古典落語 続々々 興津 要 編
目 次
うなぎ屋
狸《たぬ》 賽《さい》
釜どろ
かわり目
松ひき
付き馬
五月のぼり
高田の馬場
いも俵《だわら》
富士まいり
磯のあわび
笠 碁
鉄《てつ》 拐《かい》
権助ぢょうちん
禁酒番屋
坊主のあそび
本 膳
水屋の富
開帳《かいちよう》の雪隠《せつちん》
三助のあそび
星野屋
唐茄子屋政談《とうなすやせいだん》
小 粒
盃の殿さま
百《もも》 川《かわ》
お血脈《けちみやく》
ふたなり
お化け長屋
夢 金
淀五郎
≪上方篇≫
馬の田楽《でんがく》
愛宕山《あたごやま》
たばこの火
くっしゃみ講釈
景 清
箒屋娘
解 説
新作落語史
うなぎ屋
「おい、こっちをむきなよ。友だちが呼んでいるんだ。こっちをむけってんだよ、じれってえな。こんちくしょうめ、だまってつっ立ってやがる。この石燈籠《いしどうろう》めっ、こっちをむけってえのに、おいっ」
「むいてるよ」
「え? むいてる? ……ははあ、なるほど、むいてらあ。おまえの顔をはじめてゆっくりみたが、うらおもてのはっきりしねえ顔だな。なに? 口をきいてるほうがおもてだって? ははあ、そういわれてみると、神経でそうみえるな」
「ひとのつらを神経でみるやつがあるか」
「そうぐちをこぼすなよ。飲ませてやるから、ちょっとこいよ」
「ありがてえ……いや、よそう」
「おい、変な返事するない。いやなのか?」
「べつにいやじゃあねえんだが、飲ませてやるってえのにゃあ、こりごりしてるんだ」
「どうして?」
「このあいだな、為《ため》の野郎が、うしろからきやあがって、『一ぱい飲ませようか?』っていうんだ。『ありがてえ。それじゃあ飲ませてくれ』というと、『いっしょにこい』っていうから、あとをくっついていくと、吾妻橋をわたり切って、川べりを左へきれて、枕橋へかかった。こいつあありがてえ。八百松あたりで一ぱいやるのじゃなかろうかとおもってると、八百松を通りこしちまった」
「ふんふん」
「それから、あの土手をぶらぶらあるいた。どこへいくのかしら? 百花園へでもいくのか? それとも、水神《すいじん》へでもいくのかとおもって、あとへくっついていくと……言問団子《ことといだんご》のところを、おまえ、知ってるか?」
「知ってるよ」
「あすこを、左へだらだらとおりた」
「言問団子のところを左へおりたら、おまえ、川っぷちじゃあねえか」
「ああ、だれがみても川っぷちだ。あすこへおれを立たせてな、『さあ、飲みねえ』と、こういうんだ」
「なに?」
「『こんなにあるから、遠慮せずに飲みねえ』と、こういうんだ」
「なんだ、川の水をか?」
「そうなんだよ。おれが、『こりゃあ川の水じゃあねえか』といったら、『そうおもうからいけねえ。これが隅田川という酒だとおもやあいいじゃあねえか。飲め、飲め』と、いやあがる」
「ひでえことをいやあがったな。てめえのことだから、だまっちゃあいなかったろう? 『ふざけちゃあいけねえ。武士は食わねど高楊子《たかようじ》だ。川の水なんぞ飲むもんか』と、たんかをきってやったろうな?」
「ああ、腹が立ってたまらねえから、どうするかみやあがれってんで、手ですくって八ぱい飲んだ」
「ばかだな、こいつは……」
「あとで腹をくだして二日寝ちまった」
「よせよ、おかしなことをするのは……きょうはな、そんなところへつれていくんじゃあねえ。ほんとうに酒を飲ませてやろうってんだ」
「へーえ、ばかに景気がいいんだな」
「いや、じつは、おもしれえはなしがあるんだ。この横丁にうなぎ屋ができた。その開業式の日におれがとびこんだんだ。すると、うなぎさきの職人が用たしにいって、いつまでたっても、うなぎが焼けてこねえ。きゅうりの香の物《こうこ》で、二時間ばかり酒を飲ませやがった。あんまり長えから手をたたくと、へんてこな野郎があがってきやあがって、『なにかご用でございますか?』っていうから、『おい、若え衆、おめえのところは、うなぎ屋か? ぬかみそ屋か?』と、聞いた。すると、その野郎が、おさまった野郎で、平気なつらをして、『へえへえ、てまえのところは、うなぎ屋でございます』といやあがる。『うなぎ屋なら、うなぎに逢おうじゃあねえか。河童やきりぎりすじゃああるめえし、きゅうりばっかり食っていられるか。さあ、うなぎに逢わせろ』というとな、『そりゃあ逢わせないということはございませんが、しかし、どんな顔をしたうなぎにお逢いになりたいのですか?』というんだ。『なにをいやあがる。べつにうなぎと見合いをしにきたんじゃあねえ。うなぎを焼いて持ってこい』というと、『へえー』といって、おりていったとおもいねえ。うなぎさきの職人がいねえもんだから、うなぎの丸焼を皿へのせて持ってきやあがった。おらあ、あきれたから、『おい、若え衆、うなぎというものは平ったく焼くもんだが、こいつは、いやにかたまってるじゃあねえか』といったら、『へえ、さようでございます。当節は、地代が高うございますから、巾《はば》をとらないようにいたしました』といやあがる。あんまりしゃくにさわったから、その野郎の目のなかへ指をつっこんでやろうとおもっているところへ、亭主があがってきやあがって、『まことにあいすみません。きょうは、開業式のことで、おもうようにゆきとどきませんところへ、うなぎさきの職人が、用たしにでかけておりません。たいへんご無礼申しあげましたから、きょうのところは、お勘定をいただこうとはおもっておりません。まあ、これをご縁に、後日、また、お飲みなおしにおいでくださいまし』と、こういうから、『それじゃあすまねえが、きょうのところは、ごちそうになるよ』といってとびだしたが、いま、ここへくる途中、うなぎ屋の前を通ると、また、うなぎさきが、どこかへ用たしにいっていねえんだ。そこをつけこんで、きゅうりの香の物で、二時間ただ飲みをしようてんだが、どうだい、いかねえか?」
「うん、いこう、いこう。そういうところが、もう五、六軒ねえかな?」
「そんなにあるもんか。いいから、まあ、いっしょにきねえ……親方、こんちは」
「おや、いらっしゃいまし。先日は、たいへん失礼をいたしまして……」
「いやいや、こっちこそごち(ごちそう)になっちまってすまなかったな。しかし、親方、うれしいね、おまえさんは。どうかして、この横丁に、うなぎ屋の一軒ぐらいほしいとおもっていたんだ。どうも、おでん屋や馬肉屋じゃあ、酒がうまくねえ。そこへ、おめえが、あたまをはたらかして店をだしてくれたんで、友だちは、みんなよろこんでらあ。きょうは、ひとりひっぱってきたから、飲ましてくれ」
「へえ、毎度ごひいきにありがとう存じますが、きょうは、うなぎさきが、ちょっと用たしにでかけまして……」
「そんなことをいうない。おれたちは、なにも、うなぎさきを食いにきたんじゃあねえ。うなぎを食いにきたんだから……おめえ、うなぎ屋の親方だろう?」
「へえ」
「うなぎ屋の親方なら、おめえ、うなぎの割《さ》けねえことはなかろう?」
「へえ、そりゃあ、割けないことはございませんが、なにしろ、このごろのうなぎは、みんな達者なやつばかりなので……」
「変なことをいいなさんな。うなぎは養生《ようじよう》のために食うんだよ。達者なうなぎ、結構じゃあねえか……うなぎが入院したとか、リュウマチでうごけねえなんてえなあ聞いたこたあねえ。いいから、早く焼いてくんねえ」
「へえ、よろしゅうございます。やります、やりますよ。やりますがね、すこし、あとへさがっていただきませんと、この下にいるんでございますが……」
「ああ、いるいる。おめえのところじゃあ、いい魚《うお》をつかっているな。養殖《ようしよく》じゃあねえな……そうさな、どれをやってもらおうかな? そうそう、こいつだ、こいつだ。大きくなく、ちいさくなく、中くれえで、いいかたちをしてらあ。こいつをやってくれ」
「へえ?」
「こいつを焼いてくんねえ」
「へえ、これ? これですか? は、はー……」
「親方、おめえ、うなぎをみて、ため息をついているな」
「あなたは、そうおっしゃいますが、こいつは、まことにたいへんなやつで、開業式の日からきょうまで生きのびております。このうなぎについては、うちのものも、みんな手こずっているのでございます。ごらんなさい、ほかのうなぎとは、人相がちがいますから……」
「なにをいやあがるんだ。うなぎに人相があるかい」
「よくごらんなさい。眉間《みけん》に傷がございまして、これを、うちでは、光秀と申しまして、将来は、お家に仇をなすという……」
「なにをいってやがるんだ。なんでもいい、それをやってくれ」
「やれとおっしゃればやりますがね。こいつは、いやにすばしっこいやつでございましてね、つかまえるにしても、容易なわけのもんじゃあございません。こういうぐあいに……よーっとつかむと……ぬけてしまうでしょう? なにしろ、あなた、ずうずうしいやつでございまして、よーっと、つかむと……ほら、あの通りぬけてしまいます」
「おいおい、なにをしてるんだ。あきれけえったもんじゃあねえか。おれたちのようなしろうとだって、うなぎのつかめえかたぐれえ知ってらあ。おめえ、うなぎ屋のくせに、うなぎのつかめえどころを知らねえということがあるもんか。胴なかをつかめえたりしたら、みんなにげちまうじゃあねえか。おれがつかめえるからみていな。うなぎは、ここだよ。襟っ首のところをつかめえりゃあ、子どもだってつかまるんだ。いいか? みてろ、おれがつかめえてやるから……襟っ首の、ここが急所だよ。おれがやるから、みていねえ。ほら、こう、ぎゅーっとつかめえようとして……どうだい? ちょいとちがってもにげるだろう」
「へえ、さようですな」
「にげたっておどろくなよ。うなぎが、むこうへいって、やれうれしやと安心をしている油断を、こっちがみすまして、ほーら、こういうぐあいに、よーっと、つかめえようとすると……そら、にげちまうだろう?」
「それなら、だれだってできるじゃあございませんか」
「できるなら、おめえ、やってみねえ」
「へえ、どうも、うなぎというものは、生きておりまして……」
「あたりめえだ。死んでりゃあ、骨は折れねえ」
「どうもぬらぬらしましてしかたがございませんから、ぬかをかけましょう……ええ、これならもう大丈夫で……よーっと、こういうぐあいにつかむと……あなた、なにがおかしいんです?」
「親方、たいそう汗をかいてるな」
「だれだって、うなぎをつかまえるには、みんな汗をかきます……よーっと、あっ、たいへん、たいへん、つかまりました。つかまえたって、すぐに持ちあがりやしませんよ。こういうぐあいに……あっ、しっかりつかまりました、つかまりました。ほーら、いくらつかまえても、こうやってぬけてでるでしょう? ぬけてでるから、だんだん上のほうへいってしまうんで……おそれいりますが、そこにある踏み台をこっちへ貸してください」
「じょうだんいっちゃあいけねえ。うなぎをつかまえるのに踏み台がいるかい。そう上をむけるからいけねえんだ。下へむけろ、下へむけろ」
「下へなんぞむくもんですか……あっ、こんどは、こういうぐあいに、だんだん前へでます。わあ、どんどんおもてへいきます……お気の毒でございますが、しばらくのあいだ店番をしてくださいまし」
「おいおい、ふざけちゃあいけねえ……おいおい、うなぎを持ってどこかへいっちまった。帰ることはできず、しょうがねえじゃあねえか」
「あら、いらっしゃいまし。どうもおかまいもいたしませんで、あいすみません。うちのひともおりませんし、奉公人もみえないようでございますが、うちのひとは、どこへいったんでございましょうか?」
「やあ、おかみさんかい。いいところへ帰ってきてくれた。親方は、いま、うなぎを持って、どこかへいっちまった」
「あら、またでございますか? 一昨日《おととい》もうなぎを持ってでかけまして、さっき帰ってきたばかりなんでございますよ」
「えっ、泊まりがけで、うなぎを持ってあるいてるのかい? ……ああ、むこうの横丁からでてきた。町内をひとまわりまわってきたんだな。まだうなぎを持っていらあ」
「ああ、どうもすいませんが、八百屋さん、その荷車をどけてください……ああ、そば屋さん、あぶないからよけて、よけて……」
「やあ、親方が、いろんなことをどなってるぜ……おいおい、親方、どこへいくんだい?」
「どこへいくんだか、前へまわって、うなぎに聞いてください」
狸《たぬ》 賽《さい》
きつね、たぬきは、ひとを化かすということをよく申しますが、おなじいたずらをするにしても、たぬきのほうが、まことにかわいいところがございます。そのかわり、ときどきやりそこなって、ひどい目にあうようなことがいくらもございます。往来に、ふろしきづつみになって落ちていて、欲ばった人間がきたら、ひろうだろうと待っているうちに、犬がやってきて、かまれたりなにかいたしまして、まことにまぬけなものでございます。
ああいう動物も、喜怒哀楽の情なんてえものがございまして、うれしいことはうれしい、悲しいことは悲しい。恩を感ずるとこは、また、恩を感じたりするそうで……
「おいおい、かわいそうに、そんなことをしちゃあいけないよ。子どもってえものは、どうしてそんないたずらをするんだろうなあ……犬だか猫だか知らねえが、そうひっぱたいちゃあ、しまいには死んじまう。よしな、よしな。たすけてやんな」
「おじさん、これは殺してもいいんだよ」
「殺してもいいなんてものがあるもんか。かわいそうだからたすけておやりよ」
「こりゃあ、犬や猫じゃあない。たぬきの子だよ」
「とんでもないことをする。たぬきの子なんぞ殺したら、親だぬきが、どんなたたりをするか知れないよ」
「でも、親だぬきが、毎晩いたずらをするから、その仇討ちに子どもを殺しちまうんだ」
「そんなことをしなさんな。おまえのおとっつぁんやおっかさんが、わるいことをしたのを、おまえにたたったらなんという? 『おれの知ったことじゃあねえ』というだろと。それとおなじことだ。親だぬきのいたずらは、この子だぬきの知ったことじゃあないからたすけてやんな。さあ、たぬきをこっちへよこせ」
「どうするんだい?」
「おじさんが、たぬきを買ってやるから、こっちへよこせよ」
「このたぬきを? おじさんが買うの? ……買って、どうするんだい?」
「逃がしてやるのよ」
「逃がしてやる? このたぬきをかい? ……ふーん、なかまかな? ……たぬきおやじ……」
「変なことをいうない……さあ、これで菓子でも買って、みんなで食べな」
「え? たったこれだけかい? あたま数みておくれよ。だめだよ、これっぱかりじゃあ……もうすこしだしとくれよ」
「あれっ、ひとの足もとをみやがらあ。いやな野郎だなあ……まあ、しょうがねえや。これだけやるから、さあ、たぬきをこっちへよこせ……おいおい、たぬき、なんだって、てめえ、まっ昼間、こんなところへでてくるんだ。さあ、縄をほどいてやるから、逃げろ、逃げろ……あはははは、まるくなってとんでっちめえやがった。ああ、うれしいとみえて、うしろをふりけえってやがら……でも、いきものをたすけたなんていい気持ちのもんだなあ。墓まいりの帰りだし、いい後生《ごしよう》だ」
用たしをして、一まわりまわって帰ってまいりましたが、ひとり者で、気楽でございますから、一ぱいひっかけて、せんべいぶとんへくるまると、ごろり横になりました。すると、おもての戸をトントンとたたく者がございます。
「だれだい、おもてをたたくのは?」
「こんばんは、こんばんは」
「だれだい? もう寝ちゃったんだ。あしたにしねえかい? だれなんだい?」
「へえ……たぬ……です」
「なに? だれだ?」
「たぬ……なんで……」
「辰公か?」
「いえ……たぬ……で……」
「為か?」
「いいえ、たぬ……なんで……」
「なんだかわからねえ。たぬきがものをいうようでなく、はっきりいってくれ」
「そのたぬきです」
「なんだ、たぬきだ? たぬきなんぞに用はねえ」
「そちらになくても、こっちにあるんで……」
「たぬきなんぞに心やすい者はねえ」
「これから親類になります」
「ばかなことをいえ。たぬきに親類になられてたまるものか……ははあ、そうか。だれか夜あそびかなんかしやがって、しめだしを食ったんで、泊めてくれってんだな。じょうだんじゃあねえや。せっかくいい心持ちにとろとろっとしたところじゃあねえか。待ちなよ、いまあけてやるから……さあさあ、おはいりよ。あれっ、だれもいねえじゃねえか。おう、どこへいったんだい? どこかそこらへかくれやがったな。つまらねえいたずらしてやがら……夜夜《よるよ》なか、ひとのうちへきやがって、ひとをわざわざ起こしといて……やいやい、どこへいったんだ?」
「こんばんは」
「あっ、肝《きも》をつぶした。へっついのかげに、まっ黒いものが……なんだ?」
「へえ、たぬきで……」
「たぬき? この野郎、気味のわるいやつだな。どっからへえったんだ?」
「親方、あなたの股をくぐってはいりました。たいそうふんどしがよごれてますね」
「大きなお世話だ……たぬきが、なにしにきたんだ?」
「へえ、昼間、子どもにとっつかまりまして、あぶなく殺されちゃうところを、親方にたすけていただきました。あの子だぬきなんで……」
「ああ、そうかい。あれからどうしたい?」
「あれから、穴へ帰りまして、あのことを両親にはなしましたら、両親とも腹をたたいてよろこんで、いって恩がえしをしてこい。恩を知らないやつは、人間も同様だといいましたから……」
「ひでえことをいうな」
「恩がえしのために、当分おそばへいって、ご用をたしてこいといいますからまいりました。どうぞ、ご遠慮なくおつかいなすってください」
「いくら恩がえしだって、たぬきをつかっていられるもんか。そうでなくても、世間のひとが、おれのことを、たぬきに似ているの、かっぱに似ているのというくらいだ。おれまでたぬきとまちがえられて、袋だたきにでもされた日にゃあたまらねえ。だいいち、せっかくたすけてやったおめえが、またひどい目にあうといけねえから帰ってくれ」
「それでも、このまま帰ると、おやじに『恩知らずめ、こんなやつは、穴にいれることはできねえ。勘当だ』と、しかられますから、どうぞ、当分お置きなすって……」
「こまったなあ。じゃあ、まあ、いてもいいが、ふとんが一枚しきゃあねえ。そうかって、おめえといっしょに寝るのもいやだし……」
「いえ、ふとんは持っていますから、よろしゅうございます」
「感心だな。ふとんを持ってきたなんざあ……」
「ふとんは持っておりませんが、きんたまをかぶって寝ます」
「ああ、そうだったな。たぬきのきんたま八畳敷きなんつって、たいそうでけえそうだな」
「へえ、ですが、わたしは、子どもですから、せいぜい四畳半てえところで……」
「あははは、そうかい。四畳半なんざあおつなもんだな……なにしろ、もうおそいから寝ねえ」
「じゃあ、おさきへごめんなさいまし」
「おいおい、縁の下へなんぞへえらねえでもいい。夜なかに、ひとのくる気づけえはねえから大丈夫だ」
「そうでございましょうが、畳が敷いてありますから……」
「畳が敷いてあったって遠慮するな」
「べつに遠慮はしませんが、畳の上は冷えていけません」
「うふっ、畳の上は冷えていけねえって? いうことが、みんな変わってやがる。やっぱり縁の下のほうがいいのか? じゃあ、勝手にしねえ」
「へえ、ありがとうございます……ぐー、ぐー……」
「おっ、早えな、もう寝ちまったのか? あれっ、目をあいたままいびきをかいてやがる」
「へえ、これが、たぬき寝いりというやつで……」
「なんだな、ふざけちゃあいけねえやな」
翌朝になりますと、たぬきのやつ、まだうすぐらいうちから起きて、掃除から食事のしたくまで万端《ばんたん》すませまして、
「親方、親方、お起きなさい、親方……寝坊だなあ。いくら起こしても起きやしねえ。人間は寝坊だなあ。親方、親方、早く目をおさましなさい、親方」
「うん、うん、あーあー……どうもすっかり寝こんじまった」
「もうお起きなさいよ」
「あっ、おむこうのじいさんか。おまえさんは早起きだからなあ……おやっ、おむこうのじいさんかとおもったら、みたことのねえひとだが、おまえさんはだれだい?」
「へえ、ゆうべのたぬきで……」
「あれっ、うまく化けやがったな。恩がえしをするなんていやあがって、ひとをだましやあがる」
「いいえ、べつにだましたわけじゃあありませんが、たぬきのままでもいられませんから、これでもなかなか心配して、いろいろやってみました。ちょうど親方の年ごろに似合った女に化けてみましたが、お長屋のおつきあいもありますし、だしぬけにおかみさんができたらおかしいとおもって、おばあさんに化けましたが、どうもうまくゆきませんから、いっそおじいさんのほうが目立たなくていいとおもいまして……」
「そうか。しかし、じいさんにしちゃあ、たぬきみてえにまるまるして、すこしふとりすぎてらあ」
「じゃあ、すこしやせます」
「そううまくいくのか?」
「へえ、ちょっとごらんなすって……」
「お、おう、やせた、やせた……おっとっと、そのくれえでよかろう。さっき、顔が、おむこうのじいさんに似ていたが、すこしかわってきたぜ」
「へえ、ときどきかわります」
「おいおい、いけねえな。ときどきかわったりしちゃあ、毎日おなじじじいでなけりゃあこまらあ。八公のところに、いろいろなじじいがいるなんていわれるとこまるから……」
「へえ、せいぜい気をつけます」
「やあ、いつのまにかばかにきれいになったな」
「ねえ親方、あなたは、ずいぶん無精《ぶしよう》だとみえてきたなくしておきますね。うすぐらい時分から起きて、すっかり掃除をしてしまったんで、いい心持ちになりました。それからまあ、顔を洗って、手をきよめて、ごはんを炊《た》いて、お汁《つけ》をこしらえて、納豆とたまごとつけものを買ってきました」
「おい、めしを炊いたとかいうが、おれんところには米はなかったはずだぜ」
「ええ、一つぶもありません」
「だいいち銭がねえや。どうやって買った?」
「いま、長火鉢のひきだしをあけたら、はがきの古いのがはいっていましたから、札《さつ》にみせて買ってきたんで……」
「ふーん、そうかい……あれっ、ここに銭がずいぶんあるじゃあねえか」
「へえ、ほうぼうでおつり銭をとってきましたから……」
「えっ、はがきの札《さつ》で、つり銭までとってきたのか? ずいぶんずうずうしいはなしだなあ。まあ、それにしても、貧乏人は、女房を持つよりたぬきを飼っといたほうが、よっぽど徳用だ。当分おれのうちにいてくれ。重宝《ちようほう》なもんだ」
八五郎は、顔を洗って、朝めしをすませてしまうと、
「ときにたぬ公や、おめえをたすけてやったのを恩にかけるわけじゃあねえが、おれは、ひとり者で、ついなまけぐせがついてるもんだから、借金で、おそろしく義理のわるい人間になってるんだ。それだけひとつかたをつけてくれねえか?」
「借金というのはどのくらいで?」
「いまこうやってるうちにもくるか知れねえ。越後のちぢみ屋に五円借りがあるんだ。『あなたのだけいただけないために、宿屋でむだめしを食べています』といって、うるさく催促にきやあがるんだが、どうも都合《つごう》がつかなくってだんだん延ばしておいたけれども、きょうは、もういいわけの力もつきてしまったんだ。どうだ、おめえ、五円だけこしらえてくれねえか?」
「それがどうも、はがきか木の葉では、親方がつかって札にみえません」
「なるほどそうか……こいつあこまったな、なんとか工夫《くふう》はなかろうか?」
「……じゃあ、わたしが札になりますからおつかいなさい」
「おめえが札になれるのか?」
「ええ、札や銀貨には、ちょくちょく化けたことがあります。ちいさいときによくやって、おやじにしかられました」
「なんでしかられた?」
「夜おそく、道ばたのあかりの下なんぞに、札や銀貨になってころがってるんで……欲ばってるやつがひろおうとして手をだすと、ひっかいて逃げてきますが、なかなかおもしろうございます」
「わるいいたずらをするんだな」
「これは、ずっとちいさいときのことで……」
「じゃあ、気の毒だが、おめえ、一円札五枚に化けてくれ」
「そりゃあいけません。ひとつのからだで五枚にはなれません。どうしても五枚でなくってはいけなければ、友だちをつれてきますけれど……」
「友だちなんぞつれてきちゃあいけねえ、それじゃあ五円札でいい」
「よろしゅうございます。どうか手拍子を三つ打っておくんなさい」
「よし、いいか? ひい、ふう、みい……あれっ、どっかへいっちまやあがった……おや、大きな札をこしらえやがったな、ばかっ、畳《たたみ》四畳敷きもあらあ。こんな札があるもんか。もっとちいさくなってくれ……まだまだいけねえ、ざぶとんぐらいある。もっとずっとちいさくなって……おいおい、それじゃああんまりちいさすぎらあ。切手ぐれえになっちまった。もうちっと大きく……うんうん、いいだろう。ああ、うまくできあがった……なんだってのこのこあるくんだ。札があるいちゃあいけねえ」
「むこうからこないうちに、こっちからいきましょう」
「札があるいていくやつがあるもんか。手にとっても大丈夫か? ……おや、持ちあがらねえ。札が踏んばっちゃあいけねえ……うん、なるほどうまく化けたな……おいおい、こりゃあいけねえや。おもてはいいけれども、裏は毛だらけだ。毛の生えた札があるもんじゃあねえ。毛をひっこましてくれ。あれあれ、のみがはってるじゃあねえか。どうもあきれた札だ。札ののみをとるのははじめてだ。……さあ、きたきた。ちぢみ屋がきたから、うまくふところへへえってくれ」
「へえ、大丈夫で……ああ、たたんじゃあいけません。苦しゅうございます。わたすまでひろげといておくんなさい」
「よしよし、わかったよ」
「へえ、ごめんくださいまし」
「ああ、ちぢみ屋さんか。どうもすまねえ。わずかばかりのことで、たびたび足をはこばして……」
「どういたしまして……なんともあいすみませんが、親方さん、きょうは、ぜひともどうかおねがい申します」
「ああ、あげるよ。けさは、おまえがくるだろうとおもって、ちゃんと都合をして待っていた。五円だ。つり銭はいらねえ」
「へえ、どうもすみません」
「じゃあ、五円たしかにあげるよ。まちがいはなかろうが、あとでなくなったなんていわれるとこまるから、ちょいと受けとりを書いてってもらいてえな」
「かしこまりました……へえ、お受けとりをこれへ……お金は、たしかにいただきました」
「たしかだな? あとでなにかいってきちゃあいけねえよ……札は、そーっとしまいな。あまりひでえことをすると、食いつかれるよ」
「え?」
「肝をつぶさねえでもいい。そうやたらにひっくりけえしなさんな。かわいそうだから……なにもあやしいところはありゃあしめえ?」
「へえ、たしかにいただきました。ありがとう存じます」
「じゃあ、まあ、大事にいってくるがいい、腹がへったら、なにかひろってつまんどくがいい。犬にでもかまれねえように気をつけていきねえ」
「親方、なにをいっていらっしゃるんで? ちっともわかりませんが……」
「なあに、こっちのことだ……ああ、いっちまやあがった。きょろきょろしゃあがって、いくどもひっくりかえしてみやあがるから、どんなに心配したか知れねえ。とうとうほんものの札だとおもって、たぬきをふところへいれて、よろこんで帰った。しかし、あのまんま越後までいってしまやあしねえかな? 五円ばかりの抵当《かた》に重宝なたぬきを持っていかれちゃあてえへんだ。だいいち、たぬきもかわいそうだ。親にあうこともできねえ。どうかうまくぬけだしてくればいいが……」
「親方、ただいま」
「おう、もう帰ってきたのか?」
「へえ、もう、札はごめんこうむります。札になるのは、こりごりしました」
「露顕《ろけん》したのか?」
「いいえ、露顕はしませんが、親方がおかしなことをいったもんだから、路地のそとへでると、ふところからだして、すかしてみたり、たたいてみたり、ひっぱってみたり、ぐるぐる巻いてみたり、いろんなことをしやがるんで、苦しくってしようがありません。それでもがまんしていると、しまいには、四つにたたんで、がまぐちのなかへぎゅっと押しこんでふたをされちまったんで、背なかが折れるかとおもいました」
「そいつあこまったろう。で、どうして逃げてきた?」
「へえ、がまぐちのはしを食いやぶってきました」
「そんなことがよくできたな」
「ええ、もう死にものぐるいですから……まあ、どうせ逃げだすついでだから、なかにあった一円札三枚、お小づかいにとおもって持ってまいりました」
「えっ、一円札を三枚! どうも、することにぬけ目がねえなあ。ありがてえ、ありがてえ」
「へえ、年は若いが、なかなか性《たち》がいいと、なかまにもほめられております」
「あれっ、じまんしていやあがる。恩がえしとはいいながら、おめえにもたいへんに骨を折らしちまったな」
といっておりますと、おもてにだれかきたらしく、
「おい、うちか?」
「あっ、だれかきた。あっちへいってろ、早く早く……おう、いまあけるからな……やあ、たいそうねむそうな顔だなあ」
「いや、ねむいのねむくねえのって、大きな声じゃあいわれねえが、薪屋《まきや》の二階で、ゆうべ夜あかしをしたんで……近所の若え連中が七、八人あつまって、ちょいと手なぐさみをやったんだ。ところで、いい賽《さい》がほしいとおもったんだが、どうもいいのがねえので、ほかのやつの持ってきたのを借りて、それから、夜のあけるまでやってから、めしを食ってとんできたんだが、おめえの賽を持って、これからいってくれねえか?」
「そうか。あいつさえありゃあうめえんだが、持ってるといやだから、わきにやっちまった」
「ひとつでもいいから持ってきてくんねえ。後生だから……」
「ひとつでもいいかい?」
「ああ、ひとつでもいい……薪屋の二階だ。早くきてくれ」
「あとから持っていこう」
「たのむぜ」
「大丈夫……そこをぴっしゃりとしめてってくれ……おい、こっちへでてこい。たぬ公、たぬ公……」
「へえ」
「こんどはなあ、おめえに、さいに化けてもらいてえんだ」
「おかみさんですか?」
「そうじゃあねえ、さいころよ……え? 知らねえ? そりゃあ弱ったなあ。知らなくっちゃあ化けられねえなあ……あ、そうそう、正月になあ、双六《すごろく》をやるとき、四角い目のきざんだものを、子どもがころがしてあそんでるだろ? あれ、みたことねえかなあ。え? みたことある? あれだ、あれだ、あれに化けりゃあいいんだ。化けられるか? ああ、そうか……毎晩、なかまがあつまって、わるさあするんだよ。いや、てえしたことじゃあねえんだ。ちょぼいちなんつってなあ、賽のつぶをなあ、壺皿《つぼざら》へひとつ伏せて勝負あらそうんだけどなあ……うん、壺皿に伏せて目をあてるんだ」
「へえ、よろしゅうございます」
「ことわっとくが、目をまちげえちゃあいけねえよ。いいか? おもてと裏が七つの数にあわねえとおかしいんだ。一《ぴん》の裏が六だからなあ……ぴんてえのは、ひとつのことだぜ、それから、二の裏が五《ぐ》だ。三の裏が四。そういうぐあいに、おもてと裏が七つにならねえとおかしなことになっちまうんだから……大丈夫か? そうかい。じゃあ、ひとつ化けてみてくれ」
「手拍子を三つ打っていただきたいんで……」
「ああ、そうだったな。いいか? ひい、ふう、みい……あれっ、いなくなっちゃったじゃねえか。おい、どこだ? え? おれの膝の前? ああ、なるほど、こりゃあうめえもんだなあ……だけど、こりゃあすこし大きいなあ。双六であそぶのとちがうんだからなあ。もっと小つぶでなくっちゃいけねえ。え? いくらでもちいさくなる? おほほう、なるほどちいさくなってきやがった。うん、もっとちいさく、もっともっと……おいおいおいっ、だしぬけにちいさくなるないっ、そんな米っつぶみてえになっちまっちゃあ、畳の目へへえっちゃうじゃねえか。もうすこし大きく……おう、そうだ、そうだ、そのくれえだ。うごくなもう……うふふふ、うまく化けやがったなあ。おう、こりゃあ、さいころのように目方までかるいじゃねえか? なかなかどうしててえしたもんだ……おい、ちょっと目のかわりをみるからなあ。さあ、振ってみるよ……うめえなあ、ころがっているぐあいなんざあ……ああ、最初の目が一《ぴん》か。おれは、この一が大好《でえす》きなんだよ。いつみてもいい心持ちだなあ、この一の目てえなあ。もう一度振るぜ……なんでえ、また一かあ。そう一ばかりでちゃあいけねえ。たまには、ほかのものもでなくっちゃあいけねえね」
「一がいちばんだしいいんです」
「どうして?」
「さか立ちして、尻《しり》の穴をみせればいいんで……」
「きたねえなあ……じゃあ、二は、目の玉かなんかじゃあねえか?」
「あたりました」
「あっはははっ、じゃあ、いいな、むこうへいって、おれのいう通りの目を出してくれりゃあいいんだ。おれが、『一だよ』っていったら、おめえが、壺皿んなかで一の目をだして、『二だよ』っていったら二の目、『三だ』で、三の目。おれのいう通りの目をだしてくれさえすりゃあ、おれは、どんどんもうかっちゃうんだからな。いいかい、わかったかい? じゃあ、うまくたのむぜ」
「おう、おそくなってすまなかったな」
「よう、どうしたい? ずいぶん待ったぜ」
「うふふふ、みんなそろってんな」
「ああ、こっちへこいよ」
「どうしたんだ、いやに陰気じゃねえか」
「ああ、きょうは妙な日なんだ。だれが胴とっても、みんな胴つぶれがしちまうんだよ。おかげで胴のとり手がいなくなっちまったんで、このへんでやめちまおうかともって……」
「おいおい、そりゃあひでえじゃねえか。せっかくおれがきたってえのに、やめるこたあねえじゃねえか……胴つぶれ? ……じゃあ、おれが、胴とろうか?」
「胴とろうかって……おめえ、ふところは大丈夫か?」
「ああ、きょうは、ふんだんに持ってんだから……」
「そうか。じゃあ、やってみろ」
「おっ、すまねえ。じゃあ、ちょいとあそばしてもらうよ。おい、ちょいと待ってくんねえか。その胴のつぶれたさいころてえなあ縁起がわりいやな。おれが持ってきたのをつかっていいだろう? なあに大丈夫だよ。ここへきてつかおうってんだもの、おかしなものを持ってくるもんか。みせる、みせるよ、そんないかさまもんなんか持ってくるわけはねえんだから……さあ、これだ」
「なんだ、変な手つきしてねえで、すっとだせよ……これかい? うーん……あれっ、なんだかむずむずっとしたぞ」
「そんなはずはねえや。気のせいだろう」
「なんだかなまあったけえじゃねえか」
「いままでふところへへえってたからな」
「そうかい? おめえのことだから、まあ安心はしてるけどもねえ、ちょいと振らせてみてくんねえ」
「よせよ、そうらんぼうに振っちゃあ目がまわっちゃうぜ」
「なんだと? さいころが目がまわるわけがねえじゃあねえか……こういうものはねえ、ちょいと目のかわりをみるんだ……あれっ、変だなあ、このさいころは……ころがらねえで、ずってくじゃねえか」
「そりゃ気のせいだよ」
「気のせいったって、ころがらねえんだから……じゃあ、もう一度振ってみよう……おうおう、それつかまえてくれ……こんどはまた、ずいぶんころがりゃあがったねえ。おい、いやだよ。みんながめいわくするようなものを持ってきちゃあ……もう一度振って……」
「おい、いつまでやってんだよ。てえげえにしねえと食いつかれるぜ」
「食いつかれる? 変なことばかりいってやがら……まあいいや。やってみろい」
「そうかい。じゃあね、二、三番いれてみるからね。変わるだろ、いいかい? ほら、ね……じゃあ、いいね? いれるよっ、はい、張っとくれ……おい、どうしたい? この一《ぴん》は……だれも張らねえのかい? 空目《あきめ》かい?」
「ああ、さっきからひとつもでてねえんだ。死目《しにめ》だあ、そんなもなあ。張り手がねえや」
「ふーん……じゃあ、一とでりゃあ、みんなおれのもんだぜ」
「そうだよ」
「ありがてえな。勝負は、おれのもんだ」
「そんなことがわかるもんかい」
「それがわかるんだ。一がいちばんだしいいんだからな」
「なんだ?」
「なんでもいいやな。じゃあ、いいな、勝負になるからな。さあ、たのむぞ」
「だれにたのむんだ?」
「いいか? 最初の目は一だからな……尻の穴だよ」
「おいおい、きたねえことをいうなよ……早く勝負しろい」
「はいっ、勝負っ! ……ほら、一だ」
「あっ、でたよ。一がでたなあ。おどろいたなあどうも……」
「ああ、ありがてえ、ありがてえ。これ、みんなもらっとくよ。さあさあ、張っとくれ。ほう、一がでたってんで、いやに一にかぶって……裏目といこうてんで六に……ははあ、なるほど……よし、こんどは、二とでりゃあ、こっちのもんだな。いいな、勝負になるからな。さあ、こんどの目は、二だぞ。いいか、目の玉だ」
「なにが目の玉だい? 変なことをいうなよ、いちいち……早く勝負しろい」
「勝負になるよ。勝負! ……ほらっ、二だ」
「あれっ、またでやがった。おどろいたなあ……なんだい、このさいころ、おれのほうをにらんでるようだなあ」
「なにいってんだ。さいころがにらむわけはねえやな。さあさあ、もう一番、もう一番いこうじゃあねえか……ほほう、一、二ときたんで、こんどは三にかぶったな……こんどは五《ぐ》とでりゃあ、こっちのもんだ。よしっ、さあ勝負になるよ。こんどの目は……」
「おい、待ちなよ」
「なんだい?」
「おまえねえ、目を読んじゃあいけねえよ。おまえが目を読むと、その通りにでてくるんだから、気になるじゃあねえか……だまって勝負しろい」
「だまってちゃあわからねえ」
「なにがわからねえんだ。こんどは目を読んでみやがれ。その壺皿ごと踏みつぶしちまうぞ」
「おいおい、そんならんぼうなことをしちゃあいけねえよ。なかでたぬきが死んじ……」
「なに?」
「いや、なに、その……目を読まなきゃあいいんだろ? そんなら読まないよ……さあ、こんどは、加賀さまだ。加賀さまの紋だ。梅鉢《うめばち》、梅鉢だぞ。天神さまだ。天神さまだぞ。たのむ! 勝負!」
と、壺皿をあけると、たぬきが、冠《かんむり》をかぶって、束帯《そくたい》ですわっておりました。
釜どろ
われわれが、よく泥棒のはなしをいたしますが、泥棒でも、妙な、変ったのがございますな。
むかし、石川|五《ご》右衛門《えもん》というのがございましたが、これがふしぎなやつで、京都の南禅寺の山門に巣をつくっておりましたが、わるいやつがあったもので、花のさかりというのだから、陽気はあったかだったろうに、どういうわけか知りませんけれども、黒の三枚がさねというので、上に、ビロードのどてらを羽織りまして、月代《さかやき》を森のごとくにして、おそろしく毛がのびております。それで、大きい毛ぬきを持って、ひげをぬいておりますが、ひげなんざあ、ちっともありゃあしない。陽気のかげんで、ひげにでるやつが、みんなあたまへでちまったから、ひげがない。これが、気やすめに、ひげをぬくまねをしている。むこうをななめににらんで、いいぐさがいい。田舎のきせる屋の看板みたようなきせるを、右の手に目八分《めはちぶ》に持って、たばこを飲みながら、むこうをにらんで、
「絶景かな、絶景かな、春のながめは、またひとしお、価《あたい》千金とはちいさなたとえ、この五右衛門の目からみれば、価万両、万々両……」
泥棒だけに、おそろしく大きなことをいっております。
「日も早や西にかたむきて、暮れる桜もまた一興、はて、うららかなあ……」
というときに、左のほうにきせるを持ちかえて、吹きがらをたたくのかとおもうと、雁首《がんくび》が上をむいております。これを、ずんと前へつきだしておいて、右の手で月代をさかさになでますな。気色《きしよく》のわるい野郎があったもんで……
「ながめじゃなあ」
というやつがきっかけで、地蔵経《じぞうきよう》という鳴りものにつれて、山門がせりあがってきますが、不都合《ふつごう》な山門があればあるもので……ふだんは、大地にすわっていて、このときだけ持ちあがってくるという、そんな山門があるはずがありません。すると、下にいるのが豊太閤秀吉公、ときの関白、このかたが、どういう了簡《りようけん》だか知れませんけれども、ねずみの着物を着まして、巡礼すがたになって、南禅寺の親柱へ落書《らくが》きをしております。わるいしゃれをするひとで……こういうひとですな、公衆便所へ変な落書きするのは……自分で書いた落書きを、自分で読んでおります。
「石川や浜の真砂《まさご》は尽《つ》きるとも世に盗人の……」
と、上をむいて、五右衛門に、面当《つらあ》てがましく聞かせます。
五右衛門は、いつか、きせるをほうりだしてしまって、朱鞘《しゆざや》、胴鉄《どうがね》という刀《やつ》のまんなかごろをにぎって、らんかんへ片足を踏みかけて、下をにらんでいるときの顔ってえのがない。落語家《はなしか》が、吾妻橋で帽子を落したような顔をして、下を暫時《ざんじ》にらんで、
「なにがなんと?」
といいます。自分のわる口を、また、あとを聞いております。
「種は尽きまじ」
と、秀吉がいうと、刀にあった手裏剣《しゆりけん》をとって、いきなりぱっと投げます。下で、また、ちいさなひしゃくのお尻《しり》で、これをきちんとうけますが、うけるひともえらけりゃあ、ぶっつけるひともえらい。
まあ、これらは、狂言綺語《きようげんきご》とかいうので、作者のはたらきをもって書いたものだそうで、その実を正しますと、京都円山のほとりに住居をいたしております茶の湯の宗匠石川五右衛門とはおもてむき、じつは、海賊であったそうで……筑紫《つくし》の権六などという名代の大手下がありまして、たいそうな海賊であったとか申します。伊賀流の忍術をよくしますところから、たのみ人《て》があって、豊太閤秀吉公のご寝所へしのびこみ、関白秀吉の寝首をかかんといたしました。けれども、秀吉公は、ご運の強いかたで、日本六十余州を平らげて、しまいには、朝鮮にまで軍《いくさ》の出店《でみせ》をだすというくらい、えらいかたです。
ああいう貴人高位のところへいくと、伊賀流の忍術などというものは、きかないものとみえまして、ぐるぐるまわっているうちに、仙石権兵衛という宿直《とのい》のおさむらいの足を踏んだ。なかなかどうして、この権兵衛、普通《なみ》の権兵衛とは権兵衛の種がちがう。自分のまいた種をほじくったからすと喧嘩《けんか》をする権兵衛とはわけがちがいます。
権兵衛、いきなり、ぱっとはね起きたかとおもうと、朝鮮のいくさのときに、虎を二匹はり殺したというくらいおそろしい馬力の強いやつで、五右衛門のうしろからひっくんで、とうとうそのところへふんづかまえて、だんだん拷問《ごうもん》におよんだが、白状をしない。さすがは、みこんでたのんだひともえらければ、たのまれた五右衛門もえらい。ついには、七条河原へかつぎだされまして、世にも稀《ま》れなる兇状《きようじよう》というので、釜《かま》うでにされてしまいました。このときに、五右衛門の手下が大勢あつまって、つまり、釜という器《うつわ》があったればこそ、ああいう最期《さいご》をした。かんがえてみれば、親分のためには、釜が敵《かたき》だ。釜が敵の世のなかだ。つまらないところへりくつをつけて、これから、釜をつかうところへいって、大釜をぽかぽか持ってまいりますから、おどろいたのは豆腐屋さんで……
「なあ、ばあさん」
「なんだい? おじいさん、おまえ、よくぐちがでるね」
「ぐちもでようじゃあねえか。おもしろくもねえ。うちは、豆腐屋稼業、せっせとかせいでいるのに、こう毎晩釜を持っていかれちゃあかなわねえ。ゆうべやられたので二度目だ。二度あることは三度あるというから、また、くるかも知れねえ。こう、たびたび泥棒にこられて、釜を持っていかれた日にゃあ、釜のために、おれは、身上《しんしよう》をすってしまわなけりゃあならねえ……で、今夜、おれは、いいことをかんげえた」
「なにをかんがえたんだい?」
「この釜のなかへはいって寝ていよう」
「おや、いやだ。お釜のなかへはいって、どうするんだい?」
「泥棒がきて、釜のふたへ手でもかけたら、なかから、おれが、すりこ木で、むこう脛《ずね》をひっぱたいて、よろけるところを、わさびおろしで、つらをひっかいてやる」
「ばかなことをおしでないよ。そんなことをして……」
「大丈夫だ。いまいましいから、おどかしてやる。だからな、おらあ、釜んなかへへえるんだから、ざぶとん持ってきてくれ。じかに釜んなかへ坐ったら、冷めたくってしょうがねえからな……ああ、ざぶとん、持ってきたかい? よしよし、こう敷いてっと……さあ、じゃあ、おらあ、へえるからな」
「おや、おじいさん、お釜んなかへはいっちまったね。どんな心持ちだい?」
「どんな心持ちって……そうさなあ、まあ、釜も、こうやって坐ってみりゃあ、住めば都ってとこかなあ」
「まあ、のんきなことをいってるよ」
「ばあさん」
「なんだい?」
「ふたをしなけりゃあならねえが、いつものふたをされると、息がつまってしかたがねえから、なにか釜のふたのかわりにするものはねえかな? ……ああ、そのがんもどきのふたがいい。油くさくって、のぼせるけれども、がまんをしよう……よしよし、なあ、ばあさん」
「あいよ、うるさいね」
「うるさいとはなんだ、あしたの朝、また、なんだぜ、おいらを起こさねえうちに焚《た》きつけちゃあいけねえよ。なかで寝こんでいるところを焚きつけられた日にゃあ、おらあ、黒こげになっちまうからな。じじいの丸焼きなんざあ、あまり売れやあしねえぞ。わかったか?」
「大丈夫だよ」
「そうでねえ、おめえは、そそっかしいからよ。きのうの朝だって、釜をかけてねえのに焚きつけたから、屋根裏へ燃えつきそうになった。どういうもんだか、おめえは、寝ぼけてこまる。あしたの朝も、おれを起こしてから、水を張ってくんなよ。すぐに水を張っちゃあいけねえよ」
「大丈夫だよ」
「大丈夫でねえよ。よく念をいれておかねえと、おめえは、そそっかしいから……なあ、ばあさん、ガタリといったら、すぐに目をさましなよ。もし、泥棒がへえって、かつぎだされりゃあ、釜と亭主といっしょになくなっちまうんだよ。このごろは、毎度、じじいのかどわかしが流行《はや》るというから、おれなどは、ようすがいい、じじいっぷりがいいから、もしも女護《によご》の島にでも売られちまうといけねえからな」
「おふざけでないよ。いいかげんにおしよ。じじいのくせに……」
「じじい、じじいって、おめえ、このごろ、たいへん邪慳《じやけん》になりやがった。嫁にきたときに、おれのことを、『あなた、あなた』と、いやあがった。それが、いまになって、『じじい、じじい』だってやがら……あなたと、じじいじゃあ、たいへんなちがいだぞ」
「おふざけでないよ。お釜のなかで、なにをぐずぐずいってるんだよ。いいかげんに寝ておしまいよ」
「けれどもよ、戸じまりを厳重にしなよ。用心に如《し》くはなしというから……」
「あいよ」
そのうちに、いい心持ちになりましたから、じいさんは、お釜のなかで、ぐっすり寝こんでしまいました。
おかみさんのほうは、戸じまりをして寝ましたが、「守《まも》り人《て》のすきはあれども、盗人のひまなし」とか申しまして、夜なかのころ、泥棒がふたりしのびこみ、この釜に荷縄《になわ》をつけてかつぎだしましたが、その重いの、重くないの……
「兄弟《きようでえ》、まあ、なんだな、なかまうちで、力ずくじゃあ、あんまりいままでひとにひけをとらねえほうだったが、この釜ばかりは、ばかに重いな」
「おれも兄い、これまで重いとおもったことはねえが……こりゃあ、きっとこうだぜ、豆腐屋だから、豆の安いのかなんかありゃあがったので、うんと買いこんでおいて、あしたの朝、これをつかおうってんで、釜のなかへいれておいたんだ」
「なるほど、そうかも知れねえ。ばかに重いぞ。しかし、持ちだしゃあ、こっちのもんだ……いいか? よいとこしょっと……」
「うんとこしょっと……」
「どっこいしょっと……なんだか、ぐるぐるまわるな」
「そうよ、かつぎにくいや……」
「ううーん」
「おや、だれだい、うなるのは? おめえか?」
「おれじゃあねえ」
「へーえ、妙だな、どうも……釜がうなるわけでもあるめえ」
「じょうだんいいなさんな。気のせいだな」
「そうかな……どっこいしょっと」
「うんとこしょっ」
「うーん」
「おや、いやだな。じょうだんじゃあねえ。うす気味がわるいや。なんだか知らねえが、ひとのうなり声がする」
「この近所に、病人かなにかいるんだろう」
「そうかも知れねえ」
「うーん、ばあさん」
「だれだい、ばあさんといったのは?」
「おれじゃあねえよ」
「へーえ、妙だな」
「おい、ばあさん、水を一ペえくんな」
「おやおや、いよいよ変だぞ」
「どうしたい? 釜のなかで、ばあさん、ばあさんといっている」
「ばかなことをいうな。つまらねえことをいっていやあがる。釜が口をきくやつがあるもんか」
「そうでねえ。釜んなかで、なにかいっている」
「ばあさん、水を一ペえくれ」
と、釜のなかでどなられましたから、いや、おどろいたの、おどろかないの、「それっ」というと、ふたりは、釜をほうりだして、ばらばら逃げだしてしまいましたが、ほうりだされたじいさんもおどろきました。
「おやおや、ばあさん、なんだか、たいへんぐらぐらゆれるじゃあねえか。ああ、地震だな。ばあさん、気をつけなよ。怪我をしちゃあつまらねえよ……いやにぐるぐるまわるな。もういいかげんにおさまりそうなものじゃあねえか……おやおや、たいそう星がみえるな……あっ、しまった。今夜は、家をぬすまれた」
かわり目
お酒というものは、まことに愛嬌《あいきよう》のあるものでございまして、すこし度をすごしますと、おはなしのタネになるようなことがたくさんございます。
夜ふけに、酔っぱらってあるいているときなどは、人間があるいているのじゃあない、酒があるいているようなもので、むこうへ寄ったり、こっちへ寄ったり、ふわふわ、ふわふわ、まるで雲に乗っているようで……
「あはははは、いい心持ちだ…… 梅にもー春のー色そえーて……とくらあ……若水、汲みーか、くる、くる、ちくしょう……くるまー」
「へえ、親方、どちらまでいらっしゃいます?」
「なんだ、てめえは?」
「へえ、ただいま、車とおっしゃいましたから、車を持ってまいりました……ええ、車をさしあげましょうか?」
「車をさしあげる? てえそうな力だな。おもしれえや。ひとつ、さしあげてみせてくれ」
「そうじゃあございません。親方のお供《とも》をいたしたいんで……ひとつ乗っかっていただきたいので……」
「おれの供をしてえ? どこまでいくんだ?」
「へえ、どこまででもまいります」
「なんだと?」
「いえ、どこまででもまいります」
「どこまででもいく? こいつあおもしれえや。よしっ、おれも男だ。敵にうしろはみせねえ。どこまででも乗っけてってくれ。北海道だろうと、カムチャッカだろうと……」
「親方、じょうだんおっしゃっちゃあいけません。北海道とか、カムチャッカなんて……」
「だって、いま、おめえが、どこまででもいくっていったじゃあねえか」
「どうかおからかいにならないで、親方のよろしいところまでお乗りになって……」
「うん、そんなにいうんなら乗ってやろう……さあ、乗っかった」
「へえ、ようございますか?」
「なにが?」
「梶《かじ》をあげますよ」
「おいおい、だしぬけにかじなんぞあげられてたまるもんか。火事と地震にゃあ、こりごりしてるんだ」
「いいえ、梶棒をあげるといったんで……」
「梶棒なら梶棒といえよ。だしぬけにかじなんていやあがって、棒だけぬいて、どれだけ倹約になるってんだ」
「へえ、どうもあいすみません……じゃあ、親方、梶棒をあげますよ」
「ああ、あげてくんねえ」
「親方、どちらへいらっしゃいます?」
「どちらへでもいらっしゃってくれ。おめえの気のむいたほうへ……」
「親方、からかっちゃあいけません。どうかおっしゃって……」
「車は、うしろへいく気づけえはあるめえ。前へむかって、まっすぐにいってみろ。どっかへいくだろう」
「のんきなことをいってちゃあこまりますよ。とにかく、親方、どっかよろしいところまでお指図をねがいます」
「おいおい、ちょいと待ってくれ、ちょいと待ってくれ」
「へえ」
「梶棒をおろしてくれ」
「なにかご用で?」
「とにかく、まあ、梶棒をおろしてくれ」
「へえ、おろしました」
「ちょいと、おれ、おりるから……どっこいしょのしょっと……おい、車屋、この家の戸をたたいて、おこしてくれ」
「この家の戸をたたきますんで? お知りあいで?」
「うん、まあ、知りあいみてえなもんだ。ひとつ、たたいてくれ」
「へえ……では、ちょいと……」
ドンドンドン……ドンドンドン……
「ええ、こんばんは……ごめんください」
ドンドンドン、ドンドンドン……
「はいはい、そうドンドンたたいちゃあいけませんよ。いま、あけますから……あらっ、うちのひとだよ。たいへん酔っぱらって……あれ、あぶないよ。そこへお坐りなさい。ばかに酔ってるね」
「いま、車に乗ってきたんだ」
「おやまあ、車屋さん、お気の毒さま。こんな酔っぱらいを乗っけて、さぞこまったでしょうね。どこから乗ったの?」
「へ? ……なんでございますか、親方は、こちらの?」
「ええ、うちのひとなんですよ」
「へえ、どうもあいすみません。つい、おみそれ申しまして……ええ、どこからも、ここからもないんで……お宅の門口からお乗りになったんで……」
「あらまあ、いやだよ、このひとは……うちの前から車に乗るやつもないもんじゃないか……車屋さん、すみませんでしたねえ。あのう、これは、なんの足《た》しにもなりますまいが、ろうそくでも買っておくんなさい」
「いいえ、こんなものをいただいちゃあ申しわけありません。まだ梶棒をあげただけなんですから……」
「まあまあ、そんな遠慮をしないで、持っていらっしゃい。酔っぱらいのお守《も》り賃だとおもって……」
「そうでございますか。それではいただきます。ええ、親方、どうもありがとう存じます。おやすみなさい」
「なにがおやすみなさいだ! ばか野郎!」
「なんだねえ。ばか野郎じゃあないよ。門口から車なんぞに乗ってさ……たいそう酔っぱらったじゃあないか。どうしたのさ?」
「うん、ひさしぶりに留《とめ》のやつに会ったんで、一ぺえやろうってんで、飲んでいるうちに、さかながのこっちまった。手をつけちまったものを持って帰るわけにもいかねえし、そうかといって、のこしておくのも、もってえねえから、もう一本ずつ飲もうってんで、飲んでると、こんどは、さかなが足《た》りなくなっちまった。さかなをとっていると、また、酒が足りなくなっちまった。また、さかなをとると……」
「なにをくだらないことをいってるんだよ」
「あーあ、どうもばかにいい心持ちになっちまった…… この酒をー、とめちゃあ、いやだよー、酔わしてーおくれー、まさーか、しらふじゃあ、いいにくい……なんてなあ、おっかあ、どっかへいこうか?」
「なんだよ、おまえさん、大きな声はおよしよ。ほんとにあきれかえっちまうよ。となり近所は、みんなやすんでいるんじゃないか」
「となり近所がやすんでいる? いつ、こっちでやすんでくださいとたのんだ?」
「なにいってんだよ。くだらないことをいって……夜がふけているんだよ」
「夜がふけてたってかまうもんか」
「おまえさんは、お酒を飲むと大きな声をだすからこまるんだよ。そんなに酔っぱらっているんだから、もう寝ておしまいよ」
「なに?」
「酔っぱらってるから、もう寝ておしまいよ」
「なにいやあがるんだ。べらんめえ。おもてで飲む酒は、おもてで飲む酒だ。うちへ帰って、寝酒というものを飲まなきゃあ寝られねえんだ」
「それはわかってるよ。わかっているけれども、おまえさんの帰りがあんまりおそいから、もう火を落してしまったんだよ。だからね、今夜は、さっさと寝ておしまいよ」
「なに? さっさと寝てしまえだと?」
「また、そんな大きな声をだして……」
「あたりめえよ。おめえの口のききようが気にいらねえから、大きな声もだしたくならあ」
「それじゃあ、どうすりゃあいいのさ?」
「どうすりゃあいいって……あたまをはたらかせろ、あたまを……『すっかり火を落してしまって、まことにあいすみません。こんなつめたいお酒じゃあ、うまくございますまい。それも、お酌が若かったら飲めましょうが、わたしみたいなばばあのお酌でお気には召しますまいが、あなた、飲みますか?』とくりゃあ、『おっかあ、夜もふけてることだし、よそうよ』と、こうならあ。それを、おめえみてえに、ぎゃあぎゃあいってとんがらかりゃあ、おれだってでけえ声もだしたくならあ」
「おや、ほんとうにわるかったねえ。じゃあ、いいなおすからね……ねえ、おまえさん、すっかり火を落してしまって、まことにあいすみません。こんなつめたいお酒じゃあうまくございますまい。それも、お酌が若かったら飲めましょうが、わたしみたいなばばあのお酌でお気には召しますまいが、あなた、飲みますか?」
「ああ、飲むよ、飲むよ。さあさあ、持ってきてくれ」
「なんだねえ、このひとは……それじゃあ、ペテンだよ」
「なんでもいいから酒をだしてくれ。さかなが、なにかあるだろう?」
「なんにもないよ」
「香物《こうこう》があるだろう?」
「お香物《こうこう》は、わたしが、かくやにして、みんないただきましたよ」
「つくだ煮があったな?」
「あれもいただきましたよ」
「納豆《なつとう》がのこってたな?」
「いただきました」
「なんでもいただいちまうなあ。そうだ、干《ひ》ものがあったろう?」
「いやだよ、このひとは……酔っぱらってても、食いもののことはおぼえてるよ……あれもいただいてしまったよ」
「よくいただくなあ。このうちぐれえ食いもののもたないうちはねえな。なにかつまむものぐれえあるだろう? なんでもいいんだ。ちょいと、こう、つまめれば……酒飲みというものは、ちょいと、なにかほしいもんなんだ」
「こまったねえ……じゃあ、こうしよう。しずかに飲んでくれりゃあ、わたしが、夜あかしのおでんやへいって、なにかみつくろってくるから……」
「そんならそれで、はなしがわかってらあ。いってきてくんな。たのまあ、なあ、おっかあ」
「大きな声をしないで待ってておくれよ。いいかい? しずかにして……じゃあ、いってくるからね」
「いいってことよ……ありがてえな。夫婦の情というのはここだ。おたげえに、これで持ってるんだ。しかし、つめてえ酒はおもしろくねえな。こりゃあ胃の毒にならあ。といって、股《また》ぐらで燗《かん》をするというわけにゃあいかねえし……なにか工夫《くふう》はねえかな?」
「なーベやーきうどーん!」
「うん、うめえところへうどん屋がきやあがった……おい、うどん屋」
「へえ、うどん屋は、こちらでございますか?」
「うどん屋は、おめえだろう?」
「いいえ、うどん屋をお呼びになったのは?」
「おれんとこだ」
「どうも毎度ありがとう存じます」
「いやなことをいうない。なにが毎度ありがとうだ。今夜はじめてだ」
「おそれいります。おあつらえは?」
「むやみに押し売りするない。湯はわいてるか?」
「へえ、お湯はわいております」
「すまねえが、この酒の燗をつけてくれ」
「かしこまりました……変な客につかまっちまったな。けれども、燗をしてやれば、きっと二、三ばい食ってくれるだろう。なんでも口あけがかんじんだ」
「おいおい、なにをぶつぶついってるんだ。燗はどうした?」
「へえ、親方、いかがでございます、このへんでは? おぬるけりゃあ、おなおしをいたします」
「おっと、すまねえ、すまねえ……うん、こいつは、上燗《じようかん》、上燗、ありがとう、ありがとうよ。どうもご親切さま」
「へえ、おうどんは、いかがでございましょう?」
「なに?」
「おうどんは、いかがでございましょうか?」
「おらあ、うどんはきれえだ」
「おそばでも……」
「そばなんざあ虫がすかねえ。おらあな、酒がありゃあ、たいして食いものはいらねえんだ。いま、かみさんが、おでんを買いにいってるから、食いものは間にあってらあ。いつまでもしゃべっていねえで、寒くっていけねえから、早くしめて帰ってくれ」
「親方、親方、あっしゃあ、道楽に商売をしてるんじゃあございませんよ。お燗をつけたんですから、なにかひとつ愛嬌に……」
「なにが愛嬌だ。愛嬌というつらは、もうちっとどうにかなっているもんだ。てめえのは、物騒《ぶつそう》なつらだ」
「物騒なつらって、なにが物騒で?」
「おや、こんちくしょう、なまいきにとんがらかったな。物騒じゃあねえか。押し売りは、お上《かみ》のご法度《はつと》(禁制)だ。夜おそくまで火なんぞかついであるきやがって、このへんに、ちょくちょく小火事《ぼや》があるのは、てめえのしわざだろう?」
「おやおや、気ちげえだ、こりゃあ……こんなやつは商売にならねえ。どうもはじめから変だとおもった……なーベやーきうどーん!」
「あっはははは、うどん屋の野郎、いっちまいやがった……おや、新内流しがきやがったな。いいなあ、新内てえものは……いつ聞いてもいい心持ちのもんだ。新内の文句には、いい文句があるな…… そりゃ、たれゆえー、こなさんゆえー……」
「へえ、こちらでございますか、お呼びになりましたのは?」
「へえ、親方、お寒うざいます。ありがとうございます」
「なんだい?」
「ただいま、新内とおっしゃいましたので……」
「おめえたちを呼んだんじゃあねえ。いま、新内はいいなといったんだ……まあ、いいや。こっちへへえんねえ。やあ、ふたりづれだな。みたところ、仲人《なこうど》があって、いっしょになったんじゃあなさそうだな。おたげえに、ああでもねえ、こうでもねえと、苦労をしたあげく、流してあるくのもふたりづれ、おやすくねえぞ。なにかおごれ」
「へへへへ、どうもおそれいりました」
「そりゃあじょうだんだ。とにかく、まあ、なんだ。五十銭やる。すくねえが、おさめておいてくれ。なにかやろうといったところが、酒を飲んで、わーっとさわぎてえ心持ちだから新内はいけねえなあ。そうだ、都都逸《どどいつ》をひいてくんな。なあに、夜がふけたって大丈夫だ。近所に、びた一文借りがあるわけじゃあねえ」
「さようでございますか……」
「さあ、たのむぜ…… 恋にこがれーて、鳴くせみよりーも、鳴かーぬほたーるが、身をこがす……あ、こりゃ、こりゃ……」
「あらまあ、都都逸なんか大声でやってるよ。まさかうちじゃないとおもったら……新内屋さん、酔っぱらいなんだから、相手にしないで帰ってくださいよ」
「へえ……ごめんなさい」
「おい、なんで帰しちまうんだ?」
「なにいってるんだよ。あれほどしずかにしておくれといったのに、新内屋なんぞ呼びこんで、じゃかじゃかさわいだりしてさ……あれっ、徳利から煙《けむ》がでてるよ。どうしてお燗をしたの? 火をおこしたのかい?」
「火なんぞおこすもんか」
「どうしてお燗をしたのさ?」
「どうしてって……いまな、うどん屋がきたから、呼んで、お燗をつけさしたんだ」
「なにか食べたの?」
「食うもんか。けんつくを食わしてやった」
「かわいそうに……なんといって?」
「いろいろのことをいって押し売りをしやがるから、押し売りはお上のご法度だ。夜おそくまで火なんぞかついであるきゃあがって、このごろ、ちょくちょく小火事《ぼや》があるのは、てめえのしわざだろうといってやったら、おどろいていっちまやあがった」
「まあ、かわいそうに、ひどいことをして……うどんでもとってやったらよかったのに……」
「なあに、かまうもんか」
「そうでないよ……あっ、あの荷がそうらしいよ……もし、うどん屋さーん、うどん屋さーん」
「おい、うどん屋、あすこのうちで、おかみさんが呼んでるじゃあねえか」
「へえ、どこでございます?」
「あの、あかりがかんかんついてるうちだ」
「えっ、あかりがかんかんついてるうち? ……あっ、あすこのうちへはいかれません」
「どうして?」
「いまいったら、お銚子《ちようし》のかわり目時分ですから……」
松ひき
そそっかしいひとというものは、まるでものごとをわすれるのではございませんが、なにか、品《しな》ものの名前をいおうとしても、すぐにそれがでてまいりません。
「おい、ちょいと、なにとってくんねえかなあ。おめえのわきにかかってるのを……そいつを……ほら……おらあ、なにへいってくるんだから……ドボーンととびこんで、こうやって……ほら、洗ってくるんだよ……だからな、そこにある……ほら、ぞうきん……ぞうきんじゃあねえ……あの……ふきん……ふきんじゃあないよ……ほら、こうやる……ああ、そうだ、えりまき……じゃあないんだよ……ほら、ほら、その……ああ、手ぬぐい……」
なんてんで、手ぬぐいがでてくるまでがたいへんなさわぎで……
これは、さるところのお大名でございまして、まことにそそっかしい殿さま、そのご家来に、かなりの役をつとめる田中三太夫というおかたがございます。このかたも、かなりそそっかしいおかたで……ご主人さまがそそっかしくって、ご家来がそそっかしいのですから、絶えずものをまちがえてばかりおります。ところが、同気相《あい》もとめるといって、この田中というひとが、殿さまのたいそうなお気にいりで、始終《しじゆう》そばにおります。
「これこれ三太夫、三太夫」
「ははっ」
「ほかのことではないがの、この庭の築山《つきやま》のわきにある赤松じゃが、だいぶ繁茂してよいようになったが、月をみるときにじゃまになっていかん。泉水のわきへひきたいとおもうが、どうじゃろう?」
「ははっ、おそれながら申しあげますが、あの松は、先代お殿さまご秘蔵の松でございますから、あれをひきまして、もしも枯れるようなことがありますと、ご先代さまを枯らすようなものではないかと心得ます」
「なるほど、そのほうの申すところももっともじゃ。じゃがの、松が枯れて先代を枯らすというのはおかしなはなしじゃ。ひけば、かならず枯れるということもない。枯れてはならんが、枯れるか枯れぬか、それはわからんて……」
「さようでございます。これは、その、下世話《げせわ》のたとえにも申しまする通り、餅は餅屋と申しますから、これへ餅屋を呼んで、松が枯れるか枯れんか、とくとただした上、申しつけてはいかがでございます?」
「ふーん、なにか、餅屋というものが、この松の枯れるか枯れんかということが、ようわかるのか?」
「いえ、その餅は餅屋というたとえがございますので、餅屋を……いや、これは植木屋でございます。これへ呼んで、とくと聞いた上のことにいたしたら、いかがでございましょう?」
「うん、さようか。もっともじゃ。さいわい、きょうは、植木屋がだいぶはいっておるようじゃ。その植木屋を呼んで問うてみようか?」
「さようでございます。お殿さま、じきじきではおそれいります。てまえ、これへ植木屋をまねいて、枯れるか枯れぬか、とくととりしらべ、その上でのことにいたしましょう」
「いや、そちが呼ばんでもよろしい。余が、自身に呼んで、植木屋に聞いてみる。ああいう者は、おもしろい者じゃ。余が呼ぶ。よいよい」
そこつな殿さまでございますから、つかつかと縁側《えんがわ》へおすすみになりまして、
「これ植木屋、植木屋はおらんか? 植木屋、植木屋……」
垣根をへだてて、植木屋たちが、たばこやすみをしております。
「おいおい、兄い」
「なんだ?」
「いま、あっちで、『植木屋、植木屋』という声が聞こえたが、だれか呼んでるんじゃあねえか?」
「どれどれ……おお、呼んでらあ。だれだ? うちの親玉だな。ここの大将にちげえねえ。だまってろ、だまってろ」
「だって呼んでるんだから、用があるんだろう。兄い、いってきねえ」
「いきねえ、いきねえ。だれか、かわりにいってくれ」
「だって、おめえ、おやじがあんべえがわるくって、そのかわりに、おめえがきてるんじゃあねえか」
「そりゃあそうだけれども……だから屋敷の仕事はきれえだ。こないだも花壇の仕事をしていると、親玉が、うしろへ立って、『植木屋、植木屋』と呼ぶんだ。ふりむいてみると、うちの親玉だか、なんだか知らねえけれども、いうことが、さっぱりわからねえ。白牡丹《はくぼたん》がどうで、赤いほうがどうだのと聞かれるんだが、こっちは、へえへえいって、むこうのいうことばかり聞いて、ときどきわからねえから、おじぎばかりしていて、汗をびっしょりかいてしまった。おらあいやだ。だれかいってくれよ」
「だって、おめえの役じゃあねえか……おいおい、きたきた」
「ああ、やってきた。てえへんだ。殿さまか?」
「殿さまじゃあねえ。あの、おそばにいて、ぱあぱあいうやかましや……なんとかいったっけ?」
「田中だろう?」
「そうそう、その田中がやってきた」
「あいつのいうことは変だな。どうもあいつにこられちゃあたまらねえ。おらあ、うしろへかくれているから、きたら、いねえっていってくれ」
「これこれ、植木屋、植木屋」
「そーら、やってきた……へえ、なんかご用でございますか?」
「いや、ほかのことではないが、いささかたずねたい仔細《しさい》がある。こんにちは、お出入り八右衛門、病気につき、そのせがれ八五郎というものがまいっておろう? その者はおらんか?」
「へえ、八五郎でございますか……そりゃあなんでございます。うしろにちいさくなってかくれております」
「なぜかくれておる?」
「おい、八兄い、もうだめだ。でてこいよ」
「まぬけめっ、よけいなことをいうない。かくれているなんてえから叱言《こごと》をいわれるんだ。まぬけだなあ……へえ、どうも、その、かくれているというわけではございませんけれども、ちょいと用があって、うしろへひっこんでいたんで……どうもまことになんで……なにかご用でございますか?」
「なんじが八五郎か?」
「へえ、なんじが八五郎で……」
「なんじゃ、自分でなんじとは……ほかのことではないが、築山にある、あの杉……いや、杉ではない……その……なんじゃ……」
「松でございますか?」
「さよう、あの松じゃ。それを、殿が、泉水のそばへひきたいとおっしゃる。しかし、ひいて枯れてはならんが、枯れぬならば、ひきたいとのことだ。枯れるか枯れんか、殿に申しあげろ」
「へえ、なるほど、ようございます。そいつあ、また、どうにかやっつけやしょう」
「やっつけるとはなんだ」
「いえ、まあ、なんで……」
「しからば、さっそく、ご前へまかりはじけて、おたずねに応じて、なんじから申しあげろ」
「へえ」
「しかしながら、直接《じか》に申すことはならんぞ。てまえが、いちいちとりつぐによって、そこにおいてよく申しあげろ」
「へえ」
「ことばがぞんざいじゃによって、なるたけていねいに口をきかんければいかんぞ」
「へえ、よろしゅうございます」
「そこで、むやみにあたまをむくむくとおやかす(もちあげる)ことはならんぞ」
「へえ……おい、吉公」
「ええ?」
「なんだい、あたまをむくむくとおやかすというのは?」
「てめえが助平だから、おやかすなといったんだろう」
「ばかにするない」
「これこれ、なにを申しておる。しからばよろしいな。てまえの尻《いしき》について、まかりはじけろ」
「へえ、まかりはじけます」
「よいか?」
「へえ、よろしゅうございます」
「こちらへまいれ」
ずーっと庭をまわってまいりますと、殿さまが、お着座になっております。
「これこれ、こちらへはいんなさい」
「へえ、よろしゅうございます」
「坐れ……かしらをさげろ。頭《ず》が高いぞ」
「へえ、これでよろしゅうございますか?」
「ああ、そこにひかえておれ……ええ、殿、申しあげます。こんにち、植木屋八右衛門儀病気につき、せがれ八五郎なる者が、これへまかりはじけました」
「さようか。これ、八五郎とやら、もっと前へでろ。はなしができぬによって、もっと前へでろ」
「これ、八五郎、もっと前へまかりはじけろ。はじけろっ」
「股《もも》ひきをはいて坐りこんだんで、はじけろったって、はじけることができません」
「早くはじけんか」
「はじけんかって……おまえさん、押しだしておくんなさい……あいててて……」
「しずかにいたせ。手荒いことをいたすな。これ八五郎、もっと前へはってでろ……おもてをあげい……顔をあげるのじゃ。わかったか?」
「へえ」
「なんだかだいぶひたいが赤くなっているが、ふーん、うしろから押されて、ひたいをすったのか? ……ただいま、三太夫に申しつけておいたが、この築山のそばの松は、先代秘蔵の松じゃ。それを泉水のそばへひきたいが、ひいて、枯れるか枯れんか、どうであるか、鑑定いたせ」
「こりゃ八五郎、直接《じか》に申しあげるは、はなはだおそれ多いことである。てまえがとりついで申しあげる」
「これこれ三太夫、とりつぐにおよばん。直接《じか》に申せ。直接に申せ」
「はっ……さあ、八五郎、お答え申しあげろ。いんぎんに(ていねいに)申しあげろ。よろしいか?」
「いんげん豆をどうするんで?」
「そうではない。ていねいに申しあげるのだ」
「どんなふうに?」
「もののかしらには、『お』の字をつけて、あとは、『たてまつる』といえば、自然にていねいになる」
「へえ、なるほど……上へ『お』の字がついて、『たてまつって』おったてまつって……」
「なんじゃ、おったてまつるとは……」
「へえ、いっしょうけんめいにやりますから……へえ、さて、お申しあげたてまつります。お築山のお松さまを、お泉水さまのおそばへ、おひきたてまつりまして、枯れるか枯れぬかということでございますが、それはその、てまえのほうでお掘り申したてまつりまして、小太《こぶと》いところへは、おするめさまをお巻き申したてまつりまして、おひきあそばしますれば、お枯れあそばす気づかいはござりたてまつりません。へえ、なんともはや、おそれいりたてまつりました。まことにめでたく候かしく、恐惶謹言《きようこうきんげん》、お稲荷《いなり》さまでござんす」
「なにを申しておるか、彼のいうことは、余にはようわからん」
「これ、八五郎、そのほうのいうことが、殿さまにおわかりにならんぞ」
「あたりめえでさあ。自分でしゃべってて、自分でわからねえんですもの……」
「こりゃ三太夫、そちがとやかく申したのであろう? それでは、かよういたせ。そのようなことを申しておっては、さっぱりわからん。八五郎とやら、苦しゅうないから、そのほうの朋友《ほうゆう》に申すごとく、遠慮のう申してみよ」
「へえ、じゃあ、なんでございますか。わっちのいうことがおわかりがねえから、遠慮なく、ふだんのようにしゃべれってんでございますか? じゃあ、ごめんをこうむって、ござりたてまつるはぬきにして、そこんところをざっくばらんに……」
「これこれ、なんという口のききようだ」
「これこれ三太夫、いちいち口だしをいたすな。八五郎、やってみい」
「へえ、じつは、あの松でござんすがね、うごかして枯れるか枯れまいかとおっしゃるんでござんすか? そりゃあ、わっちのほうも稼業《しようべえ》でごぜえます。一月も前から、油っかすの五、六升もいれまして、小太いところへするめを巻きつけまして、それからこっちへひきます。そうすりゃあ、大丈夫、枯れる気づけえはございません。きっとおうけあい申します」
「うん、枯れんか。よいよい、さっそくひけ」
「ようごぜえます。たしかにおうけあい申します」
「ああ、おもしろいな。ことばづかいがかわっておる。どうじゃ、そのほうは、ささをたべるか?」
「なんです?」
「ささはたべるか?」
「……まあ、せっかくだが、ごめんこうむりやしょう。へへへへ、馬じゃあねえからねえ、いくら食らい意地が張ったって、笹《ささ》っ葉なんぞ食いませんや」
「いやいや、ささをたべるかというのは、酒を飲むかということじゃ」
「え? 酒? 酒なら浴《あ》びるんで……」
「うん、やるか」
「ええ、やっつけますとも……」
「おもしろいな。そのほうひとりではあるまい?」
「へえ、大勢、あっちにまるくなっております」
「しからば、のこらずの植木屋をこれに呼んで酒をとらせろ」
「おそれながら申しあげます。かようながさつな植木屋どもを大勢お召しになりまして、これにて、ご酒宴などというのは、およろしくございません」
「これこれ、だまっておれ。おもしろい。これへ大勢呼んで、余も一献《いつこん》いたす。植木屋、苦しゅうない。職人どもを、みな、これへ呼べ、これへ呼べ」
「しかし、殿、それはあまりに……」
「ねえ、殿さま、このひとは、お宅の番頭さんですかい? なんだか知らねえが、うるそうござんすね、このひとは……なんとかというと、すぐに尻《けつ》をつつきゃあがってね、ここんとこで、わけのわからねえことを、ぱあぱあ、ぱあぱあいってやがる。よくこんなくだらねえものを飼っときやすねえ」
「飼っておくとは、おもしろいことをいうやつじゃ……さっそく、みなの者を、これへ呼べ」
「へえ、殿さまがいいってんですから、呼びましょう……おーい、みんな、どうしたんだ? なにをぐずぐずしてやがるんだ。でてこいよ。殿さまが、おめえたちに酒を飲ませるというんだから、安心してでてこい。案じるより生むがやすいってなあ、殿さまはさばけてらあ。おれの友だちになってくれたんだ」
「これこれ、友だちとはなんじゃ」
「三太夫、無礼講じゃ。ひかえておれ。早く呼べ、早く呼べ」
「おーい、みんな、こいよ!」
植木屋たちが、ぞろぞろとでてまいりまして、ここで、にわかのご酒宴となり、殿さまもまことにおよろこびでございます。すると、田中三太夫へ、お小屋から急なおむかえというので、ご前をさがって、三太夫、立ち帰ってまいりましたが、勤番《きんばん》のことでございますから、多くの召しつかいもおりません。家には、吉次に久治という下男がふたりおります。
「ただいま帰った」
「お帰りあそばせ」
「へえ、お帰り」
「とり急いで立ち帰ったが、なんじゃ?」
「お国おもてから、至急の飛脚で、ご書面がとどきました」
「ああ、さようか。なにごとであろう? 茶を持ってこい……ええ、なにごとであるか、ご書面は? ……早く茶を持ってこい」
「へえ、旦那さまが飲んでいらっしゃいます」
「ああ、飲んでおったか。あわてておった……書状とはこれか?」
「さようでございます」
「どうも、これは変だな。文字がすこしもわからん」
「旦那さま、そりゃあ、裏でございます」
「うん、道理でわからんとおもった。裏では読めん。なにしろ気がせいておるからだ……ええ、なになに……前文ご容赦《ようしや》くださるべく候。国おもてにおいて、殿さま、お姉上さまご死去あそばし、この段ご報申しあげ……えっ、殿さま、お姉上さまご死去! こりゃあ、たいへんなことじゃ。これ、吉次、容易ならんことができた」
「なんでございます?」
「これは、これは、おどろきいった。お国おもてにおいて、お姉上さまご死去とはなにごとであるか。殿においてはご存じもなく、植木屋どもをあつめて、ご酒宴をもよおしておられる。しかるにかようなことだ。さっそく申しあげねばならん。これではでられん。服をあらためてでる。なにをだせ……これ、なにをだすのじゃ」
「なんでございますか?」
「それ……これではでられんと申すに……ええ、わからんやつじゃ。その……なんじゃ……ええ、わからんか?」
「さっぱりわかりません。なにをだします?」
「その……それそれ……ああ、上下《かみしも》、上下、早くだせ、早くだせ」
よほどあわてまして、上下を着けますと、あらためてご前へでました。
「おお、三太夫か。用事はすんだか? なんじゃ? なにごとじゃ?」
「ははっ、おそれながら、国おもてよりご飛脚|到来《とうらい》、つきましては、この場にては、ちと申し兼ねます儀にございます。はばかりながら、おひとばらいをねがいます」
「うん、さようか。これこれ、みなの者、遠慮して、そこを立て」
「植木屋ども、立て立て」
植木屋たちは、おどろいて、みんなでてまいりました。
「近うすすめ。三太夫、して、なにごとじゃ?」
「ははっ、なんとも申しあげようもございません。ご愁傷《しゆうしよう》、お察し申しあげまする」
「愁傷とはなんじゃ?」
「ははっ、ただいま申しあげました儀で……」
「まだ、なにもいわんではないか」
「あっ、さようで……なるほど、まだ申しあげません。ほかのことではございませんが、このたび、お国おもてにおいて、お殿さま、お姉上さまご死去あそばされたというところの書面でございます」
「なんじゃ、姉上ご死去じゃ?! さようか。なるほど愁傷じゃ。それはどうも知らんであった。知らぬこととは申しながら、酒宴などもよおしておってすまんことをいたした」
「へへっ、ご愁傷、お察し申しあげまする。この上は、組頭《くみがしら》へ申しわたして、お上屋敷へ停止《ちようじ》を申しつけましょう」
「うん、さようじゃ。質素にせよと申せ」
「ははっ」
「これこれ三太夫、姉上ご死去は、いつなんどきであったな?」
「ははっ」
「これ、いつじゃ?」
「ははっ……とりいそぎましたので、そこをみてまいらんで、あわててまかりでました」
「すぐにみてまいれ。そそっかしいやつだ」
「ちょっとおひまをいただきます」
と、ご前をさがりましたが、そそっかしいひとがあわてたんですから、もう立ち帰ったときには、肩衣《かたぎぬ》もまがってしまいました。
「ただいま帰った」
「お帰りあそばせ。たいそうお早く……」
「あまりいそいで、なにをみなかった……どうした?」
「さっぱりわかりません」
「あわてるな」
「旦那さまが、あわてておいでで……」
「先刻の書面はいかがいたした?」
「てまえ、存じません。旦那さまが、読んでいらっしゃいました」
「読んでいて知らんということはない」
「てまえは読みません」
「わしが読んだのか? ……あれがないときは、申しわけが立たん。そこらをさがせ」
「どこもございません」
「戸棚をあけてみろ」
「戸棚にいれるわけはございませんが……」
「いや、そうでない。さがせ、さがせ……そこにはいっておる書類をみんなだせ……ないか? これが知れんときにはたいへんじゃ。殿さまが、『さっそくみてまいれ』といわれたのじゃ。はて、こまったことができた……あっ、よろしい……わかった、わかった」
「こんなにさがしてもございませんのに旦那さま、どこにございました?」
「ふところにはいっておった」
「あなたが、ふところへいれておいちゃあわかりません」
「そちたちは、なんたるやつじゃ。ふところへいれおいてわすれるなどとは……」
「いえ、それは、あなたで……」
「あわてるな」
「おそれいりました」
「ええと、書面になんとあったかな? ……至急のことゆえ、前文ご容赦くだされたく候。お国おもてにおいて、ご貴殿《きでん》お姉上さまご死去……え? お国おもてにおいて、ご貴殿お姉上さま……ご貴殿?! ……おっ、これはたいへんなことができた」
「どうなさいました?」
「これはたいへんだ。これ、みい。お国おもてにおいて、ご貴殿お姉上さまとあるのを、殿さまお姉上さまと申しあげた。これは、とんだまちがい……」
「なるほど、これはとんだまちがいで……」
「どうもえらいまちがいができた。かようなことをまちがえて申しあげ、殿においてもご愁傷であろう。しかしながら、どうも、ただいまとなって、貴殿と読みちがえたとは申しあげられん。こういうことをまちがえるというは、じつに申しわけがない。この上は、いさぎよく切腹いたして申しひらくであろう。いいわけに切腹をいたすから用意いたせ……いや、どうも、お国おもてにおいて、姉上が死去なされ、江戸おもてにおいて、拙者《せつしや》が切腹をするということは、なんたる因果因縁であろうか。ああ、こんにち、かようなことになるとは、情けないことだ。そちたちが、あとにのこって、ご重役へよきなに申しあげてくれ。いさぎよく切腹いたす。なにを持ってこい……その……なにを……そこにある庖丁、まな板とりそろえて……」
「え?」
「いや、庖丁、まな板ではない。さあ、切腹の用意をいたせ」
「どうもえらいことになりましたな。これは、その、てまえのかんがえますには、あわてるところではないと心得ます。むやみにご切腹あそばして、犬死になるようなことがありましてはいけませんから、お殿さまへ、あなたさまが、あわててまちがえたと申しあげれば、ひょっとして、百日ぐらいのご蟄居《ちつきよ》であいすめば、お命《いのち》にもさわらず、このくらいめでたいことはございません。また、それで、殿さまが、ご立腹のあまり、ご切腹とか、お手討ちとかいうことになれば、しかたがございません。それからでもおそいことはなかろうと存じます。死ぬのは、いつでも死ねます。こういうときには、よくよくおかんがえあそばしてものごとをなさいませんと、とんだことになります。いかがでございますな?」
「なるほど、そうじゃな。死ぬのは、いつでも死ねる。このまちがいを申しあげて、その上でもさしつかえない。たとえにも申す通り、商売は、道によってかしこしという……いや、これはちがうな。なんとかいうたとえがあるではないか。ああ、わすれた……あ、そうじゃ……死は一旦《いつたん》にしてやすく、生は万代にしてえがたしじゃ……なるほど、殿さまに申しあげた上のことにいたそう」
まことにそこつなかたではございますが、正直なよいおかたでございます。ふたたびご前へでましたときには、顔の色もかわりまして、しおれ果てて、すすみかねております。殿さまのほうも、ぼんやりとしておられます。
「ははあ……」
「おお、待ちかねた。近うすすめ……して、姉上ご死去は、いつであったか?」
「ははっ……それが……とんでもないことをつかまつりました」
「いかがいたした?」
「じつは、ただいま立ち帰って、書面をつくづくとみましたところ、お殿さまではなくて、ご貴殿お姉上さまとしたためてございましたのを、例のそこつで、てまえが、殿さまと読みちがえて申しあげました。とんだまちがいをいたしまして、なんとも申しわけございません」
「なんじゃ、まちがいじゃ? ……貴殿というのを読みちがえた? けしからんやつだ! どうもそこつとは申しながら、武士が、さようのことをとりちがえてあいすむと心得るか!」
「おそれいりました。この上は、お手討ちなりとも、切腹なりともおおせつけられますよう……」
「うん、にくいやつじゃ。そちのようなやつは手討ちにいたさん。切腹申しつける」
「ははっ、切腹おおせつけくだされまして、身にとって、ありがたきしあわせにございます」
「これこれ、小屋へ立ち帰らず、余の面前にて切腹せよ」
「ははっ」
殿さまは、しばらく三太夫のようすをごらんになりながらかんがえておりましたが、
「こりゃ三太夫、待て待て、切腹にはおよばんぞ。よくかんがえたら、余に姉はなかった」
付き馬
そのむかしは、廓通《くるわがよ》いは、馬でしたものだそうで、ただいまの並木とかいうところが松並木になっておりまして、あのへんに馬子がでておりまして、廓通いのお客が馬に乗ると、馬子が、そそりぶしかなんかで吉原へ通う。途中が、馬道と町名にのこっております。
そのころは、白馬で通うのがたいそう巾《はば》がきいたんだそうで、したがって、白馬とくると、お駄賃も高かったと申します。
大門のなかへは馬を乗りいれることはできませんので、大門で馬を乗りすてて、大門の前に編笠《あみがさ》茶屋という茶屋がありまして、ここで編笠を借りうけて、ひやかしてあるいたという。なかなかおつなものでございます。
