古典落語 大尾 興津 要 編
目 次
金明竹《きんめいちく》
牛ほめ
花見の仇討《あだう》ち
つづら泥
山崎屋
反対車
将棋《しようぎ》の殿さま
豆 屋
長者番付
のめる
みいらとり
胆《きも》つぶし
だくだく
金玉医者
こうふい
首ったけ
喜撰《きせん》小僧
ねこの茶わん
ちきり伊勢屋
お茶汲《く》み
犬の目
片《かた》 棒《ぼう》
そば清
茗荷宿屋《みようがやどや》
穴どろ
いいわけ座頭《ざとう》
≪上方篇≫
仏師屋盗人
でんがく食い
吹き替えむすこ
猿後家
猫の災難
誉田屋《ほんだや》
解 説
金明竹《きんめいちく》
「与太郎や、どうして、ねこのひげなんぞぬくんだい? ねずみとらなくなっちまうじゃあないか……おまえなあ、よそさまの赤ちゃんに、なにか食べさせちゃあいけないよ。おとなりの赤ちゃんに、なにを食べさせたんだ?」
「食べなかった」
「食べても食べなくってもあげちゃいけないんだ。いったい、なにを食べさせようとしたんだ?」
「お守《も》りさんが、いくらあやしても泣きやまないもんだからね、あたいが食べさしたら、すぐに吐きだしちまった」
「だから、なにを食べさせたんだ?」
「かかとの皮」
「ばかっ、そんなものをどうして、食べさせたんだ?」
「お菓子とまちがえて食べるかとおもったら食べなかった。あの赤ん坊は、かかとの皮がきらいだね」
「だれだってきらいだよ……つまらないことをしていないで、おもてでも掃除しな。ほうきを持ってきて掃《は》くんだよ。早くやりなさい……ああ、ひどいほこりだなあ。待て待て、水をまきな、水を……掃除をする前には水をまくもんだ。よくおぼえておきなよ……おいおい、もっとまんべんなくまくんだ。水ったまりがあったり、かわいたところがあったりしちゃあいけない。もっとうまくまいて……あっ、どうもすみません。とんだ失礼いたしまして……みろっ、よそのかたに水をかけちまって……よくみないでまくから、そういうことになるんだ。往来へいって、こっちへむかってまきな……あっ、あっ、お店へはいっちまうじゃないか。もういいよ。まかなくっていいから、二階へいって、二階の掃除をしな……おや? なんだろう? 二階から水がたれてきたが……花びんでもひっくりかえしたんじゃないかな……おい、与太、どうかしたか?」
「ああ、掃除する前だから、水をまいたんだ」
「ばかっ、おもてと座敷といっしょにするやつがあるか! もう掃除はいいから店番《みせばん》してなさい、店番を……」
「うん……店番のほうが楽《らく》でいいや……あれっ、雨が降ってきたぞ。なんだ、水まいて損しちゃった」
「ごめんください」
「なんだい?」
「雨やどりに、ちょっと、お軒《のき》さきを拝借したいんですが……」
「軒さきなんぞ持ってっちゃあこまるよ」
「いいえ、持っていくわけじゃございません」
「ああ、そうか。傘がなくってこまってるんだな」
「ええ」
「そんなら貸してやろうか?」
「お貸しいただけますんで? そうしていただければ、急ぎの用があるんで、たすかりますが……」
「じゃあ、これを持っといでよ」
「これは、どうもありがとうございます」
「与太や」
「ええ?」
「雨が降ってきたようだな」
「ああ」
「どなたかいらしったんじゃあないか?」
「ああ、雨やどりさしてくれって」
「どうした?」
「傘貸してやった」
「ふーん……どちらのかただ?」
「あちらのかた」
「指さしたってわからないよ。どんなひとだ?」
「うん、顔があって、目と鼻がある……」
「そんなことはあたりまえだ。知ってるひとか?」
「ううん、知らないひと」
「ところ番地でも聞いといたか?」
「聞かない」
「そんなひとに貸しちゃいけないなあ。番傘か?」
「伯父《おじ》さんの蛇《じや》の目《め》」
「あれっ、まだ買ったばかりで一ぺんもつかわない傘じゃないか。どうも、あきれかえったもんだ……たとえ貸してくださいといっても、知らないひとだったらおことわりするもんだ。傘なんてえものは、お天気になると、ついついわすれてかえさなくなるもんなのだから……」
「ああ、じゃあ、こんどはことわらあ。おまえは、かえさないから貸さないよって……」
「そんなことをいうやつがあるもんか……こういってことわるんだ。『貸し傘も、なん本もございましたが、このあいだから長じけで、つかいつくしまして、骨は骨、紙は紙と、ばらばらになりまして、つかい道になりませんから、たきつけにしようとおもって、物置きへほうりこんであります』と、こういってことわれ」
「ああ」
「わかったか?」
「うん。こんどは、そういってことわるよ」
「ごめんください」
「なんだい?」
「すじむかいの近江屋《おうみや》でございますが、天井《てんじよう》で、ねずみがあばれてしかたがございませんので、ねこがあそんでたら、ひとつ貸してくださいまし」
「うふっ、きたな」
「え?」
「うちに貸しねこもなんびきもいましたが……」
「へっ?」
「こないだからの長じけで、つかいつくして、骨は骨、紙は……ああ、ねこに、紙はなかった……皮は皮で、ばらばらになりまして、つかい道になりませんから、たきつけにしようとおもって、物置きへほうりこんであります」
「えっ、ねこをたきつけに?」
「おい、与太や」
「ええ?」
「どなたかいらしったようだな?」
「ああ、すじむこうの近江屋……」
「呼びすてにするやつがあるか」
「さん」
「いまごろ、さんづけにしてどうするんだ。なんのご用だ?」
「天井で、ねずみがあばれてしようがないから、ねこを貸してくれって……」
「貸してあげたのか?」
「ことわっちゃった」
「なんだって?」
「うちに、貸しねこもなんびきもいましたが……」
「貸しねこ?」
「こないだからの長じけで、骨は骨、皮は皮で、ばらばらになりまして、つかい道になりませんから、たきつけにしようとおもって、物置きへほうりこんであります……」
「ばかっ、それは、傘のことわりかたじゃあないか。ねこならねこのように、ちゃんとことわりようがあるんだ。いいか? 『うちに、ねこも一ぴきおりましたが、このあいだから、さかりがつきまして、とんとうちに帰りません。ひさしぶりで帰ってきたとおもったら、どっかで、えびのしっぽでも食べたんでしょう。おなかをくだしまして、お宅へおつれして、もしもお座敷へそそうをするといけません。またたびをなめさして寝かしてあります』と、こういうんだ」
「ふーん」
「わかったか?」
「ああ、こんどきたら、そういうよ」
「ごめんくださいまし」
「なんだい?」
「へえ、横丁の越後屋《えちごや》からまいりましたが、ごくろうでございますが、目ききをしていただきたいものがございますんで、こちらの旦那さまに、ちょいとおいでをねがいたいんでございますが……」
「ああ、旦那か……うちに、旦那も一ぴきいましたがねえ、こないだからね、さかりがつきまして……」
「えっ? 旦那に、さかりが?!」
「ええ、とんとうちに帰りません。ひさしぶりで帰ってきたとおもったら、どっかで、えびのしっぽでも食べたんでしょう、おなかをくだしまして……」
「それは、それは……」
「お宅へおつれして、もしもお座敷へそそうをするといけませんから、またたびをなめさして寝かしてあります」
「それはたいへんなことで……では、あらためてお見舞いにうかがいます」
「与太や」
「ええ?」
「どなたかいらしったのか?」
「うん、横丁の越後屋……さん」
「なんのご用だ?」
「なんだか知らないけれど、目ききをしていただきたいから、伯父さんにきてくれって……」
「そうかい。じゃあ、いってこよう」
「ことわっちゃったよ」
「なんだって?」
「うちに、旦那も一ぴきいましたが……」
「一ぴき?!」
「こないだから、さかりがつきまして……」
「おいおい、なんてことをいうんだ。じょうだんじゃあない」
「とんとうちに帰りません。ひさしぶりで帰ってきたとおもったら、どっかで、えびのしっぽでも食べたんでしょう、おなかをくだしまして、お宅へおつれして、もしもお座敷へそそうをするといけませんから、またたびをなめさして寝かしてあります」
「ふざけちゃあいけない。そりゃあ、ねこだよっ……恥ずかしくっておもてへでられやしない……羽織をだしとくれ。ちょいといって、わけをはなしてくるから……おい、与太、お客さまがみえたら、伯母《おば》さんにそういいなよ」
「ああ」
「ああなんていう返事があるか。『はい』っていうんだ」
「ああ」
「あれっ、まだ、ああっていってる。しようがないなあ。じゃあ、いってくるから……」
「あっはっはっは、とうとういっちまった。伯父さんもいいけど、のべつ叱言《こごと》ばっかりいってるからかなわねえや」
「ごめんやす。ええ、ごめんやす」
「なんだい?」
「旦那《だな》はん、お在宅《うち》でやすか?」
「え?」
「旦那はん、お在宅でやすか? あんた、でっちはんだっか? わてなあ、中橋《なかばし》の加賀屋佐吉かたから参じましたん。へえ、先度《せんど》、仲買いの弥市がとりつぎました道具七品《ななしな》のうち、祐乗《ゆうじよう》、光乗《こうじよう》、宗乗《そうじよう》三作《さんさく》の三所《みところ》もの、ならびに、備前長船《びぜんおさふね》の則光《のりみつ》、四分一《しぶいち》ごしらえ|横谷宗※[#「王へんに民」]《よこやそうみん》小柄《こづか》つきの脇差し、柄前《つかまえ》はな、旦那《だな》はんが古《ふる》鉄刀木《たがや》といやはって、やっぱりありゃ埋《うも》れ木《ぎ》じゃそうに、木がちごうておりまっさかいなあ、念のため、ちょとおことわり申します。つぎは、のんこの茶わん、黄檗山金明竹《おうばくさんきんめいちく》、ずんどうの花いけ、古池や蛙《かわず》とびこむ水の音と申します、あれは、風羅坊正筆《ふうらぼうしようひつ》の掛けもので、沢庵《たくあん》、木庵《もくあん》、隠元禅師《いんげんぜんじ》はりまぜの小屏風《こびようぶ》、あの屏風はなあ、もし、わての旦那の檀那寺《だんなでら》が、兵庫におましてなあ、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、兵庫へやり、兵庫の坊主の屏風にいたしますと、かようおことづけねがいます」
「あっはっは、こりゃあおもしろいや。お銭《あし》やるから、もういっぺんやってごらん」
「わて、ものもらいとちがいまんがな……なあ、よう聞いとくんなはれや。わて、中橋の加賀屋佐吉かたから参じました。先度、仲買いの弥市がとりつぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所もの、ならびに備前長船の則光、四分一ごしらえ|横谷宗※《よこやそうみん》小柄つきの脇差し、柄前はな、旦那はんが古鉄刀木といやはって、やっぱりありゃ埋れ木じゃそうに、木がちごうておりまっさかいなあ、念のため、ちょとおことわり申します。つぎは、のんこの茶わん、黄檗山金明竹、ずんどうの花いけ、古池や蛙とびこむ水の音と申します、あれは、風羅坊正筆の掛けもので、沢庵、木庵、隠元禅師はりまぜの小屏風、あの屏風はなあ、もし、わての旦那の檀那寺が、兵庫におましてなあ、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、兵庫へやり、兵庫の坊主の屏風にいたしますと、かようおことづけねがいます」
「うわあ、こりゃあおもしれえや。なんべん聞いてもわからねえ。ひょうごのひょうごのって……伯母さん、聞いてごらん。よくしゃべる乞食がきたよ」
「まあ、なんですねえ。失礼なことをいうんじゃありませんよ……いらっしゃいまし。これは、親戚からあずかりましたおろかしいものでございまして、たいへんに失礼いたしました……あのう、どちらからおいででございます?」
「ああ、お家《いえ》はん(おかみさん)だっか?」
「はい」
「あのう、旦那はん、お留守でやすか? それではなあ、ちょとおことづけねがいます。わて、中橋の加賀屋佐吉かたから参じましたん。先度、仲買いの弥市のとりつぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所もの、ならびに備前長船の則光、四分一ごしらえ横谷宗※小柄つきの脇差し、柄前はな、旦那はんが古鉄刀木といやはって、やっぱりありゃ埋れ木じゃそうに、木がちごうておりまっさかいなあ、念のため、ちょとおことわり申します。つぎは、のんこの茶わん、黄檗山金明竹、ずんどうの花いけ、古池や蛙とびこむ水の音と申します、あれは、風羅坊正筆の掛けもので、沢庵、木庵、隠元禅師はりまぜの小屏風、あの屏風はなあ、もし、わての旦那の檀那寺が、兵庫におましてなあ、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、兵庫へやり、兵庫の坊主の屏風にいたしますと、かようおことづけねがいます」
「これ、お茶をもってらっしゃい……あのう、これに叱言《こごと》いっておりまして、ちょいと聞きとれなかったもんですから、申しわけございませんが、もう一度おっしゃっていただきたいんで……」
「ああ、さよかあ……わて、でっちはんに二度、あんたはんに一度だっせ、もう口が酸《す》うなってまんねん。よう聞いとくんなはれや。わて、中橋の加賀屋佐吉かたから参じましたん。先度、仲買いの弥市がとりつぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所もの、ならびに備前長船の則光、四分一ごしらえ、横谷宗※小柄つきの脇差し、柄前はなあ、旦那はんが、古鉄刀木といやはってやった、あれ、埋れ木じゃそうになあ、木がちごう……よく聞いとくんなはれや、木がちごうとりますさかい、念のため、ちょとおことわり申します。つぎは、のんこの茶わん、黄檗山金明竹、ずんどうの花いけ、古池や蛙とびこむ水の音……ありゃ風羅坊正筆の掛けもの、沢庵、木庵、隠元禅師はりまぜの小屏風、あの屏風はなあ、わての旦那の檀那寺が兵庫におましてな、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって兵庫へやり、兵庫の坊主の屏風にいたしますと、かようおことづけねがいます。ごめんやす」
「あの、もし、あなた……ほら、ごらんよ。おまえが、げらげら笑うから、なにをいってたか、ちっともわからないじゃないか。旦那が帰っていらしったら、なんていったらいいか、こまっちまう……」
「あたい知らないよ。伯母さんが聞いてたんだもの……ひょうごの、ひょうごのって……」
「ただいま帰りました」
「お帰んなさいまし」
「与太が、またなにかやったのかい?」
「はい……あの……いま、お客さまが、おみえになりました」
「そうかい……で、与太がどうした?」
「お茶を持っといでと申しますのに、お客さまのうしろへ棒立ちに突っ立って、大きな口をあいて、げらげら笑ってます」
「まあ、ばかだからしようがないさ。どちらのかたが、おいでになったんだい?」
「いま、お帰りになったばかりですが、途中で、お会いになりませんでしたか?」
「いいや、会わなかった。どちらのかただ?」
「あちらの……」
「どういうかただ?」
「ええ、羽織を着て、着物を着て、帯をしめて、顔があって、目と鼻のある……」
「おいおい、ばかなことをいってちゃあこまるなあ。おまえにまで与太郎のばかが、うつったんじゃないか? どこのなんてえひとが、なんの用で、おみえになったんだい?」
「あのう……それが、上方《かみがた》のほうのことばらしゅうございまして、早口で、わからないところが、ときどきあるんで、ゆっくり聞いていただけば、おもいだしながら申しあげます」
「ああ、ゆっくり聞くから……どこのひとが、なんの用で、おみえになったんだい?」
「中橋の加賀屋佐吉さんが……」
「おう、会いたかった、佐吉さんが?」
「いいえ、そこから、おつかいが……」
「つかいが?」
「仲買いの弥市さん……」
「ああ、弥市がきたのか?」
「いいえ、そのひとが、気がちがったんです」
「えっ、気がちがった?! そりゃあたいへんだ。どうした?」
「気がちがいましたから、おことわりにまいりましたってんです」
「おかしいな……それから、どうした?」
「ええ……遊女を買ったんです……それが、孝女なんです」
「うん」
「掃除が好きなんです」
「へーえ?」
「それで、千艘《せんぞ》や万艘《まんぞ》ってってあそんでて、しまいに、ずん胴斬りにしちゃったんです」
「なんのことだい? ……まあいいや……それで、どうした?」
「それから、あの……つかまえようとしたんですが……小づか……小づかいがないかといって……つかまんなかったんです」
「なんだか、さっぱりわからないなあ」
「で、隠元豆に沢庵ばっかり食べて、いくら食べても、のんこのしゃあ……」
「ちっともわからないなあ……それで?」
「それで、あの、備前の国へ親舟でいこうとおもったら、兵庫へいっちゃったんです。で、兵庫にお寺があって、そこに坊さんがいて、まわりに屏風を立てまわして、なかで、坊さんと寝たんですって……」
「ああ、そりゃあ色気ちがいだ……しかし、どうもよくわからないなあ……仲買いの弥市が気がちがって、遊女を買って、千艘や万艘とあそんで、孝女で掃除が好きで、隠元豆に沢庵ばっかり食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。備前の国へ親舟でいこうとおもったら、兵庫へいっちまって、兵庫にお寺があって、坊さんがいて、まわりに屏風を立てまわして、なかで、坊さんと寝ただなんて……なんのことなんだい? どこか一箇所《いつかしよ》ぐらい、はっきりおぼえてないかい?」
「ああ、そういえばおもいだしました。たしか、古池へとびこんだとか……」
「えっ、古池へとびこんだ?! ……早くいいなさい、そういうことは……あのひとには、道具七品ってものがあずけてあるんだが、買ってかなあ?」
「いいえ、買わず(蛙《かわず》)でございます」
牛ほめ
「与太郎、ここへこい」
「なんだい? おとっつぁん」
「そこへ坐れ」
「ああ」
「いまな、おれがここで聞いていたら、おまえ、おもてでもってなにかいってたな」
「なにもいってやしねえよ」
「うそをつけ。おれはちゃんと聞いてるんだ。なにかいってたろう?」
「……それじゃあ、はなすがね、いま、おもてであそんでいると、横町の源兵衛さんがきたんだ」
「ふーん」
「するとね、へんな顔をしてるから、『どうかしたのかい?』と聞くとね、『どうも痔《じ》でこまる』というんだ」
「ふーん」
「だから、おれ、いってやったよ。『お尻《しり》のまわりに、あめの粉をふればいいって……』……そうすると、源兵衛さんが、『それは、おまじないか?』と聞くから、『なあに、あめ降《ふ》ってじかたまるだ』といったら、源兵衛さん、かんかんに怒りゃあがった」
「なにをくだらねえことをいってるんだ。おまえが、そんなくだらねえことをいってるから、ご近所で、おまえのことをわるくいうんだ。なんといってるか知ってるか?」
「うん、みんなが、おめでたい、おめでたいといってくれらあ」
「よろこんでるやつがあるか。親の身にもなってみろ。おまえがおめでたいなんぞいわれて、いい気持ちがするとおもうか?」
「そんなものかなあ」
「のんきなことをいってるんじゃあねえ……きょうは、おつかいにいってこい」
「どこへいくんだい?」
「伯父《おじ》さんのとこへいくんだ」
「ああ、佐兵衛のとこか」
「ばかっ、佐兵衛てえやつがあるか。おまえの伯父さんじゃあないか」
「伯父さんだって、佐兵衛は佐兵衛じゃねえか……あすこへはいかねえや。おれのことを、ばかばかといって、わりいこともしねえのに、叱言《こごと》ばっかりいってやがる」
「それはな、おまえが、役に立つとおもうからだ。役に立たねえとおもやあ、叱言なんぞいうもんか。人間、叱言をいわれるうちが花だ」
「それじゃあ、あしたっから花を咲かせようか。ええ、枯れ木に花を咲かせましょう」
「ばかっ、花咲かじじいみたいなことをいってるんじゃあねえ……伯父さんのところへおつかいにいくんだ」
「そうか。じゃあ、いってこよう」
「待て待て、ばかのくせに気が早い。いきなりとびだしていってどうするんだ? なんのつかいにいくかわかってるのか?」
「ううん、知らねえ」
「知らないで、むやみに駈《か》けだすやつがあるか……じつはな、こんど、伯父さんが、うちを新築したんだ。四、五日前に、おれが、ちょっとみにいったが、伯父さんがいなかったので、そのまま、なんにもいわずに帰ってきてしまった。だから、きょうは、おまえがいって、うちをほめてくるんだ」
「ふーん、なんといって?」
「いま、おとっつぁんが教えてやるから、よく聞いてろ。先方へいったら、ていねいにおじぎをするんだ。おじぎがすんだら、あいさつだぞ。『伯父さん、しばらくでございました。いつもごきげんよろしく結構でございます。先日は、父があがりまして、いろいろとご厄介になりまして、ありがとう存じます。このたびは、ご普請《ふしん》が、りっぱにおできになっておめでとうございます。ええ、ご新宅を拝見にまいりました』といえば、『まあ、こっちへおいで』といって、奥へ通す。通ったら、あたりをみて、『ああ、どうも伯父さん、失礼ですが、この木口《きぐち》の高いところ、工手間《くでま》の高いところを、よくゆきとどいてできあがりましたねえ』と、ほめておいて、まあ、木もいろいろつかってあるけれども、檜《ひのき》が、いちばんよけいにつかってあるから、『家《うち》は、総体《そうたい》檜づくりでございますな。畳は備後《びんご》の五分縁《ごぶべり》で、左右の壁は砂摺《すなず》りでございますな。天井《てんじよう》は、薩摩《さつま》の鶉杢《うずらもく》でございますな。結構なお庭でございます。お庭は、総体|御影《みかげ》(御影石)づくりでございますな』と、まあ、これくらいのことをいやあ、むこうでおどろく」
「むこうよりも、おれのほうがおどろかあ」
「なにをおどろく?」
「なんだか長くってわからねえ」
「一度でわかるもんか。おれのいう通りにやってみろ」
「なにを?」
「おれのいう通りにまねしていうんだ」
「そうか。さあ、なんとでもいってみろ」
「なんだ、親にむかって、いってみろというやつがあるか……いいか、はじめるぞ……家は、総体檜づくりでございますな」
「家は、総体ヘノコづくりで……」
「ヘノコじゃあない。檜だよ」
「檜でございますな」
「畳は、備後の五分縁《ごぶべり》で……」
「畳は、貧乏で、ぼろぼろで……」
「そうじゃあない。備後の五分縁だ」
「畳は、備後の五分縁で……」
「左右の壁は、砂摺《すなず》りでございますな」
「佐兵衛のかかあは、ひきずりで……」
「ばかっ、佐兵衛のかかあというやつがあるか。そんなことをいったら、伯父さんになぐられるぞ。左右の壁は、砂摺りでございますなだ、まちがえるな……天井は、薩摩の鶉杢《うずらもく》でございますな」
「天井は、さつまいもとうずらまめ……」
「よけいなことをいうな。なんだ、それは?」
「おれが食いてえんだ」
「おまえの食いたいものなんぞ、どうでもいい。薩摩の鶉杢という木の名前だ」
「なーんだ、木の名か」
「結構なお庭でございます。お庭は、総体御影づくりでございますな」
「結構なお庭でございます。お庭は、総体見かけだおしで……」
「見かけだおしじゃあねえ。御影づくりだ」
「お庭は、総体御影づくりでございますな」
「そうだ。わかったか?」
「ちっともわからねえ」
「わからねえ? なんのために稽古《けいこ》したんだ……じゃあ、しようがねえから、おれが、仮名で書いてやる……さあ、書いてやったぞ。これを伯父さんにみられないようにそーっと読むんだ。これだけのことをいってみろ。こののちは、ばかといわずに、与太郎とか、与太さんとかいってくれるぞ……それから、これからさきがむずかしい。伯父さんのどてっ腹をえぐってやれ」
「出刃庖丁《でばぼうちよう》でか?」
「ばかっ、出刃庖丁でえぐってたまるもんか。りくつでえぐるんだ……あのな、台所が、まことにりっぱにできているんだ。きっと、おまえをそこへつれていくから、台所の正面にある大黒柱をよくみるんだ」
「なんだい?」
「その柱のまんなかに、大きな節穴《ふしあな》が、ひとつあいてるんだ。どうしてあんなへまをやったんだかわからねえが、いまさら埋《う》め木をして、大きな柱をきずものにしてもこまるし、なんとか穴がかくれる方法はないかと、伯父さんが、ひどく気にしているそうだ。だから、もしも、その節穴をみせたら、おまえが、こういうんだ」
「うん、なんというんだ?」
「『お座敷の柱ではなし、台所の柱ですから、そんなに気をもむことはありません。けれども、そんなに気になるなら、失礼ですが、穴のかくれるよい方法をお教えいたしましょうか』というと、伯父さんは、なにをいってやがるという顔をしているにちげえねえ。そこんところで、おまえが、こういうんだ。『伯父さん、そんなに節穴が気になるなら、台所だけに、穴の上へ秋葉さま(秋葉神社は火難よけの神)のお札《ふだ》をはってごらんなさい。穴もかくれますし、火の用心にもなりましょう』というと、伯父さんが感心して、小づかい銭ぐらいくれるだろう」
「ありがてえな。お小づかいをくれるかい?」
「くれるだろうよ」
「いくらくれるい?」
「そりゃあ、もらってみなければわからねえ」
「くれなかったら、おとっつぁん、立てかえるかい?」
「そんなことができるもんか。よけいなことをいってねえで、よくおぼえておけ。穴をみたら、秋葉さまのお札をはってごらんなさい。穴もかくれますし、火の用心にもなりましょうっていうんだぞ。いいか、わすれちゃあいけねえよ」
「ああ、わすれねえよ」
「それからな、こないだ、牛を買ったなんていってたから、ひょっとすると、牛をみせるかも知れねえ。みせたら、牛もほめるんだ」
「じゃあ、いってくらあ」
「こらこら、待てよ。牛のほめかたを知ってるのか?」
「知ってるよ」
「そりゃあ感心だ。なんといってほめる?」
「牛は、総体檜づくりでございます」
「そりゃあ家《うち》だ。家と牛とはちがう」
「うちとうし……ちょっとのちがいだ」
「くだらねえりくつをいってるんじゃあねえ……牛のほめかたはむずかしいぞ。牛というものは、天角《てんかく》、地眼《ちがん》、一黒《いつこく》、鹿頭《ろくとう》、耳小《にしよう》、歯合《しごう》といって、角《つの》は天にむかい、眼は地をにらみ、毛は黒く、あたまは鹿に似て、耳はちいさく、歯の合っているのがいいんだ。まあ、そうそろったのはねえが、そうほめとけば、まずまちがいはねえ。また、稽古のために、いっしょにやるんだ」
「うん」
「さあ、稽古だぞ……いいか、天角、地眼」
「天角、地眼」
「一黒、鹿頭」
「一石六斗」
「耳小、歯合」
「二升四合八|勺《しやく》」
「なんだい、その八勺てえのは?」
「これは、おまけだ」
「おまけなんぞいらねえよ」
「まけなければ売れねえぜ」
「あれっ、牛を売る気でいやがる。そんなところでまけるこたあねえんだ。耳小、歯合てえんだ。米をはかってるんじゃあねえぞ……どうだ、わかったか?」
「わからねえ」
「しようのねえやつだなあ。さあさあ、それも書いてやろう……さあ、書いたから、これを持っといで」
「牛をほめたら、いくらくれるい?」
「いくらくれるかわかるもんか。ばかのくせに欲ばるな。そんなことよりは、まちがいないようにやってこい」
「それじゃあ、いってくるよ」
ほどなくやってきたのが、佐兵衛さんの新宅でございます。
「ああ、ここだ、ここだ。ええ、ごめんください、ごめんください……あれっ、留守かな? こんちはあ、お留守ですか? それとも死に絶えたかい?」
「だれだ? 縁起でもねえ、死に絶えたなんて……こっちへはいんな。ああ、与太か、よくきたな、ばあさんや、与太がきたよ。さあさあ、こっちへあがんな。……ちょっとみねえうちに、おまえ、たいそう大きくなったな」
「伯父さんも、ちょいとみねえうちに、たいへんに大きくなっちまったな」
「いやなお世辞《せじ》だな。まあ、いいや……で、なんの用だ?」
「えーと……伯父さん、ちょいとむこうをむいておくれ……こっちにも都合があるから……さあさあ、ここで、ないしょで読まなくっちゃあならねえ」
「おまえ、なにをひとりごといってんだ?」
「なあに、こっちのことで……ええ、伯父さん、しばらくでございました。いつもごきげんよろしく結構でございます」
「なんだい、いまさらあらたまって……」
「ちょっとだまっててくれなくっちゃあこまるなあ。どこまでいったか、わかんなくなっちまうから……ええ、先日は、父があがりまして、いろいろとご厄介になりまして、ありがとう存じます。このたびは、ご普請が、りっぱにおできになっておめでとうございます。ご新宅を拝見にまいりましたと……どうだい、よく読めたろう?」
「なんだ? よく読めた?」
「いいえ、なんでもねえんだよ」
「まあ、なんにしても、おまえもえらくなってきたな。ゆっくりあそんどいで。ひさしぶりだから、ごちそうをしよう」
「ちょっと待っとくれよ。まだあるんだから……」
「まだある? なにが?」
「伯父さん、失礼ですが、この木口の高いところ、工手間の高いところを、よくゆきとどいてできあがりましたねえ」
「ああ、ありがとうよ」
「もう、読まねえでもいえるぞ……家は、総体ヘノコづくりでございますな」
「檜だよ」
「そうそう、畳は貧乏で、ぼろぼろで、佐兵衛のかかあはひきずりだ」
「なんだと?」
「で、天井は、さつまいもとうずらまめでしょう?」
「それは、薩摩の鶉杢だ」
「ああそうか、ちがったかな? ……ええと、やっぱり、薩摩の鶉杢と書いてあらあ……伯父さんのほうがよく知ってらあ、それからどうしたい?」
「おまえがいうんだ」
「ああそうだ……伯父さん、こっちむいちゃあだめだよ。むこうをむいててくんなくっちゃあ……ええと、それから……結構なお庭でございます」
「おまえ、なにか読んでるな。すこし待ちねえ。庭をほめてくれるのはありがてえが、ここから庭はみえねえ。むこうへいかなければ……」
「ああそうか。すこし早まったかな? ……じゃあ、伯父さん、そろそろ、どてっ腹をえぐるぞ」
「なんだと?」
「いいえ、こっちのことで……台所をみせておくれ」
「台所なんぞみたってしようがねえだろう?」
「じょうだんいっちゃあいけねえ。ここが、いちばんかんじんなところだ」
「おかしいな、いうことが……どうだ、うちの台所は広いだろう?」
「ああ、ずいぶん広いなあ。おれのうちぐらいあらあ……さて、柱、柱、柱と……あれっ、どこだろう?」
「おい、なにをきょろきょろしてるんだ?」
「どっかへなくなっちまった」
「なんだい、べそをかいて、腹でもいたいのか?」
「ううん……柱が、どっかへ……ああ、あった、あった」
「なにがあったんだ?」
「伯父さん、この柱に、大きな節穴があるね」
「おまえにも、これが目につくか? 埋め木をすりゃあいいんだが、これだけの柱がきずものになっちまうし、なんとか穴のかくれる方法はねえかと、ひどく気になってるんだ」
「伯父さん、お座敷の柱でなし、台所の柱ですから、そんなに気をもむことはありません。けれども、そんなに気になるなら、失礼ですが、穴のかくれるよい方法をお教えしましょうか?」
「おめえがか?」
「ううん、わけはねえんだ。そんなに節穴が気になるなら、台所だけに、穴の上へ秋葉さまのお札をはってごらんなさい。穴もかくれますし、火の用心にもなりましょう」
「なに? 秋葉さまのお札を? ……うーん、なるほどなあ、座敷とちがって、台所だけに秋葉さまのお札か……なるほど、穴がかくれるし、火の用心がいいや……与太、おめえは、ばかだ、ばかだというけれども、なかなかどうして、ばかどころのさわぎじゃあねえや。秋葉さまのお札とはかんげえたな。おそれいった。感心、感心」
「なにいってんだい。ただ感心しててもしようがねえや……伯父さん、なにかわすれものがあるだろう?」
「なんだ?」
「わすれものがさ」
「そんなものはねえ」
「あるんだよ、わすれものが……」
「なんだ? 手なんぞだして……ああ、ほうびの催促か? ……うん、やるよ、やるよ」
「いくらくれる?」
「ねだんをきめるのか? よしっ、感心だから、一円やろう」
「ふふふ、勘定通りになっちまった」
「ひでえやつだ。たくらんできたな」
「こんどは、牛をみせておくれ」
「牛を? ……じゃあ、こっちへおいで」
「ああ、これが庭だ……これもほめなくっちゃあ……ええ、結構なお庭でございます。お庭は、総体見かけだおしでございますな」
「おいおい、見かけだおしはひでえな。それをいうなら、御影づくりだろう?」
「そうそう、しっかりしろい」
「おまえがしっかりするんだ……さあ、ここから裏へでるんだ。裏の小屋にいるから……」
「やあ、いたいた。ちいせえ牛だなあ」
「おいおい、それは犬だよ」
「そうか。道理でちいせえや」
「これだよ」
「やあ、いたいた。大きいなあ。伯父さんとこの牛はうごいていらあ」
「生きてるからうごいてるんだ」
「なるほど……おれがほめるから、伯父さん、むこうをむいとくれ」
「またかい? ……よしよし、こっちをむいてるよ」
「ああ、これが、天角か。やい、天角め、地眼め、一黒め、鹿頭め、ちくしょうめ」
「なんだい、なにを叱言いってんだ?」
「ええ、この牛は、天角、地眼、一黒、鹿頭、耳小、歯合でございます」
「ほほう、そんなにほめてもらって、伯父さんもうれしいよ。おまえ、ほんとうにりこうになったなあ」
「あっ、伯父さん、牛が糞《ふん》をしたよ。きたねえなあ」
「そうなんだ。牛もいいけれど、あの糞の掃除にはこまりぬくよ。といって、掃除しなければ、よけいにきたねえし、全体、うしろに尻の穴があるから糞をするんだ。この穴がねえといいんだがな」
「伯父さん、そんなに穴で気をもむことはないよ。穴の上へ秋葉さまのお札をおはんなさい」
「どうなる?」
「穴がかくれて、屁《へ》の用心にならあ」
花見の仇討《あだう》ち
「金さん、いるかい?」
「だれだとおもったら、半ちゃんに留さん、まあ、おあがり」
「いい陽気だねえ。花が咲いたねえ」
「うん」
「どうだい、花見にいこうとおもうんだが……」
「いいねえ」
「ついては、ただなんとなく花見にいったんじゃあおもしろくねえから、なにかおもしろい趣向をしようてんだが、なにかいい趣向はねえかね?」
「そりゃあ、ちょうどいい。じつは、いま、吉つぁんがきてね」
「へーえ、吉つぁんがきてるのかい?」
「やあ、半ちゃんに留さんか。いいところへきたなあ」
「やあ、吉つぁん、しばらく逢わなかったなあ」
「うん」
「で、吉つぁんがきて、ただ花見にいってもおかしくねえから、なにか趣向はなかろうかとかんがえたあげく、ようやくできたところなんだ」
「どういう趣向だい?」
「これがうまくいけば、見物は、あっといって、あいた口がふさがらないくらいの趣向なんだ」
「へーえ、おもしろそうだな。どんな趣向だい?」
「吉つぁん、おめえからはなしなよ」
「仇討ち」
「仇討ち? どんなんだい?」
「まずね、浪人ものがひとり」
「うん」
「巡礼がふたりに、六十六部《ろくぶ》がひとりで、四《よ》っ人《たり》でできるんだ」
「へーえ……で、筋は?」
「まず、浪人ものだが、黒羽二重、深あみ笠《がさ》、素足《すあし》に雪駄《せつた》ばき、朱鞘《しゆざや》の大小、飛鳥山《あすかやま》の上で、木の根へ腰をかけてたばこを吸っている。そこへ巡礼ふたりが、たばこの火を借りにくるのがきっかけだ」
「どんなふうに?」
「『卒爾《そつじ》ながら、火をひとつ、お貸しください』『ささ、おつけなされ』と、たがいに顔と顔みあわせたところで、びっくりしてあとへさがって、仇討ちのせりふになるんだ」
「どんな?」
「『やあ、めずらしや。なんじは、なんのなにがしよな。七年以前、国もとにおいて、わが父を討って立ちのきし大悪人、ここで逢うたは盲亀《もうき》の浮木《ふぼく》優曇華《うどんげ》の、花待ちえたるきょうの対面、親の仇《かたき》、いざ立ちあがって尋常《じんじよう》に、勝負、勝負』と、仕込み杖に手をかけて、双方からじりじりとつめよるんだ」
「うん」
「すると、浪人ものが、すっくと立ちあがって、『いかにもなんじらの父を、武術の遺恨《いこん》をもって討ち果した。仇呼ばわりしゃらくせえ。不憫《ふびん》ながらも両人ともかえり討ちにいたすから覚悟いたせ』ってんで、笠をかなぐりすてて、長い刀をひっこぬく。巡礼ふたりも刀をぬいて、『舎弟《しやてい》ぬかるな』『兄者《あにじや》びと、ご油断あるな』と、双方から斬りこんで、ここで、立ちまわりになるんだ」
「なるほど、こいつあおもしれえ」
「まわりに見物があつまってくるだろう?」
「そりゃああつまってくらあ」
「十分にあつまったところで、『しばらく、しばらく』と、六十六部《ろくぶ》が割ってはいるんだ」
「そして?」
「『おたがいに仇同士といってつけねらった日にゃあ際限のないこと。いままでの遺恨は水にながして、どうぞ、この場は、わたくしにおまかせください』と、両方へわけちまわあ。そこで、三人が刀をひく。ひいたところで、『さあ、仲なおりのご酒|一献《いつこん》さしあげよう』といって、しょっている笈櫃《おいびつ》をおろすと、なかから酒、さかな、三味線をだす」
「こりゃあいい」
「両方に一ぱいずつ飲まして、自分も一ぱい飲んで、『あとあと遺恨のないように、さあ、お手を拝借』ってんで、しゃんしゃんしゃんと手をしめたあとで、かっぽれの総おどりてえのはどうだい?」
「うんうん」
「いままで、ほんとうの仇討ちだとおもって、手に汗にぎってみていた見物が、『なあんだ、花見の趣向か』てんで、肝《きも》をつぶして、ひっくりけえらあ。どうだい?」
「やあ、おもしれえ、おもしれえ」
「やろう、やろう」
「やるかい? じゃあ、おれがいいだしたんだから、自分でいい役をとっちゃあわりいや。浪人ものをやろうとおもうんだが、どうだい?」
「浪人もの?」
「ああ、仇になるんだよ」
「仇?」
「だからさ、巡礼ふたりの親を殺して国もとを立ちのいたさむらいさ」
「吉つぁん、おまえがかい?」
「そうだよ」
「なるほど、そいつあいいや。おまえなら、そのくらいのこたあやりかねねえや」
「じょうだんいっちゃあいけねえ。半ちゃん、留さん、おめえたち、巡礼になっておくれ。たとえ巡礼になってても、もとは、さむれえの子だよ。そのつもりでな。それからね、金さん、おまえが六十六部だよ。さあ、役がきまったところで、ちょいと稽古《けいこ》をやろうじゃあねえか」
「なあに稽古なんかいるもんか。なんとかならあな」
「それがいけねえんだよ。いつだってうまくいったためしがねえんだから……」
「そうかい。じゃあやるか」
「さあさあ、おれが、たばこを吸ってる。だれだい、火を借りにくるのは?」
「半ちゃんのほうがいいや」
「半ちゃん、おまえが、借りにくるんだ」
「おれがかい?」
「そうだよ」
「じゃあ、いくぜ……えへへへ、すまねえけど、火を貸してくんねえ」
「だめだ、だめだ。だから稽古しなくっちゃあいけねえっていったんだ。いいかい? さっきもいったように、巡礼になっていても、もとは、さむれえの子なんだよ。だから、もっとおちついて、『卒爾《そつじ》ながら、火をひとつ、お貸しください』と、こういくんだ」
「ああ、そういきゃあいいんだな?」
「そうだよ。おちついて、ゆっくりやるんだ」
「おちついて、ゆっくりね……そー……つー……じい……なあ……があ……らあ……」
「なんだいそりゃあ、いくらゆっくりったって、そんなに区切っていったんじゃあ、なんのことかわかんねえじゃあねえか……いいか? ぐっとおちついて、下っ腹へ力をいれて、『卒爾ながら火をひとつ……』と……」
「うふっ、おめえみてえなまぬけな調子はでねえよ」
「まぬけな調子ってやつがあるか。さあ、下っ腹に力をいれてやってごらんよ」
「力をねえ……力をいれろっていえば、いれるけれども……『卒爾ながら、火をひとつ……』……これ以上へえらねえ」
「ばかだな、おめえは……そんなにまっ赤になっていきばって……どうも不器用だなあ」
「どけどけ。おれがやるから……」
「ああ、留さん、おめえのほうがうまそうだ。やってごらん」
「いくよ」
「うん」
「卒爾ながら……」
「うめえ、うめえ」
「屁《へ》を……」
「屁じゃねえ、火だ」
「そうそう、火だった……火をひとつ、お貸しください」
「その調子、その調子……ささ、おつけなされ」
「へへへ、気どってやがらあ」
「おいおい、ひとの顔をみてひやかしちゃあいけねえ。おれが、『ささ、おつけなされ』といって、顔をみあわしたときに、おまえが、びっくりするんだ」
「なんだっておどろくんだ?」
「なんとでもいいねえな……ささ、おつけなされ」
「きゃあ!」
「ああ、びっくりした。なんだって、そんな声だしてとびあがるんだ?」
「おどろいたところだ」
「そんなおどろきかたじゃあなくってさ、もうすこし、なんとか、かたちづくってやっておくれよ」
「めんどうくせえもんだな」
「そんなことをいってねえで、さあ、もう一ぺん……」
「卒爾ながら、火をひとつ、お貸しください」
「ささ、おつけなされ……さあ、そこでおどろいて、せりふになるんだ」
「やあ、めずらしや。なんじは、なんのなにがしよな」
「おいおい、じょうだんじゃねえ。なんのなにがしってえやつがあるかい? そこへなんとか名前をつけるんだよ」
「そうか。やあ、めずらしや。なんじは、大工の吉公よな」
「だめだ、だめだ。当日は、おらあ、黒羽二重に深あみ笠の浪人すがただよ。さむれえらしい名前をつけろよ」
「さむれえらしい名前ねえ……うーん? ……やあ、めずらしや、なんじは石垣蟹太夫《いしがきかにだゆう》よな」
「横に這《は》いそうだなあ」
「なんじは石野地蔵《いしのじぞう》よな」
「おかしな名前ばっかりつけやがる。まあ、なんでもいいや、やってくれ」
「やあ、めずらしや。なんじは、石野地蔵よな……七年以前、国もとにおいて、わが父を討って立ちのきし大悪人、ここで逢うたは盲亀《もうき》の浮木《ふぼく》優曇華《うどんげ》の、花待ちえたるきょうの対面、親の仇、いざ立ちあがって尋常に、勝負、勝負と呼ばわったり……」
「なにいってるんだ。それじゃあ講釈《こうしやく》みてえじゃあねえか。ひとりでしゃべっちまっちゃあいけねえよ。半ちゃんと留さんと割りぜりふになるんだ。いいかい? 『いざ立ちあがって尋常に』ってところで、ふたりが、それぞれ、『勝負』『勝負』と、つめよるんだ。わかったかい? ……あ、それからね、立ちまわりの稽古だ。おれが、このものさしを持つから、半ちゃん、おまえ、そのはたきを持ってきて、留さんは、そっちのほうきだ。さあ、双方から斬ってかかって……チャリーン、チャリーン、そうそう、その呼吸、その呼吸……もうひとつ、チャリーン、チャリーン……おーい、金さん、ここへでてくるんだ。おーい、六十六部はどうした?」
「いま、雪隠《せつちん》(便所)だからでられない」
「ちぇっ、じょうだんじゃあねえ。かんじんのところで雪隠なんぞへへえってちゃあいけねえ。さっさとでてきておくれ」
どうやらこうやら稽古ができました。
当日になりますと、浪人役の吉つぁんは、自分でいいだした趣向ですから、黒羽二重というと、たいそうのようですが、地が赤くなって、紋がよごれて、黒くなってる、赤羽二重の黒紋つき、茶献上《ちやけんじよう》の芯《しん》のでた帯を胸高に、破《や》れ柄《づか》、はげ鞘の大小をさして、深あみ笠、素足に雪駄ばきで、朝早くから飛鳥山の上へいって、とある桜の木の根に腰をかけ、ぱくり、ぱくりと、たばこを吸いながら待っております。
こっちは金さん、六十六部のこしらえというので、ねずみもめんの着物に、ねずみもめんの手甲《てつこう》、脚絆《きやはん》、ねずみもめんの頭巾《ずきん》をかぶりまして、すべてねずみずくめだから、ねこもうっかりそばへ寄れないという扮装《なり》で、笈《おい》のなかには、酒、さかな、鳴りものと、いろいろいれまして、これをしょって途中までまいりますと、ぱったり伯父《おじ》さんに出逢ってしまいました。この伯父さんが、無筆でつんぼというしまつのわるいひとで……耳の遠いものは、目が早いとか申しますが、甥《おい》の金さんが六十六部すがたになりまして、杖を突いてきたのをみますと、
「おい、金公じゃあねえか」
「やあ、伯父さんか。わりいところででっくわしたな」
「なんてえざまだ。てめえ、どうも、こないだからようすがおかしいとおもっていたが、どういう仔細《しさい》があって、六十六部なんぞになったんだ?」
「いけねえな。ほんとうの六十六部にみられちゃあ……なあに、伯父さん、心配しねえでもいいよ」
「なんだと?」
「心配しねえでもいいんだよ、きょうは、花見にいくんだから……」
「なに? 相模《さがみ》へいくのか?」
「いけねえ、いけねえ。こんなに大きな声をだしてもわからねえのかな? つんぼというものは、どうもしようのねえもんだ」
「なにをぐずぐずいってるんだ?」
「そうじゃあねえ。花見の趣向《しゆこう》なんだよ」
「えっ、相模から四国へいく? そりゃあまあ、信心でいくんだろうけれども、ばあさんは承知か? てめえ、としをとったおふくろをのこして廻国《かいこく》にでるなんて、そんな不孝なやつがあるもんか。てめえがいなくなってみろ、つながる縁だ。おれが、なんとか、おふくろのめんどうをみてやらなけりゃあならねえ。とんでもねえ野郎だ。まあ、ここで立ちばなしもできねえ。うちへこい。おれが、とっくりといって聞かせてやるから……」
「しようがねえなあ。おそくなっちまう……じゃあ、しかたがねえ。いって、伯母《おば》さんにはなしをしよう」
と、いってみますと、あいにく伯母さんは留守でございます。
「弱ったなあ。みんなが、さぞ待ってるだろうに……」
と、心配でたまりませんから、どうしようかと、いろいろかんがえたあげく、伯父さんは酒好きだから、一ぱい飲まして、酔いつぶれたところででかけようということにきめて、笈のなかから酒、さかなをとりだし、
「伯父さん、まあ、一ぱいおあがんなさい」
「てめえは、こういうまちがった野郎だ。酒、さかなをしょって廻国にでるというような了簡《りようけん》で、なんで利益《りやく》があるものか」
「あれっ、まだわからねえ。しようがねえなあ」
金さんは、伯父さんと、さしつさされつ、酒盛りをはじめましたが、伯父さんは心配ですから、なかなか酔いません。ことに、お酒が強いのですから、なおのこと酔やあしません。金さんのほうは、お酒が弱い上に、伯父さんを早く酔わせようってんで、自分でもつい飲みすぎていい心持ちになってしまいましたから、どうにかなるだろうってんで、あき樽を枕《まくら》に寝こんでしまいました。
まちがいのできるときにはしかたのないもので……こちらは、半ちゃんに留さんというふたり、すっかり巡礼すがたになりまして、仕込み杖を持って、おそくなったとおもうから、せっせといそいでやってまいりました。
「おい、留さん、なるたけうまくやろうぜ」
「大丈夫だよ」
「いやいや、やりそこなうといけねえから、立ちまわりの稽古しよう」
「およしよ。このひとごみで……」
「なあに、心配いるもんか。仕込み杖だもの、棒っきれふりまわしてんのとおんなしこっちゃあねえか。いいかい? おれが、こう杖を持って、『舎弟《しやてい》ぬかるな』と、いったときに、『兄者《あにじや》びと、ご油断あるな』と、声をかける。この呼吸があわねえといけねえ」
「ああ、いいよ」
「そこで、こっちがこういうふうに……」
と、仕込み杖をふりあげるとたん、そばを通った、ほろ酔いきげんのさむらいのあたまへぽかりと杖があたったら、さむらいのほうでもおどろいて、
「いたい!」
「へえ、どうもまことにあいすみません。とんだそそうをいたしました。どうぞ、ごかんべんを……」
「だまれっ、無礼者め! やっ、巡礼だな? 乞食にひとしき分際《ぶんざい》で、武士の面体《めんてい》へ泥杖ぶつけて、ごかんべんですむとおもうか。無礼なやつだ。それへなおれ。さあ、手討ちにいたす」
「ごめんなさい。まことに申しわけございません。おい、留さん、おまえもあやまっとくれよ」
「だから、よせってんだ。相手はさむれえで、酔っぱらってるんじゃねえか。しようがねえなあ。どけどけっ、あやまってやるから……ええ、かわりあいまして申しあげます」
「落語家《はなしか》みたいなやつがでてきたな。なんじゃ、貴様は? そやつのつれか?」
「いいえ、つれじゃあございません」
「つれでない?」
「ええ、つれなんかじゃあねえんで……ただ、いっしょにきたんで……」
「おなじことではないか。いっしょにまいればつれだ。貴様もついでに手討ちにいたすから、遠慮せずと、それへなおれ!」
「どうつかまつりまして、これは、だれでも遠慮いたします。ど、ど、どうぞごかんべんなすってくださいまし」
と、ふたりともにまっ青になって、大地へあたまをすりつけてあやまっておりますが、なにしろ、さむらいのほうは、酔っておりまして、ことに酒くせがわるいとみえて、
「いやいや、かんべんまかりならん」
と、すでに腰のものを抜きかかりましたから、ふたりは、もう生きた心地もございません。すると、つれのさむらいで、年輩のかたが、それへでて、
「これこれ、近藤、まあ、待ちなさい。どうして、貴公は、そう酒ぐせがわるいのだ。些細《ささい》なことで、ひとを手討ちにするなどということは、容易ならんことだ。まあ、待ちなさい」
「いや、おすて置きねがおう。かようなやつは、斬りすててしまうほうがよい」
「まあ、待ちなさい。御身《おんみ》は酩酊《めいてい》しているからわかるまいが、かれらふたりは、巡礼に身をやつしておるが、ただの巡礼ではない。おのおの仕込み杖を所持しているのが、御身にはわからんか?」
「なに、仕込み杖を?」
「ごらんなさい。あの通り、仕込み杖が鞘ばしっている。なにか大望のあるものと、それがしは推量いたす。一応とりしらべて、斬りすててよろしきものなれば、お手討ちになさい。まあ、待ちなさい。彼ら両人をとりしらべるゆえ……これこれ、両人、手をあげろ。そちたち、仕込み杖をさしておるな? ただの巡礼とはおもえんが、なにか大望のある身ではないか?」
「へえ……」
「いやさ、仇でもたずねる御人《ごじん》であろうがな?」
「ええ、ありがとうございます。じつは、親の仇を討ちにでましたので……」
「いや、そうであろう。尋常のものとはおもわれん。しかし、あぶないぞ。仕込み杖が鞘走っておる」
「いや、これは、とんだものがお目にとまりまして、なんともおそれいります」
「いや、じつにいさましいことだ。世は太平にながれる折柄《おりから》、親の仇を討つとは、まことにみあげた孝子じゃな。して、仇というやつ、江戸表《おもて》へでたという証拠《しるし》があるのか?」
「ええ、もう仇は、いま時分、飛鳥山の上で退屈いたしております」
「なに?」
「いえ、なに、あすこらへいきゃあ、たぶん出っくわすだろうとおもいますんで……」
「さようか……袖すりあうも他生《たしよう》の縁《えん》、つまずく石も縁の端《はし》とやら、もしも仇討ちの場所へ通りあわせたときには、われわれ両人、助太刀いたす」
「えっ、助太刀?! いやいや、それにはおよびません。ちゃんと打ちあわせが……」
「なに?」
「いえ、その……仇を討つような腕になっておりますから、ご心配なく……」
「さあ、一時をあらそう身だによって、この場はゆるすゆえ、早くまいれ」
「そりゃあどうも……ありがとうございます」
と、ようやくのことで、ふたりは駈けだしました。
こちらは、飛鳥山、浪人役の吉つぁんは、朝からたばこばかりで、待ちくたびれて、
「ちぇっ、ひとをばかにしてやがるぜ。朝っからたばこばっかり吸ってたもんだから、のどが、ひりひりしてきゃあがった。あんなどじなやつらは、ありゃあしねえ。あいつらと趣向をしたって、うまくまとまったことなんかねえんだからな……去年の夏だってそうだ。竜宮《りゆうぐう》の珠《たま》とりするんだってことで、両国橋から、おれを川へおっぽりこんで逃げちまやあがって……うまく西瓜舟《すいかぶね》がきたからよかったようなものの、まったく命がけだぜ。あいつらとなんかするのは……せめて六十六部でもくれば、はなし相手になるんだが、六十六部もこねえ。のんきなやつらだ。どうしたんだろう? ……おやおや、巡礼ふたり、きやがった。おそくなったとおもって駈けだしてきやがら……なんだい? ふたりとも膝っ小僧を泥だらけにして……ははあ、どっかでころびやがったな。ふたり、おなじようにころぶというなあおかしいな。あれっ、むこうへずんずんいっちまうぜ。おれが、ここにいるのがわからねえとみえるな。まぬけなやつらじゃあねえか。あんなところをさがして……おーい、おーい、こっちだよ!」
「あははは、仇のほうで呼んでやがら」
「仇が呼ぶたあ、のんきな仇討ちだなあ……やあ、おそくなってすまねえ」
「すまねえじゃあねえ。いま時分まで、なにしてやがったんでえ」
「そう怒るなよ。途中で、立ちまわりの稽古をしていて、通りかかったさむれえのあたまあぶっちまったんだ。手討ちにするってえのを、ようようかんべんしてもらってきたんだが、六十六部はきたかい?」
「なにいってやんでえ。あいつは仲裁役《ちゆうせえやく》だよ。ちゃんちゃんばらばらがはじまらなきゃあ、でてくるわけがねえじゃあねえか。きっと、木のかげかなんかで、あくびして待ってらあ……おれだって朝っからたばこばっかりのんでたから、目がくらんじゃって、のどが、ひりひりすらあ」
「おいおい、仇同士で仲よくはなしをしていちゃあいけねえやな。変なかっこうしているから、ひとがあつまったよ。早くやろうじゃあねえか」
「待ってくれよ。ちょいと一服やってから、そろそろはじめるから……」
「大掃除じゃあねえよ。早くはじめろ、はじめろ」
「よし……卒爾ながら、火をひとつ、お貸しください」
「ささ、おつけなされ」
「やあ、めずらしや。なんじは、山坂転太《やまさかころんだ》よな」
「あれっ、おかしな名前つけやがったな」
「七年以前、国もとにおいて、わが父を討って立ちのきし大悪人」
「ここで逢うたは盲亀の浮木優曇華の」
「花待ちえたるきょうの対面」
「親の仇、いざ立ちあがって尋常に」
「勝負」
「勝負」
「仇呼ばわりしゃらくせえ……かえり討ち」
深あみ笠をとりますと、長いやつをひっこぬいて、チャリーン、チャリーンと、斬りあいがはじまったから、たちまち黒山のひとだかり……なかには、遠くからむちゃくちゃに駈けだしてくるやつがあります。
「なんだ、なんだ?」
「なんだかわからねえ」
「わからねえって、おめえ、駈けていくじゃあねえか」
「みんなが駈けていくから、おれも駈けていったら、どうかなるだろうとおもって駈けていくんだ」
「なんだかさっぱりわからねえ……おいおい、うしろのひと、おまえさん、大きな口だねえ」
「え?」
「やめとくれよ。そんなに口をあくのは……呑《の》まれちゃあしねえかとおもうじゃあねえか……なんだって口あいてんだよ?」
「ええ、みえないもんですから……」
「みえねえって、口あきゃあみえるのかい?」
「口あきゃあ、それだけ顔がのびるだろうとおもって……」
「変なことをかんげえやがったなあ……やめとくれよ。おれのあたまをぱくりといくなあ」
「大丈夫ですよ。そんな、まずそうなあたま」
「まずそうなあたま?!」
「もしもし、なんです、このひとだかりは?」
「巾着切《きんちやくき》りがつかまったんです」
「きまってやがらあ。花見っていうとでてきやがる。あぶねえなあ。おれの財布は? ……ああ、おらあ持ってねえんだっけ、大丈夫だ……巾着切りがつかまったんですか?」
「なあに、そうじゃあねえ。女乞食のお産だ」
「へーえ……生まれたのは、男ですか? 女ですか?」
「なんだか知らねえが、生まれた」
「ひでえところで生んだもんですね」
「出もの、はれものところきらわずっていうくれえだ。あんまりひとに押されてでてきたんだ」
「じょうだんじゃあねえ。押されてでてくるのは、ところてんばかりだ」
「もしもし、なかは、なんです?」
「なあに、つまらねえことだ」
「なにがつまらねえんで?」
「なにがって、こんなつまらねえこたあありゃあしねえ」
「どんなことなんで?」
「なんだか、ちっともみえなくってつまらねえ」
「じょうだんいっちゃあいけねえ……前へでろ、前へでろ」
「でられやしねえよ」
「木へのぼれ」
「のぼれるもんか。あの通り、桜の木へ人間が実《な》っちゃったよ」
「しゃくにさわるなあ。なんとかしてみてえじゃあねえか……そうだ。こうなったら、かまうこたあねえから、股《また》ぐらでもなんでもくぐって前へでてやれ」
「あっ、びっくりした。股ぐらからでてきやがった。この泥棒!」
「なに? 泥棒たあ、なんでえ。この野郎、いっていいこととわりいことがあるぞ。みえねえから、股あくぐって前へでただけじゃあねえか。おれが、なにをとった?」
「なにいってやんでえ。てめえ、いま、おれの股ぐらのできものの膏薬《こうやく》を、あたまへくっつけて持ってっちゃったい」
「きたねえなあ。にちゃっとしたから、変だとおもったんだ。けえしてやらあ。こんなもの」
いや、どうも大さわぎでございます。
こちらは三人、仲裁にはいるはずの六十六部がまいりませんので、立ちまわりをしていても気が気でありません。
「金さんはどうしたんだろう? もう六十六部がでてくるころなんだが……」
「そうさな。なにをぐずぐずしてるんだろう?」
と、三人で、こそこそはなしをはじめましたから、まわりの弥次馬が、だまっておりません。
「やーい、ずんずんかたづけちまえ。ふたりかかって、そんな浪人者ひとり斬れねえことがあるもんか。早くやれ、早くやれ」
「留さん」
「え?」
「どうしよう?」
「どうしようったって、立ちまわりの手がつきちゃったよ。六十六部のやつ、早くでてこねえかなあ。おんなしことばっかりやってなくっちゃなんねえ」
「いつまでこんなことをやってた日にゃあ、気がぬけちまってしかたがねえや」
「やいやい、なにをぐずぐずしているんだ。早くいせいよくやっちまえ! やい、浪人もの、討たれちまえ!」
見物が、わいわいさわぎますが、三人は、六十六部がでてこないので、どうすることもできません。
そこへ、最前のさむらいたちが通りかかりまして、
「これこれ、町人、なんだ、このひとだかりは?」
「おさむらいさん、たいへんです。仇討ちがはじまりました」
「仇討ち? うん、して、討つものの人体《にんてい》は?」
「巡礼がふたりでございます」
「討たれるものは?」
「雲つくような大男の浪人もので、てんびん棒みてえな長え刀をふりまわして、ふたりとも近づくことができないので、どうもかえり討ちだろうといって、みんな涙をこぼしてます」
「うん、察するところ、最前の巡礼両名に相違ない。天運にかない、ここにて仇にめぐりあったものとみえる。これ、近藤、助太刀いたしてやろう。いそげ!」
「えっ、おさむらいさん、助太刀ですか? ありがとうございます。早くやってください。もう、へとへとになってますから……わからねえことにゃあ、ときどき相談しちゃあやってるんですがね……おーい、巡礼、よろこべよ。助太刀がきたぞ! 助太刀が……」
「え? なんだい? 助太刀? おい、半ちゃん、見物が、『助太刀だ、助太刀だ』っていってるけど、なんだろう?」
「助太刀? そんなものがくるわけはねえじゃあねえか……ああ、そうか。六十六部がきたんだ。仲裁ってんじゃあはいれねえから、助太刀っていったんだ、きっと……」
と、いっておりますところへとびこんでまいりましたのが、ふたりのさむらいで、
「これこれ、巡礼両名、天運にかない、仇にめぐり逢うて、めでたいのう!」
「あっ、たいへんだ。さっきのさむれえが、助太刀だってとびこんできやがった」
「あれっ、ほんとうだ。きちゃったもなあしようがねえやな。あいさつしろ、あいさつを……こりゃあどうも……先刻は、いろいろお世話さまになりまして、ありがとう存じました。ええ、おかげさまで、ようやく仇にめぐりあいましてございます。仇は、この浪人ものなんで……」
「うん、そいつか? なるほど、つらがまえのよくないやつだ。さあ、浪人、覚悟いたせ」
「なんだろう? 変なものがでてきゃあがったな。おいおい、半ちゃん、留さん、なんだい、あれ?」
「助太刀だよ」
「おいおい、じょうだんじゃねえ。筋書きじゃあ、あんなもののくる約束はなかったじゃあねえか。なんだって、あんなものをたのんできたんだい?」
「たのんだんじゃあねえんだよ。むこうで勝手にきたんだよ」
「そんなら、ことわっちゃえ。ことわっちゃえ」
「いまさら、ことわるわけにゃあいかねえ」
「だって、あれ、本物だろ? あぶねえや。こりゃあ命にかかわるよ。どうするんだい?」
「どうするったって、しかたがねえ。因果とあきらめて、おめえ、斬られちまえよ」
「とんでもねえ。おらあ、いやだよ、いやだよ……すげえ目つきでにらんでやがる、こわいなあ……おらあ、逃げるよ、逃げるよ」
「おめえが逃げるなら、おれも逃げるよ」
と、三人いっしょに逃げだしましたから、おどろいたのはさむらいで、
「ああ、これこれ、逃げるにおよばん。最前よりみうけるところ、勝負は五分《ごぶ》だ。勝負は五分だぞ」
「へえ、五分でもいけません。かんじんの六十六部《ろくぶ》がまいりません」
つづら泥
「与太郎、どうしたんだ、つづらなんぞしょって、いったい、どこへいこうってんだ?」
「じつはね、なにをしても損をするから、いっそのこと、心をいれかえて、泥棒になろうとおもうんだ」
「ばかだな、こいつあ……心をいれかえて泥棒になるやつもねえもんじゃあねえか……おめえ、どうして、そんなわりい了見《りようけん》をおこしたんだ?」
「いや、兄いの前だがね、べつにわるいこたあねえんだ。ひとのものを盗むんならわるいだろうが、自分のものを盗むんだから……」
「なにをいやあがる。自分のものなんぞ盗んだって、つまらねえじゃあねえか」
「それがつまらなくないんだ」
「どうして?」
「うん、横町の質屋の伊勢屋に、おれのものが、どっさりあずけてあるんだ。それを、いくらかえせかえせといっても、あすこのおやじが因業《いんごう》で、どうしてもかえしてくれないんだ」
「ふーん、なんだって、そんなところへあずけたんだ? おめえのうちがせめえからか?」
「銭《ぜに》がほしいからあずけたんだ」
「それじゃあ、質にいれたんじゃあねえか」
「うん、早くいえば……」
「おそくいったっておなじことだ。質にいれたんじゃあ、けえさねえのがあたりめえだ」
「そうかね?」
「あれっ、そうかねだってやがらあ……」
「だからね、くやしいから、今夜、あすこへいって、おれのものだけ持ってこようとおもうんだ」
「銭を払って持ってくるのか?」
「ううん、だまって……」
「それじゃあ、泥棒じゃあねえか」
「そういう見当《けんとう》になるかな?」
「あれっ、そういう見当だってやがら……火事の方向をみつけてるんじゃあねえや……しかし、まあ、たとえあずけてあるものでも、だまって持ってくれば泥棒だ……で、そのつづらは、なんにつかうんだ?」
「だからさ、盗《と》ったものを、このなかへいれてこようとおもうんだ」
「ばかっ、泥棒にへえるのに、いれものなんぞ持っていくやつがあるか。むこうにあるものにいれてきたらいいじゃあねえか」
「でも、かえしにいくのがめんどうだ」
「かえさなくったっていいや。まぬけめっ、そんなものは、みんなとりっぱなしだ」
「そらあ、たちがよくないや」
「なにいってやんでえ。たちのいい泥棒なんぞあるもんか……どうやってへえるつもりだ?」
「戸じまりが厳重で、なかなかはいれないから、忍術でしのびこむんだ」
「へーえ、おめえ、忍術なんぞ知ってるのか?」
「ああ、手をくんで印《いん》をむすぶと、どろんどろんと白いけむりが立って、どろどろどろと、すがたが消えるんだ」
「じゃあ、やってみろ」
「いいかい、印をむすぶよ……どろん、どろん、どろん……どうだい、みえなくなったろう?」
「なにが、どろん、どろんだ。まるっきりみえるじゃあねえか」
「目をあいてるからみえるんだよ。目をつぶって……」
「目をつぶりゃあ、だれだってみえやあしねえや。のんきな野郎だなあ……しかし、大きな声じゃあいえねえが、じつは、おれも、あの質屋にはあずけたものがあるんだ。おめえがいくなら、おれもいっしょにいこう」
「そうかい。そいつはありがたいや。ひとりよりも、ふたりのほうがにぎやかでいいや」
「ばかっ、泥棒にへえるのに、にぎやかなのをよろこぶやつがあるか」
「で、兄い、どうやって、あのうちへはいるんだい?」
「おれにいいかんがえがある。こうしねえ」
「ああ、そうしよう」
「まだ、なんにもいやあしねえ」
「道理で聞えない」
「くだらねえことをいってんじゃあねえや……いいか、そのつづらを、質屋のおもてにおいて、大きな声でどなるんだ」
「あけまして、おめでとうって……」
「ばかっ、いま時分、年始《ねんし》にいくやつがあるか……『伊勢屋さん、伊勢屋さん、お宅《たく》に泥棒がはいった』と、大きな声でどなるんだ。そうすると、なかから、おどろいてでてくるだろう。でてくる前に、おれとおめえが、このつづらのなかへかくれてしまうんだ。そこへ質屋のおやじがでてくる。あのじじいは、因業で欲ばりだから、『おや、ここにつづらがおちている。持ってかれねえでよかった。早くうちへしまえ』ってんで、あわを食って、おれたちのへえってるつづらをうちのなかへはこびこむだろう」
「うん、そうするだろうな」
「だから、夜なかになって、おれとおめえの品ものをとりけえして、このつづらんなかへいれて、おもてをあけて帰ってくるんだ。どうだ、うめえかんげえだろう?」
「なるほど、それじゃあ、泥棒にはいるんじゃあなくって、いれられるんだな。うまくいったら赤飯《おこわ》をふかそう」
「どうして?」
「泥棒の開業祝い」
「ばかっ、泥棒の開業祝いてえのがあるか」
「そうでないよ。ものごとは、はじまりがかんじんだから、チンドン屋をたのんで、広告してあるこう……東西、東西! このたび、ご当地に、泥棒が開業いたしました。みなさまがたのおのぞみによりまして、なんなりとも盗んでごらんにいれます。けっして料金はいただきません。お申しこみ順に、かたっぱしから盗んでさしあげますれば、ふるってお申しこみのほど、ひとえにねがいあげたてまつりまーす!」
「ばかっ、のんきなことをいってんじゃあねえ。そんなことを巡査《おまわり》に聞かれたら、すぐにつかまっちまうじゃあねえか」
「だから、交番の前じゃあいわない」
「なにいってんだ。つかまったら、おたげえに別荘へいかなきゃあならねえんだぞ」
「ありがたいな」
「なにがありがてえんだ。高《たけ》え煉瓦塀《れんがべい》のあるところへいくんだ」
「ふーん、しゃれた西洋づくりのうちだな」
「そうじゃあねえ。赤え着物を着るんだ」
「ずいぶん派手《はで》だな」
「あれっ、まだわからねえのか? 腰にくさりがついて、草をむしったり、泥をはこんだりするんだぞ」
「へーえ、まるで懲役《ちようえき》みたいだな」
「みたいじゃあねえ。懲役だ」
「おれは、あいつは好かないよ」
「だれだって好きなやつがあるもんか……とにかく、つかまらねえようにやらなくっちゃあいけねえ。さあ、早くこい……しーっ」
「え?」
「しーっ」
「赤ん坊に小便させてるのかい?」
「そうじゃあねえ。伊勢屋の前へきたから、しずかにしろてんだ」
「ああそうか。じゃあ、どなろうか?」
「おいおい、ちょっと待ちな。つづらのふたをさきにあけといてっからどなるんだ」
「あけまして、おめでとうございって?」
「もうわすれちまったのか? 『伊勢屋さん、伊勢屋さん、お宅に泥棒がはいりました』って……」
「あっ、そうそう……さあ、どなるぞ。いよいよどなるから覚悟しろ……い、い、い、いー」
「なにいってるんだ。しっかりしろい」
「い、い、伊勢屋さん、伊勢屋さん、お宅に泥棒がはいったぞ。でてくる前に、おれたちは、このつづらんなかへはいらあ」
「ばかっ、そんなことを大きな声でいうやつがあるか……てめえじゃあだめだから、おれがどならあ……伊勢屋さん、伊勢屋さん、お宅に泥棒がはいりましたよ!」
「あいあい、その通りでござい」
「そんなことをいうやつがあるか。さあ、早くなかへへえれ」
「そうだったな。じゃあ、さきへはいるから、あとの戸じまりをたのむよ」
「つづらの戸じまりってえのがあるか」
ふたりは、つづらへはいると、ふたをして、息を殺しております。
伊勢屋さんじゃあ、泥棒がはいったという声ですから、おどろいて、みんなとびだしてまいりまして、
「どうした、どうした?」
「泥棒だ、泥棒だ」
「旦那さま、なにか置いていきましたか?」
「なにをばかなことをいってるんだ。置いていく泥棒なんぞいるもんか……ほうぼうよくしらべてみなさい……え? どこもなんともない? 蔵も大丈夫かい? ……ふーん、おかしいなあ……ああ、だれかどなったんで、なんにもとらずに逃げてしまったんだろう。まあまあ無事でよかった……おやっ、なんだろう? こんなところに大きなつづらがあるが……おい、番頭さん、このつづらは、うちのかい?」
「いいえ」
「それじゃあ、どこかからおあずかりしたのかい?」
「いいえ」
「おかしいなあ……ああ、そうか。泥棒が、どっかから盗んできたんだが、さわがれたんで置いてったんだろう。いったい、どこのつづらだろう?」
「へえ、旦那さま、これには、丸に柏の紋がついていて、大与《だいよ》としてございますが……」
「なに? 丸に柏で、大与? ……それじゃあ、大工の与太郎のうちのものだ。よくもまあ、こんなきたないつづらを盗んだものだ。ふーん、あんまりきたないので、泥棒もあきれて置いていったんだろう。こんなものだって、与太郎のうちにとっちゃあたいへんだ。番頭さんや、長松と権助に、これを与太郎のうちへ持っていくようにいいなさい」
番頭さんが、小僧の長松と下男の権助につづらをかつがせて、与太郎のうちへ持ってまいりまして戸をドンドンドン……
「こんばんは、こんばんは」
「はいはい……ああ、米屋さんですか? お勘定は、晦日《みそか》にしてくださいよ」
「ああ、米屋に借りがあるんだな……おかみさん、米屋じゃあないよ」
「ああ、酒屋さんですか。お勘定は、晦日に……」
「酒屋じゃあないよ」
「ああ、魚屋さんですか?」
「そうじゃあないよ」
「八百屋さんですか? 炭屋さんですか?」
「ほほう、おっそろしくほうぼうに借りがあるんだな……そうじゃあない。横町の伊勢屋だよ」
「おや、質屋さんですか。なんでしょう?」
「泥棒がね、おまえさんのうちのつづらを盗んで、うちのおもてに置いてったから、とどけにきたんだよ。早くあけておくれ」
「まあ、そうですか。すぐあけますから……おやまあ、番頭さんに、権助さん、長松さん、どうもすみませんでしたねえ。さあさあ、どうぞ、ご遠慮なくこっちへいれて、その隅っこのほうをかたづけて、そこらをよくはたいて、つづらを置いたら、あとをしめて、お帰りくださいよ。はい、さようなら……」
「なんだい、よくしゃべるおかみさんだな。ひとりでしゃべって戸をしめちまって……」
番頭さんは、権助と長松をつれて帰ってしまいますと、おかみさんものんきなもので、そのまま寝てしまいました。
一方、つづらのなかのふたりは、ゆられてきましたので、すっかりいい心持ちになって、うとうとしておりましたが、まさか、与太郎さんのうちへつれてこられたとは気がつきません。
「おいおい、与太郎、与太郎」
「ぐー、ぐー、ぐー」
「よく寝てやがるな。しようのねえやつだな。おい、与太郎、与太郎」
「ぐー、ぐー」
「あれっ、いびきで返事してやがる。おい、おい、与太郎」
「う、う、うーん」
「しっ、しずかにしろい。うまくいったぜ」
「そうかい」
「すっかりしずかになった。夜もだいぶふけたようだから、そろそろ仕事にかかろうじゃあねえか」
「つづらからでるのかい?」
「そうだ。いいか、でてみようじゃあねえか……おやおや、きたねえうちだな。みろい、与太郎」
「うん、こりゃあきたねえや、しかし、兄い、なんだか、おれのうちに似てるな」
「そうさなあ……金持ちというものは、おもてがまえばっかりりっぱでも、うちんなかへへえると、こんなもんなんだ。さあ、おめえとおれのものを、早くつづらんなかへいれろ」
「ああ……早くいれろったって、みんなぼろばっかりだ。いくらきたないったって、こんなにほうりだしておくことはないのに……あれっ、兄い、これは、おれのはんてんだ。さっき、うちをでるときに脱《ぬ》いできたんだが、かかあのやつ、もう、質にいれてしまやあがったのかな? ……おやおやっ、これは、おれの寝まきだ。こりゃあおどろいた。こんなものまで質にいれちまった……あれあれっ、枕《まくら》まであるぜ」
「枕まで? ……たいへんなものをいれやがったな。まあ、いいや。みんないっしょにつづらんなかへほうりこめ」
「ああ……おやおや、蔵んなかだとおもったら、すぐとなりが台所だぜ」
「なるほど……」
「きたない台所だな……おやおやっ、あすこに、角《かど》の欠《か》けたへっついがあらあ。あれは、おれのうちのへっついだ。かかあのやつ、へっついまで質にいれちまやあがった。ひでえやつだな……あれっ、釜となべと……飯櫃《おはち》までいれちまった」
ふたりが、ふしぎがって、がやがやはなしをしておりますので、与太郎のおかみさんが目をさまして、
「まあ、夜なかになんだろう? ちょいと、しずかにしておくれよ。そうぞうしくって寝られないじゃあないか」
「いけねえ。かかあまで質にとりやがった」
山崎屋
江戸時代、「遊女三千人|御免《ごめん》の場所」とかいって、全盛をきわめた遊廓《ゆうかく》といえば吉原でございますが、大門《おおもん》のなかへは、駕籠《かご》は、はいりません。どんなりっぱなお客さまでも、大門ぎわで駕籠をおりて、それから徒歩《かち》で送りこみになったものでございます。
そのころは、おいらんの道中というものがございまして、夕暮れになりますと、仲の町を道中したそうですが、これが、たいそうすばらしいものであったそうで……左右のお茶屋では、すががきという陽気な三味線をひいております。おいらんは、あたまを、立兵庫《たてひようご》、あるいは、横兵庫という髷《まげ》に結《ゆ》って、かんざしを後光《ごこう》のようにさしておりました。あのかんざしの重みばかりでもたいそうなもので、金糸銀糸で縫《ぬ》いをとった襠《しかけ》をはおって、三つ歯の高い木履《ぽつくり》をはいて、内外八文字《うちそとはちもんじ》を踏んで道中をしたとか申します。うしろから、雨も降《ふ》らなければ、日も照りもしないのに、傘を一本さしかけている気のきかない男がおります。それに、このおいらんの玉代《ぎよくだい》(遊女を揚げる代金)というものは、三分《さんぶ》だしますと、入山形《いりやまがた》に二つ星という最高級のおいらんが買えたと申します。これには、みんな新造《しんぞ》(若い遊女)というものがついておりまして、この新造にも、いろいろの種類があって、振袖《ふりそで》新造、留袖《とめそで》新造、番頭新造などという、略して、振新、留新、番新なんぞと呼びましたそうで……それに、この吉原を北国《ほつこく》と申しました。これは、申しあげるまでもなく、江戸のまんなかから磁石《じしやく》をふると、吉原が北にあたるのでこの名ができたもので、品川が南にあたるところから南品《なんぴん》といいました。
「ああ、うちのおやじぐらい頑固《がんこ》な人間はないね。あの頑固なおやじに、なんで、おれのようないきなせがれができたんだろうな。おいらんの惚《ほ》れているところを、一目みせてやりたいねえ。もっとも、みせたところで、あんなことは、おやじにはわかるまい。やぼの国からやぼをひろめにきたような人間にできているんだからなあ。こないだもそうだよ。『おとっつぁん、お銭《あし》は、きれいにつかうもんですよ』といったら、灰みがきで、みがいてつかってるからねえ。『人間は、ひとにもまれなくっちゃあいけません』といったら、縁日へいって、もまれてきたてえんだ。はなしにならないねえ。だけれども、おれも、おいらんゆえに、こうやって二階住居をするかとおもうと、まんざらわるい心持ちはしないな。だが、おもいだすねえ。おなじ二階でも、こんなきたない二階とはちがうよ。おいらんの部屋ときた日にゃあ、三階なんだからなあ。風通しはよし、おもいだしてもいきたいねえ、まったく、おいらんは、商売気をはなれて、おれに惚れてるねえ。こないだも、おれが帰ろうとすると、おいらんが、帰らせまいとする。真実惚れてる情が、ありありとわかった。『おいらん、おれは、けさ帰るよ』『いいじゃありませんか。もう一日いなましよ』『そうはいかないよ。けさは、帰っていかないと、うちの首尾《しゆび》がわるくなるから、けさ帰ってね、また、今夜か、あしたにでも、でなおしてくるから……おう、あの妓や、羽織をだしておくれよ』というと、おいらんの目尻《めじり》が、きりきりっとあがった。『みどりや、羽織をだすときかないよ。若旦那、いくらおまえさんが帰るといったって、わちきが帰しませんよ』……てんで、たんすの前に仁王立ちに突っ立ったよ。そのうちに、おれが、ちょいと男らしいところをみせようてえんで、『こう、おいらん、やぼなまねをしなさんなよ。男というものは、疳《かん》のあるもんだ。癇癖《かんぺき》にさわると、なぐるぜ』というと、『あら、若旦那、おまはん、なぐると言《い》なましたねえ。さあ、ぶちなまし。わちきは、おまはんにぶたれりゃあ本望《ほんもう》ざますよ。さあ、ぶちなまし』……おれのそばへ、くの字なりになって寄ってきたねえ。『ぶつぞ、ぶつぞ』と、げんこはふりあげてみたが、むこうは、商売もののからだだ。傷でもつけちゃあ申しわけがねえ。といって、ぶたなきゃあ、げんこの手前がわるい。ひょいっと、髷《まげ》の上からここならいたくあるまいてえんで、おれが、ぽかりとぶつと、元結《もとゆい》は切れる。散らし髪になったよ。おいらんが、鬢《びん》のほつれを、二、三本かきあげながら、おれのそばへすり寄ってきた。『あら、若旦那、おまはん、ぶつといったら、ほんまにぶちなましたね。いっそぶつからには、わちきを殺してくんなまし。なんて、おまはんは、じゃけんなひとなんざます。こんなじゃけんなひとに、わちきは、うちこんだとおもうと、わが身でわが身がわかりませんよ。しみじみじれったいよ』……てんで、おれの膝をつねったねえ。いたいっ!」
「ばか野郎、しずかにしな」
「おや、おやじが下にいやあがった。そればかりじゃあないよ。おいらんは、顔色をみるのがうまいんだからねえ。こないだの朝もそうだった。『若旦那、おまはんは、お酒ばかり飲んでいるから、顔色がわるいんざますよ。けさは、ごはんをおあがんなましよ。みどりや、たまごをとってきなよ』てえんで、たまごをとりよせて、こしらえてくれたのが、たまごぞうすい。うまかったねえ、あんときのめしは……けさ、うちへ帰るんでいそいだもんだから、なんにも食べないできた。おもいだしても食べたい。おまんまが食べたいっ」
「ばか野郎、あきれた。あそびにばかり夢中になりゃあがって、めしを食うのをわすれてやがる……定吉や」
「へい、なにかご用で?」
「二階へいってなあ、おれがいったというなよ。野郎が増長《ぞうちよう》するから……おまえの腹からでたように、若旦那に、ごはんをおあがんなさいと、そういってきな」
「へい、かしこまりました……もし、若旦那、やあ、おかしいな。若旦那は、女のまねをしてらあ。若旦那」
ポンと、背なかをたたきますと、
「あら、びっくりしまはあね。だれだとおもったら、店の小僧どんざますか。なんざます?」
「こりゃあおどろいたねえ。変なことばになっちまった。あの若旦那に、ごはんをおあがんなさいましって……」
「ごはんのおかずはなんざます?」
「なんざますったって、きまってまさあね。こちらは、しみったれだから、たいがい、ひじきに油げで……」
「あら、いやらしい。そんなもんじゃあ、ごはんが食べられまへんよ。お火鉢のおひきだしにお金がはいっているから、それを持っていって、なんぞうまいものでもとってきてくんなましよ。早くするんだよ」
「こりゃあおどろいた……へえ、旦那、いってまいりました」
「どうしたい、二階のばか野郎は?」
「二階のばか野郎はたいへんで……」
「なんだ、おまえまでばか野郎とは……」
「若旦那は、女のまねをしているんです。いくら呼んでも返事をしません。背なかをたたいて、『若旦那!』と、大きな声で呼んだら、『あら、びっくりしまはあね』って……」
「なんだい、しまはあねてえのは?」
「そういってるんです。『だれだとおもったら、店の小僧どんざますか。なんざます?』てえから、『ごはんをおあがんなさい』といったら、『ごはんのおかずはなんざます?』てえから、『きまってまさあね、うちは、しみ……しみじみいいうちだから』……」
「うそをつけ」
「『おかずは、ひじきに油げです』『そんなもんじゃあ、ごはんが食べられません。なんぞうまいものでも、そういってとってくんなまし』……ねえ、ちょいと、おとっつぁんや、若旦那が、ああいうもんだから、わちきがいって、買ってきまほうか?」
「なんだ、おまえまでまねをしてやあがる。あきれたやつだ……久兵衛や」
「へい」
「あきれましたねえ。ばか野郎、まあ、二階で、女のまねをしているそうだ。商人《あきんど》のうちにけしからん。ちょいといって、よくそういってきてください」
「かしこまりました……ええ、もし、若旦那」
「あら、ちょいと、こんどは、番頭はんざますか?」
「こりゃあ、若旦那、おそれいりましたな。たいがいにあそばせ」
「ははははは、久兵衛、かんにんしておくれよ。いいえね、いま、じつはね、おいらんのことをおもいだしてね、ひとりごとをいってるところへ定吉がきたから、おいらんのまねをしたら、おどろいておりていったんだ。おやじは、なにかいってるかい?」
「いってるかじゃあございませんよ。ちと、ご辛抱なさらなくっちゃあいけないじゃあありませんか」
「辛抱するよ。だがねえ、久兵衛、すこしないしょで、おまえにたのみがあるんだが、聞いてくれるかい?」
「へい、ほかならぬあなたのおたのみ、てまえにできることなら、なんなりといたしますが……」
「できることだからたのむよ。ほかでもないんだ。お金を三十両ばかり用だててもらいたいんだが、どうだい?」
「へへへへへ、なんだとおもいましたら、お金のご無心で……いえ、なに、これが、一分《いちぶ》か二分《にぶ》のことなら、てまえ、どうにでもご用だていたしますが、三十両とまとまりますと、ちと大金で、てまえの手では、できかねますが……」
「いえさ、久兵衛、おまえのふところから貸してくれというわけじゃあない。おまえが、ここの番頭、店のお金の出入りは、おまえの手でするのだから、店のお金を三十両、おれのところへ用だってもらいたいんだ」
「どういたしまして、若旦那、店のお金といったら、帳面の帳尻とぴたりとおひきあいになるお金で、三十両はさておいて、びた一文のことでもどうすることもできません」
「できないのはわかっているよ。そこをうまく、おまえが、ごまかしてさあ」
「とんでもないことで……ごまかしなんということは、とてもできません」
「できなかろうが、そこが、おまえだ」
「いかにてまえでもできません」
「そういわないでさあ。おまえだって、なにも、はじめてごまかすわけでもないのに……」
「えへん……」
「おや、痰《たん》をきったねえ」
「若旦那、うかがいますが……」
「なんだ?」
「いえ、あなた、妙なことをおっしゃいますねえ。はじめてごまかすわけじゃあなしとおっしゃられると、わたしが、ふだんからごまかしているように聞かれますがな。もし、若旦那……」
「なぜ、そう大きな声をだしていうんだい?」
