古典落語 上    興津 要 編
目 次
うそつき弥次郎
かつぎや
明《あけ》 烏《がらす》
長屋の花見
三人旅
厩火事《うまやかじ》
寝 床
千早振る
猫 久
しわい屋
転失気《てんしき》
出来心
湯屋番
まんじゅうこわい
短 命
うなぎの幇間《たいこ》
そこつ長屋
酢豆腐
悋気《りんき》の火の玉
三方一両損
たがや
居残り佐平次
目黒のさんま
小言幸兵衛
宿屋の富
道具屋
なめる
時そば
たらちね
もと犬
無精床《ぶしようどこ》
芝 浜
解説
落語の歴史
うそつき弥次郎
うそというものも、世のなかにまるっきりないとこまる場合がございます。
商人《あきんど》に世辞愛嬌といううそがあり、傾城《けいせい》に手練手管《てれんてくだ》、仏法に方便といううそがあり、軍人に計略といううそがございます。
このようにうそはいろいろと役に立つ場合がございますが、なかには、また、つまらないうそをついて、人をかついだりしてよろこんでいる人がいくらもございます。
「おや弥次郎さんじゃないか。どうもひさしくあわなかったな」
「へえ、ひさしぶりで帰ってきたんで、あなたのうちをわすれて通りこしてしまいました。ほうぼうへ顔をだそうとおもっても、なんだかようすがかわっちまって、すっかりまごまごしています」
「そういえば、二、三年あわなかったような心持ちだ」
「いいえ、それほどじゃありませんが、一年ばかり遠方へいっておりました」
「はあ、おまえさんのことだから、なにかもうけ仕事かね」
「いいえ、べつにもうけ仕事というほどのことはありませんが、職人のありがたさで、遠国へいけば、手間賃も倍もらえるというので、見物かたがたでかけました」
「そりゃあ結構だった。もうかったろう」
「ところが、それが江戸っ子の持ち前で、ぱっぱと小づかいをつかってしまうから、見物したこととみやげものを買えたぐらいが、せめてものもうけでございます」
「それだけでもまあよかったじゃないか……なにかおもしろいみやげばなしがあるかい?」
「ええ、ところかわれば品かわるとやらで、ずいぶんおもしろいことがあります」
「ところで、まだきいていなかったが、どこへいってたんだい?」
「北海道へゆきました」
「北海道へ……ふーん、たいへん遠いところへいったな……費用むこう持ちで、そういうところをみてこられるというのは結構なはなしだ」
「へえ……」
「いいけしきのところがあったろうな」
「けしきやなにかはこちとらにとっては、どうってことはありませんが、さむいのにはおどろきました」
「そうだろうな」
「さむいのなんのって、汽車や汽船に乗ってるうちはそんなにさむくはありませんが、陸へあがってあるきだしておどろきましたね、あれはからだが凍《こお》っちまうんですかね、とにかくあるいているうちにしぜんとからだがかたくなっちまって……それから宿へついて、風呂場へいって、風呂桶のふたをとってみると、いくらさむくても湯はあつうございます」
「あたりまえさ、火でわかしたんだ」
「あついからうめてもらってるうちに、ながしへ足が凍りついてしまいました」
「ばかをいいなさんな」
「それから湯からあがって、二階へくる、すぐにさむくなっちまうんで……」
「そうだろう、それはほんとうだ」
「さむいから、お茶でも飲んであったまろうとおもって、お茶をたのむと、女中がお茶を持ってきて、お茶をおかじりなさいというんで……」
「おい、じょうだんじゃないよ。お茶をかじるやつがあるかい」
「だから変だとおもったら、なるほど凍ってやがる」
「だって、おまえ、お茶というものは湯だよ」
「それが下じゃああつかったのが、二階へ持ってくるうちに凍っちまった」
「いいかげんなことをいうなよ」
「いえ、まったくそうなんで……あくる朝おきると、すぐに仕事にかかるというんで、旅のつかれをなおさなくちゃあいけないとおもって、生《なま》たまごを三つ四つ持ってきてくれと女中にたのむと、ただいまゆでてまいりますというんです。ゆでたまごじゃない、生たまごだというと、ゆでなければ生になりませんとこういうんで……」
「おい、ばかなことをいいなさんな。ゆでたやつがどうして生になるんだ?」
「わたしも変だとおもってきいてみたら、凍っているから、ゆでるとちょうど生《なま》になるんだそうで……」
「なんだかわかったようなわからないようなはなしだな」
「あるとき、宿屋の二階からみていると、下を魚屋が通って、となりの家のおかみさんが、お刺身を半分くれというと、ほそながい魚をつかんで、ポキンと折って売ってるから、妙なまねをするとおもってきいてみると、それが凍った刺身なんで……焼くとこれが生になるんで……」
「じょうだんじゃない」
「そのうちに、いいあんばいに雨がふってきました。あー、このふりじゃあとても仕事はできねえ、やすみだというんで、まあ旅のつかれをやすめられるとおもって、家にひっこんでると、おどろきましたね、この雨が凍ってふるんだから……」
「雨が凍れば、あられとか雪とかいうんだろう」
「いいえ、そんなもんじゃねえんで……まるでガラスの棒ですね」
「ばかなことをおいいでない」
「まあ、こっちじゃあ雨を一つぶ二つぶというけれど、あっちへいくと一本、二本といいます」
「ばかなことをいうなよ。第一、それじゃあ傘がさせまい」
「それだから、むこうは紙の傘はありません」
「布かい?」
「布でもつきやぶってしまうから、たいていはブリキですね」
「ブリキの傘?」
「ええ、貧乏人はブリキをつかって、中くらいのひとはトタンで、金持ちはあかがね」
「それじゃまるでひさしだよ。ばかばかしい……あかがね張りの傘があるものか」
「ほんとうですよ。けれども、その傘をさしてあるくと、ガンガラン、ガンガランと音がしてそうぞうしいものだから、むこうでは、ちょいと近所へいくくらいのことでは傘はさしません。雨払いという棒を持ってあるきます。あたしもその棒を持って、くるくるあたまの上をふりまわして、筋むこうの家へたばこを買いに出かけました。あぶないからおよしなさいといったんですが、なあーに江戸っ子だ、こんなことはわけはねえと、くるくるとふりまわしてうまくいったんで、宿屋の番頭なんぞは手をたたいて、うまいうまいとほめてやがった。ところが、帰りには、すこし気がゆるんだものとみえて、うけそこなったんで、耳たぶのあたりへとげが二本ささった」
「おいおい、雨のとげというやつがあるかい」
「ほんとうですよ。ぴりぴりとしていたくってしようがねえ。すると、宿屋の女中が火ばしで火をはさんできて、フーフーふきつけるととけちまった」
「じょうだんいっちゃいけない。とげのとけるやつがあるかい」
「ほんとうですよ。ただおどろいたのは雪ですね」
「なるほど、新聞にもでているが、雪はたいそうふるそうだね」
「へえ、ある晩のことで、わたしがよく寝ていると、ドタリ、ドタリという音がするんで、おどろいてとびおきて浅間山の噴火かとおもったら、それが雪がふってきたんで……」
「なんだい、その音は?」
「一つぶが、どうしてもたどんぐらいの大きさの雪で……」
「ばかなことをいいなさい。わたしは越後に心やすいひとがいるが、つもる雪というものはごくこまかい、こんなところでもたくさんつもるときはこまかい雪だ」
「それが北海道のは大きい。家の屋根の上までつもってしまって、はじめはドタリドタリ音がするが、しまいには音もしなくなる。ふりはじめた時分には、土地のものはなれておりますから、そのあいだをうまくくぐりぬけてあるいております。そのかわり、ひとつ大きな雪がぶつかったら即死です。その場へぶったおれてしまう。これをゆきだおれという」
「おい、またはじまった。しかし、雪がつもっちまったら、まるでそとへでられまい」
「ところが大ちがいで、ひさしがながくでていますから、その下を通ってどこへでもゆきます」
「なるほど、おまえのはなしでもまんざらうそばかりはない。越後の人にきいたのにも、雪のふかいところには、ひさしがながくでていて、ところどころにむこうがわへゆくトンネルみたようなものができているというが、そりゃあほんとうだろう」
「ええ、竹のふしをぬいた樋竹《といだけ》みたようなものがところどころにでています」
「なんだいそれは?」
「むこうがわの人とはなしができるんで……」
「なるほど」
「むかって左のほうへ口をつけると、右の穴からむこうのはなしがきこえる」
「それじゃ電話だ」
「いなかの人はていねいだから、朝おきると、おはようございます、ごきげんよろしゅう、おはようございます。おはようございますというやつが、あっちでも、こっちでも、さむさがひどいもんだから、みんな竹のなかで凍っちまいます」
「おい、おはようが凍るやつがあるかい」
「それだからふしぎなんで……源兵衛さんおはようございます。そういう声がごちゃごちゃとかたまっちまう。それをみんなこまかく切って、一本いくらといって売ってます」
「そんなものを買うやつがあるものか」
「いえ、これがなかなかつかい道があるんで……女中やなんかが朝なかなか目をさまさない、目ざまし時計ぐらいでは目をさまさないやつがあるから、あしたはおかみさんが芝居へいくとか、どこかへでかけるとかいうときには、女中部屋へおいてほうろく(素焼の土なべ)へ、かけておく……そのほうろくが十分にあつくなったところへ、凍ったおはようございますを五、六本ほうりこむと、これがとけてくる、雪のなかでむこうへ通そうというくらい大きな声で、おはよう、おはよう、おはよう……」
「おお、びっくりした。そんな大きな声をだすやつがあるかい。となりの家で胆《きも》をつぶさあ」
「こんな大きな声がするから、たいがい寝坊な女中だって目をさまします」
「じょうだんじゃない。しかし、さむいだろうな」
「かえってあったこうございます。雪のなかは……」
「なるほど、そりゃあそうかも知れない。越後の人もそういった。そのかわり越後あたりは四尺四方もある大きなこたつができているそうだ」
「そんなしみったれたもんじゃありません。北海道のこたつときたら、どんな貧乏人だって二間四方くらいのこたつで……」
「じょうだんいっちゃいけない。二間四方というこたつがあるかい」
「だって、わたしがこの目でみてきたんですから……」
「それじゃあ、火もよっぽどおこさなければなるまい」
「ええ、十五俵くらいおこして、それをいけこんでしまう」
「十五俵の炭といっちゃあたいへんだ。やぐらだってこげるだろう」
「やぐらの大きさが二間、高さが四、五尺くらいあります」
「そんな大きなやぐらがあるかい」
「そのくらいなけりゃあ、ふとんがこげちまいます」
「その上へふとんをかけるのかい」
「ええ、ふとんが四十布くらい」
「そんなばかなふとんがあるかい」
「どうして……そのくらい大きくなけりゃあかけられません。そのかわり宿屋などではべつべつにしない。六十人くらいまわりへとりつくんで……それからいい心持ちで寝ると、夜なかに火事だというんで、江戸っ子の度胸をみせるのはここだとおもうから、いきなりとびおきて片肌ぬいだ」
「なんだい? 片肌ぬいだのは? そのさむいのに……」
「いせいのいいところをみせて、ほりもので一番おどかしてやろうとおもって……」
「おいおい待ちなよ。たしか二、三年あとだった。大掃除のときに家へきてはたらいてくれた。あのとき、風呂をわかして、おまえもはいったが、職人に似ず、からだにほりものがしてないから、感心だとわたしがいったことがあるだろう」
「へえ、ほりものなんかありゃあしません」
「ないものをみせようがないじゃないか」
「だから、みせてやろうとおもったが、ほりものがないから、また肌をいれた」
「手数がかかるな……そんなよけいなことはどうでもいいが、火事はどうしたい?」
「いってみておどろきました。やっぱりそれが燃えてるんで……」
「そりゃあ北海道だって、火事は火が燃えるだろう」
「宿屋だか下宿屋だか知らねえが、ばかに大きな三階づくりの家で、もう十分に火がまわってしまって、棟はおちてしまい、さかんに燃えるのはじつにおもしろかった」
「人の家の焼けるのをみて、おもしろいってやつがあるかい」
「わたしゃあ火事が好きだからね、横っつらがこげるようなのをがまんしてみていました。束京とちがって、いなかの火事はのろまだというが、やっぱり火事のときはどこだっておなじことで、むこうからもこっちからも、わいわいと人がでてきて、荷をかつぎだす大さわぎ、そのうちに、ぱっと火がうごかなくなっちまった……こいつはおかしいなとおもってると、近くでみていたやつが、もう大丈夫でございます。今年は、いいあんばいにはやく凍りましたから……」
「なんだい? その凍りましたってのは?」
「火事が凍っちまったんで……」
「ばかなことをいいなさるな、火事が凍るやつがあるかい」
「わたしも変だとおもってみていると、荷をかたづけて手つだいにきた人は、だんだんといなくなっちまい、近所で戸をしめて寝ちまいました。気になるから、あくる朝はやくおきてみると、さむいのなんのって、火事のそばへいってみると、つめたくってよりつけねえくらい、そこへ木挽《こび》きだのなんかがきて、その火事を切って車へつんで持ってくから、どうするんだとおもってきいてみたら、海へすてにいくんだそうで、そりゃあどうももったいないわけだ。それを安くゆずってくださるまいかというと、ただでさしあげます。持ちはこびの費用ぐらいはだしてもいいというからしめたとおもったね」
「なにがしめただ」
「むかし、珊瑚珠《さんごじゆ》の見世物というのが浅草の奥山にあって、たいそうはやったそうですね」
「ああ」
「それからおもいついたんですが、北海道の火事を持ってきて見世物にしたら、ずいぶんはいるだろうとおもって……」
「なるほど……」
「それから牛を五、六ぴきと牛方を十人ばかりやとって、これをひきだして海をわたって青森から奥州とだんだんやってきました」
「なるほど」
「ところが、こまったことがおこりました」
「どうした?」
「ふーっと南風がふいてくると、牛のせなかで火事がとけはじめた」
「それはたいへんだ」
「牛は火をしょってかけてあるくんで、さいわい昼間だったから、みんなでよってたかって水をかけたんですが、ちっとも消えません」
「どうして?」
「焼け牛に水というわけで……」
「じょうだんじゃない。おまえのはなしはたいていそんなことだ」
「いや、どうも牛方がおこったのなんのって……おれたちの命の親とおもう牛をみんな焼き殺してしまった日にゃあ飯の食いあげだというんで……おそろしい権幕だから、おどろいてどんどん逃げだしました。足のはやいのはじまんだから、野だろうが山だろうが、そんなことはかまわねえから、むちゃくちゃに逃げて、もうよかろうとおもってふりかえってみると、めっぽう高え山へのぼっちまったんでおどろきましたねえ、あとできくと、これは南部|大恐山《おおおそれざん》という山なんだそうで……」
「はあ、名高い山だ」
「そのうちにだんだんと日がくれてきて、うすぐらくなる、月はなし、これはたいへんだ。どこか人家があるだろうとさがしたがみあたらない。ほそい道をだんだんいくと、よく山にはあるもんで、広いところへでました」
「うむ」
「むこうをみると、かすかにあかりがみえます」
「ずいふん難儀をしたな」
「へえ、あかりをたよりに、つかれたのもわすれてどんどんやっていくと、そのあかりがだんだん大きくなった」
「どうした?」
「一丁ばかり手前までいってみると、一間半も火が燃えあがった」
「山火事かい?」
「まあそんなことだろうとおもって、だんだんそばへいってみると、これが大ちがい……たき火をしているんで……もとより山中のこと、たきものはどっさりあるんで、どんどんとくべるから、火は一間半ばかり燃えひろがっている」
「うむ」
「みると、まわりをとりまいてあたってるやつは、熊の皮のちゃんちゃんこを着たやつだの、それはもうおかしなかっこうをしたやつがたくさん……それがみんな熊坂長範《くまさかちようはん》の子分みたようなやつだ」
「ほう」
「こういうときには弱味をみせてはいけねえとおもったから、日ごろじまんの腕前をしめしておどろかせようと決心しました」
「じょうだんいうなよ、おまえは腕にどんな自信があるんだ?」
「日ごろの大力をあらわすのはこのときとばかり……」
「おいおい、なにが大力だ。いつか家の女中がたくあん石をおろしてくれといったが、ちいさな石が持てなかったじゃないか」
「あのときは、からだのぐあいがわるかったんで……むかしとった杵柄《きねづか》だ」
「なんだかおかしいな……で、どうしたい?」
「先んずれば人を制すっていうわけで、大きなたばこ入れをだして、大きなきせるにいっぱいたばこをつめると、連中のなかへぬっとはいって気どってやった」
「どうしたい?」
「卒爾《そつじ》ながら火をひとつお貸しくだされ……」
「乞食芝居だなまるで……」
「すると、むこうも芝居気をだして、ささ、おつけなせえとおいでなすった。ゆうゆうと二、三ぷくおちついてたばこを吸って、たばこ入れをさして、大きにお世話であったといこうとすると、お若《わけ》えのお待ちなせえときた」
「ふーむ……で、どうした?」
「待てとおとどめなされしは、身どものことでござるよな……」
「気持ちのわるい声をだすなよ……それからどうなった?」
「ここは地獄の一丁目、二丁目のねえところだ。ふところにある路用の金、身ぐるみぬいでおいてゆけ、ぐずぐずいうと命はねえぞと、二十何人というやつらにとりまかれた」
「そりゃあおどろいたなあ」
「ところがわたしは腹ができているからちっともおどろかない。まるっきりおちついたもので、さては、うぬらは、一足と二足のはきものだなとこういった」
「なんだい、それは?」
「しめてさんぞくというしゃれだ」
「おい、その最中にしゃれをいうやつがあるかい」
「このくらいおちついてるところをみせたんで……」
「どうしたい?」
「ぐずぐずいわずとたたんでしまえと、賊の親分が号令をかけると、二、三十人いたやつらが、ギラリギラリと長いやつをぬいて、ぐるりとまわりをとりまいた。こうなると、わたしもまけてはいません。心得たりと一刀ひきぬき、みれば一本の松がある。これを小楯にとって、さあこいと青眼《せいがん》につけた」
「はなしがこみいってきたな、青眼につけたとは……よく刀なんかさしていたな」
「へえ、護身用というやつで……なにしろこっちのからだに一分一厘のすきがないから、むこうでも打ちこむことができない。そこで、ふとさそいのすきをみせると、鉄棒をふりあげたやつが打ってきたから、こいつを横なぐりに斬りたおした」
「たいそうな腕だな」
「二度目に打ってくるやつをガッチリ鍔《つば》元でうけると、刀にいくらかきずでもあったのか、パチリと刀が折れちまった」
「そいつはこまったろう」
「どうにもしかたがありません。ふところに短刀を呑《の》んではいたけれども、そのくらいじゃあとてもかなわないから逃げだしました」
「おやおや、とうとう逃げだしたかい」
「命あっての物種《ものだね》逃げだすと、あとから山賊がどんどんと追ってくる。逃げながらひょいと前をみると、前にあったのが大きな岩だ。たくさんの賊にとりまかれ、得物はなし、道は不案内、進退ここにきわまった」
「どうなったい?」
「そこはわたしのことだから、三間四方もある前の岩へ手をかけると、目よりも高くさしあげた」
「おそろしい力だな」
「この石を賊にたたきつけようとおもったが、ここでひとつかんがえた」
「どうかんがえたい?」
「三十何人という山賊が、これに一度にあたればいいが、半分死んでもあとがのこったら、こっちには得物がない」
「なるほど……」
「それからこの岩を小脇にかかえた」
「おやおや、三間四方という岩じゃないか、小脇にかかえられるわけはなかろう」
「まあ、それはそうですがね……それがいいあんばいにひょうたん岩で、なかがくびれていた」
「ふざけちゃいけないよ。ばかばかしい」
「小脇にかかえた岩をちぎっては投げ、ちぎっては投げ……」
「おいおい、岩がちぎれるかい」
「それができたてだからやわらかい」
「ばかだな、おまえは……」
「そのいきおいにおどろいて、くもの子をちらすように山賊どもはのこらず逃げちまった。もとのたき火のところへもどってくると、まだ火がどんどん燃えている。ここでいっそのこと夜をあかそうとあったまっているうちに、旅のつかれで、こくり、こくりとよだれをたらして居ねむりをはじめた」
「だらしがないな」
「そのうちに、ごーっというおそろしい音がしてきたのは山鳴りというやつ」
「どうしたい?」
「すると、仁田四郎《にたのしろう》(仁田忠常。鎌倉初期の武将)がおどろくような三間もある……」
「よく三間がでるな、なんだい、それは?」
「大きな猪《いのしし》」
「猪? ……どうした?」
「何十年経ったかわからないという猪が荒れてきた。どうにもしょうがないから、逃げようとおもうけれどもよける道がない」
「うむ」
「さいわいそこに大きな杉の木があったから、これならば大丈夫だと、この杉の木へかけのぼった。のぼっていくと、上のほうでエヘンというから、よくみると、まっ赤な顔をして羽の生えた天狗がいるんで……」
「ほう」
「上が天狗で、下が猪……進退ここにきわまった」
「よくきわまるな……それからどうした」
「どうもしょうがありません。しばらくここにいたら、どうにかなるだろうと、度胸をすえていると、そのうちに、その杉の木がぐらぐらうごきだした」
「どうしたんだい?」
「下をのぞいてみると、猪が鼻づらで根本を掘りはじめたのは杉をたおそうというつもりなんで……そうこうするうちに、もう半分たおれかかってきた。天狗は羽があるからとんでいっちまったが、こっちは羽はなし、しかたがないから、先んずれば人を制す……」
「よくでるなあ……しかし、人を制すはおかしい」
「いや、猪を制す……ねらいをつけて、上から猪のせなかへとびおり、ひらりと猪乗りに乗った」
「お待ちよ、馬乗りというのはあるが、猪乗りというのはきかないよ」
「猪のせなかだから猪乗りだ」
「なるほど、こりゃありくつだ。どうした?」
「ふりおとそうってんで、さかんにはねまわるから、こっちも必死だ。みると、しっぽがある」
「うむ」
「ひらりと身をおどらせてうしろむきになり、しっぽをつかまえて手にまきつけると、ちょうど七巻き半あった」
「そんなに猪のしっぽが長いものか」
「猪が大きいから、したがってしっぽも長い。刺し殺すよりしかたがないと、脇差しをぬいて突き立てたが、甲羅を経ている猪で、松やにをつけては砂場へころがり、天日《てんぴ》で干しかためてあるから、まるで鎧《よろい》を着ているようでしまつがわるい。股ぐらをさぐってみると大きなきんたまがあった。これこそ天よりわれに授くるきんたまと押しいただいた」
「なんだ、きんたまを押しいただくやつがあるか」
「猪でも急所にかわりはあるまいと、このきんたまを力まかせにぐーっと両手をかけてにぎると、ウーンとうなった」
「うなったか……それからどうした?」
「くるりとひっくりかえった」
「わりにもろいものだな」
「けれども、けものにはよくあるやつで、死んだふりをするのがいるから、念のためにとどめを刺そうと、腹をすーっと切ってみると、なかから子どもが十六匹とびだした」
「十六匹もかい」
「ししの十六」
「じょうだんいっちゃいけない。もうよそうよ、ばかばかしいや」
「なにが?」
「なにがって、おまえ、どこをにぎって殺したんだ?」
「きんたまですよ」
「きんたまがありゃあ牡《おす》だろう?」
「そうですよ」
「牡の腹から子どもがでるかい」
「いいえ、そこが畜生のあさましさ……」
かつぎや
よくものごとを気にして縁起をかつぐかたがございます。
だれでも、ものごとはめでたいのがいいにきまっておりますが、度を越して縁起をかつぐかたを俗にかつぎやと申します。
あるかつぎやが、お正月にたいへんに縁起をかついだというお笑いで……
「おいおい、権助や、権助や、これ、権助や、権助や」
「はじまりやがったな。夜があけると権助、日が暮れると権助、給金だしてるんだから、つかわなけりゃあ損だとおもってるだな。これが人間だからいいだが、ぞうきんならば、とっくのむかしにすりきれちまってるだ。まだよばってるだな。よばるだけよばれ」
「権助や権助、おい、権助、権助、権助」
「もうすこしよばってろ」
「おーい、権助や、いないのか。おい、権助」
「だんだん近よってきたな。そろそろ返事してやるかな」
「権助っ」
「ひえー」
「あーびっくりした。なんだ。そこにいるなら、さっさと返事をしろ。まあ、こっちへはいれ」
「手がふさがってるだ」
「なにをしてるんだ?」
「ふところ手をしてるだ」
「ぶしょうなやつだな。手をだしてあけたらいいじゃないか」
「しかたがねえ。あけるかな。どこだ」
「ばかっ! 主人の居間をあけるのに、どこだってあけるやつがあるか。なかへはいって……あとをしめろ。坐れ」
「はい、坐った。さあどうする?」
「なにをいってる。あきれたやつだ。よんだのはほかでもない。おまえはまだきてからまもないから知るまいが、わしのうちでは、吉例によって、井戸神さまへだいだいをおさめることになっている。その歌があるから、よくおぼえなさい。あら玉の年たちかえるあしたより若やぎ水を汲みそめにけり、これはわざっとお年玉、こういって、このだいだいをいれてきなさい」
「ひえー……さあ、こりゃあむずかしいことをいいつかったぞ。なんとかいったな。えーと……でんぐりかえるとかいったな……そうだ、目の玉のでんぐりけえるあしたより末期《まつご》の水を汲みそめにけりわざっとお人魂《ひとだま》……ああ、これですんだ。……へい、いってめえりました」
「どうした、ちゃんとやってきたか?」
「はい、井戸神さまがにこにこ笑って、おめえさまによろしくいってくんろといいやした」
「うそをつけ……なんといってきた。大丈夫だろうな。気になるから、おれの前でもう一度やってみろ」
「歌かね?」
「そうだ、やってみろ」
「目の玉のでんぐりけえるあしたより末期の水を汲みそめにけり、わざっとお人魂」
「ばかっ! 縁起でもない。なんてことをいうんだ。あっちへいっちまえ。あきれかえったやつだ。あっちへいけ!」
「あれあれ、庭の植えこみのなかへとびこんで、手をあわせておがんでやがる。権助、いったいなんのまねだ」
「草葉のかげから拝んでるだからかんべんしろ」
「あれだ、あきれかえってものもいえやしない」
「ええ旦那さま、おめでとうございます」
「ああ番頭さんか、おめでとう。こっちへおはいり。いや、みんなおめでとう。やあ、定吉か、おめでとう」
「旦那さま、お年賀の品をお持ちしました」
「やあごくろうさま。こっちへ持ってきておくれ。のこらずしらべますから……さあ、わたしが帳面へつけますから、ひとりひとり読みあげなさい」
「へい、では、伊勢屋の久兵衛さん」
「伊勢久さんか、あいかわらずおはやいな……あとは?」
「美濃屋の善兵衛さん」
「おいおい、おまえのようにそう長ったらしくいってはいけない。あきんどというものは帳面をはやくつけなければいけないから、それを略して、伊勢屋久兵衛さんなら伊勢久さん、美濃屋善兵衛さんなら美濃善さんというようにいいなさい。いいかい、わかったか」
「へい、わかりました。では、あぶくとねがいます」
「あぶく? だれだい、それは?」
「油屋の九兵衛さんで、略して、あぶく」
「そんなのはふつうに読みなさい。あとは?」
「あとは、てんかん」
「あぶくのつぎがてんかんかい、だれだそれは?」
「天満屋の勘兵衛さんで、略すとてんかん」
「なるほど……つぎは?」
「しぶとうでございます」
「なんだ、それは?」
「渋屋の藤兵衛さんでしぶとうでございます」
「ろくなのはないな。つぎは?」
「ゆかんでございます」
「ゆかん? そんな名前があるか?」
「湯屋の勘造さんで、ゆかん」
「どうもこまったもんだ」
「そのつぎがせきとう」
「順にいってるな。だれだい、せきとうというのは?」
「関口屋の藤吉さんでございます」
「もういい、あっちへいっておくれ。あたまがいたくなってきた」
「えー、旦那さま」
「なんだい、番頭さん」
「わたくしがすこしお読みいたしましょう」
「そうかい、もうすこしだからな、じつは帳面のほうのきまりをつけたいんだ。読んでおくれ」
「では、まず鶴亀とねがいます」
「鶴亀? おいおい、わたしが気にするからといって、つくりごとはいけませんよ」
「いいえ、つくりごとではございません。鶴屋の亀吉さんで、略して鶴亀と申しあげました」
「そうかい、鶴屋の亀吉さんで鶴亀なんぞはうれしいな。あとは?」
「ことぶきで……」
「ことぶき?」
「はい、琴平屋の武吉さんで、ことぶきとなります」
「うれしいねえ。鶴亀のあとがことぶきなんぞはじつに縁起がいい。胸がすーっとしました。きょうのところは、これでやめにしときましょう」
むかしは、元日と二日の宵に、七福神の乗っている宝船の一枚刷りの絵を売りあるく習慣がありました。
それは、二日の夜みる夢を初夢といったので、この絵を枕の下にしいて寝てよい夢をみようということでした。
そこで、「お宝、お宝」といって売りにまいったものだそうで……
「おい番頭さんや、船屋さんをよんでおくれ」
「かしこまりました」
「えー、お宝、お宝」
「おいおい船屋さん、船屋さん」
「へーい、およびで?」
「旦那さま、よんでまいりました」
「おい、船屋さん、船は一枚いくらだい?」
「これは旦那さまで……へい、四《し》文でございます」
「四《し》文はいけないな。わたしは四《し》の字はきらいだ。しぬ、しくじるなどといってな……どうだ
い、なんとかほかにいいようはないかい?」
「ほかにいいようはございません」
「では、十枚ではいくらだい?」
「四《し》十文で」
「百枚では?」
「四《し》百文で」
「どこまでいってもだめだな。縁起がわるいから、それじゃあせっかくだが、こんどということにしよう」
「こんどったって、三日になっちゃあ売れやしません。買っとくんなさいな」
「まあやめとこうよ」
「買わねえんですかい?」
「ああ」
「なにをぬかしやがるんだ。くそおもしろくもねえ。縁起がわりいから買わねえだと……勝手にしろ。いいか、よく聞けよ。去年という年はわりいことばかりつづきやがって、かかあには死なれ、子どもははしかのあがりにほうそうにかかるし、家は火事になっちまうし、縁起なおしに宝船でも売ったらよかろうと友だちがいうから、その気になって売りにでたんだ。いま口あけだというのにケチをつけられたんじゃあ、ことしもろくなことはねえや、おぼえてやがれ、近《ちけ》えうちにてめえんとこのひさしで首をくくるから、そうおもってろ」
「いやなことをいいやがって、帰れ、帰れ」
「ああ、帰るとも……」
「まあ旦那さま、お気になさいますな。わたくしが縁起なおしにいい船屋をさがしてまいりますから……」
「そうかい、よろしくたのむよ」
番頭さんがうら口からとびだしていって、横丁の角で待っておりますと、むこうのほうから宝船屋がやってまいりました。
「えー、お宝、お宝」
「おいおい、船屋さん、宝船は一枚いくらだい?」
「一枚|四《し》文でございます」
「いや、その四《し》文はいけないんだがね……じつは、その角をまがると二軒目の呉服屋なんだが……」
「へえ、へえ」
「旦那がたいそうかつぎやなんだ。四《し》文といわずに、なんとかほかにいいようがないかい?」
「五文とか六文とかいうのはいかがで?」
「よくばっちゃいけないよ。ほかになんとか……」
「では、よもんというのはいかがでございましょう?」
「よもんか……ふん、結構、結構。そういうぐあいに万事縁起よくやっとくれ。うまくいけば、たくさん買うから……」
「ありがとうございます。それじゃあ、さっそくいせいよくうかがいます」
「どうかそうしておくれ」
「へえ、お宝、お宝、お宝、大あたりのお宝、お宝」
「ああ、大あたりなんぞはうれしいな……船屋さん、船屋さん」
「へい、これは旦那さま、およびでございますか」
「ああ、船は一枚いくらだい?」
「えー四《し》……いや、その、よもんでございます」
「よもんかい。うれしいねえ、よもんとは……それじゃあたくさんいただくか、どのくらいある?」
「えー、旦那さまのお年の数ほどございます」
「なに、わたしの年の数ほど? どのくらいだね?」
「八百枚ほどでございます」
「なに、八百枚? ……うーん、わたしの年は八百年かい、八とは末広がりで縁起のいい字だ。うれしいねえ。それを人に買われるのはいやだから、みんな買うよ……さあ、これは宝船の代金、こっちはべつにご祝儀《しゆうぎ》だよ」
「どうもありがとうございます。ちょうだいいたします」
「さあ、お屠蘇《とそ》を祝ってください」
「これはどうもありがとうございます。いただきます。旦那さま、お宅さまでは、ことしは、たいそうご商売ご繁昌でございますよ。たいへんにお金がもうかります」
「そうかい、それはありがたいな」
「旦那さま、これはまた結構なおせち料理でございますな。ごぼうさん(お坊っちゃんのしゃれ)ごまめ夫(ごまめと丈《まめ》のしゃれ)にご成人というのはいかがで?」
「いうことがいちいちうれしいな」
「数の子は、かずかずめでたい」
「なるほどいいね、さあさあゆっくりやってくれ」
「旦那さま、お宅さまでは、七福神がそろっておりますな」
「七福神がそろってる? うれしいことをいってくれるね。どこにそろってるんだい?」
「えー、まず旦那さまが、いつもにこにこえびす顔で、えびすさまでございます」
「うんうん、わたしがえびすさまなぞはうれしいね……はい、これはご祝儀、いまのえびす賃だ」
「ありがとうございます。それから、あちらにさきほどちらりとみえましたおきれいなおかたは? え? お嬢さまで……では、おきれいなお嬢さまが弁天さまと……これで七福神そろいました」
「ええ? なんだい? わたしがえびすで、娘が弁天では、まだ二福じゃないか……それがどうして七福神だい?」
「それでも、ご商売が、呉服屋さんでございます」
明《あけ》 烏《がらす》
「ばあさんや、うちのせがれにもこまったね、なんという堅人《かたじん》だろう、世間では、せがれが道楽をしてこまると、親御さんがぐちをこぼすのがあたりまえだが、うちでは、せがれがかたくってこまるとぐちをこぼすのもおかしなはなしじゃないか」
「ほんとうにそうでございますね」
「すこしぐらい道楽をしてくれるほうが心配なくていいなあ。ああやって毎日部屋へこもって本ばかり読んでいたら、からだのためにもよくなかろうし、しまいに病気にでもなっちまうだろうよ」
「ちいさいうちから、ああやって病身でございますから、このごろのように、青い顔をして本ばかり読んでいられますと、どうにも心配でなりませんよ」
「ときにせがれはどこへいったんだい?」
「きょうは初午《はつうま》だものでございますから、横町のお稲荷《いなり》さまへおまいりにゆきました」
「そうかい、いい若い者が稲荷祭りにいくんだからなあ……ばあさんや、あれでもうすこし色気でもでてくれるとまだたのしみのところがあるんだがなあ」
「あっ、あの子が帰ったようですよ」
「へえ、おとっつあん、おっかさん、ただいま帰りました」
「はい、お帰り」
「お帰んなさい」
「どうもおそくなって申しわけございません」
「もうしわけないことはないよ。おまえだってもう二十一だ。勝手にであるいたっていい年ごろだよ……で、どこへいってなすった」
「ええ、きょうは初午でございますから、横町のお稲荷さまのお祭りで、ただいま参詣《さんけい》をしてまいりました」
「ああそうかい、にぎやかだろうね」
「はい、地口あんどんというものがかかっておりまして、いろいろみてまいりましたが、ずいぶんかわったのがございました」
「そうかい」
「いろいろありましたなかに、あたくしにわからないのがありました。天狗さまの鼻の上にからすがとまっております」
「地口の絵はおもしろいね、なんと書いてありました?」
「はな高きが上に飛んだからすと書いてございましたが、あれは、おとっつあん、あたくしのかんがえますには、実語教のなかにある山高きがゆえに貴《たつと》からずのまちがいではなかろうかと存じますが……」
「これはおそれいったね、そこが地口というものだ。つまりことばのあそびなのだからまちがいではない。わざとそうしゃれてるんだよ」
「それからお稲荷さまへ参詣をいたしましたら、善兵衛さんがいらっしゃいまして、若旦那、お赤飯をめしあがれと申しましたから、ごちそうになってまいりましたが、お煮しめのお味がまことに結構でございましたから、おかわりをいたしまして、三膳ちょうだいいたしました」
「あきれたな、どうも……おまえは地主のむすこだよ。それが町内の稲荷祭りへいって、こわめしを三膳おかわりしちゃこまるね……すこし自分の年をかんがえなさいよ。もう二十一だよ……そりゃあ、おまえはまことに堅くって、親孝行で、おとっつあんはよろこんでます。けどね、いいかい、商人《あきんど》というものは、この世のおもてばかり知っていてもなにもならない。あそびのひとつもして、裏を知ってなけりゃあ、お客さまのおもてなしもできゃしないよ。これからは、世のなかの裏もみるようにしなさい。ねえ、これも商売のためだ。世わたりなんだから……おまえみたいに青い顔をして勉強ばかりしていると、第一からだのためによくないよ。たまには気晴らしにどっかへいっておいで」
「それではおとっつあん、ちょうどよろしいことがございます。いま、おもてで源兵衛さんと多助さんに会いましたら、たいへんにはやるお稲荷さまがありますそうで、ぜひおまいりにいかないかとさそわれましたが、まいってもよろしゅうございますか」
「源兵衛と多助が、はやるお稲荷さまだって? ……ふーん、で、お稲荷さまは、どっちの方角だといってたい?」
「なんでも浅草の観音さまのうしろのほうだそうでございます」
「浅草の観音さまのうしろのほう? ……えーと、観音さまのうしろのほうのお稲荷さまと……うふふふ、あのお稲荷さまはばかに繁昌するお稲荷さまでね、おとっつあんなんか若いときには日参《につさん》したもんだ。あんまり日参がつづいたもんだから、親父に叱言《こごと》をいわれて、蔵のなかへほうりこまれたこともあった。いいから、いっといで、いっといで……なんならおこもりしてきてもいいんだから……」
「さようでございますか。おこもりということになりますと、寝まきを持ってまいるのでしょうか」
「ばあさんや、心配することはないよ。いったほうがためになるんだから……時次郎や、寝まきなんぞは持っていかなくてもいいんだよ。そのまんまでいきゃあ……おっと、そのまんまじゃあまずいな。着かえていらっしゃい」
「いいえ、信心にまいりますのに、身なりなんぞはなんでもよろしゅうございます」
「いいや、そうでないよ。人なかへでるんだからね、着かえていかなくっちゃあいけません……それにあのお稲荷さまは、たいそう派手なことがお好きでいらっしゃるから、身なりがわるいとご利益《りやく》がないなんてことがよくあるんだから……おい、ばあさんや、なにをくすくす笑っているんだい。はやく着物をだしてやりなさい。そうだ、このあいだできてきた結城《ゆうき》お召しをだしておやり……それから、帯はお納戸献上《なんどけんじよう》にしてやっておくんなさいよ。うーん、よく似合う……それならご利益うたがいなしだ。それから、おばあさんや、お賽銭《さいせん》がすくないとご利益がないからたっぷり持たせてやっておくれ。えーと……それから……そうだ、時次郎、これは心得ておきなさい。途中で、中継ぎということをするから……」
「中継ぎといいますと、どんなことで?」
「一ぱい飲むんだ」
「ああ、水を」
「水なんか飲むやつがあるもんか。飲むといったらお酒だよ。それで、おまえは飲まないが、源兵衛と多助はいける口なんだから、おまえはさきにご飯を食べてはいけないよ。すこしは酒の相手をしなくてはね……そのときに、若旦那といって、おまえにさかずきをさす。あたしは飲めませんなんてことをいっちゃいけない。座がしらけてしまうからね……一応いただくだけはいただいて、盃洗《はいせん》へ、この酒をすててしまうんだ」
「盃洗へお酒をすてれば、それでよろしいんですか」
「まあそんなもんだ。それからね、手をたたいて勘定というのは、これは野暮《やぼ》だから、ほどのいいところで、おまえが裏ばしごから、はばかりへいくふりをしておりてって、そこで全部の勘定をしてしまうんだ」
「そうしますと、帳面につけておきまして、あとで、おふたりから割り前をいただくので?」
「とんでもない、割り前なんかもらっちゃいけないよ。相手は町内の札つきの悪だ。割り前なんかとったらあとがこわい」
「ああ、さようでございますか」
「じゃあ、あとは、源兵衛と多助にまかして……万事お金だけはおまえがだすようにしなさい。では、心おきなくおまいりにいっといでなさい」
「では、おとっつあん、おっかさん、いってまいります」
「おいおい、源兵衛、源兵衛」
「なんでえ」
「なんでえじゃねえや、もういこうじゃねえか。あのせがれがくるもんか。よくかんがえてごらんよ。相手はしろうとの、すっ堅気の家だよ。それなのに、自分とこのせがれをあそびにつれてってくれなんて、そんな親父があるもんか。さあ、でかけようじゃねえか」
「いや、くるよ。きっとくる。いいかい、あの親父のことだからかならずよこす。じつは、二十日ばかり前に床屋で逢ったんだ。すると、『うちのせがれのようじゃあまことにこまります。人間堅いのは結構でございます。しかし、うちのは堅すぎます。あれでは、ろくにお客さまのお相手もできません。あたしが承知でございますから、ひと晩つれだしてください。ああやって、ひと間へはいって、青い顔をして勉強ばかりしていてはかえって心配でなりません』とこういうんだ」
「ふーん、親なんてものはつまらねえな。だってそうじゃねえか。堅きゃあ堅いで心配だし、やわらかすぎれば苦労だし……」
「そうそう……だから、おれはひきうけちまった。『ええ、旦那、よろしゅうございます。そりゃあ、やわらかいものを堅くしてくれってことはとてもできませんが、堅いものをやわらかくするのはわけはございません。きっとぐちゃぐちゃにやわらかくしてさしあげますから……』と、おれは胸たたいてうけあった」
「つまんねえことをうけあうない」
「だからくるよ、きっとくる……ほーれ、きた、きた、きたじゃねえか。駆けだしてきた……若旦那っ、こっちですよ」
「どうもおそくなって申しわけございません。親父が身なりがわるいとご利益がないと申しますので、着物を着かえておりまして……すっかりお待たせいたしました」
「いやあ、結構、結構、そのお身なりならご利益うたがいなしですよ。なあ多助」
「ああ、ばかなご利益だ」
「では、若旦那、さっそくでかけましょうか」
「で、なんですか、途中で中継ぎとかいうものをするんだそうで」
「おや、心得てるね、中継ぎかなんかいって……ええ、若旦那、どっかでかるく一ぱいやりましょう」
「一ぱい飲むったって水じゃありません」
「そりゃあそうですよ。水飲んでおまいりにいったってしょうがねえや」
「そのときに、『若旦那、おひとつどうぞ』といって、あたくしにさかずきをさしますか」
「そりゃあ、さしますよ」
「そのとき、あたくしは飲めませんなんてことはいいません。座がしらけてしまいますから……一応いただくことはいただきます。で、そっと盃洗のなかにすてます」
「もったいないや、そいつあ……下戸《げこ》は下戸でね、ほかに食べるものがあるんですからね、そんな心配はいりませんよ」
「それから、ほどのいいところで手をたたいて、お勘定というのは野暮なんだそうですね。ですから、裏ばしごから、はばかりへいくふりをして、そっと下へおりて、お勘定は、あたくしが全部はらってしまいます。あなたがたの分もみんなすませてしまいます」
「いやあ、そいつあわるいや。割り前はだしますよ」
「いいえ、とんでもありません。あなたがたから割り前なんかとったら、あとがこわい」
「あれ、あんなことをいってるよ」
「なんかおとっつあんにいわれてきたんだろう。人間がいいからみんなしゃべっちまうんだ。おまえ、そんないやな顔をすることはねえだろう。このほうがざっくばらんでいいじゃねえか。さあ若旦那でかけましょう」
そこは勘定がむこう持ちということになることは百も承知ですから、すこしぐらいわるくいわれたってちっともおどろきません。ほどのいいところで一ぱい飲んで、土手へかかってまいりましたが、ちょうど夕方でございますから雑踏をきわめております。
「たいへんな人でございますね。みなさん、お稲荷さまへおこもりのかたでしょうか」
「さあね……みんなおこもりとはきまっちゃあいないでしょう。なかには、ざっとおまいりをすませて帰る人もいるでしょうね」
「たいへんに大きな柳の木がございますが……」
「ええ、これが有名な見返り柳……いえ、その……お稲荷さまのご神木で……」
「柳のご神木とはかわっておりますね。でもちょうどよろしゅうございます。この混雑でもしもはぐれましたら、あたくしはこの柳の木の下に立っておりますから……」
「お化けだね、まるで……さあ着きました。これが有名な大門……いや、その……鳥居なんで……」
「ヘー、これが鳥居でございますか。めずらしゅうございますね」
「なにが?」
「だって、お稲荷さまの鳥居というものは、みんな赤いもんでございますのに……」
「いえ、それが、その……このお稲荷さまのお狐さまというものが黒狐で……いえ、その、ちょっとこれからおこもりのしたくに……お巫女《みこ》さんの家へたのみにいってまいりますから、多助とふたりで待っててくださいまし。おい、多助、若旦那たのむよ」
「おい、源兵衛、おれひとりおいてきぼりにするなよ。心ぼそいじゃねえか」
「いいよ。おまえは若旦那にお稲荷さまのご利益のありがたさでもおはなし申していろよ。じゃあ、ちょっといってくるぜ」
「おい、源兵衛……」
「こんばんは、お女将《かみ》」
「まあ、おめずらしいじゃございませんか。どうなすったんですの、このところずっとおみかぎりで……このごろはなんですって、品川のほうにいい人ができたんですって……いけませんよ、そう浮気してあるいては……」
「それどころのはなしじゃないんだよ。ほら、この前にちょっとはなしたろう。例の田所町の堅物《かたぶつ》、あれをきょうつれてきたんだ。堅《かて》えの、堅くねえのって、堅餅の焼きざましみてえな人間なんだ……なにしろ見かえり柳をお稲荷さまのご神木、大門を鳥居だとおもいこんでるくらいなんだから……」
「まあ、ごじょうだんを……いまどきそんなかたが……」
「うそじゃねえよ。きょうつれだすたって、お稲荷さまへおこもりということになってるんだから、ひとつたのむよ。むこうへいけば、どうせばれちまうにきまっているけれど、ここにいるあいだだけでもごまかしておきてえんだ。だからさ、ここのうちをお茶屋だなんていっちゃあいけないよ。まず、お稲荷さまのお巫女《みこ》のうちだとか、神主のうちだとかいうことにして」
「まあいやですよ、そんなごじょうだんをなすっちゃあ」
「いやじゃないよ、たのむ、たのむよ……ほら、もう多助がつれてきちまった……さあ、若旦那いらっしゃい。さあどうぞ……ここはお巫女さんのうちでして、ここに坐ってるのがお巫女がしらで」
「さようでございますか。へい、お初《はつ》にお目にかかります。あたくしは、日本橋田所町三丁目、日向屋半兵衛のせがれ時次郎と申します。本日は、三名でおこもりにあがりました。なにぶんよろしくおねがい申しあげます」
「まあ、これはごていねいにおそれいります。よくいらっしゃいました。それでは、おはなしができませんから、どうぞお手をおあげくださいまし。まあ、ごきりょうがおよろしくって……それに、お身なりがまた結構でございますから、お巫女《みこ》さんがたが、さだめし大よろこびでございますよ……まあ、なんですよこの娘《こ》は……くすくす笑ったりして、失礼じゃありませんか。おまえが笑うから、あたしだっておかしいじゃないか。しょうがないね。あの、若旦那、すぐにお送りしますから……」
お茶屋のほうでも、いつまでもぐずぐずしていたら化けの皮があらわれてしまいますから、なんとかしてすぐに送りこんでしまおうと、ずっと送りこまれまして、ひきつけの座敷へ通されました。ひきつけったって、なにも目をまわすところじゃありません。まあ、早いはなしが待合室というようなところで……そこで待っておりますと、廊下をおいらんが通ります。文金、赤熊《しやごま》、立兵庫《たてひようご》なんて髪を結《ゆ》いまして、部屋着というものを着ております。そして、左で張り肘《ひじ》というものをして、右手で褄《つま》をとり、厚い草履《ぞうり》をはいて、廊下をパターン、パターンとあるきます。これをみれば、どんな堅物だってお稲荷さまであるかないかぐらいのことはわかります。
「源兵衛さーん! 多助さーん!」
「なんですよ、若旦那、大きな声をだして……こういうところで、そんな声をはりあげちゃあいけませんよ」
「いけませんたって……あなた、ここは吉原じゃありませんか。あたくしはお稲荷さまへおこもりをするというからきたんですよ。それをあなたがたはあたくしをだましてこんなところへつれてくるなんて……」
「若旦那、怒っちゃいけませんよ。泣きだしちゃあこまるな。おい多助、逃げちゃずるいよ。いっしょにきたんじゃないか。人にみんなおしつけちまって……こまるじゃねえか。おまえってものは薄情だよ。することが……ねえ、若旦那、あなたもこまりますよ。こんなところで泣きだしたりしたんじゃあ……」
「とんでもないことです。あたくしは、お稲荷さまへおこもりだというから……だから……あたくしは……」
「若旦那、泣くのはおやめなさい。泣くとこじゃありませんよ。ここは……そりゃあ、あなたをだましてつれてきたのはわるい。だから、あやまります。この通り手をついて……しかしね、このことは、あなたのおとっつあんも心得てなさることなんだから、なにも心配はいらないんですよ」
「いいえ、うちの親父はああいう人間でございますから、なにを申したか存じませんが、とにかくあたくしとしましては、とてもこんなところにはいることはできませんから、すぐに帰らしていただきます」
「こまったな、どうも……じゃあ若旦那、こうしましょう。いまここへお酒がでます。そうしたら一ぱい飲んで、女の子がずらりとならんで、陽気にさわいでお引けになります。そのとき、あなたを大門まで送ってゆきますから、せめてそれまで辛抱してくださいな」
「いいえ、あなたがたはどうぞおあそびになっててください。あたくしは帰りますから……」
「まあ、そんなことをいわずにさ……せめて酒を飲むあいだぐらいつきあってくださいな」
「いいえ、もうあたくしは……」
「まあそういわずに……」
「おいおい源兵衛、なにをいってるんだよ。帰《けえ》りてえものは帰したらいいじゃねえか。なにもそれほどたのんでいてもらうことはあるめえ……なにいってやがるんだ。さっきだってそうだ、町内札つきの悪で、割り前もらうとあとがこわいだってやがら……なにぬかしやがんでえ。くそおもしろくもねえ……帰ってもらおうじゃねえか。帰ってもらおうだがね、若旦那、あなたに吉原の規則というものをおはなししときましょう。いいですか、さっきあなたにお稲荷さまの鳥居だと教えたところがあったでしょう、じつをいえば、あれが有名な吉原の大門というところだ。あすこは一本口ですよ。あの門のところへ髭の生えたこわいおじさんが五人ぐらい立ってたでしょ? あれはね、どういうわけで立ってるかというと、どんな身なりをした男が何人できたかということを、ちゃーんと帳面につけてるんですよ。だから、あたしたち三人がいっしょに通ってきたのに、若旦那がひとりだけでのこのこでてってごらんなさい。こいつはあやしいやつだってんで、たちまちふんじばられちまいますぜ。なあ源兵衛、そうだな」
「へー、そうかね。はじめて聞い……」
「こら、ばかだな、こいつは……そうなんだよ。カンのにぶいやつだな……だから、ふんじばるだろ、なあ源兵衛」
「ふんじばるかな?」
「あれ、まだわからねえや、まぬけな野郎だな……三人でへえってきて、そのうちのひとりだけがでていけば、こいつあやしいってんでしばられるじゃねえか。なあ、そうだろ」
「あっ、そうか、すまねえ、すまねえ。そうだ、そうだ、ひとりででていきゃあ、そりゃあふんじばられるとも……」
「なあ、そうだろう、ふんじばられちゃうな」
「ああ、ふんじばられちゃうとも……」
「そうなりゃあ、なかなか帰してくれねえな」
「そうとも、なかなか帰してくれるもんか。この前なんか元禄時分からしばられたままの人がいた」
「そんな長《なげ》えやつがいるもんか……まあ、そういったことがわかってりゃあいいんだ。さあ若旦那、どうぞお帰んなさい」
「それはたいへんこまります。人間と生まれて縄目《なわめ》の恥をうけたとあっては、世間さまに顔むけができません。あいすみませんが、おふたりで、あたくしを大門まで送ってきてくださいな」
「若旦那、あなた、それが身勝手というもんですよ。あっしたちは、これから一ぱいやって、わーっと陽気にさわごうてんだ。それなのに、あそびなかばで、送り迎えなんかしてられますか……あそびは気分のもんなんだから……だからさ、さっきからいってるように、酒飲むあいだだけでもつきあったらいいじゃありませんか」
「じゃあお飲みください。どうせお酒あがるんなら早いとこ大きいもんであがってください。たらいかなんかで……」
「じょうだんいっちゃあいけねえや」
座敷がかわって、飲めや唄えの大さわぎになりました。
このとき、若旦那の敵娼《あいかた》にでましたのが、浦里《うらざと》というおいらんで、ことし十八の絶世の美人。そんなうぶな若旦那ならば、こっちからでてみたいという、おいらんのほうからのお見立てということになりました。
ところが、若旦那の時次郎は、床柱によりかかって、畳へのの字を書きながら、なみだをぽろりぽろりとこぼすばかり……
「おいおい、源兵衛ごらんよ。ええ、酒飲んだってうまくねえや。ああやってめそめそ泣いてるんだからな。まるでお通夜《つや》だよ……あれ、おばさんがよろこんでやがらあ。うぶでいいかなんかいって……おいおい、おばさん、その駄々っ子をなんとかしてくれよ。酒がまずくてしょうがねえや」
「あの、若旦那、若旦那」
「なんですよ。あなた、そばへよっちゃいけません。そっちへいっててください」
「だってねえ、若旦那、あなたがそうやってそこにいらっしゃると、源兵衛さんと多助さんがいじめますからね。おいらんのお部屋へいってゆっくりおやすみなさいましな」
「いいえ、あたくしはここのほうがよろしゅうございますから、どうぞおかまいくださいますな」
「そんなことをおっしゃらずに、どうぞおいらんのお部屋のほうへ……」
「じょうだんいっちゃいけません。そんな部屋で寝てごらんなさい。悪い病気をしょいこみます」
「おいおい、源兵衛、聞いたかい? いいせりふじゃないねえ、悪い病気をしょいこみますだとさ、ますます酒がまずくなっちまったぜ」
「さあ、若旦那、そんなことをおっしゃらずに……まあ、よろしいじゃございませんか」
「いいえ、いけませんよ。あたくしの手をひっぱっちゃあ、たすけてください。源兵衛さーん、多助さーん!」
大さわぎするのを、そこは餅は餅屋。なんとかなだめすかして、うまくおいらんの部屋へ送りこみました。
あとは邪魔者がいなくなったというので、飲めや唄えのどんちゃんさわぎ――ほどのよろしいところで、お引けという声がかかります。
大一座振られたやつが起こし番
まことにうまいことをいったもんで、廓《くるわ》へ泊まったあくる朝、ひとの部屋をがらりがらりとあけて、なにかいってるひとに、もてたひとはおりませんようで……
「おい、おはよう。どうだったい、ゆうべのできは?」
「うん、フワフワフワ」
「なんだい、おい、口に楊子《ようじ》をいれたままでしゃべるなよ。なにいってるかわからねえじゃねえか。おいらんがきたかときいてるんだよ」
「フワフワフワ……こない」
「きたねえな、歯みがきがこぼれるじゃねえか。やっぱりこなかったろう。おめえんとこへくるわけはねえや。だいたいおめえの顔てえものは女をよびよせる顔じゃねえね、きた女の子を帰しちまうって顔だ」
「じゃあ、おめえんとこはどうだったい?」
「おれんとこか、そりゃあきたよ。『ねえおまえさん、あたしはばかりへいってくるからね、待っててよ』てんで、いっちまったきり、小便の長えの長くねえのって、いまだに帰ってこない。ことによったら、あの女は丑年《うしどし》かも知れねえ」
「なにいってやんでえ……まあ、おたがいに顔を洗ったら帰ろうじゃねえか」
「そうよ、まごまごしてるうちに陽があたってきちまった」
「そいつあたいへんだ。いそがなくっちゃあ」
「あっ、そうだ、珍談、珍談」
「どうしたい?」
「駄々っ子おさまってるとさ」
「なんだって……ゆうべ帰っちまったんじゃねえのか」
「それが帰らねえんだとさ、おさまってるんだってさ」
「へえ、そいつあおどろいた。とまったのかい? あんなにめそめそしてたのに……酒がまずかったよなあ……それにしても泊まったというんなら部屋をみまわってやろうじゃねえか。もしも泊まって目でもまわしていたらたいへんだからな。……えーと、角の部屋、角の部屋と……ああ、この部屋、この部屋だ。若旦那、おはようございます。あけますよ。えー、おい、どうだい。あけてすぐに寝床がみえねえとこなんざあ、なんといっても大店《おおだな》の値打ちだね……おい、どうでもいいけど、なにを食ってるんだい?」
「いえね、いまあすこをあけたら甘納豆がでてきたから、さっそくこれをいただいちまったんだ」
「へん、女に振られて甘納豆食ってりゃあ世話あねえや」
「けどね、朝の甘味はおつなもんだぜ。これで濃い宇治かなんかありゃあ、おもいのこすことさらになしだ」
「なにいってんだ、しまらねえ男じゃねえか……しかし、うまそうだな。うまいかい? え、そんなにうまい? それじゃあおれにもひとつおくれ」
「じょうだんいうない。こんなうめえものを人にやってたまるもんか。そちらのうらをかいて一ペんにたいらげちまうという……」
「おいおい、ほうばるなよ。ばかだな。まるで子どもじゃねえか……ええ、若旦那、あけますよ。どっこいしょのしょ、と。おや、敵の守りは厳重だね。ふすまのむこうに屏風《びようぶ》をはりめぐらしてというやつだ。若旦那、若旦那、おや、ご返事なし……無言とはひどいね。源兵衛と多助でござんすよ。とりますよ。屏風をとるよ。それ、どっこいしょのしょっと……うわあ、まっ赤になってもぐっちまったぜ。どうです? 若旦那、おこもりのぐあいは?」
「ええ、まことに結構で……」
「おいおい、聞いたかい、結構なおこもりだとさ」
「ねえ、若旦那、あそびてえものはおもしろうござんしょ。おもしろいけど、切りあげどきがかんじんでござんすからね。きょうのところは、ひとつ、きれいにひきあげて、またくるということにしょうじゃありませんか」
「ええ、しかし……」
「さあ、おいらん、またくるから、若旦那を起こしてやってくんねえ」
「若旦那、みなさんがああおっしゃるんですから、お起きなさいましな」
「おいらんが、起きろ起きろっていってるのに、若旦那、起きたらどうなんです。案外ずうずうしいね、あなたも……」
「でも、おいらんは口では起きろといってますけれど、ふとんのなかでは、あたくしの手をぎゅーっとにぎってはなしません」
「おい、おい、甘納豆食ってる場合じゃねえぞ。聞いたか、いまのせりふを……」
「ちえっ、なにいってやんでえ。ばかにしゃがって……ゆうべはなんといったとおもってるんだ。こんなとこで寝ると、悪い病気をしょいこむといってたじゃねえか……くそおもしろくねえ」
「おい、おい、そう怒るなよ。いまいっしょに帰るから、待てよ、待てったら……あっ、階段からおっこっちまいやがった。しょうがねえなあ。じゃあ若旦那、あなたはひまなからだだ。まあゆっくりあそんでらっしゃいよ。あっしたちは、これから仕事にでかけなくっちゃあならないんですから……じゃあ、さきに帰りますからね」
「あなたがた、さきに帰れるもんなら帰ってごらんなさい。大門でしばられちまいますから」
長屋の花見
「さあさあ、これでみんなそろったかい、ええ?」
「そろったようだ」
「そうかい。じつは、みんなをよんだのはほかでもねえが、大家《おおや》がね、月番のおれをよんで、みんな顔をそろえてきてくれとこういうんだ」
「ふーん、なんの用だい?」
「なんの用だかわからねえが、おれのかんげえじゃあ、ひょっとしたら店賃《たなちん》の催促《せえそく》じゃねえかとおもうんだ」
「店賃? 店賃を大家がどうしょうてんだ?」
「どうしょうったって、みんな店賃を払えという催促だろうてんだ」
「店賃を払えだと? ずうずうしい大家だ」
「なにもずうずうしいこたあねえやな……しかし、大家が催促をするからにゃあ、みんな相当たまってるんじゃねえのか? どうだい、留さんとこなんか?」
「いや、面目ねえ」
「面目ねえなんてところをみると、持ってってねえな」
「いや、それがね、ひとつやってあるだけに、面目ねえ」
「そんならなにも面目ねえこたああるめえ。店賃なんて、毎月にひとつのもんだ」
「毎月ひとつ持ってってりゃあ、おれがなにも面目ながりゃあしねえさ」
「そういやあそうだ。じゃあ、半年前にひとつか?」
「半年前なら大いばりだ」
「一年前か?」
「一年前なら面目なくねえさ」
「三年前か?」
「三年前なら、大家のほうから礼にくらあ」
「なにいってやんでえ。じゃあ、おめえはいつ持ってったんだい?」
「光陰矢のごとしというが、月日のたつのは早《はえ》えもんだ。あれは、おれがこの長屋へ越してきたときだから、指折りかぞえて十八年にならあ」
「十八年?! 仇討《あだう》ちだな、まるで……金ちゃんとこはどうなってるい?」
「なにが?」
「いえ、店賃は?」
「ああ、店賃か。そいつあどっちでもいいや」
「どっちでもいいって……店賃は払ってるのか、どうかって聞いてるんじゃねえか」
「だから、おめえの気のすむようにどっちでもいいようにしといてくれ。まかしとかあ」
「そんなもんまかされてたまるもんか……辰ちゃんとこは店賃どうしてる?」
「まことにすまねえ」
「まことにすまねえって、店賃はどうしてるんだい?」
「店賃てえと、なんだ?」
「あれっ、店賃を知らねえやつがいるぜ、しょうがねえなあ……寅《とら》さんとこは、どうだい?」
「なにが?」
「なにがじゃねえよ。店賃だよ」
「店賃? そんなもん、まだもらったことがねえ」
「あれ、この野郎、店賃もらう気でいやがる。ずうずうしいったらありゃしねえ。店賃てえものは、おめえが大家へ持ってく金じゃねえか」
「おれから? へー、そいつあ、初耳だ」
「らんぼうなことをいうねえ……六さんは、なかなかきちんとしてるから、店賃は持ってってるだろうな?」
「そういわれると恥ずかしい……たしかに持ってってる」
「えらい。感心だ。いつ持ってった?」
「そうだなあ……おれが、おふくろの背なかに……」
「おいおい、あきれたな。古すぎらあ……亀さんは?」
「店賃については、涙ぐましい物語が……まず、ひととおりお聞きくだされ」
「芝居がかりだな。どんな物語だい?」
「じつは、五年以前に亡くなった親父の遺言《ゆいごん》なんだ。臨終《いまわ》のきわにおれを枕もとへよんで、『これ、せがれ、おれも長えあいだ、この長屋に住んでいたが、まだ店賃を払ったことがねえ。どうぞおまえの代になっても、かならずかならず、店賃を払うてえような、そんな大それたりょうけんをおこしてくれるなよ』と、涙ながしておれの手をにぎった」
「いいかげんにしろい。そんな遺言をする親があるもんか……竹さんとこは?」
「店賃については、涙ぐましい物語が……まずひととおり……」
「おんなじことをいうねえ。おめえも親父の遺言か?」
「あたった」
「なにいってやんでえ。どうもこまったもんだ……ところで、勝つあん、おたくは?」
「じつは店賃についちゃあ、浮世の義理はつらーいもので、まず、ひととおりお聞きくだされ」
「また、『まずひととおり』かい。浮世の義理か、のこぎりか知らねえが、いったいどうしたってんだ?」
「右どなりの家のはなしでは、店賃払ったのは十八年前、左どなりは、店賃を知らねえ。むこう三軒両どなり、近所一帯が店賃をだしてねえってのに、うち一軒が払っては、近所づきあいの手前面目ねえ。持ってゆきてえ心は、やまやまだけど、浮世の義理の板ばさみ……店賃は払っちゃいねえ」
「なにくだらねえことをいってるんだ……こうやって聞いてみると、だれひとり払ってねえわけだ。こいつあ、ことによると店《たな》だてをくわせるかなんかだぜ。まあ、そうなったらそうなったときのことだ。とにかくいってみよう。それからいっとくけどな、なるべくあたまをさげてろよ。大家が叱言をいったって、叱言がすーっとあたまの上を通りこしちまうから……さあ、さあ、大家の家だ。あっ、いる、いる、むずかしい顔して新聞読んでるぜ。あの顔つきからみると、いよいよ店だてかな」
「おいおい、おどかすなよ」
「じゃあ、はいるからな……大家さん、おはようございます。おいいつけ通り、長屋の連中そろってまいりました。なんかご用でしょうか?」
「なんだ。そんな戸ぶくろのところへかたまって……そんな遠くからどなってねえで、もっとこっちへきな」
「いいえ、ここで結構です。すいませんが、店賃のところは、もうすこし待っていただきてえんですが……」
「店賃? おれはそんなことをいったおぼえは……ああ、そうか、おれがよびにやったんで店賃の催促だとおもったのか。そんなら心配するな。きょうは店賃のことでよんだんじゃねえんだ」
「じゃあ、店賃はあきらめましたか?」
「あきらめるもんか」
「わりに執念|深《ぶけ》えんですね。ものごとあきらめがかんじんですよ」
「なにいってやがる。まあ、いいからこっちへきな」
「へい、どうもおはようございます」
「おはよう」
「おはようござんす」
「ああ、おはよう」
「おはようす」
「はい、おはよう」
「おはようござんす」
「もういいよ、そうみんなでおはようといわなくても、ひとりいえばわかるからな」
「じゃあ、あっしが月番ですから、みんなになりかわりまして、ええ、おはようございます」
「ああ、おはよう。そうだ、勘さんが月番だから、これもまとめていうけど、おれだって、あんなうすぎたねえ長屋貸しとくんだから、店賃はそんなに気にしてねえからな」
「ええ、そりゃあ、あっしたちだって、あんなうすぎたねえ長屋借りてるんですから、店賃なんて気にしちゃいませんから、まあ、どうかご安心なすってください」
「だれが安心なんぞするもんか。まあ、みんな楽じゃねえだろうが、ぼつぼついれてくんなくっちゃいけねえ。だけど、楽じゃねえといえば、世間で、うちの長屋のことを貧乏長屋なんていってるそうだな」
「ええ、貧乏長屋、戸なし長屋なんてね」
「なんだ、その戸なし長屋てえのは?」
「長屋中みんな戸がねえんです」
「そんなはずはねえ。戸のねえ家なんぞ貸したおぼえはねえぞ」
「ええ、はじめはたしかにあったんですがね。なにしろ、湯をわかすったって、めしたくったって燃すものがねえんでしょ。しょうがねえから、雨戸をだんだん燃しちまったんで……」
「いけねえな。戸じまりがしてなくっちゃあ無用心でしかたあるめえ。泥棒でもへえったらどうする?」
「泥棒? そんなものがこの貧乏長屋へへえってくるもんですか」
「そうそう、泥棒なんかへえるもんか。でたことはあるけど……」
「おいおい、みんなでおかしなことをいってちゃこまるな……まあ、はなしはちがうが、『銭湯で上野の花のうわさかな』、いい陽気になったな」
「ええ、まったくいい陽気ですねえ」
「おもてをぞろぞろ人が通るじゃないか」
「どこへいくんですかねえ」
「きまってるじゃねえか。花見にいくんだ」
「へえ、結構な身分ですねえ。あっしたちだっておんなじ人間なんですから、あんな身分になってみてえもんですね」
「それなんだ。みんなをよんだ用というのは……」
「え?」
「うちの長屋も貧乏長屋なんていわれてるんじゃ景気がわるくってしかたがねえ。そこで、ひとつ陽気に花見にでもでかけて、貧乏神を追っ払っちまおうとおもうんだがね、なまじっか女っ気のねえほうがいい、男だけでくりだそうとおもうんだが、どうだい?」
「花見にねえ……で、どこへいくんです?」
「上野の花が満開だてえから、近くていいからどうだ?」
「上野ですか? すると、長屋の連中がぞろぞろでかけて、花をみて、一まわりして帰ってくるんですか?」
「歩くだけなんて、そんなまぬけな花見があるもんか。酒、さかなを持ってって、わっとさわがなくっちゃあ、せっかくいった甲斐がねえじゃねえか」
「酒、さかなねえ……どっかへいってかっぱらってきますか?」
「おいおい、人聞きのわりいことをいっちゃいけねえよ。そのほうはおれが用意したから安心しな」
「へえー、大家さんが酒、さかなを心配してくれたんですか?」
「ああ、ここには、一升びんが三本あらあ。それに、この重箱のなかには、かまぼことたまご焼きがはいってる。酒、さかなといってもこれだけなんだが、どうだい、みんなでかけるかい?」
「え? 一升びんが三本に、かまぼことたまご焼き? それだけみんな大家さんのおごりですか?」
「どうだい、上野の山へいくかい?」
「いきますよ。いきますとも……それだけ用意ができてりゃあ、上野はおろか、南氷洋でもなんでもいっちまいます」
「鯨とりにいくんじゃあるめえし……じゃあ、みんないくんだな。そうかい。そうときまれば善はいそげだ。すぐにくりだそうじゃねえか」
「へっへっへっ、どうもすいませんねえ。いろいろ心配していただいて……ときに、大家さん、あっしは月番ですから、ひとつ世話係りの幹事になってはたらきますから」
「そうかい、ごくろうだな」
「ええ、幹事になりゃあ、お毒見役でよけいに飲み食いもできますからね」
「おいおい、幹事になると、そんな役得があるのかい? じゃあ、大家さん、あっしは来月の月番ですから、あっしも幹事にしてください」
「ああ、おなり、おなり」
「じゃあ……これででかけられると……おいみんな、これからごちそうになりにいくんだから大家さんにお礼をいおうじゃねえか」
「どうもごちそうさまです」
「ありがとうござんす」
「あわれな親子がたすかります」
「それじゃあ乞食みてえだ……そんなにみんなに礼をいわれると、おれもちょいときまりがわりいから、さきに種あかしをしとこう」
「種あかし?」
「ああ、……じつはなあ、この一升びんの中味は本物じゃねえんだ」
「えっ?」
「番茶を煮だして水でわってうすめたんだ。どうだ、本物そっくりだろう」
「えっ? これは番茶ですか? すると、お酒もりじゃなくて、お茶かもりですか?」
「まあ、そういったところだ」
「じゃあ、大家さん、かまぼことたまご焼きのほうは本物ですか?」
「それ本物にするくらいなら、五合でも酒を買うさ」
「すると、こっちはなんなんで?」
「まあいいから、ふたをとってごらん」
「そうですか……ふたをとってと……やあ、大根のこうことたくあんだ」
「そうだ。たくあんは黄色いからたまご焼きで、大根のこうこは月型に切ってあるからかまぼこだ」
「こりゃあおどろいた。ひでえことになっちまったねえ。がぶがぶのぼりぼりだとさ」
「まあいいじゃねえか。むこうへいって、『かまぼこやってみるか』とかなんかいいながら、なるべく音させねえように食べながら、ちいさなちょこで飲んでりゃあ、かまぼこでいっぱいやってるようにみえるじゃねえか」
「そりゃあそうでしょうけど、やってる当人としてはねえ……どうだい、みんな、これでもでかけるかい?」
「がぶがぶのぼりぼりだけと、大家さんがせっかく用意してくれたもんだから、その気持ちにすまねえからいこうじゃねえか。まあ、むこうへいけば、みんな浮かれてるしよ」
「うんうん」
「ガマ口のひとつやふたつはさ」
「そうそう、おっこってねえかぎりもねえもんなあ」
「ま、それをたよりにでかけようか」
「おい、変なことをいうんじゃねえ。ともかくみんなでかけなよ」
「ああ、でかけますとも、こっちはやけくそだから」
「やけくそってやつがあるかい。おいおい、幹事、幹事はさっそくはたらいてもらうよ」
「こりゃあ、とんだときに幹事になっちまったなあ……へい、大家さん、なんでしょうか?」
「うしろの毛氈《もうせん》を持ってきておくれ」
「毛氈? 毛氈なんかありませんが……むしろならあります」
「おれが毛氈だといったら、それを毛氈だとおもえばいいんだ」
「へい、では持ってきました。むしろの毛氈」
「よけいなことをいうんじゃねえ。いいか、それをむこうへいったらしくんだから持ってくんだが、そうだ、そのふろしきにつつんだ重箱をくるんで、縄をかけちまえ……そしたら、その竹の棒をそいつへ通して、今月の月番と来月の月番が幹事だったな。ふたりでそれをかついでいっとくれ」
「これをかつぐんですか? へえー、むしろのつつみをかついでね……こいつあ花見へいくかっこうじゃねえや、どうみたって猫の死んだのをすてにいくようだ」
「変なことをいってるんじゃねえよ……さあ、一升びんはめいめいに持って……湯飲み茶わんもわすれるなよ。さあ、したくはいいかい。ではでかけよう。月番でかけとくれ」
「じゃあかつぐかい? じゃあ、大家さんでかけますよ。よろしいですね。ご親類のかたそろいましたか?」
「おいおい、なにいってるんだ。葬《とむら》いがでるんじゃねえや……さあ、ひとつ陽気にでかけよう。それ、花見だ、花見だ」
「ほれ、夜逃げだ、夜逃げだ」
「だれだ、おかしなことをいってるのは?」
「なあ、どうもこうかついだかっこうはあんまりいいもんじゃねえなあ」
「そうよなあ、しかし、おれとおめえはどうしてこんなにかつぐのに縁があるのかなあ?」
「そういえばそうだなあ、昨年の秋、くず屋のばあさんが死んだときよ」
「そうそう、つめてえ雨がしょぼしょぼふってたっけ……陰気だったなあ」
「だけど、あれっきり骨揚《こつあ》げにいかねえなあ」
「ああいう骨はどうなっちまうんだろう?」
「おいおい、花見へいくってのに、そんな暗いはなしなんかしてるんじゃねえよ。もっと明るいことをいって歩け」
「へえ……明るいっていえば、きのうの晩よ」
「うん、うん」
「寝てると、天井のほうがいやに明るいとおもってみたら、いいお月さまよ」
「へーえ、寝たまま月がみえるのかい?」
「あー、よくみえるのさ」
「どうして?」
「燃すものがねえんで、雨戸をみんな燃しちまったからな、きのうの朝、おまんまをたくのにこまって天井板はがして燃しちまった。だから、寝ながらにして月見ができるってわけだ」
「そいつあ風流だ」
「おめえもやってみな」
「ああ、さっそく今晩にも……」
「おいおい、家をこわしちまうじゃねえか。店賃も払わねえで家をこわすやつがあるか」
「へえ、すいません……大家さん、ずいぶん人がでてますねえ」
「たいへんな人だなあ」
「この人通りをみてかんげえたんですがね」
「なにを?」
「これだけの人から一銭ずつもらっても、たいへんなもんだと……」
「おい、そんなみみっちいことをいうんじゃねえ。もっと大きなことをいってみろ」
「大家さんっ」
「なんだ?」
「しばらく札《さつ》で鼻をかみませんね」
「よせよ、ばかばかしい。通る人が笑ってるじゃねえか。しょうがねえやつらだなどうも……それそれ、上野だ。みてみろ、きれいに咲いたこと」
「なるほど、こいつあいいや」
「さあさあ、みんな、どうだ、このすりばち山の上なんざあ、見晴しがいいぞ」
「いや、なるべく下のほうへいきましょうよ」
「下のほう?」
「下のほうがいいですよ」
「どうして? 下のほうはほこりっぽくっていけねえぜ」
「いいえね、ほこりなんざあどうだってかまうもんですか。上のほうで本物を飲んだり食ったりしてるでしょ。ひょっとしたひょうしに、うでたまごかなんかころがってこねえともかぎりませんからね。そしたら、あっしゃあ、ひろって、皮をむいて食っちまう」
「そんないやしいことをいうなよ……まあ、どこでもいいや、おめえたちの好きなところへ毛氈をしきな」
「そうそう、毛氈、毛氈、もうせんにはおぼえてたけど、ついわすれた」
「つまんねえしゃれいうな」
「おい、みろよ、毛氈の係りを……あんなとこへつっ立って、本物を飲んでるのをうらやましそうにみてるぜ。みてたってしょうがねえじゃねえか……おーい、毛氈! 毛氈を持ってこいよ! ……あれ、気がつかねえや」
「だめだめ、そんなこといったって……当人は毛氈なんかかついでるつもりはねえんだから……おれがひとつよんでみらあ。おーい、毛氈のむしろ持ってこいよ」
「おいおい、毛氈のむしろってやつがあるか」
「だって、そういわなくっちゃ気がつきませんから……そらそら持ってきた」
「すいません。いえね、あすこで、あんまりうまそうに本物やってるもんですからつい……」
「こっちだってはじめるんだよ。がぶがぶのぼりぼりを……」
「よせよ、そんなことをいうのは……さあ毛氈をしくんだ。あれっ、どうするんだ、こんなに横に細長くならべてしいて?」
「こうやって、一列に坐りましてね、通る人にあたまをさげて……」
「おい、なにいってんだ、乞食の稽古するんじゃねえや。みんなで、まるくなって坐れるようにしかなきゃあいけねえじゃねえか。……そうだ、そうだ、そうやって……重箱と一升びんをまんなかにだして、湯飲み茶わんはめいめいがとるんだ。さあさあ、きょうはおれのおごりだとおもうと気づまりだろうから、そんなこたあわすれて、遠慮なくやってくれ」
「だれがこんなものを遠慮して飲むやつがあるもんか。ばかばかしい……」
「なに?」
「いえ、こっちのことで……」
「さあ、幹事はぼんやりしてねえで、どんどん酌《しやく》をしてまわらなくっちゃいけねえじゃねえか」
「へい、じゃあ、留さん、一ぱいいこう」
「そうかい、じゃあ、ついでもらおうか。ほんのおしるしでいいよ。ほんのおしるしで……おいおい、おしるしでいいっていってるのに、どうしてこんなにいっぱいつぐんだ? おめえ、おれにうらみでもあんのか? おぼえてやがれ」
「なんだなあ、いっぱいついでもらったらよろこばなくっちゃいけねえじゃねえか」
「よろこべったって、じょうだんじゃねえ。あっしゃあ小便が近えからあんまり湯茶はやりたくねえのに……」
「おう、おれにくんねえ。さっきからのどがかわいてしょうがねえんだ……うん、うん、なるほどなあ、色だけは本物そっくりだなあ、これで飲んでみるとちがうんだから情けねえや……大家さん」
「なんだ?」
「大家さん、いい酒ですね」
「そうか、うれしいことをいってくれるな」
「大家さんは宇治に親類がありますか?」
「どうして?」
「これだけの酒とくると、宇治でとれたにちげえねえ」
「酒が宇治からでるもんか。おかしなことをいうな……さあ、酒らしく、一|献《こん》けんじましょうかなんかいってごらん」
「じゃあ、金ちゃん、一献けんじよう」
「いや、けんじられたくねえ」
「おい、ことわるなよ。みんな飲んだんじゃねえか。おめえひとりのがれるこたあできねえんだよ。これもすべて前世の因縁だとあきらめて……なむあみだぶつ……」
「おい、変なすすめかたするない」
「一献けんじよう、紙くず屋の大将」
「それをいうなら、紙屋の大将といいな。聞えがいいじゃねえか」
「そうですかねえ。おう、紙屋の大将、くずのほうの……」
「それじゃあおんなじじゃねえか」
「さあさあ、どんどんやってくれ、そっちの猫の皮むきの親方」
「そう、いちいち商売をいうなよ……さあ、どんどん遠慮なしにやってくれ。おい、亀さん、おまえ、さっきからみてるけど、ほんの一と口しか飲まないな。どんどんおやりよ」
「あっしゃあ下戸《げこ》なんで……」
「そんなこといわずにやってごらんよ」
「ええ、あっしゃあ、ふだんあんまりつめてえのをやらねえもんですから……」
「そうかい、冷やはやらねえのかい?」
「ええ、いつも炮《ほう》じたのをやってるんで……」
「酒を炮じるやつがあるもんか……辰つあん、おまえもやんなさい」
「下戸です」
「下戸なら下戸で、食べるものがあるじゃないか」
「一難去ってまた一難ときたか」
「なに?」
「いえ、なんでもねえんです……え? たまご焼きですか? あっしゃあね、このごろすっかり歯がわるくなっちまって、このたまご焼きはよくきざまねえと食べられねえんで……」
「たまご焼きをきざむやつがあるもんか……じゃあ、寅さん、おまえ、さかなはどうだ?」
「じゃあ、その白いほうをください」
「色でいうなよ。かまぼこならかまぼこと大きな声でいいなよ」
「じゃあ、そのでこぼこ」
「でこぼこってやつがあるか。それ、かまぼこだ。すこし厚目のやつをやるぞ」
「へえ、すいません。あっしゃあ、このかまぼこが好きでしてねえ」
「そうか、そりゃあよかった。そんなに好きかい?」
「ええ、なにしろ、毎朝、千六本にきざんで、おつけの実にします。それに、胃がわりいときなんか、かまぼこおろしにしまして……」
「なんだい?」
「このごろは、練馬のほうへいきましても、すっかり家が建てこんじまって、かまぼこの畑がすくなくなりましたねえ」
「かまぼこの畑なんぞあってたまるもんか」
「でもね、あっしゃあ、どっちかてえと、かまぼこの葉っぱが好きで……」
「いいかげんにしろ。ばかばかしい……はやく食べちまいな」
「うーん、こいつあ漬けすぎてすっぺえや」
「すっぱいかまぼこがあるか……竹さん、おまえもなんかやんなさいよ」
「すいません、たまご焼きをひとつ……」
「うまいな、むこうのやつがこっちをひょいとみたぞ。ひとつたまご焼きらしく、音をたてねえで食べておくれ」
「えっ? 音をたてねえで? ……このたまご焼きを音をたてずに食うのはむずかしいや」
「そこをひとつやっとくれ」
「そこをひとつったって……そうだ、えーい、うーん」
「おい、どうした、どうした?」
「うーん」
「おい、竹さん、しっかりしろよ」
「かわいそうに、たまご焼きを鵜飲《うの》みにして、のどへつっかえたんだ。背なかをひっぱたいてやれ、どーんとひとつ……」
「そーれ、竹さん、しっかりしろい」
「あー、たすかった。みんなたまご焼きをもらうなよ。これを音させずに食うのは命がけだぜ」
「さあさあ、酒がまわったところで、いせいよく都都逸《どどいつ》でもはじめな」
「じょうだんじゃねえ。これで唄なんか唄ってりゃあ狐に化かされてるようなもんだ」
「おいおい、いちいち変なことをいってちゃあこまるな。お花見なんだよ。なんかこう花見にきたようなことをしなくっちゃあ……そうだ。六さん、おまえさん、俳句をやってるそうだな。どうだ、花見にきたような句をよんでくれねえか」
「そうですねえ、花見の句ねえ……どうです、『花散りて死にとうもなき命かな』てえのは?」
「なんだかさびしいな。ほかには?」
「そうですか。では、『散る花をなむあみだぶつというべかな』」
「なお陰気になっちまうよ」
「なにしろ、がぶがぶのぼりぼりじゃ陽気な句もできませんから……」
「ぐちをいってちゃいけねえな……だれか陽気な句はないかい?」
「大家さん、いまつくった句を書いてみたんですが、こんなのはどうでしょう?」
「こう、勝つあん、できたかい? あれ、おまえさん、矢立てなんぞ持ってきたんだね。風流人だ。いや、感心した……どれどれ、どんな句ができたい……えーと、なになに……『長屋中……』うん、うん、長屋一同の花見というところで、長屋中とはじめたところはうれしいな。『長屋中歯を食いしばる花見かな』え? なんだって? 『長屋中歯を食いしばる花見かな』よくわからないな。勝つあん、この長屋中はわかるけれど、『歯を食いしばる』ってのはどういうわけだい?」
「なーにね、べつにむずかしいこたあねえんです。あっしのうそいつわりのねえ気持ちをよんだまでで……つまりね、どっちをみても本物を飲んだり、食ったりしてるでしょ。ところが、こっちは、がぶがぶのばりばりだ。ああ、じつに情けねえと、おもわずばりばりっと歯を食いしばったという……」
「おいおい、やめとくれよ。どうもこまった人たちだ。気分なおしに、今月の月番、景気よく酔っぱらっとくれ」
「えっ、酔うんですか? 酔わねえふりってのはできますけど、酔ったふりなんてやったこたあねえから……」
「そこをひとつまげて酔っておくれよ。ねえ、そうだろう。べつに恩にきせるわけじゃねえが、おまえさんの面倒《めんどう》はずいぶんみてるはずだよ」
「へー、大家さんにそういわれちゃあ、あっしゃあ一言もありません。一|宿《しゆく》一|飯《ぱん》の義理にからまれて、あっしゃあ酔わせていただきます」
「やくざみてえなせりふだなあ……まあ、ごくろうだが、ひとつまあ、いせいよく酔っぱらって、べらんめえかなんかいっとくれ」
「へい、それじゃあ、大家さん」
「なんだい?」
「さて、つきましては、あたし酔いました。あらためて、べらんめえ」
「なんだい、そりゃあ……そんな酔っぱらいがあるもんか……じゃあ、来月の月番、おまえさんも幹事だろ、うまく酔っとくれ」
「いやなときに幹事になったもんだ。かんじがわりいってのはこのことをいうんだな」
「ぶつぶついってねえで、はやく酔いな」
「へえ、そりゃあ、幹事の役目でござんすから、酔えといえば酔いますけど、なにぶん手ぶらじゃ酔いにくいや……その湯飲み茶わんを貸してくれ……さあ酔ったぞ、ああ酔ったとも……」
「その調子、その調子」
「おりゃあ酒飲んで酔ったんだぞ。番茶飲んで酔ったとおもうか。ふざけるねえ」
「そんなこと、ことわらねえでもいい」
「ことわらなくっちゃ気ちげえとまちがわれちゃうからなあ……さあ、酔っぱらった。酔っぱらった。すっかりいい気持ちになってきたぞ。こうなりゃあ地所《じしよ》でもなんでも売りとばしちまわあ」
「いせいがいいぞ……しかし、地所なんぞあるのかい?」
「箱庭がひとつ……」
「しまらねえなあ、いうことが……」
「さあ、酔った。貧乏人だ、貧乏人だってばかにするない、借りたもんなんざあどんどん利息をつけてけえしてやらあ」
「いいぞ、いいぞ」
「ほんとだぞ、大家がなんだ、店賃なんか払ってやらねえぞ」
「わりい酒だなあ……どうだ、酒はいいだろう、ええ? 口あたりはどうだ? 甘口か、辛口か?」
「渋口だなあ」
「渋口なんて酒があるもんか……どうだ、酒がいいから、いくら飲んでもあたまにこないだろ?」
「あたまにはこねえけれど、腹がだぶつくなあ」
「どうだ、酔った心持ちは?」
「酔った心持ち? ……そうですねえ、去年の秋に井戸へおっこったときとそっくりです」
「変な心持ちだなあ。でも、おめえは感心だ。よく酔ってくれた。長屋の連中の手本だなあ。おいおい、どんどんお酌してやってくれ」
「さあ、こうなりゃあ、おれだけがひでえ目にあやあいいんだ。さあ、みんなのぶんもまとめて酔うからついでくれ。おっとっと……ずいふんこぼしやがったなあ。もっとも、こぼしたって惜しいような酒じゃねえけど……さあ、飲むぞ、あっ、大家さん、大家さん」
「なんだ?」
「ちかぢかのうちに長屋にいいことがありますよ、きっと……」
「そんなことがわかるかい?」
「わかりますとも……」
「どうして?」
「茶わんのなかをみてごらんなさい。酒柱が立ってます」
三人旅
ただいまでは、新幹線などできまして、旅行もかんたんになりましたが、むかしの旅は、てくてくあるいたのですからたいへんでした。しかし、風流な点においては、むかしの旅のほうがまさっていたようで……とりわけ春の旅は結構でございまして、山は霞《かすみ》につつまれ、麦畑は青々としているし、菜の花は黄金色にかがやき、どこかでひばりの声がしているという、のどかなたんぼ道を気のあった者同士の遊山旅というのは、まことにおもしろいものでございます。
「どうしたんだい? おい、八公、しっかりしろよ。だいぶおそいじゃねえか、はやくあるかねえかい」
「ああ」
「情けねえ声だすなよ。しゃんとあるけ」
「だめだよ」
「どうした?」
「腹が……」
「いてえのか?」
「いや」
「張るのか?」
「いや」
「どうしたんだ?」
「いや」
「しっかりしろい! はっきりいえよ」
「腹がへった! あー、腹がへった!」
「おい、もうわかった。わかったよ。はっきりいやあがったな。いい若《わけ》え者がなんでえ」
「若えから腹もへらあ……ああ、なにか食いてえ」
「なにか食いてえって、おめえ、けさ宿をでてから、もう二度も食ったじゃねえか。おめえってやつあ、どういうもんなんだ、『あすこの店に、かわいい娘《こ》がいるから、だんごを食おう。あすこに渋皮のむけた女がいるから一ペえやっていこう』って、女さえみりゃあ、飲み食いしてるじゃねえか」
「そうなんだ。おれは、女をみると腹のへる生まれつきでなあ、とくに、十六、七から二十七、八までのいい女をみると、むやみにへってくらあ」
「助平な腹だなあ……あれ、半ちゃん、おめえは、へっぴり腰であるいてるけど、どうしたんだい?」
「いやあ、辰つあんの前だが、めんぼくねえ、足へ豆をでかしちまって……」
「豆ができた? ふーん、そうかい。これが食える豆だとな、八公に食わせて、八公の腹のたしになるし、半ちゃんの足もなおるしと、両方めでてえんだが、どうもしかたのねえもんだ」
「なにをのんきなことをいってるんだよ」
「しかしなあ、そうやって、八公が『腹がへった、腹がへった』とふらふらあるく。半ちゃんがびっこをひいているとなると、道中の駕籠屋《かごや》や馬子《まご》が足もとをつけこんで、うるさくってしょうがねえぜ」
「おーい、そこな旅のお人! そこへふらふらゆく人とびっこひいてく人よ!」
「ほーれ、みねえ。さっそく馬子にみこまれた。おらあ知らねえぞ。半ちゃん、おめえ応対しねえ」
「しょうがねえなあ……馬子衆、なにか用か?」
「どうだな、でえぶおつかれのようだが、馬あさしあげますべえか?」
「えっ、馬あさしあげる? おめえ、ずいぶん力があるんだなあ、ひとつさしあげてみてくれ」
「いや、そうでねえ。馬あやんべえかちゅうだな」
「おい、どうする? 馬あくれるとよ。もらうかい?」
「そうよなあ、旅さきで馬なんかもらったって、どうにもあつかいにこまるからなあ……」
「それもそうだ。せっかくだが、馬子さん、おれたちゃあ、これからまだ旅をつづけるんだ。馬なんかもらったってどうにもならねえ」
「またおかしなことをいって……やるではねえよ。馬へ乗っかってくだせえてえことだ。あたまのわりい人たちだ」
「おうおう、あたまがわりいまでいわれりゃあ世話あねえや」
「どうかまあ、乗っかってくだせえまし」
「ああ、乗ってやってもいいんだが、おれたちゃあ三人いるんだぜ。どうだ、馬は三頭いるかい?」
「ああ、おりやすとも……おまけに宿へむかっての帰り馬だ。お安くねがいますべえ」
「なにいやあがる。こちとらあ江戸っ子だ。高《たけ》えの、安いの、金のことをぐずぐずいうんじゃあねえぞ。いいか、だから、そのつもりでまけとけ」
「なんだかわけのわかんねえこたあいわねえもんだ。お江戸のかたかね?」
「そうよ。江戸は神田の生まれだ。道中あかるいんだから、ほんとに高えこといったってだめだぞ」
「そんなにあかるいかね?」
「そうとも……東海道、中仙道、木曾街道と、日のうちに、なんべんもいったりきたりするおあにいさんだ」
「ばかあいわねえもんだ。そんなにはやくいったりきたりできるもんかな」
「ああ、できるとも、双六《すごろく》で……」
「やあ、こりゃあどうもおもしれえことをいうなあ……まあ、しかし、道中あかるいんじゃあ、そんなに高えことをいってもなんめえ。じゃあ、宿場までやみでどうかね?」
「なに?」
「やみだよ」
「やみだ? おう、八公、やみってのを知ってるか?」
「そんなこと知るもんか。おめえが道中あかるいなんていうから、むこうで皮肉にでて、やみだなんてくらくしちまうんじゃねえか」
「そうかい、じゃあ、あかるくしよう……おい、馬子さん、やみだなんて、そりゃあだめだぞ」
「だめかね」
「だめだとも、月夜にまけとけよ」
「月夜? なんだね、その月夜てえのは?」
「月夜に釜をぬくっていうだろ」
「ああ」
「だから、ただだ」
「とんでもねえ。ただなんていかねえだよ」
「そうかい、ただではだめか」
「あたりめえでねえすか……じゃあこうしますべえ。じばということに……」
「あれっ、こんどはじゅばんか……じゅばんじゃ高えぞ」
「高えかね?」
「ああ、高えとも……じゅばんじゃ高えから、ももひきにしろい」
「ももひき? なんだね、そのももひきてえのは?」
「なんだ、ももひきを知らねえのか。ももひきは、お足が二本へえるだろ、だから二百だ」
「おう、二百か、まけますべえ」
「おう、まけるか。やっぱりかけあいは呼吸のもんだ。とんとんとんとすぐにまけたな」
「まけたって、おめえ、馬子の言い値はいくらなんだ?」
「さあ、わからねえが、聞いてみようか……おい、馬子さん、おめえのいうじゅばんてえのはいくらなんだ?」
「じゅばんではねえ、じばだ」
「そうだ。そのじばだ。いくらなんだい、そのじばってえのは?」
「やっぱり二百だ」
「なんだい、まるっきり言い値じゃねえか」
「ああ、じゃあ、言い値にまけたんだ」
「言い値にまけるってやつがあるもんか。まあいいや、乗るから持ってこい……ふーん、馬のつらなんてものは、そばでみると、えらく長《なげ》えもんだなあ。馬の丸顔てえのはねえやなあ」
「あたりめえよ」
「このつらに頬かぶりするとなると、ずいぶん手ぬぐいもいるだろうな」
「つまんねえ心配するねえ」
「しかしなあ、馬のつらってものは、むかしはこんなに長くなかったんだぜ」
「へーえ、そうかい」
「もとは丸顔だった」
「それがどうして長くなっちゃったんだ?」
「だってな、飼葉桶《かいばおけ》てえものは底が深いだろ、だから馬が丸顔じゃあ桶の底のほうまで口がとどかねえ。馬が腹をへらしてかわいそうだってんで、神さまが、飼葉桶の底へ口がとどくように、馬のつらあ長くこしらえなおしたのよ」
「へーえ、すると、飼葉桶がさきにできて、馬のつらあ、あとからできたのか?」
「はははは……こりゃうまくなかった」
「つまんねえしゃれいうねえ」
「さあさあ、乗っかってくだせえやし」
「おう、乗るから、馬をしゃがませてくれ」
「馬がしゃがむやつがあるもんかね」
「不器用《ぶきよう》な馬だ。高くて乗れやしねえ。はしごかけろい」
「なにいうだ。馬へはしごかけて乗るやつがあるもんかね。それへ足かけて乗っかんなせえ。それへ足かけて、ぐっとふんばって、ぐっと……地べたをふんばったってだめだよ。かけた足をふんばるだ。ああ、わからねえ野郎だな。こうなりゃあ、荷鞍《にぐら》の上へほうりあげてやるべえ。そーれ」
「やあ、ちくしょうめ、ほうりあげやがった。荷物じゃあるめえし……やあ、たいへんだ。馬子さん、この馬あ、首がねえぜ」
「なにいってるだ。首のねえ馬なんかあるもんかね。おめえさまあ、うしろ前に乗っかっただ」
「そうだったのか。どうしよう? ええ? 乗りかえろって? めんどうじゃねえか。そうだ。おれが腰をあげてるから、その間に馬あひとまわりさせろい」
「だめなこんだ。乗りかえてくだせえ」
「そうかい……じゃあ、乗りかえるか……やあ、なるほど、乗りかえたら首があった」
「あたりめえだ。首のねえ馬があるもんかね。では、でかけるから、よくつかまってくんなせえやしよ」
「やあ、馬子さん、この馬あうごくぜ」
「なにいってるだ。うごかねえ馬があるもんかね」
「しかしなあ、馬子さん、馬なんてものは、りこうなもんだってなあ」
「そりゃあ、もうりこうさ。自分の乗っけてる客が、りこうか、ばかか、すぐわかるだから……」
「そうかなあ、それじゃあ、もう、おれたち三人のことなんかわかってるだろうな、りこうだって……」
「そんなことはおもうめえよ」
「それじゃあ、ばかだってえのか?」
「なにしろ馬は正直だから……」
「よせやい」
「ははは……はい、はい」
ブウッ!