大勢の馬子は、朝帰りの客を、大門そとで待ちうけております。もしもお客さまの勘定がたりないと、女郎屋からお客を大門そとまで送ってきて、「このお客は、ゆうべあそんだけれど、勘定がたりないから、このかたをお宅へお送りして、勘定をいただいてきておくれ」と、馬子にたのみます。馬子は、これをひきうけて、お客を馬に乗せてお宅へ送ってきて、勘定ができるまで門口に待っておりました。そこで、これを俗に馬をひいて帰る。付き馬などと申します。それが、のちには、女郎屋の若い衆がついてくるようになりましたが、付き馬、あるいは、馬という名称だけはのこりました。
「えへへへ、ええ、いかがさまで? 一晩のご遊興をねがいたいもんですが……」
「いけないよ。だめだよ」
「へへ、さだめしおなじみさまもございましょうが、たまには、ちょっとお床の変りましたのもおつなもんでございまして……」
「だめだよ」
「え?」
「だめだというのにさ。おまえさんにそうすすめられてみると、そんならご厄介になろうぐらいなことをいいたいが、じつは、ふところは一文なしといってもいいくらいなんだよ」
「へっへへ、ごじょうだんを……」
「いや、じょうだんじゃあないんだよ。こういえば、大の男が、吉原の大門をまたいではいってくるのに、一文なしでくるやつがあるかというかも知れないがね、それについては、ちょいとわけありでね、というものは、わたしの叔父というのが金貸しが商売なんだ。それでね、大きな声じゃあいえないが、だいぶ仲の町のお茶屋さんにお金がまわしてあるんで、月に日をきめてとりにくるんだが、叔父貴が、四、五日かぜっぴきで寝ているんだ。『どうだい、おまえ、からだがあいているんなら、かわりにいってとってきておくれでないか?』『よろしい。いってまいりましょう』と、安うけあいにやってきたがね、しかし、お金をとりにきたくらいだから、紙入れはからだよ。大門をまたぐと、火がはいったばっかりだ。むこうだって縁起商売、お客商売、ねえ、わたしのような者がはいっていったら、あんまりいい心持ちはしなかろうと、こうおもってね、時間つぶしにひと運動しようと、ぐるりとまわって当家の前へ立つと、おい、若い衆さん、だいぶ玉ぞろいだね。よだれこそたらさないが、しばしうっとりとしていたというわけさ。右のしまつだ。あそびたくないことはないんだが、またの折りにしようじゃあないか」
「へえ、よくわかりました。そこをひとつ折りいっておねがい申したいもんでございますが……」
「あれっ、くどいねえ。折りいるにもいらないにも、ふところにお銭《あし》がないんだよ」
「へへへへ、そうでございますが、おことばのごようすでは、仲の町のお茶屋さんへお金をとりにいらしったとかいうような……」
「へ、そうかい、それじゃあ、なにかい、お茶屋へいって、お金をうけとってきてあそべというのかい? それはいけないよ。これで、わたしが、お茶屋へいってお金をうけとると、すぐに里心《さとごころ》というやつがおこる。これは、叔父さんの金だから、家へ持っていかなければならんとおもうと、当家へ足がむかないで、すぐ御帰還になってしまうというしまつさ。どうだい、若い衆さん、ものは相談だが……」
「へいへい、どういうことに?」
「今夜、わたしをこころよくあそばしておくれ。あしたの朝になったら、わたしが、手紙を一本書くから、それを君が、仲の町のお茶屋へ持っていって、なにも金を借りるんじゃあないよ。貸してある金をとるんだから、そのうちからゆうべの勘定をすまして、『さようなら』『いずれお近いうちに……』というので帰れるんだが、それでよかったらあそぶよ」
「へへえ、なるほど、では、明朝、てまえが、先方へお手紙を持ってまいりますれば……」
「むろん、お金はとれるんだよ」
「ああさようで、それでは、そういうことで、一晩のご愉快をねがいたいもんで……」
「よかったら厄介になろう」
「ありがとう存じます……おあがんなさるよ」
とうとう若い衆は、一ぱいひっかかってしまいました。こんなやつだから、ものごとに遠慮をしません。
「若い衆さん、どうもお世話さま。相方《あいかた》は、いま、ちょっとはばかりへいきましたよ。ところでね、わたしは飲《い》ける口だから、ご酒《しゆ》のおはこびをねがいたいが、お宅なんぞはそんなこともあるまいが、お見世によると、あくる朝、あたまがぴんぴんいたむお酒を持ってくるが、そういうのは禁物だよ。ついでにね、おいらんをはじめ新造(若い遊女)衆でも、ご酒は飲《い》けないが、ビールならすこしぐらいなんてえひともあるだろうからね、なんでなければならないなんてやぼはいわないから、ありあわせでいいよ。ビールも持っていらっしゃい」
「かしこまりました」
「それでね、台の物は、ふんだんにいれておくれよ。お皿ばかり大きくっても、中身がぽちょぽちょなんてえのはいけませんね。おさしみでも、片側に四切れ、片側に四切れ、都合《つごう》八切れなんてえのは、どうもさびしくっていけないね。それから、陽気も小ざむいものだから、鍋ものなどもわるくないね。たのしみ鍋でも、よせ鍋でもいいよ。酒は、水っぽいなんてえのはこまるよ」
「へいへい」
「それからね、みんなおひけという時分にご飯《はん》つぶをいただきたいが、おいらんとさしむかいで、どんぶりで食うのもいきでしょう? 手ずから幕の内というようなことで、おひけにしましょう。それから、ちょっとお酒を飲むんだから、芸者の二、三人もよんでもらおうかね」
「かしこまりました。ただいま」
若い衆は、なんにも知りませんから、あつらえものを通す、芸者がくりこんできて、さわぎがはじまる。
さて、あくる朝になりますと、
「へえ、お早うございます」
「はい、お早う。いや、ゆうべは、いい心持ちにあそんだよ」
「どうもおそれいります」
「いえさ、まったくだよ。この女郎買いというものは妙なもので、あそぶときにはいい心持ちにあそんでも、あくる朝になると、変に里心のつくことがあるもんだがね、ゆうべは、ほんとうに愉快にあそばしてもらったよ。ときに若い衆さん、朝になって、罫《けい》のひいた紙を持ってはいってくるでしょ、ええ? ご勘定てえ……あれがないと、女郎買いもおつなもんだが……ご持参かい?」
「へえ、持ってまいりました」
「覚悟はしているよ。いくらだい?」
「へえ、これに明細をしたためてございます」
「明細なんぞは、めんどうくさいから、どうでもいいよ。しめていかほど?」
「ええ、十四円六十銭ということになります」
「ちがうだろう? まちがいだろう?」
「いいえ、まちがいはございません」
「それじゃあ、ほかのだろう。ここのじゃああるまい?」
「いえ、こちらさまのです。昨晩は、よけいなものがはいりましたために、ちとお高くなりました。おそれいります」
「そんなことはどうでもいいがね、あの、芸者衆のご祝儀というのはどうなったんだい?」
「あれは、そのなかに……」
「はいっているのかい?」
「へい」
「それから、みんなのご祝儀もはいっているのかね? ……すると、みんなで十四円六十銭かい? ……それは、ひどく安いね。いや、おどろいたね、どうも……ゆうベはあんなさわぎをして、これだけの勘定とは……ただみたいなもんだね」
「へえへえ」
「うん、ご当家のご内証《ないしよ》は、なかなかあたまがはたらくね。ほそく長くというわけだね。これから、また、ちょいちょいご厄介になるよ」
「ありがとう存じます」
「ああ、あそび好きな友だちが大勢いるからね、みんなつれてくるよ」
「おそれいります」
「ところでね、若い衆さん、ゆうべの寸法でいくと、わたしが手紙を書いて、それを、君が、仲の町の茶屋へ持っていくはずだったがね、おもいだしたら認《みとめ》印をわすれてきたんだよ。一判《いつぱん》すわってないと、むこうでも信用しなかろう。いったりきたりめんどうくさい。いくらもないが、仲の町のお茶屋だ。茶屋までいっしょにいっておくれな」
「へいへい、お供いたしましょう」
「たのむよ」
とうとう若い衆はごまかされて、大通りへひっぱりだされてしまいました。茶屋の前まできますと、
「どうです、ゆうべのお客をすっかり送りだして、きれいに掃除をした門口へ、ほうき目を立てて、盛り塩をしたばかりのところへ、お早うとはいっていって、むこうのもうけにでもなることか、朝っぱらからね、出銭《でせん》というのは気にするから、まあ、ちょいと、一時間ばかり経《た》ってはいっていこうじゃあないか。なあに、一時間ぐらいわけはないよ。ちょいとおもてのほうをぶらつこうじゃあないか。ね? まあ、いいからつきあいたまえ」
てんで、またごまかして、大門から外へでてまいりました。土手へかかって右へはずれる、田町《たまち》で……
「ねえ、君、あそびをして、朝のお湯へはいらないと、なんとなくからだがしまらないような心持ちがするんだが、一風呂《ひとつぷろ》つきあいたまえ……おや、変な顔をしてるね。勘定のことを心配してるのかい? 大丈夫、大丈夫、大船に乗ったつもりでまかせてお置きよ……おい、番台、すまないが、手ぬぐいを二本貸しておくれ。それから流《なが》しが二枚……おい、君、すまないが、ちょっと湯銭を立てかえといておくれ」
「へえ? てまえが払いますんで?」
「変な顔をしなさんな、あとでまとめて返すから……」
「へえ」
若い衆は、すっかり面くらって湯銭を払います。やがて、湯からあがって外へでます。
「どうだい、いい心持ちだね、朝湯は……ええ、からだのあぶらをとって、ゆうべの飲みすぎのつかえがおりて、なんとなくいい心持ちになったが、ちょいと腹がへってきたね。どうだい、湯どうふで軽く飲みの、おまんまといこうじゃないか。君、朝飯は? え? まだ? そりゃあ、ちょうどいいや。どうだい? ここに湯どうふなんて書いてあるが、ちょいと、まあおつきあいよ」
ごまかして湯どうふ屋へはいって、さんざん飲んで、食べて、
「ちょいと、ねえさん、お勘定だよ。いくらだね? 二枚|重《かさ》なっているんだよ、お皿は……なに? 八十四銭かい? よろしい……おい、君、ちょっとすまないが、一円お立てかえをねがいたい」
「まことにすみませんが、あいにく……」
「おや、持ってないというのかい? じょうだんいっちゃあいけないよ。こんな飲み屋で恥をかかせないでおくれ。持ってないてえことはないよ。さっきお湯銭を立てかえるときに、君のガマ口のなかはちゃんとみているんだから……さあ、一円札を一枚だしたまえ……おい、ねえさん、おつりはおまえさんにやるよ。それから、お茶をねえ、あついのをさしとくれ。小楊子《こようじ》がきてないよ」
勝手な太平楽をならべて、そこの家をでますと、浅草のほうへぶらーり、ぶらーりとやってまいります。
「おい、君」
「へえ?」
「なにを変な顔をしているんだ? ご酒を飲んだら、飲んだような気分になりたまえよ。朝酒は、かかあを質に置いても飲めというがまったくだ。こうやって、ほっぺたがぽーっと赤くなってきたやつを、風に吹かれているなんぞは、まさしく千両だね。君もしっかりあるきたまえ。運動は必要ですよ。こうやってあるいているのがくすりになるんだから……といってるうちに、いつしか瓢箪池《おいけ》へつきあたったが、これから右へまがって活動写真の看板を一軒一軒みてまわったってつまらないや。じゃあ、こっちへまがりましょう。みたまえ、花屋敷、あいかわらず繁昌をしているねえ。動物はいるし、あやつり人形はあるし、いろんな見世物があって、おばあさんが、孫の手でもひいてね、小半日あそびにくるのには、このくらい結構なところはないや。なかにはいって象にパンでもやろうか? え? いやかい? ……ええと、ここを斜《はす》にぬけちまいましょう……ほら、ここに銅像がある。かわいらしいかたちだね、このおばあさんの銅像、まるで人形焼きに焼きつけたようなかたちだね、瓜生岩子《うりういわこ》てえひとだ……観音さまのお堂は、あいかわらずりっぱだなあ。十八間四面てんだ。家賃がいくらだか知ってるかい? ええ? 知らない? ああ、そう、あたしも知らない……ねえ、君、あの正面の段々がいく段あるか知ってるかい? え? 知らない? ああいうものはねえ、商売|柄《がら》で、君なんぞちゃんとおぼえておかなくちゃあ恥をかくよ。こんどよく勘定をしてごらん。九段あるんだよ……どうです、鳩ぽっぽに豆を売っているおばあさん、長生きをしてるねえ。あのしわくちゃだらけの顔に、あたらしい手ぬぐいで、あねさんかぶりにしたとこなんざあ、ずうずうしいもんだ……なんのために、あのほそい棒を一本ずつ持っているんだか知ってますかい? え? 知らない? あれはね、鳩がね、台の上の豆だの、お米だのをとりにくると、あの棒で鳩をぶつんだよ。鳩のおかげでてめえが生きていやあがって、その鳩をひっぱたくとは、いやなばばあだねえ……仁王さまは、あいかわらず大きいねえ。このかたばかりは、いくら物価があがったって、さらにやせないんだからね。どうだい、いいからだしてるじゃあないか。紙をこう噛《か》んでねえ、ぶっつけて、ぶつかったところへ、こっちに力がでるっていうんだが、やってみるかい? ええ? つまらないからよそう? そうかい……人形焼き屋、あいかわらずよく売れるなあ。あの店さきにたまごの殻《から》があんなにどっさり積んであるだろう? きょう一日であれだけのたまごをつかったんじゃあないんだよ。去年の秋からのが、積もり積もってあれだけになっているんだよ……おもちゃ屋をごらん。近ごろは、なかなかおもしろいおもちゃがあるねえ。あたしが好きなのは、首からこう掛けて、電車の方向をだすやつ。手でこうぐるぐるまわして、でてくるでしょ? 品川|行《ゆき》、三田行、青山行、本所行、上野行、雷門行なんて書いてあって……で、あとにおしまいと書いてある。あれ買ってさ、君、首へお掛けよ……で、ふたりでね、こう、ひもでつないで、ちんちんちんちんって、あそんであるこう……ええ? いやかい? いやじゃあしょうがない……豆屋、あいかわらず売れるなあ。紅梅焼き屋もなかなかさかんだねえ……両方で競争してるんだねえ。紅梅焼き屋で、ぺたぺたぺたぺた、豆屋で、ぱちぱちぱちぱち、ぺたぺた、ぱちぱち、ぺたぺたのぱちぱち……どういうわけで豆屋の店さきへ鏡をかざったんだろうね、まさか豆を噛むすがたをごらんなさいというわけでもなかろうが……雷門へでましたねえ……こりゃあ、電車はあいかわらず満員だねえ」
「もしもし、あなた、じょうだんじゃない、どこへいくんです? わたしはね、仲の町のお茶屋さんまでというんで店をでたんですが、全体どこへいくんですよ?」
「ねえ、君、そんな変な顔をしなくてもいいよ。大丈夫だよ、安心しておいで。昼間だよ。わたしがにげようったってにがしもすまい? じつはね、ちょいといい心持ちになって、ふらふらとここまできてしまったんだが、これから仲の町の茶屋へとってかえすというのは億劫《おつくう》だ。ここまできたもんだから、叔父さんの家までいっしょにきておくれな。きっと勘定をするから……」
「どちらですい、叔父さんのお宅てえのは? どうもたよりないねえ、あなたのいうことは……」
「まあ、そんなことをいわずにいっしょにきておくれよ」
「ええ、そりゃあここまできちまったもんですからまいりますが、どこなんです?」
「すぐそこなんだ。田原町《たわらまち》だ。そこへいけば、勘定はむろんするよ」
「それでは、お供しましょう」
「きてくれるかい? たのむよ。じつはね、さっきからいおうとおもっていたが、その叔父さんのとこの商売というのが縁起のわるい商売なんで、ついいいそびれていたんだ」
「へえ、なんのご商売なんで?」
「早桶《はやおけ》(棺桶)屋、つまり、葬儀屋てえやつだ。おまえのとこだってお客商売だろう? ちょっといいだしにくかったね」
「へへへへ、それはどうもありがたいことで……」
「なにがありがたい?」
「そういうご商売は、てまえのほうでは、はかゆきがするなんていって、よろこびますので……」
「なるほど、はかゆきなんざあいいね。さすがに商売柄で客をそらさない。うれしいねえ。それじゃあ、叔父さんとこまでいっしょにいっておくれ。ええと、だいぶ立てかえてもらったねえ……ああ、わかってる、わかってる……ええと、それにゆうべの勘定が十四円六十銭……うん、じゃあ、こうしようじゃあないか、まあ、足代やなにやかで、もうすこしなんとかしたいんだけども……どうだい、二十円でひとつ承知してくれないか?」
「いえ、それでは、おつりになります」
「つりなんざあどうでもいいよ。そりゃあ、いまもいったように君の足代さ。で、いろいろご厄介になったから、なにかお礼をしたいねえ。こうおみうけ申すところ、失礼ながら、君の帯にだいぶやまがいった(古くていたんだ)ねえ。貝《かい》の口《くち》にきゅーっとむすんだ帯のかけが、猫じゃらしになっているなんぞは、あんまり女っ惚れはしないよ。失礼だがね、茶献上《ちやけんじよう》の帯、たしか一ペんしめただけで、叔父の家にあずけっぱなしになってるんだが、そんなものでもよかったら、あげるからしめておくれ」
「どうもおそれいります」
「なあに、礼をいわれるほどのものでもないよ……といううちにきたが、ごらん、あの、じろじろ外をみているのが叔父さんなんだ。顔はむずかしいけれど、若い時分には、かなり道楽をしたひとだ。はなしはわかるし、おれのいうことなら、なんでも聞いてくれるんだが、いきなり君がいっしょにきちゃあ、ちとこまるねえ。ちょいといってね、はなしのあらましをしてくるから、すこしここで待っていておくれ。呼んだらくるんだよ……へい、こんちは、おじさん、こんちは」
「はい、おいでなさい」
「へい、きょうはおねがいがあってまいりましたが、ぜひとも聞いていただきたいんで……」
「なんです? その聞いていただきたいってえのは?」
「ええ、おねがいというのは、(小声になって)じつは、あれにつれてまいりました若い男ですが、あの男の兄貴というのが、昨晩、急に腫《は》れの病《やま》いで亡《な》くなりまして、ふだんからふとっているところへ、腫れがまいりましたので、とても普通《なみ》の早桶ではおさまりません。で、図抜《ずぬ》け大一番《おおいちばん》の小判型《こばんがた》でなければいけないってんですが、なにしろ、かたちがかたちだけに、どこへいってもことわられまして、こちらならばというので、あてにしておねがいにあがったんですが、いかがでございましょう、こしらえにくいかも知れませんが、(大声になって)ぜひこしらえておもらい申したいんですがな」
「そうですねえ……図抜け大一番、小判型ねえ、そんなものはこさえたことはねえが……ちょいと職人のほうの手都合《てつごう》を聞いてみましょう……おいおい、どうだい、そっちは? ええ? うん、あれは、あとでもいいじゃあねえか……うん、そうかい、やってみる? いいね? そうかい……じゃあねえ、職人が、かわった仕事でおもしろいから、やってみるてえますがねえ、手間賃は、ふつうの仕事よりもよけいに払ってもらわなくっちゃあならねえが、ようがすか?」
「(小声で)いえ、もう、手間のところは、いかほどでも結構なんで……」
「そんなら、すぐにこしらえてあげますから……」
「(小声で)いや、それで一安心《ひとあんしん》いたしました。なにしろ、兄貴を亡くした上に、ほうぼうでことわられたもんですから、すこうしあたまへぼーっときて、ときどきおかしなことを申しますが、どうか気になさらないように……で、あの男がまいりましたら、『大丈夫だ。おれがひきうけた。できるから安心しろ』と、こうおっしゃっていただけば、当人もおちつくこととおもいますんで……」
「あたまへぼーっときてる? まあ、そうだろうねえ……こっちへ呼んでおあげなさい」
「ありがとう存じます。なにぶんどうかおたのみ申します……おいおい、君、こっちへおいで」
「へえへえ、どうです?」
「どうもこうもない。おじさんが、万事こしらえてくれるというから大丈夫だ……じゃあ、おじさん、この男でございますが、いま、おねがいしました……ええ、できるんでございますな、あれは?」
「ああ、できますよ。いま、こさえてますから……まあ、おまえさん、ご安心なさい」
「ああ、さようでございますか。ありがとう存じます」
「どうだい? 安心したろう? おじさんは、はなしがわかるんだから……いいかい? できたら、うけとってね。また近いうちにいくから……」
「おそれいります」
「ええ、おじさん、わたしは、ちょいと、そこに買いものがありますんで、すぐに帰ってはまいりますが、もしもさきにできましたら、この男にわたしていただけばよろしいんでございますが……じゃあ、ちょっといってまいりますから、ごめんくださいまし」
「ああ、ごめんください。ええ、小僧や、たばこ盆を持ってきな……さあ、おまえさん、こっちへおかけなさい」
「へえ、ありがとう存じます。もう結構で……」
「いや、いま、すこしあいだがありますから、どうぞおかけなすって……」
「では、ちょっと失礼させていただきます……どうもおいそがしいところを、とんだごめいわくをねがって……」
「いえ、めいわくたって、わたしのほうも商売だ。しかし、まあ、あとのこともあるもんだから、なるたけ心配をしなさらねえほうがようございますよ」
「へえへえ」
「お気の毒なことをしたね」
「へえ、なに……」
「で、よっぽど長かったのかい?」
「いえ、べつに長いことはございません。昨晩一晩で……」
「ふーん、ゆうべ一晩に……そりゃあおどろいたろうねえ……してみると、急にきたんだな」
「だしぬけにいらっしゃいました」
「いらっしゃいましたはおかしいね。ゆうべが通夜《つや》かい?」
「お通夜? ああ、ああ、なるほど、ご商売がらですねえ。うまいことをおっしゃいます。へえ、昨晩、お通夜をいたしました」
「どうだったい?」
「へえ、だいぶおにぎやかでございまして、芸者衆などがはいりまして……」
「へーえ、陽気なもんだなあ。なるほどねえ、めそめそしてねえで、芸者あげてさわぐなんてなあ、かえっていいかも知れねえな……仏は、よろこんだろう?」
「仏さま? ……なるほど、仏さまねえ……へえへえ、仏さまは、だいぶごきげんでした」
「ごきげんだ? いうことがおかしいぜ。いま、じきにできるんだが、ほかにいるものはないか? ほかに付きものは?」
「へえ、おそれいりますが、帯を一本やるとかおっしゃいまして……」
「ああ、帯をね。よし、心得た。おい、帯が一本付くよ……それから、帷子《かたびら》とか、笠やなんかはいいかい?」
「それは、べつになんともおっしゃいませんでしたが……」
「はあ、帯だけだよ。おまえさん、いま、じきにできるんだが、おひとりのようだが、どうして持っていきなさる?」
「へえ、てまえは、これへ紙入れを持ってまいりましたが……」
「紙入れは持ってきなすったろうが、どうして持っていきなさるんだ?」
「ええ、紙入れのなかへいれて持ってまいります」
「おまえさんねえ、よほどどうかしてるよ。しっかりしなくっちゃあいけないよ。紙入れのなかへどうやっていれるんだ? ……ああああ、できたか? こっちへだしてみせてあげな。安心するから……さあ、おまえさん、ちょっとごらんなさい。いそぎの仕事で気にいるめえが、これだよ」
「どうも、これは、ごりっぱで……」
「ほめてちゃあいけないよ。木口《きぐち》、手間代《てまだい》ともで十二円だ」
「十二円?」
「ああ、格安《かくやす》になってますよ」
「へーえ、どなたのおあつらえで?」
「なにをとぼけているんだ。おまえさんのあつらえでこしらえたんじゃあねえか」
「じょうだんいっちゃあいけません」
「おいおい、じょうだんじゃあないやね。おまえさんのおつれがそういったろ? おまえさんの兄さんが、ゆうべ、腫《は》れの病いで死んで、ふとってるところへ腫れがきたんで、普通の早桶じゃあとてもはいらないから、図抜け大一番、小判型にしてくれって……できねえってえのを、なんとかしてくれってたのまれたから、しょうがねえからこせえたんだ」
「わたしに兄貴なんぞありゃあしません……どうもさっきから、はなしがおかしいとおもっていたんだが、いま帰ったのは、おじさん、あなたの甥御《おいご》さんじゃあねえんですか? あのかたは、ご親戚なんでしょう?」
「じょうだんいっちゃあいけねえ。はじめてみたつらだあな」
「えっ?! しまった。うーん、ちくしょうめ、うまくにげられちまった」
「どうしたんだ?」
「へえ、わたしは、吉原《なか》の若い衆で、ゆうべ、あいつがあそんだ勘定ができないで、お宅へくればお払いくださるというんで……途中、湯へへえるの、めしを食うのと、ほかに立てかえの銭もたくさんあるんで……」
「そうか。それで、ようすがわかった。どうもおかしな野郎だとおもったよ。ときどき、ばかげた大声をだすかとおもうと、急にちいさな声になりゃあがって、おれのことを、おじさん、おじさんていやあがる……おめえもまぬけじゃあねえか。付き馬でもするやつは、もうちっとあたまをはたらかせな。かんじんの相手をにがしちまって、この勘定はどうする?」
「どうもとんだ災難で……なんとかひとつ、ごかんべんを……」
「それがよ、あたりめえの品なら、また、つぎへまわすということもできるが、図抜け大一番小判型てんだ。こんな水風呂《すいふろ》の化けものみてえなものは、どうすることもできねえ。まあ、そういったところで、おめえも、かんげえてみりゃあ気の毒だ。しかたがねえ、手間代のところは負けてやるから、木口代五円おいて、こいつをしょっていきな」
「じょうだんいっちゃあいけませんよ。早桶なんぞしょって、大門がくぐれるもんですか」
「なまいきなことをいうな。てめえがまぬけだから、こういうことになったんじゃあねえか。こんなものを、おれんとこにおいたってなんにもならねえ。ぐずぐずいわずに、五円おいてしょっていけ……さあ、みんなで、この野郎にしょわせろい」
「じょうだんいっちゃあいけない……ああ、なにをするんだ。ひとにこんなものをしょわせて……いたい、いたい……そんなひどいことをしなくてもしょいますよ。しょいますってば、……」
「さあ、しょったら、五円おいて帰んな」
「五円はさておいて、わたしは、もう一文なしだ」
「なに、銭がねえ? じゃあ、しかたがねえ。小僧や、吉原《なか》まで付き馬にいけ」
五月のぼり
「ねえ、おまえさん、子どもの初節句《はつぜつく》じゃあないか。お酒ばかり飲んでいて、人形ひとつ買ってやらないというのは、あんまりじゃあないか。あの子が、いまに大きくなったら、叱言《こごと》はいえないよ。さっきもおじさんが、おまえさんの留守においでなすって、『なにか人形でも買ったか? のぼりでも買ったか?』とおっしゃったから、『いいえ、お酒ばかり飲んでいてこまります』というと、『そりゃあこまったもんだ。おれが会ったら、叱言をいってやる』とおっしゃったから、いまに、おまえさん、おじさんにお目玉をちょうだいするよ。『これで、なんか買ってやれ』と、じつは、おじさんが、お金をくだすったから、おまえさんが留守でも、家をしめて買いにいこうとおもっていたところで……」
「そうか。おじさんが、金をくれていったか。女が買いにいったって、こんな際物《きわもの》は、なかなかうまく買えるもんじゃあねえ。おれがいって買ってくる」
「いけないよ。おまえさんにわたすと、また、お酒でも飲んでしまって、わたしが、おじさんに申しわけがないから……」
「べらぼうめ。おれだって、わが子のかわいいのは知らなかあねえや。せっかくおじさんがそういって、おいていってくれたんだから、おれがいって、安く買ってきてやる」
「それじゃあ、きっと、おまえさん、人形を買ってきておくれよ。お酒を飲んじまっちゃあいけないよ。じつは、おじさんが、おまえさんにいうなとおっしゃったけれども、わたしは、夫婦の仲だから、いわないわけにはいかない。どうか、わたしが、おじさんに叱言をいわれないように、きっと買ってきておくんなさい」
と、女房が、涙ながらに、その金を、亭主にわたしました。亭主も、そこは、わが子のかわいいのは知れきった人情ですから、金を持って、人形買いにでかけました。
「おいおい、下を通るのは、熊兄いじゃねえか?」
「うん、ちげえねえ。熊兄いだ」
「こっちへ呼びあげようじゃあねえか……おーい、熊兄い、すまねえが、あがってくんねえ」
「なんでえ?」
「なあに、つまらねえ友達同士の喧嘩《けんか》があったもんで、いま、ここで、仲なおりをしようというんで、五、六人あつまったんだ。どうせ帰りには、兄いのところへいくつもりなんだが、ちょっとあがってくんねえ。手間はとらせねえから……」
「弱ったな。きょうは、すこし用があるんだ」
「そうでもあろうが、ちょっとあがってくんねえ。すこしはなしてえことがあるんだから……」
「弱ったな、どうも……」
「すまねえが、熊兄い、ちょっとあがってくんねえ……よう、兄い」
むりやりに、すし屋の二階へひっぱりあげられてみると、大勢、友だちがいて、しきりに盃が交わされております。
「熊兄いがきたんだ。ひとつお酌をしてくんねえ……さあ、兄い、まあ、一ぱい」
「おっと、きょうは、酒は飲まねえよ。いつもならば飲むんだが、きょうばっかりは、おことわりだ」
「おい、兄いは、酒を飲まねえとよ」
「へーえ、熊兄いが酒を飲まねえって? じょうだんいっちゃあいけねえや。兄いが酒をやめれば、天道《てんとう》さまは、西からでらあ……じゃあ、めんどうだから、こうしよう、この茶わんで一ぺえやってくんねえ」
「こまったな、どうも……まあ、しかたがねえ。飲むがね、たんとついじゃあこまるぜ……おっとっと、おそろしくなみなみとついだな。弱ったな。きょうは、すこしわけがあって飲めねえんだから……ときに、喧嘩をやらかしたのは、だれとだれだい?」
「金太と寅の野郎なんで……」
「どうしたんだ?」
「なあにね、寅の野郎が湯にいって、洗場《ながし》へ石けんをおいたところへ、金太がやってきゃあがって、ことわりなしに、その石けんをつかったんだ。さあ、寅が腹を立って、『なんぼ友だちのあいだでも、だまってつかうという法はねえ。この石けんは、ただの石けんじゃねえ。吉原《なか》の女が、おねがいだから、この石けんつかってくれろと、くれぐれもたのんで、わざわざ送ってきたものだから、むやみにつかっちゃあいけねえ』と、こういったんだ。すると、金太のやつが、『なにをきざなことをいってやがるんだ。たかが、吉原《なか》のすべたあまにもらったもんじゃねえか』と、こういったのが喧嘩のもとで、これから、とっくみあいがはじまったが、そのうちに、金太の野郎が、洗場《ながし》ですべって、太《た》の字になってぶったおれるという大さわぎよ」
「ちょっと待ってくれ。大《だい》の字なりというのは聞いたことがあるが、太の字なりというのは、聞いたことがねえな」
「それが、着物を着ていれば大の字なりだが、男が、はだかでたおれたんで、股のあいだに点《ぼつち》がひとつあるから、これ、すなわち太の字なり……」
「よせやい」
「熊兄いなんざあ、点《ぼつち》がでけえから、木《き》の字なりだろう」
「ふざけるな。つまらねえことをいうない。寄るとさわると、喧嘩ばかりしゃあがって、いやになっちまうぜ……あれっ、茶わんの酒がふえてるぜ。よせよ。つまらねえじょうだんをするな。弱ったなあ。きょうは、わけがあって酒は飲めねえんだから……といって、盃洗《はいせん》へあけるのももったいねえや。しかたがねえ、飲んじまえ」
すきっ腹へ、大きな茶わんで、二、三ばい飲んだので、すっかり酔いがでます。こうなると、当人、もう夢中でございます。
「おい、だれか、女の子を呼んでこい。といって、芸者を揚げるのも大げさだ。稽古《けいこ》の師匠を呼んでこい。祝儀《しゆうぎ》は、おれが持ってやるから……」
と、熊さん、すっかり気が大きくなりまして、一さわぎさわいで……
「おい、おれは帰るよ。さあ、これは、ここの勘定の足《た》し前《まえ》にはすくなかろうが、とっておいてくんねえ。ぐずぐずいってねえで、いいから、とっておいてくんねえ」
「どうもすまねえな。おい、熊兄いに、とんだ散財をさせちまったぜ。みんな礼をいってくんねえ」
「どうも、熊兄い、すみません」
「兄い、どうもすみません」
「じゃあ、おらあ、帰るよ」
「兄い、どうか、ねえさんへよろしく……」
てんで、熊さん、みんなに送りだされておもてへでましたが……
「ありがてえな。あいつらあ、おれのつらあみると、兄い、兄いといやあがる。ああいわれると、だまって帰れねえ……おやおや、たいへんなことをしちまった。人形どころじゃあねえ。一文なしになっちまった……ええ、しかたがねえや……おい、いま帰ったよ」
「帰ったじゃあないよ。また飲んできたね。おそろしくまっ赤になって……たいそう飲んだね」
「おめえにそういわれるとめんぼくねえ。じつは、きょうは、その……なんだ……なにを……なにしたんだ」
「なにをいってるんだよ。人形はどうしたんだい?」
「飲んじまった」
「いやだよ、ちょいと、人形を飲むひとがあるもんかね」
「しかし、人形なんぞ買うにゃあおよばねえ。あの金で、みんなをよろこばしたほうが、よっぽど功徳《くどく》にならあ」
「ばかなことをおいいでないよ。うちの子どもの祝いのものも買わないで、お酒を飲んで、なにが功徳になるもんか。ほんとうに、おまえさんには、あきれてしまった。愛想《あいそ》もこそもつき果てたから、わたしは、この子をつれて別《べつ》になりますよ」
「別になるとも、わかれるとも、勝手にしやがれ。大きなお世話だ」
「ちょっと、おじさんが、いまにきたら、なんといいます?」
「おじさんもへったくれもあるもんか。おじさんがなんだ。年をとってるだろう。こっちは若《わけ》えや。喧嘩をすれば、負ける気づけえねえや」
「あんなことをいって、ほんとうにあきれかえったひとだよ」
と、女房が、子どもを抱いてでていこうとするところへ、おじさんが帰りがけに、また立ち寄って、
「ああ、さっきは、おやかましゅう。早く用がすんだから、ちょっと、また寄ってみた」
「おや、おじさん、おいでなさい」
「なにか、また、もめてるじゃあないか」
「まあ、おじさん、うちのひとをみてください。なんとも、あなたに申しわけがございません。あなたが、さっき、人形を買ってやれとおっしゃって、おいていってくだすったお金のことを、夫婦の仲でございますから、ついはなしましたら、『てめえが人形を買いにいくと、際物だから、高くって買いきれねえ。おれがいって買ってくる。おれがいけば、きっと安く買える』といって、お金を持ってでてゆきました」
「そうか。そりゃあよかった。なるほど、それにちげえねえ。女がいって買うよりは、男のほうが、すこしは安かろう。どうだい、人形は買ってきたかい?」
「いいえ、それが、買うどころじゃあございません。どこかへいって、みんな、お酒を飲んじまって、この通り、酔っぱらって帰ってきました。おじさん、まことに、あなたにすみませんから、いま、子どもをつれてでていこうとおもうので……」
「うーん、こまったもんだ。しかし、おれが、金をおいていったばっかりに、わかれるの、でるのといわれると、おれがこまっちまう。どうか、まあ、おれが意見をいって、酒をやめさせてえもんだ。いままでとちがって、子どももできてることだから、ちったあ正気がつきそうなもんだ……これこれ、起きろ。起きねえか」
「へえ」
「起きろよ」
「へえ……あっ、あーあ……いや、これはおじさん、おいでなさい。きょうは、まあ、宵節句《よいぜつく》で、あしたは、お節句だ。まあ、一ぱいやりましょう。おめでたく……」
「おめでたくやるじゃあねえ。さっき、おれがおいていった金で、人形を買ってこねえで、酒を飲んで、あそんでしまったというじゃあねえか。これが、いま、泣いて、おれにわびごとをしている。なんぼ夫婦だって、すこしは義理のあったもんだ。わが子がかわいくはねえか? のぼりひとつでも、人形ひとつでもいいから、買ってやるくらいのことは、おれが金をやらねえでも知れたことだ」
「いえ、おじさん、それは、みなまでのたもうべからず。ちゃんと買ってございます」
「なに?」
「ことしは、坊の初節句、人形やのぼりが、ちゃんと買ってあります」
「へーえ、どこにある?」
「この通り……」
なにをするかとおもうと、階子段《はしごだん》をトントンと二階へあがって、
「おじさん、まあ、あがっておいでなさい。あっしは、けさから、いま、はじめて二階へあがったんだから、これが、初のぼりだ。ねえ、おじさん、わかったでしょう?」
「ひとをばかにしちゃあいけねえ」
「ばかにしゃあしません。あっしが、酒に酔ってまっ赤になったつらが金太郎で、酔いがさめるると正気《しようき》(鐘馗《しようき》)になるとは、どんなもんです?」
「なにをいやあがる」
「ねえ、この通り人形がございましょう? ねえ、もう、決してばくちはいたしません。勝負ごとは断《た》ちましたよ。勝負|断《だ》ち、勝負断ち(菖蒲太刀《しようぶだち》、菖蒲太刀)」
「あきれた野郎だ」
「ところで、おじさんへは、かしわもちをごちそうしましょう」
「かしわもちなんぞ買ってきたのか?」
「へえ、ここに五布《いつの》ぶとんがあります。こいつをぐるりとまるめて……」
「ばか野郎、なにをするんだ?」
「この五布ぶとんにくるまったところがかしわもち……どうでございます? ……『まろび寝の、われはふとんのかしわもち、かわいというて、さすりてもなし』……あたまのでているのは、あんこがはみだしたところ、おじさん、なめてごらんなさい」
「ばかをいえ。しかし、しゃれたことをいうやつだ。てめえがそういうなら、おれも、ひとつなにか祝ってやろう」
「おじさん、大きな声だな」
「この声(鯉)を吹きながしにしろ」
高田の馬場
むかしは、ただいまの浅草公園のあたりを浅草の奥山と申しまして、見世物、大道芸人のたぐいが、それからそれへとならんで、ひとびとの足をとめていたものでございます。
その奥山の大道芸のなかで、名物のひとつになっていたのが、居合い抜きという芸当でございます。
どんなことをしたかと申しますと、奥山の人出の多いところへ荷をおろしまして、真鍮《しんちゆう》のみがきあげた道具に長い刀をかけ、若い男が、うしろはちまきをして、たすきをかけ、袴《はかま》の股立《ももだ》ちを高々ととりあげて、六尺棒などをふりまわし、
「あいあい、あちらでもご用とおっしゃる」
などとやっております。そのうちに、十分見物人があつまってまいりますと、柄鞘《つかざや》八尺という長い刀を腰のかげんで抜いてみせる。これがすなわち居合い抜きで、それがすむと、うしろにひかえている娘がでて、鎖鎌《くさりがま》などをふってみせるのでございますが、この居合い抜きも鎖鎌も、つまりは人寄せにすぎません。そのじつは、がまの油を売るのが商売で、芸当のあいだあいだで、たくみに口上を述べ立てるのでございます。この口上のいい立てがすこぶるおもしろいもので……
「なんとお立ちあい、ご用とおいそぎのないかたは、よっくみておいで。遠出山越し笠のうち、ものの文色《あいろ》と理方《りかた》がわからん。山寺の鐘はゴウゴウと鳴るといえども、法師一人きたりて、鐘に撞木《しゆもく》をあてざれば、鐘が鳴るやら撞木が鳴るやら、とーんとりくつがわからん道理だ。さてお立ち合い、てまえ持ちいだしたるなつめのなかには、一寸八分の唐子ぜんまいの人形だ。細工人はあまたありといえども、京都にては守随《しゆずい》、大阪おもてにおいては竹田|縫之助《ぬいのすけ》近江《おうみ》の朝臣大掾《あそんだいじよう》。てまえ持ちいだしたるは、竹田近江がつもり細工、咽喉《のんど》に八枚の歯車が仕掛け、背には十二枚のこはぜをつけ、これなるなつめのなかへ据えおくときには、天の光りと地のしめりとをうけ、陰陽合体して自然とふたがとれる。つかつかっとすすむは、虎の小走り小間がえし、すずめの小間とり小間がえし、孔雀霊鳥の舞い、人形の芸当は、十《とお》とふた通りある。しかしお立ちあい、投げ銭や放《ほお》り銭はおことわりだよ。投げ銭や放り銭をもらわずに、なにを渡世にするやとおたずねあるが、てまえ、多年のあいだ渡世といたすは、これに持ちいだした蟇蝉噪《ひきせんそう》四六のがまの油、四六、五六はどこでわかる。前足が四本に、後足が六本、これをなづけて四六のがま。このがまの住めるところは、これからはるか北にあたる筑波山のふもとにおいて、車前草《おんばこそう》という露草を食らって生成する。さて、このがまの油をとるには、四方へ鏡を立て、下には金網を張って、そのなかへがまを追いこむ。がまは、おのれのすがたをみておどろき、たらりたらりとあぶら汗を流す。それを下の金網にて透《す》きとり、柳の小枝をもって三七、二十一日のあいだ、とろーり、とろりと煮つめたのが、このがまの油だ。その効能をなにかといえば、金創《きんそう》切り傷にきく。第一番になおしてあげたいが、出痔《でじ》、いぼ痔、走り痔に脱肛《だつこう》。虫歯で弱るおかたはないか? でておいで。綿へ塗って内へつめ、歯でくいしめるときは、雪に熱湯をそそぐがごとく。待ったお立ち合い、刃物の切れ味をとめる。てまえ持ちいだしたるは、鈍刀《どんとう》たりといえども、先が切れて元が切れない、そんなあやしいものではない。ほら、ぬけば玉散る氷の刃《やいば》、鉄の一寸板もまっぷたつだ。お目の前で白紙をこまかにきざんでごらんにいれる。さ、一枚が二枚に切れる。二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚、十六枚が三十二枚、三十二枚が六十四枚……春は三月落花のかたち……」
などと、その刀の切れ味をみせておき、それへがまの油を塗って、切れ味をとめたり、または、油をぬぐいとって、さらに、自分の腕を切って血をだし、その血を、がまの油ひと塗りでとめてみせたりするのでございますが、その口上とともに、じつにあざやかなものでございます。
こういうぐあいの口上をもって、いましも浅草奥山の人の出ざかり、居合い抜きからがま油の効能を述べております二十歳《はたち》前後の若者、そのうしろにひかえておりますのは、その男の姉でもありましょうか、年ごろ二十二、三の美しい娘、これが鎖鎌をつかうのでございます。まわりは、黒山のようなひとだかり、その混雑を分《わ》けながら、
「えい、寄れ寄れ、寄れっ」
と、その居合い抜きの前へつかつかと近寄りましたのは、年ごろ五十四、五にもなりましょうか、供《とも》をつれたお侍でございます。
「あいや若い者、最前よりこれにてうけたまわっているに、なにか金創《きんそう》切り傷の妙薬とか申すが、それは、古い傷でもなおるか?」
「古い、あたらしいとを問わず、ひと貝か、ふた貝おつけになれば、かならずなおります」
「二十年ほどすぎ去った傷でもなおるかな?」
「なに、二十年? ……二十年はすこし古すぎますが……まあ、ちょっとその傷を拝見いたしましょう」
「おお、みてくりゃれ」
と、侍は、ただちに片肌ぬいで、その傷をみせましたのを、じっとみていた若者が、
「やや、こりゃ武士にあるまじきうしろ傷、投げ太刀にてうけた傷でござるな」
「うーん、なかなか目が高い。いかにも投げ太刀にてうけた傷じゃ」
「さては、若気のあやまちにて、斬りとり強盗、武士のならいなどと申して、ひとをおびやかさんとして、かえっておびやかされ……」
「いやいや、さようなことではござらん。かかる場所にてはなすのもいかがかと存ずるが、それも身の懺悔《ざんげ》じゃ。まず聞かれい。もはや、ふたむかしもほど経《へ》しことゆえ、拙者《せつしや》を仇《かたき》とねらう者もござるまい……じつは、拙者はもと薩州の藩の者でござるが、ある下役の妻女の美しさに懸想《けそう》したのが身の因果……いや、笑うてくださるな……なにがさて、その女が、おもいのほかの手ごわさ、しょせん尋常《じんじよう》ではなびかぬことと存じたゆえ、夫の不在をうかがって、手ごめにせんといたしたのじゃ。と、その折りも折り、とつぜん夫が立帰り、『上役の身をもって、無態《むたい》のふるまい不都合《ふつごう》千万』と、たしなめられ、かなわぬ恋の無念さも手つだい、『なにを小しゃくな』と、抜き討ちに、その場において斬りすて申した」
「う、うーん」
「斬ってののち、はじめてわれにかえり、ああ、とんだ殺生をいたしたと気がついたとて、もうおそい。ままよと、そのまま立ちのきにかかったとき、『夫の仇』と、その妻女が、乳呑児《ちのみご》を抱いた片手に、懐剣ひき抜き、追い駈けてまいったが、女の足のおよばぬとおもってか、『えいっ』と投げつけたる、その懐剣が背に刺さり……すなわちのこるこの傷じゃ。暑さにつけ、寒さにつけ、どうもいたんでならん。なおるものなら、なおしてもらいたいが……」
と、語りおわって、おもわず吐息《といき》をついております。若者は、その傷あとをつくづくとながめ、その物語りに聞きいり、さらに、その武士の人品骨柄《じんぴんこつがら》をじっとみつめておりましたが、
「おおっ、そこもとは、悪沢源内どのではござらぬか?」
「えっ、な、なに、拙者の姓名をご存知の御身は?」
「さてこそなんじは悪沢源内、かくいう身どもは、なんじのために討たれたる稲垣平左衛門がわすれがたみ平太郎、これにひかえたるは、姉ゆき、なんじを討たんそのために、姉弟ふたりが艱難辛苦《かんなんしんく》いかばかり、二十年《はたとせ》あまるこの年月《としつき》、ここで逢うたは盲亀《もうき》の浮木《ふぼく》、優曇華《うどんげ》の花、待ちえたる今日の対面、いざ手あわして尋常に勝負、勝負、姉上、ご油断めさるな、おしたくめされい」
「おお、合点《がつてん》」
「親の仇!」
と、左右からじりじりっとつめよりましたから、さあたいへん。とりかこんでみていました群集はもとより、物見高いは江戸のつね、ことに浅草奥山、繁昌のまんなかでございますから、黒山のひとだかりでございます。
「なんだ、なんだ、どうしたんだ?」
「乞食が、お産をしたんだ」
「たいへんなところではじめたもんだな」
「ひとごみで押されたためだよ」
「ところてんじゃああるめえし、押されてでるやつはあるまい」
「いいえ、そうじゃあない、巾着《きんちやく》切りがつかまったんだ」
「ちがう、ちがう。犬がかみあっているんだよ」
「ふざけちゃあいけねえ。犬の喧嘩《けんか》なんぞはめずらしかあねえや」
「そんな気楽なもんじゃあねえ。仇討ちだ」
「えっ、仇討ちだと? ……あがってみろ、あがってみろ」
「どこへあがるんだ?」
「五重の塔のてっぺんならよくみえるだろう」
「鳩やからすじゃああるめえし、あがれるもんかい」
などと、例の弥次馬という連中が、わいわいさわぎ立てますからたまりません。なかには、石を投げるやつがいたり、なにしろたいへんなさわぎになりました。
「あいや、ご姉弟、しばらく、しばらく、しばらくおひかえください。もはや、ふたむかしもすぎ去ったることゆえ、よもやとおもったが拙者の油断、現在仇とねらうそこもとに、口外いたしたのは、これ天命のがれざるところ、いかにも仇と名乗って討たれよう。なれども、ここは観世音境内の浄地《じようち》、血をもって汚《けが》すはおそれ多い。ことに拙者は、現在、主《しゆ》持つ身の上にて、ただいま使者にまいってのもどり道、立ち帰って、復命いたさねば相成らぬ。されば、ひとたび立ち帰り、役目を果たせし上おいとまをちょうだいし、心置きなく勝負をいたし、この首をさしあげん。明日巳《み》の刻《こく》(午前十時)までお待ちをねがいたい」
と、いかにもいつわらない顔つきで申しましたが、それを聞いていた弥次馬連が承知しません。
「だめだ、だめだ。そんなことをいってにげるんだ」
「ぐずぐずしてねえでやっちまえ」
と、またさわぎ立てます。なかにも、侍の弥次馬とくると、
「あいや、卑怯《ひきよう》者をとりにがしては相成らん。身どもが助太刀をいたす」
などと、りきんでとびだします。
ところが、居合い抜きの若者は、しばらくかんがえておりましたが、なにかうなずくと、
「なるほど、源内の申すところも道理である。しからば、明日巳の刻まで相待ち申そう」
「そりゃご承知くださるか?」
「いかにも……して、明日、その出会いの場所は?」
「さよう、その場所は……おお、高田の馬場にて、お待ちうけいたす」
「うん、かならずそれに相違ないか?」
「はばかりながら悪沢源内、武士に二言はござらん」
「しからば、明日巳の刻まで、その首をおあずけ申す」
「千万かたじけない。今日は、これにておわかれいたそう」
と、そのまま右と左にわかれてしまいましたから、おどろいたのは見物人で、
「おいおい、留さん」
「ええ?」
「どうなったんだい、仇討ちは?」
「日延《ひの》べ」
「日延べ?」
「そうだよ」
「そんなばかな、料理屋の開業式じゃあねえぜ。二十年もさがしてた仇にようようめぐりあったんじゃあねえか。それを日延べだなんて、そんなふざけたはなしがあるかよ」
「おれに文句をいったってしょうがねえじゃあねえか。なにもおれが日延べにしたわけじゃあねえんだから……」
「だって、あんまり歯がゆいや」
「そんなに歯がゆかったら、歯ぎしりをしなよ」
「してえんだけれど、反《そ》っ歯《ぱ》でできねえんだ。このあいだも、喧嘩に負けてくやしいときに、どうしても歯ぎしりができねえもんだから、となりのげた屋の亭主に歯ぎしりをしてもらった。ところが、あとで歯代をとられた」
「ばかなことをいうない……あした巳の刻ってんだ。弁当でも持って、高田の馬場へいこうか」
「いこうか」
「いこう、いこう」
と、講釈のつづきでも聞きにいく了簡《りようけん》だからおもしろい。
こういう連中が、それからそれへとしゃべってひろめるのですから、その日のうちに、江戸じゅうの評判になって、当日は、夜のあけないうちから、わいわい高田の馬場へ仇討ち見物がおしかけるというさわぎで、さしもにひろい高田の馬場も、たちまちいっぱいのひとでございます。ふところのあったかいひとは料理屋へはいって、一ぱいやりながら待っておりますし、弁当を持ってったひとは、よしず張りの掛け茶屋へはいって茶をもらって弁当をつかうということで、よしず張りの掛け茶屋がずらりっとならんでおります。
「おいおい、ごらんよ。たいへんな人気だなあ。みんな仇討ち見物のひとだぜ。おい、こうやってぼんやり待ってるのも気がきかねえや。そのへんで一ペえやりながら待とうよ」
「そうさな、ろくな酒はねえだろうがな」
「そりゃあしょうがねえや。どうせひまつぶしなんだから……」
「じゃあ、いってみようか」
「おい、ごめんよ」
「いらっしゃいまし」
「だいぶ混《こ》んでるな……どこかあいてるか?」
「便所のわきならあいてます」
「いやなところがあいてるんだなあ。まあ、しかたがねえや。そこで一ペえやろう」
「こちらへいらっしゃいまし」
「ああ、ありがとう。おう、ねえさん、酒はあるかい?」
「はい、まだ少々ございます」
「少々? 心ぼそくなってきたな。なくならねえうちに、五、六本持ってきてくれ……それから、なにかつまむものがあるだろ?」
「もうたいしたものはのこっておりません。焼きのりとおしんこうぐらいです」
「まあ、しょうがねえ。それでもいいから持ってきてくれ」
ある掛け茶屋で一ぱいやっている職人風のふたりづれ、仇討ちの幕あきの長いのをじれったがりながら、
「ええ、おう、じょうだんじゃあねえぜ。いつになったらはじまるんだろう?」
「ほんとうだな。なにをしていやがるんだろう? ……おい、ねえさん、いま何どきだい?」
「はい、午《うま》の刻《こく》(正午)でございます」
「なに、午の刻? おかしいなあ。仇討ちの約束は巳の刻だぜ。もうすぎちまったじゃあねえか。まさか、また日延べになったわけじゃあなかろうな」
「真剣の仇討ちが、そうたびたび日延べになんぞなるもんか」
「そうよなあ……おいおい」
「なんだい?」
「あすこをごらん。あの、柱へよりかかって酒を飲んでる侍をよ」
「うん……あっ、ありゃあ、きのう浅草でみた仇の侍にちげえねえ」
「たしかにそうだな……ひとつ聞いてみようか?」
「よせよせ。無礼討ちだなんて食らっちゃあつまらねえや。相手さえくりゃあ、はじめるんだろうから……」
「むやみに無礼討ちなんぞする気づけえはねえや。まあ、おれが聞いてみるから、まかしておきねえ……ええ、お武家さま、だいぶご酒《しゆ》をめしあがりますな。まだなんでございますか、お帰りになりませんか?」
「うん、まだ当家から勘定をもらわんから立ち帰らんのだ」
「へーえ、料理屋へきて、勘定をはらって帰るというならわかっていますが、勘定をもらって帰るというのは変ですな……旦那は、だいぶご酒がいけますな」
「さよう……たんともいかんけれど、朝一升、昼一升、夕べに一升、寝酒に一升だな」
「へーえ、一日に四升! ずいぶんめしあがりますな」
「そのほうは飲めんか?」
「いえ、飲めねえことはねえんですけれど、とても、こちとらのようなかせぎの細い者には、飲みたくっても飲めませんや」
「そのほうの稼業《かぎよう》はなんだ?」
「あっしどもは、でえくでございます」
「なに? でえくとはなんだ?」
「へえ、大工《だいく》なんで……」
「大工と申せば、職人のなかでも一番|上《かみ》に立つ職だというが、そのほうは、日にどのくらいかせぎがあるな?」
「そうでございますな。日に三|匁《もんめ》がご定法《じようほう》でございます」
「日に三匁と申すと、ざっと一月に一両二分だな」
「まあ、そんなもんで……」
「はっはっははは、情けない稼業だな。そんなつまらん稼業はやめて、身どもの商売になれ」
「旦那のご商売は何で?」
「身どもは仇討ち屋だ」
「へーえ、仇討ち屋っていいますと?」
「おまえたち、ここへなにしにまいった? きのうの浅草奥山の……」
「おっと待った。待っておくんなせえ。そこまでいきゃあ、あっしのほうがはなしは早えや。がまの油あ売ってたやつに、仇だといわれたのは、旦那でござんしょう?」
「はっはっははは、いかにも拙者だ」
「あれっ、おちついてちゃあいけねえなあ、仇討ちはどうなったんで?」
「はははは、きょうはやめた」
「えっ、やめた? 旦那はそれでようござんしょうが、相手が、それじゃあすみますまい?」
「すむもすまんもない」
「え? どうして?」
「仇を討とうというあの姉弟は、身どものせがれと娘だ。きょうは、天気がいいからのう、うちで洗濯でもしてるじゃろう」
「うちで洗濯してる? ……うーん、どうもわからねえや……いったいどういうわけなんで?」
「うん、身どもが、浅草奥山の居合い抜きの仇になって、この高田の馬場で討たれるという評判を立てて見物をあつめ、このへんの茶屋小屋を繁昌させて、その勘定の割りをとるというわけだ」
「いやあおどろいたなあ……おい、兄い、聞いたか? 仇討ちは評判だけのもうけ仕事だとよ」
「なあるほど、それじゃあ、見物にきたこちとらが、まんまと返《かえ》り討《う》ちだ」
いも俵《だわら》
「さあ、こっちへへえんな」
「うん……どうも兄弟、なんだな。このごろは、いい仕事がちっともなくってしようがねえなあ。とてもこれじゃあ、泥棒じゃあめしが食えねえから、商売がえをしなけりゃあならねえ。どこかにいい仕事はねえかな?」
「そりゃあ、ちょいとした目あてはあるんだ。三丁目に、大きなもめん問屋があるだろう?」
「うん」
「あすこへはいろうとおもって、前からあたりをつけてたんだ」
「ほう……あのうちは、金はあらあな。しかし、奉公人は大勢いるし、しまりは厳重だし、むずかしかあねえか?」
「そりゃあ、しまりは厳重だが、しまりなんてえものは、そとからあけようとおもえばむずかしいが、なかからあけりゃあなんでもねえもんさ」
「そりゃあ、なかからあけるんならなんでもねえだろうけど、どうやってしのびこむんだい?」
「そこだよ、ちょいと知恵をはたらかせなけりゃあならねえのは……土間をみろよ、すみのほうに、いも俵があるだろう?」
「うん……あれをどうするんだい?」
「あんなかへ人間をいれて、上からさんだらぼっち(米俵の上下にあてるわらのふた)をかぶせちまやあ、だれだって、いも俵とおもうだろう?」
「うん」
「そいつに天びんを通して、おれが先棒《さきぼう》、おめえが後棒《あとぼう》になってかついでいくんだ。あのうちの前へいったら、おれが、『えへん』と、ひとつせきばらいをするから、そうしたら、おめえが、『おう、兄い、待ってくんねえ』と、こういうんだ。『なんだ、なんだ? なにかはなしがあるなら、こいつをおろしてから聞こう……どっこいしょ』と、この俵をおろすんだ。それでな、なるべくうちんなかの者に聞こえるように、大きな声ではなすんだ。『どうもとんでもねえことをしちまった』『なんだ?』『いも屋で、つり銭をとっていれたまま、財布をわすれてきちまった』と、こうおまえがいうんだ。それから、おれが、けんつくを食わせるんだ。『まぬけっ、買いものをして、財布をわすれるやつもねえもんじゃあねえか』『だって、兄いが、あまりがんがんといそいだもんだから、あわててわすれちまったんだ』『なんだってわすれてきやがるんだ』『それじゃあしかたがねえ。これからいって、とってこよう』『とってこようったって、こんなおもいものをかついで、いったりきたりするなあたいへんだ。ここへ、すこしのあいだ、置かしていただこうじゃあねえか』……それから、あのうちへへえって、『まことにすみませんが、わたしどもは、町内の者でございますが、こいつが、いも屋で買いものをして、財布をわすれてきちまやがったんで、これから、ちょいといってとってまいります。ついちゃあ、おじゃまでもございましょうが、これを、ちょいとお店のそばへ置かしてくださいまし。なかは、いもでございます』といやあ、まさかにいやとはいわなかろう。『よろしゅうございます』と、うけあったらしめたもんだ。そのまま帰ってきてしまうんだ。夜になってもとりにいかねえ。あずかりものをそとへ置いて、紛失でもしちゃあめんどうだというんで、うちのなかへかつぎこんで、土間へでもころがしといて寝ちまうだろう。夜なかになって、うちじゅうの寝しずまるのを待って、さんだらぼっちを切って、なかからぬーっとでてよ、しまりをとってあける。おれたちが、おもてに待っててなかへへえり、十分に仕事をするという狂言なんだ」
「なるほど、そいつあうめえかんげえだが、その俵へはだれがへえるんだい?」
「この役はちょいとむずかしいから、おめえにへえってもらおう」
「おれがへえってもいいが、先棒をかつぐのはおめえだよ」
「そうだ」
「じゃあ後棒は?」
「おめえだ」
「じょうだんいっちゃあいけねえ。ひとりで、俵へへえったり、かついだりできるもんか」
「この野郎、不器用《ぶきよう》な野郎だ」
「どう器用だって、そんなことができるもんか。よくかんげえてみてくれ、こりゃあ、おめえ、どうしたってひとり手不足だ」
「そうか、こりゃあ、ひとり足《た》りねえな。まあいいや、だれか、そこらへいって、たのんでこよう」
「ばかなことをいっちゃあいけねえ。ほかのこととはちがわあ。むやみにひとにたのめるもんか」
「それもそうだな。こまったな、こいつあ……ああ、ちょうどいいや。むこうから松公がきたよ、ばか松が……あいつを呼びこんで俵のなかへいれちまおうじゃあねえか。なあに、三人手がそろやあいいんだ。おーい、松公、おいでよ」
「やあ、いるな、泥棒」
「ばか、大きな声で泥棒ってえやつがあるか」
「あるかったって、よく友だちのなかじゃあ、盗《ぬす》っ人《と》だの、泥棒だのというじゃあねえか」
「そりゃあ、しろうとのいいぐさだい、本職とっつかめえて泥棒なんつっちゃあいけねえやい。すぐその角《かど》は交番じゃねえか。聞こえたらどうするんだい?」
「あっはっは、そうか……じゃあ、交番へいって聞いてこようか?」
「なんだって?」
「いま、泥棒っていいましたが、聞こえましたかって……」
「よけいなことをいうない……いい仕事があるんだよ。おめえ、銭がねえんだろう?」
「銭はねえや、なかまにいれてくれよ」
「そんなら、おれたちが金もうけをさしてやろうじゃあねえか」
「そりゃあありがてえ」
「まあ、こっちへきねえ。いいから耳を貸しねえ」
「くすぐってえよ……ええ……うんうん……ああ、なるほど、それじゃあなんだな。この俵んなかへおれがへえってて、夜なかになってから戸をあけて、うんと泥棒しようてんだな」
「この野郎、いちいち泥棒というなよ。仕事というんだ」
「じゃあ、泥棒の仕事かい?」
「あれっ、両方いってやがる。わかったかい?」
「わかったよ」
「わかったら、早えところ俵へつまっちまえ」
「つまっちまえはひでえや。それじゃあ、かんなくずだよ……うん、こうやってへえんのか……さあ、へえったよ」
「うん、よしよし。目をつぶってな。いま、上からさんだらぼっちをかぶせるから……さあ、これでいも俵ができあがった。これから天びんを通してかつぐんだ……さあ、肩をいれた。いいか? どっこいしょっと……こんちくしょうは、大めしばっかり食らってやがるから、やけにおもてえなあ。いいか、でるからな。それっ、よいしょっ、えっしょ、えっしょ」
「こらさっ、こらさっ、こらさっ」
「んっ、んっ、んっ、んっ、んっ、こらあおどろいたなあ。俵んなかも楽《らく》じゃあねえや。足がいたくってかなわねえや……おい、もうすこししずかにかつげねえかな……足がいたくってかなわねえ。ざぶとんかなんかしいときゃあよかった……わらが鼻へへえってしようがねえ……ハッ、ハクション」
「ばか野郎! 俵んなかでくしゃみなんぞするない。おめえは、いものかわりなんだぞ」
「そんなことをいったって、ゆれるたんびにわらが鼻へへえって、くすぐったくってしようがねえや」
「どじな野郎だなあ。じゃあ、手でもって鼻あふさいでろ」
「そうか。手でふさぐのか? ……うん、これなら大丈夫だ……やあ、すき間からおもてがよくみえらあ……やあ、、むこうから酒屋のしろがきた。おーい、しろこい、しろこい」
「おいおい、俵のなかで犬なんぞ呼んじゃあいけねえ。みろい、犬が、俵のまわりをまわって、においをかいでやがる。人間がへえってんのがわかっちまうじゃあねえか……やあ、きたきた。いいか? せきばらいがきっかけだぞ……えへん」
「おう、兄い、待ってくんねえ」
「なんだ? なにかはなしがあるなら、こいつをおろしてから聞こう……どっこいしょっ……なんだ?」
「どうもとんでもねえことをしちまった」
「なんだ?」
「いもをいれた財布をわすれてきちまった」
「なにいってやがるんだ。いもが財布にはいるか……いも屋へつり銭をいれた財布をわすれてきたんだろう?」
「その通りだ」
「その通りじゃあねえや。しようがねえじゃあねえか」
「あんまり兄いがいそいだもんだから、あわててわすれちまった。これから、ちょっととりにいってこよう」
「とりにいくったって、こんなおもいものをかついで、いったりきたりするなあたいへんだ。ここへすこしのあいだ置いていただこうじゃあねえか。おめえもいっしょにいって、ともどもおたのみ申せ……ええ、ごめんくださいまし。いえ、買いものじゃあございません。町内の者でございますが、ただいま、いもを一俵買ってまいったんでございますがね、この男がまぬけだもんですから、財布をいも屋へわすれてきちまったんで、これから、ちょっととりにいってこなければなりません。ついては、おもいものを持って、いったりきたりするのはたいへんでございます。じきにとりにまいりますが、すこしのあいだ、お店の前へ置かしていただきたいもので……」
「さあ、こまりました。もう店をしまわなきゃあなりませんので……」
「いえ、もうじきにとりにきますから……」
「それじゃあ、どうかじゃまになりますから、なるべく早くとりにきてくださいよ」
「へえ、もうすぐにとりにまいりますから、しばらくどうかおたのみします。おう、おめえもたのみねえ。だまってねえで……」
「おねがいします……べつにこのいも俵んなかには、変なものははいっていませんから……」
「よけいなことをいうないっ、こんちくしょう……まあ、ひとつおねがいします」
てんで、ふたりともいってしまいました。
「定吉や、もう店をしめなければならないが、さっきのかたは、まだとりにこないようだな」
「へえ、まだとりにまいりません」
「町内の者だといったが、あまりみかけない顔じゃあないか」
「へえ」
「しかたがない。あずかりものをそとへだしておいて、紛失でもするとめんどうだ。あしたの朝でもとりにくる気だろうから、とにかく、店のなかへいれといてやんな」
「へえ、かしこまりました」
小僧はおもくって持てませんから、ゴロゴロゴロゴロころがしはじめましたので、俵んなかのばか松が、おもわず、
「いてえ!」
「番頭さん、なんかいいましたか?」
「なにもいわないよ」
「おかしいなあ。たしかに、いてえっていったのに……」
「おいおい、定吉や、寝かしとくとなあ、じゃまになるから、土間のすみのほうへ立てかけときな」
「へえ……どっこいしょっ」
ようよう小僧が立てたのはよろしゅうございますが、これが、あいにくと、さかさに立ててしまいました。なかの松公はおどろきましたけれど、「おい、さかさまだよ」ってえわけにもいきませんから、そのままがまんしてしまいました。
そのうちに、お店はすっかりかたづいちまって、台所では、女中さんと小僧さんとが、競争で居ねむりをしております。
「定どん、よく居ねむりをするね。みっともないから、早く寝ておしまいよ」
「だって、まだ、大旦那が起きていらっしゃるじゃないか。ひとのことばかりいったって、自分だって居ねむりをしているじゃあないか」
「おや、わたしが、いつ居ねむりをしたい? わたしはね、行儀《ぎようぎ》見習いのために、こちらへご奉公にきているんだから、ひまさえあれば、こうやっておじぎの稽古《けいこ》をしているんだよ」
「あれっ、うめえことをいってらあ。だって、いま、両方で居ねむりをしたから鉢あわせをしたんだ。おきよどんのあたまは、ずいぶん石あたまでいたかった」
「こんなときには、なにか食べると目がさめるんだけれども、あいにく今夜は、おかずののこりもないから、こまったねえ」
「こまったなあ……あっ、おきよどん、いいものがあらあ」
「なんだい?」
「きょうね、町内の者だってひとがきてね、夕方、お店の前へいも俵を持ってきて、すこしのあいだ、あずかっといてくれろといってね、どっかへいったぎり帰ってこないんだよ。たぶん、あしたの朝とりにくるんだろうといってね、土間へいれといたんだよ。あいつをそっと盗んできて食べようじゃあないか」
「さつまいもかい?」
「うん」
「そいつをね、うすく切って、焼いて食べるとうまいんだよ。それで、のこったやつはね、あしたの朝、ごはんを炊《た》くときに、上へのっけて蒸《む》すと、いいぐあいにふかしいもができるんだよ」
「やあ、おきよどん、いろんなことを知ってるな。そんなら、とりにいくからいっしょにきておくれ」
「ひとりでいったらいいじゃあないか」
「土間が暗くってこわいんだよ」
「男のくせに意気地《いくじ》がないんだね……じゃあ、いっしょにいってあげるよ。どこにあるんだい?」
「うん、あたいがね、かたづけたからわかってんだ……さあ、いいかい? こっちだよ。まっ暗だからあぶないよ……ここだ、ここだ」
「早くおとりよ……なにしてるんだい?」
「いま、縄をといてるんだ」
「そんなことをしちゃあたいへんじゃあないか。俵の横っ腹へ手をつっこんで、ひきずりだしゃあいいんだよ」
「ああ、なるほど。おきよどんは、泥棒|慣《な》れてるね」
「ばかにおしでないよ。泥棒慣れてるわけじゃあないが、知恵があるんだよ。さあ、やってごらん」
「あっ」
「なんてえ声をだすんだねえ。おどろくじゃあないか。どうしたんだい?」
「だって、このおいもはおかしいや。なんだかやわらかくって、へこむんだもの」
「え? やわらかくってへこむ? ……それじゃあ、くさってるんじゃないか。そんなやわらかいのはおよし。にぎってみて、かたいのをおだしよ」
「そうかい……あれあれっ、おきよどん、なんだか変だぜ。このおいもは、ぽかぽかあったかいよ。焼きいもの俵かな?」
「焼きいもの俵なんぞあるもんかね。そりゃあ、きっと日なたへでてたからあったかいんだよ」
「だっておかしいな。そんなに長く日なたにころがしといたわけじゃあないんだからなあ」
俵のなかの松公は、さかさにされて苦しがってるところへ、定吉がお尻《しり》のまわりを、あちこちとなでまわしますから、もう、くすぐったくてたまりません。しかし、笑うわけにもいきませんから、うんとお腹へ力をいれてこらえたとたんに、大きなやつを、
「ブーッ」
「おや、気の早いおいもだ」
富士まいり
江戸っ子が、そろって富士登山にでかけましたが、一合目、二合目、三合目、四合目と、のぼるにつれて、だんだん元気がなくなり、五合目とくると、みんな、すっかりまいってしまいました。
そのうちに、あたりが暗くなってまいりましたから、みんなびっくりして……
「おやっ、こりゃあいけねえ。ねえ、先達《せんだつ》(さきに立って案内する人)さん、おっそろしくまっ暗になりましたねえ」
「ああ、お幕がおりたなあ」
「なんです?」
「いや、山に雲がおりたことを、お幕がおりたというんだ」
「へーえ、お幕がおりると、どうなるんです?」
「山が荒れるかも知れねえよ」
「えっ、じょうだんいっちゃあいけねえやな」
「じょうだんなんぞいうもんか」
「ほんとですかい? さあ弱った。どうすりゃあいいんです?」
「うん、この一行のなかで、罪をおかしたことのあるやつがいたら、懺悔《ざんげ》をするんだな。うそをいって、かくしてちゃあいけねえ。まあ、懺悔をして、山の神さまのおゆるしをねがうんだ」
「へーえ、そうですか。どういうことをしたやつがわりいんです?」
「うん、五戒《ごかい》をやぶった者はいけねえなあ」
「五戒をやぶった者? なんのことです?」
「まあ、いろいろあるが、妄語戒《もうごかい》といって、うそをついた者が、まずいけねえ」
「へーえ、それから?」
「偸盗戒《ちゆうとうかい》といって、泥棒をした者もいけねえな」
「へえへえ……」
「もっともいけねえのは、邪淫戒《じやいんかい》といって、女をだました者が、いちばんいけねえな」
「へーえ、そうですか。そんならご安心ください。あっしは、じまんじゃねえが、女なんぞだましたことはありません」
「そりゃあえれえな」
「ええ、いつもだまされてますから……」
「くだらねえじまんをするなよ」
「しかし、もしも、このなかに、五戒をおかしたやつがいたら、どうなります?」
「そうさな……さしずめ天狗に股ざきにされて、谷底へ投げこまれるだろうなあ」
「えっ、ほんとうですか?」
「どうした? 顔色がかわってきたな」
「懺悔をすれば、助かりますか?」
「まあ、助かるだろうな」
「じゃあ、あっしが、まっさきに懺悔します……じつは、偸盗戒をおかしたことがありますんで……」
「へーえ、なにを盗んだんだ?」
「ええ、じつはね、こないだ、湯屋《ゆうや》へいったときなんですがね……湯からあがって、着物を着て、すーっと帰ろうとおもって、げたをはくときに、下をみてかんげえましたね」
「なにをかんげえた?」
「あっしのげたが、いちばんきたねえ。ですからね、このなかで、いちばん上等なげたをはいて帰ってやろうとかんげえたんで……」
「わりいことをかんげえたな。どうした?」
「柾《まさ》の通った、いちばんいいやつをつっかけました」
「とうとうやりゃあがったな。それで、すぐに逃げ帰ったな?」
「いいえ、番台をみると、だれもいませんからね、これこそ神の恵《めぐ》みだと、釣り銭を右手でぐっとにぎってたもとへいれると、まだだれもみてねえから、左手でもぐっとにぎって、これもふところにいれてひきあげました」
「わりいことをしたなあ」
「しかし、懺悔をしたんですから、もう大丈夫でしょ?」
「いや、そんなに二重、三重に悪事をかさねちゃあわからねえな」
「わからねえ? ……とほほほ、情けねえことになっちまったなあ」
「おい、留公、おめえの懺悔はすんだから、こんどは、おれの番だ。先達さん、まあ聞いておくんなせえ」
「おや、八つぁん、おまえは、なんだい?」
「ええ、天ぷらなんです。天ぷら! 天ぷら!」
「おいおい、どうでもいいけど、天ぷら、天ぷらと、むやみにつばきをかけないどくれ。天ぷらをどうしたい?」
「いえね、こないだ、仕事の帰りにね、屋台の天ぷらの立ち食いさ。あっしはね、たしかに二十一食ったんで……」
「ずいぶん食ったな」
「へえ……で、『天ぷら屋さん、いくつだったい?』って聞いたら、『へえ、十五で……』ってんで、天ぷら六つ偸盗戒」
「なんだなあ。いやしいことをするなよ……まったくろくなやつはいやあしねえ……あれっ、だれだい、隅のほうでふるえているのは? なんだい、熊さんじゃあねえか。どうしたい? いつもいせいのいいおまえさんが……あっ、そうか。なにかわりいことをしているんだな。うん、その顔色じゃあ、よっぽどわりいことをしたんだな。どうしたんだ? なにをおかしたんだ? 懺悔をしなよ」
「へえ……じつは、あっしゃあ、邪淫戒なんで……」
「邪淫戒? 女かい? こりゃあ、いちばんわりいことをしたようだな。女をどうした?」
「へえ、じつは、ひとのかみさんなんですが……」
「ひとのかみさん? こりゃあ、ますますわりいことをしたらしいな」
「一月ほど前なんですがね、そのかみさんのうちの前を通りますとね、亭主が留守で、かみさんが、ひとりでせんたくしてるんですよ。先達さんの前ですけど、女のせんたくするすがたってえものは、なんとなく色っぽいもんですね。着物のすそを、ぐっとまくってますから、腰巻きがみえてね、腰巻きのあいだから、まっ白な脛《すね》と、ときどき太股のあたりがちらちら……せんたくする女の白い脛をみて、空からおちたという久米の仙人の気持ちがよくわかりました」
「なにいってるんだ……それで、どうした?」
「へえ、それからね、『おかみさん、あなたの、そのきれいな手の皮をむいちゃあもってえねえから、あっしが、せんたくをしてあげましょう』ってんで、これから、おかみさんにかわってせんたくをして、これをほしちゃって、台所をみると、茶わん、皿、小鉢と、山のようによごれたものがあるから、これをすっかり洗っちまって、板の間から廊下をふいて、便所の掃除をして、おもてから庭へ水をまいて……」
「ずいぶんはたらきゃあがったなあ」
「へえ、自分でもおどろくぐれえはたらいたもんですから、おかみさんは、もう大よろこびで……『熊さん、ごくろうだったねえ。お腹すいたろう? まあ、こっちへきてお坐りよ』ってんで、あっしは、座敷へ通されました」
「おいおい、亭主の留守のうちへのこのこあがるなよ」
「えへへへ、しかしねえ、そのおかみさんがねえ、あれで、年のころは、三十二、三でしょうかねえ……色っぽい年増でねえ、あっしは、ふだんから惚《ほ》れてるもんですから、よろこんで座敷へ通りました」
「ますますいけねえなあ。で、どうしたい?」
「それからね、おかみさんがいうには、『熊さん、すっかりきれいになって、いい気持ちでうれしいから、なにかごちそうしてあげようじゃあないか。おまえさん、なにが好きだい? 遠慮なくおいいよ』って……」
「なんと答えた?」
「あっしもぐっと気どって、『ええ、ありがとうござんす。あっしが、いちばん好きなものは、今川焼きで……』と……」
「ばかっ、色っぽくねえなあ」
「おかみさんも、そういいました。『まあ、色っぽくないねえ。おまえさん、もっと好きなものがあるんだろう?』てえから、『へへへ、もっと好きなものは焼きいも……』」
「うふっ、おどろいたなあ。せっかくの濡《ぬ》れ場《ば》だってえのに、今川焼きに焼きいもかい? あきれた男だなあ」
「『まあ、とにかくお茶をいれてあげよう』ってんで、おかみさんが、お茶をいれてくれました」
「うんうん」
「『こりゃあ、どうもお手数をおかけしまして……』ってんで、なにしろ、ふだんから岡惚れしてる女のいれてくれたお茶ですからね、こいつをおしいただいて、はらはらと落涙しました」
「いうことが大げさだな……で、どうしたい?」
「お茶を飲みました」
「それから?」
「弱っちゃったなあ」
「弱ることはあるまい。懺悔しろよ」
「へえ、懺悔ねえ……懺悔しねえと、股ざきにされるといいますから、正直に懺悔しますけど……その……なんです……すきをうかがって、おかみさんの膝をつねったんで……」
「いやなやつだなあ……ひとのかみさんの膝なんぞ、むやみにつねるなよ。で、かみさんは、どうしたい?」
「『熊さん、ふざけるのはおよしよ』ってんで、あっしの膝をつねりかえしたんで……」
「あれっ、いやな女だなあ……それから?」
「『そりゃあ、おかみさん、ふざけちゃあおりません』って、おかみさんの膝をまたつねった」
「よくつねるな」
「するとね、また、おかみさんが、『じょうだんしちゃいけないよ』ってんで、あっしの膝をきゅーっ……それから、あっしが、『じょうだんじゃありません。ひょうたんぼっくりこ』『庄さん、ひょっとこ、はんにゃの面』『てんてんてれつく天狗の面』『おっかあ、おっかあ、おかめの面』ってんで……」
「ばかっ、あきれたねえ。で、一体、相手のおかみさんてえのは、どこのおかみさんだい?」
「ええ、そりゃあ、もう、どこのおかみさんだって……うわあ、どうもめんぼくねえ。先達さん、おまえさんとこのおかみさんだ」
「とんでもねえ男だ。しかし、まあ、懺悔をしたんだからしかたがねえ。さあ、でかけよう」
「どうした、どうした? 金ちゃん……あれっ、青くなって、はっちまやあがった」
「ははあ、このひとは、初山で、お山に酔ったな」
「酔ったかも知れねえ。ちょうど、ここが五合目だから……」
磯のあわび
「おい、留さん、さっき、おめえんとこへいったが、留守だったな。どこへいったい?」
「うん、じつは、ゆうべ、あそびにいったんだ」
「ふーん、このごろ、だいぶでかけるようだな」
「ああ、なにしろ、おれなんざあ、家へ寝る晩が、あそびにいったと心得ているんだからな」
「へーえ、女郎屋に寝る晩を、てめえの家へ寝たと心得てるたあ、たいそうないきおいだなあ」
「そこでな、ゆうべ、おらあ、でかけたら、帰りがけに、おめえの女が、ぜひとどけてくれろてえんで、この手紙がとどいたから、さあ、わたしたよ」
「そいつあ、すまねえ。おおきにお世話さまだったなあ。ありがとうよ。おじぎをすらあ」
「いやな野郎だなあ、こいつは……女郎の手紙をいただいてやあがらあ」
「だがね、これを、おれが読んだんじゃあおもしろくねえ。だれか他人が読んでくれねえか?」
「おっと承知の助だ。こっちへだしな。おれが読んでやらあ」
「そうかい。たのまあ」
「うん。なにしろ、女郎の手紙なんてえものは、読みつけたもんでなきゃあ、わかるもんじゃあねえや。それじゃあ、封を切るぜ」
「高らかに読みあげてくんな」
「あいよ……おや、たいそう書きゃあがったぜ……ええと……かいかい買いたかったかい……」
「なにをいってやあがるんだ」
「かいしくも……」
「変な読みかたをするない。手紙のはじめに、かいしくもてえやつがあるかい。かえすがえすもじゃあねえか」
「ああ、なるほど、かえすがえすだ。だがね、ちいさく書いてあるから、これをいの字に読んじまう。もうすこし丈《せい》をのばさなきゃあいけねえ。丈《せい》がねえのはいけねえや」
「角力《すもう》じゃあねえや。あとを読んでくれ」
「一寸《いつすん》申しあげ候」
「ばかっ、一寸《いつすん》と読むやつがあるかい、一寸《ちよつと》申しあげ候だあな」
「ああ、そうかい。ええ、一寸《ちよつと》申しあげ候。おまはん、このあいだは、こつの前へお立ちだね……おお、おめえ、なにか、こつの前へ立って、湯灌《ゆかん》かなにかしたのか?」
「なに?」
「いや、骨《こつ》の前へ立ったてえじゃあねえか」
「そうじゃあねえやい。骨の前と読むやつがあるかい。格子《こうし》の前へお立ちだねてえんだ。おれが、このあいだの晩、格子の前で立ちばなしをしてきたことがあるから、それをいってるんだあな」
「ああ、なるほど、そうなのかい。ええ、わたしは、このころ……」
「なんだい、このころてえのは……にごりをつけろい」
「にごりをつければ、ごろごろ」
「ごろごろてえのがあるかい。そりゃあ、にごりの打ちようがちがったんだ。このごろだ」
「あっ、なるほど……わたしは、このごろ、あばがわるくてしこんでるよ。どろぞどろぞ……なんだい、こりゃあ?」
「あんばいがわるくてひっこんでるよ。どうぞどうぞ……ってんだあな」
「ああ、そうかい。こつかがないから、とどけておくれ……おいおい、おめえ、心中でもうけあったのか?」
「なぜ?」
「小柄《こづか》(脇差のさやのそとにそえた小刀)がねえから、とどけてくれとよ」
「なにをいってやあがるんだ。小柄じゃあねえや。そりゃあ、小づかいがねえから、とどけてくれろてえんだあな」
「ああ、なるほど……ええ、ついでに、ひゅうまいもたのむよ……なんだい、このひゅうまいてえのは?」
「シューマイよ」
「ああ、シューマイかい」
「そうよ。なにしろ、あいつは、ばかにシューマイが好きなんだからね。だから、おらあ、いつも買ってってやるんだ」
「いやな女じゃねえか。色っぽくねえもんが好きなんだな。そのときに、なきまめもたのむよ。なんだい、なきまめてえのは?」
「南京豆《なんきんまめ》だい」
「おやおや、シューマイのあとで南京豆を食べやがらあ。この女は、よっぽど脂肪質《しぼうしつ》のものが好きなんだな。おおかたでくでくふとってるぜ。よくよくわたしの心をさすっておくれと……」
「さっしておくれじゃねえか」
「ああそうかい……しかし、こうわけがわからなくっちゃあいけねえや。もうやめよう……そうだ、雪隠《ちようずば》へいって読もう」
「よせやい、こんちくしょうめ。なにも雪隠で読まなくってもいいじゃあねえか」
「いいやな、女の色恋の手紙を、下肥《しもごえ》の雪隠《ちようずば》で読むんだ。こいに上下のへだてはねえや」
「なにをいってやがるんだい」
「やあ、みんな、たいそうあつまったな」
「与太郎がへえってきゃあがった。どうしたい? 与太郎」
「へえ、みんなあつまったのか。それじゃあ、また、なんだろう、お女郎買いにいく相談でもしているんだろう?」
「そりゃあ、きまってらあな。おたがいにいい若《わけ》え者がそろってるんだ。おまけに、みんながお気にいりなんだ。今夜あたりもでかけてみてえとかんげえてるところよ」
「へーえ、そんなにお女郎買いてえものは、おもしろいもんかねえ?」
「そりゃあ、おもしれえやな。銭を持っていきゃあ、どんな女でも自由にすることができるんだもの、どんなえれえひとだって、一度はまよいこむもんだ。家土|蔵《くら》も、地所も、みんなすってしまって夢中になるくれえおもしれえもんだあな」
「へーえ、おれは、まだ、一ぺんもお女郎買いてえものをしたことはないが、おもしろいだけで、べつにもうからないかい?」
「そりゃあ、なんだあな、もうからねえこともねえさ。ずいぶんもうからあ」
「そうかい」
「そうよ。なにしろ、女が、とんと、ひとつ惚《ほ》れてみねえな。こっちに銭なんぞはつかわせねえぜ。たてひくといって、むこうの女が、勘定してくれるんだ」
「それじゃあ、こっちで、お銭《あし》をつかわなくってもいいのかい?」
「色男になりゃあ、そういうもんだ。そのあげくに、小づかいをくれるとか、衣装《なり》をこしらえてくれるとかいうことにならあ。どうだい、もうかるだろう?」
「なるほど、こいつは、ちっとも知らなかった。してみると、お女郎買いなんてえものは、たいそう得《とく》になるもんだねえ」
「そうよ」
「で、なにかい、熊さんでも、留さんでも、お女郎買いは、みんな、ひとりでおぼえたのかい?」
「じょうだんいうねえ。手習いをすればって、ひとりじゃあおぼえられねえや。みんな教わるのだ」
「だれが教えてくれるんだい?」
「そりゃあ、なんだあな、お女郎|買《け》えの師匠てえものがあるんだ」
「やあ、はじめて聞いたが、お女郎買いのお師匠さんてえのがあるのかい? だれが教えてくれるんだい?」
「あらあな、そのお師匠さんに聞いて、おれたちはおぼえたんだ」
「それじゃあ、おれも、そのお師匠さんとこへいって、よく稽古《けいこ》をしてもらいたいな」
「いって、稽古をしてもらいねえな」
「どこにいるんだい、そのお女郎買いの師匠てえのは?」
「おめえがいく気があるんなら、おれが教えてやらあ」
「教えてくんねえな」
「浅草の蔵前の八幡さまの境内にいるんだ。鶴本勝太郎というひとだ。このひとが、お女郎買いの師匠だ。おれたちは、みんな、そのひとに教わったんだ」
「じゃあ、なにかい、だまってそこへいけばいいのかい?」
「そりゃあいいがね、おめえがいくんなら、おれが、いま、ここで手紙を書いてやらあ。この手紙を持っていきゃあ、ちゃーんと教えてくれらあ」
「それじゃあ、すまねえが、手紙を一本書いてくんねえな」
「うん、よし。書《け》えてやらあ。そこでなあ、与太郎、これから、おめえがな、手紙を持って、この鶴本勝太郎というひとの家へいくと、『なにしにきた?』というから、『熊さんや留さんから聞いてまいりました。委細《いさい》のことは、この手紙に書いてございます』と、こういうとな、むこうで、この手紙を読む。すると、おめえに、こういわあ、『おまえさん、じょうだんいっちゃあいけない。世のなかに、女郎買いの師匠なんてえものがあるわけのもんじゃあない。おまえさんは、だまされてきたんだから、お帰んなさい』と、こういわあ。それを真《ま》にうけて、てめえが帰ってくるようじゃあ、一人前の女郎|買《け》えにはなれねえぞ」
「はあ、どうするんだい?」
「ええ、『なんでも教えてくれぬうちは、ここは、一寸でもどきません』と、そこへぶっ坐って、居催促《いざいそく》をするんだ」
「いつまでもか?」
「そうよ」
「お腹《なか》がすいてきたら、どうするい?」
「だからよ、これから、おめえが家へ帰って、たとえ二日でも、三日でも食うだけのものをしょっていけ」
「お弁当を持ってか?」
「そうよ。そうすりゃあ、むこうで、根負《こんま》けがして、『それじゃあ、教えてあげましょう』てんで教えてくれらあ。いいか? 一度や二度ことわられて帰ってくるようじゃあだめだぞ」
「ありがとう。それじゃあ、おれは、これからでかけらあ」
これから、与太郎先生、家へ帰って、したくをして、教わったところへやってまいりました。
「ごめんください」
「はい、いらっしゃいまし。どなたですか?」
「ええ、旦那は、お宅でござんしょうか? お師匠さんは?」
「はあ、家でございますが、どちらからいらっしゃいました?」
「どうぞ、この手紙をごらんなすって」
「はあ、少々お待ちくださいまし……あのう、ただいま、知らないかたがおいでになりまして、この手紙といって、持ってまいりました」
「こちらへおみせ。だれがそういったって? ……なに、熊さんや留さんが教えたって? どうも、あのひとたちは、よくないいたずらをするからな……このあいだも、剣術つかいをむけてよこしゃあがって、『ぜひこの者とお立ちあいください』って……わたしは、知らないから、とびだしていって、『やっ、お面!』てんで、ひたいをたいへんぶたれた。いつでもわるいいたずらばかりしているんだ。ええと……なになに? ……前文|御容赦《ごようしや》くだされたく候、この者は、与太郎と申す少々甘き男にて御座候。お前さま、女郎買いの師匠といつわり、さしむけ候あいだ、よろしくおからかいのほどねがいあげ候……うーん、また、はじめやあがった。たいがいこんなことだろうとおもった。いうことにことをかいて、女郎買いの師匠とはいったねえ。くるやつもくるやつだ。おい、おとくや」