「わたしは、大きな声は地声です。まだ、いくらでもせりあがります」
「じょうだんいっちゃあいけない。そうおまえが大きな声をして、目くじら立ってしまっては、やぼじゃあないか」
「おっしゃる通り、わたしは、やぼです。また、商人の番頭は、やぼでも、ご奉公はつとまります」
「これさ、久兵衛、そう威猛高《いたけだか》になって、口をとんがらすものじゃあないよ。なんだ? ふん、ああ、やぼですと? だれが? おまえがかい? ははははは、やぼじゃあなかろう、久兵衛、粋《すい》なひとだぜ、おまえは……むかしから、わたくしは正直ものですといったひとに正直もののあったためしがない。久兵衛、おまえは、口じゃあやぼですというが、そのじつ、とんだ粋なひとだよ。あの年増《としま》は、いくつになるんだい? わたしの目じゃあ、二十五、六だが、女は、買いかぶるから、七、八になっているか? おつな年増だねえ、久兵衛」
「なんですと、若旦那、ますます妙なことをおっしゃいますな」
「あの女は、いい女だ。久兵衛」
「それでは、てまえが、なにか女狂いでもしているとおっしゃいますか? けしからんもんで……わたしは、生まれついて、女なんというものが大きらいです。堅い上においては、この上なしの堅い人間、万世橋《めがねばし》の上へころんでも、石のほうでいたいといいます」
「そうかい。そんな堅いひとにむかって、あの年増はいい女なんぞといったのは、わたしがわるかった。あやまるよ。かんにんしておくれ。だがね、そうなると、わたしのほうにも、ちと、はなしがあるんだ。もうすこし前へおいでよ。じつは、先月の二十日《はつか》と、日をきちんとおぼえているというのが、町内の湯屋が、月並《つきなみ》(月例)でやすみだった。しかたがないから、となり町のお湯へいったのが、正午《ひる》すこしすぎでしたかね、着物を着て、軒口《かどぐち》をガラリとあける。とたんに、女湯の格子戸《こうしど》があいたから、みるとはなしに、ひょいっとふりかえってみると、年のころ二十五、六になる、湯あがりだが、おしろいっ気なしで、色の白い、髪の毛のいい、おつな年増さ。いい女だなとみると、そこの湯屋へついて裏へまがったから、ははあ、この湯屋の裏は、抜け裏かしらと、わたしもばかだねえ、あとからついていくと、抜け裏じゃあなかった。ゆきどまりだ。左っ側で、奥から二軒目のうちへはいったのが、華奢《きやしや》な格子づくり、ご神燈がさがっている。名札を読むと、ふるえ文字で、清元なにがしとしてある。長屋のかみさんらしいものが、子どもをおんぶしていたから、『もし、おかみさん、こちらは、清元のお師匠さんでございましょうか?』と聞くと、『なに、お師匠さんは、つけたりで、まったくは、お囲《かこ》いものですよ』『へへえー、どなたさまのお囲いで?』『深いことは知りませんが、横山町へんで、鼈甲《べつこう》問屋の山崎屋さんとかいううちの番頭さん……』……久兵衛、まあまあ、おまえじゃあなかろうが、そのおかみさんがいうんだよ。はてな、横山町の山崎屋といえば、わたしのうち、ここのうちの番頭といえば、久兵衛、おまえじゃあないか……おまえは堅いねえ。自分の口でいうくらいな堅いひとだ。万世橋《めがねばし》でころんでも、橋のほうがいたいというくらいな堅いひとだから、主人の目をぬすんで妾狂《めかけぐる》いをするような、そんなけしからん男じゃあないと、ははははは、わたしが、ふだんから、おまえがひいきだから、世間には、似た名があるのだ、こりゃあ、なにかひとちがいだろうと、何の気にもとめず、帰ってしまった。四、五日たった正午《ひる》時分、おまえ、おまんまを食べないで、うちをでなすったが、久兵衛、用はないんだが、どこへでかけたんだろうと、わたしが、みえがくれについてゆくと、まあ、おまえじゃあなかろうが、おまえにようく似たひとが、その湯屋の裏へまがった。わたしもついて、あとからゆくと、もう、その男は、いまいったうちへはいって、障子をぴったりしめた。どうにかして、なかのようすをみたいと、そこのうちについて、こうお庭がある。台所で、おう、久兵衛、こんどいったら、ばあやだか、おさんどんだか知らないが、叱言《こごと》をいっておきなよ。裏口の障子を細目《ほそめ》にあけておくのは物騒《ぶつそう》だ。手をのばして、金だらいひとつ持っていかれたって損じゃあないか。こんなことは、どうでもいいはなしだが、そのすきまからのぞくとね、おまえにようく似たひとが、その年増と火鉢をへだてて、なにかはなしをしているんだ。わたしも、そこへガラリとあけてはいるのは知っているが、そんなやぼなまねはしたくないと、だまって帰ってきたつもりにしてあるんだ。いま、おまえの口から、『わたしは堅うございます』なんと、しかつめらしくいわれると、これだけ証拠があるんだから、おまえとわたしとあらそったって水かけ論、一応、おとっつぁんにもはなして、おまえか、おまえでないか、白い黒いをつけてもらうから、待っておいで……もし、おとっつぁんへ、番頭の久兵衛が妾……」
「もし、若旦那、そんな大きな声を……」
「大きな声は、地声だよ。まだ、いくらでもせりあがるよ」
「まあ、それをおっしゃっては、やぼ……」
「わたしは、どうせやぼです。商人《あきんど》のむすこは、やぼのほうが手堅くてよろしい」
「まあまあ、若旦那、まねをしちゃあいけません」
「お放《はな》しよ。おまえは堅い」
「それが、ときどき、やわらかくなります。いえ、じつはな、若旦那、あの女てえものは、とっくにおはなしをしようとおもったんですが、全体、あれは、わたくしの、妹の、姪《めい》の、いとこの、その伯母《おば》の……」
「な、な、なにをいってるんだい。ひたいの汗をおふきよ。こんないやなことをいいたくないから、わたしのほうで、たのむというのじゃあないか、そりゃあ店のお金を三十両ごまかすといえば、ことばに角《かど》も立つが、ゆくゆくは、わたしの身代《しんだい》になるお金じゃあないか。だまって、わたしのいうことを聞いておくれ」
「へい、よくわかりました。して、若旦那、てまえが、三十両用だてましたら、どうあそばすんで?」
「ゆうべね、おいらんの夢をみたんだから、今夜、こっそりでかけていって、あしたの朝は、早く帰ってくるから……」
「へへへへ、若旦那、まだお道楽はやみませんなあ。もし、ここで、ひとつご相談をいたそうじゃあございませんか。吉原のおいらんというのは、まったく惚れているんですか?」
「ああ」
「こりゃあ、ごあいさつでしたなあ。ああってえのは、ほかになんとかおっしゃりようもあるでしょうに……」
「惚れているんだもの、正直にいうほうがいいだろう?」
「それで、おいらんとあなたとご夫婦になれたら、お道楽はやめますか?」
「あたりまえじゃあないか。惚れてる同士がいっしょになる。さあ、これから、つぎのお道楽をはじめなさいといわれたって、できるかい?」
「それなら、わたくしが、どうでも骨を折って、おいらんとご夫婦にいたしますから、そのかわり、お道楽は、ぴたりとおやめあそばせ」
「おい、久兵衛、じょうだんいっちゃあいけないよ。おれとおいらんといっしょになれるわけがあるかい? うちのおとっつぁんは、あんな堅人だし、まあ、おとっつぁんは、どうにかしたにしても、おいらんを身請《みう》けをしてきて、堅気のうちのおかみさんで候とは、親類はじめ、ご近所の手前もあるじゃあないか」
「へへへへ、若旦那、まだ、おとしがお若い。そりゃあ、おもてもあれば、また、裏道もあります。そりゃあ、普通《じみち》にいったら、とてもできゃあしませんが、そこはまた、うそも方便、そのかわり、ここで三月でも、四月でも、あなたがご辛抱をなさらないといけません。あなたが、ご辛抱をなすったら、てまえが、ご親類がたへおねがいをして、お金をまとめて拝借をいたします。それで、吉原のおいらんを身請けしますが、すぐおうちへつれてくることは、もとよりできませんから、当分のあいだは、まず、横町の鳶頭《かしら》のうちへ客分としてあずけておきまして、ここで、ひと狂言書いて、おとっつぁんをおだまし申す……というのが、毎月|晦日《みそか》になると、てまえが、ほうぼうさまへお掛けとりにまいります役目でございますが、それを、あなたがいくようにいたしますから、先方へいって、お金をうけとったら、鳶頭のうちへ寄って、財布ぐるみあずけて、あなたは、手ぶらで帰っていらっしゃい。『へい、おとっつぁん、いってまいりました』『ごくろう』……ふところへ手をいれる。もとよりあずけてきた財布だから、あるはずがない。はてな、というおもいいれで、おとしたのか、どうしたんだろうと、すったもんだ、いっているところへ、おくればせに、鳶頭が、あなたからあずかった財布を持ってはいってくる。『角《かど》でひろいました。お店《たな》のしるしがついていましたから、持ってまいりました。いそぎますから、ごめんなさい』と、鳶頭は帰ってしまう。おとした財布がでた、いいわで、だまっているわけにいかないからと、大旦那が、鳶頭のうちへお礼にいくと、身請けをしてきたおいらんを、ご殿女中という、ごく品のいい扮装《なり》にして、『お茶をひとつ』と、大旦那の前へだします。いかにもの堅いおとっつぁんだからといっても、お茶をくれたひとだ。『ありがとう存じます。おそれいります』ぐらいいって、相手の顔をみるのが人情です。みると、としが若くて、品があって、女がいい。『鳶頭、みなれないお嬢さんだが……』『へい、お嬢さんはいやでございます。じつは、かかあの妹で、屋敷奉公をさしておきましたが、年期《ねん》あきで帰っております。たいしたこともできませんが、持参金が三百両に、たんすと長持が五|棹《さお》ばかりあるんですが……』失礼ながら、あなたのおとっつぁんは、欲ばっています。きりょうがよくって、持参金が三百両、たんす、長持が五棹あるてえのは、鉦《かね》と太鼓でさがしてもめったにない嫁ご寮《りよう》……『どうだい? うちの徳にもらいたいが……』とくるが、どうでございます?」
「うーん、どうも久兵衛、うまい。おまえは、なかなかごまかしつけているね。そううまくおとっつぁんが、とんとんと、はまってくれればいいが……」
「たいがいは大丈夫。もし、それでいけなければ、また、つぎの手もありますから……」
「それじゃあ、なにぶんたのむよ」
「ご辛抱あそばせ」
と、ふたりの相談ができましたが、なんにも知らないのは、親御さんで……
ある日のことでございます。
「久兵衛どんや、ちょいときてください」
「へい、なんぞご用で?」
「ほかでもないがね、丸の内の赤井さまへ百両というお掛けとりだ。おまえさん、ちょっといってきておくれでないか?」
「ちと弱りましたな。へい、こんにちは、すこし店にとりこみがございまして、わたしはじめ、一同手をあけるわけにはまいりませんが……あ、そうそう、さいわい、若旦那さまは、お手すきのごようすで、いかがでございましょう、若旦那をおつかわしくださいましては?」
「なんですって? 徳をかい? じょうだんいっちゃあいけませんよ。あれが、このごろ、うちにじっとしているのは、ありゃあ、腹から辛抱しているのじゃあありませんよ。金というものが手にはいらないから、しょうことなしの辛抱、それに、この掛けとりというつかいをさしてごらん。金はうけとったが、すぐにまた、気がかわって、女郎買いにといかれたらどうします? いわば、知恵のない子に知恵をさずけるようなものだろう」
「へい、なるほど、そうおおせられますのは、一応はごもっとものように存じますが、わたくしのみましたところでは、若旦那さまは、こんどは、まったくのご改心らしくみえます。ひとさまのご了見《りようけん》はわからないもので、さいわいに、このおつかいで、若旦那のご了見をためしてごろうじろ」
「ははあ、ためすとは、どうしてね?」
「おつかいにおいであそばして、普通《じみち》にお金を持ってお帰りになりましたら、まったくのご改心、もし、また、そのままお女郎買いにでもおでかけになりましたら、もうしかたがございません。いったん勘当をなさろうとまでおもいきった若旦那さま、百両のお金は、縁切り金、久離《きゆうり》(親族の縁切り)切って勘当あそばせ」
「だがね、久兵衛や、それがうまく帰ってくればいいが、そのまま女郎買いにいったからといって、そこで勘当と、そりゃあ、おまえさんは他人だが、また、これが、親身《しんみ》の……えへん、いや、おまえのいう通りやってみましょうよ……徳次郎や、徳や」
「へい、おとっつぁん、それでは、これからすぐにいってまいります」
「早いな。用を聞かないうちに知っているとはおどろいたねえ。物騒《ぶつそう》なやつがあるもんだ。あわててとびだしていったが……おい、久兵衛や、あいつ、そそっかしいやつだから、途中で、おとしでもしなきゃあいいがのう……」
「鳶頭《かしら》、こんにちは」
「おや、若旦那ですかい。まあ、おあがんなさい」
「いや、そうはしていられないんだ。かねて、久兵衛から聞いているだろうがね、いよいよ、きょうは、当日となったんだよ。いま、丸の内の赤井さまへいって、百両のお金をうけとってきた。さあ、財布ぐるみあずけたよ」
「へい、よろしゅうございます。たしかにおあずかり申しました」
「それでね、鳶頭、なるたけ早くきておくれよ。わたしの役まわりが、まぬけな役まわりだからね。お金をおとしたてえんだろう、おとっつぁんは気がみじかいから、このばか野郎てえんで、持っているきせるで、ぶたれたってしかたがないんだから、いいかい? 早くきておくれよ」
「よろしゅうござんす。すぐあとから、一足ちげえで追っかけますよ」
「それじゃあ、なにぶんたのむよ」
「かしこまりました」
「でねえ、鳶頭」
「へい」
「あのね、鳶頭」
「なんだか、若旦那、わけがわからないねえ。なんです?」
「なんですったって、わかりそうなもんじゃあないか」
「なんだか、ちっともわかりませんよ」
「おいらんは、なにをしているい?」
「へへへへ、若旦那、ほめてやっておくんなせえまし。おいらんは、感心だねえ。毎日、二階で、針仕事をしてますぜ」
「なに? 針仕事? そうかい。だがねえ、おいらんは、凝《こ》り性《しよう》なんだから、すぐに肩が凝る性分《しようぶん》でね。鳶頭、すこしぐらいなら、会ってってもいいだろう?」
「おっと、若旦那、おまえさんにも似あわねえね。ここまで漕《こ》ぎつけているんじゃあござんせんか。つまらねえところで、ぼろがでちゃあ、なんにもならねえ。わるいことはいいません。早くお帰んなせえまし。わっしは、あとから、一足ちげえで追っかけますから……」
「それじゃあ、なにぶんたのんだよ」
「へい、おとっつぁん、ただいま帰りました」
「はい、ごくろう……久兵衛や、徳が帰りましたよ。よく帰ってきた。ごくろうだったな。うけとってきたかい?」
「へい、たしかにうけとってまいりました」
「ごくろう、ごくろう。こっちへおいでなさい。ええ、ひさしくあるきつけないから、くたびれたと? ああ、そりゃあ無理はないよ。着物を着かえたらね、お湯にいっておいでなさい。くたびれが抜けるから……ああ、それから、そのお金を、こっちへおだし」
「へい、たしかにうけとってまいりました」
と、いいながら、若旦那は、ふところへ手をいれ、
「はてな?」
「どうしたんだい? ようすがおかしいぜ。おとしでもしたのかい?」
「へい、チャランといったとき……」
「なに? チャランと音がすりゃあ、おとしたにきまってるじゃあないか、その音を聞いて知っていて、おとしたのに気がつかないてえ、そんなばかなはなしがありますかい……」
「へい、ごめんくださいまし」
「おや、なんだい? 鳶頭《かしら》」
「へい、いまね、角《かど》までゆくと、足にさわったものがあるので、ひょいとみると、お店《たな》のしるしのついているこの財布で、なにか金がへえっているようすですから、手はつけませんが、おあらための上、うけとっておくんなさいまし。いそぎますから、また、のちほどうかがいます。ごめんくださいまし」
「はい、鳶頭、ありがとうございました。まあ、いいじゃあないか。お茶などひと口……ええ? うん、そうかい……それじゃあね、また、いずれあらためてうかがうから……はい、いや、どうもありがとうございました……このばか野郎、あきれましたねえ。百両というお金をおとせば、重《おも》みでもわかりそうなものだ。いいあんばいに鳶頭がひろったればこそ、持ってきてくれたのだ。他人がひろったら、でやあしないぞ」
「そこんところは大丈夫……」
「なにが大丈夫だい。おとして安心をしているやつがあるかい。あきれたやつだ。あっちへいっておいでなさい。久兵衛や、鳶頭がひろってきてくれましたよ」
「そうだそうで……まるで夢のようなはなしでございますな。ですが、若旦那は、お帰りになりましたな」
「ああ、いや、すこしは、みどころもついてきましたがね、だが、まあ、百両という金をおとして気のつかないというそこつものじゃあこまりますねえ。でも、まあ、鳶頭にひろってきてもらったので、まあまあ、損がないのがなによりさ。これについては、わたしもわるいよ。このあいだも、本町《ほんちよう》さんにいわれた。『おまえさんは、むすこが道楽をしてこまると、ぐちをいいなさるが、おまえもよくない。なぜ、いつまでも、ひとり身にしておきなさるのだ。早くいい相手をみつけて、女房を持たしたらよかろう』といわれた。そのはなしについて、さいわい、木場《きば》に、心立てのいい娘さんがあるそうで、年を聞いたら、どうもあれとは、ちと年まわりがわるい……」
「ええ、縁談は、後日のことといたしまして、とにかく、鳶頭が、ああやって、百両という金をひろってくれました。親しき仲にも礼儀ありで、これは、大旦那さまが、ちょっとお礼にいらっしゃるのが道だと心得ますがね」
「ああ、なるほど、そうそう。よくいってくだすった。つい、うれしまぎれでしてね、わすれていましたよ。それじゃあ、わたしは、ちょいといってくるから、なにぶんたのみますよ」
「ああ、もしも、大旦那、手ぶらでいらっしゃいますか?」
「なんだい?」
「へへ、なにしろ百両というお金をひろって、持ってきてくれましたんで、おとし主半分というたとえもございますが、百両で五十両は、ちと大げさで、まず、二十両、紙へつつんでおだしになりますかな」
「えっ、二十両を紙へつつんで、鳶頭へみせるのかい?」
「いいえ、みせるのじゃあございません。礼としてやりますんで……」
「なに? 鳶頭へ二十両、ただやるのかい? へえー、だって、久兵衛、二十両といえば大金だよ。十両からは、首がとぶというくらいなものだぜ」
「へへへ、だしましたところで、鳶頭の気性、ましてや、親の代からお出入りのお店のことで、いわば、あたりまえのことですから、二十両の金は、おだしになっても、手はつけますまい、うけとりはしますまいとおもいます。そのかわり、かつおぶしの切手をそえておだしあそばせ。かつおぶしの切手をとるでございましょうか? 二十両のお金をとるでしょうか? まあ、どちらをとるか、鳶頭の了見をためしてごろうじろ」
「ははあ、またためすかねえ。おまえさんは、ためすのがだいぶ好きだねえ。それじゃあ、まあ、そういうことにして、わたしは、いってきますから、なにぶん店をおたのみ申しますよ」
「はい、ごめんなさい」
「おや、いらっしゃいまし。さあ、どうぞ、おあがんなすって……ええ、ふとんを一枚持ってきなよ……さあ、どうぞ、大旦那がおいでになって、なんのご用ですか? わっしがあがらなくっちゃあすまねえ。まあ、どんなご用があったか知らねえが、小僧さんでも呼びにおよこしなすったら、すぐにわっしがうかがいましたんで……旦那、なんでござんすか? わざわざおでかけで……」
「いや、鳶頭《かしら》、さっきのお礼にまいりました。鳶頭なればこそ、ひろって持ってきてくれました。他人の手へわたっては、とても、でやあしませんよ。ありがとう。わたしは、お礼をいいます」
「いやでござんすね。そんなに、大旦那にぴょこぴょこおじぎをされると、かえって、わっしのほうで面目玉《めんぼくだま》を踏みつぶしちまう。どうか、手をあげておくんなさいまし」
「そこで、鳶頭、お礼のことを久兵衛とも相談をしたところ、あの久兵衛という男は、なかなかの苦労人で、世間のことにあかるいひとでね、わたしとちがって……で、久兵衛のいうには、まず、おとし主半分というたとえがあるから、五十両だが、ちと、それは大げさになるから、二十両、紙へつつんで、鳶頭へお礼としてだしたほうがよかろう。が、鳶頭もあの通りの気性、ましてや、親の代から出入りの店、いわば、このくらいなことはあたりまえじゃあないか……で、まあ、そのかわり、かつおぶしの切手を持ってゆけと……かつおぶしの切手のほうはとるだろうが、二十両の金のほうはうけとるまい。いや……まあ、これは、どちらもお礼だ。まあ、鳶頭、とっておくれ」
「へへへ、それじゃあ、大旦那へ、こういうことにいたしましょう。お金は、いただいたも同様ですから、そちらへおおさめをねがって、そのかわり、かつおぶしの切手のほうは、ありがたくいただくことにいたしますよ」
「えっ、金はとらない? えらいっ、ああ、鳶頭は、じつにえらい気性だ。豪勢だねえ。鳶頭もえらいが、うちの久兵衛もえらい。ためすことが、みんなあたらあ……」
「やいやい、なにを突っ立ってやあがるんでえ。旦那に、早くお茶をあげねえかい」
「はい、これは、どうもごちそうさま。もし、鳶頭へ、みなれないお嬢さんだねえ」
「へへえ、お嬢さんは、いやでござんすねえ。じつは、かかあの妹で……」
「おかみさんのお妹さん? はて、ご姉妹《きようだい》とはいいながら、ちっとも似ていないようだし、だいいち、おかみさんからみりゃあ、よっぽど女っぷりがいい……えへん、いや、おかみさんもいいが、妹さんも、いい女っぷりだ。お堅い服装《なり》だねえ」
「このあいだまで、屋敷奉公をさしておきましたが、年期《ねん》あきで帰ってきておりますんで……」
「ああ、道理でねえ、うんうん、そうかい。で、嫁《かた》づくさきでもあるのかい?」
「いえ、まだ嫁づくさきってえのはないんで……当人のいうのは、武家は、武張ってていやだ。職人は、がさつ(粗野)だし、なるべくなら、前垂れごしらえで、矢立てを腰へさしたひとのうちへゆきてえなんていってます。なあに、たいしたこともできませんが、持参金が三百両ばかり、たんすと長持が五棹ばかりあるてえんで、まあ、おねがい申しておきますが、いい口がありましたら、お世話をねがいとうございます」
「なに? 持参金が三百両? たんすと長持が五棹? へーえ、そこでねえ、鳶頭、いろいろ長いあいだご心配をかけましたが、うちの徳ね、おかげさまで、このごろは、だいぶ辛抱人になりました。あれなら大丈夫だろうとおもうのだが、いつまで、ひとり身で放《ほ》っておくと、また、じきに道楽をはじめるんだが……もし……笑っちゃあいやだよ。笑っておくれでないよ。ものは聞いてみなきゃあわからない。あたってくだけろというたとえもあるが、どうだろう、鳶頭? うちの徳にもらうわけにはゆかないかねえ」
「どういたしまして、お店の若旦那なぞは、酸《す》いも甘《あめ》えも心得ていらっしゃるところへ、あんなやぼな人間は、とてもつとまるわけがございません」
「いや、徳がいやなら、わたしがもらいますよ」
おとっつぁん、すっかり気にいってしまいました。もとより書いた狂言、おもうつぼにはまって、若旦那とおいらんは、おめでたくご夫婦ということにあいなりました。
「お花や、ちょいと、おいでなさい。お茶がはいったから、おあがり。いや、おまえが、ここのうちへきてくれてからは、徳もすっかり辛抱人になって、わたしも安心、当家も大磐石《だいばんじやく》だ。それにね、おまえのうわさがいいのがなによりだ。ああ、それについて、このあいだ、こまったことがあったよ。たしか吉兵衛さんだったかねえ、『お店の若いおかみさんは、もと、お屋敷奉公をなすったそうでございますが、どちらさまへおつとめをなすったんです?』と聞かれて、返事に弱ったが、おまえが、おつとめをしたというのは、どちらだい?」
「北国《ほつこく》ざます」
「北国? ははあ、お国づめだね。北国とは、北の国、ああ、加賀さまかい? 百万石のご大藩だ。ご家来も数多いだろうが、お女中ばかりでもたいしたもんだろう?」
「三千人いるの」
「三千人?! うーん、さすがにたいしたもんだ……で、参勤交代《さんきんこうたい》のときは、道中はするのか?」
「道中するんざますの」
「うん、お駕籠《かご》でかい?」
「大門《おおもん》うちは、駕籠はならないんざますの」
「じゃあ、あるくのかい? そいつあたいへんだ……で、結付《ゆいつ》けぞうりでか?」
「高い三つ歯の木履《ぽつくり》で……」
「木履で? 妙な道中だなあ。だが、お女中のこった。朝はゆっくり発《た》って、日の暮れは、早く宿へつくんだろうの?」
「ほほほほほ、なんのばからしい。日の暮れがたにでて、最初は、伊勢屋へいって、尾張屋へ……大和《やまと》の、長門の、長崎へいくの」
「まあまあ、お待ちよ。日の暮れにでて、伊勢へいって、尾張へいって、大和の、長門の、長崎のというと、おそろしくあるくんだねえ。ははあ、よく、きつねがついたとか、なにがついたとかいうが、おまえにも、なにかつきものがしたね。諸国をあるくのが六十六部《ろくぶ》。足の早いのが飛脚、もっと早いのが天狗《てんぐ》だな……ああ、わかった。おまえには、六部に天狗がついたのか?」
「いいえ、三分で、新造がつきんした」
反対車
そのむかし、まだ人力車がさかんだったころのおはなしでございます。
人力車夫のなかには、繻子《しゆす》の詰《つ》め襟《えり》の上着に、金モールの縫いのあるドイツ帽をかぶって、きりっとしたももひきで、ときによると、乗ってるお客さまよりも、金のかかった服装《みなり》をしているのもおりまして、こんなのはみるからに早そうでございますが、なかには、ずいぶんあやしげなのがいて、枯れたねぎのしっぽのようなももひきで、ぶくぶく綿のはいったちゃんちゃんこ、すっかり色のさめたまんじゅう笠《がさ》をあみだにかぶってるなんてえのもおりまして、こんな車に早いのはございません。
「旦那、おやすくお供いたしましょう」
「上野の停車場までやってくんな」
「おいくらで?」
「おいくらでったって、おめえが乗せるんじゃあねえか」
「ああ、なるほど、ごもっともで……」
「つまらねえことに感心してるんじゃあねえや。いくらでいくんだ?」
「どうせ、云い値じゃあ乗りますまい」
「おかしなことをいうない。高くさえなけりゃあ、云い値で乗るよ」
「じゃあ、十五円もいただきましょうか」
「おい、しっかりしろい、まぬけめ! 十五円だしゃあ、吉原で、どんちゃんさわぎができるご時勢だ。神田から上野まで十五円もだすやつが、どこにあるもんか」
「だから、勝手に値切ったらいいでしょう」
「そうよなあ、せいぜい三十銭てえとこだろうなあ」
「はあ、いきましょう」
「おっそろしく早くまけたなあ」
「どうかお乗んなすって……」
「いやにきたねえ車だな」
「へえ、きたないことは、まさにうけあいで……」
「それに、へんなにおいがするな」
「きのうまで豚を配達していまして、まだ、人間を乗せたことはないんで……」
「えっ、豚を配達していた?」
「ええ、人間を乗せるのは、お客さんが口あけで……」
「ひでえ車があるもんだ……おい、ふとんがねえぜ」
「へえ、豚はふとんを敷きませんから、ふとんはありません」
「いやな車だな」
「いいえ、そのほうが、尻《しり》がすっぽりはいって、すわりがようございますよ」
「ばかにするない」
「それから、しっかりつかまっていてくださいよ。両方の手で……」
「くたびれるじゃあねえか」
「手はくたびれますが、足のほうは楽《らく》で……」
「のんきなことをいってちゃあいけねえ。いいかい? 大丈夫かい? おいおい、そんなに梶棒《かじぼう》をあげると、うしろへおっこちるよ」
「じつは、ちょうちんが、ちっと長すぎるんで、梶をさげるとひきずりますから……」
「おそろしく長えちょうちんだなあ。いったい、どこから持ってきたんだ?」
「おいなりさまの奉納ぢょうちんを借りてきましたもんで……」
「なんだ、奉納ぢょうちんを借りてきた? そんなものをどうするんだ?」
「どうするんだって、これがなければ、路がわかりません。なにしろ借りものですから、こうなると、人間よりもちょうちんのほうが大事《だいじ》だ」
「じょうだんいうねえ……そりゃあいいが、もっと早くやってくんな。おれは、いそぐんだから……」
「ええ、やりたいのはやまやまですが、なにしろ、ちょうちんが足へからみついて、どうにもしまつにおえません。すみませんが、旦那、ちょうちんを持ってくださいませんか?」
「そんなばかばかしいことができるもんか」
「じゃあ、せめて汗《あせ》だけでもふいておくんなさい。目へ汗がながれこんで、見当《けんとう》がつきませんから……」
「いやな車に乗っちまったなあ。さあ、顔をだしねえ」
「どうもお世話さま」
「おめえ、口は、なかなか達者だが、足のほうはたよりねえな。あとからくる車が、みんな追いぬいていくぜ」
「なるほど、追いぬいていきますな。若いものには、花をもたせてやりましょう」
「若いものばかりじゃあねえ、としよりも追いぬいていくぜ」
「としよりにも花をもたせてやりましょう」
「ふざけるな。葬式《とむらい》じゃああるめえし、そう花をもたせてどうするんだ。どんどんいそいでやってくんな」
「旦那、そりゃあ、わたしだって車夫《くるまや》である以上は、大いに駈けたいんですよ。けれども、じつは、医者のいうには、『おまえは、心臓病があるから、なるべく駈けないようにしろ。無理に駈けると、心臓が破裂する』と、申します。それに、わたしは、女房や、親、兄弟もございません。もし心臓が破裂いたしましたら、どうぞ死骸《しがい》をひきとっておくんなさい」
「おい、おろしてくんな。とても乗っちゃあいられねえ。さあ、銭《ぜに》をやるよ」
「旦那、二十銭しかございませんが……三十銭のきめじゃあございませんか?」
「きめはきめでも、まだ、おめえ、万世橋《まんせいばし》もわたらねえじゃあねえか」
「追々《おいおい》わたるでしょう」
「追々わたられてたまるもんか」
「じゃあ、どうしても二十銭しかくれないんですね」
「あたりめえよ。二十銭だって多すぎるくれえだ」
「じゃあ、おろさないで、ぼつぼつ上野までひいていきますから、おいやでも乗っていってください」
「乗れというなら乗っていこうが、いったい何時ごろ上野につくんだ?」
「あさっての夕方でございましょう」
「じょうだんいうな。しかたがねえ。きめただけやるよ。さあ三十銭」
「どうもありがとう存じます。いつでも、あの柳の下にでておりますから、おいそぎのときには、またどうぞ……」
「なにいってやんでえ……ああ、おどろいた。ひでえ車に乗っちまったもんだ。こんなことなら、あるいたほうが、よっぽど早かった……車屋は、このへんにいねえかな? ……うん、あすこにいる若《わけ》え衆は、いせいがよさそうだ。おい、若え衆さん」
「へえ」
「おめえ、達者かい?」
「え? 達者かい? 達者かいとは、だれにいうんで?」
「怒っちゃあいけねえ。おめえに聞いたんだ」
「まあ、相手が鬼神《おにがみ》ならいざ知らず、人間なら、ぬかれたことはありゃあしませんぜ。こう梶棒をとって、はっとくらあ、あらよー、はっはっはっ……」
「おいおい、待ちな、待ちな。まだ乗りゃあしねえ」
「道理で軽いとおもった。さあ、お乗んなすって……」
「万世橋をわたって、北へ北へと、まっすぐにいってくんな」
「へえ、よろしゅうございます。旦那、乗ったら、しっかりつかまって、足をうんと踏んばっていてくださいよ」
「よし」
「でますよ。はっ、あらよー、はっはっはっはっ……」
「なるほど、こりゃあ早《はえ》えや。いやにからだがうごくが、むこうへつくまでに、おれの首はおちゃあしねえか?」
「首をおとしたひとはありませんが、どうか、旦那、あんまり口をきかないでいてください。このあいだ、舌を歯《か》み切って死んだひとがありますから……」
「あぶねえなあ。おそろしく飛ぶじゃあねえか」
「ここんところは、道普請《みちぶしん》で、五、六町でこぼこですから、飛んじまいましょう」
「おいおい、じょうだんすんねえ。あぶねえからとめてくれ」
「とめろったって、こう駈けだしたら、なかなかとまりませんよ」
「おどろいたなあ。たのむから、とめてくんねえ」
「ああ、ありがてえ。やっと土手でとまった」
「土手でもなかったら、どこへ飛んでいってしまうかわからねえな」
「へえ、ときどき遠っ走りしすぎて、帰りのめし代にもこまることがありますよ」
「ふざけちゃあいけねえ。ここは、いったいどこだ?」
「そうですね。あんまり見なれねえところだが、まさか外国じゃあありますまい」
「おいおい、心ぼそいことをいってねえで、よくみてくんな」
「ちょっと待ってくださいよ………ええ……旦那、ここは、埼玉県川口ですよ」
「川口? こりゃあおどろいた。おらあ、上野の停車場へいくんだ。こんなところへきちまって、こまるじゃあねえか」
「だって、万世橋をわたって、北へ北へまっすぐとおっしゃいましたから、たぶん青森か北海道だとおもったんで……」
「しかたがねえなあ。じゃあ、すまねえけれどもひっかえしてくんな」
「へえ、よござんす。はっ、あらよー、はっはっはっ……」
「おい、若え衆、すこし腹がへってきたよ」
「車に乗るには、弁当がいりますよ」
「ばかなことをいうない。車の上で、弁当が食えるかい」
「旦那は、腹がへったでしょうが、わっしは、目がくらんできましたから、川があったら教えてくださいよ」
「おめえは、川へ飛びこむことがあるのかい?」
「ええ、日に三度ぐらいは飛びこみます。こんど飛びこめば四度めだが、たぶん、旦那でおしまいでしょう」
「ふざけちゃあいけねえ。おいおい、若え衆、とめてくれ。おいっ、とめてくれってば……」
「いまとめますよ。なにしろ、はずみがついてるんだから、急にゃあとまりませんよ。あらよー、へい、はっ、へい、とまりました」
「ああ、命びろいをした。あぶなかった。しかし、早えな」
「へえ、早えほうじゃあ、だれにもひけをとりません。さっき、汽車を追いぬきました」
「そうだろう……ところで、いくらだい?」
「十円やってください」
「十円! そいつあ、ちっと高かあねえかい?」
「高《たけ》えかも知れませんが、命がけですから……」
「おめえも命がけかも知れねえが、おれのほうも命がけじゃあねえか。しかし、まあ、はじめからきめずに乗ったのが、こっちの手落ちだ。しかたがねえ、十円やろう……そりゃあいいが、みなれねえ停車場だが、どこだい?」
「そうですねえ……あっ、旦那、川崎です」
「川崎?! ……そりゃあてえへんだ」
「じゃあ、もう一ぺんもどりましょうか?」
「そうだなあ。ごくろうだが、上野へひっけえしてもらおうか」
「ええ、よござんす。じゃあ、しっかりつかまってくださいよ。さあ、駈けますよ。あらあらあらあらっ、はっはっはっ……へい、上野へつきました」
「早かったなあ。ごくろう、ごくろう……ときに、何時だい?」
「ええ……午前三時で……」
「それじゃあ、終列車はでちまったあとだ」
「なあに、心配はいりません。一番列車には、きっと間にあいますから……」
将棋《しようぎ》の殿さま
むかしのお大名には、ずいぶんおかしなおはなしがございます。
ある殿さまが、お物見《ものみ》から、市中のようすをみていらっしゃいまして、
「ああ、これこれ、三太夫《さんだゆう》、町人というものは、さてさて、あわれなものであるな」
「なんぞ、お目におとまりになりましたか?」
「みよ、職人どもが、たばこをのんでおる」
「職人でも、たばこをのみます」
「のむのはよいが、あれは、よほど妙だ。一服のたばこを、ふたりでのんでおる」
火を貸しているのをみたんでございます。
ばかばかしいようでございますが、むかしのお大名などは、たいていこんなもので、また、そこに味わいがございます。
お大名などというものは、世間みずでございますから、ずいぶん無理なことをおっしゃいます。それを、おおせごもっともで、すこしも無理だということのできないのが君臣の礼でございます。ご家来は、それはいけませんなどといえなかったものだそうでございます。ご登城のほかには、べつにご用がないから退屈で、したがって、いろいろなお道楽があります。
「こりゃこりゃ、家来ども、一同そろったか?」
「ごきげんよろしゅうございます」
「いや、どうも、毎日、用というものがない。そちたちから、いろいろなはなしは聞いているが、べつだんおもしろいこともない。そのほうどものはなしも、二度、三度と、ひとつことを聞いてもおもしろうない。どうじゃ、余も子どものころ、将棋をさしたことがあるが、そちたち、将棋をさせるか?」
「はっ、させると申すほどでもございませんが、ほんの駒をうごかすぐらいのことなら、わきまえております」
「ああ、さようか。しからば、盤を持て、盤を持て」
さっそく結構な将棋盤が、それへでます。
「しからば、てまえが、お相手をつかまつります」
「おお、そちは、いくらかやれそうじゃな。さあさあ、相手をいたせ」
「なかなか、お相手などというわけにはまいりません。お稽古《けいこ》をねがいます」
「いや、稽古をいたしてやるというほどには、余も知らん。さあ、こちらへまいれ。こちらへまいれ……さあ、早く駒をならべい」
「ええ、てまえのほうはならびました」
「いや、そちらはならんだであろうが、こちらが、まだ、ならばん」
「ああ、さようで……」
ご家来もおどろきました。殿さまの分までならべさせられるというしまつで……
「ええ、お上《かみ》にうかがいます」
「なんじゃ?」
「下《しも》ざまでは、この将棋をさします前に、先手後手《せんてごて》をあらそうために、金《きん》か歩《ふ》かということをいたします。おそれながら、かように、ひとりが歩をにぎっておりまして、金か、歩かとたずねます。甲が金なら、金と申します。そこで、これを投げてみまして、金がでれば、甲が先手、歩がでれば、乙の先手と、こういうことにあいなります」
「ほほう、先へでるのと、あとででるのと、いずれがとくじゃ?」
「それは、もちろん、先へでたほうがとくでございます。それゆえ、先手をあらそって、金か、歩かということをいたします」
「さようか。しからば、余は、先手をとるぞ」
「ああ、おさきへあそばしますか?」
「余が、さきへでる。この歩をつくのがいいということを記憶しておるがな、この角というものは、いざ敵地へ乗りこんでしまうと、縦横にあるけるから、はたらきをいたすものじゃが、わが陣地にあっては、まことに役に立たんやつじゃ。それゆえ、からだを自由にしてやるために、角道《かくみち》からでるのが、将棋の法じゃということを聞いたが、おかしいか?」
「どうつかまつりまして、碁には碁の定石《じようせき》のありますごとく、将棋にもまた、その法のあるもの、角道からでますのは、将棋の法にかなっているようにうけたまわりおります。なかなかご名手かと存じます」
「うん、さようか」
「てまえは、いささか工夫を変えまして、こちらからでますことにいたします」
「さようか。うん、そちは?」
「へえー……どうも、なかなかお上《かみ》は、お手順がきまってあらせられますので、大きに苦しみます。しからば、こちらの金があがりますことにつかまつります。へえー」
「ああ、なるほど、そちは、なかなかよくできるな」
「へえー、おそれいります」
「これこれ、そう、そのほうのように、いちいちおじぎをいたすな」
「おそれいります」
「また、つむりをさげる。なにもおそれいることはない。余を敵とおもえ。さあ、早くいたせ。余が、こういうふうに突いてでる。さあ、早くやれ、早くやれ」
「おそれいります。いつのまにか、君にはご上達になりましたか、なかなかおできでございますな」
「いや、ほめるな。敵にむかって、ほめるやつがあるか……ああ、これこれ、その歩をとってはいかん」
「へえ?」
「その歩をとってはいかん」
「ええ、ただいま、お上には、これをお突きになりました。それゆえ、てまえが、これをとります。隔番《かくばん》に……」
「隔番にさすぐらいはわかっておる……そちに教わらんでも知っておる」
「ただいま、上《かみ》が、この歩をお突きになりましたから、それゆえ、てまえが、これをこうやってちょうだいいたします」
「いや、その歩をとられては、このほうが不都合じゃ」
「不都合じゃとおおせられましても、おそれながら、てまえのほうで……」
「そのほうの手にはちがいないが、このほうにおいて不都合があるゆえ、とってはならんと申すに、わからんか? 主人の不都合をかえりみず、この歩をとってよろしいとおもうか? 主人のことばにそむくか?」
「いえ、ご立腹ではおそれいります」
「その歩をとらずに、他の手をいたせ。けしからんやつじゃ」
「ははっ、いや、ご同役、お笑いなさるな」
「さあ、早くいたせ」
「おことばにそむくとおおせられましては、はなはだおそれいりますから、おおせの歩をとることは、しばらくおもいとどまりまして……ほかに手がございません。やむをえず、端《はじ》のほうの歩を突くことにいたします。どうか、これにて、ごかんべんをねがいます」
「しかとさようか。しからば、このほうにおいて、この歩をとると、はなはだ都合がよろしい」
「ははっ、ごもっとも……」
「わからんことを申さずに早くいたせ。へたのかんがえやすむに似たりということがあるが、戦争《いくさ》をいたすに、そういちいち首をかたむけていては、勝つことができんわ……これこれ、いかんなあ。これ、ひかえろ。その飛車《ひしや》は、いつのまにか、こちらの陣中へまいりしのみならず、あまつさえ、このへんの駒を、みんなとってしまっていかんではないか。このほうが、二、三手いたしているうちに、この飛車が陣中へとびこんで、けしからんやつじゃ。目通りかなわん。さしひかえ申しつける。あとへさげい。そちは、主人のことばにそむくか?」
「おそれいります。けっしておことばにそむきはいたしませんが、この飛車なるものが、敵の陣中へ成りこみますまでには、いくばくの艱苦《かんく》をなめ、ようやくこれまでまいりましたものゆえ、なにとぞご憐愍《れんびん》のご沙汰《さた》をもって、これまでの艱苦をおぼしめし、飛車だけは、そのまま、おさしおきをねがいます」
「そのほうは、なげいて申し立つるといえども、元来ゆるすべからざるこの飛車が、このほうの陣中へ成りこんでまいったは、いかにもけしからんやつじゃ。ことに、さむらいたるものが、いったんさしひかえ申しつけたる以上は、なんぞ趣意がなきにおいてはゆるしがたい。しかしながら、せっかくそのほうが嘆願いたすものであるから、なんとかいたして趣意をみつけだしてつかわす。待て待て、しばらくさしひかえておれっ、うーん……あった、あった。趣意をさずけつかわす。ここにうずくまっておるこのほうの飛車を、そちの陣中へ成りこますればゆるしてつかわすが、そのかわり、そのほうの飛車は、当分うごかしてはならんぞ」
「ははっ、おそれながら、てまえの飛車をおたすけくだしおかれるために、てまえ陣中に、上《かみ》の飛車がお成りこみにあいなりまするは、承知いたしましたが、途中に、金と銀がございますのを、飛びこしていらっしゃいましては、はなはだおそれいります」
「わからんやつじゃな。そのほう、飛車をたすけるがために、このほうの飛車を成りこましたのじゃ。しかるに、なんぞや。通り道に金銀があって、飛びこしたとて、よいではないか」
「お飛びこしなんぞと申すは、飛び将棋のほかにはないかと存じます」
「将棋の法にないといたしてみれば、このほうの飛車も、そのほうへゆくことができん。ゆくことができんければ、そのほうの飛車もたすけるわけにはいかんから、金銀を飛びこしたのじゃが、もし、飛びこすことができんなら、金銀は、目ざわりじゃから、とりはらい申しつける。さっそくとりはらえ」
「ははっ……ご同役、お笑いなさるな。しからば、かようにとりはらいます」
「これこれ、死骸《しがい》は、このほうへつかわせ。しからば、そのほうのねがい通りたすけてやるによって、このほうの飛車も、そちらへまいるぞ」
「おそれいりました」
「どうじゃ、負けたか? そのほうどもは、へぼでいかんな」
だれだって、これでは勝てるはずがございません。
「いれかわってまいれ。いれかわってまいれ」
と、何人かのご近臣が、いれかわり、たちかわりでましたが、みんな、おとりはらい、お飛びこし、さしひかえを申しつけられ、はなはだしきは、お上《かみ》が、ふた手ぐらいあそばしますから、どんな先生だって、これじゃあ負けます。
碁がたきは、にくさもにくし、なつかししで、すべて勝負ごとは、負け勝ちのうちに、おたがいにたのしみをいたすものでございますが、これは、いつでも、殿さまが勝って、ご家来が負けて、おじぎをするときまっておりますから、おもしろくありません。ご近臣のものが、毎日、お相手をいたし、殿さまも、もうあきるだろうとおもうと、なかなか、あきがまいりません。ごはんをめしあがると、ご休息もなさらずに、すぐにおはじめになりますから、ご家来がたもやりきれませんので、なるたけ早く負けることばかりかんがえております。
「おはよう」
「おはようござる。たいへんにお早く、ごくろうさまで……殿は?」
「もう、とうにお目ざめでござる。ただいま、ちょっとのぞいてみましたところが、将棋盤が、もうでております」
「それは、それは……もう、たいがい、おあきになりそうなものではござらぬか。われわれが、このくらいあきておりますのに、どうもこまったもので、またお相手をしなければならんですかな」
「いや、それもよんどころござらん。じつは、拙者《せつしや》、昨夜、おやじと相談をいたしたところが、それはどうもしかたがないから、ごきげんをとりむすんだがよい。それが、きさまたちの道であるといわれてみると、それにちがいござらん」
「いかがでござる、もうまいりましょうか?」
「いや、まだ早うござろう」
「こりゃこりゃ、つぎの間に声がいたすが、一同のものは、まだでてまいらんか?」
「はっ、ごきげんよろしゅう存じます」
「さあ、みなの者まいれ」
「さあ、お飛びこし、おとりはらいのお呼びこみだ」
「これこれ、そのほうどもは、どうもへぼでいかん。いつも勝負をいたして、このほうが勝つときまっていて、おもしろうない。負ければ、おじぎさえすればよいと心得ているによって、いつまでも上達いたさんから、そのほうどもの上達のために工夫をいたした。すなわち、ここへ鉄扇《てつせん》を賭《か》けおいて、負けたるものは、これにて、つむりを打つことにきめたぞ。さよう心得よ。勝負のことじゃによって、そのほうが勝った場合は、遠慮なく、十分にこのほうを打て。どうであるな?」
「されば、さいわいにして、われわれが勝ちをえますれば、おそれながら、上のおつむりを打ちたてまつりましても、おしかりはございませんか?」
「勝負ごとじゃから、腹蔵《ふくぞう》なく打て」
「はっ、一同へ、ただいま申し聞けますあいだ、しばらくごかんべんをねがいます……ご同役、いま聞く通りのわけだから、いいではないか」
「いや、いけませんな。とても勝てるわけがないから……」
「きょう、われわれが勝てば、あの鉄扇を拝借して、お上を打つのだが、なに、ほんとうにやれば、お上などは、赤子の手をねじるより、なお、やすいではないか」
「それが、なかなかそうはいかんよ。おとりはらい、お飛びこし、ひきさがりがたびたびあった日には、とても勝てませんが、鉄扇を賭けることになっても、やっぱり、おとりはらいやお飛びこしがあるにちがいない」
「いや、それはないだろう。いつもとちがうから……現在、腹蔵なく打てとおっしゃるくらいだから……」
「そうかな? それでは、とにかく、うかがってみよう……ええ、おそれながらうかがいますが、われわれ一同のもの、はげみのために、鉄扇をお賭けあそばすことを申し聞け、一同承知つかまつりました。それにつきまして、少々《しようしよう》前にうかがっておきたいのでございますが、いよいよ鉄扇を賭ける以上、やはり例のおとりはらい、お飛びこし、さしひかえをおおせ聞けられるようなことがございましょうか? 念のためにうかがいます」
「それは、念のいった問《と》いじゃが、盤にむかってみなければわからん。不都合なときには、とりはらい、さしひかえ、飛びこしも、しばしばあろうな」
「おやおや、おのおのがた、やはり、お飛びこしがありますと、どうぞ、貴公から、さきへお相手に……」
「いえ、どうぞ、貴殿から……ご遠慮にはおよびません」
「あたまを打たれるのは、だれもが遠慮するものでござる……いや、よろしい。拙者、覚悟をきめました。まいります」
と、ぶるぶるふるえながら、盤にむかって手をだすと、例のおとりはらい、お飛びこし、さしひかえが、ふだんよりも三、四度も多いから、たちまち勝負がつき、
「どうじゃ?」
「はっ、おそれいりました」
「あたまを、ここへ持ってまいれ」
「へへえ……おそれながら、お上、お手やわらかにお打ちくださるようにねがいます」
「いや、それはいかん。ひどく打たれ、こういたくてはたまらんと存ずるところから上達いたすものじゃ。このくらいなら、がまんができるというのでは、じょうずにはなれんによって、十分に打つから、さよう心得よ」
と、例の鉄扇で、あたまを、ぽきんと打って、
「どうじゃ? ……かわって、あとのもの、まいれ」
と、剣術でもやるようなあんばいでございます。ご家来衆が、つぎつぎにお相手をいたしましても、おとりはらい、お飛びこしをして、勝てば、あたまをなぐるので、ご近臣のあたまはこぶだらけ、これが、お大名のおなぐさみで、めいめい、あたまへこぶをこしらえ、しかめっつらをしてひきさがります。みんな情けない顔をして、めいわくにおもいながら、殿さまのお相手をしております。それが、かれこれ七日ばかりもつづきましたので、かわいそうに、ご近臣のあたまは、ひどいこぶだらけで、
「どうじゃ、この節は、くだらんことが流行いたすな。時候のせいでもあるまいが……おや、貴公はめずらしいな。こぶが、ひとつもござらんが、いかがなされた?」
「いや、おのおのがた、お聞きください。拙者、こぶがひとつもないのではござらん。あまりたくさんになりすぎて、一面に山のごとくにあいなってしまった。お察しください。昨夜、お夜づめで、お相手をおおせつけられ、だれもほかに交代《こうたい》がないため、たくさんに打たれ、かくのごとくでござる」
「いや、それはどうもお気の毒なことで……道理で、お顔の色がわるいとおもった」
「いつもとは気分もことなり、ことによったら、これが今生《こんじよう》のわかれになろうやも知れず……」
と、てんでにぐちをこぼしておりますところへ、いずれのお大名にも、ご意見番と申して、殿さまの煙ったがるおじいさんが、ひとりやふたりはおります。徳川氏における大久保彦左衛門のようなひとで、三太夫というひとが、病気でとじこもっておいでになりましたが、これはすておけないというので、病気をおして出仕いたしまして、つぎの間まできてみるとおどろきました。ご近臣の面々《めんめん》、いずれもこぶだらけで青くなっております。
「うん、おのおのがたは、察するところ、袋《ふくろ》竹刀《じない》をもって、素面《すめん》、素小手《すこて》の試合におよんだものであろう。なに? 将棋のお相手をして、負けたるものは、鉄扇にて、あたまを打つことにきめて、こぶだらけになったと? うん、将棋は、武道、軍学、算木をもって割りだしたる畳《たたみ》の上の戦《いく》さじゃ。治にいて(平和なときに)乱をわすれざるためにいたすもの。まことに結構なことをなすった。上にも、さだめて、おこぶがたくさんできましたろうな?」
「いえ、ところが、お上においては、ひとつもございません」
「しからば、おのおのがたが負ければ打たれ、上は、負けても打たれんという片手落ちのきめか?」
「いえ、そういうわけではござりませんが、お上は、なかなかお強くして、七日、八日かかっても、ひとりも勝つことができません」
「いや、それほどおじょうずのわけはない。上、いまだご幼少の折り、それがしが、一手、二手、お教え申したことはあるが、さようにご上達にはなっておらんはずだ」
「いや、それが、その……え? なに? うっちゃっておいて、にくまれじじいのはげあたまへもこぶをこしらえてやれと? うん、なるほど、それもおもしろいな……いや、どうも、われわれがへぼだから、よんどころございません」
「うん、よほど、おのおのがたはへぼとみえるな。しからば、きょうは、この三太夫が、上のお相手をいたし、鉄扇を拝借して、たかの知れたる上のお手ぎわ、おのおのがたの仇討《あだう》ちをいたして進ぜるから、ご同道なさい」
「なかなかそうはまいりません」
「いや、拙者、きっと勝ってごらんにいれる」
「どうだい、かわいそうだから、教えてやろうか?」
「だまっておいでよ。殿さまに、例の鉄扇で打たれたら、あのあたまが、風船球のようにふくれるだろうから見ものだ」
「さあ、おのおの、拙者についておいでなさい……ええ、おそれながら、上には、いつもごきげんのていを拝し、恐悦至極《きようえつしごく》に存じたてまつります」
「おう、じい、きたか。病気とやらで、しばらくみえんであったな」
「はっ、ほかの病気とちがい、かぜ気《け》のことゆえ、おそば近く寄ることができませんので、それゆえひかえておりましたが、毎日、若いものがまいってのはなしに、なにか、将棋のお催《もよお》しがあるとのこと」
「じい、また、例の意見か。将棋をいたしてはわるいか?」
「いえ、わるいどころではございません。将棋のおなぐさみは、まことに結構。なにか鉄扇を賭けまして、負けましたものは打たれるという、これもまたおもしろいおかんがえ。しかるところ、若ざむらいども、いずれもこぶだらけでありますのに、上おひとりは、ひとつもおこぶがござらぬは、よほどのご上達とおみうけいたします。ところで、この三太夫、年寄りの冷や水とおぼしめすかは知れませんが、一番お相手をいたして、運よくば、お上のおつむりを打たんと心得てまかりでました」
殿さまは、めいわくそうなお顔をなさって、
「いや、三太夫、そのほうはいかん。年寄りとおもうと、なんともふびんじゃによって、このほうにおいて腕がにぶる。若いもののほうがよろしい」
「おそれながら、てまえ、年寄りではございますが、みずから、若ざむらいたちの仇討ちをつとめようと名乗りかけていでましたもの、幼少のころより、袋竹刀で打ちかためたるこのあたま、上のご柔弱《にゆうじやく》なるお腕にてお打ちになりましても、このやかんあたまはへこみませんぞ。もし、また、てまえのあたまをへこますほどのお腕前にならせられれば、てまえ、死しても武士の本懐《ほんかい》、さらに悔《くや》むところはございません。ご十分に、このあたまのくだけるほどにお打ちください」
「しからば、相手をつとめるのか。打つぞ」
「どうぞ、くだけるほどにねがいます。しかしながら、万一、てまえ、勝ちをえましたるその節《せつ》は、おそれながら、上のおつむりを……」
「おお、約束じゃ。十分に打て」
「お坊主衆、ご苦労ながら、将棋盤をおとりだしください」
「ほら、いよいよ、おとりはらい、お飛びこしがはじまるぞ」
と、若ざむらいたちがいっているところへ盤が持ちだされました。
「さあ、三太夫、早くならべい」
「いや、てまえは、もはや、これでよろしゅうござる」
「いや、そのほうは、いいか知らんが、このほうがならんでおらん」
「これは異なことをうけたまわるものかな。駒をならべるは、すなわち、陣をつくるも、おなじこと、味方の陣を、敵にならべさせるなどという、ことはござらん。ご自身で、おならべあそばせ」
「よいよい。ならべかたぐらいは存じておる……さあ、よいか? このほうが先手であるぞ」
「もちろん、へたのほうから先手ときまっております」
「けしからんことを申すやつだな……いつも角の道からでると、きまっておるのじゃ」
「さよう。へぼは、たいがい角の道からでるもので……」
「いちいち、へぼへぼと申すな……うん、なかなか、そのほうは早いな」
「さようで、へたなかんがえやすむに似たりと申します。戦さをいたすに、かんがえ、かんがえいたしているようなことではなりません。その場にむかって、すなわち、智をめぐらして、にわかにかんがえをつけなければいけません」
「いかにも、そのほうの申す通りじゃ……これこれ、ひかえろ、ひかえろ」
「はあ?」
「その右の手を、ちょっとはなせ。その歩で桂馬《けいま》をとってはいかんから、しばらくひかえい」
「はっ」
「ふふふふ、ご同役はじまりましたよ。さしひかえが……」
「いよいよ、このつぎが、おとりはらい、そのつぎが、お飛びこしときまっている」
「三太夫、その桂馬をとってはいかん」
「へえ? ……お上のお手は、左の金が、右のほうへおあがりになりましたから、桂馬の高あがりは、歩の餌食《えじき》というたとえの通りで、桂馬をとりました。お上ご一人でさす将棋ではございませんから、とりましたら、おすておきをねがいます」
「いや、それはそうじゃ。そちの手だが、その桂馬をとられては、このほうにおいて不都合があるによって申すのじゃ。そのほうは、主人の不都合をもかえりみず、あえてとるか?」
「これは、ちかごろけしからんことをうけたまわります。敵の不都合は、味方のさいわい、敵が都合よくば、味方全敗ときまっております。すでに、かくのごとく盤面にむかって、たがいに勝負をあらそう上は、君臣の別はございません。すなわち、上をにくい敵と心得て、あとあとにて、お上のおつむりを……」
「いや、それは存じておるが、このほうにおいてこまるによって、とってくれるなと、そのほうにたのまんばかりに申しておるに、このほうのことばにそむくか?」
「上のおことばにそむくかとおおせられましてはおそれいります。近年、老衰いたしましたから、少々かんがえなければごあいさつができません……いや、ようよう思案がつきました」
「思案がついたら、ほかの手をいたせ」
「いや、老衰いたしたとはいえ、てまえも武士でござる。いったんとりかけましたるものを、敵のめいわくになるからさしひかえるなどということは、はなはだ恥辱《ちじよく》でござる。よしんば、お怒りにふれて、お手討ちにあいなるとも、この桂馬をとらざるうちは、この座は立ちません。お上のおわがままをおそれて待つような、へつらい武士は知らぬこと、まことの武士は、一歩もさがりません。これを、実の戦争としておかんがえあそばせ。おそれながら、歩は雑兵《ぞうひよう》、木の葉人足同様なもの、桂馬は、馬まわり以上、一騎当千のさむらいなり、その身分軽き足軽が、君恩を重んじ、わが命を軽んじ、一騎当千の武士に立ちむかって、その者をあげるというは、末たのもしきやつ、あっぱれなやつにございますから、いずれ帰陣の上は、さむらい分にもとり立ててつかわさんと存ずるほどのもの、それを、敵の大将が、とやかく申したからとて、そのことばにしたがえましょうか。将棋は、もとより、軍学の稽古をいたすといえども、いまだかつて、さようなためしは、はなしに聞いたことも、夢にみたこともございません」
「いや、そのほうは、そうりくつをいうからいかん。りくつっぽくてこまるよ。ただ、このほうにおいて不都合じゃというに……まあ、よろしい、その桂馬はとれ」
「とらざるべからざるこの桂馬、とれとおおせがなくともとります……いや、これはけしからん。飛車が、歩を飛びこしてまいるとは……」
「これはけしからん。このほうの飛車を投げかえすとは無礼であろう」
「いや、無礼のおとがめこそおそれいります。お上もおめくらではないゆえ、金銀のあることをご存じでございましょう。金銀は、境壁をかたくして、王将の前後を護衛し、飛車は、盤上重くもちうる軍師でございましょう。いやしくも軍師たるものが、軍略によらず、陣法にしたがわず、卑怯未練《ひきようみれん》にも、道なきところを飛びこしてまいるのは、将棋の法にない、すなわち、軍法にそむいておりますゆえ、斬りすてようかとは存じましたが、重くもちいられるほどの身分でありながら、軍法をも知らざる者を斬っては、刀のけがれと存じましたから、情けによっておかえし申したが、ご異存あらば、このほうへおかえしくだされ。首をはねて、軍門の梟木《きようぼく》にかけますから……」
「まあまあ、よろしい……通り道に、金銀がないとよいのじゃが……」
「このほうの駒があがって王手になります」
「さようか。この駒は、いつのまにか成っておったのか。よろしい。さあ、早くいたせ」
「ちょっとうけたまわりおきますが、もし、敵が、城の塀ぎわまでせまった節は、いかがあそばされますか? おそれながら、敵勢塀ぎわへつめよせるまで戦うは、大将たるものの不念《ぶねん》(不注意)であります。およそ心得ある大将は、三日も以前に、その勝敗がわかっているようでなければ、一国一城の大将とは申されません。もっとも、ときとしては、計略によって、敵の塀ぎわまで押しよせるを期《き》として打ちいだし、全勝をうることもありますが、軍法、かけひきのなき勝ちなれば、まことの勝ちとは申されませんものでござる。策もなく、略もなく、安閑《あんかん》として、敵の塀ぎわまでつめよせるのも知らず、空然《ぼんやり》とひかえているもののごときは、武士の風上《かざかみ》にもおけぬばか大将とも、まぬけ大将ともいうべきで、俗にいう、雪隠《せつちん》づめになるまでに逃げまどい、苦しんでいるとは、じつにばかばかしい。言語道断のことでござる」
「なに? ばか大将とはけしからん。こちらへまいるぞ。なに、金がいると? ああ、負けたか」
「負けたとおおせられるは、どちらで?」
「皮肉なことを申すな。このほうじゃ」
「お上が負けたとおおせられれば、三太夫、勝ちをえましたもので、まず、このあたまもへこまずにすみました。しからば、お約束通り、お鉄扇を、どうか拝借」
「さあ、これじゃ」
「ははあ、これは、手ごろの結構なお鉄扇でござる。うーん、うーん、えいっ」
「これこれ、そのように気合いをいれるな」
「おそれながら、てまえ、壮年の折りには、一刀流の片手打ちがじまんで、ひとりもあらそうものはござらんであったが、近年老衰しまして、いたみのききませんところは、幾重《いくえ》にもおゆるしを……」
「そのようなことは、あやまらんでもよい」
「さあ、おのおのがた、ご見物なさい。さむらいは、この通りでござる」
と、満身の力を腕にこめて、ぽかっとなぐりました。剣術のできるひとに打たれたのですからたまりません。殿さま、目からぽろぽろ涙をこぼしながら、
「うん、なかなかきいた。感心なものじゃ」
「しからば、やりなおしをいたしましょうか?」
「いや、それにはおよばん。これこれ、一同のもの、なにを笑っておる? 早く将棋盤をとりかたづけい……待て待て、盤は、焼きすてい……あしたから、将棋をさすものには、切腹申しつける」
豆 屋
「さきざきの時計になれや小商人《こあきんど》」という句がございます。
むかしは、時計というものは、よほどの大家《たいけ》でないとなかったもんでございますから、時刻というものがわかりません。日ざしをみて、もうじき正午《ひる》だとか、正午《ひる》をまわったとか申しました。天気がわるいと、日ざしがございませんから、そういうときには、腹ぐあいやなにかでかんがえましたな。いわゆる腹時計というやつで……そこへ、「豆腐い!」と、大きな声をだす豆腐屋がまいりますから、「ああ、あの豆腐屋がきたから、もう正午《ひる》だろう」と、いうことになります。そこまでいくと、行商人も一人前でございます。
「ああ、こっちへこい」
「へえ」
「へえじゃあねえ。また、ばあさんに、二円貸してくれと、借りにきたそうだが、なんにもしねえであそんでいて、ばあさんの小づかい銭をせびっちゃあしようがねえ。こないだも、なにか商売をするんだから、資本《もとで》を貸してくれと、いくらか持っていったじゃあねえか」
「へえ」
「いったい、なにをやったんだ?」
「八百屋をやりました。八百勝さんのいうにゃあ、いちばん手軽な商売だからやれというので、教えてくれました」
「そうそう、そんなはなしを聞いた。しかし、それも、じきにやめちまったそうじゃあねえか」
「へえ、やりそこなったもんで……」
「どうしたんだ?」
「なんでも、八百屋というものは、ときどき品ものがかわっていくから、はじめは、一色商《ひといろあきな》いということにして、なんでも三年ぐらい辛抱してやれば、すっかりおぼえてしまうというんで……」
「どうするんだ、一色商いというのは?」
「菜なら菜を売って、売れのこったら、また、あした、あたらしいのをまぜて売る。そうして、商いの道をおぼえて、だんだんといろいろなものを売るようになるんだそうで……」
「うん、商売、商売で、むずかしいもんだな。で、どうした?」
「へえ、みつ葉を売りました」
「ふーん、売れたか?」
「ちっとも売れません」
「どうした?」
「みつ葉という名をわすれちまったんで……」
「ばかっ、わすれちゃあしようがねえ。それから、どうした?」
「ええ、菜のようなものはよろしゅうございますかと、売りあるいたんで……」
「しようがねえな。それじゃあ売れるわけがねえ」
「そのうちに、だんだんしおれて、ぐにゃぐにゃになっちまったんで、いまいましいから、川のなかへほうりこんじまいました」
「らんぼうをするな」
「そうしたら、むすんであった縄が切れて、菜がばらばらになって流れていくのをみると、枯れたような菜が、水をふくんだから、いせいがよくなってきたんで、とたんに、ああ、みつ葉だったと、名前をおもいだしたけれども、もう間にあわなかった」
「まぬけなもんだ。あきれたなあ、どうも……で、これからどうするんだ?」
「八百勝さんのいうには、『なんでもあきないだから、あきずにやらなくっちゃあいけない』というんで……」
「うめえことをいうな。で、こんどは、なにをやる?」
「へえ、豆を売るんで……」
「え?」
「そら豆を売るんで……」
「ふーん」
「たくさん仕入れてもいけないから、二円も資本《もとで》があったらいいだろうというんで……」
「うん、そうか。じゃあ、しかたがねえ。ばあさん、二円だしてやんな……八百勝さんのいう通り、品ものをおぼえるあいだ、ひとつもので辛抱をして、なんでも一人前になって、店でもだすつもりにならなけりゃあいけねえぞ。いいか、おれのところに金の生《な》る木があるわけじゃあねえから、やりそこなったたびにきさえすりゃあ、貸してくれるだろうとおもったって、そうはいかねえぞ」
「へえ、こんどは大丈夫で……」
「大丈夫なら、さっさと帰って、しっかりやってこい」
「へえ、お金を……」
「なんだ、まだ金をもらってねえのか……ばあさん、早くだしてやんな。この男もまぬけだから、うっちゃっておきゃあ、いつまでぐずぐずしていらあ。じゃあ、八百勝さんへいったら、『おじさんがよろしく申しました。いずれお目にかかって、お礼を申します』と、こういっておきな」
「へえ、さっそくはじめます。さようなら……こんちは、八百勝さん、二円借りてきました」
「ああ、そうかい。これで、わたしが、もうすこしふところぐあいがいいと、だしておいてあげてもいいんだが、そうもいかない。わたしのは、車で得意さきをまわるのだが、おまえのは、むかしの棒手《ぼて》ふりというやつだ。これは、本番という升《ます》だよ。いいかい? 商いをして、呼吸をおぼえるのは、表通りばっかりあるいてちゃあだめだ。なんでも、裏へはいらなければいけない」
「へえ」
「まあ、長屋の女房たちなんぞがあつまって、いろいろはなしをしているところへ、むやみに荷をおろしちゃあいけないよ。よけいなことをいうばばあがいる。『この豆は、さんざん水をくぐってきたからうまくない』なんていうやつがあるから気をつけるんだな。また、長屋の商いは、呼吸をおぼえるくらいだから、むずかしいところがある。まず、一升いくらだといったら、十三銭のものなら十八銭とか、十五銭のものは二十銭とか、おもいきって掛け値をいうんだ。ばかに値切るやつがいるから、すったもんだの末に、十銭におまけしますとか、十五銭にしておきましょうとかいわないと、損をするようなことがあるから、よっぽどうまくやらなくっちゃあいけない。なんでも、相手をみて、商いをするようにすればいいんだ」
「へえ」
「それじゃあ、あしたの朝早くおいで……」
あくる朝になると、八百勝さんが、親切に買いだしをしてきて、すっかり荷をこしらえてくれましたから、奴《やつこ》さん、いっしょうけんめいにでかけました。
「この前は、売りものの名前をわすれたけれど、こんどは大丈夫だ。よくおぼえてるからなあ。ええ、豆でござい。そら豆の上等でござい。うまい、うまい……この調子でやりゃあいいや……ええ、豆でござい、そら豆の上等」
「おい豆屋」
「へい、豆屋は、どちらでございます?」
「豆屋は、てめえだ」
「へえ?」
「いえ、豆屋は、てめえだよ」
「へえ、さようでございます。いま、豆屋とお呼びなすったのはどちらで?」
「呼んだのはおれだ」
「へえへえ」
「ばかっ、商いをするのに、なぜ荷をおろさねえんだ?」
「へえ、ごめんくださいまし」
「こっちへへえんな。一升、いくらだ?」
「へえ?」
「いくらだよ?」
「へえ……」
「そら豆は、一升いくらだというんだ」
「へえ、この升《ます》は、本番でございます」
「なにを?」
「ええ、一升、二十銭で……」
「いくらだ?」
「一升、二十銭でございます」
「二十銭? ……おい、お松、戸をしめて、しんばり棒をかっちまえ。それから、薪《まき》ざっぽうを一本持ってこい……やいっ」
「へえ」
「二貫(二十銭)だとぬかしゃあがったな」
「へえ、そうは申しましたけれども、また、ご相談で……」
「なにが、ご相談だ! おのれのようなやつは、死ぬものののどをしめるというやつだ。首くくりがありゃあ、手をひっぱったり、足をひっぱったりするだろう。いま、身を投げようというやつがありゃあ、うしろから突きとばすだろう……あきれけえった野郎だ。この長屋のようすをみて、ものをいえ。この貧乏長屋へきて、こんな豆を、一升、二貫で売ろうなんて、ふてえ野郎だ。やいっ、てめえ、命が惜しくねえか?」
「へえ、命は惜しゅうございます」
「なにをいやあがる。二貫なんかで買うやつがあるもんか。まけろまけろ、ぐっとまけろ」
「へえ、おまけ申しまして、十八銭……」
「なにを! この薪が、てめえ、目にはいらねえか? この節《ふし》だらけのふてえ薪が……」
「へえ、とても、それは目にはいりません」
「なにをぬかしゃあがる。なんでもかまわねえからまけろよ」
「へえ、ですから、十八銭にしておきます」
「まだ、あんなことをいってやがる。二百(二銭)にまけろ」
「へえ、二貫から二百まけますと、十八銭になります」
「なにをいってやがるんだ。一升を、二百にまけろてえんだ」
「じょうだんいっちゃあいけません。いくら掛け値をいったって、そんなにまかるもんじゃあございません」
「なにっ、まからねえ? やいっ、この盗《ぬす》っ人《と》めっ! てめえ、命がいらねえんだな。よしっ、ちくしょうめ、まけるな!」
「へえ、まけます、まけます」
「なにっ!」
「まけます、まけます」
「まけるか?」
「へえ、まけます。一升、二百でございますか?」
「なんべんいってもおなじこった。まからなけりゃあ、まからねえといえ、はっきりと……」
「へえ、まけますから、どうぞ、戸をおあけなすって……豆が、そとにありますから……」
「なにをいやあがる。こっちへひきよせろ。そうだ、そうだ。なんだっ、けちなはかりかたをするない。もっと、うんといれろ。こぼれたら、ひろやあいいや……やいやいっ、もっと山盛りにしろいっ」
「へえ? 山盛りにするというのは、どういうんで?」
「山に盛るんだ。そら豆だの、さといもだのてえものは、山盛りにはかるのがあたりめえだ」
「そういうことは教わらなかったな。へえ、じゃあ、山にはかります」
「山にはかりますって、この野郎、しみったれたことをするな。升《ます》の隅へ指なんぞいれねえで、こういうあんばいに、手で屏風《びようぶ》のように升の上を囲《かこ》ってみねえ。もっとへえるから……そうよ。へえるじゃあねえか……もうすこし手を持ちあげろい」
「手を持ちあげると、あいだからこぼれます」
「こぼれたのは、こっちへいれねえ」
「それじゃあ、いくらでもはいります」
「ぐずぐずいうな。そのこぼれたのを、こっちへいれろ。さあ、二百持ってけ」
「へえ、ありがとう存じます」
「また買ってやるから、ちょいちょいこい」
「へえ、どうぞおねがい申します……ああ、おどろいた、どうも……そら豆や、そら豆」
「おい、豆屋」
「へえ……だまっていっちまやあよかった。また、筋《すじ》むこうのうちで呼んだな。おっかない裏だなあ……へえ、豆屋をお呼びなすったのは、こちらさまでございますか?」
「ここへ荷をおろしたら、からだだけ、こっちへへえれ。こっちへへえんねえよ」
「へえ」
「一升、いくらだ? そら豆は、一升いくらだよ?」
「へえ、おまえさんは、おむこうのおかたより、なお、こわい顔をしていますな」
「ひとのつらの讒訴《ざんそ》をするない。なぐるぜ」
「へえ、すいません」
「なにが、こわいつらだ。豆は、一升いくらだってんだ」
「ええ、一升……さようでございます……」
「いくらだよ?」
「ええ、一升……二……」
「やいやいっ、はっきり口をききねえ。ぐずぐずいっちゃあわからねえ。もっと、こっちへ寄って、はっきりといえ。いくらだ?」
「へえ、二銭」
「一升、二銭? たったの二百か?」
「へえ、二銭、二百……」
「おい、お竹、戸をしめて、しんばり棒をかっちまえ。薪ざっぽうのふてえやつを一本持ってこい」
「へえ、二百なんでございますが……」
「なにをいやあがるんだ。てめえは、この豆を一升二百ばかりで売って、妻子がやしなわれるのか? これで稼業になるのかよ? こいつは内職で、本職が、ほかにあるんだろう? うん、てめえ、どうも目つきがよくねえぞ。さては……」
「いいえ、けっしてあやしいもんでは……」
「なにをいやあがる。てめえ、おれのつらのこええのを、いま知ったか。光秀《みつひで》の金太といやあ、知らねえものはねえんだ。腕ずくなら、どんな野郎にでも負けたこたあねえんだ。この薪ざっぽうが目にはいらねえか、まぬけめ!」
「だから、二銭におまけ申して……」
「なにをいやあがるんだ。本番の升へ一升はかったものを、ただの二百で買って食っちゃあ、友だちなかまにつらだしができねえや。そんなお兄《あに》いさんじゃあねえやい」
「へえ、では、一銭八厘では?」
「なにをいやあがるんだ。だれが、まけろといった?」
「さようでございますか………ええ、いくらにしたらよろしゅうございます?」
「もっと高けりゃあいいんだ」
「十五銭でも、すこしはもうかるんでございます」
「なにをっ、この泥棒!」
「へえ?」
「十五銭? こんちくしょう、けちなことをいやあがる。もっとこっちへこい、この野郎」
「高ければ、おまけします」
「まだあんなことをいやあがる。一升、一貫五百ばかりの豆を食って、友だちなかまに顔むけができるか。光秀の金太のわけを知らねえか。顔にむこう傷があるから、光秀の金太なんだ。よくみろい」
「さようでございますか。どうもあいすいません」
「あいすまねえもなにもねえ。いくらだ?」
「十八銭で……」
「なぐるぞ、こんちくしょう、十八銭ばかりのはした銭で、豆を一升買ったといわれちゃあ……」
「わかりました、わかりました。どのくらいならよろしゅうございます?」
「五十銭とか、一円とか、大きなことをいやあ、おなじこっても食い心地がいいや。べらぼうめえ、江戸っ子だ」
「ああ、そうでございますか。五十銭なら結構でございます。ありがとう存じます。そのかわり、本番の升で、盛りをよくはかります」
「やいやい、なにをしやがるんだ」
「へえ、豆をはかりますんで……」
「ばかっ、なるたけ、なかをふんわりと、すきのあるようにして、一ぱいつめたようにみせるのがあたりめえだ。上からそう押しつけるやつがあるか、この泥棒。変なまねをしやがる。升の隅へ手をかけて、山に積んでやがる」
「へえ、けれども、そら豆だの、さといもだのというものは、山はかりといいまして、手を隅へかけると、どうしても山盛りが高くなります」
「ばかにするな。升てえものは、深さがいくらで、横縦が何寸何分ときまってる。なんのためにできてる升だ、べらぼうめえ。高く山にするくらいなら、なんではかったっておなじこった。なんのために升の寸法がきまってるんだ?」
「へえ、そうしますと、どういうふうにやります?」
「どういうふうにったって、それを、たいらにしねえ」
「ああ、たいらにするんで……よっぽどとれました」
「ばかっ、商人《あきんど》が、そんなことで商売になるか。その山形のなかをへこむようにとってみねえ」
「なるほど、二十粒ばかりとったら、すこしへこみました」
「ばかっ、商人が、そんなことでめしが食えるか。もっとへこませろ」
「もうへこみやあしません」
「両方の手をそらしてすくえ」
「わたしの手は、強《こわ》くって、うまくそりません」
「なかへそるだろう? やい、なかへ、こういうふうにそらねえか?」
「ああ、なかのほうなら、いくらでもそります」
「それみろ、こうして、すくうようにして、もっと、ぐっとへらせろい」
「もう、こんなにとってしまって、すくいにくくなりました」
「すくいにくくなったら、升をさかさにして、ぽんとたたけ」
「へえ、升をさかさにして、ぽんと……たたきました。親方、升はからっぽです」
「おれんとこじゃあ、買わねえんだい」
長者番付
むかしから、三人旅はひとり乞食なんてえことを申しまして、旅は、ふたりがいちばんよろしいようでございます。
「さあさあ、しっかりしろい。青いつらあしてぐずぐずするな」
「おれだって、しっかりしようとおもうんだけれども、足はいてえし、あたまは、ぴんぴんしてくるし、どうにもたまらねえ」
「がまんしてあるけよ」
「がまんできるくれえなら、こんな顔をしてるもんか」
「どうして?」
「どうしてったって、さっき、酒を飲むと、急にあたまがいたくなってきやがったんだ」
「だから、よせといったじゃあねえか。てめえは、意地がきたなくって、居酒屋なんぞへへえって、むやみにわけのわからねえ酒を飲むからだ。おらあ、酒の名を聞いただけで、ごめんをこうむった。あすこへへえって、『おう、じいさん、おめえんとこに酒があるか?』って聞くと、『へえ、銘酒《めいしゆ》がございます』ってえから、『なんてえ酒だ?』って聞いたら、『むらさめに、にわさめに、じきさめです』ってやがる。『あんまり聞いたことがねえなあ。なんだい、そのむらさめてえのは?』って聞いたら、『村をでる時分にさめるからむらさめです』ってやがる。『にわさめってえのは?』『庭をでるとさめるから、にわさめで……』『じきさめってえのは?』『飲んでるそばから、じきにさめちまう』ってやがる……そんなものを、おめえ、がぶがぶ飲むから、あたまがいたくなるんだ」
「どうにもしようがねえや。胸は、むかむかしてくるし、あたまは、ぴんぴんしてきやがるし……なあ、兄き、むかえ酒てえやつだ。どっかで、一ぺえ飲ましてくんねえ」
「飲ましてくれったって、こんな田んぼのなかじゃあ、しようがねえじゃあねえか。もうすこしいって、また、居酒屋でもあったら飲ましてやるから、そこまでがまんしろい」
「がまんしろったって……ああ、うーい、なんだか気持ちがわるくって、どうにもしようがねえや……うーい」
「まあ、身からでたさびだ。しっかりあるけ。そのうちにゃあ、いい酒にぶつかるからな。そうすりゃあ胸のつかえもさがらあ……おいおい、おれの指のさきをみろ」
「うん」
「なにがみえる?」
「爪がはえてるな」
「その爪のさきをみろってんだ」
「不精《ぶしよう》にしておくもんだから、だいぶ爪のあかがたまってらあ」
「あれっ、まだあんなことをいってやがる。そんなことを聞いてるんじゃあねえや。このつきあたりに、白い壁がちらちらみえるだろう?」
「白い壁がちらちら? うん、なるほど」
「わかったか?」
「わかったような、わからねえような……」
「あいまいな返事をするない。わからねえのか?」
「白い壁だけはわかったが、そのちらちらてえのが、まだわからねえ」
「なにいってやんでえ。ばかっ、ちらちらというなあ、ことばのかざりだあな。そんなものがみえるもんか。白い壁だけみえりゃあ、それでいいんだ」
「白い壁なら、おめえにいわれねえ前からみえてるんだ」
「さからうなよ、この野郎」
「あの壁は泥だろう?」
「あたりめえだ。そんなことを聞いてるんじゃあねえや。あの壁のうちはな、つくり酒屋だとおもうんだ」
「へーえ、よくわかるなあ」
「いや、そうじゃあねえかとおもうんだ。もしも、あすこがつくり酒屋だったら、たのんで酒を売ってもらって、うんと飲ましてやる」
「いい酒かい?」
「そりゃあ、どうせこんな山んなかだから、地酒だろうけれども、おなじ地酒にしても、そこらの居酒屋で売っているような酒じゃあなかろうよ。のどが、きゅーっと鳴《な》るようないい酒があるにちげえねえ」
「そいつあ、ありがてえ。さあ、いそいでいこう」
「おうおう、たいそういせいよくなりゃあがったな。現金な野郎だ……どうだい、大きなうちじゃあねえか。こう、ずーっとならんでるなあ、みんな酒なんだ」
「たいそうなもんだなあ。田舎ものは、のんきなもんだ。あけっぱなしだ」
「おたのみ申します。おたのみ申します」
「はいはい、どなたですかね?」
「ええ、少々《しようしよう》おねがいがございますんで……」
「はいはい、どちらからおいでなすったね?」
「わたしどもふたりは、江戸のものでございますが、江戸を発《た》って長い旅をしておりますんで、たまには、うめえ酒を飲みてえと、こうおもってるんでございます」
「へえ」
「うけたまわりますと、お宅さまは、つくり酒屋さんだそうでございますね?」
「なあに、つくり酒屋というほど、えれえ酒もつくりませんが、わずかばかりの酒つくっておりますで……でも、まあ、なんでがす?」
「たいそう結構なお酒ができなさるそうで……このさきで聞いたもんですから、わざわざまわり道をしてやってきたんでございますが、いかがなものでございましょう、すこし売っていただくわけにはまいりませんでございましょうか?」
「あれまあ、それじゃあ、わしのうちの酒がいいというのを聞いて、わざわざまわり道をしてきてくだすったかね。そりゃあまあ、ありがてえこんで……わしは、はあ、酒屋のこんだから、いくらでも売ります。買っておもれえ申しますべえ」
「そりゃあ、どうもありがとうございます。おい、酒を売ってくださるとよ……ええ、どうか、ひとつ売っておくんなさいまし」
「どのくれえあげますかな?」
「へえ、一升ばかり売っていただきてえもんで……」
「いくらばかりかね?」
「一升で?」
「ああ、お江戸のお客さま、お気の毒だが、わしのとこは、つくり酒屋だからねえ、一升べえのはした酒は売れねえだ」
「それじゃあ二升ばかり……」
「二升だの、五升だのという、そんなはした酒は、めんどうくせえだ」
「それじゃあ、どのくれえならば、売ってくださるんで?」
「そうさなあ、いまいった通り、わしどもは、つくり酒屋だから、すこしといったところで、はあ、馬に一駄《いちだ》とか、一車《ひとくるま》とかでなけりゃあ、どうも売れねえなあ……さもなけりゃあ、船に一艘《いつそう》ぐれえかな」
「一駄というと、どのくれえなんで?」
「一駄かね。一駄というと、四斗樽が二丁つくだよ」
「へーえ……一車というと?」
「五十丁もつめるだろうね」
「船一艘というと?」
「五、六十丁もつめるかねえ」
「なにをぬかしゃあがるんだ。こんちくしょう!」
「なんだって?」