「あれっ、なんだこいつめ、豆べえ食らって、まあ、屁《へ》べえこいてるだあ、こいつあ」
「あははは、馬子さん、そうおこるなよ。いまのはおれなんだから……」
「あれっ、客人けえ。どうもえけえ屁《へ》えこいたなあ、おめえさまあ、おら、また、馬かとおもっただ。おー、はい、はーい」
ブウッ!
「あれ、またやんなすっただな」
「いまのは馬だい」
「両方でかけあいとは、どうもあきれけえったもんだ。なあ……どう、どう……はい、はい」
「ところで、お客さまがたあ、江戸のかただっておっしゃるが、なんのご商売だね?」
「おめえ、いったいなんだとみる?」
「そうよなあ、ごまの灰でもあるめえね」
「よせやい。そんなふうにみえるか?」
「いや、みえやしねえ。ごまの灰にしちゃあ、いやにぼーっとぬけたつらあしてるだ」
「ふざけたことをいうねえ。こうみえたって役者だ」
「へーえ、お役者かね、役者にしちゃあ、えかく色がまっ黒だの」
「道中したから日に焼けたんだ」
「なんちゅうお役者さまだえ?」
「尾上菊五郎だ」
「はっはははは、よしなせえ。でたらめこかねえもんだ。尾上菊五郎なんてえ役者は、絵双紙でみても、もっと鼻が高えぜ」
「そりゃあ、もとは高かったんだけれど、道中したからすりきれたんだ」
「わらじじゃあんめえし、すりきれるやつがあるもんかね」
「おい、馬子さん、むこうからくるのは、おめえの仲間じゃねえのか、ほーれ、やっぱり馬あひいて、にこにこ笑ってるじゃねえか」
「ああ、そうだ。おう、花之丞よう、もう帰るのか? もっとはたらけやい。おらなんか、つぎの宿まで豆粕《まめかす》つんでの帰りだが、から馬あひっぱって帰るのももってえねえから、豆粕のあとだあ、こんなもんだが、人間のかすを乗っけてきただぞ」
「おいおい、馬子さん、あんまりひでえことをいうなよ。なんだい、その人間のかすってえのは?」
「あはははは、聞えちまったかね、いまのはないしょばなしだ」
「そんなでけえ声のないしょばなしがあるもんか……おい、馬子さん、あとの三頭めの馬あどうしたい? すがたがみえねえぜ」
「ああ、いちばんしめえの馬かね、ありゃあ、びっこ馬だもんで、どうしてもおくれるだ」
「びっこ馬かい……おい、八公、半ちゃんの乗った馬あ、びっこ馬だとよ。みてやれ、みてやれ」
「そうかい。当人がびっこひいてるとおもったら、馬のほうもびっこかい。こりゃあおどろいた。類は友をよぶだな。それにしても、いやにおかしなかっこうでやってくるぜ。ぴょこたん、ぴょこたんと……おーい、半ちゃん、おめえの乗ってる馬はびっこだとよ」
「そうかい。おれもようすがおかしいとおもったよ。むやみとおじぎするから、礼儀正しい馬だとおもったが、べつに礼儀正しいわけじゃあねえんだな。ひでえ馬に乗せやがる。おーい、馬子さん、この馬あ、びっこ馬だってなあ」
「いや、びっこではねえ。おらたちのほうでは、長《なげ》えみじけえちゅうだ」
「それじゃおんなじじゃねえか。おーい、みんなもっとゆっくりやってくれよ。おればっかりおくれてしょうがねえや」
「まあ、いいからゆっくりきなよ。そうやって、ぴょこたん、ぴょこたんくれば、いい腹ごなしになるぜ」
「なにいってやんでえ。腹ごなしにはいいが、おらあ、首がくたびれちまった。これ以上いそげば、首がおっこっちまわあ」
「まあ、いいから、ゆっくりこいよ。なんなら、首をおとすといけねえから、ふろしきにつつんでしょってきねえ」
「かぼちゃじゃあるめえし、ふざけんねえ……しかし、馬子さん、この馬なんか、びっこなくれえだから、おとなしいだろうな?」
「いや、それはしろうとかんげえだ。これで、えかく癇持ちでな、なにかものにたまげたり、腹あ立ったりすると、むやみやたらとかけだすんでいけねえ」
「そりゃあ、あぶねえなあ。まさか、客を乗せてるときに、そんなこたああるめえな」
「それがなかなかそうでねえ。この前も、客を乗っけてつぎの宿場までいったとき、あんまりでけえ屁をたれやがったんで、おらがしかりつけたら、それが気にくわなかったんだな。ぷーっとふくれっつらあしたかとおもったら、いきなりかけだした」
「それでどうした?」
「乗ってた客は、まっ青な顔をして、『たすけてくれ!』と、声をかぎりによばったが、こっちは馬といっしょにかけつづけるほどの足はねえ。しかたがねえから、運を天にまかせて、手綱をはなしてみてただ」
「ずいぶん薄情じゃねえか。それでどうなった?」
「いや、馬ははしる、はしる。野越え、山越え、風を切ってつっぱしる。いや、そのいさましいこと、みている者一同やんや、やんやの大かっさい」
「おいおい、じょうだんじゃねえや。で、結局どうなったんだ?」
「ああ、日暮れどきに、馬は無事にもどってきただ」
「で、客は?」
「さあ、どうなったかねえ?」
「どうなったかねえって、それからのちも消息はわかんねえのか?」
「ああ、わかんねえ。しかし、たよりのねえのはいいたよりっていうから、ことによったら、唐《から》、天竺《てんじく》へでもすっとんだかね」
「とんでもねえ馬に乗っちまったな……しかし、そんなことは、しょっちゅうあるわけではあるめえ」
「まあ、そりゃあそうだ。せいぜい日にいっぺんだ」
「えっ、日にいっぺん! すると、きょうは?」
「きょうかね、きょうはまだだから、そろそろはじまるかな」
「おいおい、おちついてちゃいけねえ。おろしてくれ。おろしてくれ」
「あはははは、本気にして青くなったな。いまのはじょうだんだ。なんでこの馬がかけまわれるもんかね。びっこで、おまけに目っかちだ」
「なんだい、ひでえ馬だなあ、山本勘助みてえな馬だ……でもまあ、これでやっと安心したぜ」
日の暮れがた、馬からおりた三人が、宿場へはいってまいりますと、両側に客ひき女がならんで、さかんに客をよびこんでおります。
「おい、ぶらぶらあるこうじゃねえか」
「そこがもう宿場《しゆくば》の入り口だ。しっかりあるけやい」
「おう、ゆうべ泊まった宿屋の亭主がいうには、『この宿《しゆく》の鶴屋善兵衛という宿屋は、わたしどもの親類だから、わたしどもから聞いてきたといえば、ていねいにしてくれます』と教えてくれたなあ」
「そうそう」
「だから、今夜は、その鶴屋善兵衛へ泊まろうじゃねえか」
「だが、おめえ、鶴屋善兵衛てなあ、どこのうちだかわからねえな」
「聞きゃあいいじゃねえか。鶴屋善兵衛という旅籠屋《はたごや》はどちらさまでございましょうって」
「だけどもな、それがほかのうちで聞くんならいいが、もしも鶴屋善兵衛のうちへいって、鶴屋善兵衛はどちらさまですと聞くなあおかしいじゃねえか。江戸っ子三人が、鶴屋へいって、鶴屋を聞くなあ変じゃねえか。あんな大きな看板がでているのに、さては江戸っ子は字が読めねえもんだから、鶴屋へきて鶴屋を聞いたなんていわれるとおかしいじゃねえか」
「それじゃあ、看板をみていこうじゃねえか」
「ところが、あいにくおれが有筆で読めねえんだ」
「なにをいってやがるんだ。有筆てえなあ読めるんじゃねえか。それをいうなら無筆だろう」
「まあ、その見当だね……どうでえ、辰つあんは、鶴屋善兵衛という字が読めるかい?」
「さあ、おれが知ってる字数のうちに、うまく鶴屋善兵衛という字があればいいがなあ」
「どのくらい字数を知ってるんだい?」
「四十八知ってるんだ」
「よせやい、いろはじゃねえか……こまったなあ、どういうことにしよう」
「おっと、うめえことがあるよ。こうするんだ。なんでも宿場へへえったらな、鶴屋善兵衛のはなしをしてあるこうじゃねえか。大きな声をして、鶴屋善兵衛、鶴屋善兵衛というんだ。そうすると、鶴屋の宿ひきがでてきて、『ただいまおたずねの鶴屋善兵衛は、てまえどもでございます。お泊まりさまをねがいたいもんで……』とくるから、そこのうちへ泊まりこんじまおうじゃねえか」
「なるほど、こいつあうめえや。そういうことにしよう。さあ、そろそろ宿場へへえった。はなしをはじめるかな」
「よかろう……なあおい……」
「ええ」
「この前、この宿場へ泊まったときには、鶴屋善兵衛のうちへ厄介になったな」
「そうそう、いい宿屋だったな」
「鶴屋善兵衛てえなあ気にいったもんだから、四、五日|逗留《とうりゆう》したな」
「そうよ、あのときは勘定をはらわなかった」
「あれ、そんなはなしをしちゃあいけねえやな……なにしろ鶴屋善兵衛へ泊まろうよ。もてなしのいいうちだからな」
「そうとも、この前泊まったときには、冬だったが、ひどくあったかくして寝かしてくれたなあ」
「ちげえねえ、夜なかに下から火事がでてな……」
「よせよ、なにしろ鶴屋善兵衛へ泊まろうじゃねえか」
「おいおい、もういくらそんな大きな声をしてもだめだい。宿場は通り越しておしめえになっちまった」
「おやおや、それじゃあしかたがねえからひっかえそうよ。もういっぺんまわろうじゃねえか」
「だって、おかしいやなおめえ、どうにかして鶴屋善兵衛がでてくるような趣向をかんがえようじゃねえか」
「どうするんだい?」
「しかたがねえから、なれあい喧嘩《けんか》をするんだな。『おれが鶴屋善兵衛へ泊まろうってのに、てめえがいやだとぬかしゃがって、おらあ、どうしても鶴屋善兵衛へ泊まるんだ』って大きな声をするんだ。せめえところだ。すぐにひとがあつまってくらあ、すると、鶴屋の若い者がでてきて、『ただいまのおことばの鶴屋善兵衛は、てまえどもでございます』ときたら、『それじゃあ、おめえんとこへ厄介になろう』ということにしたらいいじゃねえか」
「だが、そのおしまいのとこがおかしいじゃねえか」
「なぜ?」
「鶴屋へ泊まるのはいいけれども、喧嘩のおさまりがつかねえじゃねえか」
「それもそうだな……それじゃこうしろい。だれでもかまわねえから、ひとりが病人になれ。宿場のまんなかへいったらな、往来へたおれちまうんだ」
「うん」
「ふたりで介抱していらあ、いなかの人は親切だ。おおぜいの人がたかってきて、水をやるとか、薬をやるとかいってくれらあ。そのときにいうんだ。『じつは、鶴屋善兵衛へ泊まろうとおもっておりますが、つれの男がこんなことになっちまったんでよわります』『それじゃあ、みんな手を貸して鶴屋善兵衛のうちへかつぎこんでやれ』とこうくらあ、そうすりゃあ、ひとりでに鶴屋善兵衛へいけちまうじゃねえか」
「なるほどうめえや……ところで、だれが病人になるんだい?」
「まず、八公、おめえの顔なんざあ、病人づらだね」
「よせよ、おかしなこというねえ」
「いやあ、やっぱりおめえ病人になれよ」
「そうかい、それじゃあしかたがねえ。おれがなろう……このへんでたおれようか」
「はやくたおれろい」
「いけねえよ」
「なぜ?」
「前に生薬《きぐすり》屋があらあ、あの生薬屋の番頭がとんできて、気つけにこれを飲みなさいなんて、熊の胆《い》かなにか飲まされちゃあたまらねえからな。もうすこしさきに酒屋があったから、あすこの前で、おらあたおれるよ」
「どうして?」
「おめえたちふたりでそういってくんねえな、『この男には、薬を飲ませるよりも冷酒の二合ばかり飲ませると、すぐになおってしまいます』って……」
「じょうだんじゃねえ。そんな病人があるもんか。さあ、ここらあたりがいいぜ、はやくたおれろい」
「あいよ……うーん、うーん」
「うめえな……どうした、どうした?」
「どうした、どうした?」
「うーん、うーん」
「しっかりしろい、しっかりしろい。おれたちふたりがついているんだ。しっかりしろよ」
「そうかい、じゃあ、しっかりした」
「しっかりしちゃいけねえよ」
「じゃあ、たおれた……うーん、うーん」
「くるしいか?」
「うーん、うーん、うーん」
「なあおい、なにしろよわっちまったな。こうやって病人になってひっくりかえっちまったんだよ。はやくその鶴屋善兵衛へかつぎこもうじゃねえか」
「へい、鶴屋善兵衛はてまえどもでございますが……」
「はやくでてこい、この野郎め。てめえのでようがおそいばっかりに、いろいろなまねをしたじゃねえか。まったく世話を焼かせやがらあ。さあ、おめえんとこへ厄介になるよ」
「はい、ありがとうございます。どうぞこちらへねがいます……これお花や、お客さんだよ、はやくお洗足《すすぎ》を持ってこねえか……お客さまだってのに……」
「おい、みろや、ふしぎな女がでてきたぜ。ねえや、すまねえな、わらじをぬがしてもらっちゃあ」
「ひゃあ、どういたしまして……あのう、お客さま、ちょっくらうかがいますがの……」
「なんだい?」
「あの、えかくわらじがよごれておりますがの、どういたしますべえ」
「なにいってやんでえ。人をみてものをいえ。こちとらあ江戸っ子だ。一日はいたわらじを二度とはくんじゃねえやい。ぱっぱとうっちゃっちまえ」
「かしこめえりました……それからはあ、お脚絆《きやはん》もえかくよごれておりますがの」
「なにをいってやんでえ、こちとら江戸っ子だ。一日はいた脚絆を二度とはくんじゃねえやい。ぱっぱとはたいてしまっとけ」
「よせやい、しまらねえたんかを切るな」
「さあどうぞ、こちらのお座敷へねがいます」
「なるほど、こいつあいい座敷だ。今夜はこりゃあゆっくり寝られるぜ。ゆうべの旅籠屋はおどろいたな。夜なかに車井戸の音がきいきいしゃあがるんで寝られなかった」
「お客さまにちょっくらうかがいますがの」
「なんだい、ねえや、おめえ、たいそうようすがいいな」
「まあ、いやだね、そんなことをいわれると、おっぱずかしい」
「おお、おっぱずかしいとよ。このねえやが……」
「なかなかようすのいいねえやだな。おめえいくつだい?」
「わたしの年かあね?」
「そうだよ」
「わたしあ、じょうごだよ」
「いくつ?」
「じょうごだってば……」
「なんだい、そのじょうごてえのは?」
「あんれまあ、わからねえふとだね。じょうに、じょうさん、じょうし、じょうご」
「ああなるほど、十五てえのか……ここのうちにゃあ、ねえさんたちは何人いるんだい?」
「三ねんおりますよ」
「三ねんおります? ……年期を聞いてるんじゃねえや、いくたりいるてんだい?」
「わからねえふとだね、ふとり、ふたり、さんねん……」
「ああ三人いるてえのか。こいつあむずかしいや……で、ねえちゃん。なんの用だったい?」
「ちょっくらうかがいますがの」
「うん」
「ほかのことでもねえ。お風呂のかげんもようがすし、おまんまのしたくもできておりますが、お風呂をさきにされますか、おまんまをさきにされますか、ちょっくらうかがいます」
「おう、どうするい? 湯のかげんもめしのしたくもいいてんだが……」
「ひとっ風呂あびてから、膳につきてえなあ」
「それじゃあそうしようじゃねえか」
「おらあ、めしを食ってから、あとで湯にへえりてえな」
「それじゃあ、はなしがまとまらねえや。おい、おめえはどうする?」
「おらあ、からだがよごれてちゃあ、めしを食ったってうまくはねえやな。ちょいとひとっ風呂とびこんで、それから膳にむかって一ペえやりてえやな」
「それじゃあ、てめえもそうしろい」
「ごめんこうむるね、おらあ腹がすいてるんだから、めしを食って、それから湯にへえってあったまったところで床へへえりてえや」
「おいねえや、聞いての通りだ。ひとりのいうには、湯にへえってからめしを食おうといい、また、ひとりのいうには、めしを食ってから湯にへえるてえんだ。おたげえにこういいあっているんだ。江戸っ子の顔をつぶしたくもねえや。ここは無理かも知れねえが、湯殿へ膳をはこんでやってくんねえか。それで、湯にへえったかとおもうとめしを食い、めしを食っちゃあ湯にへえる。湯めしというやつをやってみてえんだ。たのむぜ」
「はっはははは、そんなばかげたまねはできましねえ」
「おう、できねえとよ」
「ふーん、いなかは不自由だな」
「どこへいったってできるもんか。まあ、なにしろねえや、こうしてくんな。ここへ膳を持ってきておくれ……それじゃあ、おめえさきにひとっ風呂とびこんでこねえか」
「じゃあ、ちょいといってくるか」
「おい、辰つあん、おめえ矢立をだしな。あいつが湯にへえっているうちに日記をつけちまおうじゃねえか」
「よかろう、さっきのびっこ馬のことなんざあ、江戸へ帰ってからいいはなしの種だね」
「そうとも、あんなことは、江戸にいちゃあみたくも聞きたくもねえからなあ……おや、もう湯からあがってきたのか、どうでえ風呂のかげんは?」
「結構な湯だぜ」
「そうかい」
「うん、ゆうべの宿屋の湯なんぞは、膝っこぶしかなかったろう」
「おどろいたな。あの湯のすくねえのじゃ」
「それがおめえ、今夜の風呂は肩まで湯があるぜ」
「そいつあ豪勢だな」
「だが、へえりかたがむずかしいや」
「どうするんだ?」
「さかさまにへえるんだ」
三人とも風呂からあがりますと、もう夕食のしたくがすっかりととのっているという寸法で……
「やあ、ありがてえな、すっかりしたくができてるな。おまけにねえさんがつきっきりだ。おう、お酌かい、すまねえなあ……さあ、みんな順についでやってくれ……うん、なかなかいい酒だ。それに、ねえさん、おめえなかなかかわいいぜ、こう、ぽちゃぽちゃとして……なに? おせじじゃねえよ……どうだい、一ぱいやんねえか、さあ、このさかずきでよ」
「だめだ」
「そうかい、飲めねえのかい?」
「いんや、さかずきではだめだ」
「さかずきではだめたって……これよりちいせえものはねえぜ」
「そうでねえ、おらあ、いつもどんぶりでやるだ」
「うわばみだな、そりゃあ、うっかりすすめられねえや……ときに、この土地にゃあ、よぶと泊まりにくるような女なんかいるかい?」
「ああ、おしっくらのことかね」
「おしっくら? ……ふーん、ここではおしっくらっていうのかい……土地によって、いろいろいうな。だるま、草もち、提《さ》げ重《じゆう》なんて……ところで、どうだい、八公も半ちゃんもそのおしっくらをよぶかい?」
「ああ、ねがいますよ」
「おや、おつに気どりやがったな」
「半ちゃん、おめえはどうだい?」
「もちりんでげす」
「あれっ、もちりんときたな。じゃあ、きまった。ねえさん、ほどのいいおしっくらを三人たのむぜ。よんでくれよ」
「あれまあ、よばねえでもいいだよ」
「いやにさからうじゃねえか。よべといったらよべよ」
「よばなくても、おまえさまの前にいるよ」
「あれっ、おめえのことか、こりゃあおどろいた。売りこんでやがる。そうかい、じゃあ、おめえと、ああ、足をあらってくれたねえさんと……それから、もうひとりはどうするんだい? え? そとからよぶ? ……ふーん、そうかい、では、よろしくたのまあ」
「では、さっそくもうひとりよんでまいりますから……」
「たのむぜ……さあさあ、みんな、はやいとこめしを食っちまいねえ。いまのねえさんが下へいって、もうひとりよんでくるってえから、その間にめしをすましとこう」
「……あのう……お客さま……」
「おう、ねえさんかい……なんだい? え? 耳を貸せって? なんの用だ? え? もうひとりの女は……ふん、ふん、うふふふ……そうかい、それをここへつれてきちゃあまずいや。それで、部屋はどういうことになるんだい? うん、うん、ふたりはこの二階で……ひとりは下かい……よし、それじゃあ、いまひとりの女を下のほうへやっといてくれ。三人のうちで、だれが下へいくか、それをきめて、そいつをやるから……さあてと……ここで、ものは相談なんだが、八公も半ちゃんも女の割りふりを、ひとつこのおれにまかしてくんねえか」
「そりゃあまかせてもいいが、いったいどういうことになるんだい?」
「じつはな、下にきた女てえのは、もと江戸の柳橋で芸者にでていた女なんだが、男ができて、そいつと手に手をとってこの土地へながれてきた。ところが、おさだまりで、男が長のわずらいで、あげくの果てに死んじまった。ために、女が食いつなぎのために、ときどきかせぎにでるというやつだ」
「なあるほど」
「そこでだ。この三人のうち、だれが、その柳橋のほうにまわるかだが……まあまあ、待ってくれ。ここだ。おれに割りふりをさせてくれといったのは……どうだい、半ちゃん、そういっちゃあくやしいんだが、こうみわたしたところ、やっぱりおめえがいちばん江戸前の男っぷりだ」
「ふん、ふん、ふーん」
「おいおい、そうそっくりけえるなよ。ひっくりけえるじゃねえか。そこで、おめえに柳橋を割りあてるんだが……八公、おめえはだまってろ。おめえだって、おすすぎのねえさんというものを割りあてたんだ。ありゃあいいぜ、尻がこうひき臼みてえにでっかくって……おめえの太棹《ふとざお》にはもってこいというもんだ」
「しかし、なにもわざわざ半ちゃんにだけいい目をみせることもあるめえ」
「おい、八公、いま、辰つあんがいったろう、こうみわたしたところ、やっぱりこの半ちゃんがいちばん江戸前の男っぷりだてえんだ。してみりゃあ、なんといっても柳橋のれきには、おれというのが役どころということにならあ」
「そうかなあ」
「そうだよ。やっぱり辰つあんは、人をみる目があらあ」
「さあさあ、これで女の割りふりはついた。半ちゃん、しっかりやってこいよ。しかし、あしたになって、あんまりいいから居続《いつづ》けだなんてえのはやめてくれよ。やい、色男、しゃんとしろい」
「うふふふ、よせよ。おらあ、女の子に泣きつかれるのは毎度のことだ。だから、わかれぎわの呼吸はよく心得ているよ……じゃあ、みんなおやすみ……」
これで、三人は、それぞれの部屋へひきあげました。
で、烏カアーで夜があけて……
「おい、どうだったい、八公……おめえのところのひき臼は?」
「うん、うん、もう腰がまわらねえくれえだ……おてんとさまは黄色くみえらあ」
「あれっ、朝っからもろにのろけてやがらあ。首尾は上々だな……そいつあよかった……おれのほうも、あのぽちゃぽちゃのやつ、とんだもち肌でよ、おまけにきんちゃくときてらあ……けさは、おたげえに、朝めしにゃあ生たまごの三つ四つも食わねえじゃあ命がもたねえや……あれっ、半ちゃん、どうしたい? 下からもうろうとしてあがってきたな。どうだったい? 女の子のぐあいは? 聞かせてくれよ。おい、半ちゃん、色男」
「なにいってやんでえ!」
「おお、ばかにおこってるな」
「あたりめえじゃねえか。どうもはなっからおかしいとおもったんだ。人のことをいやにおだてやがるから……下の部屋へ案内されていってみりゃあ、あかりもついていねえ真の闇だ。しかたがねえから、こう手さぐりでいくと、ふとんがしいてあって、女が寝ているようすだ」
「色っぽいな」
「だまってろい……ふとんをまくってなかへへえって、おれが女にいくらはなしかけてもなんともいわねえ。しかたがねえから、こうすそをまくって……おれだって、おめえたち同様、このところいく日か女ひでりだ。たまらねえや……ぐっと乗っかるてえと、さっそくひと仕事おえようってんだが、なにげなく女をだきよせて、そのあたまに手がさわっておどろいた。つるっとしてるんだ」
「なんだい、そりゃあ」
「おれの敵娼《あいかた》が、からやかんの丸坊主よ」
「ふーん」
「としを聞いたら八十三だって……」
「そいつあ大|年増《としま》だ」
「ふざけるない、年増すぎらい」
「でも、年増は情《じよう》が深くって、色っぽかったろう」
「じょうだんじゃねえやい。いくらなんでも、八十三のばばあに手がだせるかどうか、かんがえてみろい」
「でも、この道ばかりはべつだっていうぜ……あれっ、半ちゃん、おめえのうしろに妙な坊さんが立ってるぜ」
「え? 坊さんが? ああ、これだ、これだ」
「なるほど、こりゃあ大年増だ。顔のしわが、たてよこによっていらあ……羽二重《はぶたえ》のような手ざわりの肌というのはあるが、これは、ちりめん肌、ちぢみ肌、しぼり肌てえところかな。まあ、半ちゃん、あきらめなよ。世のなかはわりいことばかりはありゃあしねえ。きっといいこともあるよ。ものごと、なんでもがまんがたいせつだ。さあ、八公、おめえも敵娼にやるものをやっちまいな。おれもそうするから……おう、ねえさん、ゆうべはたいそう厄介をかけたな。すまねえ。また帰り道によるから、待っててくれよ。こりゃあすくねえけど、ゆうべの礼だ。女は髪を大事にするもんだ。まあ、油でも買ってつけてくんねえ」
「まあ、こんなにたんとちょうだいしまして……ありがとうごぜえます」
「さあ、八公、おめえもはやくその女にやんなよ」
「ああ、やるとも……ねえさん、どうもゆうべはすまなかったな……おめえのその尻はわすれられねえぜ……帰りにまたよるからな……女は髪を大事にするもんだ。油でも買ってつけてくんねえ」
「ありがとうごぜえます」
「さあ、半ちゃん、おめえもいくらかやったらどうだい?」
「ふざけんねえ……だれがやるもんか」
「だって、おめえだって、その人に厄介かけたんだろう?」
「だれが……おめえ……こんな者に厄介なんか……はなしはあべこべだ。おれが夜なかに三度も小便をさせにいったんだ」
「そうかい。そりゃあいい功徳《くどく》にならあ。しかし、なにごともまわりあわせだ。いくらかやれよ」
「やるよ。あーあ、こんなばかなはなしはありゃあしねえ。おい、おばあさん! これだ、かなつんぼなんだ。これでゆうべもあやうくひっかかるところだったんだ。ふとんにおれがはいって、いくらくどきかけてもなんにもいわねえはずだ。おれはまた、柳橋のれきてえものが、はずかしがって、もじもじしているのかと、かんちがいしてしまったんだ。おーい、おばあさーん!」
「はーい」
「やっと聞こえやがった。ゆうべはいろいろ厄介を……いや、厄介をかけたのは、おめえのほうだけれどよ。まあ、これをおめえにやるから、女は髪を大事にするもんだ。油でも買って、髪へ……つけろったって毛がねえんだな。じゃあ、まあ、油でも買って、お灯明をあげてくんねえ」
厩火事《うまやかじ》
ただいまでは、女のかたは美容院へおいでになりますが、むかしは、髪結《かみゆ》いさんというものが、ほうぼうのお宅をまわって髪を結ってあるいたものでございます。
これがたいへんにいい収入になったんだそうで……おかみさんがこうおかせぎになって、ご亭主もおかせぎになればたいへんによろしいのですが、なかなかそううまくいかないもので、ご亭主はあそんでばかりいらっしゃるから夫婦喧嘩がたえません。
「旦那、いらっしゃいますか?」
「おや、おさきさんじゃないか。また夫婦喧嘩だな」
「そうなんでございますよ」
「そうなんでございますよじゃないよ。おまえのとこみたいに喧嘩ばかりしてるうちはないねえ。そりゃあ、たしかにあたしは仲人《なこうど》はしたよ。けどね、こうたえず喧嘩をしちゃあ、そのたびにあれこれいってこられちゃあとてもたまらないじゃないか。どうしたんだい、きょうの喧嘩は?」
「けさのおまんまなんです」
「おまんま? おまんまがどうしたい?」
「いえね、あたしは鮭《しやけ》が好きだから、新鮭が塩が甘くってうまいから、鮭を焼いて食べようというと、うちの人は、やつがしらを煮てくれというんです。それからねえ、『やつがしらを、これからゆでたり、煮たりするのは手がかかってしょうがない。おまえさんは、うちであそんでんだけど、あたしは、これから商売にでるんだから、それは晩にしておくれ』とこういったんです。するとおこっちまって、『てめえは、亭主と食いものがちがうから、りょうけんまでちがうんだ。てめえは、なまぐさものが好きだから、いやに気がつよくって亭主をばかにしやがる。この魚河岸《うおがし》あまめ』っていうんでしょ、あたしもくやしいから、『なんだ、この大根河岸野郎』といってやったんです」
「つまらねえ喧嘩だなあ」
「それから、まだ、つづきがあるんです」
「まだあるのかい……」
「仕事にいこうとおもっておもてへでたんですよ。すると、旦那もご存知でしょ? あたしの友だちのおかっつあん、あの人が、指を怪我して、当分仕事にまわれないっていうんです。それで、あの人にたのまれて、あの人のお得意を二軒ばかりまわったんですよ」
「うん、そりゃあ、おたがいさまだからな。また、おまえがかわってもらうこともあるだろう」
「そうでしょ……それでね、二軒めの伊勢屋さんてえお宅へうかがったんです。ところが、そこの娘さんの毛が、くせっ毛でわるい毛ったらありゃあしないんですよ。おまけに、ここがでてるとか、ここがひっこんでるとか、もううるさいったらありゃしない。でも、どうにか結《ゆ》っちまって、いつもよりすこしおそくなって、かれこれ七時ごろにうちへ帰ったんです。そしたら、うちの人ったら、なにが気にいらないか知らないけど、まっ青な顔でおこってて、『どこをあそんであるいてやがるんだ』と、いきなりけんつくを食わせるんでしょ。あたしがあそんであるってるわけはないじゃありませんか」
「おいおい、おれに叱言《こごと》をいうなよ」
「あんまりくやしいから、『なにいってるんだい、だれのおかげで昼間っからそうやってあそんでいられるんだ』といってやったんですよ」
「おいおい、どうでもいいけど聞き苦しいね。おまえさん、それがいけないんだよ。すこうしばかりかせぐのを鼻へかけて……」
「ええ、まあ……うちの人だって、男だから負けてやしませんからね。『なにをなまいきなことをいってやがんだ、このおかめめっ』ていやがるから、あたしも『このひょっとこめっ』って、そういってやったんですよ。そしたら、むこうが『般若《はんにや》めっ』てんでしょ、それから、あたしが『この外道《げどう》めっ』って……」
「おいおい、こんどは面づくしかい。おまえさんとこは、どうしてそういうおかしな喧嘩するんだい? まあ、そんなことはどうでもいいけど、おまえさんは、きょうはどういう気でやってきたんだよ」
「ええ、もう、きょうというきょうは、もう愛想がつき果てましたから、旦那には、仲人《なこうど》までしていただいて申しわけないんですけど、あたしはわかれさせていただこうとおもいまして……」
「ああそうかい。いいだろ、いいだろ、わかれたほうがいいや。まあ、本来からいえば、おまえさんの亭主はあたしが世話したんだから、かばわなけりゃならないんだ。でもねえ、かばえやしない。というのは、おまえさんの亭主についちゃあ、あたしゃ気にいらないことがあるんだ。つい三、四日前だった。近所に用事があったんで、おまえのうちへよってみた。そのとき、そこへでていたお膳の上をみて、あたしが気にいらない。刺身が一人前のっていた。こりゃあ、まあいいとして、その横に酒が一本のってるじゃないか。これがあたしの気にいらない。そうだろう? 女房のおまえさんが、油だらけになってかせぎまわってる留守に、いくら亭主だからって、まっ昼間から酒を飲んでるって法はあるまい。そりゃあ、飲むなじゃないよ。でも、どうせ飲むんなら、おまえが帰ってきてから、いっしょに飲んだらどうなんだい。自分はあそんでて、女房がはたらいてるんだから、それくらいの心づかいをするのが夫婦ってものだ。それができない亭主なら、もう縁がないんだよ。わかれたほうがいい。遠慮なくわかれなさい」
「そういえば、まあそうですけど……なにも、うちの人が、お刺身を百人前もあつらえて長屋じゅうにくばったわけじゃなし、二升も三升もお酒飲んでひっくりかえってたわけじゃなし……お酒の一合や刺身の一人前やってたって、なにもそんなにおっしゃらなくってもいいじゃありませんか」
「おいおい、なにいってるんだい? おまえさんが、きょうは愛想がつき果ててわかれたいというから、あたしがいって聞かせたんじゃないか。いったいどうする気なんだい?」
「どうするって、旦那、どうするんです?」
「それをあたしが聞いてるんじゃないか」
「ええ、そりゃあ、きょうお宅へうかがうについちゃあ、もうわかれようとおもってのことなんですが、やっぱりおいそれとわかれられませんねえ。ですけど、あたしゃ、あの人より七つも年上なんですから、いろいろと心配になってきて……もしも、あたしがしわだらけのおばあさんになって、もうどうにもこうにもからだもきかなくなってから、あの人が若い女をこしらえたりしたらくやしいじゃありませんか。そのとき、食いついてやろうとしても、歯なんかぬけちまって土手ばかり……」
「おいおい、よくしゃべるねえ。あたしがひとことしゃべるうちに、おまえさんは、二十ことも三十こともしゃべるんだからおどろくねえ。それじゃあ喧嘩になるはずだよ」
「けどね、あんないい亭主はどこをさがしたっていやあしまい、とおもうくらいにやさしいときもあるんですよ」
「こんどはのろけかい。なにいってんだい、おまえさんは……」
「そうかとおもうと、きょうみたいににくらしいこともあるんですよ。もうあたしゃあ、あのひとのりょうけんがわからないからじれったくって……」
「まあ、そうじれったがったってこまるよ。あの男のりょうけんがわからないっていうけど、おまえさん、もう八年もいっしょにいるんだろ、そのおまえさんにわからないのに、あたしにあの男のりょうけんがわかるはずはないじゃないか。しかし、まあ、そうやっておまえさんがいつまでくよくよしてるのも気の毒だから、ひとつあの男の心をためしてごらんよ。それについておもしろいはなしがあるんだが、むかし、おとなりの唐《もろこし》の国に孔子という学者がいた」
「へえー、幸四郎の弟子ですか?」
「役者じゃない。学者だよ」
「学者っていいますと、どんなもんです?」
「こまったひとだね、学者もわからないなんて……いまでいえば、まあ、文学博士とでもいうような、たいそう学問のあるりっぱなおかただ。このかたが、お役所へ馬でおかよいになっていた。二頭の馬を持っていらしったんだが、とくに白馬《しろうま》のほうをお愛しになった」
「へーえ、そうですかねえ。うちのひともあれが好きなんですよ。冬はあったまっていいなんていって……」
「おいおい、白馬たって、どぶろくのことじゃないよ。孔子さまのお乗りになった馬のことだよ」
「ああそうですか。それがどうしました?」
「ある日、めずらしく乗りかえの黒馬《あお》に乗っておでかけになった……わからないといけないからいっとくけど、黒い馬を黒馬《あお》てえんだよ。いいかい……ところが、そのお留守中に、お厩《うまや》から火事がでた。ふだん孔子さまが、ご家来におっしゃるには、『この白馬は、わたしの大事な馬だから、どうかとくにたいせつにとりあつかってくれ』とのことなので、ご家来衆は心配して、ご愛馬の白馬に怪我でもあってはたいへんだと、なんとかしてこの馬をひきだそうとしたのだが、名馬ほど火をおそれるのたとえ通り、どうしてもうごこうとしない。ご家来衆も、自分たちのいのちにはかえられないから、羽目をやぶってのがれでた。で、とうとう白馬は焼け死んじまった。ご家来衆にしてみれば、旦那さまのご秘蔵の愛馬を焼き殺してしまったのだから、なんとも申しわけないと青くなっていた。そこへ孔子さまがお帰りになったので、このことをおわびしようとすると、孔子さまは、『家来の者一同に怪我はなかったか』とお聞きなすった。『家来一同無事でございます』とおこたえすると、『ああ、それはめでたい』とおっしゃったきり、お叱言ひとつおっしゃらない。そこで、家来衆は、『ああ、ありがたい。あの馬を焼き殺したからどんなことになるかとおもったら、馬のことをひとこともおっしゃらないで、われわれのことだけをおたずねになった。まことにおそれいったことだ』というので、このご主人のためにはいのちもいらないとおもって、いっしょうけんめいにつくしたという。じつにえらいはなしじゃないか。また、これとあべこべのはなしがある。麹町にさる殿さまがあって……」
「あらまあ、めずらしいはなしですねえ。三本毛がたりないなんてことをいいますけど、猿のお殿さまがいたんですか?」
「なにをいってるんだ。そんなことをいってるから、すぐに喧嘩になっちまうんじゃないか。猿が殿さまになるわけがないだろ。さる殿さまてえのは、名前がいえないから、それで、さる殿さまというんだよ」
「へーえ、そうですかね、その殿さまがどうかしましたか?」
「その殿さまが、たいそう瀬戸物に凝《こ》っていらしった」
「まあ、そうですか。おんなじような人がいますねえ。うちの人も瀬戸物に夢中なんですよ。このあいだも、二円五十銭もだして、ひびのはいった瀬戸物を買ってきて、掘りだしものだなんてよろこびましてね、桐の箱へいれて、黄色い布でつつんで、なぜたり、ふいたり、もうたいへんなんですよ」
「ほんとうによくしゃべるなあ、おまえさんは……その殿さまの瀬戸物は、おまえの亭主が買うような、二円とか、二円五十銭なんて安物じゃないんだよ。ひとつで、何千円、何万円というような品物なんだから……」
「まあ、おどろいた。そんな大きなお皿かどんぶり鉢があるんですかねえ」
「おいおい、大福もちやなんか買ってるんじゃないよ。なにも高ければ大きいときまっちゃいないんだ。どんなに小さくても、ものによっては何千円、何万円とするんだよ……で、ある日のこと、珍客がおみえになった」
「殿さまが猿だから、狆《ちん》のお客がきたんですね」
「そうじゃないよ。めずらしい客を珍客というんだ」
「へー、じゃあ、始終くる客をニャン客とかなんとかいうんですか?」
「おい、すこしはだまって人のはなしをお聞きよ。ごじまんの瀬戸物をお客さまにおみせして、お客さまがお帰りのあとで、殿さまがたいせつにしていらっしゃる品物だから、奉公人にこれをはこばせたりしない。奥さまが瀬戸物を持って二階からおりようとなすった。ところが、運のわるいときはしかたのないもので、足袋があたらしかったから、つるりっとすべると、どどどどどっと階段からおっこってしまった。すると、殿さまが目の色を変えてとんでくると、『瀬戸物をこわしゃしないか、皿をこわしゃしないか』と息もつかずに三十六ぺんおっしゃった。奥さまはこわしてはならないと、おからだでかばったから、いいあんばいにこわさなかった。『いいえ、瀬戸物はなんともございません』とおこたえになると、『ああ、瀬戸物は無事だったか。それはよかった』と、これだけのおことばだ。これが、この殿さまの本心なんだな。すると、翌日になると、奥さまが、『わたくし、実家《さと》に用事ができましたので、ちょっとお暇をいただきます』とおでかけになったが、まもなくご実家からご離縁をねがうというかけあいがきた。なにごとかとおたずねになると、『瀬戸物のことだけおたずねになって、からだのことをすこしもおたずねにならないところをみると、お宅さまでは、娘よりも瀬戸物のほうがお大事なんでございましょう。そんな不人情なところへかわいい娘はやっておかれません。さきざきが案じられますからどうかご離別をねがいます』というので、いやでもない奥さまをよんどころなく離別するようなことになったんだが、それからは、その殿さまは不人情なかただと評判になって、とうとうご独身でおわったそうだ。おまえの亭主が瀬戸物を大事にしてるてえのはさいわいだ。これからうちへ帰って、亭主がいちばん大事にしてる瀬戸物をこわしてごらん。もしもそのとき、おまえの亭主が瀬戸物のことばかりいってたら、もうのぞみはないからあきらめてしまいな。そのかわり、たとえ、おまえの指一本爪一枚でもたずねたらしめたもんだ。心のうちに真実があるてえやつだ。おまえの一生がかかってるんだよ。おもいきってやってごらん」
「ええ……でもねえ……まさか二円五十銭の瀬戸物と、あたしのからだといっしょになるわけはありませんから、そりゃあ、あたしのからだのことを聞いてくれるとおもいますよ」
「おもいますよって、だから、そこをためすんじゃないか」
「なるほど、そういうことですかねえ。瀬戸物もずいふん大事にしてますから、まるっきり安心もできませんかしら? ……うまく唐《もろこし》の白馬のほうならよござんすけど、これが麹町の猿になっちゃあこまりますね……じゃあ、旦那、こうしてくださいな」
「なんだい?」
「ひと足さきにうちへいって、うちの亭主に、瀬戸物のことを聞かずに、きっとからだのことを聞くようにいってくださいな」
「おい、そんなこしらえごとをしたんじゃあなんにもならないよ。おまえさんは、どうもまだまだみれんがあっていけない。いいかい、うちへ帰ったら、そーっと裏のほうからはいんなさい。たぶん、亭主がまだおこってるだろうから亭主によくあやまって、すぐに食事のしたくをするかなんかいって、台所へはいるんだ。そのとき、ついでに洗っとこうといって、亭主の大事にしてる瀬戸物を持ちだして、すべったふりをしてこわしちまうんだ。どっちを聞くか、おもいきってやってごらん。もしこまることができたら、また相談にのってあげるから……」
「ありがとう存じます。じゃあ、おもいきってやってみますから……、あとでうかがいます。いろいろお世話さまでした。ごめんくださいまし……あーあ、旦那はほんとうにりこうなひとだねえ。いいことを教えてくれたよまったく……でも、うちの人が唐《もろこし》のほうならいいけどねえ……ただいま……おまえさん、まだおこってんのかい? こわい顔をして、え? おこってるんだろ」
「おこってやしねえけど、おまえみてえにわがままじゃしょうがねえよ。なにか気にいらないてえと、ぷいととびだしたっきり三時間も四時間も帰ってこねえんだから……おれはね、いっしょにめしを食おうとおもって、さっきからおめえの帰りを待ってたんだぜ」
「あら、おまえさん、あたしといっしょにごはんが食べたいかい?」
「あたりめえよ、夫婦じゃねえか……朝だって、おめえは、めしなんかろくすっぽ食わずに、おきぬけに仕事にでていってしまうし、昼めしだってそとですましちまうんだから、夫婦がいっしょにめしが食えるのは、晩だけのことじゃねえか。日に一ペんぐれえは、ゆっくりと差しで食いてえやな」
「あーら、ちょいと、おまえさん、唐《もろこし》の学者だよ」
「なんでえ、その唐の学者てえのは?」
「ちょいとうれしくなってきたから、あたしゃ、すぐに瀬戸物のほうにとりかかるよ」
「なんだかわけのわかんねえことばかりいうじゃねえか。なんだい、その、瀬戸物にとりかかるてえのは? おい、それをどうするんだよ? よごれてもなにもいやあしねえ。どこかへ貸してやるんならほかのにしてくれ」
「いいじゃないか、たかが瀬戸物ぐらいのことにそんなにさわがなくても……おまえさんのものはあたしのものなんだから……」
「そりゃあそうだけども……おい、めしになるってのに、いまそんなものだしたってしょうがねえじゃねえか。こわしでもしたらどうするんだ、なかなか手にはいらねえものなんだぞ」
「あれっ、あんなこといって……だから安心できないんだよ。いま唐《もろこし》かとおもったら、もう麹町になっちまうんだから……」
「なにをぶつぶついってるんだよ……おい、あぶねえじゃねえか。変なかっこうして台所なんかへいって……あっ、そーらこわしちまった。だから、いわねえこっちゃねえ、よけいなことをするからそんなことになるんだ。おめえ、どうした? どっか怪我はなかったか? 指かどっか痛めなかったか? あれっ、おい、なにをぼんやりしてるんだよ? 瀬戸物なんざあ銭をだしゃあいくらでも買えらあ。それよりも、どっかからだを怪我しなかったか?」
「あらまあ、うれしいじゃないか、おまえさん、麹町の猿になるかとおもってどのくらい心配したか知れやしないよ……まあ、ほんとにうれしいじゃないか」
「泣くこたあねえやな」
「これが泣かずにいられるもんかね……でも、おまえさん、そんなにあたしのからだが大事かい?」
「そりゃあそうよ。おめえが手でも怪我してみねえ。あしたから、あそんでて酒を飲むことができなくならあ」
寝 床
ひところたいへん流行したお稽古ごとに義太夫《ぎだゆう》がございます。
師匠がたとしても、弟子が大家のご主人などということになりますと、調子がわるいからといってことわれば、収入のほうに関係してまいりますから、すこしぐらい聞きにくい声でも、ぐっとがまんをして稽古をしなければなりません。
なかには、ずいふんまぬけな大声というかたもありますが、こういうかたは、また師匠のほめかたがうまいもんで……
「どうも、じつにあなたのお声は、生まれつき義太夫をおやりになるためにそなわっていらっしゃるようなお声で、あーっという、これがなかなかはじめにはでないものでございます。すこしつづけてお稽古をなさると、ずんずんご上達をなさいます」
いわれたご当人は、お世辞と気がつかないから、ほくほくよろこんで、ますます勉強をすることになります。
なかには、また蚊の鳴くようなほそい声の人があります。
「どうもあなたのお声は、艶《つや》ものにようございます。このつぎには、あなたのお声にあうものをひとつやりましょう。じつにあなたのお声というものは、黄色いところがあって、ふっくりとまるくて、どうも結構なお声で……」
そんな声はありゃあしませんけれど、こういわれれば当人はたいへんによろこんでおります。
なかには、黄色いにもなんにも、まるで声がでないようなのがあります。三味線の音で消えてしまって、調子にも乗らず、口のうちで虫の鳴くような声をしているのがあります。こういうのでも、師匠のほうにはいろいろのほめかたがあるもので……
「あなたぐらいご熱心でいらっしゃれば、三週間もおやりなさるうちにはお声が吹っきれます」
できものじゃあるまいし、吹っきれたところで、とてもなおるわけのものじゃございません。
こうやって稽古をしているうちに、どうにか人の耳に聞えるような声がでてくると、そういう人にかぎって天狗になります。だれか人をあつめて、この義太夫を聞かしてやろうなんていうおそろしい気をおこしますが、まさか目上の者に聞かせるわけにはまいりませんから、店の者や出入りの者や長屋の連中などという目下の者が狩りだされるということになります。
「佐兵衛はまだ帰らないかい? 帰ったらすぐにここへよこしてください。おい、定吉や、きょうはおおぜいさんおみえになるんだから、あたらしいそろいのざぶとんをだしときなさいよ。いいかい。高座の前にちゃんとしいておくんだ。え、なに? 師匠がおみえになった? では奥へお通ししてお茶をさしあげてお待ちいただきなさい。お菓子やなにかはいいかい? お菓子はとどいたのかい? 料理のほうは? うんうん、仕出し屋から料理もとどいたし、料理人もみえてるって……そっちのほうは手ぬかりないな……そうそう、さらしを五反ばかりと玉子を二十ほど用意してくださいよ……え? さらしと玉子で怪我人がありますかって? なにをばかなことをいってるんだ。義太夫というものは、下っ腹から声をだすんで腹に力がはいる。それで腹に巻くんじゃないか。玉子は息つぎに飲むんだよ。それくらいのことは心得てなくっちゃこまるよまったく……見台《けんだい》はでましたか? よしよし、きょうは、このあいだできてきたあの見台でみっちり語りましょう。おー、おー……うー……どうも声の調子がよくないな……うー……どうもお昼に食べたおかずがすこし辛かったせいかな……おー、おー……どうもうまくないなあ……定吉や、師匠にそういっとくれ、旦那がすこしのどの調子がよろしくないので、調子を一本がたまけてくださいって……なに? 佐兵衛が帰ってきた? あっ、ごくろう、ごくろう。つかれたろう。まあ、こっちへおいで」
「へえ、おそくなりまして……お長屋をすっかりまわってまいりました」
「いや、ごくろうさま。おまえさんのことだから手落ちはなかったろうとおもうけれど、ちょうちん屋へはいってくれたろうね……この前のときには、定吉が知らせるのをわすれちまったもんだから、提灯《ちようちん》屋のやつに『旦那さま、どうしてあたくしにだけ結構なお浄瑠璃《じようるり》をお聞かせくださらないのでございますか』なんて、すっかりいやみをいわれてしまったんだから……」
「はい、そのようにうかがっておりましたので、ちょうちん屋さんには一番はじめにまいりました」
「よろこんだろう」
「へえ、たいへんにおよろこびでございましたが、なんでも開業式のちょうちんをひきうけてしまいましてな、今夜は夜あかしをしてもしあげなけりゃあならないそうで、まことにざんねんではございますが、またつぎの機会にということでございました」
「おや、そうかい。そりゃあ気の毒なことをしたな。せっかく義太夫好きだというのに運のわるいやつだよ、まったく……あたしが義太夫を語るときにはいつも聞かれないんだからな。まあいい、あいつの元気づけに、こんど向合《さし》でたっぷり聞かせてやるから……そういっといとくれ……で、荒物屋はどうしたい?」
「はい、荒物屋さんでは、おかみさんが臨月でございましてな。今朝から虫がかぶっておりまして、いまにも生まれるというさわぎで、それをうっちゃって義太夫を聞きにうかがったというようなことが知れますと、親戚がなにかとうるさいので、せっかくのお催《もよお》しでございますが、旦那によろしくとのことでございました」
「お産じゃあしかたがあるまい。金物屋はどうしたい?」
「なんですか、今晩|無尽《むじん》がございまして、初回は自分がもらいになるということだそうでございまして、それを不参をしては、みなさんに申しわけないので、まことに失礼ながらお浄瑠璃の会には欠席させていただきますから、旦那によろしくつたえてくださいとのことでございました」
「まあ、そういうのっぴきならない用ならしかたあるまい。で、豆腐屋は?」
「豆腐屋さんでは、お得意に年回がございまして、生揚げとがんもどきを八百《はつそく》五十ばかり請けあったとかで、家中で大わらわにやっておりますが、なかなかはかがいかないようで……生揚げのほうは手軽にできるのでございますが、がんもどきのほうがなかなか手数のかかるもんでございます。と申しますのが、蓮《はす》にごぼうに紫蘇《ちそ》の実なんてえものがはいります。蓮はもう皮をむきまして、これをこまかにいたしましてつかうだけなのでございますが、ごぼうは、なにしろ皮が厚うございますから、庖丁でなでるようにむきまして、そのあとであくだしをいたします。紫蘇のつかいかたが、いちばんめんどうなんだそうで……紫蘇の実がある時分にはよろしいんでございますが、ないときには、漬けもの屋から塩漬けになっているのを買ってまいりまして、塩だしをしてからつかうんでございます。でもあんまり塩だしをしてしまいますと、水っぽくなって味がすっかり落ちてしまいますし、さればといって塩だしをしませんと、塩っからいがんもどきができあがるという……」
「おいおい、だれががんもどきの製造法を教えてくれといったい? 豆腐屋は、今晩聞きにくるのか、こないのか、それを聞いてるんじゃないか」
「ええ、そのう……そんなわけでございますから、おうかがいできませんのでよろしくということなんで……」
「そんならそうとはじめからいえばいいじゃないか。ごぼうのあくぬきがどうの、紫蘇の塩だしがどうのって、よけいなことばかりいいなさんな。じゃあ、鳶頭《かしら》はどうしたい?」
「鳶頭は、そのう……成田の講中にもめごとがおこりまして、どうしても成田山までいかなければはなしがまとまらないというようなわけで、明朝五時の一番列車で成田へ出発しますから、今晩のところは、どうかごかんべんねがいたいということなんでして……」
「吉兵衛はどうした?」
「吉兵衛さんのところへまいりましたら、吉兵衛さんの申しますには、『どうもまことにすみませんけれども、昨晩から疝気《せんき》で腰がまるで伸ばせません。さきほども便所へはっていったようなしまつで、とてもあがることはできませんから、旦那さまへよろしく申しあげてくれろ』とこういうことで、もっとも、釣り台へ乗ったらいかれないこともあるまいと申しますが、いかがいたしましょう」
「釣り台へ乗るような病人がきたってしかたあるまい……うらの吉田のむすこはどうしたい?」
「ええ、……吉田さんのむすこさんは、きょうは商用で横須賀へいっていらっしゃいます。たぶんお帰りは終列車か、場合によっては明日になろうということでして……もっとも、あちらさまにはおっかさんがございます。しかし、ご存知のようにまるっきりのかなつんぼで……」
「なんだい、かなつんぼがきてどうするんだ……で、いったい長屋の者はだれがくるんだ?」
「へえ、どうもお気の毒さまで……」
「なにがお気の毒だ。じゃあ長屋の連中はだれもこないんじゃないか。おまえさん、いったいいくつになんなさる? いちいちあのかたはこういうわけでおいでになりません。このかたはこうこうでまいられませんなんて、どうしてそんなむだなことばかりいってるんだい。長屋をまわりましたら、みなさんご用事でおいでになれませんと、ひとこといえばすむはなしじゃないか。これから気をつけるがいい……まあ、長屋の連中がこられないとすれば、せっかく用意もしたことだから、店の者だけで語ります……と、みわたしたところ、店の者が姿をみせないね……番頭の藤兵衛はどうしてるんだ?」
「へえ、一番番頭さんは、ゆうべお客さまのお相手で、はしご酒がすぎまして、申しわけないが、二日酔いであたまが割れるようだと表二階でおやすみでございます」
「金助はどうした?」
「金どんは、ちょうど夕方でございました。伯父がひどくぐあいがわるいからという知らせがございまして、もう年が年だから、これぎり逢えないかも知れないから、ちょっと逢ってきたいと申しますので、それじゃあちょうどお店も早くしまったから、ちょっと逢いにいってきたらよかろうとだしてやりました」
「梅吉はどうした?」
「梅どんは脚気《かつけ》でございますので、失礼させていただくという」
「脚気は脚の病気だろう。それがどうして?」
「ええ、梅どんは、ふだんからあの通り礼儀正しい男でございます。脚気だからといって、旦那のお浄瑠璃を足を投げだしてうかがうことはできないから、やすませていただきたいということなので……」
「竹造はどうした?」
「竹どんは、さっき物干しへあがってふとんを干しておりましたが、『竹どん、旦那の義太夫だよ』と申しましたら、『えっ!』といって、ころげおちまして、足をくじいてうんうんうなって寝ております」
「弥太郎はどうしたい?」
「ええ、弥太どんは……そのう……なんでございます……じつは、あれなんでございまして……まったく、そのう、くだらんことになりまして……つまり、こうこうだから……こういうわけで……じつによわったことで……あれは、なんにいたしましょう?」
「なんだ、なんにいたしましょう?」
「いいえ、なんにいたしましても……そのう、眼病というようなしだいでして……」
「おいおい、眼病てえのは眼がわるいんだろう?」
「さようでございます。眼病が眼でございまして、脳病があたまでございまして、胃腸病がお腹の……」
「なにをよけいなことをいってるんだ……おかしいじゃないか。耳がわるくって義太夫が聞かれないというのならわかるが、眼がわるくて義太夫が聞けないというのはどういうわけなんだい?」
「ええ、これがおなじ音曲でも、小唄や歌沢《うたざわ》ならよろしゅうございますが、義太夫というものは音曲の司《つかさ》と申しますくらいたいへんなもの、まして旦那さまの義太夫は、ことのほか精をこめてお語りなさいますので、悲しいところへまいりますと、たまらなく涙がでてまいります。涙というものは、眼に熱をもって毒だから、これは、いっそはじめからうかがわないほうがよかろうというわけでございまして……」
「ばあやはどうしたい?」
「ばあやさんは、冷えこみでお腹が痛むと申しまして坊っちゃんと早くからやすんでおります」
「家内の姿がみえないようだが、どうしたい?」
「ええ、おかみさんは、今夜は旦那の義太夫があるということを申しあげましたら、二、三日|実家《さと》へいってくるとおっしゃいまして、お嬢ちゃんを抱いておでかけで……」
「佐兵衛、おまえさんはどうだ?」
「へ?」
「いえ、おまえはどうだよ?」
「へえ、あたくしは……もう、そのう……お長屋をずっとまわってまいりまして……ひとりで……だれの助けも借りずにりっぱにまわってまいりまして……なーに、べつにつかれたというほどのことは……」
「だから、まわってきたのはわかっているんだ。おまえはどこがわるいと聞いているんじゃないか。いったいどこがわるい?」
「へえ、ご承知の通り、あたくしは、子どものときからまことに丈夫で、薬一服いただかないという、どうも因果な性分で……」
「なんだと? 丈夫で、薬一服いただかないという、どうも因果な性分だと? ……ふざけなさんな。薬一服飲まないなんて、こんな結構なことはあるまい。それを因果な性分とはなんだ!」
「ええ、申しわけございません。ご立腹ではおそれいります。ええ……もう、よろしゅうございます。よろしゅうございますとも……あたくし、十分に覚悟をきめました」
「なんだい? ぐっと乗りだしてきて、覚悟をきめたてえのは?」
「ええ、あたくし、ひとりで旦那さまの義太夫をうかがいます。うかがえばよろしいんでございましょう。いいえ、これで家に年老いた両親がいるというわけではなし、身よりと申しましては、兄がひとりいるだけなんでまことに身軽な身の上でございますから、万一あたくしがどうかなりましてもさしつかえはないんでございます。さきほども申しました通り、薬一服いただいたことのないからだでございます。義太夫の一段や二段うかがったところで、どれほどのさわりがあるはずはございません……あたくしがうかがいさえすればよろしいんでございましょう……さあ、うかがいましょう。さあ……どうぞ……お語りを……」
「ばかっ、泣くやつがあるかい。じつにどうもあきれかえったもんだ。いや、よろしい。わかった、わかりましたよ。語りません。よすよ。よしますよ。おいおい、師匠にそういいなさい。『急に模様変えになりましたので、また後日ということにしまして、きょうのところはおひきとりください』とおわびして、帰っていただくようにするんだ……もう、よくわかった。みんなの気持ちはわかったよ。あたしの義太夫が聞きたくないもんだから、長屋の連中が用事だといったり、店の者が仮病《けびよう》をつかったりするんだろう……もうよくわかったから、これからは決して語りません……ああ、語りませんとも……わるかったね、みんなにめいわくをかけて……しかし、どうもあきれかえった連中だ。義太夫の人情というものがわからないのかねえ……荒物屋じゃあまた赤ん坊ができるんだって? あすこの家ぐらい子どもばっかりつくる家はないねえ。四季にはらんでやがらあ。ほかにすることはないのかねえ、あれじゃあ野良猫だよ。まるで……金物屋の鉄五郎、またあいつみたいに無尽の好きなやつはないね。のべつ無尽だ、無尽だってさわいでやがる。ああいうやつが、不正無尽《ふせいむじん》の会社かなんかこしらえて、人さまにごめいわくをかけるんだ……それに鳶頭《かしら》も鳶頭だ。成田へ一番で発《た》つからうかがえないとはなんてえいい草だい。そんなに成田山がありがたかったら、こまったときには、成田山へいって金でもなんでも借りたらいいんだ。毎年、暮れになると、きまって家へ金借りにくるんだから……いいたかあないけど、そのときに、あたしが一ペんだっていやな顔をしたことがあるかい? ふざけるんじゃないよ。まったく……」
「まことにさようで……」
「おい、おまえさん、よくお聞き。いいかい、義太夫というものは、むかしのりっぱな作者たちが、心をこめて書きあげたもんなんだよ。一段のうちに喜怒哀楽の情がこもってて、読むだけでもまことに結構なもんだ。それに仮りにもあたしがふしをつけて聞かしてやるんじゃないか……なんだ? ふしがついてるだけ情けねえだと? だれだ、そんなことをいうのは? ……そりゃあ、あたしはしろうとだ。本職の太夫衆のようにうまく語れやしない。だから、みなさんをおよびしたって、ちゃんとごちそうをして、金なんざあとりゃあしない」
「これで金をとりゃあ泥棒だ」
「だれだ? こっちへでてこい。これで金をとりゃあ泥棒だとはなんてえことをいうんだ……おい、佐兵衛、もう一ペん長屋をまわってきておくれ。明日のお昼までに家をあけてくださいって、そういって……」
「それは、旦那さま、乱暴なおはなしで……」
「なにが乱暴だい。義太夫の人情がわからないような連中に貸しておけないから立ち退いてくれというんじゃないか。それからまた、店の者だってそうだ。あたしの家にいると、まずい義太夫の一段も聞かなくっちゃならない。まあ、たいへんにお気の毒だから、暇をとってもらおうじゃないか。もう義太夫は語らないんだから、湯なんかあけてしまいな! 菓子なんかすてちまえ! 料理なんか犬に食わしちまえ! 見台なんか踏みつぶせ!」
どうもたいへんな立腹で、旦那は、奥へはいってしまいました。
義太夫を聞かないために、長屋の連中は店立《たなだ》てを食うし、店の者は暇がでるというのですから、どうもおだやかではありません。そこで、佐兵衛さんがもう一度長屋をまわってなんとか聞きにきてくれるようにたのみこみました。
「ええ、旦那さま、旦那さま」
「佐兵衛か、なんだ!」
「あのう……ただいま店がごたごたしておりますから、なにかとおもって、あたくしが店へまいってみますと、ぞろぞろと長屋の者がそろってまいりました。なにしにきたんだ、どういう用があってきたのかとたずねましたら、『きょうは義太夫の会はないのでございましょうか』と申しますから、じつは、あたくしも腹を立てて、『子どものつかいじゃなし、あたしがさっきいったときにことわっておきながら、いまさらなんできなすった?』と申しましたところが、『いや、それは番頭さん、わたくしたちの感ちがいでございました。お浄瑠璃の会があるということですから、また昨年の暮れのように、いろんなかたがたがお語りになるのだろうとおもったんでございます。昨年の暮れのときには、年をとった歯のぬけたかたが、なんだかいうこともはっきりわからないで、蚊の鳴くような声をだして語りましたし、そのつぎにあがったでっぷりふとったかたが、われ鐘《がね》みたような声をだしたので、あれにみんなあてられてしまいまして、あのかたがたがまた語るのではと、なにぶんがまんできないからというので、まあおことわりしましたところが、小僧さんに聞きますと、旦那さまおひとりの会だということでございますので、それならば、長屋中の者がみんなうかがいたいといってまいりました』とこういうのでございます」
「それがどうだというんだ」
「そういうことでございまして、ほんのさわりだけでもいいからうかがいたいと申しているんでございます。そう申しておりますのを、むざむざと帰すのもざんねんなことで、お心持ちのおわるいところは、いくえにもてまえがなりかわっておわび申しあげます。なんでもよろしいんでございます。五分でも十分でもほんのさわりだけでよろしいんでございますが、お語りねがえませんでしょうか」
「ごめんこうむるよ。なぜって、そうだろう、おまえなんかにはわかるまいが、芸というものは、こっちで語ろう、むこうが聞きたいと、双方の意気がぴったりあわなきゃやれるもんじゃないよ。こんな気のぬけたときに語れるもんか。みんなに帰ってもらいな」
「ではございましょうが、そこをひとつまげて……あたくしがあいだにはいってこまりますから……ねえ、旦那さま、なにもそんなに芸おしみをなさらないでも……」
「なんだって? おまえさん変なことをいうね。いつあたしが芸おしみをしたい? あたしの身にもなってごらん。語れるとおもうかい? まあ、あたしだって好きなことなんだから、これでやめるというんじゃないよ。気がすすまないからかんべんしてほしいといってるんじゃないか。だから、長屋のみなさんには、またの機会にということにして帰ってもらっておくれ」
「しかし、旦那さま、みんなせめて一段でも聞かなくては帰らないと申しておりますんで、このまま帰しますのはなにか気の毒でございますから……」
「おまえはねえ、そういうけれども、いまさらになっておもしろくない仕事でしょ。え? なに? あたしがもったいをつけてるって? そりゃ誤解だよ。なにもあたしの芸はそれほどのことはないんだから……え? なんだい? どうしても聞かないうちは帰らないてえのかい? みんながそういうのかい? うふふふふ、うふふふふ、またみんな好きだねえ、まったく……そうかい、そんなにおまえさんがこまるのかい。じゃあ、ひとつおまえさんの顔を立てて、一段語るとしょうか」
「ぜひそういうことにねがいます」
「そうときまれば、あたしがみなさんにお目にかかろう。そうだ、定吉にそういって、師匠にしたくするようにおねがいしとくれ。なに? もうお帰ししてしまったって? 帰しちゃいけませんよ。すぐにむかえにやっとくれ。自動車がいいよ。お湯はどうしたい?」
「もうお入り用がないと聞きましたので、ただすてるのももったいないと申しまして、久蔵がふんどしをつけてしまいました」
「そんなことをしてはこまるなあ。お菓子や料理はどうなったい?」
「もう店の者がいただいてしまいました」
「こまるなあどうも……うちの連中はふしぎだね。こういうことっていうとすぐに手がまわるんだから……こういうことはいいだしてから一時間ぐらいは待つもんですよ。さっそくまた用意してくださいよ……おやおや、さあみなさん、こっちへどうぞ……さあ、ご遠慮なくずーっとこちらへ……」
「ええ、こんばんは」
「ええ、こんばんは」
「はいはい、こんばんは」
「ええ、こんばんは……今晩は、また旦那さまの結構なお浄瑠璃、おまねきにあずかりましてありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして……まあそんなきゅうくつなごあいさつはぬきにして、たいしたおもてなしはできませんが、ゆっくりあそんでってくださいよ……どうぞ、あちらへおいでを……え、ここ? ここはあたしの楽屋。あははは、芸人のほか入るべからず……おや、豆腐屋さん、あなたたいそういそがしいそうじゃないか。よくきてくだすったね」
「はい、じつは、てまえどもは徹夜の仕事をしなければならないんでございますが、旦那さまもご存知の通り、てまえは義太夫気ちがいでございますから、いまごろは、旦那さまがなにを語っていらっしゃるかとおもいまして、仕事がなかなか手につきません。がんもどきをまっ黒にあげてしまったり、生揚げをほんとうの生揚げにしてしまったり……家内がみるにみかねまして、麹町に家内の弟で豆腐屋をしているのがございますので、その弟をよびまして、ようやくうかがうことができたというような次第で……まことにありがとうございます」
「いやあ、これはおそれいった。いえ、あなたが義太夫好きだということは知ってるけれど、手がわりをたのんできてくれたなんぞはうれしいね。おかみさんの弟さんには、あたしのほうから手間代ぐらいのことはさしてもらうから……いえ、きっとそうさせてもらいますよ。でないと、あたしの気がすまないじゃないか。それほど無理をしてきてくれたとなると、あたしのほうで語るはりあいがあるよ……今晩はね、ひとつ、みっちり語りましょう」
「うへえ、ありがとう存じます」
「ええ、こんばんは」
「こんばんは」
「おや、どうもみなさんごくろうさま……おや、鳶頭《かしら》、みえたね。おまえさん、成田へいくんじゃなかったのかい?」
「へえ、そうなんでございますが、さっき兄弟分の熊のやつがちょうど家へよりましたんで、わけをはなしますと、熊のやつが、『おれがかわりにいって、はなしをつけてこよう』と申しますんで、あいつならば、することにそつがございませんから安心してまかせましたようなわけで……旦那の義太夫を聞くのも浮世の義理だから……いえ、その浮世の義理人情てえものは、旦那の義太夫を聞かなきゃあわかりません。ねえ、そうでござんしょう……だいいち旦那の義太夫てえものは、どうしてあんな声がでるんだろうなんて……人間わざじゃねえ、あれだけまぬけな声てえものは……いえ、ああいう結構な声てえものは、じつにどうもすげえといおうか、おそろしいといおうか……いろいろとごちそうさまで」
「なんだい、さっぱりいうことがわからないじゃないか。まあいいや、はやくむこうへいって聞き役にまわっておくれ」
「どうもごくろうさま」
「いえ、おたがいさまにとんだ災難で」
「いや、それにしてもおどろきましたね。いきなり店立《たなだ》てだっていうんですから……けれども、ふだんはこんないい旦那はありませんよ。あたしんとこなんか、お金がないといつも無利息、無証文で貸してくださるんだから……それでいて家賃のさいそくするじゃなし、たまに一月分も持っていけば、子どもになにか買っておやりてんで、そっくりかえしてくれるんだからねえ……あんないい旦那が、義太夫になると、ふだんとがらっとかわって、残忍性を帯びてくるてえのは、いったいどういうわけなんだろう?」
「ひょっとしたら、ここの家の先祖が義太夫語りかなんかしめ殺したんじゃないかねえ」
「ははあ、そのくやしいてえ魂魄が旦那の背筋へ食い入って……」
「うん、たたりてえものはおそろしいや」
「そのたたりでもなくっちゃあ、あんなふしぎな声がでるわけはない。声がわるいとか、かわった声だとか、なんともたとえようがない。夜なかの二時ごろに動物園のうらを通ると、ああいう声が聞えるね。河馬《かば》がうなされたときの声だ。いずれにしても人間の声じゃない。この声といえば、気の毒なのは横丁の隠居だ。この前の会で、旦那の義太夫を聞いてわずらっちまったんだから……」
「そんなことがあったのかい?」
「ああ……この前の会がおわって家へ帰ったら、たいへんな熱だ。医者にみてもらったんだが、どうしても原因がわからない。なにか心あたりはないかとよくしらべてみると、義太夫を聞いてから熱がでたというので、医者がいうには、義太熱《ぎだねつ》だって」
「義太熱なんてえのがあるのかねえ」
「いや、その医者が新発見の病気だ、てえんで、博士号をもらったそうだ」
「たいへんなもんだねどうも……」
「今夜はあたしは、気がさっぱりするように仁丹《じんたん》を持ってきました」
「そりゃあいいや、あたしにもすこしわけてくださいな」
「さあさあどうぞ……おたがいに被害はすこしでも食いとめませんと、あしたの仕事にさしつかえますからね……おや、提灯屋さんもなにか予防薬をお持ちですね」
「ええ、薬じゃありませんが、あたしは防毒マスクを……」
「毒ガスとまちがえちゃいけないよ……予防薬といえば、みなさん、義太夫がはじまったら、あたまをさげるほうがいいですよ。あたまの上を声が通っちまうから……うっかりあの声をまともにくらったら大怪我をしますよ。いいえ、うそじゃありません。その証拠には、金物屋の鉄五郎さんの胸の黒あざは、あの声でうけた名誉の負傷のあとだってえうわさだ」
「命がけだね。じょうだんじゃないや」
「どうもみなさん、おくれまして申しわけございません」
「おや、吉田さんのご子息、あなたは横須賀へいっていらしったんでしょ?」
「はい、ただいまもどったところで……」
「おや、あなた涙ぐんでいるが、どうしなすった?」
「はい、みなさん、まことにすみませんが、あたくしにもしものことがございましたら、家の母にわびごとをしていただきたいと存じまして、そのことが案じられて悲しくなりました」
「なにかあったんで?」
「こちらへまいりますときに、あたくしが母とすこしあらそいをしてでてまいりました」
「へえー、名代《なだい》の親孝行者のおまえさんが、母子《おやこ》喧嘩をするというのはおかしなはなしだが、どういうことから?」
「はい、あたくしは商用で横須賀へいっていたんでございますが、なんだかお昼ごろから胸さわぎがいたしましてどうも気になりますから、いそいで用事をすませまして帰ってみますと、ちょうど母が箪笥《たんす》から羽織をだしておりますので、『お母さん、寒気でもしますか?』と聞きますと、『これから家主の旦那さまのお浄瑠璃をうかがいにいくのだよ』と申すじゃございませんか。もうそれを聞きましたときのあたくしのおどろき――まるで袈裟《けさ》がけに斬りつけられたような気持ちで……ですから、『お母さん、それはとんでもないことです。そんなことをなすって、もしもからだにさわったらどうなさるんです』といいましたところ、『いったんおことわりしたけれども、二度めに番頭さんがまわっていらしって、浄瑠璃を聞かなければ店をあけろとおっしゃるからいかなければならないのさ。どうせあたしは耳が遠いのだから、ろくに聞えないから安心さ』と申します。ですからあたくしがいってやりました。『お母さん、あなた耳が遠いなんて安心していらっしゃるととんでもないことになります。あの旦那の義太夫というものは、すこしぐらいのつんぼではとうていふせぎきれるものではありません。なにしろ死人がびっくりして生きかえったというくらいですから……義太夫を聞かなければ店立《たなだ》てだなんていうのなら、そんな店を借りていることはありませんから、明日にでもひっこせばいいじゃありませんか』――もう、あたくしも母の命にはかえられないからそう申しますと、母のいいますには、『浄瑠璃を語らないときにはまことに結構な旦那さまで、おまえのせがれは親孝行で末に見こみがあるから、あたしがきっとどうにかしてやると、毎度親切におっしゃってくださるんで、おまえの将来のことまで旦那さまにおねがい申してあるのだよ。その旦那のおそばをはなれるとなると、おまえの将来が案じられてならない。あたしはもう老いさきのみじかいからだ、どうなろうとかまわないが、おまえはこれから旦那さまにひきたてていただかなければならないのだから、あたしはどうしても浄瑠璃を聞きにゆかなければ義理がわるい』と申します。ですから、『それはお母さん、とんでもないこと、ことに風邪をひいて熱がおありのところへ、旦那の義太夫を聞いて、それにあたりでもしたらたいへんでございますから、あたくしがかわりにまいりましょう』といいますと、母はいつになくたいそう腹を立てまして、『出世前のおまえにあんな浄瑠璃を聞かせるくらいなら、あたしはこんなにおまえのことについて苦労はしない。おまえが聞きにいって、もしものことがあったら、ご先祖のお位牌《いはい》へ申しわけがないじゃないか。なんにしてもあたしがいってくるから……』と申しますので、さんざんあらそいまして、もったいないとはおもいながら、むりやりに母をひきとめて、あたくしが外へとびだし、門口を表からあかないようにしてきてしまいました。いままで母に一度でもさからったことはございませんのに、なんともすまないことをしてしまいました。これというのも、みんなあの義太夫からおこったことで……このごろでは、衛生、衛生と申しまして、こういうことはからだにわるい、ああいうことは衛生によくないと、いろいろうるさくお達しがありますのに、どうしてこの旦那の義太夫は警察で禁止されないのかとおもいますと……」
「おい泣きだしちゃいけないよ。そんなことはなにも母子喧嘩というんじゃない。両方でからだのためをおもっていうんだから、おっかさんだって腹を立てやしない。すんだらいっしょにいってわびてあげるから、なにも泣くことはない……ああ、お膳がでてきた。さあさあ、みなさんいただこうじゃありませんか。豆腐屋さん、あなたいける口でしたね。あたしがお酌しましょう。さあ、ひとついかがです? そうだ、さかずきなんかじゃいけませんよ。その湯飲みがいい。こういうときは、なるべく大きなもので、がぶ飲みをして神経を麻痺させちまうのにかぎりますから……あたしもやります。おたがいにどんどんやろうじゃありませんか……こりゃいいお酒だ。よく吟味《ぎんみ》してあるからものがちがう。うん、いいお酒だ。じつにたいしたものさ。こんないいお酒を飲まして、料理をだして……この料理だってたいへんなもんだ。料理番がはいってるんだから……え? なに? ごちそうだけで義太夫がなけりゃいいって? ずうずうしいことをいっちゃいけませんよ。楽あれば苦ありって、そういいことばかりありゃしない……おや、提灯屋《ちようちんや》さん、あなたは甘いもんで?」
「ええ、みなさんがお酒をあがってるそばで甘いものをいただいちゃあわるいんですが、あたしは、なにしろ奈良漬で酔っぱらっちゃうくらいで、じつにわれながらだらしのない……そのかわり甘いものには目がないんで、みるとついついつままずにはいられません……あっ、はじまった、はじまった。はじまりましたよ。どうです? すごい声だねえ。あの声をだしたいためにこれだけのごちそうをするんだから、じつに因果なはなしだ……さあさあ、みなさんあたまをさげて、ぐーっとひくくならなくっちゃあ……」
「ひくくなるのはいいけれど、かりにもこうしてごちそうになってるんだから、ほめなくちゃいけませんよ」
「ほめる? あの義太夫を? あなた、気でもちがったんじゃありませんか。どこにほめるところが?」
「そんなことをいわずに、ねえ、なにごとも前世の因縁とあきらめて、おたがいにほめましょうよ」
「そうですか。では、おさきに……よう、よう、うまいぞ、日本一! うまい、うまい、お刺身」
「お剌身をほめちゃいけない」
「ようよう、女殺し、人殺し!」
「人殺しはひどいや」
「いいえ、なにいったってわかるもんですか。かけ声さえかかってれば、むこうじゃほめてるとおもってるんだから……ようよう、動物園! 河馬の寝ごと! どうする、どうする、らあらあらーい」
てんで、みんなやけくその大さわぎ。
旦那のほうはもう語りはじまったが最後、夢中になってしまいまして、三味線の間《ま》もなにもあったもんじゃありません。ただもうがあがあわめきたてるばかり……あつまった連中は、うまい、うまいと飲み食いしているうちに、腹がふくれると、目の皮がたるんできて、ひとり横になり、ふたり横になり、みんな寝てしまいました。
旦那のほうでは、しばらく語ってるうちに、前がしいんとしずまりかえったので、感にたえて聞いているんだろうと、ひょいと御簾《みす》をあげてみておどろきました。みんなごろごろと寝てしまって、はなはだしいのは、ひとの足を枕にして、いびきをかいているのがいます。もう旦那は怒ったのなんのって、あたまから湯気を立てて、
「師匠、師匠、三味線やめてください。ごらんなさい。どうもあきれかえったやつらだ。しずかになったとおもったら、みんな寝ちまって……なんだい、番頭なんか鼻から提灯だして……おい、番頭、番頭っ」
「うまいっ、日本一!」
「なにが日本一だ。寝ぼけやがって……義太夫はおしまいだ。いいかげんになさい。いいかい、番頭さん、みなさんがお眠気がさしてきたら、お茶でもいれたり、お燗でもつけたりして、お起しするのがおまえの役目じゃないか。それがまっさきに寝るやつがあるか……みなさんもう起きて帰っておくれ。帰れ、帰れ。うちは宿屋じゃないんだ。ごろごろ寝ちまって、じつに不作法な連中だ……店の者も早く寝たらいいだろう。あしたのこらず暇をだすから……ひとりだって芸のわかるやつはいやしない……ひとりだって……だれだ、そこで泣いてるのは? なんだ、定吉じゃないか。なにを泣いてるんだ? え? 悲しゅうございます? そうか、よし、こっちへおいで、泣くんじゃない、泣くんじゃないよ。おい、番頭、おまえさん恥ずかしくないかい? いい年をして……こんな子どもの定吉が義太夫を聞いて、身につまされて悲しいと泣いてるんじゃないか……定吉や、さあさあこっちへおいで。感心なもんだ。おまえだけだな、あたしの芸がわかったのは……あたしゃうれしい。おまえだけでもよく聞いていてくれて……で、どこが悲しかった? おまえは子どもなんだから、きっと子どものでるところだな。そうだ、『馬方三吉子別れ』か?」
「そんなとこじゃありません。そんなとこじゃありません」
「じゃあ、『宗五郎の子別れ』か? え? ちがう? ああ『先代萩』だな?」
「そんなもんじゃありません。そんなもんじゃ……」
「さあさあ、泣いてばかりいないで、いってごらん、どこが悲しかったか」
「あそこでございます。あそこなんでございます」
「あそこ? あそこはあたしが義太夫を語った床《ゆか》じゃないか」
「あそこがあたくしの寝床でございます」
千早振る
無学者は論に負けずなんてことを申します。ろくにしりもしないことを知ったかぶりをする人がよくございますな。
「ねえ先生、よく晦日《つごもり》なんてことをいいますが、ありゃあなんのことです?」
「ばかだなあおまえは……つごもりぐらい知らないと、人に笑われるぞ」
「そうですか、笑われますか。じゃあ、どんなわけなんです?」
「つまりだな……つごもりというのは……その……つごがもるからつごもりじゃないか」
「ヘー、つごなんてものはもるもんですかねえ」
「あー、もるとも……」
さっぱりわけがわかりません。こういう人があつまるとお笑いも多いようで……
「先生、こんちわ」
「よう八つあんかい、よくきたな」
「いえ、あんまりよくもこねえんで……じつは夜逃げをしようとおもいまして……」
「夜逃げをする? おまえさんがか? そりゃあおだやかでないな。どんなわけなんだい?」
「で、相談にきたんですが、じつはね。あっしのところに女のあまっちょがいるんですがね」
「なんだよ、口がわるいな。女のあまっちょとは……娘さんのことだな」
「へえ、あいつが、近ごろ、へんなものに凝《こ》っちまいましてね」
「なんに凝ったんだい?」
「いえ、正月になると、よくやるでしょ……みんなでとぐろをまいて、ぱっぱと札をきったりして、目の前にならべると、ひとりのやつが なんとかの なんとかで……なんておかしなふしをつけてよむでしょ、すると、まわりのやつがわってんで札をふんだくりあう、あいつなんで……」
「百人一首か」
「それなんで……で、あのなかにいい男の歌があるでしょ」
「在原《ありわら》の業平《なりひら》か」
「そうそう、業平、業平……その業平の歌なんですがね」
「業平の歌といえば、千早振《ちはやぶ》る神代《かみよ》もきかず竜田川《たつたがわ》からくれないに水くぐるとはというんだ」
「それなんですよ。業平の歌は……」
「そうだろう、これが業平の歌だ。八つあんの前だが、これはだれがなんといっても業平の歌だ。そうでないというやつがいるかい?」
「いいえ、いません」
「ないだろう。もしあったら、あたしの家へつれておいで。とっくりと議論をしてやるから……それでもわからないときにははりたおす」
「らんぼうだな、どうも……じつは、その歌が、あっしの夜逃げの原因なんで」
「どうして?」
「いえね、あっしが、さっき仕事から帰ったら、うちの娘のやつが、この歌のわけを聞くんです」
「教えてやったらいいじゃないか」
「教えてやったらとかんたんにおっしゃいますがね。じまんじゃねえが、あっしにはまるっきりわからねえんで……けれどもね。わからねえっていうのもしゃくにさわるから、おれは、いま仕事から帰って疲れなおしに湯にいってくるからといって家をでたんです。まあ、こうしているうちには、あの女の子は帰っちまうだろうとおもって……ところが帰らねえや」
「え?」
「いえ、あっしの娘なんだから、ずうっと嫁にいくまで家にいるんで……そうなると、こっちは家へ帰ることもできねえから夜逃げしなくっちゃならねえとおもったんですが、かんがえてみりゃあ、歌のわけさえわかりゃあいいわけなんで、先生ひとつ教えてくださいな」
「うーん、すると、おまえさんは、千早振るという歌のわけが知りたいというのだな」
「そうなんです。どういうわけなんです?」
「どういうわけったって、あれは、その……千早振るというだろう」
「へえ」
「千早振るというから、神代もきかずときて、竜田川となる。そして、からくれないといえば、しぜんに水くぐるとはとなるだろう」
「それじゃあ、歌の文句を切れ切れにいっただけでわかりません。どういうわけなんです?」
「どういうわけといって、ばかだな、おまえは……千早振る神代もきかず竜田川……じゃないか、 千早振る神代もきかず竜田川あ……」
「なーんだ。ふしをつけたっておなじじゃありませんか。じらさないで教えてくださいよ」
「おまえさんは、この竜田川というのをなんだとおもっている?」
「わからないから聞いてるんじゃありませんか」
「いえ、しろうとかんがえに、竜田川てえのをなんだとおもう?」
「なんですかね?」
「だから、しろうとかんがえになんだとおもうよ……つまり、竜田川というから、神田川とか隅田川とかいうような川の名前だとおもうだろう?」
「そうですかね?」
「そうですかねじゃないよ、川だとおもいなよ」
「じゃあ、おもいます」
「そこが畜生のあさましさだ」
「なんだい、ひどいね。先生がおもえといったから、あっしはおもったんじゃありませんか……じゃ、いったいなんなんです? 竜田川というのは?」
「じつは、なにをかくそう相撲とりの名だ」
「へー、あんまり聞いたことがありませんね」
「そりゃあそうだ。江戸時代に活躍をした力士で、大関にまでなったというたいへんな人だ」
「へー、強かったんですね」
「強いったって、はじめから強いというわけにはいかない。この人も、相撲とりになったからには、どうにかして三役になりたいというわけで、神信心をして、五年のあいだ女を断《た》ったな。その甲斐あって大関というところまで出世した」
「へー、たいしたもんですね。やっぱり出世する人は心がけがちがいますね」
「そのうちに、ひいきはできるし、人気はあがる一方……で、ある日のこと、ひいきにつれられて、吉原へ夜桜見物だ。たださえあかりのはやいところ、両側の茶屋は昼をあざむくばかりのあかりだ。月は満月なり、桜はまっさかり、げに不夜城の名義むなしからず、じつにみごとだ。おまえに一目みせてやりたかったな」
「へえ、先生はみたんですかい?」
「わしもみない」
「なんだい、いうことがしまらねえな……で、どうなりました?」
「その当時だから、おいらん道中だ。第一番に何屋のだれ、第二番に何屋のだれと、さきをあらそい、かざりきそってでてくるのは、いずれをみても勝《まさ》り劣《おと》らぬ花くらべだ」
「たいしたもんですねえ。いい女ばかりだ」
「しかるに、第三番目にあたって、あたりを払うばかりの一文字、ひときわ目立つあですがたは、いま全盛の千早|太夫《だゆう》というおいらんだ」
「へえ、へえ」
「チャンラン、チャンラン、チャンラン」
「あめ屋がでてきましたか?」
「あめ屋なんぞでてくるもんか……これは清掻《すがが》きという三味線だな」
「へー、いろんなものがはいるんですねえ」
「あー、そうだよ。トン、トン、チンチン、チリンツ、テン、オーイ」
「へえ、なんです?」
「なぜ返事なんかするんだ?」
「だって、先生が、いま、オーイとよんだでしょ」
「呼んだんじゃない。これは三味線のかけ声だよ、……で、竜田川が千早太夫のすがたを一目みると、おもわずぶるぶるとふるえて、そのふるえが三日三晩とまらなかった」
「地震ですか?」
「だから、おまえは愚者《ぐしや》だというんだ」
