、一日乗っていると、退屈で……退屈で……ハークショーッ」
「くしゃみをしてはいけませんよ」
稽古が、あまりうまくいかないので、こっちで待っていた友だちは、だんだんいらいらしてまいりまして……
「どうもあきれけえったもんだ。教わるやつも教わるやつだが、教えるほうもべらぼうじゃあねえか。いい年をしゃあがって、なにをいっていやあがるんだ。吉原へいって、いきなあそびだっていやあがる。なまいきなことをいうな。ごろ寝ばかりしていやあがるくせに……なんだと? 船もいいが、一日乗っていると……船に一日乗ったことがあるか? 笑わしゃあがる。なにが退屈だ。ひとをいつまでも待たせておきゃあがって、てえげえにしろい。なにいってやんでえ。稽古をしているてめえはいいだろうが、そいつをばかなつらあしてここで待ってるおれの身になってみろ。退屈で……退屈で……あーあっ、ならねえ」
「ああ、あのかたはご器用《きよう》でいらっしゃる。みていておぼえた」
巌流島《がんりゆうじま》
「さあ事《こと》だ馬の小便渡し船」という川柳がございますが、むかしは、せまい渡し船のなかでまちがいがありますと、どうすることもできません。
厩橋《うまやばし》という橋がなかった時代には、厩橋の渡しという渡し場があったそうでございますが、そのころのおはなしで……
いま、厩橋の渡し船がでまして、船頭の竿《さお》が艪《ろ》に変ったとたん、乗りあわせたなかのお武家が、ほろ酔いきげんで、たばこいれをだしまして、ぱくり、ぱくりとやりながら、あちらこちらとながめておりました。
たばこをおあがりになるおかたは、船ばたでお吸いになっていますとき、火玉をたたくのは、船中でたたいてもよさそうなものでございますが、人情で、小縁《こべり》でひとつポンとおやりになります。すると、火玉が水中へおちて、ジューッと音がして消えます。それが心持ちがいいとみえまして、これは、どなたでもおやりになります。
いま申しあげましたお武家も、小縁でひとつポンとたたきますと、どうしたことか、煙管《きせる》の雁首《がんくび》が水中へぽとりとおちてしまいました。
「しまった。これ船頭、身共《みども》の煙管の雁首がこれへおちた。船をとめてくれ。水中へはいってさがさなければならぬ。船をとめろ、とめろ」
「へえ、どうも旦那さま、たいへんなご災難でございますな。しかし、おさがしになるのはおやめなさいまし。あすこは泥深うございますからな。足でもぐもぐやっておりますうちには、泥深く沈《しず》んでしまいます。からだをぬらすだけのものでございますから、まずおあきらめがお得《とく》でございますよ」
「さようかな。うーん、あれ、あすこのところじゃがのう……」
よほど惜《お》しかったものとみえまして、水面をにらんで、ふとい息をついております。すると、乗りあわせておりましたなかに、洗いざらしたはんてんを着まして、千草《ちぐさ》の股ひきに草履《ぞうり》ばき、うすよごれた手ぬぐいを吉原かぶりにして、たずさえている鉄砲ざるのなかに、はかりがはいっていようという、申しあげますまでもございません、くず屋さんがおりまして、
「ええ、もし旦那さま、とんだご災難でございましたな。へえ、こちらで拝見しておりましたが、まことにお気の毒で……失礼ではございますが、旦那がお持ちになっていらっしゃるのは銀のようでございますな。へえ、ところで、お手もとにお吸い口をお持ちになって、雁首だけつくりにやりますと、なかなかお安くはまいりませんで、これは、かえって新しくおあつらえになるほうが格安《かくやす》につきまして便利でございます。てまえは、ごらんの通りのくず屋|渡世《とせい》、かたわらお客さまのご不用のお金物《かなもの》などをちょうだいいたしますのが商売《なりわい》でございますが、いかがでございましょう、そのお手もとにのこりましたお吸い口を、てまえにお売りはらいになれないものでございましょうか? せいぜいおねだんをよくちょうだいをいたしますが……」
「だまれっ、なんだ、手もとにのこったこの吸い口を売りはらえと? 無礼なことを申すな。拙者が、いつ、きさまにこの吸い口を売りはらうと申した?」
「いえ、なに、おことばはございませんが、ただうかがいましただけで……へえ、お売りわたしにならなければ、まあ、それでようございますが、そうご立腹ではおそれいります」
「いかにも立腹だ。身共をなんと心得ておる? 四民《しみん》の上に立つ武士じゃ。きさまはなんだ、素《す》町人、しかも、くず買いの分際《ぶんざい》で、武士に対して吸い口を売りはらえとは無礼なやつだ。武士を嘲弄《ちようろう》いたすにっくきやつ、かんべんならぬ。以後のみせしめだ。雁首のかわりに、そちの素《そ》っ首を打ちおとしてくれる。手討ちにいたす。それへ直《なお》れ……ええ、遠慮いたすな」
これは、だれだって遠慮いたします。遠慮をしなければ首がなくなってしまうのでございますから、くず屋は、ぶるぶるふるえております。
乗りあわせました人々も、相手がおさむらいだけに、なまじなことをいって、まきぞえを食っちゃあたいへんだと、だれも口をだしません。すると、艫《とも》(船の後部)のほうに乗っておりましたおとしよりのおさむらいが、みるにみかねましたものか、つかつかつかとそれへでてまいりまして、
「あいや、それなる御仁《ごじん》、最前より、てまえこれにおって逐一《ちくいち》(すべて)承知いたすが、うけたまわれば、これなるくず買いが無礼を申したとやらで、いたくご立腹でござるな。いや、ご立腹の段は、まことにごもっともでござる。しかし、うけたまわるに、これなるくず買いを手討ちになさるとの御意《ぎよい》でござるが、かような者を斬ってすてましたところで、お刀の汚《けが》れにこそなればとて、ご名誉にもなりますまい。てまえ、同船いたしたよしみに、これなるくず買いになりかわっておわびを申しあげるによって、お手討ちの儀は、なにとぞごかんべんねがいたい……これ、くず買い、よくわびをいたせ。そちがよろしくない。過言《かごん》であったぞ……かようにくず買いもおわびを申しあげておれば、なにとぞお手討ちだけはごかんべんにあずかりとうござる。ご不承《ふしよう》じゃろうが、くず買いになりかわって、てまえ、おわび申しあげる」
「いや、おひかえください。あまりと申せば無礼至極《ぶれいしごく》のやつ、われわれ武士に対して、吸い口を売りはらえなどと申し、武士を嘲弄いたしておる。素町人の分際で、まことににっくきやつでござる。ご仲裁《ちゆうさい》はありがたいが、おことわり申す。てまえ、これなるくず屋の素っ首をおとさんければ、かんべんまかりならぬ」
「いや、さようでもござろうが、くず買いを手討ちになさると、船中の者一同が、かかりあいやなにやかやで、まことにめいわくいたす。てまえ、くず買いになりかわっておわびを申しあげる。なにとぞごかんべんにあずかりとうござる」
「まあ、おひかえください。あまりと申せばにっくきやつでござるから、手討ちにいたす……これ、くず買い、首をのばせ」
「いや、なにとぞそのお手討ちだけはごかんべん……」
「ご貴殿は、だまっていてくだされい。これなるくず買いは、てまえに無礼をいたした者だによって、そこで手討ちにいたす。そこへお身《み》がでしゃばって、いやにくず買いの肩を持たっしゃるのは、まさかにこれなるくず買いの親類縁者でもござるまいに……また、ご貴殿は、くず屋になりかわる、なりかわるといわっしゃるが、なるほど、貴殿のいわっしゃる通り、かようなくず買いを斬ったところで、いわば、犬猫を斬るのも同然でござる。貴殿もくず買いになりかわるといわっしゃるからには、くず買いの首にかわって貴公の白髪首《しらがくび》を申しうけるといったところで、貴公も二本ざしだ。おめおめと首をわたす気づかいもござるまい。身共と真剣勝負の立ちあいをさっしゃい」
「いや、さようなことではござらぬ。ひとつ船に乗りあわせた縁でもござれば、くず買いになりかわっておわびいたすのでござる」
「いや、そのわびはなり申さん。身どもと真剣勝負の立ちあいをさっしゃい」
「ははあ、いかにしても立ちあいをおのぞみでござるか?」
「もとよりだ」
「しからば、お相手いたそう……しかし、ここではなり申さぬ。船中でござるによって、一同の者がめいわくいたすゆえ、船がむこう岸へ着きましたら、ゆるりとお立ちあいいたそう」
「これはおもしろい。よくも申された。船頭いそげっ」
「吉つぁん」
「ええ?」
「おもしろくなってきたな」
「おどろいたな。おらあ、最初はどうなることかとおもってたぜ。くず屋がつまらねえことをいいだしゃあがって、首《かさのだい》がとんじまう、かわいそうなもんだとおもってたが、すてる神あればひろう神ありで、あのおさむれえがでてきたんで、くず屋はたすかったが、そのかわり、あのとしよりのおさむれえがやられちまうんだ。ええ、これから船がむこう河岸へ着いてごらん。おさむれえ同士で、ちゃんちゃんばらばらがはじまるんだぜ。じいさんのさむれえは槍を持っているし、若ざむれえは刀だ。芝居でみたっておもしれえ立ちまわりじゃねえか。これで木戸銭がでねえんだから、なお安いやな。だが、新さん、おめえ、この勝負は、どちらが勝つとおもう?」
「どっちが勝つも負けるもありゃあしねえや。きまってらあな」
「どうきまっている、きまっているとは?」
「どうきまってるったって、知れたことよ」
「どう知れてるよ?」
「どう知れてるったって、わかってらあ」
「どうわかってる?」
「どうわかってるったって、きまってるよ」
「なんだかわけがわからねえじゃねえか。どっちだい?」
「へん、どっちもこっちもあるもんか」
「ええ?」
「かんげえてごらんよ。片っぽうは若い人だよ。片っぽうはじいさんだぜ。ちゃんちゃんばらばらやってるうちに、としよりのなさけないことには息がつづかねえや。からだにつかれがでてくるだろう? そこへあの若ざむれえがとびこんでいって、『えいっ』というと、じいさんの白髪首が前へおちるんだ。かわいそうなのは、あのじいさんのさむれえだね。せがれもありゃあ、孫もあるだろう。それが、きょうが命日になるんだ。気の毒なもんさねえ」
「ちえっ、だから、おめえはしろうとだってんだよ」
「なにが?」
「なにがったって、かんげえてごらんよ。あの若ざむれえは、すこし酒に酔ってる。猪武者というのはあのことだよ。それにくらべて、じいさんのさむれえのおちつきかたはどうだい? じわじわと下手《したて》に組んでいって、いざとなると強いんだ。えらいな、なんたって、あの槍を突いて、『いかにしても立ちあいをおのぞみでござるか?』といったときには、じいさんのまなじりがきりきりとあがったぜ。仲間《ちゆうげん》に持たしてある槍をとって、『さあこい』と突っ立つと、いままでえびのようにまがっていた腰が、急にまっすぐになったときには、えれえとおもったね」
「ばかっ、腰のまがった人が、槍をとんと突いて、うーんとそりかえりゃあ、だれだってまっすぐにならあな。てめえは、いやにじいさんの肩を持つじゃねえか。どういうわけだい?」
「おめえだってそうだ。じいさんをけなして、若ざむれえの肩ばかり持つじゃねえか。気にいらねえよ」
「おれもおもしろくねえや」
「そんなら、おめえとおれと、むこう河岸へ着いたら真剣勝負をしよう」
とうとう、喧嘩《けんか》が二派《は》にわかれました。
若ざむらいは、袴《はかま》の股立ちを高くとりあげまして、下緒《さげお》をとってたすきにいたし、刀の鯉口《こいぐち》をぷっつりと切らぬばかりにして待っております。老人のお武家は、せかずさわがず、槍をしっかり突いて待っております。いますこしで船が桟橋《さんばし》へ着こうというときになると、若ざむらいは、からだの軽いところをみせようという気か、船から桟橋へひらりととびあがりましたが、おのれの足で船を蹴かえしましたから、一尺ばかり船がずーっとひらくとたんに、老人のお武家、持っておりました槍の石突きをかえして、桟橋をぐいと突きましたから、またもや船は、六、七尺ギイーッとひらきました。
「船頭、ばか者にかまわず船をかえせば、無事におさまるぞ。船をかえせ」
「なるほど、こりゃあ、お武家さま、うめえことをおかんがえなすった。船をかえしましょう」
「さすがはおとしよりだけあってえれえもんだ……おいおい、どうだい、だから、おれがいわねえことじゃあねえよ。若ざむれえのちくしょうめ、あすこまでいって、あわててとびあがりゃあがったんで、自分で船をひらいちまやあがった。うめえなあ、じいさんのさむれえが、どうだい、槍をとって、ぐいと突いておいて、『船頭、ばか者にかまわず船をあとへかえせば無事におさまる』といったんだが、なるほど、こりゃあ無事だね。あんなばか者は、ほうっておくのがいいだろう……なんだと、船をかえせだと? ……なにいってやんでえ。このばかざむれえめ、だれが船なんぞかえすべらぼうがいるもんか。真剣勝負がしたけりゃあ、てめえひとりでやれ。それそれ、そこに柳の木があらあ。その柳の木を相手にしてやってみろい。きっとてめえが勝つにきまってらあ。それとも強《た》って相手がほしけりゃあ、おれが相手になってやらあ。てめえが両国橋をまわってくるうちにゃあ、こっちは家へ帰って昼寝をしてらあ。ざまあみやがれ、ばか野郎め……なにをこわいつらあしやがるんだ。そんなににらめると、てめえ、ひらめになっちまうぞ、このさんぴんめ、ざまあみやがれ、いのこりざむれえめ、やいやい、みんなはやしてやれ」
船中の一同がわーっとはやしたてました。
若ざむらいは、こっちをにらんでおりましたが、やがて思案がついたものとみえまして、すっぱだかになって、小刀《しようとう》を口にくわえると、ざぶーんととびこみましたっきり浮きあがりません。
「吉つぁん、とうとう若ざむれえのやつ、とびこんじまったぜ」
「うーん」
「ありゃあなんだろうね、みんなにわいわいはやしたてられたんで、きまりがわるいから、身を投げて死んじまうというつもりなんだろうな?」
「そうじゃああるめえよ。ええ、かんげえてもごらん。一合とっても武士は武士だ。町人|風情《ふぜい》にからかわれて、遺恨骨髄《いこんこつずい》に徹し、恨《うら》み心頭《しんとう》に燃えおこるというところから、船中の者をみな殺しにしようというんで、それでとびこんだんだよ。それにちげえねえや。なぜって、ちいせえのを一本、口にくわえたのはなんのためだい? あのさむれえは泳ぎの名人でね、この水をくぐってきて、船の底へ穴をあけて、この船を沈めちまおうというんだ」
「おいおい、じょうだんじゃあねえぜ。こいつあおどろいた。だれがまた、そんな若ざむれえにからかったんだい?」
「おめえがからかったんじゃあねえか。だから、水のなかで、おめえが、まっさきにぶすりと刺されるんだ。おもいきりよくやってもらえ」
「おもいきりよくったって、人のことだとおもって気やすくいうない……ああ、なさけねえことになっちまったな。このあいだ、易者《えきしや》にみてもらったら、『おまえさんは、水難と剣難の相があるから気をつけなさい』なんていってたが、なるほどこのことだったんだな。きょうにかぎって水天宮さまのおまもりをはなしちまったし、泳ぎは知らねえし、心ぼそいことになっちまったな……ええ、気のせいか知らねえが、船の底でガリガリ音がするぜ」
「おどかしちゃあいけねえよ」
船中では、わいわいさわいでおります。
老人のさむらいは、
「さわぐな、さわぐな」
と、槍を小脇《こわき》にかいこんで水面をにらんでおりますと、若ざむらいが、一間ばかり前にぶくぶくと浮きあがりましたから、槍をとりなおして、
「これっ、そのほう、われにたばかられた(計略でだました)を残念におもい、船の底へ穴でもあけにまいったか?」
「なあに、さっきの雁首をさがしにきた」
うどんや
商売となりますと、これがひとつやさしいということはございませんが、なんの稼業《かぎよう》にも、その道によって賢《かしこ》しとかいいまして、秘事《ひじ》というものがございます。くず屋が、「くずーい」といって、そこをあるいておりまして、大きな声で、「くず屋さん」と呼ばれるのには、あまり掘りだしものがないと申します。これは小声にかぎるそうで……となり近所に気がねをして、ちいさな声で、「くず屋さん」と呼びますのを、こっちが馴《な》れておりますと、大きな声で返事をいたしません。そっとなかへはいりまして、「お払《はら》いものは?」という。ここが商売の秘事だそうで……これを馴れないで、「くず屋をお呼びになったのは、こちらでございますか?」と、大きな声をだしたのでは、せっかく小声で呼んだのがなんにもなりません。
もっとも、小声で呼ばれたから、かならずいいもうけがあるかといえば、そうとばかりはきまっておりません。
裏長屋を、くず屋さんが、「くずーい、くずーい」と呼んでまいりますと、総後架《そうごうか》(共同便所)がありまして、その隅でちいさな声で、
「くず屋さん、くず屋さん」
といいますから、しめた、掘りだしものだとおもって、こちらもちいさな声で、
「へい、お払いものは?」
「紙があったら一枚くんな」
小声もあんまりあてにはなりません。
むかしは、夜鷹そばといって、風鈴《ふうりん》が、屋台の屋根裏にさがっておりまして、腰のひねりぐあいで、風鈴がチンリン、チンリンと鳴ったんだそうで……これもまた、小声で呼ばれないと、たいしたもうけはなかったと申します。なぜ小声で呼ばれると、もうかったかといいますと、ばくち場などへ大勢あつまっております。そば屋が、今夜はひまだとおもってあるいてまいりますと、ちいさな声で、
「おい、そば屋さん、いくつぐらいのこってる?」
「へえ、まだ四、五十ございます」
「総じまいをしてやるから、しずかにそこでこしらえてくれ。おれが露地をはこびこむから……」
と、のこらず売れてしまったなんてえことがよくあったんだそうで……つまり、むこうもわるいことをしているから小声で呼んだわけでございます。
また、大店《おおだな》などで、主人の寝たのをさいわいに、ないしょで、そばの一ぱいも食べてあったまって寝ようなんてんで、表をそっとあけまして、主人に聞こえないように、かわるがわるひとりずつでて食べる。奉公人が大勢おりますと、ふたつずつ食べても総じまいになってしまいます。
この夜鷹そばののちの時代になりますと、夜台をかついで、鍋焼《なべや》きうどんを売りにまいりました。
これは、寒い時分には、まことによろしかったもので……
「なーベやーきうどん!!」
「うーい、ああいい心持ちだ……おい、うどんや」
「へえ、前へつかまっては、お汁《つゆ》がこぼれますから、どうか旦那はなしてください。いま、荷をおろしますから……」
「なに、荷をおろす? ……うん、おろしてくれ」
「へえ、おろしました……どうもお寒うございます」
「寒いなあ……やかんがかかってるが、こりゃあなんだ?」
「へえ、おつゆでございます」
「おお、おつゆかい。ちょっとおろしてみてくれ」
「へえ、おろしました。どうぞおあたんなすって……だいぶごきげんですな」
「ごきげんというわけでもねえが、きょうはめでてえ日だ。ああ、どうもいい心持ちだ」
「へえ」
「きょうは、天気はよし、寒さは寒し、売れるだろうな?」
「へえ、どうも不景気でこまります」
「なに? 人間なみのことをいうな。不景気なんてえことは、てめえたちがいう文句じゃあねえや。景気がよくって、だれがうどんなんぞ食うやつがあるもんか。不景気だから、しかたがなくって食うんじゃあねえか。人間なみのことをいうない」
「どうもおそれいりました」
「なにもわびるこたあねえ…… 牡丹《ぼたん》は持たねど越後の獅子は……」
「もしもし、そこへつかまってゆすぶっちゃあいけません」
「いいじゃあねえか。おれは、どうも、この越後獅子というのは、長唄のなかで……まことにいいもんだな」
「さようでございます」
「だんだん文句を畳《たた》んでいって、こん小松《こまつ》のこかげで、松の葉のようにこんこまやかに……と、こういきてえ」
「へえ」
「こんこまやかに、こん小松……というなあ、どんなものだ? こんこまやかにというのは、どういうわけだ?」
「どうも、わたしには、どういうわけだかよくわかりませんが……」
「よくわからねえったって、てめえも、ことばのようすじゃあ江戸っ子だろう?」
「さようでございます」
「どういうわけで、こん小松のこかげで、松の葉のようにこんこまやかにというんだ?」
「どうもよくわかりません」
「わからねえったって、気にいらねえじゃあねえか。こん小松のこかげで、松の葉のようにこんこまやかにと、ひとつやってくれ」
「そんなことはいえません」
「いえねえことがあるもんか」
「どうもおそれいります」
「あやまるか? あやまられてみりゃあしかたがねえ。てめえのあやまるものを、それを、おれが腹を立つということはねえ……うん、そうだ。おめえ、仕立屋《したてや》の太兵衛さんというのを知ってるかい?」
「存じません」
「知らねえことはなかろう。つきあいのいい人だぜ。あの人は、職人に似合わず字《て》をよく書いて、人と応対がりっぱにできて、おかみさんが愛嬌者で、お世辞がよくって、娘がひとりいる。ことし十九だ。みい坊つって、いい女だぜ」
「へえ、さようでございますか」
「今夜、養子がきたんだ。同業からきたんだが、おやじより仕事がうまくって、男っぷりもよし、似合いの夫婦だ。めでてえじゃあねえか」
「へえ、どうもおめでとう存じます」
「おれはな、若《わけ》え時分から太兵衛とは仲よしで、むこうでいうにゃあ、『親類はすくなし、兄弟《きようでえ》同様にしている間柄《あいだがら》だから、どうかきてくれ』というから、おらあ、いったんだ」
「さようでございますか」
「『どうぞこちらへ』というから、いってみると、娘がでてきて、おれを上座《かみざ》に坐らせて、おれのことを『おじさん、おじさん』といやあがるんだ。どうだ、うれしいじゃあねえか」
「さようでございますか。どうも結構でございます」
「結構? ……もっとほんとうに結構らしくいいねえ。口さきだけで結構でございますなんて、ばかにしゃあがる」
「どうもおそれいりました。まことにおめでとうございます」
「ああ、ありがとうよ……それでよ、みい坊のやつがな、おれの前へ両手をついてさ、なあ、おれの顔をじっとみてやがるのよ。でね、いやにあらたまった調子で、『おじさん、さて、このたびは……』って切りだしゃあがったんだ。おどろいたねえ、だってそうじゃあねえか。『さて、このたびは……』なんてえことは、よっぽど学問があるか、軽業《かるわざ》の口上《こうじよう》でもなきゃあ、なかなかいうもんじゃあねえぞ……『おじさん、さて、このたびは、いろいろご心配をいただきまして、まことにありがとうございます』なんてなあ……えっへっへ、おらあなあ、みい坊が、まだよちよちあるきのころから知ってるんだよ。よくおんぶしてやったもんだ。その時分にゃあ、小便もらしちゃあ、ぴいぴいぴいぴい泣いてばかりいやあがったんだが……なあ、それがなあ、りっぱな花嫁衣裳を着ちゃってよ、おれの前へぴたっと両手をついて、『おじさん、さて、このたびは、いろいろご心配をいただきまして、まことにありがとうございます』なんてよ、おらあ、もううれしくて、うれしくて……泣けてきちゃってよ……涙でみい坊のすがたがみえなくなっちまって……ああいうのがうれしなきってえんだぜ。なあ、そうだろう? ……はっはっは……ああ、めでてえなあ、うどんや、なあ、めでてえじゃあねえか、おい!!」
「えへへへ、さようでございますな。へえ、たいへんにおめでとうございます」
「たいへんにおめでとうございます? ……もっとほんとうにめでたそうにいいねえ。口さきだけで、いやに大げさに、たいへんおめでとうございますなんて、ばかにしゃあがる」
「はっは、さいでござんすか。じゃあ、おめでとうございます」
「じゃあてえこたあねえだろ? じゃあなんて、いやいやいうなよ。そういう不実《ふじつ》なやつあきれえだよ。おうおう、なんでえ、いやに火がいきおいがねえな。もっと炭をついだらどうなんだ? あれっ、こまけえのばかりついでやがらあ。おう、しみったれたことをするない。もっと大きなところをどんどんいれてみてくれ……うん、そうだ、そうだ。こりゃあいせいがよくっていいや。だけど、なあ、おめえはいい商売だな。だってそうじゃあねえか。この寒いのにこうして火をかついであるいていられてよ。ほんとだぜ。往来の者がどのくらい助かるかわからねえや。まあ、おめえなんぞ、世間を広くあるいて、なかなかつきあいも多いだろうなあ……あっ、そうそう、つきあいが多いっていやあ、おめえ、仕立て屋の太兵衛を知ってるか?」
「へっへっへ」
「あれっ、へっへっへだってやがらあ。知ってんのかよ? ええ、おいっ……はっきりしろい。おらあな、ずーっと以前からつきあってんだ。つきあいのいい人だぜ。職人に似合わず、字《て》をよく書いて、ひとと応対がりっぱにできて……おかみさんが愛嬌者で、お世辞がよくって、娘がひとりいる。ことし十九だ。みい坊つって、いい女だぜ」
「今晩|婿《むこ》をとりました」
「あれっ、おめえ、それを知ってんのかい? うーん、それを知ってるとこをみると、おめえ、あの近所だな? いや、それにちげえねえ。いや、そうなってくると、はなしは早えや。はっはっは、で、むこうのいうにゃあ、『親類はすくなし、兄弟《きようでえ》同様にしている間柄《あいだがら》だから、どうかきてくれ』なんて……それから、おらあいったんだ。ああ、今晩だよ。そしたら、娘がでてきて、おれを上座《かみざ》に坐らせて、おれの前へ両手をついてさ」
「『さて、このたびは……』といいました」
「あれっ、聞いてやがったな、この野郎。あっはっはっはっ、ありがてえ、ありがてえ。おらあ、うれしかったなあ……おう、うどん屋、おめえ、なかなか苦労人だな。うん、おそれいった……おめえのかみさん、なんだな、仲人《なこうど》があっていっしょになったんじゃあねえだろ? くっつきあいだろ? え? どうだ、図星《ずぼし》か? はっはっはっ、だまって笑ってるところをみると、そうなんだよ、隅におけねえな、こんちくしょう。あっはっは」
「おからかいになっちゃあいけません」
「おい、照れるなよ……ところで、おめえ、仕立て屋の太兵衛を知ってるか?」
「へえ、今夜婚礼で……」
「知ってるな」
「娘さんが十九で、いい女《むすめ》でございます」
「こんちくしょう、よく知ってやがる……うーい、水を一ぱいくれ」
「たくさんめしあがれ」
「たくさんはめしあがらねえ……ああ、うめえなあ。酔いざめの水千両なんてえけどもなあ、うん、うめえ……ああ、いい心持ちだ。おい、この水、いくらだ?」
「水は、お代《だい》はいただきません」
「ただか? じゃあ、もう一ぱいくれ」
「どうぞたくさんめしあがれ」
「おい、さっきから、たくさんめしあがれっていってるが、おめえは、おれに水を飲まして、おれをわずらわせようってえのか?」
「いいえ、えへっへっへ、べつにそんなことはございません。おそれいります」