「やかましいやい。下からでりゃあ、つけあがりゃあがって、ひとをばかにするのもいいかげんにしろい。相手をみて口をきけてえんだ。こちとらあ江戸っ子だ。旅さきじゃあねえか。馬に一駄も酒を買いこんで、飲みながら道中できるもんかい。どんつくめ。おめえんところがつくり酒屋で、小売りをするのがめんどうだろうとおもうから、ていねいに口をきいてるんじゃあねえか。いやなら、よしゃあがれ。うんつくめ。ほんとうにはなしのわからねえどんつくだ」
「まあまあ、江戸のお客さま、ちょっくら待ってくだせえましよ。わしの口のききようがわるかったで、おめえさまの気にさわったか知んねえが、気にさわったら、いくらでも酒を売るだから、かんにんしてくだせえ。酒売ったらよかんべえ?」
「ああ、酒せえ売ってくれりゃあ、なにもこんなこたあいいたかあねえんだ」
「どうもすまねえことをいいやした。それじゃあ、いますぐにあげるだから、そこへ腰かけて、待っていてくだせえ」
「どうもありがとうございます………ええ、どうだい、うめえもんだろう? こっちが江戸っ子だ。ぽんぽんとたんかをきったもんだから、むこうでおどろいて、酒を売るってんだ。なあ、この手でもっていけねえとおもやあ、こんどは、またこっちの手でもっていくってえのが臨機応変てえやつだ。どうだ、わかったか?」
「うん。なにしろ、酒を飲ませるというなあありがてえや」
「ここへ腰をかけよう……もし、なんですぜ、なにもそんなにいい酒でなくってもようがすよ」
「はいはい、いま、あげますよ……どうした、みんな、したくはできたか? よし、大戸をおろして、でられねえようにしなけりゃあだめだぞ」
「兄貴、兄貴」
「なんだ?」
「なんだじゃあねえやな。大戸をしめちまったぜ。それに大勢ぞろぞろへえってきたじゃあねえか。みんな薪《まき》ざっぽうを持ってやがる。どうにかされるんじゃあねえか?」
「さあ、どんなもんかな?」
「あれっ、おちついてちゃあいけねえや。おめえが、あんまりたんかをきったもんだから、江戸のやつは、なまいきだというんで、袋だたきにする気じゃあねえか?」
「ことによると、そうかも知れねえが、まあ、できたことはしかたがねえや。これまでの寿命《じゆみよう》とおもってあきらめろい。江戸っ子だ」
「江戸っ子だって、命は惜しいや」
「度胸をすえろ」
「度胸をすえようとおもっても、からだがふるえてしようがねえ」
「しっかりしろい。足もとへつけこまれらあな。いいから、おれにまかしとけ……おう、じいさん、いまから大戸なんぞおろしちまって、なにがはじまるんだ? はちまきをして、薪ざっぽうなんぞ持って、いったいどうしようてんですい? すまねえが、すこしいそぐんだから、酒を早く売っておくんなせえ」
「はい、酒はいくらでもさしあげますが、その前に、おめえさまに、ちょっとんべえ聞きてえことがあるだ」
「なにを聞きてえんだい?」
「いま、おめえさま、わしらのことを、どんつくといわしったね?」
「うん、いった。たしかにいったよ」
「そのことについて聞きてえだ。わしら、山国のもので、口のききようを知んねえだが、おめえさまのいった、うんつくのどんつくというなあ、どういうことだか、そのわけを聞かしてもれえてえもんだ。なにかわけがあるだんべえ?」
「うん、そりゃあ、わけがねえこともねえ」
「そんなら、そのわけを聞かしてもらうべえ。そのわけのわかんねえうちは、気の毒だが、おめえさまがた、すこしもうごかすことはできねえだから……」
「ああ、わかったよ。うんつくのわけをいやあいいんだろう? ……そりゃあ、なんだ……うんつくのわけは……その……」
「さあさあ、うんつくのわけ聞かしてもらうべえ。それさえわかりゃあ、いくらでも酒をあげますべえ」
「聞かしてやろうじゃあねえか……ああ、聞かせるとも……なにも、うんつくだの、どんつくだのって、おめえたちのことをわるくいったわけじゃあねえんだから、なあ、そうだなあ」
「なんだか、おらあ知らねえや」
「あれっ、張りあいのねえ野郎だなあ……まあ、いいや、とにかく、うんつくのわけを聞かしてやるから、おちついて聞いてくれよ……まったく、田舎のひとてえものは大げさだなあ。たかが、うんつくぐれえなことでこんなさわぎをするとは……おう、じいさん、おめえのうしろにあるのは、なんか、番付《ばんづけ》のようだけども、なんだい、そりゃあ?」
「え? ……ああ、これかな? こりゃあ長者番付だあ」
「なに、長者番付? へーえ、このへんじゃあ、そんなことをいってるのかい? ふーん、そんなことをいってるからいけねえんだ。それはな、江戸じゃあ、うんつく番付というんだ」
「へーえ、江戸じゃあ、このことを、うんつく番付というのかね? どういうわけだね?」
「どういうわけったって、その番付へ載《の》るには、運がつかねえと載れねえんだよ。それでまあ、俗に運つく番付と、こういうんだが……西の大関が鴻池《こうのいけ》善右衛門、東の大関が三井八郎右衛門よ。なあ、そうだろう?」
「そうよ。それにちげえねえや」
「鴻池といえば、大阪一の金持ちだが、先祖は、あんなに大きなものじゃあなかったんだ」
「へーえ、そうかね」
「ああ……大阪のそばに、伊丹《いたみ》というところがある」
「はあ、そりゃあ知ってるだ。酒の本場だ」
「鴻池の先祖は、その伊丹で、つくり酒屋をしていたんだ。その時分、伊丹では、まだ清酒というものができなかった。にごった酒、つまり、まあ、どぶろくみてえなものばかりこしらえていたんだ。おめえんとこも酒屋だから、よく知ってなさるだろうが、親方というものをやとっておかあ。で、この親方を、たいそうたいせつにして、主人がさきに起きて、親方にあいさつをして、めしを食わせ、そのあとで、自分が食う。夜、寝るときだってそうだ。親方をさきへ寝かしちまって、それから主人が寝るっていうことだ」
「そうだ。おめえさま、なかなかくわしく知っていなさる」
「鴻池でかかえていた親方というのが、なかなかわりいやつで、三日にあげず、五両貸せ、十両貸せというあんべえで、さすがの鴻池も愛想《あいそ》をつかしてしまって、ぽーんとことわると、その親方が、しゃくにさわってでていくときに、酒をむだにさせようってんで、火鉢を酒のなかへほうりこんででていっちまった。ところが、運のむくときはふしぎなもので、火鉢の灰がへえったために、酒が澄んで、よどみは、みんな下へしずんでしまった。それから、ちょいと口をつけてみると、これがいい酒だから、世間へ売りだしてみると、たいそうよく売れる。澄んだ酒が飲みたかったら、鴻池の酒を買えってんで、たちまちのうちに、たいそう金がもうかった。そこで、こんなちいさなところにいては、もうかったところで、たかが知れてるから、ひとつ大阪へでようというので、大阪へ乗りだしたのが、鴻池の中興の祖だ。それから間のいいことがつづいて、とうとう大阪一の金持ちになったのだが、そもそも、親方に火鉢をほうりこまれたのが運のつきはじめで、いい酒ができたのが、運に運がついたんだ。それが四方八方に売れるようになったのが、運に運に運がついたんだ。それにますますいいことがつづいて、あれだけの身代《しんだい》になったんだから、大運つくの、どうんつくじゃあねえか。それから、うんつくのどんつくということばができたんだ」
「あはははは、そうかね。そんなこととは知んねえもんだから、はあ、とんだ失礼をしましただ」
「ついでだから、いって聞かせるが、江戸の三井八郎右衛門だって、はじめっからあんなに大きな身上《しんしよう》じゃあなかったんだ」
「へえ、そうかね。先祖はなんだね?」
「ああ、越後|新発田《しばた》の浪人でなあ。どういうわけなんだか、さむらいがいやになったとみえて、諸国をまわる六十六部になった。ある年のことだ。伊勢の松阪の在に宮前村というところがある。そこへさしかかったときには、日がとっぷり暮れちまった。なにしろ、ちいさな村だから、旅籠《はたご》一軒ありゃあしねえ。しかたがねえから、大きな百姓家へいって、『納屋《なや》のすみでも結構でございますから、どうか一晩お泊めください』といったところが、そこのうちの主人《あるじ》がでてきて、『お気の毒だけど、きょうは、すこしごたごたがあってお泊めするわけにはいかねえ。この村はずれに一軒の荒れ寺があるが、まあ、雨露をしのぐぐれえのことはできるから、そこへいってお泊まりなすったらよかろう』『はあ、ありがとうございます。では、そうさせていただきます』『けれども、六十六部さん、あの寺へ泊まると、夜なかに、あやしいものがでるといううわさがあるから、そのつもりでおいでなせえよ』といわれた。けれども、六十六部のことで、年じゅう諸国をあるいて、こわいことにも、ずいぶんでっくわしているから、すこしもおどろかねえで、晩めしをごちそうになったあとで、その寺へ泊まったんだ。いってみると、なるほど、聞きしにまさる荒れ果てた寺で、雨戸はなし、畳はぼろぼろで、壁はおちてるというきたねえ寺で、気味はわるかったが、度胸のすわってるひとだから、びくともするもんじゃあねえ。隅のほうで横になって寝ているてえと、真夜なかになって、庭の井戸のなかから、火の玉が三つ飛びだして、寺のなかを、ふわり、ふわりとまわっている。六十六部は、度胸のすわったひとだから、じいっと、その火の玉をみてるうちに、そろそろ東が白《しら》む時分になると、その火の玉が、また、三つとも、井戸のなかへへえっちまった。はてふしぎなことがあるもんだ。こりゃあ、井戸のなかに、ひとの気ののこったものがあるにちげえねえというんで、夜があけきってから、井戸のなかへへえってみると、その井戸は、水なんぞひとったらしもねえ空《から》井戸で、たいして深くもねえんだ。で、よくみると、底のところに、箱が三つかさねてある。なんだろうとおもったら、千両箱が三重《みかさ》ねへえっている。つまり、千両箱の金が気になって、火の玉になって、寺のなかを飛びまわったわけだ。それから、すぐさま、土地のお役人さまに、このことをとどけると、だれもうけとり人のねえ金だというので、そっくりお下《さ》げわたしになった。ところで、かんげえてみると、松阪というところは、もめんの本場だ。そこで、その金で、このもめんを仕入れて、諸国へ売ってあるいた。もうけをごくすくなくして、安く売ってあるくからたまらねえ。品ものがいい、ねだんが安いから、またたくうちに売れちまった。また松阪で仕入れては、安く売ってあるいているうちに、どんどん金がもうかっていく。すっかり商売がおもしろくなったもんだから、こんどは、江戸へでてきて、駿河町《するがちよう》に店があったのをさいわい、ここを買って、生まれ故郷にちなんで越後屋という看板をあげて、商《あきな》いをはじめた。安くして、いい品を売るから、お客さまも毎日のように買いにくる。大繁昌《だいはんじよう》で、またたくうちに百万長者になっちまった。これが、いまの三井八郎右衛門さんの先祖だ。だから、井戸のなかから三千両でたことがきっかけになったことをわすれないために、三井の紋は、井桁《いげた》のなかに三という字が書いてあらあ。しかし、よくかんげえてみねえ。このひとが、越後をでて、伊勢の松阪の在の宮前村へいったのが、そもそも運のつきはじめだ。荒れ寺へ泊まったのが、運に運がついたんだ。それから、井戸んなかから三千両の金がでたのが、運に運に運がついたってえわけだ。それで商いをしてあるいて、江戸へでてきて、駿河町へ越後屋という看板をあげたのが、運に運に運に運がついて、とうとう東の大関の三井八郎右衛門になった。これもやっぱり、大うんつくの、どうんつくじゃあねえか。だから、さっき、おれが、うんつくのどんつくといったなあ、おめえをほめたんだ」
「へーえ、そうかね。そんなこととは知んねえもんだから、どうもすまねえこんだ。おめえさま、まあ、腹も立つだろうが、かんべんしてくだせえましよ。おら、はあ、はじめて聞いたが、してみると、うんつくてえことばは、たいしたことばだ。どうもありがとうごぜえます。これ、野郎ども、なにしてるだ。われら、なんだっておもてなんぞしめやがって、薪ざっぽうなんか持ってどうするだ。早くおもてをあけて、酒倉へいって酒持ってこう。江戸のお客さまに酒あげるだ。早く持ってこう……なに、持ってきたか? さあさあ、江戸のお客さまがた、遠慮なく飲んでくだせえましよ。よけりゃあ、いくらでも持ってこさせるだから……」
「ああ、こりゃあどうもごちそうで……それじゃあ、さっそくいただこうか。どうでえ、おい、うまそうじゃあねえか……うん、こりゃあ、なかなかいい酒だね」
「なあに、そんなにいい酒でもねえけんどもよ……とにかく、おめえさまがたのおかげで、はじめてうんつくてえことばをおぼえてありがてえだ。おめえさま、酒がなくなったら、そういいなせえよ。もっと持ってこさせるだから……」
「なあに、そんなに飲めやあしねえや」
「そんなこといわずに、いくらでも飲みなさるがいい。おめえさまが、うんつくのわけ聞かしてくれただから、わしらのほうでも、おめえさまにいいことを教えてあげるだ。これからさき、もしも、つくり酒屋へへえって酒が飲みてえとおもったら、酒を売ってくれろったって、一升や二升のはした酒は売らねえだから、そんなこといってはだめだ。それより、ただ飲む工夫《くふう》があるだ」
「へーえ、ただ飲む工夫? そいつを、ぜひ教えてもれえてえもんだな」
「まず、つくり酒屋へへえったら、『わしらは、江戸の新川のものでございますが、お宅の酒を利《き》き酒《さけ》さしてもれえてえ』と、こういうだ。そうすれば、得意ができるとおもうから、むこうでもってよろこんで、いい酒をいくらでも飲ましてくれるだ」
「なるほど、そういうこたあ、こちとら、しろうとにはわからねえ。どうもありがとうございます……どうだい? いいことを教わっちまったなあ」
「ああ、これからさき、酒に不自由はしねえや。ありがてえなあ」
「ときに、じいさん」
「なんだね?」
「あののれんのあいだから首をだしてるひとは、だれだね?」
「え? ……あれは、おらのかかあでごぜえます」
「へーえ、そうかい。じゃあ、女《め》うんつくだね」
「こりゃあ、はあ、ありがとうごぜえます。これ、こっちへでて、お江戸のお客さまにお礼申しあげろ。われのことを女うんつくだとほめてくだすっただ。それじゃあ、わしが、うんつくで、かかあが、女うんつくかね」
「ああそうだよ。おめえさんの顔なんざあ、どうみたって、うんつくづらだ」
「ひゃあ、そうかね。そりゃあ、ありがてえこんだ」
「ここにいるなあ、おめえさんとこの子どもかい?」
「ああ、おらんとこの孫《まご》だよ」
「孫うんつくか」
「孫うんつく?! そうかね、ありがとうごぜえます。これでも、はあ、なんでがすかね、いまに大うんつくになれべえか?」
「ふーん、そうさなあ、そのはなのたらしぐあいじゃあ、いまに、大うんつくの、どうんつくになれらあ」
「ああ、そうかね、ありがとうごぜえます。たいしておかまいもできねえだが、おめえさまがた、今夜、わしのとこへ泊まっていったらどうだね?」
「へえ、ありがとうございますが、さきをいそぎますんで、これでごめんをこうむります。なんだか食い逃げみてえで、めんぼくございませんが……」
「なあに、そんなことはかまわねえが、また、こっちのほうへきたら、遠慮なく寄ってくだせえましよ」
「へえ、その節《せつ》は、ぜひ寄らせていただきます。とんだご厄介になりまして、ありがとう存じます」
ふたりは、そのまま、おもてへとびだしました。
「おいおい、早くこいよ」
「ああ、おどろいたなあ。おらあ、どうなることかとおもったぜ。だけど、兄貴、おめえは、えれえなあ。よくまあ、鴻池だの、三井だのの、先祖のいわれなんぞを知ってるんだねえ」
「なにいってやんでえ。そんなものを知ってるわけはねえじゃあねえか」
「えっ? だって、いま、あんなにぺらぺらとしゃべったじゃあねえか」
「ああ、あれか、ありゃあ、みんなでたらめだ」
「でたらめ? そうかい。どうもおかしいとおもったよ……だって、江戸じゃあ、うんつくとか、どんつくとかってえのは、ばか野郎とか、まぬけ野郎とか、相手をわるくいうときにつかうことばなんだからなあ……金持ちになることを、大うんつくだなんて、よくもまあこじつけたもんだ」
「それが気転《きてん》てえやつだ」
「しかし、まあ、かんげえてみると、気の毒みてえなもんだ。おめえが、ばかだ、ばかだ、大ばかだといったら、むこうでよろこんで、酒をごちそうしやがったんだからな。かかあが、のれんのあいだから、つらをだしたのをみて、女うんつくだといったら、よろこんで礼をいやあがった。子どものことを孫うんつくだといったら、いまに、大うんつくになれべえかと聞きゃあがった。また、おめえのいいかたもいいや、大うんつくの、どうんつくになれるといったら、よろこんで、泊まっていけといやあがった」
「田舎ものなんてえものは、どうかんげえても、甘《あめ》えもんだなあ」
「おーい、おーい」
「あれっ、むこうから、おやじが追っかけてきたぜ。ようすがおかしいぞ。なんじゃあねえか。ことによると、だまされたことに気がついて追っかけてきたんじゃあねえか?」
「なあに、あんなおやじひとり、なぐりとばして逃げちまやあなんでもねえや……おう、なんだい、じいさん?」
「江戸のお客さん、待っておくんなせえ」
「なんか用かい?」
「いやあ、用というほどのこともねえけんどもねえ、おらたちばっかりほめてもらってよう、おめえさまがたのことをほめるのをすっかりわすれていたもんで、あとで気がついて、きまりわるくなったでねえ、それでまあ、追っかけてきただ……おめえさまがた、江戸へ帰んなすったら、いっしょうけんめいはたらいて、どうか、りっぱな大うんつく、どうんつくにならっせえよ」
「なにをぬかしゃあがんでえ。おれたちゃあ、大うんつくや、どうんつくなんざあ大《でえ》きれえだ」
「えっ、きれえかね? あーあ、生まれついての貧乏人は、しようのねえもんだ」
のめる
なくて七くせ、あって四十八くせとか申しますが、どなたにも、くせというものがございます。
もっとも、くせにも、目立つのと目立たないのと、いろいろございますが、あたまをたたかなければ、口がきけないというような妙なくせがございます。そうかとおもうと、鼻の穴をほじって、丸薬《がんやく》を製造しては、これを指さきでとばすなんていうきたないくせもございます。けれども、くせというものは、どんなうれしいときでも、かなしいときでもでるものでございますが、畳のけばをむしるなどというくせは、たいがい申しわけのないというようなときに、よくでるようでございます。
「まあ、こっちへおいでなさい」
「へえ、どうもごぶさたをいたしてあいすみません」
「いやいや、わざわざお呼び立て申すわけではないが、昨年の暮れから、まる一年だ。ちょうど三十日の日にきて、どうしても暮れのやりくりがつかないから、たすけてくれろといっておいでなすったので、こころよくご用立て申して、書きつけ一本とったわけではない。恩にかけるようだが、わたしは、商売で金を貸すんではない。親切ずくで、おまえさんにご用立てしたところが、それっきりおいでがない。せめてハガキの一本もくださればとにかく、まる一年もほうってお置きなさるのは、こまるじゃあありませんか」
「はい、まことにどうも申しわけございません。全体、ご承知の通り、吉兵衛さんとわたしとふたりで、あれは拝借いたしましたので……」
「吉兵衛さんは、このごろ、商売で遠方へいっておいでなさるということだ。ふたりで借りたとはいいながら、連帯借用であってみれば、相手がいなくなれば、おまえさんがかえす義務がある」
「それはそうにちがいありませんが、なにぶん吉兵衛さんは、遠方へおいでなさるくらいで、ぐあいがわるいので……といって、わたしが半分持ってきて、おかえし申すのも変ですから、どうかしてまとめてと、こうおもっておりますうちに、わたしのほうでもいろいろございまして、こういうようなことになってしまいましたので……」
「おいおい、畳のけばをそうむしってはいけない」
「ごもっともでございますが……」
「まだむしってる。こまったなあ。金のほうはいいとして、畳のけばを……」
「さようでございます」
「さようでございますったって、むしってはいけない。一昨日《おととい》とりかえたての畳だ」
「ああ、さようでございますか、道理でむしるのに骨が折れる」
「骨を折ってむしらないでもいい。こまったひとだ」
これがくせでございますから、自然にでてまいります。
また、ことばのくせというものは、おしゃべりのひとばかりにあるかとおもうと、無口のひとにもございます。
「だいぶ景気がいいな」
「景気がいいわけじゃあねえが、酒がなかった日にゃあ往生《おうじよう》だ。そのかわり、さかななんぞ、なんでも飲める。このあいだ、さつまいもを、となりから煮てくれたけれども、ちょっと飲めるねえ。あいつをまた、こってりと煮たやつはおつなもんだ」
「うふっ、つまらねえことをいう男だな。いくらなんだって、さつまいもをこってり煮て飲めるやつがあるもんか。おめえぐれえつまらねえことをいう人間はねえよ」
「そうでねえ。どうだ、ひとつ飲もうじゃあねえか。どっかへいこう」
「そりゃあ、おめえは、酒が大好きだから、飲みさえすりゃあいいだろうが、おれは、ほんのつきあい酒で、大勢でわいわいさわいで飲めば飲めるようなものの、つまらなくふたりでちびりちびり飲んで、ごてごていったところがつまらねえ」
「よしなよ。さっきから、おめえ、なにかにつけて、つまらねえ、つまらねえというが、人間てえものは、この結構な世のなかへでて、そんなにつまらねえことばっかりあるもんじゃあねえ。なにがつまらねえんだ?」
「つまらねえじゃあねえか。かんげえれば、かんげえるほどつまらねえ」
「およしよ」
「およしったって、つまらねえや。ああ、ばかげてつまらねえ」
「あれっ、まだあんなことをいってらあ。どうせこちとらは職人だ。仕事さえいそがしけりゃあ大名だ。心持ちよく飲む酒というやつは、さかながなくってもうまく飲める。心持ちのわりいときには、いいさかながならべられても、女の子がそばにいてもうまくねえ。ちょっと、あっさりと、なんかで飲もうじゃあねえか」
「およしよ。おめえは、ことばにくせがあってみっともねえぜ。いちいち飲める飲めるというが、おめえは、酒が大好きだからいいだろうが、つまらねえから、およしよ」
「おいおい、ひとのことをいったって、つまらねえというのが、おめえのくせだ」
「いいじゃあねえか」
「いいったって、つまらねえつまらねえというなあ、よくねえくせだ」
「よくねえっていうなら、おめえのほうが、よっぽどよくねえ。おめえは、酒が好きだからいいが、だいたい、のめるということばは、縁起がわりいじゃあねえか。人間、のめってくたばれば、行きだおれだ。身代がのめれば、身代かぎりよ」
「そうわりいことにつかわなけりゃあいい。つまらねえということばは、どうつかっても陰気でいけねえ」
「なにも陰気てえほどのこたあねえ。しかし、まあ、そんなつまらねえことをあらそったってつまらねえから……」
「ずいぶんつまらねえがでるなあ」
「まあ、とにかく、ふたりとも、くせというものはみっともねえから、いいっこなしにしよう」
「うん、そいつあおもしれえ。じゃあ、おらあ、これから、のめるということをいわねえ」
「おれもつまらねえってこたあ、けっしていわねえ。しかし、ただこういっただけじゃあ、なかなかこのくせはなくならねえから、どっちがいっても、罰金をとりっこにしよう」
「うん、いいだろう」
「それじゃあ、おめえが、のめるといったら一円おだし。おれが、つまらねえといったら一円だすから……どっちがとられるにしても、おたげえにつまらねえわけだから……」
「それっ、もういった」
「まだはじめちゃあいねえやな。これからだ。いいかい? くせをいったら一円だすんだぜ」
「ああ……じゃあ、はじめるぜ。手拍子を打って、ひい、ふう、みい……さあ、もうこれからは、どっちでもいえば罰金だからな」
「いわねえとも」
「おれだっていうものか」
「けれどもなあ、天気がこうつづいて、ちょっと、さかなのあたらしいやつかなんかきた日にゃあたまらねえな」
「まったくだ。それこそ、の……の……うん、こんちくしょう。あぶねえ、あぶねえ。うっかりひっかかるところだった。あぶなくって口もきけねえや」
「じゃあ、こうやって鼻つきあわせてるのもなんだから、また会うことにしよう」
「そうしよう。あばよ……ひでえ野郎だ。天気がつづいて、さかなのあたらしいやつかなんかきた日にゃあたまらねえってやがらあ。あぶなくひっかかるところだった。こりゃあ、うっかりしゃべれねえぞ。銭《ぜに》はどうでもいいが、さきにとられるのがしゃくにさわるからな。なんとかふんだくってやりてえなあ。なにかいい工夫《くふう》がありそうなもんだが……」
「おい、八つぁん」
「あっ、こりゃあ、ご隠居さんで……いやあ、どうもごぶさたをいたしました。どうもねえ、ご隠居さん、あなたは、よござんすねえ。いいご身分だ。早く寝て、ゆっくりと起きて、朝湯にでもいってきて、庭をながめながら、お茶でも飲んで、そこへ酒のしたくができてくる。朝から小鍋立てで、いかに焼きどうふとくると、ちょっとのめるなあ、あっ、いっちまった……そうそう、ご隠居さんの前だから、いってもかまわねえが……」
「なんだい、わたしの前だから、いってもかまわねえというのは?」
「じつは、ご隠居さん、それには、ちょいとわけありなんで……」
「なんだか知らないが、立ちばなしもなんだから、まあ、こっちへおあがり……さあ、お茶をお飲み」
「へえ、お茶も結構でございますが、すこし、おねがいがございますんで……」
「なんだい?」
「へえ、あっしの友だちに、熊という男がおりますが、ご存知ですか?」
「いいや、知らないが、なんだい?」
「そいつが、たいへんにことばにくせがあるんで、なんでも、ひとのつらさえみりゃあ、つまらねえ、つまらねえといって、ふさいでばかりいるんで……そいつに、きょう会いますと、また、つまらねえといいますから、『てめえは、いいことがあっても、つまらねえ、つまらねえといって、縁起がわるくってしようがねえからよせ』と、こういったんで……この前も、無尽《むじん》にあたったときに、『熊、うまくやったな』というと、『つまらねえ』と、いやあがるんで……」
「ふーん、いいことがあってもつまらないとは?」
「『なにがつまらねえんだ?』と、聞くと、『いまはいいが、あとの掛け金をするのがつまらねえ』と、こういやあがるんで……」
「ほう、妙なくせがあるもんだな」
「ところが、あっしも、これで、くせがあるんだそうなんで……あっしは、酒飲みですから、ついいうんですが、のめるというのがくせなんで……さっきも、『このあいだ、さつまいもの煮たのをとなりからもらったが、ちょっとのめる』といったんで……すると、熊の野郎が、『おめえは、なんにつけても、のめるのめるといって、みっともねえ』と、こういうんで……そこで、まあ、『おたげえに、くせというやつはおかしいから、いいっこなしにしよう。けれども、ただこういっただけじゃあ、なかなかこのくせはなくならねえから、どっちがいっても、罰金をとりっこしよう』ってんで、いったものは、罰金として、一円ずつだすことに約束したんで……」
「なるほど、おもしろいな。それじゃあ、おたがいに気をつけるだろう」
「それについてでござんすが、ご隠居さん、あなたは、いろいろなことをかんげえるのがおじょうずだが、あの野郎が、『つまらねえ、つまらねえ』と、三、四度いってくれると、ちょっと、ここで小づけえがとれるんでござんすが、どうか、ひとつ工夫しておもれえ申してえんで……」
「うーん、しかし、おまえ、おたがいに友だち同士で、くせがみっともないから、なおそうってんで約束したんだろう?」
「ええ、そりゃあ、そうでござんすけれど、こいつが、また、欲とふたりづれで、つい口がすべって、むこうにさきにとられるのは気がききませんから……」
「それもそうだな。わたしは、熊さんというひとを知ってるわけじゃあないから、おなじことなら、おまえさんにとらせたほうが心持ちがいい。まあ、お待ちよ。一服するうちに、なんとか工夫してあげよう……うーん……ええと……ああ、ちょうどいいことがある。おまえの、その扮装《なり》が、おあつらえむきだ。長ばんてんにももひきで、それにたすきがけになるんだ。すこしばかり、手のさきやはんてんのはしのところへぬかをつけて、熊さんというひとのうちへとびこんでいくんだ」
「へーえ」
「おまえ、おちついてやるんだよ。相手にさとられないようにな……『なあ、熊、おめえにはなすのははじめてだが、おれには、練馬に伯母《おば》がいて、伯母のところから、たくあん大根を百本もらったが、ことしは、陽気がいいせいか、たいへんに大根がよくできた』と、こういうんだ」
「へえ」
「『たくあんをつけようとおもって、うちじゅうさがしたんだが、四斗樽《しとだる》がなくって、醤油樽の古いのが一本あったが、醤油樽のなかへ百本の大根がつまろうか?』と、こう聞くんだ」
「へえ」
「とんとんと、とんとん拍子にいわないと、むこうが釣りこまれないよ」
「へえ」
「『伯母のところから、たくあん大根を百本もらったが、醤油樽に百本つまろうか?』と、とんとんというと、『そりゃあ、とてもつまらない』と、きっという」
「なあるほど、こいつあうめえや。どうもありがとうございます」
「いいかい? あわてちゃあいけないよ。よくおちついてな」
「へえ、どうもありがとうございます」
「さあ、お茶をおあがり」
「いえ、せっかくいい工夫を教えていただいたんですから、ちょいといってやってきます。うまくいったら、ご隠居さんに、お茶菓子を買ってきますよ」
「そうかい。そりゃあありがたいな」
「じゃあ、ごめんなさい」
八つぁんは、うちへ帰ると、教わった通りにぬかだらけになって……
「おい、熊」
「なんだ。らんぼうだな、こいつ。だしぬけにへえってきて、どうしたんだ、そのかっこうは?」
「おめえに、はなすなあはじめてだが……」
「なにを?」
「うーん……おめえに、はなすなあはじめてだが……ことしは、なんだ……」
「なに?」
「練馬に伯母があるんだ」
「ふーん」
「それで、大根がある」
「練馬は、大根のよくできるところだ」
「まあ、だまってろよ。とんとんとん……」
「なんだ?」
「ええ……練馬に伯母があって、ひゃっ、ひゃっ、ひゃっ、百本というと、ずいぶんだ」
「なにをいってるんだ」
「たくあん大根を百本もらって、これからつけようとおもって……なんだっけ?」
「なにが?」
「とんとんと……いや、その……うちじゅうさがして、醤油樽が……その四斗樽と醤油樽と……」
「なにをわからねえことをいってるんだ」
「だからよ、醤油樽は、ちいせえだろう?」
「なに?」
「台所の隅から、まあ、醤油樽を一本さがしだしたんだ。百本、大根をもらったんだ」
「うまくやってやがる。百本の大根といやあ、てえしたもんだ」
「だまってろい……とんとんがとんとんで、百本の大根が、どうだ、醤油樽へつまろうか?」
「ふん、ばかもやすみやすみいえ。ちょいとかんげえたってわかりそうなもんだ。百本といやあ、ずいぶんかさがある」
「ことしは、大根が、よくできてるんだが、醤油樽へつまろうか?」
「ばかなことをいうねえ。百本の大根が、醤油樽なんぞへ……」
「どうだ、つまろうか?」
「やい、ちくしょう、なにをいやあがるんだ」
「だから、百本の大根が、つまろうか?」
「うーん」
「どうだ、つまろうか?」
「へえりきらねえ」
「いや、百本の大根が、醤油樽のなかへつまろうか?」
「のこるよ」
「のこるのを無理におしこんだら、つまろうか?」
「そんなまねをすりゃあ、底がぬけちまわあ。ふーん、こりゃあ、てめえの知恵じゃあねえな。だれかにいれ知恵されてきやがった。そんないかさまにひっかかるおれじゃあねえ。おめえなんぞにからかっちゃあいられねえや。おい、羽織をだしてくれ……おめえ、帰るんなら、そこいらまでいっしょにいこう」
「なんだい? めかしこんで羽織なんぞひっかけて、どこへいくんだい?」
「なあに、友だちが呼びにきたんだが、酒がはじまってるようだから、めんどうくせえけれども、いかなけりゃあならねえ。ちょっと横町までいってくるんだ」
「ふーん、うまくやってやがる。のめるな」
「そーら、いった。一円だしねえ」
「え?」
「のめるといったじゃあねえか」
「あっ」
「いまさら口をおさえたってしようがねえ」
「ああ、弱ったな。いまのは、まちげえだ」
「なにがまちげえだ。未練《みれん》たらしいことをいうな。約束したんだ」
「うーん、じゃあ、しかたがねえ。さあ、一円だそう」
「ぐずぐずしてねえで、早くだしねえ……よし、一円、たしかにうけとった。おめえ、帰るんなら、あとをよくしめてってくれ」
「おや、羽織をぬいでやがる。友だちのところへいかねえのかい?」
「ありゃあ、うそだ」
「あっ、泥棒!」
「こんちくしょう。なにが泥棒だ。みっともねえ。大きな声をだすな。まぬけめっ、でなおしてこい! やいやい、風がへえってしようがねえから、あとをしめていけ!」
「ああ、いけねえや。しゃくにさわるな、どうも……ご隠居さん」
「おお、八つぁんか。お茶のしたくをして待っていた。お茶菓子を買ってきたかい?」
「どういたしまして……」
「ああ、ぼんやりしているところをみると、やりそこなったな」
「へえ、あいだに、よけいなことをいやあがるもんですから、すっかり調子が狂っちまって、あんまりとんとんといかなかったんで……」
「どうしたい?」
「あわを食って、醤油樽と四斗樽と、どっちが大きいんだか、わからなくなっちまったんで……」
「いけないなあ」
「それから、やっと、とんとんとはこんで、醤油樽へ百本の大根がつまるかと、こういったんで……」
「うん」
「すると、『ばかもやすみやすみいえ、百本の大根が、どんなことをしたって醤油樽へ……』と、いいかけて、気がつきゃあがって、にやにや笑ってやがるから、『どうだ、つまろうか?』と、聞くと、『へえりきらねえ』と、いうんで……それでも、『まだつまろうか?』と、いったら、『のこる』と、こういやあがる。『のこるのを無理におしこんだらつまろうか?』と、いうと、『底がぬけちまう。てめえの知恵じゃあなかろう。そんないかさまにひっかかるようなおれじゃあねえ。でなおしてこい』と、いろんなことをいやあがって、羽織を着て、でかけようとするから、『めかしこんで、どこへいくんだ?』って聞いたら、『友だちのところから呼びにきたんだが、酒がはじまってるだろうから、めんどうくせえけれどもいかなければならねえ。いっしょにそこまでいこう』というんで、それから、あっしが、『うまくやってる。のめるな』っていったもんですから、あべこべに一円とられちまったんで……」
「おやおや、こっちからすすんでいって、一円とられるというなあつまらねえ」
「あっ、つまらねえっていった。おまえさんでもいいや。半分くんねえ」
「わたしは、おまえとなにも約束しないから、半分も四半分もやるわけがない。けれども、おまえがとられて帰ってきたと聞いて、それで、いい心持ちのわけのものではない。こまったなあ。ざんねんだが、おまえさんより、むこうのほうが、役者が一枚上だな」
「役者じゃあねえ。職人なんで……」
「いや、おまえよりむこうのほうが、りこうだというはなしだ」
「おやおや、この上、ばかまで聞けばたくさんだ。あっしは、そそっかしいもんだから、ついまごついてしまうんで、もうひとつかんげえておくんなさいな」
「じゃあ、もうひとつ工夫があるんだが、その熊さんとやらは、将棋は好きかい?」
「ええ、将棋ときた日にゃあ、もう夢中なんで……」
「そりゃあおもしろいな。おまえさんは、どうだ、お好きか?」
「それが、まるっきり知らねえんで……」
「そりゃあ、弱ったな……このごろ、新聞やなんかにさかんにでているが、詰め将棋というやつがある」
「へえ」
「あんなようなぐあいに、おまえが、そのひとのくる時刻をはかってかんがえていたら、好きな道だから、たぶんひっかかるだろうとおもうんだ」
「へえー……どうやるんで?」
「駒のつかいかたぐらいは知ってるかい?」
「まあ、すこしぐれえは……」
「名前は?」
「名前だけは、知ってます」
「そういう調子じゃあ、さだめし将棋盤もなかろう。これを持っていって、すこしさむくても、門口の障子をあけて、将棋盤を前へすえて、なんにもいわないで、王さまをまんなかにおいて……そうさな、駒は、歩が三兵《びよう》に、桂《けい》、香《きよう》、金、銀三枚というような駒を持っているんだ」
「へえ」
「どうかんがえても詰《つ》むわけがないが、いくらか深くやるひとだと聞くにちがいないから、聞いたら、なんとかいいかげんなことをいうんだ。いいかい? 相手のくる時間を、みはからってやるんだよ」
「ええ、野郎、湯にいくときに、きっと寄りますから……」
「そりゃあ、ちょうどいい。おまえが、しきりにかんがえてるところへ寄ってみて、手をだすにちがいない。どうせ詰む気づかいはないが、むこうが知ってるだけに、ちょっとかんがえる。『このやりかたは、新聞にでもあったのか? 古い詰め将棋にもあんまりみたことがないが……』と、聞くかも知れない。そうしたら、所沢の藤吉といえば、名代《なだい》の将棋さしだ」
「へえ」
「その所沢の藤吉さんがかんがえた詰め将棋だといって、ほかになんにもいわないで、おまえが、いっしょうけんめいかんがえて、どうもおれにはうまくいかねえというようなようすをみせて、十分にむこうで気のはいったところで、『どうだ、おまえに詰まろうか?』と、さそいだすんだ。口かずをきくと気づかれるから、そのつもりでな……わかったかい?」
「ええ、すっかりわかりました。これでとりかえさなけりゃあならねえ。ありがとうございます。じゃあ、この盤を借りていきます」
教わった通り、うちへ帰って、障子を一枚あけて、そのかげでやっておりますと、熊さんが手ぬぐいをぶらさげて通りかかりました。
「おう、八、湯にいかねえか?」
「やってきやがったな」
「あれっ、なにか夢中でやってやがるな。おい、湯にいかねえか?」
「……はてな……これへ打つと……王手とやる……うーん」
「なにをいってやがるんだ……ああ、将棋だな。なんだ、相手なしじゃあねえか……ああ、詰め将棋か。よし、おもしれえ。おい、退《ど》きな……やあ、こりゃあおもしれえな。王さまは、はだかかい?」
「うん、さむかろうとおもうんだけれども、気の毒に、はだかだ」
「なにをいってるんだ。持ち駒をみせな」
「これだ」
「ふーん、歩が三兵、桂、香、金、銀三枚、めずらしいな。こういう詰めかたはみたことがねえが、ちがってやあしねえか?」
「いいや」
「めずらしいけれども、新聞にでもでていたのか? それとも古いのか?」
「なあに、かんげえたんだ」
「だれが?」
「え?」
「だれが?」
「だれだっけ?」
「おれが聞いてるんだよ」
「そうそう……ええと……八王子……青梅……国立……」
「なにいってるんだ」
「うん、所沢だ」
「なに?」
「所沢の十吉《じゆうきち》てえひとが、かんげえたんだ」
「はてな、所沢の十吉てえひとは聞かねえな……そりゃあ藤吉《とうきち》じゃあねえか?」
「ああそうだ。藤吉、藤吉……十《じゆう》もとうも数にすりゃあおんなじだ」
「なにいってやがる。まあ、藤吉さんならおもしれえな。待ちなよ……どうしたって桂をつけるとか、香車《やり》をつけるとか……」
「まず槍で突き通して……」
「だまってろ。ほかに、なんか駒があるだろう?」
「うん、これだけだ。どうだ、詰まろうか?」
「待ちなよ。かんげえてるあいだに味があるんだから……こっちへやれば、あっちへいくと……歩三兵というやつがわからねえな」
「どうだ、つまるか?」
「まあ、待ちなよ。そう急《せ》いちゃあいけねえ。かんげえるあいだがたのしみなんだから……こういくと、こうと……」
「つまるか? つまるか?」
「こいつあ、いくらかんげえてもつまらねえ」
「しめた! ありがてえ」
「なんだ?」
「いったじゃあねえか」
「あっ、ちくしょう、はめやがったな。しかし、敵ながらあっぱれだ」
「どうだ、いったろう? さあ、よこせ、一円よこせ。よこさなけりゃあ、巡査《おまわり》をつれてくるぞ」
「なにをいってるんだ」
「さあ、よこさなけりゃあ承知しねえ」
「やらねえとはいわねえ。まあ、待ちなよ。てめえにしちゃあ、ばかにかんげえがうめえや。ほうびというわけじゃあねえが、一円の賭《か》けだが、二円やらあ」
「あっ、ありがてえ。二円とれればのめらあ」
「おっと、さしひいとこう」
みいらとり
これで、お若いうちというものは、どうも色の道に迷いやすいものでございまして、遊廓《ゆうかく》なんぞへおいでになっても、ついつい、一日が二日、二日が三日ということになって、お宅へお帰りになりません。こうなると、親御さんは、ご心配でございます。
「定吉や、鳶頭《かしら》はいたか?」
「へえ、ただいま、すぐにうかがうといってました」
「そうか。このごろ、ちっともみえないが……なに? ああ、きたかい……こっちへ通しておくれ。どうしたい? 鳶頭……」
「へえ、どうもごぶさたをいたしましてすみません。いま、ちょうど、おつかいをいただいたときに、山の神が、かっぱ野郎をつれて湯にいって、留守番をしていたんで、ついおそくなりまして……」
「なんだい、山の神にかっぱ野郎というのは?」
「ええ、山の神というなあ、女房のことで……」
「かっぱ野郎とは?」
「へえ、がきのことなんで……」
「なんだか化けもの屋敷みたいだな。ときに、鳶頭、ほかでもないんだが、せがれが、三日に年始にいったきり帰ってこない。番頭の佐兵衛をむかえにやったが鉄砲玉だ。みいらとりが、みいらになっちまったんだ。どうも、こりゃあ、ほかのものじゃあいけない。鳶頭、おまえは、ああいうところにはくわしいだろうから、気の毒だが、せがれをむかえにいってもらいたいんだ」
「へえ、そうでございますか。いくらおりこうな若旦那でも、あの廓《さと》へはいっては、おうちにおいでなさるときとは、お心持ちがちがいますから、どうもお帰りにくうございましょう。このおむかいときちゃあ、むずかしい役まわりで、わたしも、ほかのひとにたのまれたんじゃあ、おひきうけできかねますが、こうして、長年出入りしておりまして、たまには、くさったはんてんの一枚ももらっておりますから……」
「おいおい、鳶頭、いやなことをいうなよ。なんだい、そのくさったはんてんてえのは?」
「え? あ……いえ、なに……はんてんもくさるほどいただいているお店《たな》のことで……」
「うまくごまかしたな。まあ、そんなことはどうでもいいが、鳶頭、おまえさん、ぜひ、せがれをつれてきてもらいたいんだ」
「へえ、よろしゅうございます。けれども、若旦那は、どこへいってあそんでいらっしゃるんで?」
「なんでも、佐野槌《さのづち》とかいったよ」
「そうでございますか。それさえわかってりゃあ造作《ぞうさ》ありません。ことによると、女が、うるせえことをいうかも知れませんが、なあに、わっちのことで、どんなことをしたって、きっと若旦那をつれてまいります。大船に乗ったつもりで、まあ、旦那、ご安心なさいまし」
「そうかい。なにぶんたのむよ」
「よござんすとも……」
胸をたたいてうけあって、鳶頭がでかけてゆきましたので、旦那は、首を長くして待っておりましたが、やっぱり帰ってまいりません。
「ばあさん、まただめだ。鳶頭にもあきれたなあ。うちで、あれだけたんかをきっていったくせに、やっぱり鉄砲玉だ。こうなると、ばあさん、おまえがうらめしいよ。だって、そうじゃあないか。せがれのことというと、陰《かげ》になり、日なたになり、わたしにないしょで金をやったりして甘やかすから、すっかりいい気になって、あんな道楽ものになっちまった。とても、あんなものにこの身上《しんしよう》はゆずれないよ。まあ、子のないむかしとあきらめればそれまでだから、勘当してしまおう」
「あなたは、なんぞというと、勘当、勘当とおいいなさるが、世間にだって、道楽むすこがないじゃあなし、若いうちは、ありがちのことですよ。よく叱言《こごと》をいって、意見をしてやれば……」
「おまえは、そんな甘いことばかりいってるからこまるよ。叱言も意見も、もういい尽《つ》くしたじゃあないか。いままでだって、どのくらい口をすっぱくして……ああ、びっくりした。だれだい? いきなりあたまをだして……なんだ、おまえは、めし炊《た》きの清蔵じゃあないか」
「へえ」
「なにしにきた?」
「いえ、ほかでもごぜえませんが、大旦那さまも、おかみさまも、夜の日も寝ねえで、若旦那のことを心配しておいでなさる。わし、はあ、かげながら、お心のうちをお察し申しますで……」
「ああ、ありがとう。その心持ちだけ聞けばたくさんだから、あっちへいきなさい。せがれのことで、むしゃくしゃしてたまらないところへ、ずかずか座敷へはいってきちゃあいけねえ」
「へえってきちゃあいけねえったって、はあ、おめえさまたちが、そうやって心配《しんぺえ》ぶってるのを、なんぼめし炊きだって、知んねえ顔をしているわけにいかねえでさ。番頭さんがおむけえにいってお帰りがねえ。そのあと、鳶頭がいって、また、お帰りがねえ。まことに、はあ、こまったこんだ。そこで、はあ、こんどは、わしが、ちょっくらいってくべえとおもうでがす」
「いや、その心持ちはありがたいが、番頭や鳶頭がいってさえ帰ってこないやつだ。おまえなんかいってもむだだ」
「それが、はあ、むだか、むだでねえか、いってみなけりゃあわかんねえでがす」
「なにをぐずぐずいってるんだ。おれは、気がむしゃくしゃしているんだから、いいかげんにしておくれ。だいたい、めし炊きてえものは、台所をまごまごして、へっついの前に坐って、めしの焦《こ》げねえようにすりゃあ、役がすむんだ」
「こりゃあ、まあ、大旦那さまのおことばともおもわれません。そりゃあ、おらあ、はあ、台所をまごついて、へっついの前へ坐って、めしの焦げねえようにすれば、給金をもらってられるものだけんども、それじゃあ、はあ、人間の道に欠《か》けべえとおもうだ。これが、もしも万一、泥棒でもへえって、金をとられたあげくに、ご主人さまが殺されでもするようなときに、めし炊きは、台所で、へっついの前へ坐って、めしさえ焦がさなけりゃあ役目がすむといって、知らん顔をしていて、それではあ、すむものか、すまねえものか、ちょっくらうかがいてえもんだ」
「それ、ごらんなさい。清蔵に一本やられたじゃあありませんか」
「よけいなことをいうな」
「まあ、あなた、ちょっと、だまっててください。わたしにおまかせなさいまし。大旦那は、むしゃくしゃしているんで、あんなことをおっしゃるんだから、おまえ、気にかけないでおくれよ……そんなにいってくれるんだから、おまえにたのもうじゃないか、せがれをつれてきておくれ」
「はあ、ようごぜえます。おめえさまがたのご心配は、お察し申します。わしがいきゃあ、きっと若旦那をおつれ申してめえります」
これから二階へあがった清蔵が、国もとから持ってきた手織りもめんの着物で、茶だか紺だか、色のわからなくなった一本どっこの帯を胸高にしめて、熊の皮でこしらえたじまんのたばこいれを前にさしまして、すっかり身なりをととのえましてでかけようとすると、そこは女親の情で、おっかさんが待っておりまして、
「清蔵や」
「へえ」
「この巾着《きんちやく》のなかにお金がはいってるから、ひょっとして、せがれがお金でも足りなくて帰れないようだったら、おまえ、これを、あの子にわたして、勘定をすませて帰ってくるように、よくそういっておくれよ」
「へえ、まあ、ありがてえねえ。あんな道楽ものの若旦那を、それまでに親御がおもってくださるというのはありがてえこった。いや、どんなことがあっても、わしがいったからにゃあ、若旦那の首っ玉へ縄《なわ》あつけてでも、きっとひっぱってくるでがす。これは、はあ、たしかにあずかったでがす」
「じゃあ、たのむよ」
「ようがす。いってめえります」
と、これから、清蔵はどんどん吉原へでかけましたが、こういうひとですから、なりふりは、まるっきりかまいません。あたまは、ぼうぼうとして、顔は、むく犬のように髭《ひげ》だらけ、おまけに、鼻毛が五分ものびておりまして、あるくたびに、この鼻毛が、でたりはいったりして、奥のほうへぶつかるたびに、クション、クションとくしゃみをしようという、おそろしく手数のかかった人間があるもんで……ようやく佐野槌の前まできて、突っ立って、なかをのぞいていますと、若い衆がでてきて、
「へえ、いらっしゃいまし」
「ちょっくら聞くが、われがとこは佐野槌か?」
「へえ、さようでございます」
「じゃあ、われがとこに、鳶頭《かしら》の喜太郎てえひとと、番頭の佐兵衛てえひとと、おらがとこの若旦那がきてるだんべえ? いねえのなんのと、かくしだてすると、ためんなんねえぞ」
「へえ、どういたしまして、けっしておかくし申しはいたしません。お茶屋さんは、どこでございますか?」
「そんだなことは、おらあ知んねえが、とにかく、若旦那と鳶頭と番頭さんの三人だ。われも商売してるだから、そういったらわかりそうなもんでねえか」
「へえ、どうもおそれいります。お三人さまてえと……ああ、たしか丸幸《まるこう》(引手茶屋の名)のお客さまでございましょう。それならば、おいでになっております」
「そんなら、はあ、ちょっくら呼ばってくれ」
「これはどうも、お宅さまからおむかいでございますか。どうもごくろうさまでございます。へっへっへ」
「この野郎、われ、おかしくもねえことをえへらえへら笑うやつがあるか。笑うだら、あははと笑ったらよかんべえ。軽蔑《さげすみ》笑えといって、よくねえ笑えかたをしやがる。われがつらあみると、天庭《てんてい》(ひたい)に曇《くも》りがあって、相好《そうごう》のはなはだよくねえつらがまえの野郎だ。早く若旦那にとりつげ。とりつがねえと、ぶっとばすぞ!」
「どうもこれはおそれいりました。ちょっとお待ちを。すぐにおとりつぎいたしますから……」
と、若い衆は、めんくらって二階へ飛んでまいりまして、
「ええ、あのう、おそれいりますが、ちょっと、おしずまりを……ええ、若旦那に申しあげたいことが」
「おうおう、こっちへへえんねえ。おい、大きいもんで一ぱい飲ましてやれ。早くこっちへへえれよ」
「あのう、ちょっとお目にかかりたいというおかたがおいでになりましたが、いかがいたしましょう?」
「だれがきたんだい? まあ、だれがきたにもせよ、どうせむかえだろう。そうにちげえねえや。どしどしこっちへあげて飲ましちまうがいい。おやじが怒って、これからも、どんどんむかえをよこすだろうから、きたやつを、みんなこっちへためて、だんだん人間をふやしてにぎやかにしようてんだ。あっはっは、おもしれえだろう?」
「へえ、それが、ただいままでの旦那がたのように、お気軽なかたではございません。わたくしが、『どうもごくろうさまでございます。へへへ』と笑いましたら、へへへなんてえのは、軽蔑《さげすみ》笑いといってよくない笑いかただ。天庭に曇りがあって、相好のよくないつらがまえだとおっしゃいました。人相見のかたじゃあございませんか?」
「なんだい、だれをむかえによこしたんだろうな? 番頭、だれだい?」
「さあ、わかりませんなあ」
「どんな服装《なり》をしてたい?」
「なんでも、手織りもめんのようなかたいお服装《みなり》で……あっ、そういえば、熊の皮のたばこいれを前へ……」
「ああ、わかった。わかりましたよ。若旦那、熊の皮のたばこいれときちゃあ、余人《よじん》じゃありません。台所の大将ですよ」
「清蔵かい? うふふ……おやじもおかしなけだものをよこしゃあがったな……おい、若い衆、いいよ、いいよ、心配のものじゃあない。台所の大将だ。かまわないからあげとくれ」
「へーえ、台所の大将と申しますと?」
「うちのめし炊きの清蔵という男だ」
「はあ、さようでございますか。どうも若旦那のようないきなお宅で、よくあんなものを飼《か》ってお置きなさいますな」
「なんだと、この野郎」
「あっ、これはもうおあがりでございますか……いらっしゃいまし。どうぞこちらへ……ええ、おむかえの旦那さまは、このおかたでございます」
「なんだ、この野郎、おらが、いねえとおもやあがって、おらのことを、なんとぬかしゃあがった? 飼って置くとぬかしゃあがったな。犬や猫じゃああるめえし、飼っとくたあなんだ? おらの前へでると、旦那、旦那とこきゃあがる。ひとをあげたり、さげたりしゃあがって、このたぬき野郎、張っくりけえすぞ」
「へえ、どうぞごめんくださいまし」
「おいおい、清蔵、なんだ、見栄《みえ》の場所へきて、張っくりけえすなんて……そんなあらっぽいことをいわずに、まあ、こっちへはいんな」
「ひゃあ、こりゃあ、はあ、若旦那でごぜえますか。まっぴらごめんなせえまし。やあ、これは番頭さん、鳶頭、おめえさまがたも、長えことごくろうさんだねえ。鳶頭、おめえさま、でかけるときには、えかくでけえことをいったでねえか。大船に乗ったつもりで、ご安心なせえましなんて……鳶頭、鳶頭っていえば、ええ気になりゃあがって、なにが鳶頭だ。このやつがしらめっ」
「はっはっはっは、そうとんがらかるなよ。そりゃあまあ、旦那の前じゃあ、すぐにつれて帰りますというようなことをいってでてきても、ここへくりゃあ、さて、すぐに帰れねえのが、この廓《さと》の習えだ。そうじゃあねえか、大将の前だが……まあ、一ぺえやろうよ、大将……」
「あんだと? 大将、大将って、おらあ、戦《いく》さあしたこたあねえだぞ。番頭さん、おめえさまもそうだ。うちの白ねずみだなんて、とんでもねえどぶねずみでねえか。やあ、女《あま》っ子たち、そう三味線をがんがん鳴らしちゃあ、さわがしくって、はなしぶてねえだから、すこし三味《しやみ》やめてくらっせえ。おいおい、太鼓たたくねえさん、太鼓、ちょっくらやめてくらっせえ。若旦那に、すこしはなしがあるだ。そう、どんどんたたかれちゃあ、はなしぶてねえ。ええ、若旦那、おめえさまもなあ、いつまでもここにいたかんべえが、大旦那やおふくろさまが、えかく心配ぶってるだから、どうか、わしといっしょにお帰んなすってくだせえまし」
「ああ、わかった、わかった。帰る、帰るよ。おれは、なにも、この楼《うち》に生涯いようてえわけじゃあねえんだから、帰れといわれなくったって帰るんだが、どうも、まだ帰る心持ちにならねえから、せっかくだが、きょうは帰らねえよ」
「はあ、そんじゃあ、お帰りになろうという心持ちがでれば、お帰りになるだね? はあ、それでは、ちょっくら、これをごらんにいれますが、じつは、いま、おむけえにこようというときに、おふくろさまが、この巾着をわしにわたして、万一、金が足りねえようなことがあったら、この巾着のなかに金があるから、これで勘定すましてこうと、いわれてあずかってきたでがす。こんな道楽なむすこでも、親なればこそ、これほどに心配ぶつかとおもったら、わし、はあ、胸が一ペえになって、きっと若旦那はおつれ申しますと、うけあってきたでがす。なあ、若旦那、おふくろさまからあずかってきた巾着を、おめえさまにおわたし申すが、この巾着をごらんなすっても、あんた、まだ帰る気になんなさらねえかね?」
「ああ、わかった。じゃあ、巾着だけ、おれがうけとるから、置いて帰んな。なあ、おれがうけとりゃあ、まちげえはねえだろう? さあ、お帰り、さきにお帰り」
「え? 巾着だけ置いて帰れ? へん、子どものつけえじゃああんめえし、おらがひとりで帰れるもんかね。まあ、そんだなばかなことをいわねえで、お帰《けえ》んなせえ。おらあ、おめえさまの首ったまへ縄あつけてでも、きっとひっぱってくるとうけあってでてきただからねえ。どうか、おらのつらあ立てて、帰っとくんなせえ。ねえ、おねげえだから、お帰んなせえ。ねえ、若旦那……」
「うるせえや! なにをぐずぐずいってんだ! なんだと? 首ったまへ縄あつけてひっぱっていくだと? 犬っころじゃあねえやい。ひとをばかにするな! なんだ、奉公人のくせに、それが主人にむかっていうことばか……いつまで、ぐずぐずいってると、暇《ひま》あだすぞ」
「暇あだす?」
「ああ、おやじになりかわって、おれが、暇をだしてやる」
「そうかね、おらが、こうだにたのんでも、あんた、どうしても帰らねえけえ?」
「ああ、帰らねえ。帰らねえったら、帰るもんか」
「そんで、おらに暇あだすって?」
「ああ、そうだよ」
「よしっ、暇あもらうべえ……暇あもらっちまえば、主人でもなけりゃあ、奉公人でもねえ。こうならば、野郎、腕ずくでしょっぴいていっても文句はあんめえ? もしもさまたげえぶつやつがあらば、どいつこいつの容赦《ようしや》はねえ。こんでも、村角力の大関をとった男だ。腕の力じゃあひけはとらねえぞ。さあ、覚悟ぶて!」
「おやおや、こりゃあたいへんだ。清蔵の顔色がかわってきた。若旦那、おだやかでありませんよ。あなた、お帰りになったほうがようござんすよ」
「わかったよ、番頭……ああ、どうも、清蔵、すまなかった。いまのは、じょうだんだよ。じょうだんが過ぎた。おまえの顔を立てて、おれは帰るから……いままで、こうやって、ばかなまねをして、両親に心配かけたのがわるかった。清蔵、この通り、両手をついてあやまるから、どうか、かんべんしておくれ」
「あれ、まあ、若旦那、どうぞ、お手をあげてくだせえ。ご主人さまに手をさげさしてはすまねえだ。ああ、ありがてえ。じゃあ、おらのようなもんのいうことを聞いて、帰っておくんなさるか? ありがてえなあ。おら、はあ、こんなうれしいこたあねえ」
「おいおい、泣くな、泣くな……女郎屋の二階で泣かれちゃあこまるじゃあねえか。よしよし、きっと帰るから……しかし、こう座が白《しら》けちまったんじゃあ、ここの楼《うち》にもわりいじゃあねえか。まあ、帰るときまったら、ひとつ景気をつけていくから、清蔵おまえも一ぱい飲んでいきな。おい、だれか、清蔵に酌をしてやってくれ」
「だめだよ。おら、はあ、あんまりいけねえ(飲めない)口だから……」
「とにかくまあ、景気づけの酒だ。一ぱいだけおやりよ」
「そうかね、そういうことなら、一ぺえだけいただきますべえ」
「おい、だれでもいい、酌をしてやれ」
「あれっ、こうだにでけえもんで飲んだら、酔っぱらってしまうでねえか……そうかね……ねえさん、お酌してくれるかね。そんじゃあ、すんませんが、半分だけ、どうかついどくんなせえまし、へえ、半分だけ……ああ、こりゃあどうも……ああ、そうだについではだめだっちゅうに……あっ、とうとういっぺえにしちまった。こうだにやったら、おらあだめだあ……そんじゃあ、まあ、若旦那のお帰んなさるめでてえ酒だで、よばれるだあ、へえ、ごめんなすっとくんなせえ……こうだにいっぺえでは、口からおむけえにいかなけりゃあなんねえ……ああ、いい酒だね。おらが、はあ、国で飲んだ酒とは、わけがちがうだ。こらあ、安くなかんべえなあ……番頭さん、これ、一合どれくれえするかね?」
「おい、およしよ。じょうだんじゃあない。見栄《みえ》の場所で、酒のねだんを聞くやつがあるもんか」
「あははは、そうかね。そんじゃあ、まあ、だまってよばれるべえ……あーあ、ほんとにまあ、いい酒だ……やあ、えかくうめえだ。そんじゃあ、どうもごちそうさまで……こんでまあ、ご納盃《のうへい》ということに……」
「あれっ、もう飲んじまったのかい? 早いね、こっちは、これから飲むんだよ。もう一ぱいつきあいなよ。もう一ぱいだけ……いいじゃあないか。おれが飲むあいだ、もう一ぱいだけつきあいなよ」
「そうだにやったら、おらあ、はあ、酔っぱらっちまうで……え? 若旦那のお飲みなさるあいだのつきあいかね? 一ぺえだけだって? そんじゃあ、もう、あとは飲まねえからねえ……おや、ねえさん、また、酌してくれるかね。すまねえなあ、どうも……あれっ、こうだにでけえ茶わんでかね? そんじゃあ、半分でええだ。半分だけ……あっ、ああ、またいっぺえにしちまっただな。おお、もってえねえ。口からおむけえだ……うん、うめえ! ……しかし、まあ、若旦那あお帰んなさりゃあ、大旦那さまも、おかみさまも、およろこびなさるだよ。いや、ありがてえ、ありがてえ……いやあ、番頭さんにも、鳶頭にも申しわけねえこんで……どぶねずみだの、やつがしらだのと……どうか、まあ、かんべんしとくんなせえ……え? ねえさん、おさかなくださるてえ? こりゃあ、まあ、えかくうまそうなものだね。すんませんで、はいはい、ちょうだいしますべえ……うん、これは、はあ、甘《あめ》えような、すっぺえような、わけのわからねえ、えかくうめえもんだね……え? なに? あんずだって? おらあ、また、魚かとおもっただ。あっははは、あんずかね、化けやがったな、野郎……どうも、ごっそうさんで……そんじゃあ、これでご納盃ということに……」
「おいおい、清蔵、おまえ、すこし早すぎるよ、飲むのが……こっちは、まだこれからやろうてんだ。もう一ぱい、つきあいな。いいじゃあないか。ほんとにこれだけやったら帰るからさ……かけつけ三ばいというたとえもあるだろう? もう一ぱい、きゅーっとひっかけて、きまりのついたところで、みんなでひきあげようじゃあないか。もう一ぱいだけ飲みな」
「えっ? もう一ペえ? いや、もうかんべんしとくんなせえ。おらあ、もうだめだよ……え? かけつけ三べえだって? はあ、そんだら、ほんとに、これを飲んだら帰るだね? よしっ、そんじゃあ、いただきますべえ……あっ、ねえさん、また酌してくれるかね、たびたびすんません……はいはい……やあ、それでおしまいかね? こりゃあ、ちょっくら足《た》んなかんべえ。どうせついでくれるんなら、いっぺえに……あははは、やあ、すんません……うん、うめえ、ほんとにいい酒だ……ああ、ええ心持ちだ。こうやって、はあ、きれいなねえさんたちを呼んで、いい酒飲んで、うめえもん食べたら、若旦那、お帰りになれねえのも無理はねえなあ……ねえさん、おらあ、さっき、でけえ声でがなったで、たまげたんべえね、どうか、かんにんしてくだせえよ。若旦那、お帰んなさるだでねえ、おわかれだあ、ひとつ陽気にやってもれえてえねえ、えっへっへへ……そこのねえさん、三味線のほうをたのむだ。ああ、あんた、太鼓をぶっぱたくかね? やんなせえ、やんなせえ。おめでたく、どうか、ひとつ甚句《じんく》でもやってくらっせえ……太鼓をたたくねえさん、ああ、かわいらしいねえ。としはいくつか知んねえが、なかなか太鼓はうめえもんだ。はあ、ドンドコドンドコ……こりゃあおもしれえや……」
「おいおい、かしくや、おまえ、うしろのほうで、なにをもじもじしてるんだな。清蔵のそばへいって、酌をしておやりよ」
「そうですか、若旦那……じゃあ、みなさん、かんにんしてくださいよ。うちのひとのそばへいきますから……さあ、あなた、お酌をさしてくださいな」
「ああ、おらあ、すっかり酔っぱらっちまっただ……若旦那、あんたが、お帰《けえ》んなさりゃあ、おふくろさまが、どんなにおよろこびで……あれっ、おらにことわりなしに、また、こうだに酒をついで……このばかっ……えへへへ、すんません……若旦那、えかくきれいな女《あま》っ子だね」
「清蔵、遠慮するにはおよばねえ。それは、おまえの相方《あいかた》にだしたんだ。かしくってんだ。かわいがってやんなよ」
「えっ、おらの相手?! はあ、むだだよ、若旦那、おらみたようなもんに相手なんぞ……」
「なにいってんだよ。吉原てえところはな、すぐに帰るにしても、登楼《あが》ったお客には、ひとりは相手がつくのが規則なんだから、おまえ、帰るまでは、女房だとおもって、遠慮なく用をいいつけなよ」
「若旦那、こりゃあ、はあ、えかくきれいな女っ子だな。おらが国の庄屋どんの娘御がきれいだとおもったが、これにゃあ、とてもかなわねえだ。きれいだなあ。おらの相手だって? あれっ、よせよ。くすぐってえ。膝の上へ手を置いたりして……」
「ねえ、あなた、あたしは、ほんとうにうれしいんですよ。こういうとこへくるお客さまは、口ではうまいことをおっしゃったって、みんな表面《うわべ》だけでしょう。一度でいいから、しんから堅いお客さまにでてみたいとおもっていたら、ようやくおもいがかなって……あたし、きまりがわるいけれど、初会惚《しよかいぼ》れをしちまったの。せめて、お酌だけでもさしてくださいな。ねえ、あなた……」
「うっふふふふ……おらに、おっ惚れたなんて、あははは、ばかべえこいてやがって……あははは、よせったら、くすぐってえ、そんだに膝をなでまわすなっちゅうに……みんなみて笑うでねえか」
「まあ、ほんとうに堅いおかた……」
「よせよう、じゃれるなっちゅうに……なに? おらが堅えって? ……そりゃあ、はあ、若旦那が知ってなさるだ。ねえ、若旦那、おらが堅えてえことは、人間べえが堅えじゃあねえ。さあ、みなせえ、手でもこの通りだ」
「まあ、たのもしいわ。そういう堅い手で、おもいっきりにぎってもらいたいの」
「こらこらっ、そんだにかわいらしい、ちっこい手で、おらがような豆だらけの手をなでたりなんかして、よせってばよう……えへへ、若旦那、女《あま》っ子が、手えにぎってくんろっていうだが、にぎってやってもええかね?」
「ああ、いいとも、いいとも、遠慮なくにぎってやんなよ」
「ええ、そうかね。さあ、若旦那からおゆるしがでたで、にぎってやるぞ。ええか? うんとにぎるだぞ。あとで、いてえったって、はなさないぞ。ええか? ようし、にぎってやんべえ。さあ、だせ……にぎるぞ。ええか? ……あはは、よすべえ。手をいためると、なんねえだから……なに? ええて? ……あれっ、そんだにくすぐってはだめだ。よせっちゅうに……じゃれるな、こらっ、ばかだな、はっはっはっは……これ、くすぐってはだめだっちゅうに……はっはっはっは……」
「おいおい、清蔵、いつまでも、だらけてちゃあいけねえやな。さあ、したくができた。帰ろう、帰ろう。もう、ひきあげるんだ」
「え? もう帰るって? 若旦那、帰るんなら、あんただけお帰んなせえ。おら、おもしろくてたまんねえ。もう、二、三日、ここにいべえ」
胆《きも》つぶし
「おい、久太、どうだ、ぐあいは? じつは、いま、おらあ、妙斎先生のところへ寄って、おめえの容体《ようだい》を聞いてみたんだが、どうも病状がはっきりわからねえ。先生のいうには、なんでも、おめえが、腹のなかでおもってることがあって、ひとにはなすにゃあはなせねえ。そのおもいを通すことができねえというので、ただひとり、胸のなかでもって、くよくよなにかおもってることがある。それが病いのもとだというが、そのおもってることをいってしまわねえうちは、薬を浴びるほど飲んでもきかねえ。まあ、早《はえ》えはなしが、おめえの腹のなかに、病いの器《うつわ》、まず、ここにひとつの徳利があるとするんだなあ。そのおもってることをいってしまわねえうちは、いわば、その徳利に栓《せん》がしてあるというようなもんだ。だから、いまのところじゃあ、いくら浴びるほど薬を飲んでも、その徳利のなかへへえらねえで、栓がしてあるから、みんなそとへあふれてしまう。それを、おめえがおもってることをひとにはなしゃあ、はじめて栓があくというりくつ。そこへ薬をつぎこみゃあ、ききめがあるというんだ。それだから、まあ、おれに、なんのことだか知らねえが、はなして聞かせねえ」
「それじゃあ、おいらの腹のなかに徳利ができて、その徳利に栓がしてあるから、その栓を抜かなくっちゃあいけねえってんで、兄貴がきてくれたのか。それじゃあ、兄貴は、おいらの腹のなかの徳利の栓抜きだな」
「うふふ、まあ、早えはなしが、そんなものよ」
「けれどもねえ、兄貴、こればっかりは、だれにもはなせねえ。だいいち、はなしたところでむだだ。むだだから、このまんま、薬も飲まず、めしも食わず、いっそ死んでしまったほうがいい」
「ばかなことをいうねえ。むだってえことがあるもんか。おめえも男じゃあねえか。しっかりしろい」
「いいや、むだだ」
「久太、そんなにおめえがかくすんなら、おいらあはなすが、じつは、おめえのからだが、だんだんわるくなるんで、おいらあ、好きな酒も、このごろは、ろくに飲まねえ。飲まねえというなあ、ほかじゃあねえが、おらあ、おめえには、一通りならぬ義理がある……というなあ、ほかじゃあねえが、おめえのとっつぁんに、おらあ命をたすけられた。わすれもしねえ十年ばかり前に、ひとと大まちげえをして食らいこんだときに、おいらが、若ざかりで喧嘩《けんか》早かったもんだから、また、牢内《ろうない》で、おなじようなやつとあらそいをして、すんでのことで、キメ板でぶち殺されようというところを、おめえのおやじさんが口をきいてくれたばっかりで、命がたすかった。そのときに、おいらが、『このご恩はわすれません。娑婆《しやば》へでたら、きっと恩がえしをいたします』といって、ふたりともに、この娑婆へでたから、恩がえしをしようしようとおもっているうちに、でると、まもなく、おめえのとっつぁんは病気、『ああ、こまったなあ。とっつぁん、おいらあ、早く両親にわかれたから、おめえを、実の親とおもって、これから孝行をしようとおもうに、情けねえ。これがわかれになるのか』……いま、息をひきとるという間ぎわに、おいらがいうと、とっつぁんが、おいらの手をにぎって、『それじゃあ、富蔵、おめえにたのみがある。おいらが死んだそののちは、天にも地にも身寄りのねえこの久太、どうか、こいつのことを、なにぶんたのむ』というから、『そりゃあ心配しなさんな。おいらが、命にかえても、きっと世話をしようよ』『それじゃあ、富蔵、たのんだ』というのが、この世のわかれ。おいらあ、娑婆へでてくると、しあわせにも、たったひとりの妹が、一軒のうちをかまえて、抱《かか》えの芸者《こ》こそはまだねえけれども、さいわいに商売がいそがしく、早く親にわかれたから、おいらのことを自分の親同様に、『兄さん、兄さん』といって、あげ膳《ぜん》、据《す》え膳であそばしておいて、小づけえ銭をあてがっちゃあ、『寄席《よせ》へでもいっておいで』と、じつに、やさしくしてくれる、その妹も大事だが、妹よりおめえには、義理というやつがあるだけに、なおさら心配でならねえから、どんなことだか知らねえが、おめえの親だとおもって、おいらにはなして聞かせねえ」
「けれども、兄貴へこれをはなしゃあ、きっと笑うにちげえねえ」
「ばかあいやあがれ。ひとの命にかかわることを、笑うやつがあるもんか」
「けれども、兄貴、笑うばかりならいいけれども、ほかへいってしゃべられると、なお、おいらが外聞《げえぶん》がわりいや」
「なあに、いやあしねえ。大丈夫だよ」
「それじゃあ、兄貴へはなすが、笑っちゃあいやだよ。だれも聞いちゃあいやあしめえな?」
「だれも聞いちゃあいねえ。大丈夫だ」
「それじゃあはなすが、きっと笑わねえかい?」
「ああ、笑やあしねえ」
「じゃあ、いよいよはなすが、じつは、兄貴、おらあ恋わずれえだ」
「うふふふ」
「それみねえ。笑うじゃあねえか」
「なあに、笑ったんじゃあねえ。いまのは……その……なんだ……まあ、いいじゃあねえか……恋わずれえ? しっかりしろい。いい若《わけ》えもんが、恋わずれえたあ、なんてえこった。相手はだれだ?」
「その相手が大変《てえへん》だ」
「いったい、だれなんだ?」
「おもて通りの伊勢屋のお嬢さんだ」
「えっ、あの呉服屋の伊勢屋のか? ……さて、たいへんなもんに恋わずれえをしゃあがったな。けれども、たいそういい女だって評判だが、ひとり娘だから、そとへもめったにださねえ。おれもみたことはねえ。なんで、おめえが見染めたんだ?」
「なあに、みんなが、『いい女だ、いい女だ。年ごろで、婿《むこ》をさがしているそうだが、だれが、婿になるか、婿になるものはしあわせだ』なんていうから、そんないい女をひと目みてえもんだ。どうしたらみられるだろう、呉服屋だから、買いものにいったらみられるだろうと、おらあ買いものにいった」
「うん、なにを買いにいった?」
「ふんどしを一本」
「ちぇっ、気のきかねえものを買いにいきゃあがったな」
「そうすると、若え衆が、さらしをだして切っていると、奥で、お嬢さんがのぞいていたっけ。つかつかとでてきて、若え衆のうしろへ立って、背なかを膝でちょいちょいと突きながら、『ちょいと、おまえ、そのお客さまになるたけまけて、長く切ってあげておくれ』といったもんだから、たいへん長く切ってくれた。ふんどしが一本に、手ぬぐいが一本、ふきんが三枚とれた」
「おっそろしくまけてくれやあがったなあ」
「それから、切り立てのふんどしを持って、おれが、湯にいく途中、うしろから、ぴたぴたぞうりをはいてきたひとが、『もしもし』と、呼びとめるから、だれかとおもって、ふりけえってみたら、伊勢屋のお嬢さんだ」
「それじゃあ、なにか、おめえのあとを追っかけてきたのか? そりゃあほんものだ。てめえどころじゃあねえ。むこうが恋わずれえだ。おいらあ、あすこへ出入りをしている女|髪結《かみゆ》いと懇意《こんい》だから、なんとか、ひとつ手つづきをしてやろう」
「まあ、兄貴、それからさきをお聞きよ。おいらを呼びとめたから、『なにかご用でございますか?』といったら、『あなたのお宅はどちらでございます?』てえから、『このさきの米屋のうらです』っていうと、『あなたは、おひとり身でいらっしゃいますか? それとも、おかみさんがおありでございますか?』『まだ、ひとりでございます』『なぜ、おかみさんをお持ちなさいませんの?』『わたしみてえなもののかみさんには、なり手がございません』『うまいことをおっしゃる』って、おれの手をぎゅーっとにぎった」
「ええっ、こんちくしょう。たいへんなことになったな。よし、おいらあ、すぐに帰ってはなしをしてやらあ」
「まあ、兄貴、待ってくんねえ」
「だって、こんなこたあ、早えほうがいいや」
「それでも、まだお嬢さんに逢わねえ」
「なにをいってやがるんだい。おめえが湯にいくときに、あとを追っかけてきて、おめえの手をにぎったじゃあねえか」
「ううん、そりゃあ夢だ」
「なんだ、夢だ? おっそろしく長え夢をみゃあがったな。夢なら夢と、はじめっからことわりゃあいいのに、ばかにしゃあがんな」
「その夢をみてから、どうか、夢でなく、ほんとうにたった一ぺん、せめて、口でもきくとか、手でもさわってみたいとおもって、それから、ぽーっとして、だんだん食うものも食えなくなり、こんなに枕《まくら》があがらなくなった」
「まあ、たいへんな女に恋わずれえしたもんだ。しかし、そいつあ、とてもおよばねえこったから、すっぱりあきらめな。伊勢屋のお嬢さんより、もっといい女が世のなかにゃあいくらもあらあ。おいらの妹も芸者をしているが、妹のともだち芸者にも、いくらもいい女がある。おめえの好きな女を、おいらあ、きっと女房に持たしてやるから、夢のことは、すっぱりあきらめて、一日も早くからだをなおしねえ」
「いや、だめだ。いくらおもい切ろうとおもっても、夢でみたお嬢さんの顔が、目のさきへちらついて、もう、どうにもならねえ。食わず飲まずに、いっそ死んだほうがいいや」
「ばかあいえ。おれが、きっと、なんとかしてやるから、そんな気の弱えことをいわねえで……おや、もう日が暮れらあ。どれ、あかりをつけてやろう。となりのばあさんに、おれがたのんでってやるから、たまごのおかゆでも食ってみねえ。それから、先生のところへいって、たのんでいくから、せっせと薬を飲みなよ。じゃあ、おらあ帰るから、しっかりしなくっちゃあいけねえぜ……ええ、おたのみ申します。先生は、おうちでございますか? ごめんくださいまし……ええ、先生、さきほどは、どうもおじゃまをいたしました」
「おお、これは富蔵さん、どうぞこれへ……ときに、ご容体はいかがでしたかな?」
「なるほど、先生、おもってることがあるにちげえねえ。しかも、恋わずれえなんで……」
「いや、それは、近ごろめずらしい。相手は、いずれのどういう婦人でございますな?」
「それが、先生、ばかばかしいんで……おもて通りの大家《たいけ》の伊勢屋のお嬢さんを、おまけに、一度も逢ったことも、みたこともねえ、ただ、評判を聞いていただけのことなんですが、そんないい女なら、みたいもんだとおもっているうちに、夢をみたんだそうで……夢で、はじめて女の顔をみて、それから、目のさきへちらついて、なにをみても、みな、その女の顔にみえるってんで……それから、わたしが、いま、そういったんです。『いくらおもったって、天道《てんとう》さまへ石投げだとおもい切れ。もっといい女を持たしてやるから……』と、こういったんですが、なかなか、いまのようすじゃあ、おもい切れそうもありませんが、なんとかしようはございますまいか?」
「いや、それは、お気の毒ですな。みぬ恋にあこがれるといって、これは、とてもおもい切れますまい」
「どうも弱りましたねえ。先生、なんとかしようはありますまいか?」
「ふーん、いままでに、あまりそういう病気は手がけたことがありません。わが医道の古い書物にでておりましたが、唐《もろこし》に、むかし、そういう病いにかかったかたがありました。唐《もろこし》呉国《ごこく》に、沢栄《たくえい》という郷士《ごうし》があって、このむすこさんが、ときの帝《みかど》のお妃《きさき》に、いまのはなしのように恋いこがれ、夢がもとでわずらった。なにしろ、郷士のことだから、ありとあらゆる手を尽くしたが、どうもおよばない。ところで、そのころのえらいうらない者にうらなわしたところが、これは、犬の年月そろった、二十から三十までの女の生胆《いきぎも》を飲ませれば、平癒《へいゆ》するというので……それが、また、そのころ唐とくると野蛮国で、人間を売り買いするところだから、いいあんばいに、それが手にはいって、病気が全快したというが、わが国では、とてもそんな薬は手にはいらぬから、いや、お気の毒さまですが、多少なりともききめのありそうなくすりでもあげておきましょう」
「そいつあ弱りましたなあ。わずらうのにことをかいて、たいへんなものをわずらやあがったもんだなあ」
「まあ、お茶でもめしあがれ」
「どうもありがとう存じます。しかし、まあ、薬をなにぶんよろしく……万が一たすからねえもんでもありませんから、どうぞ、おねげえ申します……弱ったなあ。わずらうのにことをかいて、とんだものをわずらやあがって……そりゃあ、犬の年月そろったものも、広い世間にゃあねえこともあるめえが、おめえさんの胆を売ってくれともいえねえし……だいいち、犬の年月そろったものなんぞが、むやみにいるもんじゃあねえし、こまったもんだなあ……おい、いま帰ったよ」
「おや、兄さん、お帰んなさい」
「おお、おめえ、もう帰ってたのか」
「ああ、きょうはね、お客さまが、早くお帰りになっちまって、おかみさんにさそわれてね、水天宮さまへおまいりにいったの」
「おお、そうそう、きょうは、五日だっけな。さぞ、ひとがでただろう」
「でたともさ。きょうは、犬の日だからね」
「そうそう、きょうは、犬の日の水天宮だっけ」
「それに、わたしゃあ、犬年の犬の月の犬の日に生まれたんだから、犬の日の水天宮へは、子どもの時分から欠《か》かさずにおっかさんがつれていってくれたの」
「なにっ、それじゃあ、おめえは、犬の年月そろっているのか?」
「ああ、そう」
「……あの……犬の年月、おめえが……うーん」
「なにも、そんなにびっくりしなくったっていいじゃあないか」
「わからねえもんだなあ。もっとも、おれがずぼらで、しばらくそばにいなかったから、犬年ぐれえのことは、いわれりゃあおもいだすが、年月そろっていることは、聞くのは、いまがはじめてだ」
「なにもはじめてだって、そんなにびっくりするほどのことはありゃあしない。それに、犬年のものは、ひとにかわいがられるってから、芸人商売には、たいそういいんだってさ。なにしろ、きょうは、くたびれたから、わたしゃあ、兄さん、さきへ寝かしてもらいますよ」
「ああ、さきへ寝ねえ」
「ああ、ばあや、兄さんのお膳をそこへ持ってきておあげ。わたしが、さっき持ってきたおさかながあるだろう?」
「おお、ばあや、お世話さま。おらあ、手酌でぼつぼつやるから、おめえは、おもてのしまりをして、さきへ寝ねえ」
「さようでございますか。それじゃあ、おさきへごめんをこうむります」
富蔵は、ひとり手酌で、ぐびーり、ぐびーり飲みながら、久太のことをかんがえると、酒ものどへは通りませんくらいで……
「ああ、義理はつれえもんだなあ。このまま久太の野郎を見殺しにしたら、さぞ草葉のかげで、あれのおやじが、おれをうらむだろう。現在、目の前に薬はあるんだが、その薬を飲ませるにゃあ、天にも地にもかけげえのねえ、たったひとりの妹を殺さにゃあならねえ。また、妹も、きょうにかぎって、おいらが気がつかずにいた犬の年月そろってたことを、うかうかとはなしをするというなあ、なんたる因果だろう。それにまた、あの妹は、早く親にわかれたから、親がわりにおいらに孝行するんだといって、このやくざの兄貴をばかに大事にしてくれる。その妹を手にかけたら、鬼のような兄貴だと、冥土《めいど》にいる両親がうらむだろう。ちぇっ、こりゃあこまったなあ。どうしたらよかろうか?」
と、しばらく腕ぐみをしてかんがえておりましたが、
「えーっ、義理にゃあのがれられねえ。もしも、この薬がきいて、久太がなおった顔をみたら、おいらあ、すぐに冥土へゆき、妹はじめ両親にわびをするよりしかたがねえ。妹、どうかかんべんしてくれ」
と、ひとりごとをいいながら、手燭《てしよく》を持って台所へゆき、出刃庖丁《でばぼうちよう》をとりだし、そっと砥石《といし》にかけ、手燭をふっと吹き消して、妹の寝間へしのびこみ、寝息をうかがいますと、枕もとへ有明《ありあけ》の行燈《あんどん》(一晩中つけておく行燈)をおき、昼間のつかれに、すやすやと寝いっている上へ、富蔵は、馬乗りにまたがって、突き立てようとして、妹の顔をみると、なんにも知らず愛らしい顔をして夢をむすんでおります。その顔をみては、どんなに心を鬼にしても突き立てられませんから、目をつぶって、ぐーっとばかり突き立てましたが、手もとが狂って畳へずぶり。妹は、物音におどろいてはねおきながら、
「あれーっ、だれかきてくださいよ」
「しずかにしろ。おれだよ、おれだよ」
「おまえは兄さん、わたしは、おまえさんに殺されるおぼえはない。わるいことがあるなら、あやまりますから、かんにんしてください」
「なに、そうじゃあねえ。わるいこともなんにもねえ」
「それじゃあ、なんでそんなことをするの?」
「うん、これか……これはな、こんど、友だちにたのまれて、茶番狂言の手つだいをするんで、ちょいと、その稽古《けいこ》をしたんだ」
「そうかい。まあ、茶番狂言の稽古ならいいけれど、わたしゃあ胆をつぶしたよ」
「えっ、胆をつぶした?! それじゃあ、もう薬にゃあならねえ」
だくだく
「さあさあ、先生、こっちへはいっておくんなさい。さあさあ早く……」
「はいるよ、はいるよ。なんだい、八つぁん……おやっ、おまえさんのうちはどうしたんだ? うちじゅうに紙をはりつめて……」
「へえ、先生も知っての通り、わたしのうちは、親代々の貧乏世帯、道具ひとつありません。おもてをあるいてるやつが、のぞいてみやがって、『ここのうちは、道具ひとつ置いてねえ、なんて閑静《かんせい》なうちなんだ』と、ぬかしゃあがる。しゃくにさわってしようがねえから、道具のひとつも買いてえんだが、あいにくと、金には縁がねえ。そこで、金をださねえで、いろいろと道具をならべようってんでかんがえたあげく、おもいついたのが、先生、おめえさんだ。おめえさんは、絵の先生なんだから、この紙に、なんでもかまわねえ、たんすでも、長持でも、火鉢でも、いろんなものをならべて描いておくんなせえ。そうすりゃあ、ひとがみて、あのうちは、ばかに道具がそろっていると、一ぱい食うてえ寸法だ。どうです、うめえかんげえでしょう?」
