古典落語 下 興津 要 編
目 次
御慶《ぎよけい》
寿限無《じゆげむ》
そこつの使者
転宅《てんたく》
三枚起請《まいきしよう》
やかん
崇徳院《すとくいん》
位牌屋《いはいや》
夢の酒
天 災
大山まいり
権助芝居
つるつる
代脈《だいみやく》
野ざらし
青菜
船徳
道灌《どうかん》
庖丁
不動坊《ふどうぼう》
近日むすこ
お七
松山鏡
錦《にしき》の袈裟《けさ》
らくだ
松竹梅
首屋《くびや》
尻餅《しりもち》
がまの油
子別れ
解説
落語と日本文学
御慶《ぎよけい》
ただいまでは、宝くじが流行しておりますが、むかしも、富くじというものが、たいへんにさかんでございました。
一分《いちぶ》で富札が一枚ということでございますが、一分という金を、一文銭になおしますと、一千文になります。文化・文政と申しますから、江戸時代後半ごろの、江戸の職人の一日の手間賃が、約三百文から五百文ぐらいだったと申しますから、一分は、たいへんな金だったわけでございます。しかし、これで、一番富の千両にあたれば、それはもうたいへんなものでございました。なにしろ、一分金が四つで一両、その千倍というんですから、ふつうの人間は、生涯かかっても、とうてい手にいれることはできなかったわけで……それでも、そのころの川柳に、「一の富どっかの者が取りは取り」なんてんで、だれかにあたるにはちがいありませんから、われこそはなんて連中が、これに夢中になって、すっかり財産をなくして、首をくくったなんという――「富札のひきさいてある首くくり」という川柳もあるくらいで……ですから、富くじのために、夫婦喧嘩の絶えないなんていう家がいくらもございました。
「どうするんだい、おまえさん、あきれかえっちまうねえ。暮れの二十八日だというのに、仕事もしないで、ぶらぶらしていて、やれ、ゆうべこんな夢をみたからどうだとか、そんなことばかりいってて……あんまりばかばかしいじゃあないか」
「なにいってやがる。べらぼうめ、仕事をしねえったってな、富というものは、ひとつあたりゃあ、一夜のうちに大金持ちになれるんだ。だからよう、さっきもいった通り、おらあ、いい夢をみたんだからよ、こんどはまちげえなくあたるんだから、なんとか一分だけ都合《つごう》してくれよ」
「だめだよ。一文だって都合なんかできるもんかい。富だ、富だ、こんないい夢みたなんて、ばかばかしいにもほどがあるよ。そんなに富がよかったら、富と夫婦になったらいいだろう。あたしを離縁しておくれ!」
「くだらねえことをいってねえで、なあ、いい夢で、まちげえねえんだからよ、なんとかしてくれよ」
「だめだよ」
「だめったって、おめえ、ちょいと気のきいたはんてん着てるじゃあねえか。それで、質屋の番頭に談じこんで、一分こしらえるんだから……」
「こんなもので、一分なんか貸すもんかい」
「貸すよ。おれが借りてみせらあ」
「いけないよ。これを持っていかれちゃあ、正月に着てるものがないんだから……いけないよ。いけないったら……」
「いいから脱《ぬ》げよ、こんちくしょう、脱がねえと、はりたおすぞ」
おかみさんがいやがるのを、八五郎は、腕ずくで脱がせて、これを持って質屋へくると、番頭から無理に一分借りて、湯島天神へとんでまいりました。
「ゆうべの夢がたいへんによかった。あの夢の通りにいきゃあうめえんだが……おや、大道易者がでてるな。こいつあ、しろうとよりもじょうずだろう、縁起もんだ。ひとつみてもらおう……おい、占《うらね》えのじいさん」
「ああ、なにをみるな、縁談、金談、失《う》せ物、はしりびと……」
「そんなんじゃあねえんだ。ゆうべ夢をみたんだ。ひとつ判断してくれ」
「おお、夢判断か。それならば、わしのもっとも得意とするところだ。さあ、さあ、だまって坐れば、ぴたりとあたる。だまって、お坐り」
「へーえ、だまって坐れば、おれのみた夢がわかるのかい?」
「まあ、一応はどんな夢かはなしてごらん。そのあとは、だまっていなさい」
「じゃあ、やっぱりしゃべるんじゃあねえか。じつはね、はしごの上に鶴がとまってる夢をみたんだ。なあ、いい夢じゃあねえか。はしごだから、八百四十五番、鶴は千年というから、鶴の千八百四十五番という札を買《か》やあ、千両にあたるじゃあねえか。なあ、そうだろう?」
「ああ、夢判断というから、なにかとおもったら、富に凝《こ》っていなさるのか。およし、およし。そりゃあ、なかなかあたるもんじゃあない。あたしが請けあう。およしなさい」
「あれっ、この野郎、つまんねえことを請けあうない。千両あたらねえと、おれんとこじゃあ、女房ともども首くくりになっちまうんだ……おい、なんとかしてくれよ」
「おや、急に涙ぐんだな。よほどおもいつめたとみえる……よろしい。みて進ぜよう。なるほど、はしごの上に鶴がとまったので、八百四十五、それに、鶴が千年だから、鶴の千八百四十五番を買うというんだな」
「ああ」
「なるほど、これは、しろうとのかんがえそうなことだなあ」
「なんだ? そのしろうとてえなあ」
「じゃあ、おまえさんに聞くが、はしごというものは、のぼるのに必要なものか、おりるのに必要なものか、どちらじゃな?」
「なにをおさまりけえってるんだ。どちらじゃなだってやがらあ……つまらねえことをいうない。のぼったり、おりたりするじゃあねえか」
「それにはちがいないが、まあ、たとえば、あなたが、かりに二階にいたとする」
「じまんじゃねえが、おれんとこは平屋《ひらや》だ。二階なんぞあるもんか」
「いや、いばらんでもよろしい。まあ、かりに二階があったとして、下に急用ができて、おりようというときに、下からはしごをとられたら、おまえさん、どうなさる?」
「なにいってやんでえ。おらあ、身が軽いんだ。ひょいととびおりらあ」
「なるほど、とびおりるか。では、二階に急用があってあがろうとするときに、上からはしごをひかれたらどうする?」
「おらあ、身が軽いんだ。ひょいと……うーん、とびあがるほうは無理だなあ」
「してみると、はしごというものは、のぼるにも、おりるにもつかうものだが、のぼるほうがかんじんだ」
「うーん」
「鶴の千まではよろしいが、上から八百四十五番はまずいな。下から五百四十八番とあがらなくちゃあいけない。鶴の千五百四十八番、これを買わなきゃああたらないな」
「なるほど、なるほど、顔《つら》はまずいが、うめえことをいう」
「これは、ごあいさつだな」
「いや、さすがは商売人、餅は餅屋だ。ありがとうよ。さようなら……」
「もしもし、おまえさん、見料《けんりよう》をおいていかないではこまる」
「ぐずぐずいいなさんな。ここで見料をおいた日にゃあ、札が買えねえじゃあねえか。あたったら、おめえに、いくらでもけえしてやるからな。あばよ……さあ、これで千両富まちげえなしだ……はやく、札を買わなくっちゃあ……おう、札をもらいてえ」
「ああ、いらっしゃいまし。札を……で、番号に、なにかおのぞみはございますか?」
「おおあり名古屋は金のしゃちほこよ。あなた、はしごをご存知かてえんだ」
「おや、ようすがおかしいな……あなた、目が血走《ちばし》っていますが、大丈夫ですか?」
「なにいってやんでえ。はしごは、上へあがるものか、下へおりるものか、ご存知かてえんだ」
「こりゃあこまった。いよいよおかしいや、だれか受け付けかわってください」
「なにをいってやんでえ。人を気ちげえあつかいにしゃあがって……いいか、おらあ、鶴がはしごの上にとまってる夢をみたんだ。ところが、はしごは、下から上へあがっていくときがかんじんだ。で、鶴は千年だから、鶴の千ときたら、はしごを下から五百四十八番で、鶴の千五百四十八番じゃあねえか。どうだ、あるか? その番号」
「はいはい、お待ちくださいまし。おはなしわかりました。鶴の千五百四十八番でございますね、ただいましらべますから……ああ、ございました。ございました」
「えっ、ある? ちくしょうめ、もうこっちのもんだぞ。それ、それ、それをくんねえ」
「じゃあ、これが、その番号で……」
「おう、一分、ここへおくぜ……ありがてえ、ありがてえ。こりゃあ、おめえ、千両だよ。千両にあたるんだよ」
「あたるとよろしゅうございますなあ」
「なにいってやんでえ。あたるにきまってるじゃあねえか。あたったって、てめえなんぞにやらねえぞ」
「そんなことは、どうでもようございますが、あなた、はやく境内《けいだい》へおまわりください。もう突きはじめますから……」
「ああ、いくとも、いくとも、いって、千両あててくらあ……ああ、ありがてえ、ありがてえ」
境内にはいってくると、もう一ぱいの人でございまして、朝から般若心経《はんにやしんぎよう》をあげております。寺社奉行からは、係りの者がふたり出張し、町役人、そのほかの世話人なども、麻がみしもでひかえております。般若心経の読経《どきよう》がおわりますと、正面におかれてあります富札のはいった四角の箱を、役人、世話人、立ちあいの上で、ガラン、ガラン、ガランとゆりうごかし、なかの札をていねいにかきまぜます。長いきりを持った小坊主がでてきて、まんなかの穴へうまくきりをうちこみます。きりのさきへ札がついてるまま、手をつけないで場内へみせまして、わきから、また小坊主などが読みあげます。子どもの声というものは、甲高《かんだか》くひびきますので、子どもがこれを読みあげました。口富《くちどみ》、中富《なかどみ》と順に突いてまいります。そのたびに、場内はわれっかえるようなさわぎですが、いよいよ本日の突きどめとなると、千両富ですからたいへんで、「突きまーす」とくると、場内は、たちまち水を打ったように、しいーんとなります。この番号を聞きもらしてはたいへんだというので、咳《せき》ばらいひとつする者はございません。やがて、突きあげた札を読みあげます。
「鶴の……千五百四十八番……鶴の千五百四十八番……」
これが耳へはいったからたまりません。八五郎、へたへたと坐りこんでしまいました。
「ああ、ああ、あー……たった……たった……たった」
「なんだ、なんだ、おかしな野郎だな。立った、立ったって、坐っちまったじゃあねえか。どうしたい?」
「たった、たった……」
「まだやってやがら……えっ、なに? あたった? おめえが? 千両に? ……へーえ、なんて運のいい野郎なんだ。ちくしょうめ、ほんとうにあたったのかい? はやく金をもらってこいよ……あれっ、腰をぬかしちまって、立てねえんだな。おーい、みんな手を貸してくれ! こいつをかついでってやろうじゃあねえか。ほーれ、えっさ、えっさ、えっさ」
みんなおもしろ半分にかついでまいりましたが、なかには、くやしいからってんで、八五郎の尻をつねったりして……帳場のようなものができておりますところへ、八五郎をおろしました。
「どうなさいました?」
「いまね、この人が、千両あたったんで腰がぬけちまったから、みんなでかついできてやったんだ」
「そりゃあ、どうも、ご親切にありがとうございます。どうもお世話さまでございました。さあ、さあ、あなた、どうぞこちらへ……」
「千両、千両……あた、あた、あたた」
「あなた、しっかりなさいよ……まあ、無理もございませんが……さあ、札をこちらへ……」
「ふ、ふ、札は、これだ」
「ああ、たしかにあたっております。どうもおめでとうございます」
「はやくくれよ、千両、千両……」
「まあ、おちついて、おちついて……おい、このかたに、水を持ってきておあげ……さあ、あなた、まず、この水をお飲みになって、ぐっとお飲みになれば、気がおちつきますから……どうです? すこしはおちつきましたか? まあ、とにかくよかった。いや、なかには、千両あたったとたんに気がちがうなんて人がおりますからな……で、おちついたところでおはなしいたします。ご承知でもございましょうが、いますぐにお金をおうけとりになると、二割のご損になります。来年の二月の末におとりになれば、千両そっくりおわたしいたします」
「じょ、じょうだんじゃあねえ。来年二月なんて、そんなのんびりしたことをいっていられるもんか。この金を持って帰らなけりゃあ、うちじゃあ離縁さわぎがおこってるんだ。……いま、もらってくよ。すぐに……」
「では、さきほど申しあげましたように、二割びけということになりますが……」
「な、なんだと……二割びけ? そんないかさまがあるもんか」
「いえ、これは、きまりになっておりますんで……」
「ど、どういうことになるんだい?」
「千両の二割びけでございますから、八百両おわたしすることになりますな」
「は、は、八百両? 八百両てえなあ、千両より多いのか?」
「勘定がわからなくなっちゃあこまりますな。千両から二百両ひけますから、それで八百両でございます。よろしゅうございますか?」
「い、い、いいよ、いいよ。その、八百両くれよ、くれよ。もらってくから……」
「ええ、ただいま、さしあげます……さあ、これが八百両でございますが、なかなかかさばるものでございますよ。一|包《つつ》みが一分金百枚で、二十五両になっておりますから、三十二個ございますが、どうやってお持ちになります?」
「うへー、これが、みんなおれの金かい? うーん……どうやって持ってくったって、こうやって、両方のたもとへいれて、ふところへいれて、背なかへもしょって……うわーい、からだじゅう金になっちまった。ありがてえな、どうも……じゃあ、もう帰っていいんだな」
「ええ、どうぞお帰りください。途中でお金をおとさないように、十分にお気をつけて……」
「だれがおとすもんかい。自分をおとしたって、金なんかおとすもんか……あーあ、なんだか知らねえが、足が地につかねえってえなあこのことだなあ……おーい、おっかあ、いま帰った」
「あーら、やだよ。なんてえ顔してんだい。あら、あら、どうしたの? そんなとこへ坐っちまって……」
「ああ、うちへ着いたら、いっぺんに安心しちまった。あとをよくしめろよ。あとをしめろってんだ。心張《しんば》りよくかって……だれもいねえだろうな。もしいたら、そいつあ、泥棒だから気をつけろよ」
「あーら、いやだよ。とうとう気がちがっちゃったね。ちょいと、おまえさん、しっかりしとくれよ……あっ、そうか、暮れだっていうのに、また一分なくしちまったんで、それで、おかしくなっちゃったんだね。もう、あたしゃあ、愛想《あいそ》がつきたから離縁しとくれ。さあ、離縁して……」
「なにいってやんでえ。そんなに離縁してほしけりゃあ、離縁でもなんでもしてやるけど、その前に、これをみておどろくな。それっ……切り餅だ。切り餅ったって餅じゃあねえぞ。みろ、みろ、一分金百枚、二十五両で一包みだ。いいか、二つで五十両で、三つで……なんだかわからねえけど、ほうぼうにいれてきたんだ。それ、それ、それ……」
「あーら、どうしたんだい? えっ、あたったの? 千両富に? せ、せ、千両に、あた、あた、あたた、あたた……」
「おう、しっかりしろ、しっかりしろ。無理もねえや。おれだって腰がぬけたんだから……そうだ。水飲め、水飲め、水飲めば、しっかりするからな……どうだ。大丈夫か? 千両あたったんだぞ」
「あーら、うれしいじゃないか。だから、あたしゃあ、おまえに富をお買いっていったんだ」
「ふざけるなっ、てめえ、富買うんなら、離縁してくれっていやあがったくせに……」
「そりゃあ、まあ、こまるからいったんだけど……まあ、ほんとうかい、八百両? ……うれしいねえ……あたしだって、こんなぼろを着てるのはいやだよ。春着の一枚もほしいねえ」
「ああ、つくれ、つくれ。どんな着物だってつくれらあ。どうせつくるんなら、近所の連中が、だれも着てねえようなのをこさえろよ。十二ひとえに緋《ひ》の袴《はかま》かなんか……」
「それじゃあ、気ちがいみたいだよ……それから、あのおみっつあんがやってんだけどねえ、珊瑚珠《さんごじゆ》の三分|珠《だま》かねえ、あんな、あたまのもんもほしいねえ」
「ああ、いいとも、いいとも、三分珠だなんて、そんなしみったれたことをいうない。一尺珠ぐれえのをこしらえろ」
「そんな大きなのは、ありゃあしないけど……それに、おまえさんだって、春着をこしらえなくっちゃあいけないよ」
「そうだったなあ。そうだけれども、いつも、印《しるし》ばんてんを着て、旦那のお供《とも》で年始まわりをしてるなあ気がきかねえや。来年は、おれが、旦那とおんなじような扮装《なり》をしていきてえなあ」
「裃《かみしも》つけてかい?」
「なんだか知らねえが、あの、突っぱった、おかしなものを着て、袴をはいてな」
「裃っていえば、袴をはくっていわなくったっていいんだよ」
「そうか。なんでもかまわねえ。そいつをあつらえてくれ」
「あつらえるったって、もう間にあわないから、市ヶ谷に、甘酒屋という古着屋がある。そこへいけば、すっかりそろっちまうんだから、そこへいって買っておいでよ」
「そいつあありがてえ」
「それからねえ、裃つけたら、やっぱりお太刀《たち》をささないと、かっこうがつかないよ。あの近所に刀屋があるだろうから、ついでに買っておいでな」
「よし、そういうことにしよう……じゃあ、ちょいといってくらあ」
「それからねえ、甘酒屋へいく前に、大家さんとこへ寄ってっておくれよ。店賃《たなちん》がずいぶんとどこおってるんだからねえ」
「ああいいとも……店賃なんざあ、むこう十年ぐれえ前ばらいしてやるから……」
「なにもそんなにするこたあないけどさ、とにかく寄っとくれよ」
「ああ、わかったよ。大家にはらうっていやあ、おらあ、うれしまぎれに、易者に金をはらってやるのをわすれちまった。わりいことをしたなあ。まあ、いいや、こんどいってはらってやるから……なにしろ、おれがでかけちまったら、おめえひとりなんだから、泥棒にでもへえられるといけねえ。うちをしめて、心張り棒をよくかって用心するんだぞ」
「なにをいってんだよ。昼間だから心配するこたあないよ……じゃあ、いっといで」
「うん、いってくらあ……えへへへ、ありがてえな、どうも……大家さん、大家さーん」
「なんだ、八公か。まあ、こっちへへえんな。どうした? 店賃のいいわけか?」
「あれっ、おれのつらあみさえすりゃあ、店賃のいいわけだとおもってらあ。だれがいいわけなんぞするもんかい。店賃はいくつたまってるんだい?」
「わすれるほどためてるやつもねえもんだ。八《やつ》つもたまってらあ」
「八つ? そりゃあ、末ひろがりでめでてえや」
「なにがめでてえことがあるもんか。八つもためやがって……」
「へっへっへっ……これでとっといてくんねえ」
「おやっ、この野郎、切り餅なんぞだしゃあがったな。やい、八公、おめえ、この暮れにきて、せっぱつまってわりいことを……」
「おうおう、大家さん、じょうだんいっちゃあ……じょうだんいっちゃあいけねえや。この金は、富にあたったんだ。千両富に……二割びけの、八百両だ。八百両だよ、大家さん」
「えっ、富にあたった? おめえがか? ……へーえ、おめえが富に夢中で、うちがもめてるってえこたあ聞いていたが、あたったのか、千両富に? へーえ、千両に……」
「まあ、おちついて、おちついて、さあ、水を飲めば気がおちつくから……」
「なにいってるんだ。おちついてるよ。まあ、千両富だって、だれかにゃああたるわけだが……へーえ、おめえにあたったのかい。おめえは、なんて運がいいんだい」
「まあ、そういうわけなんだから、安心してとっといてくんねえ。じゃあ、封を切るからね……そーれ、一分金で百枚はいってらあ。どうか、まあ、とっといてくんねえ」
「そうか。そりゃあ、どうもありがとう……よしよし、これだけもらやあ、店賃のところは相すみだ。あとは、そっちへしまっといてくれ」
「いいよ。遠慮しねえで、もっととっておきねえな」
「いいんだ、いいんだ。金ってえもなあ、大事につかわなくっちゃあいけねえ。むだづかいすりゃあ、すぐになくなっちまうぞ」
「そうかい。そういわれてみりゃあ、まあそんなもんだ。それじゃあ、おばあさん、これ、正月の小づけえだ。すくねえけど、とっといてくんねえ」
「おいおい、気をつかわなくってもいいんだよ……そうかい、じゃあ、ばあさんや、八公の身祝いだ。もらっときなよ」
「まあ、八つあん、おめでとう……あらっ、二分もくれるのかい? すまないねえ」
「なーに、おばあさんにもずいぶん厄介になってるからなあ……じゃあ、大家さん、あとの金は、こっちへしまうから……じゃあ、大家さん、おらあ、これから甘酒屋ってうちへいくから……」
「甘酒屋?」
「いえね、おらあ、正月にね、あの、ほら……えーと……裃ってえやつをつけて年始まわりをしようとおもって……」
「ああ、それで甘酒屋へいくのか。あすこへいきゃあ、みんなそろうからなあ。まあ、りっぱに年始をやってくれ」
「じゃあ、これからいってきますから……」
「ああ、いってこい、いってこい。帰りにまた寄んな。なんかうめえ茶菓子でも買っとくから……」
「どうもすいません。いってきます」
「おうおう、番頭さん」
「いらっしゃいまし。まあ、どうぞ、おかけくださいまし……ええ、なにをさしあげます? 印ばんてん、長ばんてんのようなもので?」
「なにをいやあがるんだ。ばかにするな。こんな長ばんてんのきたねえのを着ているが、ふところにゃあ、金がありすぎて、からだが冷えてこまってるんだ。どうだ、裃ってえやつを知ってるか?」
「へえ?」
「いや、ちょいとわけありで、銭はあるんだが、正月には景気よく、裃を着て年始まわりをしてえんだ」
「へえ、あなたが裃をお召《め》しに? ……ああ、さようでございますか?」
「ああ、そうなんだ。着物から、帯から、裃から、のこらずそろえてくれ。刀もな」
「刀は、てまえどもにはございません。刀屋は、このさきの牛込に、二軒ばかりございますが……」
「そうか。じゃあ、着物を、おめえのところでのこらずな」
「へえ、それは、のこらずそろえます。で、ご紋はなんで?」
「え?」
「ご紋はなんでございます?」
「ああ、紋か、紋はな……おれんとこの紋は、ほれ、なんとかいうやつだ。あのう、まるいところへなによ……」
「たいがい、まるとか、菱形《ひしがた》とか、いろいろございますが、まるになんでございます?」
「うん、それ、まるのなかで、なんだか尻が三つかたまったようなものだ」
「ああ、かたばみでございますか。かたばみは、剣がございましょうか?」
「なんだかわからねえ。まあ、いいかげんなやつを、ひとつみつくろってくれ」
「へえへえ、よろしゅうございます……ええ、お裃も、いろいろとございますが、これはいかがで……」
「まあ、なんでもいいから、おれにあいそうなやつを、すっかりそろえてくんねえ……それから、チャラチャラいう、うん、雪駄《せつた》よ、あれと足袋《たび》を一足買いにやってくれ」
「へえへえ……では、これとこれとで……」
「よしよし、それでいくらだ? ……ふーん、そいつあ、あんまり安すぎるな。遠慮なくとんなよ」
「いえ、てまえどもは、おまけもいたしませんかわりには、けっしてお掛け値もいたしません」
「そうかい。しかし、そんなに安くっちゃあ気の毒だな。じゃあ、ここにおくぜ……お、小僧さん、骨を折らしたな。こりゃあ正月の小づけえだ。おめえ、とっときねえ」
「そりゃあどうも、あいすみません……どうぞ、よいお年をおむかえになりますように……どうもありがとうございました」
「こんちわ」
「いらっしゃいまし。小僧、お茶を持ってきな。どうぞ、旦那、こちらへ……」
「旦那というほどのもんじゃあねえが、ちょいともうかったもんだから、銭金《ぜにかね》に糸目はつけねえ。なんでもいい刀をみせてくんねえ」
「はあ、さようで、ええ、なにか作《さく》にお好《この》みでもございますか? また、おこしらえそのほか……」
「まあ、なるたけりっぱそうなやつをたのまあ」
「へえ、これなぞは、いかがでございましょうか。朱鞘《しゆざや》になっておりまして……ちょっとごらんになって……」
「じゃあ、みせてもらおうか……うーん、どうもぴかぴか光ってて斬れそうだなあ。これはいくらなんだい?」
「ええ、二百両でおねがいいたしております」
「へーえ、そんなに高《たけ》えのか。それじゃあ、ちっとよすぎる。もうすこし安いのをみせてくれ」
「こちらは、新刀でございまして、七十五両ということに……」
「うーん、ちっと高えな。なにも人を斬るわけじゃあねえ。上《うわ》っ皮だけ、ちょいとりっぱにみえればいいんだ」
「へえ、それでは、こちらはいかがでございましょう。これは、こしらえごと五両でございます」
「うん、こいつあいいや。じゃあ、これをもらっとこう。五両だな、ここへおくよ。ああ、これでそろった。ありがてえ、ありがてえ」
「おう、おっかあ、いま帰った」
「あら、お帰り。みんなそろったかい? ああ、そりゃあよかったねえ」
「おうおう、おらあ、すぐに着てみてえんだが、手つだってくれ」
「着るのかい? じゃあ、あたしが手つだうから……さあ、さあ、着物を着たら、裃だよ」
「うふふふ、どうも……変な心持ちだなあ、こんなふうに突っぱらかっちゃって……刀は、ここへ、こうさしゃあいいのか?」
「あら、ちょいと、おまえさん、みちがえるようだよ。馬子《まご》にも衣裳《いしよう》だねえ」
「なにいってやんでえ。あははは、なんだかしゃっちょこばっちゃったなあ。おう、おっかあ、おらあ、正月までずーっとこのままのかっこうでいるからな」
「なにいってんだよ。きょうは、まだ二十八日だよ。また、あたしが手つだって着せてあげるから、まあお脱ぎなさいよ」
これから、正月の用意で……餅屋は餅を持ってくる。酒屋は、こもっかぶりをとどけにくる。大《おお》晦日《みそか》になると、もう大さわぎで……
「ねえ、おまえさん、ちょいと寝たらどうなんだい? そうやって、そわそわしてないで……」
「なにいってやんでえ。大晦日の晩に寝るやつあばかだっていうじゃあねえか。おらあ、寝ねえぞ。そんなことより、ちょいと手つだってくれ。おれ、着るんだからよ」
「あら、いまっから着るのかい?」
「ああ、着たくってしょうがねえんだ。着せてくれよ……ああ、ありがとう、ありがとう。さあさあ、刀だ、刀だ。うん、これですっかりできた。はやく夜があけねえかなあ。元日にならねえかなあ。正月になりさえすりゃあこっちのもんなんだが……はやくこねえかなあ」
八五郎が待ちかねているうちに、東のほうが白んでまいりまして、コケコッコーの声……
「うわーい、正月だ、正月だ。さあさあ、ありがてえ、ありがてえ……おっかあ、年始まわりをはじめるぜ。どっからいこうかな」
「大家さんとこからおはじめよ」
「うん、そうしよう。いってくるぜ……おう、大家さん、おはようござい」
「やあ、ばかにはやいな。おめでとう。いや、りっぱになったな。まあ、そういうこしらえをしたんだから、突き袖てえのをしなよ」
「突き袖?」
「ああ、両方のたもとへこう手をいれてな、左のほうのたもとは、お太刀の上へ軽くのせるんだ……そうそう、それでいい。そういうかっこうで扇子《せんす》がないのはおかしいな。おい、ばあさんや、白扇を持ってきな……うん、さあ、八公、この白扇は、おまえにやるから、これを前のところへさして……そうだ、そうだ。あははは、すっかりりっぱになった」
「えへへへへへ、なんだか芝居やってるようだなあ。じゃあ、あらためて、おめでとうござんす」
「ああ、おめでとう……おめでとうはいいが、裃すがたでおめでとうござんすてえのはおかしいな。たいがい扮装《なり》相当のことばてえものがあるもんだから……」
「そういうもんかねえ。なんといえばいいんで?」
「そうさなあ……あけましておめでとうございます。旧年中は、なにかとお世話さまになりまして、ありがとう存じます。本年も相かわらずおひきたてのほどをおねがいいたします……商人《あきんど》でも、職人でも、それだけのことをいやあ十分《じゆうぶん》だ」
「じょうだんじゃねえ。そんな長ったらしいことがいえるもんかい。もっと短くって、気のきいたあいさつはねえんで?」
「短くって、気のきいたあいさつなあ……うーん、そうだ。『銭湯ではだか同士の御慶《ぎよけい》かな』『借りがあるそうで御慶に念がいり』なんて句があるが、御慶てえなあどうだい?」
「どけへ?」
「どけへじゃあない。ぎょけい」
「へーえ、どういうわけなんで?」
「おめでとうということだ」
「へーえ、おめでとうでぎょけいねえ」
「むこうでおめでとうございます、といったら、御慶というんだ」
「それから?」
「まあ、正月のことだから、お屠蘇《とそ》を祝いましょう、どうぞおあがりくださいというにきまってる」
「そりゃあいけねえ。そんなことをしていたら、とてもまわりきれやしねえ」
「だから、そういわれたら、春永《はるなが》にうかがいますってんで、永日《えいじつ》というんだ」
「へえー、御慶だけですめば、それでよし、おあがんなさいといったら、永日ってんで、すーっと帰ってくればいいんで?」
「まずそうだな」
「へえ、ありがとう存じます。それだけ教わっていけば、てえげえ大丈夫だけど、ちょいと、ためしにやってみてえな。じゃあ、大家さん、相手になっておくんねえ」
「ま、おめでとうございます」
「えへん、御慶!」
「わー、こりゃあおどろいた。大きな声だな。では、お屠蘇を祝おう。どうぞおあがりを……」
「それじゃあ、ちょいとあがって、一ぺえ……」
「おいおい、あがっちゃあいけないよ」
「あっ、そうか。つい一ペえやりたくなったもんで……えへへへ、永日ときやがらあ」
「きやがらってえなあないよ」
「あははは、じゃあ、大家さん、ちょいと一まわりしてきます……ああ、ありがてえ、ありがてえ、御慶で、永日か……さてと……どこへいってやろうかな。そうだ、虎んべえんとこへいって、ひとつおどかしてやろう……なんだ、まだ寝てやがんのかなあ、どうしたんだろう、あの野郎は……おーい、虎んべえ、虎公……」
「あのう、もし、虎さんところはお留守でございますけど……あらっ、まあ、どこの旦那かとおもったら、八つあんじゃあないか」
「ああ、のり屋のおばあさんか、虎んべえはいねえのかい?」
「なんでもねえ、さっき、友だちがきてねえ、三人ででかけたよ」
「えっ、でかけた? ちくしょうめ、人がせっかくこの扮装《なり》をみせてやろうとおもったのに、はりあいのねえ野郎じゃあねえか。じゃあ、まあ、しかたがねえ。おばあさん、虎んべえのかわりに、ひとつやってくんねえ」
「なにを?」
「いや、おめでとうってのをやってくれ」
「あっ、そうそう、まだいってなかったねえ。では、おめでとうございます」
「御慶!」
「え? なんだい?」
「なんでもいいんだよ。あとをやってくんねえ」
「あとを?」
「どうぞおあがりくださいってやつをさ」
「それがねえ、おあがりといいたいけれども、いろんなものがとりちらしてあるから……」
「いいんだよ、いいんだよ。ほんとうにあがろうってわけじゃあねえんだ。おめえが、そういってくれねえと、おらあ、よそへでかけられねえんだから、おあがりって、いってくんねえな」
「そうかい。じゃあ、なんだかわからないけど……どうぞおあがりください」
「永日! ちくしょうめ……あははは、びっくりしてやがらあ、ざまあみやがれ……あれっ、むこうからくるのは金太だな。よーし、やってやれ。おう、金太、金太」
「おう、八公か、まあ、すっかりりっぱになっちまって……千両富にあたったってなあ」
「うん……おめでとうってのをやってくれよ」
「ああ、そうか、おめでとう」
「御慶!」
「なんだ?」
「なにいってやんでえ。いいから、あとをやれ」
「あとをやれってなあ、なんだい?」
「どうぞおあがりくださいってのをやってくれよ」
「よせよ。おかしなことをいうない。おあがりくださいったって、ここは往来じゃねえか」
「いいんだよ。おめえが、そういってくんねえと、おらあ、むこうへいけねえんだからよ。やってくれよ」
「みっともねえなあ、どうも……じゃあいうよ……どうぞおあがりください」
「永日だい、べらぼうめ」
「べらぼうめ?」
「あっはははは、目を白黒させてやがら……ああ、ありがてえ、ありがてえ……おう、きやがった、きやがった。虎んべえに、半公に、留公と、三人でまゆ玉かついで帰ってきやがったな。おーい」
「やっ、八公、たいへんな扮装《なり》をしてきやがったな。大あたりだそうじゃねえか」
「あはははは、おうおう、やってくれ、やってくれ、おめでとうってやつを……」
「いや、おくれてすまねえ。どうもおめでとう」
「おう、おめでとう」
「おめでとう」
「えへへへへ、三人でおめでとうときたな。よーし、三人まとめてやっちまうからな……御慶! 御慶! 御慶!」
「おいおい、よせよ。なんだ、みっともねえ。気でもちがったんじゃあねえか。にわっとりが卵うむような声をだしゃがって……」
「あれっ、わからねえやつだなあ、御慶といったんでえ」
「ああ、恵方《えほう》まいりによ」
寿限無《じゆげむ》
これで親子の情愛というものはたいへんなもので、どんなかたでも、わが子のこととなると夢中でさわいでおります。
「おうどうだい、はやく産んでくんねえな、これで来月になると、おれもふところ都合がわりいんだから……」
「そんなことをいったって、おもいどおりにはいかないよ」
「だけれども、なんとかそこをやりくりしてよ」
「そんなやりくりがつくもんかね。それよりも赤ちゃんが産まれればお金がいるんだからしっかりしとくれよ」
「だから、このあいだから心がけて倹約しているんだ。きのうだって、仕事の帰りに、おもて通りのすし屋へとびこもうとしたんだが、とうとうがまんしちまった」
「えらいねえ。産まれてくる子どものために好きなおすしも食べなかったのかい?」
「ああ、すしは食やあしねえ。そのかわりてんぷらを食った」
「なんだい、それじゃあなんにもなりゃあしないよ」
さて、月満ちて産まれおちましたのが玉のような男の子ですから、ご亭主のよろこびも一通りではございません。
「やあ、うごいてる、うごいてる。うごくところをみると、生きてるんだな」
「あたりまえさ、生きてるのは……」
「あははは、そうよなあ……それにしても、こんちくしょうめ、なにかしゃべらねえかな。おとっつあん、こんちわとかなんか……」
「そんなばかな……まだ生まれたばかりじゃないか」
「あしたあたりは、あるきだすのかな?」
「化けものじゃあるまいし、ばかばかしいよ……そんなことよりも、きょうは七夜《しちや》だよ」
「なんだと?」
「七夜だよ」
「質屋がどうかしたか?」
「この子の七夜だよ」
「へーえ、こんなちいせえうちから質屋をおぼえさせるのか? いくら貧乏だって、そりゃああんまり手まわしがよすぎらあ」
「なにいってるんだよ。赤ん坊を質屋へつれてくやつがいるもんかね。生まれて七日目だから七夜じゃあないか」
「ふーん、はやくいやあ初《しよ》七日《なのか》だな」
「まあ、初七日だなんて縁起のわるい……お七夜といえば、きょうは名前をつける日なんだよ、おまえさん、なにかかんがえてあるかい?」
「そうそう、わすれてた。名前をつけなくっちゃあいけねえな……なんかこう強そうなのがいいんだが……どうだい、金太郎てえのは?」
「金太郎? おまえさんが熊さんで、せがれが金太郎じゃあ親子で角力《すもう》ばっかりとってそうじゃあないか」
「そうかなあ……じゃあ、おやじの熊より出世するように、ライオン太郎はどうだい?」
「ばかばかしいよ……どうもおまえさんじゃあいい名前がつけられそうもないから、お寺へいって和尚《おしよう》さんにつけてもらうといいよ。檀那《だんな》寺で名前をつけてもらうと長生きするというから……」
「そんなこたああるめえ。むやみに長生きされたんじゃあ商売にならねえから、坊主がろくな名前をつけるもんか。第一、坊主に名前をつけてもらうなんて縁起がわりいや」
「そうでないよ。ものは逆が順に帰る、凶は吉に帰るなんていうから、かえっていいんだよ」
「そういうもんかなあ。それじゃあ、ひとつあのでこぼこ坊主につけてもらうとするか。いってくるぜ……赤ん坊の名前を坊主につけてもらうのもおかしなもんだが、かかあのいう通り、凶は吉に帰るとよくいうから、やっぱりいいのかも知れねえ……こんちわ」
「はい、どなた? やあ熊さんで、ずいぶんおはやいご仏参ですね」
「なにいってやんでえ。おさまりけえった小坊主じゃねえか。墓めえりにきたんじゃあねえや。和尚に用があってきたんだ。和尚はいるか?」
「はい、すこしお待ちください……ええ、和尚さま」
「なんだ珍念や」
「神田の熊五郎さんがみえまして、和尚さまにお目にかかりたいと申しておりますが……」
「ああさようか。熊さんがみえたか。おもしろいかただ。すぐにこちらへお通ししなさい……おやおや、熊さん、いらっしゃい。たいそうおはやいことで、なにかあらたまったご用でも?」
「へえ、なにしろまあおめでとうございます」
「ははあ、なにかおよろこびごとでもありましたかな?」
「そうなんですよ。なにしろまあ、お生まれなすったのが玉のような男の子さんで、親御さんたちもたいへんなおよろこびなんで……」
「ほう、それはどちらさまで?」
「へへへ、こちらさまなんで……」
「おや、熊さんのお宅のことだったのかな。で、ご家内はご安産なすったかな?」
「へえ、やすやすとご難産で……」
「やすやすとご難産というのはないな。それにしても、男のお子さんとはおめでたいな」
「ねえ、そうでござんしょう? ところで和尚さん、きょうは七夜で、名前をつけなくっちゃあいけねえんだが、はじめてのがきで男の子なんだから、なんかいい名前をつけてえとおもってね、で、かかあのいうには、逆が順に帰って、凶が吉に帰るから、寺の和尚につけてもらったらいいとこういうんで……でもね、あっしゃあ、寺の坊主なんかに名前をつけてもらうのは縁起がわりいと一応おもったんですが、よくかんがえてみると、かかあのいうことももっともなんで、じゃあ、あのでこぼこ坊主につけてもらおうということになってやってきたんで……」
「でこぼこ坊主とはおそれいったな」
「おや、聞こえましたか?」
「だれとはなしをしてるんだい?」
「ははは、なるほど……まあ、ひとつおねげえ申します」
「よろしい。承知した」
「なにかこう死なねえ保証つきというような、すてきなやつをつけてやってください」
「生《せい》あるものは、かならずいつかは死ぬのじゃから、死なんというわけにはいかんが、親御さんの情として、子ども衆の長寿《ちようじゆ》をねがわれるのは道理、どうじゃな、鶴は千年の齢《よわい》をたもつといってめでたい鳥じゃが、それにあやかって、鶴太郎、鶴吉などというのは?」
「そりゃあいけねえや。千年と年限を切られちゃあ千年たつと死んじまわあ、そりゃあつまらねえ。もっと長いのはありませんか」
「では、亀は万年というから、亀之助、亀助などは?」
「いけませんや。亀の子なんぞは縁日のときに売ってますが、あたまをつつかれて首をちぢめてばかりいらあ、人なかで、ああやってあたまをおさえられてばかりいたんじゃあ出世できませんや」
「そういっていては、なかなかいい名前はつけられないが、ではどうじゃな、経文《きようもん》のなかにはめでたい文字がいくらもあるによって、そのなかからつけては?」
「お経でもなんでも、長生きする名前ならかまいません」
「では、寿限無《じゆげむ》というのはどうかな?」
「なんです? 寿限無てえのは?」
「寿《よわい》限り無しと書いて寿限無だな。つまり死ぬときがないというのじゃ」
「そりゃあありがてえや。死ぬときがねえなんざあうれしいね。うちの苗字《みようじ》が杉田だから、杉田寿限無か、こりゃあいいや。もうほかにはありませんか?」
「まだいくらもある。五劫《ごこう》のすりきれはどうじゃな?」
「五劫のすりきれ? なんのこって?」
「一劫というのは、三千年に一度、天人が天《あま》くだって、下界の巌《いわ》を衣《ころも》でなでるのだが、その巌をなでつくしてすりきれてなくなってしまうのを一劫という。それが、五劫というから、何万年何億年かかぞえつくせない」
「こりゃあ、ますますいいや。まだありますか?」
「海砂利水魚《かいじやりすいぎよ》などはどうじゃな?」
「なんです? それは?」
「海砂利というのは、海の砂利だ。水魚とは、水に棲《す》む魚だ。いずれもとりつくすことができないというのでめでたいな」
「へーえ、なるほど……もうありませんか?」
「水行末《すいぎようまつ》、雲来末《うんらいまつ》、風来末《ふうらいまつ》などというのもある」
「へーえ、なんですい、それは?」
「水行末は、水の行く末、雲来末は、雲の行く末、風来末は、風の行く末、いずれも果てしがなくてめでたいな」
「ますますうれしいねえ。まだありますか?」
「人間、衣食住のうち、一つが欠《か》けても生きてはいけない。そこで、食う寝るところに住むところなどはどうじゃな?」
「なるほどねえ、もうありませんか?」
「やぶらこうじのぶらこうじというのはどうじゃな?」
「和尚さん、あっしが知らねえとおもってからかっちゃいけませんよ」
「べつにからかってはおらん。これにもいわれはあるのじゃ。木にもやぶこうじというのがあるが、まことに丈夫なもので、春は若葉を生じ、夏は花咲き、秋は実をむすび、冬は赤き色をそえて霜をしのぐめでたい木じゃ」
「なるほどこれもいいや。まだありますか?」
「パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナというのがあるな」
「またおかしいよ。からかってるんじゃないでしょうねえ」
「これは、むかし、唐土《もろこし》にパイポという国があって、シューリンガンという王さまとグーリンダイという王后《きさき》のあいだに生まれたのが、ポンポコピーとポンポコナというふたりのお姫さまで、このふたりがたいへんに長生きなすったな」
「へーえ、まだありますか?」
「天長地久という文字で、読んでも書いてもめでたい結構な字だ。それをとって、長久命というのはどうじゃな?」
「へえ、ようがすね」
「それに、長く助けるという意味で、長助なんていうのもいいな」
「へえへえ、じゃあすいませんが、いちばんはじめの寿限無から長助まで書いてくださいな。むずかしい字はだめですよ。平がなでね」
「よろしい。いま書いて進ぜる……さあ、みんな書いたから、このなかからいいのをとりなさい」
「へえ、ありがとうございます。ええ、寿限無ってやつからはじまるんですね……えーと、寿限無寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助か……こうならべてみると、みんなつけてえ名前ばかりですねえ。あとであれにすりゃよかったとか、これにすりゃあよかったなんてぐちのでねえように、いっそみんなつけちまいます」
「おいおい、それはらんぼうだよ。長くてしまつがわるいじゃないか」
「いいえ、かまいません。どうもありがとうございました。さようなら」
うちへ帰ると、おかみさんを説きふせて、ばかばかしく長い名前をつけてしまいました。さあ、この名前が近所でも大評判で……
「はい、ごめんなさいよ」
「おや、のり屋のおばさん、おいでなせえ。なんかご用で?」
「べつに用じゃないけどさ。あたしも年だねえ、坊やの名前がなかなかおぼえられなくって苦心しちゃったけど、ようやくなんとかおぼえたから、きょうはさらってもらおうとおもってきたのさ。もしもちがってたら、なおしておくんなさいよ」
「名前のおさらいは大げさだね。まあ、いいや、やってごらんなせえ」
「でははじめるよ……寿限無寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助、あーあ、なむあみだぶつ……」
「おい、じょうだんじゃねえぜ、なんだい、そのなむあみだぶつってえのは? 縁起でもねえや」
この名前が性《しよう》にあいましたものか、病気らしい病気もせずに育ちまして、学校へ通うようになりますと、朝、近所のともだちがさそいにまいります。
「寿限無寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助さん、学校へいかないか?」
「あらまあ、金ちゃん、よくさそっておくれだねえ。あのね、うちの寿限無寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助は、まだ寝てるんだよ。いますぐに起こすから、ちょいと待ってておくれよ。さあさあ、寿限無寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助や、はやくおきて学校へいくんだよ。金ちゃんがおむかえにきたじゃあないか」
「おばさん、おそくなるから、ぼく、さきへいくよ」
この子どもが大きくなるにつれて、たいへんにいたずらなわんぱくものになりまして、いつも友だちを泣かしたりしております。
ある日のこと、なぐられて、あたまにこぶができたと、わあわあ泣きながらいいつけにきた子がございます。
「あーん、あーん……あのねえ、おばさんとこの寿限無寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助が、あたいのあたまをぶって、こんな大きなこぶをこしらえたよ……あーん、あーん」
「あらまあ、金ちゃん、すまなかったねえ。じゃあなにかい、うちの寿限無寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助が、おまえのあたまにこぶをこしらえたって、まあ、とんでもない子じゃあないか。ちょいと、おまえさん、聞いたかい? うちの寿限無寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助が、金ちゃんのあたまへこぶをこしらえたんだとさ」
「じゃあなにか、うちの寿限無寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助が、金坊のあたまへこぶをこしらえたっていうのか。金坊、どれ、みせてみな、あたまを……なーんだ、こぶなんざあねえじゃあねえか」
「あんまり名前が長いから、こぶがひっこんじゃった」
そこつの使者
むかしから、そそっかしい人もずいぶんございますが、そそっかしいのにも、いやにおちついていてそそっかしいのと、ちょこちょこしていてそそっかしいのと、いろいろございますが、いずれにしましても、そそっかしい人に悪人はないようでございます。
むかし、杉平《すぎだいら》柾目正《まさめのしよう》というお大名がありまして、このかたのご家来《けらい》で、治武田《じぶた》治武右衛門《じぶえもん》という人がおりましたが、これがたいへんなそこつ者で、毎度、殿さまの御前《ごぜん》で失敗をいたしますが、かえってそれが殿さまの御意《ぎよい》に召しますものか、たいへんなお気にいり。
ある日、殿さまが、だいじなお使者の役目を治武右衛門に申しつけました。
こんな役目をおおせつかったのははじめてですから、治武右衛門は、はりきって玄関へでてまいりまして、お供《とも》のものをみわたしながら……
「これこれ、なにはおらんか……べ、べ、べんとうはおらんか? これ、べんとう……」
「なんだなあ、殿さまもよりによって、あんなそそっかし屋をご使者にしなくったっていいのに……」
「なんだろう? 弁当、弁当ってわめいてるけど、腹でもへってるのかな?」
「いや、馬をひく別当《べつとう》のまちがいだろう。聞いてやろう……ええ、治武田さま、なんでございます?」
「そのほう、べんとうか?」
「いえ、弁当じゃございません。別当で……」
「あっ、そうそう、別当、別当……べんとうなどとそそっかしくまちがえるでない」
「あなたさまがおまちがえで……」
「さて、拙者、本日は、あれにまいる、ほれ、あれ、あれに……」
「お使者にいらっしゃるという……」
「おうおう、存じおるか。その通りじゃ、拙者、使者にまいる。ついては、拙者の乗る、それ熊を……いや、熊ではない、猫を……いや、いや……ほれ……」
「お馬でございますか?」
「ああ、馬じゃ、馬じゃ……用意いたせ」
「最前からご用意はできておりまして、おいでをお待ちしております」
「ああ、さようであるか。どこにおる?」
「あなたさまのわきにおります。どうぞお召しになってください」
「うん、さっそく乗ろう……これっ、たわけめ! かようなちいさな馬があるかっ」
「あれっ、あなた、それは、犬でございますよ。馬はねえ、あなたの左におりますよ」
「馬は左におる? おう、なるほど、いかにもおるな……うん、では、あらためて乗るぞ……これこれ、別当、乗ったが、この馬には首がないぞ」
「じょうだんいっちゃあいけません。首のない馬だなんて……あなた、それは、うしろ前にお乗りになったんですよ。あべこべにお乗りなんですよ。馬の首は、あなたのうしろにございます」
「うしろに? おう、うしろに首があった。はははは、まことにそこつな馬であるな」
「あなたがそそっかしいんですよ……どうぞ乗りかえてくださいまし」
「いや、別当の前じゃが、武士たるものが、いったん乗ったものを、またおりて乗りかえるというのも、まことにざんねんである。かよういたせ。拙者、かように尻を持ちあげておるから、馬のほうをひとまわしまわせ」
「おんなじこってすよ。じょうだんいっちゃいけません」
「さようか。しからば、首を切って前につけろ」
「とんでもありませんよ。どうぞお乗りかえなすって……」
ようやくのことで乗りかえると、ご親戚《しんせき》すじにあたる丸の内の赤井|御門守《ごもんのかみ》さまのお屋敷へ……門前近くまいりますと、お供の人がかけてまいりまして、
「杉平柾目正よりお使者っ」
といいます。
すぐにでむかえの者がまいりまして、これから使者の間へ通されます。
「本日は、お役目ごくろうに存じます。てまえは、当家の家臣、田中|三太夫《さんだゆう》と申しまするもの、以後はお見知りおかれまして、ご別懇《べつこん》にねがいます」
「はあ、さようでござるか。いや、まことに申しおくれましたが、てまえは、当家の家臣田中三太夫」
「え?」
「ではござらん……てまえは、そのう……ああ、杉平……もくめ……いや、もくめではなかった……さよう……杉平柾目正の家臣治武田治武九郎、いや、治武九郎は、てまえの父でござる。ええ、てまえは、治武田治武右衛門と申す者でござる。以後は、お見知りおかれまして、なにとぞご別懇に……」
「ごていねいなごあいさつ、まことにいたみいります。して、本日のご使者のご口上《こうじよう》は?」
「ああ、さようか、いや、使者の口上は、余の儀ではござらん……ううう……うう」
「お使者のご口上をうけたまわります」
「ええ……使者の口上は……うう……そのう……ええ……」
「いかがなさいましたな、腹部をおさえたり、膝をつねったりされておられますが、ご腹痛でも?」
「いや、腹痛ではござらん。まことにえらいことにあいなった。めんぼくしだいもござらんが、使者の口上を、てまえ、すっかり失念いたした」
「いや、これは、また、おたわむれを……」
「いや、たわむれではござらん。まったく使者の口上を忘却《ぼうきやく》つかまつった」
「それは、まことに一大事……」
「武士は相身《あいみ》たがいと申すものでござる。いかがでござろう、田中氏、てまえの口上をおもいだしてはいただけまいか?」
「とても、さようのことは……」
「だめでござるか……しからば、まことに申しわけないしだいでござるが、てまえ、これにて、あれをいたす……その、あれを……あの……ぷくをいたす」
「え? ぷくをなされるとは?」
「いや、これでござるよ、このぷくを……」
「おう、腹部を切る手つきをなさって……さては、切腹でござるか?」
「さよう、切腹をいたす」
「切腹とは容易ならんこと……して、なんとかおもいだす手だてはござらんか?」
「さよう、恥を申さねばわからんしだいでござるが、てまえ、幼少の折りからのそこつ者。ものごとをわすれるたびに、親どもによくしかられ申した。その叱言《こごと》のおりに、いつも親どもが尻《いしき》をつねりくれました。いたいとおもうたびにおもいだしたことがござるから、最前より、腹部や膝などをつねっておりましたが、いっこうにおもいだし申さん。まことに申しかねたる儀でござるが、ご貴殿、てまえの尻をおつねりくださるわけにはまいらんものでござろうか、いかがでござるな?」
「いや、武士は相身たがいと申す。さっそくおつねりいたして進ぜよう」
「さようでござるか。まことにかたじけない。貴殿のお情けは、孫子の代にいたるまで忘却つかまつらんでござろう」
「さようなことをおっしゃっておらんで……どうぞ尻《いしき》をおだしになって……」
「いやはや、なんとも恥じいったるしだいでござるが、……このようなそまつな尻で……なにとぞよしなにおとりはからいくだされ」
「かようにしみじみと拝見いたすと、これはまた、よほど念のいった尻でござるな。たいそう肉がかたまって、たこになっておりますな」
「もう、たびたびつねりますので、鎧《よろい》のごとくになっております。いざ戦場という場合にも、尻だけは、鎧なしで敵のまっただなかにとびこみましても、かすり傷ひとつうけまいと、ここだけはじまんでござる」
「しからば、いよいよおつねり申すが、強ければ強い、弱ければ弱いと、ご遠慮なくおおせつけくださるように……では、はじめますぞ……いかがでござる? いかがでござるか?」
「いや、いっこうに通じませんで……おつねりくださっておるのかどうか、すこしもわかり申さん。なにとぞもそっと手荒く……」
「しからば、手かげんは申しませんで、両手でまいるぞ。よろしいか……えい、うーん、えいっ……いかがでござる?」
「いや、とんと蚊《か》のとまったほどにも感じ申さんで、もそっとお手荒にねがいたい」
「いやあ、これはおそれいりました。たいそうおかたいことで……ざんねんながら、てまえ、これ以上、指さきに力量がござらん」
「では、いかがでござるな。ご当家に、指さきに特別の力量をそなえし者があらば、これへおよびだしをねがいたいが……」
「されば、当家にも、剣術、柔術なれば免許皆伝《めんきよかいでん》の者もおりますが、指さきに特別の力量をそなえたる者というのは心あたりござらん。ともかくも、藩中くまなくたずねてみまするゆえ、暫時《ざんじ》おひかえのほどを……」
さて、田中三太夫さん、治武右衛門を使者の間に待たしておきまして、詰所《つめしよ》へきてこのはなしをすると、若い者は腹をかかえて笑うばかりですし、年配者《ねんぱいしや》はみんなにがい顔をしているばかりで、だれひとり名のりをあげるものはおりません。
「あはははは……あははは」
「おう、どうしたい? 留《とめ》っこ」
「うん、おらあ、あんまり笑ったんで腹がいたくなっちまった。ああ、おかしい」
「なにがあったんだ?」
「なにがあったって……いま、おれが仕事をしてたらよ、ここにいちゃいけねえっていうんだ。どうしてだと聞いたら、なにがくるってんだ、将棋の駒みてえな、あれがよ」
「将棋の駒みてえなあれってなあ、なんだ?」
「ほれ、将棋の駒で、すーっと、むこうへいくのがあるじゃねえか」
「飛車《ひしや》か」
「そうそう、その使者《ししや》ってえのがくるってんだ」
「この野郎、使者をいうのに、将棋の駒だってやがらあ、あきれた野郎だ。で、どうしたい?」
「おらあな、使者たあどんな野郎かとおもって、ちょっと踏台《ふみでえ》があったから、欄間《らんま》んとこからのぞいてみたんだ。すると、おめえ、どっか間のびのつらをしたさむれえがへえってきやがった。そこへご当家の田中三太夫さんがでてきてあいさつをすました。こんどは、その間のびざむれえの番だ。すると、その野郎がね、『てまえは当家の家臣田中三太夫』だってやがる。あれっ、ふたりともおんなじ名前かなとおもってると、野郎も気がつきやがってね、『ではござらん』てやがる。で、その野郎が、治武田治武右衛門とか、とにかくまぬけな名前を名乗ったまではよかったが、そのうちに、その野郎が青くなって、切腹するってえさわぎになった。田中さんがわけを聞くと、使者の口上をわすれちゃったんだとよ。世のなかには、どうもそそっかしい野郎もあるもんじゃねえか。どうしたらおもいだすっていったら、尻をつねってくれたらおもいだすっていうじゃねえか。田中さんがまっ赤になってつねってるんだが、よっぽどかてえ尻なんだな、どうしてもおもいださねえ。田中さんが、ご家中で指さきに力のあるさむれえをさがしたんだが、どうもいねえらしいや。おれもおかしいにはおかしかったが、かんがえてみりゃあ、かわいそうなはなしよ。おもいださなきゃあ、野郎、腹を切らなくっちゃあならねえんだから……で、おれがな、ちょいといって、あの野郎の尻をつねって、口上をおもいださしてやろうとおもうんだ」
「やい、留っこ、だから、てめえはばかのはねっかえりだっていうんだ。かんげえてもみろい。田中さんてえ人は、剣術も柔術もよくできる人だぞ。その人が力まかせにひねってだめなものを、てめえなんぞがつねってきくはずがねえじゃねえか」
「あたりめえよ。おれが、ただでていってつねったって、だめななあわかってらあ。だからよう、おれが、あたまをつかったのはそこだ」
「あたまをつかった?」
「そうよ。ここに釘抜き《えんま》がある。これを持ってって、尻をぐーっと、ひんねじってやるんだ」
「おいおい、らんぼうだよ。それは……そんなもんで尻をつねったら、尻がねじ切れちゃうよ。穴があいちまうよ」
「穴ぐれえあいたっていいじゃねえか。まかりまちがえば、野郎、腹切って死ぬんじゃねえか。おれが、こいつで、ぎゅーっと尻をひんねじってやる」
「よしなよ、おい、おい」
「いいってことよ。おれにまかしておきねえ。じゃあ、ちょっといってくるからな……えー、ちょっとおたのみ申します。おたのみ申します」
「だれじゃ? これこれ、職人、そのほうたちのくるところではない。お作事《さくじ》場へまわれ」
「いえ、あの……田中三太夫さんてえかたはおいでになりませんか。ちょいとお会い申してえんで……」
「田中|氏《うじ》に、なにか用か?」
「ええ、お会いすりゃあわかるんで……」
「さようか。暫時《ざんじ》ひかえておれ……田中氏、貴公になにか職人が会いたいと申しておるが……会えばわかるとかいうことじゃ」
「会えばわかる? 職人が? はて? ……おい、そこな大工、わしが田中であるが、なに用があってまいった?」
「えへへへ……旦那、さっきは、やってやしたね」
「なに?」
「いえさ、あっしはね、みちゃったんだよ。かてえ尻だね」
「なんだと?」
「なんだとなんて、とぼけっこなしにしようよ。おまえさん、まっ赤になって、いかがでござるなんてやってたでしょ?」
「けしからんやつだ。そのほうのぞき見をしたな」
「かんべんしておくんねえ。まあ、ついのぞいちまったんで……べつに悪気があったわけじゃあ……で、指さきに力がある人がいましたか?」
「いや、それがいないので、ただいまこまっておるところじゃ」
「それじゃあ、あっしがつねってあげやしょうか。だってさあ、使者の口上をおもいださなけりゃあ、腹を切るってんでしょ? ねえ、かわいそうだ。あっしがちょいとつねりやしょう」
「ほほう、そのほう、それほど指さきに力量をそなえておるのか?」
「あー、そなえておるねえ。じまんじゃねえが、がきのときから指さきの力じゃあ、人にひけをとったこたあねえや。てえげえの釘なら、ちょいとつばきをつけてね、つまんですーっとぬいちまうんでさあ。だから、あんな野郎の尻なんか、ひとひねりだね」
「うーん、たいそうな力であるな。その力でつねってくれればよろしいのじゃが、わしひとりできめるわけにもいかんから、しばらくそこでひかえておれ」
これから田中三太夫さん、詰所へもどって同役に相談ということになりました。
「ただいま、てまえが申しあげたように、たいそう指さきに力量のある大工でござるによって、かの者にたのんではいかがでござろうか?」
「しかし、大工をたのんでだしたとあっては、ご当家の外聞《がいぶん》にもかかわりましょう」
「と申して、このまますておくときは、切腹ということにあいなり、当家がなおさらもってめいわくをいたすが……しからば、いかがでござろう、あの大工を当家の家臣ということにいたしたならば、さしつかえもあるまいと存ずるが……」
「うん、それならばさしつかえござるまい」
「では、そういうことに……これこれ大工。ただいま奥で相談してまいったが、大工をたのんでだしたとあっては、ご当家の外聞にかかわるによって、そちを当家の家臣ということにいたす」
「へえ、そんなこたあ、どうでもようがす……あっしゃあ、なんでも、あの野郎の尻をつねっておもいださせりゃあ、それでいいんですから……」
「さようか。しからば、こちらへあがって、身どもと同道いたせ。はて、まごまごして……わからんやつじゃ、身どもといっしょにまいれと申すに……さあ、こちらへはいれ。ご同役がた、この者が、その大工でござる……うーん、しかし、この服装《なり》ではいかんな。ええ、どなたか、この男に衣類をお貸しくださらんか……おお、鈴木|氏《うじ》、貴公がお貸しくださるか。いや、かたじけない……さあ、大工、みんなそろったぞ。法被《はつぴ》をぬいで、これに着かえろ」
「へーえ、なるほど……この着物を着るんですか……なるほどねえ」
「これこれ、帯を前にむすんでいかがするのじゃ……ふーん、前へむすんで、うしろへまわすのか……いや、器用《きよう》なことをいたすやつじゃ……これ、袴《はかま》のはきかたを知らんとみえるな。腰板が前にきているではないか。それではあべこべじゃ。その板がうしろになるのだ」
「へーえ、そうかい。あっしゃあ、また、この板で紙入れのおちるのをとめとくのかとおもった。……へえ、へえ、はきなおします」
「衣類はととのったが、刷毛《はけ》さき(髷《まげ》の最先端)がまがっているではないか。まっすぐにいたせ。品がわるいぞ……うん、それでよろしい。馬子にも衣裳《いしよう》、髪かたちとやら、どうやらさむらいらしくみえるぞ。さて、そのほうの姓は?」
「そうですねえ、五尺三寸ぐれえでしょうかねえ」
「なに?」
「いえ、背の高さでござんしょう?」
「いや、身の丈《たけ》を聞いたではない。姓名は……名前はなんというのじゃ?」
「ああ、名前ですか、名前は留っこてんで」
「留っこ? 留っこという名はあるまい。留吉とか、留太郎とか申すのであろうが……」
「なんだか知らねえけど、がきんときから、みんなが留っこ、留っこてよびますんで……」
「こまったやつじゃな。自分の名を知らんとは……それにしても、留っこという武士はないから……さよう……拙者が田中三太夫であるから、そのほうを、中田留太夫ということにいたそう」
「へえー、中田留太夫ねえ、まあ、ようがしょう。じゃあ、さっそくやっつけましょう」
「これこれ、やっつけましょうとはなんのことじゃ? そのようなことばを使用してはいかん。すべて、ことばはていねいにな……もののかしらへ『お』の字をつけて、ことば尻に『たてまつる』をつければ、おのずとていねいになる。わかったな」
「へえ、上へ『お』をつけて、なんとかしてござりたてまつるってやつだ。知ってますよ。心得てます」
「では、そのほう、ここにひかえておって、中田留太夫どのとよばれたら、すぐにでてまいれよ。よろしいな……ああ、治武田氏、すっかりお待たせをいたしました」
「はあ? ……ご貴殿はどなたでござるかな?」
「えっ、もう、おわすれで……先刻、お目通りをいたした田中三太夫でござる」
「なに? 田中三太夫どの? ……うん、やあ、ご貴殿は、たしかに先刻の……いや、これは失礼つかまつった。して、いかがでござったな、指さきに力量のあるおかたがございましたか?」
「はあ、いろいろたずねましたるところ、当家に、中田留太夫と申す者がございまして、これがいたって指さきの強いもの。さっそく召しつれましたゆえ、ご遠慮なくご用をお申しつけくださるよう……」
「これはこれは、まことにどうも、お手数をかけてなんとも申しわけござらん」
「では、ただいまこれへよびいれます。ああ、つぎにひかえし留太夫どの。中田留太夫どの……中田留太夫どの……留太夫どの……留っこ」
「へっ?」
「これこれ、こちらへはいれ。よんだらすぐにはいらねばいかんではないか」
「へえ、どうもすいやせん。いえね、中田留太夫どのってえのは、たしかに聞こえてたんですがね、あっしじゃねえとおもってたんで……とたんに留っこときたんで、すぐにこの……」
「これこれ、ひかえろ。たわけたやつめ……あいや、治武田氏、ただいま申しあげました中田留太夫でござる」
「ああ、さようでござるか。これは、はじめてご面会つかまつる。てまえことは、杉平柾目正家来、治武田治武右衛門と申す者でござる。以後は、お見知りおかれてご別懇に……」
「これはごていねいなるごあいさつ。さ、中田氏、ごあいさつ申しあげられい」
「へえ?」
「ごあいさつを申しあげるのじゃ」
「ごあいさつ? へえ、よろしゅうござんす……えー、お初にお目にかかりござりたてまつります。ええ、おわたくしことは、ご当家のご家臣お中田お留太夫でござりたてまつりまして、ええ、あなたさまが、ご使者のご口上をおわすれたてまつりやして、そこで、おわたくしが、あなたさまのお尻《けつ》さまをおつねりでござりたてまつるんで……」
「これこれ、なんじゃ、お尻さまとは……もうごあいさつはよろしいから、すぐにおつねり申せ。これ、ただちにつねれ」
「つねれったって、おまえさんが、そこでがんばってたんじゃあ、仕事がやりにくくってしょうがねえ。すいませんが、ちょいとむこうへいってておくんなさいな」
「そそうがあっては、当家がめいわくをするによって……」
「いいえ、大丈夫《でえじようぶ》ですよ。そそうなんてしませんから、どうかむこうへいっててくださいな」
「よろしいか」
「ええ、心配いりませんとも……」
「しからば、治武田氏、てまえ、つぎの間にひかえおりますれば、おおもいだしになられし節は、ただちにおよびくださいますように。よろしゅうござるか……では、中田氏、くれぐれもそそうのなきように……」
「へえ、よろしゅうござんす……三太夫さん、あとをぴったりと、こうおしめたてまつって、おのぞきたてまつらねえようにねえ。おのぞきは、おこまりたてまつるよ……おうおう、もうすこしこっちへこいよ。こっちへこいってんだ。おめえ、使者の口上をわすれたんだってな、だらしのねえ野郎じゃねえか。けどな、口上をおもいださねえと切腹だってえから、おれが、てめえの尻をひんねじって、腹を切らずにすむようにしてやろうてんだ。おれはな、さむれえじゃねえ。ここに仕事にきてる大工なんだが、てめえを助けにでてきたんだぜ。さあ、はやくまくれ。はやく尻《けつ》をだせ」
「はっ?」
「はあもすうもねえやな。はやく尻をだせ」
「しからば……よろしくおねがい申す」
「なにがしからばでえ……おう、まくったな。よし、まくったら、尻をこっちへ持ってこい。うふふ……きたねえ尻だなどうも……ことわっておくがなあ、どんなことがあってもこっちをむくんじゃねえぞ。いいか、うしろをむくと、おらあ、はりたおすからな……それから、おつぎの間の三太夫さん、おのぞきたてまつると、おこまりたてまつるからね。さあ、はじめるぜ。いいな、こっちをむくなよ。どうだい? きいたかい?」
「これは、えらくつめたい指さきでござるな」
「そんなこたあいいんだ。きいたかよ? おい」
「はあ、もそっと、お手荒にねがいたい」
「えっ、きかねえのかい? へえ、あきれたかてえ尻だねえ。うーん、ずーっとたこになってるじゃねえか。こりゃあ、まごまごしてると、|釘抜き《えんま》がなまっちまうぜ。よーし、そうなりゃあ、こっちは、やわらかそうなとこをひんねじるから、こっちをむくなよ……そーら、よーい、そーれ、そーれ、どうだ? さあ、どうだ」
「うん、これは、これは、なかなかの大力でござるな」
「へっ、ちくしょうめ、なかなかの大力でござるなときたな。さあ、もう一ペんいくぞ。そーれ、そーれ、えーんや、こーら、そーれ、さあ、どうだ、どうだ?」
「うーん、うーん、これは、はや、いたみ……いたみ、たえがたし」
「いたみたえがたしときたか。しめ、しめ……もうすこしだ。そーれ、そーれ……さあさあ、どうだ、どうだ、どうだ?」
「うーん、うう……おもいだしてござる」
三太夫さん、唐紙をさらっとあけて、
「して、お使者のご口上は?」
「屋敷をでるおり、聞かずにまいった」
転宅《てんたく》
むかしからずいぶん有名な泥棒がございます。袴垂保輔《はかまだれやすすけ》、熊坂|長範《ちようはん》、石川五右衛門なんていうすごいのがおりました。そうかとおもうと、なんとか小僧というのがでた時代がございます。因幡《いなば》小僧、弁天小僧、鼠小僧、因果小僧、膝小僧……膝小僧なんてえのはありませんけれど、とにかくかならず小僧という字がついております。しかし、この連中だって、だんだん年をとってきますから、いい年をして小僧じゃ気がきかないからってんで、呼び名を変えると、おかしなのができあがりますな。因幡おとっつあん、弁天おやじ、鼠おじいさん、なんてんで、仕事をしないうちにつかまっちまいそうで……
まあ、いろんな泥棒がございますが、落語のほうにでてくる泥棒は、そんなはっきりしたのはおりません。
ところは浜町へんでございまして、夜も十二時をまわったころ、旦那を送りだしてまいりましたご婦人は、いわずと知れたお妾《めかけ》、二号さんで、年のころが二十五、六、色白の美人、旦那のほうは、赤ら顔で、でっぷりふとったりっぱな男ぶりで……
「じゃあ、あたしはすこし用もあるからうちへ帰るよ。またあしたくるからね。あ、それからここに金がある。これをおまえにあげるから、着物でもお買いよ。このごろは、ほうぼうへ泥棒がはいるそうだから用心しなさい。戸じまりを厳重にして、いいかい? じゃあ帰りますから……」
「はい、十分気をつけます。ごきげんよろしく……ごめんください」
おもてのしまりをいたしまして奥へきてみますと、いままで旦那が坐っていたざぶとんへ、変な男が大あぐらをかいて、お膳の上ののこりものをむしゃむしゃ食べております。
「あら、ちょいと、なんだい、おまえは?」
「なんだいとはなんだ。しずかにしろい。この夜ふけに、人のうちへだまってへえってくりゃあ、いわずと知れた泥棒さまよ」
「あらまあ、そうだったの……おまえさん、泥ちゃんかい?」
「あれっ、泥ちゃんだってやがらあ、気やすくいうねえ、てめえ、こわくねえのか?」
「え? なんだい?」
「こわくねえのか?」
「そうだねえ、こわくないねえ」
「こわくねえ? 張りあいのねえ女だな……ちったあこわがったらどうだ? それが泥棒に対する義理ってえもんだ」
「そうかい? そういうもんかねえ? じゃあこわがろうかねえ」
「こわがってくれよ」
「そう、おまえさん、たのむのかい? たのまれりゃあ、あたしだって江戸っ子だよ、こわがってやろうじゃあないか……おお、こわいこわい」
「ばかにするない……ちぇっ、おかしな女だ。人をおひゃらかしやがって……さあ、ぐずぐずいわずにだせ」
「だせ? なにを?」
「とぼけるなよ。泥棒がだせといえばきまってらあ。金をだせ」
「お金? あら、おあいにくさま。きょうは一|文《もん》なしだよ」
「うそつきあがれ。いま、旦那が、てめえに金をわたしたじゃあねえか。さあ、おとなしくだしちまえ。いやだなんぞとぬかしたら、二尺八寸の強刀《だんびら》をずぶりずぶりとおみめえ申さあ」
「ようよう、音羽屋!」
「変なとこでほめるなよ、気がぬけちまうじゃあねえか」
「おまえさん、二尺八寸の強刀《だんびら》ったって、なんにも差していないじゃあないか」
「なにい? ……あっ、しまった、わすれてきた」
「しまらないねえ。けれども、おまえさん、あたしがお金をうけとるのをみてたのかい? わるいとこをみられちゃったねえ」
「さあ、はやくだせ」
「そうはいかないよ。あした旦那がきて、『金はどうだった? 大丈夫だったか?』『じつは泥棒にとられました』なんていったってほんとうにするもんじゃあないよ。うちの旦那は、そりゃあうたぐりぶかいんだから……自分は年よりで、あたしが若いから、浮気でもしてつかっちまったんじゃあないかと、変に気をまわして、それっきりおはらい箱になっちまったら、ばかをみるのはあたしじゃないか。だからさ、このお金をおまえさんにとられちまって、旦那によされてもこまらないように、後釜《あとがま》をこしらえておきたいんだよ……ねえ、ちょいと、わかるだろ? 泥ちゃん」
「よせよ、泥ちゃんなんて呼ぶない」
「だって、名前を知らないんだからかんにんしとくれよ……そうだ、いいことをおもいついた。おまえさん、こうやって、あちこちに泥棒にはいって顔が広いんだろ? だから、あたしに後釜の旦那を世話しておくれよ」
「じょうだんいうねえ。泥棒に旦那を世話してくれなんてたのむやつがあるもんか……それに、おめえだけのきりょうを持ってりゃあ、旦那になり手はいくらもあるだろう?」
「まあ、こんなおかめでも、なんとかいってくれる人はあるんだけれども、あたしゃあ、商売に好《この》みがあってね、どんな人でもいいってわけにいかないんだよ」
「ずいぶんぜいたくなことをいってるじゃあねえか。商売に好みがあるって、どんな商売のやつがいいんだ?」
「それがね、ちょいといいにくいけども、あたしゃあ、おまえさんぐらいいい商売の人はないとおもうんだよ」
「どうして?」
「そうじゃないか。人がいっしょうけんめいかせいで貯《た》めたお金をただ持ってきちまう、税金はとられないし、こんないい商売はありゃあしないよ。長い浮世に短い命、太く短く暮らす華《はな》やかな稼業《かぎよう》じゃあないか。だから、あたしが後釜にほしいのは、じつは泥棒さんなのさ」
「うふふふ……おい、おだてるない。ばかもやすみやすみいいねえ。いくらおめえがかわってる女でも、なにも好《す》き好《この》んで泥棒といっしょになるやつがあるもんか」
「だって、ここにあるんだからしょうがないじゃあないか。あのねえ、大きな声じゃあいえないけどもさ、ほんとうは、あたしもお仲間《なかま》なのさ」
「え? お仲間? おめえも泥棒なのかい? ほんとうかい? ……ふーん、そうかい、知らねえこととはいいながら、お仲間のうちへへえっちまって、なんとも申しわけねえ。かんべんしてくんねえよ。しかし、おめえが盗《ぬす》っ人《と》といっしょになりてえんなら、おれがなろうじゃねえか。これで、おらあ、みかけはどじだよ。みかけはどじだけれども、仕事にかけちゃあ、人にひけはとらねえ……どうだ、おれじゃあいやか?」
「あら、うれしいねえ。おまえさん、本気かい? そんなことをいってうれしがらせておいて、陰《かげ》へまわって舌をだしたりするんじゃないだろうね? うそじゃないだろうね? うそをつくのは泥棒のはじまり……あら、泥棒になってたねえ」
「なにいってやんでえ……どうだ、おれじゃあ、いやか?」
「うれしいよ。けれどもねえ、あたしゃあ、なんのなにがしっていう二つ名前の泥棒といっしょになりたいのさ。おまえさん、なにかあるのかい、肩書きが?」
「そりゃああるとも……」
「あらっ、ちょいとたのもしいね。おまえさん、なんていうの?」
「うん、おれはな……鼠小僧の子分で、うさぎ小僧のぴょん助てんだ」
「うふっ……いえ、まあ、すばしっこそうな名前だこと……あたしゃ気にいったよ」
「そうかい、そりゃあよかった……そうときまれば、さっそく三三九度のさかずきといこうじゃねえか……え? 酌をしてくれるのか、すまねえなあ……うーん、こりゃあいい酒だ。さあ、おめえもひとついきねえ、え? そうかい、じゃあついでだ。もう一ペえたのむぜ。おっ、ありがと、ありがとう……ああ、いい心持ちだ……なあ、おい」
「なんだよ?」
「おれは、おめえの亭主だなあ、へへへへ」
「なんだよ、気味のわるい笑いかたをして……そりゃあ、おまえさんは、あたしのご亭主さ」
「だからさ、おらあ、今夜ここへ泊まっていこうじゃねえか」
「あら、ちょいと、そんな助平根性《すけべこんじよう》だしちゃあだめだよ。そりゃあ、あたしだって泊めてあげたいのさ。けれどもねえ、さっきもいった通り、旦那がうたぐりぶかいもんだから、あたしが浮気でもしちゃいけないってんで、二階に置いてあるんだよ、隠し目付けが……」
「えっ、か、か、隠し目付け? な、な、なんでえ、隠し目付けなんか」
「あら、どうしたの? おまえさん、いやにふるえてるね」
「なーに、武者ぶるいよ……その、か、隠し目付けってえやつをひねりつぶしてやろうじゃあねえか」
「なにいってんだよ、おまえさん、いくらえらそうなことをいってもだめさ。二階の人は強いんだから……剣道ができて、柔道ができて、このごろじゃあ、空手《からて》もやってるそうだよ」
「えっ、ちっとも知らねえで、さっきから大きな声をだして……」
「いいんだよ。いくら強くっても大丈夫、二階の人はつんぼだよ」
「おどかすなよ。それをさきにいってくれよ。なーんだ、つんぼか、相手がつんぼなら……」
「およしよ、この人は、なんでそんなに大きな声をだすのさ。二階の人はつんぼでも、おとなりには、巡査《おまわり》さんが五人も下宿してるんだよ」
「そいつあおどろいた。変なうちへへえっちまったなあ……おらあ、なんだか気持ちがわるくなっちまった。もう帰るよ」
「そんなことをいわずに、もう一ぱいやっておいでよ」
「酒なんか飲む気分になれるもんか。おらあほんとうに帰る」
「そうかい、帰るのかい? わるいねえ、このまま帰したりして……夫婦約束もできたというのにさ、あしたおいでよ。昼間ならばだれもいないから……待ってるよ」
「うん、あしたくらあ……じゃあ、帰るから、だしてくれ」
「なにを?」
「なにをって、きまってるじゃあねえか。おめえが旦那からもらった金よ」
「なにいってんだよ。このお金をおまえにやれるもんかね。このお金をもってって、おまえがどっかで浮気しちまえば、ばかをみるのはあたしじゃないか。だからさ、あした、おまえさんがくるまで、あたしがちゃんと持ってるから……けれどもさ、おまえさん、今夜どっかに泊まるお金がないとこまるねえ、そのくらいのお金はあげようか」
「なにいってやんでえ。そうみくびってもらいたくねえや。一文なしであるいてるような、そんな駈けだしの盗っ人たあわけがちがうんだ。まあ、みてくんねえ、この紙入れを……」
「おや、なんだねえ、この人は……むきになって紙入れをほうりだしたりして……どうせいくらも持っちゃあいないんだろう? ……あらっ、ちょいと、おまえさん、柄《がら》にないお金を持ってるんだねえ。こんな大金をおまえに持たしておくと、あたしゃあ気がかりだから、あしたまであずかっとくよ」
「じょうだんいっちゃあいけねえ。そいつあだめだよ。だめだってえのに……」
「なにいってんだよ。水くさいよ。おまえさんとあたしは夫婦じゃないか。おまえさんの物はあたしの物、あたしの物はあたしの物だよ」
「じゃあ、おれの物はねえじゃあねえか」
「いいんだよ。あしたっからは、どうせいっしょに暮らすんじゃあないか。ぐずぐずいわずにお帰りよ」
「うふふふ、そういわれてみりゃあ、そんなもんだな……じゃあ、おれ帰るよ、ねえさん」
「ねえさんてえのはいやだよ。女房をつかまえて、ねえさんなんてえやつがあるもんかね、あたしの名を呼んでおくれよ」
「そうか……しかし、名を呼んでおくれったって、おめえの名前なんか聞いてねえじゃあねえか」
「あら、そうだったかい? いったつもりだったんだけど……いいかい、わすれちゃあいやだよ、お梅っていうんだよ」
「そうかい、いい名だな……じゃあ、お梅さん、あしたくるぜ」
「いやだねえ、女房をつかまえてさんづけにするやつがあるかい、お梅といっとくれ、お梅と……」
「弱ったなあ、あらたまっていうとなると、どうもいいにくいなあ」
「なにいってんだよ。男のくせにはっきりおしよ。さあ、はやくいってごらん、お梅って……」
「うん……じゃあ、いうから怒っちゃいけねえぜ……そんならお梅」
「うれしゅうござんす泥棒さん」
「じゃあ、あしたきっとくるからな」
「またの逢う瀬をたのしみに……」
芝居がかりで送りだされて、すっかりぼーっとなってしまいました。
まぬけな泥棒があるもので、その晩はどこで夜をあかしましたか、夜があけると、約束だてんでやってきてみましたが、うちのなかがいやにしーんとしております。ことによったら旦那がきているのかも知れないってんで、一まわりしてきてみました。またおなじようすなので、また一まわり、また一まわりとなんべんまわってきてもおなじことなので、さすがにのんきな泥棒もふしぎにおもいまして……
「どうしたのかなあ? なんべんもいったりきたりしてたらあやしまれるじゃあねえか……いったいどういうわけなんだろう? となりのたばこ屋で聞いてみたらわかるだろう……ええ、ごめんください」
「はい、おたばこをさしあげますか?」
「いえ、たばこを買いにきたんじゃあございません。すこしお聞き申したいことがあってうかがったんで……」
「なんです?」
「となりのうちはどうかしましたか?」
「となり? お梅さんのお宅ですか?」
「ええ、そうなんで……そのお梅のうちなんですが……」
「ははあ、おまえさんはお梅と呼びつけにしなさるところをみると、お梅さんのお身内《みうち》でおいでなさいますか?」
「へへへへ、まあ、そういったもんで……」
「ああそうですか。おとなりのお梅さんのうちにはたいへんな珍談がありますから、まあおかけなさい。おいおい、ばあさんや、こちらさまにふとんを持ってきてあげなさい。それから茶をいれてな、お梅さんのなにかご親類のかたがおいでなすった……ばあさん、また笑いはじめてはいけねえ……あのとおりゆうべから笑いつづけなんでございます」
「ゆうべなにかお梅のうちにありましたか?」
「いえね、お梅さんのうちへ泥棒がはいりましてね」
「えっ、ど、泥棒?! ……それは、どうも、ぶ、ぶ、物騒《ぶつそう》なことで……」
「ところが、その泥棒がまぬけな野郎なんで……」
「まぬけな野郎?」
「ええ、なんだか、お梅さんが、旦那から金をもらうのをみたとかいってそれをだせとかいって凄《すご》んでたんだが、お梅さんはしっかりもんだ。おちついてよくみると、どっか助平ったらしくてぬけてるようすだから、こりゃあ色じかけでもちかけたらうまくひっかかるんじゃないかと、もちかけてみると、野郎、案《あん》の定《じよう》ひっかかりやあがって、あげくの果てに夫婦約束までしたそうだ。ところが、その野郎、根が助平だから、今夜泊まっていくといいだした。さあ泊まられちゃあたいへんだから、となりに巡査が下宿してる、二階に隠し目付けがいるってんでおどかしたら、その野郎、泡あ食らったってんだが、どこまでまぬけにできあがった泥棒なんだか、よくみりゃあいいんだ。二階に隠し目付けがいるったって、となりは平屋《ひらや》じゃあありませんか」
「あー、なるほど……よくみますと、たしかに平屋で……平屋に二階はないや……こりゃあおどろきました。で、どうしました?」
「それからねえ、おまえの物はあたしの物だってんで、泥棒の持ってる金までとりあげて泥棒を追い帰したそうだが、いくらしっかりもんでもそこは女だ。泥棒が帰ったあとで急にこわくなって、旦那を呼びにやった。旦那がおどろいてきてみると、泥棒がはいってこれこれだという。あとでその泥棒に仕返しでもされちゃあたいへんだといって、多勢の人がきて、道具やなんかかたづけて、とうにご転宅になりましたよ」
「へえー……」
「どうしたんです? おまえさん、妙な声をだして……まあ、お聞きなさい、そいつの紙入れをあずかったところが、なかに印形《いんぎよう》と名刺《なふだ》がはいっていたので、住所姓名まですっかりわかっちまいましたから、今日中にはつかまりましょうよ」
「へへっ、そりゃあどうも……とほほほ……」
「おや、おまえさん、泣いてるね……ははあそうか、おまえさん、親類だなんていってたけど、そうじゃあないな。お梅さんはあれでなかなかの女だ。おまえさん、でれっとして、いくらかひっかかったんだな。まあ、あきらめなさい。女は魔物だ。間男さわぎにならなかっただけよかったとおもうことだ」
「へへっ、ありがとうございます。どうもひどい目にあいました。で、あの女は、いったい何者でございます?」
「さあ、あたしもこまかいことは知りませんが、なんでも、もとはいなかまわりの義太夫の太夫だったそうですよ」
「えっ、義太夫の太夫だった? ……道理でうまく語り(騙《かた》り)やあがった」
三|枚起請《まいきしよう》
むかしの狂歌に、
傾城《けいせい》の恋はまことの恋ならで
金持ってこいが本当《ほん》のこいなり
というのがありますが、傾城、つまりおいらんというものは、客にうまいことをいってだますのが商売だったのですから、金持ってこいという恋だとは、まことにうまいことをいったもんで……
「ごめんください」
「よう、半ちゃんかい、まあおはいりよ」
「へえ……どうもごぶさたいたしまして……」