「いや、それにちげえねえ。おらあなあ、がきの時分に、隅田川へおっこってなあ、雨あがりで水かさが増してたもんだから、ずいぶん流されちまって、いやっていうほど水を飲んじまった。それから、おらあ、どっとわずらいついて寝ちゃったんだ……おめえ、おれに水を飲まして、またわずらわせようってのか?」
「いいえ、とんでもございません。どうぞごかんべんねがいます」
「あっはっはっは、なにもあやまるこたあねえや。ありがとう、ありがとう。とてもうめえ水だった。この茶わんはそっちへかえすよ。おう、うどん屋、おめえが火をおこしてくれたおかげで、すっかりあったかくなっちまったぜ。すまねえなあ。かみさんにはまだ会ったこたあねえけどもなあ、よろしくいっといてくんねえ。ありがとうよ……あばよ」
「あっ、もしもし、親方、ちょっとお待ちなすって……」
「なんだ?」
「ええ、いかがでございましょう? うどんをさしあげたいんですがねえ」
「え?」
「うどんをさしあげたいんですが……」
「おう、さしあげてくれ。おれんとこのむこうに酒屋があって、毎日、若え衆が酒樽をさしあげてるが……」
「いいえ、なにも持ちあげようというんじゃあありません。あのう、うどんをめしあがっていただきたいんで……」
「ああ、そうか。ただか?」
「いいえ、ただじゃあございませんが、食べておもらい申したいんで……」
「買ってくれというのか? じゃあ、うどんはきれえだ」
「おぞう煮がございますが……」
「なにいってやんでえ。酒飲みに餅をすすめたって、食う気づけえねえや。気のきかねえ野郎だ……けれどもなあ、手をあっためてもらって、まんざらなんにも食わねえじゃあすまねえな。じゃあ、ひとつあったかくしてくれ」
「へえ、この鍋で煮ますから、おあつくなります」
「そこを、どうか、なるたけひとつさましてくれ」
「へえ、どうもおそれいります」
「おそれいって、そうむやみにこしらえねえでくれ……おう、たいへんに火の粉がでるが、あぶねえじゃあねえか。ときどき小火《ぼや》があるのは、てめえの荷からでるんじゃあねえか?」
「ええ、大丈夫で、往来なかでございますから……」
「往来なかだって、そう安心はできねえ。どんなことがあるか知れねえぞ。てめえの荷は、どうもうすぎたねえから……」
「へえ、お待ちどうさま」
「だれも待ちどうしいといやあしねえや……うん、荷はうすぎたねえが、白いいいうどんだなあ」
「へえ、せいぜいいいのをつかっております」
「おう、その四角な箱にへえってるのはなんだ? 菜《な》か?」
「菜じゃあございません。お薬味《やくみ》で……」
「なんだ、その青いのは?」
「ねぎでございます」
「へーえ、ねぎの薬味は白いとおもったら、青いじゃあねえか」
「どうも白いところは、そうつかいきれません。どうせただでございますから……」
「よくただのものを持ってるな。その赤いのはなんだ?」
「とうがらしでございます」
「とうがらしは大好きだ。そりゃあいいや」
「よろしければ、まだこっちの壺《つぼ》にはいっております」
「うん、この壺か」
「あなた、そうふったってでやあしません。栓《せん》をとってふると、なかからでます」
「そうか。これをとって……」
「あっ、それをうっちゃっちまっちゃあいけません。またあとをふたをしておくんですから……」
「うっちゃったっていいじゃあねえか。またあとを紙かなんかおしこんでおけば、それでいいや……やあ、こりゃあよくでるなあ。どうも辛《かれ》えものときた日にゃあ、おらあ、むやみに好きなんだから……おめえ、仕立て屋の太兵衛を知っているか?」
「もう、よく存じております」
「じつにどうも、今夜ぐれえめでてえことはねえとおもってるんだ。ああ、いい心持ちだ。うちのかみさんもたいへんによろこんでいらあ。なにしろ、ちいせえときから、始終《しじゆう》おれんとこへ出入りしてたみい坊の嫁入りだもんなあ……おらあ、うれしいや。ちょっと、おめえも、おれんとこへあそびにきねえ」
「親方のお宅を知りません」
「知ってるだろう? なんでも知らねえふりをしてやがる。ちゃんと知ってるだろう?」
「存じませんでございます」
「やっ、こりゃあいけねえ。白いうどんだとおもったら、うどんが赤くなっちまった」
「いけませんね、あなた、はなしをしながら、穴からむやみにだして、とうがらしをみんなかけちまって……それじゃあ、とてもめしあがれませんよ。およしなさいまし」
「ばかなことをいえ。辛《かれ》えものときた日にゃあ大好《でえす》きだ」
「いくらお好きでも、そんなにかけちゃあお毒でございます」
「大丈夫だってことよ。ちょっと顔をだすと、目のところへひりりっとくるようでなくっちゃあうまくねえや」
「およしなさいよ。そんなおもいをして……」
「ばかをいえ。おらあ江戸っ子だ。目をねむって、ぐっとやりゃあいいんだ。それみろ、こうして食うんだ……あっ、目をねむったら、鼻のほうへきやあがった。鼻をねむるわけにゃあいかねえ。おめえ、ひとつ鼻をつまんでくれ」
「鼻をつまめったって、あなた……」
「いいってことよ。つまめったらつまめよ。さあ、いいか。一《ひ》の二《ふ》の三《み》い……うっ、そうひどくつまむない。あっ、てえへんだ。とうがらしが口じゅうへひろがっちまった。この野郎、ひでえものを売ってあるきゃあがる」
「売るんじゃあございません。あなたが好きでおあがんなすったんで……」
「ばかにするない、ふざけやがって……」
「どうかお代をいただきたいもんで……」
「どうもふてえ野郎があるもんだ。これで銭をとろうなんて、あきれけえってものもいえねえや」
「あきれるって、それが稼業《かぎよう》でございます。おまけにうどん一ぱいにとうがらしをこんなにかけられちゃあ商売になりません」
「ぐちをいうない。なんでえ、これしきのこと……あばよ」
「なんだい、あの酔っぱらいにふんづかまって、ひどい目にあっちまった。じょうだんじゃあねえや。かかあのいった通り、今夜はやすんじまやあよかった……なーベやーきうどん!!」
「うどんやさん」
「へえ、おかみさん、お呼びで?」
「あのね、子どもが寝たばかりだから、しずかにしてくださいよ」
「へい……なにいってやんでえ……まったくろくなこたあねえや。口あけに酔っぱらいにつかまって、やっとのがれたところで、ちいせえ声で呼ばれたから、やれしめたとおもやあ、子どもが寝たばかりだからしずかにしろっていやあがる。子どもが寝たか、起きたか、そんなことがわかるもんかい。しずかにしてたら、売れっこねえじゃあねえか。ほんとうにやすみゃあよかった。大通りへでよう。大通りのほうがいいや……なーベやーきうどん!!」
どなりながら表通りへでますと、ある大店《おおだな》の若い衆が、かぜをひいて、のどをいためて声がでませんので、あったかいものを食べて寝ようというので、
「おい、うどんやさん、うどんやさん」
「おや、あすこの大店《おおだな》で呼んでるぞ。ははあ、奥にないしょで、寒いからうどんの一ぱいも食べて寝ようってんだな。それで小声で呼んでるんだ。しめたぞ。たぶんこりゃあ総じまいにしてくれるだろう。わるいことばかりはねえや。ああ、ありがてえ」
こういうときには、こっちも気をきかして、荷を遠くへおいて、ないしょで商《あきな》いをしてやろうと、ずーっと手前に荷をおろして、ちいさな声で、
「へえ、うどんをあげますか?」
「熱《あつ》くしてください」
「かしこまりました。おいくつ?」
「ひとつ」
「えっ、ひとつ? そんなはずは……ははあ、この人がためしに食べようってんだな。もしもうまかったら、あとの連中も食べようってんだ。きっとそうだよ。こりゃあうまくこしらえなくっちゃあ……へえ、お待ちどうさま」
「早かったね、いただくよ……うん、なかなかうまい……うん……はい、ごちそうさま。ひとつでお気の毒だったね」
「どういたしまして……」
「おいくら? ああ、そう。ここへ置きますよ」
「ありがとうございます」
「うどんやさん」
「へえ」
「おまえさんもかぜをひいたのかい?」
≪上方篇≫
野崎まいり
毎年、大阪では、五月の一日《いちじつ》からむこう七日のあいだ、野崎の観音さまが、非常に銭もうけをいたします。
あら、また妙で、舟と岡とで喧嘩《けんか》をいたしまして、参詣人が喧嘩に勝ったら運が強い。運さだめの喧嘩やそうで……
ころがよろしい、五月の一日からむこう七日ちゅんでっさかいね、ええ、ご案内でやすな、馬場|斜交《はすか》いにこう抜けます。京橋をよいとわたりまして、むこう側へわたりますちゅうと、また、こらご案内の突貫堤《とつかんどて》、おもろい堤があったもんで……その下にきまするちゅうと、舟がならんでござります。
舟でいくひともございますし、足の達者なものは、岡をあるいてまいります。
隅の堂まで舟で安楽につれて行《い》てくれる。船頭は、お客さんを、やかましいひっぱりだこで……
「おーい、早《はよ》うこい、早うこい、おー、だしますぞ。客人さん、あぶないぞ、足に気をつけてくだんせな、あぶないでなあ」
「おいおい、おーい、さあ、舟に乗ろ、舟に乗ろ。え、舟に乗っていこ」
「はあ、舟に乗っていくのか?」
「そうじゃ、野崎さんまで安楽に舟でゆくのや。下駄投《ほ》りこんで、とび乗りせ、とび乗りを……」
「乗るぜ」
「乗れ乗れ、よしや」
「やっとしょと、こらこら、いかん、おーい、この舟おりよ、あぶない」
「なんでや?」
「なんでったかて、この舟うごく」
「うごくて、おまえ、浮いたるさかい、うごくのや」
「浮いてるのか。こら、えらい舟に乗った。おら、浮いてるのやったら、乗るのやなかったん」
「そら、なにをいうねん、どあほ! ほんまに、あほやな、おまえは……」
「そない、ぽんぽんいわいでもええがな……お、おい、えらいことしたわい、わすれもんした」
「どないしてん? ……ええ、まだ舟がでて間《ま》がないがな。あとへまわって、とってこいやい」
「いや、もうかまわん」
「かまわんて、なにわすれたんや?」
「小便するのんわすれた」
「あほか、こいつ、小便なら、川へさして、ジャジャと舟からしたらよいのや」
「あかんねん、水みるちゅうと、あこわちゅう病《やま》いわずらう」
「あこわてなんや?」
「ああ恐《こわ》あ、あこわ」
「そな、子どもみたいなこというねん、ほなら、なんで竹の筒持って乗らんのや?」
「この前、三十石(舟)に乗るとき、竹の筒持って乗ってえらいめに遇《お》うた」
「どないしたんや?」
「小便がな、みな、あともどりして、となりの人の弁当をぬらして、しかられたことがあるねん。竹の筒を持って乗るのはこりてるねん」
「おまえのこっちゃよって、さきへ穴をあけずやろ?」
「いや、焼け火ばしで、大きな穴をぬいておいたんや」
「それに、なんであともどりしたんや?」
「うん、まんなかの節《ふし》がぬいてなかったんや」
「あほやなあ……ほなら、そこにあるにぎりめしをつつんである、竹の皮で樋にしてしなはれ」
「さよか、かまへんか? ……するで……」
「早よせい、その舟のへりからしたらええねん」
「ああ、でるでる。ようでるわ」
「したか?」
「うん……竹の皮を投《ほ》かそか?」
「川で洗《あろ》うて、日なたへ干《ほ》しておき。またつかえるがな」
「かわいたら、また、にぎりめしをつつむか?」
「そんなきたないことができるかいな。あほなことばっかりいわんと、ちいとだまっていられんか?」
「そら、あかんわ。わい、しずかにしてたら、口に虫がわく性分《しようぶん》やねん」
「けったいな性分やなあ、おまえは……ほなら、ちょうどええわ。あの、堤《つつみ》をあるいてる人と、喧嘩をせえ」
「あ、きょうは、喧嘩したらよいのやな」
「喧嘩に勝ったら運が強い。運さだめの喧嘩や。負けんように、しっかりいけ」
「あ、やったろ」
「通ってるやつ、かたっぱしから喧嘩していけ」
「よっしゃ、やったるで……おーい、むこへいくやつー」
「どあほ! おまえは、ほんまにあほやで……むこへいくやつて、朝の早うから、こっちへ帰ってくるやつがあるかい……みんな、むこへいくやつばっかりやないかえ……だれならだれ、といわな、わかるかい」
「あ、さよか……だれならだれか……ふーん、そら気いつかなんだ……よし、やったろ……おーい、だれならだれえー」
「どあほ! そんなこというたら、余計《よけ》わからへんやないか……おい、むこ、みてみい、おなごに日傘《かさ》さしかけて、相合傘《あいあいがさ》でいくやつ、あるやろ? ああいうやつと喧嘩したらええがな」
「どないいうたら、ええねん?」
「なにもわからんがきやなあ……ほな、教えたるさかい、ぽーんというたれ、ええか? ……『こら、岡通る相合傘でいくがき、かかみたいな顔してあるいてけつかるけど、かかやあるまいがな、みれば、稽古《けいこ》屋のお師匠はん、隅の堂へつれていって、酒しおでいためて、あとの胴がらをぽんと蹴《け》たおそとおもうてけつかるが、おまえのつらでは、分不相応じゃ。祭りの太鼓で、ドヨドン、ドヨドンじゃ』ちゅうてやれ」
「それは、だれがいうねん?」
「おまえがいうのやないか」
「そらとてもあかんわ。おぼえんのん半年はかかるわ」
「あほやな、それくらいのことがいえんが……ほな、おれがそばでいうてやるさかいに、いうてみい」
「そんなら、いててや……こーら、岡通る相合傘でいくがき!」
「はあはあ、わしかな?」
「やあー、あんさんや」
「あんさんてなものいいすんねん。おのれじゃい、いわんかい」
「そ、そんなんいうたら、むこ、怒るがな」
「あほやなあ、怒るさかい、喧嘩になんのや……おのれじゃい、いわんかい」
「はっはっはは……わい、喧嘩すんのん、わすれてんねん。そやそや、おのれじゃい!」
「なんぞ用か?」
「いや……その……」
「おい、早う、あとをいわんかい」
「こら、かかみたいな顔してあるいてござるけれども……」
「そないていねいにいうことあらへんがな……『かかみたいな顔してあるいてけつかるけど、かかやあるまいがな、みれば、稽古屋のお師匠はん、隅の堂へつれていって、酒しおでいためて、あとの胴がらをぽんと蹴たおそとおもうてけつかるが、おまえのつらでは、分不相応じゃ。祭りの太鼓で、ドヨドン、ドヨドンじゃ』……しっかりいきや」
「こ、これからいいますねんや。こら、岡通る相合傘でいくがき、かかみたいな顔してあるいてけつかるけど、かかやあるまいがな、みれば稽古屋のお師匠はん……」
「しっかりいき、しっかりいき」
「これから、しっかりいきますねや。みれば、稽古屋のお師匠はん……す……す……すなあ……みれば、稽古屋のお師匠はん……酢《す》……酢味噌《すみそ》、酢味噌つけて食えるか?」
「そなもの食われへんがな」
「食われな、酒しおでいためてしまえや」
「なにいうてんのや。おい、しっかりいき」
「しっかりいうのや。なあ、ほいで、胴柄いためて、ほほほたほたらしやないがな」
「なにをいうとるねん。こらっ、舟なかのいざり、なにぬかしてけつかんねん、なんじゃ、人に教えてもろうて、はっきりものいえ。なにを? 稽古屋のお師匠はん? なにぬかすねん、あほが……相合傘で、こうやって、家内とふたりあるいているのじゃ。おれの家内じゃ」
「あ、嫁はんですか。まあ、仲のよいこと」
「そなこというたら負けるがな。あほやな、そなこといいなはんねん」
「さよか」
「あほか、おまはん、こんどいいなはれ。『かかなら、かかにしといてやら。好いて好きおうたどれあい夫婦《めおと》やあるまい』ちゅいいなはれ」
「あ、どないでもいえるものや。こら、かかなら、かかにしといたげましょうか」
「なにいうとるねん、あいつ……しといてもらわいでもかかやがな」
「まあ、そないいわんと、聞いてくだされや」
「たのまいでもよいがな。『好いて好きおうたどれあい夫婦《めおと》やあるまい』ちゅいますねん」
「それ、これからいいますねん……こら、好いて好きおうたどれなあ、好いて好きおうたどらやきどらやきやあるまいがな」
「どらやきみたいな焼けへんねんがな」
「そな、今川焼」
「そなものや焼けへん」
「厚焼《あつやき》」
「ちがうちがう」
「どて焼き」
「ちがうがな。あほやな、こいつはもう……しっかりいわな、負けるがな。もうなにいうてんねん。おまはん、こっちへで、おれいうたろ。こら、相合傘でいくやつ、うつむいてあるけ。こら、くそ踏んでるわ」
「どこに?」
「ざまみされ。こっちが勝ちやがなあ」
「くそ踏んで勝ちか?」
「くそ踏んで勝ちやあらへんけど、くそ踏んでへんのに踏んでるちゅうただけ、こっちが勝ちや。むこうがおかしいなりよって、どこにて、唄にまぎらしてさがしよった。あんで、こっちが勝ちや」
「あ、えらいおもろい。くそ踏んで勝ちやったら、おれも相手になったろ」
「そなことべつにいわんでも大事《だん》ない」
「もひとつうしろからいくやつ」
「おい、あいつ、えらいいきおいやな。おれが『くそ踏んでるぞ』というたら、『踏んだらどうした』ちゅいよったが」
「あほやな、おまえもいうたりんかいな。『なんのためにくそ踏んだんや?』てたずねんかいな」
「あ、それ、一ぺんたずねたろ、こら、くそ踏んだやつ、なんのためにくそ踏んだのじゃ?」
「なにを! なんのために踏んだ? こら、ようおぼえとけ。ほかのくそやったら踏まへんわ。馬のくそ踏んだんじゃ」
「はあはあ、馬のくそ踏んだら、どないなりますか?」
「だんだんと背が高《たこ》うなるんじゃ」
「ああ、こら、心得《こころえ》ごとじゃ。おい、馬のくそ踏んだら、背が高うなると、心得ごとやな」
「あほか、おまえ、そんなこと感心するない。こっちの負けになるがな。『背が高うなりたいか? 大男、総身《そうみ》に知恵がまわりかねて、大きいもんはあほじゃ。入り日の影法師、半鐘盗《はんしようぬす》っ人《と》、うどの大木《たいぼく》、のっぽー、あほめが、ばか野郎!』と、こうしっかりいかんか」
「あ、どないでもいえるのやな。いうたろ。こら、くそ踏んだやつ、ちょと待ってくれ」
「あ、また、でやがったな。なんじゃな? ちいさいのん……」
「なにぬかしてけつかるねん。こらこら、それよりか、大きなりたいか?」
「そうそう、しっかりいきなはれ」
「なあ、大男、大男……なあ、こら、大男総オートコソウダヨ……」
「そんな唄歌うているのやあれへんがな。大男、総身に知恵がまわりかねや」
「あ、大……大……大男、総身に知恵がまわりかねるのじゃ。ほんまに……入り日の影法師、半鐘盗っ人、うどの大木……」
「うまい、うまい、しっかりいきなはれ」
「ざまみされ。こら、あほじゃ」
「こらこら、舟のなかのちいさいのん、おのれがちいさいもんやさかい、大きいもんくさして(けなして)やがる。こら、舟なかのちんぺら、あんまり舟のきわ寄るな。ドブンと川へはまったら、雑魚《ざこ》がくわえていきよるぞ」
「あ、もし、えげつないこといいよるな。わて、ちいさいかて、雑魚にくわえられるか。わて、こんなこといわれると、もう、むかむかするねん」
「あんたもいいなはらんか。負けてんと……ええー、『ちいさい、ちいさいて、ほっといてくれ。大きもん役に立つか』……いいなはらんかいな……えー、わて、教えたげます。『大きいても、天王寺の仁王《におう》さん、どうじゃ? ああやって門番してなはる。門番して食えんさかい、わらじつくって売ってるのじゃ』と、あんた、負けん気でいいなはらんかいな」
「あ、どないでもいえるのやな。ひとついうたろ。こら、いま、ちいさいいうたやつ、ちょっと待て、こら! えーい、大きもん、ばかじゃ。なんでばかや、いうたろか。こら、その証拠《しようこ》に、大きいても、あの……天王寺の……仁王……天王寺の仁王、仁王……あの……天王寺の仁王、仁王……」
「おまはん、あんじょう(うまく)いいなはれ、そないせかんと……天王寺の仁王さんやがな」
「天王寺の仁王、仁王、仁王……わて、この舌が、こうもつれていえまへんねん」
「しっかりいいなはれ。ゆっくりいいなはれな」
「天王寺の仁王さんは……」
「うまい、うまい……」
「大きいても、も、も、門番してござるわ。門番してつまらんさかい、つまらんさかい、わらじつくって売ってはるわ。あら、気の毒な」
「あら、気の毒なて、なにが気の毒なや。そな、あほなこというたら負けるやないか」
「さよか」
「さよかやあらへん。しっかりいきなはれ。もう一ペん教えたるさかい、はげしいいきなはれや。『ええ、ちいさいかて、ほっといてくれ。大きいもんは、役に立つか?』よろしいかい? 『たんす、長持は、大きいても、まくらにならんねん』……よいか? わかりましたか? 『江戸の浅草の観音さん、お身《み》たけは、一寸八分でも、十八間四方のお堂の主《あるじ》にござる』……よいか? ……『たんす、長持は、まくらにならんねん、わからんのか? 牛や馬は、大きても、ねずみとらんねやぜ。ようおぼえとけ、まぬけが!』と、しっかりいうてやりなはれ」
「へえ……もし、喧嘩するのん、なかなかむずかしいもんやな」
「そら、むずかしいもんや。しっかりいきなはれ」
「いうたります。こら、いまいうたん、ちょっと、も一ぺんいわしてくれ」
「あ、また、でたな。これ、舟なかのん、あんまり乗りでなよ、これ、しゃない、なんじゃ? あんじょうしゃべってくれ。こっちゃ聞くのが肩こるわ」
「まあまあ、そうやろけど聞いてくれ。たのむわ」
「そないいうたら、喧嘩にならんがな。はげしいいきなはれ」
「大きいても役に立つか? なあ、大きいても、たんす、長持はまくらにならんねん……なあ……江戸の……江戸の……江戸の……どさくさの観音」
「ちがうちがう」
「あの……あの……江戸の……深草の観音……」
「ちがうたら……」
「江戸の……なんや?」
「浅草の観音さんや」
「そや、そや、あ、浅、浅、浅草や……なんじゃくさいとおもうた」
「そな、あほなこというてんと、しっかりいきなはれ」
「こら、江戸の浅草の観音はんは、お身たけは、十八間四方でも、一寸八分のお堂の主《あるじ》……」
「そら、あべこべやがな」
「そや、あべこべの主じゃ……なあ、こら、おい……牛は……牛は……牛は大きいても牛肉じゃ」
「そんなあほなこというてるのやあらへんがな。しっかりいきなはれ」
「へえ、これからいいますねん、牛は……牛は、大きいてもモー……馬はヒンヒン……ねずみはチューや」
「なにいうてるねん、鳴き声ならべてどないすんねん。そなこというてたら負けんならんがな。教えたようにいいなはれ」
「ええ、これからいきますねん……仁王さんは大きいても、門番してるわい」
「そうや、そうや」
「わらじつくって売っているが、わらじは食えんわい」
「あたりまえやがな」
「こら、山椒《さんしよう》はなあ、山椒は、ひりりとからいわい」
「こら、教えてもろうたら、教えてもろうた通りいえ。なんや? 山椒は、ひりりとからい? そら、山椒は小粒でもひりりとからいというのじゃ。おのれのいうたのは、小粒がおちてるわい」
「え? どこに?」
「なにしてるんじゃい?」
「うん、おちた小粒をさがしてんのや」
あわび貝
落語にでてまいります亭主は、いつもかかあの尻《しり》にしかれているくらいの男でないと、どうもおもしろいことはございません。
「おい、かかあ、いま、もどってきたぞ。腹がすいた。めし食おか」
「ようそんなことをいうてもどってきたなあ。朝からどこをうろついてたんや?」
「うん、朝、表《おもて》で空をながめてたんや。そこへ由《よし》さんがきやはって、『喜《き》いやん、なにしてるのや?』とたずねられたので、『空をながめてるのや』というたら、『そんな空をながめてたら、鳥に糞《ふん》をかけられるぜ。それより、お城の堀《ほり》へいといで、龍宮の乙姫《おとひめ》はんが首をだしはる』というさかいに、みにいったんや。けど、ちっともでてきやへん。そこで、通ってる人に聞いたら、その人が、おれの顔をみて、くつくつと笑《わろ》うて、『龍宮の乙姫はん、いつもでてはるのやけど、きょうはやすみや。また、あしたおいで』といわれたさかい、ぶらぶら帰ってくると、万さんに道で逢うたのや。『喜いやん、どこへいたのや?』と、たずねられたので、『堀へ乙姫はんみにいたのや』というたら、万さんが、『あほやなあ。堀へ乙姫はんがでるもんかい。それより天神橋へいてみい。いま、くじらが泳いでる』と、いうたよってに、また、天神橋へ走っていたら、くじらもなにも泳いでへん」
「あたりまえや。川にくじらがいるかいな」
「いんともいえんで、このあいだな、干物屋《かんぶつや》の表を通ったら、『かわくじらあり』と書いてあった」
「あれは、くじらの皮を売ってはるのやがな。あほやなあ、みんなになぶられて……」
「なんでもかまへん。早よめし食わして。腹がすいて、虫がきゅうきゅうというてるのや」
「鳩《はと》みたいに、餌《えさ》時分になるともどってくるのやな。食べるちゅうても、ごはんがあらへん」
「なかったら、炊《た》かんかいな」
「炊くお米が、あらへんがなあ」
「なかったら、米を買うといてんかいなあ」
「買うにも銭《ぜぜ》があらへんやないか。どないにするのや?」
「おほっ……腹はぺこぺこやわ、めしはない、米はないわとすると、どないになるのや?」
「あしたから精だしてはたらきなはれ。銭《ぜぜ》さえ持ってきやはったら、どんなものでも食べさしてあげる」
「あしたから、心をいれかえてはたらくよって、きょうのところは、かかあ、めしを食わして……」
「情けない人やなあ。それやったら、奥の田中はんとこへいて、三十銭借りといなはれ」
「あかん。ことわられるぜ。きのう三銭借りにいたら、貸せんといいおった」
「あんたがいうたら貸してくれんわ。あたしがいうてるというたら、貸してくれてや。そういうて、いっといなはれ」
「さよか……田中はん、こんにちは」
「おう、喜いやん、なんぞ用か?」
「へえ、うちのかかあがいうてるね。ちょっと三十銭貸しとくなはれんか?」
「おさきさんがか? 三十銭でええか? 五十銭持って帰るか?」
「こらっ!!」
「なんじゃ? 目をむいて……」
「わしが三銭貸せというたら、貸せんと、ぼろくそにいうておいて、かかあやったら、三十銭でええか、五十銭持って帰るかと? ……ははーん、おのれ、ちとあやしいぞ」
「あほなことをいうない。おまえに貸したら、持ってきたことがない。おさきさんやったら、きっちりと返済《かや》しなはる人やよって貸そというのじゃ。長屋は、みな、おたがいやがな。さあ、三十銭持っていき」
「へえ、おおきに……しかし、うちのかかあは、ええ顔やなあ。こんどから、借《か》るとき、かかがいうてるというて借ったろ……おーい、かかあ、借《か》ってきたぜ。米買《こ》うてこか?」
「いいえ、それでお米を買うのやないわ。横町《よこまち》のさかな屋へいて、なんぞおかしらのついたさかなを買うといなはれ」
「なにいうてんねん。三十銭がさかなを買うたかて、お腹がふくれますかい」
「うちで食べるのやないの。横町のお家主さんとこへ持っていくのやがな」
「おまえ、あほやなあ、ふたりがお腹すかして、家主さんとこへ持っていて、食べてもろて、こっちら、お腹が大《おお》けいならへん」