「なんです? そのぐしゃという、なにかふみつぶしたようなのは?」
「おろかものだというのだ……まあ、そんなことはいい……で、竜田川のいうには、『ああ、世のなかにあんないい女があったのか。おれも男と生まれたからには、たとえ一晩でも、ああいう美人と、しみじみとさかずきのやりとりもしたいし、はなしもしてみたい』といったな。これを聞いたひいき客が、『あれは売りものだ。金を山とつめばどうにでもなる』といってかけあってみたんだが、太夫といえば、むかしは大名道具といったくらいだ。職人だの、芸人だの、相撲とりのところへはでない。それでも、竜田川、惚れた弱味でかよいつめたのだが、ずっと振られどおし……と、妹女郎《いもうとじよろう》に神代というのがいて、これが、ちょいと千早に面《おも》ざしが似ているから、この神代にはなしをつけようとしたが、神代も『ねえさんのいやなものは、わちきもいやでありんす』てんで、これもいうことを聞いてくれなかった」
「なるほどね」
「さあ、ふられつづけの竜田川は、相撲をやめて豆腐屋になったな」
「それがおかしいってんだ。なにも豆腐屋なんぞにならなくったってよさそうなもんじゃありませんか」
「まあ、いいじゃないか……竜田川の故郷《くに》の商売が豆腐屋なんだから……年老いた両親はよろこんだな。『せがれや、よく帰ってきてくれた。これからは、家でいっしょうけんめいにはたらいておくれ』『はい、これからは、親孝行をいたします』ということになった。で、月日のたつのは早いもんで、光陰矢のごとく、はや三年は、夢のごとくにすぎ去ったな。ある秋の夕ぐれどき、あすの朝の豆をひきおわって、竜田川が一服つけていると、たそかかれかの夕まぐれ、そぼろを身にまとった女乞食が竹のつえにすがって、ひょろひょろとやってきた。『二、三|日《ち》一飯《いつぱん》も口にいたしておりませぬゆえ、ひもじゅうてなりませぬ。どうぞ、お店さきの卯《う》の花《はな》をすこしばかりいただかしてくださいまし』ときた。もとより情深い竜田川、『こんなものでよかったら、なんぼでもおあがりなさい』と、おからをにぎってさしだす。『ありがとう存じます』と、うけとろうとする女乞食、見あげ、見おろす顔と顔……」
「イヨー、チャン、チャン、チャン……」
「そんなとこで浪花節の三味線をいれるなよ……で、この女乞食を、おまえさんはだれだとおもう?」
「わかりません」
「これが、千早太夫のなれの果てだ」
「どうもあなたのはなしはばかばかしすぎらあ。だってそうでしょ? 大関がすぐに豆腐屋になっちまったり、全盛をきわめた太夫が乞食になっちまったり……なにも乞食になんかならなくったっていいじゃありませんか」
「なったっていいだろ、当人がなりたいというんだから……なろうとおもえば、人間はなんにでもなれる。とりわけ乞食はなりやすい。おまえもおなり」
「いやですよ。あっしは……」
「しかし、因縁というのはおそろしいものだ。女乞食にまでおちぶれた千早が、竜田川の店さきに立ったというのもなにかの因縁だ……で、八つあんの前だが、おまえさんならこのとき卯の花をやるか、やらないか」
「あっしならやりませんね。しゃくにさわるじゃありませんか」
「そうだろう、わしもやらない」
「先生だってやりますまい」
「やらないとも……それともまた、おまえさんがやるような精神なら、もうつきあわないよ」
「だからやりませんよ。やらねえでどうしました?」
「竜田川は烈火のごとく怒った。『おまえのおかげで、おれは大関の地位を棒にふっちまったんだ』と、手に持った卯の花を地べたにたたきつけると、逃げようとする女乞食の胸をどーんとついた」
「へえ」
「ついたのが大力無双の竜田川、つかれたのが、二、三日食わずにいた女乞食だ。ぽーんととんでいったな」
「へー、どこへとんでいきました?」
「むこうに土手があった。その土手へぶつかったかとおもうと、はずみでまたとびかえってきたから、また竜田川がつきかえすと、土手へとんでいった女乞食はまた豆腐屋の前まではねっかえってきた」
「ごむまりみてえな女ですね」
「いくらかはずむ気味があるな」
「で、どうしました?」
「豆腐屋の前に立木がある。これが柳の古木《こぼく》だ」
「へえへえ……」
「で、大きな井戸がある。これは豆腐屋だからつかう」
「なるほど」
「この柳の木に女乞食の背なかがどーんとあたると、はずみがとまって、この木につかまった女乞食が、空をうらめしげにながめていたが、前非を悔いたか、残念口惜しいとおもったか、それともなんともおもわなかったか、そこのところはつきあってみないからよくわからないが、とうとう井戸のなかへどんぶりと身を投じて、はかなく息は絶えにけり、チャチャンチャンときた」
「こいつあおもしろくなってきた。じゃあ死んでうらみを晴らすとかなんとかいうんで?」
「そんなことはない。これでおしまいだ」
「そんなことはないでしょ。これから夜な夜な千早の幽霊があらわれて、竜田川をなやますという因縁ばなしになるんでしょ?」
「いや、ならない、これでおしまいだよ」
「だって、ばかにあっけないじゃありませんか。千早が井戸へとびこんでおしまいなんてのは……」
「これでおしまいなんだよ。くどいな。おまえさんてえ人は……いいかい、吉原で、千早に一目惚れした竜田川が、千早のところへかよいづめたが、とうとう振られたろ? だから、千早振るじゃないか」
「えっ? なんだい、いまのはなしはあの歌のはなしですかい? あんまり長えんで、別のはなしかとおもった」
「千早が振ったあとで、妹女郎の神代にはなしをつけようとしたが、神代もいうことを聞かなかったから、神代もきかず竜田川となる。三年後に、女乞食におちぶれた千早が、竜田川のうちの店さきへ立って、卯の花をくれ、つまり、おからをくれといったけれど、竜田川はやらなかったろう? だから、からくれないじゃないか」
「なるほど、からくれないなんぞは気がつかなかったな。で、あとは?」
「井戸へどぶーんととびこめば、水くぐるとはじゃないか」
「こりゃありくつだ。どんなに身のかるい女だって、井戸のなかへとびこめば、一ぺんぐらいは水くぐるから、水くぐるとはか……しかし、水くぐるなら、水くぐるだけで用がたりるじゃありませんか。それなのに、水くぐるとはってのはどういうわけです? そのおしまいのとはのわけは?」
「おまえさんも勘定高い男だな。とはなんてはんぱぐらいまけときなよ」
「いいえ、まかりません。なんなんです? そのとはってえのは?」
「そのとはっていうのはな……あとでよくしらべてみたら、千早の本名だった」
猫 久
馬に止動《しどう》のまちがいありとか申しまして、馬をうごかしますときには、「しっしっ」と声をかけ、とめるときには「どうどう」なんていいます。このようなまちがいは、世のなかにはいくらもあるもので、おとなしい人をみると、まるで猫のようだと申しますが、猫はそんなに上等の動物ではございません。三年飼われてその恩をわすれるというくらいのものでございますが、それでも、猫にたとえられて腹を立てるかたはすくないようで……
「いまね、君のうわさをしていたのだが、君ぐらいおとなしい人はないよ。みんなが君のことを猫だ、猫だといってるよ」
「そうですか、どうもご親切にありがとうございます」
なんて礼をいってますけども、これをあべこべに犬にたとえられて笑ってるひとはおりません。
「君はいけないねえ。恩知らずだ。義理知らずだ。まるで犬みたいだとみんないってるよ」
「なにを、この野郎!」
てんで、すぐ喧嘩になります。しかし、犬は三日飼われてもその恩をわすれないという結構な動物なんですから、おかしなはなしで……
ある長屋に、久六という八百屋さん、俗にいうお人よし、人にあたまをなぐられても、にやにや笑っているという、たいへんにおとなしい人間でございます。それがために、だれいうともなく猫久、猫久とあだ名によびますが、近所では、もう久がなくなって、猫、猫で通っております。
このおとなしい猫久先生が、ある日のこと、顔色をかえてわが家へとんで帰りまして、
「さあ、きょうというきょうは、どうしてもかんべんできねえ。相手のやつを殺しちまうんだから、脇差をだせ、刀をだせ!」
と、わあわあどなっております。
この猫久の女房というのが、ふだんからおちついた女で、とめるかとおもうと大ちがいで、すぐに立って、箪笥《たんす》のひきだしから刀をとりだし、神棚の前にぴたりと坐って、しばらく口のなかでなにやらとなえごとをいたしておりましたが、やがて、その刀を袖へあてがって、ていねいに三べんいただいて、
「さあ、お持ちなさい」
と、わたしたやつを、猫久先生、もぎとるようにしておもてへとびだしました。
それをすぐむこうの長屋でみておりましたのが、日あたりのわるいところでぼうっとそだっちまったというまことにあやしげな人物で……
「おいおい、おっかあ、おっかあ、はやくきてみろよ。おいおっかあ、はやく、はやく」
「なんだねえ、みっともない。そんな大きな声でどなるもんじゃあないよ。どうしたのさ?」
「どうもこうもねえやな。おどろいたなあ、いや、前の猫よ、あいつでもおこることがあるんだなあ。いま、まっ青な顔をしてとんで帰ってくると、『きょうというきょうは、どうしてもかんべんできねえ。相手のやつを殺しちまうんだから、刀をだせ』ていうと、あすこのうちに刀があるんだな、かみさんが箪笥のひきだしから刀を持ちだしてくると、神棚の前へ坐って、なんだかおがんでいたが、そのうちに刀を袖へあてがって、三べんばかりいただいて猫にわたしやがった。なにもわたすこたあねえじゃねえか。殺気立ってるんだから……あぶねえったらありゃあしねえ。あのかかあもかわってやがるなあ」
「いやだよ、この人は……あのかみさんがかわってるのは、きょうこのごろはじまったんじゃないよ。ずーっと以前からかわってるよ」
「そんなにかわってんのか?」
「ああ、あの女は、近所でのかわり者だよ。なにしろ朝なんか、この長屋でいちばんはやくおきるんだから……」
「へえー、女房がはやく起きると、かわってるのかなあ」
「あたりまえさ、女房のくせに亭主よりさきに起きるなんてなあ女の恥だよ」
「そんなわからねえやつがあるもんか。亭主に寝顔をみせるのは女房の恥というのは聞いたことがあるが……」
「そればかりじゃないんだよ。朝なんか井戸ばたで逢うだろう、ひとの顔をみるかみないうちに、『おはようございます』なんていやがるんだよ……いやんなっちゃう」
「なにいってやんでえ。こっちがいやんなっちまわあ。朝逢って『こんばんは』っていえば、むこうがかわってんだよ。『おはようございます』てえのはあたりめえじゃねえか。てめえのほうがよっぽどかわってんだよ。なにいってやんでえ。いやだ、いやだ……さあ、おれ、いってこよう」
「どこへいくんだい?」
「床屋へいくんだい」
「いけないよ。床屋なんかへいっちまっちゃあ、お昼のおかずは、いわしのぬただよ。味噌はこしらえといたから、いわしをこしらえとくれ。いわしを……南風《みなみ》が吹いて、ぽかときてるんだから、ぐずぐずしてると、いわしがくさっちまうよ。いわしが!」
「やかましいやい。いわし、いわしってどなりゃあがって……お昼のおかずがいわしだってえことが、長屋じゅうにわかっちまうじゃねえか」
「わかったっていいじゃないか。わかっちゃいけないのかい? お上《かみ》から、いわしを食べちゃいけないっていうお触《ふ》れでもでたのかい?」
「なにいってやんでえ、そんなお触れがでるわけがねえじゃねえか」
「こしらえとくれよ、いわしを!」
「こんちくしょうめ、まだやってやがらあ……すてちまえっ、そんなもの……おらあ、いってくらあ……あーあ、いやだ、いやだ。わりいかかあをもらうと、六十年の不作だっていうがまったくだ。一生の不作だな。あのかかあてえものは、生涯うちにいるつもりかなあ。沸湯《にえゆ》かなんかぶっかけてやろうか。うふふ、それじゃあしらみだよ、まるで……こんちわ」
「よう、熊さん、おいで」
「親方、すぐやってもらえるかい?」
「ああ、ちょうどいいや。いまこの旦那がすんじまえば、だあれもいやしねえ」
「そうかい。すぐでねえとこまるんだ。なにしろ、いわしの一件があるから……」
「なんだい、いわしの一件てえのは?」
「いや、こっちのことさ……」
「あっ、そうだ。おまえさんに聞けばわかるだろう。とうとう猫があばれだしたっていうじゃねえかい」
「おや、もうかい?」
「なんだい、もうかいってえのは?」
「いやさ、おれが、いま現場をみて、ここへくるかこねえうちに、もう知れちまうってえのは、わりいこたあできねえね。悪事千里なんてことをいうが……もっとも、あすこからここまでは千里はねえ。ようやく半丁ぐれえだから、悪事のほうも手まわしがいいや、千里のいきがけに、ちょいちょい配達してっちゃったんだね」
「へえー、で、どんなぐあいだったい?」
「どんなぐあいって、猫の顔色てえのをごらんにいれたかったね。おらあ、生まれてから、きょうぐれえ、すげえ、おそろしいとおもったこたあねえね。よく猫の眼はかわるの、猫は魔物だなんていうが、たしかにそれにちげえねえ。眼じりはきりきりとつるしあがっちゃって、口は耳までさけたかとおもうほどなんだ。火焔をふかねえばかりで、ふーっとおもてへ風を切ってとびだしたときにゃあ、おらあ、どうなることかとおもって、ぞーっと身ぶるいがでたね」
「へえー、そんなあんべえじゃあ、いまごろは、怪我人もさだめしできてるだろうね」
「ああ、死人の五、六人はうけあいだ」
このはなしを聞いておりましたのが、年のころは五十前後、でっぷりふとった、赤ら顔のりっぱなおさむらいで、いま、髪ができあがりまして、ふところからたばこいれをだして、すぱり、すぱりとやっておりましたが、
「あいや、それなる町人、手間はとらせんが、ちょっとここまできてくれんか……おい!」
「へえ、あっしでございますか、どうも旦那、相すみません。つい気がつかねえで、大きな声をだしまして……」
「いや、大きな声はかまわんが、なにやらこれにて、うけたまわれば、猫又の変化《へんげ》があらわれて諸民をなやますとやら、あるいは、人畜を傷つくとやら申すが、その猫を一刀のもとに退治してつかわす。いずれであるか、案内いたせ」
「まあ旦那、待っておくんなせえ。そりゃあとんだまちげえで、あっしのいいようがわるかったもんだから、おまちげえになるのも無理じゃあございませんが、猫、猫といいましたが、じつは、ほんとうの猫じゃあございませんので……」
「ははあ、しからば豚か?」
「いいえ、豚でもねえんで……ほら、よく人のいいやつのことを猫みたようだといいましょう」
「いかにも」
「じつは、あっしのとこのすぐむこう前に、久六てえ八百屋が住んでおりますが、ばかにおとなしいところから、あだ名を猫久といいますんで……あっしだの、ここの親方なんざあ、もう久の字をとっぱらっちまって、猫、猫でかたづけてるもんですから、旦那がおまちげえになるのももっともなんで……ところが、そんなおとなしい猫が、どこでまちげえをしてきたか、顔色をかえて、そとからとんで帰ってくると、『きょうてえきょうは、どうしてもかんべんできねえ。相手のやつを殺しちまうんだから刀をだせ』とどなると、この猫のかみさんがまたかわり者なんです。長屋じゅうきってのかわり者ですからねえ。長屋でいちばんはやく起きるんです。亭主よりさきへ……あのう……亭主よりもさきへ起きるんですけどもねえ……べつにかわっちゃあいねえだろうとおもうんですけどもねえ……それで、あの、井戸ばたで逢うと、おはようございますなんて……あっしゃあ、どうも、ここがかわってるはずはねえとおもうんですが……ともかくもかわり者にはちげえねえんですねえ。亭主が殺気立ってんですからとめりゃあいいのに、それをとめもしねえで、箪笥のひきだしから刀をだしてきましてね、神棚の前へ坐ると、なんだか、ぐずぐず口んなかでとなえていましたが、そのうちに刀を袖へあてがって、三べんばかりいただいたとおもったら、猫のやつにわたしちまったんで……ねえ、旦那、亭主が殺気立ってんだからとめりゃあいいでしょう、それをとめもしねえで刀をわたすなんて、世のなかにはかわったかかあもいるもんだてんで、さんざっぱら笑っちまったんで……まあ、旦那、はなしてえのは、こういうわけなんで……」
「ああ、さようであったか、それは、身どもとしたことが、そこつ千万であった。しからばなにか、その久六なるものは、そのほうの朋友《ほうゆう》であるか?」
「へえ、いえ、八百屋なんで……」
「いや、そのほうの朋友か?」
「……へえ、いいあんばいのお天気でございます」
「いや、天気などは聞いておらん。久六なる者は、そのほうの朋友であるか?」
「いえ、あの、あっしは大工なんで……」
「わからんやつだな。久六なる者は、そのほうの友だちであるかと申すに……」
「へえ、その……友だちで……あるかですか?」
「なにを申しておる。はっきりせんやつだな。ではなにか、その久六なる者の妻が、神前に三べんいただいて劔《つるぎ》をつかわしたるをみて、そのほうはおかしいと申して笑うたのか?」
「ええ、そうなんです。世のなかには、ずいぶんかわったかかあがあるもんだてんで、さんざっぱら笑っちゃったんで……」
「しかとさようか?」
「鹿《しか》だか豚だか知りませんけども、おかしいから笑いましたんで……」
「それに相違ないか?」
「へえ、あのう……相違ございません」
「おかしいと申して笑う貴様がおかしいぞ」
「へーえ? 貴様がおかしゅうござんすかな」
「その趣意《しゆい》をご存知なくばお聞かせ申そう。もそっとこれへ……これへでい……これへでい」
「どうも旦那すいません。いえね、旦那が猫のご親戚のかただてえことをちっとも知らなかったもんですから……いいえ、わざわざ笑ったわけじゃねんで……ついでがあったから、ほんのおしるしまでに笑いましたんで……ねえ、旦那、まあ、かんべんしてくだせえまし」
「なんじ人間の性《しよう》あらば、たましいを臍下《せいか》におちつけて、よーくうけたまわれ。日ごろ猫とあだ名さるるほどの人のよき男が、血相をかえてわが家にたち帰り、劔《つるぎ》をだせいとは、男子の本分よくよくのがれざる場合、朋友の信義として、かたわら推察いたしてつかわさんければならんに、笑うというたわけがあるか。また、日ごろ妻なるものは、夫の心中をよくはかり、否《いな》といわずわたすのみならず、これを神前に三べんいただいてつかわしたるは、先方に怪我のあらざるよう、夫に怪我のなきよう、神にいのり、夫をおもう心底、あっぱれ女丈夫《じよじようふ》ともいうべき賢夫人である。身どもにも二十五になるせがれがあるが、ゆくゆくは、さような女をめとらしてやりたいものであるな。後世おそるべし。世のことわざに、外面如菩薩《げめんによぼさつ》、内心如夜叉《ないしんによやしや》なぞと申すが、あーあ、その女こそさにあらず、貞女なり、孝女なり、烈女なり、賢女なり、あっぱれ、あっぱれ、じつに感服つかまつったな」
「うっふ……えへへへ、さようでございますかどうも……按腹《あんぷく》でござんすかねえ……つまりまあ、旦那のおっしゃることは、いただくかかあと、いただかねえかかあとどっちが本場物《ほんばもの》かてえと、まあ、いただくほうが本場物だとこういうわけなんで? へえ、ごもっともでござんす。ええ、そういわれてみますと、うちのかかあなんてものは、たいへんな場ちげえでござんすから、生涯いただけっこありません。どうもすいません、いろいろとおしえていただきまして……おいおい親方、聞いてみなくっちゃわからねえなあ、笑う貴様がおかしいわい。さにあらずだとよ」
「おい、なにをいってるんだい……どうするんだよ、熊さん、帰っちゃうのかい? あたまあどうするんだい?」
「いいよ、うちへ帰っていただかしてやるんだから、またくらあ」
「おい、いま帰った」
「いま帰ったじゃないよ。あら、いやだ、この人は……まだそんなあたまでうろうろしてて……途中でへぼ将棋かなんかにひっかかってたんだろう、ほんとにどうするつもりなのさ、お昼のおかずを……いわしだよ、いわし!」
「やかましいやい。亭主がしきいをまたぐかまたがねえうちに、もういわし、いわしってさわいでやがらあ。そんなりょうけんじゃあ、とてもてめえなんぞにゃあいただけめえ」
「なにをぐずぐずいってるんだよ。はやくおはいりよ」
「自分のうちへへえるのに、かかあに遠慮するやつがあるもんか……さあ、もうすこしこっちへこい。おめえは、さっき、猫のかみさんが、刀を三べんいただいて猫にわたしたのをみて、おかしいって笑ったろう」
「なにいってんだよ、笑ったのは、おまえさんじゃないか。おまえさんが笑いながらあたしに教えたんだよ」
「うん、しかとさようか」
「なにいってるんだよ。そうだよ」
「それに相違ないか」
「ああ、相違ないねえ」
「おかしいと申して笑う貴様がおかしいぞ」
「なにをいってんだい、どうしたんだい?」
「いや、そのご趣旨をご存知なくばお聞かせ申そう」
「あらっ、いやだよ、この人は……まあ、おまえさん、坐れるんだねえ……あたしゃあ、おまえさんと三年越し夫婦になってるけど、おまえさんの坐ったのははじめてみたよ。ちょいと、おとなりのおかみさん、はやくおいでよ、めずらしいものをみせるから、うちの人が変なかっこうして坐ったんだよ。はやくこないとひっくりかえっちまうよ」
「そうぞうしいや。だまってろい。えへん、もそっとこれへ……」
「え? なんだい?」
「もそっとこれへ……」
「おまんまかい?」
「ばかだな、てめえは……よそってくれてんじゃねえやい。もそっとこれへだよ、もっと前のほうへでろってんだ」
「なんだい?」
「なんじ、人間か?」
「やだね、この人は……みたらわかるだろう、人間だよ。だからおまえさんの女房になってるんじゃないか」
「よけいなことをいうな。なんじ人間の性あらば、たましいがさいかちの木にぶらさがる」
「なんだい、それは?」
「なんだかわからねえ……日ごろ猫久なるものは……久六で、八百屋で、どうもしょうがねえ」
「なんだかわからないよ」
「日ごろ猫久なる者は、久六で、八百屋で……ああ、そうだ、朋友であるかてんだ」
「なんだい?」
「なんだいじゃねえやい……日ごろ猫久なる者は、……そうそう、男子、男子……男子であってみれば、よくよく……よくよくのがれ……のがれざるやと喧嘩をすれば……」
「あら、そうかい、ちっとも知らなかったよ。じゃあ、ざる屋さんと喧嘩をしたのかい?」
「そうじゃないよ。のがれざるやだ」
「なんだい、その、のがれざるやてえのは?」
「のがれざるやてえのはな、ここらへくるざる屋とわけがちがうんだ。のがれざるやのほうだ。のがれざるや……のがれざるやと喧嘩をすれば、夫はらっきょう食ってわが家に立ち帰り……日ごろ、妻なる者は、女で、おかみさんで、年増だ」
「なにをくだらないことをいってんだい、ばかばかしい」
「だまってよく聞いてろい……日ごろ妻なる者は……夫の……夫のしんちゅうみがきの粉をはかりよ……ここがいいとこだぞ、いいか神前に三べんいただいたるは、遠方に……遠方に怪我のあらざら……怪我のあらざら……あらざら、あらざら、あら、ざらざらざらざらとくらあ、……夫に怪我のないように、いのる神さま、仏さま…… 妙見《みようけん》さまへ……」
「いやだよ、変な声をするんじゃないよ」
「身どもにも二十五になるせがれがあるが……」
「ばかなことをおいいでないよ。おまえさん、二十七じゃないか。二十五になるせがれがあるわけないだろう」
「あればってはなしだよ……いいか、二十五になるせがれがあるが、こういう女をかかあにしてやりてえと、あーあ豪勢《ごうせい》おどろいた」
「おどろくのかい?」
「あーあ、ここんとこはずーっとおどろくんだ。……ああ、おどろいた、おどろいた。世のことわざが外道《げどう》の面よ、庄さんひょっとこ、般若《はんにや》の面、テンテンテレツク天狗の面」
「なにやってんだい? 浮かれたりして……」
「いや、その女こそさにあらずだ。貞女や孝女や、千艘《せんぞ》や万艘《まんぞ》、あっぱれ、あっぱれ、甘茶でかっぽれ、按腹つかまつった」
「なにいってんだよ、この人は……ばかばかしいねえ」
「いいか、てめえなんぞ、おれがなにか持ってこいといったら、猫んとこのかみさんみてえに、ちゃんといただいて持ってこられるか?」
「あー、そんなこたあわけはないねえ」
「わけはねえ? ふん、てめえなんぞいただけるもんか。いつだったか、おれが喧嘩をして、出刃庖丁持ってとんでこうとしたら、てめえ、おれの腕へすがって、『よしとくれ、よしとくれ』って、ぎゃあ、ぎゃあわめきゃがったじゃねえか」
と、いっておりますと、前からねらっていたものとみえまして、猫がいわしをくわえてとびだしましたから、熊さん、腹を立てて、まっ赤な顔をして、
「こんちくしょうめっ、おいおい、おっかあ、なんか持ってこい。そのすりこ木でいいから、はやく持ってこい、こんちくしょうめ、はりたおしてやるから……おい、なにしてるんだ。はやく持ってこい」
「待っとくれよ。いま、あたしゃいただいてるから……」
と、おかみさんは、すりこ木を持って、神棚の前で、ていねいにいただいてから熊さんにわたしました。
しわい屋
倹約というものはよろしいことでございますが、その度がすぎて、しみったれ、ケチということはこまります。
だすことならば、袖から手をだすのもいやだ。口から舌をだすのもいやだという、これを俗に六日知らずと申します。どういうわけかというと、手の指を、一日、二日、三日、四日、五日とかぞえてにぎったら、六日、七日とかぞえてひらいてゆくのがいやだという、ずいぶん欲ばった人がいるもんですな。
こんなケチなかたがでてくると、はなしもたいそうおもしろくなります。
「どうもみなさんありがとうございました。いいぐあいに風むきがかわりまして、こちらはまったく被害がなくてすみました。どうもわざわざのお越《こ》しでおそれいりました。どうぞまあ一服なすって……小僧や、火がないよ。なーに、おこすことはないさ。おまえも気がきかないな。むこうがわがあんなに焼けたんじゃないか。十能を持っておきをもらっておいで……」
「へえ、いってまいります……なるほど、家で火をおこすことはないや。これだけ焼けたんだからな……えー、おむかいの旦那さん、すみませんが、おきを一ぱいください」
「なにをいってやがるんだ。てめえのほうの側はのこったが、おれのほうの側は焼けちまったんだぞ」
「お骨折りさまで……」
「ふざけるない。骨を折って焼くやつがあるもんか。おきなんか、ひとかけらでもやれるもんか。とっとと帰れ」
「帰りますよ。そんなに怒らなくてもいいじゃありませんか……へえ、旦那、いってまいりました」
「なんだ。どうして火をもらってこないんだ」
「へえ、おむかいの旦那さんのおっしゃるには、てめえの側はのこって、おれのほうの側だけ焼けたんだからやることはできねえというんで……」
「えー、なんてケチな野郎だ。もらうな、もらうな。みてやがれ。こんどこっちが焼けたって火の粉もやるもんか」
そんなものはもらわないほうがよろしゅうございます。
「小僧や、雨戸を修繕するんだから、おむこうへいって、金槌《かなづち》を借りておいで」
「へい、いってまいります……こんちわ。すみませんが、金槌を拝借させていただきたいんでございますが……」
「はいはい、お貸し申さないこともありませんが、鉄の釘を打ちなさるか、竹の釘を打ちなさるか、どちらかな?」
「へー、雨戸を修繕するんでございますから、たぶん鉄の釘でございましょう」
「それではお貸しできませんな。鉄と鉄でコチコチやられたら金槌がへっちまうから……」
「ああ、なるほど……へい、いってまいりました。旦那、貸してくれません」
「どうして?」
「へえ、鉄の釘を打つのか、竹の釘を打つのかと聞きますから、たぶん鉄の釘でございましょうといいますと、鉄と鉄でコチコチやられたら、金槌がへってしまうから貸せないということなんで……」
「えー、なんてケチなやつなんだ。じゃあしかたがない。うちのをだしてつかおう」
どっちがケチだかわかりません。
「えー、つかぬことをうかがいますが、あなたはどんなおかずでごはんを食べますか?」
「おかずですか。あたしゃ、梅ぼしをやってます」
「梅ぼしを? で、どんなふうにして?」
「日に一つずつ食べます」
「どんなふうに?」
「朝めしのときに半分いただきます」
「ふん、ふん」
「お昼にまた半分いただきます。で、晩には種をしゃぶって、それだけではたりませんから、なかを割って中味もみんないただいてしまいます」
「いや、それはぜいたくだ。日に梅ぼしが一つぶとすると、一年には三百六十五つぶだ。おなじ梅ぼしをおかずにするにしても、もっと倹約になる方法がありますな」
「どんなふうに?」
「いいですか。ごはんをよそったら、梅ぼしを食べずにじっとにらむんです」
「梅ぼしをにらむ?」
「ああ、にらむ……そうすれば、相手が梅ぼしだ。だんだんと口のなかへすっぱい水がたまってくる。そうしたら、そのいきおいでごはんを食べてしまう。こうすれば、梅ぼしはすこしもへらない」
「いや、おそれいりました。ほかにもおかずの倹約法がありますか?」
「そうですねえ、醤油でやるという手もあります」
「醤油というと、ごはんの上へ醤油をかけるという……」
「いいえ、そんなもったいないことはしません」
「どうするんです?」
「これはね、醤油がだんだんふえる方法ですがね……」
「食べながらふえますか?」
「ええ、ふえますとも……」
「どういうふうに食べますんで?」
「これはね、食事の前に醤油をどんぶりについでおく。そして、ごはんをよそったら、箸をぺろりとなめる」
「箸をなめるんで?」
「ええ、なめるんです。なめたとたんに醤油のなかへつっこむ。その箸でごはんを食べる。なめちゃあ……つっこんじゃあ食べ、なめちゃあ……つっこんじゃあ食べてるうちに、だんだんとつばきでうすくなるけれど、醤油はとにかくふえてきます」
きたないはなしがあったもんで……そうかとおもうと、たいそうケチな人がうなぎ屋のとなりへひっこしたというはなしがございます。
この人は、ひどくケチですから、ごはんのおかずを買いません。さいわいにも、となりがうなぎやですから、食事どきになると、となりで焼くうなぎのにおいをおかずに食事をするという徹底したケチでして……すると、月末になって、となりのうなぎ屋がやってまいりました。
「ええ、ごめんくださいまし。ええ、ごめんくださいまし」
「なんだい? だれだい?」
「ええ、となりのうなぎ屋で……」
「となりのうなぎ屋? なんの用だい?」
「ええ、お勘定をいただきにまいりました」
「なに? うなぎの勘定? おい、おかしなことをいうなよ。おれんとこじゃあうなぎなんか食ったおぼえはねえぞ」
「いいえ、めしあがった代金ではございません。うなぎのにおいのかぎ賃をいただきにまいったので……」
「ええ?! かぎ賃! ……うーん、やりやあがったな。えーと……うん、うん、よし、よし、いま払ってやるから待ってろよ」
てんで、ふところから金をだして、ちゃぶ台の上へチャリンとあけると、
「さあ、かぎ賃だから、音だけ聞いて帰れ」
ひどいやつがあるもんで……そうかとおもうと、こんなのもございます。
「えー、あなたの持っていらっしゃる扇子《せんす》は、どのくらいおつかいになります?」
「この扇子は、十年はつかいます」
「ほー、十年……で、どんなぐあいに?」
「半分ひらきまして、最初五年つかいます」
「ははあ」
「それがだめになったら、のこりの半分をひらいて、これを五年つかいます」
「ふーん、しかし、どうも扇子の半びらきというのはおもしろくないですね。あたしなら全部ひらきますね」
「へえ、それじゃあ扇子の痛みかたがひどいでしょう」
「だから、ひらいた扇子を手に持っていて、首のほうをふるんです」
じつにものすごいのがおりますな。
ごくケチなかたが、おたがいにケチくらべをしたというばかばかしいお笑いで……
「ええ、こんばんは……こんばんは」
「はいはい、いらっしゃい。わかりますよ。お名前はおっしゃらなくても、ちゃんと声でわかります。門口はあけてあるからおはいんなさい」
「ははあ、なるほど、門口はあけてありますな」
「そりゃあそうですよ。あたしが帰ってきて戸じまりをする。また、あなたがいらっしゃってそれをあける。そして、なかへはいってしめて、帰るときにあけて、またしめる。そんなことをくりかえしたら、戸も敷居も鴨居《かもい》もたまらない。だから、ずっとあけっぱなしです」
「なるほど、これはりくつだ。それにしてもまっくらですね」
「ああ、くらいでしょ。うちじゃあ、夜になってもあかりをつけないんです」
「どうもみあげたものですが、あなたのいらっしゃるところがわからないんですが……」
「ああ、こっち、こっち、手のなるほうですよ。手なんかいくらたたいてもへるもんじゃない。それどころか、だんだん皮が厚くなってかえっていいくらいだ。うんと厚くなったら靴でもつくろう。すこし辛抱していたら、くらやみでもだんだんとみえてくるから……」
「ああ、みえてきました。おや、こりゃおどろいた。あなた、はだかですか」
「ええ、はだかです。おもてへでるときだけ着物を着るんです」
「さむいでしょうな」
「いや、さむくなんかありません。あたしのからだへさわってごらんなさい。汗ばんでるから……」
「汗ばんでる? ……ああ、ほんとうだ。こりゃあどういうわけで? なにかまじないでも?」
「いや、まじないなんかしてませんよ。あたしのあたまの上をみてごらんなさい」
「え?」
「いえ、あたしのあたまの上をごらんなさい」
「ははあ、なにかぶらさがってますな。こりゃあなんです?」
「たくあん石」
「えっ、たくあん石がぶらさげてあるんですか? どうしてまた?」
「いまにも切れそうな細びきでぶらさげてあります。その下にあたしが坐っているでしょ。だから、いまにも細びきが切れて、あたまの上にこのたくあん石がおちてきやしないかと、いつも冷や汗をかきつづけというわけです」
「いやあ、こりゃあぶなくてとてもいられません。おいとまします」
「お帰りですか? じゃあ、あなた、これをお持ちなさい」
「なんです? これは?」
「薪です」
「薪なんか持ってどうするんです?」
「この薪で、あなたの目と鼻のあいだを力まかせにぽかりとなぐりなさい」
「ええ? この薪であたしの目と鼻のあいだをなぐるんですか? そんなことをしたら、目から火がでてしまいます」
「その火で履物《はきもの》をおさがしなさい」
「いや、たぶんそんなことだろうとおもって、じつは下駄をはかずにまいりました。あたし、はだしなんで……」
「なに? はだしできた? ……うーん、たぶんそうだとおもったから、畳をうらがえしにしておきました」
転失気《てんしき》
おならというものはたいへんに愛嬌のあるもので、とかくお笑いの種になります。
川柳なんかみましても、その季節ごとにずいぶんおかしいのがあるようで……
「馬の屁にころりと落ちた玉椿」これは春のおならで、「音も香も空へぬけてく田植の屁」これは夏のおなら、「ごめんごめんと芋食いすぎて今日の月」これは秋のおならで、「こたつから猫もあきれて顔をだし」これは冬ですが、なるほど、猫だってこたつのなかでおとされてはたまったもんじゃありません。
ある寺の住職がぐあいがわるいので、お医者さまがまいりました。
あれこれと診察をしたあとで、
「ちとこれはお腹が張っておりますな。いかがですかな、転失気《てんしき》はありますか?」
と聞いたのですが、この住職がいたって負けおしみの強い人で、わからないということがいえません。
「はい、てんしきでございますか」
「ありませんかな」
「いえ、ないこともございません」
「はあ……とにかく薬をとりにおよこしなさい。たいしたこともないからご心配にはおよびません」
「それはありがとう存じます。ただいまお薬をいただきにつかわします。どうもご苦労さまでございました」
医者が帰ると、小坊主をよんで、
「珍念や」
「へえ」
「おまえはな」
「へえ」
「てんしきというものを知っているか?」
「いいえ存じません」
「知らんではいかん。もうおまえも十三ではないか。そんなことではいかんな」
「あの……和尚さん、てんしきというのはなんでございます?」
「わしが教えては気にゆるみがあっていかん。前の花屋へでもいって、てんしきというものをみてきなさい」
「へえ、かしこまりました。……なんだろうな、てんしきてえものは……」
珍念が門前の花屋へまいりまして、
「こんちわ」
「おや珍念さん、なにかご用かね」
「あのう……こちらになにがありますか……その……てんしきが?」
「え? てんしき?」
「ありませんか?」
「いや、そのう……ないこともなかったが、先月、ねずみが棚からおっことしてこわしてしまった」
「へえ、そうでございますか。よわったなあ、じゃあありませんね」
「ああ、あいにくとな」
「そんなら和尚さまにそういいます。さようなら……えー、和尚さま、いってまいりました」
「あったか?」
「いいえ、先月、ねずみが棚からおとしてこわしてしまったそうで……」
「そうか、それはいけないな。ともかくちょっとお医者さまへいってきておくれ」
「へえ、和尚さま、てんしきというものはなんでございます?」
「わからんやつじゃ。さっきもいう通り、わしがおまえに教えるとすぐにわすれてしまう。いつでも和尚さんに教わればいいという、気にゆるみがあるからいけない。ちょうどさいわいだから、お医者さまへいったら、わしがいったといわんで、おまえの心からでたようにして聞いてみなさい」
「へえ」
「すぐにいっておいで」
「へえ、いってまいります……うーん、てんしき、てんしき……いったいなんのことなんだろうな、聞くは一時《いつとき》の恥、聞かぬは末代《まつだい》の恥というから、先生のところへいって聞いてみよう……おたのみ申します」
「どーれ……おや、だれかとおもったら、お寺の小僧さんか。さあさあ、こっちへおあがり」
「えー、先生」
「なんだな」
「あのう、つかぬことをうかがいますが、さっき和尚さまにてんしきがあるかとおっしゃいましたね」
「うむ」
「わたくしはてんしきというものを存じませんが、どんなものでございますか?」
「ああ、おまえは感心な小僧さんじゃ。知らんことを聞くに恥はない。わからんことはなんでも聞いておぼえておきなさい。あれはな、おならのことだ」
「へえー、おなら……あの、お尻からでる」
「そうじゃ」
「へえー、おならのことがてんしきでございますか。そうでございますか、へえー」
「ひどく感心しているな。『傷寒論《しようかんろん》』という本に、気を転《まろ》め失《うしな》うとある。これすなわち転失気だ。よくおぼえておきなさい」
「ありがとう存じます」
「では薬を調合してあげる。これを持っていって煎じてあげなさい」
「へえ、さようなら……あははは、これはおもしろいや。和尚さんは知らないんだ。門前の花屋さんも知らないもんだから、ねずみが棚からおとしてこわしてしまったなんていったんだ。おならをねずみが棚からおとすやつがあるもんか。あのおじさんも知ったふりをして知らないんだ。でも、先生から聞いた通りに和尚さんにいっちまっちゃあおもしろくないな。なんとかいいようがありそうなもんだな。転失気、転失気と……ああ、あるある。そうだ。なんだといったら、さかずきのことだそうでございますと、和尚さんをだましてやろう……えー、いってまいりました」
「ああごくろう、ごくろう。どうした、てんしきを聞いてきたか?」
「へえ、聞いてまいりました」
「なんだといった?」
「あのう、おさかずきのことだそうで……」
「なに、さかずき? ……うむ、そうじゃ、さかずき、さかずき、よくおぼえておけ。酒を呑《の》む器《うつわ》つまり呑酒器《てんしゆき》と書くのだ。これからは、来客のとき、呑酒器を持てといったら、さかずきを持ってこいよ」
「へへへへへ」
「なにを笑ってる。それだからものがおぼえられないのだ。いいから、あっちへいってろ」
さて、その翌日になりますと、お医者さまがまた診察にみえました。
「お住持、ぐあいはいかがですかな?」
「だいぶ気分もよろしいようで……ときに先生、きのう呑酒器があるかとのおたずねでございましたな」
「はあ、はあ」
「その節ないように申しましたが、じつはございました」
「それは結構なことで……」
「なんならひとつごらんにいれましょうか」
「いや、それにはおよびません」
「いや、ぜひともごらんにいれたいもので……おい、珍念や」
「はい」
「呑酒器を持っておいで」
「ふふふふ」
「なにを笑っている。すぐに持っておいで、いいか、三つ組のほうの呑酒器だぞ」
「三つ組の呑酒器ならば、ブーブーブーだ……へい、和尚さま、持ってまいりました」
「うん、そこへおきなさい……さあ、先生、これでございます」
「いや、おそれいりました。この桐の箱のふたをあけると、においでもしますかな」
「いや、これはよくふいて、綿につつんでありますから、においなどはいたしません」
「はあ、さようで……では拝見いたします……おや、これはみごとなおさかずきで……これはいったいどういうことで?」
「どういうことと申して……いや、それは、愚僧がたいせつにいたしております呑酒器で……」
「はあ? 異なことをおたずねするようですが、愚老のほうでは、『傷寒論』に、気を転め失うと書き、放屁《ほうひ》のことを転失気と申しますが、寺では、さかずきのことをてんしきと申しますか?」
「さよう、さかずきをてんしゅきと申します」
「どういうわけで?」
「このさかずきをかさねますと、しまいにはブーブーがでます」
出来心
落語にでてまいります泥棒は、お芝居なんかとはちがって、あまりぱっとしたのはおりません。
石川五右衛門の子分で、四右衛門、その子分の三右衛門、そのまた子分の二右衛門半なんていう、じつにだらしのないもんで……なにをやってもうまくいかないから、ひとつ泥棒でもやってみようなんてんで……でもがつきますな、だから、これを一名、でも泥といいまして、失敗ばかりやっております。
「ええ、親分、こんにちは」
「まあ、こっちへきねえ。どうしてるんだい……おめえ、仲間うちで評判がよくねえな、あれじゃあ将来まるっきり見込みがねえって……いったい、おめえはなんのためにおれの子分になったんだい?」
「へえ、将来は、親分のようなりっぱな大泥棒になろうと心掛けまして」
「まあ、心掛けは結構なんだが、なんにしても、おめえはどじだから、いまのうちに堅気になっちゃあどうだい?」
「せっかくまあ、縁あって親分子分の盃をいただいたんですから、あたしもこれからは、心をいれかえて、いっしょうけんめい悪事にはげみますから、どうかいままで通り置いてやってください」
「いや、おめえが、真人間に立ちかえって、あっぱれ泥棒稼業にはげむなら、置いてやらねえこともねえが、すこしは、おめえだって、仲間にほめられるような仕事をしてみろい」
「ええ、ですから、このあいだ土蔵破りをやりました」
「ほう、ずいぶん大きな仕事をやったな。うまくいったのか?」
「ちょうどからだがはいるくらいの穴をあけまして、そこからはいこみました」
「ふーん」
「すると、なかは草ぼうぼう……」
「蔵のなかがか?」
「石ころなんかごろごろしてまして……」
「おかしいじゃねえか」
「ひょいと上をみますと、星がみえました」
「変じゃねえか、土蔵のなかで……」
「あたしもおかしいなとおもいまして、よくよくみたら親分の前ですが、こいつが大笑い……」
「なんだ?」
「土蔵じゃなくて、お寺の練塀《ねりべい》を切り破って、墓場へしのびこんだんで……」
「ばかだな……土蔵だか、練塀だかわかりそうなもんじゃねえか」
「それが、どうも、あいにくくらくってわからなかったんで……」
「まぬけな野郎だな……だから、身分不相応な土蔵破りなんて大きな仕事でなくてもいいから、ちょいと庭でもあるような小ぎれいな家へはいってみろ」
「ええ、ですから、このあいだは、庭のあるところへはいりました」
「そうか、そりゃよかった」
「柵《さく》をのりこえてはいっていきますと、芝生があったり、花壇があったりという……」
「なかなかしゃれた庭だな」
「ええ、すこしなかへはいっていきますと、噴水がでていて、ベンチがおいてありました」
「そいつはりっぱな庭じゃねえか。いったいどこのお屋敷なんだ?」
「それが親分の前ですが、大笑い……」
「なんだ、また大笑いか……どうした?」
「日比谷公園にはいっちまったんで……」
「ばかだなどうも……公園ならば花壇があって、噴水があるのも当然じゃねえか」
「わたしもりっぱすぎる庭だとおもいました」
「だから、そんなに大きなところをねらわねえで、きちんとかたづいていて、電話の一本もひいてあるような家をねらってみろ」
「ええ、わたしもそうおもいまして、きちんとかたづいていて、電話がひいてある家へはいりました……そんな手ごろな家がおもての四つ角にあったので……」
「ほう、そんな手ごろな家が近くによくあったな……いったい何商売の家だ?」
「それが交番なんで……」
「ばか! 交番へしのびこんでどうするんだ?」
「だって、きちんとかたづいていて、電話がひいてあるんで……」
「ばか! あの電話は警察へかけるんじゃねえか……あきれたなどうも……おめえはとてもまともな盗みはできねえから、空巣《あきす》でもやってみろ」
「空巣ってなんです?」
「なんだ、泥棒のくせに空巣を知らねえのか」
「じまんじゃありませんが……」
「そんなことがじまんになるもんか……空巣というのはな、たとえば、亭主が仕事にでていて、女房が買い物にいって、ちょいと留守にしているというような家へはいることだ」
「そいつはたちがよくねえ」
「ばか……たちのいい泥棒がいるもんか……いいか、おれがやりかたをおしえてやるから、よく聞いていろ……この家は留守らしいなとおもったら、まず、ことばをかけてみるんだ」
「おたくは留守ですかって?」
「ばか、そんなことを聞くやつがあるか……ごめんくださいというんだ……それで、はいと返事があれば、なかにいるんだからだめだけれど、返事がなけりゃあ、なかへはいって仕事をやるんだ。もっとも、なかには返事をしねえで、いきなりはばかりからぬーっとでてきてとがめだてをするなんてのがいるから気をつけなくっちゃいけねえ」
「そんなときはどうします?」
「盗みをしているところをみつかったんだからしかたがねえな。そんなときには、むやみに逃げまわったりしねえであやまっちまうんだ」
「ごめんください、このつぎにはみつからないように盗みますからって……」
「そんなことをいうやつがあるか……そういうときには泣きおとしという手をつかうんだ……盗んだものはみんなそこへだして、まことに申しわけございません。長いあいだ失業しておりまして、七つをかしらに三人の子どもがございまして、六十五になるとしよりが長のわずらい、医者にかけることもできません、貧の盗みの出来心でございますと、涙でもこぼして、あわれっぽく持ちかけてみろ。ああ、出来心じゃあしかたがねえってんでゆるしてくれるだろうし、うまくいけば、銭のすこしもくれるやつがいるかも知れねえ」
「くれねえときは、親分がくれますか?」
「ずうずうしいことをいうなよ……しかしいまいって聞かせたことがみんなわかったか?」
「ええ……つまりですね……ごめんくださいとことばをかけて、返事がなかったら留守だから仕事をするんだし、返事があればいるんだから、どうも申しわけありません。貧の盗みの出来心で……」
「おいおい、まだ盗まねえうちから名のりをあげるやつがあるものか。もし返事があったら、そこはしらばっくれてものをたずねるんだ」
「現在の国際情勢をいかがおかんがえですかかなんか……」
「いきなりそんなことをきけば、気狂いとまちがわれらあ……そんなときには、人の家でもたずねるふりをするんだ……いいか、こんなふうにきいてみるんだ……何丁目何番地はどのへんになりましょうか? この近所に、なに屋なに兵衛さんてかたはいらっしゃいましょうか? てな調子にやってみろ……相手が知ってても、知らなくてもいいから、なにかいったら、ありがとうございますと礼をいってでてくればいいんだ」
「ああ、そうすれば泥棒とわからないわけだ……では、さっそくでかけますから、ふろしきを貸してください」
「どうするんだ?」
「盗んだものをつつんできます」
「どうせ盗みにいくんだから、むこうのふろしきでつつんでくればいいじゃねえか」
「でも、返しにいくのがめんどうですから……」
「ばか! 返さなくてもいいんだ」
「それでは義理がわるい」
「なにをいってるんだ、まぬけめ! はやくいけ!」
「では親分、空巣ねらいにでかけます!」
「大きな声をだすんじゃねえ。そっとでかけろ」
「では、いってきます……えー、少々うかがいます」
「おーい、となりからやるんじゃねえ。町内をはなれろ」
「あははは……さすがの親分も、となりは気がさすとみえるな、町内をはなれろといったな……では、はなれたところで……このへんはどうかな? ……えー、ごめんください、ごめんください」
「おーい」
「へい、へい」
「そこは、空家《あきや》だよ」
「空家ですか……なるほど、造作つき貸し家と紙がはってあらあ」
「貸し家さがしか?」
「いいえ、留守さがしで……」
「留守さがし? ……変な野郎だな」
「そうみえますか」
「あやしい野郎だ」
「ごもっともさまで……」
「なんだと、この野郎……」
「さようなら……空家はまずかったなあ……人が住んでいねえんじゃあ盗みようがありゃあしねえや……この家はどうかな? ……えー、ごめんください」
「はい」
「さようなら」
「おい、気をつけなさいよ、おかしいのがうろついてるから……下駄でもなくならないかい」
「やれ、やれ……下駄泥棒なんかとまちがわれちゃあしかたがねえや……あわてたからいけなかったんだな。ごめんください、はい、さようならっていえば、だれだってあやしむよ……こんどはぐっとおちついて、むこうのようすをうかがわなくっちゃいけねえや。どうしようかな……ごめーんくださーい、しょーしょーものーをうかがいますとゆっくりきいてやろう……では、この家でやってみようかな」
「ごめんくださーい」
「はい、なんのご用ですか?」
「おや、そこにおいでになりましたか」
「ええ、さっきからここにすわっておりましたよ」
「それはあいにくでした。いつごろお留守になります」
「留守にはしません」
「それは用心のいいことで……では、またお留守のころにうかがいます。さようなら」
「なんだい、あいつは……」
「いけねえ、いけねえ、目の前にすわっていたとは気がつかなかったな。なかなかうまくいかねえもんだ……えー、ごめんくださーい」
「あいよ」
「あれ、この家もいるんじゃねえか。たまには留守の家ぐらいあったっていいじゃねえか」
「なんだい、ひとりでぐずぐずいっていて……なんの用だい?」
「えー、ちょいと、ものをうかがいますが……」
「なんだ」
「ええ、何丁目何番地というのはどのへんでございましょうか?」
「なんだと?」
「いえ……その……あの……なに屋なに兵衛さんのお宅はどちらで? ……」
「なんだと、この野郎、おかしなことをいいやがって、てめえは気狂えか」
「いえ、よろしいんです。もうわかりましたから……」
「なにがわかったんだ。何丁目何番地で、なに屋なに兵衛だなんていっていてわかったなんて……まごまごしてるとはりたおすぞ。いってえなにがききてえんだ?」
「いえ、……あの……その……このあたりにちょうちん屋ぶら右衛門というおかたはいらっしゃらないでしょうか?」
「ちょうちん屋ぶら右衛門? そんなまぬけな名前知るもんか」
「へえ、あたしも知らない」
「なにを!」
「さよなら……わー、おどろいた、おどろいた。あぶなくはりたおされるところだった。しかし、とっさの場合とはいいながら、ちょうちん屋ぶら右衛門とはよくでたもんだな。これからは、みんなこれでいこう……やっ、この家はすこしあいてるじゃねえか。ごめんくださーい、少々うかがいまーす……お留守でしょうか? ……泥棒がはいりかかってますよ、……ぶっそうですよ……戸じまりはしっかりしなくてはいけませんね……はばかりからでてきて、バアなんてのはいけませんよ……しめ、しめ……いないんだ、ほんとに……こうなればこっちのもんだ。あがっちまおう……あれ、いい長火鉢だ。けやきだな。いまどきめずらしいじゃねえか……湯がわいてらあ、いい鉄びんだ、南部かな……そうだ。ここでぐっとおちつくことだ。お茶でもいれるか……うーん、いいお茶だ。口がおごってるな……なんだい、このいれものにはいってるのは……うーん、いいようかんだ。いいようかんはいいけれど、ずいぶんうすく切りゃがったな。けちな野郎だ。これで数をよけいにみせようってんだ。よし、敵がそういう卑劣な手段をもちいるならば、こちらは計略のウラをかいて、三切れいっぺんに食うという手をもちいて……あー、うまいようかんだ。こいつあいいや……」
「おーい、だれか下にきているのか?」
「ううっ、くーっ……すみません。ようかんがのどにつまっちゃったんで……ちょっと背中をたたいてください……くるしい……」
「こうか……どうだ……」
「あっ、なおりました。どうもご親切さまにありがとうございます」
「ありがとうございますって……いったいおめえはだれだ?」
「いえ、二階にいらっしゃったとは、ちっとも気がつきませんで……」
「そんなことはどうでもいいが、いったいだれなんだ、おめえは?」
「少々ものをうかがいます」
「ふざけるなよ。ものをきく人間が、人の家へあがりこんで、ようかんを食うってはなしがどこにあるんだ」
「そうですね、ちょいとおかしなはなしで……」
「ちょいとおかしいもねえもんだ……いったいなにを聞きてえんだ?」
「この近くにおいでになりますまいなあ」
「だれが?」
「いえ、あの……そのう……そんなかたはいるはずはありませんよねえ」
「いるはずがねえって、ひとりできめるない。いったいだれのことだ?」
「へえ、あの……ちょうちん屋ぶら右衛門さんなんで……」
「そうかい、そんならそうとはやくいえばいいじゃねえか。ちょうちん屋ぶら右衛門はおれだよ」
「ええっ、あなたが? そんなことはないでしょ」
「なにをいってるんだ。おれがぶら右衛門だよ」
「いいえ、あなたでないぶら右衛門なんで……もっといい男のぶら右衛門」
「なにを!?」
「よろしく申しました」
「だれが?」
「あたしが……」
「なんだ、ふざけるな!」
「さよなら……いやあ、おどろいたね、どうも……世のなかにはまぬけなやつもいるもんだ。ちょうちん屋ぶら右衛門だなんて……でもまあいいや、ようかん食っただけもうけもんだ……あっ、いけねえ、買いたての下駄ぬいで逃げてきちまった。ようかん食ったぐらいじゃあわねえや、どこで損するかわかりゃあしねえ……逃げたはずみで、なんてまあうすぎたねえ長屋へまよいこんじゃったろう……おや、この家はすこしあいてるぞ……まあ、いいや、留守らしいからはいってみよう……あんなところへ越中ふんどしを干したりして、きたねえ家だなあ、まあいいや、これでも盗まねえよりいいから、いただいとこう……キンがはいるなんて縁起にもならあ……やっ、七輪に土なべがかかってなにか煮てるな、なんだろう……おじやだ……いや、どうもしけてやがらあ、こんなもの食ってるようじゃあろくな品物はないな……でも、ちょいと小腹がすいてるから、一ぱいだけいただこうか……うん、この茶わんで……うん、空腹にまずいものなしというけれど、こいつはなかなかうめえや……うん、うめえ、うめえ……」
「ああ、どうもおとなりのおばさんお世話さま。え、だれもこなかったって……そうかい、どうも、それは……」
「こりゃたいへんだ。帰ってきやがった。おじや食ってる場合じゃないぞ……さあ、どこかへ逃げなくっちゃあ……そうだ、裏をあけて……と、おや、いけねえ、これはゆきどまりで逃げられねえじゃねえか。しかたがねえ、この踏み板あげて縁の下へもぐっちまおう……さあ、こまったことになったぞ……」
「あれ、となりのおばさんはだれもこねえなんていってたけど、おかしいな、大きな足あとがいくつもあるじゃねえか……いけねえ、泥棒がはいったんだ……しかし、かんがえてみればどうってことはありゃあしねえや。家にはなんにもあるわけじゃねえんだから……あれ、おれの越中ふんどしを持っていっちまったな。けちな泥棒じゃねえか……あっ、おまけにおじやを食っちまった。なんてまあがつがつした野郎なんだ……だが、待てよ。こいつは案外救いの神かも知れねえぞ。大家さんにいいわけのタネができた。ありがてえことになったもんだ。大家さんとこへ持っていこうとしていた店賃《たなちん》を盗まれましたといえば、まさかそれでもよこせとはいうまい。そうだ、そうだ、大家さんをよんでこよう……大家さーん、大家さーん、はやくきてくださいよう、たいへんですよう、泥棒ですよう、泥棒がへえったんで……大家さーん、泥棒ですよう、大家さん、泥棒大家……」
「なんだ、なにが泥棒大家だ」
「いえ、いま、大家さん、泥棒がはいりましたといおうとしたら、はいりましたをぬかしたんで泥棒大家……」
「そんなものをぬかすな……え、なに? おめえのところへ泥棒が?」
「そうなんで……」
「なにか置いてったか?」
「まさか……泥棒ですから、持っていきました」
「おめえの家でも、なにか持っていかれるようなものがあったか」
「ええ、いくらあっしの家でもね……それに、友だちがこっちのほうへ越してくるんで、その荷物もあずかっていたんで……」
「そんなものがあったのか。では、まあ盗まれたかも知れねえな」
「まったく弱りました。それにね、大家さんとこへ持ってくつもりの店賃も盗《と》られちまったんで……どうか店賃のところは、ひとつお待ちねがいてえんで……」
「うん、そりゃあまあ、盗まれたならしかたがねえ、待ってやるから……」
「しめたな」
「なに?」
「いえ、こっちのことで……では、もう結構ですからお帰りください」
「なにいってるんだ。警察へ盗難届けというものをださなくてはいけねえ。ちょうど紙と筆を持ってるから、盗まれたものをいってみろ。ここへ書いてやるから……」
「いいえ、よろしいんで……」
「よろしくないんだよ。あとで警察でうるさいんだから……この届けさえだしておけば、あとで品物がでてきたときにもどってくるんだから……だからいってみなよ。なくなった品物を……」
「どうもこまっちまったなあ……じゃあ、越中ふんどしが一本……」
「ばかだな。そんなものを盗難届けに書けるもんか。もっと重々しいものをいってみろ」
「そんなら、たくあん石が二つ」
「ばか……目方が重いというんじゃねえや。もうすこし金目のものはなかったのかときいてるんだ」
「金目のものねえ……どうでしょう、金の茶釜なんてのは……」
「金の茶釜? ……そんなものがあったのか?」
「いいえ、ねえから盗られねえ」
「盗られねえものなんかどうしていうんだ」
「大家さんの顔を立てて……」
「そんなよけいなことをいってねえで……いったいなにを盗られたんだ?」
「なにを……っていわれるとよわるんですけれど、泥棒ってものはどんなものを持ってくもんでしょう?」
「そんなことをおれが知るもんか……」
「たとえば、大家さんの懇意《こんい》にしている泥棒ならどうです?」
「そんなものがいるもんか……しかし、まあ、ちょいとしたところで着類あたりかな」
「ああ、杉の丸太かなんか……」
「その木類じゃねえ、着るものだよ」
「それなら夜具ふとんなんで……」
「ずいぶん大きいものを持ってったな……きっと二人組か三人組だな……で、どんなふとんだ?」
「いえ、おかまいなく……」
「おかまいなくじゃねえ……いったいどんなふとんだ?」
「上等のふとんで……」
「だから、ものはなんだ? 表はなんだ?」
「表は米屋と八百屋がならんでます」
「表通りのことをきいてるんじゃねえ。ふとんの表の布地だ」
「大家さんとこでよく干してあるやつとおなじなんで……」
「ありゃあ唐草だ。べつに上等じゃねえ……まあいいや、表は唐草だな。で、裏はなんだ?」
「裏はゆきどまりです」
「この路地をきいてるんじゃねえ。ふとんの裏だよ」
「大家さんとこのは?」
「うちのは、丈夫であったけえんで、花色木綿だ」
「うちでも、丈夫であったけえようにそれなんで……」
「裏は花色木綿と……何組だ?」
「一年三組」
「一年三組? なんのことだ?」
「となりの金坊の学校のはなし」
「そんなことをきいちゃいねえよ。ふとんが何組あったんだ?」
「五十組」
「五十組?! そんなにこの家へはへえるかい?」
「いえ、表のふとん屋にあるんで……」
「ふとん屋なんかどうでもいいや。おめえの盗られたのは何組なんだ?」
「何組にもなんにもあっしが寝るだけなんで……」
「じゃあ一組じゃねえか……それからあとは……そうだな、やわらかものなんかなかったか?」
「へえ、やわらかものということについては、けちな泥棒で、せっかくつくっておいたおじやを食っていきました」
「おいおい、そのやわらかものじゃねえんだ。つまりまあ絹物で、たとえば羽二重《はぶたえ》とか……」
「ええ、羽二重が盗られました。羽二重といえば、なんといっても黒羽二重です」
「黒羽二重なんて持ってたのかい? ふーん、紋付きだな……紋はなんだ?」
「モンは雷門《かみなりもん》」
「そうじゃねえ。着物の紋だ。これなんか品物がみつかったときのいい目じるしになる。紋はなんだ?」
「おけつのようなものが三つついてます」
「おけつのようなものが三つ?」
「大家さん、うちの先祖はおわい屋ですかねえ?」
「そんなことを知るもんか。うん、それはかたばみだな」
「うわばみですか?」
「うわばみってやつがあるか。かたばみだ。で、裏はなんだ?」
「裏は花色木綿」
「おいおい、羽二重の裏に花色木綿をつけるやつがあるか……あとは?」
「帯です」
「帯か……なんの帯だ?」
「岩田帯」
「おいおい、だれか子どもでもできたのか?」
「熊公んとこのめす犬が……」
「犬が岩田帯をしめるか……ほんとうにどんな帯をとられたんだ?」
「はだか帯」
「それをいうなら博多帯だ」
「ええ、裏が花色木綿」
「なんだと……帯に裏なんかあるもんか。帯|芯《しん》にでもつかったんだろう」
「そうなんで……芯は花色木綿」
「夏物なんかなかったか?」
「夏物は、うちわに蚊取り線香」
「ばか、その夏物じゃねえ。着るものだ」
「へえ、大家さんがよそへいくときよく着てゆきますね」
「あれは上布《じようふ》だ」
「へー、わからねえもんだ。年はとってもこの道ばかりは別だね」
「なんのはなしだ」
「いいえ、情婦といえば、色女がいるんですか、大家さんに…… 年はとっても浮気はやまぬ、やまぬはずだよ先がない……コリャコリャ……なんて、どっかへいこうか」
「なにいってるんだ。着物の上布のことだ」
「あっしも上布なんで……裏が花色木綿」
「おいおい、上布に裏をつけるやつがあるもんか」
「丈夫であったかくて、寝冷えしねえ」
「いい年をしてなにをいってるんだ……あとはなんだ?」
「あとは、かやが一枚」
「かやは一|張《はり》というんもんだ。大きさはどのくらいだ?」
「ええ、一人前」
「一人前? 天ぷらかなんかあつらえてるようだな……まあ、五六ぐらいだろう」
「裏が花色木綿」
「ばかなことをいうな。かやに裏をつけるやつがあるか」
「丈夫であったかくて寝冷えしねえ」
「まだほかに盗られたものは?」
「箪笥」
「箪笥なんか持ってったのか……ふーん、こりゃあやっぱり二人組とか、三人組とかいうやつだな。で、たんすは、総桐《そうぎり》か、三方桐か?」
「夕霧《ゆうぎり》」
「おいらんの名前をきいてるんじゃねえ……総桐か?」
「そうぎりをかいちゃあ、人間の道にそむく。だから総桐」
「気どるなよ……総桐と……あとは?」
「鉄びんがひとつ」
「うん、鉄びんか、南部か?」
「さあ、いくらでしたか……」
「なんぼかときいたんじゃねえ、南部鉄びんかといったんだ」
「そうなんで……裏は花色木綿」
「鉄びんに裏をつけるやつがあるもんか」
「丈夫であったかくて寝冷えしねえ」
「あきれてはなしになりゃあしねえ……あとはまだあるか?」
「あとはお札《さつ》です」
「お札か……」
「裏は花色木綿」
「札に裏をつけるやつがあるかい」
「あはははは」
「なんだ? だれだ? 笑いながらおかしな野郎が縁の下からでてきたじゃねえか……いったい何者だ、おめえは?」
「あははは、あんまりばかばかしいじゃねえか。さっきから聞いていれば、なんでも裏が花色木綿だってやがらあ……おまけに札にまで裏がついてるなんて……あはははは、笑わせるない」
「この野郎、縁の下なんかからはいだしたところをみると、てめえは泥棒だな」
「おや、大家さんですか。いえね、あっしは泥棒にはちがいねえけど、この家には、なんにも盗《と》るもんなんかありゃしねえ」
「なにも盗らなくったって、ひとの家へしのびこめば泥棒じゃねえか……ふざけた野郎だ。警察へつきだしちまうぞ」
「あっ、いけねえ、親分が教えてくれたのはここのところだ……ええ、どうも申しわけありません。なにしろ、長いあいだ失業しておりまして、六十五をかしらに三人の子どもがございまして、七つのとしよりが長のわずらい……」
「なにいってるんだ。あべこべだろう」
「そのあべこべを医者にかけることもできません。……ほんの貧の盗みの出来心で……ここで、涙のひとつもこぼして、あわれっぽく持ちかけるというわけなんで……出来心じゃしかたがねえとゆるしてくれて、銭のすこしもくれますか?」
「だれが銭なんかやるもんか……まあ、しかし、なにもまだ盗られたわけじゃなし……うそにもせよ、出来心というんだからゆるしてやってもいいが……それにしても八公のやつも八公のやつだ。おい、八公、おめえのところにこんなに盗られる品物があるはずはねえとおもってたんだ。うそばかりいいやがって……おい八公」
「へい」
「この野郎、こんどはてめえが縁の下にもぐろうってのか。はやくこっちへこい」
「へえ、どうもかわりあいまして……」
「なんだ、落語家みたようなことをいって……おい、八公、いま、この泥棒にきいてみりゃあ、なにも盗っちゃあいねえそうじゃねえか……それを、ふざけやがって……どうしてあんなうそばかりならべたんだ?」
「へえ、大家さん、これもほんの出来心でございます」
湯屋番
古い川柳に、「居候《いそうろう》置いて合わずいて合わず」というのがございます。
なるほど居候というものは、置いて合わないわけですが、また、いるほうにしましてもあまり居心地のいいものではございません。
「居候しょうことなしの子|煩悩《ぼんのう》」「居候たばという字をよけてのみ」「居候三ばい目にはそっと出し」なんてえのは、まことにしおらしい居候ですが、なかには「居候泰然として五はい食い」なんていうずうずうしい居候がおりまして、どうにもあつかいにこまることになりますが、なかでもこまるのは、「出店迷惑様付けの居候」というやつで、こういうのには置いとくほうで居候に遠慮しなければなりません。お出入りの職人が、お店の若旦那が道楽がすぎて勘当されたのをあずかるなどというのはめいわくなもので……
「どうするんだよ、お前さん」
「なにを?」
「なにをじゃないよ。二階の居候だよ。いつまで置いとく気なんだい」
「うん、よわったなどうも……」
「ほんとうにどうするのさ」
「しかし、おまえはそういうけれども、あの人のおとっつあんに、おれは、むかしずいぶん世話になったからなあ。あのひとが勘当になっていくところがないっていうのにみてみぬふりもできねえじゃねえか。当分のあいだというんで、二階へ置いてあるんだから、まあ、すこしのことはがまんしなよ」
「おまえさんは世話になったかどうか知らないけれど、あたしにはかかわりがないんだからねえ……ほんとうにあんなに無精《ぶしよう》な人はありゃあしない。一日中ああして寝たっきりなんだから……そのくせめしどきになると、二階からぬうっとおりてきて、おまんま食べちまうと、また二階へあがって寝てしまうんだからあきれちまうよ。掃除したことなんかないもんだから、きたないったらありゃあしないよ。あんまりなんにもしないから、若旦那、あなたは縦《たて》のものを横にもしないんですねっていったら、じゃあその長火鉢を横にしようかだって……しゃくにさわるったらありゃあしない。おまえさんは好きでひっぱってきたんだからいいけれど、あんな人がいつまでいるんなら、あたしゃあでていくよ」
「おめえは二言目《ふたことめ》にはでていく、でていくというけれど、どうしてそうわからねえんだよ。女房を離縁してまでも居候をおくというわけにはいかねえからな……いいや、まあなんとかはなしをしよう。しかし、おめえがそこでふくれっつらをしていたんじゃあぐあいがわるいから、となりのおばさんのとこへでもいってこい。おいおい、いくんならたばこを持っていけよ。お先きたばこをしなさんな。あんまりまたぺらぺらしゃべりなさんなよ。しずかにでていけ。相手がなけりゃあ、障子とけんかしてやがらあ。あきれかえったやつだ……うちのかかあもうるせえにはちげえねえが、なるほど、二階の若旦那も若旦那だ。よく寝るじゃねえか。何時だとおもってるんだ。もう昼すぎだってえのに、よくもこうぐうぐう寝られたもんだなあ。もし、若旦那、おやすみですかい。ちょいと、若旦那」
「なーに寝ちゃいないよ」
「起きてるんですかい?」
「起きてるともつかず、寝てるともつかず……」
「どうしてるんで?」
「枕かかえて横に立ってるよ」
「やっぱり寝ているんじゃあねえか。ちょっとはなしがしてえんですが、おりてきておくんなさいな」
「急用かい」
「大いそぎですよ」
「じゃあ電報でも打ってよこしなよ」
「なにをふざけたことをいってるんです。はやくおりていらっしゃいよ」
「あいよ、おりるよ、おりるよ……はい、おはよう」
「おはようたって、あなた、何時だとおもってるんです」
「おまえもいままで寝ていたのかい?」
「じょうだんいっちゃあいけません。もうとっくに起きて、用たしをすませて帰ってきたところですよ」
「起きてる者が寝ている者に時をきくとはこれいかに?」
「問答やってちゃいけません。はやく顔を洗いなさいよ」
「洗うよ、洗いますよ。猫だって顔を洗うんだから、いわんや人間においておやだ……しかし、顔を洗うったっておもしろくないね。道楽をしている時分には、女の子が、ぬるま湯を金だらいへくんで、二階へ持ってきてくれる。口をゆすいで、いざ顔を洗うという段になると、女の子がうしろへまわって、たもとをおさえてくれるし、万事ゆきとどいていたっけ……それにひきかえて、こりゃあなんだい、バケツで顔を洗うんだから……ここのうちだって洗面器ぐらい買ったらいいじゃないか。第一不衛生でいけないよ。ぞうきんをしぼったあとで顔を洗うなんてえのは、まことに不潔きわまりない。こうやってバケツに顔をつっこんでると、まるで馬がなんか食ってるようじゃないか」
「若旦那、あなた、いつまでバケツにぐちをこぼしてるんです。はやく顔を洗っちまいなさいよ」
「もう洗ったよ」
「洗ったよって、あなた、顔をふかないんですか」
「ふきたい気持ちはあるんだけどね、このあいだ手ぬぐいを二階の手すりへかけておいたら、風でとばされちゃったんだ。それからというものは、顔はふかない」
「どうするんです?」
「おてんとうさまのほうをむいてかわかすんだよ。お天気の日にはかわきがはやい」
「だらしがねえな、どうも……手ぬぐいをあげますから、これでおふきなさい」
「ああ、ありがとう。やっぱり顔はかわかすよりもふいたほうがいい気持ちだ。ちょいと待っとくれ」
「あれ、さんざん朝寝をしておいて、手をあわせておがんでらあ。なにをおがんでるんです?」
「なにをおがむって、きまってるじゃないか」
「なにが?」
「朝起きれば、おてんとうさまへごあいさつするのがあたりまえだ」
「おてんとうさまをおがんでるんですか?」
「そうだよ」
「もう西へまわってますよ」
「え、東にいない? それじゃあ、お留守見舞いだ」
「口がへらないね、どうも……まあ、くだらねえことをいってないで、お茶がはいったからおあがんなさい」
「ああ、ありがとう。朝、こうしてお茶を飲むのはいいもんだ。朝茶は、その日の災難をよけるなんてえことをいうくらいだから……さっそくいただこう……うん、だけど、もうすこしいいお茶だといいんだがなあ……まずいお茶だね、こりゃあもらいものだね、お葬式《とむらい》のおかえしかなんかだろう。それにお茶うけがなんにもないっていうのはなさけないな。せめて塩せんべいでも……」
「いろんなことをいいますね、あなたは……」
「ああ、どうもごちそうさま。では、おやすみなさい」
「なんです。おやすみなさいって……いいかげんになさいよ。じつはね、あたしだってねえ、こんないやなことはいいにくい、いいたくもない」
「そりゃあそうだろ、あたしも聞きたかあない」
「それじゃあはなしができないじゃありませんか」
「へへ、おやすみなさい」
「なんですよ、またおやすみなさいだなんて……じつはね、いま、よそから帰ってくると、うちのやつがなにかというもんですから……」
「わかった、わかったよ。つまり、おかみさんが、あたしのことについてぐずぐず文句をいったわけだ」
「いえ、あたしのとこのお多福だってわるいにはちがいありませんが……」
「ちょっとお待ち、お多福だって……そういっちゃあわるいけれど、お多福というのは、ああいうきりょうじゃありませんよ。俗におかめといって、もっと福々しくって愛嬌のある顔がお多福だ。おまえのおかみさんは、やせて、頬骨がつきでていて、どっちかといえばお多貧乏という顔だ」
「なにもそんなにわるくいうことはないでしょう」
「いいたかあないが、もののついでだからいうが、全体なにかい、あのかみさんをいいとおもって持ってるのか、わるいとおもって持ってるのか、それがうかがいたいね」
「いいにもわるいにも、かかあのことはどうでもようござんす」
「どうでもよくはないよ。じつにどうも、あのかみさんてえものは、どうしてああ意地がわるいんだろう。ときどきおまえさんに文句をいってることも二階で聞いて知っているよ。あいだにはいっておまえさんがこまることもわかっちゃあいるんだから、あたしもできるだけ手助けをしたいとおもうけれども、いかにしても意地がわるいね。たとえば、水をまいてもらいたいとおもったら、徳さん、水をまいておくんなさいといえば、あたしだって、ハイといってまきますよ。それをいいつけもしないで、嫌味《いやみ》をいうんだからね……バケツのなかへひしゃくをいれてガンガラ、ガンガラかきまわして、こう風がふいちゃあ火事でもあったらたいへんだ。第一ほこりが立ってしかたがない。ご近所では、若い人がみんな水をまくからいいけれど、家には若いひとがいたって、まいてなんかくれないんだからと、からだをゆすぶっていやにすねるんだが、どうもあのかみさんはすねるってがらじゃないね、おなじすねるんでも、もっといい女なら色っぽくていいけれど、あのきりょうじゃあね……だから、あたしだってしゃくにさわって水もまきそびれちまうってわけだ。そのあとがまたいけないね。こんどは、みそこしへいくらかお銭《あし》をいれて、ガラガラふって、おとうふのおみおつけをこしらえたいんだけれど、だれかおとうふを買ってきてくれないかしらとこういうんだ。いうことが皮肉じゃないか、だれかったって、うちには猫とあたしだけしかいないんだよ。まさか猫がみそこしさげてとうふを買いにいくわけはないじゃないか。しかたがないから、あたしがおとうふ買ってきましょうといって、みそこしを持って家をでたんだけれど、路地の入り口のところに近所の娘さんたちがあつまって、なにかはなしをしてるじゃないか。その前をみそこしをさげて通るってのはあんまりかたちのいいもんじゃあない。どうしょうかとしばしかんがえていると、いつもまわってくるとうふ屋がきたから、そのとうふを一丁買って家へはいろうとしたが、さてこまった」
「どうしたんです?」
「おまえのかみさんてえものは、どういうわけだか、売りにくるとうふが気にいらない。売りにくるとうふはやわらかくっていけない、横町のとうふ屋のがかたくっていいっていうんだが、おかしな性分だね。まあこんなわけだから、売りにきたとうふを買いましたといっちゃあ帰れない。そこで、しかたがないから横町までいって買ってきたふりをするんだが、それには時間がかからなくっちゃあいけない。どこで時間をかけようかなとおもったんだが……こういうときには知恵のでるもんだ。それを持って共同便所へはいった」
「きたないね、食いものを持って便所へはいっちゃあ」
「時間をはかって、おかみさん買ってきましたというと、これはまわってくるとうふ屋のじゃあありませんか。いえ、横町へいって買ってきました。うそをおつきなさい、横町のとうふと売りにくるとうふとでは一目みればわかりますといってたが、あれでとうふのめききだけはたしかなもんだ。まあ買ってきたものならしかたがないからって、ゆうべつくったおつけの実がそのとうふだった」
「えっ! 共同便所で休憩したとうふ」
「そう……おまえがうまい、うまいって、おかわりしてたっけ」
「じょうだんじゃあないよ。きたないなまったく……ねえ、若旦那、あなたもいつまでもうちの二階でごろごろしててもしょうがありませんから、どうです? ひとつ奉公でもしてみようなんて気持ちになりませんか」
「ああ、奉公ね、奉公もいいだろうな、安心しておまんまが食えるから……」
「なんです、あなた、いやなことをいいなさんな。それじゃあまるで家でめしを食べさせないようじゃありませんか」
「いや、食べさせなくはないよ、食べさせてはいるよ。まあ死なないまじないに」
「変なことをいいますね、なんです? その死なないまじないってのは?」
「おまえはなんにも知らないんだよ、仕事にはやくでかけちまうから……あたしがおまんまを食べようとおもうと、若旦那お給仕しましょうってんで、おかみさんがお給仕にでてくるんだが、あんまりありがたくないね。居候としては、お給仕つきってえのは食いにくいもんだよ。でもしかたがないからおねがいしますというと、おかみさんのお給仕がすごいね」
「すごいって、どうすごいんで?」
「大きなどんぶりに水がなみなみと張ってある。そのなかにしゃもじが浮いてるんだ。で、おはちのふたをぱっととると、そのぬれたしゃもじでおまんまの上をぺたぺたぺたぺたっとたたくね。たたきめしののしめしだ。平《たい》らになったところを上っかわをすーっとそぐんだよ。そいつを茶わんをもってって、きゅーっとこくのさ。みたところはいっぱいあるようだよ。ところがなかはがらんどうだ。これすなわち地下鉄めしだね、宇都宮|釣天井《つりてんじよう》めし、本多|謀叛《むほん》のめし、家光公暗殺のめし……」
「口がわるいな、ひどいことをいうね」
「これへお茶をかけてごらん、あーらかなしや、雪に小便ちょんちょろりん、お茶づけさくさくてのはあるけれど、お茶づけさあ……これでおわりだ。二はいめのお給仕をたのむと、若旦那、お茶ですか? ご膳《ぜん》ですか? ときくね。一膳めしは食うもんじゃあないてえから、おまんまをくださいといってもらうんだが、これも前とおんなじだ。お茶づけさあでおしまい。三ばいめにお給仕をたのむと、これが情けない。若旦那、お茶ですか、お湯ですか、水ですか、なんですか、どうしますかというんだが、おまんまてえことがひと言《こと》もない。しかたがないから、お茶をくださいとがぶがぶやってみるが、どうもあれは腹へたまらないね。腹はだぶつくんだが、すぐに腹がへっちまう。そこで、うらの清元の師匠のところへいって、おまんまをもらって食うことになる」
「こまるねえ、そんなことをされちゃあ、家でめしを食わせないなんてことが評判になって……」
「いや、そんな、おまえの顔をつぶすようなまねはしないから安心おし。師匠が洗濯してたから、そのうしろへいって、げえ、げえってやってたら、あらどうしたのってきくから、じつは魚の小骨がのどへひっかかって……ことわっておくけど、おまえんとこで魚なんか食わしたことはないよ。ああ一度あったっけ、それも目ざしにかびのはえたやつ……あんなものは猫だって横をむいちまうぜ、ニャンてひどい魚だって……まあ、それにしてもたった一ペんきりだ。でも、そういったんだよ、魚の小骨がのどにひっかかってとれないでこまってます。象牙《ぞうげ》の撥《ばち》でなでるとすぐとれるといいますから、お師匠さん、すみませんがまじないにつかうんです。象牙の撥を貸してくださいというと、師匠はもともと象牙の撥なんか持ってないものだから、あら、そんなことをしなくったって、おまんまのかたまりをチョイとのみこめば、すぐとれますよっていうから、じゃあすみません、おまんまのかたまりをいただきたい、お勝手にあるからおあがんなさいときた。こいつはありがたい、計略図にあたったとおもって台所へとびこむと、大きなお鉢があったから、ふたをぱっととってみると、おまんまがいっぱい、白くぴかぴかっと光ったね。ああありがたいとおもうと、おもわず感涙にむせんだ」
「しょうがねえなあ、そんなとこで感涙なんぞにむせんじゃあ」
「それから大きな茶わんへてんこ盛りによそって、水をかけといて、夢中で三ばいばかりかっこんだ。四はい目をよそろうとすると、師匠がはいってきて、あらいやですよ、お茶づけじゃあいけませんよ、かたまりをのむんですよというから、ああそうですかてんで、赤ん坊のあたまぐらいのおむすびを三つこしらえて食べた」
「どうも若旦那、めしをもらってあるくのはこまるなあ。……いや、わかりました。うちのかかあがそんなまねをしましたか。ちっとも知りませんでした。よござんす、おたくの旦那にはずいぶんお世話になったんですから、うちのかかあをたたきだしてもあなたのお世話はしますから……」
「おいおい待ちなよ。おかみさんをたたきだすというのはおだやかじゃないよ。まあ、これであたしさえいなけりゃあ、もめごともおこらないんだから、おまえのいうように奉公へいこうよ。で、どこなんだい? その奉公さきってえのは」
「そうですか、おいでになりますか。場所は小伝馬町ですがね、あっしの友だちが桜湯という銭湯をやってまして、そいつがあまり丈夫でねえし、若いかみさんひとりで手がたりねえから、奉公人がほしいといってますんで……どうですか、銭湯は?」
「ほう銭湯……ふーん……すると、女湯もあるかい?」
「そりゃあ女湯もありますよ」
「うふふふふ、いこう、いこうよ」
「気味がわるい笑いかただな……では手紙を書きますから持ってらっしゃい」
「そうかい、ありがとう。小伝馬町の桜湯だね……とにかく女湯があるってえのはありがたい……ああ、そうかい。この手紙を持っていけばいいんだね。じゃあいってみよう。おまえのうちでもずいぶん世話になったねえ」
「いいえ、お世話てえほどのことはできませんでしたが……」
「うん、そりゃあまあそうだった」
「なんだい、ごあいさつですねえ……まあ、はじめての奉公でつらいでしょうが、ひとつご辛抱なすって……あなたがまじめにはたらいていらっしゃれば、大旦那のおゆるしもでるでしょうから、つらくても辛抱してやってください」
「ああわかったよ……おかみさんがいないようだが、ひとつよろしくつたえておくれ。そうだ、世話になったお礼といっちゃあなんだが、おまえのうちへなにか礼をしたいなあ」
「礼なんざあよござんすよ」
「いや、なにか礼をしたいね。そうだ、どうだい、十円札の一枚もやろうか」
「そんな金を持ってるんですか?」
「いや持っていないから、気持ちだけをうけとって、そのうち五円をあたしにおくれ」
「ばかなことをいいなさんな」
「あははは、ではでかけるよ……どうもあの親方はいい人なんだが、かみさんがよくねえからな……しかし、人間の運なんてわからねえな、銭湯へ奉公することになろうとは……だが待てよ、さっき聞きずてならねえことをいってたな……その桜湯の亭主という男があまり丈夫でなくて、若いかみさんひとりだなんて……うふふふ、こいつは運がむいてきたな。おれが奉公にいくと、まもなくその弱い亭主がぽっくり死んで、おれがあとへなおるということになる。すると、その若いかみさんなるものがばかな惚れかたをするねえ。ねえ、あなたあ、なんて甘い声をだすよ……ねえ、あなた、きょうはおやすみですからどこかへゆきましょうよとくるね……そうだな、では動物園へでもいくか……ってのは色っぽくないな……どこへいこうかな。そうだ、芝居なんかいいな……ふたりで手をつないででかけるよ……ねえ、あなた、ほんとうによく似てますわ。なにが? いいえ、あなたの横顔が先《せん》のにそっくり……これがおもしろくないねえ。先の亭主に似ているなんざあくやしいじゃないか……だから、おれだって怒ってやるね……ふん、おもしろくもない。なにかっていうと先のご亭主のおもいでばなしだ。どうせそうだろうよ。あたしよりも先のご亭主のほうが大事なんだろう。いや、そうにちがいない。しかし、そういうことをいうってことは水くさいよ。おまえというものは、まったく水くさい、じつに水くさい」
「おいおい、みてごらんよ。おかしなやつがあるいているぜ。なんだい、あいつは……ひとりでけんかなんかして……どうしたんだろう、水くさい、水くさいって……うふふふ、水くさいわけだ。水ったまりに片足おっこってるじゃねえか」
「ああつめたい。なんだ、水たまりへおちてしまった……ああ、いけない、桜湯を通りこしちまった。もどらなけりゃあ……ああ、ここだ、ここだ……へえ、こんちわ」
「いらっしゃい。あ、あなた、あなた、そっちは女湯ですよ」
「え?」
「いえ、女湯です」
「えへへへ、あたし女湯好きです」
「好きだってこまりますよ。どうぞこちらへおまわりを……」
「いえ、こちらへご厄介になりたいんですが……」
「ご厄介になりたい?」
「ええ、神田の大工熊五郎方からまいりましたんで……この手紙をごらんになってください」
「手紙を? どれどれ……うん、ああ、ああ、わかりました。このあいだちょいとはなしをしたんですがね、奉公人を世話してくれって……ああおまえさんか、熊五郎のうちの二階にいるというのは……道楽をしすぎて勘当になったんだってね……そうかい、おまえさんが奉公しようということになったのかい。しかし大丈夫かね、辛抱ができるかしら? 名代《なだい》の道楽者だというけれど……」