「はい」
「どんなひとだい、きたひとてえのは?」
「年ごろ二十五、六のかたです」
「ふーん、なにしろ、『こっちへおあがんなさい』といって、つれてきな」
「かしこまりました……さあ、あなた、どうぞこちらへおあがんなすって……」
「はい、ごめんくださいまし。これは、お師匠さんでございますか。ええ、わたしは、与太郎と申します男で……」
「ははあ、ずっとこちらへおいでなさいまし。いや、ただいま手紙を拝見しましたが、はっはっはっはっ……おまえさんは、熊さんや留さんにかつがれてきましたね」
「いいえ、かつがれてきたんじゃあないんで……ひとりで、あるいてきましたんで……」
「いえさ、だまされてきたんでしょう? この手紙によると、わたしが、女郎買いの師匠だなんて……ははははは、女郎買いの師匠なんてえものが、世のなかにあるわけのもんじゃありませんよ。おまえさんが、からかわれてきたんだ。まあ、きょうのところは、すみやかにお帰りなさい」
「へい、たいがいそうくるだろうとおもったんで……」
「なにが?」
「一度や二度ことわられて帰るようじゃあ、とても一人前のお女郎買いにはなれません。へい、わたしは、もう覚悟をしてまいりました。あなたが教えてくれなきゃあ、二日でも三日でも居催促をいたします。ここにしょってきたのは、飯櫃《おはち》でございますよ。このなかに、おかずもはいってますし、二日や三日は、お腹がすきません。居催促をいたします」
「おーやおや、ずいぶん念入りないたずらをしてよこしゃあがったなあ、ちくしょうめ、それじゃあね、おまえさん、こうしましょう。どうかんがえてみても、世のなかにお女郎買いの師匠てえものはありませんよ。だが、わたしが、若い時分、あそびをした寸法《すんぽう》ぐらいのところをおはなししましょう」
「へいへい、なにぶんおねがい申したいんで……つきましては、お師匠さん、むこうへこういきまして、お女郎が、ばかにわたしに惚れまして、それで、お小づかいだの、着物をこしらえてくれるやつを、ひとつねがいたいもんで……」
「はははは、じょうだんいっちゃあいけません。おまえさん、よほど甘いねえ。だいたい、あそびにいくんだ。女に惚れられようなんという気でいっちゃあいけませんよ。お女郎買いというものは、ふられまいと心がけていくだけのもので、惚れられようなんとは、とんでもない了簡《りようけん》ちがいです。ようがすか? まず、かりに、今夜、おまえさんが、吉原へあそびにいくと、こうおぼしめせ。昼間のうちに、ひげをそるとかして、ちょいと小ざっぱりした衣装《なり》になりましょう。なにしろ見栄《みえ》の場所で、おたがいに色気があります。それで、先方へいくのは、あまり夜ふけておそくてもいけないし、といって、あまり早くてもいけませんよ。あかりがついたら、家をでるくらいな寸法にしていくのが、一番いいですな」
「へいへい、なるほど」
「しらふでもいけませんし、といって、あんまり酔っぱらっていてもいけない。ちょっとほろ酔いというところがほどでしょう。大門《おおもん》をはいる。ご承知の通り、張り店(遊女が店にならんで坐ること)をしておりますから、立ちどまると、若い衆が世話をやきはじめます」
「へーえ、よっぽどおせっかいなやつでござんすな」
「なにが?」
「世話をやくと申して……」
「いえ、そうじゃあありませんよ。世話をやくとは、廓《さと》の通言《つうげん》で、つまり、おまえさんにあそびをすすめる。これを世話をやくといいます」
「なるほど」
「『へい、いらっしゃいまし』と、こういいますから、そこで、あなたが、若い衆のむこう脛《ずね》をぽーんと蹴るんです」
「むずかしゅうござんすな。やはり、げたをはいていて蹴りますか?」
「なにが?」
「むこう脛を蹴るので……」
「いえ、そうじゃあありません。口で蹴るんです」
「へーえ」
「先方で、『いらっしゃい』といったら、『いらっしゃいったって、地震の子じゃあごわせんよ』と、こういうんで……」
「はあ、なかなかむずかしいもんですなあ」
「『おあそびはいかがです?』と、聞かれたら、『いかがさまは百万石、いまでは、帝国大学になっていますよ』と、かようにいうのです」
「へえへえ」
「『おあがりさまをねがいたいもんで……』『オホン』……と、こういう呼吸にな」
「なるほど、こりゃあ、なかなかむずかしいもんですな」
「あんまり長くからかっているのもいけません。たいがいなところで、『そんなら、若い衆、厄介になろう』と、これからあがるんですがね、げたをぬげばといって、気なしにぬいじゃあいけません。むこうは、お客商売をするのですから、縁起ということを気にしますからね。げたは、かならずそろえておぬぎなさい。はなしてぬぐと、むこうが気にしますから……それから、階子段《はしごだん》をあがればといっても、これは、いせいよく、トントンとあがらなくっちゃあいけませんよ。途中で踏みとどまって、ふりかえったりなんかすると、たいへん気にします。足がとまるといってな。これは、いせいよくあがると、ひきつけという座敷へ通されます」
「へーえ、だれかが、目をまわすんでございますか?」
「いえ、ひきつけったって、目をまわすんじゃあない。つまり、おまえさんとおいらんとひきつけるから、それで、ひきつけと、こういうんです。やがて、いれかわって、若い衆が、『初会ですか? おなじみさまですか?』と、こう聞きますから、『おう、若い衆さん、初会だよ。やぼなようだが、見立ててえ』と……『それでは、こちらへ……』てえんで、おまえさんを後尻《あとじり》というところへつれていきます」
「へえへえ」
「そこからのぞくとね、おいらんのならんでいるのが、よーくみえるんです。それで、自分の気にいった女が、かりに三人目の女が気にいったら、『若い衆、三番のたばこ盆をひいておくれ』と、こうおっしゃると、そのおいらんが、二階へあがっていきます」
「へいへい、すると、そのたばこ盆とおいらんとが、電気|仕掛《じか》けかなにかになっておりますんで?」
「そうじゃあありませんよ。たばこ盆をひくというのは、おいらんを二階へあげてくれろという、ことばのなぞなんです。『あつらえものは、いいようにしてくれよ』という。やがて、酒、さかながはこばれる。なにしろ初会で、ほかに、はなしもありませんから、お酒もあっさり飲んで、あまり食べものを荒らさないようにして、もうこのへんでおひけにしようという時分に、あなたが、はばかりへ立つんです」
「雪隠《ちようずば》ですか? もしも、でませんでしたら、どういたしますんで?」
「いえ、でても、でなくても、はばかりへ立つんです。これが、つまり、おひけになるということなんですよ。それから、おいらんの部屋へずーっとはいってしまうのが、ごく上等の寸法、寝まきに着かえて、床の上へ、あなたが坐る。紋切り形で、おいらんが、きせるへたばこをつけてくれます。これを、あなたがのんでものまなくても吸うんです。吸うといっても、一服吸ったら、ポンとたたかなくっちゃあいけませんよ。三服も四服も吸っちゃあやぼですよ。これから、おいらんのふところへとびこむんです」
「へーえ、たいへんなことになりましたなあ。おいらんのふところへ、どういうぐあいにとびこむんで? わたしは、なかなか身が重うございますがなあ」
「いえ、ほんとうにとびこむんじゃあありませんよ。つまり、おいらんの腹をえぐるんです」
「出刃庖丁かなにかで?」
「おまえさん、はなしがわからないねえ。口でえぐるんですよ」
「わたしの口に出歯はございません」
「まだわからない。舌のさきで、ちょいと、おいらんをまよわすんです。それは、こうおっしゃい。『おいらん、おまえは、わたしを知るまい。わたしは、おまえを知ってるよ。このあいだから、登楼《あが》ろう、あがろうとおもっていたが、つい、いい折りがなくってあがらなかった。今夜という今夜は、やっとのおもいであがったよ。これが、磯のあわびの片おもいだよ』と、おいらんの膝をつねるんですよ。このくらい持っていきゃあ、たいがいのおいらんが、敵はさるものだてえんで、とーんと、あなたにきまさあ」
「ああ、なるほど。どうもありがとうございました」
「おわかりですか?」
「すっかりわかっちゃいました。では、また、おいらんが惚れまして、お小づかいだの、着物をくれたら、おせんべい袋ぐらい持ってあがります。どうもいろいろありがとうござんした。さようなら」
と、与太郎先生、家へ帰って、教わった通り、いろいろと趣向を凝《こ》らして、その晩、吉原へおくりこみになりました。
「やあ、おそろしくならんでいるなあ。どの女でも、みんなぴかぴか光った着物を着てやあがら……」
「もし、旦那さま、いらっしゃいまし、いらっしゃいまし」
「ははあ、おまえはなんだい?」
「へい、若い衆で……いらっしゃいまし」
「むこう脛を蹴るよ」
「へえ?」
「おどろかなくってもいいよ。むこう脛を蹴るったって、げたで蹴るんじゃあない。安心しておいで。いま、なんとかいったねえ」
「いらっしゃいましと申しました」
「いらっしゃいったって、地震の子じゃあごわせんよてえな」
「へへへ、おそれいりました。ええ、いかがさまです?」
「いかがさまは百万石、あとは大学になりました」
「こりゃあどうもごじょうだんさまで……おあがりさまをねがいたいもんで……」
「でげすか……オホンてえのさ」
「どうもおそれいりました。ええ、ひとつご愉快をねがいたいもんで……」
「ご愉快なんて、そんなものは聞いていない。なにしろ厄介になるよ」
「ありがとうさまで……ええ、おあがんなさるよ」
「このげたをぬげばったって、ならべてぬがないと、おまえさんのほうで気にすらあ。ちゃーんと、こうやって、そろえておかあ」
「へへへへ、こりゃあ、どうもゆきとどいたことで、おそれいります。どうぞこちらへ……」
「この階子《はしご》をあがればといっても、途中でとまって、ふりかえったりなにかすると気にするから、トントントントンと、こうやってあがらあ」
「へいへい、どうぞひきつけのほうへ」
「あの目をまわす?」
「いえ、そうじゃあない。ひきつけって座敷で……」
「ひきつけって座敷はどこだい?」
「へい、どうぞこちらへ」
「あははは、ここかい。なるほど……」
「へい、こんばんは。どうもありがとうさまで……ええ、ご初会さまで? おなじみさまで?」
「若え衆、初会だよ。やぼなようだが、見立てるよ」
「ありがとうさまで……」
「このうちに、あの……その……なんだい……あの……鳩のお尻《けつ》ってえところがあるかい?」
「鳩のお尻《けつ》?」
「いえ、あの……鳩尻《はとじり》だ」
「へい、それは、後尻《あとじり》でしょう?」
「なんでも、そのならんだ見当をつける、あすこへいって、わたしはのぞくよ」
「どうぞ、こちらへねがいたいもんで……」
「そうかい、ここからのぞきこまあ。若い衆、あの三番目のたばこ盆をひいておくれ」
「かしこまりました」
「ねえ、こういっておきゃあ、すぐにあのおいらんは、お二階へあがってくらあ。あがってくるったって、たばこ盆とおいらんが、電気仕掛けでないくらいのことは、わたしは、十年も前から知っているんだ」
「おそれいりました」
「それからね、お酒だの、おさかななんかは、いいようにしておくれよ」
「へいへい、かしこまりました……へい、お待ちどうさまで、一ぱいめしあがれ」
「これとても、たんと飲んじゃあいけない。おさかななんざあ、あっさり荒ごなしをせんのがかんじんでおす。ところでね、初会で、なにしろはなしもないから、まだ、わたしは、でたかあないんだ。でたかあないんだけれども、はばかりへいくんだ」
「へい」
「というのは、これは、おひけになるということばなんだ。わかってるでしょう?」
「どうもおそれいりました」
「さあ、あなた、こちらへいらっしゃいまし」
と、おいらんの案内で、その部屋へ通されました。
「ああ、ここかい、おいらんのお座敷てえなあ。りっぱだなあ」
「寝まきにお着かえなさい。さあ、おめしかえなさいよ」
「ふふん、ありがとうよ。これで、ふとんの上に坐っていると……おいらん」
「はい」
「あの……わすれものがありゃあしないか?」
「なんです?」
「なんですったって、そのたばこをつけてださなくっちゃあ、いけないじゃあないか」
「どうもおそれいりました。すみません。さあ、一服めしあがれ」
「ふふん、ありがとう。これだって、一服吸やあ、ポンとたたかあ。三服も四服も吸って、吹きがらが踊るまでのんでいちゃあやぼだ。ときに、おいらん」
「いやですよ。そうあらたまって……なんです?」
「おいらん、おまえは、わたしを知るまいがねえ、わたしは、おまえを知ってるよ」
「あら、そうですか。ちっとも知りませんでしたねえ」
「だまっておいでよ……わたしは、おまえを知ってるよ」
「ですからさあ、どこでご存知なの?」
「よけいなことをいっちゃあだめだよ。あとがつかえて……このあいだっから、あがろう、あがろうとおもっていたんだが、いい折りがなくって……いい折りがなくって、あがらなかったよ」
「早くあがってくれればいいのに……」
「まあ、だまっておいでよ。今夜は、やっとのおもいであがったよ」
「ほんとうにありがたいことよ。うれしいわ」
「いけない。そういちいち口をだしちゃあ……これがほんとに、磯の……待っておくれよ。ここんところがむずかしいんだ。これがほんとに、磯の……待って……伊豆のわさびの片おもいだよ」
と、おいらんの膝をつねったから、
「ああ、いたいっ、まあ、いたいこと。涙がでまさあねえ」
「ははあ、それじゃあ、いまのわさびがきいたんだろう」
笠 碁
「碁《ご》がたきは、にくさもにくし、なつかしし」――よく人情をうがったもので、碁というものは、わずか一目《いちもく》か二目《にもく》のことから、兄弟のように仲のよい者同士が喧嘩《けんか》をするようなことになります。もっとも、喧嘩をしたからといって、ほかのこととちがって、碁将棋のあらそいは、じきに仲がなおってしまいます。喧嘩をすればするほどしたしくなり、したしくなればなるほど喧嘩をするという、まことにおかしなものでございます。
「お早うございます。どうも天気がわるいので、うちにいても、くさくさしてしようがないから、すこし早いけれどもでかけてきました。一石《いつせき》ねがおうとおもって……」
「いや、よくおいでなすった。さあ、おあがんなさい」
「どうぞおかまいなく……まだ早いのですから、ごゆっくりご用をおすませなすって……」
「なあに、またあしたという日もあります。これだけかたづけておいて、あした、その気ではたらけばおなじことで……じゃあ、さっそくやりましょう。きのう、おまえさんにわかれてから、横川の隠居に逢いましたよ」
「ああ、そうですか。あいかわらずお達者で?」
「ええ……わたしもしばらくごぶさたをしていましたが、ちょうどあっちへ用があって、前を通りかかると、まあ、なんでも寄っていけというんで……また、あのひとが、碁ときたら、めしよりも好きでね、隠居のことで、べつに用がない。退屈をして、ひとを恋しがっていたところだからたまらない。『さあ、一石ねがいましょう』と、碁盤をつきだされると、こっちもへたの横好きだから、『では、ひとつねがいましょう。隠居さんにすこし稽古《けいこ》をしていただいたら、ちっとはひとなかで打てるようにもなれましょう』『なあに、そんなこともないが、ひとつおやり』というのではじめると、いやもう連戦連敗……」
「そいつは、ざんねんでしたな。そうと知ったら、わたしもいけばよかった。とにかくざんねんでしたな」
「なあに、それがすこしもざんねんじゃあない」
「え?」
「いや、これがおなじくらいの腕で、勝ったり負けたりすると、くやしくもあり、おもしろくもあるんだが、あの隠居とやると、盤にむかったばかりで、もう負けている。手も足もでない。こうなると、もうくやしくもなければなんともない。さっそくしっぽを巻いてにげだそうとおもうと、お茶をだしたり、菓子をだしたりしてくれたから、よんどころなくはなし相手になっていたが、ああいううまいひとのはなしはちがうね。隠居さんのいうには、『おまえさんとしばらくお手あわせをしていないが、腕がちっともあがっていない。おまえさん、ふだん打ってないのかい?』てえから、おまえさんのはなしをして、『いいえ、打ってないどころじゃあありません。毎日いい相手がきまして、お昼から夕方まで、すくなくも八、九番は打ってます』っていうと、隠居さんのいうには、『そりゃあ碁を打ってるんじゃあない。碁なんてえものは、わずかなあいだに、八番も九番も打てるもんじゃあない。そりゃあ、ただ石をならべてるんだ。そんなことじゃあ、うまくなるわけがない。だいいち、おまえさんたちは、待ったをやってんじゃあないか?』てえから、『待ったは、おたがいさまにのべつやってます』『それがよくない。こんどやるんなら、待ったなしということでやってみなさい。待ったがないてえことになると、おたがいに十分かんがえる。したがって、すこしずつうまくなるから……』と、こういうわけなんだ。いわれてみりゃあもっともだ。で、どうです? きょうはねえ、待ったなしてえとこでやろうとおもうんだが……」
「ええ、そりゃあ結構ですな。おっしゃる通り、そりゃあ、待ったをやってたんじゃあ、生涯腕があがるはずはありません。じゃあ、待ったなしということでやりましょう」
「じゃあねえ、こっちへ盤を……ああ、ふとんをしいてください。あたしもしいてますから……じゃあ、くどいようですが、待ったなしですから……」
「へえ、わかりました。やあ、どうもたいへんなことになりましたなあ……いやあ、待ったなしてえことになると、よほど気をつけないといけませんなあ」
「そのね、気をつけなくっちゃあいけないというところで、よくかんがえるから、それで腕があがるわけなんだから……え? あたしがこの石を? 白い石を持つんですか? なに? あたしが、こないだ勝ったから? ああ、あれはまぐれですよ。しかしまあ、きょうもああいきたいもんで……じゃあいらっしゃい。待ったなしだから……」
「ええ、いきますが……待ったがないてえことになると、十分にかんがえないといけませんな。じゃあ、ひとつねがいますかな」
「さあさあ、いらっしゃい、いらっしゃい」
「じゃあ、ごめんをこうむって、こう置かせていただきます」
「ああ、そう……じゃあ、あたしもこういきましょう。さあ、いらっしゃい」
「へえ、どうも……こんどは、こう置きまして……」
「なるほど……あたしは、こういって……さあさあ、いらっしゃい。遠慮なく……」
「じゃあ、ここへひとつねがいましょう」
「ああ、どこへでもおいでなさい。あたしはこういって……なにしろ待ったがないんだからなあ」
「へえ、さようで……じゃあ、ひとつここんとこへいきましょう」
「ああ、そうきましたか。じゃあ、あたしは、ここへこういって……」
「へえ、なるほど、じゃあ、てまえは、ここんとこへこういってと……」
「あっ、こりゃあ弱ったな。まずいとこへ打たれたねえこりゃあ……うーん、その一目《いちもく》で、こっちの連絡が、みんな切れちまう……こりゃあこまった」
「え?」
「こりゃあだめだ。どうにもならない。こりゃあ、ちょいと待っとくれ」
「そりゃあいけません。あなたが、待ったなしとおきめになったんですから……」
「うーん、そりゃあきめたんだが……どうにもこりゃあこまる」
「とにかく、あなたが待ったなしといいだしたんですから、すんだことはしかたがないとして、これからお気をおつけになればいいじゃあありませんか。なにもこれで勝負がついたというわけじゃなし、これからの打ちようで、一目や二目はどうにでもなりましょう」
「そりゃあ、そういってしまやあそうだけれども……」
「どうなったってそうじゃあありませんか。自分からいいだした規則を、自分からやぶっちゃあこまります。そんな自分勝手なことはなかろうとおもいます」
「なにもそう愛嬌《あいきよう》のないことをいわなくってもいいだろう? たった一目や二目待ったところで、なにもおまえのほうで百目もちがうというわけじゃあなし……それだのに、規則だのなんのって、りくつばって……わたしも、なにも規則をやぶってまでも待ってくれろというわけじゃあないが、ただ、おまえさんも不親切だというんだ」
「親切も不親切もありません。勝負ごとをしていて、親切ばかりしていた日にゃあ、勝てっこはない。それも、ご自分でつくった規則をやぶるなんて、りくつもいいたくなるじゃあありませんか」
「ねえ、おまえさんも、そうりくつばかりいうこたあないだろう? ねえ、あたしゃあ、りくつを聞こうてんじゃないんだよ。だからさあ、なにも強《た》って待ってくれとはいわねえんだ。けれども、待ってくれてもいいだろうてえはなしをしてるんだ。え? どうだい、これだけ、待てないかい?」
「……へへ、そうですなあ」
「いや、そのそうですなあてなあこまるんだよ。待てるとか、待てないとか、はっきりいっとくれ、はっきりと……」
「では、待てません」
「あれっ、ほんとにはっきりいったね。そうかい、待てなきゃあいいんだよ。あたしゃ、いまもいった通り、強《た》って待ってくれてんじゃない。待ってくれてもいいだろうてえはなしをしてるんだ。けれども、あたしとおまえさんとの仲で、そういうことはなかろうとおもうねえ、そうだろう? ねえ、あたしゃ、こんなことはいいたかあないんだ。いいたくないけれども、いいたくもなるじゃあないか……そりゃあ、いまじゃあ、おまえさんねえ、ずいぶんお金もできて結構な身の上になってるさ。しかし、ずいぶんこまったこともあったはずだ。ねえ、そうだろう? おまえさんがくりゃあ、きまってお金の用だ。きょうはすみませんが、いくら貸してください、きょうはいくら貸してくださいてんだ。のべつまくなしだ。そのたんびに、あたしが待ったをしたかい? ……ねえ、どうだい、これ、待てないかい?」
「……いやあ、弱りましたなあどうも……じゃあ、こういうことにいたしましょう。これをこわしまして、新規にやりなおすてえことにいたしましょう」
「え? こわしてやりなおす? ふん、じょうだんいっちゃあいけないよ。なにもこわしてやりなおすほどのこたあない……よしましょう、よしゃあいいんだ……こうして碁なんかはじめるから、おたがいにめんどうなことになるんだ。よしゃあいいんだ。だいいち、あたしゃあ、こんなことをやっちゃあいられないんだ。いそがしいんだ、あたしゃあ……さあ、帰っとくれ」
「え?」
「いえ、帰っとくれよ」
「……それじゃあ、あなた、座が白《しら》けます」
「ああ、白けたっていいんだ。さあ、お帰り、お帰り、さあ、早くお帰り」
「じゃあ、おいとまします」
「ああ、お帰り、お帰り、早くお帰り」
「帰りますよ、帰りますよ……帰らい! いいかげんにしやがれ。うるせえことをいうない、あんにゃもんにゃ!」
「あんにゃもんにゃ? なんのことだ?」
「なんのことか知るもんか。このわからずやのあんぽんたん!」
「あんぽんたんとはなんだ!」
「あんぽんたんにきまってらあ……だいいち、おまえさんは卑怯《ひきよう》だ。自分で待ったなしときめておきながら、そのきめた当人が、待ってくれてえのを、あたしが待たねえからって、なにもむかしのあら(わるい点)をいいたてるこたあねえじゃあねえか。そりゃあ、むかしは、あなたの世話になったし、金も借りたよ。そういうことがあったから、あたしゃあ、大掃除の手つだいにだって、なんべんもきてるんだ。なにいってやんでえ、そのたんびに、おまえさんが、そば一ペえ、天どんひとつでも食わしたか? このしみったれめ! だいいち、いうことがおもしろくねえや。なんだと? いそがしい? ふん、笑わせるない。こっちのほうがよっぽどいそがしいや。けれども、いまもいった通り、世話にもなったし、金も借りたしするから、こんなへぼ碁の相手をするんだ」
「なんだ、この野郎、へぼ碁とはなんだ!」
「へぼ碁にちげえねえから、へぼ碁というんだ。待ったなしときめといて、待ってくれだなんて、こんなへぼ碁があるもんか。なにいってやんでえ。おまえさんのようなわからねえ人間たあ、生涯《しようげえ》つきあうもんか」
「ああ、つきあわなくて結構だとも……もう、きっとくるなよっ!」
「あたりめえよ。死んだってこんなうちの敷居をまたぐもんか」
「またがせるもんか、帰れ!」
「帰るとも!」
たいへんなさわぎでわかれましたが、ふたりが、これっきり会わないかてえと、「碁がたきは、にくさもにくし、なつかしし」という句の通りで、雨でもふりつづきますと、ふたりとも退屈でたまりません。
「おやおや、よくふるなあ。もう二日間もぶっ通しでふってやがる。いやんなっちゃうなあ……新聞はみんなみちまったし、たばこものみあきちまったし……こういうときに、あいつがくればいいんだ。けれども、喧嘩しちまったからなあ……かんげえてみると、こっちがよくねえなあ。なにしろ、待ったなしときめたのは、こっちなんだから……そのきめたおれが、待ってくれてんだから、こりゃあ、たしかにおれがわるい。わるいにはちげえねえけれども、あいつも強情だよ。なにも一目ぐれえ待ったっていいじゃあねえか。あれさえ待ってくれりゃあ、こんなことになりゃあしねえんだ……なんだい? 退屈でしょう? なにをいってるんだ。退屈が、着物着て坐ってるようなもんじゃあねえか。え? なんだい? 退屈ならむかいにいきましょうか? だれを? え? あいつをかい? じょうだんいっちゃあいけねえよ。むかいにいきゃあ、こっちが負けになるじゃあねえか……なに? じゃあ、ほかのひとを呼んできましょうか? なにいってんだよ。ほかのひとでいいくれえなら、こんなに退屈してるもんか。おれの相手は、あいつにかぎるんだから……え? きょうあたりくるような気がする? ……うん、おれも、さっきからそんな気がしてたんだ……じゃあ、こうしとくれ。お湯をわかしてな、あいつが、店の前でもぶらりと通ったら、そこを呼びこんでな、すぐにふとんをだして、茶をだして、逃がさねえようにするんだ。前さえ通りゃあしめたもんなんだが……」
「ねえ、ちょいと、おまえさん、いいかげんに起きたらどうなんだい? もう二日もぶっ通しで寝てるんじゃないか」
「うるせえなあ。そんなこたあいわれなくってもわかってるよ……ああ、起きるよ、起きるとも……この上寝ようがねえじゃあねえか……あーあ、よくふりゃあがるなあ。うちんなかは、うすっ暗えし、するこたあなし……こんなときに、一石……」
「なんだい?」
「いや……なに……ちょいと、いってくるよ」
「どこへ?」
「えへん……あすこへ……」
「あすこへ? え? なにいってんだよ。おまえさん、大喧嘩したんじゃあないか。あんなやつたあ生涯つきあわない。死んでも敷居をまたがないって、たんか切ってたじゃあないか。のこのこいったら、みっともないよ。え? 退屈で死にそうだ? いうことが大げさだねえ。すこしの辛抱ができないかねえ……まあ、そんなに退屈ならしかたがないからさ、いってもいいけども、もう喧嘩するんじゃないよ。自分だって、あとでこまるんだから……じゃあいってらっしゃい」
「うん……傘とげたをだしてくれ」
「あっ、そうそう、傘はみんな貸しちまってないんだよ」
「そこに一本あるじゃあねえか」
「あの傘? ありゃあだめだよ。うちにはあれだけしかないんだから……おまえさんに持っていかれちまうと、あとで買いものにもいかれないから、置いてっとくれよ」
「じゃあ、なにかい? おれに濡《ぬ》れてけってえのかい?」
「いいえ、そんなこたあないけどもさ、持ってっちゃあこまるよ」
「そんな意地のわりいはなしがあるもんか。それじゃあ、いくなってえのとおんなじじゃあねえか。そんなわからねえはなしが……うふふふ、うめえものがあった。おい、そこにかぶり笠があるな、菅笠《すげがさ》が……それを持ってきな。まあ、ものてえやつあ、なんでも丹念にとっとけてえなあこれだ。いつか大山へいったときにかぶった笠だ。これをこうしてかぶっていきゃあ濡れっこねえ。おかしいったってかまわねえってことさ。うふふふ、うめえものがありゃあがった。こうやっていきゃあ濡れっこねえぞ」
「おいおい、どうしたい、お湯は? ……え? まだ沸《わ》かない? なんだい? 火がおこらない? あおいだらいいだろう? ……なに? ほこりが立ちます? 立ったっていいじゃあねえか。さっさと沸かしなよ。湯なんてものはね、ちゃんと沸かしとくもんだよ。ひとさまがきたときに、湯が沸いてりゃあ、ふとんだして、すぐ茶がだせるんだよ。沸いてねえから、ふとんだして、湯を沸かして茶をいれりゃあ、そのあいだ間がぬけるじゃあねえか。早く沸かしなよ……おやおや、まだふってやがる。もういいかげんにやんだらいいじゃあねえか。おもてをごらんよ。のべつにふってるから、ひとっ子ひとり通りゃあしねえや。なあ……ふふふふ、きたきた、とうとうたまらなくなってやってきやがった。おいおい、ここへ碁盤を持ってきなよ。そこへ置け、そこへ……うふっ、だんだんこっちへ寄ってきた。変なかっこうしてきやがったなあ、かぶり笠かぶってやがる。きまりがわるいもんだから、わざと笠なんぞかぶってきたんだな。おーい、早く湯を沸かしな。たばこ盆をだしてな……きたんだよ。もうこっちのもんだ。しめしめ……ふっ、きたきた……あれっ、いっちまやあがった。いやな野郎だなあ、ほかにいくとこなんぞあるはずがねえのに……あっ、でてきた、でてきた。あはっ、やっぱりここへきたんだな。うん、なに、大丈夫、こんどはへえってくるから……なんてまあ強情な野郎なんだ。こっちをみろってんだ、こっちを、みりゃあ、ちゃーんと盤がでて、したくもできてるんだ。いやな野郎だなあ、むこうむいてあるいてやがる……またいっちまやがった。いまいましい野郎じゃあねえか。ほかにいくとこはありゃあしねえんだ。おや、電信ばしらのかげに立ってやがる。やっぱりきまりがわるくってへえりにくいんだろう。かまわずへえってくりゃあいいのになあ……ああっ、またでてきたよ。だんだん寄ってきたな。きたきたきた……あれっ、いまいましいやつだな。また通りすぎてしまやあがった。とうとうあきらめて帰るのかな? ああ、またあすこへ立ってやがる。やっぱり帰れやあしねえ。きたきた、こんどは大丈夫だ。あれっ、こんどは下むいてあるいてやがる。いやな野郎だなあ、ちょいとこっちをみるがいいじゃあねえか。どうしてああ強情なんだ。あれっ、また通りこしてしまう……やいやい、へぼ! ……へぼやい!」
「なにを! へぼ? なにいってやんでえ。どっちがへぼだ。おまえさんのほうが、よっぽどへぼじゃあねえか」
「なに? おれのほうがへぼだと?」
「そうよ。待ったなしだときめておきながら、待ってくれなんて、こんなへぼがあるもんか、この大へぼめ!」
「大へぼ? なまいきなことをいうない。へぼか、へぼでねえか、一番くるか?」
「ああ、いくとも……まず、こう打たあ……しかし、世のなかに、おまえさんぐらいわからねえ人間があるかい、待ったなしときめといて待ってくれって、こんなへぼがあるか」
「さあさあ、せっかくきたんだ。ぐずぐずいわずに、きげんなおしてあそんでおいで」
「なあに、べつにね、きげんなおすもなおさねえもありませんけどねえ、あなたが、あんまりものがわからねえから……」
「わからねえたって……やあ、こりゃあたいへんだ。雨がたいへんにもるよ……はてな? 雨のもるわけはないが……おい、小僧かなにか、二階で水でもこぼしゃあしねえか? ……これ、みなさい、盤の上へ水がたれて、いくらふいても、あとから、あとからたれてきて……あっ、いけねえなあ、かぶり笠をとらなくっちゃあ」
鉄《てつ》 拐《かい》
むかしから、日本でも、英雄豪傑、または、文人、書家、画家などに酒を好んだひとがたくさんございましたが、中国にも、ずいぶん酒飲みのかたがあったようでございます。とりわけ有名なのは、李白《りはく》に陶淵明《とうえんめい》というかただったそうで……李白は、唐の大詩人でございましたが、大酒飲みで、玄宗皇帝《げんそうこうてい》がお召しになっても、酔っぱらっていて、「臣は酒中の仙なり」といって、お召しに応じなかったというくらいのかたで、酒仙という名をえました。また、陶淵明というひとは、学者でございましたが、いたって潔白なひとで、いわゆる清貧をたのしむという性質《たち》で、文部大臣に推薦《すいせん》されたさいに、「われ米のために俗人を相手にすることを好まぬ」といってことわり、そのこころざしに感じて金を寄付するひとがあれば、すぐに酒屋へその金をいれてしまい、酒を飲んで、愉快に一生をおわったということでございます。
ここに、唐の横町に、上海屋唐《しやんはいやから》右衛門《えもん》という貿易商がございます。世界各地に出店《でみせ》があって、奉公人は数千人もつかっているという大家《たいけ》でございますが、毎年九月には、創業記念の祝賀会をひらいて、たくさんのひとたちを招待し、いろいろめずらしい余興《よきよう》をみせますので、この宴会を、みんなたのしみにしております。ところが、毎年のことなので、余興も種切れになりまして、ことしは、なにかめずらしいものをさがしたいものだと心配をして、ご主人の唐右衛門が、番頭の金兵衛を呼んで、いろいろとうちあわせました。この金兵衛さんは、なかなかの演芸通で、毎年、余興係りときまっております。ちょうど夏のことで、日本なら、東京と大阪というくらいはなれているところへ商用にでかけます。そのついでに、なにかかわった芸人がいたら、つれてまいりましょうといってでかけました。
むかしのことでございますから、脚袢甲掛《きやはんこうが》け、わらじばきで、てくてくとでかけました。ちょうど七月二十日ごろに家をでて、おそくも八月一ぱいには帰るつもりのところ、あるとき、どう道をまちがえたのか、ゆけどもゆけども山また山で、里へでません。さいわい食料は用意してありましたからよろしゅうございましたが、心ぼそいことおびただしいもので……
「ああ、こまったなあ。どうしても里へでることができない。このまんま猛獣に食われて死んでしまうのかしらん?」
と、主人にいいつかってきた用も気にかかりますし、だんだん食べものもとぼしくなってきますから、夢中になって神信心をしながら、足にまかせてあるいてまいりますと、いつのまにかふしぎなところへでました。よく絵でみる仙人の住んでいるようなところで……なにしろ、焼けつくような暑さだというのに、ここへくると、急に秋にでもなったように涼風《すずかぜ》が吹いて、どこから聞こえてくるのか、しずかな、品のよい音楽も流れてまいります。金兵衛さんは、腹のへったのもわすれて、すっかりいい気持ちになって、ふわふわあるいておりますと、むこうのほうに、りっぱな松の古木が茂っておりまして、その下に大きな岩があります。ふとみると、岩の上に、ぼろぼろの着物を着て、杖を持って、ひげぼうぼうとしたじいさんが、けむりのように立っております。頬骨は高くでて、目はくぼみ、いまにも息が絶えそうなじいさんですが、ようようのことで人間にでっくわしたのですから、金兵衛さんも、ほっと息をついて、
「まあ、なに者だかわからないが、きたないじいさんだな。とにかく人間のかたちをしたものにでっくわしたのは、地獄で仏にあったようなものだ。あのじいさんに道を聞いたら、教えてくれるかも知れない……ええ、少々ものをうかがいます。少々ものをうかがいます」
といわれて、じいさんは、夢からさめたようなようすで、
「うるさいな。なんだ、おまえは?」
「へえ……」
「おまえは、なんだよ?」
「えー、わたしは、道を踏みまよいまして、この山中を、あっちへぐるぐる、こっちへぐるぐると、あるきまわっている者ですが、どうしても里《さと》へでられません。なにしろ食べものはなくなってしまいますし、このままでは、ミイラになってしまうか、けものにでも食われてしまうことかと心配しながらきますと、あなたにお目にかかりましたので、やっと生きかえったような心持ちになりました。まことにすみませんが、どちらへゆきましたら里へでられますか、教えていただきとうございますが……」
「ああそうか。おまえは里人か?」
「へえ、さようで……わたくしは、唐の横町の上海屋唐右衛門の手代で、金兵衛というものでございますが、一体ここは、なんというところでございますか?」
「ここか? ここは、凡人《ぼんじん》のくるべきところではない」
「へえ?」
「いや、ここは、凡人のくるところではないよ」
「凡人のくるところでないと申しますと、だれのまいりますところで?」
「ここは、仙人のいるところだ。なかなか凡人のこられるところではない。おまえは、どう道を踏みまよってきたか知らんが、不浄のからだでここへくると、かならず身に害がある。まあまあ、おれが道を教えてやるから、早く里へ帰んなさい」
「へーえ、さようでございますか。それじゃあ、ここが、かねて聞いております仙境というところでございますか? してみると、あなたは仙人で?」
「そうだよ」
「仙人にしちゃあ、どうもきたない」
「なんだと?」
「いえ、なに、こっちのことで……へーえ、さようでございますか。どうも、まことに尊《とうと》いおすがたで……で、あなたは、なんとおっしゃる仙人で?」
「おれは、鉄拐《てつかい》だ」
「へーえ、あなたが鉄拐さんでいらっしゃいますか……お目にかかるのは、きょうがはじめてでございますが、お名前は、かねてから承知しております。ところで、仙人というものは、なにかかわった術をつかうと聞いておりますが、ほんとうでございますか?」
「ああ、仙人の術で、仙術というが、まず、こころをやすめるたのしみだな」
「へーえ……ところで、あなたのおたのしみは、どういうものでございますか?」
「うん、おれは退屈のときには、一身分体の術をいたすな」
「え? なんです?」
「いや、一身分体の術をもってたのしみとするのだ」
「どんなことをなさいますんで?」
「うん、それはだな、まず、おれが、ふーっと口から息をはくと、おれのからだが、もうひとつでてくるのだ」
「へーえ、そりゃあたいしたもので……すみませんが、ひとつみせてくださいませんか?」
「いや、むやみに凡人らにみせるべきものではない」
「そんなことをおっしゃらないで……袖すりあうも他生《たしよう》の縁《えん》、つまずく石も縁の端《はし》などということを申します。こうしてお目にかかったのも、なにかの縁でございましょう。どうか、ひとつおみせなすって……」
「そうか。そんなにたのむなら、ひとつ吹いてみせよう。よくみていろよ。それっ、でるぞ……これこれ、そんなに前へでてきてはいけない。あとへさがれ、さがれ」
「へえ、かしこまりました。このくらいでよろしゅうございますか?」
「あまりそうぺらぺらとしゃべるな。がやがやさわぐと、腹のなかの鉄拐が、おどろいてでてこない。口をむすんで、しずかにしていろ」
鉄拐仙人は、まがりくねった杖を肩へかけますと、両眼をとじ、しばらく腹をなでながら、なにか呪文《じゆもん》をとなえておりましたが、やがて顔をあげて、頬をふくらし、口をつぼめて、ふーっと息をはきますと、鉄拐仙人の口もとから、けむりのようなものがでたかとおもいますと、それといっしょに、豆のようなものがとびだしまして、みているうちに、だんだん大きくなって、人間のかたちになっていって、鉄拐仙人とおなじような杖をついて、むこうの山をのこのことあるいてまいります。金兵衛はおどろいて、
「へーえ、こりゃあふしぎで……どうもおそれいりましたな。あれあれ、むこうのほうをあるいてゆきますね。あっ、むこうで笑っておいでなさいます。こりゃあ奇態《きたい》だ」
「ええ、そうぞうしいやつだな。しずかにしろ。どうだ、わかったか、おれの術が?」
「へえ、すっかりわかりました」
「よかったら、もうしまうぞ」
と、鉄拐仙人が、大きな口をあいたかとおもうと、むこうの鉄拐が、だんだんちいさくなりながらそばへ寄ってきて、ひょいと口のなかへはいってしまいました。
「どうも鉄拐さんありがとうございました。なによりこれが里へのいいみやげで……」
「さあ、早く帰れ」
「へえ、どうもおそれいりました。ときに先生」
「なんだ先生とは? 変な笑いかたをしゃあがって……いやなやつだな」
「へえ、まことにどうもなんでございますが、あなたに、折りいっておねがい申したいことがございますが……」
「なんだ?」
「ええ、じつは、ほかでもございませんが、わたくしは、先刻も申しあげましたように、上海屋唐右衛門の番頭金兵衛と申すものでございますが、主人かたでは、当時繁昌いたしております営業の創立記念の祝賀会ということを、毎年九月にいたします。その余興に、いろいろめずらしい趣向をいたすのでございますが、もう芸という芸は、たいがいやりつくしましたので、なにか当年は、客をあっといわせるようなものをと、主人もたいへんに心配しております。ちょうどわたくしが、商用で旅をすることになりましたので、旅さきで、なにかめずらしい芸をさがして帰るようにと申しつけられてまいったのでございますが、これというめずらしいものもみあたりません。かようなことを申しあげては失礼とは存じますが、お礼のほうは、いかようにもさせていただきます。どうかわたくしといっしょに里へいらっしゃって、上海屋の祝賀会の席上で、ただいまの、ふーっというのをひとつやっていただきたいとおもいますが、いかがなものでございましょうか?」
「なにをばかなことをいっているのだ。仙人が、余興の座敷などにいかれるものか」
「それはもうごもっともさまでございますが、そこを、折りいっておねがいいたしますので……あなたさまにおいでいただければ、上海屋といたしましても、これに越した名誉はございません。どうかひとだすけだとおもって、おいでをねがいとう存じます」
「そうか。ひとだすけか……それならばしかたがない。いってみようかな」
「ありがとう存じます。どうか、ぜひいらしっていただきとう存じます」
「そのかわり、ことわっておくが、なんべんもやってくれろといわれてはこまるぜ。だれがなんといっても、一ぺんぎりで、すぐに帰ってくるからな。ああ、それから、あまりていねいにして、きれいなところなんぞへいれてはこまるぞ」
「へえへえ、なるたけきたないところへお泊め申しますから、ぜひともおいでをねがいます」
「これこれ、もうしゃべるのじゃあないぞ。おれがいいというまで目をあいてはいかんぞ」
「へえ」
といううちに、金兵衛のからだは、自然と舞いあがりまして、まるで飛行機にでも乗ったようなぐあいでございます。
「さあ、目をあけろ」
といわれて、ひょいと目をあけてみると、いつのまにか、上海屋の店さきに立っております。店の者もおどろいて、これを主人にとりつぎますと、主人も心配をしていたところですから、すぐに金兵衛を呼びました。
「へえ、旦那さま、ただいま帰りました。大きにおそくなりました」
「おお、金兵衛か。ごくろう、ごくろう。どうだ、なにかあったかい?」
「はい、旦那さま、どうもこのたびはおどろきました。山道へ踏みまよいまして、いくらあるいても里へはでられず、しまいには、飢《う》え死にをしてしまうか、猛獣の餌食《えじき》にでもなることか、とてももう旦那さまにもお目にかかることはできないとおもって、ずいぶん苦労をいたしましたが、そのかわり、仙人をみつけてつれてまいりました。これは、たいへんにめずらしいものでございます」
「どういう仙人だい?」
「鉄拐仙人と申しますので……ふーっと息を吹きますと、口からもうひとりの鉄拐がでてまいります」
「それはふしぎだ。けれども、よくきたな」
「ええ、それはもう里へいくのはいやだと申しますのを、わたくしが、むりやりにたのんで、主人の名誉にもなるし、ひとだすけにもなることだからと申しますと、それならいってやろうと承知をしてくれました」
「それはまあ、えらい骨折りだったな。で、どこかきれいな座敷へでもお通し申しておいたか?」
「いいえ、物置きへほうりこんでおきました」
「物置きはひどいじゃないか?」
「それでも、当人が、きれいなところへいれてはこまるというので、椎《しい》の実をあてがっておきましたら、皮ごとがつがつかじっております。南京豆《なんきんまめ》をやりましたら、油が強くて、胃にさわるといっておりました」
「そうか、なんでも気にさわらないようにしておかなければいけないよ」
上海屋の主人も、たいそうよろこんでおりますうちに、いよいよ当日になりました。
もう定刻前からお客さまが、どんどんつっかけてまいります。あかりをかんかんつけ、昼間もおよばぬあかるさで、金銀珠玉をちりばめました結構な舞台もできあがり、金にあかしてこしらえたたいそうな緞帳《どんちよう》をさげ、鳴りものは、ご承知のむかしの中国音楽で、ピーピードンドン、キューキューカンヂャランポン、ガーンと、たいへんなさわぎで、お客さまは満員でございますが、なんの余興がはじまるのか、ちっともわかりません。やがて、上下《かみしも》をつけた番頭の金兵衛さんが、カチカチカチという拍子木を合図に幕をあけさして、舞台の下手へ坐って口上《こうじよう》でございます。
「一座高うはござりますが、不弁舌《ふべんぜつ》なる口上をもって申しあげたてまつります。吉例によりまして、余興としてごらんにいれまする芸道は、このたび、世界無類一身分体の術を尊覧に供《きよう》しまする。太夫《たゆう》の吹きだしまするところの息から、同体があらわれるというところにお目とめられて、ごらんをねがいます。一身分体の太夫鉄拐仙人、お目通り上座までひかえさせまあーす」
と、口上がおわりますと、チャンガラガラガラ、ジャンボーン、ガーン、拍子木につれてでてまいりましたが、そこは仙人のことでございますから、鉄拐は、なんの気どりもなく、ぼろぼろの着物のまま、のびた爪でぼりぼり顔をかきながら、のそのそとあらわれました。客のほうじゃあ、舞台のりっぱさ、鳴りもののにぎやかさ、口上の大げさなのにひきかえて、太夫のきたないのにおどろきあきれながらみておりますと、鉄拐仙人が、正面の椅子にかけるのを合図に、金兵衛が、カチッと拍子木を打って鳴りものをとめ、
「一身分体の太夫、お目見得《めみえ》あいすみますれば、これより分体の術をごらんにいれたてまつります。よいきたあ……」
ジャラーン、ジャラーン、ボーン、ガーン、たいへんな鳴りもので、鉄拐仙人が悠然《ゆうぜん》と椅子にかけ、しずかに下腹をなでまわし、正面にむかって頬をふくらし、口をつぼめ、うーっと目をむきだし、ふーっとやったが、なにもでません。あわてた金兵衛が小声で、
「先生、でませんね」
「ふっ、ふーっ……番頭、でないよ。どうもこうあかりをかんかんとつけて、鳴りものをジャランジャランやられては、腹のなかの鉄拐がおどろいてしまって、ぶるぶるふるえている。このあんばいでは、とてもでそうもないからよそう」
「そんな、あなた……よしちゃあこまりますよ」
と、途方に暮れております。そのうちに、お客が、そろそろさわがしくなってきましたから、
「太夫の腹中、いささか損じましたるによって、いまひと囃子《はやし》ご容赦《ようしや》をねがいます」
と、緞帳をおろして、楽屋のあかりを十分の一にへらし、舞台もずーっと暗くしてしまい、しばらく休息をして、ふたたび幕をあけました。鉄拐は、椅子にかけて、ふーっと吹きますと、こんどは首尾よくでましたから、一同声をあげておどろきました。
「こりゃあどうもふしぎだ。あれあれ、あっちへあるいていきますよ」
「なるほどふしぎだ。にこにこ笑ってますよ。なにしろ、こりゃあたいへんな余興だ。よっぽど金がかかりましたろう」
と、拍手大かっさいで、場内は割れかえらんばかり。そのうちに、鉄拐は、口のなかへ吸いこんでしまいます。幕をしめると、鉄拐は、腹がへったとみえて、あいかわらず椎の実をかじっております。
「どうもありがとうございました。まことにごくろうさまで……お客さまも大満足で……どうぞごゆっくりおやすみくださいまし……なんだ? おれに用のあるひとがきた? ああそうか。いますぐにいく。ええ、鉄拐先生、はなはだ失礼でございますが、ちょっと来客だそうで、ごめんくださいまし……どなたです、わたしにご用のかたというのは?」
「はい、わたしは、となり町の料理屋|来来軒《らいらいけん》の者でございますが、きょうの余興にご出演なさった太夫のことでご相談にうかがいました」
「はあ、どういうことでしょうか?」
「じつは、わたしの町内のお客さまが、わたしどもで宴会をおもよおしになるにつきまして、町内の旦那がたが、今夜、お宅さまへお招きにあずかって余興を拝見いたしましたが、たいそうめずらしい芸人だから、ぜひこっちの宴会の余興にもたのみたいというわけで、てまえが申しつかってうかがったのでございますが、まことにおそれいりますけれども、明晩、ほんのちょっとで結構でございますが、先生におねがいしていただきたいもので……ええ、つきましては、お礼のところは、どのくらいかうかがってくるようにと申しつかってまいったのでございますが……」
「そうですか。いいえ、そりゃあ、わたしのほうは、うちの宴会さえすんでしまえば、どこへでようともさしつかえありませんが、なにしろ、こちらへつれてくるときの約束が、一度しかやらせないということだったもんですから、承知するかどうかわかりませんけれども、とにかく聞いてみてあげましょう。すこし待っていらっしゃい」
それから鉄拐にこのはなしをしますと、
「そうか。どうせきたついでだから、せっかくのたのみをことわるのも気の毒だな。よし、いってやろうか」
「そういうことにねがえれば、となり町の者もさぞよろこぶことでございましょう」
こんなことがきっかけになって、あっちからも、こっちからもお座敷がかかるようになってまいりました。そのうちに、鉄拐もだんだん里の風《ふう》になれてきましたから、椎の実なんぞ食べなくなってしまいまして、
「おい、さっぱりした酢《す》のものかなんかで、一ぱいやりたいな」
なんてことになりまして、ごちそうも食べるし、祝儀もどんどんもらうようになって、仙人もすっかり欲ばりになってしまいました。そのうちに、興行師がやってきて、
「どうか先生、寄席のほうへもひとつご出演ねがいたいもので……」
「ああ、よしよし。しかし、給金が安くっちゃあいやだよ」
というので、鉄拐の一枚看板で寄席興行をやってみると、見物がくるわ、くるわ、もう毎晩大入りで、
「ええ、どうかご順にお膝送りをねがいます。あとがこみあいますから、楽屋へもつめてください」
といういきおいで、鉄拐も、いよいよぜいたくになって、上海屋から金をひきだして、りっぱな家をこしらえて、先生然として、緞子《どんす》のざぶとんの五枚がさねの上にいばっております。そのうちに、また、かわったやつがでてきて、弟子になりたいなどとたのみにまいります。
「ええ、わたくしは、ご近所に住んでおります商人《あきんど》でございますが、じつは、せがれが、役人になるのもいやだし、といって、商人にもなりたくないから、芸人になりたいと申します。当時、芸人もたくさんおりますが、そのなかで、とくに先生のお弟子になって寄席へでたいと、こう申します。どうか先生、せがれをお弟子になすっていただきたいもので……」
「いや、わしは、弟子などとるのは、どうもめんどうだからことわるよ」
「そうでもございましょうが、おひとりでは、寄席へいらっしゃっても、お羽織をたたむ者も、おはきものをそろえる者もなければなりません。でございますから、雑用におつかいくださることにして、お弟子になすってくださいますまいか?」
「うーん、それもそうだな。それじゃあ、まあ弟子にしてやろうか」
「へえ、ありがとうございます……それじゃあ、おまえ、よくお師匠さんのいうことを聞かなけりゃあいけないよ。いいか? 先生の、ふーっとお吹きなさるところをよくおぼえるんだよ……ええ、先生、つきましては、これに、なにか名前をいただきたいものでございますが……」
「まあ、なんでもいいや」
「そうおっしゃらずに、なんとかひとつ……」
「そうさな……鉄拐の弟子になって、あれこれめんどうをかけるのだから、厄拐《やつかい》とでもつけておけ」
「へえ、ありがとう存じます……おい、おまえ、厄拐という名前をいただいたから、そのつもりでな」
「ええ、先生、わたしのせがれもお弟子にしていただきたいのでございます。もっとも、まだちいさいのでございますが……」
「ちいさかったら、しじみっ拐《かい》とでもしておけ」
「先生、どうかわたくしのせがれもおねがい申します」
「ああ、よしよし。名前は、木拐《もつかい》とでもしておけ」
厄拐、しじみっ拐、木拐という弟子もできまして、昼間は、ほうぼうの名士のかたがたのお座敷へよばれ、夜になると寄席に出演して、たいへんな人気でございます。あまり評判がいいものですから、ねたんでかげ口をきく者もでてまいります。
「どうだい、このごろの鉄拐仙人は? いやにぜいたくになったもんじゃあねえか。山からでてきやがったときには、ぼろぼろのなりをして、椎《しい》の実をぼりぼりかじっていやがったくせに、このごろは、いやにお高くとまりゃあがって、むやみに寄席《せき》をぬきゃあがる。きのうも、ある金持ちのお座敷だってんで、弟子をつれてでかけやがったが、弟子の厄拐てえやつがやると、からだが半分しきゃあでねえ。その前にでた前座のしじみっ拐とくると、首ばかりしきゃあでなかったそうだ。いやにこの節《せつ》、お座敷がいそがしいとおもって、いばってやがるんだから、ほんとうにしゃくにさわるなあ」
「どうだい、ひとつ、鉄拐のむこうを張るような仙人をひっぱってきて、寄席へだそうじゃあねえか」
「うーん、あいつの鼻をあかしてやるか」
相談がまとまって、二、三人づれで、十分に食料なんかを用意して、深山へわけいってまいりまして、ふと、むこうの岩かどをみますと、ひげだらけのじいさんが腰をかけております。
「おいおい、みねえ、ありゃあ仙人にちげえねえ。ひとつたのんでみよう……ええ、ちょっとうかがいますが、あなたさまは仙人で?」
「なんだ?」
「いえ、あなたさまは、仙人でございますか?」
「いやにそうぞうしいやつらがきたな。おまえたちはなんだ?」
「わたしどもは、里からきました。あなたは仙人でしょう?」
「ああ、仙人だ。それがどうした?」
「べつにどうしたということもありませんが、なんという仙人で?」
「おれは、張果《ちようか》仙人だ」
「へーえ、ちょうか」
「へたなしゃれをいうな」
「で、やっぱりなんですかい、ふーっと吹くと、なにかでますか?」
「なんだと?」
「いえね、このごろ、鉄拐仙人が里へきて、ふーっと口からひとを吹きだして、たいへんに繁昌していますが、あなたも口からなにか吹きだしますか?」
「鉄拐は、そんなに売れっ子か?」
「ええ、たいへんな景気ですぜ。あなたは、口からふたりぐらいだせますかい?」
「おれは、ひとなぞ吹かん」
「ええ? ひとを吹かねえ? ……こりゃあ、くたびれ損かな……けれども、なにか芸がありましょう?」
「仙人に芸などあるもんか……ただし、たのしみならあるがな」
「たのしみてえのはなんです?」
「このひょうたんだ。これは酒が絶えんのだ」
「おやおや、酒ばかり飲んで、居ねむりしているたのしみですかい? それじゃあ、客は呼べねえや。それっきりですかい?」
「いや、このひょうたんのなかから馬がでる」
「えっ、馬がでる? ほんとうの馬が?」
「うその馬というのがあるか?」
「だって、そんなちいさい口から馬がでますか?」
「うたぐるなら、だしてみせようか?」
「ええ、みせてください」
「いまだしてみせるから、もうすこしあとへさがっていろ」
これから、ひょうたんを腹へあてがい、しばらくなでていましたが、ひょうたんの口へ手をかけて、
「さあさあ、どけどけ」
「へえ」
「どけどけ!」
といいながら、口をひねると、けむりのように馬がすーっととびだしましたから、みんなびっくりして、
「ああ、でたでた。こりゃあふしぎだ。ぴょんぴょんとんでいるぞ。こりゃあすげえや。鉄拐仙人より一枚|上手《うわて》だぜ」
「そうぞうしいな。そうぎゃあぎゃあさわぐと、馬がおどろいてしまうじゃないか」
「ああ、へえっちまった。こりゃあふしぎだ。ねえ、先生、ひとつ里へいって、寄席へでてくれませんか?」
「ばかなことをいいなさんな」
「そんなことをいわねえで、まあ、里へでてごらんなさい。鉄拐さんも、はじめのうちは、物置きのなかで、炭俵へよりかかって、椎の実なんぞをかじっていたんですが、この節じゃあ、すっかりぜいたくになって、りっぱな家に住んで、うまいものを食って、妾《めかけ》をかこったり、芸者をひっぱってあそびにいったり、なかには、また、鉄拐さんのひげがいきだなんてんで、岡惚《おかぼ》れする娘もあるくらいで、街をあるいてたって、ちょいとおつな女が、『あら、仙ちゃん』なんてえさわぎで……まあ、いってごらんなさい。いきな女が、あなたの馬をみて、『おや、馬がでたよ。まあ、ちょいと、馬ちゃん』なんてんで、大さわぎになりますぜ。どうですい、いってみませんか?」
「うーん、ひどくおもしろそうだな。いってみようか」
「さあ、いらっしゃい、いらっしゃい」
とうとう張果仙人も里へひっぱりだされてしまいました。
こうなると、鉄拐に負けられないから、派手な大看板をだして興行すると、お客は、こちらもかわっていてめずらしいので大よろこび。たちまち大評判になって、あっちこっちの寄席でひっぱりだこ。したがって、お座敷もいそがしい。こうなってまいりますと、鉄拐仙人のほうがだんだん人気がおちてまいりました。
「なんの、あんなやつがどうするものか」
と、鉄拐仙人は、口さきでは平気なことをいってはおりますが、腹のなかでは、このごろ売れなくなったのは、張果仙人がでてきたためだ。いまいましいのは、あの張果仙人だから、なんとかしかえしをしてやろうとおもっておりましたが、ある晩のこと、張果仙人の家へしのびこんで、居間へきてみると、張果仙人は、つかれ果てて、ぐっすり寝ているようすでございます。床の間をみると、張果仙人の例の大きなひょうたんがあります。
「ああ、これだな。ちくしょうめ、このなかから馬をだすんだな。よしよし、このなかの馬を盗んでしまえ。そうすりゃあ、これから張果のやつが、いくら吸ったってでっこねえから、高座で、赤っ恥をかくだろう。みやがれ、ちくしょうめ」
やがて、ひょうたんの口をとって、自分の口へあてがって、すーっと息を自分の腹のなかへ吸いこみました。なにしろ、自分のからだを吹きだすというくらいに息の強いひとですからたまりません。ひょうたんのなかの馬が、ぱっと鉄拐の腹のなかへはいっちまいましたから、しめたとばかり、なに食わぬ顔をして、自分の家へ帰ってしまいました。
そんなこととは知らない張果仙人は、その翌晩も寄席へでて、いよいよ本芸にかかって、ひょうたんをいくら吸っても吹いても、なかなか馬がでません。しかたがありませんから、その晩は、からだがわるいとかなんとかごまかして閉場《はね》てしまいました。その翌晩も、また、つぎの晩も馬がでません。そうなると、だんだん人気にさわってまいります。
こちらは鉄拐仙人、張果仙人の馬がでないので、人気が下《くだ》り坂と聞いて、ざまあみやがれと、ひとりにこにこしております。
「こんちは」
「どなた?」
「わたくしで……」
「おや、おめずらしい。さあ、どうぞこちらへおあがりなさい」
「へえ、ありがとうございます……おからだがおわるいそうで……」
「どうもね、すこし飲みすぎたとみえて、なんとなくぐあいがわるくてね」
「そりゃあいけませんね……寄席のほうはおやすみなすっていらっしゃるそうで?」
「ああ、一月ばかりやすんでます」
「ときに、あなた、張果仙人のうわさをお聞きになりましたか?」
「へーえ、どんなうわさを?」
「どんなうわさって……あの馬を盗まれたのか、それとも逃げられたのか知りませんが、いくら吹いても吸ってもでないので、このところ、だいぶ人気がおちました。この機《き》をはずさずに、あなたが、寄席にまたでれば売れますよ」
「いや、わしもぐあいがよくなってきたから、また、そろそろでてみようとおもってるんで……」
と、はなしをしていると、鉄拐の腹のなかで、
「ヒーン」
「おやっ、なにか鳴きますね」
「ヒーン」
「あっ、そうか……鉄拐先生、あなたが盗みましたね?」
「なにを?」
「かくしたっていけません。張果仙人の馬を盗んだのはあなたでしょう? いいえ、いくらかくしたってだめです。あなたの腹のなかで鳴いてるじゃあありませんか」
「いや、そうわかっちまっちゃあしかたがないから、はなしをするが、じつは、盗んだのはわたしだよ」
「そうでしょう。わたしも、そんなことじゃあないかとおもってました。仙人なかまでなけりゃあ、なかなかひょうたんのなかの馬なんぞ盗めませんからね……ところで先生、こんどは、あたらしい看板をおあげなさい」
「どんな?」
「いままでは、鉄拐仙人だけ吹きだしたけれど、こんどは、馬に乗せて吹きだすといったら、大入りまちがいありません」
「なるほど、こいつあおもしろいな。うん、鉄拐の馬乗りはよかろう。さっそくやろう」
ということになって、鉄拐の馬乗りという看板をだしましたから、たいへんな評判でございます。ところが、馬を吸いこむことはできたが、吹きだすことができません。これでは看板がうそになるというので、客を、みんな吸いこんで、腹のなかで見物させようということになりましたから、これがまた人気を呼んで、たいそうな大入りでございます。たちまち満員の札を入り口へ張りだすような景気で大さわぎ。
「どうです。もうひとりはいれませんか?」
「せっかくですが、もうはいりきれませんから、おことわりいたします」
「そんなことをいわないで、なんとかいれてくださいよ。どこでもいいんだから……肋《あばら》の三枚目あたりでもかまわない」
こういう大入り満員の腹のなかで、酔っぱらいが喧嘩《けんか》をはじめましたから、鉄拐はたまりません。
「ああ、いたい、いたい。腹のなかで、酔っぱらいが喧嘩をはじめやがった。いたい、いたい……」
「そんなにいたかったら、酔っぱらいだけ吹きだしてしまいなさいよ」
「うん、そうしよう」
鉄拐が、せきばらいをしたとたんに、酔っぱらいがとびだしましたから、よくみると、李白と陶淵明。
権助ぢょうちん
ご婦人さまのおたしなみの第一は悋気《りんき》、やきもちでございます。
あるお商人のおかみさんでございまして、おとしもお若く、ごきりょうもご町内評判の美人でございますが、このご婦人が、とんとおやきもちということがございません。焼いたことといったら、おはなしもおきらいなら、めしあがりものでも、焼いたものはあがりません。女中さんが、
「おかみさん、おひるのおかずは、あの……鮭を焼きましょうか?」
「いいえ、わたしは、焼いたのは食べないから、ゆでておくれ」
「あのう、晩には、うなぎのかば焼きをあつらえましょうか?」
「いいえ、わたしは焼いたのは食べません。うなぎのかばゆでを注文しておくれ」
てんで、かばゆでをあがろうという……まるで石川五右衛門みたいなおかみさんで、すこしも、おやきもちということがございません。
ところで、その旦那さまが、安心をしてというわけではありませんが、じき近所の不動新道という、いきな新道に、御意《ぎよい》にいった婦人をひとりおかこいになって、このほうへも女中をひとりつけてあります。すると、奇妙なことには、この、また、お妾《めかけ》さんが、すこしも御|悋気《りんき》ということがございません。
ご本妻がおやきもちがなくって、お妾がおやきもちがございませんから、もう、まことにお家がおだやかにおさまっております。
ちょうど歳末《くれ》のことで、お商人《あきんど》のことゆえ、お帳面のおしらべを、旦那さまが、夜おそくまであそばして、ご用ずみになりましたのが、かれこれ夜なかの一時ごろでございましたが、急に西北《にしきた》の風がはげしくなってまいりました。
「どうもひどい風になってきたな」
「たいへんな風になりましたが、火事でもなければようございます」
「そうだな」
「あなた、もう、お帳合いのおきまりは、おつきになりましたか?」
「ああ、まあ、あらかたきまりがついた。だいぶ夜もふけたから、すぐ寝ることにしましょう。おそいから、なにも食べないほうがいい……ああ、ひどい風になってきた。」
「ねえ、あなた、わたくしは、新道のあの女《こ》が、心配になってなりません」
「なにが心配だ?」
「まあ、どこに火事があっていいというわけはありませんけれども、まだ、うちのほうならば、『それ、火事だ!』といっても、土蔵もありますし、やとい人も大勢おりますから、手も十分にまわろうと、こう存じます」
「そうだ」
「ところが、新道のあの女《こ》のほうは、女中とふたりぎり、男きれがありませんから、今晩は、こんな風で、こわくって寝ることもできまいとおもいます。あなた、つかれてはいらっしゃいましょうが、格別遠くもございませんから、今晩、これから、あちらへいって、おやすみになっては、いかがでございましょう?」
「なるほど、どうも、おまえは感心だ。よくそこに気をつけておくれだ。こないだも、あれがほめていたよ。うちのおかみさんは、なにかとよくとどいてくださるので、ほんとうにありがたいといってね、なあに、おそいったって、遠くはないんだから、いってやりましょう。おまえが、こういってくれたといったら、さぞよろこぶだろう。だれかつれていきたいが、みんな寝てしまったな……ああ、権助がおきてる。あれをつれていこう……権助や、権助」
「ギェッ」
「なんだい、そのギェッというのは?」
「これは、蛙返事《けえるへんじ》でがす」
「蛙返事とはなんだ?」
「おめえさま、吉原へひやかしにいった者が、田んぼでもって蛙を踏みつぶした」
「うん」
「すると、蛙がくやしがって、『ギェッ』と、こういった。これは、まあ、今夜あそびにいってもふられべえから、かえろうてんで帰ってきた。その声をとって、蛙返事といって、いま、流行《はや》るでがす」
「なにをいってるんだ、ばかっ、くだらないことばかりいってる。あのな、新道へいくんだから、ちょうちんをつけて……」
「はあ、ちょうちんは、なんでがすか、弓張りにしやすか? 高張りにしやすか?」
「そういうばかげたことをいうから、まことにこまる。いつまでもそんなことがわからないではいけないよ。おなじちょうちんでも、弓張りだの、高張りだのというのは、あれは、おもてむきの用につけるもの。ちょいちょいでるには、そのために、ぶらぢょうちんというものができてる。そのくらいのことがわからないではこまるよ」
「へえ、ちょっくらお聞き申しやすが……」
「なんだ?」
「あの、新道のお妾さんは、あれは、ないしょでがすか?」
「だれが、そんなことをいった?」
「いえ、だれもいやあしねえが、ないしょでがすかと、お聞き申すんで……」
「あれは、ないしょではない。まことに気質《きだて》のいい者だから、わしも世話をしているが、親類も承知、家内も気にいっている。今夜も家内がいってやってくれというから、すこしおそいけれども、むこうへいくのだ。けっしてないしょのものではない。ちゃんとおもてむきにかこってあるのだ」
「そんなら、高張りをつけてもよさそうなもんで……」
「ばかっ、よけいなことをいわず、早くちょうちんをつけろ」
「ギェッ」
「よせよ、その蛙返事は……」
「ああ、どうも夜がふけるほど寒くはなるし、権助なんてえものは、あんまり楽なもんじゃあねえ」
「どうせひとにつかわれる者は、それだけ骨が折れる。つかう者も、また、それだけ気骨が折れる。ひとをつかうは、つかわれるといって、おたがいの者だから、なにも、おまえのようにこぼすところはない」
「べつにこぼしもしねえけれども、わしも旦那に生まれたら楽ができたろうが、権助に生まれたばかりに、わずかの給金でもって、やれ権助、それ権助と……これが権助だから丈夫だが、たわしならとうにすりきれてしまう」
「ぐちをいうな……さあついた。起こしなさい」
「はい……ええ、おやすみでごぜえやすか? もうおせえから、起きゃあしめえ」
「権助、なにをいってる。起こしもしないで、おそいから起きゃあしめえと、そんな起こしかたがあるかい」
「はあ、そうかね……そんなら……さあ、おい、起きろい。月々|入費《にゆうひ》をはらう旦那がきたんだ。当人はどうでもいいけれども、金《かね》の冥利《みようり》だ」
「これ、なにをいってるんだ」
「どなた?」
「わたしだよ」
「おやまあ、旦那ですか。どうもたいへんにおそくいらっしゃいましたね。ただいまあけます……おや、権助どん、お寒いのにごくろうさま。まあ、あなた、たいへんにおそく、どちらかのお帰りがけでございますか?」
「いや、そうではない。今夜、家で帳合いをしらべて寝ようとしてるうちに、こんなに風が吹いてきたんで、うちのかみさんがね、おまえのほうが女ばかりで、火事でもあると、男きれはなし、こまるだろうから、いってやってくれろと、こういうんで、それから、すこしおそいとはおもったけれどもきたんだ」
「あらまあ、ありがたいじゃあございませんか、よそのおかみさんは、意地をわるく、なるたけ旦那さまをださないようになさるのに、まあ、風が吹いて、火事でもあると、男きれはなし、こまるだろうからいっておやんなさいとはありがたい。そんなにおかみさんがよくしてくださるのを、わたくしが、そうでございますかといって、こちらへお泊め申すとなると、あなたはよろしゅうございますけれども、どうもおかみさんへ対してすみませんから、ぜひ今晩はお帰りあそばせ」
「なるほど、よくわかった。おい、権助、権助」
「ギェッ」
「よしなよ。おまえが、蛙返事をするから、帰るようなことになるんだ。ちょうちんをつけろ」
「はははは、これは、まあ、どうもとんだことになったもんだ」
「どうした?」
「どういうわけだか、どうも妙なことがあるもんだ。りっぱな旦那だけれども、おかみさんにじゃまにされて、うちをおんだされて、どうかこうか、お妾のとこへきたかとおもうと、また、ここをことわられてしまう。いい旦那だけれども、寝所《ねどこ》がねえとは、気の毒なもんだのう。はははは、宿なしだ。こうなると、旦那より権助のほうがいくらかましだ。どうだ、ちっと権助と交代《こうたい》するか?」
「ばかっ、なにをいやあがる。早くうちへ帰るんだ……ええ、いま帰ったよ」
「あら、あなた、いらっしゃらないの?」
「いや、いった。たいへんによろこんだよ。よそのおかみさんは意地をわるく、亭主をださないようにする。それを、風が吹いて、火事があると、男きれはなし、女ばかりでこまるだろうから、いってやれというおまえの心持ちがありがたい。おまえに対して、どうも泊めるわけにいかないから、今夜は帰ってくれろというから帰ってきた」
「あらまあ、どうも、あの子が、そう申しましたか?」
「あの子が、そういったよ」
「まあ、どうも感心ですねえ。けれどもねえ、あなた、わたくしは、まあ、それでようございますが、そうかといって、あなたをうちへお泊め申すとなると、せっかくあちらへ、わたくしが、あなたをあげた人情というものがとどきません。後日《ごじつ》なにかあったときに、あの子のとりしまりができませんから、どうぞ今晩は、あちらへいらしってくださいまし」
「はいはい、わかったよ……権助や、権助や」
「ギェッ」
「またそんな声をだす。ちょうちんをつけな」
「はははは、消さずに待っていた」
「あれっ、そういうばかなまねをする。なぜそんなむだなことをするのだ」
「なにかむだなことがあったかね?」
「なにがむだかといって、かんがえてみなさい。おまえは、いま、よそへつかいにいってるんじゃあない。うちに帰ってるんだ。うちには、この通り、ちゃんとあかりがついている。あかりのついてるところへ、たとえ十分でも十五分でも、ちょうちんをつけておくというのはむだではないか。ちょうちんがあれば、こっちのあかりはいらない。こっちのあかりがついてれば、ちょうちんはいらない。ひとつでことが足《た》りるものが、ふたつあれば、ひとつはむだだよ。たとえわずかのものでも、商人《あきんど》という者は、むだをはぶかなければいけない。気をつけなさい」
「はい、ええ、ちょっくらお聞き申しやす」
「なんだい?」
「ひとつで足りるものをふたつおけば、ひとつはむだだ。たとえわずかのものでも、商人はむだをはぶかなければならねえというお叱言《こごと》ですがな」
「そうだ」
「それは、その、ちょうちんだけのお叱言でごぜえやすか? それとも、ほかのことにもつけえやすか? 心得のために、ちょっくら聞いておきとうごぜえやす」
「おいおい、ちょうちんはね、早くいえば、わずかのろうそくだから、どうでもいいが、総体のことについていって聞かせるのだ」
「すると、あんたはむだがあるだ」
「なまいきなことをいうな、ばかっ、おれは、きさまなんぞにいわれるようなことはない」
「ある」
「なにがある?」
「なにがあるたって、おかみさんという者は、どこでもひとりでちゃんとことが足りてるもんだ。どうだまいったか。新道の妾だけむだのもんだ。あの、一月の入費で、ろうそくを買ってみろ、どのくらいあるか……」
「おおきにお世話だ」
「お世話でねえ。わがままがすぎる」
「ばかなことをいうな。べらぼうめ……はきものをだせ」
「はきものは、はいてるだ」
「ばかっ、おれのだ」
「ああ、あんたのか。あんたはのぼせてるで、のぼせの者には、はだしがくすりだ」
「あんなことをいやあがる。新道へいくんだ。早くいけいけ」
「はははは、主《しゆ》と病《やま》いにゃあ勝つことができねえ」
「なにをぐずぐずいってる……さあ、きたぞ。起こしな」
「はあ……もし、おやすみでがんすか?」
「はい、どなた?」
「わたしだよ」
「あら、旦那、またいらしったの? まあ、お寒いのに、たびたびごくろうさま、なにかおわすれもの?」
「いや、わすれものじゃあない。うちへ帰ったら、かみさんが、たいへんにおまえをほめた。感心だって……わたしを泊めたいのを、義理を立てて、帰してよこすというのは、じつに感心だ。それを、そうかといって、うちへ寝かすというと、後日、おまえのとりしまりができないから、ぜひいってくれろというから、それで、またきた」
「あらまあ、おかみさんが、そうおっしゃったの?」
「かみさんが、そういったんだ」
「あらまあ、どうもどうもありがたいじゃあございませんか。ねえ旦那、そんなに、おかみさんが、まあ、よくしてくださるのを、たとえなんでも、おかみさんへ対して、こちらへお泊め申すわけにはいきませんから、ぜひお帰りくださいまし」
「よろしい。帰りますよ……権助や、権助」
「おーい」
「ちょうちんをつけろ」
「ちょうちんにゃあおよばねえ」
「どうした?」
「夜があけちまった」
禁酒番屋
むかし、ある藩の家中のかたで、酒の上で刃傷沙汰《にんじようざだ》におよんだという事件がおこりましたので、殿さまから藩中一同の者に対して禁酒の命令がだされました。
おどろいたのは、家中の酒好きの連中で、
「これは近藤氏、いかがなされた?」
「いや、どうもぐあいがわるくてかなわん。酒を飲んではいかんというので、意地がきたなくなって、きのうも、ぼたもちを食べたが、きょうになって、どうも胸が焼けていかん」
「いや、拙者《せつしや》もおなじようなことで……まことに食いすぎたが、気まりがわるくてかなわん」
「おたがいに、ご用が手につくどころではござらんな」
「まことにぼんやりしてこまる」
「ご用のためじゃ。かくれてちょいとやりますか」
「さよう。なにごともお家のためでござる」
勝手なりくつをつけて、ないしょで一ぱいひっかけて御門をくぐる者がでるようになり、そのうちに、べろべろに酔ってくる者もでてくるしまつになりましたので、こんなことが殿さまのお耳へはいってはたいへんだと、上役《うわやく》のかたがたが心配しまして、御門のところへ番屋をこしらえて、酒のとりしまりをするようになりました。
家中の侍たちが、酒気を帯びているかどうかをとりしらべるのはもちろんのこと、出入りの商人たちまでが、持ちこむ品ものをきびしく検査されますので、いつのまにか、だれいうともなく、禁酒番屋という名がつけられました。
「もし、近藤さま、近藤さま、ちょっとお寄りくださいまし」
「うん」
「どうもえらいことになりましたなあ。ご禁酒ということでございまして、あなたさまなどは、人一倍お好きでいらっしゃいますのにおこまりでございましょう?」
「ああ、こまるな。しかし、飲んでおる。好きな酒だ。飲まずにいられるもんか。いや、屋敷で飲むわけにはまいらん。まあ、外へまいって飲む。だが、赤い顔をして小屋へもどるわけにいかんのでな、さめるのを待って帰るようなしだいだ。これでは、なんのために飲むのかわからんなあ。はっはっは……だが、そのほうの店も、とんだとばっちりをくって気の毒であったなあ」
「へえ、もうえらい災難でございます。なにしろ出入りさしとめでございますから……」
「いや、そう心配いたすな。これも長いことではあるまい。いずれ解禁となろう。いや、こまるのは、そのほうの店ばかりではない。身どももこまるでな……ははははは……じつはな、本日も飲もうとおもって小屋をでたのだ。おい、番頭、一升ついでくれ」
「それはこまります。ここでお飲みになったことがお屋敷へ知れますと、てまえどもの店がおしかりをうけますんで……」
「いや、心配いたすな。これからほかへまいって飲みなおすのだ。すぐに屋敷へもどるのでないのじゃから、安心してつげ。その一升桝《いつしようます》へついでもらおう。よいから早くつげ」
一升桝へなみなみとつがれたやつを、きゅーっとあけてしまいました。
「いやあ、いつもながらおみごとでございますな」
「うん、とんと夢中であけてしまった。味もよくわからんくらいじゃった。もう一升ついでみてくれ」
ふたたびもう一升、桝についだやつを息もつかずに飲んでしまいました。
「いや、おかげをもって、いい心持ちになった。これ、番頭、おまえのめいわくにはさせんから、拙者の小屋まで、夕刻までに一升とどけてくれ。なにぶん酒の気がなければ寝られんによってな」
「いえ、せっかくでございますが、あのご門のところに番屋がございまして、あすこでしらべられますので、はいることができません」
「そこが、おまえたちの工夫だ。金銭に糸目はつけんから、なんとか持ってきてくれ。いいか? しかとたのんだぞ」
「いいえ、近藤さま、いくらお金をだしていただきましても……あれっ、いっちまった。こまったな、どうも……」
「ねえ、番頭さん、あんなにお酒がお好きなんですから、なんとか一升とどけてあげたいじゃありませんか」
「そりゃあ、とどけられりゃあ、とどけてあげたいさ。だが、あの番屋というものがあるからなあ」
「ねえ、番頭さん、あすこを通るいい工夫があります」
「いい工夫がある?」
「ええ、横丁の菓子屋へまいりまして、わけをはなして、半てんからなにからそっくり借ります。で、このごろ、カステラてえお菓子がでてます。あの一番大きい折りを買ってきまして、カステラをだしちまって、五合徳利を二本、その折りにつめます。よくふたをして、水ひきをかけて、『近藤さまへカステラのご進物でございます』といって持っていくんです。これなら、かならずご門を通れますよ」
「そううまくいくかな?」
「大丈夫ですよ。番頭さん、うまくやりますからやらしてください」
「ええ、おねがいでございます」
「これっ、いずれへまいるか?」
「近藤さまのお小屋へ通ります」
「なんだ、そのほうは?」
「へえ、むこう横丁の菓子屋でございます。近藤さまへカステラのご進物でございます」
「カステラ? ふーん、ご同役、かわればかわるものでござるな。家中|屈指《くつし》の酒飲みに、カステラの進物とは……ああ、これ菓子屋」
「へえ、通ってもよろしゅうございますか?」
「いや、待て待て。役目によって一応とりしらべる。その折り箱をこれへだせ」
「いえ、これは、ご進物でございますんで、あけられるとこまりますんで……」
「なに? 進物か? それならば、カステラであるから、あらためるにもおよぶまい。よいから持ってまいれ」
「え?」
「よいから持ってまいれ」
「へえ、ありがとうございます。まちがいなくこれはカステラでございます。どっこいしょっ」
「これ、待て、待て、菓子屋」
「へえ?」
「そちは、いま、その折りを持つさいに、どっこいしょと申したな? カステラという菓子は、さほど重いものではないぞ」
「いえ……その……それはでございます……それは、わたくしの口ぐせで……へえ、めしにしようか、どっこいしょ。一ぱいやろうか、どっこいしょ……」
「これこれ、なにをくだらんことを申しておる。早く折りをこれへだせ、これへだせと申すに……うん、これか……なるほど、これは重い。どっこいしょといいたくなるな……ひかえておれ。中身をとりしらべるによって……いいか、ひかえておれ……ただいま、この折りをひらいてみるぞ……おおっ、なんじゃ、この徳利は?」
「へえ……つまりそのう……徳利で……」
「徳利はわかっておる。徳利のなかにはいっているカステラがあるか?」
「いえ、それが、つまり、その……このたび、あたらしくできました水カステラという品で……」
「水カステラ? たわけたことを申すな。一応あらためるによって、しばらくひかえておれ。これ、門番、湯飲みを持ってまいれ。いま中身をとりしらべるのだ。ひかえておれ。たしかに水カステラだな? これなる湯飲みについで……うーん、こりゃなかなかいけるわい……ご同役、いかがでござる? 水カステラをひとつ……」
「ほう、水カステラな……うーん、よい香りじゃ。ひさしくやらんでな。いや、これは恐縮《きようしゆく》千万《せんばん》……うーん、こりゃあうまい。まことに結構な水カステラで……」
「さようでござるか。てまえ、一ぱいでは味がわかり申さん。茶わんがおあきになったら、お貸しくだされ……これ、ひかえておれっ……まだ、おしらべがつかんぞ……いや、ご同役、町人などと申す者は、まことにおろかでござるな。かようなつくりごとをいたして、われわれの目をごまかそうなどとは、いやはや、まことに笑止千万、はっはっは……これっ、町人、けしからんやつだ。かような結構なカステラ……いや、かようなカステラがあるか! あの、ここな、いつわり者めがっ! 立ち帰れ!」
「へえっ」
「どうしたい?」
「いってきました」
「いったのはわかってる。いったから帰ってきたんだろ? どうだった、首尾《しゆび》は?」
「へえ、たいへんうまく、とんとんといったんですが、あたしが、うっかり『どっこいしょっ』と、口をすべらしたもんで、つつみをひったくられちまって……」
「え? 『どっこいしょ』だって? カステラを、どっこいしょは、まずかったな」
「ええ……それで、しらべられて徳利がでてきちまって……」
「おや? しょうがねえなあ。どうしたい?」
「なんだと聞かれましたから、水カステラだって……」
「え? 水カステラ?」
「すっかりばれちまいまして、がぶがぶ飲まれて、『かようなカステラがあるかっ、あの、ここないつわり者めっ』ってんで、さよなら……」
「だから、およしといったんじゃないか。いつわり者といわれて、おまけに一升飲まれちまったなんて……くやしいねえ」
「番頭さん、じゃあ、こんどは、あたしが、まちがいなくおとどけを……」
「およしよ。じょうだんじゃない。しらべられりゃあ、すぐにわかっちまうんだから……」
「いいえ、こりゃあ、なまじっかかくすからいけないんです。あたしは、折りなんかにいれないで、徳利のまんま、ぶらさげていきます」
「おいおい、それじゃあ、わざわざ一升飲まれにいくようなもんじゃあないか」
「いえ、かくすから、かえっていけないんですよ。いえ、あたしは、油屋になっていきますから……これを油徳利にしましてね、油でございますって持っていきます……いいえ、大丈夫ですから、やらしてください」
なんてんで、一升徳利へ酒をつめて、外側には油を塗って、油の栓をして、油のひもで徳利の首のところをゆわえてでかけました。
「へえ、おねがいでございます」
「いずれへまいるか?」
「近藤さまのお小屋へ通ります」
「なに? 近藤氏のお小屋? なんじゃ、そのほうは?」
「へい、むこう横丁の油屋でございます。近藤さまから油のご注文で……」
「油の注文? ……うん、近藤氏なれば、ぜひともあらためねばならん。徳利をだせ」
「これは油徳利で……」
「いいから、これへだしてみろ」
「え?」
「これへだせと申すのだ」
「ですから、これ、あの……油徳利で……」
「いや、油徳利はわかっておる。手落ちなきよう、役目をもって一応あらためる。さあ、だせ。ださんか!」
「へえ、さようで……それじゃあ、しかたがございません。ひとつおしらべを……」
「これっ、だすならだすで、しぶしぶだすでない。ただいま中身をとりしらべる。よいか。ひかえておれ……いや、ご同役、油だそうでござる……とにかくこの茶わんについでみて……こりゃいかん。徳利も、ひもも、栓も、油だらけで、にちゃにちゃしていかんな。これ、ひかえておれ……こうして、茶わんについで……ただいまとりしらべるぞ……うん、うん……こらっ、かような油があるか! あの、ここないつわり者めが! 棒しばりにいたしてくれるぞ!」
「ごめんなさい!」
「おいおい、どうしたんだ? まっ青な顔でとびあがってきたが……」
「ただいま帰りました」
「どうしたんだい? うまくいったのかい?」
「それがその……ここないつわり者めってんで……」
「なあーんだい、おまえも、いつわり者をくったのかい。で、一升飲まれちまったんだな」
「おかげさまで……」
「おかげさまって、よろこんでちゃあこまるな。だから、およしなさいっていったろ? ……とうとう二升飲まれちゃったじゃないか」
「ええ、番頭さん、こんどは、あたしをやってください」
「およし、およし。盗っとに追《お》い銭《せん》てなあこのことだ。おまえがいってごらん、三升だよ」
「だってくやしいじゃありませんか。いつわり者なんていわれて飲まれちまって……あたしゃあ、仇討ちがしたいんですから、やってください」
「およしよ。おまえで三升だよ」
「いいえ、あたしは、酒なんぞ持っていかないんですから……」
「酒を持っていかない? じゃあ、なにを持っていくんだい?」
「えへへへへ……小便」
「なに?」
「小便ですよ、小便……」
「おいおい、ばかなまねをするんじゃあないよ。小便なんぞ……」
「いいんですよ。仇討ちなんですから……小便を小便ですといって持っていくんですから、こんどは、ここないつわり者めはありません」
「およしよ、わるいことはいわないから、よしなさい、そんなことは……」
「いいえ、仇を討たなきゃあ、くやしくって寝られやしませんから……」
若い連中も腹立ちまぎれでございますから、寄ってたかって一升徳利へ小便をしこんで、これに栓をしてぶらさげますと、
「おねがいでございます」