「ふーん、それで、わしを呼びにきたのか?」
「そうなんで……さあさあ、早く描いてくださいよ。まず、たんすから……じれってえなあ。もったいつけねえで、早く、早く……」
「そうあわてなさんな。いま、描くよ」
「おちついていねえで、早く……おやっ、なるほど、描きはじめると早《はえ》えもんだな。たんすだね、そいつあ、うーん、餅《もち》は餅屋だ。へーえ、どうみてもほんものだ。うめえもんだな。先生、おめえさん、つらはまずいが、絵はうまいね」
「なんだ、ごあいさつだな。おまえさんは、ほめてるのか、けなしてるのか、さっぱりわからないな」
「先生、たんすがすんだら、そのそばへ、鏡台に針箱……」
「いろいろなものを描かせるな」
「そうそう、それがすんだら、こっちの柱の上へボンボン時計を描いておくんなせえ。時間は何時でもかまわねえが、なかの振り子が、カッタカッタ、カッタカッタとうごいてるように……」
「そううごくようには描けないよ」
「描けませんかねえ? ……まあ、とにかく時計をたのみまさあ……うん、うめえ、うめえ……それがすんだら、こっちへ長火鉢を描いておくんなせえ」
「長火鉢まで描くのかい?」
「ええ、鉄びんがかかってるってえやつをたのみまさあ……あれっ、長火鉢に鉄びんを描いただけじゃあだめだよ。下に火がかんかんおこっていて、鉄びんの口から湯気がぷーっとでてるところを……そうそう……ああ、もっと、ぷーっと湯気を……そうそう、結構結構。そしたら、火鉢のそばへ茶だんすを……うん、うめえ、うめえ。じゃあ、そこんところはそれでいいから、こっちの壁へ床の間を描いておくんなさい……そうそう、それから、掛軸《かけじ》は、山水がいいね。置きものは、布袋《ほてい》さまでもなんでもかまわねえ。それから、床わきの額だ。掛軸《かけじ》が絵だから、額のほうは、字がいいや。ああ、それから、天井と鴨居《かもい》のあいだがあいている。あのあいだへなにか描いてくれねえとおもしろくねえ。なにがよかろうなあ? ……そうだ、一番上のところへ長刀《なぎなた》を一本描いて、そのつぎに大身《おおみ》の槍《やり》を描いて、そのつぎに、種が島の鉄砲を、ずーっと描いてくんねえ。武芸十八般ができるとおもって、しろうとはおどろかあ。さあ、早く描いてくんねえ……そうそう……先生、長刀のさきが光っていねえね。ははあ、鞘《さや》がはまってるのか。なるほど……そのつぎが大身の槍……ああ、これも穂《ほ》さきは、鞘におさまってるのか……それから、種が島の鉄砲……ああ、こりゃあいいや。たいへんりっぱになっちまった。どうもすいません」
「じゃあ、わしは帰るからな」
「へえ、いずれまた、お礼にうかがいますから……」
「いや、そんな心配はしなくてもいいよ」
「へえ、どうせそういうだろうとおもって……」
「なんだい、ひどいひとだなあ……じゃあ、さようなら……」
「あははは、帰っちまやあがった……どうだい、すっかり諸道具がならんじまった。これなら、どんなやつがきたって大いばりだ」
のんきなひとがあったもので、つぎの間の三畳へはいって寝てしまいました。すると、世のなかはおかしなもので、夜になると、こんなうちへひとりの新米《しんまい》泥棒がはいってまいりました。
「こんばんは……ごめんください……お留守ですか? ……ふーん、だれもいねえんだな。しめしめ、犬もあるけば棒にあたるとはこのことだ。どうせ裏長屋のことだから、たいした仕事にはなるめえが、きょうは、泥棒の開業式だ。縁起もんだから、金だらいひとつでもとりゃあいいや。ええ、こんばんは。ごめんください……ほんとうにお留守ですか? どっかへかくれていて、いきなり『ばあー』なんておどかしちゃあいやですよ……へーえ、ばかに道具がそろっていやがるなあ……うーん、こりゃあ、すばらしいたんすだ。こういうたんすのなかには、もめんの着物は一枚もねえだろう。やわらかい着物が、ぎっしりはいっているんだぜ、きっと……おやおや、なんだい、こりゃあ……手でさわってみたら、のっぺらぼうだ……ああ、鉄びんの湯気が、ぷーぷーあがってやがる。ふたをとらねえと、灰かぐらが……あれっ、どうもおかしい、おかしいとおもったら、こりゃあ絵だ。ははあ、なるほど、このうちは、芝居の道具師かなにかのうちで、あんまり道具がねえからってんで、絵に描いて、道具があるつもりか……それにしても、うまく描いてあるなあ。どうみたってほんものだ。この湯気のあがってるぐあいなんざあたいしたもんだ。おまけに、奥のほうに、ひとが寝てるところまで描いてある。この人間なんぞは、どうみたってほんとうの人間みてえだ。うまく描いたもんだなあ……ああ感心していちゃあいけねえや。このうちは、道具がねえから、絵に描いて、道具があるつもりなんだ……おれのほうも、きょうが、泥棒の開業式だ。なんにも盗《と》らずに帰っちゃあ、なかまのものに顔むけができねえ。このうちが、絵に描いて、道具があるつもりなら、おれのほうも、泥棒にはいったつもりでいこう……ええ、まず、たんすの環《かん》に両手をかけたつもりといこう……スー、ガタガタッと、あけたつもり……なかをのぞいたつもりと……着物が、ぎっしりあるつもり……こいつあ、のんきでいいや……端《はじ》のほうに、大ぶろしきがあったつもりと……大ぶろしきをひろげたつもり……やわらかい着物を、五、六枚ばかり、ふろしきの上へのせたつもり……下から二番目のひきだしを、スーッとあけたつもりと……女ものを、どっさりだして、ふろしきの上へのっけたつもり……下から三番目のひきだしをスー、ガタガタとあけて、羽織が六、七枚あったつもりと……これを、また、ふろしきの上へのっけたつもり……むこうにかかっている六角時計をとって盗んだつもりと……床の間をみると、応挙の掛軸《かけじ》があるから、横にある骨董《こつとう》類といっしょに、みんなふろしきへいれたつもり……こう、ふろしきをむすんだつもりと……このつつみを、うーんとしょったつもりと……どっこいしょ、うーん……これは、おもたくって立てねえつもり……ようよう立ったつもりと……」
と、のんきなやつがあったもんで、ひとりで、ぐずぐずいっておりますと、奥の三畳で寝ていた八つぁんが、目をさまして、
「あれっ、大きな野郎がいらあ。じょうだんじゃねえ。おれんとこへ泥棒がへえったんだ。絵に描いてさえこれだからな、金持ちは心配なはずだ。ははあ、こっちが絵だもんだから、泥棒のほうも盗んだつもりとおいでなすったか。いきな泥棒だ。おやっ、つつみにして、しょったつもりで、まっ赤になってうなってやがる……ああ、おもたくって立てねえつもりか……あっ、ようよう立ったつもりか……そうだ、こいつあ笑っちゃあいられねえ。おれのほうも、ひとつ盗まれたつもりにならなくっちゃあいけねえや……さあ、ふとんを、がばとはねたつもりと……あたりをきょろきょろみたつもり……長押《なげし》にかかっている大身の槍をとったつもりと……石突《いしづき》をぽんと突いたつもり……鞘は、二、三間むこうへとんだつもりと……きゅっきゅっと、三、四度しごいたつもり……泥棒のうしろを目がけて、ばらばらばらと追っかけたつもり……泥棒のわき腹めがけて、えいっと突いたつもり……」
というと、泥棒が、
「うーん、あいたたたた、血が、だくだくとでたつもり」
金玉医者
世のなかが、たいへんに進歩してまいりまして、いかなる難病でもなおしてしまうなんていう名医が、たくさんいらっしゃいますが、落語のほうには、そんな名医は、あらわれてまいりません。あやしげな医者ばかりでございます。
「おい、権助、権助、権助!」
「へい」
「こっちへきな」
「はい」
「おまえ、どこにいたんだ? ずいぶん呼んだが、聞こえなかったのか?」
「へえ、台所におりまして、ひなたぼっこをしておりましたもんで……」
「そんなことばっかりしていてはいけないなあ。おまえにも、こないだ相談したが、こう病人がこなくてはしようがない」
「まことに、はあ、しかたがねえ。しかし、わしが知ったことでもねえだ」
「まあ、おまえが知ったことではないが、こう貧乏してきちゃあ、おまえに、給金もろくろくやれないからなあ」
「そりゃあ、もらわねえでもいいさ。まあ、もらうほうがいいが、無理にもらわなくってもいいさ。だれでも命はおしいから、おめえさまなんぞにかかる病人はあるめえよ」
「おいおい、ひどいことをいうな。うちのものがそんなことをいっちゃあいけない。それについて、すこし、病人をあつめる工夫をしてみた」
「へーえ、病人を呼びよせるまじないかね?」
「まじないではないが、おまえに、ひとつ、芝居をやってもらいたいんだ」
「芝居? へーえ、そいつあありがてえ。おらあ、これでも、村芝居では、あまっ子形をつとめただからねえ」
「なんだ、そのあまっ子形というのは?」
「あれっ、あまっ子形を知んねえかね? ……お軽だとか、八重垣姫だとか、あまっ子の役やる役者でねえか」
「それじゃあ、女形じゃあないか……いや、そんな芝居じゃないんだ。じつはな、これで妙なもので、どこの店でも客がいっぱいだと、あの店は、いい品があるだろうと、客が客を呼んで、その店は繁昌《はんじよう》する。医者のほうもおなじことで、いつも患者《かんじや》が待っているようだと、あの医者は、名医だろうということが評判になって流行《はや》るものだ。そこで、おまえのやる芝居というのは、玄関へきて、近所じゅうに聞こえるような声をだして、『おたの申します』と、どなるんだ」
「へーえ……で、どうなります?」
「すると、まあ、どこでもいい、なるべく近いところがいいな……うん、日本橋あたりがいいだろう……『日本橋の越後屋から先生のご高名をうけたまわってまいりました。急病人がありますから、すぐにお見舞いねがいます』『よろしい。すぐにうかがいます。ごくろうさま。さようなら』……また、しばらくして、『おたの申します』『すぐにうかがいます』というようなやりとりをくりかえすんだ。おなじことをなんべんもやっていれば、近所のひとは知らないから、『あすこの医者は、たいへんに流行《はや》るな。ありゃあ、きっと名医なんだろう』ってんで、きっと病人がくる」
「おやおや、くるやつは気の毒だ。みんな、みごとに命をとられてしまう。なんのことはねえ、おらあ、はあ、人殺しの手つでえをするようなもんで、なんとも心苦しいわけだ」
「ばかなことをいうな、なぜ、そんなことをいうんだ。やってくれ」
「そりゃあ、退屈しのぎになるからやりますがね、心苦しいね、……さあ、やりますよ」
「そこで、あぐらをかいてやったってしようがない。うちは、どうでもいいんだ。よその連中に聞こえるように玄関からくるんだ」
「わかりやした。いよいよやるだ」
「大きな声でやるんだよ」
「へえ……ええ、おたの申しますかね」
「なんだかおかしいなあ。『おたの申しますかね』は、おかしい。おたの申しますだけでいいんだ」
「おたの申しますかね」
「あれっ、まだ、かねをつけてるな、かねはいらない」
「かねがなくっちゃあ、ものが買えねえ」
「なにをいってるんだ。もっと大きな声でやるんだよ」
「おたの申しますかね」
「どーれ」
「おーい」
「おまえのほうで返事をするやつがあるか」
「ええ?」
「おまえのほうで返事しちゃあいけないよ。『どーれ』といったら、だまっていればいい……これは、これは、いずれからおいでになった?」
「ええ、まいりました」
「なに?」
「めえりましたよ」
「どこからおいでになった?」
「わすれちまった。どこだっけねえ?」
「日本橋からだ」
「日本橋からめえりましたが、先生が、たいへんな藪医者《やぶいしや》だってんで……」
「こらっ、そんなことをいうやつがあるか。『先生が、ご名医とうけたまわって』だ」
「はあ、そうで……先生、ご名医とうけたまわってめえりましたが、いそいでお見舞《みめ》えをねげえます。さようなら」
「帰っちまっちゃあいけねえ……日本橋は、どちらからだな?」
「日本橋からめえりました」
「日本橋のどこからといってくれなけりゃあ、こまるじゃあないか……ああ、さっそくにうかがいたいんだが、これから、二、三百軒病家をみまわらなければならんので、こんにちというわけにはまいらんなあ」
「たまげた。大きなことをいうもんでねえよ」
「もういいから、でなおしてきて、おたの申しますというんだ」
「でなおしてきて、おたの申しますかね」
「ばかだなあ。そんなことを大声で聞くやつがあるか……どーれ、いずれからおいでになった?」
「日本橋からめえりました。先生、ご名医とうけたまわってめえりました」
「うまい、うまい」
「うまかんべえ……お見舞えをねげえます」
「さっそくにあがりたいが、まだ、これから二百軒ばかりまわらんければあがれんが、なるたけいそいでお見舞い申そう」
「はい、おたの申しますかね!」
「どーれ、これはこれは……いずれからおいでになった?」
「日本橋からめえりました」
「しようがないなあ、日本橋ばかりいっちゃあいけないな」
「ところをかえるかね?」
「そうだ。いろいろのところをいわなくっちゃあいけない」
「遠方がいいかね? 近所がいいかね?」
「そりゃあ、なんでもかまわないが、とにかく遠方や近所をとりまぜていうほうがいいな」
「ようがす……ええ、おたの申しますかね」
「どーれ……これはこれは、いずれから?」
「近所からめえりました」
「ばかっ、近所というところがあるか」
「じゃあ、となりからめえりました」
「大きな声で、となりだなんていって、となりへ聞こえるじゃあないか。あきれかえっちまうねえ」
「それでは遠くにしべえ」
「どうでもいい」
「おたの申しますかね」
「どーれ……これはこれは、どちらからおいでになったな?」
「こんどは、遠方だ」
「遠方は、ご苦労だが、どこだい?」
「台湾からめえりました」
「あんまり遠方すぎらあ。やっぱり、もうすこし近くのほうがいい」
「おたの申しますかね」
「どーれ……これはこれは、いずれから?」
「やっぱり近所からめえりました」
「やっぱりはいらないよ……しようがないなあ。近所はどちらで?」
「近所とは近くだ」
「あたりまえだ。いいかげんの名前をいいなよ」
「名前は、知らねえ」
「知らねえやつがあるもんか。知ってる名前をいうんだ……どちらからおいでになったな?」
「甘井《あまい》ようかんのうちから……」
「ばかっ、それは、わしの名前じゃあないか」
「あっ、そうだ。こいつあいけねえ……じゃあ、米屋の名前はどうかね?」
「そりゃあいい。なんてんだい?」
「越後屋佐兵衛ちゅうだ」
「越後屋佐兵衛なんぞいいな。商人《あきんど》には、いくらもある名だ」
「おたの申しますかね」
「これはこれは、どちらからおいでになったね?」
「近所からめえりました」
「近所は、どこだい? 近所にも何百軒という病家があるが……」
「近所の越後屋佐兵衛でがす」
「ああ、越後屋さんだね」
「へーえ、越後屋でがすが、先月の勘定をまだもらわねえ」
「そんなことをいっちゃあいけない。だいいち、さっきからみておれば、玄関へあぐらをかいて、おたの申しますといってるじゃないか」
「くたびれた」
「なにをいってるんだ。奥から、そのたびにとりつぎにでてくるわしの身になってみろ。よほどつかれる。あぐらをかいて、手のひらへ吹きがらをのせて、たばこをのみながら、『おたの申します、おたの申します』といってる。それじゃあ、うそが、すぐにわかっちまう。横町をひとまわりもしてきてから、おたの申しますといわなけりゃあいけない。むこう横町をひとまわりまわってこい」
「厄介《やつけえ》だねえ」
「はやくまわってこい……なんぼ田舎ものだって、あのくらい世話のやけるやつはありゃあしない」
「ええ、おたの申しますかね……おたの申しますかね」
「どーれ……これは、おいでなさいまし」
「甘井ようかん先生とおっしゃいますのはあなたさまで?」
「はい、てまえでございます」
「先生、ご名医とうけたまわってまいりました」
「おお、さようか」
「おたの申しますかね」
と、やっておりますところへ、来客でございます。
「おたのみ申します。おたのみ申します」
「ああ、これはこれは、どちらから?」
「あーあ、おたの申しますかね」
「これっ、ばかっ、もういいんだ……いえ、これは、近所の気ちがいで……ときどき、あんなことをいってまいります」
「ああ、さようで……ええ、てまえは、八丁堀岡崎町の伊勢屋六兵衛の手代久兵衛と申しまして、先生にお目通りいたしたく存じまして……」
「ああ、さようか。いま、先生にうかがってみるから……」
「へえ、さようで……」
「おたの申しますかね」
「もういいんだ。ばかのひとつおぼえで、よけいなことを……あーあ、こまったなあ。こういうときは、まことにどうも弱るなあ。なにしろ、とりつぎにでるものがいないんだから……よしっ、ひとりで二役といこう……これこれ、玄関にご来客か? うん、そうか。よしよし……ああ、なんだい、おまえは?」
「へえ、ただいま申しあげましたように、わたしは、伊勢屋六兵衛の手代で、久兵衛と申します」
「ああ、そうか。なにか用かね?」
「甘井ようかん先生にちょっと……」
「ようかんは、わたしだ」
「えっ? ただいま、とりつぎにおいでなさいましたのは、やはり、あなたではございませんか?」
「いやいや、あれは、わしの弟だ。よく似ているから、ときどきまちがわれる」
「それでも、お着物のごようすから、なにからなにまで……」
「ああ、着物もよく似ているはずだ。わたしの古いのを着せてあるから……まあ、こっちへお通んなさい」
「ありがとう存じますが、さて、わたくし主人の娘が、長病のために、はなはだ難渋しておりますので、先生に、ちょっとお見舞いをねがいたいと、かよう存じましてうかがいましたようなしだいで……」
「おお、お娘御が、長病とな? ……うーん、そりゃあいかんなあ。じゃあ、こうしよう。順にみてあげると、七日目あたりでなくっちゃあ、なかなか番にならんから……ええ……よしっ、今晩、お見舞い申しあげよう」
「いえ、そんなにおいそがしければ、長病のことでございますから、なにも今晩にはおよびません。おでかけのおついででよろしゅうございます」
「いや、今晩お見舞いをしそこなうと、いつまた、まわれるか知れんから、今晩まいろう。よろしくいっておくれ」
「さっそくのご承知、ありがとう存じます」
「あーあ、おたの申しますかね」
「ばか野郎、すこしは、あたまをはたらかせなくっちゃあいけない。いま、病家がきたんだ」
「へーえ、あらそえねえもんだな。あの野郎かね?」
「野郎てえやつがあるか」
「いまの野郎は、おめえさまにかかって、はあ、命をおとすだね。道理で、かげがうすいようだ。近えうちに盛り殺されるかな?」
「あれが病人じゃあない。いまの男は、手代だ。主人の娘が、病気なんだ」
「そうかね。やれやれ、まあ、かわいそうに、若《わけ》え身そらで、あの世へいくとは……」
「なにを縁起でもないことを……岡崎町の伊勢六といっちゃあ、たいしたもんだ。出入りをしておけば損はない。今晩、さっそくいこうとおもうんだ」
「身なりがきたねえから、夜いくほうが、ばれねえでよかんべえ」
「そんなことをいうな」
「はい、ごめんよ」
「これは、いらっしゃいまし……ええ、先生が、いらっしゃいました。奥へ申しあげておくれ」
「さあ、先生、どうぞこちらへ……」
「はいはい、けっしてかまってくだすっちゃあいかん……おお、おまえさんかい、病人てえのは?」
「いいえ、わたくしは、下女で……」
「そうか。どうも達者らしいとおもっていたんだ。おそろしくふとっているなあ。尻《しり》が、おもたかろうなあ」
「ありがとう存じます」
「ありがたくもなかろうが、まあまあ、お尻の大きいほうがいい」
「さあ、先生、どうか、こちらへ……」
「はいはい、おまえさんが、伊勢屋六兵衛さんかね?」
「はい、さようで……」
「さっきは、わざわざ、おつかいをくだすって……」
「さっそくお見舞いにあずかって、ありがとう存じます」
「お娘御が、ご病気だそうだが、ご心配なことで……お娘御は、ひどい長病ということだなあ」
「さようでございます。長病でございまして、親の欲目で迷いまして、いろいろ、先生がたにもかかりましたが、なにぶんにもなおりません」
「長病はなにかい? よほど長くわずらってる長病かい? このごろになってわずらった長病かね?」
「へえ?」
「いえ、長病は、長くわずらっているのか、このごろ、わずらいはじめた長病かね?」
「長くわずらっているから、それで、長病と申すのかと、わたくしども、心得ておりますが……」
「ああ……そうか……長い病気……なるほど、長病か……うん、わかりました。で、お娘御は、さだめし女だろうな?」
「さようで……」
「おいくつで?」
「十八でございます」
「十八か。そりゃあ、ご心配なことだ。ひとり娘かね?」
「はい、さようでございます」
「やれやれ……どういうごようすだい?」
「はい、なにをみせましても、『いやだ、いやだ』といって、陰気なことばかり好みまして、座敷をあけたらよかろうといっても、すっかり閉《た》てきりまして、ひとがいってもいやがるというようなことで……」
「ふーん、そりゃあいかんな。箸《はし》がころんでもおかしい、犬がかけだしても笑うというようなお年ごろで、そんなごようすではいけない。さっそく拝見をしますが、なにか好むものはありませんか?」
「さようでございます。べつに、これというものもございませんが、娘は、ねこを一匹飼っておりまして、これを、ひどくかわいがっております」
「いや、ねこでも、いくぶんか気をなぐさめて結構だ。さあ、拝見しましょう」
「こちらへどうぞ……」
「おお、なるほど、こりゃあいかん。こんなに閉《た》てこめておってはいけない。達者なものでも病人になる。あけなさい、あけなさい……これ、お娘御、わしがくれば、じきになおるよ。心配しないがいい、いや、自由に寝ておってもよろしい……へたな医者は、とかく容体《ようだい》ばかりみるが、脈なぞは、ちょいとみればたくさんだ。手をだしなさい、お食事は、すすまんかい? そりゃあいかんな。おお、なるほど……うーん、ひどいやせかただ」
「先生、それは、ねこの手で……」
「なるほど、こいつあしまった。さあ、手をだしなさい……はい、よろしい。けっしてご心配なく……すぐになおしてあげますから……ここへくすりをこしらえてきた」
と、くすりをたもとからだして、六兵衛にあたえました。
「へえ、もうくださいますんで?」
「これを飲めば、じきになおる」
「へええ?」
「病気をなおすのは、わけのないもんだ」
「どうもおそれいりましたもんでございますなあ。失礼でございますが、脈をとりません前にくすりを盛っていらしって、それで、その病気にはまりますか?」
「ああ、はまるとも。じきになおるから、心配おしでない」
「へえ、おそれいりましたもんで……つきましては、ただいままで、どうも病名がはっきりとわかりませんが、先生のお見立てでは、なんという病名でございましょう?」
「いままでは、だれにかかっていたね?」
「三角銀杏《みつかどぎんなん》先生に、長らく……」
「あのひともなかなかうまいが、わしの見立ては、まあ、気鬱《きうつ》というやつだね。なあに、じきなおるから、大船に乗った気でおいで。また、うかがいます。はい、さようなら」
と、帰りましたが、また翌日も親切に見舞いにきてくれます。六兵衛は、はじめは、あやしげな医者だとうたぐっておりましたが、ふしぎなことには、娘の病気が、一枚紙をはがすように、だんだんとよくなってまいりましたから、すっかりよろこびまして、
「なにしろ、ふしぎだ。ちょっと、礼にいってこよう。あの先生のおかげだ。ふだん、くだらないことばかりいっているから、最初は、うたぐっていたが、こう全快するところはふしぎだ。なにを持っていったらよかろう? 金の五両も持っていったらいいだろう」
と、小僧の長松を供につれて、甘井先生のところへやってまいりました。
「おたの申します。おたの申します」
「これよ、どなたか、玄関に、ご来客のようだ。だれもおらんか? ……おやおや、これはこれは、ひどくとりちらして、きたないところではござるが、どうぞ、これへ……これ、権助や、なにをぼんやり立っているんだ。おしとねを持ってこないか」
「おしとねってえのはなんだね?」
「ざぶとんのことだ」
「ざぶとんは、うちにはねえじゃあございませんか。うらの隠居のところへいって借りてくるんでがすかね?」
「ばかものっ!」
「どうぞ、もう、おかまいなく……そうしてはおられませんでございます。つきましては、先生、ちょっと、こんにちは、お礼というほどのことでもございませんが、ちょっと、ご近所まで、ついでがございましてな」
「なるほど……」
「先生のおかげで、あれほどだった娘の病気が、薄紙《うすがみ》をはがすように、だんだんとよくなってまいりました。これは、わずかばかりではございますが、ほんのお薬料の万分の一で、どうか、おおさめくださいまし」
「これは、おそれいったなあ。多分のお礼で……しかし、せっかくのおぼしめし、はい、ちょうだいをいたします」
「つきましては、わたくし、すこし疑惑《ぎわく》を生じました。というものは、はなはだあいすみませんが、ただいままで、あらゆる先生がたにおねがいいたしましても、さらに病気がなおりません。しかるところ、先生がおいでになって、脈をとらぬ前にご調合になったくすりをいただいたばかりで、いまだ日数の十日もたたんうちに、薄紙をはがすように快方におもむきまするということは、じつに、どうもふしぎなことで……なにか、これには、ご名法でもございますることかと、おうたぐり申しておりましたが……」
「ごもっともだ。医者というものは、くすりばかり患者に飲ましたところで、その患者が、なおるものではない。病いのたねをみつけて、これをとらえるというやつが、しろうとにできんものだ。病人というものは、ほんのおもいつきでなおせることもある。まず、お宅のお娘御をたとえてみるに、気鬱《きうつ》で、腹のなかに一本の徳利があるとみる」
「へええ?」
「その徳利に、ふたがはまっている。それがために気がしずむ。つまり、そのふたをとるという工夫をしなければならない。しかし、これが、しろうとには、容易にできない」
「へええ、徳利のふたをとるのが、そんなにむずかしゅうございましょうか?」
「いや、ほんとうの徳利でないからむずかしいのだ。で、その工夫というのは、犬がかけだしても、おかしいというお年ごろだから、つまり、おかしがらせて気をひきたてる。それには、ちょいちょいきんをみせるのだ」
「え? きんと申しますと?」
「ご立腹になっちゃあいかんよ。お娘御のおからだのためだ。きんをみせるとは、きんたまを、すこしずつごらんにいれるんだ」
「へええ、おかしなものが、くすりになるもんでございますねえ」
「くすりじゃあない。女が、ふだんみなれないところを、ちょいちょいとみせておく。おかしな先生だとおもいだしちゃあ、くすくすと笑う。いくぶんか、気がひきたつ。そこへくすりを飲ませるからきくんだ。まず、きんのききめが八分で、くすりが二分というようなものさ。なあに、もう、あれまでにすれば、全快は近いうちだ。けっして、ご心配にはおよばんよ」
「なるほど、こりゃあ、よいことをうかがいました。わたくしも、帰ったら、ひとつやってみましょう」
というんで、いそいで帰ってまいりますと、娘の部屋へはいりまして、
「これ娘、まだ、庭へなんぞでちゃあ早いよ。なおったってえところまではきていないんだからな。きょうは、おとっつぁんが脈をみてやる。笑うのがくすりになるそうだから……なあに、おかしいことがあるもんか。わしにも脈ぐらいわかる。さあ、手をだしなさい。なあに、どこをみたってかまわない……娘や、下のほうをみなくっちゃあいけないよ」
というから、下をむきながら、おとっつぁんの前をみますと、おとっつぁんが、きんたまを、しきりにだしております。いつも、先生が、立て膝をしながら、半きんをだしていましたが、まさか、おとっつぁんは、だしゃあしまいとおもっておりましたところ、しかも、先生よりも、たっぷりとだしてみせたんですから、
「あっ」
と、笑うとたんに、あごがはずれてしまいましたから、顔の長くなったことはたいへんなもので、口をきくことができません。
「やあ、みんな、たいへんなことができた! 娘の顔がのびちまった。しようがないなあ。おーい、みんな、きてくれ!」
「どうなさいました?」
「なんでも、あごがはずれたんだろうが、口をきくことができない。だんだん顔がのびるようだ。はちまきをさせろ。そうじゃあない。あたまに巻いてどうするんだ? あごをつりあげるんだ」
と、うちじゅうが、上を下へとさわいでおりますところへ、ようかん先生がやってまいりました。
「どうなすった?」
「これは先生! とんだことができました」
「とんだこととは、お娘御の病状がかわりましたか?」
「いいえ、さきほど、よいことをうかがいましたから、さっそく帰って、娘の脈をとりながら、親の欲目で、すこしよりも、たくさんみせたほうが、ききめがあろうと存じまして、まるっきりだしてみせましたところ、どうしたわけか、娘のあごがはずれてしまいました」
「ははあ、そりゃあ、あまりくすりが強すぎました」
こうふい
縁は異なものとか申しまして、ご夫婦の縁というものは、まことに妙なところからまとまることがいくらもございます。
「これこれ、なにをするんだ。ひとさまのおつむりをぶって、もし打ちどころでもわるかったらどうするんだ? どうも気が荒くっていけねえ。あなた、申しわけがございません。お怪我をなさりゃあしませんか? なにしろ、ひと立ちがしていけねえなあ。まあ、どういうわけなんだ?」
「まあ、旦那、聞いておくんなさい。この野郎、ふてえやつでございます。こっちからみていると、樽のうしろに手があるから、おかしい、おかしいとおもうと、この野郎、樽のうしろへへえって、おからを食ってやがる。だから、はり倒したんで……」
「それにしても、たかがおからだ。むやみにつむりを打つなどということがあるもんじゃねえ……どうもこまるなあ。こう、ひとが立っては、店のじゃまになっていけねえ。もしもし、みなさん、見世物じゃあねえ。あっちへいってとくれ、いってとくれ。そのおかたを、こっちへおいれ申せ……そんな手荒いことをするやつがあるかい。気をつけてあげねえ。おい、ばあさん、お茶のひとつもあげるがいい。お気の毒さまな……」
「どうも、まことに申しわけのないことをいたしました。どうぞ、ごかんべんねがいます」
「なあに、わたしのほうからおわびをしなければならない。みたところが、まだお年若、お身なりのようすといい、人物といい、食うにこまって、おからなどを食いなさるようなごようすでもないが、おまえさん、なにかい、このおからが好きなのかい?」
「いいえ、好きというわけではございません。おはなし申すもおはずかしゅう存じますが、じつは、わたくしは、ご当地の人間ではございません。生まれは、甲府でございます」
「うん」
「ちいさいときに、両親に死にわかれて、伯父《おじ》の手もとで育てられました。ことし、ちょうど十五になりましたから、いつまでも、伯父の手もとに厄介になっておりますのも気の毒に存じまして、五年のあいだ、ひまをもらいまして、江戸へでて、ひとつ身を立てようと、伯父とも相談の上、代々《だいだい》経宗《きようしゆう》(日蓮宗)でございますから、身延山《みのぶさん》へおまいりをして、お祖師《そし》さまへ五年のあいだ禁酒をいたし、きのう、この江戸へでてまいりましたのでございます」
「なるほど」
「かねて浅草の観音さまということを、故郷《くに》で聞いておりましたから、おまいりをしようと存じまして、仲見世までまいりますと、わたくしに突きあたった者がございましたが、そのときには心づかず、お堂へあがってお賽銭《さいせん》をあげようと、ふところへ手をいれてみると、懐中物《かいちゆうもの》がございません。ああ、それでは、いまのは巾着《きんちやく》切りというものであったか、とんでもないことをしたとおもいましたが、もうしかたがございません。こまりましたのは、ほかに持ちあわせは一文もなし、江戸に、身寄りたよりはなし、さしずめ宿屋へ泊まることもできないというわけ。昨晩は、観音さまのお堂で夜をあかしまして、けさほど、おまいりにいらしったかたに、『この江戸で、奉公口を世話をしてくださるところはありませんか?』と聞きましたら、葭町《よしちよう》とか申すところに、千束屋《ちづかや》さんという口入れ宿(職業紹介所)があるから、そこへいってたのんだらよかろうと、ご親切に教えてくださいましたゆえ、じつは、その葭町の千束屋さんへまいろうという途中、お宅の前を通りかかりますと、おからの樽から、ぽっぽと煙《けむ》がでておりますのが、いかにもおいしそうで、空腹のあまり、おもわずいただいてしまったのでございます。ご商売ものを無断でいただきまして、なんとも申しわけがございません」
「やれやれ、まあ、それは、お気の毒さまな。うーん、巾着切りに紙入れをおとられなすったか……いや、よくあるやつだ。田舎のひとが江戸へきて、そういう目にあいなさる。生き馬の目を抜くというくれえのもんだからね。これからもあることだ。よく気をつけておあるきなさるがいい。それじゃあ、なにかい、江戸に、べつに身寄りたよりもなくて、どこか奉公住みをしなさるつもりで? ……ええ、日蓮宗だとえ? はてね、ふしぎなことがあるものだ。わしのうちも代々法華《ほつけ》のかたまりだ。同宗のひとが、そういう目にあって、うちへきて、おからを食ったのも、お祖師《そし》さま(日蓮上人)のおひきあわせにちがいない。なあ、ばあさん、世話をしてやれというお指図《さしず》かも知れねえ。どうだい、おなじ奉公住みをしなさるなら、なにもご縁だ。わしのうちへ奉公をしてくださるわけにはゆくまいか?」
「へえ、てまえみたようなものでも、おつかいくださいますか?」
「ああ、同宗のものと聞いちゃあ、わきへやりたくないな。そのかわり、まあ、はなしをしておくが、わたしのところでは、給金といっちゃああげられない……まあ、お聞きよ。給金といっちゃああげないかわりに……ああ、熊や、もう商《あきね》えにでかけなさいよ。ああ、ごくろうだ。はいはい、おたのみ申すよ……それ、いま、荷物をかついででてゆく男ね、つまり、あれを、おまえさん、やんなさるんだ。豆腐の売り子というので、商《あきな》い高に応じて、歩合金《ぶあい》をあげる。仮りに、おまえさんが、一荷商いをすればいくら、二荷売ってくればいくらという商い高で、余計な歩合金がとれるというわけ。ひとつは、はげみにもなるかと、こうおもうが、どうだい?」
「結構でございます。どうぞ、なにぶんともにおねがい申します」
「ところで、もうひとついっておくがね。いなかのかただから、ご存じないかも知れないが、どうも商人《あきんど》というやつは、お世辞《せじ》がかんじんだからね。生まれつきにもよるが、世辞のいいひとと、世辞にうといひととは、商いが、たいへんちがうから、そいつを飲みこんでいておくれよ」
「承知いたしました。それでは、お豆腐を売ってあるくので?」
「そうだよ。あの通り売ってあるくんだ」
「なんと申して売ってゆきますか?」
「なんというって……おまえの国じゃあ、どういうか知らねえが、江戸じゃあ、『豆腐い、生あげ、がんもどき』と、こういって売ってあるくね」
「へい、じゃあ、豆腐、生あげ、がんもどきと、こう申しますんで?」
「そうのべたらではいけないよ。節《ふし》がつかなくっては……なんの売りものでも、いくらか節がつかなければいけねえ。『豆腐い』と、長くひいて、『生あげ、がんもどき』と、こういうんだ。ばあさん、笑いなさんな。教えてるんじゃあねえか。ああ、おまえさん、おからを食いなさるぐれえじゃあ、腹がすいてるだろう。おい、ごはんのしたくをしてやんな。なにもなけりゃあ、油あげでも焼いてあげるがいい……ああ、お膳《ぜん》ができた。さあさあ、おあがり。なに、おまえさん、いま、はなした通り、習おうよりはなれろだ。なれると、ひとりでにどならなければ、足のはこびがわるいくらいになる。さあ、ごはんをおあがり、おあがり。遠慮なくたんとおあがりよ、お給仕なんぞ、かえってしないほうがいい」
「へえ、ありがとう存じます」
「ああ、いらっしゃい。へえ、お豆腐を……へえへえ、ありがとう存じます。毎度ありがとうございます……ああ、おまえさん、たくさんお食べよ」
「へい、ありがとう存じます。もう、十分ちょうだいいたしました。せめて飯器《おはち》だけ洗っておきましょう」
「なに? 飯器だけ洗っておく? おい、ばあさん、ここへきな。どうも女というものは、なぜそんなに根性《こんじよう》がわるいんだなあ。このかたは、おまえ、うちへ奉公住みをするはなしはすんだけれども、まだ、いてくださるか、いてくださらねえかわからねえじゃあねえか。はじめてきたかたに、なぜ冷《ひや》めしなんぞ食わせるんだ。心あるひとがみたら、『ああ、ここの主人は無慈悲だ。はじめてきたひとに、冷めしを食わせる』と、腹をみられるぜ」
「おとっつぁん、わたしは、お冷飯《ひや》をあげたんじゃあない。けさ、一升三合炊《た》いたのをだしたんだよ」
「だって、いま、飯器を洗っておくといったぜ。一升三合のめしを、これじゃあ、やらかしたかな? いや、たいへんなしろものがとびこんできたな。この調子じゃあ、うちの身上《しんしよう》を食いつぶされてしまう。あははは、よっぽど腹がへったとみえる。気の毒に……まあ、おからを食うくれえだから無理はねえ……いや、飯器なんぞ洗わねえでもいいよ。ときに、名前をまだ聞かなかったが……なに? 善吉? うん、いい名前だ。辛抱《しんぼう》しておくれよ」
善吉は、おもいがけなく、この豆腐屋へ奉公住みをいたしましたが、生まれつきりこうなばかりでなく、まことに心がけがよろしく、毎日いっしょうけんめいに豆腐を商いにでます。
なに商売によらず、呼び声がかんじんで、善吉は、生来いい声のところへ、お世辞がようございます。商人は、世辞、愛嬌《あいきよう》というものがなくてはなりません。はじめて買いものにまいりましても、「毎度ありがとう存じます」といわれますと、いい心持ちでございますから、一軒も二軒も通り越して、そこまで買いにゆきます。善吉は、世辞がよくって、声がよく、愛嬌があって、なれるにしたがって、売り声の節《ふし》もうまくなりまして、商いもたいそうございますから、主人夫婦は、どのくらいよろこびだか知れません。
「なあ、ばあさん、ちょっとここへきなよ……まあ、どうも、いい奉公人にあたったなあ」
「ほんとうにそうだね」
「ときに、おめえに、ちっと相談があるんだ。というのは、ほかでもねえが、うちの娘も、もう、ことし十七になる」
「おとっつぁん、そうですねえ。おなつも、まだ子どもだ、子どもだとおもってるうちに、もう十七だね」
「おめえのいう通り、親は、子どもだとおもってるが、世間の若《わけ》えものが、うっちゃっておかねえ。としごろの娘に、もしもまちげえでもあったときには、とりかえしがつかねえ。そこで、まあ、早く婿《むこ》をもらって安心をしてえと、こうおもうんだが、さて、婿というやつが、あたればいいけれども、わるいのをもらった日にゃあ、当人が難儀をするばかりでなく、親も難儀をしなけりゃあならねえ。そこで、あの、甲州からきた善吉だが、ついこのあいだ、うちへきたばかりのようにおもうが、もう足かけ三年になる。そのあいだ、一晩だって、うちをあけたことはねえくれえの堅人《かたじん》だ。あれならば、娘の婿にして、この身上をゆずってやってもいいとおもうが、おめえはどうだ?」
「おとっつぁん、いいところへ気がついたねえ。わたしも、あれならば、いいとおもってるよ」
「そうか。しかし、おれたちばかりよくっても、かんじんの娘が気にいらなくちゃあ、なんにもならねえが……」
「それは、おとっつぁん、大丈夫、けっして心配ないよ。このあいだね、わたしが、おなつと仕事をしながら、『おまえも、もう十七になるから、早くお婿さんをもらって、おとっつぁんやわたしに、孫の顔をみせてくれるのが、なによりの親孝行だが、わるい婿をもらうと、おまえが難儀するばかりでなく、おとっつぁんやおっかさんが心配しなければならないが、どうだい? 店の善吉、ああいう堅いものを亭主に持てば、生涯心配がなくっていいとおもうが、おまえ、善吉では気にいらないかい?』と、わたしがいったところが、あの娘《こ》が、顔をまっ赤にして、『おとっつぁん、おっかさんがよければ、わたしは、どうでも……』といったところをみると、当人も承知なんだよ」
「そうか。おなつも承知か。娘がよくって、おまえがよくって、おれがよけりゃあ、みんないいわけだ。じゃあ、善吉ときめよう」
「けれども、おとっつぁん、こっちばかりきめても、かんじんの善吉がなんというかわからないよ」
「なにをっ、善吉が、なんというかわからねえって?! ばあさん、ふざけたことをいいなさんな。ほかのものならとにかく、野郎が、おれに対して、そんなことをいえた義理じゃあねえだろう? はじめてきやがったときに、店のおからを食やあがって、かわいそうだとおもって、とりあげてやって、丹精《たんせい》してあれだけにしてやったんだ。いまさら、いやも応もあるもんか。増長《ぞうちよう》しゃあがって、とんでもねえやつだ。善吉、ここへこい」
「へえ、なにかご用で?」
「なにかご用でもねえもんだ、この野郎、てめえ、増長しやがったな。のどもとすぎれば熱さをわすれるというなあ、てめえのことだ。はじめておれのうちへきて、おからを食ったことをわすれたか?」
「どういたしまして、わたくしは、そのことばかりは寝た間もわすれません。こちらさまのご丹精で、こんにち、こうして暑くなく、寒くなく暮らしております。このご恩は、片《かた》ときでもわすれてはならないと、始終《しじゆう》、自分で自分をいましめております」
「なに、うめえことをいうな、この野郎、口のさきでごまかそうとおもったって、そうはいかねえぞ。それほど、おれをありがてえとおもうなら、なにが不足で、いやなんだ? いやさ、なにが不足なんだよ?」
「まあ、おとっつぁん、どうしたんだねえ、薪《まき》ざっぽうなんぞで畳をたたいて……ほこりが立ってしようがないじゃあないか。まあ、お待ちというのにさ。善吉、おまえは、旦那の気性《きしよう》を知ってるだろうが、自分のおもってることを勝手にいってるんだから、おまえ、気にしちゃあいけないよ」
「いえ、気ににもなんにもいたしゃあしませんが、なんのおはなしでございますか?」
「じつはね、娘のおなつも、もう十七になったから、早く婿をとって、孫の顔でもみたいというところから、おまえならばいいが、承知をしてくれるかどうだかと、いま、はなしをしているうちに、例の気性でね、はなしがわからなくなって、おまえが、いやだとでもいったように、あの通り腹を立って、ほんとうにみっともない。まあ、善吉や、そういうわけなんだが、おまえ、おなつを女房に持ってやってくれる気はないかい?」
「へえ、さようでございますか。それは、どうも、とんでもないことでございます」
「それ、みねえ。ばあさん、不承知じゃあねえか」
「まあ、お待ちよ。そんなものをふりあげて……すぐに承知をしないところが、善吉の値打ちだあね。ねえ、善吉、押しつけるわけじゃあないが、おまえ、いやかい?」
「いえ、いやどころじゃあございませんが、ご主人さまのお娘御を、わたくし風情《ふぜい》のものが、女房になぞいたしましたら、罰でもあたりゃあしないかと、そればかりが心配でございます」
「そんなことなら、けっして心配しないがいい。いやならいや、いいならいいといっておくれ」
「はい、ありがとう存じます。わたくしみたようなものを、それほどにおぼしめしてくださいましてありがとう存じます」
「それじゃあ、いいんだね。それ、ごらんなさい、おとっつぁん、ここが善吉の値打ちだよ。どこまでも自分の身を卑下《ひげ》しているので、わたしゃあ、ほんとうにこの善吉には惚《ほ》れたよ」
「浮気なばばあだ。あはははは……それじゃあ、善吉、いいんだな? かんべんしてくれ。とんだことをいって……だれだい? 薪ざっぽうなんぞ、こんなところへ持ってきて、むこうへかたづけねえか……どうか、まあ、こんな店でもひきうけてやっておくれ」
はなしがまとまって、吉日《きちにち》をえらび、高砂やと、三三九度の盃を酌《く》みかわし、おなつと善吉を夫婦にいたしました。
さあ、善吉は、なおさらいっしょうけんめい、朝は暗いうちから起きて、夜おそくまではたらき、からだをやすめるひまもなくかせいでおりますから、かせぐに追いつく貧乏なしのたとえの通り、商売は、ますます繁昌《はんじよう》して、すっかり身上《しんしよう》もできましたので、
「おとっつぁん、おっかさんは、もうお年をおとんなすったから、これから隠居をなすって、気楽に世をお送りになったほうがようございます」
と、近所へうちを買って、としより夫婦を隠居させました。
ある日のこと、
「へえ、こんにちは」
「ああ、善吉か、おいで。おや、おなつもいっしょか。ばあさんや、若夫婦がそろってきたよ。早く茶をいれて、ようかんでも切ってだしなさい」
「どうぞ、おかまいくださいますな。ええ、おとっつぁん、おっかさん、ごきげんよろしゅうございます。きょうは、店のものにうちをたのみまして、夫婦、あらためて、おねがいのすじがあってまいりました」
「なんだい、あらたまって、おねがいというなあ?」
「ほかじゃあございませんが、月日のたつのは早いもので、わたくしも、こちらさまへまいりましてから、足かけ六年、満《まる》五年になります。はじめてお目にかかりましたときに、おはなし申しあげました通り、伯父に、五年のあいだ、ひまをもらって、この江戸へまいりまして、おとっつぁんがたのご丹精で、わたくしも、こんにちの身の上になりました。つきましては、一度|故郷《くに》へまいって、このはなしをいたして、伯父にも安心をさせ、また、これと申すもお祖師さまへかけました願がかなったのでございますから、身延山へお礼まいりをしてきたいと存じます」
「なるほど、それは、気がつかなかった。いや、わしのほうから、いいださなければならないことを、おまえにいわれて、めんぼくしだいもない。どうぞ、いってきておくれ。そして、伯父さんも江戸へでてきたいようだったら、わたしたちは、また、ほかへいってもいいから、この隠居所へつれてきてあげるがいい」
「ありがとう存じます。それに、もうひとつ、おねがいというのは、これにおりますおなつでございます。経宗のうちへ生まれたのだから、どうか身延へおまいりをさしてくれろと、こう申しますが、いっしょにつれてまいっていかがでございましょうか?」
「ええ、おなつがいっしょにつれてってくれって? おい、ばあさん、聞いたか? おまえ、うらやましかあねえか……うん、結構、結構。おむつまじいことだ。ぜひつれてっておくれ。おなつや、おまえ、このあいだ、おっかさんから聞いたが、ただならないからだだそうだから、途中、冷えないようにしていきなよ。それに、おっかさんが、いくら気はしっかりしていても、もう目がわるくなったから、よくおまいりをしてくんな。して、いつ、出立《しゆつたつ》するかね?」
「おとっつぁんのおゆるしがございますれば、あしたが、たいそう日がいいそうでございます。善はいそげと申しますから、明朝、出立をいたそうと存じます」
「そりゃあ、また、早急《さつきゆう》だが、いいだろう。でかけなさい。おもい立ったが吉日《きちにち》ということもあるから、それじゃあ、留守中は、わしたち夫婦が、かわるがわるいって、店の手つだいをするから、心配なくゆっくりいっておいで」
「どうぞ、なにぶんよろしくおねがい申します」
と、善吉夫婦は、留守をたのんで帰ってまいりまして、その晩のうちに、旅のしたくをいたし、翌朝早く、としより夫婦がまいりまして、なにかと世話をいたし、
「それじゃあ、きげんよくいっておいで」
と、門口まで送りだしました。近所のひとが、これをみておどろいて、
「おい、ごらんよ。むこうの豆腐屋は、おそろしい堅人で、寄席《よせ》へもいったこともねえのが、きょうは、すっかり旅ごしらえで、夫婦そろってでかけるが、いったい、どこへいくんだろう? ……もし、善吉さん、ご夫婦づれで、どこへおいでだい?」
「甲府い、おまいり、願《がん》ほどき……」
首ったけ
人間、だれしも、うぬぼれというものがございます。それがために、むかしは、遊廓《ゆうかく》というところが繁昌《はんじよう》したのでございます。おれには、女が惚《ほ》れっこないとあきらめてしまえば、だれも無理算段や義理のわるい借金までしてもあそびにはまいりません。しかし、あすこへまいりましても、親切にあつかってくれれば、ご散財をなすった甲斐がございますけれども、どうかすると、三日月さまじゃあないが、女郎のすがたは宵にちらりとみたばかりという不待遇《ふたいぐう》に出会うと、じつにしゃくにさわります。なかには、ようやくきたとおもうとたんに、若い衆が、
「おいらんえ」
と、呼びにまいりますと、
「はい」
と、いってでていってしまいます。
この「おいらんえ」というのは、つまり、あとからお客がきたという暗号なんで……それでも、酒のいきおいで、とろとろすると、そのうちに、また、おいらんがきたかとおもうと、
「ちょいと、おまはん、おねがいだから、すこしのあいだ、待っていてちょうだいよ。いま、じきにもどってくるから……」
と、気やすめをいわれますと、そこは、男のやせがまんで、
「ああ、いいとも、おれに遠慮はいらねえから、ゆっくりいってきねえ」
てなことを申しますが、これは、たいへんに負けおしみの強いはなしで、ひとりで寝るほうがよければ、なにも、お金をつかって、あんなところへいかないでも、うちに寝ているほうがよさそうなもので、そこが、見栄《みえ》でございます。
そのうちにくるか、そのうちにくるかと待つうちに、つかれというやつで、とろとろとねむったかとおもうと、そうぞうしいので目をさまします。なんだというと、その座敷の二つ三つさきの大広間で、夜なかに芸者をあげて、どんちゃんさわぎでございまして、なかには、とんだり、はねたりするやつもいるというようなことで、そのたびに、なにかにけつまずいたとみえて、ズシン、ズシン、ガラ、ガラッと、あたまへひびいてねむってはいられません。そのうちに、自分の買っている女の声で、「きゃっきゃっ」というのが聞こえたりなにかしてくることになったら、もう寝られないのが道理でございます。
「ひとを待たしておきゃあがって、べらぼうめっ、大一座のなかでさわいでやがる。ええ、おもしろくもねえ」
と、しゃくにさわりますが、そうかといって、やぼらしく手もたたけませんから、がまんをしていると、また、ズシン、ズシン、ガラガラッというさわぎ。もう、こうなるとだまっていられませんから、ポンポンと手をたたくことになります。
「へえー」
「おい、若《わけ》え衆、返事をしたら、すぐにくるもんだぜ」
「へえへえ」
「なんだって、かさね返事をするんだ? へえへえとは、なんだ」
「ごめんください……おや、寅さんですか。ええ、まだ、おやすみになりませんか?」
「もう、さっきからおやすみになってるんだ。いま、ひとねむりしたんだよ」
「ああ、さようでございますか。じゃあ、いま、お目ざめというところで?」
「目もさめるじゃあねえか。あのさわぎはなんだ! そうぞうしくってかなわねえや」
「どうも、お気の毒さまでございます。ええ、引けすぎ(午前二時すぎ)に、ちょっと、五、六人の一座で、芸者をあげて、おさわぎになるんで……しかし、もう、そのうちには、しずまりましょう」
「この野郎、のんきなことをいってやがって……小火《ぼや》のはなしをしているんじゃあねえやい。そのうちにしずまりましょうとはなんだ! さわがしくってかなわねえ。もう、そうぞうしいのを通り越してらあ」
「お気の毒さまで……すこし、おにぎやかすぎますか?」
「おにぎやか? なにいってやんでえ。にぎやかってんじゃあねえや。にぎやかというのはな、もうすこし品よくあそぶんだが、わあわあ、きゃあきゃあいやあがって、ドンドン音をさせやがって、なんだい、ありゃあ?」
「へえ……いま、なんだか、ふとったお客さまが、カッポレを踊るというんで、はちまきをして立ちあがって、『ヨーイトサ』というとたんに、その皿の上へ尻《しり》もちをつきまして、それで、ああいうさわぎに……」
「いいかげんにしゃあがれ。おもしろくもねえ。ひとの気も知りゃあがらねえで……」
「へえ……けれども、わたくしのほうでは、『ほかのお客さまがそうぞうしいとおっしゃいますから、どうか、おしずかにねがいます』というわけにも、ちょっと、まいりかねますんで……」
「だれが、むこうへいって、とめてこいといった?」
「ですが、あなたが、そうぞうしいとおっしゃいますから、さよう申しあげました」
「口のへらねえことをいうな。だれも、むこうへいって、とめてこいといやあしねえや」
「さようでございます。とめるわけにもまいりません」
「おかしなことをいうな」
「どうもあいすみません。しかし、まあ、寅さんの前でございますが、ご存じの通り、当今《とうこん》は、どちらでも不景気でございますからな、夜ふけに、お客さまがおあがりになりまして、芸者衆でもあげてさわいでおりますというと、近所の同業者《うち》へ対しましても、てまえどもの営業|隆盛《りゆうせい》をほこるというようなことに……」
「ふーん、おめえ、たいそうもの知りだな。学者だな。営業隆盛だってやがる。なにをいやあがるんだ。りゅうせいだか、ほうき星だか、そんなこたあ知るもんか。そうぞうしいから、そうぞうしいというんだ。ええ、おめえなんぞは、それほど学問があって、なんだって、女郎屋の廊下を這《は》ってるんだ?」
「へへへへ」
「なにが、へへへへだ」
「ごじょうだんばかりおっしゃいます。学問があるというわけじゃあございません。当今は、もっぱらこういうことばがはやります」
「もっぱらだなんて、なまいきな口をききゃあがるな。おれたちは、わけのわからねえ職人だ。職人には、職人らしくはなしをしろい。高慢《こうまん》な口をきくない。なにしろ、そうぞうしくってかなわねえから帰らあ」
「まあ、いいじゃあございませんか。寅さん、なんですねえ、あなただって、きのうきょうのお客じゃあなし、こうしておなじみになってみれば、てまえどもの繁昌を、ともによろこんでくだすってもよかろうかとおもいますが……」
「なにをいやあがるんだ。てめえのとこが、繁昌しようと、しめえと、そんなこたあ知るもんか。そうぞうしくって寝られねえから、ほかへいって寝るというんだ」
「さようでございますか。しかし、あなたが、いま、ここで、おいらんにだんまりでお帰りになりますと、おいらんが、わたくしに、あとで、『なぜとめといてくれない。間夫《まぶ》(遊女の真の恋人)は、つとめの憂さ晴らしということを知らないの?』って、不足をいわれると、大きにわたくしが、弁解に苦しみます」
「またはじめやがった、この野郎は……弁解に苦しむって、もったいつけたいいかたをしゃあがって……いやなやつだな、こんちくしょうは……おれが帰るというものを、おめえがとめるわけはねえじゃあねえか」
「さようでございます。わたくしもまた、あなたが、ご都合上、お帰りになるというのを、無理におひきとめ申す権利はございません」
「いちいち変な漢語をつかうない。おひきとめ申す権利はねえってやがる。こんなそうぞうしいところじゃあ寝られねえから、おれは帰るんだ。あした、かせがなけりゃあならねえからだだ」
「ごもっともでございます。とにかく、ただいま、おいらんを呼びますから、少々《しようしよう》お待ちなすって……」
「呼ばねえでもいい」
「呼ばないでもいいったって、あなたがお帰りになったと聞くと、おいらんは、癪《しやく》をおこしますから……」
「ばかにするな」
「いえ、まったくでございます」
「そんなことはどうでもいいが、じゃあ、ちょっと呼んでくれ。勘定をしていくから……」
「さようでございますか……ええ、紅梅さんえ、紅梅さんえ」
「あーい」
「ちょっと、お顔を……あの、寅さんが、お帰んなさるというので……」
「あら、いやだよ……寅さん、なんだって帰るの?」
「なんだって帰るったって、そうぞうしくって寝られねえからよ」
「あら、にぎやかなんだわ」
「にぎやかを通り越してらあ……おらあ帰るよ」
「夜なかに帰らないでもいいじゃあないか」
「夜なかだって、いまに夜があけらあ」
「なにも、おてんとうさまに借りがあるわけじゃあなし、夜があけてから帰ったっていいじゃあないか」
「なにをいやあがる。帰るんだよ」
「どうでも帰るのかい? ふーん、それじゃあしかたがない。お帰んなさいな」
「なにっ、お帰んなさいな?」
「だって、しようがないじゃあないか。おまえさんが帰るというものを、わたしが無理にとめておいて、とやかくいうわけにいかないからさ。今夜は、また、あいにく立てこんで、いそがしいから……」
「気の毒だったな。こんど、また、ひまの晩にこようよ」
「皮肉なことをおいいでないよ。この廓《さと》は、にぎやかだと、景気がいいんだからね」
「にぎやかにもほどがあらあ。おもしろくもねえ」
「そうかい。そんなにしずかなところがよかったら、どっかお寺へでもいって泊まると、しずかでいいよ」
「大きにお世話。おれが、どこへいって泊まろうと……さあ、勘定をしていく」
「あたりまえさ。勘定をしないでいかれてたまるものかね。きれいに払っておいでよ」
「だれが払わねえつった。おう、若え衆、請求書《つけ》をくんねえ」
「へえ、ちょうだいいたします」
「やらねえとはいわねえ」
「さようでございます。あなたのほうでくださらなければ、くださらないで、わたしのほうでも、でるところへでますれば、遊興費請求という法律に照らして……」
「またはじめやがった、この野郎、だれが、てめえに法律のことを聞いてるんだ? いつ、おれが払わねえといった?」
「そんなにおいばりでないよ。寅さん、やぼくさいよ」
「どうせ、おれはやぼだ。てめえたちにばかにされてたまるもんか。さあ、早く請求書《つけ》をだしねえ」
「これだけよ」
「これだけじゃあわからねえ。だせ。みりゃあわかる……一円と七十三銭か……」
「ええ」
「これだけの銭せえ払やあ、なにもいうところはなかろう?」
「あたりまえだよ。女郎屋へきて、芸者を揚げてさわぐのがやかましくちゃあ、あそびにはこられないよ。もっとも、おまはんは、これまで、あそびにきて、芸者を揚げたことなんぞないけれどねえ」
「なにをぬかしゃあがる。芸者を揚げてあそばねえで気の毒だったな。二度とふたたび、てめえのところへなんぞくるもんか」
「ぽんぽんおいいでないよ。なんだねえ、おもしろくもない」
「おもしろくねえたあなんだ。すてる銭があっても、もうくるもんか」
「ふん、おまえさんばかりがお客じゃあない。こなけりゃあ、こないでいいよ」
「なんだ、なんだ、おまえさんばかりがお客じゃあねえと? よくもぬかしゃあがったな。おう、釣銭《つり》をくれ」
「いいじゃあないか」
「いいもんかい。二円だしたら、二十何銭の釣銭《つり》じゃあねえか」
「なんだね、それっぱかし……」
「それっぱかしとはなんだっ、てめえのほうで相当のことをすりゃあ、こっちだって、釣銭《つり》の盆に、五十銭のひとつものせてやらねえもんでもねえ。だが、ばかにされて、百だってよけいにやるもんか。さんざんひとに、なんだ、かんだといやあがったあげくの果て、いまになって突きだしたら、さぞいい心持ちだろう」
「突きだしゃあしないが、おまえさんが、勝手にでていくのを、無理にとめるわけにゃあいかない。だから、いいよ。どこへでも、しずかなところへおいでよ。さあ、お釣銭《つり》をあげるよ」
「あたりめえよ。とらねえでどうするもんか。べらぼうめえ、ただ、銭を持ってくるんじゃあねえ。ひとつぶいくらという汗をかいて、かせいでとってくる銭だ」
「あらまあ、ひとつぶいくらって汗が、お銭《あし》になるの? それじゃあ、夏のほうが、よけいもうかるだろうね。汗がよけいでるから……」
「なんてえことをぬかしゃあがる。おもしろくもねえ。夜なかに追いだしたら、いい心持ちだろう」
「またはじめたよ、このひとは……わたしのほうで追いだすんじゃあない。おまえが、勝手に追んでていくんだよ」
「おぼえてやがれ」
「わすれないよ、わたしは……おまはんのほうでおぼえておいでよ。なんだい、いまさら未練《みれん》らしく、ぐずぐずおいいでない。ふん、ひとりでいい男がってる。こっちにゃあ、いいひとがついてるんだよ」
「なんだ、このあま!」
「まあまあ、寅さん、どうぞ、ごかんべんを……おいらんは、すこし酔ってらっしゃいますから……」
「酔ったって、べらぼうめえ、尻から酒をくらってるわけじゃああるめえ。ちくしょうめ、ほんとうに、よくも、ひとに恥をかかせやがったな」
「なにをぐずぐずいってるんだよ。さっさとお帰りな」
こうなると、女郎衆もらんぼうになります。腹立ちまぎれに、客は階子段《はしご》をかけおりる。寝ず番がめんくらって、
「お帰りでございますか?」
「帰るんだ」
「へえ……おいらんが、なんぞ失礼でも?」
「よしてくんねえ。おいらんも、どうらんもあるもんか。ばかにしゃあがる。二度とふたたび、こんなところへくるもんか」
「まことにお気の毒さまで……どうか、お心持ちをお直しなすって……」
「なにもいうにゃあおよばねえ。早く下駄をだしてくれ」
「さようでございますか」
はきものを突っかけ、くぐり戸をあけてもらって、そとへでると、夜ふけでございますから、どこも戸がしまっております。ひょいと、むこうの楼《うち》をみると、くぐり戸のところが、二、三寸あいておりますから、ガラリとあけて、なかをのぞいてみると、寝ずの番のおやじが、股火《またび》をして、いねむりをしております。
「おや、いらっしゃいまし」
「おお、おそくきてすまねえが、今夜、寝るだけでいいから、あげてくんねえ」
「おや、どなたかとおもったら、おむこうの紅梅さんのいいひとで、おいらんに、あれだけ血道《ちみち》をあげさして(夢中にさせて)おいて、真《ま》むかいの楼《うち》へくるなんぞはこまるじゃあありませんか。なにか、今夜|痴話喧嘩《いちやつき》があって、そのあとで?」
「まあ、いいやな。いいひともわりいひともねえんだ。このくれえこけ(ばか)にされりゃあ、よっぽどいいひとにちげえねえや」
「どうしたんでございます?」
「どうしたって、みねえな。あの通りのさわぎじゃあねえか。そうぞうしくって寝られねえくれえのこたあ、人間だから、いおうじゃあねえか」
「ごもっともでございます。すこしおそうぞうしゅうございます」
「そうしたら、なんだ、かんだと変なことをいやあがって、しゃくにさわったから、勘定をしてとびだしたんだ」
「さようでございますか」
「すまねえが、今夜、ここの楼へ寝かしてくんねえ」
「へえ、それはよろしゅうございますが、しかし、寅さん、今夜、こっちへ寝て、あしたになって、むこうと仲がなおって、あしたの晩、また、むこうへおいでになられますと、今晩、お相手にでたおいらんに顔が立ちませんから……」
「ばかなことをいうなってえことよ。おれだって、いったんこうとおもいつめたからは、なんでよりをもどして、むこうの楼へなんぞいくもんか。どんなことがあっても、むこうへはいかねえ。こっちのおいらんへ、二十でも三十でも玉《ぎよく》(遊女の揚げ代)をつけてやろうよ」
「ありがとう存じます。そんなら、おはなしをいたしますが、じつは、うちの若柳《わかやなぎ》さんという……」
「うん、いいおいらんだな」
「こないだから、あなたのことをそういってるんでございます」
「じょうだんいっちゃあいけねえ」
「いえ、ほんとうで……『むこうの紅梅さんはしあわせだ。寅さんのようなひとがいるから、商売をしていてもたのしみがある。ほんとうにうらやましいよ』なんていっとります」
「じょうだんいうな」
「まったくでございますよ。ちょうど、あのおいらんのお客さまがお帰りになって、部屋があいておりますから、わたくしが、おいらんにおはなししようじゃあありませんか」
「そうなりゃあ豪儀《ごうぎ》(すばらしいこと)だ。あのおいらんがでてくれりゃあ、こんな結構なこたあねえ」
「じゃあ、ただいま申しあげる通り、あしたになって、むこうとよりがもどると、こちらのおいらんの顔が立ちませんから……」
「いいってえことよ。そりゃあ大丈夫だから、はなしをしてくれ」
「よろしゅうございます。おあがんなさいまし」
それから二階へあがって、若い衆が事情をはなしますと、この若柳というおいらんが、
「まあ、ほんとうにうれしいじゃあないか。けれども、あしたになって、また、むこうへいっちゃあいやですよ」
「だれがいくもんか」
「ほんとうに、おまはんみたようなひとをそまつにするなんて、紅梅さんというひとは、冥利《みようり》のわるいひとですねえ。おまはんみたようなようすのいいひとが、どこの風の吹きまわしできたんだろう?」
「ふざけちゃいけねえ。かんなくずじゃああるめえし、風の吹きまわしでくるやつがあるもんか」
「今夜はおそいから、なにもとらないで、ここにすこしお酒も食べものもあるから、これで間にあわしておいて、あしたの朝、一ぱい飲んで、ご飯《ぜん》でも食べておいでなさいな」
「そりゃあありがてえ」
さあ、こうなると、ばかな親切で、初会からばかなもてかた。親もとがどこで、何年の年期ではいって、何月の何日に年期があけるというようなことを、その晩、すっかりうちあけばなしでございます。寅さんは、はじめてあがったような気がしませんで、ばかにいい心持ちになって、あくる朝になると、わざわざ楊子《ようじ》をくわえて、二階の手すりのところで、むこうの楼を横目にみて、そっちでふられても、こっちでもてるというような顔をしてにらんでおります。それから、一ぱい飲んで、ご飯《ぜん》を食べて帰るときに、
「晩にもきっとですよ」
「ああ、くるとも……」
と、その晩も、またまいります。そのあくる晩もというように凝《こ》って通います。たまには、むこうの楼《うち》の格子さきへ立って、
「紅梅、いつぞやのことをおぼえてるだろうな。おめえのほうじゃあふられても、すてる神あれば、たすける神ありだ。おれのようなものでも、また、なんとかおもってくれるおいらんができたんだ。ざまあみやがれ」
と、毒づいて、こっちへはいります。妙なもので、こうなると、この若柳というおいらんが、つとめをはなれてのもてなしに、十日ばかり、のべつ通っておりましたが、ある日のこと、すこし都合があってまいれません。その翌日《よくじつ》、今夜こそいってやろうと、寅さんがおもっておりますと、「ジャン、ジャン、ジャン……」という半鐘の音でございます。
「おやっ、火事があるな。どこだ、どこだ?」
「なんでも、見当《けんとう》は吉原だ」
「なにっ、吉原? さあ、たいへんだ。吉原の昼間の火事とくると、大きくなるぜ。こういうときに、若柳に実をみせてやらなくっちゃあ」
と、寅さんは、しまっておいた刺子《さしつこ》をだして、すっかりしたくをして、頭巾《ずきん》をかぶり、手かぎを持って吉原へかけつけて、だんだんはいってくると、大さわぎでございます。おはぐろどぶのまわりをまわって、なるたけ近いところからいこうというかんがえ。ちょうど、時刻《じこく》は、正午《ひる》すこし前、おいらんは、前の晩の客を送りだして、これからひとねむりしていると、この火事でございますから、寝ぼけまなこで、異様なすがたで逃げだしてまいります。なかには、まっ赤な長襦袢《ながじゆばん》一枚で、しごきの腰のところへきせるを二本さして、たばこの箱と金だらいをぶらさげて、上ぞうりばきで駈《か》けだしてくるのがいるかとおもうと、頬《ほお》かぶりをして、上ぞうりを持って、はだしで逃げだしてくるあわてものもおります。もっとも、昼間みるのでございますから、色がまっ黒けの顔へおしろいを塗ったのが、ところどころ禿《は》げてるから、化けねこみたような顔をした連中が、ぞろぞろ逃げてきて、また、なかに、小力《こぢから》のある女郎は、尻をはしょって、つづらをしょって駈けてくるという、石川五右衛門みたいなかたちをしております。
寅さんは、すこしでも早くいって、若柳を安心させてやろうと、いま、おはぐろどぶのところまでくると、五、六人の女郎が、わいわいさわいでるうちに、ひとりが、ボチャンと、どぶのなかへおちました。なにしろ、泥深いどぶだからたまりません。
「わあー」
というとたんに、腰のあたりまでもぐって、もがけばもがくほど、だんだんとはいります。
これをみた寅さん、かわいそうにたすけてやろうと、
「おう、手をだしねえ」
「ありがたい」
というその顔をひょいとみると、前に愛想《あいそ》づかしをされた紅梅ですから、
「こんちくしょうめっ」
「あらっ、だれかとおもったら寅さん」
「寅さんもねえもんだ。ちくしょう、てめえは、よくも、夜に、おれを追いだしゃあがったな。さんざん毒づきゃあがった罰があたって、ざまあみろ。そんなところへおっこちゃあがった。しずむだけしずんで、どぶ泥をうんとくらえ」
「あれ、寅さん、おねがいだからあげておくれよ」
「なにぬかしゃあがんでえ。まごまごしゃあがると、あたまから小便をひっかけるぞ」
「そんなじゃけんなことをいわないでさ、おねがいだからあげておくれ。こんどばかりは、首ったけだよ」
喜撰《きせん》小僧
これで、ずいぶんご婦人には、やきもちがあるものでございます。
「やきもちも、遠火で焼けよ、焼くひとの、胸も焦《こ》がさず、味わいもよし」……あっさりがよいようでございます。しかし、どうも、こってり焼きのほうが多いようにおもわれます。
「あなた、どちらへいらっしゃいます?」
「うん、ちょっと寄席《よせ》へいってきますよ」
「そうでございますか。いってらっしゃいまし。寄席へいらしったら、落語家《はなしか》が、おしろいをつけて待っておりましょう」
「変なことをいうね、よしましょうよ」
てなぐあいで、お焼きかたがわるいと、寄席のお客さまがへるようなことになります。
これが、お焼きもちの焼きようがよろしいと、そうではございません。
「どちらへいらっしゃいます?」
「ああ、寄席へいこうとおもうんだ」
「あらっ、寄席へいらっしゃるんですか? まあ、わたくしも、このあいだから、寄席へいきたい、いきたいとおもってましたが、つい、ひまがございませんで、まいりませんでした。ちょうどよろしゅうございます。どうか、つれてってくださいまし」
「ああ、そうかい……しかしねえ、おまえ、あしたの晩にしたらいいだろう」
「いいえ、今晩、旦那さまとごいっしょにまいれれば、ほんとにうれしゅうございますが……」
「そうかい……けれどもね、どうも落語家《はなしか》てえやつがね、あんまりおもしろくないよ」
「おもしろくなかったら、あなたもおやめあそばしたら?」
「いいえ、それが、なんだよ……きょうはねえ、男にはおもしろいが、女には、あんまりおもしろくないとさあ」
「あら、さようでございますか? なにも、わたくし、おじゃまなら……」
「いえ、じゃまってわけじゃないよ。いやなことをいっちゃあいけない。じゃあ、おいで、いっしょにおいでよ」
「ありがとう存じます。あの、きよもお供をねがいます」
「きよもかい?」
「それから、定吉も……」
「えっ、定吉も?! ……ああ、いいよ、いいよ。おいで、おいで」
こういうぐあいにお焼きになると、寄席を口実にして、どこかへおあそびにおいでなさろうという旦那さまが、ほんとうに寄席へおいでになり、ご家庭もまるくおさまることになります。
「定吉や」
「へえ、なにかご用でございますか?」
「いま、旦那さまが、おもてへおでかけになって、山本さんへいくとおっしゃったけれども、こないだからのごようすが、どうもおかしいから、どちらへいらっしゃるか、おまえ、あとから、そっとついていって、みとどけてきておくれ。ぐずぐずしていないで、早くおいで」
「へえ、旦那さまの足は、早《はよ》うございます」
「だから、早くおいでよ」
「へえ……おやおや、しようがないなあ。みんな寝る時分になって、ひとりでおつかいにいくなあ、つまらないなあ。それもいいけれども、どこへいくんだかわからない。まごまごすると、終夜《よつぴて》あるいてなければならない……ああ、むこうへいくのは旦那だな……旦那だ、旦那だ。うしろつきが、たしかに旦那だ……旦那、旦那、定吉が、あとからくっついていきますよ。旦那あ……ああ、呼んじゃあいけなかった。旦那、どこへいらっしゃるんだろう。やっぱり山本さんへいらっしゃるんだ。ああ、あすこが山本さんだ。りっぱなうちだな。電気がついてらあ……おや、山本さんへはいらないで、まっすぐにいっちまった。どこへいらっしゃるんだな? しようがないなあ。旦那、いいかげんにとまってくださらないと、わたくしが、終夜《よつぴて》あるくようなことになります……おや、むこうの横丁へはいっちまった。あっ、あすこのうちへはいった。なんだろう? ……おやおや、女がでてきた。いい女だなあ。やあ、なにかいってらあ」
「旦那、たいへんにおそいじゃあありませんか」
「うん、ちっと都合がわるくって、ようようでてきた」
「おや、旦那、あとから、だれかついてきましたよ」
「えっ? ……だれだ? 定吉じゃあねえか」
「へえ、定吉で、こんばんは」
「なにが、こんばんはだ。どこへいった?」
「へえ、ちょっと小便《ちようず》にまいりました」
「こんなところへ小便にくるやつがあるか」
「寝ぼけたんでしょう」
「自分で寝ぼけたんでしょうというやつがあるもんじゃあねえ。おおかた、おれのあとをつけてきたんだろう」
「そうじゃあございません」
「そんなら、なにしにきた?」
「ええ、ちょっと買いものにまいりました」
「こんなところへ買いものにくる用はない。なにを買いにきた? この野郎、主人にうそをつく、ふてえやつだ。だれかにたのまれてきたな。なに? そうでねえことがあるもんか。旦那のようすがおかしいから、あとをつけていってこいと、おかみさんにいいつかってきたんだろう? ……いや、なに、店の小憎がきたんだ」
「おや、そうでございますか。どうも小僧さん、ごくろうさま」
「へえ、こんにちは、はじめてお目にかかります。わたくしは、これのうちに奉公をいたす……」
「なんだ、これのうちとは……」
「定吉と申す小僧で、なにぶんともよろしくおねがい申します」
「たいへんに口がかるいことねえ」
「口もかるければ、身上《しんしよう》もかるい」
「べらべらしゃべるな」
「小僧さん、どこへいったの?」
「ちょっと、小便にまいりました」
「まだ、あんなことをいってやがる。いいから、早く帰れ」
「このまま帰ると、おかみさんにしかられます」
「なんだってしかられる? おまえ、買いものにきたというじゃあねえか。買いものをして、さっさと帰れ」
「でも、しかられちまいます」
「なにをしかられる?」
「旦那が、こういうところにいらしって、女のひとがいるといえば、おかみさんが怒って、わたくしがしかられます」
「それみろ、おかみさんにいいつかって、あとをつけてきたんだろう? いくらかくしたって、ちゃんと顔に書いてある……いくらふいたってとれるもんか」
「おやおや、とうとう露顕《ろけん》しちまった」
「なまいきをいうな。おかみさんにうそをついて、早く帰れ」
「なんといって、うそをつきましょう?」
「なんでも、おまえの腹からでたようにうそをいえ」
「腹からうそなんかでません。なんといったらいいだろうな? 旦那のあとについてまいりましたら、風が吹いてきて、旦那は、吹きとばされちまったといいましょうか?」
「それもおかしい。なんとか、ほかにいいぐさがありそうなものだ。うん、こういえ。山本さんへいったら、大勢さまで、碁がはじまっているから、帰りがおそくなる。さきへ寝てしまうように旦那がいったと、こういいな」
「へえ、旦那、なかなかうそがうもうございますね。山本さんへいらしったら、大勢さまで碁がはじまって、お帰りがおそくなるから、さきへおやすみなさいましと、こう申せばいいんで?」
「そうだ」
「かしこまりました」
「旦那、なにか食べさして……」
「ええ、なにかあるか? あんころ? うん、そりゃあ結構だ。定吉、あんころがあるというから、そこで食べて、すぐ帰れ」
「旦那は、なにをめしあがります?」
「おれは、一ぱいやる」
「水を?」
「水を飲むやつがあるか。酒を飲む」
「へえ、お酒をめしあがりますか? どうでございましょう? わたくしが、お相手をいたしましょう」
「なまいきなことをいうな。小僧は、あんころでたくさんだ」
「それはひどうございます。わたくしは、そんな安い小僧じゃあありません。舶来《はくらい》の上等小僧で……旦那、お酒をごちそうしてくださいな」
「じゃあ、飲め」
「そんなこわい顔をしていらしっては、いただけないじゃあございませんか。飲めといえば、わたくしはいただきますが、ようございますか?」
「だから、飲めというんだ」
「そんなこわい顔をしちゃあ飲めません」
「旦那、どうぞ、おしかりにならないで……ねえ、小僧さん、いいから、おあがんなさいよ」
「じゃあ、ごちそうになります……ああ、いいお酒でございますね。おかみさん、これは、やっぱり一合十銭でございますか?」
「なぜ値段のことをいう。ばかっ!」
「もう一ぱいいただきます」
「顔を赤くして帰るといけねえから、そのくらいにして帰れ。そのあんころは、竹の皮へつつんで、うちへ持ってって、みんなに食わしてやれ、道草を食うな」
「道草なんざあ食やあしません」
「なに? うん、そうか……定吉や、定吉や。さあ、おまえにこれをやるそうだ」
「おや、それは、ありがとう存じます。せっかくのおぼしめしをおかえし申しては、かえって失礼でございますから、ちょうだいいたします。どうもありがとう存じます。念のために、ちょっと、なかをあらためます。へえ、たしかに二十銭ございます」
「なかなんぞみるな」
「ありがとう存じます。旦那さま、おたのしみでございます。おかみさん、さようなら」
「ちょいと、小僧さん、また、おいでなさいよ」
「へえ、毎晩まいります」
「なんだ、こいつ、毎晩こないでもいい」
「ああ、うちをでるときはいやだったが、こうなると、毎晩でもいいや。ありがたいなあ。あんころに二十銭もらって、これで、うちへ帰ると、おかみさんが、いくらくれるだろう? しみったれだから、五銭なんてくれまい。二銭ぐらいだろう。それだって、まあ、もらい徳だ。あわせて二十二銭だ。毎晩くると、いまに小僧銀行が建《た》っちまう。ありがたいな……おや、しまっちまった。しようがないな。ひとが、おつかいにいってるのに、しめちまってしようがないな。戸をトントンたたかなくっちゃあ……ええ、ただいま……ただいま……あれっ、いくらたたいてもあけてくれないや。こまったなあ。おなじ帰ってきても、旦那がお帰りというと、みんなおべっかをつかって、あわててあけるくせに、ひとが、おつかいから帰ってきても、あけてくれやあしない。旦那どんと定どんとは、こんなにちがうものかな……ええ、ただいま……ただいま……ええ、旦那がお帰り……」
「へえへえ、旦那がお帰りだ。新どん、新どん、辰どん、金どん、竹どん、旦那がお帰りだ。久どん、久どん、旦那がお帰りだ。寝ぼけちゃあいけねえ。なんだって、おれにおじぎをするんだ。旦那は、まだ、おもてにいらっしゃるんだ。早くあけなくっちゃあいけねえ。だれだい、戸棚へ首をつっこんでるのは? ……へえ、ただいまあけます……へえ、旦那さま、お帰り……」
「旦那さま、お帰り」
「旦那さま、お帰り」
「おい、定吉、旦那は、どうなすった?」
「旦那は、お帰りがありません」
「なに、お帰りがない? 旦那がお帰りだといったじゃあないか」
「そういわないと、あけてくれないから、ちょっと計略をもちいたんで……」
「ばかにしちゃあいけねえ。旦那がお帰りだというから、手をついて、おじぎをしたじゃあねえか」
「おじぎなんぞ、いくつでもおかえしします……そのかわり、みなさんに、旦那からこれをくだすって、かならず噛《か》みあわんように食べろって……」
「うそをつけ。犬だとおもってやがる。おかみさんが、さっきからお待ちかねだ。奥へいけ……さあ、新どん、辰どん、みんな、こっちへおいで。旦那が、おみやげをくだすった。ありがたいなあ。あんころだ。旦那さまは、こうやって、うちをおあけになっても、万事にお気がつかれて、わずかなものでも持たして、およこしくださる。ありがたいじゃあないか」
「番頭さん、それは、あなたひとりでめしあがるんで?」
「なあに、みんなでいただくのだ」
「じゃあ、あなた、なめちゃあいけません」
「なに、これは、あんこがはみでているから、ちょいちょい、こうやってふきとってるんだ。これは、なめてるんじゃあない。なめるというのは、こうやるんだ」
「ああ、きたない。みんな、なめちまった」
「きたないとおもったらよしなさい。おれが、ひとりでいただく」
「定や、お帰り。たいそうおそかったね」
「へえ、おかみさん、いってまいりました」
「おつかいは、早くしなければいけないよ。どうなすったい、旦那は?」
「山本さんへいらっしゃいました」
「山本さんへいらっしゃって、どうなすったい?」
「碁がはじまってて、大勢さまでございますから、おそくなるから、おさきへおやすみなすってもいいと、こうおっしゃいました」
「大勢さまだったかい?」
「へえ、たいへんに大勢さまでございます」
「どのくらいおいでなすったい?」
「へえ、五万八千人ばかりいらっしゃいまして……」
「そんなにいるもんかね。で、近藤さんもごいっしょかい?」
「へえ、近藤さんもごいっしょでございます」
「そうかい。おつかいは、早くしなければいけませんよ」
「へえ、おかみさん、おやすみなさいまし」
「ああ、すこしお待ち」
「ありがとうございます」
「なにを手をだすんだい?」
「へえ」
「なにを手をだすんだよ?」
「なにかくださるんで……」
「だれがやるといったい? 今夜は、肩が張ってしかたがないから、あんまを呼びにやったがこない。おまえ、すこし、肩をたたいておくれ」
「肩をたたくんでございますか? ……おどろきましたな。わたくしは、ただいま、おかみさんのおつかいにいって帰ってきたばかりで、お店に小僧が大勢おりますのに……」
「店の小僧は、みんなへたでいけない。おまえが、いちばんじょうずだから……」
「おやおや、つまらないなあ」
「ぐずぐずいわないで、おたたき」
「へえへえ、おどろいたなあ。むこうへいけばごちそうになって、二十銭もらって、こっちへ帰ってくると、けんつく食いの肩たたき、雲泥万里《うんでいばんり》の相違《そうい》だ」
「なんだい?」
「いえ、こっちのことで……」
「べらべらしゃべらないで、だまっておたたき」
「だまってては、ねむくなっていけません。すこしばかりしゃべらせてください」
「ねむっちまっちゃあいけない。すこしぐらいなら、はなしをしてもいいが、なにかはなしがあるかい?」
「ええ、なんでございます、去年の三月、おかみさん、両国のお茶屋へいきましたねえ」
「あれは、伊勢平楼《いせへいろう》さ」
「ああ、伊勢平楼、伊勢平楼、わたくしが、おかみさんのお供をしてまいりました。あのとき、本町《ほんちよう》さんのお嬢さまが、おどりをなさいましたね?」
「ああ」
「お嬢さまは、いい女でございますね」
「いいごきりょうだね」
「それに、お扮装《なり》がいいから、よけいにひきたちますね」
「そうだねえ」
「本町さんのお嬢さまは、いくつでございましょう?」
「お十三だよ」
「女のくせに、おじいさんですか?」
「おじいさんじゃあない、お十三」
「へーえ、十三ですか。なかなかおどりは、じょうずですね」
「おまえ、おどりがわかるかい?」
「わかりまさあね……あのとき、わきで唄《うた》をうたいましたね」