「あのな、お家主さんとこへ持っていくのは、こんど、お家主さんの若旦那が、嫁はんをもらやはったさかい、そのお祝いにおさかなを持っていくのや。すると、むこうさんは、張りこみ手(気前のいい人)やさかい、三十銭のものを持っていたら、まあ、五十銭の祝儀《おため》をつつんでくれるわ。そしたら、そのうち三十銭田中はんにかえして、二十銭で、お米とおかずを買うて食べますのや」
「えらい、えらい。なあるほど、おまえは、よっぽどえらいなあ。三十銭を五十銭に化けさすのやな」
「たぬきやがな」
「それほどの知恵がありながら、なんで勲章《くんしよう》がさがらんのやろ?」
「あほなことをいうていずと、早よいてきなはれなあ」
「よっしゃっ……ごめん、さかな屋の大将、なんぞあるか?」
「へえ、おいでやす。まけときます。なんぞ買うとくなはれ」
「ぎょうさん(たくさん)ならんだるなあ……あの、そこにある金魚の親方はなんぼや?」
「金魚の親方? ……あははは、鯛《たい》だすかいな?」
「それなんぼや?」
「これ、まけて、一円八十銭にしときますわ」
「おお高《たか》、三十銭にまからんか?」
「そんな無茶をいいなはんな。一円八十銭のものが三十銭にまかりますかいな」
「そんなら、むこうにあるうなぎの親方、あれなんぼや?」
「あんた、なんでも親方だすなあ。あら、はもだすがな。あら六十銭だす」
「あれ、三十銭にまからんか?」
「とてもまかりまへん」
「こっちにあるしらみの親方は?」
「しらみの親方? ……ああ、それはいかだす」
「これなんぼや?」
「二十五銭だす」
「おお高、三十銭にまかりまへんか?」
「ふふふふふふ……あんた、よっぽどかわってますなあ。二十五銭のものを三十銭に値切る人がおますかいな」
「笑いなあ。じつは、腹がすいて、ぽーっとしてるのや……あのな、はなしせなわからへんのや。というのが、腹がぺこぺこでうちへもどってきたら、めしはない、米はない、しかたがないよってに、奥の田中はんとこで、三十銭借りてきて、なんぞさかなを買うて、家主のうちへ持っていくのや。うん、家主の若旦那が嫁はんもろたさかい、その祝いに持っていくのや。むこうは派手なうちやで、祝儀《おため》に五十銭くれる。そこで、田中はんに三十銭かえして、あとの銭で、米とおかず買うてめしを食おうというのや。こら、うちのかかのかんがえだすのや。うちのかか、ずいぶんえらいやつだすやろ? まあ、人間ふたり助けるとおもうて、なんでも結構だすさかい、まけとくれやす」
「あんた、いよいよおもろいおひとだすなあ。よろしい。まけたげまひょう。ここに、あわびが二はいおます。これ、一ぱい二十銭に売ってましたけど、二はい三十銭にまけときます。これ、持って帰りなはれ」
「いや、おおきに……ほな、これもろうて帰りますわ……かか、買うてきたぜ」
「横町のさかな屋まで、なんぼかかってるのや。早よ帰りんかいな」
「そないにぽんぽんいうない。おかしらつきのさかなは、みな高いのや。しかたがないさかい、田中はんとこで三十銭借ったことから、家主へ持っていくこと、みないうて、生貝《なまがい》二はい、三十銭にまけてもろうてきたのや」
「あほやなあ、そんなこと、さかな屋でいうてくる人があるかいなあ……生貝を買うてきてやったんか。えらいものを買うてやったなあ。まあ、しかたがない。お家主さんとこへ持っていきなはれや……しかし、きょうは、だまっていくわけにはいかんのや。口上をいうていかんならんのや」
「口上やったら、この前、上町《うえまち》のおじさんとこへいていうた口上でいかんやろか?」
「どんな口上だしたいなあ。あたい、ころりとわすれてしもうたがな」
「おじさん、もっと早よきんならんのやけど、よう寝てたものやさかい、おそうなって……しかしなあ、もう大丈夫だす。自動車ポンプが五台もきてるさかい……」
「あほやな。嫁はんもらやはったとこへ、火事の口上いうていく人があるか。教《お》せたげるで、口上をおぼえていきなはれや。いったら、手をつかえて、『こんにちは、結構なお天気でござります。うけたまわりますれば、お宅の若旦那さまには、お嫁御《よめご》さまをおもらいあそばしたそうで、おめでとう存じます。これは、まことにおそまつでござりますが、長屋のつなぎ(いっしょにおくる品)のほかでござります』……これをようおぼえていきなはれや。長屋のつなぎのほかを……長屋からも祝いものがいくが、長屋のつなぎのほかをいわんと、祝儀《おため》をもらう都合《つごう》があるさかいな……『おそまつではござりますが、お目にかけます』と、早よいてきなはれ」
「それは、だれがいうのや?」
「あんたが、いうのやがな」
「そんなむずかしいことは、とてもいえんわ。なんなら紙に書いていなあ、それをむこうへつきだして、わし、おじぎしてるわ」
「まるで、おしの乞食やがな。それぐらいのことは、いえんことあらへん。はよいといなはれ」
「よしや。帰りに、米買うてくるさかい、釜の下炊いといてや」
「帰ってやったら、すぐにごはん食べられるようにしておくさかい、はよいといなはれ」
「ちゃんとしたくしといてや、たのむで……ありがたい。これ持っていたら、めしが食えるとおもうたら、ちょっと心強うなってきた……へえ、ごめんやす」
「おう、だれかとおもうたら、喜いさんか」
「へえ……こんにちは、結構なお天気でござります」
「はい、なんじゃ、きょうは、あらたまって……はい、結構なお天気で……」
「へえ……あの……あしたもよいお天気で……」
「はい、この調子なら、あすもお天気らしいなあ」
「へえ、その……あさっても結構なお天気で……」
「なにいうてんのや。喜いさん、あんた、お天気のことをいいにきなはったんか?」
「あまり、その、ごてごていわんようにしとくなはれ。きょうは、ちょっとむずかしい口上だすさかいに……ええ……うー……うー……うー……」
「なに、うなっとるんや?」
「いえ……うー、……うけ……うけたが、まが、まが、まが……たが、うけたが、まが……うけとりすれば……」
「なにいうてるのや? だれが、うけとりするのや?」
「へえ、ちょっと、いいにくいとこだすねん……うけたが、うけたが、うけたがまがり……おきよどん、お茶一ぱいおくれならはんか?」
「喜いさん、いいにくいことは、いわいでもええ。それも、うけたまわりますればじゃ」
「へえ……お宅の若旦那に、およごも、およごも……ちがう……おご……まあ、早いところが、あんたとこの、どむすこに、どかかあもらいさらした一件できたのだす。これは、おそまつなものだすが、長屋の……あはは、かかが、これをよくおぼえていきなはれ、祝儀《おため》をもらう都合があるさかいというてました。こら、長屋のひっぱりのほかだす」
「ひっぱり? ひっぱりということがあるものか。つなぎじゃろ」
「へい、つないだら、ひっぱります」
「縄でもつないだようにいうてはる」
「これをお目玉へぶらさげます」
「お目玉へぶらさげる? ……それも、お目にかけるじゃろ?」
「かけたら、ぶらさがります……どうぞ、祝儀《おため》をよろしゅうおねがいいたします」
「はははは、あいかわらずおもろい男やな。おまえさんのことや、気にはせん。なにをくださったか知らんが、ひどい気の毒じゃな。こんな心配をしてくれんでもええのや」
「へえ、べつに心配してくださらんつもりだしたが、うちに、米はない、銭はないで、めしも食えんので、しかたがないさかい、奥の田中はんとこで、三十銭借って、横町のさかな屋へいて、二はい四十銭の生貝を三十銭にまけてもろて、それをお宅へ持ってきたのだす。お宅は派手なおうちだすさかい、五十銭の祝儀《おため》をおくれなさるさかい、それもろたら、田中はんへ三十銭かえして、あとの銭で、米とおかず買うてめしを食いますのや。かかあ、うちで、もう釜の下炊いてますのや。どうぞ、祝儀《おため》をおたのみ申します」
「ははははは、おもろいなあ。うちのあらをみないうて、ほんまにかあいい男や……あっ、喜いさん、生貝、あわび貝じゃな」
「へえ、そうだす。二はい三十銭で……」
「だれも値を聞いてやせん。こら、喜いさん、おまえさん、さかな屋からずーと、持ってきなさったか? それとも、うちへいんで、おさきさんにみせやったのか?」
「へえ、そら、うちへいんで、おさきさんにみせたのでやす」
「さよか。ほなら、まあ、せっかくやが、これはもらうわけにはいかん。喜いさん、おまえが、途中ではかろうて持ってきたんやったらもろうておくがな……それというのは、おまえは、町内で評判のあほや」
「さようさよう、みな、そないにほめてくれはります」
「そんなことをじまんすな。おまえとこのおさきさん、女でこそあれ、ものごとに心得のある人じゃ。それに、この生貝はなんじゃ? 世間で、磯のあわびの片おもいというやないか。うちのむすこは、嫁をおもい、嫁はむすこをおもい、両おもいで、めでとうもろうた嫁じゃ。それにあわびの片おもいとは、縁起がわるいわい。持っていんでくれ」
「腹がぺこぺこで……」
「おまえの腹のぺこぺこを知ったことかい」
「祝儀《おため》を……」
「ものももらわんのに、祝儀《ため》いれるやつがあるかい。早う持っていになされ!!」
「そんな無茶したらどむならん。それみい、放《ほ》ったさかい、三ばいの生貝が四はいになったがな」
「ひとつは、猫の碗《わん》じゃ」
「腹がすいてるよってに、目もみえん」
「早う持っていにくされ!! ごてごていうたら、煮え湯あびせるぞ!!」
「ふわーい、いにます、いにます……ああこわ、人を油虫みたいにいやがるのや、煮え湯をあびせるなんて……腹がどかへりや、とほほほほ……」
「おい、喜い公、泣いてるな。どうした?」
「うん、万さんか、さっぱりわやや、めしが食えん」
「どこぞわるいのか?」
「いや、達者でめしが食えん」
「なんでや?」
「うちに米もないし、銭もないさかい、田中はんとこで銭借って、さかな屋で生貝買うて、家主へ持っていて、五十銭|祝儀《おため》もらうつもりやったら、家主の禿ちゃん、『うちのむすこは嫁をおもい、嫁はむすこをおもい、両おもいでもろうた嫁、それに、これは、なんじゃい、あわび貝やないか、世間でよういう、磯のあわびの片おもい、縁起《げん》がわるい、持って帰れ』と……あー、めしが食えん」
「かわいそうに、たいがいわかってる。おまえとこのおさきさんの知恵で、家主へ、むぎめしで鯉釣りにやったんやな」
「ちがう、生貝で五十銭釣りにやったんや」
「それをむぎめしで鯉というのや……よし、もう一ペん持っていけ」
「こんど持っていたら、煮え湯をあびせられるわ」
「かまへん、もう一ペん持っていき。こんど持っていたら、えらそうにぽんぽんというたれ。入り口でも足で蹴《け》りあけてやれ。『ごてごてなしにとっておけ』といえ。むこうは、品ものでもかえてきたのかしらんとおもうてあけてみよる。『これは、いまの生貝やないか、わしとこのうちになんぞうらみでもあって、こんなものを持ってきやったか?』と、いいよる。そこで、遠慮すな、『おのれとこのどむすこに、どかかあをもらいさらしたやろ』と……」
「ひどいこというねんな」
「すると、『はい、嫁をもらいました』『祝いをもらいさらすやろ』……先方は、交際が広いよってに、ぎょうさん祝いがくるにちがいない。『祝いをもろうたら、祝いについてくるのしをめくってかえすかい?』と、たずねてやれ。『のしをかえすあほがあるかい』と、ぬかしたら、『のしの根本《こんぽん》を知ってるかい?』と、いうたれ」
「のしのぽんぽん?」
「根本」
「ぽんぽん」
「難儀やな、根本」
「ぽんぽんか?」
「こまるな。『のしのもとを知ってるか?』と、いうねん。知らんというたら、尻をくるくるとまくって、座敷へとびあがったれ。そこで、『のしの根本は、志州鳥羽浦、志摩浦の海女《あま》や。海女というたら、絵に書いたあるようにきれいなものやとおもうているやろ? あれは、絵そらごとで、ほんまの海女は、潮風に吹かれて、お色がまっ黒け、その海女が、月に七日の不浄《ふじよう》がある。月経というものがある」
「月経てなんや?」
「かかを持っていて、月経を知らんのか?」
「まだ食うたことない」
「あほ! 食うものやない。『月に七日ずつ身が汚《けが》れる。身の汚れたものは、海へはいれん。そこで、ほかの海女がとってきた生貝を、手桶にいれて、陸で番をしている。これを、手桶番という。女の月経を手桶番というのは、これからはじまったのだといえ。その生貝を、釜で蒸《む》して、その蒸した生貝をうすうむいて、それをむしろの上へならべて、仲のええ夫婦《みようと》が、一晩寝なんだら、めでたいのしにならんのじゃ。そのめでたいのしの根本を、なぜとりさらさんのじゃ? 五十銭は安い、一円くれ』と、いうてやれ」
「こんどは、値あげやなあ。しかし、そんなこと、いえるやろか?」
「食うか、食えんかの境《さか》い目やないかい。そのくらいのことおぼえんかい」
「うん」
「すると、むこうが聞きよる。『のしの根本はわかったが、のしも幾手(何種類)もある。書きのしのわらびのしは?』と、たずねたら、『柿でも桃でも、皮のむきかけをみい、みな、わらびのかたちになってるやろ? わらびのしは、生貝のむきかけや』と、こういえ。『たすきのしは?』と、いいよったら、『生貝のひもじゃ』と、いうたれ。『杖つきのしは?』と、いいよったら、『生貝をひっくりかえしてみなはれ、裏は、杖つきのしのかたちになってあるわい』と……そういうたら、先方は感心して、一両つつみよる。わかったか?」
「いや、おおきに……」
「しっかりやらんとあかんで、ぽんぽんいうていけよ」
「よっしゃ、わかってる。ようも、おのれ、教えさらしたな」
「ここでいうのやあらへん。先方へいっていうのや。はよいてこい」
「そうするわ……元気をつけてはいったろ……ええ、ごめんなはれや」
「どなたじゃい? こら、喜いさんか、えらいいきおいではいってきたなあ」
「なにぬかすのじゃい。ごてごてなしにとっときさらせ」
「ひどいいきおいやな。わざわざ品ものでも変えてきてくれたんか? えらい気の毒な、そないにしてくれんでもええのに……」
「ごてごてなしにとっときなんせ」
「これ、これは、いまの生貝やないか。さては、おまえ、わしとこに、なんぞうらみでもあって、こんなものを持ってきたんやな」
「なにをぬかしてけつかるのや。こら、おのれとこの、どむすこに、どかかあもらいさらしたやろ。そのときに、ほうぼうから祝いをもらいさらしたやろ?」
「えらいきたないいいようやな。もう、それよりきたのうはいえんわ……はい、交際が広いので、ほうぼうからお祝いをいただきました。それがどうしたのじゃ?」
「その祝いものについてくるのしは、いちいちめくってかえすかい?」
「おまえは、そんなあほじゃ。めでたいのしをかえすあほがあるかいなあ」
「こら、そのめでたいのしのぽんぽんを知ってるかい?」
「なんじゃ、そのぽんぽんというのは?」
「ぽんぽんというのは、もののはじまりじゃ」
「それなら、根本じゃ」
「そやそや、ようおぼえておけ」
「おまえが、おぼえとかんかい……」
「そののしのぽんぽん……いや、のしのもとを知ってるかというのじゃ」
「そら、わしは知らん」
「知らん? おいでた。ごめんなはれや……どっこいしょ」
「ひどいいきおいであがったな。下駄《げた》はいてあがったら泥だらけや。そんなとこで尻をまくってなにしてるねん?」
「のしのぽんぽんいうたらな、その……志州鳥羽浦、志摩浦の海女《あま》じゃ……女の……」
「えらいていねいじゃなあ」
「その海女が、絵に書いたあるようにきれいなものやとおもうているやろ? あれは、絵そらごとじゃ。ほんまの海女というたら…… 潮風に吹かれておいろはまっ黒け……」
「なにいうてんねん?」
「ところが……えへん……女は、月に……十日……いや二十日……三十日……」
「なんや?」
「とにかく、まあ、女には、月経というものがおますで……」
「そんなことは、だれでも知ってる」
「わいは知らん。いま、教えてもろうたところや」
「あほやな」
「……そうそう、おぼえてるぞ。女は、月に七日の不浄、けがれがあるのじゃ。そのときは、海へはいれんさかい、ほかの海女がとってきた生貝を、手桶にいれて、陸で番をしている。これを手桶番という。女の月経を、手桶番というのは、これからはじまったのじゃ。その生貝を、釜で蒸して、うすうはいで、むしろの上へならべて、仲のええ夫婦が一晩寝なんだら、めでたいのしにならんのじゃ。そのめでたいのしの根本を、なぜとりくさらさんのじゃ? 五十銭は安い、一円くれ」
「ふーん、えらいことを知ってるなあ。あほや、あほやとおもうてたが、こら、感心や。なかなか下へは置けんなあ」
「ほなら、二階へあがろか?」
「そんなとこへあがらんでもええが、そのついでにたずねるが……」
「なんなとおたずね、いろいろ柄のかわったのを仕入れてますさかい」
「呉服屋じゃな、まるで……書きのしのわらびのしは?」
「柿でも桃でも、皮のむきかけをみい、みな、わらびのかたちになってるやろ? わらびのしは、生貝のむきかけや」
「こら、いよいよ感心、下へは置けん」
「大屋根へのぼったろ」
「たすきのしは?」
「生貝のひもじゃ」
「ふーん……杖つきのしは?」
「生貝をひっくりかえしてみなはれ。裏は、杖つきのしのかたちになってあるわい」
「ほう……それでは、もうひとつ」
「もう、なんにもおまへん。早よ一円くれ」
「もうひとつわかったらあげるがなあ。目上から目下のところへ略してやるときに、ちょんちょんちょんと書く片かなの『シ』の字ののしは?」
「うーん、それは……それはやなあ……生貝が、ぶつぶつぶつとぼやいてますのやろ」
「生貝がぼやく? これ、喜いさん、あわびがぼやくかい?」
「へえ、あわびやさかい、ぼやきますので……ほかの貝なら、みな、口をあきます」
夢 八
「ごめんやす」
「さあ、こっちへはいり、えらい顔色がわるいやないか」
「へえ、なんや知らんけどな、ぐあいがわるうて……」
「どないわるい?」
「へえ、なんや知らん、うつらうつらとな、夢ばっかりみるのんで……もう、あんた、寝てたら夢みるし、起きて坐ってたら夢みるし、道歩いてても夢みるのんで……」
「そら、仕事もでけへんやろ?」
「へえ、もう十日ほど前からやってまへんので……今朝から、なんにも食べず」
「食べとうないねんな」
「いや、食べるもんがないんや」
「あほやな。そんなこっちゃ、しょうがないがな……おまえを呼びにやったのはな、ほかでもない、一両ほど、金もうけさしてやろうおもてな」
「えっ? 一両?! そら、大金や。ひとつ、おたの申しますわ」
「さよか。むずかしい仕事やない。今晩ひと晩、むこうへいて、じーっと坐ってたらええんや」
「ほう、楽な仕事やな」
「そうや。つりの番してるだけでええんや」
「釣りの番? ……ふーん、そら、ええわ。わたいも、釣り、好きやさかい」
「いや、べつに、おまえがつるわけやない。つってる人の番するんや」
「つってる人の番? なんやね、それ?」
「なんでもええやないか。まあ、さっそくいこ。あ、そこに割り木があるやろ? それ、一本さげてきなはれ」
「割り木? 喧嘩《けんか》するんでっか?」
「そやないねん。まあまあ、だまってついといで……ここな、うちの借家やけどな、ちょっと用があるさかい、待ってや……お直はんこんばんは」
「まあ、ごくろうはん」
「いや、あんたこそ、ごくろうはん……で、昼、たのんどいた弁当でけてるか? ……あ、そうか……ほなら、こっちゃへおくなはれ。ああ、おおきに……おい、おい、表でぼんやりしてたらあかんがな。これ、ちょっとさげてんか? ……お直はん、で、どうやった?」
「それがな、検屍《けんし》にもきやしまへんよって、そのままになってまんのやわ。近所の人もな、みな、こわいいうてな、みんな、でていってしもて、だあれもいてはれしまへんの。わたい、ひとりで、もう、こおうて、こおうて……」
「そうやろな。つりの番やもんな……けど、もう大丈夫や。あの男、たのんできたさかい、もう心配ないわ。お直はん、あんたも早よ帰って寝なはれ……いや、ごくろうはんやった……あ、待たしてすまなんだな。おいおい、おまえ、こっちへはいり」
「へえ、ほなら、はいらしてもらいます……こんばんは」
「なにいうてるねん。ここは、だれもいてへんがな。おまえが、ここへ番にきたんやないか」
「あ、それ、わすれてるねん」
「たよりない男やな」
「ああ、こら、暗いわ。窓あけよか?」
「そんなことせんでええ。ここにな、ロウソク五本持ってきたさかいな、これに火つけなはれ……ついたか? ……ほれ、そこにむしろがあるやろ? ……それ、ひろげてな、おまえ、そこへ坐ったらええのや」
「へえ、坐りました」
「おまえが持っとるふろしきづつみをといてみなはれ」
「へえ……あっ、ええ重箱がはいってまっせ」
「あけてみい」
「へえ……やあ、おいしそうな煮しめが、ぎょうさんはいったあるわ」
「それ、おまえが食べたらええねん」
「えーっ! これ、よばれてよろしおまんのか? ほなら、よばれますわ。もう、腹がへって、腹がへって……朝から、なんも食べてへんさかいな。おっ、高野豆腐《こうやどうふ》やないか……うん、こら、うまい……うん、うまいわ……高野豆腐も、こういうぐあいにうまく煮《た》くのん、なかなかむずかしいねんで……ほんまにうまいわ……だれが煮《た》いた? えっ、あこの嫁はん? お直はんか? ……ふん、うまいこと……」
「おいおい、おまえな、煮しめばっかり食べても、しょうがない。その下にな、にぎりめしがはいってんねん」
「え? にぎりめし? ……ああ、ほんまや。大きなにぎりめしがはいったるがな」
「それも食べなはれ」
「え?! これもよばれてよろしおまんの? へえ、ひとつよばれます……うん、こら、ええ米|使《つこ》てあるな……あっはっは、うまいっ、こら、うまいわ……なあ、あんた、こんな御馳走《ごつつお》があって、一両もろたら、えらい気の毒やなあ」
「ほな、金いらんのかいな?」
「いや、そら、もろたほうがよろしいねんけどな、あっはっはっはっは……うん、こらうまい、ほんまにうまいわ」
「おいおい、だまって食べたらどや? ……あのな、おまえが持ってきた割り木な、それで、板の間を、ちょっとたたいてみなはれ」
「え? 板の間をたたきまんの? え? どないでも、よろしおまっか? ……ほな、こんなもんで?」
タタンタン、タタンタン、タタンタン……
「これで、よろしおまっか?」
「うん、うまいやないか。おまえな、なんぼ食べてもええけどもな、その、たたくのんやめたらいかんで」
「あ、さよか。ずーっとたたいてまんの?」
タタンタン、タタンタン、タタンタン、タタンタン……
「あのな、わたい、なんでたたかんならん?」
「おまえ、うつうつして、夢ばっかりみてるんやろ?」
「へえ」
「そやさかい、居眠《いねむ》らんように、それをたたいてんのや」
「あ、居眠らんようにたたいてまんのか。あっはっはっ、そら、うまいことかんがえなはったな。こら、やかましいて、居眠られへんわ……これで、また、眠《ねぶ》となったら、あんたとはなしするさかい」
「なにいうてんのや。わしが、おまえといるぐらいやったら、おまえに金だしてたのまんがな。わしは、もう帰るさかい、たのむで」
「え? あんた、もう帰んなはる? まあ、よろしいがな」
「いや、わしは、ほかに用事があるさかいな。まあ、夜があけたら、じきにむかえにくるさかいな……それから、いうとくけど、おまえの前にむしろがぶらさがってるやろ? そのむこう側、みたらいかんのやで……ええか? なんぼ食べてもかまへんけど、たたくの、やめたらいかんのやで……わし、もう帰るで……あ、用心がわるかったらいかんよってに、表から鍵《かぎ》しめとくで」
「あ、甚兵衛はん、そんなことしなはんな……甚兵衛はん、甚兵衛はん……あ、去《い》んでしまいやがんねん。殺生やがな……まあ、しょうない。割り木でたたくわ」
タタンタン、タタンタン、タタンタン、タタンタン……
「そうや、むしろのむこう側、みたらいかんいうとったな……なにがあるんやろ? ……むしろのむこう側に、だれやいてはるねん? ……もし、あんた、こっちへでといなはれ……ほう、こら、大きい人やなあ……ああっ、足が宙《ちゆう》に浮いたあるがな。うわあ」
タタンタン、タタンタン、タタンタン、タタンタン、タタンタン……
「もし、あんた」
タタンタン、タタンタン、タタンタン……
あほのやつ、こわいもんでやっかい、夢中で、むしろをぽーんとたたきましたから、むしろがぱらっと落ちまして、首つりの死体が、だらりさがっておるのが目にはいりましたからたまりません。
「うわあっ、首つりや!! 甚兵衛はん、甚兵衛はん!」
タタンタン、タタンタン、タタンタン、タタンタン、タタンタン……
あほのやつ、こわいくせに、食うのだけはやめよらんで、宵のうちは、やかましゅう申しておりましたが、だんだんに夜がふけてまいりまして、世間がしーんとしてまいりますと、とうとう泣きだしよった。
「うわーん、甚兵衛はん、甚兵衛はん」
タタンタン、タタンタン、タタンタン、タタンタン……
「つりの番やいうて、首つりの番やないか」
タタンタン、タタンタン、タタンタン、タタンタン……
「首つりなら首つりと、早よいえちゅうねん」
タタンタン、タタンタン、タタンタン、タタンタン、タタンタン……
「甚兵衛はん、甚兵衛はん、甚兵衛はーん!」
タタンタン、タタンタン、タタンタン、タタンタン……
「甚兵衛はん、こら殺生や、殺生やがなあ」
タタンタン、タタンタン、タタンタン……
やかましゅう申しておりますと、この長屋に年古う住んでおります野良《のら》猫で、針金《はりがね》のような毛をいたしまして、しっぽがふたつにわかれているという……こういう猫が、化けるそうでっけど、この猫が、屋根の上を、みしっ、みしっとあるきだしよって、
「ガーオー、ニャーゴー、ニャーゴー」
「うわあ、甚兵衛はん、甚兵衛はん」
タタンタン、タタンタン、タタンタン、タタンタン……
猫のやつ、引き窓からのぞいてみますと、あほが、こわがって、割り木でたたいてるもんでっさかい、「こいつ、びっくりさしたろ」と、引き窓から、首つりさして、「フーッ」と、息を吹きかけました。すると、猫の魔力で、首つりが、ぼつぼつ、ものをいいだしよった。
「おい、そこの番人」
「うわー、首つりが、ものいいよった」
タタンタン、タタンタン、タタンタン……
「おい、番人、伊勢音頭を唄《うと》うてくれ」
「そ、そ、そんなもん、知らんわい、知らんわい」
「知らん? よっしゃ、唄わなんだら、そこへいて、頬《ほ》ぺた、舐《ね》ぶるぞ」
「うわー!! きたらいかん。きたらいかんがな……う、唄う、唄う……唄うがな……伊勢音頭やな? ……唄う、唄ういうてるがな…… 伊勢はなあ、津でもつ、津は伊勢でもつ……」
「あー、よいよい」
「いかん、いかん、ものいうたらいかんがな…… 尾張名古屋は城でもつ、やあとこせいの、よーいやなあー」
「ありゃりゃ、これわいさ、ささ、なんでもせー」
首つりが、調子に乗って、からだをゆすぶったもんでやっさかい、綱が切れまして、あほの前へドスーン!!