「なに? ……ふーん、通れっ、いずれへまいるか?」
「だいぶいいごきげんでございますね」
「なに? よけいなことを申すな。いずれへまいるのだ?」
「あのう、近藤さまのお小屋へ通ります」
「なに? 近藤氏のお小屋へ? ……ご同役、またまいりましたぞ。よくまいるな。性《しよう》こりもなく……なんだ、そのほうは?」
「へい、てまえは、むこう横丁の……そのう……」
「むこう横丁のなんだ?」
「あの……しょ……しょ……小便屋です」
「なんだと?」
「小便屋です」
「小便屋? 聞いたことがござらんな。ご同役、小便屋というような名は……なんだ、そのほうのさげとるものは?」
「えっ、これは、あのう……小便のご注文で……」
「ばかっ、小便などを注文していかがいたす?」
「なんだかわかりませんが、松の肥料《こやし》にするとか……」
「こちらへだせ」
「へっへっ、さようでございますか。ありがとうございます。えへへへ、じゃあ、手落ちのないように、どうぞごゆっくりおあらためを……」
「よけいなことを申すな。ご同役、じつにどうもけしからんもんですな。まずはじめに、カステラといつわり、つぎには油といつわり、またまた小便といつわるとは、じつに言語道断《ごんごどうだん》でござる……これ、ひかえとれ。ただいま中身をとりしらべる。どうもけしからんやつだ……よいか、ひかえとれ。ただいま、こうして栓をとって……小便などと……さようなばかなことを申して……うん、こりゃああったかいぞ……ご同役、こんどは、どうやら燗《かん》をして持ってまいったようだ……だいぶあたたかいようでござる。ちょうど人肌《ひとはだ》というようなぐあいで……いや、燗でよし、冷やでよし……これ、ひかえとれっ、ただいまとりしらべる……けしからんやつだ。たびたび結構な……いや、不埒《ふらち》なものを持参いたし……ひかえとれっ……ご同役、毎度おさきでおそれいるが、てまえが、また、おさきにご無礼を……これ、ただいま、とりしらべるぞ……このいつわり者めが……小便屋などとばかなことを申しおって……拙者が、この湯飲みへこうしてついで……うーん、だいぶ泡立っておる……これは、酒の性《しよう》がよろしくないな。それとも、燗のつけすぎであるかな? ……はっはっは……ひかえとれっ、このいつわり者めが……ただいま、身どもがとりしらべ……うーん、このにおいは? やや、やはり小便!! ……けしからん、かようなものを持参いたし……」
「でございますから、はじめから小便だとおことわり申しました」
「そりゃあわかっとる。あの、ここな……うーん……正直者めが!!」
坊主のあそび
人間は、いくつになりましても、色気というものは、かならずなくなるものではございません。息の通《かよ》ってるあいだは、みな、色気と欲はついてまわるものにちがいございません。
ずいぶんお年を召《め》して、ご子息に世をゆずり、楽隠居というので、おつむりをまるめて、うわべからみると、たいそうおかたくみえて、そのじつ、浮かれていらっしゃるかたがございます。うわべがかたくって、しんがやわらかい。古くなった食パンみたいなかたがあるものでございます。
「おや、どうしたい? 床屋の親方」
「おや、ご隠居さん、どちらへ?」
「きょうは、お天気はよし、家にばかりいても、からだのためによくないから、ぶらぶら運動にでかけた」
「そうでございますか」
「おまえさんは、どこへおいでだ?」
「へえ、きのう、ばかに店がこみまして、きょうは、すこしひまでございますから、ちょっとそこまで……」
「ああ、そうかい。ときに、親方、おまえに、このあいだ、たのんでおいたかみそりはどうしたい?」
「ええ、ちょうどいいのがありました。これなら、おしろうとにも、ちょっとつかえようとおもいます」
「どれ、おみせ」
「これでございます」
「なるほど、これは、たいそうぐあいがよさそうだ。なるほど……」
「もし、ご隠居さん、往来へ立ってて、ひげをそっちゃあいけません」
「ちょっと切れ味をみなければわからんから……うん、なるほど、これは、つかいいい。いくらだったい?」
「へえ、このあいだおあずかりをしたんで、おつりになるくらいで……」
「そうかい。なあに、つりはいらない。いや、おおきにお世話さま。どうも店へいって、親方にあたまをやってもらう前に、わしは、若い時分から、一日おきぐらいに、このひげを、ざっとなでていかないと、まことに気色《きしよく》のわるいたちで……」
「だから、ごきれいですなあ。ご隠居さんは、お年はとってても、いつもきれいだって、みんなうわさをいたしております」
「いや、なに、年をとると、きれいにしても、自然にじじいくさくなるものだから、わしなども、なるたけきれいごとにしているのさ」
「ごもっともでございます。ついては、ご隠居さん、往来で妙なことをおはなしするようですが、あなた、なんですな、ちょいちょい吉原《なか》へおくりこみだそうで……なに、おかくしになってもいけません。タネがあがっています」
「おやおや、だれが、そんなことをいいました?」
「店へくるお客で、こないだ、あそびにいくと、京町《きようまち》のところで、ご隠居さんをおみかけ申したそうで、京町の電気が、柱の上で光ってるのに、柱の下でもぴかぴか光ってるんで、どうも変だとおもってみたら、ご隠居さんのあたまだって……」
「じょうだんじゃあない。おまえのところは、ひと出入りも多いし、若い者が、ちょいちょいひげをそりにいったり、髪を刈りにいったりしなさるから、それで、そんなことをいうんだろうが、まあ、親方、おまえだから、はなしをするがね、人間というものは、金をためるのは結構だ。結構だけれども、むりにためてもいけないものだ。かせぐだけかせいで、つかうだけつかって、それでのこったのでなければ、ほんとうにのこったのではない」
「ごもっともでございます」
「わたしなどは、若い時分には、ずいぶんこれで道楽もし、いろんなことをして、それでも、まあ、いくらか金ができた。ところが、わたしには似ず、せがれが、ばかに堅物《かたぶつ》で、いっしょうけんめいにかせいでくれる。ばあさんには早く死なれてしまって、妾《めかけ》をおけばいいようなものだが、そんなことをした日には、せがれや嫁の手前もあるしするから、じつは、その、ひとのように妾なんぞおかずに、たまに吉原《なか》へくりこんで、気をやしなうというようなことでな」
「ごもっともでございます。あなたは、お気がお若いから、やっぱりおつむりにしてもきれいになさるようなもので、わたしなども、こうみえても、ずいぶん若えときには、ばかをして、職人をして、手間《てま》(手間賃)をとってる時分は、親方のところへ付馬《うま》(遊廓の借金とり)をひいてったりなんかして、いろんなことをしましたが、いまじゃあ、まあ、あんな店でも持って、親方とかなんとかいわれてれば、まさか、ばかもできませんで、職人の前もあり、弟子の前もあるもんだから、まあ、かたくしていますが、しかし、ご隠居さんの前ですが、世のなかに、あそびぐらいおもしろいものはございませんね」
「じゃあ、やっぱり親方もきらいじゃないかい?」
「大好きでござんすが、そういうわけで、このごろは、かたくなって、吉原のほうへもあまりいきません。どうでげす? いい折りですから、ご隠居さん、今夜、どうせ運動におでかけになりゃあ、まじめにおうちへお帰りじゃあありますまい? 吉原《なか》へいらっしゃるなら、お供《とも》をしようじゃあありませんか」
「そうさな、いってもいいな。親方、店の都合《つごう》はいいかい?」
「ええ、きょうは、ひまでございますから、ぜひひとつおつれなすって……」
「じゃあ、でかけようか」
のんきな隠居さんもあるもので、往来で、床屋の親方と相談ができて、どこかへいって、ちょいと一ぱいやってからでかけようと、公園あたりをぶらぶらしながら、ちょっとした小料理屋へはいって、夕刻《ゆうこく》になるのを待ちながら飲んでいるうちに、ようやく日ともしごろになってまいりました。
「ああ、いい心持ちになった。親方、どうだい?」
「もう、わたしもばかにいい心持ちになっちまいました。いろいろごちそうさま……」
「さっきからみるところが、おまえは、あまり酒のたちがよくないようだな」
「なに、わたしの酒は、猫みたような酒で……」
「そうでない。顔にでないで、だんだん青くなって、目がすわるところをみると、あまりいい酒とはおもわれない」
「なあに、そんなことはありません。ああ、ばかにいい心持ちになった。これからさきは、すこし飲めば、ただ、ひとのいうことがしゃくにさわるだけで、そばにあるものをたたきつけて、ちょっと、まあ、あばれるくらいなんで……」
「それがよくない。そんなばかなまねをされてはこまるよ。わたしも、かくれて、まあ、たまに浩然《こうぜん》の気をやしなうためにあそびにいくんだから、むこうへいって、おまえ、女郎屋で、まちがいでもあるようなことではこまるから……」
「大丈夫でございます。そんなことは、ご隠居さん、ご心配なさらねえでも、けっしてまちげえなんざあしませんから……」
「なるたけまあ、おだやかにやってくれないじゃあこまる。あそびにいっても、ごたごたするようなことではなんにもならないから……」
「ようございます。ときになんでげすか、おなじみはありますか?」
「わたしは、なじみはない」
「だって、ちょいちょいおいでなすって、なじみのないというなあおかしい」
「それがさ、年をとって、なじんでいけば、よけいに銭もいれば、たまには、無心《むしん》のひとつもいわれるというものだから、なるたけ初会か再会《うら》ぐらいにして、あれだけある女郎屋だから、どこへでも、ちょいちょい見世《みせ》を変えてあそびにいくほうがおもしろい」
「へーえ、なるほど、やっぱりあなたは商人《あきんど》ですねえ。ちょっとあそびをすればといって、そろばんをとってかかるんだから……もっとも、年をとっていけば、いくらかいやがられ賃をださなけりゃあ、むこうでいい心持ちにあそばしてくれないからね。勘定高くって助平《すけべい》なんだから手がつけられねえ」
「親方、いやなことをいうねえ」
「こんなじょうだんのひとつぐらいいわなくっちゃあ、酒もうまかあねえ」
「まあまあ、なんでもいいからでかけよう」
ふたりとも、風に吹かれて、いい心持ちになって吉原《なか》へくりこみます。
「親方、どこにしような?」
「どこでもようごぜえます」
「どこでもいいったって、なるたけよさそうなところへ……」
「どうですい、このごろの見世のていさいは? いやだ、いやだ、くさくさしてしまう。なにがって、ごらんなさい。金光《きんぴか》に彫《ほ》りがしてある。まるで仏壇《ぶつだん》みたようだ。お寺さまへいったような気がする。ここへ登楼《あが》ろうじゃあありませんか。見世がお寺さまみたようで、坊主あたまがあそぶんだから、まんざら因縁のねえこともなかろう」
「つまらないことをいいなさんな」
「いらっしゃい、ええ、お手軽《てがる》さまにいかがさまで?」
「おい、若え衆、お手軽さまでも、お手重《ておも》さまでも、そんなこたあかまわねえ。おめえんとこには、おつな女がいるな」
「へえ、玉《たま》ぞろいでございます」
「ほめりゃあ図に乗って、玉ぞろいだってやがる。玉だって、いい玉ばかりゃああるめえ、なかには、ひびのはいったのもあるだろう?」
「ごじょうだんさまで……ともかく、おあがりをねがいます」
「おう、ご隠居さん」
「なんだ?」
「こうならんでるなかで、どのしろものがようがすね?」
「そうさな。おれのみたとこじゃあ、上《かみ》を張ってる(むかって一番右にいる)のが一番いいな」
「へーえ、わたしも、じつは、あれへ目をつけたんで……」
「ふたりで、ひとりの女に目をつけてもしようがないな」
「じゃあ、こうしましょう。わたしは、あのつぎのでがまんしましょう……若え衆さん」
「へえ」
「あの上を張ってるおいらんは、なんというんだ?」
「ええ、上のおいらんは、籬《ませがき》さんとおっしゃいます」
「いよいよお寺だ。客が坊主で、女が籬とは、うめえ名をつけたもんだ。そのつぎは?」
「おつぎは、溝萩《みぞはぎ》さんとおっしゃいます」
「いやだぜ。じょうだんじゃあねえ。盆みたようだな、おめえんとこは……むこうが籬、そのつぎが溝萩、こっちは、蓮《はす》の飲《い》さんだろう?」
「おそれいります。どうぞおあがりを……へえ、ありがとうございます……ええ、おあがりだよ」
トントントン、広い階子《はしご》をあがって、ひきつけへ通るまでが身上《しんしよう》だそうで……
「こちらへ……」
というので、ひきつけの座敷へはいります。
籬さんに溝萩さんのふたり、ドッタン、バッタン、ドッタンバッタン、上ぞうりの音をひびかせながらあがってまいります。さいわいお座敷もあいてるので、初会から、ぽんと籬さんのお座敷へはいります。
「食いものをどんどん持ってきねえ」
と、いろいろなものをとりよせて、ゆきわたるものはゆきわたってしまい、ちょっと器用なあそびをしているうちに、床屋の親方は、あまり酒ぐせのよくないひとでございますから、下地《したじ》のあるところへまたつぎこんで、十分に酔ったのでたまりません。むこうで、女郎が、ないしょばなしなんぞしているのをみますと、
「おう、おいらん、たいそうはなしがもてるな。ええ、なんだ、初会だって? おもしろくもねえ。そばへきて、酌のひとつぐれえしてもよかろう?」
「親方、まあ、いいや、いいや。初会や再会《うら》じゃあ、気心《きごころ》が知れないからしかたがない」
「隠居さん、いやにひいきをしなさんな。おもしろくもねえ」
「お酌をしてもいいんですか?」
「べらんめえ。酌をしてわりいやつがあるか! 相方《あいかた》に買われたからにゃあ、酌のひとつぐれえするなああたりめえだ。笑かしゃあがらあ。おもしろくもねえ。さっきからみていりゃあ、おつうおかしくすましてやがる。おいらんとかなんとかいやあ、いい気になりゃあがって……てめえたちは、おいらんなんてえつらじゃあねえ。おしろいをぬって、赤え裲襠《しかけ》を着て、あたまへ赤熊《しやぐま》の髷《まげ》をのっけて、どうやらかたちが、おいらんみたようだというんで、しゃれにおいらんといってやるんだ。あたりめえの扮装《なり》をしてりゃあ、化けものとまちげえられらあ。工場《こうば》の退場《ひけ》を打つと、ぞろぞろでてくる女工のうちにも、てめえたちみたようなくずはねえや」
「まあまあ、親方、そんなにいわないで、かんべんしておやり」
「かんべんしろだって? 隠居さん、いやに女のひいきをするじゃあねえか。こっちゃあ、あたりめえのことをいうんだ」
「それが、おまえ、酒がわるいんだ」
「なにが酒がわるい? ごちそうするならするように、こころよくごちそうしねえ。なんでえ、うまくもねえ酒を飲ませやがって、正宗だ、正宗だといやあがって、鞘《さや》ばかり正宗でも、中身は村雨《むらさめ》だ。むらむらと酔ったとおもうと、すーっとさめちまう、こんないかさまの酒を持ってこねえで、正真正銘《しようしんしようめい》の酒を持ってこい。さしみだっておもしろくもねえ。つまばかりごてごてあって、なんだ、幾切《いくき》れあるとおもう!」
「まあまあ、みっともない。女郎屋のものは、高いにきまってる」
「高いにもほどがあらあ。なにをいやあがるんだ、禿《はげ》あたま!」
「ばかばかしいな、親方、ごちそう酒にくらい酔って、ぶーぶーをいうのは、あんまりりっぱじゃあない。わたしは、おまえの守《も》りをしにきたんじゃないよ。これじゃあ、あそびにきてもたのしみにならない」
「隠居さん、おつういいなさるね。ええ、おもしろくもねえ。あたまがまるくって、心が四角張ってりゃあ世話あねえ。上がまるくって、下が四角なら、い組の纏《まとい》だ。なにをいやあがる。でこぼこめ」
「なにがでこぼこだ。いいかげんにしろ!」
「あたりめえよ。でこぼこだから、でこぼこだというのにふしぎはねえや。おもしろくもねえ。くそでも食らやあがれ!」
「親方、いいかげんにしなさい。ええ、だまってりゃあいい気になって、すきなことをいってる」
「すきなことをいったのがどうした?」
「それだから、おまえは、酒がわるい」
「よく酒がわりい、酒がわりいというな。わりいとこまで酒を飲ませたか? なにをいやあがる。さあ、こんなところにゃあいられねえから、おれは、ほかへいく」
「ああ、いけいけ。おれも、てめえみたような酔っぱらいのそばにつきあっちゃあいられねえ」
「こっちもいられねえや。もうろくじじいめ、なにをぬかしゃあがる。くそでも食らやがれ」
「親方、なんですねえ。そんなことをいって……まあ、お坐んなさいよ」
「なにをぬかしゃあがる。この遣り手ばばあめ! てめえたちにとめられたって、とまるようなお兄いさんじゃあねえや」
「おいおい、おばさん、うっちゃっておきな。酒のわるいやつだから、かまいなさんな」
床屋の親方は、隠居に喧嘩《けんか》をふっかけて、遣《や》り手《て》のおばさん、おいらんにまであたりちらして手がつけられません。あげくの果てに、そのままとびだしてしまいました。
「ええ、おつれさんがお帰りになりましたが……」
「かまわない、かまわない。あんな者に、いつまでもいられてたまるものか。ああ、大風の吹いたあとみたようだ」
もう、こっちも、なんだか座敷が白《しら》けておもしろくありませんから、いいかげんのところで切りあげて、おひけにしようというんで、座敷がかたづきます。寝まきに着かえて、隠居さんが横になったとたんに、
「籬さーん」
と呼ばれて、おいらんは、
「はーい」
とでていったきり……酒のきげんでぐっすり眠って、夜なかに襟《えり》もとへつめたい風がはいったので目をさまし、
「ああ、つまらない、つまらない。ばかげた目にあうもんだ、ごちそうをしてやって、さんざん喧嘩を吹っかけられたあとで、ひとりこんなつめたいところへはいって寝ている。これも心がら、ずいぶんあそびというものはおかしいことがあるもんだが、今夜ぐらい不愉快な晩はない。何時だろうな? ……そうかといって、まさか夜なかにとびだして、年甲斐《としがい》もなく、ほかへいってあそびなおしもできない」
と、一服吸いながら、もじもじしているところへ、ドタンバタン、ドタンバタン、おそろしい音をさせて廊下をあるいてきて、いきなりガラリ障子をあけて、おいらんが、とびこんできたかとおもうと、隠居の寝ているそばへばたりとぶったおれました。
「おや、おいらんかい、おそろしく酔ってるねえ」
「ほんとうにしつっこいったらありゃあしない。飲めないてえのに、むりに飲まして、こんな苦しいこたあありゃあしない。旦那、後生だから、すこし寝かしてちょうだいよ」
「ああ、寝なさいとも、寝なさいとも……しかし、おいらん」
「眠いから、しゃべらずに寝かしてください。うるさいよ。としよりのくせに、おしゃべりだねえ」
「おやおや、今夜ぐらいおそろしく酒のわるいやつに出逢ったことがない。ばかげたことがあるもんだ。ねえ、おいらん」
「うるさいよ、ほんとうに……だまってお寝なさいよ。いやな坊さんだよ」
「おやおや、いいつらの皮だ。いやな坊さんまで聞きゃあ世話あない」
むこうむきになったかとおもうと、おいらんは、ぐーぐーと大いびき。鼻からちょうちんをだして寝てしまいました。
「ばかにしていやがる。おもしろくもねえ、お客と心得てるのか、なんだとおもってやがるんだ。いめえましい。こんなやつは、なにかわるいいたずらをしてやりたいもんだ、目がさめて、胆《きも》をつぶすようないたずらをしてやろう。なにかないかな? 顔へ墨をつけたところで、洗えば落っちまうから、洗っても落ちねえような工夫《くふう》はないかな? ……ああ、ある、ある。さっき、あいつからうけとったかみそりがある。これで、この女の眉毛《まゆげ》を片っぽう落としてやろう」
隠居さん、かみそりをとりだして、さいわい、それに茶わんがあったから、ぬるま湯を汲んで眉毛へつけると、黒い水が流れます。
「ああ、眉毛がうすいんで、ひき眉毛をしていやがる……なるほど、このかみそりは、よく切れる」
調子に乗って、片っぽうそり落としてしまいました。
「ああ、おもしろい顔になった。しかし、片っぽうではつまらない。今夜、新造《しんぞ》(若い女郎)でいたやつが、あくる朝、年増《としま》になってるってえのはおもしろい。両方とも落してやろう。なるほど、眉毛を落したら、おそろしく額《ひたい》のの広い顔だ。したい(下谷)広小路づらだ。全体、このもみあげが長すぎる。すこしなおしてやろう」
ひょいとやると、なかへそりこんでしまった。
「さあ、たいへんだ。方っぽう鬢《びん》を落としちまった。よく切れるなあ、このかみそりは……どうも片っぽうばかりじゃあおもしろくない。もう片っぽうやって、いっそのこと坊主にしてしまおう」
調子に乗って、ゾリゾリそってしまうのを、おいらんが、また、寝坊ですから、いい心持ちにぐーぐー寝ております。とうとうきれいにそりあげて、
「ああ、これでさばさばした。すっかり坊主になっちまった。この女とおれとここに寝ていると、玉突きの台みたようだ……しかし、調子に乗って、こんなことをしてしまったが、みつかった日にゃあたいへんだ。この女を身うけしてくれとか、さもなければ、あたまの毛ののびるまで玉《ぎよく》(遊女の揚げ代)をつけてくれとでもいわれた日にゃあ、つまらない散財をしなければならない。さっき、あいつが酔っぱらってたから、町所《ちようどころ》やなにかはっきりしたことを付けなかったのがさいわいだ。この女の寝ているあいだに逃げだそう」
と、ひどい隠居があればあるもので、着物を着かえて、かみそりをふところへいれ、そっと障子をあけて、遣り手部屋のほうをみると、時刻がすぎてますから、おばさんも居眠りをしております。これさいわいと、ぬき足をして、そっと降《お》りてこようとおもうと、そこは商売、
「おや、お帰りでございますか?」
「ああ、急に用をおもいだして、帰らなければならない」
「おや、そうでございますか。お相方《あいかた》はどなたで? 籬さんのお客さんですか?」
「いいよ、いいよ。おこさないでもいい。せっかくよく寝ているから……」
「そうでございません。あのおいらんは寝坊でございますから、いつでもお客さまのお帰りを送りだしたことがございません。それですから、ほんとうに再会《うら》がかえりません、ちょっと、おいらん」
「いいよ、呼ばないでもいいってことさ」
呼びおこされてはたいへんですから、あわてて階子《はしご》をころげるように降りてくると、若い衆が面食《めんくら》って、
「おや、お帰りさまで? おいらんは、どなた? ……籬さんで? ちょっとお待ちくださいまし。ただいま呼びます」
「呼ばないでもいい。はきものをだしておくれ」
「へえ、ただいま……」
「いいじゃないか。勘定は、ゆうべ払ったし……」
「へえ、いただきました」
「それなら、とめるところはなかろう。急に用があって帰るんだ。はきものをだしなさい。ださなければ、おれがだす」
「さようでございますか。へえ、どうもあいすみません。ありがとう存じます。どうぞ、また、お近いうちに、さようなら……ほんとうにしょうがねえなあ。世のなかに、あんな寝坊なおいらんがあるもんじゃあねえ。おばさん」
「はい」
「おいらんをおこしておくんなさい」
「いま、おこしてるの。ちょっと、籬さんえ、籬さん……」
二、三度どなられましたから、いくら寝ていても、おばさんの声に気がついたとみえて、
「はい」
「はいじゃあありませんよ。ちょいと、お客さんがお帰んなさるんだよ」
「あら、おばさん、どのお客さま?」
「どのお客さまでもいいから、さっさと起きなさいよ。坊さんのお客さんなんだよ」
「そう……いま、いきますよ」
「さっさとおいでなさい」
わいわいいってるうちに、隠居は帰ってしまいました。
「はい、いま、いきます」
おいらんが、にゅーっと立ちあがって、赤い唐縮緬《とうちりめん》の長襦袢に、浅黄《あさぎ》の唐縮緬のしごきをしめ、坊主すがたで立ちあがったかたちというものは、ふた目と拝めたものではありません。まるで、ほうずきの化けもののようで……
「いま、いきますよ」
と、障子をガラリとあけて、にゅーっとでようとするはずみに、ぞうりの上にのっかってすべったからたまりません。廊下へドシンと尻《しり》もちをつくとたんに、障子へあたまをドシーン……
「おおいたいこと、まあ、いやってえほどあたまをぶったわ」
と、あたまをずーっとなでて、
「あらいやだ。おばさん、お客さまは、ここにいまさあね。じゃあ、わたしゃあ、どこにいるんだろう?」
本 膳
「いやあ、みんなこっちへ寄ってくらっせえ。さて、ほかのことでもねえけんど、えれえことになっちまっただ。みなもはあ、今晩、庄屋さまがとけへ呼ばれたんべえ。おら、はあ、わきから聞いたところがの、本膳の振舞《ふるめ》えだちゅうこんだ。おらが、まだ生まれてから、本膳ちゅうものさ、でっくわしたことがねえでの、それではあ、みなに寄ってもらっただけんど、あつまったなかに、本膳を心得てるものがあるか? どうだ?」
「それ、弱ったなあ。おらがも、まだでっくわしたことねえだよ」
「太郎作、どうだ?」
「おらも知んねえな」
「つぎもおなじくか?」
「その通りだ」
「おらも知んねえ」
「あに? みんな知んねえと? それ、まあ、でけえさわぎだぞ。まさかにゃ、食いかた知んねえために夜逃げぶつわけにもいくめえ。といって、病気になるわけにもいかず、どうしたらよかんべえ?」
「源右衛門どん、おらが、ちょっくらかんげえあるんだけんどな、ほかでもねえが、村はずれの手習《てなれ》えの師匠さまだ。あれは、もとおさむれえさまだ。人間のかしらへ立つひとだあから、本膳の食いかたぐれえ心得てるだんべえとおもうだけんど、これからいって、稽古《けいこ》のうぶってもろたら、事早《ことはや》かんべえとおもうだが、どうだな?」
「それよかんべえ。先生さまに気いつかなかった。どうだ、早えほうがいいだからな、みな、野良《のら》の都合《つごう》よければ、すぐに先生さまおねげえ申して、稽古のうぶってもらうべえ」
「ごめんなせえ。ひゃあ、こんにちは、結構なお天気さまで……」
「おお、これは村の衆、たいそうおそろいで、さあ、どうぞこちらへ……」
「先生さま、まことにはあ、ごぶさたのうしやして、申しわけもござりやせんで……さて、ほかのことでもねえけんど、今晩、庄屋さまに祝いごとありやして、みなよばれたでがす。ところがの、こんばんは、本膳の振舞えだちゅうわけで、おはずかしいこんだが、村内《むらねえ》一同、本膳にでっくわしたことがねえで、先生さまへおねげえ申して、稽古のうぶってもらったらば事早かんべえと、こうはあ、相談一決いたしやして、でかけてめいりやしたで、どうぞはあ、お稽古のおねげえ申してえで……」
「はあはあ、さようか。いや、なんの造作《ぞうさ》もないことではあるが、いちいちお教え申したところで、今晩のことを、いますぐといっては、ことが早急《さつきゆう》のみならず、ひとりがおぼえても、ほかのかたがおぼえなければなんにもならんで、これはこうなされ。さいわい拙者《せつしや》もまねかれているで、ごいっしょにまいろう。で、かまわず、拙者のする通り、なんでもむやみにまねをなさい。なに、今晩一夜のこと、かくべつのご心配にもおよぶまい。拙者がかたわらにおれば、決して恥をかくようなことはおさせ申さんから……」
「はいはい、どうもはあ、ありがてえことで……じつに、はあ、どうすべえとえらく心配のぶっておりやしたが、おかげさまで大安心でがす……みなもよくお礼申せよ。どうぞはあ、よろしくおねげえ申しやすで……」
「それでは、時刻は夕景《ゆうけい》よりとしてはあるが、あまり早すぎてもいかん。といって、おそいのはなお無礼で、灯ともしごろを合図《あいず》に拙宅へおあつまりくださるように……」
と、約束をいたし、一同打ちそろって先方へまいりましたが、先生は、ものなれておりますから、すこしもおどろきません。床の間をうしろにぴたりと坐りましたが、順につぎに坐った連中は、あまりこういうきまった席へでることがありませんで、どういうぐあいにするのかと、一同、いっしょうけんめい先生のほうへ気をつけておりますと、やがて、先生がうやうやしく一礼をいたしましたので、
「それそれ、礼式はじまったぞ。おじぎぶつだ。頭《どたま》さげろ……もうあげろ、あげろ。それ、手え膝の上へ置くだぞ……それ、膳でるぞ、膳でるぞ……これこれ、むやみに箸《はし》とってはだめだぞ。先生さまのほうへ気いつけていねえか。がつがつするなっちゅうに、このばか野郎……それ、吸《す》いものわんのふたとるだ。とったれば、こけへ置くだ。それ、こんどは、平《ひら》わんのふたとるだ。とったれば、かさねるだ。かさねるだよ……それ、箸とったぞ。吸《す》いものわんに手がかかった……吸うだよ、吸うだよ。一吸い吸ったれば置くだぞ……だれだ、この最中《さなか》に二吸い吸うなっちゅうに、ばか野郎……それ、こんど平わんに手がかかった……」
先生が、お平のおいもを、箸にはさんで口まで持ってこようとするとたんに、箸がすべって、おいもが膳の上へころがりました。はっとおもったが、こういうときには、はさむよりも突いたほうが早かろうという気転《きてん》のつもりで、おいもをねらって、ずぶりとやろうとすると、また、つるりと逃げた。しかたがないから、こうなると、先生、お膳じゅうおいもを追っかけはじめました。
「それ、また礼式はじまったぞ。膳の上へいもをころがしだすだ。礼式なんて妙なもんだなあ……あれまあ、先生さまに負けずに突っつけ、、突っつけ、いもを突っつくだ」
一同、まじめにお膳の上でおいもをころがしておりますので、先生、気が気ではありません。目顔《めがお》で知らせれば、きっとその通りまねをするだろう。なにをしてもまねをされるだろう。いっそごはんを食べて逃げだそうと、親わんへ手がかかりましたが、わるいときにはわるいもので、鼻のあたまへ、ごはんつぶが三つつきました。
「それ、また礼式がはじまった。鼻のあたまへ、おまんまつぶ三つぶずつつけるだあ。礼式なんてまあ、いよいよ妙なもんだぞ」
きちょうめんに三つぶずつそろえて、鼻のあたまへめしつぶをつけましたので、先生、いても立ってもいられません。まねもいいかげんにしろというつもりで、肘《ひじ》でとなりの年寄りの横っ腹を突きました。
「あいててて、ああいてえ。こんどの礼式はいてえぞ。うん、それいくぞ」
「ああいてえ。じいさま、いてえでねえだか……ああ、これも礼式かね? いてえ礼式だね、気が遠くなるで……杢十《もくじゆう》、それ、いくぞ!」
「ああ、いてえ、いてえ。あにするだ?」
「礼式だから、しかたねえ」
「礼式かね? そら、礼式だ、甚次郎兵衛、いくぞ!」
「ああ、いてえ……ええ、礼式か? こんど、つぎへやるか? それっ」
「ああ、いてえ、いてえ」
順に突いてまいりましたが、一番末席に坐った男が、こんどは、おれの番だ、おもいっきりひどく突いてやろうと、ひょいとわきをみると、だれもおりませんから、
「先生さま、この肘は、どこへやるだね?」
水屋の富
水屋という商売は、ただいまではございませんが、江戸時代には、本所、深川あたりへまいりますと、飲用水といったら、ほんのわずかの掘り井戸がございまして、あの水がいいなどと申しましても、さし水をいたし、こんにちのように衛生を重んじましたら、とても飲めるわけのものではございません。
この時代には、また、水屋というものがございまして、多摩川上流などへいって、船へ水を汲みこみますと、この船が河岸へついて、それを桶でかついでまわって売ってあるくという商売でございました。
水をあつかうのでございますから、夏はよろしゅうございますが、寒さにむかうと、このくらい骨の折れる稼業はございません。手足は、始終ぬれ、ひび、あかぎれが切れ、じつに難儀でございます。
本所に住居する水屋さん、年の暮れになって、つくづくとかんがえました。ほかの商売はやすみがあるが、この稼業ばかりは、年じゅうやすみなしのかわりには、朝から晩まで、天びんを肩にかついで、手足をぬらして駈けあるいてるという、ずいぶんつらい稼業だ。一日やすむには、だれかにかわりをたのむ。そのかわりの者が親切ならいいが、不実な者だと、自分の得意《とくい》客にしてしまう。なかまに客をとられるのはいやだから、すこしぐらいからだがわるくっても、がまんをしてでなければならない。もう年もとるし、どうか早くやめたいとおもうところから、ちょっと欲がでて、富の札を一枚買いました。
その富の当日には、ぜひともやすまなければなりませんから、どこの町内はだれ、どこの町内はだれと、かわりの者をいれまして、客をしくじらないように手配をいたし、買ったからには、むろん自分があたる了簡《りようけん》で、いっしょうけんめいに祈っております。
そのころ、ほうぼうに富がございましたが、湯島天神の千両富というのが、一番大きかったそうで、ただいまとちがって、文政年間、千両といっては大金、当日は、水屋さんがきてみますと、みな血まなこになってあつまってまいりまして、おれがとる、われがとると、気ちがいのようなありさまで、さわいでおります。
「おう、この富も、いずれだれかがとるんだが、まあ、どのひとにあたるだろうな?」
「ええ、わたくしにあたります」
「え?」
「わたくしにあたります」
「おまえさん、富の札を買ったのかい?」
「さようでございます」
「さようでございますったって、おまえさん、あたるというのがわかってるのか?」
「へえ、みなさんにはわかりますまいが、わたくしには、ちゃんとわかってるんで……」
「なまいきなことをいいなさんな。おれにあたるにきまってるんだ」
「なあに、おれにあたるんだ」
「いいえ、みなさんはそうおっしゃいますが、わたくしは、わたくしにあたるとおもってますんで……」
「べらんめえ。おめえたちにあたってたまるもんか」
「おいおい、喧嘩《けんか》しちゃあいけない。ねえ、松つぁん」
「え?」
「いや、ここにいるひとたちは、みんな、『おれがとる、おれがとる』といっているが、おかしなもんだね」
「まったくだ。しかし、吉つぁん、おまえにしろ、あてるつもりで買ったんだろうが、もしもおまえにあたったら、その金を、なんにつかう?」
「そうさな。おれにあたりゃあ、あの角の空店《あきだな》を買いとって、質屋でもはじめるな。こうしておきゃあ、おれが質ぐさを持っていくときは都合《つごう》がいいや」
「おやおや、あたっても、まだ質を置きにいく気でいやがる。金さん、おまえはどうだね? あたったらどうするね?」
「おれかい、おれは、その金をにぎって、日本じゅう見物にあるかあ」
「芳さん、おまえは?」
「おらあ、あたったら、江戸じゅうの食いもの屋を一軒ずつ食ってあるくね」
「意地のきたねえことをいうない。おい、そっちのひと、おまえさんはどうする?」
「わたしが、もしあたったら、毎日一貫ずつちびちびつかって、命《いのち》がさきになくなるか、金がさきになくなるか、ためしてみる」
「おいおい、けちけちしたことをいいなさんな。おれなんざあ、金をうけとると、すぐにその足で吉原へくりこんで、大門をしめ切って、小判をまいて、紀伊国屋文左衛門《きのくにやぶんざえもん》くそ食らえというようなまねをしてみせてやらあ。さあさあ、みんないっしょにきてひろいねえ」
「この野郎、大きなことをいうな」
わいわいさわいでおりますうちに、
「打ちどめー」
という声。口富《くちとみ》、中富《なかとみ》、打ちどめとあって、たとえば千両富というと、口富が五十両、中富が二百両、あとが打ちどめということになっております。いま、打ちどめというと、さしものさわぎも水を打ったようにしずまってしまいました。
富の札というのは、ちいさい札で、まるいのをつかうところもある。ガチャガチャと音がして札がうごきだすというくらい、人の気が寄りますもので、三尺七寸五分という長い錐《きり》で、箱のまんなかにあけた三寸四方ぐらいの穴から一枚の札を突きだしてくるので、稚児《ちご》か小坊主がでて、箱がおもいから、ふたりがかりでごうごう振って突きあげる一枚を、何番、何番と呼びあげます。すると、うまくあたったのが例の水屋さんで、かねてあたるつもりで買ったとはいいながら、この多くのひとのなかで、自分ひとりあたったとおもうと、じつに夢のようで、もちろんすぐに金をうけとると、何割とひかれるといいますが、とにかく、千両足らずの金をうけとって、いそいそと帰ってまいりました。もとより裏長屋住居、ふちへはいって、どっかり千両の金をおろして、さあ、この金で、さしあたってどうしようという見当もつきません。しばらくは、それをじっとながめておりましたが、どうしてこの金をつかおう、うちでも建てようか、それもおかしかろう。ぶらぶらあそんでいるのもむだなはなしだし、やはりもとの水屋をやっていよう。けれども、金をしょって、水をかついでもあるけない。さあ、こまった。心配なことができた。戸じまりはろくろくなし……ああ、神棚へのせてゆけば大丈夫、神さまが番をしておくんなさるから、神棚へのせておこうと、金をつつんだふろしきづつみを神棚へのせてみたが、はてな、しまりがやわ《そまつ》だからな……といって、急にしまりをすると、いままでしまりがなかったのが、錠《じよう》がおりてるぜというんで、ちっとふてえ了簡のやつは気がつく。おれが富にあたったということを知ってるやつもいるから、かえって、うちに金のあるのをみすかされるようなものだ。つきあたりが神棚、ガラリここをあけて、
「水屋さん、水をいれてくれないじゃあこまるよ」
と、催促《さいそく》にくる。ひょいとみると、金に気がつく。弱ったなあ。戸棚のなかへいれておいて、泥棒がはいって、
「なにもねえうちだが、一枚、二枚の着物ぐらいあるだろう」
と、戸棚をあけてひっかきまわしているうちに、どっしりおもいものがある。なんだろうと、ふろしきをあけてみると、金がでる。そのまま、しょっていかれてはたいへんだ。女房子はむだのもんだとおもって、ひとり身でいたが、こうなってみると、女房がないと不自由だな。いっそ水屋をよして、どこへもでかけずに、この金をぼつぼつつかっていようか。いやいや、よしちまってから、泥棒がはいって金をとられてしまい、得意客はなし、商売なしになってしまったら、あぶはちとらずだ。ああ、金持ちというものは心配のものだ。ただ、むちゃくちゃにつかってしまうわけにもいかず、どうか工夫《くふう》がありそうなものだと、でたりはいったり、まごまごしておりましたが、やっと一生の知恵をしぼってかんがえつきました。これならば大丈夫と、六畳ばかりしいてある畳のまんなかを一畳あげて、根太板をはがしてみますと、横に一本、丸太が通っております。それへ釘を一本打って、二重につつんだ金づつみを、この釘へひっかけて、上へ根太板を打ち、畳も元の通りしいて、そとへでて、いったん戸をしめて、自分で、
「ええ、ごめんください。お留守でございますか?」
ああ、みえないな。これなら大丈夫だ。こうしておけば安心して稼業にいかれる。そのうちに女房をもらい、なにか商売でもはじめよう。まあ、それまでは、あいかわらず水屋をしていようと、翌日になっておきると、すぐに縁の下をのぞいてみたが、まっ暗でわかりません。長い竿《さお》を持ってきて、かきまわしてみると、コツンとあたった。ああ、あるある。これなら大丈夫と、竿をかたづけ、ごはんを食べて、わらじをはき、いつもの通り水桶をかついで、
「ええ、おとなりのおかみさん、いってまいりますから、どうかおたのみ申します」
と、おもてへでたが、さて、金が気になってならない。ああ、むこうからきた男は目つきがわるいな……おや、すれちがっていったようすが、どうもおかしい。ひょっとうちのなかへはいりゃあしないか。けんのん《危険》だ、けんのんだ、うちへいってみよう……ひきかえしてあとをつけてきたが、ああ、長屋の路地《ろじ》へはいったな。これだから油断はならない。おれが富にあたって、金をうけとったのを、たしかに知っているやつにちがいない。おや、筋むこうのうちへはいった。はてな、あすこのうちで心やすいひとかな? ああ、でた、でた。これから、おれのうちへはいるかしら? まさか縁の下には気がつくまい……ああ、でてきた、でてきた。でてくりゃあ安心だ。だが、金持ちは心配なものだ。これをかんがえると、貧乏人は気やすいなあ……この若い男は、一くせありそうだ。うちへ泥棒にはいりゃあしないかと、苦労でたまりませんから、大いそぎで商売からもどってくると、竿竹を持ってきて、いいあんばいにあってくれればいいがと、縁の下をかきまわしますと、おもいものが竹のさきへあたるから、ああ、あった。これで安心と、竿竹をかたづけて、めしを食って寝てしまい、朝おきると、また、竿竹を縁の下へつっこんで、ゆうべ泥棒がはいりゃあしなかったかと、つついてみて、ああ、あった、あったとよろこんで、稼業にでかけます。
毎日毎日やっていますと、ちょうどそのむかいに住んでいるのが、これもひとり者で、なにをするという商売もない男、あそび人《にん》でございますが、どうもこのごろ、むかいの水屋のそぶりがおかしい。でていくときも、帰ってからも、竿を縁の下へさしこんでは、なにかガチャガチャやっちゃあ、にこにこしているが、なにかあるんだろう。どうも、このごろ、あいつのようすがちがっている。なにか縁の下にはいってるにちがいないと、水屋が、桶をかついででていったあとで、長屋のようすをみると、たいがい出商売《であきない》の者ばかりで、だれもみていないのをさいわい、ガラリと戸をあけてなかへはいって、裏口をあけて竿竹を持ってきて、縁の下へつっこんで、かきまわしているうちに、コツン、コツンと、竹のさきへあたるものがあります。はてな、なんだろうと、竿のさきのあたったあたりのところへ見当をつけて上へあがり、畳を一枚あげて、根太をはがしてのぞいてみると、ふろしきづつみがぶらさがっております。とりあげてみますと、ずしりとおもい。こいつはしめたと、そっくり盗んでゆくえをくらましてしまいました。
夕方になりますと、水屋が帰ってまいりまして、
「おとなりのおかみさん、ありがとうございました。お留守でございますか? ……ああ、ありがたい、ありがたい。まず、きょうもなにごともなかった」
竿竹を持ってきて、いつものようにガチャガチャかきまわしておりましたが、
「おや、ないぞ」
上へあがって、畳をあげますと、根太板がはがしてあって、金のつつみは、かげもかたちもございません。
「おや、だれか金を盗んだな……ああ、これで苦労がなくなった」
開帳《かいちよう》の雪隠《せつちん》
むかし、開帳が流行したことがございます。
その時分の三開帳というのが、京都の嵯峨《さが》のお釈迦《しやか》さま、下総《しもうさ》の不動さま、身延《みのぶ》のお祖師《そし》さまという、お釈迦さまが両国の回向院《えこういん》、不動さまが深川の出張所、お祖師さまが浄心寺《じようしんじ》という、これが、そのころ名代《なだい》の三開帳、かならずあたってはずれがないと申しました。
ある年のことで、お釈迦さまが、両国の回向院で、六十日間のお開帳をしたことがありましたが、そのときは、めずらしくも六十日間、雨がふり通したとかいいます。それがために、お開帳はめちゃめちゃになりました。そのときの落首《らくしゆ》に、
褌《ふんどし》を忘れてきたか釈尊《しやくそん》は
六十日間ふりで開帳
などとのこっております。
開帳については、おかしいはなしがいくらもございます。
「吉つぁん、聞いたかい?」
「なにを?」
「こんど貧乏神が開帳するてえんだ」
「ふざけちゃあいけねえ。世のなかも変りゃあ変るもんだな。貧乏神なんぞが開帳をしたって、おまいりにいく者もありゃあしめえ」
「それが、どうしても、おまいりにいかなきゃあならねえことになっているんだ」
「どうして?」
「はり札《ふだ》がしてあるぜ。もしご参詣これなきときは、こちらよりおむかいにあがるてえんだ」
「そいつあおどろいたね。貧乏神なんぞにむかいにこられちゃあたまらねえ。むこうからこねえうちに、こっちから押しだすほうがよかろう」
というので、ぞろぞろというご参詣。貧乏神でこそあれ、とにかく神という一字がつくのだから、手をあわせて拝みます。お札がでる。お守りがでるという。あるひとが、貧乏神のお札なんぞなんになるもんじゃあないというので、はなをかんだり、土足《どそく》にかけたりしてすててしまいました。すると、そのひとの商売が、とんとんびょうしにうまくあたって、しまいには、たいそうな金持ちになりました。だんだん聞いてみたら、貧乏神の罰があたったんだそうで……なるほど貧乏神の罰があたれば金持ちになるかも知れません。
「どうだい、熊公、金もうけがあるんだが、半口《はんくち》乗るかい?」
「乗せてもらいてえね。なにをするんだい?」
「こういうわけだ。このあいだ、八丁堀までいった帰りよ。古道具屋の前に立つと、ふしぎなものがあったんだ。鎧《よろい》を着た軍人《いくさにん》が、馬の上へ乗ってるんだ。なんだかわからねえが、気のせいでみりゃあ、八幡さまにみえるんだ。ところで、どうでえ? ひさしく開帳がねえから、鎌倉の八幡さまの開帳という触《ふ》れこみで、銭もうけをしようてんだ」
「なるほどね、開帳をするにゃあ、宝物《ほうもつ》がなくっちゃあいけねえが……」
「それも、いろいろと宝物をあつめたなかに、骸骨《がいこつ》がひとつあるんだがの、それをもったいらしく、桐《きり》の箱にでもいれてよ、頼朝《よりとも》公の骸骨《しやれこうべ》とやっちゃあどうだろうとおもうんだ。どうでえ、いまごろ、八幡さまの開帳に、頼朝公の骸骨があるなんざあ、気がきいてるじゃあねえか」
「なるほど、こいつあうめえや。やってみよう」
わるいやつが相談をして、山師《やまし》の開帳ということになりました。ただいまならば、新聞で知れわたりますが、そのころのことでございますから、ほうぼうへビラをはります。
鎌倉の八幡さまのお開帳というので、ぞろぞろというご参詣でございます。
正面が、鎌倉の八幡さまのお開帳、霊宝物は、左へ左へというので、きてみますと、口上をいう男が、高慢《こうまん》な顔をして、
「そもそもこれに安置したてまつるは、右大将頼朝公の骸骨《しやれこうべ》、近う寄って御拝《ぎよはい》あそばされましょう」
「おう、金ちゃん、みたかい?」
「なにを?」
「頼朝公の骸骨をよ」
「みたよ。どうもおどろいたね。頼朝公てえひとは豪勢《ごうせい》だ。骸骨になっても目が光るな」
「うそをつけ。骸骨の目が光るかい」
「そもそもこれに安置したてまつるは、右大将頼朝公の骸骨《しやれこうべ》、近う寄って御拝あそばされましょう」
「ああ、もしもし、ちょいとおたずね申しますがね」
「はいはい……そもそもこれに安置したてまつるは……」
「いや、そんなに大きな声をださなくってもいいんだ。わたしはなんにもよく知らねえ男ですけどね、頼朝というかたは、おつむりが大きいかただと聞いてますが、その骸骨は、だいぶちいせえようですね」
「もっとも、これは、ご幼少の折りの骸骨」
てんで、ずいぶんひとを食ったやつがあったもんで……なんぼ頼朝公だって、いくつも骸骨があるもんじゃあありません。
「おう竹さん、こんどひさしぶりで、回向院の開帳があるんだ。それについて、ひとつ銭もうけをしようとおもうんだが、片腕貸さねえか?」
「どういうことをしようてんだ?」
「どうだい? 雪隠をこしらえて、四文ずつとって貸そうてんだ」
「なるほど、こいつはおもいつきだ。やってみよう」
これから、本堂へかけあってみましたが、ゆるしてくれません。しかたがないから、番人にいくらかにぎらして、本堂からすこしはなれたところへこしらえました。こしらえたといっても、穴を掘って、四斗樽を埋めて、板を二枚わたして、しゃがめば用の足せるように、四方へ青竹を立てて、それへこもをつるして、なかがみえないようにしてあるだけのもので、それで、四文ずつとって貸そうというんですが、江戸時代には、共同便所などというものができておりませんから、これで結構役に立ったわけのもんで……それに、電車や自動車というものがございませんから、山の手辺から本所の回向院までご参詣となると、半日ぐらいはかかります。ことによれば、一日のひまをつぶさなければなりません。はばかりへいきたくなると、むかしのことですから、男ならば、川ばたとか、または、ひとのいない新道などで用が足せますが、ご婦人がたは、それができないために、食べたくもないそば屋へはいるとか、汁粉《しるこ》屋などへおはいりになって、はばかりを借ります。それをみこんでやったのが、この開帳の雪隠というやつで……
「さあさあ、雪隠《ちようずば》を貸しますよ」
「あのう、少々うかがいますが……」
「はいはい」
「はばかりを拝借しとうございます」
「よろしゅうございます。四文いただきます」
「……そのかたのおあとで、わたしにどうぞ……」
「へえ、どうぞ……こちらへお代《だい》をいただきます」
「雪隠をお貸しなすって……」
「はい、よろしゅうございます」
「はばかりをどうぞ……」
「へいへい」
「子どもをひとりつれておりますが……」
「お子ども衆は、半分でよろしゅうございますよ」
「雪隠を貸してください」
「へいへい、ええ、ご順になすってください……お早くおねがいいたします。お腹《なか》のくだってるかたなんぞは、あとまわしにしてください」
わいわいと借り手がやってまいります。夕方になりますと、
「どうだい、たいそう銭があつまったな。八貫(八千文)二百とあがった」
「ありがてえな。おつなもうけだぜ。なにしろ資本《もとで》がかからねえんだからな。このぶんでいくと、一身上《ひとしんしよう》できるぜ」
毎日毎日、莫大《ばくだい》なもうけがございます。すると、ある日のこと、
「どうしたんだい? きょうは、ちっとも雪隠《ちようずば》を借りにこねえな。これだけひとがでているのに、おかしいじゃあねえか」
「してみると、糞《ふん》づまりばかりでてきたかな?」
「まさかそうでもあるめえが……ちょいと、ようすをみてこよう」
ひとりが、ぶらりとでてみますと、お客のこないのも道理で、十五、六間手前へ、こんどは、本式の雪隠ができました。
屋根が杉皮で葺《ふ》いてあって、四方は、青竹で四つ目垣、なかへはいってみると、きれいに掃除がゆきとどいていて、線香立てのなかへ、お線香が、二、三本立っていて、臭気どめになっております。きれいな手洗い鉢へ水がなみなみと張ってあって、あたらしい手ぬぐいがぶらさがっている。それでもやはり四文でございます。
「おっ、兄弟、だめだよ」
「なにが?」
「油断大敵《ゆだんたいてき》だ。このさきへすばらしい雪隠ができた」
「ふーん」
「それで、やっぱり四文で貸してやがるんだ。おなじ四文なら、おれでもむこうの雪隠へはいるね。もう、とても銭もうけはできないよ」
「おやおや、おどろいたな。たまにおつなもうけがあるとおもやあ、どうもうまくいかねえもんだ……ちょいと、いってくるよ」
ひとりが、おもてへでてまいりました。
「少々うかがいますが……」
「なんです?」
「雪隠を貸していただきたいんで……」
「へい、よろしゅうございます。四文いただきますよ。ごゆっくりなさい。きょうあたりは、なかで、昼寝でもなすってもよろしゅうございますから……」
「ええ、雪隠をお貸しなすってください」
「へいへい、つぎのかたがみえましたから、ただいまのかたは、お早くねがいますよ」
「はばかりを拝借したいんで……」
「へいへい、どうぞ……」
「雪隠をお貸しなすって……」
「おあとは、わたしに……わたしは、子どもをひとりつれておりますが……」
「そのつぎは、わたしにどうぞはばかりを……」
「へいへい、ご順にねがいますよ。そう押しちゃあいけませんよ。あぶのうござんすから……なるべくお早くなすってくださいよ。ええ、ご順に、ご順に……」
わいわいとお客がまいります。夕方になると、相手の男が、ぼんやりと帰ってきました。
「おい、どうしたい? じょうだんじゃあねえやな。おめえ、どこへあそびにいってるんだよ? いそがしくて、いそがしくて、おらあ、てんてこ舞いをしたぜ。銭だって、おれひとりだから、どのくらいとりそこなったか知れねえやな」
「おれがでていったら、客がうんときたろう?」
「きたから、ひとりじゃあ弱ったんじゃあねえか」
「うん、お客のくるわけがあるんだよ」
「どうして?」
「おらあ、四文払ってな、いままで、むこうの雪隠へへえったきりだった」
三助のあそび
むかしは、銭湯で、お湯をわかしたり、お客のからだを洗い流したりする奉公人のことを三助と呼びましたが、そのころのおはなしで……
「もし、そこへいらっしゃるのは、柳湯の番頭さんじゃあありませんか」
「はい、こりゃあ、だれだとおもったら、たいこもちの次郎八さんでがすか」
「いかにも次郎八でげす。ええ、きょうは、どちらへおでかけで? ははあ、なにか、きょうは、どちらへかご運動になるという寸法で? あなただけがおやすみでげすか?」
「いや、そうじゃあございません。急に、はあ、釜がぶっこわれましてな、それで早じめえにしやんした」
「ああ、なるほど、お釜がこわれて早じまいで……それは、ちょいと痛《いた》ごとでげしたな」
「弱りやんしたよ。それからな、しかたがねえから、こんなときに、はあ、楽寝《らくね》でもすべえかとおもいやしたがな、表口《おもてぐち》へきて、床を敷いて、はあ、横になりやんすとな、ガラガラと格子をあけて、『きょうは、おやすみかい?』と聞かれるから、『いいや、釜を損じて早じまいでがす』と、ことわる。また、うとうとと寝ると、ガラリとあけて、『おやすみかい?』と聞かれ、『釜が損じて早じめえでがす』と、ことわってばかりいて、はあ、ちっとも眠ることができねえでがす。寝られねえくれえなら、はあ、どっか、ちっとんべえあるいてこようとおもいやしてな、それで、こうやって、ぶらぶらでかけてきやした」
「なるほど、そういう次第《しだい》でげすか。寝《げ》しなるとおぼしめすと、ガラリと格子をあけて、おやすみかいと聞かれるから、釜が損じて早じまいとことわる。あんまりお色気のあることばじゃあございませんな。で、これから、どちらの方面へおでかけになるというご寸法で?」
「いやあ、べつに、はあ、どこへいくてえあてもありましねえがね、浅草のほうへでもでかけべえとおもいやんして……」
「浅草の方面へ? 結構でげすな。ええ、こんにちは、次郎八、お供《とも》をねがいたいもんで……」
「はい、ごいっしょにでかけやんしょう」
「で、これから、公園をひとまわり運動をこころみて、時間をみはからって、北国《ほつこく》へおくりこみになるという寸法は、いかがでげす?」
「はあ、なんでがすか、その北国てえと?」
「吉原へ」
「やあ、女郎|買《け》えでがすか?」
「さようで……」
「だめでがす。わたしは、はあ、女郎買えは、こりごりしやした」
「はてね、どういうところから、お女郎買いをこりごりなすった?」
「このあいだでがすがね、ああ、辰の野郎といっしょにでかけやんした。洲崎の中処《ちゆうどこ》でがす。そんとき、はあ、ひどくふられやんした」
「それはね、番頭さんの前だが、お女郎買いは、もてると、相場がきまっちゃあいませんよ。もてたり、ふられたりするところに、また、妙な味があるもので、てまえ、お供をしておれば、ふられるなんていう気づかいは、かならずございません」
「やあ、そうはいかねえでがす。おらがの商売が、あらわれるとな、あまっ子にあんまり好かれる商売でねえでがすから、ふられやすよ。このあいだ、はあ、とんでもねえひどい目にあいやんした」
「へーえ、どういうところをしくじって、ご商売があらわれました?」
「辰の野郎め、はあ、都都逸《どどいつ》を唄ったでがす」
「なるほど……」
「それで、はあ、あらわれやんした」
「こりゃあ珍なはなしでげすな。都都逸を唄って商売がわかるてえのは……へへえ、どういう文句を唄ったんで?」
「古木《ふるき》あつめて金釘《かなくぎ》ためて、それが売れたら豚を食うてえんでがす」
「あんまり色気のない都都逸を聞かせましたな。そりゃあ、もてる文句じゃあないねえ。いや、てまえが、お供をしておれば、さような気づかいはございませんが、ところで、番頭さん、はなはださし出《で》がましいようなことでげすが、これから、ちょっと浅草辺をぶらりと散歩をして、ちょっとごはんをいただいて、それから吉原《なか》へくりこむという寸法でげすが、てまえ、ご承知の通り、たいこもちが渡世《とせい》、それに、ふだんから朝湯へただでいれていただくご恩返し、そのかわり、たいこもちが、お客さまのお供をして、手銭《てせん》を切るということは法にないことですから、てまえの入費《にゆうひ》を持っていただきたいもんで……」
「やあ、そのくれえなことは、わしも、はあ、心得てやんす」
「そこで、なんでげすか、おふところは、どのくらいなもんでげすか? へい、いま、あなたさまのおふところにある紙入れのなかには?」
「やあ、たいしてねえでがす。四円に、はあ、ちっとんべえありやんす」
「四円なにがし? 結構、大丈夫でげす」
「これで、はあ、ようがすか?」
「大丈夫、てまえが、お供をするからには、ご安心あそばせ」
「じゃあ、まあ、ぶらぶらまいりやすべえ」
「そこでの、申しあげておきますが、吉原《なか》へくりこむでげしょう、で、てまえ、こうやって、黒の羽織を着て、ついているからには、野だいこといえども、たいこもちがついてるとは、すぐわかります。それだのに、ささやかなあそびをするというのは、おかしいと、こういう筋《すじ》になります。そこは、また、てまえの方便で、こういうことにいたします。あなたさまを、お成街道《なりかいどう》辺の質両替屋《しちりようがえや》の若旦那というふれこみで、で、若旦那は、始終《しじゆう》大見世《おおみせ》あそびばかりなすっていらっしゃるから、たまには、小見世のちょんちょん格子が、どういうぐあいのもんだか、ひとつためしてみたいという、ちょいと、しゃれに、今夜、こういうおあそびをなさる。したがって、お金もたんとつかったんでは、小見世あそびの気分にならないから、ごく地味《じみ》なあそびで……てなことに、わたしがつっこみますよ」
「ははあ、そこんとこは、はあ、よろしくおたの申しやんす」
「それでね、先方へいきましょう? てまえが、万事|采配《さいはい》をふります。ちょっと、その、新造とか、若い衆とかに、てまえ、あなたに箔《はく》をつけるために、『もし、旦那へ、せんだっては、木挽町《こびきちよう》のご見物、新橋のきれい首を二十人ばかりおつれになって、桟敷《さじき》をぶっこぬいてのご見物、ありゃあ、ちとお物いりでげしたな』……てまえ、こう申しあげたら、あなたは、ちょいと、あごの下へ手でもやって、『なあに、いささかでげす』と、こうおっしゃい」
「ははあ、『赤坂でげす』とでがすか?」
「いえ、赤坂じゃありません。『いささかでげす』……すると、あなたのからだに、ばかにはくがつきます。ようがすか? で、先方へいったら、てまえのことを、次郎八さんなどとおっしゃっちゃあいけません。次郎公とおっしゃい」
「やあ、呼びつけにしたら、わるうがしょう?」
「いや、わるくはございませんよ。『次郎公っ』と、おっしゃってごろうじろ」
「では、はあ、次郎公……さーん……」
「さんをつけちゃあ、なんにもならない」
「次郎公……次郎公……次郎公……」
「犬を呼んでるようですな……ようがすか?」
「大丈夫でがす。なにぶん、はあ、おねげえ申しやんす」
これから、幇間《ほうかん》の次郎八が、お湯屋の三助をとりまいて、ある見世へあがりました。
「へえ、こんばんは。どうもありがとうさまで……ええ、お初会《しよかい》でげすか? おなじみさまでげすか?」
「こう、若い衆さん、むろん初会でげす。こちらはね、お成街道辺の質両替屋の若旦那さまだが、ふだんから大見世あそびをなすっていらっしゃるんで、『まだ小見世のあそびということをしたこともないから、どんなものだな、次郎公、供をしな』というお託宣《たくせん》から、今晩、てまえ、こうやってお供をしたわけで、で、なるべく、その、小見世あそびらしくお銭《あし》をつかわないであそぶほうがよかろうという。そのつもりで……そのかわり、また、御意《ぎよい》に召せば、あとは、どういうことになるかわからないのだから、そこは、万事のみこんで……」
「へい、ありがとうさまで、では、もしも、今晩、旦那さまの御意に召すと、あすは、お流連《ながし》(遊廓に泊まりつづけること)になりますかな?」
「いやあ、わしは、はあ、流し(なが浴客の背中を洗うこと)はやらねえでがす」
「あなたは、だまっていらっしゃい……若旦那はね、ときどき妙なことをおっしゃるんで、万事よろしくたのむよ」
「かしこまりました」
これから、あつらえものがはいってくる。ときどきあぶなくなるのを、次郎八がうまくごまかして、早くおひけにしたほうがよかろうというので、おひけということになりました。
「では、若旦那、おやすみなさい」
「はい、おやすみなせえやし」
「もしね、ご用があったら、次郎公っとおっしゃい。てまえ、すぐにうかがいますから……」
「はあ、わかっただ……次郎公っ」
「へい、ええ、なんぞご用で?」
「べつに用はねえでがす」
「用がないのに呼んじゃあいけませんよ」
「ちょいと可祝《かしゆく》さん、今夜のひとは、おつなひとだねえ。だがねえ、白木《しらき》の三宝《さんぽう》で、ひねりっぱなしはごめんだよ」
「次郎公」
「へい……お呼びになりましたか?」
「いまな、とうとうおれの商売があらわれた」
「はてね、どうして?」
「いま、おれが、ここにいると、はあ、むこうのほうで、女子《おなご》同士が、はあ、はなしをしているだあ。『白木の三宝で、ひねりっぱなしはごめんだよ』と、いっているだ。ことによったら、はあ、三ガ日《にち》の番台があらわれたかな?」
「うふっ、ふふふふ……正月三ガ日に、銭湯じゃあ、番台の白木の三宝《さんぽう》に、ご祝儀をお客さまからいただくことになっておりますが、あのはなしじゃあござんせんよ。あれはね、この遊廓《さと》の通言で、白木の三宝というのは、ありゃあ掛け流しにつかうもので、その日、その日につかいすててしまうもの、ひねりっぱなしというのは、一晩ぎりじゃあいやだよという、この遊廓の通りことばになっているので、なにもあなたのことをいってるんじゃあございませんよ。安心しておやすみなさいまし」
「そうでがすか……」
「ちょいと紫君《しくん》さん、あのひとは、ほんとうにおつなひとだわねえ。おまはんが、本惚《ほんぼ》れになるのもむりはないとおもうよ」
「いやだよ、このひとは……焚《た》きつけたって、燃えあがるんじゃあないよ」
「次郎公」
「へい、なんぞご用で?」
「なんだか知んねえが、はあ、焚きつけても燃えあがるんじゃあねえといってるが、おれ、はあ、焚きつけかたがわるかんべえか? じょうずに焚きつけたら、すぐにも燃えあがるだが……」
「こりゃあ、おそれいりました。そうじゃあございませんよ。あなたのことじゃあないんで……あれはね、『そうおだてたって、夢中になりゃあしないよ』かなんかいって、朋輩《ほうばい》同士で、からかいっこしていますんで……安心しておやすみなさい」
「左近さん、今夜、あのひとがきているんだってねえ」
「いいえ」
「あら、おかくしなさって、水くさい、おたのしみ……にくらしいね、たたいてやるよ」
「あっ、いたいっ、たたかれちゃあ、うまらないやね」
「次郎公!」
「こりゃあおどろいた。寝られねえなあ。なんでげす?」
「なんだか知らねえが、水くさいといったけんども、はあ、ふだん水をあつかいつけてるで、おらがのからだが、におうかな?」
「いいえ、そうじゃあございませんよ。かくし立てをするから、それで、水くさいといったんで……」
「それから、はあ、たたかれちゃあうまらねえといったが、おらあ、たたいたら、はあ、うめてやるべえじゃねえか」
「そりゃあ、あなたのご商売では、お客が羽目板《はめいた》をたたくと、水をうめるのでげすが、あれは、背なかなんかたたかれちゃあ、つまらないということをいってるんですよ。いけないな、あなた、いちいちそんなくだらないことをいってちゃあ、わたしが寝られなくってこまりますよ。早く寝ておしまいなさいっ」
「あれまあ、次郎公め、おらがに、けんつく(荒っぽい叱言)をくれやあがる。だから、芸人なんてえものは、不実《ふじつ》なもんだ。みゃあがれ、ちくしょうめ、あしたっから、朝湯へきたって、ただでなんぞいれてやんねい……女郎買えなんてえものは、するもんじゃあねえ。いつまで起きていると、あしたの朝眠いといかねえ。寝るより楽はなかりけりだ。やあ、寝るとすべえ」
と、三助さん、ぐーぐー、ぐーぐーと寝てしまいました。
しばらくしますと、トントントン、トントントン、上ぞうりの音がして、障子がすらりとあいて、はいってきたおいらんが、
「あら、ちょいと、お寝《やす》みなの?」
と、起こしますと、三助さん、寝ぼけまなこで、
「え? ……はい、釜が損じて早じめえでがんす」
星野屋
「旦那、ごじょうだんおっしゃっちゃあいけません。そんなことをおっしゃって、わたしをかつごうったって、なんでほんとうにできるもんですか」
「じょうだんでなんかあるもんか。まあ、だまってお聞きよ。ああやって、りっぱに店を張っているものの、わたしの長いあいだのふしだらで、借金が山のようにできて、どうにもこうにも首がまわらないばかりか、あの家だって二重三重の抵当《ていとう》にはいっていて、いよいよ今夜が日限《ひぎ》りだ。あしたっからは、もう宿なしになるわたしのからだ……星野屋の主人も、長いあいだの道楽の罰で、いまじゃあ、あんなみすぼらしいすがたになっちまったと、世間のひとたちに笑われるのもいやだから、わたしは、いっそのこと死んでしまおうと了簡《りようけん》をきめて、今夜、おまえんところへいとま乞《ご》いにきたんだ……さあ、ここに三十両ある。これは、なにも、おまえと縁を切るの、手切れだのという金じゃあない。おまえのおふくろに、わたしからおくる金だ。年よりのことだから、なんでも食べたいものがあったら食べさしてやっておくれ。それから、おまえも、まだ若いのだ。わたしが死んだあとは、適当な男があったら、亭主に持つがいい。たまに、わたしのことをおもいだしたら、線香の一本も手《た》むけてくれれば、わたしは、草葉のかげで、どのくらいうれしいか知れないよ」
「ほほほほほ……旦那、いいかげんにじょうだんはおやめくださいよ。そんなことが、どうしてほんとうにできるもんですか。あれだけのご身代《しんだい》がつぶれてしまって、いっそお死になさるなんて、ばかばかしいにもほどがあるじゃあありませんか……しかし、もしもですよ、もしもそれがほんとうだとしたら……わたしも、こうやって長いあいだ旦那のお世話をうけていて、その旦那がお亡《な》くなりなさるというのに、『そんなら、なにぶんよろしくお死にください』ともいえないじゃあありませんか。ほんとうに旦那がお死になさるようなことがあるなら、わたしだっていっしょに……」
「どうする?」
「まあ、そりゃあ死にますけれどもね」
「けれどもてえのはおもしろくないな……そんなら、わたしが死ぬといったら、おまえもいっしょに死んでくれるのか?」
「ええ……まあ……死にますよ……」
「はっきりしないな。きっと死んでくれるか?」
「そんなに念を押して水くさいじゃあありませんか。そんなにうたぐるなら、手つけに、ちょいと目をまわしましょうか?」
「ばかなことをいうんじゃあない……お花、おまえがほんとうにその気なら、あらためてたのむ。どうだい、いっしょに死んでくれないか? 心中をしてくれないか?」
「えっ、心中ですって……で、いつごろなんです?」
「今夜だよ」
「あらまあ、あんまり早いじゃありませんか。せめて来年の春ごろになさいよ」
「おいおい、なにいってるんだ。物見遊山《ものみゆさん》にいこうってんじゃあないよ。切羽《せつぱ》つまって死ぬんじゃあないか……それとも、おまえ、いやなのかい?」
「いいえ、いやじゃあありませんが……その心中のしかたは?」
「吾妻橋から身を投げるんだ」
「あらっ、身投げですか……いやですねえ、つめたくって……それに、水瓶《みずがめ》のなかへ落っこったごはんつぶみたいに、いやにふくれてしまうんでしょう? 色っぽくないわ……ねえ、おなじ死ぬんなら、もうすこしいきな死にかたをしましょうよ」
「死ぬのに、いきもやぼもあるもんか……さあ、ここへ持ってきたふろしきづつみのなかに、白無垢《しろむく》がふたかさねある。下へこれを着て、上は、あたりまえの扮装《なり》でうちをでかけて、その場へいったら、上をぬいで、たがいに手に手をとって、ドブンとやればいいんだ。さあ、すぐにしたくをしな」
「まあ、そんなしたくまでそろってるんですか? あんまり急じゃあありませんか。それが、その……なんですから……」
「おい、なにをぐずぐずいってるんだ。早くしたくをしな」
ぐずぐずしているお花の手をとってうちをでて、やってまいりましたのが吾妻橋。ただいまとちがって電気というものがないむかしのこと、ことに雨模様でまっ暗でございます。
「ちょいと旦那、待ってくださいよ。たいへんさびしいじゃあありませんか。もうすこしにぎやかなところへいってやりましょうよ」
「にぎやかなところって、まさか縁日《えんにち》へいって心中もできまい? さあ、ここがちょうど橋のまんなかだ」
「あらまあ、ずいぶん深そうじゃあありませんか。これじゃあとても背が立ちませんよ」
「背が立たなきゃあ好都合《こうつごう》じゃあないか……さあ、あのあたりが、おまえのうちだ。なにかいいのこすことがあるなら、早くいいな」
「どんなことをいっていいのか、はじめてだから、ちっともようすがわかりませんよ」
「だれだってはじめてだよ。心中をちょくちょくやるやつがあるもんか……『さき立つ不孝はおゆるしください。義理にからまれて心中をいたします。草葉のかげから、おっかさんのご長命をお祈りしています』ぐらいのことをいうもんだ」
「いいますよ……ねえ、おっかさん、いま旦那がおっしゃった通りですから……」
「おいおい、不精《ぶしよう》するなよ。ひとので間にあわせるやつがあるかい。さあ、覚悟はいいか?」
「ま、ま、待ってくださいよ。下からつめたい風が吹いてくるじゃあありませんか。かぜでもひいた日にゃあたいへんですよ。かぜは万病のもとといいますからね」
「なにをいってるんだ。死ぬからだで、かぜをひこうとどうしようとかまやあしない。さあ、覚悟をきめるんだ」
「そうですか……」
「さあ、ここへとびこむんだ。いいかい?」
「まあ、旦那、待ってください。どこです、どこです?」
「ここだよ」
「あれまあ、旦那、たいへんですね。こんなに暗くて、深いところへ……まあ、こわいことねえ。ここからとびこんで、ひょっと怪我でもしたらたいへんじゃあありませんか」
「まだそんなことをいってるのか……怪我でもしたらって、死ぬんじゃあないか」
「死ぬにしても、こんな暗いところはいやねえ。旦那、端《はし》のほうからそーっとはいりましょう」
「ばかをいえ。心中するやつが、湯にはいるんじゃあるまいし、そっとはいるやつがあるか。おいおい、むこうにちょうちんがみえる。おれは、さきへとびこむよ」
「まあ、旦那、待ってくださいよ」
といううちに、旦那は、ドブーンととびこみました。
「あれっ」
お花は、川のなかをのぞいてみたが、まっ暗で、わかりゃあしません。
「もしもし旦那、旦那。こまっちまったねえ。生きてればこそおもしろいおもいもできるのに……旦那、まことにすみませんがね、わたしゃあ、すこし都合があるから、死ぬのはよしますよ」
ひどい女もあったもんで、それからうちへ帰ってまいりまして、しばらくたつと、おもての戸をドンドンドン……
「おい、ちょっとあけてくんねえ。お花さん」
「あいよ、だれだい?」
「重吉だ。おい、お花さん、おい……」
「あいよ。そんなにドンドンたたくと、戸がこわれちまうよ。いまあけるから……さあ、おはいんなさい」
「ああ、びっくりした」
「なんだねえ、わたしのほうこそびっくりしたじゃないか。いま時分きて……」
「あんまり駈けだしてきたんで、息がきれた。もう寝ているとおもったら、まだ起きてたのか?」
「ええ……いま、ちょいと……なにしてたの……」
「そうか。おれは、すこしおまえに聞きてえことがあってきたんだ」
「なんだねえ。どうしたのさ?」
「ほかのことじゃあねえが、こっちへ星野屋の旦那がきやあしねえか? え? 旦那がよ……」
「ああ……いいえ……」
「なに? いいえだ? ほんとうにこねえというなあふしぎだなあ。いま、ありありとみたんだが……」
「まあ、どうしたのさ?」
「じつはな、こういうわけなんだ。聞いてくんねえ。今夜は、寝ぐるしい晩で、変だとおもって、ふと枕《まくら》もとをみると、ぬーっとだれか立ってるんだ。はてなと、よくよくみると、これが星野屋の旦那だ。どうしたのか知らねえが、ぼんやりして、からだがぬれている。ひたいのそばをぶっ切ったとみえて、血が顔じゅうに流れて、おれの顔をみて、しょんぼり坐ってたとおもいねえ」
「えっ、もうかい?」
「なんだ、その、もうかいってえのは?」
「いいえ、まあ、どうもおどろいたね」
「うん、おれもおどろいた。『旦那じゃあありませんか』というと、『重吉や、おまえは、いい女を世話してくれたな。じつは、あの女と、今夜、心中にいったところが、おればかり殺して、自分は助かって、のこのこうちへ帰りやがった。ふてえあまだ。じつにくやしい。おれは、どうしてもとり殺さずにはおかねえ。くやしいから、一度に殺さねえ。ちびりちびりと苦しめてとり殺す。重吉、おまえは周旋人《しゆうせんにん》のことだから、念のためにとどけにきた』と、旦那が、まあ、ぬーっと顔をだしたときのおっかなかったのなんのって……おらあ、じつにおどろいた」
「あらまあ、びっくりしたねえ……それからどうしたの?」
「おらあ、おっかねえから、あたまから夜具をかぶって、しばらく経ってから、夢じゃあねえかと、そっと、また、枕もとをみると、旦那のすがたはねえが、びっしょり畳がぬれている。それから、まあ、こわさをしのんで、おまえのところへ知らせにきたんだが、おれが世話をした女といやあ、おまえよりほかはねえ。おまえ、なにもかくしちゃあいけねえぜ。旦那とおまえ、心中にいったんだろう? いいえ、いけねえってえことよ。おれが、いま、はなしをしたら、おまえの顔の色が変って、いま、なんといった? なにが、もうかいだ……とんでもねえことをしてくれたな。さあ、かくさねえでいってくんねえ」
「こまったね。重さん、じつはね、すこしばかりいったの」
「じょうだんいっちゃあいけねえ。心中に、すこしばかりいくやつもねえもんだ。おい、おめえ、たいへんだぜ。旦那のようすってえものは、じつにくやしそうな顔をしていた。あのあんべえじゃあ、きっと、おまえ、とり殺されるぜ。それも、一時にはとり殺さねえ。ちびりちびり苦しめて殺すんだ。どうもおまえは自分でしでかしたことだからしかたがねえが、なかへはいったおれがこまるじゃあねえか。旦那が、周旋人だから念のためにことわるといったが、ああいうかてえ旦那だから、なにかにつけておれのところへことわりにくるにちげえねえ。おまえのところへくるたびに、『重吉や、いまでかけるよ』と、毎晩、幽霊のおさきぶれなんざあありがたくねえ。そのうちに、幽霊が、おまえのところへくるだろうから、おまえから、おれのほうへこねえようにことわってくれ」
「まあ、重さん、たいへんなことになっちまったね。まったくわたしがわるいんだよ。わるいんだけれども、わたしだって、おっかさんはあるし、いろいろおもいすごしをして、じつは、死ぬのをよして帰ってきたのだから、どうかして幽霊のでなくなる工夫《くふう》はなかろうかね?」
「そうさな。そりゃあまあ、おまえが、真実改心して、旦那にわびごとをしたらいいかも知れねえ。それも、ただじゃあいけねえ。あたまの毛でも切って、一生亭主を持ちませんとでもいうようなことをいったら、まあ、助かるかも知れねえな」
「じゃあ、わたしが髪の毛を切ったら、きっと幽霊がでないだろうか?」
「きっとでねえともうけあえねえが、まあ、そうでもしたら、かんべんするだろうとおもうんだ」
「そうかい。じゃあ、待っておくれ」
お花は、あわてて奥へかけこみますと、よほどこわいとみえて、根からぷっつりと髪の毛を切って、あたまを手ぬぐいで巻き、
「重さん、わたしもいっしょうけんめいで、この通り髪の毛を切ったから、これを持って、おまえさんから、幽霊のでないように仕切《しき》っておくんなさいな」
「この毛で仕切るというなあおかしいな。しかし、おまえが、それほどにおもうのなら、これを持ってって、旦那によくたのんでやろう。待ちねえよ……もし旦那、旦那、もし旦那、いいからおはいりください」
「あいよ」
おもてをガラリとあけて、旦那が、ぬっとはいってきて、
「重吉、おれは、いままでおもてで聞いていたが、おめえ、怪談噺は、すごみを持たせてなかなかうめえもんだな」
「あれまあ、いやですよ旦那。重さん、なにをいってるの。びっくりしたじゃあないか。あれまあ、ほんとうにどうしたんだろうね、まあ旦那、よくいらっしゃいました。わたしゃあ、いま、重さんからはなしを聞いて、びっくりしました。それでも、まあ、お怪我がなくってようございましたね。じつは、わたしも心配していたんですよ。さあ、どうぞこちらへあがってくださいまし」
「重吉、みなよ、この調子だ」
「うん、旦那、なにもいうことはございません。まあ、おあがんなさいまし……やい、お花、よく聞け。きょう、旦那がきておっしゃるには、『あの女もかわいそうだから、死んだ家内のあとへなおそうとおもうのだが、了簡《りようけん》がまだ十分わからねえ。気ごころをみるには、どうしたらよかろう?』とのことだから、こうなすったらようございましょうと、おれと旦那と書いた狂言で、吾妻橋から、てめえをドブンととびこまして、下には、ちゃんとふとんをしいた船をつないでおいて、そのなかへとびこむようにしてあるんだ。もし、まちがって川へへえっても、てめえを殺す気づけえはなし、旦那は、もとより木場《きば》生まれで、泳ぎは名人だ。木場から両国のあいだには、河童《かつぱ》に三匹の親類があるくれえてえした腕前で、てめえが、いっしょに身を投げれば、心底《しんてい》みえたと旦那がよろこんで、あすからりっぱなおかみさんになれるんだ。まぬけめ!」
「そうだったの。まあ、わたしは知らなかった。じゃあ、とびこめばよかった」
「重吉、これだ」
「あきれたやつでごさんすねえ。どうぞまあ、旦那、これでかんべんしておくんなさい。なにしろ、わたしは、旦那に申しわけねえんで、この通りぷっつりと毛を切らせました。こいつは、髪惜しみで、鬢《びん》の毛の一本も髪結いがぬいてごろうじろ。もとの通り植えてくれろとむりをいうくれえの女でございます。それに、この通り髪の毛を切らしたんでございます。やい、お花、てめえは、旦那と縁が切れた上に、そのあたまじゃあ、おふくろをかかえて、あしたからどうやって暮らしていくんだ? 髪の毛がなきゃあ、女で候《そうろう》と、世のなかに通用しねえぞ。ざまあみやがれ。あとへのこったすこしばかりの毛を、みれんたらしくのこしておくな。いっそのこと、くりくり坊主になっちめえ。さっぱりと坊主になったら、いままでのよしみに、木魚《もくぎよ》のひとつぐれえ買ってやらあ。ポクポク木魚のあたまをたたいて、念仏でもとなえて暮らしていろい」
「重さん、おまえさん、たいそうおしゃべりになったね。そんな毛でよければ、おまえと旦那のことだから、毎晩あげるからおいで」
「まあ、あきれたことをいやあがる。負けおしみの強《つえ》えことをいやあがるな。毎晩、毛がにょこにょこ生えてたまるもんか」
「へっ、それを髪の毛だとおもっているのかい? おまえさんの顔のまんなかに、ふたつ光っているのは銀紙かい? 味噌汁《おつけ》で顔を洗ってよくごらん。かもじ(女の髪にそえくわえる髪の毛)を切ってやったんだよ」
「なにをいいかげんなことをいってやがるんだ」
「まだわからないのかい、唐変木《とうへんぼく》、それじゃあ、愛想《あいそ》づかしにみせてやろうか……さあ、手ぬぐいをとるから、大きな目をあいてごらん」
「やーっ、髪の毛がついていやがるな」
「重吉、もうやめろよ。こんな薄情者……」
「まあ、旦那、もうすこししゃべらしておくんなせえ……やい、このあまあ、よくもひとをだましゃあがったな。てめえは、きっとそんな了簡のやつだとおもったから、旦那が、さっき、にせ金を持ってきてやったら、欲ばってしまやあがった。あれをつかってみろ、親子とも首に縄がつくから……」
「まあ、あきれた。なにからなにまで手をまわしてやりゃあがったんだね。ほんとうにくやしい……おっかさん、さっきのお金をだしておくれ。縁起でもない、にせ金だとさ。早くだしておくれ。たたっかえしちまうから……さあ、かえしてやるから持っていけ、ちくしょうめ」
「たたきつけやあがったな。あはははは、旦那、だしましたよ。とっておいてください。まぬけめっ、よくかんげえてみろ。にせ金なんぞ持ってくりゃあ、旦那がさきにしばられらあ。よくみろ、どこへ持ってったって、一枚一両にりっぱにつかえる天下の通用金だ」
「あれっ、また、ひとをだましゃあがったよ……おっかさん、ありゃあほんとうのお金だとさ」
「そうだろうとおもったから、三枚のこしておいたよ」
唐茄子屋政談《とうなすやせいだん》
どなたでも、人間といたしまして、おたのしみというものがございますが、お若いうちの道楽は、むかしならば、たいていは、おいらん買い、あるいは、芸者あそびというようなことでございます。とりわけ、傾城《けいせい》といって、城を傾けるほどの力のある遊女のために、その身をあやまるかたが多くございます。むこうは、稼業柄《かぎようがら》、早く苦界《くがい》をのがれたいとおもいますから、いろいろ手練手管《てれんてくだ》をもちいて惚《ほ》れたふりをいたします。それを真《ま》にうけて、せっせっと通いますうちには、遊廓《さと》の金にはつまるのが習《なら》いで、ついには、若旦那が、親の金を持ちだして湯水のようにつかうということになりますから、堅気《かたぎ》の商人《あきんど》のうちでは、ゆるしておけません。ついには、ご親類のかたがあつまって意見をして、いけなければ、よんどころなく勘当したらよかろうということにはなしがまとまりまして、
「さあ、どうだ? これから心をいれかえて、おまえが、いっしょうけんめいにやるってえのならいいけれども、また、吉原へなんぞ足をふみいれるようなことなら、いよいよ勘当だぞ。さあ、どうするつもりだ? 返事をしな」
「どうするつもりって、でていきゃあいいんでしょう?」
「なんだ、そのいいぐさは? ……じゃあ、ほんとうに勘当されてもいいんだな?」
「ええ、もう結構ですよ。勘当されても、女が食わしてくれますから……まあ、おてんとさま(太陽)と米のめしは、どこへいってもついてまわるんですから……」
「この野郎、勝手な熱を吹きゃあがって、じゃあ、どこへでもいっちまえ!」
「ええ、よござんすとも……」
若旦那は、いせいよく家をとびだしてしまいまして、女のところへいって、
「おい、おいらん、おまえのために、うちを勘当になっちまった。ひとつ、世話あたのむよ」
なんてことをいいますと、女のほうじゃあ、もう金がないなとおもいますから、楼《みせ》の主人に相談したふりをして、
「ねえ若旦那、あたしゃあ、あなたのお世話がしたいんだけれども、なにしろご主人のほうがやかましくってね……まあ、しばらくどっかへいっててくださいな。きっとむかいにいきますから……」
なんてことをいって、ていよく追いだしてしまいます。
しかたがないから、あっちへ二日、こっちへ三日と居候をしてあるいていますが、居候なんてえものは、どこのうちでもいい顔はしてくれませんから、しまいには、どこにもいくところがなくなってしまって、たんかを切ってとびだした手前《てまえ》、いきにくいけれども、親類のおばさんのところへでもいってみるよりしかたがなくなりまして、
「おばさん、こんちはあ、ごめんください」
「どなた?」
「へえ、あたしです」
「おや、徳三郎じゃあないか。だめだよ。いいえ、いけない。あがっちゃあいけないよ。おまえは勘当になったんだろ? おまえをうちへいれると、おまえのおとっつぁんから、あたしがうらまれることになるんだからね。『無心《むしん》がましいことをいっても、一文の銭もやっちゃあこまる。むすびひとつ食べさしてくれるな』と、かたくいわれてるんだから、どうすることもできないよ。これも身からでたさびで、しかたがないとおもってあきらめるんだね。ぐずぐずしていないで早くお帰り! 水をぶっかけるよ!」
「なんでえ、ひとをのら犬だとおもってやがら……ああ、こりゃあいけねえ。弱ったなあ。あのおばさんなら大丈夫だとおもったんだが……あの調子じゃあ、本所のおじさんところなんぞ、とてものぞみがねえし……そうだ、神田のいとこのところへいってみよう……こんちは」
「あっ、おいでなさい。おあがんなさいといいたいところだが、おまえのおとっつぁんからきびしい沙汰があって、『あいつがきたら、けっしてかまってくれるな。めし一ぱい食わしてはならない』と、いわれているんで、おじさんに知れるとまずいから、どうか帰っとくれ」
「そうかい、じゃあ、さようなら……いまさらいってもしようがないけれども、ずいぶんひでえもんだ。なんとかしてくれたってよさそうなもんじゃあねえか。そうかといって、出入り職人のところへなんぞいけば、大旦那から、これこれいう沙汰、わたくしどもがしくじりますからというだろうし……あーあ、身から出たさびだといわれたが、まったくそうだ。だれにもたのまれてあそんだわけじゃあねえ。なるほど、かんがえてみれば、むこうは不実の営業《しようばい》、おいらんがわるいんじゃあねえ。おれがわるいんだ。こうと知ったら、あの金をつかうんじゃあなかったが、ひとまずきれいに勘定をすましてとおもって、はらってしまったもんだからしょうがねえ」
とぼとぼあるいているうちに、夏のことで、一天にわかにくもってまいりまして、ぽつりぽつりとふりだしてきたとおもうと、ざあーっというひどい大雨。たいていのものなら駈けだして、どこかで雨宿りというところですが、もうやけくそですから、ぬれようと、どうしようと、そんなことは平気で、からだじゅう水につかったようになってあるいております。ちょうど吾妻橋へかかったころには、雨があがって、ぱあーっと星がでてまいりまして……
「ああ、寒くなったなあ。夕立ちのあとは、いい心持ちだってえが、ちっともいい心持ちじゃあねえや。びしょびしょになっちまって、寒いし、腹はへるし、どこへもいくところもなし……こんなおもいをするくれえなら、いっそのこと、ここからとびこんで死んじまうほうがいいや。おとっつぁん、おっかさん、どうぞさき立つ不孝の罪はおゆるしください。あの世から、ご長命なさいますよう、おいのり申しております。どうぞ、いままでのことはごかんべんくださいまし。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……」
