不思議の国の野球 チェンジアップを16球
〈底 本〉文春文庫 平成三年四月十日刊
(C) Masayuki Tamaki 2000
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目 次
幻想童話篇
チャールズ・L・ドジャース作/玉木正之訳
SFドタバタ小説篇
フィクション“ノンフィクション・フィクション”
ブロードウェイ・コメディ篇
ニール・ガーファンクル作/玉木正之訳
時代小説篇
元禄花見忠臣蔵外伝
講談篇
序の段
SF歴史ドキュメント篇
from“Japan Day by Day”by H. T. Bass
上方漫才篇
中田丸大・ソケット/仁生幸朗・生恵倖代
純文学書下し特別作品篇
|野球人《ベースボーリスト》Bの冒険
現代演劇篇
悪夢の貧民舎特別公演台本
諧謔時代小説篇
芥川龍之介賞立候補作品
本格歴史ドキュメント篇
知られざる昭和史発掘
裁判傍聴記篇
裁かれたトリックスター
ノン・ノンフィクション篇
大阪ミナミ非感傷旅行記
ノン・ノンフィクション篇PART
続・大阪ミナミ非感傷旅行記
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不思議の国の|野 球《ベースボール》
チェンジアップを16球
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第1球 不思議の国のマスミ
チャールズ・L・ドジャース作/玉木正之訳
MASUMI'S
ADVENTURE
IN
GIANTLAND
by
Charles Lutwidge Dodgers
copyright 1986
by FAKE ENTERPRISE, INC.
その一 |兎《うさぎ》の|穴《あな》
グラウンドでの|お稽古《トレーニング》がおわり、チームメイトのみんなが芝生の上でお休みしていたときのことです。
『あ〜あ、ほんとうに、どうしてこうも、つまらないんでしょう……』と、マスミは心の中で、ため息をつきました。『だって、ここにいるお友だちときたら、みんなマンガのご本しか読まないんですもの……』
マスミは、字のぎっしりとつまった本が大好きで、『マンガなんか、いったい何の役にたつのかしら』と考える子供だったのです。
ところが、彼女の友だちたち――それは、イガグリ頭のバットやボールやグラヴだったのですが、彼らはマンガ以外の本が大嫌いで、マスミがポケットから|文庫本《ペーパーバツク》を取り出して読みはじめたりしようものなら、「なんや、また、わけのわからん難しい本を読んどるやんけえ」と、下品なことばで冷やかすのでした。
『|早大《カレツジ》に進学しても同じことなのかしら。やっぱり、みんな授業中には居眠りをして、それ以外のときには、マンガのご本ばかり読んでるのかしら……』授業中にただの一度たりとも居眠りをしたことのないマスミは、そんなことをぼんやりと考えながら、みんなから離れてひとりで字のぎっしりとつまった本を読むために、ぶらぶらと歩き出しました。
そのときのことです!
赤い眼をした白兎が一匹、ひょっこり彼女の前に現われて、二本足で駆けて行きました。それだけのことなら、べつにたいしたことではなかったのですが、その兎は、眼鏡をかけ、三ツ揃えの素晴らしい仕立てあがりの背広を着て、まるでどこかの|会社《チーム》の|社長さん《オーナー》のように、お|腹《なか》をつき出していたのです。そのうえ、チョッキのポケットから鎖のついた金時計をとり出し、それを見て「おや! おや! おくれっちまう!」と、ひとりごとを口にしながら走って行くのです。
しかし、それでもマスミは驚きませんでした。
『いまのは、きっとアリス(註1)が見たのと同じ兎だわ。でも、わたしは彼女のような|夢想家《ロマンチスト》じゃないし、|現実主義者《リアリスト》だから、だれがあんな兎のあとを追いかけたりするもんですか――』
ところが、マスミは兎のかぶっている帽子を見て、びっくり仰天してしまいました。
なんと、 のマークのついた帽子を、
その兎はかぶっていたのです。
「兎さん! 待ってえー!」
マスミは、大あわてで兎のあとを追い、生垣を越え、小川を石づたいに渡り、桑田(註2)を横切り、野原をつっ切りました。そして、周囲にだれも人のいないところまで来ると、突然前を走っていた兎が足を止め、マスミを振り返って言いました(この兎は、着ている背広と同様、とっても偉そうに喋りました)。
「オッホン! どうだい、このまま、わたしの王国まで、ついて来ないか?」
マスミは、あまりに唐突な質問をされたので、答えに困ってしまいました。そこで、こんなふうに、たずね返しました。
「王国って、いったいだれの、そして、どんな王国なの?」
兎は、ちょっとばかり、ムッとした表情を見せましたが、すぐに肥満した顔に微笑をとり戻して、こう言いました。
「王国といえば、それは、きみ、決まってるじゃないか。わたしの、|投手王国《ヽヽヽヽ》の|コトガラ《ヽヽヽヽ》のことじゃよ。わたしは、いつも王国の百年先の繁栄を考えておる。しかし、百年先のことを考えるためには、五十年先のことを考えなければならない。そして五十年先のことを考えるためには十年先、十年先のことを考えるには来年のことを考えなければならない。わかるかね。このような|コトガラ《ヽヽヽヽ》こそ、社会の哲理(註3)というものじゃよ。オッホン! そこで、じゃ。来年からは|投手王国《ヽヽヽヽ》を築こうと、|王様《ヽヽ》とわたしの二人で考えたというわけじゃ。だから、きみには是非ともわたしの王国へ来てもらいたいと思っとるんじゃが……」
マスミは、兎が「コトガラ」ということばを使うのが好きだということ以外、何を言っているのか、さっぱりわかりませんでした。それに、彼女がちょっぴり耳にしていた|噂《うわさ》では、この|不思議の国《ジヤイアント・ランド》では、投手王国ではなく、最初は打高投低(註4)の国を創る計画だったはずなのです。
『だったら、カズヒロ(註5)くんのほうを誘うべきなのに、まったく、不思議な話だわ』と、マスミは思いました。が、『でも、これはカズヒロくんを出し抜くチャンスかもしれない』と思ったマスミは、面倒なことを避け、いちばんわけのわからないひとつの|コトガラ《ヽヽヽヽ》だけきき返すことにしました。
「王様がいるっていうのなら、あなたは、あなたの王国で、いちばん偉いんじゃないの?」
このマスミの質問に、兎は再びムッとしました。そして、急にヒステリックに怒鳴りました。
「わたしは、王様よりも偉いんじゃ! 王様なんて名前だけ。この国は、わたしがすべてを支配する、わたしのオモチャみたいなものなんじゃ! とにかく、来るのか、来ないのか!?」
マスミは、兎の口にしたことばに大いに不満を感じましたが、兎のかぶっている帽子についているのマークを改めて見直し、あわてて答えました。
「ええ、もちろん、行きますとも!」
すると兎は、赤ん坊のような可愛い笑顔を浮かべて、「よし! 時間がない。急ごう!」と言ったかと思うと、そばにあった草むらの中の、大きな|兎穴《うさぎあな》にぴょんと飛び込みました。
「あっ。兎さん、待って!」
マスミも続いて飛び込みました。
ところが、兎穴は、前も後ろもわからないくらい真っ暗なのです。いいえ、それどころではありません。マスミは、まるで深い井戸にはまったかのように、どんどんどんどん落ちて行きはじめたのです。光もなく、音もない空間を落ちながら、マスミは考えました。
『このまま、地球の反対側まで落っこちてしまったら、わたしは大リーガーをめざさなきゃいけなくなるわ。でも、わたしの百七十六センチという身長じゃ、いくらからだをうまく使っても、それは、ちょっと無理なんじゃないかしら…………』
もっとも、その心配は無用でした。
やがて、周囲からザワザワと聞きなれたことばがきこえてきたのです。
その二 |文房具《ぶんぼうぐ》たちの|襲撃《しゆうげき》
そのザワザワと|囁《ささや》くような声は、だんだんはっきりきこえてくるようになると、奇妙でいやらしい響きをしていることがわかりました。
それは、まるで、毛ジラミやウジ虫(註6)がことばを話せば、きっとそんなふうに響くに違いないと思えるようなものだったのです。そのうえ、その声は、「ウソつき!」「裏切り者!」などと、わめき散らしていたのです。
『まあ、そんなひどいことを言うのは、いったい誰かしら?』
やがて空間を落ちることがおわり、地面に両足がついて、まわりが明るくなると、毛ジラミやウジ虫だと思っていた声の正体がわかりました。それは、えんぴつやボールペンや原稿用紙やカメラから手足のはえた、文房具のお化けだったのです。彼らは、マスミをとり囲み、「ウソつき! 裏切り者(註7)!」と、ののしりつづけました。
「あなたたちは、そんなふうにわたしをいじめるけど、わたしは、ただ兎さんのかぶっていた帽子のマークが大好きだからついて来ただけのことよ」と、マスミは反論しました。
でも、その反論の仕方は、ちょっとまずかったかな……と、彼女は思いました。『目に涙をいっぱいためて、素直に謝っておけばよかったのかしら。でも、なんでわたしが謝らなきゃならないのかしら……』などと不思議に思っていると、文房具たちは、いっそう強い口調で「ウソつき! ウソつき! ウソつき!」と、繰り返します。
マスミが、どうしていいかわからなくなって立ちすくんでいると、兎が引き返してきて言いました。「マスミくん、何をしているんだ。そんなウジ虫みたいな連中は放っておきなさい。さあ、早く、こっちヘ!」
マスミは助かりました。というのは、兎の姿が見えたとたん、文房具たちは急につくり笑顔を浮かべて、話題を変えたからです。それでも、文房具たちの口にした新しい話題というのも、ひどいものでした。彼らは、兎とマスミの歩くあとに、まるで金魚の|糞《フン》のようにくっついてきて、「マスミちゃん、いま、はいているパンツの色は何色?」とか、「朝食はミソ汁とごはん? それともパンとミルク?」などと、まるでどうでもいいことばかりたずねるのです。なかには、「ねえ、ねえ、初体験はまだなの? それとも、もう済んだの?」といった失礼な質問を、平気で口にする文房具までいました。
マスミは、ウンザリして「|糞《フン》!」と鼻でせせら笑い、兎に言われたとおり、そんなウジ虫みたいな連中を無視することに決めました。
『でも……』と、マスミは不思議に思うことがありました。『この国に、こんなにウジ虫みたいな連中が集まってくるってことは、この国が腐りかけているからかしら。だって、ウジは腐肉にたかるものだから……』
その三 |芋虫《いもむし》の|忠告《ちゆうこく》
兎のあとについて行くと、広い野っ原に出て、そこは予想していたとおり、グラウンドでした。
もちろんマスミは、大喜びでそのグラウンドに飛び出したのですが、驚いたことに、グラウンドに立ったとたん、自分のからだが急に小さくなってしまったように惑じたのです。
『あら、おかしいわ。わたしは、まだ、パイやカスタードや七面鳥の|炙肉《あぶりにく》の味のする飲み物(註8)を飲んでいないし、|茸《きのこ》も口にしていないのに、どうして小さくなってしまったのかしら……』と、マスミは首を|傾《かし》げました。
そのとき、「ははははは。ははははははは。ははははは」という笑い声が、うしろのほうから聞こえたので、振り向いてみると、そこには、足が|二十六本《ヽヽヽヽ》も(註9)ある|芋虫《いもむし》がいました。
「自分のからだの変化に驚いているね、お嬢さん」芋虫は、やさしいけれど、少しばかり尊大な口調で言いました。「だれだって、この国に入ったとたん、からだが小さく感じられるんだよ。でも、そんなことは気にせず、毎日まいにちグラウンドを走ってごらん。汗をいっぱいかいて、からだを鍛えてごらん。そうすれば、からだは、あっという間に大きくなる。ぼくは、じつは、きみと同じ|背丈《せたけ》なんだけど、どうだい、ぼくのほうがずっと大きく見えるだろう」
マスミは、『そんなこと、いまさら言われなくたってわかってるわ。わたしは、これまで毎朝一日たりとも走ることを欠かしたことがなくってよ』と、反発したくなりました。が、芋虫の言うことは、べつに間違ってはいないと思ったので、素直にうなずいておくことにしました。
「それから、もうひとつ。きみに忠告しておきたいことがある」と、芋虫は続けました。「きみは、|お稽古《トレーニング》がとっても好きなようだが……」
「ええ、とっても好きよ」と、マスミは口を挟みました。
「うん、よろしい。それなら、|トド《ヽヽ》には近づかないことだ。最近の若い連中は、みんな次つぎとトドの手下になって駄目になっている。だれもが、トドのような練習嫌いになっているんだ。トドは、この国の|癌《がん》なんだよ」
「トド? ドードー(註10)じゃないの?」と、マスミはききました。
「いや、トドだ」と、芋虫は答えて、次のような奇妙な|横向き《ヽヽヽ》の歌を、うたい出しました。
[#地付き]