「いえ、名代なんてことはありませんよ。ただあたしは、芸者衆にとりまかれて、一ぱいやりながら、あらお兄《にい》さん、そんなとこさわっちゃいやようなんて、膝をきゅっとつねられるのが大好き」
「なんだい、あきれたなあ。そんなで奉公ができるのかねえ」
「奉公するつもりできたんですから、どうかよろしくおねがいします。さっそくなにかやらせてくださいよ」
「そうだねえ、いちばんはじめは、まあ、たいてい外まわりだねえ」
「外まわり……よう結構、さっそくやらせてもらいましょうか」
「若い人は、たいていいやがるがねえ」
「いいえ、どういたしまして……外まわりとくりゃあうれしゅうございますから……ちょっとしゃれた洋服を着て、札束をカバンにつめて、赤坂、新橋のきれいどころを二、三人もつれて、日本各地の温泉をまわってくるという……」
「おいおい、じょうだんいっちゃあいけないよ。そんな外まわりがあるもんか」
「へえ、ちがいますか……では、なんですか、その外まわりってえのは?」
「車をひっぱって普請場《ふしんば》へいってね、木くずだの、かんなっくずだのをもらってくるんだ」
「ああ、あれですか。がっかりさせるなあどうも……汚《きた》な車をひいて、汚なはんてんに汚な股ひきで身をかため、汚な帽子をかぶりの、汚な手ぬぐいの頬かぶり、汚な草履をはくという」
「ずいぶん汚ないのをならべたねえ」
「あいつはごめんこうむりましょう。あれは中村歌右衛門のやらねえ役ですから……」
「そんなことをいってたら、あとはやることなんかありゃあしないよ」
「ではどうです? 流しやりましょう。女湯専門の三助ということで……」
「女湯専門なんてのがあるもんか。流しだってむずかしいんだよ。ただ客の肩へつかまってりゃあいいってもんじゃないんだから……とても一年や二年じゃあものにならないな」
「そうですか? では、その番台はどうです? 番台ならみえるでしょ?」
「みえる? なにが?」
「なにがだなんてしらばっくれて、ひとりでみていて……ずるいぞ」
「なんだよ、この人は……ここは、なにしろあたしか家内のほかはあがらないところなんだから……しかし、あなたは身元がわかっているから、あがってもらってもいいけれど、番台なんてなかなかたいへんなところだよ。夜になると、目がまわるほどいそがしくなるし、昼間はまた、いやに退屈でたまったもんじゃない」
「いいですよ、退屈ぐらいのことは……ねえ、やらしてくださいよう、ねえ、たのみますよう」
「しょうがないなあこの男は……ではこうしよう、いま、あたしが昼めしを食べてくるから、そのあいだだけ、かわりにここへ坐っておくれ」
「ありがとうございます。そうときまれば、あたしがあがるから……さあ、はやくおりてください、はやく、はやく」
「なにをするんだよ、つきとばしちゃあいけないよ。いまおりるから……目のいろをかえて……あきれた人だ」
「へえ、どうもすいません。では、ゆっくりと召しあがって……あ、それからちょいとうかがいますが、お昼のおかずはどういうもんですか?」
「お昼のおかず? そんなことをきいてどうなさる?」
「いえ、どうっていうことはありませんけれど、たのしみですから……ねえ、どんなおかずで?」
「そうさなあ、たしか鮫《さめ》の煮つけじゃなかったかな」
「鮫の煮つけ?! ……いや、どうもあいつはあまりうまいもんじゃあありませんねえ。そうだ、お手数かけちゃあいけませんから、うなどんを一つあつらえてもらいましょうか」
「ふざけちゃいけないよ、奉公人にそんなものを食わせていられるかい。まあ、とにかくまちがいのないようにやっておくれよ」
「へえ、へえ……いってらっしゃいまし、ゆっくりと召しあがってらっしゃい……えへへへ、そのうちにてめえが死んで、女房がおれのものになるとは知らないで、鮫のおかずで昼めしを食うとは、なんてまぬけなやつだろう……しかし、ありがたいねえ、いっぺん番台へあがってしみじみとながめたいとおもってたんだが……ええ、問題の女湯は……なんだ、ひとりもはいっていやしない、おどろいたねえ。それにひきかえ、男湯ははいってるなあ、一人、二人、三人、四人、五人、六人、七人……ふーん、七尻《しちけつ》ならんでるよ。なんだい、あの三番目のは……なんてえきたねえ尻をしてるんだ。あれは自分の毛かなあ、すごい毛だなあ……たまには刈りこんだらいいのになあ、あれがほんとうのふけつてんだ。あれあれ、あいつは湯のなかへもぐってらあ、ひゅーっと水を吐いて、鯨《くじら》だなあまるで……こっちのやつは、また、むやみにやせてるなあ、胸なんかまるでブリキの湯たんぽだ。しゃものガラだよ……いやだなあ、男とつきあいたくないねえ。こいつらがでちゃったら、入り口を釘づけにして男をいれるのをやめて、女湯専門の銭湯というやつにしてしまおう、男の尻なんかながめていたっておもしろくないや……こうやってるうちに、いまに女湯もこんでくるよ。くる客のなかには、おれをみそめる女がでてくるよ。『あら、こんどの番頭さんはほんとうにいきな人じゃないの』なんてんで……どういう女がいいかなあ、娘はいけないや、わかれるときに、死ぬの、生きるのと、ことがめんどうになるからなあ。といって、女中や子守っ娘《こ》はこっちでごめんこうむるし……そうだ、後家《ごけ》なんかどうだろう、後家とくると、こっちも小づかい銭にはこまらないからなあ。しかし、後家も三十二、三ぐらいなら色っぽくていいけれど、六十、七十とくると世話がたいへんだなあ……そうだ、芸者衆なんかいいねえ、一流のねえさんになると、湯にくるったって、ひとりじゃこないよ、女中をつれてこのお湯へやってくる。番台をちらっと横目にみて、隅へいったかとおもうと、女中とひそひそばなしがはじまるね、こんどの番頭さん、ちょいとおつだねえなんて……しかし、ここが思案のしどころで、むやみににやにやしちゃあいけないよ、なんてにやけてていやな男だろうなんていわれないともかぎらないからなあ、かといって、まるっきり知らん顔もできないから、たまにはお世辞に糠袋《ぬかぶくろ》のひとつもやろう、まあ、ありがとう、たまにはおあそびにおいでなさいなとくりゃあしめたもんだ。さっそくあそびにいって、お家を横領して……糠袋ひとつでお家を横領ってわけにはいかないかな。なにかいいきっかけはないかしら……うーん、そうだ、ある日のこと、休みの日に、そこの家の前を知らずに通りかかるなんてのがいいな。女中がおもてに水をまいてるなんてところかな……『あら、ちょいと、お湯屋の兄さんじゃございませんの』『おや、お宅はこちらでしたか』『ねえさん、お湯屋の兄さんですよ』と奥へ声をかけると、ふだんから惚れてた男だからたまらないや、こう泳ぐようにしてでてくるねえ。『まあ、よくいらっしゃいましたねえ、きょうはどうなさいましたの?』『ええ、釜が損じて早じまい』……あんまり色っぽいせりふじゃないなあ、なんかいいのがないかしら……そうそう、母の墓参なんてのがいいや。『まあ、お若いのに感心なこと。いいじゃありませんか。さあ、おあがりあそばせよ』『いえ、お宅をおぼえましたから、またあらためてうかがうことにして……』『いいじゃありませんか。ちょいと、あなた、こっちへおあがりになって……』女は惚れた男にいかれちゃいけないから、いっしょうけんめいにひっぱるよ。『ねえ、あなた、おあがりあそばせよ』『いいえ、また後日あらためて……』『そんなことをいわずにおあがりを……』『いいえ、そのうちに……』『おあがりを』」
「え、なに? あの番台の野郎だよ。みてごらんよ。おあがり、おあがりって、てめえの手をてめえでいっしょうけんめいにひっぱってるぜ。おい、おかしなやつが番台へあがったもんだなあ」
「おもしろいから、洗わねえで、番台みてよう」
「せっかくおあがんなさいとすすめられて、ふりきって帰っちまうわけにもいかないからあがることにしよう。『では、せっかくのおすすめでございますから、おじゃまをいたします』『あら、うれしいわ。清や、おしたくを……』いったかとおもうと、酒肴の膳がはこばれてくる。女は、盃洗《はいせん》の猪口《ちよこ》をとると、『あの……おひとついかが?』『はい、ありがとうございます』といって、飲むことになるんだが、この飲みかたがむずかしいなあ。むやみに飲めば、この男は飲んべえだよ、こんな飲んべはきらいだよってんで、ずどーんと肘鉄《ひじてつ》を食っちまわあ。女が飲める口だと、この男はお酒も飲めないんだねえ、はなせないやつだねえってんで、ずどーんと肘鉄……こまっちまうなあ、ここんとこは、不得要領《ふとくようりよう》にしておこう……『ありがとうございます。わたくし、お酒は、くださいますればいただきます。くださいませんければいただきません。難渋《なんじゆう》な親子のものが……』それじゃ乞食だよ……そのうちに世間ばなしに花が咲くてえやつだ……あんまりしゃべってばかりいると、女がいうねえ、『あら、さっきからおはなしばかりしていらしって、おさかずきがあかないじゃありませんか』こういわれると、こっちも飲みはじめるねえ。おれがぐいと飲んでゆすいだやつを『へい、ご返盃』てんで、かえして酌をする。むこうが飲んで、ゆすいで『ご返盃』とこっちへくれるやつを、おれが飲んでゆすいでむこうへやる。むこうが飲んでおれにくれたさかずきを口につけようとすると、女がすごいことをいうよ……『あら、いまあげたおさかずきは、ゆすいでなかったのよ。それをあなたはご承知なんでしょ?』……女がじいっとおれをみつめる。また、その目の色っぽいこと……ううっ、弱ったなあ……弱った、弱った」
「なんだい? あの野郎、弱った、弱ったって、ひとりでおでこたたいてさわいでやがらあ……おもしれえから、もうすこしみてようじゃねえか」
「そのうちに、おたがいにだんだんと酔いがまわってくる。こうなると、このまま帰るのもあっけないなあ……そうだ、雨がふってくるなんてのはいいね、やらずの雨というやつだ。『あら雨がふってきたわ。もうすこしあそんでいらっしゃいな。そのうちにやむでしょうから』……てんで、ひきとめられるんだが、これがなかなかやまないよ。それどころか、だんだん本ぶりになってくる……そのうちに、雷がなりはじめる。ガラガラガラ、ガラガラガラッ、ガラガラガラッ……『清や、かみなりだよ、こわいから蚊帳《かや》をつっとくれ』……蚊帳をつると、女中はむこうへいってしまう。女は蚊帳へはいると、おれをよぶね、『こっちへおはいんなさいな』『いいえ、あたしはよろしゅうございます』……あつかましい男だとおもわれちゃいけないから、ひとりで手酌でちびりちびりやっている。雨はますますひどくなる。そのうちにかみなりがおちるなんてえのもいいな……しかし、あんまり近くにおちると、こっちも目をまわしちまうから、ほどのいいところへおちてもらいたいねえ……ガラガラガラガラガラッ、ピシリッとくると、女はびっくりして歯をくいしばって目をまわしてしまう。しかたがないから、おれが蚊帳をまくってなかへはいる。女を抱きおこして水をやるんだが、歯をくいしばっているんだから、盃洗の水を口うつしということになる、てへへへ、わーい」
「なんだい? 変な野郎じゃねえか、あの野郎、番台でおどってるぜ……おいおい、留さん、どうしたんだ、おめえ」
「なにが?」
「なにがって……鼻のあたまから血がでてるぜ」
「うん、あの野郎が変な声をだしておどってやがるから……それにみとれて、手ぬぐいとまちがえて軽石でこすっちまった」
「ばかなまねするなよ、つらがすりきれちまうぜ」
「口うつしの水がのどを通ると、女は気がつくねえ。目をうっすらとあけて、おれの顔をみあげてにっこり笑うんだが……そうだ、ここからのせりふは歌舞伎調でいきたいね……『もしねえさん、お気がつかれましたか』『いまの水のうまかったこと』『いまの水がうまいとは……』『雷さまはこわけれど、わたしのためにはむすぶの神……』『そんならいまのは空癪《そらじやく》か……』『うれしゅうござんす、番頭さん……』」
「なにいってやんでえ、ばかっ!」
「あいたっ、いたいよあなた、いきなりぽかりとくるなんて……」
「ばか、まぬけ、気ちげえ……なにがうれしゅうござんすだ。おらあ帰るんだ、帰るんだ」
「ああ、お帰りください、どうぞご遠慮なく」
「ご遠慮なくったって、おれの下駄がねえじゃねえか」
「おや、あなた、下駄をはいてきたんですか?」
「あたりめえじゃねえか」
「はいてきた下駄がないとはこれいかに?」
「なにがこれいかにだ……てめえが番台でくだらねえことをしてやがるから、犬でもくわえていっちまったんじゃねえのか」
「犬が? あなたの下駄を? そんなことはありますまい。このへんの犬はみんな衛生を重んじてますから、あなたの汚ない下駄なんかくわえていくもんですか」
「なんだと……汚ねえ下駄とはなんだ。ふざけんなこの野郎、どうしてくれるんだ、おれの下駄を」
「なんですよ、あなた、からす天狗が霧をふくようにくちばしをとんがらかして……」
「なんだ、からす天狗が霧ふくたあ……」
「わかりました、わかりましたよ。大きな声をしちゃあいけませんよ。下駄があればいいんでしょ……じゃあ、むこうの下駄をはいてらっしゃい」
「どの?」
「むこうの隅の本柾《ほんまさ》の下駄……あれは安くありませんよ。鼻緒《はなお》だって八幡黒《やわたぐろ》の上等だし……あれをはいていらっしゃい」
「おめえの下駄か?」
「いいえ、ちがいますよ」
「なんだと?」
「あたしの下駄じゃありませんよ。だれかなかへはいってるお客さんのです」
「それじゃあ、おれがはいて帰ったら怒るだろう」
「怒ったっていいですよ、怒ったら順にはかせて、いちばんおしまいの人ははだしで帰しますから」
まんじゅうこわい
十人よれば気は十色ということをもうします。
人間は顔かたちのちがうように、お気性《きしよう》もちがいます。
もっとも、それぞれ心持ちがちがうからよろしいので……はやいはなしが、ここにおいでのお客さまがたが、みんなおなじ心持ちだということになるとたいへんで……おひとりがはばかりへお立ちになると、みんなあとからぞろぞろいってしまうなんてのはこまるものですからな。
「さあ、さあ、みんなこっちへあがってくれ。入り口に立ってると、あとの者がつかえてはいれねえから、ずっとはいってくれ。ざぶとんは三枚しかねえから、うらみっこなしにみんななしにしよう」
「ええ、こんちわ」
「こんちわあ」
「よう、こんちわ」
「みんなあがってくれたかい」
「ああ、あがったけれど、いったいなにがあったのだい?」
「なにがってほどのことはねえけれど、じつは、おれの誕生日なんだ」
「たんじょうび? なんだい、それは?」
「おれがうまれた日だよ」
「うまれた? おめえが? ……うそだろう」
「うそじゃないよ。うまれたんだよ、二十六年前に……」
「でも、ぼうふらなんか、どぶのなかからわいてくるぜ」
「ぼうふらなんかといっしょにするなよ」
「まあ、いいじゃねえか、そんなことは……で、どうなるんだい、おれたちをよんでおいて……一ぱいやろうっていうのかい?」
「はじめはそのつもりだったんだが、みんなけんかっ早いし、けが人でもでたらこまるから、それで酒はやめちまったんだ」
「じゃあ、どうするんだい?」
「だから、酒はねえけれど、湯はたっぷりわかしてあるから、みんなで好きなだけ子どものころのはなしでもして、のどがかわいたら茶をのむという寸法なんだ」
「おやおや、からっ茶のんでむかしばなしかい、色っぽくねえな」
「子どものころっていえば、留公は泣き虫だったな。ちょっとさわっただけで泣きだしちまって……」
「いまじゃつよくなったぜ。さわっても泣いたりしねえから……うそだとおもうならさわってみろ」
「ばか、いい若え者がさわったぐらいで泣くやつがあるものか」
「泣き虫といえば、金ちゃんはいやに臆病だったな。むやみにへびをこわがったりして……いまでもこわいかい?」
「ああ、へびときいただけでぞーっとしてくらあ」
「そうかい、そんなにこわいか」
「大きらいだ。へびをみると足が前へでないくらいだ」
「虫が好かねえってやつだな」
「まあ、うそかほんとか知らねえが、おふくろのはなしだと、なんでも、胞衣《えな》(胎児を包んでいる膜および胎盤臍帯などの総称)を埋めたところを、いちばんさきに通ったものが虫が好かねえそうだ。だから、きっと金ちゃんの胞衣を埋めた上をへびが通ったんだな」
「いや、へびばかりじゃないね。うなぎも通った。どじょうも通った。みみずも通った」
「ずいぶん通ったねえ、長いものばっかり……」
「ああ、だからおれは長いものはみんなだめだ。食いものだって、そばがだめ、うどんがだめ……とにかく長いものはどうもいけない……だから、ふんどしもしめねえ」
「きたねえなあ、いくら長くたって、ふんどしぐれえしめなよ……それにしても、虫が好かねえってのはふしぎなもんだ。そのとなりはなにがこわい?」
「おれは蛙《かえる》だね」
「蛙なんかこわいわけはあるめえ」
「ところが蛙をみると、からだがすくんじまう」
「じゃあ、おめえの胞衣の上をいのいちばんに蛙が通ったんだ」
「松ちゃんはなにがこわい?」
「おれはなめくじ」
「へびに蛙になめくじじゃあ虫拳だな」
「勘ちゃんはなにがこわいんだい?」
「あり」
「あり? あんな小さな虫がかい?」
「ああ、ありがあつまると、なにかこそこそと相談するようなかっこうするだろう、あれがこわい」
「へーえ、かわってるな、勝ちゃんはなにがこわい?」
「おれはくも」
「ああ、あれは気味がわりいや……義ちゃんは?」
「馬だね」
「馬? 馬なんか虫じゃねえじゃねえか」
「でも、こわいね、馬は……おれは、あのでっかい鼻の穴へすいこまれちまうかとおもうと、もう死にそうになっちまうんだ」
「ふーん、そんなもんかな……おい、熊さん、おめえは、さっきから、おれたちの顔をみながらたばこばっかりのんでいるが、いったいなにがこわい?」
「なにを!」
「なにがこわいんだよ」
「なにをぬかしやがるんだ、この動物めら」
「これはおそれいった。動物めらはひどいね」
「ひどいもくそもあるもんか。さっきからだまってきいてりゃあだらしがねえじゃねえか。人間は万物の霊長といって、いちばんえれえんだぞ。それがなんだってんだ。へびがこわい、蛙がこわいだってやがら……人間やめちまえ……それに、ありがこわいとはなんてえやつだ。おれなんか、赤飯食うときに、ごまがないとなると、ごまのかわりにふりかけて食っちまわあ……もっとも、ごまがかけだしやがってすこし食いにくいけれど……それに、くもがこわいとかいってたな。だらしがねえじゃねえか。くもなんかどこがこわいんだ。おれんちじゃあ、なっとう食うときに、くもを二、三びきつかまえてきて、なっとうのなかへほうりこんで、きゅうきゅうかきまわしちまうんだ。そうすると、なっとうが糸をひいてうめえことこの上なしだ。それに、義公は馬がこわいだと……べらぼうめ、馬なんかからだはでかいけれど、気のちいさい動物だ、こわいことなんかあるもんか。それに、食ったって、桜肉といってうめえじゃねえか。四つ足なら、おれはなんでも食っちまうぞ。きのうも、おれは四つ足ならなんでも食うぜといばったら、おどろいたね、こたつやぐらを持ってきやがった。さあ、四つ足だから食えというから、おれもまけずにいってやった。おなじ四つ足でも、こういうあたるものは食わねえ」
「なんだい、とんだところでおとしばなしをやってやがる。それにしても、つよいねえ。ほんとうにこわいものはないのかい?」
「こわいものなんかあるもんか。一つもないよ」
「かんがえたら、一つぐらいあるだろう」
「うるせえな。ないといったらないよ。まごまごすると、かたっぱしからはりたおすぞ」
「まあ、そうおこるなよ。みんなで子どものころをおもいだして、むかしばなしをしてあそぼうというんだ。そんなにとんがらかるなよ。おめえだって人間だ、なにかこわいものが……」
「しつっこいな。せっかくおれがおもいだすまいとおもっていたのに、とうとうおもいださせやがって……そりゃあおれだって、まるっきりこわいものがないわけじゃないよ。しかし、これをうっかりいうと、末代までの恥辱《はじ》になるから……」
「いうことが大げさだよ。末代までの恥辱だなんて……いったいなにがこわいんだよ」
「いわないよ。それをいうと、おめえたちが笑うから……」
「笑わないよ」
「笑うよ」
「なに、笑うものか。なんだか白状しねえな」
「じつはね、おれはまんじゅうがこわい」
「まんじゅう? そんな虫がいたかな?」
「虫じゃないよ。食うまんじゅうだ」
「食うまんじゅう? うそだろう」
「ほんとうだよ」
「へーえ、まんじゅうがね……それじゃあ、まんじゅうが胞衣の上を通ったのかね」
「まんじゅうがあるくわけはねえじゃねえか。まんじゅう持ったやつかなんかが通ったんだろう」
「とにかく、おれは、まんじゅうをみると、ぞーっとなって、ふるえがとまらないんだ」
「すると、唐まんじゅうなんか……」
「ああいうねだんの高いものは、いちばんこわいんだ」
「そうかねえ、そばまんじゅうなんぞは?」
「よせよ。人がこわいといってるのに……おれは気持ちがわるくなったからもう帰るよ」
「なるほど、顔の色がかわってきた。しかし、おい、お待ちよ。せっかくみんなあつまってるのに、おまえひとり帰っちまったらさびしくていけねえ。どうだい、奥の六畳で一やすみしねえか。そのうちに気持ちがよくなるだろう」
「そうか。では、すこしのあいだ寝てみよう」
「いいとも、奥で寝ていなよ……どうだ。みんなこっちへよれよ。おかしなやつがいるじゃねえか。まんじゅうがこわいだってやがらあ……ところで、それについて相談だが、ひとつあいつをおどかしてやろうじゃねえか、さっきもさんざんくそいばりにいばったりしてしゃくにさわるから……どうだい、みんなで銭をだして、まんじゅうを買ってきて、あいつの寝ているまくらもとへずっとならべておいて、野郎をおこしてこわがらせようというのはどうだい?」
「おもしろいことはおもしろいけれどね……なにしろ、まんじゅうときいただけで顔色がかわったぐらいだから、ほんもののまんじゅうをみたら死んじまうよ」
「死んだっていいやな。生きてたって、どうせ国家のお役に立つというしろものじゃあるまいし……」
「でも、まんじゅうで殺すのはよくないよ」
「どうして?」
「まんじゅうで殺して暗(餡)殺だなんて……」
「変なしゃれをいってるんじゃないよ。まあ、いざとなれば医者があらあ。さあ、まんじゅうを買ってこようじゃねえか」
ということになって、みんなまんじゅうを買ってきました。
「さあ買ってきたぞ」
「なんだい、ものは?」
「そばまんじゅうだ」
「おい、おれも買ってきたぞ。財布ひっぱたいて……それ、唐まんじゅうだ」
「唐まんじゅうか、こいつはいいや。野郎は、これをいちばんこわがってやがった。あとは、勝ちゃんか、なんだい? おう、酒まんじゅうか。こいつはおつだ。留さんは? 栗まんじゅうか。……おあとは、くずまんじゅうか……そっちは? ……中華まんじゅうか……さあ、さあ、このいちばん大きなお盆にのせて、野郎の寝ている枕もとにおこうじゃねえか……おれが、そうっとおくからな。おっとっと、あとをしめちゃいけないよ。野郎をゆりおこしといて、おれがぱっとにげるんだから、にげそこなったらたいへんなことになるんだよ。もしも野郎がこれをみて、あたまがおかしくなっちまって、おれののどぶえなんかへ食いついてみろ、まんじゅうで暗(餡)殺されるのはこっちになっちまうんだから……さあ、いいか、おこすよ……熊さん、熊さん、ちょいとおきてごらん……おきてごらんよ……おれは逃げるけれど……」
「え? ……なんだい? ……おう……おきるよ……あーあ、よく寝ちまった。このところ寝不足がつづいたもんだから、横になったとたんに寝こんじまって……あーっ! まんじゅう! うわー、まんじゅうだ! たいへんだ、たいへんだ! たすけてくれ!」
「しめしめ、熊公のやつ、まんじゅうみてふるえてやがらあ。ああ、ありがてえ。いい気持ちだ。ざまあみやがれ」
「ああ、たいへんだ。こわい、こわい……おれがこわいっていうまんじゅうを、こんなにいっぱい枕もとにならべて、ああこわい、こわい……ああ、唐まんじゅう……こういう高いものは、こわいからまっさきに消えてもらわなくては……中は……わあ、いいあんこだな……こわい、こわい……ああ栗まんじゅう……うわあ、こわい、こわい……わあ、そばまんじゅう……すこし古いとみえて、皮までこわい、こわい……」
と、熊さんはまんじゅうを食べはじめました。
「おいおい、おまえだけのぞいて、ひとりでたのしんでちゃあいけないよ。なかで、ずいぶんこわがってる声がするけれど、まんじゅうみて、野郎、気でもおかしくなったんじゃねえのかい?」
「すこしようすがおかしいんだよ。野郎、こわい、こわいとふるえながら、まんじゅうを食ってるぜ。ほんとうに気でもちがったんじゃあ……あっ、しまった。一ぱい食っちゃった。いや、食っちゃったんじゃねえ……食われちゃった。ばかにした野郎だぜ。やい、熊公、あんまりばかにするない! てめえ、こわいどころか、まんじゅうをむしゃむしゃ食いやがって……みんなもこっちへおはいりよ……まったくずうずうしい野郎だ。てめえが、まんじゅうがこわいというから、みんなで財布ひっぱたいて買ってくりゃあ、いい気になって、むしゃむしゃ食いやがって……」
「ああ、こわい、こわい、こういうこわいものを、いつまでもこのままにしておいては、からだのためにならないから、……わあ、こわい、こわい、みんなたもとのなかへしまって、おれのうちへ持っていって処分しなければ……わあ、こわい、こわい、なにか大きなふくろはないかい? たもとはもういっぱいだ」
「あれ、みんな持っていくつもりだな。なんてまあずうずうしいんだ。ずうずうし学校卒業生てのはてめえのことだ。それでまんじゅうがこわいもないもんだ。やい、熊公、てめえがほんとうにこわいのは、いったいなんなんだ?」
「えへへ、このへんで、濃いお茶が一ぱいこわい」
短 命
「ごめんください。ごめんなさい」
「おや、八つあんかい、よくおいでだね、まあ、こちらへおあがり」
「ええ、ごちそうさま」
「なんだい、ごちそうさまってのは?」
「いえね、いま、旦那が、なにかおあがりっておっしゃったから……」
「いや、なにか食べろといったんじゃないよ。こちらへあがっておいでといったんだ」
「なんだ、つまらねえ。じゃあ、さようなら……」
「おいおい、八つあん、おまえ、なにか用があってきたんじゃないのかい?」
「ああ、そうだった……いえ、きょううかがったのは、じつは、おもての伊勢屋さんなんですがね。どうもばかばかしいったってありませんや。ねえ、そうでござんしょ」
「なんだか、おまえさんのはなしはよくわからないよ。ひとりでばかばかしがってばかりいて……なにが伊勢屋さんがばかばかしいんだい?」
「いえね、また旦那が死んだんですよ」
「旦那が死んだ? それがどうしてばかばかしいんだい?」
「いえね、それがあんまりつぎつぎに死ぬんで、気の毒を通り越して、ばかばかしいくらいなんで……」
「そうかい、どういうわけなんだい?」
「それがね、あすこの家の旦那てえのは養子なんですがね……あすこには、家付き娘がひとりいるだけなんで……大旦那がおなくなりになったあと、おかみさんとそのお嬢さんだけになっちまったんで、さっそく婿《むこ》をもらったんでござんすがね……その婿てえのがまたいい男でね……夫婦仲もよかったんで安心したのか、おかみさんもなくなりましたんですが、店のほうは、勝手のわかった白ねずみの番頭さんがとりしきってやってるので、若夫婦は、これといって仕事はねえんで、毎日ふたりっきりで一と間にこもって、ぶらぶらしてるだけ……そのうちに、その婿さんが……そうでござんすね、三月もわずらいましたかしら……すぐになくなっちまって……」
「それは気の毒に……」
「それで、また娘さんひとりではおけねえってんで、忠義者の番頭さんが、こんどは前のやさ男の婿にこりたんでござんしょうねえ、がっしりとした、色のまっ黒な、脊も高くてじょうぶそうな婿さんをもらってきたんですがね……これがまた、前のとき以上に夫婦仲もよくって、まことにいいあんべえだなんて、まわりの者もよろこんでいたんでござんすが、あれで、あの婿がきて一年もたちましたかねえ、また、その婿がわずらいついて、これも二月ばかりで死んじまいました」
「それは、それは……どうも……」
「それで、またきたのが三度めの婿さんで……これがまた、二度めの婿に輪をかけたいい体格の、しかも、いい男なんで……夫婦仲もとびきりいいんで……どこへいくにもふたり手つなぎかなんかで……例によって、店のほうは番頭さんまかせ……まあ、ふたりでいかねえのは、はばかりぐれえのもんで……いくら仲がいいったって、あればかりは、むかいあってってわけにはいきませんからねえ……こないだなんか、あっしが庭の植木の手いれをしていたんでござんすが、ちょうど夫婦でおまんまを食べてましたっけ……おかみさんがひと口かじった魚の切り身を、『おまえさん、さあ、あーんとお口をあいて……』ってんで、旦那の口へいれました。それを、またひと口食べた旦那が、『さあ、おまえにもあげよう』なんてんで、また、おかみさんの口へ……あっしはみていて、よだれがたらーり……」
「きたないねえ」
「そんなことがあって、仲がよくっていいあんべえだとおもってたら、旦那が、からだのぐあいがわるくって寝こんでるなんていうことを聞きました。すると、また、ゆうべになって、この三度めの旦那もぽっくりいっちまったんで……」
「またかい、どうもそりゃあ、たいへんなことだ」
「そうでござんしょう。それで、あっしがふしぎでならねえのは、どうして、くる婿もくる婿も、ああやって早死にするのかということなんで……あっしゃあ、あの娘さん、いえ、いまはおかみさんでござんすが、あのおかみさんがお気の毒で……どうして、旦那、あすこのうちじゃあ、ああやって、婿が早死にするんでござんしょうね」
「そうさな、あたしだって、べつに易者《えきしや》じゃないから、ひとの運命をみるなんてわけにはいかないが、ちょっとおもいあたることがないでもないなあ……それでは聞くが、そのおかみさんの年齢《とし》はいつくなんだい?」
「ええと……たしか、三十三でした」
「三十三? ふーん、女の大厄だな」
「女の大厄ですか?」
「で、きりょうよしかい?」
「ええ、そりゃあもう、この町内からとなり町までみわたしても、あれだけのきりょうよしはありません……まあ、どうみたって、二十四、五にしかみえないくらいで……」
「そうかい、そんなにいい女かい……それじゃあ、婿さんが早死にするのも無理はないな」
「そうですかねえ」
「だって、店のほうは、すべて番頭さんがとりしきってやってるんだろ?」
「へえ、そうなんで……あんな忠義者はありませんからねえ」
「それで、夫婦はいつもふたりきりだ。仲がとびきりいい」
「そうなんで……」
「毎日うまいものを食べて、ぶらぶらして……うちにいてもふたりっきり、おもてへいくにもふたりっきり……」
「いいえ、あんまりおもてへはいかねえんで、ふたりでいつも一と間で仲よくしてるんで……」
「ああ、それだな、原因は……」
「なんです?」
「いいえさ、だから、店は番頭にまかせっきりで、毎日、若夫婦がおもてにもでず、うまいものを食ってぶらぶらしてるんだろう……ほかにすることはないじゃないか」
「そうですかねえ」
「わからないかな……つまりだな、ふたりがさしむかいで、はなしかなんかしている。火鉢へあたっている旦那の手に、ふとおかみさんの手がさわったりすることもあるだろう」
「そりゃあ、あるでしょうね。ふたりとも、ちゃんと手が二本ずつありますからね」
「それで、旦那がおかみさんの顔をみると、これがふるいつきたいようなきりょうよしだ」
「そうですよ」
「べつに、なにもほかにすることもなし……まあ、ふたりで、つまり……なにして……それで短命だな」
「へえ? なんです? その短命てえのは?」
「つまり、命がみじかいと書いて短命、まあ、早死にのことだ」
「早死にが短命ですか。すると、長生きはなんといいます?」
「それは長命だな」
「へーえ、長生きが長命ですか。しかし、おかみさんがきりょうよしだと、どうして旦那が短命なんです?」
「あれっ、まだわからないのかい?」
「へえ」
「にぶい人だな……つまりだよ、店のほうは、番頭さんがすべてとりしきってるんだろ?」
「そうなんで、なにしろ忠義者ですからね」
「それに財産もあるから、毎日、夫婦でぶらぶらして、うまいものを食べているな」
「へえ、へえ、いつもふたりでいっしょなんで……ろくにおもてへもでないんで……」
「だからさ、ふたりっきりで一と間にこもったきりってえことがよくないなあ……まあ、これが短命のもとだ」
「へえ、そうなりますかねえ」
「わからないかなあ……そうだ、こういえばわかるだろう。冬なんか、ふたりでこたつにあたってるだろう」
「へえ」
「すると、さむいから、ふとんのなかに手がはいる。はいった手と手がさわるだろう」
「さあ、どうですかねえ、さわりますかしら……」
「どうもはなしがしにくいなあ……まあ、ふたりの手がさわったとおもいな」
「そうですか、では、ほかならない旦那のおことばですから、まあ、さわったとおもいましょう。で、どうなります?」
「ふと顔をみると、おかみさんは、ふるいつきたいようないい女だ」
「そうなんです。この町内からとなり町をみわたしても、あれだけのきりょうよしはいませんから……」
「そんないい女だ……で、旦那はおもわず……なにするだろう……だから短命だ」
「へーえ、そうですかねえ……おかみさんの手にさわると旦那が死にますか……すると、おかみさんの手にバイキンかなんかついていて、それが旦那の口にはいって……」
「なにをばかなことをいってるんだな……『ばったばった亭主のかわる美しさ』と、川柳にもある通りじゃないか」
「へーえ、そうですかね、川柳ですかね……」
「わからないかな、こんな川柳もあるんだよ。『看病が美しいのでさじを投げ』ってな」
「はあ、そうですかね……」
「おい、こまるな、どうも……まるっきりわからないんだから……いいかい、もう一度いうよ……店のほうは番頭さんまかせだ」
「そうなんです。なにしろあの番頭さんときたら忠義者ですからね」
「それはいいよ……財産もあるし、夫婦は、毎日することもなくて、うまいものを食べてぶらぶらしてるな」
「そうなんです、おもてへもろくにでねえんですから……」
「一と間で、ふたりっきりいっしょなんだろ?」
「そうなんです」
「かりにお茶を飲むったって、おかみさんが、お茶菓子かなんか箸でつまんで旦那にわたすだろう……すると、みれば白魚を五本ならべたようにきれいな指だ。それで、おかみさんの顔をみれば、これがふるいつきたいようないい女だ……旦那だって、おもわず……なにするじゃないか……だから短命だよ」
「へーえ、そうですかねえ」
「まだわからないのかい? なんでも度を過ごしちゃあいけないってことだよ」
「へえ、するとなんですか……こう、手がさわって、おかみさんの顔をみて、ふるいつきたいようないい女で……その旦那が、おもわずなにする……ああ、すると、つまり、おかみさんがいい女なんで、旦那の手が、指が……ああ、わかった。さわるのは……ああ、つまり、さわるところは、なにも指と指というわけじゃねえんだ……ずーっと、こう……手が下のほうへもさわりまさあ」
「そうだよ。そういうことになるよ。それが毎日だ。しかも、なんべんとなくくりかえされるな。なにしろ一と間にこもりっきりなんだから……」
「ああ、やっとわかりました。それで、つまり、旦那のほうがたまらねえや……短命のわけだ……さっきの川柳、やっとわかりました。『ばったばった亭主のかわる美しさ』……こりゃあ短命だ。よくわかりました」
「そうかい、わかったかい。まあよかった」
「しかし、なんですねえ、あんまりきりょうがいいのも、夫婦仲のよすぎるのも、こいつあ、かんがえもんですねえ……そうですか、うちのかかあも、なんでこんなに伊勢屋さんは婿さんが死ぬんだろうなんて首をひねってましたから、やっぱりわけがわからねえんですね。そこへいくと、旦那はものわかりが早えや、まったく感心しました。こういうふうにわけがわかれば、葬式へいったって、あっしの心がまえも、口のききかたもちがいますからね。どうもありがとうございました。またうかがいます。いいえ、これからうちへいって、ちょいとはんてんを着かえまして、葬式の手つだいなんで……へえ……また、あしたでもおじゃまします。へい、さようなら……うふふ、やっとわかったよ。なるほどなあ……やっぱり旦那は年の功だ……なるほどそうか……店は番頭さんがとりしきっている……夫婦は毎日ぶらぶらして、うまいものを食っている。一と間にこもったきりでおもてにもでない……お茶を飲むったって、お茶菓子をはさんでだすのが、白魚をならべたようなおかみさんの指だ……おもわず夫婦の指がふれあう、旦那が、おかみさんの顔をみる、これがふるいつきたいようないい女だ……旦那がおもわずなにする……いや、こりゃあ短命だ……おっかあ、いま、帰った」
「あら、いやだよ、このひとは……どこをほっつきあるいてたんだよ。はやく伊勢屋さんへいかなくっちゃあ……お葬式なんだろう?」
「そうだよ……これからいくところだ」
「しかしなんだねえ……あすこのおかみさんも気の毒にねえ……くるお婿さん、くるお婿さんがみんななくなっちまって……おかわいそうにねえ……さあ、こっちのはんてん着ていくんだろう?」
「ああ、それを着ていくんだが、どうもちょいとのどがかわいちまった。茶をいっぺえいれてくんねえな」
「あら、そうかい。そこにお湯がわいてるから、自分でいれてお飲みよ」
「まあ、それもそうだがな……おい、おっかあ、おい、おっかあってば……ちょいと、ここへきてくんねえ」
「ちょいときてくんねえって、いま、台所のかたづけものをしているのにさあ」
「そんなことはあとでもいいや……なあ、ちょいとこっちへこいってことよ」
「うるさいね、なんだい?」
「まあ、こっちへきて、茶をいれてくんねえな」
「なんだい、そんなことかい。いそがしいんだからね、自分でお茶ぐらいいれて飲んどくれよ」
「薄情なことをいうなよ。夫婦じゃねえか。茶ぐれえいれてくれよ」
「なにいってるんだろうねえ、この人は……きょうにかぎって……はやく台所をかたさなくっちゃあ……いそがしいんだからさ」
「いそがしいったって、いいやな、茶をいれろい」
「なんだろうねえ、ほんとうに……どうかしてるよ、この人は……まあ、お茶ぐらいいれてやるけどさ……さあ、はやくお飲みよ」
「おーっと……そこへおいていっちまっちゃあいけねえんだ。その茶わんをおれに手わたししてくんねえ」
「なんだねえ。おまえさん、ほんとうにどうかしてるよ。なにも手わたしなんかしなくってもいいじゃないかねえ」
「そうしてくれよ。たのまあ」
「そうかい、そんなにいうんなら、なんだか知らないけれど、手わたしするよ。さあ、これでいいのかい、はやくとっておくれよ。さあ……」
「まあ、そんなにせかせるなよ……ええと……待てよ……こうやって、かみさんが茶わんをだす。おれが茶わんをこうやってうけとる。すると、指と指が……ああ、さわる、さわる……うふふふ……指がさわったと……うふふふ」
「なんだねえ、うふふふって、気持ちのわるい笑いかたをしてさあ、指と指がさわってどうしたのさ?」
「まあ、待ちなよ……こうして、指と指がさわってと……そうだ……かみさんの顔をじいっとみると、これがふるいつきたいようないい女……じゃねえ……あーあ、おれは長命だ」
うなぎの幇間《たいこ》
何商売でも、商売と名がついてやさしいというものはありません。とりわけてむずかしいのがたいこもちという稼業だそうで……お客さまのごきげんをとるのが仕事でございますから、これはまことにむずかしい。十人十色で、ご酒《しゆ》の好きなかたもあれば下戸《げこ》もあり、陽気なことを好むお客もあれば、しずかなお客もあるというのですから、その呼吸をはかってゆくのがじつにむずかしいもので、お客さまが「えへん」といえば、紙はここにございますとさしだすという寸法で、すべてお客さまの顔色をみるのがむずかしい。お客さまが変な顔つきをしていれば、持ちあわせの仁丹《じんたん》がここにございますとすすめる。それでまだ顔色がなおらないとみれば、すぐに医者をよんでくる。脈をとってみて、医者が首をひねってるなとみれば、すぐに葬儀社へ電話をかける……そんなに早くしなくてもようございます。けれども、吉原でだれ、洲崎でなにがしというたいこもちになりますと、みなれっきとしたものでありますが、なかに野だいこというのがございます。こういうのは、どことあてどなくさまよっておりまして、お客をつかまえてたとえ天どんひとつでも食べさせてもらおうなんというあやしげな連中で……そこで、野だいこ仲間では、お客さまのことを魚と申しまして、お客をとりまいてなにかせしめることを魚をとると申します。お客さまのお宅へとりまきにゆくことを穴釣りと申します。往来でとりまくのを陸釣《おかづ》りといいます。とりまきそこなってお客に逃げられると、「ほうしまった。釣りおとした」なんてんで、お客をだぼはぜのように心得ております。
「きょうもこれはあついな。あついとくると、われわれの稼業は往生《おうじよう》だよ。好いたいこもちは、お客さまのお供をして湯治《とうじ》へゆくとか、海水浴へでもでかけちまうんだが、そこへいくと、われわれは往生だな。かんじんのとりまこうというお客は、温泉場や海水浴なんぞへでかけてしまうんだから、どうにも弱るね。どこかへ穴釣りにでかけようかな。羊かんのふた棹《さお》も餌《え》につかって、うまい魚を釣りたいもんだな。どっかないかな? えーと……あっ、そうそう、梅村家のねえさんに逢ったっけ、明治座で……一八つあん、うちへもたまにはあそびにいらっしゃいよなんていってたっけ……そうだ、あのねえさんとこへいってみよう……えー、こんにちは」
「あら、一八つあんじゃないの、めずらしいわね」
「どうもおあつうございますな。ちょっとお門《かど》を通りかかったもんでございますからうかがいました。これはつまらんものでございますが、ほんの名刺がわりに……」
「あら、ごていねいにすみませんねえ」
「どうつかまつりまして……ええ、ところで、ねえさんはご在宅で?」
「湯治にいきましたよ」
「ええ、湯治におでかけ?! それはしまった、いや、なに、その……どちらへおでかけになりましたか?」
「修善寺《しゆぜんじ》へでかけましたよ」
「いつお帰りで?」
「そうですね、五、六日前にでかけたんですけれど、湯治をすませて、帰りに三島の親戚へよって、二、三日泊まってくるからといっておりましたから、お帰りになるのは今月の末になりましょうかね」
「はあ、さようで……では、いずれまたお帰りになりましたころにごきげんをうかがいにまいります。へい、さようなら……こりゃあまずかったな、敵がいるかいないかをたしかめないうちに餌をだしたのは失敗だったな。こんなことじゃとてもたいこもちでめしが食えませんよ。仲間にはなしもできやしねえ。くやしいから、もう一度餌をつけてみようかしら……そうだ、菊春本のねえさんとこへいこう。あのねえさんには、こないだ観音さまで逢ったとき、たまにはお茶でも飲みにいらっしゃいなんていってたっけ……まんざら脈がなくもなかろう……へい、こんちわ、ごめんください」
「おや、一八つあん、まあおめずらしい。おあがんなさいな」
「どうもことのほかきびしいおあつさで……」
「どうもあついじゃありませんか。さあ、もっとこちらへいらっしゃい。ここはね、たいそう風通しがいいんですから……」
「へい、おそれいりました……どうもこれは結構なお座敷で、なかなか風を通しますね……ええ、ひさしくごぶさたをいたしましたが、ねえさんはご在宅ですか」
「ねえさんは湯治にいらっしゃいましたよ」
「ああさようですか、とは知らずにおうかがいをいたしたようなわけで……ええ、どちら方面へ?」
「那須の温泉ですよ」
「那須の……へへー……いつごろおでかけでしたか?」
「一週間ばかり前ですよ」
「では、お帰りになりましたころにおうかがいいたしますから……」
「まあいいじゃありませんか。一八つあん、なんです? その持ってらっしゃる箱は……」
「へい、これですか……これは、なに、その……つまらん箱で……」
「なんですよ、おみせなさいな」
「いえ、なに、おみせ申すような箱じゃないので……」
「だから、なんの箱?」
「いえ、これは、その……弁当箱で……」
「あら、ほほほほ、おかしいじゃありませんか、一八つあん、太夫衆がお弁当を持ってあるくんですか」
「へい、ちかごろ脚気《かつけ》の気味でございまして、へい、それがためにむぎめしをやっております。これは、そのむぎめし弁当なんでして……」
「そうですか。いまね、お茶をいれて、お香物《こうこ》ぐらいだしますからね、もうおひるですから、ここでお弁当をつかっていらっしゃいよ」
「いいえ、まだ、その……それほどお腹もすきませんから……へい、いずれまたおうかがいをいたしますから……さようなら……ああおどろいた。あぶなく餌をとられちまうところだった……しかし、われながらまずかったな。なんとかいいようもありそうなものを、弁当箱といったのは悪いせりふだったな。なるほど、弁当箱を持ってるたいこもちといやあろくなもんじゃないからな。だんだんとあつくなってくるし、どうにも暇すぎるね、たいこもちが餌をとられっぱなしで、手銭で昼めしを食うようじゃ恥だね。こうなったらしかたがないから、死にものぐるいになって、だれでもかまわずに手当りしだいにとりまきはじめるんだね……あれ、むこうからきた人は、どこかでみたようだな、いい身なりをしてるな。ああいうお客を持ちたいね。ええ、上布《じようふ》のかたびらだな。帯もいいな。第一こうもり傘が気にいった。細巻きで……ああいうお客にとりいってみたいな……あれ、電車に乗っちまった。弱ったな……おやおや、むこうからくる人は、どこかでみたようなことがあるが、はてな、どこで逢ったんだっけ……ゆかたを着て、手ぬぐいをさげて……ちょっとおもいだせないな。こんなことをかんがえてるうちに魚に逃げられちまうとしょうがない。ひとつ竿をおろしてみるかな……へい、こんちわ、どうもごきげんよろしゅう、その節はとんだ失礼をいたしました」
「おや、だれかとおもったら師匠かい」
「へへへ、どうもおそれいりましたな。ごきげんよろしゅう。どうもその節は、またばかに酩酊《めいてい》をいたしました。なにしろご酒《しゆ》をいただきすぎまして……」
「なにいってやんでえ、いつおめえと酒を飲んだい?」
「飲みましたよ」
「だからどこで?」
「あそこで飲みましたよ」
「だから、どこで飲んだい?」
「飲みましたよ。ほれ、向島で……」
「なにいってやんでえ。おめえとこの前逢ったのは麻布の寺じゃねえか」
「麻布の寺で?」
「そうだよ、清元の師匠が死んだとき、おめえが手つだいにきてたんじゃねえか」
「ああなるほど……寺で逢ったとは気がつかなかったな……いえ、その、あれから、お寺をでましてからなじみのお客さまにお逢いしまして、『どうだい、これからめしでも食おうじゃねえか』『よう結構、お供を』という寸法で……そのときにご酒をばかに頂戴《ちようだい》いたしまして……」
「ああ、そうだったのかい」
「大将、なんですか、あなたのお宅はやっぱり先《せん》のお宅ですか?」
「師匠、おれのうちを知ってるのかい?」
「知ってますよ、ちゃあんと心得ておりますとも……」
「そうかい、じゃあどこだかいってみな」
「どこだって、もう、ちゃーんと心得ておりますからご心配なく……」
「べつに心配なんかしねえけれど、どこだい?」
「どこだいって、あなた、先のお宅でしょう……ほら、あすこをずーっといって、こうまがって……そうそう、屋根がありました」
「あたりめえじゃねえか。屋根のねえうちがあるもんか」
「そうでしょ、だから、あたくし、ちゃんとまちがいなく心得てるというんで……」
「そうかい、そんならいいけど……」
「たえてひさしいご対面というわけで……どうです、ひとつどっかへお供をねがいたいもんで……」
「すぐにとりまくなあ、おめえってものは……どっかへお供ったって、おれはゆかた着て、手ぬぐいをぶらさげてるんだよ。湯にいくんじゃねえか」
「お風呂? よう、お風呂結構……ひとつあたくしがお供をして、お背中をおながしするということで……」
「よそうじゃねえか。師匠に背中ながしてもらったってはじまらねえや」
「なんですよ、あなた、敵にうしろをみせるなんて……どっかへお供をねがいたいな。いえ、まったくのところ……」
「いやなやつだな。だにみてえにはなれねえで……しょうがねえな……うーん、まあせっかく逢ったんだ。このままわかれるのもなんだから、どっかでめしでも食うということで示談にしねえか」
「よう、お食事、結構ですな。さっそくそういうことにねがいたいもんで……」
「ゆかたを着て手ぬぐいぶらさげてるんだから、どっか近くですまそうじゃねえか」
「よう、近くでねがいましょう。どちらへいらっしゃいます?」
「そうだな。うなぎなんかどうだい?」
「よっ、うなぎ結構ですな。あたくし、ひさしくうなぎにお目にかかっておりませんので、ぜひそういきたいもんで……土用のうちにうなぎに対面なんぞはおつでござんすな」
「これからいくうなぎやは、うちはきれいじゃないよ。しかし、食わせるものはしっかりしたもんだから……」
「ええ、そりゃあよろしゅうござんすとも……あたくし、べつにうちを食べるわけじゃありません。うなぎをいただくんですから、家なんかまがってようと、さか立ちしてようとかまいません」
「そうかい、じゃあいっしょにおいで」
「へい、さっそくお供いたします。しかし、大将の前ですけど、いやにおあついじゃございませんか」
「あついな」
「大将、あたくしはあなたにお目にかかってうれしくってたまりませんよ」
「そんなら、うちへちょくちょくおいでよ。めしぐらいならいつでも食わしてやるから……」
「ありがとうございます。ぜひうかがいます。お宅はどちらで?」
「お宅はどちらでって、おめえ、ちゃんと心得てるんだろ、だから、先《せん》のとこじゃねえか」
「ええ、そうそう、先《せん》のとこでしたな。あすこんとこだ。こういって、こう……心得ておりますよ。うかがいますとも」
「さあ、ここのうなぎやだ。おれはね、ちょっと魚《うお》をみてくるからね、師匠、さきに二階へあがっててくんねえな」
「さいですか。それではおさきにごめんをこうむりまして……」
「いらっしゃいまし。どうぞおあがりくださいまし」
「これはおそれいったな。聞きしにまさるうちだ。きたない二階だな……おや、子どもが手ならいをしていたのか、お客があがってきたのをみて、机をかついで下へおりていくじゃないか。いやなうなぎやだな。客席で子どもが手ならいをしてるなんてえのは、あまり繁昌《はんじよう》するうちじゃないな。まあいいや、とにかくごちそうになるんだから、ぜいたくいっちゃあいられませんよ……へっ、どうも大将、おさきに……へいへい、こちらへどうぞお坐りを……」
「まあ師匠、お坐りよ」
「へい、ありがとうございます」
「お敷きよ」
「いえ、わたくしは家来《けらい》で、おそれいります」
「かまやしないよ。わたしはね、わけへだてをすることが大きらいなんだから、遠慮なしに無礼講でかまわないよ。さあ、お敷きといえばさ」
「へえ、さようで……それではおことばにあまえて敷かしていただきます」
「さあ、酒がきたから、一つおやり」
「いいえ、まず大将から……お酌いたしましょう」
「ありがとう……さあ、一つあげよう」
「こりゃあどうも……どうもいいご酒《しゆ》ですな……大将、ここはたしかにうちはこんなですけど、またとびきりうまいものを食わして、あたくしをあっといわせようというご趣向なんでしょ?」
「いや、べつに趣向てえことはねえけれど、ちょいと食わせるんだ、このうちてえものが……それに、この香物《こうこ》はね、なかなかいけるんだぜ。やってごらん」
「へえ、いただきます……なーるほど、こりゃあ結構なお香の物《こうこ》で……ねえ、大将、このね、焼けてくるあいだに香の物でつなげるてえやつがうなぎやの値打ちでございますね。あ、これはどうも……大将にたびたびお酌をしていただいては、どうも痛みいります。へい、いただきます」
「おい師匠、ちょくちょくうちへもあそびにおいでよ」
「ぜひうかがわせていただきます。お宅はどちらでしたか?」
「先《せん》のとこじゃねえか」
「ああ、そうそう、先《せん》のとこ、せんのとこ……あすこだった、こうずーっといって、ぐっとまがったところ、入り口があって……」
「入り口のねえ家があるもんか……さあ、うなぎがきたよ。はやくおあがり」
「これはまた、ばかにはやく焼けてまいりましたな」
「ここがね師匠、なじみのありがたいところさ。いま帳場へいってね、どうだい、はやく焼いてもらえようかと聞くと、『いまちょうど出前にだそうとするところです。それをそちらへおまわししましょう』というんだ。はやいわけさ」
「ああ、なーるほど、おなじみはこういうときは重宝《ちようほう》ですな」
「さあおあがりよ」
「へい、ではあたくしがさきにお毒味ということにして……うむ、よう、大将、こりゃあおそれいりました。舌へのっけますとね、とろっときます。とけそうですよ。近ごろなかなかこれだけの魚をつかうお店はございませんよ」
「遠慮なしにおあがり」
「へい、ありがとう存じます……大将、お酌をいたしましょう」
「たのむよ」
「へい、どうぞ……」
「いまね、ちょっとはばかりへいってくるからね」
「では、あたくしお供を……」
「おいおい、すこし目まぐるしいよ。さっきもいったろう。おれはわけへだてが大きらいなんだから、無礼講でやろうじゃねえか。いちいちあとからついてこられたりしたら、なんだか気づまりでいけねえや。遠慮なしに手酌でやっておいでよ」
「そりゃあどうも……それではおことばにあまえて失礼をいたします……ごゆっくり……へい、いってらっしゃい……ふーん、感心したな。さすがに江戸っ子だ。粋《いき》なもんだね。きょうは朝のうちは運がわるかったが、そろそろ運がむいてきたよ。ありがたいな。いったいあの人はどこの人なんだろう? なんでもみたようなことがあるとおもって声をかけると、むこうでもたしかにおれを知ってるんだな。ひさしぶりにうなぎをいただいて、これでご祝儀《しゆうぎ》はいくらいただけるかな? 十円ぐらいかしら……まあ、ご祝儀をいただいて、お宅に出入りができて、奥方に気にいられて、奥方からもなにかいただけるというやつだ。犬もあるけば棒にあたるというが、こういうことがあるからたいこもちという商売はやめられないよ……あのお客、大事にしよう。あのお客をしくじるようじゃ、おれも商売やってる甲斐がないからな……どうでもいいけど、はばかりが長いな。ここだよ、忠義のみせどころは……なんぼむこうでついてこなくってもいいったって、これほど長いのにむかいにもこないのはひどいやつだなんてんで、ごきげんを損じるといけないね、ここはひとつ無精《ぶしよう》をしないでおむかいにゆくべしだな。……こいつあばかに急な階段だな。酔ってるときにはあぶないね……ええ、もし、大将、一八がおむかいにあがりましたよ。家来が参上つかまつりました……大将、だいぶお産が長いようで……もし、大将……返事がないのは罪ですよ、いやだよあなた、おどかそうってんでしょ? あけてうわっかなんかだめですよ。戸をたたきますよ。よろしゅうございますか。おこりっこなし……では、ほらトントントン、やあトントントン……おい、ねえさん、なにをげらげら笑ってるんだい? え? なに? そこにはだれもはいっておりません? なにいってんだよ。おまえも大将といっしょになって、人のことをかつごうってんだろ? ええ、ちゃーんと知ってるんだ。そーれ……おや、戸をあけたけれどさらに姿なし……どうしたんだい、ねえさん、ここへはいった客は? ええ? お帰りになった? ほんとかい? へー、帰ったのかい。えらいね。みあげたもんだ。することが万事本寸法だ。粋《いき》なもんだねえ。勘定すまして芸人に気をつかわせまいってんで、だまってすーっと帰っちまうなんてなかなかできることじゃないね。この調子だと、ご祝儀を紙へつつんで、これを二階の男にあとでやっとくれよってんで、お帳場へあずけてあるてえ趣向だよ。おつなもんだ。これだけおつなことをやるには、よっぽど銭をつかってこなくっちゃこんな寸法のいい芸はできないよ。そうときまれば、二階へもどっておまんまをすましちまおう……えーと、うなぎがすこしさめちまったから、お茶づけにしようかな。うな茶というやつだ。うな茶でかっぽれときたな……おい、ねえさん、ねえさん、あっ、どうもおよびだてしてすまないけれど、お帳場へいってね、紙でつつんだものをもらってきておくれ」
「はい、かしこまりました」
「さあ、いまのうちにお茶づけにして、いただくものはいただいて、こっちもはやくおひらきにして……ああ、ごくろうさま、そこへおいてっとくれ。あれ、ねえさん、なんだいこれは?」
「あの、つけでございます」
「つけ? 勘定書きかい? これじゃないの、紙へね、こうつつんだやつがあるだろ? お帳場にあずかってあったろう、二階のあの男にやってくれというようなものが……」
「いいえ、そういうものはまるっきりございません」
「ないの? ほんとうに? そんなはずはないんだがな……ああ、なけりゃあいいんだ。ないものはしかたがない……ええ、なにかまだ用があるの?」
「お勘定をおねがいします」
「ええ? お勘定って……それはもうすんでるんだろ?」
「いいえ、まだいただいておりません」
「まだいただいてない? ……そうか、わかった、つけにしたんだな……あの人、おなじみなんだろ?」
「いいえ、はじめていらしったかたでございます」
「うそをいって人をからかうんじゃないよ。あの人にいわれたんだろ? 勘定はいただいておりませんかなんかいってかついでやれって……そうだよ、そうにちがいないよ……ええ? そうじゃない? ほんとうにもらってないのかい? おなじみでないのなら、なぜねえさんは、あのお客に勘定のことをいわないんだい?」
「お勘定と申しあげましたらば、さきほどのお客さまのおっしゃいますには、おれはゆかたを着てこんなお供だからさきに帰るけど、二階に羽織を着てるあれが旦那だから、勘定は二階の旦那からもらってくれろとおっしゃいました」
「ええ、なに? おれはお供だから、勘定は二階の旦那にだって? さあたいへんなことになっちまった……おい、ねえさん、じょうだんじゃねえよ。なるほどそりゃああの人はゆかたを着ていたし、あたしは羽織を着ているよ。羽織を着ちゃあいるけれど、商売上やむをえずに着てるんじゃないか。どっちがお客で、どっちがとりまきだくらいのことはわかりそうなもんじゃねえか。これじゃあうまうまと逃げられちまったんだ……なにも遠慮しいしい飲み食いすることはねえじゃねえか。こうなりゃあしかたがねえ。いくらさわいだってあとのまつりだから度胸をすえよう。おどろいた……なにをねえさん笑ってるんだ。笑いごっちゃないよ。こうなれば勘定はしますよ。それから、この徳利の酒がすっかりぬるくなっちまったから、ちょいとお燗《かん》なおしをしてきておくれ」
「かしこまりました」
「どうもそういえばおかしなやつだとおもったよ。第一、目つきがよくねえや。ひとのことを師匠、師匠っておだてやがって……お宅はどちらでと聞くと、先《せん》のとこだ、先《せん》のとこだっていってやがった……どうもひどいやつだな」
「どうもおまちどうさまで……」
「ちょいとねえさん、お酌をしておくれ。こうなりゃああたしがお客さまだ……おっと、そういっぱいにお酒をついじゃあいけないよ。うなぎやの女中でもするなら、お酌のしかたぐらいは心得ておきなよ。こういっぱいについでしまっちゃしょうがありゃあしねえ、八|分目《ぶんめ》につぐもんだよ。さっきはお客の前だとおもうから結構なご酒《しゆ》だとかなんとかお世辞をいってたけど、ちっともいい酒じゃないね。水っぽい酒てえのはあるけれど、これは酒っぽい水だよ。それに売れないとみえてずいぶん古い酒だ。なんだい、この座敷はあがってきたときから変だとおもった、子どもが机をかついで下へおりていったからな。座敷がね、古くっても掃除がゆきとどいていればいいが、ずいぶんきたない二階だ。ねえさん、床の間をごらん。ほこりがたまってるぜ。それにまたふしぎな掛けものをかけたね。応挙《おうきよ》の虎? え? なに? 偽物《ぎぶつ》ですって? そうだろうよ。わかってるんだ。ほんものを掛けるもんか。ただね、むかしから丑寅《うしとら》の者はうなぎを食わねえというくらいのもんだ。それなのに、虎の掛けものをかけてうなぎやでうれしがってちゃこまるじゃねえか。どういうりょうけんなんだこれは? 花さしに夏菊がさしてあるけど、ずいぶんしおれたね。あの花はいつさしたんだい? なに、先月のおついたちだって? ずいぶん古いね、もう四十日もさしてあるんだ。お酌をしておくれよ。このお猪口《ちよこ》はなんだい? わずかふたりのお客へだすお猪口の模様がかわっているのはひどいね。そりゃ五人でも六人でもで飲んでるときに、猪口の模様がかわってるのはちょいとおつなもんだが、その模様にもよりけりだよ。なんだい、この猪口は……ひとつは伊勢久酒店としてあるね。これはたぶん出入りの酒屋が年始にもってきた猪口なんだろうが、もうひとつは天松としてあるぜ。天ぷら屋の猪口をうなぎやでつかってよろこんでちゃこまるよ……お客の前だからお香物《こうこ》もおいしいといったけれど、ずいぶんひどいものを食わせるね。うなぎやの香物《こうこ》なんてどこでもおつなもんだぜ。この腸《わた》だくさんのきゅうり、きりぎりすだってこんなものは食うもんか。またこの奈良漬、よくまあうすく切ったね。切ろうったってこうもうすく切れるもんか。この奈良漬はね、自分の力で立ってるとおもったら大まちがいだよ。うしろのお香物へよりかかってるんじゃねえか。この紅《べに》しょうがをごらん。これをなんであかくするか知ってるかい? 梅酢で漬けるんだよ。梅はうなぎに敵薬《てきやく》だよ。その敵薬のものをだして、客を殺そうというのかい? ……なに? べつに殺すつもりはない? あたりめえだ。うなぎやへきて殺されてたまるもんけえ。それにこの漬けものの色どりをごらんよ。しょうがが赤くって、たくあんが黄色で、きゅうりが青くて、大根が白くて……まるでペンキ屋の看板だ。うなぎだってそうだ。舌の上にのせるととろけるなんていったが、三年たったってとろけたりするもんか。食うとバリバリ音がすらあ。干物《ひもの》だよ、まるで……ひどいうなぎをつかうね。どこでとったんだい、このうなぎは? きっと天井うらかなんかでとったんだろう。なんてきたねえうちなんだい。このうちの色をごらん。つくだ煮だよまるで……それにごらん。この窓んとこにおしめがほしてあるじゃねえか。お客に対して失礼だよ。いくらあらさがしをしてたって一文にもなるわけじゃねえからもうなんにもいわねえがね、勘定はいくらだい?」
「ありがとうございます。九円八十銭ちょうだいします」
「ええ? 九円八十銭? おい、ねえさん、あたしだって、たいこもちは商売にしているがね、たまには手銭でうなぎぐらいは食べるよ。うなぎが一人前いくらするくらいなことは心得てる。それがなんだい、九円八十銭? おい、ねえさん、うなぎが二人前でしょ? 酒が二本、あとはお香の物《こうこ》でしょ? それでいくら? え? 高いよ、高すぎるよ。一ぺんこっきりの客だとおもってそうぼっちゃいけないよ。そりゃあひどすぎるよ。なんつったって高いよ」
「いいえ、あのお供さんが六人前おみやげを持っていらっしゃいました」
「えっ、おみやげを六人前も持ってったのかい? へえ、おみやげねえ……ふーん、そこまでは気がつかなかったよ。敵ながらあっぱれなやつだ。よくもまあ手落ちなくやったもんだなあ。じつにどうもいたれりつくせりだ。よくもまた手をまわしやがったなちくしょうめ、このくらい手がまわりゃあたいがいな火事には焼けやしねえ。しかたがねえ、勘定だろう、払うよ、払いますよ。もう覚悟をきめたんだから……こんなこともあるとおもうから、この襟《えり》ん中へ十円札を縫いこんどいたんだから……この十円だって、いまわかれちまったらいつまためぐり逢えることやら……え? おつりになりますって? いまさら二十銭もらったってしょうがないだろ? ねえさんにあげるよ」
「どうもありがとうございます。またいらっしゃいまし」
「じょうだんいっちゃいけねえ。だれが二度とくるもんか。おい、下駄をだしとくれ。下駄だよ」
「へえ、そこへでております」
「おいおい、若い衆さん、じょうだんじゃねえやな。昼間っから居眠りしてちゃいけねえぜ。かりにも芸人だよ、おれの下駄はこんなうすぎたねえ下駄であるもんか。畳つきののめりの下駄だよ」
「へい、あれならばお供さんがはいていらっしゃいました」
そこつ長屋
世のなかには、あわて者、そそっかしい人があるもんでございます。
「おい! たいへんだぞ!」
「なんだ」
「こうなってるぞ」
「どうなってるんだい?」
「あのう……燃えてるんだよ」
「おめえがか?」
「おれが燃えてるわけはねえじゃねえか。家が燃えてるんだよ」
「はああ、火事みてえだな」
「そう……いや、みてえじゃねえ、火事だよ。で、いま、ほうぼうで、あのう……なにをたたいてるだろう。あの……ほら……たたく……あのう、バケツじゃねえ、金だらいじゃねえ……ほら、こうたたく……」
「木魚《もくぎよ》」
「そう、木魚……木魚じゃねえ、こんちくしょう」
「半鐘か?」
「そう、半鐘。で、この町内でもたたかなくっちゃあなんねえから、だれかなにへあがれ、あすこへ……あの……ほら……こうなってるところ……ずっと、こう、あの……そうそう、火の見……半公、おめえがいいや、身がかるい。ぱあっとあがってな、よく火事の方向をみて、いせいよくたたけよ! ……どうだい? 火事は?」
「まってくれ、まっくらでみえねえ」
なんていうので、よくみたら、半鐘のなかへ首をつっこんでいたりして……
こんなのがとなりあって住んでおりますと、ずいぶんおかしなことになるもんで……
「おう、およしよ」
「なに?」
「なにじゃねえ、朝っぱらからみっともねえ」
「なんだい?」
「なんだいって、いま、おれが、ここんところへ、はだしでとびこんでくるようなことをおまえやってたろう」
「なにもやらねえ」
「やらねえことはねえ、やってた」
「なんにもやらねえよ」
「やったよ、たしかにやってた……あ、そう、あの……夫婦げんか……よしなよ、みっともないから」
「どこで?」
「おめえのところで」
「夫婦げんか? やらないよ」
「やった」
「できないよ、おれはひとりものだから!」
「あっ、そうだ。おめえ、ひとりものだったなあ。だけど、おめえ、かかあでていけってどなったろう」
「かかあでていけ? ……ああ、そうか、あれはそういったんじゃないんだよ。かかあでていけっていったんじゃないんだ。あれはね、いまおれが、ここんところをきれいに掃除したら、あいつがへえってきたんだ」
「だれが?」
「だれってほどのものじゃねえんだ……あいさつもなんにもしねえで、ぬーっとここへへえってきたんだ」
「どこの野郎だい」
「いや、どこの野郎だかはっきりしねえ野郎なんだよ。なあ、いるんだよ、よく……夜、ここらをこんなになってあるいて……よく鳴くやつよ」
「ああ、ねずみか?」
「いや、ねずみじゃねえんだ。もっとずっと大きなもんだ」
「象か?」
「この野郎、一ぺんに大きくしゃがら……象がこんなとこへへえってくるわけねえじゃねえか。もっとずーっとちいさくて……いるだろう」
「どんなかたちしてるんだい?」
「ほら、こんな耳してて、こんな口してて、いるんだよ、ほら」
「ああ、猫か」
「うう……う……この野郎、そばまできていわねえな……猫にもよく似てらあ」
「ああ、もぐら」
「もぐらじゃねえや、こんちくしょう……ああ、犬」
「なんでえ、犬か」
「大きな犬が、ここんとこへへえってきやがって、せっかくおれがきれいに掃除したとこへ、馬《ば》ふんしていきやがったのよ」
「犬のくせに馬ふんしたのか?」
「あんまりきたねえちくしょうだから、赤、でていけってどなったんだ」
「赤っていったのか、おれは、かかあとまちがえて……」
「そうだよ」
「いねえな」
「なに? 犬か? とっくににげちゃった」
「おしいことしたなあ、おれがいりゃあ、その犬の野郎とっつかまえて、こう、ぶちころして、その犬から熊の胆《い》とってやるんだがなあ」
「どうも、おめえはそそっかしいな。犬から熊の胆がとれるものか。鹿とまちげえるな」
こうなると、どっちもどっちですから、しまいにははなしがわからなくなります。
ある長屋に、そそっかしい男がとなりあって住んでおりまして、一方がまめでそそっかしく、一方が無精《ぶしよう》でそそっかしい。それが兄弟同様に仲よくしておりましたが、このまめでそそっかしい男が、浅草の観音さまに参詣にまいりまして、雷門《かみなりもん》をでますと、いっぱいの人だかり。いくらそそっかしい男でもこれには気がつきます。
「なんです? このおおぜい立って……なにかあるんですか? このなかで……」
「ええ、行きだおれだそうですよ」
「行きだおれ? みたいですね」
「あたしもみたいとおもって……」
「前のほうへでられませんか」
「これだけおおぜいの人だから、なかなかでられねえな。まあ、股ぐらでもくぐりゃあでられねえことはないとおもうね」
「ああ、股ぐらねえ……ああそうですか……もし、もし、ちょいと、ちょいと」
「なんでえ」
「いま、あの、あたし、前のほうへでたいっていう心持ちですけど」
「なにをいってやがるんでえ。心持ちだって、そうはいくけえ」
「なんでえ、てめえひとりでみようとおもってやがるな……どかなきゃあどかねえでいいんだ。こっちには股ぐらって手があるんだから……ほら、ほら、ほら……」
「なな、なんだ、なんだい、こんちくしょう、人の股ぐらなんかくぐって……」
「へっへっへっ……ほうれ、これくらいのことをしなけりゃ前のほうへはでられねえや……ほうれ、前へでちゃった。なんだいこらあ、人間のつらばっかりじゃねえか。あっ、どうも……こんちわ」
「なんだい、おまえさん、おかしなとこからはいだして……さあさあ、さっきからみてる人はどいてください。これは、いつまでみていたっておんなじなんだから……なるべくかわったかたにみてもらいたい。ああ、いまきたかた、あなた、こっちへいらっしゃい」
「どうも、ありがとうござんす」
「いや、礼なんぞいわなくっていいんだから……」
「なんですか? もうじきはじまるんですか?」
「ええ、いや、べつに、これははじまったりするもんじゃないんだ。あのね、これは行きだおれなんだ」
「へえへえ、いきだおれ、これからやるんですか?」
「なんだい、わからない人がでてきたなあ……いいえ、まあいいから、こっちへでてきてごらんなさい」
「どうもすみません。ははあ、菰《こも》をかぶって……あんなとこへあたまがでてやがら……おおい、なにしてるんだ。みんなみてるじゃねえか。起きたらどうだい」
「起きやしないよ。これは寝てるんじゃないんだよ。死んでるんだから……行きだおれだよ」
「あれ、死んでるのかい? じゃあ死にだおれじゃねえか。死んでるのに、生《い》きだおれとはこれいかに?」
「いやだな、この人は……おかしな問答なんかして……本当は行きなやんでたおれたから行きだおれ……まあ、そんなことはどうでもいい。手さえつけなければいいから、ちょいと菰をまくってごらんなさい」
「べつにこんなものに手をつけてみたってしょうがないけどね……ははあ、この野郎、借りでもあって、きまりがわるいんだな。むこうむいて死んでるじゃねえか」
「そういうわけじゃないよ。まあ、知ったかたかどうか顔をみてごらんよ」
「なにもこんなのが知ったやつだなんて……ああ、おう!」
「どうしなすった」
「これは熊の野郎だ」
「熊の野郎だなんていうからには知ってるんだね」
「知ってるもいいとこだよ。こいつ、おれの家のとなりにいるんだよ。仲よくつきあってて、こいつとは、兄弟同様の仲なんだ。生まれたときはべつべつだが、死ぬときはべつべつだって仲だ」
「あたりまえじゃないか」
「あたりまえの仲なんだよ、こいつとは……えらいことになったな。おい、しっかりしろい!」
「しっかりしろったって、もう死んじゃっているんだから」
「だれがこんな目にあわせたんだ。おめえか」
「じょうだんいっちゃいけない。わたしがいろいろ心配して……なにしろふところをあらためてもなんにも持ってないんで、身もとがわからないんだ。まあ、こうやっておおぜいのかたにみてもらえば、なかには知りあいのかたもでてくるだろうとおもってね……でも、まあよかった」
「なにい? よかった? よかったなんてよろこぶとこをみると、おめえが下手人《げしゆにん》だな」
「ばかなことをいっちゃあいけない。ひきとり手がわかってよかったといってるんだ。どうだい、あたしのほうからすぐに知らせにいこうか。それとも、おまえさん、いそいで帰っておかみさんにでも知らせてくれるかい」
「いや、かかあはいねえんだ。こいつはひとりものだから……」
「それでは、お家のかたか、ご親類のかたにでも……」
「いいや、だれもいねえんだ。身よりたよりのねえひとりぼっちで、かわいそうな野郎なんです。こいつってやつは……」
「それはこまったな。ひきとり手のないってのは……ではどうだろう。あなたが兄弟同様につきあってるっていうんなら、ひとつあなたがひきとってくだすっては……」
「えへへへ……いや、そいつはごめんこうむりましょう。あの野郎、あんなうめえことをいって持ってっちまったなんてねえ……あとでいたくねえ腹をさぐられるのはいやだから……」
「おかしなことをいってちゃこまるな。ではどうするんだい?」
「じゃあね、こうしましょう。とにかく、ここへ当人をつれてきましょう」
「なんだい、その当人というのは?」
「ですから、行きだおれの当人を……」
「おい、しっかりしなさいよ」
「そう、しっかりしなくっちゃいけねえ。いいえね、今朝もね、ちょいとこいつの家へよったんですが、どうだい、ちょいとおまいりにいかねえかっていったら、気分がわるいからよそうなんていいましたがね」
「今朝、この人にあったのかい? ああ、それじゃあちがうよ、なにしろ、この人は、ゆうべからたおれているんだから……」
「そうでしょう、だから当人がここへこなけりゃあ、わからねえんですよ。てめえでてめえのことがはっきりしねえ野郎なんですから……ここでこんなことになってるってことに、今朝まで気がつかないんですよ、きっと……」
「こまるな、この人は……あなたねえ、もっとおちついてくれなけりゃあこまりますよ。それは人間として、兄弟同様のおかたがこんなことになっちまったのをみてのぼせるのもむりじゃないけれど……まあ、おちついて……」
「おちつくもなにもありゃあしねえや、いえ、あの、当人をすぐにつれてきますから、ならべてみてね、これならまちがいないなってことがわかったら、そっちだって安心してわたせるでしょう」
「こまるな、この人は……あなた、とにかくよくおちついて……」
「いえ、すぐにつれてきますから、もうすこし番をしていておくんなさい」
「おい、おまちよ。なんだい、あの人は……とうとういっちまった……当人をつれてくるったって、当人はここで死んでるんじゃあないか。あたまがおかしいんだな、あれは」
「なにしてやがるんだな。しょうがねえやつだな。おい、起きねえか、熊! 熊! 熊公! おーい」
「ばかだな、あいつは。むちゅうで戸ぶくろをたたいて……熊、熊公だなんて、だれかをよんでるんだな……あっ、そうだった、熊はおれだっけ、おい、おい、そこは戸ぶくろだよ。おい、戸はこっちだよ」
「ちくしょうめ、ほんとうに、てめえってやつは、そんなとこへすわって、鮭《しやけ》でおまんまなんか食っていられる身じゃねえぞ。おめえってものは……」
「なんかあったか?」
「あったもいいとこだ。情けねえ野郎だな、こいつは……」
「なんだか知らねえが、また、おれがしくじったのか」
「大しくじりよ。まああきれけえってものもいえねえ。いま、おれがはなしてきかせるから、びっくりしてすわり小便でもするなよ。今朝、おれがなにへいったろう、どさくさの、あの……いや、どさくさじゃねえ、あの……浅草の……あれへいったろう、あの、ほれ、ずっとつきあたったとこにあるじゃねえか。ほら、おがむところよ。浅草|名代《なだい》の金比羅さま……、じゃないよ、ほら、浅草の水天宮さま……、じゃない、ほら……ほら、ほらほら、浅草の……」
「ああ、不動さま」
「そう、不動さま……なにいってるんだよ、不動さまじゃねえやい、そのう、ほれ……あ、観音さま……」
「で、どうしたんだ?」
「おれがおまいりをして、ごろごろ門……いや、雷門《かみなりもん》をでるとな、いっぺえの人だかりよ、なんだとおもって、人の股ぐらをくぐってようやく前へでてみると、これが、おどろくなかれ、行きだおれだ」
「ほう……うまくやったな」
「おや、うまくやったなんてわかってねえんだな。行きだおれってのは、行きなやんでたおれて死んじまったことをいうんだぞ」
「なんだ、そうか、つまらねえ」
「それがつまらねえどころのさわぎじゃねえんだ。よくきけよ……みるてえと、そいつがおめえにそっくりだ。こうなっちゃあ、おめえだってしかたがあるめえ。因縁だとおもってあきらめろ」
「なんだか、ちっともわけがわからねえ」
「ばかだな、こいつは……行きだおれになったってことに気がついてねえんだな……おう、おめえはな、ゆうべ浅草でな……死んでるよ」
「おい、よせやい。気味のわるいことをいうない。おれが死んでるなんて……だって兄貴の前だけれど、おれはちっとも死んだような気がしねえぜ」
「それがおめえはずうずうしいっていうんだよ。はじめて死んだのに、どんな気がするか、そうそうすぐにわかるものか。いま、おれが、この目でちゃんとみてきたんだから安心しなよ……いいかい、おめえ、まようんじゃないよ。まよわず成仏《じようぶつ》するんだよ」
「変なことをいわねえでくれ。だって、いま、おれとおめえとここで、こうしてはなしをしてるじゃねえか。それが死んでるなんて……」
「だからおめえはそそっかしいんだ。死んだのがわからねえなんて……ゆうべどこへいった?」
「たいくつだから、吉原《なか》をひやかして、帰りに馬道までくると、夜明かしの店がでてやがったから、そこで酒を……そうさなあ、あれで五合もやったかな」
「それからどうした」
「いい心持ちで、ぶらぶらあるいてきたんだが、観音さまのわきをぬけたところまでしかおぼえていねえ。それからさきは、どうやって家へ帰ってきたのかまるっきりわからねえ」
「そうれみろ、それがなによりの証拠だ。おめえは、わるい酒をのんで、あたっちまったのさ。観音さまのわきまできて、たまらなくなって、ひっくりかえったままつめたくなって死んじまったんだ。そのくせ、そそっかしいから、死んだのも気がつかずに帰ってきちゃったろう」
「そうかな」
「そうだよ、それにきまってらあ」
「そういわれてみると、今朝はどうも気持ちがよくねえ」
「そうれみろ。だから早くいかなくっちゃいけねえ」
「どこへ?」
「どこへってきまってるじゃねえか。死骸をひきとりにいくのさ」
「だれの?」
「おめえのよ」
「おれがか?」
「てめえがいってならんでみせなくっちゃあ、むこうだって安心してわたさねえやな」
「だって兄貴、なんぼなんでも、これがあたしの死骸ですなんて、じぶんでいくのは、どうもきまりがわるくって……」
「ばかいうな。当人がいって当人のものをもらってくるのに、きまりがわるいもハチのあたまもあるもんか。おれがいってちゃんとはなしをつけてやるよ。当人はこの男ですと……よくみくらべた上で、まちがいがないとわかったらおわたしねがいます……むこうだって、当人にでてこられちゃあわたさねえわけにはいかねえじゃねえか。え、そうだろう……おめえだって一人前の男だ。だまってちゃいけねえよ。まことにふしぎなご縁で、とんだご厄介になりました。ゆうべまあ行きだおれになりましたそうで、ついそそっかしいもんですから死骸をわすれていってしまいました。いろいろお世話になりましたぐらいのことはいわなくっちゃあいけねえ」
「おどろいたなあ」
「おどろいてる場合じゃねえ。早くしろい。てめえぐらい手数のかかるやつはねえぞ。まごまごしてると、ほかのやつに持っていかれちまうじゃねえか。いそぐんだ、いそぐんだ……ほれ、ほれ、みろみろ、あんなにおおぜいの人が立ってるだろう。みられてるんだぞ、おめえの死骸が……恥ずかしがってる場合じゃねえや。いっしょにこい。いっしょにはいるんだ」
「おい、兄貴」
「なんだよ」
「ここは絵草紙屋のようだぜ」
「なに? 絵草紙屋だ? ……ほんとうだ、絵草紙屋だ。おめえ、おちつかなくっちゃだめだぜ」
「兄貴が勝手にはいったくせに……」
「こんなにおおぜいいるけれど、絵草紙屋で立ってみてるやつにかぎって買ったためしはありゃあしねえ……」
「よけいなこといってねえで……どこなんだい? その行きだおれってのは……」
「どこって……おめえ……みろみろ、あすこだよ。ほら、おおぜいの人が立ってるだろう、絵草紙屋の倍も立ってらあ。おめえがみられてるんだ。いっしょにへえってこいよ……おう、ごめんよ、ごめんよ、どいてくれ、どいてくれ。行きだおれのご当人さまのお通りだ。どけ、どけ!」
「あっ、いてえ。あぶねえなこの人は……」
「あぶねえもくそもあるもんか……おい、こっちへへえってこい。こっちへ……てめえのものをとりにきたんだ。だれに遠慮がいるものか。ずーっとこっちへへえってこい……あ、どうも……さきほどは……」
「あっ、またきたよ、あの人は……こまるな、はなしがわからなくって……行きだおれの当人だなんて……どうだい、おまえさん、そうじゃなかったろう」
「いえね、このことを当人にはなしますと、なにしろそそっかしい野郎ですから、おれはどうも死んだような心持ちがしねえなんて、わかりきったことを強情はってるんで……」
「こまったなあ、どうも……あなたねえ、気をよーくしずめてくださいよ」
「いいえ、はじめは強情はってたんですが、だんだんはなしをしてきかせますと、当人もいろいろとわかってきたんですねえ……どうも、そういわれてみると、今朝は心持ちがよくねえから、ひょっとしたら死んだかも知れねえってことになりまして……この男ですから、どうぞよろしく……おいおい、熊、こっちへでてこい。あのおじさんにずっとお世話になってるんだ。よーくお礼をもうしあげろ」
「どうもすみませんです。ちっとも知らなかったんで……兄貴にきいて気がついたんですけれど、ゆうべここへたおれちまったそうで……」
「おいおい、こまるな。おんなじような人がもうひとりふえちまって……なんてばかばかしいんだい、この人は……行きだおれの当人だなんて名のりでたりして……あのね、あなた、こっちへきて、菰をまくってよくごらんなさい」
「よござんす、もうみなくても……」
「いや、みてもらわなくっちゃこまるよ。いつまでもはなしがわからないから……ごらんなさいよ」
「いいえ、もうなまじ死に目にあわないほうが……」
「なんだい、おかしなことをいって……手がつけられないや」
「おい熊公、みろよ。菰をまくって……むこうさまじゃあならべてみなけりゃ安心できねえんだから……」
「そうかい、なんだか変な気持ちだな……では、菰をまくって……あれ、これがおれか?」
「そうだよ」
「なんだか、ずいぶんきたねえつらをしてるなあ」
「死顔なんてかわるもんだよ」
「なんだかすこし長《なげ》えようだな」
「ひと晩|夜露《よつゆ》にあたったからのびちゃったんだよ」
「へえ、そんなもんかなあ……あっ、やっぱりおれだ」
「そうだろう、わかったろう」
「やい、このおれめ、なんてまああさましいすがたになっちまって……こうと知ったらもっとうめえものを食っとけばよかった。どうしよう」
「どうしようたって、泣いててもしかたがねえ。なにごとも因縁だとあきらめるんだ、さあ、死骸をひきとらなくっちゃあ……おい、おめえ、あたまのほうを持て、おれが足のほうを手つだうから」
「そうかい、持つべきものは兄弟分だ。じゃあたのむよ。こんなところで行きだおれになってあさましいすがたを人にみられるなんて、あんまりいい心持ちがしねえから、早く死骸をかたづけなくっちゃあ……」
「おいおい、いけないよ。手をつけちゃあ、じぶんでだいてわからないのはこまるなあ。よくごらん、おまえさんじゃないんだから……」
「うるせえ、つべこべいうない。当人がみて、おれだといってるんだから、こんなたしかなことはねえじゃねえか。おい熊、いいから抱いちまえ。じぶんの死骸を持ってくのに、だれに遠慮がいるもんか」
「でも兄貴、なんだかわからなくなっちゃった」
「なにが?」
「抱かれてるのはたしかにおれだけれど、抱いてるおれは、いったいどこのだれなんだろう」
酢豆腐
「どうだい、暑いじゃねえか、みんな……」
「ああ、暑いや。まったく暑い」
「ひとつ暑気払いといきてえな」
「いきてえな」
「どうだい、だれか酒買いに一っ走りいってきてくれねえか。どうだい、松ちゃん、一っ走り?」
「ああ、その一っ走りてえのはいいんだがね」
「じゃあ、ひとついってきてくんねえな」
「一っ走りはいいんだが、その前の酒買いにというのがいけねえんだ」
「銭がねえのか?」
「まあ、はやくいえば……」
「おそくいったっておんなじじゃねえか……金ちゃんはどうだい、ふところぐあいは?」
「おあいにくさま」
「なに、おあいにくさま? なにぬかしやんでえ。あいにくてえのは、いつも持ってるやつがたまにねえから、あいにくじゃねえか。おめえのはいつだってあいにくじゃねえか」
「まあ、生まれてからずっとあいにくだ」
「あいにくの慢性症状てえやつだな……留さんはどうだい?」
「やいやい、いつおれが人とつきあいをかかしたことがある? いつおれが? ……」
「なにもそう怒らなくったっていいじゃねえか。いつもおめえはつきあいをかかしたことはねえよ」
「そうだろう。だから、みんなが銭がねえのに、おれひとり銭があってたまるけえ」