「いや、ごぶさたはおたげえだが……このごろ、おめえさん、ろくにうちへ帰らねえそうじゃねえか。おふくろさんがきて、ぐちをこぼしてたぜ。いったい、なにをしてるんだい? なにかわるいことでもしてるんじゃないのかい? 丁半《ちようはん》かなんか……ばくちだろ?」
「いえ、ばくちなんか……」
「きらいか?」
「好きなんで……」
「やっぱりばくちか」
「いいえ、いまはそのほうじゃないんで……ちょいとばかり弱ってるんで……」
「弱ってる? どうして?」
「女のことで……」
「女のことで?」
「ええ」
「相手はなにものだ? 白か黒か?」
「白犬でも黒犬でもねえんで……人間なんで……」
「人間はわかってるよ。しろうとか、くろうとかと聞いてるんじゃねえか」
「吉原の女なんで……」
「じゃあ、黒じゃねえか」
「ええ、まっ黒なんで……」
「なんだ、まっ黒とは……それじゃあ、まるでなべのけつじゃねえか……で、その女は、おめえさんに惚《ほ》れてるのかい?」
「それが惚れてるから弱ってるんで……おふくろのほうは、あたしが三日や四日帰らなくてもただ心配するだけのことで、いのちにはかかわらないが、女のほうは、あたしが三日いかなければ死ぬんで……あたしゃ人命救助のために通ってる」
「ほんとうなのかい?」
「ほんとうですとも……『来年三月、年期《ねん》があけたら、おまはんのとこへいって、おまはんと夫婦《めおと》になりたい』といってるんで……『だから、年期のあけるまで、待っててちょうだいよ』なんて……まったく弱っちゃう」
「だけどさあ、そんなに安心してていいのかなあ、都都逸《どどいつ》にだってあるじゃないか、『年期があけたら、おまえのそばに、きっといきます。ことわりに』って……」
「いえ、そりゃあ大丈夫なんで……」
「どうして?」
「その女から、ちゃんと書いたものをもらって持ってるから……」
「書いたものって? 起請《きしよう》かい?」
「そうなんで……」
「ちょっとみせてごらんよ」
「それがだめなんで……」
「どうして?」
「いかなる責苦《せめく》にあっても、人にはみせないと約束したんですから……」
「いかなる責苦にあってもとは、また大げさだねえ……ちょいとみせてごらんよ。みなくっちゃあ、うそかほんとかわからないじゃないか」
「そうですか、それじゃあ、棟梁だけにみせますけど、だまっててくださいよ。じつは、これなんですが、みるんなら、うがい手洗《ちようず》に身を清めてからにしてくださいな。なにしろご直筆《じきひつ》なんですから……」
「なんだい、うがい手洗とか、ご直筆とか……ばかばかしいことをいいなさんな……ふーん、なるほど書いたね、ふーん……なになに……『ひとつ起請文のこと、わたくしこと、来年三月年期があけ候《そうら》えば、あなたさまと夫婦になること実証なり。吉原江戸町二丁目朝日楼うち、喜瀬川こと山中すみ』……えっ、これかい?」
「どうです? たしかなもんでしょ?」
「半ちゃん、おまえさん、ほんとにこれもらってよろこんでるのかい? ばかだね、おまえは……へっ、なんだい、こんなもの」
「あれっ、ひどいや、いくら棟梁でも、それを投げるなんて……」
「おうおう、なんだい、いただいてるな……およしよ、ばかばかしい……」
「ばかばかしい?」
「そうだよ。ばかばかしいや。じつはね、あたしもおまえさんとおんなじ起請を持ってるんだ。どうだい、これ……」
「あれっ……ほんとにおんなじ起請だ。どうして持ってるんです?」
「あたしももらったから持ってるのさ。この妓《こ》はね、もと新宿にいたんだ。それが住みかえして、吉原《なか》にきたんだよ……あたしが、こうやって、かかあを持たずにいるのは、この女のためなんだ。『来年三月、年期があけたら、おまはんと夫婦《めおと》になりたい』っていうから、こうやってひとり身で待ってたんだ」
「ちくしょう、喜瀬川のやつ、人をだましやがって……」
「あたしもだまされたんだ」
「ほんとうに、あの女だけはとおもってたら……ちくしょうめ、ちくしょうめ……」
「およしよ。相手は商売なんだから、怒ったってしょうがねえや」
「だけど、くやしくって、くやしくって……」
「およしよ。おいおい、おしゃべりの金公がきたから、およしよ」
「おう、いま、なにかいってたな、おれのことを……」
「なにもいってやしねえぜ」
「おれがへえってきたら、おれの顔をみて、おしゃべりの金公がきたといったろ、えー、おれがそんなにおしゃべりかい? こりゃあ、いくら棟梁のことばでもおもしろくねえや」
「おい、金ちゃん、ものごとはよく聞いてから怒りなよ。だれがおまえのことをおしゃべりの金公なんていうもんか。いま、この半ちゃんがきて、女にだまされたってくやしがるから、そんなことをおしゃべりするなっていってるとき、おまえが首をだしたので、おしゃべり……金公とことばがつづいちまったんだ。だれがおまえのことをおしゃべりなんていうもんか」
「へえ、そうだったのかい。で、どうしたんだ、半ちゃん、女にだまされたってのは?」
「じつは起請をもらったんだが……」
「起請をもらったんだが……どうしたい?」
「それがどうもあてにならねえんだ」
「起請があてにならねえ? どうして? ……どんな起請なんだ。みせてごらんよ。みせなよ……ふーん、こういうものを持ってよろこんでるのかね。おまえは、長生きするよ。夜もよく寝られるだろう。丈夫でうらやましいや。なあ、女からこんなものをもらってよろこんでるなんて……うふふ、甘えもんだ……なに、なに『ひとつ起請文のこと』か、……うん、たいてい文句はきまってるんだな。えっ、なんだと……『わたくしこと、来年三月年期があけ候えば、あなたさまと夫婦になること実証なり……吉原江戸町二丁目……喜瀬川……』おいっ、この女は、もと新宿にいたんじゃねえかい?」
「そうなんだ」
「としは二十四、五だろ」
「ああ」
「鼻がつーんと高い」
「目がふたつあって……」
「あたりめえだよ」
「棟梁はだまっててくんねえ……色が白くて、右の目の下にほくろがあらあ」
「うんうん、そうだ。うふっ、もう一枚でてきそうだな」
「なんだと? ……で、この妓かい、おめえに起請をよこしたのは?」
「いよいよでてくるな、もう一枚……」
「ちくしょうめっ、かんべんできねえ」
「どうしたんだい、金ちゃん、おいおい、半ちゃん、とめてやれ、とめてやれ。台所から出刃庖丁なんか持ちだしてあぶねえや。はやくとめてやれ」
「出刃庖丁じゃねえ、わさびおろしだ」
「わさびおろしなんかどうするんだ?」
「しゃくにさわるから、あの妓のつんと高え鼻のあたまをこすって低くしてやらあ」
「おいおい、そんなことおよしよ。まあお待ちよ。じつは、あたしもおなじ起請もらったんだ」
「えっ、棟梁もかい」
「うん」
「じゃあ、三人ともだまされてるんじゃねえか……しかし、おれは、この起請については、一通りや二通りのことじゃねえんだ」
「ふーん、よっぽどこみいった事情でもあるのかい?」
「ああ、そりゃあたいへんなもんだ。ちょうど去年の十月の末だった。おれは仕事で山谷までいったんだが、帰りに一ペえやって、ぶらぶらと吉原をひやかしているうちに、ついあがっちまったのが、その朝日楼てえうちで、その敵娼《あいかた》てえのが、この喜瀬川だ。初会《しよかい》から惚れたとか、女房にしてくれとかいやあがるから、なにいってやんでえとおもっていたけども、女もいっしょうけんめいつとめるから、つい二度、三度と通ううちにね、わすれもしねえや、去年の暮れの二十八日だった。おれんとこへ手紙がきて、相談したいことがあるから、すぐにきてくれってえから、おれはとんでいった。で、なんの用だと聞いたら、『あたしゃ、この暮れに、二十円のお金がどうしても入り用なんだから、おまえさん、助けるとおもって、どうか二十円こしらえておくんなさい。ほかにたのむお客さんもたくさんあるけど、ほかのお客さんにたのんだら、おまえさんと世帯を持つときの足手まといになるといけないから、おまえさん、二十円こしらえとくれ』とこういうんだ」
「うん、うん」
「おれも、『ああいいよ』といって引き受けたんだが、二十円はさておいて、五円の金もありゃあしねえや」
「安請けあいするない。で、どうしたい?」
「そこで、おれの妹が、上野に奉公してるから、妹のところへいって空涙《そらなみだ》をこぼして、『じつは、おふくろが病気で、医者にみてもらったところが、これは入院させなくてはいけないっていうんだ。それについて二十円の金がいるんだが、なんとかこしらえてくれねえか。おれは、ここんところ、どうにも都合がつかねえんだから……』とこういったら、妹もおどろいて、『おっかさんの病気じゃあほうっておけないから、ちょっと、兄さんお待ちよ』って、奥へいって、大きなふろしきづつみを持ってきて、『ここに、わたしの着物がみんなはいっているから、これを持ってって、なんとか都合しておくれ』っていうから、そいつをかついで、やひっつあんのとこへいったんだ」
「なんだい、そのやひっつあんてえのは?」
「質屋をさかさまにしたんだ」
「変なものをさかさまにするなよ。で、それから? ……」
「ところが、着物の数は多いんだが、なにしろみんな木綿ものばかりだから、どうしても七円にしかならねえんだ」
「うん、うん」
「だから、またひっかえして、七円にしかならなかったというと、妹のやつは奥へいって、ご主人にたのみこんで給金の前借りをしてやっと二十円の金をつくってくれたんだ。それを持ってって、あの妓にわたすと、ぽろぽろ涙をこぼして、『まあ、おまえさんはなんて情が深いんだろう。あたしゃ、どうしてもおまえさんと夫婦になるよ』ってんで、書いてくれたのがこの起請《きしよう》なんだ。まあ、だまされたおれはあきらめがつくが、なにも知らずに、あついにつけ、さむいにつけて、不自由なおもいをして奉公してるかとおもうと、妹がふびんでなあ」
「そうか。わけを聞くと、気の毒だなあ」
「いままでだまされていたかとおもうとざんねんな」
「そりゃあ、おめえの怒るのももっともだ」
「妹がふびんな」
「もっともだ」
「ざんねんな」
「道理」
「くちおしいわやい」
「チチ、チチチ……」
「ばかっ、三味線のまねなんかするない。おい、金ちゃん、おめえもそういう目にあってるなら、どうだい、みんなであの妓をやっつけてやろうじゃねえか」
「やっつけてやる? どうなるんで? ……え、棟梁」
「まあ、女郎にだまされたんだから、げんこをふりまわしたりするのもみっともねえはなしだ」
「そうだな」
「だから、今夜、三人であすこへいって、あの妓を前において、三枚の起請をだして、あの妓に赤っ恥かかせて、吉原にいられねえような目にあわしてやるってのはどうだい?」
「うん、そいつあいいや。そうしねえと、おれの腹の虫がおさまらねえや」
「それじゃあ、そういうことにして、日が暮れたらでかけようじゃねえか」
相談がまとまりまして、日が暮れると、三人はしたくをして、浅草から千束《せんぞく》町の通りをぶらぶらやってまいりました。
「おい、半ちゃん、なにをげらげら笑ってるんだ。みっともねえじゃねえか。どうしたんだい?」
「金ちゃん、ちょっとみろよ。むこうへ一ぴきめす犬がいくと、あとからおすが三びきついていかあ。あれもやっぱり、みんな起請をもらってるんだろうか?」
「ばかっ、犬が起請をもらったりするもんか。くだらねえことをいうない……さあ、大門にはいるよ」
「ああ」
「これから、あの女のところへじかにいったってだめだぜ」
「どうするんだい?」
「あすこに、おれのいきつけの井筒《いづつ》ってえ茶屋があるから、あすこへあの女をよびだすんだ」
「うん、そうか」
「こんばんは」
「おや、いらっしゃい。まあ、棟梁、どうなすったんです? このところずーっとおみかぎりねえ……なんだか知らないけど、おいらんがさびしがってましたよ。棟梁がちっとも顔みせてくれないって……ほんとにどうなすったの?」
「ちょいとわけありでな」
「あの妓、棟梁に夢中ですよ。ほんとに足駄はいて首ったけってんだから……『棟梁がちっとも顔みせてくれなくてさびしいわよ』って、そういってましたよ」
「ふん、いいかげんなことをいいやがって……」
「あら、どうして?」
「おれは、あの女はゆるせねえんだ」
「そんなことないでしょ。あなた、あの妓から、ちゃーんとかたいものをもらってるんでしょ?」
「それがかたくねえんだ。もう、やわらかくなって、ぐにゃぐにゃなんだ」
「あらっ、どういうこと? だまされた? そんなことがあるもんですか……え? それほんとなんですか? あらっ、いやだ……ふん、ふん、まあ、なんてにくらしい……それで、三人とも起請をもらって……まあ、にくいねえ……で、ふたりのおつれは、おもてに待たしてあるの? そりゃいけないわ。おつれさん、はやくこちらへおいれ申して……さあ、どうぞ、こちらへ」
「こんばんは」
「さあ、こちらへ」
「えへへへ……こんばんは。だまされた連中がそろってまいりまして……」
「そんなこというもんじゃありませんよ。でもねえ、いま聞いてびっくりしてたんですよ。ひどい妓ですわねえ……でもねえ、あなたがたはね、べつべつにおいでになるからだまされるんですよ。くるときは、三人いっしょにいらっしゃいよ」
「三人いっしょにきて、そろってだまされちゃあたまらねえや」
「そんなこといいっこなし……こんどは、まちがいなしのいい妓を世話しますから……で、棟梁、どうなさいますの? これから……」
「すまねえけど、三人いっしょだといわねえで、おれがきてるからと、あの妓をよんでもらいてえんだ」
「じゃあ、ちょいと待ってくださいよ。すぐによびますから……松や、みなさんをご案内して、二階の奥の間がいいわ。どうぞお二階へ……」
「そうかい。じゃあ、二階へあがって待つとしよう」
三人とも二階の部屋へ通されまして……
「こりゃあ、なかなか銭がかかってるうちですね、棟梁」
「うん」
「ねえ、棟梁、あのおかみ、なかなかいい女ですねえ」
「金ちゃんもそうおもうかい?」
「そりゃあ、おもいますよ。で、ありゃあ、もとはなにものなんです?」
「もとかい、あのおかみは、もとはでていたんだよ」
「柳の下に?」
「それじゃあ幽霊だよ。でてたてえのは、芸者だったんだ。それで、身請けされて、ここのおかみにおさまったんだが、そのとたんに、その旦那が、ぽっくり亡くなっちまったんだ」
「へーえ」
「だから、このうちが、自分のものになっちまったんだ」
「なるほど……じゃあ、あのおかみは、まるっきりのひとり身なのかねえ」
「そうだよ」
「そりゃあ、棟梁の前だけど、もったいねえはなしだ」
「もったいねえって、金ちゃんが気をもんでもどうにもなるめえ」
「おい、棟梁、半ちゃん、おらあ、喜瀬川という妓はやめた」
「じゃあ、どうする?」
「ここのうちへ養子にくる」
「ずうずうしいことをいうない。さあ、そろそろくるぜ。三人そろっていちゃあまずいから……そうだ。半ちゃん、おめえは、その戸棚へはいってくれ。それから、金ちゃん、おめえは、その屏風のうしろにいてくれ。おれがよびだすまで、ふたりとも勝手にでちゃあいけねえぜ。いいかい、おれがいいっていうまで、でちゃあだめだよ」
「ねえ、棟梁」
「なんだい?」
「でちゃあいけねえったって、あの妓は口がうめえから、『あたしがわるかったわ。ねえ、棟梁、ゆるしてちょうだい』かなんかいわれて、棟梁がまた女に甘えから、『うん、うん、そうかい』てなことをいって、ふたりで仲なおりしていちゃついたりしたら、こっちはばかばかしくって、戸棚のなかなんぞにへえっていられねえから、そこんとこをまちがいなくたのみますよ」
「半ちゃん、おめえも心配|性《しよう》だなあ……大丈夫だよ。よく戸をしめとけよ。おい、しめとけというのに……」
「ちょっとのあいだ、あけといてもらいてえんで……」
「どうして?」
「くさくてたまらねえんで……」
「湿《し》っ気《け》くさいのか?」
「いや、いま、ここへはいったとたん、一発やっちまったんで……」
「なんだなあ、このさなかに屁《へ》なんかするなんて……だらしがねえじゃねえか。きた、きた、きた。はやくしめとけよ。金ちゃんもでちゃあいけないよ。いいかい……ほら、きたよ」
「こんばんは。まあ、棟梁、どうしたの? ちっともきてくれなかったわねえ。ねえ、たまにはきてくれたらいいじゃないの。あたしだってさびしいのよ。だって、来年三月、棟梁といっしょになるまで、まだずいぶんあるんだもの……ねえ、棟梁が顔をみせてくれないと、あたしゃつまらなくって……あらっ、どうしたの? なにかあったの? 変な顔をしてさあ」
「どうせ、おれは変な顔だよ。ああ、変な顔だとも……」
「あらっ、気にさわったのかい……どうしたのさ、ええ、なにかあったのかい?」
「どうもこうもあるもんか」
「まあ、いやだねえ。ほかでなにかあって、あたしにあたりちらしたりして……さあ、たばこでも吸ったらどうなの? ねえ、煙管《きせる》をこっちへお貸しよ。あたしが火をつけてあげるから……」
「ああ、貸してやるよ。ちくしょうめ、ほれっ」
「あらっ、なにさ、煙管をほうったりして……あら、この煙管、すっかりつまっちまって、煙もなんにもでやあしないじゃないか。ちっとも掃除しないんだねえ。なにか煙管を通すものはないかい?」
「煙管を通すものか……うん、これで通してくれ」
「これ? あらっ、なんの紙? 手紙かい? ……あらあらっ、こりゃあ、あたしがあげた起請じゃあないか」
「起請だ? それがか? おらあ、また、広告のチラシかとおもったぜ」
「なんだって? チラシだって? わかった。ねえ、棟梁、おまえさん、あたしにあきたもんだから、こんないやがらせをするんだね。それにちがいないよ。みんながいってるよ。『ねえ、喜瀬川さん、おまえさん、あの棟梁に気をつけなくっちゃいけないよ。あれで、なかなか浮気っぽいんだから……このごろ、前にわけありだった妓が帰ってきてるんだから気をおつけ。なにしろ、焼けぼっくいに火がつきやすいっていうからね。おまえさん、やきもちもなんにもやかなくっちゃあいけないよ。女がやきもちをやかないのは、おさしみにわさびがないようなもんで、男にはものたりないもんだよ』っていわれたから、あたしゃあ、うらみごとのひとつもいおうとおもってたのさ。でもねえ、そんなことをいって、おまえさんにきらわれちゃあいけないとおもって、いいかげんがまんしてたんだよ……それなのに……それなのに……人がいのちがけで書いた起請をこんなことをして……ひどいよ。ひどいよ……」
「おう、おめえ、ここで泣いたって、一文にもなりゃあしねえぜ。それにしても、よくも涙がでるもんだなあ……おう、おめえ、いま、いのちがけで書いた起請だといったな。いのちがけで書く起請なら、一枚きりしか書きゃあしめえな」
「あたりまえさ。起請というものは、一枚のもんだよ」
「うそつけっ!! おめえ、建具屋の半公にも書いたろう」
「半ちゃん? なにいってるのさ。半ちゃんなんて、あんなやつに起請なんかやるもんかねえ、ほんとうにいやなやつだよ。あいつは……いやに色男ぶって……いやに色が白くって、ぶくぶくふくれててさ、水がめにおっこったおまんまっつぶみたいじゃないか。だれが、あんなやつに起請なんかやるもんかねえ」
「ほんとうか。半公に起請を書いたおぼえはないんだな」
「ああ、ないよ」
「おい、水がめにおっこったおまんまっつぶ、でてこいっ!」
「やいやいっ、このあまっ、水がめにおっこったおまんまっつぶとは、なんてことをいいやがるんだ!」
「あらっ、おまえさん、そこにはいってたの?!」
「はいってたのじゃねえやい。よくも、おれのことをだましゃあがったな」
「やい、喜瀬川、おめえは、経師屋《きようじや》の金ちゃんてえ人にもやったろ、起請を?」
「なんだって、経師屋の金ちゃん? ……ええ、金公かい? なーんだ。あんないやなやつはないねえ。あんなきざなやつはありゃあしない。まるで、きざの国からきざをひろめにきたようなやつだよ。だれがあんなやつに起請なんかやるもんかね」
「おい、きざの国からきざをひろめにきたやつ、でてこい!」
「やい、喜瀬川、きざの国からきざをひろめにきたとはなんだ!」
「まあ、いたの、金ちゃん? おまえさん、すっきりしてて、ほんとにようすがいいよ」
「なにいってやんでえ。こんちきしょう。もうかんべんできねえ。こっちへこい!」
「おや、おまえさん、あたしをぶとうってのかい? そうかい、ああ、ぶっとくれよ! さあ、ぶち殺しとくれよ! けどね、あたしのからだは、あたまのさきから足のさきまで、ちゃーんと証文に書いてあるんだよ。ご主人から金がでて、あたしのからだは、金で買われているんだからね。あたしを身請けしてから、ぶつとも、殺すとも、どうとも勝手にしとくれ! さあ、身請けでもなんでもしたらどうだい!」
「身請けなんかできるもんか」
「じゃあ、その手をなんでふりあげているんだい?」
「うん、これは、おめえをなぐろうとおもって、こうやってるんじゃねえやい」
「じゃあ、なんだい?」
「これくれえのにぎりめしを夜食に食おうとおもって……」
「ざまあみやがれ、身請けもできないんだろう」
「おいおい、半ちゃんも、金ちゃんも、ちょっと待ってくれ。おれがかけあうから……おう、おう、喜瀬川、おめえだって色を売る商売じゃねえか。色気なしの声をだしなさんな。なあ、女郎なんてえものは、客をだますのが商売だ。だから、おれたちは、そのだましたのをぐずぐずいうんじゃねえ。しかし、おめえのだましかたがしゃくにさわるから、こうやって文句をいうんだい。なあ、ほんとうに腕のたしかな女郎は、客を口で殺すぜ。証拠ののこるうそをつくのは罪だぜ。むかしからいうじゃねえか。『いやな起請を書くときにゃ、熊野でからすが三羽死ぬ』って……」
「あら、そうなの、三羽死ぬの? それならね、あたしは、もっともっといやな起請をどっさり書いて、世界中のからすをみな殺しにしちゃうわ」
「からすをみな殺しにする? おめえは、からすにうらみでもあるのか?」
「べつにうらみなんかないけどさ、あたしもつとめの身だもの、世界中のからすを殺して、ゆっくり朝寝がしてみたい」
やかん
無学者は論に負けず、無法は腕ずくに勝つ、なんてことを申しますが、よく知りもしないことを、むやみに知ってるふりをして説明してるかたがございます。こういうのがお笑いの種《たね》で……
「ええ、ごめんくださいまし。先生、いらっしゃいますか?」
「ほほう、あらわれたな、愚者《ぐしや》」
「え? なんかふみつぶしましたか?」
「なんだ?」
「いえ、ぐしゃって、そういったでしょ?」
「なにを申しておる。ぐしゃというのはな、おろかなるものと書いて、これを愚者と読む。つまり愚者といえば、おまえのことだぞ。わかったか、愚者」
「へーえ、その愚者てえのは、あっしのことですか? へーえ、そりゃあ、まあ、当人が気がつかねえうちに、愚者なんぞにしてもらって、どうもありがとうござんす」
「いや、礼をいうほどのことはない。まあ、そこへお坐り。ふーん、きょうは身なりがととのっておるな。どこぞへいってきたか?」
「へえ、きょうは、浅草の観音さまへおめえりをしやしてね」
「どこへいったんだ?」
「だから、浅草の観音さまへいったんで……」
「ほほう、浅草の観音さまへ……そういうものが、近ごろできたのか?」
「近ごろできたわけじゃあねえ。むかしっからあるじゃありませんか」
「そうか。いっこう知らんが、どのへんだ?」
「あれっ、知らねえのかい? ……雷門で電車をおりましょう。で、石畳がしいてあって、ずーっと、この売店があらあ、仲見世《なかみせ》てんだ。ふしぎなもんだね、どこの店でも、銭を持ってかなくっちゃ売ってくれねえ」
「あたりまえだ」
「つきあたりにお堂があるでしょ?」
「おまえのいう観音というのは、あれか?」
「へえ、あれさ」
「まねをするな。あれは観音ではない」
「へーえ、金毘羅《こんぴら》さまかい?」
「なにをいっておる。あれはな、金竜山浅草寺《きんりゆうさんせんそうじ》に安置したてまつる、聖観世音菩薩《しようかんぜおんぼさつ》というもんだ」
「へーえ、おっそろしく伸びちゃったねえ。やっぱり陽気がいいと伸びるかい?」
「アメではないから、陽気で伸びたりはしないよ……で、人は出ておったか?」
「ええ、陽気がいいもんですからねえ、ぞろぞろぞろぞろ、もう、出たの、出ねえのって、てえへんなもんで……」
「どっちなんだ? 出たのか、出ないのか?」
「だから、出たの出ねえのって……」
「出たかとおもえば、出ないというが、出たならば出た、出ないならば出ないといいな」
「ああ、そうか。じゃあ、出ました」
「そんなに出たか?」
「ええ、猫も杓子《しやくし》も出ました」
「猫も杓子も出た? ……猫は生きものだから出ないとはかぎらないが、杓子が出るのか?」
「そんなこたあ知らないよ。しゃもじがどういうかっこうで出てくるか……」
「だって、おまえ、いま、そういったではないか」
「だって、よくいうでしょ? 人が出たことを、猫も杓子も出たって……」
「だから、おまえは愚者だ。それをいうならば、女子《めこ》も赤子《せきし》もという」
「そりゃあなんです?」
「女子《めこ》とは女子《おなご》、赤子《せきし》は赤ん坊だ。つまり、女性も幼《おさ》な子《ご》も、老若男女《ろうにやくなんによ》すべてが出ており、たいそう雑踏《ざつとう》をいたしておりました、とこういうふうにいうべきだ。わかったか、愚者」
「変なところに愚者がついたね。へーえ、女子も赤子もですかねえ……」
「ばかに感心しているな……まあ、お茶でもおあがり」
「へえ、ありがとうござんす……うーん、こりゃあうめえや。結構なお煮花《にばな》でござんすねえ」
「なんだい、おにばなとは……いつ、あたしが鬼の鼻を飲ましたい?」
「だって、ていねいにいうと、お煮花ってんでしょ?」
「葉をいれて、出端《でばな》、つまりではじめをやったんだから、それは出花というべきだ」
「へーえ、出花かねえ……まあ、こうやって、うめえお出花をいただくってえと、なんか甘《あめ》えもんがほしくなるね」
「なんだ、甘えもんとは。甘味《あまみ》なら甘味といいなさい」
「うっかりなんかいうと、すぐに叱言《こごと》を食うんだからたまらねえや。じゃあ、その甘味を食わしておくんねえ」
「うん、到来物《とうらいもの》があるから、それをごちそうしよう」
「へーえ、葬《とむら》いでもらったんですか?」
「葬いじゃあない。到来物、つまり、もらいものだ」
「ああ、そうか。どうせ買やあしねえや」
「なにをいってるんだ……まあ、これをおあがり」
「うまそうなあんころですねえ」
「おいおい、そのあんころてえのはどういうわけだ?」
「どういうわけって……こりゃあ、あんころでしょ?」
「あんこの上をころっところがしただけで、そんなにうまくあんこがつくか?」
「さあねえ、つかねえでしょうねえ」
「つかないものをなぜあんころというか?」
「そんなりくついったってだめだよ。餅屋へいけば、どこだってあんころで売るじゃあありませんか」
「では、餅屋があんころといえば、おまえが、どうしてもあんころといわなければならぬ義理でもあるのか?」
「義理もなにもねえが、あんころじゃあねえのかい?」
「これは、あんこで餅をくるんであるのだから、あんくるみ餅というべきだ。どうしてもあんころといいたいならば、なんべんとなく、ころころころがすから、あんころころころころころころ、ころ餅といわねばならん」
「へーえ、むずかしいんだねえ。じゃあ、あんころころころころころころ、ころ餅をいただきます……しかし、なんですねえ、先生なんか、世のなかに知らねえってこたあねえんでしょう?」
「まあ、わしなどは、天地間にあらゆるもので、わからんことはないな」
「へーえ、てえしたもんですねえ……じゃあ教えてもれえてえんですが……さかなにねえ、いろんな名前がありますねえ、あれは、だれがつけたんです?」
「おまえはどうしてそのように愚《ぐ》なることを聞くんだ。そんなことは、どうでもいいじゃあないか」
「どうでもいいったって、あっしゃあ気になるから……」
「つまらんことを気にするんじゃあない」
「だれが名をつけたんです?」
「うるさいな……名をつけた者は……いわしだ」
「いわし? さかなのいわしですかい? へーえ、どうしてあのちっぽけなさかなが名をつけたんで?」
「いわしは下魚《げうお》といわれているが、あれでも数が多いから、さかなの中ではなかなか勢力があるんだ」
「へーえ、そんなもんですかねえ……じゃあ、いわしの名前はだれがつけたんです?」
「うーん……その……あれは、ひとりでにできた名前だ」
「どうして?」
「ほかのさかなたちが、『どうも名前をつけていただいてありがとうございました。さて、あなたはどんなお名前がよろしいのでございますか?』と聞いたんだが、そのときに、『わしのことは、なんとでもいわっし』とこたえた。そこで、いわしとなった」
「へーえ、いわっしで、いわしですかい?」
「そうだ」
「まぐろってえなあ、どういうわけなんで?」
「あれは、まっ黒だから、はじめは、まっくろといっていたが、それがつまってまぐろとなった」
「だって、まぐろの切り身は赤《あけ》えじゃあありませんか」
「だからおまえは愚者だ……切り身で泳ぐさかながいるか?」
「ああ、なるほど……ほうぼうってえのは?」
「ほうぼう? ……あれは、おちつきのないさかなで、ほうぼう泳ぎまわって住居が一定しない。そこでほうぼうだ」
「ほんとうですかい? ……じゃあ、こちってえのは?」
「こっちへ泳いでくるから、そこでこちだ」
「だって、むこうへ泳いでいきゃあむこうでしょ?」
「そういうときは、おまえがむこうへまわればこちになる」
「変だなあどうも……ひらめってえのはどういうわけなんで?」
「平ったいところに目があるから、ひらめだ」
「なるほど……じゃあ、かれいは?」
「あれは……平ったいところに目があって……」
「それじゃあ、ひらめとおんなじじゃあありませんか」
「だから、あれはなあ……」
「どうなんで?」
「うーん……そのう……そうそう、ひらめの家来だ」
「へーえ、さかなに家来なんかあるんですか?」
「あーあ、あるとも……たいとか、ひらめとか、ああいうのは身分のいいさかなで、人間にたとえると、あれは大名、のちの華族《かぞく》だな」
「その家来なんですか」
「ああ、家令《かれい》(華族の家の管理人)をしてるんだ」
「家令? それでかれいかい? なんだかおかしいなあ」
「おかしいことがあるもんか。むかしから、殿さまのことを御前《ごぜん》というだろう?」
「ええ」
「御前(ご膳)のことを、英語でライスという」
「へーえ、ご膳ていえば、おまんまでしょ? それをライスっていうんですか?」
「ああ、そばに家令(カレー)がついて、ライスカレー」
「なんだかあてにならねえなあ……じゃあ、うなぎてえなあどういうわけです?」
「おまえは、いきなりいろんなことを聞くなあ。うなぎは……あれは、もとは、のろといったんだ」
「のろ?」
「のろのろしてるから、のろといったんだ。あるとき、鵜《う》という鳥が、こののろを飲みこんじまった。半分までは飲んだんだが、あんまり大きいので、あとが飲みこめずに、鵜が目を白黒して苦しんでいた。これをみた人が、『やあ、あんな大きなのろを飲みかけて、鵜が難儀《なんぎ》をしている。鵜が難儀だ。鵜、難儀、鵜、難儀だ。うなぎだ』と、こういったんだ」
「なんだかおかしいなあ……じゃあ、うなぎを焼いたのを、かば焼きというのはどういうわけです?」
「かば焼きか? ……ええ……あれは、はじめはばか焼きといった。のろのろしてばかだから、ばか焼きといったんだが、いかにも名前がわるい。そこで、これをひっくりかえして、かば焼きというようになったな」
「名前をひっくりけえすなんて、おかしいじゃありませんか」
「ひっくりかえさないと焦《こ》げちまう」
「それじゃあ、おとしばなしだよ……この湯飲みてえのはどういうわけです?」
「湯を飲む道具だから湯飲みじゃあないか」
「ああそうか。つまんねえことを聞いちまったな……茶わんは?」
「茶わん? ……茶わんというのは……そのう……茶わんをここへ置くとうごかない。ちゃわんとしている」
「なんだかおかしいなあ……じゃあ、土瓶《どびん》てえのは?」
「これは泥でできている。こういうものは、むかしは瓶《かめ》をかたちどった。瓶《かめ》という文字は、『へい』と読む。瓶《へい》は、すなわち『びん』と読む。泥でできているから土瓶《どびん》だな」
「ああ、そうですか。鉄瓶《てつびん》は?」
「鉄でできてるから鉄瓶だ」
「ああ、そうか。じゃあ、やかんは?」
「やでできて……いないな」
「やでできてるわけじゃあねえさ。しんちゅうか、あかがねか、アルマイトだよ。だから、しんちゅうびんとか、あかびんとか、アルびんとかいいそうなもんじゃあありませんか。どういうわけで、これだけ、やかんというんです?」
「それはだな……むかしは……」
「のろといいましたか?」
「そんなことはない……ええ……これは、水わかしといった」
「水わかし? それをいうなら湯わかしでしょう?」
「だから、おまえは愚者だ。湯をわかしてどうなる? 水をわかして、はじめて湯になるんじゃあないか」
「ああ、そうか。じゃあ、どういうわけで、その水わかしがやかんになったんです?」
「水わかしがやかんになったについては、ここに一条の物語りがある」
「へーえ、どんな物語りがあるんで?」
「ころは元亀《げんき》、天正《てんしよう》のころというから戦国時代だ。このとき、信州の川中島をはさんで、対陣したのが上杉謙信と武田信玄の軍だ」
「ああ、川中島のいくさってえやつは、あっしも聞いたことがあります」
「ある日、大雨のときがあった。このような雨の日には、よもや敵は攻めてくることもあるまい。ひさしぶりに、大いに英気をやしなおうと、上戸《じようご》は酒、下戸《げこ》はふんだんにものを食べてぐっすり寝たが、油断大敵だ。片方の軍が夜討ちをかけた。物見の兵がこれをみて、『おのおのがた、夜討ちでござる! 夜討ちだ、夜討ちだ。お起き候《そうら》え! 夜討ちでござるぞ!』と陣地を触れあるいた。安心してぐっすり寝こんでいるところへ、夜討ちをかけられたんだから、周章狼狽《しゆうしようろうばい》、てんやわんや、人のかぶとをかぶっていく者があるかとおもうと、ひとつの鎧《よろい》を二、三人でひっぱりっこしている者もあって大さわぎ。このとき、ひとりの若武者がはね起きたが、若いに似合わず、おちついて身じたくをすませ、最後にかぶとをかぶろうとしたら、枕もとに置いてあったはずのかぶとがない」
「ははあ、だれかがあわててかぶっていっちまったんだな」
「さてこまったと、かたわらをみると、大きな水わかし、これに湯がぐらりぐらりとたぎっていた。『これ究竟《くつきよう》のかぶとなり』と、湯を大地へがばっとあけると、かぶとのかわりにかぶったな」
「へえー……で、どうしました?」
「これから、馬へ乗ってのりだしたが、この若武者が強いんだ。群《むら》がる敵勢のなかへとびこむと、縦横無尽に荒れまわるそのいきおいのすさまじさ……」
「そりゃあいさましいや」
「この若武者のために、敵がたは、どーっとうしろへさがっていく。これをふしぎにおもった敵がたの大将が、床几《しようぎ》からたちあがって、小手をかざしてながめると、緋《ひ》おどしの鎧《よろい》を着て、水わかしをかぶった異様な化けものが、馬上において、抜群《ばつぐん》のはたらきをしている。『あれへ奇っ怪なる水わかしの化けものがあらわれた。ただちに射ておとせ』という下知《げち》がくだったから、二、三十人の若ざむらいたちが、弓へ矢をつがえて、ヒョーフッとはなつと、水わかしにあたってカーンと音がした。また矢をはなつと、水わかしへあたってカーン、矢がとんできてはカーン、矢がとんできてはカーン、矢カーン、矢カーン、やかんとなった」
「とうとう、やかんにしちゃったねえ。どうもごくろうさま」
「これから陣地へ……」
「あれっ、まだつづきがあるんですか?」
「陣地へひきあげて、若武者が、ほっとひと息ついて水わかしをぬぐと、いままでまっ黒に生えていた毛がすっかりぬけていた」
「どうしたんです?」
「たぎりたった湯をあけて、あついのをがまんしてかぶっていた。それがために、すっかり毛がぬけてしまったんだ。これから、禿《は》げたあたまをやかんというようになった」
「またおかしくなった……しかし、あんなものをかぶったら、いくさをするのに不自由じゃあありませんか?」
「いや、そんなことはなかったな」
「そうですかねえ……ふたなんかどうしました?」
「あれは、ぽっち(つまみのところ)をくわえて面《めん》のかわりにした」
「へーえ……じゃあ、手に持つつるのところは?」
「つるは、あごへかけるから、忍《しの》び緒《お》のかわりになり、水わかしがおちなかったな」
「なるほど、ひものかわりになるとは、気がつかなかった。やかんの口は?」
「むかしのいくさは、みんなが名乗りをあげた。そのときに聞こえないといけないから、口がそれを聞く耳の役をした」
「そりゃあおかしいや。耳なら上へむいてなきゃあ聞こえないじゃありませんか。あれ、かぶったら下をむくのに……」
「だから、おまえは愚者だ。その日は、朝からの大雨だ。口が上をむいてたら、雨がはいってきて耳だれになるぞ」
「なーるほど……それにしてもおかしいよ。耳なら両方にありそうなもんじゃありませんか。片っぽうねえのはどういうわけです?」
「いやあ、ないほうは、枕《まくら》をつけて寝るほうだ」
崇徳院《すとくいん》
「こんにちは、旦那さま、熊五郎で……なにかおつかいをいただきましたそうで……」
「ああ、熊さんか、いそがしいところをごくろうさま。待ってたんだ。またひとつ、やってもらわなくちゃあならないことができた……というのは、せがれのことなんだが……」
「若旦那がどうかなすったんで?」
「うん、一月ほど前から、ぐあいがわるいと寝こんでしまった。いろいろと医者にもみせたんだが、どの医者も診立《みた》てがつかないと首をかしげるばかり……どうも弱ったことになってしまった」
「へーえ、ちっとも存じませんで……そりゃあ、お気の毒なことをしましたねえ。じゃあ、あっしは、これから寺へいってきますから、葬儀屋は、どなたかほかのかたを……」
「これ、これ、ちょっと待っておくれ。せがれは、まだ死んだわけじゃないよ」
「へーえ、まだなんですか? はかがいかねえ」
「なにいってるんだ。はかなんぞいかれてたまるもんか。あんまり病名がわからないから、今朝《けさ》、ある名医におみせしたところが、これは、気病《きやま》いだとおっしゃる。つまり、なにか心におもいつめたことがあるにちがいない。だから薬を飲むよりも、そのおもいごとをかなえてやりさえすれば、病いはたちどころになおるが、ほうっておけば、重《おも》くなるばかりだという。そこで、あたしと母親と番頭とあれこれ聞いてみたんだが、どうしても口をわらない。では、だれにならはなすんだと問いつめたら、熊さん、おまえさんにならばうちあけるというんだ。ちいさいときから、おまえさんにはよくなついていたし、親にもいいにくいことも、おまえさんにならいえるのかも知れない。だから、その願いごとというのを聞きだしてやってもらいたいんだ」
「そうですか。じゃあ、あっしが、さっそく若旦那の胸のうちを聞きだしましょう。どちらにおやすみで? へえ、奥の離れに……へえ、へえ」
「あ、それから、熊さん、せがれは、ひどくからだが弱って、先生のはなしじゃあ、へたすれば、あと、五日《いつか》ぐらいしかもたないというんだから、耳もとで、あんまり大きな声をださないようにな」
「へえ、承知しました。まあ、あっしにおまかせなすって……ええ、奥の離れと……ああ、ここだ。うわー、薬のにおいがこもってるな。病人の部屋をこうしめきってたらいけねえなあ。もし、若旦那、若旦那!」
「ああ、大きな声をしちゃあいけないといってあるのに……だれだい?」
「なんてまあ、情けねえ声をだして……これじゃあ葬儀屋へいったほうがよさそうだなあ……若旦那、熊五郎でござんす」
「ああ、熊さんか。こっちへはいっとくれ」
「どうしました、若旦那、病名がわからないっていうじゃありませんか」
「医者にはわからなくても、あたしにはわかってるんだよ」
「へーえ、医者にわからなくって、若旦那にわかってる? じゃあ、おまえさんが医者になったほうがいいや。で、なにをそんなにおもいつめてるんです?」
「これだけは、だれにもいわずに死んでしまおうとおもっていたんだが、おまえにだけは聞いてもらいたい……けど、あたしがこんなことをいったからって、おまえ、笑っちゃあいけないよ」
「じょうだんいっちゃあいけねえや。人の病いのもとを聞いて笑うやつがあるもんですか。いってごらんなさい」
「ほんとうに笑わないかい? もし笑われたら、あたしゃ、恥ずかしいから死んでしまうよ」
「笑いませんよ。笑いませんとも」
「しかし……そういってても、あたしがこんなことをいったら、えへへ、やっぱり笑うだろうねえ、えへへへ……」
「おまえさんが笑ってるんじゃあねえか……あっしは笑いもどうもしねえから、きまりなんかわるくありませんよ。いってごらんなさい」
「そうかい、ほんとうに笑わないかい? じつはね……じつは……あたしの病いは……恋わずらい」
「うふふ」
「ほら、やっぱり笑ったじゃないか」
「すいません。もう笑いませんから、かんべんしてくださいな……しかし、また、恋わずらいとは、いまどきめずらしい病気をしょいこんだもんですねえ。どういうことなんです?」
「一月ほど前に、上野の清水さまへおまいりにいきました」
「へえへえ、それで?」
「ひさしぶりにおまいりしたけれど、おまえも知ってる通り、清水堂が高台で見晴しがよくっていい気持ちだったよ」
「そうそう、下に弁天さまの池がみえるし、向が岡、湯島天神、神田明神がみえて、左のほうに、聖天《しようてん》の森から待乳山《まつちやま》なんてんで、いいながめですからねえ」
「で、清水さまのそばの茶店で一服した」
「あすこのうちは、腰をかけると、すぐにお茶と羊かんを持ってきます。あの羊かんが厚く切ってあって、うめえのなんのって……羊かん、いくつ食べました?」
「羊かんなんぞ食べやあしないよ……こっちがやすんでるところへはいってきたのが、お年のころは十七、八、お供の女中を二、三人つれて、それはそれは水もたれるようなおかただ」
「へーえ、ひびのはいった徳利みてえなひとですね」
「ちがうよ、きれいな女の人を、水がたれるようなというんだよ」
「へーえ、じゃあ、きたねえ女は、醤油がたれるかなんかいうんで?」
「ばかなことをいうんじゃないよ。あんまりきれいなので、ああ、世のなかには、美しいお人もあるもんだと、あたしがじーっとみてると、そのかたもこっちをじーっとみていたかとおもったら、にこっとお笑いなすった」
「それじゃあ、むこうが負けだ」
「にらめっこのはなしじゃないよ……そのうちに、お嬢さんがでていらしったあとをみると、膝においてあった茶袱紗《ちやぶくさ》がわすれてある」
「こりゃあもうかったってんで、あなた、ふところへしまったでしょ?」
「そんなことをするもんか。あたしが立っていって、『これは、あなたのではございませんか』と、手から手へわたしてあげると、お嬢さんが、ていねいにおじぎをなすって、また、茶店へもどっていらっしゃると、料紙《りようし》をだせとおっしゃった」
「そりゃあ無理だ、上野あたりに漁師《りようし》はいやあしねえ。ありゃあ、やっぱり房州あたりまでいかなくっちゃあ」
「なにいってるんだよ。料紙というのは、ものを書く紙じゃあないか。茶店の亭主が、紙と硯《すずり》を持ってくると、お嬢さんが、紙にさらさらと歌を書いてくだすった。手にとってみると、『瀬をはやみ岩にせかるる滝川の』と書いてあるじゃあないか……」
「なにも泣かなくってもいいじゃありませんか……『瀬をはやみ岩にせかるる滝川の……』ふーん、やけどのまじないかね?」
「ばかなことをいうなよ。これは、百人一首にもはいってる崇徳院さまの有名なお歌で、下《しも》の句が、『割れても末に逢はむとぞ思ふ』というんだが、それが書いてない。これは、いまはここでおわかれしますが、いずれ末にはうれしくお目にかかれますようにというお嬢さまのお心かとおもうと、もう、あたしゃあうれしくって、うれしくって……」
「また泣くねえ、若旦那、およしなさいよ」
「その歌をもらって帰ってきたが、それからというものは、なにをみてもお嬢さんの顔にみえて……掛軸《かけじ》のだるまさんがお嬢さんにみえる。横の花瓶がお嬢さんにみえる。鉄瓶がお嬢さんにみえる。おまえの顔までが、だんだんとお嬢さんに……」
「そばに寄りなさるな、気味がわるい。しかし、ひどくおもいつめたもんですねえ。よござんす。あっしも男だ。それだけおもいつめたもんなら、なんとかいっしょにしてあげましょう。で、相手は、どこのかたなんです?」
「それがわからないんだよ」
「わからねえ? ずいぶんたよりねえはなしですねえ……なにか手がかりは? ……うん、その歌を書いた紙てえやつを貸してください。いえ、じきにおかえししますから心配しねえで……まあ、万事あっしにまかせてください……ええ、旦那さま」
「おう、熊さん、ごくろうさま、どんなことをいってました? せがれのやつは……」
「せがれのやつはね」
「おまえまでが、せがれのやつというのがあるかい」
「へえ、なんでも一月ほど前に、上野の清水さまへおまいりにいって、茶店へ腰をかけたんですがね、あすこの茶店てえものは、腰かけると、すぐにお茶と羊かんを持ってきます。その羊かんが厚く切ってあって、うめえのなんのって……」
「ふーん、すると、せがれは下戸《げこ》だから、その羊かんが食べたいというのか?」
「いいえ、羊かんは、あっしが食いてえんで……」
「だれもおまえのことなんぞ聞いちゃいないよ。どうしたんだ?」
「若旦那が腰をかけてる前に、お供を二、三人つれた、年ごろ十七、八のお嬢さんが腰をかけたんですが、この人の顔が、ひびのはいった徳利みてえなんで……」
「ほほう、傷でもあったのかい?」
「いいえ、いい女のことをいうでしょ? 水がびしょびしょ……」
「それをいうなら、水のたれるようなきれいなかただというんだ」
「あっ、そうだ。やっぱり親子だね、いうことがおんなじだ」
「親子じゃなくったっておんなじだよ」
「で、若旦那が、そのお嬢さんをじっとみていると、そのお嬢さんも若旦那をじっとみていたかとおもったら、にこっと笑った。……旦那、これをにらめっこだとおもいますか?」
「そんなことおもいやしないよ」
「そうですか、あっしゃあ、てっきりにらめっこだとおもったんですが……そのうちに、お嬢さんがでていったあとに、茶袱紗がわすれてあったので、若旦那が、これをひろってお嬢さんにわたしてあげると、お嬢さんはていねいにおじぎしてうけとると、茶店へもどって、両親をだせといいなすった」
「なんだい、その両親をだせというのは?」
「旦那もわからないでしょ? 両親とはものを書く紙」
「それは料紙じゃあないか」
「そうそう、料紙だった。それをだしたら、お嬢さんが、さらさらと歌を書いてくだすった……百人一首にあるすっとこどっこいとかいう人の歌を……」
「百人一首にあるすっとこどっこいの歌? ……ああ、崇徳院さまのお歌か?」
「そうそう」
「崇徳院さまのお歌なら、『瀬をはやみ岩にせかるる滝川の……』」
「それそれ、その歌ですよ」
「割れても末に……」
「いいえ、それは書いてありません。こうして下《しも》の句が書いてないところをみると、いまはここでおわかれしますが、いずれ末にはうれしくお目にかかれますようにというお嬢さんの心かとおもったら、若旦那がぼーっとなってしまったと、こういうわけなんで……このお嬢さんをお嫁におもらいなされば、若旦那のご病気全快まちがいなしでさあ」
「こりゃあ、ありがとう。よく聞きだしてくれたねえ。熊さん、おまえさんは、せがれの命の恩人だ。ひとりむすこのあれが、それほどおもいつめた娘さんなら、なんとしてももらってやろう。で、熊さん、たのまれついでに、先方へかけあっておくれ」
「ええ、かけあえといえば、あっしも乗りかかった舟ですからかけあいますが、あいにく、相手のお嬢さんが、どこのかたかわからねえんで……」
「わからないといったって、日本人だろ?」
「そりゃあ日本人ですが……」
「そんなら東京中さがしてごらん。東京中さがしてわからなかったら、横浜、横浜でわからなかったら、静岡から浜松、名古屋、大津、京都、大阪としらみつぶしにさがしておいで。うまくさがしてくれたら、先月、おまえさんに貸した金、あれは棒びきにしよう。それから、いまおまえさんが住んでる三軒長屋、あれもあげようじゃあないか」
「へえ、そりゃあありがてえはなしですが、なにしろ雲をつかむようなことですから……」
「そんなことをいわないで、なんとかさがしてきておくれ。『瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末に逢はむとぞ思ふ』と、さあ、手がかりになる歌を紙に書いたから、これを持ってでかけておくれ。そうだ、さがしまわるのにわらじがいるな。おい、定吉や、そこにわらじが十足ばかりあるだろ? かまわないから、熊さんの腰へぶるさげちまいな」
「おいおい、なにするんだよ。人の腰へむやみにわらじをぶらさげて……これじゃあ荒物屋の店さきみてえじゃねえか……旦那できるかできねえかわかりませんが、とにかくいってきます」
「できるかできないかなんて、そんな不確かなことをいってちゃあいけない。お医者さんのはなしじゃあ、このままでは、せがれの命はあと五日しかないそうだ。だから、どうしても五日のうちにさがしだすんだ。もしもさがしだせないで、せがれに万一のことがあったら、あたしゃ、おまえさんをせがれの仇として討ち果たすからそうおもっておくれ」
「じょうだんじゃねえ。さよなら……こいつあ、とんでもねえことをおしつけられちまったもんだ。せがれの仇として討ち果たすってんだからおどろいたなあ……おう、いま帰ったよ」
「あら、お帰り。なんだったんだい、お店《たな》のご用は?」
「いえね、若旦那が病気なんだが、その病気てえのが、どっかのお嬢さんに恋わずらいだとよ。ところが、そのお嬢さんがどこの人だかわからねえ。だからさがしだしてくれってんだ。ところで、気前のいい旦那のこった、ただはたのまねえや。うまくさがしだしたら、先月の借金を棒びきにした上に、この三軒長屋をくださるとよ」
「あーら、運がむいてきたねえ。しっかりさがしとくれよ。はやくいっといで」
「おめえはそういうけど、どこのお嬢さんだか、まるっきりわかんねえんだぜ」
「だって日本人だろ?」
「きまってらあな」
「日本人なら、これから東京中をおさがしよ。東京中さがしていなかったら、横浜、横浜でわからなかったら、静岡、浜松、名古屋、大津、京都、大阪としらみつぶしにさがしておいで。ここにもわらじが十足あるから、おまえさんの腰へ……」
「おいおい、おめえまでがおなじように……」
「しっかりさがしてくるんだよ」
あっちをさがし、こっちをさがししましたが、その日はわかりません。そのあくる日も、朝はやくから、弁当持ちでさがしたがわからずじまい。そのあくる日もわかりません。
「あー、とんだことをひきうけちまったな。こうへとへとにつかれちまっちゃあ、自分のからだだか、人のからだだかわかりゃあしねえ……この調子じゃあ、若旦那よりもおれのほうがさきにまいっちまうぜ……かかあのやつ、また文句いうだろうなあ、まったくいやんなっちまう……おう、いま帰った」
「お帰り、その顔つきじゃあ、まただめだったんだね、どうするんだよ?」
「どうするんだよったって、おれだって、いっしょうけんめいにさがしてるんじゃねえか」
「どんなさがしかたしてるんだい?」
「このへんに水のたれるかたはいませんか……」
「土左衛門《どざえもん》をさがすんじゃあないんだよ。水のたれるかたなんていったってわかるもんかね。おまえさん、旦那に歌を書いてもらったんだろ? それがなによりの手がかりじゃあないか。それを大きな声でどなりながらあるいてごらん。そうすりゃあ、それを聞いた人のなかには、その歌についてこんなはなしがありますとか、こんなうわさを聞きましたとか、名のってでる人があるかも知れないじゃあないか。それでもだめなら、お湯屋とか、床屋とか、人のあつまるところへいってどなってごらん。お湯屋も床屋もすいてるところはだめだよ。あしたさがしてこなかったら、おまんま食べさせないよ」
たいへんなさわぎで……あくる日になると、熊さんは、朝めしもそこそこにしてでかけました。
「ああ、情けねえなあ、さがしてこねえと、めしを食わせねえってやがらあ……あの歌をどなってあるけったって、きまりがわりいじゃあねえか……このへんでやってみるかな、えへん、えへん……瀬を……瀬を……えへん……瀬をはやみ」
「ちょいと豆腐《とうふ》屋さん」
「なにいってやんでえ。人を豆腐屋とまちがえてやがらあ……こっちは、さがしものがあってこういう声をだしてるんじゃあねえか。しかし、ちょいとやってみたら、声がでてきたな。やってみるか……えへん……瀬をはやみ岩にせかるる滝川の……あれっ、ずいぶん子どもがあつまってきたな。人を気ちげえとまちげえてやがる。あっちへいけ、あっちへいけってんだ……瀬をはやみ」
「ウー、ワンワンワン」
「シー、シー。犬まで気ちげえあつかいにしやがる。こりゃあ、どなりながらあるいてもうまくいかねえや。床屋へでもいってみるか……うん、この床屋へはいってみよう。こんちわ」
「いらっしゃい」
「こんでますか?」
「いいえ、いまちょうどすいたところで……」
「さよなら」
「もしもし、すいてますよ。すぐにやれますよ」
「すいてちゃいけねえんだ。こっちは、都合があって、こんでる床屋をさがしてるんだから……よし、この床屋はどうかな? こんちわ」
「いらっしゃい」
「こんでますか?」
「ええ、ごらんの通り、五人ばかりお待ちなんで、ちょっとつかえてますから、あとできていただきましょうか」
「いえ、そのつかえてるところをさがしていたんで……」
「つかえてるところを? 煙突掃除みたいな人だね……じゃあ、一服しててください」
「そうさせてもらおう……すいません、そこでお待ちのかた、ちょいとたばこの火を……へえ、ありがとうございます……えへん……瀬をはやみ」
「ああ、びっくりした。あなた、なんです? 急に大きな声をだして……どうしたんです?」
「すいません。べつにおどかすつもりじゃあないんですが、ちょいと都合があるもんですから……やらしてもらいます……えへん、えへん……瀬をはやみ岩にせかるる滝川の……」
「ほう、あなたは崇徳院さまのお歌がお好きとみえますな」
「もし、あなた、崇徳院さまの歌をご存知で?」
「ええ、なんですか、うちの娘のやつが、このごろになって、始終その歌を口にしておりますんで、あたしもおぼえてしまって……」
「えっ、おたくのお嬢さんが? ……つかぬことをうかがいますが、おたくのお嬢さんは、たいへんにきりょうよしじゃあありませんか?」
「親の口からいうのもなんですが、ご近所では、とんびが鷹《たか》を産んだなんていってくださいますが……」
「とんびが鷹……しめた、水がたれますね」
「水はたれませんが、ときどき寝小便はやらかします」
「寝小便を? おいくつで?」
「五歳《いつつ》です」
「さようなら……瀬をはやみ……」
がっかりした熊さん、それから、風呂屋を三十六軒、床屋を十八軒とまわりまして、夕方になるとふらふらになって、
「こんちわ……こんちわ」
「だれだい? 情けない声をだして……」
「あの、ひげをやってもらいたいんで……」
「あれっ、おまえさん、朝から三べんめじゃあありませんか。ひげをやれったって、もうやりようがありませんよ」
「そうでしょう、あたしも床屋を十八軒もまわったんですから、顔なんぞひりひりして……」
「まあ、一服おやんなさい」
「やすましてもらいます……瀬をはやみ……」
「はあ、だいぶ声もつかれてきましたね」
そこへとびこんできたのが、五十がらみの鳶《とび》のかしらで……
「おう、親方、ちょっといそぐんだけど、やってもらえねえかい? あっ、そこに待ってる人がいた。弱ったなあ」
「あたしですか? あたしならいいんですよ。もうどこも剃るとこがないんですから……」
「そうですか、すいませんねえ。じゃあ、親方、ひとつたのまあ」
「ああ、いいよ、しかし、ばかにいそぐんだねえ」
「うん、お店の用事でな」
「お店といえば、お嬢さんのぐあいはどうだい?」
「それがな、かわいそうに、もうあぶねえんだ」
「えっ、あぶない? 気の毒になあ、あの小町娘が……」
「旦那もおかみさんも眼をまっ赤に泣きはらしちゃって、気の毒で、みていられやしねえ」
「けど、あのお嬢さん、いったいなんの病気なんだい?」
「それが、いまどきめずらしいんだが、恋わずらいよ」
「へえ、あたしに?」
「ずうずうしいことをいうない。おめえなんぞに恋わずらいする気ちげえがいるもんか……なんでも一月ばかり前に、お茶の稽古の帰りに、上野の清水さまへおまいりにいって、茶店へはいると、前に若旦那風のいい男が腰をかけていたんだ。あんまりいい男なんで、お嬢さんがみとれてるうちに、茶袱紗をおとしたのも気づかずに茶店をでてきちまった。ところが、その若旦那が親切な人で、茶袱紗をひろってお嬢さんにわたしてくれたんだが、いい男ってものは、たいしたもんだねえ、お嬢さんは、おもわずからだがぶるぶるとふるえて、それから三日のあいだふるえがとまらなかった」
「へーえ、たった三日? うちのおやじなんぞ、一年もふるえがとまらないよ」
「ありゃあ中気じゃねえか。なにいってんだ……さて、それからうちへ帰ったんだが、床についたっきりあたまもあがらねえ。医者にみせても病名がわからねえ。で、ある名医にみせると、なにかおもいつめてることがあるにちがいない。そのおもいごとがかないさえすれば全快うたがいなしというんだ。ところが、そのおもいごとというのをだれが聞いてもうちあけようとしなさらない。だれにならうちあけるかといろいろかんがえたあげく、ちいさいときにお乳をあげた乳母をひっぱってきて聞かせると、ようやく恋わずらいということがわかった。そこで、その若旦那をさがせというので、出入りの者がみんな狩りだされて、東京中をさがしまわったんだが、どうしてもわからねえ。とにかく日本人にはちげえねえんだから、こうなったら日本中さがせってんで、ゆうべ金ちゃんが北海道へ発《た》って、けさ留公が四国へむかって、おれがこれから九州へでかけようってわけだ」
「たいへんなさわぎだねえ……けど、なにか手がかりでもあるのかい?」
「ああ、なんでもお嬢さんが若旦那に歌を書いてわたしてあるんだそうだ。おれも旦那に書いてもらって持ってるんだが……この歌よ……『瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末に逢はむとぞ思ふ』……この歌がなによりの手がかりってんだから、まったく心ぼせえはなしよ」
このはなしを聞いた熊さん、夢中でたちあがると、いきなり鳶頭《かしら》の胸ぐらをつかまえて……
「三軒長屋……三軒長屋……」
「おいおい、なにをするんだ。いきなり人の胸ぐらつかまえて……」
「てめえに遇《あ》おうがために、艱難辛苦《かんなんしんく》をいかばかり……瀬をはやみ岩にせかるる滝川の……」
「おや、その歌をなんで知ってるんだ? え? てめえんところのお店の若旦那が? ……こりゃあいいとこで会った。もうすこしで九州へでかけちまうところだった……おれもおめえをはなさねえぞ。さあ、おれんとこのお店へこい」
「なにいってやんでい、てめえこそうちのお店へ……」
「なにを! てめえこそ」
「てめえこそ」
「おいおい、待った待った。ふたりとも胸ぐらとりあって……あぶねえ、あぶねえ……はなしをすればわかるってえのに……よしな、よしなよ」
ふたりがたがいにひっぱりあうはずみに、大きな花瓶がたおれて前の鏡にぶつかったから、花瓶も鏡もめちゃめちゃ……
「そーらやっちまった。だからいわねえこっちゃあねえ。鏡をこわしちまって、どうしてくれるんだ?」
「いやあ親方、心配しなくてもいいよ」
「なぜ?」
「割れても末に買わんとぞ思う」
位牌屋《いはいや》
「旦那さま、まことにおめでとうございます」
「なんだい? めでたい?」
「へえ、ゆうべ坊っちゃんがお生まれだそうで、まことにおめでとうございます」
「おい、番頭さん、じょうだんいっちゃあいけないよ。いまは、いろいろとものが高いんだ。だから、かかりがたいへんだよ。それに、あれが大きくなればものを食うし……」
「そりゃあ生きていれば、みんなめしあがります」
「それだけ身代《しんだい》が減るんじゃないか」
「しかしまあ、旦那さまの跡とりがおできになったんでございますから……それにつきまして、店《みせ》の者もたのしみにしておりますので、きょうは、お祝いに、味噌汁《おつけ》の実を買っていただきたいのでございますが……」
「おや、おかしなことをいうねえ。味噌汁の実は、毎朝、ちゃんとはいってるじゃあないか」
「え? 拝見したことはございませんが、なんの実がはいっておりますんで?」
「うん、ありゃあ三年前だったかな、歳《とし》の市《いち》で、山椒《さんしよ》のすりこ木を買ってきた。そのときは、二尺五寸ぐらいあったが、きのうみたら、一尺五寸ぐらいになっていた。してみると、あの一尺てえものが、この三年間、お味噌汁の実になってたわけだ」
「こりゃあおどろきました。あれは減ったんでございます。実じゃあございません……なにか買っていただきたいもんで……」
「こまるねえ、そういうことをいわれちゃあ……なにしろ、買えばお金がかかるんだから……まあいいや、なんか買ってあげよう」
「ええ、つまみ菜やあ、つまみ菜……つまみ菜はようがすかなあ」
「おい、番頭さん、つまみ菜なんぞはいいだろう?」
「へえ、結構でございますなあ」
「おいおい、つまみ菜屋さん!」
「へい」
「こっちへはいっとくれ」
「へえ……ありがとうございます」
「おい、定吉や、おまえ、物置きへいって、むしろを持っておいで、あたらしいのをな……ああ、持ってきたかい。じゃあ、そこへひろげておくれ。つまみ菜屋さん、この上へみんなあけておくれ」
「へえ、のこらず買っていただけますんで?」
「ああ、うちは多人数だからねえ」
「おそれいります。では、みんなあけさせていただきます」
「ほう、籠《かご》にはいってるときは、そんなにあるようにはみえなかったが、ずいぶんあるもんだねえ」
「へえ、さいでございますなあ」
「で、いくらだい? みんな買うと?」
「ありがとう存じます。おまけ申しまして、四百|文《もん》でございますが……」
「四百文? ふーん……どうだい? すこしは、まけてもらえるだろうな?」
「どうも、そのう……なにしろ、利の細いもんでございますから……」
「まあ、そんなことをいわないで、みんな買うんだからさ」
「へえ、じゃあ、気は心でございますから、いくらかおまけしまして……いくらにいたしたらよろしいんで?」
「うん、どうだい? 四文にまかるか?」
「え?」
「いや、四文にまかるかい?」
「へえへえ、四百文から四文お引きするんで?」
「そうじゃあないよ。ただの四文にまけておくれ」
「ただの四文に? 旦那、ごじょうだんを……」
「じょうだんじゃあないよ。まじめにいってるんだ」
「まじめに? 旦那、あなた、本気でこれだけのものをただの四文で買おうとおっしゃるんですか?」
「そうだよ」
「これは、そのへんの空き地にはえてるただの草っ葉じゃありませんよ。つまみ菜ですよ」
「そうだよ。だから金をだして買おうというんだ」
「金をだして買う? なにいってやんでえ。ふざけたことをいうない。これだけのつまみ菜を四文たあ、なんてことをいうんだ。こっちゃあ、なにも盗んできたものを売るんじゃあねえや。ちくしょうめ、売らないよ。退屈まぎれに人をからかいやがって……ふざけるねえ……買ってなんかもらうもんか。ちくしょうめ……ええ、つまみ菜屋あ、つまみ菜あ」
「ふん、おこっていっちまったな。おい、定吉や」
「へい」
「ざるを持ってこい……よし、持ってきたら、むしろにくっついてるつまみ菜を、そのざるにいれてみろ。むしろがあたらしいから、つまみ菜がこびりついてるぞ」
「えー、おどろいたな、こりゃあ……旦那、ざるに一ぱいになりました」
「そうだろ、味噌汁《おつけ》の実ができたじゃあないか。そうだ、みんな味噌汁の実にしちゃあもったいないな。半分は、おひたしにしなさい」
「こりゃあひどいなあ……どうも」
「よけいなことをいってるんじゃあない。はやくそっちへ持ってけ」
「へーい」
「ええ、旦那さま」
「うるさいな。なんだよ」
「晩のお菜《かず》がなくってこまっておりますが……」
「うるさいなあ、どうも……いいや、まあ、待っておいで、そのうちになんとかしてやるから……」
「ええ、いもやさつまいも……」
「ふん、いもか……どうだい、番頭さん、さつまいもなんざあ?」
「ええ、よろしゅうございますなあ」
「そうかい、おい、おい、いも屋さん」
「へい、ありがとうございます」
「まあ、こっちへおはいりよ。そこへ荷物をおろしたら、一服おやり」
「へえ、では、そうさせていただきます」
「あのな、いも屋さん、小僧に、たばこを買いにやったんだが、まだ帰ってこないんだ。たばこのみというやつは、どうも意地のきたないもんでな、ないとなると、むやみに吸いたくなってなあ、すまないが、一服吸わしておくれ」
「へえ、よろしゅうございます。旦那のお口にあうかどうかわかりませんが、どうぞお吸いになって……」
「いや、ありがとう……うん、なかなかいいたばこを吸ってるじゃあないか……うん、うまい……おまえさん、口がおごってるなあ……ああ、うまい、うまい……ところで、いも屋さん、おまえさん、お住居《すまい》はどちらだい?」
「へえ、神田|竪大工町《たてでえくちよう》におりますんで……」
「ふーん、そうかい、そりゃあいいところだ。で、買いだしはどちらで?」
「多町《たちよう》でいたします」
「ほう、青物市場の本場だ。で、ご家内は、何人暮らしで?」
「へえ、かかあにがきがございます」
「おまえさんに、おかみさんに、子どもさん、店賃《たなちん》とも四人《よつたり》暮らしだね。いま、物が高いからたいへんだ。うちをでるとき、そんな荷じゃあるまいなあ」
「へえ、天びんがしなうほどかつぐことがございます」
「ああ、そうだろうなあ。で、つかぬことを聞くが、昼めしなんぞは、どうしていなさる?」
「へえ、そのへんのめし屋で食います」
「めし屋で食べる? そりゃあいけない、もったいないよ。商人《あきんど》は、そんな心がけじゃあだめだ。これからは、弁当を持ってなあ、時分《じぶん》どきになったら、うちの台所へおいで。お湯はいつでもわいてるし、たくあんのだしたてぐらいあるから、遠慮なしにやってきて、おまんまを食べなよ」
「へえ、ご親切にありがとうございます」
「あのねえ、いも屋さん、あの籠からひゅーっとでているのはなんだい? その大きいのは?」
「え? ああ、これでございますか。やっぱりいもで……」
「ふーん、ちょいとみせとくれ。いもにはみえないが……」
「いえ、たしかにいもで……どうぞごらんになって……」
「どれどれ、……ふーん、こりゃあめずらしいかたちだなあ。床の間の置きものにするといいから、もらっておこう」
「そんなものを床の間の置きものに?」
「ああ、置きいもといってな」
「焼きいもってのはありますが、置きいもってえのは聞いたことがありません」
「いいんだよ……しかし、一本てえなあさびしいなあ、もう一本もらっとこう」
「かんべんしてくださいよ。旦那」
「まあまあまあ、そんなことをいわないで、気前《きまえ》よくくれるもんだよ。商人《あきんど》は、損して得《とく》をとれというくらいのもんだ。こういうことをしておけば、おまえさんは、いくいくは、いも問屋になることうたがいなし……あははは……で、おまえさん、お住居はどちらだい?」
「へえ、神田竪大工町におりますんで……」
「ふーん、そうかい、そりゃあいいところだ。で、買いだしはどちらで?」
「多町でいたします」
「ほう、青物市場の本場だ。で、ご家内は、何人暮らしで?」
「へえ、かかあにがきがございます」
「おまえさんに、おかみさんに、子どもさん、店賃とも四人暮らしだね。いま、物が高いからたいへんだ。うちをでるとき、そんな荷じゃあるまいな」
「へえ、天びんがしなうほどかつぐことがございます」
「ああ、そうだろうなあ、で、つかぬことを聞くが、昼めしなんぞは、どうしていなさる?」
「へえ、そのへんのめし屋で食います」
「めし屋で食べる? そりゃあいけない。もったいないよ。商人は、そんな心がけじゃあだめだ。これからは、弁当を持ってなあ、時分どきになったら、うちの台所へおいで。お湯はいつでもわいてるし、たくあんのだしたてぐらいあるから、遠慮なしにやってきて、おまんまを食べなよ」
「へえ、ありがとうございます」
「いも屋さん、あの籠からひゅーっとでているのはなんだい? その大きいのは?」
「大きいの? へえ、へえ、いもで……」
「ふーん、めずらしいかたちだなあ、床の間の置きものにするといいから、もらっておこう」
「じょうだんいっちゃあいけません。これで三本目で……」
「まあまあまあ、そんなことをいわないで……商人は損して得をとれというくらいのもんだ。こういうことをしておけば、おまえさんは、いくいくは、いも問屋になることうたがいなし。あはははは……で、おまえさん、お住居はどちらだい?」
「ふん、いいかげんにしろい。おなじことばかりなんべんも聞きなおしゃあがって……『おまえさん、お住居はどちらだい?』『神田竪大工町におりますんで』『買いだしはどちらで?』『多町でいたします』『青物市場の本場だ。で、ご家内は何人暮らしで?』『かかあにがきがございます』『おまえさんに、おかみさんに、子どもさん、店賃とも四人暮らしだね。いま、物が高いからたいへんだ。うちをでるとき、そんな荷じゃあるまいなあ』『天びんがしなうほどかつぐことがございます』『昼めしなんぞは、どうしていなさる?』『そのへんのめし屋で食います』『商人はそんな心がけじゃあだめだ。これからは、弁当を持ってなあ、時分どきになったら、うちの台所へおいで。お湯はいつでもわいてるし、たくあんのだしたてぐらいあるから、遠慮なしにやってきて、おまんまを食べなよ』『ありがとうございます』『あの籠からひゅーっとでているのはなんだい?』『やっぱりいもで……』『ちょいとみせとくれ。こりゃあめずらしいかたちだ。床の間の置きものにするといいから、もらっておこう』とこういうんだろ。わかってるんだ、ちくしょうめ」
「あははははは、おまえさん、なかなかものおぼえがいいな」
「なにいってやんでえ。ふざけやがって……たばこいれをはやくよこしてくれ……あれっ、みんな吸っちまあやがった。あきれたもんだ。こんなうちにいたら、なにをされるかわかったもんじゃあねえ……ええ、いも屋、いも、さつまいも……」
「あはははは、おこっていっちまった。おい、定吉、みろ、いも三本、ただとってやったぞ。たばこだって、たもとのなかにあけちまったんだ」
「へえ、旦那、泥棒みたいですね」
「まあ、すこしはこんなことでもしなくっちゃあ、銭はのこせるもんじゃあないよ。おまえも、これからは、あたしをみならわなくては、出世できないよ。あたしのまねをしなさい」
「へえ、旦那のまねをするんで?」
「そうだ。あたしのまねさえしてりゃあまちがいないよ」
「じゃあ、これからは、せいぜい旦那のまねをします」
「ああ、そうおし……それから、横丁の位牌屋《いはいや》へ位牌があつらえてある。できてるだろうから、とってきておくれ」
「へえ」
「はやくいっておいで……なにしてるんだ?」
「へえ、履《は》くものがないんです」
「こないだひろった馬のわらじはどうした?」
「あんなもの履けませんよ」
「不便な足だ……じゃあしょうがない。はだしでいけ」
「はだしじゃあ、いたくってたまりません」
「はだしでいたかったら、下駄を履いてこい」
「え?」
「わからないなあ……むこうの下駄を履いて帰ってくればいいじゃあないか」
「へへへへ、そうか……いってまいります」
「こんちわ」
「おや、赤螺屋《あかにしや》の小僧さんか。なんだい?」
「位牌をいただきに……」
「ああ、できてるよ。さあ、これだ。持っておいで」
「これかい、りっぱだな」
「さあ、持ってお帰り」
「うん……ときに位牌屋さん」
「なんだい?」
「小僧にたばこを買いにやったんだ」
「なにいってるんだ。おめえが小僧じゃねえか」
「いや、たばこのみというやつは、どうも意地がきたないもんでな、なくなると、むやみに吸いたくなってなあ、すまないが、一服吸わしておくれ」
「ちぇっ、子どものくせに、たばこなんか吸うのか。なまいきだなあ……まあ、そんなに吸いたけりゃあ、さあ吸いねえ」
「いや、ありがとう……うん、なかなかいいたばこを……うっ、ごほん、ごほん」
「おいおい、よせよ。毒だよ」
「ああ、よすよ。ものの順序だからやっただけなんだから……ときに位牌屋さん、おまえさん、お住居はどちらだい?」
「おい、ふざけるなよ。どちらだいったって、ここにきまってるじゃねえか」
「ああ、そうか。そりゃあいいところだ。で、買いだしはどちらで?」
「位牌を買いだしにいくやつがあるもんか。うちでこせえるんじゃねえか」
「で、ご家内は、何人暮らしで?」
「変なことを聞くない。ここに職人がいて、あすこにかかあがいて、奥には、おふくろとがきがいらあ」
「そりゃあたいへんだ。店賃とも四人暮らしだね」
「それをいうなら、六人暮らしだ」
「まあ、四人にまけておきなさい。天びんがしなうほど位牌をかつぐだろう」
「そんなに位牌をかつぐやつがあるかい」
「つかぬことを聞くが、昼めしなんぞは、どうしていなさる?」
「あたりめえよ。うちで食わあ」
「そりゃあいけない。商人は、そんな心がけじゃあだめだ。これからは、弁当を持ってなあ、時分どきになったら、うちの台所へおいで。お湯はいつでもわいてるし、たくあんのだしたてぐらいあるから、やってきて、おまんまをお食べ」
「ばかなことをいうない。めしのたんびに、てめえんとこの台所へなんぞいけるもんか」
「遠慮しないでおいで」
「だれが遠慮なんかするもんか」
「あのねえ、位牌屋さん、むこうの棚からちょいとでているのはなんだい?」
「これか? これは子どもの位牌よ」
「ふーん、位牌にはみえないが……ちょいとみせておくれ」
「なにいってるんだ。そんなにみたけりゃあ、みせてやらあ、それ」
「どれどれ……こりゃあめずらしい位牌だ。床の間の置きものにするといいから、もらっておこう」
「ばかなことをいうない。位牌を床の間の置きものにするやつがあるもんか」
「まあまあ、そんなことをいわないで、気前よくくれるもんだよ。こういうことをしておけば、おまえさんは、いくいくは、位牌問屋になることうたがいなし」
「位牌問屋なんてあるもんか」
「じゃあ、これをもらっていくよ。どうもありがとう。さようなら……」
「旦那、いってまいりました」
「ごくろう、ごくろう。位牌はできてたか?」
「へえ、これでございます」
「うん、こりゃありっぱにできたな」
「それから、旦那」
「なんだ?」
「旦那のおっしゃったように、帰りに下駄を履いてきました」
「ほう、そりゃあえらかったな。どれどれ……なーんだ。おまえ、駒下駄と草履《ぞうり》と片ちんばじゃないか」
「あっ、なるほど。なにしろあわてたもんですから……とりかえてきましょうか?」
「そんなことすりゃあ、はりたおされちまわあ」
「それから、旦那のまねをして、たもとのなかへたばこをごまかして盗《と》ってきました」
「ほう、そりゃあ大出来だったなあ。感心、感心」
「それから、旦那のまねをして、まだもらってきたものがあります……これです」
「なんだい、こりゃあ?」
「子どもの位牌です」
「いくら、あたしのまねをするったって、子どもの位牌なんぞもらって、何《なん》にするんだ?」
「きのう生まれた坊っちゃんのになさいまし」
夢の酒
「やきはしやせんと女房いぶすなり」なんていう川柳がございますが、やきもちも度を越しますと、とかくさわぎのもとでございます。
「あなた、お起きなさいよ。ねえ、あなた、お風邪を召すといけませんから……ちょいとあなたっ」
「へいへいへい、どうもたいへんにごちそうさまになりまして……」
「あらっ、寝ぼけちゃって……なにをいってらっしゃるのよ」
「え? ……あーあ……人がいい心持ちで寝ているところをだしぬけに起こしたりして……ほんとうに気がきかない」
「だって、お風邪を召すといけないとおもったんですもの……」
「そうおもったんなら、なんかかけてくれたらいいじゃないか。せっかくこれからってときに起こしたりして惜《お》しいじゃないか」
「あら、なにかいい夢をみていらしったのね、どんな夢だったの?」
「いや……その……つまらない夢だ」
「そんなことないでしょ、せっかくこれからだとか、惜しいとかいってらしったんですもの……ねえ、どんな夢だか聞かしてくださいよ」
「いや、くだらない夢だよ。うふふふ……はなしてもいいけど、おまえが怒るといけないから……」
「夢のおはなしを怒るものがあるもんですか。聞かしてくださいな」
「そうかい、ほんとうに怒らないかい? 大丈夫だね? そんならはなすけど……あたしが、向島までいったんだ。ところが、途中で夕立ちに逢っちまった。あいにくと雨具を持ちあわせてなかったから、あるうちの軒下《のきした》で雨宿りをしたんだ。すると、そのうちの女中があたしをみて、『あらっ、あなたは大黒屋の若旦那じゃあございませんか?』といったかとおもうと、奥へむかって、『ご新造さん、いつもおうわさをしてらっしゃる大黒屋の若旦那ですよ』とどなった。『おや、若旦那が……』といってでてきた女が、いいきりょうだったねえ、年のころは、二十五、六、色白で、目もとに愛嬌があって、背がすらっとしてて、じつにおどろくような美人だった。『まあ、若旦那、そんなところに立っていらっしゃると、お召し物がぬれてしまいますわ。どうぞこちらへおはいりくださいまし』『いいえ、ここで結構で……』『そんなことをおっしゃらずにおあがりを……梅や、若旦那をおあげ申さないかい、気のきかない……』ってんで、女中にひっぱりあげられちまった」
「あらっ、とうとうあがったんですか?」
「うん……『まあ、若旦那、よくお寄りくださいました。あたくしは、お店へはちょいちょい買いものにうかがって、若旦那のことをよく存知あげてるんでございますよ。一度若旦那とおはなししたいとおもっておりましたところが……なんてうれしい雨なんでしょう……これをご縁に、ちょくちょくあそびにおいでくださいな』と、いろいろと世間ばなしをしているうちに、お膳がでて、まあおひとつってんで、一ぱいさされた」
「まあ、なんて女でしょう、ずうずうしい……あなた、そのさかずきをうけたんですか?」
「だって、あたしは下戸《げこ》だろう、だからいってやったんだよ。うちのおやじてえものは、三度の食事よりも酒が好きなんですが、あたしはまるっきりだめなんだって……」
「で、どうしました?」
「『あら、そんなことをおっしゃって、あたしのお酌ではお気に召さないんでしょ』ってんで、すすめじょうずなんだねえ、やったりとったりしてるうちに、あれで、おちょうし三本ぐらいあけたかな」
「まあ、あきれた。あなたは、うちでは一滴も召しあがらないばかりか、おとっつあんが晩酌なさるのまでめいわくそうな顔をなさるじゃあありませんか。それなのに、そういうかたがお相手だとそんなに召しあがるんですか?」
「やめるよ、このはなし……おまえ、そうやって怒るから……」
「怒ってるんじゃありません。あとをはなしてくださいよ」
「怒るんじゃあないよ、いいかい……そのうちに、ご新造が三味線をとりだしてくると、小唄を二つ三つ唄ったあとが都都逸《どどいつ》さ。これほど想うにもし添われずば、わたしゃ出雲へあばれこむってんで、唄い尻《じり》をぽーんとあげて、あたしの顔をじいっとみたときにゃあ、うふふふ、あたしゃあおもわずふるえたね」
「まああきれましたねえ、それからどうしたんです!」
「おいおい、怒っちゃいけないよ」
「怒りませんから、あとをつづけてください」
「いいかい、怒るんじゃあないよ……ふだん飲みつけない酒を飲んだせいか、あたしはあたまが痛くなってきた。『あら、あがれないお酒をおすすめしたりして、ほんとうに申しわけありません。すこし横になっておやすみなさいまし』ってんで、離れの四畳半の座敷へ床をとってくれて、あれこれと介抱してくれたから、すこしぐあいがよくなった。『おかげさまで、たいへん楽になりました』と礼をいうと、『まあ、ようございましたわ。ほんとに安心いたしました。あのう、若旦那、ふしぎですわねえ、あなたのぐあいがよくなったら、あたし、あたまが痛くなってまいりました』って、そういうんだ。『そりゃあいけませんねえ。じゃあ、あたしは起きますから、あなた、ここへおやすみなすって……』『いいえ、あたしは、若旦那の裾《すそ》のほうへはいらしていただければ、それで結構なんでございます。若旦那、ごめんなさい……』……燃えたつような長じゅばんで、あたしのふとんのなかへすーっとはいってきた」
「わあー……わあー……わあー……」
「おいおい、なんだっていきなり泣きだすんだ? おいおい」
「あなたってかたは、まあ、なんてひどい……見ず知らずのかたとひとつふとんに……うわー……うわー……」
「おいおい、いいかげんになさい。なにもそんな声をだして泣くこたあないじゃないか」
「いいえ、あんまりひどうございます。あたしというものがありながら……うわー」
このさわぎを父親が聞きつけましたから、どうもだまっていられません。
「あれっ、なんだい、せがれたちは……なんてえさわぎをしてるんだろう? 昼日中《ひるひなか》から泣いたり、わめいたり……奉公人の手前めんぼくないじゃあないか……おいおい、どうしたんだ?」
「おとっつあん、まことにあいすみません。若旦那は、あたくしというものがありながら……よそで……うわー……」
「おいおい、泣いてたんじゃあわからないよ。せがれが、おまえさんというものがありながら、よそで浮気でもしたというのか?」
「はい……若旦那が向島へいらっしゃいまして、夕立ちにお逢いになったんでございます。すると……わあー……」
「これこれ、お花、そうやって泣いてたんじゃあはなしがわからないじゃあないか。泣かずにはなしてごらん……うんうん、なるほど……雨宿りをしたうちへあがって酒を飲んだ? ほう、ふだんは、あたしが飲むのでさえいやな顔をするのになあ……うん、うん、そのお宅《たく》はお得意さまか? ご新造が三味線をとりだして歌をうたって……そのうちに、せがれがあたまが痛くなって、離れの四畳半の座敷へ寝ていたら、そのご新造がふとんにはいってきた? ……こりゃああきれた。いや、おまえが怒るのも無理はない」
「おとっつあん、あたくしは、なにもやきもちでかれこれ申しあげるのではございません。その女のかたにも主《ぬし》というものがあるにちがいございません。でございますから、もしもそこへご亭主がでてきて、おのれ間男《まおとこ》といわれたら、若旦那はなんとなさいます?」
「いやいや、おまえさんのいうのがもっともだ……これ、せがれ、ここへでなさいっ、おまえさんは、どうしてそういうふしだらなことをするんだ? じつにどうもあきれたもんだ。おや、笑ってるな、なにがおかしいんだ? 親や女房に心配をさして、なにがおかしいんだよ?」
「あははははは、あははは……おとっつあん、だって、これが笑わずに……あははは……おい、お花、いいかげんにおしよ……おとっつあん、あなたまで怒っちゃあいけませんよ。これはねえ、夢なんですから……」
「え? 夢? ばかなことをいいなさい。お花が、ああやって泣いてさわいでるじゃあないか」
「泣いてさわいでたって夢なんですよ。さっき、店の仕事が一《ひと》くぎりついたんで、奥へきて、ちょいと昼寝をしたんですが、そのときにみた夢のはなしなんで……」
「ほんとうかい? おい、お花、夢のはなしだそうじゃないか」
「ええ、そうなんでございます」
「そうなんでございますじゃあないよ……どうもあきれたもんだ。いくら若いものだとはいいながら、なにも夢のはなしに、そう泣いてさわぐことはないだろう」
「いいえ、若旦那が、ふだんから、こういうことがあったらさだめしおもしろかろうと、おもっていらっしゃればこそ、そういう夢をごらんになるんでございます」
「おいおい、せがれもせがれだ。よりによって、そんな手数のかかる夢をみなさんな。どうもこまったもんだ。おまえはねえ、はやく店へいっておしまい……あはははは、ねえ、お花、ばかばかしいさわぎだけど、おとっつあんは叱言《こごと》いわないよ。おまえさんが、亭主のためをおもえばこそ、そうやって夢にまで心配するんだから……しかしねえ、なんにしても夢のはなしなんだから、せがれをかんべんしてやっとくれ」