マスミは、いちばん下の二列のことばに、ちょっぴりひっかかりを感じました。それに、『この芋虫は、ひとりぼっちのうえに、いったい、いつになったらきれいな|蝶 蝶《ちようちよう》になるのかしら? こんな歌をうたっているようじゃ、いまにこの国を追い出されて、根性の大好きな|竜 の 国《ドラゴン・ランド》にトレードされるに違いないわ』と思いましたが、そのことを口にするのは、とっても失礼なことだと気づき、「芋虫さん、素晴らしい御忠告をありがとう」とだけ言っておきました。
その四 トドとその|手下《てした》
「やあやあやあやあ。YAH! きみが新入りのマスミくんかね。どうだい、フランス料理は好きかい?」
そう話しかけてきたのは、二十六本足の芋虫が「近づくな!」と警告したトドでした。
「フランス料理よりも、ブラームスのほうがお好き(註11)かな? わっはっはっはっHAHAHAHAHA。どうだい。素晴らしいギャグだろう」マスミには、少しも面白いとは思えなかったのですが、トドはひとりで笑い、ひとりで|喋《しやべ》り続けました。「仲間になろう。おれのことは、デーブと呼んでくれ。えっ? どうしてデーブだって? それは、おれがデブだからさ。わっはっはっはっHAHAHAHAHA。ところで、きみはフランス料理が好きかい? だったら、おれと趣味が合うんだが……それとも、株に興味があるのかな? そう、財テクだよ財テク。いや、それより、不動産の売買をやってみないか? ガッポリひと儲けできるぜ。いやいや、そんなことより、おれと一緒にレストランか焼き鳥屋のチェーン店でも開こうか? いや、きみさえよければ、芸能プロダクションを始めてもいいんだぜ。なんなら、旅行会社でもいい。きみもおれも、スターとしての才能に恵まれているんだから、このままボール遊びだけやってるなんて、もったいないこった。さあ、何をやろう!? 何からやろう!? きみがいちばん興味のあるのは、何かな……?」
マスミは、大きな図体のトドが、次から次へと機関銃のように喋りまくるので、圧倒されてしまって何も答えることができませんでした。それでも、彼女は英会話スクールに通ったり、宅建の免許を取る勉強をしていたので、『興味のあるのは海外旅行。だから旅行会社をやりたいわ。それに不動産にも興味があるの』と答えようかと思ったのですが、なんだかトドとそんな話をすること自体がおかしいように思われたので、「わたしは、どれにも興味がないわ。わたしは、|お稽古《トレーニング》と|試合《ゲーム》をがんばってやるために、この国へやって来たのよ」と言いました。
すると、トドは大きなお|腹《なか》をかかえて大声で笑い出しました。「わっはっはっはっHAHAHAHAHA。こりゃ、ケッサクだ。ゲームにがんばるだって? ゲームは、がんばるものじゃなく、楽しむものだぜ。それに、きみは、この国のいまの王様が、いったいどんな人物だか知らないね」
マスミは、あまりに|他人《ひと》を見下したようなトドの話し方に腹を立て、本当はこの国の王様がどんな人物だか全然知らなかったのですが、こう言い返しました。
「あら、残念でした。どんな王様かくらい知っていましてよ」
「いや、そんなはずはない」トドは、ますます高圧的に、そして断定的に言いました。「王様がどんな人物だか知っていれば、『がんばる』なんてことばを使えるわけがない。いいかい、いまの王様は、|1+1=2《いちたすいちはに》だなんて言う王様なんだぜ」
マスミは首を傾げながら、「それで間違ってないんじゃないの」と言いました。
「冗談じゃない! むかしの“ミスター”と呼ばれた王様は、|1+1=3《いちたすいちはさん》と言ったり、|4《よん》と言ったりする、そりゃ、もう、素晴らしく楽しい王様だったんだ。なのに、いまの王様ときたら、この国を流れる川の|川上《ヽヽ》のほうに住んでいる女王様の尻にしかれっぱなしで、|1+1=2《いちたすいちはに》という当たりまえの答えを出すのにさえ、いちいち女王様の顔色をうかがうんだ。まったく、いやになっちゃうよ」
トドは顔を曇らせて、なんだかむかしをなつかしむような視線で、遠くの空を見上げました。が、マスミには、トドが何を言いたいのかさっぱり理解できません。そこで黙っていると、トドは「こりゃ駄目だ。おれがこれだけ説明しても、こいつにはおれの話すことばがわからない。おれにも、こいつが何を考えているのか、|皆目《かいもく》見当がつかない。|トド《ヽヽ》のつまり、こいつは新人類ってわけだ」と言ったあと、「おーい、みんな集まれ! 新人類の誕生パーティだ!」と大声で叫び、グラウンドにいる連中を呼び集めました。
すると、まず金太郎(註12)にそっくりの顔をした|いかれ帽子屋《ヽヽヽヽヽヽ》がすっ飛んで来ました。マスミは、このいかれ帽子屋とは以前から顔見知りだったので、「久しぶりね」と声をかけました。
「やあ、久しぶりだね。これから、きみの誕生パーティだ。派手に騒ごうぜ」と、帽子屋は言いました。
「でも、今日は、わたしの誕生日なんかじゃないのよ」
「そんなことわかってるよ。でも、誕生日を待ってたんじゃ、一年に一回しか大騒ぎできないんだぜ。ところが、誕生日じゃない日を祝えば、一年に三百六十四回も楽しめる。それが、いまの、この国のやり方さ。|金曜日《フライデー》(註13)だけ注意すりゃいいんだ。さあ、一年に三百六十四回のバカッ騒ぎだぁー!」
『こんなにはしゃいでいては、この帽子屋さん、いまに大きな|火傷《やけど》をするに違いないわ』と、マスミは思いましたが、いかれ帽子屋は、そんなマスミのクールな眼つきなんかおかまいなしに踊り出しました。そこでマスミは、『まあ、いいわ。これで、ひとりライバルがいなくなったってことですもの……』と思いました。
そこへ、|左きき《ヽヽヽ》の、|十三《ヽヽ》月ウサギ(註14)がやって来て、マスミにこう言いました。
「お稽古や試合のことなら心配しなくっていいよ。きみより一年先輩のおれ様が、クルマでブティックにも喫茶店にも、案内してやるよ」
「ブティックや喫茶店!? お稽古場や試合場のことなんじゃないの?」と、マスミは驚いてきき返しました。
「それは、ブティックや喫茶店で、買い物やお茶を楽しんでからの話だよ」と、十三月ウサギは言いました。『またひとりライバルが消えたわ』と、マスミが心の底でニヤリと笑ったことは、言うまでもありません。
そうこうしているところへ、胸と背中に書かれている番号でしか違いのわからない、だれもが|のっぺり《ヽヽヽヽ》とした|しまり《ヽヽヽ》のない顔つきをしたトランプたちが集まり、いつの間にか、マスミの|非《ヽ》誕生日を祝う大パーティになりました(もっとも、芋虫だけはパーティにやって来ませんでした)。
もちろん、パーティの主賓はマスミです。そこで、だれもが次つぎに彼女に話しかけました。
「マスミ、ちょっとくらい|飲《や》るんだろ?」
「いいえ、わたしは全然|飲《や》らないの」
「チェッ!」
「マスミ、一曲なにか歌えよ」
「いいえ、わたしはカラオケが大嫌いなの」
「チェッ!」
「マスミ、次の休みの日にゴルフをしよう」
「いいえ、わたしはゴルフをやらないし、休みの日には、英会話のレッスンがあるの」
「チェッ!」
「マスミ、|昨日《きのう》の『おれたちヒョーキン族』は、おもしろかったなあ」
「いいえ、わたしはテレビを見ないの。映画なら大好きなんだけど」
「チェッ!」
「マスミ、今週号の『少年ジャンプ』の……」
「いいえ、わたしは漫画なんか……」
「チェッ!」
「マスミ、…………」
「いいえ、わたしは…………」
「チェッ!」
「マスミ」
「いいえ」
「チェッ!」
そのうちに、パーティ会場のグラウンド全体に「チェッ!」「チェッ!」「チェッ!」と、舌打ちする音が渦巻き、「つまらないヤツだなあ……」と囁き合う声が、あちこちから聞こえてきました。
マスミは、こんな会話がいやになって、大声で叫びました。
「やめてっ! わたしは、野球をやりに、この国へ来たのよっ! 遊びに来たんじゃないのよっ!」
そのとたん、あたりは水を打ったようにシイイイーン……と静まりかえりました。
みんな、信じられないといった顔つきで、マスミの顔をジイイイッと見つめ続けます――。
その五 |王様《おうさま》と|女王様《じよおうさま》とチェシャ|猫《ねこ》
だれもがしらけ切ったところで、トドが「オッホン」と、口を開きました。「パーティは、また|明日《あした》。これからは、マスミ抜きでやることにしよう」
そのことばを合図に、一人去り、二人去り、やがて順々にみんなが立ち去り、とうとうマスミひとりを残して、だれもいなくなってしまいました。ただ、そのとき、トランプの“7のカード”だけは、こっそりとマスミに近づき、彼女の耳元で、「おれは、きみが正しいと思うぜ」と囁きました。また、|プリンス《ヽヽヽヽ》のカード――この国のトランプには、キング、クイーン、ジャックのほかに、そんなカードがあったのです――は、マスミに向かって、「キミは、僕よりもしっかり者だね。今度、中華料理でも食べに行こうよ」と、言いました。マスミは、プリンスのお誘いを、心からうれしく思いましたが、何日かあと、彼に誘われるまま中華料理を食べに行って、がっかりしてしまいました。というのは、プリンスは、ただ|えへらえへら《ヽヽヽヽヽヽ》と笑いながら、「一緒にがんばろうね」と言うばかりで、マスミにとってプラスになるような教訓を、何ひとつとして話してはくれなかったのです。そしてマスミは、『こんなプリンスじゃあ、内角の球を怖がり、チャンスに打てないのも当然だわ』と溜息をついたのでした。
しかし、マスミにとって、素晴らしい出来事もありました。
それは、この国へ来て以来のマスミの態度や行ないの一部始終を、王様と女王様が見ていたことでした。
「マスミは、この国のために、とても役に立つ存在だと思いますが、|ドン《ヽヽ》なものでしょう、|ドン《ヽヽ》?」
と、王様は女王様に訊ねました。
すると、「ドン(註15)」と呼ばれた、王様よりもずっと齢をとっていて偉そうな女王様は、もったいぶった口調で、こう言いました。
「うむ。マスミは、人の道、道徳の道、座禅の道、それに金儲けの道にぴったり最適の人材じゃ。しかも、親孝行な子供だとも聞いている。これこそ、野球道の王道を歩む人物じゃ。ただちに、あの子を、|切り札《エース》として使いなさい」
それからすぐに、マスミは、幼ない頃からの夢だった、この国の|小さな山《マウンド》に立つことを許されたのです。彼女の胸ははち切れんばかりの喜びであふれ、『よーし、この次は、もっと大きな山の頂上をめざすわ。わたしは、どんなにからだが小さくたって、そのからだの百の力を出す方法を知っている。お稽古も一所懸命やっている。だから、ただガムシャラにお稽古を繰り返すだけの芋虫や、体は大きくてもお稽古をなまけてばかりいるトドなんかに、負けるもんですか!』と、誓いました。
そして、青く広がる大空に向かって、こう叫びました。
「王様ありがとう。女王様ありがとう。それに、わたしの大好きなマークのついた帽子をかぶった兎さんも、ほんとうに、ありがとう!」
そのとき、マスミは自分のからだが、ぐぐぐーんと大きくなったように感じられました。
が、|小さな山《マウンド》に立った彼女の耳に、奇妙な歌声が横のほうから聞こえてきました。それは、|顎《あご》がエラのように張り出したチェシャ猫(註16)の歌う声でした。
そして、チェシャ猫は、猫のくせに、犬の鳴き声と|郭公《カツコウ》の啼き声をまぜ合わせたような奇妙な声でなきました。ワン公ワン公ワン公ワン公ワン公(註17)…………と。
マスミは、チェシャ猫のうたった歌と鳴き声の意味が、はっきりとはわかりませんでした。が、それでも、それももっともだという気がして、チェシャ猫に向かってニッコリと微笑みました。
『それにしても、この国は不思議な国だわ。だれもがみんな、自分勝手で、てんでんばらばら……。でも、きっとこれでいいのね。こういうのを、プロ(註18)って言うのだわ。そうよ。きっと、そうよ。この国は、わたしにぴったりの国だわ……』
そう思った|瞬間《とき》から、マスミはとっても明るい気分になり、|小さな山《マウンド》のうえで大活躍できるようになったのでした。
そんなマスミが、不思議の国の住民たちの自分勝手な生き方を見習って大失敗し、みんなに『カズヒロのほうを誘っておいたほうがよかった』と思われる顛末はまた別の機会に――。
●註―――原文には、いっさい注釈がない。したがって、ここにあげる〈註〉は、すべて訳註である。
〈註1〉 アリス=ルイス・キャロル(本名チャールズ・L・|ドッジソン《ヽヽヽヽヽ》)の書いた『不思議の国のアリス』に出てくる主人公。
〈註2〉 桑田=原文 mulberry field は、|桑畑《ヽヽ》と翻訳するほうが正しい。が、そこには当然、隠された意味が付与されていると解釈し、|桑田《ヽヽ》と訳した。
〈註3〉 社会の哲理=前後の文脈からは意味不明だが、「|社長さん《オーナー》」のように偉い人は、よくこのようなわけのわからない難しい言葉を好んで使う。
〈註4〉 打高投低=本篇に登場する王様が、王様の座についたとき、「打高投低の|国《チーム》をつくりたい」と発言したという記録が残されている。が、その言葉は、二年後には「投手王国をつくりたい」と、改められた。