「あれは、清元|延寿太夫《えんじゆだゆう》の出語りだった。清元の家元《いえもと》だよ」
「ああ、おかみさん、ずるうございますね。わたくしが、はじめに、清元延寿太夫だといったんじゃあありませんか。ずるうございます。あのときに、お嬢さんが、白い着物を着て、黒いものを腰へぶらさげて……」
「黒いものって、あれは、腰衣《こしごろも》だよ」
「だから、わたくしが、さきに腰衣だといったんで……おかみさん、ずるうございますね」
「なんだい、いちいち、ずるい、ずるいって……」
「わたくしは、あのときの唄を知っています。桜の枝へ、ひょうたんを結《ゆわ》いつけて、でてきたときの唄を……」
「そうかい。なんといったっけね?」
「こういうんで…… ええ、世辞《せじ》でまろめて、浮気でこねて、小町桜のながーめーも、あかーぬ、チントンシャン……」
「あっ、いたい! なにをするんだい。ほんとうに、おまえは、ひとを茶にする(ばかにする)よ」
「ただいまのは、喜撰(清元の「喜撰」と、茶の銘柄の「喜撰」をかけた)でございます」
ねこの茶わん
これで、道具屋さんというものは、うまく掘りだしものがあれば、たいへんなもうけになるものだそうでございますが、掘りだしものというものは、そうざらにあるものではございません。
ある道具屋さん、江戸では、うまいもうけがないというところから、掘りだしものさがしに地方をめぐりあるいておりました。
きょうも、もうしようがないから、すこし早いけれどもひきあげようと、ぶらぶらやってまいりますと、道ばたに、ちいさな茶店がございまして、おじいさんが、火吹き竹で、へっついの下を、いっしょうけんめい吹いております。
「おじいさん、ごめんよ」
「あっ、いらっしゃいまし。どうぞ、こちらへおかけなさいまし」
「ああ、ありがとう。なあに、かまわなくってもいいんだよ。あんまりくたびれたから、ちょいとやすませてもらやあいいんだから……しかし、このへんはいいねえ。のんびりしていて……それに、ながめはいいし、この小川がまたきれいじゃあねえか。なんだか、二、三年生きのびたような気分だぜ」
「へい、まあ、お茶をひとつどうぞ……」
と、おじいさんが、お茶を持ってきましたので、ふとみますと、腰かけ茶屋のことで、塩せんべいのつぼがあって、その横に駄菓子の箱がならんでおります。その台のそばのところで、ねこが、しきりにごはんを食べております。道具屋が、そのねこの茶わんをみますと、これが、絵高麗《えこうらい》の梅鉢《うめばち》の茶わんというたいへんな値打ちもので、三百両なら羽が生えてとぶように売れるという茶わんでございますから、
「うーん、こりゃあたいしたもんだ。けれども、ねこにめしを食わせておくところをみると、このおやじ、知らねえんだな。ようし、なんとかして、こいつをまきあげてやろう」
「ええ、旦那さま、もうひとつ、お茶をさしあげますか?」
「ああ、もう一ぱいもらおうか……おや、いいねこだねえ。チョッチョッチョッ……ああ、やってきた、やってきた。おお、よしよし、ここへおいで、ここへ……あははは、かわいいもんだねえ。ひとの膝の上で、のどをごろごろ鳴らしているよ」
「これこれタマや、旦那のお召しものに毛がつくといけねえ。さあ、おりろおりろ」
「いいよ、いいんだよ。いい心持ちそうに、のどをごろごろ鳴らしている。ひとなつっこいねこだね」
「へえ、旦那は、ねこがお好きでいらっしゃるとみえて、やっぱりお好きなかたは、ねこのほうでも、よくわかるとみえます」
「うん、おれんとこにもねこがいたんだけどもね、どっかへいっちまやあがった。うちのかかあがね、『おまえさん、どっかへいって、ねこ一ぴきもらってきておくれ』っていうけど、あんまりちいさいうちにもらってくると、いなくなったり、死んだりしちゃうし……まあ、このくらいのねこだったら、きっと大丈夫だとおもうんだが、どうだい、おじいさん、このねこを、おれにくれないか?」
「へえ?」
「おいおい、そんな変な顔をしないでおくれ。そのかわり、ただはもらわないよ。小判三枚、これを、いままでの鰹《かつ》ぶし代としてあげようじゃないか。みれば、奥のほうに、まだ二、三びきいるようだ。そんなにいるんだから、いいじゃあねえか」
「そりゃあそうでございますが、やはりなじんでおりますから……これ、タマや、旦那が、ああおっしゃるが、旦那のお供をしていくか? ……それとも、やっぱりここにいるか?」
「おいおい、そんなことをいったって、ねこは、返事もしゃあしねえや。そんなことをいわねえで、おじいさん、おくれよ」
「さようでございますか。じゃあ、よろしゅうございます。かわいがってくださるところへいけば、これもしあわせでございます。どうぞ、うんとかわいがってやってくださいまし」
「ああ、かわいがるともさ。大丈夫だよ。うちにゃあ、子どももいねえしな……さあ、これが鰹ぶし代だ」
「いいえ、このお金は、どうぞそちらへ……」
「まあ、そんなことをいわねえで、とっといてくんねえ。すくねえけれども……」
「さようでございますか。どうもありがとう存じます。では、遠慮なくいただきます」
「あははは、ごらんよ。おじいさん、ふところへいれたら、ごろごろいって寝ちまった。かわいいもんだ。そこで、おじいさん、もうひとつおねがいがあるんだが……」
「なんでございます?」
「宿屋へ泊まって、ねこにめしを食わせるときに、宿屋の茶わんを借りると、女中がいやな顔をするし、それに、小鳥などは、籠《かご》がちがうと鳴かないようなもので、ねこなぞも、食いつけた器《うつわ》でねえと食わねえというから、この茶わんをもらってって、これで食わしてやりてえんだが……」
「さようでございますか……へへっ、へえ、そのう……こっちに皿がありますが、この皿でも食べますよ」
「いや、なかなかそうでねえんだよ。やっぱり食いつけてるもんで食わしてやりてえじゃあねえか」
「いえ、この茶わんは、さしあげることはできません」
「さしあげられねえたって、なにも、そんな茶わんを……」
「そんな茶わんとおっしゃいますけれども、旦那は、ご存知かどうか知りませんが、これは、絵高麗の梅鉢の茶わんといって、なかなか手にはいらない品なんでございますよ。へえ、こんなにおちぶれちまいましたが、どうしても、これだけは手ばなす気になれませんので……どうか、これは、かんべんしてください。それは、もう、だまってたって、二百両や三百両なら、買い手はあるんですから……」
「ふーん、そうかい。そんなに高い品なのかい。しかし、そんな結構なもので、なんだって、ねこにめしを食わせるんだい?」
「へえ、それが、旦那、おもしろいんでございますよ。この茶わんでごはんを食べさせていますとね、ときどき、ねこが、三両に売れますんで……」
ちきり伊勢屋
むかし、麹町《こうじまち》平河町に、白井左近という易学観相《えきがくかんそう》の大先生がございました。
もとは、紀州の浪人で、殿さまにご諫言《かんげん》申しあげたところ、ご不興《ふきよう》をこうむり、長のおいとま、よんどころなく江戸へでて、最初は、麹町|半蔵門《はんぞうもん》外の大道へでて、夜分《やぶん》、辻うらないをいたしておりました。ところが、通りがかりのものが、しゃれやじょうだんにうらなってもらいますと、こわいようにあたりますので、これをひとに吹聴《ふいちよう》します。そこで、「わたしもみてもらおう、おれもわたしも」と、だんだん客がついてまいりましたが、こまるものからは見料《けんりよう》をとりません。そんなぐあいですから、あいかわらず、その日暮らしの境涯に甘んじておりましたが、あまり繁昌《はんじよう》するので、大道でうらなっているわけにゆかなくなりました。
ところへ麹町三丁目の米屋さんで、家作《かさく》をこしらえましたが、どうも住《す》み人《て》がおちついておりません。どうも気になりますから、白井左近にみてもらいますと、これは、こういうところがわるい。ここをこうなおせばうまくゆくと、教えてくれましたので、その通りにしてみますと、なるほどうまくまいりました。そこで、米屋さんが、たいそうよろこびまして、
「どうですい、先生、こう客が大勢押しかけてきたんじゃあ、こうして大道に立ってうらないもできますまいから、失礼だが、わたしの家作で、平河町に、もと医者が住んでいたうちがあいております。もっとも、その医者が、わるいことをして変死をしたんで、化けものがでるなどといって、いまじゃあ、だれも住《す》み人《て》がないんですが、うちもりっぱですし、庭も広うございますから、そこへはいっておやんなすったらいかがです? およばずながら、なにかとお世話もいたしましょう」
といってくれましたので、左近もよろこんで、平河町に一家をかまえることになりました。
おもてがまえに手をいれて模様を変え、「観相易断所白井左近」という看板をだして開業いたしますと、たいそう評判になりまして、毎日、朝から、たえまなく客がくるようになりました。
ちょうど七月のはじめ、朝のうち、ひとしきり見てしまって、これからごはんを食べようとおもって、ひょいと玄関をみますと、まだひとり、品のいい、若いひとが待っております。
「おまえさんは?」
「はい、お待ち申しておりました。先生に、ひとつ見ていただきたいとおもいまして……」
「ああ、さようで……それは、お待ち遠だった。さあ、こちらへ……まだ、お若いようだが、おとしは、おいくつだね?」
「はい、二十五でございます」
「はあ、もうすこし前へすすみなさい」
左近先生、天眼鏡で、じっとみておりましたが、
「うーん、おまえさんは、縁談できなすったな?」
「はい、さようでございます」
「失礼だが、おまえさんは、縁談はむだだ。およしなさい」
「へえ……ことしは、年まわりがわるうございますか?」
「いや、そうではない。本年、来年にかぎらず、おまえさんは、家内を持てないからだなんだ」
「へえー……わたくしは男でございますよ」
「そりゃあ、わかってるよ」
「その男が、家内を持てないというのは、どういうわけで?」
「うん、そりゃあ、ちゃんとわけがある。ついては、ちょっとうかがうが、おまえさんのお住居はどちらかな?」
「わたくしは、麹町五丁目に住んでおります」
「はあ……失礼ながら、ご商売は?」
「わたくしは、質両替を渡世にしております、ちきり伊勢屋伝次郎と申します」
「ああ、さようか。かねがね、お名前はうかがっているが、わしは、世間がくらいので、おみそれ申してはなはだすまなかった。それでは、おまえさんが、家内を持てないわけをおはなしするから、もそっと前へでなさい。さて、ご主人、いま、わしが、くわしくいわなかったから、いいかげんなことでもいったとおもわれるだろう。しかし、ていねいにいうと、おまえさんが落胆しなさるから、ただ、縁談はむだだと、こういったが……じつは、おまえさんは、死になさるよ」
「えっ、わたくしが?」
「ああ、死ぬ」
「へ―え、それが、おわかりになりますか?」
「ああ……おまえの天庭《てんてい》(ひたい)に黒気《こくき》があらわれている。槌をもって大地を打つは、はずれるか知らんが、わしの観相にちがいはない。人間は、老少不定《ろうしようふじよう》、二十五だからまだ死なない。八十だから死ぬときまったものではない。おまえも大家《たいけ》の主人だ。死生命あり、富貴天にありぐらいのことはご存じだろう」
「へえ、おそれいります」
「まことにお気の毒だが、おまえさんは死ぬ。つまらんことをいうようだが、生まれてきたときに、ちょうど借りをしょってでるようなもので、短命のひとは、早く借りをかえし、長命のひとは、借りをかえせないわけだ」
「なるほど……して、先生、わたくしは、いつ死にましょうか?」
「うーん……今年《ことし》ではない。来年だな」
「来年というと、何月ごろで?」
「そうさな。正月には死なない。二月の……中旬《なかば》だな……うーん……二月十五日の昼、正午《しよううま》の刻《こく》には、この世のひとではない。まことにお気の毒だが……」
「へえ……」
「そこで、心得《こころえ》のためにはなしをしよう。おまえさんは、まことに善人だが、おまえさんの親御が、失礼ながら悪人だった。悪人といっても、なにも、ひと殺しをしたの、盗みをしたのというのではないが、金をためるために無理をして、ひとを泣かしている。世間で、おまえさんのうちのことをなんという? 陰口《かげぐち》に、乞食伊勢屋、鬼伊勢屋というだろう。おとっつぁんの代に、金を貸して高利をとり、もうけることはもうけても、ひとをたすけたことが一ぺんもない。奉公人が病気にでもかかれば、役に立たないといってひまをだし、うちの前へたおれるものがあると、水をぶっかけて追っぱらってしまい、長屋に食うにもこまるものがあって、店賃がとどこおると、着ているものでも剥《は》ぎとって追い立ててしまい、そうしてこしらえた金だ。聞けば、公儀《こうぎ》には、おまえさんの身代は、何万という書きあげになっているそうだ。世にいう、親の因果が子にむくうで、おまえさんは善人に生まれながら、その身代を相続しても、二十六で、この世を去り、女房をむかえて、あとへ子孫をのこすこともできないというのは、いかにもお気の毒だ。そこで、わしが、おまえさんによいことをすすめる」
「へえ」
「ほかではない。ほどこしをおし」
「はあ、ほどこしをすれば、わたくしの命がたすかりますか?」
「さあ、そこだ。天理といって、現世で、天理にかなったことをすれば、来世に、よいむくいがある。よく後生《ごしよう》をねがうというが、この世でわるくても、のちの世のよいことをねがう。人間は、もうこれでおしまいというわけではない。草木でさえ、花が散り、葉が枯れても、また、春がくれば、芽をふくだろう。おまえさんが、ここで、ほどこしをすれば、親の罪もしぜんに消え、親孝行にもなれば、仁者にもなり、その徳によって、来世は、まことに結構な身の上になる。わるいことはいわないから、せいぜいほどこしをしなさい」
「かしこまりました」
「おわかりになったか? 失礼なことをいうようだが、これは、ほんとうだよ」
「旦那さま、お帰りあそばせ」
「ああ、いま帰った。お茶をおくれ」
「いかがでございました? 木場のお嬢さんのほうが、おとしまわりがよろしゅうございますか? しかし、赤坂のお嬢さんのほうが、ことしは、方角がよかあないかと、みんなではなしをいたしておりましたが……」
「そんなことはどうでもいい。まあ、久兵衛さん、ここへきておくれ。どうもたいへんなことができちまった」
「へえ、どのようなことで?」
「観《み》てもらったら、わたしは、死ぬとさ」
「ええ、そりゃあたいへんなことで……しかし、あの先生が、そうおっしゃれば、きっと死にましょう」
「きっと死にましょうは、心ぼそいな」
「このあいだ、畳《たたみ》屋の辰公が、あの先生に観てもらったら、近いうちに死ぬと云われたと、ふさいでおりましたが、まもなく死にました」
「そうそう、そんなことがあった。なんだか知らないが、天庭に黒気があらわれたとかいって、わたしのひたいに、黒いすじがでているそうだ。これがでると、死ぬんだそうだ」
「へーえ、おみせなさいまし」
「おまえにわかるか?」
「わかりゃあしませんが、みておきます」
「じょうだんいっちゃあいけない。ところで、だんだん聞いてみると、おとっつぁんが、無理非道のことをして金をためたのが、わたしのからだにたたってきたのだから、ほどこしをして後生をねがえ、そうすれば、おとっつぁんの罪も消えるし、来世は、わたしも楽《らく》ができるというんだ」
「へーえ、なるほど」
「きょうから商売をやすんで、清蔵、重次郎、幸助の三人がかりになれ」
「へえ」
「おもてへ、さっそく札をだしなさい」
「どういう札をだします?」
「清蔵、おまえ、障子に、こう書きなさい。『いままでの入質《いれじち》は、元利《がんり》ともいただかずに、物品をおもどしいたしますから、お持ちください』と、わかりやすく仮名《かな》で書いてだしなさい。そうして、うけだしにきたら、ただだからといって、ぞんざいにあつかってはいけないよ。ていねいに、『長らくごひいきをいただきまして、ありがとう存じます』と、いちいち礼をいいなさい」
「へえー、旦那さま、そんなことをしたら、身上《しんしよう》がたまりません」
「たまらなくても、来年の二月には死ぬんだから、ほどこしをするんだ。そこで、久兵衛どん、あり金は、どのくらいあるね?」
「へえ、このあいだ勘定してみましたら、なにやかやで、五万両とちょっとございました。それに、今月の地代、店賃、利息などをくわえましたら……」
「そんなことはどうでもいい。とる勘定は、もうしないでもいいから、だすことに、せいぜい気をつけておくれ。奉公人にも、いままでうまいものを食わせていない。質屋は、どこでも食いものがわるいが、とりわけ、わたしのうちは、ひどかった。久兵衛どんなぞは、おやじの代から奉公していて、いままでうまいものを食ったことがなかろう。きょうから、みんな好きなものを食べなさい。横丁の魚勝へいって、急にあつらえものをすると、胆《きも》をつぶすから、『仔細《しさい》あって、きょうからおさかなをいただきますから、どうか、御用聞きに寄ってください』と、そういってきな。久兵衛さん、笑っちゃあいけないよ。おれは、さしみを、まだ食ったことがない。この前、法事のときに、さしみをあつらえようといったら、おやじが、『法事に、なまぐさいものはいけない。やっこどうふでたくさんだ』といって、さしみが、やっこどうふになって、おまえたちが笑ったことがあった。どうだ、おまえたちも人間だが、さかなを食ったことがあるか?」
「へえ、わたしは、うなぎを食べました」
「豪儀《ごうぎ》だなあ。ここのうちへきてからか?」
「とんでもございません。こちらでは、なかなか食べられはいたしません。藪入《やぶい》りで、うちへゆきましたときに、おやじが、ふだんお店《たな》でまずいものを食ってるから、うなぎを食えといって、食べさせてくれました。じつは、もう、このごろは、骨ばなれがしそうでございますから、おひまをいただこうとおもっておりました」
「そんなことをいうな。なんだか陰気になっていけない。うなぎの食いたいものは、うなぎを食いなさい。みんな好きなものを食べるがいい」
そのうちに、質うけのひとが、ぞろぞろとまいりますのを、店のものが礼をいって、ただかえしてやります。
「ごめんなさい」
「はい」
「どてらと腹がけを四貫八百で置いたんだが、あれをだしてもらいてえ」
「へえへえ、どてらと腹がけ……」
「元利ともとらねえというなあ、ほんとうかい?」
「ええ、いただきません」
「そいつあすまねえ。じゃあ、もうひとつ、火事道具があったが、そいつをだしてくんねえ」
「火事道具を? ……ええ、帳面にございませんが、いつごろお置きになったんで?」
「そうさなあ、かれこれ十八年にもなるかなあ」
「そんな……あなた、仇討《あだう》ちみたいなことを……とうに流れちまいましたよ」
「じゃあ、なにかかわりをくれねえか?」
なんていうひどいのがございます。そうかとおもうと、なかには、また、いい客もございまして、人間には、だれしも良心というものがございますから、ただもらってはすまないと、半金持ってくるひともあれば、金をそろえてだしにくるひともあります。
これでは、ほどこしというところにもいたらない。もっと大勢のひとを救ってやらなければなるまいということから、極《ご》くこまるもの、あるいは、かせぎ人《て》が長らく病気でいるというようなものにほどこしをするという書付けを辻々へはりだしました。
さあ、このことが世間につたわりますと、いろいろな連中がやってまいります。しまいには、おもてからとびこんできて、
「ごめんください。旦那は、いらっしゃいますか?」
「はい、わたしが伝次郎だが……」
「わたしは、音羽の九丁目の家主新兵衛の手代でございますが、店子《たなこ》に九死一生という重病人がございます。下駄の歯入れをいたしております金兵衛というものでございますが、どうか、旦那にお見舞いをねがいます」
「はい、すぐにゆきたいのだが、となり町にも病人がひとりいるから、それを見舞って、そのあとでゆくから、まあ、お大事になさい」
まるで、医者のようなさわぎでございます。
伝次郎は、身なりをととのえて、ふところへ金をいれると、音羽九丁目までやってまいりましたが、むかしは、このあたりは、あまりぱっとしたところではございません。伝次郎は、きたない裏へはいって、下駄の歯入れをやっております金兵衛というひとりものの住居へやってまいりまして、枕《まくら》もとへ坐ると、
「おまえさんが金兵衛さんかい? ……で、病気はなんだい?」
「……へえ……どうもご親切にありがとうございます……病気のもとは、雨で……」
「え? 雨?」
「雨が降って商売にでられません。二日降られて、ごはんが食べられません。三日目においもを食いました。やっと四日目に天気になったから商売にでましたが、まるで仕事がありません。しかたがないから、うちへ帰って、水を飲んで寝ました。それがもとで、病気になってしまい、ご近所のかたのご厄介になっておりますが、長いあいだ、こうしたきりうごけません」
「そりゃあ気の毒だ。しかし、おまえのは、病気じゃあない。つまり、食がたりないのだ。ここに、金が十両ある。いま、家主にもはなしをしていくが、一時に、やたらにものを食ってはいけない。つかれているところへ急にうんとつめこむと、なお、からだをわるくするよ。医者をよこしてやるから、くすりをのむがいい。それに、ふとんがうすいから、からだが冷える。おまえなどは、寿命があるんだから、からだをよく養《やし》なって、達者になったら、また、おまえが、ひとのことをよくしてやれば、よいことにぶつかる。わたしも、ひとに聞いたことがあるから、こうして、ほどこしをしているんだ」
「どうもありがとうございます」
下駄の歯入れ屋の金兵衛は、よろこんで、めぐまれた金で、十分に手当てをしたおかげで、病気が、すっかりなおりました。
こういうぐあいに、伝次郎は、さかんにほどこしをしておりましたが、ある日のこと、
「おい、みんな、ここへきておくれ。久兵衛どん、まあ、ずいぶんほどこしもしたが、このごろ、世間をあるいてみると、女房が給仕をして、酒を飲んだり、ご飯《ぜん》を食べたりしているが、まことにたのしそうだ。だれがいったか知らないが、酌はたぼと、どうも酒の酌やおまんまの給仕は、女にかぎるようだ。わたしのうちは、男世帯で、この味を知らない。どうせ来年は死ぬときまったからだだ。らんぼうのようだが、生涯のおもいでに、女の酌で酒を飲んで、女の給仕で、ごはんを食べてみたい。そのくらいのことはしてもよかろうとおもうが、どうだい?」
「ええ、結構でございます。さっそく、きょう、どこかへいらっしゃいまし」
「どこへいこう?」
「どこそこというより、いっそ新宿へいらっしゃいまし。しろうとでは、かえってめんどうでございますから、遊女屋のほうが、気兼ねがなくってよろしゅうございましょう」
「おまえ、なかなかくわしいな」
「えっ……いえ……おつかいにまいりまして、前を通ったことがございますんで……」
「なんだかおかしいぜ……まあ、いいや。そんなら、新宿へいってみよう」
というので、でかけます。
そのころ、新宿に、倉太夫というたいこもちがおりました。清元の太夫でしたが、ちょっとくせがあって、太夫をやめて、たいこもちになっております。この倉太夫が、うまくとりもって、伝次郎をおもしろくあそばせますから、伝次郎は、すっかり味をしめて、せっせと通っては、どんどん金をつかいます。
ある日、新宿であそんでおりましたが、風がたいへんに強くなりましたので、火事でもだしてはたいへんだと、うちへ帰る途中、赤坂から食いちがいのところまでまいりますと、四十五、六の女と、十六、七になる娘とが、めそめそ泣きながらはなしをしておりましたが、やがて、腰ひもをといて、木の枝へかけ、首をくくろうといたします。伝次郎が、ようやくそれをたすけて、
「どうなすったので?」
「仔細《しさい》あって、母子のものが、どうしても死ななければなりませんので、どうぞ、たすけるとおもって、このまま殺していただきとうございます」
「そんな、たすけたり、殺したりなんていう器用なまねは、あたしにゃあ、できゃあしない。しかし、どういうわけで死ぬんだか、わけをはなしてごらんなさい」
「はい、では、おはなしいたしますが、じつは、この娘《こ》が、ご主人さまのお金をあずかっておつかいにゆき、二百両というものを、おとしたのか、とられたのかわかりませんが、とにかく、なくしてしまいましたので、この娘の身に濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》がかかりました。ほかにしようがございませんから、母子で死んで申しわけをするのでございます」
「まあ、おまえさんたちは、金がなくって死になさる。わたしは、金があっても命がない。金ですむのなら、二百両、わたしがあげるから、死ぬのをよしなさい」
「えっ、わたくしたちに、このお金を?」
「ああ、どうぞ、遠慮なくおつかいなさい」
「それはまあ……なんというありがたいことで……どちらのおかたさまでございますか? おところとお名前を……」
「いやいや、ところや名前をいうと、陰徳にならないといいますから、それは、どうぞ、ごかんべんを……え? どうしても教えろって? ……うーん、こまったなあ……じゃあ、それほどにおっしゃるならば、名前だけを申しあげましょう。わたしは、伊勢屋伝次郎というもの。仔細あって、来年の二月十五日、正午《しよううま》の刻《こく》に死にますから、その日を命日だとおもって、お線香の一本も手向《たむ》けてくだされば結構ですから……どうか、あなたがたは、この金で長生きしてくださいよ」
と、ふたりがとめるのをふり切って、帰ってまいりました。
さて、だんだんあそびなれてまいりますと、新宿ではいけないというので、吉原の本場へでかけるようになります。ここへくれば、また、あそびも大きくなって、芸人のとりまきも大勢つきまして、しまいには、うちへ芸人が出入りするようになってまいりました。そこで、奉公人をまた呼んで、
「さあ、みんな、いよいよ来年二月に、おれは死ぬについて、いまのうちに、おまえたちへ金をわけておきたい。だれにいくら、かれにいくらというのはめんどうだから、千両箱をふたつばかりこわしな。だいたい、箱なんぞへいれるから金がでないんだ。さあさあ、ここへ持ってきなさい。こうして、紙をずっと敷《し》いて、おれが、ふたつかみずつ金を盛るから、どれでも、ひとつずつとりなさい……久兵衛、清蔵、重次郎、みんな、とったか? 幸助、なにをかんがえてるんだ?」
「へえ、わたくしは、みんなにくらべて、どうしてこんなに手がちいさいのかと、わが身の不運をつくづくとなげいておりました」
「つまらないことをいってないで、早くとりなさい……定吉、おまえには、百両やる。おまえは、親孝行だなあ。おやじがわずらってるそうだが、ひまをとったら、商いでもするがいい……おい、権助、おまえ、このあいだ、台所で、ぐちをいってたな。『奉公人も大勢いるが、道楽をして奉公にきたのはおればかりだ。どうかして、田地田畑をうけだして、もとの百姓になりたい』と、いってたようだ。そんなに道楽をして金をつかったのか?」
「へえ、わしのうち、はあ、三代道楽ものがつづいたもんで、とうとう身上《しんしよう》つぶしてしめえました」
「ほう、三代も……」
「へえ、おやじが道楽をして、兄貴が道楽をして、それから、わしがまた、道楽をしましたもんで、とうとう一文なしになりました」
「たいへんなうちもあったもんだな。田地田畑をうけだすには、よっぽどの金がいるのか?」
「そりゃあ、はあ、えれえこって……」
「そうだろうなあ……どのくらいの金高だ?」
「ぶったまげてはいけねえだよ」
「ああ……いくらだ」
「七両二分」
「ばかにするな。それじゃあ、おれがこれだけやるから、故郷《くに》へ帰って、田地をうけもどして、もとのように百姓になって、うちを立てるがいい」
「へい」
「おれが死んだと聞いても、べつにでてくるにおよばないから、こまってるものの子どもにでも、餅《もち》かなにかほどこしてやってくれ。さあ、みんな、すぐにひまをとるとも、二月までいるとも、勝手にするがいい」
で、いよいよ二月にはいってから、店のものには十二分の手当てをしてひまをだし、一日《ついたち》から十三日まで吉原であそんで、それから、うちへ帰ってまいりまして、十四日は、お通夜ということで……
「久兵衛さん、あした死ぬかとおもうと、なんとなく陰気でいけないから、今夜は、大勢で、通夜をしてもらいたい」
「へえ、生きていて、お通夜を?」
「ああ、生き通夜だ。死んでしまったら、うちへ置いてもしかたがないから、あしたの午《うま》の刻《こく》に息をひきとったら、すぐにかつぎだしてもらいたい。鳶頭《かしら》、おまえ、葬式のほうは、万事たのむよ。久兵衛どん、寺は、いいかい?」
「へえ、お寺は、とうに知らせてございます」
「それなら、出入りのもののはんてん、棺わきのものの羽織、はかまは、そろってるかい?」
「へえ、みんなそろっております」
「早桶《はやおけ》は、どうしたい?」
「へえ、もう、今晩のうちにできあがってまいりましょう。早桶屋がおどろいておりました。『親の代からこの商売をしているが、死なないうちから早桶のおあつらえをうけたのははじめてだ』と、いいました」
「そうだろう……なかへ腰かけの台をつけるように、そういったか? 台がないと、腰のぐあいが、まことにわるいから……なに? 早桶ができてきた? ……ああ、りっぱ、りっぱ。このくらい大きけりゃあ楽だ。だれか、はいってみろ」
「どうも、早桶にはいるのは、ごめんこうむりとうございます」
「じゃあ、いいから、今夜は、まあ、にぎやかにさわいでもらおう。女たちは、こっちへきて、三味線でもひくがいい」
わいわいというさわぎで、あけがた近くなりますと、
「おいおい、めしを炊《た》いたか?」
「へえ、炊きました」
「さかなは、いいかい?」
「ええ、きょうは、お葬式《とむらい》がでるんですから、精進《しようじん》でございましょうが」
「ばかあいいなさい。精進なんぞする仏じゃあない。味噌汁《みそしる》のなかへなまぐさものをたたっこんで、ごった汁をこしらえろ。そこで、久兵衛さん、夜があけたら、店へすだれをかけなくちゃあなるまい。それから、のれんを裏がえしにして、忌中《きちゆう》の札をだしなさい。刻限がきたら、すぐに持ちだすんだから、やはり、午の刻出棺と書いておきなさい」
と、仏さまが、あれこれと指図をしております。
通夜のあけがたは、まことにさびしいものでございますが、それがにぎやかだから奇妙なもので……朝になると、近所ではおどろきました。
「ちきり伊勢屋に忌中の札がでたが、だれが死んだんだろう? 主人《あるじ》ひとりで、両親は、とうに死んで、女房もなければ、子どももいないが……」
「なんでも、伝次郎さんが、ことしは死ぬんだといっていたから、それじゃあ、主人が死んだにちがいない」
「へーえ、おどろいたねえ。なにしろ、いかなくちゃあなるまい。ばあさん、羽織をだしておくれ……ええ、お早うございます」
「へえ、お早うございます」
「久兵衛さん、どうもとんだことだったねえ。ちっとも知らなかったから、けさ、忌中の札がでたんでおどろいたようなわけで、ちょっとおくやみに……」
「それはどうもありがとうございます。どうぞこちらへ……ええ、旦那、旦那」
「なんだ?」
「すじむこうの紙屋の旦那が、おくやみにみえました。ちょっとお会いなすって……」
「こまるなあ。仏が、自分で会うというのは……どうもしかたがない。こっちへお通し申しな」
「ええ、ごめんください。どうも、このたびは、とんだことでございました……おや、おまえさんは、ご主人……どなたが、おなくなりなすったので?」
「わたくしでございます」
「えっ?」
「わたくしがなくなったので……」
「わたくしがなくなったっていうけれど、おまえさん、口をきいてるじゃあありませんか」
「ええ、きょうの正午《ひる》ごろ、刻限がくると、ちゃんと死にます。長いおなじみでございますから、どうかお見おくりねがいます」
「あきれかえったねえ、どうも……線香なんぞ持ってきて、きまりがわるい。また、あがります」
紙屋のじいさんは、胆《きも》をつぶして帰ってしまいました。
「おれもずいぶんかわった目にでっくわしたことがあるが、悔《くや》みにいって、死ぬ本人とはなしをしたのははじめてだ。おまけに、仏さまがあぐらをかいて、酒を飲んでいるのにはあきれた。ばかばかしいとむらいがあったもんだ」
そのうちに、近所のものが、つぎつぎに悔みにやってまいりますが、みんなあきれかえってしまって、
「ことによったら、気がちがったのかも知れない。まあいい、うっちゃらかしときな」
てなぐあいで、近所じゃあ、もう相手にしません。
そのうちに、おいおい刻限もせまってまいりましたので、
「旦那さま、そろそろ湯灌《ゆかん》をなさらなくちやあいけませんな」
「湯灌? ……よそうよ」
「どうして?」
「おれ、かぜひいてるから……」
「かぜをひいたって、やらなくちゃあいけません」
「だって、熱でもでたらどうする?」
「そんなのんきなことをおっしゃって……あなた、死ぬんでしょう? 熱なんぞでるもんですか……とにかく、湯灌をなさらなくちゃあいけません」
「そうかい。じゃあ、湯かげんはいいかい? いま、ちょいととびこむから……」
たいへんな湯灌があったもんで……これから湯灌がすみますと、
「ええ、帷子《かたびら》をお召しくださいまし」
伝次郎が、帷子を身につけ、頭陀《ずだ》ぶくろをかけますと、番頭の久兵衛が、
「ねえ、旦那さま、あなたも、いちいちあいさつなさるのもたいへんでございましょうから、もう早桶へおはいんなさいまし」
「そうか。それじゃあ、はいろうか」
のんきなはなしもあったもんで……そのころは、いまのように寝棺《ねがん》というものはつかえません。町人は、まるい早桶でございます。
「だれだい、そこへきたのは?」
「へえ、一八でございます。こりゃあ、りっぱな早桶でございますなあ、旦那……おや、なかに、ふとんが敷いてありますねえ」
「ああ、じかじゃあ痛《いて》えからなあ」
「なるほど……なかに棚がありますが、なんでげす?」
「棚? ああ、そりゃあ、ちょいと本でも載《の》っけといて、退屈したときに読もうてんだ」
「へーえ、ご勉強で……」
「じゃあ、そろそろなかへへえるとしようか……きゅうくつなのはいやだから、大きくこせえろといっといたが、ずいぶん大きいなあ。もうひとりぐらいへえれらあ。おい、一八、どうだ、いっしょにへえらねえか?」
「えっへっへ……結構で……」
「へえんなよ」
「いいえ、へっへっへ、もう、その……あたくしは、よろしゅうがす」
「あれっ、この野郎、なにがよろしいんだ。どこへでもお供、お供ってくっついてきたくせに、早桶だけは、ごめんこうむるかい? まあ、いいや、そろそろ、おいとまごいとしようか……おい、半平、なんだい? にやにやして……」
「いえ、旦那が、おなくなりになろうてえところで笑ったりして不人情のようでござんすけれども、仏さまが、こんなにお元気で、あれこれおっしゃってますんで、なんだか茶番のようで……ま、とにかく、つつしんで、おわかれを申しあげます。さて、いろいろと、ひとかたならないごひいきにあずかりましてありがとうございました。あなたも、後世へのこるようなおあそびをなさいましたのでございますから、お心おきなくご臨終をあそばしますよう……」
「ああ、ありがとうよ。わたしもねえ、みんなに世話を焼かしたが、どうか、まあ、おもいだす日でもあったら、線香の一本も手向《たむ》けておくれ」
「いえ、もう、一本どころではございません。束《たば》であげますから……」
「へえ、かわりあいまして、新好《しんこう》でございます。どうも、ひとかたならないごひいきにあずかりまして、どうぞ、まよわずご成仏《じようぶつ》なさいますよう、おねがいをいたします」
「へっ、半八でございます。どうも、長いことごひいきにあずかりまして、では、どうぞ、ごきげんよろしゅうおかくれなさいますように……」
「おいおい、なんだい? そのごきげんよろしゅうってえのは……ごきげんよろしく死ねるかい?」
「あっ、そうで……じゃあ、まあ……どうぞ、へっへっへ……お達者で……」
「なんだい、お達者で死ねるかい?」
「えへへへへ……どうにも口がきけませんなあ……じゃあ、まあ、よろしくおつたえねがいます」
「だれによろしく?」
「お閻魔《えんま》さまへよろしく……」
なんてんで、いろんなことをいっております。
そのうちに、たいこもちのひとりが立ちあがって、
「おい、おわかれだよ」
と、いいましたから、二階へあがって、顔をなおしたり、着がえをしたりしていた芸者たちが、あわてておりてまいります。ひょいとみると、いままでじょうだんをいっていた旦那が、経帷子に、ひたいのところに三角の紙をはって、棺のなかで合掌《がつしよう》を組んでおりますから、そこは女のこと、芸者連中が、いっせいに泣きだしました。そのそうぞうしいこと。
「おい、一八、このなかにはいってるのはおもしろくねえや」
「どうせ早桶のなかでござんすから、おもしろいはずはございません」
「たばこをのみたいもんだ。しかし、たばこをのむあいだ、ふたをとってもおけまいから、上へ大きな穴をあけて、煙だしをこしらえてくれ。横に穴はあるけれども、煙は、上へぬけなくっちゃあいけねえ……ああ、ありがとう。それでいい、それでいい……うん、うまいぐあいだ」
「おい、旦那が、早桶のなかで、たばこをのんでる。ごらんよ、早桶から煙《けむ》がでるぜ。まるで焼きいも屋のへっついだ」
「おいおい」
「仏さまがお呼びだ……へい」
「その吸いもの膳《ぜん》やなんか、そっちへかたづけといたほうがいいよ。あっ、そうだ、うっかりしてた。おらあ、出立《でた》ちのめしを食わなかったな」
「じょうだんいっちゃあいけません。仏さまが、出立ちのめしを食うてなあ聞いたことがありませんよ」
「そうかな……まあ、いいや。おいおい、おめえたち、いくらたいこもちだって、なんだい、そのはかまのはきようは? 満足にはいてるやつは、ひとりもありゃあしねえ。なんてみっともねえかっこうをしてるんだ。そりゃあ、うしろがさがっちゃってるからだよ。もっと上へあげるようにするんだ。あれっ、せっかく紋つき、はかまなんだから、白《しろ》足袋《たび》をはきなよ。だれだ、紺足袋なんぞはいてるのは?」
「なんだい、こんなに叱言《こごと》ばっかりいう仏さまははじめてだ」
いよいよ正午《ひる》をすぎましたので、これから伊勢屋を出棺いたしましたが、芸者が五十人ばかり白無垢《しろむく》のそろい、たいこもち連中も五、六十人ばかり紋つき、はかまでつきそっての行列でございますから、そのきれいなこと、途中は、まるでお祭りのようなさわぎでございます。麹町をでて、深川の浄光寺へいくまでのあいだ、ずっとひとがつづくというくらいで、町人の葬式といたしましては、たいへんな景気でございます。
浄光寺に着いて、さあ、棺を本堂へかつぎこもうというときに、たいこもちのひとりが、
「どうだい、早桶をももうじゃあねえか。旦那は、酔っぱらうと、おみこしのまねをするのがお好きだったから、おみこしのまねをしてかつぎこもうぜ」
「よかろう」
てんで、みんなで、
「あらあらあらあら……わっしょい、わっしょい、わっしょい、わっしょい」
なんてんで、もみながらやってまいりますと、ひとりが、つーっとすべったから、肩がはずれて、どたーりと早桶をほうりだしました。
「いてえ……ああ、いてえ、いてえ。おい、しずかにしろい」
「あっ、たいへんだ。仏さまが、なんかいった」
「おいおい、あけてくれ。いてえ、いてえ。早くあけてくれ」
「なんだ、おい、仏さまが迷《まよ》っていらっしゃるよ……旦那さま、あなた、迷っちゃあいけませんよ。早く浮かんでくださらなくっちゃあこまりますから……なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、どうか成仏《じようぶつ》してくださいよ」
「なにいってんだ。早くふたをあけろ」
「えっ、ふたをあけろ?! ……はいはい……ただいま、あけます……おや、旦那さま、まだ死なないんでございますか?」
「なにいってやんでえ。どこなんだい? ここは」
「深川の浄光寺で……」
「あっ、なるほど、たしかにそうだ」
「これから棺を埋めるところなんで……」
「じょうだんいうない。生きたまま埋められてたまるもんかい……ああ、腹がへっちまったなあ。なんか食いものはねえか?」
「食いものったって、なんにもありませんよ」
「なんにもねえ? しようがねえなあ。じゃあ、うなぎどんぶりでもそういってもらおうか」
「そんな、あなた、仏さまがうなぎどんぶりだなんて……もう埋めるんですから……」
「ふざけるな。埋めたりすると、はりたおすぞ」
「どうも荒っぽい仏さまだな……なに? 和尚が、仏に魔がさしたんだろうから、早く埋めちまえといってる?」
「おいおい、和尚にそういってくれ。伝次郎は、まだ死んでねえって……」
そういって、棺からでたものの、金は、みんなほどこしてしまい、いまさらどうすることもできません。しかたがありませんから、和尚にはなしをしますと、和尚もさすがに名僧でございますから、
「こういうこともないとはかぎらない。それでは、祠堂金《しどうきん》の百両をおかえし申すから、これをもって身をお立てなさい」
といってくれましたが、まさか百両そっくりはもらえません。押し問答の末、そのうちから二十両もらいうけて寺をでましたが、もとより麹町のうちへは帰れませんし、親戚もございませんので、その金を持ってぶらぶらあそんでおりますうちに、いつのまにか、一文なしになってしまい、あのときに、いっそ死んでしまったほうがよかったと、くやんでみたが、いまさらどうにもなりません。
ある日のこと、芝の札《ふだ》の辻《つじ》までやってまいりますと、ひとりのうらない者が、編《あ》み笠《がさ》をかぶって、しきりにひとをあつめて、なにかしゃべっております。
「さあ、お立ちあい、縁談、金談、失《う》せもの、身の上判断、なんでもみて進ぜる。見料《けんりよう》お持ちあわせのないかたは、ただでよろしい。お持ちあわせのかたは、おぼしめしをちょうだいする」
「おねがいします」
「はい」
「人相をひとつみておもらい申したいんで……」
「はいはい、おとしは、おいくつかな?」
「去年二十五だったから、ことしは、二十六で……」
「よけいなことをいわんでもいい……おお、おまえさんは、伊勢屋のご主人伝次郎さんだな」
「あっ、先生、あなたにお会いしたかった」
「いや、ご立腹はごもっともだ。わしもおまえさんに会いたかった。このかわったようすをみて、おおよそおわかりだろうが、おまえさんが、わしのいうことを聞いて、ほどこしをして、二月十五日に死んで、とむらいをだしたといううわさを聞いた。ところが、死なないで、寺から逃げ帰ってしまったというので、翌日、わしは奉行所へよびだされて、ひとの命数をみて、天機をもらしたというところから、所払いになった。わしは、長年、多くのひとの人相をみて、これまで一度もまちがいはなかったのに、おまえさんばかりはちがったというのは、どうもわからない。これには、なにか仔細《しさい》のあることとおもい、縁があったら、おまえさんにいま一度会いたいものと、この札の辻は、土地の境《さかい》で、江戸の部でないから、ここへきて店をだして、諸人の易をみながら、おまえさんのくるのを待っていたんだ。もしもおまえさんが、『おれをだましたから生かしておかない』というのなら、わしの首をさしあげてもよろしいが、その前に、いま一度、人相をみせてくださらんか?」
「ああ、なんべんみてもいい」
天眼鏡をとって、つくづくと伝次郎の人相をみていた白井左近が、膝をたたいて、
「伝次郎さん、おまえさんは、なかなか急には死なない。いま、わしがみるところでは、長命だ」
「いまさら、そんなばかなことをいって……」
「まあまあ、お聞きなさい。七十は、古来稀《ま》れというが、八十、九十、ことによると、お前さんは、百を超《こ》えなさるかも知れない。どうもふしぎなことがあるもんだ。去年みたときには、たしかに命数尽きていたひとだが……おまえさん、なにか、ひとだすけでもしたことはないか?」
「ええ、あります」
「ある? どこで?」
「去年の暮れのことで、新宿であそんでおりました。ところが、風がたいへんに吹いてきました。もらい火はしかたがないが、自火をだしたくありません」
「もっともだ」
「ところで、奉公人まかせにしてありますから、うちを案じて帰る途中、食いちがいのところまでくると、松の根方《ねかた》で、ふたりの女が、しくしく泣きながら、いま、細帯をひっかけて、首をくくろうとしておりました。それをたすけて、はなしを聞いてみると、娘が、主人の金をあずかってつかいにゆき、二百両というものを、おとしたか、とられたかわかりませんが、とにかくなくなしてしまったために、娘の身に濡れ衣がかかりました。ほかにしようがございませんから、母子で死んで申しわけをするというようなことで……『まあ、おまえさんたちは、金がなくって死になさる。わたしは、金があっても命がない。金ですむのなら、二百両、わたしがあげるから、死ぬのをよしなさい』といって、ふたりをたすけました」
「それだ、それだ。唐土《もろこし》にも、そういう例《ためし》があるし、わが朝《ちよう》にも、いくらもそんなはなしはある。早くいえば、金で命を買うようなもので、ふたりの命をたすけたがために、おまえさんが長生きをすることになった。これは、天理のしからしむるところだ。金は、つかい果たしてしまっても、寿命がのびれば、こんなしあわせはない。寿命があれば、金はできる。そこで、おまえさんは、ことしは、南のかたに運がある。北はいけないよ。敗北といって敗ける。死ねば北枕といって、あんまりいいほうへはつかわない。南のほうへさえゆけば運にぶつかる。なにしろ、わしがひとこといったために、身代をつぶしてしまったのは、まことに気の毒だった。わしのうちへ案内をして、粗茶でもさしあげたいが、どうもむさくるしいうちだによって、こういたそう。ここに百疋《ぴき》ある。これをあなたにあげるといっては失礼だから、あげるのではない、ご用立てをするから、ご身分ができてのち、おかえしくださるとも、また、おかえしくださらんでも苦しゅうない。あなたが、ふたたびりっぱなものになってくだされば、わしの所払いもおゆるしになり、天下に白井左近の名前をあげることもできる。しかし、おまえさんがほどこしをしたために、どのくらい、世間にたすかったものがあるか知れない。このむくいがきっとくるから、わしのことばをうたがわずに、南のほうへむかっておいでなさい。もうじきに運にぶつかる」
「どうもありがとう存じます。ごきげんよろしゅう」
と、伝次郎は、もとより善人だから、左近にもらった百疋の金をふところにいれて、南のほうをむいてでかけました。
「おいおい、聞いたか?」
「ああ、聞いた」
「南のほうへいくと、運にぶつかるというんだ。いっしょにいってみようか」
「ばかあいえ。こちとらがいったって、運になんぞぶつかるもんか。ぶつかりゃあ肥桶《おわい》屋ぐれえなもんだ」
「ああ、伝さん、伝さん」
「なんだい? ……おや、伊之さんじゃあないか。どうしましたい?」
「いや、もう、どうにもこうにも……おまえさんが、さんざんほどこしをしたり、あそびをしたりして、金をつかって、死んじまって、とむらいをだしたところが、死なねえで、どっかへ行方《いきがた》知れずになっちまったということを聞いて、わたしもかんがえた。人間は、一寸さきは闇だ。どうなるものかと、おやじの金を千両ばかり持ちだして、おまえさんのまねをした。すると、おやじに、『こんなやつはうちへおかれねえ』と、勘当されちまった」
「おやおや、そりゃあ気の毒なことをした。いま、どこにいなさる?」
「品川新宿の三田屋という酒屋の裏で、二間《ふたま》ばかりのうちを借りて、なまけものをあつめてさわいでいるが、伝さん、これからどこへいくんで?」
「なあに、易者が、南へむかっていけば運にぶつかるというんで、どこというあてもなく、南をさしてあるいてるんだ」
「それじゃあ、うちへおいでなさい。ここから、ちょうど南にあたるから……」
「そりゃあありがてえが、伊之さん、おまえさん、いまは、なんの商売していなさる?」
「なんにも商売なし」
「商売がなくっちゃあ、こまるだろう?」
「こまるにも、こまらねえにも、形《かた》なしさ」
「ひとりでさえこまるところへ、ふたりになったら、よけいにこまるだろう」
「なあに、なんとかなるさ」
「それじゃあ、伊之さん、ここに百疋のお金があるから、これで米を買ってきておくれ」
「百疋ありゃあ、米なんぞ買わねえで、坂の荒井屋といううなぎ屋へ中ぐしを二朱そういって、酒をとって、一ぱい飲んで、今夜、寝ずにはなしをしよう」
「そりゃあ結構だが、もう、これっきり金はないよ」
「なあに、あしたは、あしたの風が吹くから、心配はいらねえ」
のんきなひとが、ふたりあつまって、その晩は、一ぱいやって、あくる朝になると、楊枝《ようじ》をつかって、顔をあらってしまったが、伊之助が、めしのしたくをしません。
「伊之さん、朝めしは?」
「朝は、おやすみだ」
「おひるは?」
「おひるは、日延《ひの》べということにしよう」
「じゃあ、夜は?」
「夜は、形なし」
「それじゃあ、まるで食わないんじゃあねえか。それだから、ゆうべ、そういったら、あしたは、あしたの風が吹くといったろう?」
「ところが、まるっきり風が吹かねえからしようがねえや……世のなかは、花が盛りだ。もう、胴着を着ていねえでもいいから、ぬいじまおう」
「胴着をぬいでどうする?」
「江戸なら二分貸すが、ここらじゃあ一分二朱しきゃあ貸さねえ。これをまげて(質にいれて)うなぎを食おう」
「よくうなぎばかり食いたがるね」
気のあったふたり暮らしで、まことにのんきでございます。
さて、その翌日、家主が、伊之助のうちへやってまいりまして、
「はい、ごめんよ」
「おや、こりゃあ大家さんで、おいでなさいまし。ええ、これは、わたしの友だちのちきり伊勢屋の主人の伝次郎さんで……」
「ああ、おまえさんが、ちきり伊勢屋のご主人か。かねてうけたまわってはいるが、いいことをなすったそうだね。さだめしいいこともあるだろう……で、ときに、伊之助さん……」
「へえ……大家さんにそうあらたまられるとこまりますんで……店賃《たなちん》もろくろくいれないで、まことに申しわけございません。そのうちに、まあ、なんとかいたしますから……こんなきたないうちですが、どうぞ、おあがりください」
「おいおい、あんまりきたねえ、きたねえといってもらいたくねえなあ。おれが貸してあるうちだよ」
「あっ、こりゃあうっかりしちまってすみません。とにかく店賃のところは……」
「いや、きょうは、店賃の催促じゃあないよ」
「ああ、とることをあきらめましたか?」
「ばかなことをいっちゃあいけねえ……じつはな、きょうきたのは、ほかじゃあねえんだが、おまえさんたちふたり、いい若い者がぶらぶらしてるのもなんだから、どうだ、駕籠《かご》屋でもやってみないか?」
「えっ、駕籠屋を?」
「うん……というのはな、もと長屋にいたやつが、辻駕籠をかついでいたんだが、家賃がたまったんで、長屋をでていくときに、その抵当《かた》にというんで、金ができしだいとりにくるといって、駕籠をあずけていったんだ。ところが、もう五月《いつつき》にもなるんだが、いまだにとりにこない。どうせあいてるもんだから、ふたりでかついでみたらいいだろうとおもうんだが、どうだい? 札の辻あたりへいって、品川へあそびにくる客を乗せたら、いい収入《みいり》になるだろうよ」
「なるほど、伝さん、おまえはどうだい?」
「ああ、いいかも知れない。わたしもずいぶん駕籠に乗ったこともあるが、駕籠賃なんぞ値切ったこともなし、いつも祝儀をやってたから、なかには気前のいい客もあるだろうよ。ひとつやってみよう」
「じゃあ、大家さん、伝さんもああいってますから、やらしてもらいます」
「そうかい。やってみなさい。若いんだから、どんどんかせいで、店賃もいれておくれよ」
「へえ、それじゃあおねがい申します」
と、日の暮れがたから、ふたりは、したくをして、札の辻へまいりましたが、ほかの駕籠屋は、みんな商売人でございますから、うまく客をつかまえてはどんどんいってしまいます。ふたりだけがあとへのこって、
「ねえ、伝さん、こうしてだまっていちゃあ、お客が乗ってくれやしねえ。おまえさん、やれるかい? 声をかけるの……」
「だめだよ。伊之さん、おまえ、やってみておくれな」
「えっ、わたしが? きまりがわるいなあ……じゃあ、やってみるか……へい駕籠、へい駕籠」
「うまい、うまい。いい声だねえ」
「ああ、これでも、もとは、清元の師匠にほめられたんだ」
「うふっ……駕籠屋のかけ声と清元といっしょにするやつがあるもんか」
「へい駕籠、へい駕籠」
「ああ、あすこへ、はんてんを着たおつなひとがきた。あのひとに乗ってもらおう。ええ、こんばんは……親方、駕籠へ乗っておくんなさい」
「いらねえよ。近《ちけ》えところなんだから……」
「近いところ、結構で……お供《とも》しましょう」
「いいよ、湯にいくんだから……」
「お湯ですか……お湯までいきましょう」
「ふざけるない。駕籠で湯にいくやつがあるもんか」
「ああ、いっちまった……へい駕籠、へい駕籠」
「おい、駕籠屋」
「へい」
「品川までいくらだ?」
「へえ、三分(三千文)ください」
「じょうだんいうない。百というところだが、二百やらあ。いせいよくやってくんねえ」
「へえ、よろしゅうございます。さあ、お乗んなさい」
「さあ、乗った。早くやってくれ」
「伝さん、おまえ、前をたのむよ。わたしは後棒《あとぼう》にまわるから……」
「こまったなあ。こうかついで、息杖《いきづえ》をついた日にゃあ、ちょうちんが持てねえ。ねえ、お客さま、どうか、ちょうちんを持ってくださいな」
「ふざけちゃあいけねえ。どこの国に、駕籠へ乗って、ちょうちんを持つやつがいるもんか」
「そんなことをいったって、駕籠をかついで息杖をつくと、ちょうちんを持つことができません。おまえさんのためにかつぐんですぜ。いやなら、わっしが乗って持ちますから、おまえさんかついでおくんなさい」
「たいへんな駕籠に乗っちまったなあ。しかたがねえ。さあ、よこしねえ。持ってやるから……」
「このぞうりはいらねえんですかい?」
「そんなことがあるもんか。さっき買ったばかりだ」
「駕籠をかついでいってしまったあとにのこしておくと、なくなっちまいますよ」
「ふざけちゃあいけねえ。ぞうりなんざあ、駕籠かきが始末《しまつ》してくれるのがあたりめえだ」
「自分のはいてるぞうりぐらい、自分で始末したらどうなんです?」
「おどろいたなあ。こんな駕籠ははじめてだ。こっちへだしねえ。さあ、早くやってくれ」
「へえ、あがりますよ……ああ重《おも》い。伊之さん、たいへんなやつを乗っけちまったな。生きていてこのくらい重いんだから、こいつが死んだら、なお重かろう。だまってちゃあ重いから、声をだそう」
「ああ、そうしよう。やっしょい」
「やっしょい」
「やっしょい」
「やっしょい。もし、お客さん、ちょうちんを、もっとずっとだしておくんなさい。さきがみえねえから……やっしょい」
「やっしょい」
「おい、駕籠屋、雨が降ってきたのか?」
「いいえ、星が降るようで、いい晩ですよ」
「そうかい……おかしいな。いま、霧みてえなものが顔へあたったが……」
「ああ、そりゃあ、ちょっと小便をしたんで……」
「らんぼうなやつだな」
「あははは、こうみたところ、どうしたって駕籠のお化けだ。なかから長い手がでて、ちょうちんがぶらさがってる。これで、駕籠がうごかなけりゃあ、なおおもしろいんだが……」
「おいおい、おもしろがってちゃあしようがねえな。早くしねえか。品川までいきゃあいいんだ」
「品川ねえ……そう早くは着きませんよ」
「いつ着くんだ?」
「あしたの晩ぐらいには……」
「ばかにするない。おろせ、おろせ。もう、ここでいいや。それっ、駕籠賃をやらあ」
「へい、ありがとうございます。どうぞ、これをご縁にごひいきを……」
「なにいってやんでえ」
「あーあ、客を怒らして、二百とった。いきなもんだ」
「いや、伝さん、かんしゃく持ちは損だねえ。腹を立てて、二百損をしていっちまった」
「もし、駕籠屋さん、品川までやっていただきたいね」
「へい、ありがとう存じます」
伊之助がでて、しきりにおじぎをしております。
その客のすがたをみますと、黒の羽織、ちいさい紋がついておりまして、服装《なり》もやわらかもので、白足袋に雪駄ばきという、どうみても芸人というこしらえの男でございます。駕籠に寄りかかって、じっとみていました伝次郎が、
「おい、伊之さん、その男に、おれが、すこしばかり用がある」
「なんだい、その男とは? お客さまだぜ」
「お客さまでもなんでもいい……おい、おまえは、一八じゃあねえか?」
「ええ、わたしは、たしかに、たいこもちの一八でげすが、駕籠屋さんに呼びすてにされるわけがありません」
「吉原にいた一八だな?」
「へえ……」
「わたしの顔をわすれたか?」
「え? ……あっ、あなたは、ちきり伊勢屋の旦那さま! ……どうして、まあ……」
「二月の十五日に、おまえたちにかつがれて、麹町から深川まで棺桶へはいっていった伝次郎だ。こんどは、八十まで生きるとさ」
「そりゃあ、おめでとう存じます」
「ちっともおめでたくなんかあるもんか。いまじゃあ、やはり麹町の紙屋のむすこさんで、女に惚れて勘当されたこの伊之助さんのうちに居候《いそうろう》をしているんだ。駕籠屋は、今夜がはじめてで、骨折ってるんだ。おまえには、去年の八月ごろから今年の正月まで、ずいぶん着物もこしらえてやったなあ」
「へえ、いろいろちょうだいいたしまして、ありがとう存じます」
「いま着ている着物と羽織に、うちの紋がついているところをみると、そりゃあ、わたしがこしらえてやったものだな?」
「へえ、たしかに、あなたからちょうだいいたしましたんで……」
「べつに恩にかけるわけじゃあねえが、それをぬいで、ちょいと貸してくれ」
「へっ、こりゃあおどろいたなあどうも……こんなところで駕籠屋の追いはぎに出会おうとはおもわなかった」
「ぐちをこぼすなよ……金は、持ってるか?」
「ええ、二両ほどございます」
「そうかい。じゃあ、そのうち、一両だけ、おれに貸してくんな。なあに、世にでたら、きっとかえすから……」
「駕籠屋が世にでるてえのは、あんまりあてにならねえ」
しぶしぶながら、一両の金をだし、羽織と着物をぬいで、
「へえ、帯だけは、どうぞごかんべんをねがいます」
「ああ、すまねえ、すまねえ。じゃあ、貸してもらうよ」
「じゃあ、どうぞよろしくねがいまして、ごめんくださいまし」
「はははは、おどろいていっちまやあがった……まぬけな野郎だ。駕籠に乗ろうとおもって、その駕籠屋に着物を追いはぎされて、一両の金までとられりゃあ世話あねえや。なあ、伊之さん、一両あるし、羽織も着物もあるしするから、もう帰って寝ちまおう」
「よかろう。そうしよう」
翌日になりますと、
「伊之さん、この羽織と着物はねえ、一両二分は貸すとおもうんだ」
「貸すかねえ?」
「ああ、あたしはねえ、もともと質屋なんだから、たいてい見当はつくんだ。きょうは、あたしがいってくるから……」
伝次郎が質屋へいって、例の羽織と着物をみせますと、番頭は、伝次郎の風体《ふうてい》と品ものをみくらべておりましたが、あやしいとおもったものか、
「どうも、てまえどもでは、ちょっと目がとどき(値ぶみができない)かねますので……」
「おいおい、この着物と羽織は、けっしてあやしいもんじゃあねえんだぜ」
「へえ、そうでもございましょうが……へへへへ、てまえどもではどうも……」
「ふーん、そうかい。じゃあ、他家《わき》へいってみせよう」
伝次郎が、着物と羽織を持ってでてまいりますと、あとから追ってきた女中が、
「あのう……失礼ではございますが、あなたさまは、麹町のちきり伊勢屋伝次郎さまではございませんか?」
「そうおっしゃられますと、いまさら、めんぼくしだいもございませんが、じつは、ちきり伊勢屋伝次郎の成れの果てでございますが……なんのご用で?」
「ちょっと、てまえどもの主人が、あなたさまにお目にかかりたいと申しておりますので、どうぞ、お越しくださいまし」
「へえ……いったい、どういうご用なんで?」
「さあ、どうぞ、こちらへ……」
女中に案内されて、二階の十畳の座敷へ通され、座ぶとん、お茶、たばこ盆とでたところへはいってまいりましたのは、ひとりは、四十五、六の大年増《おおどしま》で、人品のよいおかみさんと、あとからついてきたのが、十六、七のきりょうのいい娘でございます。
「おひさしぶりでございます。よくまあ、お達者で……」
「え? ……どうもおそれいりますが……なにか、ひとちがいをなすっていらっしゃるのでは? わたくしは、あなたがたをおみかけしたことがございませんが……」
「いえ、夜分お目にかかりましたから、おわすれになったのももっともではございますが、昨年の十月、赤坂の食いちがいで、この娘と首をくくろうというときに、二百両というお金をいただきまして、命をたすけていただいたものでございます」
「あっ、そうでしたか。あのときの……」
「おかげさまで、命もたすかり、こうして店をやっておれますのも、みんな、あなたさまのおかげでございます」
「へえ、そりゃあようございましたねえ。しかし、それにひきかえて、わたしは、白井左近のいうことを聞いて、身上《しんしよう》すっかりほどこしてしまいまして……しかし、ひとさまをおたすけしたおかげで、こんどは、八十以上まで長生きをするといわれましたが、こんなすがたになって、これ以上長生きをしたところでしかたがございません」
「まあ、とんでもないことをおっしゃいます。人間、寿命さえあれば、また、どんな運にめぐりあわないともかぎりません……あのう、じつは、あなたさまに、ひとつおねがいがあるのでございますが……」
「わたしのようなものにどんなことを?」
「はい……おねがいと申しますのは、これにおります娘のことでございます……まことにふつつかなものではございますが、この娘に相当の婿《むこ》をとってやりたいとおもっておりましたところ、きょう、あなたさまが、店にいらっしゃったことが知れましたので、こうしておまねき申しましたようなしだいで……どうぞ、娘にご不足がなければ、婿におなりあそばして、わたくしどもの一家をたすけてくださいまし。もしも養子になるのが、おいやでございましたら、嫁にさしあげましても、どちらにいたしましてもさしつかえございません。どうぞ、この娘《こ》をあなたさまの家内《かない》にしてくださいますれば、こんなうれしいことはございません。ここで、もとの通り、あなたさまののれんをおかけあそばそうとも、麹町のほうへお帰りあそばそうとも、娘さえ家内にしてくだされば、わたしは、よろこばしゅう存じますから、どうぞ、ご承知をねがいます。なにとぞ、わたくしどものうちの婿になってくださいますように……」
と、涙ながらにたのまれました。
濡れ手に粟《あわ》のつかみどりとは、このことでございます。
伝次郎もかんがえてみますと、こんないい娘を女房にして、また、質屋の旦那になれるなら、駕籠をかついでいるよりよっぽどいい。白井左近が、品川のほうへいけば運がむくといったのはここであろうと、心づきましたから、かたちをあらためまして、
「まことにかずかずのお心づくしありがとう存じます。いまでは、みるかげもないこの伝次郎、それほどまでにおっしゃっていただきまして身にあまるしあわせでございます。どうぞ、よろしくおねがいいたします」
と、ここで相談がまとまって入り婿となり、のちに、麹町の地面を買いもどして、ちきり伊勢屋ののれんをふたたび起こしました。
父親が強欲のために衆人を苦しめた罪が、伝次郎にむくい、ひとたびは、命をちぢめましたが、かずかずの善行の結果、天の罪科もたちまち消えて長寿をたもちました。
「積善の家に余慶あり」――ちきり伊勢屋のおはなしは、めでたくおわらせていただきます。
お茶汲《く》み
「おう、今夜あたり、でかけてえもんだなあ」
「そうだな」
「おう、熊さん、おめえ、ふところは、あったけえかい?」
「え?」
「いえ、ふところは、あったけえかよ?」
「あったかいねえ」
「そうかい」
「ああ、腹巻きが、一丈二尺あるんだ。それに、シャツを着てね、腹がけをかけているんだ。かなりあったけえねえ」
「よせやい。そのあったけえてえんじゃあねえや。銭《ぜに》があるかてえんだい」
「銭ならねえんだ」
「早くいうがいいやな。留さん、どうだい、ふところは?」
「夜ふけの隅田公園」
「なんだい?」
「さびしいよ」
「よせやい。そんなことは聞いてやあしねえやい。金ちゃん、どうだい?」
「お銭《あし》かい?」
「そうよ」
「あいにくだねえ」
「なにをいやあがる。あいにくなんてえのは、てめえたちがつかうことばじゃあねえや。始終銭《しじゆうぜに》を持っているひとが、たまにねえから、あいにくてえんだい。てめえは、春夏秋冬、始終あいにくじゃあねえか」
「東郷元帥が、日本海海戦で、Z旗をあげたときから、おらあ、あいにくだ」
「ずいぶん長えあいにくだなあ。寅さん、どうだい、銭は?」
「ないっ」
「こりゃあ、また、ずいぶん早かったなあ」
「ああ、早く答えようとおもって、口あいて待ってた」
「つまらねえことを待ってるなよ。源さんは?」
「おなじくだねえ」
「だんだん手軽になってきたねえ。民さん、おめえ、どうだい、銭はあるかい?」
「紙幣《さつ》か、銀貨か?」
「おお、たいそう景気のいいひとがいたねえ。女郎買えにいくんだ。紙幣でも銀貨でも、どっちでもいいんだ」
「どっちもねえやい」
「なにをいやあがるんだい。ねえのにいばるなよ……文ちゃん、おめえ、どうだい?」
「おう、なまいきなことをいうんじゃあねえがね、おれは、おやじの遺言《ゆいごん》なんだよ。『男てえものは、ひとなかへでて、銭のことで恥をかいちゃあならねえぞ』と、いわれてるんだ」
「えれえなあ。いくらか銭をだしてくんねえな」
「遺言はそれにちげえねえんだが、おれは銭はねえ」
「くだらねえことをいって、手数をかけるじゃあねえか、こいつは……新ちゃん、おめえ、どうだい、ふところは? 銭はあるかい?」
「さあ、かんべんならねえことをぬかしゃあがったな、このけだものは……そこじゃあ、はなしがわからねえ。もう一寸八分ばかり前へでてくれ」
「なんだい?」
「柄《がら》をみてものをいいな。ひとをみて法を説《と》きなよ。銭があるかとはなんだ! あんまりばかにしているじゃあねえか。こちとらあな、男は、敷居《しきい》をまたげば、八人の敵があるくれえは心得ているお兄《あに》いさんだ」
「おっと、待ってくんな。たんかを切ったところは、たいそうにらみが強いが、いうこたあどじだな」
「なにが?」
「男は、敷居をまたげば、七人の敵てえなあ聞いたが、八人てえと、ひとり多いや」
「多けりゃあ、養老院へいれちまえ」
「なにをいやあがるんだ。銭があるかい?」
「あるかいとはなんだっ、こちとらあ、江戸っ子だ。職人だ。銭なんざあ、じまんじゃあねえがな……」
「あるのか?」
「ねえんだ」
「よせやい。つまらねえことをいっちゃあ、手数をかけてやあがる」
「おう、兄い」
「なんだい?」
「さっきから、おめえ、みんなのふところを聞いてるな」
「うん」
「みんなのふところを聞くからにゃあ、おめえ、いくらか心得てるのか?」
「おれがあるくれえなら、聞きゃあしねえやい」
「なあんだ。それじゃあ、ここにいるもなあ、みんな銭がねえんだな」
「そうだよ。掘抜きの井戸だ」
「どうしたい?」
「金っ気《け》、さらになし」
「おやおや、とてもお女郎買いにはいけねえな」
「お湯へもいけない」
「酒も飲めねえ」
「水も飲めねえ」
「よせよ。あんまり不景気だなあ」
「不景気といやあ、また、この町内もそうじゃあねえか。たまには、どこそこの金満家の若旦那をとりまいて、女郎買えにおんぶでいく(相手のおごりでいく)ような、そんな金持ちのむすこに、なじみのあるやつはねえかい?」
「あるよ」
「そうか。どこのむすこだい?」
「となり町の質両替《しちりようがえ》屋のむすこなんだ」
「質両替屋なら、金はうんとあるな」
「あるとも……『ひさしく十円|紙幣《さつ》で、はなをかんでみねえ』なんて、そういってらあ」
「おお、たいそうな金持ちだなあ。女郎買いにいくかい?」
「さあ? 女郎買えか? そいつあ、すこしむずかしいな」
「うちがやかましいのか?」
「そうじゃあねえんだ。としが若《わけ》えんだ」
「べらぼうめっ、としが若えたって、きょう日《び》の子どもはませてらあ。十七、八か?」
「もっと若えんだ」
「十五、六か?」
「もっと若えや」
「十二、三か?」
「もうすこし若えんだ」
「いくつだい?」
「去年の春生まれたんだ」
「ばかっ、そんな赤ん坊が女郎買いにいくかい」
「女郎買いにはいかねえけれども、お神楽《かぐら》だと、よくみてるぜ」
「ふざけるないっ」
「ええ、こちらは、としが、四十六ヵ年と八ヵ月になりますがなあ」
「なんだか、葭町《よしちよう》の千束屋《ちづかや》(職業紹介所の名)へいったようだね。金があるかい?」
「あるとも、ふんだんにあるから、ひとに日貸しを貸しつけてらあ」
「そいつあ豪儀《ごうぎ》(すばらしいようす)だなあ。女郎買えにいくかい?」
「さあ? 女郎買えは、すこしあぶねえんだ」
「なんだい、そのしろものは?」
「産婆《とりあげばあ》さんなんだ」
「なぐるぜ。産婆《とりあげばば》あが、女郎買いにいくかい」
「女郎買いにはいかねえが、虫がかぶると(産気づくと)、すぐにくらあ」
「なにをいってやがるんだ!」
「えへへへ、こんにちは……」
「おやっ、おかしなやつが、へえってきゃあがった。半公じゃあねえか。どうしたい?」
「いやはや、どうもこうもねえ。ちかごろは、ばかな運勢だねえ」
「おめえがか?」
「うん、なかんずく、序文《じよぶん》たるや満々《みちみち》たるものですな」
「なんだい、その序文たるや満々てえのは?」
「女運《おんなうん》よ」
「それをいうなら、女運《じようん》たるや満々《まんまん》だろう?」
「そうともいわあ……なにしろ、このぶんでいくと、むこう五日間と、からだがもたねえ。きょうあたりは、往来をあるくと、腰が、ふーらふら、ふーらふらするんだ」
「どうして?」
「ゆうべのおつかれでね」
「ゆうべ、大掃除でもしたのかい?」
「なにをまぜっけえしやがるんだ。ゆうべ、吉原《なか》へくりこんでな、ばかなもてかたをしてきたんだ」
「よせやい。てめえ、あすこの楼《うち》じゃあ、あんまりおつな客じゃあねえんだぜ」
「まあ、聞けやい。ゆうべはね、初会《しよかい》なんだよ。おらあ、初会で、あんなもてかたをしたてえなあはじめてだねえ。まんじりともしねえんだよ。一晩寝ずてえんだ。だから、きょうあたりは、おもてをあるいても、腰が、ふらふらしている。とても駈《か》けだすことなんぞはできねえ。おてんとうさまを真向《まむ》きに拝《おが》むことができねえんだ」
「どうしたわけなんだい?」
「はなしをすりゃあ、こうなんだ……きのうな、腹がけのどんぶりに、銭が二両ばかりあったんだ。夕方から、ぶらりっと浅草へあそびにいった。活動写真をみたってつまらねえし、池(ひょうたん池)のまわりをまごまごしていたが、あすこへいくと、人情だねえ、北(吉原方面)へ北へと足がむかっていくんだ」
「赤とんぼみてえな足だなあ」
「大門《おおもん》をまたいだのが、ちょうど、いま、あかりがついたばかりというところだ。吉原《なか》の世界は、これからてえところだ。しょせん、いつもの楼《うち》の前に立つんだ。女に顔をみせるんなら、ちょいと小ぎれいになったところをみせてやろうという、おれの女に対する情けある了見《りようけん》から……」
「おう、ずうずうしいことをいやあがるな、こいつあ……情けある了見とは、いったねえ……どうしたい?」
「揚屋町《あげやまち》の湯へはいったよ。前の品川家でさわいでいる、三下《さんさが》りのさわぎを聞きながら、お湯にあったまって四銭は、安いとおもったねえ」
「いやな野郎だなあ、こいつあ。ひとの銭で保養をしてやあがる」
「湯からでて、おでん屋でカブトをきめて(升で冷酒を飲んで)、茶めしを食って腹ができた。これから、ひやかしはじめた。いつもの楼《うち》の前を通り越して、左へまがる。右側の楼だ。あれでも、女がいたら、七人ぐれえはいたろう。四人《よつたり》ならんでいる上《かみ》(右手)の女が目についたから、おらあ千本格子《せんぼんごうし》に立つと、若え衆が、世話をやきはじめた。『おう、若え衆さん、おめえんところの玉《ぎよく》(遊女の揚げ代)は、いくらだい?』『もし、親方へ、おみうけ申すところ、玉のことなんぞを申しあげるもやぼのようで……いかがでございましょう? あっさり宇治でもいれて、七十銭では?』と、きた。『おう、若え衆さん、それでいいからと、あがったあとで、なんだ、かんだと、文句入りはごめんだぜ』『いえ、さようなことはございませんから……』『そうかい。それじゃあ、厄介《やつけえ》になろう』と、あがった。はじめてあがって、若え衆が、『初会ですか? おなじみですか?』てえなあ紋切り型だ。『おう、若え衆さん、初会《しよけえ》なんだが、どの女でもいいから揚《あ》げてくんなと、通《つう》がって、気にいらねえ女がきて、つんとするなんぞは、やぼなはなしだ。岡惚《おかぼ》れしてる妓《こ》があるんだが、買わしてくれるかい?』『へいへい、どのお妓さんでも、おとりもちいたします』『それじゃあ、上《かみ》にいる妓を揚げてくんな』『かしこまりました』と、若え衆はおりてゆく。いれかわって、新造《しんぞ》が、でがらしの茶をいれてな、お盆の上へ半紙を敷いて、おもちゃせんべいをうずたかく盛ってあるというていさい、女郎屋の台のものだか、地主《じぬし》のおいなりさまへお長屋からあげるお供物《くもつ》だかわからねえや」
「心ぼそいあそびだなあ」
「やがて、上《うわ》ぞうりの音がして、ひきつけ(女郎屋で、客と遊女と逢わす部屋)の障子が、ガラリとあいて、女がへえってきたかとおもうと、おれと顔をみあわせて、『きゃーっ』といって、女が、そとへとびだした」
「ふーん、どうしたい?」
「しばらくすると、また、へえってきたが、なんとなく座敷がてれらあ。すぐにおひけになってしまった。さて、これからでありますよ」
「なにが?」
「わたしの腰がふらふらするという原因は、ただいま、ふたりは、蝶蝶喃喃《ちようちようなんなん》(男女がうちとけて語りあうさま)として恋を物語るのであります。チテータッタ……」
「な、な、なんだ。だれも活動(映画)の説明なんぞを聞いてやあしねえや」
「女のいわくだねえ、『さっき、わたしが、ひきつけで、だしぬけに、きゃーっといったときには、さだめし、あなたは、びっくりなすったでしょう?』『そりゃあしたよ』『あれについては、深いはなしがあるんです。初会で、ほかにはなしもなし、寝られもしない。どうです、わたしのいうことを、ほんとに聞いてくださいませんか?』というから、『ああ、聞くとも、女のいうことなら、なんでも信用する男だから……』と、そういった」
「なるほど、うめえことをいったねえ。女のいうこたあ、信用しそうだよ、おめえは……」
「そこで、女のいうにゃあ、『じつは、わたしは、東京のものじゃあありません。静岡の在のものですが、近所の若いひととできあったが、むこうもひとりむすこ、こっちもひとり娘、嫁にもゆかれなければ、養子にもこられないからだ、不了簡《ふりようけん》にも、親の金を持って、手に手をとって東京へ逃げてきたが、お金のあるうちは、あっちへ泊まり、こっちへあそびしていて、しまいには、つかい果たして二分《にぶ》ものこさない。はなればなれに奉公もしてみましたが、うだつのあがる(成功する)みこみもなし、あるときの相談に、まとまったお金があれば、商売ができるというから、わたしが、ここへ身をしずめて、男に金をみついでやったら、男は商売をはじめました。その当時というものは、手紙のやりとりをしていたのですが、しまいには、だんだん手紙がこなくなり、ばったりいたちの道(連絡がなくなること)、ああ、男というものは不実《ふじつ》なものだ。わたしが、そばにいないから、ほかに増花《ますはな》でもできたのかと、ひとをもって聞いてみますと、どっと病いの床についているというはなし。そばへいって、看護《みとり》看病《かんびよう》もしてあげたいが、そんなこともできない籠《かご》の鳥、早くよくなるようにと、信心もしたが、その甲斐《かい》も情けない、男は、とうとう死んでしまいました。日ごと、夜ごと変る男の座敷にはでていますが、どうしても、そのひとのことばかりは、あきらめることができません』てんで、女が、めそめそ泣きだすんだ」
「ま、待ってくんねえ、半さん、それじゃあ、おめえ、女にのろけを聞かされているようなもんで、ちっとも、おめえの腰が、ふらふらするわけはねえじゃあねえか」
「急《せ》くな、急《せ》くな。急《せ》いちゃあいけねえよ。ええ、これからなんだから、『からすの鳴かない日はあっても、そのひとのことをおもいださない日はない。今夜も、張り見世(遊女が店にならんでいること)で、うつらうつらとしていると、初会で、お名ざしといわれたから、よんどころなくあがっていって、ひきつけをあけると、その男が坐っていたから、おもわずきゃーっといってとびだしたが、かんがえてみれば、死んだものがいるわけもなしと、二度目の心をとりなおしてきたら、坐っていたのはおまえさん、ほんに、そのひとに瓜《うり》ふたつ、そっくりだよ』と、ちょいと、おれの頬《ほ》っぺたをつついて中入り……」
「つまらねえところで、中入りなんぞをするない。早くやってくれ」
「ええ、かきもちはいかが? 甘なっとうはよろし? ……お茶はようがすかな?」
「くだらねえまねをしてねえで、早くはなしをしねえな」
「『わたしは、今夜という今夜は、妙な気になった。牛を馬に乗りかえ、死ぬのも貧乏でしかたがない。これから、わたしのところへ通ってくれようか?』というから、『はなしを聞きゃあおもしろい。くるとも……』『ほんとう? まあ、うれしいよ』……てんで、ちょいと二の腕をつねって、十五分休憩……」
「あれっ、また休憩をしやあがった。早くやってくれ」
「『来年の三月、年期《ねん》があけたら、おまえさんのところへいって、世帯苦労をしてみたい。わたしのようなもんでも、女房に持ってくれようか?』『持つとも』『そんなことをいって、おかみさんがあるんだろう?』『かかあなんぞありゃあしねえよ』『そうかい。うれしいね、ほんとに、きょうは……』……てんで、ちょいと、おれの肩をつついて、十五分」
「仲入り、休憩かい?」
「停電」
「停電なんぞをするなよ」
「『だが、わたしが、そうなると、心配なことがある』『なんだ?』と、聞いたところが、『女というものは、としをとりやすい。世帯じみて、ふけやすい。そこへいくと、男はのんきだから、わたしにあきがきて、また、近所の若い女《こ》とできて、わたしがすてられるようなことがありゃあしないかとおもうと、女のとりこし苦労かは知らないが、行《ゆ》く末《すえ》をかんがえると、悲しくなってくるよ』てんで、女が、めそめそ泣きだすんだ」
「ふーん」
「『大丈夫だよ。おれにかぎってそんなこたあありゃあしねえよ』と、ひょいっと女の顔をみると、目の下へ急にほくろができた」
「なるほど」
「すると、そのほくろが、だんだんと下へさがるんだ」
「変だなあ」
「おれもおかしいから、よくみるとね、おう、ばかにしてやあがるじゃあねえか。おい、床の間に湯飲みがある。そんなかに茶がついであるんだよ。涙のかわりに、その茶をね、指さきへつけやあがっちゃあ、目のふちへなすってやあがったんだねえ。わりいことはできねえもんだ。茶がらが浮かんでたやつをなすったから、目の下へ、ぴたりとくっついちまった。そいつが、だんだんとさがってくるんじゃあねえか」
「おやおや、たいがいそんなこったろうとおもったよ。どうしたい?」
「おらあ、癪《しやく》にさわったがね、ふられてるわけじゃあねえ。もてているんだからね、むやみに腹を立っちゃあ損だ、というのが、まだ夜あけに間もあるしな」
「いやな野郎だな、こいつあ……」
「それを、うまくごまかして帰ってきたために、きょうは、ただ からだが、ふーらふら、ふーらふらするんだ」
「おい、半ちゃん、おめえ、これからも、その女を買うのかい?」
「じょうだんいうねえ。あんな水くせえ女、買えるもんか。ひねりっぱなしだ(一度だけだ)」
「それじゃあ、おれが買っても、苦情はねえかい?」
「ねえとも……たまには、おつだね、あんな女を買うのも……」
「それじゃあ買うぜ。いつもの楼《うち》の前を通り越して、左へまがった右っ側だって? なんてえ楼だい?」
「うちの名かい? うちの名は、安大黒楼《やすだいこくろう》」
「変な名だなあ。女は、なんてえんだ?」
「女の名は、紫《むらさき》てえんだ。年ごろは、二十五、六にみえるが、もう、八、九になっているかわからねえ。色の白い、眉毛のほそい、ひたいの抜けあがった、愛っくるしい顔をしてらあ」
「よせやい、こんちくしょう。あんまり売りこむない。ひたいの抜けあがった、愛っくるしいてえのがあるかい」
「ああ、そうかな」
「でたらめいうなよ」
「なんでも、色が白くて、眉毛がほそいから、じきにわからあ」
「そうかい。それじゃあ、おれは、今夜でかけるよ」
と、その晩、のんきなやつがでかけました。
「なるほど、ここのうちだな。あっ、いる、いる。なるほど、眉毛がほそくて、ひたいが抜けあがってらあ。小はぜみてえな顔をしてやあがらあ……おう、若え衆」
「ええ、いかがさまで?」
「おめえんとこの玉《ぎよく》なんぞ聞くのもやぼなはなしだ。もう、こっちは、腹ができてるんだが、どうだい、あっさり宇治でもいれて、すぐにおひけという寸法で、七十銭、どうだい?」
「へえ、まだ、宵《よい》見世でございますんで……」
「じょうだんいうない。なにが宵見世なんだ。角海老《えびや》の時計は、十二時を打っちまってらあ。それでわるかったら、きょうは、よすんだよ。どうでえ?」
「ええ、結構で……」
「じゃあ、厄介になるよ」
「ありがとうさまで……ええ、おあがんなさるよ」
「へい、こんばんは、ありがとうさまで……お初会さまで? おなじみさまで?」
「おう、若え衆さん、無論初会なんだがね、どの女でも揚げてくんねえと、気にいらねえ女がきて、つんとするのもやぼなはなしだ。岡惚れをしている妓があるんだが、買わしてくれるかい?」
「どのお妓さんですか?」
「上《かみ》にいる女を揚げてくんねえ」
「かしこまりました。ただいま……」
「こんばんは。いらっしゃいまし」
「はい、こんばんは。新造衆かい。今夜は、すまねえが、あそびが、しみったれで、このつぎにきたら、埋めあわせをするからね。おやおや、今夜は、おこしだな。やっぱり、おもちゃせんべいの寸法だな、これも……」
「こんばんは、いらっしゃいまし」
「きゃーっ」
「あら、いやだよ、このひとは……おどかしたりしてさあ。どうしたの? あれっ、変な顔つきしてるよ。どうかなすったの? 心持ちでもわるいの? 飲みすぎなんでしょう。いけませんねえ。しっかりなさいよ」
「ありがとう。なんだか変な心持ちなんだ。もう、おひけにしよう」