欄干《らんかん》につかまって、とびこもうとしますと、
「待ちな、おい、待ちなってえのに……」
「どうぞおはなしなさって……死ななけりゃあならないわけがありますんで……」
「ばかっ、なにをいやあがる。待ちねえということよ、こっちへきねえ」
「そう手をひっぱって、腕がぬけたらしようがありません」
「なにをいってんだ。死ぬやつが、腕をぬかれたって文句はねえや。こっちへきねえ、こっちへきねえ」
「生きていられないんです。どうぞ、おみのがしを……」
「おみのがしをったって……おやっ、おめえは、徳じゃあねえか」
「え? あっ、おじさんですか」
「なあーんだ、おめえか。おめえならたすけるんじゃあなかった。早くとびこんじまいな」
「そんな不人情な……たすけてください」
「なんだい、いま、生きてられないっていったじゃあねえか。早くとびこみな」
「へえ、どうもすみません。ひとつ、たすけてくださいよ、ねえ、おじさん」
「なんだ、だらしがねえ……おめえは、うちをとびだしていくとき、たいそうなたんかを切ってでていったな。おてんとうさまと米のめしは、ついてまわるといったが、どうだい、ついてまわったか?」
「へえ、おてんとうさまはついてまわりますが、米のめしのほうはどうも……」
「うん、それで死ぬ気になったんだな。目がさめたか?」
「へえ、もう、すっかりさめました」
「そうか。じゃあ、どうでえ? ここで、ひとつ、ほんとうに死んだ気になって、了簡《りようけん》をいれかえる気持ちはねえか? そんなら世話してやってもいいが……」
「へえ、おじさんのおっしゃることなら、どんなことでもいたします。どうか、たすけてください。おねがいです」
「うん、そうか。じゃあ、たすけてやろう。たすけてはやるが、しかし、いま、おれが、ここを通らなけりゃあ、おめえは、この橋からとびこんで死んでしまったんだ」
「へえ」
「そうすりゃあ、おめえは、土左衛門と名前がかわるんだ。それを、おれがたすけてやるかわりにゃあ、いままでの若旦那じゃあ置かねえよ。いいか?」
「へえ」
「わかったか? もう、おめえは、死んじまったもので、あたらしく生まれかわったんだ」
「へえ」
「してみれば、いままでのようにいくじなしじゃあ世間はわたれねえ。いいか? 世のなかのひとというものはな、金のあるうちは、ちやほやするが、金がなくなればそっぽをむく。それが人情だ。だが、ひとのすることは、どうでもかまわねえ。これからは、心をいれかえて、ひとには親切にして、身を粉にしてはたらいてみろ。だまってたって、ひとが立ててくれる」
「へえ」
「わかったか?」
「へえ、なんでもいっしょうけんめいにやります」
「そうすれば、りっぱに世間に顔むけができる。まあまあいい、そのつもりで、おれといっしょにきねえ」
「ばあさん、いま帰った」
「おや、おじいさん、お帰りかい。たいへんおそかったじゃないかい、どっかへまわってたのかい?」
「うん、吾妻橋のところまでくると、ひろいものをしちゃったんだ」
「おや、なにをひろったんだい?」
「人間一ぴきひろっちまった」
「おや、だれが落っことしたんだろう?」
「だれも落っことすもんか。どうしょうもねえ野郎をひろっちまったんだ……おい、こっちへへえれ。おばさんにあいさつしろい」
「おばさん、どうもごぶさたいたしまして……」
「あらまあ、徳じゃあないか。どうしたんだね、おまえは? いえね、おじさんも、いつもおまえのことを心配して、毎晩、ろくに寝ないんだよ」
「おいおい、ばあさん、よけいなことをいうなよ。おまえは、それがいけねえんだ。さあ、よけいなことをいってねえで、徳は、腹がへってるんだ。三日も四日も食わずにあるいてたんだから、早くめしを食わしてやんな」
「あいよ。いま、そこのさかな屋へいって、なにか、おさかなをみてきてあげるから……」
「さかななんぞ、どうするんだ?」
「徳に食べさせるのさ」
「なにをばかなことをいってるんだ。こんなやつに、さかななんぞ食わせることがあるもんか。こいつあな、吾妻橋から身を投げて、さかなに食われようとしたやつなんだ。え? なんにもおかずがねえ? なくったっていいんだよ。たくあんのしっぽでも切ってやれ。腹のへったときにまずいものなし、てんだ。さあさあ、早くむこうへいってめしを食え」
「へえ、ありがとうございます」
「おばあさん、お給仕なんぞするこたあねえ。うっちゃっとけ、うっちゃっとけ。こっちへきてな……どうした?」
「どうもごちそうさまでございました」
「早えな。もう食ったのか?」
「はい」
「食っちまったら、茶わんぐれえ洗っとくんだぞ」
「はい、洗ってしまっときました」
「ふーん、そうか……え、どうした? ふん、腹が張った? なに? ねむくなった? うふっ、腹の皮がつっぱると、目の皮はたるむもんだ。よしよし、ねむかったら、早く寝ちまえ。そのかわり、あしたっからはたらくんだぞ。おい、ばあさん、二階に寝かしてやんな……ふとんはあるだろう?」
「ああ、ふとんはあるけども、蚊帳《かや》がないんだよ」
「蚊帳なんぞいるもんか。こんなばかは、蚊のほうで食やあしねえや。ああ、こんなものを食やあ、蚊のほうでばかになっちまわあな……おい、徳、蚊がいたら、ふろしきでもかぶって、さっさと寝ちまえ。なあに、心配するこたあねえ。むかしっから蚊に食い殺されたやつはねえや。いいか、あしたの朝、早く起きるんだぞ」
若旦那は、こそこそ二階へあがって寝てしまいました。
翌朝になると、おじさんは早起きして、どこかへいったとおもうと、若いものにてんびん(てんびん棒)で、唐茄子がいっぱいはいった籠《かご》をかつがせて帰ってまいりました。
「おばあさん、いま、帰ってきた。ああ暑かった、暑かった……どうした、野郎、まだ寝てるのか?」
「ええ、つかれたとみえて、よく寝てますよ」
「ばかばばあ、そう甘やかすからいけねえんだ。きょうからはたらかせるんだ。もう起こさなくちゃいけねえやな……おい、徳や、徳、起きろっ、起きるんだ。早く起きてこい!」
「へい、ただいま……へ、お早うございます」
「なにいってんだ。ちっとも早くなんぞあるもんか。ひとのうちへ厄介になって、起こされなきゃあ起きねえようなこっちゃあいけねえぜ。なにをまごまごしてるんだ。早くむこうへいって顔を洗っちまえ」
「あのう……楊子《ようじ》がございませんが……」
「楊子? どうするんだ?」
「いえ、楊子で歯をみがくんで……」
「ばかっ、楊子なんぞいるもんか」
「へえ?」
「そこにざるがつるしてある。そのなかに塩がへえってるから、そいつを一つまみつまんで、指へつけてぐいぐいとやりゃあ、それでいいんだ」
「へえ、うちの小僧が、よくそういうことをしていました」
「なにをいやあがる。小僧でなくったってそれで十分だ。てめえは土左衛門だ。吾妻橋の上からとびこんで、もういったん死んじまったんじゃあねえか」
「へえ、わかりました。わかりました」
「……ああ、顔を洗ったか。おい、ばあさん、めしにしてやんなよ」
「ええ、いま、お汁《つけ》をあっためてるから……」
「お汁《つけ》なんぞあっためなくっていいんだよ。こんな野郎に……お汁でめし食うつらじゃねえやいっ、こいつあ……お汁で顔を洗うつらだい……さあさあ、徳や、早く食いねえ。なに? いただきますもなにもねえから早く食えよ……おいしいお汁だって? あたりめえよ。てめえんとこのお汁とはちがわあ。おらあ、道楽をした人間だ。かつおぶしだっていいのをつかってるんだ。てめえのおやじなんざあ、かつおぶしをお汁のなかへいれるというと、肝《きも》をつぶしていやがる。金ばかりこしらえたって、ろくなものを食わずにいるなあ生涯の損だ。てめえもいくらか道楽をしただけこんなうめえお汁を吸うだけでも得《とく》だろう? ……ああ、食っちまったか……あのう、ばあさんや、なんか着るものをだしてやんな。なに? 印《しるし》ばんてん? ああ、なんでもいいや。それからな、股《もも》ひきをだしてやんな。どんなんだってかまやあしねえや……え、膝がやぶけてる? そのほうが風通しがよくっていいや。あとは足袋《たび》だが、古いやつがあるかい? なに? 白足袋と紺足袋と片っぽずつだ? ……まあ、いいや、色どりがよくってな……それから、おれが大山まいりにいったときの笠があったな。あの笠をだしてやんな……それだ、それだ。うん、庭にいちじくの葉っぱがあるからな、その大きいやつを笠んなかへいれときな。炎天《えんてん》あるいて、暑さにやられるといけねえからな。あ、それから、弁当こしらえたかい? なあに、おかずなんぞいれなくてもいい。梅ぼしかなんか、ひとつほうりこんで、それから、たくあんがあったら、ふたきれもほうりこんどきゃあそれでいいや……さあ、徳や、そのずるずるした変な着物をぬいで、すぐしたくをするんだ」
「へえ、どこへまいりますんで?」
「いいからしたくをしろってんだ……ばあさん、みてやんな。着がえもろくにできゃあしねえ……うん、したくができたら、そのわらじをはくんだ」
「へえ、おじさん、どこかへ旅にいくんで?」
「旅をするんじゃあねえ。きょうから商《あきな》いをするんだ」
「へえ?」
「商いをするんだよ」
「なんの商いです?」
「唐茄子を売るんだ」
「えっ、唐茄子を?」
「そうだよ。あれをかついで売ってあるくんだ」
「えっ、あの荷をかついで? ……どうせ売るんなら、もっと気のきいたものを売らしてくださいな。なんぼなんでも、外聞《がいぶん》がわるいじゃありませんか」
「じゃあ、いやだってえのか?! いやならよしねえ。なにもむりに売ってくれなくったっていいんだから……ああ、やめろ、やめろ! いま着たものをぬいで、もとのその着物を着て、とっととでていけ! 吾妻橋からでもどっからでもとびこんじまえ!」
「おじさん、売ります、売りますから、かんべんしてください」
「この野郎、まだ目がさめねえのか。唐茄子売るのは外聞がわりいたあ、なんてえことをぬかしゃあがるんだ。てめえみてえなやつに売られる唐茄子のほうが、外聞がわりいって涙をこぼさあ。肩へてんびんあてて、汗水《あせみず》たらして売ってあるくのが、どこが外聞がわりいんだ? え、りっぱなお商人《あきんど》じゃあねえか。てめえに唐茄子売らして、なにもおれが、いくらのもうけをしようとか、楽《らく》をしようてんじゃあねえや。おめえが、そのすがたで、まじめに唐茄子を売ってあるいてるってえことが、どっかからか、きっとおめえのおやじの耳にはいる。そうすりゃあ、おめえのわびをいれるきっかけもつかめようてえもんだ。ひとの心も知りゃあがらねえで……なにも生涯唐茄子屋をするんじゃあねえや。よしんばまた、するにしても、おらあ、おめえのおやじのようなわからねえこたあいわねえ。てめえがかせいで、てめえでつかえ。おめえのように、親の金を盗みだしてつかいやがるから、勘当なんてことになるんだ。おめえがな、『おじさん、これだけもうかりましたから、あそびにいきたいんですが、どうもすこし金がたりませんから、なんとか足《た》してください』といやあ、いくらか足してもやらあ。『ひとりであそびにいくのもさびしいから、おじさん、つきあってくれませんか』といやあ、いっしょにもいってやらあ」
「いっしょにいってくれますか?」
「ああ、いってやるよ」
「じゃあ、今夜……」
「ばか野郎! てめえと、今夜なんぞ女郎買いにいってみろ、こんどは、おれのほうが、うちのばあさんに追いだされちまわあ……ひとが、ちょいと白い歯をみせりゃあ(やさしいことをいえば)、すぐにそれだ。そりゃあ、もうけたあとのはなしだよ」
「おやおや……」
「なにがおやおやだ……さあ、早くでかける用意をしろ。それからなあ、弁当はなんだよ。茶店なんぞへやすんで食えば、いくらかでも茶代を置かなくちゃあならねえ。だからな、商いをしたうちの台所かなんかで、水でも湯でももらって、そこで食うんだぞ。それからなあ、値段はなあ……うんうん、まあそんなもんだ。荷をかついでみな、荷を……」
「へえ……」
「へえじゃあねえ、かつぐんだよ」
「まだ、かついだことがございません」
「かついだことがねえったって、生きてるんじゃあねえか。いくじのねえやつだな……てんびんは、肩でかつぐんじゃあねえ。腰でかつぐんだ。あれっ、腰へてんびんをあててやがる。てんびんを腰へあててどうなるものか。てんびんを肩へあてて、腰で呼吸をとるんだ、いいか、それっ、うーんと……ばかっ、うしろがもちあがらねえや……おっとっと、前がさがった。しょうがねえな。こっちへよこせ。かつぎものというやつは、腰がかんじんだ。へっぴり腰をしていちゃあ、いつまで経《た》っても持ちあがらねえ。よくみてろっ、こうてんびんを肩にあてて、腰のほうをうーんと伸ばすんだ。どうだ。うしろだけ持ちあがったろう?」
「うしろは、おばさんが持ちあげたんで……」
「よけいなことをするな……うーん、こりゃあいけねえ。ああ、年はとりたくねえな。二、三年前までは、こんなものはなんでもなかったが、どうもいけねえ。おめえは、かぼそいんだから、しかたがねえ、三つ四つへらせ……うん、もうそのくらいでかつげるだろう。うん、よしよし、かつげたらいってこい。まだあぶなっかしいな。ひょろひょろしてやがって……大丈夫かい? 怪我するなよ。あっ、おいおい、納豆《なつとう》屋さん、いま、へえってきちゃあいけねえよ。こっちから、いまでていこうってんだから……いや、かつぎものになれねえんだから、ぶつかると、よけられねえんだ……ほらほら、徳や、もっと右へ寄れ、右へ……あーあ、どうもあぶなっかしいなあ。しっかりやってこいよ」
若旦那も身から出たさびでしかたがありませんから、いっしょうけんめい死んだ気になって重いやつをかつぎだしましたが、出口のところで、看板にあたまをぶつけたから、笠があみだになっちまいましたが、これを自分でなおすこともできませんで、そのままのかたちであるいております。あるくったって、もう、ひょろひょろ、ひょろひょろしているだけで……本所のおじさんのうちをでて、吾妻橋をわたって、浅草の田原町にきた時分には、ちょうど、炎天燃えるような暑さでございます。汗はだらだらでる、肩はいたいし、暑さは暑し、目はぐらぐらくらんでくる……ちょっと石につまずくと、ひょろひょろあるいていたところだから、はずみで、とっとっとっとっ、足のとめどがない。荷をむこうへほうりだして、どたりと前へのめったから、日かげんとこへはいこんで、
「うー、いてえ。あいたたたた……人殺し!」
「おい、どうしたい? 人殺しっていってるのは、おめえかい?」
「へえ……」
「人殺しって、相手はだれだ?」
「へえ、あんちくしょうで……」
「あんちくしょう? だれもいねえじゃあねえか」
「相手は唐茄子なんで……」
「なんだ、唐茄子? ……ああ、荷をおっぽりだしちまったなあ。おめえ、新米《しんめえ》だな。うーん、こりゃあ、おまえさんにゃあ、ちょいとむりだ。え? はじめてかい? そうだろうなあ。かわいそうに、いいところのむすこさんだな、おまえさんは……それにちげえねえ。道楽かなんかして、こらしめのために、こんなものを売らされてるんだろう。しかたがねえ。若えうちはありがちのことだ。まあ、いっしょうけんめいやるがいい。じゃあ、荷が軽くなるように、おれが買ってやろう」
「へえ、ありがとうございます。どうか、ただでよろしゅうございます」
「じょうだんいっちゃあいけねえ。ただもらっていくわけにゃあいかねえやな。じゃあ、唐茄子の値段なんて、まあ、こんなもんだろう。これでいいかい、銭は? 遠慮せずにいいなよ。足りなきゃあだすから……おれが三つもらってと……いまね、ここへ知ってる野郎が通るからね、そしたら、売りつけてやるから、お待ちよ……おい、金ちゃん」
「なんだい?」
「ちょいとたのみがあるんだ」
「なんだい、たのみてえなあ?」
「唐茄子買ってくれやい」
「なんだい、八百屋はじめたのか?」
「そうじゃあねえやな。このひとがな、はじめて唐茄子売るんだとよ。道楽のせいってやつさ。若え時分にゃあ、よくあるやつだ。なあ、いくつでもいいや。荷を軽くしてやってくんねえな。え? ふたっつ買ってくれる? そいつあ、ありがてえや。じゃあ、銭をここへおいてってくれ……おうおう、辰つぁん、おめえんとこは子どもが大勢いるんだ。唐茄子煮て食わしてやんなよ。子どもがよろこぶからさ。買ってくれるかい? 五つも? ありがとうよ……おう、留さん、唐茄子買ってくれやい……なあに、おれの知りあいでもなんでもねえんだが、荷が重くって、ぶったおれちまったんだ。かわいそうじゃあねえか。買ってやってくんねえ。たのまあ。ああ、三つ持ってってくれるかい? さすがは江戸っ子だ……おう、寅さん、買っとくれよ、唐茄子を……ふたっつ買ってくれる? そうかい、すまねえ、すまねえ……おう、半ちゃん」
「なんだ?」
「荷が重くってこまってるんだ。ひとつ唐茄子を買ってやってくれ」
「唐茄子? ふん、いやだよ。ごめんこうむらあ」
「おいおい、ひとつでもいいんだから、買ってくれよ」
「ばかにするない。いい若えもんが、昼日なか唐茄子なんぞぶらさげてあるけるもんか」
「なにを! 昼日なか唐茄子をぶらさげてあるいちゃあいけねえという、お上《かみ》のお達しでもあったか?」
「そんなものはありゃあしねえけれども……おらあ大《でえ》きれえなんだから……」
「ふーん、きれえか?」
「ああ、きれえだ」
「そうかい、そんなにきれえなら、むりに買ってくれたあいわねえや。なにいってやんでえ。てめえ、三年前に、おれんとこの二階に居候《いそうろう》してたときのことをわすれやがったか?」
「おいおい、なにも三年前のことを……」
「いったっていいじゃあねえか……うちのかかあが、『半さん、唐茄子が煮えたんだけど、どう? ご宗旨《しゆうし》ちがいだけども、食べてみる?』っていったら、てめえ、唄あ唄っていたのをやめて、『ありがとうござんす』って、二階から駈けおりてきやあがって、唐茄子の煮たのを三十八も食やあがったろ? こんちくしょうめ!」
「そんなことをいまさら……」
「ほんとうのことじゃあねえか。だから、そういったんだい」
「いいよ、いいよ、おめえは、すぐにむきになって怒るんだから……買やあいいんだろ?」
「ああ、買いねえな。とっとと……」
「ふん、まぬけな唐茄子屋じゃあねえか。てめえが、こんなところにぶったおれているから、三年前の居候のときのことまでいわれちまったじゃあねえか。ほらっ、銭はやるよ。唐茄子はいらねえや」
「おうおう、なんでえ、銭はやるが、唐茄子はいらねえたあ?! このひとはな、乞食じゃあねえんだぞ。荷が軽くなるように、ひとつでも買ってやってくれとたのんでるんじゃあねえか。銭だけ置くやつがあるか。持ってきな」
「持ってくよ」
「早く持ってけ。早く持ってけってんだい……あれっ、こんちくしょう、いざ持ってくとなったら、大きいのを選《よ》って(えらんで)やがらあ。いやな野郎だなあ、この泥棒は……」
「なんだよ、おい、唐茄子買って、泥棒までいわれりゃあ世話あねえや」
「早くいけ、このばかあ、ざまあみやがれ……おい、ちょいと、おまえさん、銭は大丈夫かい? よく財布にいれて、盗《と》られなさんなよ、いいかい? もうふたっつのこってるが……」
「へえ、ふたっつぐらいかつげます」
「あたりめえだ……じゃあ、辛抱《しんぼう》しなよ」
「ええ、ありがとうございます。おかげさまでたすかりました。で、どちらさまでございましょう?」
「じょうだんじゃあねえやな。唐茄子を買ったぐらいで、なにも名前を名乗るほどのこたあねえやな。おらあ、この町内《ちようねえ》のもんだ。こっちへきたときにゃあ、また買ってやるからな」
「へえ、ありがとうございます。これをご縁に、あしたのいま時分も、ここにたおれてます」
「そう毎日《めえにち》たおれちゃあいけねえや……気をつけていきなよ」
「へえ、ありがとうございます……ああ、わたる世間に鬼はないてえことをいうが、いい気っぷだなあ、あのひとは……ほんとうの江戸っ子てえやつだ。ありがてえなあ。もうふたっつしきゃあのこってない。のこして帰るより、みんな売って帰ろう。おじさんにほめられなくっちゃあ……ああ、ずいぶん軽くなったもんだな。さっきまでは、重くて気がつかなかったけど、なんにもいわずにあるいていたんじゃあ売れやしねえや。なんとかいわなくっちゃあいけねえんだよ……唐茄子……唐茄子……うーん、売り声てえものは、なかなかでないもんだなあ」
「ところてんやあ、てんや……」
「ああ、おどろいた。いきなり大きい声をだしておどかしゃあがって……しかし、うまいもんだ。『ところてんやあ、てんや』ってやがる。ああいう声をださなきゃあ売れねえんだな。うん、おれもああいう声をだして売ってみよう……ええ、唐茄子……唐茄子屋、唐茄子……ああ、屋をつけるといいんだなあ。唐茄子屋唐茄子……唐茄子屋唐茄子……うん、これならいいや……唐茄子屋唐茄子……なんだい、子どもが大勢ついてきやがった。見世物じゃあねえんだから、あっちへおいで! ……唐茄子屋唐茄子……あれっ、若い娘さんが笑っていかあ……唐茄子屋!」
「うわっ、びっくりした。おい、よせやい、いきなり大きな声だしゃあがって……」
「どうもすみません……なにかいおうとおもうと、すぐにひとがきやがんなあ……あんまりひとの通らないところへいって稽古《けいこ》しよう……ああ、ここはいいや。ひとがいなくって……なんだ、いねえわけだ。吉原たんぼだ。ここなら稽古しやすいや。聞いてるのは蛙だけなんだから……ええ、唐茄子屋でござい。唐茄子屋唐茄子……あーあ、むこうに吉原の女郎屋の屋根がみえやがる。だれだかの句に『菜の花や、むこうに吉原《ちよう》の屋根がみえ』とあったが、うめえことをいったもんだ。ふーん、昼あそびをしているやつがあるようだ。あすこいらの二階だが、おいらんがみていやあしねえかな? 遠《とお》眼鏡《めがね》でみると、ここいらは目の前にみえる。新造衆かなんかが、田んぼのほうを遠眼鏡でみて、『あらっ、あそこへいく八百屋は、若旦那のようじゃありませんか』っていうと、おいらんが、『ばかなことをいいなますな。こっちへめがねを貸しなまし』ってんで、ひったくって、ひょいとみると、やっぱりおれだからおどろくだろうな。おいらんが、おれのすがたをみて、わずらいでもしなきゃあいいが……うん、去年のいまごろだったかな? おいらんのとこへ一晩泊まって、朝、帰ろうとすると、ばかにふってやがったな……やらずの雨てえやつだ……唐茄子屋唐茄子……すると、おいらんが、『若旦那、どうしなます?』『どうしなますたって、この雨じゃあ帰れやしねえや。居つづけしちゃおう』『あらっ、うれしいこと、わちきが、なんかごちそうしまほう』ってんで、おれの好きな寄せ鍋をとってくれたなあ。ふたあり、さしむかいで飲んでいたが、おいらんは、あんまり飲《い》けないほうだから、すぐに目のふちを赤くして、『若旦那、わちきあ酔いましたわ。ねえ、なにか聞かしてくんなましよ』……ああ、そうだ、唐茄子屋唐茄子……『うん、じゃあ、おれ、薄墨《うすずみ》でも唄おう』『まあ、ぜひ聞かしてくんなまし』『三味線を持ってきねえな』…… 薄墨に、書く玉章《たまずさ》もおもいして……と唄いだして、 雁《かり》鳴きわたる、宵やみに、月影ならで、主さんに……とくると、おいらんが三味線をやめて、おれの顔をじいっとみていたが、『若旦那、ぬしは、どうしてそんなにいきなんざますの、ほんに、わちきは、いのちもいりんせんわ』ってんで、おれの膝をきゅーっとつねって……唐茄子屋唐茄子……」
まるで気ちがいのように、色恋と売り声といっしょにしております。
誓願寺店《せいがんじだな》といって、ただいまの浅草国際劇場のあたりを通りかかりますと、そのころは、貧乏人ばかり住んでいるようなところで……せまい路地からでてきたのは、服装《なり》はそまつでございますが、三十一、二の品のいいおかみさんで、ちいさな赤ん坊をおぶって、いっしょうけんめいに手まねきをしております。そのあとをついて、裏へいくと、
「あの、おそれいりますが、こっちへはいってください、唐茄子屋さん」
「へえ、どうもありがとうございます」
「あのう、お唐茄子をひとついただきたいのですが……」
「もうふたっつしきゃあございませんで、どうぞこれを……」
「お鳥目《ちようもく》(銭)が、これだけしかございませんので……」
「いえ、よろしゅうございます。ひとつ、おまけしておきますから……」
「それでは、まことにおそれいります」
「いいえ、かまやあしません。そのかわり、すみませんけれども、お弁当をどっかでつかいたいとおもうんですが……ちょいと、台所の隅かなんか拝借して、お白湯《さゆ》でもなんでも一ぱいいただきたいので……」
「さあ、どうぞ食べてください」
湯のはいったきたない土びんをだしてくれましたので、
「へえ、ありがとう存じます」
と、弁当箱のふたをあけて、いま、箸《はし》をとって食べようとすると、二枚折りの屏風《びようぶ》のなかから、でてきました男の子が、年ごろは、四つか五つでございましょうか、やせて目ばかりぎょろっとしておりますが、指をくわえて、じいーっとみております。
「これっ、なんです、そんなことをして……あっちへいってらっしゃい」
「あたい、おまんまが食べてえなあ」
「いま、唐茄子を煮てあげますよ」
「唐茄子なんかいやだい。おまんまがいいんだ」
「そんなことをいうもんじゃあありません……あのう、あなた、すみませんが、その土びんを持って、おとなりへいって食べてくださいまし」
「ええ、ご新造さん、この坊やが、おいた(いたずら)でもなすったんで、お仕置《しお》きなすってるんですか? いくらなんでも、おいたぐらいで、そんなことをなさらないで、食べるものだけは、おあげなすったほうがよろしいんじゃあございませんか?」
「いいえ、おはずかしいはなしでございますが、亭主《やど》が永の浪人で、暮らしむきにこまりますので、ひと月ばかり前に、知りあいへ金の工面《くめん》にいくとでてまいりましたが、それぎり帰りませんで、売るものも売りつくしてしまい、これにも、もう二、三日、ろくろく食べさせておりませんので……」
「へえ、そうですか、二、三日、ろくろくものを食べていらっしゃらないんで? そうでございますか。お腹のへったのはつらいもので、わたしも腹がへって身を投げようと……いえ、なに……ごもっともでございます。こんな弁当でよかったら、どうぞ坊やにあげてくださいまし」
「いいえ、それではおそれいります」
「いえ、そんなことはかまいません。さあ、坊っちゃん、これをおあがんなさい」
弁当をだすと、子どもは、もう夢中で、手づかみで食べるというようなことで……
「これっ、行儀《ぎようぎ》のわるい……まことにめんぼくしだいもございません」
「とんでもないことで……ええ、それから、これはね、唐茄子を売った売りあげで、いくらもないんですけど、あたしの心ばかりですから……」
「いいえ、そんなものをいただきましては……」
「いいえ、よろしいんですから……へえ、ごめんください」
辞退するのを、むりに押しつけると、から籠をかついで路地からとびだしていきました。
「もし、八百屋さーん」
このおかみさんのほうでは、もらってはすまないというので、前掛けへ銭をつつんで、あとから追っかけて、路地からでようとすると、ばったり出会ったのが、この長屋の家主で、欲の国から欲をひろめにきたというような、強欲《ごうよく》非道な男でございます。
「おい、おかみさん待ちな。どこへいくんだ?」
「あの、ただいま、ちょっと……」
「どこへいくんだか知らねえが、おまえさん、亭主がいなくって音信不通、とどくはずの金もとどかねえというから、いままで待っていたんだが、家賃をこうためられちゃあ、とても置いとくわけにいかねえから、きょうかぎり、うちをあけてくれなくちゃあこまるよ。それとも家賃をおさめるか……あっ、なんだい、そりゃあ? その前掛けにつつんだものは? ……なに? 八百屋が、売りあげをみんなくれたから、それをかえしにいく? ばかなことをいいなさんな。せっかくもらったものを、かえすやつがあるもんか。そんな了簡《りようけん》だから貧乏するんだ。まあ、とにかく、その金は、家賃の内金にもらっていくよ」
というと、やるともなんともいわないのに、前掛けに手をかけて、
「あれっ、これだけは……」
というのをかまわず、前掛けごと、びりっとやぶいて持っていってしまったので、赤ん坊は背なかで泣きだすし、おかみさんは、ただもう、うろうろするばかりで、どうすることもできません。
「おじさん、ただいま」
「おう、帰ってきたか。おばあさん、帰ってきたよ。みなよ、あれでも感心なものだ。はじめててんびんを肩にあてるのだから、三、四町もいったら、かつげねえといって帰ってくるだろうとおもったら、それでも、いっしょうけんめいというものはおそろしいもんだ。みんな売ったとみえて、から籠をかついで帰ってきた。あはははは、よくやった、よくやった。暑かったろう? ……なに、浅草の田原町でころんで、お職人風のかたに売っていただいたって? ……そうか、まあまあ、よしよし……うん、わたる世間に鬼はねえとはよくいったもんだ。どうだ、風呂へいくか? なに? 腹がへった? そうか、ばあさんや、腹がへったというから、あじがあったろう? 二ひきある? 大きいほうを焼いてやれ。ちいせえほうは、おれが食うから……なあに、もうかるもうからねえはどうでもいい。売ればいいんだ。さあ、とにかく売りあげをみせな、売りあげを……」
「その……売りあげが……ないんです」
「なに?」
「売りあげは、まるっきりないんです」
「なに? 売りあげがねえ? ……ばあさん、あじをおろしな、あじをおろしなよ、なに? 片っかわ焼いた? 片っかわ焼いたら、焼いちまいなよ……どうしたんだ? おれはな、てめえのおやじとはちがうんだぞ。いいかげんなことをいって、うんそうかといってすましちゃあおかねえ。どうして品ものを売って売りあげがねえんだ? ええ、売りあげはどうしたんだ?」
「へえ、誓願寺店のところへくると、どっかのおかみさんが、赤ん坊をおぶって、きたない服装《なり》で、あたしを呼びますから、いっしょにいってみますと、唐茄子をひとついただきたいっていうんで、『もうどうせあとひとつしきゃのこっていないから、おまけいたします。そのかわり、おべんとうをつかいたいから、お湯を一ぱいくださいまし』といって、あたしが、お弁当をつかおうとしたんで……」
「ふん」
「すると、屏風のかげから、四つか五つの男の子がでてきまして、お弁当をみて、『おまんまが食べたい、おまんまが食べたい』というから、『どうしたんです?』と聞いてみると、そのかたのご主人が浪人をして、どこかへ金の工面にいって、ひと月も帰ってこないんで、売るものは売りつくしてしまって、二、三日ろくろく食べてないので、子どもが食べたがるから、となりへいって、弁当をつかってくれというんで……あたしも三日も食わずにいたこともあって、お腹のすいたてえのはずいぶんつらいもんで……あんまりかわいそうですから、弁当も売りあげも、みんなやっちゃいました」
「うん、そうか? ずいぶん気前《きめえ》のいいことをやりゃあがったな。だが、徳や、そりゃあほんとうだろうな?」
「へえ」
「うそだと承知しねえぞ」
「うそなんぞいやあしません」
「そうか。じゃあ、これから、そこへいってたしかめるから、さあ、おれといっしょにいけ」
「腹がへって……ちょいとごはんを……」
「なあに、めしなんぞあとでいいんだい。なにいってやんでえ。ええ、ばあさんや、そのちょうちんをだせ、ちょうちんを……いってくるからな。さあ、徳や、早くこい、早く……」
なかなかきかないおじさんで、これから、ちょうちんをつけてやってまいりました。
「どこだ?」
「ええ、昼間と夜とでは、ちょっと見当《けんとう》がちがいますからね。たぶんこの裏だろうとおもうんですが、ちょっとちょうちんを……ここです。ああ、あかりが消えてしまってる。となりで聞いてみますから……あの、こんばんは」
「はい、どなた?」
「へえ、あたしは、昼間きた八百屋でございますけども、おとなりはしまっておりますが……」
「ああ、八百屋さんですか。どうぞお掛けくださいまし。いえね、いまもあなたのおうわさをしていたんですよ。昼間、あなたが、お弁当と売りあげをやってくだすった。なんてまあご親切なおかただろう。なかなかできないことだと、あたしゃ、かげで、ほんとうにうれしくって、手をあわしてましたよ。すると、ああいうもの堅いおかみさんだから、売りあげをもらっちゃあすまないから、おかえししようてんで、前掛けへお金をくるんで、路地をでようとすると、この長屋の家主が欲ばったやつで、店賃のかたにその金をよこせってんで、やるともなんともいわないうちに、むりやりに前掛けごとやぶいて持ってっちまった。赤ん坊はわあわあ泣いて、おかみさんも『唐茄子屋さんにすまない、唐茄子屋さんにすまない』と、泣いて帰ってきたから、あたしたちが、みんなでなだめて、まあ、うちへいれてしまってね……それからしばらくして日が暮れてもあかりをつけなさらない。『おかみさん、油がないのかい? 油がなければあげますよ』と、はいってみると、おかみさんが、子どもをおぶったなりで……梁《はり》へぶらさがって……下にいる男の子は、死んでいるとは知らないから、『おっかあや、おまんまが食べたいから、おりとくれ、おりとくれ』って……寅さんや、あたしゃ胸がいっぱいで、もうはなしができないから、おまえさん、おはなしをしておくれよ」
「ええ、おかみさんは、まあ、気の毒に、首をくくっちまったんで……ええ、なんていめいめしい大家じゃあございませんか、ねえ」
「はい、こんばんは、ええ、わたしは、この男のおじでございまして……いえ、なにもこれに唐茄子なんぞ売らせなくてもいいんですが、道楽がすぎたもんですから、こらしめのためにな……しかし、なあ、その家主さんもあんまりひどい……おいっ、これっ、徳や! どこへいくんだ?」
若旦那は、これを聞いておりましたが、若いだけにかっとして、顔色を変えて駈けだすと、角《かど》の家主の家の格子《こうし》をガラッとあけて、わらじのまんまであがってきたから、家主はおどろいて、
「なんだ、なんだ? てめえは……ひとのうちへ土足《どそく》のままであがってきやがって……」
「かまうもんか」
「なんだと、かまうもんか? かまわねえとは、こっちでいうことだ。やいっ、いったい、てめえはなにものだ?」
「や、や、八百屋だ」
「八百屋がどうした?」
「こんちくしょうめ、おちついてやがって……やいっ、あの浪人のかみさんがな、子どもをかかえて、食うものもなくってかわいそうだから、おれが、売りあげをわたしたんじゃあねえか。それを、てめえは、途中でとりあげちめえやがって……それがために、おかみさんはな、おれにすまねえってんで……首くくって……死んじまったんだぞ、こんちくしょうめ!」
わきにあったやかんをとると、家主のあたまへポカーンとたたきつけた。やかんとやかん(はげあたま)とはちあわせしたからたいへんで……
「なぐりゃあがったな」
「なにを、こんちくしょうめ」
てんで、たいへんなさわぎ……長屋の連中は大よろこびでございます。
「おいおい、みたか? みたか?」
「ああ、みたとも……いい心持ちだなあ。ふだんからあの大家はしゃくにさわってたんだ。まあ、相手が大家だからがまんしてたんだが、若えだけに、いせいがいいや。やかんでもって、やかんをポカポカ……やかぽこときたときにゃあ、胸のつかえが、いっぺんにさがったぜ」
「さあ、こういうときだ。あすこへいってなぐってやれ」
「うん、おれも三つ四つポカポカとなぐってやりてえが、店賃が五つたまってるから……」
「よせやい……おうおう、どうだい、大家のあたまに大きなこぶができたぜ。ざまあみやがれてんだ……おいおい、みてみろよ。源六のやつ、いやな野郎だなあ。大家のあたまへくすりなんか塗《ぬ》ってやがる。おべっか野郎めっ、くすり塗って、店賃かなんかまけてもらおうとおもってやがんな。あんちくしょう、こっちへきたら、とっちめてやろうじゃあねえか……やいやいっ、こらっ、源六!」
「なんだ?」
「なんだじゃねえや。前へでろ! てめえ、おべっかしてやがって……なんだって、大家のあたまへくすりなんぞ塗ってやるんだ!」
「ふふふ、ありゃあくすりじゃあねえんだよ。七色とんがらしをぶっかけたんだ」
「とんがらしかい? そいつあいいや」
たいへんなさわぎ……首をくくったおかみさんのほうは、医者を呼んで手当てをすると、命数があったものかたすかりましたが、役人がきて、おとりしらべの結果、家主はふとどきというのでおしかりをうけ、若旦那は、人をたすけたというので、ときの奉行からごほうびをいただき、めでたく勘当がゆるされたと申します。
情けはひとのためならず、唐茄子屋政談の一席でございます。
小 粒
おからだというものは、あまり大きすぎましても、ちいさすぎましても気になるものでございますが、とりわけ、おちいさいかたは、「おまえは、ちいさい、ちいさい」といわれますと、ひとから見下《みくだ》されたようにお感じになって気になさいます。
「なに? ちいせえのがきた? ……どこへ? ……ああ、あんなところにいる。おいおい、子ども……」
「なに? 子ども? ばかにすんない」
「怒るんじゃあないよ、坊っちゃん」
「坊っちゃんたあなんだい」
「そんなにむやみにとんがるなよ。まあいいから、こっちへおいで……ああっ、そんなに足もとをちょこちょこすると、駒げたの歯にはさまるぜ」
「ひどいことをいうなよ。人間が駒げたの歯になんぞはさまるかい……おまえは、自分が大きいもんだから、ちいせえものをばかにするが、大きいやつは、雨がふると、さきにぬれるぞ」
「そのかわり、ちいせえやつは、おてんとうさまに遠いから、かわきがおせえや」
「あれっ、あんなことをいってやがらあ……そのかわり、おめえなんぞ、台風のときは、あたりがひどいぞ」
「おめえは、水がでるともぐるぞ」
「ああいえばこういう……ほんとにしゃくにさわる」
「まあ、そう怒るな、怒るな。このあいだも、みんなが、おめえのことをほめてたぜ」
「なんだって?」
「あいつは、背がちいせえから、万事が経済的だってんだ」
「またおかしなことをいおうってんだな」
「いいから、だまってお聞きよ……おまえのところで、ゆかた地を一反買ったら、おめえとかみさんと子どもの着物ができて、あまったやつで、台所ののれんができたってな?」
「なにをいってやがる。一反の布《ぬの》でそんなにとれるかい」
「かくしたってだめだぞ。そのほか、手ぬぐいが二枚とれたってじゃあねえか」
「そんなばかな……」
「この前、大掃除のときに、おめえ、かがまねえではいっていって、縁の下を掃除したそうだな」
「おい、いくらちいせえったって、ねずみじゃああるめえし、縁の下へかがまずにはいれるもんか」
「掃除がすんじまって、みんなで天どんをとって食おうとしたら、おめえがみえねえんで、みんなが心配した。ひょっとして、ごみんなかへまざってすてちまったんじゃあねえかって……」
「ひでえことをいうない」
「しかたがねえから、みんなで天どんを食っちまって、小楊子《こようじ》をつかおうとおもってさがすうちに、長火鉢のひきだしをあけたら、おめえ、そのなかで寝ていやがった」
「おいおい、いいかげんにしろよ。いくらちいせえからって、長火鉢のひきだしなんぞに寝られるかい。ばかにしやがって、ほんとうに……」
「まあ、そんなに怒るなってことよ」
「これが怒らずにいられるもんか……もう、おめえとは口もきかねえ……ああ、しゃくにさわるなあ。ちいせえ、ちいせえって、いつもひとをばかにしゃあがって……なんとかあいつをやりこめてやりてえな。よしっ、きょうは、伊勢屋のご隠居のところへいって知恵を借りよう。あのひとはもの知りだからな……ええ、ご隠居さん、いらっしゃいますか?」
「いやあ、ようこそおいでなすった。さあ、どうぞこちらへおいで」
「ええ、ありがとうございます」
「さあ、早く立っておあがりよ」
「いえ、立ってるんで……」
「ああ、立ってるのか。こりゃあ失礼したな」
「どうも、ご隠居さん、ごぶさたをしてすみません」
「いや、ごぶさたは、おたがいさまだ。そんなことはどうでもいいが、おまえ、急にみえなくなったが、どこにいるんだ?」
「火鉢のこちらがわで、おじぎをしているんで……」
「あっはははは、いたいた。いやだなどうも、のみをさがすようで……」
「そ、それなんですよ、ご隠居さん、友だちがね、わたしの顔をみるたんびに、『おい、ちいせえの、おい、ちいせえの』といやあがってね、くやしくって、くやしくってしょうがねえんで……」
「ははあ、そりゃあいかんな。しかしまあ、人間というものは、口のききようひとつでどうにでもなるもんだ。友だちが、ちいさいといったら、『背がちいさけりゃあどうなんだ?』といってやんなさい。『浅草の観音さまをみろ。わずか一寸八分でも、十八間四面という大きなお堂へはいっている。仁王さまは大きくても門番だ。太閤さまは、五尺にたりないからだでも、加藤だの、福島だのというりっぱな家来がある、山椒は小つぶでもヒリリとからいぞ』とでもいったらどうだい?」
「あっ、なるほど、こいつあうまいやどうも……では、ちょっといってきます」
「わざわざいかなくってもいいじゃあないか」
「いいえ、いわずにいるとわすれちまいますから……大きにありがとうございます……なるほどなあ、さすがに年《とし》の功《こう》だ。むだにあたまを光らしちゃあいねえや。うん、うめえもんだ……やーい、きたぞ、きたぞ」
「ああ、またやってきやがった。なにしにきたい?」
「ええ? なにしにきた? ……それはことばがちがうだろう?」
「どうちがうんだ?」
「どうちがうったって、いつでもおれの顔をみて、からかうじゃあねえか。あのほうをやってくれ」
「あのほうってえのはなんだ?」
「ほれ、おれの顔をみて、ちいせえの、ちいせえのというだろう」
「ああ、あれか……あれは、いまいいたくねえ」
「あれっ、いやにさからうな、こんちくしょう。まあ、いいたくはなかろうけれども、こっちにも、いろいろと仕入れたことがあるもんだから、ちょいと、そういってくんねえな、たのまあ」
「たのんでやがらあ。じゃあ、おい、ちいせえの」
「いや、ありがとう」
「あれっ、礼をいってやがらあ」
「やい、ちいせえたって大きなお世話だぞ」
「なにをいやあがる。てめえがたのんだんじゃねえか」
「そうちょいちょい口をだすない。順が狂うから……」
「よくいろんなことをいやあがるな」
「ちいせえたって、大きなお世話だとくらあ……浅草の観音さまだってんだ……なあ、観音さまは……観音さまは……一銭八厘だてんだ」
「いやに安いんだな」
「なにを、安いたって売るもんか。なあ、観音さまは、背はちいせえが、お堂は大きいや。お堂は大きいが、家賃はでねえぞ」
「あたりめえよ。観音さまが家賃を払うもんか」
「だまってろよ。まちがえるから……仁王さまは、背は大きいが門番だとくらあ。大男総身に知恵がまわりかねてんだ。自分の足にあわしたわらじをつくってぶらさげてるから売れねえだろう」
「ありゃあ売ってるんじゃあねえやな」
「だまっててくれよ……そうすると、そこへ太閤さまがくるぞ」
「おっ、そんなところへ太閤さまがくるのか?」
「そりゃあくるさ。なにしろにぎやかだから、だれがくるかわからねえんだ。なあ、太閤さまは、背が五尺にたりねえや。五尺にたりねえから……角力《すもう》とりにはなれねえ」
「太閤さまが角力とりになんぞなるもんか」
「けれどもとくらあ。けれども……けれども、その……加藤だの、福島だのという、大きな家来があるとくらあ。そうすると、その……その……山椒てんだ。この山椒は、なかなかむずかしいぞ。山椒は……山椒は……山椒はヒリリとからいや」
「小つぶがおちたい」
「どこへ?」
「あれっ、さがしてやがる」
みんなにちいさい、ちいさいといわれるのがくやしいので、この男、柴山の仁王尊へ、三七《さんしち》、二十一日の願をかけますと、ご利益はありがたいもので、本人が寝ております枕《まくら》もとへ仁王尊がお立ちになりまして、「なんじ、信心の威徳によって、身のたけを三寸ほど伸ばしてとらせるぞ。夢々うたがうことなかれ」とおっしゃったかとおもうと目がさめました。
夢のお告げの通り、ほんとうに背がのびたのかしらんと、ぐいっと足をのばしてみますと、ふとんから足が三寸ばかりでましたから、「やれ、ありがたい」ってんで、はね起きてみますと、三布《みの》ぶとんを横に着て寝ておりました。
盃の殿さま
むかしのお大名というものは、たいへんにおうようなものだったそうで、おっしゃること、なさることが、すべてまことにおおらかだったようでございます。
「これ、三太夫、今夜は十五夜じゃな」
「御意《ぎよい》にございます」
「お月さまはでたか?」
「おそれながら申しあげます。お月さまとおおせられましては、下《しも》ざまのもののことばにございます。上《かみ》は、ご大身のお身の上なれば、月ならば月とおおせられまするよう」
「ああさようか。余は、大名じゃから、さまをつけずに、月と申すのじゃな?」
「御意」
「どうじゃ、月はでたか?」
「冴えわたりましてございます」
「うん、しからば、星めらもでたか?」
そんなにいばらなくってもいいんで……
あるお殿さま、ただいまでいうノイローゼ、神経衰弱、そのころでいう気鬱症《きうつしよう》ということで、ご家中一同心配いたしまして、なにかお気が晴れるようにと、お狂言師をまねいて、お狂言の催《もよお》しをいたしましてもおもしろくないごようす。講釈師や落語家《はなしか》などをおまねきになっても、すこしもおよろこびがございません。
あるとき、おそばの衆が、東錦絵《あずまにしきえ》をごらんにいれると、これがたいそう御意にかない、熱心にごらんになられまして、
「金弥」
「はっ」
「これはなんじゃ?」
「おそれながら、『水滸伝《すいこでん》』の百八人の豪傑にございます」
「なにものがえがいた?」
「名人とうわさの高い国芳《くによし》が丹精《たんせい》こめてえがきましたもので……」
「こわい顔じゃの」
「御意にございます」
「これはなんじゃ?」
「広重のえがきました江戸名所にございます」
「さようか。これは?」
「おそれながら、霞《かすみ》ガ関《せき》にございます」
「うん、実地をみるようじゃな。これはなんじゃ?」
「浅草観世音の歳の市の図にございます」
「雪がふっておるな」
「御意にございます」
「これはなんじゃ?」
「吉原街《まち》の桜どきにございます」
「ほう、向島と申すのはこれか?」
「いえ、向島とはちがいます。吉原の夜桜の図にございます」
「さようか。これは、なにをする婦人じゃ?」
「それは傾城《けいせい》にございます」
「ふーん、さようか。傾城傾国、情《なさけ》をひさぐ(売る)ものと聞くが、さようか?」
「御意にござります」
「この一枚絵も広重というものがえがいたのか?」
「いえ、亀戸《かめいど》の豊国《とよくに》にございます」
「ここに老婆がおるが、なんじゃ?」
「それは、遣《や》り手《て》と申します」
「なにをいたすものじゃ?」
「遊女屋の二階を支配いたします。奥むきで申す老女にござります」
「さようか……ここに子どもがおるな」
「それは、禿《かむろ》と申します」
「禿か……そのそばにおる若い婦人は?」
「新造《しんぞ》と申しまして、まず、遊女の腰元というようなもので……」
「うん、さようか……いずれもうつくしゅうえがいてはあるが、これは、世に申す絵そらごと、まことは、かようなうつくしいものがおるわけではあるまいの」
「おそれながら申しあげます。傾城のうつくしさのみは、絵そらごととは申せません。うつくしいがために、亀戸の豊国が丹精こめてえがきましたものでございます」
「まことにこの通りか?」
「御意……」
「そのことばにいつわりあらば、そのままにはすておかんぞ。手討ちにいたすがよいか?」
「ははっ、けっしていつわりではございません」
「うん、さようか。しからば、植村弥十郎を呼べ」
「ははっ」
呼ばれました植村弥十郎というおかたは、いってみれば、ご意見番という役目のうるさいおじいさんで、ふだんは、殿さまのほうがさけるようにしておりますのに、きょうは、どういうわけか、殿さまのほうからお声がかかりましたから、いそいでご前へ、
「ははっ、なにかお召しにござりまして……」
「おう、弥十郎か、もそっと近うすすめ。金弥が、余の病気をなぐさめんと申して、この錦絵を持参いたした。そちも近う寄ってみい」
「ははっ」
「聞くところによれば、吉原につとめをいたす遊女は、これなる錦絵よりもすぐれてうつくしいとのことであるが、どうじゃ?」
「これはまた、異《い》なおたずねにござりますな。てまえなぞは、若年のときより武骨一辺にて、さようなものをみたこともございません。なれども、若ざむらいなどのうわさばなしによりますれば、何屋のたれは、絵にもえがけぬ、天女《てんによ》の天《あま》くだったる風情《ふぜい》ありなどと申します。さすれば、金弥めの申しあげましたることも、あながちいつわりにはござりますまい」
「さようか。しからば、余は、これよりただちに吉原とやらに、傾城をもとめにまいるぞ」
「これはまた、もってのほかのことにござります。かしこは悪場所と申しまして、ご身分あるおかたの、足踏みなさるべきところにござりません」
「いや、余は、遊興のためにまいるのではない。病気保養のためにまいるのじゃ」
「いえ、たとえ病気保養のためとは申せ、この儀、ご公儀のお耳にはいりますれば、お家の大事にも立ちいたらんかと存じられます。なにとぞ、おとどまりのほどを……」
「うん……しからば、傾城をもとめんでもよい。ただ、見物にまいるのじゃ」
「たとえご見物たりとも、かの悪《あ》しき場所に立ちいることはあいなりません」
「しからば、どうあってもならんと申すか?」
「はっ」
「……よしっ、しからば、余は、きょうかぎりくすりは飲まんぞ……うーん、気分がわるい。つむりがいたい。うーん、気分がわるいぞ……」
しかたがないから、重役のかたがたがあつまって、ご相談になりましたが、殿さまは、吉原へいけなければ、くすりも飲まないというのですから、とにかく医者に聞いてみようと評議一決いたしまして、医者にうかがいを立てますと、
「殿さまのご病気は、気鬱症《きうつしよう》でござりますれば、なにか気のほぐれるようなことがのぞましゅうございます。まあ、吉原見物なども、すこしは効果があるかも知れません」
お医者の許可がでましたので、このことを、弥十郎から殿さまに申しあげると大よろこび、
「さっそく供《とも》ぞろいいたせ」
「おそれながら申しあげます」
「なんじゃ?」
「お供ぞろいはなりません。先刻も申しあげました通り、悪場所のことでございますゆえ、おしのびでおでかけのほどを……」
「さようか。よきにはからえ」
「はっ」
おしのびといっても、十人や二十人の供はつきます。吉原へまいりまして、設《もう》けのお茶屋の二階へ通されます。遠巻きに、若ざむらいがずーっととりかこんでおりまして、殿さまに対して、もしも無礼をはたらくものがあれば、一刀のもとに斬りすてようという、まことに物騒《ぶつそう》な女郎買いもあったもので……
そのうちに、たそがれどきというので、両側には、ずーっと、あかりがはいります。すると、すががきという音楽につれまして、コンカン、コンカン、コンカン、金棒の音もろともに、コロンカラン、コロンカランという内外八文字《うちそとはちもんじ》、つまり、おいらん道中というやつで……
「おっ、婦人がまいった。これ、あれが傾城というものであるか? ……うん、うつくしいものじゃ。おっ、うごいておる」
「生きておりますからうごきます」
「金弥、なるほど豊国と申すものは名人じゃな」
「はっ」
「どうも、すこしのいつわりもない。絵の通りじゃ」
「おおせの通り……」
「むこうからまいった傾城は、なんと申すか?」
「ははっ、須崎万次郎の抱《かか》え、白鳥《しらとり》にござります」
「ふーん、まさしく白鳥《はくちよう》のごとくうつくしいの……おう、あのあとからまいった傾城はなんと申す?」
「玉屋山三《たまやさんざ》の抱え、小紫《こむらさき》にござります」
「ほう、うつくしい名であるな。名は体《たい》をあらわすとはこのことである……おう、そのあとからまいったあれは?」
「丁字屋《ちようじや》の丁山《ちようざん》にございます」
「いや、いずれおとらぬ美女ぞろいじゃの……あっ、そのあとからまいる、あれはだれじゃ?」 遠くから火事の見当《けんとう》をみるように、指さしばかりしております。四番目にでてまいりましたのが、扇屋右衛門《おおぎやうえもん》の抱えで花扇《はなおうぎ》というおいらんで、当時、吉原切っての人気者でございまして、ひときわ目立ったうつくしさでございます。殿さまは、もううっとりとなって、
「うーん、うつくしいのう。金弥」
「はっ」
「あれは、なんと申す?」
「扇屋右衛門の抱え、花扇にござります」
「うーん、まことにうつくしいものであるの……」
殿さまがごらんになっているむこうのお茶屋の床几《しようぎ》へ、花扇が一時の休息というので腰をかけ、たばこをのんでおります。殿さまは、これを正面からごらんになっておりますので、もう息をはずませて、
「うーん、これはまた一段とうつくしいの……唐土《もろこし》の楊貴妃《ようきひ》、わが朝《ちよう》の小町といえども遠くおよぶまい、これ弥十郎」
「はっ」
「かの花扇をこれへまねいて、余が盃の相手をいたさせたいが……」
「いや、ご見物なればまだしものこと、いやしき傾城をおそばへとは、もってのほかにござりまする」
「相成《あいな》らんか? いかんと申すのか? ……うーん、つむりがいたい、余は気分がわるいぞ、うーん」
まるでだだっ子でございます。まあ、盃の相手ぐらいならばよろしかろうと、花扇をまねくことになりました。
おいらんのほうでも、お大名の前へでるというので、お化粧をしなおしまして、いっそううつくしくなってはいってまいりました。ふとんの上に坐った花扇が、新造のさしだすきせるで、たばこをすーっとくゆらせておりましたが、うっとりと自分にみとれております殿さまの顔をじっとみすえました。その色っぽいことといったらございません。殿さまは、まるで感電でもしたようにぶるぶるっとふるえて、
「弥十郎、余は、花扇のもとへ一泊してまいりたいぞ」
「いや、さようなる儀は、もってのほかでございます」
「ならんと申すか? ……うーん、つむりがいたい……気分が……」
またはじまりましたから、どうにも手がつけられません。そこで、一晩ぐらいならよかろうということで、殿さまがお泊まりということになりましたから、ご家来衆もお相伴《しようばん》で、それぞれおいらんをいただけるというようなわけで、もうたいへんなさわぎ。
一晩あそんでお帰りになりましたが、生まれてはじめての遊興でございますから、どうもそのたのしさをわすれかねて、
「弥十郎」
「はっ、お召しにござりますか?」
「そのほうのはからいによって、病いもおおきにこころようになったぞ」
「ははっ、ありがたきしあわせにござります」
「昨夜、花扇がな」
「おそれいりました」
「余のかたわらへまいって、『殿さん、ようきなました』と、かよう申したぞ」
「へえー、おそれいります」
「いちいちおそれいるな。花扇の申すには……」
「へえ」
「なにごともうちとけてもらいたいと申した」
「へえ」
「花扇がな、そのほうのことをいうておったぞ」
「へえ」
「『殿さん、またいつきてくんなます?』と申すから、『余は、まいりたいが、あれにおる弥十郎が、もう二度とまいることはならんといいおるのじゃ』と、かよう申したところ、『弥十郎さんというひとは、にくいひとざます』と、そのほうを花扇がにくんでおったぞ」
「ははっ、おそれいります」
「しかし、余としては、家臣が花扇ににくまれるも不憫《ふびん》におもう」
「ありがたきしあわせ」
「そこで、『弥十郎をにくまんには、いかがいたしたらよいのじゃ?』といったら、『初会にきなまして、裏にきなまさないと客衆の恥ざます』と、かよう申した。はじめてまいった客を初会といい、二度目にまいるのを裏にいくと申すのじゃぞ」
「ははっ」
「余も裏にまいらずに恥をかくのはいかにもざんねん。先祖よりして、いかなる戦場にても敵にうしろをみせたことのない家柄じゃ」
「はっ」
「しかるに、余の代にあいなり、いやしき傾城にうしろみするは、この上ない恥辱《ちじよく》じゃによって、余が家名の名誉のために、こよいも花扇がもとへまいるぞ」
「おそれながら、その儀は……」
「ならんか……うーん、つむりがいたい……うーん、気分がわるいぞ」
またはじまりましたから、弥十郎さんもとめるわけにもまいりません。また、その晩もおいでになりますと、裏をかえしてくれたというので、花扇のほうも十分なもてなしでございますから、殿さまはもう有頂天《うちようてん》でお帰りでございます。
「弥十郎、これ弥十郎」
「ははっ」
「今朝《こんちよう》、余がもどらんとなしたる折り、花扇が、『おひと払いをねがいとうざます』と申したによって、ひと払い申しつけたるところ、あたりをみまわし、余がそばへまいって、この膝へもたれ、『殿さん、浮気をすると聞きまへんよ』と申して、余が膝をきゅーっと、つねりおった。膝のところへあとがついておる。まくってみせてつかわそうか?」
「いや、それにはおよびませぬ」
「で、花扇の申すには、初会、裏にまいって、三度目《なじみ》とかにまいらんのは、傾城の恥辱じゃと申した。してみると、衾《ふすま》(夜具)をともにした花扇に、恥辱をあたえるは、いかにも不憫、いま一晩まいるぞ」
「いや、どうもそう再三にわたっておいでになりましては……」
「ならんか? ……うーん、つむりがいたい。気分がわるい……」
こんな調子で、いくらとめても聞きません。こんなことがご公儀へ聞えてもよろしくない。おとがめがなければよいがと案じているうちに、お国入りということになりましたから、ご家来もやっと安心いたしました。
明日は、いよいよ江戸を出発という晩、名残りにということで、またおでかけになりましたが、どうもお座敷も浮きません。おいらんの部屋へまいりまして、
「さて、花扇、余は、このたび国詰めじゃ。そちにもしばらく逢うことができん。ついては、いささか無心がある」
「なんなりともいいなまし」
「さようか……しからば、そちをはじめてみたときの、あの道中の晴れ着、国おもてへ持ってまいり、朝夕《ちようせき》ながめておったら、波濤《はとう》をへだつといえども、そちのかたわらにおるように心得る。あの裲襠《しかけ》とやらを無心したいものじゃ」
「ようざます。持っていきなまし」
「うん、しからばもろうてまいるぞ」
これから、花扇には十分なお手当てをおつかわしになります。そして、金蒔絵《きんまきえ》の百亀百鶴《ひやつきひやつかく》のお盃《さかずき》、七合いりというやつになみなみとつがしてぐっと召しあがりましたが、なかなかの大酒家で……で、後朝《きぬぎぬ》のわかれ、翌日は、江戸を出発されて、お国もとまでおよそ三百里、泊まりをかさねて、ご帰城になりました。
さて、無事にお国入りということで、ご酒宴になります。
「これ、金弥、廓通りの盃をいたす。盃を持て」
「ははっ」
例の百亀百鶴の盃が持ちだされますと、
「いや、こればかりではいかん。花扇にもろうてまいった裲襠《しかけ》がある。これへ持て」
「はっ」
「持ってまいったか。いやいや、そこへ置いたのではいかん。たれぞ着てみい……そうじゃ、珍斎、そのほう、細面《ほそおもて》にて、どこやら花扇に似ておるように見受けるぞ。よし、そのほう、その裲襠を着てみい」
ぼんやり坐っておりました珍斎という茶坊主にお声がかかりましたから、おどろいたのは珍斎さんで、
「えっ、……わたくしがでございますか?」
「そうじゃ。着てみい」
「……ええ、これでようございましょうか?」
「ああ、坊主あたまではいかんな。髪を結え、立兵庫《たてひようご》とやらに……」
「急には髪の毛は生えませんで……」
「不便なあたまじゃな……しかし、それでは見苦しいのう」
「しからば、かようなことではいかがでございましょうか?」
と、ふところから手ぬぐいをだして、あねさんかぶりをいたしますと、
「うん、よいよい。余のかたわらへまいれ」
「はっ、おそれながら……」
「おそれながらもなにもない。早うまいって、余の膝へしなだれろ、余の膝へもたれい」
「はっ、かようにいたしますので?」
「かたちはそれでよいが、だまっておってはいかん。なにか申せ」
「このたびのお国入り、道中つつがなく、まことに祝着至極《しゆうちやくしごく》に存じます」
「さような堅苦しいことを花扇は申さんぞ……『殿さん、ようきなました』と申せ」
「とほほほ、情けないことで……殿さん……」
「いやな声じゃな。そのほうの声は……もうすこしやさしく、やわらかく……『殿さん、ようきなました。その後は、おいでもなく、いっそにくうざます』と申せ」
「おやおや……」
「なにがおやおやじゃ。早く申せ」
「はっ……殿さん、ようきなました。その後は、おいでもなく、いっそにくうざます」
「いかにしても、いやな声じゃな……『浮気をすると聞きまへんよ』と申して、余の膝をつねれ」
「おそれいりました」
「苦しゅうない、早うつねれ」
「しからば、かように……」
「あっ、いたい! たわけめっ……そのようにいたくつねるでない。もっとやわらかく、いたいようでいたくないようにつねれ」
むずかしいご注文でございます。
「金弥」
「はっ」
「いまとりあげたこの大盃、わかれに花扇と酌《く》みかわしたことがしのばれ、そぞろに花扇に献《さ》したくなったぞ。家中に速足《はやあし》の者はおらんか?」
「はっ、足軽《あしがる》うちに、早見《はやみ》藤三郎と申しまするもの、まことに速足にて、三百里の道を十日にてつとむるよしにござります」
「さようか。そのものをこれへ呼べ」
「お目見得《めみえ》以下でござりますゆえ……」
「いや、苦しゅうない。早う呼べ」
なにしろ足軽では、殿さまのお目通りにでられないのでございますが、特別のご用というので、さっそくしたくをして、お庭さきへまかりでて、お縁がわのところへ平伏をいたしました。
「早見藤三郎とはそのほうか。おもてをあげい。直答《じきとう》をゆるすぞ」
「はっ、ありがたきしあわせ。てまえ、早見藤三郎めにござります」
「そのほう、三百里の道を十日にてつとむるそうじゃな」
「はい、あいつとめまするでござります」
「しからば、江戸おもて吉原の花扇に献《さ》すこの盃、とりつぎをいたしてくれい。よいか?」
「はっ、委細《いさい》承知つかまつりました」
ご前をさがりますと、藤三郎は、すぐにしたくをして、盃をかついで、「えっさあ、えっさあ」と、韋駄天《いだてん》ばしりで吉原へまいり、花扇にことのしだいを告げて、
「上《かみ》よりのお盃、お受けをねがわしゅう存じます」
と、盃をさしだしたときには、花扇もおもわず涙をこぼし、
「このいやしき身を、さようにおぼしめしくだされまするは、まことに身にあまることにござります」
と、盃に禿《かむろ》がつぐ酒をなみなみと受け、
「殿さん、おなつかしゅう存じます」
と、涙とともにぐーっと飲みほしました。
「ご返盃ざます。殿さんによろしゅう」
「ははっ」
と、盃をかついで、藤三郎は、また「えっさあ、えっさあ」と駈けだしました。
お国おもてでは、殿さまが、首を長くして待ちうけていらっしゃると、藤三郎が帰ったというので、すぐにお庭さきへまわし、
「藤三郎、ちとおそかったようじゃが、いかがいたした? 直答せよ」
「はっ、さようならば、おそれながら申しあげます。吉原街の大夫へ、殿のおことばをつたえましたところ、たいそうよろこびまして、『殿さん、おなつかしゅう存じます』と、なみなみとつぎましたるを息をもつかず飲みほしまして、ご返盃という盃をうけとり、道をいそいで帰る途中、箱根の山中にて、いずれの諸侯か存じませんが、いそぎますままに、ついお供さきをば突っ切り、無礼者ととりおさえられましたるところ、お駕籠《かご》のうちより太守《たいしゆ》お呼びとめあそばし、『いずれの者にて、なにゆえにさようにさきをいそぐか?』とのおたずねに、じつは、まことにおそれいります儀にはござりますが、『てまえ主名の儀は申しあげかねますが、江戸のさる遊君へ、盃をつかわします、そのつかいの帰りにござります』と、ことのしだいを申しあげますと、『国おもてにあって、江戸のなじみと盃のやりとりをいたすなどは……いや、大名のあそびはかくありたきこと。余もそのほうの主人にあやかるよう、その盃を借用いたす』と、おおせられ、とりよせられました瓢箪《ふくべ》の酒を、これへなみなみとつがせ、召しあがりますと、『途中、おもしろうちょうだいいたしたと、そのほうの主人によろしゅう告げてくれ』とのことで、おもいのほかに手間どり、かく遅刻いたしましたるしだいにて、なんとも申しわけもございません」
「うーん……その大名が、余にあやかりたいと、盃の相伴《あい》をいたしたか?」
「御意にございます」
「そのかたは、よほどご酒をあがるとみえるな」
「はっ、これなる盃になみなみとつがせ、息をもつかず召しあがりました」
「うーん、おみごと、いま一献《いつこん》と申してまいれ」
百《もも》 川《かわ》
むかしの江戸っ子は、お祭りというと気ちがいのようなさわぎで、女房を質に置いても祭りを派手にしようなんということでございました。ところで、祭りというと、四神剣《しじんけん》というものがでました。青竜《せいりゆう》、白虎《びやつこ》、朱雀《すじやく》、玄武《げんぶ》の四神旗に剣がついているので、俗に四神剣と呼んでおりましたが、ほんとうは、四神旗というものだそうで……これを、ことし、ひとつの町内であずかると、つぎのとしには、となりの町内、その翌年は、そのとなり町というように、順にまわしたものだそうでございます。
この祭りの相談なぞによくつかわれたのが、日本橋の浮世小路にあった百川という会席料理でございました。
「へえ、ごめんくだせえ。わし、はあ、葭町《よしちよう》の千束屋《ちずかや》からめえりました」
「ああ、そうかい。たのんどいたごはん炊《た》きは、おまえかい?」
「へえ」
「大きにごくろうさま。いくつだね? ……ああ、そうかい。名は、なんといいなさる?」
「へえ、わし、はあ、百兵衛と申しやす」
「ふーん、百川へ百兵衛さんがくるのはおもしろいな。これもなにかの縁だろう。まあ、辛抱しておくれ……へーい、二階で、お手が鳴るよ。竹や、お花、おみつ、おい、いないのか? ……なに? 髪結《かみゆ》いさんがきた? なんぼ髪結いさんがきたって、みんないっぺんに髪をといちまってどうするんだ? きょうは、お客さまが大勢おみえになってるんじゃあないか。二階で、あの通りお手が鳴るんだ。だれかいくものはないかな? おいおい、さっきのひと、なんといったっけな……百兵衛さん、ちょいときておくれ。ほかじゃあないが、いま、二階へ魚河岸《かし》のお客さまがきていらっしゃるんだ。わたしがいくわけにはいかないが、おまえ、ちょっと二階へいっておくれ」
「へえ」
「魚河岸のおかただから、おなじみになっておけば、いいこともあるから……」
「へえ、かしこまりやした」
「どうしたんだろうな、ここのうちの女は? ……しょうがねえな」
と、二階では、また手が鳴ります。
「ひえー」
「変な声をだすない。だれだい、そんな変な声をだすのは?」
「だれもなんともいやあしねえやな」
「でも、そっちのほうで変な声がしたぜ」
と、また、ポンポンと手を打ちます。
「ひえー」
「よせよ。どじな声をだすない」
「なんともいやあしねえ」
「だって、たしかにうしろのほうで……あっ、そこにいたのか。おめえさん、いったいだれだい?」
「へえ、わしゃあ、主人家《しゆじんけ》の抱《かけ》え人《にん》でごぜえやす。主人家の申されるには、ご用があるで、ちょっくらはあ、うかがってこうちゅうで、めえったようなわけがらでがしてな、ひえー」
「うふっ、おいおい、ちょっとかわりあってみてくれ。このかたは、すがたは日本人だが、いうことがちっともわからねえや。ただよくわかるのは、しまいのところで、ひえー」
「ばかっ、てめえぐれえ世のなかに場知らずはねえや。どういうご用でおみえなすったかわからねえじゃあねえか。失礼なことをいうない。人間同士がはなしをして、わからねえりくつがあるもんか」
「だって、おめえ、わからねえものはしょうがねえ」
「わからねえこたあねえてんだよ。たとえば、むこうが衣冠束帯《いかんそくたい》でこようと、緋《ひ》おどしのよろいでかけあいにこようと……」
「緋おどしのよろいなんぞ着ちゃあいねえじゃあねえか」
「だから、たとえば着ていたらてえはなしだよ。そっちへひっこんでろ。もののかけあいてえものはむずかしいもんだ。よくみておけ……えへへへへ、どうも、ただいまあ、とんだ失礼を申しあげまして……ええ、どちらさまでござんすか? まあ、こうやって雁首《がんくび》をそろえちゃあおりますが、どれ一匹として満足に口のきけるやつあございませんので、魚河岸《かし》にことのあったとき、口のひとつもきこうというなあ、まあ、あたしぐれえのもんでござんすので、あなたさまが、どういうご用むきでおいでになったのか、もう一度、その、お物語りをねがいたいんでござんすが……」
「そうだにあらたまったこんではごぜえましねえで……わし、はあ、この主人家の抱え人でごぜえまして、主人家の申されるには、ご用があるで、ちょっくらうかがってこうちゅうで、めえったようなわけがらでごぜえます。どうぞまあ、ご一統《いつとう》さまご相談の上、お返事をうかげえやして、まかり帰りてえと存じやしてなあ、ひえー」
「……えへん……えへん……なるほど、そりゃあまあ、おっしゃることは、まことにどうもごもっともではござんすが……」
「おいおい、なにをいってるんだよ」
「うるせえな、だまってろよ……ええ、ただいまうかがっておりますと、なにか……四神剣《しじんけん》のことについて、おかけあいにいらしったとかいうことでござんすが……」
「はあ、そうでがす。わし、はあ、この主人家《しゆじんけ》の抱え人でごぜえます」
「えっ、ああそうですか、そりゃあどうもごくろうさまで……おいおい、ふとんだ。ふとんをだすんだ。まごまごしてるんじゃあねえや……さあ、どうぞ……ええ、あなたさまのほうからわざわざ足をはこばせるまでもねえ。いま、そのことで、みんながこう寄っておりますんで……じつは、去年の祭りをあんまり派手にやりすぎちまったんで、あとで勘定がおっつかねえ。いろいろと思案したあげく、となり町にゃあわるいが、まあ一年はあきもんだから、四神剣をなんとか融通しちゃあどうだと、こういうやつがあるんで、伊勢屋へまげて(質入れして)、なんとかかっこうをつけたんでござんすが、ことしになって、祭りは近づいてくるし、いまのうちになんとかしなくっちゃあいけねえてんで、こうやって雁首《がんくび》をならべてるわけなんでござんして……すぐにこれこれというごあいさつはできませんが、あとから四、五人まいりますんで、そいつらとも相談の上、あらためてごあいさついたすつもりでござんすから……あっしゃあ、魚河岸の若えもんで、初五郎と申します。あっしが、こうやって口をきくからにゃあ、けっしてお顔のつぶれるようなこたあいたしません。まあ、あなたさまのお顔は、きっとつぶさねえつもりでござんすから、それだけはご安心をねがいたいんでござんす」
「はあ、こうだにつまんねえ顔だけんども、顔なんか、どうかつぶさねえようにねげえてえもんで……」
「いや、こりゃあどうもおそれいりましてござんす……そうおっしゃられちゃあいたみいります。まあ、けっしてお顔のつぶれるようなことはいたしませんで……おい、そこにちょこがあったな、早く貸しねえ、なにをまごまごしてるんだ……ええ、せっかくおいでをねがって、おかまいもできませんが、まあ、ひとつおあがんなすって……」
「いや、どうぞもうおかまいくだせえませんで、ご酒《しゆ》は、いっこうにいただきませんで……」
「さいですか? おきらいで? ちょいと口をつけていただきてえんでがすが……じゃあ、お酒はだめだとおっしゃるから、甘味はねえかい? ああ、下戸《げこ》のものも、こういうときにゃあ役に立つ。おめえの前にきんとんがあるじゃあねえか。それをあげな。そのまんまじゃあ手がついちまってるから、小皿へわけるんだ、きれいなところを……小皿をさきにとって、きんとんをあとではさむんだよ。きんとんをとって小皿をさがすから、あんがぽたぽたおちらあな。することがどじだなあこいつあ。とったあとを箸《はし》をなめるなよ。きたねえなあ。なめるんなら横になめろよ。たてになめて、のどぼとけ突っついて涙ぐんでやがらあ、まぬけだなあどうも……ひとつかふたっつありゃあいいんだ。早くしろい。じれってえ野郎だ……ええ、こんなとりちらしたなかで、おかまいもできませんが、まあ、お口よごしですが、おひとついかがでござんす?」
「いやあ、こりゃあまあごっ馳走《つおう》さんで……これは、あんで(なんで)がすか?」
「……ええ、たしかにあんでござんす」
「いや、そうでねえ。あんちゅうもんかね?」
「え? あんちゅう? うふふ……へえ、こりゃあ、くわいのきんとんで……」
「へーえ、これがくわいでがすか? ……うーん、野郎、うまく化けたな」
「へへへへ……どうも化けるのなんのとおっしゃられちゃあ、きまりがわるうござんす……しかしまあ、きょうのところは、なんにもおっしゃらねえで、ひとつ大のみにのみこんで、お帰りをねがいたいもんですが……」
「はあ、このくわいをのみこむかね? ……うーん、まっとちっちゃければのみこめねえこともなかんべえが、こんだに大《え》けえでは、のみこめるかどうかわかんねえで……」
「あなたにいけねえとおっしゃられちゃあ、立つ瀬がござんせんので、男とみこんでおねげえ申しますんですから、なんとかひとつおのみこみなすって……」
「はあ、まだやったことはねえけんども まあ、ひとつやってみますべえか……」
「どうぞおねげえ申します」
「大《え》けいもんだね、これがのみこめるかね? ……うっ、うっ……」
「あれっ、きんとんをのみこんで苦しがってる。背なかをさすってあげねえ」
「あなた、しっかりなさいよ」
「とほほほ、ありがとうごぜえやした。ようようのこんでのみこんだでがす」
「どうもおそれいりました。おのみこみになったら、おひきとりをねがいます。いずれあらためてごあいさつにはでますんで……お帰りになりましたら、どうか、みなさんによろしくおっしゃってくだせえまし。へえ、ごめんなすっとくんなさい」
「うふふふふ……なんだい、兄い、あいつあ……あははは」
「ばかっ、大きな声で笑うない。まだそこにいるじゃあねえか」
「だって、まぬけなもんだぜ。あんな大きなくわいのきんとんをのみこみゃあがって……あははは」
「だから、てめえたちはしろうとだてえんだ。かんげえてみろ、いいか、あのひとなんかは、かけあいごとはなれてるんだ。ああ、かけあいごとは、ぜひああいきてえ」
「かけあいごと? 一体《いつてえ》なんだい? あいつあ……」
「おいっ、わすれちゃあいけねえやな。去年の祭りじゃあねえか。すんだあとで、あそびにいきてえが、銭がなくなっちまって、『どうしよう?』ったら、てめえが、『四神剣をまげちまおう』ってえから、『そんなことをしたら、あとでこまるじゃねえか』ったら、『一年あるんだからなんとかならあな』ってんで、四神剣をまげてみんなであそびにいったろう」
「ああそうだった。ちげえねえや」
「なにいってやんでえ。ことしになって、祭りが近づいても、なんともいってやらねえから、となり町から、あいつがさいそくにきたんじゃあねえか」
「えっ、そうなのかい?」
「あれっ、てめえ、気がつかなかったのか? 『あたくしは、四神剣のかけあい人でございます。四神剣のことについてうかがったが、ご一同さま、ご相談の上、ごあいさつをうかがって、まかり帰りてえ』って、いってたじゃねえか」
「そんなことをいったかい? 辰つぁん」
「ああ、いった。いったよ。おれも、四神剣てえことを聞いたときには、おもわずどきっとしたよ」
「おかしいじゃあねえか。かけあいにくるんなら、もうすこしはなしのわかるやつがきそうなもんじゃあねえか。くわいのきんとんをのみこんで、目を白黒させるようなやつをよこすこたああるめえ?」
「わからねえ野郎だな。なまじっか、小なまいきなやつがきて、おかしなことをいやあ、こっちは気の荒えやつがそろってんだから、血の雨でもふるようなことがおこっちゃあいけねえってんで、わざと、どじごしれえで、とぼけてきたんだよ。早くいやあ、芝居《しべえ》をしてるんだ。あれで、浅黄《あさぎ》の頭巾《ずきん》をぬぎゃあ、なんのなにがしという、りっぱな名のある親分とか、兄いとかいわれる男なんだ」
「そうかい?」
「そうだよ」
「だって、どうみたって、そんなふうにみえねえじゃあねえか」
「そこが役者がいいんだあな」
「そうかねえ……」
「あれっ、まだわからねえのか? 論より証拠、おらあ、あいつにむこう脛《ずね》をぽーんと蹴られてるじゃあねえか。『あっしゃあ、魚河岸の若えもんで、初五郎と申します。あっしが、こうやって口をきくからにゃあ、けっしてお顔のつぶれるようなこたあいたしません。まあ、あなたさまのお顔は、きっとつぶさねえつもりでござんすから、それだけはご安心をねがいたい』と、おれが、たんかを切ったときに、あの野郎のせりふがすごかったじゃあねえか。『こんなつまらねえ顔だが、顔だけは、どうかつぶさねえようにねげえてえ』と、野郎に、一本釘をさされたときゃあ、おらあぞーっとしたぜ」
「うーん、それにしたって、なにもくわいをのみこまなくったって……」
「それがてめえがばかなんだよ。むこうも苦労人だ。四神剣のことについちゃあ、まるっきりいやなこたあいわねえで、きょうのところは、万事ひきうけた、のみこんだてえのをみせるために、きんとんをのみこんで、みんなを笑わして帰ったところなんざあ、芸が枯れたもんだ」
「へえ、そうかい? 枯れてるかなあ? なんだか、おめえひとりで感心しているが、ほんとうにそうかい?」
「ああ、そうだとも……」
「そんなら、女中かなにかついてくるがいいじゃあねえか」
「そこが、ここのうちのまぬけなところよ、『こういうお客さまが、おみえになりました』と、ちょいといってくれりゃあいいんだなあ……それにしても、ここの女は、また、なにをしてやがるんだろう? むやみに手をたたかせやがって……」
「どうしたんだ? 百兵衛さん、二階からおりてきて、柱へよっかかって、涙ぐんでちゃあしようがないな。二階のご用はどうしたい?」
「江戸てえところは、おっかねえところでがす。わしあ、もう、国へ帰ります。いま、二階へいくと、のみこめ、のみこめって……わしゃあ、お客のいいつけだから、がまんしてのみこんだが……」
「なんのことだかわからないが、どんなご用だったんだい?」
「のみこんだでがす」
「おまえがひとりでのみこんでちゃあいけないよ。あたしにものみこませてくれなけりゃあ……」
「そりゃあだめだ。おらあ、もうのみこんだで……」
「なんのことだい?」
「大《え》けえくわいつんだして、おらにのみこめっちゅうでがす」
「えっ、くわいを? ……で、おことわりしたのかい?」
「いや、ことわって、客人のきげんそこねてはわるかんべえとおもって、のみこむことはのみこんだが、のどのめどっこいたくって、どうにもたまらねえ」
「うふっ……そりゃあ、お若いお客さまだから、いたずらをなすったんだ。まあいいや、そういうところをつとめておけば、おもしろいやつだてんで、おまえが、ごひいきになれるから……へーい。おい、また、お手が鳴ってるよ。もう一ペんいっておくれ」
「えっ、また、めえりやすか? こんどは、なにをのみこむかね?」
「大丈夫だよ。そんなにたびたびのみこませるもんか。心配せずにいっておいで……」
「くわいぐれえならのみこめるが、こんな大《え》けえどんぶり鉢をのみこめなんていったら……」
「そんなばかなことをいうもんか。早くいっておいで」
「あーあ、ここなうちは、長く奉公ぶてねえぞ。いのちがけだあ」
「こんなに手を鳴らしてんのに、なにしてやがるんだ。おいっ」
「うひえっ」
「あっ、いらっしゃい。なにかおわすれものでござんすか?」
「わすれものではねえでがすが、まことにすまねえが、どうかまあ、からかわねえで、ご用をおっしゃっていただきとうがす」
「え? からかわねえで、ご用を? ……あのう、あなたは、となり町から四神剣のことで、おかけあいにおいでになったんでござんしょう?」
「いや、そうではねえで、わしゃあ、この主人家の抱《かけ》え人《にん》で、百兵衛ちゅうでがして、ひえー」
「なんだ、おめえ、ここのうちの奉公人かい?! おい、聞いたか? だれだい? 四神剣のかけあい人だなんていったなあ……四神剣じゃあねえや。主人家って、ここのうちのことをいうんだなあ。抱え人をかけあい人だってやがら……」
「おれもそうとはおもったが……」
「なにをいってやがる。いいかげんな野郎じゃあねえか……おい、女中を呼んでもらいてえんだが……なに? みんな、髪結いがきて髪を結ってる? ああ、それでおめえがきたのかい? じゃあ、おめえでもいいんだが、ひとつ、つけえにいってくんな。じつは、いま、三味線《いと》がほしいというんだが、芸者でもあるめえから、長谷川町の三光新道《さんこうじんみち》に、常磐津《ときわず》の歌女文字《かめもじ》ってえのがいるから、そいつを呼んでこい」
「はい、つかいにゆくかね? なんとかいったな?」
「長谷川町で、常磐津歌女文字といやあ、名高《なだけ》え師匠だ。そいつを呼んでこいってんだよ」
「はあ、長谷川町の、三光新道の、常磐津の、か、か、かめ……歌女文字てえ先生呼ばるかね?」
「あれっ、先生だってやがらあ。常磐津の師匠だよ。いいか? 歌、女、文、字だぜ。うん、もしもわすれたらなあ、長谷川町で、かの字のつく名高えひとといやあ、すぐにわかるから……むこうへいったらなあ、魚河岸《かし》の若えもんが、今朝っから四、五人きているから、師匠にすぐくるようにってなあ。それから、おめえは、三味線箱《はこ》をしょってきてくんな。いいか? 早くいけ!」
「へえ、いってめえります」
これから、百兵衛さん、おもてへでましたが、あっちで道を聞き、こっちで道を聞きしているうちに、名前をすっかりわすれてしまって、
「あれっ、えれえことができたぞ。なんとかいったな……ええ……あっ、長谷川町、長谷川町の名高え先生……もし、ちょっくらうかげえやすが……」
「なんですい?」
「長谷川町の三光新道ってえのは?」
「ここだよ」
「そこに、なにはいますべえか、名高《なだけ》え先生が?」
「名高え先生は、いくらもいるが、なんてんだ?」
「それをわすれたが、おもいだしてくんろ」
「むりなことをいうじゃあねえか。おめえのわすれたことを、おれにおもいだせるもんか。おちついておもいだしてみねえ」
「ええ……うーん……か、か、かあ……」
「からすだな、まるで……なんだい、かあてえのは?」
「かの字のつく名高えひとでがす」
「かの字のつく名高えひと? ……待てよ、おい、金ちゃん、このへんで、かの字のつく名高えひとを知らねえか?」
「そうさな……あっ、鴨池《かもじ》さんじゃあねえかい?」
「あっ、そうか、おい、おめえのたずねてるのは、鴨池といやあしねえか?」
「鴨池? ……あっ、そうでがす、鴨池でがす」
「そんなら、鴨池|玄林《げんりん》てえ外科のお医者さまだ。むこう側の横丁をへえって、三軒目のりっぱな門がまえのうちだ」
「どうもありがとうごぜえます……ええ、ちょっくらおたのみ申します」
「どーれ、いずれからおいでかな?」
「はい、わしあ、浮世小路の百川からめえりまして……」
「おお、百川からか……で、ご用は?」
「魚河岸《かし》の若えかたが、今朝がけに(今朝がたから)四、五人|来《き》られやして、先生にちょっくらおいでをねげえてえちゅうんでがす」
「ちょっとお待ちを……ええ、先生、ただいま、浮世小路の百川から使いのものがまいりまして、魚河岸の若いものが、四、五人|袈裟《けさ》がけに斬られましたので、先生に、おいでいただきたいと申しております」
「そうか。魚河岸の連中はいせいがいいから、なんぞまちがいができたのだろう。よろしい、丸の内のお屋敷へいかなければならんが、怪我人がでたというなら、さっそくお見舞いすると、そういって帰しなさい。それから、手おくれになるといかんから、焼酎《しようちゆう》を一升、白布を五、六反、鶏卵《けいらん》を二十ほど用意するようにな」
「かしこまりました……ああ、先生は、ただいま、丸の内のお屋敷へおでかけになるところだが、さっそくお見舞いすると、そういってください」
「そうでごぜえますか。それから、箱を……」
「ああ、おまえさん持っていってくれるかい。それから、うちへ帰ったら、先生がおいでになるまでに、手おくれになるといかんから、焼酎を一升、白布を五、六反、鶏卵、つまり、たまごを二十ほど用意しておくように……」
「はあ、ようがす」
「そこに箱があるから、それを持って、いそいで帰りなさい」
「はい、かしこまりました」
「おうおう、帰ってきやがったな。どうした、わかったか?」
「へえ」
「くるといってたか?」
「へえ、先生、さっそくお見舞《みめ》え申すってやした」
「え? お見舞え申す? おかしいなあ、どうも……」
「なあに、むこうは、いきな師匠だあな。あのどじな野郎がとびこんでったから、『ああ、わかった。先生、さっそくお見舞え申す』と、しゃれにいったんだあな」
「あっ、そうか……おい、三味線箱《はこ》はどうした?」
「へえ、持ってめえりやした。これでごぜえやす」
「これかい? いやにちいせえなあ」
「……うん、わかった」
「なにがわかったんだ?」
「いつか師匠がいってたよ。持ちあるくにゃあ、ふたつ折れとか、みつ折れなんてえのはかさばっていけねえから、もっとちいせえのをこせえてえといってたから、それができたんで持たしてよこしたんだろう」
「ああ、そうか……で、師匠は、すぐくるんだな?」
「へえ……そんで、手おくれになるといかねえで、焼酎を一升、白布を五、六反と、たまごを二十ほど用意しておけといって……」
「え? おかしいなあ……なんだい? 焼酎を一升てえのは?」
「あの師匠は、あの通りの大酒のみだあな。このごろは、もう酒じゃあきかねえってんで、焼酎をぐーっとやろうてんだ」
「ふーん……白布はどうするんだい?」
「しっかり語ろうてんだ。その白布を腹へ巻こうてんだ」
「じゃあ、たまごは?」
「たまごをのんで、いいのどを聞かせようてんじゃあねえか」
「ふーん……しかし、手おくれになるといけねえてえなあどういうわけだい?」