あほは、うーんと目をまわしてしまいました。
「お直はん、お直はん」
「あ、甚兵衛はんやな。いま、あけるわ」
「お早ようさん、ゆうべは、どうやったな?」
「なんや知らんけど、やかましい人だんなあ。タタンタン、タタンタンたたいて、やかましいいうてござりましたん。そやけど、朝がたから、えろうしずかになりましたわ」
「ふーん、そんなら、あいつ、また寝とんね。しゃあないやっちゃな。いっしょにきとくれ……さあ、お直はん、いっしょになかへはいっとくれ……うわあ、お直はん、みてみなはれ。あほと狂人は、こわいもんなし、とかいうが、ほんまやなあ。首つりといっしょに寝とるやないか。しゃあないやっちゃ……おい、こら、起きい、起きんかい」
「え? ああっ……唄う、唄う…… 伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ……」
「あ、こいつ、伊勢まいりの夢みとる」
宇治《うじ》の柴船《しばぶね》
「へえ、旦那《だな》はん、ただいまは、おつかいをおおきに……」
「ああ、熊五郎か。いそがしいとこをすまんな。ちょっとこっちへあがってきてくれんかい」
「なんぞ急なご用事で?」
「いや、ほかでもないが、せがれが、えろうからだがわるいので……」
「へえー、そら、聞かんでもないのだすが、つい仕事に追われますので、お見舞いにもうかがわんと……」
「いや、そんなことは、どうでもええが、それがえらいことになってなあ」
「へーえ、そら、また、えらいことですなあ。へえ、それじゃ、わたし、これからすぐにお寺のほうへ……」
「これこれ、なにいうてんのや。あわてたらいかん。まだ生きてますのじゃ」
「ああ、さよか。それは片づかんことで……」
「そら、なにをいうのや。じつはな、いままで、いろいろとお医者に診《み》ていただいたが、どうも診立《みた》てがはっきりとせん。ところが、きょうの先生は、近江屋さんから世話していただいて、診ていただいたのじゃが、薬はいらんとおっしゃる。病人をかかえて、薬をいただかんほどたよりないことはない。なぜとおたずねしたら、なんじゃ知らん、せがれがおもいつめていることがあるらしい。それをとりのぞくまでは、薬がおちつかんというんや」
「へえ、へえ……」
「まあ、早いはなしが、せがれの胸のなかに、徳利が一本つまっとるようなものじゃ。そやさかい、いくら薬を飲んでも、うまいぐあいにおさまらんと、こうおっしゃるのじゃ。まあ、なんぼ親と子とはいうても、わたしや家内には、おもうてることはいいますまい」
「へえ、へえ、へえ……」
「そこへいくと、どういうものか、子どもの時分から、おまえと、せがれとは、気があう。そやさかい、おまえが聞けば、なんでもしゃべるやろとおもうてな……まあ、世間ばなしにひっかけて、せがれの胸のうちを聞きだしてもらいたいんやが……つまり、胸のなかの徳利のつめをぬいてもらいたいんや」
「へえ、へえ、よろしゅうございます」
「で、せがれに、このことを聞いてくれたら、わずかじゃが、わたしのこころだけ、二十両ほどお礼をだそう」
「え?!」
「いや、二十両ほどお礼をだそう」
「……旦那はんの前ですがな、わたしは、べつに銭金《ぜにかね》でどうこうという男やおまへん。まあ、長年お出入りさしていただいておりますお店《たな》のためでございますがな。ええ、銭金でどうこういう男やおまへん。いえ、銭金でどうこういう……」
「もう、ようわかったがな。さっそく、ひとつ聞きだしてんか?」
「へえ、よろしゅうおます。で、二十両は……いや、若旦那《わかだん》は、どこにおいでてやす?」
「奥に寝ております。この暑いのに、座敷をしめきって、だれがいても、『くるな、くるな』と、人に顔をあわすのをいやがります」
「あ、さよか」
「これこれ、おまえは、声が大きすぎる。なるべく大きな声ださんようにな」
「へえ、わかりました……おお、なるほど、奥の座敷がしめきりやな。このくそ暑いのに、達者なものでも病気になるがなあ……ええ、若旦那……若旦那」
「だれもきたら、いややいうてあるやないか。いったい、だれや?」
「お出入りの熊五郎で……」
「おう、熊か……おまえなら、まあ、よろし……おはいり」
「へえ……若旦那、あんた、どこやわるいそうだすなあ。しっかりせな、あきまへんで……病いは気からというでなあ、病いに負けたらあきまへんで……病いと角力とるいきおいやないと……」
「これ、ちょっと待ち。大きい声やなあ。あたまへひびくがな」
「大きいのは、地声だす」
「さからいないな……しかし、暑いなあ」
「いや、暑いの、暑《あつ》ないのと、きょうの暑さはべつだっせ。表へでてみなはれ。おてんとうさまは、かんかん、目が、ぐらぐら、あたまは、がんがんとくるわ。しかし、若旦那、お宅は、座敷は広いし、庭には、打ち水がしてあって、すずしいおますぜ。しかしなあ、すずしいいいましても、やはり町中《まちなか》だす。どこぞ、すずしいとこへ養生かたがたいたら、どうですのや? 山なり、海なり、すずしいとこは、なんぼでもおますがな。そうして、こんなとこにくすぼっているのは、あんまり酔狂《すいきよう》すぎるやおまへんかいなあ。いきなはれなあ。わたしなあ、あんたとならいきます。銭がいらんさかい」
「は……熊……おまえ、おとっつぁんにたのまれてきたな?」
「なにをだす? ……なにもたのまれしまへんで……」
「かくしてもあかん。顔に書いてあるがな。このあいだから、からだがわるいので寝ているさかい、おとうはんやおかあはんが、心配してくれてはるのは、よう知ってる。きょうの先生のお診立ては、しっかりしていたらしい。わたしが、なんぞおもいつめてることがある。それをいわさねば、からだにさわる。と、いうて、おとうはんやおかあはんには、わたしがいわん。で、おまえとわたしとは気があう。そやさかい、おまえが聞けば、なんでもしゃべるやろとおもうて、世間ばなしにひっかけて、聞きだしてこい。と、いうんやろ? かわりに、これを、わたしが、おまえにいうてやったら、なんぼやろなあ? ……おとうはんのことやさかい、まず、二十両はもらえるなあ」
「へえー……よう当たりますなあ。来年の運勢は、どうだすやろ?」
「八卦見《はつけみ》みたいにいうな。どうじゃ、あたったやろ?」
「おそれいりました、若旦那、じつは、二十両もらうことに……いえ、いえ、銭金《ぜにかね》でどうこうというのやない。そらあ、銭、あったほうがよろしいけどな、わたしは銭金がどうこうというのやない、銭金がどうこうというのやない……」
「ずいぶんいうてるがな」
「へえ……わたしかて、親旦那の前へ、『へえ、聞いてきました』と、えらそうにいいとうおますがなあ」
「よし、そないにいうなら、いうてやろ」
「へえ、いうとくなはるか」
「こればっかりは、だれがたずねてもいうまいとおもうたが、おまえに、そう正直にいうてくれといわれると、しかたがない。いうてやろ。しかし、熊、はずかしいなあ」
「なんや、はずかしい? うーん……若旦那、わたしがあててみましょうか?」
「わかるか?」
「わかりますがな。あんたが子どもの時分から知ってんのや」
「ふーん……おまえが、これをいいあてたら、このあいだ買《こ》うたたばこいれ、さんごの根つけのついたやつな、あれ、おまえにやるわ」
「えっ、ほんまかいなあ。ありがたいなあ。人間の運というものは、どこで、むいてくるやわからんなあ。親旦那から現金《げんなま》で二十両、あんたから、さんごの根つけのついたたばこいれ。若旦那、あんた、よう、わずろうとくなはった。あんたがわずろうとくなはったおかげで、わたし、急にふところが、あたたこうなりました」
「それより、早よ、あててみい」
「じゃ、ひとつ、わたし、あてますからな……ええ、こうっと……うーん……いや、しかし、若旦那かて、年ごろやさかいなあ……(小指をだして)これだすやろ? ……ふーん……赤い顔して、あたまから、ふとんひっかぶったな。さあ、しめた、しめた。すこし、徳利の詰めがぬけかけてきた。まず五両ほどもうかった」
「きざんで勘定するなあ」
「さてと……どこやろな? 南地《みなみ》かいな? いや、新町《しんまち》かな? それとも北新地《きた》か?」
「あほ!」
「なんだすのや?」
「おれは、あそびということは、いっさい知らんがな」
「あはは……そうだしたなあ。そうすると、くろうとやおまへんなあ……ふーん、しろうとか? ……そうや、あんたのことやから、どこぞの嬢《いと》はんだすなあ」
「いや、ちがう」
「へーえ……くろうとでなし、しろうとでなし……うーん……くろでなし、しろでなし……ぶちかなあ?」
「犬みたいにいうな」
「うーん、そうすると、清元、長唄、ああいうお師匠はん連中に、粋《すい》な人がおますさかいなあ、そういう師匠たち?」
「ちがう」
「歌沢、小唄の師匠?」
「ちがう」
「義太夫《ぎだゆう》?」
「ちがう」
「琵琶の先生?」
「ちがう」
「新内語り?」
「ちがう」
「どこぞのお妾《てかけ》か?」
「ちがう」
「じゃ、どこぞの仲居《なかい》さん?」
「ちがう」
「下女《おなごし》?」
「ちがう」
「お乳母《んば》か?」
「ちがう」
「子守りか?」
「おいおい、だんだんと落ちてきたなあ。ちがう」
「ふーん、わかった」
「わかったか?」
「尼《あま》はんや」
「あほ! ちがうがな」
「もうわからんわ。わたし、気がみじこうおますで、その、さんごの根つけのついたたばこいれはあきらめます。現金《げんなま》の二十両だけで結構だす。いうとくなはれ」
「そんなら、いうてやる。この春、桜の宮へ桜を見に行た」
「ふん」
「帰りに、本町《ほんまち》の骨董屋《こつとうや》の前を通った」
「ようよう、わかった、わかった」
「わかったか?」
「わかりましたて、そこの娘はん」
「ちがう」
「なんじゃい、またちがうのか」
「その骨董屋にさがっていた掛《か》け軸《じく》、おまえにみせてやりたかったなあ。井上|素山《そざん》という先生がお描きになった美人画じゃが、いなかの嫁はんらしい、手ぬぐいを姉はんかむりにして、眉をおとして、歯を黒う染めて、赤いたすきを斜交《はすか》いにかけて、ちいさなふろしきづつみを持って裾《すそ》をからげて立っている……その絵が、ふるいつきたいようにようできてた。熊、じつはな、その絵に描いた女に惚《ほ》れた」
「若旦那、あほらしいこといいなはんなあ。絵に描いた女に惚れてなになります?」
「むかし、小西来山(近世、前期の俳人)という先生は、土人形をこさえてよろこんだ。清元の『保名《やすな》』にもある通り、『泣いた顔せず、腹立てず……』……人間、悟《さと》りをひらいてみると、おもろいものやで」
「そんなもん、悟りひらかんほうがよろしいなあ。ほんなら、掛け軸か額《がく》か知らんけど、買うたらよろしいのや」
「それは非売品で売らんのや」
「あほらしい。売らんもんなら、そんなとこへぶらさげとかいでもええのや。ほな、よろしいがな、その井上なんとかいう先生にたのんで、もう一枚、おんなし絵を描いてもろうたらよろしいのや」
「その先生は、むかしの人で、死んで、おらんのや」
「さからえ、さからえ。おもろいこともなんともないわ。あんたなあ、惚れて、ここに寝てなはるわ。すると、その絵に描いた女によう似た人が、『あんたに惚れられました。嫁はんにしておくれ』というてきますか?」
「だれがくるものかい。第一、おまえよりほかにだれも知らんがな」
「それみなはれ。だれも知らんことを、くよくよと案じてたかてしょうがない。それよか、どこぞ田舎へゆきまひょう。その絵のひとが、田舎の嫁はんというのやさかい、田舎をうろついたら、よう似たのがいるやもわからしまへん。そやさかい、似た人があったら、たとえ何者であろうともかまわん。先方へはなしをして、あんたの嫁はんにかならずもらいまひょういなあ」
「ふーん、こら、えらいことをいいよった。そんならいこか?」
「そら、いきまひょう。いこう、いこう、いこう」
「して、どこへいくのや?」
「さあ、どこにしまひょう? 暑い時分やさかいなあ、海がええのやがなあ……しかし、手ぬぐいかぶって、眉をおとして、歯を黒う染めて、赤いたすきをかけて、ふろしきづつみを持って、裾をからげて立っているてなやつは、海におらんなあ……えーと……うん、そうや、若旦那、宇治へいきまひょうか?」
「うん、宇治か。宇治は、いつでもいけるとおもうて、まだ、行《い》たことないわ」
「ほなら、宇治へいきまひょうやないか。ええとこだっせ。平等院《びようどういん》から、ずーとみると、前は、宇治川の急流、日暮れから蛍《ほたる》がとんできよるし、ま、宇治へいきまひょ、宇治へ……さあ、起きた、起きた」
「けどなあ、勝手に長いこと寝ていて、あそびにいこうとは、おとうはんにいいにくい」
「いいえ、親旦那には、わたしからはなしをいたしますさかい、あんた、すぐにしたくをして、店まできとくなはれ……はっはっはっは、これで二十両や……へえ、親旦那《だん》さん、どんなもんじゃい」
「ほほう、熊、えらい元気じゃが、わかったか?」
「いや、もう、若旦那の胸の徳利の詰め、きれいにぬいてきました。へえ」
「ほう、なんじゃったい?」
「(小指をだして)これだす」
「ははははは、そうじゃろうとおもうた。ばあさん、やっぱりそうじゃった。ふんふん、それで、さきさまは、どこの嬢《いと》さんじゃ?」
「それがちがいますのや。まあ、あててみなはれ」
「ふーん、すると、芸者か?」
「ちがう」
「清元、長唄、ああいうお師匠はん連中に、粋な人がいるさかい、そういう師匠たち?」
「ちがう」
「どこぞのお妾《てかけ》?」
「ちがう」
「仲居さんか?」
「ちがう」
「お乳母《んば》さんか?」
「ちがう」
「そのつぎは、尼さんか?」
「え? 尼さん?」
「わかりまへんやろ? 旦那、あんたのこさえたものやけど、いびつのけったいなせがれをこさえはったなあ」
「なんじゃい?」
「相手は、本町の骨董屋《こつとうや》」
「そこの娘さんか?」
「わたしもそうおもた……それが、ちがいまんのや。そこにぶらさがってる掛け軸に描いた女の絵に惚れたといいますのや」
「へーえ、そりゃ、あきれたなあ」
「なあ、あきれますやろ? 親子のあんたでもあきれる。他人のわたし、あほらしくて聞いてられるかい。気の病いだす。こら、空気のええとこへいけばなおります。で、宇治へ出養生《でようじよう》ときめました。しかし、親旦那、前から、おことわりしておきますぜ。若旦那も年ごろで、いくところが宇治、宇治というと、全国から、いろんな人があつまってます。どんな女が目について、若旦那が、『あれを』というかもわかりまへん。そのときになって、『いや、身上《しんしよ》がちがう』の、『身分がちがう』のと、りくつこねんようにな」
「ああ、わかっとる、わかっとる。ほかの親御《おやご》とは、すこうしちがう。たとえ、さきさまがなんであろうとも、せがれの病気がなおるなら、身上《しんしよ》つぶされてもかまわん」
「えらい! えらいなあ。あんた、あたまは禿《は》げても、いうことはあたらしい。せがれの病気がなおるなら、身上つぶされてもかまわんとは……うーん、えらいこというた。若旦那は、わたしを、気にいっていよる。半分手つだってつぶそう」
「そんなことせいでもよいわい。これ、そこの手文庫持ってこい。あ、それから、駕籠《かご》を二|挺《ちよう》たのんでおくれ……さあ、熊、この金な、おまえにあずけておくわ。よろしゅうたのむわ」
「おとうはん、あの……熊と宇治へ……」
「あははは、ゆっくりいてきなはれ。用事があったらな、すぐにつかいをよこすんじゃ。熊、おまえのほうびは、いそぐさかい、あとまわしじゃ。え? 駕籠がきた? よし、熊、たのむぞ」
駕籠をとばしまして、宇治へ……土地一番の菊屋という宿屋へ泊まりこみました。
五、六日ばかりたちますと、若旦那のからだは、うす紙をはぐようによくなってまいりました。
ある日のこと、一天にわかにかきくもったかとおもいますと、夕立でございます。夏の雨は、馬の背をわけるとか申しますが、まるで盆をひっくりかえしたような雨が、しばらくしてあがりますと、からりと晴れて、あざやかな西日がさしこんでまいりました。雨に洗われまして、いっそうあおあおとした山の端から山の端へ、絵に描いたような虹がかかっておりますので、若旦那、病中ですから、ゆかたの上へはんてんをひっかけ、二階の手すりから乗りだしてながめております。ふいっと下をみますと、往来へ、年のころ、二十《はたち》前後、手ぬぐいを姉さんかぶり、眉をおとして、歯を黒う染めて、赤いたすきをかけて、ちいさなふろしきづつみを持って、裾《すそ》をからげて、
「あのう、ちょっとおたずねいたします」
「へえ、へえ」
「伏見まで帰りたいんですけど、舟がおすやろか?」
「へえ、えらいすんまへんどすけど、いまの雨で水がふえましたので、舟がでまへんのどす。それに、船頭もいまへんどす」
「そら、難儀どすなあ。伏見まででええのどすけど……」
「あのな、宇治橋をすこうし、おさがりやしたら、帰り舟があるかも知れまへんが……」
「ああ、そうどすか。おおきに……」
これを、てすりからみておりました若旦那、なにをおもうたか、裏の段梯子《だんばしご》からおりてまいりますと、そこは、宇治川の急流でございます。はんてんをぬぐと、手ぬぐいで頬かぶり、尻《しり》をはしょって、みると、船が一そう、もやってございます。宇治川のわたし舟は、底の平《ひら》べったいやつで、竿《さお》は竹で、しろうとには差せませんが、そこは、横堀の材木問屋の若旦那とて、子どもの時分から、いかだに乗りつけておりますさかい、ひらりと、船にとび乗りますと、ぐいっと一竿、船は、つつつつつと、すべるがごとく、名代の急流に、水かさのまさった宇治川……船が、宇治橋の下までまいりますと、若旦那、岸辺につないで待っております。
「あっ、ねえさん、ねえさん、伏見までの帰り船だすが、乗ってくださいませんか?」
「あ、そうどすか。わたしも、これから伏見まで帰りますのどすが、そんなら、乗せておくれやすか? そして、なんぼで?」
「いまもいう通り、帰り舟だすさかい、お心持ちで結構だす」
「そうどすか。おたのみします」
「いいえ、わたしも空舟《からぶね》で帰るのも、乗ってもろてもおなじことだすさかい……へえ、そっちへ寄せますてえ……よいしょいと、よいっ……えらい雨でおましたなあ」
「ほんまに難儀しましたのえ。舟がないと聞いて、あるいて帰らんならんかとおもうて……」
「へえへえ、じゃ、ださしてもらいます。よいとしょ、よいー」
二、三丁もさがってまいりますと、ふたたび岸辺へ……
「ああ、もしもし、こんなところへ舟をとめて、もう夕暮れにも間もないこと、早よ舟をやっとくれやすなあ」
「ねえさん、おたのみがございます」
「お駄賃《だちん》なら、むこうへ行たらわたします。早よやっとくれやすなあ」
「いいえ、ちがいまんねん。じつは、わたしは、大阪のあるところの者で、おはずかしいはなしながら、絵に描いた女に惚れこみ、寝た間《ま》もわすれることができまへん。出入りの者をつれて、あの菊屋へ出養生。さきほど、なんの気なしにみると、あなたのおすがた、絵に描いた女に生きうつし。どうぞ、不愍《ふびん》とおもうて、わたしのたのみを、かなえてやっておくんなはれな」
「あほらしい。わたしには、れっきとした亭主がございます。ほかのこととちがい、そんなこと、できまへんわ」
と、いいながら、女は、艫《とも》のほうへさがります。若旦那が、女の帯へ手をかけますと、帯は解けて、ずるずるずる……
「あれー」
「えい、やかましいわい」
若旦那が、女の肩をつかもうとしますと、どういうはずみか、つないであった綱がとけました。
「しまった」
と、若旦那、一竿いれたが、舟足早く、竿を川のなかにとられ、舟は矢を射るように流れます。若旦那が、また、女の肩をとらえようとしますと、女は、おそろしさのあまり、どーんと若旦那をつきました。よろよろっとした若旦那、足をとられて、宇治川へまっさかさまに、ドブーン……
「うわあ、うわあ……」
「若旦那、若旦那」
「うわあ……うーん……おう、熊か」
「どないしたんです? えろうなされてなはったで……」
「え? ああ、いまのは夢か。夢でよかった」
「なんぞ、わるい夢でもみなはったのか?」
「じつは、熊、こういう夢をみたのや」
と、夢のはなしをいたしました。
「おれも、ばかやったなあ。絵に描いた女に惚れて、両親《ふたおや》に心配かけて、おまけに、自分のからだをわるうして……熊、早よ大阪へ帰って、女房をもろうて、商《あきな》いでも手つだおう」
「そら、結構だす。親旦那もご寮《りよう》はん(奥さま)も、どないにいうてよろこばれるやわからしまへんで……」
若旦那、大阪へもどられまして、一心にはたらいてられます。そのうち、良縁があって、嫁はんをもらわれて、仲むつまじく暮らすうち、ふたりのなかに玉のような男の子ができました。
そのうちに、おとうさんは隠居、若旦那が当主となって、末長く繁昌いたしました。
へっつい盗人
「さあ、こっちへはいらんか」
「へえ、おおきに……」
「なんや、万さんが宿替え(やどが引っ越し)したちゅうことを聞いたが、なにか祝いもんやりたいとおもうてな」
「どういうもんやんのんで?」
「さ、どういうもんちゅうたかて……まあ、なるべく値安《ねやす》で、手軽うて、場のある(かさばる)もんやりたいな」
「そりゃむつかしいな」
「そうや」
「どうでっしゃろ、かんなくずをやったら?」
「なんでや?」
「値安うて、手軽うて、場があるさかいな」
「なにいうてんねん……そうやな、ばあさんがいるねんさかい、年寄りのよろこぶもんやりたいな」
「年寄りのよろこぶもんか?」
「そうや」
「ほな、棺桶《かんおけ》やったら、どうでっしゃろ?」
「あほ! 棺桶やったかて、ばあさん、生きてんのに、しょあらへんがな」
「置いときはったら、どっちゃみち間にあうさかい」
「なにいうてんねん、ばあさん聞いたら怒るぜ……そやないがな、宿替えの日のやりもんいうたら、銅《あか》の金だらい、バケツ、やかん、もうそんなありふれたもんやりともない。おまえとおれとでやんねんさかい、おんなじことなら、おどろくもんやりたいなあ」
「おどろかすねんな?」
「そうや」
「どっでっしゃろ? この、爆裂弾《ばくれつだん》やったら?」
「ようそんなあほなこというな……そやないねやがな、このあいだな、万さんに逢うたらな、『へっついさん、つぶれたんねが、ひとつ買いたいとおもうねが、きょう日《び》は、どのくらいするやろ』と、いうとったんで、ははーん、こら、へっついさんがほしいらしいなとおもうてんが、どや? ふたりで、へっついさん、祝うてやろかい?」
「ほんに、こら、めずらしいわ」
「そやろ」
「きょう日、へっついさん、安うおまへんで」
「そうやろな」
「まあ、どう安うみつもったかて、まあ、五十銭はださんならんやろ」
「あほか、こいつ、へっついさん、五十銭であるか」
「このあいだ、表のおもちゃ屋で四十五銭」
「おもちゃのやあれへんがな、どあほ! 大きいやっちゃがな」
「あ、おとなのん?」
「子どものんやって、むこうがよろこぶか?」
「そやな。あれやったら、五十銭でおまへん。どう安うみつもったかて、まあまあ十万円はださんと……」
「おいおい、もう、相場わからんなら、だまってえな。このあいだな、丼池《どぶいけ》通ったら、道具屋の表に、えらいええへっついさんがあったんで、こら、ひとつ祝うてやったらよろこびよるなとおもうたが、どや? ふたりで、あれ、祝うたろかい?」
「なんぼほどするもんや?」
「まあ、十五円はするやろ」
「十五円、ふたりでやんねんな?」
「そや」
「ほな、七円五十銭ずつや」
「そうやがな……なに、ふるえてんねん?」
「そら、ふるえるがな。きょう日《び》、あんた、わしとこ、四円五十銭の家賃でっせ。それが五つとどこおって難儀してるのに、七円五十銭の金、できそうもないわ……まあ、たってこしらえちゅうなら、しょうない、かわいそうなけど、うちのばあさんなと売ろ」
「ばあさんなと売ろて、ようそないあほなこといえるな。おまえとこのばあさんいくつや? たしか、ことし、八十六やろ? 八十六のばあさん、だれが買うか」
「そこ、あんた、つぶして売ったら?」
「もう、そんなあほな、銅の金だらいみたいにいいやがんねん……しかし、おれも七円五十銭の金がないのじゃ」
「ほな、あんたも、わても、ないねんな?」
「そうや」
「ほな、これから、丼池の道具屋のおっさんに、わけいうて借《か》ろか?」
「そこが相談やがな、おまえもわしも銭がないねんさかい、いっそのこと、昼いかんと、夜《よ》さり(夜間)いてみようかしらん、おもうねんがな」
「そらいかん。おやっさん、ねてはるがな」
「ねてはりゃ、起《お》こさんとやな……」
「え? 嫁はん、起こすのか?」
「嫁はんも、おやっさんも、ねてはるもんは、起こさんでもええやないか」
「どないすんねん?」
「へっついさん、だまって持って、もどったらええがな」
「もし、そらいかんで、もし、そら、かんがえたら盗人《ぬすびと》やで」
「かんがえんかて、盗人やがな」
「そら、とらえられたら、えらいめにあわんならん」
「まあ、とらえられたら、どうもしょうない。ふたりで隠居しようや」
「とらえられたら、隠居するのか?」
「そうやがな」
「どこへ?」
「コンクリートでかためて、塀が高うて、煉瓦《れんが》づくりで、りっぱなとこや」
「しかし、ふたりが居候《いそうろう》すんのん、気|兼《が》ねやないか?」
「おまえが気兼ねがらんでも、むこうから連《つ》れにきやはるがな」
「あ、さよか」
「手にくさりつけてくれはるわ」
「はあ、くさりまでくれはるの?」
「そうや」
「えらい親切やな」
「わからんのんか? こいつ……手くさりやで……懲役《ちようえき》じゃ」