「そうなさいよ。さあ、こっちへいらっしゃい。はばかりはいいの? さあ、どうぞ、こちらへ……」
「ありがとう。おいらん、もっと、こっちへおいで、さっき、おれが、ひきつけで、だしぬけに、きゃーっといったときには、びっくりしたろうね?」
「しましたとも……どうしたんで?」
「あれについて、おいらん、いろいろはなしもあるんだ。初会で、ほかにはなしもねえし、寝られもしねえ。おれのいうことを、ほんとに聞いてくれるかい?」
「聞きますとも、どうしたわけなんで?」
「じつは、おいらん、おれは、東京のものじゃあねえんだ。静岡の在のものだが、近所の若い女《こ》とできあったが、むこうもひとり娘、こっちもひとりむすこ、養子にもいけなければ、嫁にもこられないからだ。しかたがねえから、親の金を持って、手に手をとって東京へ逃げてきたが、金のあるうちは、あっちへ泊まり、こっちへあそび、しまいには、つかい果たして二分ものこさねえ。はなればなれに奉公もしてみたが、うだつのあがるみこみもなし。あるときの相談に、『まとまった金がありゃあ、商売ができるが……』『それなら、わたしが、廓《くるわ》とやらへ身をしずめる』と、女は、この廓《さと》へ身を売って、おれにみついで、商売をはじめることができた。その当座というものは、おたがいに、手紙のやりとりもしていたが、しまいには、女のほうから、ぱったり手紙がこなくなった。ああ、不実な商売へ足をいれりゃあ、心までがそうなるものかと、ひとをもって聞いてみると、どっと病いの床についたという。そばへいって、看護《みとり》看病もしてやりてえが、そんなこともできねえからだ。早くよくなるようにと、信心もしてみたが、その甲斐も情けねえ。とうとう、女は、死んでしまったよ。世間に、女は、いくらもあるんだが、どうしても、そいつのことをおもいださねえ日はねえ。きょうも、友だちにわるくすすめられて、この廓へ足をいれて、友だちにはぐれたから、こうもいったら会えるかと、ここのうちの前へくると、ふらふらっとあがる気になった。ひきつけの障子が、すらりとあいたから、ひょいっとみると、はいってきたのは、その女だから、おもわず知らず、『きゃーっ』といったんだがね、おいらん、その女に、おめえが瓜《うり》ふたつ、そっくりなんだ」
「あら、まあ」
「死ぬもの貧乏でしかたがねえ。おらあ、今夜は、妙な気になった。牛を馬に乗りかえて、これから、おめえのところへ通ってくるが、おれのようなもんでも、客にしてくれようか?」
「そりゃ、あなた、するもしないもありゃあしませんわ。あなたのほうできてくれさえすれば、どんなにでも、とりなしはいたしますよ」
「そうかい。くるといったって、毎日毎晩というわけにもいかねえ。月に、五|度《たび》とか、六度とか、きっとくるが、それで、おいらん、おめえの年期《ねん》あけはいつだ? ……え? 来年の三月? それで、こんな野郎でもつきあってみて、おめえの鑑識《めがね》にかなったら、年期があけたら、おれんとこへきて、世帯の苦労をしてもらえようかしら?」
「そりゃあね、おたがいに気心が知れて、このかたならばと、的《まと》が立ったら、お宅へいって、どんな苦労でもいたしますとも……」
「そうかい。そいつは、ありがとう。そうなると、また、おれは、いっしょうけんめいになってかせぐが、だが、おいらん、そうなると、おれは、また、ひとつ心配なことがあるんだ」
「なにがさ?」
「なにがって、野郎は、毎日毎日、まっ黒になってかせいでいる。そこへいくと、女に年なし、おめえは、もとが浮気な商売をした女だけに、おれにあきがきて、近所の若えものとできあったために、おれの顔へ泥を塗るようなことをしでかしゃあしねえかとおもうと、男らしくもねえとりこし苦労のせいだが、なんとなく悲しくなって……悲しくなって……おっと、おいらん、どこへいくんだ?」
「お待ちなさい。いま、お茶を汲んであげますからねえ」
犬の目
「どうしたい? おい」
「ええ?」
「どうしたんだよ?」
「うん、どうも弱っちまった」
「杖をついているが、よいよい(中風などで、まともにあるけないひと)になったのか?」
「そうじゃあねえ、目がわるいんだ」
「そうか。そりゃあいけねえな……いったい、なんという病気なんだ、おめえの目は?」
「うん、みんなのいうにゃあ、あめだってんだ」
「あめ?」
「うん、なかに雲がかかっているというんだ」
「なんだい、ばかだなあ。目で、おとしばなしをされてやがる。どれ、おれがみてやろう」
「おめえにわかるのか?」
「ああ、わかるとも……こっちをむいてみろ……うーん、こりゃあ雨じゃあねえ、天気だ」
「天気? そんな目があるのか?」
「ああ……なにしろ、目のなかが星だらけだ」
「なぐるぜ。ふざけちゃあいけねえや。みんなして、ひとの目をおもちゃにして……」
「あははは、すまねえ、すまねえ……しかし、目がわるくっちゃあ不自由だろう? 医者にかかってるのか?」
「ああ、かかってるんだが、どうもはかばかしくねえんだ」
「そうか……なんでもいい医者にかかって、うんと銭をつかえ。目の玉のとびでるぐれえ高え治療代をつかえ。そうすりゃあ、目のほうでもあわててよくならあな」
「うんとつかえったって、銭なんぞありゃあしねえやな」
「ねえのかい? まぬけな野郎じゃあねえか」
「じゃあ、おめえは、持ってるのか?」
「じまんじゃねえが、持ってなんかいるもんか」
「なにをいってるんだ。つかいたくったって、ねえからこまってるんじゃあねえか」
「そこだ。そこが、友だちづきあいってえもんだ。みんなから一両ずつあつめたって、五十や六十の金は、できるじゃあねえか」
「そうなりゃあ、ありがてえが……」
「まあ、なんでもいいから、友だちにまかせとけよ。世のなかに、友だちぐれえありがてえものはねえぞ。女房でもなんでも、友だちにまかせておきねえ」
「じょうだんいうねえ。女房まで友だちにまかせるやつがあるもんか」
「てめえは、それだからいけねえ。女は、あれっきりだとおもってるんだろう? そんな尻《けつ》の穴のちいせえことでどうするんだ? 女学校へいってみろ、女が、うじゃうじゃいらあ。このあいだなんぞ、あんまり女が多すぎて、陽気がぽかときて、くさるといけねえってんで、つくだ煮にしたところがあったというぜ」
「ふざけちゃあいけねえ」
「まあ、気を大きく持てよ。おれが、いい医者を教えてやるから、そこへいってみねえ」
「なんて先生だ?」
「横浜のヘボン先生という名医の弟子で、シャボンというひとだ」
「へーえ、聞いたことがねえなあ」
「そうさ。宣伝に金をかけねえからな。なにしろ、シャボンという名だけあって、せっけん(節倹)家だから……」
「いやなしゃれだなあ……で、うちは、どこだい?」
「築地だ。とにかく、いってみてもらいねえ」
「そうかい。ありがてえ。じゃあ、いってくるぜ……ああ、ありがてえ、ありがてえ。持つべきものは友だちだ。じょうだんをいいながらも、いろいろと心配してくれらあ……はて、築地といえば、このへんだが、聞いてみよう……ええ、ちょいとうかがいます」
「はい、はい」
「このへんに、シャボン先生というお医者さまがいらっしゃいましょうか?」
「ええ、この門のあるお屋敷が、そうですよ。このつきあたりが、玄関ですから……」
「ありがとう存じます……ああ、ここが玄関だな。ごめんください。おたのみ申します」
「どーれ」
「ええ、すみませんが、目がわるくってしようがねえんで、シャボン先生にどうか診察をおねげえ申します」
「ああ、さようか。あいにく、先生はお留守だ」
「そうですか。じゃあ、しかたがねえ。また、まいりましょう」
「いや、先生はお留守だが、わしが、みてあげよう」
「おまえさんにわかりますか?」
「失礼なことをいうものではない。先生の許可をうけて代診しているのじゃ。さあ、こっちへおはいり。そこにテーブルがある。その前の椅子《いす》におすわり」
「西洋料理を食わせますか?」
「レストランとまちがえてはいかん……どれどれ、おみせ……おやおや、たいへんにきたない目だな……うん、これは、ちっとばかり手術がおくれたから、くりぬいて治療をしなければいかんな」
「えっ、くりぬく?! ひとの目だとおもって、あんまり荒っぽいことをしちゃあいけませんぜ」
「いや、くりぬいて治療しなければ、よくはならんよ」
「おどろいたなあ。ひどい目にあうというのは、このことだ」
「しゃれてはいけない。なあに、わけはないよ。くさっているところをくりぬくのだから、いたくもなんともない」
「おまえさんは、いたくなかろうが、こっちはいたい」
「いくじのないことをいってはいかん……さあ、こちらをむいて……よろしいか? はい、キュー、スー、パー、キュー、スー、パー」
「へんなかけ声ですねえ。どうなったんで?」
「もう、くりぬいてしまった」
「もう、ぬいたんですかい?」
「ああ、わけはない……これで、まわりのわるいところをとってしまえば、すぐになおる……さあ、よろしい。この鉢に湯がとってある。くすりが調合してあるから、これで、なかをよくあらいなさい」
「へえ、ありがとうございます。おやおや、先生、球があるうちはそうでもなかったが、球をとっちまったら、大きな穴になりましたねえ。そそっかしいやつが、おっこちるといけねえから、街灯でもつけときましょうか?」
「ばかをいっちゃあいけない。ひとの目に街灯なんぞつけるやつがあるもんか。さあ、あらったら、なかをよくふきなさい。球をいれなおしてあげるから……」
「へえ、おねげえします」
「球もすっかりきれいにあらってあるからな」
「どうか、早くいれておくんなさい」
「いいかい? それ、いれるよ。やっ!!」
「あいたたた……こいつあいけねえ。あいたたた、先生、いたくってしようがねえ」
「うん、この球は、すこしふやけたかな?」
「えっ、ふやけた?」
「そうだ。湯のなかへつけておいたから、それで、ふやけたんだろう」
「じゃあ、どうしますんで?」
「日なたへだして、かわかしておこう」
「じょうだんじゃねえ。ひとの目を梅ぼしとまちがえてらあ。どうか早くおたのみ申しますよ」
「まあ、一服おやり」
「へえ、ありがとうございます。たばこもひさしぶりなんで……」
「ああ、そうか……さてと……もうかわいたろう。いれてあげよう……おやおや、おまえさんの目の球がなくなってしまった」
「えっ、なくなった?! じょうだんじゃねえ。いったい、どうしたんです?」
「あっ、この庭の木戸があいていたので、犬がはいってきて、おまえさんの目の球を食べてしまったのだ」
「おやおや、いけねえ。どうするんです?」
「どうするったって、ほかにしようがない。いま、あの犬の目の球をくりぬいて、おまえさんの目へいれてやろう」
「そうしたら、犬がこまりましょう?」
「なあに、犬の腹のなかへは、おまえさんの目の球が、ふたつはいったから、春になったら芽《め》をふくだろうよ」
「まるで菜種のようだな。大丈夫ですかい?」
「大丈夫だ……キュー、スー、パー、キュー、スー、パー……それ、犬の目の球をくりぬいてしまった。犬は、杖をつくことができないから、当分こまるだろうが、しかたがない。人間の目の球を食った罰だ。さあ、こんどは、おまえさんのほうにいれるよ。それっ、キュー、スー、パー、キュー、スー、パー」
「なんでも、そのかけ声ですねえ」
「ああ、ちょうどいい。おまえさんの目にしっくりあった。さあ、目をあけてごらん。そっとあけるんだよ。そーっと……」
「へえ、ありがとう存じます……やあ、よくみえます」
「そうだろう」
「先生、よくみえますが、みんなさかさまですよ」
「ああ、いれかたをまちがえた。さかさまにいれちまった。さっそくいれかえよう……それっ、キュー、スー、パー、キュー、スー、パー……さあ、こんどは大丈夫だ。どうだ、みえるだろう?」
「へえ、なるほど、よくみえますなあ。いままでの目球よりも遠目《とおめ》がきいて、くらいところでもはっきりみえます……ああ、先生、あそこにきたない頬《ほお》かぶりをしたやつがうろついてますよ。ああいうやつが、靴を持っていったり、ほしものをかっぱらっていったりするもんです。ひとつおどかしてやりましょう。ウーッ、ワン、ワンワンワン!!」
「おいおい、そう歯をむきだしてほえてはいかんな。まだ、目球は、いれたてなんだから、あんまり大きな声をだしたり、力をいれたりすると、とびだしてしまうぞ。あした、またおいで。空気がもるようだといけないから、もういっぺんみてあげる」
「へえ、ありがとう存じます。さようなら……あっ、いけねえ。こりゃあ、うっかりおもてへでられねえ」
「どうして?」
「小便をするときに、片足をあげなければなりません」
片《かた》 棒《ぼう》
倹約と吝嗇《りんしよく》(けち)とをまちがえているひとがおります。
ひとから、いくらわるくいわれようと、金さえ貯《た》めればいいという心がけでいるひとがそれでございます。
そこで、吝嗇のひとのことを、いろいろの異名がつけてあります。
しみったれ、あかにしや、にぎりや、六日《むいか》知らず……この六日知らずというのは、どういうわけかと申しますと、日をかぞえるときに一日《ついたち》、二日《ふつか》、三日《みつか》、四日《よつか》、五日《いつか》と、五日までは、手をにぎってかぞえますが、六日になると、はなさなければなりません。日をかぞえるときでも、にぎった手をはなすのはきらいだというので、六日知らずというんだそうで……
しみったれのひとでは、おかしいはなしが、いくらでもございます。
あるおかたが、奉公人を十人つかっておりましたが、あるときに、かんがえました。世のなかが、こう不景気になってきたのに、十人の奉公人をつかっているのはむだだというので、五人へらしましたが、それでも間にあっていくところから、また思案をしまして、三人へらしましたが、それでも間にあってまいります。してみると、奉公人はむだだというので、全部ひまをだしてしまいました。夫婦ふたりでやってみると、やはり、どうにか間にあっていきます。こうなってみると、女房がむだだというので離縁してしまいました。自分ひとりでやってみたが、どうにか間にあっていくところから、おれも生きているのはむだだというので、首をくくって死んでしまったそうで……
けちなひとのうちの近所に火事がありましたが、よいあんばいに焼けのこりました。
「いや、どうも、みんな、ごくろうだったな。もう大丈夫だよ。ところでな、だいぶ見舞いにきてくださるかたがあるから、いちいちお名前をおぼえておきなさい。それに、寒い折りだ。なによりのごちそうは火だよ。すっかり冷えきっていらっしゃるだろうから、火鉢をだしておきなさいよ……これこれ、なんだって炭とりを持ってくるんだ……なに? 火鉢をだすのに火をおこしましょうかだと? ……ばかっ、かんがえてみなさい。たったいま、火事が消えたばかりじゃあないか。火事場へいって、十能《じゆうのう》で火をしゃくってこい……おい、なにをぐずぐずしてるんだ。早くいってこい……おい、どうした? 手ぶらでもどってきたが……」
「へい、たいへんにおどかされました」
「なんだって?」
「『ふざけたまねをするな。大金をだしてこしらえた火だ。ただ持っていかれてたまるもんか』といって……」
「しみったれたことをいやあがるな。よしよし。こんど、おれんとこが焼けても、火の粉もやらねえ」
そんなものは、もらわないほうがよろしいんで……
しわいひとが、ふたりで問答をしたというはなしがあります。
「ときに、吉兵衛さんの前でございますが、梅ぼしがひとつあれば、一ヵ月間ごはんを食べられるということをかんがえましたが……」
「そりゃあ感心なおもいつきだね。心がけのわるいやつになると、朝めし前に、お茶を飲みながら、梅ぼしを、ひとつやふたつ、ぺろりと食べるやつがいる。それを、ひとつの梅ぼしで、三十日間ごはんを食べるのはえらいな。どういうぐあいに?」
「へえ、一月を三十日といたしまして、最初の十日は、梅ぼしをみて、ごはんをいただきます」
「ふーん、みて食べるとは?」
「梅ぼしというものは、すっぱいもんだなとおもうと、のどからすっぱい水がでてまいります。それを塩気にしまして……」
「なあるほど……」
「なかの十日は、梅ぼしの実を食べまして、しまいの十日は、種をしゃぶります。あれは、なかなか酸《す》っ気のなくならないもので……」
「うん、感心感心……だが、おまえさんのは、一月のうちに、梅ぼしがひとつでもへるのだ。わたしは、おかずをふやすよ」
「おかずを食べてふえますか?」
「ああ、ふえるとも……わたしは、醤油《しようゆ》をなめながらおまんまを食べるんだ。この醤油をなめるときに、無神経になめたんではいけない。箸《はし》につばきを十分つけておく。それから醤油のなかへつっこんでなめるんだ。ますます泡立ってふえるよ」
「あんまりきれいじゃあありませんな……それから、わたしは、一本の扇《おうぎ》を十年間つかいます」
「どうやってつかうね?」
「最初の一年は、一骨しかひらきません」
「へーえ」
「二年目は二骨、三年目は三骨、その順で、十年間もちます」
「ははははは、わたしはね、一本の扇があると、孫子《まごこ》の代までつかうよ」
「へーえ、どうおつかいになりますんで?」
「おまえさんみたいに、一骨、二骨と、順にあけるんじゃあない。最初から、すらりとみんなあけてしまう」
「へえ……」
「胸にあてがっておいて、首のほうをふるんだ」
「それじゃあ、風がでやしませんや……そこで、あなたの前でございますが、衣食住といって、こればかりは欠《か》かすことはできません。とりわけて、着物でございますが、あなたなどは、どういうところからおもとめになりますな?」
「わたしはね、暑寒ともに単衣《ひとえもの》一枚だよ」
「へーえ、寒のうちなどは寒いでしょう?」
「それが、寒くないようなしかけをするんだ」
「へーえ、すると、坐って、まわりに火鉢を置くとか、湯たんぽをだくとかいう……」
「そんなことをすれば、お銭《あし》がいるよ」
「どうなさいます?」
「坐っているあたまの上に、大きな石をつるしておくんだ。もしも、その縄が切れれば、わたしのからだは、つぶされてしまう。あぶない、あぶないとおもうと、冷や汗をかいてさむくない」
「命がけですな。しかし、その単衣一枚だって、安くは買えませんでしょう?」
「それがね、二銭五厘あると、上等の紺無地の単衣をこしらえられるよ」
「へーえ、二銭五厘でできますか? 焼きいもだって七つ、八つしか買えませんが……」
「できるとも……おまえさんだからおはなしをするがね、これが金をためる法の虎の巻だから、うっかり他人にはなしちゃいけないよ」
「へえ」
「まず、二銭五厘のお銭を一厘銭にとりかえる。それを持って、ほうぼうのおいなりさまへ参詣をする。お賽銭《さいせん》は一厘しかあげないけれど、拍手《かしわで》を多く打つ。なにか口のなかでぐずぐずいっている。それから神主のところへいってたのむのだ。『少々《しようしよう》おねがいがございます。ほかでもございませんが、わたしの家内が、本月、臨月《りんげつ》でございます。いままで、お産のたんびに難産をしてこまりきっております。で、あるひとのいいますには、ご利益のあるおいなりさんののぼりを腹帯にしめると安産するということなので、安産をいたしました節は、あたらしくしておかえし申しますから、どうぞ、のぼりの古いのを一本拝借いたしとうございます』と、申しこむんだ。貸してくれれば、もうこっちのもの、かえす了簡《りようけん》はありゃあしないよ。二銭五厘のお銭《あし》があると、二十五本になるだろう? で、その二十五本ののぼりでつぎはぎをすると、反物《たんもの》一本二丈八尺まとまる。それを着物に仕立てるんだが、からだじゅうが、奉納正一位|稲荷《いなり》大明神でとりまいてあっちゃあ、まっ昼間おもてはあるけない。そこで、紺無地に染めあげるんだ」
「へーえ、紺屋《こうや》(染物屋)へたのんだって、なかなか安く染めますまい?」
「それが、ただで染めちまうよ」
「どういうぐあいに?」
「これを染めあげるのは、日の暮れがいいね。ひとの顔もはっきりわからないという時分になったらば、宿なし犬を一ぴきひっぱってきて、首ったまへ縄をつけて、棒を一本持って紺屋の前へいったら、いきなり、その犬をひっぱたくんだ。犬が、キャンキャンと鳴きだす。犬が吠《ほ》えたなとおもったら、見当《けんとう》をつけておいて、紺屋の藍瓶《あいがめ》のなかへザブンととびこんでしまうんだ。紺屋のひとがでてきて、『どうなすったんです?』と聞かれたら、『わたしは、犬が大きらいなんですが、いま、お宅の前までくると、犬に吠えられました。逃げ場をうしなって、このなかへおっこちてしまいました』と、瓶のなかでもがいているうちに、奉納正一位稲荷大明神が紺無地に染まっちまうんだ。『それはお気の毒なことでした。さあ、手を貸すからおあがんなさい』……むこうで気の毒がって、こっちの着物は、すっかり染まっちまう。どうだい? ただで紺無地に染まるじゃあないか」
「な、なあるほど、こりゃあうまい工夫《くふう》ですな。それでは、わたしもさっそくやってみましょう」
「だがね、この八町四方の紺屋はだめだよ」
「いけませんかな?」
「わたしが、もうさんざっぱらやったから、こんど藍瓶へとびこめばなぐられる」
「心ぼそいな。それじゃあ、ほかへまいりましょう。とんだ長居《ながい》をいたしました。おいとまをいたします。おそれいりますが、ちょっとマッチをお貸しなすって」
「どうするんだい?」
「はきものをさがします」
「そんならばね、手さぐりで台所へいくと、へっついの下に薪《まき》があるから、その薪で、おまえさんが、自分の目と鼻のあいだをぶちなさい」
「ごじょうだんばっかり……目から火がでます」
「その火でみたらいいだろう」
「えへへへ、たいがいそんなことをおっしゃるだろうとおもいましたから、じつは、きょうは、下駄をはいてきません」
「そうだろうとおもって、わたしも畳をうらがえしにしておいた」
「これ、金之助、銀次郎、鉄蔵、こちらへおはいり」
「はい、おとっつぁん、なんかご用でございますか?」
「まあ、三人ともこっちへおはいんなさい……じつは、おまえたち兄弟を呼んだのは、ほかでもないが、あらためておまえたちの了簡《りようけん》を聞いてみたい。というのが、わたしは、若い時分から、食べるものも食べないで、こうやって身代《しんだい》をふやしたのだが、もう老《と》るとしだし、やがては、この世とおさらばしなければならない。さあ、そうなったときに、この身上《しんしよう》を、おまえたち三人のうち、だれかにゆずるのだが、まず、順にゆけば、兄の金之助、おまえにゆずるべきがあたりまえだ。しかし、おまえがたの了簡がわからないから、三人の心持ちを聞いて、わたしの気にかなったものに、この身代をゆずる。いいか、わかったかい? いま、わたしがはなしをするから、そのはなしの答えによって、みんなの心持ちを推《お》しはかることにするよ。仮りに、わたしが、あしたにでも目をねむったら、そのあとのしまつはどうするい? さあ、金之助、おまえからさきに返事を聞こう」
「へい、おとっつぁん、なにかとおもいましたら、妙なおたずねで、だいいち、あなたが目をねむるなんていうことは、縁起でもございませんから……」
「いや、そうでないよ。たとえばのはなしだよ。よしんば、こんなはなしをしたからといって、お銭《あし》が一文もでるわけじゃあなしさ、どうするい? わたしが目をつぶったあかつきには……」
「へい、それではお答えいたしますが、こんなことは、いまからねがうことではございませんが、まず、仮りにおとっつぁんがおめでたくおなりあそばしましたら、その晩は、通夜をいたします。そして、あくる日、仮葬《かりそう》をだしておきます」
「うん」
「というのが、本葬には、いろいろとしたくがかかりますから、それから、日をきめまして、したくのできしだいにご本葬をだします。そのときも、二晩ぐらい通夜をいたします。まず最初に、新聞へ黒わくつきの広告をだします。それから、養老院、少年院など、すべての慈善事業に、まあ、一万円ずつぐらいの寄附をいたします。これは、おとっつぁんの冥福《めいふく》を祈るためでございます。出入りのものには、もめんのそろいの仕着せをだしますが、それも安いのですと、じきにわるくなりますから、上等のものをつかいます。で、おとっつぁんの柩《ひつぎ》でございますが、これは寝棺《ねがん》のほうがお楽でおよろしゅうございましょう。棺わきは六人、これは、店のものがお供をいたします。袴《はかま》であるとか、紋つきであるとか、あれは、葬儀社から借りてもよろしいのですが、これは、新規にこしらえます。迎え僧は、七人たのみます。位牌《いはい》、香炉《こうろ》は、われわれ兄弟で持ちます。寺も、うちのは、すこし狭《せも》うございますんで、本願寺あたりを借りるつもりでございます。それから、旧弊《きゆうへい》といわれるかも知れませんが、ご本堂へあがっていただいて、坐ってご焼香していただこうとおもいますんで、それについて、うちの定紋のついた座ぶとんを三千枚ばかりあつらえまして、お寺へ寄附をいたしておきましたのを、ずーっと敷きつめておきます……で、出棺は、十一時でございますから、寺へ着くのが十二時ということになります」
「まずい時間だな」
「でございますから、お料理をだします。折り詰めではそまつでございますから、三つ組の重箱にいたします。黒塗りに、金蒔絵《きんまきえ》で、うちの定紋を散らした特別あつらえの重箱てえやつで、これも、うちの定紋を染めぬきましたちりめんのふろしきにつつんでだします。一番上はお菓子でございまして、蓮華《れんげ》の打ちものに練りようかんかなんかで、二番目がお料理。これも精進《しようじん》料理なんてえことをいわずに、うまいものをぎっしり詰《つ》めあわせます。で、一番下が、ごはんですが、これも、笹巻きのすしなんぞはいきだろうとおもいます。それに、お酒もだすつもりでございますが、よく吟味《ぎんみ》いたしまして、灘《なだ》の生一本《きいつぽん》をとりよせて、お寺でございますから、まさか徳利でお燗《かん》をしてだすわけにはまいりません。土びんに赤いこよりをつけて、般若湯《はんにやとう》(酒)のしるしにいたします」
「おいおいおい、そんなものをだして、入費《にゆうひ》はどのくらいかかるんだ?」
「そうですねえ……まあ、お料理だけでも、ざっと、一人前が……二十円ぐらい……それに、お車代として、みなさんに十円ずつおつつみします」
「えっ、一人前が、三十円? ちょいとしたつとめ人の一月分の給料だ。で、それが何人分だ?」
「三千人ばかり」
「ばかっ、あきれたやつだ。あっちへいっとくれ。あっちへおいで……ああ、おどろいた。とんだやつだ。食うものも食わずに貯めた金が、葬《とむら》いのためにパーになっちまう。ああ、目がまわってきた。ほんとうに息をひきとりそうになっちまったよ……ああ、銀次郎か。さあ、こっちへおいで……さて、銀次郎、おまえは、わたしのとむらいをどういうふうにだしてくれる?」
「はい、おとっつぁんの前でございますが、わたしは、兄さんとは、少々ちがいます」
「結構、ちがっていてよろしい。とむらいにあんなに金をかけるなんて、とんでもないやつだ。で、おまえは、どういうことに?」
「商売を二日やすんで、二晩通夜で、あくる日、仮葬をだしちゃうんです」
「おんなじようじゃあないか」
「本葬の当日がちがうんです。これは、いままでに世間にありふれた葬式とちがって、空前絶後、破天荒な世界の歴史にものころうという葬式にするつもりでございます。まず、うちへは、紅白の幕を張ります」
「えっ、紅白の幕を? 葬式に?」
「町内のひとたちにたのみまして、どのお宅へも軒《のき》かざりを打ってもらいます。これには、ちょうちんをつけまして、上に造り花をつけます」
「へーえ、ばかににぎやかになるんだなあ」
「ええ……普通、行列の一番最初ってえのは、紋付き、羽織、袴にあみ笠《がさ》、福草履ときまったもんですが、そんなありふれたことはやりません。各区の仕事師(鳶職)をたのみまして、これに木遣《きや》りをやってもらいます。黒骨|牡丹《ぼたん》の扇《おうぎ》を半びらきにして、口のところへあてがいまして ええ……んやらあ……い……てな調子で練《ね》りあるきます。そのあとへ、新橋、柳橋、芳町、赤坂あたりの芸者をたのんで手古舞《てこま》いにでてもらいます。男髷《おとこまげ》で、刷毛《はけ》さきをぱあっとさせて、金糸、銀糸で縫いをしたちりめんの長襦袢《ながじゆばん》五、六枚|重《かさ》ね着の肌ぬぎです。繻子《しゆす》の裁着《たつつ》け袴にわらじばき、菅笠《すげがさ》に一輪、牡丹をさしたのをあみだにかえしまして、金棒《かなぼう》をひくんですが、そりゃあにぎやかなもんですよ……チャンコロン、チャリンコロン、チャンチャンコロン、チャンコロンてんで……そのあとから山車《だし》がでます」
「山車がでる?」
「ええ、牛が三びき、牛方《うしかた》は、そろいのはんてん、菅笠で、葛西《かさい》、小松川あたりから、腕のいい囃子《はやし》かたをたのんでまいります。申しあげるまでもなく、大胴《おおど》(大太鼓)が一丁、締太鼓《しらべ》が二丁、笛《とんび》に鉦《やすけ》、踊り手がひとり、鉾《ほこ》の上の人形は、おとっつぁんのおすがたを活《いき》人形ふうにこしらえます。勘定高いから、そろばんをはじいてるところかなんか……家をでるときは、『屋台』の打ちこみです…… いよお……い、テケテンテン……」
「たいへんなさわぎだな」
「道をいくときには、『鎌倉』、あるいは、『聖天《しようでん》』って鳴りものにかわります…… オヒャラトーロ……おとっつぁん、山車の上へ人形になっちゃって、そろばんはじくんですよ…… チンチキチンチキチンチキ……」
「おいおい、なんだい、そのおじぎをするのは?」
「山車の人形が電線をくぐるところなんで……」
「芸がこまかいなあ」
「あとから底ぬけ屋台がでます。こりゃあ、各花柳界のたいこもち連中にたのみまして、青道心《あおどうしん》てんで、くりくり坊主になってもらいます。大きな赤にし模様の首ぬきです。緋《ひ》ぢりめんの股《もも》ひきに鬱金《うこん》の足袋《たび》、黒染めの衣を羽織りまして、狂言|羯鼓《かつこ》という鳴りもので、 テンドド、テン、ドンドン、テンテンドドドン、テテテン、ドドドン、テテテン、テンテン……これが、早渡りという鳴りものにかわります テレツクツツツ、ドンドン、テレーツ、ドンドンドンドン……ヨー……テンテンテコ、ツ、テンテンという囃子《はやし》になります」
「うるせえ行列だなあ」
「あとからお神輿《みこし》がでます」
「お神輿まででるのかい?」
「ええ、そのなかに、おとっつぁんのお骨《こつ》をおさめてかつぐんですが……それを町内の若い衆が、そろいのゆかたで、じんじんばしょり、手ぬぐいではちまきをしまして、わっしょい、わっしょい、わっしょい……となり町の若え連中にとられちゃあたいへんだからってんで、いせいよく、わっしょい……」
「骨なんぞ、とられるもんか」
「わっしょい、わっしょい、わっしょい……鳴りものが、『四丁目《しちようめ》の玉の打ちあい』と、かわりますが、これは、お神輿がもみやすいんで…… テンテン、テレツクツクツ……」
「大さわぎだなあ」
「四つ角まできますと、チョーンと拍子木《ひようしぎ》がはいります。そこへ羽織、袴の男がでてまいりまして、親戚総代として、弔文《ちようもん》を読みあげます。『弔辞、それ、つらつらおもんみるに、生者必滅《しようじやひつめつ》、会者定離《えしやじようり》とはいいながら、たれか天寿《てんじゆ》の長からんことをこいねがわざるものあらんや。ここに、赤螺屋吝兵衛《あかにしやけちべえ》君、神授《しんじゆ》五十有七歳に富みたりしが、平素粗食に甘んじ、勤倹《きんけん》を旨とし、ただ預金額の増加を唯一の娯楽となしおられしが、栄養不良の結果、不幸、病魔のおかすところとなり、ついに白玉楼(文人が死後にゆくという楼中のひととなり、いままた山車の人形となる。ああ、人生おもしろきかな、また、愉快なり……』」
「ばかっ! なにが愉快なりだ。あっちへいけ! あきれけえったやつだ。とむらいだか、祭りだかわかりゃあしねえ。上のふたりがあれじゃあ、末《すえ》のやつまでおもいやられるなあ……ああ、鉄蔵かい? ……こっちへおいで。こんどは、おまえの番だ。兄貴ふたりは、とんでもない心得ちがいなやつらだが、おまえは、あたしのおとむらいをどういうふうにだしてくれる?」
「へえ、わたしは、兄さんたちとは、まるっきりちがっております」
「ちがっているのは結構だよ。だけれども、ちがいかたによるよ。どうちがうんだい?」
「兄さんたちのは、まったく言語道断ですなあ。どうも正気の沙汰《さた》とはおもえません……わたしのは、あんなんじゃあありません。人間、死ぬというのは、一元《いちげん》に帰すとかいって、もとへ帰るもんだそうでございますから、そんなにりっぱな葬式はいらないとおもいます。ですから、国によっては、風葬といって、死体を雨風にさらし、鳥につつかせ、自然に消滅させるところもあると申します」
「おいおい、まさか、鳥につつかせるんじゃあないだろうなあ」
「ええ……で、おとっつぁんが、お亡くなりになりましたら、まあ、しかたがありませんから、お通夜をひと晩いたします」
「しかたがないからお通夜を? おまえ、いうことが薄情だねえ……まあまあ、いいや。通夜のひと晩はいいね。ふた晩も三夜もすると入費がかかるから……それで?」
「あくる朝、すぐにおとむらいをだしちまいます」
「うんうん、仮葬だ、本葬だと、二重の手間がはぶけていいや」
「出棺は、十一時ということに触れをだします」
「お昼にかかりゃあしないかい?」
「ですから、十一時といっといて、八時にだしてしまうんです」
「そんなことをしたら、昼にはかからねえが、みんな、むだ足をするだろう?」
「ええ、たいがい間にあいません。そういたしますと、菓子をださなくてすみます」
「あっ、なあるほど、えらいな。おまえは、みどころがあるぞ。えらい、感心だ」
「それから、おとっつぁんのお柩《ひつぎ》でございますが、ああいうものは、葬儀社へたのみますと、たいへんにお金がかかりますし、また、あたらしいのを焼いてしまうのももったいないはなしですから、物置きにある菜漬《なづけ》の樽《たる》の古いやつをつかおうとおもうんですが、それで、ひとつ、がまんをしていただきたいので……」
「菜漬の樽? ……いいとも、身代のためだ。がまんしますよ。なあに、死んだあとだからわかりゃあしねえや。しかし、どうせつかうんなら、なるべくわるい樽にしとくれよ。もったいないから……」
「それで、なかへ抹香《まつこう》などをいれますと、買わなければなりませんから、かんなくずでがまんをしていただきたいもんで……」
「へーえ、こわれものの荷づくりだね、まるで……ああ、いいとも、がまんするよ。それから?」
「ふたをして、荒縄を十文字にかけまして、てんびん棒を通して差しにないます」
「うんうん、いいおもいつきだ」
「で、それをかつぐ人夫《にんぷ》をたのみますと、お金がかかりますから、わたしが片棒をかつぎますが、あとの片棒にこまります」
「なあに心配するな。おれがでてかつぐ」
そば清
道楽のなかにもいろいろございますが、食い道楽というのがございます。
もっとも、食い道楽にもいろいろございまして、ぜいたくなものをめしあがるのと、なかには、大食をするかたがございます。やれ、うなどんを三つ食べたの、すしを五十食べたのなどとじまんをしているひとがあります。
ここに清兵衛というひとがありまして、このひとは、そばならば、いくらでも食べるという、もっとも、もりにかぎっております。
ほんとうにそばの好きなかたは、ほかのものなぞはめしあがりません。ほんとうにそばの味のするのは、もりだそうで……
この清兵衛というひとは、自分の坐っている身丈《せい》だけのそばが食べられるというくらいで、だれでも賭《か》けをしては、清兵衛にしてやられますので、いまでは、もう、清兵衛と賭けをするものもなくなりました。
あるとき、清兵衛が、越後から信州のほうへ商売にまいりまして、どうまちがえたのか、山中で道にまよってしまいました。
どちらをみても山ばかり、里へでる方角が、さっぱりわからなくなりました。つかれてきたので、草のなかへ腰をおろして、腰からたばこいれをだし、ぱくり、ぱくりとやっておりますと、むこうに狩人《かりゆうど》がひとり、こくーり、こくりと居眠りをしております。やがて、妙な風が吹いてきたなとおもうと、その狩人がよりかかっている松の木の上に、大きなうわばみが、いま、その狩人を呑《の》もうとしております。清兵衛は、びっくりしましたが、どちらへ逃げていっていいのだか方角がわかりません。しかたがないから、うわばみに自分のすがたをみせないようにしてみておりますと、やがて、うわばみは、大きな口をあいて、その狩人を呑んでしまいました。
よく、へびが蛙《かえる》を呑んだようだといいますが、うわばみが、人間ひとりを呑んだのですから、うわばみの腹は、四斗樽《しとだる》のようなふとさになってしまいました。うわばみも苦しいとみえまして、しばらく、のたうちまわっておりましたが、やがて、かたわらのくさむらに生えている黄色い草をぺろぺろとなめておりますと、みているうちに、四斗樽のようにふくれていた腹が、もとのようにちいさくなってしまいました。うわばみは、いい心持ちになったとみえまして、熊笹をがさがさやりながら、岩のかげへはいっていってみえなくなりました。
これをみていた清兵衛さん、おどろいたの、おどろかないのって、
「なんだろう、いま、あのうわばみがなめた草は? ……あんなにはち切れそうだった腹が、すぐにちいさくなっちまったが……ははあ、あれは、食ったものが消化《こなれ》る草なんだな……うん、しめた。いいものをみつけたぞ。あいつをむしって持っていって、江戸で、そばの賭けをして、うんともうけてやろう」
てんで、欲ばった清兵衛さんが、こわごわながら、そのくさむらへきて、黄色い草をむしって、これを持って、ようやく江戸へ帰ってきました。
「清兵衛さん、旅へおでかけだったそうで……」
「へえ、すこし商売用で、ほうぼうまわってまいりました」
「ああ、そうですか……で、どちらのほうへ?」
「越後から信州のほうへいってまいりました」
「越後から信州へ? へーえ、あの信州てえところは、そばが、たいそううまいってえことを聞いてますが、どうです、だいぶ食いましたか?」
「それが、もう、商売に追われて、とうとう食いそこなってしまいました」
「そりゃあ惜《お》しいことをしましたな。で、帰ってから、だいぶそばを食《や》ったでしょう?」
「それが、まだ食《や》らないんですが、どうでしょう? わたしは、いままで、自分の坐っている身丈《せい》だけのそばを食いましたが、こんどは、その三倍食べるということで賭けをしませんか?」
「三倍?!」
「ええ、まず、七十は食べますね」
「えっ、七十?! こりゃあおもしろいな。なんぼそばの好きな清兵衛さんだって、二十や三十なら食べられるか知らないが、七十は食べられないだろう。ねえ、一ぺんには食えないでしょう?」
「いえ、食います」
「えっ、食う?! ほんとですか? ……おい、どうするい?」
「なにが?」
「なにがって……清兵衛さんが、七十のそばを食うてんだ。だから、こうしようじゃあねえか。ここに三人いるからね、ひとりが、一両ずつここへ金をだす。で、三両の金をここへ置いて、清兵衛さんが、七十のそばを食ったら、そば代を、おれたちで払って、この三両をやっちまおうじゃあねえか」
「そりゃあいいが、もしも食えねえときは?」
「そりゃあ、三両の金はやらねえし、そば代も払ってやらない。で、清兵衛さんに、『食えなくって申しわけありませんでした』と、あやまってもらうんだ」
「そいつあ、おもしれえ賭けだ」
「やるかい?」
「やろう、やろう」
「ねえ、清兵衛さん、お聞きになったようなことなんですが、いいですかい? 七十食べたら、三両ということで……」
「そりゃあ、ありがたいな。たいへんに結構なことで、どうもごちそうさま……」
「ごちそうさまったって、まだ、はじめねえんだから……じゃあ、よござんすね?」
「ええ、よろしゅうございますが……ちょいと待ってください」
「なんです?」
「ちょっとおことわりしておきますが、途中でひと息つきますよ」
「長いあいだですかい?」
「いえ、なに、たばこを二、三服吸うくらいのあいだで……」
「ああ、そのくらいなら、ようがすとも……まあ、早いはなしが中入《なかい》りだ。じゃあ、そういうことにして、そばをあつらえてくるから……」
「え? そばがきた? そうかい……じゃあ、清兵衛さん、はじめてください」
「へえ、ごちそうさまでございます。いただきます」
てんで、食べはじめましたが、さすがは、じまんするだけあって、そのそばを食べるのが、早いのなんのって、そばが、どこへはいるかとおもわれるようにやりだしました。
「へーえ、たいしたもんだねえ。じつにどうも、みごとな食いっぷりだ。ふーん、ありゃあ、そばを食うんじゃあないよ。ほらほら、みててごらん。そばのほうから口んなかへとびこんでいくんだ。おどろいたねえ……へーえ、もう十《とお》食っちゃった……みごとなもんだ。あざやかだねえ……あれあれっ、十五……二十……二十五……三十……うーん、えらいもんだね、あたしたちじゃあ、とてもこうはいきませんよ……ほう、もう四十|食《や》っちまった。早えなあ、どうも……四十五……五十……あれっ、もういけないようだな。肩で息をして、苦しそうだ……ねえ、清兵衛さん、もうおよしなさい。からだに毒だから……」
「と、とんでもない……ここでよしたら大損だ。三両の金はもらえない上に、そば代まで払わなくっちゃあならないんだから……」
「でも、さ、毒だから……」
「なあに、こうなったら命がけだ」
「およしなさい、およしなさい。命がけだなんて、おだやかでない」
「いいえ、大丈夫です。すいませんが、さっきいったように、ここで、ちょいと、ひと息つかせてくださいな」
「ああ、中入りてえわけだ」
「ええ……みなさん、まことにすみませんが、ちょっと、わたしのからだを障子のそとまでだしてください」
「ひとりででたら、いいじゃあありませんか」
「それがね、ひとりじゃあでられないんで……からだが重《おも》くて、うごくことができません」
「ははははは、そうでしょう。もう、いくらなんでも食えますまい。そのへんで、あやまったらいいでしょう」
「どういたしまして……まだまだ食いますよ」
「そんなら、すぐにおあがんなさい」
「それがね、ちょっと障子のそとへだしてくださりゃあ、すぐにもどってきて食いますから……」
「ははあ、なにか、おまじないをするんですな。じゃあ、とにかく、だしてあげましょう。厄介だな、どうも……」
これから、みんなで廊下へ押しだしますと、
「その障子を、ぴったりしめてください。のぞいちゃあいけませんよ。よござんすか? のぞきっこなしですよ」
と、清兵衛さん、ふところから、例のうわばみがなめて、狩人をとかした草をだして、ぺろぺろとなめはじめました。しばらく経《た》ったが、あまりしずかなので、なかの連中が、
「どうしました? 清兵衛さん……みんなを待たしておいて、寝ちまっちゃあいけませんよ。清兵衛さん、清兵衛さん……おやっ、返事がないな。さては、あんなことをいってたが、逃げちまったのかな? 清兵衛さん、清兵衛さん、返事がないと、あけますよ」
と、障子をあけてみると、清兵衛がおりません。
「それ、清兵衛さんは、かなわなくなって逃げだしたんだ」
と、よくよくみると、そばが羽織を着て坐っておりました。
というのは、うわばみのなめた草は、人間のとける草だったのですが、清兵衛さんは、それを腹のへるくすりだとおもってなめたから、自分がとけてしまったというわけでございます。
茗荷宿屋《みようがやどや》
むかし、釈迦《しやか》のお弟子に、槃特《はんどく》というかたがおりました。
このひと、まことにものおぼえがわるく、なにを教えてもすぐにわすれてしまいます。はなはだしいときには、自分の名前をわすれてしまうというくらいでございます。しかるに、天竺《てんじく》(インド)では、施行《せぎよう》と申しまして、坊さんが托鉢《たくはつ》にでかけます。いずれも頭陀袋《ずだぶくろ》を首へかけ、鉄鉢を持ってあるきます。ところが、この槃特は、一銭の合力《ごうりよく》(金をもらうこと)もえられません。どういうわけかと申しますと、施行をしてあるくときに、
「坊さん、おまえさんの名は、なんといいなさる?」
と、聞かれますと、
「はい、わたしの名前は……」
と、いったぎりで、自分の名前をわすれてしまい、いうことができません。そこで、「ああ、これは、お釈迦さまのお弟子ではない。乞食坊主だ」というので、まるっきりお布施《ふせ》がございません。
お釈迦さまも、これをあわれみまして、のぼりをこしらえ、これへ槃特とおしたためになりまして、
「さあ、あしたから、これをしょってあるけ。名前をたずねられたら、これでございますと指さしをせよ」
と、いってくれましたから、槃特は、よろこんで、のぼりをしょって、唱名《しようみよう》をとなえながら托鉢にでかけました。
「さあ、めぐんであげますよ」
「ありがとう存じます」
「おまえさんの名前は?」
「はい、これでございます」
と、例ののぼりに指さしをします。
「ああ、槃特さんといいなさるのか」
「さようでございます」
というので、たいそうめぐみをうけました。
この槃特が亡くなりまして、その墓のわきへはじめて生えた草を、天竺では槃特草といい、日本では、茗荷と申します。文字というのは理詰めなもので、茗荷とは、名を荷《にな》うと書きます。そこで、茗荷を食べると、ものをわすれるというんだそうでございます。
神奈川の宿に茗荷屋という宿屋がございました。
ここの主人は竹次郎と申しまして、おとっつぁんの代まではりっぱに暮らしておりましたが、このひとが、生まれついて変屈《へんくつ》という性質《たち》で、お客さまが泊まっても、世辞《せじ》というものをいったことがございません。「なあに、宿を貸して、それだけのものを食わせるんだからあたりまえだ」というような顔をして、ろくろくあいさつもいたしません。それがために、お客のほうでもなんとなく泊まり心地がよくございません。親の代から泊まりつけになっておりますなじみ客も、だんだんよそへ宿をかえるようなことになりまして、すっかりさびれてしまいました。よんどころなく、奉公人もひまをだして、世帯をたたみ、神奈川宿のはずれへ木賃宿同様なちいさな旅籠《はたご》屋をだして、夫婦だけで商売をはじめましたが、なかなか泊まり客はございません。
ある秋の日暮れどきでございます。
「ああ、降ってきた、降ってきた。おみつや、降りだした時刻がわりいや。この雨じゃあ、また、今夜もお客さまはねえだろうな」
「おまえさん、お客さまのないのを、なにもそんなにめずらしそうにいわないでもいいじゃあないか。こんなきたないうちへ泊《と》まり人《て》があるもんかね」
「まあまあ、しかたがねえ。早くおもてをしめて寝てしまおう」
「旅籠屋が、そんなに早く寝るようじゃあしかたがないねえ」
はなしをしておりますところへ、三人づれの旅人がやってまいりまして、
「おいおい、早くきねえってことよ」
「あとの宿《しゆく》で泊まりゃあよかったのに、もうひとふんばりしろというから、こんなことになっちまったんだ」
「ぐちをいったってしようがねえやな……むこうのひさしでやすもう」
「おい、すこしそっちへ寄ってくれねえと、いるところがねえぜ」
「おいおい、縁は妙なもんだぜ。きたねえけれども、降りこめられたここは宿屋だぜ」
「なんだかうすぎたねえ宿屋だな」
「うすぎたなくったってなんだってかまわねえや。濡《ぬ》れるよりはいいじゃあねえか。泊まっちまおう」
「じゃあ、そうしよう」
「はい、こんちは」
「いらっしゃいまし」
「三人づれだよ。厄介になるぜ」
「ありがとう存じます。いや、どうもわるいときに降りだしたもんでございます」
「そうよなあ……おい、洗足《すすぎ》をおくれ」
「へえ、おみつや、洗足を持ってきな。たらいを持ってこないか」
「おまえさん、いけないよ」
「なにがいけねえ?」
「なにがいけないって、たらいの底がぬけちまったんだよ」
「底がぬけたら、なぜ、なおしにやらねえんだ?」
「だって、おまえさん、あしたにも身上《しんしよう》をたたんでしまおうというところだから、たらいの底がぬけたって、ぬけっぱなしにしておいたんだあね」
「そんなことをしておいちゃあ、お客さまへお洗足をあげることができねえ。なにかあるだろう? ……しかたがねえなあ……ええ、お客さま、この横丁に流れがございますから、そこへいって足を洗って、ついでにおからだをふいていらしってはいかがで?」
「ばかなことをいいなさんな。この降りでどこへもいけねえからここへ泊まったんじゃあねえか。流れまで足を洗いにいかれるもんじゃあねえ。早くしてくんな」
「へえへえ、よろしゅうございます……おい、おみつや、しかたがねえ、そのすり鉢に水を汲んできな……へえ、お待ちどおさまでございます」
「おやっ、こりゃあ、たらいじゃあねえ。すり鉢じゃあねえか」
「さようでございます」
「へーえ、変な宿屋だな。すり鉢で足を洗うのははじめてだ」
「なんでもいいやな。洗いさえすりゃあ……ここのうちじゃあ、すり鉢で足を洗うのが習慣《しきたり》なんだろう」
「そんな習慣があるもんか……おい、どっちへいくんだい?」
「へえへえ、どうぞ、こちらへいらしってくださいまし」
「どうもきたねえなあ。壁がおっこちてやがる。じょうだんじゃあねえ。おどろいたな」
「どうだい、ひでえ畳じゃあねえか。なんてうすぎたねえんだろう。とんだところへ泊まりこんじまったもんだ」
「そんなにいうなよ。おめえは、口がわるいからいけねえ。どうせ降りこめられて泊まったんだ。しかたがねえや。そんなことをいって、むこうで聞いたら、いい心持ちはしなかろう……やあ、亭主がきた、亭主がきた。ええ、ご亭主、今夜は厄介になるよ」
「ありがとう存じます……ところで、お旅籠代《はたご》をちょっとうかがいますが、上《じよう》にいたしましょうか? 普通《なみ》にいたしましょうか?」
「上も普通もねえや。こちとらあ江戸っ子だから、そこんとこは、いいかげんにやってくれ」
「へえ、かしこまりました。すぐにごはんをめしあがりますか?」
「そうさなあ、ちょっと湯にへえりてえもんだ」
「お風呂でございますか?」
「ああ、あるかい?」
「うちにはございません」
「ねえ? じゃあ、湯屋へいくのかい?」
「はい」
「湯屋は、遠いのかい?」
「なあに、たいしたことはございません。本宿《ほんじゆく》までいらっしゃいますと、じきでございます」
「なに? 本宿? よっぽどあるだろう?」
「いいえ、わずか半里《はんみち》で……」
「じょうだんいっちゃあいけねえ。半里もさきまで湯にいけるかい。じゃあ、しかたがねえ、からだでもふいておこう。すぐにめしのしたくをしておくれ……いなかのやつあのんきだな。半里もさきまで湯にへえりにいくやつがあるもんか。まぬけなことをいやあがる」
「おやっ、雨がもるぜ。いいあんばいに小降りになったからいいが、大降りじゃあたまらねえや。どこかほかに寝るところはあるんだろう。ここは、めしを食うところなんだ」
はなしをしているところへ夫婦で膳《ぜん》をはこんでまいりました。
「おお、膳がきた、膳がきた」
「ありがてえ。腹をこしらえて寝ちまおう。ひと晩の辛抱《しんぼう》だ……おやおや、おどろいたな。はげちょろけのお膳で、茶わんはひびだらけだ。きたねえほうへゆきとどいてやあがる。おどろいたな、どうも……もし、ご亭主、これはなんで?」
「お汁《つけ》でございます」
「お汁? ……お汁ったって、まるで湯じゃねえか。下のほうに、なんだかしずんでるものがあるが、ああ、これが味噌《みそ》かい? ……うーん、こりゃあおどろいた。どうも塩っかれえ。味噌のお汁じゃあねえや。こりゃあ、塩のお汁だ」
「あなたがた、もったいないことをおっしゃいますな。うまい、まずいというのも、のど三寸越すだけのことでございます。腹へはいってしまえば、うまいもまずいもございません。そんなぜいたくなことをおっしゃると、罰があたって、おまえさんがた、ろくなことはございませんよ」
「おやおや、とんだお談義を聞かされるもんだ」
「兄い、なんだか、お汁が、じゃりじゃりするな」
「おおかた味噌の漉《こ》しようがわるいんだろう」
「そうかな、いやにじゃりじゃりする……おやおや」
「なんだ?」
「わらのごみがでた」
「わら? ……うん、そういやあ、さっき、すり鉢で足を洗ったが、まさか、あのすり鉢で味噌をすりゃあしめえ」
「そうよなあ……もし、ご亭主、ここのうちじゃあ、足を洗うすり鉢と味噌すりのすり鉢とふたつあるんでしょうね?」
「いいえ、ひとつでございます」
「じゃあ、さっき、足を洗ったすり鉢で味噌をすったのかい?」
「さようでございます」
「じょうだんじゃあねえ。足を洗ったすり鉢で、お汁をこしらえられてたまるもんじゃあねえ」
「なあに、あなたがたについていた泥ですから、さほどきたないこともございますまい」
「ばかにしなさんな……ときに、だいぶ雨がもってきたが、ここへみんな寝るのかい? それとも、ほかに座敷があるのかい?」
「へえ、どうぞ、ここへ寝ていただきたいもんで……」
「雨がもるじゃあねえか」
「どうもしかたがございません。今夜ひと晩だけのことで、傘でもさしていらっしってくださいまし」
「じょうだんじゃあねえ。一晩じゅう傘なんぞさしていられるもんかい。だめだ、だめだ」
「兄い、だから、さっきからおれがいうんだ。うちのなかで傘をさしているくれえなら、なにも旅籠へ泊まるこたあねえ。いくらか茶代をやって、本宿までいこうじゃあねえか」
「そうよな。なにしろ、うちのなかで傘をさしているようなことじゃあたまらねえ……じゃあ、ご亭主、こりゃあ、めしの代《だい》だ。それから、この二百は、お茶代においていくよ。また、帰りにゆっくり寄るとして、今夜は、すぐにでかけるから……おおきにお世話さま」
三人は、ほうほうのていで逃げだしてしまいました。
「おまえさん、ごらんな。あいかわらず、お客さまへむかってくだらないことをいうから、お客さまは、怒っていっちまったじゃあないか。あんなぐあいだから、いっぺんきたお客さまは、二度とふたたびお泊まりなさる気づかいはありゃあしない。どうするんだい? おまえさん……いまの三人のかたに、ごはんを炊《た》いてあげたぎり、お米もありゃあしない。あした食べるものもないしまつじゃあないか。どうするつもりだい?」
「どうするつもりだって、ただ、でるものは、ためいきばかりだ。ああ、おれの運がわりいんだ。運がないもんだとあきらめるよりほかにしかたがねえ」
「けれどもね、おまえさん、運というものは、運《はこぶ》と読むとかいうよ。おまえさんのは、運《はこ》びをつけないで、手つだって貧乏をしてるんだよ。世間のひとが、なんというとおもってるい? 『あのひとは、いいひとだ。竹さんは、おこころよしだ』……いいひとだ。おこころよしだといわれるのを、おまえ、いいとおもっているか知れないが、ほんとうは、ばかだということなんだよ。おとっつぁんの代までは、この界隈《かいわい》でりっぱに暮らしてたうちが、おまえさんがいくじがないばっかりに、こんなところへくすぶってしまい、乞食同様なこのありさま。おまえさんもわたしも、この界隈に生まれ、夫婦になって、親からゆずられたりっぱなうちは、人手にわたし、この上、のたれ死にでもした日には、ご先祖へ対してもすまないじゃあないか。運がないんじゃあない。かせぎさえすれば運がくるものだから、いっそ、このうちをたたんで江戸へいって、どんなことでもして、夫婦ともかせぎにいっしょうけんめいかせいだら、もとの身代までにはならないまでも、どうにか食いつなぎのできないことはないだろうよ。身をすててこそ浮かぶ瀬もあれというから、いっそ江戸へでて、どんなつらいことでも辛抱して、ふたりで、いっしょうけんめいかせごうじゃあないか」
「うん、おめえが、そうおもうんなら、この界隈で恥をかいてるより、江戸へいったほうがいいかも知れねえ。なにしろ、もう客もくる気づかいはねえ。今夜は、早く寝て、よく気をおちつけてからかんげえよう」
と、おもてのあんどんをひいて、戸をしめ、枕《まくら》について、これからさきの相談をいたしておりますところへ、
「ごめんなさいまし。茗荷屋さんのうちは、こちらですかい?」
「へえ、お気の毒さまでございますが、お宿ならおことわり申しますよ」
「もし、おまえさんは、竹さんじゃあないか。いま、本宿へいってたずねたところが、こっちへうつったというから、わざわざ、ここまでやってきたんだ。竹さん、お気の毒だが、ちょっとあけておくれ」
「はい、どなたでございますか? せっかくたずねてきておくんなすったけれども、今晩は、もう寝てしまいましたから……」
「そんなことをいわないで、起きておくれよ。わたしは、ひさしくお目にかからなかったが、紀州の佐野屋だよ」
「ああ、紀州の佐野屋の旦那でございますか。こりゃあ、どうもとんだ失礼をいたしました。へえへえ、ただいま、あけます……やあ、お待ちどおさま。どうぞ、おはいんなすって……」
「はい、ごめんよ。ああ、どうもくたびれた。この荷物をそっちへやっておくれ。やっと神奈川へ着いたとおもったら、うちがかわってしまって、また、ここまでたずねてきたんでがっかりした。どうか、洗足をおもらい申したい」
「はい、かしこまりました」
また、すり鉢へ水を汲んでまいります。足を洗って、「さあ、こちらへ……」と、奥の座敷へ通しました。
「旦那さま、いつもおかわりございませんで結構でございます。いや、どうも、それにひきかえまして、わたくしは、かようにかわり果てまして、じつに、お目にかかるのもめんぼくしだいもないわけでございます」
「いや、竹さん、じつにおかわりなすったね。わたしも、ちかごろでは、まるでせがれにまかしてしまって、とんと江戸へもでてこなかったが、こんど、ひさしぶりででかけてきました。早いもので、ちょうど十年ぶりだよ。いまもいった通り、本宿の先《せん》のうちをたずねたところが、こちらへひっこしたというので、まあ、たずねてきたようなわけだが、ひとというものは、じつにかわるもので、むかしのおもかげはないね。しかし、竹さん、力をおとしなさんな。ひとは、七ころび八起きというから、また、りっぱになる時節もある。けっして力をおとさないで、いっしょうけんめいかせぎなさいよ」
「ありがとう存じます。しかし、旦那さま、せっかくあなたがたずねてきてくださいましたが、じつにお恥ずかしいこのしまつで、どうもお泊め申すことができません。お着せ申すふとんもろくにないくらいでございます。わたしが、お荷物をかついで本宿までお供をいたしますから、今晩は、本宿のほかの宿へお泊まりをねがいます」
「竹さん、じょうだんいっちゃあいけないよ。わたしは、なにもきれいなうちへ泊まろうというんじゃあない。いまもいった通り、十年ぶりで江戸へ下るので、泊まり泊まりの旅籠《はたご》も、みんななじみのうちばかりに泊まってきたんだ。たとえ、やぶれ畳の小座敷へせんべいぶとんにくるまって寝ても、気心の知れたうちへ泊まるくらいいい心持ちのことはない。いくら絹布《けんぷ》の夜具ふとんにくるまって寝ても、なじみのうすいうちへ泊まるのは、まことにいやだ。けっして心配はないから、どうか今夜は泊めておくれ」
「ありがとう存じます。こんなになっても、ひいきにしてくだすって、おぼしめしのほど、うれしゅうございます。わざわざこんなきたないところへ泊まりにきてくださるお心持ち、旦那さま、このご恩は、竹次郎、死んでもわすれはいたしません」
「あはははは、じょうだんいっちゃあいけない……夕めしは、もうすませてきたから、べつに食いものの心配もなにもいらない。それから、ここにある三百両、こりゃあ、おまえさんへたしかにあずけるから、どうぞ、しっかりしたところへしまっておいておくれ」
「へえ、旦那さま、せっかくではございますが、むかしとちがって、ただいまは、こんな住居でございますので、大金をおあずかり申しても、しまっておくところがございません。旦那さまに持っていていただいたほうがようございます」
「そうでもあろうけれど、なにしろ、わたしも、この両掛け(むかしの旅行用の荷物)をかついであるいてきたので、ずいぶんつかれているから、なんの心配もなく寝たいんだ。おまえさんの気心も知っているから、あずけておきゃあ安心だ。どうか、しまりを厳重にして、おまえのからだにつけて寝ていておくれ。それがなにより大丈夫だ」
「そんならば、たしかにおあずかりします。ただいま、おあずかり証をさしあげます」
「ばかなことをおいいでない。おまえを大丈夫と見込んだからあずけるんだ。あずかり証なんかいるもんか。とにかくつかれているから、すぐに寝るよ」
「さようでございますか。いや、どうも、家内もお目にかかるのもはずかしいと申しております。ただいま、ごあいさつにつれてまいりますから……」
と、女房のおみつをつれてまいりまして、一通りのあいさつもすみ、
「じゃあ、旦那は、朝がお早いのだから、すぐにお床をとって……ここは雨がもるから、あっちの四畳半のほうへお寝かし申したらよかろう」
「そうしましょう」
と、床をのべますと、お客は、よほどつかれていたものとみえまして、枕につくが早いか、高いびきで寝てしまったようす。竹次郎夫婦も両掛けを枕もとへおいて、
「なあ、おみつ、おなじみぐれえありがてえものはねえな。本宿にりっぱな宿屋がいくらもあるのに、それを通り越して、こんな木賃宿同様なうちへ、わざわざたずねてきてくださる旦那さまのおぼしめし、なんとありがてえじゃあねえか。ときに、おみつ、今夜はなあ、なにしろ三百両という大金をおあずかり申しているから、なかなかうかつにゃあ寝られねえ。この両掛けをあたまの上へおこうじゃあねえか……なあに、あたまの上ったって、なにものっけるわけじゃあねえ。ふたりの寝ている枕もとへおいて、両掛けへ首をぴったりつけておきゃあ、よしや泥棒がはいったって、ちょっとさわられでもすりゃあ目がさめるから、それに、旦那が、あした早発《はやだ》ちだから、おめえに、あしたの朝、早く起きてもらわなければならねえ。それだから、おめえは、もう安心して寝るがいい。おれは、今夜、なるたけ眠られねえようにして番をしているから……」
「おまえさん、それじゃあなにかい、紀州の旦那の三百両をあずかっているのかい?」
「ああ、たしかにあずかった」
「あるところにはあるもんだねえ」
「そうよ。ちょっと道中するのに、こんな大金をふところにいれてあるきなさるのに、おれたち夫婦は、あしたにも世帯じまいをして、土地をはなれ、どこの土になるか知れねえというなあ、まったく、ひとというものは、たいそうなちげえのあるものだ」
「そうだねえ。その三百両のお金があれば、住みなれたこの神奈川をはなれるにもおよばないのだが、いくらどうおもっても、ひとのお金じゃあしかたがない」
と、ぐちたらたらで、女房は、昼のつかれか、すやすやと寝入ってしまったようす。竹次郎は、八つ(午前二時)の鐘を打ち切りました時分、女房の寝息をうかがって、そっと起きあがり、どうおもったか、戸棚のなかに油紙につつんでありました道中ざしをとりだし、足音をしのばせて奥の座敷へやってまいりまして、しばらくようすをうかがっておりましたが、昼のつかれか、客人は、ぐうぐうという高いびき、障子を音のしないようにそっとあけまして、なかへはいった竹次郎が、
「もし、旦那さま、まことに申しわけございません。恩を仇《あだ》でかえすというのは、このことでございましょう。仏といわれた竹次郎、金ゆえ鬼になりました。ごかんべんくださいまし」
と、持っておりました道中ざしの鞘《さや》を払って、左の手に持ち、「なむあみだぶつ」と口のなか、こぶしも通れと突き立てました。
「あいたたたた……いたいねえ、おまえさん、乳は、女の急所《きゆうしよ》というくらい、なんで突いたんだね?」
「うん、脇差しで……」
「ふざけちゃあいけないよ。脇差しで突かれてたまるもんじゃあない。ひとを殺した夢でもみたんじゃあないかい?」
「ああ、夢か……うーん、おそろしいもんだ。人間の心というものは、かわるもんだなあ」
「どうしたんだい? おまえさん……なんの夢をみたんだい?」
「なあに、おれは、さっき、紀州の旦那からおあずかり申した三百両、この金があったら、住みなれた神奈川をはなれずにすむだろう。ああ、金がほしいものだとおもって、うとうと寝ているうちに、もったいないことだが、急に心がかわって、あの旦那を殺して金をとろうと、道中ざしを持って、奥へいって、旦那を刺し殺した夢をみたんだ」
「あらまあ、そうかい。おまえさんもなかなかたのもしいね」
「なに?」
「いえさ、人間は、それくらいの了簡《りようけん》がなければ、なかなか出世はできないよ」
「ばかなことをいうな。いくら貧乏をしたって、ひとさまを殺してまで金をとろうという、そんな心持ちがあっちゃあ、いい往生《おうじよう》ができるもんか。正直の頭《こうべ》に神宿るという。なんでも正直にしてりゃあ、いつかは、いいことがある」
「そんな了簡を持ってるから、だんだん貧乏をしてしまうんだよ。ああ、おまえさんみたいなはたらきのない亭主を持っていた日にゃあ、しまいには、乞食にでもなってしまわなければならない。よくかんがえてごらんよ。さっきもはなしをした通り、先祖代々住みなれたこの神奈川にもいられなくなったのは、みんな、おまえさんが、いくじがないからさ。あの三百両のお金があれば、わたしたちは、この神奈川にいられるんだよ。ねえ、おまえさん、わるいことはいわない。これも、ご先祖さまのためだから、こうおしな……なるほど、旦那を殺しちゃあすまないけれども、どうかして、あのお金をこっちへまきあげる工夫をしようじゃあないか。そして、りっぱな身代になったら、紀州の旦那のところへ三百両のお金を倍にして、六百両持って詫《わ》びにいく。『あのときは、これこれで、夫婦のものがこまりましたから、よんどころなくお借り申しました』と、おかえし申したらいいじゃあないか。ねえ、おまえさん、そうして、この茗荷屋の家名が、りっぱに立つようにしようじゃないか。茗荷屋ののれんをつぶしては、ご先祖さまに対してすまないよ……ああ、茗荷屋でおもいだしたけれど、茗荷を食べると、ものをわすれるとよくいうが、さいわい、うらの畑に茗荷がたくさんあるから、あしたの朝、旦那に茗荷をたくさん食べさしたら、お金をわすれていかないともかぎらないじゃあないか。目がさめたらやってごらんな」
「うん、いかにもおめえのいう通り、この茗荷屋ののれんを絶やしてしまったら、ご先祖さまへ申しわけがねえ。わるいことだが、それじゃあ、一時、お金をお借り申して、のちにお詫びをしながら持っていくとして、茗荷料理をやるとしよう」
と、夜なかに起きだして、うらの畑へいって、茗荷をたくさん掘ってまいりまして、おみつが、台所で料理にとりかかりました。
そのうちに、一番|鶏《どり》から二番鶏の鳴くころになりますと、紀州のお客は早発ちですから、
「竹さん、夜があけたね」
「はい、もうさきほどから起きております」
「ああ、そうかい。なんだか台所でごたごたやってるようだったが、たいそう早かったな……ちょっと顔を洗わしてもらいたい」
「へい、旦那さま、こちらへいらっしゃいまし。いいあんばいに雨もあがりました」
「そうだね、まあ、いいあんばいだ」
客は、顔を洗って、坐って一服やっております。
一方、台所では、おみつが、竹次郎にむかって、
「いいかい、おまえさん、お客さまに、『きょうは、先祖の命日、てまえどもの家例でございますから、なんでもすべて茗荷をもちいますから、どうぞ、ごめいわくでもめしあがってください』と、こういいなさいよ。そうすれば、いやだとおもっても食べるにちがいない。なるたけすすめるようにして、たんと食べさせなければいけないよ。いいかい?」
「ああ、わかったよ……ええ、旦那さま、どうぞ、お茶をめしあがってくださいまし」
「はいはい、ごちそうさま……おや、これは、梅ぼしじゃあないね。なんだい? ……茗荷へ白砂糖がかかっている。こりゃあ、おもしろいね……やあ、白砂糖じゃあない、塩だ……うん、なるほど……こいつは、ちょっとおつなもんだね」
「へえ、さようでございますか」
「じゃあ、ごはんをいただこうかね」
「へえ、ただいま……どうもおそくなりました。わたくしが、お給仕をいたします」
「ああ、そうかい。旦那に給仕をしてもらっちゃあすまない。しかし、はなしをしながらご膳をいただくのも、また、たのしみなものだ。じゃあ、ちょうだいしよう」
おわんのふたをとってみると、茗荷のお汁《つけ》、平皿《ひら》が茗荷、お壺《つぼ》が茗荷、
「こりゃあ、たいそう茗荷だくさんだね」
「へえ、のこらず茗荷で……」
「おやおや、ご膳も茗荷めし、たいへんにどうも茗荷ぞろいだね」
「へえ、のこらず茗荷で……旦那さま、まことにごめいわくでございましょうが、これは、その……きょうが、先祖の命日でございまして、きょうだけは、茗荷屋というのれんに対して、なにからなにまでのこらず茗荷をさしあげてくれと、こういう遺言でございますので、その遺言を守って、いまだに、なにからなにまでのこらず茗荷をさしあげますので……」
「はあ、おもしろいね、どうも……先祖の命日に泊まりあわせるというのも、おまえさんとわたしとは、よほど深い因縁だね。結構結構、ちょうだいしよう」
いやだとはおもいましたが、なんにもいわずに茗荷のごはんを食べて、
「いや、おおきにごちそうさま」
と、口ではいったものの、腹のなかでは、ああ、これだから、なるほど身上《しんしよう》もつぶれるのだ。いくら先祖の命日だって、茗荷ばかり食わせられてたまるもんじゃあない。もう二度とふたたびこんなうちへ泊まるもんか。きょうかぎりだと、心をきめて、
「じゃあ、竹さん、わたしは、すぐに発《た》つから……」
「ただいま、おみつが、ちょっとごあいさつに……」
「いや、それにはおよばないよ。また、お目にかかるから……」
と、おもしろくないから、そのままそとへでてしまいました。
あとを見おくっていました竹次郎とおみつが、
「なるほど、茗荷の効能はあるもんだ。両掛けも金もわすれていっちまった」
「それ、ごらんな。なんでもやってむだなことはない。ほんとうにいいあんばいだったね。両掛けに、なにがはいっているかみてごらん」
「どんなものがはいってるんだろう?」
「いいから、早くあけてごらんよ……おや、おまえさん、たいへんに着物がはいってるじゃあないか。そのなかのくすんだ(地味な)ものは、おまえさんのにして、派手なものは、わたしのになおして着せておくれ」
「ああ、いい柄《がら》のがある。これは、おまえのにしたらよかろう」
「あら、ちょいと、おまえさん、これを、わたしのにしてくださいよ。羽織がなくってしかたがないから、これを羽織にして着たいよ。これを下着にして……まあ、ほんとうにいいあんばいだったね」
と、はなしあっておりますところへ先刻発った客が駈けこんでまいりまして、
「おいおい、竹さん、じょうだんじゃない。両掛けをわすれていったじゃあないか。おまえのほうは、ふたりいるんだから、気がつかないことはなかろう? なんとかいってくれたらよさそうなもんじゃあないか。むこうからきたひとが、両掛けの肩をいれかえたから、わたしも肩をいれかえようとおもって、気がついてみると、しょってないじゃあないか……なんとかいってくれなくっちゃあしかたがない……おや、なんだい? ひとの両掛けをあけて、着物なんぞだして……」
「へえ……そのう……旦那さま、じつは……ええ……わすれておいでなすって、紛失ものでもあるといけませんから、いま、しらべております」
「なにをおかしなことをいってるんだ。じょうだんじゃない。早くこっちへだしておくれ。なんのことだ」
と、両掛けをかついで、腹を立てていってしまいました。
「おみつや、いけねえ。両掛けだけはおもいだした」
「あんな大きなものだからおもいだすだろうが、お金は大丈夫だよ。あれは、もうわすれてしまったにちがいない。さあ、ひさしぶりで小判にお目にかかろう」
「うん、いつみてもわるくねえ色だな。どうだ、おみつ、この小判をみな」
「ほんとうにいい色だね。ひさしぶりで、こんなにたくさんの小判をみたよ」
「おい、竹さん」
「おや、また、帰っておいでなすった」
「また帰っておいでなすったじゃないよ。ばかばかしい。おまえにあずけておきゃあ大丈夫だとおもったから、三百両という大金を、あずかり証をとらないであずけておいたんじゃあないか。わすれてねえなら、なんとかいってくれそうなもんだ」
「へえ……じつは……ただいま、おもいだしまして、あとから追いかけていこうと存じましたので……」
「追っかけていこうもないもんだ。胴巻きをあけて、なにをしているんだ。早くだしてくんな」
「へえ、どうもごめんくださいまし。たしかに三百両ございます」
「たしかにもくそもあるもんか。ばかばかしい。正直ものだとおもって安心してあずけたら、とんでもないひとだ」
腹を立てて、胴巻をふところへいれると、ぷいととびだしてしまいました。
「ああ、いけねえ、いけねえ。せっかくうまくいったとおもったら、みんなとりかえされちまった。茗荷の効能もなにもあるもんじゃあねえ」
「ほんとうに骨折り損だったね……けれども、こんなはずはないんだが……茗荷を食べると、ものわすれをするというんだがねえ……なにかわすれたものがあるだろう?」
「なんにもありゃあしねえ」
「よくさがしてごらんよ。なにかわすれたものがあるよ、きっと……」
「なんにもないよ」
「そうかねえ……」
「あっ」
「どうしたのさ? わすれものがあったかい?」
「ゆうべの旅籠賃をもらうのをわすれた」
穴どろ
「おい、いま帰った」
「いま帰ったもないもんだ。ほんとにあきれかえっちまうよ」
「なにが?」
「なにがじゃあないよ。おまえさん、お金を都合してくるってでてったけれど、いまごろまでなにしてたのさ? お金はどうだったんだい?」
「あいにくだ」
「たぶん、そんなことだろうとおもってたんだ。ほんとうにこまっちまうねえ。どうするのさ?」
「どうにもやりくりがつかねえ」
「お店《たな》へいったのかい?」
「ああ」
「で、どうしたのさ?」
「番頭さんのいうにゃあ、『この前用立ててやったのもそれっきりになっているのに、どのつらさげてそんなことをいってきたんだ』ってえから、『どのつらにも、このつらにも、これひとつしかねえから、ふだんのつらでまいりました』というと、番頭さんが、おれのつらをつくづくとみて感心していた」
「ばかだねえ。あきれかえったんだよ。じょうだんじゃあない。いいかげんにおしよ。年末《くれ》も近いというのにどうするのさ? たった三両じゃあないか」
「たったにも坐ったにも、できねえときはしようがねえ」
「だらしがないねえ。三両ばかりのお金ができなけりゃあ、豆腐のかどへあたまをぶっつけて死んでおしまい」
「なにっ」
「おまえさん、男だろう?」
「男だって、できねえときにはできねえ。いま、なんとかいったな。三両ばかりの金ができなけりゃあ、どうするんだ?」
「『豆腐のかどへあたまをぶっつけて死んでおしまい』と、いったんだよ」
「なにをぬかしゃあがるんだ。豆腐のかどへあたまをぶっつけて死ねるもんか。それとも、てめえ、豆腐のかどへあたまぶっつけて死ねるのか?」
「ぐずぐずいってないで、どこへでもいって、三両こしらえておいでよ」
おかみさんにしかられて、根《ね》がひとのいい男ですから、うちをとびだして、また、二、三軒たのんでみましたが、どこでもことわられてしまい、奴《やつこ》さん、「ああ、こまったな」と、ぼんやりあるいているうちに、横網《よこあみ》の河岸をきて、御蔵橋《おくらばし》をわたり、多田の薬師前から吾妻橋のほうへだんだんあるいてまいりますうちに、日はとっぷりと暮れてしまいました。吾妻橋をわたって、花川戸の河岸までまいりますと、どこか商家でございますが、黒塀《くろべい》三尺のところがギイーッとあいたようですから、一足さがってしゃがんでようすをみておりますと、二十二、三の若い男がふたりでてまいりまして、
「おい、弥七さん」
「ああ、寅さんかい、ちょうどいいね」
「うん、そのへんで、いそいで駕籠《かご》へ乗っていこう」
「そうしよう」
と、ふたりはいってしまいました。
「ああ、このうちの若い衆があそびにいくんだな。吉原へいってつかう金があるなら、三両ばかりおれに貸してくれるといいのに……ああ、駕籠をつかまえやがった。とうとういっちまった……あれっ、ここのしまりをしていかねえ」
三尺の塀を押してみますと、ギイーッとあきましたから、なかへそっとはいってみますと、さして広い庭ではありません。むこうの隅の雨戸がすこしあいているのは、いま、若い衆がでていったところとみえます。こっそり上へあがって、廊下づたいにやってまいりまして、居間らしい座敷の襖《ふすま》をあけると、むこうのあかりがさしますから、なかをみますと、なにかおめでたいことでもあったとみえまして、すみのほうに、食べものや徳利が、お膳《ぜん》の上にのせておいてあります。
当人、腹がへってるところへ酒好きときていますから、徳利をみてはたまりません。そばへ寄って徳利をふってみると、まだ四、五本の徳利に酒がだいぶはいっております。
「ああ、ありがてえ、ありがてえ。そろそろ運がむいてきたぞ。このうちは、なんの商売だか知らねえが、これだけの構《かま》えをしてるんだ。三両ばかりの金は、そこらにころがってるにちげえねえ。なにしろ腹がへった。酒がつめてえが、ぜいたくはいえねえ。一ぱいいただくとしようか……ああ、ここに大きな湯飲みがあらあ」
湯飲みへ一ぱいに酒をついで、ぐっと飲んで、
「ああ、いい酒だ。ありがてえ、ありがてえ……おや、これは、おわんだな……うーん、つめてえ、つめてえ。こいつあいけねえや。こっちにさしみがあるな……うん、こりゃあうめえや。こりゃあ本場もんだ。こいつあ安くねえぜ。うん、うめえ、うめえ」
なにしろ、すきっ腹のところへ、二、三本やったんですから、奴さん、すっかりいい心持ちに酔ってしまいました。
「ああ、いい心持ちだ。ありがてえ、ありがてえ。人間、なんでも正直にしていなくっちゃあいけねえ。おっと、泥棒にはいって、あんまり正直でもねえけれども、なあに、たんととるわけじゃあねえ。たった三両の金さえありゃあ、いばってうちへ帰れるんだ。かかあめ、ひでえことをいやあがった。『三両ばかりの金ができなけりゃあ、豆腐のかどへあたまをぶっつけて死んでおしまい』って……なんてえことをぬかしゃあがるんだ。まあ、ありがてえ。おかげでいい心持ちになった……もしも、このうちのあるじが目をさまして、『おまえは、どこのひとだ?』と、いったら、おれが、『さようでございます。わたしは、これこれこういうものでございまして、まことにすみませんが、かかあが、わたしをつかめえて、豆腐のかどへあたまをぶっつけて死んじまえといやあがるんで、たくさんいただくわけじゃあございません。どうか三両のお金を貸してくださいまし』『ああ、そりゃあ気の毒だ。三両ばかりでこまりなさるのなら、さあさあ、あげる』と、いうかどうだか、わからねえけれども……へへへ、いうよ、きっと……ああ、うっかり大きな声をだした。おれのうちじゃあなかった。ああ、酔った、酔った。こりゃあうめえ……おやおや、なんだい? ああ、いつのまにか、かわいい子どもがでてきた。坊っちゃんですか? へい、坊っちゃん、おかわいらしいこと、おじちゃんはね、いまはいった泥棒ですよ。わかりますか? わかりますまい……へへへへ、うまうまですか? あげましょう、あげましょう。ほら、あーんと、お口をおあきなさい。あーん、さあ、お魚《とと》、お魚《とと》をあげますから、あーんと口をあいて……うまいうまい。あはははは、かわいいね、へへへへ、あんよができますか? あははは、あんよはじょうず、ころぶはおへた、あんよはじょうず、ころぶはおへた……」
と、子どもをあやしながら、自分が、だんだんあとじさりをして、ここの座敷のそとが土蔵前で板の間になっている、その板の間のほうへでてくると、間のわるいときにはしかたのないもので、そこにある穴蔵のふたがすこしずれてあいていたところへさがってきて、ばったり尻餅《しりもち》をついたとおもうと、それほど深くはありませんが、穴蔵のなかへどーんとおちてしまいました。あいにくと水がすこしあったからたまりません。
「わあ、こりゃあおどろいた。なんだい、ここは? 湯屋にしちゃあつめてえ。おい、湯屋なら、番頭さん、もっと熱くしてくれ。おーい、どうしたんだよ!」
「おいおい、だれかいないか? どうもこまるじゃあないか。坊やがいませんよ。どこへいったんだい? 坊や、坊や……ああ、こんなところからでてきた。なに? おじちゃんがどうしたって? おじちゃんてだれだい? ……おい、だれか、坊やをそっちへつれてっておくれ」
「おーい、つめたくっていけねえ。だれかきてくれ。ばかにしてやがる。なんでえ……」
「おやっ、だれか穴蔵へおちたやつがいる。おい、だれかきておくれ。坊やがはいだしてきて、穴蔵へでもおちたらたいへんだ。それにしてもだれだろう? だいぶ酔っているようだ。こまったなあ、おい、穴蔵へおちたのは、だれだ? 金か?」
「なんだと? おらあ、金なんぞじゃあねえぞ。べらぼうめ!」
「なんだ、だれだ? たいへんにいばってやがる」
「なんだもくそもあるもんか。おらあ、今夜へえった泥棒だ」
「なに? 泥棒だ? やあ、たいへんだ。泥棒が穴蔵へおちた」
というので、うちじゅうがひっくりかえるようなさわぎになりました。
そのうちに、気のきいた若いものが、鳶頭《かしら》のところへかけつけますと、あいにく、鳶頭は留守で、かわりにやってまいりましたのが、彫物《ほりもの》だらけのいせいのいい男でございます。
「旦那さま、鳶頭のところから、おひとがみえましたが……横浜の平さんてえひとで……」
「ああ、そうかい。そりゃあ、ごくろうだった。ああ、おまえさんか」
「へえ、あいにく鳶頭が、寄り合いからわきへまわりまして、あっしが留守番をしておりましたんで、とりあえずかけつけてまいりました。へえ、あっしは、自分でいうのもおかしゅうございますが、力が五人力ありまして、角力《すもう》などをとったって負けたことがございません。どんなことでもおどろくんじゃあねえんで……なあに、泥棒なんぞ、とっつかめえて、ひねりつぶしてしまいます。どこおりますんで? その泥棒てえのは……」
「えっ、おまえさん、力が五人力ある? そいつあ豪儀だ。どうか、ひとつひねりつぶしておくれ」
「あれっ、あんなことをぬかしやがる。さあ、おりてこい。矢でも鉄砲でも持ってこい!」
「旦那、泥棒はどこにいるんで?」
「穴蔵のなかへおちてるんだ」
「穴蔵に? まぬけな泥棒じゃあねえか。しかし、どうもこまっちまったな。穴蔵へおりるってえなああぶねえな。それじゃあ、旦那、でなおしてまいります」
「おいおい、いっちまっちゃあいけないよ。たいそう強いことをいったじゃあないか。力も五人力あって、角力なんぞとって負けたことがないと、えらそうにいってたのに……」
「へえ……ですけれども、どうも穴蔵は、ちっとこまりました。どこか上にいるんだとおもったんで……穴蔵は、ぐあいがわるうございます」
「ぐあいがわるいったって、おまえさん、たいそうえらいことをいったんだから、どうにかしてつかまえておくれ」
「そうでござんすか……やいやい、泥棒、あがれやい」