「つまらねえいばりかたするねえ……だれかいねえかな、酒屋へ顔がきくてえのは? あっ、かんじんなのをわすれてた。梅さんなら、角の酒屋の番頭と碁がたきで仲がいいや。梅さんにたのもう。おい、梅さん、梅さん、居ねむりしてる場合じゃねえぜ……おい、おきてくんねえ。なあ梅さん、おめえ、角の酒屋の番頭と仲がよかったな」
「ああ、碁がたきだ」
「そこをみこんでたのまあ。たびたびのことでいやだろうが、番頭くどいて、なんとかたのまあ。なあ、みんなもあの通りあたまをさげてらあ。どうかまあ三升ばかり都合してきてくんねえ」
「どうもなあ……たびたびのことだからなあ」
「そこをひとつたのむぜ」
「まあみんながそれほどにいうんなら、いってくるとしようか」
「すまねえな。暑いところをごくろうだが、たのまあ。ええ、いってらっしゃいまし。おはやくお帰りを……ようよう男のなかの男一匹! 大統領! ……え? なに? そんなに世辞をいうこたあねえって? しかたがねえやな。あいつがいなけりゃ酒にありつけねえんだから……まあ、これで酒のほうはどうにかなるとして肴《さかな》だな」
「酒さえあれば肴なんざあいるもんか」
「そうでねえよ。これでちょいとなにかありさえすりゃあいいんだが……夏だから、腹にたまらねえで、だれの口にも合って、衛生にいいてえようなものはねえかな?」
「どうだい? 物干しへあがって風を食らうってえのは?」
「ふざけるねえ。風を食らうなんて……」
「風を食らえば腹にたまらねえ」
「まだやってやがらあ……ほんとになんかねえかな? 腹へたまんなくって、衛生にいいてえものは?」
「あるよ」
「ある?」
「ああ、銭が安くって、数がたくさんあって、しかも、だれの口にも合って、腹へたまんなくって、衛生にいいというものが……」
「いったい、いくらぐらいかかるんだ?」
「いくらぐらいと心配するほどの銭はかからねえ。まあ、ただみてえなもんだ」
「へえ? なんだい、ものは?」
「爪楊子《つまようじ》」
「爪楊子? 黒もじかい?」
「うん、あれをめいめいに一本ずつ口にくわえて、一ぱいやるんだ。よそからみりゃあ、なんかうめえものを食ってるようで体裁《ていさい》はいいし、しかも、腹へたまんねえで、衛生にいいや」
「この野郎、いいかげんにしろい。歯くそをほじくりながら酒が飲めるもんか」
「しかし、腹にたまんなくって衛生にいい」
「なぐるぞ、ふざけると……もっとまじめにかんげえろよ……おっと、梅さん、ごくろうさま……おいおい、みんなもまじめになれよ。せっかくこうして酒もきたんだから……」
「そうだ。こうしようじゃねえか」
「そうしよう、そうしよう。それがいいや」
「まだなんにもいっちゃいねえや」
「道理でわからねえ」
「へたな掛け合いだそれじゃあ……いいか、台所へいくと、糠《ぬか》みそがあるだろう? そいつに手をつっこんでかきまわすと、古漬けてえやつがでてくらあ。こいつをこまかくきざんで、すぐじゃあくさくっていけねえや、いったん水へ泳がしといて、しょうがをまぜたやつを、かたくしぼって、醤油《したじ》をかけて、かくやの香の物《こうこ》なんてのはどうでえ?」
「よお、えらい、えらいねえ。かんがえることが粋だ。なるほど、かくやの香の物とは気がつかなかった。いや、おそれいった。江戸っ子だな。ついでに、そいつをだしてもらおうか」
「よせよ。おれがかんがえたんじゃねえか」
「いいじゃねえか。かんがえついたついでにだしてくんねえな」
「なんだと? かんがえたついでにだせだと? おい、おめえたち、いくさってえものを知ってるか? いいか、はかりごとをかんがえる軍師と、いくさをする人間とは別物なんだぜ」
「わかった、わかった。おめえにゃあたのまねえよ。なにも軍師と古漬けをいっしょにするこたあねえじゃねえか……どうだい、金ちゃん、糠みそだすかい?」
「あれは断《た》った」
「断った? 食わねえのかい?」
「いや、だすのを断った」
「なにいってやんでえ……留さん、おめえは?」
「おやじの遺言なんだ」
「遺言がどうしたい?」
「いや、おやじが苦しい息の下からそういったよ。『おめえは、なにをしてもいいけれど、糠みその古漬けだけはだしてくれるな』というひとことを最後に、はかなく息は絶えにけり。チャチャン、チャンチャン……」
「じょうだんいうねえ。……松ちゃん、おめえ、糠みそだすかい?」
「なにいってやんでえ。人《にん》をみて法を説けっていうじゃねえか。どうしておれをつかめえて、糠みその古漬けをだせたあなんてことをいうんでえ。なるほど、食っちゃうめえかも知れねえが、あんなどじなものはありゃしねえぜ。樽んなかへ手をつっこんだが最後、いくら手をあらったって、爪のあいだへ糠がはさまっちまって、あのくさみがぬけやあしねえ。女の子なんかよけて通らあ。いい若《わけ》え者のすることじゃねえね。ごめんこうむりやしょう」
「あれ、この野郎、おつなことわりようじゃねえか。なんだと、いい若え者だと? いいか、年さえ若けりゃあ、いい若え者というんじゃねえんだぞ。いって聞かせなけりゃあわからねえようだから聞かせてやるが、いい若え者てえのは、ふだん小ざっぱりした着物を着て、銭づけえがきれいで、目さきがきいている者のことをいうんだ。てめえのなりはなんだ? 年がら年中その着物を着てる着たきりすずめじゃねえか。あわせで着てるかとおもやあ、こんどはひとえもんになったり、綿いれになったり、ずいぶん器用な着かたをするなあ。人となにか食いにいったとき、割り前をだしたことがあるか? いっしょにそばを食いにいったってそうだ。こっちはとっくに食いおわってるのに、いつまででもぐずぐず食ってやがる。こっちゃあじれったくなって、『おい、勘定はいくらだい?』てんで、勘定をすましちまうとたんにてめえの食いかたの早《はえ》えのなんのって……てめえ、いつも勘定のすむまでつないでるんだな?」
「さては、はかる、はかるとおもいしに……」
「なに気どってやがんでえ」
「おいおい、もういいじゃねえか。仲のいい友だちどうしが、たかが古漬けぐれえのことでいがみあうこたあねえやな。まあ、いちばんいいはなしが、いまここへ糠みその香の物がでてくりゃあいいんだろ? おあつらえむきだ。香の物の出し手がやってきた。そらそら……」
「あれっ、あいつあ半公じゃねえか。だめだよ。あんな色っぽいやつは……」
「いいんだよ。みんなだまっといでよ。色っぽいやつは色っぽいやつで、また水のむけかたがあるんだから……いいかい、おれにすべてまかせるんだよ……おい、半ちゃん、半ちゃん、おめえ、素通りはねえだろ」
「よう、みんなあつまってるじゃねえか。なんかはじまるのか?」
「べつにはじまるてえほどのこたあねえが、みんなで飲もうてんだ。どうだい、仲間にはいらねえか?」
「すまねえ。そうしてえんだが、じつは野暮用《やぼよう》でいそぐんだ。かんべんしてくんねえ」
「そうか。用があるんじゃあしかたがねえが、まあ、こっちをむいて、とにかくおれに顔をみせろ。うーん、なるほど、あらためてみなおすと、べつにいい男てえんじゃねえが、女好きのする男前てんだな。罪だなあ、おめえてえやつあ……なんとかしてやっちゃあどうなんだ? 小間物屋《こまものや》のみいちゃん……おめえにばかな惚れかたじゃねえか。あのままほおっておくと、お医者さまでも草津の湯でもってんで、恋わずらいだ。こがれ死にしちまったらどうするんだ? この色男、女殺し、色魔、ひっかくぞ……じゃあ、いっといで」
「へへへへ、こんちわ」
「気味のわりい笑いかたするねえ。のこのこへえってきてなんだ? おめえ、いそぎの用があるんだろ?」
「まあ、いそぎの用っていえば、いそぎにはちげえねえが……みいちゃんがなんかいってたのかい?」
「いやな男だなあ、女のはなしになったらよってきやがる」
「えへへへ、で、みいちゃんがなんだって?」
「うん、そのことだが、三、四日前の晩、熊公んとこの縁台で涼んでいたとき、ちょうどきてたのがみいちゃんだ。いろいろうわさばなしをしてると、なにかにつけて、みいちゃんが、半公、おめえのうわさだ」
「ふん、ふん」
「おれたちだって、おなじ町内の若《わけ》え者だ。しゃくにさわってもくるじゃねえか」
「うん、もっともだ」
「それから、くやしいからいってやったんだ。さては、みいちゃん、おめえ、半公に惚れてるなと、真正面から一本釘をさしたとおもいねえ」
「うん、うん」
「みいちゃんがまっ赤になって口もきけねえかとおもったら、これがさにあらずだ。すましたもんで、あら、あたしが半ちゃんに惚れてたらどうなの? てんで、ドーンと一本くらっちまった」
「ふーん、なるほど、ふーん、ふーん」
「おいおい、あぶねえよ。ひっくりかえるじゃねえか」
「いや、でえじょうぶ、ひっくりけえりゃあしねえや。しかし、まあ、ようやく町内の女の子にもおれの値打ちがわかってきたんだな。うん、むりはねえや。うん、むりはねえとも……で、どうしたい?」
「こっちもますますしゃくにさわったから、みいちゃん、おめえが半公に惚れたのをどうこういうわけじゃあねえが、この近所にだって、ずいぶんと粋な男たちがいるんだぜ。なにもよりによって、半公みてえなばか野郎に……おい、怒るんじゃねえよ。ここんところは、おめえは色仇だからわるくいわれるわけだ……なにもあんな半公なんかに惚れなくったって、ほかに男もあるだろうというと、みいちゃんのせりふがにくかったねえ。『いいえ、あたしは半ちゃんの男らしいところに惚れたんだから、男っぷりなんかどうでもいいの』ときたもんだ。だからいってやったんだ。『へえ、半公はそんなに男らしいかい?』てえと、『ほんとうにあの人は男のなかの男一匹、たとえ相手がどんな人でも、さて、これこれこういうわけだからたのむといわれたとき、ただの一度でもいやだといってことわったことのない、あの男らしいところに惚れたのよ』ってんだが、どうだい?」
「ふーん、みいちゃんにもそれがようやくわかったのかい? ありがてえな」
「そうだろう」
「おれはな。人にものをたのまれて、一度でもいやだといったことのねえおあにいさんだ。じまんじゃねえが、半ちゃんたのむとあたまをさげられりゃあ、たとえ火のなか、水のなかへでも飛びこもうてんだ。江戸っ子だ。べらんめえ」
「えらい、えらいねえ。みあげたもんだ。その江戸っ子|気質《かたぎ》をみこんで、みんなでたのみがあるんだが、ひとつひきうけてくんねえか? この通りだ。たのまあ」
「おいおい、よしねえ。そんな手なんかついて……なんだ? 芝居の総見で切符かなんかよけいにひきうけてくれってえのか?」
「いや、そんなこっちゃねえ。みんなで一ぱいやろうってんで、かくやの香の物が食いてえんだが、すまねえ、糠みその古漬けをだしてもらいてえんだ」
「えっ? 糠みその古漬け? ……さようなら」
「おいおい、半ちゃん、さようならはねえだろう。おめえ、いま、たとえ火のなか、水のなかへでも飛びこむといったじゃねえか」
「そりゃあ火のなか、水のなかは飛びこむけれどね……まさか糠みその古漬けとは気がつかなかったぜ。どうもはなしがうますぎるとおもった。かんべんしてくんねえな」
「いや、かんべんできねえ。さんざんのろけいって、にぎりっこぶしで退散なんざあゆるさねえよ」
「よわったなあどうも……じゃあこうしてくんねえ。糠みその香の物を買う銭をだすということで示談《じだん》にしてくんねえな」
「ようよう、えらい、えらいねえ。はなしがわからあ。ツーといえばカーってえのはこういうことをいうんだな。さすがは江戸っ子、いくらだすい?」
「いくらだすいたって、買い物は香の物だよ。まあ、このくらいじゃどうだい?」
「あれ、だまって指を二本だしたな……え? いくら? 二両か? 二十両か?」
「じょうだんじゃねえや。たかが香の物だよ。指を二本だしゃあ二貫にきまってるじゃねえか」
「なに? 二貫? 二十銭かい? この野郎、この暑っ苦しいのに、あれだけでれでれとのろけやがって二貫が聞いてあきれらあ」
「そんなこといったって、こっちだって、そんなにふところは楽じゃねえやな……じゃあ、こんなところでは?」
「なんだい? 指を三本だしたな。この野郎、縁日《えんにち》でなんか買ってるんじゃねえや。ちびちびあげんない。おもいきっていけ、男らしく……」
「男らしくたって……人のふところだとおもって勝手なことをいうなよ……じゃあ、これだ」
「おや、片手だしたな……二|分《ぶ》かい、五十銭とおいでなすったな……どうだい、みんな、このへんで手を打つかい? まあ、しょうがねえな。口あけだからねがっちゃうかい? じゃあ、半ちゃん、二分に負けとかあ」
「二分に負けとかあって、なにも商売してるんじゃねえやな」
「つべこべいわねえで、二分おだし」
「だすよ。だすといったらだしますよ。とんだところへ通りあわせちまった。どうもゆうべの夢見がわりいとおもったよ」
「なにをぐずぐずいってるんだ。二分ばかりの銭をだすのになにしてやがるんでえ。さっさとだしたらいいじゃねえか。ああ、そうそう、こっちへよこしなよ。たしかに二分だ。ありがとうよ。どうもごくろうさま。さあ、おめえの役割りはすんだ。心おきなく用たしにおでかけよ。はい、いってらっしゃい」
「いってらっしゃいって……おれだって二分てえ銭をだしたんじゃねえか。酒の一ぱいも飲ませろよ」
「なに? 一ぱい飲ませろ? ずうずうしいことをいうねえ。さんざんぱら暑っ苦しいのろけを聞かせたあげくに、二分ばかりのはした銭をだして一ぱい飲ませろもねえもんだ。さっさと用たしにいっちまったらいいじゃねえか。いつまでまごまごしてるんだ。帰れ、帰れ」
「帰るよ、帰りゃあいいんだろ。さようなら」
「あははは……怒ってやがらあ。おーい、半ちゃん、あのねえ、豆腐屋のおきみちゃんがねえ、おめえにばかな岡惚れ!」
「なにいってやんでえ。二度とその手を食うもんか。ばかにすんねえ」
「うふふ、とうとうかんかんになっていっちまった。おもえば気の毒だったなあ……そうだ、豆腐屋のおきみちゃんでおもいだしたが、ゆうべ豆腐が買ってあったんじゃなかったか?」
「そうそう、与太郎のやつが買ってきたっけ」
「与太郎に聞いてみるか……おい、与太、与太、おめえ、豆腐をどうした?」
「ああ、だいじょうぶなとこへしまっといたよ」
「だいじょうぶなとこっていうと、ねずみいらずか?」
「ねずみいらずはね、穴があいてて、ねずみの巣になってらあ」
「じゃあ、どこへいれたんだ?」
「だから、ねずみに食われないように、お釜んなかへいれて、よくふたをして、上からたくあん石をのせといたからだいじょうぶ」
「えっ、釜んなかへいれて、たくあん石をのっけといた? ばかだなあ、おめえは……この温気《うんき》にたまったもんじゃねえくさっちまってるよきっと……やい、与太あけてみろ、あけてみろ、釜のふたを……」
「やあ、黄色くなって、毛がぽおーっと生えて、いやにすっぱそうだね」
「おれの鼻のそばへ持ってくるなよ。くさくってしょうがねえじゃねえか。さっさとうっちゃっちまえ」
「おいおい、うっちゃるのはおよしよ」
「どうして?」
「これをぜひ食わせたいやつがいるんだから……」
「えっ? これをかい? だれに?」
「表通りの変物《へんぶつ》がやってくるじゃねえか」
「あっ、伊勢屋の変物一件だ。しかし、いかになんでもそんなものを食うかい? あいつが?」
「そこがこっちの持ってきようじゃねえか。まあ、うまくいきましたらごかっさいとくらあ……おいおい、みねえ、あの気どった歩きっぷりを……きざの国からきざをひろめにきたてえかたちだな……若旦那、ねえ、伊勢屋さんの若旦那、よってらっしゃいましな。あなた、素通りはないでしょ?」
「おや、こんつわ」
「あれっ、こんつわとおいでなすったよ……若旦那、こっちへおはいんなさいな」
「これは、これは、町内の色男の寄り合いでげすな」
「若旦那、あいかわらずお口がおじょうずですね。お掛けになりませんか?」
「でも、おじゃまになっては……」
「そんなこたあござんせんよ。どうぞこちらへ……」
「では、失礼をばつかまつって、ちょっと、いつふく(一服)」
「おう、いつふくときたよ……どうぞ、若旦那、ふとんをお当てなすって……若旦那、あなたはよろしゅうがすねえ。いつも評判がよろしくって……」
「ほう、拙《せつ》の評判なぞ、いずかたで?」
「それが、町内の女湯なんで……」
「ほほほほ、女湯なんぞはおそれいりやしたな」
「ほほほほとおいでなすったね……若旦那、おみうけしたところ、ゆうべ、おつな色模様《いろもよう》がござんしたね。女の子にしがみつかれて、夏の夜はみじかいわかなんか……目がどんよりとして、血走ってますぜ」
「ようよう、さすがにお目が高いねえ。ゆうべの色模様、夏の夜はみじかいわをみぬくなんざあ、どうもおそれいった……はなせば長いことながら、昨夜の姫なる者は、拙にばかな恋着ぶりでごわしたねえ。 この袖でぶってやりたい もしとどくなら 今宵《こよい》のふたりにゃじゃまな月てな都都逸《どどいつ》を唄ってすねて、拙の股のあたりをつねつねやなんぞあって、首すじへきゅーっ」
「おいおい、受付けかわっとくれよ……しかし、若旦那、あなたなんざあそうもてるっていうのも、すべてにわたってご通家《つうか》でいらっしゃるからでござんすよ。召しあがりものだってあっしたちとはちがいましょう? 夏むきのこの節なんざあどんなものを召しあがってます?」
「やあ、これはまた異なことをおたずねでげすなあ。当節、拙をもうおつなどといわしむる食物《しよくもつ》はごわせんねえ」
「そうでござんしょうとも……で、さっそくなんでござんすが、いま、よそからもらったものがあるんですがね、どうもこれがみたこともねえもんなんで……食いものだてえことはたしかにわかるんでござんすが、ひとつあんたにみていただきてえんで……」
「ははあ、ご到来物で……では、さっそく拙がご検分の役をつとめるといたしやしょうか」
「こりゃありがてえ。おいおい、すぐに持ってこいよ。さっきの一件を……あれだよ、釜へしまいの、たくあん石をのっけの、色は黄色の、毛がぽおーってやつを……」
「なんでげす?」
「いえ、こっちのはなしなんで……ばかだな、ひとの鼻のとこへつきだすねえ。すこしはなしてだせよ。ぷーんとくるじゃねえか……ええ、これなんでござんすがね、若旦那、ひとつご検分を……」
「ははあ、なるほど……ふーん、このにおいはまた……」
「若旦那、ぐっと遠くへはなしてごらんになってますね。そりゃあやっぱり食べものでござんしょうか?」
「もちりんでげす」
「もちりんでげすなぞはおそれいりますねえ。で、若旦那は、そいつをやったことがおあんなさるんで?」
「やったことがあるかなぞはまた愚なるおたずねだね……拙なぞは、すでに両三度ばかりもちいたことがごわす」
「そうですか、じゃあ、さっそくここで召しあがっていただきてえんですが」
「ここでとおっしゃるが、みなさんの前で食しては失礼にあたりやすから、これを宅へ持ち帰りやして、夕餉《ゆうげ》の膳で一|献《こん》かたむけながらもちいるということに……」
「そんなことをいわねえで、ここで召しあがってくださいな。こちとらあ食いかたを知らねえんでこまってるんで……どうか、ひとつ食いかたのご伝授を……おい、みんなもおたのみ申せ」
「若旦那、どうかおねがいいたします」
「ねえ、若旦那、あっしたちをたすけるとおもって……」
「では、それほどおっしゃるなら、失礼をもかえりみず、ちょっといただきましょうか」
「やってくれますか。こいつあおもしろくなって……いや、その……ありがてえことになりました。なんで召しあがります? え? れんげで? そうでしょう、そいつあ箸じゃあひっかかりませんからね……さあ、若旦那、れんげでどうぞ……」
「せっかくのおすすめでげすから、いただきやしょう」
「どうかおねげえ申します」
「さてと……うーん、どろっとして、このれんげに一度でかからんところが、このまたおつなところで……この、また鼻へつーんとくるところが……うーん、なんともいえぬ値打ちで……うむ……目にもぴりっときやすな……この目ぴりなるものがまた珍なるゆえんで……こうして、一口に……うーん」
「やった、やった。うーんとうなりながら、若旦那、とうとう召しあがりましたねえ。おどろきました。さすがにたいしたもんだ。しかし、これはなんという食いものなんで?」
「拙のかんがえでは酢豆腐でげしょう」
「酢豆腐? なるほど、酢豆腐はうまいねえ。若旦那、そんなにおつならどっさり召しあがっておくんなさい」
「いや、酢豆腐はひと口にかぎりやす」
悋気《りんき》の火の玉
悋気は女のつつしむところ、疝気《せんき》は男の苦しむところなんていいますが、悋気、つまりやきもちというのも、やきかたというのがむずかしいようでございます。
やきはしやせんと女房いぶすなり
やくというほどでなくて、狐色《きつねいろ》ぐらいにいぶす嫉妬《しつと》というものはかわいらしいものですし、
寝たなりでいるはきれいな悋気なり
夜なかに帰ってきた亭主をでむかえもしなければ、着がえの手つだいもしないで、寝たままでいるのは、これもやきもちのせいなのですが、これも嫉妬としては性質《たち》のいいほうでございます。それが
悋気にも当たりでのある金だらい
かんざしも逆手に持てばおそろしい
朝帰り命に別状ないばかり
なんてことになってくると、やきもちもだんだんとおそろしいことになってまいります。
浅草の花川戸に、立花屋という鼻緒《はなお》問屋がございました。
ここの旦那がたいへんに堅いかたでございまして、女はわが女房のほかにはまったく知らないという、まことに堅餅《かたもち》の焼きざましのような人物で……この旦那が、あるとき、仲間の寄り合いのくずれで吉原へさそわれました。
さあ一度あそんでみると、その味をわすれることができません。毎日のようにあそびにゆくようになったのですが、もともと商人でございますから、そろばんをはじいてみてかんがえました。こんなことをしていたんでは、いくら財産があってもたまったもんじゃない。なんとか安くすませる方法はないものか――いろいろ思案した結果、おいらんを身請《みう》けして、根岸の里へ妾宅《しようたく》をかまえてかこいました。
いわゆる黒板塀に見越しの松というかまえで、お妾《めかけ》さんは狆《ちん》を抱いて暮らしているというのがよくみる光景のようで……狆を抱いていれば、ご当人がひきたちますからたいへんにお得ですが、なかには狆を生んだんじゃないかなんていう、狆と瓜二つなんてかたもおります。
で、旦那は、月のうち、本宅に二十日、妾宅に十日お泊りになるようになりました。
本宅のほうでは、このごろ旦那のようすがおかしいというのでしらべてみると、案の定《じよう》、根岸に妾宅があるということがわかりましたから、本妻としてもおもしろくありません。
「ただいま帰りました」
「お帰りなさいまし!」
「おいおい、おまえさんは女でしょ? もうすこししずかにあいさつはできないのかい? ……あーあ、くたびれた」
「ええ、そうでございましょう。おつかれでございましょうよ……ふん」
「おい、おかしなことをいうね。おい、お茶をいれておくれ」
「あたくしがいれたお茶なんかおいしくございますまい。ふん」
「おい、どうでもいいけど、そのふんてのはおよしよ。感じがわるいよ。どうせ笑うなら、大きく、あはははと笑いなさい……あー、腹がへった。めしを食おう。お茶づけにでもしておくれ」
「あたくしのお給仕なんかじゃあおいしくございますまい。ふん」
「いいかげんになさい」
旦那だって、これではおもしろくありませんからプイととびだしてしまって、こんどは妾宅へ二十日、本宅へ十日とあべこべになってまいりますし、そのうちには、だんだん本宅へ帰らないようなことになってまいります。
さあ、こうなると、ご本妻のほうではおさまりません。こういうことになるのも、すべて根岸の女があればこそだ、あの女さえ亡き者にしてしまえば万事うまくいく――そうだ、あの女を祈り殺してしまおうというので、真夜なかに、わら人形を杉の大木へ持っていって、五寸釘でカチーン、カチーンと打ちつけはじめました。
このことが根岸のほうにも知れましたから、こちらでもだまっちゃあおりません。
「なんだって? あたしを五寸釘で祈り殺すんだって? なにいってるのさ、自分で旦那のごきげんがろくにとれないから、それで旦那がこっちへくるんじゃないか。へん、そっちが五寸釘なら、こっちは六寸釘でいくよ……ばあや、すぐに六寸釘を買ってきておくれ」
てんで、根岸のお妾さんは六寸釘で、真夜なかにカチーン、カチーンとのろいの祈り……
このことが、こんどはご本妻に知れましたからたいへんで……
「なんだい? 根岸が六寸釘で祈ってるって? よーし、そんならこっちは七寸釘だよ。すぐに七寸釘を買っといで」
さあこうなると、おたがいに、八寸釘だ、九寸釘だと競争で祈りはじめました。
ところが、むかしからいう通り、人をのろわば穴二つとやらで、ご本妻もお妾もおなじ日のおなじ時刻に亡くなるというさわぎ。
こうなると、まぬけな目にあったのは旦那で、一ぺんにお葬式を二つもだすというあわただしさでございます。
「ええ、旦那さま」
「おや、番頭さんか。なにか用かい?」
「はい……その……旦那さまはご存知でございますか、あの評判を?」
「どんな評判だい?」
「毎晩真夜なかになりますと、こちらのお宅から火の玉があがって根岸のほうへむかいまして、また、根岸のほうからも火の玉が花川戸めざしてとんでまいりまして、ちょうど大音寺前のところで、この火の玉と火の玉がぶつかって、火花をちらして喧嘩をするということでございます」
「うん、あたしもちょいと耳にしたんだが、そんなに評判になっていたんでは、店ののれんにかかわるねえ、信用にかかわりますよ……どうしたらいいだろう?」
「さようでございますねえ……いかがでございましょう。どちらの火の玉も、もとはといえば旦那をなかにはさんでの悋気がもとでかっかとしているのでございますから、ここはひとつ、旦那さまがご仲裁《ちゆうさい》なさるということでことをおおさめになってはどんなもので?」
「うん、それはいいとこへ気がついた。さっそく今晩でかけましょう。おまえもいっしょにいっておくれ」
「かしこまりました」
さて、その晩おそく、旦那は、番頭を供《とも》につれて、浅草たんぼをななめに抜けて大音寺前へやってまいりました。
「旦那さま、さびしゅうございますね」
「ああそうだな……しかし、ただこうして待っているのも退屈なもんだな……えーと……」
「旦那さま、なにをしていらっしゃいます?」
「いえね、いま、あたしはたばこが吸いたいんだが、あいにく火道具をわすれてきてしまって……番頭さん、ちょいと貸しておくれでないか」
「あいにくと、てまえはたばこをやりませんもので……」
「ああそうだった。おまえさんはたばこをやらなかったね……どうもそうなると、意地のきたないもので、むしょうにたばこが吸いたくなっちまった」
はなしをしておりますと、根岸のほうからひとつの火の玉があがったかとおもうと、フワフワフワフワ……こちらへむかってやってまいります。
「旦那さま、あれが根岸の火の玉で……」
「ああ、なるほど……おいおい、おーい、ここだよ」
旦那が声をかけますと、火の玉がぐるぐるぐると三べんまわってぴたりととまりました。
「や、ものすごいね。しかし、まあよくきてくれた。おまえのくるのを待ってました。で、おまえがでてくる心持ちはよくわかってるんだけれど、なにしろ、あれこれと評判になってこまるんだよ……はなしの途中だが、ちょいと待っておくれ。いま、あたしゃたばこが吸いたいんだが、火がなくってこまってるんだ。ちょっとこっちへきておくれ。おまえの火でたばこをつけさせて……うん、うん、ついた、ついた。はあ、うまいねえ、ありがとう……そこでね、おまえがでてくることはおだやかでないんだよ。うちの家内はね、しろうとでわからずやだ。だから、どうしてもおまえさんにつっかかるわけだが、そこはおまえさんは酸《す》いも甘いも心得てる苦労人だ。なんとかうまく下手《したて》にでて、あれと仲なおりをしておくれでないか。ねえ、なんとかうまくやっておくれ……もっとこっちへきて、もう一服つけさしておくれよ」
と、旦那がたばこを吸っておりますと、花川戸のほうから火の玉がぱっとあがったかとおもうと、こっちは根岸の火の玉みたいにフワフワなんてとんでまいりません。ビューンとうなりを生じてまっしぐら……
「旦那さま、旦那さま、あれがおかみさんの火の玉で……」
「いや、こりゃあすごいね……おいおい、おーい、こっちだ、こっちだ」
とよびますと、ビューンと一直線にとんできた火の玉が、ぐるぐるぐるぐると五、六ぺんもまわってぴたり。
「いや、よくきてくれた。おまえのくるのを待ってました。いま、根岸のやつにもはなしをしたんだよ。すると、ようやくわかってくれて、ねえさん、まことに申しわけないって、そういってわびてるんだから、おまえさんもどうかきげんをなおして仲なおりしてやっておくれ。でないと、あたしがこまるじゃないか……だからね、いろいろはなしもあるけどもさ……すまないけど、ちょいとこっちへきておくれ。また一服やりたくなっちまった。あたしがね、たばこを……」
と、旦那がきせるを持ってゆくと、ご本妻の火の玉がすーっとそれて、
「あたしの火じゃおいしくございますまい。ふん」
三方一両損
「江戸っ子の生れぞこない金をため」なんていう川柳がございますが、江戸っ子というものは、たいへんお金には無関心だったようでございます。
「あれっ、こんなところに財布がおちてるぞ。なかには……と、あれっ、三両もへえってるぜ。こいつあめんどうなことになっちまったなあ……えーと、なに、なに……印形《いんぎよう》と書付けがへえってるぜ。えー……神田竪大工町《かんだたてだいくちよう》大工熊五郎だって……まぬけな野郎じゃねえか。まあ、とにかくとどけてやんなくっちゃあ……」
「ああ、ここだ、ここだ。障子《しようじ》に、大熊としてあらあ。いやに煙ってえじゃねえか。なにしてるんだろう? 障子に穴あけてのぞいてみるか……ああ、あいつが熊って野郎か。ふーん、一ぱいやってるな、いわしの塩焼きで飲んでやがら、つまんねえもんで飲む野郎じゃねえか。……やいやい、どうせ飲むんならもっとさっぱりしたもんで飲め」
「だれだ? ひとの家の障子に穴あけて、おかしなことをいってるのは? 用があるんならこっちへへえれ」
「あたりめえよ。用がなけりゃあこんなうすぎたねえ家へくるもんか。じゃああけるぜ」
「いきなりやってきて、うすぎたねえ家とはなんだ。だれだ、てめえは?」
「おれは、白壁町の左官の金太郎てえもんだ」
「おめえか、あめのなかからでてくるのは?」
「そう、あめのなかから金太さんがでたよ……つまんねえことをいわせんない」
「その金太郎がなんの用だ?」
「おめえ、きょう、柳原で財布をおっことしたろう?」
「おいおい、しっかりしろよ。柳原でおっことしたとわかってりゃあ、すぐに自分でひろうじゃねえか」
「あっ、そうか、こいつありくつだ。じつは、おれが、おめえの財布をひろったんだ。さあ、なかをあらためてうけとれ」
「この野郎、お節介《せつけえ》なまねをするじゃねえか。なるほど、こいつあおれの財布だ」
「なかをあらためてくれ」
「あらためた」
「まちげえねえな」
「ねえ」
「じゃあ、おめえに返したぜ。あばよ」
「おいおい、金太郎」
「心やすくよぶねえ……なんだ?」
「書付けと印形は、大事なもんだからもらっとくが、銭はおれのもんじゃねえから、帰りに一ぱいやってけよ」
「じょうだんいうねえ。おれは銭なんかもらいにきたんじゃねえぞ。その財布をとどけにきたんだ」
「そりゃあわかってるんだ。だから、印形と書付けはもらっとくが、銭はおれのもんじゃねえから持ってけというんだ」
「この野郎、わからねえことをいうじゃねえか。おれのもんじゃねえったって、てめえの書付けがへえってりゃ、てめえの銭じゃねえか」
「ああ、たしかにもとはおれの銭だった。だけども、おれのふところをきらってよそへとびだしていった銭だ。そんな薄情なもんに帰ってきてもれえたくねえから、持ってけてんだ」
「ふざけるねえ。てめえの銭とわかってるのに持ってけるもんか」
「どうしても持っていかねえのか? 人がしずかにいってるうちに持ってかねえと、ためんならねえぞ」
「あれっ、この野郎、おつにからんだいいかたするじゃねえか。おらあ、てめえなんぞにおどかされるような弱え尻はねえぞ」
「なんだと、この野郎、持ってかねえと、ひっぱたくぞ」
「おもしれえ、財布をとどけてひっぱたかれてたまるもんか。なぐれるもんなら、なぐってみろい」
「よし、おあつらいならなぐってやらあ」
「やりゃあがったな」
「やったが、どうした?」
「こうしてやらあ」
「この野郎!」
「なにを、この野郎!」
ふたりで、とっくみあいの喧嘩になりましたから、おどろいたのはとなりの家で……
「大家さん、大家さん! 熊んとこでまた喧嘩がはじまった。壁へドシン、ドシンぶつかってあばれるんで壁がぬけそうだ。はやくとめてくんねえ」
「しょうがねえなあ。あんなに喧嘩好きなやつもねえもんだ。のべつなんだから……あっ、やってる、やってる。両方ともいせいがいいや。あれ、いわしをふみつぶしやがった。もったいねえじゃねえか。まだろくに箸もつけてねえのに……」
「大家さん、いわしなんかどうでもいいから、はやくとめてくんねえ」
「やい、熊公、いいかげんにしろよ。いつもいつもよけいな世話を焼かせやがって……壁がぬけるってんで、となりで心配してるじゃねえか……また、おまえさんもおまえさんだ。どこの人か知らねえけど、おれの長屋へきてむやみに喧嘩しちゃあこまるな」
「なにをぬかしやがんでえ。おれだってなにもすきこのんで喧嘩してるんじゃねえやい。こいつがおっことした財布をとどけにきたら、いきなりひっぱたいたから、こういうことになったんじゃねえか」
「そうだったのかい。そりゃあどうもすまなかった……やい、熊公、てめえはなんでそんなことをするんだい、この人が親切にとどけてくだすったというのに……」
「おれのふところをとびだすような薄情な銭なんかいるもんか」
「そりゃあ、おめえとしてもうけとりにくいかも知れねえが、わざわざとどけにきてくれたんじゃねえか。一応うけとっといて、あくる日、手みやげのひとつも持って礼にいくのが道じゃねえか。それをなぐったりしやがって……この人にあやまれ」
「よけいな世話あ焼くねえ。この逆螢」
「なんだと」
「大家だ、大家だっていばるんじゃねえや。いいか、じまんじゃねえが、晦日《みそか》に持ってく家賃は、いつだって二十八日にきちんきちんととどけてらあ。こっちはすることをしてるんだ。それなのに、てめえはなんだ。盆がきたって、正月がきたって、鼻っ紙一枚くれたことがあるか。てめえなんぞにぐずぐずいわれるこたあねえ」
「この野郎、たいへんな野郎だ……ねえ、そこのかた、こういうらんぼうな男ですよ。こういうやつはくせになるから、南町奉行大岡越前守さまへうったえでて、お白洲《しらす》の砂利の上であやまらせるから、腹も立つだろうけれど、まあ、ひきあげておくんなさい」
「そうとはなしがきまりゃあ帰るけど、やい、熊公、おぼえてろ」
「ああ、おぼえてるとも、おらあ二十八だ。もうろくしちゃあいねえから、てめえのつまんねえつらあわすれるもんか。くやしかったら、いつでもしかえしにこい。矢でも鉄砲でも持ってこい」
「矢だの、鉄砲だの、いるもんか。てめえなんぞ、このげんこつでたくさんだ」
「なにを!」
「これでもくらえ」
「また、はじめやがった」
「あーあ、ばかな目にあったもんだ。財布とどけてなぐられりゃあ世話あねえや。まあ、大家がお白洲であやまらせるってからかんべんしてやったんだが、どうにもしゃくにさわってしょうがねえ、まったく」
「おいおい、なにをひとりごとをいって歩いてるんだい?」
「あっ、しまった。うちの大家さんの前を通っちまった。……こんちわ。へえ、ちょいと用たしにいってきたんで……」
「そうかい。ちょいと茶でも飲んでいかねえか」
「へえ、ありがとうござんす」
「いまもうちではなしをしていたんだが、まあ、この長屋にいろんなやつが住んでるけど、おまえみてえにきちんとしたやつはねえ。いつも着物もきちんと着て、髪もちゃんと……おや、着物も髪もあんまりちゃんとしてねえな。いつものおまえに似あわないじゃねえか」
「へえ、じつは、ちょいと喧嘩をしてきたもんですから……」
「そうかい。そいつあ、いせいがよくっていいや。どうしたんだ、ことのおこりは?」
「なにね、柳原を歩いていたら、財布をひろっちまって……」
「なんだって、そんなどじなことをするんだ」
「どじなことをするったって、下駄へひっかかっちまったんで……」
「そんなささくれてる下駄を履いてるから、そんな目にあうんだ」
「なかをあらためると、金が三|両《りよう》と、書付けに印形がへえってたから、そいつんとこへとどけてやりました」
「えらいっ、いいことをしたな。むこうじゃよろこんだろう」
「それが怒ったんで……」
「どうして?」
「『書付けと印形はもらっとくが、銭はおれのもんじゃねえから持ってけ。持ってかねえとためんならねえぞ』ていいやがるんで……」
「おかしな野郎じゃねえか」
「ですからね、『おらあ、てめえなんぞにおどかされるような弱え尻はねえぞ』といいますと、『この野郎、持ってかねえと、ひっぱたくぞ』とぬかしやがるんで……」
「らんぼうなやつだなあ」
「そいから、あっしゃあね、『なぐれるもんなら、なぐってみろい』というと、『よし、おあつらいなら、なぐってやらあ』てんで、ぽかっときやがった」
「まさかなぐられやしめえな」
「ぱっとうけた」
「どこで?」
「あたまで……」
「なんだ、それじゃあなぐられたんじゃねえか。だらしがねえ」
「あっしだってくやしいから、いきなりとびこんでって、いわしを三匹ふみつぶした」
「しまらねえ喧嘩だな。で、どうした?」
「壁へドシン、ドシンぶつかったもんだから、となりのやつがおどろいて、大家をよんできました。あっしがわけをはなすと、さすがは大家ですねえ。その熊ってえ野郎に叱言をいいました。『そりゃあ、おめえとしてもうけとりにくいかも知れねえが、わざわざとどけにきてくれたんじゃねえか。一応うけとっといて、あくる日、手みやげのひとつも持って礼にいくのが道じゃねえか。それをなぐったりしやがって……この人にあやまれ』ていいますとね、その熊てえ野郎が大家へむかってたんかをきったんですが、敵ながらあっぱれなたんかでしたぜ」
「あれっ、なぐられてほめてやがる」
「『よけいな世話あ焼くねえ。この逆螢。大家だ、大家だっていばるんじゃねえや。じまんじゃねえが、晦日に持ってく家賃は、いつだって二十八日にきちんきちんととどけてらあ。こっちはすることをしてるんだ。それなのに、てめえはなんだ。盆がきたって、正月がきたって、鼻っ紙一枚くれたことがあるか』ってどなりやがったけど、どこの大家もおんなじだとおもいました。えへへへ」
「いやなことをいうない」
「で、とどのつまり、その大家が、『こういうやつはくせになるから、南町奉行大岡越前守さまへうったえでて、お白洲の砂利の上であやまらせるから、腹も立つだろうけれど、ひきあげておくんなさい』てえことになったから、そいで、あっしも帰ってきたようなわけなんで……」
「うん、まあ、それでおまえの顔は立った。しかし、おまえはうちの店子《たなこ》だよ。店子といえば子も同然、大家といえば親も同然というくらいだ。その親の大家の顔はどこで立てるい? いやさ、おれの顔はどこで立てる?」
「いやあ、こいつあ立てにくいや。丸顔だから……」
「なにいってやんでえ。うったえられるのを待ってるこたあねえ。こっちから逆にうったえてやれ……すぐにうったえろ」
「すぐにうったえろって、どうするんで?」
「願書を書くんだ」
「なんです? その願書を書くてえのは?」
「奉行所へだす書類を書くんだよ」
「字を書くんですね」
「そうだよ」
「そいつあだめだ。親父の遺言で字は書かねえことになってるんで……」
「ああ、そうか。おまえは、そっちのほうはまるっきりだめだったな。じゃあ、硯《すずり》を持ってこい。おれが書いてやるから……さあ、できた。これを持ってうったえてこい」
ただいまの裁判とちがいまして、むかしのお白洲は、およびこみになりますと、ガラガラ、ガチャンとくさりのついたとびらがしまります。この音を聞くと、わるいことをしない人でも、ぞっとしたそうでございます。
正面をみますと、紗綾形《さやがた》の襖《ふすま》。右手に公用人《こうようにん》、左手に目安方《めやすかた》。縁の下には同心衆がおります。
「ひかえろ、ひかえろ」
「ひきがえる?」
「ひきがえるじゃない。ひかえるんだ」
「ひかえてますよ」
「あぐらかいてるんじゃないよ。坐るんだ」
「そんなこといったって、大家さん、股引《ももひき》がきつくって坐れねえんで……」
「坐んなくっちゃいけねえ。さあ、あたまをさげて……」
「あたまもさげるんですかい? だから、こんなとこへくるのはいやだったんだ」
「しいっ……しいっ……」
「赤ん坊に小便《ちようず》やってんのかい?」
「お奉行さまがおでましになるんだよ」
「へええー」
「神田竪大工町大工熊五郎、おなじく白壁町左官金太郎、付き添い人一同、ひかえおるか」
「一同、そろいましてございます」
「熊五郎、おもてをあげい、これ、おもてをあげい」
「へえ、おもてはしめてでてきましたがねえ」
「おい、顔をあげろというのだ」
「おどかすねえ、こんちくしょうめ。なにも同心だからってそんなにいばるねえ。こっちはなにも泥坊なんかしたわけじゃねえんだから……おっことした財布をうけとらねえってんでうったえられたんだ。なにいってやんでえ、このしみったれ」
「おい、熊、なにをお役人と喧嘩してるんだ?」
「大家さん、しみったれだよ、あの同心てやつは……羽織の裾をはしょったりして……」
「なにをつまんねえことをいってるんだ。あたまをあげるんだよ」
「なんでえ、あげたり、さげたり……これがあたまだからいいけど、米なら相場がめちゃめちゃになっちまうぜ。あげろっていえばあげますがね、こんなもんですかね?」
「そのほう、柳原において財布を取りおとし、これなる左官金太郎なるものが、親切にもとどけつかわしたるところ、らんぼうにも打ち打擲《ちようちやく》なせしとの願書のおもむきであるが、それに相違ないか」
「ええ、まちがいございません。じつは、あっしは財布をおっことしたんで、かえってさっぱりしていい心持ちだとおもいましてね、いわしの塩焼で一ぺえやってますと、この金太郎って野郎がお節介にひろってきました。よけいなことをしやがるとおもいましたから、『書付けと印形はもらっとくが、銭はおれのもんじゃねえから持ってけ』といったんですが、こいつがどうしても持っていかねえんで……だから、『持ってかねえとためんならねえぞ』と、こいつの身を案じて親切にいってやりますとね、こいつが、ひとの親切を無にしやがって、どうしても持ってかねえと強情《ごうじよう》を張るもんですから、『持ってかねえと、ひっぱたくぞ』というと、『なぐれるもんならなぐってみろ』といいますから、当人がそういうものを、なぐらねえのもものに角が立つとおもいましたから、『おあつらいなら』てんで、ぽかりとやりました」
「いや、おもしろいことを申すやつじゃ……さて、金太郎、そのほう、なぜ金子《きんす》をもらいおかん?」
「おう、おう、おう、お奉行さん、みそこなっちゃあいけねえぜ。じょうだんいうねえ……」
「これこれ、裁断の場所にじょうだんはないぞ」
「じょうだんじゃなけりゃあ、いってやろうじゃねえか。そういうものをひろったらばだねえ、自身番へとどけろとか、どこそこへとどけろとか教えるのがお上《かみ》のお役目だとおもいますねえ。そんな金をもらって帰るようなさもしい根性をこちとら持っちゃおりませんや。人間は金をのこすような目にあいたくねえ。どうか出世するような災難にであいたくねえとおもえばこそ、毎日、金比羅《こんぴら》さまへお灯明《とうみよう》あげておがんでるんじゃありませんか。それをなぜ金をもらわねえかなんて、いくらお奉行さまでもあんまりだ、あんまりでございます」
「泣いておるな……よし、しからば両人とも金子《きんす》はいらんと申すのじゃな。……なれば、この三両は、越前があずかりおくがどうじゃ?」
「ありがとうござんす。そうしてくださりゃあ、なにも喧嘩するこたあねえんで……」
「さて、両人の者にたずねるが、両人の正直により、あらためて二両ずつ褒美《ほうび》としてつかわそう。どうじゃ、うけとれるか?」
「えー、お奉行さま、町役、なりかわって申しあげます。町内よりかような正直者がいでましたのは、あたくしどものほまれでございます。ありがたくちょうだいさせていただきます」
「これ、両人に褒美をつかわせ。さあ、両人ともうけとれ。よいか、このたびのしらべは三方一両損と申すぞ。なに? わからん? わからんければ、越前いってきかせる。こりゃ、熊五郎、そのほう、金太郎がとどけし折り、そのままうけとりおかば三両ある。金太郎も、その折り、もらいおかば三両ある。越前もそのままあずかりおかば三両ある。しかるに、これに一両たし、双方に二両ずつの褒美をつかわしたによって、いずれも一両ずつの損と相成った。これすなわち三方一両損じゃ」
「ありがたきおしらべでございます」
「あいわからば、一同立ちませい……これこれ、だいぶしらべに時をうつした。両人とも空腹であろう、これ、膳部をとらせい」
「え? 膳部っていうと、大家さん、ごちそうになるんですかい? すまねえねえ。手ぶらでやってきてこんな散財をかけちゃあ……みんなふところは苦しいんだ。お奉行さま、むりなさらねえでいいのにねえ……あれあれ、てえへんなごちそうだ。いい鯛《てえ》だなあ、本場もんだ、こりゃあ……おい、熊、おめえ、こねえだ、いわしの塩焼きで一ぺえやってたろう。たまにはこんな鯛で酒を飲めよ。江戸っ子じゃねえか……もっとも、おれもこんな鯛にゃあめったにお目にかかれねえが……まあ、ながめてたってしょうがねえや。遠慮なくいただこうじゃねえか……うん、こりゃあうめえや。おまんまもあったけえし、頬っぺたがおっこちるようだ……なあ、これから腹がへったら、ちょいちょい喧嘩してここへこようじゃねえか」
「これこれ、両人、いかに空腹じゃからとて、腹も身のうちじゃ、あまりたんと食すなよ」
「えへへ、多かあ(大岡)食わねえ」
「たった一膳(越前)」
たがや
このごろでは、交通事情のためになくなってしまいましたが、両国の川開きというものはたいへんなものでした。
花火見物の客で混雑をきわめて身うごきもできなくなるんですが、それでも花火がきれいにあがると、「たあまあ屋ー」なんてんで、ほうぼうから声がかかると、みんなもう夢中になってみとれております。
しかし、花火のほめかたというものは、たいへんにむずかしいそうですな。ご年配のかたにうかがいますと、上へいってひらいた花火が、川へおちるまでほめているのが、ほんとうのほめかたなんだそうで……だからうんと長いあいだほめていなくてはいけないと申します。
「たあまあ屋あーい」
てんで、じつに長い。
これと反対なのが、役者衆のほめかたで、ごくみじかく、ぱっとほめます。
歌舞伎のほうだと、「たやっ」なんて声がかかります。ほんとうは、音羽屋というべきところをみじかく「たやっ」とかけるわけです。
新派のほうでも、「水谷っ」「大矢っ」と、やはりみじかくほめます。
これを花火のほめかたでやったらぐあいのわるいもんで……
「おーとーわーやあー」
「うるせえやい、こんちくしょう」
なんてんで、張り倒されてしまいます。
また、役者衆のほめかたで花火をほめたら、これもぐあいのわるいもんで……
「玉屋っ」
とみじかくやったら、花火が上へあがったまんまおちてこなかったりして……まさかそんなこともありますまいが……
むかしは、玉屋と鍵屋と二軒の大きな花火屋がありましたが、玉屋のほうは、天保十四年五月、将軍|家慶《いえよし》公が日光へご参詣のときに自火をだしましたために、おとりつぶしになってしまいました。ですから、あとにのこった大きな花火屋といえば鍵屋だけなのですが、どうも鍵屋という声はかかりません。
端唄《はうた》にも、「玉屋がとりもつ縁かいな」というのがありますし、小唄にも「あがったあがったあがった、玉屋とほめてやろうじゃないかいな」というのがあって、鍵屋のほうはまったくとりあげられておりません。ですから、江戸時代の狂歌にも、
橋の上玉屋玉屋の人の声
なぜか鍵屋といわぬ情《じよう》(錠《じよう》)なし
なんて同情したのがあります。
さて、むかしは、五月二十八日が川開きの日でしたが、その当日、夕方になりますと、両国橋の上からそのあたりは黒山の人だかりで、爪も立たないようなさわぎ。みんな押したり押されたりしながら夢中で花火をみております。
その混雑の最中に、本所のほうから徒士《かち》の供ざむらいをつれて、仲間《ちゆうげん》に槍を持たせたさむらいが馬を乗りいれてまいりました。
まことに乱暴なはなしですが、そのころは、士農工商という身分制度がきびしくできあがっておりましたから、みんな苦情をいうことができません。
「寄れ、寄れ」
とどなられますと、たださわいで道をあけようとするばかり……
「おい、馬だ、馬だ、馬だ。そっちへよってくれ」
「寄れないよ、もう橋の欄干《らんかん》にべったりはりついてるんだから……」
「もっと寄れよ、なんなら川の中へとびこんでくんねえな」
「じょうだんいっちゃあいけねえ……おっとっと……押すなよ。押すなってば……死んじまう!」
みんな必死になって馬をよけておりますが、さむらいのほうではそんなことは平気で、なおも人ごみのなかをすすんでまいります。
一方、両国|広小路《ひろこうじ》のほうからまいりましたのが、たが屋で……このたが屋という商売は、いまではすっかりなくなりましたが、むかしは、桶《おけ》のたがをなおしてあるくことを稼業にして、ほうぼうの家をまわっておりました。
そのたが屋が、仕事を終えて両国橋へさしかかってまいりました。
「あっいけねえ。うっかりして、きょうが川開きだったことを忘れてた。こう人ごみにまきこまれたんじゃあどうにもしょうがねえ。あとへもどることもできやしねえや。しかたがねえ、通してもらおう……すみません。通してやっておくんなせえ」
「いてえ、いてえじゃねえか。だれだい? あっ、たが屋だ。こんな人ごみのなかへそんな大きな道具箱をかついできちゃあしょうがねえなあ。早く通れ、早く通ってくれよ」
「へい、すみません……みなさん、すみません」
てんで、たが屋は、まわりの人たちにあやまりながらすすんでまいります。
一方、さむらいのほうも、
「寄れ、寄れ、寄れい」
と人をかきわけながら、だんだんと橋のなかほどまでやってまいりましたが、これがたが屋と橋のまんなかででっくわしてしまいました。
「寄れ、寄れ、寄れと申すに……」
「へえへえ、すみません」
寄れといわれても、爪も立たないような人ごみのなかで、道具箱をしょってるのですから、たが屋としてもおもうようにはなりません。ただもじもじとするばかり……こうなると、さむらいのほうでもじれったくなってきたとみえまして、
「ええ、寄れと申すに、なぜ寄らんか」
といったかとおもうと、ダーンとたが屋の胸をつきました。不意のことなので、たが屋は持っていた道具箱を、おもわずドシーンととりおとしてしまいました。
間のわるいときはしかたのないもので、道具箱のなかの巻いてある竹のたがが、おちたひょうしに、つっつっつっつっと伸びていったかとおもうと、馬に乗っていたさむらいの笠《かさ》をはじき飛ばしてしまいました。あとは、さむらいのあたまの上に、お茶台のようなものがのこっているばかりで、まことにまぬけなかたち。
「無礼者め!」
さむらいは烈火のごとく怒りました。
「へえ、ごめんください。いきなり胸をつかれましたんで、道具箱をおとしてしまいました。すみません。かんべんしてやっておくんなさい」
「いいや、ならぬ。この無礼者め。ただちに屋敷へ同道いたせ」
「すみません。どうかゆるしてくださいまし。お屋敷へつれていかれたら、この首は胴についちゃあいねえんだ。そうなると、家にいる目のみえねえおふくろが路頭にまよわなくっちゃなりません。ねえ、どうか助けてくださいまし」
「いいや、勘弁まかりならん。いいわけがあらば屋敷へいって申せ。さあ、まいれ」
ただでさえ人ごみなのですから、たが屋とさむらいのやりとりをかこんで黒山の人だかり。うしろのほうにいる連中はなんだかわからずにあつまってるようなことで……
「なんだ、なんだ、なんだ」
「巾着《きんちやく》切りがつかまったんで……」
「ああ、よくあるやつだ。巾着切りは男かい、女かい?」
「いいえ、巾着切りじゃありません。お産ですよ」
「お産? このさなかに赤ん坊ができるんですか?」
「ええ、この人ごみで押された上に、パーン、パーンという花火の音ですから、赤ん坊だってうかうか腹のなかにはいっちゃあいられないとおもうんですよ。だから、お産にちがいない」
「ちがいないって、みえたんじゃないんですか」
「いいえ、これはあたしがそうおもったんで……」
「いいかげんなことをいうなよ。こっちはほんとうにするじゃねえか……あっ、こっちにずいぶん背の高い人がいらあ、この人に聞いてみよう。もし、そこの背の高い人、ねえ、そこの背の高いおかた」
「なんです?」
「なかはなんです?」
「気の毒に……」
「気の毒?」
「そう、気の毒だよ」
「へえ、そんなに気の毒なことがおこってるんですか」
「いいや、おまえさんが、なかがみえずに気の毒だ」
「なんのこった。みえねえで気の毒だってやがら……しゃくにさわるねえ。なんとかしてなかがみてえもんだ……えーと……そうだ。こうなりゃあ最後の奥の手をだして、股ぐらくぐって前へでちまえ。えー、ごめんよ、ごめんよ」
「あっ、びっくりした。股ぐらからでてきやがった……やい、泥棒」
「なんだと、この野郎、泥棒とはなんだ。いつおれが泥棒した?」
「泥棒じゃねえか。おれの股ぐらくぐったとき、てめえは、股ぐらのできものの膏薬をあたまにくっつけてもってっちまいやがって……」
「えっ、股ぐらのできものの膏薬? あっ、あたまにひっついてやがらあ、きたねえ野郎だなあ……えっ、どうしたんです? ……え? あのたが屋が? たがで、さむれえの笠をはじき飛ばしたんで……うんうん、かわいそうに、意地のわりいさむれえじゃねえか。かんべんしてやればいいのに……供ざむれえもいばってるけど、馬に乗ってるやつはひどく意地が悪そうだねえ……やい、意地悪ざむれえ、ゆるしてやれ。かわいそうじゃねえか。この人でなしの犬ざむれえめ」
「もし、あなた」
「なんです?」
「なんですじゃありませんよ。あなたがさむらいの悪口をいってくれるのはうれしいんですけれどね。あなた、人がわるいや、悪口いっちゃあ、すっと首をひっこめるでしょ? だから、馬上のさむらいがこっちをにらんだときには、ちょうどあたしの顔が真正面。気味が悪くってしょうがないよ。たが屋ともども屋敷へ同道いたせなんていわれちゃあたまったもんじゃない。だから、悪口をいったあとで首をひっこめるのはやめてくださいな」
「えっ、そうなるかしら……どれ、どれ、もういっぺんやってみようか……やい、この意地悪ざむれえ、ばかざむれえ……ああ、なるほど……こうやって首をひっこめると、あなたの首が真正面だ。こりゃああなたがにらまれるわけだね。まあにらまれたのが因果だとあきらめて、あなたもたが屋といっしょにお屋敷へいらっしゃい」
「じょうだんいっちゃいけないよ」
「ねえ、おさむらいさん、さっきからいう通りの事情だ。どうか助けてやってくださいな」
「いや、勘弁まかりならん。この場において斬りすてるぞ」
「ねえ、そんなことをいわずに、助けてくださいまし」
「いいや、ただちに斬りすててくれる。そこへなおれ」
「じゃあ、どうしても斬るってんですかい。どうしてもかんべんしてくれねえってんで……」
「くどい斬りすてる」
「なんだ、この丸太ん棒」
「丸太ん棒とはなんだ」
「そうじゃねえか。血も涙もねえ、目も鼻も口もねえやつだから丸太ん棒てんだ」
「無礼なことを申すな。手はみせんぞ」
「みせねえ手ならしまっとけ。そんな手はこわかあねえや」
「大小が目にはいらんか」
「そんな刀が目にへえるぐれえなら、とっくとむかし手づまつかいになってらあ」
「ええい、二本さしているのがわからんかと申すのだ」
「わかってらい。二本ざしがこわくって、でんがくが食えるかよ。気のきいたうなぎをみろい、四本も五本もさしてらあ、そんなうなぎをうぬらあ食ったことああるめえ……おれもひさしく食わねえが……斬るってんなら、どっからでもいせいよくやってくれ。斬って赤くなけりゃあ銭はもらわねえ西瓜《すいか》野郎てんだ。さあ斬りゃあがれ」
たが屋がいきなりたんかをきりはじめたので、こんどは供ざむらいのほうが押され気味になってまいりました。
形勢《けいせい》不利とみた馬上のさむらい、ぴりぴりと青筋を立てて、
「斬りすてい!」
と命じたからたまりません。
「えい」
とばかり、供ざむらいが抜けば玉散る氷の刃《やいば》とくればいせいがいいんですが、ふだん貧乏で内職に追われてますから、刀の手入れまで手がまわっていない。すっかりさびついてるやつを、ガサッ、ガサッ、ガサッ、ガサッガサッガサッ……ひどい音を立てて抜いたやつで、いきなり斬りつけてきました。たが屋はこわいから、ひょいと首をひっこめると、刀が空を斬って、供ざむらいのからだがすーっと流れた。そこへつけこんで、いきなりその利腕《ききうで》をぴしりっと手刀で打ちました。ふだん桶の底をひっぱたいていて力がありますから、供ざむらいは、手がしびれて、おもわず刀をぽろりとおとしてしまいました。
「あっ、しまった」
と、ひろおうとするのを、たが屋が腕をつかんでぐっとひっぱったから、とんとんとんとむこうへ流れていくところを、おちてた刀をひろいますと、うしろから、「やっ」と袈裟《けさ》がけに左の肩から右の乳の下へかけて、斜《はす》っかけに斬ってしまいました。くず餅みたいに三角になっちまいました。
「わあ、えらいぞ!」
弥次馬たちは大拍手。
こうなると、馬上のさむらいもだまっていられません。ただちに馬からとびおりまして、仲間に持たしてあった槍をとりますと、石突きをついて鞘をはらい、キュッ、キュッ、キュッとしごいておいて、ぴたりと槍をかまえました。
「下郎、まいれ!」
「なにを! さあこい!」
「やっ」
「えい」
てんで、双方にらみあいとなりました。
「どうです、たが屋の強かったこと、おどろきましたねえ、供ざむらいが三角になっちまった」
「しかし、こんどはいけない。主人のほうは強そうだ。この調子じゃあ、たが屋はやられちまうよ。なんとか加勢してやりたいねえ」
「これが町なかなら、屋根へあがって、かわらをめくってたたきつけるって手もあるんだけれど、橋の上じゃあそれもできやしねえ」
「かまわねえから、下駄でも草履でもあのさむれえにぶつけてやろうじゃねえか」
わあ、わあとまわりの弥次馬が、さむらいめがけていろんなものをぶつけるのですが、腕のちがいというのはしかたがないもので、たが屋はじりっじりっと押されて、欄干《らんかん》間近かになってしまいました。これ以上押されると、欄干にからだがついてしまって、もうよけることができなくなってしまいます。
どうせ田楽《でんがく》刺しになるんなら、身をすててこそ浮かぶ瀬もあれ、一勝負やってやれってんで、くそ度胸をきめたたが屋が、ひょいっとさそいのすきをみせました。
これに乗らなければいいんですが、さむらいとしても、まわりの弥次馬がわあわあさわぎながらいろんなものを投げつけてくるのですから、だんだん冷静さをうしなってきておりました。そこへすきがみえたんですから、「えいっ」とばかり槍を突きだしました。ところが、たが屋のほうは、さむらいをさそうためにつくったすきですから、ひょいとからだをかわすと、満身の力をこめて槍の千段巻きのところをぐっとつかんでしまいました。やりくりがつかない。しかたがないからはなしちまった。やりっぱなしというのはここからはじまったというけれど、あんまりあてにはなりません。
さむらいがあわてて刀の柄へ手をかけようとするところへ、たが屋が飛びこむと、
「えいっ」
とばかり斬りこみました。
いきおいあまって、さむらいの首が空高くぴゅーっとあがります。
これをみた見物人たちがいっせいに、
「あっ、あがった、あがった、あがった、あがったい、たあがあやーい」
居残り佐平次
江戸時代には、吉原を天下|御免《ごめん》の御町《おちよう》ともうしました。つまり天下公認の遊廓《ゆうかく》だったわけで……これに対して、それ以外の遊廓を岡場所《おかばしよ》といっておりました。
江戸の岡場所として有名だったのが、品川、新宿、板橋、千住《せんじゆ》の遊廓――これを四宿ともうしました。
このなかでは、品川の遊廓が、東海道の通り道でしたし、海は近いし、魚はうまいしというわけで、とりわけさかえたようで……
「どうだい、みんなでひさしぶりに押しだそうじゃねえか」
「どこへ?」
「ひとつ気を変えて、南へ押しだそうか」
「品川かい」
「そうよ。なにも女郎買いは、吉原とばかり相場がきまっちゃあいねえよ。品川となると、また気がかわるじゃねえか」
「そうとも、品川とくりゃあ食いものはうめえしな」
「そこだよ。なにもあそびは食いものを食いにゆくというのじゃねえが、やっぱりまずいよりうめえほうがたのしみというもんだ」
「そうとも……それで、なにかい……品川はどこへいくんだい?」
「どこの、ここのといってるのはめんどうだから、むこうへいってみて……とにかく大見世《おおみせ》へあがっちまおう」
「そうよなあ、小見世のあそびは、どうもこせついていけねえからな」
「まあ、どこか大見世へあがるとして、酒は飲みほうだい、食いものはふんだんに食って、芸者を二、三人もよんでわっとさわぐという寸法にして、一円というのはどうだい?」
「おいおい、それじゃあ勘定があわねえじゃねえか。だってそうだろう……品川で、ただあそぶだけだって、小見世で二、三円、中見世で六、七円、大見世とくりゃあ、どうしたって十円から十五円ぐらいはかかるぜ。それを、飲んで、食って、さわいで一円というのはどうも……」
「だからよ、そこはおれが云いだしっ屁《ぺ》じゃねえか。あとはおれのふところがいたむということで……いく気があるかい」
「おおあり名古屋の金のしゃちほこだね。ここにいる連中もみんないくよ。なあ、いくだろう?」
「いく、いくよ、はばかりなんか三日ぐらいいかねえたって、こればかりはいかなくっちゃあ」
「いうことがきたねえな……金ちゃんはどうだい?」
「おれは親父の遺言でね」
「いかねえのか?」
「いくんだ」
「気をもたせるない。じゃあみんないくそうだよ」
「そうかい、それじゃあ、ぶらぶらでかけようぜ」
ということで、みんなそろって品川へやってまいりました。
「さあ、兄貴そろそろ坂を下りはじめたが、どこへあがるんだい?」
「そうよなあ……ここはどうだい? え? すこし大見世すぎるって? ……いいよ、まあまかしときなよ……おい若《わけ》え衆やい」
「こんばんは」
「気のねえ若え衆だなあ、よせやい、おもしろくもねえ、女郎屋の若え衆は若え衆らしくやってくれ。なんだい、こんばんはってのは……ものをたずねるんじゃあねえやい、少々ものをうかがいます、これから青物横町(品川のさき)はどうまいりますかってんじゃねえや。今夜厄介になろうというんだ」
「どうも、おみそれいたしました。ええ五人さまで、ああさようで……どうぞおあがりを……えー、おあがんなさるよ」
送り声というものをかけます。べつの若い衆の案内で座敷へ通ります。
「へい、どうもまことにありがとう存じます」
「そうかい、そんなにありがたいかい、それじゃあこれで帰ってもいいかい?」
「それはいけません」
「そりゃあじょうだんだが、とにかくみんないける口なんだ。酒はどんどん持ってきておくれ。それから、ここは品川だ、魚はあたらしくってうめえや、刺身をふんだんにな……刺身が、ひとりに一枚ずつなんてのはいけねえよ」
「へえ、かしこまりました。それから、おなじみさまでいらっしゃいますか?」
「いや、なじみじゃねえんだ。みんなお初会《しよかい》だ。まあ、ここのうちは、みんないいおいらんばかりだろうが、そのなかでもとくにいいやつをたのむぜ」
「へえ、かしこまりました」
「それから、座敷が陰気なのはいけねえや。ひとつ芸者に口をかけてくんねえ……わっとさわいで浮かれようという寸法だ」
「かしこまりました、ではただいま……」
まもなく酒肴がはこばれる、芸者がくりこんできて、さんざん陽気にさわいで……
「おお、いつまでさわいでいたからって興はつきねえ、そろそろおひけにしようじゃねえか」
「いいだろう、みんな部屋へひきとりな」
「おっと待ちな。みんな部屋がわかったら、あとでそろっておれの部屋へきてくんな」
「ああわかった……あとでな……」
ということで、いったんそれぞれの部屋へひきあげた連中が、いわれた通り兄貴分の部屋へやってまいりました。
「兄貴、あけてもいいかい」
「大丈夫だ。安心して入ってくれ。だれもいねえから……」
「あははは、そうかい、でははいるよ。おれはまた女の子がいるんじゃねえかとおもって……ときに、兄貴、なんだい? そろってやってこいてえから、みんなそろってやってきたのだが……」
「みんなこっちへ入んな、あとをしめてな……いや、なにもわざわざよびつけなくてもよかったんだが、ほかでもねえ、じつはあの場ではいいだしにくくてな……なにしろおたがいに色気もあるからな……じつは、みんなから割り前がもらいてえ」
「うん、そりゃあだすけれどね……なにしろ兄貴たいへんだぜ。酒もたらふく飲んだし、芸者もお直し、お直しと、ずいぶん口がかかったし、食いものはこてこてときたし……ほんとうに一円の割り前でいいのかい?」
「いいんだよ。おれがいいとうけあったからには、安心して、親船に乗った気でいろよ」
「そうかい、すまねえな」
「そのかわりな、あしたの朝は、すまねえが、みんな一足さきに帰ってくんねえか」
「さきに?」
「そうだ。夜があけたら、すぐに顔をあらってひきあげてくんねえ。それからすまねえがたのまれてくれねえか。ここにおめえたちがよこした金が四円あるから、これをおふくろにとどけてくれ。おふくろに、この金で当分やっているようにいってくんねえ。としよりのことだ。それだけありゃあなんとかくらしていけるだろうが、もしたりなかったら、このたばこいれを質屋へ持っていって、番頭にわけをはなすと、いつもの通りちゃんと貸してくれるから、それでやっててくれ、そのうちにおれが帰るからといっといてくれ」
「へえー、なんだかはなしがおかしいが、それで兄貴はどうするんだい?」
「おれか……おれはな、このあいだからどうもからだのぐあいがわるくってしょうがねえ、医者にみてもらったら、転地療養するといいてえんだ」
「うん」
「なるべく海辺の空気を吸うといいというんだがな、どこへいくったって金がなくちゃあしょうがねえや。そこで気がついたのが品川だ。ここなら海辺だから、空気もいいし……そこで、おれは当分ここの家へ居のこりになって、ゆっくり養生をして、からだがなおった時分にまた逢おうよ」
「おお、おどろいたなあこいつはどうも……はなしが変だ変だとおもっていたんだが、居残《いのこ》りてえのはおだやかじゃねえぜ」
「いいよ、そんなことはお手のもんだ」
「お手のものはひどいなあ」
「まあいいからってことよ……それ、足音がしてきた……帰んな、帰んな……」
「じゃあ、おやすみ」
がらりと夜があけますと、連中はいわれた通り早帰りで、兄貴分の佐平次だけがあとにのこります。
「へい、おはようございます」
「おう、若え衆か、おはよう」
「ええ、おめざめでございますか」
「ああ、天気はいいようだね……まあ、こっちへおはいり。どうもゆうべは、たいへんにいい心持ちにあそばせてもらったねえ」
「まことにおそまつさまで……」
「とんでもねえ、おそまつどころじゃねえ……ちかごろになくおもしろいおもいをさせてもらったよ……ところで連中は帰ったかい?」
「へい、お早くお帰りになりました」
「そうかい、むりはねえ、あの人たちは朝の早い商売でね……おい、若え衆さん、おめえも商売がらだ、一目みたらわかったろう。あそびのすきな人たちだからね。ゆうべはだいぶよろこんでいたようだから、裏(二回目)からなじみ、とんとんっと通ってくるうちには、ここの家へ、さあっと金がふるようになるぜ。なにしろ金をむやみにつかいたがる人たちだからね。福の神がまいこんだようなもんだぜ」
「どうもありがとうさまで……」
「ところで、おれは、ゆうべすこし飲みすぎたんで、けさはあたまがいたくってしょうがねえんだ。あつくして一本つけてもらってくんねえか」
「へい、ご酒を?」
「そうだよ。朝直しは湯豆腐というが、なにも湯豆腐にかぎったことじゃねえ。かき豆腐かなにかそういってくんねえか」
「するとお直しになりますんで?」
「やぼなことをいっちゃいけねえぜ。おてんとうさまが高くなって、帰ることもできねえじゃねえか、直してくんねえ」
「へえ、さようで……では、ただいまおあつらいを……」
「早えとこたのむぜ」
若い衆はなにも知りませんから、あつらえものを通す、酒がはじまるということになって……佐平次は、酔ったからというので横になります。そのうち、お昼をすぎますから、寝かしてもおかれません。
「ええ、おめざめになりましたか?」
「ああ、いい心持ちだ。いま何時だい?」
「ただいま三時を打ちましたばかりで……」
「ああそうかい、ついとろとろとしちまった……この家では、いったい何時に湯がわくんだい?」
「もうわいておりますんで……」
「そうかい、じゃあ一っ風呂あびて、さっぱりしてこよう。手ぬぐいをかしておくれ。いい男になってくるから……」
「へえ、それから、てまえがかわり番になりますのでございますが……」
「ああ、そう、かわり番ねえ……遠慮なくおかわりなさい」
「ええ、つきましては、ちょっと一段落くぎりをつけて、あとはまたべつということに……えへへへ……そのお勘定のほうを……」
「ああ、勘定か。わかってるんだよ……しかし、めんどうだなあ、おまえさんの前だが、あそびなんてものは、どのくらいやったらいやになるものか、あきるまであそんでみようとおもっていたんだのに、これがきのうので、これがきょうのでなんという勘定はめんどうくさいやね……だから、帳場へそういって、まとめてもらおうじゃねえか。ひとまとめにして、山のようにたまったところでさっとはらいたいね。なにしろ、手ぬぐいをとっておくれ、お湯へいってこよう」
ひどいやつがあるもので、ものにおどろきません。お湯からあがってくると……
「いや、どうも湯あがりというやつは、なんとなくおつな心持ちだねえ、生まれかわったような気分になるね、せいせいとして……だがね、ゆうべからの飲みすぎで、だいぶ胸がこう……もやもやしてるんだが……こういうときには、なにかあついおつゆでも吸ってみたいというような心持ちなんだが……毒は毒をもって制すのたとえ、酒でしのがす苦の世界てえことがあるからね、あつくして一本持ってきてもらいたいねえ。それからね、ご当家のお酒はだいぶ甘口だねえ、わたしは辛口のお酒がすきなんだ。いいかい、お酒の口を変えてすぐつけてもらっておくれ。それに、なにか食べたいねえ。青柳なべかなにかそういってくんな」
「ええかしこまりましたが……てまえはかまいませんが、帳場がうるそうございますので、ちょっと一段落をつけていただきたいもんで……」
「勘定かい、わかったよ。うるさいなあ、ひとがいい心持ちでいるのに……勘定、勘定って……それじゃあかんじょう(感情)を害するってもんだ。だがね、おい若え衆さん、お客商売をするなら、もうすこしあたまのはたらきをよくしていただきたいねえ。時計をごらん、もう四時を打ってしまったよ。これでわたしがちびりちびりとやっている、そうこうするうちにあたりは小暗くなる……あっちの家でねずみなきの声、下足札《げそくふだ》の音がはじまる時分には、坂の上からいせいのいい車が四台……おりるのがゆうべの四人《よつたり》だよ。あそびをして裏をかえさないのはお客の恥、なじみをつけさせないのはおいらんの腕のにぶいぐらいは心得ている連中だからね、どうせかえす裏ならば、ほとぼりのさめねえゆうべの今夜で、またきたぜてんで、前の晩に縞を着ていたひとがかすりにかわって、おお芸者でもよんでくんねえと、陽気にわーとさわいで、一同そろって当家を退散しようという寸法だ。その人たちのくるのをわたしが待っているというところへ気がつかないで、それで勘定とはなんてやぼなんだい」
「へい、よくわかりました。おつれさまをお待ちとは気がつきませんで……では、ただいまおあつらえを……」
ということで、若い衆はすっかり煙にまかれて、まただまされてしまいました。やがて酒肴がはいってくる、そのうちにほかのお客がくりこんできて、その晩はとりまぎれてしまいまして……その翌朝……
「へえ、おはようございます」
「よう、おはよう、まあ、おはいり」
「昨夜お待ちもうしておりましたが、とうとうおみえになりませんでしたようで……」
「ああ、どうも低気圧はそれたようだね、まずたたかいは今夜九時すぎだね、坂の上からいせいのいい車が四台、おりるのが一昨日の四人だよ、あそびをして裏をかえさないのはお客の恥、なじみをつけさせないのはおいらんの腕のにぶいぐらいは心得ている連中だ。おなじかえす裏ならほとぼりのさめねえ、ゆうべの今夜で、またきたぜてんで、前の晩に縞を着たひとがかすりにかわって……」
「へい、それは昨夜もうけたまわりましたが……てまえはかまいませんが、なにしろ帳場がやかましゅうございますので、おそれいりますが、ひとつお勘定をねがいたいもんで……」
「勘定かい、さあよろしい、心得たよ」
「ああさようですか」
「心得ているよ」
「へえ、ではひとつおはらいねがいたいもんで……」
「だから心得ているといってるんだよ」
「では、さっそく勘定書きを持ってまいりますからおはらいを……」
「そうかい、勘定書きを持ってくるのかい……そうすると、あたしがここへお金をずっとならべりゃあいいんだ……いいんだが……ないんだよ」
「ない? ないとは?」
「だから……ないといえばわかりそうなもんじゃないか、お金のことだよ」
「でも、あなた心得てるといってたじゃありませんか」
「そりゃあ心得ているんだ。口のほうはばかに心得ているんだが、あははは……ふところのほうが心得ていないんだ。どうだ、おもしろいだろう」
「じょうだんじゃありませんよ。じゃあ、いったいどうなるんです?」
「なにが?」
「どうなるんです? お勘定のほうは?」
「だからさ、じれってえなおまえさんは……お客商売をするくらいなら、もうすこしあたまのはたらきをよくしてもらいたいねえ。なんのためにわたしが友だちがくるくるといってさわいでるんだい、友だちが金をどっさり持ってむかえにくるのを待ってるんだよ」
「では、お友だちさまのところへ、おつかいとか、お手紙とかを……」
「そりゃあ家がわかりさえすりゃあ、むかえもやりてえけれども、どこなんだかわからねえんだ」
「どこなんだかわからねえって……あなた、お友だちでしょう」
「そりゃ友だちだよ。しかしねえ、それがまことにあたらしい友だちなんだ。ここへみんなできたろ、あの晩に友だちになったんだ。というのはね……おれが新橋のしゃも屋で一ぱいやってると、となりにいたのがあの連中なんだ。女中が気がきかなくって、なかなかちょうしを持ってこないんで、おれがじれったがって、なにをしてるんだかなんかいってると、となりにいたあの連中が、どうです、つなぎに一ぱい献じましょうとちょこを一ぱいさしてくれた。とたんにこっちのおちょうしがきたんで、へい、ご返盃てえことになった。酒飲みというやつはすぐに仲よくなるものだ。しまいには、いっしょになって飲みはじめたが、そのうちに、どうです、このままわかれるのもおしいから、今晩ひとつ品川へでもくりこみましょう、よう結構……結構毛だらけ、猫灰だらけ……ってんで、このうちへきてあそんだあくる朝、ぱっとわかれちまったんだが、ありゃあいったいどこの人だったのかしら?」
「おう、こりゃたいへんだ、おお、ちょいと松どん、源どん、鉄どん、ちょいときてくれ」
「だからいわないこっちゃない。なんだかようすがおかしいが、ほんとうに大丈夫なのかと念を押したら、おまえがなんといった、長年の商売人だ、にらんだ目にまちがいはねえから安心してろといったじゃねえか。ぜんたい、こんな深みへはまらないうちに、あのあくる朝、どうにかけりをつけてしまうほうがよかったんだ」
「そりゃあいわれるまでもないんだよ。おれもね、どうにかはなしをつけようとおもってとりにきたんだが、この人が、おれに口をきかせねえんだ。おれが勘定のことをいいかけると、わかってる、心得てると、とめちまうんだよ。勘定のことはわすれてる、わすれてるって……自分でしゃべりまくっておれに口をきかせてくれねえんだよ。そうなると、おれは因果と、舌がつっちまって口がきけなくなるんだ」
「だらしがねえじゃねえか……まあ、いいや、おれがかけあってやるから……おい、佐平次さんとやら、こりゃ、いったいどうなるんだい?」
「おや、おそろしいけんまくだね……さあ、どうなりますかな」
「おちついてる場合じゃないよ……どうなるってきいてるんだよ」
「さあ……どうもこまったもんだ……」
「人ごとのようにいうない、こまるのはこっちなんだぜ。どこかで金のできるあてはないのかい?」
「ものごとはあきらめがかんじんだよ。あきらめなさい。まあ、災難だとおもってあきらめなさい」
「ふざけるんじゃないよ……金をどうにか……」
「だから覚悟はしてますよ」
「え? 覚悟?」
「おいらんからきせるのわるいのを一本もらってるしね、新聞紙でたばこいれを折って、なかにきざみがいっぱいつまってるし、たもとにはマッチが二つはいってるし、当分|籠城《ろうじよう》もできるしするから、ではそろそろあんどん部屋へでもさがりますかな」
「おお、たいへんなしろものだよ、こいつは……なにしろまあ、おいらんのおざしきをふさがれちゃあこまるから、とにかく下へおりてきてください」
「結構、どこへでもまいりますよ。ええ、どちらですな、そのあんどん部屋というのは?」
「じょうだんいっちゃいけないよ。いまじぶんあんどん部屋なんかあるものかい。ここが夜具がはいってる部屋だがね」
「ああ、夜具の部屋……いいね、どうもあったかくて……」
「ふとんによっかかっちゃいけないよ」
「大丈夫、大丈夫……そこは道楽者だよ。ふとんによりかかりゃあえんぎがわるいぐらいのことは心得ているから……どうかご心配なく、そこをおしめになって、おしごとにとりかかってくださいよ。ええ、ちと、また、ごたいくつの節は、どうぞおはなしにでもおでかけねがいまして、どうもごくろうさま、えへへへへ」
ひどいやつがあるもので、ものにおどろかないという、まことにずうずうしいやつがあるもので……こんなことがあったので、商売にけちがつくかとおもうと、ふしぎなもので、その晩も、そのあくる晩も、翌晩もと、たいへんに客の足どりがいいということがつづきました。あまり客がたてこむと、こんな大見世でも、奉公人のかわり番やなにかで、ちょっと手がたりないことができて、それがために、客に対して不行きとどきというようなことがたまにはあるもので……
「ちえっ、なにをしてやがるんだろうなあ、今夜は、出がけに気がさしたからよせばよかったよ。女のこねえのはいそがしいんだろうからしかたがねえや……そんなことをぐずぐずいうほどやぼじゃねえんだが、おばさんも若え衆もつらをみせねえってのはしゃくにさわるじゃねえか。いくらいそがしいか知らねえが、これだけの屋台骨をはっていやがるんだ。奉公人の二十人や三十人いるだろうに、なにしてやがるんだ。刺身を持ってきやがったって、醤油《したじ》がねえじゃねえか。醤油をつけねえで生魚《なまざかな》が食えるかい、猫じゃねえや、ちくしょうめ……手をたたけばやぼな客にされちまうし、銭をつかいながら神経をいためるなんてくだらねえったらありゃあしねえや……なにしてやがるんだ、このうちは……」
「ええ、こんばんは」
「なんだい?」
「ええ、お刺身のお醤油《したじ》を持ってまいりました」
「持ってくるならはやく持ってこい。なにしていやがるんだ」
「どうもお待ち遠さまで……いえ、なにしろたてこんでますもんで……つい、どうも……えへへへ……いらっしゃいまし、おひさしぶりで……」
「おひさしぶりったって、おめえみたことがねえが、ここの若い衆かい?」
「まあ、若い衆みたようなもんで……」
「なんでえ、そのみたようなものてえのは?」
「えへへへ……ときに、つかんことをうかがいますが、あなたさまはなんでしょう? かすみさんとこの勝つあんでいらっしゃいましょう」
「よせよ、なにもかすみさんとこの勝つあんてえことはねえけれども、おれは勝太郎というものだ」
「よう、勝つあん、あなたが、やっぱり……うかがってますよ、あなたのおのろけ……おいらんが、ひまがありさえすりゃあ、うちの勝つあんがこうなんだよ、うちの勝つあんがああなのさって……うちの勝つあん、うち勝つあんてえことについては、あたしもじつによわっちまって……」
「変な世辞《せじ》をいうない」
「いいえ、まったくのはなしなんで……ともかくもおちかづきのしるしに、ひとつおさかずきをいただきたいもんで……」
「どうもあつかましいやつがきたもんだ……まあ、おれもひとりで、はなし相手がいなくて、たいくつはしていたんだ。それ、やるよ。飲めよ、……どうした? さかずきをとらねえで……飲めねえのか?」
「いいえ、いただけないというわけではございませんが、どうせいただくなら大きなやつのほうが……うしろの茶だんすのなかに湯飲みがありますから、その湯飲みでひとつ、えへへへ、いただくということにねがいたいもので……」
「たいそうずうずうしいやつが入ってきやがった。それじゃあ、湯飲みについでやるぜ」
「へい、ありがとうございます。ええ、あなたさまが今晩おあがりになったのは、たしかあれは九時をすこしまわったという時分でしたなあ」
「よく知ってやがるな」
「あとで、おいらんがみんなにいじめられてましたよ、ちょいと、勝つあんがきてよかったねかなんかいわれて、せなかなんかぶたれたりして……すると、おいらんのほうでもうれしそうな声をだして、ありがとうかなんかいってましたよ。あんまりおいらんがぼーっとしてるんで、この人は、ほんとにしっかりおしよてんで、みんながまたおいらんのせなかをどやしたりしてましたが、あのおいらんをあれだけむちゅうにさせるというのは、あなたはどこかすごいところがあるんだね、人の知らない術をもちいてるんだよ、きっと……へへへへ、色魔、女殺し……くやしいねえどうも……だまってご祝儀ください、ほんの名刺がわりに」
「おいおい、それはこっちでいうことだ……手をだすなよう、どうもたいへんなやつが入ってきたもんだ。やるよ、やるから待ちなというのに……さあ、ここにたばこを買ったおつりがいくらかあるから、これで示談にしろ」
「よう、よう、おそれいりました。はなしがじつによくわからあ。ではいただきます。このあいだね、雨のふる日においらんがあなたののろけをいってましたぜ」
「よしねえよ。うめえことをいうのは……」
「ほんとうですよ。あなたのことで、新造衆といさかいをして、なにをいってるのさってんで、おいらんすっかりおかんむりで、燗ざましをあつくしたやつを湯飲みへついで、ぐいぐいやっていましたが、やがて目のふちがぼーっと赤くなってくると、かけてあった三味線をとって、爪びきで、都都逸《どどいつ》をうたってましたぜ。その文句をあなたにきかせたかったねえ」
「そうかい」
「あたしははじめてうかがったけれど、おいらんはいいのどしてますねえ……その文句というのが…… 来るはずの人はこないで、ほたるがひとつ、風に追われて、蚊帳《かや》のすそ……なんてね、どどいつのうたい尻をすうっとあげてうたったから、なるほどさすがは江戸っ子だとおもって、あたくし、じつにどうも感服……ちょっとおはしを拝借……」
「おいおい、食いものをとりまくなよ」
「どうもおそくなってすみません。あら、ちょいと、勝つあん、おまえさん、この人をよんだの?」
「いや、べつによんだわけじゃねえが、むこうで勝手に入ってきたんだあな」
「まあ、あきれたねえ、この人は……」
「なんだい、こいつは?」
「うちの居残りよ、この人……」
「いのこり? ……ええ、おまえさん、うちの居残りなのかい?」
「ええ、てまえ当家の居残りで……えへへへ、なにぶんごひいき、おひきたてのほどを……」
「ふざけちゃいけねえぜ。なにがごひいき、おひきたてだよ。どうもおれも変だとはおもってたんだ。若い衆ときいたら、まあ若い衆みたいなもんでといいやがって……刺身の醤油《したじ》がねえといってたら、この人が持ってきたんだ」
「まあ、気がきいてるのね、でも、よくおまえさんわかったねえ、お醤油のあるところが……どこから持ってきたの?」
「ええ、今晩紅梅さんの部屋でおそばをおとりになりまして、あとで、そのいれものが廊下にでておりました。で、さきほど、あたしがこのお部屋の前をぶらっとあるいておりますと、醤油をつけねえで生魚が食えるかい、猫じゃねえやなんてことが聞こえましたから、よう、ここが忠義のみせどころてんで、そばつゆの徳利をふってみると、がばりと音がしましたから、それを小皿へあけて、ただちにこちらへ運搬を……」
「なんだい、そばのつゆだったのかい? どうりで、いやにあまったるい醤油だとおもってたんだ。ひどいことをするない」
「えへへへ、どうもあいすみません……間にあわせということで、まことにどうも失礼……おいらん、ただいま、こちらさまから、ご祝儀をいただきました。おいらんからよろしく……どうも旦那ありがとうございました。へい、あまり長くなりますと、おじゃまになるといけませんから、このへんでおひまをいただきます。ごゆっくりおたのしみを……よいしょ、よう……」
てんで、まことにあつかましいはなし。