「あっ、それ、きらいねん。わて、また、妙な性分でな、子どもの時分から懲役がきらいやで……」
「だれかてきらいや。懲役、好きなやつがあるか? 銭がないさかい、貧《ひん》どろぼや……まあ、たとえ一月でもはたらいて銭ができたら、へっついさんの代金だけ持っていったら、まさか懲役にはやれへんわ。そやって、日が暮れて、八時か九時ごろ、おれとこへでてこい。連れていくさかいな」
「日が暮れてからでてくるわ」
「あ、そうせ」
「さようなら」
あほは、八時の時計の鳴《な》んの待ちかねて、徳さんとこの表へやってまいりますと、戸をドンドンたたきよって、
「もし、徳さん、ぼちぼちいきまひょうか、へっつい盗みに、なあ、徳さん!」
「あほやな、あいつは……大きい声だしよって……おい、ちょ待て、ちょ待て……こら、表で、大《おお》けい声だすな。いまあける、いまあける。大けい声だすなっちゅうに……しょないやっちゃな……さあ、こっちへはいれ。どあほ! なにぬかすねん、入り口で大けい声で、へっつい盗みにいこうて、近所知れたらどうするつもりや? となりにも知れたらどないすんねん? ……こら、どこへいくねん? 表へでて……どこへいくねんな?」
「一ぺんとなりへいてこうか?」
「なんしに?」
「いま、へっつい盗みにいくちゅうのん、ひょっと聞かしまへんなんだか?」
「あほか、こいつ。こっちへはいりやがれ」
「いや、さきほどは……」
「そな、おかしなものいいすない。どあほ。こら、なんじゃ? われ、きょうは、紋つきの羽織着て、袴《はかま》つけて……」
「へえ、盗人の開業式やおもうて……」
「あほいえ……しかし、ようまあ、袴や羽織があったな?」
「いえ、その表の家主《やぬし》で借《か》ったんで……」
「あのしぶちんの家主が、よう貸したなあ」
「貸したちゅうわけやおまへんけどなあ、きょう、昼、はいったんで……」
「家主のうちへか?」
「そうやがな……奥みたら、これ、かかったるさかい、借ってもどったんで……」
「だれに借《か》ったんや?」
「おやっさんも嫁はんも、留守でんね」
「うん」
「うちの人やったら、だれでも大事《だん》ないおもうたからな、火鉢のふちに猫がいやはったさかいに、猫に借りまっせいうたんで……ほたら、猫もニャンナイと……」
「しょうないがきやな。おら、あす、ことわりいうてかえしにいたるわ。しょうないやっちゃで、ほんまに……さあ、早よいこ、早よいこ」
「へえ……なんでやすな、なんじゃ、こう、へっつい盗みいくかしらとおもろいもんやな」
「あほなこというてんねんやあれへんで……おまえにいうとくが、こうやって、ふたりが、ひょこひょこ、こんなにあるいてられへんで」
「あるいていられんなら、どうすんねん?」
「これからな、道具屋の表までいくあいだやな、へっついさんかたげてる(かついでる)気味になって、ふたりが、おもたい声だして、よいとさのよいよい、こらさのどっこいさってなこというていくねん」
「へえ」
「へっついさんのねき(そば)までいったら、おれがな、『おい、一服しようか』ちゅうさかい、おまえも、『一服しよう、一服しよう』と、こういうねん。で、一服してるような顔して、ええか? そのあいだに、へっついさん、荷づくりしてもて、荷づくりができたら、『ぼちぼちいこうか』と、こんどは、ほんまもんかたげんねんで……」
「ほう、うまいな、こら……あんた、なかなか、できごころやないで……こら、あんた、どやら前《まえ》ごころらしい」
「そな、おかしげなものいいすな。さあ、ぼちぼちいこう」
「ぼちぼちいこうて、どんなこというねん? 一ぺんいうてみて」
「おれがいう通りいうたらええねん。おもたい声、だしたらええで……よいさのよいよい、よいとさのどっこいさ……いいんか? おまえも……」
「いや、おもろいわ。ほんに、おもたい声だすな。わてもいわんならんか?」
「おまえもいいんか」
「ふふ、わてもいうわ……ひとさ」
「おい、どこから声だすねん? おまえの調子はなんじゃ? もっと胴から声でんか? よいさのよいよい、こらさのどっこいさ……おもたい声でんか? 胴から声だし、胴から……」
「胴から声だすのん?」
「そや」
「うーん、よいとさ、うーん、うーん」
「そんな声ださんでも、ええかげんな声だせ」
「よっさのこらさの……」
「うまい、うまい、えらい声でてきたがな。よいとさのよいよい」
「こらさのどっこい、どっこいこらさ……手くさりで懲役……」
「どやしたろか? このがき、ろくなこといやがれへんねんや……おーい、こっちへこい、おいおい」
「へえ」
「へえやないがな。ここらで一服しようか?」
「うわっ、ここの道具屋か? 気の毒に……」
「どあほ! よけいなこというてる場合やあれへんがな……おい、おまえも一服しようちゅわんかいな」
「それ、わすれてんねん。おい、一服しよう、一服しよう。持ってもどるへっついさんのねきで……」
「なんで、そないにいらんことをしゃべんね。どあほやな。このがきは……なんしてけつかんね? さあ、おいおい、こっちへおいで……道具屋の表に、竹の垣が、こう立てかけたるさかい、そこのうちらに、へっついさんがあんねんさかいな、音のせんように、竹の垣、そーっとこっちへどけや」
「へえ」
「音さしなや」
「へえ」
カチカチカチカチ……
「おいおい、いうてるしりから音さしてるがな。そーっといきんかいな」
「へえ」
ガラガラガラ、ガチガチガチ、ガラガラガラ、ブーブー……
「どうしてん? おい」
「えらいことしたわ」
「なに落としてんな?」
「その石燈籠のあたま落としてん」
「なんすんねん? 暗がりやさかい、気つけていうてるがな」
「気つけてたさかい、落《お》ったんや」
「どうしたんや?」
「竹の垣のひもが、燈籠のあたまに巻きつけたってん、垣どけるなり、燈籠のあたまがどーんと落ったんや」
「あほやな、こいつは……暗がりやさかい気をつけちゅねんや……ブーブーちゅうのはなんや?」
「表に三輪車がおいたって、わい、ひょろつくひょうしに、そのラッパへ手つかえてんが……」
「どあほ!! そのラッパの音なら一ペんでええのに、また、ブーブーと鳴ったやないか」
「あんまりおもろい音やさかい、またおさえてん」
「どあほ、なんすんねん……さあ、こっちよれ。ええか? おれがな、力にまかせて、へっついさん、ぐーっと上へあげるさかい、ええか? 下へ手いれて押すんやで……」
「うん」
「ええか? いくで……うーんとさ、うーん……おいおい、いくのやで……」
「うん、いくのか? へい、おさき」
「おい、どこへいくねん?」
「え?」
「どこへいくねんな?」
「おまえ、いくのやでいうたやないか?」
「あほ! へっついさん、押せちゅうことやないか……おれ、おもたいがな」
「さよか……ちょって待ってや。小便してくる」
「あほか、こいつ、しょないやっちゃな。へっついさんの下へ手いれないけへん」
「そうかて、小便でとうなってん」
「そなら、むこうのほうへいて、音のせんように小便してこい」
「うん」
「音さすな」
ジャー、ジャー!!
「おいおい、小便ちゅうものは、まっすぐにおなじとこへしたら、ジャーという音がするがな。ずっとほうぼうへ散らしいな」
「ああ、そこへ気がつかなんだ。はあ、散らすわ」
シャーシャーシャー、シャー、シャーシャー……シャリ、シャリ、シャリ……
「ひどい音やな。なにしたんや?」
「竹の皮にかかった」
「そなあほなことすないな。おい、小便したら、早よこっちへおいで」
「まだいけんわ」
「どうしてん?」
「まだ大便がする」
「そんなこというてんと、さあ、前へまわって、おい、棒かたげ(かつげ)、棒かたげ」
「かたげる、かたげる」
「早よいき」
「うん」
「早よいき」
「よしっ、よっとさ、おっとこらさ、おっとこらさ……」
「おいおい、ぐるぐるまわったら、どんならん」
「まわるつもりはないんやけど……よいとさ、おっとこらさ、こらさのこらこらどっこいさ」
「おいおい、そうぐるぐるまわって、どっちへいくねん? どっちへいくねん?」
「えっ、どっちへいくねんな?」
「どっちへいくて、おまえ、へっついさんのいかはるほうへついていき」
「うん」
「おいおい、そうまっすぐはいったら、おいおい、道具屋のうちへはいっていくがな。これ、道具屋のうちへはいっていくがな」
「うん」
「おい、道具屋のうちへはいって、どないするんや?」
「道具屋のうちへはいって、おやっさんに半分かたげてもらうわ」
佐々木裁き
嘉永《かえい》年間に、大阪西町|奉行《ぶぎよう》にお坐りなりました佐々木|信濃守《しなののかみ》。大阪の与力《よりき》、同心《どうしん》が、賄賂《わいろ》をとりすぎてこまる。意見のひとつもとおもうてござる矢さきへ、大阪へ交代《こうたい》。土地の勝手がわかりません。与力、同心の意見をしにきながら、その与力、同心に土地の案内をさすわけにはまいりませんので、毎日、町をおしのびでおあるきになります。
ある日のこと、田舎ざむらいというこしらえで、家来をひとりおつれになりますと、お役宅をおでましになりまして、すぐ浜通りを南へ、末吉橋《すえよしばし》付近までまいります。八刻《やつ》ごろ(午後二時ごろ)で、七《なな》、八歳《やつつ》から十二、三ぐらいまでの子どもが、七、八人あそんでおりまして、なかで、ふたりが荒縄で手をくくられております。
縄のはしを持った子どもが、竹切れを十手の心持ちで、岡っぴきというかっこうでございます。
お奉行さま、ごらんになり、
「これ、三造、いかがいたしたのであろう? 子どもを荒縄でゆわえておるが……」
「一応とりしらべまして……」
「いやいや、ところ変われば、あそびも変わる。上方では、かようなあそびが流行《はや》るのじゃろう。なにをいたすか、みるといたそう。ついてまいれ」
お奉行さまが、うしろからついてまいりますことを、子どもは存じません。末吉橋をわたると、安綿《やすわた》橋、南づめが、住友《すみとも》さまの浜のとこへまいりました。浜に材木がたくさん積んであります。そのあいだからござを二枚だして、くくられた子を坐らせまして、材木のはしへ子どもが手をつかえ、「しいっ」と制止の声をかけますと、うしろからでてまいりましたのが、年ごろ十二、三、寺子屋もどりで、顔は墨でまっ黒にした、いたずらざかりの子どもでございます。
「これ、両名の者、かしらをあげい。道路において口論の上、喧嘩《けんか》をいたしたよしである。そのしだいを有体《ありてい》に申しあげい。かく申すそれがしは、大阪西町奉行、佐々木信濃守、つぶさにうけたまわるぞ」
「これ、三造、聞いたか? かの奉行は、余《よ》と同名《どうみよう》であるな。ははははは……佐々木信濃守と申しておる」
「子どものたわむれごととは申しながら、あまりのふるまい、一応とりしらべまして……」
「いやいや、子どものたわむれごとじゃ、すておけ、すておけ」
お奉行さまがごらんになっておりますと、竹を持った子どもが、
「これこれ、往来に立っているさむらい、吟味《ぎんみ》の邪魔じゃ。わきによってひかえておれ」
ひどいやつがあるもんで、お奉行さまを竹で追うております。
「おもてをあげい。なにゆえに口論いたしたか?」
「おそれながら申しあげます。わたくし、町人で、物知り、物知りと申しますけど、もの、知りませんので……そうすると、この菊松という子どもが、『もの知りならたずねるが、一つから十までにつがあるか、ないかと申します』『つがあるか、ないか、そんなことは知らん』といいましたら、『知らんくせに、もの知りやなんていうな』と、申したのが喧嘩のはじめだす。お役人のお目にかかりまして、かくのしだい、なにぶんご憐憫《れんびん》を持ちまして……」
「菊松とやら、たずねたか?」
「へえ、あまりもの知り顔して、いばりますさかい、一本、突っこんでやったのだす」
「きょうは、さしゆるす。以後は、喧嘩いたしては相ならんぞ。下役の者、両名の縄をといてつかわせ」
「ありがとう存じます。お奉行さままで、ちょっとおたずねいたします。一つから十までに、つがあるものでございますか、ないものでございますか?」
「一つから十までにはつが、そろうているわい」
「それでも、十つとは申しゃいたしません」
「十つとはいわぬが、一つから十までのうちに、一つぬすんでいるものがあろう? ……わからぬか? 一つ、二つ、三つ、四つ、五つつ……五つのつをとって、これを十につければ、十ながらつがそろうているわい」
「おそれいりましてござります」
「道なかにおいて、口論の上、喧嘩をいたし、上《かみ》多用のみぎり、手数をかくる段、ふとどきのいたり、重き刑にもおこなうべきところ、格別のご憐憫をもってさしゆるす。以後、喧嘩、口論いたせば、きっと究命《きゆうめい》申しつけるなり。その旨、心得て、立ちませい」
わきで聞いておいでになりました佐々木さまが、
「これこれ三造、他の子どもはかまわんが、あの奉行をいたした子ども、親あらば、親もろとも、町役人《ちようやくにん》つきそい、西役所まで、即刻出頭いたすように……」
「やあ、お奉行さんは、四郎やんが、いちばんうまいわ。あしたから、奉行、あんたにきめとくわなあ。さいなら」
「さいなら」
「さいなら」
「さいなら」
ばらばら左右へわかれて、帰りました。
佐々木さまのご家来は、みうしなわぬようにと、あとをつけてまいりますと、子どもというものは、まっすぐに帰らぬもので、あっち寄ったり、わきみをしたり、佐々木さまのご家来はうろうろしております。
ようやく帰ってまいりましたのが、松屋表町、桶屋のせがれで、おやじは、いっしょうけんめいに仕事をしています。
「ただいま」
「早《は》よ帰れやい。あそびにださんとはいわんに、いったん帰ってからあそびにでい。これ、あそぶのもええが、子どもらしいあそびをせいよ。ご番所などしてみたり、盗人《ぬすと》などしてみたり……ちょっとええ役さしてもらわんかい。盗人役ばっかりさされたり、おもてをくくられてあるきやがって、みっともないがなあ。その上に、竹で尻《しり》をびゅーびゅーたたかれたり……尻が紫色にはれあがってるがな。親は、夜通しさすってやってるのがわからんのか?」
「いや、おとっつぁん、いろいろ苦労かけてすまん。けどなあ、まあ、安心して、わいもきょうから奉行とまで出世した」
「あほなこというない」
「あれな、みんな、東《ひがし》さんでやるのやけど、東のお奉行さん、大根《だいこん》で評判がわるいさかい、わいは、西でやった。こんど江戸からでてきよった佐々木信濃守や」
「これこれ、店の端《はな》でそんなこというてたらあかん。こんどの西のお奉行さまは、いたってこわい人や」
「ああ、ゆるせ」
「ひえー」
「この子どもは、てまえがたの子どもか? 身は、西町奉行佐々木信濃守の家来じゃ」
「それそれ、いわんことやないがな。あの……どんなそそうをいたしましたか存じませんが、相手は子どものことでございますので……」
「いや、この町名はなんと申す? なに? 松屋表町か? そのほうは?」
「高田屋綱五郎と申します」
「せがれは?」
「四郎吉と申します」
「年齢《とし》は?」
「四十六でございます」
「たわけめ、子どもの年齢じゃ」
「十三でござります」
「そのほうつきそい、町役《ちようやく》つきそい、西役所まで即刻でるように……町役へは、このほうが申しつけおく。よいの?」
自身番へ寄って、そのままお帰りになります。町内は、ひっくりかえるようなさわぎで……家主が自身番にまいります。
「こら、旦那さま、ごくろうさん」
「なにかい、吉助、このへんの子どもは、そんなことをしてあそぶのかい?」
「なんぼいうても聞いてくれやしまへん。ことに桶屋のむすこときた日には、わてらのいうこと、ばかにしてしまいます……ああ、四郎吉のやつ、きよった」
「ご用の多いとこをどなたも、ごくろうさん」
「旦那さま、お聞きなしたか? 四郎吉のいうこと……あの通りでやすやろ? 大きいもんが心配してても、かんじんの本人は、げらげらと笑うて、ご用の多いとこをごくろうさん……葬式でもたのまれてるような気でいるのですさかいなあ」
「これ、四郎やん、おまえ、また、お奉行さんごとをしてたのやないかい?」
「へえ、住友さんの浜のとこで……」
「難儀やなあ。子どもらしいあそびをしてくれりゃあええのに……だれもみていやへなんだか?」
「小紋の羽織を着たさむらいが立ってみてました」
「おさむらい? その羽織に紋でもついてやへなんだか? 気がつかなんだか?」
「へえ、四つ目の紋がついてました」
「へえっ、ひえー……四つ目? ……佐々木さんでやす。いいえ……油断《ゆだん》がならんのでおます。近ごろ、町をおしのびでおあるきになりますさかい、これ、四郎やん、なんぞそそうでもしたのやないか?」
「わては、なんにもしやしまへん。けど、木屋《きや》の友吉どんが、『往来に立ってるさむらい、吟味のじゃまじゃ、わきへ寄っとれ』ちゅうて、竹で追うてました」
「それは、なにをしやがるのや。お奉行さんを竹で追うやつがあるかい」
「あたい、知りまへんがなあ。ありゃ、下役のほうの係《かか》りでやす」
「なんの、下役のやつもくそもあるかい」
「こりゃ、えらいことをしたで……このたたりにちがいない。おい、綱やん、こりゃ、四郎やんは、無事でもどれんで……」
これを聞いたおやじさんはまっ青になりました。
そのまま、多勢で奉行所へまいります。
一同、腰かけにひかえているうちに呼びだされて、お白洲《しらす》へはいりました。
お奉行は、ご用|繁多《はんた》でございますから、たいていのものは、吟味与力《ぎんみよりき》がしらべます。よほど重大事件でないかぎり、ご前《ぜん》吟味というものはなかったと申します。
町役人などは、公事《くじ》ごと(裁判)になれておりますから、なにも子どものそそうぐらいだから、吟味与力がしらべるだろうと、おもっておりますと、「しいーっ」と、警蹕《けいひつ》の声とともに、ご出座になりましたのが佐々木さまでございますから、一同のおどろきはたいへんなもので……
「松屋表町、高田屋綱五郎、町役一同でましたか?」
「おそれながら、ひかえましてございます」
「四郎吉とやら、おもてをあげい……おお、たしかにそのほうじゃ。余の顔にみおぼえがあろうのう?」
「やあ……さっき、住友さんの浜で立ってたさむらいやなあ」
「うん……さきほどは、吟味のじゃまをいたしてすまんのう」
「いいえ、どういたしまして、これからもあることで、以後、気をつけてもらいます」
「そんなことをいうな」
「これ、家主、すておけ……はははは、いたらぬやつが多いので、上《かみ》に苦労の絶え間がないのう」
「へえ……ご同様に事務多忙です」
「そんなこというない」
「これ、家主、すておけ……『道なかにおいて、口論の上、喧嘩いたし、上、多用のみぎり手数をかくる段、ふとどきのいたり、重き刑にもおこなうべきところ、格別のご憐憫をもってさしゆるす。以後、喧嘩口論いたせば、きっと究命申しつけるものなり。その旨心得て立ちませい』と申したのが、裁《さば》きのおわりのようじゃのう」
「へえ、そうだす」
「ああいうことは、寺子屋で教えるか?」
「あんなこと、寺子屋で教えますもんかいなあ」
「しからば、本の端《はし》くれにでも書いてあったのか?」
「あほらしい。本にも、なんにも書いてあらしまへん。あんなあそびかたみられたら、一ぺんに怒られます。けどなあ、きのうまで、盗人ばっかりさしよった。盗人やったら、くくられたり、たたかれたり、痛うてしょうがおまへんさかい、わても、一ぺんお奉行さんさしてくれんかいいうたらな、奉行さんは、とんちがいる。どんなむりなことでも、即座に裁きができなあかんちゅうので、ほなら、一ぺんやってみようかちゅうて、はじめて、きょう、あたいがやりました。きょうのは、あたいのとんちだす」
「さようか。よくあれだけの難題を即座に裁きがとれるのう」
「そら、なんでもないことだす。高いとこへあがって、ぽんぽんいうてにらんでいばってますのや。どんな裁きでもとれます。高いとこからいばってるばっかりで、裁きのできんお奉行さんが大阪へきたら、大阪は、くらやみやないか?」
お奉行さんに赤い顔をさしよった。
「しからば、余のたずぬること、いかなることでも返答いたすか?」
「へえ、どんなことでもいいます。けどなあ、あんたは、そんなとこでいばってなはるし、あたいは、砂利の上でおじぎしてるし、返事しようとおもうたかて、位《くら》い負けして、返事がつまってしまいます。あたいも、あんたとおなじとこへ坐らしておくれなはったら、どんなことでもいいます」
「うん、かわいいやつ。ゆるす、近《ちこ》うすすめ」
「ほんならごめん」
「ちょっと、ちょっと、吉助はん、せがれをつかまえとくなはれ。せがれは、気がちごうて、お奉行さんのそばへいきます」
「これこれ、綱五郎とやら、お奉行のおゆるしがでたからよいのじゃ。すておけ、すておけ」
「いえ、そやけど、子どものことで、もしもそそういたしましたら、申しわけがございません」
「よいと申すに……くどい、ひかえておれ」
おやじがしかられておりますうちに、子どもは、つかつかと遠慮もなくお奉行さんのそばへ、ぴたりと坐りました。
「これ、四郎吉、夜にいると、空に星がでるのう」
「へえ、お星さんなら、夜やのうても、昼間でもでてます。けどなあ、お日さまのお照らしが強いさかい、われわれの目にはいらんのです」
「うーん」
お奉行さん、はじめに負けておしまいになりました。
「あの星の数は、いくつあるものか、そちは、存じおるか?」
「へえー ……ふん……お奉行さま、あんた、このお白洲の前の砂利《じやり》の数は、いくつあるか、知ってなはるか?」
「白洲の砂利の数が、わかろうはずがない」
「それ、ごろうじませ。手にとってみられるものでもわからんのに、手のとどかぬ空の星の数、そんなもの、わかるはずがないやござりまへんか」
「ふーん……こら妙《みよう》じゃ」
「これが、とんち頓才《とんさい》で……」
「しからば、そのほう、天へのぼって、星の数をしらべてまいれ。余は、そのあいだに、砂利の数をしらべておこう」
「へえ……天へのぼりまんのか? ……かしこまりました。しかし、はじめてまいりますとこで、道の勝手を存じまへんさかい、道案内のおかたをひとりと、往来切手をおさげわたしねがいます」
「いや、こりゃ妙じゃ」
「これも、とんち頓才だす」
「うーん……みごとみごと。これこれ、申しつけたる品をこれへ……」
ご家来が、三宝の上へ、おまんじゅうを山のように盛って、四郎吉の前へ持ってまいりました。
「四郎吉、つかわす、食せ」
「これ、あて、もらいまんのか? ……ほんなら、よばれます……いや、こら、上等やなあ。白あんやな……おとっつぁんが、いつもなあ、虎屋のまんじゅう買うて帰ってくれます。そやけど……このほうが上等や」
「ほう……父は、まんじゅうをくれるか。して母は、なにをくれるか?」
「おっかはんは、なにもくれしまへん。ときどき、叱言《こごと》をくれます」
「みやげをくれる父、叱言を申す母、父母のうち、どちらがよいか? また、どちらが好きじゃ?」
「こう、ふたつに割ったまんじゅう、どっちがおいしいとおもいなはる?」
「いや……こりゃ妙じゃ」
「こんなことぐらい、なんでもないことや。たれぞ、茶一ぱい汲んでんか?」
「茶をとらせ、茶をとらせ」
「はあ……おかしいなあ。お菓子やらは、高台《たかつき》の上へ乗せてくるのに、三宝の上へ乗せてある」
「四方あるものを、三宝ととなえるは異《い》じゃのう」
「ほなら、ここにいるさむらい、ひとりで与力《よりき》というやないか」
「ふーん、妙じゃ。しからば、与力のついでにたずぬるが、与力の身分は、どういうものじゃ? 存じておるか?」
「へえ」
しばらくかんがえておりましたが、袂《たもと》から、起きあがりこぼしのだるまをだして、むこうへ投《ほ》りました。
「あの通りでおます」
「あの通りとは?」
「身分の軽いもので、お上さまのご威光をいただいて、ぴんしゃん、ぴんしゃんと、はねかえっております。そやけど、どれも、これも、腰のないやつばっかりだす」
ひどいことをいいだしました。お奉行さん笑いながら、
「ふん、いかにも与力の身分は相《あい》わかったが、与力の心意気は、どういうものか、存じおるか?」
また、しばらくかんがえておりましたが、
「だれか、天保銭《てんぽうせん》一枚おたのみ申します」
「これ、当百をとらせ」
四郎吉は、ふところから紙をとりだしますと、かんぜよりをこしらえまして、だるまのあたまへ結《ゆわ》えて、よいと、むこうへ投げますと、こんどは、銭がついてますので、だるまさん、立たずに、横にごろりと寝ております。
「いやあ、あの通りだす」
「あの通りとは?」
「とかく金のあるほうへかたむくわ」
えらいことをいうて、賄賂《わいろ》、まいないをすっぱぬいてしまいました。
与力、同心衆は、えらいことをいいよる、よけいなことをしゃべるなあと、うつむいてござる。
一方には、りっぱな与力もございますから、この小僧は、にくにくしいやつじゃと、にらみつけてござる。
お奉行は、「それみろ、わずか十五歳にたらぬ子どもですら、これくらいのことを申す。なんじら、賄賂、まいないをとるゆえに、民百姓は、どのくらいこまりおろうぞ」と、じっとにらみまわされます。与力衆は、もうふるえあがるような顔つきでございます。
「四郎吉、以後は、さようなことを申してはならんぞ」
「おたずねになったのでいうただけで、ほんの座興《ざきよう》だす」
「座興か、あはははは……さて、四郎吉、あの衝立《ついたて》の仙人、なにかささやきばなしをいたしておる。なにを申しているか聞いてまいれ」
「……へえ、聞いてまいりました」
「なんと申しておった?」
「佐々木信濃守は、あほやと申しておりました」
「なに?!」
「いえ、佐々木信濃守は、あほやと申しております」
「だまれ!! おそれ多くも、将軍家のおめがねにかない、大阪西町奉行を相つとめる佐々木信濃守、ばかで奉行がつとまるか」