「なにいってやんでえ。おれが、いつ、てめえんところのものを盗んだ? ふざけるない。やい、おりてこい。どんな強えやつだが知らねえが、おりてきてみやがれ。どうせやけくそだ。足のふくらっ脛《ぱぎ》を食いとるぞ!」
「こりゃあ旦那、あぶのうございます。やりかねませんよ。なにしろ、あっしのふくらっ脛はやらけえんでござんして……危険《けんのん》だから、うっかりおりられません」
「危険《けんのん》だって、おまえさん、五人力もあるんじゃあないか。なにも泥棒に縄を打って突きだすというわけじゃあない。うちから縄つきなんぞだしたかあないから、ただ、穴蔵のなかからひきあげてくれりゃあいいんだ。どうだい一両あげるから、なんとかしとくれ」
「へえへえ、一両?! いえ、なに、金なんざあどうでもよござんすが……やいやい、ちくしょうめっ、いま、おれがおりてってな、てめえのあたまを、うんと踏んでやるからおぼえてろ!」
「なにを! おりてこい、ちくしょうめ! おりてきてみやがれ。てめえの、股《また》ぐらへ……てめえの急所へ食いついてやるぞ!」
「旦那、旦那、この急所へ食いつくってえますが……どうも……」
「おい、こまるな、そんなことをいってちゃあ……おまえさん、二両あげる。二両あげるから、なんとかひっぱりだしとくれ」
「いえいえ、金なんざあどうでもようがすがね……ちくしょうめ、旦那が二両くださるんだぞ。いまおりてってなあ、てめえの首ったまをつかんでひっぱりあげてやるからそうおもえ」
「なにをぬかしゃあがんでえ。てめえ、おりてきてみろ。ちくしょうめ、てめえの足と足を持って、ぴいっとひっ裂《つあ》いてやるぞ!」
「こいつあおどろいたなどうも……旦那、ぴいっとひっ裂くっていってますが……どうもいけません。ちょっと、うちへいってきますから……」
「いっちゃあいけないよ。こまるなどうも……じゃあ、おまえさんに三両あげよう。三両あげるから、おりとくれ」
「いえいえ、なにも金なんざあどうでも……やいやい、旦那が三両くださるんだ、ちくしょうめ! いま、おりるからそうおもえ!」
「なに? 三両だ? 三両なら、だれもくるにはおよばねえ、おれのほうからあがっていく」
いいわけ座頭《ざとう》
ただいまでは、ほとんど現金買いですませますから、大《おお》晦日《みそか》だけが、とくにたいへんだということはございませんけれども、むかしは、帳面で売ったり買ったりしておりましたから、大晦日は、とるほうにしても、とられるほうにしても、命さだめというようなたいへんな日でございました。したがって、川柳でも、
大晦日首でもとってくる気なり
なんというものすごいのがあるかとおもうと、なかには、また、
大晦日首でよければやる気なり
などというふてっくされたのもございました。
「おまえさん、どうしたんだね?」
「ええ?」
「ええじゃあないよ。あれっぱかりのお金……といっちゃあ、すまないけれども、男一ぴきじゃあないか。朝っからでて算段《さんだん》をして……これじゃあ、とても大晦日は越せないよ」
「だって、しかたがねえじゃあねえか。どうしたって、あれだけしきゃあ、できねえんだから……」
「あれだけしかできないったって……こまっちまうねえ。やかましくいう掛けとり(借金とり)がいくらもくるよ」
「いいじゃあねえか」
「よかあないよ。そうやってすましていちゃあいけないよ」
「そうだけれども……」
「なにがそうだけれどもだよ。おまえさんが口がうまくって、掛けとりを、なんとかうまくごまかしてくれればいいんだけれど、へらず口はきけるが、まとまったことはなにもいえないんだからね……じゃあ、おまえさん、こうおしよ」
「どうするんだい?」
「長屋の富の市つぁんねえ、としとったじじいあんまだけども、あんなに口の達者なひとはないよ」
「そうかい」
「あれで、二、三日前だったかねえ、あたしが、前の井戸ばたでお米をといでいたらね、頑固《がんこ》な大家さんがきて、店賃《たなちん》のさいそくなんだよ。『七つもたまってるから、いくつでもいれなきゃあ、なんでもことしじゅうに店《たな》をあけてくれろ』といって、大家さんがうごかないのさ。そうすると、あのひとが、なんだか知らないが、つべこべしゃべっていたけれど、そのうちに、大家さんが、『まあ、そんなにいいなさんな。借金で首を持っていかれるわけはねえから、おれが、地主のほうへ春までのばすようになんとかいっておいてやるから、けっして、そうくよくよしなさんな。からだでもわるくするとつまらねえ』といって、すっかり煙《けむ》にまかれて帰っていっちまったがねえ。まことにうまいもんだとおもって感心しちまったよ。おまえさんが算段してきたお金のうちから、ここへ一円つつんだからね」
「どうするんだい?」
「富の市つぁんのところへいってね、あたまをいっしょうけんめいさげるんだよ。下からでなくっちゃあいけないよ。むかしの江戸っ子で、としはとってるけれど、なかなかしっかりしてるんだからね」
「うん」
「『じつは、あなたをおみかけ申しておねがいいたします。義理のわるい借金がありまして、掛けとりがまいります。わたしが口《くち》下手《べた》でどうにもなりませんので、来春《らいはる》までのばしてもらういいわけをしていただきたい。ついては、大晦日のことですから、お酒代《さかて》としてこれを持ってまいりました』と、一円だしてたのめば、なんとかやってくれるよ」
「こいつあうめえや。じゃあ、むこうへおれがいくのか?」
「あたりまえさ。うまくやっといでよ」
「うん、じゃあ、かたづけときねえよ。ここへつれてくるから……掛けとりがきても、おれが、いちいちでねえで、あのひとにやってもらうんだな?」
「そうさ。春までのびれば、あのお金で、どうにか春のしたくができるからね、長屋のものが、『おめでとうございます』といってきても、襟《えり》あかのついた着物で、おめでとうもいえないじゃあないか。おたがいにきれいな着物の一枚もひっぱって、のし餅《もち》を買ってくるとか、門松ぐらいぶっつけなきゃあ、春らしくないよ」
「わかった。じゃあ、いってくるから……へえ、こんばんは、おいそがしゅうございます」
「ええ? だれだったねえ?」
「ええ、わたくしで……甚兵衛でございます」
「ああ、そうそう、甚兵衛さんだ。こりゃあ、おみそれしました。まあ、どうぞ」
「ひさしくお目にかかりません。ひとつ長屋におりましても、わたしもね、つい貧乏ひまなしだもんで……大晦日で、おいそがしゅうございましょう?」
「いや、ひまでしようがねえ。さっきから退屈でどうしようかとおもってたところで……まあ、お茶をいれるから、おあがんなさい」
「ええ、どうもすみません。じつは、今晩うかがったのは、ほかじゃあございませんが、ちょいとおねがいがありましてね」
「というと?」
「ええ、きょうは大晦日、あなたをみこんでおねがいにまいったのでございますが……朝っから、もう、足を棒のようにしてあるいてるんですが、どうにもしようがないので、なんとかたすけていただきたいと、こうおもって、あつかましくあがったんですが、なんとかひとつ……」
「そいつあ弱ったなあ。わたしも、むかしの江戸っ子だからね。こんなじじいあんまでも、ひとにたのまれりゃあ、首を横にふったことのねえ人間だ。しだいによっちゃあ、火のなかへでもとびこむんだが、ほかのこととちがって、こいつばかりはしようがねえや。なにしろ、自分がどうにもしようがねえんだ。せめて品物でもありゃあ、それを持っていって、ちょいと質屋の番頭を談じこんで、こうしたらいいだろうなんて相談に乗れるんだけれども、どうにもこうにもしようがねえんだ」
「いや、あの……品物をお借りしたいの、お金をお借りしたいのというのじゃあございません。失礼でございますが、これは、ほんのお酒代《さかて》で……」
「なんだか夢みたような心持ちだな。ひとにものをたのみてえといわれて、金をもらおうとはおもわなかった。金をもらったからいうわけじゃあねえが、泥棒をしろの、人殺しをしろのといわれたら、そいつあ、こまるけどもね……まあ、てえげえのことならひきうけようじゃあねえか……なんだい?」
「へえ、じつはねえ、うちのかかあが知ってるんですよ。あなたが、たいへん口がうまいってことを……」
「おいおい、変なことをいっちゃあいけねえよ。なんだい口がうまいってえのは?」
「いいえ弁舌《べんぜつ》があざやかだてんで……そこでまあ、おもいついたんですけども……借金をかえすのにちょいとたりないぐらいの金は、どうにかこしらえてきたんですけども、そいつを払っちまうと、正月がきても……」
「ああ、わかったわかった。つまり、その金で正月のしたくもしなくちゃあならねえ。ついちゃあ、春まで借金を待ってもらうといういいわけを、おれにしてくれって、こういうんだろ?」
「へえ、義理のわるい借金を、春まで、ひとつのばしてもらうだけのいいわけを、あなたにおたのみ申したいとおもって……わたくしは、口不調法《くちぶちようほう》でございまして、いいわけがしにくいものですから……」
「つまり、米屋だ、炭屋だ、酒屋だ、魚屋だというのかい?」
「ええ、それが月極《つきぎ》めになっておりまして、満足に払った月がないので……へえ、半分持ってってもらうとか、じゃあ半端《はんぱ》だけ待ってくれとかいって……そいつが、たまりたまって……」
「ああ、なるほど、よくあるやつだ。こう借りがふえちゃあ、いかにも気の毒で買えねえというんで、米なら米をわきで買う。こいつが商売|敵《がたき》で、その米屋がだまっちゃあいねえ。無理なさいそくをするという……そりゃあね、おまえさん、だいたい貧乏|慣《な》れねえからいけねえんだ。え? なに? 米屋でも酒屋でも、そこへいって、ちゃんと買ってる? なんだ、それじゃあ、なにも心配するこたあねえやな。おらあ、よっぽど義理のわりい借りでもあるのかとおもったよ。そいつあ義理のいい借りなんじゃあねえか。なんでもねえはなしだ。そんなものはさしつかえねえ。そんなことなら朝めし前だ。ちょいといってあげますよ。わけはねえや」
「へえ、さようですか。じゃあ、うちをかたづけて待っておりますから……もう、くる時分ですから……ひとつ、うちのほうへきていただいて……」
「おいおい、なんでえ、おまえさんのうちへいって借金とりのくるのを待っているというのかい? とんでもねえ、それが貧乏|慣《な》れねえってんだよ。おまえさん、よくかんがえてごらん。大晦日というのは、商人《あきんど》はいそがしいんだよ。からだがいくつあってもたりねえくらいなんだから……それを無駄足をさしちゃあいけねえよ。それだから、むこうからこねえうちに、こっちからでかけていかなくっちゃあいけねえ。そうすりゃあ、無駄足だけのがれるというもんだ。そうだろう? うちで待っていると、まあ戦《いく》さでいやあ、受け太刀《だち》になってしまう。こっちからいかなくっちゃあいけねえ」
「へえ、なるほど、どうもそいつは気がつきませんでしたが……へえ、よろしゅうございます。それじゃあ、わたくしが、ご案内いたしましょう」
「じゃあ、そうしてもらおうじゃあねえか。それからね。おまえさんは、しゃべらねえほうがいいよ。どこまでも、おまえさんは無口の人間で、なんのはなしもくわしくできねえ。ひとつ長屋にいて、わたしがおしゃべりだもんだからたのまれてきましたと、こういってでかけりゃあいいんだ」
「へえ、さようで……ご案内いたしますから……」
「じゃあ、でかけよう。じき近所だろうね? え? 遠いところでとなり町ぐらい? ああそうだろう。何軒あるか知らねえけれども、わけなしだ。順にやっていかねえと、ひとつところを、いったりきたりするといけねえから……ええ? 最初《はな》はどこだい? なに? 米屋? ああ、尾張屋《おわりや》かい? あれも古い米屋だなあ。わたしもこの町内に三十何年住まっているけれどもね、商人《あきんど》もずいぶんかわったが、あのうちは古いや。あすこのおやじがけちだってえことは聞いてるけれども、ときどき米は買いにいくがね、療治にいったことはねえ。いくらけちでも、たまには肩の張ることもあるんだろうが、一ぺんもいったことがねえ……いいかい? おまえさん、口をきいちゃあいけねえよ。うしろにただくっついていりゃあいいんだ。『わたしは、この甚兵衛さんにたのまれてきました』といって、へたな易者《えきしや》みたように、口からでまかせに、ぺらぺらしゃべるから、そいつを、おまえさん、子どもみたようにおどろいちゃあいけねえよ。むこうしだいで、なにをいうか知れねえ。喧嘩《けんか》をするかもわからねえ。それでもだまっていなけりゃあいけねえよ……もうちっとさきだね……ああ、ここかい? いいから、あとへひっこんでおいで……へえ、こんばんは、おいそがしゅうございます」
「へい、いらっしゃいまし。お米をあげますか?」
「いえ、そうじゃあねえんでございます。旦那に、ちょいとおはなしがございましてでましたので……ちょいと、お目にかかりたいんで……ああ、あなたが旦那ですか。こりゃあ、どうもおみそれ申しました。じつは、このうしろに立っております甚兵衛さんにたのまれまして、わたしがまいりましたのでございます。こちらへ、まあ、かえさなくっちゃあならねえという借金があるんだそうでございますがね、なにしろ、この甚兵衛さんの商売というのが、ご承知の通り大道商《だいどうあきな》いだもんでしてね、どうにもうまくいかねえんで、この大晦日がやりきれねえとこういうんで……家財《かざい》道具を売り食いをしてますけれどもね、もう前から食いこんでるもんですからね、どうにもならねえってんで、今晩おかえしするつもりでございましたが、とても百の銭もおかえし申すことができねえと、こういうわけなんで……このひとが無口だもんですから、わたしが、おしゃべりで、たのまれてきましたが、どうか、まあ、よろしくおねがいいたします。じゃあ、ま、ごめんください。さようなら」
「おいおい、待ってくんな。甚兵衛さんや、こまるじゃあねえか。昼間、うちの若いものをやったら、夫婦そろっていて、『もう日が暮れれば、まちがいなくたしかにあげますから』と、そういったんで、『それじゃあ、道順でまいりますから、七時ごろか八時ごろまでには……』といったら、『いつでもよろしゅうございます』『無駄足をするといけませんから』というと、『いえ、そんな心配はいりません。留守でもわかるようにしておきます』って、おまえさん、夫婦で口をそろえていったてえのに、こまるなあどうも、甚兵衛さん……」
「ちょいと、ちょいと、旦那、お待ちなせえまし、おまえさんは、こんな大きな屋台骨をしょっていながら、わからねえひとだな。甚兵衛さんは無口だよ。いいかい? だから、わたしは、こんなじじいあんまでもおしゃべりだし、ひとつ長屋のもんだから、たのまれて、そのいいわけにきてるんじゃあねえか」
「じゃあ、とてもかえせねえっていうのかい?」
「とてもかえせねえから、かえせねえというのに、まちげえはねえでしょう?」
「かえせねえといって、そりゃあ甚兵衛さん、こまるなあ……」
「旦那、甚兵衛さんにいわねえでくださいよ。わたしが、かわりにきてるんですから……いうことがあるんなら、わたしにいっておくんなさい」
「だから、いまいった通りですよ」
「ひとので間にあわせねえで、親規《しんき》にいっておくんなさい。いまいった通りとはなんでえ」
「いえ、だからねえ、晩にはまちがいなくというはなしなんだ」
「それだから、おまえさんはわからねえというんだ。首と引《ひ》っ換《け》えの判証文を押したのさえ、約束通りにけえされねえこともあるんだ。ただ大晦日の晩にあげますといったからって、あてになるもんじゃあねえ。それを真《ま》にうけてあてにするとんちきがあるもんか。じょうだんじゃねえ。じまんじゃねえが、こちとらあ貧乏人だよ。はじめっから銭はねえんだ。それをとろうなんて、ずうずうしいにもほどがあらあ」
「なんだい、おまえさん、そんならんぼうなことをいっちゃあ……」
「らんぼうというけれども、おまえさんのほうがらんぼうじゃあねえか。ねえところからとろうってえなあ、らんぼうじゃあねえか。そうでしょう? これだけの屋台骨をしょっていて、甚兵衛さんの借りがいくらあるんだ。はした銭じゃあねえか。こいつをとらなけりゃあ、おまえさんのうちが食えねえというこたあねえんだ。さあ、どうでもとろうというのか? こうなりゃあ居催促《いざいそく》だ。来春《らいはる》まで待つといわねえうちはうごかねえから……」
「おいおい、こまるなどうも……へえ、いらっしゃいまし……おいおい、お客さまがきたんだから……」
「いいじゃあねえか。こっちもお客じゃあねえか。なにいってやんでえ」
「おいおい……へえ、ただいまいただきにでます。道順ですこし……」
「どうもこまるよ。おまえさんのところで勘定をとりにこないので、うちで起きていなきゃあならねえんだ。こなけりゃあ寝ちまうから……」
「へえ、ありがとう存じます。ただいまあがります……ごらんよ、あの通り、勘定を早くとりにきてくれっていう、ああいうお客さまもあるんだから……」
「いいじゃあねえか。そんなに勘定をくれたがるうちがあるんなら、いずれ大口《おおぐち》だ。そのほうからとりゃあ、なにも貧乏人からとらなくってもいいじゃあねえか」
「じょうだんいっちゃあ……へえ、いらっしゃいまし。へえへえ……おい、ちょいと、じゃまだなあ、おい、どいとくれよ……弱ったなあ、どうも……じゃあ、しかたがないから、春まで待ちますよ」
「そうしておくれ。そうすりゃあ、わたしもいやなことをいいたかあねえ。それじゃあ、どうか春まで待っておくれ。どうもありがとう。ごめんなさい……おい、甚兵衛さん、いこう、いこう」
「富の市つぁん、富の市つぁん」
「なんだい?」
「ずいぶん、どうも、らんぼうなことを……」
「ちっともらんぼうじゃあねえ。あのくれえのいきおいでやらなくっちゃあ、おめえ、とても待っちゃあくれねえぜ。なあに、心配するこたあねえやな……こんどは、どこだ? なに? 和泉屋《いずみや》? ああ、薪《まき》や炭を売ってるあすこだな? ……あすこは、わたしも始終《しじゆう》療治にいってて心やすい。心やすいうちはこまるな。それに、あすこのおやじは頑固だから、ちっとむずかしいな。まあいいよ、途中でかんげえながらいくから……むこうへいって、でたらめをいうからおどろいちゃあいけねえよ……もうすこしさきだね? ……右っ側だ。ここかい? よしよし、うしろのほうへさがっておいで……もし、薪屋の旦那、いねえのかい?」
「ああ、富さんかい。なにか買いものか?」
「じょうだんじゃねえ。おまえさんとこじゃあ、ずいぶん薄情なことをするねえ。あんな不人情なまねをしちゃあいけねえや」
「なんだい? 大きな声をだして、薄情だの、不人情だのって、なにかわるいことがあったのかい?」
「あったじゃあねえか。このあいだ、炭を買ったが、はねてしようがねえじゃあねえか」
「おかしいな。そんなはずは……しかし、まあ、わたしは、炭焼きじゃあなし……はねたらはねたでねえ、いってくださいよ。ねえ? とりかえるんだから……ちょいと持ってきてくださいよ。すぐとりかえるから……」
「そりゃあ、もうとっくにつかっちまったがね……」
「なんだい、つかっちまった炭で、おまえさん、苦情をいいにきたのかい?」
「苦情をいうわけじゃあねえが、こっちは、目がみえねえんだから、もうすこし気をつけてもらいてえや。いえね、手へはねるとか、顔へはねるとかすりゃあ、そりゃあ熱いから払っちまうけどね、ひとり身だ。湯をわかそうとおもって火をおこして、こんな貧乏あんまでも、畳だけは、あたらしい畳が敷いてあらあ。畳替えがしてあったが、おもてがわるいからけば立っていやあがって、火がはねたものとみえて、なんだか、おかしなにおいがする。どうもこげくせえし、煙くなってきやがったから、手でこすってみると、畳が燃えてやがる。おどろいた。一尺四方もあるような大きな穴があいちゃって、根太板《ねだいた》へ通りそうなんだよ。消そうとおもってさわいでいるうちに、土びんを畳にころがしたもんだから、土びんがこわれて、茶が、ちゅーっとしみこんだ。ひとりでばたばたさわいでいたら、となりのおせっかいばあさんが、これをみて、水をぶっかけてくれたから、畳はどうにかこうにか消してしまった。穴をあけっぱなしにしておけねえから、横丁の畳屋の次郎さんのところへいって、親方、すまねえが、これこれだとはなしをしたところが、『ちょうど古畳があるから、よし、やってやろう。おもてを中古にして隅のほうにやっておけば、どうにかやりくりがつくから……』といって、すっかりなおしてくれた。『どうしたんだ?』というから、炭がはねて、これこれだとはなしをしたら、わたしは、たいへんほめられた。『十年前の富の市つぁんなら、焼けっこがしの畳をかついで、薪屋のうちへどなりこむ人間だったけれども、としはとりたいものだ。人間は、おとなしくしなくっちゃあいけねえ』と、さんざんいわれたので、『どうせ、わたしは、町内の厄介《やつかい》あんまなんだ。古いなじみだから、死んだときに、四斗樽《しとだる》へでもほうりこんで、寺へかつぎこんでくれるだろうから、にくまれちゃあいけねえとおもって、わたしは、おとなしくしてます』と、こういったら、『まあ、かわればかわるもんだ』って、たいへんほめられましたけどもね……それについて、旦那、このうしろにいる甚兵衛さんですけどねえ、今晩、こちらへおかえし申さなければならねえんだけれども、とてもいけねえというんで、わたしがおしゃべりだもんだから、このひとが無口で、口がきけねえというんで、おせっけえのようですが、としよりがでてきたんですから、どうか、春まで待っていただきてえんで……」
「いや、いけません」
「え?」
「いけません。それならそれで、最初《はな》から、なぜあたまをさげてこない? 火がはねて、畳がこげて、散財をしたのなんのと、因縁をつけるようなことをしなさんな。なんの、このひとの勘定はいくらでもねえ、来年まで待ってやらねえということもねえが、そんなことをいわれると、わたしは、人間が頑固だから、どうしても待てねえ。おまえさんに貸したわけじゃあねえ。甚兵衛さんに貸したんで、貸したものをもらうのにふしぎはねえから、もらいますよ」
「へえ、じゃあ、どうしてもとろうってんですか?」
「あたりまえさ。貸したものをとるのにふしぎはない。おまえさんに貸したんじゃあない」
「じゃあ、わたしの顔をつぶしても……」
「つぶすもつぶさないもないけれども、おまえさんのいいぐさが気にいらねえ。おまえさん、手をひいてください。商人《あきんど》が、貸したものをとるのにふしぎはないから、そのかわり、おまえさんのところの畳もすっかりあたらしくしてあげる。その畳が百円かかって、とるものが一円でも、そんなことはかまわねえ。土びんも買ってあげる。あとでいざこざのないようにしてあげるから……」
「そんなこたあ、どうだってかまわねえが、じゃあ、なんですか? わたしの顔をまるつぶしにしても!」
「な、なんだい。なにもそんな気ちがいじみた大きな声を……」
「なにいってやんでえ……いえね、わたしゃあ、甚兵衛さんにね、春まで待ってもらうようにしてあげますと、請けあってきたんだ。それが待ってもらえねえとなりゃあ、こっちは、そのいいわけが立たねえ。その申しわけに死んじまうから……死んじまうったって、いくじがねえから、とてもひとりじゃあ死ねねえ。顔をつぶすんならつぶすで、殺してもらおうじゃあねえか。殺してくれ、殺せ、さあ、殺せ!」
「おいおい、しずかにしておくれ。ひとがたかるから……ああ、たかっちゃあいけませんよ。なんでもないんだから……殺せなんて、気ちがいじみた大きな声をするから、ひとがたかっていけねえ」
「おいみんな、なんでもあるんだよ。おいおい、みんな、どんどんたかってくれ。いま、めくらが、ひとり、殺されるんだから……」
「おい、じょうだんいっちゃあいけねえ……おいおい、そう店さきへ立っちゃあこまるよ。むこうへいってください。むこうへ……」
「いくな、いくな。これからおもしろくなるんだから……ここのおやじは、人殺しだ。おれが殺されるんだ」
「おいおい、こまったなあ、ほんとうに……いいよ、いいよ。待つよ、春まで待つから……」
「ああ、そうですか。そらあ、どうもすいません。そうなりゃあ、わたしも無理に命をすてたかあねえや。へえ、どうもありがとう存じます。甚兵衛さん、おまえさんも、よくお礼をいって……それじゃあ春まで、はい、さようなら……さあ、いこう、いこう。ああ、おどろいたな。いまのは、すこしやりそこなった。たまには、やりそこないもあらあ。いよいよやりそこなやあ、奥の手で、『さあ殺せ』と、こういったら、大晦日だ、どかどかひとが立つから、『この薪屋は、ひと殺しだ』といったら、胆をつぶして『待つ、待つ』というだろうと、ずいぶんあたまをいためて、途中でかんげえながらいったんだが……あんな頑固なおやじだから、高飛車にでたほうがおどろくだろうとおもったらおどろかねえ。しかたがねえから、ひと殺しだといってやったんだ……こんどはどこだい? ええ? どこ? いや、おどろいちゃあいけねえよ。もっとひどい手をつかうかも知れねえから……え? こんどは、魚屋の金さんのところか? あすこも心やすいんだがね、喧嘩っ早い男だからな。この町内で喧嘩があれば、相手は、富の市じゃあねえか、魚金じゃあねえかと、ひとがいったくらい喧嘩をした男だ。このごろは、あんまり喧嘩もしねえけれども、あすこはむずかしいや。あすこじゃあ、『さあ殺せ』といやあ、すぐに殺されちまう。『よしっ、殺してやろう』といわれたときに、逃げたって、こっちはめくらだから、とても逃げられやしねえ。むずかしいな。まあ、いいや。かんげえながら、なんとかしよう……ここだね? 繁昌《はんじよう》しているね。客がいるとみえて、ごたごたしていらあ。店の隅のほうへつれてっておくれ。もっと左のほうへ……へえ、こんちは、親方、いつもご繁昌で……」
「ああ、富の市つぁんかい。鮭でも持っていくのかい?」
「いえ、買いものじゃあねえんで……おいそがしいでしょうが、ちょっとおはなしがあってでましたんで、親方のお顔をお借り申してえんで……」
「顔を借りてえ? はなしがあるなら、ひとつ来春《らいはる》にしてもらいてえな。いろいろ用があるんだから……で、なんだい?」
「ええ、はなしというのは、今夜でなくっちゃあいけねえんで……なに、かいつまんで申しあげます。ご承知の通り、わたしは、三十何年ものあいだ、町内の厄介もので……」
「ああ、遠国《えんごく》へでもいくのかい? そのとしになって……」
「いえ、そうじゃあございません。いとま乞《ご》いにあがったんじゃあねえんで……わたしどもの家主というのが頑固でございまして、三十何年住まっているのは、わたしひとりなので……それに、ご承知でもございましょうが、甚兵衛さん、ようやくつれてまいりましたが、これは、まあ、十年ばかり住んでおります。それに、なんでございます。おとといの朝なんですよ。療治にでようとおもいまして、わたしが長屋をでてくると、長屋のばあさんがいうにゃあ、甚兵衛さんが、長いこと寝こんでるってんです。いえ、おかみさんが流産をして、ずーっと寝てるとこへもってきてね、かんじんの甚兵衛さんがわずらったというんで……それを聞いて、すててもおかれません。ひとつ長屋に、ともかくも、十年ばかり住んでいるんだから、見舞いにいこうと、わたしは、すぐにいったところが、うちのなかは、しーんとしている。ようやくはいっていって、『どうしたんだ?』と、聞くと、『からだのぐあいがわるうございます』『そいつあいけねえ。医者にかかったかい?』と、聞いたら、かからねえという。『そりゃあいけねえ。医者にどうしてもかからなけりゃあいけねえ。食べものは食うのか?』と、いったら、食えねえというんで、『おかゆぐれえどうだ?』と、いったら、『おかゆも食えねえ』『重湯《おもゆ》ぐらいは?』『重湯も吸えねえ』『むかし、膈《かく》の病いというのがあったが、そんな病気じゃあねえか? どういうわけで、食いものが食えねえんだ? かゆもすすれねえんだ?』と、聞いたら、『すすれねえんじゃあねえ。すすりたくても、お銭《あし》がないのですすれないんで……』『そんなら早くそういやあいいのに……どうして、おまえさん、銭がないんだ?』『上州から十一年前にでてまいりまして、大道商いにようようとりついたんで……ご存知でもございましょうが、家内が、病身のところへ流産をしました。それから、寝ておりますところへ、わたしが、今日で、半月のあいだ商売にでません。ひとつ売り、ふたつ売り、売り食いでどうにかやっておりまして、十日前までは、どうにかおかゆぐらいすすり、買いぐすりぐらいしておりましたが、きょうで五日というもの、夫婦ともに水ばかり飲んでおりまして、めしつぶというものは、ひとつぶものどへ通しません』と、こういうので、わたしも、まことに気の毒になりましてね、『そいつあいけねえ。なにしろ力がつかねえから……』って、うちから米を持っていって、おかゆみたような、重湯みたようなものをこしらえてやると、そいつをうれしがって、つうつうすすりながら、『おかげで、たいへんに力がつきました。どうもありがとうございます。それについて、この甚兵衛は、おそかれ早かれ、この病気で死ぬかも知れませんが、ひとつ冥土《よみじ》のさわりがございます』『なんだい?』と、聞いてみると、『魚屋の親方に借りがございまして、そいつを、どうしてもかえさなきゃあ、どうにもこうにも死にきれません』と、正直なひとだから、涙をこぼしていうんで……『どうにか、そのことをいいわけをしておもらい申してえ。そんなことばかり気にしているから、病気が重くなればといって、なおるわけがございません』と、こういうから、そりゃあいけねえ。借りたものなんぞ心配するようなこっちゃあ、病気はなおらねえ。安心しておいでなせえ。わたしは心やすくしているから、親方に会っておねげえ申しゃあ、むかしの江戸っ子だ。六十いくつというとしだけれども、まだ若《わけ》えものは、かなわねえというようないせいだ。あの親方はねえ、はなしをしてさ、こういうわけだっていえば、『そりゃあ気の毒だ。よく当人にそういってくんねえ。おれの貸したものをとろうとはおもわねえと、そういってくれろ』と、いうにちげえねえ。医者にもかかれねえと聞いたら、『そりゃあ気の毒だ』といって、一円札の一枚ぐれえはくれようという、達引《たてひ》きの強え親方だから、おれがいって、おたのみ申そうと……」
「おいおい、富さん、そりゃあ、おまえ、こまるよ。おまえも知ってるだろうけれども、おれも借金だらけ……問屋のほうは、現金でとられて、得意さきでも払ってくれなかったらたまらねえ。そりゃあ、まあ、いくらのものでもねえけれども、おまえが、としをとっていて、ひとつ長屋のよしみで、わざわざ杖をつっぱってきたんだ。おまえの顔にも免じて待ってやるが、春にはどうかしてくれなくっちゃあ、ねえ、おれも楽な身上《しんしよう》じゃあねえんだ。借金とりもくるわ、とるものはとれねえじゃあ、どうにもしようがねえ。まったくのはなしが……」
「へえ、ありがとう存じます。春まで待っておくんなさるか? へっへっへ、ありがとうございます。いえ、もう、いくらということじゃあございませんが、わずかでもよろしゅうございますから……」
「手をだしちゃあいけねえ、じょうだんじゃあねえよ。それだけはかんべんしてくれ。この上、銭を持っていかれちゃあしようがねえ。春までのところは、おまえさんの顔に免じて待つから……しかし、よけいなことだが、甚兵衛さん、おとといの晩方だったね、横丁の夜店《よみせ》へ、あかりを持って、大きなつつみをしょっていったのを、おれは、ちょいとみかけたが……」
「へえ、あ、あ、あれは、わたしが叱言《こごと》をいったので、甚兵衛さんは、寝ていたんですが、おとといは、すこし心持ちがいいところへ、わたしが、かゆを食わせたので、いくらか力がついたと、こういうので、その、まあ、銭がほしいから商いをしようと、晩方、荷をしょってでかけたもんですから、すっかりわるくしちまって、きのうは、一日じゅう寝ていたんで……きょうは、いって、よくそのことを、親方にはなしたほうがいいというんで、あるけねえっていうのを、無理にここまでつれてきたんですが……ええ、どうもすいませんです」
「そうかい? ……わずらってたにしちゃあ、ばかに顔色がいいじゃあねえか」
「いいえ、もう熱っぽいもんですから、顔がぽーっと赤いんで……へえ、じゃあ、どうか、おねがい申します。ありがとう存じます。じゃあ、甚兵衛さん、よくお礼申して……」
「ありがとうございます。じゃあ、来春|早々《そうそう》には、きっとおかえし申しますから……」
「おい、甚兵衛さん、親方が、せっかく春まで待ってくれるというんだから、春いっぱい、三月まではいいんだよ」
「じょうだんいっちゃあいけねえ」
「あはははは、へえ、さようなら……さあさあ、甚兵衛さん、いこう、いこう……どうだい、うめえもんだろう?」
「へえ……しかし、わたしは、病人には弱りました。けさ、床屋へいって、髭《ひげ》をすってきたもんですから……」
「いいよ、なんでもかまやあしねえ。おめえが病人らしい顔つきをしてりゃあいいんだから……これからさきもそうやらなくっちゃあいけねえ。すっかりこっちの手管《てくだ》にはまったが、ちくしょうめ、一円札の一枚もだすかとおもったら……」
「もらえやあしませんよ、そんなもの、病人じゃあないんですから……」
「なあに、なおったといえばいいやな。かまうもんか。くれれば、とり得《どく》だからふんだくってやろうとおもったんだ……おやおや、百八つの鐘をつきはじめたぜ。おい、もうそんな時間かい? いけねえや。おらあ、そんな時間とはおもわなかった。おらあ、いそいで帰ろう」
「いえ、まだ三軒ばかりありますんで……」
「いけねえよ。そうしちゃあいられねえんだよ。これから、おらあ、うちへ帰って、自分のいいわけをしなくっちゃあならねえ」
≪上方篇≫
仏師屋盗人
夜なかの二時もすぎて、三時近いころ、バリバリ、バリバリ、バリッー……という音がいたしますので、うちに寝ておりました男が、目をさましまして、
「うわーあ、かなわんなあ……うちは、えらいねずみやなあ……しいっ、しいっ、しいっ……」
バリバリ、バリバリ、バリッー……
「やっ、ねずみやないぜ。こりゃ、ひとや。だれや? おもてをこぜて《こじあけて》るのは、どなた?」
「しいっ!」
「なんや、おもてから『しいっ』やて……」
バリバリ、バリッ……
「だれや? 戸をつぶしよったな。無茶なやつや。あけいなら、あけいというたらあけるのに……どなた?」
「やかましい」
「なにいうてんのや。わて、おとなしい寝てたんやで……あんたが、やかましいんやないか。あんた、だれや?」
「おれは、盗人《ぬすと》や」
「あっ、盗人はんか。まあ、おはいり、まあ、おはいり」
「なんや、おれ、客とちがうぜ……おいっ、しずかにせい。目にものみせるぞ」
「あたりまえやがな。鼻でなにがみえるねん?」
「さあ、四の五のいうない。二尺八寸、伊達《だて》にはささぬ」
「ふん、古いせりふやな。二尺八寸、伊達にはささぬか……いまは、もう、尺貫法の時代やあらへんぜ。そこを、もうすこしのばして、メートル法はどうです? 『三尺三寸、一命とる(一メートル)ぞ』てなことは?」
「なにぬかしてるねん。じいっとしてや。動《いの》きなや」
「なあ、盗人はん、あんたの刀、二尺八寸って、一尺八寸しかあらへんがな。うそつきやなあ。うそついたら盗人になる……もうなってるねん、このひとは……」
「ばかにすなよ。ふーん、こりゃ、おれがこわいことないのやな。ちっとはこわがれ。たよりないわい」
「そうか。そんなら、こわがりまひょ。あっ、こわい、こわい、こわい」
「あっ、芝居の子役やがな」
「そんなら、どないいうのや? 無理いうひとやな。しかたがないから、こわがりなおしまっさ……あれ、盗人さま、こわいわいなあ」
「わっ、気味のわるい声だしよる」
「あっ、もし、あんた、刀を鞘《さや》におさめなはったな。なにもにぎやかにならべておきなはれ」
「夜店みたいにいうない。暗いさかいに、そないにいうてるねん。火をともせ」
「かさねがさね無理いうひとやな。あんた、立ってるついでに、ちょっと、ともしておくなはれ。それ、右の手をのばしたら、敷居の上にマッチがのってある。右の手、右の手、いいえ、そりゃ左やがな。右がわからんのか? あほやな、こいつ……ご飯《ぜん》食べるときに、箸《はし》を持つほうの手やないか。そうそう、あったやろ? ……ずーっと、そこをさぐってみて、そのうしろに、ちいさい棚があって、上に置きランプがある。石油が、まだのこってるやろ? ……気をつけていきや。上の棚がひくい」
ゴツン!
「あっ、それ、あたま打ちよった。不器用《ぶきよう》な盗人やな」
「ごつごついうない……ようようランプがつきよった。どこにけつかるねん?」
「きたないもののいいようやな。どこにけつかるねんて……へっ、ここに、けつかるねん」
「金をだせ」
「おまへん」
「あっさりいやがるねん。『おまへん』とはなんや? さよかで、おらあ帰らんぜ」
「帰らんぜて、ないものがとれるかいな。けど、せっかくきてくれてん、なになと持たして帰えらすさかい、まあ、ゆっくりしなはれ」
「早うせい」
「やかましゅういいなはんな……あんた、たばこ持ってなはるか? 一服よばれたいわ」
「ばかにしてけつかるな。さあ、くらえ」
「へえ、おおきに……なあ、気のええ盗人はんや。あんた、出世しまっせ……うーん、えらい上等のたばこいれやな。これも、やっぱり盗んできなはったか?」
「ほっとけ」
「そこのマッチとってんか。たばこに火をつけるさかい」
「それっ……さあ、早うくらえ」
「はばかりさん……うーん、うまいなあ……ええたばこをのんでるなあ……これも、やっぱり盗んできなはったか?」
「おかしいものいいするなよ」
「しかし、うっかりとしてたが、みりゃ、まだ年も若いし、ひとのよさそうな男やが、腹からの盗人やなかろう……そうやろう、そうやろう……ははーん、なんぞ仕事をしくじりよったんやな。そうやろ、そいで、食えぬが悲しさにやったんやろ。こないなことしいなや。親があるのやろ? ……親が、このことを聞いたら泣くぜ。食えぬなら、よけいなこともできんが、そのひきだしの上をあけたら、多くもないが、五円ほどいれてある。さがしてみい……あったか? ……あったやろ? ……あったら、遠慮せずに持っていき。きょうのところは、それで辛抱《しんぼう》して、また、しまいまわりにたずねてみい」
「背負《せお》いの商人《あきゆうど》(行商人)みたいにいやがるねん」
「気をつけて帰りや」
「おい、かえさんかい?」
「なにを?」
「たばこいれを……」
「あっ、わすれんと、おぼえてるか?」
「おぼえてえでか」
「おおきにごちそうはん」
と、あんまりおちついておりますので、盗人も気味がわるうなりまして、すっかりうろたえて、店の間と、なかの間との障子をガラッとあけて、むこうへでますと、前に大きなものが立っておりますので、盗人、びっくりしよって、刀をぬいて、すぱりっと斬りました。
「なんじゃい? えらい音がしたが、どうしたんじゃ?」
「われとこのうちは、気味のわるいうちやな。ここに、大きな坊主が立ってるさかい、首を斬ったのや」
「えっ!! これ、無茶しいないな。えらいことをしてくれたなあ。おれとこの商売は、仏師屋や。河内のお寺から、べんずり(びんずる)」さまの首のとれてあるのを、継《つ》ぎに持ってきてあったのを、きょう、日が暮れに、急《せ》きにきよったのや。あしたの朝、受けとりにくるのや。それを継いでおいたんやないか。斬りおとしてどうするねん? その継ぎ賃に、五円置いていったのや。あんた、その銭は持っていくわ、せっかく継いだ首をおとすわでは、こっちは、あがったりや。さあ、また、首継ぎなおすんや。手つだい!」
「あーあ、わしは、また、なんとおもて、こんなうちへはいってきたんやろ」
「ぼやくな。自分が斬ったんやないか。ぼやくやつがあるかいな。こっちへおいで。そこに、にかわなべがある。さあ、それをだし。それから、かんてき(七輸)にからげし(消し炭)をついで、そうそう……火をこしらえて、にかわを焚《た》き……それから、煮えたら、わしを起こし」
「ちぇっ、わしをでっちのようにおもてけつかるねん……あーあ、災難やなあ、ほんまに……おい……煮えたぜ」
「……ふん、さよか……ろくなことをせぬやつやな。首、傷つけへなんだか? ……こんなところにころんでいる……まあ、よう傷つけなんだなあ……傷ついたら、塗りなおしにやらんならん……さあ、以前《せん》のにかわをとらな、にかわはつかへん」
「めんどうやなあ」
「あんたがわるいんやないか……こうして、庖丁《ほうちよう》で、以前のにかわ、けずらにゃあならん……よし、煮えたにかわを首へつけて……と……そら、みい。夜なべ仕事やさかい、にかわが、はみだしてきて、せっかくの仕事が、きたのうてならん。さあ、よしゃっ、にかわなべをなおして、火を消して、おもてをしめて去《い》に」
「へっ、これで五円か? ぼろい商売やなあ」
「なにがぼろい? わしとこはな、これだけでも手をうごかさんならん。そうせぬと、五円でももうからんのや。おまえらは、にゅーっとはいってきて、五円持って帰るねん。おまえのほうが、よほどぼろいがな」
「ふーん、あほらしなってきた」
盗人が、おもてへでてまいりますと、仏師屋は、そのあとを見送っておりましたが、
「あいつは、あわてものやな。せっかくとやった五円の金をここにおいて置き、にかわなべをさげていきよったぜ。おーい、おーい、盗人や、盗人!」
「おいおい、こらっ、なんじゃ? 大きな声で、盗人、盗人やって、いったい、なにごとじゃい?」
「怒んないな。おまえの名がわからんさかいに、盗人というたんや。すべて、名のわからぬときは、商売を呼ぶが、さかな屋でも名を知らなんだらさかな屋、八百屋でも名を知らなんだら八百屋や。おまえの名がわからんさかい、盗人屋、盗人屋」
「そんなあほな……」
「これ、もっとおちつけ! ようそんな胆玉《きもたま》で盗人がでけたものやな。おれも男や。一ぺんだしたものは、あとへはひかぬ。銭を持って帰れ。なんや? おまえ、自分の手をみてみい、にかわなべをさげてるやないか」
「あはははは……」
「あっ、笑うてよる。なんや、たよりないがきやな」
「こら、承知で持って帰ったのじゃ」
「なんやと? 負けおしみの強いこというない。にかわなべ、承知でさげて帰ってなんにするねん?」
「首がおちたら、継いでもらうねん」
でんがく食い
「おーい、みな、なにしてんのや?」
「なにしてるって、いっぱい、もう、こらえてんのや」
「なんでや?」
「おまえ、そう、そこで煙《けむ》とうしたら、こっちにいるものがたまらんやないか」
「たまらんやないかというたかて、しようがない。おれ、釜《かま》の下を燃やす役になってんだけど、割り木がしめって燃えんがな」
「おお、どこの割り木燃やしてんのや? おまえ、煙って、どうもならんやがな」
「どうもならんって、割り木は、これやがな」
「それかい、なにするんや。それは、ごぼうやが……」
「ああ、これは、ごぼうか」
「あほやな、こいつ、そんなん、燃やして燃えやへんがな」
「ごぼうとは知らんさかい、わし、なんや、割り木にしては、すこしやわらかいとおもうとった」
「あほなこというてんやあらへんがな。ようあんなあほらしいことをいうて、そんなの燃やして……」
「それで、なんじゃ知らんさかいな、燃せば燃すほど、水が、じゅうじゅうでるんや」
「あたりまえやがな。あほやな、こいつは……もう、だいぶなるやないか」
「もう二時間あまりたつのやけど、湯もぐらぐら煮《に》あがったんやけど、なかの品ものが煮えんのや」
「そりゃいかんがな。なにを炊《た》いてんのや?」
「なに炊いてるて、おまえ、数の子を炊いてんのや」
「なにをするんや。おい、数の子は、炊くのやないがな」
「おお、そうか……そうかいな」
「おい、わからな、こっちへたずねんや。あほやな、こいつ、数の子炊くやつありゃへんが……」
「知らんさかい、おれは、数の子は、なんぼ炊いたかて煮えんとおもうて……」
「あたりまえや、そんなもの、いつまで炊いたかて煮えるか、あほやな、こいつは……数の子は、炊くのやありゃへん」
「数の子、炊くのやなかったら、どうするんのや?」
「どうするんやて、おまえ、なにやがな……つまり、それは……炊くのやないんや」
「炊くのやなかったら、どうするのや?」
「どうするて、まあ、おれらのかんがえでは、そりゃ燃やすんやろうか?」
「おいおい、なにいうてんのや。おまえも知りゃへんがな。ようあんなあほらしいこといいおるな。数の子、燃やすやつあるかい」
「ああ、そうか。ちがうか」
「ちがうかて、おまえも知りゃへんがな。そんなあほらしいこというな。おいおい、数の子なんて、燃やすんやありゃへん」
「数の子は、どうするんです?」
「どうするんですて、おまえ、炊いたり、蒸《む》したりするんやないがな」
「炊いたり、蒸したりするんやなかったら、どうしたらいい?」
「どうしたらいいてやな、かんがえてみ」
「うん……つまり、おれのかんがえでは、そりゃ、ほうろくでいるのやろ」
「おいおい、おまえも知りゃへんや。ようそんなあほらしいことをいいおったな。数の子、ほうろくでいるやつがあるか?」
「おほっ、ちがうか?」
「ええ、数の子はいな、ありゃ、塩でもむんや。こいつらのいうこと、なにいうやわかりゃへん……おい、政やん、あんた、山のいも、どう、あんじょう《ぐあいよく》したい?」
「どうて……あの……あの……あんじょうしたんで……」
「とろろにしたんかい?」
「とろろって、なんです?」
「あれっ、山のいも、どないしてしもうたい?」
「きざんで、ぬかみそへ漬《つ》けたが……」
「なにをするのやい。おい、きざんで、ぬかみそへ漬けたて、そんなあほな……そんなするのやあらへんがな」
「どうするのや?」
「どうするのやて、わからにゃ、こっちにたずねいな。あほやな、大根おろしで、おろすのやがな、それを……」
「あの山のいもをおろし……」
「そうやがな、大根おろしでおろして、そして、すり鉢であたるのやがな。そのために、こっちのかつおのだし、だしてもろうておるがな。あほやな、そんなやったら、ぬかみそへ漬けてしもうたら、かつおのだしださいでも……おい、そのかつおのだし、ださいでも……え? もう、だしたか? もう、だしてしもうたか?」
「ああ、かつおぶし二十本かいて……」
「おいおいおい、また、そないにぎょうさんかくない、かつおぶし二十本も……よう、ひとりでかけたな?」
「いやな、かつおぶし屋で、機械でかいてもろうた」
「なにをするのや。それ、みな、かいて……おれのとこ、うどん屋するのやあらへんぜ。あほやな。ほんまに怒りいな。おまえ、げらげら笑わんと……」
「あははは、そやけど、よう、あほなことしよった」
「おまえ、笑うているさかい、いかんがな。しようのないやつらやな。ぼやいたかて、しようないけども、たいがいわかりそうなもんやないか。かつおぶし、二十本、もう炊いてしまいよった。あほやな、怒ったかて、しようないけども……こっちへ持っておいで、だしを……持ってこい、そのだしを……だしを持っておいでいな」
「持ってきてあるがな、そこに……」
「なんや? こりゃ、だしがらやないか」
「いや、だしやがな」
「いやいや、こりゃ、だしがらや」
「そやかて、みな、かつおばっかりやがな」
「いや、そうやないがな。これを炊いた湯を……湯をどうしたのや?」
「ああ、この湯いるか?」
「おいおい、その湯がいるのやがな。どないしたんや?」
「おれもな、もったいないおもうて、顔と足、洗《あろ》うただけや」
「なにをするのや。おい、あいつ、あんな無茶してしまよった。かつおのだしで、顔と足、洗うていやがる。そんなするのやあらへんがな。それを加減《かげん》して吸うのやがな」
「知らんさかい、顔と足を……おれ、金だらいに二はいもろうただけや」
「そんならえいわ。まだあるのやろ?」
「大釜で炊いたさかい、ぎょうさんあるのや」
「そんならえいわ。びっくりしたがな。あの、常さん、あの、かつおのだし、大釜に炊いてあるやろな? それ、こっちへ持ってきてんか? ああ、つかうさかい」
「へえ! それ、いま、持っていこうおもうていたら、ほしたら、なんです、竹はん、いま、行水《ぎようずい》していやはります」
「なんちゅうことを! あいつ、どつきいな(なぐれ)。あいつ、かつおのだしで行水しよった。そんなあほな、ほんまにしようのないやつらやな。あほらしい、ほんまにものいえんわ。そんなことするのやないがな。それを加減して、吸うのやないか」
「知らんさかい……だけど、まだ、バケツに一ぱいだけのこしたらしい」
「そんなら、一ぱいでものこしたら結構やが……しようないやつやで、ほんまに……ちと気をつけい。どこの世界に、かつおのだしで行水するやつがあるやろかいな。しようないやつやで……おいおい、常はん、常はん、そのバケツにあるかつおのだし、それ、こっちへ持ってきてくれ」
「へい、わて、いま、バケツさげて持っていこうおもうたらね、たれやら、このなかへふんどしつけやはったわ」
「どついたれ、そんなやつ。だれや? 金公かいな? そのだしを加減して吸うのやないか。そんなんなかへふんどしつけてもろたら、どうもできるかい」
「すまん。知らんさかい、ふんどしつけたんで……じゃ、とりあえず、ふんどししぼって、そっちへ持っていこか?」
「あかんあかん、そんなこと、なにいってんや。よう、そんなあほらしいこといやがったで……ほんまにしようないで、おまえらのすること、ほんまに……あの、徳さん、あんた、『鯛《たい》の料理、わたいの係《かか》りや』いうて、そっちへ持っていきなはったが、どうなったんで?」
「へえ、ようやく、あんじょうしましたが……」
「やあ、ごくろうはん、ごくろうはん、ええ、鯛の料理は?」
「料理は、あんじょうしたです」
「したですって、その鯛は……料理した鯛はどうした?」
「えっ?」
「料理した鯛は、どうしたん?」
「えっ? 料理した鯛は、あれ、いりますか?」
「おいおい、おかしなやつやぜ。いりますかって、いらいでかい。どうかしたんかい?」
「ええ……わて、あの鯛の料理をね、井戸ばたで、ひとりさびしゅうやったんです。で、あの三軒目のたばこ屋の犬ね、あれ、平常《へいぜい》から、わて、心やすうさしてもろうてますのや。で、わてなあ、さびしい料理するもんですさかいな、で、まあ、犬が、ここへあそびにきてくれやはったです。で、わても、そうしようなとおもうてますさかい、犬とよもやまばなしして……」
「も、そんなあほな……おいおい、おかしなものいいすない。犬と人間とおなじような……で、どうしたんで?」
「それで、わて、はなしていると、ほしたら、虎《とら》はんが、『なにいうているんや?』て、いわはるさかい、『犬があそびにこられてますんや』と、いうたら、『鯛の料理しているところへ、そんなもん、きてもろうたらあかんがな。追え追え』て、いわはったんで、それで、わて、犬に、それいうたです。『もう、あの、さびしゅうても、ひとりしますさかい、どうぞ、そっちへいっておくれやす』と、わてもいうたですけど、犬も『まあまあ』いう」
「うそつけ、あほが……犬が、『まあまあ』ってなこというかい、あほが……もう、でていったのかい?」
「でていかんと、きちんと坐っているさかい、『どないしたらゆきはるやろ?』と、わていうと、虎さんが、『その犬は、しぶといわい。どたま(あたま)ぽんとくらわせ。びっくりして逃げよるにきまっとるに……』て、いうさかい、『ほなら、どたまくらわしましょか?』っていうと、『どたまくらわせ』いわはるさかい、『そんなら……』いうてね、いま、鯛のどたま切って、くらわしてしもうたです」
「なにをするのや、これ、鯛のあたまを切ってくらわしてしまったのか?」
「ええ、『どたまくらわせ』って、いわはるさかい」
「で、どうしたい?」
「で、『逃げたか?』て、いわはるさかい、『いいえ、まだおられます』って、わて、いうたんや。そしたら、『その犬は、しぶといわい。いっそのこと、しっぽくらわせ』て、いわはったんや。『そんなら……』いうて、また、しっぽ切って、くらわしてしまったです」
「なにをするのや、これ……で、逃げたのかい?」
「で、まだ逃げんさかい、ほしたら、『その犬は、しぶといさかい、いっそのこと、胴体くらわせい』『よし、しようないさかい、そんなら……』って、いうてね、胴体も、みな、くらわしてしもうて、もう、なにもないわ」
「よう、そんなあほな……おい、ほんまに、あいつ、なぐらにゃあいられんぜ。ようそんなあほなことしよったな。それやによって、おまえらに、わからんことはたずねっていうのや。それみな、兄貴、豆腐のでんがくくれはったに……兄貴に銭つかわせまいとおもうとったのに……兄貴、おおきにごちそうさんで……ええ、ぎょうさん豆腐のでんがくを……ああ、そうですか、横町《よこまち》の豆腐屋が、きょうからでんがくしよったで……あっははは、おおきに、おいおい、虎はん、虎はん、兄貴が、でんがくくれはったに、すぐに食べないな。おでんという運のよいもの、くれはったのや。運づくしで食おう。運づくしで……ものひとこというて、運の字がひとつあったら一本食う。ふたつあったら二本食うと、なんでござれ、運の字いえ」
「なにいうてもかまわんか?」
「なにいうてもかまわん」
「おれは、なにもよういわんわ」
「それで一本食え」
「え?」
「よういわんと、んがあるさかい、一本食うたらいいのや」
「ほう、よういわんと、ほんにんがあるな」
「そんでえいのや。あいつに一本やっておくれ。よういわんで、一本やってくれ。おまえ、どうや?」
「わし、なんきんと……二本くれ」
「なんきん……あ、ふたつある。あいつに二本やり」
「わしにも二本くれ」
「おまえ、どうやい?」
「なすびん」
「そんなもの、あらへん、あらへん」
「なんでや?」
「なすびんなって、ありゃ、なすびや」
「あ、そうか。無理につけたらあかんか? あ、そうか。かもうりん」
「そんなもの、ありゃへんがな」
「あ、そうか。なんきん」
「おなじやないか、虎はんと……」
「にんじん、だいこん……と、三本くれ」
「汗かいて、三本いいよった。あいつに三本やって……」
「みかん、きんかん、こちゃすかん……と、おれに四本くれ」
「うまいな、あいつ。あいつにやってな。みかん、きんかん、こちゃすかん……あいつに四本やって……おまえ、どうやい?」
「ぼんさん、ぼんのくそに、てんかん……と、五本くれ」
「なるほど……ぼんさん、ぼんのくそに、てんかん……ふん、あっはっは、あいつに五本やって」
「天天天満《てんてんてんま》の天神《てんじん》さん……と、六本くれ、おれに……」
「あいつ、早いな。天、天、天満の天神さんか、六本やり。おまえ、どうやい?」
「本山坊《ほんざんぼん》さん、かんばんがん……と、七本くれ」
「おい、おまえのいいよること、そりゃ、なんのこっちゃい?」
「本山の坊さんが、軒の下通りよって、看板であたま打ちはった。本山坊さん看板がんと……」
「ははははは……こら、おもろい。おまえ、どうやい?」
「こんじんかんじんさんだんだんしん……と、八本や」
「なんじゃ?」
「金神《こんじん》さんて、かんじんなものや。方向《ほうむ》かいて、宿替《やどが》えし、その罰があたって、気ちがいになりはった。こんじんかんじんさんだんだんしん……」
「おもろいもんやな。あいつに八本やって……おまえ、どうやい?」
「千松《せんまつ》死んだか、千年万年つらし、艱難《かんなん》仙台御殿……と、十一本くれ」
「どえろうぎょうさんいいよったな。つぎ、どうやい?」
「おれ、いうさかい、つづけていうさかい、聞いていてくれよ」
「つづけて、ぎょうさんいうのかい?」
「おれ、もう、四十五本一ぺんにいうさかい」
「ほう、ぎょうさんいうのやな。よし、やれ、おれ、聞いててやる」
「二、三人聞いててくれよ。一本でもすくなかったら損やさかい、いうぜ。おれ、先年、しんぜんえんの門前にげんえん人間はんみょうはんしんはんきんかっぱん金看板銀看板、銀看板こんぼん万金丹《まんきんたん》金看板こんじん反魂丹《はんごんたん》ひょうたん、看板きほうてん……と、五十六本くれ」
「よういわんわ。あいつ、ひとりで五十六本、息せずといきよった。はははは、あんなこと、二度といわれんやろ」
「いや、二度いわれる」
「二度いかれるか?」
「なんでもないことじゃ。聞いててや。せんねんしんぜんえんの門前にげんえん人間はんみょうはんしんはんきんかっぱん金看板銀看板、銀看板こんぼん万金丹金看板、こんじん反魂丹ひょうたん、看板きほうてん……と、どうじゃ? 五十六本を二度や。百十二本くれ」
「おい、ようようあんなあほらしいこといいよったぜ。あいつに、でんがくあるだけやれ。おまえ、どうやい?」
「おれ、やるさかい、そろばん持て」
「そろばん? こいつ、ぎょうさんやりよるぜ」
「そろばん持ったか? ほな、ジャンジャンと二本いれ」
「なんや、半鐘《はんしよう》やな。ジャンジャン……と、なるほどな」
「いれたか?」
「ああ、いれた」
「えいか? あといくぞ。ボンボンボンと、三本いれ。えいか? あとは、西区で、ジャンジャンジャンジャン、また、北区で、ジャンジャンジャンジャン、南区で、ジャンジャンジャンジャン……ずうっと全区で、ジャンジャンジャンジャン、えいか? 消防の自動車が、こりゃどもならんとおもって、ブーッと、上につってある鐘をば、カンカンカンカンと、みなで五百本いれ」
「ようあんなあほなこといえるな。あいつに、なまのでんがく食わせ」
「なんで焼いたの食わしてくれんのや?」
「おまえは、消防のまねやるさかい、焼かんとやるのやがな」
吹き替えむすこ
これは、船場《せんば》のどまんなかで、うちは、相応にくらしているうちでございますが、おやじは、名代《なだい》の節倹家《せつけんか》でございまして、おうちには、金がたくさんございますのに、奉公人というたら、でっちひとりも置かずに、まことにがっちりとくらしているうちでございます。
そこに、ひとりむすこさんがございますが、このむすこさんは、いたって放蕩家《ほうとうか》でございます。おとっつぁんは、やかましゅうおっしゃる。なにつけ、かにつけ、いつわっては茶屋あそびをいたしますから、いたってやかましゅうございます。
きょうもむすこさん、あそびにでかけることができませんで、
「ああ、うちのおやじは、いくつまで生きゃあがる。人間わずか五十年というが、六十すぎて、まだ風邪《かぜ》ひいたことがないという、情けない達者なおやじ……四、五年以前のコレラのときに、雪隠《せつちん》(便所)へ走っていきおったゆえ、『おとっつぁん、くだりますか?』と、いうたら、『いや、くだりません』と、あくまで反対に立ちよる。情けない達者なおやじや……おやじが死んだら、わがままをしてあそんでこまそとおもうに……また、うちのおやじほど因果なおやじがあろうか。あのとしになって、茶屋という茶屋は、どんな茶やら、芸妓《げいこ》という妓《こ》は、どんな粉やら、たいこもちが、一貫目なにほどするやら、三味線も琵琶《びわ》もおなじ音に聞えると、あんなやぼなおやじの種に、ようまあこんな粋《すい》なご子息《しそく》さんができたことじゃ。世のなかに茶屋あそびほどおもしろいものはあるまいなあ。ちょっといっても……『若旦那、おいでやす。さあ、おあがり、さあさあさあ』と、庭に立っているあいだから、仇討ちみたようにいいよる。座敷へ通る。『芸妓二、三人呼びにやりんか』『はあ、よろしい』『一ぱいつけて置いて』『はあ、よろしい』『おさかな、いうてやり』『はあ、よろしい』『おつくり《さしみ》いうてやり』『はあ、よろしい』『一ぺん、みな帰《いな》して、ちょっと若い娼妓《しようぎ》ひとり呼びにやりんか』『はあ、よろしい』『茶箱とっておいで』『はあ、よろしい』『勘定ただにして置いてや』『はあ、よろしい』……と、それはいわんが……芸妓なじみになるのもおもしろいが、また、娼妓に深《ふこ》うなったもかわっておもしろい……『あの妓、呼びにやりましょうか?』『あの妓とは?』『ああ、辛気《しんき》くさ(おもうにまかせず、じれったい)、それ……右の一件の……』『ふん、あの妓か。あの妓なりゃあ、飽《あ》いてるねん』『なんでや? このあいだうちから、あんたのことばかりいうて、えら(たいへんに)のろけ、なあ、ねえはん、一ぺん手紙あげたもんやろうなあ、ねえはん、一ぺんきてくれはりそうなもんやないかなあ、ねえはん、あたい、辛気くさいでえ、なあ、ねえはんと、もう、ねえはんをなんぼいうてや知れへんし、それに、おもしろないというて、どうしなはるねん?』『まあ、一ぺん、かわった妓呼んでみようとおもうているねん。たれぞひとり、としのいった、おもしろいやつ、一ぺん呼んでんか?』と、いうと、おれよりさきへきてて、うしろへそっとしのび足をしてきよって、カチンと嫉妬《つの》をはやして、顔の色変えて、膝骨で、背なかをぽんと突きよると、こっちゃあ、とぼけて、『だれやいなあ、だれやいなあ?』『いま、なんといいなすった? もう一ぺんいうてみなはれ。あたいが聞いていることも知らずして、かわりに、としのいた、おもしろい妓を呼べなんて、どの口でいいなはった? 世にも世界にも、そんなにくてらしいことをよういいなはったなあ。よそで呼ぶならともかくも、ここのうちで、なんというにくてらしいこといいなはんね。さあ、あなたにちょっということがある。さあ、ちょっとこちらへおいでなはれ。用向きがあるによって……』と、耳ひっぱりおる。『いたい、いたい。ここはなして』『めったにはなしやへん』『こないにひっぱったら、ちぎれるがなあ』『ちぎれたかて、かまやへん。ひとつぐらいとってしもうたかて、ふたつあるものやさかい、ひとつ不用や。片一方あったらよろしい』『いたい、いたい。行《い》ぬ、行ぬ』『おいでなさい』『行ぬ行ぬ』……」
「やいやい、どなたぞおいでになってなはんのか知らんとおもうたら、ひとりやないか。気味のわるい女の声だしゃあがって、ひとりしゃべっていやあがる。ばかめ、気味のわるいやつや。帳合《ちようあ》いをしましょうぞ」
「よう聞えてけつかる」
「聞えいでかい。帳箱にもたれて、大きな声だしゃあがって、ご近所にみっともない。精だして帳合いをしましょうぞ」
「いきたいわい、いきたいわい、いきたいわい。なあ、いきたいわいなあ。えらいこと、帳面へ書いてしもうた。ああ、いきたいなあ」
と、申しておりますところへ、おもて口からはいってまいりましたのは、出入りの八百屋の喜助でございます。
「へい、こんにちは……八百喜でございます。水菜《みずな》に唐《とう》のいも、ほうれん草、大根、かぶら、高野《こうや》とうふ、地たまごでございます。なんぞ置いておきましょうか?」
「八百喜か。なんなと買おう……まあ、八百喜、ここへ腰かけい。ちょっと、おまえにたのみたいことがあるのや。聞いてんか?」
「へい、わたしにどういうおたのみです?」
「ほかじゃあないが、この春、宴会に、備一楼《びいちろう》にて、町内のおかたに、おまえ、えらいかっさいをえたということを、ちょっと聞いた。それも、わしのものまねで、たいへん手柄をしてやったということを聞いた」
「へい、さようでございます。このお町内のおかたは、みんな芸人さんばかりです。中村さんは清元、秋葉さんは西洋手品をなさる。村田さんは踊り、加賀さんは端唄《はうた》……もう、芸のないのは、おうちのおとっつぁんですなあ。なにをみても、『あはははは』と、笑うてばかりいて、さかなは、よう食べなさるし、ほめるあいだには、入れ歯おとしなさるやら、おならおとしなさるやら、ほんまに、おとっつぁんは、ものを食いなさるのが芸で、芸なし猿や」
「わるいこというな。おやじの趣向で、おまえが、いろいろとやりましたか?」
「へい、もうやることがないようになりましてから、みなさんは、『八百喜、もうひとつ、なんぞやりいな、やりいな』と、おっしゃるので、もうやることがございませんのだによって、あなたさんのものまねをいたしました。そのときに、おうちの旦那さんは、雪隠《ちようず》にいっていらっして、雪隠からおでましになって、『いま、せがれが、ここへまいりましてございますか? この座敷へは、くることはならんというておいたに、あいつがまいりましたか?』『へい、いまのは、ありゃあ、八百喜さんが、おうちのご子息の作次郎さんのものまねをしたのでございます』『いまのは八百喜さんか? まあ、八百喜さんというひとは、器用なひとじゃなあ。あははははは』と、お正月が十ぺんもきたように笑いやして……」
「よう知っている。さあ、そこで、おれが、おまえにたのみたいというのは、ほかでもないが、今夜、南地《みなみ》の芸妓《おなご》のとこへぜひいく約束がしてある。おまえ、気の毒だけれども、日が暮れたら、わしとこのうちまできてんか?」
「へい、なにしにくるんです?」
「えらい失敬やけれども、おまえに一円お礼をするによって、日が暮れ暮れに、おもてから、おまえ、せきばらいをしてやったら、それを合図《あいず》に、おりゃあ、おもてへでる。そうすると、ここに寝処《ねどこ》がとってあるゆえ、おまえ、この寝処で寝ていてくれてやったらえいねん。十二時かぎりに、おれは帰ってくる。おもてをトントンとひそかにたたいたら、おまえは、去《い》んでくれてや。おりゃあ、知らん顔をして、また寝てるよって……そうすりゃあ、おやじにめったに知れへん。しかし、都合によると、おやじがたずねおることがある。それだけ、おまえ、答えてくれにゃあならん」
「へい、どういうことです?」
「『きょう、八千房《せんぼう》の開会《ひらき》に行《い》たか?』『まいりましてございます』『巻軸《かんじく》(すぐれた句)は、どなたじゃ?』『夢蝶《むちよう》さんでございます』『句は、なんという句じゃ?』『あたらしき年に古《ふる》びる命かな。第二は、二日《ふつか》にはふたつ咲きけり福寿草《ふくじゆそう》』『そりゃあ、どなたじゃ?』『政丈《まさじよう》さんでございます』『わしのは、どこへ抜けた?』と、たずねたら、『明日《みようにち》、巻《まき》を借ってきて、お目にかけます』と……」
「そりゃあ、たれが申します?」
「おまえが、そんだけ、おやじに答えてくれたらええのや」
「ちょっと若旦那、待っておくんなされ。あなたは、腹にあることじゃよって、つらつらおっしゃるけれども、わたしは、一ぺんにおぼえられません」
「よしよし、そんなら、わしが書いてあげる」
「書いておくんなされ……わかるように書いておくんなはれや」
「よし……さあ、これ、おまえにわたしておく。もし、このほかのことをたずねたら、見はからいにやっといて、えいか? たのむぜ」
「よろしゅうございます」
「どういうわしの声や? 一ぺん聞かしてんか」
「聞かさいでも、大丈夫です」
「けれども、わしは、聞かんとたよりない。わしが、おやじになって呼ぶよって、おまえ、ひとつ返事して……『これ、せがれ』……」
「へい」
「『おとっつぁん』と、ひとついうてみて……」
「おとっつぁん」
「おりゃあ、そんな声かいなあ? もう一ぺん『へい』と、いうてみて……」
「へい」
と、やっておりますと、奥で、おやじさんが、
「やいやい、ばかめっ、呼びもせんのに、へいへいと、なにを返事をするのじゃ」
「あはははは、大丈夫、大丈夫、これなら結構や。日が暮れにきてや」
「さようなら」
と、約束ができました。
むすこどんは、日の暮れるのをば待ちこがれておりまする。さて、日は、ずんぶりと暮れますると、八百喜は、おもてへでてきて、「エヘン」と、せきばらいをいたしました。それを合図に、むすこは、おもての戸をば、ガラガラとあけて、おもてへでようといたしまする。
「せがれ」
「へい」
「おもてをあけて、どこへいきなさる?」
「ちょっと雪隠《ちようず》へ……」
「雪隠なら、裏へいかしゃれ」
「へい、おとっつぁん、今晩、裏へ雪隠をしにいくなという、ご町内からお布告《ふれ》がおました」
「ふん、なんというお布告や?」
「今晩は、おもてへ小便にゆかんといかん。裏へ小便をしにゆくと、疫痢《えきり》という病気がとりつくそうにございます」
「なにをいいくさる……おもてで小便をするなれば、道路へみだりに小便をして、もしや巡回の査公《さこう》(巡査)の目にとまってみなされ。違警罪《いけいざい》じゃ。罰金でもださんならんようなことになると、えい笑いものになりますぞ。小便をしたら、ちゃっとしまりをして、寝ましょうぞ」
「へい……おい、八百喜、むこうに寝処がとってあるよって、はいって寝てて。十二時にもどってくるよって、おもてをたたいたら、寝すごさんように、すぐにあけてや」
「よろしゅうございます」
「たのむぜ」
むすこどんは、そのまま辻人力車《でぐるま》に乗って、南地《みなみ》へさしておいでになりました。
八百喜が、むすこの寝処へまいりますと、
「せがれ」
「へい」
「かんぬきいれた音がせなんだが、かんぬきいれたのかい?」
「へい……あの……かんぬきは、いれませんのでございます」
「ばかなことをいうな……きゃっと産《う》まれるなり、この家《いえ》に住んで、かんぬきをいれるのがわからんということがあるか」
「きゃっと産まれたのは……今夜、はじめて産まれた」
「なんじゃと?」
「へいというてます」
「なにをガタガタと音をさしているのじゃ?」
「その……かんぬきをさがしておりますので……」
「かんぬきは、戸の上にあがってあるじゃろうが……」
「戸の上に? ……あった、あった」
「のうてかい。いつもそこに置いてあるのじゃ。ばかめ、早うかんぬきいれて寝ましょうぞ」
「おとっつぁん、かんぬきいれました……さようなら、おやすみ……ああ、汗かいた。なかなか、銭もうけと死《し》に病《やま》いはおろかでないとは、よういうたものじゃ。しかし、よいふとんやなあ。絹ぶとんやなあ。こんなふとんで寝るのは、今夜はじめてじゃ。まず、十二時まで若旦那の境界《きようがい》(身の上)か……これで、なにもたずねてくれなんだら、一円は、まるもうけじゃ。どうぞ、たずねてくれませんように……」
奥で、灰吹きをたたく音が「ポンポン」として、せきばらいの声が「エエヘン」……
「せがれ」
「へい」
「きょう、八千房の開会《ひらき》に行《い》たか?」
「そりゃ、おいでた」
「なにが、おいでたんじゃ?」
「へい、まいりましてございます」
「巻軸は、どなたじゃ?」
「巻軸は、むちゅうさんでございます」
「なんじゃ? むちゅうじゃ? ……夢蝶さんじゃないか?」
「えっ……へい、夢蝶さんでございます」
「なんじゃ? もの読んでいよるようないいようをしよる……句は、なんという句じゃ?」
「『あたらしき年に古びる命かな』でござります」
「第二は、どなたじゃ?」
「政丈さんでございます」
「なんという句じゃ?」
「『二日にはふたつ咲きけり福寿草』でございます」
「なんじゃ? もの読んでいるようないいようをしおる」
「へい、明日、巻を借ってきて、お目にかけます……で、ござります」
「一字一字読んでいるようないいようをしてくさる……ついでに借ってくるのじゃぞよ」
「へい」
「早う寝ましょうぞ」
「へい……あーあ……やれやれ、まあず、一円もうかったか」
「せがれ」
「へい」
「きょう、伊勢講へいったか?」
「へい……こうなると、えらい難儀やぜ。そんなこと、この紙に書いてあらへんがな」
「伊勢講へいったかい?」
「へい、これから見はからいでございます」
「なにをいいくさるねん。伊勢講の落札《おちふだ》は、なんぼじゃって?」
「三銭五厘でございます」
「えろう引けんなあ……どこへ落札《おち》たのじゃ?」
「へい……さあ、こまった」
「どこへ落札《おち》たとたずねているのじゃ。どこへ落札たのじゃ?」
「たしか大融寺《たゆうじ》の裏門でございます」
「かみなりじゃとおもうてくさる……あの、どこへ落札《おち》たとたずねているのじゃ?」
「あいようやさんでございます」
「あいようやさんとはなんじゃ? ……ああ、阿部さんかい?」
「さようでございます。阿部さんでございます」
「阿部さんは、一枚持ちで、先々月におとりなすったが、どういうものじゃい?」
「へい……一枚持ちで、先々月おとりになりましたけれども、この月は、もう一枚だけ、腕力でとってだした」
「講は……腕力でとるものかい。おおかた伊勢屋さんじゃろ?」
「ええ、たしかにそんなことでございます」
「たよりないせがれじゃなあ。寝ましょうぞ」
「さようなら、おとっつぁん、おやすみ……あーあ、なかなかひどい、これは……まあ、けど、どうやらこうやら一円もうかっている……まだ十二時にはならんかいなあ? もう、どうぞ、たずねてくれませんように……」
「エヘーン」
「そら、また、きよった……へい」
「呼んでやせんわい。呼ばんさきから返事して……」
「どうでお呼びなさるやろうとおもうて……」
「なにをいいくさるのじゃ。寝ましょうぞ」
「へい」
「エエヘーン……せがれ、きょう、塩《しお》ものを買うたじゃないか?」
「こう問《と》いが多かったら、どうもならん。こりゃあ一円で安すぎる。こりゃあ、もっと増してもらわんならん」
「なにをぶつぶつぼやいているのじゃ?」
「へいというているのでございます」
「塩ものは、なにの塩ものじゃ?」
「あの……その……かまぼこの塩ものです」
「かまぼこの塩もの? そんな塩ものがあるものかい。きょう聞いていたら、鰆《さわら》じゃないかい?」
「さようさよう。たしか俵《たわら》でございます」
「俵ということがあるかい。おおかた、また、塩鰆のだだ辛《から》いのじゃろ?」
「いえ、こんにちのは、だだ甘いのでございます」
「だだ甘いという塩ものがあるものか……塩ものは、どこにしもうてあるのじゃ?」
「あの……塩もの櫃《びつ》にいれておます」
「わしのうちには、塩もの櫃はない」
「ほな、ひとつ買うて置きなされ。調法なものでおますぜ」
「どこにいれてあるのじゃ?」
「たしか下駄箱へしもうたかしらん?」
「ばかなことをいいくさんな。塩ものを下駄箱へいれるやつがあるものかいな」
「そんなら、膳棚《ぜんだな》かも知れません」
「なにいいくさる。また、そこらへ投《ほ》りだしておいて、ねこか、ねずみが、きずをつけたら、こりゃあ、うもうないからかえすというわけにもいかん。今夜は、寝苦しゅうて寝られんゆえ、その塩もの、さかなにして、寝酒一ぱい飲もう。塩もの、ここへ持ってきてみせい」
「ええっ! さあ騒動や。そこへ持っていけるものかい……おとっつぁん、お腹《なか》が、しくしくいたみます」
「なんじゃ? お腹がいたむ? ……腹痛《はらいた》は、そなたの持病じゃ。よしよし、そこへいって、押さえてやろ」
「こられてたまるものかい……もう、おとっつぁん、なおりましてございます」
「なおったら、塩もの、ここへ持ってきてみせい」
「また、いたい、いたい」
「いたけりゃあ、押さえてやろ」
「そんなら、なおった」
「親をなぶりものにしくさる。若いやつというものは、どうもしようのないものじゃ」
と、ぼやきながら、手燭《てしよく》に灯をともして、
「それみい。こんなとこに、ほったらかしてあるのじゃ。ようまあ、ねこやねずみが、きずをつけなんだことじゃ……これ、あたまからふとんをかぶって、どうしたことじゃ? そういう寝ざまをするゆえに、ふとんが脂染《あぶらじ》んで、洗たくたびに、ばばどんが、いつもぼやくのんじゃ。ふとんをとらんか? あたまをださんか?」
「くわばら、くわばら……」
「わしをかみなりじゃとおもうてけつかる……ええ、あたまをださんか?」
と、裾《すそ》をぐるっとまくりますと、黒い毛だらけな足をぐーっとだしております。
「おやまあ、せがれの、まあ、この足……労働者《はたらきにん》みたような足じゃないか」
と、いいながら、ふとんを両手でめくりますと、八百喜は、ふとんをめくられて、ちんと、ふとんの上へ坐りました。
「おまえは、八百喜さんやないか?」
「おとっつぁん」
「あほ、いわんせ。このあいだ、備一楼で、町内の参会、せがれのものまねをしたとおもうたが、ちゃんと、こんな吹き替えにたのまれてきてくさる。たのむやつもたのむやつなら、たのまれるやつもたのまれるやつ、もう、あしたから荷まわりに出入りをしてくださるな。気味のわるいひとじゃ。でて行《い》ておくれ」
と、おもて戸を、ガラガラとあけて、八百喜をそとへ突きだしました。八百喜は、おもてへでまして、
「いったい、なんのことじゃいなあ」
と、ぼやきながら帰ってしまいました。
こなたの親旦那は、安いもみたいに、あたまから筋《すじ》を立てて、
「くそたれめ、いまにも、せがれがもどってきたら、どういうてこまそう」
と、ぽんぽん怒って、きせるの吸い口|噛《か》み滅《へた》げてございます。
そんなことは知らずして、若旦那は、大勢の芸妓|集《よ》せて、わやわやいうてさわぎましたが、お時間が、十二時になりました。
「お梅、わしは、今夜は帰《い》ぬわ」
「まだ十二時、早うございます」
「いやいや、また、うちの約束《てがた》が役にもならんゆえ、あす、また、でなおしてくる」
「さようなら、また、明日《みようにち》」
と、芸妓、仲居《なかい》は、おもてへ指して若旦那を送りだしました。
「これから、うちへさして帰《い》ぬわ、おもてを、トントンたたくわ、八百喜は、『ただいまですか? えらいお早うございました』と、いうわ、で、八百喜を帰して、おりゃあ、また、寝処へはいって寝るわ、夜が、ほんのりあけるわ、『へい、おとっつぁん、お早うございます』『せがれ、えろうおとなしゅうなったなあ』と、親というものは、あほなものじゃ。吹き替えをこしらえて、あそびにいったことも知らず、ああ、かしこなった、かしこなったと、いいよる」
ひとりごとをいうて、うちへ帰ってまいりました。おもての戸を、ひそかにトントンとたたいて、
「八百喜、八百喜、寝ているか? おもてをたたく音が、おやじに知れたらぐあいがわるい……八百喜いなあ、あけてんか? 八百喜」
「どなた? 夜《よる》深夜《よなか》、おもてをドンドンたたきなさるのは……どなたさんでございます?」
「八百喜のやつ、器用なやつじゃ。おやじのものまねまでやりおる」
猿後家
「おい、日和《ひより》がええので、ぎょうさん、ひとがでるなあ」
「そりゃ、おまえ、この陽気やさかい、まず、いまごろ、うちにいるものは、病人か、いざりぐらいなものや」
「そうやなあ……おい、ちょっと、むこうへいく女をみてみい」
「どこや? どの女や?」
「そら、下女をつれて、いま、あのくすり屋の前をあるいてるやろうがな」
「どのひとやいな?」
「それ、いま、紙屋の前あるいてるやろ? そう、いま、あの菓子屋の前……それ八百屋の……それ、呉服屋の……」
「わからんがな。そないいうたら……」
「むこうは、あるいてんのやさかい、そない、いわなしゃあない」
「ふんふん、わかった。あの女か?」
「たいへんええ女子《おなご》じゃなあ」
「おまえ、顔をみたか?」
「顔はみえへんけど、あのうしろすがたでは、よっぽど別嬪《べつぴん》らしいで」
「ふん、うしろすがたがええだけでわかるもんか。あの女を、いわゆる鼓《つづみ》のかけ声というのや」
「鼓のかけ声? なんのことや?」
「うしろからみると、イヨー……前は、パアー」
「ほう、そないにわるい顔か?」
「そうやがな。あれは、横町《よこまち》の川上屋の後家でな、うしろすがたは、ごくええが、まあまあ、前へまわってみいやい。どうみても、山から捕り捕りの猿としきゃあ、おもわれん」
「ふーん、おもろい顔やなあ」
「まあ、前へひとつまわって、みておいで」
「よっしゃ」
と、このあわてものは、走っていって、前へまわって、ごていねいに指をさして、
「いやいや、なるほど、猿によう似てるなあ。山から捕り捕りの猿や。猿後家、猿後家」
いわれて、この後家さんは、まっ赤な顔を、いっそうまっ赤にして、泣いてお帰りになりました。下女も、うしろからともにいそいでまいりまして、
「まあご寮人《りようにん》さん(奥さま)、あなた、どうかあそばしたか?」
「どうかあそばしたやないがな、いま、若い衆が、わたしをみて、なんとおっしゃったえ?」
「なんぞ申しましたか?」
「いうたやないか」
「なにをでござります」
「なにをでもないもんや。わたしの顔をみて、山から捕り捕りの猿やというて笑うてやった。うわーん」
「まあ、そないにお泣きあそばしますな。ご寮人さんが猿に? なにをおっしゃる。そんなあほらしいことがございますかいな。ちっとも似てやいたしませんわ」
「えっ、似てへんか?」
「なんの……まあ、ご寮人さんが、猿に似てますもんか。猿が、ご寮人さんに似ておりますので……」
「えっ、きーいっ!」
と、下女の顔をかきむしりました。下女は、おどろいておもてへ駈《か》けだしましたが、すぐにおひまがでました。
それからのちは、猿ということは、ご当家の禁句となりました。いえ、猿ということばかりやござりません。「どうなさる」「こうなさる」ということばも、うかつに申されなくなりました。
ある日のこと、番頭が帳合《ちようあ》いをいたしておりますと、でっちが坊んちとあそんでおりますから、
「これ、定吉、ここで、きゃあきゃあとあそんでいては、帳合いのじゃまになる。坊んちをつれて、あっちへいけ」
「へえ……坊んち、坊んち、ここにあそんでると、番頭さんにしかられますから、あっちへいきましょう。早《はよ》うおいでなさい。あっ、いま、そこへ猿まわしが……」
「なにっ、なにまわしが?」
「いえ、あの……ちんころまわしが……」
「うそぬかせっ、そんなものがあるものか。ばかめっ、気をつけてものをいえ。ご当家のような結構なええおうちが、この広い大阪に、もう一軒とあるか? 『ちょっと住吉さんへまいります』『ちょっと天神さんへまいります』というても、どうじゃ? 小づかいまでくださるようなおうちがあるか? なるだけ気をつけて、そそうをいわんように……過日《せんど》も、天神さんへいきゃあがった帰りに、坊んちのみやげに、猿屋まんじゅうを買うてきやがる。すでに、そのままだすとこを、おれが、地名札《ところばん》をとってしまい、お多福まんじゅうだと、いいわけをいった。以後は、なお、つつしんでものをいえ」
「へえ……あの……坊んちをおしかりなすっておくんなはれ」
「坊んちがわるいことをなさりゃあ、しかっておあげ申すが、なんぞわるいことなすったか?」
「最前《さいぜん》、えらい爪でひっかいてだした。まるで猿みたいに……」
「あほぬかせ。またしても、しくじりしおる」
でっちは、番頭にしかられて、坊んちをつれておもてへでましたが、いれかわってはいってまいりましたのは、ご寮人さんのいたってお気にいりの太兵衛という男でございます。
「へえ、ごめんなさい。まことに、このあいだうちは……」
「おや、太兵衛さんかい。いま、もどったのか?」
「ようよう、ただいま帰りまして、まだ、わらじのままでございますので……」
「もう、おまえが、四、五日みえんので、ご寮人さんは、『太兵衛は、まだか? 太兵衛はまだか?』と、明けても暮れても、太兵衛の一点ばり……早う奥へはいって、ただいま帰りましたという顔をみせておいで」
「へえ、ありがとうござります」
と、太兵衛は、奥へはいりまして、
「へえ、ご寮人さん、ただいま帰りましてございます」
「おや、太兵衛、いまかえ? まあまあ、おそかったなあ。おまえ、二、三日というて、きょうで五日になるやないか」
「まことに……いや、すまんことでございます。なんぞおみやげをとおもうておりましたが、さしたるみやげもよう買《こ》うてまいりませなんだ……これは、宮島の絵図でござります。宮島|杓子《しやくし》に色楊枝《いろようじ》……この絵図は、どうぞお坊んちゃんにおあげなすってくださいまし」