そのうちに、佐平次のやつ、ほうぼうのおざしきへ顔をだすようになりました。なにしろ、人間がずうずうしくって、口さきがかるい、それで酒の相手ができるというのですから、ああいう場所にはもってこいで……そのうちに、おいらんたちにはかわいがられる、おなじみのお客もできるということになって、なかにはお客のほうでも、ずいぶんのんきなのがあります。
「おお、なんだか座敷がさびしくっていけねえな。おらあ陰気なのが大きれえなんだ。呼べよ、ひとつ、口をかけねえか」
「だれにしましょうか、小きんさん、梅香さん?」
「芸者なんかよんだっておもしろいもんか、それより居残りをよんでくんな。まだいるんだろ?」
「居残りですか……いますよ、まだ……」
「じゃあ、よびねえな」
「では、よんでみましょう……ちょいと、いの(居残り)どーん」
「へ――い」
「十三番さんで、お座敷《ざしき》ですよ」
「へい、ありがとうさまで……いよう、こんばんは、これは旦那さま、先夜はまことにどうも失礼を、よいしょ」
なんだかわけがわからない。かたっぱしからお客をとりまきはじめたんで、ほかの若い衆たちは苦情がたいへんで……
「おい、鉄どん、松どん、源どん、みんなこっちへおいで、いや、どうもあきれたねえ、どこの国に居残りが座敷でかせぐということがあるんだい。このごろ、われわれのもらいがねえとおもっていると、あいつがひとりでもらっちまうんだよ。どうもひどいはなしじゃねえか。なんだい、あのゆうべのさわぎというものは……十三番のざしきで、口をかけろ、口をかけろといっているから、芸者でもはいるのかとおもっていたら、居残りをよべってんだ。すると、おいらんものんきだねえ、居のどんとよんだよ。すると、また、あいつが、へーいとへんじをしてやがる。十三番でおざしきですよ、よろしい心得たてんで、扇子をパチパチやりながら、お客の座敷へおどりながら入っていきやがる。お客が、また、それをみて、よろこんで祝儀をやってるんだ。ばかばかしいったらありゃあしねえ……ところが、あとからきた客がなおいけなかった。座敷がさびしいから、居残りに口をかけてくれ、ただいま居残りはふさがっております、それならはやくもらいをかけろって……そんなばかなはなしがあるもんか。じつはね、旦那にもそういったんだ。いままでの損は損として、どうにかしてあんなやつはたたきだしてしまわなければ、店のしめしがつかねえと……」
「まったくだ。あんなものにいられた日にゃあ、われわれがめしの食いあげだよ。旦那から追いだしてもらわなけりゃあ……」
「おう、きやがった、きやがった……おいおい、居残りさん」
「へーい、どちらのお座敷で?」
「お座敷をつとめる気でいやがる……お座敷じゃねえんだ。旦那が用があるとおっしゃるんだ。わたしといっしょにきておくれ……ええ、旦那さま、居残りの人をつれてまいりました」
「ああそうかい。あとをしめていきな。さあ、おまえさん、ずっとこっちへおいでなさい。あたしが当家の主人だ。おまえさんもふしぎなご縁でこうして長くおいでなさるが、いつまでこんなことをしていてもしかたがあるまいし、そうかといって、すぐに勘定をはらうこともできますまい。だから、おまえさんのつごうのいいときでかまわないから、半年でも、一年でも待ってあげるということにして、ひとまず家へお帰んなさい」
「へえ、そうやさしいことをいっていただきますと、穴にでもはいりたい心持ちがいたします……しかし、わたしは、こちらさまの敷居をまたいでおもてへでますと、御用とつかまって、くらいところへいかなくっちゃあならない身でございます」
「御用とつかまる? なんだい? そんなわるいことをしたのかい?」
「へえ、人殺しこそいたしませんが、夜盗、追いはぎ、家尻《やじり》切り……わるいにわるいということをしつくしまして、五尺のからだのおきどころのない身の上でございます」
「これはおどろいた。おまえさんがねえ……どうも、そんな悪事をはたらいたようにはみえないが……」
「へえ、親父は神田の白壁町で、かなりのくらしをしておりましたが、持って生まれた悪性で、がきのときから手くせがわるく、抜けまいりからぐれだしまして、旅から旅をかせぎまわり、碁打ちといっては寺々や、物持ち、百姓の家へ押しいりまして、ぬすんだ金の罪とがは、毛抜けの塔の二重三重、かさなる悪事に高とびなし……」
「どこかで聞いたような文句だね」
「こちらさまの敷居をまたいでおもてへでて、もしも御用とつかまった日にゃあ、三尺高え木の空で、この横っ腹に風穴があきます。お慈悲でございますから、ほとぼりのさめるまで、もうすこしのあいだ、おかくまいなすってくださいまし」
「どういたしまして……とんでもないことで……知らないむかしならいざ知らず、それを知って、なんでわたしの家へかくまっておけますものか、とんでもないことだ。そんなことをいっていないで、すこしもはやくここの家を出て、どこかへ逃げてもらうわけにはいかないかい?」
「そりゃあ、わたしだって、こちらへごめいわくをかけたくはございませんから、高とびもしましょうが、さきだつものは金でございます」
「それでは、すくないけれど、ここに三十円の金がある。これを路銀《ろぎん》にしてどこか遠いところへ逃げておくれ」
「へえ、ありがとうございます。それでは、おことばにあまえましてちょうだいいたしますが、このなりではどうすることもできません。おそれいりますが、旦那のお着物をひとついただきたいもので……」
「そりゃあ、着物ぐらいあげてもいいが……」
「どうせいただきますなら、このあいだできてまいりました結城《ゆうき》の着物をおねがいいたします」
「よく知ってるね、しかし、丈《たけ》があうかどうか……」
「いいえ、それは大丈夫でございます。旦那の丈が七寸五分、わたしも七寸五分で、寸法もぴったりおんなじで……」
「これはおどろいたねえ。あたしの丈まで知ってるとは……まあ、みこまれたのが災難だからあげるよ」
「へい、ありがとうございます。ついでに帯も一本いただきたいんで……」
「ああそうかい。では、茶|献上《けんじよう》の、あれをあげよう」
「ですが、旦那、着ながしというやつは人目につきやすいもんで、羽織《はおり》も一枚どうぞ」
「そうかい、羽織は、ごまがらの唐桟《とうざん》のでいいだろう」
「ありがとうございます。お金はいただきましたが、たもとから金をだすやつは、なんとなく人柄がわるくみえますから、紙入れも一つくださいまし」
「はいはい、ではこれを持っておいでなさい……それから、半紙を二帖、手ぬぐいが一本、あたしの下駄が入り口にあるから、それだけあればよかろう」
「へい、なにからなにまでありがとうございます。それでは旦那、これでごめんをこうむりますから、みなさんにどうぞよろしくおっしゃってくださいまし。どうもおやかましゅうございました」
「ああ、わかったから、はやくお逃げなさい」
佐平次がでていってしまったあと、旦那は、店の若い衆をよんで……
「おい、鉄どんか、あいつが家のそばでつかまったりしては、こっちがめいわくだから、おまえ、どんなようすだか、ちょいとみてきておくれ」
「へい、いってまいります」
鉄どんという若い衆がようすをみに佐平次のあとをついてくると、佐平次は鼻唄まじりでのんびりとあるいてゆきます。
「おい、おい、居残りさん、おい」
「おう、鉄どんじゃねえか、どうしたい、おつかいかい?」
「そんなことはどうでもいいけれど、おまえさんものんきだねえ、鼻唄なんかうたっていて……もしもつかまったらどうするんだい?」
「つかまる? おれが? あはははは、いやどうもすまなかった。おめえのところの旦那はいい人だねえ」
「いい人だとも……品川じゃあ、神さまか、仏さまのようにいわれているくらいだから……」
「いえさ、いい旦那といえば体裁がいいが、はっきりいやあばかだ」
「なんだ? ばかだと?」
「こう、おめえも女郎屋の若え衆でめしを食うなら、おれのつらをよくおぼえておけ。吉原《なか》へいこうが、板橋へいこうが、どこでも相手にしてのねえ居残りを商売にしている佐平次とはおれのことだ。まだ品川じゃあ一度もやらねえからと、おめえのとこをみこんであがったんだ。まあ、おかげでちょいとした小づかいとりになった。はい、さようなら」
「あっ、ちくしょうめ、ひどい野郎だ……旦那、たいへんでございます」
「どうした? つかまっちまったか?」
「いいえ、つかまるどころではございません。あいつは居残りを商売にしてあるく佐平次という男だそうで……」
「そうか、あきれたやつだ。どこまであたしをおこわにかけたんだろう」
「へへ、あなたのおつむりがごま塩ですから……」
目黒のさんま
むかしのお大名というものは、下々《しもじも》の庶民生活などご存知ありません。ですから、すこしでもそれを知りたいとおもって、ご登城の途中、お駕籠《かご》のなかで、なにかめずらしいことはないかと、きょろきょろとさがしていらっしゃいます。すると、聞えてまいりましたのが、職人たちのはなし声で……
「おう、聞いたかい、きょうの米相場を……」
「いや、まだ聞かねえ」
「でえぶ暮らしよくなったじゃねえか。両に五斗五升だとよ」
それをお駕籠のなかでお聞きになった大名が、
「ほう、米は両に五斗五升か、おそらくこんなことを知っている大名はあるまい。これはよいことを聞いた」
と得意になってご登城になり、
「いや、おのおのがた、大きに遅刻いたした」
「おや、おはようござる。さあ、これへおいでなされ……いかがでござるな。なにかかわったことでもございますかな?」
「さよう、今日《こんにち》の米相場をお聞きになられましたか?」
「いや、うけたまわらん」
「さようか、町人どももだいぶ暮らしよく相成り申した。なにしろ、両に五斗五升でござるからな」
「貴公には、いつもながら下世話におくわしいが、米相場までご存知とは、いやはやおどろきいったしだい。して、ただいま、両に五斗五升とおおせられたが、いったい、両とは、何両のことでござるな?」
「うむ、それはむろん百両でござる」
十両盗めば首がとぶといわれた時代に、そんな高い米はございません。
秋の一日、あるお大名が、ご家来を十二、三人おつれになって、遠乗りにおでかけになりました。
昼近くになって、そのころは、まだ江戸の郊外だった目黒まで乗りつけられて、
「一同の者、おもったよりもはやくまいったな」
「ははあ……おそれながら、お上《かみ》のお腕前には、いまさらながら驚嘆つかまつりました」
「さようか……なんにいたせ、よい景色じゃ。落ち葉といい、もみじといい、まことにみごとな風情じゃな」
「御意《ぎよい》にござります」
「ときに、最前より馬上においてかんがえておったが、戦場にのぞんで難戦の折りなどには、馬にばかり乗っておられんのう。さような場合は、徒歩《かち》となるであろうが、そのときには、足が達者でなければ、ものの役には立たん。じゃによって、これから足をためしたいとおもうが、どうじゃ?」
「おそれながら、いかにしてお足をおためしに相成りますか?」
「そのほうどもと走りくらべをする。予に勝った者にはほうびをとらせるが、負けた者は、屋敷へ帰って鉄扇《てつせん》でかしらを打つがどうじゃ?」
「へへー、ありがたきしあわせ……」
負ければ、鉄扇であたまをなぐられるというのに、「ありがたきしあわせ」というのもまぬけなはなしですが、ご主君のいうことにはさからえませんから、これから走りくらべということになりました。
殿さまは、陣笠をおとりになると、ぱっと走りだされましたが、なにしろお年若でいらっしゃいますから、なかなか足もお達者で、脇目もふらずどんどんどんどん走っておいでになります。
「いや、ご同役、殿のお達者なのにはおどろき申したな。このようすでは、ごほうびにありつけそうもありませんな」
「さよう、鉄扇のほうに近くなってきましたぞ」
「まことに情けないことで……やあ、殿には、あすこでおとどまりになって、ふりかえってみておいでなさる。はやくまいろう」
ご家来衆がやってまいりますと、殿さまは、すでに杉の切り株に腰をかけておやすみになっていらっしゃいます。
「おそいではないか」
「どうもおそれいりました」
「ここは、なんと申すところじゃ?」
「上目黒元富士と申しまして、目黒より二十四丁ほどはいりましてございます」
「なんじゃ、たった二十四丁か。予は一里も走ったような気がいたした。わずか二十四丁ぐらいで、かように息が切れるようなことでは、いざというときに、ものの役に立たんな。ご難戦の折りには、神君も十里の道を走り通されたとうけたまわっておるが、泰平の大名は役に立たんな。まことに汗顔《かんがん》のいたりじゃ。そのほうどもにいたっては論外じゃ」
「うへー、おそれいりましてございます」
「ときに、だいぶ空腹をおぼえてまいった……いずれかで魚を焼いておるようじゃな」
「御意の通りにございます。いずれかで魚を焼いておるようで……」
ご空腹は殿さまばかりではありません。ご家来衆もおなじことで……
「ご同役、さんまを焼いておりますな」
「かような腹ぺこの折りには、さんまで一膳茶づりたいもので……」
このひそひそばなしが、殿さまの耳にはいりました。
「これよ」
「ははっ」
「そちらの両名の者、ただいまなんとか申しておったな、腹ぺこの折りには、さんまで茶づりたいとか……なんのことじゃ?」
「うへー、とんだことがお耳にとまりまして、なんとも申しわけございません」
「これこれ、さようないいわけは無用じゃ。本日は、無礼講であるから、わけを聞かしてくれ」
「しからば申しあげます。下々《しもじも》では、空腹のことを腹ぺこと申しております」
「ほう、空腹が腹ぺこか、おもしろいことを申すな。しからば、さんまで茶づるとはなんのことじゃ」
「さんまとは、魚の名でございます」
「はて、予は一度も食したことがないぞ」
「はあ、下魚でございますゆえ、お上のお口にはいりますような魚ではございませんが、ただいまのような秋の季節には、ことのほか風味のよろしいものにございます。かように空腹の折りに、さんまで一膳茶漬けを食したいと申しますのを、腹ぺこの折りには、さんまで一膳茶づりたいと申したのでございます」
「ああさようか。予も腹ぺこじゃ。さんまで一膳茶づりたい。さっそくしたくいたせ」
「ははあ、ただいま用意いたします」
ご家来衆、ひきうけて御前をさがったものの、どうしてよいかわかりません。
「ご同役、こまりましたな。さんまをもとめようにも、このあたりには魚屋もなし……」
「さよう……うん、よろしゅうござる。さんまを焼いておる家へまいって、たのんでみましょう」
「それは妙案」
ご家来衆が一軒の農家にまいりますと、おじいさんがしきりにさんまを焼いておりましたが、ちょうど脂が乗りきっているので、うちじゅう一ぱいの煙り。
「ゆるせよ」
「おいでなせえまし……なにかご用で?」
「余の儀ではないが、われわれのご主君が、そのほうの家で焼いておるさんまのにおいをおかぎあそばして、一膳食したいとおっしゃるによって、さっそく膳部のしたくをいたせ」
「なんでごぜえます? ちっともわかんねえだ」
「わからんやつじゃな。われわれの殿さまが、そのほうの家で焼いておるさんまのにおいをおかぎになり、ごはんをめしあがりたいとおっしゃるから、すぐにしたくをしろというのじゃ」
「はあ、それではなにかね、わしのところで焼いてるさんまがうまそうだから、めしを食わせろというかね。そりゃあ、いくら殿さまだって虫がよすぎるだ。わしが食うべえとおもうから、はるばる品川まで買いにいってきただ。それをいきなりやってきて食わせろなんて……おことわりしますべえ。みず知らずのかたに、一膳だってめしをごちそうするいわれはねえ」
「これこれ、無礼なことを申すな。そのほうの家のものをめしあがって、ただお帰りになる気づかいはない。きっと多分のお手あてをくださるぞ。第一とうといご身分のおかたが、そのほうどもなどにおいて食事をあそばすということは名誉なことではないか」
「まあ、おことわり申しますべえ。わしがとこはめし屋でねえから、めしを食わして手あてなんぞいただきたくねえだからね……」
このやりとりを門口で聞いていらしったお殿さま、にこにこ笑いながら、なかへおはいりになって、
「これ、ゆるせよ」
「へー、おいでなせえまし……これは殿さまでごぜえますか?」
「さようじゃ。ただいまあれにて聞いておったが、この者の申しようが、そちの気にさわって、だいぶ立腹のようすじゃが、ゆるしてくれよ。ことごとく空腹にて、まことに難渋いたす。どうか一ぜん食事をさせてくれぬか?」
「へえへえ、こりゃあ感心しましただ。えれえな、やっぱり殿さまはたいしたもんだ。口のききかたからしてちがわあ。そこへいくとこの野郎だ。口のききようを知らねえばか野郎だ」
「おのれ、ばか野郎とはなんだ」
「これこれ、おこるでない。それにちがいないではないか」
「どうもおそれいりましてございます」
「それじゃあ、殿さまのおっしゃりようがうれしいから、ふるまってくれべえかね」
殿さまは、生まれてはじめてさんまをめしあがりましたが、空腹のところへもってきて、しゅ んのさんまですから、たいそう御意にかなって、
「これはすこぶる珍味なものじゃ。十分に手あてをしてとらせい」
過分のお手あてをくだされて、お屋敷へおもどりになりましたが、目黒でめしあがったさんまの味がわすれられません。しかし、殿さまのご膳部には、もちろんさんまなどでてまいりませんから、毎日、さんま、さんまと恋いこがれておりました。
ある日のこと、殿さまが、ご親戚へおよばれでおでかけになりますと、「なにかお好みのお料理はございませんでしょうか。なんなりとお申しつけくださいまし」というご家老の申しいででございますから、殿さま、待ってましたとばかり……
「さようか、しからば、腹ぺこの折りから、さんまで茶づりたいぞ」
「うへー、心得ましてございます」
心得ましたとご前をさがってきたものの、ご家老にも、なんのことかさっぱりわけがわかりません。そこで、さっそく重役一同をあつめて、
「さて、おのおのがた、本日おあつまりねがったは余の儀でない。じつは、ただいま、ご分家の殿より、腹ぺこの折りからさんまで茶づりたいとのおことばがあったが、おのおのがたは、いかなることかおわかりでござるかな?」
「はて、とんとわかり申さぬ」
「てまえにもなんのことやら……」
「てまえにも見当がつき申さぬ」
「てまえも……」
だれにもわかりません。それでは、家中のうちにはわかる者もあるであろうというので、ご家中へさっそくお触れがでました。
腹ぺこの折りから、さんまで茶づりたいということをわきまえる者があらば、ただちに申しいでよ。恩賞の沙汰におよぶという大げさなお触れ書きで……
ところが、これをみまして、仲間《ちゆうげん》部屋の連中はみんな腹をかかえて笑っております。だんだんしらべてみると、事情がわかりましたので、さっそく日本橋魚河岸から最上等のさんまをとりよせたのですが、このように脂《あぶら》の多いものをさしあげて、もしもおからだにさわっては一大事というので、十分に蒸して、小骨なんかは毛抜きでぬいて、さんまのだしがらみたいなものをこしらえあげました。
「殿、ご注文のさんまでございます。なにとぞご賞味くださいまし」
「なに、これがさんまと申すか。ばかに白いではないか。まちがいではないのか? たしか、もっと黒くこげておったはずじゃが……」
「いいえ、さんまに相違ございません」
「さようか、どれどれ……」
殿さまが、箸でおとりになると、ぷーんとかすかにさんまのにおいがしておりますから、
「うーん、このにおいはまさしくさんまじゃ。これ、さんまよ、恋しかったぞ」
殿さま、感涙にむせんで一と口めしあがったのですが、蒸して、脂がぬいてあるぱさぱさのさんまですから、どうしたっておいしいはずはありません。
「これがさんまか?」
「御意」
「ふーん……して、このさんま、いずれよりとりよせたのじゃ?」
「ははあ、日本橋魚河岸にござります」
「あっ、それはいかん。さんまは目黒にかぎる」
小言幸兵衛
人間と生まれてくせのないものはございません。なくて七くせ、あって四十八くせとか申します。
麻布の古川に家主をしている幸兵衛さん、このひとは、叱言《こごと》をいうのがくせなので、人よんで小言幸兵衛というくらい。
朝おきれば、もう長屋を一まわり叱言をいわないとめしがうまくないという、じつにたいへんなもんで……
「おいおい、魚屋、なにしてるんだよ。魚をこさえるのはいいが、はらわたをそうむやみにまきちらしちゃあこまるじゃねえか。蠅がたかって不衛生でいけねえ……のり屋のばあさん、そんなとこで赤ん坊に小便やらしてちゃあいけねえな。あとがくせえじゃねえか……あっ、くせえといえば、どこのうちだい? こげくせえや、めしがこげてるよ。どこのうちだ? 熊公んとこだな。のべつあすこじゃあめしをこがしてやがら……それで熊公のやつ色がまっ黒なのかしら……おい熊さん、めしがこげてるよ……あれ、だれだい? はばかりで唄を唄ってるのは? ひどい声だねえ。当人は唄だとおもってるんだろうが、知らねえやつが聞いたら人殺しとまちげえるじゃねえか。場所がはばかりだけあって、ああいうのを黄色い声というんだな。おいおい、だれだか知らねえが唄をやめろ。赤ん坊がひきつけおこすぞ。……どこだい、このけむりは? ……芋屋《いもや》の平兵衛のうちだろう。きまってやがら、しょうがねえな。あああ、こんなとこで犬がつるんでら、もっとはじのほうへいけ、はじのほうへ……ほんとにどいつもこいつもなっちゃいねえ。あきれけえったやつらだ……ばあさん、いま帰ったよ」
「おや、お帰んなさい」
「どうもこの長屋の連中にもこまったもんだ。あいかわらず人に叱言ばかりいわせやがる。どうもしまつにおえねえ……あれっ、このばばあ、人がしゃべってるのに、もういねむりしてやがらあ。どうしてこうよくねるのかなあ、寝る子はそだつというが、これ以上そだちようがねえじゃねえか。あとは化けるばかりだ。おい、ばあさん、ばあさん、おきろ、おきろ。おきて台所でもかたづけちゃあどうなんだ。それ、ふきんがとびそうだ。あれっ、ぞうきんおさえてやがらあ、ぞうきんがとぶかよ。ぞうきんは板の間においてあるんじゃねえか。その横の猫の皿をどかしときなよ。この猫も猫だ。ばばあとおんなじで寝てばかりいやがる。たまにはねずみでもとったらどうなんだ。むだめしばかり食らいやがって……それ、おばあさん、やった、やった。なんて不注意なんだい、また土びんをけとばしちまった。のべつ土びんの湯をこぼしてるから畳がしめっぽくていけねえじゃねえか。はやくふきなよ。あれっ、ふきんでふいてやがる。きたねえな。ぞうきんでふきなよ、ぞうきんで……それは猫だよ。猫で畳がふけるかよ。もうろくしちゃって、どうにもこまったもんだ……」
「まっぴらごめんねえ。まっぴらごめんねえ」
「おい、ばあさんや、おかしなやつがきたよ。なんだかぺらぺらぺらぺらいってやがるぜ……おい、そのぺらぺらいってる人、用があるんならあけておはいり」
「ふっ、いうことがかわってらあ、あけてへえれってやがる。なにいってやんでえ。あけねえでへえれるもんか。あけずにへえるのは屁ぐれえなもんだ。あけるぜ。まっぴらごめんねえ。よう、こんちわ」
「変な野郎だな。おまえはいったいなんだ?」
「え?」
「おまえはなんだ?」
「あっしは人間でさあ」
「人間はわかってらあな。なにしにきたんだ?」
「おまはんかい、家主ってのは? このさきに二間半間口の家が一軒あるが、あいつを借りてえんだ。いくらだい店賃《たなちん》は?」
「なんだと?」
「このさきにある貸し家を借りるんだが、店賃はいくらだよ?」
「こいつあなんて無作法なやつなんだ。だれがおまえにあの家を貸すといった」
「貸さねえのかい?」
「貸したいから、貸し家という札がはってあるんだ」
「だから聞いてるんじゃねえか、店賃はいくらだって……」
「おまえさんは口のききようを知らないからいけない。いいか、家を借りたければ借りたいで、それなりのかけあいのしかたがあるだろう」
「どんな?」
「あすこに貸し家がありますが、あれをお貸しいただけますか、いかがでございましょうぐらいなことをいってみろ。それで貸すといわれたら、それでは店賃はおいくらでございましょうときくのが順序じゃねえか」
「なるほど……こいつありくつだ」
「そうだろう……で、商売はなんだ?」
「豆腐屋」
「豆腐屋か……うん、そりゃいいや。この近所に豆腐屋がねえから……で、家内は何人だ? おまえの家族は?」
「かかあがひとりなんで……」
「かかあがひとり? じゃあ、これまで三人も四人もいたのか?」
「じょうだんじゃねえ。かかあはひとりにきまってらあ」
「きまってるなら、ことさらひとりとことわることはねえ。よけいなことをいうな。むだ口きくやつにりこうなやつはねえぞ」
「そういちいち叱言いわれちゃたまらねえや」
「で、子どもはねえのか?」
「ええ、食いもの屋ですからね、餓鬼がいちゃあきたなくていけねえや。おかげさまで餓鬼はひとりもいねえんで……」
「このばか野郎、とんでもねえことをぬかしゃあがって……もう家を貸すことはできねえ」
「どうしてなんで? どこの家主だって、子どもがいねえといやあよろこんで貸すけどなあ」
「そんなばかな家主とおれといっしょにするな。いいか、子どもは子宝というくらいで、金を山と積んだってできるもんじゃねえんだぞ。その宝がねえのがどうしてじまんになるんだ? しかし、まあ、夫婦になって半年か一年ならばできねえってこともあるからな……いついっしょになったんだ? そのかみさんと?」
「かれこれ八年になるかな」
「なんだと、八年もいっしょにくらしてて子どもができねえ? そいつあいけねえや。いいか、むかしはなあ、三年添って子なきを去るべしといったもんだ。三年間も子どもができねえ女は、女房としての値打ちがねえから離縁してしまえといったんだぞ。八年も子どもができねえような、そんな日かげのきゅうりみてえな女は追いだしちまえ。そのかわり、おれが下っ腹のあったけえ子どものぽかぽかできる丈夫なかみさんを世話してやるからひとり身になってひっこしてこい」
「なにいってやんでえ、この逆螢《ぎやくぼたる》」
「な、なんだ、なんだ。いきなり大きな声をだしゃあがって……ばあさん、逃げなくっていい、逃げるんならいっしょに逃げるから……逆螢とはなんだ?」
「螢は尻が光ってるが、てめえはあたまが光ってるから逆螢だっていうんだ。それくれえのことわからねえのか、このあんにゃもんにゃめ」
「あんにゃもんにゃ? なんだい、あんにゃもんにゃてえのは?」
「そんなこと知るもんか。だまって聞いてりゃあなんだと? かかあとわかれてひとり身でひっこしてこいだ。なにいってやんでえ。てめえみてえなやつにわかれろといわれて、へえ、さようでござんすかとお手軽にわかれられる仲とちがうんだ。おめえじゃなくちゃならねえ。おまはんといっしょになれなくちゃ死んじまうわと、好いて好かれて、好かれて好いた仲だい。それなのに……それなのに……」
「なんだ、こいつ、泣いてやがらあ」
「それほど惚れて惚れられて、惚れられて惚れた仲なんだ。ひとつのものは半分ずつわけて食う。半分のものは四半分、四半分のものは四半半分、四半半分の四半半半分……ねえものは食えねえ」
「あたりめえだ」
「それほどのかかあとわかれて、てめえのとこの店《たな》へひっこしてくるほどもうろくしちゃあいねえや。なにいってやんでえ。まごまごしやがると、どてっ腹あ蹴やぶって、トンネルこしれえて、汽車あたたっこむぞ。くそくらえ、このくたばりぞこないめ!」
「ちくしょうめ、なんて野郎だ。さんざん毒づいていっちめえやがった。あきれた野郎だ。ぽろぽろ涙こぼして、かかあののろけいって、あげくの果てに、ひとのどてっ腹あ蹴やぶって、トンネルこしれえて、汽車あたたっこむってやがらあ」
「そうすると、おじいさんの口なんか改札口ですかねえ」
「なにくだらねえことをいってるんだ。あんなばかを相手にしてたんじゃあ命がいくつあってもたりゃあしねえ」
「えー、ごめんくださいまし」
「よく人がくる日だな……はい、はい、なにかご用で?」
「ええ、お家主さまの田中幸兵衛さまのお宅は、こちらさまでございますか?」
「おばあさんや、風むきがかわってきたよ。こんどはたいへんに人間らしい人がきたじゃないか。うれしいねえ……お家主さまの田中幸兵衛さまのお宅は、こちらさまでございますかときたぜ……はい、はい、てまえどもですが、どうぞ遠慮なくこちらへおはいりください」
「ごめんくださいまし。はじめてお目にかかります。あなたさまが幸兵衛さまで? ……あたくしは、ちょっと通りがかりのものでございますが、このさきに二間半間口のまことに結構なお借家がございますが、あれは、てまえどものようなものにお貸しくださいましょうや、または、ご前約がございましょうや、この段をうかがいたいと存じましてお邪魔しましたようなしだいで……」
「うれしいねえ。ていねいなかたがたずねてきてくだすって……さあ、さあ、もっとこっちへおよりください。おばあさんや、ふとんを持ってきな。ふとんを……あれっ、寝るふとんを持ってきてどうするんだな。お客さんがみえてるのに、おれが寝ちまってどうするんだい。ざぶとんを持ってくるんだ……さあ、さあ、あなた、どうぞおあてください。えらいねえ。いや、おそれいった。あなたは学問があるねえ。このさきに、まことに結構なお借家がございますが……と、そうほめていただくほどの家じゃあないが、そういってくだされば、あたしだってうれしいや。それに、そのあとがうれしかったね。てまえどものようなものにお貸しくださいましょうや、または、ご前約がございましょうや、この段をうかがいたいときたね……いや感心しました。この段をうかがいたいなんぞは、なまやさしい学問でいえるせりふじゃあないよ。ねえ、この段だから、あなた、うかがったんだ、九段ならば、靖国神社がある」
「いや、どうもおそれいりました」
「べつにおそれいることはありませんよ。あたしゃ、あなたみたいなかたをお待ちしてたんだから……おばあさんや、はやくお茶をいれておいで……うん。そうだな、お茶だけじゃそっけないなあ。なにかないかな、お茶菓子が……え? なに? 羊かんがある? 持っておいで、持っておいで……なんだい? どの羊かんにしますかだって? どの羊かんってどういうことだ? なに? 万延元年、井伊大老が桜田門外で暗殺された年のはいかがですだと? 古すぎるよそいつあ、博物館ゆきの羊かんなんぞはいけませんよ……まあ、なんでもいいから、愛嬌に持ってきな。どうせこの人は食う人じゃねえんだから……ねえ、そうでしょ? それみろ、食わねえてえじゃねえか……まあ、あなた、そうかたくならないで、お楽に、お楽に……じつはねえ、あたしとしても、あなたのようなちゃんとしたかたに借りていただきたいとおもってね……失礼だが、
ご商売は?」
「はい、仕立て職をいとなんでおります」
「えらい。あなたは口のききかたがうまいねえ。仕立て屋さんだからいとなむときたな。ちょうちん屋さんならはりなむだし、車屋さんならひきなむだ」
「おそれいります」
「そう、あなた、いちいちおそれいることはありませんよ。で、ご家族は?」
「はい、てまえに妻にせがれ、以上三名でございます」
「いやあ、またまたえらい。いうことにそつがないや。てまえに妻にせがれ、以上三名、報告おわりというくらいのもんだ。簡単にして要領をえてるねどうも……で、むすこさんというのは、おいくつになりなさる?」
「ええ、はたちになります」
「はたちになる? ふーん、いいむすこさんがおありなさるねえ。あたしゃまたもっとおちいさいのかとおもっていたが……で、むすこさんのご商売は?」
「はい、やはり仕立て職のほうを……」
「そうですか。そいつあ結構だ。あなたももうじきに楽隠居だな……で、仕事のほうはどうだね、むすこさんの腕のほうは?」
「へえ、ちかごろ、おとくいさまでは、てまえよりもせがれへというご注文が多くなってまいりました」
「ほう、そいつあよっぽど腕がいいんだな。いいむすこさんで、あなたもおしあわせだ。で、男っぷりはどうですい?」
「おそれいります。みなさまがよく『鳶《とび》が鷹《たか》を生んだ』なぞとおっしゃいます」
「『鳶が鷹を……』……うーん、よっぽどいい男とみえるな。いや、あなただって決してわるかあないよ。といって、べつにいいってほどじゃあないけれど……それにしても、『鳶が鷹を生んだ』とくりゃあ、きっとよっぽどの好男子にちがいない。そりゃあ結構だ。で、むすこさんは女房持ちだろうね」
「いいえ、それが、どうも、帯にみじかし、たすきに長しとやらで、いまもってひとり身でございます」
「ひとり身? ひとり身といえば、おかみさんがいないわけだ」
「まあ、はやく申しますと……」
「おそくいったっておんなじだがね……どうもこまったことになってきちまった」
「どうかいたしましたか?」
「どうかしたどころか、あなたがひっこしてくると、この長屋に心中がおこるからこまるんだ」
「心中がおこる? どういうわけで?」
「あなたのむすこさんがはたちで、いい男で、仕事の腕がよくて、ひとり身で……そんな若い男がこのあたりにきたら心中がおこることうけあいだ。あなたは、あたしにどんな遺恨《いこん》があって、この長屋へこんな騒動の種を持ちこみなさる?」
「てまえには、なんのことか、さっぱりわかりませんが……」
「いいかい、この辺には若い娘もいるんだよ。なかには浮気っぽい娘もいまさあ」
「いいえ、てまえのせがれは堅物《かたぶつ》でございますから……」
「それがずうずうしいっていうんだ。堅い、堅いといったって年ごろだよ。まちがいがおこらないとうけあえるもんか……おばあさんや、この辺に浮気っぽい娘がいるかい、娘とはかぎらねえな。娘でも年増でも浮気っぽい女はいるかい? え? 小間物屋のおきみさんが年増だ? おきみさんていえば、おまえとおない年の六十八じゃねえか、だって年増だと……年増すぎるよ……この仕立て屋さんがひっこしてくる近くにだれかいねえかと聞いてるんじゃねえか。え? 古着屋のお花? そうだ。お花がいたな。こりゃあまずいや……ねえ、仕立て屋さん、よく聞いておくんなさいよ。おまえさんが、ひっこしてこようというすじむこうに、古着屋がある。ここの娘でお花。ことし十九になるが、これが麻布小町といわれるきりょうよしだ。で、商売が、いまいった通り古着屋だ。古着屋と仕立て屋じゃあ、どうしてもひっかかりのある商売じゃないか。でもね、はじめのうちは遠慮があるからよそよそしいけれど、毎日顔をあわせているうちにはそうそうだまってばかりはいられない。おはようございますとか、いいお天気でございますとかあいさつをかわすようになるだろう」
「ええ、そうなるでしょうな」
「そうなるでしょうななんてのんきなことをいってる場合じゃないよ」
「え?」
「ある日、古着屋夫婦が、親戚に不幸があったんで留守になるなあ。あとにのこったのは娘のお花ただひとり。で、お花だって、ひとりでぼんやりしてるのはつまらねえ。針箱をだしてきて、ちくちくひとりで縫いものをはじめる。それをのぞいたのがおまえさんのむすこだ」
「へえ、のぞきますか」
「のぞくとも、ずうずうしい野郎だから……」
「いいえ、てまえどものせがれにかぎってずうずうしいようなことは……」
「それが親ばかってやつだ。おまえさんのむすこは、かねがねお花のきりょうに目をつけてたから、そのお花がひとりで留守番してるのをみのがすわけがねえ。ごめんくださいと用もねえのにはいっていかあ」
「へえ、へえ」
「お花がふと顔をあげてみると、相手は仕立て屋のむすこだから、本職の前で裁縫するのもきまりがわるいってんで、縫い物をやめてかたづけはじめる。すると、おまえさんのせがれのいうことがきざだなあ。『おや、お花さん、あたしがまいったのでお仕事をおやめになるんですか。おじゃまなようならまたあとでうかがいますから……』てんで、これがお花の気をひくきざなせりふだというんだ。いやみな野郎じゃねえか」
「いえ、てまえのせがれはたいへんにさっぱりした性格なんで……」
「それが親ばかだというんだ。わからないんだよ。自分のせがれのことは……で、お花だって、ふだんから憎からずおもってる仕立て屋のむすこを帰したくないから、『あら、せっかくおいでになったんですもの、ゆっくりしていらっしゃいませな……あのう……いまお針の稽古をしておりまして、どうもうまくいかないところがございますの、ちょっとみていただけません?』とはなしを持ちかけらあ。ここだよ、おまえさんのむすこのずうずうしいところは……『はあ、どこがうまくいきませんか、ちょっと拝見を……』といったかとおもうと、のこのこと座敷へあがっちまう。じつにどうもずうずうしいったらありゃあしねえ……娘ひとりの家へなんだってあがりこむんだい?」
「あのう……まことに申しかねますが、おはなしがだいぶお長くなりますようで、てまえはほかに用もございますから、ちょっと用たしにいってまいりたいのでございますが……」
「おまえさん、なにいってるんだい。こういうもめごとの種をまいておきながら、いまさら用たしにでかけるなんてとんでもねえこった……ばあさん、かまわねえからおもてへしんばり棒をかってしまいな」
「へえ、これはおどろきました」
「これくらいのことでおどろいてちゃいけねえ……で、おまえさんのむすこが、お花の縫い物をみてやらあ。でも縫い物をみているうちはいいよ。これがふだんから惚れあってる若い者のさしむかい、猫にかつぶしてえやつだ。どうしたってくっつくなあ」
「えっ?」
「いや、くっつくってんだよ」
「そんなばかな……」
「なにがばかだよ。むかしっからいうだろ、遠くて近きは男女の道、近くて遠いはいなかの道って……で、一度はいい、二度はいい、三度はいいといっているうちに、女は受け身だ。腹のほうがぽこらんぽこらんぽんぽこらんとせりだしてくる」
「はあ、脹満《ちようまん》で?」
「のんきなことをいってちゃあこまるよ。かわいそうに、お花が、おまえさんのむすこの胤《たね》を宿しちまったんだ。かくしにかくしていたんだが、腹のぐあい、息づかいのようす……とうとう両親に知れてしまう。『いったい、だれとこんなことを……』『お父さん、お母さん、申しわけありません。じつは、仕立て屋の若旦那と……』顔をまっ赤にして白状する。聞いた古着屋夫婦が怒るかとおもうと、これが怒らない。『ああそうだったのかい。仕立て屋のむすこなら申し分のない相手だ。ばあさん、どうだい、婿にきてもらっちゃあ』『おじいさん、結構なはなしじゃありませんか』てんで、古着屋からむすこをもらいにくることになる。まあ、できちまったことはぐずぐずいってもしかたがねえ。おまえさんもおもいきって、むすこをやっちまうんだな。はやくおやり」
「いえ……あのう……まだてまえどもではひっこしてまいりませんので……」
「そんなことはどうでもいいんだ。人の娘をきずものにして、どうするんだい? 婿にやれ、すぐに……」
「婿にやれとおっしゃいますが、それは、てまえどもといたしましてはこまりますんで……」
「どうして?」
「なにしろひとりむすこでございますから、婿にやるということはどうも……まあ、できたことはいたしかたございませんから……いかがなもんでございましょうか、そのお花さんとやらをてまえのほうへいただくということにしては?」
「おいおい、欲ばったことをいっちゃいけないよ。なんでもいただけば損はねえとおもって……むこうだってひとり娘だよ。養子をとるあととり娘だからくれるわけがあるかい」
「てまえどももあととりむすこで……」
「それじゃあはなしがまとまらない……いいかい、おまえさんはむこうへやらない、むこうでもよこさないてえことになれば、なま木をさくようなことになっちまうが、若いふたりの身にもなってみろ」
「しかし、まあ、ない縁だとおもってあきらめてもらうよりしかたございません」
「あきらめてもらうよりしかたがねえ? この薄情者め! 当人たちの身にもなってみろ、そんなにお手軽にあきらめがつくかい……ああ、双方の親たちがこんなに強情を張ってたんじゃあ、しょせんこの世で添えないから、あの世へいって、蓮《はす》の台《うてな》で添いましょうと、雨蛙みたいなことをいう、ここで心中にならあ」
「こりゃあえらいさわぎになりましたなあ」
「なにいってるんだ。これというのもおまえさんからおこったことじゃねえか……で、心中の本場を知ってるかい?」
「さあ、心中のほうはどうも……さつまいもの本場は川越で……」
「なにをのんきなことをいってるんだよ。心中の本場といえば向島だ」
「ああ、なるほど、その見当で……」
「おい、火事の火元をさがしてるんじゃねえぜ。その見当とはなんだい? ……で、心中とくれば幕があく」
「え? 心中とくれば幕があきますか?」
「ああ……はじめに浅黄幕というやつだ。ここへ長屋の連中をひきつれて、『迷子やーい』てんで、家主が……まあ、おれがでてくらあ。この家主の役なんてものは、あんまりいい役者はやらねえもんだ」
「ごもっともさまで……」
「つまんねえことをうけあうねえ……で、舞台中央へくると、『おう、なにかここに落ちてるようだ』と一枚の紙をひろいあげる。これがひろい口上《こうじよう》というやつで、あいつとめます役者なになに、常盤津《ときわず》何太夫という連名をすっかり読みあげて、『さあ長屋の衆、ご苦労でも、もうひとまわりまわろうではございませんか。迷子やーい』と、上手《かみて》のほうへひっこんでゆく。チョーンと柝《き》がしらで、浅黄幕がぱらりとおちる。山台てえものがある。ここへずーっと太夫連中がならんでいようという、すると、揚げ幕があいて、バタバタバタバタッとかけだしてくるのが、古着屋のお花だ。花道の七三のところまでくると、なんにつまづいたか知らねえが、ばったりころぶ。暫時《ざんじ》おきあがらない」
「どうしました? 生爪でもはがしましたか? よほどの重傷で?」
「うるせえな、だまって聞いておいでよ……そこへでてくるのが、おまえさんのむすこだ。女とおんなじようななりをして、尻をはしょって、足にまでおしろいをつけているという、じつにどうもにやけた野郎だ。さらしの手ぬぐいで頬っかぶりをして、鮫鞘《さめざや》の脇差しを一本さしてるんだが、おまえさんのうちにあるかい、鮫鞘が?」
「いえ、鮫鞘はございませんが、払いさげのサーベルが一本ございます」
「サーベル? ……色っぽくねえなあ、心中にいこうてえのに、あんなものをさげていったんじゃあ、ガチャガチャガチャガチャうるさくって、チンドン屋の道行のようじゃねえか……ま、しかたがねえ、ほかになきゃあサーベルをさすことになるんだが、おかしなかたちだぜ……で、これがかけだしてくるんだが、二世をちかった相手の女がころんでるんだよ、おこしてやったらいいじゃねえか。ところがおこさない。それどころか、これにつまずいてむこうへとびこすんだから、薄情な野郎じゃねえか。とたんにふたりがぱっと顔をみかわすんだが、ここでおまえさんのむすこがぐっと気どって、あたまのてっぺんから声をだすな」
「ははあ、てまえのむすこが……気どりますか?」
「ああ、気どるとも……よそゆきの声をあたまのてっぺんからだすんだな。『そこにいるのはお花じゃないか』てえと、『そういうおまえは……』なんてんだ、おまえさんのむすこの名前は?」
「はい、鷲塚与太左衛門《わしづかよたざえもん》と申します」
「えっ、なんだい、鷲塚与太左衛門?」
「ええ、爺いが長生きをいたしました名で……」
「がっかりさせやがらあ、じつにどうもまぬけな名前をつけたもんじゃねえか。ふざけるのもいいかげんにしろよ。かりにも心中しようてんじゃねえか。もっと色男らしい名前をつけたらどうなんだい。半七とか、六三郎とか……お花半七、お花六三郎とくれば色っぽいじゃねえか。それがどうだい、鷲塚与太左衛門とは……あきれたもんだ……しかし、まあ、いまさらとりかえるわけにもいかねえから、このままやっちまうけど、どうにもやりにくいなあ。『そこにいるのはお花じゃないか』『そういうおまえは鷲塚与太左衛門さん』……あーあ、せりふにならねえじゃねえか。いろいろ花道の七三のところで振りごとがあって本舞台へかかる。ほどよいところで、本《ほん》釣鐘《つり》がコーンと鳴る。ここで、おまえさんのむすこがまた気どらあ。『いま鳴る鐘はありゃあ七刻《ななつ》、ななつの鐘を六つ聞いて、のこるひとつは未来へみやげ、覚悟はよいか』てえと、お花が目をつぶって手をあわせて、『なむあみ……』そうだ。宗旨が聞いてなかった。おまえさんのうちの宗旨はなむあみだぶつか?」
「いいえ、法華《ほつけ》で……」
「法華? 南無妙法蓮華経かい? おまえさんてえ人は、いちいちものごとをぶちこわすなあ。そりゃあ法華はありがてえりっぱなお宗旨だよ。しかし、どうも心中するには陽気すぎらあ。『覚悟はよいか』『妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……』てんじゃあ、心中どころか、ふたりがはねまわっちまわあ……おばあさん、古着屋の宗旨はなんだったい? え? なに? 真言《しんごん》? 真言てえと、おんがぼきゃあべえろしゃのお……こりゃあまた心中むきじゃねえなあ。『覚悟はよいか』『なむあみだぶつ』とくるから、ちんちんちんと浄瑠璃になるんだが、『覚悟はよいか』『おんがぼきゃあべえろしゃのお、まかもだらまにはんどまじんばら、はらばりたや……』これじゃあものがぶちこわしだ。貸すわけにはいかねえから帰ってくれ。帰れってんだ」
仕立て屋はおどろいてとびだしていきます。
いれちがいに、足で格子をあけてはいってきたのが、年ごろ三十五六の職人風の男で……
「やい、家主の幸兵衛ってえのはうぬか!」
「へえ……うぬで……ございます」
「うぬでございます? ……なにいってやんでえ。この先にうすぎたねえ貸し家があるが、あいつを借りるからそうおもえ。店賃なんか高《たけ》えことぬかすと、こんちくしょうめ、たたっこわして火をつけるぞ」
「なんてらんぼうな人がきたんだ……ええ、あなた、ご家内はおいくたりさまでございますか?」
「おれに山の神に道陸神《どうろくじん》に河童《かつぱ》野郎だ」
「ほう、化け物屋敷ですなあ……なんです? その、山の神とか、道陸神とかいうのは?」
「山の神はかかあで、道陸神はおふくろで、河童野郎は餓鬼《がき》のこった」
「いや、どうもすごいはなしで……で、おまえさんのご商売は?」
「鉄砲|鍛治《かじ》だ」
「へえ、道理でポンポンいいどおしだ」
宿屋の富
ただいまは宝くじというものがさかんでございますが、江戸時代には富くじというものがたいへんだったようで、果報は寝て待てということわざ通りにならないかと欲ばった人たちが富の札を買うと寝て待っていたという……寝ていりゃあいいことがあるくらいなら、猫なんかみんな億万長者になるはずのもんでございます。
むかしは、宿屋というと、たいがい馬喰町《ばくろちよう》にあったんだそうで……宿屋商売というものは気苦労の多いもんで、昼のあいだは、となり近所の同業者とも仲よくしておりますが、夕方になりますと、おたがいに商売仇で、なんでもいい客をひこうというので、表《おもて》をきれいに掃ききよめて水の一ぱいもまいておりますところへやってきましたのが、年のころ四十二、三になるいなか風《ふう》の客でございます。
「はい、ごめんなさいよ」
「これはおいでなさいまし」
「おまえさんとこは、宿屋さんだね」
「へい、宿屋|渡世《とせい》をいたしております」
「ひとりでも厄介になれるかい?」
「へいへい、おひとりさんでもお半分さんでも、結構でございます」
「お半分なんて人間があるもんかね。あたしがひとりでも厄介になれるかいと聞いたのは、いつもあたしは、二、三人の供をつれて旅するんでね。宿屋というものは、いったいひとりで泊まれるものかどうかとたしかめたわけなんだ」
「はあ?」
「いつもは、この先の宿屋へ泊まるんだが、そこはね、いつも支配人が金をつかってるから、下へもおかないようにされるんで、かえってきゅうくつで、いやでたまらないから、わざわざはじめてのここの家をえらんだんだ」
「それは、それは……てまえどもみたいに、こういうきたない宿にお泊りいただきまして、ほんとうにありがとうございます」
「いや、いや、こういう宿屋のほうが気がつかれなくっていいよ。奉公人もいないようだね」
「はい、てまえと女房とふたりだけでございますから、なにかと手がまわらないかと存じますが……」
「ほほう、そりゃあしずかでいいね。あたしゃあ、信州上田在の者で、うちには奉公人が五百人もいます。あたしのまわりの用をする女中が、七、八十人もいますからねえ、もうにぎやかのなんのって……」
「それはまたたいへんなことでございますな。さだめしお金もおありでしょう?」
「うん、金というものも、ないとこまるだろうが、あんまりあるといけないな。天下の通用金だから、ほかへもまわさなくっちゃいけないってんで、あっちの大名へ二万両、こっちの大名に三万両とか貸しておくと、利息までつけてかえしてくるんだ。金がふえるばかりでしまつがわるいとおもっていたら、ここへくるちょうど一月《ひとつき》ほど前のことだった。夜なかに若い者がわあわあといっているので、なにごとがおこったかとおもって起きてみると、みんながむこうはちまきをして、手に手に薪《まき》を持ってるので、どうしたんだと聞いたら、『旦那さま、おちついてるばあいじゃございません。泥棒がはいりました』という。『なんだ、泥棒だと? それなら金がほしくてきたんだろ。もし手むかいでもして怪我でもしたらどうするんだ。金でいのちは買えやしないのだから、金なんかどんどん持ってってもらえ』といったが、だれもおもてをあける者がないので、あたしが庭へとびおりて大戸をあけてやったら、なんと泥棒が十七人どやどやとはいってきた。それから金蔵へ案内したら、さあはこんだ、はこんだ、やすみなしにはこびだすうちに、東が白んできたので、さすがの泥棒たちもひきあげてしまった。さて、金はどのくらい持って帰ったかしらんとおもって金蔵へはいってしらべてみたが、たいしたことはなかったな。千両箱がたった七十五しかへっていないんだ。泥棒も欲のないもんじゃないか。あはははは」
「へえー、千両箱が七十五とは、これはおそれいりますなあ」
「いや、これもはなしのついでだが、こっちへくる十日ほどの前だった。女中が、『旦那さま、漬けものの重石《おもし》がまるくて持ちにくいので、なにか持ちいいものはありませんでしょうか』というので、ふとおもいついて、千両箱を十ほど投げだしておいたら、女中がこれは乗っけといても、すわりがよくていいとよろこんでいるうちに、これがだんだんなくなってしまった。ふしぎなことがあるとおもっていたら、へるはずだ、出入りの者が帰りがけにそっと持っていっていたんだ。まあ、銭のない者はあさましい心になるもんじゃないか。あはははは」
「へーえ、漬けものの重石が千両箱とはおそれいりました。ときにお客さま、そのおことばにつけこむようで申しわけございませんが、てまえもこんな小さな宿屋だけじゃあやっていかれませんので、いろんなことをやっております。それで、富の札を売ってるんでございますがね。ええ、ひとつ、お客さま、買っていただけないでございましょうか。一枚あまっちゃったんですがなあ、あしたが当日なんでございます」
「ええ? なんだい、富てえのは?」
「ええ、一|分《ぶ》で買っていただきまして、あたりますと千両になります」
「ああ、千両こっちからやればいいのか?」
「いいえ、むこうからくれるんですよ」
「えっ! むこうからくれる? くれるんじゃこまるな。千両ばかりの金、かえってじゃまでしかたがない」
「いいえ、何万枚のなかの一枚ですから、めったにあたりはしません」
「じゃあ、なるべくあたらないのを買おうじゃないか」
「おねがいいたします」
「いくらだい?」
「一分でございます」
「一分? そんな金みたことないよ。あたしは小判のほかはつかったことがないんだから……え? なに? 一分てえのは、小さくて細長くて角ばった金だって? ああわかった、わかった。よく乞食にくれてやるやつじゃないか。そんなら賽銭《さいせん》ののこりがあったはずだ。こっちのたもとになかったかな……ああ、あった、あった。これかい?」
「へえ、さようで……」
「そうかい、それじゃあげるよ。持っといで」
「それではこの札を」
「札なんかいいよ。もらったってしかたがないんだから……」
「いいえ、これをさしあげておきませんと、てまえもなんかおちつきませんから、どうぞおおさめいただきたいんで……一番が千両で、二番が五百両で、三番が三百両」
「ああそうかい。あたっちゃこまるんだけど、もしあたったら、おまえさんに半分あげよう」
「半分と申しますと?」
「千両なら五百両、五百両なら二百五十両、三百両なら百五十両じゃないか」
「へーえ、それだけ、てまえがいただけますんで? これはまた、たくさんにどうもちょうだいいたしまして、お礼の申しあげようもございません」
「お礼の申しようもないったって、まだあたったわけじゃあるまい。もしもあたったらのことじゃないか。とにかくまあ熱燗《あつかん》にして二本ほどと、さかなはなんでもかまわないからすぐに持ってきておくれ……あーあ、いっちまった。大きなことをいうもんじゃないな。なけなしの一分とられちゃった。あんなこといわなきゃあよかったなあ。あしたから一文なしだ。……まあいいや、あれだけ大きなことをいっといたら、当分宿銭のさいそくもしないだろう。飲めるだけ飲んで、食えるだけ食って逃げちまおう」
といった調子で、くそ度胸をきめてしまいました。
まことにひどいやつがあるもんで……
翌日は、朝起きるとすぐに食事をすませて、
「ねえ、おかみさん」
「はい」
「ご亭主はどうしたい?」
「ちょっと用事があると申して、先ほどでかけました」
「ああそうかい。あたしもねえ、二万両ばかりの取りひきがあるんで、腹ごなしかたがたでかけてくるよ。帰りは夕方になるだろう」
「では、いってらっしゃいまし」
「ちょっといってきますよ」
いいかげんなことをいって、おもてへでてみたけれども、一文なしですから、どこといっていくところもありません。しかたがないから、ぶらぶらとあるいてまいりますと、湯島天神の境内では、千両富の当日というので、あたりは黒山の人だかり。
「たいへんな人ですなあ」
「なにしろみんな千両あてたいってえ人ばかりですからな」
「だれかにあたるんでしょう?」
「そりゃあ、これだけたくさんいるなかのだれかにあたります」
「そうですか、あなたも買いましたか?」
「ええ、一枚だけ買いました。この札がそうなんで……番号が縁起がいい。辰《たつ》の八百五十一番、これがあたしにあたります」
「へー、千両ですか?」
「いいえ、一番じゃありません。二番の五百両、これがあたしにあたります」
「そうですか、きまってるんですか?」
「ええ、ゆうべ天神さまのお告げがあって、一番の千両をあてさしてやりたいけれど、どうも先約があるのでそっちのほうへまわさなくっちゃならない。ついては、二番の五百両をあてさせてやるから、五百両でがまんしろってんで、五百両はあたしにあたります」
「へー、そうですか。しかし、五百両あたったら、あなた、どうします?」
「そうですねえ。あたしは、白ちりめんを一反買いまして、これを紺に染めて、まんなかから、プッツリふたつに切って、それで長い財布をこしらえます」
「一反の財布を?」
「そう。それで、あたった金をこまかいのにかえて、ざらざらざらっと、この財布にいれちまう。ぐっとふところをふくらませて吉原へでかけます。いつもとちがって五百両あるから気は楽ですよ。 さーさ、なんでもよいわいなあ……てなことを唄いながらいきますねえ」
「まだあたらないんでしょ?」
「ええ、まだなんですがね、あたればそうなります。吉原にね、あたしのなじみの妓がひとりいます。としは二十一で、丸ぽちゃで、色の白い、鼻すじの通った、髪の毛の濃い、笑うとえくぼがはいるかわいい妓で……」
「のろけかい?」
「のろけじゃないんで、ほんとのことで……まあ、お聞きなさい。その妓のうちの前へ立つと、『あら、ちょいと、どうしてたのさ? ここんとこちっとも鼻のあたまをみせないでさ。あがっとくれよ。逢いたかったんだから……』『ひとまわりまわってくらあ』『いけないよ。あがっておくれよ。いや、だめだよ。ひとまわりなんて……いや、いや、いや、こんなに待ってたのにさあ、ううん、いやん、ばかっ』」
「おう、だれか受付けかわってくんねえ。とんだ色気ちげえがまぎれこんだから……」
「『さあ、おあがりったら、え? ふところのぐあいがわるいの? そんなこといいからさ。あたしがなんとでもするじゃないか。とにかくあがって、つもるはなしをしようよ。ねえ』てんで、おれのたもとをつかんでひっぱるね、『さあ、おあがり』」
「よせやい、おれのたもとじゃねえか」
「かんじんなところだから、がまんしてくれなくっちゃこまるな。『さあ、おあがりよ。ほんとにふところがぐあいがわるいんなら、あたしがつごうするからさ。あんたにお金がないからって、あたしが恥をかかしたことがあったかい? 安心しておあがりよ。ちょいとあの子やあ』てんで、子どもをよんで、さしている銀のかんざしをぬいて、油を紙できゅっとふくと、『あの子や、おばさんところへこれを持ってって、つごうしてもらっておいで』てんで、あの妓は、自分のだいじにしているかんざしを手ばなしてまであそばせようてんだから、その人情を買ってやってください。ねえ、あんた……」
「あれっ、泣いてやがらあ」
「『ねえ、あんた、今夜はねえ、甘いもんでも食べて、宇治の濃いのをいれて寝ましょうよ』『じょうだんいうねえ。甘《あめ》えもの食って茶なんか飲んでいられるもんか。酒持ってこい。じゃんじゃん持ってこい。え? じゃんじゃん一本かだって? 景気のわりいこというねえ。五十本でも百本でも持ってこい。なに? 金か? 心配するねえ』てんで、胴巻きごとほうりだすと、その妓がびっくりして目をむくねえ。『あら、こんなにたくさんのお金どうしたのさ? あんた、ひょっとしてわるいことでもしたんじゃない?』『なにいってやんでえ。富にあたったんだ。おめえを身請《みう》けにきたんじゃねえか』『あらうれしいねえ。夢じゃないかしら』ってんで、女があたしの首ったまにかじりつくねえ。そんなことで、女を身請けして、一文も値切ったりせずにいい家を買って、ふたり水いらずのくらしになるね。朝起きると、手ぬぐいを肩にかけて湯へいってくる。帰ってくると、お膳の上には、お刺身があって、たまご焼きがあって、酢《す》のものがありの、お椀《わん》がありさ、『あんた、お燗《かん》がついたわよ。さあお酌《しやく》するわ』てんで、ついでくれる。『うん、すまねえな。こいつあうめえや。おめえもひとつやんねえな』『あたしだめなの』『どうして?』『顔がまっ赤になっちゃうもの』『いいじゃねえか、介抱してやるぜ』『ううん、いやん、ばかん』」
「うるせえな、この色気ちがいは……」
「『あーあ、すっかりいい気持ちになっちまった。寝ようか』『ええ、寝ましょうよ』なんてんで、ふたり仲よく寝て、起きると、手ぬぐいを肩にかけて湯へいってくる。帰ってくると、お膳の上には、お刺身があって、たまご焼きがあって、酢のものがありの、お椀がありさ、『お酌しましょう』てんで、すっかりいい気持ちになって、寝ましょうかてんで、寝て起きると、手ぬぐいを肩にかけて湯へ……」
「どこまでいってもおんなじだよ……湯へいって、一ぱいやって、寝てばっかりいやがらあ……それも富があたってからのことだろう?」
「ええ」
「あたらなかったらどうする?」
「あたんなかったら、うどん食って寝ちまう」
あつまった連中は、わあわあいっております。そのうちに時刻がまいりますと、寺社奉行立ちあいの上で富の札を突くことになります。
大きな箱のなかに札がはいっていまして、まんなかに穴があいていて、目かくしをしたひとが、長い錐《きり》でこの札をつきます。正面にむかってその札をみせると、子どものかんばしった声で、
「なんのなん番」
とよみあげます。――と、いままでわあわあいっていたのが、水を打ったようにシーンとなります。
「一番富、子の千三百六十五番」
「ふわー」
「もし、あんた、どうしなすった? あたったのかい?」
「ちょっとのちがい」
「なん番ちがったい?」
「八百番」
「ちがいすぎらあ……おい、そっちで惚気《のろけ》いってた人、そうそうおまえさんだ。いよいよ二番富だよ」
「ええ、いよいよあたしがあたる番です。神さまのお告げなんですから……あたしの札は、辰の二千三百四十二番だ。きっとこの札があたります」
さわぎのうちに、二番富になって、
「おん富二番!」
と声がかかります。
「さあさあたのむよ。神さまのお告げだ。辰の二千三百四十二番だからね。辰、辰だよ、たのむ、辰、辰」
「辰の……」
「どんなもんだい、二千か」
「二千……」
「うんうん、三百だ!」
「三百……」
「四十だ」
「四十……」
「さあさあ、ここだ。ここで女を身請けするか、うどん食って寝るかの境目だ。たのむよ、それ二番!」
「八番……」
「ふわー……」
「おいおい、たおれちゃったぜ。この人は……」
あたらなかった人は、札をやぶいて帰ってしまいます。
なかには、いつまでもあきらめきれないでのこっている人もおります。
宿屋へ泊まった客は、ぶらぶらしておりましたけれど、どこにもいくところがないから天神の境内《けいだい》へやってまいりました。
「おう、こりゃあまたたいへんな人だ。あっ、そうだ。きょうは富だった。きのう宿屋の亭主がはなしをしていたっけ……もし、富はどうなりました?」
「もうすみましたよ」
「そうですか。あたりは?」
「正面に紙に書いて張ってあります」
「ああなるほど……ああ千両富だ……一番が子の千三百六十五番か、二番が辰の二千三百四十八番、ふーん、三番が寅の五百四十八番……なるほど、いい番号がでてるなあ、……一番が子の千三百六十五番か、そうそう、あたしもきのう宿屋の亭主から一枚買ってある。まてよ、あたしの買ったのが、子の千三百六十五番、ふーん、こりゃあなかなかあたらないもんだ。二番が辰で、三番が寅と、あたしのが、子の千三百六十五番と、あたしのが子の千三百六十五番か、こりゃいけないや。いよいよ一文なしときまったなあ。一番富が、子の千三百六十五番と、なるほどなあ、おれのが、子の千三百六十五番……うーん、あたらねえもんだなあ……どうもおれは運がわるいんだから……あたったのが、子の千三百六十五番だろ……おれのが、子の千三百六十五番……うーん、すこしのちがいなんだがなあ……ほんとにすこしのちがいなんだ……えーと、あっちが子の千三百六十五番、子の千三百六十五番、子の千三百六十五番……おれのが、子の千三百六十五番……おれのが子の千三百六十五番、あっ、あたった、あたった! あたった、あたった、あた、あた、あた、あた」
「おい、おまえさん、どうしたんだい?」
「あたたたたた」
「え?」
「あたたたた」
「えっ! あたったのかい?」
「あたたた」
「あたった? あたったのかい? おまえさんが千両に?」
「あたたたた、あたたたた」
「あんた、なにをしてるんだい?」
「ふところがどっかへいっちゃったんだ」
「ふところはあるよ」
「ああ、あった、あった、なんでこんなにふるえるんだろ? 千両あたったらこんなにふるえるんだからおそろしいもんだ。あーあ、きのうあんなに大きなことをいわなきゃあよかったなあ。宿屋の亭主がきて、『千両あたっておめでとうございます』といったとき、こんなにふるえてたんじゃしょうがねえや……あーあ、すぐに帰って寝ちまおう……はい、いま帰りました」
「まあ、どうなすったんです? お顔の色が、たいへんにわるいじゃございませんか」
「寒気《さむけ》がしてしょうがない。二階へ床をとってください。すぐに寝ますから………ええ、取りひきのことで、ちょっともめごとがあったんで気分がわるくてたまらないんだ。まったく金についてのもめごとはいやだ、いやだ……きょうはだれがきても逢わないからね。もうだれにも逢うもんか……ふとんをかぶったらだれにも逢わないから、そこをしめてでていっておくれ。ああ、うう、うう……」
宿屋の亭主もほうぼうまわって、湯島天神の境内へまいりまして……
「やあ、もうすんじまったのか? あたりはどうなったかしら? ああ、書いて張ってあるな。一番が、子の千三百六十五番、二番が、辰の二千三百四十八番、三番が、寅の五百四十八番か。ふーん、いい番号がでているなあ。そうだ、おれもお客さんに一枚買ってもらってある。もしもあたったら半分はおまえにやるといっていたっけ……まああたってやしねえだろうけれどもさ……え? 子の千三百六十五番、一番が子の千三百六十五番か、ふーん、子の千三百六十五番、わあ、あたった、あたった、うー、あたった、あたたた」
「おう、またあんなことしてるやつがいらあ。どうしたんだい?」
「あたたたた、半分の五百両もらえるんだ。ああ寒気がしてきた。がたがたふるえがとまりゃあしねえ……おい、いま帰った」
「どうしたの、お前さん?」
「二階のお客さまはどうした?」
「お客さま? さっき帰ってきて、寒気がするといって、二階でふとんかぶっておやすみだよ」
「寝てるばあいじゃねえ、寝てるばあいじゃねえ」
「どうしのさ?」
「どうの、こうのって……お客さまが千両富にあたったんだ」
「へーえ、運のいい人だねえ。でも、お他人さまがあたったのに、どうしておまえさんがふるえてるのさ?」
「ふるえもするさ、あたったら半分くれる約束なんだ。だから五百両もらえるんだ」
「おまえさんが? 五百両?」
「そうだよ」
「あーら、五百両……あたしもふるえがとまらないよ」
「なにしてやがんでえ。お客さまは酒が好きなんだから、酒をすぐにつけろい。徳利なんかじゃいけねえぞ。風呂の湯をながして、風呂桶いっぱい酒をいれて、下から燃やして燗をつけろい。酒風呂へざぶっと景気よくはいってもらうんだからな……おれ二階へいって、いま、おこしてくるから……ああ、ああ、もし、お客さま、お客さま」
「ふー、ふー、きょうは、だれにも逢わないといったのに、あたしの部屋へきたのはだれだい?」
「へい、てまえでございます。お客さま、千両あたりました。千両」
「ふー、ふー……千両ばかりあたったってさわぐことはないじゃないか」
「あたしに半分の五百両くださいますか?」
「あー、やるよ、やるとも……だからなんだよ?」
「なんだよって、あなた、めでたいんですから、ぜひ一ぱいやってください」
「うるさいな。千両ばかりのことで、酒飲んだってしかたがあるまい。なんだ千両ばかり……あれ、おまえはなんだい、下駄《げた》はいて座敷へあがってきたりして……」
「ええ? ああほんとだ。あんまりうれしいんで、つい夢中になって……」
「いくら夢中になったって、下駄はいてあがってくるなんて……だから貧乏人は情けないというんだ。じつにいやだねえ、貧乏人は……」
「あのうお客さま、下にお酒のしたくができてますから、一ぱい飲んでくださいな」
「いやだよ。いやなこった。千両ばかりあたって酒飲むなんて……」
「いいじゃありませんか。せっかくしたくができてるんですから……」
「いやだってのに……」
「そんなこといわないで、起きてくださいよ。起きて下へいっしょにいってくださいな。さあ、起きて……」
と、亭主がふとんをまくると、客も草履《ぞうり》をはいたままで寝ておりました。
道具屋
これで落語のほうで大立物《おおだてもの》といえば、ばかの与太郎ということになっております。
ですからこういう人物がでてまいりますとお笑いもひときわ多いというもので……
「さあ、こっちへあがんな。えー、あいかわらず家であそんでるのか……いけねえな、そうぶらぶらしてちゃあ……おめえのおふくろだってもういい年なんだから、なにか商売でもやって安心させてやったらよかろう」
「ええ、だから商売もやってみたんだが……伯父さんの前だけれど、もう商売には懲《こ》りちゃった」
「懲りた? いったいなにを売ったんだ?」
「昨年の暮れに、観音さまの歳の市へ出たことがあらあ」
「感心だな。際物《きわもの》とくるともうかるもんだが、どんなものを売ったんだ?」
「苧《お》を売ったよ」
「苧っていうと、麻を売ったのか。麻は婚礼にもつかって、共白髪《ともしらが》などといって、縁起を祝うめでたいものだ。それから?」
「それからねえ、串柿とだいだい」
「おかしなとりあわせだな」
「それから、から傘も売ったっけ」
「うん、そういえば、市のときによく雨がふって、ずいぶんこまる人がいるもんだ。いいところへ気がついたな……で、どうした? 売れたろうな」
「それがいいお天気でさっぱり売れやしねえ」
「なんだ。売れなかったのか……しかし、まあ、すべて市《いち》のものはいせいよく売らなければいけねえ」
「だから、あたいが、おーっといったんだ」
「ああびっくりした。なんてでかい声をだすんだ」
「えへへへ、となりの羽子板屋もいってたよ……おまえさんがそこでおーっ、おーっというと、わたしのほうの客がおどろいて逃げていっちまうから、もっと色気をつけてやってみろって……だから、あたいが、苧《お》や、苧や、苧や、苧や……」
「なんだい、まるでおどろいてるようじゃねえか」
「すると、となりの羽子板屋が、おまえさんは一品しかいわないからいけないんだ。品物を順序よくならべていってみろとおしえてくれたんで、苧とだいだいをいっしょにして、苧やだいだいとやってみた」
「苧やだいだいなんぞはうまかったな」
「ええ、苧やだいだい、苧やだいだいとやってみたら、ほかに傘と柿も売っていたことをおもいついたから、みんないっしょにしてやってみた」
「どんなふうに?」
「ええ、苧やだいだいの傘っ柿(親代々の瘡《かさ》っかき)ええ、苧やだいだいの傘っ柿でござい。親の因果が子にむくい……」
「よしな。じょうだんじゃねえ。市の品物をそんなことをいったら買う客がいるもんか」
「どうもこれはうまくいかなかったから、二月の末に十軒店《じつけんだな》にでた」
「ほう、お雛《ひな》さまの道具か……で、なにを売ったい?」
「人が売らねえものがいいとおもった」
「うん、人が売らねえものを売るとは感心だ。それで、なにを売ったい?」
「お雛さまの棺桶《かんおけ》というのを売ってみたが、買い手がまるっきりいなかった」
「ばか! あきれたやつだ。そんなものを買うやつがあるもんか……もうおめえはなにをやってもうまくいかねえんだから、どうだ、ひとつ伯父さんの商売をやってみねえか」
「伯父さんの商売って……伯父さんは大家さんじゃねえか。じゃああの家作《かさく》をあたいがみんなもらって、家賃をあつめて寝てくらす……」
「おいおい、欲ばったことをいうなよ。大家は伯父さんの表看板だ。伯父さんが世間にないしょでやってる商売があるから、それを権利もなにもそっくりおまえにゆずってやろうというんだ」
「世間にないしょでやってる商売? ……ああ、あれか……」
「あれかって……おまえ知ってたのか?」
「いいえ、知ってはいなかったけれど……だれも知らねえとおもっていても、ないしょといえばすぐわかる。ま、わりいことはできねえもんだ」
「おい、なんだ、気どって妙な声をだして……おかしないいかたをするなよ。なにか伯父さんがわるいことをしてるようじゃねえか。おまえ、ほんとに知ってるのか?」
「上にどの字がつく商売だ」
「うん、そういえば、上にどの字がつくな」
「やっぱりあたった。どうも目つきがよくねえとおもった……泥棒だな……泥棒!」
「ばか! あきれたやつだ。伯父さんは泥棒なんかじゃねえ……どの字はつくけれど、道具屋だ」
「なんだ、道具屋か……つまらねえ……じゃあ伯父さんはお月さまをみてはねるわけだな」
「なんのことだ?」
「道具屋お月さんみてはねる(十五夜お月さまみてはねるのしゃれ)」
「つまらねえしゃれをいうな……どうだ、道具屋をやる気はねえか」
「もうかるかい?」
「そうさな、ことによると倍になることもある」
「そいつはありがてえ。やってみようかな」
「目はきくだろうな」
「ああ、伯父さんのうしろに猫があくびしているのなんかよくみえらあ」
「これがみえねえやつがあるもんか。いやさ、早えはなしが、この湯呑みがふめるか」
「へへへ、よそうよ」
「どうして?」
「ふんだらこわれちまわあ」
「そうじゃねえ。だれがこれをふみつぶせなんていうもんか。ちょいと値ぶみがわかるかといったんだ」
「なーんだ、そうか。伯父さんの家でもでるのかい?」
「なにが?」
「いえ、あたいの家でも天井うらでがたがたさわぐとすぐにわからあ」
「それはねずみだ。そうじゃねえ、この品ものはいくらいくらの値打ちがあるかわかるかというんだ」
「なんだ。そんならそうと早くいえばいいじゃねえか」
「わかるのか?」
「じまんじゃねえがわかるもんか」
「そんなこといばるやつがあるか、まあしかたがねえから、元帳《もとちよう》を貸してやろう。だからこれをみて、この品物はいくらだということがわかったら、それに掛け値をして売れ。もうけはおまえにやるから……おい、おめえのうしろに行李《こうり》があるだろ。それを持ってこい。そんなかへはいってるのががらくたもので、仲間の符牒《ふちよう》でゴミというんだ。あけてみろ」
「うん……わあ、なるほどゴミだ。ごみごみしてやがる……これはなんだい?」
「それは掛け物だ」
「化け物」
「化け物じゃねえ、掛け物だ」
「やあ、坊主がはらんでやがらあ」
「なんという見方をするんだ。それは布袋和尚《ほていおしよう》じゃねえか」
「へーえ、人はみかけによらねえなあ。正直そうな顔をしてるのに……」
「なんだ?」
「いえ、ふてえ和尚だっていうから……」
「わからねえな。布袋和尚だ」
「やあ、こっちはまたおもしろい絵だ。ぼらがそうめん食ってらあ」
「そんな絵があるもんか。絵はまずいけれど鯉《こい》の滝のぼりだ」
「なんだ、そうだったのか。だって、大きな魚が口をあいて上をみていて、上からは細長くて白いものがぶらさがってるから、てっきりぼらがそうめん食ってるとおもっちまった。でも、伯父さん、鯉なんて滝へのぼるもんなのかねえ」
「ああ、出世魚《しゆつせうお》といっていせいのいい魚だから、おちてくる滝をのぼるんだ」
「へーえ、そういうもんかね。じゃあ、伯父さん、鯉のつかまえかたを教えようか」
「ほう……どうするんだ」
「大きなバケツでも桶《おけ》でもいいや、水をいっぱい汲んで、鯉がおよいでいる池のそばへいくんだ」
「うん、それで?」
「池の上から水をすーっとあけてね、それ滝だ、滝だ、滝だとどなるんだ。すると、鯉のほうじゃあ滝だとおもって、すーっとあがってくるから、そこんとこをあたまをおさえてつかまえちまう」
「この野郎、あきれたやつだ。おめえは長生きするな」
「おかげさまで……伯父さん、このお雛《ひな》さまは梅毒かな」
「どうして?」
「鼻がおっこちてるもの」
「なにをいってるんだ。そりゃあねずみがかじったんじゃねえか」
「へー……すると、ねずみはお雛さまが好きなのかねえ」
「なにをいってるんだ……ねずみなんかむやみになんでもかじるじゃねえか」
「伯父さんの家にそんなにねずみがいるのなら、ねずみのとりかたを教えようか」
「またはじまった。猫いらずでもつかうのか?」
「ちがう、ちがう。猫いらずなんかつかうもんか。猫いらずいらず」
「ややっこしいことをいうなあ、どうするんだ?」
「わさびおろしの上へめしつぶをこうぬっておくんだ」
「それで?」
「ねずみのでそうな壁へたてかけておけばそれでおしまい」
「まじないか?」
「まじないじゃあねえのさ。夜なかにねずみがでてきて、なにか食うものをないかとさがそうとすると、目の前にめしつぶがならんでるんで、こいつはありがてえと、わさびおろしにくっついてるめしつぶをねずみがかじってるうちに、ねずみがだんだんおろされちまって、気がつくと、しっぽしかのこっていねえっていうことにならあ。これすなわち猫いらずいらず」
「いいかげんにしろ、バカ!」
「あれ、まっ赤になったのこぎりがあるね」
「それは火事場でひろったんだ」
「ひどいものを売るんだな」
「そんなものは売れればまるもうけってやつだ」
「あっ、ここに股ひきがあらあ」
「ああ、それはひよろびりだ」
「ひよろびり? なんだいそれは?」
「これをはいて、ひょっとよろけると、びりっとやぶけるから、それでひよろびりだ」
「ははあ、おもしろいしかけになってるなあ」
「しかけってやつがあるか……まあ、さっきもいったように、この元帳にこまかく書いてあるからうまく商売するんだぞ。で、かりに元値が十銭としてあったら、倍の二十銭ぐらいのことをいいな。客はなかなかこっちのいったねだんでは買わねえから、五銭か六銭まけても、そこにいくらかもうけがでる。もうけはおまえにやるから、元は伯父さんによこすんだぞ」
「ああ、そうか。では、ここに十銭としてあるものが、百円に売れたら……」
「そんなに高く売れるもんか」
「でも、売れれば、十銭だけ伯父さんにやって、あとはあたいがみんな食っちまってもかまわねえわけだ」
「食い意地の張ったやつだ。なにかっていうと食うはなしだ……まあ、しっかりやってこいよ。で、商売だが、天道干《てんとうぼ》しといって昼店をだすんだ。まあ、日なたぼっこをしているうちに売れちまうってわけだ。店をだす場所は、蔵前の相模屋という質屋のわきが、ずーっと煉瓦の塀になってて、その前へいろんな店がでているから、伯父さんのかわりにきたといって行け。そうすれば、みんながいろいろと教えてくれるから……いいか、しっかりやってこい」
「ああ、行ってきます」
「あっ、ここだ、ここだ。多勢でてやがるな。おい、道具屋」
「へい、いらっしゃい。なにかさしあげますか?」
「さしあげる?。そんなに力があるのか? じゃあそのわきにある大きな石をさしあげてみろ」
「からかっちゃいけねえ。なにか買ってくれるのかい?」
「おれだって道具屋だ。神田の佐兵衛のところからきたんだけれど……あたいは甥《おい》の与太郎さん」
「なんだい、てめえの名前にさんをつけるやつがあるかよ……ああ、そうかい、あんたが与太郎さんかい……ふーん、佐兵衛さんからきいてたよ……すこしばかり人間が足りねえ……いや、その……まあ、いいや、あたしのわきがあいてるから、ここへ店をだしな……おれにならってうすべりをしきなよ。そうそう……じゃあ品物をならべてみな。まず金めのものはなるべく身のまわりにおいといてな。それから立てかけておくようなものがあったら、うしろの塀へ立てかけるんだ。……そうだな、はたきがあったら、それではたいて、しょっちゅう品物をきれいにしておかなくっちゃあいけねえ」
「はたきで品物をはたくのか……なるほど、ごみだらけだ。おもしれえほどほこりがでらあ……しかし、なにしろほこりのかたまりみてえだから、あんまりはたいてほこりがとれちまうと品物もいっしょになくなっちまうんじゃねえかな……でも、こんなことで商売になるのかな? それでも、もしも売れたら、伯父さんはもうけはこっちへくれるといってたから、早く売ってなにか食おうかな。あれ、前にてんぷら屋の屋台がでてらあ。うまそうだなあ。あっ、あの野郎、昼間っから天ぷらで一ぱいやっていやがる。のんきだなあ。あれあれ、大きなてんぷら選《よ》ってるんだな。はさんだり、おいたりして……なにも大きいから中身がいっぱいだとはきまってやしねえのに……ころもがごてごてついてりゃあでかくみえるんだぞ……やあ、おとしやがった。下にいた犬が食ってやがる。犬になりてえなあ。そうだ、早くもうけなくっちゃあ……ひとつ景気づけに客よせをしようかな……さあいらっしゃい、さあいらっしゃい。よってらっしゃい、みてらっしゃい。ええ道具屋、できたての道具屋、道具屋のあったかいの……」
「なんだ、おかしな道具屋がでやがったなあ、おい、道具屋」
「へい、いらっしゃい。お二階へご案内」
「つまらねえ世辞をいうな。二階なんかねえじゃねえか」
「うしろの屋根へおあがんなさい」
「ばか、烏《からす》じゃねえや……まあそんなことはいいや。その鋸《のこ》みせろ」
「なんです?」
「鋸だよ」
「かずの子ですか?」
「ふざけるなよ、道具屋へそんなものを買いにくるやつがあるもんか。そこにある鋸《のこ》だ」
「のこ(どこ)にある?」
「つまらねえしゃれをいうない、のこぎりだよ」
「なーんだ、のこぎりか。それならそうといえばいいのに、…のこだなんて……あなた、ぎりを欠いちゃいけねえ」
「なにをいってやがる。こっちへ貸してみろ……ふーん、こりゃあすこし甘そうだなあ」
「いえ、甘いか辛いか、まだなめてみませんが、なんならすこしなめてごらんなさい」
「のこぎりをなめるやつがあるもんか。こいつは焼きがなまくらだな」
「鎌倉ですか」
「焼きがなまだよ」
「焼きがなま? ……そんなことはありませんよ。なにしろ伯父さんが火事場でひろってきたんだから、こんがり焼けてることはうけあいで……」
「ばか! ひでえものを売るねえ!」
「あっはっは、あの客怒っていっちまった」
「おいおい与太郎さん、だめだよ、火事場でひろったなんていっちゃあ……となりにいるおれの品物まで安っぽくみえるじゃねえか。あんなときは、こんなのこぎりでも柄《え》をとりかえれば結構竹ぐらいは切れますてなことをいって売りつけちまうんだ。つまらない小便されたじゃねえか」
「小便された?」
「ああ小便されたよ」
「どこへ? 小便を……」
「さがすやつがあるか、道具屋の符牒《ふちよう》だよ。買わずにいくやつを小便というんだ」
「買ってくやつが大便か」
「きたねえことをいうねえ。とにかく小便されねえようにしっかりしなくちゃいけねえよ」
「おい道具屋さん」
「はい、いらっしゃい」
「なにか珍《ちん》なものはないかなあ」
「ええ?」
「珍なものはないか?」
「ちんねえ……狆《ちん》はいませんけど、伯父さんの家には猫がいますよ」
「なにをいってるんだい、なにか、この……珍物《ちんぶつ》はないかな」
「見物にいらしったんですか?」
「わからない男だな。なにかめずらしいものはないかときいてるんだ……うーん、おまえのわきにある本をみせろ」
「え? 本? ……この本ですか、これはあなたに読めません」
「失敬なことをいうな。読めるよ」
「いいえ読めません」
「読めるよ!」
「読めません! 表紙だけなんだから……」
「なんだ、表紙だけか、それじゃあ読めるはずはない。それを早くいいなよ。そのわきにある黒くて細長いのは万年青《おもと》の鉢かい?」
「いいえ、シルクハットのまわりがとれたんです」
「そんなものなんにもならないじゃないか……うしろのほうに真鍮《しんちゆう》の燭台《しよくだい》があるな、その三本足の……うん、それそれ、それをこっちへとってみせろ」
「これですか、これは一本欠けちゃったから二本足です」
「二本じゃ立つまい」
「ですから、うしろの塀へよりかかって立ってるんで……」
「それじゃあ買ってもしかたがないな」
「いいえ、そんなことはありませんよ。もしお買いになるんなら、この家とよく相談して、この塀といっしょにお買いなさい」
「ふざけたことをいうな!」
「あれ、また小便かい、どうもこまったもんだ」
「おう、道具屋」
「へい」
「そこにある股引《たこ》をみせろ」
「へ?」
「股引《たこ》をみせろ」
「たこ? ゆでだこですか?」
「なにをいってんだ、股引《ももひき》だよ」
「ああ、股引ねえ、これですか」
「ちょいとみせろ」
「みせるのはよござんすがね、あなた、これ、小便はだめですよ」
「なに?」
「いえ、小便はできませんよ」
「小便できねえ? そいつあいけねえな。おらあ大工だが、いちいち小便するのに股引とってたんじゃあ仕事になりゃあしねえ。じゃあ、やめにしとこう」
「おーい、おい、あなた、あなた、ちがう、ちがう、小便がちがうんだ……ああ、いっちまった。まずいとこでことわったな。ことわりかたもむずかしいもんだ」
「おい、道具屋」
「へい」
「そこにある短刀をみせい」
「え?」
「短刀」
「いいえ、沢山《たんと》にもすこしにも、これだけしかありません」
「そうではない。その短かい刀をみせろというのだ」
「ああ、これですか、はい」
「ふーん、これは在銘《ざいめい》か?」
「え?」
「銘はあるのか?」
「姪《めい》はありません。神田に伯母《おば》さんがいます」
「おまえの親戚を聞いてるのではない。この刀に銘があるか? こういうところには、よく掘りだしものがあるものだが……うーん、なんだ、さびついてるとみえてぬけないな、うーん」
「そりゃあちょいとぐらいひっぱったってだめですよ」
「そうか、では手つだってそっちへひっぱってみろ」
「そうですか? ひっぱったってしょうがねえんだがなあ……じゃあ、ひっぱりますよ、そーれ」
「おいおい、おまえだけひっぱってもだめだ。わしといっしょにひっぱらなくては……それ、いいか、ひい、ふう、みいと、そーれ、うーん、よほどさびついたとみえてぬけないな。そーれ、もう一度ひっぱるぞ、ひい、ふう、みいと、そーれ」
「うーん、ぬけないわけですよ」
「うーん、どうしてだ?」
「うーん、木刀ですから」
「おいおい、木刀か、これは……木刀だと知っていて、ひっぱらせるやつがあるか」
「でも、もし木刀がぬけたらなにがでるかとおもって」
「なにをばかなことをいってるんだ。もっとすぐにぬけるものはないか」
「あります」
「それをだせ、ものはなんだ?」
「お雛さまの首のぬけるんで……」
「変なものばかりならべてあるな……では、そちらの笛をみせてくれ」
「ああ、これでございますか。どうぞ」
「いや、どうもこれはきたない。売りものならよく掃除をしておかなければいけないな。棒のさきへ紙でも巻いて……」
「へえ」
「しかし道具屋……あいたたたた、これはとんだことをしてしまった。ちょいと指のさきにつばをつけて、笛のなかを掃除しようとおもったら、うまくはいったのだが、ぬけなくなってしまった。あいたたたた、指がすっぱりはいったままどうしてもぬけない。道具屋、この笛はいくらだ」
「へえ、そうですね……うーん、一円です」
「一円?! こんなきたない笛が一円ということがあるか。どうだ、せめて五十銭にまからないか」
「へえ、とてもまかりません」
「まからないことはあるまい。こんなきたない笛で……あいたたたた、どうもこれはこまった。道具屋、どうだ、六十銭では……」