「おとっつあんにおねがいがございます」
「なんだい? あらたまって……」
「若旦那がいらしった向島のお宅《たく》へいっていただいて、その女のかたに、『なんでせがれに酒を飲ました? なんでふしだらなことをした?』と、叱言をいってきてくださいまし」
「おいおい、お花、おまえさん、はっきりしとくれよ。これは夢のはなしだよ。夢にでてきたうちへいけるわけがないでしょ」
「おとっつあんはご存知ありませんか? 淡島《あわしま》さまにお願いすれば、夢のとこへいかれるそうではございませんか」
「え? 淡島さまへおねがい? ……うん、そういえば、そんなはなしを聞いたことがあるなあ……じゃあ、今夜寝るまえに、淡島さまによーくお願いしてみよう。で、もしも向島へいったら、その婦人によく叱言をいってやろう」
「いいえ、今夜なんてのんびりしたことをいってらしってはこまります。すぐにおやすみになってお叱言を……」
「おいおい、なにいってるんだ。こまるよ、そりゃあ……あたしゃ昼寝なんかしたことがないんだから……え? どうしてもすぐに叱言がいってほしいのかい? ……ああ、そうかい、おまえさんがそんなにいうんなら、おとっつあん寝てあげるよ。さあ、寝ますよ……淡島大明神さま、どうぞせがれのみました夢のところへおみちびきくださいますように……」
「ご新造さーん、大黒屋の大旦那さまがおみえになりましたよ」
「あらまあ、旦那、どうぞおあがりくださいまし」
「いや、さきほどは、せがれがたいへんお世話さまになりまして、まことにありがとう存じます」
「いいえ、いっこうにおかまいできませんで……もうすこし小降《こぶ》りになってからとお止めしましたんですが、なにか急にご用をおもいだされたとかで、お帰りになってしまったんでございますよ。まあ、旦那、どうかおあがりになって……」
「さようですか。それではごめんをこうむってあげていただきますかな……いや、これは結構なお住居で……お掃除がゆきとどいて、……お花の活けぶりがまたおみごとで……いいお庭ですなあ……ああ、じつに結構なお住居でございます」
「まあ、旦那、なんておほめじょうずな……梅や、あのうはやく……まあ、おまえだめじゃないか、お茶なんか持ってきて……さっき若旦那がおっしゃったでしょ? おとっつあんは、三度の食事よりもお酒が好きだって……はやくお酒を……」
「ああ、どうぞおかまいなく……」
「まあ、旦那、そんなことおっしゃらずに、お気に召すかどうかわかりませんけれども、たくさん召しあがってくださいまし」
「さようでございますか。もう、あたくしはねえ、酒と聞きますと、つい遠慮がなくなりまして……じゃあ、せっかくでございますから、一本いただきますかな」
「まあ、一本などとおっしゃらずにどうぞたくさん召しあがってくださいまし……梅や、はやくお燗《かん》をつけて……え? なーに? 火をおとしてしまったの? こまるじゃあないの……さあ、はやく火をおこして、お燗をつけて……旦那、申しわけございません。じきにお燗がつきますから、ちょっとお待ちになって……」
「ええ、待つ間のたのしみというやつで……これで、お燗ということにつきましては、若い時分から、死んだばあさんをどのくらいこまらせたか知れません。店がひけましてな、奥へまいりましたときに、膳の上にあついのが一本のっておりませんと、お膳を足でひっくりかえしたりなんかしましてなあ……えへへへへへ、お燗はまだでございましょうか?」
「旦那、ただそうやってお待ちになってるのも退屈でございましょうから、お燗のつくあいだ冷酒《ひや》で召しあがったら?」
「いや、冷酒はやめときましょう。じつは、冷酒でしくじったことがありましてなあ、それから冷酒はいただきません……えへへへへ、お燗はまだでございましょうか?」
「梅や、まだなの? しょうがないねえ……旦那、冷酒で召しあがって……」
「いいえ、冷酒はいただきません。冷酒は……」
「おとっつあん、おとっつあん……」
「え? あっ、あーあ、こりゃあふしぎだ。夢だったのかい?」
「おとっつあん、向島のお宅《たく》へいらっしゃいましたか?」
「うん、おどろいたねえ、そのお宅へいったよ……いや、しかし、惜しいことをしたな」
「惜しいこと? お叱言をおっしゃらないうちに、あたしがお起こししたからですか?」
「いや、冷酒でもよかったんだ」
天 災
「へえ、まっぴらごめんなすって……」
「だれだ。そうぞうしい。なんだ、八公じゃねえか。おめえってやつは、どうしてそうものごとらんぼうなんだ。まあ、三日にあげず親子喧嘩、夫婦喧嘩、人のうちへはいってくるなりあぐらをかく。いいか、親しきなかにも礼儀あり、というくらいだ。なぜあぐらなんかかくんだ?」
「へえ、もうどうぞおかまいなく……」
「おめえはそういうやつだ。なぜあぐらをかくんだというのに、おかまいなくというやつがあるか」
「ええ、これが勝手なんで……」
「そりゃあそうだろうが、人のうちへきたんだから、坐ったらいいじゃないか。なんの用があってきたんだ? たいそうなけんまくではいってきたが……」
「へえ、すみませんが、ちょいと離縁状を二枚書いてもらいてえんで……」
「なんだと? 離縁状を二枚書けだと……ばか野郎、いったいだれにやるんだ?」
「ええ、一枚は、かかあにやるんで……」
「そりゃあ、離縁状てえものは、たいがいかみさんにやるもんだが、いま一枚はだれにやるんだ?」
「ええ、うちのばばあにやるんで……」
「あきれた野郎だ。ばばあ、ばばあといって、あれは、おめえのおふくろさんじゃないか」
「じょうだんいっちゃあいけません。そりゃあ気のきいた年増《としま》かなんかなら、おめえのおふくろは、ちょいといい女だと、友だちにいわれても気がきいてますが、あんなしわくちゃばばあ、みっともねえじゃありませんか。これからもありますが、あれを、あっしのおふくろだなんていわねえようにしておくんねえ」
「そうか。おふくろでなければないでいいや。そんなに腹を立てることもあるまい。すると、あれは、おまえのおばあさんか?」
「いいえ」
「それじゃあ親類のばあさんか?」
「いいえ」
「雇《やと》いばあさんか?」
「いいえ」
「友だちのおふくろでもあるのか?」
「いいえ」
「それじゃあ、どういうばあさんなんだ?」
「いいえ」
「どういうばあさんなんだ、と聞いてるのに、いいえというやつがあるかい。おまえのためには、いったいなんにあたるんだ?」
「さあ、なんにあたりますかねえ? ただ、死んだおやじのかみさんなんです」
「ばか野郎! まあ、なんてえやつなんだ。おやじのかみさんなら、おまえのためにはおふくろじゃないか」
「へーえ、そんな見当《けんとう》にあたりますか……まあ、そういわれてみればおふくろかも知れませんが、とにかくみっともねえから、そうでねえつもりでいるんです。まあ、ないしょにしといておくんねえ」
「なにがみっともねえんだ。女が年をとれば、だれだってばあさんになるもんだ。その親と名のつくものに離縁状をやるというやつがあるか。孝行のしたい時分に親はなし、というくらいだから、できるうちに親孝行をいっしょうけんめいにやらなくっちゃあいけない」
「へえ」
「おまえのような気の荒い男は、心学《しんがく》というものを聞きにいくといい。たちまち気をやわらげるというから……じつは、あたしの知っている先生に、心学にくわしい人がいる。さあ、手紙を書いてやるから、これを持っていろいろと心学の教えをうけておいで」
「へえ、ありがとうございます。けれども、あれをやると、どうも胸が焼けていけません」
「胸が焼ける? なんのことだ?」
「ええ、でんがくでしょう?」
「でんがくじゃない。わからない男だなあ。心学だよ。心学というのは、おまえの心をおさめる学問だ。むこうへいけば、先生が、おまえによくわかるように説き聞かしてくれる」
「へえ、学問といったってあっしには、まるで読み書きはできねえんで……」
「いや、ただ耳で聞くだけでりっぱな学問になるんだ」
「へえー、そいつはいいや。しかし、いったらすぐにやってくれるでしょうか」
「床屋へいったようなことをいうなよ。毎日あそんでおいでになるかただから、いけばすぐに親切に聞かしてくださるから、それをよく心にとめて、先生にいわれたことをよくまもるようにしてみろ。おまえが、うまれかわったような人間になるから……そうなれば、あたしだって世話のしがいがあるというもんだ。さあ、この手紙を持ってすぐにいっておいで」
「へえ、どこへいくんです?」
「この手紙に書いてあるよ」
「書いてあるよ、とおっしゃいますが、そんな意地のわるいことをいわねえで、ちょいと教えておくんねえ」
「ああ、そうか、おまえは字が読めないのか。それは、長谷川町の新道で、紅羅坊名丸《べにらぼうなまる》先生とたずねればすぐにわかる。たばこ屋のうらだよ。すぐにいきな。ああ、これこれ、格子《こうし》をしめていきなさい」
「なあに、いまじきに帰ってきますから、しめずにいけば、こんど帰ってきたときに、あける世話がねえや」
「そんならんぼうなやつがあるか」
手紙をもらいまして、八つあん、長谷川町へやってまいりました。
「大家のでこぼこが、長谷川町の新道で、たばこ屋のうらだといってやがったが、たばこ屋が何軒もあって、どれだかわかりゃあしねえ。ここのたばこ屋のじじいが、まぬけなつらをして坐っているから聞いてみようか……おい、じいさん」
「はい、なにをさしあげます」
「なにをいってやがるんだ。人をみりゃあなにか売りつける気でいやがる。この欲ばりじじいめ」
「こりゃあらんぼうなかただ。なんのご用で?」
「うん、ここいらに、なんとかいうやつがいるかい?」
「なんとかじゃあわかりません。お名前はなんというんです?」
「なんでも、それ……そうそう……べらぼうになまけるとか、なんとかいうやつがいるだろう?」
「べらぼうになまけるおかた? まあ、このあたりにも、ずいぶんなまけ者がたくさんおりますが、そんな名前の人は……そうだ。あなたのおっしゃるのは、ひょっとしたら、紅羅坊名丸先生ではありませんか?」
「ひょっとしなくったって、それだ。その人だ。そのくらい知ってやがって、さっきから、そらっとぼけてかくしてやがる。この横着《おうちやく》じじいめ」
「べつにかくしてたわけじゃないが……その先生ならば、このうらをはいって、つきあたりの格子のはまったお宅がそれです」
「そうかい、ありがとう……えーと……つきあたりの格子のはまったうちと……うん、ここだ、ここだ……こんちわ、えー、まっぴらごめんねえ……えー、親方……大将……おい、だれもいねえのかい? それとも死に絶《た》えたのかい? おい、なまけ者のうちはここかい?」
「おやおや、どなたか知らんが、いろんなことをいってるな……まあ、だれもいないからこっちへおはいり」
「へえ、だれもいねえところへはいったってしかたがねえから、またくるとしよう」
「いや、わしのほかにはだれもおらんから、遠慮なくこっちへおはいりというのだ」
「じゃあ、ごめんなせえ……えー、これをみてもらいてえんで……」
「おや、お手紙をご持参か、どれ拝見しましょう」
「はやくみておくんなせえ。気が短《みじけ》え人間ですから、ぐずぐずしていると、腹あ立ってすぐに帰っちゃいますぜ」
「いや、お手間はとらせません。お返事がいるものかどうか、ちょいと拝見をいたして……ふん、ふん……うん、なるほど……ふん、ふん……」
「ふん、ふんいってねえで、はやくしておくんなせえ」
「おまえさんが、この八五郎さんというおかたか?」
「へえ、まさしくおまえさんです」
「ご自分のことをおまえさんというのはない……いや、かねておまえさんのことはうかがっていましたが、この手紙のようすでは、おふくろさんがおありだそうだが、親孝行をなさらなければいかんよ」
「へえ……もっとためになるやつをやっておくんねえ。親孝行、親孝行てえやつは、日に三度ぐれえいわれてるんで……もうすこしためになるしろものを、ひとつやってみておくんねえ」
「もうすこしためになるものといっても……こまるな、どうも……そうだ。おまえさんは、たいそう気が荒いそうだが、喧嘩というものをなさるでしょう」
「喧嘩かい? ああ、やるねえ。めしのあとの腹ごなしに、毎日、三度三度やらあ」
「それじゃあまるで腹ぐすりのかわりだ。しかし、喧嘩をなされば、かならずおまえさんのからだに損が立つ」
「じょうだんいっちゃあいけねえや。損得《そんとく》をかんがえて、そろばんをはじきながら喧嘩するやつがあるもんか。しゃくにさわりゃあ、いますぐにだって喧嘩すらあ」
「まあ、そんな大きな声をだしなさるな。それでは、わしとおまえさんが喧嘩でもしているようだ。近所へ聞こえてみっともないから、わしのいうことを、しかと腹にいれて聞きなさい」
「腹で聞くてえと、へそのあなですかい?」
「ばかなことをいいなさるな。へそで聞くやつがあるものか。しっかりとよく聞きなさいということだ」
「へえ、そうですか。また、あっしゃあ、へそで聞くのかとおもって、いま、へそのごまをとったところで……まあ、気が短えんですから、いそいでひとつやってみておくんねえ」
「よろしい……では、気にいらぬ風もあろうに柳かな……どうじゃな、おわかりかな?」
「えー、どうも感心なもんで……じつにおそれいりました」
「おわかりかな?」
「いいえ、まるっきりわかりません」
「なんだなあ……わからないのに感心したりして……」
「そこが浮世の義理というやつで……おまえさんの顔をちょいと立てたというわけで……」
「顔なんぞ立てなくてもよろしい……いいかな、気にいらぬ風もあろうに柳かな……つまり、柳というものは、やわらかなものだ。南風がふけば北へなびき、北風がふけば南へそよぐ、風しだいになびくという。人間もその通り、心をすなおに持てば、喧嘩口論もできない道理だ」
「じょうだんいっちゃあいけねえ。柳と人間をいっしょにするのは無理というもんだ。柳は、川端《かわばた》に生えていて、風が吹いたって、風の通りにぶらぶらしてればいいけれど、人間がそんなあんべえに、川端をあるいてるところへ風が吹いてくりゃあ、川のなかへころげこんじまうじゃありませんか」
「いや、そうはなしがわからなくてはこまるなあ。むっとして帰れば門の柳かな……まあ、柳のように心をやわらかく持てというのだ」
「心をやわらかく持てったって、人間てえものは、虫のいどころがいいときとわるいときがあります。しゃくにさわりゃあ喧嘩もしまさあ」
「いや、それがいかん。腹が立つのをおさえることを堪忍《かんにん》という。堪忍のなる堪忍はだれもする。ならぬ堪忍するが堪忍……堪忍のふくろをつねに首にかけ、やぶれたら縫え、やぶれたら縫え」
「なむあみだぶつ……」
「これこれ、まぜっかえしてはいかん……どうもおまえさんには、なかなかおわかりねがえないようだから、なにか例をあげて、わかりやすいようにおはなししましょう……たとえば、おまえさんがおもてをあるいているとする。どこかの店の小僧さんが道に水をまいていて、その水が、おまえさんの着物にかかったとしたら、おまえさん、いったいどうなさる?」
「きまってまさあ、喧嘩すらあ」
「喧嘩するったって、相手は子どもだ。そんな子どもと喧嘩ができるかな?」
「そりゃあ小僧とは喧嘩にならねえから、小僧をその店へひっぱっていって、なんだっててめえんとこじゃあ、こんなまぬけな小僧を飼っておきゃあがるんだとどなりこみまさあ」
「飼っとくてえやつがあるか。それでは、風がある日に、せまい横丁にはいるとする。風のために、屋根からかわらがおちて、おまえのあたまにあたったらいたかろうな」
「そりゃあ生きてるからいたいにきまってまさあ」
「そのかわらと喧嘩ができるかい?」
「かわらと喧嘩するやつがあるもんか。やっぱりそのかわらを持って、そこのうちへねじこみまさあ」
「なんといって、そこのうちへねじこむい?」
「てめえんとこは、高慢《こうまん》なつらをしやがっても、職人の手間をおしみやあがるから、すこしばかり風がふいても、かわらがこうやっておっこちるんだと、そこへどなりこむね」
「それでは、人間がいたり、うちがあったりするから、これで文句の持っていきどころがあるが、たとえば、うち一軒ない大きな原っぱへお前さんが通りかかったとき、にわか雨になったとする。夏の雨は馬の背をわけるというくらいで、いままで雲ひとつない晴天だったやつが、どーっとふってくる。そういうときは、おまえさんどうするい? 雨具がないから、ぐっしょりとぬれてしまうぞ」
「大きな木をみつけて、その下で雨宿りをします」
「木なんか一本もない原っぱだ」
「そんな意地のわりいことをいわねえでさ……木の一本ぐれえあったっていいじゃありませんか」
「それがあいにくと雨宿りするところはまったくないのだ。そうなれば、小僧にすこしの水をかけられたくらいで腹を立てるおまえさんだ。あたまからぬれねずみなのだから、よけいに腹が立つ道理だの」
「そりゃあそうでさあ」
「そのよけいに腹が立ったときの相手はだれだ? だれを相手に喧嘩をするんだ?」
「へえ」
「へえではない、だれと喧嘩をするのかと聞いているんだ」
「へえ、もうようがす」
「いや、ようがすではわからない。どうする?」
「どうするったって……こまっちまうな、どうも……まあようがす。まけときましょう」
「いいや、まけなくってもいい。そのときには、だれと喧嘩をするよ」
「だれと喧嘩をするったって、相手がなくっちゃあできませんから、あきらめてしまいます」
「どうあきらめる?」
「どうあきらめるって、どうもしかたがござんせん。人間がにわか雨をふらしたわけじゃあないんで天からふってきた雨だとおもって、腹を立てずにあきらめてしまいます」
「そこだ」
「どこです?」
「どこですって、なにかさがしものをしたってしょうがない……すべてがその道理だ。すべてのことは、人間がやったとおもわずに、天がやったとおもったらよかろう。たとえば、小僧に水をかけられたら、原なかで雨にぬれたものとおもってあきらめる。屋根からかわらがおちてきたら、これは天から降ってきたものとおもってあきらめる。なにごとも天からわが身へふりかかった災難とあきらめる。天の災《わざわい》と書いて天災と読む。なにごとも天災だとあきらめれば、腹を立てようとおもっても腹が立つまい」
「なるほど……おまえさん、つらはまずいが、いうことだけはうめえことをいうね。まあ、早えはなしが、おまえさんと喧嘩しようとおもっても、相手が天だとあきらめちまうんですね」
「まずそうだな」
「そういえば、おまえさんなんぞ、上のほうがまるくピカピカ光ってるから、なるほど天みてえなつらだ」
「おかしなことをいいなさんな」
「ありがとうございます。これですっかりわかりました」
「それはよかった。まあ、たいしておもしろくはないだろうが、雨でもふって用のないときには、ちょくちょくあそびにおいで」
「へえ、またまいります……そうだ。こりゃあいいはなしですから、人に聞かしてやります。ついちゃあ、さっきの柳がひっくりけえったとかなんとかいうやつを、もういっぺんやっておくんねえ」
「柳がひっくりかえるやつがあるもんか。気にいらぬ風もあろうに柳かな。むっとして帰れば門の柳かな」
「まだあるじゃあござんせんか。堪忍がどうかしたとかなんとかいうのをやっておくんねえ」
「堪忍のなる堪忍はだれもする。ならぬ堪忍、するが堪忍、堪忍のふくろをつねに首にかけ、やぶれたら縫え、やぶれたら縫え」
「ありがとうございます。そいつをおまえさんのような声をだしてやりてえけれども、なかなかそんなもっともらしい声はでないねえ。まあ、だれかに聞かしてやりましょう……さようなら」
「おいおい、いま茶をいれるよ。せっかくわしのうちへきたんだから、茶の一ぱいも飲んでおいで」
「いえ、なに……おまえさんが茶をいれねえとおもえば腹も立つが、天が茶をいれねえ、これすなわち天災だ、とおもえばなんでもねえや」
「まあ、それならそれでよろしい」
「じゃあ、これで帰ります……あれっ、下駄がかたっぽうなくなっちまった」
「それはいかんな。わるい犬がいるから、ことによったら犬がくわえていったかも知れない」
「犬がくわえていった? ……ようがす、これが犬だとおもえば腹も立ちますが、天が下駄をくわえていったとおもえばあきらめもつきまさあ」
「天が下駄をくわえていくやつがあるもんか……おいおい、帰るんなら、格子戸をしめていっておくれ」
「いえ、あっしがしめなかったとおもやあ腹も立つでしょうが、天がしめなかったとおもってあきらめてくんねえ……ああ、天災、天災、いいことを聞いたぞ」
「おい、おっかあ、いま帰ったよ」
「いま帰ったじゃないよ。おっかさんがたいへんに心配してたよ……それはそうと、奥の熊さんのうちで、先《せん》のおかみさんがきてね、大さわぎだったんだよ。なんでも、まだ離縁のかたがついていなかったとみえて、あとへ変な女がきているもんだから、ごたごたと夫婦喧嘩さ……いまもいってたんだが、おまえさんがいようもんなら、その喧嘩が大きくなってたいへんだったろうけれど、おまえさんがいなかったもんだから、いま長屋じゅう総出ですっかりしずめてしまって、ほんとうにいないでよかった、といってたんだよ」
「なにをいやあがる。それじゃあ、これから熊のところへいってこようか」
「いけないよ。せっかくしずまったのに、おまえさんがいくと、また喧嘩がはじまるよ」
「ばかなことをいうな。いままでのおれとちがって、すっかり学問を仕入れてきたんだ。あの野郎にひとつ天災をくらわしてやらあ」
「なんだか知らないけれども、せっかくしずかになったところへいって、なにからんぼうなことをやっちゃあいけないよ」
「心配するなってことよ。せっかく仕入れてきた天災を、こんなときにつかわなくっちゃあ、つかうときがねえじゃねえか。じゃあ、ちょいといってくるぜ……おーい、熊っ!」
「やあ八つあんか、よくきてくれた。おめえんとこのおかみさんにたいへんに厄介になっちまって……いま、長屋を礼にあるこうとおもってたところだ。まあ、あがってくんねえ」
「ようし、あがらしてもらおう。どうもあがらなけりゃあ、おちついてうまくはなしができねえや……じゃあ、ごめんよ」
「おいおい、八つあん、じょうだんじゃねえ。いやに角《かく》ばって坐ったりして……いつものようにあぐらをかいてくんねえな」
「いや、きょうは学問のはなしだから、坐らなくっちゃあぐあいがわりいんだ……おい熊、もうすこし前へでろ……てめえ、喧嘩をしたってえじゃねえか。どうもよくねえぞ」
「あははは……こいつあおどろいた。おめえに喧嘩のことでたびたび意見をしてやったことはあるが、こっちが意見されるなあはじめてだ」
「なにをいってやがるんだ。いままでとはちがわあ……まずわたしがおはなししてお聞かせいたそう」
「うふふふ……わたしってがらじゃねえぜ。たわしみてえなつらをして……」
「だまってろい。もうすこし前のほうへでろ」
「なんだい、あらたまって……」
「おまえさんは……おっかさんがあると……おっかさんであってみれば、親で女で、ばあさんで、おふくろだ」
「なにをいってるんだ?」
「いいからだまってろ……まずお手紙のようすでは……」
「手紙とかなんとか……おめえのいうことは、さっぱりわからねえじゃねえか」
「わからねえったって……おれだって、まだよくわからねえ」
「じょうだんじゃねえ。さっきからなにをいってるんだ」
「だまってろい。とにかく、おまえさんは親孝行しなさいよ」
「親孝行しろったって、おれは、おめえも知ってる通り、親なんかありゃあしねえ」
「なんてまあぶきような男なんだ。なけりゃあどこかへいってさがしてこい」
「ふざけちゃいけねえや。ありもしねえ親をさがすやつがあるもんか」
「しょうがねえなあ。せっかくの学問も、相手がわるくっちゃあうまくいかねえや……それじゃあ、親孝行はぬきにして、そろそろ喧嘩のほうへとりかかるぜ。いいか、おれのいうことを耳で聞かねえで、へそのあなで聞くんだぞ」
「ばかなことをいうなよ。耳のあなをあらってよく聞けというのはあるが、へそのあなで聞くとなると、へそのごまでもとるのか?」
「おれもごまをとって腹がいたくなった……そんなことはどうでもいいんだ……では、いよいよ唄のほうにとりかかるから……気にいらぬ風もあろうに……どうだ、うまかろう」
「なんだかちっともわからねえ」
「これからがいいとこなんだぞ……いいか……気にいらぬ風もあろうに蛙《かわず》かなよ。蛙は柳で、柳はやわらけえや。南風はどうものぼせるし、北風はさむいし、東風は雨がふらあ」
「なにをいってるんだ」
「むっとして帰れば門のかわらかな……」
「なんのことだ?」
「さあ、これからもっともらしい声をだすぜ」
「なんだい、もっともらしい声てえのは?」
「堪忍の……堪忍の……」
「かんかんのうでもおどるかい?」
「だまってろい……堪忍の……堪忍の奈良の堪忍大仏よ……いいか……そこで、奈良の神主《かんぬし》と駿河の神主と喧嘩をすらあ」
「らんぼうな神主だなあ」
「なかに天神寝てござる」
「なんだか変だなあ、なんのはなしだ?」
「だまって聞いてろよ。いいか……願人《がんにん》の坊主がふくろ、ずだぶくろよ……やぶれたら縫え、やぶれたら縫え……せめえ横丁へいけば、風がふいてきて、屋根から小僧がころげおちらあ」
「あぶねえなあ」
「だまってろい、これからかんじんなところだ。大きな原っぱをいくと、夏の雨は馬が降らあ」
「馬が降るてえことがあるかい。雨はたいがい水にきまってらあな」
「その水よ、小僧が水をまくとおもうから腹も立つ。天がまいたとおもえ」
「ちっともわけがわからねえじゃねえか」
「なにしろ、おめえは先《せん》のかかあと喧嘩したっていうが、先《せん》のかかあとおもうところがおめえのしろうとのあさましさよ」
「へえー、なんだとおもえばいいんだ?」
「天がきたんだと、こうおもうんだ。いいか、天がきたとおもえば腹が立たねえ。これすなわち天災だ」
「なーに、うちへきたのは先妻《せんさい》だ」
大山まいり
むかしは、信心のために山のぼりにでかける人たちが多かったそうでございまして、江戸に近いせいもあって、とくに大山まいりはさかんだったようで……
気の荒い江戸っ子連中が山のぼりにでかけましたが、酒がはいると、とかく喧嘩がおこりやすいというので、腹を立てたら罰金、もしもあばれるものがいたら、髷《まげ》を切って坊主にしてしまう、という罰をきめました。そのおかげで、山はたいへんにおとなしくすみまして、いよいよ江戸へ帰るというので、神奈川へ泊まりました。
さあ、あしたは江戸へはいるというので、前祝いに一ぱいはいりましたから無事にはおさまりません。
「先達《せんだつ》(先に立って案内する人)つあん、先達つあん、たいへんだ。とうとう熊公があばれだしましたぜ、湯殿で……」
「熊公が? あいつあ酒くせがわりいんだから、うっちゃっときなよ」
「そうはいきませんよ。ひでえんだから……」
「どうしたんだ?」
「いえね、あっしと留公が湯へへえっているところへ、あの野郎が、へべれけに酔っぱらってへえってきやがって、どうしてもいっしょにへえるといってきかねえんで……『こんなせめえ湯に三人もへえれるもんか。すぐにあがるから、ちょいと待ちねえ』といったんですが、あの野郎、飲むといやに強情《ごうじよう》ですから、『いつまで待ってなんぞいられるもんか』と、あのでけえ図体《ずうてえ》で割りこんできやがったんで……とてもきゅうくつでへえっちゃあいられねえから、『この野郎、なんてらんぼうなんだ』と、あっしが湯からでるついでに、野郎の背なかをこづいてやったんです。すると、『なにもてめえが買いきった湯じゃああるめえ。文句があるならおもてへでろ』と、こういいやがる。あっしもくやしいから、『なにいってやんでえ。そりゃあこっちのいうせりふだ。てめえこそさきへでろ』っていうと、野郎、留公のあたまを蹴《け》とばしてでやがったんで……」
「なんだ、留公、おめえ、あたまを蹴とばされたのか?」
「ええ、ふたつね」
「ふたつ? おめえ、のんきにかぞえてたのか?」
「べつにのんきにかぞえていたわけじゃあねえんですが、こっちがわを蹴とばしたんで、こっちへあたまをかたづけると、また蹴とばしゃあがったんで……『なんて足くせがわりいんだ、気をつけろ』っていったら、『蹴られてこまるようなあたまなら、座敷へおいてきてからへえれ』っていいやがるんですが、あたまはとりはずしできません」
「あたりめえだ」
「あっしもくやしいから、げんこをふりあげて……」
「なぐったか?」
「なぐられちまった」
「だらしがねえなあ……で、留公がなぐられるのを、金ちゃんはだまってみてたのか?」
「いいえ、あっしだって男でさあ、そばにあった小桶《こおけ》をふりあげて……」
「なぐったか?」
「なぐろうとおもったら、桶をひったくられて、あべこべにひっぱたかれた」
「なーんだ、おめえもか……ふたりとも弱えじゃあねえか」
「なーに、むこうが強すぎるんで……そのあげく、そこにある物をたたきつけやあがるんで、どうにも手がつけられねえからひきあげてきたんですが、あっしたちあ腹を立てましたから、約束通り銭をだします。そのかわり、熊の野郎は坊主にしちまいますからね、承知してておくんなさいよ」
「おいおい、そりゃあ約束は約束だけど、坊主にするってえのはおだやかじゃないよ。そこんところは、まあ話合いで、おめえたちの顔は立つようにするから、なんとか、まあ、こらえて……」
「いいえ、坊主にさせてもらいます」
「そこんとこをまあ、なんとかがまんして……」
押し問答をしておりますと、「先達つあーん、先達つあーん」とよぶ声。お膳がでて芸者がそろったから、先達さんが席についてくれないと、みんながこまるというので、先達の吉兵衛さんはそちらの席へいってしまいます。あとにのこった金さんと留さん、どうにも腹がおさまりません。帳場へいってかみそりを借りてくると、熊さんが酔いたおれている二階へあがってまいりました。
「あれ、この野郎、さんざっぱらあばれてくたびれたとみえて、鼻からちょうちんだしてひっくりけえってるぜ……あっ、しまった。水をわすれちまった。坊主にするったって、あたまをしめさなくっちゃあなるめえ」
「あたまをしめすんなら、そこに酒があらあ、酒でしめしてやりゃあ、野郎も剃られ甲斐があるというもんだ」
「うふふ、酒か……てめえの酒であたまをしめされて坊主にされりゃあ世話あねえや。さっそくこの湯飲みについで……うん、なかなかいい酒だ」
「おいおい、おめえの腹んなかをしめしたってしょうがねえじゃあねえか。こいつのあたまをしめすんだよ」
「わかってるよ。酒のいきおいでさっとやっちまうんだ……さあ、これでよくしめしたから、このへんからはじめるか……うふふふ、おもしれえ、おもしれえ……あれっ、片っぽうやったら、こっちもおやんなさいといわねえばかりに寝がえりをうちやあがった。こいつあやりいいや、そらそらそらよっときやがらあ……さあさあできた、できた。ずいぶんにくにくしい坊主ができあがったぜ。さてと……このままはだかでころがしとくわけにもいかねえ、なにかかけるものは? ……よしよし、この蚊帳《かや》をかけとこう……おい、みねえ、こうやって、蚊帳のなかから、まっ赤な坊主あたまをだしたところは、ほおずきの化けもんだなあ、あははは」
「プウ。プウーッ……」
「おい、霧なんかふいてどうするんだ?」
「こうやって、こいつのあたまへ酒の霧をふいておけば、蚊がわーっとやってきて、たっぷりと血を吸わあ。そうすりゃあ、血の気がすくなくなってしずかにならあな」
それから、金さんと留さんは、かみそりを帳場へかえしてしまうと、みんなといっしょの席へまじって大さわぎ。
さて、夜があけて、熊さんはそのままにして、一行は江戸へ発《た》ってしまいました。
「おかみさん、おかみさん、ちょっと二階へきてください」
「どうしたのさ?」
「ええ、江戸のお客さまたちのお泊まりになった部屋を掃除しにいきまして、蚊帳をかたづけようとしましたら、なかから坊さんがでてきました。気味がわるいから、二階へいっしょにきてください」
「坊さんが? そんなはずはないねえ。じゃあ、いっしょにいってあげよう……どれどれ……あらまあ、ほんとにお坊さんが寝てる……たしか、お坊さんのお泊まりはなかったのにねえ……あら、いやだ。ゆうべ、湯殿であばれた人じゃないか」
「え? あらっ、たしかにそうですけど、あのお客さんは髷《まげ》がありましたよ」
「だからさ、なにかわるいことをしたんで坊さんにされちゃったもんだから、かつらをかぶってきたんだけど、ゆうべのさわぎで、どっかへかつらをおっことしちまったんだよ」
「そうかも知れませんね」
「みなさん、もうお出発《たち》なんだから、はやくお起こししたらいいじゃないか。あたしは、下へいくからね」
「そうですね、もし、お客さん、お客さん、もし、あなた……」
「あ、あ、あーあ……ばかにくたびれた。からだの骨がびしびしと痛えや……おい、ねえさん、すまねえが、たばこ盆を持ってきてくれ……うーん、うめえ、朝の一服は格別だ。おまけにいい天気だし、いい心持ちだぜ……おい、なにを笑ってるんだ? なに? 坊さんがいます? どこにいるんだ? どこにもいやあしねえじゃねえか……なんだと? あなたが坊さんだ? じょうだんいうねえ、髷のある坊主がいるもんか……なに? 自分のあたまをさわってみろだって?
なにとぼけたことをいってやんでえ、へへへ、はばかりながら、おれのあたまの毛についちゃあ、女の子がわーっという……あれっ、つるつるだ。おいおい、だれのあたまだ?」
「だれのあたまって、お客さんのあたまにきまってるじゃありませんか」
「しまった……ゆうべ、おれ、あばれたかい?」
「あばれたかいどころじゃありませんよ。湯殿でひっくりかえるようなさわぎだったじゃありませんか」
「そうかい、まるっきりおぼえがねえんだ……うーん、いくら約束だって、坊主にしなくってもいいじゃあねえか。ひとつ町内で、ちいせえ時分からあそんだ仲なのに、こんなことをするなんて……で、みんなどうしたんだ? え? 出発《た》っちまった? ほんとうかい? 勘定はすんでるのかい? ひでえやつらじゃあねえか。人をおきざりにして……よーし、野郎どもがそういうりょうけんなら、こっちにもかんげえがあらあ、みてやがれ……おい、ねえさん、めしはいいから、江戸まで通し駕籠《かご》をあつらえてくれ。おらあいそぐんだから……」
熊さん、あたまを手ぬぐいでつつんで、駕籠の垂《た》れを両方おろすと、一行のやすんでいる茶屋の前を通りこして、とぶようにして江戸のわが家へ帰ってまいりました。
「おう、いま帰ったぜ」
「あら、お帰んなさい。ばかにはやかったね。いま、みんなであつまって、これから品川までむかいにいくところだったんだよ」
「むかいに? そいつあちょっと待ってくれ。そんなことよりも、こんどいった連中のかみさんたちを、うちへあつめてきてくれ。わけ? わけなんざああとではなすから、とにかくよんできてくれ、いそいでお耳にいれたいことがありますからって……」
「そうかい、それじゃあよんでくるから……」
「おや、熊さん、お帰んなさい」
「おや、こりゃあ、吉兵衛さんとこのあねさんですかい。まあ、あがってくんねえ」
「熊さん、お帰んなさい」
「お帰んなさい」
「お帰んなさい」
「おうおう、みんなあつまってくれたかい。なにしろうちがせめえから、両方にわかれて坐ってくんねえ」
「熊さん、おまえさん、どうしたんだい? あたまへ手ぬぐいなんぞまいて……」
「ええ、この手ぬぐいについちゃあわけありなんで……じつは、みんなの顔をみるのもめんぼくなくって口もきけねえしまつなんだ。どうかまあ、はなしをおしめえまでなんにもいわずに聞いていただきてえんで……山をすませて、藤沢でみんないっしょに一ぺえやっていたときに、だれがいいだすともなく、金沢八景をみようと、こういうんだ。で、八景を見物すると、せっかくここまできたんだから、舟へ乗って、米《よね》が浜のお祖師《そし》さまへおまいりしようてえことになった。ところが、虫が知らすか、舟へ乗ろうというときになって、おれは、どうも腹ぐあいがわるくってしょうがねえから、舟宿へ寝ていることにした。みんなゆっくりあそんできてくれといって寝て待っていたところが、まもなく、ところの漁師のはなしだ。いま、あすこで江戸の人たちの舟がひっくりけえった。大山帰りの人たちだろうが、浜辺の者が手わけをして、あっちこっちとさがしてまわったが、死骸もわからねえ……さっきまで、ひとつ鍋のものを食いあった友だちが死んじまって、おれひとり、江戸へのめのめと帰れるもんじゃあねえ……みんなのあとを追って海へとびこんで死のうとはおもったけれども、江戸で、首を長くして亭主の帰りを待っているおめえさんたちのことをおもうと、このことを知らせなくっちゃあと、恥をしのんで帰ってきたんだ」
「あらまあ……だから、あたしゃあ、ことしはやりたくなかったんだよ。けどねえ、やらなけりゃあ、みんなにやきもちのようにおもわれるからやったんじゃあないか……わあー」
「まあ、まあ、泣くのはおよしよ。泣くのはちょいと、お待ちてんだ。なんだねえ、そんな大声をあげて……この人のあだ名をわすれたのかい? この人は、ほら熊さん、ちゃら熊さん、千三つの熊さんなんていわれてるんじゃあないか……ちょいと、熊さん、そんないいかげんなことをいって泣かしておいて、日が暮れてからみんなが帰ってくると、おまえさん、舌でもだそうってんだろ?」
「ねえ、あねさん、そりゃあ、あっしは、ほら熊、千三つの熊なんていわれてますがね、生き死にのうそはつきませんぜ……そんなにうたがうんなら、みんなが死んだてえ証拠《しようこ》をおみせしましょう」
「証拠? そんなものがあるの? あるんならみせてごらんよ」
「ええ、みせますとも……あっしゃあ、おまえさんたちにこのはなしをしたあとで、かかあを離縁して、あすともいわず、これからすぐに高野山《こうやさん》へのぼって、みんなの菩提《ぼだい》をとむらうつもりなんだ。みてくんねえ、このあたまを……」
「あらまあ、坊主になって……ふだんおしゃれな熊さんが坊主になったんだから、これはほんとうだよ」
てんで、うたぐっていた吉兵衛さんのおかみさんが泣きだしたからたまりません。あつまったおかみさんたちが、声をそろえて、わっとばかり泣きだしました。なかには、顔色をかえてとびだそうとする者もでてくるしまつ……
「おいおい、血相《けつそう》かえて、どこへいくんだ?」
「あたしゃ、身を投げて死んじまう」
「待ちな、待ちな、待ちなってえのに……死んだってしょうがねえじゃねえか……おめえが、それほどに半公のことをおもっているなら……おれは、けっしてすすめるわけじゃあねえが、おまえの黒髪を根もとから切って尼になり、半公のために、朝に晩に念仏をとなえてやんねえな。あいつもきっと浮かぶことができるぜ」
「そうかい、そんなことでいいんなら、あたしゃ、あの人のために坊さんになるよ。すまないが、熊さん、あたしを坊さんにしておくれよ」
「そうそう、そのりょうけんが第一だ。さあさあ、このかみそりで、さっそくはじめよう……ああ、おまえは貞女だ。あっぱれ貞女だ。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……」
とうとう坊さんをひとりつくってしまいましたから、ほかのおかみさんたちもそのままにはしておられません。
「まあ、おはなさん、おまえさんは若いのにほんとうに感心だ。あたしも永年つれそった吉兵衛のために尼になるよ。さあ、熊さん、あたしもやっとくれ」
「ああ、いいとも……ほかの人たちはどうだい?」
「あたしもおねがいします」
「あたしも……」
「あたしも……」
「そうだ、そうだ。そうしてしまうがいい。さあさあ、みんな尼になるがいい。かみそりをできるだけあつめてな。ひとりひとりしめすのはたいへんだから、四斗樽《しとだる》に水をくんで、あたまをつっこんどいてくれ」
たいへんなさわぎで、先達のかみさんをはじめ、友だちのかみさんをかたっぱしからくりくり坊主にしてしまいました。ただし、自分の女房は、離縁をするからってんでそのままにしておいたんですからひどいやつで……
どこかで借りてきたとみえまして、麻の衣を着て、大きな珠数《じゆず》を持ってくると、にわかごしらえの尼さんたちのまんなかへはいって、鉦《かね》をたたきながら、なむあみだんぶつなむあみだ、てんで、百万べんがはじまりました。
こっちは吉兵衛さんたちの一行が、日の暮れがたに町内へ帰ってまいりました。
「やれやれ、町内へはいると、なんとなくきれいなうちへ帰ってきたような心持ちがするもんだなあ」
「そうそう、なにしろ町内というものはなんとなくなつかしい。たとえ二、三日の旅でも、うちをあけたとなると、うちのようすがたのしみなもんだ」
「そうさ、ほんとうだぜ。ことにまた半ちゃんなんかは、かみさんが若えから、今晩あたりたいへんだぜ。あはははは」
「あはははは……」
「しかし、なんだぜ、熊のやつは気の毒なことをしたな」
「なーに、あれもあいつの心がらだからしかたあるめえ。まあ、髪だって、これが一|生涯《しようがい》伸びねえというわけじゃあなし……毛の伸びるあいだ、わが身をあれこれとふりけえろうというものさ……とはいうものの、ちょいとあいつんところを見舞ってやろうじゃあねえか……へっへっへ、野郎、どんなつらをしてるかな? ……あれっ、どっかで念仏をやってやがら……どうも暮れがたの念仏てえやつは、あんまり気持ちのいいもんじゃあねえ……あっ、なんだい、熊公のうちだぜ。あいつのうちで念仏を聞こうたあおもわなかった。障子の穴からのぞいてやれ……うふふふ、熊公の野郎、どうしたんだか、衣を着て、すましたつらをして鉦なんかたたいてやがる……また、まわりにずいぶん坊主をあつめやがったなあ……あれっ、坊主は坊主でもみんな尼さんばっかりじゃあねえか」
「へーえ、そんなに尼さんがあつまってるのかい? おれにものぞかせろい、あれっ、この正面で泣いてるのは金ちゃんのかみさんにそっくりだぜ」
「なに? おれのかかあ? ……どれどれ……ちょいとのぞかせてくれ……あっ、ほんとうだ、おれのかかあだ……おっ、そのとなりは吉兵衛さんとこのおかみさん……やあ、留さんとこのかみさんもいるぜ……あれっ、たいへんだ。おれたちのかかあをみんな坊主にしやがった。熊の野郎、とんでもねえことをしゃあがった……おーい、みんな、たいへんだぞ!」
「どうしたんだ?」
「かかあをみんな坊主にしちまったぞ」
こちらは、熊さん、左の片手拝みで、右手で鉦をたたきながら、
「なむあみだぶ、なむあみだぶ……さあさあさあ、迷ってきた亡者《もうじや》の声が聞こえてきたから、みんないっしょうけんめいにお念仏をとなえて、さあ、お念仏だよ」
「なむあみだぶ、なむあみだぶ……」
「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……」
そこへ連中が、腰高障子を足で蹴とばしてなかへとびこんできましたから、かみさんたちはおどろいて……
「なむあみだぶ、なむあみだぶ、どうか迷わず成仏して……二度と亭主は持たない……」
「なにいってやがる。やいっ」
「あらまあ、いやだ。らんぼうな幽霊だよ」
「幽霊たあなんだ?」
「だって、舟がひっくりかえって死んじまったじゃあないか」
「なにいってやんでえ。舟になんか乗るもんか。みんなぴんぴんしてるじゃねえか」
「あら、生きてるんだね。まあ、いやだよ、あたしゃ、こんなあたまで……」
「いまさらあたまなんかかくしたってしょうがねえや……やいやい、熊公!」
「おや、みなさん、お帰んなさい」
「こんちくしょう、しゃあしゃあとして、お帰んなさいもねえもんだ。てめえがあばれたんだから、坊主にされたってしょうがねえじゃあねえか。罪のねえかかあたちを、よくも坊主にしちまったな」
「あはははは、ざまあみやがれ。いくら怒ったって、髪の毛なんか、そうちょっくらちょいと伸びるもんじゃあねえから、まああきらめろよ。おいおい、そんなに腹を立てるんなら、約束の銭をだせよ」
「あれっ、この野郎、この上に銭なんぞとられてたまるもんか。ふざけやがって……さあ、みんな、かまうこたあねえから、こんちくしょうを張り倒せ!」
「おいおい、まあ待ちなさい。ともかくお待ち」
「じょうだんいいなさんな。吉兵衛さん、おまえさんは、おかみさんも、もうばばあだから、そうやってすましていられるだろうが、おれなんざあ、かかあの水の垂《た》れるような銀杏《いちよう》がえしをみるのがたのしみで帰ってきたんだ。それをこの野郎に……どうしたって、張り倒さなけりゃあ腹がおさまらねえ」
「いやいや、そんなに怒ることはない。これはほんとうにおめでたいことなんだから……」
「かかあを坊主にされて、どういうわけでめでてえんだ?」
「お山は晴天で、うちへ帰りゃあ、みんなお毛が(お怪我)なくっておめでたい」
権助芝居
むかしは、よくしろうとがあつまって、しろうと芝居というものをいたしました。
みんなにいい役があたれば無難でございますが、どうしても役不足というものがでてくることが多かったようで……
「番頭さんや、こまったなあどうも……さっきから、お客さまが一ぱいみえてるっていうのに、どうしたんだい、幕をあけないのかい?」
「へえ、それが、旦那さまの前でございますが、じつは、役者が急にひとり不足になりましたものですから……」
「そりゃあこまったねえ……だれだい?」
「伊勢屋の若旦那なんでございますが、役不足なんで……」
「役不足ったって、きのうまでは承知してたんだろう?」
「ええ、そうなんでございます……毎年、役不足でごたごたいたしますので、ことしは、くじびきで、うらみっこなしに、もしあたったら、どんな役でもやるということにはなしがきまっておりました。ところが、鎌倉山の非人権平という役が若旦那にあたったもんでございますから、こりゃあどうかなとおもったんでございますが、ご当人は、まあそれでもいいというんで安心していたんでございます。それが、きのうになって若旦那のおっしゃるには、『稽古《けいこ》をおっかさんがみにきて、舞台へでてくると、いきなりしばられて首を切られてしまうような、あんな気のきかない役をやられたんでは、伊勢屋ののれんにかかわるから、どうしてもやめてくれと泣いてくどかれたんで、どうかやめさせてもらいたい』ということでございます。芝居のあとで、母子喧嘩にでもなったら、お気の毒でございますから、どうにかなりましょうといってしまったんで……」
「で、どうにかなったのかい?」
「それがどうもその……」
「代役がいないのかい?」
「へえ……そこで、あたくしがおもいだしましたのは、めし炊《た》きの権助《ごんすけ》でございます」
「ふーん……権助に芝居|心《ごころ》があるのかい?」
「はい、あれはみかけによらず芝居好きで、村芝居をしたことがあるというはなしも聞いております。でございますから、あれを間にあわせにつかったらどうだろうとおもいますが……」
「そうかい。それで、当人はやるといってるのかい?」
「いいえ、まだやるとはいっておりませんが、いくらか小づかいでもやれば、よろこんでやってくれるとおもいます」
「それじゃあ、さっそくはなしをつけて、幕をあけておくれ」
「かしこまりました……おい、権助、権助やっ」
「ひえー、よばわりましたかね?」
「よんだから聞こえたんだろう?」
「聞こえたからきましただ」
「なんだい、掛け合いだね……まあ、こっちへおいで……ねえ、おまえさんに、すこしたのみがあるんだが……」
「へー、めしの百人分も炊きますかね」
「おまえは、すぐ炊きたがるねえ……いや、めしを炊いてくれというんじゃない。たしか、おまえさんは、お芝居をやったことがあるといってたね」
「へー、わしゃあ、これでも、村の鎮守《つんず》さまのまつりの芝居《しびやあ》では、いつもあまっ子がたをつとめましただ」
「なんだい、そのあまっ子がたてえのは?」
「おめえさまは、あまっ子がた知んねえかね?」
「なんのことだい?」
「へえ、お姫さまだとか、娘だとか、ああいうあまっちょの役をやる役者だよ」
「なんだい、あまっちょとは……そんなら女形《おんながた》じゃあないか」
「へえ、そうともいいますだ」
「ふーん、おまえさんが女形かい……ふーん」
「ばかに感心しただねえ」
「ああ、感心したとも……おまえが女形というんじゃあ、たいした芝居だったろうな……で、どんな役をやったんだい?」
「あのう、ちょうちんぶらちゅう芝居《しびやあ》ありますべえ?」
「ちょうちんぶら? ……はてね? そんな、おまつりのときの軒《のき》さきみたいな狂言があったかねえ?」
「あんれまあ、番頭さんはなんにも知んねえだね……それ、四十七士討ち入りの……」
「なーんだい、そんなら忠臣蔵じゃあないか」
「だからちょうちんぶら……」
「まだやってる……で、そのときどんな役だった?」
「あの、勘平の女房で、お軽ちゅうあまっ子いますべえ」
「うん、お軽をやったのか?」
「へえ」
「うまくいったか?」
「へえ、はじめはうまくいってやしたが、一力茶屋の場ちゅうところで、はしごおりるところがありますべえ?」
「ああ」
「わし、はしごをおりようとしやしたら、着物のすそが長くって足にからんでしかたがねえ。めんどうくせえから、尻をまくってとびおりた」
「らんぼうだなどうも……見物がおどろいたろう?」
「へえ……『なんだ、男みてえなお軽でねえか』なんていいやすからね、『ことしのお軽はおすでやるだ』って……」
「なんだい、おすでやるとは……それじゃあ犬だよ……まあ、それにしても、おまえは、芝居をやったことがあってちょうどいいから、きょうの舞台をつとめておくれ」
「へえ、ありがとうごぜえます。やらせてもらいますべえ」
「そうかい、やってくれるかい……そりゃあよかった。しかし、ただではたのまないよ。これは、ほんの心持ちだが、鼻紙でも買っておくれ」
「ひゃー、芝居にだしてもらった上に、小づけえ銭までくれるだかね……こりゃあどうもありがとうごぜえます。では、さっそく中身を拝見して……」
「これこれ、人前でむやみにあけるもんじゃあないよ」
「でも、もしも中身がからっぽだとこまるからねえ……たしか金がはいっていたはずだなんて、ごまかされるといけねえから……」
「そんな人のわるいことをするもんか」
「あんれまあ、こりゃあ一分もくださるかねえ。こりゃあ、まあ、びっくりした。こうだに鼻紙買ってきて、鼻をかんだら、鼻のあたまがすりむけちまうだ」
「なにもそんなに鼻紙ばっかり買わなくてもいい」
「そうかね……で、どんなことをやるんでがす?」
「鎌倉山の非人権平という泥棒だ」
「はあ、泥棒でがすか?」
「そうだよ」
「この一分、そっちへおけえし申しますべえ」
「どうして?」
「どうしてって、おめえさま、泥棒なんかやって、手がうしろへまわっては、村へ帰って、みんなに顔むけができねえだからねえ」
「なにをいってるんだ。泥棒の役じゃあないか」
「ああ、そうかね。そんなら、一分はいただいときますべえ。で、どんなことをやるんでがす?」
「宝蔵《ほうぞう》って蔵へはいって、宝物《たからもの》を盗んででるのだ」
「へえー、なにを盗みますな?」
「宝物の鏡を盗んででるのだ」
「鏡を? ……そりゃあだめだ。こねえだもおきよどんが、大きな鈴をつけておいたはさみがなくなった。あのはさみがなくなるわけはねえ。ことによったら権助じゃあねえかといいやすから、わしあ腹が立った。はさみでせえそうだから、鏡がなくなったら、どんなにいわれるか知れねえ」
「なにも本物《ほんもの》をとるわけじゃあないから心配しなくてもいいんだよ。曲物《まげもの》(うすい板をまげてつくった容れ物)のふたへ銀紙をはりつけて鏡にみせるんだから……柚《ゆず》みその曲物があったから、それでおれがこしらえたんだ」
「へえ、そうでございますか。わしの村じゃあ本物をつけえます。鍬《くわ》だとか、鋤《すき》だとか、みんな本物で……そうそう、この前なんか、本物の肥桶《こえおけ》かついで舞台へでた」
「きたないなどうも……で、おまえが鏡を盗んで、刀でもって土蔵をやぶってでるんだ」
「そりゃあだめでがす。刀なんぞで土蔵がやぶれるもんでねえ」
「ほんとうの土蔵じゃあないよ。つくりものだから、刀をつっこむとたんにくさびをとると、ばらばらとおちるしかけになっている。それを切りやぶったようにみせて、おまえがでてくるといういい役だ」
「そうでごぜえますか」
「そこへでて、『まんまと宝蔵へしのびいり、うべえとったるゆずり葉の御鏡《みかがみ》、ちっともはやく、おおそうだ』というせりふをきっかけに、でてくるのが、奴《やつこ》に扮《ふん》したちょうちん屋さんだ」
「ああ、あのおもて通りのちょうちん屋の野郎でがすか」
「口がわるいな。野郎だなんて……ともかく奴に扮したちょうちん屋さんが、おまえに知れないように上手《かみて》からでてきて、おまえが花道へはいろうとするのを、刀の鐺《こじり》をつかんであとへひきもどして、『こよい夜まわり道すがら、胸に一物《いちもつ》ありあけの、月の光りにみてとった、われがものしたそのものを、きりきりおいて消えてなくなれ』という。すると、おまえが、『おれがものしたこのものを、うぬらにわたしてたまるものか』、ちょうちん屋さんが、『ところをこうして……』、おまえが、『なにを小しゃくな』ともみあって、立ちまわりになる」
「立ちまわりとは、なんでがす?」
「なんだい、立ちまわりも知らないのか……おたがいにあらそいになるんだが、得物《えもの》はあっても、それはつかわないで、げんこをふりまわすのだ」
「はあ、喧嘩でがすか?」
「喧嘩というのもおかしいが、まあそんなもんだ」
「よーし、喧嘩となれば、あんな野郎、はり殺してくれる」
「ほんとうにぶちあうんじゃあないよ。そこが芝居だ。むこうでぶったふりをして、こっちでぶたれたかたちになる」
「そうでがすか。あの野郎、いのちびろいをしただな」
「あっちへまわり、こっちへまわり、立ちまわりをするうちに、ちょうちん屋さんが、おまえをぶつ、おまえが目をまわす……」
「この一分は、そちらへおけえし申します。目をまわすほどなぐられちゃあたまらねえですから……」
「ほんとうになぐるもんか。げんこをみたら、ひっくりかえればいいんだ」
「ひゃあ、げんこをみたらひっくりけえるかね。げんこでんかんというやつだ」
「げんこでんかんというのもないが、とにかくおまえがひっくりかえる。そのあと、ちょうちん屋さんが、おまえに縄をかける。まあ、うしろ手にしばられるわけだ」
「この一分は、そちらへおけえし申します」
「またかい? どういうわけで?」
「ひっくりけえったあげくに、縄なんぞかけられちゃあ、たまったわけのもんでねえ。くにのとっつあまにあわす顔がねえからねえ」
「なにもほんとうに縄をかけやしないよ。前のほうへほそい縄を二本まわして、うしろで、おまえは、その縄をつかんでいるんだ」
「はあ、じゃあ、客をだますでがすか……それからどうするだね?」
「『なにものにたのまれたか、まっすぐに白状しろ』というと、おまえが、『いや、知らねえ、おぼえはねえ』、『これでもか』と、しばってあるところへ刀をつっこんでこじりあげる。そこで、おまえが、『いたくってたまらないから、いうめえ、いうめえとおもったが、こうなったら、なにもかもいってしまう。まったくは、近江《おうみ》の小藤太《ことうた》さまにたのまれた』と、そういうせりふだが、みんないっちまっちゃあいけない。近江の……といいかけると、やぶだたみのなかから小藤太がでてくる」
「はあ、どうしますな?」
「おまえの首を、すぱりと斬ってしまう。近江の小藤太が、自分の名前をいわれてはならないとおもって、おまえの首を斬るんだ」
「この一分は、そちらへおけえし申します」
「どうして?」
「首なんぞ斬られちゃあたまらねえ」
「ばかっ、ほんとうに首を斬るやつがあるもんか。芝居じゃあないか。おまえが、うしろへそっくりかえる。おまえのからだへ黒い布がかかる。前へ張り子の首が、ゴロゴロところがりだす」
「なんだまあ、張り子でがすか」
「そうだよ。刀をぬいて、すぱり斬るふりをすると、おまえが、そのとたんにたおれる。からだへ布がかかって、張り子の首が、それへおちるという趣向《しゆこう》だ」
「そんならいいけんども、ほんとうに首をとられちまっちゃあ、あとで、おまんまが食えねえから……」
「ばかをいいなさい」
「じゃあ、まあ一分は安心してもらっておきますべえ。それからどうするんだね?」
「死んでしまえばそれでいい。それで、おまえの役はおしまいだ」
「はあ、それだけかね」
「せりふは、いま、いきなり教えたところで、なかなかおぼえきれまい。うしろでつけてやるから、その通りにいえばいい」
「ようがす」
「じゃあ、じきに幕があくから、したくはいいかい」
見物は退屈をしてしまって、手をうつやら大さわぎ……そのうちに、したくもできあがり、風音《かざおと》という鳴り物で幕があきます。
まん中に土蔵があって、上手《かみて》にやぶだたみという道具立て、風音でつないでいるうちに、土蔵をやぶって権平が出てくるはずなんですが、なかなか出てまいりません。
「おいおい、どうしたんだ? 鳴り物でつないでいるのに、かんじんの役者が出てこないじゃあないか。権助のやつ、いま、ここにいたんだが、どこへいっちまったんだな。だれか、よんできておくれ」
「おーい、権助どーん」
「ほー」
「どこかで返事をしてるじゃないか。どこにいるんだ!」
「はあ、雪隠《せつちん》でがす」
「なにっ、雪隠にはいったのか? なんだって、いまになって雪隠なんぞへはいるんだ」
「なんだってへえるったって……はあ、用がなくってへえるところでねえ」
「しょうがないなあ。小便か?」
「いや、大のほうでがす」
「おやおや、いけないな。それじゃあ急にはでられないだろう。もう幕もあいてしまったんだ。いそいででてくれなければこまるよ。あとで、ゆっくりすればいいじゃあないか」
「ところが、わしは、はあ、通じが長《なげ》えだ」
「そんなことをいってちゃあこまるな。はやくでろよ」
「それがはあ、刀をさしたまんま、むりにへえったら、刀がつけえてでられねえでがす」
「なにをいってるんだ。しょうがないな」
さあ大さわぎで、ひっぱるようにして、みんなでつれてきましたが、権助のやつ、なかなか舞台へでられません。
「さあ、刀をぬいて……」
「あの、バタバタ音がするのはなんだね?」
「いま、おまえがでるんで拍子木をうってるんだ。そら、ずぶりと刀をつっこみさえすりゃあいいんだ」
こちらは、満員の見物席でございます。
「どうです、きょうの役割りというものはおもしろいじゃあありませんか。伊勢屋の若旦那の非人権平とは……あの人は、くろうとはだしだ。女形がいけて、二枚目がいけて、きょうはまたこれだ。ようよう、ごりっぱ、伊勢屋!」
「伊勢屋! ……あれあれ、こりゃあようすがおかしいですよ」
「ええ?」
「いえね、伊勢屋の若旦那にしちゃあ、ようすがおかしいじゃあありませんか。いやにのそのそして……」
「そういわれてみりゃあ……あっ、あれは、ここのうちのめし炊きの権助だ。ようよう、権助! ごくろうさま」
「はあ、こりゃあまた、三河屋の旦那でがすか。せんだってはえかくお世話になりまして……」
「おいおい、権助、そんなところであいさつなんかしてちゃいけないよ。せりふだ、せりふだ」
「せりふ? そうそうせりふだ。なんだっけ?」
「なんだっけなんていっちゃあこまるな……まんまと宝蔵へしのびいり……」
「ええ……まんまと、まんまと……まんま……まんま……」
「ようよう、めし炊きだけに、まんま、まんまって、そこばかりいってやがる。ようよう、権助、おまんまが焦《こ》げたか?」
「なにをいうだ。わしははあ、めしを炊いて給金をもらってる人間だぞ。人の商売にけちをつけるもんでねえ。いつ、わしがめしを焦がしたことがあるだ。はばかりながら、こうみえても、めしなんぞ焦がしたことはねえだから……そもそもままの炊きようは、はじめとろとろ、なかぱっぱ、じわじわどきに火をひいて、赤子泣くともふたとるなってえことだ。よくおぼえておきなせえ」
「おいおい、めしの炊きかたなんぞ講釈してちゃあいけないな。せりふだよ。せりふ……いいかい……まんまと宝蔵へしのびいり」
「まんまと宝蔵へしのびいり」
「うべえとったるゆずり葉の御鏡《みかがみ》」
「うべえとったる柚《ゆず》みその曲物」
「柚みそじゃないよ」
せりふひとついうにも、たいへんなさわぎで……これさえあれば大願成就、小藤太さまへさしあげれば、ほうびの金はのぞみしだい、とせりふがあって、
「ちっともはやく、おおそうだ」
「ちっともはやく、ほうそうだ」
「ほうそうじゃないよ」
「はしかかね」
「なにいってるんだ。おおそうだ」
「おうそうだ」
これから、ちょうちん屋さんの奴と、権助の非人権平の立ちまわりになるんですが、権助がうごきません。
「さあさあ立ちまわりだ、立ちまわりだ」
「なんでがす?」
「立ちまわりをやるんだ。げんこをふりまわすんだよ」
「それなれば、この野郎、さあ、たたき殺してやるぞ」
「そんなことをいっちゃあいけないよ」
あっちへまわり、こっちへまわりしているうちに、ちょうちん屋さんの奴が、げんこをだして、権助の非人がたおれるという場面になりましたが、権助は、すっかりきっかけをわすれてしまってたおれません。しまつにおえないから、ちょうちん屋さんが、げんこで、ほんとうに権助の横っ腹をドスンとつきました。
「あいたたた……」
「さあ、目をまわして、目をまわして……」
「目をまわした。おらあ、目をまわしただぞ。だれがなんといおうと目をまわしただぞ!」
「ことわらないでもいい」
そこで、権助に縄がかかると、見物客のなかには、権助をからかう人もでてまいりまして……
「おいおい、権助、たいそういばっていたけれども、とうとうしばられたな」
「なんだと、とうとうしばられただと? ばかなことをいうもんでねえ。おめえさま、なにも知らねえだな。芝居というものはだまかしだ。前のほうは縄がかかったようにみえても、これ、この通り、両方の手で縄を持ってるだ。それ、それ、ほい、ほいの、ほい……」
「おいおい、手をだしておどってちゃあこまるな」
しまつにいけないから、ほんとうに縄をかけてしまいます。
ちょうちん屋さんは、権助がおかしなことばかりやるので、芝居がうまくいかなくていらいらしてますから、腹立ちまぎれに権助をぐるぐる巻きにふんじばって、
「さあ、なにものにたのまれた、まっすぐに白状しろ」
とほんとうにしめあげましたから、権助もたまりません。
「あいててて……かんべんしてくれ。かんべんしてくれ」
「さあ、なにものにたのまれた。まっすぐに白状しろ」
「うーん一|分《ぶ》もらって、番頭さんにたのまれた」
つるつる
どんなご商売でも、これがやさしいというものはありませんが、とりわけてむずかしいのが幇間《ほうかん》、たいこもちという稼業でございます。「たいこもちあげての上のたいこもち」などといわれるくらいで……
「おや、お梅ちゃん、お帰んなさい。お湯ですか。まあ、たいそうきれいになって……きょうは、とりわけ鬢《びん》のぐあいが……あれ、だまってむこうの部屋へはいっちまった。しかし、なんといってもいい女だね。おらあ惚《ほ》れてるね、あの女に……さいわい師匠はいないし……ちょいと胸のうちなどうかがってみましょうかね……ええ、ごめんなさい。ちょいとお部屋へはいらしていただいて……おや、お梅ちゃん、あなた、鏡台の前でもろ肌ぬいでお化粧ですな……えへへへ……なんともまあ、おきれいですね」
「あら、いやだ。こんなところへはいってくるもんじゃないわよ。お師匠さんにいいつけるから……」
「なにをやぼなことをいってるんですよ。それにしても、あなたはまた、お顔のほうがととのっているばかりじゃないねえ……色が白くって、肌がきれいで、餅肌ですね。それに、肉づきがほどよくって……また、いいお乳をしてますね……この麦まんじゅうにいんげん豆をのせたようで……うー、たまらない」
「いやあねえ……そんなにみてるもんじゃないわ。お師匠さんにいいつけるから……」
「なんですよ、あなた……この一八、幇間としてはたいしたもんじゃないが、こうやって芸人同士、おまえさんとわたしといっしょのうちにいるのは、なにかの縁でござんしょう。お梅さん、おまえさんも、うちを持つことができなくって、こうやってかかえ芸者でいるんですが、おまえさんとあたしとふたりが、とにかくひとつ家にいるもんだから、世間じゃあ、あれは夫婦になるんじゃないかなんて評判があるんですが、こいつあつまらねえはなしじゃあござんせんか。おまえさんとあたしとは、おたがいに芸人のことではあるし、どうせ浮名の立つあいだがらだから、夫婦になってくらそうじゃありませんか」
「なにいってるの、一八つあん、じょうだんはおよしよ」
「いえ、とんでもない。じょうだんなもんですか」
「おまえさん、それ本気なの?」
「ええ、本気も本気、あたしの胸を、ここで、庖丁でたちわってみせたいくらいで……」
「そうなの。おまえさんのいうように、浮名をたてられてることは、あたしも知っているし、それに、あたしもこんな商売をしているんだから、どうせかたい人を亭主に持てないから、おまえさんと夫婦になってくらそうかしら……」
「へっ、こいつはありがたい……もうあたしはね、あなたと夫婦になれれば、あなたを大事にしますよ。あなたがね、朝、目をさます。とたんに、あたしが、あなたのたばこの火をつけてだす。たばこ盆を下におく。あくびをしそうだなとおもえば、上と下のあごを持って手つだいをする……あなたが起きれば、すぐに床をあげて、あなたがはばかりへいけば、あたしは、紙をもんであとからついていく」
「きたないねえ。いうことが……」
「いえ、それほどつくすんです。このあたしというものが……」
「でもね、亭主としたら、おまえさんは、ふわふわしてばかりいてこまるね。もうすこしおちついておくれよな」
「そりゃあ、おちつけとおっしゃれば、どんなにでもおちつきますとも……こないだも、両国の火事のときなんざあ、あわてちゃいけないってんで、わたしゃあ、ばかおちつきにおちついたもんだから、横っつらあ、やけどしました」
「おまえさんなら、ほんとに気ごころが知れてていいんだけど、あたしゃ、おまえさんで気にいらないことがひとつあるの」
「えっ、気にいらないこと? なんでござんす? もう、あたしゃ、あなたのおっしゃることなら、なんでもなおします。いってくださいな」
「おまえさんは、お酒飲むとだらしないこと、それがいやなの……あのずぼらをなおしてくれなくっちゃあ、芸人としてもろくなものになれやしないわよ」
「わかりました。あたしは、もう、きょうから心をいれかえまして、そのことをなおします。ええ、なおしますとも……」
「そう、それじゃあいいわ……ではね、さっそくおまえさんの心をみぬくように、今夜の三時ごろに、奥の四畳半にあたしが寝ているからきてよ。いろいろとはなしがあるから……そのかわり、三時が五分おくれてもだめよ。まだいつものずぼらがなおらない。あれじゃあ、さきゆきのみこみがないってあきらめるから……」
「ええ、三時でござんすね。いきますとも、あたしゃ、もう真剣なんだ。しかし、その場にいたって、さっきいったのはうそだなんていいっこなしですよ……へへへ、そのかわり、三時にいったときには……へへへへ、あなたとあたしは夫婦だ……うふふふ」
「いやな笑いかたしないでよ……はなしはきまったから、はやくあっちへいってよ。だれかにみられるといけないから……」
「へい、いきますよ。いきますよ……しかし、なんだね、ものごとが、こうとんとんとうまくいくとはおもわなかったね……男は度胸、あたってくだけろってえやつだが、くだけなかったね……夜なかに、時計がチンチンチンと三つ鳴れば、あたしがお梅ちゃんの部屋へいくね……こう色っぽくふとんにあごをうずめたお梅ちゃんの寝みだれ髪てえやつだ……好きな男がきたんだから、目が熱っぽくうるんで……『お梅ちゃん、三時が打ったからきましたぜ』っていうと、さすがに、芸者とはいいながら恥ずかしいから、ふとんをぐっと顔のなかばまでひきあげるってやつだ……そこを、このあたしが、ずっとわきへはいって……ああ、どうも弱った。おれは弱った……おや、旦那、いらっしゃいまし」
「一八、どうした? いやなやつだな、弱った、弱ったって、おどりあがってるじゃねえか」
「どうもおめずらしゅうござんすね。たえてひさしきご対面、あんまりおみかぎりはいやでござんすよ」
「なにいってんだよ。どうだい、吉原もあきたから、きょうは、柳橋へいってあそぼうってんだが、つきあわねえか」
「そうでござんすか。けっこうでござんすね。けっこうはけっこうなんでござんすが、どういうことになりますんで?」
「どういうことって、いつものとおり、夜通しさわごうって趣向さ」
「へえ、夜通しね……夜通しはこまるな。こっちは、三時の時計がチンチンチンてえものがあるんだからな」
「なんだ?」
「いえ、じつは、今晩だけは、ひとつごかんべんをねがいたいんで……」
「そんなこといわずにこいよ」
「いえ、今晩だけは、ちょいとわけありでござんして……どうぞごかんべんを……」
「なにかい、今晩は、お約束でもあるのかい?」
「へえ、まあ……ちょいと……その……だれかほかのものをおつれくださるというわけにはまいりませんか」
「ほかのものをつれていけ? ……おい、一八、おめえ、おもしろくねえことをいうじゃねえか」
「へえ」
「いいたかねえけど、いわしてもらうぜ。おめえてえものは、おれにそんな口がきけた義理かい……そうだろうじゃねえか……恩に着せるわけじゃねえが、おれが、おめえをひいきにしてるなんて、ひととおりじゃねえつもりだぜ」
「いえ、それはもうありがたいとおもっておりますんで……」
「そんならいっしょにきたらいいじゃねえか」
「それがでござんすがね、どうにも、その、いかれないというのが……じつは……」
「わけありかい……それを聞こうじゃねえか。事と次第によっちゃあ無罪放免といこうじゃねえか」
「へえ、ちょいと女の子にかわいがられるてえ寸法なんで……」
「おまえがかい?」
「なあに、あなた、このごろじゃあ、この手の顔がはやってきましてね」
「そうかい。そんな、陸にあがったオットセイというような顔がかい?」
「こりゃあ、また、おっしゃることが手きびしゅうござんすね……まあ、顔のことはどうでもよござんすけれど……旦那、当家に小梅なる芸者がおりましょう」
「ああ、あの三味線が達者で、のどがよくって、女っぷりがいい上に、客あしらいがあざやかっていうたいへんな妓《こ》だな」
「えへっ、それなんで……」
「なにがそれなんでだよ」
「いえね、じつは、あたくしの相手というのが、あの小梅なる者なんで……」
「ほんとかい?」
「ええ、あの妓が、あたしと夫婦になってもいい、それには、今晩三時に部屋へいらっしゃい。おまえさん、お酒を飲むとずぼらだから三時が五分おくれても、まだいつものずぼらがなおらない、あれじゃあ、さきゆきのみこみがないってあきらめるからって、こういいますんで……そこで、今晩は、そのう……ひとつおゆるしをねがいたいんで……」
「そうかい。いや、わかった。わかったよ。なるほど、あの妓のいいそうなことだ……そうと聞いちゃあ、おめえのうれしいことをじゃましちゃあすまねえから……そうだ。こうしねえ。十二時までつきあいなよ。それで、おれがひとつ暇をやるということにしようじゃねえか」
「ほんとですか……しかし、旦那は、いまはそうおっしゃいますが、これで一ぱいやっちまうと、なかなかそうはいかないんですから……あたしが、途中で帰ろうとなんかしようもんなら、たいへんにお怒りになるんですからねえ」
「いや、大丈夫……そんなことはしないよ。今夜は……」
「でもねえ、なかなかそうはいかないんで……」
「じゃあ、なにか、一八、おめえは、小梅のとこへしのんでいくために客をはねつけようという……」
「旦那、あなたってかたは、なんてことをおっしゃるんです、大声をだして……みんなに聞こえたらどうします」
「なにいってるんだ、客をことわって、小梅と……」
「わかりました。わかりました。まいりますよ。ごいっしょしますから、そんな声をおだしにならないで……では、ほんとに十二時でお暇をくださいましよ」
「ああ、いいよ。やるとも……さあおいで、おいで……」
てんで、これから一流のお茶屋さんへまいりました。
「へい、どうも……先夜はどうも……へい、一八でござんす。ただいま、旦那をおつれしました」
「あら、いらっしゃいまし」
「まあ、いらっしゃいまし」
「ええ、お座敷はどちらで? ああそう、お二階のいちばん奥……ああ、わかりました。さあ、旦那、てまえ、ご案内を……え、ねえさんがご案内してくださる? では、てまえ、ちょいとごきげんうかがいを……おや、どうも、おかみ、おかわりもなく、あいかわらずおきれいでいらっしゃいますね。どうもそうしていらっしゃるところは、ちょいとした紀の国屋、いや、あでやかなもんで……大将さえいらっしゃらなけりゃあ、あたしゃほっておきはしませんから……で、その大将は? え? ゴルフへ? ……へえ、あの玉を耳かきの親方みたいなもんでひっぱたくという、あれでござんすか? あれは、またどういうもんでござんしょうねえ。ああやって、玉をひっぱたいて遠くへとばすから、そのまんま帰っちまうかとおもうと、またのこのことひろいにゆきますな。あれならはじめっからとばさなけりゃあいいんでござんすのに……おや、お嬢ちゃん、まあ、お湯からおあがりになって、きれいにお化粧ができて、ごきりょうがいいからひきたって……あなた、いまに男を泣かせるというやつ、ほんと……あははは……おや、お玉ねえさん、どうもまたお髪《ぐし》のぐあいがけっこうですな。髪《かみ》はからすの濡《ぬ》れ羽色、あなたは、それに色がお白いから、よけいにひきたつというやつだ。ねえ、いっぺん苦労がしてみたいよ。いえ、まったく、おせじでなく……あれ、きれいなねこだ。かわいいね。ご当家で飼われると、ねこまできりょうよしになります……では、おやかましゅう……あたしはお二階へ……」
てんで、ひとりでしゃべりまくって二階へやってまいりました。
「どうも、旦那、おそくなりまして……なにしろ、この、あたくしなるものが、ずうっとごあいさつを……」
「そうかい、ばかに時間がかかったな」
「時間が……そうそう、いま何時になりましょうか?」
「なにいってるんだ。いまきたばかりじゃねえか」
「だってさ、あたしゃ気になってどうも……そうだ、これからひとつ、ここのお帳場にある大きな時計を二階へかつぎあげてもらって、あたしは、ちっともよそをみないで、時計ばかりみてるってえ役で、そのうちに、チンチンチンてんで十二時が鳴ったら、はい、さようなら……」
「ばかなこというなよ」
「オーさん、こんばんは」
「オーさん、先夜はどうも……」
「おや、光竜さんに、花奴さんで……ずっとこちらへおはいんなさい。さあ、旦那、まいりましたよ、お目あてが……まあ、なにしろ、こうきれいどころがそろうと、お座敷がいっぺんにあかるくなりますね。いえ、ほんと……ときに、旦那、いま何時で?」
「うるせえな。まだ日が暮れたばかりじゃねえか……さあ、おれがここへ財布をだそう」
「へえ、これはありがたい。てまえがちょうだいを……」
「おいおい、そうむやみにふところへいれちゃあいけねえ」
「はあ、さいですか……で、どういうことになるんでござんしょう?」
「なんだ。ほうりだしゃあがって……てめえ、ほしければ、眉毛をそっちまわねえか。ちょいとばかりいい商売だぜ」
「えっ、眉毛を? ……これはごめんこうむりましょう。ふだんならば売らないこともありませんけれど、なにしろ、今晩は、あれが待ってるんでござんすから、そいつあ、ごめんこうむりたいもんで……ねえ、そうでござんしょう。『一八つあん、あなた、眉毛はどうしたの?』『へえ、眉毛は売りました』なんて……あんまりぞっとしない……」
「じゃあ、こうしよう。あたまを半分そっちまわねえか。かたっぺらだけのこして……三十円でどうだ?」
「そいつあ、なおいけません。『一八つあん、あたま半分はどうしたの?』『ええ、三十円で売りました』なんて、あんまり勘三郎はやらねえ役で……」
「色っぽいことをいうな、どうも……それじゃどうだい? 五十円で生爪《なまづめ》一枚はがすってえのは?」
「そんな残酷な……旦那、あなたってえかたは、どうしてそうできないことばかり持ちだすんです? なにかほかにありませんか? もっとあたしにでもできそうなことが……」
「じゃあ、しかたがねえ、げんこでぶつってえのはどうだ? ひとつ一円ずつで……」
「うん、なるほど、こいつあ賛成でござんすよ。ポカリが一円ですね。ポカポカとくれば二円で、ポカポカポカとやられりゃあ三円で?」
「そうだよ」
「それじゃあ、ポカポカポカポカポカポカとくりゃあ六円だ。すこしがまんすりゃあ、いくらでももうかるんだが、死んでいくら?」
「ばかっ、死んじゃあしょうがねえじゃねえか」
「一八つあん、そうむやみにお金をふところへいれたって、げんこがどこへあたるか知れないわよ。ぶちどこがわるいとたいへんだわ」
「いや、これは、光竜さんのおことば、おそれいりやした……気をつけます。気をつけます。だが、旦那、あなた、いったいどこをぶとうってんでござんす?」
「そりゃあ、どこをなぐるかわからねえが、まあ、たいてい目と鼻のあいだだろうよ」
「えっ、目と鼻のあいだを! ……こいつあ、ごめんこうむりやしょう。だって、目と鼻のあいだをなぐられりゃあ、いっぺんでまいっちまいますもの……そうだ。三十銭ぐらいで肩じゃいけませんか? 尻っぺたなら二十銭、げんこをみせただけでぶたないのが二銭」
「いやなやつだな……じゃあどうだい。一円でどんぶりに酒を一ぱい飲むか?」
「ありがたい、ありがたいね……そんなら、あたしゃあ百ぱいでもいただきます。百ぱいいただいて百円になったら、五十円だけ貯金して、あとの五十円は日歩で貸しつけます。あたしのは、たいへん高いんで、一日一円日歩ってんで、一円貸して、一日でとりあげちまうという……」
「だれがそんな金を借りるやつがあるもんか……さあ、花奴、ついでやれ」
「へえ、どうも、あなたのお酌で……きょうはひとつ、八分目ということにねがいたいんで、なにしろ、一ぱい一円という営業でござんすからお手やわらかに……おうっと、いっぱいになっちまった。あなた、ひどいよ。こんな山盛りにして……いえ、いただきます、いただきますけれど……ゴクリ、ゴクリ、クー、クー、……ああ、いただきました」
「うーん、みごとだ。飲みっぷりがいいぞ。それ、一円」
「へえ、ありがとうございます」
「さあ、飲め、もっと飲めよ」
「へえ、そりゃあいただきます……へえ、こんどは光竜さんのお酌で、まあ、そのきれいなおててでお酌を……そいつあ、どうもすいませんねえ……あなたは情け深いや。まさかそのおててで山盛りは……おーっと、またいっぱいにしちまった。ひどいね。あなたってえ人は……お顔に似合わず無慈悲ですねえ。だから女の人はこわいんだ。外面如菩薩《げめんによぼさつ》、内面|如夜叉《によやしや》って……これは、なにもあたしがいいはじめたわけじゃない。お釈迦《しやか》さまがおっしゃったんだ。だから、苦情があったらお釈迦さまのほうへ……では、いよいよ営業にとりかかりますから……ゴクン、ゴクン、クー、クー、……ウーイ……クー……ええ、ちょうだいしました」
「おい、おい、大丈夫かい? ……やめてもいいんだぜ……そうかい……やるよ、ほれ、一円」
「へい、まいどありがとうござい……では、こんどは、また光竜さんのお酌ですか……へえ、いただきましょう」
「おい、いいのかい?」
「旦那はだまっててください。あなたは、一円だしてくださればそれでいいんで……さあ、光竜さん、ねがいましょう、お酌を……あなたはまさか、二度と山盛りなんて薄情なことはしますまいねえ。八分目、八分目に……おーっと、また山盛りだ……どうしてそうなんでござんしょうねえ、あなたってえかたは、あたくしの営業というものを……いえ、もう文句は申しません。あたしも男だ。飲みます。飲みますがね……クー、クー……ゴクリ……いえね、旦那、あなたってかたは、ありがたい人でござんすね。あなたがいらっしゃるということは、じつに、あたしはありがたい。いえ、ほんと……あたしゃ、朝に晩に、お宅のほうへ手をあわせておがんでるんでござんすよ。もう、あたしへのごひいきなんて、ことばでいうような、そんななまやさしいもんじゃない。ほんとに親身《しんみ》になってくださるんだから……心があたたかいんだな、あなたてえかたは……だから、女の子だってほうっておかないってやつだ……ねえ、光竜さん、そうでござんしょう……旦那、あなたってえかたは、だいいちようすがいい。だから、洋服を着ても、着物を着てもよくお似合いだ。女の子がさわぐわけですよねえ……もうこの上は、はだかであるくよりほかに手はない……あれっ、しゃべってるうちに、またお酒がいっぱいになってるってえのはどういうわけ? え? 光竜さん、それとも花奴さん、こまるなあ、どうも、こういういたずらをされたんじゃあ、もう三十銭ぐらいは飲んであったのに……いえね、ふだんとちがって、きょうは一円というものがかかってるんですから……まあいいや、飲めばいいんでしょう。飲みますよ……ゴクリ、ゴクリ……しかしねえ、旦那、女の子てえものは、どうしてこう意地のわるいことをするんでござんしょうねえ。あたしゃあくやしいね。こうなれば、もうなんとかして、ひとつ犯人をつかまえます。ええ、つかまえますとも……だいたい、人がせっかくすこしでも飲んだものを、かくれてそっとまたいっぱいにするとは……あれっ、またいっぱいになってらあ。おどろくね、まったくおどろき……こうなれば、あたしは、意地でもこの犯人なる者をつかまえて、ねえ、旦那、あなたも男同士だ。手を貸してくださいよ。なんですよ。にこにこ笑ってばかりいて……あたしがまた飲みますからさ……ゴクリ、ゴクリ……フー」
「もう、おまえ、およしよ」
「いいえ、よしません……よしませんけれど、ひとつ酔いざましに、てまえがひとつ小唄ぶりかなんかでごきげんをうかがうことに……」
「おい、よせよ。たちあがったって、ひょろひょろしてるじゃねえか」
「ほんとよ。一八つあん、およしなさいよ。足もとがあぶないから……」
「しかし、まあ、これであたしのおどりというものは……」
「いいよ、いいよ。わかったよ……あれっ、時計が鳴ってる。おい、一八、時間だぞ」
「時間? 時間がなんです……ねえ、あそびましょうよ。いつものでんで、夜通しさわぐという……」
「なんだかはなしがあべこべになってきたな……おい、一八、時間だよ。十二時だよ」
「だから、時間がなんだというんで……えっ、十二時だって……十二時! 十二時! あっ、そうだ。十二時とあいなっては、さあたいへんだ。ひきあげます。ひきあげます……へえ、ではごめんくだすって……」
「さあ、一八つあん、おみやよ」
「おや、旦那、すいませんね。あたしにまでおみやをくださるとは……では、この折りをちょうだいして……ごめんなさい……さようなら……ありがとうござい……さあ、うれしくなってきたよ。ようやく無罪放免というやつだ。これでいくと、お梅さんの部屋ですよ……あたしてえものが助平だから、なんにもいわずにいきなりふとんにはいっていって、ぎゅーっと抱きつくよ……わー、たまらない……あれっ、折りの底がぬけちまって……いたい! なんだって人のあたまをなぐるんだ……なんだい、郵便ポストかい……いや、おそれいりました……ああ、やっとたどりつきました。勝手知ったるわが家の門口……へえ、ただいま……ただいまもどりました」
「いまあけるよ……あけるから、そうたたかなくても……あらまあ、なんだね、たいそう酔っぱらってきてさ、お客さまをしくじりゃあしなかったかい?」
「いえ、そこんところはもう大丈夫なんで……酒は飲んでも飲まいでも……えー、おみやをひとつ……」
「おみやったって、折りの底がぬけてるじゃないか」
「へえ、中身は、きっととなり町の道ばたにありますよ。なんならひとっ走りひろいに……」
「いいよ。おやすみよ」
「へえ、やすみますがね。あの……なにはどうしました。お梅さんは?」
「ああ、なんだか気持ちがわるいって寝ちまったよ」
「よう、さいでござんすか……さきへ寝ちまったなんかにくいね……さきに用意をして敵をむかえ討とうという……うれしいね」
「はやく二階へあがって寝ておしまいよ」
「はい、ではおやすみなさいまし……えー、よい、よい、よいしょ……二階住居はどんなもんでござい……と……ありがたいな。今夜ばかりはうっかり寝られないねえ」