「わたい、知りまへん。仙人が、そないにいいます」
「なにがばかじゃ? 聞いてまいれ」
「……へえ、聞いてきました」
「なぜ、ばかと申した?」
「画に描いたものが、ものいいそうなことがない。それを聞いてこいというのやさかい、佐々木信濃守は、あほや」
「いやあ、こりゃ妙じゃ。高田屋綱五郎、さてさてよいせがれを持ったのう」
「なんや、さっぱりわけがわかりまへん」
「四郎吉、十五歳にならば、余が近習《きんじゆ》にとり立ててえさす。それまで四郎吉に学問をしこみ、心して育てくれよ。町役一同、四郎吉に目をかけ、養育いたしくれよ」
高田屋綱五郎はじめ、町役一同、どんなおしかりをうけるかと心配いたしておりましたが、一足とびに士分《しぶん》に出世というのでございますから、たいへんなよろこびようでございます。
「これ、四郎吉、そちは、きょうより、余《よ》の家来じゃぞ」
「いやあ、きょうからさむらいやなあ……それで、名大将の名前ができました」
「名大将の名前とは?」
「あんたが佐々木さんで、おとっつぁんが高田屋綱五郎、わたしが四郎吉でっしゃろ? あわせて佐々木四郎高綱や」
「ふーん、佐々木四郎高綱……とは、余が先祖じゃぞ……四郎吉、そのほうも源家《げんけ》か?」
「いいえ、わたしは、平家《へいけ》(平気)でおます」
はてなの茶わん
そのむかし、ひどく茶事《さじ》のはやりました時分に、京都の綾《あや》の小路《こうじ》に、茶屋金兵衛という骨董屋《こつとうや》さんがございました。
この人が、なにか一品持って、「はてな」と、口のなかで申しますと、その品ものが、百両の値打ちがあったということでございます。
ちょっとみたばかりで、品ものがうごくのでございますから、うかつに人のものをほめることもできません。
この人、清水《きよみず》の観音さまが信仰で、毎日のように参詣にでかけます。
ご承知の奥の院を拝しまして、横の石坂を降りますと、音羽の滝という滝がございます。滝の前の茶店に腰をおろして、いつでも渋茶を飲みます。
ある日のこと、茶を飲んでおりましたが、飲みおわったあとで、ふしぎそうな顔をして、茶わんのなかをのぞきこんだり、裏がえしてみたり、陽にかざしてみたり、「もう一ぱい」と、また飲み、飲むかとおもうと、てのひらへのせて、「はてな?」といいながら、また、すかしてみながら、しきりに首をひねっておりましたが、茶わんをそこへ置いて、茶代を払ってでていってしまいました。
そのわきで、おなじようにお茶を飲んでいたのが、かつぎ商《あきな》いの油屋さんで、
「おやっさん」
「なんじゃな? 油屋さん」
「もういくわ」
「もうちょっとやすんでいたらどうや?」
「いやいや、いつまでも、こんなところで油売ってらあかんのや。ぼちぼちでていって、油売らんならんさかい」
「うーん、そうやな。あんたは、油売らずに油売らんならんのやな。まあまあ、しっかりおかせぎ」
「ついてはな、おやっさんに、たのみがあんのやがな」
「たのみ? なんじゃいな?」
「こうやって荷をかついでまわってると、のどがかわくのや。で、まあ、得意さきで、湯でも茶でももらうんやが、この通り手が油だらけや。ちょっと持っても茶わんに油がつく。それが気がねや。でな、自前《じまえ》の湯飲みを持ってあるきたいんやが、そのへんの茶わん、いらんのがあったら、ひとつわけてえな」
「ええ、大事《だん》ない。持っていきいな。こっちゃの新しいのを持っていき。金なんかいらんがな」
「いや、古いのでええわ……ほたら、まあ、これ、もろうていくわ」
「どれ?」
「これや」
「いや、それはあかん。除《の》けておいたのや。これはあかん。ほかのを持っていんで」
「これ、なんであかんのや?」
「なんでもええのや。それはあかん」
「おなじこっちゃないか?」
「いや、それは、もうわきへ除《の》けておいたんや。いま、この茶わんで、お茶を飲んでいきなはった人はな、綾の小路の茶金はんというて、有名な道具屋や。あの人が、なにか品ものを持って、口のうちで、『はてな?』というたら、その品が百両の値打ちがあるという人やで。いま、この茶わんでお茶飲みはって、『はてな?』『はてな?』『はてな?』と、三度いいなはった。まして、なかをのぞきこんだり、裏がえしたり、陽にすかしてみたり、さまざまのことをしやはった。捨て売りにしても、三百両というものや。それを、あんたにやることは、ようでけん」
「なんや、おやっさん、知ってたんかいな。いや、わしも、茶金さんが、えらいひねくりまわしてるさかいに、こりゃ値打ちものや、うまいこというて持っていったれとおもうてな」
「わあ、わるい人やな」
「ばれたらしょうない……なあ、おやっさん、あらためてたのむわ。この茶わん、わいに売ってんか? ここに金が二両ある。これで身代かぎりや。な、これで、この茶わん、わいに売ってえな」
「せっかくやけど、二両や三両では、よう売らんわ。え、そやないか? ひょっとしたら、たいへんな値打ちものかもわからんさかいに……」
「そんなこというない。わいの身代かぎりやで……この茶わん、わいに売って、な、ええやないか?」
「なんぼいうてもあかん……もうこれだけは……」
「こないたのんでもあかんの? あ、そう、そんならええがな、あきらめた……わいもあきらめるかわりに、おやっさん、おまえにももうけささんわ。この茶わん、ここでたたきつけて割ってしまうさかい」
と、茶わんを持って、いきなりふりあげましたから、茶店の亭主はおどろいて、
「ああ、こわしてしもうたら、一文にもならんがな。そんな無茶しないな」
「無茶は承知やがな……ほたら、まあ、売ってくれるか?」
「そやかて……」
「さ、二両で売るか? たたき割ろか? どっちや?」
「待った、待った。わるい人やなあ。割られたら、もとも子もないがな……もうしようがないがな。売る売る。ほんまに売るけども、二両やなんて殺生やな。もうかったら、きっと賦《ぶ》持ってこなあかんで……」
「ああ、もうけたら、かならずあいさつにくるさかいな……ほなら、この茶わん、たしかに買ったで……」
ひったくるように茶わんを持って帰りますと、桐の箱をこしらえまして、この茶わんをいれますと、うこんの布につつんで、自分も小ざっぱりしたこしらえで、茶金さんの店へやってまいりました。
「ええ、ちょっとおじゃまを……」
「はあ、お越しやす。どなたさんで?」
「茶金さんに、ちょっとみていただきたい品があってまいりましたんやが……」
「ああ、そうどすかいな。まあ、一服あがりやす……で、お品は、どういう向きのもんどすえ?」
「ええ、茶わんで……」
「ああ、お茶器どすか? それはえらい結構で……ご相談にも乗りますどすえ。しかし、それも、お品しだい、一ぺん拝見いたしまほう」
「あんた、茶金さんで?」
「いえ、わたくしは、番頭の清兵衛と申しますどすえ」
「あんた、番頭はん? そうだっしゃろな。あんたではあかんのや……いや、あんたをばかにするわけやないのやけどな、どうもその……茶金さんやないと、ぐあいがわるいのや……茶金さんは、お留守どすか?」
「いえ、家におってどすえ。そやけど、おなじみとなればともかく、日ごとにそういうおかたが、なんべんとなくきやはるさかいな、どのような品でも、店をあずかっております番頭のわたくしが、拝見をいたしまして、目のとどかん節は、また、あるじのほうへ……そやけれども、大体道具というたら、わたしがみたかて、あるじがみたかて、なに、えらい相違というものもおまへんで、一ぺん拝見をいたしたいもんどすえ」
「あ、そうか、そんならみてもらおう」
「へえ、拝見いたします。はあ、なかなかええふろしきどすな。更紗《さらさ》もこれくらいになりますと……」
「ふろしきをほめいでもええねん、なかの茶わんをほめて」
「へえ、これどすか? ……おまちがいやおへんな? これは、あんた、清水焼の数《かず》茶わん、ひとつ二、三文の茶わんやおまへんか」
「そやさかい、はじめからいうてるやないか。おまはんではわからんのや。茶金さんなら、まあ、これをみて、ぱっと値打ちをあてるのやが……あんたでは、ちょっと……」
「いや、あるじにみせてもおなじこっとす」
「いいえなあ、この値打ちはな、五百両、千両、茶金さんでないと……」
「いやいやそんなこと……これは、たしかに清水焼の、まあ、一番安手の、ただの茶わんで……どこを押して五百両の、千両のと……そんなあほらしい。あんた、そないなこというて、狐にでもつままれはったか? あはははは」
「なにぬかす!!」
「あいたたた、なにをしなはる」
「笑うたさかい、どついたんや。どついたがどうした?」
「これこれ、店がそうぞうしい。どうしたのや? 清兵衛」
「おおいたい。どうもこうもおまへん。えらい極道《ごくどう》や。人のあたまを、ぽかぽかどつきおって……」
「あっ、茶金さん、あんたにみていただきとうて、きてまんのやがな。それを、この番頭のがきが、人の品ものみて笑うたりするさかい……」
「これ、清兵衛、人さまのお品を拝見して、笑うということがあるかいな。どつかれてもしかたがない。そっちゃへいきなはれ……もし、あんたもあんたや。なにもどつかんかてよろしいがな……さあ、わたしが拝見いたします」
「あんたにみてもろうたら、もう大丈夫や。これ、五百両、千両ちゅう品ものやさかい、気いつけてみとおくなはれや」
「品ものは? ……この茶わんどすか? ……へえ、これなあ……あははははは」
「あんたにまで笑われたら心ぼそいで……どうでんねや?」
「あんたなあ、こら、番頭が笑うたのももっともやで……こら、どこにでもころがっとる、二文か三文の茶わんや。なんでまた、五百両の、千両のと……」
「あんたなあ、もっと手にとって、裏がえしたり、陽にすかしたりして、あんじょう(よく)みてえな。たのみますわ……え? ほんまにこれ、ただの安ものの茶わんか? ……こら、えらいこっちゃ。わい、身代かぎりをしてしもうた……えーえ、ややこしい茶の飲みようさらすない」
「ややこしい茶の飲みようとは?」
「あんたなあ、四、五日前、清水さんの茶店で茶飲んでたやろ?」
「ははあ、どっかでみたことのあるお人やとおもうたが、あんた、たしか、あのときに、わたしの横手でやすんではった油屋さんや」
「そうや。あんたなあ、あのとき、この茶わんで茶を飲んでたんや。飲みおわったあと、裏がえしたり、すかしたりして、『はてな?』ちゅうたやないか? まあ、あんたが『はてな?』ちゅうたさかい、これはひょっとしたら、たいへんな値打ちものかもわからんおもうて、茶店のおやじと喧嘩《けんか》して、三年はたらいてやっとためた二両の金を放《ほ》りだして、身代かぎりして、これ買うてきたんや。二文や三文の茶わんやったら、なんで、あんなややこしい茶の飲みようさらしたんや?」
「ああ、あのときなあ、お茶をいただいてましたら、茶が、ぽたりぽたりともりますのや。おかしいなあ、ひび割れか、きずでもあるかとみたが、なにもない。あんまりふしぎやから、『はてな?』と、いうたんや」
「ええっ、そんなあほな……ほんなら、これ、ただのきずもんか? ふーん、えらいことしたなあ……わしゃ、あんたが、この茶わんひねくってる、これは、ひょっとしたら値打ちもんやとおもうて、ほんまに身代かぎり放《ほ》りだして、茶店のおやっさんと喧嘩して、ようよう買うてきたんやで……あーあ、三年間のはたらき、棒に振ってしもた。どうもしょうがない。あきらめなしょうがない。ああ、番頭はん、かんにんしとおくなはれ。あたまどついたりして……ほな、茶金さん、えらい失礼なこといいました。えらいすんまへん、みなさん、さわがしてすまんこって……へい、ごめん」
「もし、ちょっとお待ち……うーん、えらい。あんた、ほんまにえらいわ。わしのような者でもいじったらば、それだけの値打ちがあるやろうと、たったそれだけの思惑《おもわく》で、身代かぎり放りだしなはった。いわば、茶金の名前を買うていただいたようなもの、わし、商人冥利《あきんどみようり》につきますわ。あんたに、まるぎり損さしては、わしの気がすまん。この茶わん、わたしが買わしてもらいます」
「千両で?」
「いや、千両ではよう買わん。元値の二両にもう一両つけて、三両で買わしてもらいます。しかしなあ、油屋はん、ひとやま当てようなんて気い起こしたらあきまへんで……そんなぼろいことは、この世にない。地道《じみち》におかせぎやす。それがなによりや」
「へえ、おおきに……しかしな、この金は、もらえんわ。おのれが勝手に思惑して、それがはずれたさかいな……ほな、なにぶんこまってるもんのこってさかい、これ、お借りします。へえ、なんとかなったら、かならず、お礼といっしょに持ってあがりますで、かんにんしとおくなはれ。へえ、お店のみなさん、おやかましゅう、さいなら……」
油屋は、すごすごと帰ってまいりました。
ところで、茶金さんの出入りさきと申しましたら、かずかぎりのないくらいで、商売ばかりではなく、お茶のお相手にお公家《くげ》さんがたへも多くまいります。
あるとき、関白鷹司《かんぱくたかつかさ》公のお屋敷へ参上しましたときに、
「金兵衛、近ごろ、おもしろいはなしはないか?」
とのおたずねがございましたので、例の茶わんのことを申しあげますと、
「それはおもしろい。麿《まろ》も、ぜひその茶わんがみたい」
というおおせに、金兵衛、さっそく茶わんをとりよせてごらんにいれました。
関白さんが、水をついでみますと、なるほどふしぎにもります。水をあけて、ふいて、かざしてみたが、きずはございません。また、水をつぎますと、ぽたぽたもります。
「ふしぎな茶わんじゃ」
と、おおせになって、短冊《たんざく》へ筆をお染めになったのが、
清水の音羽の滝の落としてや
茶わんもひびにもりの下露《したつゆ》
おもしろい和歌ができました。
これが、お公家さんのあいだで、えらい評判になって、おそれ多くも、ときの帝《みかど》の耳にもはいりました。
帝も、その茶わんがごらんになりたいとのご沙汰でございますので、さっそくごらんにいれましたところが、もったいなくも、箱のふたへ、万葉仮名で、「はてな」と、箱書きをたまわりました。
さあ、たいへんで、「はてなの茶わん」というて、京都じゅうの評判になりました。
すると、大阪の大金持ち、鴻池《こうのいけ》善右衛門がこれを聞きまして、「家の宝にしたい。ぜひ売ってくれんか」と、所望《しよもう》されました。
「御筆《ぎよひつ》の染まりましたもの、お売りするというわけにはまいりまへん」
「そんなら、こうしまひょう。あんたに千両あずけるさかい、茶わんをわたしにあずけなはれ。あずけっこするならええやろ?」
「そんなら、そのように……」
まあ、早ういうたら、千両に売れたわけで……金兵衛さん、これを、あの油屋に知らせて、金をやったらよろこぶやろと、さがしておりますけれども、油屋のほうは、茶金さんのところへはきまりがわるいさかい、それっきりまいりません。
ある日、丁稚が、茶金さんのところへかけこんでまいりまして、
「旦那え」
「なんじゃ?」
「いつぞやの油屋な」
「うん」
「むこうの筋《すじ》からでてきおったがな」
「そんなら、呼べ呼べ」
「へい……おーい、油屋さん」
「え? だれや? うわあ、茶金さんとこの丁稚《こどもし》か、いや、このあいだは、すまなんだな。旦那によろしゅういうといて……なに? 旦那が、わしに逢いたい? そら、いかんわ。逢えるかいな、めんぼくのうて……これ、そない、ひっぱったら、油がこぼれるがな。なにをすんのや」
「ええから、ちょっときやはれ……こっちゃへおはいり」
「ああ、油屋さん、さあ、こっちへはいっとくれ」
「うへー、茶金さん、こないだの三両、返せちゅうたかて、もうありまへん」
「そないなこといわんと、わらじといて、まあ、おあがり。おもろいはなしがあるんや。まあ、こっちゃへおあがり……いつぞやの茶わんな」
「もうそのはなし、やめとおくなはれ。めんぼくのうて……」
「まあ、聞きなはれ、あの茶わんな、千両で売れた」
「えっ、千両で?! そら、ひどいわ。三両に値切っといてやな、それを千両でとは……」
「まあ、まあ、聞きなはれ。あれな、鷹司さんにはなしたところが、みたいとおっしゃるで、ごらんにいれたところが、歌をくれはった。するとな、お天子さんのお目にとまって、おそれ多いこっちゃ、『はてな』という箱書きをくだされた。それでまあ、あんた、千両という値打ちや。で、この金、わしゃ、ふところへいれてしまうようなつもりはない。半分の五百両、これ、あんたにあげる。千両、みなあげてもいいわけじゃが、わたしも、この京都に長くいるさかい、のこった五百両、どうか、この土地のこまってはる気の毒なかたに施《ほどこ》しをしてさしあげたい……さあ、この五百両、遠慮せんと、とっておきなはれ」
「そら、いかんわ。あの茶わんにそれだけの箔《はく》がついたというのも、茶金さん、あんたの人徳でっせ。それを、わしが、五百両ももろうてな筋《すじ》あいはない」
「まあ、そういわんと、とっておきなはれ。もとはといえば、あんたが、あのきず茶わん持ちこんできたさかいに起こったことじゃ……」
「うん、そうやなあ……ほな、なにぶんこまってるもんのこってすさかい、もろうておきますわ……えらいすんまへんな。ほんなら、こんなかから、番頭はん、この二両、とっといとおくなはれ。いいえな、このあいだ、あんたのあたまどついたやろ? あの膏薬代やとおもうてとっといて……いや、そうしてもらわんと、わしゃ気がすまん。それから、いまの丁稚《こどもし》さん、よう、わしを呼んでくれたな。あんたに呼んでもらわなんだら、こうはいかなんだ。ちょっと、これとっといて……藪入《やぶい》りのときの小づかいや……それから、この五両、お店のみなさんでわけて……」
「もし、油屋さん、そないなことをして……大事にしなはれや」
「大丈夫でやす。おおきにありがとう」
おもいがけなく五百両の大金をもらって、油屋は、よろこんで帰ったぎりまいりません。茶金も、いいことをしたと大よろこびでおりますと、ある日のこと、町内われるようなさわぎで、多勢の人数が、そろいの浴衣《ゆかた》にむこうはちまき、なにやら重たそうにかたげて、こっちへやってまいります。
その前に立って、扇子をひろげて、「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ」と、音頭とってるのが、こないだの油屋でございます。
これをみた茶金さん、
「なにしとるのや? あの油屋……おいおい、油屋さん」
「やあ、茶金さん」
「なんや、そのさわぎは?」
「へえ、十万八千両の銭もうけや」
「なに? 十万八千両の金もうけ? なんや?」
「こんどは、水瓶《みずがめ》のもるのを持ってきた」
解  説
子ほめ
原話は、かなり古いもので、すでに寛永五年(一六二八)刊の笑話本『醒睡笑《せいすいしよう》』にあり、また、享和《きようわ》四年(一八〇四)刊の笑話本『商内上手《あきないじようず》』にもみられる。
別名を「年ほめ」「赤子ほめ」などともいい、落語の基本的な型のひとつともいうべきナンセンス物で、前座むきの噺。
そこつの釘
原話は、文政十三年(一八三〇)刊の笑話本『噺栗毛』所収の「田舎も粋」。
別名を「我わすれ」「宿がえ」「そこつの引越し」などともいう。
そこつをあつかうくすぐりがつぎつぎにでてくるので、軽快なテンポで演じれば、爆笑の連続になる。そこつ噺の代表作。
浮世床
原話は、安永二年(一七七三)刊の笑話本『芳野山』所収の「髪結床」。
元来は、上方落語で、初代柳家小せんが東京へ移入したという。
江戸時代の庶民の社交場であった髪結床が舞台になっている陽気な噺なので、笑いも多いが、おなじような登場人物がつぎつぎにでてくるので、その個々の描写がむずかしいところ。
おちは、ほかに、「しずかにしてくださいよ。あんまりにぎやかなんで気をとられていたら、銭をおかずに帰っちまったやつがいる」「たちのわりいやつだな。どんな?」「ここにいた印ばんてんを着たやせた男……」「あれは、このさきの畳屋の職人だ」「それで床屋《とこ》(床畳)を踏みにきたんだ」というのがある。
藪入り
この噺は、江戸末期から明治中期までは、商家における男色をえがく艶笑物で、「お釜さま」と題していたが、明治末期に、盲小せんこと三代目柳家小せんが、「ねずみの懸賞」と改題、改作し、やがて、現在の人情噺「藪入り」に改題されたのだった。
現在のように定休日などのなかったむかしの奉公人は、正月と盆の藪入りのときだけに、実家に帰れるのだった。
そういう時代における涙ぐましい親子の情愛をえがいた佳篇。先代の三遊亭金馬の晩年の演出では、母と子を実の母子としてえがいていたが、このほうが、むしろ一般性があるといえよう。
雛 鍔
上方では、「お太刀のつば」という。
職人が、上流階級の家庭の上品さをまねしようとして失敗する滑稽は、「青菜」や「町内の若い衆」にもみられるケースだが、子どもがあいだにはいっている点は、特殊な例といえよう。なお、上流家庭の子女で、金銭にうとい人間を、「あれは、ひなつばだ」という通言もある。
お神酒徳利
三代目柳家小さんが、大阪から移入したといわれる長篇落語で、別名を「うらない八百屋」という。
ひとのいい主人公が、おもいもかけないことから、つぎつぎに幸運にぶつかってキリキリ舞いをするという噺で、その偶然の連続が笑いをよんでいく。
この小さん系の噺といささかおもむきを異にするのは、現円生の「お神酒徳利」で、これは、馬喰町の旅籠屋の通い番頭善六が、お神酒徳利をしまいわすれたところからストーリーが展開し、ここに泊まっていた鴻池善右衛門の支配人につれられて、善六は、大阪まで、鴻池の娘の病状をうらないにいくことになり、途中、神奈川宿での女中のくだりはおなじだが、稲荷大明神のお告げで、鴻池の家の乾《いぬい》の隅の柱の四十二本目の土中に埋もれている観音像を掘りだしてまつれば、娘の病気は全快するというので、それを実行すると、果して娘は健康にもどる。そこで、善六は、鴻池からもらった金で、馬喰町にりっぱな旅籠屋を建てるというのが、そのあらすじで、現円生は、これに、「そろばんうらないで成功をしたので、生活がけたちがいになったという」というおちをつけている。
お見立て
別名を「墓ちがい」という。
そのむかし、張り店といって、格子のなかにならんで坐っているおいらんを指名することをお見立てといったが、その時代のムードが前提となっているだけに、現代では、しだいに理解されにくくなっている噺。
登場人物が、薄情なおいらん、素朴ないなかの大尽、若い衆と、廓噺によくでてくる類型的な人間像の三人しかいないが、客とおいらんとのあいだを右往左往する若い衆を軽快にえがかないと、大尽が底ぬけの好人物だけに、後味のわるい噺になってしまう。
三軒長屋
原話は、中国笑話本『笑府』にある「好静」で、これが日本に移入され、文政九年(一八二六)刊の笑話本『落噺|腮《あご》の懸鎖《かけがね》』におさめられた「是はもっとも」となって、現型に近くなった。
近代の名人橘家円喬の得意の演題だったこの噺は、三軒三様の多彩な人間像を浮き彫りにする描写力が要求されるのだから、それが至難のわざであることはいうまでもない。しかし、それ以上にたいへんなのは、後半になればなるほどスピーディーになっていく場面転換の演出で、これがうまくいかないと、せっかくの人を食ったおちが生きてこない。
ずっこけ
原話は、安永五年(一七七六)刊の笑話本『夕涼新話集』所収の「千鳥足」で、上方では、「二日酔い」と題する。
酔っぱらいの噺の代表作だが、先代金馬が、はじめの居酒屋の部分を独立させて、大いにみがきをかけ、「居酒屋」と題して一世を風靡したことは、あまりにも有名。
うそつき村
この噺は、寄席落語のはじまった文化初年(一八〇四ごろ)から口演されてきた古い噺で、「うそつき噺」では最古のもの。
この噺の原話としては、青森県弘前地方につたわる民話「津軽のほらふき」などをはじめとする各地の民話がかんがえられる。
現在では、「うそつき弥次郎」ばかり演じられるので、この噺は、いささかわすれられかけているが、消えるには惜しい噺。
三年目
原話は、享和三年(一八〇三)刊の笑話本『遊子珍学問』(桜川|慈悲成《じひなり》作)におさめられており、大阪では、「茶漬幽霊」という。
愛する夫を、ほかの女にわたしたくないと死にきれず、幽霊になってからも、夫にきらわれまいと、容姿をたいせつにするいじらしさ――まことに愛すべき女性の可憐な怪談だ。それだけに、そのいじらしい最初の女房の描写がむずかしいところ。
なお、古くは、たがいに恋わずらいをするほどに惚れあったという、結婚前の経過がえがかれていたが、現在は、この部分はカットされている。
金の大黒
上方種の落語で、上方のそれは、長屋の連中が、「豊年じゃ、百で米が三升じゃ」とさわぐと、大黒が、「安うならんうちに、わしの二俵を売りにいく」というおちになる。
貧乏長屋の連中が、貧しさゆえに演じる滑稽が、日常生活とむすびついたものであるだけに、いっそうほほえましい。まことににぎやかな長屋噺。
夏どろ
原話は、安永八年(一七七九)刊の笑話本『気の薬』所収の「貧乏者」。
上方では、「打飼《うちかい》盗人」という。
泥棒のほうが被害者になる点では、「転宅」と同傾向の噺だが、それが、飄逸ムードのなかで、しだいに展開されていくところに、巧まざるユーモアがあり、まさに珠玉の短篇といえよう。
茶の湯
原話は、文化三年(一八〇六)刊の笑話本『江戸嬉笑』所収の「茶菓子」。
別名を「素人茶道」。
趣味に夢中になって、他人にめいわくをかける点では、「寝床」と同傾向の噺だが、それに、飲食物がからむことにおいては、「そばの殿さま」のムードも加味されている。
ものが優雅な茶の湯であるだけに、これを知ったふりをする隠居の態度がこの上ないおかしさをさそう。おちも、なかなかに気がきいている。
宿屋の仇討ち