「とてもまかりません。どうです、おまけして二円ということでは……」
「まけて高くなるやつがあるか。あいたたた、とてもいけないなこれは……よし、しかたがないから、高いけれども一円で買ってやる」
「へえ、ありがとうございます。ようやく天ぷらにありつけた」
「なに?」
「いえ、こっちのことで……」
「買ってやるが、持ちあわせがないから、わしの家へついてきてくれ」
「へえ、すこしお待ちください。いま荷物をかたづけますから……へい、お待ち遠さま、荷物をしょいましたから、どこへでもお供します」
「さあ、ここがわしの家だ。しばらくおもてで待っていてくれ。いま代金をわたすから……」
「へえ、かしこまりました。どうかお早くねがいます。ああ、ありがてえ、ありがてえ、おもいがけなくもうけちまった。あんなきたねえ笛が一円に売れるなんて……元帳みてみよう……ええ……笛は……笛は……なんだ、たった二十銭じゃねえか、こいつはありがてえ。もうかった、もうかった……それにしてもずいぶんおそいじゃねえか。なにしてるんだろう……そうだ、この格子《こうし》からのぞいてみよう……あいたたた、こりゃあいけねえ、格子のなかへ首がすっぽりはいっちまった。あいたたた、お客さーん」
「やあ道具屋、どうした」
「へえ、首がはいっちまいました」
「なんだ、おまえの首がぬけないのか?」
「へえ、ひょいとこれへはいったとおもったらぬけません。どうか早く笛の代金をくださいまし」
「いや、わしの指もぬけないから、おまえの首とわしの指をさしひきにしておけ」
なめる
江戸時代のおわりごろには、猿若《さるわか》町に、中村座、市村座、河原崎座のいわゆる三座というものがありまして、折りからの顔見世興行で、どこもいっぱいの入りでございます。
「いらっしゃいまし。ええ、せんだってはありがとうございました。へえー、きょうはご見物でございますか?」
「見物してえんだが……」
「まことにどうもお気の毒さまでございます。じつは、どこももういっぱいでございまして……まことにお気の毒さまで……二、三日前になんとかおっしゃってくだされば、よろしいところをとっておきましたのに……どうもきょうのところは……」
「そんなこといわねえで、いつもこうやってきてるなじみじゃねえか。どうにかしてくんねえな。近《ちけ》えうちにはじめからみにくるが、きょうは近所へきたから、そのついでに、ちょっと一幕、あんまり景気がいいから、たった一幕でいい。どんなところでも、立っていてもいいのだから、なんとかしてくんねえ」
「こまりましたな。ちょっとお待ちください。じゃあ、こうあそばせ、こっちへいらっしゃい」
鶉《うずら》のうしろというところへ案内しまして、
「そのうちにどっかよいところがあきましたらおよびしますから、しばらくここにいらしってください」
「ここで結構だよ。用があったらよぶから……」
「どうか、そこでご辛抱《しんぼう》を……いずれあきましたら……」
「ああ、ありがとう……いやあ、たいそうへえったな。いい景気だ。音羽屋! 音羽屋!」
と大きな声で、音羽屋、音羽屋と夢中でほめておりますと、その男の立っておりますすぐ前の客は、十八、九のきれいなお嬢さんと二十四、五のおつきの女中らしいふたりづれでマスをとってすわっておりましたが、うしろであまり大きな声がするのでふりむいて、
「まあ、お嬢さま、うしろにいらっしゃるかたが、音羽屋をほめてくださいますよ……あなた、まあ、おつかれでございましょう」
「え? いえ、どうもおそれいりました。あたまの上で、があがあどなりまして、どうもお気の毒さまで」
「いいえ、お嬢さまも、あたくしも音羽屋がひいきでございますから、音羽屋をほめていただきますと、まことにうれしゅうございます」
「えっ、あなたがたも音羽屋がごひいきで? へえ、よござんすね、これだけの役者てえものはなかなかありませんからね。音羽屋!」
「あなた、こちらへおはいりあそばしては……」
「え? そのマスへでござんすか? だって、おつれさまがいらっしゃるんでござんしょ?」
「いいえ、ふたりっきりで、あいておりますから、どうぞご遠慮なさらないで……」
「えっ、さようですか。じゃあ、すみのほうをちょいと拝借いたしまして、えへへへ」
「どうぞ、どうぞおはいりあそばして……そのかわりと申してはなんでございますけれど、よいところへまいりましたら、音羽屋をほめていただきとう存じます」
「へえ、おやすいご用で……まあ、ほかにお礼のいたしようもございませんから、ほめるほうで十分につとめさせていただきやしょう。では、さっそく……音羽屋!」
「ありがとう存じます」
「いえ、どういたしまして……音羽屋!」
「ありがとうございます」
「いえ、いちいち礼なんぞおっしゃらなくてもようござんす。あっしも好きでほめてるんですから……音羽屋! 音羽屋! ねえ、まったくよござんすね。音羽屋! 音羽屋!」
「あなた、もう幕がしまっております」
「ああ、なるほど、しまっておりますな。えへへへ、ついでに幕のほうもほめておきましょう。幕!」
「まあ、おもしろいことをおっしゃいまして……あのう、お弁当《べんとう》がきておりますから、ちょうどいい時分でございますから、もしおよろしければいかがでございますか?」
「へえ? なんでござんす? お弁当を、てまえに? ……いえ、もう腹はいいんで……もうたくさんで……」
「いいじゃございませんか。お若いかたが、お弁当のひとつやそこら……」
「へえ、さいですか……そうおっしゃってくださると……へえ、じゃあ、おことばに甘えましてちょうだいいたします。どうもすみませんでござんす。こりゃあどうも結構なお弁当で……こりゃ、うめえ……あっ、幕があきました。あっ、でてきました。音羽屋! うめえぞ!」
役者がうまいんだか、弁当がうまいんだかわかりません。めしを頬ばったままでほめるから、前の人のあたまは、めしつぶだらけになってしまうというたいへんなさわぎ……
「あのう、あなた、お茶をめしあがって……」
「へえ、どうも、こりゃあ、ごちそうさまで……」
「ときに、つかぬことをうかがいますが、あのう、あなたはおいくつでございますの?」
「へえ、なんでござんす?」
「いえ、あの、あなたのお年齢《とし》は、おいくつでいらっしゃいますの?」
「え? あっしの年齢でござんすか? へへへ、べつにいくつってえほどのもんじゃあねえんで……」
「まあ、いくつというほどのもんじゃないなんて……お年齢がないってことはありますまい」
「いえ、そりゃあ、年齢はあるにはありますが、つまり、その、これがしょうのねえもんで、二十二なんで……そりゃあもううそもかくしもござんせん。ほんとうに二十二……へえ、去年が二十一で、ことしが二十二で、首尾よくいきゃあ、来年は二十三になる見当なんで……」
「まあ、あたりまえじゃございませんか。ほほほほほ……でも、二十二とはいい年まわりでございますわ。ねえ、お嬢さま……ちょうどぴったりの年まわりで……」
「へえ、さいですか。いいか、わりいか、二十二は掛け値のねえところなんで……」
「まあ、ほほほほほ……」
「ときに、お嬢さまのお宅はどちらでいらっしゃいますか?」
「あのう、すこし遠いんでございますが、いま、ちょっとおかげんがわるくて、業平《なりひら》の寮へいらしっておりますので……」
「へえ業平でござんすか、それじゃあ目と鼻のさきでござんすね」
「そうでございますよ。ちょうどご運動のためにお歩きになるには、まことに手ごろな道のりでございますの」
「へえ、もしお歩きになってお帰りならば、あっしがお送り申しましょうか?」
「もしそうねがえれば、ほんとうにたすかりますわ。いま、女ふたりでは、気味がわるいので、お駕籠《かご》をそういおうとしておりましたところで……」
「いいえ、そんなことすることはござんせんや。お送りいたします。へえ、はねましたらさっそく……」
芝居がはねたあとで、男は、業平まで送ってまいりましたが、芝居小屋にいたときからずっときれいなお嬢さんのそばへつきっきりなので、男はいささかぼーっと上気しておりますから、十一月の夜風もかえってこころよいくらいで……
「まあ、ありがとうございました。あなたにおはなしをうかがいながらまいりましたので、道のはやかったこと、もう帰ってまいりましたわ」
「へえ、こちらさまで……きれいなお宅でござんすね。さだめし多勢さまでお住まいでござんしょうね」
「いえ、それが、お下《しも》のほうの女中は五人ほどおりますが、奥は、わたくしとお嬢さまとふたりっきりでございますので、それはもうさびしいんでございますよ」
「へえ、たったおふたりで……ええ、では、あっしはこれくらいで失礼させていただきます」
「あら、よろしいではございませんの。せめてお茶の一ぱいなりとめしあがって、もし、おそいようでございましたら、てまえどもにお泊まりになってもよろしいのでございましょう? ねえ、お嬢さま。さあ、あなた、そうあそばせよ。もし、ご都合で、どうぞてまえどもにお泊まりあそばして、ねえ、もし……」
「へえ、そりゃあ、もう、えへん……」
「あら、あなた、なにをしていらっしゃいますの? まあ、いやですよ。そっちをむいて、眉《まゆ》へつばきなんぞおつけになって……このへんに狐なんぞおりませんよ。まあ、そんなごじょうだんをなさらずに、さあ、どうぞおはいりくださいましな」
「へえ、さいですか、では、ごめんをこうむって……」
夢に夢みる心地の男は、すすめられるままにあがりまして、奥の結構な十二畳の座敷へ通されました。
「さあどうぞ、あなた、こちらへおすわりあそばして……まあ、いろいろとお世話をおかけいたしまして、どうもありがとう存じました。もうお嬢さまがたいそうおよろこびでございまして、ただいまおめしかえをなすって、ごあいさつにでていらっしゃいますから、いましばらくお待ちくださいまし」
「いえ、もう……そのお礼は、こっちで申さねばならねえんで……もうおかまいなく……」
「では、ちょっとお待ちあそばして……」
案内の女中といれちがいにはいってきたお嬢さんの姿をみて、男はその美しさにいまさらながら息をのみました。と申しますのは、芝居見物のときの友禅模様《ゆうぜんもよう》とちがいまして、黄八丈《きはちじよう》のお召しに繻珍《しゆちん》の帯を胸高にしめ、髪は文金の高島田で、すこし病みつかれたその細おもては、青白くすき通るようで、ぞっとするような美しさでございます。折りからの寒さも手つだいまして、男はぞうっとしてしまいました。
「へえ、どうも、きょうはたいへんごちそうになりまして……どうも、まことにはや……」
「いいえ、あたくしのほうこそたいへんご厄介になりまして……きみや、きみや」
「はい、ただいま……お嬢さま、なにかと存じましたが、なにもございませんので……ねえ、あなた、なにもございませんが、お茶屋から持ってまいりましたお煮しめで、どうかひとつめしあがってくださいまし。さあ、お嬢さま、お酌をあそばして……」
「へっ、お酒を? そんな、あなた、ごちそうになりましては……へえ、さいですか、へへへ、どうも……いいお酒で……いいえ、さかななんぞ……へ、さいですか。では、これをこういただいて……」
「さあ、もうひとつ……まあ、よろしいではございませんか」
「いいえ、もう結構で……いいえ、もう……さいですか。しかし、こうやってご酒《しゆ》をいただいておりますと、なんだか夢のようで……」
男は夢中でさかずきをうけておりますうちに、いつのまにか女中もいなくなりまして、あとはお嬢さんとさしむかいということになりました。
「あのう、あなたさまにおねがいがございます」
「おねがい? なんでござんす? もう、お嬢さんのためなら、命でもなんでもさしあげます」
「ほんとうでございますか?」
「ええ、うそなんぞ申すもんですか。なんなら手つけに目をまわしましょうか?」
「まあ、ごじょうだんを……でも、申しあげて、おいやとおっしゃると……」
「いやだなんぞと申すもんですか。命までさしあげるというくらいなんですから……はやくおっしゃってください。そのねがいというのを……」
「では、きっとわたしのねがいをかなえてくださいますね」
「そりゃもうかならず……」
「それでは申しあげますが……あの……」
「へえ……」
「じつは、あたくしの……あのう……お乳をなめていただきたいのでございます」
「え? お嬢さまのお乳を? ……へえ……あのオッパイをでござんすか? このあっしが……うふふふ」
「まあ、そんなふうにお笑いになって……あたくし、恥ずかしい」
「お嬢さまのお乳をなめるなんて、もう、あっしゃあ死んでも本望で……」
「では、ほんとうにおひきうけくださるようですから申しあげますが、じつは、あたくし、お乳の下におできができております。それを、あなた、なめてはくださいませんか?」
「ああ、そうですか……おできをね……どうもはなしがうますぎるとおもった」
「命までもくださるとおっしゃったのですもの、よもやいやとはおっしゃいますまいねえ」
「なめます。なめますよ。しかし、それだけなんで?」
「いいえ、そんなことをしていただきました上は、あたくしのような者でもかわいがってくださいますなら、一生あなたのおそばで……」
「えっ、ほんとうですか? さあさあ、そうときまれば、おだしなさい。おできをどんどんおだしなさい。いくらでもなめちまいますから……」
お嬢さんもこうなるといっしょうけんめいでございます。まっ赤になって、おもいきって着物をひらきます。下は燃えたつような長襦袢《ながじゆばん》で、その下に、蒼味《あおみ》がかった白い肌があやしくかがやいているのをみて、男はおもわず息をのみました。いままでは、できものをつつんで、麝香《じやこう》かなんかでにおいもかくしておりましたが、着物の前をひらきましたので、そのにおいももれて、乳房の下が紫色に大きくはれあがって、うみがでて……そのものすごいこと……さすがの男もひるむとみましたから、お嬢さんもけんめいになって……
「あなた!」
「とほほほほ」
と、目をつぶって、こわごわ前へでる男を力まかせにひいたからたまりません。もろにおできをなめてしまいました。
「むう、むう……」
「なんでございます?」
「むう、むう」
「ああ、お顔をお洗いになるので? ……では、どうぞこちらへおいでになって……」
口をゆすぎおわって、また酒になりました。
「どうも、この、今夜はすっかりおそくなっちまいましたんで、こちらさまへ泊めていただいて……へへへへ……」
「さあ、おあついところをおひとつ……」
「へへへへ……お嬢さまが、お酌してくださるんで……こりゃ、またきれいなお手《てて》で……やわらかくて、すべすべしていて……うふふふ」
「まあ、ちょっとおはなしになって……お酌ができませんから……」
「お酌なんざあ、いつでもできまさあ……今夜はこちらへ泊めていただいて、あなたと、その……へへへへ……」
「まあ、手をおはなしくださいまし」
「手ぐれえ、どうってこたあござんすまい。夫婦になれば、どこもかしこも、みんなあっしのもんになるんでござんすから……」
「あれ、おやめくださいまし。おゆるしを……」
「およしもおゆるしもねえ、お嬢さま、へへへへ……このやわらかい玉の肌を……」
とたんに、ドンドンドンドン……玄関の戸がわれるばかりにたたかれまして、女中がまっ青になってとんでまいりました。
「たいへんでございます。叔父さんがいらっしゃいました」
「叔父さん? なんでござんす、その叔父さんてえのは?」
「いいえ、たいへんな酒乱で、すぐに刃物をふりまわしてあばれます。女ばかりのところへなぜ男がいるんだと、このあいだも、出入りの呉服屋の番頭さんが、あやうく怪我するところでした。あなたもこんなところをみられたら、どうなるかわかりません。すぐに裏口からお逃げになって、また、明日おいでくださいまし」
「そりゃあ、たいへんだ」
「裏のほうへ履物《はきもの》をまわしておきましたから、そちらへどうぞ……ああ、そこにどぶがございますから、お気をつけて……あら、まあ、どぶにおちて、あなた、たいへんなことを……」
「いいえ、もう命にはかえられません」
泡をくった男は、命からがらはだしで逃げ帰りました。
夜があけますと、きょうは、天下晴れて花婿になれるってんで、男は、風呂屋と床屋をかけもちして、すっかりみがきあげると、すっかり上きげんで、
「こう、どうでえ。こうやってめかしこんでいくと、女がなんていうだろうな。『ゆうべは、とんだじゃまがはいりまして申しわけございません』かなんかいうのを、おれがおわりまでいわせないよ。肩をぐっと抱くてえと、このくちびるで、くちびるにふたをするってやつだ……うふふ、たまらねえ」
「どうしたんだろう? あの野郎、ひとりでにやにやしながら歩いてやがら……おう、どうしたい、兄弟!」
「よう……うふふふ……」
「なんでえ、気持ちがわりいな。こんちくしょう」
「だって、おめえ、うふふふ……さる大家《たいけ》のお嬢さまが……うふふ……まあ、いっしょにこいよ」
「なに? お嬢さまがどうしたんだ? はっきりいえやい」
「お嬢さまが、おれをみそめたんだ」
「おや、はっきりいやあがったな。しかし、おめえをみそめるなんざあ、とんだ茶人《ちやじん》じゃねえか。どうせおたふくなんだろう……ええ、おかちめんこだろうな」
「いいや、それがいい女だって……あのくれえいい女はみたことがねえや」
「ふうん、それがどうしておめえと?」
「きのう、おれが芝居にいって、ちょいと口をきいたのがきっかけというやつさ。それから寮まで送って、一ぱいごちそうになって、いざってときになってじゃまがはいったんで、きょうはあらためてお床いりってわけだ」
「ほんとかい? そりゃあ……」
「ほんとだとも……おめえとしゃべりながらきたんで、もう着いちまった。ここだよ、この家だよ」
「だって、おめえ、ぴったりしまって、なんだか空家《あきや》みてえじゃねえか」
「そんなことがあるもんか。きっと戸じめで買い物かなんかにいったんだよ。ちょいと待ちねえ。となりのたばこ屋で聞いてみるから……ええ、こんちわ」
「なんでございますか?」
「おとなりは、どこかへおでかけでござんしょうか?」
「ああ、おとなりは……あなた、お出入りのかたでいらっしゃいますか?」
「へ? まあ、お出入りみてえなもんで……いまきてみましたら、ぴったりとしまっておりますんで、どうしたのかとおもいまして……」
「まあ、お出入りのかたならおはなししますが、まあ、こちらへどうぞ……ふっふっふっ」
「へえ、どういたしましたんで?」
「いいえね、世のなかにはね、ばかな野郎もあるもんだと、ゆうべから笑いつづけなんですがね。というのも、あのお嬢さまのおでき、どんな医者にみせてもなおらない。で、ある易者のいうには、お嬢さんよりも四つ年上の、二十二の男になめてもらえばなおるってんで、そんな男をさがしていた。ところが、きのう、芝居小屋で、二十二の手ごろなばか野郎を生け捕った」
「へええ? へえ」
「ところが、そいつが、色深い上にずうずうしいときているから、のこのこと、ここまでついてきたそうだ。そこで、座敷へ通して、一ぱい飲まして、お嬢さまとさしむかいになったところで、あなたに折りいっておねがいがあるっていったら、その野郎、のりだしゃがって、あなたのためなら命でもなんでもさしあげるっていったそうだ」
「へえ、へえ……」
「そこで、できものをなめる一件を持ちだして、夫婦になろうかなんか持ちかけると、野郎、真《ま》にうけてなめやがった」
「へえ、へえ……」
「すると、野郎、ずうずうしく泊まってゆくかなんかいいだした。泊まっていかれちゃあたいへんだてんで、女中さんがうちへとんできたから、あたしが酒乱の叔父さんの役になって、玄関をドンドンたたくと、野郎、横っとびに逃げだして、おまけにどぶにまでおっこちゃあがった。そのあと、そのばか野郎が、あしたにでもやってきて、かかりあいになっちゃあめんどうだってんで、ゆうべのうちにすっかり荷物をまとめてひっこしたというわけさ」
「へえ……」
「これで、お嬢さまのご病気は、まもなくご全快ってんで、たいそうなおよろこびだが、かわいそうなのは、そのなめたばか野郎よ」
「へえ? いったい、どうなるんで?」
「なにしろひどい毒だ。あれをなめちゃあ七日と生きられめえということだ」
「うーん」
「おや、しょうがねえな。こりゃあ、はなしをしたら、ひっくりけえちゃった。はなしでんかんかな? よわったな、どうも……おい、ちょいとおまえさん、そこに立ってる人、おまえさん、この人のおつれじゃないのかい?」
「つれじゃねえんで、ただ、いっしょにきただけなんで……」
「それじゃあ、やっぱりつれじゃねえか。くだらねえことをいってねえで、はやく、おまえさん、介抱してやっておくれ」
「しょうがねえなあ、どうも……おい、だらしがねえぞ。おい、八公! おい、しっかりしなよ、八公! 八公! おう、いいあんべえに、旦那、気がつきました」
「そりゃあ、よかった。うちになんか薬があるといいんだが、あいにくどうも……よわったなあ……」
「いいえ、薬なら、ちょうどよそへとどける宝丹があるんで……」
「そりゃあいいや、いい気つけ薬を持っていて……はやくのませておやんなさい」
「では、さっそく……さあ、八公、おい、薬だよ。宝丹だ。宝丹をはやくなめなよ」
「ううん、なめるのはこりごりだ」
時そば
むかしは、二八《にはち》そばというものがありまして、十六|文《もん》であきないをしておりました。
なぜ二八そばといったかというと、二八の十六で二八そばだということもいわれておりますし、そば粉が八|分《ぶ》で、うどん粉が二分だから、そこで二八そばといったというかたもおります。
どちらがほんとうかわかりませんが、いずれにしても、最近ではまったくみられなくなった商売で……よしずっぱりの箱の上に屋根がついておりまして、屋根うらに風鈴《ふうりん》がぶらさがっているという……ですから、「親ばかちゃんりん、そば屋の風鈴」ということばがのこっております。
「そばーうーい、そばーうーい」
「おう、そば屋さん、なにができるんだい? え? 花まきにしっぽくか? うん、そうか……じゃあしっぽくをこしらいてくんねえ……うーん、どうもさむいじゃねえか」
「ええ、たいそう冷えこみますなあ」
「どうでえ、商売のほうは? なに? うん、ぱっとしねえか? 運、不運でしかたがねえや。まあ、そのうちにゃあいいこともあるさ。あきねえといって、あきずにやるこった」
「ありがとうございます。お客さんはうまいことをおっしゃいますねえ」
「あははは……ときに、この看板はかわってるな。的に矢があたってあたり屋か……正月早々あたり屋なんざあ、とんだお嬢吉三で、こいつあ春から縁起がいいや……おれはね、そばが大好きだから、この看板みたらまたくるぜ」
「ありがとうございます……ええ、どうもお待ちどおさまで……」
「おう、もうできたかい、ばかに早《はえ》えじゃねえか。こうじゃなくっちゃいけねえや。こちとら江戸っ子だ。気がみじけえから、あつらえもののおせえといらいらしてくらあ。ああ、ありがとう、ありがとう。おや、えらいなあ。おめえんとこじゃあ割り箸《ばし》をつかってるな。うれしいねえ。割ってある箸や塗り箸なんてのは気持ちがわるくっていけねえや。だれがつかったかわからねえんだから……うん、それにいいどんぶりをつかってるねえ。いえ、世辞をいうわけじゃねえが、二八そば屋でこれだけのどんぶりをつかってる店はねえだろうなあ。ものは器《うつわ》で食わせるなんていうがまったくだ。中身がうまそうにみえるぜ。……うん、この汁《つゆ》のぐあいがまたなんともいえねえじゃねえか。かつぶしをおごったな。夜鷹そばの汁なんてものは、むやみに塩っからいのが多いもんだが、これだけの汁はなかなかありゃあしねえぜ。うん、いいそばだ。細くて、腰が強くて、ぽきぽきしてらあ。ふといそばなんか食いたくねえや、めしのかわりにそばを食うんじゃねえからな……うん、いいそばだ……そば屋さん、おめえとはつきあいてえなあ、ちくわを厚く切ったねえ。これでなくっちゃちくわを食ったような気がしねえや。なかなかこう厚く切らねえでうすく切りゃがってね。歯のあいだへはいるとそれでおしまい。まるっきりちくわ食ったような気がしやしねえ。なかには、ちくわ麩でごまかすやつがいるからひでえじゃねえか……うん、うめえ、まったくうめえや。もう一ぱいおかわりといいてえんだが、じつはわきでまずいそばを食っちまったんだ。まあ、おめえんとこで口なおしをやったってわけだ。すまねえが、きょうんところは一ぱいでかんべんしといてくんねえ」
「いいえ、もう結構でございます」
「いくらだい?」
「十六文いただきます」
「小銭だから、まちげえるといけねえや。手をだしてくんねえ。勘定してわたすから……」
「では、これへいただきます」
「いいかい、それ……ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、何どきだい?」
「へえ、九刻《ここのつ》で」
「とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六だ。あばよ」
勘定をはらって、すーっといっちまいました。
これをかげできいておりましたのが、世のなかをついでに生きてるようなぼーっとした男で……
「あの野郎、まあよくしゃべりやがったなあ。あんなにしゃべりまくらなくっちゃあそばが食えねえのかしら……そば屋さん、さむいねえだってやがら……さむかろうと、あつかろうと大きなお世話じゃねえか……どうでえ、商売は? ぱっとしねえか? 運、不運でしかたがねえや。あきねえといってあきずにやるこったっていいやがった。こいつあうまかったな。そば屋だってはげみにならあ……この看板はかわってるねえ。的に矢があたってあたり屋なんざあ、とんだお嬢吉三で、こいつあ春から縁起がいいやだなんて気どりやがって、きざな野郎じゃねえか……そのあともいろんなことをいったな、箸が割り箸で、どんぶりがきれいで、汁かげんがよくって、そばが細くて、ちくわが厚く切ってあって……まるっきり世辞ばっかりつかってやがらあ、銭をはらうのにあんなに世辞をならべることはねえじゃねえか。あんまり世辞ばっかりつかってるから食い逃げするのかとおもったぜ。でも銭ははらったな。いくらだい、なんてねだんを聞いてたな。なにも聞くことはねえじゃねえか。十六文ときまってるのに……小銭だからまちげえるといけねえって勘定してやがったな。子どもじゃあるめえし、十六文ぽっちの銭をまちげえるやつがあるもんか……ひとつ、ふたっつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、なんどきだい? 九刻《ここのつ》で、とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六で、あばよだってやがら……それにしてもおかしなところで時刻《とき》を聞きやがったな。勘定の途中で時刻なんか聞いたらまちげえちゃうじゃねえか。まあ、まちげえりゃあざまがいいんだけど……ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、なんどきだい? 九刻《ここのつ》で、とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六……どうも、ちょいとおかしいぞ……えーと……ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、なんどきだい? 九刻《ここのつ》で、とお、十一……そうれみろ、よけいなことを聞くから、勘定まちげえやがった……ななつ、やっつ、なんどきだい? 九刻で、とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六……あれっ、まちげえるにはまちげえたんだが、すくなくまちげえやがった。ななつ、やっつ、なんどきだい? 九刻《ここのつ》で、とお……うーん、ここで一文ごまかしゃあがった。うまくしくんだもんだ。しかしこいつあおもしれえや、おれもやってみよう」
その晩はあいにくと、持ちあわせがありませんので、そのあくる日、よせばいいのに、こまかいのを用意してそば屋を呼びとめました。
「おい、そば屋さん、なにができるんだい? え? 花まきにしっぽくか? じゃあ、しっぽくひとつこしらえてくんねえ……さむいねえ」
「いえ、今晩はたいそうあったこうございますが……」
「あっそうだ、そうだ。今晩はあったけえや。さむかったのはゆうべだった。ゆうべはさむかったねえ」
「さようでござんしたな」
「どうだい、商売のほうは?」
「ええ、おかげさまでうまくいっております」
「なんだい、いいのかい? ちくしょうめ、あきねえでってのがやれねえじゃねえか……この看板はかわってるな。的に矢が……あれ、あたってねえや、なんだい、丸が書いてあって丸屋か……お嬢吉三がやれやしねえ……いえ、なに、こっちのこと……看板はどうでもいいや……そばさえ早くできれば……早くねえな。あい、まだかい? じれってえなあ。江戸っ子は気がみじけえからとんとんといってもらいてえが……もっともおれは江戸っ子のうちでも気が長えほうだからいいけども……それにしても、まだかい?」
「へえ、お待ちどおさまで……」
「おやえらいなあ、おめえんとこじゃあ割り箸をつかってるな。うれしいねえ。割ってある箸や塗り箸なんてのは気持ちがわるくっていけねえや。だれがつかったかわからねえんだから……そこへいくと、あれ、この箸はもう割ってあるな……まあ、いいや、割る世話がなくって……おめえんとこのどんぶりはいいどんぶりだな。これだけのどんぶりをつかってる店はねえぜ。ものは器で食わせるっていうがまったくだ。中身がうまそうにみえるぜ。器がいいということは……あれ、きたねえどんぶりだねえ、ひびだらけだ。それにまわりがよくもまあこうまんべくなく欠けたもんだ。これなら、どんぶりにも、のこぎりにもつかえるってもんだ。大工はよろこぶぜ。まあ、どんぶりなんざあどうでもいいや。べつにどんぶりを食おうってんじゃねえんだから……おめえんとこじゃあかつぶしおごったな、汁《つゆ》のぐあいが……うーん、塩っからい、湯をうめてくんねえ……こう湯をうめればいいぐあいだ……汁はまあいいとして、そばにとりかかろう……ねえ、ふといそばは食いたくねえね、そばはほそいほうが……おい、これがそばか? ふといねえこれは……まあ、ふといほうがいいや、食いでがあって……こうやって食うと、腰が強くて、ぽきぽきしてねえや……うーん、ぐちゃぐちゃしてらあ、ずいぶんやわらけえそばだね。もっとも、このほうがこなれがいいけどもね……こんどはちくわといくか……おめえんとこじゃあ、ちくわをずいふん厚く……いや、こいつあうすいや、歯のあいだへはいっておしまい、まあ、それにしても麩をつかわねえだけいい……麩なんて病人の食い物だ。麩なんか食いたくねえ……そこへいくと、あれ、本物の麩だ。……まあこのほうが噛む世話がなくっていいや……うーん、もうよそう。おい、いくらだい?」
「へえ、ありがとう存じます。十六文でございます」
「小銭だから、まちげえるといけねえや。手をだしてくんねえ。勘定してわたすから……」
「へえ、これへいただきます」
「じゃあいいかい……ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、いまなんどきだい?」
「へえ、四刻《よつ》で」
「いつつ、むっつ、ななつ、やっつ……」
たらちね
ご夫婦というものは、出雲の神さまが縁むすびをすると申しますが、他人と他人がいっしょになって、血をわけた子どもができるという、こんな深い仲はございません。
親子は一世、夫婦は二世と申しますが、出雲の神さまが、日本中の男女の縁をむすぶのでございますから、ずいぶんといそがしゅうございます。なかには、夜あかししながら、居眠り半分に、三人まとめてむすぶなんてのがあります。こういうのが三角関係になって、じきに夫婦わかれをするようなことになります。しかし、縁は異なものということを申しますが、おもいもかけない者同士が夫婦になるなんてこともございます。
「おい、どうしたんだな。おまえに耳よりのはなしを聞かせようとおもって、よびにやったのに、なにをしていたんだ?」
「へえ、大家さん、どうもおそくなってあいすみません。ちょうどでかけようとするところへ人がきたんで、つい、でそこなっちまって、まことにすみません」
「まあ、こっちへあがんな」
「へえ、なんでございますか? これから仕事にでかけますんで、ひとつ手っとりばやくおはなしねがいたいんで……」
「うん、仕事のじゃまをしちゃあわるいが、まあ、この長屋中に、ひとり者も二、三人あるが、どうもひとりでいるやつはろくなおこないをしねえ。なかにおまえだけは、年はいちばん若いが、ものがきちょうめんで、いうとおかしいが、ひとに満足にあいさつもできないような人間だけれども、まことに竹をわったような、さっくりとした気質《きだて》で、おれもかねてから目をつけていたんだ。むかしからよくいうように、ひとり口は食えないが、ふたり口は食えるというたとえもある。なんといっても、家をやりくりする女房がなくてはならねえ。おまえがいくら堅くっても、ひとりでいてくさくさすれば、たまにはふらふらとつまらねえ女とかかわって、あとでくやむようなこともあるだろう」
「へえ、そういうこともないとはいえません。けれども、女房というやつは、なかなかこちとらみたような貧乏人のところへきてくれやしません」
「ところがある」
「へえ、ありますか? その人は、やっぱり女ですか?」
「あたりまえだよ。むろん女にきまってるさ……むこうの女てえのは、それ、この夏だっけな、家の前へ涼み台がおいてあったら、そこへおまえが湯の帰りに寄って腰をかけた、そのときにいた女をおぼえているか?」
「いいえ」
「もっともうす暗かったが、そのときにむこうでおまえをみて、長いあいだきゅうくつなところへ奉公して、また、嫁にいったさきに舅《しゆうと》や小舅《こじゆうと》があって、いつまでもきゅうくつなおもいをするのはいやだ。気楽にさえくらせるなら、ああいうさっくりした親切そうなかたのところへ嫁にゆきたいとこういうんだが、どうだ、おまえ、もらう気はないか?」
「へへへ、どうもありがとうございますけれども、どんな女の人なんです?」
「きりょうか? きりょうは、まあ、仲人口じゃなくて、十人なみ以上だな」
「え?」
「まあ、いい女だな。色白で、小柄で……」
「へえ、女っぷりはいいんですか? こいつあ、ありがてえな……年齢《とし》は?」
「ばあさんや、あの娘はいくつだったかな? え? 二十五になった? ああ、そうかい。聞いた通りだ」
「二十五? へへへ、脂《あぶら》がのってるな」
「おいおい、さんまみたいにいうんじゃないよ……生まれは京都なんだ。両親は、とうのむかしに亡くなってしまって、長いあいだ、ひとりっきりで屋敷奉公していたんだ。先月こっちへでてきたんだが、どうだ、おまえ、すぐにもらう気はないか?」
「へえ、けれども、まあ、どうにも貧乏で、食うだけがやっとで、着せることもできませんからね」
「その心配にはおよばないよ。着たきりすずめというわけでもない。もっともあるというほどでもなかろうが、それでも、まあ夏冬のものにこまるようなことはない」
「夏冬のものっていうと、行火《あんか》に渋うちわを持ってくるわけじゃねえでしょうね」
「ばかなことをいいなさんな……なにしろ、おまえには過ぎもんだよ。生まれは京都のお屋敷者、きりょうは十人なみ以上、年齢《とし》は二十五だ……うん、そうだ。ただ、ちょっと……まあ、いわばきずがある」
「そうでしょう。どうもはなしがうますぎるとおもった。そんなにいいことずくめの女が、あっしのような者のところへくるはずはありませんもの……きずっていうと、横っ腹にひびがはいってて、水がもるとかなんかいうんですかい?」
「こわれた水がめじゃあるまいし……つまりきずというのはな……」
「わかった。夜なかになると、あんどんの油をなめるという」
「化け猫じゃないよ。ただ、こまるのは、ことばがすこしこまるんだ」
「ことばがぞんざいなんで?」
「そうじゃないよ。もとが京都のお屋敷者だろ、だから、ことばがていねいすぎるんだ」
「へえ、いいじゃありませんか。ことばがぞんざいだからていねいにしろというのはむずかしいですけど、ぞんざいなあっしとつれそってりゃあ、どんなていねいな者でも、じきにぞんざいになっちまいますからかまいませんや」
「そうはいうけど、ちょっとわかんないときがあるんだ」
「わかんねえって、どんなことをいうんです?」
「二、三日前に家へきたから、おれが、まあおあがりと、こういったんだ」
「へえ」
「すると、今朝《こんちよう》は、怒風《どふう》はげしゅうして、小砂眼入《しようしやがんにゆう》すというんだ」
「へえー、たいしたことをいうもんですねえ」
「おまえにわかるか?」
「わかりゃあしませんが、そんなえれえことをいうなあ感心だ」
「わからないで感心するやつがあるもんか。だんだんかんがえてみたら、今朝《けさ》は、ひどい風で、ちいさな砂が眼にはいるという意味なんだ」
「なるほど」
「おれも即答にこまった」
「へえー、石塔にこまったんで? 墓場へでもゆきましたか?」
「石塔じゃないよ。即答、すぐに返事ができなかったということだ。おれもなんにもいわないのはくやしいから、スタンブビョーでございといった」
「なんです、そのスタンブビョーてえのは?」
「ひょいと前の道具屋をみたら、たんすとびょうぶがあったから、これをさかさにして、スタンブビョーといったわけだ」
「へえー、そうですかね。でも、あっしなら、リンシチリトクといいますね」
「なんだい、それは?」
「七輪と徳利をさかさにしたんで……」
「ひとのまねをしなさんな。まあ、そんなことはどうでもいいが、もらう気があるか?」
「大あり名古屋は金のしゃちほこでさあ。おねがいします」
「じゃあ、親類とも相談してくるか?」
「いいえ、親類たってべつにありゃあしません。もうきめました」
「そうかい。それじゃあ、ばあさんや、暦をだしなさい。いい日をみてやるから……うん、あしたがわるくって、あさってもよくないと……よわったなあ、善はいそげといって、はやいほうがいいんだが……」
「大家さん、その暦はいけねえから、となりへいって、べつの暦を借りてきましょうか?」
「暦はどれだっておんなじだ。きょうだと、ばかにいい日なんだがなあ」
「なおいいじゃありませんか。きょうにきめちまいましょう」
「そうかい、おまえがいいっていうんなら、今晩|輿《こし》いれということにするか」
「え? 腰……いれ? そんなけちけちして、腰だけもらってもしょうがありませんや」
「あたりまえだ。西瓜《すいか》じゃあるまいし、だれが半分に切ってくやつがあるもんか。じゃあ、ばあさんや、すぐにむこうへいっとくれ。『都合《つごう》で、今晩、婚礼をします』とな。相手は女だ。いろいろしたくがあるだろうから、すぐに知らせにいっとくれよ。それから八つあん、おまえさんもすぐに帰ってしたくをおしよ。そうだ、となりのばあさんに万事たのむといいや。あれでなかなか親切なんだから……おっと、待ちな、待ちな。これは、すくないけど、あたしのほんの心祝いだ。とっておくれ」
「へえ? あっしに? すみません。やっぱり大家さんは、どっか見どころがあるとおもってました」
「おだてるんじゃないよ。はやく帰って掃除でもして、したくしな」
「へい、じゃあ、遠慮なしにこれはちょうだいします」
「ああ、ばあさん帰ったかい。うん、うん、先方も異存はないか? そうか。よかった、よかった。じゃあ、八つあん、晩方には、おれがつれてくから……」
「へい、よろしくおねがいします。ごめんなさいまし」
「へへへ、ありがてえ、ありがてえ……うれしくなっちゃったなあ。あんなでこぼこ大家でも親切なとこがあるんだな。おれに女房を世話してくれるんだから……ありがてえな。まったくどうも……おう、となりのおばさん、おはよう」
「あらまあ、八つあん、仕事にいったのかとおもったら、おまえさん、どうしたんだい?」
「なーに、長屋におめでたがあるんだ」
「へー、ちっとも知らなかったよ。なんだい、そのおめでたてえのは?」
「お嫁さんが急にくることになったんだ」
「まあ、そうかい、お嫁さんがくるなんてうわさも聞かなかったけど、どこの家へくるのさ?」
「めんぼくねえ……あっしのところへ……」
「えっ、おまえさんのところへかい?! ちっともめんぼくないことなんかあるもんかね」
「へえ、なにしろおめでとうございます」
「あれ、あたしのいうことをいってるよ。そりゃあ、まあ、おめでたいけど、いったいいつくるの?」
「今夜」
「今夜とはたいへんに急だねえ。いままでなんのはなしもなかったのに……どうしたの?」
「なに、それがね、あの人でなけりゃあならねえとこういうんでね」
「およしよ。ばかばかしい」
「ばかばかしいってこたあねえじゃねえか。じつは、大家が仲人でね、とんとんとはなしがきまってね、今夜やってくることになっちまったんだ。生まれが京都のお屋敷者で、きりょうが十人なみ以上……ことばがばかっていねいってえ女がね、おれんとこへやってくるんだよ」
「へえー、そりゃあよかったね。ほんとうにおめでとう」
「ついちゃあ、おばさん、すまねえけれども、家をすこしきれいに掃除してくれねえか。あっしだってね、髪結床へいって、湯にへえって、おめかししてくるから……ああ、それから、婚礼のしたくのほうもなにかとたのまあ。これ、いま、大家さんにもらったんだ。いくらへえってるか知らねえけどよ、これでひとつやっといてくんねえ」
「あらそうかい。これを大家さんがねえ……いいとこあるねえ、あのでこぼこも……あらっ、八つあん、ずいぶんはいってるよ。これで十|分《ぶん》にしたくができるじゃないか」
「そうかい」
「できるどころか、すこしあまるよ」
「えっ? そうかい。そいつあよかった。じゃあ、あまったらそっくりおばさんにあげるから、地所でも買ってくんねえな」
「ああ、ああ、そうさせてもらうよ」
髪結床へゆき、湯にはいり、すっかりみがきあげて帰ってきてみると、ちゃんと掃除ができております。
「おばさん、どうもお世話さま」
「おや、お帰り。まあ、八つあん、すっかりきれいになって……りっぱな花婿さんぶりだよ」
「こりゃあ、すっかりきれいに掃除ができちまった。おばさん、まだ日は暮れねえかしら?」
「ばかをおいいでないよ。いましがたお昼になったばかりじゃないか」
「なんだか知らねえが、たいへん日が長《なげ》えね。はやく暮れねえかな」
「そんなにさわがないでも、すこしぐずぐずしているうちには、じきに暮れがたになるよ」
「日が暮れさえすりゃあやってくるんだ。大家が仲人なんだが、ほんとうに親切な大家だ」
「なんだい、こないだは、不実な大家だの、わからずやだのとわるくいってたくせに……」
「そりゃあそうだけど、こういうことをしてくれりゃあ親切だとおもうんだ。おばさん、火種《ひだね》はあるかい?」
「あるよ。お湯はわいてるだろう?」
「なーに、七輪《しちりん》へ火をおこすんだ……ああ、ありがてえなあ。うふふふ」
「気持ちがわるい笑いかたするんじゃないよ」
「さあ、火種をくんねえ」
「あれ、しょうがないねえ。壁の穴から十能《じゆうのう》をつきだしたりして……壁がだんだんおちてくるじゃないか……それ、あげるよ」
「ああ、ありがとうよ。さてと、こう七輪にいれてと……もっと火をおこさなくっちゃいけねえ……こうやってこのうちわであおいで……なあ、こんなことをするのもきょうかぎりだよ。あしたっからは、女房がちゃーんとやってくれるからなあ……いままでは、仕事がすんで帰ってくると、自分で火をおこしてめしのしたくよ。寝るんだってそうだ。さむいときなんぞは、つめてえ膝をだいて寝たんだけども、これからは、どんなにさむくっても、湯たんぽもこたつもいらねえんだからな。これからは仕事から帰ってくると、ちゃんと入り口へ両手をついて……どんなことをいうだろうなあ……ことばがていねいだっていうから、『お帰りあそばしませ』とくるよ……『ごはんのしたくしときますから、お湯へいってらっしゃいませな』……ひとっ風呂あびて帰ってくると、膳のしたくができてるぜ。膳をまんなかにおいて、八寸を四寸ずつ食う仲のよさ……かかあむこうの、おれこっち……ちくしょうめ、はやくこねえかな……やがて、めしになるね……おれの茶わんは、ばかにでっけえ五郎八茶わんてえやつだ。そいつをふてえ木の箸で、ざっくざっくとかっこむよ。たくあんのこうこをいせいよくばありばりとかじるよ……かかあはちがうよ。朝顔なりの薄手のちっちゃな茶わんで、銀の箸だから、ちんちろりんとくるね。きれいな白い前歯でもって、たくあんをぽりぽりとくらあ。ぽりぽりのさーくさく……さ。ふふふふ……おれのほうは、ざーくざくのばーりばり。かかあのほうは、ぽーりぽりのさくさく、箸が茶わんにぶつかって、ちんちろりんの間《あい》の手がはいるよ。ちんちろりんのぽーりぽりのさーくさく……ばーりばりのざーくざく……ちんちろりんのぽーりぽり……ばーりばりのざっくざく……ちんちろりんのさーくさく……ばーりばりのざーくざく……」
「うるさいねえ。この人は……八つあん、なにいってるんだい?」
「あっ聞えちまったかい。稽古してるんだよ、めしを食う……しかし、ありがてえな、夫婦喧嘩もたまにはいいもんだよ。おれがすこし仕事がおそくなって帰ってくると、『おまえさん、どうしたの? たいへんにおそいじゃないか。なにかほかにお楽しみでもできて、より道をしてきたんだろう』『なにをいやあがる。たとえなにができようと、男のはたらきだ。いやなことをいやあがるな』てんで、いきなりぽかりっとはりたおすと、めそめそ泣くよ。おとなしいから……それがらんぼうなやつだと泣かねえ。『さあ殺せ、こんちくしょう』てんで立ちまわりがはじまり、となりのばばあは耳が近いから、じきにとびだしてきやがって、女だから、きっとかかあのほうの肩を持つよ。そのうちに、むこうのじじいがでてきて、これはこっちの肩を持ってくれるにちげえねえ。けれども、なまじ人がへえると、かえって喧嘩が大きくなる。『さあ殺すなら殺せ』」
「八つあん、どうしたんだね、だれと喧嘩をしてるんだい?」
「あははは、まだ喧嘩にゃあならねえ。稽古中だ」
「喧嘩の稽古なんかおしでないよ」
「おう、おばさん、まだ日が暮れやがらねえかな、いまいましいな……いくらあおいでもこの七輪の火はおこらねえ……あっ、おこらねえわけだ。穴がむこうむきだ。こっちへむけなくっちゃあ……ああ、おばさん、だいぶうすぐらくなってきたね」
「ああ、このせつは、日足のはやいこと、暮れかかったとおもうとじきだよ」
「しめしめ、ありがてえ、ありがてえ、まずあかりをつけて……うん、魚屋はきたし、酒屋はきたし、もうこれで嫁せえくりゃあいいんだ……ああ、ありがてえ。足音がする。きたぞ、きたぞ」
「ごめんくださいまし」
「へえ、おいでなさい」
「ながなが亭主にわずらわれまして、難渋の者でございます。どうぞ一文めぐんでやってくださいまし」
「なにをいやがるんだ。ばかにしていやがる。ながながわずらってたまるけえ、たたきたおすぞこのあまは」
「八つあん、また夫婦喧嘩のお稽古かい?」
「なに、そうじゃねえ。女乞食がきやがって、ながなが亭主にわずらわれってやがる。わずらってたまるもんか。ばかにしてやがる」
「そんならいいけど、ばかばかしい大きな声をおしでないよ。えんぎでもない。お嫁さんがくるんじゃないか」
「それだって、腹がたつじゃねえか。ばかにしてやがる。この裏へあんな者がへえってきやがるなんて……」
「はい、ごめんよ」
「またきやがった。どうしてそういつまでいるんだ、この乞食は……」
「なんだ、乞食だ? なにいってるんだ」
「あっ、こりゃあ大家さんで……へえ、おいでなさいまし。いま、七輪へなにかかけて……」
「まあ、なにもかまわなくていいから……ばあさんがこられないから、嫁さんは、おれだけでつれてきた。それから、うっかりしちまったんだがね、きょう、町内に寄りあいがあることをすっかりわすれてたんだ。うん……でな、むこうへいって、わけをはなして待ってもらったんだが、すぐにいかなくっちゃあならねえ。だから、ほんのさかずきだけしておいて、おれはむこうへいくから……さあさあ、こっちへおはいり。ほかにだれもいやあしないから……遠慮なんかしないでさ。うん、上へおあがり、きょうからおまえさんの家なんだから……おい、八つあん、どうしてうしろをむいてるんだ。こっちへおいで」
「へえ」
「さあさあ、ふたりともこっちへならんで……そうそう……なにをもじもじしてるんだ? ええ? きまりがわりい? きまりがわりいったって、さかずきをはやくしなくっちゃあいけねえ。さあ、いいか。万事略式だ……じゃあ、おれがこれをお納《おさ》めにする。いや、おめでとう。あとは、ゆっくりとふたりでめしにするんだ。長屋の近づきは、あした、うちのばあさんにつれて歩かせるからな。はい、ごめんよ」
「ああ、ちょっと待っておくんなさい……大家さん、すこし待っておくんなさい」
「いや、おれがいつまでいたってしょうがない。また、あしたくるからな」
「あしたったって、そりゃあいけねえ。ねえ、ちょっと大家さん、大家さんてえのに……ああ、いっちまった。しょうがねえなあ。よわっちまったなあこいつあ。どうしていいんだかわかりゃあしねえ。へへへ、こんばんは、おいでなさい……あっ、どうぞそのざぶとんを……ま、遠慮なくしいておくんなさいよ。へへへへ、いろいろと大家さんから、あなたさまのこともうけたまわりまして……へへへへ、まことにふしぎなご縁で……へへへへ、まあ、こんな人間でもなにぶんよろしく末長くおたのみ申します。じつはね、あっしもそそっかしいが、大家さんもそそっかしいんだよ。年齢《とし》は二十五って聞いたんだよ。ところが、かんじんの名前聞くの、うっかりしちゃってね。ついちゃあ、あなたの名前をどうかお聞かせねがいたいんで……」
「みずからの姓名を問いたもうか?」
「へえ、家主は清兵衛と申しますんで、家主の名前は知ってますが、どうかあなたのお名前をひとつ……」
「みずからことの姓名は、父はもと京都の産にして、姓は安藤、名は慶三、あざなを五光。母は千代女と申せしが、三十三歳の折り、ある夜、丹頂の夢をみてはらめるがゆえに、たらちねの胎内をいでしときは、鶴女と申せしが、成長ののち、これをあらため、清女と申しはべるなり」
「へえー。それが名前ですかい? どうもおどろいたなあ。たいへんに長え名前だね。京都の者は気が長えというが、名も長えね。こいつあ、なかなか一度や二度聞いたっておぼえきれねえ。すみませんが、これへひとつ書いておくんなせえ。あっしゃあ、職人のことでむずかしい字が読めねえから、仮名でひとつおたのみ申します。へえ、どうもまことにすみませんでございます……へえ、できましたか、へえ、どうもありがとうございます。ああ、すっかり仮名で書いてある。これならおれにも読めらあ。えー、みずから、あー、みずからことの姓名は……父は、もと京都の産にして、えー、姓は安藤、名は慶三、あざなは五光、母は千代女と申せしが、三十三歳の折り、ある夜、丹頂の夢をみてはらめるがゆえに、たらちねの胎内をいでしときは、鶴女と申せしが、成長ののち、これをあらため、清女と申しはべるなり、チーン、お経だよ、これじゃあ……どうもおどろいたなあ。おれが仕事でおそく帰ってきて、ひとっ風呂あびてこようとおもうときは、おう、その手ぬぐいとってくんねえてえにもたいへんだなあ。父は、もと京都の産にして、姓は安藤、名は慶三、あざなは五光、母は千代女と申せしが、三十三歳の折り、ある夜、丹頂の夢をみてはらめるがゆえに、たらちねの胎内をいでしときは、鶴女と申せしが、成長ののち、これをあらため、清女と申しはべるなり、ちょいとその手ぬぐいをとってくんねえ……湯がおわっちまわあ。おどろいたな、こりゃあ……しかし、まあ、おたげえに習うよりなれろだ。毎日やってるうちにゃあ、どうにかなるだろう。なにしろ寝ることにしようじゃありませんか」
夜なかになって、お嫁さん、なにおもったか、かたちをあらため、ていねいに枕もとに坐って、
「あーら、わが君、あーら、わが君」
「へえ、あっしをよんだんでござんすかい? あらたまってなんでござんす? なにか気にいらねえことでもできたんで?」
「いったん偕老同穴《かいろうどうけつ》のちぎりをむすぶからは、百歳《ももとせ》、千歳《ちとせ》を経るといえども、かならず変ずることなかれ」
「へー、どうもむずかしいことになっちまったなあ。あっしゃあ、職人のことでござんすから、そういう他人行儀のことでなくて、ざっくばらんにもうすこしわかるようにいっておもらい申してえもので……まあ、とにかくもおやすみなさい」
そのまま横になりました。
がらりっと夜があけますと、そこは女のたしなみで、朝、亭主に寝みだれ顔をみせるようなことはありません。はやく起きて、台所へでたんですが、ちっとも勝手がわかりません。そこで、八つあんの寝ている枕もとに両手をついて、
「あーら、わが君、あーら、わが君」
「へい、へい、へい、あーあ、ねむいなあ。もう起きちまったんですかい……いや、もっと寝坊しててもかまわねえのに……え? なんだって? わが君? え? おい、わが君ってえのはおれのことかい? え? このおれが、わが君かい? うわあ、こりゃあおどろいたな。なにか用ですかい?」
「白米《しらげ》のありかはいずれなるや?」
「さあこまった。あっしゃあ、いままでひとり者でも、ずいぶんまめなほうで、洗濯をよくしているから、しらみなんざあ、一ぴきもいねえんで……」
「みずからがたずねる『しらげ』とは、米《よね》のことなり」
「へー、米《よね》を知ってるのかい? おれの友だちの左官屋の米を?」
「それは朋友《ほうゆう》、みずからのたずぬるは白米《はくまい》のこと」
「ああ、米のことかい。そこにみかん箱がある。それが家の米びつだから、どうかよろしいようにおたのみしまさあ」
八つあんは、また、ぐっすり寝こんでしまいます。お嫁さんは、これからごはんをたきまして、おみおつけをこしらえようとしたのですが、あいにくとおみおつけの実がありません。そこは、貧乏長屋の重宝《ちようほう》なところで、八百屋さんがねぎをかついで通りかかりました。
「ねぎやねぎ、岩槻《いわつき》ねぎ……えー、ねぎやねぎ」
「のう、これこれ、門前に市をなす賤《しず》の男《おのこ》、おのこやおのこ」
「へえ、おはようございます。ちょっとかぜをひきまして熱があるもんですから、この布子《ぬのこ》を着てるんでございますが、布子や布子はおそれいりました。ええ、なんでございましょう?」
「そのほうがたずさえたる鮮荷《せんが》のうちの一文字草《ひともじぐさ》、一束価《ひとつかいあたい》何銭文なりや?」
「へえ、たいへんなかみさんだなどうも……へえ、こりゃあ、ねぎってもんでござんすが、これ一束《いちわ》三十二文なんで……」
「なに、三十二文とや、召すや召さぬや、わが君にうかがうあいだ、門の石根にひかえていや」
「へへー……芝居がかりだね。門前は犬のくそだらけだ」
「あーら、わが君、あーら、わが君」
「ああ、ねむいな。また起こすのかい。どうもねむくってしょうがねえ……それからねえ、その『わが君』てえのはやめてくんねえな。友だちがあそびにきたとき、そいつをやられちゃあ、『わが君の八』かなんかあだ名がついちまうから……」
「一文字草、価三十二文なり」
「ああ、三十二文銭がいるのかい。その火鉢のひきだしにあるから、だしてつかってくんねえ。いちいち聞かねえでもかまわねえんだから……すまねえ、もうすこし寝かしてくんねえ」
すっかり食事のしたくができあがりますと、また、ぴたりと両手をついて……
「あーら、わが君、あーら、わが君……」
「おやおや、またはじまった。ねむれやしねえや……しょうがねえなあ。なんべんもなんべんもわが君って、いってえ、こんどはなんの用ですい?」
「もはや日も東天に出現ましまさば、御衣《ぎよい》になって、うがい手洗《ちようず》に身をきよめ、神前仏前にみあかしをささげられ、看経《かんきん》ののち、ごはんめしあがって、しかるべく存じたてまつる、恐惶謹言《きようこうきんげん》」
「おい、おどかしちゃいけないよ。めしを食うのが恐惶謹言なら、酒を飲むのは、よってくだんのごとしか」
もと犬
浅草の蔵前八幡の境内《けいだい》に一ぴきの白犬がおりました。
純白で、よくふとっていてきれいな犬で、だれが飼い主ともきまっておりません。みんながきては、ごちそうを食べさせてくれて、たいそうかわいがられております。
「あーあ、きれいな犬だ。こんどの世にはきっと人間になるだろうよ」
「白や、いいかい、白犬は人間に近いという。おまえは純白だな。一本のさし毛もない。こんどの世には、かならず人間に生まれかわるよ」
と、毎日のようにいわれるもんですから、白犬のほうでもすっかりかんがえこんじまいました。
「あーあ、つまらないもんだ。人にちくしょうといわれて、こうやって、一日《いちんち》人のすてたものを食べて月日をおくっている身の上……どうにもつまらねえもんだ。しかし、みんなにかわいがられて、通る人ごとに、この白は、こんどの世には、人間になる、人間になるというが、一ぺん死ぬんだからなあ……人間になれるなら、こんどの世といわず、この世でどうか三日でもいいから人間になりたいもんだ。なんとか、この世で人間になれる工夫がないかしら……そうだ、この八幡さまはたいそうご利益《りやく》があるってんで、人間がみんなおまいりにくる。人間だって犬だって、ご利益にかわりはあるまい」
というので、これから、この白犬がいっしょうけんめい、三《さ》ン七《しち》、二十一日のあいだ、八幡さまにはだしまいり。まあ、たいてい犬ははだしですけど……さて、満願の朝でございます。妙に生あたたかい風がふいてまいりましたかとおもうと、白犬は急にくらくらっとなって気絶してしまいました。しばらくして、気がついてみますと、からだの毛がすっかりぬけてしまっております。白犬が気づいてみますと人間になっております。
「こりゃあ、人間になってみると、どうもさむくってかなわないな。いままでは、いつでも天然の毛皮の着物を着てたからよかったけれど、人間になってみると、着物という心配がおこってきた。あーあしょうがないなあ。いままでは、食べものにこまれば、そのへんのはきだめをあさりゃあよかったけれど、はきだめをひっかきまわしたって着物がでてくるはずはないし……さて、どうしようかしら」
ひょいとみると、むこうからきたのが、この近くに住んでおります人入れ稼業、まあ、ただいまで申しますと、職業紹介業といったところですが、その上総《かずさ》屋吉兵衛という人がやってまいります。そこで、この吉兵衛さんに事情をうちあけました。
「へー、そうかい。めずらしいこともあるもんだね。白犬は人間に近いとは聞いていたが、この世で人間になったなんて……うーん、じつにどうもおどろいた。あたしも、おまえが犬だったころには、さんざんかわいがってやったんだから、ひとつ、おまえの奉公口をさがしてやろうじゃないか」
「へえ、おねがいいたします」
「ああ、かならずめんどうはみてあげるから、とにかくあたしのうちへおいで、しかしね、うちには家内がいるんだ。その前で、まさか、この人は、今朝、犬から人間になったともいえないし……いったってほんとうにしまいしな……まあ、なんとかあたしがうまくごまかすから、まかせておきなさい」
「へえ」
「それにしても、はだかじゃしょうがないな。うちへいくまで、あたしの羽織を着ていきなさい……さあ、したくができたところででかけよう……あとをついておいで……おいおい、なんだって、よそのうちの門口へ小便なんぞひっかけるんだ。あれっ、こんどは塀にひっかけて……どうしてそんなことをするんだい?」
「ええ、こうしませんと、道にまよいますんで……」
「もう人間になったんだから、そんなことしちゃあいけないよ」
「ただいま、帰りました」
「まあ、お帰んなさい。たいへんにおはやいことで……」
「うん、はやいにも、おそいにも……先方へいってないんだ。ま、あがってゆっくりはなしをするけどね。じつは、途中で、八幡さまの前を通りかかったから、ちょいとおまいりをしようと境内までいくと、あたしをよぶ者がある。ふりかえると、おまえさんとまだいっしょにならない以前、あるかたにお世話になった……そこの若旦那がよんでるんだ。わるいやつにだまされて、まるはだかにされちまった。『これじゃあ、うちへも帰れないから、なんとかかっこうのつくまで、奉公口を世話してもらいたい』というたのみなんで、あたしも若旦那のお父つあんにはご厄介になったことだし、そのご恩がえしのまねごとをしようとおもってな、若旦那をおつれしたようなわけだ。さあ、若旦那、こっちへおあがんなさい。あれっ、そんなとこへ寝そべってちゃいけないな。はやくこっちへおあがんなさい。あっ、そのままあがっちゃいけません! はだしのまんまじゃあ……そこにぞうきんがあるから、それで足をよくふいて……あれっ、ぞうきんをくわえてふりまわしちゃいけないな。ぞうきんを持って足をふかなくっちゃあ……あれっ、また、おかしなかっこうでふいてるなあ。さあ、こっちへいらっしゃい。これが、あたしの家内です」
「知ってます」
「あら、あたし、若旦那とどっかでお逢いしましたかしら?」
「ええ、きのうも台所をのぞいたら、水をぶっかけられました」
「え? あたしが水を?」
「若旦那、あなた、ごじょうだんをおっしゃっちゃいけませんよ。まあ、おまえ、若旦那は、とてもひょうきんなおかただから、ときどきおかしなことをおっしゃるんだ。気にしないほうがいいよ……ところで、若旦那の奉公口だけど、どこかないかな、あまり力仕事はできないし、こまかいことに気のつくほうじゃないから、なるべく気楽なところじゃないと……どうだい、おまえさんに心あたりはないかい?」
「そうですねえ、力仕事をしないで、気楽なおつとめねえ……えー……そうそう、千住のご隠居なんかどうでしょう?」
「えっ、千住のご隠居? こりゃあ、たいそういいところへ気がついた。そうだ、あすこならうってつけだ。隠居の注文がおもしろい。とぼけたひとがいいっていうんだから……かといって、芸人はいやだというんだから、なかなか注文通りの人はいやしないや。しかし、この若旦那ならいいだろう。とぼけていて、ひょうきんだから……」
「ねえ、そうでございましょう」
「若旦那、さっそくでかけましょう。あなたにいい奉公口がありましたから……おい、おまえ、なにしろ着物一枚ないんだから、あたしの着物をだしてあげておくれ。それから、下帯もないんだから、あたらしいさらしを切ってあげなさい……さあ、若旦那、その下帯を……その白い長いきれを……だめ、だめ、あなた、それを首へ巻いたりしちゃあ、しょうがねえな、とぼけちまって……おいおい、みてやんなよ……着物は着られたかい……うん、よし、よし……え? 帯がしまらない? はやくしめてあげなよ……うん、したくができたか。じゃあ、さっそくでかけましょう。若旦那、あなた、一足さきにおもてへでててください」
「あなた、いってらっしゃいまし。ご隠居さまによろしく」
「はい、承知しました……おや、あたしの下駄がでていないよ」
「いいえ、二足そろえてだしてございますが……」
「だってみあたらないよ……あっ、若旦那だ。こまるなどうも……二足とも履いて四つんばいになってるよ。しょうがねえなあ、一足はあたしのだから、こっちへ持ってきてくれなくっちゃあ……え? 四つんばいのほうがなれてるって? だめだなあ、いつまでそんなことをいってちゃあ……ちゃんと二本の足で歩かなくっちゃあ。そうそう、そうやればちゃんと歩けるじゃないか。もう人間になったんだから、人間らしくしなくちゃいけないよ。これからいくところは千住だ。ご隠居さまと、女中のおもとさんのふたり暮らしのおうちでな、ご隠居さまはお足《みあし》がわるくって、あまりおもてへおでかけにならない。だから退屈なすっていらっしゃる。で、まあ、とぼけた人がいてくれたら、退屈もまぎれようというので、そんな人間をさがしていたわけだ。そこへおまえがあらわれた。おまえなら、ご隠居さまもおよろこびになるだろう。なるべくおもとさんの手だすけもして、かわいがってもらうんだよ。おいおい、またやってるね。そうやって小便をひっかけて歩くんじゃないよ。ちょびちょび、ちょびちょびとよくでるねえ……どうせするんなら、共同便所でいっぺんにしなさい。そらっ、いってるうちにまたひっかける」
「ええ、ここは四つ角ですから、道をわすれないために……」
「いいんだよ。そんなことは……しょうがねえなあ、いつまでも犬のくせがぬけなくって……さあ、ここのうちだ。えー、ごめんください。こんちわ……おや、おもとさん、ごきげんよろしゅう……ご隠居さまはご在宅で? あっ、そうですか。では、ひとつおとりつぎねがいます。じゃあ、おまえさん、あたくしは奥へいって、ご隠居さまにおはなししてくるから、ちょいと待っておくれ……ええ、ご隠居さま、上総屋でございます。失礼いたします……ご隠居さまには、いつもお元気で……毎度ありがとうございます」
「はい、ありがとう。まあ、こっちへはいっとくれ……で、どうだい奉公人はみつかったかな?」
「はい、よさそうなのがみつかりましたんでつれてまいりましたが……その……地方の人間だもんでございまして、ことばがときどきわからないことがございますので、その点をおふくみをねがいますんで……」
「え? 地方の人? いなか者かい? そりゃあいいや。いなかのひとは正直でいいからな……どこにいなさる? え? おもてに? おい、おもとや、上総屋さんのおつれのかたに、こちらへはいっていただきなさい。え? なに? 寝ちゃったって? どこへ? 敷居にあごをのせて寝てる? おい、上総屋さん、おまえさん、まさか気ちがいをつれてきたんじゃないだろうね」
「いいえ、けっしてそんなことはございません。あたくしがつれてまいりますから……おいおい、おまえさん、そんなとこへ寝てちゃだめじゃないか。あれっ、なにをみてうめいてるんだ?」
「いえ、なに、あすこで、あの赤犬がいわしのあたまを食べてますんで、いまいましいからかみついてやろうとおもって……」
「いいじゃないか。赤犬がいわしのあたまを食べてたって……さあ、こっちへおいで」
「へい」
「ご隠居さん、つれてまいりました。この男でございます」
「ああ、そうかい。色白で、なかなかいい男じゃないか。まだ若いようだな……ほう、こりゃあかわってるな。きれい好きなのかな? 畳のにおいをかいで、ぐるぐるとまわってから坐ったな。ふーん、かわった坐りかただな……よさそうな人だ。二《に》、三日《さんち》いてごらん。よかったら、それからお給金もきめるから……」
「では、ご隠居さま、よろしくおねがいいたします。てまえはこれで……」
「そうかい、もうお帰りか。おいそがしいところをすまなかったな。ごくろうさま。はい、ごめんなさい……さあ、おまえさん、こっちへおいで……こっちへおいでよ、遠慮なく……うしろをしめなくっちゃいけないな。うしろのふすまをしめるんだ。わからないのかな……こうやってしめる……そうだ、そうだ……あっ、そうか、おまえさん、上総屋になにかいわれてきたね? とぼけろってなことを……とぼけるったって、なにも玄関で寝そべったり、畳のにおいをかいだりしなくってもいいんだよ。ありのままでいてくれればいいんだから……おまえさん、地方の人だそうだが、なんか、おもしろいはなしがあったら聞かしておくれ。地方っていうが、生まれはどこなんだい?」
「浅草の蔵前なんで……」
「じゃあ、東京じゃないか。上総屋のやつ、あたしがかわった奉公人をといったもんだから、うそをついたんだな……で、どのへんだ? 蔵前の?」
「はい、大きな豆腐屋のうしろで生まれちゃったんです」
「そうかい。豆腐屋のうしろのどこなんだい?」
「あの……つきあたりのはきだめのわきで生まれちまったんで……」
「なに? はきだめのわきで生まれた? ……うん、えらい! えらいな、おまえさんは……はきだめのようなところで生まれたと、けんそんしていうところはえらいもんだ。うん、なかなかりこう者だな……で、ご両親はご丈夫かな?」
「え? ご両親てえのはなんです?」
「かわってるな、おまえさんは……ご両親ということばがわからないのかい? ほんとうかい? とぼけてるんじゃあるまいね……おまえさんのおとっつあんは?」
「おとっつあんてなんです?」
「よほどことばがわからないんだねえ……つまり男親のことだよ」
「ああ、雄《おす》ですか」
「雄ってやつがあるもんか。おまえさん、みかけによらず口がわるいね。雄なんていうんじゃないよ……で、どうなんだ? お達者か?」
「それが、どれだかわからないんです」
「どれだかわからない?」
「ええ、表通りの伊勢屋って呉服屋があるんですが、あすこの白がそうじゃないかとおもって……」
「心ぼそいはなしだなあ……おとっつあんがわからないとは……で、女親はどうしてる?」
「雌《めす》のほうですか?」
「なんだい、雌とは」
「雌のほうは、となり町の黒が毛並みがいいって、あとを追っかけていったっきり帰ってこないんで……」
「ふーん、浮気者なんだな。おまえさんのおふくろてえものは……じゃあ、さだめし苦労したろうな。で、ご兄弟は?」
「三びきです」
「なんだい、三びきとは……三人といいなさい……どうだ、みんなお達者かい?」
「一ぴきは、まだ眼のあかないうちにふみつぶされちゃったんです」
「ほう、そりゃあひどい目にあったな」
「もう一ぴきは、むやみに人間にかみつくもんですから、つかまえられて、どっかへつれていかれちまったんです」
「そうか、そりゃあかわいそうなことをしたな。すると、おまえさんは、ほんとうのひとりぼっちというわけだ。そりゃあさびしいだろう……ところで、おまえさん、としはいくつになんなさる?」
「三つです」
「三つ? ああ、二十三か……で、名前はなんというんだい?」
「白っていうんで……」
「ほう、こりゃあきれいな名前だ。白太郎か、四郎吉か、なんていうんだ?」
「ただ、白っていうんです」
「なに、ただ四郎か? いい名前だな……いい名前だが、ちょいとよびにくいな」
「そんなことありませんよ」
「そうかい」
「白、白、白、白こい、白こいって、みんなよびます」
「それじゃあ、まるで犬をよぶようじゃないか。しかし、おもしろい人だ、おまえさんは……まあ、このごろはなにかと物騒だが、おまえさんみたいな若い人にいてもらうと心丈夫だ」
「ええ、あたしは夜はずーっと寝ません」
「いいんだよ、寝たって……」
「寝ずに番をして、泥棒なんかはいってきたら、むこう脛《ずね》へかみついてやります」
「いせいがいいや、そりゃあ……うん、きめた。おもしろいし、いてもらおう、おまえさんに……さあ、お茶でもいれよう……あっ、おまえさんのそばの鉄びんがちんちん煮立ってるから、ちょいとふたをとっといておくれ」
「へえ?」
「いえ、その……ちんちんいってるから、そのふたをとっといておくれ」
「ちんちんですか?」
「そうだよ。ちんちんいってるから、とっとくれよ」
「ちんちんねえ……人間になってまでちんちんするとはおもわなかったなあ。へえ、やります、やります。はい、ちんちん……」
「なんだい、犬みたいなかっこうして……そのちんちんをしろってんじゃないよ……まあいいや、あたしが自分でやるから……そんなにとぼけなくてもいいんだよ……さあ、お茶をいれよう。あたしは焙《ほう》じ茶が好きなんだ。おまえさんのそばにかけてある、その茶焙じをとっとくれ」
「え?」
「その茶焙じをとっとくれよ」
「へ? 茶焙じ?」
「わからないかな? お茶を焙じるものだよ。そこにあるだろう、その焙炉《ほいろ》だよ」
「え?」
「焙炉《ほいろ》!」
「うー、うー、うー」
「なんだい。うなったりして……どうしたんだい、このひとは? あれっ、眼の色がかわってきたな……それをとればいいんだよ、その焙炉《ほいろ》!」
「うー、わんわん!」
「あっ、おどろいた。いやだね。おどかしちゃいけないよ……そこの、その、ほいろ!」
「わんわんわん!」
「こりゃいけない。もういいよ。おまえにはたのまないから……ああ、なんて気味がわるいんだろう……おーい、もとや、もとはいないか? ……おーい、もとはいぬか?」
「はい、今朝ほど人間になりました」
無精床《ぶしようどこ》
むかし、無精床とあだ名をとった床屋がございました。
家のなかは、ごみはたまりほうだい、くもの巣だらけで、親方は居ねむりしてるし、小僧はひっくりかえって大いびきというものすごい床屋で……
「こんちわ、親方、こんちわ!」
「うるせえな。こんちわ、こんちわって、いっぺんいやあわかるじゃねえか。なにか用かい?」
「すぐやってもらいてえんだが……」
「すぐやる? なにを?」
「あたまをやってもらいてえんだ」
「どこへ?」
「どこへって……荷物みてえなことをいいなさんな。あたまをこさえてもらうんだよ」
「あたまをこさえる? そりゃあだめだ。うちは人形つくりじゃねえから、あたまなんかつくれねえ」
「そうじゃねえんだよ。つまり、髪を結《ゆ》いなおして、いい男にしてもらいてえんだ」
「髪を結いなおすほうは商売だからできるけれども、いい男にするってやつはどうもむずかしいや。そのご面相ではね、どうもうけあいかねらあ」
「なんだい、口がわるいなあ。まあいいや、とにかく髪を結ってもらいてえんですがね、やってもらえますかい?」
「おまえさん、客じゃねえのかい? 銭を払うんだろ?」
「そりゃあ払うさ」
「そんならなにもよけいなことをいうことはねえじゃねえか。だまって入ってきて坐れば、こっちは仕事にかかるんだ。それを、あたまをこさえろの、いい男にしろのってむだな口をきくからいけねえんだ。むかしっから、おしゃべりなやつにりこうなやつはいたためしがありゃあしねえ」
「なんだい、まるで叱言《こごと》をいわれにきたようなもんだ。すぐやれるんだね」
「それがよけいだというんだ。おまえさんのほかには客はいねえのがみえねえのかい? おまえさん、あたまだけじゃなくって、目までわりいのかい?」
「ひどいことをいうなよ。じゃあ、さっそくやってもらうとして、髷《まげ》はこのとおりに結ってもらいてえんだ」
「そりゃあ無理だ。このとおりってわけにはいかねえ」
「だめかい?」
「ああだめだね。結いなおすからきれいになっちまう」
「あたりめえだよ。つまりこういうかたちに結ってくれっていうんだ」
「そんなことは、しろうとが、いちいち指図しなくても、まかせとけばいいんだ」
「ふっ、また叱言かい、たまらねえなあ」
「さあ、はじめるから、あたまをこっちへよこしな。うーん、こりゃあ、あたまの手入れがわりいな。こんなふうにあたまがくせえようじゃ女はできねえよ」
「大きなお世話だよ、そんなこたあ……親方、ちょいとそこにわいてるやかんをとってくんねえ」
「やかんがわいてる? そりゃあちがうだろ、やかんのなかの水が湯にわいてるんだ。やかんがわくわけはねえ」
「なんだい、うっかり口もきけやしねえ……じゃあ、そのやかんをとってくんねえ」
「弁当でもつかうのか?」
「床屋へ弁当持ってくるやつがあるもんかな。あたまをしめすんだ」
「あたまをしめす? そいつあいけねえ。むかしから頭寒足熱といって、あたまは冷やさなくっちゃあいけねえ。水でしめしな」
「水で?」
「そうだ。おまえさんの前にあるだろ」
「水が? おれの前に? ……この桶の、この水かい?」
「そうだよ」
「きたねえな、この水は……」
「ああ」
「うけあってちゃいけねえな。ずいぶん古そうな水だね」
「うん、かなり古いな」
「いつ汲んだんだい?」
「べつに汲んだんじゃあなかったなあ」
「汲んだんじゃない? どうしたんだ」
「屋根がもるもんだから、ひとりでに雨水がたまったんだ」
「おいおい、雨水かい、じょうだんじゃねえぜ。それに、なかで赤いものがちらちらしてるとおもったら、ぼうふらじゃねえか」
「ああ、ぼうふらが大分ふえたようだ。こないだおたまじゃくしがいたんだが、足がはえて、みんなとんでっちまった」
「おい、じょうだんじゃねえや。こんな水であたまがしめせるもんかい。そこに寝てる小僧をおこして水を汲みにやってくれ」
「そりゃあこまるんだ。なにしろ、こいつは、それでなくても、とてつもねえ大めし食らいなんだから、水汲みなんて力仕事をさせたらどのくらい食うか底が知れやしねえ。おまえさん、そんなにあたらしい水がほしいのかい?」
「そりゃあそうだよ」
「じゃあね、そこにある手桶を持って……そうさな、この二丁ばかり先へいくと、大きな豆腐屋がある。そこの水はいい水だから、そいつを汲んでくるといいや」
「ばかもやすみやすみいうもんだ。あたまをしめすために、だれが二丁も先へ水を汲みにいくやつがあるもんか」
「そんならだまってその水でがまんしてやりなよ」
「だって、ぼうふらがわいてるじゃねえか」
「大丈夫だよ。うちのぼうふらはたちがいいんだから、食いついたりしねえ」
「そりゃあ食いつきゃあしねえだろうが、気味がわりいじゃねえか」
「その点は心配いらねえ。そこにひしゃくがあるだろ、それで桶のふちを二、三べんトントンとたたいてごらん。ぼうふらがすうーっと下のほうへいっちまうから、そのすきをうかがって上のほうの水でしめすんだ」
「ぼうふらのすきをうかがうのかい。こいつあおどろいた。じゃあ、やってみようか。このひしゃくで……トントンと……ああ、なるほど、すーっと下のほうへいっちまわあ。感心なもんだ」
「そうだろ。そこまでしこむにはなかなか骨を折った」
「骨折ってぼうふらをしこむやつもねえもんだ。あれ、みんな上のほうに浮いてきちまった。また、たたいてみようか……トントントン……あははは、下のほうへいっちまった」
「おいおい、よろこんでぼうふらとあすんでちゃいけねえ。ぼうふらがしずんだところで水をすくってあたまをしめすんだ」
「そうだった。あたまをしめすんだっけ……もう一度ひしゃくでたたいて……そーれ、トントントン……あ、しずんだ。しずんだ。いまの間に水をすくってと……おおくせえ、ひどいにおいだねどうも……じゃあ、しめしたよ」
「しめしたらそこへ腰をかけるんだ……おいおい奴《やつこ》、おきろおきろ、仕事だ。しょうがねえ小僧だな。のべつ寝てやがら……おいおい奴……あれ、この小僧は寝ぼけやがって、膳箱をだしてどうするんだよ。目をさましさえすりゃあめしを食うもんだとおもってやがる。めしじゃねえ、客だ、客だ。たまには生きものをやってみろい」
「おいおい、親方待ってくれよ。なんだい、その生きものをやってみろてえのは? ……あたまは親方がやってくれるんだろ?」
「ええ、あっしもやりますがね……下剃《したず》りだけは、この小僧にやらしてやってくださいよ。家へ奉公にきて三年になるんだが、まだ生きた客のあたまへつかまったことがねえんだ。かみそりを持って、ほうろくの尻《けつ》をガリガリやりながら稽古するんだが、やっぱりほんもののあたまでなくっちゃあ腕はあがらねえんだ。そこへいくと、おまえさんのあたまは大ぶりだから、稽古にはもってこいというもんだ」
「おかしなことをいうない、稽古あたまだなんて……おいおい、大丈夫かい、小僧さん、また、おそろしく高《たけ》え足駄をはいてるなあ、ころぶんじゃないよ。なにしろ刃物を持ってるんだからな。うまくやっとくれよ。いいかい、いたくねえようにな。たのむよ。いいかい、いたくねえようにだよ……そうだ、うん……うまい……いたくねえや……うん、親方がうるせえだけあって仕事はしっかりしてらあ。ちっともいたくねえぜ。これじゃあやってるかやってねえかわからねえぐれえだ。え? なに? まだやってねえ。そうかい。道理でいたくねえとおもった。じゃあ、はじめるかい……いてえ、いてえ……おういてえ。かみそりでやってるんだろな。まさか毛抜きで抜いてるんじゃねえんだろ。もうすこしいたくねえようにやってくれなけりゃあこまるぜ……あっ、いてえ! いててて」
「このばか野郎、しっかりやらなくっちゃだめじゃねえか。ぶるぶるふるえたりしてたらいい仕事はできねえぞ。いいか、客のあたまだとおもうからふるえるんだ。かまうこたあねえから、ほうろくの尻《けつ》だとおもってガリガリやれ」
「おいおい親方、らんぼうなことをいっちゃいけねえやな。この上ガリガリやられてたまるもんか。どうにもいたくってやりきれねえから、親方がやってくんねえ」
「ちえっ、しょうがねえなあ。たまに仕事をやらせようとすりゃあこれだ。だからいつまでたってもうまくならねえんじゃねえか。こっちへかみそり貸してみろい。あれっ、こんなものでやってやがら、あきれた野郎だ。こんなもので切れるわけがねえ。こりゃああがっちまったかみそりじゃねえか。さっきこれで足駄の歯をけずってたろう」
「おいおい、ひどいことをするじゃねえか。足駄の歯をけずったやつであたまをやられちゃたまったもんじゃねえ」
「お客さん、小僧のやったことだ。まあ気をわるくしねえでおくんなせえ。おい奴、よくみてろよ。仕事というものは気を大きく持ってやらなくっちゃいけねえ。いいか、ひとのあたまだ。すこしぐれえ切ったってかまわねえって気でやらなくっちゃあいけねえぞ。てめえなんか、ぶるぶるふるえながらやってるから、ろくなこたあできゃしねえ。いいか、みてろよ。だいたいあたまというものは……あれ、こりゃあひどいあたまだ。大きくてやりいいとおもったら、地がぶくぶくしてらあ。いいか奴、こういうのは、こんにゃくあたまといって、めったにねえどじなあたまでやりにくいんだ」
「なんだい親方、人のあたまをどじだなんて……」
「こういうあたまも修行だ。いいか、かみそりをてめえは、立てるからいけねえんだ。立てりゃあ、どうしたって、こうバリバリとひっかからあ」
「いてえ、いてえじゃねえか。おれのあたまで稽古されちゃあたまらねえや」
「お客さん、おまえさんも、いてえ、いてえってうるせえね。人間辛抱ができねえようじゃ出世はできねえぜ。いくさへいったつもりで命がけでがんばるんだ」
「床屋へきて命がけになんかなれるもんか。もうすこしいたくねえようにやってくれよ」
「わかった、わかった。もうすこしの辛抱だよ……おい奴、どこみてるんだ。いいか、こっちをみてろ。こうやって、かみそりを寝かしてな、こうすーっと……おい、どこみてるんだ。なに? おもてに角兵衛獅子がきましたって? なにがきたっていいじゃねえか。こっちをみろってんだ。このばか野郎、まだおもてをみてやがる。それ、おれの手元をみろってんだ。おもてじゃねえ。おれの手元だってのに……こっちをみろい」
「いててて、ああいてえ。いやだよもう……おれやめたよ。親方、小僧に叱言をいっといて、おれのあたまをなぐるのはひでえじゃねえか」
「すみません、どうも……あの野郎、いくらいってもおもてばかりみてるから、はりたおしてやろうとおもったけど、手がとどかねえから、おまえさんのあたまで間にあわした」
「じょうだんいうなよ。いたくってたまらねえじゃねえか。あれあれ、血が流れてきたぜ。親方、おめえ切ったな」
「どれどれ……血が流れた? ……おおやった、やった」
「とほほほ、情けねえことになっちまった。どのぐれえ切ったい?」
「なあに泣くほどのこたあねえ。安心しなさい。縫うほどのこたあねえから」
芝 浜
酒は百薬の長なんてことを申しますが、飲みすぎるとよいことはございません。からだをこわす、商売をおろそかにするということになったりしますからな。しかし、お好きなかたというものは、どうもこのところからだのぐあいがわるいから、もう酒をやめてしまおうなんておもっても、なかなかやめられるもんじゃありません。三日坊主で、すぐ飲んでしまいます。こんなことじゃあしょうがないから、神さまへ断《た》っちまおうてんで、願をかけて、「やれ、これで安心だ」なんておもってますと、すぐに飲み友だちがさそいにきます。
「なに? 酒を断《た》った? つまらねえことをするじゃねえか。好きなものをいきなり断つてえことは、からだによくねえぜ。なんだって? 神さまに願をかけて、むこう一年断ったって? おめえもばかなことをしたもんじゃねえか。しかしまあ、断っちまったんだからしょうがねえや。じゃあ、こうしなよ。もう一年のばして、二年断つということにして、晩酌だけやらしてもらったらどうだ?」
「うん、そりゃあいいなあ。いっそのこと三年にのばして、朝晩飲もうか」
なんてんで、なんにもなりゃあしません。
ただいまでは、東京の魚河岸といえば築地でございますが、むかしは日本橋にございました。そのほか、芝浜にも魚河岸がありまして、こちらのほうは、江戸前の、いきな小魚《こうお》をあつかっていたんだそうで……
そのころ、芝の金杉に住んでいた魚屋の金さん。腕のいい魚屋で、ほかに道楽はないのですが、酒を飲むと商売をなまけるのが玉にきず。いつも貧乏でぴーぴーしております。
「ねえ、おまえさん、おまえさんてば……」
「おっ、おう……なんだよ。人がいい気持ちで寝てるのに、むやみにおこすなよ……あーあ、ねむいじゃねえか……なんだい?」
「なんだいじゃないよ。はやくおきて魚河岸《かし》へいっとくれよ」
「魚河岸へいけってのか?」
「そうだよ。もう、おまえさん、十日も商売をやすんでるんじゃないか。歳末も近いってえのにどうするつもりなんだい?」
「わかってるよ。おめえがなにも鼻の穴あひろげて、歳末が近いっていわなくったって……うちだけが歳末が近《ちけ》えわけじゃねえや」
「なにをのんきなこといってるのさ。はやくおでかけよ」
「おでかけよったって、十日もやすんでたんだ。盤台《はんだい》がしょうがあるめえ」
「そこにぬかりはあるもんかね。ちゃんと糸底へ水がはってあるから、いつでもつかえるよ」
「庖丁はどうなってるい?」
「おまえさん、あれには感心したよ。ちゃーんと研《と》いで、そばがらのなかへつっこんどいたじゃないか」
「ふーん……わらじは?」
「そこにでてるよ……さあ、いっとくれ」
「ああ、いくよ、いきゃあいいんじゃねえか」
「さあさあ、そんないやな顔をしないでさ……わらじがあたらしくって気持ちがいいだろ?」