「一八、なにいってんだい、はやくおやすみよ」
「へえ、おやすみなさい……いまに時計がチンチンチンと三つ鳴れば、『あら、一八つあん、やっぱりきてくれたの。ほんとうにうれしいわ』うわーい、ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘ、ハラハラハッタラ、ハラハラハ……」
「うるさいね。一八、おやすみったら……」
「はい、わかりました。わかりましたからやすみます……さあてと、三時になって、おれがでかけるんだが、あの、また、師匠なるものが、なかなか目ざといからね……『おい、一八、おまえどこへいく?』『へえ、お寺まいりに……』……夜なかにお寺まいりはおかしいな。そうだ。下からまわったんじゃあみつかるといけねえから、このうすべりをとっちまって、格子のあかりとりをこっちへとってと……この帯を梁《はり》へかけて、腹巻きをとって、帯へつないで、輪にしておいて、これへ乗って、つるつるといけば……目がまわるかな……そうだ。手ぬぐいで目かくしをして、これへこうつかまって、こうすれば、まず大丈夫……」
てんで、あれこれかんがえているうちに、そのまんま寝こんでしまいました。そのうちに、チン、チンという時計の音に、目かくしをしたまま、つるつるとおりると、いつか夜があけて、下では、ちょうど家の者が朝飯のまっ最中というところで……そこへ、二階から一八が、つるつるってんでぶらさがりましたから、みんなびっくりして、
「なんだ、あすこへおりてきたのは?」
「あら、一八つあん、どうしたの?」
「えっ、これはおどろいた……これはおそれいりました」
「なんだなあ、だらしがねえ。前をどうにかしろい」
「へえ、こいつはどうも……」
「それにしても、おまえ、どうしたんだ、寝ぼけたのか?」
「えへへへ、井戸がえの夢をみました」
代脈《だいみやく》
ただいまでは、お医者さまになるにも、学校をでて、国家試験に合格しなくてはなりませんから、そんなことはございませんが、むかしは、まだ見習いのお弟子さんが、先生のかわりに診察をする代脈というものがよくございました。
そのころ、中橋に、尾台良玄という古法家の名医がございまして、そういう先生には、いい弟子がたくさんできそうなものでございますが、さて、なかなかそうはまいらないもので……先生は名人でありながら、弟子の銀南というのが、いたっておろかでございます。おろかにも種類がございまして、この銀南、ちいさい時分には、目から鼻へぬけるような子どもで、先生もたのしみに修業をさせておりましたが、さて、男女ともに、十五、六歳というところが、ちょうど人間のかわりどきで、色情のために、世間にもよくあるやつで、あのりこうなせがれが、どうしてこういうばかなことをしたろうとか、あのりこうな娘が、どうしてこういうあほうなことをしたろうなどということが、ずいぶん世間にはございます。
目から鼻へぬけるようだった銀南が、十六、七になると、人間がすこしかわってきました。いたって色情の強い男で、女中がくると、すぐにこれになにかいう。女中はいたたまらないからでていってしまいます。そのくせ、まっ昼間、玄関で薬をきざみながら居眠りをしております。
先生が銀南をよぶと、「どーれ」といって玄関へでてまいります。また、玄関で、「おたのみ申します」というと、先生の前へかけてゆくというぐあいで、すべてがまことにとんちんかんでございます。
それで、暇さえあれば居眠りをしているというしまつで、どうにも手におえません。
そんなですから、親でも師匠でも、あいそもつきてしまいそうなものでございますが、ばかな子ほどかわいいと申しまして、なにかと目をかけてやるからふしぎなもので……
ある日のこと……
「銀南や……また居眠りをしているのか。呼んでも、まんぞくに返事をしたことのないやつだな。おい、おい、銀南、銀南!」
「へえー」
「なんというまぬけな返事のしようだ。大きな声をだして……まあ、そこへ坐れ」
「へー、いつも先生は、返事はしっかりしろとおっしゃいますから……」
「なにもそんなに大きな声をだすにはおよばない。坐らないか」
「へー、ご用があっておよびになりましたので……ご用をいいつかれば、すぐにかけだします。ただいまは、なにごともむだをはぶく世のなかで、ここへ坐ってしまいますと、また立って、つかいにゆかなければなりません。そこで、簡便に立ったままで……」
「なにが簡便にだ。ばか者、そこへ坐れ」
「坐れとおっしゃれば坐ります。あたしのひざは、なにしろ折りたたみになっておりますから……へえ、坐りました。どうともなさいまし」
「どうともしようとはいわん。ばか者め」
「へえ、おかげさまで……」
「なにがおかげさまだ。おかげさまということばは、そんなところへつかうもんじゃあない。おまえの親は、わしのところへよこしてあるから、りっぱな医者になるとおもっている。その親に対して、わしがまことに申しわけがない。医者というものは、もちろんその道は修業しなければならんが、たとえば、いくらじょうずな医者になっても、ひとつは、なり風俗にもあるが、ひとつは、顔かたちにある。これは、生まれつきで、いまさら愛嬌のある顔にはなれんが、まあ、せめて行儀作法《ぎようぎさほう》でもおぼえるように、きょうから、おまえを代脈につかわすからそのつもりでな……」
「へえ、かついでまいりますか? それともしょってまいりますか?」
「なにをしょっていくのだ?」
「いえ、材木をつかわすって……」
「材木ではない。文字を知らんか。代わる脈と書いて代脈と読む。代脈を知らないか」
「ああ、あれですか。いつも先生が手をとって脈をごらんになりますが……」
「そうだ。おれにかわって、おまえが病家へいくのだ」
「へえ、そうですか。では、いってまいります」
「おいおい、いってまいりますといって、どこへいくか知っているのか?」
「ははあ、なるほど……」
「なるほどじゃない。行く先も聞かずにかけだすやつがあるか。それがあほうだ。蔵前の伊勢屋さんを知っているか?」
「二、三回おつかいにまいりました」
「あそこへいくのだが、行儀作法をすべて教えてやるからな」
「へえ」
「まず玄関へついて、『たのもう』という声もろともに、いつも手代《てだい》がでてくる」
「へえ」
「その手代にむかって、おまえがやすっぽいことばをつかうと、口をきいたばかりで、おまえがへたにみえる」
「さようでございますか」
「まず、手代をよぶには、『お手代』といいなさい」
「へえ、お手代……」
「手代へ『お』の字をつけて、『お手代』とよぶと、なんとなく行儀よさそうで、むこうに対して失礼でないよびかただ。そこで、橋場にご寮がある。ご病人があると、この橋場へいっていらっしゃる」
「へえ、あの蔵前の伊勢屋へいくと、ちょっとおつなお嬢さんがいますな」
「ばか者! なんという口のききようだ。おつなどと、あのお嬢さまは、蔵前きってのごきりょうよしで、蔵前小町といわれるくらいのかただ」
「いいごきりょうですな。まいりましたら、お目にかかることができましょうか?」
「お目にかかるどころじゃあない。お嬢さまがご病人だ」
「そんなことはございません」
「なんで、そんなことがないんだ?」
「きりょうのわるい女ならば、わずらうこともありますが、あんないい女がわずらうはずがありません」
「ばかっ、きりょうのいい、わるいでわずらう、わずらわんということはない。人間は、病いのうつわという。よしんば、どんなにいい女だからといって、かならずわずらわぬとはいえない。もっとも、俗にいうぶらぶら病いで、たいせつといえば、たいせつにはちがいないが、なにもそう案じるほどのことはない。あんまり変のないご病気だ。一日おきに、行儀見習いのために、おまえを代脈にやる。番頭が、かりにも、おまえのことを『若先生』くらいのことは、お世辞にいう。そのときは、いつものように『へえへえ』なんて返事してはいかん」
「なるほど……」
「『へえへえ』では、まことに医者のかんろくがない。りっぱに返事をしなければいかん」
「それは心得ております」
「なんでも知らぬということをいわんやつだ。どう返事をする」
「番頭が、わたしのことを『若先生』といいます」
「さよう」
「そうすると、わたしが、りっぱに『なんだ』とこたえます」
「『なんだ』というやつがあるか。むこうで『若先生』といえば、『はあい、はあい』……『へえ』などという返事は、まことにいやしい。『はいはい』とな」
「へえ、むこうで、『若先生』といいましたら、『はあい、はあい』と……」
「なんだ。寄席の木戸へいったような声をだすな。ただかるく、『はあい』といえば、それでいいのだ。『こちらへ』という案内につれて、いつも八畳のりっぱなお座敷へ通ると、結構なざぶとんがそれへでる。このときも医者の格式をみせるのだ。遠慮なくそのざぶとんの上へ坐ってよろしい。『いいえ、わたくしは、これでよろしい』などと遠慮すると、やすっぽくなっていかん。それへいばって坐れ。そのうちに、お茶からたばこ盆、お菓子がでる」
「お茶菓子がでますか?」
「これこれ、茶菓子と聞いて乗りだすやつがあるか」
「なにがでます? 焼きいもかなにか?」
「そんな下等なものはでない」
「それでは、もなかかなにか?」
「いつも結構なようかんを厚切りにして、七切れか八切れ……これを、りっぱなお菓子器に山のようにつんでだすな」
「たいそうなもので……厚切りが、七切れか、八切れというと、もうたいがいたくさんでございます」
「それを食うのじゃない」
「おやおや、食えないようかんなんで?」
「食えるにはちがいないが、そこが医者の格式というやつだ。もうようかんなぞは、食いあきているというような顔をしているのだ」
「そりゃあ無理なはなしで……食べもしないのに食いあきるなんて……」
「それでも食いあきているようにみせるのだ」
「食べなくっても、食いあきている顔をしますので?」
「けれども、むこうで、『おひとつ』といって箸《はし》ででもとってだしたら、それでも食わないと、腹でも立てているようだから、ふところへ半紙を四つ切りにして持っていって、その半紙へうけて、茶でもかえて、とってもらったようかんを一切れだけ食う」
「へえ」
「ただし、すすめなければ、けっして食うことはならんから、しかと申しつけておくぞ」
「すすめられれば一切れだけ食べます。お茶をかえて、すすめられなければ食べることはできない……これは、たいへんに大きな相違だ」
「なんだ、大きな相違とは……で、あいさつがすむと、病間へ通る。これから、お嬢さまの寝ているところへおまえがいって、しずかにそれへ坐り……」
「そうしますと、お嬢さまの脈をみますので?」
「あたりまえだ。下女の脈をみて、お嬢さまの病気がわかるか。脈をみたところで、とてもおまえにはわかりはしないが……」
「先生がいつもするようにします。脈をみるときに、あの手をにぎりますが、あの色のまっ白な、すべすべしたおててをわたしがぎゅーっとにぎって……たははは」
「ばか者!! 変な声をだすではない」
「しかし、お嬢さまが、あとでなんといいましょう。『いつもは、はげあたまの先生がくるけれども、きょうは、おっかさん、若い先生がいらしったわ』と、きっとお嬢さんがそういいます。どうせひとりでいられるわけじゃあない。ご養子をなさるのです。『わたしは、日ごろ、からだがわるいから、ああいう先生をご養子にしたら、たいへんに気丈夫だから』なんて……しかし、ご両親は、なんといいますかしら?」
「もちろん、おまえなんぞをもらう気づかいはない。けっしてそんなことはない」
「そんなことはないといっても、もらわなければ、お嬢さまが恋わずらい……『かわいい娘のいのちにはかえられないから……』って……」
「ばかっ!! だれがそんなことをいうやつがあるか。どうもあきれたもんだ……そこで、脈をていねいにみて、『べつだんおかわりはございません。お大事に……のちほどお薬を……』と、こういって、おまえは帰るのだが、医者には、だいいちにとんちというものがなければいかん。ついでだからいって聞かせるが、ついこのあいだ、どういうぐあいか、ひどくお嬢さまの下腹がかたくなっていた。そこで、わしがお嬢さまの下腹をさすって……」
「えっ? お嬢さまの下腹を……さすったんですか? 下腹といえば、おへその下を?」
「そうだよ」
「おへその下をさすったなんて、いひひひひひ……こすいぞ」
「なにをいってるんだ。で、わしがしきりに腹をさすって、下腹をひとつ、ぐうっと押すと、どういうぐあいか、おならをなすった」
「ありゃ」
「からだのせいだな。プイとおならをなすったのが、わしには聞こえたのだが、そこが医者のとんちだ。なにしろ年齢《とし》も十七という色気ざかりだから、お嬢さまが、みるみるうちに顔をまっ赤にして、いかにも恥ずかしそうだった」
「そりゃあ、きまりがわるいでしょう」
「そのときに、ちょうど、おふくろがそばにいたから、『おっかさんや、どうも陽気のかげんか、年齢《とし》のせいか、この四、五日のぼせて、わしは耳が遠くていかんから、おっしゃることは、なるべく大きな声でいってくださいまし』と、こういうと、気のせいか、赤くなったお嬢さまが、安心したとみえて、顔色がなおったが、ここらが医者のとんちだ。わかったか。なにしろはやくゆけ。これこれ、尻をはしょってはいかん。かけだす気になっているな。そんな着物を着ていくのじゃあない」
「これを着ていくのじゃあないんで?」
「もちろんそうだ」
「はだかでまいりますか?」
「はだかでいくやつがあるか。こっちに着物がだしてある。おまえは、なりが大きいから、わしの着物でたいがい間にあう」
「これはありがとうございます。いよいよ養子の相談になるかも知れません。こんなりっぱななりをしては……」
「なにをくだらんことをいってるのだ。おいおい、だれか、このばか野郎に着物を着せてやれ……馬子にも衣装、髪かたちというが、やっぱり、ばか野郎は、なにを着せても、すこしもりっぱにはならないもんだな。じつにどうも情けないはなしだ……まあ、それでも、きたなくはなくなった。これ、尻をはしょるのではないぞ。あきれたやつだ。それでよい、半紙をふところにいれたか? 尻をはしょったり、あるいていくのじゃない」
「へえ、あるいていかないとなると、たいへんでございますね。ずいぶん遠方でございますが、蔵前まではっていくというのはどうも……」
「ばかっ、はっていくやつがあるもんか。いつもわしが乗ってゆく駕籠《かご》がある。富蔵がいるだろう。あれにいいつけて、駕籠のしたくをさせろ。橋場のご寮のほうへまいるのだが、伊勢屋といえば、ご寮ということをむこうで知っているから……」
「わたくしを駕籠にいれてぶらさげていくんで?」
「さげてゆく駕籠というのがあるか、はやくいってこい」
「さようなら、いってまいります」
と、かけだしてまいりました。いつもは、先生のおでかけは昼すぎで、まだ時刻がはやいから、駕籠かきのふたりはおちついて、茶をいれて飲みながら、大あぐらで、よもやまばなしの最中でございます。
「おい、富蔵さん」
「へえ」
「若先生がおでかけだ。蔵前の伊勢屋さんのお嬢さまがご病気だ。代脈というのを、おまえたちは知るまい。文字に書くと、代わる脈と書く」
「代脈を知らねえやつがあるもんか。医者のうちへ奉公しているくせに……いったい、だれが代脈にいくのだ?」
「かくいう銀南」
「おまえさんがいくのかい? なんだって、あんな大事な病家へこんなやつを代脈にやるんだろう……きょうは、めずらしくりっぱななりはしているが、からしょうがねえ。恥をかかなけりゃあいいが……なあ相棒」
「名人になると、また療治のしかたがちがう。うちの先生なんざあうまいものだ。だってそうだろう。お嬢さまは、気のふさぐ病気だ。俗にいうぶらぶら病いなんだから、ああいうばか野郎をやったら、しぜんと胸がひらく。そこへ薬がはいる。そこで、ききめがある。どうだ。療治のしかたがうまいものだ」
「なんだか知らねえが、まだ駕籠の掃除ができていやあしねえ」
「かまうもんか。ごみだらけのなかへほうりこんでかついでいこう」
「それもそうだ。どうせ人間のごみだから……」
「おい、駕籠のふたをとっておくれ」
「駕籠にふたというのはない。駕籠は戸というんだ」
「戸というのか……あけておくれ」
「さあ、お乗んなさい……そうはいっちゃあいけない。あたまからはいっちゃあいけないよ。横に、お尻のほうからはいるのだ」
「おかしなもんだね。生まれてはじめて乗った」
「こんど乗るときは、銀南さん、死ぬときだぞ」
「そんなことをいっちゃあいけないよ。縁起でもないから……お尻のほうから横へはいるったって、矢立ての筆のようだね。さむくっていけない。ふたをしておくれ」
「まだふたといってる。それは戸だよ」
「そうそう戸、戸、とうからわかってた」
「つまらねえしゃれをいいなさんな。さあ、しめるよ」
「やあ、すだれが両方にあらあ。乗ったらみえなくなるかとおもったら、こりゃあいいあんばいだ」
「すだれじゃあない。御簾《みす》だよ」
「御簾か……なにしろ、いいぐあいのものだ。うしろへよりかかると、ビロードをはった板があるね。やあ、かつぎだしたな」
「あたりめえじゃねえか。かつぎださなけりゃあいかれやしねえや」
「さすがは商売、うまいもんだね。ぐらぐらゆすぶられて、目でもまわるかとおもっていたが、畳の上をいくような気持ちがして、ぐあいがいいね。やあ、瀬戸物屋の前を通りこしたよ。おやおや、ここが呉服屋だ。天ぷら屋か。やあ、立って食ってるやつがいる。うまそうだな。やい、おれにも食わせろ!」
「くだらねえことをいっちゃあいけねえ」
「駕籠のなかで、なにかむやみとしゃべるなよ」
「いつも、先生が乗っていくと、ほいほいというじゃあないか」
「あれは、人をよけるためにいうんだ」
「そういっておくれな」
「しょうがねえなあ。そういえったって、なにもいえやあしねえ」
「でも、いわないと、なんだか景気がわるいや。ひとつやっておくれな」
「それでも、じゃまになる人もいないのに、よけろというなあむりだ」
「じゃあ、わたしがいうからいいよ……ほーい、ほーい」
「おいおい、駕籠のなかでいうない。みっともねえ。往来の人が、立ちどまって笑ってるじゃあねえか」
銀南のやつ、乗りつけない駕籠ですが、腰からゆられまして、まことにぐあいがいい。いい心持ちで居眠りをしたかとおもうと、前へうつぶしたまま高いびき。駕籠かきはなれておりますから、横に駕籠をつけまして、
「おたのう申します。おみまいでございます……おや、眠っちまったぜ。しょうがねえな、しずかになったかとおもえば高いびきだ。銀南さん、起きなくっちゃあいけねえ……おたのう申します」
「どーれ」
「なんだい、銀南さん、おまえに『おたのう申します』といったんじゃねえ。ここのうちにいったんだ。寝ぼけちゃこまるな。それみねえ、あたまをぶつけたろう。駕籠のなかでいきなり立つやつがあるものか」
「どーれ」
「おいおい、はいだしちゃあいけねえ。横にでるんだよ。だいいち、おまえが返事をしちゃあいけねえやな」
「これはお手代」
「これはお手代たって、まだだれもでてきゃあしねえじゃねえか」
「そうかい」
「おちついていなければいけねえよ」
そのうちに、当家の手代がでてきました。
「ごらんの通り、きょうは、若先生がおいでで……」
「はあ、さようで……」
「おい、おまえはなんだい?」
「てまえは、当家の手代で……」
「ああ、手代……お手代、お手代……」
「おそれいりました。ご案内をいたします。どうぞ、こちらへ……」
「おれはこっちへあがるよ。おい、富蔵さん、下駄を盗られないように気をつけておくれ。おまえたちはあがらないのか?」
「あたりめえよ」
「どうぞこちらへ……」
「はあい、はあい、これはなかなかりっぱな……八畳のお座敷で、結構なざぶとんがでる。すましてそれへ坐る……」
「おそれいります。どうかおふとんへお坐りあそばして……」
「お茶やたばこ盆はまだかい?」
「気みじかな先生だ……はやくお茶をさしあげるように……まことにあいすみません。いいあんばいなお天気でございます」
「べつにわたしのせいじゃないよ」
「これはおそれいりました……どうぞお茶を……」
「うん、いただくよ……なかなかこれはうまいお茶だ」
そのうちに、お茶菓子がでてまいりましたので、銀南先生、あごでようかんのかずの勘定をしはじめました。
「わたしは、まことにどうも酒がきらいでしょうがない」
「いえ、ご出世前でいらっしゃいますから、ご酒《しゆ》のきらいなのは結構で……」
「酒がきらいで、どうにもしかたがない」
「甘いもののほうでいらっしゃいますか。それはご無事で……しかし、そうと存じておりましたら、なにかお口にあうようなものをとりよせておきましたのに……なにしろ、きょうは、不意のおいででございますから……大先生は、甘いものには、まるで目もふれないようなご酒家でいらっしゃいます。それゆえ、きょうは、とりわけてそまつな物をごらんにいれましたが、これからは、なにかめずらしい物をとりよせておきます。きょうのところは、ほんの前へならべておくだけで、あしからずおぼしめしをねがいます」
「お茶をもう一ぱいください」
「お茶のほうもそんなしだいで、はなはだ粗茶をさしあげまして……」
「いやいや、粗茶は結構、わたしはね、まことに粗茶が好きだ」
「へえ、おそれいりました」
「どうして、どうして、この粗茶は、なかなかやすくない粗茶だ」
「へへ、おそれいります」
「ああ、医者というものは、行儀作法はもちろんのこと、格式があり、とんちがはたらかなくてはいかんという、これで、なかなかむずかしいものでね」
「もちろん、人のいのちにかかわりますものでございますから、ご心配のことでございましょう」
「人のいのちに……そんなことはどうでもかまわないが、まあ、病家へまいり、むこうでは、食わせようというところから、お茶菓子に結構なようかん……いや、ようかんにかぎらず、そこへなんでもでる。こっちでは、どうかひとついただきたいとおもっても、むこうで『ひとつめしあがれ』とすすめてくれなければ、どうも食べることができない。まことにむずかしいものでね」
「これはおそれいりました。いいえ、くどくどおすすめ申しあげたいのでございますが、きょうは、お茶菓子もはなはだそまつな品で、けっしておすすめはいたしませんから、どうぞまあ、ごらんあそばさないようにねがいます」
「ごらんあそばさないようにだって……とほほほ……もう一ぱい粗茶をください」
「はなはだ粗茶で……」
「あーあ、お茶ばかり飲んで、まことに医者というものはむずかしいが、かんがえてみると、じつに情けないものだ」
「へえ、情けないとおっしゃいますと?」
「病家へまいり、むこうでは、食わせようというところから、そこへお茶菓子にようかんが……いや、ようかんにかぎらずなんでもだす。こっちでは、どうかひとついただきたいとおもい、のどから手がでるほど食べたいんだが、目の下にありながら、手をだしてそれを食べることができない。医者は、まことに餓鬼道《がきどう》の責苦《せめく》で……」
「おそれいります。とにかく病間へご案内をいたしますから……」
手代につれられて、銀南先生、泣きっつらをしながら病間へまいり、お嬢さまの診察ということになりました。
「まず、お脈を拝見。さあ、お手をおだしください。さあ、お手を……そう恥ずかしがらんで……やあ、ちいさいお手だ。たいへんに毛がはえてますな……いたいっ! ひっかくとはひどいですな。え? なに? ただいまのは猫の手で……これは……いや、とんだそこつを……うん、なるほど、これはやわらかいお手だ。すべすべで、お色がまっ白で……では、ひとつ、お胸のほうを……いや、そう恥ずかしがってはこまります。さあ、ぐっとひろげますぞ……おう、これはまたおきれいだ。色がぬけるように白いとはこのことですな……お腹のほうを、ちょっとさわります。下腹のほうが、だいぶかたくなっていらっしゃるということですが……下腹と申しますと、このおへその下で……ええと、どこかな? かたくなっているところというのは……」
下腹をあちこちとさすっているうちに、かたいのはこれだなと、よせばいいのに、そこがばか者のことで、ぐっとおすと、「ブイ」と一発……みるみるうちに、お嬢さまがまっ赤になってしまいました。
「ときにお手代や」
「へえ」
「なにかおっしゃるなら、なるたけ大きな声でいってくれないと、どうも年齢のせいか、この四、五日どうも耳が遠くっていかん」
「へえー、さようでございますか。つい二、三日前に、大先生も『陽気のせいか、耳が遠い』とおっしゃいましたが、あなたさまもよほどお耳がいけませんかな」
「ああ、いけないとも、ちっとも聞こえない。いまのおならさえ聞こえなかった」
野ざらし
最近では、落語のおちも、わかりにくいものがふえてまいりましたが、この「野ざらし」も、おちをわかっていただくために、はじめに、二、三、申しあげておいたほうがよいようでございます。
むかしは、浅草の雷門《かみなりもん》から南千住《みなみせんじゆ》へまいります途中に、新町《しんちよう》というところがございまして、このあたりには、太鼓屋《たいこや》さんがたくさんございました。この太鼓の皮は、馬の皮でございます。それに、幇間《ほうかん》、つまり、たいこもち、これを略して、たいこと申します。たいこもち、これを略して、たいこ、太鼓は、馬の皮、それに新町という町名と、これだけのことを知っていてくださると、この「野ざらし」のおちもおわかりいただけるというもので……
人間と生まれまして、おたのしみのないかたはございませんが、なかでも結構なおたのしみは、釣りでございましょう。空気のいいところへまいりまして、のんびりと釣り糸をおろして、ゆっくり一日すごしてくるということで、たいそう健康にもよろしいことでございます。
釣りをなさるかたでおもしろいのは、自分で新しい釣り場をおさがしになると、まるで鬼の首でもとったようになることで……
「どこかこのへんにいい釣り場はないかなあ……人の釣ってるところはおもしろくないから、どこか穴場をさがしたいねえ……あっ、ここはいいや。だれも釣ってないからな。ここにしよう。こういうところへ竿《さお》をおろすといいよ。魚が渇《かつ》えているからね、すぐにパクリとくることうけあいだ」
なんてんで、釣り糸をたれているところへ、土地のおかたが通りかかって、
「こりゃあ、おたのしみですねえ」
「ええ、ありがとうございます」
「いかがです? 釣れますか?」
「それがね、あんまり食わないんですよ」
「ああ、そうでしょうねえ。きのうの雨で水がたまったんですから……」
変なところで釣ってるかたがあるもんで……
「ちょいとあけてくんねえ。先生、ちょいとあけて……こんなにおもてをたたくのにまだ起きねえのかなあ……先生、尾形先生、はやくあけてくれよう、先生!」
「はいはい、どなたかな? はい、はい、すぐあけますよ。寝てるわけじゃないから、いまあけます。そんなにドンドン戸をたたいては、戸がこわれてしまうで……これこれ、そうたたくではないというに……こまったものじゃ、はいはい、いまあけますで……そうたたいては、戸がこわれて……いたい! どうも、いたいな。あけたとたんにわしをなぐって……」
「どうもすみません。夢中になってたたいていたところを、先生がだまってあけたから、ぽかりといっちまったんで……戸にしちゃあ、いやにやわらけえとおもった」
「戸とわしのあたまといっしょにするやつがあるか……だれかとおもったら、ご隣家《りんか》の八五郎さんか」
「だれかとおもわねえでも、ご隣家の八五郎さんで……先生、だまってなんかおくんねえ」
「どうもひどい人もあるもんだ。人のあたまをなぐっておいて、あやまろうともしないで、なんかくれろというのはどういうわけだい?」
「先生、おめえさんは、ふだんから高慢《こうまん》なつらをして、わしは聖人じゃから、婦人は好かんよかなんかいって……ゆうベの娘、いい女だったねえ、ありゃあ、いったいどっからひっぱってきた? 年のころは十六、八かね」
「十六、八? それじゃあ七がない」
「そう、しち(質)は、先月ながれた」
「くだらんことをいいなさんな」
「ありゃあ、色が白いのを通りこして、すき通るように青かったねえ。あんないい女を、どこからひっぱってきた?」
「ふーん、おまえは、ゆうべのあれをごろうじたか?」
「ごろうじたかって? じょうだんじゃあねえ。ごろうじすぎて、一晩中まんじりともできゃあしなかったんだ。そうだろうじゃねえか。夜なかにひょいと目をさますと、先生の家でひそひそ声がすらあ。先生はひとり者で、相手のいるはずはねえと、耳をすましていると、聞こえてきたのが女の声だ。どうにも気になって寝つかれねえから、商売ものの、のみでもって、壁へ穴をあけてのぞいてみたんだが、ほんとにいい女だったねえ。どっからひっぱってきたんだい?」
「そうか。ごらんになったならば、かくしてもしかたあるまい。のこらずおはなししよう。じつは、八つあん、ゆうべのはな……こういうわけだ」
「へーえ、そういうわけかい」
「まだなんにもいわない」
「道理で聞こえない」
「まるで掛けあいだな……おまえも知っているように、わしは釣り好きだ。彼岸中の鯊《はぜ》は、中気《ちゆうき》のまじないになるから、ぜひおねがいしますと、おまえにたのまれたことをおもいだしたので、釣り竿《ざお》をかついで向島へでかけたが、きのうは魔日というのか、雑魚《ざこ》一ぴきかからん。ああ、こういう日は、殺生をしてはならんということかと、釣り竿を巻きにかかった。浅草弁天山で打ちいだす暮れ六つの鐘が、陰《いん》にこもってものすごく、ボオーン、と聞こえた」
「よせよ、よせよ。先生、はなしをそう陰気にしっこなし。あっしゃあこうみえても、あんまり気の強えほうじゃあねえんだから……もっと陽気にはなしておくんなせえ。で、どうしました?」
「四方《よも》の山々雪とけて、水かさまさる大川の、上げ潮|南風《みなみ》で、ドブーリ、ドブリと水の音だ」
「へえ」
「あたりはうす暗くなって、釣り師は、いずれも帰宅したか、のこった者はわしひとり、風もないのに、かたえの葭《よし》が、ガサガサガサッと動いたかとおもうと、なかからすーっとでた」
「ひゃー」
「おいおい、八つあん、おまえさん、なにかふところへいれたようだな」
「へ? ふところへ? ああ、これですか」
「これですかじゃないよ。こりゃあ、わしの紙入れじゃないか。ゆだんもすきもあったもんじゃない」
「ええ、あっしゃあ、もう、こわくなるとね、なにかふところへいれたくなるんで……」
「わるいくせだなあ」
「こないだも、大家さんのところで、柱時計をふところにいれたんだけど、ありゃあしまつにこまっちまった」
「ばかなことをしなさんな」
「で、先生、葭んなかからなにがでたんで?」
「からすが三羽でた」
「からす? なんだ、からすかい。おまえさん、あんまり芝居がかりでいうから、なにがでたかとおもっちまった。それから?」
「はて、ねぐらへ帰るからすにしては、ちと時刻もちがうようだと、葭をわけて、なかをみると、なまなましいどくろだ」
「どくろ?」
「しかばねだ」
「赤羽《あかばね》へいったんで?」
「わからない人だなあ。野ざらしの人骨があったんだ。ああ、こうしてかばねをさらしているのは気の毒千万と、ねんごろに回向《えこう》をしてやった」
「猫がどうかしましたか?」
「猫じゃないよ。回向《えこう》だ。死者の冥福《めいふく》をいのったんだ。うまくはないが、手向《たむ》けの句、野をこやす骨をかたみにすすきかな……盛者必滅会者定離《しようじやひつめつえしやじようり》、頓証菩提《とんしようぼだい》、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》と、ふくべにあった酒を骨《こつ》にかけてやると、気のせいか、赤みがさしたようにみえた。ああ、いい功徳《くどく》をしたと、たいへんにいい心持ちで帰ってきて、とろとろとすると、さよう、時刻はなんどきであったろうか、しずかにおもてをたたく者がある。なにものかと聞いてみたら、かすかな声で、向島からまいりましたという。さては、先刻の,回向がかえって害となり、狐狸妖怪《こりようかい》のたぐいがたぶらかしにまいったなとおもい、浪人ながらも尾形清十郎、年はとっても腕に年はとらせんつもり、身にゆだんなく、ガラリと戸をあけた。乱菊や狐にもせよこのすがた……ゆうべの娘が音もなく、すーっとはいってきた」
「ひゃー」
「これこれ、また、なにかふところへいれたな。はやくだしなさい」
「まためっかった。こわかったもんで、ついその……」
「わしのたばこいれじゃあないか。どうもあきれた人だ」
「すみません。で、それから?」
「あの娘がいうには、『あたくしは、向島に屍《かばね》をさらしておりました者でございますが、あなたさまのお心づくしによって、今日《こんにち》はじめて浮かばれました。おかげさまで、行くところへまいられます。今晩は、ちょっとそのお礼にあがりました。お腰なりともさすりましょう』と、やさしいことば。せっかくはるばると向島からきた者を、すげなく帰すのもどうかとおもったから、肩をたたかせ、腰をさすらせていたのだ。まあ、そんなわけで、あの娘は、この世の者ではないのじゃ」
「へーえ? あれは幽霊かい? ふーん、それにしてもいい女だねえ。先生、あんないい女なら、幽霊でもお化けでもかまわねえや。あっしも、せめてひと晩でもいいから、みっちりはなしをしてみてえねえ……向島へいきゃあ、まだ骨《こつ》はあるかねえ?」
「さあ、それはわからんな」
「あれっ、それはわからんななんて、おまえさん、ひとりじめしようってのかい? 教えろやいっ、このしみったれ」
「いや、べつにしみったれてるわけではない。骨は、まだあるかも知れん」
「ありがてえ。もしもなきゃあ、おまえさん、たてかえるかい?」
「そんなものをたてかえられるものか」
「まあいいや。じゃあ、骨がやってくるまじないを教えておくんなせえ」
「まじないというやつがあるか。手向けの句だ。これは、腹からでたことでなくてはいかんのじゃが、教えろというなら、教えもしよう……野をこやす骨《ほね》をかたみにすすきかな、盛者必滅会者定離、頓証菩提、南無阿弥陀仏……」
「それが手向けの句というやつだね。じゃあ、釣り竿を貸してくんねえ。さっそく向島へでかけるから……」
「ああ、これこれ、その竿はいかん。もしも折られると、それをつくる竿師がもうおらんのじゃから……持っていくなら、こっちの竿を……」
「なにいってやんでえ。けちけちすんねえ。これを借りてくよう」
いけないという釣り竿を無理に借りた八つあんが、途中で、二、三合の酒を買いこむと、あわてて向島へとんでまいりました。
「へへへ、なにいってやんでえ。年をとっても浮気はやまぬ、やまぬはずだよ、さきがないてえ都都逸《どどいつ》があるけれど、尾形さんも隅におけねえや。わしは聖人じゃから、婦人は好かんよなんていってるくせに、釣りだ、釣りだなんてでかけて、ああいう掘りだし物を釣ってくるんだからあきれたもんだ。いい年をして、骨《こつ》を釣りにいこうたあ、気がつかなかったなあ、おれもはやくいい骨を釣りあげなくっちゃあ……おやおやおや、ずいぶんきてやがるなあ、こんなに骨を釣りにきてるたあ知らなかったぜ。おれをだしぬきゃあがって、なんてひでえやつらだ。あれっ、あそこに十一、二の子どもが釣ってやがらあ、なんてませたがきだろう……おーい、どうだ、骨は釣れるかい? 骨はどうだ?」
「なんです? 骨? あなた、気味のわるいことをいいなさんな。あたしは、さかなを釣ってますよ」
「とぼけたことをいうない。さかなを釣ってますよなんて、そんなことでごまかされるおれじゃあねえんだ……おい、おめえは、どんな骨を釣りてえんだ? 娘か? 年増《としま》か? 乳母《おんば》さんか? 芸者か? おいらんか? なんの骨でえ?」
「なんだい、こいつあ? 色気ちがいかな? むやみと女のことばかりいって……目が血ばしってて……女にでもふられたんだな……もしもし、おそれいりますが、ちょうどさかながかかりそうなんで、おしずかにねがいます」
「なにいってやんでえ。ぐずぐずいうねえ。おしずかにねがいますったって、さかなに人間のことばがわかるもんかい。おれもそこへいくぜ……どっこいしょのしょっと……」
「ああ、とうとうきましたよ。こりゃあ、とんだことになっちまった。すみませんが、あなた、ご順にお膝おくりを……あの色きちがい、気味がわるくってどうも……せっかくすこしかかりはじめたんですが、とうとうあいつに釣り場をとられちまって……おや、あなたはたいしたもんだ。それだけあげてりゃあ、りっぱなもんですよ。みてください。あたしの魚籠《びく》を……これからってところだったのに、あいつのために……あなた、あなた、みてごらんなさい。あいつ、どうみてもふつうじゃありませんよ。なにかぶつぶつひとりごとばかりいってますから……うふふふ」
「やいやい、この野郎、なんだって、おれの顔をみて笑うんだ。てめえ、なんだな、おれに骨が釣れめえとおもってせせら笑ってやがるんだな。じょうだんいうねえ。こっちは、ちゃーんと回向の酒も買って、元手《もとで》がかかってるんだ。てめえたちにいい骨を釣られて、へえ、さようでございますか、とひっこんでいられるもんか。さあ、これから、おつな骨をふたつでも、みっつでも釣りあげてやるぞ」
「もしもし、骨だかなんだか知りませんが、そう竿をふりまわしたんじゃあ、水がはねかってしようがありません。おしずかに、おしずかに……」
「なにいってやんでえ。おしずかにしようと、おやかましくしようと、おれの勝手じゃあねえか。それともなにか、この川は、てめえの川か?」
「いいえ、べつにあたしの川じゃありませんが、とにかく水をはねかさないでもらいたいんで……あれ、あれ、あなた、失礼ですが、えさがついていないようですね。それじゃあ釣れませんよ。えさをおわすれなら、あたしのをおつかいなさい」
「よけいなお世話だい。骨を釣るのに、えさもなにもいるもんか。なんにも知らねえくせに、しろうとはだまってひっこんでろってんだ。こうやってるうちにゃあ、鐘がボーンと鳴るだろう。葭がガサガサとくらあ。なかから、からすがすーっとでてくりゃあこっちのもんだ。べらぼうめ、こっちあ、それを待ってるんだ…… 鐘がボンとなーありゃさ、上げ潮、南風《みなみ》さ、からすがとーびだーしゃ、こりゃさのさあ、骨があーるさーいさい、ときやがら、スチャラカチャン、スチャラカチャン」
「あなた、あなた、そう浮かれちゃあこまるなあ、そうかきまわしちゃあだめですよ」
「なんだと? かきまわしてるだと? かきまわしてなんぞいるもんか。おらあ、ただ、水をたたいてるんじゃあねえか。かきまわすてえなあ、こうやって、竿をぐるぐるっとまわすんだ」
「あれ、あれ、こりゃあいけません。とても釣れないから、あなた、竿をあげてみてみましょう」
「なにいってやんでえ……しかし、どんな骨がくるかなあ……ゆうべの骨みてえなのもいいけど、ちょいと若すぎて色気がなかったなあ。そうさなあ、やっぱり二十七、八、三十でこぼこの、おつな年増の骨がいいや……カランコロン、カランコロン、カランコロン、カランコロン……『こんばんは。あたし、向島からきたの』『なんだ、骨かい。おそかったじゃねえか』『おそかったって、おまえさんがお酒をかけたろう、だから、あたし、酔っぱらっちゃって……』『そうかい、そういやあ、顔いろがほんのり桜色だな。まあ、こっちへあがんねえ』『だって、むやみにあがると、おまえさんのいい人が角《つの》をはやすんじゃあないの?』『そんなことあるもんか。おらあ、ひとり者だよ。心配しねえであがってこいよ』『おまえさんのそばへ坐ってもいいのかい?』『ああ、いいとも、坐ってくんねえな』『じゃあ、そうさせてもらうよ』ってんで、骨がすーっとあがってきて、うふふふ、おれのそばへぺったり坐る……ああ、ありがてえ」
「なんです? おどろきましたねえ。ありがてえって、水たまりへ坐っちまいましたよ。よっぽどおかしいんですねえ」
「おれのそばへ坐った骨が、また、うれしいことをいうよ。『ねえ、おまえさん、おまえさんてえ人は、ちょいとようすがいいから、きっと浮気者だよ。あたしが、すこしでもおばあちゃんになると、若い娘《こ》といい仲になって、あたしをすてるんじゃあないの?』『そんなことあるもんか。おめえというかわいい恋女房がありながら、そんなことをするもんかよ。めす猫一ぴきでも膝へ乗せるもんか』『あら、ほんとうに口がうまいよ、この人は……その口で、あたしをだますんだろ? その口で……なんてにくらしい口なんだろ。ぐっとつねってあげるから……』」
「いたい、いたい、いたい! なんで、あたしの口をつねるんだ?」
「嫉《や》くない、この野郎」
「嫉くわけじゃあないが、いきなり人の口をつねるやつがあるかい。さわぐんなら、ひとりでさわぎゃあいいんだ」
「『じゃあ、おまえさん、ほんとうに浮気はしないね』『ああ、しゃあしねえ。大丈夫だってことよ』『そんなことをいって、もしも浮気したらくすぐるよ』『よせよ。くすぐってえじゃあねえか』『でも、ちょいとくすぐらしてよ』てんで、骨が、やさしい手で、おれのわきの下を、くちゅくちゅくちゅ……『よせよ、よせよ。くすぐったいよ。だめだ、だめだよ……いたい』」
「うふふふふ、ごらんなさい。あいつ、自分で自分をくすぐってるうちに、さかなを釣らないで、自分のあごを釣り針で釣っちまったから……」
「ああ、いてえ、いてえ。ちくしょうめ、人があごをひっかけてるのに笑ってやがらあ、薄情な野郎じゃあねえか。えーい、と、やっと針がとれた。いけねえ、血がでてきゃあがった……うん、こういう針なんてつまらねえものがついてるからいけねえんだ。こんなものはすてちまえ!」
「あれっ、あいつ、針をとっちまったよ。あきれたねえ」
「なにいってやんでえ。こちとらあ、はばかりながら、針がなくってできねえような釣りはしてねえんだ。まごまごしやがると、はりたおすぞ! ……あはははは、とうとうみんな逃げちまいやがった。ざまあみやがれ! ……おやおや、野郎、泡あくらって、弁当箱をわすれていきゃあがった。どんなものを食ってやがるんだろう? ……ふーん、あぶらげと焼き豆腐の煮たやつだ。おまけに、がんもどきみてえなつらをしてやがって、まるで、豆腐屋のまわし者みてえな野郎じゃあねえか……ひとつ、この焼き豆腐をごちそうになろうかな……うん、こりゃあ、みかけによらずうめえや。うん、うまい……よっ、でた、でた……からすかとおもったら、むくどりがでやがったよ。ははあ、からすがいそがしいもんだから、むくどりにたのんだんだな。『ちょいと、むくちゃん、あたしゃあ、いそがしくっていけないから、かわりにいっとくれよ』かなんかいったにちげえねえや。なーに、むくどりだろうと、なんだろうと、でてくれさえすりゃあこっちのもんだ。 葭をかきわけさあ、骨はどこーさとくらあ……おやおやおや、こりゃあたいへんに骨があるなあ、また、大きな骨だねえ……さあ、骨や、酒をかけるからな。いいかい、おれの酒はな、尾形先生みてえに飲みのこしじゃあねえんだぞ。まだ手つかずってえやつだ。これをみんなかけちまうからな、きっときてくれよ。たのむからなあ……そうそう、骨のくるまじないの文句があったっけ……えーと……のをおやす、骨をたたいて、お伊勢さん、神楽《かぐら》がお好きで、とっぴきぴのぴっ……まあ、だいたいこんな文句だったな。いいかい、きとくれよ。おれのうちは、浅草|門跡《もんぜき》さまのうらで、八百屋の横丁をはいって角から三軒め、腰障子に、丸に八の字が書いてあるから、すぐにわかるよ。じゃあ待ってるぜ」
のんきなことをいったかとおもうと、八つあんは、そのまま、ぷいと帰ってしまいました。ところが、壁に耳ありというやつで、葭のかげに、屋根船が一|艘《そう》つないでありまして、その船に、お客にうっちゃられた幇間、たいこもちがいて、八つあんのことばを耳にいたしました。
「こりゃあおそれいった。よそでは人目につくってんで、ご婦人を葭のなかへひきいれて、再会の約束なんぞはにくいねえ。あの場へでていって、よう、おたのしみ、なにかちょうだいてなことをいえば、そりゃあ、いくらかになるだろうが、それじゃあ、芸人の風流がなくっておもしろくないや。よし、今夜、お宅へうかがって、ごきげんをうかがうとしよう。うちは、浅草門跡さまのうらで、八百屋の横丁をはいって角から三軒め、腰障子に丸に八の字が書いてあるから、すぐにわかるといってたな。夜分《やぶん》になったら、さっそくでかけやしょう」
てんで、とんだやつに聞かれました。
八つあんは、そんなことはちっとも知りませんから、七輪の下をあおぎながら、いい女の幽霊を待ちわびております。
「こんなに待ってるのに、なにをしてやがるんだなあ……もうきてもいい時分なんだが……もし、先生、尾形先生! 骨のやつ、門《かど》ちがいでそっちへいったら、こっちへまわしてくださいよ。あっしゃあ、元手《もとで》をかけてるんだからね……なにをしていやあがるんだろう? ぐずぐずしてるじゃあねえか……もう、湯もわいてるし、さしむかいで一ペえやろうてんで、すっかりしたくもできてるのになあ、どうしゃあがったんだ? ……しかし、こんなことをいってるところへ、『ごめんあそばせ』ときたらどうしよう? 口じゃあ強いことをいってるが、女にかかると、おれはいくじがねえからな……『あなた、きょうは、向島でありがとう』『あなたといわずに、名をよんでおくんなさい』『だって、お名前を知らないから、しかたがないわ』『八五郎というんで……』『あれ、うれしいこと、八つあん、わちきは、とうからおもいついていたんだが、その吉日《きちにち》を待ちかねて、おまえのすがたを絵に描かせ、みればみるほど美しい、こんな殿御《とのご》と添《そ》い臥《ふ》しの……』」
「はなし声がするが、だれかきたのかな?」
「まだなんですがね……あれっ、おもてに足音がするよ。やっ、ぴたりととまった。きたのかな?」
「ええ、こんばんは」
「だれだい?」
「ええ、向島からまいりました」
「向島からきた? よう、待ってました。いらっしゃい……いらっしゃいはいいけど、いやに声がふといねえ。いったい、どんな骨なんだろう? おい、まあ、こっちへはいんねえ」
「ええ、ごめんくださいまし。もそっとはやくあがりたかったんでげすが、すっかりおそなわりまして、どうも……おやおやおや、こりゃあ結構なお住居でげすなあ。じつにどうも骨董家《こつとうか》の好くうちでげす。畳はてえと、たたがなくってみばかりというやつだ。障子は、桟《さん》ばかりときましたねえ。流板《ながし》は、くさっておっこちの、みみずうじゃうじゃ大行列……いいご仏壇がありますな。みかん箱なんざあ、どうもしゃれたもんで……さざえのつぼのお線香立てに、あわびっ貝のお燈明皿《とうみようざら》はうれしいや。海岸のみやげもの屋だね、まるで……ようよう、このお天井なるものが、ちょいとそのへんに類のないてえやつだ。雨の降る日には、座敷に坐ったままで傘をさすという……じつにどうも、よそのお宅では味わえない風情《ふぜい》で……しかも、いながらにして月見ができるんでげすから、まことにご風流でげす……うら住居すれどこの家に風情あり、質の流れに借金の山というのは、ここいらでげしょう。てまえもかくなる上は、ひとつなにかやりやしょう。 人を助ける身をもちながら、あの坊さんが、なぜか夜あけの鐘をつく。あれまた木魚《もくぎよ》の音がする……」
「な、なんだよ、おい……おつな年増の骨でもくるかとおもったら、どうも口のわるい骨がやってきやがった。いったい、おまえは、なに者だ?」
「こうみえても、新朝《しんちよう》という幇間《たいこ》でげす」
「なに、新町の太鼓? あっ、しまった。それじゃあ、葭のなかのは馬の骨だった」
青菜
「植木屋さん、たいそうご精《せい》がでるねえ」
「えっ、こりゃあ、どうも、旦那ですか。いえね、そういっていただくとありがてえんで……これが、植木屋をめったにおよびにならねえお宅へまいりますと、植木屋は、しょっちゅうたばこばかり吸っていて、なんにも仕事をしないなんていわれますけど、こうやってたばこを吸っておりましてもね、べつにぼんやりしてるわけじゃあねえんで……あの赤松は、池のそばへうつしたほうがいいんじゃねえかとか、あの枝はすこし短くつめたほうがいいんじゃねえかとか、庭をながめながらかんがえておりますんで………」
「そりゃあそうだろう。人間は、むやみやたらにうごきまわってればいいってもんじゃあない。植木屋さん、どうだな、こっちへきてやすみなさらんか?」
「へえ、ありがとうございます」
「さきほど、あなたが水をまいてくだすったおかげで、青いものを通してくる風が、ひときわ心持ちよくなったよ」
「へえ、さようでござんすか。まあ、こちらのお屋敷なんぞは、どこをみましても、青いもんばかりですが、あっしなんざあ、こんな商売をしておりましても、うちへ帰ったら、青いものなんざあ、みたこともねえんですから……なにしろ、あっしのうちときたら、長屋のいちばん奥だもんですから、風がへえってくるったって、あっちの羽目《はめ》へぶつかり、こっちの焼けトタンにぶつかって、すっかりなまあったかくなってからうちへへえってくるんですからね、なんのこたあねえ、化け猫でもでそうな風なんで……」
「化け猫のでそうな風とはおもしろいことをいうな……そうだ、植木屋さん、あなた、ご酒《しゆ》をおあがりかな?」
「ご酒? ああ、酒ですか、酒なら浴びるほうなんで……」
「ほう、よほどお好きだな。じゃあ、これから、あなたに、ご酒をごちそうしましょう」
「ありがとうございます。では、台所のほうへまわりまして……」
「いやいや、いま、ここへとりよせるでな、まあ、そこへおかけなさい」
「え? ここへ? そいつあいけませんや。こんな泥だらけのはんてんで、腰なんかかけりゃあ、ご縁《えん》さきがよごれまさあ」
「まあ、遠慮せずにおかけなさい。なーに、よごれたら、あとでふけばいいんだから……おい、奥や、植木屋さんにな、ご酒を持ってきてあげてください。そうだな、せんだってのやつがいいだろう……ああ、持ってきたら、そこへおいてっておくれ」
「へえ、どうも、奥さま、お手数をおかけいたします」
「さあ、植木屋さん、どうぞおあがり、これが大阪の友人からとどいた柳影《やなぎかげ》だ」
「へえ、ありがとうございます。へーえ、柳影ねえ、めずらしい酒でございますねえ」
「上方では、柳影というが、こちらでいえば、なおしのことだ」
「へーえ、なおしですか……では、さっそくいただきます……よく冷えておりますねえ」
「いや、さほど冷えてはおらんのだが、あなた、いままで、日なたで仕事をしておって、口のなかが熱うなっておるで、それで、冷えているように感じるのでしょうな」
「さいでござんすかねえ。しかし、おいしゅうございます。けっこうでござんすねえ」
「いや、あなたのように、うまい、うまいといってくださると、まことに心持ちのよいもんじゃな。それから、なにもないが、鯉のあらいをおあがり」
「へえ? どれが鯉のあらいで?」
「ここにあるから、おあがり」
「えっ、この白いのが鯉のあらい? ああ、なるほど、鯉をあらって白くしちまうから、それであらいというんで?」
「いや、べつにあらって白くするわけじゃない。鯉の身は、もともと白いもんなんだ」
「へえ、鯉の身は白いんですか? あっしはね、鯉てえのは黒いもんだとおもってましたが、ありゃあ皮なんですねえ。あっしゃあ、この年になるまで、あらいなんぞ食ったことがなかったもんですから……へーえ、ぜいたくなもんなんですねえ。では、いただきます。うーん、こりゃあ、しこしこして、よく冷えていてうめえもんでござんすねえ」
「氷がはいっておるでな」
「氷が? ああ、なるほど……この盛りあがってるのは、みんなあらいじゃあねえんですね。ああ、下のほうに、氷がへえってました。こいつあ、つめたそうだ。のどがかわいておりますからね、この氷をひとついただきます……ひょーっ、ひょーっ、いやあ、この氷は、よく冷えてますねえ」
「氷が冷えているということはありますまい……ときに、植木屋さん、あなた、菜をおあがりかな?」
「菜? ああ、菜っ葉ですか? ええ、もう、大好物なんで……」
「じゃあ、さっそくごちそうしよう。ああ、奥や、植木屋さんに、菜をだしてあげてください」
「旦那さま」
「なんだ?」
「鞍馬山《くらまやま》から牛若丸《うしわかまる》がいでまして、その名を九郎|判官《ほうがん》」
「では義経《よしつね》にしておきなさい……いやあ、植木屋さん、男というものは、勝手のことがよくわからんでな、わしは、まだ菜があるとおもっていたら、食べてしまって、もうないんだそうだ。いや、まことに失礼したな」
「ええ、菜っ葉がなけりゃあ、よろしゅうござんすがね、奥に、お客さまがおみえになったんじゃありませんか? 鞍馬さまとか、義経さまとか……」
「あはははは……べつに来客があったわけでないから、どうか気になさらんように……いや、あれは、わしと家内とでつかっている、かくしことばといおうか、しゃれといおうか、まあ、そんなものだ。たとえば、来客の折り、わしがそういったものがなければ、お客さまに失礼にあたる。そこで、『鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官』……菜は食べてしまってないから、菜を食ろうというしゃれで、その名を九郎判官……わしが、『よしとけ』というところを、『義経にしておけ』と、こうしゃれたわけだ」
「へーえ、そうでござんすか……ふーん、こいつあ、おそれいりました。なるほど……『鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官』……食っちまってねえから、九郎判官。旦那が、よしとけてえのを、『義経にしておけ』……こりゃあ、旦那さまと奥さまのつづきもののしゃれですね。こうやりゃあ、お屋敷のまずいことは、まるっきり、よその人にわかりませんねえ。なにごともこういきてえもんでござんすねえ。そこへいくてえと、うちのかかあなんぞ……いえ、まあ、うちのかかあと、こちらの奥さまといっしょにしちゃあ申しわけねえんですがね……うちのかかあときたら、だまってりゃあ、わかんねえことを、大きな声で触れあるくんですから、まったくあきれけえったもんで……『おまえさん、いわしがさめちゃうよ。いわしがさめちゃう』なんて……あっしんとこじゃ、のべつに、いわしばっかり食ってるようじゃあありませんか。そこへいくと、こちらさまでは、『鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官』……菜は食っちまってねえから、九郎判官。旦那が、よしとけてえやつを、『義経にしておけ』なんぞは、えらいもんでござんすねえ……じつにどうもてえしたもんだ……あっ、こりゃあいけねえ。旦那、柳影が義経になりました」
「ほう、そりゃあ失礼したな。柳影は、それでもうないが、ほかの酒はいかがかな?」
「いえ、もう十分にちょうだいいたしました。どうもごちそうさまで……これ以上いただきますと、もう、すっかり酔っぱらっちゃいますんで……どうもありがとうございました。また、あしたうかがいます。ごめんください」
「いや、どうもごくろうさまでした」
「へえ、どうも……うーん、えれえもんだねえ。さすがにお屋敷の奥さまだ。いうことにそつがねえや。『鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官』……旦那が、よしとけてえやつを、『義経にしておけ』なんて、てえしたもんだ。まったく女らしくていいや。そこへいくと、うちのかかあ、ありゃあ、なんだい? あれでも女かよ。男じゃねえから、しょうがなくって女でいるんじゃあねえか。あいつには、あの奥さまの爪のあかでも煎《せん》じて飲ましてやりてえね。まったく、どうだい、『鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官』……旦那が、よしとけてえやつを、『義経にしておけ』なんぞは、てえしたもんだ」
「おまえさん、なにをぶつぶついいながらあるいているんだよう。いわしがさめちゃうよ、いわしが!」
「あれっ、こんちくしょう、またはじめやがった。おれの顔をみさえすりゃあ、いわしだ、いわしだっていってやがる。なにもそんなに触れまわるこたあねえじゃねえか」
「なにいってんだよう。おまえさんが帰ってくるころだとおもうから、いわし焼いて待ってたんじゃあないか。はやく食べないとさめちゃうよ」
「おうおう、いわし焼くんなら、なんであたまごと焼くんだ。あたまなんか食えねえじゃあねえか」
「おまえさん、知らないんかい? あたまは滋養になるんだよ。だから、まるごと食べたほうが丈夫になるじゃないか。犬をごらん、丈夫なこと」
「あれっ、おれと犬といっしょにしてやがらあ、あきれたなあどうも……いや、そんなことよりも、きょうは、おれ、おどろいちまった」
「また、はじまった。おまえさんぐらい、おどろく人はないねえ。猫があくびをしたっておどろいて、電車がうごくってびっくりして……きょうは、なんにおどろいたんだい?」
「お屋敷でおどろいたんだ。おれがな、仕事のくぎりがついたんで、お庭で一服やってたんだ。すると、旦那がおみえになって、柳影てえ酒をごちそうになった。さかなは、鯉のあらいてえやつだ。鯉のあらいなんぞ、おめえは知るめえ。ありゃあ、あらって白くするんじゃあねえぞ」
「なにいってんだよ。鯉のあらいぐらい、あたしだって知ってるさ」
「へーえ、知ってたのか……で、旦那が、『植木屋さん、菜をおあがりかな?』とお聞きなすった。おれが、『大好物なんで……』と答えると、旦那が、ポンポンと手をたたいて、『ああ、奥や』とおよびになった。よばれてでてきた奥さまの行儀《ぎようぎ》のいいこと……つぎの間にひかえてな、旦那の前で、こんなぐあいに両手をついて……おい、こっちをみろよ。おめえに行儀を教えてやるから……こっちをみろよ。旦那の前に、こんなぐあいに両手をついて……」
「そういうかえるがでてくると、雨がふるよ」
「かえるのまねしてんじゃねえや……なんてまあ、口のへらねえやつなんだ。ことばだって、そりゃあていねいなもんだぞ。『旦那さま、旦那さま』」
「右や左の旦那さま」
「ふざけるなっ、なぐるよ。こいつは……いいか。奥さまが、『鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官』……旦那が、よしとけてえやつを、『義経にしておけ』……このわけが、おめえにわかるかよ」
「わかるさ、やけどのまじないだろ?」
「ちぇっ、なんてことをぬかすんだ。情けねえなあ。『らくらいの折り……』」
「どっかに、かみなりさまがおちたのかい?」
「かみなりなんかおちるもんか。お客がきたんだよ」
「じゃあ、来客だろう?」
「そう、それよ、そのらいらいの折り、『わたしがそういったものがなければ、お客に失礼にあたる。そこで、鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官』……菜を食っちまってねえから、九郎判官だ。旦那が、『よしとけ』てえのを、しゃれて、『義経にしておけ』と、こうおっしゃったんだ。こういうけっこうなことは、てめえにいえめえ」
「いえるよ。それくらいは……」
「いえるなら、いってみろ」
「鯉のあらいを買ってごらんよ」
「あれっ、ちくしょうめ、人の急所をついてきやがる……おっ、むこうから熊の野郎がきた。あいつに一ペえ飲ましてやってくれ。いまの、鞍馬山をやるんだから……」
「およしよ。このお酒の高いのに……」
「けちけちすんねえ。いいか、やるんだぞ。鞍馬山から牛若丸がいでましてだぞ。そのときになって、いわねえでみやがれ、おっぺしょって鼻かんじまうぞ。さあ、お屋敷の奥さまみてえに、つぎの間にさがってろ……あっ、そうか。つぎの間なんかなかったっけ、一間きりなんだからなあ……じゃあ、しかたがねえから、この押し入れにへえってろ」
「じょうだんじゃあないよ。このあついのに……」
「ぐずぐずいわねえで、おとなしくへえってろい」
「おうっ、いるかい?」
「野郎、きやあがったな……あなた、たいそう、ご精がでるねえ」
「なーに、精なんかでるもんか。きょうは、仕事をやすんで、朝から昼寝してたんだ」
「えっ、昼寝を? ……いや、昼寝をするとは、ご精がでるねえ」
「なにいってんだ。昼寝して精がでるわけがねえじゃあねえか」
「まあ、いいから、こっちへおあがり。遠慮なくおかけなさい。よごれたら、あとでふけばいいんだから……」
「それほどきれいなうちじゃあねえじゃねえか。ともかくあがらしてもらうぜ」
「青いものを通してくる風が、ひときわ心持ちがいいな」
「おい、しっかりしろよ。おめえ、どうかしたんじゃあねえか。青いものったって、なんにもありゃあしねえじゃねえか。むこうにごみためがあるだけだあな」
「あのごみためを通してくる風が、ひときわ心持ちがいいな」
「おかしなものが好きだな。おめえは……」
「あなた、ご酒をおあがりかな?」
「ご酒? 酒かい? えっ、ごちそうしてくれるのかい? へーえ、うれしいねえ。いただこうじゃあねえか」
「大阪の友人からとどいた柳影だ。さあ、おあがり」
「ああ、ありがとう。へーえ、これ、柳影てえのかい? ……うーん……なんだい、これ、ただの酒じゃあねえか」
「柳影だとおもっておあがり。さほどは冷えておらんが、あなた、いままで、日なたで仕事をしておって……」
「冷えちゃあいないよ。この酒、燗《かん》がしてあるじゃねえか」
「なにもないが、鯉のあらいをおあがり」
「おいおい、おめえ、職人のくせに、鯉のあらいなんぞ食ってんのかい? ぜいたくじゃあねえか。おい、どこにあるんだ? 鯉のあらいが?」
「そこにあるから、おあがり」
「こりゃあ、いわしの塩焼きじゃあねえか」
「それを鯉のあらいとおもって、おあがり」
「いちいちいうことが変だなあ。まあ、いいや。とにかく食わしてもらうぜ……うん、うめえ。おらあ、へたなさかなよりも、この塩焼きのほうが、ずーっと好きなんだ。うん、うめえ、うめえよ」
「あなたのように、そう、うまい、うまいといってくれると、まことに心持ちがいいな……ときに、植木屋さん、あなた、菜をおあがりかな?」
「なにいってんだ。植木屋は、おめえじゃねえか。おらあ、大工《でえく》だよ」
「あなた、菜をおあがりか?」
「おらあ、きれえだ」
「あのう、菜を……」
「きれえなんだ。がきのときから、からだにいいから、食え、食えっていわれてんだけど、おらあ、でえきれえなんだ」
「あの、菜を……」
「きれえだってんだ。おらあ、きれえだ」
「いわし食って、酒飲んじまって、いまさら菜がきれえだなんてひでえじゃねえか……なあ、おめえがきれえなら食わせやしねえから、食うといってくれよ」
「なんだ、泣いてやがら……おかしな野郎だな。じゃあ、食うよ」
「食う? しめたな……では、しばらくお待ちを……」
「なんだ、手なんかたたいて、なんかおがんでんのか?」
「おがんでなんかいるもんか。人を呼ぶときに、手をうつじゃあねえか……おい、奥や」
「なにいってやんでえ。奥にも、台所にも、一間しかねえじゃあねえか」
「だまってろい……おい、奥や」
「旦那さまっ」
「わあ、びっくりした……おい、なんだい? どうしたんだい? かみさん、押しいれからとびだしたりして……このあついのに、汗びっしょりじゃあねえか……どうしたい?」
「旦那さま……鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を、九郎判官義経」
「えっ、義経? ……うーん、じゃあ、弁慶にしておけ」
船徳
落語にでてくる若旦那というものは、親孝行でみんなの模範になってるなんてえ人物はおりません。道楽をしつくしたあげくに勘当されて、出入りの船宿の二階で居候《いそうろう》なんてえことになります。
「えー、おはようございます。若旦那、あなた、一日こうやって二階でぶらぶらしていたんじゃあ退屈でござんしょう」
「おや、親方かい。べつに退屈なんかしないね。この窓をあけて下をみていると、通るのはみんな男か女のどっちかだがね。たまにゃあ変わったやつが通らねえかとそれをたのしみにしてるから退屈なんかしやしない」
「のんきなことをいってちゃいけませんよ。あっしはね、いつまでもあなたをお世話してるのはかまわねえんですが、それじゃあ、あなたのためによくありません。なんかあなたもお仕事をおやりなさらなけりゃあ、大旦那のお怒りがいつになってもとけませんから……」
「ああ、いろいろと心配をかけたが、あたしも覚悟をきめたよ」
「覚悟をきめなすった?」
「ああ、あたしゃあ、ここのうちの商売になるんだ」
「うちの商売? なんです、それは?」
「きまってるじゃないか、船頭さ」
「じょうだんいっちゃいけませんよ。あなたは一口に船頭とおっしゃいますがね、なまやさしい仕事じゃありませんぜ」
「なまやさしい仕事じゃないったって、みんながやってることじゃないか。できないことはあるまい」
「そうおっしゃいますがね、夏なんざあ涼しくっていいようですが、さて商売となって沖へでもでて、東北風《ならい》でもくらってごらんなさい。そりゃあおどろきますから……」
「ああ、わかってるよ。だから、あたしゃ覚悟をきめたといったじゃないか」
「あなたがどうしてもなりてえとおっしゃるんなら、あっしはおとめしませんよ。おなんなさい」
「そうかい、それじゃね、店の若い者をここへよんどくれよ。あたしが船頭の仲間いりをしたしるしにね、ここでぱあっと散財をするから……」
「散財をするからって、若旦那、あなた、ふところぐあいはどうなんです?」
「そりゃあもちろんお金はありゃしないから、おまえが、一時たてかえるのさ」
「うふ、あなたのいうことは、どうもだらしがなくっていけねえ」
「ついちゃあね、みんながあたしのことを若旦那、若旦那というだろう。若旦那って船頭はないからさ。みんなとおんなじように、徳なら徳と、名前をよびつけにしてもらいたいとおもうんだが……」
「そんなことはどうでもようがすがね、いまともかくも、ここへ若えやつらをよびよせましょう……おい、お松、お松」
「はーい」
「河岸《かし》へいってな、おれが用があるからって、若えやつらをよんでこい。あいつら、またぐずぐずしてるといけねえから、すぐくるように、そういいなよ」
「はーい……熊さん、八つあん、熊ん八つあん!!」
「なんでえ、よせやい、熊ん八だってやがら、まとめてよぶない。なんか用かい?」
「親方がよんでるよ。みんなに叱言《こごと》いうんだって、こわい顔してるよ」
「わかったよ。すぐいくからって、そういってくんねえ。おい、親方が叱言だってさ」
「うそだよ。お松のいうことなんかあてになるもんか。あんなほらふきはありゃあしねえや。こねえだだってそうだ。おれが河岸でふんどしを洗濯してたんだ。すると、あいつが、燃えだしたあ、燃えだしたっていうんだ。おだやかじゃねえから、おらあとんでったんだ。『どこが燃えだした?』と聞くと、『へっついの下が燃えだした』っていうんじゃねえか。『ばか、いいかげんにしろ』って、河岸へ帰ったら、ふんどしがながれちまってた。それっきり、おらあふんどしをしめねえ」
「きたねえな」
「しかし、親方の叱言ってなんだろう? 留公、おめえなんか心あたりはねえか?」
「はっはっは、どうもすまねえ」
「すまねえって、おれにあやまったってしょうがねえや。なんかあんのかい?」
「よしゃあよかったんだよ。こねえだ、あんまりひまだったから、船を大川までだしたんだ。気が張ってねえときはしかたのねえもんだね、舳先《へさき》を橋ぐいにぶつけちまってね、さきのほうをすこしけずっちまったんだ。すぐに大工《でえく》のほうへまわしときゃあよかったんだが、気がつくめえとおもって、さきのほうを縄でまきつけといたんだが、あれがばれたかな」
「それにちげえねえや。それだよ、きっと……それにしてもおかしいな。みんなに叱言っていうなあ……おい、寅、おめえなんか親方に叱言をいわれるこたあねえか?」
「あはは、どうもしょうがねえ」
「しょうがねえって、なんかあったのかい?」
「十日ばかり前だったが、ちょいと祝儀《しゆうぎ》をもらったもんだからね、いつもごちそう酒ばかりでうまかあねえや。たまには手銭《てせん》で一ペえやりてえとおもってね、それからとなり町のすし屋へいってたらふくやっちゃったんだ。となりの野郎に喧嘩ふっかけてね、徳利三本と皿を四、五枚ぶっかいたんだよ。それを親方どっかで聞いてきたんだろう」
「それだよ。それにちげえねえや。だけど、ここでぐずぐずいってたってしょうがねえや。これからいって、叱言をいわれねえさきにあやまっちまうとしよう。もうこれよりほかに手はねえんだ」
「では、なにぶんたのまあ」
「じゃあついてこい。どうも手数がかかるやつらだ。へい、親方、どうも相すみません」
「みんなこっちへへえれ」
「へい、八も留も寅もみんなこっちへへえれとよ」
「へえらねえほうがいいや。叱言はね、こうやってあたまをさげてりゃあ、上のほうを通っちまうから……」
「あんなことをいってやがら……へえ、親方、どうも相すみません。留の野郎でござんす。あんまりひまだってんでね、船をいたずらしちまやあがったんで……舳先《へさき》を橋ぐいへぶつけて、さきのほうをすこしけずっちゃったてえんです。だから、やったらやったでしょうがねえ、なぜ大工《でえく》のほうへまわしとかねえてんでね、いま叱言をいったとこなんで……気がつくめえなんてんで、縄でまきつけといたなんて、そんな横着《おうちやく》なことをしといちゃいけねえって、いまさんざっぱら叱言をいったとこなんで……へえ、お腹もお立ちでしょうが、きょうのところはひとつごかんべんねげえてえもんで……」
「留、ここへでろっ、なぜてめえはいつもどじなんだ。客があったらどうするんだ? なぜ大工のほうへまわしとかねえんだ。てめえはそういうばかだ。ろくなことをしやがらねえ。いつやったんだ? おらあ、ちっとも知らなかった」
「えっ、おい、親方は知らねえんじゃねえか」
「知らねえたって……そうだろうとおもったから、さきにいってあやまったんじゃねえか……ええ、親方、寅の野郎でござんす。祝儀をもらったもんですから、いつもごちそう酒ばかりでうまくねえから、たまには手銭で一ペえやりてえてんで、となり町のすし屋へいってたらふくやって、となりの客に喧嘩ふっかけて、徳利三本と皿を四、五枚ぶっけえたてんですが、それを親方がどっかで聞いてきたんだろうってね……」
「どうもうちにゃあろくな野郎はいねえな。どうしててめえたちはそうなんだ。飲んで喧嘩なんぞすりゃあ、うちののれんにかかわるじゃねえか。おい、寅、なんてばかなんだ。てめえってやつは……いつやったんだ? ちっとも知らなかった」
「えっ? ……おいっ、こんなおしゃべりはねえな。親方は、なんにも知らねえんじゃねえか。てめえばかりがいい子になりやがって、親方の知らねえことを、みんないいつけちまったじゃねえか」
「だって、おらあ、てっきりそうだろうとおもったからいっちまったんだ」
「まあいいやな。ぐずぐずいったってしかたがねえや。これから気をつけろ。そんなこって呼んだんじゃねえんだ」
「へえ、どんなご用なんで?」
「ここにいらっしゃる若旦那なんだが、きょうから、おめえたちとおんなじようにな、船頭になりてえとおっしゃるんだ。できるか、できねえか、とにかくめんどうみてやってくんねえ」
「えっ、若旦那が船頭に? おい、聞いたかよ、そうじゃねえかとおもってたね。なにしろ、こないだうちから、船いたずらしてましたからね。若旦那、おなんなさいよ。ありがとうござんす。あなたが船頭になってくださりゃあ、あっしどもだって肩身が広《ひれ》えや。それにあなたなんざあ柄《がら》がいいや、おつなこしれえで櫓《ろ》へつかまって、裏河岸のひとまわりでもまわってごらんなさい。芝居にでてきそうな船頭ができるね。いいえ、ほんとう……柳橋の芸者衆がほっとかないよ。『ちょいとみてごらんよ。なんてまあすっきりした……まるで役者衆みたいな船頭さんだわ』てんで……ようっ、音羽屋!!」
「ばかっ、てめえたちがそんなことをいうから、若旦那がよけいにのぼせて船頭になりたがるんじゃねえか。ともかく、若旦那てえ船頭はねえからな、まあ、みんなとおんなじように、徳、徳とよびつけにしてもらいてえとこうおっしゃるんだ」
「よう、はなしはそうこなくっちゃいけねえや。そりゃあ、たしかに仲間になりゃあ、若旦那てえのはよびにくいやな。そりゃあ、やっぱり名前をよびつけにしなくっちゃあ……え? なんだよ? なんだってんだよ? なんだと? それができねえだと? どうして?」
「きのうまで祝儀をもらってた若旦那じゃねえか。船頭になったからって、急によびつけにできるもんか」
「なにいってやんでえ。そんなこといってたら若旦那だってこまりなさらあ……あっしはよびつけにしますぜ。え? やってみろ? いまですかい? いまねえ……そうですか、ええ、よびつけにしますけれどもね……いえ、できねえことはねえけれど……やい、やい、やい、やいってんだ」
「なんだ、それは?」
「いえ、あっしだって恩人をよびつけにするんですから、やい、やいってんで景気づけをしなくっちゃあ……では、若旦那、はじめますよ。ええ、やい、やい、やいってんでござんす」
「なにいってるんだ」
「むずかしくって、どうも……これがずっとはなれてたらすぐにできるんだが……おーい、おーい、へっへっへ……いまやるよ。ほんとうに。おーい、へへへへ、徳やーいてんで、ごめんなさい」
「あれ、あやまってやがらあ」
とうとう若旦那は船頭になりました。
四万六千日、お暑いさかりでございます。なにしろ、浅草の観音さまに、この日一日おまいりをすれば、四万六千日おまいりしただけのご利益《りやく》があるというので、たいへんなにぎわいでございます。
「あついね、おまいりもいいがね、このほこりをあびていくのがいやだね。きょうはこうしようじゃねえか。柳橋に大桝《だいます》てえ船宿があるんだが、あそこへいって船でいこうじゃねえか」
「いやだよ。おまえさんは酔うとすぐに船に乗りたがるけれど、あたしゃ船はきらいなんだから……船はうごくだろ」
「うごかない船じゃしょうがねえじゃねえか。きょうは、まあ、あたしにおまかせよ。あたしがついてるから大丈夫だよ……こんちわ」
「おや、いらっしゃいまし。まあよくいらっしゃいました。お竹や、おしぼりをふたつ持っといで……まあ、おあついじゃございませんか。ここんとこあんまりおいでがないから、どうなすったかとお案じ申しておりました。おつれさま、どうぞおはいりあそばして……まあ、六千日さまで、おまいりに……そうでございますか……ねえ、旦那、先日の妓《こ》がね、もういっぺんあなたにお目にかかりたいと、わざわざたずねてきましたの……いえ、ほんとなんですよ」
「おいおい、おかみ、あたしは、友だちといっしょなんだよ。くだらないことはいわねえでもらいてえな。あの……さっそくだが、船を一|艘《そう》仕立ててもらいてえんだが……」
「まあ、ありがとう存じますけれど、なにしろ、きょうは六千日さまで、お船がみんな出払っておりますんで、お気の毒さまでございました」
「そいつあまずいね。友だちがいやがるのをむりにつれてきたんだから、それじゃあ、あたしの立ち場がないじゃねえか。あっ、そういえば、おかみ、河岸に一艘もやってあったぜ」
「あら、ごらんになったのですか。お船はございますんですが、お役に立つ若いものがおりませんので……」
「そいつあまずいねえ。なんとかしておくれよ。そこがなじみじゃねえか……おいおい、おかみ、うそいっちゃいやだよ。そこにいせいのよさそうな若え衆が居眠りしてるじゃねえか。あっ、そうか、船が一艘あって、若え衆がいるところをみると、こりゃあお約束だね。いや、手間はとらせない。あっちへやってもらったら、すぐに帰すから、ちょいと、そのう、若え衆を貸しておくれよ。いいだろう? ねえ、おい、若え衆、若え衆」
「へっ、ただいまっ……あっ、あーあ……あっ、お客さまだ。へっ、いらっしゃいまし」
「若え衆、お約束なんだろ? そこんとこをすまねえが、大桟橋《おおさんばし》までやってもらいてえんだ。すぐ帰すよ。ね、いいだろ?」
「へっ、ありがとう存じます。ただいますぐにまいりますから……」
「徳さん、おなじみのお客さまですからね。もし途中でまちがいでもあるといけませんからね」
「へえ、おかみさん大丈夫ですよ。やらしてくださいよ。近ごろじゃあね、腕がもうビュウビュウうなってますから、この前みたいにひっくりかえすようなことはござんせん」
「おい、おい」
「え?」
「えじゃないよ。あの男のいうことを聞いたかい?」
「なにが?」
「なにがって、近ごろじゃあ、腕がビュウビュウうなってます。この前みたいにひっくりかえすことはござんせんてえ……じゃあ、前にはひっくりかえしたんじゃねえか」
「大丈夫だよ。この若え衆はね、寝てるとこをおこされたもんだから、ねぼけて、そんなおかしなことをいってるんだよ。おかみ、大丈夫だね」
「ええ、そりゃあ大丈夫でございます」
「さあ、さあ、はやくおいでよ。さあ、手をとってあげるから……大丈夫だよ。そこは、すこししなったって……ほうら、どっこいしょのしょっ……どうだい、いい心持ちだろう?」
「いい心持ちだろうって、まだ、いま乗ったばかりで、船はうごいちゃいねえじゃねえか……どうも、さっき若え衆がいったことが気になるなあ」
「気にすることはないよ。おまえさんは、船はきらいだ、きらいだっていうけれど、これから蔵前通りをあるいていってごらんよ。もうほこりをあびてしょうがないじゃねえか。そこへいくと、船はほこりをあびないだけでもいいよ。水の上をすーっといく気分なんてじつにいいもんだから……どうでもいいけど、若え衆はどうしたんだい? あついからすぐだしてもらいてえんだが……はばかりへでもはいってるんじゃねえかい? おかみ、お手数でもみてきておくれよ……ねえ、もうちょっとの辛抱だよ。これで船がでれば、涼しいしさ、船てえものはおなかがすくから、むこうへいって酒はうまいし、食いものはうまいし、きっとおまえも好きになるよ……おかみ、どうしたい、船頭は? えっ、はばかりにいない? なにしてるんだろう? みかけはいせいがよさそうだったが、いやにぐずじゃねえか。あっ、あんなとこからでてきやがった。どうした、若え衆、たいそうおそいじゃねえか」
「へえ、相すみません。ちょいと髭《ひげ》が生えておりましたんで、床屋へいってあたってきましたもんですから……」
「おい、おい、聞いたかい、色っぽいね、どうも……客を待たして髭をあたってるやつもねえもんじゃねえか」
「へい、相すみません。そのかわりいせいをつけまして、はちまきをいたしまして……」
「なんだ、てめえのあたまじゃねえか。どうとも勝手にするがいいや」
「へい、では船をだしますから……よう、いよう……」
「徳さん、徳さん、腰を張ってね」
「へえ、よう、いよう!」
「おい、おい、若え衆、なにをうなってるんだよ。いくらうなったってでるわけはねえじゃねえか。船はまだつないであるじゃねえか」
「へっ? あっ、どうも相すみません。あわてたもんですから、なんとも申しわけござんせん……では、こう縄をときまして……よう……へい、でました」
「あたりめえじゃねえか。まあ、文句はいったものの、若い船頭はいいね。なんといってもきれいごとだ。船頭の年よりはいけませんよ。腕はいいったって痛々《いたいた》しいよ。水っぱななんかたらしてね。もう若いのにかぎるよ……どうだい、いい気持ちだろう、え、いい気持ちだろうよ」
「おまえは好きだから、そうやってよろこんでるけども、あたしゃあんまり好きじゃないからべつにうれしかあないよ。しかし、まあ、これくらいのゆれかたならがまんどこだろう」
「はりあいのねえ男だな。もっとよろこべよ……おい、若え衆、竿は三年、櫓《ろ》は三月ぐらいのことは心得てるよ。いつまでもその竿を突っ張ってねえで、いいかげん櫓とかわったらどうなんだい?」
「へっ、ここんとこをでますあいだ、もうふたつばかり、えーしょ、えい……え、こんちはご参詣でいらっしゃいますか。お日がらもよろしくて……」
「おい、若え衆、あいさつなんかどうでもいいよ。おいっ、船がまわるよ」
「へえ、ここんとこは、いつも三度ずつまわることになってまして……」
「おい、三度まわるとこだってよろこんでちゃあいけませんよ。おい、どうなるんだ」
「ああ、立っちゃいけませんよ。立っちゃあぶないですから……いよっ、よいしょ、よいしょ……おまいりもたいへんでござんすね、こうあつくっちゃあ……もし、そちらのふとった旦那、あなた、もうすこしこっちへきてくださいよ。ふとってて、さきのほうへいかれたんじゃ、梶がとりにくくってしょうがねえ。しろうとは、なんにも知らねえからこまっちまうな」
「おい、若え衆、おい、おい、船がゆれるよ。おい、ゆれかたがひどいよ」
「へえ、ここんとこは、いつもよくゆれることになってまして……」
「おい、またかい、ゆれることになってましてなんてよろこんでちゃこまるな……おい、おい、若え衆、この船てえものは、ばかにまた端《はじ》へよるね。まん中へでねえじゃねえか。おい、石垣へくっつきそうだよ」
「へえ、この船は、まことに石垣が好きでござんして……」
「かにみてえな船だな。おい、おい、ほんとに石垣へくっつくよ。あー……とうとうくっついたよ。くっつきましたよ」
「へっ、くっつきました」
「おい、くっつきましたってよろこんでちゃこまるな。どうなるんだ?」
「どうなるんだって、あなたがた、さっきからそこで文句ばかりいってますがね、船なんてものは、なかなか自由になるもんじゃあありませんよ。うそだとおもったら、ここでやってごらんなさい。そのこうもり傘を持ってる旦那、ちょいと石垣を突いてください。はずみで船がでることになっていますから……」
「こんなに用の多い船てえのはないね。突くのかい? このこうもり傘で? よし、突くよ……そーれ、よいしょ……おいおい、おいおい、いけねえ、いけねえ、石垣のあいだにこうもり傘がはさまったまま船がでちゃったじゃねえか」
「手をのばしてとってください」
「手をのばすったって、とどかないじゃねえか。もういっぺん、あすこへやっとくれよ」
「へえ、もう、はなれたらおあきらめなすってください。もう二度とあすこへはもどれません」
「なんだい、とれねえのかい? あすこに傘がみえててとれないなんてのは情けねえはなしだ」
「いいじゃねえか、おまえ、傘の一本や二本、いのちにはかえられねえや。どうせあれは福引きであたったんじゃねえか」
「福引きであたったっておれの物《もん》じゃねえか……だめかい? とれねえのかい? 人間、どこで損をするかわからねえや。情けねえねどうも……ま、しかたがねえや……どうだい、船の乗り心地は? ぐあいはどうだい?」
「ぐあいどころじゃないよ。運動になるったってなりすぎますよ。のべつにおじぎばかりしてるじゃねえか」
「おじぎばかりしてるっていうけど、おまえばかりがおじぎしてるんじゃないよ。あたしだってしてるじゃないか。おたがいに失礼がなくっていいや。これなら、むこうへいって食いものがうまいよ。おたがいに腹がすくからね……よくこなれるよ」
「こなれすぎるよ。こんなにゆれちゃあ、胃袋までこなれちまうよ」
「そんないやなことをいうなよ……あたしゃ、ひとつ、たばこが吸いたいてえ心持ちなんだがね、ちょっと火箱をとっとくれ、とっておくれよ」
「うるさいな。おまえはまた、このさなかにたばこなんか吸わなくったっていいじゃないか……さあ、おつけなさい。さあ、おつけなさいよ。あれっ、なにしてるんだよ。あたしがこうだしたときにおつけなさいてえんだよ」
「おつけなさいったって、あたしがこうだすとひっこましちゃうんじゃねえか。どうしておまえさんは意地のわるいことをするんだい? ずいぶん長いつきあいじゃねえか。なにもそんなに薄情なことをしなくったって……だしっぱなしにしといとくれよ」
「だしっぱなしにしろったって……こっちだって、なにもひっこめようとおもってひっこめるわけじゃねえんだから……ひとりでにひっこんじまうんだからしかたがねえや。どうしてもつけたいとおもったらね、おまえさん、手をのばしたらいいだろう」
「じゃあ、手をのばすよ。いいかい、ほら、ほら、いよっ、いよーっと……あ、ついた、ついた。たばこを吸うんでもたいへんなさわぎだよ……おい、おいおいっ、この船はどうなってるんだい? おいおい若え衆、ながれてるよ。船がながれてるよ、どうなってるんだい?」
「どうなってるってねえ……お客さん、あなたがたにうかがいますが、泳ぎ、知ってますか?」