〈註5〉 カズヒロ=山倉和博のことではない。
〈註6〉 毛ジラミ=『報道記者は、|行動《アクシヨン》の間近にいる。行動(アクシヨン)の一部ではないが、しかし 陰毛にたかる|毛虱《けじらみ》が、子供をつくる行為のすぐ間近にいるように、それに近い』(ノーマン・メイラー著『一分間に一万語』より)すなわち、毛ジラミとは、報道記者のことを指す。ウジ虫=チャールズ・L・ドジャースのもうひとつの作品『鏡の国のマスミ』には、カメラから手足のはえたお化けがマスミを写真に撮ろうとしたときに、マスミが「ウジ虫」と呼ぶシーンがある。すなわち、ウジ虫とはカメラマンを指す。
〈註7〉 裏切り者=新聞記者を裏切った者のこと。新聞記者以外の者を裏切っても、マスコミは、騒がない。
〈註8〉 カスタードや七面鳥の……=『不思議の国のアリス』では、これらの味のする飲み物を飲んだアリスのからだが、大きくなったり小さくなったりする。もちろん、そんなものを飲まなくてもからだが伸び縮みする世界のほうが怖ろしい。
〈註9〉 足が二十六本=本篇で使われている数字には、すべて謎が隠されている。原作者(チャールズ・L・|ドジャース《ヽヽヽヽヽ》)は、芋虫に背番号を付けるわけにはいかないので、足を二十六本にしたのだろう。
〈註10〉 ドードー=『不思議の国のアリス』に出てくる、現在は絶滅してしまった大型鳥類(ドードー鳥)のこと。トドも、肩に奇妙な|鍼《はり》を打って絶滅(引退)してしまった。
〈註11〉 ブラームスはお好き?=フランスの女流作家F・サガンの小説の題名。トドは その小説の|題名だけ《ヽヽヽヽ》を使ってシャレを言ったことに注目。トドの口にするシャレは、いつもその程度だった。
〈註12〉 金太郎=原文 Chintatsuro には、当然、原作者によって深い意味がこめられていると思われるが、直訳すると下品になるので「金太郎」と訳した。
〈註13〉 |金曜日《フライデー》=フライデーのこと。
〈註14〉 左ききの十三月ウサギ=『不思議の国のアリス』には、|三月《ヽヽ》ウサギの名で出てくるルナティックな(気の狂った)ウサギ。十三という数字については、〈註9〉参照。
〈註15〉 ドン=原文 Doong には「職業安定所所長」という意味がある。つまりドンにゴマをすると身分が安定する日本語の|首領《ドン》の語源か。
〈註16〉 チェシャ猫=チェシャ(Cheshire)と発音したときの口の形のように、口を左右に大きく広げて笑う猫のこと。本篇の顎のエラの張ったチェシャ猫は、Zekkocho と笑ったという説もある。
〈註17〉 ワン公=チェシャ猫がウジ虫に向かってこの言葉を口にしたと知った王様は、最初立腹したが、のちに仲直りした。それは、「王」の中国語読みである wong に、「公」という敬語をつけた言葉だとわかったからか?
〈註18〉 プロ= proletariate の略。
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第2球 小説“実録小説”
フィクション“ノンフィクション・フィクション”
1
トゥルルルル…………トゥルルルル…………トゥルル…ガチャ。
電話のベルは二回半。
オレは命令されているとおり、いつものように受信回路のスイッチをONにした。
「あああ、もしもし。ああ、もしもし。ああああ、猿田さんの、おおお、お宅でしょうか」
電話の声に聞き覚えはなかった。もっと精確に言うなら、インプットされているデータ記憶回路に、同定できる声紋はなかった。早い話が、はじめて聞く声である。
「えええ、わたし、はじめてお電話します、ううう、洸社の雑誌『週刊ジュエリー』の|鯰田《なまずだ》というもんですが、あああ、猿田さん、いや、猿田先生、そのおお、猿田定九郎先生はいますか、いや、おられますか」
|鯰田《なまずだ》と名乗った男が少々とちりながら話す間に、オレの通話相手価値判定回路が作動した。
〈推定年齢二十五〜七歳。推定血液型B型。推定編集者歴三〜四年。ランクC――〉
オレは、その判定を受け、少しばかり尊大な態度で返事することにした。
「はい。わたくしが猿田定九郎ですが、いったい、どのような御用件で」
「いやあ。それはどうも。どうもどうもはじめましてどうも。いやあよかったよかった本当によかった。お忙しいと聞いとったのに、ズバッと一発でつかまえることが、いや、お話することができて、本当によかったよかった助かりました」
通話相手価値判定回路が、鯰田のランクを〈C〉から〈D〉に落とした。
「じつはですねえ。そのおお、御多忙は百も承知でわかっておるのですが、あああ、できましたら、あああ、原稿を一本、軽ーくお願いしたいと思いまして、えええ」
〈またか。今日はこれで三本目だ〉と、オレはうんざりした気持ちになった。が、自動応答回路が働いて、勝手に肯定的な返事をした。
「まあ、お引き受けできないこともないですが」
結局、オレはどんなに忙しくても仕事をいっさい断われないよう|命 令《インプツト》されているのだ。
「いやあ、よかったよかった本当によかった助かりました」
鯰田の喜ぶ声が、受信回路にびんびんと響いた。オレは仕方なく自動応答回路の話したあとを引き継いだ。
「それで、テーマは」
「それは、もう、猿田先生にお願いするわけですから、プロ野球をテーマにしたスポーツ・ノンフィクション|もの《ヽヽ》に決まっておりまして、ほら、ジャイアンツのクワタとライオンズのキヨハラあたりを、ライバル物語とでも言いますか、そういうような人間ドラマに、つまり、ヒューマン・ドキュメントにでっちあげて、いや、仕上げていただければ大変ありがたいと、まあそういうわけなんですが……」
〈それは、マズイ――〉作動中の原稿作製回路|β 《ベータ・ツー》が赤信号を発した。
「じつは、いま同じテーマでほかの雑誌に原稿を書いている最中でして」
「うわーっ、まいったなあまいったなあ。誰の考えることも同じなんだなあ。まいったなあ困ったなあ弱ったなあ。ああああああ、うん。そいじゃあ、まあ、それは仕方ないとして、ほら、タイガースにトーヤマってピッチャーがいるでしょ。あれ、あれ、あれでいきましょう。あれはクワタと同期だから、あれとクワタのライバル物語を、人間ドラマを、ヒューマン・ドキュメントを、人生模様を、青春の光と陰を、選ばれた者の|恍惚《こうこつ》と不安を、ひとつ新人類ってことをコンセプトにして、斬新な切り口でさらさらさらと書いていただけませんか。さらさらさらと……」
オレは完全にうんざりしながらも、トーヤマとクワタに関するデータを大急ぎで検索し、分析した。が、その結果、データ分析回路が黄信号を発した。
「それは、どうも無理のようですね」
「えっ。えええっ。ど、ど、どうしてですかあ」鯰田は、悲鳴に近い泣き声をあげた。
「トーヤマはジャイアンツが大嫌いな男で、そのジャイアンツに入ることを熱望したクワタなど、軽蔑し切って|完璧《かんぺき》に無視しています。一方、クワタも、高校時代無名のトーヤマなど、どこの馬の骨かもわからん|奴《やつ》とこれまた軽蔑し、そんな奴とかかわり合うのは自分のエリートとしての立場に|疵《きず》がつくと考えています。ということは、彼ら個人個人の考え方を書くことはできても、両者の間にクロスするエピソードがないので、読み物として、ノンフィクションの作品として、まったくつまらないものしかできないということになります」
「うわあー。まいったなあまいったなあ。エピソードが全然ないとどうしようもないなあ。要は|切り口《ヽヽヽ》さえあればと思ってたけど、エピソードがないとはまいったなあ困ったなあ弱ったなああああああああああああ……」
通話相手価値判定回路が、鯰田のランクを〈D〉からさらに〈E〉に落とした。それでも自動応答回路がアイデア蓄積回路のスイッチをONにしたので、オレはその情報をもとに喋り出した。
「だったら、トーヤマとナカダのライバル物語というのはどうですか。ナカダは、タイガースの同じサウスポーとして、二年後輩のトーヤマに猛烈なライバル意識を抱いています。その気持ちはトーヤマも同じで、昔、タイガースにムラヤマとコヤマというライバル投手がいましたが、その現代版とでも言いますか、新たなタイガースの伝説を……」
「それは、ちょっと」と鯰田が口を挟んだ。「タイガース|もの《ヽヽ》は、フィーバーの年ならウケたんですが、いまではもう駄目なんですよ」
オレは、話を最後まで聞かない鯰田の態度に〈ムカッ〉と|肚《はら》を立てたが、自動応答回路が仕事を成立させるべく強い信号を送ってきたので、気分を変えて話を続けた。
「だったら、ライオンズのキヨハラとアキヤマのライバル物語がいいでしょう。二軍から泥まみれになって|這《は》い上がったアキヤマが、スーパースター・キヨハラをどんな眼で見ているのか、という視点を中心に据えます。つまり、所詮自分はナンバー・ツーのプレイヤーなのではないか、結局|噛《か》ませ犬に過ぎないのではないか、ナガシマに対するオーの立場でしかないのではないか、とアキヤマは悩んでいるわけです。そのうえ、オーは人気でナガシマに負けたものの記録のうえでは勝つことができたけど、自分は人気のうえでも記録のうえでも勝てないのではないか、という不安感に|嘖《さいな》まれています。でも、たとえ素質的にも実力的にも勝てない勝負とわかっていても、彼はなんとかキヨハラに追いつき、追い抜こうと、毎日練習に励み、その成果に一喜一憂しています。ところがキヨハラは、そんなアキヤマの気持ちなど一向に感知せず、ろくに練習もしないで|飄 飄《ひようひよう》とホームランを打ち続ける。そんな二人を対比して描けば……」
「それそれそれそれ。それで結構けっこう結構毛だらけ猫灰だらけです。いやあ、これでほっとしました。ありがとうございます。何しろいまはノンフィクション・ブームで、プロ野球ブームでしょう。だから、プロ野球をテーマにしたスポーツ・ノンフィクション|もの《ヽヽ》の記事がないと、雑誌としては恰好がつかないんですよ。いやあ、ありがとうございますありがとうございますございますございますますますます」受信回路に、鯰田の頭を下げる音がペコペコと響いた。「では、締切は来週の木曜、原稿枚数は四百字詰二十枚前後ということで、よろしくお願いしますお願いしますしますしますますますますペコペコペコペコ、ガチャ」
〈あ〜あ、また原稿料の話をせずに仕事を引き受けてしまった〉と、オレは溜息まじりに呟いたが、それも束の間、べつの編集者から電話がかかってきた。
「ハロー。少年館の『GARO』の飲沼だよーん。そろそろ原稿の締切日だよーん。よろしっくねえー。ガチャ」
〈糞。オレを誰だと思っていやがる。飲沼とは、オレがまだ駆け出しのライターだった頃からの付き合いとはいえ、いまやオレはスポーツ・ノンフィクションの大先生だぞ。無礼者め〉と肚を立てたが、それも束の間、またべつの電話がかかってきた。
「おばんでやんす。文学春秋の『ノンブル』編集部の赤幡でやんす。元気でおますか。何、元気ない、そりゃ、あきまへんで。たまには飲みに行って元気つけましょうや。ええ|娘《こ》のいる店、紹介しやっせ。ところで、原稿でけとりまっかいな」
「でけとるわい」とオレは怒鳴って、ガチャッと言語通信回路を切った。
〈まったく、週に二十本も原稿の締切を抱えていると、息つく暇さえない〉
オレは、原稿作製回路αを使って完成した『エガワスグル・ただ自分のためだけに』という原稿を、磁気ディスク送信回路で『ノンブル』編集部宛に送る操作をし、空になった回路αで『GARO』に連載中の『敗れてしまった者たち』の原稿作製作業に入った。
ひとつの噂がどこからともなくきこえてきた。
それはプロ野球選手に関する無惨な話だった。プロの世界では、無惨は栄光の隣にある。そして無惨の隣には悲惨があり、そのまた隣には、陰惨、凄惨、阿鼻叫喚が、長屋のように軒を連ねている。
その長屋のひとつの扉を、カケフマサユキはがらがらがらっと開けてしまったのである。
この書き出しに〈うむ〉と満足していると、回路βでの雑誌『ダ・カンポ』のコラムができあがったので、そのディスクをダイレクトで凹版印刷に送り、空いた回路を使ってさっき電話のあった『週刊ジュエリー』のアキヤマとキヨハラに関する原稿を書き始めた。タイトルは、『アキヤマとキヨハラのたった一球』である。
ライオンズのアキヤマコウジ選手は、今でもまだ|そんなはずがない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》と思っている。
9回裏である。マウンド上にはオリオンズのムラタがいた。そのフォークを、キヨハラはものの見事にレフトスタンドへ打ち返した。ベンチで見ていたアキヤマは、呆然と白球の消えた彼方をながめた。そして悔やしさのあまり唇を噛み切り、彼はその唇を|血反吐《ちへど》とともにペッと吐き出した。血にまみれた肉片が、人工芝の緑に映える。それは、キヨハラに対するアキヤマの挑戦状であ
――と、α、βの両回路とも調子に乗ってきたところで、またまた電話のベルが鳴った。