「よくないよ……気持ちがいいってえのは、好きな酒飲んで、ゆっくり朝寝してるときをいうんだ。荒物屋の亭主じゃあるめえし、わらじがあたらしくって気持ちがいいもんか」
「そんな皮肉いわずにいっとくれよ」
「あー、いってくるよ……うー、さむい、さむい。眠む気なんかすっかりさめちまった。しかし、魚屋なんてつまらねえ商売だなあ。みんないい気持ちで寝てるってのに、こうやって天びんかついでいかなくっちゃならねえんだからな……まあ、そうかといって、世間さまとつきあっていっしょに寝ていたんじゃあ、こちとらあ、めしの食いあげになっちまうし……あれっ、いやにうすっ暗《くれ》えなあ……おまけに問屋は一軒もおきてねえし、どうしたんだろうなあ? 問屋がやすみじゃあしょうがねえじゃねえか……それにしても暗えなあ……あっ、鐘がなってやがる……ふーん、魚河岸へきて鐘の音を聞くのもひさしぶりだなあ……あれっ、暗えわけだ。かかあのやつ、そそっかしいじゃねえか。時刻《とき》をまちがえてはやくおこしゃがったんだな。なんてやつだ。しゃくにさわるじゃねえか……まあ、しょうがねえや。浜へでて、つらでもあらうとしようか。そのうちにゃあ、問屋もおきるだろう……あーあ、ひさしぶりだなあ、磯の香りてえやつだ。いい気持ちだなあ……どれ、顔でもあらうとしようか」
金さん、ひさしぶりの浜をなつかしそうにぶらぶらやってきますと、なにか足にひっかかるものがあります。
「なんだろう……あれっ、財布だ。革にゃあちげえねえが、なんてまあきたねえ……それにしてもおもてえなあ……なかはどうなってるんだろう……あっ、金《かね》、こりゃあ、たいへんだ」
金さん、あわてて財布を腹がけのなかへつっこむと、うちへとんで帰ってきました。
「おい、あけてくれ、あけてくれ」
「はい、あけます、いまあけますから……ごめんよ。おまえさん、まちがえてはやくおこしちゃって……あらっ、どうしたの? まっ青になってとびこんできて……喧嘩でもしたのかい?」
「そんなんじゃねえんだ。いま、浜で財布をひろっちまったんだ。なかをみると、金がいっぺえへえってるじゃねえか。もう、おらあおどろいちまって……」
「えっ、お金を? あらっ、小判だよ。ほんとうに……いったいいくらはいってるんだい? あら、あら、あら、あらっ、五十両も……」
「これだけ金がありゃあ、もう好きな酒飲んで、あそんでくらしていけらあ。こうなりゃあ、辰公、八公、寅んべえ、みんなよんできて祝い酒といこうじゃねえか。いま朝湯へいった帰りに声かけてくるから、なんかみつくろっといてくれよ」
金さんは、大よろこびで、さっそく友だちをよんできて、飲めや唄えの大さわぎのあげくに酔いつぶれて寝てしまいました。
「おまえさん、おまえさんてば……」
「あっ、あー、なんだ?」
「なんだじゃないよ。いつまでそんなところでうたた寝してたらかぜひいちまうよ。あしたの朝はやいんだから、ちゃんとふとんにはいっておやすみよ」
「なんだと? あしたの朝? 商売か? じょうだんいうねえ。商売なんかおかしくって……」
「なにいってるんだよ。商売にいかないでどうするのさ? きょうの飲み食いの勘定だって払えやしないじゃないか」
「そんなものは、あの五十両で払えばいいじゃねえか」
「えっ、なんだい? 五十両? どこにそんなお金があるのさ?」
「おいおい、しっかりしろよ。おめえ、起きてて寝ぼけちゃいけねえよ。けさ、おれが芝の浜でひろってきた五十両があるじゃねえか」
「なにいってるんだよ。おまえさん、けさ、芝の浜なんぞにいきゃあしないじゃないか」
「なんだと? おれが芝の浜へいかねえ? そんなことがあるもんか、おめえがむりやりおこしたから、おれが芝の浜へいったんじゃねえか。そうしたら、時刻をまちげえておこしたもんだから、まだ問屋もあいちゃあいねえ。しかたがねえから、おれが浜をぶらぶらしてるうちに革の財布をひろって、それをおめえにわたしたじゃねえか」
「そうかい、そうだったのかい。それでやっとわかったよ。おまえさんがおきたら聞いてみようとおもってたんだけど、そんな夢をみたもんだから、それであんなさわぎをしたんだね……情けないねえ、おまえさんてえ人は……いくら貧乏したからって、お金をひろう夢をみるなんて……」
「えっ、夢だって?」
「そうさ、夢にきまってるじゃないか。うちのなかみまわしてごらんよ。なにひとつ道具なんかありゃあしないじゃないか。このあいだの辰つあんのいいぐさ聞いたかい? 『おたくは、なまじ道具がねえだけに、座敷がひろくつかえてよござんすね。ほかのうちとちがって、六畳が六畳のまんまつかえるから、じつにたいしたもんで……』だってさ。はずかしいったらありゃあしない。五十両も六十両ものお金があれば、そんなおかしなこといわれるもんかね……けさのおまえさんはなんだい。人がいっしょうけんめいにおこしてるのに、とうとうおきもしないでさ。お昼ごろになって、ようやくおきたとおもったら、すぐにお湯へいっちまって、帰りに、辰つあんや八つあんや寅さんたちをひっぱってきて、なにがうれしいんだか知らないけども、めでたい、めでたいってんで、酒だ、うなぎだ、てんぷらだと、飲めや唄えの大さわぎじゃないか。あたしゃ気でもちがったんじゃないかと心配してたんだよ。大さわぎのあげく、おまえさん、ぐでんぐでんに酔っぱらって寝てしまってさ。いつ河岸へいったっていうんだい?」
「ほんとうに夢なのかい? ずいぶんはっきりした夢だなあ……どうも夢とはおもえねえんだが……」
「おまえさん、あたしをうたぐるのかい?」
「いや、うたぐるってえわけじゃねえが……夢かなあ? ……うん、そうかも知れねえ、そういわれてみりゃあ、おらあ、ちいせえときから、ときどきはっきりした夢をみるくせがあったっけ……するとなにか? 財布をひろったのは夢で、飲んだり食ったりしたのはほんものか? へー、えれえ夢みちゃったなあ……歳末も近えってのに、とんだことをしちゃったもんだ。それにしても、金ひろった夢みるなんて、われながら情けねえや。これというのも酒がわりいんだ。もう酒はやめるぜ。これからは、商《あきね》えに精をだすぜ。金なんてひろうもんじゃねえ。てめえでかせぎだすもんだ。おらあすっかり目がさめたぜ」
それからというものは、好きな酒もぴったりやめた金さんが、朝も早くから河岸へゆきまして、いい魚をしいれてきては、お得意さまへ持っていきます。もともと腕のいい金さんが、よりによっていい魚を仕入れてくるのですから、お得意さまはふえるばかりです。
三年たつか、たたないうちに、裏長屋住まいの棒手《ぼて》ふりの魚屋が、どうにかこうにか、おもて通りに、ちいさいながらも魚屋の店をだすことができました。
ちょうど三年めの大晦日の晩……
「なあ、おっかあ、かたづけものがすんだんなら、こっちへこいよ」
「あいよ。ようやくすんだところさ。いまいくよ」
「ああ、いい心持ちだなあ。こうやって畳をとりけえた座敷で正月をむかえられるなんて……むかしっからよくいうじゃねえか。畳のあたらしいのと、かかあのあたらしいのは……いや、かかあの古いのはいいなあ」
「おまえさん、へんなお世辞なんかいわなくてもいいよ」
「いや、みんなおめえのはたらきだぜ……ああ、いい心持ちだ……もう一軒も勘定をとりにくるところはねえって? へー、ほんとうかい? 借金とりのこねえ大晦日なんてうそみてえじゃねえか……以前は、大晦日といやあ、死ぬ苦しみだったからなあ……あれは、たしか三、四年前の大晦日だった。どうにもやりくりがつかなくなっちまって、おれが死んだふりをしたことがあったっけ……」
「そうそう、あんな冷や汗をかいたことはありゃあしない。おまえさんが、大きな棺桶かついできて、おれがこのなかへはいって死んだふりをするから、おまえが涙こぼしていいわけをしろってんだろ。もうばかばかしいけど、やらなきゃしょうがないっていうから、でもしない涙を無理にだしたりして、うちの人が急になくなりましたっていうと、借金とりはみんなあきらめて帰ってくれたけど、そのうちに、大家さんがお香奠《こうでん》を持ってきてくれたときは、もうどうしようかとおもったよ。だって、あしたになれば生きかえることはわかってるのに、うけとれるものかねえ。いいえ、結構です。せっかく持ってきたんだからおとりと、押し問答してたら、『せっかくのおぼしめしだからいただいとけ』って、おまえさん、棺桶のなかからどなったろう。大家さんがおどろくまいことか、きゃっといって、はだしで逃げだしちまったじゃないか」
「あっははは、春になって、大家さんとこへあやまりにいったけど、あんなきまりのわりいとおもったこたあなかったぜ。まあ、それもいまになってみりゃあ笑いのたねだけどよ……おう、茶を一ぺえくんねえ」
「ほら、いまちょうど除夜の鐘が鳴りはじめたよ」
「ああ、なるほど……」
「さあ、福茶がはいったから、おあがんなさいな」
「福茶か……ひさしく飲まねえから、味もなにもわすれちまったなあ……縁起物だ、いただくとしようか……うーん、これが福茶の味か……」
「ねえ、きょうは、おまえさんに、みてもらいたいものもあるし、聞いてもらいたいはなしもあるんだけれど……」
「なんだって? みてもらいてえものがあって、聞いてもらいてえはなしがあるだと?」
「そう……そいでね、あたしのはなしがすむまでは、どんなことがあってもらんぼうなことはしないって、おまえさん、約束しておくれよ」
「まあ、なんだかわからねえが、約束しようじゃねえか」
「そうかい、ほんとうだね」
「ああ」
「じゃあ、これをみとくれ」
「おやっ、財布じゃねえか、きたねえけど、革の財布だな。なんだい、こいつあ?」
「なかに小判で五十両はいってるよ……ねえ、おまえさん、その革の財布と中身の五十両に心あたりはないかい?」
「そういわれてみりゃあ、三年ばかり前、芝の浜で、革の財布に五十両へえってるのをひろった夢をみたことがあったっけ」
「それは夢じゃないんだよ。ほんとうにひろったんだよ」
「なんだと? こんちくしょうめ!」
「どうするのさ? 手なんかふりあげて……はなしのすむまでらんぼうしない約束だろう?」
「まあ、そうだ」
「あたしゃあ、あのときはどうしようかとおもったんだよ。だって、おまえさんは、あしたっから商いなんかしないで、酒を飲んであそんでくらすっていうんじゃないか。こりゃあこまったことだと、おまえさんが酔いつぶれたのをさいわいに、大家さんに相談にいったんだよ。すると、大家さんのいうには、『ひろった金なんぞつかえば、金公の手がうしろへまわっちまう。すぐにおれがお上《かみ》へとどけてやるから、夢だということにして、おまえは金公をごまかせ』ってんだろ。いわれた通り、夢だ、夢だっておしつけたら、おまえさん、人がいいもんだから、あたしのいうことをすっかりほんとうだとおもって、好きなお酒もぷっつりやめて、いっしょうけんめい商いに精をだしてくれるじゃないか。そのおかげでこうして店の一軒も持つことができるようになったんだけど……おまえさんが、雪の朝なんぞに、買いだしにいくときには、あたしゃ、そっと手をあわせて、いつもおまえさんにあやまっていたんだよ……このお金も、落とし主がないからって、かなり前にお上からさがってきたんだけど、これをみせて、おまえさんがもとのなまけ者にもどっちゃあたいへんだとおもって、あたしゃ、心を鬼にしていままでかくしてきたんだよ。でも、もう店もこれだけになったんだし、おまえさんにもすこしは楽をしてもらおうとおもって、おわびかたがた、このお金をだしたのさ。ねえ、おまえさん、さだめし腹が立つだろうねえ、自分の女房にずっとうそをつかれていて……どうか気のすむまで、あたしをぶつなと、蹴るなとしておくれ。さあ、おまえさん、おもいきってやっとくれ」
「おうおう、待ってくれ。どうして、どうして、なぐるどころのはなしじゃねえや。そんなことをしたら、おれの手がまがっちまわあ。えれえや、おめえは、まったくえれえ。あのとき、あの金をそのまま持ってりゃあ、たしかにおれは、飲んだり、食ったり、ぶらぶらしていて、またたくまにつかい果たしちまったろう。あげくの果ては乞食にまで身をおとしてたかも知れやしねえ……また、そうならなかったとしたら、大家さんのいうように、手がうしろにまわって、わるくしたら打ち首だったかも知れねえぜ……そのおれが、こうして気楽に正月をむかえることができるというのも、おっかあ、みんなおめえのおかげじゃねえか。おらあ、あらためて礼をいうぜ。この通りだ。ありがとう」
「まあ、なにさ、おまえさん、女房のあたしに手をついたりして……じゃあ、ほんとうにあたしをゆるしてくれるんだね?」
「ゆるすもゆるさねえも……おれは、こうやって、おめえに礼をいってるんじゃねえか」
「そうかい……あたしゃうれしいよ。もう、きょうは、おまえさんにうんとおこられるだろうとおもってたから、きげんなおしに、ひさしぶりに一ぱい飲んでもらおうとおもって用意しといたんだよ。さあ、もうお燗《かん》もついてるから……」
「えっ、酒かい? お燗がついてる? そうかい、どうもどっかでいいにおいがしてるとおもってたら……そうだったのかい……」
「こんなものをこしらえといたんだけど、どうだい?」
「ああ、やっぱり、かかあは古くなくっちゃいけねえなあ。ずいぶん長《なげ》えこと飲まねえのに、よくおれの好きなものをおぼえていてくれたなあ……うん、ありがてえ、ありがてえ……じゃあ、おことばに甘えて、ひさしぶりに一ぱいやらせてもらおうか……おっと、そうときまりゃあ、大きなものについでもらおうじゃねえか。この湯飲みにたのまあ……おっとっとっと……なつかしいなあ、おい、お酒どの、しばらくだったなあ、よくまあご無事で、おかわりもなく……あはははは……ああ、においをかいだだけでも千両の値打ちがあるなあ、たまらねえやどうも……だが、待てよ……」
「どうしたの?」
「よそう、また夢になるといけねえ」
解 説
うそつき弥次郎
別名を「弥次郎」「革衣」などともいう。罪のない滑稽噺《こつけいばなし》で、あたらしいくすぐりをいくらでもいれることができるので、演者の工夫ひとつでおもしろく改作できる。
うそつきの噺では、現在は、この「弥次郎」がポピュラーだが、神田の千三つといわれるうそつき男が、向島の須崎のさきのうそつき村の鉄砲矢八といううそつき男のところへうそくらべにゆく「うそつき村」のほうがはるかに古い噺だった。
かつぎや
別名を「正月|丁稚《でつち》」「かつぎや五兵衛」ともいう。
人間の極端な性癖をえがく噺の一種だが、「しわいや」ほど誇張されていないので、現実感もあるといえる。おまけに、若水を汲んだり、年始帳をつけたり、宝船売りがきたりと、江戸時代の商家の正月気分をつたえる噺として、風俗史的に貴重な資料でもある。
最後に、宝船について説明しておこう。
江戸時代には、元日と二日の宵に、七福神の乗っている宝船の一枚刷りの絵を、縁起物として売りあるく習慣があった。それは、二日の夜にみる夢を初夢といったので、この絵を枕の下にしいて寝て、よい初夢をみようというアイディアだった。
明烏
新内「明烏夢泡雪《あけがらすゆめのあわゆき》」や人情噺「明烏後正夢《あけがらすのちのまさゆめ》」の発端を落語化した廓噺《くるわばなし》の代表作。
商人としての社交もできない若旦那の軟化をたくらむいきな父親のアイディアと、それを実行にうつす源兵衛と多助の活躍によって噺が展開されるが、それが、堅い梅のつぼみもほころびる初午の季節を背景に、堅い時次郎の青春も花ひらくという筋立てのために、たくまざる色気があふれている。人生と季節感が効果的に交錯した佳篇といえる。
亡き八代目桂文楽によって、艶と品位をそなえるにいたったこの廓噺も、もとはかなり官能的な演出もあったらしいことは、明治二十五年五月の雑誌「百花園」所収の春風亭柳枝の速記からも想像される。その夜の場面は、
「若旦那、勘忍してくんなましよ」年齢《とし》はとらなくっても、そこは多くの客を取扱う遊女のことでございますから、襠《しかけ》をとりまして、朱の長襦袢にて掻巻《かいまき》のなかへいきなりはいって、時次郎の首へ手をかけてひきよせました(中略)白粉と麝香《じやこう》の臭《にお》いでプーンとした(中略)初対面に裸になりまして、床のなかへはいってまいりますから、無礼でございましょう……でもまんざら憎くないそうで、嫌も応もない。時次郎、木の股から生まれた人間でございませんから、そのままグニャグニャとなりまして、そのあとは柳枝も存じません。
と嫌味な演出だし、朝、床をでない時次郎が「おいらんは、口じゃあいいましても、まくってごらんなさいまし。足と足ではさんでいるじゃあございませんか」と、官能的で品のないことをいっている。これでは、時次郎の青春がほころびそめた恥じらいが読みとれない。やはり本書所載の現行の型が、早春の詩情を背景にしたこの佳篇にはふさわしい。
長屋の花見
明治時代に、狂馬楽こと三代目|蝶花楼馬楽《ちようかろうばらく》が、大阪落語「貧乏花見」を移入して、純粋の東京落語にあらためたものだった。
大阪落語「貧乏花見」は、長屋の連中が相談して、いろいろのものを持ちより、女房づれで桜の宮へ花見にいくうち、芸者、幇間をつれてさわいでる連中がいるので、そのそばでなれあいのけんかをやって、連中がにげたあとで、酒、さかなをとってきてみんなで酒もりをはじめる。これをみた幇間が、酒樽片手にどなりこんでくるが、逆におどかされ、「その手の樽はなんだ?」「これは、酒のおかわりを持ってきました」とおちになる噺だが、馬楽は、大家のアイディアで花見にいくことにあらため、「長屋中歯を食いしばる花見かな」の珍句をはじめ、多くのしゃれたくすぐりをいれて、完全な東京落語にしたてあげたのだった。さらに、この馬楽に傾倒した四代目柳家小さんが、数多くのくすぐりをくわえて現在の代表的な長屋噺にとみがきあげ、それが現五代目小さんの十八番物として光りをはなっている。
三人旅
数ある旅の落語のなかでの代表作。
上方では、旅の噺を、前座噺、いれこみ噺などと称している。
「三人旅」は、十返舎一九《じつぺんしやいつく》の『東海道中膝栗毛』(享和《きようわ》二年・一八〇二)が刊行されたころにつくられた旅の噺の一種で、かなり古いものといえる。
本書には、馬子とのやりとりを中心とした発端の部分と、宿屋をさがす「鶴屋善兵衛」といわれる部分、さらに、飯もり女や尼を買う「おしくら」とよばれる部分をつづけておさめた。このうち、発端の部分は、春さきののどかな田園風景を背景に、滑稽な会話がつづいてうけるので、若い演者もさかんに演じておなじみになっている。
なお、「おしくら」とは、中山道《なかせんどう》の熊谷あたりから碓氷峠《うすいとうげ》あたりまでの私娼的な飯もり女の別名だった。
厩《うまや》火事
題名は、噺のなかにもでてくるように、「厩|焚《や》けたり、子|朝《ちよう》より退《しりぞ》き、人は傷つけざるやとのみ言いて、問いたまわず」(『論語』)という文章によるもので、古くは、「厩焼けたり」という題名で演じたこともあったという。
寄席《よせ》落語がさかんになりはじめた文化年間(一八○四―一七)ごろから口演されてきた噺で、歳上のはたらき者の女房が、歳下のなまけ者の亭主に惚れぬいているところからおこったもめごとが中心になっているが、歳上なるがゆえに、亭主の愛情が信じきれないという、女主人公の不安な心情のいじらしさがよくえがかれた佳篇だ。しかも、女主人公が無知であるために、逆にその純情ぶりが目立つという結果になっているところがおもしろい。
亡き八代目桂文楽の至芸によって、その女主人公の慕情がみごとに浮き彫りにされた。
寝床
原話は、安楽庵策伝《あんらくあんさくでん》の笑話本『醒睡笑《せいすいしよう》』
和泉の堺|市《いち》の町《ちよう》に、金城《きんいち》という平家琵琶のへたな男がいた。正月の初参会にでて、「ご祝儀に一曲つかまつりましょうか」というので、一同が「それはよろしいことです」といった。そこで、金城が琵琶をはじめると、座敷がしずかになったので、「わたしの平家をみんな本気で待ちかまえて、よく聞いておられるぞ」とおもって長時間演じた。そこへ世話役がでてきて、「もう平家をおやめなさい。みなさんは、平家がはじまると、すぐに立ってしまってひとりもおりません」
という噺がそれだが、これが義太夫が民間の趣味として普及した江戸中期になると、たとえば、『室《むろ》の梅《うめ》』(寛政元年・一七八九)所収の小噺「義太夫」のように現型に近づく。
ある隠居が義太夫じまんをするので、あつまっていた連中が、「どうかお聞きしたい」とのぞむので、うちの娘も「お語りなさいまし」と隠居にすすめた。そこで、隠居が「それなら一段語りましょう」とうなりだすと、たいへんまずいので、聞き手もだんだんにげてしまい、たったひとりのこったにすぎなかった。これをみた隠居が「あなただけは義太夫がお好きとみえておのこりになり、あたしも語るはりあいがあります」といえば、「なーに、おまえさんに扇を貸したから」
というのがそれだった。
近代においては、大阪落語「寝床浄瑠璃」を、狂馬楽こと三代目|蝶花楼馬楽《ちようかろうばらく》が東京へ移入して、「寝床義太夫」「しろうと義太夫」などと題して口演したのが、東京落語「寝床」のはじまりという。
芸じまんの好人物の旦那が、自分の芸をみんなが聞かないので激怒し、番頭のとりなしで、聞きにあつまってきたのをみて、しだいに上きげんにかわってゆく心理描写がむずかしい噺だし、演者に義太夫の素養がないとやりにくいので、笑いは多いのだが、だれにでもうまくやれる噺ではない。なお、芸じまんをして諸人をなやますことを、寝床という通言があるほど有名な噺でもある。
千早振る
江戸時代中期の代表作家|山東京伝《さんとうきようでん》の滑稽小説『百人一首《ひやくにんいつしゆ》和歌始衣抄《わかはついしよう》』(天明七年・一七八七)にもとづく和歌珍解釈の一席で、「やかん」などとともに、無学者の半可通ぶりをえがく爆笑篇。もとは、「千早振る……」の解釈の前に、「筑波嶺《つくばね》の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵《ふち》となりぬる」という歌の珍解釈もあったのだが、現在では、この部分はまったく口演されなくなってしまった。
よくまとまったナンセンス物なので、多くの落語家が口演する。
猫久
これは、嘉永年間(一八四八―五三)ごろから口演されるようになった噺だが、これをみがいたのは、明治初期から同三十年代のはじめにかけて活躍した二代目柳家小さん(禽語楼《きんごろう》小さん)だったという。
このひとは、もと九州延岡藩士だったところから、さむらいの描写にすぐれていたためにこの噺を生かしえたわけだが、速記本によれば、この二代目小さんの演出では、文明開化の世相を背景に、士族の老人が猫久の妻を絶讃するかたちになっているので、この噺がみがかれたのは明治初期だったことがわかる。ところが、明治末期から大正、昭和初期と活躍した三代目小さんになると、江戸時代が背景になり、現五代目小さんも江戸時代の噺として演じている。
無知で、いわゆる金棒ひきの女房と、女房の尻にしかれ気味の亭主という落語によくある典型的な夫婦を中心に、裏長屋、髪結床と、江戸庶民の日常生活が展開された典型的な場を舞台としている噺で、滑稽落語のよきサンプルとして、りくつぬきでたのしめる噺。なお、おちは、本書のように地にかえっておちにするのがふつうだが、現五代目小さんは、亭主を待たせた女房が、「待っといでよう。いま、あたしゃいただいてるところだ」というせりふとともに、両手ですりこ木をいただくしぐさをみせるという、すぐれた立体的演出を工夫している。
しわい屋
これは、「位牌屋《いはいや》」「片棒《かたぼう》」「味噌蔵《みそぐら》」などとともに、吝嗇《りんしよく》、つまり〈けち〉をあつかった噺の代表的なもので、内容的にみれば、〈けち〉に関する小噺集の感がある。それだけに、くすぐりも多いわけだが、また、ほかの〈けち〉な噺のようにまとまりがないという欠点があることは否定できない。
なお、「……たぶんそうだろうとおもって、はだしできた」というおちは、安永五年(一七七六)刊の笑話本『夕涼《ゆうすずみ》新話集《はなしあつめ》』にある。
転失気
落語には、知りもしないのに、強情をはって知ったふりをする人物がよくでてくる。
たとえば、「やかん」の主人公などは、やかんの語源を聞かれ、戦国時代に、敵の夜襲をうけた武士が、カブトがみつからないので、湯わかしの湯をあけ、それをかぶって出陣したら、敵はそれへむかって矢を射かけたので、矢が湯わかしにあたってカーンと鳴った。矢があたってカーンと鳴ったからヤカンという名がついたと珍説明をするが、「転失気」の和尚も知ったかぶりの点ではひけをとらない。ただ、「転失気」では、和尚と医者とが、おたがいに「てんしき」の意味をとりちがえて会話をかわす場面が、モノがモノだけにたいへん愛嬌になっていておかしい。もっともあたりさわりのないユーモラスなおならの噺といえよう。
出来心
東京では「花色木綿《はないろもめん》」ともいうが、上方では、「盗人《ぬすつと》出来心」ともいう。原話は、十返舎一九《じつぺんしやいつく》の笑話本『江戸前噺鰻《えどまえはなしうなぎ》』
この落語は、くすぐりも多く、切れ場も多いので演者も多い泥棒噺の代表作だが、おちは、このほかに、泥棒がおこると、八公があやまって、「わりいりょうけんでいったんじゃねえ。これもみんな一時の出来心で……」というのもある。
湯屋番
勘当された道楽者の若旦那が、出入りの職人のうちなどに居候する噺は、「船徳」「紙屑屋」「立つ浪」など数多いが、「湯屋番」はそれらの代表作といってよかろう。
むかしは、湯屋の名を、柳派で奴湯、または梅の湯、三遊派で桜湯といった。
寄席落語のはじまったころからある古い落語で、すじもくすぐりも傑作であり、切り場も多いので、多くの落語家が口演している。
若旦那が、番台で空想にふける場面は、落語のたのしさを満喫させてくれるものがある。
おちは、「あの野郎にみとれて、おれあ手ぬぐいだとおもって、軽石でこすっちゃった」と切るのがあり、若旦那が、番台の金をごまかして亭主にみつかり、「この金で飲食する気だな」「いいえ、おはらいは、むこうの女がします」というのもある。
明治の鼻の円遊は「桜風呂」と題し、四代目柳家小さんに改作「帝国浴場」があるが、とくに「帝国浴場」は、秀逸なくすぐりが多い。「……女湯ばかりにしよう。まず場所がよくなけりゃあいかねえな。丸の内にどこかいい処はないかな……ある、ある、警視庁の跡、あすこを借りよう。買ってもいいぞ。一坪十八銭じゃあ売るまいな。白煉瓦のビルディングのようなものをこしらえて、名前も帝国浴場、帝浴だ。ていよくことわられるなんざあいけねえな。湯銭は五百円、すこし高いから大衆的ではないよ。どこの御令嬢とか、どこの令夫人とか、貴婦人ばかりおいでになる。そうなると、番台だって普通の扮装じゃあいけない。大礼服かなにか一着におよばなけりゃあいけない。お流しは二百円くらい、シルクハットに燕尾《えんび》服でお流しをする」などというのをはじめ、現五代目小さんにつたわるくすぐりも多い。
まんじゅうこわい
これは、中国の明時代の『五雑爼《ござつそ》』という本にある噺で、貧乏書生が、まんじゅうをたべたいために、まんじゅうがこわいといって、まんじゅう屋の主人のいたずら心をかきたてて、うまくまんじゅうをせしめる噺がもとになっている。
これが日本で翻訳されて、『気のくすり』(安永八年・一七七九)や『詞葉《ことば》の花』(寛政九年・一七九七)などの笑話本になると、みごとに日本風の「まんじゅうこわい」になってきた。とくに、『詞葉の花』にある東南西北平作の小噺「まんぢう」は、現在の落語の完全な原型となっていた。
これが文化年間(一八○四―一八)以後、多くの落語家によって、いろいろのくすぐりがいれられ、ひきのばされて現在にいたったわけだが、この落語は、大阪でみがきあげられたものを、明治末期の狂馬楽こと蝶花楼馬楽《ちようかろうばらく》が東京に移入したものだった。とにかく、「濃いお茶が一ぱいこわい」ということばが、通人のあいだの日常会話にでてくるくらいに有名な落語だ。
短命
別名「長命」「長生き」。原話は、『軽口はなしどり』(享保十二年・一七二七)所収。
この落語に関する柳家小さんの談話が、鑑賞のよき手引きになっているので引用しよう。
「どうもこの噺のようなのは、近頃はだんだん演《や》りにくくなってきました。というのは、「手がさわって……」などといっても、いまは手ぐらいさわるのはなんでもないのですからね。
(中略)そういう時代であったことを心得て聞いていただかないといけませんな。
こういう噺は、結局、味で聞かせる噺ですから、演りさえすればうけるというものじゃあない。やたらに笑いをもとめても、いやらしいなんという感じになったらだめですし、そこらがむずかしいところです」
この談話にあるように、ストレートな性の表現が横行する現代においては、こういう遠まわしで、飄逸《ひよういつ》な味の艶笑《えんしよう》落語は、かえって貴重でもあるといえよう。
うなぎの幇間
これは、明治時代の中ごろに、じっさいにあった噺を落語化したものといわれている。
大正時代には、盲小せんこと柳家小せんが得意にしていたが、昭和になって、亡き八代目桂文楽が、四十年以上にわたり、みがきにみがいてすばらしい幇間物の代表的落語にしたてあげたのだった。
一定の職場を持たない浮き草稼業の野だいこの悲哀が、じつによくえがかれた名作だが、その道具立てに、花柳界のもっともひまな夏枯れの季節をえらび、うらぶれたうなぎ屋を悲喜劇の舞台に持ってきたことは、効果満点の配慮だった。なお、文楽の演出では、客がにげたのも知らず、一八が、「あの客、だいじにしよう」とつぶやく場面があるが、このせりふが、一八の幸福の絶頂から絶望のどん底への転換につながる重要な役割りを果たしていたことがわすれられない。
そこつ長屋
原話は、寛政(一七八九―一八○○)ごろの笑話本『絵本噺山科』にある。すなわち、
「五郎兵衛、あの横町におまえがたおれて死んでいるぞ。それなのに、まあそのおちついた顔はなんだ」といえば、五郎兵衛はたいへんにおどろいて、「なんだ。おれがたおれて死んでいるか。そりゃたまらない」と、大いそぎで現場へきてみると、聞いた通りに、こもをかぶせてあるので、あわてて、こもをあげてよく死体をみつめ、「やれやれ、うれしい。おれでもなかった」
というのがそれで、この噺にいろいろと肉づけされて現在の「そこつ長屋」ができた。
「そこつの使者」「そこつの釘」「松ひき」「永代橋」など、そこつの噺は数が多いし、とくに、「永代橋」などは、「そこつ長屋」そっくりの噺だが、太兵衛が武兵衛の死体だといい、武兵衛はちがうといって喧嘩になるのをとめた役人が、「太兵衛(多勢)に武兵衛(無勢)はかなわない」といって地口《じぐち》おちになるあたり、「そこつ長屋」のすばらしいまぬけおちにおよぶべくもない。
とにかく、りくつやばかばかしい気分などを、はるかに超越した錯覚の世界が、スピーディに展開されるこの噺は、落語のダイゴ味を満喫させてくれる傑作といってよかろう。
酢豆腐
原話は、宝暦十三年(一七六三)刊の笑話本『軽口太平楽《かるぐちたいへいらく》』にあり、落語寄席がさかんになったころから口演されていた江戸落語だった。そして、三代目柳家小さん門下小はんの改作が大阪へ移植され、別名を「ちりとてちん」というようになった。
江戸時代から明治時代あたりまでの下町に住む有閑青年たちの日常生活をスケッチしたもので、滝亭鯉丈《りゆうていりじよう》の『花暦八笑人《はなごよみはつしようじん》』(文政三年・一八二〇)、『滑稽和合人《こつけいわごうじん》』(文政六年・一八二三)や梅亭金鵞《ばいていきんが》の『七偏人《しちへんじん》』(安政四年・一八五七)などとも共通した世界をえがいており、しかも、知ったかぶりをする半可通いじめを中心にしている点もおなじ手法であって、まさに江戸っ子の素顔《すがお》をみるの感がある。
おかしさのポイントは、半ちゃんや若旦那が、連中の策にうまうまとのせられていく過程にあり、この過程を軽快にはこんでいくことが演出技術のむずかしさでもあろう。
なお、知ったかぶりをするいやなやつを「酢豆腐」とよぶ通言があるほどこれは有名な落語でもある。
悋気の火の玉
原話は、桜川慈悲成《さくらがわじひなり》の笑話本『延命養談数《えんめいようだんす》』(天保四年・一八三三)所収の「火の玉」だが、この小噺は、実話にもとづいたもので、安永・天明(一七七二―八八)ごろ、吉原江戸町の娼家|上総屋《かずさや》の主人の妻妾が、嫉妬し、呪詛《じゆそ》しあった事件に取材した人情本『永明間記廓雑談《くるわぞうだん》』(鼻山人《びさんじん》・文政九年・一八二六)を、慈悲成が小噺にしたてたものだった。
女性の嫉妬のすさまじさをえがく落語は、ほかにも「一つ穴」のようなものもあるが、それを、このような簡潔な怪談にまとめ、主人公が火の玉でたばこをのむという奇想天外なギャグをつくり、しかも、それをおちに持ってゆく手ぎわのよさはすばらしい。このように、噺としてはたしかに佳作なのだが、そんなに笑いの多い噺でもないし、主人公が、ふたつの火の玉を説得するところをクライマックスとする演出のむずかしさもあり、亡き八代目桂文楽以外に演《や》り手のない噺。
三方一両損
古くは、『板倉政要』の「聖人|公事捌《くじさばき》」や、井原西鶴の『本朝桜陰比事《ほんちようおういんひじ》』の「落し手有り拾い手有り」にある噺で、それを講釈化したものを、さらに落語にしたてたもので、大岡政談をあつかった代表的な噺。
江戸の職人、つまり、はんてん、ももひきの江戸っ子は、「江戸っ子の生まれぞこない金をため」「宵ごしのぜには持たねえ」などといった清貧思想の持ち主だった。これは、武士の表《おもて》学問たる儒教にある賤富思想(金をいやしむかんがえ)の影響によるもので、武家屋敷が総面積の六割以上といわれた〈武士の街〉江戸の住民らしい人生観だった。
この噺、典型的な江戸っ子で、仲のよくない職業同士の大工と左官という人物描写、それが、たがいによどみなくはきつづけるたんかのかずかず、家主と店子との人間関係、そして、訴訟の光景の描写など、短時間のうちに演じどころの多い噺で、それを軽快なテンポではこぶところに演者の腕のみせどころもある。
当時の奉行所では、はじめに吟味与力がとりしらべて調書をつくり、最後に町奉行がよく聞きただして判決をいいわたすという方法をとったし、奉行は、毎朝四つ(午前十時)に登城して、八つ(午後二時)すぎに奉行所に帰って判決をくだしたのだから、この噺のように、正午に判決などということはなかった。
たがや
夏の寄席で口演されてきている古い江戸落語だが、もとは、現在とは逆に、たがやの首が、武士に斬られて宙天にとぶ噺だった。
それが、幕末になると、現在のように、たがやが武士に対してレジスタンスをみせる噺にかわった。というのも、安政二年(一八五五)、江戸の大地震の結果、復興景気で職人の手間賃が四、五倍にはねあがったので、寄席へも職人がたくさんくるようになった。そこで、この噺も、職人なかまのたがやに花を持たせるように改作して、客席の職人たちをよろこばせたのだった。
両国の川びらきの夜のわきかえるようなにぎわいと、そのムードに酔いしれる江戸っ子たちの胸のときめきをつたえる夏の風物詩的佳編。
居残り佐平次
幕末の名手初代春風亭柳枝作の品川を舞台にした本格的廓噺で、廓の世界のうらおもてに通じた演者でないとやりにくい噺。
その点、この噺をみがきあげた明治から大正にかけての盲小せんこと柳家小せんなどは、うってつけの演者だった。なにしろ廓に耽溺《たんでき》し、脳脊髄梅毒症が悪化して腰が立たなくなり、女郎あがりの女房につきそわれて寄席通いをし、廓噺ばかりの独演会もひらいたのだから……「餓鬼のときから手くせがわるく……」という「白浪五人男」のせりふをくすぐりにつかったのなども小せんのすぐれた創意だった。
この噺は、佐平次が徹頭徹尾相手をだますストーリーなので、達者な演者が、佐平次の人物像を淡彩にえがくために軽快なテンポで噺をすすめないと、佐平次が悪党じみてしまって、噺のおもしろさが半減されてしまう。
はじめに若い衆に勘定といわせず煙にまくところ、どさくさまぎれに客をとりまくところ、旦那をおどかして金や衣類をまきあげるところ、最後に、ついてきた若い衆に自分の素性《すじよう》をあかすところなど、いずれもおもしろいが、むずかしい場面といえる。なお、おちの「おこわにかけた」とは、「だました」「一ぱい食わした」などという意味。
目黒のさんま
将棋《しようぎ》に凝《こ》って、自分につごうのいいように勝負をすすめては家来を負かし、罰として鉄扇で家来のあたまを打ってこぶだらけにする「将棋の殿さま」、そばを打つことに興味を持ち、むやみに家来に食べさせては病人にしてしまう「そばの殿さま」――そういうオーバーに戯画化《ぎがか》された殿さまの噺にくらべると、「目黒のさんま」は、世間知らずの大名の横顔が、たくまずしてとらえられていてほほえましい。なお、殿さまを松平出羽守ときめて演じる落語家もいる。
「さんまは目黒にかぎる」という日常会話がかわされるくらいに有名な落語。
小言幸兵衛
寄席落語のはじまったころから口演されてきた古い噺で、それだけに、「大家といえば親も同然、店子《たなこ》といえば子も同然」といった江戸時代の家主と店子との関係もたいへんにはっきりと表現されていて興味ふかい。ということは、店子が事件でもおこせば、家主の連帯責任となるために、入居者は厳重に選択したし、入居後もきびしく監督したことから叱言もでたわけだった。ただし、とりこし苦労から心中の道行き場面まで空想するところが、いかにも落語のダイゴ味が横溢《おういつ》していてほほえましいかぎりだ。
なお、同種の噺に「搗屋《つきや》幸兵衛」があるので、そのあらすじをのべておこう。
家を借りにきた男の職業がつき米屋だと聞いて、幸兵衛はにわかにこわい顔をしてにらみつけ、つき米屋にはうらみがあるといって理由をはなしはじめる。それは、毎朝、仏壇へお茶湯をあげにいくと、先妻の位牌《いはい》がいつもうしろむきになっているので、それを気にした後妻は、とうとう病気になって死んでしまった。ところが、位牌がうしろむきになるのは、となりのつき米屋が、夜あけになると米をつきはじめるので、その震動が原因だとわかったというのだった。そこで、借りにきたつき米屋も仇の片われだから、覚悟しろとどなりたてるので、つき米屋は逃げだす。
というストーリーになっている。この部分が、怪談じたてで陰気なために、あまり口演されなくなってしまった。
宿屋の富
大阪落語「高津《こうず》の富《とみ》」を、明治時代に、三代目柳家小さんが東京に移入したもので、ストーリーも、くすぐりもほとんどそのままであり、地名だけが、大阪の宿屋街の大川町が、江戸の馬喰町《ばくろちよう》に、高津の宮が、椙《すぎ》の森《もり》神社におきなおされたにすぎない。
主人公の、その場しのぎにほらをつぎつぎに大きくしてしまうようなでたらめな性格がまずおもしろいし、対照的に、小心な宿屋の亭主の存在もみおとせない。そして、ストーリーも、終末に近づくにつれてスリルもあり、変化もあっておもしろい噺。
おちは、本書のように、地の文でおわる型のほかに、「あっ、旦那も草履はいてる」とせりふでおちになる演出もある。
道具屋
落語寄席のはじまったころから口演されてきた与太郎噺の代表作だが、小噺をよせあつめて大きくなった落語であるために、くすぐりも多く、切れ場もたくさんあって、時間の伸縮も自由である上に、人物描写もそれほどむずかしくないので、口演する落語家も多い。
内容も伸縮自在であるのとおなじく、こんなにいろいろのおちのある噺もめずらしい。たとえば、「その鉄砲はなんぼか?」「へえ一本しかありません」「いや、代を聞くのじゃ」「台は樫《かし》の木で……」「そうではない。値《ね》じゃよ」「音《ね》はポーン」というのもあり、「この小刀はさきが切れないから十銭にまけろ」「いえ、十銭にしては、さきが切れなくてももとが切れます」というのもあり、客の指が笛からぬけないので、いくらだと客が聞くと、与太郎がここぞとばかり高い値をつける。「おいおい、足もとをみるな」「いえ、手もとをみました」というのもあり、また、笛から指がぬけたので、与太郎があわてて「まけます、まけます」「いや、指がぬければただでもいやだ」などというのもあるし、噺の途中だが、木刀をひっぱりっこしてぬけないとき「もっとすぐぬけるものはないか」「お雛さまの首のぬけるのがあります」とおちにする場合もあり、毛ぬきでひげをぬいた隠居が「じゃあ、またひげのはえた時分にこよう」とおちにする場合もある。
なめる
別名を「重ね菊」ともいうが、これは、音羽屋の紋所からきたもの。この噺、なめるのは女陰であったという。大正時代まで、場末の寄席では、そう演じた落語家もあったそうだが、これならば、なめたあとの夫婦約束も真実味を帯びてくるし、男が泊まってゆくとひらきなおるのもうなずけるし、一方、せっかくなめながら、男がたんなる道具につかわれたまぬけぶりもひきたってくる。しかし、乳をなめられるときの娘の恥じらい、そこにただよう凄艶なムードという情緒的な面は切りすてられてしまうことになるので、現在の型のほうが芸術的であるといえよう。
噺の構成は、男と娘との出会いが芝居小屋であるのは「浮世床」に、翌朝、移転のあとに男がくる場面が「転宅」にそっくりで、つぎはぎの感もあるが、男が見知らぬ寮につれこまれ、しだいに噺が展開してゆくところは推理小説的でおもしろい。
時そば
原話は、享保十一年(一七二六)刊の笑話本『軽口初笑《かるくちはつわらい》』にあるが、落語それ自体は、明治時代に、三代目柳家小さんが、大阪落語「時うどん」を東京に移入したものという。
噺としては、与太郎型のぬけた男が、ひとまねをして失敗するというよくある型だが、前半の職人体の男の軽快な口調と、後半の与太郎型の男の間のびのした調子とが対照的で、たまらなくおかしい。
「いまなんどきだい?」などと、日常会話にもつかわれるくらい有名な落語。
たらちね
別名を「たらちめ」ともいい、江戸時代のおわりごろに、大阪落語「延陽伯《えんようはく》」を江戸に移入したもの。
無骨《ぶこつ》な職人と優雅な嫁との夫婦の対照的なおかしさをえがいた滑稽噺で、笑いが多いところから若い落語家がよく口演する。ただし、「恐惶謹言《きようこうきんげん》、依ってくだんのごとし」などという文章が、書類や手紙などにもちいられなくなった現在は、この噺のおちがわかりにくくなってしまった。
もと犬
落語には、動物のでてくる噺がたいへんに多い。たとえば、「たぬ賽《さい》」「権兵衛だぬき」などのたぬき、「王子のきつね」のきつね、「田能久《たのきゆう》」「夏の医者」などの大蛇などがそれで、すこぶる人間的な動物ばかりなのだが、「もと犬」のように、動物が完全に人間になってしまう噺はめずらしい。(ほかに、「犬の字」も白犬が人間になって恩がえしする噺)
それは、江戸時代には、白犬が人間に生まれかわるということが、まじめに信じられていたためで、そこにこのようなナンセンス噺も生まれたわけだった。したがって、ばかばかしさのうちにも、古きよき時代の気分が感じられてのどかなものがあるが、科学万能の現代では、しだいに消えてゆく運命にある噺かも知れない。
無精床
別名を「けんつく床」ともいう。
一見なんでもないような滑稽噺だが、ぶしょうでぶっきらぼうな床屋の親方の人物描写と、客のほとんどこない床屋の情景描写をおろそかにすると噺が生きてこないからむずかしい。おちは、このほかに、親方が客に「耳をそりおとしたことがあって、それ以後、客がくると犬がはいってきて、耳を食いたがってしようがない。おまえさんの耳をこの犬にやるかい?」というのもある。
これに似た床屋の噺の「片側町」は、芝居好きの親方が、芝居のはなしに夢中になって客の片鬢《かたびん》をそりおとしてしまい、客がこれじゃあおもてがあるけないとおこると、それじゃあ当分片側町をおあるきなさいというおちだし、「根あがり」は、音曲好きの親方が、「二あがり新内」を唄いながら客のまげを結《ゆ》ううち、まげを客の鼻のあたまのところへぶらさげてしまい、なんというあたまだと聞かれて、これがほんとうの根あがり(二あがり)新内でございますとおちになる噺。なお、片側町とは、片がわに家があって、片がわが塀《へい》になっていたところをいい、根とは、まげをあたまの中央で元結で結わえたところをいう。
芝浜
三遊亭円朝が、「酔っぱらい、芝浜、財布」の三つの題をまとめた三題噺の名作であり、人情噺の代表作として名高い。
良い腕を持ちながらもなまけものの亭主が、女房の誠意によって奮起するというすがすがしい噺で、除夜の鐘を聞きながら福茶を祝う夫婦の、その福茶のなかから、ほのぼのとした夫婦愛がたちのぼってくるようだし、貧、福、様相を異にした家庭生活の対照の妙も、あざやかな転換ぶりをなしている。
演出にあたっては、前半で、酔って寝た亭主に、すべてを夢とおもわせる部分と、後半で、財布をだして亭主にわびる女房とそれに感謝する亭主のやりとりなどは、ことにむずかしいみせ場。
部分的にいえば、ひろった金を、旧三遊派では、「ばにゅう(盤台)へ」、柳派では、「腹がけのどんぶりに」と演じわけていたし、魚屋の名前も、熊さんだったり、金さんだったり、ひろった金も、五十両であったり、八十両であったりして一定していないが、故三代目桂三木助は、落語の類型にない勝五郎という名をえらび、金額もはんぱな四十二両として、写実的な味をねらい、まくらの部分や終末の場面など、ことにすっきりしていて江戸前の味をだしていた。
本書編集にあたって、明治、大正、昭和三代にわたる多くの落語家の速記本を参照してテキストを作成したが、ここにえらんだ落語は、有名なもののなかから、読んでおもしろいものをあつめたので、「こんにゃく問答」「強情灸」などのように、有名でも、高座でみたときに真価を発揮する落語は省略した。
なお、「解説」と「歴史」に引用した小ばなしは、現代語訳にあらためた。
落語の歴史
興津 要
落語ということば
江戸時代のはじめは、〈はなし〉といわれたが、天和・貞享(一六八一―八七)以後は、上方中心に〈軽口《かるくち》〉、または、〈軽口ばなし〉と呼ばれ、上方的呼称である〈軽口〉時代が、上方文学の衰退期である明和・安永(一七六四―八一)ごろでおわり、舞台が主として江戸にうつり、江戸小咄時代にはいると、もっぱら〈落し咄〉というようになった。
落語という文字が使用されはじめたのは、天明(一七八一―八九)年間からだが、当時は、〈らくご〉とは読まず、〈おとしばなし〉と読んでいた。
〈らくご〉と読むようになったのは、明治二十年(一八八七)ごろからであり、それでもまだ〈はなし〉という読みかたが多かったのであって、〈らくご〉という読みかたが完全に普及したのは、昭和になってからだった。
落語家の先祖たち
落語家の遠い先祖としては、室町時代末期の戦国時代において、武将の側近にあって、そのつれづれをなぐさめるために、はなし相手をしたお伽衆《とぎしゆう》(お咄衆《はなししゆう》)の存在があった。
彼らが、なぜ落語家の遠い先祖といえるかというと、彼らの笑話を編集した『戯言養気集《ぎげんようきしゆう》』(元和活字本)の内容がそのことを立証している。
ここにあつめられたはなしは、信長、秀吉、秀次などの武将に関するエピソードが多く、純粋の笑話ばかりではないが、なかには、つぎのようなしゃれた小ばなしもみられる。
○めずらしき所望
医者の道三一渓《どうさんいつけい》のところへ顔色のおとろえた男がきて、「おねがいでございます。どうか精力の減る薬をたくさんください」といったので、道三は、「これはまことにめずらしいことをおのぞみなされる。あなたをおみかけしたところとは、まったくちがったことをうけたまわるものじゃ」といった。すると、その男は、「いいえ、わたしがもちいるのではございません。女房にたべさせようと存じます」といったので、「どちらのお宅でもそういうことなのですね」と大笑いになった。
このような艶笑小ばなしのほかにも、落語「本膳」の原話などもみられたり、落語のいろいろな原型がお伽衆によってはなされていたことをおもうと、お伽衆こそ落語家の遠い祖先として永遠に記憶されるべき人たちだった。
徳川氏が政権をにぎった元和・寛永(一六一五―四四)期になると、京都在住の貴族的お伽衆による笑話本『きのふはけふの物語』(寛永十三年)が人気をあつめた。
それは、武将本位の『戯言養気集』に対して、あらゆる階層の人たちを主人公にした巾広い題材と、平和な時代にマッチした、ナンセンスな、またはエロチックな笑いを提供したためでもあった。
そのなかには、たとえば、
上京に、平林という人がいた。この人のところへ、田舎から手紙をたのまれた男がいたが、この男はひらばやしという名をわすれて、人に読ませると「たいらりん」と読んだ。
「そのような名ではない」と、ほかの人にみせると「これはひらりん殿」と読んだ。「これでもない」と、またある人にみせると「一八十|木木《ぼくぼく》」と読んだ。「このうちのどれかだろう」と、のちには、この手紙を笹の葉にむすびつけて、羯鼓《かつこ》という楽器を腰につけ、「たいらりんか、ひらりんか、一八十にぼくぼく、ひょうりゃひょうりゃ」とはやして、やがてたずねあてた。
という落語「平林」の原話をはじめ、落語「おかふい」の原話などもあり、また、
ある和尚が、病気がはなはだ重態で、臨終とおもわれた。弟子や檀家《だんか》の人たちがあつまって、「さてもお気の毒なことだ。こうなったからは、毒断ちの必要もない」と、酒と盃を枕もとにおき、「これこれ、目をひらいてごらんなされ。いつものお好きなものですよ」といえば、「あれかとおもった」といわれた。
というような艶笑小ばなしの佳作もみられるなど、この本は、あたらしい時代の笑いの可能性の無限の宝庫だった。
この本とともに『醒睡笑《せいすいしよう》』(寛永五年)も人気をえていた。
これは、安楽庵策伝《あんらくあんさくでん》(一五五四―一六四二)が、京都|所司代《しよしだい》板倉重宗の御前ではなした咄を、元和九年(一六二三)に筆録して完成したものだった。
策伝は、秀吉のお伽衆金森|法印《ほういん》の弟で、茶道を古田織部正《ふるたおりべのしよう》に学んだ当代|屈指《くつし》の茶人であり、話術の名手として、秀吉や板倉重宗などの諸侯にフリーな立場でつかえたお伽衆だった。
『醒睡笑』は、所司代の御前口演であったために、武家に関する咄、板倉父子の裁判咄などもおさめられ、庶民的で明朗な『きのふはけふの物語』にくらべると、教訓的要素がつよいことは否定できないが、それでも『きのふはけふの物語』と重複した笑話をはじめ、多くの笑話もみられた。
それはたとえば、
和泉の堺市《いち》の町《ちよう》に、金城《きんいち》という平家琵琶の下手《へた》な男がいた。正月の初参会《はつさんかい》に出て、「ご祝儀に一曲つかまつりましょうか」というので、一同が「それはよろしいことです」といった。そこで、金城が琵琶をはじめると、座敷がしずかになったので、「わたしの平家をみんな本気で待ちかまえて、よく聞いておられるぞ」と思って長々とかたった。そこへ世話役が出てきて、「もう平家をおやめなさい。みなさんは平家がはじまると、すぐに立ってしまって一人もおりません」
という落語「寝床」の原話をはじめ、おなじく落語「子ほめ」「てれすこ」の原話などもみられた。
このようなお伽衆の口演筆録を契機として、咄の趣味は大いに普及し、『きのふはけふの物語』だけでも、元和・寛永ごろから承応にかけて、十二、三種も刊行され、さらに、『百物語』『私可多《しかた》咄』(万治二年)なども出版されるにおよんで、咄本の内容も複雑化した。とくに、武家出身の医者中川喜雲編の『私可多咄』の序文で、ただはなしの筋をしゃべるだけでは、都会人と田舎人などの区別がつかないから、身振り入りの〈しかたばなし〉で演じたといっているのは、現代においてもおこなわれている落語における描写を中心にした立体的演出が工夫されはじめた意味において記念すべきことばだった。
つぎに、『囃《はなし》物語』(延宝八年)になると、事実にもとづく笑話を〈物語〉、架空の笑話を〈はなし〉と区別したが、ここにいたって、落語の基本的内容や表現が確認された。
その後まもなく、〈はなし〉を〈軽口〉、または〈軽口ばなし〉というようになるとともに、咄のおもしろさを終局において効果的にむすぶ〈オチ〉の技術もみがかれた。
このように落語が進歩したのは、延宝・天和(一六七三―八四)ころから、京都で辻咄をはじめた露の五郎兵衛(一六四三―一七〇三)と、やはり天和ごろ、江戸で辻咄をはじめた鹿野《しかの》武左衛門(一六四九―九九)、貞享ごろから、大阪で辻咄をはじめた米沢彦八(一七一〇年代)という三人の職業的落語家の功績でもあった。
露の五郎兵衛は、延宝から元禄十六年までの三十年間、京都の祇園真葛《ぎおんまくず》ガ原《はら》や四条河原・北野天満宮などの盛り場や祭礼の場で辻咄を開催した。
この辻咄というのは、ヨシズ張りの小屋をつくり、演者は広|床几《しようぎ》の上の机により、聴衆は床几に腰をかける。晴天に興行して、道行く人の足をとどめ、咄が佳境にはいったころをみはからって銭をあつめてまわるという、すこぶる庶民的な演芸で、はじめて、純粋に娯楽的な架空の笑話を毎日提供してくれるこの街頭の芸能人は、大衆の圧倒的人気をかちえていった。
さて、露の五郎兵衛は、晩年は入道して露休と号し、また、露ということから雨洛《うらく》とも称して活躍したが、その咄は、たとえば、
○親子共に大上戸
ある親父が、酒に酔って帰り、息子を呼んだが、息子が家にいないので、「はてさて、出歩きおってにくいやつめ」というところへ、息子もたいそう酔って帰ってきた。親父がこれをみて、「やい、このバカ者め、どこでそんなに大酒をくらった。おまえのような者にこの家はやれぬ」というと、これを聞いた息子が、「これおとっつあん、やかましいことをいいなさるな。このようにくるくるとまわる家はもらわなくてもいいわい」とこたえたので、親父は舌をもつれさせて、「このろくでなしめ、おまえのつらは二つにみえるわ」
という落語「親子酒」の原話をはじめ、やはり、落語「辻占《つじうら》」「あんまのこたつ」「山号寺号」「高砂や」「四人ぐせ」などの原話も数多くみられた。
これらの咄は、『露がはなし』(元禄四年)、『露新軽口ばなし』(元禄十一年)、『露休ばなし』(元禄末)、『軽口利益咄』(宝永七年)、『露休置土産』(宝永七年)などにのこっている。
大阪辻咄の祖米沢彦八は、別号を豊笑堂《ぶしようどう》また軽忽庵《きようこつあん》といい、天和(一六八一―八三)ごろから享保(一七一六―三五)初年まで、生玉《いくたま》の境内を主として辻咄を口演し、露の五郎兵衛以後の上方落語界の中心となった。
その咄は、たとえば、
○三国一
ある京の人が、大津に泊まりあわせて、相客《あいきやく》に近づき、「あなたのお国はどちらですか」と聞くと、「遠い国です」というので、「なんという国です」とたずねると、「はずかしながら駿州です」といった。「さてさて、たいそう卑下《ひげ》なさるが、駿河は三国一の富士山という、なかなか名所もあって類のないお国です」というと、「いや、あの富士も、それほどいばっていえません」「なぜ」「根が田舎山です」とこたえた。
という咄は、落語「半分|垢《あか》」の原話であるのをはじめ、やはり落語「代《かわ》り目《め》」「味噌蔵《みそぐら》」「影清《かげきよ》」「有馬小便」「寿限無《じゆげむ》」などの原話もみられるなどして、質、量ともに先輩露の五郎兵衛にはおよばないが、現在もなお生きている咄もある。
これらの咄は、『軽口男』(貞享元年)、『軽口御前男』(元禄十六年)、『軽口大矢数』(享保初年)などにみられる。
彦八の名跡は四代までつづき、上方では、辻咄をする者の異名を彦八というほどに世に知られたことは注目すべきことだった。
江戸辻咄の祖鹿野武左衛門は、塗師から転じた人で、仕形《しかた》咄にすぐれ、天和・貞享ごろ、中橋広小路でむしろ小屋をつくって演じたが、さらに、座敷咄もやったことは意義深い。
なお、元禄六年(一六九三)に、江戸でソロリコロリという悪疫が流行したさい、神田の八百屋総右衛門と浪人|筑紫《つくし》園右衛門とが、武左衛門の著『鹿《しか》の巻筆《まきふで》』にある、歌舞伎の馬の脚の後脚のほうが客の声援にこたえて鳴いたという笑話「堺町馬の顔見世」にヒントをえたという理由のもとにデマをとばした。そのデマは、ソロリコロリをふせぐには、南天の実と梅ぼしを煎じて飲めばよいと、あるところの馬が、人間のことばを話して告げたということで、そのため、南天の実と梅ぼしの値段が二、三十倍にはねあがった。事件に関係のない武左衛門だったが、デマのヒントになった笑話をつくったという思いがけない罪状によって大島へ流され、赦免《しやめん》となってまもなく病没した。
これ以後、しばらくのあいだ、上方では彦八咄が流行したが、江戸では咄が衰退した。
江戸時代中期の落語
米沢彦八の名跡が四代で絶え、辻咄がおとろえた安永三年(一七七四)ごろから、大阪で、しろうとのはなしの会がさかんになった。
それは、落しばなしの演劇化でもある〈大阪にわか〉や雑俳の流行、さらには、知識人の余戯としての笑話の漢訳や、『笑府』『笑林広記』をはじめとする中国笑話の翻訳が続出したことなどが原因だった。
宝永二年(一七〇五)、大阪随一の富豪五代目淀屋三郎右衛門が、町人として分際をこえるおごりをしたという理由のもとに全財産を没収されたのをはじめとして、幕府の町人に対する弾圧政策が開始された。
それは、町人たちの経済力の急激な伸長ぶりに圧迫を感じるようになった幕府が、その恐怖感をとりのぞくための手段だったが、そのために、大阪の上層町人たちはにわかに保守的になり、幕府の意にそうべく、正徳三年(一七一三)には、朱子学者三宅石庵をむかえて、学問所|多松堂《たしようどう》(ややおくれて懐徳《かいとく》堂も)も創立し、幕府の奨励する儒教道徳を勉強するようになった。
その結果、漢詩文を読み、つくるというように、彼らの文学趣味も高尚になり、享保から宝暦、明和(一七一六―七二)にかけて、大阪に混沌社、京都に賜杖《しじよう》社、幽蘭《ゆうらん》社、江戸に|芙※《ふきよ》社、市隠社などと、民間人のための詩社がつぎつぎに設立されていった。そして、この漢詩趣味の流行から、中国伝奇小説『水滸伝』の翻訳、中国遊里文学『燕都妓品《えんとぎほん》』『板橋雑記《はんきようざつき》』などの解読もおこなわれ、日本遊里文学の洒落本《しやれぼん》の源流になった漢文体の遊里文学『両巴巵言《りようはしげん》』(享保十三年)や『史林残花《しりんざんか》』(享保十五年)なども生まれ、さらに、笑話の漢訳、その逆に、中国笑話の翻訳などもさかんになった。
中国笑話本のあいつぐ刊行、大阪にわかや雑俳の流行などが原因となって、安永三年冬から天明末まで、大阪のしろうとばなしの会は、十四、五年間もつづいた。
この時期につくられた小咄をあげると、高級な趣味人の作だけあって佳作が多い。たとえば、
○好物
ある屋敷で急用があって、新参《しんざん》の仲間を十里ばかりあるところへ使いにやったところが、十里の道をその日のうちに帰ってきたので、奥方は、たいそうきげんよく、「さてさて、そちは達者なもの、さぞくたびれたであろう。なんなりとも好きなものを食べて休息しや。そちが好物はなんじゃ」「いや、はい……」「はて、いちばん好きなものはなんじゃ、遠慮なしに言やいの」「はい、二ばんめに酒でございます」
というような、まことに気がきいた洒脱なものになっていた。
このころになると、京都から大阪にうつった落語家松田弥助やその門弟たちが、御霊神社をはじめとして、諸方の寺社の境内で辻咄をはじめ、物もらいまでが彼らにならって、門口に立って小咄の一つもしゃべるようになったので、しろうとばなしの会は下火になった。しかし、寛政(一七八九―一八〇一)になると再流行して、文化・文政(一八〇四―三〇)までつづき、浄瑠璃・歌舞伎作者で、上方の長ばなし、人情ばなしの祖|司馬芝叟《しばしそう》も登場し、小咄ばかりの上方落語も、あたらしい分野をくわえていった。
明和三年(一七六六)春、幕府小普請方|朝濤《ともなみ》七左衛門は、幕命によって京都御所内准后御別殿造営のために出張し、一年半ほど滞在したが、そのころ、同地は漢文笑話の最盛期であったために、彼はその影響をうけて江戸に帰った。
折りしも江戸では、言語遊戯の地口《じぐち》や、芝居を滑稽化した茶番が流行し、川柳や狂歌もさかんになりつつあって、笑いの趣味がひろがっていた。
朝濤七左衛門も狂歌師|白鯉館卯雲《はくりかんぼううん》としてその一翼をにないつつあったが、彼が、安永二年に、笑話本『鹿《か》の子餅《こもち》』を刊行すると、同年、小松屋百亀の『聞上手』初編、稲穂の『楽《がく》牽頭《たいこ》』もつづいて出版され、江戸の笑話本は隆盛の一途をたどった。
この時期の小咄を『楽牽頭』からひろってみよう。
○首売り
本所割下水《ほんじよわりげすい》のほとりを、「首売ろう、首売ろう」と売りあるく者がいるのでよびこみ、「首はいくらじゃ」「一両でございます」「それは安い」とお買いになり、正宗の刀をだされ、首切り場へつれてゆくと、首売りは身をひねり、たもとから張り子の首を投げだした。「おまえの首は買ったのだぞ」「わたしの首は看板でございます」
という咄は、落語「首屋」の原話になったが、そのほかの笑話本にも、落語「千両みかん」「初天神」「開帳の雪隠」などの原話が多数みられた。
このようにきびきびした江戸小咄がつくられるようになって、鹿野武左衛門事件から六十年ほど中絶していた江戸落語も復興のきざしをみせはじめた。
その推進力となったのは、烏亭焉馬《うていえんば》(一七四三―一八二二)、桜川慈悲成《さくらがわじひなり》(一七六二―一八三三)、二代石井|宗叔《そうじやく》(?―一八〇三)などだった。
焉馬は、立川焉馬、談洲楼とも号し、本業が大工の棟梁《とうりよう》兼|足袋《たび》屋だったところから、狂名を鑿釘言墨金《のみちようなごんすみかね》という狂歌師であり、戯作も刊行し、五世市川団十郎と義兄弟になり、『歌舞伎年代記』をあらわすとともに、浄瑠璃「碁太平記白石噺」(安永九年)を代表作に持つ劇作家でもあった。したがって、落語は焉馬にとってはまったくの余戯だったが、彼が天明六年(一七八六)四月十二日、向島の料亭武蔵屋権三方において咄の会をひらいて以来、江戸の文人や通人のあいだに、咄の自作自演の会が流行した。彼の選になる笑話本『咄し売』(寛政元年)、『青楼育《さとそだち》咄雀』(同五年)、『詞葉《ことば》の花』(同九年)などがあった。
それらのなかには、「まんじゅうこわい」や「馬のす」の原話の小咄がみられた。
焉馬の咄の会に参加した慈悲成は、戯作にも筆を染めたが、話術によって諸侯や富商にまねかれた幇間《ほうかん》的な半職業的落語家であり、門下からは、桜川甚好、新好などの幇間も生まれた。慈悲成の作で有名なのは、落語「悋気《りんき》の火の玉」の原話だった。
石井宗叔は医者であり、音曲、三味線入りのはなしを得意にし、長ばなしの創始者で、屋敷方へ出入りする半職業的落語家でもあった。
焉馬にはじまる咄の会が、半職業的落語家を生んだことから咄はいっそう流行し、職業的落語家と、彼らの出演する寄席《よせ》とが生まれるにいたった。
江戸で寄席興行をはじめたのは、大阪下りの落語家岡本万作で、寛政三年(一七九一)、日本橋橘町の駕寵屋の二階で夜興行をひらき、同十年、神田豊島町|藁店《わらだな》に「頓作軽口噺」の看板をかかげ、辻々にビラをはって客をまねいた。これがすなわち寄席のはじまりだった。
これと期をおなじくして、江戸で、咄好きの櫛《くし》職人京屋又三郎の山生亭花楽《さんしようていからく》(のち三笑亭可楽)が、下谷柳町稲荷社内で、大阪では、初代桂文治が座摩《ざま》社内で、いずれも寄席興行をもよおしたが、これはまさに時代的要請だったといえよう。
この三笑亭可楽は、江戸の職業的落語家の祖として重要な位置をしめている。
彼は、前記の寄席興行に失敗して本格的な芸人をめざし、芸道修業の旅から帰って、寛政十二年に江戸柳橋に落語会をひらき、さらに、文化元年(一八○四)、下谷広徳寺門前の孔雀《くじやく》茶屋で、客の出題した弁慶、辻君、狐の三題を即座に一席の咄としてまとめたことから人気をえた。
これが三題ばなしの創始であり、彼は、このような創作の才能と巧妙な話術とによって落語を職業として成立せしめ、必然的に優秀な門人が輩出した。
江戸時代後期の落語界
寄席が隆盛にむかうにつれて、いろいろの芸人があらわれた。
可楽直門としては、人情ばなしの祖朝寝坊|夢楽《むらく》(一七七七―一八三一)、怪談ばなしの祖林屋正蔵(一七八〇―一八四二)、音曲ばなしの完成者|船遊亭扇橋《せんゆうていせんきよう》(一八二九―?)、色物(寄席で落語以外の芸をさす)として、現在の幻灯にあたる写し絵の都楽《とらく》(一七八一―一八五二)、さまざまな目かつらをつけて落語を演じた百眼《ひやくまなこ》の可上《かじよう》などがいた。
また、扇橋門下からは、柳派の開祖となった人情ばなしの名手|麗々亭柳橋《れいれいていりゆうきよう》(一八四〇没)や、都都逸《どどいつ》の始祖都々逸坊|扇歌《せんか》(一八〇四―五二)などがでた。
一方、可楽にやや先んじて人気をあつめていたのは、三遊派の祖三遊亭円生(一七六八―一八三八)だった。
円生は、天明から寛政初期にかけての身振り声色流行期に、その名手東亭|八《や》ッ子《こ》門下になり、八ッ子(奴《やつこ》)に対して、多子(凧《たこ》)としゃれて芸名をつけた。しかし、なんといっても、これは将来性にとぼしい道楽芸だったので、これに見切りをつけた多子は、芝居に関係の深いはなしの会に目をつけ、焉馬門下立川|焉笑《えんしよう》となって修業し、三十歳になった寛政九年四月、焉笑あらため初代三遊亭円生として独立し、「身振り声色芝居掛り鳴物入り」元祖という名乗りをあげて人気をえた。
円生がこういう芸を演じたのは、歌舞伎俳優の給金が高騰し、その埋めあわせのために入場料を値上げして、大衆席である切り落としをつぶして高級席の仕切り桝をふやしたために、大衆が歌舞伎と縁が遠くなったので、大衆の歌舞伎への郷愁を満たす必要があったからだった。
人格円満な円生は、数十人の門弟を指導して、浅草の堂前《どうまえ》(松葉町)に住んだところから、〈堂前の師匠〉として人望をあつめ、『東都|噺者《はなしか》師弟系図』の著ものこしていた。
円生門下では、二代目円生を襲名した橘家円蔵(一八〇六―六二)、円蔵との名跡あらそいにやぶれた人情ばなしの名手初代古今亭志ん生(一八○九―五六)、道具入り芝居ばなしを演じ、つづきものの祖となった初代|金原亭馬生《きんげんていばしよう》(?―一八三八)などが著名だった。
一方、上方の落語界は、彦八の名跡が四代で絶えて以後は低調だったが、寛政期(一七八九―一八○一)になると、会ばなし、座敷ばなしが流行し、寛政四年、京都から浮世ばなしの松田弥助が下ってくるにおよんで復興の機運をむかえ、初代桂文治(一七七三―一八一五)が、前記のように寄席興行をもよおし、芝居がかりの落語を口演したことから繁栄にむかった。したがって、文治こそ上方落語中興の祖だといえる。
江戸の三笑亭一派に呼応して擡頭した上方落語は、桂派につづいて、文政(一八一八―三〇)末ごろ、初代笑福亭吾竹一派が登場し、さらに、幕末には、林屋正翁一門が主導権をにぎった。しかし、江戸にくらべて上方の劣勢はおおうべくもなかった。
天保十三年(一八四二)二月十二日、老中水野越前守忠邦の改革策は、江戸中の寄席の数を十五軒に制限し、演目も神道講釈、心学、軍書講談、昔咄に限定したが、このことを知った江戸市民たちは、まるで灯の消える思いだった。というのも、寄席は、彼らにとってかけがえのない娯楽場になっていたからにほかならない。
大阪でいう講釈場、席屋、席、江戸でいう寄場《よせば》、寄せ―天保(一八三〇―四四)になって寄席《よせ》と称せられるようになったもの―が、はじめてできた寛政ごろは、まだ一定の演芸場はできていないので、舟宿や茶屋のような広い家を借りて幾日か興行し、出演者も三、四人どまりだった。
それがしだいに大衆に歓迎され、文化元年(一八○四)ごろには、江戸に三十三軒ほどの定席《じようせき》(いつも興行している寄席)ができて、文化十二年(一八一五)に七十五軒、文政八年(一八二五)に百三十軒あまりになって出演者もふえるにつれて、芸人の階級もできるようになった。
はじめは、前座、二つ目、三つ目、四つ目、中入り前、中入り後(くいつき)、膝がわり、真打という順位だったが、やがて、前座、二つ目、中入り前、中入り後、膝がわり、真打になり、それが、はるかのちの昭和になると、前座、二つ目、真打の三階級に簡略化されるのだが、とにかく隆盛の一途をたどった寄席演芸にとって、天保の改革はまことに大きな障害だった。
しかし、水野忠邦が失脚して、寄席の制限が撤廃されると、六十六軒に回復し、安政(一八五四―六〇)年間には三百九十二軒になり、明治(一八六八―一九一二)時代には八十軒前後になったが、だいたい一町に一軒ぐらいはあり、収容人員も百人ぐらいで、興行時間も三時間の短時間であり、木戸銭も、ふつうは三十六文ぐらい(安政年間に四十八文にあがる)で、下足札が四文、中入りのときに、前座が小づかい銭かせぎに十五、六文のくじを売りにくるくらいで、金のかからない寄席は、まさしく大衆娯楽の殿堂だった。
このことは、歌舞伎の主要な劇場が中央に偏在し、興行時間も夜明けから夕方までの十三時間ぐらい、木戸銭ももっとも安い土間の切り落としでも百三十二文というのにくらべるとあきらかな事実だった。
幕末の落語界に大きな影響をあたえたのは三題ばなしの流行だった。
それは、文久(一八六一―六四)年間にはじまったもので、金座役人高野|酔桜軒《すいおうけん》を後援者に戯作者|山々亭有人《さんさんていありんど》、仮名垣魯文《かながきろぶん》、劇作家瀬川|如皐《じよこう》、河竹新七阿弥(のち黙《もくあみ》)、浮世絵師一恵斎|芳幾《よしいく》などに、本職の柳亭左楽《りゆうていさらく》、春風亭|柳枝《りゆうし》(?―一八六八)、三遊亭円朝(一八三九―一九〇〇)などをくわえた「酔狂連《すいきようれん》」と、大伝馬町の豪商勝田某(号春の屋幾久)を中心とした江戸の文人や通人たちから成る「興笑連《きようしようれん》」とがその代表的グループで、いずれも三題ばなしの自作自演に熱中した。とくに注目すべきは、このグループ活動を契機として、幕末から明治にかけての東京落語界の中心人物となった三遊亭円朝が、たとえば代表作「鰍沢《かじかざわ》」を創作口演するなど、題材上、演出上得たところが多く、大いに成長していったことは意義深い。
円朝は、二代目円生門下の橘屋《たちばなや》円太郎の子に生まれた。
少年時代から寄席に出演し、二十歳すぎて、「真景累《しんけいかさね》が渕《ふち》」「怪談|牡丹燈篭《ぼたんどうろう》」などの芝居がかり道具ばなしの自作自演に人気をえて、幕末落語界に新風をおくった。
円朝の高座は、天保の改革以後、歌舞伎は、中央をはなれた猿若三座にかぎられ、以前にもまして見物しにくくなった大衆の歌舞伎見物の夢を満たす役割りを果たし、円朝が大衆のアイドルとなったことは否定できない。
しかし、彼が少年時代に、内弟子として住みこんだ歌川国芳じこみの絵筆をふるっての背景や道具や、権之助(のち九代目市川団十郎)、家橘《かきつ》(のち五代目尾上菊五郎)など若手人気俳優の声色や、ときには大道具に本水をつかって、そのなかにとびこむという、万事派手ごのみの演出によって、ミーハー族や、安政大地震後の復興景気によって収人のふえたために寄席に足をはこぶようになった職人たちなど、低級な観客に媚《こ》びたことは、若い円朝にとっては人気上昇のための苦肉の策でもあった。
明治以後現在までの落語界
明治になると、円朝は、新時代にかんがみ、派手な道具ばなしの道具を弟子の円楽にゆずって三代目円生を襲名させ、自分は、扇子一本の素《す》ばなしに転じた。
それは、円朝にとって浮薄な人気にたよる芸人から真の芸人への脱皮の道すじでもあった。
明治五年(一八七二)、教部省発令の「三条の教憲」の趣旨を普及宣伝するために、芸能界も協力を要請されたさい、二代目|松林伯円《しようりんはくえん》を先頭に講談界が実録物の分野を開拓すると、円朝もまた、実地調査にもとづいて、「後開榛名梅《おくれざきはるなのうめ》が香《か》」(安中草三)や「塩原多助一代記」などの実録的人情ばなしを自作自演し、また、モーパッサンの『親殺し』から「名人長二」、『トスカ』から「錦の舞衣」などの翻案にも意欲をみせた。とくに「塩原多助一代記」はたいへんな評判をあつめたが、それは、無一物の青年が、義理や忠孝をまもりながら、勤労と節約の結果、一代で財を成すという、明治の新世代むきの内容のためだった。
円朝は、朝野《ちようや》の名士と交際して、落語家の社会的地位を向上させたばかりでなく、落しばなしのほか、人情ばなし、芝居ばなし、怪談ばなしなど江戸落語の各分野を集大成し、多くの後進を養成して、明治の東京落語界に黄金時代をもたらした。
円朝こそ日本落語史上もっともかがやかしい存在にはちがいないが、明治になってからは、あまり名士になりすぎたために、大衆のアイドルとしてのヴァイタリティをうしなったことは否定できない。
円朝と同時代には、円朝とならび称せられた人情ばなしの名手柳亭(談洲楼)燕枝《えんし》(一八三八―一九〇〇)、花柳物の名手四代目桂文楽(一八三八―九四)、人情ばなしの名手|春錦亭柳桜《しゆんきんていりゆうおう》(一八三五―九四)、芝居ばなしの六代目桂文治(一八四六―一九一一)、滑稽落語の二代目柳家|禽語楼《きんごろう》小さん(一八五〇―九八)などがいたが、異彩を放ったのは、ステテコ踊りの三代目三遊亭円遊(一八五九―一九〇七)、ヘラヘラ踊りの三遊亭|万橘《まんきつ》、ラッパの橘家円太郎(?―一八九八)、郭巨《かつきよ》の釜掘りの四代目立川|談志《だんし》(?―一八八九)、いわゆる〈寄席四天王〉だった。
円遊のステテコ踊りというのは、それまでの落語家の踊りといえば、坐り踊りときまっていたのに、立ちあがって尻っぱしょりで半股ひきをみせ、むこう脛をつきだして、「そんなこっちゃなかなか真打ちになれない。あんよをたたいて、せっせとおやりよ」と歌いながら踊ったものだし、万橘のヘラヘラ踊りは、小ばなしのあとで、ふところから赤手ぬぐいをだして頬かぶりをして、肌ぬぎになって緋ぢりめんの長襦袢をだし、赤地の扇子をひらくと太鼓の紋がでるのをかざして、「へらへらへったら、へらへらへ、はらはらはったら、はらはらは、赤い手ぬぐい、赤地の扇、それをひらいておめでたや、へらへらへったら、へらへらへ……」と歌いながら坐り踊りをしたのであり、談志は、落語がおわると立ちあがり、羽織をうしろ前にして、手ぬぐいをたたんでうしろはちまき、扇子を半びらきにして襟にさし、ざぶとんを二つに折ってかかえ、あわれな声をだして「アジャラカモクレン、キューライ、テコヘン、キンチャン、カーマル、セキテイよろこぶ、テケレッツのパー」とやると、太鼓が鳴り、ざぶとんをおいて扇子をとると、鍬《くわ》で釜を掘りだすしぐさになって、「この子があっては孝行ができない、テケレッツのパー、天から金釜郭巨にあたえる、テケレッツのパー、みなさん孝行なさいよ、テケレッツのパー」という文句を早口でくりかえしたし、円太郎は、ガタ馬車の御者が吹くしんちゅうのラッパを、高座へあがる前に吹いてあらわれ、高座でいろいろな唄のあいだに、「納豆、納豆!」「豆腐ィ生揚げ!」と売り声をやったかとおもうと、突然に馬車の御者をまねて、「おばあさんあぶない!」とどなって旗を振り、ラッパを吹くというナンセンスぶりをみせた。
この四人は、人情ばなし中心の東京落語界にナンセンスによる笑いをまきおこしたわけだが、それは、新時代をむかえて東京にあつまってきた新観客層の要求でもあった。とくに、新時代風俗をとりいれ、奇想天外のギャグによって古典を現代化し、新作も手がけて笑いに徹した円遊は、近代落語史上の惑星だった。
たとえば、「転宅」では、活発な女性をえがくのに、「女のくせに瓦斯《がす》燈へ昇って煙草を吸い付け」とやったり、「穴泥」では、年末、金の工面《くめん》につまった男をえがくのに、隅田川をゆく蒸汽船にうつろな目を投げかけ、日暮れに上野公園のブランコでやるせなく憂《う》さをまぎらす設定にするなど、ギャグを通じて明治の東京風俗詩絵巻を展開した。
そんな円遊の手腕によって多くの落語が面目を一新し、とくに、仏教臭のつよい陰気な落語だった「野ざらし」は、円遊の改作が原話を追放して、原話は跡をとどめない状態となった。したがって、円朝が江戸落語の完成者とすれば、円遊は近代落語の祖だった。
一方、上方では、幕末の上方落語界を牛耳っていた林家派に対して桂派が擡頭し、文枝《ぶんし》襲名をめぐる抗争から、文都《ぶんと》を中心とする浪花三友派、二代文枝を中心とする桂派との対立となって、たがいに芸をみがいたために黄金時代をむかえていた。
明治三十三年(一九〇〇)に円朝と燕枝をうしなった東京落語界は、円朝没後の三遊派の統率者であった四代目円生(一八四五―一九〇四)をも明治三十七年にうしなうにおよんで、大阪落語界の隆盛をみるにつけても善後策を立てねばならなかった。
明治三十八年、本格落語の確立をめざした三遊亭|円左《えんさ》(一八五五―一九一一)は、落語・講談速記界の大御所今村次郎に相談し、その結果、三遊亭|円右《えんう》(一八六〇―一九二四)、橘家|円喬《えんきよう》(一八六五―一九一二)、三遊亭小円朝(一八五七―一九二三)、橘家円蔵(一八六四―一九二二)、三代目柳家小さん(一八五七―一九〇三)とともに第一次落語研究会を結成した。
この会を中心とする芸道精進の結果、幾多の名手が生まれ、東京落語界は、明治末期から大正初期にかけて黄金時代にはいったが、とくに円喬と小さんは近代の名人とうたわれた。しかし、人情ばなしによって円朝と対比された円喬は、円朝が集大成した江戸落語にみがきをかけたという意味で前時代につながる人であり、滑稽落語に人情ばなしの人物描写の技術を持ちこんで深味のある笑いに徹した小さんは新時代につながる人だった。
明治から大正にはいると、前記の研究会の人たちの芸にいっそうみがきがかかったとはいいながら、活動写真や浅草オペラの流行の結果、落語界はしだいに不況にむかった。しかし、そのなかにあって、反時代的な生きかたによって独特の世界をつくった三人の落語家がいた。
それは、酒と女と勝負とに明け暮れ、特定のファンに愛された狂馬楽こと蝶花楼馬楽《ちようかろうばらく》(一八六四―一九一四)と、盲小せんこと柳家小せん(一八八三―一九一九)と、のちに四代目志ん生になった古今亭志ん馬(一八七七―一九二六)の三人で、三人はすぐれた芸でみとめあったが、それよりも、蕪雑《ぶざつ》で、功利的な新時代になじめない江戸っ子風の反俗精神を共有する純粋さのゆえにおなじ世界に住み、そこに展開される〈八笑人〉的な遊びのムードが、明治末期からの都会的|耽美《たんび》派文学流行の風潮とあいまって、ファンたちを魅了していた。
彼らとは反対に、エロ・グロ・ナンセンス、英語まじりの高座を展開して時代に迎合した柳家三語楼(一八七四―一九四〇)も異色の人気者だった。
大正から昭和にかけての上方落語は、衰退の一途をたどった。
それは、主要な落語を東京に移植され、上方弁が方言化して上方落語の鑑賞をさまたげるにいたり、さらにわかりやすい上方弁の漫才に追い討ちをかけられたためでもあった。
当時の上方では、枝雀《しじやく》(一八六三―一九二八)、枝太郎(一八六七―一九二七)の老大家、東西落語に通じた二代目桂三木助(一八九四―一九四三)、笑いの天才初代桂春団治(一八八一―一九三七)などがいたが、とくに春団治の存在は異彩を放っていた。
春団治は、方言化した大阪弁の魅力を逆に最大限に活用し、大阪落語の特長をいかんなく発揮して爆笑の渦をまきおこしていた。
いつも派手な極彩色の高座着に、背中一ぱいに定紋のついた印《しるし》ばんてんのような羽織で高座へのぼり、シルクハットをかぶった男が駕籠に乗って、あたまがつかえると大さわぎをする「ちしゃ医者」、うなぎやの主人が、うなぎをもったまま電車にとび乗る「しろうとうなぎ」など、その奔放な日常生活を反映した高座は、とてつもないエロ・グロ・ナンセンスのはんらんで、ある意味では大阪落語の真髄をいかんなく表現した天才だったといってよかろう。
漫才優勢の上方演芸界にあって、戦時中は、五代目|笑福亭松鶴《しようふくていしようかく》(一八八六―一九五〇)を中心に〈上方ばなしをきく会〉を開催し、雑誌「上方ばなし」を発行するなど悲壮な努力をつづけたが、現在は、三代目桂|小文枝《こぶんし》(一九三九―)、桂|米朝《べいちよう》(一九二五―)、四代目春団治(一九三〇―)などを中心に失地回復をめざして精進をつづけ、着々とその成果をみせつつある。
昭和初期の東京落語界には、兵隊物を手はじめに、ぞくぞくと新作を自作自演をして売りだした柳家金語楼(一九〇一―七二)、細緻な演出で名人芸をうたわれた五代目三遊亭円生(一八八三―一九四〇)、風刺と警句で鳴らした五代目|三升家小勝《みますやこかつ》(一八五八―一九三九)、渋い持ち味の六代目三遊亭可楽(一八八六―一九四四)、巧技の八代目桂文治(一八八三―一九五五)、枯淡の味の四代目柳家小さん(一八八八―一九五七)などがいたが、太平洋戦争中は、講談、浪曲のように国家主義的イデオロギーを看板にしなかったために冷遇され、昭和十六年(一九四一)には、落語家たちみずからの手で、廓《くるわ》物、花柳物、妾物、姦通物、酒のはなしなど五十三種を禁演落語としてえらび、浅草本法寺に〈はなし塚〉を建ててほうむり、政府の意に添おうとしたほどだったので、まさに暗黒時代だった。
太平洋戦争が終ってから間もなく、多くの人材が世を去った。
東京では、落語協会会長の四代目柳家小さん(一八八一―一九五七)、愛嬌ある滑稽咄の七代目林家正蔵(一八九四―一九四九)、戦後の落語復興の推進力ともなった二代目三遊亭歌笑(一九一七―五〇)などが、上方では、衰退する上方落語をささえた五代目|笑福亭松鶴《しようふくていしようかく》(一八八六―一九五〇)や四代目桂|米団治《よねだんじ》(一八九五―一九五一)などがそれだった。
昭和落語の全盛期は、二十六年(一九五一)、民間放送発足以後におとずれた。
粋で軽妙な三代目春風亭柳好(一八八九―一九五六)、綿密な演出の八代目春風亭柳枝(一九〇五―五九)、粋なうちに知的な味も見せた三代目桂三木助(一九〇二―六一)、明快な調子の人気者三代目三遊亭金馬(一八九四―一九六四)、渋い個性の七代目三遊亭可楽(一九〇二―六四)、明朗な新作物の二代目三遊亭円歌(一八九一―一九六四)、昭和落語の最高峯とうたわれた八代目桂文楽(一八九二―一九七一)、文楽と並び称せられた独特の名人芸五代目古今亭志ん生(一八九〇―一九七三)、持ちネタの数と至芸をうたわれた六代目三遊亭円生(一九〇〇―七九)、人情ばなし、芝居ばなしの名手林家彦六(一八九五―一九八二)、本格的落語の名手五代目柳家小さん(一九一五―)、重厚な風格の初代春風亭柳橋(一八九九―一九七九)、新作派の闘将六代目古今亭|今輔《いますけ》(一八九八―一九七六)、新時代のセンスあふれる小咄の人気者林家三平(一九二五―八〇)などが黄金時代を形成した。
現在の東京は、落語協会に、五代目柳家小さん(一九一五―)、明朗な新作の三代目三遊亭円歌(一九二九―)、繊細で粋な二代目古今亭志ん朝(一九三八―)、滑稽咄の人気者八代目橘家円蔵(一九三四―)、飄逸な本格派十代目柳家小三治(一九三九―)などがおり、落語芸術協会に、軽妙な新作派の四代目桂米丸(一九二五―)、颯々たる妙味の新作物の三代目春風亭|柳昇《りゆうしよう》(一九二〇―)、滑稽物の十代目桂文治(一九二四―)などがおり、ほかに五代目三遊亭円楽(一九三三―)一門の円楽党、五代目立川談志(一九三六―)一門の立川流などがあるが、文楽、志ん生、円生などを筆頭とした名人上手の消えた穴は大きい。
一方、現在の上方は、三代目桂|小文枝《こぶんし》(一九三九―)を会長とする上方落語協会があり、前記の米朝、春団治のほか、二代目桂|枝雀《しじやく》(一九三九―)、桂三枝(一九四三―)、桂|文珍《ぶんちん》(一九四九―)などの若手が全国的な人気を集め、落語向きの寄席がないという悪条件のなかで、上方落語興隆に精進をつづけている。
これらの人たちの芸の発表場としては寄席のほかに、各種の研究会形式のホール落語会があって活発なうごきをみせている。しかし、社会が落語の世界におさまらないようなダイナミックなうごきをみせ、テレビを通じて全国の芸に無関心な視聴者までも対象としなければならなくなった現在、つねに大衆と直結する生きた庶民芸能であるだけに落語の道はけわしいが、四百年の歴史を持つ伝統的な笑いの芸術として、あらゆる努力を払ってもつぎの時代への道を切りひらかねばならない。
(一九八五年十一月七日 補筆訂正)
○編著者 |興津 要《おきつ かなめ》
一九二四年栃木県生まれ。早稲田大学国文科卒。早稲田大学教授。日本近世文学、ことに江戸戯作を専攻。一九九九年没。著書、「転換期の文学――江戸から明治へ」「明治開化期文学の研究」「新聞雑誌発生事情」「小咄 江戸の一年」「江戸庶民の風俗と人情」「江戸小咄漫歩」ほか多数。
本書収録の作品の一部に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、古典落語という作品の性質上、一応そのままとしました。ご了承ください。