「そうさなあ……常磐津《ときわず》が手おくれになったてえはなしは聞いたことがねえなあ……おかしいなあ」
「はい、ごめんよ」
「おやっ、鴨池先生、よくおいでなさいました……この前の勘定もまだあれっきりで……きょうは、また、なにかご用で?」
「なにをのんきなことをいっているんだ。怪我人はどこにいる?」
「へえ? ……先生、なにかおまちがいじゃあございませんか?」
「いや、魚河岸の若いものが、袈裟がけに四、五人斬られているそうではないか」
「え? ……そりゃあ、お門《かど》ちがいで……」
「門ちがいではない。わしの薬籠《やくろう》がそこにきている」
「えっ、こりゃあ先生の薬籠ですかい? しょうがねえなあ、あの野郎……じつは、こういうわけなんでございます。すこし祭りのことで相談がありまして、まあ、ここへあつまったんでございます。それで、芸者でもあるめえからってんで、お宅の裏にいる常磐津の歌女文字を呼びにやったんで……あっ、そこに突っ立ってるその男なんで……そうしたら、先生とまちがえちまやあがって……やいっ、そんなとこへ突っ立ってねえで、こっちへへえれ」
「あんたがたあ、先生ござったで、うれしかんべえ」
「なにいってやんでえ。このばかっ、鴨池先生と歌女文字とまちがやあがって、この抜《ぬ》け作《さく》!」
「あんだね?」
「抜け作め!」
「おらあ、抜け作でねえ、百兵衛だ」
「てめえの名前《なめえ》を聞いてるんじゃあねえやい! 抜けてるってんだい」
「抜けてる? どれくれえ?」
「どれくれえも、これくれえもあるもんか。それだけ抜けてりゃあたくさんだ」
「それだけって……か、め、も、じ。か、も、じ……たった一字しきゃあ抜けていねえ」
お血脈《けちみやく》
そのむかし、天竺《てんじく》(インド)から、閻浮檀金《えんぶだごん》とかいう、一寸八分ある仏体《ぶつたい》が、はじめて日本にわたってきたときに、仏敵、守屋《もりや》の大臣《おとど》というひとが、
「日本は神国である。かようなものがあっては、かえって人をまどわしていかん」
といって、摂津《せつつ》、河内《かわち》、和泉《いずみ》の三カ国の鍛冶《かじ》屋をあつめて、大勢で、ドカドカたたいたけれども、わずか一寸八分の仏体が、どうしてもこわれません。なにしろ、ちっぽけなくせに強情なやつだというので、簀巻《すま》きにして難波ガ池というところへほうりこんでしまいました。
そのうちに、日本もだんだんかわってきて、三つの法でおさまるようになりました。三つの法というのは、「仏法、鉄砲、女房」でございますが、それから仏法もひろまるにしたがって、坊さん同士でいろいろと議論をして、意見の衝突から、八宗、九宗とわかれるほどさかんになりました。
のちにいたって、本多|善光《よしみつ》というひとが、かの難波ガ池のそばを通りますと、
「よしみち、よしみち」
というかわいらしい声がいたします。
善光がふりかえってみると、仏体が、おいで、おいでをしております。
)」 むかしのひとは、目の性《しよう》がよかったとみえて、一寸八分のほとけさまが、うすっ暗いところで手まねぎをしているのがよくわかったもので、おからだがちいさいくらいだから、まだ舌がまわりません。
「よしみち、よしみち」
とおっしゃいます。本多善光が、
「ははっ」
と、大地へ手をついて、おじぎをすると、
「余は、信州へまいりたい。案内をいたしてくれ」
とのおことば。
「かしこまりましてございます。さあ、わたくしの背なかへおんぶをなさいまし」
といって、仏体をおぶったと申しますが、たかが一寸八分ばかりのもの、おぶわないでも、財布か、たばこいれへでもいれてゆけばよかったろうとおもいます。
それから、昼夜をわかたず、これをおぶって道をいそぎましたが、なにしろ道路が整備されておりませんから、木の根、岩のかどへつまずき、生爪をはがし、足をいためなどすると、背なかでこれをごらんあそばして、
「ああ、昼夜のわかちなく、われをおぶいくれ、そのほうもだいぶつかれたるようす。夜は人目にかからんから、余がかわりとらせる」
と、おっしゃると、みるみるうちに丈余(一丈あまり)のすがたに変じました。
これだけ大きくなれるんなら、なにも池のなかで、おたまじゃくしを相手にあそんでなくってもよかったろうにとおもいますが、これがいわゆる時機を待っていたのでございましょう。昼間は人目にかかってわるいというので、ちいさくなっていて、夜になって大きくなる。昼間がちいさくって、夜になると、むくむくと大きくなる……なにかみたいなほとけさまでございますが……これが信州へまいりまして、いまもって善光寺へおさまって、善男善女《ぜんなんぜんによ》の参詣ひきもきらず。お堂のうちに、階段めぐりというおそろしいまっ暗なところがあります。これは、ありがたいお経文がはいっております。つまり、地下倉庫で、入り口に大きな錠《じよう》がおりております。その錠へ手がさわると、極楽往生ができるといいつたえているので、欲ばったやつが、手がさわっただけで極楽へいけるというなら、捻《ね》じ切ったら、どんなことになるだろうかと、三日三晩、錠前へつかまって、「うんうん」やったが、どうしても切れなかったと申します。しかし、世のなかで、いくらわるいことをしようと、いかなる大罪を犯《おか》そうとも、極楽往生ができるというので、むかしは、善光寺から血脈《けちみやく》のご印《いん》というものをだしました。これはなにかといいますと、お金をおさめると、お坊さんが、「なむあみだぶつ」といって、ひたいのところへお血脈のご印をおしてくださる。すると、たちまち罪障消滅《ざいしようしようめつ》、現世の罪が滅して極楽へゆかれるというありがたいものでございます。
こんなぐあいに、善光寺でお血脈のご印をくださるので、みんな極楽へいってしまって、地獄へゆくものがありません。それがために、地獄のほうは、たいへん不景気になって、閻魔《えんま》大王は、財政困難におちいった結果、やむをえず、浄玻璃《じようはり》の鏡を床屋へ売り、部下の鬼が突いている鉄の棒をのこらずあつめて、古鉄屋へ払《はら》いさげるというしまつで、赤鬼なんぞは、色がさめて、かわらけ色にかわり、青鬼もやせおとろえて空色になり、虎の皮のふんどしもしめていられないから、これも売ってしまって、鬱金《うこん》もめんのふんどしで間《ま》にあわせるというようなありさまで、竹の棒へつかまった鬼が、栄養失調で、ひょろひょろしております。
ここにおいて、奥殿で、閻魔大王を議長としまして、会議がひらかれました。
「諸君、こんにち、かく地獄の衰微をきたすということについては、かならずなんらかの原因がなくてはならんことである。すみやかにこれが挽回策《ばんかいさく》を講じなければならんが、めいめい意見があらば、腹蔵なく述べてもらいたいものである」
と、いとも沈痛なる態度をもって大王が発言いたしますと、座の中央から、みる目かぐ鼻というものがすすみでまして、
「おそれながら、わたくしより大王閣下へ申しあげたいことがございます」
「なんだ?」
「うけたまわるところによれば、近ごろ、娑婆《しやば》の信州善光寺という寺院において、血脈のご印というものを発行いたし、それがために、みな、その罪が消滅して、極楽往生をするもの多く、その結果、かく地獄の衰微をみるにいたったのであります。これにひきかえ、極楽の発展は、非常なもので、このままにすておきまするときには、ついには、地獄は全滅の惨状をみるにいたらんと、われわれは、大いに心痛いたしているしだいであります」
「うーん、それは一大事である。なんとかして、これをふせぐ方法はあるまいかのう?」
「さよう、わたくしのかんがえますには、その血脈のご印なるものを盗みだしてしまったならば、極楽へゆくものも、自然と地獄へくることになろうと存じますが……」
「なるほど、それは名案じゃ。だれかその役をつとめるものはないか?」
「それは、地獄のことでありますから、むかしから、あらゆる盗賊がまいっております」
「そうじゃな。とにかく盗賊の名簿をしらべてみい」
「……ええ、いかがでございましょうか、ねずみ小僧なぞは?」
「さあ、かれら程度のものでは、この大役をしとげるのはむずかしかろうな」
「しからば、袴垂式部大輔保輔《はかまだれしきぶだゆうやすすけ》は?」
「それは、ちと大仰《おうぎよう》でいかん」
「熊坂大太郎長範は?」
「やはり古めかしいな」
「しからば、このさい婦人の力を借りまして、鬼神のお松か、まむしのおまさあたりはいかがで?」
「いや、なにも婦人の力を借りることもあるまい」
「いかがでございましょうか、石川五右衛門なぞは?」
「うん、彼なれば、この任務を果たすであろう。五右衛門は、いかがいたしておるか?」
「いまだ釜のなかにはいっております」
「とにかく五右衛門を呼びだせ」
それから、小使いを五右衛門のところへむかいにやると、五右衛門のやつ、釜のなかで、いい気になって、都都逸《どどいつ》を三十六唄って、新内、端唄《はうた》から、浪曲、歌謡曲、もうみんな唄いつくして、すこし湯気にあがりかけているところへ、
「ちょっと石川さん、石川さん」
「おう、なんだい、小使いさんか。なんか用かい?」
「大王さまがお召《め》しですよ」
「大王さまがお召し?」
「ええ、奥殿へちょいときてもらいたいってんですが……」
「なんの用だ?」
「なんの用か知りませんが、大王さまから、あなたを娑婆《しやば》へ派遣されるようなことを聞きました。うまくいけば、あなた、地獄の重役《じゆうやく》になれますぜ」
「それはかたじけない」
「なにしろ、いそいでおいでをねがいますよ」
「ああ、いま身なりをととのえていくからな。ちょいと、その衣装をとってくれ」
「これですか? りっぱなもんですね」
「ああ、これは、南禅寺の楼門で、花見をしたときのものだ」
「ああ、なるほど、『楼門五三桐《さんもんごさんのきり》』という芝居で、たばこをのみながら、『絶景かな、絶景かな……』と、やってた、あれですね?」
「うん、そうだ」
「こりゃあ、りっぱでいいや。じゃあ、さっそくでむいてくださいよ」
「承知いたした」
五右衛門は、釜からあがると、黒の三枚小袖、緞子《どんす》の巾広《はばひろ》の帯をしめまして、朱鞘《しゆざや》の大小をかんぬき差しにして、その上から、びろうどのどてらを羽織りまして、重《かさ》ねわらじをはき、あたまは、百日かずらという、ぼうぼうといたしまして、おそれげもなく、六法を踏みながら、奥殿へのそりのそりとはいってまいりました。
「ええ、お召しによって、石川五右衛門出頭いたしました」
「おお、石川五右衛門とはそのほうか。苦しゅうない。もそっと近《ちこ》うすすめ」
「あまりお身近かではおそれいります」
「いや、苦しゅうない。さて、五右衛門、余の儀ではないが、地獄の興廃ここにあり。なんじに一骨折ってもらわなければならんことができた。というのは、娑婆の信州善光寺において、血脈のご印なるものをだしたるために、罪障消滅して極楽往生するものばかり。地獄へまいるものは、昨今まったくない。ついては、この血脈のご印といえるものを盗みだしたならば、極楽へゆくべきものどもも、のこらず地獄へまいるであろうとおもうのじゃ。いかがであろう、血脈の印を盗みとってまいることはできまいか?」
「なにごとのご用かと存じましたら、さような仕事をいたすことは、赤子の手をひねるよりもいとやすきこと。拙者《せつしや》も、世にあるときは、伊賀流の忍術をもって、豊太閤秀吉公のご寝所へしのびこみ、すでに御《み》首級《しるし》をあげんとして、武運つたなく宿直《とのい》のものにおさえられ、世にもまれなる釜煎《かまい》りの刑におこなわれ、地獄へまいってまで、いまだ釜のなかにて苦しみおりますところ、さいわい大王閣下のおみだしにあずかり、光栄これにすぎるものはございません。ご奉公のしおさめに、かならず任務を果してごらんにいれますゆえ、なにとぞご安心くださるように……」
「たのもしきその一言、しからば十分しとげるよう」
「心得ました。しからば大王閣下」
「おお五右衛門、早うゆけ」
「ははっ」
てんで、芝居がかりに見得《みえ》を切ってでかけました。のんきなやつがあったもんで……
ひさしぶりに五右衛門は娑婆へでてまいりまして、昼間は、善光寺へ参詣するようにみせてはいりこみ、なかのようすをしらべて、夜にはいると、むかしおぼえた忍術をもって奥殿へしのびこみ、あらゆる宝物をあらためましたが、どうもわかりません。そのうちに、桐の箱があったので、よくみると、「お血脈の御印」としるしてあります。やれうれしやと、ふたをあけてみると、二重になっているので、これをあけると、錦の布につつんであるのが、まさしくお血脈のご印。これがみつかったら、さっさと地獄へ帰ればいいのに、そこは芝居心のある泥棒だから、あたりを一応みまわして、
「ふ、ふーん」
と、気味のわるい笑いかたをして、
「はは、ありがてえ、かたじけねえ。まんまと首尾よく善光寺の奥殿へしのびこみ、奪《うべ》えとったる血脈のご印、これせえありゃあ大願成就《たいがんじようじゆ》 ちえー、かたじけねえ」
と、いただいたから、そのまま極楽へいっちまった。
ふたなり
「おやじさん、こんちは……おやじさん、こんちは」
「だれだ? ……おお、村の若えもんか。こっちへへえれ」
「どうもごぶさたあしました。このあいだから、おやじさん、一ぺんこなけりゃあならねえとおもってただが、つい、おやじさんの前だけれども、いそがしくって、おやじさんのところへくることができねえで、まあ、おやじさん……」
「なんだ、おやじさんばかりつづけていて、ちっともはなしがわからねえじゃあねえか。まぬけめ」
「まあ、かんにんしておくんなせえ。つい、おやじさんてえのが口ぐせになってるもんで、おやじさんの前へくると、おやじさん、おやじさんとばかり……」
「なおひどくなった。まあ、きょうは、なにしにきたんだ?」
「すこしおやじさんにおねげえがあってきましただ。かねて、おやじさんにも口をきいてもらった留さんとこの借りを、どうしてもあしたかえさなけりゃあならねえんで……」
「うん」
「あの借りをかえさねえと、この村にいられねえで、どっかへ逃げなけりゃあならねえんだが、すみませんが、おやじさん、どこかで、ひとつ算段はできませんかね?」
「こまったなあ。そんなことなら、早くくるがいいでねえか。早けりゃあ、どうにかはなしのつけようもあったが、もうあしたじゃあしょうがねえや」
「そこをおやじさん、どうかなりませんかね?」
「じゃあ、こうしろ。となり村のおときばあさんのところへいって、金を借りてくるがいい。おれがそういったといやあ、きっと貸してくれる。手紙を書いてやるから持ってけ」
「だけれども、おらがいっても、とても貸してはくれません。どうかひとつおやじさんがいって、顔をみせて、おれに貸してくれろといっておくんなさりゃあ、はなしがわかるんだが、どうでごぜえましょう?」
「おれがいけば、すぐできるなああたりめえだが、そうしねえでも、手紙を書いてやるから持っていけ」
「いけというならいきもしますが、もう夜もおそいですからね、これからでかけていって借りたところで、杉の森から池の端へ帰るあいだの森のなかがおっかねえからね」
「ばかっ、なにおっかねえものか。くだらねえことをいうな。臆病《おくびよう》なやつでねえか」
「だけれども、おやじさん……」
「なにがだけれどもだ。なんにもおっかねえこたあねえ。若えくせに、いくじのねえことをいうな。おれなんぞ、がきの時分からこのとしになるまで、おっかねえとおもったことなんぞねえぞ。てめえは、まだ旅をしたことがあるめえ?」
「一度もねえだ」
「それだからだめだ。おれが若え時分に、ほうぼう旅をしてあるいたはなしを聞かしてやんべえか?」
「なにかあるかね?」
「ああ、あるとも……おれが、甲州のほうへいったときに、ちょうど、日の暮れがた、山中へかかってきた」
「へえー」
「すると、岩のあいだから、すっくりでたものがあるだ」
「なんでごぜえます?」
「地震の子だ」
「地震の子? おどろいたんべえなあ」
「うん……それをおれがひっつかめえて、宿へついてから、こんぶを巻いて煮て食った」
「へーえ、地震の子なんてえものは、食えるかね?」
「うん、じしんのこぶ巻き(にしんのこぶ巻きのしゃれ)といってな」
「なんだか変なはなしだなあ」
「それからまた、妹をつれて北海道へいったときに、山奥へはいると、大きな虎がでてきた」
「虎が? ……へーえ、北海道には熊がいるというはなしは聞きましたが、虎がいたかね?」
「いたとも、ずいぶん大きな虎だった」
「へーえ」
「そのときには、さすがのおれもすこしおどろいた。すると、妹がおそろしく強《きつ》い女で、そんなことにびくともするんじゃあねえ。いきなりその虎をふんづかめえて、うーんとさしあげた」
「へーえ」
「さしあげておいて、力まかせにどーんと投げころしてしまった」
「おそろしい力だね」
「それから、妹のやつ、いまだにそれを商売にしている」
「なにを?」
「とらあげばばあよ」
「なんだかあてにならねえはなしだなあ」
「まあ、いいから、いってこい」
「おやじさん、そんなに強いひとだから、いっておくんなせえ」
「いくじのねえやつだな。しかたがねえ。じゃあ、おれがいってやるべえ……おい、せがれや、せがれや、おい、千太郎や」
「はい」
「おれは、おときばあさんのところへいってくるからの、よく番をしていろ。おまえたち、みんなで火の用心を気をつけてくれよ。うん、じゃあ、いってくるだから……」
と、おやじさん、おもてへとびだしました。
口ではつよいことをいっておりますが、このおやじさん、なかなか臆病でございます。杉の森へかかりますと、木のかげに、まっ白なものがぼんやり立っております。これは、きつねやたぬきが、こっちの気を知るもんだから、おれがこわい、こわいとおもってるんで、ちくしょうめ、いたずらをするんだろう、いまいましいやつだと、だんだんそばへ寄ってみると、年若《としわか》の女が、しきりに泣いているのは、どうやらほんとうの人間らしゅうございます。
「なんだ、そこで泣いているのは、きつねか、たぬきか?」
「いいえ、わたしは、きつねでも、たぬきでもございません」
「じゃあ、なんだ?」
「せっかくおたずねくださいますのに、まことに申しわけございませんが、どうか早くあちらへいらしってくださいまし」
「いけというならいくが、おまえ、ここでなにをしている?」
「すこし用事がございますので……」
「なんの用か知らねえが、おい、ねえさん、この杉の森というところは、男でも気味がわるくっていやなところだ。それを、おまえさん、たったひとりで、なんの用があるか知らねえが、ひょっとわるい了簡《りようけん》でもだすんじゃあねえか?」
「じつは、枝ぶりのよいのをさがしております」
「えっ、首くくりかね? 若えのに、首をくくって死ぬというなあ、とんだ了簡ちがいだ。どういうわけで死になさるのか、はなしをしなせえ。こととしだいによったら、相談に乗らねえでもねえが、どういうわけだ?」
「ご親切のおことばゆえ、おはなし申しあげますが、じつは、めんぼくないことではありますが、わたしは、このさきの吉田村で生まれたものでございまして、江戸のほうへ奉公にまいっておりました」
「うん」
「そのうちに、そこの番頭さんに大吉さんというかたがありまして、そのおかたと、ついご主人の目をしのんで、不義いたずらをいたしました」
「うん、若えうちはありがちだ。それからどうした?」
「そのうちに、いつか因果の胤《たね》を宿しまして、お腹が大きくなり、とうとうご主人さまのお目にとまり、ふたりとも主人かたを追いだされ、しかたがなしに、番頭さんの在所《ざいしよ》へいく途中、まかれてしまって、番頭さんは、どこへいったかわかりません。こんなお腹をして、親もとへ帰るもめんぼくなく、いっそのこと死んでしまおうとおもいます。すみませんが、首をくくるつもりでございますから、じゃまをしないで殺してくださいまし」
「ばかなことをいうでねえ。なんぼ若いからといって、そんな無分別なことをするもんでねえ。死んで花が咲くものか。とにかく、わしのところへきな。ゆっくりと相談して、子どももおれのところで生ましてやる。また、親もとへはなしてやってもいい。すてた男はにくいけれども、腹の子どもに罪はねえ。闇《やみ》から闇へほうむるのもかわいそうだ。いいから、おれのところへきな」
「ありがとう存じますが、いったん死のうとおもいつめたことでございますから……」
「それはいかねえ。死んで、またいつ生きられるとおもう? とかく若え時分には、ふたこと目には死にたがるもんだが、この世にまたとでられるものじゃあねえ。まあまあ、気をおちつけて、おれのところへきな。どうでも世話をしてやるから……」
「ありがとう存じます。それほどまでにご親切におっしゃってくださるなら、わたしに、ひとつのおねがいがございますが、お聞きとどけくださいましょうか?」
「なんだ、ねがいというのは?」
「ほかではございませんが、いまも申す通り、親にも家へも義理がわるくって帰れませんから、わたしが死にましても、葬式《とむらい》をしてくれるものもございません」
「うん」
「ここに十両のお金を持っております。これをあなたへおあずけいたしますから、わたしが死にましたあとで、どうかこのお金で、葬式《とむらい》をよろしくおねがいします」
「なにをくだらないことを……なに、十両? おまえが? ……うーん、十両も持っていなさるのか……十両もあれば、これからおときばあさんのところへいかねえでも……いや、なに、こっちのことだ……そうか、それじゃあ死ぬがいい。なるほど、腹を大きくして、親のところへめんぼくなくって帰れめえから、死のうというのももっともだ。おれだって、それなら死ぬ気になる。まあ、そりゃあ死ぬほうがいい」
「じゃあ死にましても……」
「ああ死ぬほうがいい。死んだほうがいいとも、死んだほうがいいとも……おれなども、若え時分にゃあ、死にかけたことがたびたびある。なまじ生きていれば恥さらしだ。死ぬほうが親孝行だ。死にな、死にな」
「おじいさん、首をくくるのは、どうしたらようございましょうか?」
「どうしたらって、おれもいままで死んだことはねえが……あすこに松の木がぬっとでている。この木へぶらさがって、ぐっと首をつるんだ」
「どういうぐあいに?」
「どういうぐあいったって、おれだってわからねえ。木のあいだへこうひもをさげて、輪をこしらえて……あっ、ちょうどいい。ここに台がある。これをこう置いて、この上へ乗っかって、首を輪へひっかけて、前の台を蹴りさえすれば、ぶらりとさがる。これで、ぎゃーもすーもねえ。楽に往生できる」
「すみませんが、おじいさん、ちょっとやってみせてくださいな」
「厄介な女だなあ。じゃあ、その型をみせてやるべえ。それ、いいか? このひもをこれからこうかける。ここで、むすび玉をこしらえて、ふたつ輪を通して、台の上へ乗っかって、首へこう輪をかけて、ずどんと前へ台を蹴倒せば、首がつれるだ。いいか?」
「どういうふうに台を蹴るんで?」
「わからねえな。こういうふうに……」
と、いって、ぽんとはずみをつけて台を蹴りますと、「うん」と、じいさん、そのままぶらさがって死んでしまいました。
「あっ、おじいさん、もうわかりました。おりてください。わたし、その通りにして死にますから……ちょいと、おじいさん……あらっ、おじいさん、鼻汁《はな》をたらして……ちょいと、おじいさん……あら、いやだ。ぶらさがって死んでしまったんだよ。まあ、おじいさん、いやなかっこうだこと、いやだねえ。死ぬとこんなかっこうになるものかね。ああいやだ。よそう。死ぬのは、ばかばかしいよ。首は長くのびて、鼻汁をたらしているかっこうは、みっともないことねえ。ああ、いやだ。よそう、よそう。なんだって、わたしは死ぬ気になったんだろう? ……あっ、ここに書置きがある。こんなものを持ってたってしようがない。おじいさん、すみませんが、わたしのかわりに死んでくだすった。そのかわり、花だけは、毎日あげますよ。もう、わたしは死ぬのはやめますから、ごめんください」
ひどいやつがあるもんで、ひと目にかからぬうちにと、いそいで逃げてしまいました。
一方、おじいさんのうちでは、帰りがおそいから心配しまして、
「どうしたんだんべえな? まだおやじさん、帰ってこねえが、どうすべえ?」
「もうそろそろ夜もあけるだんべえ。ふたりでいってみるか?」
「そうすべえ。千太郎さん、おやじさんをむかいにいってくるから、留守番していておくんなせえよ……あーあ、夜あけがたてえものは、寒いもんだなあ」
「うん、どこへいったんだんべえ? おやじどんは……」
「そうさな。となり村のおときばあさんのところへいったにしちゃあ、あんまり長すぎるだな」
「なあに、あのおやじ、口にゃあ強がったことをいってるが、なかなか臆病だから、夜のあけるまで、ばあさんのところにぐずぐずしているんだんべえ」
「それとも、また、金というものは、あるようでねえもんだから、ばあさんところにもねえんで、どっかよそへいったんでねえか? ……あいたっ、おお、いてえ。おらのこと、なにするだ? ひとのあたまを蹴りゃあがって……」
「なにいってるだ。だれが、おめえのあたまを蹴るやつがあるもんか」
「だって、いま、あたまを蹴られた」
「変だなあ。坐ってでもいやあしめえし、あるいててあたまを蹴られるやつがあるか」
「おい……でた、でた」
「なにがでた?」
「なにがって、ここにぶらぶらしていやがる」
「なに? ぶらぶら? ……」
「うん、人間の宙乗《ちゆうの》り」
「宙乗り? ……おかしなぐあいだなあ」
と、ひょいとみると、いま、東がいくらかあかるくなったところで、ぼんやりと顔も見わけがつくようになりましたから、よくみると、宵に金のくめんをたのんだおじいさんが、鼻汁をたらして首をくくっておりますから、ふたりはおどろくまいことか、
「うわーっ、たいへん、たいへん、おやじさんが首をつってるだ」
「こりゃあたいへんだ。早く知らせろ」
と、とってかえしてうちへ知らせましたから、せがれの千太郎をはじめ、村の衆もとんでまいりました。
そのうちに、検死《けんし》の役人もきまして、とりあえず、木からおろして一応からだをあらためました。
「これ、せがれ千太郎というのは、そのほうか?」
「はい」
「とんだ災難であったな」
「はい、ありがとう存じます。えらいことになりました」
「ふだんから、なにか父のようすにかわったことでもあったか?」
「べつにかわったことはございません。ここにおります若いものが、金の算段をたのんだものでございますから、その金を借りにでましたが、それぎり帰ってまいりません。ふたりの若いものが心配をして、ただいま、むかいにまいる途中、この死骸《しがい》をみつけまして、てまえどもへ知らせにまいったのでございます」
「うん……やっ、死骸のふところになにか書きつけのようなものがはいっておるぞ……なになに? おお、書置きとしてあるぞ。どういうわけで死んだか、仔細《しさい》はしたためてあろう。みてとらせる……ええ、一筆しめしのこしまいらせ候。わたくしこと、ご両親さまに申しわけなきことながら……これ、千太郎、そのほうの父には、まだ両親があるか?」
「いえ、もう、とうにございません」
「おかしな文句じゃな……ご両親さまに申しわけなきことながら、いつしかあのひとと深くなじみ……はて、このとしになって、女でもこしらえたとみえるな……ついに因果の胤を宿し、はや八月に相成り候? ……これ、千太郎、そのほうの父は男であろうな?」
「へえ、女のおやじはございません」
「……おかしいな、どうも……ついに因果の胤を宿し、はや八月……というと、女のようであるが……うん、わかった。世にふたなりと申し、男と女と両性のものがあると申すが、そのほうの父は、ふたなりであろう?」
「いいえ、昨晩、着たなりでございます」
お化け長屋
「杢兵衛《もくべえ》さん、杢兵衛さん」
「ああ、源兵衛さんかい? こっちへあがんなよ」
「うん……なあ、杢兵衛さん、ここの家主ぐれえしゃくにさわるやつはねえなあ……なにもあんなにどならなくてもいいじゃあねえか」
「そうよなあ。なにも、となりの空き家にものをいれたって、『長屋の物置きにしようとおもって、ここのうちをあけとくんじゃあねえ。ものをいれたやつは、しらべあげて店賃《たなちん》を割りあてる』だってやがる。小にくらしいいいぐさじゃあねえか」
「まったくだよ。おれも、よっぽどとんでいって文句のひとつもいおうとおもったんだが……」
「いってやりゃあいいじゃあねえか」
「うん、でようとおもったんだが、店賃《たなちん》が八つもたまってるからな」
「だらしがねえなあ……しかし、しゃくにさわるなあ……そうだ。どうだい、ほんとうにとなりの空き家を物置きにしちまおうか?」
「だって、あのうちだって、借り手がくるだろう?」
「そりゃあくるだろうが、きたら、家主んとこへやっちゃあまずいから、あたしんところへよこしなよ。うん、差配《さはい》(管理人)だとかなんとかいってさ……うまいぐあいに、貸さねえように、いいかげんなことをいって帰しちまうから……」
「そうかい、大丈夫かい?」
「ああ、まかせときなよ」
わるい相談がまとまりました。
「ええ、ごめんください。こんにちは……」
「はい」
「あのう、こちらに貸し家がございますが、お家主は、どちらでございますか?」
「ええ、家主はね、ちょいと遠いもんですから、差配が、万事とりしきっているんで……」
「そのおかたのお宅はどちらで?」
「このさきに、植木鉢の置いてあるうちがあるでしょ? あすこに住んでいるのが、この長屋にいちばん古く住んでいるひとで、あだ名を『古だぬきの杢兵衛さん』というんですが、あのひとに聞けば、すっかりわかりますから……」
「ああ、どうもありがとうございます……ええ、ごめんください」
「はい、なんですね?」
「ええ、古だぬきの杢兵衛さんは、こちらさまでございますか?」
「なんだい、おまえさんは? どうもおどろいたひとだね。かげで古だぬきといわれたこたああるが、面とむかって、古だぬきといわれたなあはじめてだよ」
「そりゃあ申しわけございません……あのう、おとなりのおうちがあいているようでございますが、拝借できましょうか?」
「ええ、まあ……」
「間取《まど》りはどんなものでございますか?」
「六畳に四畳半ですよ。それに庭もあるし、日あたりはいいし、住み心地はいいですよ」
「はあ、そうですか。造作《ぞうさく》のほうは?」
「そりゃあのこらずついてます」
「へーえ……敷金《しききん》のほうは?」
「いや、そんなものは、おあずかりしたところで、どうせかえさなくっちゃあならないもんだから、どっちでもよござんす」
「……では、前家賃《まえやちん》ということでも?」
「べつにそんなものはいただきませんよ……まあ、住んでいただければ、こっちからいくらか住み賃をさしあげたいくらいのもんで……」
「え? なんだかおはなしがよくわかりませんが……そんないいうちで、造作がついてて、敷金も家賃もないというのは、どういうわけなんでございましょうか? なにか事情があるんじゃあございませんか?」
「ええ、そりゃあ、まあね……越してきたあとで、こんなことがあるんなら、なぜはなしをしてくれなかったかと、うらみごとをいわれるのもいやだから、ちょっとおはなしをしますがね……まあ、こちらへおかけなさい」
「えへへへ、そんなちいさな声をださないでくださいよ。わたしゃあ、あんまり気の強いほうじゃあないんですから……」
「あそこのうちはね……越してきたひとが、早いひとで三日、おそいひとで五日ぐらいで、みんなよそへ引っ越していってしまうんです」
「そりゃまたどういうわけで?」
「……あれはもう、三年ばかり前になりますか、あそこに三十一、二の後家さんが住んでいました。仕立てものをして暮らしてましたが、きりょうはいいし、愛嬌《あいきよう》はいいし……『女やもめに花が咲く』とかいってね、『あたしが暮しむきのお世話をしましょう』なんてひともいたが、もの堅いひとでね、『わたくしは、もう、一生やもめで暮らします』ってんで、わるいうわさひとつなかった」
「へえ」
「するとね、あるひどい雨の晩にね……」
「へえへえ……」
「泥棒がはいりました」
「そりゃあご災難で……」
「女ひとりで、つましく暮らしていたから、小金《こがね》もたまっていたようだし、ちょいとした品物もあったようだった……で、泥棒のやつ、盗んだものをしょって、でていこうとしたときに、ひょいとおかみさんの寝顔をみると、なにしろきりょうがいいもんだから、むらむらっと、へんな了簡をおこした」
「へーえ」
「寝ているおかみさんのふところへ、すーっと手をいれた。もとよりもの堅いおかみさんだから、ひょいと目をあくと、『泥棒!』と、声をたてなきゃあよかったんだが、泥棒のやつも、わが身がこわいから、かくし持っていたあいくち(短刀)を抜いて、おかみさんの肩さきへ斬りつけた。『きゃっ』といって、むこうへ逃げるのを、髪の毛をつかんでひきもどして、ぐさりと突いたやつが乳の下へ……これが致命傷《ちめいしよう》……ひどい殺しかたをしましてな」
「へえへえ、とんだご災難で……どうも……」
「あくる朝になって、どうも起きようがおそいってんで、長屋の連中が、戸をあけてみると、あたり一面血の海というありさま。もう長屋じゅうが、ひっくりかえるようなさわぎになったが、身寄り、親戚《しんせき》もないということだから、長屋で葬《とむら》いをだしましたよ」
「そりゃあ、まあ、たいへんなことで……」
「それからですな。だれかが越してくると、一日《いちにち》、二日《ふつか》はなにごともないが、三日、四日とたつうちに、雨のしとしとふる晩なぞあると、宵のうちは、世間もにぎやかだが……夜もしだいにふけわたり……」
「えへへへへ……あのう、そう声を低くなさらないでおはなしいただきたいもんで……なるほど、お家賃もなにもいらないというわけもおおよそわかりました……では、これで失礼を……」
「まあまあ、お待ちなさい。せっかくはなしかけたんだから、おわりまで聞いていらっしゃい……いずこで打ちだす鐘の音か、陰《いん》にこもって、ボーン!」
「うわっ……わたくし、ほかに用もございますので、このへんで……」
「すると、仏壇のなかで、鐘が、ひとりでにチーン! 障子へ髪の毛が、サラサラサラとあたるような音がすると、縁側の障子が、するするするするっと、これも、ひとりでにあきます」
「へえ……もう、け、け、結構でございます」
「障子があいたなとおもうから、ひょいと枕《まくら》もとをみると、殺されたおかみさんが、みどりの黒髪をおどろにふりみだして、血みどろのすがたで、越してきたひとの顔をうらめしそうにみたかとおもうと、『けたけたけた』と笑います」
「へ、へ、へ、へえ……」
「『それでも、よく越してきてくれましたねえ』といいながら、つめたい手で、寝ているひとの顔をすーっとなでる!」
「きゃー!」
「あはははは、なんて臆病《おくびよう》な野郎なんだ。『きゃー』てんで、はだしで逃げちめえやがった。あれっ、がまぐちをおとしていきゃあがった」
「杢兵衛さん、なんだい、いまのさわぎは?」
「ああ、怪談ばなしでおどかしてやったあげくにね、幽霊がつめたい手で顔をなぜるてえときにね、そばにあった濡《ぬ》れぞうきんで顔をなでてやったら、野郎、『きゃー』てんで、はだしのまんま、がまぐちおっことして逃げちめえやがった」
「がまぐちを?」
「ああ、たいしてはいっちゃあいねえが、あとで、すしかなんか、ちょいとつまもうじゃあねえか」
「ありがてえなあ……また借りにきたら、どんどんよこすからねえ」
「ああ、いいとも、みんな追い帰しちまうから、どんどんよこしとくれ」
「おう、まっぴらごめんねえ。ちょっとものを聞くがな」
「へえ?」
「そこに小ぎたねえ貸し家があるが、家主はどこなんだ?」
「ええ……それが……そのう……」
「あれっ、じれってえ野郎だなあ。はっきりしろい! 家主はどこなんだよ?」
「ええ……すこし遠方なんですが……」
「遠方? 遠方ったって、日本のうちだろう? 外国《げえこく》じゃああるめえ?」
「そりゃあそうですがね……このさきに、植木鉢の置いてあるうちがあるでしょ? あすこに住んでいるのが、この長屋にいちばん古くから住んでるひとで、あだ名を『古だぬきの杢兵衛さん』というんですが、あのひとが差配ですから、聞けば、すっかりわかりますから……」
「ちえっ、こんなうすぎたねえ長屋から、そんなに長くはいだせねえなんて、どうせろくなやつじゃああるめえ」
「そんなわるくいうんなら、なにも越してこなくてもいいじゃありませんか?」
「おらあ、なにも未来永劫《みらいえいごう》いようってんじゃあねえんだ。おらあ、いま、親方のうちに厄介《やつけえ》になってるんだが、来月になると、吉原《なか》の女が、年期《ねん》があけるんだよ。で、女が、おれんとこへくるってんだが、まさか、夫婦そろって厄介にもなれねえから、こんな長屋でもちょいと借りて急場をしのごうってんじゃあねえか。おれが借りときゃあ、あとから、女がくりこんでくるってえ寸法だ。うふふふ、すーっとした細おもてで、いい女だぞ。井戸ばたへでてきたときなんぞに、変な目つきをしやがると、はりたおすぞ、この野郎!」
「なんだい、たいへんなやつだね、いきなりのろけてやがらあ……まあ、変な目つきなんぞしねえから、心配しねえで、杢兵衛さんのうちへいって聞いてみなさいよ」
「おう、こんちはあ、おう、いるかい? 古だぬき!」
「あれっ、たいへんなやつがきやがったな。いきなり古だぬきだってやがら……あたしゃ、杢兵衛ってんだ」
「ああ、てめえが、たぬもくか?」
「いうことが、いちいちらんぼうだな……なんの用です?」
「そこに貸し家があるな?」
「ああ、貸し家のことでおみえになったので?」
「そうよ。あれを、おらあ借りようとおもうんだがな、おめえが差配だそうだから聞くが、間取りはどうなってんだ?」
「六畳に四畳半ですよ」
「そりゃあいいや。で、造作は?」
「みんなついてます」
「ふーん、で、敷金とか、店賃とかは、どうなってんだ? 高えことぬかしゃあがると、どてっ腹に風穴あけるぞ!」
「いうことがすごいな、どうも……敷金なんぞは、あずかったところでかえさなくっちゃあならないもんだからいらないし……店賃も、払おうとおもえば払ってもよし、また、いただかなくてもかまいません」
「えっ、ただかい? ふーん、ありがてえなあ。じゃあ、すぐに越してくるからな。ほかの野郎に貸すんじゃあねえぞ」
「もしもし、お待ちなさい、店賃がいらないということについては……」
「ああ、わかってるよ。どうせ因縁《いんねん》ばなしかなんかあるんだろう?」
「ええ、そりゃあ、まあね……越してきたあとで、こんなことがあるんなら、なぜはなしをしてくれなかったかと、うらみごとをいわれるのもいやだから、ちょっとおはなしをしますがね……」
「前置きをごたごたならべるない。早くしろい」
「まあ、こちらへおかけなさい」
「なんだ、いきなりちいせえ声になりゃあがって……腹でもへったのか?」
「あれはもう、三年ばかり前になりますか、あすこに三十一、二の後家さんが住んでいました」
「ふーん」
「仕立てものをして暮らしを立ててましたが、きりょうはいいし、愛嬌はいいし、『女やもめに花が咲く』とかいいましてね、『あたしが、暮らしむきのお世話をしましょう』なんてひともいたが……」
「うふふふ、むりはねえやな。そんな女がひとり身でいりゃあ、世間のやつはうるせえや。てめえは、暮らしむきなんぞひきうけられねえから、水汲んだり、薪《まき》割ったりして、骨折り仕事からもちかけたんだろう? この助平だぬきめ!」
「なんだなあ、口のわるい。そんなことをするもんか」
「かくすない! 腰巻きなんか洗ったくせに……」
「じょうだんいっちゃあいけないよ……もの堅いひとで、『わたくしは、もう、一生やもめで暮らします』ってんで、わるいうわさひとつなかった……すると、あるひどい雨の晩に泥棒がはいった」
「ふーん、で、どうしたい?」
「女ひとりで、つましく暮らしていたから、小金もたまっていたようだし、ちょいとした品物もあったようだった……で、泥棒のやつ、盗んだものをしょって、でていこうとしたときに、ひょいとおかみさんの寝顔をみると、なにしろきりょうがいいもんだから、むらむらっと、へんな了簡をおこした」
「ふざけた野郎だ!」
「寝ているおかみさんのふところへすーっと手をいれた」
「えっ、ふところへ? おっぱいへ? うわあ!」
「なんてえ声をだすんだ……もとよりもの堅いおかみさんだから、ひょいと目をあくと、『泥棒!』と、声をたてなきゃあよかったんだが、泥棒のやつも、わが身がこわいから、かくし持っていたあいくちを抜いて、おかみさんの肩さきへ斬りつけた、『きゃっ』といって、むこうへ逃げるのを、髪の毛をつかんでひきもどして、ぐさりと突いたやつが乳の下へ……これが致命傷……」
「やいっ、てめえが殺したんだろ?」
「じょうだんいっちゃあいけない」
「だって、手つきがうますぎらあ……さあ、訴《うつた》えてやるぞ」
「はなしにくいなどうも……たぶん、そうやったんだろうとおもうんだ」
「泣き声だすない」
「あくる朝になって、どうも起きようがおそいってんで、長屋の連中が戸をあけてみると、あたり一面血の海というありさま。もう長屋じゅうが、ひっくりかえるようなさわぎになったが、身寄り、親戚もないということだから、長屋で葬いをだしましたよ」
「そりゃあそうだろう。みんなちょっかいをだして、袖をひいた連中なんだから……」
「それからですな、だれかが越してくると、一日、二日はなにごともないが、三日、四日とたつうちに、雨のしとしとふる晩なぞあると、宵のうちは、世間もにぎやかだが、夜もしだいにふけわたり……」
「へっ、よせやいっ、いやに気どって声を低くしやがって……ひっかくぞ!」
「いずこで打ちだす鐘の音か、陰にこもって……」
「ボーンとくるかい?」
「その通りで……」
「まあ、たいてい、相場はきまってらあ。で、どうなる?」
「すると、仏壇で、鐘が、ひとりでにチーンと鳴ります」
「そりゃあおもしろくっていいや」
「障子へ髪の毛が、サラサラサラとあたるような音がすると、縁側の障子が、するするするっと……」
「ひとりでにあくのかい?」
「ええ」
「そいつあいいや。おらあ、夜なかに、よく小便に起きるからね、てめえであけるなあめんどうくせえから、するするっとあいたときに、小便にいってくらあ」
「枕もとをみると、殺されたおかみさんが、みどりの黒髪をおどろにふりみだして、血みどろのすがたで、越してきたひとの顔をうらめしそうにみたかとおもうと……」
「どうする?」
「『けたけたけた』と笑います」
「ほう、そりゃあ愛嬌があっていいや。おらあ、抱いて、かわいがってやるぜ」
「『それでも、よく越してくれましたねえ』といいながら、つめたい手で、越してきたひとの顔をすーっと……」
「なにしやがんでえ、ぞうきんなんぞ持ちだしゃあがって……てめえの顔をふいてやらあ」
「あっ、ぷっ、ぷっ、ぷっ、こりゃあひどい」
「じゃあ、すぐ越してくるからな、掃除をたのむぜ」
「なんだい、こりゃあ?」
「どうしたい? 杢兵衛さん、うまくいったかい?」
「だめだめ、あの野郎にゃあ、怪談噺がまるで通じない」
「つめたい手をやったかい?」
「ああ、やろうとしたら、ぞうきんをふんだくられて、あべこべに顔をこすられちまった」
「しようがねえなあ……どうする?」
「越してくるってんだ。おらあ、店賃はいらねえっていったんだから、どうもとるわけにはいかねえや。しようがねえから、あいつの店賃はふたりでだそう」
「じょうだんいうない。あんまりばかばかしいやな。その調子じゃあ、がまぐちなんぞ置いてかねえな?」
「ああ、置いてなんか……あれっ、さっきのがまぐちを持ってっちまったぜ」
「ひでえ野郎だなあ。どうするんだよ?」
「どうするったって、どうにもしようがねえやな」
すっかりあてがはずれてしまって、杢兵衛さんたちが青くなっているうちに、あくる日になると、やっこさん、さっそく引っ越してまいりまして、
「おう、杢さん、越してきたぜ。まあ、よろしくたのまあ」
「あれっ、ほんとうに越してきやがった。しようがねえなあ」
そのうちに、せまいうちですし、荷物もろくにありませんから、すぐにかたづけてしまって、となり近所へ引っ越しそばをくばりまして、
「おやっ、もうあかりがついた。ひとっ風呂あびてこよう。そうだ、となりのおばさんに、ちょいと声をかけとかなくっちゃあならねえな……ええ、こんばんは」
「いらっしゃいまし」
「あっしゃあ、こんど引っ越してきたもんで……」
「おやまあ、ごあいさつがおくれまして、さっきは、おそばをどうもごちそうさま」
「いいえ、どうも……あっしゃあ、ひとりもんですからね、ひとつたのみますよ」
「ええ、こちらこそ……となりがあいていると、なにしろ物騒《ぶつそう》ですからね、おまえさんみたいに、いせいのいい兄さんが越してきてくだすったんで、やっと安心しましたよ」
「なあに、それほどのこともありませんけど……ええ、これから湯へいってきますからね、おねがいします」
「ああ、ゆっくりいってらっしゃい」
やっこさんが湯へでかけると、いれちがいに友だちが四、五人やってまいりました。
「おいおい、あいつんとこは、ここじゃあねえかな?」
「うん、そうらしいが、ちょいと聞いてみねえな」
「ええ、ごめんなさい」
「はい」
「あっ、おばさん、きょう越してきたやつは、となりですかい?」
「そうですよ」
「どっかへいきましたか?」
「いま、お湯へいくといって、おでかけになりました」
「そうですか……ねえ、おばさん、あっしたちは、あいつの友だちなんですがね、なかへへえって待ってますからね」
「ああ、ようございますよ」
「おう、みんな、へえれ、へえれ……野郎、なまいきに湯にいったとよ」
「湯にいったって、なにもなまいきなこたああるめえ」
「まあいいや、とにかくへえろう……うん、こりゃあいいうちだ」
「でもなあ、このうちは、ただだそうじゃあねえか」
「ああ」
「どうしてだか知ってるか?」
「ああ、そりゃあ知ってらあな……あれがでるんだってえじゃねえか」
「うん。そうなんだ……越してきて、一日、二日はなにごともねえが、三日、四日とたつうちに、雨のしとしとふる晩なんかあると、夜もしだいにふけわたり……仏壇の鐘がチーンと鳴るんだ」
「ふーん」
「障子へ髪の毛が、サラサラサラとあたるような音がすると、縁側の障子が、するするするっと、ひとりでにあくんだ。ひょいと枕もとをみると、殺された女が、髪をふりみだして、血みどろのすがたで、越してきたやつの顔をみて、『けたけたけた』と笑わあ。『よく越してきてくれましたねえ』といいながら、つめたい手で、寝ているやつの顔をすーっ……」
「よせやい、こんちくしょうめ! ひとの顔をなでたりして……だけどもよ、あの野郎、こわくねえのかな?」
「うん、ふだんから度胸がいいっていばってるからなあ。からだじゅう度胸のかたまりで、度胸が着物を着てるようなもんだなんて……」
「ほんとうかな? ……どうだい、ひとつためしてみねえか?」
「ためしてみる? どうするんだい?」
「みんなでおどかしてやるんだ」
「ふーん」
「あいつが帰ってくる前に、火鉢の火をうんとおこしちゃって、あかりをくらくして、おれたちは、かくれてるんだ」
「ふん、ふん」
「あいつが、うちんなかへへえると、ひとりでに火がおこって、あかりがくらくなってるから、おかしいなとおもわあ」
「うん」
「とたんに、仏壇の鐘がチーンとくらあ……おいおい、辰ちゃん、おめえ、からだがちいせえから、その戸棚へへえってくれ。うん、戸棚の上の段に仏壇が置いてあるからちょうどいいや。辰ちゃん、おめえは、そこにへえっていて、あいつが帰ってきた時分にな、チーンと鐘をたたくんだ。いいな?」
「ああ」
「そしたらな、金さんと芳ちゃんでな、そこにある細《ほそ》びきを障子へ結《ゆわ》いつけて持ってるんだ。そして、かげへかくれて、すーっとひっぱると、ひとりでに障子があくようにみえらあ」
「うんうん」
「そうすりゃあ、野郎が、なんだろうと、のぞきにくるだろう。とたんに、おれが天井裏へあがっていて、ほうきでもって、あいつのつらをすーっとなでるんだ」
「あははは、おもしれえや」
「野郎が、『きゃっ』てんで逃げだすときに、その金づちを、寅さん、おめえ、糸で結わいてね、格子の出口んとこにいて、持って待ってるんだ。あいつが、でようとしたとたんに、糸をつっとゆるめると、その金づちが、あいつのあたまをなぐるというしかけだ」
「あっはっははは、こいつあいいや。やっちゃおう、やっちゃおう」
四、五人の連中が、すっかり用意をして待っておりますと、そんなこととは知らないやっこさんが、湯へはいって、いい心持ちで帰ってまいりました。
「ああ、いい湯だったなあ。なんていい心持ちなんだ……どうもおばさん、ありがとうござんした。ありがとうござんした……あれ、どっかへいったのかな? ……おや? なんだい、さっきあかるくしといたんだがなあ、いやにうすぐらくなってやがる……おやおやおや、ひとりでに火がかんかんおこってるぜ……そろそろ、はじまったのかな? ……越してきて、一日、二日はなんともねえはずなんだが、すこし早すぎるぜ、こいつあ……そんなこたあねえだろうな? れきがでるときにゃあ、仏壇の鐘がチーンと鳴るっていったが……」
チーン!
「あっ、鳴ってやがる。鳴ってやがる……縁側の障子が……するするするっ……と、わあ、きゃあがった! ……この野郎、ふざけた幽霊だ。や、や、やい、てめえの正体を……み、み、みとどけてやるからな……」
てんで、ひょいとのぞきにでてきたところを、天井裏から、ほうきのさきへ水をつけたやつで、つーっと顔をなでましたから、
「きゃー」
てんで逃げだすとたんに、出口で待ってたやつが、金づちでコツーン!
「あっ、いてえ! たいへんなうちだ。ああ、おどろいた……親方んとこへ帰っちまおう」
やっこさん、親方のうちへ駈けだしました。
「あははは、どうだい、おもしろかったろう?」
「うん、野郎、度胸があるなんていばってたが、だらしがねえじゃあねえか」
「野郎、びっくりして、友だちんとこかなんかへ逃げていったにちげえねえ。いまに帰ってくるから、もうすこしおどかしてやろうじゃあねえか」
「まだ、ほかに趣向があるのかい?」
「うん、いま、おもてをあんまが通ったろう?」
「ああ」
「あいつを呼んでくれ。あの大入道みてえなあんまを……おう、あんまさんかい。いや、療治じゃあねえんだ。じつは、すこしおどかしてえやつがいるんだ。それにゃあ、おめえは、からだがでけえから持ってこいなんだ」
「へえ、わたしは、指さきに力がありますからな、気に食わねえ野郎のひとりぐらいは、ひねり殺してしまいます」
「でけえことをいやあがるな。なにもそんなことをしてくれなくってもいいんだ。おめえは、ただ寝てて、ひとがへえってきたら、『ももんがあ』って目をむいてくれりゃあいいんだよ。あんま賃は倍払うぜ」
てんで、ふとんをあるだけひっぱりだして、あんまさんが、両手を大の字にひろげて寝ますと、ずーっと長くかかっているふとんのすそのほうから、ひとりが右足をだして、もうひとりが左足をだしましたからたいへんな大入道が寝ているようにみえます。
一方、おどかされたやつは、夢中で親方のうちへとんできて、
「親方あ、親方あ」
「なんだ、なんだ、どうしたんだ?」
「でたんで……でたんで……」
「でた? なにが? え? ばけものが?」
「へえ……越してって、一日、二日はなんにもねえはずなのに、湯から帰ってみたら、もうはじまりゃあがったんで……あかりがくらくなっていて、火がおこってて、仏壇の鐘がチーンと鳴って、縁側の障子がするするっと、ひとりでにあいたんで……それから、化けものの正体をみてやろうとおもってのぞきにいくと、つめてえ手が顔をつーっとなでたから、こいつあいけねえとおもてへ逃げだすとたんに、いきなりあたまをぶんなぐりゃあがったんで……そのげんこのいてえのなんのって……」
「なるほど、ひたいがはれてやがる。わるいいたずらをしゃあがる。いまどき化けものなんぞあるもんか。おれがいって、化けものの正体をみとどけてやらあ……おう、どこなんだ? どこなんだ?」
「へえ、こ、こ、ここなんで……」
「おい、親方の声のようだぜ」
「そいつあいけねえ。こんないたずらがばれたら、大目玉を食っちまうぜ」
「ばれねえうちに、逃げちまおうぜ」
てんで、足のほうへはいったやつが逃げだしてしまいました。
「あっ、親方、たいへんだ! 大入道が!」
「なんだ? おっそろしく大きな坊主が寝てるじゃあねえか」
「ももんがあ」
「なにがももんがあだ! ……なんだ、おめえは、横丁のあんまさんじゃあねえか」
「え? こりゃあ、親方さんで……」
「なにいってやんでえ。どうしてこんなくだらねえことをしたんだ?」
「へえ、たのまれたもんですから……」
「だれに?」
「ええ、辰つぁんや金さんたちが、なんでもいいから、ここに寝ていて、ひとがきたら、『ももんがあ』と目をむけば、療治代を倍やるというもんですから……」
「ちえっ、つまらねえいたずらをしゃあがる……おい、おめえが、度胸がいい、度胸がいいなんて、あんまり強《つよ》がりをいうから、なかまにおどかされたんだ」
「ああ、そうだったのか……ひでえことをしやがるなあ」
「それにしても、たのんだやつらも、あんまだけを置きっぱなしにしてずらかるとは、尻腰《しつこし》のねえ(いくじのない)やつらだ」
「へえ、腰のほうは、さっき、逃げていってしまいました」
夢 金
世のなかには、まるっきり欲のないかたはございませんが、欲が深すぎるというのは、こまったものでございます。
ある船宿の船頭で、熊五郎という男がおりましたが、これが、たいへんな欲ばりで、寝ごとにまで金のことをいうというしまつでございます。
「あーあ、百両ほしい」
「あれっ、またはじめやがった。二階で寝てるのは熊公だろう? どうも、あんなに寝ごとをいうやつはねえなあ。それも、いつでもきまって金のことなんだからあきれちまわあ」
「二百両ほしい」
「まだやってやがる。しずかにしろい!」
「うーん、五十両でもいい」
「ちえっ、寝ごとで返事してやがる。どうもあきれけえって、ものもいえねえや。ばあさん、早く寝よう。戸じまりはどうした? そうか。こんなふうに雪のふったしずかな晩に、百両だの、二百両だのって寝ごとをいってやがると、そそっかしい泥棒が、金勘定でもしてるかとおもって、とびこんでこねえともかぎらねえ。早えとこ寝ちまおう」
と、船宿の主人夫婦がはなしておりますと、おもての戸をたたく音がしまして、
「おいっ、ちょっとあけろ。これっ、ちょっとあけんか」
という男の声がしますから、主人もおどろいて、
「そーれ、いわねえこっちゃあねえ。とうとう泥棒をよびこんじまった。よしよし、おれがことわるから、ばあさん、おめえは、ひっこんでな……ええ、もし、おもてのかた、てまえどもは、まことにしがない船宿でございまして、金なんぞはございません。二階で、『百両、二百両……』といっておりますのは、とりとめのない寝ごとでございます。どうぞおまちがいなさいませんように……もしもお金がお入り用ならば、このさきには、いくらでも金持ちがおりますから、どうぞそのほうへおでかけくださいまし」
「なにをいっておる。だれが金をだせといった? 盗賊とまちがえるな。いいから、ちょっとあけろ」
「そうでございますか? 大丈夫でございますか? あけると、いきなりぎらぎらしたものをつきつけたりなさいませんでしょうね?」
「なにを申しておる。早くあけろっ」
「へえへえ、ただいま……」
と、いいながら、主人が、戸のふし穴からのぞいてみますと、若い娘づれのさむらいが、雪のなかに立っておりますから、これならば安心と戸をあけました。
「ゆるせよ。いや、雪は、豊年の貢《みつぎ》とは申しながら、こうふられてはこまるな」
「さようでございます。すこしなら、きれいでよろしいんでございますが、こうふりましては、しまつにこまります。さあ、どうぞ、こちらへおはいりくださいまして……さあさあ、お嬢さまもどうぞ……ばあさんや、手あぶりに火をどっさり入れて持ってきな」
はいってまいりましたお武家は、年のころ三十四、五、色の黒い、目のぎょろりとした、小鼻のひらいた、口の大きい、あまりいい男ではございません。あたまは、髷《まげ》は結《ゆ》ってはおりますが、月代《さかやき》がのびて、髪ぼうぼうというところ……着物は、絹ものではございますが、襟《えり》あかがつき、ひだのわからなくなった袴《はかま》をはき、黒羽二重《はぶたえ》というと、ていさいはよろしいのですが、地が赤くなって、紋が黒くなっているから、赤羽二重の黒紋つきという羽織を着て、破柄《やれつか》、はげ鞘《さや》の大小に、素足《すあし》に駒げたというこしらえ、つれの女のほうは、文金の高島田、年ごろが、十七、八、色白で、鼻すじが通り、口もとのしまった、まことにいいごきりょうで、みなりは、小紋ちりめんの二枚小袖で、緋ぢりめんの蹴出しが燃え立つよう……さむらいのすがたとは、まるでちがいます。
「夜中気の毒ながら、深川まで屋根舟を仕立ててもらいたい。じつは、妹をつれて芝居見物にまいったところ、この雪にあい、駕籠《かご》というと、二挺《にちよう》になってめんどうゆえ、いっそ舟で帰ろうと、これまで雪のなかをあるいてまいった」
「せっかくでございますが、船頭が、ではらってしまいまして……」
「それはこまったな……そうじゃ、二階で、なにか申しておる者はいかんか?」
「いえ、あれはいけません。おそろしく欲ばったやつでございますから、万一、お客さまに失礼があってはなりませんから……」
「いや、欲ばったやつは、そのようにしてつかえばよいのであるから、ちょっとたずねてもらいたい」
「……さようでございますか。では、ちょっとお待ちをねがいまして……おい、熊、熊公」
「へえ……ああ、いやだ、いやだ。いい心持ちで、すこしあったまったとおもやあ、もうおこされる。じょうだんじゃねえや……なんですい?」
「どうだ、深川までお客さまがあるが、ちょいといってくれねえか?」
「いやだ、いやだ。深川までいったって、いくらにもなりゃあしねえ。こいつあ、からだがわるいといって、ことわるにかぎる……ねえ、親方、雪のせいで疝気《せんき》がおこって、腰がめりめりはがされるようにいたくって、これじゃあ、櫓《ろ》につかまったって、おもうように仕事ができませんぜ」
「そりゃあいけねえな……ええ、お武家さま、お聞きの通りでございまして、まことに申しわけございませんが……」
「いや、かような雪の夜であるから、酒代《さかて》は十分につかわすが、どうじゃ?」
酒代ということばを、二階で聞いた熊さんが、ぎょっとして、
「酒代と聞くと、うっかりことわれねえぞ……ええ、親方」
「なんだ?」
「むりしていきゃあ、いけねえこともありませんけどねえ」
「そうか、そんなら、がまんしていってくれるか?」
「へえ、魚《うお》ごころあれば水ごころ、阿弥陀《あみだ》も金で光る世のなかってんで、ものごと金しだいで……」
「なにをいってるんだ。失礼なことをいうな。酒代は、十分にくださるとおっしゃるんだ」
「ようございます。いきましょう」
と、熊さん、さっそくしたくをしておりてまいりまして、やがて、船のしたくもできました。
「へえ、どうもお待ちどうさまでございました。どうぞ、お乗んなすって……じゃあ、お嬢さん、下が凍《こお》っておりますから、歩《あゆ》み板があぶのうございます。わっしの肩へおつかまりくだすって……そうそう……たいそうやわらかいお手で……えへへへ、いいにおいで……」
「なにをいってるんだ熊公、お客さまに失礼じゃないか」
「おかみさん、叱言《こごと》をいっちゃあいけねえ。もうすこしちょうちんをさげておくんなせえ。そうあげられちゃあ、足もとがみえなくってしょうがねえ。さあさあ、お嬢さん、屋根舟というやつは、乗りかたのむずかしいもので、屋根うらへ手をかけて、着物のすそを前へはさんで、足のほうからすーっとへえらなくっちゃあいけねえ……そうそう、なかなかうめえもんですね……へえ、旦那、お待ちどうさま。そこに火箱がございますから、お手をおあぶんなすって……それからねえ、おかみさん、帰ってきたら、すみませんが、親方にないしょで二合ばかり……」
「ああ、いいとも……じゃあ、気をおつけ申して……」
ともづなをときます。なんの足《た》しにもなりませんが、船宿の女房が、船首《へさき》へ手をかけて、
「ごきげんよろしゅう」
と、つきだすのが、船宿のお世辞だそうで……山谷堀から大川へでましたが、雪は、ますます大雪。綿をちぎってぶつけるようで、寒いのなんのって……
「ああ寒い、寒い。おっそろしい大雪になりました。旦那、お寒いじゃあございませんか」
「寒いのう。このあんばいでは、あすもふりつづくかな?」
「さようでございますね……ああ、いやだ、いやだ。こんな雪のふる晩に、こうして船をこいでいくなんざあ、まったく気がきかねえや。もっとも、船をこぐやつがあるから、乗る客もあるんだ。乗る客があるから、こぐやつもあるんだ。箱根山、駕籠に乗るひと、かつぐひと、そのまた、わらじをつくるひと、上をみても、下をみても、きりがねえや……ええ、旦那、火箱がぬるくなりましたら、そこに火ばしがございますから、どうぞ、おなおしなすって……それに、ちょうちんが暗くなりましたから、下からちょいとかるくたたいていただくと、しんがおちて、あかるくなります……あれっ、じょうだんじゃねえな。河岸をはなれて、すぐに酒代をくれりゃあ、仕事にはりあいがあるが、なんともいわねえところをみると、くれねえのかな? ちょいと催促してみようかな? 女は、芝居でつかれたとみえて、すやすや寝てしまったが、おかしいなあ、野郎、女の顔を穴のあくほどみてやがる。さっききたときにゃあ、妹だといってやがったんだがなあ。てめえの妹なら、うちにいて、あくびしたつらも、べそをかいたつらも、てえげえみあきてそうなもんじゃあねえか。うん、こりゃあ、妹じゃあねえや。ちくしょうめ、ふざけやがって、船のなかで、なにかはじめようてんだな。そんならそのように、わたすものをずんずんわたしゃあ、めくらにでも、つんぼにでもなってやるが、くれるものをくれねえで、じょうだんじゃねえ……女がおきてりゃあ、なんとかいうにちげえねえ。『あなた、早く船頭に祝儀《しゆうぎ》をおやりあそばせ。こういう雪の晩だから、多分におつかわしあそばせ』と、いうかいわねえか、そりゃわからねえが……ああ、いやだ、いやだ。こうなりゃあ、船をゆすぶってやれ。ちくしょうめ。うーん、どっこいしょ、よいしょ、うーん、どっこい……」
「船頭」
「へい」
「だいぶゆれるな」
「へえ、ゆれますよ。でるものがでねえと、いつでもこのくらいゆれます。これでもでなけりゃあ、大まわしにまわします」
「たわけたことを申すな。まあ、つかれたであろうから、一服いたせ」
「へえ」
「いやさ、つかれたであろうから、一服やれと申すのだ」
「ありがとう存じます。ご催促申すわけじゃございませんが、でるものがでないと、仕事がしにくいもんでげすから……」
「なに?」
「へえ、お酒代がでるんでございましょう?」
「ばかをいえ。ここへはいって、たばこをのめと申したのだ」
「へえ、さようでございますか。わっしは、たばこは、手銭《てせん》ではのみません。そのかわり、おさきたばこなら、いくらでもいただきます」
「うん、そちは、ずいぶん欲ばったやつだな」
「へえ、欲のほうじゃあひけはとりません」
「うん、その欲の深いところをみこんで、たのみがあるのだが、承知してくれまいか?」
「へえ、金もうけときたら、どんなことでもやります」
「ほかでもないが、じつは、この女は、拙者《せつしや》の妹ではない」
「そうでございましょう。どうも、ご兄妹にしては、あまりごようすが、ちがいすぎるとおもいました。えへへへ、おたのしみで?」
「いや、そうでもない」
「それじゃあ、なんでございます?」
「この女は、さる大家《たいけ》の娘だが、店の者と不義をはたらき、その男がひまになったところから、男をしたって、親の金を持って家出をした。その途中、花川戸で、雪のために癪《しやく》をおこしてなやんでいるところを、介抱してつかわそうと、親切ごかしに、ふところへ手をいれてようすをみると、たしかに、七、八十両ほどの金を持っている。途中で殺してしまおうとおもったが、往来の者がさまたげになって仕事ができん。いささかその男に心あたりがあるから、逢わせてやろうといつわって、この船でつれだした。どうせ親不孝をしたこんなやつは、殺して金をとったほうがよい。ちょうどつかれてねむっているをさいわい、船のなかで殺してしまおうとおもうのだ。そちも手つだいをしろ」
「じょうだんいっちゃあいけません。そんなひでえことができるもんじゃあありません」
「しかし、そちは、二階で、金がほしいといっていたではないか」
「そりゃあ、金はほしゅうございますが、ひと殺しまでしてとろうなんてえ気はございません。どうかごかんべんなすって……」
「いやだと申すか?」
「へえ」
「いやならばしかたがない。しかし、大事をうちあけた以上は、後日のさまたげ、ぜひにおよばん。そちからさきに斬ってしまうから覚悟しろ」
「じょうだんじゃねえ。手つだわなけりゃあ、わっしが斬られるんで?」
「いかにも……」
「そりゃあ、割りにあわねえや……じゃあ、ひとつやっつけやしょう。しかし、こういうことは、約束がかんじんですからうかがいますが、ぜんてえいくらおくんなさいます?」
「さすがは、欲深いそのほう、ふるえながらも値をきわめるのは感心。骨折り賃に酒代、あわせて二両もやろうかの?」
「ふざけちゃあいけませんや。だれが、二両ばかりの目くされ金で、そんなあぶねえ仕事がやれるもんか。そんなつもりなら、川んなかへとびこんで、船をひっくりけえしてやろう」
「これっ、ばかなまねをいたすな。船をひっくりかえされてたまるものか。それでは、いくらほしいのじゃあ?」
「そうさな、山わけといきましょう」
「よかろう。十分にはたらけ」
「へえ、よろしゅうございます」
「どうもそのほうは、ずいぶん欲ばったやつだな」
「わっしも欲ばってるかあ知らねえが、おまえさんのほうが、よっぽどたちがわりいや……で、旦那、どこで、その仕事をするんで?」
「先刻も申したように、この船のなかでやるつもりだ」
「そりゃあいけねえ。船を汚したら、証拠をのこすようなもんだ。それよりゃあ、両国の橋間《はしま》、一つ目の中洲《なかす》のところへ船をつけますから、あすこでおやんなさいまし」
「うん、よいところへ気がついた。やれ」
「かしこまりました。こうなりゃあ、欲とふたりづれでやっつけまさあ」
と、それから、両国の橋間、中洲のところへ船をこぎつけてくる。雪は、ますますはげしく、さしもに広い大川も、ほかには一|艘《そう》もでておりません。やがてのこと、櫓は棹《さお》とかわりまして、
「旦那、さきへあがっておくんなさい」
「よし」
袴の股立《ももだ》ちをとりあげ、船首《みよし》へ立ちあがったから、
「旦那、そこへ立っちゃあ、舵《かじ》がとりにくいから、早くあがっておくんなさい」
「うん、よしっ」
というと、さむらいは、ぽんとむこうへとびうつりましたが、泥深いところだからたまりません。足が、ずぶずぶはいってしまって、ぬこうともがくと、なお深くはいります。これはといううちに、河岸のほうでひと声がしますから、さむらいがみると、熊五郎が、棹をつっぱりましたので、船は、たちまち十間ばかり川なかへでたかとおもうと、こんどは、櫓にかわって腕によりをかけ、せっせとこぎだしました。さむらいはおどろいて、
「これっ、船頭、どこへいく?」
「どこへいこうと、大きにお世話だ。ざまあみやがれ。まぬけめっ、あわててとびあがりゃあがって、いい気味だ。これから、だんだん潮があがってくるから、浮くとも、しずむとも、流れるとも、勝手にしろ。さっき、おれが、川へとびこんで船をひっくりけえすといったら、顔色をかえておどろきやがったのは、泳ぎを知らねえんだろう。土左衛門になっちまえ。いい気味だ。ざまあみろ」
「これっ、船頭、船をもどせ。ふらちなやつだ」
と、さむらいは怒ってみましたが、どうすることもできません。中洲へつっ立っているうちに、あたまから雪がふりつもって、たちまちまっ白になってしまいました。
熊五郎は、船を間部《まなべ》河岸へつけまして、娘を起こして、うちへつれてまいりますと、さすがはご大家、ひとり娘がいなくなったというので、八方へひとをだしまして、ゆくえをたずねておりますところへおくりこまれましたので、両親のよろこびは、この上もございません。
「ありがとう存じます。娘のあやういところをおたすけくださいまして、なんともお礼の申しあげようもございません……ひとくちめしあがっていただくと、よろしいのでございますが、なにしろ、この通りとりこんでおりますので……いずれ、あらためてお礼にうかがいますが……これは、娘のたすかりました、ほんの身祝い、お酒代、どうぞおおさめを……」
「いいえ、旦那、あっしゃあ、こんな礼をもらうためにお嬢さんをおたすけしたわけじゃあねえんで……どうか、その……」
「いや、これは、ほんのおしるしで……明日《みようにち》あらためてお礼にうかがいますので……どうぞ、まげておおさめを……」
「えっ、さいですか……お嬢さまが、たすかった身祝いだてんなら、あっしゃあ、いただきますがねえ……あらためて礼に? ……そりゃあ、およしなさい。持ってきたって、親方が、ふところへいれちまって、こっちへへえるかどうかわからねえんですから、そんなむだなことはおよしなさい」
といいながら、ずうずうしいやつがあるもんで、旦那の目の前で、ふくろをやぶいて、なかをひょいとみると、百両はいっております。
「うわあ、百両! こいつあしめた! うーん」
と、あんまりいたいので、ひょいと気がつくと、熊五郎、もとの船宿の二階で夢をみておりました。
なにがいたかったかというと、熊五郎のやつ、自分のきんを、しっかりにぎっていたという……。
淀五郎
むかし、江戸では、森田座、市村座、中村座、これを三座と申しまして、なかなかさかんなものでございました。
この森田座に市川|団蔵《だんぞう》というひとが座頭《ざがしら》でおりました。
ちょうど四代目の団蔵のときのことで……この四代目は、目黒に住んでいましたので目黒団蔵、芸が渋いところから渋団蔵、または、皮肉な人柄《ひとがら》なので皮肉団蔵などと呼ばれましたが、だします狂言が忠臣蔵ということにきまりました。座頭でございますから、団蔵が、由良之助と師直《もろなお》の二役で、それぞれ役もきまり、いよいよ稽古《けいこ》にかかろうという前の日になりまして、頭取《とうどり》が団蔵のところへあわててやってまいりました。
「どうも親方、たいへんなことになりましたんで……」
「おまえかい、さっき、おれに用があるといったのは?」
「へい、さようでございます」
「なんだい?」
「あの、じつは、この忠臣蔵を、ここのところ演《や》れないことになりまして、狂言を変えていただきたいと存じまして……」
「どういうわけだい?」
「ええ、それが、その……判官をやる役者が、からだがわるくなりまして……」
「ふーん、そりゃあこまったなあ……だれか、かわりは?」
「どうもかわりがないんでございます。かわりがなくて、判官が、忠臣蔵になかったら、しようがございませんから……」
「しかし、初日間近かになって、客だって、ひさしぶりに忠臣蔵を待ってるんだから、だれか、かわりはないのかい? ちょっと香盤《こうばん》をみせてくれ」
香盤といいまして、ずっと俳優の位置から名前まで書いてあるものを、団蔵がみておりましたが、
「うーん……おい、判官を、これにやらしてみな」
この団蔵というひとの屋号を三河屋といいます。
俳優のほうには、音羽屋とか、播磨《はりま》屋とかありますが、かわった屋号で三河屋、この三河屋の団蔵が、判官をこの役者にやらしてみなといって指をさしたのは、そのころ、紀ノ国屋という引手《ひきて》茶屋のせがれで、淀五郎という、まだ下《した》っ端《ぱ》の役者でございます。
「そりゃあいけないでしょう。あんな若造は……」
「まあいいよ。そんなことをいってちゃあ役者はできやしねえ。若《わけ》え者だって、どこにいいところがあるかわからねえ。これにやらしてみな」
日の出のいきおいの団蔵のことばに反対することはできませんので、
「じゃあ、そういうことにいたしましょう」
この団蔵の演《や》る由良之助、師直《もろなお》のむこうにのぼる判官ですから、下っ端のままでは演らされませんから、急に淀五郎を名題《なだい》にしなければなりません。
当人に、
「さあ、おまえさん、こんど判官をやるんだから、名題になるんだよ」
というと、淀五郎は、夢のような心地でございます。さっそく印《しる》しものをこしらえて、客のところをまわって、
「ええ、わたしが判官をやります。どうぞおねがいいたします」
と、あいさつをいたします。
稽古もすみ、初日の近づくのを待っております。
さて、初日になりまして、大序《だいじよ》も無難にすみました。三段目の喧嘩場《けんかば》も無事にすむ。四段目になる。これは、忠臣蔵のうちでも見せ場でございまして、ここは、出物《でもの》どめといいまして、弁当などを注文しても持ってまいりません。
力弥は、御意《ぎよい》をうけたまわり、三宝の上へ九寸五分をのせて、前におき、これが今生《こんじよう》のわかれと、判官にむこうへいけといわれて、あとへさがります。
このあいだは、ときどき義太夫《ぎだゆう》の二の糸を、トーン、トーンと、音をさせるだけ。場内は、水を打ったように、しーんとしております。
「力弥、由良之助は?」
「いまだ参上」
でーんと、ここでチョボがはいって、芝居もしまってまいります。
判官は、三宝をとっておしいただき、上《かみ》をはねまして、こんどはせきこんでまいりまして、
「力弥力弥、由良之助は?」
力弥が、花道のつけぎわへいって、揚幕《あげまく》のなかをきっとみて、「おとっつぁんはなにをしているんだろうな」というおもいいれがありまして、
「いまだ参上」
もとの位置になおって、
「つかまつりませぬ」
「存生《ぞんじよう》にて対面せで、無念なとつたえよ。いざ、ご検視《けんし》、おみとどけくだされ」
ぷつっと腹を切る。ここのところで、お客さんのほうも、由良之助の出ばかり待っておりますから、
「え、なあ、おい、早くでてこねえかな? 由良之助は、なにしてるんだろう? 早くこねえと、腹を切っちゃうじゃあねえかな」
「こまったな。じれってえな。おれがいって、ひっぱりだしてこよう」
なんてえのがおります。
九寸五分が腹へはいると、由良之助の出になります。
このときの検視が、石堂|右馬之丞《うまのじよう》という。この検視が、由良之助が花道の七三《しちさん》のところで手をつくのをみて、
「聞きおよぶ城代家老大星由良之助とはそのほうか。苦しゅうない。近《ちこ》うすすめ、近うすすめ。近う近う近う近うっ」
はっと、団蔵の由良之助が、ひょいと淀五郎の判官の腹の切りかたをみていたが、
「ああ、まずいなあ、こいつは……若いやつをどうにかしてやろうとおもって、おれもいっしょうけんめいになったんだが、こりゃやっぱりだめだ。なんてえまあ、腹の切りようをしていやがるんだろう。年はとりたくねえな。こんなやつのそばへいって、殿さまだの、御前《ごぜん》だのというのは、おらあいやだ。ここでいいや。ここでやっちゃおう……御前」
「由良之助かあ」
判官、わきをみると、そばに由良之助がくるはずなのに、きておりません。
「あれっ、どうしたんだろう? ……おや、七三にいるよ……ははあ、これは、おれの腹の切りかたが気にいらねえので、三河屋め、おれのそばへこねえな。たいへんなことになったなあ」
やらないわけにまいりませんから、型の通りやりまして、腹を切って幕になってしまいます。すぐに団蔵の部屋へまいります。
「おつかれさまでございます」
「おう、どうだったい、きょうは?」
「ええ、どうもはじめてでございまして、なんともあいすみません……ちょっと親方にうかがいますが……」
「なんだい?」
「あの、このあいだの稽古のときに、由良之助は、判官のそばへまいりましたが、こんにちのときには、七三でもって、由良之助がうごかないでおりますが、ああいう型があるのでございますか?」
「あんな型はねえよ」
「へえ」
「ねえけれどもね、おれはどうもおまえのそばへ寄れねえね」
「へえ」
「おれは、由良之助だからなあ。五万三千石の殿さまのところへは、御前といっていくけれども、淀五郎のそばへ由良之助はいかれねえよ」
「そうですか……」
「そうですかじゃねえよ。おめえ、なんてえ腹の切りようをしているんだよ。え? お銭《あし》をとってみせるんだよ。いなか芝居じゃないよ。なんだい、あの判官は?」
「ああ、そうですか、それはどういう?」
「どういうたってね、ものをかんがえなくちゃいけねえよ。この由良之助てえものはね、播州《ばんしゆう》赤穂からね、早馬《はや》でとばしてくるんだよ。いいかい? 鎌倉のお屋敷の玄関のお式台に片足、奥からおむかいがきたときに、『殿さまは?』と、聞くと、『いま、ご自害でございます』と、いわれて、忠義無類のひと、はっとおどろいて、いそいでその居間へ駈けつけたところが、ちょうどあの幕内でやっているところ、はいってみると、石堂という検視のすがたがみえる。城代家老の由良之助たる者が、かようなみだれたすがたであらわれて、無礼なことであるとおもうから、おもわず、あそこで手をつく。それを、情けを知る石堂という検視が、『由良之助、ゆるす。近《ちこ》うすすめ』という。『ははっ』といって、そばへいって遺言《ゆいごん》を聞こうとおもったが、あれじゃあいかれねえ。淀五郎のそばへは寄れねえや」
「すると、どういうふうにやったら、お気に召《め》します?」
「どういうふうにやったら、お気に召しますといって、家来の由良之助の身分で、主人に、こういうふうに腹を切れということはいえねえよ。ひとというものはね、自分で工夫《くふう》をしなければいけねえ。え? ひとをたよるんじゃねえよ。自分でかんげえねえ」
「ですけれども……」
「ですけれどもじゃねえよ。ほんとうに切ればいいんだよ」
「腹をほんとうに切るんですか? 死にますよ」
「役者は、二、三度死ななきゃあだめだよ」
「へい」
かえすことばがありません。わが家へもどりまして、その晩、いっしょうけんめいに稽古して、二日目、大序も無難、三段目も無難、四段目になると、また、七三で、由良之助がうごきません。こんどは、幕がしまったあとで、聞きにいくことができません。自分の役はすんだから、白粉《おしろい》をおとして、裏木戸からとびだしてしまいました。
「ああ、どうも弱ったことになっちまったなあ。名題にしてやるというから、よろこんでなったけれども、いい恥かきだ。世のなかに、七三で由良之助がうごかねえなんてえ芝居があるもんか。ひいきのお客さまや、なかまの者に顔むけができねえ。『ざまあみやがれ。自分のすることもできねえのに、名題なんぞになるから、そういうことになるんだ』というだろう。こんなことをつづけられた日にゃあ、いても立ってもいられやしねえ。弱ったなあ。どうしようかな? やめようかしら? いままでやってきて、この稼業《しようばい》をやめるのはいやだし、といって、いなかまわりになってしまうのもいやだし、どうしようかな? ほんとうに切れっていやあがる。ほんとうに切ろうかな? ほんとうに切りゃあ、おれは死ななきゃあならねえな。自分の稼業《しようばい》のために死ぬんだからかまわねえけれども、どうせ死ぬんなら……よしっ、団蔵を殺して、おれも死んじまおう。そのほうがいい。由良之助を、七三へとんでいって、突き殺して、おれも腹を切っちまおう。そうしよう」
たいへんなかんがえをおこして、ほうぼうへいとま乞《ご》いをしてあるきました。
おそくなって、うちへ帰ろうとおもうと、ドドンという太鼓の打ちだし。ひとが、ぞろぞろ、ぞろぞろ……ひょいと気がついてみると、そのころ、葺屋町《ふきやちよう》に市村座という小屋がございます。
「ははあ、市村座が、いま閉場《はね》たんだな」
この市村座の座頭は、中村仲蔵というひとで、これはまた、三役の腹を切りわけたという名人です。屋号を栄屋《さかえや》という……
「ああそうだ。栄屋の親方にお世話になっていたから、いとま乞いをしてこよう……ええ、こんばんは」
「はい、どなたです?」
「わたしでございます」
「あれまあ、これは紀ノ国屋の親方で……」
きのうまでは、淀五郎、淀五郎といわれたひとも、名題になると、親方といわれます。
「紀ノ国屋の親方、さあ、こっちへおはいんなさい……親方」
「なんだい?」
「あの、紀ノ国屋の親方がみえました」
「ああ、淀さんか。ああ、そうか。こっちへはいってくんな」
「へい、こんばんは」
「ああ、おまえは、名題になったってな。どうもおめでとう。おまえのところへ、ちょっとでもいいからいってやろうとおもうが、わたしも、ここのところせわしくてな。いま帰ってきたばかりだよ。まるでひまがねえんだ。いや、結構、結構。えらい出世だ。若い者が出世しなければ、この役者《しようばい》はなくなっちまうよ。まあ、いっしょうけんめいやってくれ。こんどは、また、忠臣蔵だってじゃあねえか。相手は、三河屋の由良之助に師直かい? おまえは判官……いいな、ここは、おまえの売りだしどころだ。いっしょうけんめいやんな」
「ええ、それにつきまして、ちょっと今晩あがりましたのは……」
「なんだい?」
「わたし、おいとま乞いにあがったんです」
「なに? いとま乞い? なんだい?」
「旅へいかなければなりません」
「旅? ……旅へなんぞいくこたあねえじゃあねえか。いま、せっかく名題になったのに、旅へなんぞいったらば、それこそ帰ってきても、江戸で芸はできなくなる。つらくはあろうが、もうひとがまんしてもらいてえな。どうしてもがまんできなければしかたないけれども、旅は、どっちへいくんだ?」
「へえ、西のほうへまいります」
「西のほう? ……上方《かみがた》かい? え? 大阪へいくのかい? 大阪で修業するのも、江戸でするのもおなじじゃねえか。ねえ、ここのところをかんがえてもらいてえな。で、いつごろいくようになってるんだ?」
「あす、いこうとおもいます」
「おいおい、おまえ、きのう初日じゃねえか。え? きょうは二日目、あすは三日目だよ。三日目から判官がなくなってどうするんだ? こんどの芝居に判官がないから、おまえが名題になったんだろう? ええ、どうしたんだ? ……ははあ、おまえはなんだな、なにかおれにかくしてるな。いや、かくしてる。ちょいと待ちな……おいおい、あのな、酒屋へいって、酒をいって、帰りに魚屋へまわってきてくんな。それから、だれかひとがきても、ここへいれちゃあいけねえよ。ちょっとはなしがあるんだから……どうしたんだ? いったらいいだろう。え? そんなことをかくすこたあねえ。はっきりいってみな」
「では申しますが、初日から由良之助の三河屋の親方が、花道の七三でうごかないんで……判官のわたしが、『近う』といっても、由良之助がそばへきません。おかしいなあ、『それはどういうわけです?』と、うかがってみると、わたしの腹の切りかたが気にいらない、と、こういうんで……」
「うーん、そうか。それは、そんなこともあるだろう。うん、そりゃあ、よく聞かなければいけない」
「聞いたんです。『どういうように切ったらいいんでしょう?』と聞きましたら、『ほんとうに切れ』と、こういわれました」
「ふーん、ほんとうに切れか……そうだな、ほんとうに切るんだよ」
「へえー、ほんとうに切れば、わたしは、死んじまいますよ。それくらいならば、わたしは、団蔵を突き殺して、わたしも腹を切っちまおうとおもっているんです。それがためにいとま乞いにあがったんです」
「おいおい、待ってくんなよ。世のなかに、おまえ、判官が由良之助を突き殺すなんて、そんな芝居はないよ。おまえさんは、なんだね、はきちがいをしているな。三河屋をうらんじゃいけないよ。むこうは、名人の団蔵だ。な、自分でやってみせたいけれども、芸は、自分でやってしまうより、おまえにみどころがあるから、そういうふうに、うまくはなれていましめてくれるんだよ。良薬は口に苦《にが》し、そういうことをいってくれるひとが、ためになるんだなあ。ていさいのいいことをいってる者は毒だよ。え? なんだってそういうことをかんがえるんだな。待ちなよ。待ってくんなよ……そうだ、どんなふうにおまえさん、腹を切ってるんだ? ちょっと、わたしの前でみせてくれないか。わるいところは、わたしがなおすといってはなんだが、注意してあげよう。え? もう一ペんやってごらんな。それから、また、相談に乗ろう」
「ああ、そうですか」
「ここでやってごらん。なあに、どっからでもかまわない。あの三宝のところからやってごらん。だれもきやあしない。おれがみてるから……うーん、ああそうか。ああ、もういい、もういい。ちょっとな、その型だけでいい」
「いかがでしょう?」
「いやあ、まずいなあ」
「そうですか」
「うーん、どこがまずいというんじゃないよ。おまえさんのは、全部まずいな。だれの型だい、おまえさんの判官は? ……え? だれの型でもない? 型はねえのか? それじゃあ型なしだ。おまえさんも、ちいさい時分からの役者じゃねえか。ひとの腹切るのぐれえみていなきゃあいけないよ。自分の役じゃないから、おれはいいてえもんじゃないよ。なんでもひとのことはみておけば、なにかの役に立つものだ。まあ、そのなかで、いちばんわたしの気になるところをいうとね、おまえさんは、こんど、淀五郎という名題になったんだから、いっしょうけんめいやって、お客さまに紀ノ国屋という声をかけてもらおうとおもってやってなさるだろう? いや、そうおもってやってる。それが、おまえさんの芸のなかで、いちばんいけないね。役者がね、お客さまにほめられようなんてえ了簡《りようけん》でやるほどわるいものはないよ。お客は、貴重な時をかけて、高い金をだしてみにきている。よければ、ほめるなといってもほめる。わるければ、ほめてくれったって、客は親類じゃないから、そうはほめない。ねえ、だから、おまえさんは、客にほめてもらおう、ほめてもらおうとおもって腹を切っているから、つまり、その判官が下卑《げび》ちゃう。そうだろう? ねえ、大名にならない。そんなもんじゃないよ。この判官というのは、相手の師直というものをにがしちまって、そうして、自分は腹を切る。相手は無事で、自分が腹を切る。五万三千石をすててしまう。奥方にはわかれちまう。自分のかわいい家来は、ちりぢりばらばら。そうして、相手をしとめない。そのくやしいというのが、顔へでていなければ判官にならない。第一に、腹を切っているんだからね、刃《は》ものが腹にはいってる。おまえさんが、『由良之助かあ』といったときに、声が大きかったなあ。ものに突かれたり、斬られたりしたときは、ひやりっとするものだというぜ。寒気《さむけ》をおぼえてくるものだそうだ。腹に刃ものがはいってる。だから、『寒い、寒い。由良之助か、寒い』という了簡で腹を切ってごらん、口をきいてごらん。それから、くちびるの色がかわらないと、ぐあいがわるいね。青黛《せいたい》をね、ちょっと耳のわきへつけておいて、由良之助の出になると、お客が、花道のほうをむくから、むいた瞬間、ちょっとそれをとって、くちびるへなすってごらん。白無垢で腹を切っていて、くちびるの色がかわって、欲をはなれているというと、判官になるかも知れない、ね、それでいけなかったら、また、やりなおして、あくまでも自分でやらなければだめだよ」