原話は、天保年間ごろ(一八三〇年代)刊の笑話本『無塩諸美味』所収の「百物語」。
別名を「宿屋|敵《がたき》」「万事世話九郎」といい、本書所収のそれは、上方種のものだが、江戸のそれは、「庚申待《こうしんま》ち」「甲子待ち」といい、馬喰町の旅籠屋で、庚申の夜に寝ると、腹中の虫が昇天し、命がうばわれるというので、寝ずにすごした「庚申待ち」の晩に、とりとめのないはなしをしているうちに、仇討ちさわぎがおこるという設定になっている。
いずれにしても、過大なるじまんから生まれた悲喜劇が中心になっている点においてはかわりはないが、上方種のほうが、にぎやかでおもしろいことは否定できない。
化けものつかい
大正時代につくられた噺というから、新作物中での古典といえよう。
別名を「化け物屋敷」という。
口うるさい隠居を中心にして展開されるこの噺は、すこぶる人間的で愛嬌のある化けものの出現によって、まさしく虚構の〈落語世界〉へと場面が一変してたのしい。
羽織のあそび
別名を「羽織の女郎買い」ともいう。
江戸から明治にかけての、江戸下町の庶民たちの日常生活からにじみでる笑いをスケッチしたもので、これにきざな半可通をからませた点において、『和合人』や『七偏人』など、江戸滑稽本と同傾向の世界といえる。
なお、このさき、若旦那が、若い連中に、いろんなことを教えてからあそびにゆき、「『世界は妙でげす、ふしぎでげす』といって、紙入れをぽんとつきだして、気どって、『おほん』と、せきをしろ」というので、いわれた通りにやって、「おほん」と、ふところをたたいたんで、「紙入れのかわりに煉瓦がとびだした」というので、おちになる演出もあった。
小言念仏
別名を「世帯念仏」という。
信心が口さきだけの空念仏におわるおかしさをえがいた噺で、べつに深味のある噺ではないが、念仏と日常会話とを交錯させるところにこの噺のおもしろさもあり、また、演出のむずかしさもある。
突きおとし
寄席落語のはじまった文化年間(一八〇四―一八)から口演されてきた古い廓噺だが、「付き馬」や「居残り佐平次」とおなじく、客が、女郎屋の者をだます噺であり、しかも、その方法が荒っぽいので、ストーリーそのものは後味がよいとはいえない。したがって、あまりスローテンポで演じると、あくどさが目立っていただけないが、スピーディーに演出すれば、江戸庶民のいたずらのスケッチという印象をあたえるので、演出の巧拙が生命となる噺。
碁どろ
別名を「碁盗人」「碁打盗人」などともいう。
三代目柳家小さんが、明治時代中期に、大阪で、桂文吾から習って東京へ移入したというのが通説になっている。
小さんの家の十八番物で、趣味に心をうばわれる人間の通有性をうまくとらえた佳篇。深夜のムードのなかで、泥棒が、碁石の音にさそわれておもわず奥へはいり、対局をみつめて助言し、ふたりも夢中で泥棒と気づかないという描写を自然に演じるのがむずかしいところ。
味噌蔵
原話は、享保年間刊の笑話本『軽口大矢数《かるくちおおやかず》』所収の「田楽《でんがく》の取違え」。
けちをえがく落語の代表作で、つねに寒さが中心になってストーリーが進行していくだけに、冬の落語としておとすことのできない佳篇。けちな主人公が、寒さゆえに、ついつい夫婦のまじわりをむすんでしまう人間的な弱味のおもしろさも、冬という季節のいたずらとしてほほえましい。
なお、上方では、主人の留守中に奉公人たちが酒宴をひらく場面には、にぎやかなおはやしをいれて演じる。
田能久
原話は、おそらく四国辺の民話とおもわれる。
上方では、「田之紀」の題で口演されるが、これは、主人公が、沢村田之助門下の田之紀という役者ゆえの題名。
年を経た無気味な大蛇が活躍する噺だが、この大蛇、さすがに落語にでてくるだけあって、すこぶる人間的なところがうれしいし、農民たちが、しろうと芝居をしてあるくという点も、土のにおいがプンプンとしてたのしいし、おちが皮肉である点もいい。
あくび指南
この噺は、寄席落語のはじまった文化初年(一八〇四ごろ)から口演されてきた古い噺で、泥棒指南、色事指南、地口指南など、同型の噺が消えたなかで、ただひとつのこった噺。
あくびのやりかたを教える稽古所が舞台になっているという、のんびりとした江戸情緒横溢する噺。たんたんとしたストーリーで、爆笑シーンも、盛りあがりもないのでむずかしい噺だが、おちが気がきいているので救われる。
巌流島
原話は、中国種であったらしい。
上方では、「桑名舟|煙管《きせる》のやりとり」「桑名舟七里の渡し」と題する旅の噺として、入れこみ噺、つまり、前座噺だった。
これを東京に移入してからは、多くの演者によって、現在のような完全な江戸前の噺にみがかれたわけだが、老若二人の武士、くず屋、船頭、乗客の庶民など、多彩な人物が登場するので、その描写がむずかしい上に、笑いもすくなく、しかも、おわりに近づくにつれて、ぐんぐん盛りあげていって、さっと、つっぱなすおちにしなければならないのでむずかしい噺。
うどんや
原話は、安永二年(一七七三)刊の笑話本『近目貫《きんめぬき》』所収の「小ごゑ」。
三代目柳家小さんが、大阪から移入してきて得意にしていた噺で、現五代目小さんにいたるまで、小さんの家の十八番物。
冬の夜の風物詩的な噺で、うどんやと酔っぱらいとのやりとりが笑いの中心になるが、なんといっても、小声の会話が、そのままおちになるすばらしさは絶品。
≪上方篇≫
野崎まいり
原話は、享保五年(一七二〇)刊の笑話本『軽口福ゑくぼ』所収の「喧嘩はどうぢや」。
奇習「悪口祭り」の喧嘩風景を中心にしているだけに、陽気な上方落語の特色を、じつにあざやかにだしている噺。
本書所収のそれは、有名な桂春団治の噺を中心にまとめたものだが、春団治のおちは、「牛は大きくても……」ということから、多くの動物の例をだし、「……象は死して象牙のばちをのこして、それから妻楊子をのこしますね」「なんじゃ、あいつ、動物の厄払いやがな。えらい動物のこと、くわしい知っているわ。ライオン死んだらなにをのこすのじゃ?」「おおかた歯みがきをのこすんやろか」となっている。
なお、笑福亭系の演出では、ふたりづれの主人公が途中で消えて、あとは、にぎやかな稽古屋の連中が登場してくる。
あわび貝
別名を「生貝」「生貝のし」「あわびのし」などという。
好人物で、すこしたりない恐妻家の亭主と、しっかり者の女房という好一対が主役を演じる滑稽物の典型。
東京では、「あわびのし」と題して口演しているが、こちらのおちは、「のしの書きかたにもいろいろあるが、まるい『の』の字ではなくて、杖をついたような『乃』の字があるが、あれはどういうわけだ?」「あれは、あわびのおじいさんです」となっている。
夢 八
別名を「夢見八郎兵衛」「伊勢まいり」ともいう。
これは、読んだり、聞いたりするよりも、みることによってたのしさが倍加する噺で、あほが、首つりにおびえながら、それでも、にぎりめしを食い、割り木をたたくおかしさ、猫の魔力で口をきく死体とのやりとりの怪奇ムードなど、ばかばかしくて、しかも、スリル満点の、いかにも上方らしい怪奇談といえる。
宇治の柴船
絵のなかの美女に恋わずらいをするというストーリーは、崇徳院さまの和歌をたよりに恋の相手をさがす「崇徳院」とおなじような、いかにも、上方ものらしい優雅な恋物語。
本書所収のそれのように、人情噺風に、おちのない演出のほか、宇治川へまっさかさまにドブーン。「ああっ」「若旦那、若旦那」「ああ、夢か」というものや、現桂小南のように、「若旦那、その掛け軸の女に会うたおかげで、病気もなおった。良え(え絵)夢ですがな」というのもある。
へっつい盗人
別名を「へっつい泥棒」という。
落語に登場する泥棒は、東京でも、大阪でも、いずれも、まぬけな、おひとよしが多いが、この噺に登場するのも典型的な落語の泥棒なので、りくつぬきで笑える。
おちは、本書のそれ以外にもいろいろあって、あほのほうが、あんまりののしられたので怒ってしまい、「あほつれて、へっついさん盗みにくるもんがあほか、ついてくるおれがあほか、いっぺん道具屋のおやっさん、起こして聞いてもらお」というのもあり、また、年まわりのわるいときに、へっついをうごかすと、荒神さまのたたりで、おもいがけない災難にあうという大阪の俗信にもとづき、古道具屋の主人に家を知られたふたりが、代金を請求されて、身ぐるみぬいで内金をいれたあとでがっかりして、「へっついさん、いろうた(いじった)たたりや」というのもある。
佐々木裁き
原話は、一休禅師のエピソードで、三代目笑福亭松鶴作といわれる。
東京では、「佐々木政談」と題し、たとえば、現円生のように、「いや、おとっつぁんがよろこんだのなんの、首がないと覚悟をしたのが、命が助かるのみならず、門閥《もんばつ》家でなければ出世のできない時分に、桶屋のせがれが一足とび、ご近習に召し立てられたという、『佐々木政談』でございます」というように、おちをつけずにおわるのを普通としている。なお、先代金馬は、佐々木信濃守を大岡越前守とし、子どもが、のちに池田大助になるとして、「池田大助」と題して演じた。
はてなの茶わん
この噺、桂米朝もいってるように、舞台が、清水の音羽の滝、茶金の店さき、関白鷹司公の邸宅、そして、御所にまでおよぶという、京都でも一流の場所ばかりであり、登場人物も、茶金、鷹司公、帝、鴻池善右衛門と、これまた第一級の人物たちばかり、したがって、その風格といい、スケールといい、最高級で、それほどのヤマ場もくすぐりもなく運んでいながら、皮肉な、奇想天外なおちへ持っていくあたり、まさに、上方落語の一級品といえよう。
東京では、これを移入して、「茶金」と題し、明治末期の名人橘家円喬の十八番だったが、円喬流の演出では、油屋は、江戸っ子で、京都へ流れてきた男という設定と、江戸弁と京都弁とをつかいわける型になって、現在にいたっている。
落語家、名人・奇人伝
興津 要
ステテコの円遊
嘉永二年(一八四九)、江戸は、小石川小日向水道町(現文京区)の紺屋藤屋清五郎の家に男の子が生まれた。お産は、たいへん軽かった。しかし、その埋めあわせというのもおかしいが、赤ん坊の鼻が大きくて重そうだった。
この鼻が、のちに、この赤ん坊の有力な商売道具になって、「円遊は鼻のおかげで飯を食い」てなことになろうとは、神ならぬ身の知るよしもなかった。
この赤ん坊、金太郎という、いせいのよい名前をつけられ、熊と角力をとるほどではなかったが、すくすくと育っていった。ところが、好事魔《ま》多し、三歳になった金太郎は、ホーソーにかかり、そのおつな顔をめちゃめちゃにされるところを、ある名医のおかげで、どうやら、うすあばたにふせぎとめることができた。このあばたも、のちにいたって、鼻とともに金太郎の有力な武器になったもので、明治二十四年六月三十日、歌舞伎座で、となりにすわった、これも鼻のあたまのあばたを気にして、見合い写真に大修正をほどこして、これを消したという東京帝国大学文科学生夏目金之助(のちの漱石)をして、あばたの数を、ひそかにかぞえくらべさせた名代のシロモノになっていくのだった。
七、八歳ごろからはじまった金太郎の寄席がよいが、年とともに、はげしさをくわえていった。
万延元年(一八六〇)、金太郎、十二歳のことだった。
江戸で売りだしの若手落語家三遊亭円朝が、目白亭へ出演するために、毎日、夕方になると、金太郎の家の前を駕籠で通った。
ときに、円朝、二十二歳、大たぶさに結った男ぶりはよし、黒羽二重の紋つきの袖口からは、緋《ひ》ぢりめんの襦袢《じゆばん》の袖がちらちらするというにやけたこしらえながら、それが、なかなかに色っぽくて、ちょいと女惚れのするフィーリング。これを、毎日みているうちに、金太郎は、円朝のような落語家になってみたい気をおこした。
こうなると、落語家になろうというのだから、毎日、日が暮れるか暮れないうちに目白亭へでかけてゆく。家では、三、四十人の職人や奉公人をつかっているくらいだから、小づかい銭に不自由はしない。そこで、寄席の中売りや、前座などに、ご祝儀をつかませては、楽屋へはいりこんで、太鼓をたたいたり、拍子木を打ったり、いろいろと手つだいをしては、悦《えつ》にいっていた。しかし、もともとおしゃべり好きの上に落語熱が高まったのだから、楽屋の手つだいぐらいでは、とてもがまんできなくなってきた。とうとう十二歳の金太郎が真打ち格で、子ども同士の天狗連(アマチュア落語家グループ)をつくり、毎晩、知りあいの家を借りて、あちこち落語家気どりで押しまわっては、自称名人会をひらいていた。すると、世のなかには、おっちょこちょいがいるから、この連中にお座敷がかかるようになった。
こんな状態では、将来が案じられるから、早く奉公にだしてしまったほうがいいと両親の相談がまとまり、金太郎は、日本橋本石町の紺屋山城屋へ奉公の身となった。
十二歳から十九歳まで、山城屋へ奉公をしていたあいだ、金太郎は、落語家になりたいという気がなくなったわけではなかったが、いそがしさに追いまくられて、その気もいくらかうすらいでいた。
慶応三年(一八六七)、金太郎は、病気にかかって、家に帰ってきた。金太郎のあこがれる円朝も、子どものころ、奉公さきから病いをえて、わが家にもどってきていたのだから、まことにふしぎな一致だった。
さて、金太郎、まもなく全快したのだが、家でぶらぶらしているうちに、若気のいたりで、放蕩の日をおくるようなことになった。
こうなると、堅気の商売なんかすっかりいやになってしまって、いよいよ本腰をいれて、好きな落語家になろうと決心した。
ところで、どうせ落語家になるのならば、円朝の弟子になろうとたのんでみたが、円朝は、もう弟子はとらないというので、二代目|五明楼玉輔《ごめいろうたますけ》の弟子になって、しう雀という芸名をもらった。
ときに、明治元年(一八六八)だった。
金太郎は、玉輔門下として、待望の落語界いりを果たすことができたが、師匠の玉輔は、金原亭馬《きんげんていば》きんの実子で、馬声《ばせい》といい、のちに、二代目馬きんを襲名し、講釈師に転向ののち、落語界に復帰して、二代目玉輔となったひとだった。この玉輔、芸はまずくはなかったが、高慢で、愛嬌にとぼしくて、人気はなかった。
しう雀が二十四歳になったとき、師匠の玉輔が、いったん廃業することになったので、しう雀は、あらためて、あこがれの円朝の弟子になることができた。
金太郎を弟子にとった円朝は、その芸名をつけるにあたって、はたと当惑した。金太郎を前に呼んだ円朝は、「うちに、円遊という名と、金朝《きんちよう》という名と、ふたつあるが、そのどっちかにきめよう」といって、ひとつずつ、ちいさな紙片に名を書いて、くるくるとまるめて、「これを、あたしが上へほうるから、おまえが、どっちでも好《よ》いとおもったほうをお受けとり」といった。「よろしゅうございます」と、紙片のひとつを、金太郎が、うけとってあけてみると、円遊という名がでてきた。そこで、金太郎の芸名は、三遊亭円遊ときまったが、まことにのんきな名づけぶりもあったもの。
この円遊という芸名の初代は、初代円生門下の初代|金原亭馬生《きんげんていばしよう》の前名で、二代目は、円朝門下の二代目|新朝《しんちよう》の前名というわけで、いずれにしても真打名前ではなかったが、金太郎の三代目が、この芸名を大きくしてしまい、俗に初代円遊と呼ばれるようになるのは、ずっとのちのおはなし。
あこがれの円朝門下の円遊となりはしたものの、彼の伸びてゆく余地はなかった。
なにしろ、円遊が円朝門下にくわわった明治五年は、円朝が、道具入り芝居噺の道具を弟子の円楽にゆずって、三代目円生を襲名させ、みずからは、扇子一本、舌三寸の素《す》噺に転向して、〈はなし〉の本道をあゆみはじめた年であり、人情噺の名手三代目|麗々亭柳橋《れいれいていりゆうきよう》が、まだ春錦亭柳桜《しゆんきんていりゆうおう》という隠居名前を名乗る以前の全盛期であり、人情噺も落語も、細心な演出で巧妙をきわめた二代目古今亭志ん生が人気絶頂であり、「……桂文治ははなし家で……」と、数え唄にまで唄われた芝居噺の名手六代目桂文治も健在であり、花柳物の人情噺では、ならぶ者なき名手四代目桂文楽も、いきな高座で人気をあつめていたし、円朝四天王の一人で、噺によっては、円朝以上とうたわれた駒止めの円馬も腕をふるっていたし、一方、三遊派の円朝に対し、柳派の中心勢力として、人情噺に、三題噺に、実力十分の柳亭燕枝《りゆうていえんし》も売り出しの最中であるなど、本格的な人情噺の名手たちが、キラ星のごとくに顔をそろえていたのであってみれば、これら先輩と同傾向の噺によって、その堅塁を抜くことは至難のわざだった。
明治十三年(一八八〇)十一月十六日から三十日までの浅草並木亭は、三代目|円喬《えんきよう》(のち四代目円生)を真打に興行していたが、そのある晩、円遊は、一席落語をやったあとで、いきなり高座に立ちあがり、尻っぱしょりで半股《もも》ひきをみせ、むこう脛《ずね》をつきだして、「そんなこっちゃなかなか真打になれない、あんよをたたいて、せっせとおやりよ」と歌いながら、珍奇な手つき足ぶみで踊りだした。
それまでは、落語家の踊りといえば、坐り踊りときまっていたのに、この型やぶりの立ち踊りをみせられた観客たちは、しばし茫然自失《ぼうぜんじしつ》、ややあってわれにかえると、嵐のような拍手がまきおこった。
これが、円遊の、有名なステテコ踊りのはじまりであり、まさしく新時代の大衆芸能〈明治の珍芸〉のプロローグでもあった。
円遊のステテコ踊りにつづいて、円朝の高弟|円橘《えんきつ》門下の万橘《まんきつ》のヘラヘラ踊りが評判を呼んだ。
小柄で、丸顔の万橘は、かるく小噺などすませると、羽織をぬいで、赤手ぬぐいで頬かぶりをし、肌ぬぎになって緋《ひ》ぢりめんの長襦袢をだして、赤地に白い太鼓の紋のついた扇子をかざし、「へらへらへったら、へらへらへ、はらはらはったら、はらはらは、赤い手ぬぐい、赤地の扇、それをひらいておめでたや……」と、歌いながら坐り踊りをする。ときどき、その扇子を、右手から左手へもちかえ、湯飲みをとって湯を飲み、湯飲みを以前のところへおくと、また、前のように踊りだすという、単純なしぐさのくりかえしだった。
このステテコ、ヘラヘラは、にわかに世の注目をあつめることになった。
この珍芸流行の原因は、このころの東京市内が、明治維新後、最大の不況にみまわれ、特別に珍奇な娯楽でなければ客が呼べないという当面の事情があったが、より大きくみれば、明治の新時代をむかえて東京へあつまってきた寄席になじみのうすい新観客層をキャッチする手段でもあった。
それは、江戸時代以来の、つづきものの人情噺の高座では、もはや観客にアピールしなくなってきたことのあらわれだった。
このことは、昭和四十年代のテレビの寄席番組が、落語家の余興であるなぞかけや即席小噺などの珍芸によって、あたらしいファンを開拓している現象にも通じるもので、大衆芸能のたどらねばならない宿命の道すじでもあった。
こうして、ステテコやヘラヘラに人気が集中してくると、ほかにも、珍芸に心がける者があらわれてきた。
それは、四代目立川談志と、二代目橘屋円太郎だった。
談志は、はじめ二代目桂|才賀《さいが》の弟子で、才二郎といったが、六代目桂文治の門に転じて文橋から談志を襲名した。
顔の長い、顎《あご》の細くとがった談志は、落語をすませたあとで立ちあがり、羽織をうしろ前にして、手ぬぐいをたたんでうしろはちまき、扇子を半びらきにして襟にさしこみ、ざぶとんをふたつに折ってかかえ、あわれな声をだして、「アジャラカモクレン、キューライ、テコヘン、キンチャン、カーマル、セキテイよろこぶ、テケレッツのパー」とやると、ドーンと太鼓がはいる。ざぶとんをそばにおいて扇子をとり、鍬で釜を掘りだすしぐさになって、「この子があっては孝行ができない、テケレッツのパー、天から金釜、郭巨《かつきよ》にあたえる、テケレッツのパー、みなさん孝行なさいよ、テケレッツのパー」という文句になり、これを早口にくりかえすのだった。
円太郎は、円朝門下で、円好《えんこう》から円太郎になった音曲師で、柔和な顔で、愛嬌のある彼は、ガタ馬車の馭者《ぎよしや》が吹くしんちゅうのラッパを持っていて、高座へあがる前に、楽屋でラッパを吹き、のぞきからくりの調子で、おもしろおかしく都々逸を唄い、くしゃみをするのが十八番で、そのあいだに、「納豆、納豆!」「枝豆《えだまめ》」「豆腐ィ生揚げ!」と、売り声をあれこれやったかとおもうと、突然、馬車の馭者をまねて、「おばあさん、あぶない!」と、どなって、旗をふり、ラッパを吹くというサービス満点のナンセンスを展開した。
このために、ガタ馬車のほうが、かえって、円太郎馬車と呼ばれるようになった。
この四人が、寄席四天王と呼ばれ、がぜん爆発的人気をあつめていった。
それはたとえば、
東西東西、此の所お眼にぶら下ますは、当時流行高座の素天々固と書いた大看板、其席亭は愛宕下の恵智十で、即ち出席の連中は、ステテコの円遊、喇叭の円太郎、毘羅毘羅《へらへら》の万橘、ペケレツの談志等で、孰《いづ》れも似顔画を立派に張り出しただけ各自一際の奮発で、去る十六日から打つて居りますが、毎夜毎夜の大入り、客留、此の様子では、今の間にヘラを沢山|蓄《た》めこんで、公債証書でもステテコ買入れ、馬車の掛声は馬丁にさせて、自分達は懐手《ふところで》、定めしペケレツ銀行でも立てようかと其だめ想像|斯様《かやう》。(明治十四年三月二十八日「諸芸新聞」)
などという破天荒の人気ぶりに、落語だけで十分に客をよべる二代目柳家小さんまでが、ステテコをはじめた。しかし、この寄席四天王の全盛も、それほど長くはつづかなかった。
それはたとえば、
○ヘラヘラの洋行
赤い手拭赤地の扇子、是を開いてお目出度いと、太鼓の音と諸共に、一時は都下に鳴り響きし、例の落語家ヘラヘラ坊主の万橘は、世と共に推し移らぬゆゑ、新奇を好む東京の人気に後れ、太鼓が鳴つても賑かにお客の来なくなつたので、憫然と判然と取り違へ、ヘレヘー左様ならと旅稼ぎに出掛けたが、今度這回《このたび》英国の山師髯が、彼の万橘を一ケ月八百弗の給金で抱へ込み、英国へ連れ行き、一儲けせんと、現時《たうじ》掛け合ひ中との噂、ほんとにさやうなら嬉しかろヘレヘー。(明治十六年六月二十九日「絵入自由新聞」)
という記事が、万橘の凋落ぶりをつたえていたし、さらにまた、
郭巨の肺病 テケレッツのパーで御存じの立川談志は、予《かね》て肺病を患ひ居たりしが、昨今は、医者もチト首を捻る場合に至りしが、当人は中々屈する色なく、押して席を勤めるよし、察するに金の釜を掘り当てる迄勉強する気で居ると見える。(明治二十二年一月五日 「やまと新聞」)
とあって、談志は、この年に死去しているので、円遊の落語と円太郎の音曲だけがのこることになった。
明治十五年、円遊は、真打ちに昇進した。
明治十年ごろには、五十万ほどだった東京の人口が、二十年ごろには、百万を突破するにいたった。しかも、その大部分は、地方出身者なので、寄席の高座も、いきな江戸前の芸よりも、わかりやすい芸がよろこばれていた。
「世の中がおいおい変わって、日増しに進んでゆくのだから、昔の話をありきたりのままで演《や》っていた分にゃあ、多くのお客様の御意《ぎよい》にいるまいから、なんでもこれは時勢にはまるような落語をやらなければいけない」――そんなことをかんがえた円遊は、古風な人情噺をすてて、滑稽落語に徹したが、それが、近代落語の祖としての道ともなった。
毎朝、食事のあとで、どんなにいそがしいときでも、その日の新聞に目を通さないと、時勢におくれるような気がしてならない円遊は、新作落語にこころざした。
それはたとえば、「素人洋食」というはなしをみると、人力車が通ると胸がわるくなり、馬車の音がすると、あたまがいたくなる今田旧平《いまだきゆうへい》という文明開化ぎらいの家主が、にわかに開化好きになって洋食屋をはじめることになり、長屋の連中を開業式に招待するが、料理番の吉兵衛が留守なので、パンばかりだしてごまかす。そこで、一同が、なぜこんなにパンが多いのかとふしぎがると、「パンが多いわけでげす。長屋の人が一同バタにされたんだ」と、いうようなものだった。
この種の新作よりも、明治の新風俗を詩情ゆたかにあしらったり、ギャグにつかったりした、古典落語の現代化に、円遊の本領は発揮されていった。
たとえば、「ずっこけ」では、酔っぱらいのせりふが、「そこになにかおちてるよ。なんだい、これは、男帯がおちてたよ(中略)よくよくみれば、鉄道馬車の線路でございました」「オヤうれしいね、ダイヤモンドがおちてたよ(中略)よくよくみたら、電気がぬかるみにうつってたんだ」と、明治の東京の夜の詩情をうかびあがらせていたし、「転宅」では、おてんばな女中をえがくのに、「女のくせに瓦斯灯へのぼって、たばこを吸いつけ」といったかとおもうと、旦那は、明治の成り金らしく、らっこの帽子をかぶり、しっかり者の妾《めかけ》が、まぬけな泥棒を懐柔するために、駆けおちしようともちかけるくだりが、「……芝浜を通っていくんだろう。鉄道馬車会社がみえたり、ズイと離宮がみえたり、田中さんの職工場をみたり、芝浜の温泉から見晴しの茶屋をみながらいくのはいいが、ほら、もう品川へきた。ガラガランとくると、ソラ、大森、川崎、鶴見、神奈川てんで、一度び横浜へ昇《あが》ろうじゃあないか……」と、あざやかな開化風俗絵巻がくりひろげられていた。
このような円遊の手腕によって、多くのはなしが面目を一新し、とくに、仏教臭の強い陰気なはなしといわれた「野ざらし」などは、円遊の改作が、あまりにはなやかな人気をあつめたために、原話のほうは、跡をとどめないほどになった。