「いやだよ、おい、そんなもの知らないよ」
「知らない? ……じゃあ、水天宮さまのお札持ってますか?」
「そんなもの持ってないよ。どうなるんだい?」
「なにしろね、目に汗がはいっちゃって、さきがみえねえもんですから……むこうから大きな船がきたら、よけてくださいよ」
「おい、なにをいってるんだい、あたしたちゃあ船へ乗ってるんだよ。船頭じゃないよ」
なんといっても、しろうとみたいな船頭ですからたまりません。
「おい、まいっちゃったよ、この船頭」
「まいっちゃったじゃないよ。あたしゃ、こんな船へ乗ったことがねえ。三年ばかり寿命をちぢめちゃったよ。おどろいたね、だいいち桟橋《さんばし》へつかねえじゃねえか」
「おい、若え衆、しっかりしとくれよ。もうひとっ丁場だよ。あすこへみえてるじゃねえか。おい、若え衆、もうひとっ丁場だよ」
「へえ、へえ……もうだめなんで……」
「おい、もういかないんだよ。船頭がまいっちゃったんだから……」
「いかないったってしょうがねえじゃねえか、どうするんだい?」
「どうするったって、こうなりゃあ、もうしょうがねえから、水のなかへはいっていくんだよ」
「おい、じょうだんいっちゃあいけないよ。だから、あたしが、いやだ、いやだてえものを、むりやり乗せたからじゃないか。おまえさん、あたしをおぶっとくれ」
「だけど、ねえ、ここは浅いんだよ。下がみえてるじゃないか……まあ、いいよ。おぶってやるよ。あたしがすすめて乗せたもんだから……さあ、尻をはしょって、下駄を持って、わすれものはないかい? では、あたしの背なかにしっかりとおぶさるんだよ。いいかい……大きな尻《けつ》だね。おまえてえものは、男のくせにずいぶん大きいね……いいかい、ちゃんとつかまってないとひっくりかえっちゃうよ。さあ、さあ、いくからね、しっかりつかまってるんだよ……おいおい深いよ。それに下がぬるぬるしてて、いやにすべるよ……おい、若え衆、おれたちはあがるけどね、おい、若え衆、まっ青な顔してるけど、いいかなあ、おーい、若え衆、しっかりしろよ。大丈夫かーい」
「へっ……へっ……お客さん、おあがりになりましたらねえ……船頭をひとりやとってくださいまし」
道灌《どうかん》
「ご隠居《いんきよ》さん、こんちわ」
「おや、八つあんかい。さあ、こっちへおいで。なにかい、きょうは、やすみかい?」
「へえ、朝っから、へんてこれんな天気になりやしたからね、やすんじめえやした」
「ああそうかい。それじゃあ、ゆっくりあそんでおいで。お茶でもいれよう。さいわい、よそからあまいものをもらったから……」
「おやおや、あめえもんかい」
「はてね、おまえ、あまいものは、いけないのかい?」
「ええ、あめえもんとくると、まるっきり意気地《いくじ》がねえんでね、金つばなんぞは、十八も食おうもんなら、げんなりしちまうんで……」
「あきれたねえ、この人は……だれだって、そんなに食べれば、げんなりするよ。失礼ながら、きょうのお菓子は上等なものだよ。というわけが、到来物《とうらいもの》だ」
「ああ、葬式《とむれえ》の菓子かい?」
「そうじゃあないよ。もらいものだ」
「そうだろうねえ。もらいものでもなくっちゃあ、上等の菓子なんかあるめえからねえ」
「よけいなことをいいなさんなよ」
「でもね、ご隠居、ひさしくこねえあいだに、でえぶ、うちの模様がかわりましたねえ」
「すこしばかり手いれをしたよ」
「りっぱになったねえ。前とは、みちがえるようだ。まるでご殿《てん》のようですね」
「いや、これは、おそれいったな。まるで、ご殿のようだとは……」
「まったくさ、すっかりりっぱになっちまった。こうなってみると、ご隠居、おまえさんがいるのがむだだ」
「それがよけいなわる口というのだよ」
「なんですい、ここにあるさかさ屏風《びようぶ》は?」
「さかさ屏風ってやつがあるかい、さかさ屏風ってえのは、人が死んだときに立てるんじゃないか。よくごらん、これは、衝立《ついたて》というものだ」
「ははあ、月のはじめだね」
「なにが?」
「いえ、ついたちだって……」
「なにをいってるんだ。衝立だよ」
「いろんな絵がはってありますねえ」
「ああ」
「ここに、戦《いくさ》をしているところの絵がありますね」
「それは三方《みかた》が原《はら》の戦いだ」
「だれとだれのいくさです?」
「武田信玄と徳川家康とがいくさをした」
「へえー、で、どうなりました?」
「武田|方《がた》は、五万有余の大軍で押しよせたが、徳川勢は、三千の小勢でいさましくたたかった」
「へーえ、てえしたもんですねえ」
「なにしろ、徳川方では、酒井、榊原《さかきばら》、井伊、本多なんていう名代《なだい》の四天王がはたらいたからなあ」
「へーえ、その四人が強かったんですか……で、武田方には、その四天王てえやつは、いなかったんですか?」
「いたとも……土屋、内藤、馬場、山県《やまがた》……まあ、こんなぐあいに、むかしの大将には、みな四天王というものがあったな」
「だれにでも?」
「ああ……源頼朝《みなもとのよりとも》の四天王が、佐々木、梶原《かじわら》、千葉、三浦、義経の四天王が、亀井、片岡、伊勢、駿河」
「神戸、大阪、京、名古屋……」
「なんだい、それは?」
「東海道線の四天王で……」
「ふざけちゃいけないよ」
「しじみ、はまぐり、ばか、はしら……」
「なんだい?」
「貝類の四天王さ……それに、日比谷、浅草、芝、上野とくりゃあ、公園の四天王だ」
「そんなのがあるかい」
「競馬、パチンコ、囲碁、マージャンとくりゃあ、道楽の四天王……」
「もうおよしよ。ばかばかしい」
「こっちの絵には、また、ばかにいい女がいますが、こりゃあ、なんですい?」
「それは、小野の小町だ」
「ああ、この女ですか、小野の小町てえなあ、てえそういい女だったそうですねえ」
「いい男をみれば、業平《なりひら》というし、いい女をみれば、小町のようだという。絶世の美女だったな」
「雨の日にぬれてあるいたんですかねえ」
「なにが?」
「いいえ、びしょだって……」
「びしょではない。美女、美しい女だ。わるい女は醜女《しゆうじよ》、こわい女は鬼女《きじよ》」
「ひげのはえたのをどじょう」
「まぜっかえすなよ」
「だがねえ、ご隠居さん、そんないい女なら、くどいた男も多かったでしょうねえ」
「まあな」
「どうです、小町君、これから銀座へ散歩にでかけませんかなんて……」
「そんなばかな……」
「きっと経師屋《きようじや》の半公だよ、そんなきざなことをするのは……」
「なにをいってるんだい……多くの公家《くげ》のなかで、深草の少将という人が、とくに思いをかけた」
「へーえ、どうしましたい?」
「小町のいうには、男心と秋の空、変りやすいというから、わたしのもとへ百夜《ももよ》通ってくだされば、ご返事をしようといった」
「ももよてなあ、なんです?」
「百の夜と書いて、百夜《ももよ》というな」
「ははあ、すると、五十夜と書いて、みかん夜か」
「なにをいってるんだ」
「どうしましたい?」
「恋に上下の差別はない。深草の少将ともあるべき身が、風のふく晩も、雨のふる夜も、やすむことなく、せっせと通った」
「で、どうしました?」
「九十九夜目の晩に、大雪のために凍《こご》えて、ついに思いをとげなかった」
「やれやれ、しょうしょうふかくなひとだ」
「しゃれるなよ」
「だがね、ご隠居さん、おれんとこのじいさんなんぞはね、一晩のうちに十三度通って相果《あいは》てたよ」
「女のところへか?」
「なーに、便所へさ」
「ばかだね、どうも……」
「小町は色恋、じいさんは下肥《しもごえ》……こいに上下のへだてはねえや」
「つまらないことをいうなよ」
「もし、ご隠居さん、こっちの絵はなんです?」
「どれだい?」
「ちょろちょろ流れの川のあるところへ、椎《しい》たけがあおりをくらったような帽子をかぶって、虎の皮のももひきはいて突っ立ってるやつがいてさ、こっちに、あらい髪の女が、お盆の上に、なんか黄色いものをのっけて、おじぎをしてるじゃあありませんか」
「なんという絵の見かたをするんだよ……椎たけがあおりをくらった帽子ってのがあるもんか。それは騎射笠というもんだ。虎の皮のももひきではない。それは、むかばき」
「へーえ」
「女の髪は、下《さ》げ髪といって、あらい髪じゃあない。お盆の上の黄色いのは、山吹《やまぶき》の花だ」
「で、だれなんです?」
「そのかたは、われわれ江戸っ子の先祖ともいうべき太田|持資《もちすけ》、のちに入道をして道灌《どうかん》という人だ」
「なんの絵です、これは?」
「治《ち》にいて乱《らん》をわすれず、足ならしのために、田端の里へ狩りくらにおでかけになった」
「狩りくらって、なんです?」
「鷹野だ」
「たかのって、なんです?」
「野馳《のが》けだよ」
「ああ、うすあかるくなるやつだ」
「それは、夜あけだよ……つまり、山のなかへ鳥やけものをとりにいったんだ」
「なるほど」
「すると、にわかの村雨《むらさめ》だ」
「へーえ、そうですかねえ。どうもてえしたもんだ」
「べつに、たいしたもんじゃあないさ。たかが村雨だもの……」
「そうですねえ、そういやあ、そうだ。べつにてえしたもんじゃあねえや。たかがむらさめですものねえ。あははは、たかがむらさめだ。むらさめなんてくだらねえや。むらさめ、むらさめ……ええ、むらさめ? むらさめって、なんです?」
「なーんだ。おまえ、わかんないで笑ってるやつがあるか。村雨というのは雨だ」
「なーんだ、雨かい、雨なら雨だといってくれりゃあ、わかるじゃあねえか。むらさめだなんて、英語をつかうからわからねえや」
「英語じゃあないよ。にわか雨のことをこういうんだ。ところが、道灌公、雨具の用意がないから、おこまりになった。かたわらをみると、そこに、一軒のあばら家があった」
「そんなところへ油屋《あぶらや》なんぞをだしたって商売になりますまいがね……」
「油屋ではない。あばら家、つまり、こわれかかったそまつな家だ」
「へーえ、じゃあ、丈夫で、きれいな家は、背骨家か」
「そんなのがあるもんか。雨具を借用したいとおとずれると、なかから、二八《にはち》あまりのしずの女《め》がでてきた」
「家が古いもんだから、巣をつくってやがったんだねえ、そいつあ……」
「なにが?」
「すずめがでてきたんでしょう?」
「すずめじゃない。しずの女、つまり、いやしい女さ」
「ははあ、焼きいもをかじりながら……」
「そのいやしいんじゃあないよ。まあ、身なりのいやしい女だ」
「すると、ご隠居さんとこのおばあさんなんぞ、かなりのしずの女だね」
「口のわるいやつだな……顔を赤らめて、乙女が、盆の上へ山吹の枝を手折《たお》って、『おはずかしゅうございます』といって、道灌公にさしだした絵だ」
「なるほど、いなか娘で気がきかねえんだね。殿さまが、雨具を貸してくれってへえってきたんでしょ? それを山吹なんかだして、これで雨をはらって帰れなんて知恵しかでねえんじゃあはずかしいや。それよりも、蓮《はす》の葉か、いもの葉でもかぶらしてやったらいいじゃあねえか」
「おまえにわからないのももっともだよ。道灌公は、文武両道に通じていたおかただが、この乙女のだしたなぞがとけない。ぼうぜんとしておられると、ご家来の豊島|刑部《ぎようぶ》という人が、父親が歌人なので、道灌公よりもさきに、このなぞがとけた。そこで、ご前《ぜん》へすすみでて、『おそれながら申しあげます。兼明《かねあきら》親王の古歌に、七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき、というのがございますが、山吹というものは、花の咲いて、実のならぬもの、実と蓑《みの》とをかけて、お貸ししたいが、蓑《みの》がございませんということわりの意味でございましょう』と申し上げた。すると、道灌公は、小膝を打たれ、『ああ、余は、まだ歌道に暗いのう』とおっしゃって、そのまま、ご帰城になった」
「へーえ、そうかねえ。まあ、早えはなしが、道灌公が、そのいなか娘にへこまされたってわけだ」
「そうだよ」
「だけど、なんです? そのかどうに暗いてえのは?」
「歌の道に暗い。つまり、乙女のだした歌のなぞがわからなかったことだ」
「へーえ、そうですか。それから、いちばんあとのごきじょうてえなあ、なんです?」
「お城へ帰った」
「うしろへけえった? ははあ、坂道かなんかで、うしろへひっくりけえったんだな。あぶねえな、どうも……」
「うしろへ帰ったじゃあない。自分のお城へお帰りになったんだ」
「その人、城なんか持ってたんですか?」
「ああ、持っていたとも……千代田のお城、あれが道灌公のお城だ」
「あっしゃあ、うちのおやじに聞いたんですが、徳川さまのお城だったそうじゃありませんか」
「道灌公のお城だったが、のちに、徳川さまのお城になったんだ」
「ああ、そうか。道灌公から徳川さまへはなしをもちかけたんだな。『これ、どうかんならねえか』『いえやすなら買おう』かなんか……」
「おかしなしゃれをいうなよ」
「それから、どうなりました?」
「いっしょうけんめいに歌を勉強なすって、日本一の歌人になったなあ」
「へーえ、日本一の火事たあ、すげえことになったもんだ。むかしのことで、ろくなポンプがねえから、よく燃えたでしょうねえ」
「火事じゃない。歌《うた》びとだ」
「ああ、かきまわすとくせえやつ」
「それは、ぬかみそだよ。歌《うた》びと、つまり、歌をよむ人だ」
「ああそうですか……なんでしたっけねえ、その雨具のねえっていうことわりの歌は?」
「べつに雨具がないとことわる歌ではないが……七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」
「そうそう、それだ。それじゃあ、どうでしょう、月末になって、今月は、勘定がはらえねえっていうことわりの歌はありませんか?」
「そんな歌があるもんか」
「すみませんがねえ、ご隠居、その七重八重の歌をね、仮名《かな》で書いてくださいな」
「どうするんだい?」
「雨のふったときにね、よく友だちがくるんですよ。ところが、傘でも下駄でも貸してやると、それっきり持ってきたためしがありませんからね、こんどっから、傘なんか借りにきやがったら、その歌でことわっちまおうとおもうんで……」
「そうかい、書けといえば、書いてあげるが、おまえの友だちに、歌なんかわかるかい?」
「わかんねえったってかまいません。とにかく、それをみせてことわっちまいますから……」
「では書こう……さあ、書いたよ」
「なるほど……えーと……ななへやへ……なんだかくせえような感じだなあ」
「七|重《え》八|重《え》じゃあないか」
「ああ、そうか……はなはさけとも……」
「だめだな、そんな読みかたをしちゃあ、にごりをつけるところはちゃんとつけて……七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき……わかったかい?」
「わかりました。ありがとうございます。それじゃあ、あっしは、これで帰ります」
「まあ、いいじゃないか。ゆっくりしておいでよ」
「いいえ、雲行きがあやしくなってきましたから、いそいで帰ります。さようなら……あれ、あれ、もうぽつぽつやってきたぜ。はやく帰って、傘借りにきたやつにこの歌をつかわなくっちゃあ……さあ、いそいで、いそいで……おっと、てえへんだ。うちへへえったとたんに大村雨ときた。いそいで帰ってきてよかったよ。へたあすりゃあ、こっちが道灌になるところだった。いやあ、すごくふってきたもんだ。あっ、通る、通る、いろんな道灌が通るな。みんなおもてを馳《か》けだしてやがらあ。だれも傘を持ってねえところをみると、天気予報がはずれたな。あれっ、まっ白な脛《すね》をだして色っぽい年増《としま》の道灌だ。きれいな道灌じゃねえか。あっ、犬の道灌がいやがる。あっちの豆腐屋道灌なんて、あんまり駆けると豆腐がこわれるじゃあねえかなあ。やあ、やあ、子どもの道灌、巡査の道灌……いろんな道灌がいるもんだなあ……これだけ道灌がいるんだから、うちにもこねえかなあ、せっかく書いてもらったのに、むだになっちゃうじゃあねえか」
「ごめんよ」
「おうっ、きたな、道灌、待ってたぞ」
「すまねえ。借りものがあるんだ」
「わかってるよ。おめえの借りにきたものは先刻ご承知だ。雨具を借りにきたんだろ?」
「いや、今朝《けさ》、うちをでかけるときにね、朝焼けしてあぶねえとおもったから、雨具は持ってでたんだが、急に用事ができちまって、帰りがおそくなっちまったから、ちょうちんを貸してくれ」
「ちょうちんを貸せ? おかしな道灌がとびこんできやがったなあ、この場ちがい道灌め!」
「なにいってんだな、はやくちょうちんを貸してくれよ」
「そんなことをいわねえで、雨具を貸してくれといえ」
「だから、雨具は持ってるんだよ」
「持っててもいいから、おれのたのみだ。雨具を貸せといえよ。そうすりゃあ、ちょうちんを貸してやるから……」
「なんだかわけがわかんねえが、じゃあ雨具を貸してくれ」
「よう、待ってました……おはずかしゅうございます」
「おう、よせよ。気でも触《ふ》れたんじゃあねえか。そんな女みてえなまねをして……」
「だまってろい、こっちは、しずの女なんだ……さあ、これを読め」
「なんだい、こりゃあ、ななへやへ……」
「なんてえ読みかたをしてるんだ。しろうとはしょうがねえな……いいか、よく聞いてろよ。七重八重花は咲けども山伏の味噌|一樽《ひとたる》に鍋《なべ》と釜《かま》しき……どうだ、わかったか?」
「なんだ、こりゃあ、おめえのかんげえた勝手道具の都都逸《どどいつ》か?」
「どどいつ? おめえ、これを知らねえところをみると、よっぽど歌道に暗《くれ》えな」
「ああ、角が暗えから、ちょうちんを借りにきた」
庖丁
「おいおい、そこへいくのは、辰んべえじゃねえか? おい」
「えっ? なーんだ。留さんか」
「しばらくじゃねえか」
「ほんとうだ。かれこれ二年ぐれえになるかな」
「そうさなあ、そんなになるかな?」
「ところでおめえ、ばかにりゅうとしたなりをしてるじゃねえか」
「うふふふ、まあ、それほどのこともねえがな」
「どうしたんだい? なにかうめえもうけ口でもあったのか?」
「いや、なに……もうけ口てえことはねえんだが、まあ、はっきりいやあ、ちょいとした年増《としま》に惚《ほ》れられたのよ」
「はっきりいやあがったな。逢うそうそうのろけかい……こいつあおどろいた」
「えへへ、まあちょいと聞いてくんねえ。うちの近所に、渋皮《しぶかわ》のむけた清元の師匠がいてね、そいつが、おれにトーンときたやつだ」
「いいかげんにしろよ。そうのべつのろけられたんじゃあ、とてもしらふじゃあつきあいきれねえや。どうだい、ぱい一てなことにねげえてえじゃねえか」
「それじゃあ、ちょいとそこの鳥屋へでもはいろうか」
「いいね。ねがいてえね」
「それじゃあはいろうじゃねえか……おう、ごめんよ」
「いらっしゃいまし」
「ふたりなんだが、すこうしはなしをしてえんだ。どっか部屋はねえかい? 奥があいてるって? そうかい。それじゃあ奥にしてと……うん、なべにしよう……それから酒をな……ああ、ふたりともいける口だ。早えとこたのむぜ……ああ、この部屋かい。こりゃあいいや、しずかで……さあ、立ったままじゃはなしにくいやな」
「まあ、そうさせてもらうか。なにしろ、こちとらあ、このところ座敷へ坐って、一ぱいやるなんてことは、さらになしなんだからなあ……そこへいくと、おめえはいい身分だ」
「まあ、そりゃあ、そうなんだがな……あ、ねえさん、酒は、そこへおいといてくれ……鍋のほうも自分たちでやるから、まあ、かまわねえでくんねえな……ああ、いいんだ。いいんだ。ちょいとこれからこみいったはなしがあるから……さ、まあ、一ぱいいこう」
「そうかい、それじゃあ、いただくとしようか……おっとっとっと……うん、こりゃあいい酒だ……いいさけの温泉(飯坂の温泉)なんてしゃれもでねえ身分だったんだからな、このところ……」
「まあ、ぐっとあけてくれ……さあ、ぐっと……」
「うん、ありがとう……ところで、そのちょいとこみいったはなしてえやつを聞こうじゃねえか。なんだい? それは?」
「うん、じつはな……おれは、いま、ちょっとした年増のところにいるんだが……」
「それはわかってるよ。だから、そうやっておかいこぐるみでいるんだろう」
「それはそうなんだがな……そこにちょいとわけありで……まあ、ぐっとあけてくれ、ぐっと……鳥も煮えてきたようだぜ。やってくんねえ……」
「ありがとう。遠慮なくいただくが、そのわけありてえのはなんだい?」
「いや、じつは、その……いいにくいんだが……その年増のほかに……また、若え女がわきへできちまったんだ」
「えっ? 若え女がわきへ? ……こいつあおどろいた。両手に花かい? こりゃあ、たまらねえ。まいったね、どうも……人間、運がつきはじめると、どこまでいくかわからねえや。で、どうなんだい?」
「それでな、いま、いっしょにいる年増のほうは、すこうしばかりあきがきたところへ若え女だ……まあ、早えはなしが乗りかえてえというわけだ」
「ぜいたくなはなしだな、どうも……こちとらなんか、年増どころか、女っ気さらになし、めすねこ一ぴき近よりゃあしねえぜ……まあ、そんなことはいいとして、おれは、いったいどんなことをすりゃあいいんだ?」
「うん、ひと口でいやあ、間男《まおとこ》のまねごとをしてもらいてえんだ」
「間男のまねごとを? ……どんなふうに?」
「ここのうちをでて、かれこれ一丁ばかりいくと、右側にたばこ屋があらあ、そのかどをまがって三軒目、清元|延寿美《のぶすみ》てえうちがあるんだ。そこが、おれのいまいるうちだ」
「うん、うん」
「そこへいって、おめえが、『むかし、留|兄《あに》いに世話になった者で、兄いが、こちらにいると聞いてうかがいました』かなんかいってたずねていってくれ……『留守だから、あとできてくれ』やなんかいったって、かまうこたあねえから、上へあがっちまうんだ」
「で、どうするんだ?」
「どうせ気のきかねえ女だから、酒なんかだす気づけえはねえ……だから、兄いへみやげだかなんかいって、一升持ってってくれ。もちろん、おれが買おう……湯飲みかなんか、大きなもので、なるべくずうずうしく飲んでいてくれ。さかなはなんにもねえけれど、ねずみいらずの右のほうをあけると、つくだ煮がへえってらあ……あっ、それから、台所のあげ板の左から三ばんめをあけると、ぬかみそがつかってるから、そいつをだして、まあ、一ぱいやっててくんねえ」
「しかし、いかになんでも、はじめてのうちで……」
「いいんだよ。そこが芝居だあな……たっぷり礼のほうははずむから……」
「そうかい……で、酒を飲んでどうするんだい?」
「そうさな、飲みながら世間ばなしかなんかしてるうちに、かかあにちょっかいをだすんだ」
「えっ、いいのかい? そんなことをして……」
「ああ、なるべく色っぽく持ちかけてくれ……そうさな、あいつの袖をひいて、こう抱きついたりしてみるんだな」
「えっ、そんなことまでするのかい? いやだな、どうも……」
「そんなこといわねえで……ここで、ぐっと飲んでさ、そのいきおいでやってくれよ……で、おめえが、あいつに抱きついたところへおれがとびこんで、おこって出刃庖丁をつきつけらあ」
「こりゃあ、ますますおかしな役まわりだな……で、どうするんだい?」
「すると、おれが、かかあにどならあ、『よくも亭主の留守にこんなことをしゃあがったな』って……それを聞いて、おめえがおもてへ逃げちまう。あとで、あいつをおどかして、信州かどこかの宿場女郎にたたき売って、できたぜにを山わけにするというんだが、どうだい、こんな筋《すじ》書きは?」
「いやあ、こりゃあおどろいた。おめえも相当な悪《わる》だな」
「まあ、そういいなさんな。これも、色と欲とのふたりづれさ。しっかりやってくれよ」
「では、こいつをぐっとあけて、そろそろとりかかるか」
すっかり相談がまとまりまして、近所の酒屋で一升ぶらさげてでかけた男が、
「えーと、清元延寿美と……ああ、ここだ、ここだ……どうもいい役じゃねえからな。気がひけてならねえ……ええ、ごめんください。ごめんください」
「はい、いらっしゃいまし……あの……どなたさまで?」
「ええ、その……はじめてお目にかかります。じつは、あっしゃあ、こちらの留兄いに、そのむかし、お世話になった辰んべえっていうけちな野郎でござんして……兄いが、こちらにいるということをわきで聞いたもんで、ちょいと逢いてえと、まあ、こんなわけでござんして……」
「あら、それは失礼をいたしましたね。じつは、いま、あいにく留守なんでございますよ」
「ええ、そうでござんす。留守で……いや、その……お留守でも、ちょいと待たせていただいてとおもいやして……その……この酒は、ちょいとした手みやげがわりといっちゃあなんですが……兄いにあげていただきてえんで……」
「あら、すみませんね。そんな気をつかっていただいて……」
「いいえ、どうせそっちのぜにで買ったもの……いや、それほどぜにはかかっちゃいねえんで……すこうし待たしていただきてえんで……」
「さあさあ、どうぞおあがりになって……」
「では、遠慮なくあがらせていただいて……え、どうぞ、もうおかまいなく……へえ、いい女だね。こんないい女にあきて、別口をほかにみつけるなんざあ、とんだぜいたくというもんだ」
「えっ、なんでございます?」
「いえ、なに……その……こっちのことで……その……待ってるあいだに、たいへんあつかましいんでござんすが、一ぺえいただきてえんでござんすが……どうも……」
「あら、そうですか。では、さっそくお燗《かん》をおつけして……それに、なにかおさかなを……」
「いえ、お燗もさかなもいらねえんで……こちとらあ、冷やをやりつけてますんで……」
「そうですか。では、せめてお酌《しやく》でもさせていただいて……」
「えへへへ、こりゃあすみません。お酌ってやつは、やっぱり女の子じゃなくっちゃいけませんや。へえ、どうも……」
「あら、いやですよ。女の子だなんて……おばあさんをつかまえて、からかってはいけませんよ」
「いいえ、とんでもねえ。おばあさんだなんて……こんなきれいな人にお酌をしてもらうと、いちだんと酒の味がひきたちます。いえ、まったく、ほんと……えへへへ……さあ、あねさんもおひとついかがで……あっしがお酌をいたしましょう」
「いいえ、だめなんですよ。まるっきりいただけないんで……」
「まあ、そんなことをいわねえで、あっしがお酌をするんですから……どうかひとつうけてくださいな」
「いいえ、ほんとにお酒はだめなんですから……いえ、遠慮でなく、ほんとにだめなんで……」
「まあ、そうおっしゃらず、こうして、あっしが手を持ちそえて……おや、これはやわらかなすべすべしたお手で……」
「およしくださいましよ。ごじょうだんは……」
「えへへへ、これは失礼をいたしました。では、てまえひとりでいただくとして……やっぱり、なにかつまむものがないとうまくねえというやつで……いえね、さかなってほどのものはいらねえんですが、ちょいと、塩っ気があるといいんだが……つくだ煮かなんかありゃあいいんですけど……そうだ、つくだ煮をだしましょう。このねずみいらずをあけて……」
「あらっ、まあ、そこにつくだ煮がはいってることをよく知ってて……」
「えへへへ、なに……その……つくだ煮なんてものは、まあ、ねずみいらずにへえってるもんですから……えへへへ……うん、ちょいといけますねえ。このつくだ煮……うん、これで酒の味もひきたつってえもんだ……どうです、つくだ煮で一ぱいやりませんか?」
「さっきも申しました通り、あたくしはほんとうにいただけないんですから……」
「そんなことをいわねえで……せめて半分でも……いや、茶わんに口をつけるだけでも……さあ、やっておくんなさいな」
「あのう、まったくだめなんでございますから……」
「そんな愛嬌のねえことをいわねえで……ねえ、ちょいと、なめてみるぐれえのことを……ねえ、ほんとにいい酒なんだから……」
「いいえ、ご遠慮を申しあげるわけじゃあないんですの……」
「ねえ、たのむから、ちょいとやってくださいよ。ねえ、ちょいとやって……」
「いいえ、あたくし、きらいなんですから……きらいです! お酒なんか……」
「へえ、こりゃどうも……きらいです! とつっぱなされちまったんじゃあ、どうにもしかたがねえ……まあ、ひとりでやりますけれど……そうだな、このへんで、おいしいお香物《こうこ》かなんかあるといいんですが、ありませんかねえ」
「そんなものありませんよ」
「そんなことはねえでしょ。ぬかみその中には、なにかはいっていましょう……じゃあ、あっしがだしましょう。台所のあげ板の左から三ばんめをあけりゃあいいんだから……」
「あらっ、この人は、うちのようすをよく知ってて、気味のわるい……まあ、ずうずうしい。お香物を切ったりして……」
「えへへへ、どうもこのお香物はうめえや。ねえ、ぬかみそがうめえのは、そこのうちのかみさんのあそこの味もいいなんてよくいいますがねえ……へへへへ……ああ、いい心持ちだ……」
「まあ、なんて失礼なことを……いいかげんにしてくださいよ」
「えへへへ……しかし、どうもいい女がおこった顔てえものはよござんすね……やっぱり、きりょうのいいのは一徳で……ちょいとこのきれいなお手を……」
「およしなさいよ! なんですか。ひとの手なんかにぎって……ふざけるのもいいかげんにしてくださいよ」
「いや、そうしておこったところは、こりゃあ、ますますおきれいだ。では、この胸のあたりをちくんと……ふふふふ」
「なにするんですよ!」
「なにするんですよって……あなた……都都逸《どどいつ》の文句にもあるじゃありませんか。 いま逢ってすぐに惚れたがどうしてわるい思案してなら惚れはせぬ……なんて……あーこらこら……頬っぺにチュー」
「なにをするんだい!」
「おう、いてえ。こりゃあいてえ。なにもそんなになぐらなくったって……」
「なにいってるんだい。おふざけでないよ。人をばかにして……うちの人の友だちだとおもえばこそがまんしてりゃあいい気になって……まっ昼間《ぴるま》からなんだい。ほんとにもう……おまえなんか、自分の顔を鏡でみたことがあるのかい? ぶたが夕立ちにあったようなつらあして……」
「なんだと……ぶたが夕立ちにあったつらだと……なにぬかしゃあがる……そんなことまでいわれて……あーあ、ばかばかしい。おらあやめるぜ。こんなことは……」
「あたりまえだよ。いいかげんにおやめ」
「おやめったって、これは、もともとおめえの亭主にたのまれた仕事なんだぜ」
「いいかげんなことをおいいでないよ。どこに自分の女房にちょっかいをだすことをたのむ亭主がいるもんか」
「ところがいるんだ。おめえの亭主てえものは、ひでえやつだ。若え女がわきにできたんで、おめえがじゃまだからと、おれにおめえをくどかせといて、そこへあばれこんで、おめえに難くせつけて、信州あたりの宿場女郎にたたき売ろうってえつもりなんだぞ」
「えっ、それはほんとうなのかい?」
「ほんとうにもなんにも、いままでとなり町の鳥屋で一ぱいやりながら、筋書きをちゃんときめてきたんだあな。うそだとおもうなら、自分の亭主をしめあげてみねえ。さもなけりゃあ、いくらなんでも、はじめてきて、兄貴の女房をくどくなんてやつがあるもんか。こりゃあ、みんなおめえの亭主の指《さ》し金《がね》さ」
「まあ、くやしい! なんてえやつなんだろう。まるはだかのすかんぴんで、人にさんざん厄介かけといて、いまさらほかに女ができたからって、こともあろうに、あたしをたたき売ろうなんて……」
「そのおかげで、こっちは片棒かつがされたわけなんだ。ばかばかしいったらありゃあしねえ。おまけにあたままでなぐられりゃあ世話あねえや」
「ごめんなさいな。そんなこととは知らないから、おまえさんをひどい目にあわしちゃって……しかし、くやしいねえ……このまんま、ただだまってひっこんだんじゃあ……そうだ。ちょいと辰つあん、おまえさん、こんどは、あたしの片棒かついでおくれでないか?」
「えっ……こりゃあ、いそがしくなってきやがったな……どっちかっていえば、あっしゃあ、男のいうことよりも、女のいうことをきくたちなんで……おめえさんみてえないい女のいうことなら、なんでも聞きやしょう」
「あら、うれしいねえ。では、おねがいだから、あいつがきたら、あたしといっしょになって、あいつをたたきだしておくれでないか?」
「ええ、そりゃあようがすがね……で、どうなるんで?」
「いえさ、なんでもいいから、あたしがあいつに恥をかかせるから、おまえさんも、『そうだ。そうだ』と口ぞえしてくれればいいの……」
「へえ、へえ……」
「それで、あいつをたたきだしたら……あんまり現金のようで恥ずかしいけれど……おまえさん、あたしを女房にしておくれでないか?」
「えっ、おめえさんを女房に? ……そりゃあ、まあ、ありがとうござんすがね……なにしろ、あっしのつらは、ぶたが夕立ちにあったというひどいつらだって……」
「ごめんなさい……ほんとうにすみませんでしたね。とんでもないことをいっちまって……だって、さっきまでは、事情もわからず、ただ、おまえさんが、あんまりあつかましくふざけちらすもんだから……ねえ……それよりも、あたしを女房にしてくれるのは、おいやなの?」
「いいえ、めっそうもねえ。もうねがったりかなったり……ひっくりけえったり、寝ころんだりというんで……」
「うれしい! じゃあ、あいつがきたら、どうしてもたたきだしちまうから、よろしくたのみますよ。まったくわるいやつなんだから、あいつは……」
「そうだ。まったくわるいやつだ。あの野郎は……」
どっちがわるいんだか、わけがわからない。
「さあ、辰つあん、こっちへいらっしゃい。きげんなおしに、まあ一ぱいやっておくんなさいな。ちょうど湯豆腐のしたくもできたし、お刺身もあるの……さあ、お酌するから……」
「えへへへ、こんどは、なぐられる心配なしに飲めるんでありがてえや……あらためてさわらせてもらうけれど、おめえさんの手てえものは、なんてすべすべでやわらけえんだろう……おまけに雪みてえにまっ白で……うふふふ」
「あら、くすぐったいよう。そんなになでまわしちゃあ……まあ、そんなにぎゅーっと抱いちゃあ苦しいじゃないか」
もういい時刻《とき》だろうってんで、留がおもてからのぞいて、
「うふっ、やってやがる……やってやがるはいいけれど、すこうし芝居がすぎるじゃあねえか……あんなにぎゅーっと抱いたりして……また、かかあのやつもいい気になって抱かれてるこたあねえじゃねえか……よっぽど野郎の持っていきかたがうめえんだな……うん、たいした役者だ……しかし、これくらいやってくれると、おれもおどし甲斐があるというもんだ……さあ、この出刃庖丁がぐっとものをいうてえやつだ……さあ、おすみ! このあま! とんでもねえやつだ。亭主の留守にそんなまねしやがって……」
「あははは、留兄いか。だめだめ、いっさいおとりあげなし……もう手おくれ……そんなぎくりばったりのいなか芝居はむだだからおよしよ」
「なにがむだだ。さあ、もうかんべんできねえ。辰も辰だが、おすみ、おめえというものは……」
「なにをわめいているんだい。おふざけでないよ。かんべんできないのは、おまえのほうじゃないか。ネタはもうあがっているんだよ……人にさんざん世話になっておきながら、ほかに女ができたからって、よくもその恩人のあたしを、たたき売るなんてえことをかんがえついたもんだね」
「そりゃあ、おめえ……それには、またわけが……」
「なにいってんだい。わけもなにもありゃあしないよ。おまえなんか、その好きな女のところへでも、どこへでもいっちまえばいいんだ。おまえさんの持ってきたものといえば、ふんどし一本じゃあないか。足もとのあかるいうちに、さっさとでておいでよ!」
「しかし、いかになんでも着のみ着のままじゃあ……」
「なにいってるんだい。着物なんか、みんなあたしがつくってやったもんじゃないか。なんなら、いま着てるのもぬいでくかい?」
「おい、じょうだんじゃねえ。辰や、おめえ、なんとかいってくんねえな」
「へへへへ、そうさな、おめえも、まあ、いってみりゃあ、ここのうちの世話になってた男だ。その世話主のおすみさんが、もうでていけってんだから、こりゃあ、どうにもしようがねえやな、あきらめな。ものごと、あきらめがかんじんだぜ」
「そんなばかな……あきらめろったって……」
「まあ、これも因縁《いんねん》だとおもって、めでたく成仏《じようぶつ》しねえ……なむあみだぶ、なむあみだぶ……」
「なにがなむあみだぶだ」
「えーい、いつまでぐずぐずいってんのさ。でておいでといったら、さっさとでておいでよ! さあ、はやくきえておしまい! はやくきえちまえってば……」
「きえろ、きえろったって、幽霊じゃねえやい! いけばいいんだろう。ああ、いくよ」
「はやくいっちまえ、この薄情野郎! ……ああ、やっといっちまった……よかった。これでさっぱりしたよ……もうあいつもいなくなったことだし、辰つあん、おまえさん、ほんとにあたしをかわいがっておくれよ。浮気なんかしちゃあいやだよ」
「ああ、浮気なんかするもんか。こんないい女房がいるってえのに……まあとにかく、一ぺえついでくんねえな」
「あいよ」
と、ふたりで仲よくやっていると、おもての格子《こうし》があいて、留がもどってきました。
「おい、さっきの出刃庖丁をだせ。出刃庖丁を……」
「あら、またもどってきたよ。ずうずうしい……出刃庖丁をだせとはなにさ?」
「ははあ、わかった。たたきだされたのを根にもって、出刃庖丁をふりかざして、手切れ金でもとろうってんだろう」
「そうじゃあねえや」
「そうじゃあねえ? じゃあ、出刃庖丁をどうしようってんだ?」
「おもての魚屋へかえしにいくんだ」
不動坊《ふどうぼう》
悋気《りんき》は女のつつしむところと、むかしからよく申しますが、やきもちというものは、色情ばかりにかぎらず、男でも女でも、すべてものを妬《ねた》むという者が世間にはいくらもあります。
若い男と女が、闇の夜に、こそこそと立ちばなしをしているので、岡やき連中が、水をぶっかけたら、兄妹で引っ越しの相談の最中だったなんてえはなしがございます。まことに、やきもちというものはしかたのないもので……
「さあ、吉さん、こっちへおはいり」
「へえ、ただいまはおつかいをいただきまして……ええ、どうもごぶさたをいたしまして申しわけございません」
「いや、ごぶさたはおたがいさまだよ。まあまあ、職人などは、ごぶさたをするくらいなら、かならず仕事がいそがしい。まあ、まことに結構だ。おまえにかぎって、店賃《たなちん》をためたこともなし、人間はおとなしいし、わたしは、おまえにはたいへん惚《ほ》れてるんだよ」
「へえ、ありがとう存じます」
「おまえ、いくつになったっけなあ? うんうん、二十七か、なるほど、二十七という年齢《とし》になってひとりでいたら、ずいぶん不自由だろう。ついては、すこしおまえに相談がある。いやだといえばそれまでのはなしだが、どうだい、女房を持つ気はないか?」
「へえへえ、どうもありがとうございます」
「おれが世話をしようじゃあないか」
「へへへ、どうも貧乏でございますから、だれもくる者なんかございますまい」
「ばかなことをいいなさんな。世間はひろい。こないどころじゃあない。女のほうで、あの人ならばという者があるんだ。おまえのほうでさえよければ……」
「へへへ、そんな女があるはずはありません」
「あるんだよ。顔をみれば、おまえだってよく知ってる女だ」
「へーえ、だれだろう? 洗たく屋のばあさんですか?」
「そんなもんじゃあないよ。あのばあさんは七十三じゃないか。もっとぐっと若いんだ」
「すると、たばこ屋のおさんどんで?」
「そんなんじゃあないよ。たしかおまえよりも二つ三つ年齢《とし》が上かも知れないが……」
「そのくらいのほうが、貧乏世帯を張ってゆくにはよろしゅうございます。どんな女でもかまいませんが、わたしどもへきてくれるような者があるんなら、じつは、もらいたいもんで……」
「それについて、当人が、『名前をいってくれるな。もし、はなしがまとまらなければきまりがわるい』というんだ。おまえのほうの心がきまれば、おれがはなしをつけてやる。相手は、女もよし、人間も堅い」
「へえー」
「じつは、『亭主がなくなってから、ずっと後家を通してきたが、なにしろ居食いだから、いくらか持っていた小金《こがね》もなくなっちまうし、着物も売るというようなわけで、どうにも心細いから、いっそ世帯道具をあずけて奉公しよう』というんだけれど、まだ老い朽《く》ちる年齢《とし》でもなし、それも気の毒だとおもって、だれかいないかとおもううちに、おまえのはなしがでて、『あの人ならば……』とむこうでいうんだ」
「へえー、まあどんな女でもかまいません。とにかく、あっしどものところへきてくれるんなら……」
「それじゃあ、おまえにもらう気があるようだからいうが、その女というのは、じつは、長屋の不動坊《ふどうぼう》のかみさんのお梅さんだ」
「え? お梅さん? だって……大家さん、じょうだんいっちゃあいけませんよ。お梅さんには、不動坊|火焔《かえん》という講釈師の亭主があるじゃあありませんか」
「さあ、そこだ」
「え? どこです?」
「なんだい、そのへんをさがすなよ。まあ、お聞き……じつはな、あの不動坊は、旅まわりをしているうちに、先月、旅先で急になくなっちまったんだ」
「え? 死んだ? あの不動坊が? そりゃあ、いよいよ運がむいてきた」
「なんだい?」
「いいえね、じつは、お梅さんは、三年前から、あっしの女房なんで……」
「え? なにかあったのかい? 三年前から……」
「いえ、なんにもありゃあしません。ただ、お梅さんが、この長屋へ越してきたときに一目みて、あっしはぶるぶるとふるえました。ああ、こんないい女が世のなかにいるだろうか。それからというものは、寝ては夢、起きては現《うつつ》、まぼろしの、水にうつりし月の影、手にとれざると知りながら、しっぽりと、ぬれてみたいが人のつね、恋は思案の帆かけ舟……」
「どっかで聞いたような文句だな」
「へえ、もうそれからというものは、家にいても、天井をみても、障子《しようじ》をみても、お梅さんのすがたが目に浮かびます。仕事にでても、お梅さんのすがたばかり浮かんでどうにもなりません。これではおれはどうしようもない……ああ、どうしたらいいだろうと、いろいろとなやんだあげく、お梅さんは、じつは、おれの女房だときめました」
「ふーん」
「おれの女房なんだが、一時、不動坊のところへ奉公にだしたんだ、とそうおもいました。その奉公さきの主人が死んだんだから、お梅さんが、亭主のあっしのところへもどってくるのはあたりまえでしょう?」
「なんだか、よくわかったような、わからないようなりくつだなあ。しかし、まあ、おまえが、それほどの気持ちでいるんなら、こりゃあちょうどよかった」
「へえ、では、お梅さんは、あっしの女房になってくれるんで……うふふふ……」
「まあ、そうなることはなるんだがな、じつは、不動坊も芸人のことでな、つきあい負けというやつだ……で、五十円という借金がある。それをお梅さんがかえさなけりゃあならない。世帯道具には、なかなか気のきいたものもあるんだが、いざ売るとなれば二束三文《にそくさんもん》。買うとすれば、道具から着物をひっくるめて、百円ぐらいのものはあるとおもう。ところで、お梅さんが、『どうしたらいいでしょう』と相談にきたんだが、いろいろとかんがえたんだが、こりゃあ、お梅さんに亭主を持たせたほうがいいとおもいついた。さて、そうなってみると、この長屋にずいぶんひとり者もいるが、みたところ、おまえがいちばんいいと気がついた。人間も堅いし、はたらき者だし、小金もあるし、そこでだ、おまえが、お梅さんの借金をかえしてやって、ひとつ、お梅さんをもらってくれるというわけにはいかないかい? どうだい?」
「どうだいも、こうだいもないもんで……お梅さんが女房になってくれるんなら、借金ぐらい屁《へ》のかっぱでさあ。さっそくおねがいします」
「そうかい。そりゃあよかった。では、すぐにお梅さんにもはなしをしよう」
「ええ、ありがとうござんす。で、今夜からお梅さんが、あっしのうちへきてくれるんで?」
「そんなにはやくはどうかな?」
「そんなこといわねえで……じらせるない。けちんぼ!」
「こりゃあ、ごあいさつだな。なにもじらせるわけではないが、いくらなんでもあまりはやすぎるよ」
「いいえ、そんなことはかまわねえんで……おもい立ったが吉日っていいますからねえ」
「そうかい……そんなにいうんなら、今晩さっそくつれてくるか。じゃあ、こういうのはどうだい?」
「へえ、そうねがいます」
「まだなんにもいってないよ」
「道理でなんだかわからない」
「掛けあいだな、どうも……では、今晩はひとつ輿入《こしい》れということにしてな、婚礼は、またあらためてやることにしよう。どうだ、輿入れてえのは?」
「腰入れ? それだけですか? 上のほうも、みんなひっくるめて入れてくださいな」
「ばかだな、なにいってんだよ……人間の切りはなしができるかよ。では、むこうへいって、はなしをつけて、今晩、お梅さんをつれてくるからな。おまえも、そのしたくをしとくんだぞ」
「へえ、そりゃあ、どうもありがとうございます……しかし、大家もたまには役に立つんだな。ありがてえ、ありがてえ。お梅さんみてえないい女を女房にしたら、おれは、もう夢中になってはたらくよ……だいいち、くたびれて帰ってきたって、あんないい女が家にいれば、つかれがなおるね。『お梅さん、ただいま帰りました』……お梅さんはもったいねえなあ、お梅さま、お梅どの、お梅のかたさま……それじゃあ芝居だよ……すると、お梅さんは、おれのことをなんてよぶかな? 『おまえさん』……それとも、『あなた、あな! あなたあ!!』」
「えっ、なんだい?」
「なにもよびやしないよ。となりののり屋のばばあ、耳が遠いくせ、こんなことだけ聞こえやがって、なにかいってやがる。気分がこわれちまうじゃねえか……今夜、お梅さんがきてくれると、おれのうちで寝るんだよ。寝るったって、べつべつに寝るわけじゃあねえや。夫婦になったんだから……うふふふ……その、ひとつ夜着で……うふふふ……きゃあ! たまらねえ……あっ、そうだ。それには、花婿が汗くせえなんぞはいけねえや。湯へいって、ひとつみがきをかけてくるかな。そうしよう、そうしよう。へへへ、ありがてえ、ありがてえ……おっと、こりゃあいけねえ。鉄びん持ってでちゃった。なんだい、こりゃあ……鉄びんなんか持って、湯へいったってしょうがねえや………うれしいんで、ついとちっちまうんだ。やっぱり手ぬぐいを持っていくのがあたりめえだ……おっと……ありゃ、またいけねえや、あいてる戸をしめちまった。これじゃあでられやしねえ。なにやってんだい、われながらあきれたね、どうも……やっと湯屋へ着いた。ああ、たいへんだった……へい、どうもこんちわ……」
「いらっしゃいまし」
「やあ、おやじさん、どうもおめでとうござんす」
「へ? おめでたい? なにが?」
「なにがだなんて、とぼけて、ずるいぞ」
「べつにとぼけてやしませんが、なにかおめでたいことがありましたか?」
「そうだよ。おめでたいのはおれんとこだ。じつはね、あっしんとこへ、今晩、嫁さんがくるんで……どうもおめでとう」
「なんだい、おまえさんのほうがおめでたいのかい。しかし、そりゃあよかった。あらためて、おめでとうございます」
「へへへへ、ありがとうござんす……どうも、こんなにうれしいことはありゃあしねえや……なにしろ、おやじさん、いい女でね、おまえさんとこのばあさんとくらべたら、まるで天女だね。弁天さまだね……」
「こりゃあ、ごあいさつだね……まあ、そんなこといって、はだかのままでいると、かぜをひきますよ。はやくおはいんなさい」
「よしよし、はいるとしよう。あっ、まだふんどしをしていた。これをこうとって……ぽいと……あっ、いけねえ。ふんどしをほうっちまった。なかの人がかぶっちまったよ。すみません、ねえ、そこの人、かんべんしてください。しかし、あなたのあたまに、そうやって白いふんどしがかかったところは、舟に帆が張ったようだ。 この浦舟に帆をあげて……と、すべてあたしを祝ってくれてるようだ」
「ばかっ、人のあたまにふんどしなんかかぶせて、なにが帆をあげてだ」
「どうもすみません……まあ、かんべんしてくださいよ。あっしゃあうれしくって、ついとちっちまって……あっしも湯ぶねにいれてくださいな……そうだ。ちょっとうかがいますが、あなた、おかみさんある?」
「おや、変な調子になりゃあがったな。かみさんぐらいいるよ」
「そのかみさん、仲人《なこうど》があってもらったか、それともくっつきあいですか?」
「へんなことを聞くない。仲人があってもらったよ」
「うそいってらあ。あの女はいい女だって、借金をはらってやってもらったんだろう」
「ばかなこというない」
「しかし、なんですね。あなたの前ですけど、あなたは、今晩、嫁がくるなんて日はどんな気持ちがしましたか?」
「そうさなあ、どんな気持ちって聞かれるとこまるが、なんだかうれしくってたまらなかったなあ」
「そうでしょう。あっしもうれしくって、もうたまらなくなって……あなた、あんまりうれしくって、手ぬぐいとまちがえて、鉄びんさげておもてへでた?」
「あれっ、また変な調子になりゃあがった。鉄びんなんかさげてでないよ」
「うふふふ、あたしゃあ鉄びんさげてでちゃった。うふふふ……」
「おい、よせよ。気持ちのわるい笑いかたするねえ……気持ちがわるくって、こんなところへはいっちゃあいられねえや」
「あれっ、でちまいやがった。きっと、うちへ嫁がくるってんで、やきもちやいてるんだよ。いやなやつだなあ、どうも……それはそうと、お梅さんがきたら、なんていってやろうかな……そうだ。こういってやろう。『ねえ、お梅さん、あなた、なんであたしのとこへきたんです?』っていってやろう。すると、お梅さんが『あら、どうしてそんなことをお聞きになるの?』とふしぎがるから、『いえなきゃあいってあげましょうか? そのわけというのは、借金をかえすためなんでしょう? べつにあたしが好きできたわけではありますまい? 金が仇のなんとやら……ねえ、金のためなんでしょう』と、すこし意地わるくぐっとつっこんで聞いてやろうかな。いい女をちょっといじめるなんてぞくぞくするからな……そうすると、お梅さんが、じいっとあたしの顔をみて、うらめしそうな目をするね。『あたしをそんな女だとおおもいになって?』なんていったかとおもうと、目から涙がぱらぱらっとこぼれて、この涙がまたあつーい涙で……あつーい!」
「あれっ、あつい、あついっていってるぞ。おい、番頭さん、この人、あついそうだぞ。うめてやれよ」
「すると、お梅さんがまたいうね。『あなたはなんということをおっしゃいますか。あなたにそんなふうにおもわれているのなら、あたしはうまりません。ほんとうにうまりません。ああうまらない……』」
「おーい、番頭さん、まだうまらないとよ、気の毒に……はやくうめてやれよ」
「そういわれると、おれがいうね。『じゃあお梅さん、あなたは、ほんとうにあっしが好きできてくれたんですかい? ほんとうですかい?』そうくどく聞くと、お梅さんがいうね。『あら、そんなにあたしのきたことがうたがわしいっていうんですの。こんなにあたしはあなたのことが好きなのに……まったく水くさい人……なんてまあ水くさい。ああ水くさい!』」
「なんだい、水くさいってわめいてるぜ。番頭さん、水をうめすぎゃあしねえかい」
「『そんなにお梅さんに好かれてるとは、ありがたいね』……しかし、まだ、おれがいろいろと聞いてみるね。いわゆる女の気をひくてえやつだ……『だけど、お梅さん、そんなことをいってるけれど、あなたは、長屋にいるひとり者連中をどうおもってるんです? あのいかけ屋の鉄造なんかどうです?』……すると、お梅さんがいうね。『まあ、鉄つあんですか。あんな人、名前のとおり鉄みたいに色がまっ黒で、顔のうらおもてもはっきりしないでいやじゃありませんか』『なるほど……では、あのチンドン屋の金さんはどうなんです?』『あら、いやですわ。あんなうそばっかりついてる人なんて……あのひとのことを、みんながほら金、ちゃら金なんていってるじゃありませんか』『えへへへ、みんなかたなしだね、どうも……』……こうなると、おれがもうひと息問いつめるね。『じゃあ、あのすきがえし屋の留さんはどうおもいます?』『あら、留さん、いやねえ、あんな人。商売がすきがえし屋だけあって、ちり紙に目鼻みたいな顔をしてて、ほんとにいやらしいったらありゃあしない』『そうすると、長屋のひとり者連中はまるっきりだめで、あっしだけを好いててくれるんで?』『あたりまえじゃありませんか』『ほんとですか、お梅さん?』『あら、お梅とおっしゃったら……』『そうですか、じゃあ、そうよばしてもらいますぜ……ねえ、お梅』『なーに』『お梅』『なんだいってばさ』『あのな、お梅』『なによう』『なにようって、色っぽい目をするなよ。こうしておまえの肩をだいてるんだ。わかってくれよ』『なにがさ……』『うふふふ、そろそろ寝ようか』ブクブクブクブク……」
「あれっ、あの野郎、湯舟のなかへもぐっちまったぜ」
たいへんなさわぎ……こうなると、おもしろくないのは長屋のひとり者連中で……
「おう、みんなあつまってくれたかい?」
「ああ、だいたいそろったようだが、留さん、はなしってえのはなんだい?」
「うん、ほかでもねえんだがな、あの不動坊火焔だがな」
「ああ、なんでもあいつ、旅まわりしてて死んじまったそうじゃねえか」
「そうなんだ。まあ、そりゃあいいんだが、あのかみさんのお梅さんな……」
「うん、うん、うん」
「あれっ、こいつ、お梅さんと聞いたとたんに目じりをさげて乗りだしたな……おい、がっかりするなよ。あのお梅さんを、でこぼこ大家の野郎が、吉公に世話して夫婦にさせようてんだ」
「えっ、吉公とお梅さんを! あのでこぼこ大家め、でしゃばりゃあがって……そんなふうだから、おれは家賃をはらってやらねえんだ」
「そんなふうじゃねえたって、家賃なんかはらやあしねえじゃねえか……でな、今晩が輿《こし》いれで、お梅さんと吉公がいっしょに住むことになるんだ」
「ちくしょう、ちくしょう、ふざけやがって……くやしいじゃねえか」
「いや、それだけじゃねえんだ。吉公の野郎、湯へいってな、おれたちの悪口をさんざんいったそうだ」
「なんていったんだ?」
「おい、鉄つあん」
「なんだい」
「おめえのことは、名前のとおりまっ黒で、顔のうらおもてがはっきりしねえとよ」
「あの野郎、ふざけたことをいってやがる」
「しかし、鉄つあん、たしかにおめえは、まっ黒で、うらおもてがはっきりしねえぜ……うめえことをいったなあ」
「つまんなく感心するねえ」
「おっと、それから、金さん、おめえは、うそばっかりついて、ほら金の、ちゃら金だって……」
「野郎、ばかにしやがって、とんでもねえ……」
「いや、おめえたちばかりじゃねえ。おれだっていわれたんだぜ」
「そうかい、なんだって?」
「すきかえし屋の留さんは、商売がら、ちり紙に目鼻みたいな顔だって……」
「え? ちり紙に目鼻? ……うふふふ、なるほど、敵ながらあっぱれなことをいやあがったな」
「つまんなく感心するなよ……しかし、こんなことをみんないわれて、おとなしくひきさがっていられるか?」
「そりゃそうだ。ひとつほめてやろうかな……なかなかうめえことをいうって……」
「ばかっ! しっかりしろよ。悪口いわれて、相手をほめてどうするんだ。だいたいくやしいじゃねえか」
「うん、たしかにくやしいや」
「そうだろう。それに、おれもそうだけど、おめえたちだって、不動坊の留守中、お梅さんに助平根性で、ちょっかいだした仲間だろう? いいや、かくしたって知ってるぜ……鉄つあんなんか、よくあすこのうちの鍋や釜をただでなおしていたじゃあねえか。ま、そういうおれだって、ちょくちょくちり紙をはこんじゃあ、ごきげんをうかがっていたんだあな。お梅さんのどこかをふく紙だとおもえば、おらあ、紙になりたかった」
「しまらねえな、いうことが……」
「だからさ、そのお梅さんが、吉公のとこへいくときまっちゃあおもしろくねえや。そこで、ひとつ、せっかくいっしょになったふたりをわかれさせようとおもうんだ」
「わかれさせる? うまくいくかい?」
「ああ、そこに筋《すじ》書きありだ」
「えっ? どんなことをやろうってんだ? おもしろくなってきやがったぞ………ええ、いったいどんなことをやるんだい?」
「だから、あのうちへ不動坊の幽霊をだしてやろうってんだ」
「え? 不動坊の幽霊を? うまくでてくるかい?」
「さあ、そこだ。このうちで、だれかひとり不動坊火焔になるたけ似たやつを幽霊にこしらえなくっちゃあいけねえ」
「なるほど」
「今夜は輿入れで、仲人は宵のうちと、気をきかして、家主夫婦は帰ってしまう。あとはさしむかいで、ぐずぐずしているよりはというので寝てしまうときまってらあ」
「うん、ちくしょうめ、くやしいじゃねえか」
「幽霊は丑満時《うしみつどき》というんだが、それじゃあ、あんまりおそすぎらあ。で、十二時でもすぎたらでていって、屋根へあがるんだ。世帯道具もお梅さんのところからはこんでくるから、ふたりでようやく寝るぐらいの広さしかない」
「ちくしょうめ、いよいよふたりでぴったりとかさねもちという寸法だな」
「そうなんだ……で、まあ、さむいという時分でもねえから、障子をしめて寝やあしねえよ。つまり、台所も座敷も見通しになってらあ。そこへ、引き窓を音のしないようにそーっとあける。なかへそよそよと風がはいる。上から幽霊がどろどろとおりるという趣向だ。それをみて、きゃーとか、すーとかいやあ、もうしめたもんだ……『不動坊火焔の幽霊だ。まだ三年もたたねえうちに嫁にいくとはうらめしい』とかなんとかうらみごとをいう、どんなに度胸のいいやつでも、まあ、びっくりして夫婦わかれということになる」
「なるほど、けれどもばれるといけねえぜ。幽霊というやつは、なかなかうまくいかねえもんだから……」
「それはくらいところだからどうにかなるさ。この人なら不動坊に似てるという人を幽霊にするんだ。なんでも不動坊は背が高かった。このなかで、いちばん背の高いのは、源兵衛さんだ。おめえさんが、いちばん不動坊に似ている」
「じょうだんいっちゃあいけません。わたしは臆病で、幽霊なんか大きらいだ」
「大きらいったって、幽霊をみるんじゃあねえ。自分が幽霊になるんだから、こわいこたあなかろう」
「とんでもない、自分で幽霊なんかになったら、気絶しちまいます」
「おいおい、幽霊に気絶なんかされちまっちゃあこまるじゃないか。そこをひとつがまんしてやってくれないか」
「がまんしてやってくれたって、しろうとがやりそこなったらそれっきりだ」
「うん、しろうとがやりそこなえばというんでおもいだしたが、このさきの乾物屋のうらに、むかし、林家正蔵の弟子だったという男がいる。いまじゃありっぱな職人になって、寄席《よせ》へなんぞでたりしないが、もとやったもんだから、これにいくらか口どめ料をやって幽霊になってもらっちゃあどうだろう? もう五十すぎてるから、不動坊よりもすこし年齢《とし》をとってるけれど……」
「そいつあありがてえな。そんなら商売人だ。おめえさん、心やすいんなら、ひとつはなしてこれへつれてきておくれ」
「そうかい。それじゃあ、さっそくひっぱってくらあ」
わるい相談がまとまりまして、さっそくよんでまいりました。
「おう、きた、きた……まあ、こっちへあがってくんねえ。どうもおまえさん、ごくろうさま。とんだご無理をおねがいして、ごめいわくでござんしょう」
「いいえ、どういたしまして……ただいま、あらましのはなしは聞きましたが、ひさしく幽霊をやりませんから、たまには、またやってみたいとおもっていたところなんで……」
「へーえ、そりゃあよかった。ついては、わけはあらかたお聞きでしょうが、ごくないないのはなしで、そのかわり口どめ料はあげますから……」
「どういたしまして、なにもいりゃあしません。そこで、どこからでたらよろしいんで?」
「まだそのはなしはしませんでしたが、屋根へそっとあがって、引き窓からおりていただきたいんで……」
「なるほど……で、上からつるすひもなんかありますか?」
「お気にはいりますまいが木綿《もめん》の兵児帯《へこおび》の長いやつでしっかりしばって、三人でおろそうという趣向なんで……」
「なるほど、それでよろしゅうございます。ひものほうは、わたしが調子をとります。ただ、つりようがわるいと前へのめりますから……」
「そこで、着物にこまるんですが……」
「衣装はよござんすよ。わたしが持ってきますから……」
「それはありがたいことで……じつは、それがいちばん気になっていたもんですから……」
「ところで、せりふはどういうことになりますんで?」
「そこは、おまえさんのはたらきだ。まあ、はやいはなしが、女房がかたづいたんで、死んだ亭主がうかばれないってんででるんだから、『不動坊火焔の幽霊だ。四十九日もすぎないのに、嫁いりするのはうらめしい』……かなんかいってくれりゃあいいんだが……」
「よろしゅうござんす」
「そこで、いま、胡麻竹《ごまたけ》を買ってきて、そのさきへぼろきれを結《いわ》いつけて、石油かなんかつけて、べらべら火を燃やそうという趣向なんだが、そんなものはいりませんか?」
「大いり名古屋でさあ。それがなければ、くらいところへおりていくんだからみえやしません。ぜひいるんですが、しかし、石油じゃあいけません。だいいち、幽霊がくすぶっちまう。幽霊の燻製《くんせい》はいけませんから……それに、石油だと、火事にでもなるとたいへんです。むかしから幽霊は焼酎火《しようちゆうび》ときまっているが、いまでは、アルコールというものがあります。アルコールを買いにやってください。それをきれにしみこませて火をつけると、火さきがぺらぺらと青くなります。そこがたいせつなんで……」
「なるほど、こりゃあおそれいりました。さすがにご商売人だ。おい、茂吉さん、おめえさん、さっきからだまってすわっているが、おめえさんだって、ずいぶんお梅さんのためにゃあ、茶菓子をはずんでいった仲間じゃあないか。くやしいとおもわないかい?」
「まあ、おもってます。つきあいだから……」
「なんだかはりあいがねえなあ。その火鉢の上のひきだしに五十銭あるから、びんを持ってって、アルコールを買ってきておくれ。たりねえといけねえから、いっぱい買っといでよ。のこればあとでなんにでもなるから……まず、したくはそれだけのことでいいだろう」
「ええ、まだひとついるものがあります」
「なんです?」
「ええ、鳴《な》り物がいるんで……大どろといって、どうしても、このどろどろどろとこないと、幽霊がでにくうございますから……」
「そいつあこまったな。いまもおはなしした通り、こういうないしょ仕事で、鳴り物師をやとってくるというのもぐあいがわるいんだが、そこをひとつ、鳴り物なしということに……」
「へえ、どうも鳴り物なしでは間がぬけましてな。どうしても、どろどろどろとこないとでにくうございますんで……」
「ああ、金さん、おめえさん、チンドン屋だ。商売物をすまないが、太鼓を貸しておくれ」
「ようがす。持ってきましょう」
「ああ、ごくろう、ごくろう。これですっかりそろった」
「そこで、この太鼓は、どういうところでやるんで?」
「なんでも、二、三べん火がぴらぴらときたら、上からわたしがすーっとおりるとたんに、ドロドロドロとやっておくんなさりゃあよろしいんで……」
「なるほど……」
「おめえさん、早のみこみでいけねえが、むこうへいってからだと、口をきくことができねえから、ここでひとつ稽古《けいこ》をしておこう。さあ、いいかい。火の燃えるところだよ。さあ、鳴り物だ」
「チンチンドンドンチンドンドン……」
「おいおい、それじゃあいけねえや。なにもここで大売りだしをやろうってんじゃあねえんだ。ねえ、そうでござんしょう?」
「ええ、それじゃあ幽霊がでにくいんで……ドロドロドロと、うすどろというやつでひとつ……」
「へえ、ドロドロドロ……と、わかりました」
「それじゃあ、わたしは、うちへ帰ってしたくをしてまいります」
「どうかよろしくおねがい申します」
みんなでお茶を飲んで待っているところへ、幽霊のしたくができてまいりました。
「よう、感心、感心、おそれいりましたな。白いものを着て、たいへんにゆきが長いねえ」
「どうも、幽霊の着物は、ゆきが短いと、まことにかっこうがわるうございます。じつは、衣装をだしてみましたら、娘でもつかったとみえまして、袖がありませんから、ほかのやつのをとってつけなおしましたんで、ちっとばかりゆきが長すぎるようですが、もっとも手がすこしでればいいんで、上からつるされれば、これでうまいぐあいにゆきます」
「なるほど、まず幽霊はできたと……そこで、アルコールとマッチをわすれないようにな。いいかい、茂吉さん。それから、鉄つあん、それはわたしがやるから、おめえさんはね、幽霊をつるすほうへかかっておくれ。これがなかなか呼吸がむずかしいからね。さあ、もうそろそろいいだろう。さっき、大家の夫婦は帰っちまった。じゃあ、はしごをかけておくれ……金さん、太鼓をそう胸へつけちまったんじゃあ、はしごにのぼれなかろう」
「なーに、うしろむきであがらあ」
「なるほど、なれてるねえ」
「そこで、幽霊はあがったかい? 年齢《とし》をとってるから、おちるとあぶねえからな」
「なーに、幽霊が目をまわしたら、生きかえっちまうだろう」
「だれだい、つまんねえことをいってるのは? ……しっ、しずかに、しずかに……そーっと引き窓をあけるんだ。いいかい、音のしないようにそーっと持ちあげてからあけるんだよ。ガラガラと音をさしちゃあいけない……おい、鉄つあん、なかのようすをみてごらん」
「よしよし、いかなることになりにけりやと……おっ、おー、こりゃあいけねえ」
「こりゃあいけねえって、どうなってるんだい?」
「どうなってるって、ふたりでしっかりとだきあって……お梅さんの顔の上へ吉公の顔がかぶさって……」
「ばかっ、なにいってんだ。そんなことをさせねえために、みんながこうしてるんじゃあねえか……おいおい、アルコールをこっちへよこせよ」
「へえ」
「おや、口がしてねえや。これじゃあ、気がぬけちまうじゃねえか。なんだかいっぱいはいってるようだが、でてこねえなあ……あれ、どうも変だぜ。さかさにしてもでてこねえぞ。どうなってるんだい? 茂吉さん」
「へえ、さかさにしたくらいじゃあとてもでてきません。箸《はし》かなにかではさみだしたらでるでしょうが……」
「え? アルコールを箸ではさみだすやつがあるかい。いったい、なにを買ってきたんだ?」
「へえ、町内の菓子屋へいきましたら、一銭でふたつで、おまけにあんこがわるうございましたから、となり町までいって買ってきました。そのかわり、おなじ一銭に二つでも、こっちのほうが大きゅうございます。つぶしあんとこしあんと両方買ってきました」
「えっ、なんのはなしだい? いったい、なにを買ってきたんだい?」
「だから、あんころを買ってきたんで……」
「なに、あんころを買ってきた? ばかだな、この人は……アルコールを買いにやったのに、あんころを買ってくるやつがあるかい。あきれかえって、ものがいえやあしねえ。世のなかに、あんころもちをびんづめにするやつがあるかい」
「むこうでもそういってました。『ずいぶん長年菓子屋をやってるけれど、あんころをびんにつめるのははじめてだ』って……」
「ばかだなあ、あんまりばかばかしいや。あんころが燃えるかい」
「そうですなあ、燃えませんけど、そのかわり、たんと食うと胸が焼けます」
「おとしばなしをしてる場合じゃねえや。しかたがねえ。火のほうはぬきだ。どうだい、鉄つあん、なかのようすは?」
「うん、うん、うふふふ……」
「なんだなあ、気持ちのわるい笑いかたをして……」
「だってさ、吉公のやつ、お梅さんの耳ったぶを吸ったかとおもったら、首すじにうつって……あれあれ、こっちの手で、お梅さんの着物の胸のとこをはだけて……わあ、たまらねえ」
「さあ、たいへんだ。ぐずぐずしちゃあいられねえぞ。さあ、さあ、幽霊ははやくおりてくんねえ」
「では、さっそく……」
「それ、いいか、おろすぜ」
「鳴りものだ、鳴りものだよ」ってんで、ドロドロドロと、鳴り物につれて幽霊がすーっとおりてまいりました。
「なんだろう? さっきから屋根がミシミシいって、人声が聞こえるし……あれっ、なにかさがってきやあがった。なんだ、てめえは?」
「うらめしい」
「おや、うらめしいだと……なにをいってやがる。はばかりながら、このおれは、人からうらみをうけるようなおぼえはねえぞ。おい、幽霊、てめえはだれの幽霊だ?」
「不動坊火焔の幽霊」
「なんだと……不動坊の幽霊だと……不動坊がなんで化けてでるんだ?」
「四十九日もすぎないのに、嫁にいくとはうらめしい」
「なにいってやんでえ。ばかだなあ、てめえは……ほんとにあきれかえっちまうじゃあねえか。てめえが意気地がなくって、五十円の借金をのこして死んじまったから、女房がこまっていたんじゃねえか。それで、大家が心配して、再縁させて借金をかえしてもらったら、火焔もうかばれるだろうというんで、大家が仲人をして、おれが借金をかえして、お梅さんを、今夜、嫁にもらったんじゃあねえか」
「そりゃあどうも、とんだことで……」
「なにがとんだことでだ……借金をかえしてやって、うらみごとなんぞいわれてたまるもんか。礼のひとつもいえ」
「へえ、それはどうもありがとうございます」
「なにをいやあがる……これだけわけをはなしたら、文句はあるめえ。それでも、てめえはうかばれねえってんで、宙にまよってるのか?」
「いいえ、とちゅうにぶらさがっております」
近日むすこ
ばかにもいろいろございまして、四十八ばか、百ばかなんてえことを申しますが、これで、ばかは、落語のほうでは、なかなかの大立物でございます。
「おとっつあん、いってきたよ」
「どうだった? 芝居はいつ初日だと書いてあった? おとっつあんは、なによりもたのしみなのは芝居なんだからなあ。いつが初日だ?」
「芝居は、あした開《あ》くぜ」
「うそつけ。きのう千秋楽になったばかりじゃあねえか。きょう一日置いただけで、あした初日のはずがねえ」
「それでも、看板に近日開演と書いてあったぜ」
「ばかっ、近日開演というのは、あした開《あ》くことじゃあねえや」
「おとっつあんは字を知らねえからこまったもんだ」
「なんだ、その字を知らねえというのは?」
「だって、近日てえのは近い日と書くんだぜ。きょうからかぞえてみると、あしたがいちばん近い日だ。だから、あしたが初日じゃねえか」
「この野郎、なまいきなりくつをいうな。近いうちにかならずやりますというときに、おもてへ近日開演とか、近日開店とか書いとくんだ。そんなことを知りもしねえくせに、つまらねえことをいいやがって……ふだんだってそうじゃあねえか。いっぺんでも気のきいたことをしたことがあるか? あたまのはたらくりこうな人間てえものは、人にいわれないうちに、さきにさきにとやっていくもんだ。はやいはなしが、おとっつあんが、きせるにたばこをつめたら、たばこ盆を持ってくるとか、火入れに火をとるとか、えへんといやあ、痰吐《たんは》きを持ってくるとか、いっぺんでも、いわれない前にしたことがあるかよ」
「そんなことならわけなしだ。なんでもさきへさきへと気をはたらかせりゃあいいんだろ?」
「そうだよ」
「今夜寝る前に顔を洗って寝りゃあいいんだな」
「どうして?」
「あしたの朝起きて顔を洗う世話がねえや」
「ばかをいうな。前の晩に顔を洗ってなんになるんだ?」
「さきにさきに気をはたらかせるには、そのくらいにしなくちゃあしょうがねえや……そうだ、これからは、便所へいく前に尻をふこう」
「ばかっ、くだらねえことばかりいいやがって……いいかげんにしろ。このところ陽気のかわり目で、おとっつあんはからだのぐあいがおかしいんだ。そこへもってきて、てめえが腹あたたしたり、じりじりさせたりするもんだから、よくなってきたからだでもわるくなっちまわあ。あーあ、あたまが痛くなってきた。おまえなんぞいたってなんにも役にたたねえんだ。いりゃあいるで、おとっつあんはよけいにからだがわるくなって……あれっ、どこへいくんだ? ふん、叱言《こごと》をいやあふくれっつらあしておもてへとびだしちめえやがって、なんてえ野郎だ。二十いくつにもなりゃあがって、ふつうなら嫁でもさがそうってとしだ。紙芝居がくりゃああわてておもてへとびだしていくし、チンドン屋がくりゃあくっついていっちまやがって、半日も帰ってきやがらねえ。叱言をいやあ、ふくれっつらあしておもてへとびだしちまって、いったいどこへいっちまったんだ? ……おや、こりゃあどうも先生、いつもご厄介になりまして……顔色変えてどちらへいらっしゃるんで?」
「お宅へうかがったんですよ。いま、むすこさんがいらしって、なにか父の容態《ようだい》がかわって、もうあとなん分ももつまいから、すぐにきてくれとこういうわけで、あわててうかがったんで……」
「あたくしが? なん分ももたない? そんなことはありませんよ」
「いや、ご自分で気がつかなくても、はたからみるとかなりわるいことがあります。まあ、とにかくお脈を拝見しましょう……ほほう……」
診察してみますと、むすこがいったほどぐあいがわるくありませんから、医者はふしぎにおもって首をひねりました。これをかげでみていたむすこが、なにをおもったか、おもてへとびだしていきました。
「どうもおいそがしいところをありがとうございまして、ええ、あたくしはもうなんともございません……お手を洗うお湯もとりませんであいすみません……へえ、のちほどご勘定にあがりますけど……どうもお世話さまでございました……ちぇっ、あのばか野郎、人があたまが痛えといったら、あとなん分ももたねえだなんて、縁起でもねえ。あれで気をきかせたつもりなんだからあきれちまわあ」
「ごめんください」
「おやおや、たいそう大きなものをしょいこんできたな……はい、なんですか?」
「わたしは葬儀社のものでございます。このたびは、どうもこちらさまでもとんだことでございました」
「とんだこと? なんです?」
「むすこさんがいらしって、お宅さまでご不幸ができたとかおっしゃいまして……『このごろは、たいがい寝棺《ねかん》だそうだけれど、うちのおとっつあんはむかしのものが好きだから、むかしのような早桶《はやおけ》にしておくれ。それにからだが大きいから、図抜《ずぬ》け大一番《おおいちばん》というやつにしとくれ』と、まあこういうご注文でございまして、どうかお間にあわせたいと存じまして、仲間《なかま》のところを駈《か》けあるきまして、やっとのことでご注文の品がみつかりました。附属《ふぞく》の品もこれにとりそろえてございます。樒《しきみ》が一本、お線香立て、お燈明皿《とうみようざら》、白木のお位牌《いはい》、それから枕《まくら》だんごも用意してまいりました」
「おいおい、じょうだんじゃあねえ。そんなものをならべられちゃあこまるじゃあねえか。縁起でもねえ。おれのうちじゃあ不幸なんかありゃあしねえよ」
「おや、どなたもお亡くなりにならないんですか?」
「だれも死ぬもんか。縁起のわりい。そんな物をここへ置かれちゃあめいわくだ。はやく持って帰ってくれ」
「しかし、旦那、あたしもお宅へ押し売りにきたわけじゃあございません。お宅のむすこさんがご注文にいらしったから、仲間中を駈けあるいてようやくお間にあわせましたようなわけなんで……縁起がよかろうとわるかろうと、ともかくも代金はいただきます」
「それはそうかも知れねえが、早桶の買い置きなんぞできねえから持って帰ってくれ」
「そんなことをおっしゃっても、ご注文があったから持ってきたので、それも、よその店から買ってきた品なんですから、いまさら先方へかえすわけにもいきません。どうか代金をおはらいください」
「じょうだんいいなさんな。いりもしないものに銭なんかだせるもんか」
「銭はだせねえ? そうですかい。そんならこっちでもとるようにしてとってみせらあ。警察へでてもきっととってみせるからそうおもってくれ」
「おいおいおい……あれっ、とうとう置いてっちまった。こんなものを置いてかれてしまつにこまっちまう。ああ、鶴亀、鶴亀……あのばか野郎め、ろくなことをしやあしねえ」
「おとっつあん、いってきたよ」
「この野郎、いってきたよじゃあねえ。なんだって医者へいったり、葬儀社へいったりするんだ? みろっ、こんな大きな早桶をかつぎこまれてしょうがねえじゃあねえか」
「なるほど、図抜け大一番てえのはこれかい、こりゃありっぱだ」
「つまんねえことに感心してるんじゃあねえ」
「葬儀社の人がきてくれたんなら、あとの手配《てはい》もついてるな」
「なんだ? そのあとの手配ってえのは?」
「葬儀社から人をたのんで寺のほうへいってもらってあるからねえ、いつ死んでもいいようになってるよ」
「ばかっ、いいかげんにしろ! まあどうもあきれけえったやつだ」
「どうもみなさん、おいそがしいところをごくろうさま」
「いいえ、そんなことはよござんすけど、大家《おおや》さんが亡くなったんですって?」
「そうなんですよ」
「ほんとうですか? へーえ、人間なんてわからないもんですねえ。あたしゃ、ゆうべ、湯でいっしょだったんですよ。帰りに、『どうです? そばをちょっとやっていきませんか?』ってさそわれましてね、あちらはお好きですからねえ、ざる二まいをぺろりとやっちまったんですから、きょうになって亡くなるなんて信じられませんねえ」
「しかしねえ、人間の寿命ってやつはわかりませんからねえ。あたしはずーっとみてたんですが、はじめにむすこさんが顔色を変えてとびだす、そのあとお医者さんがくる、いれちがいに葬儀社の人が早桶をかついでくる……ものが順にいってるでしょ」
「そうですねえ、あすこのうちは、大家さんとむすこさんとふたり暮らしなんだから、やっぱり大家さんが亡くなったんでしょうねえ。そうすると、長屋に住むあたしたちとしても、くやみのひとつも述べなきゃあいけないでしょう」
「そりゃあそうですよ」
「ちょいと、みなさんの前ですが、くやみをやるんなら、あたしにやらしてくださいよ。くやみとおまんまの食いくらべなら、人にひけをとったことはないんですから……」
「おまんまの食いくらべなんかどうでもよござんすけど、あなたがそんなにくやみがお得意ならば、まず模範をしめしていただきたいもんで……」
「だまってあたしのあとへついてきてください。親船に乗ったつもりで……くやみということについては、あたしゃあもう、だれにだってぐーともいわせやしないんですから………えー、こんにちは……ごめんくださいまし。このたびは、なんとも申しあげようもございません。長屋一同といたしましても、生前中ひとかたならないご厄介になりまして……ほんとうに、あんないい大家さんはない、あの大家さんがお亡くなりになるなんて、なんたることで……」
「なんです?」
「さよなら!」
「もしもし、ちょいと、あなた、あなた、いまおもてで聞いていたら、得意だといってたくやみもたいしたことありませんねえ。はじめはたいへんにいい調子だとおもってたら、しまいのほうはごちょごちょしてしまって、なんだかわかりませんでしたねえ」
「みなさんそうおっしゃいますけどねえ、きょうのくやみぐらいやりにくいのはなかったですよ。なにしろ、くやみをいってる途中でひょいと前をみると、仏さまがたばこをのみながら、じいっとあたしをにらんでるじゃあありませんか。どうも、たばこをのんでる人のくやみってものはいいにくいもんで……」
「ばかなことをいっちゃあいけませんよ。仏さまがたばこをのんでるわけがないじゃあありませんか。大家さんのご親類のうちには、兄さんとか弟さんとか、生きうつし、瓜《うり》ふたつという人がよくあるもんですよ。あなたはそそっかしいもんだからまちがえたにちがいありません。あたしがおちついておくやみをいってきましょう。さあ、どいてください。じょうだんいっちゃあいけませんや。仏さまがたばこをのんでるなんて……こんちわ、ええ、このたびは、大家さんがとんだことで……あれっ、さよならっ」
「おいおい、お待ち、お待ち……いいかげんにしておくれ。おまえさんたちはなにかい、あたしのくやみでもいいにきたのかい? うちのせがれのことをばかだ、ばかだとおもってたら、長屋の連中までばかが伝染しちまったのかい? どうしてくやみなんかいいにくるんだい?」
「どうも申しわけありません。いえ、ご立腹ならば、くやみにきたわけを説明します。大家さん、あなた、そこへ坐ってるからご存知ないでしょうが、まあ、ちょいとおもてへでてきてごらんなさい。どうしたってくやみをいいにきたくなりますから……白と黒の花輪がかざってあって、すだれが裏がえしにかかって、忌中《きちゆう》という札《ふだ》まででてるんですから、あたしたちとしても、こりゃあくやみにこないわけにはいかないじゃあありませんか」
「えっ、そこまで手がまわったのかい? いや、それじゃあ、くやみにきたのももっともだ。まあ、いそがしいところをどうもすまなかった。どうかひきとっておくれ……こらっ、ばか野郎、ここへこい! おまえってやつはなんてえやつだ! 長屋の連中がくやみにくるのはあたりまえだ。おもてに忌中って札まででてるってえじゃあねえか」
「そりゃあでてることはでてるけど、長屋の連中もばかだな」
「なにがばかだ?」
「よーくみりゃあいいんだ。忌中のそばに近日と書いてあらあ」
お七
むやみにものごとを気にするかたがございます。
うちの屋根にからすがとまって鳴いたから、なにかわるいことがあるんじゃないかとか、犬があんまりほえるから、なにか変事がおこるんじゃなかろうかとか、なにかにつけて気にいたします。俗にご幣《へい》かつぎという……すると、これをおもしろがって、からかいにくるなんて人があります。
「おいおい、おっかあ、熊公のやつ、またきやがったぜ。あいつぐれえ皮肉なやつはねえんだからな。人が右といえば左といい、あったかいといえば、つめたいというのがあいつのくせだよ。おれがものを気にする性分《しようぶん》だろう。すると、あいつは、おれの顔をみさえすりゃあ、むやみやたらに縁起のわるいことをいうんだ。このあいだもおもてで逢ったから、また、いやなことをいわれちゃあいけねえとおもって、『おい福の神、どうしたい?』ときげんをとったら、『いま、おめえのうちからでてきた』とこういうんだ。あんまりしゃくにさわったから、そのつぎに逢ったときに、『やい貧乏神、どこへいくんだ?』といったら、『いま、おめえのうちへいくんだ』とこういうじゃねえか。あんないやなやつはねえや。きょうもうちへきて、またつまらねえことをいうだろうが、気にしねえほうがいいよ」
「はい、こんちわ、ごめんなさいよ……おい、だれもいねえのかい? お留守かい? はてね、いままですがたがありありとみえていたんだが、急におかくれになるわけもないし……ははあ、さては、家じゅう死に絶えたかな」
「おっ、もうあんなことをいってやがる。やい、熊、なにをいやあがるんだ。うちにいらあ」
「いるなら返事をしねえな……いやに入り口がせめえな」
「大きなお世話だ。せまくっても……」
「でも、こまるときがあるぜ」
「こまるときがある?」
「そうよ。もしも死人がでたとき、早桶《はやおけ》が満足にでねえからな」
「あれっ、あんなことをいやあがる。なにをいやがるんだ。こうやってあけたらいいんだろう」
「うんうん、これなら、みんなの早桶がそろってでらあ」
「おう、いやなことをいうなよ。おめえがくると、ろくなことはいわねえんだから、きょうはだまって帰ってくれよ。うちにおめでたがあるんだから……」
「なんだい、そのめでてえことというのは?」
「よろこんでくんねえ。やっとのことで、かかあが身ふたつになったんだ」
「やれやれ、胴斬りにされたか?」
「あれっ、身ふたつといっても胴斬りじゃねえや。赤ん坊が生まれたんだよ」
「ああ、小ぼとけを生んだのか」
「なんだい、小ぼとけというのは?」
「世間でそういってるよ。おめえぐれえいい人はねえ。まるでほとけさまみてえだといってらあな。そのほとけさまの子だから小ぼとけじゃねえか。それで、うちのなかが陰気なんだな。いやなにおいがするな。まるで焼き場へいったようなにおいだ。陰陰滅滅《いんいんめつめつ》としてらあ。そこにこぼれてるのは末期《まつご》の水かい?」
「じょうだんいっちゃあいけねえやな。いま、ちょっとお茶をこぼしたんだ」
「ああ、そうか……なんだって、さかさ屏風《びようぶ》をかざっておくんだな」
「ばかっ、さかさ屏風であるもんか。よくみてくんな。あたりめえの屏風じゃねえか」
「ああ、なるほど、よくみたら、あたりめえの屏風だ。あのなかには、枕《まくら》だんごとしきみの花、一本|燈心《とうしん》がかざってあるのか?」