「どうもすみません、どうもありがとうございました」
「いいかい? 人間というものは、自分の仕事に工夫というものがなければ、なんだってうまくはできないよ……まあ、一ぱい飲んでいけ」
「いえ、そんなことはできません。では、ごめんくださいまし」
帰って、その晩は、いっしょうけんめいに稽古して、三日目の楽屋入りをいたしましたが、ことによると、これが舞台の踏みおさめになるだろうとおもうからいっしょうけんめい、三段目の喧嘩場になって、「鮒《ふな》だ、鮒だ、鮒ざむらいだ」というときに、刀の柄に手をかけて、このじじい、ここで斬っちまおうかとおもったぐらいの気迫《きはく》に、団蔵がおどろきました。楽屋へはいって、
「なんだ、おい。ふしぎなことがあるもんだなあ。どうもあの淀五郎の野郎、きょうの判官の意気のよかったのは……おれは、斬られるかとおもったよ」
これは、意気がいいんじゃあありません。ほんとうに斬っちまおうかとおもっていたんです。あのぶんでいくと、きょうは、四段目もいくらか、かっこうがつきはしないかと、芸熱心のひとですから、さあ、たのしみになりましたので、早くしたくをして、揚幕へまわっております。例の通り、由良之助の出になって、七三で手をつきます。
「おう、聞きおよぶ城代家老大星由良之助とはそのほうか。苦しゅうない。近うすすめ、近うすすめ、近う近う近う近うっ」
と、いくら呼んだってこないんですから、検視のほうでもはりあいがありません。しかし、やらないわけにはいきませんから、しかたなしにやります。と、団蔵の由良之助が、七三から本舞台をみまして、
「うーん、ふしぎなことがあるもんだなあ、なんといういい判官だろうなあ。きょうの三段目の意気といい、この判官といい、一晩のうちに、こんなにできあがった。富士の山みてえなやつだなあ。いい判官だなあ。ものは、こういかなくちゃあいけねえ。これなら、そばへいかれる」
と、腹帯をぐっとしめなおして、由良之助の団蔵、丸腰になって、ツー、ツー、ツー、そばへきて手をついて、
「御前」
「由良之助かあ」
と、七三をみます。
「おや、みえないよ。ははあ、きょうは、ひっこんじゃったんだよ、きっと……おれの判官がいくらまずいたって、ひっこんじまうのはひどいねえ。けれども、声は近かった」
と、おもわず知らず、ひょいと、淀五郎の判官がそばをみると、三日目に、はじめて由良之助がきていた。
「おう、由良之助かあ、待ちかねたあ」
≪上方篇≫
馬の田楽《でんがく》
馬方《うまかた》というものは、ことばこそ荒いけど気立てはええ。また、荒いことばつかいませんと、馬がうごきません。馬の手綱さえつかまえたら、馬子というものはぼろくそにいうて、
「ダー、しっかりせいな、このがきは……もう、長いつらして……張りたおすで……」
ようあんな無茶なこというたもんですな。馬の顔つかまえて、「長いつらして、張りたおす」……馬もなぐられまいとて丸顔したかろうけども、馬の丸顔って、みたことおませんのやが……
「ダー、こいつは、脛《すね》がいがんでるがな」
ようあんな勝手なこというたもんで……馬の脛いがんだるさかい、あるけますのやが、あれ、のびっきりやったら、ようあるきやしよらん。馬がものいうたら、喧嘩《けんか》せんならんが、馬め、とりあげよらん。肩で笑いよる。
「ヒーヒー、なにぬかして、あいつら、荒いことばつかって……」
いうてな、
「ダー、こいつが」
てなこといいますさかい、馬がうごく。
おなじことでも、やさしい京ことばで馬うごかしてごらん。馬へたばってしまいますぜ。馬方の京ことばちゅうやつは、ぐあいのわるいもので、あいつは、やっぱり荒いことばつかわんと、馬がうごきませんけど、馬方が、京ことばやったら、
「さあ、おあるきんか。なにしとおいでやすいね、長い顔やおへんかいな。お足いがんどんせえな」
てなこというたら、馬めが、
「そうどすえな」
て、荷持たんで、へたばってしまいますが、あいつは、やっぱり荒いことばつかわんと、馬がうごかん。で、問屋のおもてなどにつないであると、子どもがわるさして、
「さあ、みな、こっちへおいでなはれや。留さんに、長松さんに、金助さんに、辰蔵さん、みな、ずっとこっちへきてみなされ。あの山権のおもてに馬がつないであるやろ? だれでもだいじおまへんさかい、馬の下、しゅっと、こうくぐってごらん」
「それはあかんので、わたし、このあいだね、ここの丹波屋のおもてに馬つないで、馬の下、しゅっとくぐったったんで、ほしたら、その馬が雄《おん》の馬で、馬のおなかのところにぶらぶらしたおますやろ? あれで、あたい、横づらいかれたんで……」
「あっあ! あの棒で? あっはっは、あれで横づら? そらそらあんなんでいかれたら……あら、どでんいう棒ですがな」
「あれは、どでんですか?」
「そうですのやが……」
「ほな、なんですか、あのぶらぶらしたん、あれは、どでんいいまんの?」
「そうや。わたいら、おばばに聞いとりますが、馬やどでん打って、一升の豆みな食わす、どでんどでんいいまんのやが……」
「あっはは、さようか。あ、ちょとみてなはれ。あのどでん、いま上へあげてますさかい、ぴんと上へあげましたさかい、下、しゅっとこうくぐったらええ……あっ、またおろしました。この馬、根性《こんじよう》のわるい馬でんなあ。あのどでん、あげたり、おろしたりしますさかい、どうもくぐりにくい……あっ、いま、だいぶ上へあげてまっさ、さあ、だれぞ、しゅっとくぐってみなされ。早うくぐんなはれ。たれぞ押してあげなされ。そんなむちゃしなはんないな。長松さん、わたい、ずっとあたまいれるなり、あんた、ぱーっと押しなはるさかい、また、どでんおろしよったんで……」
「あっははは、また、どでんで横づらいかれなはったん」
「そうであんが……あんた、『まだや』いうてるのに、ぱーっと押しなはるさかいに、どでんって、どでんおろしよって、横づらいかれ、それみなされ、どでんのさきから、なにやらだしましたがな」
「あっははは、なにがでたんね? なんやね? こんなものだしてなさる。そやのに突いたらいかんいうのに、そんなら、あのもう、馬の下くぐんなんな。長松さん、長松さん、そんな馬の下をくぐらんと、友吉どんきました。あれに馬の尾抜いてもらいまひょう。わたいにまかしときなさい……友吉どん、馬の尾十本抜いてくれ」
「どけどけどけ。おれは、二十本抜いたろ。そのかわり、おまえ、いま、ここで、いも半分くれよ」
この友吉のやつ、わるいやつで、馬の尾、手にまきつけよって、ぐっとひいたんで、馬もそんなことぐらいでいたいことおませんやろけど、どうしたひょうしか、しばってある手綱がほどけたもんですやさかい、馬めが、南へしゃんごしゃんご逃げやがったんで、子どもたち顔色変えよって、
「友やん、早よとらえな、馬逃げますぜ。あんた逃がしなはった」
「うそいいなはれ。長松さん、あんた逃がしなさった。馬子のおっさんきたら怒りますさかい、横町まがって、馬子のおっさんきよったら、どんな顔しよるかみてたりまひょう」
わるいやつで、横町くるっとまわって、馬子のくるのをみてよる。そんなこと、馬子は知りませんわ、店内へはいって用事して、入り口へでてきますと、馬がいません。
「ダー、こらあ! あれっ、ここにいやせんがな、馬、どこへいきよったんや? これは、ああ、このへんの子せがれが、わるいことしやがって……かなわんで、このへんの子どもは……馬さえつないどいたら、いたずらさらすのや……おい、じゃり、じゃり!」
「おっさん、そんなおかしげないいかたすな。子ども、なんぼこまかいものやかて、砂利っちゅような名あつけな」
「おい、おっさんが、ここにつないであった馬知らんか?」
「知らんかて、おっさん、ものたずねんのに、砂利いうて教えられるか?」
「わるい子せがれやな、そんなら、ぼんち、ぼっちゃん、ここにつないであった馬、ご存じおませんか、なあ、ぼん子」
「ぼん子! はは……こら、つらい」
「どうしたい?」
「いーや、そんなら、おっさん、いいますけど、あんた、ぼん子いわれると、えらいこっちでもいわんなりまへんけど、いま、おっさんのお馬でしょう? ここにおいでになったんは……」
「ぼん子いわれてから、そんな、馬に、おいでになったなんていうような、ものいいしない、どうしたい?」
「ここにあのつないでおましたやろ? ここへ、みな、なんですのや、わたしたちの友だちが、みな、きたんで……留やんに、長松さんに、金助やんに、辰蔵さんに……」
「どうしたい?」
「それが、みな、ここへあつまってきて、それで、馬の……馬の下、留さんに、『くぐりなはるかいな』いうたら、『そんなら、わしが、くぐらしてもらう』いうてな……」
「まあ、早よういうてくれ。気がせくのやがな」
「えろうせくのやったら、おっさん、ほかでたずねてもらいまひょうか」
「そんならゆっくりいいな。ほかでたずねてもらいまひょうか? そんなおかしげないいかたせんと……それで、馬どうしたい?」
「それでな、なんだんねや、留さんがなあ、おっさん、馬の下、しゅっとくぐらはったら、その馬が雄《おん》の馬で、馬のおなかのところに、ぶらぶらしたある、あの棒な」
「うん」
「あの棒で、横づらいかれはったんや。そない……そないするなり、友吉どんきよって、おっさんの馬の尾抜いたら、馬、しゃんご、しゃんご南へ逃げましたで、おっさん」
「なにをするのや? ここらの子せがれは……ほんまにろくなことしやがれへんのやがな。ほんまにもう、そやさかいに、馬逃げたら、また、首すじでもつかまえてーな」
「それは、おっさん、あんたいわれるまでもない。馬が、むこうへ逃げますさかい、わたい、馬にいうたんで、『あんた、ひとり、しゃんご、しゃんごいきなはったらあきまへんがな。馬子のおっさんと、いっしょにおいなはったんやったら、あんたが馬なら、ドウドウ(同道のしゃれ)していきなはれ』て、わて、いうてな、『ぐずぐずしたらヒン(日のしゃれ)が暮れる』て、わていうたんですけど、馬もこんなにいいますのや、『余儀《よぎ》ない用事ができて、馬子のおっさんよかひと足さきへ帰らしてもらいますさかい、あんたが、馬子のおっさんにおあいやしたら、あしからず、よろしゅういうてくれ』っていうてねえ、それで、おっさん、むこう辻から駕籠《かご》に乗りはった」
「どやしたろうか! こいつら、ほんまにばかにさらして……馬が駕籠に乗ったりするかい? なにぬかすのや、あほが……ここらの小せがれは、わや(めちゃめちゃ)にしてけつかる。どたまから教える気やあれへんのや。なぶる気でいてけつかる。おとななぶるの、なんともおもうとれへんのやが……わるいがきやで、このへんの子せがれは……」
「ああ、もしもしもし、大将、ちょっと、ものたずねますがなあ」
「ああ、なんじゃなあ?」
「いま、ここへさして、あの、樽みそ積んだ馬、通れしまへんか?」
「樽みそ積んだ馬? あーあ、あら、おまえの馬か? さあ、いま、いうてたんじゃわい。髪結床のおっさんとなあ、『時節もかわるなあ、馬も、もう馬子つれんと、ひとり、つかいにいきよるようになったかいなあ』てな、いまも、八百屋の軒下《のきした》で、わらあ食べて、よそみしよったさかい、『こんな折り、早ようやってやらないかんやないか』いうてなあ、髪結床のおやじさんと、わしとふたりで、割り木(薪)で、尻《しり》しばいたら(たたいたら)、南へ駈けよったで……」
「そら、なにをすんのや。寄ってたかって、おれの馬、わやにしてけつかんのや、あほ! そんなことで南へ駈けよったら、きょうじゅうに、紀州熊野までいってしまいよるで、ほんまに……ほんまにこのへんのひとは、ろくなことしえへんのや。子どもよか、おとなのほうがまだわるいのや。このへんの町内のやつは、もう、あほらしゅなってけつかんのや……ああ、もしもし、そこへいきなはるご隠居はん、ご隠居はん……聞こえんのかいな? あの……もーし、もーし……」
「ああ、びっくりした。ほんにうっかりあるいてんのに、うしろへきて、背なかポーンとたたくん、わいに用がありゃ、早よう前へまわったらええに、なにをたずねんのかい?」
「どえらいおもろいおやじさんやな……ちょっとものたずねますがなあ」
「あーあ?」
「ちょっとものたずねますのやがなあ」
「あーあ? なんや?」
「ここに、あのう、樽みそ積んだ馬、通れしませんか?」
「あーあ?」
「いえ、樽みそ積んだ馬、通れしませんか?」
「ははあ、家内のばばどん、たずねんのかい? へえ、家内のばばどん、先月から、かぜひいて寝とんや」
「なに、なに、そんなことたずねてしませんがな、そやおまへんのや。ここらで、樽みそ積んだ馬、知らんかちゅうのや」
「ええ、なんじゃ、なんじゃ?」
「あのな、ここらへ樽みそ積んだ馬知らんかちゅうのや。馬を知らんかちゅうのや」
「ああ、乳母《うば》か? 乳母は、河内からきとったんや。先月|帰《い》んだなり、まだ帰りやせん」
「なにいうてんのや。たれがそんなこと……おいおいおい、そやあれへんがな。おかしいなあ。おまえさんは、つんぼとちがうかい?」
「えらいええ天気やなあ」
「おかしいなこいつ、いよいよつんぼや。こらこら、どつんぼ、どたま蹴りあげたろか?」
「ああ、それもよかろう」
「勝手にさらせ、あほ! 急《せ》く折りには、ろくなやつにものたずねへん。おら、いやになってきた、ほんまに……ここらには、ろくなやついよらんのかいなあ? ほんまにもう……あっ、むこうから酒に酔ってきよった。あいつにたずねたろ。もしもし、酒に酔ったる大将」
「こーら、こーらってやつやなあ。一でなし、二でなし、三でなしか、四でなし、五でなし、六でなし、七でなし、八でなし、九でもなし、十でなし、十一でなし……十二、十三、十四でなし、十五、十六、十七、十八、十九……こら、この唄、どこまでいったかておわらへんがな……はあ、こりゃこりゃ、ああ、さのさのっと……」
「こら、どえらい酔うとんな。もしもし、大将、ちょっと、ものたずねまんのやが、えらいごきげんですなあ」
「なになに? なにを、なにを……こらっ、おかしげなものいいするな! ごきげんですなあって、ご、ご、ごきげんで酒飲んだか、やけくそで飲んだか、われ、知ってんのか?」
「へえへえ」
「なにがへえへえや。なにぬかすのや、あほが……おかしげなものいいすんのや」
「へっ、旦那、これは、えらいすみませんなんだ。えらいなんでやすな、あんた、なんじゃ知らんけど、こう、浮かれてござるなあ」
「さあ、そら、浮かれもする。飲んだら、酒は、陽気酒じゃ。おれ、浮かれもするわ。なにぬかすのや。おまえら、よけいなことぬかすと、張りたおすで……」
「おおこわ……いえ、ちょっと、ものたずねますのやが……」
「なんや?」
「あのな、大将、ちょっとたずねますのやが……」
「おい、おかしげなものいいするな! 大将、大将って、われ、ひとを持ちあげるくせがあるなあ。われ、大将って、おれ、いくさしたおぼえないで……」
「へえ、へえ、そらそうですなあ……あっはっは……あのなあ、親方」
「親方? 親方? おいおいおい、親方って、おれ、子分子方《こぶんこかた》持ったおぼえはおわせんで」
「ああ、さよか。どういうたらええんやろ? そんなら、あのなあ、旦那」
「旦那? 旦那? おい、おい、旦那って、おれは、べつに、丁稚《でつち》、番頭置かんならんほどの、巾《はば》ある人間やおませんわ」
「へえへえ、どういうたらええんやろ? なあ、あの……あのな、頭《かしら》」
「か、か、頭? 頭? こら、頭ちゅうと、なんや、おれ、盗《ぬす》っ人《と》みたいや。おれ、盗っ人せんで……」
「うっふ、あははは……どういうたら? ……ほな、あのなあ、兄弟」
「われみたいな兄弟持たん」
「そんなら、ちょっとたずねますがな、ここらへ、あの、樽みそ積んだ馬、知りませんか?」
「なんじゃっていうのや?」
「みそつけた馬は、知らんか?」
「いーや、馬の田楽みたことない」
愛宕山《あたごやま》
京都|室町《むろまち》へんの旦那、いつも祇園《ぎおん》あたりであそんでんのも気づまりや、時候《じこう》もようなったさかい、きょうは、愛宕《あたご》さんまいりでもしようかと、芸妓《げいこ》、舞妓《まいこ》、それに、大阪のお茶屋をしくじって京都で稼業《しようばい》をしております一八、繁八という幇間《たいこもち》をつれましておでかけでございます。
祇園町から西へ道をとりまして、二条の城を尻目に、野辺へとさしかかってまいりましたが、なにしろ春さきのこと、空には、ひばりがさえずり、野には、かげろうがもえ、れんげや菜種の花があたり一面に咲きほこっております。そのなかを、にぎやかな連中がいくのですさかい、その道中の陽気なこと……
「旦那さん、旦那さん、ちょっと待っとくなはれな」
「なんじゃ?」
「なんじゃやあらへんわ……ほんまに足の早いこと、わたいら、裾《すそ》がもつれてあるかれへん。みな、難儀してますがな」
「そないいいないな。天気はええし、景色はええし、やっぱり、野へでてきただけのことがあるわい」
「旦那さん、一八つぁんに蝶々《ちようちよう》とってもろておくんなはれなあ」
「なにするね?」
「あたい、生きた蝶々、かんざしがわりにさしたいんえ」
「おかしなやっちゃな。おい、一八、蝶々とってやれ」
「舞妓ちゅうやつは、しょうもないことをかんがえるのやな……あんた、やめときなはれ、かわいそうに……あんたかて、からだをこうくくって、ふりまわされたら難儀やろ? そんなこと、しなはんな」
「とっておくれやす」
「わしは、そんなかわいそうなこと、ようせん」
「とっておくれやす、いうたら……」
「あかん、あかん、おことわりや」
「旦那さん、一八つぁん、蝶々とってくれはらしまへんのどっせ」
「おい、一八、とってやらんかいな。舞妓《こども》のいうこと聞いてやり」
「あーあ、雄《おん》はすぐ負ける」
「なんじゃ、雄ということがあるか」
「とりますがな、とりますがな、もう……女子《おなご》のいうことやったら、すぐ聞いてやんなはんねん」
「なにをぶつぶついうてんのや。早うとってやらんかいな」
「へえへえ、とりますがな……わあ、ぎょうさん蝶々がいとるなあ……こうやって、菜種の花の上を蝶々が飛んでいると、花やら蝶々やらわからんなあ…… 蝶が菜種か、菜種が蝶か……チンチレツン、チチシャント……」
「あいつ、なにを気どっとるのや。早うとってやらんか」
「まかしときなはれ……そーら……いよー……っと、逃げよった。こんどは大丈夫……いよー……っと、また逃げた。うまいこと逃げよるな」
「おい、一八、なにしとんじゃ。もうよろし。早うこんかあ」
「旦那さん、ちょっと待っておくんなはれなあ。こうやってひさしぶりに京都へきましたんや。そこら見物しながらあるきとおますがな」
「なるほどなあ、大阪の人間には、山行きはめずらしいのやな。大阪には、山がないもんやさかい……」
「そんなことおまへんで。大阪にかて、山はおまっせ」
「どこに山があるねん?」
「どこにあるて……真田山《さなだやま》、茶臼山《ちやうすやま》、天保山《てんぽうざん》……」
「あんなもんが、山のうちへはいるかいな。地のこぶみたいなもんやがな」
「地のこぶ?!」
「そやがな。京都は、どっちをむいても山ばっかり……比叡山《えいざん》、愛宕山、高い山ばっかりや」
「愛宕山いうのは、どの山だす?」
「あの山や」
「ふわー」
「みただけで、あごだしよったな」
「あほらしい……あれくらいの山、なんだんねん」
「こらこら、えらそうにいうな。ようあがるか?」
「ええ……へっへっへ、旦那さん、あんな山でしたらな、三つでも四つでも、たてにこうつみかさねておくんなはれ。ええ、わたいら、足におぼえがあります。朝めし前、ちょいちょいちょいの、ぽーいととび越しますわ」
「えらそうにいうとるな。ようし、おい、みんな聞いたか? 一八も繁八も、足におぼえがあるそうや。こいつらに弁当持たせ……ああ、かまへん、かまへん。みな持たし……持ってもらい」
「そんなら、ついでに、これも……」
「ああ、なんなと持たしてくれ……持ちまんがな、持ちまんがな……繁八兄貴、途中でかわってや」
「わかったるがな。ともかくも、一八、おまえ、かつげ。ここへこういうぐあいにくくりつけて……」
「こうしといたらよろしいか? ……さあ、ほんなら、いきまひょか」
「そんならいこか……このふたりにつきおてたらかなわんさかい、さきいこか」
「そんなら、一八つぁん、繁八つぁん、さきへいきまっさかいな、あとから、あんたら、おいなはれや」
「へえへえ、どうぞいきなはれ。どうせ、こっちは、ちょいちょい、ぽーいと追い越しますさかい……」
「そんなら、一八つぁん、繁八つぁん、おさきへ……」
「一八つぁん、おさきへ……」
「繁八つぁん、おさきへ……」
「おさきへ……」
「一八つぁん、おさきへ……」
「おさきへ……」
「早よいけ、早よいけ」
「ほんなら、旦那さん、いきまひょか」
「よっしゃ。みな、裾からげ……ええか、ほんならいくで……」
「おい、兄貴、みてみい、あんなとこいきやがる。京都のやつは、山行きになれてけつかるなあ。あのまあ、足どりはどうや。じまんするだけのことはあるなあ。はっはっは、芸妓《げいこ》たち、赤いもんちらちらさしながらあがっていくやないか」
「おまえ、よろこんでたらいかんがなあ。早ういこ。負けたらいかんで」
「ああ、まかしとけ、まかしとけ。京都のもんに負けられへんやないか。なんじゃかんじゃちゅうと、すぐに京都、京都とじまんばかりしよる。大阪の人間に、これぐらいの山、ようのぼらんおもうとんのや。みとれ、うしろから行て、つーっと追い越してなあ、大阪もんの足の達者なとこみせてびっくりさしてやろやないか。はあ、どっこい、どっこい、どっこいしょ、ああ、どっこい、どっこい、どっこいしょ。早よいこ、早よいこ。え? 道? まちがえるわけない。こんなもん、一本道やないか……はあ、どっこい、どっこい、どっこいしょ…… のぼらばのぼれ箱根山、のぼったとて、お江戸がみえるじゃあるまいし、こちゃ、かまやせぬ……道わるいぞ……暑いな…… ……こちゃ、かまやせぬ……ちぇっ、こっちゃ、かまうがな、こんなおもたい弁当、持たしやがって……」
「ぼやくな、ぼやくな。これも稼業《しようばい》、しゃあないがな」
「そりゃ、あんたは、手ぶらやねんさかい、よろしいわな。こっちは、こんなおもたいもん持たされて、だんだんこたえてきたがな…… ああ、高い山から谷底みれば、ギッチョンチョン、ギッチョンチョン、瓜《うり》やなすびの花……ざ……か……り……」
「えらい声がちっちょなったな」
「一八つぁーん、繁八つぁーん、こっちどっせ」
「早よ、おいでやすやあ」
「おーい、どうしたあ。早よ、のぼってこい!」
「わかってるわい。さきへいけ。じきに追いつくさかい……あーあ、おんなし銭つこうて、こんな山へのぼって、なにがおもしろいのや。ああ、しんどいなあ。のぼったとて、祝儀《ぽち》になりゃしよない、あのしわん坊……」
「そんなこというたら怒られるで……」
「あーあ、兵庫のおばはんがなあ、『そんな商売いいかげんにやめて、早う堅気《かたぎ》になれ』いうた。あのとき、堅気になっといたら……あーあ……こんな……苦……労……せえ……へん……ものを……」
「おい、早ういこ、早ういこ……」
「おーい、一八、繁八!」
「一八つぁーん」
「繁八つぁーん」
「へーえ」
「おーい、どうしたあ。そんなとこへへたったとったら、いつまでたってものぼってこられやせんぞ! あと、山を三つか四つかさねてやろかあ」
「せっかくやけど、おことわりします! ……なにぬかしてけつかるんや。ひとつをもてあましてるんやないか」
「なにをいうとんじゃ。そうや、ええことをおもいついた。ほら、鈴鹿《すずか》の山へいってみい。子どもが、『尻突《しりつ》きしましょう』いうてでてくるじゃろ。あれをまねてなあ、ふたりで、尻を突きあいしてのぼったらどうや?」
「そら、ええことおもいついた」
「さあ、一八、その弁当、わいが持ったろ」
「かわってくれるか?」
「ああ、わいが持ったるさかいな、わいの尻、突けよ」
「えっ」
「尻、突けちゅうに……」
「いややがな。兄貴、おまえ、ええほうへばっかりまわんねんやがな。わいは、ずーっと弁当持ってきてん。こんなり持っていくさかい、兄貴、わいの尻を突いてくれ」
「そうか。ほんなら突いたるさかい、はずみつけて、あがっていかなあかんで」
「たのむわ」
「おいおい、いきなり重みかけたらいかんやないか。手の上へ腰かけよって……ええか? わいが、ぽんぽんと突いていくさかい、そのはずみに乗ってあるいていくんや。ほら、いくぞう、ほら、どっこいしょ、どっこいしょ、うん、よいしょっ、うん、よいしょっ、うん、よいしょっ」
「あはははは、こら楽《らく》や、あはははは、こら楽や、あはははは、こらこら、ほいほい、こらこら、ほいほい……」
「よいしょっ、よいしょっ、よいしょっ……」
「こらこら、ほいほい、こらこら、ほいほい……」
「よいしょっ、よいしょっ、うっしょっ、よいしょっ……おどったらあかんで。なにをするのや」
「こらこら、ほいほい、こらこら……旦那さん、どうもおそなりまして……」
「あ、あがってきよった……さあ、早うこっちへこい。こっちへきて、さあ、一ぱいいこう」
「へえ、おおきに……まあ、いただくのはあとまわしにしましてな、おまいりをさきにせんことには……」
「そうや、一八のいう通りや。そら、そのほうがよろしいで」
「そうか。そんなら、わしは、ちょっと一ぱいやるさかい、おまえらふたり、おまいりしといで」
「へえ、そうさせてもらいます。で、お宮はんは、どこにおますねん?」
「二十五丁、上や」
「ええっ! まだ二十五丁もおまんのかいな」
「あほ! いま、あがってきたのが試《こころ》みの坂ちゅうのや」
「うわあ、えらい試みですなあ。こらいかん。一ぱいいただきます……へえへえ、おおきに、おおきに……うん、こらうまいわ。こういうところで飲むお酒は、また格別ですなあ……ああ、ええ風がきますなあ……旦那さん」
「うん?」
「あの山のむこうにこう、なんか、的《まと》みたいなものみえますな? あれ、なんです?」
「的? ああ、あれか。あれは、大阪にはないなあ。土器《かわらけ》投げや」
「ああ、あれがかわらけ投げ。いえ、大阪でも、かわらけ投げぐらいやってまっせ。なあ、兄貴」
「ああ、まえにやったことおますわ」
「わたい、うまいもんや」
「おまえは、じきにそんなこというが、山行きで、もうわかったあるねん。おまえらに、そんなもんでけるか?」
「でけるかて、的にあてたらよろしいんやろ?」
「そら、そうや」
「そら、朝めし前や。ちょいちょいちょいの、ぽーいとあてます」
「また、はじまったな。そら、ちょうどええ。どや、一八、ふたりで投げあいしようか?」
「よろしおます」
「よしよし。ああ、茶店のおばあん、このかわらけ三枚もらうで。ええか? みとれよ。この三枚とも、あの的んなかへいれてやるによってな。まず最初は、『獅子の洞《ほら》いり』ちゅうやっちゃ。みとれ、ええか?」
「旦那さん、旦那さん、あんた、かわらけ、食べてなはんの」
「そんなもん食うやつがあるかい」
「いえ、旦那《だん》さん、いま、食べてましたがな」
「食べてんのやないがな。風切りというて、端《はし》のほうを、ちょっと欠《か》いたんや。ここへ指をひっかけんねん。それっ、ほーら、ほーら、ほーら、はいった。どや? こんどは、『波乗り』……ぷっ、こう風切りをこしらえて……ええか、一、二の、いよーっ……ほーら、ほーら、ほーら、すーっと、はいった。こんどはな、『お染久松|比翼《ひよく》投げ』……二つのかわらけを投げんのや……ええか? ……ぷっ、ぷっ……いよーっ、いよーっ、そーれ、そーれ、二つのかわらけが、糸でつないだように、おんなじように飛んでいくやろ。そーれ、二つともはいった。どや?」
「ふん、そんなことぐらい、わたい、やったる」
「おまえは、じきにそういうこという」
「ちょっと、おばあん、かわらけ、五百枚」
「五百枚もどないするねん?」
「いえ、そのうち五枚だけな、へへへへへ……わたいかて、負けしまへん。こんなもん……いやあ、まずいかわらけ、ぷっぷっ……」
「食《く》たらあかへんがな。端をちょっと欠いたらええのや」
「大丈夫。みてなはれや。最初は、『獅子のほらふき』」
「あほ! それいうなら、『獅子の洞いり』や」
「そうや、まちがえたらあかんがな」
「おまえがまちがえたんや」
「ああ、そうか……さあ、投《ほ》りまっせ……いよー……っと、やあ、ゆくえ不明や」
「ゆくえ不明て、足もとにおちてるがな」
「なんや、わるいかわらけやなあ」
「おまえの投げかたがわるいのや」
「こんどは、『お染久松比翼投げ』……二枚のかわらけが、糸でつないだように、しゅーっ……と、あっ、糸が切れよった。右と左の泣きわかれ……」
「そやさかい、あかんて。おまえらにはでけへん」
「だいたい、わたいはな、かわらけちゅうようなもんを投るのが、きらいなんや。京都の人間はな、しみったれてまっしゃろ。そやよってに、こんなもん、投ってよろこんどんねん。大阪の人間、こんなしょうもないもん、投らしまへんで」
「ほう、そうか。大阪は、なにを投んねん?」
「お金を投ります。ぽいぽいぽいと……」
「はあ……大阪では、お金を投んのか?」
「へえ」
「そうか。そんなら、わしもな、きょう、おまえたちにやろかいなとおもうて持ってきたんじゃが、ちょっと、かわったもんを投ってみよか?」
「なんでんねん?」
「どうや、これ? 小判」
「え?」
「小判が二十枚あるねん」
「ほんまもんだっか?」
「そうや」
「あっはっはっはっ、おもちゃだっしゃろ?」
「ちがう、ちがう。それっ、音を聞いてみ」
「……あっ、それ、ほんまもんや。うーん、ええ音がしまんなあ……これを、あすこへ投んなはるん?」
「ああ、投ってみよとおもう」
「えっへっへへへ、そらよろしいな。そらあきれいやろな。下の松の木に黄金の花が咲きますがな」
「うん、そうや」
「そら、投ったらきれえや。投ったらな」
「いや、投るねんがな」
「投んなはれ。投ったらよろしい」
「わし、ほんまに投るいうてるねん」
「あはははは、だいいち、手がはなれますかいな?」
「いうたな? 投るがな。みとれよ。ええか? みとれよ。いよーっ、いよーっ……いやー」
「ああ、あっ……投った」
「はじめから、投るいうてるがな」
「ふわあ……ふわあ……」
「なにいうてんねん? ……おい、ようみてみ。松の木に黄金の花が咲いたやないか。きれえやろ? きらきら光って……さ、去《い》のか」
「そんな、あっさり去《い》んだらいかん。ひとがひろいますがな」
「ひろたら、ひろうたもんにやるがな」
「へっ? ほんなら、わたいがひろたら?」
「おまえのもんや」
「へっ、わたいのもん? ありがたい。ほんなら、ひろお……いやあ、手がとどかん」
「あたりまえやないか。とどいたら、わしがひろうがな。もう、あっちへいこ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ったっちゅうてんのや。これが、みすてていけまっかいな……なあ、茶店のおばあん」
「なんじゃ?」
「この下へおりていく道ないか?」
「そりや、道はおす」
「ど、どのへんからおりる?」
「へえ、ずーっとむこうまわるのどす」
「どれくらいある?」
「五里じゃろな」
「道は、ええ道か?」
「こけ道じゃ」
「ああ、苔《こけ》の生えてる道か?」
「いや、ひょこひょこ転《こ》ける道」
「転ける道かいな。なんにもでてきやへんか?」
「べつになにもでやせん。熊と狼がでるだけじゃ」
「それだけでたら結構やがな……ここから、このまま下へおりる道は?」
「そんなもん、ありゃせん」
「ええ、みすみすみながら……うーん、これをとる工夫《くふう》は? ……あっ、そうや、そうや、そこに大きな傘があるがな。おばあん、その傘、ちょっと貸してんか?」
「あかん、あかん。それは、下の花屋へかえさんならん……」
「なにいうてんのや。あの小判ひろてきたら、こんな傘、百本でも、二百本でも買うてかえしたるさかい……これでな、わたい、清水の舞台飛びちゅうやつをやりまっさかいな、これ持って、ぱあーっと飛びおりるんや。へっ、こんなときでもなかったら、金にはありつかれへん……ええ、ひい、ふう……ううん、こら、あぶないな。こら、あぶない……いよう、ひい、ふう……あぶない、あぶない……ここまできたら、目えつぶってても足が勝手にとまるんや。ああ、なんとか飛べんかな? ……ひい、ふう……おっとっとっと……」
「繁、繁八」
「へ? 旦那さん、なんでやす?」
「そうっといって、一八の背なかをドンと突いたれ」
「大丈夫だすか?」
「大丈夫、大丈夫、傘持っとるやないか。うしろから突いたれ」
「さよか。ほな、突いてみまっさ……おい、一八、飛びたいか?」
「飛びたい。あそこや、小判、ああ、欲しいなあ」
「飛びたいか?」
「ああ、飛びたい!」
「よっしゃ、そーら、飛んでけ!」
「うわあ」
「やあ、飛びよった、飛びよった! 旦那さん、飛びましたでえ」
「うん、飛んだなあ……おいおい、呼んでやれ」
「一八よー」
「一八つぁーん」
「ふえー」
「飛んだかや?」
「ふえー」
「怪我はなかったかあ」
「怪我? ええ、怪我は……怪我は……あっ、怪我はございません」
「金はあるか?」
「金? ……あっ、そうや、金、金、そのために飛んだんやがな……あっ、ある、ある、ある……ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう……あった、あった。ふーん、一枚足らんわ。こうなったら、一枚でも大きいで。命がけのことやってな……もう一枚は……あっ、あんなところへとまってけつかる……ありがたい、ありがたい。これで二十枚そろったわ……旦那さん、二十枚、そろいましたあ」
「おまえにみんなやるぞー」
「おおきにありがとう」
「どないして上へあがるー」
「あっ、こら、あかんわ」
「狼に食われてしまえー。さきへいくぞー」
「待った、待った、待ったあ……えらいことになった。あがることまでかんがえてなんだ……なんぞ工夫は?」
なにをかんがえましたか、一八、すっと着物と長襦袢《ながじゆばん》をぬぎますと、こいつをほどきまして、つー、つー、つーと、細長うひき裂《さ》きます。
「旦那さん、一八のやつ、気でもふれたんだっしゃろか? はだかになって、長襦袢を裂いてまっせ。あっ、裂いた着物と長襦袢で縄をないだしましたで……」
「旦那さん、待っとくなはれやっ、もうしばらくでっさかいに……」
一八のやつ、長い長い縄をないますと、さきのほうに大きな石を結《ゆ》わえつけまして、そいつを、大きな竹を目がけて、ぴゅーっと投りますと、くるくるっと竹のさきへ巻きつきました。
「ようし、いま、いきますさかいな……この竹を、でけるだけ下へひっぱらんことには……よいしょ、よいしょ、うーん、よいしょ」
竹を十分にしなわしておいて、ひとつ、ぽーんと地を蹴りましたから、竹は、つっ、つっ、つっ、つっ、つっ、つっ、つっ……ひらりと、一八は飛びあがって、
「旦那、ただいま」
「おっ、あがってきよった! えらいやっちゃなあ。金は?」
「あっ、わすれてきた」
たばこの火
ただいまは、住吉街道もえろうにぎやかになりましたが、まえかたは、住吉さんの前と、天下茶屋とに、ぱらぱらと家があったほか、ずっと田んぼばっかりで、夜などは、人通りはござりまへん。
昼でも、卯《う》の日とか、初辰とかいうときには、大阪から住吉まいりをするひとが、ずいぶん通りますが、ふだんは、駕籠《かご》屋なんぞもごくひまなものやったそうで……住吉の鳥居前で、駕籠屋がふたり、ぼんやりしているところへ、南のほうから、結城紬《ゆうきつむぎ》の着物に、茶献上《けんじよう》の博多帯《はかたおび》、ごく地の厚いお羽織という風体《ふうてい》で、手ぬぐいを大尽かぶりにした上品なお年寄りが、ちいさなふろしきづつみを首すじへくくりつけて雪駄《せつた》ばきでやってまいりました。
「もし旦那《だん》さん、旦那さん、お駕籠は、どうでごわす。おやすうお供《とも》いたします」
「うん、駕籠に乗れというてなさんのかい? 乗せておもらいもうさんでもないが、どこまでいきなさるな?」
「へえ、そらもう、どこへでもお供いたしますので、へえ」
「ああ、さよか。なりゃ、ひとつ乗せていただきまひょう」
「へえ、おおきにありがとうさんで……おい、相棒、いまどき、値《ね》もきめずに乗るようなひとは、めったにあらへん。お召しもの、気いつけよ……へえ、旦那、どちらへ?」
「南からきたんや。まあ、南へもどるはずはないやろ? 北むいて、ぼつぼついかんせ」
「へえ……さあ、相棒、肩いれるで、ええか? ……ええ、旦那《だん》さん、北は、どのへんまで? 大阪あたりへ?」
「じゃろうな」
「え?」
「たぶんそんな見当やろな」
「えへへへ……どうぞおなぶりなはらんと……」
「いや、なぶるのやない。ゆくさきはないのや」
「え? ゆくさきはない? そら、えらい難儀だすがな」
「まあ、ええがな。あるいてたら、どうにかなろうかい」
「そんなあほな……だいたい、なにをしにあるいてござったんで?」
「いや、べつになにをしにきたというかんがえもないのじゃ。退屈まぎれにな、けさ早う、和泉の佐野から堺まで駕籠できましたのじゃが、乗りくたびれたので、駕籠を帰して、住吉まであるいてきたところを、あんたがたに呼びとめられて乗ったまでじゃ」
「へーえ……」
「しかし、駕籠屋さん、大阪には、りっぱなお茶屋さんが、ぎょうさん(たくさん)あるそうじゃな?」
「へえ、そりゃもう、たくさんにござります。新町《しんまち》の吉田屋、北陽《きた》の綿富なんどと申しましたら、なかなか有名なもので……」
「そんな家では、知らんものはあそばさんのじゃろな?」
「一見《いちげん》のお客さまは、みなことわりますが、もし、旦那さんがお越しになろうとおおもいでござりましたら、綿富の女中|頭《がしら》、お富どんというひとと心やすうしてもろてますよって、ご案内申します」
「ほう、こんな田舎おやじでもあそばしてくださるかな?」
「そらもう、旦那さんのご人体《じんてい》でおましたら、けっして粗略《そりやく》にはいたしまへん」
「そんなら、それへつれていてもらいまひょう」
「へい、承知いたしました。相棒、北陽やで」
「ようやくゆくさきができたな。気楽なおかたや」
「そんなら、旦那、ひとつ走らしてもらいます」
「まあ、走らんとよろしいがな。あんたがた、無理をしなはんな。どうぞゆるゆるとやっとくなされ」
「おおきにありがとうさんで……しかし、旦那さんなんど結構なお身分でごわすなあ。きょう、どうしてあそぶということにご苦労なはる。われわれみたいに、朝から晩まで、『へい、かご、へい、かご』と、屁で死んだ亡者みたいにいうて暮らしてるものも、やっぱり人間でおますがな。これで、ときどき、いやあになることがござります」
「いやいや、悔《くや》みなはるな。人間、上をみればきりがない。下をみても方図《ほうず》(かぎり)がない。箱根山、駕籠に乗るひと、乗せるひと、そのまたわらじをつくるひと、おのおの、その分に応じて、たのしみもあれば、苦しみもある。ひとの花は、赤うみえるが人情じゃ。あなたがたが、そうしてまめ(丈夫)でかせぎなはるすがたをみて、うらやましゅうてたまらぬひとも、世にはなにほどあろうやら知れぬ。年寄りや足弱の苦難をたすけて、おのれの暮らしを立てるりっぱな稼業《かぎよう》じゃ。まあ、せいぜい稼業大事にはげみなされ」
「へえ、おおきにありがとうはんでごわす。駕籠屋なんていいますと、もう、人間のくずみたいにいわれますので、自分でも、ついつい、そないおもうとりましたが、なるほど、いまみたいにおっしゃっていただきますと、これでも人間のなかまにはいってるような気がいたします」
「心におごりを知らず、みずからをいやしとして世をわたる。ああ、感心なもんじゃ。わたしも、ひさしぶりで、ええことを聞かしてもろうて気が晴れました」
かれこれいたしますうちに、北陽の新地へはいってまいります。綿富のおもてへ駕籠をおろして、駕籠屋がはなしをいたしますと、若い衆が、おもてへとんででまして、
「これは旦那さん、ようこそお越しくだされまして、ありがとう存じます」
「はい、みなさる通りの田舎おやじじゃ。すこしおじゃまをさしてもろてもええかな?」
「どうぞ、ごゆるりとおあそびをねがいますので……」
「そうさしてもらいます。ときに、おまえさんは?」
「当家の若いもので……」
「ちと、お頭《つむ》が禿《は》げてるが……」
「……おそれいります。かようなところに奉公いたしますあいだは、いくつになりましても若い者と申します」
「ほう、そんなら、お年寄りのお若い衆……」
「これは、ごていねいなことで……」
「お名前はなんとおっしゃる?」
「伊八と申します」
「いたちじゃと?」
「いいえ、伊八で……」
「あははは、聞きちがいじゃ、かんにんしてくれ。ときに、伊八とやら、駕籠屋さんにあげねばならぬ。こまかいものがあったら、ちょっと一両たてかえとくれ」
「へえ……帳場はん、いまのお客さん、一両おたてかえ」
「よっしゃ、持っていき」
「へえ……旦那さん、お待たせいたしました」
「はいはい、ごくろうさん。ああ、もし、駕籠屋さん、えらくお世話になりました。これですくないようなら、遠慮のういうとくなされ。さあ、駕籠賃や」
「げえっ! こりゃ、こ、こ、小判! おいおい、相棒、お礼申せ、お礼申せ。一両くだはったんや。旦那さん、おありがとうさんで……」
「おありがとーう、右や左の旦那さん……」
「おかしなこというな。あほやな、こいつは……」
「いや、えろうものよろこびをなはる」
「じつは、旦那さん、うちに年とった母親がおりまっさかい、せめて綿のやわらかいふとんにでも寝さしてやったらとおもいましても、その日暮らしの駕籠屋稼業で、おもいもよらぬこととあきらめとりました。さっそくこれで、あったかいふとんを買うてやろうとおもいます。ありがとうさんで……」
「なんじゃ? ふとんを買うて、親御をよろこばす? ああ、感心、感心、伊八、もう二両たてかえとくれ」
「承知いたしました……帳場はん、二両おたてかえ」
「よっしゃ、持っていき」
「へえ、旦那さん、お待たせいたしました」
「やあ、はばかりさん。さあ、駕籠屋さん、これは、お家にござる親御へわたしの寸志、なんぞお口に合うものでも買うてあげとくれ」
「えっ! またくださいますのか? ありがとうさんで……おい、相棒、お礼申してくれ。また小判二枚くだはったんや」
「こりゃ、おおきにありがとうはんで……わたしのうちのとなりにも父親がひとり……」
「となりのおやっさんをどないするんや? あほやな、こいつは……」
「あははは、おもしろいおひとじゃ。縁があれば、また乗せておもらい申しまひょう。はい、ごくろうさん……伊八、それでは、案内をたのみまひょ」
「ええ、そのおつつみを……」
「持ってくださるか?」
「へえ……鶴の間へご案内!」
りっぱな座敷へ通されます。
「ええ、粗茶でござります」
「やあ、ちょうだいしまひょう……ふーん、普請《ふしん》から建具万端《たてぐばんたん》、道具類にいたるまで結構なものやな……おや、むこうの衝立《ついたて》のかげにどなたぞおいでかいな?」
「へえ、お目ざわりでおそれいります。あれは、当家おかかえの見習い衆でござりますので……」
「ああ、さようか。こっちへはいってもろうとくなされ。いや、かまわん、かまわん」
「へえ、ありがとう存じます……さあ、みんな、こっちへおはいり」
「へ、おいでやす」
「おいでやす」
「おいでやす」
「はい、はい、はい……おお、ぎょうさんござるのやな。うん、こんな時分から修業してなさる。ええ芸妓《げいこ》衆ができるはずじゃな。みんなで、何人ござるのや?」
「十人でござります」
「十人か……伊八、ちょっと十両たてかえとくれ」
「へえ……帳場はん、十両おたてかえ」
「さ、持っていき」
「へ、旦那さん、お待たせを……」
「はい、はばかりさん。さ、あなたがた、なにもよう買うてこなんだ。これをわけとくなされや」
「さあさあ、みんな、おいただきなはれ」
「旦那さん、おおきに……」
「おおきに……」
「おおきに……」
「はい、はい。いや、おそれいった。行儀《ぎようぎ》のええことやなあ。みんな、わたしにかまわんと、なんぞ甘いものでもいうてもろうて、好きなことをしてあそんどくなされ。伊八、まだ、このほかに?」
「へえ、舞妓衆がおられますので……」
「さようか。みな、はいってもろとくれ」
「ありがとう存じます。舞妓衆、おはいり」
「へ、おいでやす」
「へ、おいでやす」
「おいでやす」
「おいでやす」
「おお、おお、これはまた、なんときれいなことじゃ。何人ござる?」
「十五人でござります」
「そうか。伊八、ちょっと十五両たてかえとくれ」
「へえ? また十五両? ……うーん、かしこまりました……帳場はん、へっへっへ」
「あ、笑うてよる。どないしたんや?」
「十五両おたてかえ」
「これ、ええかいな?」
「気づかいおまへん」
「さ、持っていき」
「へえ……お待たせいたしました」
「おお、ごくろうさん。さ、あなたがた、これは、おみやげがわりじゃ。ひとつずつわけてもらいまひょ。伊八、このほかには、だれもおらんか?」
「芸妓衆が……」
「はいってもろうとくれ」
「さあ、芸妓衆、お通り……」
「へ、おいでやす」
「へ、おいでやす」
「おいでやす」
「おいでやす」
「はい、はい。おお、てもあでやかなことじゃ。何人ござる? 二十人? 伊八、二十両たてかえとくれ」
「二十両?! ……しょ、承知いたしました……へっへっへ」
「あっ、また笑うてきよった。こんどは、なんぼや?」
「二十両」
「大丈夫かいな?」
「心配しなはんな」
「ほな、持っていき」
「へえ、旦那さん、お待どうさまで……」
「や、はばかりさん。さ、芸妓衆、失礼ながら、これひとつずつ……このほかには?」
「幇間衆がおられます」
「はいってもらいまひょ」
「幇間衆おはいり」
「うへー、おいでやす」
「うへー、おいでやす」
「これこれ、そうていねいにおじぎをしられるとこまる。田舎おやじじゃ。どうぞ心やすうしとくなされ。何人ござる? うん、三十人か? 伊八、三十両たてかえとくれ」
「……ああ、さようで……へっへっへっへ、帳場はん」
「わあ、またかいな? なんぼいるねん?」
「三十両だす」
「三十両?! だんだん口が大きなるがな。まあ、持っていきなはれ。あとは、もうあかんで……」
「よろしおます……へえ、旦那さん」
「おお、ごくろうさん。さあ、すくないが、ひとつずつ。わたしにきげんとりはいらんで。田舎おやじじゃ。なにをみせてもろうても、わかりやせん。みんなが、すきなものをとって、勝手にあそんどくなされ。それをみてたのしみますじゃ……おお、伊八、かんにんしとくれや。つい気がつかなんだ。ほかの衆には、みんな、おみやげあげて、えらい目さしたおまえをわすれてた。おまえのほかにも奉公人衆がおるやろが、みんなで何人ござる?」
「へえ、四十七人おりますので……」
「そうか……五十両たてかえとくれ」
「こんどは五十両?! ああ、さようで……へっへっへっへ」
「また笑ってきよったな。もう、いかん。もうだされへんで……」
「そんな殺生な。こんど、わいがもらう番や」
「なんというてもいかん。はじめてのおかたに、そうそうたてかえができるかいな。どうぞお手もとのんをと、だしてもらい」
「へえ、さようか……さっぱりわやや……へえ、旦那さん」
「おお、はばかりじゃな」
「それが……その……ええ……じつは、あいにくと帳場にこまかいものをきらしまして……えらい申しかねますがな……どうぞ、お手もとのをおつかわしくださりますようにと……へえ……」
「ああ、さようか。あははは、いや、心配せんでもええ。それでは、わたしが持ってきたのをだしまひょう。さっきのつつみをちょっとこれへ持ってきとくなされ」
先刻のつつみをとりよせてほどきますと、なかには、奉書の紙で四方からつつんでござります。この紙を四方へひらきますと、なかには、小判が、きれいにかさねてつまってござります。
「最初に一両たてかえてもろうたな?」
「へえ」
「それ、二両にしておかえし申す。つぎは、二両やったな? はい、四両にしてかえしますぞ。それから、十両かいな? 二十両にしてかえす。それからが十五両で、これが三十両、あとは、二十両やったから、四十両、三十両が六十両じゃ……うーん、それから、なんぼやったかいな?」
「とほほほほ、もう、しまいでござります」
「ああ、それだけやったかいな? ようまあ、おたてかえくだされた。どうぞ、お帳場はんへはよろしゅうお礼をいうてくだされ。それから、これは、奉公人ご一統《いつとう》でわけてくだされや。さて、おまえには、とりわけお世話になりました。なんぼあるか知らんが、ほんのひとつかみや。おさめとくなされ」
「とほほほ、あ、あ、ありがとうさんでござります」
「ときに、きょうのお払い、どれほどあげ申したらよろしいやろな?」
「いえ、いえ、これだけちょうだいして、この上、お払いまでいただいたら罰があたります」
「するとなにかいな、これだけ大勢の衆にお伽《とぎ》をしてもろうて、たったのあれだけですみますのか? ふーん、やすいものじゃなあ。持ってきた金を、また持って帰るのもめんどうじゃ。のこった小判をまいてしまおう。何枚でも、ひろうたら、みんな、そのおひとのものじゃ。どうぞ、たくさんひろうとくれ」
「ええっ、小判まきい! さあ、心得た。こうはちまきをして、尻《しり》からげさしてもらうわ。わいのじゃましょったら、だれかれの容赦《ようしや》はせんで。横っ腹蹴りやぶるで」
「おい、そんならんぼうしたらいかん。みんなで、仲ようひろうのや」
「へえ、旦那さん、大丈夫だす」
「ちょっと、ねえちゃん、この櫛とかんざし、あずかっといとくなはれ。気にかかってひろえんさかいに……」
「なにいうてんねん、わてかてひろわんならん」
「旦那さん、こっちへぎょうさんほうっとくなはれや」
「さあ、用意はええか? そろそろはじめるで……そーれ、そーりゃ!!」
「きゃー」
「うわー」
「きゃー」
「あっはっはっは、こらおもしろい。こんどは、そっちじゃ。そーりゃ、そーりゃ」
「うわー、いたいっ! だれや、わてのあたま蹴りよったのは?」
「きゃー、ねえちゃん、あんなところまでころんでいきやはった」
「ああ、めんどうくさい。もう、一ぺんにいくぞ」
「うわー」
「きゃー」
「うわー」
「あっはっはっは、あっはっはっは……あの、あわてることわいな。あっはっはっは、ああ、こりゃたまらん。苦しい。腹がいたい。あっはっはっは、あっはっはっは……やーれ、おもしろかった。おもしろかった。伊八、さわがしたな。さようなら」
そのまんま、おもてへぽいとでてしまいましたから、帳場では、ふしぎにおもいまして、
「伊八どん、なんや、いまのお客さんは? ただのおかたやあるまい。あとつけてみい」
「へえ」
伊八が、みえがくれについてまいりますと、今橋すじを東へまがって、鴻の池のお宅の前までまいりまして、おもての戸をトントン、トントン……
「どなたさまで?」
「ああ、わしじゃ」
「おお、これは、旦那さん、ただいま、おあけ申します」
その時分のご大家は、みな、通り庭でござりまして、中庭と玄関と表と、三つ入り口がついてござります。
「へえ、お帰りやす」
「へえ、お帰り」
「お帰りあそばせ」
「はい、はばかりさん。あとをしめとくなされ」
かげで、ようすをうかがっておりました伊八が、
「はて、どなたやろ? 鴻の池の旦那のお顔は知ってるが、あのおかたとはちがう。あれだけみなが、ていちょうにしやはるのは、ご親類かいな? 一ぺんたずねてみたろ」
トントントン、
「どなた?」
「へえ、夜分おそれいります。北陽《きた》の綿富の若い者でござります。すこしものをおうかがい申しとうござりますので……」
「なんじゃ、綿富の若いもんか」
おもて戸の横に、臆病窓《おくびようまど》というものがござりますが、それを、すーっとあけて、
「なんや、伊八やないか」
「へえ……夜分、めんどうなことを……」
「いま、あけたげる。さ、おはいり」
「へっ、ごめんやす……へ、こんばんは。どなたさんもおそろいで、こんばんは、へ、こんばんは」
「なんやいな? いま時分に……」
「へえ、妙なことをおたずねいたしますが、ただいま、ご当家へおはいりになりましたのは、どちらの旦那さまでござりますやろ?」
「ああ、おまえところへいきやはったか?」
「へえ、お越しくださりましたので……」
「ふーん、そりゃ、福の神が舞いこんだようなもんや。よろこびや……最初、駕籠賃たてかえさせやへなんだか?」
「へえ、ようご存じで。たしかに……」
「なんぼやった?」
「一両と二両で、都合《つごう》、三両でござりました」
「それは、六両にしてかえしてもろうたやろ?」
「へえ、さようで……」
「つぎは?」
「十両、十五両、二十両、三十両で……」
「ふん、みな、倍にしてかえしてもろうたやろ? そのあとは?」
「五十両で……」
「たてかえたか?」
「いえ、なにぶん、お顔を存じませんので……」
「ことわったか? ふーん、もうあかんわ。早う帰り」
「なんでだすねん?」
「もう、おまえとこ、旦那さん、しくじってるがな。もう一ペんたてかえてみい。『うん、腹のふといおもしろいやつや。ひいきにしよう』となる。こんどいきなはるときには、おまえとこのふすまは、何枚あるか知らんけれど、そっくり小判で張りつめてもらえるのや。だれや、おそばにいてお世話申したのは? え? おまえか? ふーん、運のない男やな。しくじらなんだら、このつぎお越しになったとき、あたらしい四斗樽のなかへおまえを坐らしてな、ぐるりを小判でぎっしりつめてくれはるのや。それから、あたまから千両箱をひとつ乗せてもらえる。おまえ、小判の漬物《こうこ》になりそこのうたんやで……」
「ええっ、小判の漬物に?! ……いったい、あのおかたはんは?」
「知らんのかいな? ご当家妹御前のお嫁いりさき、和泉のあばれ旦那や」
「げえっ、ほな、あのおかたが、有名な飯《めし》さんだすか?」
「そうやがな」
「ふわー」
「どないしたんや?」
「腰が抜けました」
「情けない男やなあ」
「なあ、あんさんがたのおとりなしで、なんとかごきげんのなおるようなくふうは?」
「あかん、あかん。さ、早う帰り!」
「ふわーい……こらっ、くそ帳場!」
「あっ、いたたたた、これっ、伊八どん、なにするねん? ひとの胸ぐらしめてなんやねん? はなしんか、いたいがな」
「やいやい、もうもう……おのれのおかげで、漬物《こうこ》になりそこのうたぞ!」
「そら、なにいうねん? まあ、おちついてはなしをしてみい」
これから、伊八が、事情を主人に申しますと、さすがは、大茶屋の主人《あるじ》、腹が大きい。
「うん、知らなんだことはしかたがない。ときのくるのを待って、ごきげんをとりもどそう」
と、いろいろ思案をしておりますうちに、だんだんと盆が近づいてまいります。
そこで、大阪じゅうのかつおぶしを買いしめて、これを家形《やたい》につくりました。
ちょうど盆の十四日のことでございます。
ようすを聞きあわしてみると、飯の旦那が、鴻の池にご滞在中とのこと。これさいわいと、例のかつおぶしの家形に鳴りもの一式をそろえまして、伊八が采配《さいはい》をふります。
選《え》りぬきのきれいどころが二百人あまり、紅白の綱をひっぱって、にぎやかに新地をくりだしました。
ただいまの老松町から天満の十丁目へでて、これを南へ天神橋をわたって、高麗橋から今橋すじへねってまいります。鴻の池のご本家近うまいりますと、伊八が、家形からとんでおりるなり、鴻の池のおもて口へまいりまして、
「へえ、ちょっとおねがい申します。北陽の綿富から飯の旦那さまへお中元でござります。どうぞ、お窓からでもごらんくださりますよう……」
おもてからこのことをいうてまいりますと、飯家の旦那、
「はてな、どんなことをしてきよったのじゃろ?」
と、お居間の窓を細目にあけてごらんになります。ここで、囃子《はやし》にいっそう力をいれて、一同が、手ぶりそろえておどりましたのが、のちに浪花おどりになりましたのやそうで……伊八が、窓の前で、あたまをさげまして、
「へい、旦那さま、先日は、まことにありがとうござります。その後は、ごぶさたをつかまつりました。きょうは、まことにお恥ずかしいようなものでござりますが、お中元のしるしまでにお目にかけます」
「おお、伊八どんか。いつぞやは、えらいご厄介になりましたな。きょうは、また、お気をつかわれたご祝儀ありがとうちょうだいをいたします。どうぞ、ご主人に、よろしゅういうとくなされ。いずれ近々に、一ぺんよせていただきまひょ」
「ありがとう存じます。ぜひお越しのほどをお待ち申しあげております」
「じゃが、貸してほしいというものがあれば、どうぞ、なんでも貸しとくなされや」
「おそれいります。それでは、旦那さま、これで、ごめんをこうむります」
これから、また、にぎやかにひとおどりして、北の新地へ帰ってまいりました。
「伊八どん、首尾はどうやった?」
「上々吉だす。『一ぺんよせてもらいまひょ』いうてはりました」
「そりゃ結構や。手ぬかりのないようにせないかんな」
「へえ、こんどしくじったら、もうとりかえしがつきまへんで……それから『貸してほしいというものは、なんでも貸してくれ』というてはりました。あの旦那が、おっしゃるくらいやさかい、こんどは、五十両や百両やおまへんで……」
「よっしゃ、その手配しとこ」
これから、大阪じゅうの両替屋に掛けおうて、小判の融通をたのみましたが、なんと申しましても綿富のこと、信用がござります。千両箱をどんどんはこんでまいりますと、庭さきへつみあげまして、伊八が、それへ腰をかけて待っております。
さて、二、三日もすぎました時分、飯の旦那、あいかわらず、ちいさなつつみを首すじへくくりつけてやってまいりました。
「おお、伊八どん、先日は、結構なものをありがとう。きょうはな、そのお礼かたがた、ちょっと貸しておもらい申したいものがあってやってきました」
「これは、これは、旦那さま。お待ち申しておりました。たかの知れたお茶屋|風情《ふぜい》、たいしたご用はうけたまわりかねますが、千や万の用意はいたしとります。ええ、ご用立ていたします金高《たか》は?」
「いや、ちょっと、たばこの火が借りたいのじゃ」
くっしゃみ講釈
「おい、いるか?」
「だれや? ああ、喜いやんか。ま、こっちへおはいり」
「清やん、ごきげんさん」
「しばらく顔をみせなんだが、どこぞへ行《い》てたんか?」
「ちょっとカイサへ行てたんや」
「ほう、どこの会社へ行てたんや?」
「カイサや」
「カイサってなんや?」
「堺《さかい》をひっくりかえしたんや」
「そんなもん、ひっくりかえしたりしいないな。なにしに行てたんや?」
「ゴトに……」
「ゴトてなんや?」
「仕事を倹約《しまつ》してゴト」
「そんなおかしなものいいばかりしいなや、で、なんぞかわったはなしでもあるか?」
「べつにかわったはなしはないけど、しばらくいんうちに、町内のようすがかわったな」
「そうやろ。このごろは、改造とかで、とかく家並《いえなみ》がきれいになったやろ?」
「あの、やかましゅういうてた化けもの屋敷な」
「ふんふん、長いことあいてたんで、世間のひとが、化けもの屋敷とうわさしてたとこやな」
「ゆうべ十時すぎに通ったら、ぎょうさん化けものがでたで……」
「化けものが?!」
「うん、座ぶとん持った化けものや、たばこ盆さげた化けものやら、なかには、化けものの頭《かしら》かしらん、高いところへあがって、『明晩もお早うからお越しをねがいます』と、おじぎをしてたが、あら、やはり化けものの隊長か?」
「そらなにをいうねん。ああいうわるいうわさの立ったところは、なんぞ人寄り場所にしたらよかろうと、こんど講釈の新席ができたんや。おまえのいうてる時分なら、ちょうど講釈の終演《はて》とちがうか?」
「ははあ、それでや、でてくる化けものが、みなみたことのある顔やとおもた」
「ようそんなたよりないこというてるな……ま、席がきれいなとこへ講釈師が上等、演《や》る演題がええので、毎晩大入りや」
「講釈師てだれや?」
「後藤一山という先生や」
「えっ、そんなら、おまえのいうてる後藤一山いうたら、背のちょっと高い」
「そうや。でっぷりと肥えた」
「色の白い」
「うん、鼻の高い」
「両方に耳のある」
「無《の》うてかいな」
「ふーん、あの後藤一山か」
「そうや」
「おーん、おーん、わーん」
「どうしたんや? 泣いたりして……」
「聞いてくれ、聞いてくれ。わい、ことし二十八や」
「だれも、おまえの年聞いてへんがな」
「はじめて女ができたんや」
「これ、ちょっと待ちんか。いまどきの若いもんが、二十八にもなって、はじめて女ができたやなんてじまんしてたら、ひとに笑われるで……」
「それが、ほかの女ならじまんをせんが、横町の米屋のおはるや」
「あの娘なら、町内でも今小町と評判の娘はんやがな」
「そうや。あだ名を御輿《みこし》娘いうてな」
「なんでや?」
「若いもんが肩いれに行てるが、いまだにお渡りがない」
「ようそんなこというてるな」
「まあ聞いて、だいぶ前のことやけど、辻の角で、おはるにべったり逢うたんや。『ああ、ええとこで逢うた。ちょっとはなしがあるねんけど、そこまできてんか』いうて、風呂屋の横手の露地へはいって、ふたりが、ぼしゃぼしゃはなしてたんや。そこへやってきよったのが後藤一山や。講釈師いうのは、むずかしいもののいいかたしよるもんやな」
「そうか」
「『夕景より腹中ないたんでまいったが、このところに大便所があれば、拝借ないたしたい』と、露地へはいってきよった。入り口で、なんぞ踏みよったとみえて、『雪駄《せつた》の裏に、にんやりとおいでたは、土にしては、いささかねばり気もこれあり候。犬糞でなくばよいが……』……それから、雪駄の裏を、なでてみよって、鼻のさきでかいでみて、『案にたがわん。犬糞犬糞、紙でふくのも異なもの、どこぞそのへんの壁へぬすくって(ぬりつけて)おいてやろう』と、露地のなかへはいってきよった。ふたりは、みつけられたらいかんさかいに、うしろの壁にべちゃとへばりついてたら、『このへんの壁がよかろう』と、にゅうときたんが、わいの鼻のさきや。わいの鼻、犬糞のぞうきんにしやがんねん」
「そんなもんされないな」
「くさいのんで、『きゃっ』というたら、その声で、講釈師は飛んで帰る。おはるはんは逃げて帰る。あとにのこったんは、わいと犬糞のふたりづれや」
「そんなもんが、ふたりづれになるかいな」
「それから、風呂へ行て、きれいに洗うて、翌晩、おはるはんとこへ行て、『ゆうべは、えらいすまなんだ。まだ、はなしがちょっとのこったあるさかい、そこまできてんか』いうたら、おはるはんのいうには、『鼻のさきで、ああいうきたないもんふかれるようなひとといっしょになっても、とうていさきのみこみがないさかい、せっかくやけど、いままでのはなし、あら変更《へんがえ》や』と、せっかくのはなしも犬糞のために台なしになってしもうて……とほほほほ……」
「おいおい、泣きないな」
「もう、わいは、じっとしとれん。これから講釈小屋へあばれこんで、講釈やれんようにしてしもたろ」
「ちょっと待ち。そんなことしたら、おまえ、罪になるがな」
「けど、わいの腹の虫がおさまらんがな」
「そしたら、たとえ一日でも、講釈がやれんようにしたら、腹の虫がおさまるやろ?」
「一日どこやないねん、たとえ一時《いつとき》でもやれんようにしたら、腹の虫が得心するわ」
「そないにまでいうのなら、わいが、おまえに知恵借そか?」
「それでは、なにぶん、尊公のご加勢をもってご尽力……」
「たいそういないな。銭二銭はりこみ」
「どうするねん?」
「横町の八百屋へいって、胡椒《こしよう》の粉買うてくるねん」
「どうする?」
「それを講釈小屋へ持っていって、火鉢のなかへくべる。あのけむりが鼻の穴へはいったら、くっしゃみがでるわ。くっしゃみの三つもしたところで、ぼろくそにいうて、講釈やれんようにしてしもたったらええやないか」
「なるほど、いこう、いこう」
「大きな声やな。いこういこういうたかて、かんじんのもの買うてこな、いかれへんやないか」
「なにやしらを買うてくるねんな」
「胡椒の粉や」
「どこで買うてこう?」
「横町の八百屋ででも買うといでえな」
「なんぼほど買うてこう?」
「ぎょうさん(たくさん)はいらんねん、二銭あったらええねんさかい」
「ほな、二銭で、なに買うねん?」
「いま、いうたとこやがな。胡椒の粉や」
「どこで買うねん?」
「おまえ、だいぶんわすれやな。横町の八百屋で買うといでいうてるやろ」
「なんぼほど?」
「なぶったらあかんで、二銭やで!」
「ほな、二銭でなに買うねんな?」
「おまえにものいうてたら、むかむかしてくる。胡椒の粉やがな」
「ほな、どこで買うねん?」
「あほ! おまえが怒ってどうするねん?」
「あんまりものおぼえがわるいんで、自分でもむかむかしてくるねん」
「そない、ものおぼえがわるいのなら、わいが、ええ目安《めやす》を教えよか?」
「目安てなんや?」
「わすれても、じきにおもいだせるように」
「教えて」
「おまえ、のぞきからくり知ってるやろ?」
「好きや。子どもの時分、前へまわってまねして怒られた」
「八百屋お七のからくりがあるやろ? ゆくさきが八百屋、お七の男を小姓《こしよう》の吉三というやろがな、そこで、胡椒《こしよう》をおもいだし……」
「なるほど……なんぼほど買うねん?」
「まだいうてんのかいな。横町の八百屋で、胡椒の粉二銭や。早よいっといで!」
「とうとう怒ってしまいよった。わいが、ものおぼえがわるいさかい、かんしゃくおこしよった……ええ、八百屋のおっさん、ごめん」
「へえ、お越し」
「さっそくおくれんか」
「なにをだす?」
「二銭ほど……」
「品ものは?」
「くっしゃみのでるもんや」
「くっしゃみのでるもん? そんなもん、わしとこにおまへんで」
「あんねんがな。おもいだしいな」
「知りまへんがな」
「難儀やな。おまえ、火刑《ひあぶり》になった娘はん知ってるやろ?」
「知りまへんで」
「だれでも知ってんねんがな、東京がまだ、江戸いうた時分のことやで」
「そんな時分、生まれてまへんさかい、知りまへんな」
「ああ、難儀やな」
「あんたより、わしのほうが、よほど難儀だす」
「ちょっとおもいだしいな。それそれ、ホイ」
「なんだんね?」
「大伝馬町よりひきだされ、ホイ、さきには制札紙のぼり、ホイ、罪のしだいを書き立てて、ホイ、同心与力を供につれ、ホイ、はだか馬にと乗せられて、ホイ、いうのん二銭おくれ」
「そんなもん、わしとこにおまへんで。どこぞとまちごうてはんのとちがいますか?」
「あるねんがな、あるねんがな、ホイ」
「まだだすかいな」
「白いえりにて顔かくす、ホイ、みる影姿が人形町、ホイ、きょうでいのちが尾張町で、ホイ、ちゅうのん二銭……」
「そんなもんおまへんで、もし、ちょっとみてみなはれ。あんたが、そこで、しょうもないことやってなはるさかい、店の前、ぎょうさんのひとだかりや。もし、なんでもおまへんねん、このひと、品もの買いにきて、わすれて、こんなことやってはりまんねん。とまらんと通んなはれ、通んなはれ。あんたも、ほんまに、なに買いにおいなはってんな?」
「ホイ」
「まだかいな」
「いまドンドンとわたる橋、ホイ、悲し悲しの涙橋、ホイ、品川女郎衆も飛んででる、ホイ、ちゅうのん二銭……」
「いよいよおまへんわ。それみなはれ。だんだんひとがふえてくるがな。押したらいかん、押したらいかん。それっ、前の大根がひっくりかえったがな。あんたもなに買いにおいなはったんや? 早よおもいだしなはれ」
「ホイ」
「まだかいな」
「これよりかわると、天下の処刑場鈴が森じゃ。どうじゃ、どうじゃ」
「にぎやかなおかたやな」
「二丁四方は竹矢来《たけやらい》、ホイ、なかにも立ったる火柱の、ホイ……おい、八百屋、わいのいうてるのん、これなんや?」
「あんたのいうてなはるのんは、そら、からくりとちがいますか?」
「そうや。ようおもいだしてくれた。そのからくり二銭や……うん、ちがうがな。ちょっとおもいだし、それそれそれ……」
「もし、火鉢のふちをたたきなはんな。きずがつきまんがな」
「このからくりは、なんのからくりや?」
「そら、八百屋お七でっしゃろ」
「そうや。ちがいない。お七、二銭……と、まだちがうがな。そばまで行てるねんが……お七の色男は、なんやいうな?」
「そら、駒込吉祥院小姓の吉三とちがいますか?」
「小姓! そいつや、そいつや!」
「盗《ぬす》っ人《と》つかまえたようにいうてなはるな」
「おお暑っ、ようおもいだしてくれた」
「汗かいてなはるがな」
「胡椒の粉二銭おくれ」
「なんじゃな、胡椒の粉買いにおいなはったんかいな。びっくりしましたがな。ああ、えらいわるいことだっけどな、胡椒なら、二、三日前からきらしてまんねん」
「えっ、そら殺生や、殺生や。あれ、火のなかへくべたら、くっしゃみがでるか?」
「へえ、ずいぶんえぐい(ひどい)くっしゃみがでるて聞いてますがな……」
「ほな、それやがな。きれたら、ちゃんとしこんどかんかいな。きょう、わてが買いにくるのんきまったあるがな」
「そんなことわかりますかいな」
「なんぞ、ほかにくっしゃみのでるもんないか?」
「そうでんな。わたしら、胡椒の粉でやったことおまへんけど、子どもの時分に、居眠ってんのをびっくりさすのに、唐がらしくべたことおますが、唐がらしの粉にしなはったらどうです?」
「くっしゃみでるか?」
「へえ、ずいぶんえぐいくっしゃみがでます」
「ほな、唐がらしの粉二銭おくれ」
「妙な買いもんにくるひとやな。唐がらしの粉二銭やそこら買うのに、からくり一段やって、あんた、いまどきのひとやおまへんな。へえ、まけておまっせ」
「おおきに。ほな、二銭ここへおいとくで。どなたもごめんやす。もうしまいでやっせ……清やん」
「清やんやあらへんがな。おまえという男は、らちのあかん男やな。あかるいうちに行て、日がもう暮れてしまってるがな、なにしててん?」
「そないぽんぽんいいないな、わい、八百屋へ行て、胡椒をわすれたんや」
「鈍《どん》な男やな。あれだけいうて、目安まで教えてあるのに……」
「おもいだしたが、おもいだす合間《あいま》が、たいていのことかいな」
「どないしたんや?」
「ホイ、大伝馬町よりひきだされ、ホイ」
「おまえ、そんなあほなことやったんかい?」
「一段やってん」
「八百屋のおやっさん笑うてたやろ?」
「いや、ほめてたで」
「ほう、ほめてたか」
「うん、『あんた、いまどきのおかたやない』と……」
「そら、ほめてるのやないがな。それやったら、笑われてんねんがな。胡椒の粉はあったんか?」
「ないねん」
「なかったらあかん」
「そのかわり、『唐がらしの粉にしなはれ。ずいぶんえぐいくっしゃみがでますさかい』というたんで、唐がらしの粉を買うてきた」
「そうか。わしら、唐がらしの粉でやったことはないけど、きけば結構や。講釈小屋はな、どこの柱は、どこの旦那、どこの壁は、どこそこのご隠居と、ちゃんと場所がきまったあるねん。早よ行て、前へ行かな、なんにもならへんがな。早よでといで」
怒られながらやってまいりました講釈小屋、なんとのう陰気《いんき》なところで、
「さ、おはいり」
「ふたりやで」
「へえ、いらっしゃい」
「それみてみ、おまえ、くるのがおそいさかい、もう、みな、きてはるがな。三の宮はんに芦屋《あしや》はんに梅田はんに吹田《すいた》はんに茨木はん……」
「なんや国鉄の駅みたいなひとばっかりやな」
「前へ行き」
「へい、どなたもごめんやす。ごめんやす」
「おいおい、おさまって坐ってんねやあらへんがな。かんじんのもん、もらいんかいな」
「かんじんのもんてなんや?」
「火鉢もらいんかいな」
「それ、ころっとわすれてんねん。ねえはん! ねえはん!」
「どこから声だすねん」
「火鉢持ってきてんか。火ぎょうさんいれてな、唐がらしを……」
「よけいなこというな」
「おおきにはばかりさん」
「これ、なにしてんねんな。いまからくべてどうするねん。まだ講釈師はでてえへんがな。ちょっと待ちんか。そばのひとにさとられたらいかんさかいに……そら、なにするねん、そっちからあおいでどうするねん。それでは、わしが、それでは、わしが……、ハア……ハア……ハックション!」
「あははは、これなら唐がらしでも大丈夫や」
「これ、わしでためしたらあかんがな」
そうこうするあいだにでてまいりましたのが講釈師で、たいそうおさまりかえっております。
「えへん、お早くからおつめかけくださりまして、ありがたきしあわせにござります。毎夜読みあげまするは、どこの島々、谷々、津々浦々へまいりましても、おんなじみ深きところの慶元両度は難波戦記のおはなし。ころは慶長の十九年も相改まり、あくれば元和元年五月七日の儀に候かな。大阪城中千畳御上段の間には、内大臣秀頼公、御《おん》左側には、御母公淀君をはじめとして、介添《かいぞえ》として、大野道犬主馬修理之助、軍師には、真田左衛門尉海野幸村《さなださえもんのじよううんのゆきむら》、せがれ大助|幸昌《ゆきまさ》、四天王の銘々《めいめい》には、木村長門守重成、長曾我部《ちようそかべ》宮内少輔秦元親、薄田隼人正兼相《すすきだはやとのしようかねすけ》、後藤又兵衛|基次《もとつぐ》、まった七手組番頭には、伊東丹後守長実、青木民部少輔一重、早水甲斐守時雪、野々村伊予守雅春、堀田図書之助|勝嘉《かつよし》、中島式部少輔氏種、貞野豊後守|頼包《よりつね》、いずれも持口持口を手配ったりしが、いまやおそしと相待ったるところへ、関東方の総勢五万三千余騎、辰の一天より城中めがけて、押しよせたりしが、なかにも先手の大将その日のいでたちみてあれば、黒革おどしの大鎧《おおよろい》に、白檀《びやくだん》みがきの籠手臑当《こてすねあて》、鹿の角の前打ったる五枚しころのかぶとを猪首に着なし、駒は名にしおう荒鹿毛と名づけたる名馬には、金覆輪《きんぷくりん》の鞍をかけ、ゆらりがっしと打ちまたがり、駒のおもてには……」
「おいおい、喜いやん、講釈を聞いてんと、かんじんの仕事をしんか」
「そうやそうや、それわすれてんねん」
唐がらしの粉を火鉢へくべますと、その煙りが鼻のさきへもやもやときましたさかい、講釈師はたまりません。
「三十八貫目三十八粒打ったる金采棒を軽々とひっさげ、黒白二段の手綱かいたぐり、あた……か……も……ハア……ハクション、ハクション……これは、お客さん、まことに失敬をいたしました。やつがれ(わたくし)もうたた寝をいたして、かぜをひいたと相みえます。もう大丈夫、えへん……あたかも砂煙りを立て、ハイヨー、とうとうとう……ハクション、ハクション、これは、しばしば失敬をいたします。お客さんがたも気をおつけにならんと、このごろは、かぜをひくと、しつこうてなおりにくい」
「ええかげんなことをいうてようで。これから、くっしゃみがでるたびに、てれかくしする顔が、だんだんおもしろなってきよるで」
「ハイヨー、とうとうとう、と押しよせたりしが、大手の門前に突っ立ちあがり、天地も破るる大音声《だいおんじよう》、やあやあ、遠からん者は音にも聞け……ハア……ハクション、ハクション……近くば寄って目にもみよ、われこそは、駿遠参三ヵ国において、さる者ありと知られたる、本多平八郎忠勝が一子、同名忠知とはわがことなり。われとおもわん者は出《い》できたって、功名手柄をあらわせよ……ハクション、ハクション……声高ん高んに呼ばわったりしが……ハクション、ハクション……このさい城中にて、やあにっくき敵のふるまいかな……ハクション、ハクション、ハクション……大手の門を……ハクション、八文字に押しひらき……ハクション、ハクション……なぜ今夜は、このようにくっしゃみがでるのであろうか。こうくっしゃみがでては、とても講釈はやれん。お客さん、まことにあいすみませんが、半札《はんふだ》をとおもいますが、全札《まるふだ》をさしあげまするで、今晩のところは、どうかおゆるしをねがいます。ハクション、ハクション……」
客は、みな、気の毒なというので、ぞろぞろ帰ります。
「喜いやん、さ、ここでいうたれ。こら、講釈師、貝じゃくし、おたまじゃくし、われは、おかゆもすくえぬおたまじゃくしやな。われのくっしゃみを聞きにきたんやないわい。講釈を聞きにきたんじゃぞ。おかげで、前にいるもんは、つばと痰《たん》で、着物がずるずるじゃ。こんなん食うとけ。ハアープーッ。おい、喜いやん、いうたりんか」
「いうたる、いうたる。こら、おい、なんじゃい、ほんまに、てなもんやないか、ないか……」
「なにいうてるねん」
「わいは、いそぐと、ものがいいにくいねん……こんなん食べ、スーッと……」
「早よでとおいで」
「おけら毛虫げじげじに、蚊にぼうふらせみ蛙、とんぼ、蝶々にきりぎりす、ぶんぶの背なかでピーカピカ」
「おい、喜いやん、そんなけったいな唄歌いないな」
「あいや、そこへお越しのおふたりさん、ほかのお客さんは、わたしの苦しむのをみて、だまってお帰りくださったが、あんたがたふたりは、なんぞわたしに故障《こしよう》(反対意見)があるのですか?」
「いや、胡椒がないので、唐がらしくべた」
景 清
これで、目のわるいというのは不自由なもんでございますが、おなじく目のわるいおかたでも、生まれつきのおかたと、中年からのおかたとでは、杖をついてあるく、そのあるきかたのひとつが、ちがうのやそうでんな……中年からのおかたは、犬がどういうもんで、馬がどういうもんか、心得てますさかい、どうしても、杖が前へでて、からだが、うしろへのけぞるようになる……生まれつきのおかたは、こわいもの知らずですさかい、杖が手もとへきまして、からだが前かがみになんのやそうでございます……ここに、京都に住む定次郎という男、木彫師《きぼりし》として、たいそうええ腕を持っておりますが、お若いお職人さんにありがちな、酒と女《おなご》はんがすぎまして、両眼が、そこひでつぶれてしまいました。この男、いたって大胆なやつで、杖をかついで、歌を唄ってあるいております。
「 あいた眼でみて気をもむよりも、いっそめくらがましであろ……」
「おいおい、そこへ行くのは定次郎やないか。なんちゅうかっこうしてあるいてよるねん……おい、定次郎!」
「あっ、そういう声は、甚兵衛はんでっか。いや、わたい、あんたとこへ行ことおもうて……」
「うちなら、とうに通り越してるがな」
「そら、ようわかってましたんやけどなあ、歌の区切りがわるいさかい……」
「強情やなあ……まあ、こっちへはいり。おいおい、右へ寄ると柱があるさかい、もうちょっと左へ寄り、左へ……右へ寄ると、柱であたま打つで……おい、左へ寄り」
「あっ、いた……」
「それみい。あたま打ったやないか」
「いや、あたま打ったんとちがいまんがな。あたまで、さぐりをいれたんでんがな」
「負けおしみの強い男やで……まあ、あがり。さ、座ぶとんを敷き……目のほうは、どうや?」
「へえ、おかげさんで、ぼちぼち……」
「ええのか?」
「いや、わるうなるんで……」
「わるいちゅうのに、おかげさんで、ぼちぼちいうやつあらへんがな……いま、おかあはんがきて、さめざめと泣いてたで。年寄りいうもんは、そう心配さしてやるもんやないがな……なんじゃ、おまえ、このごろ、やけ起こしてるそうやないか」
「さいな。もう、目はみえんようになるわ、ちいとは、やけにもなりまっしゃろ」
「ひとごとみたいにいうてんのやないがな。おまえ、このあいだから、柳谷《やなぎだに》の観音さんへ、おこもりしてたそうやないか?」
「へえ、三七、二十一日のあいだ、おこもりしました」
「ご利益はどうやねん?」
「へえ、十日ほどたつと、お日さんが、ぱあと照ったりすると、障子の桟《さん》やなんかが、うっすらとみえるようになってきましたんや」
「ほう、そら、よろしいわ」
「わたいも、こら、ご利益やなあとおもてましたんや……で、昼間は、ひとが、ぎょうさんおまいりして、気が散りますさかい、夜ふけてから、お通夜《つや》さしてもらうことにしました」
「うん、そら、ええわ」
「ちょうど、三七、二十一日の満願の日だすがな、わたいが、本堂の前で、観世音、南無仏、与仏有因、与仏有縁……と、いっしょうけんめい拝んでましたらな、わたいの近くで、南無仏、与仏有因……」
「なんや、その黄色い声は?」
「ええ、若い女の声がしまんのや……はてな、この夜ふけに、若い女のみそらで、こんなとこへくるとは? ……ははーん、きつねか、たぬきやな……よっしゃ、ほな、生けどりにしたろ……と、おもたもんでっさかいな、『あのう、もし、そこにいてはるねえさん』と、こっちから、声、かけたった……『はい』『この夜ふけに、ご信心なこってんな。どんなおねがいごとで、おまいりしてなはんねん?』『両眼がわるうて難渋いたしとります……二た月ほど前からのにわかめくらで……』『ほう、よう似たはなしもあるもんやなあ。わたいも、にわかめくらで、このあいだから、ここへおこもりさしてもろてまんねん。大事なかったら、こっちへおいなはれな。いっしょにおまいりさしてもらおやおまへんか』『へえ、そんなら、そうさしてもらいます。兄さんは、どこに、いてでおます?』『ああ、ここや、ここや』と、手たたいてやると、その音たよりに、こっちへ寄ってきよったさかい、そこを、ぐっと手をにぎった」
「そら、なにすんねん」
「なにすんねんいうたかて、人間か、たぬきか、しらべとかないかんやないか」
「そんなこと、おまえにわかるか?」
「ああ、わからいでかいな。人間やったら、指が五本おまんのや。たぬきやったら、まんまるこうて、毛だらけやないか」
「ふーん……どうやった?」
「それが、すべすべして、ぽちゃぽちゃっとした、女の手、うわあ!」
「なんちゅう声だすねん」
「それから、ふたり掛けあいで、拝みましたわ……観世音、南無仏……与仏有因、与仏有縁……仏法僧縁、浄楽我浄……」
「にぎやかやなあ」
「『あんた、うち、どこだんねん?』『寺町どす』『わたいも寺町や。おんなじとこに住んでんねやがな。目があいてたら、一ぺんや二へん、顔あわしたこともあるねやろけど、めくらいうもんは、不自由なもんでんなあ』……いうなり、指を一本、ぐうっとにぎってやった。女、だまってまんのや。二本にぎってもなんにもいわんわ。三本、四本、五本、六本……」
「あつかましいやっちゃなあ。両手をにぎりよって……」
「いえ、片っぽでっせ」
「片っぽに六本も指があるかいな」
「それが、温《ぬく》もりで増えた」
「そんな、あほな!」
「『どうや、どこぞで一ぱい飲もか?』『ええ』『よっしゃ、おいで』……それから、料理屋へ行て、てんぷら、車えびの鬼がら焼き、いかの鹿の子焼き、たまごの巻き焼き……ぎょうさん料理ならべて、一ぱい飲んだがな」
「おまえ、よう、そんな金持ってたな」
「持ってるかいな」
「ほな、どないしたんや?」
「いきしなに、賽銭箱《さいせんばこ》ぶっちゃかえしたんだす」
「そら、なんちゅうことをするんや。信心にもなんにもならんがな」
「へえ、それから、もう、うずいて、うずいて……」
「はあ、そら、罰があたったんや……で、これからさき、どないするつもりや?」
「しようおまへんさかい、いっそ、あんまにでもなろとおもて……」
「ふん、そら、わるい思案でもないが、おまえ、木彫師《きぼりし》で、一というて、二とくだらんええ腕を持ってるのに、惜しいやないか? 信心しなおして、両眼あけてもらおという気はないか?」
「そういうたかて、もう、柳谷へ行かれへんがな」
「ほなら、清水の観音さんへ行きいな。あの観音さんは、目には霊験あらたかやで……というのはな、そのむかし、平家のさむらい大将で、悪七兵衛景清ちゅうひとが、両眼があると、どうしても源頼朝を仇としてつけねらわねばならんちゅうて、われとわが手で両眼をくりぬいて、お山へ奉納したちゅうゆかりがあるさかい、そこで、眼には霊験あらたかやというんや。ぎょうさんおまいりがあるで……そうやなあ、おこもりもええけど、また、まちがいを起こしたらいかんさかい、百日なら百日ときめて、日まいりをしなはれ。もし、いかなんだら、二百日や、それでもいかなんだら三百日や。ええか? まあ、一心こめておまいりしたら、かならずご利益があるさかいな」
「……けどなあ……わたい、やめとくわ」
「なんでや?」
「そうかて……もしも観音さんが寄り合いでもひらいたときに、柳谷の観音さんから清水の観音さんに、わたいの前科をはなされたら、もう、わや(だめ)やがな」
「そんなあほなことがあるかい……ええから、おまいりしなはれ」
「へえ、そんなら、そうしまひょ」
さあ、そのあけの日(翌日)から、雨の日も風の日も、一日として欠《か》かしたことがございまへん。早いもので、きょうが、百日の満願でございます。
「あーあ、早いもんやなあ。きょうで百日の満願か……この坂ものぼりじまいや。早よ行て、観音さんに眼あけてもろうてこう……おお、こら、えらいぎょうさんなおまいりやなあ……あ、月の十八日、観音さんのご命日か……ふーん、観音さんのご命日が、百日の満願やなんて、こら、てっきり、眼あけてくれはるで……早よ行て、あけてもろうてこう…… 天津風や、音羽の滝の清水を……」
定次郎、坂をのぼりつめますと、うがい、手水《ちようず》もねんごろにいたしまして、
「へえ、観音さん、定次郎でございます。きょうで百日の満願になっとりますんので、どうぞ、ご利益で、両眼をあけてくださるよう……ただいま、お賽銭をあげますさかい……延命十句観音経。観世音南無仏、与仏有因、与仏有縁、仏法僧縁、常楽我浄、朝念観世音、暮念観世音、念念従心起、念念不離心。南無楊柳観世音様、なにとぞ、ご利益をもちまして、定次郎に両眼おさずけくださるよう……へえ、おねがいいたします……おねがいいたします……こら、どうなったるねん? 口はあくけど、眼があかんがな。観音さん、おわすれやおまへんかいなあ、定次郎でおまんねん。きょうは、百日の満願になっておりますねけど……ほな、もういっぺん……こんどは、ひい、ふうのみっつ……手拍子を打ちまっさかいな……その拍子に、ぱっとあけてくだはるようにおたの申します……延命、十句観音経。観世音南無仏、与仏有因、与仏有縁、仏法僧縁、浄楽我浄、朝念観世音、暮念観世音、念念従心起、念念不離心……どうぞ、両眼をあけてくださいますよう、ひい、ふうのみっつ……ひい、ふうのみっつ……あかんがな……こらっ、観公! 観的《かんてき》! 観じるし! おのれ、なにかっ、わいの眼ひとつ、ようあけさらさんのか! ようあけんもんなら、なんではじめに、それをいわんのじゃ。いまごろんなって、ようあけんとは、殺生やないか! わいはなあ、百日のあいだ、一日も、賽銭をとどこらしたことないのんじゃい。おのれ、観公、賽銭盗っ人! あっ、いたいっ。こらっ、どこのがきや。めくら、なぐりやがって……」