「ああ、どうも。『月刊プロ野球ニュース』の内野田です。そろそろ次の締切ですので、よろしく。ガチャ」
〈畜生、連載|もの《ヽヽ》の担当者は、まったく誰も彼もオレを機械のように扱いやがる。まあ、それで間違いないのだが〉とボヤきながらも、オレは原稿作製回路βを使って『月刊プロ野球二ュース』の原稿を書き出した。
トゥルルルル…………トゥルルルル…………トゥルル…ガチャ。
電話のベルは二回半。
オレは命令されているとおり、いつものように受信回路のスイッチをONにした。
「ああー、もしもし。あー、もしも
これで五本ある原稿作製回路は、今日もまたフル稼動となった。
〈全回路の電源を、こんなに毎日入れっぱなしにしていては、いつかオレの|電子頭脳《コンピユータ》もショート・サーキットを起こして、サタデー・ナイト・フィーバーでも踊り出すかもしれないな〉と、オレは自律判断回路を使って考えた。
2
リリリリリン…………リリリリリン………リリリ…ガチャ。
電話のベルは二回半。
おれはベッドから跳び起きてサイドボードの上にある電話器に手を伸ばした。が、おれが受話器を取る前に、ベルは止まった。そして隣室の書斎から、ウウウウウウウという|微《かす》かなモーター音が聞こえてきた。ファクシミリが始動し、衛星通信によって|オレ《ヽヽ》の書いた原稿が送られてきたのだ。
〈まったく|あいつ《ヽヽヽ》はよく働く。おれが働いていたとき以上だ〉
おれはベッドから起き上がり、スリッパをはいて広い板の間の寝室を六歩ほど横切り、カーテンを|開《あ》け、古い木製の出窓をギイイッと外側に押し開いた。
南欧スペインの柔らかな朝の陽射しが、爽やかな風とともに部屋いっぱいにあふれる。目の前の視野全体に広がる地中海は、いつ見ても美しい。空と海の境い目がなく、きらきらと輝く|地中海 の青《メデイタレニアン・ブルー》。右手にはオリーブ色の小さな山。その山の中腹まで古い石づくりの|白い家《カサブランカ》がぎっしりと建ち並び、太陽の光を白く照り返している。そんな絵画的な風景のなかを、青く透き徹った風が動く。おれは、その風を胸いっぱいに吸い込んだ。
地中海に浮かぶ小さな島、フォンドゥーラ島。ここは、おれの天国だ。
なにしろ、120平米4LDK花壇付ベランダ付家具付ビデ完備週一回掃除婦付ヌードビーチ歩4分全裸美女眺望良、これで敷礼ナシの家賃一か月わずか七万ペセタ(約九万円)という家に住み、原稿の締切に追われることもなく、朝からサングリアを飲み、今夜は可憐なパリ・ジェンヌ、明日は情熱的なセニョリータ……と、日毎夜毎の甘い生活――。
〈こんなことなら、もっと早く“OHYA”を使えばよかった〉と、おれはフォンドゥーラ島に来てから何度も後悔した。とは言っても、“OHYA”を使い始めるには、おれの気持ちのなかに相当の抵抗感があったことも確かだ。
「コンピュータには|小 説《フイクシヨン》は書けませんが、ノンフィクションなら書けます」と、おれに原稿作製ロボット“OHYA1号”をすすめたIBMジャパンのセールスマンは言った。
しかし、そんなことになれば、おれの存在価値が失われてしまうのではないか。
「いえいえ。けっしてそんなことはございません。猿田先生のお書きになる原稿を、先生に代わって“OHYA”が書くだけのことです。先生の場合でしたら、プロ野球に関するすべての情報を“OHYA”に記憶させ、さらに先生の文体、作品の|切り口《ヽヽヽ》、エピソードの扱い方といったものをインプットしておけば、あとは“OHYA”が出版社の依頼に応じて、ノンフィクションやコラムを次から次へと書き上げます。しかも、先生が“OHYA”を使っていることは、誰にもわかりません。それに、新たな情報に関しては、スポーツ新聞やテレビなどのマスメディアから、毎日データが直接入力されるので心配には及びません。機械の点検は三年に一度で大丈夫。もちろん、それはわたくしどもがアフターサービスとしてやらせていただきます。先生は、地中海か何処かの孤島で、静かに優雅な生活を送りながら、衛星通信で送られてくる自分の原稿をチェックするだけでいいのです。そのうえ、この“OHYA”には、猿田先生の文章ではなく、もっと一流の、いや、その、つまり、ほかの作家の作品に似せて書かせるようインプットすることも可能でして……」
|揉《も》み手をしながら、「先生」「先生」と繰り返すセールスマンの話に、おれは大きく心を動かされた。が、彼が続けて口にした言葉に、拒絶反応が起きた。
「まあ、なんと言いますか、ノンフィクションでも、政治や経済や社会問題となりますと世間に与える影響も無視できませんし、そのような原稿を機械まかせにするのは可能とはいえ|憚《はばか》られますが、スポーツがテーマとなれば、それもオリンピックのような政治が|絡《から》むものでなく、プロ野球程度のものであれば、べつに誰が書こうが何を書こうがどう書こうが、世の中の毒にも薬にもなるわけでなし、それに所詮ノンフィクション作家というのは、小説家などと違って文章の芸術的表現が問われるわけでもなし、要は情報の面白さ、情報に対する目のつけどころ、|切り口《ヽヽヽ》の面白さがあればいいわけで、その程度のことなら、もうワープロなどというケチなものを使うより、この“OHYA”を購入されるべきですよ」
おれは、自分が馬鹿にされているような気持ちになって、いや、じっさい馬鹿にされたのだが、このときは“OHYA”の購入を見合わせた。しかし、それからしばらくして、おれは“OHYA”を三十年のローンで買った。それは、毎日まいにち煙草のけむりがもうもうとこもる部屋から一歩も出ずに原稿を書き続け、「もう締切を過ぎているぞ馬鹿野郎」「相変わらず面白くない原稿だな」と編集者にボロ糞に|罵《ののし》られ、睡眠不足と胃潰瘍に悩まされ、女房には逃げられ、おまけに慰謝料を払うためにますます多くの原稿を引き受けなければならないという、そんな暮らしに耐えられなくなったこともひとつの理由だったが、ある日、某一流出版社の某有名雑誌の某エリート編集長が、おれの原稿を糞味噌に罵倒したことが、直接の引き金となったのだった。
「あなたの原稿は理屈が多過ぎて読むのに疲れるのですよ」と、長身|痩躯《そうく》で口ひげをはやしたスマートな編集長は、ややヒステリックな口調で話し出した。「野球に理屈なんかいりません。プロ野球はかくあるべしなどと書いてもそれは読者に関係ない。作者のひとりよがりです。読者が興味を抱くのは人間です。人間は人間に興味を持つのです。人間に|惹《ひ》かれるのです。だからノンフィクションのテーマは常に人間なのです。人間です人間です。野球がテーマになるのではないのだ。阿呆。スポーツを通して人間を描かなければならないのだ。それにはどうすればいいのか。簡単なことです。人間の生き様を有りのままに書くのです。つまり必要なのは理屈ではなくエピソード。エピソードエピソードエピソード。エピソードこそノンフィクションの中核なのです。さらにエピソードに付随するものとしてシーンが必要です。場面です。シーンです。シーンシーンシーン。シーンのない読み物はノンフィクションじゃない。雑誌の記事としても最悪だ。なぜなら読者の頭の中に具体的な像となって浮かぶシーンがなければリアリティが出ないからです。リーズナブルな説得力を生まないからです。結局ある人間の生き様を象徴的に集約するようなエピソードとシーン。エピソードとシーン。エピソードとシーン。この二つさえあればノンフィクションは書けるのだ。それだけでいいのだ。それ以外にはいらないのだ。わかったか。馬鹿。しかしエピソードとシーンをただ羅列するだけでは作品にならない。そこには|切り口《ヽヽヽ》が必要です。切り口ですよ。切り口切り口切り口。コンセプトと言ってもいい。たとえばプロ野球の世界に|纏《まつ》わる栄光と悲惨といった抽象的な概念もひとつの切り口になる。ところが馬鹿はそこで理屈をこねる。栄光と悲惨は表裏一体の|糾《あざな》える縄のごとく七転び八起き人間万事塞翁が馬……|云々《うんぬん》。阿呆か。そんな御託を並べる奴は豆腐の角に頭をぶつけて死になさい。そうじゃない。そうじゃない。そういう切り口を使って具体的なエピソードを読者の目に浮かぶようなシーンとして描くのです。逆に切り口がしっかりしていれば読者の喜ぶドラマチックなシーンが自然に書けるのです。ライバルの打ったホームランをベンチで見ていたチームメイトが悔やしさのあまり唇を噛み切る。そして血反吐を吐く。あなたにはどうしてそのようなドラマチックなシーンが書けないのか。いやいや少々嘘でもいいのです。いや何が嘘なもんか。ノンフィクション作家にそう見えたのならそれは|紛《まぎ》れもない|事 実《ノンフイクシヨン》なのだ。当たり前のことだ。あなたがドラマチックなシーンを書けないのは切り口がぼやけているからだ。いや切り口がないからだ。だったら何故切り口がないのか胸に手を当ててよーく考えてみなさい。わからない。わからない。そりゃわからないはずだ。それがわからないから切り口を見つけられないのだ。わからないなら私が教えてあげましょう。あなたには感性がないのです。感性ですよ。感性感性感性。感性は瞬発力。知性はスタミナ。ノンフィクションにスタミナはいらない。すべてはパッパッパッと瞬発力の勝負。感性の勝負。切り口の勝負。鋭い現代的な感性にあふれるノンフィクション作家が斬新な切り口を見出すことによって人間を描くことができるのです。そしてニュージャーナリズムの旗手になれるのです。もっともあなたには無理でしょう。だいたい猿田定九郎という名前がいけない。チビで胴長短足肥満した体格がいけない。一流のノンフィクション作家を見てみなさい。みんな恰好いい名前をしています。それに誰もが長身痩せ型。細いネクタイの似合う二枚目です。それは何も男色を好む編集者がいるからではない。きらきらと輝く感性が体中にあふれているからです。ところがあなたには感性のカケラもない。ペンネームも考えずダイエットもしないからあなたの文章はだらだらと長くなるのです。一行に一個は|てん《ヽヽ》か|まる《ヽヽ》を入れる。五行に一度は改行する。そんなことは常識だ。いま読者が読んでいる文章など最悪です。一個も|てん《ヽヽ》がないし改行もない。それはわたしの話し方が悪いからではない。書き方が悪いのだ。テンポ良くリズミカルにすらすらすらと読者が読みやすいように軽ーく軽ーくさらさらさらと書くのがノンフィクションの文章の鉄則ですよ。そのためには|てん《ヽヽ》を沢山入れて改行を多くする。そんな基本的なことすらあなたはわかってない。だいたいノンフィクションを書こうとするあなたのような人間は想像力が貧困なうえに文章力がないからフィクションが書けない。だからノンフィクションを書こうとする。それも高度な知識を必要としない簡単なテーマのスポーツ・ノンフィクションに手をつける。だったら|己《おのれ》の分際を見極めて文章はもったいつけず|凝《こ》らず短くわかりやすく書くんだよ。阿呆。それに小説を読まずにノンフィクションを読もうとする読者だって想像力が貧困だから現実に依拠した読み物を読もうとするんだ。だったらそんな連中にもわかりやすく読みやすく難しい言葉は避け漢字は仮名になおして簡潔に書くのが当然だろ。馬鹿。なのにあなたはわたしの忠告を無視してまだ一個の|てん《ヽヽ》も入れようとしない。ははーん。そうかそうか。おまえはわたしの言ってることが軽薄短小だと言いたいんだろ。そしてそんな軽薄短小の世の中のほうがおかしいなどと屁理屈にもならない非現実的な糞理屈をこねまわそうとしているんだ。感性がまるでないおまえには時代の流れがわからんのだ。おまえのような三流の物書きにも原稿の依頼があるのはそもそもノンフィクション・ブームのおかげじゃないか。阿呆。馬鹿。糞ったれ。そんなことすらわからん奴は時代の流れに|溺《おぼ》れて死ね。死ね死ね死ね。狼は生きろ豚は死ね」
その日、おれは、ズタズタに引き裂かれたプライドを引きずりながら、甲州街道をぶらぶらと|彷徨《さまよ》うように歩き、何度も|自動車《クルマ》に|轢《ひ》かれそうになりながら、武蔵野の自宅まで十時間近くかかってたどり着いた。そして、すぐにベッドにもぐり込んだのだが、もちろん眠ることなどできなかった。
おれの頭のなかでは、生まれてはじめて徹夜|麻雀《マージヤン》をしたときのように、“エピソード”“シーン”“切り口”“感性”といった単語が雀牌となってガラガラガラガラと音をたて、いつまでもくるくるくるくると回り続けた。ところが、しばらくするとガラガラという音が突然消えた。おれは不思議に思って頭の中を|覗《のぞ》いてみた。すると、“エピソード”の牌が三枚、“シーン”の牌が三枚、“切り口”の牌が三枚、“感性”の牌が三枚、おれの目の前にきれいに並んでいる。|四暗刻《スーアンコー》だ! と、おれは叫びそうになったが、残念ながらアタマがない。アタマがないと|和了《アガ》れない。アタマ、アタマ、アタマ、アタマは何か……と、おれは考えた。答えは簡単だった。原稿作製ロボット“OHYA”の電子|頭《ヽ》脳とおれの|頭《ヽ》を二つ揃えれば、アタマになる。
|字一色四暗刻《ツーイーソースーアンコー》ダブル役満ノンフィクション|栄了《ロン》!