「そんなことをいっちゃあいけねえよ。産婦と子どもがいるんじゃねえか」
「ああ、そうかい。じゃあ、ちょいとみてやろう」
「いいよ。みなくっても……」
「みてやるよ。おやおや、こりゃあ大きな赤ん坊だ」
「うん、産婆もそういってたよ。こんな大きい赤ん坊はめずらしいって……」
「めずらしいとも……髪の毛が長くって、はちまきをして、うんうんうなってらあ」
「そりゃあ産婦だい」
「ああ、そうか。道理で大きすぎるとおもった」
「そばに寝ているのが子どもだよ」
「ああ、なるほど、これかい? ……ふーん、こりゃあいい青ん坊だ」
「青ん坊てえのがあるかい。赤ん坊だろう?」
「いえさ、世間のは赤いから赤ん坊だが、おめえのところのは、青いつらをしているから、青ん坊というんじゃねえか。こりゃあ死んでるのか? 寝ているのか?」
「よせよ、変なことをいうない。死んでるものを寝かしておくわけがねえじゃねえか」
「寝てるのかい?」
「あたりめえよ」
「うそだよ。こりゃあ、だれがみたって死んでるとしかみえねえや」
「おめえにうそをいったってしかたがねえや」
「死んでるんだか、生きてるんだか、ためしにちょいとつっついてみようか」
「よせやい。どこの国に赤ん坊をつっつくやつがあるんだ」
「けれどもよ、おれがつっついてやるうちはいいけれど、もう四、五日もたってみろ、焼き場でごつごつつっつかれらあ」
「やめてくれよ。そんなことをいうのは……」
「いつが初《しよ》七日《なのか》だい?」
「初七日てえやつがあるかい。お七夜《しちや》といいねえな」
「はじめての七日だから、初七日でいいじゃねえか……いつなんだい?」
「きょうがお七夜だ」
「じゃあ、戒名《かいみよう》をつけたかい?」
「あれっ、戒名てえのがあるかい。名前といいねえな」
「めすか、おすか、どっちだい?」
「猫の子じゃあるめえし、めすとかおすとか聞くやつがあるもんか。女の子だよ」
「なんて名だい?」
「はじめての子だから、おはつとつけた」
「おはつ? ふーん、おはつのまるあげってえつらだな」
「いやなしゃれいうない」
「おめえの前だがな、もしも、この化けべそが……」
「なんだい、その化けべそてえのは?」
「化けものが、べそをかいてるようなつらをしてるから化けべそというんだ。で、この化けべそがね、もしものことがあって、悪運つよく、ひょっとして、万一のことがあって、そだったらどうする?」
「変ないいかたをするなよ。もしもそだったらというのはおかしいじゃねえか」
「いや、こんなものは、もうそだてばふしぎなくらいだ。大きくなったらどうするい?」
「そりゃあ、女の子だから、年ごろになれば、行儀《ぎようぎ》見習いのためにお屋敷奉公にあげらあ」
「なるほど、親なればこそだね……すると、因縁《いんねん》だな」
「いけないよ。また因縁なんぞをかつぎだしちゃあ、帰ってくれ」
「まあ聞きなよ。親の因果が子にむくいというやつだ。お屋敷奉公にあがると、おめえのところの化けべそだって、もう十六、七とくれば、女の一人前、日かげの豆もはじけるときがくれば、はじけるというたとえの通り、鬼も十八、番茶も出ばなということもあるから、年ごろで色気づいてる。徳兵衛さんに、やいの、やいのと持ちかけるな。徳兵衛だって、男と生まれて、女にお膳をすえられて、それを食わねえのは男の恥だから、ついひと口食ってみる。惚《ほ》れた男が、いっぺんでもいうことを聞いてくれたんだから、それであきらめりゃあいいが、そこがいわゆる悪女の深情け、二度三度と忍び逢いをつづけているうちに、女は受け身だからたまらない。お腹のほうがだんだんとふくれてくる。これが人目につくようになると、不義はお家のきついご法度《はつと》、お手討ちになるというところを、奥さまが命|乞《ご》いをしてくだすって、不浄門《ふじようもん》から阿呆払《あほうばら》いになる。すると、おめえんとこの化けべそは、人間がばかで、ずうずうしくって、臆面なしで、人見しりをしねえ、つらの皮の厚いというやつだから、のんこのしゃあしゃあとしてすましたもんだが、徳兵衛のほうは、さむらいだから、『かようなふしまつによって屋敷を放逐《ほうちく》され、なにめんぼくあって生きながらえておらりょうか。身どもはこれにて切腹をいたして相果《あいは》てる』てなきまり文句をならべらあ。すると、おめえんとこの化けべそが、『もし徳兵衛さま、これというのもみんなわたしからおこったこと、死ぬなら、わたしもいっしょに殺してくださんせい』とくらあ。そ
こで、徳兵衛もかんがえる。死ねば冥土《めいど》というところへいかねばならぬ。どうせいくならひとりでもつれのあるほうがいいというところから、そんなら心中しようとくる」
「いやだなあ、とうとう心中にはなしを持っていっちまった」
「ところで、おめえの娘はどじだから、心中の本場を知るめえが、心中の本場は、むかしから向島と相場がきまってらあ。そこで、化けべそのくせに、ずうずうしくも本場のご厄介になろうってんで、向島へどかんぼこんと身を投げる。あくる朝になって、死骸が百本杭《ひやつぽんぐい》に浮きあがるが、いくらつらがまずいといっても、まさかに動物の籍にいれるわけでもねえから、検屍《けんし》のお役人がきて、おまえのうちへ差し紙がつくということにならあ。そのときは、また検屍場でお目にかかるとしよう。はい、さようなら」
「ちくしょう、ちくしょう……ばか野郎……なんて野郎だ」
「じょうだんじゃないよ。おまえさん、くやしくないのかい? あんなことをいわれて……なんかいってやればいいじゃないか」
「いってやればいいったって、あいつひとりでべらべらしゃべりまくって、こっちは、なにもいう間がありゃあしねえ」
「おまえさん、ほんとにくやしくないかい?」
「そりゃあくやしいよ。盛大にくやしいよ。ばかにくやしいよ」
「なにをいってるんだね。やっぱりくやしいんだろ?」
「ああ、くやしいとも……だから歯ぎしりをしようとおもったが、あいにくと出っ歯で歯ぎしりができねえ」
「いうことがしまらないねえ」
「このあいだもくやしいとおもったが、おれには、どうにもできねえから、おもての車屋のかみさんをたのんで歯ぎしりをしてもらったら、歯代をとられちまった」
「なにをいってるんだね、ばかばかしい……なんとか仕返しができないかねえ」
「仕返しのしようがねえや。からだはむこうが達者だし、喧嘩をしたって、むこうのほうがつよいし……」
「しょうがないねえ……なんか仕返しができないものかしら……あらっ、そうだ。このあいだ、熊さんのおかみさんとお湯でいっしょになったら、ずいぶん大きなお腹をしてたよ」
「そうそう、あいつんとこでも、来月あたりに生まれるはずだ」
「そりゃあいいじゃないか。きょうのことは、しかたがないからがまんをしておいて、来月になって、熊さんとこのおかみさんが子どもを生んだら、七夜という日に、こんどはおまえさんがむこうへいって、きょう熊さんがいった通りのことをしゃべっておやりよ。そうすりゃあ、むこうへ縁起のわるいことをなすりつけてしまうじゃないか」
「なるほど、そいつはうめえや。よーし、そのときには、たっぷりと仕返しをしてやるぞ」
と、その場はがまんをして、その翌月になりました。
「おい、おっかあ」
「なんだい?」
「いま聞いたら、熊公んとこのかみさんが子どもを生んで、きょうがお七夜だとよ」
「それじゃあ、先月の仕返しをしといでよ」
「ああ、いってくるとも……ちくしょうめ、先月はあれだけけちをつけられたんだから、今月は、こっちであべこべにたっぷりとけちをつけてやるぞ……やいっ、きたぞ!」
「だれだ?」
「きたぞ、おどろくなっ」
「だれだ、そんなとこで、まごまごしてやがって、首でもくくるなよ」
「あれっ、いうことがうめえな、ちくしょうめ……やいやい、入り口がいやにせめえじゃねえか」
「おう、やってきやがったな。くたばりぞこないめ……なに? 入り口がせめえだと? ……そうか、入り口がせまくっちゃあ早桶が満足にでねえってんだろう……じゃあ、こうやってぐっとあけりゃあ、うちじゅうそろってでるてえやつだ。これならよかろう。まあ、あがんねえ」
「うん」
「あがれよ」
「ああ……なんかあったのかい?」
「ああ、やっとのことで、かかあが身ふたつになったんだ。身ふたつといったって、胴斬りになったんじゃねえよ。小ぼとけをひりだしたんだ。あがってみてくんな。かかあはうんうんうなっていて、まるで焼き場へいったようなにおいがするんだ。陰陰滅滅としてらあ……おい、ことわっておくが、そこへこぼれてるのは、末期の水じゃねえよ。いま、ちょいとお茶をこぼしたんだからな。あすこにかざってあるのは、さかさ屏風じゃねえよ。あたりまえの屏風だよ。なかをのぞいたって、枕だんごにしきみの花、一本燈心なんぞはかざっちゃねえんだ。産婦にがきがいるんだ。がきはすこし大きいがね、といって、はちまきをして、うんうんうなってるのはおふくろだ。そばにいるのが青ん坊よ。世間の子は、赤いから赤ん坊というんだが、おれんとこのは、青いつらをしているから青ん坊というんだ。死んでるんだか、生きてるんだか、ちっともわからねえんだ。おめえ、つっついてみてくんねえ。いいよ、遠慮をしなさんなよ。まだおめえがつっついてくれてるうちはいいや。もう四、五日すれば、焼き場でごつごつつっつかれらあ」
「おいおい、そうおめえのほうでばかりしゃべっちまっちゃあ、おれのほうでしゃべることができねえじゃねえか。そのためにわざわざやってきたんだ。すこしはなんとかいわせろよ……それで、なにかい、きょうは……」
「初七日だ」
「うん、そうか、初七日か……で……」
「戒名もついてらあ」
「なんとつけた」
「どうもがきばかりできてしょうがねえ。七人目のがきだから、お七とつけた」
「お七か……やい、お七のまるあげというしゃれがあらあ」
「そんなしゃれはねえよ」
「そうかねえ……で、このお七坊が大きくなったら、おめえ、どうする?」
「こんながきが、そだつわけがねえや」
「だけどもさ、もしも大きくなったら、おまえ、どうするい?」
「しょうがねえなあ、こんながきでもそだったら、どっか女郎にでもたたき売っちまわあ」
「おっ、そんなかわいそうなことをしねえで、女の子だから、行儀見習いのために、お屋敷へ奉公にあげろよ」
「なにいってやんでえ。屋敷奉公なんてものは、へたな婚礼ほど入費《にゆうひ》がかかるっていわあ。おれんとこみてえな貧乏人は、とても屋敷奉公なんぞにあげられるもんか」
「たのむから、やってくれよ」
「だめだよ」
「入費ぐれえなら、おれが半分もってやるからやってくれよ」
「ふーん、おめえが入費を持つってんなら、やってもいいよ」
「たしかに屋敷奉公にあげるな……ちくしょうめ……うふふふ、因縁だぞ」
「なにが因縁だ?」
「なにがって、親の因果が子にむくいっていうんだ」
「なにをっ」
「お屋敷奉公にあげると、そのお屋敷に徳兵衛さんという若ざむらいがいらあ」
「ふーん」
「おめえんとこのお七坊だって、もう十六、七とくれば、女一人前だ。日なたの豆もはじける時分にははじける」
「ばかっ、日なたじゃねえや。日かげだ」
「たいしたちがいはねえや。きょうはくもってらあ」
「なにいってやんでえ」
「たとえにもいう通り、外道《げどう》も十八、番茶も出ばな……」
「外道じゃねえ、鬼だよ」
「どっちもおんなじようにこわいお面《めん》だ」
「お神楽《かぐら》じゃねえやい」
「で、お膳がでるだろう」
「どこへ?」
「どこだかわからねえ……徳兵衛さんが、これをひと口食って、お腹がふくれらあ……きっと小食なんだな、おれなんか、ひと口ぐらいじゃあ腹はふくれねえや」
「なんのはなしだ?」
「なんだっけ? ……そうそう……不義はお家のご法度で、お手討ちになるところを、奥さまが命乞いをして、阿呆門から不浄払いにならあ」
「不浄門から阿呆払いだ」
「そうだ。すこしぐらいはちがわあ。それから心中だぞ」
「だれが?」
「だれだかわからねえや。なんでも、ふたりで死ぬから心中だ」
「あたりめえじゃねえか」
「それから本場へいかあ」
「なんだ、本場とは?」
「大根の本場は練馬で、さつまいもの本場は川越だ」
「八百屋のはなしか?」
「そうじゃねえやい………心中の本場だい……そうそう、向島、向島……その向島で、百本杭に死骸があがって、動物に籍がなくって、御検屍場で、差し紙がどかんぼこんで、お目にかかって、さようならとくらあ……どうだ、おどろいたろう」
「なにいってやんでえ。ちっともいうことがわからねえじゃねえか……ははあ、わかった。おめえ、先月の仕返しにきたんだな。ばかだなあ、こいつあ……いいか、よくかんげえてみろい。おめえんとこの娘の名前がおはつだから、むかし、おはつ徳兵衛という心中があって、芝居や浄瑠璃にのこってるから、それになぞらえて、おれがけちをつけてやったんだ。おれの娘はお七というんだ。お七徳兵衛なんてまぬけな心中があるもんか。帰れ、帰れ」
「帰れったって、おどろいたろう」
「ちっともおどろきゃあしねえ」
「縁起がわるくって、ぞーっとしたろう」
「ぞーっとなんかするもんか。帰れってえのに帰らねえのか。よし、帰らねえでいてみろ。いまここへ早桶がきてるから、このなかへてめえをおしこんで、焼き場へやっちまうぞ」
「うわっ、ごめんなさい。帰るよ……さようなら……とてもたまらねえや……おう、おっかあ、帰ってきた」
「どうしたい? うまくいったかい?」
「うまくやられた」
「なに?」
「やられたよ」
「だらしがないねえ。どうしたのさ?」
「だって、おれがしゃべろうとすることを、あいつがみんなさきにしゃべっちまうんだから、どうにもしようがねえ。それから、赤ん坊の名前を聞くと、お七とつけたというんだ」
「それからどうしたい?」
「それから、おれがそういってやったんだ。お七徳兵衛が心中するといったら、そんなまぬけな心中はねえといった」
「あきれたねえ、この人は……ほんとに、おまえさんぐらいまぬけな人はないねえ」
「まったくだよ」
「なにがまったくだよ。じれったいねえ……あら、ちょいと、お七ならいいことがあるじゃないか、八百屋お七を知らないかい?」
「まだいっぺんもお目にかからない」
「なにいってんだよ。だれだって逢ったものはないさあ……八百屋お七のはなしだよ……え? 知らないの? まあ、やんなっちまうねえ。四十づらをさげて……いいかい、こういうはなしだよ……むかし、本郷に、八百屋の久四郎という人がいて、この人にお七という娘があった。明暦三年に火事で丸焼けになったが、江戸中焼けたくらいの大火事だから、どこにも立ちのくさきがない。しかたがないから、檀那寺《だんなでら》の駒込吉祥寺に立ちのいているうちに、小姓の吉三郎というものといい仲になった。親は、そんなこととは知らないから、家の普請《ふしん》ができたので、お七を家へよびもどした。お七にしてみれば、いとし恋しいとおもう吉三郎に逢うことができない。せんに火事のときに、吉祥寺へあずけられたんだから、こんども火事になれば吉三さんに逢えるだろうと、女ごころのあさはかさに、わが家に火をつけたのを、恋の遺恨《いこん》で、釜屋の武兵衛が訴人《そにん》をしたから、かわいそうに、お七は、江戸市中ひきまわしの上、鈴が森で火あぶりになったが、おまえのところも、お七なんていう縁起のわるい名前をつけたから、いまに色男でもこしらえて、家に火をつけるぞといってやればいいよ」
「なるほど、うめえもんだな。えらいっ」
「なにをほめているんだね。わかったかい?」
「わからない」
「あれっ、おぼえないのかい?」
「ああ……だって、おまえ、どこの師匠だって、三べんは稽古《けいこ》をしてくれらあ」
「なにをいってんだねえ。これくらいのことがどうして一ペんでおぼえられないんだろうねえ。じゃあ、もう一ペんいうから、よく聞いてるんだよ……むかし、本郷に、八百屋の久四郎という人がいて、この人に、お七という娘があった。明暦三年に火事で丸焼けになったが、江戸中焼けたくらいの大火事だから、どこにも立ちのくさきがない。しかたがないから、檀那寺の駒込吉祥寺に立ちのいているうちに、小姓の吉三郎というものといい仲になった。親は、そんなこととは知らないから、家の普請ができたので、お七を家へ呼びもどした。お七にしてみれば、いとし恋しとおもう吉三郎に逢うことができない。せんに火事のときに、吉祥寺へあずけられたんだから、こんども火事になれば吉三さんに逢えるだろうと、女ごころのあさはかさに、わが家に火をつけたのを、恋の遺恨で、釜屋の武兵衛が訴人したから、かわいそうに、お七は、江戸市中ひきまわしの上、鈴が森で火あぶりになったが、おまえのところも、お七なんていう縁起のわるい名前をつけたから、いまに色男でもこしらえて、家に火をつけるぞと、こういうんだよ。はやくいっといでっ、こんどやりそこなうと承知しないよ!」
「ああおどろいた。熊んとこへいけばやりこめられるし、うちへ帰りゃあ、がみがみいわれるし、ほんとにやんなっちまう……やい、熊公、またきたぞっ」
「なんだ、なんだ。うるせえな。いったい、なんだ?」
「なんだっけ?」
「こっちで聞いてるんじゃねえか……なんだよ?」
「なんだよって……よわったな……あっ、そうだ。おどろくな……」
「なにを?」
「火事だぞ」
「えっ、火事だ。そりゃあいけねえや。どこだ?」
「本郷だ」
「なに、本郷だ? おい、おっかあ、本郷が火事だそうだから、ちょいとお店《たな》へいってくるぜ」
「やあ、あわててやがらあ……うふふふ……」
「あれっ、笑ってやがる。どうした?」
「火事は、むかしのはなし……」
「なにをいやがるんだ。びっくりするじゃねえか」
「えへへへ……まだおどろくぞ」
「なにが?」
「あるぞ、あるぞ……」
「なにがあるんだよ?」
「八百屋がある」
「どこに?」
「本郷に」
「八百屋なんざあ、本郷へいかなくったって、どこにだってあらあ」
「で……火事だ」
「またはじめやがった」
「火事はどこだい、丸山だい、道理で火の粉がとんできたっ」
「ばかだね。こいつは……うかれてやがる」
「で、こしょうをなめるんだ」
「こしょうをなめる?」
「江戸中焼けて、立ちのくところがねえから、立ちのいたろう」
「なんだかわからねえ」
「それで、女ごころの赤坂で、釜屋が恋の遺恨で、鈴が森で馬が火あぶりだ……ざまあみろい」
「なにをいやがるんだ、てめえのいうこたあちっともわからねえじゃねえか……ああ、わかった。てめえのいうのはこういうんだろう。むかし、本郷に、八百屋の久四郎という人がいて、この人にお七という娘があった。明暦三年に火事で丸焼けになったが、江戸中焼けたくれえの大火事だから、どこにも立ちのくさきがねえ。しかたがねえから、檀那寺の駒込吉祥寺に立ちのいているうちに、小姓の吉三郎というものといい仲になった。親は、そんなこととは知らねえから、家の普請ができたので、お七を家へよびもどした。お七にしてみれば、いとし恋しとおもう吉三郎に逢うことができねえ。せんに火事のときに、吉祥寺へあずけられたんだから、こんども火事になれば吉三さんに逢えるだろうと、女ごころのあさはかさに、わが家に火をつけたのを、恋の遺恨で、釜屋の武兵衛が訴人をしたから、かわいそうに、お七は、江戸市中ひきまわしの上、鈴が森で火あぶりになったが、うちの娘がお七だから、いまに色男をこしれえて、家に火をつけると、こういいてえんだろう。さあ、うちのお七が火をつけたらどうする?」
「うーん……だから、そんなことのねえように、いまのうちから火の用心に気をつけねえ」
松山鏡
むかし、越後の片いなか松山村というところには、鏡というものがございませんでした。
ここに正助《しようすけ》といって、たいへんに親孝行者がございまして、両親が亡くなりまして十八年間というもの、親の墓まいりを欠かしたことがないという、じつにどうもりっぱなもので……このことがお上《かみ》に聞こえまして、ごほうびを下《くだ》しおかれるということになりました。
「松山村正助、村役人一同つきそいおるか?」
「ははあ、一同つきそいましてございます」
「正助、面《おもて》をあげい」
「はい」
「そのほう、両親が、この世を去ってより十八年のあいだ、親の墓まいりを欠かしたことがないということじゃが、その孝心、ほめおくぞよ」
「いやあ、殿さまからほめられるなんて、とんでもごぜえません。ただ、とっつあまとかかさまがこの世におりました時分に、よくそのいうことを聞いただけのこんで……」
「このたび、そのほうの孝心に対し、ほうびをあたえるぞ」
「いやあ、ごほうびをいただくなんておもいもよらねえことでごぜえます。あたりまえのことをしたんでごぜえますから……」
「しかし、せっかくあたえるというものを辞退するのは、かえって無礼であろう。田地田畑《でんちでんばた》がよいか、金がよいか」
「これはこまりましたなあ……田地田畑は、とっつあまからもらいましただけで手いっぱいでごぜえます。これ以上ふえましたら、おらの手におえねえことでごぜえますから、おことわり申します。それから、金もよけいにありますと、はたらく気がなくなりますので、身のためになりませんからおことわりいたします」
「うん、感心な心がけじゃ。しかし、なにか、ひとつぐらいののぞみはあるであろう」
「へえ、そりゃあごぜえますが、とても無理なのぞみでごぜえますから……」
「無理なのぞみ? いや、いかなる無理なのぞみであろうとも、かなえてつかわす。申してみよ」
「ほんとうでごぜえますか?」
「かなえてつかわす。なんなりと申してみよ」
「では、おことばに甘えまして申しあげますが、亡くなったとっつあまに、ひと目でいいから逢わしていただきてえんでごぜえます」
なるほど、これは無理なねがいにちがいありませんが、いまさらそれができないとはいえません。
「これ、名主権太左衛門」
「はい」
「正助の父正左衛門は、何歳でこの世を去ったか?」
「はい、四十五歳であったとおぼえております」
「正助は、四十三歳であったな」
「はい」
「して、正助は、父親に似ているか?」
「はい、そっくりそのままでございます」
「さようか」
ご家来になにごとかお命じになると、桐の箱が持ちだされてまいりました。八咫御鏡《やたのみかがみ》の写しというものが、一か国に一つずつあったそうでございまして、この鏡をとりだしまして、
「これ正助、この箱のなかをのぞいてみよ」
「はい、なんでごぜえます? この箱のなかをのぞきますんで? あれっ、あれまあ、とっつあまでねえか。おめえさま、こんなところにござらしゃったか。おらでがすよ。正助でがす。まあ、とっつあま、そんなに泣かねえでもええだ。泣くでねえってば……とっつあまがあんまり泣くだから、おらも涙がとまんねえでこまるでねえか……まあ、それにしても、とっつあま、えかく若くなっただな」
なにも知らない正助は、自分のすがたをみてよろこんでおります。
これをごらんになった殿さまはすっかり感心なすって……
「これ、正助、その品は、当家のたいせつな宝であるが、そのほうの孝心に愛《め》でてつかわそう。かならず余人にみせるなよ」
殿さまは、「子は親に似たるものぞと亡き人の恋しき時は鏡をぞ見よ」というお歌をつけて、この鏡を正助にくださいました。
正助は、この鏡をいただいて、よろこんでわが家へ帰ってまいりましたが、だれにもみせるなといわれておりますから、うらの納屋《なや》にある古つづらのなかに、この鏡をしまって、朝夕、「とっつあま、いってまいります」「ただいま帰りました」とあいさつをしております。
これを女房があやしみまして、納屋になにかかくしてあるのではないかと、ある日、正助の留守に古つづらのふたをとってみておどろきました。なにしろ、この女房も鏡をはじめてみるんですから……
「あれっ、まあたまげたなあ、道理でそわそわしてようすがおかしいとおもったら、女子《あまつこ》をかくしておくだ。さあ、このあまあ、われ、どこからきやあがっただ? よくもまあ、人の亭主をとりにきやがって……われのつらをみろ。そんなろくでもねえつらあしゃあがって、人の亭主をとろうなんてずうずうしいにもほどがあるぞ……やあ、このあまあ泣いてけつかる。われよりもおらのほうが泣きてえくらいだ。さあ、こっちへでてこう」
と腹を立てているところへ正助が帰ってきました。
「これ、いま帰ったぞ」
「お帰んなさい」
「腹がへってしょうがねえ。はやくまんまにしてくんろ」
「まんまでもなんでも勝手に食ったらよかんべえ」
「勝手に食うぐれえなら、われにたのむもんか。あれ、顔いろよくねえな。あんべえでもわりいか?」
「なにいってるだ。かくしごとされたら、だれだっておもしろくねえからね」
「かくしごと?」
「あのつづらのなかのあまっ子はどこからひっぱってきただ?」
「つづらのなかのあまっ子? ばかこくでねえ。おらがとっつあまでねえか」
「そんなうそをついたってだめだ。おめえ、どこからあんなろくでもねえあまっ子をつれてきただ?」
「あまっ子でねえ、とっつあまだっていうに……あれっ、おらが胸ぐらとってどうするだ。これ、はなせ、はなせちゅうに……これ、くるしいでねえか、はなさなけりゃこうしてくれる!」
「あれっ、おめえさま、おらをぶっただね、ないしょであまっ子をひっぱりこんでおきながら、おらをぶつたあなんてえ人だ。おらのような美《え》え女はねえといったくせに、あんな鼻のひくい、色のまっ黒けなあまっ子をかくしておきやがって、とっつあまだなんて、よくもそんなとぼけたことがいえたもんだ。さあ、ぶつならぶたったせえ」
とむしゃぶりつきましたからたまりません。
「なにするだ、このたぬきあまあ」
「さあ、殺すなら殺せ」
ふだん仲のいい夫婦が、とっくみあいの大喧嘩になりました。
そこへ通りかかったのが、となり村に住む尼寺の尼さんで……
「まあまあ、待ちなさい、待ちなさい。ふたりともどうしたもんで……これ、待ちなさいというに、これこれ、若いもんじゃあなし、いい年をしてなんで喧嘩などしなさる? え? なに? 正さんが、あまっ子をつづらのなかに? ふん、ふん、そうか、そりゃあ、正さん、おめえさまがよくねえぞ」
「あまっ子じゃありませんよ。あれは、とっつあまでがす。というのが、じつは、こねえだ、殿さまにおらがよばれただ。なんだとおもっていくと、よく親孝行をした。ほうびになんでものぞむものをくれるというから、死んだとっつあまに逢わしてくれといっただ。すると、殿さまが、箱のなかにとっつあまがへえっているのをくだすって、これはだれにもみせるでねえっておっしゃったから、おらあないしょにしていただ」
「なに、あんなとっつあまがあるものか、ろくでもねえあまっ子だ」
「まだそんなことをいうか。とっつあまだってえのに……」
「あまっ子だ」
「まあまあまあ、そうおたがいに喧嘩しててもきりがねえ。とっつあまか、あまっ子か、とにかくみてやるべえ。もしもあまっ子だったら、おらがとっくりとはなしをして、しまつをつけてやるべえ。よしよし、このつづらか? あけてよくみてやるべえ。よいしょと……」
これも鏡を知らない尼さんが、ふたをとってみると、自分の坊主あたまがうつりました。
「ふふふふふ、ふたりとも喧嘩はやめたほうがええよ。なかの女はめんぼくねえとおもったか、坊主になった」
錦《にしき》の袈裟《けさ》
「おお、みんなそろったか?」
「あつまったよ。なんでえ、兄貴、そのはなしってえのは?」
「ほかでもねえが、このあいだの晩、となり町の若い連中があそびにでかけたんだ」
「うん、うん」
「それが、おめえ、ただの女郎買いじゃねえんだ」
「すると、舶来か?」
「よせやい。女郎買いに国産も舶来もあるもんか」
「だけれど、ただでねえってからよ。で、どうしたんだい?」
「聞きねえな。若え衆一同が、緋《ひ》ぢりめんの長じゅばんのそろいででかけたてえんだ。それでね、むこうへいって、芸者をあげて、さんざんさわいだあげくに、緋ぢりめんの長じゅばんひとつになって、かっぽれの総踊りをやったてえんだ。まあ、かなり派手なまねよ。そればかりならいいが、『聞きゃあ、となり町の若え連中もあそびをするそうだが、いつも地味なあそびばかりで、こんな派手なまねはできなかろう』と、たいへんこちとらのことをわるくいって帰ったてえんだ。さあ、ここでみんなに相談てえのは、となり町の若え連中とこちとらとは、去年の祭り以来、たがいにけんか腰になってるんじゃあねえか。そんな味なまねをされてよ、だまってることもできねえから、こちとらも負けねえ気になって、なにかそろいでもこしらえて、女郎買いにでかけようてんだが、どうだい?」
「あたりまえでござんしょう」
「おや、おかしなやつがでてきたな、なんだい?」
「あたりめえだ。べらんめえ。江戸っ子だ。職人だ。そんなおつなまねをされて、だまってるてえちょぼいちはねえから、こちとらも、そろいででかけようじゃあねえか。ゆきがかりならしかたがねえや。こうなったら、おれあもうしかたがねえ。地所を売りとばしてしまおう」
「たいそうないきおいのやつがでてきたな。男がゆきがかりだから地所を売るてえのはえらい。だが、おめえが地面持ちとは、ちっとも知らなかったが、よっぽどあるのかい?」
「たいしちゃあねえけれども、すこしはあらあな」
「すこしだって豪勢じゃあねえか。どのくらいあるんだ?」
「このくらいだ」
「なに? このくらい? なんだい、そのくらいならみかん箱の大きさじゃねえか」
「だからよ、物干しにあがってるんだ。箱庭だよ」
「ばか野郎、あきれたやつだ。箱庭の泥を、てめえ、地所と心得てやがる。おめでてえやつだな」
「おしいことに、まだ登記をすましてねえ」
「よせやい。箱庭を登記だってやがらあ……どうだい、みんな……」
「兄貴、やろうじゃねえか。われわれも……」
「そうか。だがな、おたげえに職人のくせに、緋ぢりめんの長じゅばんてえのは心ぼそいからな」
「そうだねえ。趣向をするなら、気のつかねえところにしてみてえな」
「そうとも……」
「羽織《はおり》もおもしろくねえし……着物も古いし……帯もいやだし……なにかねえかな?」
「ええ、ちょいと申しあげたいね」
「またでてきやがったな、この野郎……なんだい? 箱庭の大将」
「よせやい」
「箱庭の大将てえのは、以来、てめえにくだしおかれてやらあ。なにかかんがえがついたかい?」
「ああ、なにしろ、人の気のつかねえところなんだ」
「ふーん」
「どうだい、ふんどしのそろいってのは?」
「ふんどし? こいつあ気がつかなかったが、どうするんだい?」
「ただのふんどしじゃあおもしろくねえや」
「そうよ」
「だから、欝金木棉《うこんもめん》にするんだ」
「欝金木棉ていうと、あの黄色いやつだな。それでどうするんだ?」
「なーに、すこしぐらい腹がくだってもわからねえよ」
「ばかっ、きたねえな。そんなまぬけなそろいがあるもんか。箱庭のかんげえるこったから、どうせろくなこっちゃあねえとおもってたが、どうにもひどすぎらあ。てめえなんぞは、だまってひっこんでろい」
「おお、兄《あに》い、おれがかんげえた」
「なんだい? おめえのかんげえてえのは?」
「おれもふんどしだ」
「よしねえよ、もう……」
「ただのふんどしじゃあねえぜ」
「ふーん、あかね木棉にでもしようてえのかい?」
「まぜっけえしちゃあいけねえ。どうだい? 錦《にしき》のふんどしをしめていこうてんだが……」
「なに? 錦のふんどし? こいつあでかくでやがったな」
「どうでえ、錦なんてえ布は、われわれがみようとおもっても、ちょいとみられねえ布だぜ。そいつを、おしげもなくふんどしにしめてゆくてえ趣向にするといいじゃねえか。上はなるべく地味ななりがいいよ。むこうへいったら、万事となり町の若え連中のやった寸法どおりでいいんだ。芸者をあげて、さんざんさわいじまい、もういい時分だてえころをみはからって、『さあ、もうおひけにしようじゃあねえか。角力甚句《すもうじんく》でもひいてくんねえ。みんなはだかになっておどりぬくから……』とくりゃあ、いやでもおうでも錦のふんどしはみせられらあ。緋ぢりめんの長じゅばんからみりゃあ、よっぽど趣向は上だぜ」
「なるほどなあ。どうだい、みんなは?」
「こいつあおもいつきだ。それにきめようじゃあねえか」
「そうかい。じゃあ、そういうことにしよう……おっと、待ちな。ひとりでもあたまかずの多いほうがいいからな……やい、やい、与太郎」
「なんだい?」
「ちょいとこっちへきな」
「なにか用か?」
「聞いてのとおりのわけなんだ。今夜、みんなでそろってでかけようってんだが、どうだい、でかけるかい?」
「はっはっは、お女郎買いか?」
「そうよ」
「いきたいね」
「いきねえな」
「だけれどもね、おれはいきてえんだが、うちのおかみさんが、なんというかわからねえからなあ」
「なんだい、うちのおかみさんてえのは?」
「おれんとこのおかみさんよ」
「ばかっ、てめえのかかあへさんづけをするべらぼうがあるかい。かかあなんてえ動物は……あんなものは、食わせるものを食わして飼っときゃあいいんだ」
「そんなわけにはいかないよ。うちのおかみさんとくると、あたいよりもつよいんだからね」
「そうかい」
「ああ、あたい、このごろは、からだになま傷が絶えやしない」
「ふーん、虐待されてるんだな」
「あたいが、お女郎買いにいくなんていおうもんなら、おかみさん、目をまるくしておこるよ。『おまえなんざあ、女郎買いが聞いてあきれらあ。あわびっ貝でおまんまでも食って、縁の下へでもかけこんでろ』っていわあ」
「猫だね、まるで……まあ、とにかくかかあに相談してみろよ。やってくれねえもんでもねえから……」
「そうかい。それじゃあ、あたい、うちへ帰って、おかみさんとよく相談してみらあ。もしいくようだったら、ここへあつまればいいんだな」
「そうだよ」
「それじゃ、あたい、ちょいとうちへいって聞いてくらあ……おお、おっかあ、いま帰ったよ」
「いま帰ったよじゃないよ。いまごろまで、どこをのたくってたんだよ」
「へびだね、まるで……あのね、あたい、今夜、すこーしおねがいがあるんだけれど……」
「なにさ?」
「あのね、おこっちゃあいけないよ……」
「じれったいね、なんだかいってごらんよ」
「いってごらんたって……おこるなよ……それじゃあいうけれど、今夜、あたいを、お女郎買いにやってくれねえか」
「ははははは、ばかばかしいよ。この人は……おまえなんか、お女郎買いって柄《がら》かい、あわびっ貝でおまんまでも食べてさ……」
「縁の下へかけこんでいようか?」
「あれっ、すっかりおぼえちまったねえ」
「ああ、もうそらでいえらあ。えらいだろう」
「えらかあないよ。しかし、なんだって、町内の若い衆づきあいだって? ……まあ、つきあいなら一晩ぐらいいっておいでよ」
「それでね、そろいがあるんだ」
「ばかばかしいね。そろいなんかこしらえて女郎買いにいくなんて……なんだい、そのおそろいてえのは?」
「錦のふんどしをみんなでしめていこうってんだが、うちに錦ってえ布があるかい?」
「まあ、あきれたよ。この人は……錦なんてえ布が、めったやたらに、われわれのうちにあるもんじゃあないやね。いいだすやつもやつなら、また、うけあってくるおまえさんもよっぽどまぬけだねえ」
「まったくだよ」
「なにがまったくだよ……どうするつもりだい?」
「だから、すまねえが、どうにか算段してくんねえな」
「そんなばかばかしいものは、算段のしようがありゃあしないやね。まあ、しかたがない。こうでもおしな」
「それじゃあ、そうしよう」
「まだなんにもいやあしないやね」
「道理でわからねえとおもった」
「なにをいってるんだよ。あのね、となり町のお寺へいってね、和尚《おしよう》さまに借りておいでよ」
「へーえ、ちっとも知らなかったが、お寺の和尚なんてえものは、みんな錦のふんどしをしめてるのか?」
「そうじゃあないけどさ、お寺へいけば、錦の袈裟《けさ》というものがあらあね。それを借りてきて……みぬもの清《きよ》しさ……ふんどしにしめて、あくる日、しわをのばして持っていきゃあわかりゃしないさ」
「なーるほど、こいつはうめえや。キンを錦につつむなんぞは、とんだ宝づくしでいいや。それじゃあ、あたいは、ちょいといって借りてくらあ」
「お待ちよ。なんといって借りるつもりだい?」
「ふんどしにいたしますから、どうか錦の袈裟を貸してください」
「ばかだね、この人は……まったく、ばかがこんがらがっちゃったね。そんなことをいやあ、だれも貸してくれやあしないやね。しかたがないから、うそをおつきよ」
「なんだって?」
「『和尚さまにおねがいがあってあがりました。ほかでもございませんが、わたしどもの親類のせがれに、きつねがつきまして、いろいろと加持祈祷《かじきとう》をいたしましたが、どうもいけません。あるかたが教えてくだすったのには、ありがたい和尚さまの錦の袈裟をかけてやると、きつねがおちるそうで、お大事なものでもございましょうが、どうぞ貸してくださいまし』と、こういって借りておいでよ」
「なるほど、こりゃあうまいな。おめえはえらいね。感心した。かかあ大明神さま」
「なにをおがんでるんだよ。はやくいっておいでよ」
「それじゃあ、あたい、いってくるよ……へえ、和尚さん、こんにちは」
「はい、おいでなさい。だれかとおもったら与太郎さんで……」
「だれかとおもわなくっても、あたいは与太郎さん」
「おや、ご自分にさんづけとはおそれいったな。して、なにかご用かな?」
「ええ、すこしおねがいがあってあがりました」
「はい、はい、なんですな。また手紙でも読んでくれろとでもおっしゃるのかい?」
「いいえ、そんなこっちゃあないんで……ほかでもございませんけれども、わたしどもの親類のきつねにせがれがつきまして、いろいろと加持祈祷をしても……」
「おっと、お待ちなさい。それではあべこべだ」
「へえ、そのあべこべについたんで……」
「おまえのいうことはよくわからんな。つまり、親類のせがれさんにきつねがついたんだろう?」
「へいへい、それからどうしました?」
「あれっ、それはおまえさんがいうんだ」
「ああ、なるほど……それで、あるかたが教えてくれたには、ありがたい和尚さまの錦の袈裟をかけてやると、きつねがおちるそうで……へい、お大事なものでも、どうかすこしのあいだお貸しなすって……」
「ああ、そうかい。いや、どうせあいてるもんでな……これこれ、珍念や、そのいちばん下のひきだしのをおだしなさい。さあ、与太郎さん、ごらんなさい」
「へえー、これはきたねえや」
「いや、きたないといってはいかん。これは、年を経《へ》ているから古びているのじゃ。この寺に、十三代つたわったありがたい袈裟だ。よくみてごらん」
「へーえ、十三代も……ばかなつたわりかたをしたなあ。人間なら、とうにミイラになってる時分だ。もうすこしあたらしいのはありませんか?」
「古いほどききめがあるのじゃが……」
「ええ、ききめはすこしぐらいうすくってもかまわないんで……なにか、こう、新しくって、きれいな袈裟を……」
「なんだかおかしいね……それでは、珍念、上のひきだしのをだしてごらん……さあ、与太郎さん、それではどうかな?」
「へーえ、こりゃあきれいでございますね。これならまことに結構で……では、さっそくこれをお借りして……」
「あ、いやいや、それは、きょうのところはお貸し申すわけにはいかん」
「へえ、どうして?」
「あさっておいでくださればお貸し申そう。というのは、その袈裟は、さる檀家《だんか》から納《おさ》めものになっているのじゃ。それで、あした、その檀家で法事があって、仏参にきなさる。わたしが読経《どきよう》をするとき、それをかけていないとまことにぐあいがわるい。だから、あしたの法事をすましたら、いつでも貸してあげる。そんなわけで、きょうのところは、お貸し申すわけにはいかない。おわかりかな?」
「へえ、でもございましょうが、和尚さん、お寺まいりだって、そんなに朝はやくからきやあしますまい?」
「まあ、そりゃあそうだが……」
「では、どうでしょう? あしたの朝はやく持ってまいりますから、お貸しいただけませんでしょうか?」
「うん、では、一晩だけでいいのかな?」
「へえ、そりゃあもう、一晩でいいんで……そんなにいく晩もいようもんなら、入費ばっかりかかって、……」
「なに?」
「いえ、なに、こっちのことで……あしたの朝はやく持ってまいりますから、どうぞお貸しください」
「いやいや、おことわりしましょう。もしもまちがわれて、あすに間にあわぬときは、わたしがまことに面目《めんぼく》を失ってしまうからな」
「大丈夫でござんす。へい、まちがったって、けっしていつづけなんぞ……」
「え?」
「いいえ、まちがいありませんから……」
「それでは、かならず持ってきてくださいよ」
「へい、きっと持ってあがりますから、どうぞ、すこしお貸しなすって……へい、どうもありがとうございます。では、明朝かならず……へい、さようなら……おう、おっかあ、いってきたよ」
「どうしたい、借りてきたかい?」
「うん、うまく借りてきた。みな、ほれ、こんなにりっぱな布だ」
「それごらんな。そんなりっぱなもんだもの、なんでわれわれのうちに、めったやたらにあるもんかね。さあ、それをうまくふんどしにしめてごらんよ」
「なんだかすこしぎくしゃくするなあ」
「そりゃあしかたがないやね。袈裟をふんどしにしめるんだもの。でも、なんだね、おまえさん、ものが大きいから、錦のしめばえがするね」
「だが、変なことができた」
「なにがさ?」
「なにがって、みねえな。この前に、白い輪が、ぶーらぶら、ぶーらぶらさがったぜ」
「そりゃあしかたないやね。袈裟にはみんなついてるよ。ここのところへつけてできている袈裟輪というものだよ」
「そりゃあ、袈裟には輪をつけて、袈裟輪というか知らねえが、ふんどしに輪をつけるやつはねえぜ。『この輪はなんのためにあるの?』なんて聞かれたら、どうこたえたらいいんだ?」
「そしたら、こういっておやりよ。『あたしは、おしっこをするときに、ちょいちょいそそうをするので、この輪に、さおをいれていたします』って……そうだよ、おまえさん、ふとざおだから、ちょうどその輪があうよ」
「なーるほど、すると、おまえの道具もこの大きさか?」
「なにいってんだよ。あたしのがどのくらいの道具か、おまえさん、身におぼえがあるだろ、つまんないことに感心してるんじゃあないよ」
「あっ、ここに房《ふさ》がついてるけれど、これは、なんといえばいいんだ」
「『おしっこがすんだあと、この房で、しずくをはらいます』っていえばいいんだよ」
「へーえ、しずくをね……こりゃあ、うめえや……それじゃあいってくらあ」
「あしたの朝はやくお帰りよ」
「あいよ……おーい、みんな、おまちどおさま」
「おう、与太郎、やってきやあがったな。どうしたい、そろいはできたかい?」
「ああ、すっかりできた」
「そいつあ豪勢だ。さあ、でかけよう」
と、これから吉原へでかけて、芸者をあげて、さんざんさわいだあげく、角力甚句《すもうじんく》をひかせ、一同が、錦のふんどしひとつになっておどりをはじめましたが、おどろいたのは、女郎屋のお内所《ないしよ》(娼家の主人の居間または帳場)です。
「おい、松や」
「へえ」
「あらかたできたようだね」
「すっかりあがりました」
「そうかい、それはよかった……あの宵の多勢さまね……うんうん、おもて二階でさわいでいらっしゃる、もうみなさん、だいぶ酔っぱらっていらっしゃるようだ。あのお客さまのすじはわかるかい?」
「あれは、お職人衆で……」
「おいおい、おまえさん、女郎屋のめしを何年食っていなさるんだい? あれをお職人衆とみるやつがあるかい」
「それでは、なんでございますか?」
「あれは、むかしでいうお大名、つまり華族さまですよ」
「へえ、それにしては、おことばのようすが、だいぶぞんざいのようで……」
「わざとああいう口をきいていらっしゃるのさ。論より証拠、お下《しも》の帯をごらん。あれは錦という布だよ。われわれ見ようとおもってもみられない布を、むざむざお下の帯になさるのは、さすがにお大名……しかし、あれだけいらっしゃるなかで、どれがお殿さまだか、おまえにおわかりかい?」
「いいえ、わかりません」
「そーら、白い輪を目じるしにぶらぶらつけていらっしゃったかたがあったろう。あれがお殿さまだよ」
「だって、あの人は、いちばんぼーっとしていましたよ」
「殿さまなんてものは、苦労がないから、ぼーっとしてるんだ。とにかく、あとはご家来衆なんだからな、よく敵娼《あいかた》にふっこんでおおきよ。お殿さまの敵娼はだれだい? むらさきさん? ふーん、そうかい。まあしあわせに……おまえのお客は殿さまだからって、よくいっとくんだよ。だいじにしないと、またのご縁がないからって……ああ、それから、あとはご家来衆だから、そっちのほうはどうでもいいから……」
勝手に家来だときめられちまった連中は、まことにいいつらの皮で……
一方、敵娼にふっこんだから、わたしのお客さまは殿さまだってんで、その晩、与太郎は、たいへんにもてましたが、あとの連中は、ご家来衆だてえんで、みんなふられました。
大一座ふられたやつがおこし番
とはよくいったもんで……
「おはよう」
「だれだい、勝つあんか?」
「うん」
「どうしたい、ゆうべは?」
「ひどいめにあったよ。もろに、すってんころりとしょい投げだ」
「おたがいさまだよ。せっかくの趣向もなんにもなりゃあしねえ……金さん、こっちへきねえ……え、どうしたい、ゆうべは?」
「宵にちらりと三日月女郎てえのはあのことだ」
「やっぱりふられたな。どうしたい、源さんは?」
「うん、くるにはきたんだがね、『ちょっとおしっこにいってくるから』ってでたっきり、いまだにお帰りなし……ことによると、あの女は丑年《うしどし》かな」
「なにいってんだよ。こりゃあおどろいた。そろいもそろってふられたとはね……こりゃあ、長居は無用だ。はやく帰ろうじゃあねえか」
「そういうことにしよう……だが、待てよ。あたまかずがひとりたりねえや」
「だれだい?」
「与太の野郎よ」
「しょうのねえやつだなあ、なんだかんだって世話をやかしてやがらあ。おいおい、若い衆さん」
「へえ、おはようございます」
「おい、もうひとりいるだろう、どこだい、部屋は?」
「へえ」
「いえさ、もうひとりいるだろうてんだよ。そいつの部屋はどこだてんだよ」
「へえ、お殿さまでございますか?」
「なんだ?」
「ええ、ご前《ぜん》さまなら、まだ御寝《ぎよしん》なさっていらっしゃいますようで……」
「なにいってやんでえ。なにが殿さまだい。どこだ、部屋は? ……なんだと、このつきあたりだ……よしよし、おい、みんないっておこしてやろうじゃあねえか……おい、与太郎、おはよう。あけるよ……おい、みんな、こっちへでてこいやい」
「どうしたんだ?」
「はやくこいよ。はやく……これをみてくんねえ。ふしぎなかたちをみせるから……与太郎のところだけに敵娼がきて、ぐっすり寝こんでるぜ」
「なるほど、どうしたんだい? みんな、ゆうべふられたってえなかで、与太郎だけがもててやがるぜ。ことしは、かぼちゃのあたり年だ」
「うん、そうかも知れねえよ……おい、おい、与太郎、起きねえかい」
「ふん、ふん、ふん、おはよう……」
「むれてやがらあ、はやく起きねえな」
「うふふふ、あのね、あたいは起きようとおもうんだけど、おいらんが、あたいの手をぐっとにぎって……うふふふ……」
「なんだい、寝起きがわりいな……おい、おいらん、じょうだんじゃねえやな。いつまで寝かしておくんだな。はやく起こしちまってくんなよ」
「うるさいね、この人は……なんだい、枕《まくら》もとでそうぞうしい。家来ども、ご前《ぜん》のお耳ざわりだよ。一同さがれ!」
「なんだい? その家来どもさがれってのは? なにいってやんでえ。なにが家来どもだい」
「いけないよ。いくらおまえさんたちがさわいでも、おまえさんたち、輪がないじゃないか。ざまあみやがれ、輪なし野郎」
「おい、銭なし野郎てえのは聞いたことがあるが、輪なし野郎てえのはなんだい?」
「ああ、そういえば、ゆうべ与太郎のちくしょうめ、なんだか知らねえが、前へ白い輪をぶらぶらさげていやあがったがね、ありゃあ、ことによると、女郎買いにもてるまじないかなんか持ってきやあがったんだぜ。おもしろくもねえ。とんだおちをとられた。さあ、さあ、与太郎、はやく起きねえかよ」
「ふふん、おいらん、みんながああいうから、もう起こしておくれよ」
「いいえ、ご前はどうしても、けさは帰しませんよ」
「えっ、けさは帰さねえ? そりゃあたいへんだ。お寺をしくじっちまう」
らくだ
酒というものは、下戸《げこ》にいわせると、命をけずるかんなだといい、上戸にいわせると、百薬の長だといい、どちらへ軍配をあげていいのかよくわかりませんが、むかしから、俗に、酒を気ちがい水と申しまして、ふだんとがらりと気質がかわるかたがございます。ふだんらんぼうな人が、酔いますと、かならずおとなしくなり、ふだんぼーっとした人にかぎって、お酒を飲むと、がらりと反対になって、刃物三昧《はものざんまい》をしたり、あるいは、目がすわってきて、いいこと、わるいことを問わず、喧嘩をふっかけたりすることがございます。まさしく気ちがい水に相違ございません。また、どんな人でも、酒を飲むと、気が大きくなり、または片意地になりますもので、人が右といえば左といいたくなり、人がよせといえば、どうもしたくなり、毒だから食うなといわれると、それが食べてみたくなるというようなことになります。
さて、ここに、馬という名前の男がございまして、これをあだ名してらくだと申します。肩書きがあるくらいでは、あまりよろしい人物ではないわけで、大きな図体《ずーたい》でのそのそしているところから、つまりは、らくだという名前がついて、本名の馬という名をよぶものはすくないようなことでして……
「おう、寝てるのか、しょうがねえな。どうも昼すぎだというのに、おもてをしめて寝ていた日にゃあ、ろくなことはねえぞ。むかしから果報は寝て待てとよくいうが、寝ていて銭もうけをしたというためしはねえ。ほんとうにしょうのねえ野郎だ……はて、どうしやがったんだな。ここのうちは、しまりがあるんだか、ねえんだかわからねえが、てえげえあくだろう……おやおや、ゆうべ酒を飲みすぎたとみえて、あがりばなのところへひっくりかえって寝ていやがる。よく風邪をひかねえな。陽気がわるいのに……おい、起きろ、起きろ。おいおい、起きろてえのに、しょうがねえなあ……おや、つめてえや。どうも妙なつらをしているとおもったら、死んじまってやがる。ああ、ゆうべ湯の帰りに、こいつにあったら、ふぐをぶらさげてやがって、陽気ちげえにそんなものを食うなといったら、こう安くっちゃあ、好きなものを食わずにゃあいられねえといやがったが、きっとあのふぐを食って死にゃあがったんだ。ほんとうにあきれたやつがあるもんだな。人の食うなというものを食うんじゃねえ。よせというものはよすものだというがほんとうだ。しかし、こう死なれてみると、ふだん兄弟分といわれているなかで、まさかほうっておくわけにもいかねえ。どうにか、さしにないでもとむらいのしたくぐれえしてやらなけりゃあなるめえ。この野郎、銭のあったためしはなし、おれもこのごろは一文なしときている。ほかに身内はなし、親類はなし、たたき売ろうという道具もろくになし、ほんとうにしょうがねえ。しかし、どうもぶち殺しても死にそうもなかったやつで、まだこんなになろうとはおもわなかったが、いまさらなんとおもってもしかたがねえ。いくらもあるめえが、まあ、ここのうちのをあらいざらいまとめてたたき売ったら、せめて早桶《はやおけ》ぐれえ買えそうなものだ。それにしても、なんにもねえうちだなあ」
「くずーい、くずーい、くず屋ーい」
「やっ、こりゃあありがてえ。いいところへくず屋がきやがった……おーい、くず屋!」
「へえ……やっ、ここのうちは馬さんのうちだな。らくださんのうちときた日にゃあ、まったくやんなっちまうからな。きのうの朝だ。よばれたからしかたがねえ。こわごわはいったら、ひびのはいった皿やどんぶりをだして、二百文で買えっていうから、買えませんといったら、しまいにはなぐりそうになったから、ぶんなぐられるよりは二百文のほうが安いとおもって買ったけれども、ただとられたようなもんだ。このうちでいきなりよばれるようじゃあ、きょうはろくなこたあねえなあ」
「やいっ、なにをぐずぐずいってやんでえ。こっちへへえれっ」
「へえ……あの……こちら、らくださんのお宅じゃあないんですか?」
「らくだんとこだ。おめえ、らくだを知ってるのか?」
「へえ、もう古いおなじみでございますが、馬さんは、どっかへいらっしゃいましたか?」
「うん、まあ、どっかへいったようなもんだがな。ここのうちのものを、あらいざらいまとめて売るというんだが、ひとつ、なるたけ奮発して、値よく買ってもらいてえんだ」
「へえ……あれっ、そこに寝ておいでになるのは馬さんじゃありませんか……あたくしは、また、馬さんがどっかへおひっこしになって、こんどあなたがここへおいでになったのかとおもいましたが……」
「馬が寝てたっていいじゃねえか」
「へえ、それはよろしゅうございますが、馬さんのお宅のものは……」
「まあ心配しねえで買いねえ」
「なーに、べつに心配もいたしませんが、じつは、ここにある品は、のこらずあたくしのほうでもみあわせたものばかりでございます」
「おやおや、くず屋にみはなされるようだから、こんなことになるんだ……じゃあ、ほんとうのことをいうが、らくだは、ゆうべ、ふぐを食って、それにあたってくたばっちまったんだ」
「えーっ、あんなじょうぶなかたが? ……まあ、おどろきましたな、それはどうもお気の毒でしたなあ。へえー、ちっともそんなことは知りませんで……ところで、あなたは、お長屋のかたでもないようですが……」
「うん、おれはな、ふだん、兄弟とかなんとかいわれてる仲なんだ。まさかここへ死骸をほうりだしておくわけにもいかねえ。といって、おれもこの二、三日苦しくってしょうがねえ。また、この野郎が一文だってあったためしはなし、どうもとむれえのまねごとぐれえはやってやらなくちゃあならねえが、どうにもしようがねえんだ。さいわいおめえとらくだがなじみなら、なるたけ奮発して買ってくれ。そのかわり、ここにあるものはのこらず持っていってもいいから……」
「へえ、みんな買ったところで、満足なものはひとつもございません。そこに、土びんのちょっといいのがあるとおもったら、口がとれてますし、せめてその口でもあれば、つぐとかなんとかしますが、それもなし、満足なものはひとつもありません。コンロは横っ腹に穴があいてますし……」
「ちぇっ、しょうがねえなあ。くず屋にみはなされてやがる。だらしがねえや。まあ、そういわずによ、こまるんだから、なんでもいいから買ってってくれ。たのむから……」
「いいえ、とてもいけません。けれども、わたくしもいままで商売をしておりましたものでございますから、まことにこれはすこしばかりでございますが、これはあたくしの心ばかり、どうかお線香でもおあげなすって……」
「それは気の毒だなあ。おめえにそんな散財をさせようとおもってよびこんだんじゃあねえんだが……まあいいや、ほとけさまもよろこぶだろう。なあ、おめえと古いなじみであってみりゃあ、遠慮なくもらっておこう。なにしろ、いくらでもほしいとおもってたところなんだから……そのかわり道具はみんな……」
「いいえ、いただかずにすむんならばどうか……」
「そうだろうな。みたところで、これぞと役に立ちそうなものはひとつもねえんだから……」
「では、これで、あたくしは……」
「おい、おい、待ちな、待ちなよ。おれは、この長屋へはじめてきたんで、ようすがよくわからねえんだ。おめえは、ちょくちょくきてるからわかってるんだろう?」
「へえ、まあ、たいていのことはわかりますが、なんでございます?」
「今月の月番はどこだい?」
「へえ、たしか角のうちあたりが、今月は月番のようでございますが……」
「じゃあ、おめえ、すまねえが……ちょいと、そこへいってな、らくだの死んだことをいってきてくんねえ」
「へえへえ、承知しました」
「おいおい、ちょっと待ちな。ただ知らせるだけじゃあいけねえんだ。どんな長屋にも、祝儀不祝儀《しゆうぎぶしゆうぎ》のつきあいがあるだろうから、香奠《こうでん》をなるべくはやくあつめてもらいたい。それに、なにか買ってなんぞよこされちゃあこまるから、現金《なま》でもらいてえってな」
「へえ、香奠のさいそくなんで? ずいぶん無遠慮なはなしでございますねえ」
「無遠慮ったって、おめえはたのまれていくんだ。おめえは、身内じゃなし、親類じゃなし、人のことというものは、いいにくいことでもいえるもんだ。なあ、そういってきてくんねえ」
「へえ、では、いってまいります」
「おう、おう、その鉄砲ざるとはかりはこっちへだしな。あずかっといてやるから……おめえだって、ここに不幸があって手つだってるのに、そんな商売道具をしょってあるくってえのは、なんだか実《じつ》がねえようじゃねえか」
「へえ、これは、しじゅうかついでるもので、ついくせになって……」
「まあまあいいから、こっちへだしねえてんだ」
「へえ、では、おあずけいたしまして……いってまいります」
「ああ、はやくいってきねえ」
「なんだなあどうも、つまらねえ用をいいつけられちまったなあ……商売道具をとりあげられちゃあ、にげるわけにはいかねえし………ええ、こんちわ」
「なんだい?」
「ええ、こちらはたしかお月番でございますな?」
「ああ、おれんとこが月番だよ……なんだ、おめえ、くず屋じゃねえか」
「へえ、いつもまいりますくず屋でございますが、今日《こんち》はくず屋ではございません」
「はあ、商売替えかい?」
「いいえ、商売がえというわけではございませんが、じつは、ちょっとお知らせにあがったんで……あのう、このお長屋のらくださんが、昨夜おなくなりなすったんでございます」
「えっ、らくだが? 死んだって? ほんとかい? そうかい。よく死にゃあがったなあどうも……いいあんばいだ……で、なんで死んだんだい?」
「なんでもふぐを食べてあたったらしいんでございますが……」
「へえー、そうかねえ。あんなやつでもやっぱり毒にやられるのかなあ。おらあ、ふぐのほうであいつの毒にやられるかとおもってたが……どうも、なんにしても、そいつあよかったなあ、で、知らしてくれたのかい、めでてえってんで?」
「いいえ、そうじゃないんで……ついては、らくださんの兄弟分とかなんとかいう人がきております。ずいぶんこわい顔をした男でございます」
「それがどうしたんだい?」
「へえ……そのう……そのかたのいいますには、とむらいのまねごとでもしてやりたいんだが、一文なしなんで、お長屋には、祝儀不祝儀のつきあいもあるだろうから、香奠をなるたけはやくあつめてよこしてもらいたいとこういいますんで……それで、なまじなにか買ってよこされるとこまるから、現金《なま》でどうかもらいたいとこういっておりました」
「じょうだんいっちゃあいけねえよ。え、おまえ。そうだろう。それは、長屋のつきあいはあるさ。あるけれども、あいつにかぎって、いままで、祝儀だろうが、不祝儀だろうが、だしたことなんかありゃあしねえ。とりにいくと、いま、こまけえのがねえと、こういいやがる。しかたがねえから、月番が立てかえて、またさいそくにいくと、また、こまけえのがねえといってださねえ。で、三度目にさいそくにいくと、うるせえ野郎だ。こまけえのがねえからだめだというから、大きいんでもおつりがあるから……というと、こまけえのがねえくれえだから、大きいのは、なおあるわけがねえと、こうにくらしいことをいうんだ。それで、おめえ、こっちでなにかいおうもんなら、あべこべにひっぱたかれたり、つきたおされたりするもんだから、あんなやつの相手になるのもばかばかしいとおもって、それぎりにしてしまう。そういうことがたびたびなんで、いまじゃあ、長屋じゅう、あいつとはつきあわねえようになってるんだ。それを、香奠をあつめろといったって、とてもだめだよ。あつまらないよ」
「なるほど、それはもっともなことなんでございますけども、こりゃあよけいなことですけど、いくらでもあつめてやったほうがいいんじゃあないかとおもうんですがな」
「どうして?」
「へえ、その兄弟分てえ人が、らくださんに輪をかけたようなすごい顔つきをしておりますんで、ご無理でもございましょうが、いくらでもおあつめになったほうがいいんじゃないかとおもうんですがなあ」
「そうかい、あいつの兄弟分じゃあ、ろくな野郎じゃああるめえ。らんぼうでもされちゃあつまらねえはなしだな……よし、じゃあ、まあ、いいや。あいつが死んだと聞きゃあ、よろこんでお赤飯《こわ》ふかすうちもあるだろうから、そのお赤飯をふかしたつもりで、いくらかだしてくれとわけをはなしてあつめるとしよう。おめえ、帰ったらこういってくんねえ。なにしろ貧乏長屋でございますから、いくらもあつまりますまいけれども、さっそくあつめてあげますと、こういっておきゃあ、すこし持っていったってすむはなしだ」
「へえ、そのお返事をうかがえば、あたくしもつかいにきた甲斐がございます。じゃあ、どうかよろしくおねがい申します……へえ、いってまいりました」
「おう、ごくろう、ごくろう……で、どうした、香奠はすぐにとどけるといったか?」
「へえ、あのう……こういう貧乏長屋のことでございますから、いくらもあつまりますまいけれど、さっそくあつめてあげますと、こういっておりました」
「ああ、しかたがねえや。まあ、いくらでももらやあ、とむれえのまねごとぐれえできるだろうから……」
「へえ、それでは、おそれいりますが、その鉄砲ざるとはかりを……」
「ものはついでだ。もう一軒いってきてくんねえ」
「あたくしもまだ、今朝《けさ》っから、まるっきり商売をしておりませんので、おそれいりますが、どうぞ、鉄砲ざるとはかりを……」
「いいじゃねえか。もう一軒だけいってこいよ」
「かんべんしてくださいよ。なにしろ、きょうはまだ商売をしていないんですから……一日やすみますと、六十八になるおふくろと、十二をかしらに三人の子どもがあるんでございますから、あした、釜のふたがあかないようなことになるというわけで、どうかおいとまをいただきたいんで……」
「なんだなあ、そんなことをいわねえで、もう一軒だけでいいから、いってこいというんだ」
「へえ、どちらへまいりますんで?」
「大家のとこへいってきてくれ」
「へえ、じゃあ、いってまいります」
「おい、ただいくんじゃねえやな。まあ、らくだが死んだことをいうのはきまってるが、おめえがいうんじゃねえから遠慮するな。おれがいうんだから……いいか、大家に、そういってくれ。いま、兄弟分てえ人がきてる。で、とむれえもだしてやりてえが、どうにもしょうがねえ。まさか犬猫の死んだんじゃねえから、今夜、お通夜《つや》のまねごとぐれえは、してやりてえとおもいますが、おいそがしいなかをおいでにはおよびません。ついては、長屋のかたがきても、ご承知の通り貧乏で、なにぶん酒を買うこともできません。むかしから、大家といえば親も同然、店子《たなこ》といえば子も同然ということをよくいいます。親子同様のあいだがらなので遠慮なく申しあげますが、いわば子どもたちに食わせるとおもって、長屋のかたばかりですから、どうか酒を三升、あまりわるい酒はあたまへのぼるから、ちょっと飲める酒をよこしてください。それから、煮しめは、芋に蓮にはんぺんぐらいのところでいいから、すこし塩を辛めに煮て、大きなどんぶりか大皿へいれてよこしてくださいと、そういってきてくれ」
「こまりましたなあ、それは、とてもだめです」
「だめだ?」
「ええ、とてもくれるわけがありません」
「わけがありませんたって、なにも、おめえが請《う》けあうことはあるめえ」
「でもねえ、らくださんのことですから、店賃がちゃんちゃんとはいってはいまいとおもいますんで……」
「なにも、おめえが、そんな心配をするにゃあおよばねえ。もしもくれねえといったらこういえ。いいか、おれがいった通りにいえよ」
「へえ」
「かねてご存知でもございましょうが、身内も親類もなんにもない男で、じつに死骸のやり場にこまっております。そうそうこっちも世話が焼ききれませんから、大家といえば親も同然、店子といえば子も同然というくらいで、こちらへらくだの死骸をしょってまいりますから、どうかいいように処置をつけてください。どうせしょってくるついでですから、死人にかんかんのうをおどらせてお目にかけますと、そういってやるんだ。いいか、はやくいってこい!」
「へえ……どうもよわっちまったなあ。商売道具をとりあげられてるから、にげだすわけにもいかねえし、こんなことをいっていけば、大家さんとこをしくじっちまうし……なにしろえらいところへでっくわしちまったもんだ……えー、ごめんくださいまし、ごめんくださいまし」
「はい、だれだい? なんだ、くず屋さんかい。おめえもまた、いくら商売熱心だって、そうちょくちょくきたってしょうがねえや。まだ、一昨日《おととい》きたばかりじゃねえか。なんにもたまっちゃあいねえよ」
「いえ、あのう……きょうは商売でまいったのではございません。ほかのことでまいりましたんで……」
「ほかのことできた? なんだい?」
「へえ、じつは、お長屋のらくださんが昨晩なくなりました」
「えっ、らくだが? 死んだ? ほんとかい? いつ? へー、ゆうべねえ……ふーん、それで、大丈夫だろうな。よくあたまをつぶしといたかい? また生きかえるといけねえぜ」
「へびじゃあございませんから、あたまなんぞは……」
「そりゃあ、いいあんばいだが、たしかに死んだのかい?」
「へえ、ふぐを食べて、それにあたってなくなったんでございます」
「ふーん、あんな野郎でもやっぱり毒にゃあかなわねえんだな。まあ、なんにしてもめでてえはなしだ。で、おめえさんがそれをみつけて、よろこばせようってんで知らせにきたのかい?」
「いえ、らくださんの兄弟分てえかたが、おみえになっておりますが……らくださんよりもうすこし目つきのわるい男で、ずいぶんいやな人でございます」
「ふーん」
「それで、どうも、そのう……あたくしはまことにこまっております」
「なにがこまる?」
「で、そのかたが、葬式《とむらい》をだしてやりたいといっておりますんで……」
「へーえ、あんな野郎でも、兄弟分となるとちがったもんだな。そんなめんどうをみようてえやつがあるのか。ふーん、で、そいつがたまってる家賃でも払おうってのかい?」
「いいえ、そうじゃないんで……で、あたくしがこまりますんで……」
「なにがこまる?」
「ええ、そのかたも一文なしで、どうにもしようがないんですが、まさか犬猫の死んだんじゃないから、せめて、お通夜のまねごとでもしてやりたいと、こういうんで……」
「どうとも勝手にするがいいや」
「で、おいそがしいなかを、大家さんはおいでにはおよびませんと申しますんで……」
「だれがいくやつがあるもんか。くだらねえことをいってやがる。そんな念にはおよばねえと、そういってくんな」
「へえ、それがその……世間でそういいますな」
「なにを?」
「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然ということを……」
「それがどうしたんだ?」
「長屋のかたがきても、貧乏だから、酒をひと口あげることもできないとこういうんで……で、親子同然のあいだがらだから遠慮なく申しあげますが、酒を三升ばかりよこしてもらいたい。わるい酒はあたまへのぼるから、ちょっと飲める酒をよこしてもらいたいといいますんで……これは、あたくしがいうんじゃあございませんよ。その人がいうんです……それから、煮しめは、芋に蓮にはんぺんぐらいのところでいいから、すこし塩を辛めに煮て、大きなどんぶりか大皿へいれてよこしてくださいというんで……」
「おいおい、くず屋さん、おめえ、しっかりしろよ。おかしなことをいってくると、この長屋の出入りをとめちまうぞ」
「ですから、あたくしがいうんじゃあないんで、その兄弟分とかいう人がいばってそういってるんで、どうもこまったものでございます」
「そんなことをとりつぐおめえがまぬけだてえんだ。だいたい、らくだてえやつがどんなやつだか、おめえだって知ってるじゃねえか。どんなわるいやつでも、越してきたその月の家賃ぐれえは払うもんだが、あいつにかぎって払わねえ。もっともぶっこわれた長屋じゃああるけれども……」
「まったくよくこわれておりますな」
「つまんねえところで感心するない……で、さいそくにいけば、あしたあげますの、いずれあげますのといやあがって、どうしても払おうとしねえ。この前も、あんまり腹が立つから、『きょうは払わねえうちは、ここをうごかねえ』といったら、『きっとうごかねえな』って念をおしたかとおもったら、いきなりしんばり棒をふりあげて、『これでもうごかねえか』とどなりゃあがった。おらあびっくりして、とびあがった。あいつのはおどかしじゃねえ。ほんとうにやりかねねえんだ。あんまりおどろいたんで、おれは、はだしでうちへにげて帰った。おかげで、買いたての下駄をおいてきちまったんだが、にくらしい野郎じゃねえか。そのあくる日から、おれのおいてきた下駄をはいて、鼻唄まじりで、すましてうちの前を通るじゃねえか。まあ、死んでしまえば厄介《やつかい》のがれ、二十いくつという家賃をのこらず棒びきにして香奠がわりにしてやらあ。それだけだって御《おん》の字《じ》だ。その上に、酒をよこせの、煮しめを持ってこいのって、あんまりとぼけたことをいうなって、兄弟分とかいう野郎にそういいな」
「へえ、そりゃあもう、ごもっともなんで……おっしゃる通りなんで……ですから、あたくしもそういったんで……とてもくださるわけがないって……そうしましたら……」
「そうしたら、どうした?」
「もしもくれねえといったら、そうそう世話も焼ききれませんから、大家といえば親も同然、店子といえば子も同然というくらいで、こちらへ、らくださんの死骸をしょってくるから、いいように処置をつけてくれるようにとこういいますんで……で、どうせ持ってくるついでだから、死人にかんかんのうをおどらせてお目にかけるとこういいます」
「なんだと? 死骸にかんかんのうをおどらせる? ふーん、おもしれえや。おどらしてもらおうじゃねえか。よし、帰って、おれがいった通りにいえよ。人を甘くみるなとそういってくれ。そんなこけおどしにおどろくんじゃあねえ。おれもこの近所じゃあ、すこしはいやがられてる人間だ。みそこなうなとそういえ。ばかにしやがって、なんだってんだ。この年になるまで、死人のかんかんのうをおどるのをみたことがねえ。きょうは、おれもばあさんもたいくつしてるから、ぜひそのかんかんのうというのをみせてもらいてえもんだって、よろこんでたとそういえ」
「へえ、さようでございますか……おどろいたな、どうも……どっちへいってもおどかされて、ほんとうにやりきれねえや……どうもゆうべの夢見がわるかったが、きょうはやすんじまえばよかったなあ……へえ、いってまいりました」
「いってまいりましたじゃねえや。なにぐずぐずしてたんだ?」
「へえ、先方のいうのも無理はないんで……あんまり死んだ人をわるくいってはすみませんが、らくださんがわるいんでございます」
「で、どうなんだ?」
「家賃がね、二十いくつとかたまってるそうで、ずいぶんたまりました」
「そんなことはどうでもいいやな」
「それを棒びきにして香奠がわりにしてやるとして、酒なんぞとてもやれない、とこういいます」
「それで、おめえ、帰ってきちまったのか?」
「しょうがないんです」
「おれのいったことをいわなかったのか? 死人をつれてきて、かんかんのうをおどらせるって……」
「いいえ、いいましたよ」
「どうだった?」
「そういったら、むこうでおどろかないんで……『この年になるまで、死人のかんかんのうをおどるのをみたことがねえ。きょうは、おれもばあさんもたいくつしてるから、ぜひそのかんかんのうというのをみせてもらいてえもんだ』と、こういうんで……へえ、どうにもしようがないんです」
「じゃあ、なにか、かんかんのうがみてえって、そういったんだな」
「へえ」
「たしかにそういったんだな」
「へえ、たしかにそういったんで……」
「うん、そうか……そっちをむきねえ」
「へえ?」
「そっちをむきなよ」
「なんです? むこうをむくてえのは?」
「なんでもいいから、そっちをむけってんだ。こっちをむくなよ。いいか、ほらっ、しょうんだ」
「あっ、これは……これは……らくださんの死骸で……いけません。これはいけませんよ。かんべんしてください。あなた、じょうだんじゃない。血を吐いてるじゃありませんか。いけねえ、いけねえ……食いつきますよ」
「なにいってやんでえ。死んだものが食いつくもんか。さあさあ、これをしょって、さっさとあるけ。あるくんだ。死人をしょってきておどらしてくれというなら、のぞみ通りにおどらしてやろうじゃねえか……さあ、どこなんだ、大家のうちは? ここか? よし……さあ、なかへはいって、へっついのところへ死人を立てかけとけ。大丈夫《でえじようぶ》だ。大丈夫だ。つっぱってるからたおれやしねえ。いいか、おれが死人をおどらせるから、おめえ、この仕切りの障子をがらっとあけて、そのとたんに、手びょうしを打ってかんかんのうを唄えっ、いいか!」
「そんなもの、唄えやしませんよ」
「唄えねえやつがあるもんか。子どもだってやるじゃねえか。さあ、唄わねえと、はりたおすぞ」
「唄いますよ、唄いますよ……唄えばいいんでしょ」
「さあ、唄え、唄うんだ。それっ、がらっとあけて……すぐに唄うんだ」
「唄いますよ…… かんかんのう、きゅうのです……」
のんきなやつがあったもんで、死骸を座敷へかつぎこんで、かんかんのうをおどらせはじめましたから、大家はおどろいたのなんのって……
「やあ、ばあさん、たいへんだ。たいへんだ。ほんとうに死骸をしょってきておどらせてる」
「 かんかんのう、きゅうのです……」
「おいおい、くず屋、唄うな、唄うな……ばあさん、ひとりでにげるなよ。にげるんなら、いっしょににげるから……おいおい、もうたくさんだ。どうかかんべんしてくれ。おれがわるかった。いま、すぐに酒も煮しめもとどけさせる。とどけさせるから、どうか、すぐにひきとっておくれ」
「ぐずぐずしてると、またすぐに持ってきておどらせるぞ」
「すぐにとどけるから、はやくひきとっておくれ。はやく、はやく……」
「そうか、じゃあ、待ってるぜ。すぐにとどけろよ。おい、くず屋、むこうをむけっ、さあ、もういっぺん、これをしょうんだ」
「へえ、もうかんべんしてくださいよ」
「かんべんしろったって、しょって帰らなけりゃあしょうがねえじゃねえか。さあ、ぐずぐずしねえで、しょうんだ。さあ、そっちをむけ」
「へえ……わーっ、いやだな。つめたい、つめたい、まだつめたい」
「あたりめえだ。死骸があったかくなるもんか。さあ、しょったら帰るんだ。帰るんだ……ああ、ごくろうだった。そこへほうりだしとけ」
「へえ、ああおどろいた。じゃあ、これで、あたくしはおいとまを……」
「おうおう、待ちねえ。もう一軒いってきねえ」
「もうかんべんしてくださいよ。きょうは、まるっきり商売をしてないんですから……一日やすみますと、六十八になるおふくろと、十二をかしらに三人の子どもがあるんでございますから、あした、釜のふたがあかないようなことに……」
「いやなことをいうない。どうせいままで手つだったんじゃねえか。もう一軒、おもての八百屋へいってきてくれ」
「へえ、香物《こうこう》でも買ってきますか?」
「そうじゃねえ。おめえ、八百屋の親方を知ってるならちょうどいいや。このことをはなして、まことにお気の毒だが、早桶がわりにするんでございますから、四斗樽の古いやつをひとつおくんなさいといってもらってきてくれ」
「そりゃあだめですよ。商売物ですから、早桶がわりになんかくれやしませんよ」
「くれねえなんてぬかしゃあがったら……」
「死人をつれてきて、かんかんのうをおどらせるって……」
「そうじゃねえや。あいたら、すぐにおかえししますから、すこしのあいだ貸していただきてえと、こういって、はやく借りてこいっ」
「へえ、それじゃあいってまいります……いやだなあどうも、いやなつかいばかりさせられて……ええこんちわ、ごめんください」
「おう、なんだい、くず屋さんじゃねえか」
「へえ」
「なんだい?」
「あのう、ちょっとお知らせがあってうかがったんですが、じつは、長屋のらくださんがなくなったんでございます」
「えっ、死んだ? らくだがかい? へえー、そうかい。まあ、よく死んだねえ。どうして死んだんだい? ふぐで? 大丈夫かい? あいつのこったから、生きかえりゃあしねえかい? あたまをよくつぶしとかなくっちゃあいけねえぜ」
「ええ、大家さんもそんなことをおっしゃってました」
「そうかい。みんな心配なんだなあ、生きかえりゃあしねえかって……うんうん、大丈夫かい、ほんとに死んだのかい? そりゃあめでてえ。なにしろありがてえことだ。で、おめえがわざわざ知らせにきてくれたのかい?」
「いいえ、そういうわけじゃあないんですが、いま、あたくしが、らくださんのところへいきますと、兄弟分てえ人がきていて、らくださんの葬式《とむらい》をだしてやりたいとこういいますんで……で、まことにおそれいりますが、四斗樽のあいたのがあったら、一本いただきたいと、こういってるんですが……」
「四斗樽なんかどうするんだ?」
「銭がなくってしょうがないから、早桶がわりにしたいといいますんで……」
「じょうだんいっちゃあいけねえや。だめだ、だめだよ」
「だめですか?」
「だめですかって、おめえだって知ってるじゃねえか。あいつがどんなことをやってたかは……うちの店へきたって、いきなり品物をつかんでだまって持ってっちまう。銭をくれとでもいおうもんなら、ものもいわずにはりたおすんだから、どうにもたまったもんじゃねえ。そのあげくに、早桶がわりに四斗樽をくれなんて、とんでもねえこった」
「そうですか……じゃあ、すこしのあいだ貸してくださるだけでもよろしいんですが……」
「どうするんだい?」
「へえ、あいたら、またおかえしをいたしますから……」
「ふざけちゃいけないよ。そんなものをかえされてどうなるんだ。だめだよ。やれないよ」
「どうしてもだめですか? そうすると、死人をつれてきて、かんかんのうをおどらせると、こういいますんで……」
「なんだと? 死人にかんかんのうをおどらせるだと? ふん、おもしれえや。やってもらおうじゃねえか。死人がかんかんのうをおどるなんてえなあおもしれえじゃねえか」
「ほんとうにみたいんですか?」
「ああ、みてえじゃねえか」
「そうですか。でもねえ、こうお座敷がふえたんじゃあ、とてもたまらねえ」
「なんだい、そのお座敷てえのは?」
「いま、大家さんとこでやってきたばかりなんで……」
「えっ、じょうだんじゃねえのかい? ほんとうにやったのかい?」
「ええ、大家さんところへ、お通夜の酒さかなをくれといったところが、ことわられたんで、死人をあたしがしょわせられて、いってきたとこなんです」
「そいつあたいへんだ。どうもしょうがねえなあ……じゃあ、なるたけ古いやつをひとつ持っていきねえ」
「へえ、ありがとうございます。それから、どうせかつぐんでございますから、天びんのわるいのを一本と、荒縄をすこしくださいまし」
「ああいいよ、いいよ。持っといで……」
「へえ、どうもありがとうございます……へえ、いってまいりました」
「おう、ごくろう、ごくろう。どうした、くれたか?」
「ええ、なかなかくれませんから、いよいよ奥の手をだして、かんかんのうでおどかしましたら、むこうでも胆《きも》をつぶしてよこしました。それから、どうせかつぐとおもいましたから、天びんと荒縄ももらってきましたが……」
「そりゃあ気がきいてるな。さすがは江戸っ子だ。この樽へ死骸をおさめて、縄を十文字にかけりゃあほんものだ。しかしまあ、おめえの骨折りのおかげで、家主んとこのばばあが、『まことにさきほどは失礼いたしました』といって、酒さかなを持ってきたから、燗《かん》をして飲んでみて、わるい酒ならたたっけえしてやろうかとおもったら、ちょっと口あたりのいい酒だ。たいしてよくもねえが、まあ、このくれえならかんべんしてやらあ。それから、煮しめも、あの通りどんぶりへいっぱい持ってきた。それに、長屋からは、月番だというじじいがきて、『こんな貧乏長屋で、おもうようなこともできませんが……』といって、香奠をとどけてきやがった。おめえの骨折りがすっかりあらわれて、ほとけもさぞよろこぶだろう。これで、おめえも用なしだ」
「ありがとう存じます。そんなら、あたくしは、これでおいとまをいただきます」
「まあ待ちねえってことよ。おめえもこれから商売にかかるんだろう?」
「へえ」
「なんの商売だって、縁起というものがあるじゃねえか。死人をしょったりなんかしたんだから、からだを清めるために、大きなもので、一ぱいやっていきねえ」
「へえ、ありがとうございますが、また、のちほどでなおしまして……」
「でなおすもなにもねえ。このまま、おめえを帰しちゃあ、おれも心持ちがわりいや。気はこころだ。ちょっと一ぱいぐれえいいじゃあねえか。なにもたんと飲めというんじゃあねえ。ぐうっと一ペえやっていきねえ。縁起だ。清めるんだ」
「へえ、つい酒が好きだもんですから、飲むと商売がおろそかになりますんで……」
「そんなことをいうもんじゃあねえやな。おれだって、おめえをつかいっぱなしで帰すてえなあ、心持ちがわりいじゃねえか。なあ、だから一ペえだけ、ちょいとやってけよ」
「ええ、でも、きょうは、まだ、まるっきり商売をしてないんですから……なにしろ一日やすみますと、六十八になるおふくろと、十二をかしらに三人の子どもがあるんでございますから、あした、釜のふたがあかないというようなことになるというわけで……どうか、ひとつ、このへんで、ごかんべんを……」
「だからよう、きゅーっと一ペえ飲んで、からだをきよめて、それから商《あきね》えにいきねえ……そうしろよ」
「いいえ、ほんとうに、もう結構ですから……」
「なんだっ、おめえ、一ぺえぐれえの酒、つきあえねえのか? え? どうしても飲めねえのか?」
「へえ……いえ……あなた、怒っちゃあこまります。じゃあ、いただきます。そりゃあ、あたくしは好きでございますから、いただくなあ結構ですが、なにしろ年よりが心配するもんでございますからな……それじゃあ、ひとつ……へえ、どうもお酌をねがってはすみません。おや、こんな大きなもので……」
「まあ、いいからやんねえ」
「へっ、おっとっと……こりゃあどうも……じゃあいただきます……どうもこれはなかなかいい酒でございますな……どうも、ごちそうさまで、へえ、じゃあ、おそれいりますが、そのざるとはかりをいただいて……」
「なんだなあ、おめえ、飲みっぷりがいいじゃねえか。いけるんじゃあねえか。まあいい、もう一ぺえやんねえ。なあ……めしだって、一膳めしというなあねえや。まあ、いそぎなさんな。まだそんなにおそかあねえぜ。一ぺえきりというなあ心持ちがわりいや。もう一ペえこころよく飲んでいきねえ」
「いえ、もういただいたんでございますから……ほんとうに結構なんでございますから……」
「だって、おめえ、酒はきれえじゃあねえんだろ?」
「へえ、さっきも申しましたように、ほんとうは好きなんで……」
「そんなら飲んでいきねえな」
「へえ、ありがとうございますが……どうも昼間飲んじゃいますと、だらしがなくなっちまいまして、商売へいくのがいやになるというようなことになりますんで、どうか、そのざるとはかりを……」
「なんだなあ、好きなくせに飲まねえなんて……なあ、わりいこたあいわねえから、もう一ペえ、きゅーっとひっかけて、それでいきねえ」
「いえ、ほんとうに、もう結構でございますから……」
「まだそんなことをいって……一ぺえ飲んだんだから、もう一ペえ飲めねえこたあねえだろう? えー、おい、どうしても飲まねえってのかい? おれの酒はうけられねえってのか、おう、どうなんだ?」
「へえ……どうも……怒っちゃいけませんよ、親方……いただきます。いただきますよ。じゃあ、もう一ぱいで、どうかかんべんしてください。あたくしは、こんな大きなものでいただいたことがないんでございますから……おっとっとっと……うん、いい酒だ……へえ、どうもごちそうさまで、じゃあ、そのざるとはかりを……」
「なんだなあ、こっちが飲もうとおもってるうちに、おめえ、ひとりでがぶがぶ飲んじまって……おい、待ちなってことよ。おれも飲んでるんじゃねえか。酒飲みてえやつは、そうわくわく飲むもんじゃねえやな。せっかくうめえ酒がまずくなってしまわあ。おれだって、ひとりになっちまっちゃあ、おもしろくねえじゃねえか。なあ、そうだろう? だからさあ、もう一ペえやんねえ。かけつけ三べえてえことがある。なあ、もう一ペえだけきゅーっとひっかけていきねえ。あとは、ほんとうにすすめねえから、もう一ペえだけつきあいねえ」