「わしや」
「え?」
「定次郎、わしや」
「なんや、そういう声は、甚兵衛はんでっか……なんで、わたいのどたま(あたま)を?」
「あたりまえやないか。これがだまってみてられるかえ。まるで、きちがいや……早よ帰ろ、早よ帰ろ」
「そんなもん、帰れるかい……帰られへんわい……」
「これっ、泣かんかてええがな」
「そやかて……きょう、でしなに、母者人《ははじやびと》が……『定次郎よ、きょうは、満願の日やさかい、帰るときは、着物の縞柄《しまがら》だけでもみえるようになってもどってきとくれ。赤飯|炊《た》いて待ってるで』……いうてました……わたい、どのつらさげて、また、杖ついてもどれますかいな……わたい、もう、死にまんねん」
「死ぬ?!」
「死んだるわい。ああ、観音さんへ、つら当てに死んだる。わたいが死んだら、母者人かて生きてしまへん。ひとりならいで、ふたりまでもの人殺しは、ここの観公や!」
「これこれっ、そんなあほなこと、いうもんやないで……そやさかい、わしが、いうてるやないか。百日でいかなんだら二百日、二百日でいかなんだら……」
「あんたは、ひとごとやさかい、そんな気楽なこと、いうてられんのや。けどなあ、ちいとは、わたいの身にもなってみなはれ。うちはなあ、百日はさておいて……母者人が、どないして世帯してやってるとおもてなはるねん」
「いや、そのことについてじゃが……よっしゃ、わしも乗りかかった舟じゃ。うちの二階があいてるさかいな、おまえと母者人をうちへひきとろうやないか。これからさき、おまえの眼が、一年かかるか、二年かかるか知らんけどなあ、眼のあくまで、わしが、世話しようやないか」
「あんた……親切なおかたやなあ」
「泣かんかてよろしいがな」
「……あんたのその親切が、この観公に半分でもあったら……」
「そんなぐちなことをいうのやないがな。さあ、早よ行こ」
「へえ……こらっ、観公! おぼえとれ!」
「いらんこというのやない。早よ行こ」
「へえ、おおきにありがとう」
ふたりが帰ろうといたしますと、いままで晴れわたっていた空が、一天にわかにかきくもり、細びきのような雨がザアーッ……かみなりが、ガラガラガラガラッ……あまたの参詣人は、蜂の子を散らすがごとく逃げ帰りまして、甚兵衛さんも、大のかみなりぎらいでございますので、ひとの身よりもわが身が大事と、定次郎をほっといて、一目散《いちもくさん》……仏罰をこうむりましたか、定次郎は、竜巻《たつま》きに巻きこまれて、宙天高く舞いあがって、そのままドシーン……
「うーん」
気絶しておりましたが、丑満《うしみつ》ごろ……つめたい夜風に吹かれて、息を吹きかえしよった。
「おお寒む……雨、あがったんやなあ。ほんまにえらいかみなりやったなあ……甚兵衛はん、甚兵衛はん……あれっ、いてへんのか……そうや、甚兵衛はんは、かみなりきらいやったなあ……ふーん、あたりがしーんとしたるがな。もう、夜なかになってんのかいな……ああ、ここに杖があるわ。もう、こうなったらやけくそや。行けるとこまで行てこましたれ」
定次郎が、杖をたよりに帰ろうといたしますと……正面のお扉《とびら》が、ギイーッと開きまして、たちこめる紫雲にお乗りになった清水の観音さまが、こなたをさして、おでましでございます。
「善哉《ぜんざい》、善哉」
「やあ、甚兵衛はんでっか。どこへ行ってなはんねん? ……こんなとこに、ぜんざいてなもんおまっかいな」
「われは、甚兵衛にあらず、楊柳観世音なるぞ」
「えっ、観音さん?! ……こうなったら、観音さんと直応対《じきおうたい》や。なあ、観音さん、わたいの眼は、なおるんでっか? それとも……」
「いや、なんじ、悪心強きがゆえになおらぬ」
「えっ、そんな殺生な……」
「なれども、なんじの母、われを念ずることひさし。母にめんじて、両眼を貸しあたえん」
「おおきに、おおきに……けど、なんでっか、観音さん、あんた、そんな、貸すような眼、たんと持ってなはんのか?」
「いや、たんと持ってはおらんけれども、そのむかし、悪七兵衛景清と申すもの、われとわが手に両眼くりぬき、当山へ奉納なせしその眼あり。それを、なんじに貸しあたえん」
「ほう、景清の眼……そら、甚兵衛はんからも聞いてまんねん……そやけど、そんなむかしの眼、かちかちになってしまへんやろか」
「それゆえ、二、三日まえより、塩水に漬けておいたり」
「数の子やがな、まるで……まあ、よろしゅうおねがい申します」
「ゆめゆめうたごうことなかれ。観音経をとなえよ……善哉、善哉」
「へえ、おおきに、おおきに……ああ、もう、はいってしまいはったんやな……そんなら、観音経をとなえさしてもらいます……延命十句観音経、観世音南無仏、与仏有因、与仏有縁、仏法僧縁……観世音南無仏、与仏有因、与仏有縁……あっ、眼あいた! 眼あいた! 眼あいた! ……これ、わたいの手やがな。この手にも、ながいこと、お目にかからなんだ。やあ、ごきげんさん……指もかわりないがな……一本、二本、三本、四本、五本、六本、七本、八本、九本……やあ、指が一本、足らんがな。一本、二本、三本、四本、五本、六本、七本、八本、九本……まだ、足らんがな……一本、二本、三本、四本、五本、六本、七本、八本、九本、十本……ああ、あった、あった……おお、ようみえる眼やなあ。あんなとこにありがあるいてるのが、ようみえるわ。むかしもんは、眼の玉の性《しよう》がええねんなあ」
その晩は、お山でお通夜をいたしまして、あけの朝、杖を奉納して、わが家へさして、よろこび勇んで帰ってまいります。
「ああ、早よ帰って、母者人をよろこばしてやらないかん……うん、景清の眼もろただけに、からだの力がめきめきしてきたで。いっぺん四股《しこ》踏んだろか。よいしょっ、よいしょっ……おお、土が三寸もめりこんだがな」
坂をくだってまいりますと、いずれのお大名か、清水寺へご仏参とみえまして、供ぞろえもりりしくすすんでまいります。
「ひかえい。ひかえおろう」
京都は、王城の地でございますから、「下にい、下にい」とは申しません。
「なんじゃ? 殿さんの行列かいな……なんや、そんなもん、いままでの定次郎なら、すぐ土下座したけど、景清の眼もろたんねん。あほらしゅうて、ひかえられるかい」
「ひかえい、ひかえおろう」
「ひかえられるかい」
「ひかえい!」
と、おさえにきたやつを、
「なにを!」
と、いきなり肩にかついで、ドーンと投《ほ》うった。
「やあ、狼藉者《ろうぜきもの》でござる。かたがた、お出合いめされい」
ばらばらばらっと、四方八方、とりかこまれました。右からくるやつを左へ投げた。左からきたのを右へ投《ほ》った。前からきたやつを、「えいっ」とばかり、上へ投《ほ》りあげましたが、えらい力になったもんで……最初、投りあげられたやつが、雲であたま打って、とんぼ切って落ちてきよる。つぎに投りあげられたやつと、途中ですれちがって……
「やあ、貴公はおのぼりでござるか。身どもは、くだりでござる。いずれ後刻……」
のんきなことをいうております。
定次郎は、殿さまのお駕籠《かご》の棒鼻《ぼうばな》へ片手をかけまして、
「乗りもの、待った」
「狼藉者、名を名乗れ」
「わが名聞きたくば、いっても聞かさん。耳かっぽじって、よっくうけたまわれ。すぎし源平のたたかいに、あえなく散りし平家の一門。われに両眼あるときは、頼朝を仇とつけねらう、われに両眼なくば、だれを仇とねらおうや。われとわが手に両眼くり抜き、当音羽山へ奉納せり。いま、われ、祈願によりて、両眼さずかる上からは、すがたかたちはかわれども、とりもなおさず平家の一門、悪七兵衛景清なり。おのれらごときに、下におろうないわれやあらん。なにを小しゃくなあ」
いわれましたが、さすがはお殿さん、すこしもあわてず、
「乗りもの、停《た》てい」
「ははーっ」
お駕籠の引き戸をすーっとあけて、お殿さん、
「こりゃ、不憫《ふびん》なやつ。そちゃ、気がちごうたな」
「いいえ、眼がちがいましたんやがな」
箒屋娘
これで、ご大家《たいけ》では、たまたまお子さんができますと、病身でございまして、お医者さんと首っぴき……無事に育ってくれたらなあ……と、おもいますと、年ごろになって、おやじの金を湯水のようにつかう道楽むすこができあがります。また、ご近所で、
「お宅の若旦那さまは、おとなしくて結構でございます」
と、ほめられるようだと、一年じゅう青い顔してなさる。まあ、どちらにいたしましても、親御さんは、楽はできんもので……
「ええ、若旦那、ここをあけましてもよろしゅうございますかいな?」
「どなた? ……おお、番頭はん、どうぞおはいり」
「へえ、ごめん。ごきげんよろしゅうございます。ごぶさたいたしております。ついお店がいそがしいものですさかい、えらい申しわけがございません」
「いや……ごきげんよろしゅう……へえ、わたしも達者でおります。あんたも達者で、なにより結構で」
「へえ……して、若旦那、なにをしてござるので?」
「あまり退屈なので、本を読んでおります」
「へえ……本はお好きでござりますなあ。いつうかがいましても、本を読んでござるようで、本をお読みになると、なんぞになりますか?」
「こら、番頭はんにも似合わんことをおっしゃる、人間、本を読むのがくすりのようで、俗に、歌人は、いながらにして名所を知る。ついては、仁義五常の道がわかります」
「へえ……仁義五常と申しますと?」
「まず、親には孝、主には忠、朋友《ほうゆう》には信」
「なるほど、そういうことがみんなわかりますんで?」
「さよう」
「へえ……よう申しますなあ。むかしから、『論語読みの論語知らず』となあ」
「これは、番頭はん、おかしいことをおっしゃる。『論語読みの論語知らず』というと、わたしが、親不孝なことでもしているとおっしゃるのか?」
「親不孝なことでも? ……でもというのは、おかしいやおまへんか。若旦那、あんたはん、親不孝やおまへんか? わたしは、丁稚《こども》の時分から、矢立てとそろばんとで大きゅうなりました商人《あきんど》で、学問というものは存じまへんが、まあ、無学の者がかんがえますのには、親に心配かけるのが、いちばんの親不孝かとおもいます」
「さよう……父母いますときには、遠くあそばず……」
「そらまあ、あそんでも、あそばいでも、どうでもよろしゅうございますが、あんたはん、親御に心配かけてやおまへんか?」
「こりゃおかしいことをおっしゃる。わたしからいうと、よそのむすこさんのように、外出《そとで》ひとつするのでなし、朝から晩まで座敷に坐ったきり……」
「へえ……そうだす。へえ、でません。でなはらしまへん。あんまりでかけすぎんのとちがいますか?」
「え?」
「ちょっとそとへおでましになったらどうです? 親旦那や奥さまが、明けても暮れてもそればっかりご心配でございますがな。『番頭はん、せがれは、朝から晩まで座敷に坐ったきりじゃが、からだでもわるくならせんじゃろうか? 病気にでもかかりやせんか?』……それのみご心配でござります。だいぶ前のことでございましたなあ。わたしから、それとなく申しました。『若旦那、ちょっと世間をごらんなるほうがよろしゅうございます』と申しましたら、なるほど、世間をごらんになりましたそうで……物干《ものほ》しから下をごらんになって、あのとき、なんとかおっしゃったそうですなあ。『ああ、なるほど、世間も広い』と……あほらしいて、ものがいえませんがなあ。物干しから世間をみて、広いとおっしゃるかたが、どこにございますかいな。親不孝やござりませんか? なあ、ちょっとそとへおでかけあそばせ。あそびにでなされ」
「あははは、これは申しわけない。わたしは、そとへでなんだら、おとうさんやおかあさんが安心してくださるものとおもうてました。これからは、せいぜい心がけて、そとへでるようにします」
「こんどからやおまへん。いまからおでかけあそばせ」
「いまいうて、いますぐとは……」
「いますぐでもよろしいやおまへんか? 親孝行は、いつからせんならんという日はきまったらしまへん。いまからおでかけあそばせ。さいわい、きょうは卯《う》の日でもございますがな。住吉さんへご参詣しなはれ。すぐしたくをして……おいおい、亀吉」
「へえ、お呼びで?」
「若旦那が、これから住吉さんへご参詣になる。おまえ、そのお供じゃ」
「ひゃあ、うちの因循者《いんじゆん》(ぐずぐず煮えきらぬ者)が、いよいよでるのか」
「これ、なんということをいうんじゃ。いま、魚勝へ重詰《じゆうづ》めをいうてやるでな、お弁当を持ってお供をしていきなされ。それからな、財布のなかに、こまかいもの、とりまぜて、百両いれておくさかい、それを一文ものこさず、みな、つこうてこい。ええか? 一文ものこすな。一文でものこしたら、ひまをだすぞ」
「えっ、ひまをだす? 番頭はん、わたい、かんにんしとくなはれ。たれぞ、ほかのもん、やっておくなはれなあ。わたい、そら、一両や二両やったら、なんとかつこうてきますけど、百両てなお金持ったこともあらしまへんがな。どなたかほかのひとに……」
「そんなこといわんと、いってくれ。たのむ。ほかのひというたかて、お供するものがないやないか。ご当家に、七、八十人も奉公人はいるが、若旦那のお顔を存じあげてるのは、おまえとわたしとふたりだけや。そのかわり、このお供を無事につとめたら、親旦那におねがいをして、こんどの藪入《やぶい》り、特別に十日間もろてやる。そのかわり、一文でものこして帰ってきたら、すぐにひまをだすぞ」
「そんな……殺生や……かんにんしておくんなはれなあ……番頭はーん」
「ちょっとお夏さん、お夏さん、若旦那が、おでかけですと……」
「へえ、あたいも、いま聞きましたんだすけどなあ、ご当家に若旦那がおいでになるといううわさは聞いてましたけど、まだお目にかかったことはございませんので……」
「そりゃ、あなた、無理ですわ。あなた、まだ三年しかならしまへんわ。わたし、七年になりますけれど、拝んだこともないんやし……お松さんは?」
「存じません」
「お梅さんは?」
「わたしも存じません」
「お竹さんは?」
「わたしも存じませんわ」
「ここにおいでのかた、どなたもご存じやござりませんの?」
「ええ、だれも知ってるかたはございませんわ……若旦那のお顔をご存じのかたは、賄《まかな》いのおばあさんだけですと……」
「まあ、いややわ。あんなきたないおばあさんのくせに、若旦那を拝んで、よう目がつぶれまへなんだなあ。いつ拝んでしたのう?」
「なんでも若旦那のお宮まいりのときに、ちらりっと拝んだんですと……あとは、たいてい六十一年めに……」
「そんなまあ、箒星《ほうきぼし》みたいに……」
そのうちに、若旦那がおでかけと申しますので、片方《かたかた》には女中どもがずらりっとならんでおります。片方には、男どもがならびます。
「へえ、おでかけ」
「へえ、おでかけ」
「へえ、おでまし」
「へえ、おでまし」
「へえ、おでまし」
「はいはい、はい、はい……番頭はん、番頭はん、これ、みな、どこのおかたや?」
「若旦那、そんな心ぼそいこというてもろたらこまりますがな。こら、みな、お店《たな》の奉公人でございますがな」
「ふーん、こんなにたくさんいやはるのか? ……みな、これ、なにしてはるのや?」
「そんな、あほなことをおっしゃるな」
「どなたも失礼して、前を通らしていただきます」
「そんな遠慮せずと、ずーっとお通りなされ。これ、亀吉、さあ、お供していくのやぞ」
「へえ、へえ、お弁当をしょわしておくんなはれ。おつゆのでるもんはおまへんやろなあ。へえ、大丈夫だす、くくりましたで……」
「さあ、この財布のなかに百両いれたるぞ。みな、つこうてくるのやぞ。ええか、藪入り十日やぞ。一文のこしてもひまだすで」
「へえ、それが、いちばんつらいのや。もうすこしまかりまへんか? せめて五両ぐらいにしておくなはれ」
「なんじゃい、百両ぐらいの金を……それからな、帰るときに、まっすぐにうちへ帰るのやないぞ」
「どないになりますのや?」
「帰りには、難波新地でも、北の新地でも、どこへでも行《い》てあそんでこい。大きな料理屋さんかお茶屋さんへあがってな、芸者を総あげにして、どんちゃかさわぎをしておいで。いいか、むこうへ行たら、すぐにうちへつかいをよこせ。千両箱三つ持ってむかえにいってやるからなあ。うちからむかえにいくまで、帰ることはならんぞ」
「わたい、やっぱりかんにんしてくなはれ、なあ、番頭はん、もうあやまるわ」
「へえー、おでまし」
一同の声におくられまして、若旦那、ぶらりとおでかけになります。ただいまとちがいまして、乗りものの極《ご》く不自由なころでございます。船場をあとに、島の内をすぎ、難波を越して、住吉街道へかかりますと、天気はよし、卯の日でもございますので、参詣|下向《げこう》のひとでにぎやかなことで……
「若旦那、若旦那、早うあるきなはらんかいなあ。じっと立ってなはったら、あかしまへんがなあ。住吉さん、むこうからきてくれやしまへんで。さあ、早ういきまひょいなあ」
「そうかて、亀吉、ぎょうさんのひとやがなあ。こっちのひとが、むこうへいききってしまうか、むこうからくるひとが、全部きてしまはな、あるかれへんがなあ」
「そら、あきまへんわ。一日立ってたかて、ひとがきれやしまへんわ。こりゃ、えらいひとのお供をしてきたなあ。あるきはじめやさかい、無理はないけどもなあ。若旦那、ほなら、わたいが、さきへあるきますさかい、わたいのあとから、ついておいなはれや」
「どうぞ、旦那《だん》さん、かわいそうなすずめ、逃がしてやっておくんなはれな、旦那さん。かわいそうなすずめを逃がしてやっておくんなはれな」
「ああ、乞食さん、乞食さん、ちょっと、ちょっと、こっちへおいで、そのすずめ、みな逃がしてやる。なんぼや? よしよし、みなで二|歩《ぶ》やるぞ。若旦那、ちょっとみていなはれや。すずめをな、あっ、逃げよる、逃げよる。みてみなはれ、うれしそうに逃げよるわ。やっと金がすこうしへったぞ。さあ、いきまひょうか」
「右や左の旦那さん、どうぞ、あわれな乞食に一文おめぐみ……」
「旦那はん、一文いただかして……」
「難儀なめくらで、どうぞ一文やっとくなはれ」
「おい、おい、乞食さん、乞食さん、お金あげるさかいに、みんな、こっちへあつまれ、あつまれ。一文、二文はやらんわ。ひとりに一朱ずつやるわ。そのかわり、とんぼがえりしてみ、とんぼきってみ。ひとつきったら一朱や。ふたつで二朱や。わかったか? そら、かえれ。うまいなあ。さあ、一朱やるぞ。さあ、おまえか、そら、かえりよった。そちらもかえれ。やあ、うまいことかえりよった。そら、かえれ。うまい、うまい、うまい、かえりよる、かえりよる。あいつ、あつかましいやつや。つづけて三つもかえりやがるのや。さ、これやるからな、あの、みんなでわけといて……」
「これ、亀吉、おまえ、そないにぎょうさん、お金、どないしたんや?」
「へえ、これは、ほっといとくなはれ。わたい、もう、おひまが、でるかでんかの瀬戸ぎわだすのやもう……さあさ、早ういきまひょ、早ういきまひょ……ありがたい、ありがたい、だいぶ財布の金がへってきよった。へえ、若旦那、早ういきまひょ」
天下茶屋を通りすぎまして、住吉近く、新家《しんや》へまいりますと、茶店がたくさんならんでおりまして、赤い前かけをしたねえさんたちが、さかんにお客を呼びこんでおります。
「まあ、どなたも、やすんでおいでやす」
「寄っといでやす。どうぞ一服しておいでやす」
「こちらのほうが、見晴しがよろしゅうございます。どなたも、まあ、おかけやす」
「まあ、おかけやす。いろいろのものができますえ」
「若旦那、若旦那、どこぞへはいってやすんでいきまひょいなあ」
「そんなこというたかて、亀吉、みてみい、あっちでもこっちでも呼んでおいでになるやないか。どこへはいっても義理がわるいやないか」
「そんなあほなことをいいなはんなあ。義理立てをして、いちいち茶店へやすんでるひとがおますかいな。そんなら、わたいがさきへはいります。ねえはん、ごめん……」
「おいでやす。ありがとう存じます。こちらのほうがよろしゅうございます。どうぞ、こちらへおかけやす……ちょっと、お梅はん、みてみなはれ。まあ、きれいな若旦那やないか。役者はんみたいな顔してはるやないか」
「ちょっと、ねえはん、わたいの背なかの荷いとってえな。ああ、お弁当や。おつゆのでるものはあらへんさかい、大丈夫や……ああ、はばかりさん、若旦那、そこへ坐んなはれ。なんぞ、食いなはれんか?」
「これ、なんという行儀《ぎようぎ》のわるいもののいいかたするんや。わたしは、なんにもいらん。あんた、食べたければ、お食べ」
「へえ……あ、ねえはん、若旦那にな、お茶のええのをいれたげてんか。わたいは、そのぼたもちをおくれんか」
「これ、亀吉、ぼたもちというひとがあるか。おはぎといいなされ」
「へえ……あ、ねえはん、その……あの……お、お、おはぎのぼたもち……」
「それでは、おなじことやないか」
「ああ、ここへおくれ。えへへ、あの、どんどん持ってきてや。うん、なんぼでも持っといで……うん、うん、うまい……うん、こら、うまい、砂糖がええさかい……うん、うまい、うまい」
「これ、亀吉、行儀のわるい、食べるのと、しゃべるのと、べつにしなされ」
「食《く》てるときに、そうこせこせいわれたら、食べても身につかんわ」
若旦那がやすんでおいでになりますと、そのむこうの石畳の上に、としのころは、十七、八の娘さん、油っ気はございませんが、長い髪の毛を、杉の箸《はし》できりきりっととめまして、着物は、つぎはぎではございますが、さっぱりとしておりまして、いつ風呂にはいったかわかりませんが、持って生まれました美人と申しますか、目の前には、わらでこしらえました箒《ほうき》とか、たわしとかをならべ、通りがかりのひとの袖にすがりながら、
「あの、父が、長らくの病気で難渋《なんじゆう》をいたしております。どうぞ、箒をおもとめねがいます。あの、どうぞ、箒を……」
「こらこら、袂をひっぱるない。さわるな、さわるな、きたない。これから、神さんへ参詣しようとするのに、汚《けが》れるわい」
「あの、どうぞ、おねがいでござります。父が、長らくのわずらいで難儀をいたしております。どうぞ、おもとめを……」
「ちょっと、小菊さん、待って……この女のひと、なにかいうてはるわ。うんうん、かわいそうになあ。そうかあ……ちょっと、繁八さん、なにや買うてくれというてはるのやわ……いま、お金をだしますわ……そんなら、このお金あげよ。え? なに? この箒持っていかないかんのか? まあ、ずいぶん義理がたい乞食さんやな。ほんなら、これ……ちょっと繁八さん、この箒さげてって」
「ええっ、この箒を?! そら、殺生や。住吉おどり(みやげのおもちゃ)でもさげて帰るのは、ちょっと色気がおますけど、箒さげて帰るとはなあ」
「ぼやきなはんな。ちょっとちょっと繁八さん、みてみい、きりょうのええ娘はんやないか。みがかんと、これやし、これ、一ぺん本みがきかけてみい、ほんまにええ娘《こ》になるし。こんな娘《こ》やったら、かかえてみたいわ」
神信心しながら、金もうけをかんがえてるひとがございます。
「あのう、父が、長らくわずろうて、難儀をいたしております……」
さきほどから、これを、じっとみておりました若旦那、
「これ、亀吉」
「ううっ……うう……ああ……なんだす?」
「なんやいな、行儀のわるい。ひとにものをいうのに、口へものをいれたなり、返事をするひとがありますか」
「そないにいうたかて、若旦那、無理ですがな。わたい、あなたが、いつ、わたいの名前呼ぶかわかりますかいな。口へぼたもちいれるなり、『亀吉』ときたんだす、そやさかい、わたい、『なんだす?』というたのや。もうちょっとのことで、ぼたもちと心中するとこだした。して、なんだす?」
「なにいうてんのや。あすこ、みてみ。箒を売ってる娘さんがおいでになるやろ?」
「へっ? ……ああ、あのきたない乞食」
「これっ、乞食というひとがあるか。ひとさまに袖乞《そでご》いをしてこそ乞食や。あのひとは、ちゃんと、ああして箒を売っておいでになる商人《あきんど》やないか。わたしのうちもおんなし商人や」
「そんな無茶をいいなはんな。うちみたいなりっぱなもめん問屋と、あんなきたない箒屋といっしょになりますかいな」
「ぐずぐずいわんと、いきなされ。『お手間はとらしません。ちょっときていただけますまいか、もし、ご都合《つごう》がわるいようなれば、わたしのほうからまいりましても、よろしゅうございます』と、ちょっとたずねてきなされ」
「へえ、そら、因循者がごてだしよったぞ。きょうのお供は、ただではすまんとおもうてた……ああ、そこの箒売ってなはる娘はん、ちょっときてんか? それ、むこうの茶店になあ、きれいな若旦那が、たばこ吸うてはるやろ? あれは、うちの若旦那や。あんたに、ちょっときてんかて……なに? きてくれる? ほな、気いつけて、ものしゃべってや。きょう、あのひとは、あるき初《ぞ》めやさかい、じつはな、物干しからながめて、『ああ、世間はひろいなあ』ちゅうたひとやからな……若旦那、つれてきましたで」
「さあさあ……どうぞ、おかけやす。そんなところに坐ってもろうたら、はなしがしにくうおますさかい……あの、茶店のねえはん、座ぶとんを貸しておくんなはれ」
「まあ……あんなきたないひとに敷かす座ぶとんあったやろか?」
「ねこに敷かしといた座ぶとんを貸してやりいな」
「……ねえはんたち、早う座ぶとんを……どうぞ、あなた、ご遠慮なくおかけ。ただいま、うけたまわりましたら、おとうさんが、長らくご病気とか、さぞかしご心配のことと存じますが、親孝行しておあげあそばせ。孝行をしたい時分に親はなし、さればとて、墓石《いし》にふとんは着せられもせず……と、なまいきに、ひとさまに親孝行のはなしをするどころか、わたしかて、じつは、知らず知らずのうちに親不孝をかさねておりましたのを、番頭にえろうしかられまして、きょうから、親孝行のまねごとでもしたいおもうて、でてきたものでございます。その途中で、あなたさまのような親孝行のかたにお目にかかりまして、こんなうれしいことはございません。あなたの親孝行にあやかるように、お手持ちの品ものを、みな買わしていただけますまいか?」
「ありがとうございます……ありがとうございます。そうしていただければ、早う帰りまして、父の看病ができます。ありがとうございます」
「では、みな、買わさしていただきます。商人のせがれでありながら、ものの相場がわかりません親不孝もの……これ、亀吉、お金をだし」
「へっ、お金? ……へえへえ、どうぞおつかいやす」
「あの、ここに小判が三枚ございます。どうぞおおさめねがいます」
「いいえ、どういたしまして、一枚でも、お釣りがたくさんございます。こまかいものでいただきとう存じます」
「いいえ、ほんまにいうていただきませんと、わかりかねます。まだ不足ならだしますが……ほんまに一枚でよろしいので?」
「一枚でもあまります。お釣りがございません。どうぞ、こまかいものでおつかわしくださりませ」
「ああ、さようなら、失礼ではございますが、のこりましたお金で、ご病人に、なにかお口にあうものでも……」
「……あのう、ご親切は、ありがたいのでございますが、父が、いたってもの堅うございますので、余分《よぶん》にお金をいただいて帰りますと、たいへんにしかられます。どうぞ、こまかいのでおつかわしくださいませ」
「なるほど、ほかのものとちがい、お金のこと、そうおっしゃるのもごもっともでございます。亀吉、ちょっと、矢立てと紙をこっちへだしとくれ……あの、これに、わたくしの住所《ところ》と名前がしたためてございます。お持ち帰りになりまして、もしもおとうさまがご立腹のようでございましたら、すぐにおつかいをよこしてくださいまし。わたくしが、すぐにまいりまして、いいわけをいたします。どうぞ、おおさめくださいませ」
「ご親切にありがとう存じます。父もさだめしよろこぶことでござりましょう。ありがとうござります。ちょうだいをいたします。ありがとうござります。ありがとうござります」
「もしもし」
「え?」
「あれ、なんでやすね? なにといとるねん?」
「あれ、盗《ぬす》っ人《と》ですわ」
「盗っ人? なにしよったんでやす?」
「あの若旦那のな、たばこいれを抜きましたんや。みつけられたので、かんにんしてくれとあやまってますのや。あれが、あいつらの手だす。やりそこのうたら、あわれにみせかけて、たのみよるのだす」
「へーえ、あんなかわいらしい顔しとって……へーえ、あれ、盗っ人ですとなあ?」
「あほらしい。あれら、兄妹だす」
「兄妹にしては、服装《なり》がちがうやおまへんかいなあ」
「そやさかい、泣いてますのや……というのは、子どもの時分にすてられたので、片方《かたかた》は、ええうちにひろわれて、女のほうは、わるいもんにひろわれて、いろいろと苦労して、ひさしぶりで、きょう逢うたのでやす。『おお、兄さんか』『わりゃあ妹か』『おなつかしゅう存じます』……ヤ、テン、テン…… たがいに手に手をとりかわし……兄妹、よよと、泣きしずむ……ツトントントントン……」
「なにいうてんのや。芝居したり、浄瑠璃《じようるり》語ったりして……なあ、もし、あんた、兄妹が、ひさしぶりで逢うたんですて?」
「いえ、仇討ちだすがな」
「えっ、仇討ちだすか?」
「あのむすこのおやじちゅうのは、えらい酒ぐせのわるい男でなあ、酒の上のまちがいから、あの娘の親を、バッサリと、斬ったんだす。ところが、かわいそうに、ふたりは、もともと、いいなずけで、当人同士は惚《ほ》れ合うてたんや。けれども、因果ですなあ、たがいに仇同士になってしもうた。さて、顔をみあわしてみると、当人同士は、好いて好かれた仲、まさか、仇を討つわけにもいかず、じつに因果な仲やおまへんか」
「ほんまかいなあ?」
「そうやないかとおもいまんねん」
いろいろと勝手なことをいっております。
「ああ、大勢のひとが寄ってまいりました。ひとにみられてもわるいようで、どうぞ、お帰りをねがいます」
「ありがとう存じます。では、いただいて帰ります。丁稚《こどもし》さん、ありがとう存じます。ねえさんがた、どなたもありがとう存じます」
石畳を、二、三間もいったかとおもいますと、くるりとむきなおって、
「ありがとう存じます」
また、すこしいったかとおもうと、
「ありがとう存じます」
くりかえし、くりかえし、礼を申します。
娘さんのうしろすがたを、じっとみおくっておりました若旦那、
「これ、亀吉」
「うううっ……なんでやす?」
「なんじゃ、まだ、食べてるのか。よう食べられるなあ。さあ、早ういきまひょう」
「あっ、若旦那、もう、おいでになりますか? ……へえ、ねえはん、ねえはん、なんぼほど、わたい食べた? え? 三十八盆? うわあ、よう食べたなあ……これ、一盆に、なんぼはいってんのや? え? 五つか? それを三十八盆食うたのか? うーん、こら、びっくりしたわ……ああ、その弁当、貸して、うん、はばかりさん、しょわしてんか……ああ、ここに小判三枚ある。これでとっといて」
「いえ、こないに、たくさんいただきましては、お釣りが……」
「気の毒なけど、これだけとっといてくれんと、わたい、ひまだされるのやさかいなあ。さあ、若旦那、いきまひょか」
「したくができたか。さあ、これ、持っていき」
「あはっ、けったいな買いもんやなあ。若旦那、あなた、知りなはらへんけどなあ、住吉へまいったら、住吉踊りをみやげに持って帰りますのや。それに、こないに、箒を持って帰るひとがおますかいなあ」
「ぐずぐずいわんと、持っていきなされ。わたしのうしろから、ついといで」
「若旦那、そら、ちがいますで、そちらへ行《い》たら、大阪へいきますのやで、住吉さん、こちらだす……もし、若旦那、もし……あははは、走りだしよった。こら、えらいこっちゃ。若旦那、若旦那、若旦那」
若旦那、娘のあとを追いながら、北むいて、ずんずんずんずん……ただいまでは、日本橋何丁目ときれいになりましたが、むかしは、長町《ながまち》裏、ずいぶんきたない、ひどいところがございました。
娘さん、と、ある露地へはいりました。若旦那もつづいてはいりますと、まがりかどのうちへはいりましたので、若旦那も、ずいと立ちどまりました。つづいて追いかけてまいりました丁稚《でつち》が、
「若旦那、あんた、えらいとこへはいってきましたなあ。こんなきたないところに……帰りまひょいな、若旦那」
「やかましゅいうな。しずかにせい。わたし、ちょっと、ここにとりひきがある」
「こんなきたないところに、とりひきがおますかいな。帰りまひょというのに……」
「羅宇《らう》……仕替《しか》え」
東京で申す羅宇や、すげ替え、大阪で申します、一般の羅宇の仕替え。
「羅宇……仕替え」
「ああ、羅宇屋さん、あの、ちょっと、替えてほしいがなあ」
「よろしゅうおます。ちょっと、お待ちやしとくれやす」
羅宇屋の、荷物のかげから、のびあがるように、娘のはいりましたうちのなかをのぞいてみますと、四畳半もございましょうか、部屋をはじめ、台所にも道具というてはあるのでなし、七輪の上に、薬どびんがかかってあるばかりでございまして、せんべいぶとんが二枚、主《あるじ》は、もう五十近い、長のわずらいとみえまして、肉は落ち、あたまは半白、目は落ちこみ、あたまがいたむとみえて、手ぬぐいではちまきをしております。
「おとうさま、ただいま、帰りました」
「ああ、ああ……ああ娘か。ああお帰り。早かったなあ、早かったなあ」
「あの、おとうさま、よろこんでいただきます。結構な若旦那にお目にかかりまして、品ものを、まとめて買うていただきましたので、早う帰ることができました」
「よかった、よかった。それも、これも、そなたが親孝行じゃで、住吉さまのご利益《りやく》じゃがな。うん、よかったなあ」
「おとうさま、あのう、おかげんは、いかがでございます?」
「ああ、ありがとう。まあ、あいもかわらずというところでなあ。としごろの娘を持ちながら、親らしゅう、着物一枚、帯一すじ、買うこともできず、長らくのこのわずらい、不甲斐ない親じゃと、うらんでくれるなよ。いっそのこと、首でもくくって……と、おもったことは、いままでになんべんか知れん。いやいや、そんなことをしては、そなたが、よけいに苦しむじゃろとなあ、ない命を、こうして生きながらえておりますのじゃ。ああ、もうながいことはない。ながくて、三月か半年、一年とはもつまい」
「まあ、おとうさま、また、そのような気の弱いことをおっしゃいます。なんのなおらんことがござりますものか。わたしのおもいでも……病いは気からと申すことがございます。気を大きくお持ちくださいませ。そんな悲しいはなしはやめましょう。あの、おくすりは?」
「おお、さきほどなあ、佐次兵衛さんが、おもてを通りなさって、あいかわらずご親切に……そのときに飲ましていただいた」
「いつにかわらぬご近所のみなさまのご親切……それはよろしゅうございました。お背なかでもさすりましょう。そうそう、かんじんなことをわすれてました。あの、これが、品ものを、みな、買うていただいたお金でございます」
「ああ、ありがと、ありがと、いただきます……ややっ、こら、小判が三枚!」
「はい、品ものを買うていただいたお金で……」
「ふん……ちょっと、ここへでなされ」
「あの……おとうさま……なんぞ……」
「ちょっと、おでなされ、もっと、前へきなされ」
と、手をのばしますと、娘のえりがみをとって、
「これっ、なんというあさましいことをしてくれたんじゃ。これ、ひとさまのものに手をかけて、親孝行じゃとおもいなさるのか? たとえ、飢《う》えて死のうが、野たれ死にしようが、盗んだ金で病気をなおそうとはおもわんぞ!」
「いえ、おとうさま、ちがいます、ちがいます……いただいたのにちがいございません」
「なんじゃと? いただいた? そら、一朱や二朱の金なら、また、めぐんでくださるかたもあろうが、大枚三両、みず知らずの者に、なんで……くださるわけがあろうかいっ」
「お……おことわりをいたしましたが……父が、もの堅うございますと、おことわりをいたしましたが……『そんなら、これを持っていけ』と、おところとお名前を書いていただきました。もしも、おとうさまが、ご立腹ならば、ここへ、すぐつかいをよこすように、すぐにいって、いいわけをしてやるからと……」
「これこれ、泣かずに、はっきりいいなさい」
「おとうさま、どうぞ、ごらんくださいませ。これをみて、うたがいを晴らしてくださいませ……」
「なんじゃと、そんなことで、わしがごまかされるとおもうのか……なに、なに? 大阪、船場、安土町《あずちまち》三丁目、もめん問屋、相模《さがみ》屋宗兵衛せがれ宗三郎……ふーん、そんなら、このかたが?」
「はい」
「そうか。ああ、わるかった。かんにんしてくれ。年をとると、おもいすごすやら、ぐちやらで……ああ、うたがい深くなったなあ。そんなら、このおかたがくだされたのにちがいなかろう。それじゃなあ、すぐ、このおかたのところへ、お金をかえしにいってきなされ。品もののお代だけはいただいてきやしゃれ。買うていただいただけでも、身にあまる冥加《みようが》、その上に余分のお金をいただいたら、罰があたります。かえしてきやしゃれ」
「けども、せっかく……」
「いかんか? いやか? そんなら、わしがいく」
「いいえ、おとうさま、ちょっと、お待ちくださいませ。そのおからだでは、とても……」
「いや、いく。たとえ、途中でたおれてもいくのじゃ」
おもてでは、若旦那、羅宇屋の荷のかげから、じいっとながめておりましたが、
「ふーん、感心なもんやなあ。この親にして、この娘《こ》あり……ふーん、りっぱなもんじゃなあ」
「旦那、もし、旦那、きせるができましたがな。わて、これ、真鍮《しんちゆう》や真鍮やとおもてたら、こら、純金《むく》ですなあ」
「うん……無垢《むく》や……」
「純金《むく》だす」
「処女《むく》とも無垢《むく》とも、ほんまの処女《むく》やなあ」
「純金《むく》ですなあ。よう彫ってますなあ。この彫りは……この獅子の顔、どうです?」
「顔? ……ふーん、ええ顔やなあ」
「眼がよろしわ」
「うん、ええ眼やなあ」
「ほんまにええ眼だすなあ」
「ああ、かわいらしい眼や」
「なにも、かわいらしい眼やあらしまへんがなあ。こわい眼だすがなあ。あの、旦那はん、羅宇ができてますのや」
「ああ、羅宇屋さん、どうも……これ、亀吉、お金……」
「お金……へえへえ、どうぞ」
「もし、これでは、お釣りが……」
「ああ、お釣りはいらんのや。とっといて……ああ、若旦那、若旦那、ちょっと、ちょっと……あっ、また、走りだしよった。若旦那、若旦那……」
「へえ、お帰り」
「へえ、お帰り」
「へえ、若旦那さま、お帰りあそばせ」
「ただいま、帰りました。うわーん」
「おうおう、亀吉、どないしたんや?」
「どうもこうもありますかいな。住吉さんへ参詣して、住吉さんへまいらずですのや。お金をつかう間も、どうする間もあらしまへん。乞食やらなにやらに、二両、三両やって、やっと十両ほどつこてきましたんやがな」
「あははは、ごくろう、ごくろう。よう行てくれた。旦那にたのんで、藪入り十日さしてやるで。なに? 乞食に二両も三両もやった? ぎょうさんやりやがったなあ……なんじゃい、持ってるの、それは?」
「若旦那、これ、買やはった」
「なんじゃ、妙な買いものやなあ……まあ、ええわ。ゆっくりやすめ……ええ、若旦那はん、お帰りあそばせ」
「あ、番頭はん」
「いかがでござりましたかいな?」
「ありがとう。おかげで、おもしろおました」
「それは、結構でござりましたな」
「亀吉、帰りましたか?」
「へえ」
「あのう、亀吉が持っておりますたわしのささらは、お店の若いひとへのおみやげに……」
「これは、どうもありがとうございます」
「それから、その箒、一本は、おとうさん、一本は、おかあさん、あとの一本は、あなたにあげます」
「どうもありがとうございます」
「それからな、わたし、家内をもらうことにきめました」
「いや、そうしていただきましたら、親旦那さまも、奥さまも、どれだけおよろこびかわかりません。じゃあ、紀の国屋さんからおはなしがございました例の……」
「いえいえ、ちがいます」
「そんなら、大和屋さんの?」
「いいえ、あれともちがいます」
「そういたしますと?」
「ところは、長町裏……」
「長町裏?」
「商売が箒屋さん。おとうさんと娘さんとふたり暮らし。おとうさんは長のご病気。これは、こっちへひきとって、万事お世話したいとおもいます。娘さんは、十七、八やとおもいますが、わたしは、それをもらうことにきめました。もし、それがもらえんというなら、わたし、死にます」
「ちょっと、待っとくなはれ。とにかく亀吉に聞きますさかい……」
ようすを聞いてみますと、だいたいのことがわかりました。親旦那は、かわいいせがれのことでございますさかいに、ご承知でございますが、親類が不承知。このことを若旦那に申しますと、「死んでしまう、死んでしまう」の一点張り。しかたがないので、もらうことにきまり、亀吉を案内に、番頭がまいりまして、近所で聞いてみますと、いや、その評判のよろしいこと。さっそく娘の父親へこのことを申しいれましたが、ちょうちんに釣り鐘、釣りあわんは不縁のもとと、なかなか承知いたしません。親類一同、親旦那と、いれかわり、たちかわり申しいれまして、やっとのことで承知をいたしました。父親をひきとろうといたしますと、
「わしは、いやじゃ」
と申しますので、医者にもかける、くすりも十分に……と、いろいろ手あつい看病をいたしましたが、娘の身がかたづいたので、気がゆるんだものか、しばらくして、この世を去りました。野辺の送りもねんごろにいたしまして、忌《いみ》あけを待ちまして、めでたくご婚礼。夫婦仲は、いたってよろしく、そのうちに、ご懐妊《かいにん》、月満ちて生まれましたのが、玉のような男の子、そのうちに、親旦那も安心なさいましてご隠居。若旦那が、二代目相模屋宗兵衛となり、ますますさかえましたということでございます。
解 説
うなぎ屋
おちの部分の原話は、安永六年(一七七七)刊の笑話本『時勢《いまよう》噺綱目』所収の「俄旅」。
別名を「しろうとうなぎ」というが、この「しろうとうなぎ」には二種類あり、八代目桂文楽が口演していたような、明治維新のさいの士族の商法から生まれた悲喜劇という時代的背景のある噺と、本書におさめたこの噺のようなナンセンスな型とがある。
上方の俗にいう初代(じつは二代)桂春団治の演出では、うなぎ屋の主人が、逃げようとするうなぎを持ったまま、いきおいあまって電車にとび乗り、「行くさきは、うなぎに聞いてくれ」と、さけぶギャグが爆笑を呼んだという。
狸 賽
原話は、宝暦十三年刊の笑話本『軽口太平楽』所収の「狸の同類」。
たぬきが、命の恩人に恩がえしをする噺で、民話などにもよくある型だが、最後にサイコロになるあたりの瓢逸味《ひよういつみ》は、落語ならではの世界。
演出においては、たぬきの化ける前と化けたあととの演じわけがむずかしいとされている。
釜どろ
原話は、安永二年(一七七三)刊の笑話本『近目貫《きんめぬき》』所収の「大釜」。
別名を、上方では、「釜盗人」という。
小咄をわずかにひきのばした程度の小品だが、その筋の運びといい、おちといい、すこぶるとぼけたところがたのしい。
かわり目
原話は、文化九年(一八一二)刊の笑話本『福三笑《ふくさんしよう》』所収の「枇杷葉湯《びわようとう》」。
別名を「銚子《ちようし》のかわり目」という。
酔っぱらいをあつかった落語の代表的なものだが、そのなかに、庶民の夫婦生活の一端が、巧まずしてえがかれているのがほほえましい。
松ひき
別名を「そこつ大名」という。
そこつ噺は、おおむね庶民階層が主人公だが、この噺は、殿さまが、そこつものであるところがめずらしい。それだけに、そこつからまきおこるアクシデントが、重大な結果を生みかけるというヤマ場も盛りあがるわけで、異色あるそこつ噺といえよう。
付き馬
別名を『早桶《はやおけ》屋』という。
江戸時代からつたわっている廓噺の代表作で、「突きおとし」や「居残り佐平次」とともに、客が、女郎屋の者をだますストーリーなので、どうも後味《あとあじ》はよくないが、それだけに、客の〈いたずら〉として、また、江戸っ子のしゃれ気分として軽快に演出されねばならない噺。
五月のぼり
別名を「初のぼり」「おのぼり」ともいう。
端午の節句の季節を背景にしたこの噺は、ほのぼのとあたたかかった、むかしの親子、親戚などという人間関係がよくでていてうれしい。それにしても、しゃれによっていいわけをするという洒脱な日常生活は、いかにものどかで胸あたたまるものがある。
高田の馬場
別名を「仇討ち屋」ともいい、香具師《やし》をえがいた噺としては、「がまの油」とちがって、登場人物たちはもちろんのこと、聴衆も、おわりの種あかしまでだまされつづけるほどに構成のしっかりした佳篇なので、それだけに、場景描写、筋のよどみない運びなどに意をもちいなければならないというむずかしい噺。
いも俵
別名を「いもどろ」「いも屁」「人俵」などともいう。
この落語のおもしろさは、なんといっても〈かんがえおち〉のしゃれたところにある。このおちは、聴衆を瞬間的に爆笑させる種類のものではないが、なんとも味のあるいきなおちで、放屁を、これだけ洒脱にあつかった噺もすくないのではなかろうか。それなのに、聴衆をわるくくすぐるために、「気の早いおいもだ。もう、おならになった」と、説明的なことばをはさむ落語家がいるが、これはいただけない。
富士まいり
別名を「五合目」という。
江戸が日本中で、もっともすばらしいところだときめこんでいた江戸っ子たちは、おおむね旅行ぎらいだったが、信仰とリクリエーションとを兼ねた富士まいりや大山まいりというと、大挙してでかけていったのだから、そんな浮かれ気分がこの噺の背景となっていることをわすれてはならない。それだけに、懺悔《ざんげ》するうちに、その浮かれ気分に暗いかげがさしはじめるところが、この噺の味でもあろう。
磯のあわび
別名を、上方では、「わさび茶屋」という。
与太郎が、女郎買いの方法を伝授されて遊廓にゆき、それを実行にうつすというストーリーは、のどかな佳き時代の空気をつたえていてほほえましいが、それが、あまりにも現代とかけはなれているがゆえに口演されなくなったのは惜しい噺。
笠 碁
原話は、元禄四年(一六九一)刊の笑話本『露がはなし』所収の「この碁は手みせ禁」。
三代目柳家小さんが、明治時代に大阪から移入し、東京風にみがいた噺という。
碁がたきの心情を、じつにあざやかにえがいた佳篇で、にぎやかなくすぐりや爆笑シーンはないが、それだけに、落語のダイゴ味を満喫できる噺。
鉄 拐
別名を「鉄拐仙人」「張果郎」ともいう。
「三国誌」とおなじく中国の、しかも仙人をあつかった点において、奇想天外の一種の地噺(漫談風)だが、李白《りはく》と陶淵明《とうえんめい》とが酒豪であったという常識がわすれられてしまった現在では、その点を強調しておかないと、おちが理解できない。
権助ぢょうちん
本妻と妾とが、たがいに義理を尽くしあうがために、あいだにはさまった旦那が、右往左往するというストーリーは、ウーマンリブの現代感覚とはかけはなれすぎてしまったので、口演される機会が減るばかりだが、それだけに、古い時代の義理、人情をあざやかにえがいているといえる。
禁酒番屋
別名を「禁酒関所」ともいう。
三代目柳家小さんが、上方から移入したといわれている。
横暴な武士に仕返しをするという型は、「石返し」と似ているが、この噺のほうが、ものがものだけに痛快な結果となっている。それだけに、あまりきたならしく演じると、不快感が先行して、痛快味が半減する。
上方の型は、女にまで小便をさせたり、おちは、まだこのさきにあって、「裏門へまわれ」「糞《ばば》食わされる」とあって、すこぶるきたない。
坊主のあそび
原話は、中国の笑話本『笑府』所収の「解僧卒」と、わが国では、寛政七年(一七九五)刊の笑話本『わらふ鯉』所収の「寝坊」。
別名を、東京では、「かくれあそび」「かみそり」「坊さんのあそび」「坊主の女郎買い」ともいう。上方では、「坊主茶屋」「散髪茶屋」ともいい、「ゆうべの客はあわてものや、あたまをまちがえて帰りゃはった」というおちになっている。
隠居が女郎買いにいくというのは、川柳のほうでは、「とぼされぬ小提灯隠居さげ」とか、「新造は入れ歯をはずしてみなという」などとあるが、落語ではめずらしいので、まず異色の廓噺といってよかろう。
本 膳
原話は、中国の笑話本『笑林』や、わが国の民話、さらには、元和ごろの笑話本『戯言養気集《ぎげんようきしゆう》』にもある。
正式の宴席において、作法を知らぬ連中のまきおこす失敗談は、茶道に無知な加藤清正、福島正則などの武将の滑稽をえがく講談「荒茶の湯」とも共通したナンセンスの世界。
水屋の富
原話は、文化十年(一八二七)刊の笑話本『百生瓢《ひやくなりふくべ》』所収の「富の札」。
富の噺というと、「御慶」や「宿屋の富」「富久」など、いずれも、当った瞬間、あるいは、その直後のおどろきやよろこびをえがいているが、この噺のように、当ってからのちのちまでの気苦労をえがく噺はめずらしい。この意味からいって、一種の心理劇的な運びになっているわけで、皮肉な結果におわる〈おち〉が、すこぶる効果的だ。
開帳の雪隠
原話は、明和九年(一七七二)刊の笑話本『鹿の子餅』所収の「貸雪隠」。
別名を、東京では、「開帳」「貸雪隠」などといい、上方では、「雪隠《せんち》の競争」「二軒|雪隠《せんち》」などという。
内容は、開帳にさいしてのアイデアから生まれたナンセンスなできごとであるにすぎず、みじかい一席物なので、開帳の日の群衆の描写がポイントになる噺。
三助のあそび
古い廓噺だが、現在あまり口演されなくなった噺。
そのむかし、遊廓において、下級職人、芸人、角力とりなどが冷遇されたことは、たとえば、「千早振る」(上巻所収)で、角力とりがふられるという設定になっていることからもあきらかなところ。
風俗的に理解されにくいために消えてゆく運命にある落語もいくつかあるが、この噺もその悲しい道をたどるであろう代表的なもの。
公衆浴場の下男で、風呂の火をたき、浴客のあかを洗い流した「三助」という存在はもちろんのこと、その名称さえわすれられつつある現在、その三助が、これまた、消えてしまった遊廓にでかけて失敗するストーリーなのだから、二重にわからない要素が多い。しかも、この落語のくすぐりが、三助の仕事にからんでいるだけに、いよいよわからなくなっていくことだろう。
それはたとえば、「お流連《ながし》(帰らずあそびつづけること)になりますかな」と聞かれて、「わしは、流し(客の背なかを洗うこと)はやらねえでがす」と答えるトンチンカンなやりとり、浴槽で、湯があついと、客が羽目板をたたいて、三助にうめてもらった習慣をふまえた「うまらねえ」というくすぐりなどが続出しているがごとくだった。
星野屋
原話は、元禄十一年(一六九八)刊の笑話本『初音草噺大鑑』所収の「恋の重荷にあまる知恵」。
別名を、東京では、「三両のこし」、上方では、「五両のこし」という。
とかく善人ばかりが登場する落語の世界では、めずらしく、腹黒い策略による化かしあいの噺で、まことに皮肉な、異色の佳篇といえよう。
唐茄子屋政談
講談「大岡政談」に取材した純粋の江戸人情噺で、江戸庶民たちの人情味あふれる日常生活があざやかに浮き彫りにされている佳篇。
登場人物も、世間知らずの若旦那、粋人の伯父、人情家の伯母、情け深い江戸っ子、哀れな浪人の女房、因業家主など、多士済々であり、また、伯父さんが、若旦那にきついことをいいながら、胸中ではやさしくいたわって、商売にだしてやるくだり、情け深い江戸っ子の義侠で唐茄子が売れる部分、吉原田んぼで過ぎし日を述懐する若旦那のつぶやき、浪人の女房と若旦那の出会いなど、見せ場もなかなかに多く、起伏があって興趣尽きぬものがある。
小 粒
原話は、安永六年(一七七七)刊の『新撰噺番組』所収の「一升入壺は一升」。
おちは、上方落語「鍬潟《くわがた》」とおなじだが、噺自体も主人公とおなじくまことに小品で、小男の悲喜劇をうまくまとめている。
盃の殿さま
別名を「殿さまの廓通い」「月の盃」ともいう。
古くからあった純粋の江戸落語で、殿さまとおいらんの愛情のこもった盃をしょった使者が、遠距離を往復するというストーリーは、じつに、おおらかで、ロマンチックですばらしい。「そばの殿さま」や「将棋の殿さま」のようなわからずやの殿さまが主人公でないだけに、すこぶる人間的で、すがすがしい殿さま物だ。
百 川
一説によれば、料亭「百川」が、店の宣伝のために、何者かにつくらせた噺だというが、そういう点では、まことにめずらしいコマーシャル落語。
内容的には深いものではないが、いなか者、むやみに早合点する男をはじめとするいろいろな性格の河岸の若い衆たち、料亭の主人、町医者などの人物描写の適確さがないと生きない噺。
お血脈
別名を、上方では、「骨寄せ」「善光寺骨寄せ」などという。
落語では、描写を中心としない、この種の漫談風の噺を〈地噺《じばなし》〉というが、随所にギャグを挿入できる点において、肩の凝らないナンセンス噺といえよう。
ふたなり
別名を「書置きちがい」「亀右衛門」ともいう。
落語には数すくないブラック・ユーモア物で、へたをすると陰惨な印象をあたえることになりかねないので、演者の軽快な口調を必要とする噺。
東京では、亀右衛門を猟師《りようし》ということにして、役人が、「男子か女子か?」と聞くと、「りょうしでございます」というおちにする場合もあり、上方では、「夜前食たなりです」というおちになっている。
お化け長屋
江戸末期の滑稽本作家|滝亭鯉丈《りゆうていりじよう》の『滑稽|和合人《わごうじん》』(初編文政六年・一八二三)を原典とする噺で、上方では、「借家怪談」という。
怪談入りのナンセンス噺だが、江戸末期の長屋風景や人間関係がよくでているので、のどかなムードがあふれている。
夢 金
原話は、安永二年(一七七三)刊の笑話本『出頬題《でほうだい》』所収の「七ふく神」。
別名を、「陰嚢《いんのう》」「欲の熊鷹」「欲の熊蔵」などともいう。
冬の夜の大川の情景が、じつにあざやかにえがかれ、その舞台をいろどる船宿の主人、船頭、浪人、町娘などの姿も、それぞれ特色的だ。
なお、おちが品がわるいというところから、先代三遊亭金馬は、「夢か」でおわっていた。
淀五郎
別名を「四段目」「中村秀鶴」ともいう。
「中村仲蔵」とおなじく、忠臣蔵に取材した芸道物の人物噺で、とくにヤマ場のないむずかしい噺。おちが、劇中のせりふそのままである点が気がきいている。
≪上方篇≫
馬の田楽
この噺は、春ののどかな田園風景が、その風景にふさわしいかずかずの人間像とともにスケッチ風にえがかれていて、春の田園絵巻の観がある。東京にも移入されて、現五代目古今亭今輔や五代目柳家小さんも口演するが、本書では、俗にいう初代桂春団治の速記を中心にして手をくわえた。
愛宕山
この落語は、古くからあった上方落語で、東京では、八代目桂文楽が、三代目三遊亭円馬からうけついでみがいた噺だが、上方風の演出では、本書のように、絵巻物をくりひろげたような春景色のなかを、芸者、舞妓、幇間などをつれた旦那の一行がゆくという華麗な場面が、上方落語特有のにぎやかな囃子《はやし》を背景に展開されるだけに、東京のそれにない色気がみられる。
噺の構成もみごとで、一八が、谷底で小判をひろっての歓喜、それが一転して上へあがれない落胆にかわり、とびあがって旦那にほめられての満足、とたんに金をわすれたことに気づく「おち」へと、二転三転して息もつかせずにクライマックスへと盛りあがり、きれいにおわるあたり、まことにあざやかだ。まさに、上方落語の代表的名作といえよう。
たばこの火
上方で有名な富豪を主人公にしたスケールの大きいあそびが中心になっているだけあって、いかにもおおようなムードあふれる噺。それだけに、ラストのおちが、じつにあざやかにきいている。したがって、この噺を生かすためには、主人公のおおらかな人柄の描写がポイントとなってくる。
なお、主人公の和泉のあばれ旦那は、飯佐太郎という実在の人物で、正しくは、食と書いて、〈めし〉と読んだという。
この奇妙な姓の由来については諸説あり、「三味線草」(渡辺虹衣編》によると、参勤交替のさい、紀州侯が、にわか雨にあい、同家へ雨具をたのむと、ただちに千本の傘を用立てた。そこで、紀州侯は、これを心にくくおもい、千人の片目男に千本の傘を一本ずつ持たせて返しにやると、同家では、即座に、千個の欠《か》け茶わんで、一同に冷やめしをふるまったというし、『摂陽奇観《せつようきかん》』によれば、紀州侯が、やはり参勤交替の折り、中食を申しつけたところ、即座に冷やめし千人分をだしたとある。ところが、実話は、紀州侯の行列が、三百人の食事を命じたのだという。いずれにしても、すばらしい大家であったことはたしかだ。
東京に移入して、食の旦那のかわりに、奈良茂の一族の旦那として口演しているが、スケールの点で、どうもしっくりしない。
くっしゃみ講釈
庶民の日常生活におこった仕返しの物語で、たんなるナンセンス噺にすぎないが、前半において、主人公が、八百屋を相手に、のぞきからくりの「八百屋お七」をやるとぼけたおかしさの描写の適確さ、さらに、後半、「難波戦記」を読みながら、くしゃみをくりかえす演出のスムースさがないと、噺の流れがとまってしまう。なお、「くしゃみ」よりも、「くっしゃみ」のほうが、大阪の庶民性がよくでている。
景 清
原話は、元文ごろ(一六三〇年代)刊の笑話本『軽口大矢数《かるくちおおやかず》』所収の「祇園景清」や、安永二年(一七七三)刊の笑話本『坐笑産《ざしようみやげ》』所収の「眼の玉」。
東京へは、三代目三遊亭円馬から八代目桂文楽へというコースで移入され、後半の大名行列のくだりがカットされて、盲人の悲哀をえがく、しんみりした人情噺となっている。しかし、大名行列のくだりの芝居がかった荒唐無稽さが、また、一方からいえば、にぎやかな上方落語の特色のひとつといえるかも知れない。
箒屋娘
上方の人情噺の大物。
ストーリー自体は、それほどの起伏はないので、船場の大店のふんいき描写、そういう大家《たいけ》にふさわしい親旦那、若旦那、番頭、丁稚などの人物描写の適確さが、とくに要求される。
明治末期までは、おちがあったが、それがワイセツなので、現在のように、おちのない型になったという。
新作落語史
興津 要
新作落語史の上限を、どこへ置くかということは、きわめてむずかしい。
たとえば、三遊亭円朝の「塩原多助一代記」や「名人長二」なども、当時においては、たしかに新作だったし、おなじ明治時代の、仮名垣魯文作といわれる「探偵うどん」や、岡鬼太郎作の「意地くらべ」なども新作にはちがいないが、どうも、現在においては、この種のものは、新作という呼びかたはぴったりしない。そこで、ここでは、〈新作〉のあつかいをうけている昭和期の新作落語史に焦点をしぼっておくことにする。
開祖柳家金語楼
下士官のそばへいきゃ、めんこくさい、伍長勤務はなまいきで、いきな上等兵にゃ金がない、かわい新兵さんにゃひまがない、なっちょらん、なっちょらん……
昭和の新作落語の歴史は、柳家金語楼の「兵隊さん」の、この歌声によってはじまった。
この落語は、軍隊帰りの金語楼
金語楼は、入隊前は、落語のあとで踊りをみせていたのだが、軍隊で病気にかかり、紫斑《しはん》病と誤診され、くすりの飲みすぎから、ハゲあたまになってしまった。さあ、こうなると、踊りをやっても色っぽくない。そこではじめたのが、兵隊落語だった。
それは、つぎのような内容から成っていた。
「貴様、東京で、なにをしておった?」
「落語家であります」
「らくごか……らくごかとはなにか?」
「はなしかであります」
「はなしか?」
「噺をする商売なのであります」
「だれと噺をするんか?」
「ひとりでするのであります」
「ひとりで? 妙な商売だなあ。じゃあ、ひとつ、やってみろ。大いに勇壮活発なものをやれ。うん、忠臣蔵かなんかがいいぞ」
「そんなはなしは、知らんのであります」
「じゃあ、広瀬中佐か、乃木将軍をやれ」
「それも知らんのであります」
「貴様、なにも知らないんだな」
「すこしは知っているんであります。寿限無《じゆげむ》、垂乳根《たらちね》、転失気《てんしき》、王子のきつね……」
「あまりおもしろくなさそうなやつばかりだ。なんでもいいから、ひとつやってみろ」
「はっ、では、そろそろはじめるであります」
「いちいち、ことわらんでもいい」
「『へえ、こんにちは』『これは、熊さん、よくおいでだね』」
「おいおい、その熊さんというのは、どこのなにものだ?」
「それがわからないのであります」
「わからないで、はなしができるか?」
「やっているのであります」
「いったい、貴様の官姓名は?」
「陸軍」
「陸軍はわかっている。官姓名をいってみろ」
「陸軍歩兵」
「陸軍歩兵何等|卒《そつ》だ?」
「陸軍歩兵二等卒であります」
「元《もと》へっ、姓名をいえ」
「山下敬太郎であります」
「元へっ、官姓名」
「陸軍歩兵二等卒……」
「元へっ……なぜ名をいわんのだ?」
「陸軍歩兵」
「元へっ」
「陸っ」
「元へっ」
「海軍っ」
「ばかーっ、陸軍と海軍とまちがえるやつがあるか!」
「陸のつづきは、海であります」
おわったときに、場内は、万雷の拍手だったが、この「兵隊」が、昭和落語史のプロローグになろうとは、彼自身も夢にもおもわなかった。
金語楼自身、当時の事情を、つぎのように語っている。
最初の落語「兵隊さん」は、如何に演じたか、どう云う風に演ったかと、時々聞かれる事が有りますが、最初は、可笑しくも面白くも何んとも無い。ただ、自分が羅南《らなん》を去る時の方が悲しくって、馬と別れの一席、塩原多助が兵隊に成った様な人情話でありました。
口演しながら、客席を見ると、涙をふいてる人も有るし、前の方の老人なぞは鼻をすすってる人も有った。然《そ》うなると、芸と言うものは、演者が演《や》るので無くて、客に演らしてもらうと言う方が本当だと思います。演者自身は夢中で熱演を続ける。今考えると、どんな事を言ったのか分らないが、とにかく、可笑しい落語で無かった事丈《だ》けは確かです。それでも、拍手大|喝采《かつさい》で終った。「これでしめた」と自分ながら感心した。
(金語楼『僕のユーモア半代記』)
この成功に自信をえた金語楼は、翌晩から靴みがきのくだりをやりはじめ、三日目から「なっちょらん」の唄をつけ、四日目からは、東京駅出発の場面をくわえて、二十分ほどの出演時間になり、さらに、ある晩、あとからくるはずの円右がなかなかこないので、せっぱつまって、時間ひきのばしのために、「山下ケッタロー」と、なんべんもくりかえしたのがうけたために、この部分もくわわり、毎晩、高座へあがると、「兵隊さん」「靴みがき」と、声がかかるようになった。そして、
入営から靴みがきまでで三十分間|演《や》れる様に成ったのは、半年程たってからの事でありました。其内に、レコードが盛んに出て、座敷余興、宴会余興、学校余興と、ちょいちょい兵隊落語で余興に頼まれて来たが、売り物兵隊一つでは余りにも心細いので、「団子兵衛後編」「三年酒」「身投げ屋」なんと言うものをこしらえて、「兵隊っ」と、お客から声がかからなければ、それを成可《なるべ》く演って兵隊の寿命を延しに掛った。
(『僕のユーモア半代記』)
というように、売りものの「兵隊」があきられないために、ほかの新作をつくるようになったというが、金語楼が、有崎勉《ありさきつとむ》のペンネームでつくった「恋の新宿」「アドバルーン」「酒は乱れとぶ」「バスガール」「妻の酒」など五百本以上の新作落語は、現在もなお、多くの落語家によって口演され、昭和落語界を華やかにいろどっている。そして、金語楼の活躍に刺戟されて、ほかの作家や落語家も新作落語を手がけるにいたったのであるから、そのきっかけとなった「兵隊」こそ、まさしく昭和新作落語史のかがやかしい水先案内として、長く記憶されねばならない。
折りしも、文壇は、横光利一、川端康成などの新感覚派運動によって、明治以来の旧文学手法に別れをつげ、昭和時代きたるの感があったが、金語楼の新作も、彼以前の新作にくらべると、より近代的な、漫談風な香りをも加味した昭和ならではの新感覚派落語だった。
これらの新作落語のかずかずが、寄席の高座ばかりでなく、レコード、ラジオ、そして、のちには、テレビというあたらしいマスコミ媒体《ばいたい》によって、昭和の新観客層を開拓していった。
ただ、金語楼が、その多才ゆえに、喜劇人に転向し、高座をはなれたことは惜しまれる。
新作の母体・芸術協会誕生
金語楼とともに、昭和四年に、芸術協会を創立した春風亭柳橋の存在も、昭和新作落語史においてわすれることはできない。
柳橋は、協会設立当時の模様を、つぎのように語っている。
その時のメンバーは、わたしが会長、金語楼が副会長、それに、今の三平の親父の林家正蔵、落語家は、これっきりしかいないんです。「すけ」として、神田伯龍、大辻司郎、西村楽天と、その頃のレコードへ吹込んでいた石田一松。これをひっぱってきましたから、以上の顔ぶれですよ。あとは、金語楼の一門、それから私の弟子と、これだけなんです。客は、と言って見れば金語楼の客なんです。若い層なんですね。敬ちゃん(注、金語楼)のえらいところは、改作もあれば新作もあるが、一月に五席なんて話をこしらえるなんてことは、よほどでないとできない仕事です。それをやってるんです。お客が新作のお客でしょう。そこへ私の古典でしょう。だから水と油なんですね。これは苦労しましたよ。これじゃいかんと、(中略)「うどん屋」を「支那ソバ屋」に直し、「掛取万才」を「掛取早慶戦」と直し、それから「かわり目」を「家庭カフェー」というふうにかえたわけですよ。
(春風亭柳橋『高座五十年』)
というように、改作ではあったが、これらは、レコードやラジオを通じてヒットし、柳橋の名を高からしめたばかりでなく、現在においても、新作優位の芸術協会の性格を決定づけることともなっていった。
これらの改作は、つぎのようなものだった。
たとえば、借金とりを、その趣味に応じてことわる「掛取り早慶戦」では、野球好きの米屋を登場させ、
「あのう、勘定をいただきたいんですが、米屋ですが……」
「こちらは、大変球場であります」
「なんだい、大変球場てえのは? ……」
「待ちに待った大晦日《おおみそか》がきました。催促《さいそく》軍対ことわり軍の試合、両軍とも張り切っております。しかしながら、ことわり軍のほうは、いささか意気|消沈《しようちん》しております。催促軍は、元気いっぱい、応援団立ちあがりまして、校歌をはじめました」
「なにを、この野郎、わたしが野球が好きだってんで、ハハーン、こりゃ放送してるな。野球で勘定をことわろうてんだな。払わねえつもりだな。よし、そんなら、こっちも野球で催促してやろう。応援歌でひとつおどろかしてやろう。……催促軍の応援団は、応援歌をはじめました」
(「若き血に燃ゆるもの」の替え唄で)
バカにしやがるな、歳も暮れる晦日
きのうも口上、あれもくれねえ
承知はできねえぞ、今日は常と違うぞ
この勘定をくれねえときは
どうなるぞ、声高らかに
それでも払わねえか
くれろ、くれろ、じらさねえでくれろ
「くれろ、くれろ、くれ、くれろ、くれ、くれ、くれろ!」
「ハハア、こりゃ、むこうのほうが役者がうわてだな。おれもだまっちゃいられねえぞ。……よく、これにこたえて、ことわり軍も校歌をはじめました」
(「都の西北」の替え唄で)
晦日の催促、だめだよ金は
とりにくるいくらか、われらは知らぬ
われらが日ごろの貧乏を知るや
身上《しんしよう》の苦心、あくせくすれど
どうせこの世じゃ払わぬつもり
かかあとわれらが夜逃げをみよや
だめだ、だめだ、だめだ、だめだ、帰れ、帰れ、だめだ!
「なにをいやあがる。なにがだめだよ。おどろいたね。そういうわけじゃしかたがねえ。来春まで待ってやろう」
「ついに試合は、とれんゲームになりました」
というようなかたちをとっていた。
先代三遊亭金馬の新作は、昭和五年、ニットーレコード吹きこみの、正岡|容《いるる》作「食堂車」にはじまるが、なんといっても、古典物の「居酒屋」(「ずっこけ」の発端)とともに、金馬の人気を高めたのは、立川扇太郎作の「長屋チーム」「角力放送」の二篇であり、華やかな野球場や国技館の描写、にぎやかなアナウンサーの実況放送のものまねなどは、金馬ならではの、明朗な持ち味と歯切れのよい口調とによって、多くのファンを魅了した。
軌道に乗った昭和の新作落語
戦前、金語楼以後において、もっともあざやかな活躍ぶりをみせたのは、柳家権太楼だった。
彼は、「猫と電車」「ぐずり方教室」「猫と金魚」などの自作自演によって、瓢逸な個性を生かしたナンセンスに徹した高座を展開し、ラジオ、レコード、速記本と、絶大な人気の渦中にあった。
その代表作「猫と金魚」は、つぎのような内容だった。
「ちょっと、番頭さん、きておくれ」
「お呼びになりましたか?」
「お呼びになりましたかじゃないよ。呼んだからきたんでしょう。私はね、こんなことを言いたくはないけれども、この縁側にでている金魚ね、私は、三年からもうかわいがってるんだよ。それが、ちょいちょいなくなる。今朝起きてみると、一番大きな金魚が、二ひきいなくなってる。どういうわけで、金魚がちょいちょいなくなるんだい?」
「いや、私は食べません」
「いや、お前さんが食べたとは言やあしないよ。おとなりのタマというかわいい猫がきては食べるんだよ。庭づたいにきて、縁側へあがって。猫のすることを、おとなりへ文句を言うわけにもいかないだろう。だから、人間が気をつけておくれというんだよ。わかったかい?」
「ですから、おとなりの猫がきて、うちの金魚を食べて、こっちは文句が言えないんですから、今度は、うちの金魚をけしかけて、おとなりの猫に食いつかせれば五分五分ですから……」
「そういうわからないことを言うんじゃないよ。金魚をけしかけて猫に食いつかせてどうなるんだよ? そんなことよりかも、金魚鉢を猫のとどかない高いところへあげておくれというんだよ」
「それでは、むこうにみえますお湯屋の煙突《えんとつ》の上へあげておきましょう」
「お湯屋の煙突の上に金魚をあげればどうなるんだ?」
「どうなるったって、いくら手が長くても猫はとどきませんから、安心です」
「そういうお前さんは変なことを言うもんじゃないよ。ね、それはね。煙突の上へあげれば、猫はとどかないけれども、金魚というものは、私はね、猫にとらせないために飼ってるんじゃないよ。いいかい。煙突の上に金魚鉢をあげれば、猫はとらないで安心だよ。けれども、私はながめることはできない。どうする?」
「いや、そんなことはありませんよ。望遠鏡を買ってきてみれば……」
「そういうわからないことを言うんじゃないよ。金魚鉢を煙突の上にあげて、遠くのほうから望遠鏡でながめるやつがどこにある? お前さんは、主人の言うことを『ハイ』と言ってきかないのがよくない。なんでも主人の言うことをきいてくださいよ。馬鹿でもチョンでも、主人だとおもったら、言う通りにしてください。湯殿の棚のところにあげておいてくださいよ、金魚鉢を。お前さんはね、旦那がああ言うけれども、旦那の言う通りにやってはよくないから、こうしたほうがよいとおもって、融通《ゆうずう》をきかすのが一番いけない。この前もそうだ。あまり寒くて風邪《かぜ》をひいてこまるといって、金魚をお湯のなかへいれたろう? それがよくない。なんでもいいから、私の言う通りやってください。湯殿の棚に金魚鉢をあげてください」(中略)
「金魚鉢を湯殿の棚にあげましたが、金魚は、どこへおきましょう?」
「なにを?」
「金魚鉢を棚へあげろとおっしゃったから、金魚鉢はあげましたが、金魚をどこへおきましょう?」
「金魚をどこへおきましょうって、なんだい? 変なことをいうんじゃないよ。金魚鉢といったって、金魚をいれなくっちゃいけないよ。金魚をどこへおいたんだ?」
「板の間に、みんな寝かしておきました」
というように、執拗《しつよう》な調子でつづく抱腹絶倒の世界だった。
桂|右女助《うめすけ》時代の六代目|三升家小勝《みますやこかつ》も、吉田|邦重《くにしげ》というペンネームによる自作自演の佳作が多かった。
「妻の釣り」「水道のゴム屋」などが、その代表作で、とくに「水道のゴム屋」は、彼が高座へあがれば、「ゴム屋!」と声がかかったほどの人気作であり、師匠の八代目桂文楽ゆずりの緻密な描写に近代性を加味した演出は、異色ある新作落語の味をみせた。
昔々亭《せきせきてい》桃太郎は、兄金語楼の作品も口演したが、「桃太郎後日」ほかの自作自演もかなり手がけ、レコードに吹きこんだ作品も多く、やはり昭和落語史上わすれることはできない存在といえよう。
五代目古今亭今輔には、「印鑑《いんかん》証明」のようなナンセンスものの佳作もあるが、
私が、お婆さんものをはじめましたのは、昭和三年五月、老稚園からです。
(今輔『おばあさん衆』)
というように、今輔作「老稚園」、有崎勉作「くず湯」、正岡容作「おばあさん三代姿」、鈴木みちを作「留守居番」などにおいて、そのリアルな演出によって、戦中、戦後の新作落語の世界に、〈おばあさん〉という、ひとつの人間像を確立したことは、大きな功績だった。
二代目三遊亭円歌は、金馬作の「とりつぎ電話」によって、一躍人気を高めたが、円歌のえがく近代女性には、ふしぎな色気があって、その明るい高座を華やかにいろどっていた。
このような新作落語の波は、純粋な古典派にもうちよせ、桂文楽が、林家正楽作「お百姓指南」を、四代目柳家小さんが、「湯屋番」をみずから改作した「帝国浴場」を口演するなどした。
戦前の新作落語作家としては、漫画家水島|爾保布《にほふ》宅を会場にしていた、野村無名庵、正岡容、鈴木みちを、松浦泉三郎、先代林家正楽、柳家|蝠丸《ふくまる》などの「新作落語の会」のひとたちがあり、また、「小咄をつくる会」のメンバーには、加瀬章蝶、鈴木凸太、田中空壺、野村無名庵がおり、さらには、小さん、円生(いずれも先代)を中心とする「落語更進会」には、今村信雄、野村無名庵、正岡容などがいた。
そして、「ぶたれや」「エレベーターガール」(野村無名庵)、「試めし酒」「国策靴」(今村信雄)、「かるた会」「温泉」(鈴木みちを)、「馬大家」(鈴木凸太))、「マリアの奇蹟」「気養帖」(正岡容)などの諸作のうちには、現在も口演される作品が多い。
このほか、先代林家正楽作「壺」、春風亭柳条作「電車風景」、柳家蝠丸作「女給の文」、五代目古今亭志ん生作「夕立勘五郎」なども、現在的生命を保っている。
太平洋戦争下の新作落語
やがて、戦争の暗い雲が、昭和落語界をおおいはじめたが、そのころの落語界のうごきを、柳橋のことばが、よく物語っている。
いよいよ非常時というものがはじまり、やがて、支那事変がはじまってくる。そうすると、私も「支那ソバ屋」なんかの歌を、軍歌なんかに変えなけりゃならなくなってきました。別に「軍」におもねるというのではなく、お客の気持ちが、それをもとめてきたわけなんです。毎日毎日赤紙がくる時代に、カフェーの歌でもありませんからね。しかし、小唄勝太郎さんの「娘十六恋心」はいけないということで、「紅だすき」ということに命令? で改作されたなんてのは行きすぎでしたでしょうね。
結局、世間の動きに従って、「支那ソバ屋」の中で、今までの流行歌をやっているわけにもいかず、軍歌を入れるようになったわけです。
君も人なら男なら、太平洋の……てんで、あれを歌ったのが徳山|※[#「王+連」]《たまき》。私も大好きな歌でした。「太平洋行進曲」とか、「愛馬進軍歌」とか、それから「軍艦マーチ」だとか、そういうものを「支那ソバ屋」の中に使ったわけなんです。
守るも攻めるもくろがねの
浮かべる城ぞ頼みなる……
と、ハズミをつけて、支那ソバに胡椒《こしよう》かけちゃったわけです。
(柳橋『高座五十年』)
このように、はなしのなかに、外面的に戦時色を織りこむことは、しだいにさかんになっていった。
たとえば、金語楼の「貯金帳」では、
一億一心百二十億貯蓄、百二十億と、考えただけでも、ちょっとどのくらいだろうと、見当がつかない金額ですが、国民が、「やるぞ」と、腹さえきまれば、なんでもないんだそうです。
私達が、赤ん坊で産まれたときから、七十歳ぐらいまで、飲まず食わず、寝ないで働らき通しても、百二十億には、ちと縁が遠いようです。
しかし、一億の国民が、よし、協力だ、お国のためだと、自覚したときは、もう百二十億できたときなんだそうです。してみると、大勢の力、団結力と言うものはすごいものです。
けど、中には、時局を認識しないで、ぜいたくをしたり、買いたいものを買ってる人もありますが、ぜいたくは敵だ、国民精神総動員だ、と、知らず識らずに教えこまれて、善良な日本人になる転向者も続出してくるでしょう。
というマクラや、「ただ、この銃後の御奉公にはですな、お父さん、まずなによりも、私は献金をいたそうと、こうおもいました」と、いうようなことばをいれたりして、国策協力の姿勢をしめしているが、おなじ金語楼の「箱根温泉」となると、たんに表面的に戦時色を盛りこんだにとどまらず、落語の内容全体が戦争協力の方向にむかっている。
これは、軍需景気によって、にわか成り金になった熟練工の一家のものが、身分不相応な箱根の一流ホテルに湯治にゆき、なれないホテル生活にとまどいをする失敗をえがいたはなしだが、このはなしの趣旨は、おわりの部分にあった。すなわち、
「あっ、ポケットからなにかでてきやがった。あ、これは、ゆきがけに、東京駅で、どこかの奥さんみてえな人からわたされた紙片《かみ》だ……なんだと……時局をわきまえて、無益な浪費はつつしみましょう。日本人なら、贅沢《ぜいたく》はできないはず、万事簡素と倹約を守りましょう……タハハ、これをみろよ」
「本当だねえ。道理で、行きにも帰りにも、指輪なんかはめている人はいなかったよ。あ、早くこの紙片《かみ》を読んでいたら、くだらないお金をつかい、窮屈《きゆうくつ》な思いをして、人に笑われなくともすんだのにねえ。もうもう、これにこりて、こんな処へ使うお金があったら、金坊の貯金に廻したり、国債を買ったりしましょうよ。贅沢したって、おもしろくもなんともないんだもの」
「まったくだ。ああ、これをかんがえると、おれあ、働くのが一番おもしろいや。おう、お前、素足になるのか?」
「えー、もう、足袋《たび》(旅)には、こりごりしました」
この会話のなかには、戦時中の他の芸術とおなじように、戦争協力を強制された、新作落語のねじまげられた暗いポーズがあった。
ああ「歌笑純情詩集」
太平洋戦争をはさんでの新作落語の歴史は、彗星《すいせい》のごとくあらわれた三遊亭歌笑が推進力となっていた。
われ、父の肉体より母の体内に転入し、さらに、母の体内よりこの地球上に原形をあらわしたるころは、太平洋の水、いまだすくなきころにして、打ちよする波間には、鯉やメダカや小ブナがむれあそぶ、ふたとせ以前、われらが食膳をにぎわしたるスケソウダラや電化焼き、冷凍イカなどのいまだ遊泳せざるころなりき。(中略)
われ、たらちねの体内をいでしころは、長谷川一夫遠くおよばざる眉目秀麗の男《お》の子《こ》なりしかど、世のうつりかわりとともに、わが容貌も一変し、いまや、往年のスクリーン、フランケンシュタイン第二世の再現をおもわせるごとく豹変せり。
この一連の七五調のうたい文句は、歌笑独特のぺーソスをふくんだ、そして、ユーモラスなリズムに乗って、戦争末期の寄席ファンを驚嘆させていたが、なんといっても、爆発的人気を呼んだのは戦後だった。
街にはジープが走り、ブギのリズムがひびく。モンペをぬいだ女性たちは、ひさしぶりのおしゃれをたのしみ、若い男女は、青春を謳歌する――そんな解放感にみちた東京の街に、なつかしい歌笑純情詩集の声が流れてきた。
銀座チャラチャラ人通り
赤青みどりとりどりの
きものが風にゆれている
きれいなきれいな奥さんが
ダイヤかガラスか知らねども
指輪をキラキラさせながら
ツーンとすましてあるいてる
バスや電車の警笛《けいてき》に
あわてて呼子《よびこ》を吹きながら
交通整理の警官が
銀座通りのまんなかで
踊るはタンゴかブルースか
ルンバかおけさか八木節か
遠い国からやってきた
踊る神様再来を
おもわすように浮かれでた
銀座チャラチャラ人通り
ここには、ようやくおとずれた平和なムードに、心はずませる戦後の東京のあかるい風俗図があった。
歌笑は、昭和十二年に、金馬の弟子になり、昭和十九年に、二つ目に昇進したが、金馬が、東宝系のために、一般の寄席に出演できないので、修行のため、円歌のあずかり弟子となって、純情詩集とジャズ落語とで売りだし、戦後の解放感のなかで、熱狂的な人気をえた。しかし、昭和二十五年五月三十日、銀座において、アメリカ兵のジープにはねられて即死した。
この死は、華やかで、みじかかった彼の人気を象徴するかのごとくはかなかったが、彼の活躍によって、戦後の落語界が息を吹きかえし、それが、ひいては、現在の落語界の繁栄につながる基盤となったことをおもうと、その芸の巧拙はともかくとして、彼の存在は、昭和新作落語史上、というよりも、日本落語史上においても貴重なものだった。
新 作
歌笑をまねた柳亭痴楽《りゆうていちらく》が、これまた、七五調の「痴楽つづりかた狂室」なるものをはじめて人気をえた。
それはたとえば、「恋の山手線」と題して、
上野をあとに池袋、走る電車は内廻り、わたしは近ごろ外廻り、彼女はきれいな鶯《うぐいす》芸者、日暮里笑ったあの笑窪《えくぼ》、田端を売っても命がけ、おもうはあの娘《こ》のことばかり、わが胸の内駒込と、愛の巣鴨へつたえたい、大塚なびっくり度胸を定め、彼女に逢いに池袋、行けば男が目白押し、あんな女はだめだよと、高田馬場や新大久保の、おじさんたちの意見でも、新宿聞いてはいられません……
とつづくようなタイプのもので、詩情において、歌笑におよばず、マンネリズムにおちいってしまった。
一方、戦後からひきつづいて、金馬、円歌、今輔、小勝、権太楼など、新作派の大物連も、レパートリーをふやして活躍していたが、そのほとんどが世を去り、今輔ひとりだけが、得意の〈おばあさん〉の世界を心強く掘りさげている。
テレビ時代にはいって、まず特筆すべきは、林家三平の奮闘ぶりだ。
三平は、父親の先代正蔵ゆずりの瓢逸な個性と、こぼれるような愛嬌という武器をひっさげて、スピーディな話術によって展開する〈海老名さん〉〈山田さん〉〈よし子さん〉のコントのかずかず、リズム落語と称する歌入りコントなどによって、新時代の観客をキャッチし、終戦直後の歌笑につづいて、戦後落語ブームの〈種蒔くひと〉となったことは、これまた、昭和新作落語史上において記憶されねばならない。
三平とともに、三代目三遊亭円歌の存在も大きい。
彼は、歌奴時代に、石坂洋次郎の「何処へ」にヒントをえたという自作自演の佳作「授業中」で絶大の人気を博したが、その人気と、口演回数からいえば、おそらく金語楼の「兵隊さん」とならぶ昭和落語史上の代表作といってよかろう。彼には、このほか、「浪曲社長」「月給日」など、個性を生かした自作自演物があり、さらに強力な第二弾、第三弾によって、めぐまれた個性をより生かすなら、新作落語界の大御所としての地位が約束されよう。
そのほかには、自作自演の「電車風景」「夢のやきもち」などで、ソフトで軽快な高座を展開して広い人気を持つ桂米丸、自作自演の「乾草車」などで、緻密な描写力によって、着実に腕をあげている三遊亭円右、これまた、自作自演の「ガード下」その他で、瓢々たる持ち味でファンをよろこばせる春風亭|柳昇《りゆうしよう》、「佐藤栄作伝」「毛沢東伝」など、時事的テーマの自作自演で異彩を放つ柳家つばめ、さらには、四代目三遊亭金馬、三笑亭笑三、桂歌丸などの活躍もあって、新作落語の世界は活発であり、とくに、円歌、金馬、米丸たちの「創作落語会」を代表とする多くの発表会もあって、なかなかめざましいものがある。
作家では、正岡容、鶯春亭梅橋《おうしゆんていばいきよう》は没したが、玉川一郎、鈴木みちを、松浦泉三郎、神津友好、大野桂、丸目狂之介など、「落語漫才作家長屋」のひとたちが健筆をふるっており、あかるい材料は豊富で、今後のよりよき実りが期待される。
なお、異色というべきは、村上元三、平岩弓枝、山田洋次など、文壇や映画界の作家たちによるマゲをつけた新作が多数書かれたことだった。
そのなかの、林家正蔵が、昭和四十年に、芸術祭奨励賞をうけた、平岩弓枝作「笠と赤い風車」をとりあげてみよう。
ひとのいい継母おせんの好意を、ことごとく誤解してぐれた常吉は、仙吉という、わるいヒモつきの女おきんにそそのかされ、おせんの持つ十五両をだましとって旅へでた。そのとき、おせんは、常吉の生母の形見《かたみ》の赤い風車を、彼の笠につけてやった。途中、おきんと仙吉は、常吉を谷川へつきおとして金をうばったが、常吉は、笠がからだをささえるようなかっこうで水に浮いていたので、ようやく助かることができた。いまこそ、継母おせんの愛情にめざめた常吉が、江戸へとんで帰ると、おせんは、息をひきとったあとだった。しかも、おせんは、ふしぎにも、両手をまっすぐ空へあげて、なにか重いものを必死にささえるようなかっこうで、水につかったように、ぐっしょり汗にぬれて息が絶えたという。「おっかさん、おっかさん」と、子どものように泣きじゃくる常吉の背なかの笠についた風車が、風もないのに、「カラカラカラ」と、ちいさな音をたててまわっていた。
この種の人間性をえがく人情噺や落語が、新作の分野をより巾広いものとしつつあることも心強い。
(一九七三年十月)
○編著者 |興津 要《おきつ かなめ》
一九二四年栃木県生まれ。早稲田大学国文科卒。早稲田大学教授。日本近世文学、ことに江戸戯作を専攻。一九九九年没。著書、「転換期の文学――江戸から明治へ」「明治開化期文学の研究」「新聞雑誌発生事情」「小咄 江戸の一年」「江戸庶民の風俗と人情」「江戸小咄漫歩」ほか多数。
*
本書収録の作品の一部に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、古典落語という作品の性質上、一応そのままとしました。ご了承ください。