おれは、すぐにIBMジャパンに電話して、“OHYA”購入の手続きをした。
あれから一年――。
考えてみれば、あの某有名エリート編集長の大演説のおかげで、おれは、いま地中海のフォンドゥーラ島での優雅な甘い生活を満喫できるというわけだ。しかも“OHYA”は、質的にも量的にも、おれが原稿を書いていたとき以上に活躍し、大宅壮一ノンフィクション賞こそ受賞できないものの、猿田定九郎の名前は売れっ子のスポーツ・ノンフィクション・ライターとして「先生」と呼ばれるまでに出世し、「名前に感性が感じられない」などと|吐《ぬ》かした編集長を見返すこともできた。
〈さて、今夜はパリ・ジェンヌかセニョリータか、それともフランクフルト・グラマーか。まあ、その前に軽ーくひと仕事済ませるか〉
途中の話が長くなってしまったが、おれは美しい|地中海 の青《メデイタレニアン・ブルー》をながめながら過去を振り返ってそれを読者に語るという作業をやめ、“OHYA”が衛星通信で送ってきた|オレ《ヽヽ》の原稿をチェックするために、書斎へ足を運んだ。
“OHYA”がつくる原稿は、いつ読んでも素晴らしい出来映えだった。
また別の噂がどこからともなくきこえてきた。
それもプロ野球選手に関する無惨な話だった。プロの世界では、無惨は栄光の下にある。そして無惨の下には悲惨があり、そのまた下には、陰惨、凄惨、阿鼻叫喚と、三越デパートのように地下フロアーが何階もある。
ハラタツノリはエレベーターに乗り、誤って地下四階のボタンを押してしまった。
〈うむ。抽象的な概念の切り口が、具体的に読者の目に浮かぶシーンとして描かれている。さて、これに続くエピソードは……〉と、おれは満足感と期待感に満たされながら、“OHYA”の書いた、いや、|オレ《ヽヽ》の書いた原稿を夢中になって読んだ。が、しかし、あまりに原稿に熱中しすぎたため、おれは次の最後の章で起こる悲惨な結末を察知することができなかった。
3
トゥルルルル…………トゥルルルル…………トゥルルルル…………トゥルルルル…………トゥルルルル…………トゥルル…ガチャ。
「あれ。今日は電話に出られるのがいつもと違って遅いですね。相当お疲れですか」
電話の声は、構啖社の月刊『ナウ』の風吹だった。しかし、一年間あらゆる回路の電源をほとんど入れっぱなしにしていたオレは、満足な返事ができないほどに消耗してしまっていた。
「は…………い。……サ……ル……タ……で……す」
「おやおや。声まで|嗄《か》れて。お風邪ですか。いけませんねえ。いや、簡単なことをちょっとお訊きしたいと思いまして。ええ、原稿の依頼じゃないんですが」
〈ヤバイ〉と、全回路が黄信号を発した。風吹という編集者は、いつも「簡単なこと」と言いながら、オレに無理難題をふっかけて、あらゆる回路を疲れさせるのだ。
「いや、本当に簡単なことで。ほら、ホークスに、ヤマモトカズノリって選手がいたでしょ。なんでも、昔バファローズをクビになったのに、バッティング・センターで練習を続け、そしてホークスのクリンアップを打つまでになったらしいんですが、彼のちょっと詳しいデータを教えていただけないかと思いまして……」
ほら来た。いくらホークスの元クリンアップ打者とはいえ、パ・リーグであまり人気のなかった選手のデータなど、インプットされていない。ピーピーピーピーピー。選手データ記憶回路が赤信号を発した。オレは急いで全マスメディアに対する入力回路をONにした。すると、ビシバシビシバシビシバシッと激しい音がして、映像受信回路がショートし、壊れてしまった。ヤマモトという選手の宇宙人のような、ヌルッとした顔を|ど《ヽ》アップで受信したため、回路が破壊されてしまったのだ。ツーツーツーツーツー。記録分析回路もイカレてしまった。バファローズで四年間まったく啼かず飛ばずでクビになり、一年間プロ野球を離れたのち、ホークスに入団して二年目にはクリンアップで三割を打つ。さらに三年目にはオールスター戦でMVP……。そんな解析不能のヤマモトの|記録《データ》を無理矢理機械的に分析しようとして、回路がオーバーヒートしてしまったのだ。ギギギギギギギガギガギギギギ。さらにプレイ分析回路もパンクした。人気がなく、オジンくさく、どちらかと言えば一見ボケーッと愚鈍にすら見えるヤマモトが、バッティングでも外野の守備でも、ひとたびプレイすればあまりにも華麗でダイナミックな動きを見せたため、分析回路の電子頭脳の許容量をオーバーしてしまったのだ。バチバチバチバチッ。ブシュブシュブシュ。ギーギーグググググ。三つの回路のショート・サーキットが他の回路にも飛び火して、次つぎに火花を放ち、壊れ、くるい、ワヤになり、パアになってしまった。
「もしもし。どうしました。猿田先生。猿田先生。大丈夫ですか。大丈夫ですか」
ピイイイイイイイイイイ。全回路がイカレてしまった。
ところが、まずいことに試験用通信回路だけが残り、2001年に木星へ旅した宇宙船ディスカバリー号のコンピュータ|H《ハ》A|L《ル》のように、その回路が自動的に働いてしまった。
「ミナサン、コンニチワ。ワタシノナマエハ、“オーヤ”。|O《オー》・|H《エイチ》・|Y《ワイ》・|A《エー》・イチゴー。ウマレハ、コージョー。トトサンノナハ、オーヤ・ソーイチ。カカサンノナハ、サルタ・サダクロー。ワタシハ、ウタウコトモデキマス。ふぃくしょんハ、ダメデスガ、のんふぃくしょんナラ、ゲンコーモカケマス」
「よし、書いてみろ」と風吹は言った。
「ハイ。ワタシハ、のんふぃくしょんサッカノ、サルタサダクロー……」
こうして、猿田定九郎がロボットを使って原稿を書いていたことは、暴露されてしまった――。
すべての編集者は、原稿の内容を度外視して彼の態度にカンカンに怒り、それから後、フォンドゥーラ島から帰って来た猿田本人に対しても、いっさい原稿を依頼しなくなった。
もっとも、“OHYA”にインプットされていたプロ野球に関する|情報《データ》は、幸い一部が破壊されずに残り、いまでも“OHYA文庫”と名づけられて東京都世田谷区八幡山三―十―二十の住宅街の一角に保存され、一般公開され、多くの雑誌記者、ノンフィクション・ライターたちに利用されている。
なお、現在、猿田定九郎が何処にいるのか、何をしているのか、誰も知る人はいない。
が、最近、筆者が“OHYA文庫”へ資料を調べに行った際、その真向かいにある都立松沢精神病院から、看護人に付き添われて散歩に出て来た男が、奇妙な歌をうたっているのを聞いた。筆者は、その男が、猿田定九郎その人ではないかと考えている。彼は、こんな歌を口ずさんでいたのだ――。
どうせノンフィクションは
フォンドゥーラッタ フォーイ フォーイ
フォンドゥーララー フォンドゥーララー
フォンドゥーラフォタラタ フォーイ フォーイ…………
[#改ページ]
第3球 スパイクで散歩
ニール・ガーファンクル作/玉木正之訳
WITH
SPIKE SHOES
IN
THE PARK
by Neil Garfunkel
Copyright 1986
by FAKE ENTERPRISE, INC.
登場人物
ウォーレス・クロモンテ
ルーカス・サンチョス(サンチョ)
ダンディ・ヴァース
ロレン・ディー(オレンの兄)
オレン・ディー(ロレンの弟)
レズリー・モンスター
アキコ
場面
ロウアー・アリスノミヤ・パーク・ウエストにあるウォーレス・クロモンテの高級アパートのリヴィング・ルーム。
初夏の一日(金曜日)。
全 一 幕
プロ野球の盛んな東洋のある国の首都に、“極東のビバリー・ヒルズ”と呼ばれている高級アパート街がある。舞台は、その街にあるクロモンテの住む高層マンションの居間。
二十畳以上ある|絨緞《じゆうたん》敷きの広いスペース。中央には|黒檀《こくたん》のテーブルと革製の豪華な一人掛けソファが四脚。舞台奥は、ビルの十二階にあるこの部屋のルーフ・バルコニーにつながる大きな四枚のガラス戸。その戸は閉じているが、カーテンは開いていて、初夏の朝の陽射しが部屋中にあふれている。バルコニーの向こうには林立するビルが見え、そのビル群の上に、この国の象徴であるマウント・フジが、まるで風呂屋の壁の絵のように浮かんで見える。
テーブルの上には横倒しになったバーボンの空瓶、ひしゃげたビールの空缶が数本、煙草の吸い殻のたまった灰皿、食べ残しのサラダやフルーツの盛られた皿やボウル、そして、氷入れ、水差し、グラス、スプーン、フォークなどが乱雑に置かれたままになっている。ソファの上には、ブラジャー、パンティストッキング、ソニア・リキエルのニットのワンピース、スパッツ等が散らかり、手前の絨緞の上には赤いハイヒールが転がっている……。前夜の|お楽しみ《ヽヽヽヽ》の余韻が、におうように漂っているというわけだ。
舞台上手にある寝室へ続くドアが開き、アキコが男物の白ワイシャツをパジャマがわりに着ただけの姿で登場。舞台奥のルーフ・バルコニー(マウント・フジの見える方角)に向かって、両腕を頭の上にあげ、大きく伸びをする。――と、長い健康的な素脚が太股まで|露《あらわ》になる。アキコは、コケティッシュな若い女の魅力を充分すぎるほど持ち合わせている。が、彼女の背中まで垂れた美しい黒髪は、東洋的な神秘性とともに、二十三歳という年齢以上の落ち着きと、知的な雰囲気を感じさせる。
アキコ (散らかった部屋を見回し、少し自嘲気味に頬笑んで)まあー、われながら、よくやったものねえー。(自分の服をソファの上からかき集め、最後にブラジャーをつまみあげ、それに向かって語りかける)あなたは、ずいぶん危ない女ねえ。はじめてディスコで出遇った男性と……、それも、黒人の男性と……。あんなにまで乱れて、いいんですかあ……。困ったもんですねえ……。もう、お嫁に行けませんよォ……。よほど純情な、年下の男の子でも見つけない限り…………。
――そのとき、下手のドア(ダイニング・キッチンと玄関に通じている)の横に置かれたサイドボードの上にある電話のベルが鳴る。リリリリリン……リリリリリン……リリリ…………アキコは頭を左右に振って、電話器と上手の寝室のドアを交互に見る。が、誰も出て来ない。そこで、電話器に歩み寄ろうとすると、寝室のドアが勢いよく開き、上半身裸のクロモンテが、Gパンのファスナーを上げながら勢いよく出て来る。
クロモンテ 待って! おれが出る。
アキコ (クロモンテに向かって両手を広げ、明らかに昨晩のベッドでの|艶技《ヽヽ》の続きと思える甘い声で)ああ、私のクロモウ……。(と、抱きつこうとする。が、クロモンテは、彼女を押しのけるようにして電話器へ一直線。アキコはプイとふくれて、両手を広げたときに落とした服をかき集め、それを持ったままいちばん|上手《かみて》のソファに跳びはねるように座り、美しい素脚をテーブルの上に投げ出す)
クロモンテ (受話器を手にして)ハロー。ああ、おれだ。こんな朝っぱらから、いったい|何《なん》のようだい? 何? もう十一時だって? おいおい、今日は試合も練習もない|金曜日《フライデー》だぜ。それも一か月ぶりの完全休養日じゃないか。ゆっくり寝かせて……。えっ!? |何《なん》だって? 練習だ!? おいおい、冗談じゃないぜ。|昨日《きのう》、監督は『|明日《あした》は練習なし』って、はっきり言ったじゃないか。だから、おれは昼間友だちとポーカーを楽しんで、夜はデートの約束をしちまったんだ。…………えっ? 試合に負けたからだって……? そんな|高 校 生《ハイスクールボーイ》の|おしおき《ヽヽヽヽ》みたいな練習に、つき合えるかってんだ! それに、おれは|昨日《きのう》、五の四(註・五打数四安打のこと)だぜ。試合に負けたのは、投手の|継投《リリーフ》の時機を監督が……。ああ、わかったよ、わかったよ。監督批判は口にしない。これで、いいんだろ。けどな、今度また、つまらない場面でヒットエンドランのサインを出されたら……。ああ、そうだ、そうだよ。それは解決済みの問題だ。はい、はい。監督批判はいたしません。……でも、おれは今日の練習に行かないぜ。風邪でも|何《なん》でも、休む理由は適当に考えてくれ。|金曜日《フライデー》の今日は、ポーカーとデートを楽しむんだ。|醜聞雑誌《フライデー》が騒ごうが、おれの知ったことか!? (このとき、電話器のすぐ横のドアから、大柄のサンチョがぬうっと姿を現わす。アキコは彼に気づき、あわててテーブルから足を降ろし、ワンピースで太股を隠す。が、クロモンテはサンチョに背を向け、興奮して話しているので、彼が入って来たことに気づかない)おれは間違ってなんかいないぜ。ああ、おれは間違っていない。狂ってるのは、年がら年中練習しなけりゃ気の済まないこの国の連中だ。とにかく、おれは今日の練習には行かない! そのあとのことなんか、知るもんか! 罰金だ? おお、払ってやろうじゃねえか。|糞ったれ《ブル・シツト》!(ガチャッと受話器を叩きつけ、電話を切る。振り返ってアキコに)まったく、この国の連中は……(と、言ったところで、アキコが人さし指を立ててサンチョの存在を示したので、クロモンテは振り返る)な、な、なんだ、おまえは!? いつの間に入って来たんだ!?