「ですけどねえ、もう、こんな大きなもので二はいもいただいたんで、ほんとうにだめなんでございますから……」
「だからよう、くどいこたあいわねえから、もう一ペえだけつきあいねえ。もう一ペえきゅーっとひっかけて、商《あきね》えにでかけねえな。なあ、そうしろよ。だめか? おう、飲めねえのか、おう」
「ほんとうにもう、二はいいただいてるんですから……これ以上やっておりますと、あした、釜のふたがあかないということに……」
「おうおう、またしめっぽいことをいう……じゃあ、おめえ、どうしても飲めねえんだな。だめなんだな……ええ、おい、やさしくいってるうちに飲みなよ」
「へえ……怒っちゃいけませんよ、親方、じゃあ、もう一ぱいだけ……へえ、あっ、ああ……おっとっとっと……こりゃあどうも……ほんとうにあたしはねえ、こんなにいただいたことはないんですから……ああ、いい酒だ。どうもすっかりいい心持ちになっちまった。どうも、親方は、すすめじょうずだもんだから、つい酒がすすんじまって………えへへへ……けれども、親方は、どうも失礼ながらえらいおかたですねえ。あたしは、さっきからそうおもってるんだ。ねえ……あるなかで、ひとの世話をするのはだれにでもできるが、なくってするのが、まあ、ほんとうの世話だとおもうんだ。親方なんざあ、まるっきりなくってしてやろうてんですからねえ。なかなかできる仕事じゃない。けれども、人の世話はしたいねえ。あたしゃあ、これで貧乏はしてるけれども、人のことというと、からっきし夢中になっちまうんで……銭もねえくせに、よせばいいのにと、いつでもおふくろに叱言《こごと》をいわれるんだけれども、人のこまるのをどうにもみていられねえんだ。しかし、その世話てえやつが、なかなかできるもんじゃあねえや。それが証拠には、山ほど金があったって、高見の見物で、世話をしねえやつは、まるっきりしねえじゃござんせんか。あははは……おもしれえや、ほんとうに……でもねえ、世のなかに、このほとけさまぐれえひでえ野郎はなかったねえ。ほんとうにふてえ野郎だよ。ちくしょうめ……おう、酒がねえじゃねえか、おい……おう、ついでくれよ。おう、ついでくれってえのに……」
「おめえ、たいへんになんじゃねえか。まあ、これくれえのとこでひとつまあ、めでたくおおさめということにしなけりゃあ、なあ、もう、それでいいだろう? ざるとはかりをわたすから、商《あきね》えにいきねえな」
「じょうだんいっちゃあいけねえ。商えにいこうと、いくめえと、そんなこたあ大きなお世話だ。さあ、ついでくれってんだよ」
「おめえ、飲んでちゃいけねえんだろ? 一日商売をやすむと、うちには、六十八のおふくろと、十二をかしらに、三人の子どもがいるんだろ? ええ、あした、釜のふたがあかねえことになるといけねえんじゃねえか。まあ、いいかげんに切りあげて、でかけなよ。さあ」
「なんだと? あした、釜のふたがあかねえだと? なにいってやんでえ。ふざけたことをぬかすねえ。そうみくびってもらいたくねえや。そりゃあ、おらあ貧乏してるよ。貧乏はしているが、人間てえものは、雨ふり風間《かざま》、病みわずらいてえものがあるんだ。そのたんびに釜のふたがあかねえでどうするんでえ。これで、久六といえば、くず屋仲間じゃあ、ちったあ人に知られた男だ。一日や二日やすんだって、おふくろや女房子どもを飢え死にさせるようなまねをする気づけえがあるもんか。ばかにすんねえ。さあ、ついでくれ、ついでくれ!」
「なにもそう怒るこたあねえじゃねえか。おめえが釜のふたがあかなくなるっていったんじゃねえか。だから、おらあ……」
「なにをいってやんでえ。けちけちすんねえ。てめえの酒じゃあねえじゃあねえか。おれが死人《しびと》をかついで、かんかんのうをおどらしたから、大家のうちから持ってきたんじゃあねえか。釜のふたがあかなくなる? ふん、なにいってやんでえ。酒がなくなったら、酒屋へいきゃあ売るほどあるんだ。なんだ? 銭がねえ? 香奠があるじゃねえか。それを持ってって買ってくりゃあ生きぼとけさまはご満足だ。ぐずぐずいうない。このしみったれ野郎。つげよ。つげってんだから、ついだらいいじゃあねえか。おう、やさしくいってるうちにつぎなよ。おいっ」
「なにもそう怒らなくったっていいじゃあねえか。つぐよ、つぐよ。つげばいいんだろ? なんでえ、まるで、あべこべじゃあねえか。おい……つぐけどね、そんなにやっていいのかい?」
「いいもくそもあるもんか。さあ、さっさとつげ。この野郎、なんてどじなんだ。てめえは……こうなりゃあ、おらあ、もう帰らねえよ。このまんま、はいさようならでそとへでたところが、商売が手につくはずがねえじゃあねえか……うーん、うめえ、酒はいいね……なあ、こうやって、死骸をここへおいていくなあ心持ちがわりいじゃねえか。ちゃんとおさめるものはおさめて、せめて花の一本や線香のひとつぐれえあげて、することだけはしようじゃねえか」
「うん、じつは、おれもこんなことはなれねえし、どうやってしまつをつけたらいいんだかわからねえで弱ってたんだ」
「ちぇっ、だらしのねえ野郎だなあ。これっぱかしのことで、大の男が弱ったもねえもんじゃねえか。おらあ、こんなこたあなれてるんだ。おめえがたのむてえなら、手つだってやってもいいぜ。どうするい? おい」
「そうか、そいつあありがてえ。おめえに手つだってもらえりゃあ、おらあたすかるんだがなあ、じゃあ、ひとつたのまあ、久六さん」
「あはははは、ひとつたのまあ、久六さんときたな。ちくしょうめ。よし、おれがひきうけてやる。その前に、もう一ペえついでくんねえ。もう一ペえ」
「大丈夫かい、そんなに飲んで?」
「酒は飲んでも飲まいでも……よ。さあ、ぐっとついでくれ」
「じゃあ、つぐよ。それ……」
「おー、おっとっとと……うん、いい心持ちだ。じまんじゃねえが、おらあ、こんなこたあなれてるんだ。生ぬるい湯はねえか? ねえ? そうだろうな。じゃあ、水でもいいや。湯灌《ゆかん》のかわりにからだをふいてやって……髪の毛もだいぶ伸びてるな。どうせこれで極楽へいける野郎じゃねえ。地獄おちだろうけれども、せめてあたまだけぐりぐりまるめて、ほとけのかたちだけはつけてやろうじゃねえか」
「それがいけねえんだ。なけなしの銭で床屋をたのんだって、安くはやっちゃあくれめえ」
「なにいってやんでえ。床屋なんかたのむこたああるもんか。いいんだよ、おれがやってやるから……おらあ、うちのがきなんざあ、みんな自分でやるんだから、こんなこたあわけなしだ。こんちくしょう、おれがぐるぐるっと、ちょっと坊主にしてやらあ」
「だけども、かみそりがあるかなあ、このうちに」
「かみそりが? このうちに? あるはずはねえじゃねえか。菜っ切り庖丁だって満足にありゃあしねえんだから……まあ、ここのうちにねえったって、長屋にはあらあ。いいか、こっちがわの二軒目のうちに女が二、三人いる。女のいるところには、かみそりはきっとあるから、そこへいって借りてこい」
「借りてこいったって、長屋のものは、おれの顔を知らねえから……」
「まぬけっ、どじっ!! だから、らくだのところからまいりましたが、じきにおかえし申しますから、かみそりを一ちょうお貸しなすってくださいといいねえな」
「だけども……こまるなあ、おれのつらあ知らねえから、むこうで貸すか貸さねえか」
「なにいってやんでえ。貸すも貸さねえもあるもんか。じょうだんいうねえ。貸すの貸さねえのとぬかしゃあがったら、死人をつれてきて、かんかんのうをおどらせるってそういえ」
「なんだい、そりゃあ、おれのせりふじゃねえか。ものごと、あべこべになっちまった」
「ぐずぐずいってねえで、はやくいってこい……おらあ、そのあいだにからだをふいてやってるから……」
らくだの兄弟分は、すっかり煙にまかれてかみそりを借りてくると、くず屋は、酔ったいきおいで、相手はどうせ死んでるんだから、いたいもかゆいもないってんで、らんぼうにがりがりがりがり剃《そ》って、どうにかあたまをまるめて、これを四斗樽のなかへ、ふたりでおしこむと、着ていた着物を上へかぶせて荒縄でひっくくってしまいました。さあ、これでひと安心だというので、これからまた、ふたりで、したたかにがぶがぶやって、いざでかけようとしたんですが、さあ、寺がどこだかわかりません。
「こいつあこまったなあ。馬の寺はどこだか聞いてなかったし、おれの寺へもまるっきり無沙汰《ぶさた》をしているから、かつぎこむわけにはいかず、しょうがねえなあ。おい、久六さん、どこかあるめえか」
「そうよなあ、おれんとこでも、まだこっちにきまった寺はねえが、すこし遠方だけれども、落合の火葬場《やきば》に、おれの友だちの安公てえやつがいる。いつかあそびにいった割り前の勘定をおれがたてかえてあるんだ。そいつをまけてやるから、これをひとつないしょで、どうか火屋《ひや》のついでに、どうでもかまわねえ、ぼうっとひとつ焼いてくれろといったら、友だちのことだ。なんとかやってくれるだろう」
「そういきゃあありがてえ。すぐにかついでいってしまやあいいんだが、ただこまるなあ骨《こつ》あげだ」
「骨あげなんて、そんなめんどうなことがいるもんか。どっか田んぼのすみへでもおっぽりこんでくれといやあ、むこうでどうにかしてくれらあ」
「そんなら、なおはなしは早えや」
「そうとことがきまったら、もう酒がねえようだ。長屋からきた香奠で酒を買っちまいねえ」
「よし、そうしよう」
のんきなやつがあるもんで、ふたりとも、ありったけの銭で酒を買ってきてやったもんですから、すっかり酔ってしまいました。
「さあ、でかけよう」
「でかけるのはいいが、久六さん、途中で日が暮れると、ちょうちんがなくってこまるぜ」
「なーに、ちょうちんなんかいるもんか。おれが道案内をよく知ってるから……じゃあ、おれが先棒《さきぼう》だよ。さあ、かつごうぜ。どっこいしょのしょっと……さあ、いくぜ。こうかつぎはじめは、たいしたこたあねえが、ながくかついでると、だんだんとおもくなってくるからなあ。いいか、ほーらほーら、ほーらほーら、どっこいしょのどっこいしょ、あーらよお、あーらよおときやがら……あーこりゃこりゃ」
「おいおい、久六さん、だまってあるきなよ。なんぼなんだって、とむれえに、あーこりゃこりゃてえやつもねえじゃねえか」
「景気がいいじゃねえか」
「とむれえに景気はいらねえや」
「そうでねえよ。なんでも当節は景気をつける世のなかだ。それ、おとむらいだ、おとむらいだ。さあさあ、おとむらいのお通りだい」
「なにもことわらなくったっていいやな」
「ことわらなくっちゃあ、たくあんとまちがわれらあ。とむらいだといわねえと、人が、とむらいだとおもわねえぜ」
「なんだい、往来の人が笑ってらあ」
「なにを笑やあがるんだ。とむらいをたたきつけるぞ! あははは、おどろいてにげやがった……ああ、そろそろくらくなってきたな。ここを姿見《すがたみ》橋てんだ。この橋をわたれば高田の馬場、道はわりいが、いわば一本道、まがったり、くねったり、田んぼだとおもえば畑、畑だとおもえば田んぼといやな道だ。そのすこしさきに、また、ちいさい土橋がある。その土橋をわたって、つきあたって、左へいけば新井の薬師、右へいけば火葬場だ。いいか、しっかりかついで……そうそう……くらくなったから、せっせとあるくんだ。もうすこしだからな。しかし、せっかくいって、安公がいねえとたいへんだなあ……どうかいてくれればいいが……あっ、いけねえ、穴があった」
「あぶねえなあ、どうかしたか?」
「どうもしねえが、こんなところへ、なんだって穴をあけておきゃあがるんだ。ああ、こりゃあ、水がでたんで、土がながれこんだんだ。どうも肩が、片っぽうばかりじゃあいけねえや。すこしかえてくれ。おめえは、やっぱり左か、おれは右だ。すこしくれえ調子が狂ったっていいや。とにかく片っぽうばかりじゃあまいっちまう。さあ、いいか、ほら、どっこいしょのしょっと……そら、ちっと楽《らく》になった。こうやって、肩をとりかえりゃあ、そんなにおもかあねえんだ……さあ、こっちへまがって、よし、ここでいいんだ……おーい、安公、やーい、安公」
「おう、だれだい? ……なんだ、久さんじゃねえか。めずらしいなあ、どうしたい?」
「なあ、安公、ひとつたのまれてくんねえ」
「なんだい?」
「このあいだの割り前は棒びきにしちまうから、ないしょでひとつ焼いてくれ。なあ、おめえとおれとの仲だ。そこんとこは、うまく火屋のついでにやってくれ」
「なにしろ、まあ、なかへへえってくれ。こっちへきねえ。ほとけは子どもか?」
「いいや、おとなもおとな、大おとなだ」
「どれどれ……あれっ、桶のなかには、なんにもねえじゃあねえか」
「なかになんにもねえ? そんなはずはねえんだが……どれ、どれ……あれっ、底がぬけちまってらあ」
「あっ、そうだ。さっき、久六さん、おめえが穴へおっこって、ズドンといったときに、橋のところへおっことしてしまったんじゃねえか?」
「うん、そういやあ、あのとき、いやにかるくなったとおもったが、きっと、はずみで底がぬけちまったんだ。こいつあ弱ったな。まあ、はやくいってみよう。まごまごしてると、だれかひろってっちまうといけねえから……」
「だれがひろうやつがあるもんか、あんなもの」
「しょうがねえ。じゃあ、おぶってこようか、ええ?」
「よしなよ、もう……」
「だって、どうせ一ペんしょったんだから……もともと、おめえがしょわせたんじゃねえか」
「だけどもよう、久六さん、もうおぶうのはよしなよ。あんまり気色《きしよく》のいいもんじゃねえぜ」
「そういわれてみりゃあそうだな。この桶の底がぬけてるから、おぶってこようとおもったんだが、じゃあ、縄で底をひっからげて、なかへおしこんでこよう……さあ、いいか、いくぜ。よいしょ、よいしょと……世話をやかせる野郎じゃねえか。迷い子の迷い子のらくだやーいときやがらあ………ええと、土橋からこっちへ……おう、たしかこのへんだ。ええと……なんでもこのあたりに穴があいてたんだが……」
あっちこっちさがしていると、この淀橋《よどばし》あたりには、むかし、願人坊主《がんにんぼうず》というものがたくさんおりましたもので……きょうは、御命日《ごめいにち》で、もらいがあったので、したたか飲んで、すっかり酔っぱらって、前後も知らずに橋のそばでぐうぐういい心持ちで寝ておりましたのを、久六もらくだの兄弟分もすっかり酔っておりますから、てっきりらくだの死骸だとおもいこんでしまいました。
「ああ、あった、あった。これだ」
「うん、たしかにこれだ」
「さあ、いいか」
「よし、おれがあたまのほうを持とう。あれっ、すこしあったけえぜ」
「地息《じいき》であったかくなったんだろう」
「いやにぶくぶくふとったぜ」
「夜露がかかってふくれたんだ」
なにしろのんきなもんで、この大きな坊主を早桶にいれようとしたが、なかなかはいりません。
「からだ半分しかはいらねえな」
「はみだしてもかまわねえ。さあ、いくとしようか。いいか」
「いいよ」
「いやにおもくなりゃあがったが、こんどはすぐそばだからがまんしろよ」
「ああ」
酔ったふたりが、らんぼうにかついでいきますので、樽におしこまれた願人坊主も苦しいから、うん、うんうなりながらかつがれてまいります。
「この野郎、死んだくせに、『うん、うん』うなるなよ」
「うん、うん、うん、うん」
「うなるなってえのに……」
「くるしいや」
「ぜいたくいうねえ。もうじき焼けばらくにならあ」
「焼かれるのはいやだ」
「なにをぬかしゃあがんでえ。いやもくそもあるもんか」
「おいおい、久六さん、よせよ。ほとけと喧嘩するなよ」
「喧嘩するわけじゃあねえけど、ぜいたくなことをぬかしゃあがるからよ。こんちくしょうが……」
酔っぱらってますから、ほとけがしゃべったのを、ふしぎだとも、こわいともおもいません。
「おうおう、ついた、ついた。安さん、安さん、あった、あった。まっくらなところにおっこってやがった」
「こいつあ大きいな」
「夜露でだいぶふくれやがった」
「じゃあ、すぐに焼いてやろう。もう薪《まき》はつんであらあ」
「そいつあありがてえ。うまくやってくれ」
足のほうから火がかかると、もともと死んでいないんですから、願人坊主がおどろきまして……
「あつい、あつい、あつ、あつ、あつ……」
「やあ、はねおきやがった」
「あつい、あついといったぜ」
「やい、なんだって、こんなところへおれをいれやがった。一体《いつてえ》ここはどこだ?」
「ここは、日本一の火屋《ひや》だ」
「ああ、冷酒《ひや》でもいいからもう一ぱい」
松竹梅
結婚式のお祝いのことばは、むずかしいものでございます。
切れる、離れる、去るなどという不吉なことばは避《さ》けなければなりませんし、あまり型通りであったり、長すぎたりしないようにして、しかも、短時間で内容のあることをいわなければならないのですから、じつにたいへんなものでございます。
「こんちわ、ご隠居《いんきよ》さん」
「おや、どうしたい? 松つあん、竹さん、梅さん、おそろいで、なにか用かい?」
「ええ、ご隠居さん、じつは、おねがいがあってうかがったんですが……」
「おねがい?」
「ええ、三人のところへお店《たな》から手紙がきたんですが、あいにくと、三人とも有筆《ゆうひつ》で読めねえもんで……」
「なんだ、有筆で読めない? それをいうなら無筆じゃないか」
「まあ、そうともいいますがね」
「そうともじゃないよ。そういうんだよ……で、あたしにねがいというのは、その手紙を読んでくれというのかい?」
「そうなんで……ひとつおねがいします。ひょっとして、お店から叱言《こごと》でもいわれるんじゃねえかとおもいまして、心配なもんですから……」
「どれどれ……うーん、これならば、べつに心配することはないよ。これは、おまえさんたちへの招待状だからな」
「へーえ、そうだったんですか。なーんだ、招待状か。おい、竹、梅、心配しなくってもいいぞ。叱言じゃあねえ。招待状だそうだから……ふーん、招待状とは気がつかなかったなあ、なーんだ、招待状だったのか。あはははは……招待状ってえなあなんです?」
「なんだい、わからないのに、わかったようなことをいうなよ。招待状というのは、三人がお招《よ》ばれだな。お店にご婚礼があるんで……」
「へえへえ、お婿《むこ》さんがおいでになりますから……」
「つまり、おまえさんがた、三人とも、ご婚礼のご披露宴《ひろうえん》でごちそうになれるんだ」
「ごちそうに? そいつあ、ありがてえや」
「いや、それにしても、おまえさんがた三人そろってのお招《よ》ばれはめでたいなあ」
「へーえ、そんなに、あっしたちはめでてえですか?」
「ああ、おまえさんたちは、人間がおめでたい……いや、そんなことはじょうだんだがな、おまえさんたちの名前が、松五郎、梅吉、竹造、つまり、松竹梅だ。せっかく、こんなめでたい名前をもった三人がごちそうになるのだから、ただ飲み食いして帰ってくるのでは興がないじゃないか。どうだい、このめでたい三人で余興《よきよう》をやってあげたら……きっと、よろこばれるぞ」
「余興ですか? どうも余興とくると、こまっちまうんでねえ。なにしろ、あっしたちは、そろって無芸大食のほうなんですから……」
「いや、余興といっても、べつにたいした芸をやるわけじゃあないんだ。かんたんなことだから、すぐにおぼえられるよ」
「すぐにおぼえられる? どんなことなんで?」
「まあ、お婿さんをお祝いするんだが、三人でやればちょうどいい」
「三人で? どんなことを?」
「なったあ、なったあ、じゃになった。当家の婿どの、じゃになった。なんのじゃになられた。長者になられた。おめでとうございます。おひらきにいたしましょう……まあ、これだけの文句を三人でやるんだ」
「へー、なるほど。こりゃあみじけえや。さっそく教えてください」
「よろしい。この文句はな、謡曲《うたい》のほうからでたともいわれているが、婚礼の場所なんだから、上品にやらなければいけないよ。松つあんが正座だ。で、三人がこういうふうにならぶんだ。いいかい、松つあん、おまえさんからはじめるよ。謡曲《うたい》の調子でやるんだ…… なったあ、なったあ、じゃになったあ。当家の婿どの、じゃになったあ」
「うふふふ、こりゃあおどろいた。じつにどうもまぬけな声がでるもんですねえ」
「まぬけな声というやつがあるか。まあ、やってごらん」
「やってみますがね、どうも弱ったなあ。えへ……なっ……えへへへ……なっ……えへへへ……なっ」
「いやにひっかかるなあ。いいかい、謡曲の調子だよ。 なったあ、なったあ、じゃになった」
「へえ、なっ、なっ……なった……なっとう、なっとう」
「おいおい、それじゃあ納豆《なつとう》屋だよ。 なったあ、なったあ、じゃになった……やってごらん」
「へえ……なったあ、なったあ、嫌《や》になったあ」
「嫌《や》になっちゃあいけないよ。じゃだ」
「そうそう、じゃだ。じゃじゃじゃじゃ……」
「なんだい、水をこぼしてるようだな。じゃになったあ……だよ」
「じゃになったあ」
「 当家の婿どの……となあ」
「えへへへ……とう、とう、とう……とーふい」
「納豆屋のあとが豆腐屋かい。松つあんのは、みんな物売りになっちまうな…… 当家の婿どの……となあ」
「と、と、と、当家のむくどの……」
「おいおい、それじゃあ犬だよ。むくどのはいけないよ。 当家の婿どの……だよ」
「へえ、当家の婿どの……」
「どうもうまくないなあ、 なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿どの、じゃになったあ……いいかい、よく工夫《くふう》しろよ。じゃあ、こんどは竹さんだ。おまえさんは、なんのじゃになられた、と、これだけだ」
「へえ、あっしゃあ、松みてえなことはありません。なにしろ義太夫だってやってるんですから……」
「そうか、やってごらん」
「へえ、へえ……では……デデンデンデンデンデン……」
「なんだい、それは?」
「義太夫の三味線で……」
「そんなものはいらないよ……なんのじゃになられた……とな」
「へえ…… なんのお……えん……りょ……」
「おいおい、義太夫のふしになっちゃいけないよ……ただ、なんのじゃになられた……と、軽くやればいいんだ」
「なんのじゃになられた」
「そうそう、それくらいならいいだろう……さあ、こんどは梅さんだ。おまえさんは、長者になられた。おめでとうございます。おひらきにいたしましょう……と、これだけいって、みなさんをよろこばせるというたいへんにいい役だ。しかし、ひとつやりそこなえば、すべてがぶちこわしになっちまう。しっかりおやりよ」
「ええ、もうご心配なく、大丈夫ですから……」
「そうかい。ちょっとやってごらんよ」
「いいえ、もう心配いりません。べつにやってみなくっても……」
「おい、梅、おめえはそれがいけねえんだよ。安うけあいしてるけど、なにしろそそっかしいんだから、やってみろよ。ご隠居だっていってるだろ、ひとつやりそこなえば、ぶちこわしだって……」
「だから、わかってるよ」
「わかってるんなら、やってごらんよ」
「いいよ。おれの文句はみじけえんだから……」
「みじけえったって、とにかく、おめえは、そそっかしいんだから、やってみろよ」
「じゃになられた」
「なんだと? ただ、じゃになられたじゃだめじゃねえか。ねえ、ご隠居さん」
「ああ、長者になられたとやらなければいけないなあ。やってごらん」
「へえ……長者になられた」
「そうだ。わすれないようにな。まあ、よく稽古《けいこ》して、うまくやっといでよ」
「へえ、どうもありがとうございました。じゃあ、いってきますから、へえ、ごめんなさい……おいおい、竹に梅、うまくやって、ひとつ旦那をよろこばしてあげようじゃねえか。いいかい、むこうへ着くまで稽古しようぜ。さあ、おれからはじめるぜ。いいかい、竹、うまくうけてくれよ」
「ああ」
「なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿どの、じゃになった」
「なんのじゃになられた……さあ、梅だよ」
「おれかい、えへへへ、じゃになられた」
「ほれ、ほれ、またやってやがる。ただのじゃはだめだよ。長者じゃねえか」
「わかってんだよ。だからさ、竹がさ、なんのじゃになられた、おれが長者になられたよ。竹がなんのじゃになられた、おれが長者になられたと、こういきゃあいいんだ」
「おいおい、梅、竹のことはどうでもいいんだよ。じゃあ、もういっぺんやるぜ。いいかい、なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿どの、じゃになった」
「で、竹がなんのじゃになられた。おれが長者になられた」
「おい、梅、竹のぶんまでやっちまっちゃあだめじゃねえか。おめえは、長者になられただけでいいんだから……いいか、あわててまちがうなよ」
「ああ、いざとなりゃあ大丈夫だよ」
「ほんとにしっかりしてくれよ。いいかい、さあさあ、お店だよ……こんちわ、ええ、ごめんください。番頭さん、どうもおめでとうございます」
「おめでとうございます」
「ええ、おめでとうございます」
「ああ、ごくろうさま。旦那さまがお待ちかねだから、はやく奥へいっとくれ」
「へえ、ありがとうございます……へえ、旦那、おめでとうございます」
「どうもおめでとうございます」
「ええ、おめでとうございます」
「おや、松つあん、竹さん、梅さん、三人おそろいできてくれたかい。いや、ありがとう。松竹梅そろってきてくれてうれしいよ。きょうは無礼講だ。遠慮なくやっとくれ」
「へえ、ありがとうございます。どうもおまねきいただきまして、三人とも大よろこびで、こちらさまへお婿さんがおいでになるなんて、まことにご愁傷《しゆうしよう》さまで……」
「なに?」
「いえ、その、こんなめでてえことはねえてんで……」
「ありがとう。ひとつ十分にやっとくれ」
「へえ……ありがとうござんすが、酔っぱらわねえうちに、三人でおめでたく余興をやって、お婿さんをお祝いしてえとおもうんですが、いかがなもんでござんしょうか?」
「そうかい。そりゃあうれしいねえ。やっとくれ、やっとくれ。いま、親戚のかたに紹介するからな……さて、これにひかえておりますのは、てまえどもに出入りの若い者でございまして、松五郎、梅吉、竹造と申します。この松竹梅三人がそろいまして、なにか余興で婿を祝うそうでございます。どうぞよろしく……」
これを聞いた親戚一同は大よろこびで、拍手、大かっさいだもんですから、三人ともぼーっとなってしまいました。
「おい、竹、梅、しっかりやろうぜ。いいかい、梅、じゃになられたはだめだよ。長者だよ」
「ああ、長者になられただな」
「ええ、旦那、では、はじめさせていただきます。えへん、えへん……なっと、なっと、なっとう……いけねえ、これじゃ納豆屋だ………えへん、えへん……なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿どの、じゃになった……おい、竹」
「なんのじゃになられた……さあ、梅」
「じゃになられた」
「あれっ、またまちげえやがった……旦那、すいません。もう一ペんやりなおしますから……なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿どの、じゃになった」
「なんのじゃになられた」
「風邪《ふうじや》になられ……」
「おいおい、風邪てえやつがあるかい。旦那、もう一ペん、もう一ペんやらしてください。しょうがねえなあ……なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿どの、じゃになった」
「なんのじゃになられた」
「番茶になられた」
「あれっ、しょうがねえなあ、どうも……旦那、旦那、申しわけありません。もう一ペんやりなおしますから……なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿どの、じゃになった」
「なんのじゃになられた」
「大蛇《だいじや》……じゃありません」
「あれっ、ありませんだってやがら……どうも弱っななあ。旦那、すいません。すいません。もう一ペんだけ、もう一ペんだけやらしてください。しょうがねえなあ、おい、梅、こんどはまちげえるなよ……なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿どの、じゃになった」
「なんのじゃになられた」
「亡者《もうじや》になられた」
「ご隠居さん、いってきました」
「おや、松つあんに竹さん、どうしたい? まっ青な顔をして……」
「それがねえ、ご隠居さん、梅の野郎がとんでもねえことをいいやがったんで……」
「とんでもないことをいった?」
「ええ、それが、よりによって、亡者になられたなんて……」
「亡者? ふーん、えらいことをいったな」
「ですからねえ、とうとうひらきそこなっちまいまして……」
「そうかい、で、梅さんはどうしたい?」
「ええ、きまりわるそうにぐるぐるまわってましたが、どうしたはずみか、床の間へとびこみましてね、すみのほうで、ちいさくなってしおれてました」
「ああ、そうかい。梅さんが、床の間でしおれてた? それでは心配ないよ。梅さんのことだ。いまごろは、ひとりでひらいているだろう」
首屋《くびや》
江戸時代に、首を売ってあるいたという、じつにふしぎな男がおりました。
なにをやってもうまくいかないから、いっそのこと、首を売っちまおうってんで、ふろしきづつみをひとつしょって、街へやってまいりました。
「ええ、首屋でござい。ええ、首や首、ええ、首や生首《なまくび》……うふふふ、生首てえのは、われながらうめえなあ、なにしろ、すご味があっていいや。ええ、首や首、首屋でござい」
こんな調子で、番町あたりまでやってまいりましたが、むかしは、このあたりは、旗本屋敷が多かったところで、この売り声を、殿さまが聞きつけました。
「これ、三太夫《さんだゆう》、あれへまいる者が、首屋、首屋と申しておる。ふしぎな稼業《かぎよう》があるものじゃな」
「いえ、それは、お聞きちがいでございましょう。首屋ではございますまい。栗屋《くりや》でございましょう」
「いや、そうではない。たしかに首屋と申しておる。もしも首ならば、もとめてつかわすによって、よくしらべてまいれ」
「ははあ、承知つかまつりました……じょうだんいっちゃいけない。ばかばかしいにもほどがある。だれが、世のなかに、ふたつとない首を売る人間がいるものか……ああ、これ、これ、それへまいる商人《あきんど》、これ」
「へえ、およびでございますか?」
「そのほう、いったい、なにを商《あきな》う?」
「首でございます」
「栗か?」
「いいえ、あたくしの首を商います」
「なに? 首を? ふーん、これはおどろいたな。やはり首であったか。さようなれば、殿がもとめるとおっしゃる」
「ありがとう存じます。どうか値をよくおもとめをねがいとうございます」
「よろしい。これからな、この塀にそってもうすこしまいると、切り戸(塀にあるくぐり戸)がある。そこをあけてつかわすによって、庭さきにひかえておれ」
「へえ」
首屋は、いわれた通りに庭にしゃがんでおります。
殿さまは、縁がわにでてくると、
「これこれ、三太夫、この者か? 首を商うのは?」
「御意《ぎよい》の通りにございます」
「さようか。これこれ、町人、即答をゆるすぞ。そのほう、いかなる仔細《しさい》で首を商うのじゃ?」
「へえ、たいしたわけもねえんでございますが、なにをやってもうまくいきませんから、いっそのこと、首でも売ったほうがよかろうとおもいまして……」
「ふーん、さようか。しからば、いったい、いくらでその首を商うのじゃ?」
「七両二分でございます」
「ほほう、七両二分か……して、その金子《きんす》は、身寄りの者にでもとどけつかわすのか?」
「いいえ、あたくしが頂戴《ちようだい》いたします」
「そのほうが? しかし、そのほうは、首を商うのであろう? 金子など必要あるまい? どうするのじゃ?」
「いえ、どうもこうもございません。てまえがいただきまして、胴巻きへいれて、ちゃんと腹へ結いつけとうございます。まあ、死ねば、あたくしのいくのは地獄でございましょう。地獄へいきましたところで、地獄の沙汰《さた》も金しだいと申しまして、金があれば、鬼もいくらかやさしくしてくれるだろうとおもいますので……」
「なかなかおもしろいことを申すやつじゃ。三太夫、しからば、金子《きんす》をつかわせ」
「かしこまりました……さあ、七両二分、ありがたく頂戴をしろ」
「へいへい、どうもありがとう存じます。では、こういうぐあいに、金をすっかり胴巻きへしまいまして、ぴったりと腹へおしつけておきます」
「しからば、よいか?」
「へえ、まことにおそれいりますが、切り戸をあけて、もう一ペんだけ娑婆《しやば》のほうをみせていただきたいのでございます」
「うん、さようか。これ、三太夫、切り戸をあけてつかわせ……どうじゃ?」
「へえ、ありがとうございます。ついでのことに、切り戸はそのままあけておいていただきとう存じます」
「よし、そうしてつかわすぞ。では、過日もとめた新刀をためしてみるによって、……念仏か題目《だいもく》でもとなえたらよかろう」
「いいえ、もう念仏にも題目にもおよびません。すっぱりおやりになって……ええ、ちょっとお待ちくださいましよ。ただいま、おくれ毛をすっかりかきあげまして、斬り損じのないようにしてさしあげますから……さあ、おやんなすってくださいまし」
「うむ」
殿さまは、白鞘の刀を手にして、庭へおりてくると、すらっと一刀をぬきます。中間《ちゆうげん》が、手桶からくんだ水を、鍔《つば》きわから切っ先までさーっとかけますと、殿さまは、ぴゅーっと刀を水ぶるいして、首屋のうしろへまわりました。
「よいか」
「へえ」
「えいっ」
と、声をかけて斬りおろすのを、首屋が、ひらりと体《たい》をかわしたかとおもうと、そばにあったふろしきづつみから、張り子の首をほうりだして、切り戸から、ぱっと逃げだしました。
「これこれ、首屋、首屋、これは、張り子の首ではないか。買ったのは、そちの首だ」
「へえ、これは看板《かんばん》でございます」
尻餅《しりもち》
一年中で、いちばんあわただしい月は十二月で、十二月と聞いただけでも、なんとなく人の気があわただしくなりますもんで……以前には、二十四、五|日《ち》ごろにもなりますと、餅《もち》の賃つき屋のおやじが、大きな釜をさしにないにして、地獄のひっこしみたいなかっこうで、よっしょ、よっしょとあるきまわりましたな。そのあとから、しめ縄売りがくる……そうすると、もう正月が目の前というもので……
「ねえ、おまえさん、ねえ、おまえさんてば……」
「なんだ」
「なんだなんてすましてるけど、いっぺん煙管《きせる》を口からはなしたらどうなんだい。そんなふうに、黒くて長い顔で、煙ばっかりだしてたら、まるでえんとつじゃあないか」
「そうおまえみてえにいったら、おれに三|文《もん》の値打ちもねえじゃねえか」
「三文どころか、一文の値打ちもありゃあしないよ。きょうはいくん日《ち》だとおもってるんだい?暮れの三十日《みそか》だよ」
「そうよ。きのうが二十九日で、あした三十一日《おおみそか》だ」
「むこうにお正月がくるんだよ」
「そりゃあ、おめえ、むこうに勝手にくるんじゃねえか。なにも、おれがよんだわけじゃあねえや」
「よくまあ、そんな気楽なことがいってられるねえ。こうやって、あたしが針仕事してるのを、なんだとおもってるんだい。子どものものを縫うったって、みんなご近所の子のものだよ。うちの子どものものなんか、まるっきりありゃあしない。いつもおなじものばかり着せていて……せめて正月には、親の気持ちとして、一枚のものでも買ってやりたいじゃあないか。それなのに、おまえさんのはたらきがないから、端切《はぎ》れのひとつも買えやしないじゃないか。しかたがないから、ありもしない古切れをかきあつめて、どうかこうか手の通るようにしてやりたいとおもってるんだよ……ねえ、おまえさん、聞こえてるのかい? あたしの連れっ子じゃなし、ふたりのなかにできた子だよ。おまえさんだって、身におぼえがあるだろう?」
「なにいってやんでえ。いいかげんにしろい」
「いいかげんにしろじゃあないよ……着物はまあしかたがないとして、近所では、みんなもう餅つきがすんじまったよ。入り口の徳さんをごらんよ。秋にあれだけわずらって、こまった、こまったといっていながら、やっぱりちゃんと一斗の餅でもついてるじゃあないか。二軒目のお芳さんだって、女だけども、きちんとしてるから、五升の餅をついてるし……おとなりなんか一斗五升もついたよ」
「餅なんかどうでもいいじゃねえか」
「そりゃあどうでもいいようなもんだけれどさ。子どもが帰ってきて、『おっかさん、うちは、いつ餅つくんだい?』って聞かれるたびに、身を切られるようにつらくてさ……近所の手前もあることだし、せめて餅つく音だけでもさしてやったらどうなのさ」
「じゃあ、なにかい。音だすぐらいのことでいいのか?」
「そりゃあ気のもんだからさ。すこしだけでも……」
「よし、音だけさしてやらあ」
「ほんとうかい? うれしいねえ。で、どのくらいついてくれるの?」
「そうさな。おめえがいいっていうまでついてやらあ」
「そうかい。そんなら、お米たのんでこようか」
「ばかっ! 米が買えるくれえなら、なにも心配なんかするもんか」
「だって、いま、音だけでもさしてやるといったじゃないか」
「そうよ。近所へ餅つく音だけ聞かしたらいいんだろう?」
「そうだけれども……どんなことをするのさ?」
「今晩、夜なかにおれを起こせ。おれは、おもてへとんででて、路地の戸をドンドンたたかあ。そしてな、『山田さんは、このうらでございますか。賃《ちん》つき屋でございます』と大きな声をださあ」
「うん、うん」
「いいか、そしたら、おめえは、すぐに路地の戸をあけにこい。近所のやつが聞いたら、ははあ、あすこでも餅をつくなとおもわあ」
「いくらそんなことをしたって、かんじんの餅つく音がしないじゃないか」
「それをさしてやるんだ。おれが、一世一代の知恵をしぼったんだ」
「どうするのさ?」
「いいか、おれが『餅つきにきた』とどなってうちへはいったら、おめえはうつぶせになって寝ころべ」
「へえ? で、どうするんだい?」
「うつぶせになって寝ころべば、どうしたって、尻が上にならあ」
「うん」
「その尻を、おれがたたいて、餅つきの音をださあ」
「あらっ、ほんとにお餅をつくんじゃあないのかい」
「あたりめえよ。だから、さっきいったろう。餅つきの音だけでもさせてやるって……」
「おやまあ、ほんとに音だけなのかい。がっかりさせるねえ。まったくおまえさんてえ人は情けない人だよ。ろくなことをかんがえつきゃあしない」
「しかし、おめえ、めでてえじゃねえか」
「なにがめでたいのさ?」
「今夜は餅つきだぜ」
「なにいってんだい。あたしゃ、夜なかに、お尻をたたかれるのかとおもうと、情けなくって寝られるもんかね……」
「えらくさむいなあ」
「ふとんがうすいからしかたがないのさ。これもおまえさんのかせぎのせいだよ。ほんとにしっかりしておくれよ。それでも子どもはいせいがいいねえ。あついのかしら、こんなにあばれてさ……ちょっとこの子の足を押しとくれよ。あたしの寝間着をやぶるじゃないか」
「やぶれたら、また買えばいいじゃねえか」
「まあ、えらそうなことをおいいでないよ。やぶれたら買うなんて……おまえさんと世帯を持ってずいぶん長いけれど、まだ腰巻一枚でも買ってくれたおぼえがあるかい? あたしが奉公してた時分に持っていた腰巻を一枚一枚だしてつかっていたのが、先月でもうなくなっちまってさ。女が腰になにも巻かないのはいけないとおもって、このあいだからふろしきを巻いているんだよ。きのうもせんたくしようとおもって、うっかりきもののすそをまくったら、のり屋のおばさんにみつかってさ。『あら、おさきさん、おまえさんのお尻に大きな桐の紋がついてるけれど、これがほんとのこーもんだよ』ってからかわれちまったじゃないか……もう、あたしゃあ恥ずかしくって、ほんとにおまえさんをうらんだよ」
「まあ、しょうがねえやな。寝ろ、寝ろ」ってんで、夫婦とも寝てしまいました。
さて、夜なかになると、
「おまえさん、おまえさん、起きておくれよ……まあ、この人の顔ってえものは、どういうもんだろう。男の寝顔はかわいいもんだというけれど、うちの人の寝顔は、なんてんだろうね。傍若無人《ぼうじやくぶじん》という顔だよ。大家さんの坊っちゃんが、人間の先祖は猿だといってたけれど、うちの人は、ご先祖の顔をそのまま形見《かたみ》にもらったんだろうかしら? 出雲の神さまもほんとに情け知らずだよ。こんな男と縁をむすんだりしてさ……ああ、鼻からちょうちんだしてるよ。お祭りの夢でもみてるのかしら? ……ああ、ひっこんだ……雨でもふってきたとこかしら? ……ああ、またでた、またでた……まあ、いくらでもでてくる。まったくあきれた人だね。あたしゃあ、いつもこんな人に抱かれてるのかとおもうと、情けなくなるね。ちょいと、おまえさん、ちょいと……」
「あーあ……なんだよ」
「なんだよじゃないよ。そろそろあれをはじめようよ」
「ええっ、あれをはじめよう? よそうぜ。今夜はねむいから……あしたの晩、今夜のぶんもたっぷりしようじゃあねえか」
「あらっ、なにを勘《かん》ちがいしてるんだよ。餅つきじゃないか」
「だから、おれのきねをつかって、おめえのうすをつくんだろ」
「いやだね。まだ寝ぼけてるよ。そうじゃない、おまえさん、餅つきの音をだすんだろ」
「あっ、そうそう、餅つきの音、餅つきの音だっけ……」
女房につきだされるようにおもてへでたのですが、とたんに師走《しわす》の風が身にしみるというやつで……
「ひえー、なんてさむいんだ。なあ、この師走の晩に、のうのうと寝てるやつもあれば、かかあの尻をたたくなんてばかな目にあうやつもあらあ。まったく世のなかもさまざまなもんよ……さあて、そろそろ芝居にかからなけりゃあならねえ。なにしろ、賃つき屋とおれとの一人二役という早がわりになるのだから、いそがしくなるぞ……さあ、はじめるかな……まずドンドンと戸をはたくところからはじめなくっちゃあならねえ……ドンドンドンドン……へえ、ちょっとおたのみ申しますが、山田さんは、この路地じゃございませんか。ちょっとおたのみ申します……はあ、山田はここですよ。どなた? ……へえ、賃つき屋です。ちょっとおあけなすって……ちょっとおあけを……ちょっとおあけを……」
戸をあけますと、女房は、近所へ聞こえるような大声をあげて、
「まあ、お餅屋さん、ごくろうさま。はやくなかへはいっておねがいしますよ」
「おい、おっかあ、餅屋さんもさむいだろから、一ぱい飲んであったまってもらえ……さあ、餅屋さん、一ぱいやってくんねえ。おっかあ、さかななんか、けちけちすんねえ。その重箱ごとだしたらいいじゃねえか……それから、そこに紙につつんだものがあるだろ。それを持ってこい」
「おまえさん、紙につつんだものってなんだい?」
「餅屋の祝儀《しゆうぎ》じゃねえか」
「まあうれしい。この近所で、餅屋に祝儀だしてるうちは一軒もないよ。景気がいいねえ。そこんところを、近所へよく聞こえるようにもういっぺんいっとくれよ」
「ああ、なんべんでもいってやらあ。どうせもとでのかかることじゃあねえから……おい、餅屋さん、これはすくねえが、とっといてくんねえ。なあに、祝儀ってほどのことはねえや。ほんのたばこ銭だ。まあいいから、とっといてくんねえ」
「おまえさん、餅屋が、お礼をいわないのはおかしいよ」
「いそがしいな。一人二役ってえのは……こんどは餅屋のほうか……ええ、親方、どうもありがとうございます。こんなにたくさんのご祝儀をいただきまして……ええ、おかみさん、どうもご祝儀をありがとうございます。こうしてご祝儀をいただきますと、仕事にはげみがでます」
「いいえ、ご祝儀ってほどのことはできないんですよ。ほんの心ばかりで……さあ、おまえさん、そろそろ餅つきにかかっておくれよ」
「そうか、では、はじめるとしようか……さあ、おまえ、臼《うす》をすえろよ。臼を据《す》えろってのに……」
「なんだい?」
「臼を据えるんじゃねえか……おめえの尻だよ」
「もういやだねえ。さむいからかんにんしておくれよ」
「ばかいえ。せっかくここまでしこんでおいて、いまさらやめられるもんか。はやく臼を据えろ。はやく……」
「まったく、ろくでもないことをかんがえたもんだねえ」
「では、はじめるかな………えー、おかみさん、小桶に水を一ぱいいただきたいんで……」
「小桶に水をいれてどうするんだい?」
「臼どりにするのに、手水《てみず》がいるじゃねえか」
「えっ? お尻をまくるだけでもさむいって心配してるのに、水なんかつけられてたまるもんかね」
「がまんしろい……水をつけなかったら、餅つきになりゃあしねえ……へーい、どうもありがとうございます。では、さっそくはじめさせていただきます。フー、フー、フー、フー」
「なにをそんなにふいてるのさ」
「湯気《ゆげ》でむこうがみえないところ……」
「やることがこまかいね」
「さあ、尻をまくって、尻をまくって……やあ、しばらくゆっくりみなかったが、まっ白にもりあがって、なかなかいい尻だなあ」
「なにいってんだよ。こっちはさむくってしかたがないから、はやくやっとくれよ」
「じゃあ、そろそろはじめるか……ええ、たいへんにいい米でございますね。このねばりといい、艶といい、つきがいがあるというもんで……へえへえ、床の間のおかざりにお三宝《さんぽう》、へえ、それから小鏡が十組……あとはのし餅に……かしこまりました。では、さっそく……」
「ねえ、おまえさん、そんなにぬれた手でほうぼうなでまわしちゃあ、つめたくてかなわないよ」
「ぐずぐずいうねえ。臼のまわりに水をよくまわしとかなけりゃあ、餅がひっついちまわあ……へえ、もうめったにつきのわるいようなことはございません。へえ、また寒《かん》になりましたら、どうぞ寒餅をつかしていただきますようおねがいいたします。……ほう、坊っちゃん、お目ざめで……へへへへへ、坊っちゃん、餅屋がまいっております。坊っちゃんのおうちでは、こんなにたくさんお餅をおつきですよ。さあ、こっちへきて、お餅をならべてください。おててがあったかくなりますから……まあ、かわいらしいおててで、えへへへ……」
「なにいってんの?」
「餅屋が祝儀もらったんで、子どもをつかまえてお世辞いうところ……」
「芸がこまかいねえ」
「さあ、ぼつぼつつきはじめるかな……イヨッ、ポン……イヨ、ポン……ポン、ポンポンポンポッペンポン、ヤアポッペン、ソリャ、ポッペン、ポッペンポン、ポンポン、ソレポッペン、ポッペン、ポッペンポッペン……」
「ああ、いたい、いたい……餅屋さん、ざっとでいいから……」
「いいえ、おかみさん、ようくつきませんと、せっかくのお米にねばりがでません……ポンポン、ポッペンポン、ソレポンポン……」
「ねえ、おまえさんてば……ちょいとたたくところをかえてくれたらどうなんだい。おんなじところばかりじゃいたくてたまらないよ」
「がまんしろ。がまんしろ。臼が文句いうやつがあるもんか。さあ、ひとつ景気よくいこうぜ。ホレ、ポンポン、ホレ、ペッタン、ホレ、ポンポン、ホレ、ペッタン、ペッタンポン、ホレ、ポンポン……わあ、いい色になってきた。年増女の尻ってものは色っぽいもんだな……ホレ、ペッタン、ホリャ、ペッタン、ドッコイ、パッタン、ソレ、パタン……ああ、いてえ……これ、じっとしてろい。ひょこひょこうごくから、板の間をなぐっちまったじゃねえか」
「あんまり臼とりがはずんできたから、ちょっとから臼をつかしたところ……」
「おかしなことをするねえ。どこの世界に臼がうごくやつがあるもんか。おかげで、手の皮をすりむいちまったじゃねえか……では、またはじめるぜ……ヨウ、ポッペンポン、ハア、ポッペンポン、ソリャ、ポッペンポッペン、ポッペンポン、トコポッペン、ポッペン、ポッ……おっとどっこい、こんどは、うごいてよけようたって、その手はくわねえぞ。しずかにしてろい。もうすこしだ……ヤアポッペン、ポッペン、ポンポン、チョイ、ポッペンポッペン、ポンポン……」
「ああ、いたい、いたい……餅屋さん!」
「なんです?」
「あとまだよっぽどつくんですか?」
「へえ、あと二臼ばかり……」
「えっ、あと二臼も! ……ねえ、おねがいだから、あとの二臼は、おこわにしてください」
がまの油
むかしは、縁日へまいりますと、いろんな見世物がでておりました。
ろくろっ首なんていうのがございました。
これは、若い娘が、三味線をひきながら唄を唄っておりますと、首が、ずーっとのびて、胴体からはなれてしまいますが、そのまま唄いつづけて、また、首がもとへおさまるというもので、ちょっとふしぎな見世物でございました。ところが、じっさいには、ふしぎでもなんでもなくて、首と胴体とはべつの人間で、首がのびるようにみえるのは、うしろの黒い幕のなかではしごにのぼっていくという、ごくくだらないもので、こんなものを、お金をとってみせていたわけで……
なかには、化け物屋敷なんてえのがあったもので、はいっていくと、水上に、色青ざめて、水にふくれた死体が浮いていて、それを、一羽のからすが、腹に乗って腸《はらわた》を食べているなんてえのにぶつかります。
これは、からすの羽をぬいて、とべないようにしておいて、人形の腹へ、魚の腸をいれて食べさせたものなのですが、たいへんに気味のわるいものでございました。土左衛門《どざえもん》のまわりをぐるりとまわって、せまい道にはいっていくと、むこうで幽霊が手まねきしております。幽霊だけあかるくして、まっ暗な道ですから、みんなが下をむきながら、そろりそろりとあるいていくと、とつぜん上から化け物があたまの上へ手をだす。道をまがると、獄門の首が、口をピクピクうごかしている。そのとなりは、はりつけになった血だらけの男女が、パクパクと首をうごかしているというように、つぎつぎに客をおどかすしかけになっておりました。そのくせ、看板には、
「度胸鍛練《どきようたんれん》化け物屋敷」なんてんで、お客さまに度胸を鍛練するためだなんて恩きせがましいことが書いてあったのですから、まことにどうも人を食ったもので……
そうかとおもうと、ずいぶん、人をばかにした見世物もございまして、「さあさあ、六尺の大いたちだよ」というんで、そんなに大きないたちがいるのかとおもってはいってみると、六尺の大きな板に血がついていたり、「目が三つあって、大きな歯が二枚ある化け物だよ」というから、どんな怪物がいるのかとのぞいてみると、下駄がおいてあるだけだったり、「さあさあ、いのちの親だよ。いのちの親だ」というので、どんなものかとおもってはいってみると、どんぶりにめしが山盛りになっていたりという、じつにいんちきなものだったのですから、まことにのんきなものでございました。
また、いろんな物売りが、人をあつめて、あれこれとはなしをしたり、口上をのべたりしておりましたが、なかでの大立物は、なんといっても、がまの油売りだったようで……これは、立師《たてし》といいまして、ああいうなかまでは、かなりはばのきいたもので、がまの干《ひ》からびたのを台の上へ乗せて、わきの箱のなかには、がまの膏薬《こうやく》がはいっております。はまぐりの貝がらがつみあげてあって、横をみると、なつめ(点茶用の茶入れ)があり、刀があるというぐあいで、黒紋つきの着物に、袴《はかま》をはき、白はちまき、白だすきなんていうかっこうで、がまの油売りの口上がはじまります。
「さあさ、お立ちあい、ご用とおいそぎのないかたは、ゆっくりと聞いておいで。遠目《とおめ》山越し笠のうち、ものの文色《あいろ》と理方《りかた》がわからぬ。山寺の鐘は、ごうごうと鳴るといえども、童児|来《きた》って鐘に撞木《しゆもく》をあてざれば、鐘が鳴るやら撞木が鳴るやら、とんとその音《ね》いろがわからぬが道理。だがお立ちあい、てまえ持ちいだしたるなつめのなかには、一寸八分の唐子《からこ》ぜんまいの人形。人形の細工人はあまたありといえども、京都にては守随《しゆずい》、大阪おもてにおいては竹田縫之助《たけだぬいのすけ》、近江《おうみ》の大掾藤原《だいじようふじわら》の朝臣《あそん》。てまえ持ちいだしたるは、近江のつもり細工。咽喉《のんど》には八枚の歯車をしかけ、背なかには十二枚のこはぜをしかけ、大道へなつめをすえおくときは、天の光りと地のしめりをうけ、陰陽合体して、なつめのふたをぱっととる。つかつかすすむが、虎の小ばしり、虎ばしり、すずめの小間《こま》どり、小間がえし、孔雀《くじやく》、霊鳥の舞い、人形の芸当は十二通りある。だが、しかし、お立ちあい、投げ銭やほうり銭はおことわりだ。てまえ、大道に未熟な渡世《とせい》をいたすといえど、投げ銭やほうり銭はもらわないよ。では、なにを稼業《かぎよう》にいたすかといえば、てまえ持ちいだしたるは、これにある蟇蝉噪四六《ひきせんそうしろく》のがまの油だ。そういうがまは、おれのうちの縁の下や流しの下にもいるというおかたがあるが、それは俗にいうおたまがえる、ひきがえるといって、薬力《やくりき》と効能のたしにはならん。てまえ持ちいだしたるは、四六のがまだ。四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本、あと足の指が六本、これを名づけて四六のがま。このがまの棲《す》めるところは、これよりはるーか北にあたる、筑波山のふもとにて、おんばこというつゆ草を食らう。このがまのとれるのは、五月に八月に十月、これを名づけて五八十《ごはつそう》は四六のがまだ、お立ちあい。このがまの油をとるには、四方に鏡を立て、下に金網をしき、そのなかにがまを追いこむ。がまは、おのれのすがたが鏡にうつるのをみておのれとおどろき、たらーり、たらりと油汗をながす。これを下の金網にてすきとり、柳の小枝をもって、三七《さんしち》二十一日のあいだ、とろーり、とろりと煮つめたるがこのがまの油だ。赤いは辰砂椰子《しんしややしい》の油、てれめんてえかにまんてえか、金創《きんそう》には切り傷、効能は、出痔《でじ》、いぼ痔、はしり痔、よこね、がんがさ、そのほか、はれものいっさいに効《き》く。いつもは、一貝《ひとかい》で百文だが、こんにちは、ひろめのため、小貝をそえ、二《ふた》貝で百文だ。まあ、ちょっとお待ち。がまの油の効能はそればかりかというと、まだある。切れ物の切れ味をとめるという。てまえ持ちいだしたるは、鈍刀《どんとう》たりといえど、さきが斬れて、もとが斬れぬ、なかばが斬れぬというのではない。ごらんのとおり、ぬけば玉散る氷の刃《やいば》だ、お立ちあい。お目の前にて白紙を一枚切ってお目にかける。さ、一枚の紙が二枚に切れる。二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚、十六枚が三十二枚。春は三月落花のかたち、比良《ひら》の暮雪《ぼせつ》は雪ふりのかたちだ、お立ちあい。かほどに切れる業物《わざもの》でも、差《さし》うら差おもてへがまの油をぬるときは、白紙一枚容易に切れぬ。このとおり、たたいて切れない、ひいて切れない。ふきとるときはどうかというと、鉄の一寸板もまっ二つ。さわったばかりでこのくらい切れる。だがお立ちあい、こんな傷はなんの造作《ぞうさ》もない。がまの油をひとつつけるときは、痛みが去って血がぴたりととまる……」
というようなことをいって売っておりました。
この調子につられて、まわりにあつまった人たちが買ったもんですから、がまの油売りはたいへんにもうかりました。
これから見世をしまって、景気がいいってんで一ぱいやり、いい心持ちでふらふらやってくると、まだ人通りがあるし、時刻もはやいから、もう一商《ひとあきな》いしようと欲をだしたんですが、なにしろ酔っぱらってますんで、どうもうまくいきません。
「さあ、お立ちあい……ご用とおいそぎのかたは……いや、ご用とおいそぎでないかたは、ゆっくりと聞いておいで。いいかい……遠目山越し笠の……そと……いや、笠のうちだ……ものの文色と理方がわからない。山寺の鐘はこうこう……あれっ、口んなかからするめがでてきやがった。どうもするめは歯へはさまっていけねえや……さてお立ちあい、てまえ持ちいだしたるは、するめ……いや、するめではない……えーと……蟇蝉噪一六のがま…一六じゃなかった。そうそう、四六、四六のがまだ。四六、五六はどこでわかる。前足が二本で、あと足が八本だ……」
「なにいってやんでえ。八本ありゃあ、たこじゃあねえか」
「そのたこで一ぱいやって……いや、よけいなことをいいなさんな……このがまの棲めるところは、これからはるーか……東にあたる高尾山《たかおざん》のふもとで……」
「おいおい、いつもは、はるか北で、筑波山てえじゃあねえか」
「あっ、そうだったか。まあ、どっちでもかまわねえ。山にはちがいねえんだから……で、とにかくこれはがまだよ。そこでだ、このがまの油の効能は、金創には切り傷、出痔、いぼ痔、よこね、がんがさ、そのほか、はれものいっさいに効く。ああ、きくんだよ……いつもは二貝で百文だが、こんにちは、ひろめのために一貝だよ、お立ちあい」
「それじゃあ、あべこべじゃあねえか」
「まあ、だまってお聞き。がまの油の効能はまだある。切れ物の切れ味をとめるよ。てまえ持ちいだしたるは、鈍刀たりといえども……とにかくよく斬れるよ。お目の前にて白紙を切ってお目にかける……あーあ……」
「あくびなんかしてねえで、さっさとやれ!」
「いや、これは失礼……一枚が二枚になる。二枚が四枚……四枚が五枚……六枚……七枚……なに? よくわからねえ? そうだろう、おれにだってわからねえんだ。まあ、とにかくこまかに切れる。なあ、お立ちあい……春は八月、いや、三月、三月は弥生《やよい》で、比良の暮雪は雪ふりのかたちだ……なあ、きれいだろう? ……このくらい切れる業物でも、差うら差おもてへがまの油をひとつけつけるときは、白紙一枚容易に切れない。このとおり、ぱっと切れ味がとまる。さあ、この刀で、腕をこうたたいて切れない。どうだ、おどろいたか? なあ、お立ちあい、ひいて切れ……いや、えへん、えへん……お立ちあい、切れないはずなのに、切れちまったよ。どういうわけだろう?」
「そんなこと知るもんか」
「いや、おどろくことはない。このくらいの傷はなんの造作もない。さ、このとおり、がまの油をひとつけつければ、痛みが去って、血がぴたりと……とまらないな……うん、ひとつけでいけないときは、ふたつけつける。こうつければ、こんどはぴたりと……あれっ、まだとまらないね。切りすぎたかな……こりゃあ弱ったな。かくなる上は、しかたがないから、またつける。まだとまらないな。とまらなければ、いくらでもこうつける。こんどこそ、血がぴたりと……あれあれ、血がとまらないぞ、お立ちあい……」
「どうするんだ?」
「お立ちあいのうちに、血どめはないか?」
子別れ
ただいまでは、お葬式と申しますと、たいていは告別式でございますが、江戸時代から明治、大正にかけては、たいてい会葬《かいそう》というやつで……亡くなったかたのお宅へみんなあつまって、その寺まで、みんなぞろぞろとあるいていって、お経がすみ、焼香がすむまでは、みんな寺にいたという、たいへんに手数のかかったものでございました。
そのころは、お葬《とむら》いでお寺へいきますと、かならずお菓子をだしましたが、これが高齢でお亡くなりになったとなると、かえってめでたいというんで、こわめしをだしたりしたもので……つまり、赤飯でございますな。そして、土びんには、般若湯《はんにやとう》といって、お酒がはいっていまして、そばにつまむものなんぞおいてありますから、なかには、酔っぱらったいきおいで、遊廓へおしだすものもでてまいります。
吉原へまわらぬものは施主《せしゆ》ばかり
なんて川柳もありますし、
葬いが山谷《さんや》ときいて親父行き
なんてのもあります。吉原のそばの山谷あたりに寺がならんでいたので、葬いくずれがひっかかったのが多いところから、せがれのかわりに親父がいったわけで、まあ、なにしろ、むかしの葬式というものはたいへんだったわけで……
「おいおい、そこに酔いたおれてるのはだれだい? ……なんだ、熊さんじゃないか……おい、おい、熊さん、熊さん」
「ええっ、なんだ? 熊さん、熊さんて、おれをゆすぶるなあだれだ?」
「だれだじゃないよ。そんなに酔っぱらってうたた寝してると、かぜひくよ」
「なーんだ。伊勢屋のご隠居さんですか……あーあ、すっかり眠っちまって……」
「ずいぶんとおまえさん、酔ってるな」
「えー、なにしろ、あっしは出入りの職人ですからね、寺の台所《でえどころ》ではたらいてたんですがね、のどがかわいたもんだから、茶を飲もうとおもって、土びんがあったから、茶わんについでぐーっと飲むと、これが茶じゃあねえ、般若湯てえやつだ。あっしゃあうれしくなっちまってね、土びんを三つばかりひっくりけえした。そのうちに、お通夜《つや》のつかれもあったんだねえ。ねむくなってきゃあがったから、肘《ひじ》を枕《まくら》にうとうとしてるうちに寝ちまったんだ。どっかで坊さんのお経が聞こえてるようだったが、あいつあ子守唄みてえで、いい心持ちで寝られるねえ」
「なにをのんきなことをいってるんだよ。さあ、そろそろひきあげなくっちゃあ……」
「ひきあげるって、葬《とむれ》えははねたのかい?」
「芝居じゃあるまいし、はねたてえのがあるかい……熊さん、おまえさん、きょうは手つだいでなくて、寝にきたようなもんじゃあないか」
「まあ、はやくいやあね」
「おそくいったっておんなじだよ」
「けどねえ、かんがえてみりゃあ、このほとけさまはしあわせだねえ。天気もよくってさ」
「そうそう、ゆうべのようすじゃあ、こんなにからっと晴れるとはおもわなかったがなあ……ふだん心がけのいい人だったせいかなあ」
「まったくだ。ご隠居、おまえさんの葬えは、きっとどしゃぶりだ」
「なにをいやなことをいうんだよ」
「はっはっはは……酔っぱらいの寝言だから、気にしねえでおくんねえ……しかしなんですかねえ、このほとけさまはよっぽどの年だったんでしょう?」
「ああ、たしか九十三とか四とかいうことだ」
「へーえ、九十三、四……ふーん、……すると、耄碌《もうろく》して死ぬのをわすれちまったんかねえ」
「ばかなことをいいなさんな……まあ、それにしても、りっぱな跡とりはあるし、財産はあるし、みんなに好かれてたし、しあわせな人だったなあ」
「こういうほとけは、極楽へいくんでしょうねえ」
「まあ、そうだろうな」
「地獄、極楽てえのは、地の底にあるなんていうけど、どうもおかしいとおもうね。だってそうじゃありませんか、地獄が地の底にあるんなら、たまには、井戸掘り人足が、閻魔《えんま》の冠《かんむり》かなんか掘りだしそうなもんじゃありませんか。するてえと、地獄、極楽てえなあどこにあるんでしょうねえ」
「それはな、この世にあるんだ。つまり、わかりやすくいえば、人間、たのしいときが極楽で、くるしいときが地獄というわけさ」
「へーえ、そうですかねえ。すると、これから吉原へでもくりこんで、おつな女の子といちゃつくなんてなあ極楽ですかね?」
「まあ極楽だろうな」
「じゃあ、ひとつ、極楽へでかけようじゃありませんか」
「およしよ。あたしみたいないい年をしたものをつかまえてさ」
「いい年だからすすめるんでさあ。人間わずか五十年てえのに、ご隠居、おまえさんは、たしか六十八だ。すると、十八年ばかり生きのびちまってるでしょ。いってみりゃあ、元《もと》をとっちまって、利息で生きてるようなもんだ。いつおむかえがきても後悔しねえように、せいぜい極楽でたのしまなくっちゃあ。さあ、いきましょうよっ」
「およしよ。そんなとこへいくのは……熊さん、おまえ、そんなとこへいって、むだな金をつかうんなら、おかみさんにうまいもんでも食わして、子どもに着物の一枚も買っておやりよ。ねえ、熊さん、悪いことはいわないから、そうしておやり……」
「なにいってやんでえ。大きなお世話だ。人が下手《したて》にでて口をきいてりゃあいい気になりゃあがって……おれのかかあに、おれがなにを食わせようと、がきになにを着せようと、おれの勝手だい。よけいなことをいうない。おめえがあそびにいくのがいやだてんなら、おれひとりでいかあ」
「およし、およしっ、おいおい、熊さん……」
「うるせえやい。てめえなんか極楽がいやなら、すぐにくたばって地獄へいっちまえ……まあ、あの隠居と喧嘩してきたものの、こうやって吉原へ近くなってくると、いやなこたあわすれちまって、なんか浮き浮きしてくるからふしぎなもんだ……ほろ酔いで、つめてえ風がほっぺたにあたって、日は暮れてきたし、棟梁から借りた銭はあるし……ああ、いい心持ちになってきやがったなあ……へへへえー」
「おや、ごきげんだねえ、親方、どこへいくの?」
「だれだい? よう、紙くず屋の長公じゃねえか」
「えへへへ……たいへんなごきげんだねえ」
「ああ、お店《たな》の隠居の葬えにいって、すっかり酔っぱらっちまった。これから精進《しようじん》おとしに吉原へくりこもうてんだが、どうだ、おめえ、いかねえか?」
「いきたいねえ」
「うれしいな、ふたつ返事とは……いこうよ」
「そりゃあ、いきたいこたあいきたいんだけどね、あいにくなんだよ、ふところが……」
「なんだと? あいにくだ? なまいきなことをいうない。あいにくってえなあ、ふだん銭のあるやつがたまに持ってねえからあいにくなんじゃねえか。おめえのあいにくなんてものは、いまはじまったことじゃあねえや。先祖代々あいにくじゃねえか」
「だけどさあ、ここんところ、ほんとうにふところがさびしいんだよ」
「おめえのふところがさびしいなあわかってるよ。ほんとうにさびしいんだってなあ、こないだもおめえのふところで首くくりがあったっていうじゃねえか」
「おかしなことをいうなよ」
「でも、まるっきり一文なしてえこたあねえんだろ?」
「うん、まあ……」
「そんならいいじゃねえか。たりねえところは、おれがたしてやるよ。いくらあるんだい? 一円もあるのかい?」
「そんなにあるもんか……ずっとたりねえんだ」
「ずっとたりねえってえと、六十銭ぐれえか?」
「いいや、そこまでいかねえんだ」
「すると半分の五十銭か?」
「もうちょいとたりねえんだ」
「四十銭か?」
「いいや」
「三十銭か?」
「もうちょいと」
「二十銭か?」
「もうすこし……」
「十五銭か?」
「もうちいーっと……」
「五銭か?」
「もう一声っ」
「二銭か」
「あたったっ、よくあたったなあ」
「よくあたったてやがらあ。しかし、おどろいたなあ、二銭で女郎買いにいこうてんだから、あっぱれなもんだ。うん、みごとなもんだ。よしっ、その度胸にめんじて、きょうのところは、だしといてやろう」
「ありがたいねえ。そういってくれりゃあ、あたしだって、あしたの朝になったら、たとえ一枚物《いちまいもの》をぬいだってこの金はかえすよ」
「えらいっ、ますます気にいった。その心意気がうれしいじゃねえか。さっそくいこう……いこうはいいけど、おめえとならんでいくと、どうしても旦那とお供だな」
「どうして?」
「だってそうじゃあねえか。おれは、はんてん、腹がけだけど、おめえは羽織着てるじゃねえか。いい羽織だねえ、おい、旦那」
「よかあないよ」
「いや、てえした羽織だ。肩から袖にかけて別染めとはおそれいった。ぼかし染めかねえ」
「ここんとこは、色がはげちゃったんだよ」
「そうかい。おりゃあ、また特別に染めさせたんかとおもった……やっ、こりゃあ、また、ぜいたくな足袋《たび》をはいてるじゃねえか」
「べつに、そんなことはないよ」
「いいや、ちょっとみられねえ足袋だ。紺足袋は儀式にあらず、白足袋はよごれっぽいってんで、ねずみの足袋とは、いやあ、おそれいった。てえしたもんだ」
「へんなとこで感心するなよ。こりゃあ、白足袋がよごれたんじゃあないか」
「あっ、そうかい。おらあ、また別あつらえの足袋かとおもったよ。それにまた、その下駄てえものがふしぎなもんだね。はいてるのかはいてねえのかわからねえってなあ、いったいどういうもんだい? まるで、地べたに鼻緒をすげてあるいてるようじゃねえか。駒下駄てえなああるけど、おまえのは、こまびただねえ」
「口がわるいねえ、どうも……」
「まあ、とにかくいこうじゃねえか。世のなかにゃあ、酔狂《すいきよう》な女がいるから、おめえだってもてねえかぎりはねえぜ。なあ、紙くず屋、だから、まあ、心丈夫《こころじようぶ》で、なあ、紙くず屋」
「おれ、いくの、よすよ」
「どうして?」
「だって、むこうへいって、そうむやみに紙くず屋、紙くず屋なんていわれたんじゃあ色っぽくねえや」
「うふっ、色っぽくねえったって、ずうずうしいことをいうない。おめえなんか、どうやったって色っぽくなるはずはねえじゃあねえか。そうだろう、紙くず屋」
「だって、そうむやみに紙くず屋といわれちゃあどうも……」
「だって、紙くず屋だから、紙くず屋というんだろ。なにも紙くず屋じゃあねえものを紙くず屋といったわけじゃあるめえ。そうだろ、紙くず屋」
「だから、よすってんだよ」
「心配《しんぺえ》すんねえ。むこうへいきゃあ、いやあしねえよ。さあ、いこう、いこう…… 惚《ほ》れてえ、通えば……なんてなあ……」
「あっ、あぶないよ、親方、あぶない、あぶないっ、どぶへおちるよ、親方っ」
「あっ、この野郎、とんでもねえことをしてくれた。人の背なかをひっぱたいて……」
「だって、お歯黒どぶへおちるとおもったからさ」
「そんなことをいってるんじゃあねえ。おらあ、葬えのこわめしを背なかにしょってきたんだ。それを、おめえがうしろからどやしあがったから、がんもどきのつゆがみんなでちゃって、腰から下はつゆだらけ……このまんま焼き場へいきゃあ、おらあ照り焼きになっちまうよ」
「そりゃあ、わるかったねえ」
「まあ、しかたがねえや。むこうへいって、湯へでもへえって、からだあ清めよう……おうおう、長公、いよいよきたぜ。大門《おおもん》だ。いつきてもいいなあ」
「うん、りっぱなもんだねえ」
「ああ、りっぱだなあ、この門は、みんな鉄だぜ。これをつぶして、おめえ、いくらで買う?」
「よしとくれよ。また、そんなことをいって……」
「あははは……かんべんしなよ。おめえのつらあみたら、つい聞いてみたくなっちまって……さあ、こっちへまがろうじゃあねえか。そっちへいくなよ。おれといっしょにこいってえのに、なあ、おい、紙……かみちゃん」
「なんだい、かみちゃんなんておかしいよ」
「えー、いらっしゃい、いらっしゃい。へへへへ……ねえ、ちょいと、いかがですか、ねえ、ちょいといかがです。ええ、おふたりさんっ」
「なんだっ」
「へへへへへ、だいぶごきげんでいらっしゃいますが……」
「なにをっ、ごきげんで飲んだか、くやしくって飲んだか、てめえにわかるのか?」
「いや、こりゃあどうも……へへへへ……おそれいりまして……いかがでしょう? ごく安直《あんちよく》なところで……お安く……」
「なんだと? お安くだと? なめたことをいうねえ。ふところには、がばりと持ってるんだぞ。むかし、紀伊国屋文左衛門《きのくにやぶんざえもん》が大門をしめたてえが、おれもしめてえじゃねえか。もっとも、大門がしめられなけりゃあ、うちへ帰って露地《ろじ》でもしめるけど……それに、銭持ってるのは、おれだけじゃあねえんだぞ。こちらの旦那も持ってるんだ。大枚《たいまい》二銭……いや……二千両にはちょいとたりねえけど、とにかく持ってるんだ」
「えへへへ、ぜひおあそびを……」
「ああ……おれはうんと持ってるんだからなあ。もっとも、いくら持ってたってあやしい金じゃねえぞ。おれは堅気《かたぎ》の職人で、神田竪大工町《たてでえくちよう》の大工《でえく》の熊五郎ってんだ。なあ、よくおぼえといてくれ。それから、ここにいるのは、おなじ町内《ちようねえ》の、紙……紙……そうそう紙屋の旦那だ。なあ、そうだな……あははは……この野郎、紙屋の旦那っていったらよろこんでやがる。ばかだなあ、こいつあ。なあ、若え衆、紙屋も紙屋、紙問屋だよ。いろんな紙をあつかってるんだ。おもにくずを……これすなわち紙くず屋」
「およしよ、およしってえのに……だからいやだといったんだ」
「いいじゃねえか。紙くず屋だって……なあ、若え衆、この人なんざあ、きのうきょうの紙くず屋たあわけがちがうんだ。先祖代々|由緒《ゆいしよ》正しい紙くず屋……」
「およしよ、そんなことをいっちゃあいやだよ」
「えへへへ……おあがりくださいまし。ごきげんのおよろしいところで……」
「ああ、酔ってるよ。おれ、隠居の葬えで酔っぱらってるんだ。どうだ、葬え帰りで縁起がわりいか?」
「いいえ、どういたしまして……はかゆきがすると申しまして、たいへんに結構で……えへへへ」
「うふふ、うめえことをいうなあ、このあんにゃもんにゃめっ、はかゆきがするか……あははは……よし、気にいった。あがってやろう」
「へえ、ありがとうございます」
「よし、あがるぞ……そうだ。おめえにいいものをやるよ。おれの背なかにいいものがあるんだからな、それっ」
「おやっ、こりゃあ、お赤飯ですな。てまえ、大好物で……どうもありがとう存じます」
「そうか。そいつあよかった。しかし、食いつけねえものを食って、むやみにほえついたりするなよ」
「せっかくいただいてなんでございますが、がんもどきのつゆがすくないようで……」
「ああ、それはちょいとわけありでな……これをおれが背なかにしょってたら、この野郎がどやしたんだ。それで、つゆがみんなでちまってな。おれの腹巻きとふんどしにぐっしょりしみこんじまった。おめえ、つゆがほしいなら、これをしぼってやろうか?」
「じょうだんいっちゃあいけません」
そのあくる朝、熊さんが帰ろうとすると、女にとめられて、ついつい居つづけということになりまして、四日もたって帰ると、どうもまっすぐに家にはいりにくいところから、どっかの酒屋でまたひっかけて、そのいきおいを借りて家へ帰ってまいりました。
「おう奥方、お殿さま、ただいま御帰館でいらっしゃるよ」
「まあ、どうしたんだい? ずいぶん酔ってるねえ。おまえさん、どこをのたくってあるいていたんだよ」
「へびじゃあねえやい。なんでえ、そののたくってあるいてたてえなあ」
「よくまあ、うちをわすれなかったねえ」
「ああ、角々《かどかど》のにおいをかぎながら、ようやく帰ってきた」
「それじゃあ、犬だよ……ばかばかしい。ちょいとおまえさん、きょうで四日になるじゃないか。どこへいってたんだい?」
「どこへといったって、お店《たな》のご隠居の葬《とむれ》えにいったんじゃあねえか」
「そりゃあわかってるさ。けど、葬いってのは、三日も四日もかかるわけがなかろう」
「それがな、だんだんに葬えがのびちまって……」
「ばかにおしでないよ。おまえさん、お葬いにいくのに、なんだって棟梁のうちへいってお金を借りていったんだい?」
「あれっ、なんでもよく知ってやがるなあ」
「なにもお葬いにいくのに、まとまったお金を持っていくことはないじゃないか」
「そりゃあ、おめえは女だから、そうおもうのも無理はねえが、男は敷居をまたぎゃあ、七人の仇《かたき》があるというじゃあねえか。いつ、どんな仇にあうかわかんねえから、そのときの用意のために金を借りていったんだあな」
「それで、その仇にめぐりあったのかい?」
「ああ、あっちまったねえ」
「だれにあったんだい?」
「まあ、おめえ、そうこわい眼つきをしなくってもいいじゃねえか。水を一ペえくんねえ、水をよ。のどがかわいてしょうがねえ……、うーん、うめえ……まあ、これからゆっくりはなしをするがね……なにしろ、お店のご隠居てえものは、九十三とか四とかでめでたくなったんだよ。人間、それまで生きりゃあ結構だなあ」
「そんなことは聞かなくったって知ってるよ」
「まあ、だまって聞きなよ。これからゆっくりはなしをするんだから……なにしろお葬いはりっぱだったぜ。花なんぞ、どのくれえあったか知れやしねえくれえだ。あれだけの大店《おおだな》となると、つきあいが広《ひれ》えからなあ。出入りの職人もたくさん台所をはたらいていたぜ。で、おれもはたらいていたんだが、のどがかわいたもんだから、茶を一ペえ飲もうとおもって、土びんから茶わんについで、ぐーっとやってみると、これが般若湯よ。もともと好きなもんだから、おれもうれしくなっちまって、土びんを三べえばかりあけちまった。おかげですっかりいい心持ちになって寝こんじまった。伊勢屋の隠居におこされて、おもてへでると、酔っぱらってるところを風にふかれていい心持ちよ。ぶらぶらと土手へかかってくると、うしろから、『親方、どこへいくの?』って声をかけるやつがいるんだ。ふりむいてみると、これが紙くず屋の長公さ。『親方、お葬いですかい?』『うん、いま帰りなんだ』『どうです? おたがいにあのほとけさまにはご厄介になったんですから、これからお通夜にいこうじゃありませんか』てえから、『よかろう、通夜にいこう』てんで、それから通夜にいったんだ」
「ばかばかしいことをおいいでないよ。お通夜てえものは、お葬いをだす前にするもんじゃあないか。お葬いのあとでお通夜てえのがあるかい?」
「それがよ、葬えはだしちまったけれども、これから焼き場へほとけさまを持っていくんだ。ほとけさまは、あんななかへいれられて、錠《じよう》をぴーんとおろされてよ、合鍵《あいかぎ》を持っていかれちまったんじゃあ、もうでることもひくこともできねえ。さだめしさびしかろうから、それで、お通夜をしてやろうてんだ。よかろう、じゃあでかけようってんで、焼き場へいくと、『いらっしゃいまし。おあがんなさるよ』と、こうにぎやかな声をかけてくれやあがった。上草履《うわぞうり》をつっかけて、巾の広いはしごをトントントンとあがっていくと、『さあ、どうぞこちらへ』てんで、そこへ坐っていると、さかなだの、酒がでてくるから、長公を相手にちびりちびりやっていると、赤い着物を着た島田のねえさんがそこへでてきたから、おやおや、こいつあ変だとおもってね……」
「な、なにをいってるんだい、ばかばかしい。聞いて知ってるよ。紙くず屋の長さんをつれて、おまえさん、お女郎買いにいったんだろう?」
「うん、じつはそうなんだ」
「まあ、お酒の上でいったものはしかたがないが、なぜあくる朝帰ってこないんだい? 紙くず屋の長さんは、ひとりでさきに帰ってきているじゃあないかね」
「さあ、それがね、おれもその、なにしろ酔っぱらっていたし、朝になって眼をさまして、つれはどうしたと聞くと、『おつれさまは、さきほどお帰りになりました』っていやあがらあ。長公もしみったれた野郎じゃねえか。ぐずぐずしていると、また一日商売をやすまなけりゃならねえとおもって、さきにずらかりゃあがったんだ。なにしろ、おれは、前の日に、酒をうんと飲んでるもんだから、胸がじりじりしてしょうがねえ。あつい塩茶かなにか飲みてえような気がするんだ。敵娼《あいかた》から楊子《ようじ》をもらって、こいつを口にくわえて、顔《つら》をあらおうとおもって階段をトントントンとおりていこうとした。すると、下で、おれを見上げている女があるんだ。『棟梁じゃあないか』『だれでえ、おれのことを棟梁てえのは? 職人は、みんなおだててよべば棟梁てえんだ。名をよんでくれ』というと、『あたしだよ。わすれたのかい?』っていうから、よく顔をみるとな、おうおっかあ、おこっちゃあいけねえよ。おめえにもかなり苦労をかけたな、それ、品川にいたな、おたねのあまよ。はははは、住みけえしてきやあがったんだ。『熊さん、あれっきりこないのはひどいじゃないか。手紙をあげても返事もくれず、あたしは、ながれながれて、ここのうちへきていたんだが、おまえさん、ゆうべは、ここのうちで、だれを買ったい?』『さあ、だれを買ったんだか、酔っぱらっていて、ちっともわからねえ。名前も知りゃあしねえや』『さあ、これから、あたしを買うかい?』『ああ、買うとも、盛大に買わあ』『きょうはながして(遊郭であそびつづけて帰らないこと)おいでな』『ああ、ながすとも……』てんで、それから、前の晩に買った女のほうへは、ちゃんとはなしをつけて、居つづけときちまったんだ」
「で、なぜその晩に帰らなかったんだい?」
「帰ろうとおもったんだけれど、眼がさめると、なんだかこう腹がすいてやがるんだ。そこで酒をつけて、ちょいとつまみものかなんかしてるうちに、また酔っぱらって泊まっちまった。あくる朝、帰ろうとすると、『後生だから、助けるとおもって、もう一日いておくれでないか』っていわあ。女の子にそういわれてみりゃあ、助けてやりたくもなるじゃあねえか。しかたがねえから、そのあくる朝になるまで居つづけよ。ふふふ、けさになるとね、紙入れのちくしょうが、『親方、帰ろうじゃあねえか』と、こういやあがる。紙入れが帰ろうってところをみると、もう脈はねえなとおもったから、それで、まあ、帰ってきたんだ。あははは、いや、なんともすまねえ」
「あきれたねえ、まあ、この人は……そりゃあ、おまえさんはね、お酒を飲んであるこうと、女郎屋へ三日、四日泊まろうと、おもしろいおもいをしなさるんだから、そりゃあいいだろうさ。けどね、うちのこともかんがえてみておくれよ。うちにはね、米を食う虫がふたりいるんだよ。台所のようすをごらんな、お米はきれる。薪はきれる。炭はきれる。かつおぶしはきれる。醤油はきれる。砂糖はきれる」
「おそろしく切れるものばかりだなあ。なにか切れねえものはねえのかい?」
「菜っ切り庖丁が切れないよ」
「そんなものは切れるほうがいいや。まあ、しかたがねえやな、できちまったことだ。はははは」
「あきれた人だねえ。それで、おまえさん、なにかい、このおもちゃのはしごなんぞ、どういうわけで買ってきたんだい?」
「ああ、それか。そりゃあなあ、いくらおれだって、自分がわりいことをしちまってめんぼくねえ。てめえのうちでもきまりがわりいや。なんとなく敷居が高かろうじゃねえか。敷居が高くっちゃあがることができねえから、それで、おもちゃのはしごを買ってきたんだ」
「ばかばかしいやね、ほんとうに……あきれた人だねえ。ひとりものならともあれ、女房子どもがあるってえのに、お酒に飲まれて、女郎買いばかりそうやってしていなさるのじゃあ、あたしゃあ末が案じられてならないよ。どんなにおまえさんがかせいだところで、棟梁にふだんから前借りがあるから、それをさしひかれちまって、いつだって、うちは火の車じゃあないか。いつになったらやむか、やむかとおもっていたって、とてもおまえさんはやみそうもありゃあしない。あたしは、おまえさんのうちへ嫁にきてからというものは、着物一枚こしらえてもらったことがあるかい? まあ、それはいいさ、自分はどんな服装をしてもかまわないから、子どもにだけは、なんとかしてぼろはさげさせたくない、世間さまから笑われないようにしたいと、あたしがこれほど苦労をしているのに、おまえさんはなんだい、お酒を飲んでは、あそびにばかりいっていなさる。もう子どもだっていくつになるとおもってるんだい? 子どものことをかんがえれば、すこしはあそびもやんでくれるかとおもっていたけど、おまえさんは、どうしてもやみはしない。あたしは、こんどというこんどは、もうつくづくとかんがえた。ひとつでも年齢《とし》の若いうちに、なんとか身のふりかたをつけたい。あたしにひまをおくれ。離縁をしておくれよ」
「こりゃあおどろいたなあ。たいそうなおかんむりだなあ。だって、おめえ、しかたがねえじゃあねえか。もうやっちまったことだからよ」
「しかたがないといってしまやあ、それでおしまいだがね。それも、おまえさんが、年に一度か二度とかいうんなら、お酒の上といってもすむけれど、おまえさんのは、のべつじゃあないか。あたしは、末が案じられるからひまをおくれ。離縁状を書いておくれよ」
「よわったなあどうも……そうこわい顔をしたってしようがねえよ。だからいいやな、これから、おれはきっと辛抱するからよ」
「いつでもきまってらあね。これから辛抱をする、辛抱をするといったって、一日か二日はかせぎだしたかとおもうと、いつだって三日坊主なんだから……一つことを始終くりかえしているようなもんだよ。だから、ひまをおくれよ。離縁状を書いておくれてえんだよ」