「太兵衛、もう、そんなみやげなぞ……そんな心配せいでもよろしいのに……しかし、せっかくのおみやげ、もろうておくぜ」
「ご寮人さん、あなた、きょう、どこぞへお越しでございますか? どこぞへおいでなら、お供をねがいとうございます」
「おや、たれぞ、店のものが、どこぞへいくというていましたか?」
「いえいえ、なんにもうけたまわりませんけれども、あなたは、化粧をしておいであそばすによって、それで、どこぞへおいでかしらんと心得ました」
「太兵衛、あほらしいこと、いいなはんな。このとしになって、お化粧なぞをしたら、あの女子《おなご》は、色気ちがいと、ひとにいわれるがな」
「あれっ、ご寮人さん、素顔《すがお》でござりますか? まあまあ、だんだんお色が、お白うおなりあそばして、髪の色艶は、お黒うにきれいにおなりあそばしたこと、そうちゃんとしておいであそばすと、まず成駒屋《なりこまや》(中村鴈治郎)の藤娘そのまま、いよー、成駒屋! 大成駒屋!」
「そないにいうてやと、ほんとうにはずかしいわ。これ、お松、太兵衛が、あのようにほめてくれますがな、おつくりで、一ぱいつけてやっておくれ。うなぎもいうといで……」
「おおきにごちそうさんでござります」
「もう、太兵衛、しばらくどこへもいっておくれなえ。わたしゃ、おまえがいてくれてやないと、たよりのうおもうで」
「へえへえ、そうおっしゃってくださりますと、まことにありがとうござりますので、口にほおばって申しにくうございますが、もう一週間ほどのひまをいただきたいのでござります」
「太兵衛、しばらくどこへもいっておくれなというのに、たまたまもどってくると、また一週間ひまをくれとは……全体、おまえ、どこへいきやね?」
「へえ、友だちにさそわれましたので、伊勢参宮をば、いたしとうござります」
「おや、そうかい。ほかなら、めったにやりやせんが、お伊勢さんという神さまは、とめたものに罰があたるそうな。よろしい。参詣しておいなはれ。そのかわり、よそへまわらずに、一日も早よう帰っておくれや。これからのちは、もう、どこへもゆくというても、やらへんぜ」
「へいへい、お伊勢さんへおまいりさしてもらいましたら、結構でござります」
「これ、店のもの、太兵衛が、伊勢参宮するゆえ、餞別《せんべつ》をやっておくれ。多分のことはいりません。ひとり前一円ずつくらいでよろしい」
「佐助どん、あれ、聞いたか? 太兵衛が伊勢参宮するゆえ、お店のもの、ひとり前に一円ずつ餞別をしてやってくれと、いま、ご寮人さんがおっしゃったが……なんの因果で、あんなやつに一円もやるのや? 全体、ここのご寮人さんは、鏡をみたことがないのか?」
「鏡は見通しや。この鏡は、色を黒うみせるというては割り、いや、この鏡は、顔をまるうみせるというては割り、鏡が気の毒や、ほんまに……それに、太兵衛のやつ、成駒屋の藤娘やと……ふーん、あほらしい。うちのご寮人さんの顔が、成駒屋の藤娘に似ているか?」
「そうやなあ、藤娘には似てないけれども、屋根の鬼がわらに似ている」
「これこれ、なにをいうのや、聞えたら騒動じゃ」
「太兵衛のやつ、結構な目をしやがるぜ……成駒屋の藤娘というて一円になるのなら、一円、こっちからだすより、おりゃあ、奥へいって成駒屋といってくる」
「あほいえ。おまえがいうたかて、なんになるものか。主人のおっしゃることじゃによって、しようがない……さあ、一円だせ」
「一円、なんでだせるものかい。そんなら、おりゃあ、もう……三十銭はりこもう」
「せめて半額だしいな」
「いや、三十銭や。ばかばかしい」
「おい、藤七どん、おまえ、だし」
「ほな、わたしも三十銭」
「源助どん、おまえ、だし」
「へっ、あほらしい。しかたがおまへん。盗人に逢うたとおもうて三銭」
「これっ、そんなことをしたら、ほかのものと釣りあいがとれんがなあ。せめて二十銭だしてやり。さあさあ、みな、だしてやり……なんぼある? なに? 八十三銭? よしよし、都合一円にして、紙につつんで、水引きをかけて……いや、太兵衛にするのやない。ご主人にするのや。できたら、わたしが持っていく……へい、ご寮人さん、ただいま、店のものからあつめましたが、みな、貧乏連中ばかりでございますので、店じゅうからまとめまして、一円だけ餞別をいたします。ご不足でもございましょうが、どうぞ、これで、ご寮人さん、ご辛抱《しんぼう》あそばして……」
「おやまあ、番頭どん、かんにんしておくれ。わたしとしたことが、前後もわきまえず、無理なことをいうて、えらいすまんしな」
「どういたしまして……」
「これ、太兵衛、ちょっと礼をいうておくれ」
「おおきにありがとうございます」
「太兵衛、ここに金が十円あるによって、これを小づかいにして、おまいりをしておくれ。うちのところは、案じなはんなや。お米や小づかいも、みな、うちから持たしてやるよってに、一週間……なるだけ早うもどっておくれ」
「いろいろとお気をつけられまして、ありがとう存じます」
と、金をいただいて、店のほうへやってまいりました。
「お店のどなたさまも、毎度おおきにありがとう存じます」
「知らんわい、知らんわい。早う去《い》ね」
「へえ、すぐに帰ってまいります。どなたさまもごめん」
と、帰りました。
それから、五日目の朝、太兵衛は、ちいさいふろしきづつみを持って、にこにこと笑いながら、
「へえ、どなたさまも、このあいだは、いろいろとありがとう存じました。なんぞおみやげをとおもいましたが、べつにさしたるみやげというようにはまいりません……これは、壺屋のたばこいれ、つまらぬものではございますが、ほんのおみやげのしるしで……」
「こりゃあ、太兵衛さん、こんなに……いささかの餞別で、かえって気の毒な。おおきにありがとう」
「いえ、そんなにおっしゃるほどのものじゃございません」
「いや、せっかくのおみやげ、遠慮なしにもろうておきます。ご寮人さんは、もう、首をのばしてお待ちかねや。早う奥へいって、無事な顔をみせておいで」
「ありがとう存じます……へえー、お家さん、ただいま帰りましてございます。もし、ご寮人さん、ただいま帰ってまいりましてございます」
「おや、太兵衛、いまかい?」
「へいへい、ただいまでございますが……ご寮人さんは、どこにおいでなさるので?」
「おや、気味のわるいひとやしなあ、なにをいうてるのや? わたしは、ここにいますがなあ」
「へえへえ、ご寮人さんのお声はしてございますけれども、おすがたがおみえなさらん……声はすれども、すがたはみえず、ほんにあなたは……」
「なにいうてじゃね……太兵衛、おまえ、おもてからはいってきて、それでみえんのかえ? ……太兵衛、わたしやがなあ」
「ああ、これは、ご寮人さんでございましたか」
「太兵衛、おまえ、見ちごうてやったのかえ?」
「へえ……あなたさまは、お目にかかるたびに、だんだんとおとしがお若《わこ》うおなりあそばします。いつやら、京都のご親類から、おとよさまと申すおかたが、お越しになっておりましたなあ。わたしは、あのかたが、お越しになっておられるのかとおもいまして、つい、おみそれいたしました」
「あほらしい。あれは、京の水で洗いあげた、ことに年も若いし、あんなきれいな娘と、わたしとが、なんの似ているもんかいなあ」
「いえいえ、もう、おとよさまそのまま、そのまま、まあ、この五日のあいだお目にかからんうちに、あなた、なにをおあがりなすったのじゃ? だんだんきれいにおなりあそばして、まあまあ、おきれいなこと、わたしゃ、もう、おとよさまやとばっかりおもうておりました」
「おやまあ、うれしいねえ。これ、お松、わたしが、おとよに似ているといなあ……太兵衛、お酒お飲みかえ? おつくりいうてやり。ご飯《ぜん》食べかえ? うなぎをいうといで」
「おおきにありがとう存じます。ご寮人さん、おみやげを、なにもよう買うてまいりませなんだ……これは、太神宮さんのお祓《はらい》……浅間の万金丹……坊んちゃんに二見の色貝……どうぞ、これ、おあげあそばして……」
「そんなに銭つかいなはんないな……しかし、伊勢参宮は、おもしろかったかい?」
「へえ、つれがたくさんございましたので、道中は、まことに陽気にやってまいりました……まず、大阪はなれて、早や玉造、笠《かさ》を買おうなら深江が名所、今里、松原、豊浦……暗峠《くらがりとうげ》へかかりまして、大師の水にて一服いたしました……絶頂へのぼりまして、河内屋で、昼中食《ひるちゆうじき》いたし、ちっとおそうございましたが……越えてまもなく室《むろ》の木《き》峠……砂茶屋も通り越しまして、三条通り尼が辻までまいりました……このへんまでまいりますと、宿引きが、たくさんでておりました。もう小刀屋《こがたなや》はなくなりましたので、印判屋《いんばんや》で一泊いたしましたが、むかしの小刀屋よりもいっそう勉強をいたしまして、夜具万端から万事のこと、なかなか注意したものでござります。朝飯も食べまして、おもてへでましたが、采女《うねめ》の宮、南円堂、北円堂、興福寺、金堂の古物をば見物いたし、大仏殿へ参詣いたしまして、わらび餅《もち》も食べまして、抜けると大仏の鐘、二月堂良弁杉、三月堂、四月堂……こちらへまわれば手向山《たむけやま》八幡、走元《はしりもと》の大黒、三笠山三条小鍛冶、武蔵野という料理屋がござりまして、それから、火打ち焼き、春日の宮へ参詣をいたしまして、蝉《せみ》の灯籠《とうろう》……こちらへ帰ってきまして、十三鐘、奈良の都の八重桜、きょう九重《ここのえ》ににおいぬるかな……奈良|足袋《たび》、奈良さらし、奈良うちわ、奈良人形……屁《へ》でも音のきついのをおならと申します。猿沢の池には、衣掛《きぬか》け柳……」
「これ、太兵衛、ちょっとお待ち、いまいうた池の名、なんといいますのや?」
「へいへい、あれは、名高い池で、魚《うお》半分、水半分竜宮まで……」
「そんなことは聞いてやへん。池の名は、なんや? 池の名は?」
「へえ……池の名は……猿沢……ひやー、こりゃあどうも……」
と、いうなり、太兵衛は、おもてへ血相変えて駈けだしました。
こちらは、ご寮人さん、「キャー」といいながら、
「ええ、腹の立つ、恩知らず、義理知らずのあの太兵衛めが、これまで、ぎょうさん世話して、お金もやってこましたのに……あんなことをいいおって……腹の立つ、うわーん」
と、しきりに泣いております。
太兵衛は、おもてへでて、店の敷居のところへたって(たおれて)しまいました。番頭が、これをみて、
「太兵衛はん、どうした? ご寮人さんは、えろうご立腹じゃ。どうしたのじゃ?」
「えらいこといいました」
「どんなこというた?」
「奈良名所をしゃべってました」
「うん、いまも、みなというとったんや。あんなに立てつづけにいうているが、しくじらなええがなあと、はなしをしていたのや。なんでしくじったのや?」
「池の名でしくじりました」
「どこの池で?」
「奈良名所の猿沢の池で……」
「はははは、えらいことをしたなあ」
「へい、どうも、えらいことをしました」
「なんぼいうても、とりかえしのつかぬことじゃ。早よ帰りなはれ」
「けど、このまま、お出入りをとめられますと、あすから食うことができません」
「そんなら、もっと勉強して、ことばに気をつけて、なんでいわんのや?」
「だけれども、うっかりといったので……」
「しかたがない。おまえの不勉強からおこったこと……早う去《い》ね、去ね」
「去んだかて、しかたがおまへん」
「しかたがないことはない。なんなと、おまえ、商売をしなさいな」
「わたしは、商売におぼえたことはおまへん」
「全体、おまえは、なにが商売じゃ?」
「ご寮人さん、ほめるのが、わたしの商売でおます」
「ほめるのが商売なら、なぜ勉強してものいわん?」
「まことに、わたしは、かわいそうなものでおます」
「ちょっともかわいそうなことはない。おまえどころじゃあらへん。おなじしくじっても、又兵衛のほうが、よほどかわいそうや」
「又兵衛と申しますと?」
「おまえの前のお出入りで、ご寮入さんのお気に入りやった」
「へーえ、わたしよりまだ先《せん》に、ご寮人さん、ほめるひとがおましたのか?」
「あったんじゃ。その又兵衛が、しくじってから、そのあとへ、おまえさんがきたんや。おまえがしくじったら、こんどは、だれがくるか知らんけれども……」
「へえ、又兵衛というひとは、どういうところでしくじったので?」
「又兵衛は、手つだいのことゆえ、ご普請のとき、漆食い(しつく壁、天井などに使用される塗料)をばたたいていた……そうすると、ご寮人さんは、『又兵衛、お町内にも普請好きのお宅もたくさんあるやろが、わたしのうちほどの漆食いを打たすおうちは、あるまいやろなあ?』と、おっしゃった。又兵衛も、『へい、ございませんなあ』と、いっておけばえいのに、『いや、さるところに一軒ございます』と、いったので、それで、しくじりや」
「で、それきりまいりませんか?」
「いや、当座は、こなんだが、三ヵ月ほどしてから、ごきげんをとりかえしにきたが、お前より役者が上じゃ」
「ど、どうしてきました?」
「口もとに髭《ひげ》をのばし、首すじに垢《あか》をため、なにか手にひつかんで、お店へはいってきた。ははあ、これは、よりもどしやなあと、わたしは、おもうたから、みてみぬふりをしてやった……ご寮人さんは、これをみて、『おや、そこにいるのは、又兵衛じゃないか? お店の衆、又兵衛が、庭へはいってますがなあ。たれがゆるしてからに、こちらへ通しておくれた? 恩も義理も知らん又兵衛、なにしに、のこのこと、うちへさしてきたのじゃ?』……『ご寮人さん、あなた、まあ、なにかお腹立ちかは存じませんが、たいへんのご立腹、それゆえ、わたしは、うちにおりましても、仕事にゆく気にもならず、ものごとは、手にもつかず、ただ、毎日ぶらぶらといたして……心斎橋の塩町のかどに、和田喜という絵草紙屋がございます。そのおもてに、錦絵《にしきえ》がたくさんでてございます。それをば往来《ゆきき》のひとが、みな、立ってみておりますと、そのうちに、ご寮人さんによく似ました錦絵がございましたゆえ、おもわず知らず、下駄ばきのまま店へとびあがりましたほどでございます。すると、「このひとは、らんぼうなひとじゃ」と、たいへんに叱言《こごと》をうけましたけれども、「どうぞ、この錦絵をば売ってくださいませ」といって、買うてまいりました。その錦絵をば、朝夕拝《おが》んでおりますると、なんにも知らん子どもまでが、おなじように手をあわして、「これは、仏さまかいな?」と、いわれましたときの悲しさ。ご推量くだされませ。われわれ親子のものが、四国、西国まわりをいたしますご本尊にいたしとうございますで、どうぞ、この画像に、お性根《しようね》をおいれくだされませ。ご寮人さま、一生のおねがいでござります』と、だしたその錦絵がなあ、まあ、うつくしいこと、水のしたたるような美人じゃ。それをば、ご寮人さん、ちらっとみて……そのときまで、おそろしい顔をして怒っておいであそばしたが、その絵をみるなり、顔のひもがとけて、にやりとお笑いあそばして、その絵を手にとって、じいっと、穴のあくほどみつめて、『これ、又兵衛、四国、西国へいかいでもよろしい。この絵は、わたしが、買うてあげます。さあ、これだけで買うた』と、大きな紙幣《さつ》の束をくれはった」
「ふーん、うまいことをしよったなあ」
「ご寮人さんも現金なおかたや。『これ、早よ、又兵衛にお酒をつけて、おつくりいうてやり。うなぎをいうといで』……ご寮人は、気にいったら、酒とおつくりとうなぎのほかより知らんおかたや。それから、『おまえは、そんなきたないふうをして出入りしてやと、ご近所へみっともない。これは、先《せん》の旦那さまの袷《あわせ》、おまえにあげる。さあ、帯も羽織も……』と、まあ、ぎょうさんおやりになった。子どものように、その錦絵を持って、『又兵衛、これは、女のような顔で、男のすがたやが、なんの絵じゃ?』『へいへい、それは、東京吉原のおいらんが、三十六歌仙の道中にでましたときの、在原業平《ありわらのなりひら》のすがたでござります』『そうかい。まあまあ、うれしいこと……この冠装束《かんむりしようぞく》でいるのは、なんのすがたや?』『へえ、猿丸太夫《さるまるだいう》でございます』……これで、また、しくじりおった。いよいよ帰参がかなわんことになって、それから、又兵衛のすがたをばみつけたものがあったら、あたまから沸《に》え茶をあびせい。沸え茶をあびせたものには、一円ずつほうびをやろうとおっしゃる……おまえもうろついていたら、あたまから沸え茶あびせるぜ。さあ、早う逃げい」
「もうし、番頭はん、どうぞ、ひとつ、よりをもどしとうございます。猿沢の池のところは、ひとつ、どんなにでもごまかしますゆえ、世のなかに、これよりうつくしい女はないというのを、ひとつ教えてくださいませんか?」
「うつくしい女かい? ……まず、わが朝《ちよう》においては……」
「このお町内《ちようない》でございますか?」
「ばかをいうな。わが朝というたら、日本のことじゃ」
「ははあ……わが朝というたら、日本のことでございますか?」
「そうじゃ」
「そうすると、わが朝においては?」
「まず、小野の小町か、照手《てるて》の姫か、衣通姫《そとおりひめ》」
「わが朝においては、小野の小町か、照手の姫か、衣通姫……」
「唐土《もろこし》においては、玄宗《げんそう》皇帝のおもいもの楊貴妃《ようきひ》に似ている……と、やりそこなわんように、すっくりやっておいで」
「おおきにありがとう存じます」
と、こわごわうちへはいってまいりますと、ご寮人はみるなり、
「これ、そこにいるのは太兵衛やないか? これ、お店の衆、太兵衛が、うちへはいってますがな。なぜ、おもてから追いだしてくれてやないね?」
「もし、ご寮人さま、あなた、なにかお腹立ちでござりますか?」
「しらじらしい。おまえ、いま、いうてやったこと、おぼえてやないの?」
「なんぞ申しましたか?」
「なんと? ……いま、おまえ、なんの池やというてやったのや?」
「へいへい、なるほど、へへい……なるほど、いや、わかりました。このへんのお聞きちがいがあって、ご立腹あそばしたと心得ます。ご寮人さん、あの池はなあ、魚半分、水半分……」
「そんなことは、おまえにいうてもらわいでも、わたしは、よう知ってます」
「あのな、ご寮人さん、あの池のふちへ暑い時分に涼《すず》みにまいりまして、涼んでおりますると、もう十一時ごろになると、身が、ぞーっといたしまする。暑い時分にも、さむそうになります。へいへい、そこで、ひとは、なんとかの池と申しまするが、さむそうの池というのが、ほんまでござります」
「おや、太兵衛、ありゃあ、さむそうの池というのがほんまかい?」
「へいへい、さむそうの池でござります」
「そんなら、わたしの聞きようがわるかったのや。まあまあ、びっくりさして、かんにんしてや」
「いいえ、どういたしまして……おわかりになりましたら、わたしも結構でござります」
「これ、おつくりで、一ぱいつけてやっておくれ。うなぎもいうといで……」
「これは、毎度ありがとう存じます。ところで、ご寮人さんは、いつお見あげ申しても、おきれいでござりますなあ。そのごきりょうを、むかしのひとにたとえて申しますと……」
「また、そんなべんちゃらは、やめなはれ」
「いいえ、ほんまでござります。まず、わが朝においては……わが朝というたら、この町内じゃござりません。日本のことでおます」
「ははははは、そんなこと、おまえにいうてもらわんかて、よう知ってまんがな」
「へえ、ご存じで? ……ええ、わが朝においては、小野の小町か、照手の姫か、衣通姫……唐土《もろこし》においては、玄宗皇帝のおもいもの楊貴妃に似てござります」
「おやまあ、お松、太兵衛が、あないにほめてくれますがなあ。お酒、早うつけてあげい……これ、太兵衛、このお金、おまえにあげるわ」
「おおきにありがとう存じます。もう、ご寮人さんが、お腹立ちあそばしたときには、わたしは、どういたしましょうかと心配をいたしました。じつに、ご寮人さんに見すてられましたら、めくらが杖をうしのうたといおうか、もう、木からおちたさ……」
「太兵衛、なんじゃい?」
「いえ……ねこでござります」
猫の災難
「ごめん。おい、さかな屋の大将」
「へえ、おいでやす。まけときます。なんぞ買うとくなはれ」
「うん……そこにある金魚の親方は、なんぼや?」
「金魚の親方? ……あはははは、鯛《たい》だすかいな?」
「それ、なんぼや?」
「これ、まけて、一円八十銭にしときますわ」
「おお、安いな」
「へい、安うしてますねん」
「ものは相談やが、八銭にまからんか?」
「そな、あほなこといいなはんな。一円八十銭のもん、八銭にまかりますかいな」
「そな、まからな、しゃあない。ほな、こっちにあるのん、この蜘蛛《くも》の親方、これ、なんぼや?」
「あんた、なんでも親方だすなあ……そら、あんた、たこですがな」
「あ、さよか。たあちゃん」
「たあちゃんてなものいいしなはんな」
「ああ、かわいもんや。たこか。たことは知らなんだ。このたこの足ちゅうもんは、なん本ある?」
「そなあほらしいことたずねなはんな。たこの足は八本やで……子どもでも知ってますがな」
「あ、勘定したな」
「勘定せんかて、わかってますがな」
「あ、いぼいぼの数は?」
「そんな、そんなんわからへん。うだうだいいなはんな。たこのいぼいぼの数勘定するやつあるやろか?」
「あ、まあまあ、ひまに勘定せい」
「そないなことできしまへん」
「あはははは、なんぼや、これ?」
「まけましたとこで、一円五十銭」
「おい、安いな」
「安うしてますねんがな」
「ものは相談やが、八銭にまからんか?」
「なんでも八銭に値切っているねんや。一円五十銭のもん、八銭にまかりますかいな」
「そな、こっちにこう、皿に山のように盛ったるのん、こら、なんや?」
「そら、あんた、いわし、そら、一ぱい五銭でやすねん」
「こないぎょうさんあって五銭、こら、安いな、これ、八銭にまからんか?」
「あんた、おもろいひとやな。そやけど、五銭のもの、八銭に値切ったひとは知らんわ、わて」
「あ、いかな、こうしよう、この大きな鯛の尾とあたまとふたつ、これは?」
「あ、そら、あきまへん。そら、くさってますねん」
「くさってるのか?」
「へい、そら、いつからあるやらわからん。売るのん、ころっとわすれてな、隅からでてきよったんでや。もうくさってしもうておますねん、いま、投《ほ》りにやろおもうてな」
「あ、そうか。これ、なんぼや?」
「なにをいうてなはるねん。くさったん、あんた、値たずねいでも、お入り用なら持ってお帰り。投《ほ》かす手数がたすかりますねん。さあ、皮一枚あげます。持ってお帰り」
「おお、くれるか、さかなを? えらいな。さかな屋やっていて、さかなくれるとは感心な男や。あつかましいけど、尾とあたまと、ふたつもろて去《い》ぬ」
「へい、持ってお帰り。そなもの、いらしまへんわ。持ってお帰り」
「ふん、こら、大きな尾とあたまや。わあー、ほんに、こら、くさい」
「そら、くさいがな」
「あ、こいつは食えん」
「そら、食えますかいな。食えるのやったら売りますがな」
「愛想のないものいいすねん。尾とあたまとふたつもろていく。これ、胴体は?」
「胴体は、料理屋のほうへまわって、尾とあたまは、いつからあるやらわからんねん」
「あ、そうか。えらいすまなんだ。また、いれあわし(うめあわせ)するぜ。あつかましいけど、もろて去《い》ぬわ。おおきに、まあ、早《はよ》うしもうて茶づけ食い」
「ほっとけ、そんなこと」
あほめ、くさった魚の尾とあたまともろて帰って、うちへ持ってもどってくるなり、すり鉢に水を張りやがって、上へまな板おいて、尾とあたまをのせて料理したあんばい、友だちがきたら、くさったさかなで酒買わせたろて、えらいわるいかんがえ。でてきた友だちが災難で……
「おい、うちにいるか?」
「うはっはっは、そーらきよった。こいつ、かかりよる」
「なにがかかるねん?」
「いや、なんでもあらへん……一ぱいやろか?」
「ほんに大きなもん料理しているのやな」
「一ぱいやろか?」
「やろやろやろ。一ぱいやろて、おまえ、鯛の胴体はどうなった?」
「胴体は、いま、三つ切りにして、すり鉢のなかへいれて、水で冷やしたるねん……ほて、一ぱいやろ」
「一ぱいやろやけど、それだけ大きかったら、高《たこ》うついたやろ? え、高うついたやろ?」
「あ、そらそら、高うついたやろうとおもう」
「おもうて、おまえ、買うたんとちがうのんか?」
「あっ、うっかりしてしもうた。わて、買えはったんやけど……」
「そな、おかしげなものいいすな。高かったやろ?」
「うん、高うすぎるほど高かった。はっはっは、おお高か」
「気色《きしよく》のわるいものいいすないな。それ、あたらしいか? え? あたらしいか?」
「いやあ、あたらしいのは、もうもう……あたらしいのん通りこしてるわ」
「通りこしてる?」
「うん、通りこして、あともどりしているくらいあたらしい、ぷんぷんあたらしい」
「そな、おかしげなものいいすねん。で、こうしよう。おまえの鯛は、おれがよばれる。おれが、一升、酒張りこんで、おれの酒、おまえが飲んで、ふたりが、だしあいでいこうか?」
「そんなんせいでもよい。そんなん……そなこと、おまえ、わずかな、こんな五十両の鯛」
「あれっ、その鯛五十両か?」
「いや、五十両は……そうはせんけれど、まあ、四十五両……」
「そ、それでも高いが……」
「高いか? ほな、まけるわ」
「値切らへんけど、おい、とにかく、おれ、酒買うてくるわ」
「そな、そなんしないな、おまえ、おれが、こないし うもない鯛で、おまえに酒張りこますてなことしたら、おまえに気の毒みたいなようにおもうたかてしゃない」
「おかしげなもののいいようすない。とにかく、鯛の料理しときや。おら、酒買うてくるぜ」
「おいおい、そーら、酒買いにゆきよった。そら、かかりよった。あいつ、あほやな。くさったさかな、くそうないのかしらん? あっははは、おもしろいやっちゃ。しかし、あいつ、もどってきよったら、なんちゅうやろ? 『鯛の胴体どないした?』……『胴体ない』てなこといわれへんさかい、いま、胴体をすり鉢からだして、まな板の上へのせるなり、天狗風《てんぐかぜ》が吹いて、胴体、上へ舞いあがってしもうた。で、天窓《てんまど》が、ガチャンとあくなり、尾とあたまに、お日さんがさいて、一てきにくさった。えへっ、なんとかごまかして、あいつ、一升持ってもどってきよった酒、半分ずつ飲んだろか。あっはははは」
「おーい、酒一升買うてきたぜ。鯛の料理まだ、せいへんのんかいな?」
「うははは、まあ、お帰り。まことにすまん」
「どうしたんや?」
「まことにすまん」
「まことにすまんて、どうした?」
「いや、いま、胴体な、すり鉢からだして、まな板の上へのせて、料理しようとおもうなり、ここへねこがきたん」
「どんなねこがきたんで?」
「まあ、これ、みてみ、手で、これ、このくらい」
「そな大きい手でして、おいおい、そんなねこあるかい?」
「いや、この手をうしろへこうまわして、うしろで、ちいそうする」
「そな、あほなことすない。どうしたい?」
「いや、こんなねこが、おれが、料理している前に、ちんと坐りよった」
「おかしなねこやな。坐りよったか?」
「坐ったんや。ねこが、おれの顔みて、にたっと笑うた」
「うそつけ。ねこが笑うたりするかい」
「いやいや、あいつ、魔のものや。そいで、ねこが笑うさかい、おれも笑わんといかんとおもって、わいも、にたっと笑うたんで……ほた、ねこが、おれの顔みよって、『ときに金さん』」
「うそこけ。ねこが、おまえの名、知ってるか?」
「あいつは、魔のもんや。どこでや、おれの名、聞いてきよった。わいも返事せんとわるいとおもうて、『にゃんでやすねん?』……こないいうたらな、『今夜、ねこなかまに集会があるねん。ぜひとも、この鯛の胴体が入り用や。しばらく、わたしに貸してくだはれ』と、ねこが、ことわけて、たのまんへんねん。わいが、いかんちゅうのに、無理から手かけて、わあーと持ってゆきかけたん、『これっ』ちゅうなり、こんどは、ぐーっと、なにや……」
「はあ?」
「胴体くわえて、むこうへぽいっと行《い》てしまわるねんや。そやかて、わい、しゃないさかい、こっちから呼んだんや」
「なんちゅうて?」
「『もしもし』いうて……」
「うそつけ。ねこに、もしもして、ねこが返事するかい。そら、なんぼ呼んだかて、むこうへいくやろ」
「三毛猫やったさかい、『お三毛はん、お三毛はん』えへっ、兄《にい》ちゃん、兄ちゃん」
「もう、そんなばかなこというない。どうした?」
「ほたら、呼んだねこが、もうどもならんとおもうて、電車に飛び乗りしよった」
「うそつけ」
「そら、しゃない。ねこが、もう、ばあと電車に乗って行《い》てしもうたんや。そないするなりな、天窓が、ガチャンとあくなり、尾とあたまに、お日さんが、さいてきよったん」
「うん」
「そやって、一てきにくさってしもうたんや。そやって、もう、鯛の尾もあたまも、なにもいけん。まことにすまん」
「もう、あほらしなってきた」
「そやって、こうしよう。あの、さかなないけどな、わし、東京の親戚《しんせき》からしんこ(つけもの)もろうたんや。そやよって、そのしんこで、おまはんが持ってきた一升の酒、ふたりで飲んでやな、ほて、ほろっと酔うたところで、おまえも去《い》んで寝いな。ほたら、わいも寝るわ」
「ようそんな気楽なこというてるぜ。おら、さかながなけりゃ酒が飲めん。どもしゃない。ついでに、さかな、手まわすわ。よいか? よいかげんに、そのすり鉢のきわはなれ。ほて、酒の燗《かん》するようにしとけ。おら、さかな買うてくるさかい」
「おいおい、そら、いかんがな。おまえに、酒もさかなも張りこますてなことしたら、わいも、立ってもいても坐っても、いるにいられんちゅうたかて、いるよりしゃない」
「もう、そんなややこしいものいいすない。とにかく、おら、さかな買うてくるわ」
「おいおい、どうも……やあ、また、買いにいきよった。ふん、酒もさかなもかかりやがるねん。念いれてひっかかりよる。まあ、ありがたいこっちゃ。どないな酒買うてきよってん? あいつ、もどってきよるあいだに、湯飲みに一ぱい盗んどいたろ……あっはははは、こら、おもしろい……うん、うまい、うまい、うまい。よい酒やな、こら……そやけど、ありがたいな。こら、ちょっと、もう一ぱい、こういれて、どうも……ああ、いい酒やな。こら、よいわ。やっぱりちがうわい、よい酒はな。もうちょっといこ。あっはっははは、この酒、もう二升ぐらい飲んだかて、さのみこたえへんわい。すくのうなったら、この一升びんのとこへ水さしといたろか……あっはははは……『この酒、ちょっと水くそうなっているよな』てなこというやろ……えへへへへ、もうちょっといこ。えらい、どうも……ああ、ほんまによい酒や。ああ、さかながなけら酒が飲めんて、わいら、こう小指でも一升や二升の酒飲めるわ…… この酒をとめちゃいやだよ酔わしておくれ、まさか素面《しらふ》じゃいいにくい……なんて……もう一ぱい……あれっ、もうあらへんわ。早いな。こら、えらいことしてしもうた。ごちゃごちゃいうてるうちに一升飲んでしもうた。あいつ、もどってきよったら、なんちゅうかしらん? あいつ、もどってきよったら、『まことにすまん。ねこが、徳利持って……』……そなこといわれへん。まあ、よい。ここらへ徳利ころがしといたら。からっぽの徳利こかして、ぐるり、こう、水一ぱい打っといたろ。『徳利がこけて、酒がでたん知らなんだ』やいうてこましたろ。すっくりした。ああ、ありがたい」
「おい、どないしたんや? おまえ、いつまで、そな、すり鉢のきわにへたってる(べったり坐る)ねん? 酒の燗せいへんのか?」
「あっ、お帰り。まことにすまん」
「あんなことばかりいうとる。どうしたんや?」
「いや、いま、燗しようおもうたら、ここへねこがきた」
「なんべん、ねこがくるねん?」
「いや、最前《さいぜん》のねこ、礼に寄りよって、その……なんじゃ……『あとで余興やるのに、どうも酒がないと発散せん。どうもすまんけど、この徳利を……』ちゅうさかい、わい、ねこにいうたんや、『いま、友だちが持ってきた酒やさかい、いかん』ちゅうのに、無理に手をかけて持ってゆこうとする。そいで、わい、『もしもし……』ちゅうてな……ねこが、おまえな、つまり、その……酒を……その……持ってゆこうとするねん」
「うそこけ。ねこが、おまえ、どこの世界に、酒持って行《い》たりするかい」
「いえさ、それが、手かけて、こう持ってゆくようにみえるねん。そやよって、わいも、けたくそがわるいさかいな、もうおまえにすまんとおもうさかい、ねき(そば)にあった割り木(薪)とって、おまえ、ねこに、ばーんとぶつけたら、拍子のわるい折りはこないなるのんやな、ねこにあたらんと、徳利にあたったんで……ほたら、徳利が、ばたんとこけるなり、詰《つ》め(栓)がな、こちんととれる、酒が、どうとでているねんがな、わい、これみて、こら、えらいことした。酒がでているわい。早う行《い》て起こしましょうと、おもうたけどもやな、せっかくでてはる酒、起こして気にさわったらいかんと……」
「おい、そんなあほなこというてんねんやあらへんがな。ぱあと起こしたらよいのや」
「さ、そうおもうたんやけどもやな、むこうが、きげんようでてはるのに、いらいらとして、徳利に気にさわったらいかんおもうてな、すっかりでたところで起こしたげた」
「なにもならへんがな」
「そやって、酒は、一しずくもない。まことにすまん」
「おら、もう、あほらしなってきた。また、おまえ、ねこが、酒ひっくりかえしたちゅうて……おい、おまえ、酔うてるやないかい」
「いや、こらこら、こうや。いいえ、畳へこぼれたる酒やがな。ほっとくのももったいないがな、おら、口つけて、ちゅうっと吸うたったんや。なあ、ほて、吸うた酒は、こないようまわるやろ。ほて、わても、もう、こない酔うてるさかい、もう、おまえも去《い》んで寝ていな。ほたら、わいも寝るわ」
「ようそんな気楽なこというとるぜ。おら、もう、あほらしなってきた。あいた口がふさがらんわ」
「あいた口がふさがらな、あけはなしでもしとくか」
「いや、あほいえ」
ふたりが、わあわあいうてるとこへ、ちょうど、大きいねこが一ぴき、とびこんでまいりましたさかい、あほめが、それみるなり、
「おい、ちょっと、みてみ、おら、うそつかんねん。あ、あの、あのねこや、あのねこ、ちょっと、みてみ。あのねこが、その、最前いうた、その、余興係りの幹事してはるねこや。つら、みてみ、髭《ひげ》はやしてはるやろ? 髭はやしてはるやろ?」
「あほなこと、いうてるのやあらへん」
「わい、うそつかん証拠《しようこ》やで、ちょっと、みてみ、八字髭はやしてるがな」
「ねこ、みんな、髭はやしてるわ」
「そやかて、ちょっと、みてみ、いま、神棚のほう、みてはるやろ? いま、じきにこっちむいたらみやはるぜ。顔みてみ、あ、そうそうそう、こっちみてはるやろ? そう、かわいらしい顔して……そう、おまえとわしとの顔みて、おじぎしてはるのや。そう、なんとかいうたげていな。えへへへへ、へい、いいえ、めっそうな……」
「もう、そんなあほなこと、いうてるのんやあらへんがな」
わあわあいうてるところへ、ねこが、なにおもうたか、神棚のほう、くるっとむきよって、前足二本ぽんとあわしよって、神さまに、
「どうぞ、悪事災にゃん(難)をまぬがれますように……」
誉田屋《ほんだや》
京都の三条室町に、誉田屋という、ちりめん問屋がございました。
旧家《きゆうか》で、ごくご裕福《ゆうふく》で、ご夫婦のなかに、ひとり娘のお花さんという嬢《いと》はんがございます。
おとしが十八で、きりょうが、たいへんによろしい。室町小町とうたわれて、近所でもえらい評判の嬢《いと》はんで、ご夫婦は、蝶よ、花よと、かわいがっておられましたが、満つればかくる世のならいとはいいながら、ふとした風邪《かぜ》の心地からぶらぶら病い……さあ、ご両親は、たいそうな悲しみようで、医者よ、くすりよ、加持祈祷《かじきとう》と、いろいろと手のとどくかぎりおつくしあそばしましたが、おもうようになおりません。
ある日のこと、ご両親は、お花さんの枕《まくら》もとへおいでになりまして、
「これ、花や、気分はどうや? あんまりくよくよしては、病気がなおりやせんで、気をたしかに持っていなされや」
と、やさしくなぐさめられますと、嬢《いと》はんは、やせた両手をあわして、涙をこぼしながら、
「おとうはん、おかあはん、いろいろと、ご心配かけて、なんともおわびの申しあげようがおへんどす。あても、こんどは、とても全快はできんとあきらめてますのえ。もし、あてが死んでしもうたかて、どうぞ、お力おとしをせず、あてやとおもって、親類から、ひとり、子をもろておくれやす。さき立つ不孝は、おわびいたします。あて、草葉のかげから、おとうはんやおかあはんのご無事をいのっておりますえ」
「これ、お花、そんな心ぼそいことをいうのやあらへん。おとうはんもわたしも、早よようなって、孫の顔がみたいとおもうてるのに……」
「そうや。おかあはんのいう通りやで、心丈夫に持って、早よようなってや」
「なあ、お花、一日も早よようなってや。あんたにさき立たれては、おとはんもわたしも、このさき、なにたのしみに生きてるのどす?」
と、ご両親、口ではいうておりますが、娘の容体《ようだい》をみますると、なかなか全快おぼつかないようすでございます。
「なあ、お花、なにやかやいうものの、人間は、老少不定《ろうしようふじよう》、いつ、どんなことになるや知れん。おまえに、もしものことがあったら、心のこりのないように、なんなりといい置いたがよいで……なんなりと聞いてあげるで……」
「おおきに……では、おとうはん、あて、たったひとつだけ、のぞみがおすのえ。それを聞いとくれやす」
「おお、なんなりともいい」
「なあ、おとうはん、あてが死んでも、髪を剃《そ》りおとして、坊主あたまにせんようにな。あて、あれ、いやどすのえ」
「ああ、よいともよいとも……」
「お花、のぞみは、それだけどすか?」
「おかあはん、まだ、あるのどす」
「遠慮あらへん、いうておみ」
「あてが死んだらなあ……一番好きなべべ(着物)着せて、髪も島田に結うて、おしろいつけて、きれいにお化粧をして、棺にいれて、それから、お小づかいに三百両、財布にいれて、首にかけておくれやす。そうして、火葬はいやどすえ。埋《う》めとくれやす」
「これ、お花、むかしから、死んでいくひとは、六文銭を棺にいれるにきまっているが、三百両もの大金、おまえ、どないするのや?」
「はい、おとうはん……あてなあ、あの世へいったら、えんまさまに、三百両さしあげて、おとうはんや、おかあはんのことをたのんでおくのどすえ」
「まあ、死んでまでも、わたしたちのことをおもうてくれるのかえ」
と、母親は、たまりかねて泣きだしました。
「それから、おとうはん、お寺は、四条の寺町、大雲寺へやっておくれやす」
「よしよし、承知した……ときに、おまえ、なんぞ食べたいものはないか?」
「……ええ……あの……おとうはん……あてなあ、四条新町の新粉《しんこ》屋新兵衛はんの、新粉餅《しんこ》が食べたいのどす」
「なに、新粉餅《しんこ》? ……ふーん……なあ、お花、ほかのものならかまへんけど、新粉餅《しんこ》は、消化《こなれ》がわるいで、それだけ、やめとおき」
「そんなこといわんと、ひとつだけでも食べさしておくれやす。あて、新粉餅《しんこ》が食べたいのどす。どうぞ……一生のおねがいどすさかい……」
「よしよし、食べたいものなら、食べさしてあげる……これ、丁稚《こども》や、嬢《いと》が、四条新町新粉屋新兵衛はんの、新粉餅《しんこ》が食べたいというで、おまえ、ごくろうやけど、すぐに買うといで」
「へい」
でっちは、大急ぎで買うてまいりました。
「さあさあ、新粉餅《しんこ》や、新粉餅や、お花、新粉餅がきたぜ。食べなされ」
「はい、おおきに……まあ、たいそうおいしおすえ。食べたい食べたいとおもうてましたので、おいしいこと……なあ、もうひとつ、もろてもよろしゅうおすやろか?」
「これ、お花、ひとつでも毒やとおもてるのに、ふたつも……」
「おかあはん、どうぞ、もうひとつだけ……」
「よしよし、それでは、もうひとつだけやぜ」
「おとうはん、おおきに……ああ、おいしかった……なあ、おとうはん……あての、なあ……あのう……一生のおねがいどすさかい、もうひとつだけ、食べさして……」
「これ、そんな無理をいうものやない。おとうはんかて、おこまりになるやないか。なあ、からださえなおったら、なんぼでも食べさしてあげるさかい……」
「そんなこといわんと、もうひとつだけ……一生のおねがいどすさかい、もうひとつだけ……そのかわり、このひとつ食べたら、あとは、けっしてくれと申しまへんどす」
「これ、お花、食べもので、とやかくいうのはいややけど、それも、おまえのからだをおもうてのことや。わるうとりなや。かわいおまえのことじゃもの……まあ、あまり食べると、からだにさわる。それくらいにしておき。なあ、からださえなおったら、なんぼでも食べさしてあげるさかい……」
「……こんなおいしいもの、食べて死んだら、あて、本望どすえ。どうぞ、もうひとつだけ、おねがい……」
かわいい娘にせがまれまして、子に甘きは親心とやらで、わるいとは知りながらも、三つ目の新粉餅をわたしますと、娘は、うれしそうに食べはじめましたが、半分ほど食べかけたところで、顔の色がだんだんとかわってまいりました。さあ、両親《ふたおや》は気ちがいのように、
「お花やーい」
「これ……お花や……しっかりとくれや……これ……たれぞ、早よ、お医者さんを……」
「それやで、もう食べなあというてるのに……お花やーい……お花やーい」
呼べど、さけべと、その甲斐もなく、とうとう、お花さんは息をひきとりました。お医者さんも駈《か》けつけましたが、いかんともしようがございません。
こうなると、ひっくりかえるような大さわぎで、親類一同へ知らす、いずれもあわてて駈けつけてまいります。なにしろ、ひとり娘にさき立たれたのですさかい、ご両親は、もう魂のぬけた人形同然でございますので、お通夜から葬式万端、親類や近所のひとがいたしてくれます。そして、遺骸《なきがら》は、娘さんの遺言どおり、髪も切らずに、島田に結うて、きれいにお化粧までして、三百両を財布にいれまして、四条寺町の菩提所《ぼだいしよ》、大雲寺へ、泣く泣く葬《ほうむ》りました。
さて、その晩のこと、夜もしだいにふけわたりましたころ、二階に寝ておりました手代の久七、ふと、目をさましまして、
「あーあ……よう寝たなあ。なんどきかしらん? 宵から、ぐっすり寝こんだで……しかし、まあ、とむらいのでたあとは、なんとのうさびしいもんやなあ。それはそうと、旦那さまや、奥さんは、お気の毒やなあ。たったおひとりの嬢《いと》はんを、十八まで、お育《そだ》てなさり、これから、かわいい孫の顔でもみてと、おもうときに、おなくしなさるとは……それにひきかえ、あの琴の音は、おむこうの嬢はん、おとしも、ちょうどおないどし、今夜は、親類のお客さんがお泊まりで、そのおなぐさみにひいていやはるのやろうが、親の身にとったら、どんなやしらんとおもうと、もう、涙がこぼれるわ……うん、そうそう、うちの嬢はんでおもいだした。なんぼ金がありあまるといいながら、死んだものの首に、天下通用の金、三百両とは、じつに惜《お》しい。わるいことやが、今夜、墓を掘りおこして、一時、あれを拝借して、ひとつ、店をだそう。そうして、のちにおわびして、嬢《いと》はんの菩提をとむらおう」
と、これから、久七は、二階から、そっとぬけだしまして、大雲寺の墓地へきてみますと、昼、嬢はんを埋めたまま、土が、こんもりと高く、まだ、線香のけむりが絶えておりません。
久七は、墓の前へ両手をついて、
「なあ、嬢はん、わたしは、けっしてわるい気で、お金をとりにきたんやおへん。通用金を土のなかへ埋めるのは、ご法度《はつと》で、もしも、埋めたということが、お上《かみ》へ聞えますると、ご一家は、きびしいご詮議《せんぎ》をうけます。それがお気の毒ゆえ、こうしてまいりました。なあ、勝手なことをいうようどすが、久七が、この金、一時拝借しておけば、ここを掘りだされてもわかりません。どうぞ、わたしに、一時、お貸しくださりませ」
と、いいわけしながら、掘りおこしてみますると、三百両の金が、財布にはいって、嬢はんの首にかけてございます。久七は、こわごわながら、財布をひっぱりましたが、ひもが首にかかっております。久七は、このひもをはずすことをわすれてひっぱったのでございますから、ひもが、嬢はんののどへひっかかって、首が、ぐいと上へむきました。とたんに、嬢はんが、
「ウーン、ウーン」
と、うなりましたから、おどろいたのは久七で、
「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……嬢はん、かんにんしておくれやす。さきも、おわびした通り、けっしてわるい気で拝借するのやないので、店をだす資本《もとで》に借りますので……どうぞ、まよわず成仏《じようぶつ》しておくれやす。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……」
「これ、そこにいるのは、久七どんやおへんか?」
と、自分の名を呼ばれましたので、こわごわながら、久七が、みますと、嬢はんが、目をあいて、うごいておりますので、なおさら、びっくりした久七が、
「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……へえ、嬢はん……久……七で……」
「おう、やっぱり、久七どんどすか……あて、どないしたのどす? なんや、夢でもみているようで、なんで、こんな、くらい、さびしいところへきているのどす? そうして、お父はんや、おかあはんは?」
「えっ……それでは、あなた、ご存じないのどすか? きのう、あんた、新粉餅《しんこ》、三つ目を半分ほど、おあがりになるなり、お死にになったのですぜ」
「えっ、あてが、死んだ? ……新粉餅を、食べたのはおぼえているが……なんや、急に、のどが苦しゅうなったとおもうたら、そのまま、なんにもわからんようになったのどす。すると、新粉餅が、のどにつまってたのどすなあ」
「なるほど、そこを、わたしが、財布のひもをひっぱったさかい……」
「え?」
「いえ……その……わたしが、あんたのおからだをうごかした拍子に、のどにつまってた新粉餅が、通ったので、息を吹きかえしなさったのどす。しかし、まあ、結構どすなあ。早よ、おうちへ帰りまひょ。旦那さんも、奥さんも、どんなにおよろこびになるやわかりませんで、さあさあ、早よ帰りましょう」
「久七どん、あて、うちへは帰らしまへん」
「なんで?」
「なんでて……いったん死んだあてが、うちへ帰ったら、ああ、よみがえりよった、と、近所の評判になり、おもてへもでられんようになります。久七どんも、うちへ帰らんつもりで、おいでやしたのやろ? さいわい、ここにお金もあるさかい、あてをつれて、どこぞへ逃げとくれやすなあ」
と、小町娘の嬢はんにいわれては、久七も木石やございません。それではというので、たがいに手に手をとって、すこしの知るべのあるのをさいわいに、江戸へでてまいりましたが、浅草の並木町へ一軒の店《たな》を借りうけまして、持ってきた三百両を資本《もとで》に、手なれた呉服屋をはじめました。屋号も誉田屋《ほんだや》とつけまして、さいわいにも、店はしだいに繁昌《はんじよう》いたしまして、奉公人の五、六人も置くようになりました。
おはなしかわって、京都の誉田屋さんのほうはと申しますと、最愛の娘さんに死にわかれましたので、老いの身の、なんのたのしみもなく、世の無常を感じておられましたが、これも前世の因縁、せめて娘の菩提をとむろうてやりましょうと、夫婦、相談の上、奉公人には、それぞれ手当《てあ》てをやってひまをだし、家は、親類にあずけて、西国巡礼にでられました。
西国、四国の霊場をまわりすましまして、こんどは、東国へ巡礼しようと、でてまいられましたのが江戸でございます。昼は、毎日、市中の霊場をまわり、夜は、旅宿に泊まられます。しかし、なんぼ財産のあるひとでも、巡礼すがたですさかい、あまり上等な宿屋へも泊らず、やはり木賃宿ぐらいのところで辛抱していられます。
市中をまわっているうちに、死んだ娘さんとおなじ年ごろの娘さんをみますと、ぐちがでてまいります。
「なあ、ばばどん、さっき、芝でみた娘さん、ちょうど、お花とおなじ年ごろやったなあ」
「そうどした。お花が生きてたら、あれくらいのとしかっこう……ああ、お花さえ生きてくれてたら、いまごろ、巡礼なんぞせいでも、一家が、おもしろおかしゅう江戸見物ができるのに……なあ、おじいさん……おや、あんた、泣いておいやすなあ」
「いやいや、泣いてはせん。あるきつづけて暑いさかい、目から汗がでるわい……ははははは、さあ、今夜も早よ寝て、また、あすは、浅草のほうを巡礼しましょう」
あくる日は、早朝から、浅草へんを、ご詠歌をとなえながらやってまいりました。
ところが、一軒のうちから、いくらかのお銭《あし》を紙につつんでくれました。夫婦は、よろこんで、礼をのべて立ち去ろうといたしますと、ふと、目についたのが、おもてののれんで……
「これ、ばばどん、みなされ。ここの屋号も、わしとことおなじ誉田屋、商売もおなじちりめん問屋、世間には、よう似た屋号と商売があるものじゃなあ」
「わたしも、さっきから、そうおもうてましたのや。なんとのうなつかしい気がしますなあ」
夫婦がはなしあっておりますと、その店から、でっちがでてまいりまして、
「あのう、ちょっと、おたずねいたしますが、あなたがたは、もしや京都のおかたではございませんか?」
「はい、京都のものでございますが……」
「へえ、さようで……」
でっちが、店へはいってまいりますと、いれちがいにでてまいりましたのが、この家の主人《あるじ》とみえまして、
「ただいまは、失礼をいたしました。でっちに、ちょっと、お聞かせ申しましたところ、京都のおかたとのことでございますが、もしや、三条室町の誉田屋さんではございませんか?」
「へえ、よくご存じで、わたしは、おたずねの通り、誉田屋忠兵衛でございます」
「えっ、それでは、やっぱり、旦那さま、おひさしゅうございます」
「え? そういうあなたさまは?」
「おわすれになっているかも知れませんが、わたしは、お店に奉公しておりました久七でございます」
「えっ……あの……久七どんか? ああ、なるほど、たしかに久七や……おい、ばばどん、久七やと……」
「まあ、久七どんどすか? おお、たしかに久七どんや……そうそう、あんた、お花が死んだ晩に、どこや、すがたがみえんようになったとおもうてたら、こんなところへきといやしたのか……あの晩から、ずいぶんと、あんたをさがしたんどすえ。なあ、おじいさん」
「そうや……うん、久七どんでおもいだしたが、うちに奉公人もたくさんつこうてたが、品ものを置いてでたのは、おまえばかり……ほかのものは、みな、自分のものばかりか、ひとのものまで持っていくでなあ……おまえさんのものは、ちゃんと荷づくりして、親類にあずけたるで……いやもう、こんな出世をしなさるも、おまえさんの心がけがよいのでじゃ。わたしも、こんなうれしいことはない。なあ、ばばどん」
「おじいさんのいう通りどす」
「そのようにおっしゃっていただいては、かえって、いたみいります。つきましては、旦那さま、奥さまに、ぜひともお逢わせ申したいひともおりますし、また、いろいろと、おはなしもありますので、ともかく、どうぞ、奥へお通りください」
ご夫婦は、奥の一間《ひとま》へ通されまして、あついもてなしをうけておられます。
そのうちに、久七は、紋つき、袴《はかま》をつけて、お花には、きれいに着かざらせまして、としより夫婦の前に両手を突きますと、
「さて、旦那さま、奥さま、なにからおはなしを申しあげてよいやら……じつは、ここにおられますのが、死なれた嬢はんで」
「えっ!!」
「おお、たしかにお花」
「おとうはん、おかあはん、おなつかしゅうござります。お達者なおすがたを拝見して、うれしゅうて、うれしゅうて……」
「これ、ばばどん、ちょっと、めがねをだしてくだされ。としをとるとな、どうも目がよくみえん。めがねをかけてよくみます……おう、これは、まあ、どうしたものじゃ? めがねを目にあてがったら、急にくらがりになって、なにもみえんようになったが、どうしたわけじゃ?」
「そりゃ、おじいさん、まだ、めがねの鞘《さや》がはずしてございません」
「おおそうか。だいぶうろたえているのや……どーれ、なるほど、こりゃお花じゃ……なんじゃ、わたしは、夢をみているようで、ばばどん、こら、ほんまの……お花か? まあまあ、よくうごいておるが……」
「まあ、お花……ようまあ、生きかえってくれたえなあ。おじいさん、ほんまのお花どすえ。その証拠には、目の下に、ほくろがあるのが、なによりの証拠どす。うわーん、お花……」
「まあ、おかあはんも……よう、まあ……お達者で……」
「こら、久七、さっぱり、わたしには、わけがわからんが、全体、どうしたわけじゃ?」
「そのご不審《ふしん》は、ごもっともではござりますが、じつは、かくかくのしだいで……」
と、これから、久七が、一部始終《いちぶしじゆう》を物語りました。
「まあ、かようなわけで、旦那さま、奥さまにも、ひとことのことわりもなく、この、お花と夫婦になり、ふたりの仲に、子どももできております。ご立腹でもございましょうが、どうぞ、子どもに免《めん》じておゆるしのほどを……」
「なんの、なんの……わたしのほうで、お礼こそいえ、なんで怒りましょう。おまえさんが、あの晩、墓へいってくださったればこそ、お花のいのちもあったのじゃ。してみれば、おまえさんは、お花のいのちの恩人じゃ。のう、ばばどん」
「そうとも、そうとも、まして、かわいい孫までできて、わたしは、こんなうれしいことはおへん」
そのうちに、日が暮れましたので、いろいろごちそうをとりよせまして、老夫婦をなかに、若夫婦、孫までもひとりはさんで、よもやまのはなしをしながら、おもしろおかしゅう夕ご飯がすみました。
「さだめし、きょうは、おつかれでございましょう。あすからは、もう、巡礼におあるきなさらず、どうぞ、一生、当家においでをねがいます。夜もふけてまいりましたし、どうぞ、今夜は、おやすみを……お花や、おとうさん、おかあさんをご案内し」
「はい」
つぎの間へ上等のふとんを敷きまして、
「さあ、おとうはん、おかあはん、どうぞ、おやすみあそばせ……ご用がございましたら、いつでも手をたたいて、お呼びを……」
「はい、おおきに……それでは、また、あす、ゆっくりとはなしもし、孫の顔も、とっくりとみせてもらいましょう。はい、おやすみ」
と、おふたりは、床におつきになりましたが、うれしゅうて、うれしゅうて、なかなか寝られません。
「なあ、おじいさん、わたしは、あまりうれしゅうて、夢ではないかとおもわれてなりまへん。夢なら、どうぞ、さめてくれぬように、なあ、おじいさん」
「いやいや、ばばどん、夢じゃない。これというのも、きょう、おまいりした観音さんのおかげじゃ。ああ、ありがたや、南無大慈大悲《なむだいじだいひ》の観世音菩薩……」
「なあ、おじいさん、世のなかに、こんなうれしいことはまたとあるまいが、あんたは、いつまでも、ここにいなさるか?」
「ああ、いるとも、いるとも、死ぬまで、ここにおります。他人のうちに厄介になるわけやない、かわいい婿《むこ》や娘のうちじゃもの」
「でも、京都のうちは、どうおしる?」
「京都のうちなんか、どうでもええわい。ありがたい、ありがたい、これも、南無大慈大悲の観音さんのおかげじゃ……ばばどん、それにしても、まあ、このりっぱな普請《ふしん》はどうじゃ? この座敷のみごとなこと、それに、こういうふとんに寝るのは……」
「このふとんにひきかえて、ゆうべ泊まった木賃宿のふとんはどうでしたの?」
「うん、ありゃ、また、格別きたなかったのう」
「それに、えらいしらみで……ぞろぞろはいだしてきて、わたしは、寝られやせなんだがな」
「うんうん、あれも、観音さん(しらみの異名)のおかげじゃ」
解 説
金明竹
この噺は、前半の傘と猫を貸さないいいわけの滑稽の部分を、江戸の半幇間的な医者石井|宗叔《そうしゆく》がつくったといわれていながら、どういう理由かわからないが、大阪へ移入され、後半の部分をくわえたのち、ふたたび、明治になって東京で口演されるようになったという。
早口でしゃべる噺なので、「寿限無」とともに代表的な前座噺とされているが、「寿限無」にくらべると、おのおの異なったタイプの人物がつぎつぎに登場し、しかも、なんべんも早口の上方弁でまくし立てることを必要とするのだから、このほうが、はるかにむずかしいといわねばならない。
なお、金明竹とは、もと中国から伝来した竹で、全体があかるい黄金色をしている上に、節のあいだにある溝には、鮮明な緑の縦すじがあって美しいので、観賞に供せられる。また、幹や枝は、筆の軸やきせるの羅宇《らう》などの細工にもちいられる。
牛ほめ
原話は、元禄十一年(一六九八)刊の笑話本『初音草噺大鑑』所収の「世は金が利発」で、これを、初代林屋正蔵が、現型にあらためたことは、天保四年(一八三三)刊の正蔵作の笑話本『笑《わらう》富|林《はやし》』所収の「牛の講釈」によって知ることができる。上方では、「池田の牛ほめ」の別名がある。
与太郎噺の代表的なもので、その底ぬけのナンセンスな味は落語ならではの世界。
普通は、与太郎が、伯父さんの家で、普請《ふしん》をほめたあとで、牛をほめるストーリーになっているが、大正時代の名人四代目橘家円蔵の速記をみると、家をほめにいってほうびをもらった与太郎が、すっかり味をしめて、別の家へ牛をほめにいく構成になっている。なお、おちは、以前は、「牛もいいけれども、あの糞にはこまりぬくよ……いくら掃除してもそばからよごす。あの穴が気になるぜ」「穴が気になるなら、秋葉さまのお札をお張りなさい」と、あっさりしていたが、現在では、「秋葉さまのお札をお張んなさい。穴もかくれるし、屁の用心になります」というおちで演じる落語家が多い。
花見の仇討ち
原話は、滝亭鯉丈《りゆうていりじよう》の滑稽本『花暦八笑人《はなごよみはつしようじん》』(初編文政三年・一八二〇)にあり、鯉丈自身が寄席に出演していたので、元来は江戸落語で、別名を「八笑人」「花見の趣向」ともいうが、これが上方へ移入されて、「桜の宮」の別名を持った。
江戸後期の有閑庶民階級が、生活の遊戯化をはかっておこなった茶番が中心になっており、それが花見を背景にしているだけに、華やかで、しかものんきな江戸気分が横溢した落語となっている。
現在では、舞台を上野の山にして口演しているが、江戸時代における上野の山は、輪王寺宮《りんのうじのみや》のいた寛永寺の境内である上に、将軍家の御霊廟《おたまや》もあったので、いかに花見の季節とはいっても、仮装をしたり、音曲入りでさわいだりすることは禁じられていた。したがって、原作は、飛鳥山のできごとになっているので、本書では、これにしたがった。
なお、諸方の聖地や霊場を参拝してまわる〈順礼〉や、日本六十余州の国分寺へ参詣し、笈櫃《おいびつ》におさめた六十六部の経典を一部ずつ奉納してあるく〈六十六部〉というような風俗が、わかりにくくなっているので、ここにつけくわえておく。
つづら泥
まぬけな泥棒物の一種で、戸じまりが厳重な商店へ盗みにはいるために、泥棒が、つづらのなかへはいっているというアイデアは、泥棒のひとりが、いも俵にはいって、なかまを手びきしようとする「いも俵」(続々々巻所収)「と同傾向であり、つづらが自宅へもどされたと知らずにふしぎがる後半は、釜の盗難よけに、釜のなかに寝ていた豆腐屋の主人が、泥棒に釜を盗まれ、「おや、いい月だ。あっ、いけねえ、今夜は家を盗まれた」とおどろく「釜どろ」(続々々巻所収)と同種の笑いだが、なんといっても、「かかあまで質に……」というおちのばかばかしさはすばらしい。
山崎屋
古い江戸落語で、八代目桂文楽が得意にしていた「よかちょろ」は、この「上」に当たる。
「山崎屋」は、廓噺中の大物とされており、大店の物堅い旦那、道楽者ながらも、まるっきりの無分別者ではない若旦那、酸《す》いもせいも心得た番頭、お店へ忠実な鳶頭、そして、いかにも吉原のれっきとした感じのおいらんと、登場人物のすべてが個性的で、これらのひとびとが織りなすストーリーは、なかなか興趣尽きぬものがあるのだが、吉原の風俗、習慣などがわからないと理解されない部分が多いのは惜しい。
それはたとえば、吉原の異名を北国といい、ここには、遊女三千人がいたといわれ、大門のなかは、どんな客でも駕籠をおりてあるくことになっており、三分だすと、かなり高級なおいらんを買うことができ、そのおいらんには、妹分ともいうべき若い振り袖新造や、世話係り風な年輩の番頭新造がつき、また、高級なおいらんは、自楼から揚屋《あげや》(客がおいらんをよんであそぶ家)へ、のちには引手《ひきて》茶屋まで往復したが、これが、おいらん道中で、このさいは、高い木履《ぽつくり》をはき、おいらんがまわる茶屋には、相模星、武蔵屋、駿河屋などという国の名をつけたものが多かったことなどだが、さらに、「六部に天狗がついた」ということばが、超人的な健脚を意味したことも理解しないと、この落語の妙味はわからない。なお、六部とは、六十六部の略称で、これは、日本六十六ヵ国を参詣してまわるものであったことは「花見の仇討ち」の解説ですでに述べたが、つねに旅行しているのだから健脚であることはもちろんだし、これに、羽うちわで自由自在にとびまわるという天狗がつけば、その速さは、はかり知れないわけだ。
反対車
上方の「いらち車」を東京へ移入したものだといわれている。
人力車が、庶民の日常生活に密着していた明治、大正の時代的感覚が背景になっているので、笑いが多くてたのしい落語にはちがいないのだが、現代の若い観客にとっては、中途半端な古典としてうけとられることは否定できない。
そういう難点に目をつぶれば、ナンセンスものの一種として、りくつぬきでたのしめる。
将棋の殿さま
原話は、講談の「大久保彦左衛門、家光公将棋のご意見」であるらしく、上方では、「大名将棋」の別名がある。
世間知らずで、家来の難渋ぶりに気がつかぬ殿さまの横暴ぶりは、「そばの殿さま」(続巻所収)にもみられるが、「将棋の殿さま」の殿さまほどの暴君は、ほかの落語にはみられない。それだけに、口演にさいしては、やんちゃで、負けずぎらいの〈大きな坊や〉としての人物描写をしないと、殿さまの非人間的な面ばかりが目立つ後味のわるい噺になってしまう。
なお、上方の「大名将棋」では、最後に厄はらいをつけて、「笑いまひょ、笑いまひょ」というおちになる。
豆 屋
別名を「豆売り」といい、上方種の落語で、三代目柳家小さんが、東京へ移入した噺。
まくらに、いろいろの物売りの声を聞かせたりする演者もあってたのしいが、内容的には、豆屋が相手にする客が、ふたりともにおなじことばを吐きながら、その気持ちはまったくちがうという意外なストーリーであるので、小品ながら、なかなか味のある噺になっている。
長者番付
原話は、定永五年(一七七六)刊の笑話本『鳥の町』所収の「金物見世」。
かなり古くから口演されてきた上方落語で、上方では「うんつく酒」と題し、〈東の旅〉シリーズの一部とされている。この噺を、だれが、いつ、東京へ移入したか、あきらかでないが、現在、さかんに口演されている代表的な旅の落語。
旅の江戸っ子と、いなかの造り酒屋という対照的な人物のえがきわけによって、旅のムードも表現される。クライマックスは、ふたりの旅人が、「うんつく」といったところから戸口をふさがれ、大勢にとりかこまれて恐怖感につつまれるところだが、ここが盛りあがらないと、そのあとの「うんつく」の由来の説明への流れがスムーズにいかない。
のめる
別名を「二人ぐせ」といい、人間の性癖をあつかった落語としては、もっともポピュラーな噺で、おちは、本書所収のかたちが普通だが、明治末期の名人橘家円喬は、「一本歯の下駄を、あつらえられて、これから、そいつをたのみにいくんだ」「一本歯の下駄をはいたら、のめるだろう」「いまので、さしひきだ」というおちで口演していたという。
みいらとり
古くから口演されてきた江戸落語だが、これをみがいたのは、俗に初代といわれる三遊亭円馬(駒留《こまどめ》の円馬)で、この円馬に教えをうけたのが、四代目円生と三遊亭一朝で、四代目円生の芸の系統は、六代目円生へ、一朝の系統が、八代目林家正蔵につたえられた。
道楽者の若旦那を迎えにいったひとたちが、いせいのいいことをいってでかけながら、つぎつぎにとりこになるおかしさをえがき、最後に、もっとも堅物の飯たきまでがとりこになって逆に帰らないといいだすのは、「明烏」(上巻所収)とおなじ傾向のおちだが、それが、いかにも無骨《ぶこつ》ないなかものである点が傑作だ。
登場人物も多彩だが、一徹者の飯たき、たとえ道楽者でも、わが子かわいさに胸をいためる温情あふれる母親など、人間味ゆたかな人物がそろっているのはこころよい。
胆つぶし
もとは上方種だったという。
ストーリーの中心をなすのは、主人公が、恩人への義理と妹への愛情との板ばさみになって悩みながら、それでもなお義理を重んじて妹を殺そうという、封建時代の気風である上に、人間の生胆をとってくすりにしようという残酷な迷信が道具立てになっているので、いかに兄妹愛が人情噺風な薬味の役割りを果たすとはいっても、やはり前近代的な噺であることは否定できない。したがって、しだいに口演されなくなりつつあるのも当然であろう。ただ、この噺の救いは、気のきいたおちのよさにあるので、おちからみれば消えるには惜しい噺でもある。
だくだく
原話は、安永二年(一七七三)刊の笑話本『芳野山』所収の「盗人」。
上方では、「書き割り盗人」という。
泥棒をえがいた落語のなかでも、小品ではあるが、もっとものんきで、もっとも洒脱な味を持った噺で、佳き時代の、佳きひとたちの息吹きをあざやかにつたえるたのしい噺。
明治時代には、鼻の円遊が得意にしていたというが、こちらの速記は、ぼんやりした泥棒が吉原へ夢中になり、「たくさんのものはとらなくっていいから、十両ばかりの物を盗んで、今夜、吉原へいって女郎《あま》に顔をみせてやろうかなあ」というのんきな動機から書き割りの家へはいり、「大丸で現金で買っても十円ぐらいする帯があったつもり」「水道町の丸屋で三十五円も出したと思う結構な帷子《かたびら》があったつもり」などと、当時の有名な商店名いりのせりふをならべて時代色をみせている。
金玉医者
これは、古くから口演されてきた落語だが、「顔の医者」「すが目」「とんちの医者」「皺《しわ》め」などの別名がある。
なぜこんなに多くの別名があるかというと、きんをだすのは、あまりに露骨で下品だというところから、おかしな顔つきで娘を笑わせる設定になおしたところから「顔の医者」の題ができ、やぶにらみになってみせるので、「すが目」という題がついたように、むやみに改作したためだった。しかし、この落語のおもしろさは、きんをみせることを治療法にするというばかばかしいアイデアにあるので、ほかの治療法にあらためてしまったのでは、笑いの妙味が半減してしまう。
こうふい
古くからある江戸落語で、「甲府い」と、わかりやすく書くこともあり、別名を「法華豆腐」「出世豆腐」「お札まいり」などともいう。
内容的には、人情噺風のストーリーであるだけで、まことに平凡なものだが、この噺のねらいは、むしろ、「豆腐い、ごまいり、がんもどき」という売り声をきかせた地口《じぐち》(しゃれ)おちのおかしさにあるので、売り声を伏線として、よく聞かせておかないと、せっかくのポイントを逃がしてしまうおそれがある。
首ったけ
原話は、元文(一七三六〜四〇)ごろ刊の笑話本『軽口大矢数』所収の「はす池にはまったしゃれ者」だが、より現型に近くなっているのは、天明二年(一七八二)刊の笑話本『富久喜多留《ふくきたる》』所収の「逃げそこない」で、これを落語に仕立てたのは、明治時代中期に、廓噺に巧みだった四代目三遊亭円生といわれている。
女郎が自分に惚れているとおもったのが、とんでもない誤認であったところからはじまった悲喜劇だが、数ある廓噺のなかでも、もっとも廓の気分を理解することが必要な噺なので、現代としては、わかりにくい部類に属するようになった噺であり、おちも、演じようによっては後味がわるいこともあって、しだいに口演されなくなっている。おまけに、夢中で惚れこんでいる意味の〈首ったけ〉と、女郎が、水のなかで首までつかっているということをかけたおちも、現代としては、わかりにくくなってきているようだ。
喜撰小僧
上方において、古くから口演されていた「悋気《りんき》のこま」の前半を、大正時代の名手四代目古今亭志ん生が、金原亭馬生時代に改作したもの。
明治から大正初期あたりにかけての商家における主人と内儀の在りかた、主従関係、さらには、奉公人間における上下の関係などを、じつにあざやかにえがいている点において貴重な噺。
内容的には、それほど深いものではないが、女房のやきもちを気にしながら妾宅を持つ旦那の人間像、旦那に忠実につかえ、小僧をうまくあつかう妾の世故にたけたすがた、本妻の威厳のある誘導訊問ぶり、番頭のちゃっかりぶり、それらのなかを右往左往しなければならない小僧のたよりない生きかたなど、人物描写が軸となっている噺といえよう。
ねこの茶わん
原話は、滝亭鯉丈《りゆうていりじよう》の滑稽本『大山道中|栗毛《くりげの》後駿足《しりうま》』(初編文化十四年・一八一七)にあり、別名を「猫の皿」という。
これといってストーリーのない、まことに淡々とした小品だが、おちの皮肉な点においてまことに効果的だ。
なお、「猫の皿」と題して口演していた五代目古今亭志ん生は、茶店に腰をおろした道具屋が、「……おじいさん、このながめはなにかい、始終こんなにきれいなのかい? え、ああ、そうかい、そうだろうねえ……下が銀砂じゃあねえかねえ、どうも、いい水だね。え、江戸じゃあ、こんな水は飲み水だよ、ほんとだよ。ああ、いいねえ。ああ、めだかが、鼻あそろえやがって、つうーっと泳いでやがる。のんきだね、めだかってやつあ……おれもめだかになりてえくらいのもんだ。おっ、蛙がでてきて、めだかを追っかけてやがら……わるい蛙だね、ありゃあ……」と、つぶやく場面を設定して、あざやかな田園描写をみせていたのが印象的だった。
ちきり伊勢屋
原話になった小咄は、安永八年(一七七九)刊の笑話本『寿々葉羅井《すすはらい》』所収の「人相見」だが、そのほか、中国の民間説話や、わが国の講談にも似たようなはなしがある。別名を「白井左近」という。人情噺中の大物。
易者の予言から主人公の運命が、おもいもかけない方向に展開されていく有為転変の奇しき物語で、主人公が、易者から死の予言をうけるシーン、仏であるはずの主人公みずから、自分の葬式を指揮するナンセンスぶり、落ちぶれた主人公が、駕籠屋になっての滑稽、さらには、過去において命をたすけた母娘とのドラマティックな再会など、ヤマ場もいくつかあって、その起伏の多い構成は、なかなかに魅力的なものがある。
お茶汲み
上方に、「涙の茶」という小咄があり、これは、「お茶汲み」とおなじストーリーだが、おなじ上方落語「黒玉つぶし」となると、女郎が、茶を指につけて目をぬらすのをみたとなり座敷の客が、硯《すずり》の墨を茶わんにいれてすりかえるので、これを目につけた女郎の顔がまっ黒になる。客がふしぎがると、「あの、これはな、あんまり悲しさに、黒玉(瞳)をすりやぶったのじゃわいなあ」というおちになっており、その原話としては、狂言の「墨ぬり」と、これを原拠とした、安永三年(一七七四)刊の笑話本『軽口五色紙』所収の「墨塗り」とがある。
「お茶汲み」は、これらの噺をもとにしてつくられた落語であるらしいが、客と女とが、たがいに〈狐と狸の化かしあい〉よろしく、秘術をつくすという、〈あそびの巷〉の通有性を巧みにとらえた廓噺の佳編といえよう。
犬の目
別名を「目玉ちがい」といい、原話は、安永二年(一七七三)刊の笑話本『聞上手』三編所収の「眼玉」で、この落ちは、「……おかげで目はようござりますが、かわったことで、紙くずひろいを見ますると、どうもほえとうてなりませぬ」となっているが、落語「犬の目」のおちも、「うっかり表へでられない」「どうして?」「まだ鑑札が受けてない」というのがあったり、「先生、こまったことができました」「なにがこまった?」「女房とするとき、うしろからしなければなりません」とか、いろいろある。
いずれにしても、奇想天外のばかばかしさが中心になる落語なので、むずかしいりくつぬきに笑える。
片 棒
原話は、宝永二年(一七〇五)刊の笑話本『軽口あられ酒』所収の「気侭な親仁」。別名を「あかにし屋」という。
けちをあつかった落語としては、「位牌屋」(下巻所収)「味噌蔵」(続々巻所収)などいろいろあるが、ストーリーのまとまりといい、おちのすばらしさといい、「片棒」が、もっとも傑作といってよかろう。
三人のむすこたちの葬式についてのアイデアをめぐって、演者のギャグが展開されるわけだが、九代目桂文治のそれは、長男が、父親の棺桶を飛行機に乗せ、告別式場の日比谷公園では花火をあげ、飛行機のうしろから、電気じかけで、「赤螺屋吝兵衛《あかにしやけちべえ》告別式」とでると、会葬者一同が空を拝んで、「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、万歳!!」とさけぶといって、父親を激怒させたり、末弟が、中国へいくと、風葬というのがあって、やぐらをこしらえて、死骸をその上にのせておくと、鳥がきて、肉をみんな食べてしまうから、そのあとで骨を埋める方法があるといって父親をあわてさせたり、もっとも秀逸なギャグがあつめられていてたのしい。
そば清
別名を「そばの羽織」「羽織のそば」ともいい、古い江戸落語で、原話は、民間説話の大蛇伝説の一種であり、それに中国説話の薬草のはなしがくわえられたという。これと同種の落語が、上方の「蛇含草」で、このほうは、餅を食べる設定になっている。この餅を食べるストーリーの原話は、寛文十二年(一六七二)刊の笑話本『一休関東咄』所収の「大しょくばなしの事」で、演出上も、餅を食べるしぐさがたいへん派手であることは、「そば清」の比ではない。
それが、大阪のねばっこい、ねっとりした味なのか、「そば清」と「蛇含草」がそうであるように、東京の「疝気《せんき》の虫」(続巻所収)が、疝気の虫の好物が、そばであるのに対して、大阪のそれは、あんころ餅であることは、両都市の性格の相違がうかがわれてほほえましい。
なお、この落語のおちは、「障子をあけると、そばが羽織を着ておりました」というだけの、しゃれた〈かんがえおち〉なのだが、これだけでは、だんだんわからなくなりつつあるので、本書所収のそれのように、蛇足的な説明をくわえるようになった。
茗荷宿屋
原話は、安永二年(一七七三)刊の笑話本『聞上手』二編所収の「茗荷」で、別名を「茗荷屋」「茗荷宿」ともいう。
客にわすれものをさせようとして、あべこべに宿屋のほうが宿泊料をとるのをわすれるという逆の結果におわる皮肉な佳編だが、茗荷を食べると、ものわすれをするという俗信が通用しにくくなった現代においては、しだいに口演されなくなっている噺だ。
なお、三代目小さん、四代目小さん、二代目談洲楼燕枝などは、宿屋の名前を茗荷屋として、それにちなんで茗荷を客の食膳に供するという設定にしているが、名人橘家円喬だけは、宿屋の名前をださず、たんなるおもいつきで茗荷をだすストーリーにしていた。
穴どろ
原話は、嘉永(一八四八〜五三)ごろに刊行された笑話本『今年はなし』所収の「どろ棒」で、別名を「穴庫の泥棒」という。
歳末をあつかう噺も数多いが、金の工面ができず、女房にののしられて、あてどなくさまよううちに、つい出来心から盗みをはたらこうとする小心な主人公は、ほかの歳末噺にみられないほどにあわれだ。それだけに、ひとのいい主人公が、赤ん坊をあやしているうちに、穴蔵のなかへ落ちてしまう子煩悩ぶり、穴蔵のなかと上とのやりとりにおけるやけくそのたんかなどは、歳末のぺーソスにつつまれて胸せまるものがある。とかくナンセンス物の多い泥棒噺のなかでは、異色の佳編といってよかろう。
なお、明治時代の人気者、鼻の円遊の速記をみると、金の工面ができないままにさまよいあるく男をえがくのに、「両国橋の欄干《らんかん》によりかかって、河蒸気のはしるのをみおろして、『あの河蒸気にのりこんだ人たちから五厘ずつもらったら、いくらになるだろうな』、回向院《えこういん》の墓場へゆき、鼠小僧の墓石をぶっかいてみたり、相撲の場所の土俵の上へあがってひっくりかえってみたり、本所の五百羅漢を勘定してみたり、百本|杭《ぐい》の釣りをみて、釣り人の弁当箱をふみこわして、けんつくをくったり、廏橋の欄干を勘定して、吾妻橋の鉄の柱をかぞえて、奥山の十二階も銭がないのでのぼれず、観音さまのお堂の縁の下へはいろうとしたが、鉄網が張ってあるのではいりこむことができず、公園を運動して、溝をとびそこない、向う脛をすりこわしたり、吉原の五階をながめたり、『五階をみても、おかゆも食えねえ』とつまらんことをかんがえながら、上野公園のブランコでゆすぶられてみたりしても、金を借りにゆくあてもありません」と、みごとに明治の東京風物詩をうたいあげ、主人公のやるせない心境を、ブランコでさびしくゆれるという場景によって、あざやかに浮き彫りにしていた。
いいわけ座頭
三代目柳家小さんの作といわれる歳末噺で、おちは、おなじ歳末噺の「にらみかえし」と同様だが、ストーリーの運びは、無言のうちに、借金とりをにらみかえす「にらみかえし」に対して、「いいわけ座頭」のほうは、座頭が、弁舌さわやかに借金とりを撃退する点が異なる。
万事が現金買いの現代とちがって、ほとんどが、帳面による掛け買いであった往年の、冬のさむさと、歳末のあわただしさを背景とした庶民的悲喜劇の世界が、みごとにえがかれた佳編。
≪上方篇≫
仏師屋盗人
以前は、東京でも「にかわ泥」と題して口演されたこともあったらしいが、現在では、東京はもちろんのこと、上方でもあまり口演されることのなくなった噺。
内容的にみると、加害者たるべき泥棒が、いつのまにか、仏師屋の仕事の手つだいをさせられるという被害者的な立ち場に立たされるおかしさを軸としている点において、東京落語の「夏どろ」(続々巻所収)「転宅」(下巻所収)などと同傾向の泥棒噺といえる。
でんがく食い
現在は、上方でも東京でも「寄り合い酒」という題で呼ばれているが、「んまわし」という別名もある。
江戸時代から、明治、大正時代あたりにおける庶民の日常生活における遊興ぶりの一側面をえがいた軽くたのしい噺で、現在では、口演時間の関係もあって、いろいろと食べものをあつめてきたところあたりで切ってしまうが、この「でんがく食い」の原話は、かなり古いもので、元和(一六一五〜二三)活字本の『戯言養気集』(上)所収の「うたの事」や、寛永五年成立の笑話本『醒睡笑』所収の「児《ちご》の噂《うわさ》」などにすでにみえている。
本来のおちは、矢を射て、当たると、太鼓がピンというのをくりかえして、たくさん食う男がいるので、「そないにぎょうさんやったら、焼く間があらへん」「ほな、焼かず(矢)で食う」というのだが、本書では、もっとわかりやすくておもしろい、初代春団治のおちを借用した。
吹き替えむすこ
原話は、延享(一七四七)刊の笑話本『軽口花咲顔』所収の「物まねと入れ替り」。別名を「作生《さくなま》」というが、これは、たとえば、明治二十四年二月刊の落語、講談速記雑誌「百千鳥」所載の曽呂利新左衛門の口演がそうであるように、若旦那の名が作次郎であり、これと、楽屋用語で、にやけたやつ、道楽者などの意味を持つ〈なまたれ〉とをいっしょにしたものだった。これが、東京に移入されて「干物箱《ひものばこ》」の題名で口演されている。
道楽むすこが、親にかくれてあそびにいくストーリーはよくあるが、声色を道具立てにつかったアイデアはおもしろい。
なお、これを改作したという明治の東京落語界の人気者鼻の円遊は、父親が、「声色じゃねえ、おれの顔をみろ!」と怒ると、「どうだい! 声色ばかりかとおもったら、おやじの顔までそっくりだ」という、円遊らしいナンセンスなおちをつくっていた。
猿後家
原話は、安永七年(一七七八)刊の笑話本『乗合船』所収の「物忌《ものいみ》」で、東京では、「お猿旦那」の別名でやる場合もある。
人間の偏執的な性癖を戯画化した噺で、なかなかおもしろいが、「なに、わたしを小野の小町か、照手の姫に似ているというのかえ?」「ま、ま、まだござります。唐土《もろこし》では、玄、玄宗皇帝のおもいもの」「ふーん、わたしが?」「へえ……よう、狒狒《ひひ》に似てござります」という本来のおちが、〈楊貴妃〉と〈よう狒狒に……〉とをかけた地口おちであることが理解されなくなってきたために、明治時代の人気者曽呂利新左衛門や三代目林家染丸などは、東京とおなじく、「木から落ちたねこ」という落ちで口演していた。
猫の災難
原話は、宝永五年(一七〇八)刊の笑話本『かす市頓作』所収の「猫の番」、および、安永二年(一七七三)刊の笑話本『聞上手』所収の「初鰹《はつがつお》」。
庶民の日常生活における〈いたずら〉を中心にしたストーリーで、さして深味はないが、うそが、つぎつぎに大きなうそを生んでゆく過程がおもしろい。
俗にいう初代桂春団治の速記をみると、「猫が、もう、ぱあと電車に乗って行《い》てしもうたんや」とか、猫が「余興やるのに、どうも酒がないと発散せん」と、酒を借りにきたとか、猫が、電車の往復切符を買って、往き帰りに寄ったとか、ばかばかしいくすぐりがたくさんあってたのしい。
なお、これを、三代目柳家小さんが東京へ移入したらしく、また、「この野郎、どうもようすがおかしいとおもったんだ。おめえんとこにあるような鯛《てえ》じゃあねえとおもったよ。おめえ、となりのねこのおあまりもらったってえじゃあねえか」「どうもそうらしい」「なにがそうらしいんでえ。こんちくしょう……おめえ、おれを、となりへつれてってどうしようってんだ」「だから、となりへいって、よくねこにわびをしてくんねえ」というおちにあらためたのは、三代目か、四代目か、いずれかの小さんであったという。
誉田屋《ほんだや》
別名を「紺田屋」「新粉屋新兵衛」ともいい、先代桂小南が、「黒木屋」と題して東京へ移入している。
上方人情噺中の大物で、墓をあばいたところで娘がよみがえるという猟奇的シーンをヤマ場にした起伏のあるストーリーだが、シラミの異名を観音さまということがわすれられつつある現在、おちをわからせるために、その説明をしておくことが必要になっている噺。
○編著者 |興津 要《おきつ かなめ》
一九二四年栃木県生まれ。早稲田大学国文科卒。早稲田大学教授。日本近世文学、ことに江戸戯作を専攻。一九九九年没。著書、「転換期の文学――江戸から明治へ」「明治開化期文学の研究」「新聞雑誌発生事情」「小咄 江戸の一年」「江戸庶民の風俗と人情」「江戸小咄漫歩」ほか多数。
*
本書収録の作品の一部に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、古典落語という作品の性質上、一応そのままとしました。ご了承ください。