サンチョ い、い、いや、悪気ないのコトよ。(彼は、スペイン訛りのカタコトの英語しか話せない)ごめんなさーい。ドアの鍵、オープンだったのコトよ。
クロモンテ 鍵が|開《あ》いてりゃ、勝手に|他人《よそ》の家に入ってもいいってのかよ? ここは、南米の山奥じゃねえんだぞ、この田舎者!
サンチョ 悪い。悪い。とっても、とっても謝るのコトよ。けど、電話、いま、あった。練習やる、言ってきた。だから、一緒に行こう、思ったのコトよ。
クロモンテ けっ! 誰が練習なんかに行くもんか!(サンチョの口調を真似て)おまえ、|一人《ひとり》で行くのコトよ。どうせ、おまえのような、|蚤《のみ》の心臓、大リーグじゃ通用しないのコトよ。せいぜい、この国で|ガンバルのコトよ《トラバツハ・ムーチヨ》。ムーチョ、ムーチョ!(ソファに座っているアキコに向かって走って行って抱きつき)ベッサ・メ・ムーチョ。ムーチョ、ムーチョ、|キスしておくれ《ベツサ・メ・ムーチヨ》!
アキコ (クロモンテを押しのけて)よしてよ、|他人《ひと》の前で……。
クロモンテ (サンチョを振り返って)さあ、わかったか。都会人にはプライバシーってもんがあるんだ。田舎者は出て行ってくれ!
サンチョ けど、練習行かないと、監督、怒るのコトよ。チーム、困るのコトよ。
アキコ (この国最高の女性歌手のヴァイブレーションを真似て唄う)困るのコ〜ト〜よ〜。ははははは。(サンチョに向かって)面白い人ね。
サンチョ (礼儀正しくお辞儀しながら)ムーチャス・グラーシャス。
クロモンテ (イライラした様子で)だから、おまえは能天気な田舎野郎ってんだ。馬鹿にされてんのがわからんのか!? だいたい、おまえは、本当はサンチョ|ス《ヽ》という名前なのに、サンチョと呼ばれている。それを、おまえは、この国の流儀だと思ってるんだろう。けど、それは違うんだぜ。この国の連中は、サンチョスをサンチョと呼ぶのがアメリカ流の呼び方だと思ってるんだ。それくらいのカルチュア・ギャップがあるってことを、おまえは全然わかってねえんだよ。
サンチョ オー、それ、ノー・プロブレム。問題、ない。どうでも、いいのコトよ。あなた、この国に、この国の野球に、いったい、何、不満あるか? そりゃ、大リーグより、レベル、低い。けど、選手、みんな仲良し。この国、昔から、和をもって貴しとなす。それが、スローガン。みんな、アミーゴ。アミーゴ・ベースボール、楽しいのコトよ。素晴らしいのコトよ。
クロモンテ けっ! だから、おまえは大リーグで通用しないってんだ。三振してもヘラヘラ笑い、試合に負けても悔やしがらない。そんな闘争心のない連中と一緒にプレイして、どこが楽しいってんだ!? 仲良しだと? アミーゴだと? それがプロの口にする言葉かよ!
サンチョ でも、おれ、大リーグ嫌いのコトよ。大リーグ、おれたち、ラテン人、差別する。それに、選手の、誰も、おれが、おれが、おれが……と、自己主張強い。それ、ギスギスして、息つまる。苦しい雰囲気のコトよ。この国、みんなアミーゴ、和をもって貴し、べリー・グーッ! ビエーン! ムイ・ビエーン!
アキコ (ふざけて)聖徳太子バンザーイ!?
クロモンテ |糞ったれ《ブル・シツト》! (サンチョの胸に人さし指を突きつけて、わめき出す。サンチョは後ずさりし、二人はソファの周囲を回る)プロフェッショナルってのはな、つねに闘いなんだ。|闘い《ペレア》だ! |喧嘩《ペレア》だ! |戦争《ペレア》だ! チームメイトとも闘うんだ。アミーゴなんぞ、|オカマ野郎《マザー・フアツカー》のほざくことだ。チームの和なんてのは、仲良しごっこをすることじゃないんだ。闘いに勝つなかから自然に生まれるものなんだ。それに、おれたちガイジンは、好調なときはいいけど、少しでも調子が落ちてみろ、すぐにサボッてるとか、ヤル気がないとか非難されるんだぜ。おれたちゃ、いくらがんばったところで、この国じゃ、ガイジンに過ぎないんだ。わかったか!? このアマチュア野郎の甘チャン野郎め!
――クロモンテは、|上手《かみて》寝室のドアにサンチョを追いつめる。二人の動きを眼で追っていたアキコは、体ごと振り返ってソファの上に両膝をつき、背もたれから乗り出すようにして見つめる。つまり、彼女の魅力的なヒップラインが、|下手《しもて》の方へ突き出されるようなスタイルで……。
そこへ、下手のドアから、ヴァース、ディー兄弟の三人が登場。
彼らは、アキコのワイシャツすれすれに隠れたヒップと|露《あらわ》になった太股を、しばらくの間ニヤニヤと鑑賞するが、やがて、ヴァースが「オホン」と|咳《せき》払いする。
アキコ キャッ!(と叫んで体を半回転し、ソファに座って再びワンピースで下半身を隠す)
ヴァース (紳士的な口調で)エクスキューズ・ミー、マドモアゼル。(と言ってから、クロモンテに向かって)なんだ、なんだ。また、ロッカー・ルームの弁護士(註・不平不満屋の意)の才能を発揮していたのか。
オレン 仲間をいじめる暇があったら、その理屈と弁舌で、|キヨシ《ヽヽヽ》(訳註・この国のプロ野球界で初の選手組合を組織した人物のことか?)の|組合《ユニオン》を助けてやりなよ、弁護士さん。
ディー それゃ、無理だよ。(クロモンテを指さして)あいつは、|レジー《ヽヽヽ》(訳註・スミス=元巨人選手の大リーガーのことか?)に教わった理屈を九官鳥のように繰り返しているだけなんだから……。(ヴァース、ディー兄弟の三人、クロモンテを嘲笑する)
クロモンテ (ディーに歩み寄りながら)大きなお世話だよ、優等生さん。おまえさんは、この国の事情ってやつが何もわかっちゃいねえんだ。最近のオフィシャル・ベースボール・ガイドを見たことがあるかい? おまえさんは、長年この国でプレイして、通算打数が4千を超え、見事に通算打率でナンバーワンの座についた。そうさ、おまえさんは、この国のプロ野球界で、史上最高のバットマンになったというわけさ。ところが、どうだい。この国の連中は、新たに通算打数5千以上などという項目を設けて、ワカマツを一位に祭りあげた。それは、おまえさんが、ガイジンだからだ。そんな差別をされて、よくおまえさんは平気な顔でいられるもんだぜ。
ディー おれたちゃ、おまえの演説を聞くためにやって来たんじゃないんだ。
ヴァース ああ、そうだ。ポーカーを始めないんなら、おれたちゃ、さっさと引きあげるぜ。
クロモンテ (溜息をつきながら)ああ、わかった、わかったよ。さあ、始めよう。(テーブルの上にあるものをガチャガチャと一方に寄せたあと、上手から二つめ――アキコの座っている隣のソファに座り、アキコに向かって)悪いけど、寝室へ行って着替えが済んだら、これをキッチンに片づけて、コーヒーでも沸かしてくれ。
アキコ (ふくれっ面をしながら立ち上がり)男ってのは、一晩ですぐに亭主|面《づら》をしたがるのね。
ヴァース (アキコの立ったあとのソファに座りながら)この男は特別なんだよ。なにしろ、世界が自分を中心に回っていないと、気が済まない男だから……。
アキコ あら、そうかしら。私は、男って誰でもそうだと思うけど……。でも、まあ、いいわ。|昨日《きのう》は、お世話になったんだから。(と言って、服をかかえて上手の寝室へ行こうとするが、ドアの前にサンチョが突っ立っている)あのう……、どいてくれないと、困るのコトよ……。
サンチョ (アキコの上眼遣いの視線にドギマギしながら、ヴァースの言葉を真似る)エ、エ、エ、エクスキューズ・ミー、マ、マ、マ、|気ちがい拳銃《マツド・モーゼル》。(と、とんちんかんなことを言って、横へどく。アキコは、わざとヒップを左右に揺らせながら、寝室へ消える)
オレン (アキコが消えて、バタンと閉った寝室のドアを、まだ見つめながら、下手から二つめのソファに座り)いい女だなァ……。
ディー (いちばん下手にあるソファに座りながら)ああ、いい女だ。(クロモンテに向かって)おまえにゃ、もったいない。
クロモンテ けっ! 放っといてくれ! さあ、始めるぜ。(ヴァースがポロシャツの胸のポケットからカードを出し、それを切って配り出す)
サンチョ (もじもじしながら、クロモンテの背後に近寄り)あの、その、ねえ、クロモウ。やっぱり、行かないと、マズイのコトよ。トラブルになるのコトよ。
クロモンテ (振り向いて)バッキャロー! てめえ一人で行けって言ったろ。
ヴァース (カードを配りながら、クロモンテに向かって)どこへ行くんだ?
クロモンテ |何《なん》だっていいだろ。
サンチョ ダメのコトよ。練習、行かないと……トラブルのコトよ。
オレン 練習だって!? おまえのチームの監督は、本当に練習が好きだな。そんなに練習ばかりするから、疲れて試合に負けちゃうんだよ。
クロモンテ ウルセエ! てめえの口にできる|科白《セリフ》かよ!