「やかましいやいっ。なにをぬかしゃあがるんでえ。なんだと、ひまをくれ? やるとも、なにいってやんでえ……こっちはな、三日でも四日でもうちをあけて、わりいことをした、すまねえとおもうから、下手《したで》にでてるんだ。こうなりゃあ、いってやらあ、なにいってやんでえ、男のはたらきだ。亭主関白の位《くらい》というくらいのもんだ……いいか、わからなけりゃあいってきかせてやらあ、いいか。てめえが、さっきから、ひまをくれ、離縁をしてくれといっても、下手にでているのは、おれがわるいと知ってるからじゃあねえか。いいか、てめえが、ちいせえ声で、ひまをくれ、離縁をしてくれといってる分にゃあかまわねえや。声高《こわだか》になって、そんなことをどなられちゃあ、世間にも聞こえるし、おれのつらにもかかわらあ。てめえのいう通り、ひまをやるからでていけ。とんだ心得《こころえ》ちげえのあまだ。これ、おれのほうで、てめえにむかって、でていけ、ひまをやるから、おんでていってくれろといっても、じょうだんいっちゃあいけない、あたしは、ここのうちへ嫁にきたからには、早桶《はやおけ》へはいらなきゃあでていかないつもりできたんだ。あたしに、わるいところがあったら、いってください。これからさきは、気をつけましょう。あやまるからというのが女じゃあねえか。それが、なんでえ、かかあの口から亭主にむかってひまをくれたあ……なんてだいそれたことをぬかしゃあがるんだ。亭主がなにをしようと大きなお世話だ。亭主は、仕事がすんで、寝酒の一ぱいもうまく飲もうとおもって帰ってくりゃあ、かかあが、つまらねえつらつきをしたり、変な処置ふりをすりゃあ、亭主は、おもしろくねえから、そとへいって酒を飲む。酒を飲みゃあ、気がかわって、女郎買えにいっちまうんだ。もとはといやあ、てめえがわりいんだ。さあ、でていけ、でていけ」
「あーあ、でていくとも……でていくからにゃあ、離縁状を書いとくれ」
「離縁状? ……そんなめんどうくせえもなあいらねえや。台所のすみへいくと貧乏徳利があるから、そいつを持っていけ」
「貧乏徳利が離縁状になるかい」
「ならあな。とっくりとかんがえてごらんなさい。これがいっしょうのわかれでございます。さかさにふってもおっともない」
「なにをくだらないことをいってんだよ。あきれた人だねえ。まあ、おまえさんに魔がさしてるんだから、あたしゃでていくけど、おまえさん、あとでゆっくりかんがえたらいいだろう」
「わかった。わかった。なんでもいいから、でていってくれっ、ふざけやがってっ……こっちゃあ、うらのどぶじゃあねえが、あとはうんとつけえてるんだ」
「それじゃあでていきますがね、男の子は男につくもんだっていうが、末のことが案じられるから、亀坊は、あたしがつれていきますよ」
「いいとも、結構だ。そんな厄介ものはつれてってくれ」
「さあ亀や、おっかさんといっしょにここのうちをでていくんだよ」
「よしねえ、よしねえ、おっかあ、ここのうちにいておくれよ。おとっつあん、そんなことをいわねえで、おっかさんにあやまっちまいなよ」
「なにをいやあがるんでえ。てめえなんぞは、おっかあにくっついていっちまえ」
「なにいってんだい。いつも酔っぱらうとそんなことばかりいって……おっかあとおれだから、いばってるんだろ。大家のおじさんがくりゃあ、いつでも戸棚へかくれてるくせに……」
「なにいってやんでえ。よけいなことをいってねえで、いっしょにいっちまえ」
「さあ、亀や、これだけ背丈《せたけ》をのばしてもらったおとっつあんだ。ひとこと礼をいっていきな」
「なんというんだい?」
「長々《ながなが》お世話さまになりました。いずれご恩がえしはいたしますと、こういいな」
「長々亭主にわずらわれまして、難渋《なんじゆう》をいたします……」
「なにをいやあがるんだ。縁起でもねえことをいやあがる。はやくいっちまえ」
「じゃあ、おまえさん、あたしはいきますがね、あの、ぬかみそに大根がついているがね、流し元のほうへよっているのはまだだけど、へっついのほうへよってついてるのは、ありゃあ、晩には、ちょうどつきかげんだから……」
「なにをいやあがるんだ。そんなこたあ大きなお世話だい。はやくでていってくれ」
「さあ、亀や、おいで……」
おかみさんは、子どもの手をひいてでていこうとしますと、とびこんできたのが、となりに住む半公という男で……
「まあまあ、おかみさん、お待ち、お待ち。聞いたよ、聞いたよ。どうもしょうがねえな、あいかわらず飲んだくれで……亀坊、泣くんじゃあねえよ。まあまあ、おかみさん、世間には人がいるんだ。わるいようにはしねえから、まあまあ、おれにまかしておきなよ。包みなんぞかかえて、じょうだんじゃねえ。おれのうちへいってておくれ。かわいそうにな、亀坊、泣くんじゃあねえぞ……おう、おきみや、おみっつあんをうちにいれて、亀坊にせんべえでもやんな。どうにかはなしをつけてやるから……おい、熊っ! 寝ちまっちゃあいけねえ。すこしはなしがあるんだ」
「おう、だれでえ……なんだ、半公じゃあねえか」
「おいおい、おめえ、じょうだんじゃあねえやな。たいがいにしなよ。あんまりばかばかしいにもほどがあるぜ。女房、子があるものが、女郎|買《け》えにいって、三日も四日も帰ってこねえで、そのあげくに酔っぱらって帰ってきて、かかあにでていけ、子どももいっしょにくっついていけたあなんてえこった。みんなおめえがわりいんだぜ。それに、あんないいかみさんを離縁するなんて、とんでもねえはなしだぜ。おめえんとこのかみさんなんてえものは、じつにたいそうなもんじゃあねえか。おめえにゃあ過《す》ぎもんだぜ。針仕事はできるし、読み書きはできるし、人づきあいがよくって、あまりむだ口はきかず、それでいて亭主と世帯をだいじにして、子どもをかわいがる。あんないいかみさんなんてえものは、この長屋じゅうさがしたってありゃあしねえぜ。そのかみさんを離縁しようなんて、おめえ、かみさんの罰《ばち》があたるぜ。たいがいにしておきねえよ」
「てめえは、ここになにしにきやあがったんだ?」
「夫婦喧嘩の仲裁《ちゆうさい》よ」
「なんだと、夫婦喧嘩の仲裁だ? ふん、てめえのことを、世間でなんといってるか知ってるか? ヘコ半といってるぜ」
「どういうわけで?」
「くだらねえことをいって、人にへこまされるから、それで、ヘコ半てえんだ……ふん、夫婦喧嘩の仲裁でもするんなら、するような口をきいてこい。ばかっ、亭主の前へきてよ、てめえんとこのかかあはえれえもんだ。貞女だ。りっぱな女だ。てめえには過ぎもんだ。罰があたるといわれて、このおれが、『ああ、さようでござんしたか、いかにもわたしがわるうございました。どうぞかみさんにあやまって、もとの鞘《さや》におさめておくんなさい』といわれるか……夫婦喧嘩の仲裁でもするんなら、するような口をきけ。いいか、教えてやろうか。よく聞けよ。『熊さん、おたのみがあってきた。いま、おれがおもてから帰ってくると、おめえんとこのおかみさんが、包みをしょって、子どもの手をひいてでてきたから、どうしたんだと聞いたら、じつは、わたしのりょうけんちがいで、うちの人にひまをだされたが、いまさら後悔している。なんとかわびをしてくれないか、とたのまれてきたんだが、おかみさんのわるいところは、おれからも叱言《こごと》をいおう。これからはあらためさせるから、おれのようなもんでも、男が手をついてあやまるんだ。おれの顔を立てて、もとの鞘におさめてくれないか』とたのまれりゃあ、かかあにはともかくも、てめえのつらあ立てて、いっぺんはおさめてやらあ。それをなんでえ。おれを悪者あつかいにして、かかあのことばかりほめやがる。てめえ、うちのかかあとあやしいぞ」
「とんでもねえことをいやあがる。なにをいってやがる。こんちくしょうめ!」
「てめえもでていけっ、まごまごしてると、はったおすぞ!」
「なにを!」
とふたりが立ちあがろうとするところへ、長屋の連中がはいってとめましたが、おかみさんは、しかたがなく、子どもの手をとって、このうちをでました。
熊五郎は、ああ、とんだ厄介ばらいをしたと、それから、吉原の年明《ねんあ》けの女郎をうちへつれてまいりましたが、「手にとるな、やはり野におけ、れんげ草」で、ああいうところにいるからぼろがみえないようなものの、さて、堅気のうちへひっぱってくると、どうもいけません。ほころびひとつ縫えず、朝寝が大好きで、亭主といっしょに大酒を飲む、長屋の鉄棒《かなぼう》をひく(隣近所の噂をし歩く)というわけで、どうも手がつけられません。
「おたねや、起きねえよ」
「ねむいよ」
「ねむいったって、おめえ、おてんとうさまは、ずいぶん高くなっていらあ。起きてくんなよ」
「もうすこし寝かしておいておくれよ」
「じょうだんじゃあねえやな。おらあ、仕事にいくんじゃあねえか。はやくしなきゃあ間にあわねえやな」
「仕事にいきたきゃあ、はやくおいでな」
「めしを食わずにいけねえじゃあねえか。起きて、めしを炊《た》いてくんなよ」
「いやだよ。おまんまなんぞ炊くのは……おまんまを炊くくらいなら、おまえさんのところへきやあしないやね。橋場《はしば》の善さんのとこへいっちまわあね」
「ちぇっ、そんなことをいわずに、起きねえよ」
「いやだよ。もうすこし寝てね、それから起きて顔でもあらったら、おひる近くなるから、そうしたら、天どんでもとって食べるのさ」
どうにも手がつけられません。熊さんもあきれかえっているうちに、女のほうで、いつか、男をこしらえて、でていってしまいました。そこで、熊さんもつくづくと目がさめて、「ああ、おれがわるかった。酒のために、とうとうあんな女までひっぱってきて、罪科《つみとが》もねえ女房や子どもをたたきだしちまった。これというのも酒がもとだから……」と、それから三年のあいだ、酒を断《た》って、いっしょうけんめいに仕事にはげむようになりました。
酒を飲んでいるうちは、人の信用もありませんでしたが、酒をやめて、実直にやってみると、もともと腕のいい職人ですから、だんだんと人からももちいられるようになってまいりました。
「棟梁、うちかい?」
「どなたで? ……おや、お店《たな》の番頭さんですかい」
「あのね、棟梁、かねてはなしをしておいた通り、これから、木場《きば》へいってもらいたいんだが、どうだろう?」
「へえ、承知いたしました。じつは、お約束がしてありましたから、もう番頭さんがおいでなさる時分かとおもって、待っていましたところで……」
「ああ、そうかい。それじゃあ、ごくろうだが、いっしょにいってもらいましょう」
「はい、よろしゅうございます。番頭さん、ちょっと待っておくんなさいまし。戸じまりをしていきますから……もし、おむこうのおばさん、ちょいと木場へいってきますから、どうか留守をおたのみ申します。それから、あとで水屋がきたら、この水がめへ一荷《いつか》いれといてもらっておくんなさい。お銭《あし》は、かめのふたの上に乗ってますから……じゃあ、番頭さん、お供《とも》をいたしましょう」
「なんだなあ、熊さん、男のひとり世帯じゃあ、さだめし骨が折れるだろうなあ」
「へえ、どうも弱っちまいます。ちょいと近所へでかければって、むかいだとか、となりだとかへ留守をたのまなきゃあなりません。そんなことはともかくとして、洗濯ものだ、なんだかんだとあって、男世帯てえやつは、どうもうまくいかねえもんで、女やもめに花が咲き、男やもめにうじがわくとは、うめえたとえでございますねえ」
「それというのも、おまえさんが、お酒でしくじったからだ。で、なにかい、熊さん、たまには、おかみさんのことをおもいだすこともあるかい?」
「そりゃあ、かかあのことなんぞはおもいだしゃあしませんが、おもいだすのはがきのことでございます」
「そうだろうねえ。ましてや男の子だったね。ことしはいくつになるかね?」
「へえ、十歳《とお》になります」
「ああそうかい。かわいいさかりだね」
「でございますからね、おもてをあるいていましても、おなじ年ごろの子どもをみると、すぐにあいつのことをおもいだしますんで……このあいだも、まんじゅう屋の前を通りますと、まんじゅうから煙がでていましたから、ああ、うちの野郎は、まんじゅうが好きだったな、このまんじゅうを買っていってやったら、さだめしよろこびやあがるだろうとおもってね、おもわず涙をこぼしますと、まんじゅう屋の小僧がみていやあがって、『やあ、あの人は、まんじゅうをみて泣いていらあ、きっと清正公《せいしようこう》さまの申し子だろう』なんて、とんだ大笑いでございました」
「ああそうかい……ちょいと、熊さん、むこうをごらん。あすこに、子どもが、二、三人あそんでいるが、それ、あのこっちをむいてるのは、おまえんとこの子じゃあないかい?」
「えっ、どこに? ……あっ、亀坊です。そうです……亀公だ。へーえ、えへへへっ、うごいてます」
「うごいてるのは、あたりまえだよ……親方、ちょいと会っておやりよ。あたしはね、ひと足さきへいって待っているから……」
「へえ、さようでござんすか。じゃあ、番頭さん、すいませんが、ひと足おさきへねがいます……やいやい、亀っ、亀公やいっ」
「やあ、だれだとおもったら、おめえ、おとっつあんだな」
「亀、どうした? たいそう大きくなったなあ」
「おとっつあん、おまえもたいへん大きくなったねえ」
「ばかにするねえ。おとなが大きくなるもんか……しかし、よく、おれが、すぐにわかったなあ、おい、亀公……」
「わかるさ……わかるさ……う、うわーん……」
「おいおい、泣かなくてもいいんだよ。なあ、おい、泣くんじゃあねえ。泣くんじゃあねえやな。で、うちはどこだい?」
「あすこの八百屋と豆腐屋のうら……はいってって、つきあたってね、ごみ溜めの前……」
「なめくじみてえだな。うん、そうか……で、こんどのおとっつあんは、おめえをかわいがってくれるか?」
「なんだい?」
「いや、こんどのおとっつあんは、おめえをかわいがってくれるかてえんだよ」
「おかしいなあ、こんどのおとっつあんたって、おとっつあんは、おまえじゃあないか」
「おれは、先《せん》のおとっつあんだがよ。こんどのおとっつあんがあるだろう?」
「そんなわからねえやつがあるもんか。子どもがさきにできて、親があとからできるのは、芋《いも》ぐらいのもんだ」
「なにをつまらねえりくつをいってるんだ。こんどのおとっつあんがあるんだろう?」
「そんなものはありゃあしないよ」
「まだ、おめえは子どもだなあ。夜、おめえが、寝てしまうとな、夜なかに、こっそりやってくるおじさんがあるだろうてんだい」
「そんなもんなんぞはきやあしないよ。きたって泊まっていくところなんぞありゃあしない。あたいのうちは、台所が入り口で、畳《たたみ》が二畳しきゃあないんだよ。そこへいろいろな道具があって、そこに、おっかあとあたいが寝るんだよ。だから、だれがきたって寝られやあしないよ。夏になって、蚊帳《かや》を釣ると、蚊帳んなかへ水がめがはいっちまうから、寝たまんまで水が飲めるんだ」
「便利なうちにいるな」
「あたいの寝ぞうがわるいから、ときどき、流しへころげおっちまうんだ」
「あぶねえな。で、なにか、どうやって、おめえとおっかあは食ってるんだ?」
「おっかさんがね、お仕事をしたり、洗濯をしたりして、お銭《あし》をかせいで、それで、ふたりで食べているんだよ」
「うん、ちげえねえ。あいつは針仕事をよくしたなあ……ふーん、それで、おめえ、学校へいってるのか?」
「うん、学校にいかなくっちゃあいけねえって、おっかあが、そういってたよ。おとっつあんは、お仕事はじょうずだけれど、おしいかな、明《あ》きめくらだって……よくあたいがここにいるのがみえたね」
「なにいってやがんだ。おっかあが仕事をして、おめえを学校にやってくれてるんじゃあ、なるたけ世話を焼かせんなよ。いたずらをしちゃあいけねえぜ。いたずらっていえば、おめえ、ひたいに傷ができてるなあ。いたずらでもしてこしらえたのか? それともころんだのか」
「うーうん、いたずらをしたんでもなきゃあ、ころんだんでもないんだよ。この傷はね、このあいだ、みんなで独楽当《こまあ》てをしてあそんだときに、鈴木さんとこの坊っちゃんが、ききもしない独楽を、きいた、きいたっていうから、あたいが、なに、きくもんかっていったら、こいつ、なまいきなことをいうなって、独楽でここをぶったから、ここから血がでたんだ」
「うん、それからどうした?」
「それから、あたいがうちへ泣いて帰ると、おっかさんが、たいへんに怒ってね、男のひたいは大事《だいじ》なところだ。ましてや出世前のからだ、こんなところへ傷をつけられてたまるものか。なんぼ男親のない子だって、子どもたちまでがばかにして……さあ、だれがぶったかいってごらん。これから、おっかさんがねじこんでやるっていうから、鈴木さんとこの坊っちゃんにぶたれたんだっていったら、それじゃあしかたがない、痛いだろうが、がまんしろって……あすこの奥さんには、しじゅう仕事をいただくし、坊っちゃんの古い物を頂戴して、おまえに着せたりしてるのに、これくらいのことで気まずくなったら、もうお仕事もよこしてくれないし、おまえもあたしも食べることができなくなってしまうから、亀や、痛いだろうけれども、どうかがまんしておくれっていわれたんで、あたいは、痛くもなんともなくなっちまった」
「うん、そうか」
「そのときに、おっかさんがそういったよ。男親がないから、人にばかにされるんだ。こんなときには、あんな飲んだくれのぼけなすでもいたら、すこしはかかしになるだろうって……」
「ひでえことをいやあがったな」
「おっかさんが、ぼけなすだって、そういったよ。そのくせ、顔は、かぼちゃに似てらあ」
「よけいなことをいうねえ。それでもなにか、おっかさんが、ときどきは、おとっつあんのことをいうか?」
「そりゃあいうよ。あの飲んだくれにはこりごりしたって……」
「おやおや、ひでえことをいやあがる」
「それでもねえ、おとっつあん、雨でもふった日には、あたいが、おもてへでられないので、うちであそんでいると、あたいをつかまえて、おとっつあんのはなしをするんだよ」
「そうか」
「ああ、おとっつあんは、腹からわるい人じゃあないんだけれども、あれは、お酒という悪魔がついているんだ。それに、お女郎という狐がついたから、それでこんなことになっちまったんだ。おとっつあんとおっかさんは、もともといやでいっしょになった仲じゃあないんだ。おっかさんが、もと御奉公をしていたうちへ、おとっつあんは、お出入りの職人だったんだって……仕事にくるたんびに、半襟《はんえり》を買ってきてくれたり、前だれを買ってきてくれたりしたから、年の若いのに似合わず親切な人だとおもっていたら、番頭さんが、『あの男は、腕もよし、それにひとりもので、姑《しゆうと》、小姑《こじゆうと》もないから、どうだい、あの男といっしょになっちゃあ』と、口をきいてもらっていっしょになったんだって、ふふん、ときどきね、おとっつあんのことをのろけているんだぜ」
「子どものくせに、そんなよけいなことをいうない。で、おめえ、ここであそんでるのか、おつかいの帰りか?」
「いま、糸を買いにいった帰りなんだ」
「そうか、さあ、おとっつあんが小づかいをやる。さあ、手をだしな」
「やあ、こりゃあ、おとっつあん、五十銭の銀貨だね」
「そうだよ」
「たいそうくれたなあ。ありがてえなあ。うちにいたときは、おとっつあん、一銭おくれっていうと、眼をまるくして怒ったねえ。それが、いまは、だまってても五十銭くれるんだから、年はとりたいもんだねえ」
「なまいきなことをいうない」
「おとっつあん、あたいのうちはね、すぐ近くなんだから、寄っておいでな」
「ばかをいえ。離縁をしたかかあのうちへ、のめのめといけるもんか。いまじゃあ、おとっつあんは、酒も断ったし、女郎という狐もおんだしちまって、身ひとつでやっているんだ」
「へえー、おとっつあんは、ひとりぼっちなのかい?」
「そうよ」
「あたいは、おっかさんとふたりだからいいけれども、ひとりぼっちじゃあ、ずいぶんさびしいだろうな」
「ああ、さびしくってしょうがねえ。亀、あした、いま時分、ここへきて待っていな。おとっつあんが、うめえものを食わしてやるから……そうそう、おめえは、ちいせえときから、うなぎが好きだったな」
「ああ、うなぎは、たいへん好きだよ。でもねえ、このごろは、ずーっと食べないから、もう顔もわすれちゃったよ」
「心ぼそいことをいうなよ。じゃあ、あした、ここへきて待っていな。うなぎを食わしてやるから……きょうは、木場まで用があっていかなくっちゃあならねえんだ。番頭さんが、一足さきにいって待っているから、もういくぜ。おめえも、おっかあが心配するといけねえから、はやく帰んなよ」
「うん」
「いいか、あしたの昼ごろ、あすこのうなぎ屋の前にこいよ。いいかい、おっかあにいうなよ。わかったなあ……おうーっ、かけだすところぶぞ。あぶねえぞっ」
「おっかさん、買ってきたよ」
「おそいじゃないか。糸屋が、どこへ越したんだい? だから、いそぐから、はやくいっておいでよといってやったんじゃあないか。あそんでいたんだろう?」
「ううん、あそんでたんじゃあないんだよ」
「さあ、はやくこっちへおあがりな。さあ、巻くんだよ。手をおだしな。さあ、ちゃんとしなくっちゃあ、こっちが巻きにくいやね。それ、手をまわすんだよ」
「こうやってかい?」
「そうだよ。まあ、よく着物をよごすねえ、この子は……いたずらがはげしいからだよ。なぜ二本棒をたらすんだい、鼻ぐらいおかみな」
「おかみなったって、いま、手がふさがっているから、かめやあしないじゃないか」
「糸を巻いてからでいいから、おかみよ。あれ、なぜそうげんこをこしらえるんだい? げんこをこしらえれば、糸がぬけちまうじゃあないか。手をひらいておいでよ」
「手をひらけったって、ひらくことはできないんだよ」
「なぜ、できないんだい?」
「なぜったって、持ってるものがあるんだ」
「また、つまらないものを持っているんだろう。虫けらなんぞを殺すんじゃあないよ」
「そんなもんじゃあないよ」
「なんだかひらいておみせな」
「いけないよ、これは……」
「いけなくはないよ。おみせ」
「よそう」
「みせないと、この煙管《きせる》でぶつよ」
「これなんだ」
「なんだい、こりゃあ? まあ、五十銭の銀貨じゃあないか」
「そうだ」
「どうしたんだい?」
「もらったんだ」
「だれに?」
「だれにだって……うーん、もらったんだい」
「うそをおつき。そりゃあ、人さまのおつかいをたのまれれば、一銭や二銭はくださるだろう。だけど、おまえに五十銭の銀貨をくださる人が、いったいどこの国にいる? まさか、さもしい心をだしたんじゃああるまいねえ。おっかさんは、こんなに貧乏はしているが、おまえにこんな心をおこさせるようには育てはしないよ。食べるものを食べなくっても、小づかい銭をこまらしたことがあるかい? それなのに、とんでもない心得ちがいをして、さあ、どこから持ってきたんだい、このお銭《あし》を? これから、おっかさんが、そこのうちへおわびにいかなけりゃあならない。どこから盗んできた?」
「盗んだんじゃあないよ。もらったんだ」
「それがうそだてえんだよ。おまえに、一銭や二銭ならくださる人もあるが、五十銭というお金をくださる人があるかい」
「あるかいったって、もらったんだ」
「だから、だれにもらったんだか、それをおいいよ」
「いいよ」
「よかあないよ。ちくしょう。いわないなら、ここにおとっつあんがおいてった金づちがあるから、この金づちで、あたまをたたきわるよっ」
「あーん、あーん……盗んだんじゃあねえ。もらったんだい。盗んだんじゃあねえやい……あーん」
「泣いてちゃあわからないよ。だれにもらったの?」
「わあーん……わあーん……おとっつあんにもらったんだい」
「えっ、おとっつあんに? おとっつあんにもらったって……おまえ、おとっつあんに会ったのかいっ!」
「うふっ、おとっつあんといったら、前へのりだしたな」
「なにいってんだい。どこで会ったんだい?」
「いま、通りの四つ角んところで会った」
「そうかい。また、なんだろ、お酒に酔っぱらって、きたない服装《なり》をしてたろ?」
「ちがうよ。りっぱな服装をして……きれいな半てんを着て、腹がけや股《もも》ひきもちゃんとしてたよ。それで、あたいに、この五十銭くれたけど、まだたくさんお銭《あし》を持ってたよ。いまじゃあ、もうすっかりお酒もよしちゃったんだって、よして三年もたつって、そういってたから……それ
から、お女郎という狐もおいだしちまって、おとっつあん、ひとりぼっちでやってるんだって……」
「それでなにかい、おとっつあんは、なにかおっかさんのことを聞いたかい?」
「やあ、両方でおなじようなことをいってやがらあ。おかしいなあ」
「なにをいうんだい、この子は……」
「それでね、おっかさん、あしたね、あの角のうなぎ屋の前に、昼ごろこいって……うなぎ食べさしてくれるって、そういってたよ」
「ふーん、そうかねえ……そんなにも、あの人がなったのかねえ……三年前に、あの人が、いまみたいな料簡《りようけん》なら、おまえもあたしも、こんなつらいおもいはしなかったのに……」
「あした、うなぎを食べにいってもいいかい?」
「ああ、いいとも……」
あくる日になると、女親はうれしいから、子どもに小ざっぱりしたものを着せて、さきへだしてやりましたが、自分もなんだか気になっておちつかないものですから、きれいな半てんをひっかけて、そのうなぎ屋の前をいったり、きたり……
「ごめんください」
「はーい」
「うちの子がうかがっておりましょうか?」
「ああ亀ちゃんですか。二階にいますよ。亀ちゃん、おっかさんがきたよ」
「やあ、おとっつあん、おっかさんがきたよ……」
「えっ、おっかさんが? ……だからいうなっていったんじゃあねえか」
「だって、きちゃったもの、しょうがないじゃないか……おっかさん、おあがりよっ、おっかさんおあがりよ」
「そんなにいわなくてもあがるけど……まあ、おまえはなんだい? どうしてこういうところにきているの?」
「どうして、きているのって、知ってるじゃないか。こっちへおいでよ。ううん、心配ないよ。あたいがついているから……」
「なにをいってるんだい、この子は……」
「ここへお坐りよ」
「ほんとうにしょうがないねえ。おまえは……どなたが、そんな、おまえにうなぎを食べさせてくれるって、つれてきてくだすったの?」
「またあんなことをいって……いつまでしらばっくれてるんだろう、おっかさん、おとっつあんとはやくはなしをしなよ」
「まあ、おまえさん……きのう、お小づかいをいただいて、きょうまた、うなぎをごちそうしてくださるというから、どこのかたかと聞いても、知らないよそのおじさんだというものですから、せめてお礼のひとことも申しあげようとおもってうかがったんですが、おまえさんでしたの」
「えへん、えへん……えへん……じつはねえ、きのうね、亀坊に会ったんだよ。で、うなぎを食いてえってから、じゃあ、まあ食わせてやろうじゃねえかってんで、へへへへへ、だまっていろっていっといたのになあ……へへへへへ……きのうね、亀坊に会ったんだよ。で、うなぎを食いてえってから、じゃあ、まあ食わせてやろうじゃねえかってんで、へへへへへ……だまっていろっていっといたのになあ……へへへへへ……じつはねえ、きのうね、亀坊に会ったんだよ……」
「なんだい、おとっつあん、おんなじことばかりいってらあ……わあーん、おとっつあん!」
「なんだ、なんだ、泣くんじゃあねえ。三人でひさしぶりに会ったんじゃあねえか。泣くやつがあるか……なあ、おみつ、おめえにゃあ会わせる顔がねえんだけれども、亀坊がかわいそうでならねえ……なにごともこいつのためだとおもって、いやでもあろうが、おれともと通りにいっしょになってくれるわけにはいくめえか?」
「そりゃあ、あたしのほうからもおねがいします……どうか、いっしょになってくださいな」
「うん、子どもがあればこそ、おめえとも、またよりがもどるんだな」
「ほんとうですよ。子どもは夫婦のかすがい(二つの材木をつなぎとめるためのコの字型のくぎ》っていう通りですねえ」
「えっ、あたいがかすがいかい? だから、きのう、おっかさんが、あたいのあたまを金づちでぶとうとしたんだ」
解 説
御慶
むかしは、「八五郎年始」「富八」などと題していた純粋の江戸落語で、富の噺のなかでももっとも明るく華やかな落語。
長年の夢であった千両富にあたったあとが正月で、かみしも姿の主人公が年始まわりにでかけ、初詣での友だちと逢うというように、繭玉きらめく元旦の晴れやかな江戸の街頭風景が、じつにあざやかにえがかれていて心はずむものがある。
なお、江戸では、三大富といって、湯島天神、谷中感応寺、目黒不動尊が有名だったが、じっさいには千両富はあまりおこなわれず、多くても五百両富ぐらいだった。
寿限無
上方では、別名を「長命のせがれ」ともいう。
このような長い名前の噺は、元禄十六年(一七〇三)刊の笑話本『軽口御前男《かるくちごぜんおとこ》』をはじめとして、各地の民話にみられる。
いわば落語のイロハであり、前座噺としてあまりにも有名な噺。
そこつの使者
三代目柳家小さんが得意にしたというこの噺は、そこつ者が、用事を聞かずに京都から江戸へいくという笑話本『軽口福蔵主』(正徳六年・一七一六)のはなしをもとにして、これに講談の赤穂義士銘名伝「武林|唯七《ただしち》」のそこつぶりがくわわったものであるらしい。
わすれたことをおもいだすために釘ぬきで尻をつねるという奇抜な着想があるので、別名を「釘ぬき」「尻ひねり」ともいう。
構成もしっかりしているし、おちも秀逸で、そこつ噺中の佳篇といってよかろう。
転宅
別名を「義太夫かたり」という。
数多い泥棒の噺のなかでも、色気のあることと、「夏泥」とおなじように泥棒が被害者になることとで異彩を放っている。
おちはほかにもあって、旦那がきていたらタライをだしておくという約束で別れ、翌日、泥棒がいってみると、いつになってもタライがでているので、となりで聞くと、「転宅しました」「えっ、転宅(洗濯)、道理でタライがでていた」というのもあり、タライのかわりに「石けん」になっているのもある。
おちとしては、義太夫かたりが古く、明治になって、引越しを転宅と漢語でいうことが流行してから転宅(洗濯)のおちができたようだ。明治中期の二代目古今亭今輔やステテコの円遊の速記をみると、いずれも転宅(洗濯)のおちになっている。
三枚起請
大阪の古い廓噺で、明治末期から大正にかけての名人初代三遊亭|円右《えんう》が東京に移入した。
遊女が、人の好い客をだますという典型的な廓噺で、個性ある三人の男たち、茶屋のお内儀《かみ》、そして、海千山千の遊女という、それぞれ特色ある人物描写がむずかしい噺だが、また、そういう登場人物たちの展開する起伏あるストーリーがおもしろいところでもある。
なお、起請(文《もん》)とは、遊女が客から金をまきあげるために、年期があけたら夫婦になると誓った文書で、紀州熊野神社から売りだされた午王宝印《ごおうほういん》という起請のための用紙をもちいた。そして、これを売る熊野の勧進比丘尼《かんじんびくに》が、「起請一枚書くごとに、熊野権現のたいせつな烏が三羽死ぬ」といった。したがって、この噺のおちは、この予備知識がないと理解しにくいわけだ。
やかん
別名を「無学者」「無学者論」「やかん根問《ねど》い」などともいい、原話は、明和九年(一七七二)刊の笑話本『鹿の子餅』にある。
「千早振る」とおなじように、主人公が知ったかぶりをして、ことばの珍解釈をするナンセンス噺だが、落語家なかまで、中途半端な知識をふりまわすのを「あいつはやかんだ」というくらいにポピュラーな噺。なお、上方には、同系統の「浮世根問い」という噺がある。
崇徳院
この噺は、上方落語中興の祖である初代桂文治(一八一五没》の作で、上方古典落語の代表作だが、東京にも「皿屋」「花見扇」などの題で、ほとんどおなじストーリーの噺があった。これは、人情噺「三年目」の発端の部分だという説もあり、たしかに先代円生などの速記をみると、恋わずらいから「三年目」がはじまっている。
恋わずらいというものが、遠いむかしの夢物語になってしまった現在では、かえってのんびりした時代のムードがうかがえてたのしい噺。
位牌屋
原話は、文政七年(一八二四)刊の笑話本『咄土産』にある。
「しわい屋」「味噌蔵」「片棒」などとともにケチをあつかった落語として有名だが、同種の噺のなかでも、もっとも笑いが多く、おちも奇抜で傑作といえよう。
夢の酒
これは、「雪の瀬川」、または「夢の瀬川」という噺の後半の部分をとって、明治中期の人気者ステテコの円遊が、安政三年(一八五六)刊の笑話本『落噺笑種蒔』にある「上酒」という小噺をつけて、雪を雨に変え、「隅田の夕立ち」と題して改作したもので、別名を「夢の後家」ともいう。
内容的には、夢の情事に嫉妬したり、夢のつづきをみたりして不自然なようだが、夫婦、親子の情愛、酒飲みの性癖、下町情緒などがあざやかにえがかれ、おちもしゃれていて、不自然さをまったく感じさせず、小品ながらもよくまとまった佳篇といえる。
なお、「雪の瀬川」という噺は、夢のなかで、若旦那が、橋場の渡しで舟を待つうちに雪がふりだし、もと吉原のおいらんだった瀬川という美女が傘をさしかけたところから噺が展開するので、いっそう艶麗な情緒があるが、現在はほとんど口演されない。
天災
無分別ならんぼう者が、物知りから教えられた知識を、なまかじりのままふりまわすのは、「猫久」や「二十四孝」と同型の滑稽噺にはちがいないが、江戸時代の庶民に、知足知分、つまり自分の身のほどを知って、そのなかで不平なく生きることを教えた「心学」という庶民哲学が背景になっているだけに、その消極的なあきらめムードが、若い世代にうけいれられなくなっていくのではあるまいか。
大山まいり
狂言の「六人僧」や、それを原拠とした井原西鶴の『西鶴諸国ばなし』(貞享二年・一六八五)巻一の七「狐の四天王」を原話とした噺で、上方では「百人坊主」と題し、旅の噺である「伊勢まいり」の一節として口演してきたという。
江戸が日本中でもっともにぎやかで、もっともくらしよいと自負していた江戸っ子たちは、あまり旅行を好まなかったが、信仰半分、リクリエーション半分で、夏の大山まいりにはにぎやかにくりだしたのだから、そんな浮かれ気分からこの悲喜劇も生まれたわけだった。なお、「お毛が(お怪我)なくっておめでたい」というおちは、粋人たちの日常会話にもちいられるほど有名になっている。
権助芝居
元来は「一分茶番《いちぶちやばん》」という題だが、演者によっては、権助が番頭からもらう金を、五十銭とか五円とかになおして口演するので「権助芝居」のほうが普及してしまった。ほかに「しろうと芝居」「鎌倉山」の別名もある。
下男権助が活躍する噺は、「権助提灯」「権助魚」など数多いし、権助の無知で粗野な言動が爆笑をまきおこすが、その権助をしろうと芝居に登場させることによって、いっそう滑稽の度を強くしたナンセンス噺。
茶番を説明しておこう。
これは、元禄(一六八八―一七〇三)ごろ、歌舞伎の楽屋に茶番という茶|汲《く》み役があり、それに三階の大部屋の役者があたったが、その連中が、そのさいに工夫してかくし芸などをしたところからでたことばで、これがしだいに民間にも流行し、天明年間(一七八一―八八)には、いろいろの品物をつかってしゃれをいう口上茶番や、しろうと芝居におちをつけた立ち茶番などとわかれ、幕末にむかうにつれてますますさかんになったのだった。
つるつる
この噺の原型は、文化年間(一八〇四―一八)にすでにあったが、明治、大正あたりまではたんなる滑稽噺にすぎず、現在のような佳篇にみがきあげたのは、八代目桂文楽の功績だった。
幇間くらいつらい稼業はあるまい。つねに客へのサービスに専念し、自分にもどる瞬間が持てない。おかしくもないのに笑い、飲みたくもない酒も飲み、ついていきたくもないところへでもついていかなければならない。まさに人生のピエロだ。したがって、幇間《たいこもち》をえがく噺にはペーソスがにじみでている。
この噺も、幇間の恋が、客へのサービスのために不首尾におわるという破局が中心になっているだけに、悲哀感もひとしお深い。
風俗的に、噺の舞台、題名、おちなどがわかりにくいので説明しておくと、この幇間は、芸者屋を経営する師匠の幇間の家に同居しているので、芸者と一つ屋根の下で寝起きしているわけだし、題名の「つるつる」とおちの「井戸がえの夢……」というのは、むかしの井戸さらいでは、井戸から水を汲みだしたあとで、ひとりが太い縄につかまって、つるつると井戸の底へおりていき、あたりを掃除したことによるものだった。
代脈
寄席落語のはじまった文化年間(一八〇四―一八)ごろから口演されてきた古い噺で、医者をあつかう落語としては代表的なもの。
代脈という存在が許されていたことでもあきらかなように、医者が徒弟制度であった、のんびりした江戸時代のムードが背景になっていることを理解しないと成立しない噺。したがって、中途半端な現代化は禁物。
この落語、病床にある妙齢の、しかも深窓の佳人の放屁が中心になっているので、ふしぎな色気が漂《ただよ》うが、ポンチ絵にでてくるような愚鈍な代脈が、その間を縫ってあらわれるために、浮世絵とマンガの二重写しのおもしろさがあり、美しくて、おかしいという奇妙な放屁風景を描き、ちょっと類のないナンセンス噺といえよう。
野ざらし
原話は、中国の笑話本『笑府』にあり、その翻案が、天保八年(一八三七)刊の笑話本『落噺仕立おろし』にあるが、これを落語にしたのは、「こんにゃく問答」の作者としても有名な二代目林屋正蔵といわれている。
この正蔵は、禅宗の僧侶出身だったので、陰気で怪談風な「野ざらし」をつくったのだが、これを現在のように陽気な噺に改作したのは、ステテコの円遊だった。そして、この改作が原話を追放して、原話のほうは跡をとどめないほどになったのだから、円遊は近代落語の祖と称してもよかろう。現在では、おちがわかりにくいので、滑稽な魚釣り風景までしか口演されない。
青菜
むかしは「弁慶」の別名もあったという。
原話は、安永七年(一七七八)刊の笑話本『当世話』にある。
よそで聞いて感心したはなしを、亭主が女房に受け売りして聞かせ、結果は失敗におわるというのは、「猫久」や「町内の若い衆」をはじめよくある形だが、おなじ滑稽噺とはいいながら、この噺は、前半において、緑の植木、そのあいだを吹きぬける涼風、つめたい直し、鯉のあらいなどの夏の季節感あふれる道具立てがあってこころよいし、また、この清涼感が、後半における暑苦しい長屋の失敗談をいっそうひきたてる役割りを果たしている。
船徳
この噺は、江戸末期の名人初代古今亭志ん生作の人情噺「お初徳兵衛|浮名桟橋《うきなのさんばし》」の発端を独立させたもので、このような笑いの多い落語の原型は、ステテコの円遊がつくった。ただし、円遊の速記本には、まだ「おち」がついていないで、若旦那が新米船頭として失敗をくりかえす滑稽だけに終始しており、三代目小さんになると、現在のおちがついている。
勘当された若旦那の、勤労に汗する、いじらしくも、また、滑稽な姿を中心にしたこの佳篇は、ときは四万六千日の当日、ところは隅田川と、下町情緒あふれる道具立てもあって、夏の代表的東京落語となっている。
道灌
原話が、天保四年(一八三三)刊、初代林屋正蔵作の笑話本『笑富林《わらうはやし》』にある通り、純粋の江戸落語。
笑いも多いので絶好の前座噺でもあり、多くの落語家が口演してきた有名な噺だが、歴史上の逸話を知らない世代が増えてきているので、しだいに演りにくくなりつつある。
庖丁
もとは上方落語で、「庖丁|間男《まおとこ》」ともいう。
皮肉なストーリーの佳篇なので、その妙味を表現するために演出は困難をきわめる。
生酔いの男が、実際よりも酔ったふりをして、唄を唄いながらたのまれた女をくどくあたりはむずかしいし、その女も、ある程度色気があって、堅くなければならず、女が復讐を誓う心理的推移の描写も手腕を要する。
明治時代までは、「えびっちゃま」と題し、現在の噺のさきがあって、「おれもちかごろえびっちゃまだ」というおちだった。
「えびっちゃま」の語源は不明で諸説ある。
香具師《やし》の世界では、にこにこ笑いながら、あぐらをかいてゆすることを「すびをきめこむ」といい、「すび」は「えびす」の隠語という。つまり鯛を釣る恵比寿のように、笑いながら金を釣りあげる意味だった。また、関西で、泥棒がたくさん盗んでにっこりするのを「えびすをふくむ」といい、花柳界では、恵比寿のように裕福そうな客が、じつは無一文でいたのを買いかぶった意味で「あいつはえびすこか」といった。「えびすこ」は、十月十五日の恵比寿講の盛大なごちそうの意味だったが、いずれにしても、「えびっちゃまだ」というおちではわからないので現在のおちにかわり、題名もあらためられた。
不動坊
もとは上方落語で、「幽霊|稼《かせ》ぎ」の題もあり、二代目林家菊丸作といわれる。
明治時代に、三代目柳家小さんが、「不動坊|火焔《かえん》」の題で東京に移入した。
もとは「幽霊稼ぎ人(遊芸稼ぎ人)です」というおちだった。これは、明治時代に、芸人が遊芸稼ぎ人という名目で鑑札をもらって営業をしていたところから生まれたおちで、当時としては新鮮なムードがあったわけだが、時代色ゆたかでありすぎて永遠性がない。
これを三代目小さんが現在のようにあらためたのだが、このおちのほうが、飄逸《ひよういつ》な味があってはるかにすぐれている。
上方では、みんなが引き窓からのぞいている場面で、夫婦がベッド・シーンを展開するのを、間接描写ながらもかなり濃厚に表現するが、東京では、色気ぬきの徹底的ナンセンスにしたてなおされている。この滑稽噺も、長屋生活がすくなくなった現在では、イメージづくりのむずかしくなった噺といえよう。
なお、太平洋戦争直後の食料難時代に、四代目小さんが、幽霊に扮する芸人の名を「栄養亭|失調《しつちよう》でございます」とやって大いにうけたことは、秀逸なくすぐりとして語り草になっている。
近日むすこ
原話は、安永三年(一七七四)刊の笑話本『茶のこもち』にある。
江戸でできた落語だが、それが上方で完成され、明治以後、時折り東京で口演する落語家もいたが三代目桂三木助によって完全な東京落語にみがきあげられた。
なお、「近日」というビラについて説明しておくと、江戸時代には、芝居の初日寸前になって、金主が手をひいたり、俳優が役不足や給金への不満をとなえたりして、開演延期、または中止ということがよくあった。そこで、何月何日初日となかなか決定できないために「近日開演」というビラをだしておいたのだった。
お七
原話は、寛延四年(一七五一)刊の笑話本『軽口浮瓢箪』にあり、別名を「お産見舞」「火の用心」などともいう。
この噺は、一方が縁起かつぎ、一方がものごとを気にしない毒舌家という対照的な性格であり、しかも、縁起かつぎのほうが、ぐずでお人好しであるところに笑いのポイントがあるわけだが、「道灌」の場合とおなじように、「お初徳兵衛」とか「お七吉三郎」とかいう名前が、若い世代にわすれられつつあるので、その点において演りにくくなっていく噺。
松山鏡
別名を「鏡のない国」「鏡のない村」などといい、上方では、累《かさね》の怪談をくわえて、「羽生《はにう》村の鏡」という。
原話は、古代インドの民間説話にはじまり、これが中国を経て日本に渡来して各地の民話になった。それらにもとづいて謡曲「松山鏡」、狂言「鏡男(土産の鏡)」などもつくられたわけだが、笑話としては、中国の笑話本『笑府』や、正徳二年(一七一二)刊の笑話本『新話|笑眉《わらいまゆ》』にその原型をみる。
内容的には、鏡にうつる自分の姿を、あるいは父とおもい、あるいは夫のかくし女とおもい、さらには他の尼とおもうというように不合理きわまりないが、そのばかばかしさを聴衆に感じさせないところに演者の手腕を要する噺。
錦の袈裟
別名を「ちん輪」「金襴《きんらん》の袈裟」「錦の下帯」などともいい、大阪では「袈裟茶屋」という。
ばかの与太郎が、買いかぶられてもてるというめずらしい廓噺だが、見栄《みえ》っぱりの江戸っ子が、錦のふんどしで遊びにいくという着想が奇抜なだけに、廓噺のなかでも、とくに陽気で、ナンセンス的要素の多い落語で、それだけに、現代でもたびたび口演される。
らくだ
明治時代に、三代目柳家小さんが、大阪から東京へ移入した噺で、大阪では、「らくだの葬礼」といっていた。
怪奇的ムードのなかに、大家と店子、長屋の者同士の交際という裏長屋の庶民生活を浮き彫りにし、それらを背景にして、飲むほどに、酔うほどに、らくだの兄弟分の男とくず屋の性格とがしだいに逆転していくところをクライマックスとしており、その推移のおもしろさはすばらしいかぎりだが、それだけに、ヴェテランの落語家でなければ手がけられないむずかしい噺であることもたしかだ。
なお、かんかんのう踊りは、唐人《とうじん》踊りなどともいわれ、江戸時代後期に流行したもので、その起りは、オランダ渡来、中国渡来の両説があって一定しないが、とにかく当時としては異風な踊りであったことはまちがいない。
松竹梅
元来は上方落語で、文化初年(一八〇〇ごろ)あたりに、京都の落語家初代松富久亭松竹がつくったという。
明治中期、四代目柳亭左楽によって東京に移入され、「高砂屋」とともに婚礼の席をえがくめでたい噺として珍重されている。
梅さんが「開いている」というおちは、婚礼の席では、縁起をかついで、帰るといわずに開くというが、この開くと、梅の花が開くということをかけたものだった。
首屋
別名を「首売り」といい、原話は、明和九年(一七七二)刊の笑話本『楽牽頭《がくたいこ》』にある。寄席落語のはじまった文化年間(一八○四―一八)ごろから口演されてきた古い噺だが、みじかい上に、とくに笑いの爆発する場面もなくて、たんにおちをきかせるだけの噺なので、演者としてはむずかしい。
尻餅
原話は、中国の笑話本『笑府』や享和《きようわ》二年(一八○二)刊の笑話本『臍《へそ》くり金《がね》』にある。
もとは上方落語だったが、江戸でも文化年間(一八〇四―一八)から口演された古い噺。
江戸時代の庶民の歳末のたのしみの一つは餅つきだった。したがって、貧乏していても、餅をつくことはたいていの家でやっていたわけで、餅がつけないことは、近所に対しても顔むけならないものだった。そのためにおもいついた苦肉の策だったわけだが、また、当時の庶民にとっては、この行事は神聖なものだった。そこで、義太夫の「夕霧伊左衛門」には、「ヤア待て待て、今日は大事の餅つき、ひょっと怪我でもあっては悪い」とあり、川柳にも、「もちつきの宵に女房にしかられる」とあって、めでたい正月の餅をつく前夜に、女房にいどんで拒絶された亭主の姿がえがかれ、いずれも餅つきについての信仰心がうかがわれる。しかも、その神聖なるべき餅つきの代用に「尻餅」をせねばならぬところに、この夫婦の貧しさゆえの苦悩があり、そこから生まれるぺーソスもある。そして、そのぺーソスを生かすためには、女房が不美人ではたんなる滑稽落語になってしまうので、女房は美人とまではいかなくても、十人なみのきりょうを持ち、しかも色白で、肉づきもゆたかであってほしい。そのことから、この噺の味とエロチシズムが生まれてくるといえよう。
なお、上方では、「こちの人、どうぞたのみや、あとの二臼は白|蒸《む》し(小豆をいれず、餅米を蒸しただけの白いこわめし)で食べとくれ」というおちになっている。
がまの油
盛り場で、がまの油売りが口上を述べるというだけの噺だが、この口上は、しろうとが酒席の余興に演じるくらい有名になっている。
元来は、「両国八景」という噺の一部だったが、この噺が口演されなくなっているので、そのあらすじを述べておこう。
むかし、両国橋の西の橋詰は、水茶屋、芝居小屋、寄席などがあったり、大道芸人や大道商人などがでていたりした盛り場だった。ここの居酒屋でくだをまいている酔っぱらいを友だちが連れだし、盛り場を歩きはじめる。焼きつぎ屋がでていて、どんなこわれものでも、これをつかえばくっついてしまう、というところへ酔っぱらいがきて、食べものとまちがえて口にいれるので、口がくっついてはなれなくなったり、のぞきからくり屋にからんだりするというように、盛り場風景をえがくうちにがまの油売りもでてくるのだった。
両国の盛り場風景が遠いむかしばなしになったところで、大正時代の人気者柳家三語楼が、招魂社《しようこんしや》(靖国神社)の大祭になおして「九段八景」の題で演じた。
子別れ
作者は、一般的には、幕末の名手初代春風亭柳枝といわれているが、一説には、三代目|麗々《れいれい》亭柳橋《りゆうきよう》(のち春錦亭柳桜《しゆんきんていりゆうおう》)ともいう。
この噺は、普通は三部にわけている。すなわち、夫婦別れするまでを「上」として、別名を「こわめしの女郎買い」といい、おいらんを家にいれるくだりを「中」といい、夫婦がもとの鞘《さや》におさまる終盤を「下」として、「子はかすがい」の別名がある。なお、三遊亭円朝が、女房が子どもをのこして家をでていくように改作した「女の子別れ」もある。
内容的には、ストーリーの起伏もあり、涙も笑いも織りこまれ、夫婦、親子の情愛をみごとにえがいた名作で、ヴェテランの演者ならでは手がけることは至難とされている。
本書編集にあたっては、明治、大正、昭和三代にわたる多くの落語家の速記本を参照し、たとえば本書所収の「子別れ」のように全篇カットなしの完全テキストを作成したが、ここにえらんだ落語は、有名なもののなかから、読んでおもしろいものをあつめたので、「こんにゃく問答」「強情灸」などのように、有名でも、高座でみたときに真価を発揮する落語は省略した。
なお、つぎの「落語と日本文学」に引用した小ばなしは、現代語訳にあらためた。
落語と日本文学
興津 要
日本文学において、落語的要素をかんがえてみると、古くは、『竹取物語』『宇治拾遺《うじしゆうい》物語』『沙石集』などにもそれはかなりみられるが、なんといっても、戦国時代の室町末期、ときの武将たちにつかえて慰安係りをつとめたお伽衆《とぎのしゆう》があらわれ、多くの笑話をのこしたあたりからその色彩は濃厚になった。そして、江戸時代にはいり、彼らのはなしを筆録した『戯言養気集《ぎげんようきしゆう》』『醒睡笑《せいすいしよう》』『きのふはけふの物語』などの笑話本が刊行されて、はなしの趣味が市民社会に浸透し、ついには、庶民のために、街頭で笑話を提供する辻噺《つじばなし》の、露の五郎兵衛、鹿野武左衛門、米沢彦八などが登場するにおよんで、落語は、完全に市民生活のなかに根をおろし、西鶴以後の作家たちの作品のなかに、その影響をしだいに顕著にみせていったのだった。
落語と井原西鶴
室町末期の戦国時代、武将の側近にあって、そのはなし相手をつとめたお伽衆たちのはなしが、徳川氏が政権を確立した元和、寛永年間(一六二〇年代)にはいると、折りからはじまった出版技術とタイアップして、『戯言養気集』『醒睡笑』『きのふはけふの物語』などの笑話本となって刊行され、はなしの趣味は、市民社会に浸透していった。
万治二年(一六五九)になると、噺本《はなしぼん》『百物語』が刊行され、庶民たちが退屈《たいくつ》まぎれに自分たちではなしを自作自演する会を開催したことをつたえているが、この時代になると、はなしが、上流階級に奉仕するお伽衆の手から市民たちの手にわたったことがうかがわれる。同年刊の噺本『私可多咄《しかたばなし》』の序文をみると、ただはなしのストーリーを一本調子でしゃべったのでは、都会の人間といなかの人間との区別もはっきりしないから、しかたばなしではなしたとあって、身ぶりまでくわえてはなしの登場人物を具体的に表現するという、現代の落語家にみられるような立体的な演出法も述べられており、さらに、延宝八年(一六八〇)刊の『囃《はなし》物語』の序文では、笑いの要素があっても、事実にもとづくはなしは物語で、根も葉もない架空のおどけばなしが〈はなし〉だという区別も意識され、笑話の創作、実演もさかんになったために、庶民に奉仕する職業的な落語家が出現した。
かくして、延宝・天和年間(一六八〇年ごろ)から、京都に露の五郎兵衛、江戸には天和ごろから鹿野武左衛門、ややおくれて貞享(一六八四―八七)ごろから大阪に米沢彦八などという職業的な落語家が登場して辻噺をはじめた。
辻噺とは、寄席がまだできなかったこの時代に、街の盛り場において、ヨシズ張りの小屋をもうけ、落語家は広床几《ひろしようぎ》の上の机により、聴衆は床几に腰をかけて聴き、噺が佳境にはいったところで銭をあつめるという形式の庶民的な演芸だった。
はじめて純粋に娯楽的な架空のナンセンス噺を毎日提供してくれるこれらの街頭芸術家たちは、庶民の圧倒的な支持をえていた。
たとえば、元禄(一六八八―一七〇三)ごろの姫路の俳人|菰州《こしゆう》には、「秋季にもなるかよ露の五郎兵衛は」の句があるし、あの謹厳な俳聖松尾|芭蕉《ばしよう》でさえ、弟子の各務支考《かがみしこう》に、露の五郎兵衛のはなしをしたことが、支考著の『本朝文鑑《ほんちようぶんかん》』(享保三年・一七一八)に書かれているほどだった。
井原西鶴という作家は、寛永十九年(一六四二)に大阪町人として生まれ、元禄六年(一六九三)に世を去ったのであるから、噺の趣味が、市民社会に浸透していく過程のなかで成長していったのだった。そして、『好色一代男』『好色五人女』『好色一代女』『日本永代蔵《につぽんえいたいぐら》』『世間胸算用《せけんむねさんよう》』などの作品において、愛欲や金銭欲にのたうちまわる巷《ちまた》の人間の生態をえがきつづけ、そのことによって、「西鶴があさましく下《くだ》れる姿あり」(『去来抄《きよらいしよう》』》――すなわち、西鶴は下劣《げれつ》であると芭蕉に批判されたのであり、その芭蕉でさえ、露の五郎兵衛には関心をしめしていたのであってみれば、巷の作家西鶴の作品が、庶民娯楽であった話芸と無縁であったはずはない。
事実、西鶴の作品『本朝二十不孝《ほんちようにじゆうふこう》』巻一の四には、咄《はな》しの点取《てんとり》(だされた題にもとづいて笑話をつくり、最高点をあらそうあそび)がでてくるし、『武道伝来記《ぶどうでんらいき》』巻五の四には、友人たち四、五人があつまって、おとしばなしをしたことがえがかれているように、市民社会の噺の趣味を反映させていた。また、元禄五年(一六九二)刊の『書籍目録』をみると、「咄の類並《ならびに》かる口咄し」の項目があり、後半の「かる口咄し」の項に、『かる口笑』『当世|手打《てうち》わらひ』『露がはなし』などの噺本とならんで、「五、西鶴ばなし」(『西鶴諸国ばなし』のこと)とあって、西鶴作品の笑話的性格が世にみとめられていたことがうかがわれる。
噺本と西鶴
西鶴の作品には、他の噺本から題材をえてきたものが数多くみられる。
たとえば、元禄二年(一六八九)刊の推理小説集『本朝桜陰比事《ほんちようおういんひじ》』には、『醒睡笑《せいすいしよう》』に取材した作品が二つもあるが、これらは、落語よりも講談に近いものなので、これらよりもストレートに落語的な例をあげておこう。
江戸の辻噺の名手鹿野武左衛門著の『鹿《しか》の巻筆《まきふで》』巻三の「無筆のげんくわ帳」は、つぎのような噺だった。
五十嵐|勘解由《かげゆ》というゆたかな浪人がいた。しかし、どういうわけか無筆だった。
正月に年賀の者がきたときに、作内という男が玄関帳をつけていたが、主人も自分も無筆なので、年賀にきた人の名を絵に描いておいた。
勘解由が帳面をとってみると、文と桜とが描いてあったので、「花之丞がきたか」と聞くと、「今朝まいられました」といった。また、上に松の枝と下にじょうきをひきわるところが描いてあったので、「松枝《まつがえ》主典《さかん》がきたのか」と聞くと、「まいられました」と答えた。さらに、骨格たくましい男が、剣を持ってすっくと立っているところが描いてあったので、「作内よ、これは読めぬが……」と聞くと、「りきの監物《けんもつ》さま」といった。そこで、勘解由は、「これは宛字《あてじ》であろう。不動院とまちがえる」といった。
この噺にもとづいて執筆された『西鶴|名残《なごり》の友《とも》』巻五の「無筆の礼帳」は、つぎのような作品だった。
人はみな、上方の春に心をひかれて、諸国の俳友たちは、大坂の港へやってきた。難波の梅も過ぎて、大寺の桜の咲くころ、豊後の西国《さいこく》、筑後の西与、美濃の木因《ぼくいん》、備後の西鷺《さいろ》などがあつまって、各国の雑談をはじめたので、老いの心も春めいておもしろくなり、俳諧のことはよそにして耳をよろこばせた。
さて、世のなかで、字が書けないほどあさましいことはない。この正月のはなしだが、豊後の国の家中に代々つかえている武士に無筆の者がいた。筋目《すじめ》正しいので二百石の知行《ちぎよう》をもらっているが、いまの時勢にあわない人物だ。類は友をよぶのたとえ通り、召し使いの男もすでに五十になるが、自分の名さえ書くことができなかった。そこで、物おぼえだけで、すべてのことをどうにかつとめていた。
この男が玄関番をひきうけて、正月三日のあいだ礼帳(年賀にきた人の名を書く帳面)をつけることになったが、主人も召し使いも無筆で間にあわせたのはおかしかった。
主人が年賀の返礼にいくことになって、その帳面をみたところが、鳥居と太鼓とすり鉢とが描いてあったので、すぐに理解して、「これは宮川備前殿か」といった。また、かきつばたにさし鯖《さば》が書いてあるのをみて、「これは八橋|能登《のと》殿であろう」といい、そのつぎに不動が書いてあるのをみて、「これは読めぬが、だれじゃ」と聞くと、「監物《けんもつ》さま」と答えた。すると、「さてさて、宛字を書く男じゃわい。監物ならば、鍾馗大臣か、|樊※《はんかい》かをなぜ書いておかぬか。これでは不動院に読みまぎれてよろしくない」といって叱られた。
とあって、西鶴の身辺雑記風によそおってはいるものの、『鹿の巻筆』をそのまま借用していることはあきらかだった。
西鶴の作品にみられるこのような〈はなしの姿勢〉は、また、その作品から後続の笑話も生んでいった。
狂言の「六人僧」を原拠とした『西鶴諸国ばなし』巻一の「狐の四天王」は、姫路の米屋の門兵衛という男が、あやまって小狐を殺したために、自分たち夫婦はもちろんのこと、実家に帰っていたむすこの嫁も、いなかにいた門兵衛の父親も、いずれも狐にだまされて坊主にされるはなしだが、のちに改作されて、上方落語「百人坊主」や江戸落語「大山まいり」になった。
落語技法と西鶴
西鶴の「はなしの姿勢」ということがいわれるように、あたかも他人にはなしをするようなムードでつづられている作品が多くみられ、したがって、技術的にみても落語の影響があることは否定できない。
まず、マクラの技法だが、これは、はなし手が、自分がこれからはなす噺の内容のムードを盛りたてるために、世間ばなしなどからしだいに本題にはいっていくためのもので、たとえば、『世間胸算用』巻二の四「門柱《かどばしら》も皆かりの世」は、「総じてものになれてはものをおそれないものだ。都の遊廓島原の入り口は、小唄に歌う朱雀の細道という野辺である。秋の田のみのるころ、諸鳥をおどすために案山子《かかし》をこしらえ、古いあみ笠をかぶせ、竹杖をつかせておいたところが、鳥たちは、ふだん遊所へ通うひとたちがかぶる焼印の大あみ笠をみつけているので、これも供をつれない大尽だとおもってすこしもおどろかず、のちには笠の上にもとまり、ちょうど遊廓で客を粋人あつかいにして文句をいわせないように、案山子を役立たずにしてしまっている」という文章ではじまっているが、この文章は、借金とりになれてしまった男が、歳末になって、借金とりにかこまれてもすこしもおそれないという本題をみちびきだすために、マクラとしての有効なはたらきをしているがごとくだった。
また、オチの技法については、たとえば、『世間胸算用』巻五の一「つまりての夜市」で、古道具の夜市に、蝋地《ろうじ》の紙に御免筆の名印までしるしたのを持ちこんだところ、それがあまり安く値をつけられたので、それを持ちこんだ男が、紙だけでも銀三匁の値打ちがあるというと、「いかにも、いかにも、なにも書かずにあれば三匁の紙だ。それなのに、無用の手本を書いてしまっては五分でも高い。たとえどんな人の筆にもせよ、これをふんどしという手だ」(傍点筆者)といったので、そのわけを聞くと、「いまの世に男と生まれ、これほどかかぬものはないによって、これをふんどし手」といって笑ったという会話など、オチの手法のあらわれだったが、このように部分的なものでなく、オチのテクニックが作品全体のしめくくりとして使用されている場合も多い。
それはたとえば、『諸艶大鑑《しよえんおおかがみ》』巻二の五「百物語に恨《うらみ》が出る」は、つぎのようにつづられている。
ある夜、ひまな遊女たちがあつまって、かわるがわる百の怪談をつづけると、最後に物《もの》の怪《け》があらわれるという百物語をはじめたが、はなしが百をこしても物の怪があらわれるしるしもなかった。しだいにはなしがかわり、身の上のおそろしいはなし、客をだましておちぶれさせたはなしなどがはじまった。おたがいのはなしを聞きあっていると、まことにこの年月、いやといわせない手管《てくだ》で、どの客も有り金をつかい果たさせておちぶれさせながら、そののちはたよりもせず、その客が、ある夜、そっと人目をしのんで門口に立っても知らん顔で通りすぎ、いいかわしたいれぼくろも、いまのつとめのじゃまになるからと、もぐさで焼き消したり、にわかに紋所を染めつぶしたり、親もとをいわなければよかったと後悔してみたりする。そのときどきに心がわりするのは、こういう流れの身の習いとはいいながら、親しいときは、命もその男のために惜しまなかったのにと、わが心ながら鬼のような自分の心がものすごくおもわれ、ひとりひとり涙にしずみ、しばらく身をふるわせてなげいていた。すると、天井の裏板がひびきわたり、屏風やふすまも鳴りやまず、四方のすみから青雲が立ちかさなって、いまはなした客たちのあさましい姿がまぼろしのようにあらわれ、「すこしはうらみにおもう身を、どうしてみすてなされた。日ごろのいつわり、いまこそこうしてかえしてやる」と、切り放った爪や黒髪や、逢う瀬を書きとめた日記までも投げだしてなげいた。それをおそれて、遊女たちが、おもいおもいにわびごとをしても、家のうちが荒れやまない。そのとき、なかでもかしこい遊女がかんがえて、「みなさんがた、揚屋《あげや》(遊女をよんで遊ぶ家)の勘定ののこりはどうしてくれます」と大声でどなると、幽霊でも、世のなかで借金ほど好かないものはないのか、その声を聞いたとたん、まぼろしは消え失せた。
と、しゃれた「とたんおち」でむすび、みごとなコントをつくっていた。
庶民生活と密着した落語の手法を駆使して、庶民の生命の息吹きをつたえているところに、悲劇的な題材の晩年の作品までを、ほのかにあかるくあたたかい悲喜劇とすることができた西鶴だった。
落語と江戸戯作
寛政十年(一七九八)六月、大阪|下《くだ》りの落語家岡本万作が、神田豊島町藁店に、「頓作軽口噺《とんさくかるくちばなし》」の看板をかかげて寄席興行をはじめ、おなじころ、大阪でも、初代桂文治が、坐摩《ざま》社の境内で寄席をはじめたが、これに刺戟されて、山正亭花楽《さんしようていからく》と名乗った櫛屋職人京屋又三郎が、芸道修業をして初代三笑亭可楽とあらためたあたりから、定席《じようせき》(常設の寄席)における落語がさかんになり、可楽の先輩にあたる初代三遊亭円生や、可楽門下の初代林屋正蔵、初代朝寝坊むらくなども活躍するにおよんで、落語は、各町内に一軒ぐらいずつできた寄席を地盤として、辻噺以上に庶民生活と深い関係を持ち、必然的に庶民文学である江戸戯作とも連関性を持つことになった。
落語と三馬
文政三年(一八二○)、滑稽本作家|式亭三馬《しきていさんば》は、『酩酊《なまえい》気質《かたぎ》』と題する著書を刊行し、かつぎ上戸《じようご》、あくたい上戸、くどい上戸、小ごと上戸、泣き上戸など、各種の酔態をえがいたが、これは、幇間《ほうかん》的落語家桜川|慈悲成《じひなり》門下の甚孝《じんこう》にあたえた身振り声色《こわいろ》ばなし用の台本だった。そして、このうちの「かつぎ上戸」のくだりは、のちに落語「かつぎや」のなかにとりいれられ、三馬のリアルな筆致がとらえたその他の上戸の姿も、落語の酔態描写のもとになった。
三馬と落語との関係で、これと逆のケースは、文化六年(一八○九)刊の『浮世風呂』にみられた。
この作品は、可楽の落語を三馬といっしょに聴いた出版社の主人が、その銭湯のはなしを小説につづることを三馬に注文したところに成立したのだから、三馬が可楽の落語を文学化したわけだった。
落語と一九
折りからの落語ブームに乗って、三馬以外にも、山東京伝《さんとうきようでん》、曲亭馬琴《きよくていばきん》、十返舎一九《じつぺんしやいつく》などの戯作者たちも、多かれすくなかれ落語とかかわりを持ったが、とくに一九は際立《きわだ》っていた。
それはたとえば、
○ためしもの
ある武士が、新刀を手にいれたので、切れ味をためそうと柳原にゆき、野宿している非人をみつけて一太刀あびせると、この非人は「きゃっ」といって倒れた。武士はあわてて走って帰ったが、どうもこころもとないので、いま一度ためしてみようと、その翌晩また柳原へゆき、うろうろあるいていると、これを非人たちがみつけて、「こりゃこりゃ、みんな起きないか。ゆうべのおさむらいが、また、たたきにきゃあがった」(『江戸前噺鰻』)
というはなしは、のちに、落語「首提灯」のマクラになっていった。さらにまた、
○ぬす人
あるひとり者のところへ泥棒がはいり、押しいれをあけて、なかのつづらをひらいてみたが、なんにもはいっていない。銭箱をひきだしてもからっぽで、小箪笥《こだんす》の引きだしまでのこりなくさがしたが、ここにもなんにもない。「こいつはいまいましい」と、小言《こごと》をいいながら、がたぴしすると、亭主は目をさまして、「やれ、泥棒、泥棒」とさけぶ声に、泥棒はそっと片隅にかくれると、亭主はローソクをともしてみて、「さてさて、ぬすみやがった。着物ものこらず、銭箱の銭も金もみんななくなった。この通り大家さまへとどけよう」とでかけるところを、先刻の泥棒が、亭主の首すじをつかんで、「うぬ、ふてえやつだ。なにもなくて、金をとられたの、着物がなくなったのとうそをつく。そのままにはしておけねえ」とおさえつけると、「はいはい、ごめんなさい。ついあのようにしたのは、わたくしの出来心でございます」(『江戸前噺鰻』)
というはなしは、落語「出来心」に拡大されていった。
さらに、その代表作『東海道中膝栗毛』にいたっては、いっそう落語と関係が深くて、落語にとりいれられた部分も多かった。
たとえば、小田原宿へはいる前がそれで、弥次と北八との謎かけになり、「てめえとおれとつれだって行くとかけて、さあ、なんととく」ときくと、「これを馬二|疋《ひき》ととく」「なぜ」「どうどう道(注、同《どうどう》)だから」とこたえ、「おいらふたりが国所《くにどころ》なあに」ときくと、「これを豚が二疋|犬子《いぬつころ》が拾疋ととく」「そのこころは」「ぶた二ながらきゃん十《とお》もの(注、二人ながら関東者)」とこたえ、「おいらふたりが国所とかけて、これを豚が二疋、犬ころが拾疋ととく。その心は、ぶた二ながらきゃん十《とお》もの、さあこれなあに」ときいて、「これを色男が自分の帯をとって、女にも帯をとかせるととく」「その心は」「といた上でまたとかせるから」とこたえ、さらに、「おいらが国所とかけて、これを豚が二疋、犬ころが拾疋ととく。その心は、ぶた二ながらきゃんとおもの。これをまた、色男がじぶんの帯をとって、女にも帯をとらせるととく。またその心は、といた上でとかせるから、さあ、これなあに」ときいて、「これを衣桁《いこう》のふんどしとときやす」「そのこころは」「といてはかけ、といてはかけ」とこたえるくだりは、そのまま落語「二人旅」にとりいれられた。
また、逆に、一九が他人のつくった小ばなしを『膝栗毛』にとりいれた場合もあった。
それはたとえば、
○掛物
「さて、結構なお懸物《かけもの》でござる。上に書いてあるのは何でござります」「あい、あれは賛《さん》でござる」「こちらの上のは何でござります」「あい、あれは詩でござります」「はい、また、この沢庵とやらが書いたは何でござります」「それは語《ご》でござる」「そんならこちらの仮名で書いたは、六でござるか」(安永二年『再成餅』》
という小ばなしは、雲津の宿で、土地の文人|南瓜《かぼちや》のごま汁《じる》はじめ、富田茶賀丸《とんだちやがまる》、反歯日屋呂《そつぱひやろ》、水鼻垂安《みずはなたれやす》などにかこまれたとき、北八が、はりまぜの屏風をみて、「ははあ、恋川春町《こいかわはるまち》の絵がある。もし、あの絵の上にある賛は、なんでござります ごま汁「いや、あれは詩でござります 北八「こちらのほていの絵の上にあるは、詩と見えますが、誰がいたしたのでござります ごま汁「いや、あれは語でござります。沢庵和尚の(中略) 北八「もし、おかけものの絵の上にかいてあるは、おおかた六でござりましょうな ごま汁「六かなにかしりませぬが、あれは質にとったのでござります。
というように『膝栗毛』にもちいられ、これがのちに落語「一目上《ひとめあが》り」になっていった。
落語と鯉丈
このころ、滝亭鯉楽《りゆうていりらく》という落語家がいたが、彼は、のちに吉原の幇間鯉七《りしち》となって落語界を去った。
その弟子の滝亭|鯉丈《りじよう》は、昔ばなしに音曲をいれ、また、客から題をもとめて都都逸《どどいつ》をつくっては歌い、それによって人気をあつめていたが、芸名をそのままに戯作者になり、『大山道中|栗毛後《くりげのしり》駿足《うま》』(初編文化十四年)、『花暦八笑人《はなごよみはつしようじん》』(初編文政三年)、『滑稽|和合人《わごうじん》』(初編文政六年)、『牛島《うしじま》土産《みやげ》』(文政七年)などの滑稽本によって、一九や三馬につづく作家となった。
彼の代表作『花暦八笑人』第一話は、飛鳥山《あすかやま》の花見のときに、仲間でなれあいの仇討ちをはじめ、大さわぎになったところで、六部に扮した男が仲裁にはいり、しょっている笈櫃《おいびつ》から酒肴をだして陽気にさわいで、群集をあっといわせようという八人ののらくら者の趣向にはじまるが、六部に扮した男が、途中で店受け(保証人)につかまり、本物の武士が大まじめで助太刀にとびだしたりして失敗するはなしで、これは、そのまま、落語「花見の仇討ち」(上方落語「桜の宮」》になっていった。
落語と春水
鯉丈の弟分に、為永正輔《ためながしようすけ》という講釈師がいた。
彼は、「大岡政談」のうち、「堀川清談」のような世話講談をやっていたが、また、青林堂こと越前屋長次郎という小資本の書肆《しよし》の経営者でもあり、さらに、二世|南仙笑楚満人《なんせんしようそまひと》と号する戯作者でもあった。
彼は、世話講談の呼吸を生かした柔軟な作風や文体の『明烏《あけがらす》後の正夢《まさゆめ》』(初編文政二年)などの人情本の執筆で多忙になったために、文政末(一八二九ごろ)には、一時寄席から姿を消したが、文政十二年(一八二九)に、為永|春水《しゆんすい》と改号し、『春色梅児誉美《しゆんしよくうめごよみ》』(初編天保三年)によって一流作家の仲間いりをしたあと、天保五、六年ごろからふたたび寄席に出演し、狂訓亭金滝《きようくんていきんりゆう》の名で人情噺を口演していた。
落語と魯文
幕末の代表的滑稽本作家|仮名垣魯文《かながきろぶん》は、のちに山々亭有人《さんさんていありんど》たちと三題噺の自作自演グループ「粋狂連《すいきようれん》」を組織しただけあって、その出世作『滑稽|冨士詣《ふじもうで》』(初編万延元年)をみても、落語から持ってきた笑いが多い。
たとえば、初編下之巻の八王子の宿のくだりでは、江戸の文人のふりをした半可通たちが、同宿のいなか者に、唐紙、扇面、短冊などに書画の執筆をもとめられる場面がでてくる。
三「ははあ、これは賛とやらでございますかね 仙「いや、それは詩でござる 四「この扇面は 金「それかね、それは語さ 太「この唐紙におしたためのは たこ「それは録さ 三「一から十までございますかね」
というように、すでに一九が『道中膝栗毛』でもちい、のちに落語「一目上り」になる小噺を借用していた。
また、二編下之巻では、猿橋の宿で、旅人のひとりが、はなしがはずんだあげく、つい調子に乗って、殺人を犯し、そのいいなずけの娘と駈け落ちしたと放言する。ところが、その殺された男の弟と称する者が同宿していて、兄の仇を討つといって大さわぎになるので、宿屋の亭主が仲にはいると、明朝の仇討ちまで亭主に仇をあずけるということになる。そこで、逃がしてはたいへんだと、宿屋では、家中総がかりで仇の男をぐるぐる巻きにして一夜を明かす。さて、翌朝になると、仇を討つとさわいだ男は、「いや、ご亭主にゃあめんぼくねえが、ゆうべこっちはくたびれ足で、ぐっすり寝ようと横になっても、となり座敷の大ぜいづれが、ひとの気も知らねえで、大きなほらをふいて高声をするもんだから、耳について寝られねえはさ。そこで、こっちが趣向して、いちばん茶番をもくろんで、ほらのねをとめたおかげで、ようやくひと寝いりやらかしやした。また帰りがけによりやすから、彼奴《あいつ》はおっぱなしてやんなせえ」と、ゆうゆうと旅立つというストーリーになっているが、これは、落語「宿屋の仇討ち」をそっくり借用したものだった。
江戸戯作と落語とは、いろいろなケースにおいて、深い連関性を持っていたのだった。
落語と夏目漱石
漱石は、少年時代から寄席と縁が深かった。
漱石には、大助、栄之助、和三郎という三人の兄がいたが、漱石に寄席の味をおぼえさせたのは、栄之助と和三郎だった。
栄之助は、父の書画をひそかに持ちだしては売りとばし、吉原通いや芸者買いに熱中して勘当され、和三郎も学問ぎらいの道楽者だったので、これに従兄《いとこ》の通人もくわわって、一日中、声色をつかったり、しろうと落語をやったりしてたのしみ、漱石もいっしょになって団十郎の声色などを得意になって披露したり、こんな連中につれられて、神楽坂あたりの寄席へいったりした。そこで、漱石の心に、寄席への愛情がはぐくまれていった。
このことは、のちに鏡子未亡人をして、「それは夏目が予備門ごろだろうと思いますが、義太夫が好きで、兄さんといっしょによく相生太夫、朝太夫、それから落語講釈などをききに寄席へ行ったものだそうです」といわしめるにいたった。
ステテコの円遊と漱石
学生時代の漱石は、正岡子規と親交をむすんだが、それは、おたがいに寄席通をもって任じていたことがきっかけになったのであり、趣味をおなじくしたところからうちとけたふたりは、急速に親しくなり、よくつれだっては、日本橋の寄席「伊勢本」あたりへでかけた。
したがって、子規が休暇で帰省したときなどは、漱石から寄席ムードあふれる手紙が書きおくられた。
たとえば、明治二十四年七月九日の手紙には、つぎのような文章がみられた。
観劇の際御同伴を不得残念至極至極残念(宛然子規口吻)去月三十日曇天を冒して早稲田より歌舞伎座に赴《おもむ》く(中略)一軒おいて隣りに円遊を見懸けしは鼻々おかしかりしな。あいつの痘痕《あばた》と僕のと数にしたらどちらが多いだろうと大いに考えて居る内いつしか春日局は御仕舞いになりぬ。公平法問の場は落語を実地に見たようにて面白くて腹の痛みを忘れたり。
当時の人気落語家三遊亭円遊の売り物の鼻をつかってだじゃれをとばしたり、のちに自分の鼻のあたまのそれを気にして、中根鏡子との見合い写真に大修正をほどこしてそれを消したといういわくつきのアバタを、これも円遊が売り物にしていたアバタとかぞえくらべをしたなどとふざけるなど、円遊中心の文章をつづっていた。
漱石が、なぜこれほどに円遊を中心にした手紙を書いたかといえば、当時の円遊は、その新鮮な魅力において、他の追随をゆるさぬものがあったからだった。
なにしろ、明治の新時代の観客層をキャッチするために、珍芸ステテコ踊りで愛敬をふりまき、古風な江戸前の人情噺を廃して、新時代風俗をちりばめたギャグによる新作や改作の滑稽落語の道を直進して絶大な人気を博し、近代落語の祖としての地位を確保しつつあったというのがこのころなのだから、漱石が日の出のいきおいの円遊に魅せられたのも当然で、作家となってからも、その高座と無縁ではいられなかった。
漱石は、自分の育った環境を「全体にソワソワと八笑人か七偏人のより合《あい》の宅《いえ》」といったように、その意識の底にあった「八笑人」や「七偏人」など、のらくら者の遊戯生活をえがいた幕末の退廃的な滑稽本の匂いが、『吾輩は猫である』にみられることは否定できない。
この作品は、漱石にとっての処女作であってみれば、専門の英文学の知識や手法のほかに、彼にとって郷愁の世界でもあった江戸文学や円遊を代表とする滑稽落語の手法が駆使されたのは当然だった。
漱石が、『猫』において、底の浅い文明批評を展開するにあたって、底の浅い文明開化期の笑いの芸術家円遊のくすぐりをとりあげたのは偶然ではなかった。
漱石は、自分で見聞した事実を、よく作品のなかへ持ちこんだ。
それはたとえば、自分の家にはいった泥棒事件のてんまつが、そっくりそのまま『猫』や『門』にえがかれ、末娘|雛子《ひなこ》の死の状況が『彼岸過迄』に、これもそのままつかわれたがごとくだった。したがって、寄席の高座で見聞した手法が、作品にそのまま利用されてもふしぎはなかった。まして『猫』は、友人たちの前で音読したのであってみれば、照れかくしの気持ちもはたらいて、楽屋おち風の意図もあったとみてよかろう。
『猫』において、はっきり円遊の高座から持ってきたものとしては、「心臓が肋骨の下でステテコを踊り出す」というようなくだりがあるが、そのほかにも円遊の高座から借用した例は多い。
たとえば、寒月が演説の稽古をするくだりで、「弁じます」といってみんなにひやかされるが、これは円遊の口ぐせで、「穴どろ」「干物箱《ひものばこ》」「二階の間男」などの速記をみると、いずれも「一席弁じます」とはじまっているし、また、すりきれた毛布を「毛布《けつと》の毛の字を省《はぶ》いて、単にツトとでも申すのが適当」というくすぐりは、「野ざらし」などの長屋にでてくるすりきれた畳を「たたがなくてみばかり」というのにヒントをえたがごとくだった。
登場人物にしても、「杉原と書いてすい原と読むのさ。(中略)蝦蟆《がま》を打ち殺すと仰向きにかえる。それを名目読みにかいると言う」などと物知りぶる迷亭の伯父は、円遊得意の「やかん」の知ったかぶりをする主人公をうつしたものであり、「人の鼻を盗んで来て顔の真中へ据え付けたように見える。(中略)かく著しい鼻だから、この女が物を言うときに口が物を言うと言わんより、鼻が口をきいているとしか思われない」という金田鼻子という人物設定は、スターンの『紳士トリストラム・シャンディの生活と意見』における鼻についての長談義に源《みなもと》を発してはいようが、より直接には、子規への手紙にもみられた円遊の看板〈鼻〉にもとづくことはあきらかだった。「ただただ円遊の財産は鼻でげして、この大きな鼻が円遊の極《ご》くの不動産なのでございます。それ故お客様方の悪口に『円遊は鼻のおかげで飯を食い』などおおせられます(中略)お前は口から先に生まれたのかとおっしゃいますが、円遊のは鼻から先に生まれたので、第一番に鼻が娑婆《このよ》の空気に当たって膨大《ふやけ》たから、そのおかげでかえって利益を得るような訳《わけ》に相成りました」などというくすぐりを、円遊は高座でさかんにもちいていたのであり、このなかから金田鼻子の鼻の描写や非難の手法が生まれたのだった。
『坊っちゃん』になると、『猫』のように落語のくすぐりをナマで借りてはいないが、うすっぺらな〈野だいこ〉の人物描写は、円遊十八番の「野ざらし」「王子の幇間《たいこ》」「山号寺号」などの野だいこを模写し、キザな半可通〈赤シャツ〉は、これも円遊得意の「羽織の遊び」の半可通をうつしとっていた。
なんといっても、当時は、いまだに江戸以来の人情噺が尊重され、たとえどんなに大衆に人気があるにもせよ、円遊の滑稽落語はしょせん場ちがいなのだが、漱石が、江戸の寄席通らしくオツに気どって円遊の高座にそっぽをむけず、新時代の一般大衆とともに素直にそれをたのしんだところに、漱石文学が大衆にいつまでも愛されつづける秘密があるようだ。
三代目小さんと漱石
明治四十年ごろから、木曜日を面会日ときめた漱石の家には、門下生があつまってきた。
その席上、円遊と小さんのはなしがでたので、森田草平が、「円遊のステテコの右の腕を招き猫のようにもちあげて、キュッ、パッと変な音をさせる癖は困るが、小さんの渋味はおもしろい」というと、「君に小さんの渋味がわかるかい」と、草平をすっかりいなか者あつかいにした漱石は、つづいて小さんの芸評にうつるのだった。それは、「小さんのいい所は、客といっしょに笑わないで、自分一人くそおもしろくもないというような、始終にが虫でもかんだようなつらをして、こごとでもいうように、ぶつくさ口の中でいっている。それでいて、はなしのなかの人物は綺麗《きれい》に話しわけて、もってゆくべきところへは、ちゃんと手ぎわよくもってゆく。あれこそ真の芸術家だ」という要領をえたもので、まさしく長年にわたって寄席がよいをつづけた漱石ならではの芸評だった。
漱石が絶賛する三代目柳家小さんは、明治末期から昭和初期まで活躍したが、その功績は、円遊が人気をあつめた滑稽落語のなかに、人情噺の人物描写の手法を持ちこんで、うすっぺらなくすぐりの笑いの演芸から、深く味のある落語芸術へと、落語のほんとうの意味における近代化をはかった点において、まさしく近代落語史上の巨星だった。漱石の絶賛もゆえなきことではなかった。
小さんに傾倒する漱石は、『三四郎』において、登場人物の与次郎に小さん天才論をやらせるにいたった。
小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない。いつでも聞けると思うから安っぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じゅうして生きている我々はたいへんな仕合わせである。今から少し前に生まれても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。
というのがそれだ。
また、おなじ『三四郎』につかわれたくすぐりにしても、「豚をね、縛《しば》って動けないようにして並べて置くと、動けないものだから、鼻の先が段々延びて来るそうだ」という個所は、小さんの「三人旅」にでてくる会話が、漱石の脳裡にうかんだようだ。すなわち、
「馬のつらあどうしてこんなに長くなっちゃったんだい」
「かんがえてごらんよおめえ、飼葉桶《かいばおけ》てえのあ底の深いもんだよ、そこへもってって馬のつらがまるかった日にやあ、桶の底の方まで口がとどかねえじゃねえか、馬あ腹がへっちまわあ、そいじゃあかあいそうだてんで、神さまが飼葉桶の底の方へ口がとどくように、こうやって馬のつらあ長くこしれえてやったのよ」
というのがそれだった。
漱石が、このころになって、派手ではあるが底の浅い円遊の影響を脱して、渋い笑いの本格派小さんへとうつったのも、作家として、人間としての成長のあとをしめすものだった。
こののちも、たとえば、中期の作品である『それから』にでてくる書生が、『三四郎』の与次郎とおなじように、小さん得意の「嘘つき弥次郎」の主人公のようにほら吹きであったり、晩年の『硝子戸の中』でも、「此《この》豆腐屋の隣に寄席が一軒あったのを、私は夢幻《ゆめうつつ》のようにまだ覚えている」とはじまる文章があり、漱石の心の底流ともいうべき寄席に関する思い出がくわしく書かれるなど、漱石と寄席とのかかわりはつづいたが、漱石の心のよりどころは、〈寄席〉、そして、〈江戸〉というせまい世界から、やがて、良寛への傾倒、書道や漢詩への熱中というように、これまた、本来その心に根をはっていた日本的、東洋的世界へと拡大されていった。
漱石の作品が、伝統的な江戸文学や落語などと密接なかかわりを持っていたところに、大衆的人気の秘密がひそんでいるし、また、そんなところに、東大教授よりも市井の作家という職業をえらび、博士号をも辞退したという、漱石の庶民的性格もみられるわけだった。
○編著者 |興津 要《おきつ かなめ》
一九二四年栃木県生まれ。早稲田大学国文科卒。早稲田大学教授。日本近世文学、ことに江戸戯作を専攻。一九九九年没。著書、「転換期の文学――江戸から明治へ」「明治開化期文学の研究」「新聞雑誌発生事情」「小咄 江戸の一年」「江戸庶民の風俗と人情」「江戸小咄漫歩」ほか多数。
*
本書収録の作品の一部に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、古典落語という作品の性質上、一応そのままとしました。ご了承ください。