円遊が得意にした「船徳」の原話は、初代古今亭志ん生作の人情噺「お初徳兵衛|浮名桟橋《うきなのさんばし》」で、若旦那徳兵衛が、勘当されて船宿に居候するうちに、船頭になり、ある日、むかしなじみの芸者お初を船で送る途中で夕立にあい、船をもやって雨やみを待つうち、むかしのよりがもどるが、お初におもいをよせる油屋九兵衛のために、お初徳兵衛は心中にいたるという古風なはなしだが、円遊の改作は、新米《しんまい》船頭の若旦那の失敗をえがく落語「船徳」へと塗りかえられていた。
ステテコにくわえて、こういう新時代むきのはなしなのだから、円遊の人気が急上昇したのもむりはなかった。
寄席の掛けもちが、すくないときでも、昼夜で、十二、三軒。多いときは、昼六軒、夜十三軒もあって、その上に、お座敷にもひっぱりだこで、夜席がおわってから、午前一時、二時までとびまわらなければならなかった。
そう掛けもちが多くなると、落語を一席ずつやっていては、とてもまわりきれないので、たいていの席では、小噺ひとつに、あとはステテコですませてしまうのだが、それでも観客は、円遊が、ちょっとでも顔をみせれば満足していた。
こんな調子だから、円遊の人力車をひいていた弟子の遊録はたいへんだった。なにしろ、円遊は、高座へあがると、すぐにおりて、つぎの席へとんでいくのだから、人力車のちょうちんのあかりを消さずに、しじゅうつけっぱなしにしていなければならないし、車をひきだせば、掛けもちがいそがしいのだから、どんどん前へいく車を追いぬいて、無理な駆けかたをしたために、血を吐いて倒れてしまった。
こんなに売れてきたために、明治二十二年の三遊派の席順では、円朝、四代目円生、四代目文楽につづいて円遊は四位となり、明治二十五年の番付「落語家一覧」では、西の小結となるし、給金も、大真打ちの柳亭燕枝や三代目春風亭柳枝が、客ひとりについて四厘なのに、若い円遊は、五厘もとっていた。
円遊のけたはずれの人気をみてくさった同門の若手のなかには、大阪へ去った円雀《えんじやく》(のち二代目円馬)や、修業と称して関西へ旅立った円好(のち円喬)のような者もでてきた。
絶頂をきわめた者におとずれる下降の日の運命――円遊も、それからのがれえなかった。
古風な人情噺中心の東京落語会において、滑稽落語によって新時代の観客をキャッチした円遊だったが、その滑稽オンリーの武器が、みずからの命脈を絶つ役割りを果たすことになっていった。
たとえば、姦通噺「紙入れ」で、お内儀と出入りの呉服屋の手代とが密通するところへ、急に旦那が帰ってきて手代があわてる場面では、「なにをぐるぐる舞いをまってるんだ。なんだって柱なんぞへのぼるのだ」「引窓《ひきまど》から逃げようと思ってさ」「ああれ、棚へあがろうとして、棚がおちてさしあげてるよ。ホホホホ、おまえ、そうやって一晩中立っておいでな」というようなのんきなくすぐりのために、姦通の現場をみつかったら死罪という時代の緊迫《きんぱく》感がみられず、この噺のポイントである心理描写にまったく欠けていたがごとくであり、くすぐりという武器が、噺を浅薄にしていた。
明治三十年に春錦亭柳桜を、三十三年には、円朝と燕枝とをうしなった東京落語界は、円朝亡きあとの三遊派を統率していた四代目円生までを三十七年にうしなうにおよんで、善後策をたてるべき時期をむかえていた。
そんな東京落語界で幅《はば》をきかせていたのは、円遊一派のナンセンスだった。
明治二十年代までの円遊のナンセンスは、たしかに新鮮であり、近代落語の水先案内の役割りを果たしていたが、この時代になると、はなしの内容を無視して、くすぐりに狂奔する浅薄さのゆえに、有識者にそっぽをむかれていた。
このように、くすぐりのために、はなしを破壊する邪道がはびこり、本格派といわれる円喬、円右、円左などが衰微していたが、これをなげいた円左は、本格のはなしができるようにしたいと、落語、講談速記界の第一人者今村次郎に相談した。その結果、岡鬼太郎、森暁紅《ぎようこう》、石谷華堤《いしがやかてい》などが顧問になって、明治三十八年三月二十一日、日本橋|常磐木倶楽部《ときわぎくらぶ》で、第一回落語研究会がひらかれた。会員は、円右、円左、円喬、小円朝、円蔵、三代目小さんの六人で、マクラからオチまできちんとはなして大好評だった。
この会のうごきは、本格的に落語ととりくむムードを東京落語界にかもし、黄金時代への道がひらけていった。
岡鬼太郎は、明治三十八年五月の「文芸倶楽部」に、「円遊一派の駄洒落に乗り出して、ハアハア云う客のみ殖えて、江戸前の滑稽趣味アワヤ地を払わんとする今の時にあたり、この会の起りしは何よりの事」と書いたが、これは、円遊時代への訣別の辞でもあった。
第一回落語研究会に出演予定だった円遊は、出演依頼にきたのが、売れない円左なので、無料出演の花会《はなかい》とカンちがいして、研究会を無断欠席し、横浜のお座敷へいってしまった。それがばれて、各新聞で総攻撃されたので、おどろいた円遊は、自分から研究会出演を申しこみ、第三回に出演したが、時代おくれのくすぐりだくさんの芸は、本格派の真剣な高座とは水と油で、悪評をうけて、人気|凋落《ちようらく》を早めたが、研究会の意義を理解できなかったところに円遊の限界があったし、そこに、時流におきざりにされてゆく円遊のさびしい横顔があった。
明治四十年十月十五日、人気もすっかり落ちた円遊は、弟子の福円遊をともなって、亡くなった子どもの石塔を建てるために、谷中の天王寺へでかけた。
折りからの秋風に吹かれながら、円遊は、「おれも、もう、ちかいうちにここへくるんだ」といった。
これを聞いた福円遊が、「師匠、つまらないことをいうもんじゃありません。そんなことがあってたまるもんですか」というと、円遊は、「いや、そうでない。もう、ちかぢかだろう」と、なおも、くりかえした。
すっかりなさけなくなった福円遊が、「師匠、なぜ、また、そんな心ぼそいことをいうんです?」と聞くと、円遊は、「いま、おれは、この墓地へきて、ふと、あのステテコの唄をおもいだしたら、急に心ぼそくなってきた。あの唄は、『さても諸席の大入りは、立川談志の十八番、郭巨の釜掘り、オイテロレン、万橘ヘラヘラ、円太郎ラッパで、お婆さんあぶない、円遊のステテコ、チャラチャラチャラチャラ』というんだろう。そら、その唄の談志、万橘、円太郎は、その順に故人になって、のこっているのは円遊ばかりだから、こんどは、いよいよおれの番だ」といった。
はなやかな過去の栄光の日日を脳裡にうかべながら、墓地にたたずむ円遊の背に、哀愁のかげのなんと濃くあることか。
果たして、四日後の十八日から床についた円遊は、十一月二十六日、落語研究会の発展によって隆盛にむかう東京落語界に背をむけて、五十九年にわたる生涯をおえた。
多くの欠点はあったにもせよ、明治の新時代にかんがみ、古風な人情噺をすてて、落語本来の使命である滑稽に徹した円遊は、近代落語の祖としての栄光にかがやくべきひとだった。
盲小せん
明治十六年(一八八三)四月三日、浅草福井町一丁目(現台東区浅草橋一丁目辺)の、本名を鈴木源七といった音曲師四代目|七昇亭花山文《しちしようていかざんぶん》(のち二代目三遊亭万橘》のうちに男の子が生まれ、万次郎と命名された。
花山文は、でっぷりふとった、赤ら顔の、目のくりくりした、美声で江戸前の音曲師だった。落語は、あまりうまくなかったが、それでも、音曲師としてのノドを生かした「掛けとり万歳」のようなはなしは、きびきびした調子と愛嬌とが手つだって、かなり客によろこばれていた。
花山文の子の万次郎は、やせて、色が黒くて、目のぱっちりした、おとなしい子どもで、親孝行の評判も高く、ちいさい弟や妹のめんどうもよくみるし、おまけに、学校の成績もよいので、町内のほめ者になっていた。
万次郎のとなり町の福井町二丁目に、万次郎よりも二つ年上の岡村久寿治という少年がいた。
久寿治は、町内もちがうので、万次郎とあそぶ機会はすくなかったが、それでも、肩をならべて、八幡さまのお神楽《かぐら》をみたり、ちいさな神輿《みこし》のあとをついてあるいたり、一丁目の初午《はつうま》まつりのときに、赤ん坊をおぶった万次郎が太鼓をたたいているそばで、地口《じぐち》あんどんをみてあるく程度のつきあいはあった。
この万次郎と久寿治とが、のちに柳家小せんと、そのよき後援者の劇作家岡村|柿紅《しこう》として深い関係をむすぶことになるのだから、人間の運命はわからない。
明治三十年(一八九七)、十五歳になった万次郎は、父親のあとを追って芸界いりをした。
師匠は、四代目麗々亭柳橋で、万次郎は、柳松《りゆうしよう》という芸名をもらった。
師匠の柳橋は、人情噺の名手三代目柳橋(のち春錦亭柳桜)の長男で、道具入り人情噺のうまい美男の人気者だった。
ところが、翌年、柳松が十六歳、父親の花山文が四十六歳の夏、どちらから伝染したのかわからなかったが、ともにチフスにかかり、ふたりともに四十度以上の高熱の日がつづいて、たえずうわごとばかりいっていた。
医者は、「ことによると、おとっつぁんは助かるかも知れませんが、ご子息のほうは、むずかしいですよ」といっていたが、結果は逆で、八月八日、父親の花山文のほうが帰らぬひとになった。
のこされた柳松は、弟や妹までかかえた身なので、師匠柳橋をたよりに必死の修業をつづけるうちに、明治三十三年(一九〇〇)、こんどは、杖とも柱ともたのむ柳橋が、わずか四十一歳の若さで、花山文と月もおなじく八月二十一日に急死してしまった。
父につづいて師匠の死――それは、やがておとずれてくる小せんの薄幸の生涯の前ぶれであるかのようで、暗くあわただしい変事の連続だった。
師匠をうしなった柳松は、三代目柳家小さん門下に転じて、小せんと改名した。
同門に、もと三代目春風亭柳枝門下で、千枝《せんし》といい、やはり、小さん門下に転じた本間弥太郎こと二代目|蝶花楼馬楽《ちようかろうばらく》がいた。
馬楽は、飲む、打つ、買うの道楽者だったが、芸道熱心、俳諧趣味、読書趣味の点で、小せんと一致し、その上に、ふたりとも、いわば外様《とざま》の小さん門下でもあるところから、肝胆《かんたん》相照らす仲となった。
このふたりの仲間いりをしたのは、やはり、すべての点で共鳴した、本名鶴本勝太郎こと古今亭志ん馬だった。
功利的な新時代になじめず、江戸っ子風の反俗精神を共有する三人は、ともにまずしくて、吉野町(現台東区東浅草一丁目辺)にちいさい家を借りて、いっしょに住んでいたが、裏に池があるので、夏は、とくに蚊がひどかった。そこで、三人は、なけなしの金をだしあって、古蚊帳を買うことになり、馬楽が買いに出かけたが、まもなく、彼は、蚊帳のかわりに『三国志』を買ってもどってきた。
これをみたふたりが、「ばか野郎、本で寝られるかい」というと、「大丈夫だよ。蚊にくわれな けりゃあいいんだろう」と、すましてこたえた馬楽は、一晩中、『三国志』に読みふけりながら、ふたりをあおいでやっていた。
蚊帳のかわりの読書なのだから、江戸戯作や斎藤緑雨を愛読していた小せんも、趣味をおなじくする志ん馬もなっとくしたのだった。
貧窮のどん底で、芸道精神をつづけていた小せんは、きめのこまかい演出と警句まじりの達者な口調《くちよう》とで頭角をあらわし、落語研究会にも起用されて、「文芸倶楽部」にも評判記が掲載された。
それは、たとえば、明治四十一年九月号には、
△小せんという男は、よほど機知にとんでいる。それに、技倆《ぎりよう》もたしかに今の青年中、ことによると、老大家をもしのぐ場合がある。
◎君も小せんを有望と思っているのか。僕も疾《と》うに小せんには感心していることがある。それはほかでもない。速記本で読んで見ると、彼のは少しも無駄がなくて、たしかに文章になっていると思った。この点では、老大家のなかにも彼に一籌《ちゆう》を輸する者が随分多いようだ。
△なるほど、そんなことはあるだろう。あの調子ですすんだら、たしかにりっぱなものになる。
などと絶讃されたがごとくだった。
小せんは、三代目小さんの弟子でありながら、師匠が得意とする「碁どろ」や「らくだ」などは、ほとんど口演せず、むしろ、二代目小さん(禽語楼《きんごろう》)の「鉄拐《てつかい》」や「五人まわし」などをよく演《や》ったが、その本領は、彼の生活そのものだった遊廓を舞台にする廓《くるわ》ばなしにあった。この場合、「居残り佐平次」「お見立て」「お茶汲み」などの古典に自分の体臭をしみこませ、血を通わせたが、「とんちき」「白銅」などのあたらしい廓ばなしにも、みごとな迫力をしめした。
明治中期から末期にかけてのよき時代にそだち、太平の世の廓あそびのなかで芸人として生長していった小せんの落語には、時代の推移とともに、しだいに様相を異にしてゆく廓の、さらには、東京風俗に対する軽い諷刺とあきらめのぐちとがいりまじって、それが、いつしかその芸風になっていた。
「とんちき」によって、その高座を再現しよう。
……おまんまを食べてしまうと、となりの家の時計が一時を打つ。それからおもてへでると、いま浅草行の赤電車が通ってしまったというところへぶつかる。まことにものが悲運になっている。車へ乗りゃあ高いから、よんどころなく尻をはしょって駈けだす。お女郎買いにゆくんだか、火事見舞いにゆくんだかわけがわからない。馬道八丁から土手へかかる。その時分には、もうせいせい息をきって、マラソン競争が、いま決勝点につこうというような顔をしている。衣紋坂から大門へはいる。もう見栄の場所だから、尻もはしょっていられない。お約束通り衣紋をつくろって、いま大門をまたごうとするとたんに、襟にさしていた小楊子《こようじ》をとって、それをちょいと口中でうごかしている。これはまことに罪が深いしうちで、駈けだしていったんですから、顔がぽーっと赤い。赤いやつが楊子をいじくっているんだから、どこかそこらで飲み食いをしてきたようにみえる。(中略)やがて、部屋ったってまわし部屋、たばこ盆もありゃあしません。しかたがないから、たもとからマッチをだしてたばこを吸いはじめる。お女郎屋のお座敷だか、いなかの停車場の待合だかわけがわからない。やがて十五分ばかりたつと、ドタリバタン、ドタリバタンという上草履の音がする。お察しあそばせ、あんまりいいおいらんははいってこない。尻の大きい、体格肥満なのがはいってくる。女だからいけないけれども、男だったら甲種合格、横須賀要塞砲兵まぬがれないという柄です。
というような調子で高座は展開され、さらに、この女郎に、「チョイト万公、またきたの」「今夜いくら持ってきたの」とやられ、活動写真に客をとられて不景気だとぐちをこぼし、床入りになっても、女はうしろむきで、こっちをむけというと、「いやだよ、そっちをむくのは……あたしは、左が寝勝手なんだよ」「そうかい、それじゃあ、おいらん、こっちへおいでな。おれがそっちへいこうじゃないか」「いけないよ、こっちへきちゃあ、たんすがあるんだよ」「たんすがあったっていいじゃないか」「いけないよ、中の物がなくならあね」と、泥棒あつかいをされるというように噺は進行するが、ここに、小せんの廓ばなしの特色が、はっきりとあらわれていた。
スラッとして色の浅黒い好男子の小せんは、なじみの妓もできて、廓への耽溺ぶりもはげしさをくわえていった。
明治四十一年の冬になると、小せんは、足のぐあいがわるくなって、家のなかでは、畳につまずいたり、梯子段の上り下りに不自由を感じたり、おもてをあるいていると、げたがぬげたりするようになった。
それは、脊髄性梅毒のために、やがて歩行不能の身となる前ぶれだったが、小せんは、それほど気にもとめずにいた。しかし、翌年の三月にはいると、どうにもぐあいがおもわしくないので、医者の診察をうけると、「第二期の脊髄だから、せいぜい治療につとめなければいかんよ」という診断だった。
これには、さすがの小せんも肝をつぶして、あれこれと治療につとめるようになったが、こんなからだになっても、あそびの道はおさまらず、仲のよい志ん馬とふたりが幹事になって、「秋季大女郎会」という廻状をまわし、十三人の一行で吉原へくりこんだのだから、のんきなものだった。ただし、足のわるい小せんだけは、往復ともに人力車だったので、帰るときには、女郎買いの朝帰りというよりも、外科の患者が退院でもするようだと、みずから苦笑せざるをえなかった。
日一日と、足のぐあいはわるくなり、暗い日をむかえていく小せんにとって、いっそう胸のいたむできごとは、親友馬楽の発狂だった。明治四十三年三月下旬になると、馬楽の狂乱状態が目にあまるようになったので、深川の粋客鈴木台水と岡村柿紅と小せんの三人は、馬楽を根岸病院に入院させるにいたった。
そんなさびしい小せんではあったが、その芸についての世評は、しだいに高まってきた。
それはたとえば、明治四十三年四月号の「文芸倶楽部」に、石橋思案が、
五月八日―午後、落語研究会の第六十二回を聴きに行く。小せん君が、その師小さん君の病気欠席のため、ふたたび登壇して、「湯屋番」を演じたが、病躯を忘れて縦横無尽に斬りまくった舌端、ほとんど火を吹くごとく、同君が、いかに芸道に熱心なるか、僕はおもわずうれし涙が流れたほどであった。
と、絶讃の筆を走らせたほどだった。
小せんの芸道精神は、病魔にさいなまれながらも地道におこなわれ、馬生(志ん馬改め)、つばめ、むらくと四人で「青年研究会」という会をつくり、新石町(現千代田区内神田三丁目)の立花亭において、毎月第四日曜日ごとに開催されていたほどだった。
ところが、明治四十四年十月には、むらくが、地方へいって留守であり、つばめが、東京座の落語家芝居に出演のために欠席したので、十月二十二日の会は、やむをえず、馬生と小せんが、おのおの三席ずつ口演する二人会を開催したところ、意外の大入りで大成功をおさめた。
これを契機として、二人会や独演会がさかんになっていったのだが、ふたりの苦しまぎれのこころみが、落語会に、二人会、独演会という、あたらしい興行形式を生んでいったのだからおもしろい。
明治四十五年にはいると、治療の甲斐もなく、小せんは失明してしまった。
そんな失意のどん底から、小せんが、立ちあがる日がおとずれた。
それは、明治四十五年四月三日、新石町の立花亭で、小せんが、はじめての独演会をひらいたことだった。
四月三日が誕生日にあたる小せんは、この日が、自分が失明してからのはじめての誕生日であるので、新生涯にはいってから最初の高座であるという心持ちで口演した。そして、独演会と称するからには、文字通り自分ひとりでやらなければならないものときめて、前座もつかわずに、十二時の時計の音を聞くやいなや高座にあがり、「寿限夢《じゆげむ》」からはじめて、八席の落語を口演するという奮闘ぶりをみせたが、そこには、落語界から脱落しまいという、小せんの必死のすがたがあった。
こんな涙ぐましい努力をする一方では、やはり、小せんらしい風変りなこともやってのけていた。というのは、この年、八月八日、父親の墓参にでかけた小せんは、生きているうちに自分の戒名を知っておきたいからと、寺の住職にたのんで、のんきにも、「古詮院法有信士《こせんいんほうゆうしんし》」という法号をつけてもらったことだった。
独演会のような特殊な会をひらきはしたものの、明治四十五年から大正二年にかけての小せんは、健康上、普通の寄席興行を休演せざるをえなかった。
このあいだ、兄弟弟子のつばめと、師匠の小さんとが、「わり(給金)」をとどけて、小せんの生活をささえていた。とくに、小さんの心づかいはたいへんなもので、その恩にむくいることのできない小せんは、わが身の不甲斐なさに、歯ぎしりするおもいだった。
大正三年一月十五日、岡村柿紅、鈴木台水、馬生の三人が、小せんを訪問してきた。
その趣旨は、胃ガンで病床に在る馬楽を、十八日に、山谷の「重箱」で慰藉《いせき》してやるから、馬生と小せんとで、一席ずつ落語をやってくれとのことだった。ところが、翌十六日には、馬楽が他界してしまったので、慰藉会変じて追悼会になってしまい、床の間に馬楽の肖像をかざり、関根|黙庵《もくあん》、吉井勇、長田幹彦、岡村柿紅、小糸源太郎、久保田万太郎などの来会者の前で、小せんが、「居残り佐平次」、「湯屋番」、馬生が、「三人旅」、「あくび指南」を口演した。
この年、小せんが、森下から三好町(現台東区)へ移転すると、岡村柿紅、久保田万太郎、吉井勇などがきて、小せんを後援する目的で、「小せん会」を創立し、九月二十日、新石町の立花亭で発会式をおこなった。
これ以後、毎月、同所において、第三日曜日に開催ときまったが、このころの小せんは、人力車を楽屋口につけて、女郎あがりの恋女房お時に背負われて楽屋へはいり、高座には御簾《みす》をおろしておいて、釈台につかまって坐るというかたちで寄席にでていた。
小せんは、足腰が立たないためにじれて、お時をどなりつけたり、なぐったりしたが、お時は、それでもいやな顔ひとつみせずに、かいがいしく世話をつづけ、番屋の賞讃の的になっていた。
からだは、不自由になる一方だったが、それでも、小せんは人気者で、あるときの独演会では、「小せんの五女郎買い」と題し、天地紅《てんちべに》の巻き紙に、おいらんの文のような色っぽい、あいさつ状をくばり、「五人まわし」「とんちき」「明烏」「錦の袈裟」「付き馬」など、五席の廓ばなしで観客を陶酔させるのだった。
そんな小せんは、また、後輩のよき指南役でもあった。
落語界では、はなしを教えるのに金をとることはなかったが、小せんの場合には、からだが不自由で、収入もとぼしいところから、師匠小さんが、金をとってはなしを教えるようにすすめて、金をとって稽古をつけるようになった。そのために、若い落語家たちは、凝《こ》ったみやげものを用意する気づかいもなく、気軽に稽古にいくことができた。
小せんは、若い連中にむかって、「あたしゃあねえ、はなしをおろす問屋だよ。三銭でおろしてあげるから、おまえさんたちは、そいつを五銭で売るように勉強するんだよ。もとはとれるから……」といって聞かせた。
稽古は、一席のはなしを、三回ぐらいに切って教える親切な方法なので、まことにおぼえやすいとよろこばれた。しかし、若手に稽古をつけるばかりでなく、小せん自身の研究もつづけられていた。
おぼえた芸を冥土まで持っていきたいという念願に燃える小せんは、失明してからも、師匠小さんのもとで稽古にはげみ、「うなぎの幇間」「明烏」「廓大学」「片棒」などというはなしを身につけることができた。
研究熱心な小せんは、ある日、久保田万太郎といっしょに、ふらりとやってきた岡村柿紅に、いきなりはなしかけた。
「ねえ、岡村先生、白浪五人男の稲瀬川の勢ぞろいの場で、それぞれツラネのせりふがありますね。あのなかの忠信利平のはなんといいましたかね。餓鬼《がき》のときから手くせがわるく……」
「ぬけまいりからぐれだして」
「ああ、そうそう、旅から旅をかせぎまわり」
と、いいかける小せんのことばをうけて、柿紅はすらすらと、
「碁打ちといって寺方や、物持ち百姓の家へ押しいり、盗んだ金の罪科《つみとが》は、毛抜けの塔の二重三重、かさなる悪事に高飛びなし――というんだろう」
といってから、このせりふをなにかにつかうのかと聞くと、小せんは、つぎの小せん会でやる「居残り佐平次」のなかでつかおうとしているといった。
品川遊廓で、遊興費が払えずに居残りをしている佐平次という男が、自分はおたずね者だから高飛びしたいといつわって、女郎屋の主人から金やきものをせしめる場面において、佐平次のせりふにしたいと小せんはいい、
「……もし旦那え、と芝居がかったせりふになってから、こちらの敷居をまたいで外へでられないというのは、じつは旦那、人殺しこそしていませんが、夜盗、かっさり、家尻切り、わるいにわるいということをしつくしまして、五尺のからだのおきどころのない身の上でございますというと、主人はおどろいて、そんなわるいことをしそうにもみえないといいます……それからが、このせりふですが、すっかり調子をくだいてしまって、持って生まれた悪性で、餓鬼のときから手くせがわるうございまして、ぬけまいりからぐれだしまして、旅から旅をかせぎまわり、碁打ちといっては寺方だの、物持ち百姓の家へ押しいりまして、盗んだ金の罪科は、毛抜けの塔の二重三重、かさなる悪事に高飛びなしというと、主人が、なんだか聞いたような文句だといいます。いかがでしょう? ひとつこんなふうにやってみようとおもっているんですが……」
と、小せんがいうと、
「なるほど、こいつあきっとうけるね」
「おもしろいよ」
と、万太郎と柿紅とが口をそろえていったが、果たしてそれは大好評を博した。
芸一すじに生きぬく小せんではあったが、薄幸のわが身の上をおもうとき、孤独地獄に在るおもいだった。そして、
飲み馴れた酒じゃもの、
いま少し、もう少し
飲みたいけれどオイテオコ。
生姜《しようが》もって来い、湯漬にしよう。
月も出ぬかや、風も来ぬ、
鳴かぬ蚊が刺す、お時や打てよ、
おれの体に血があるか。
という、心も凍りつくような唄を代筆させたハガキや、これも代筆で、「手紙を読む時と書く時は目がほしゅう御座い升」と、真実の声をこめたたよりを、吉井勇によせるのだった。
大正八年(一九一九)五月二十六日、旧きよき時代の詩情をえがきつづけた小せんの、三十七年間の生涯の幕がしずかにおろされた。
盲目の小せんが発句を案じいる
置炬燵より悲しきはなし
吉井 勇
○編著者 |興津 要《おきつ かなめ》
一九二四年栃木県生まれ。早稲田大学国文科卒。早稲田大学教授。日本近世文学、ことに江戸戯作を専攻。一九九九年没。著書、「転換期の文学――江戸から明治へ」「明治開化期文学の研究」「新聞雑誌発生事情」「小咄 江戸の一年」「江戸庶民の風俗と人情」「江戸小咄漫歩」ほか多数。
本書収録の作品の一部に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、古典落語という作品の性質上、一応そのままとしました。ご了承ください。