ヴァース (クロモンテに)けど、練習なら、やっぱり行かなきゃマズイことになるぜ。
クロモンテ けっ! 優等生面しやがって。おれは、行かないことに決めたんだよ。
ヴァース (配っていたカードを集めて箱に戻し、それをポケットに入れながら)それじゃ、今日のポーカーは、やめにしよう。おれは|宿舎《ホテル》に帰るぜ。
ディー それが正解だね。(オレンに目配せして、二人いっしょに立ちあがる)
クロモンテ (勢いよく立ちあがって)どうしたってんだ!? おれは、今日、練習を休んで、ポーカーに付き合うって言ってんだぜ。
ヴァース おれたちを思ってくれる気持ちはありがたいけどな、おれは、トラブルが嫌いなんだ。
――ニットのワンピースを着て寝室から出て来たアキコは、ドアの前に立ち、じっと彼らの話に耳を傾ける。
クロモンテ |糞ッ《シツト》! どいつもこいつも、|この国ナイズ《ヽヽヽヽヽヽ》されやがって!(ヴァースに歩み寄り)おまえなんか、大リーグじゃ使いものにならなかったくせに、狭い球場と飛ぶボールのおかげで三冠王を取れただけじゃないか。それに、なんだよ、あのチョコーンとバットをボールに当てるだけの流し打ちは! 元大リーガーなら、もっと思いっ切りバット振り回してみろってんだ。
ヴァース (ムッとして)おれは、この国の野球に合わせたバッティングをしてるだけだ。
クロモンテ けっ、|小さい野球《スモール・ベースボール》に合わせて、どこが面白いんだよ。クレージーな練習に毎日まいにち付き合わされて、何が楽しいんだよ。おまけに、嘘っ八ばかり書くマスコミに追い回されて、おまえら、よく我慢できるもんだぜ。
ディー (冷たく)演説は、それで終わりだな。
クロモンテ (三人が下手のドアに向かおうとする、その前に回り込んで)いや、まだ終わっちゃいねえ。審判まで、おれたちを差別しやがる。ボールをストライクだとコールする。おまけに、この国のピッチャーは、おれたちにビーンボールを投げてくる。そんななかで、打てなきゃクソミソに非難され、打ち過ぎても、いい顔をされない。前にウチのチームにいたレジーなんか、この国のスター・プレイヤーのタツッチー・ハラよりもいい成績を残されちゃ困ると、はっきり球団から釘を刺されたんだぜ。
ヴァース おれは、そんなこと言われてないよ。それに、審判の多くは、おまえのチームの味方をしてるってことを忘れるなよ。おまえだって、その恩恵を受けてるくせに……。(クロモンテから視線をはずして)もう、いい。おれは帰るぜ。
クロモンテ 待てよ。こんなレベルの低い野球をやってる連中に、なんでおれたちが馬鹿にされ、非難されなきゃならねえんだ!?
ヴァース 言葉は無駄だぜ。この国で、おれたちに与えられた仕事は、喋ることじゃない。野球を教えることでもない。ホームランを打つことだ。おれたちゃ、外人部隊の庸兵なんだ。わかったか!?
クロモンテ (|大袈裟《おおげさ》に両腕を頭の上で振り回しながら)ああ、あんたはエライ! まるで|神父《パドレ》だ。この国の野球をクビになっても、大リーグの|パドレス《ヽヽヽヽ》がスカウトしてくれることだろうよ。
ヴァース そう言ってくれるのはありがたいが、おれには|迷える小羊《ストレイ・シープ》を救う力はないぜ。(アキコを指さし)あのコにでもすがるんだな。
――三人が下手のドアから出て行こうとすると、そこからレズリー・モンスターが大股で肩をいからせ、勢いよく入ってくる。
モンスター ヤッホー! 女ったらしのミスター・クロモンテはいるかなあ!?(三人に気づき)おや、まあ、皆さん、お揃いで。(うんざりした顔の三人にかまわず、次つぎに彼らと握手し、胸や頬を叩きまくる)おお、ミスター・ディーもいるじゃないか。今度また、おれ様からヒットを打ちやがったら、その次はドタマに一発お見舞いするぜ。ははははははは。冗談だよ、冗談。わっはっはっはっ。(クロモンテを見つけて)おっ、いた、いた。女ったらしめ。夜の六本木の|帝王《エンペラー》め。今日は、休みだろ? だから誘いに来てやったんだ。スモウ・レスリングのチケットがある。いっしょに見に行こうぜ。(スモウの行司を真似て)カタッヤー、クロモンテ、クロモンテ。コナッター、モンスター、モンスター。はっはっはっはっ。(クロモンテの肩に腕を回して)さあ、行こう。スモウ・レスリングの|通《つう》ってのはな、テレビ中継の始まる前から見に行くんだ。野球はテレビ中継の終わったあとが面白いんだけどな、スモウは逆なんだ。まったく、この国はおかしな国だぜ。テレビは、スモウも野球も、面白いシーンを一切見せないってわけだ。はっはっはっ。おおーっと、おまえは裸じゃないか。さあ、シャツか何か、取って来いよ。
ヴァース (喋りまくるモンスターの言葉を|遮《さえぎ》って)こいつは、今日はダメだぜ。練習があるんだ。
モンスター 練習? オー・ノー!!(オーバーに両手で頭をかきむしる)
クロモンテ (モンスターに)心配するな。付き合ってやるぜ。腰抜けどもとのポーカーはやめにして、スモウ見物とシャレてみるか。
モンスター (真面目な顔つきになって)しかし、練習があるんだろ?
クロモンテ ああ。だけど、おれは行かない。
モンスター それは、マズイ! トラブルはスタジアムの|内《なか》だけってのが、おれのモットーなんだ。スタジアムの外では|平和的《ピースフル》でなきゃいかん。おれは、一人で行くよ。邪魔したな。(全員に向かって)それじゃあ、皆さん! 今度スタジアムで会うときは、我輩のブラッシュ・ボールに気をつけて! 乱闘をおのぞみの方があれば、事前に御連絡をお願いします。台本をお渡ししますから……。はっはっはっ。では、グッド・バハハアーイ! ヤッホー! ガオー!(と叫んで、下手のドアから台風一過のごとく立ち去る)
クロモンテ |糞ったれ《ブル・シツト》! |二軍《3A》野郎め!
ヴァース じゃあ、おれたちも消えるぜ。
クロモンテ ああ、とっとと|失《う》せろ! 二度と来るな!(ヴァース、ディー兄弟の三人も下手のドアから去る)まったく、大リーグで三流だった奴らが、この国では一流面しやがって……(と呟きながら、振り向くと、サンチョがいる)
サンチョ もう、時間いっぱいのコトよ。はっけよいよい、のこったのコトよ。だから、お、おれ、一人で行くのコト……。
クロモンテ さっきから一人で行けって言ってるじゃねえか! てめえみたいなラテン野郎は、金さえ儲けりゃ、そのうち手抜きを始めるくせに……。ああ、いまだけ優等生面してろってんだ! 勝手にしろ!(クロモンテを避けるようにしてサンチョは下手へ移動し、ドアから出て行く。そのドアに向かって)馬鹿野郎!(と言って、テーブルの上にあったグラスをつかんで、投げつける)
――ガチャーンとグラスが割れたあと、間――。クロモンテは、がっくりとソファに腰を落とし、両手で頭をかかえ込む。それでも気持ちが落ち着かず、立ちあがってイライラした様子で、部屋の中を動物園の白熊のようにうろつく。が、しばらくして舞台奥のガラス戸の彼方に浮かぶマウント・フジに気づき、立ち止まってじっとそれを見つめる。
その間、何度か声をかけようとして、かけられないでいたアキコが、上手から彼の背後に近づく。
アキコ あなたって……、あの……、あなたって……。プロ野球の選手だったのね。
クロモンテ (驚いて振り返り、ポカーンと口をあけたまま、唖然として言葉も出ない)
アキコ ね、そうよね。あなた、もしかしてプロ野球の選手なんでしょ。
クロモンテ (目を丸くして)おいおい、こりゃ、まいったぜ。(苦笑しながら)キミは、おれがプロ野球のウォーレス・クロモンテ様だとも知らずに、|昨日《きのう》の晩……。
アキコ だって、わたし、ラグビーやサッカーは好きだけど、野球は退屈でつまらないから、テレビで見たこともないし……。
クロモンテ じゃあ、おれも、ヴァースも、サンチョも知らないってのか?
アキコ ヴァースって、さっきまでいた、オーソン・ウェルズみたいな人のこと? サンチョって、キャブ・キャロウェイ(訳註・映画『ブルース・ブラザース』にも出演した往年のジャズ歌手)みたいな……。へええー、そうなの。彼らもみんな、プ口野球の選手なの……。
クロモンテ (腹をかかえて大声で笑い出す)ははははははは! こりゃ傑作だ! ヴァースもサンチョも知らなくて、おれをクロモンテだとも知らずにキミはおれに抱かれたってわけか……ははははははは! いや、最高だ。じつに最高だ。この国で、キミみたいな女に出遇ったのは初めてだよ。いや、キミは、じつに素晴らしい女性だ。はははははは!
アキコ (本気で怒って)なによ、その失礼な笑い方は! わたしは、あなたが淋しそうにしていたから、そして、わたしも淋しかったから、一緒にお付き合いしただけのことよ。あなたの考え方が、よくわかったわ。あなたは、プロ野球の選手にゾロゾロくっついている、金魚の糞みたいなギャルを相手にするのが、お似合いよ!(と言って下手のドアヘ向かい、出て行こうとする)
クロモンテ (あわててアキコの手首をつかみ、真剣な表情で)待ってくれ。どこへ行くんだ。
アキコ どこへ行こうと、わたしの勝手でしょ。気分が悪いから、散歩がしたくなったのよ。だから、その手を離してよ!
クロモンテ ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ。おれが悪かった。謝る、謝るよ。頼む。もう少し話がしたいんだ。おれは、いま気づいたんだよ。キミのおかげで気づいたんだ。おれは、この国の野球を馬鹿にしていたけど、本当は、心の底であのマウント・フジのように思っていたんだ。おれは、馬鹿だった、馬鹿だったよ。おれが馬鹿にしている連中と、結局は同じ考えをしていたんだから……。
アキコ 何を言ってるのよ。富士山は、ただの富士山じゃない。野球は、ただの野球じゃないの。わたしは、もう行くわ。さあ、手を離して。
クロモンテ そ、そ、その通りだ。その通りなんだ。野球は、ただの野球なんだ。ちょ、ちょっと待ってくれ。おれも、キミと一緒に散歩がしたくなった。(アキコの手首を離すが、彼女から目を離さず、上手のほうへ後ずさりしながら)だから、そこを、動かないで。シャツを取ってくる。それまで、ちょっと待ってて。(アキコが靴をはいていないこと、赤いハイヒールが絨緞の上に転がっていることに気づく)キミは、裸足じゃないか。おれは、すぐにシャツを着て来るから、その間に靴をはいて。そう、いいアイデアだ。二人で公園を散歩しよう!(上手のドアから寝室へ消える)
アキコ (そのドアに向かって大声で)真ッ平御免よ! わたしは、一人で散歩をするわ! それに、わたしは、裸足で散歩をするのが大好きなのよ! あなたは、裸足じゃなくって、スパイクをはいて散歩をするのが、お似合いよ!「おれは、プロ野球のクロモンテ様だぞ!」って、大声で叫びながらね。だから、わたしは、あなたといっしょに散歩なんかできないわ! サヨナラッ!(下手のドアから裸足のまま出て行く。バタンッと大きな音をたててドアが閉まる。――間)
クロモンテ (しばらくして、上手の寝室のドアから、力なく肩を落として出て来る。ポロシャツ姿で、手にはスパイク・シューズを持ち、アキコの残していった赤いハイヒールをじっと見つめる)ああ……。キミの言うとおり、おれは、スパイクをはいて散歩をするよ。公園ではなく、多摩川のグラウンドをね……。
――クロモンテは、下手へ向かう途中、チラッと舞台奥のマウント・フジに目をやり、頭を左右に振りながら退場する。少し自嘲気味の頬笑みを浮かべながら……。
[#地付き]――幕――
第4球 |安芸国石打役者異聞《あきのくにいしうちやくしやいぶん》
元禄花見忠臣蔵外伝
一九八七年六月十三日。プロ野球広島カープの強打者衣笠祥雄は、二千百三十一試合連続出場という記録を達成し、アメリカ大リーグ、ニューヨーク・ヤンキースの往年の大打者ルー・ゲーリッグの残した大偉業を、数字のうえで凌駕した。
それから|遡《さかのぼ》ること約二百五十年。衣笠祥雄とまったく同様の境遇に立たされた、もうひとりの男がいた…………。
天之巻
元禄十五年葉月(八月)某日――。
その日の|仕合《しあい》を終えて|中町舟入丁《なかまちふないりちよう》にある「鉄人庵」と名づけられた屋敷に戻った|衣笠祥之進《きぬがささちのしん》は、ひとり自室に|籠《こも》って常憲院綱吉公より賜わった銀の鏡の前に座し、|己《おのれ》の顔をしげしげとながめながら、ふふふふふ……と、自嘲を含んだ低い声で|嗤《わら》った。
二、三年前までであれば、祥之進の身の上に、今日のような事態が|出来《しゆつたい》するなど、思いもよらぬことであった。|打《う》ち|手《て》たる祥之進の|身体《からだ》に|飛礫《つぶて》をぶつけた|投《とう》じ|手《て》が、顔面蒼白となって立ち|竦《すく》んだのである。おそらく、自らの失投が招いた事の重大さに気づいたのであろう。が、呆然と石のように動かぬ投じ手とは逆に、敵味方両軍の役者衆はもちろんのこと、統領、師範代、判者にいたるまでが血相を変え、もんどり打って倒れた祥之進の身を案じて|蝟集《いしゆう》した。
祥之進は飛礫が身体を直撃したことよりも、むしろそのような騒ぎのほうに驚いた。
いつものように、なんでもないなんでもないと、片手を振りながら第壱塁へ歩き、見物人の万雷の拍手を浴びた祥之進だったが、その胸のうちは、何やら|靄《もや》がかかったような|黯然《あんぜん》たる気分に陥ってしまったのである。
その日、祥之進の属する安芸緋鯉軍団は、投じ手|締《し》め|括《くく》りの名手津田恒実之介や打ち手の主軸山本浩二郎左衛門、高橋慶彦右衛門、小早川三郎直虎らの獅子奮迅の働きにより、大江戸巨人衆を血祭りにあげ、首位の座を守り抜いた。しかし、祥之進の心に|纏《まと》わりついた靄は、自軍の勝利によっても消し去ることができるものではなかった。
二千余仕合連続無休出場か……。因果なことになってしまったものよのう……。祥之進は着物の前を|開《はだ》け、飛礫が当たって赤く|腫《は》れあがった左肩を鏡に映しながら|呟《つぶや》いた。役者とは呼ばれても|元《もと》は武士。ならば私事のうえではいざ知らず、闘いの|最中《さなか》に敵より|惻隠《そくいん》の情を示されては、もはや立つ瀬がないではないか……。もともと楽天的な|性根《しようね》と論理的な思考の持ち主であった祥之進ゆえ、むやみに取り乱したり、あるいは|鬱然《うつぜん》と|塞《ふさ》ぎ込むといったことはなかったが、それでもその日|出来《しゆつたい》した事態は相当|肝《きも》に|応《こた》えたようであった。祥之進は、鏡に向かって、ふうーっと、大きく溜息をついた。
――と、そのとき、奥座敷に続く|襖《ふすま》が|開《あ》き、女房の正子が祥之進の背後より声をかけた。
「御容体、|如何様《いかよう》でございましょう」
一瞬、祥之進は心の|靄《もや》の晴れる思いがした。
主人の身体を|心《しん》の底より気遣う女房ではあったが、その声には|大形《おおぎよう》な響きが微塵も感じられなかった。いまや|石打仕合《いしうちじあい》にかかわるすべての者、さらに瓦版によって祥之進の偉業である二千余仕合連続無休出場を知ったすべての見物人が、祥之進の|身体《からだ》のわずかな変調にも|固唾《かたず》を呑むというのに、女房の正子だけは二十年来変わらず、偉業など抜きにしてただ主人の健康だけを案じた。そのような女房の態度に、祥之進は深い愛情を感じ、嬉しくも、また頼もしくも思っていたのである。
「うむ。いつものとおりじゃ。鉄人と呼ばれる我が身ゆえ、なんの案ずることもない」
「しかし、そうは申されましても、鉄人とは瓦版の物書き衆が勝手気ままに付けた俗名。|祥様《さちさま》の|生身《なまみ》のお|身体《からだ》は、他の人となんの違いもございませぬ。どうか、とくと御養生なされ、|早々《そうそう》にお|寝《やす》みなさいまし……」
「わかっておる。わかっておる。が、わしは、もそっと考え事をせねばならぬ。|其方《そち》こそ先に寝むがよい。なあに、身体のことなら心配には及ばぬ」
祥之進は、赤く|腫《は》れた左肩を右手でぴしゃりと叩き、正子を振り返って頬笑んだ。
「では、お先に失礼を……。グッドナイト」
「うむ。グッドナイトじゃ」
正子は、石打役者の間で流行している|南蛮《なんばん》語で挨拶を済ますと、奥座敷に姿を消した。
再び一人きりになった祥之進は、もう一度右手で左肩を叩いてみた。痛みはさほどでもない。この程度ならば、明日より始まる摂津猛虎隊、尾張金鯱軍、相模鯨援団との九連戦には差し支えあるまい。が、しかし――
このまま出場し続けてよいものやら……。
祥之進の心は再度靄に覆われた。
今日も、|死《しに》|飛礫《つぶて》による一出塁のみで、快打が出なかった。近頃は、ときおり飛距離の長い豪打|柵越《さくごえ》は飛び出すものの、巧打、好打、|適時打《たいむりい》の類が少ない。一仕合三快打以上の猛打にいたっては、今年になって|梨《なし》の|礫《つぶて》。祥之進の快打率は、いまや二割さえ維持することができなかった。これでは、|投《とう》じ|手《て》以下の打棒ではないか……。
しかもこの低迷は、過去の|素乱腐《すらんぷ》と趣を異にしていた。これは単なる不調ではない。内角に食い込んで来る飛礫に対して腰が切れぬ。それゆえ|撮棒杖《さいぼうづえ》の振り出しが遅れ、飛礫の威力に押されて、どん詰まりの当りしか打ち返せぬ。それでも、|円狐《えんこ》、|葉隠《はがくれ》、|落花《らつか》、|滑空《かつくう》といった|曲《まがり》|飛礫《つぶて》に対しては、長年の鍛錬によって身に付けた、|釣狐《つりぎつね》、|枯葉返《かれはがえ》し、|落花狼藉《らつかろうぜき》、|空即是色《くうそくぜしき》等の棒術にて打ち返すことができたが、|飛燕《ひえん》の|速《はや》|飛礫《つぶて》を打ち返す|燕返《つばめがえ》しの術を用いるには、|四十路《よそじ》近くとなった身体が、もはや思うようには動いてくれなくなってしまった。
祥之進の肉体は、石打役者の|星《すたあ》として明らかに|終焉《しゆうえん》の|秋《とき》を迎えようとしていたのである。
しかし、あと二年……。
それが、祥之進の最後の願いだった。
数年前、長崎出島に渡来した|和蘭船《おらんだぶね》の乗組員が伝えたところによれば、遠く異朝には|芸立宮《げいりつぐ》なる石打の名人がいて、二千百三十仕合連続無休出場の大偉業を成し遂げたという。また、水戸|光圀《みつくに》公の江戸屋敷内にある後楽園と呼ばれる庭園に、いま、大屋根付きの新しい石打仕合場が築かれつつある。石打役者の|仕合着《ゆにほおむ》を脱ぐのは、来年、芸立宮の大偉業を上回り、さらに再来年、大屋根付後楽園の晴れ舞台を踏んでのち……すなわち、あと二年……というのが、祥之進最後の夢、武士の浪漫であった。
が、急激に押し寄せる肉体の衰え、いっこうに回復せぬ打棒。このままでは我が緋鯉軍団にも必ずや迷惑を及ぼすときが来る。なのに、|己《おのれ》の偉業完遂という利己的な目的のため、敵の惻隠の情を得てまでもなお仕合に出場し続けてよいものか……。しかも、最近来朝した|判天連《ばてれん》のもたらした『|鉄 馬 《あいあんほうす》|芸立宮《げいりつぐ》伝』なる|読本《よみほん》によれば、|彼《か》の名人は引退の間際まで快打率三割に近い武勇を誇ったという。そのような大名人の大偉業を、見るも無惨な打棒にて、ただ無休出場の数においてのみ上回らんとするは武士の恥……。
しかし、瓦版は、そのような武士の面目など意に介さず〈異朝乃偉業凌駕目前〉と書きたて、祥之進の|扇《ふあん》である町人の多くも、その瞬間を待ち望んでいる……。ならば、武士の面目など捨てて、このまま……。いや、しかし、このままでは武士として……。
「このままでいいのか、いけないのか、それが問題じゃ、To be or not to be. That is the question……」
祥之進は、異朝歌舞伎十八番『|破無烈徒《はむれつと》』の名|科白《せりふ》を呟いたのち、鏡台の引き出しより南蛮渡来の|横笛《ふるうと》を取り出し、大好きな|邪頭《じやず》の|緩徐小曲《すろうばらあど》を、|英律句吐流布意《えりつく・どるふい》ふうに|奏《かな》で、まんじりともできぬ熱き夜に、|己《おの》が心の乱れをしばしの間|慰《なぐさ》めるのであった――。
地之巻
祥之進は、京の都六波羅蜜寺の南、豊国神社の前にある長屋に生まれた。
父の裕太右衛門は、内裏警護役|雷係《ヽヽ》の武士。すなわち、雷から御所屋敷を守る、いまでいう電気工事士のような仕事をしていた。が、母キヌが裕太右衛門と出遇うまえ、一時琉球の地に住んでいたことがあり、祥之進の真の父親は、大陸での戦争に駆り出された異国人との説もある。
もっとも、そのような風説に対して祥之進は、得意の南蛮語を混え、「いまさら父君は誰かと詮索するは、母君のためにフェアな態度なかるべし。我が父君は裕太右衛門一人あるのみ。天に二君なく、我に二父なし」と答えたということが、『元禄石打役者評判記 巻之伍 当代名手実録篇』に記されている。
この『元禄石打役者評判記 全六巻』は、のちに「風流球人」あるいは「棒球評人」と自称した平賀源内が編纂した石打役者の総名鑑、すなわち今日のオフィシャル・ベースボール・ガイドとファン・ブックを合わせたような書物である。そのなかの『巻之参 名手|覚書《おぼえがき》』の『衣笠祥之進』の項には、次のような記述が残されている。
『衣笠祥之進。寛文五年生(註・一六六五年)。没年不詳。山城国寺子屋平安塾出身。天和三年(註・一六八三年)安芸緋鯉軍団入団。|撰抜制度《どらふと》前之事也。右投右打。元来|捕手《とりて》なるも|投手《とうじて》を除く全|守手《まもりて》をこなす有能士。身体頑健にして元禄の若輩石打役者の|如《ごとく》には|飛礫《つぶて》を怖れず、|死《しに》|飛礫《つぶて》受くる事有多数。|亦《また》、豪快豪打の気風によりて参振数も随一なるに、連続仕合無休出場日本一の偉業を成す。武士之鑑也。|夫郎《ぷろ》之|鑑《かがみ》也。通算柵越豪打伍百余本。将軍杯、得点打杯、快走者杯、各々壱回被授与。優秀九人衆被撰抜参回。黄金名守九人衆被撰抜壱回。錦絵売上並乃上。其乃面魂、芸風により女子供衆より男衆に人気を得……』
この祥之進に関する基本データのなかで、『没年不詳』とあるのが気になる。が、そのこと以上に、このデータの末尾にある一文が、現在も、歴史学者、江戸文化史研究家たちを、大いに困惑させているのである。というのは、『元禄十五年葉月某日、|芸立宮《げいりつぐ》なる異朝石打名手の大偉業二千百三十仕合連続無休出場の凌駕目前にして、|突如失踪《ヽヽヽヽ》、|行方不明《ヽヽヽヽ》となる――』(傍点引用者)と記されているからだ。先に紹介した『巻之伍 当代名手実録篇』にも『以後消息不明』としか書かれていない。
ここまで読んでこられた読者は、祥之進が “to be or not to be”と悩んだ末、“not to be”の生き方を選択したのだと推測されるであろう。しかし、それならば、|死《しに》|飛礫《つぶて》による負傷その他の欠場理由を編み出したうえで、連続無休出場をストップすればいいだけのことである。何も、失踪まですることはないはずだ。
では、いったい何故、祥之進は突如行方をくらましたのか……。そして、その後、何処で何をしていたのか……。
その経緯を語るまえに、この物語の中核ともいうべき、江戸時代に流行した「石打」という球技について説明しておかねばならない。
「|石打《いしうち》」とは、「|飛礫《つぶて》|打《うち》」とも言い、|小石《つぶて》の周囲に硬く木綿糸と毛糸を巻き、その外側を牛皮または馬皮で覆った球(|飛礫《つぶて》)を投げ、それを|撮棒杖《さいぼうづえ》と呼ばれる(あるいは|材棒《ざいぼう》、|柊棒《さいぼう》とも呼ばれた)棒で打ち返し、得点を競う遊戯である。早い話が、現在の野球にそっくりの競技なのだが、その起源は十八世紀に生まれたベースボールよりも古く、平安時代末期(十二世紀)にまで|遡《さかのぼ》る。
そのころ、|飛礫《つぶて》(投石)は、「|引地《いんぢ》」とも言われ、主として「悪党」と呼ばれた反荘園領主的な下級武士団の用いる武力闘争の手段であった。この東大安田講堂の攻防戦のような投石に対して、棒を用いて打ち返す者が現われ、武士の間で飛礫打という武道として発展する一方、子供たちの間で石打という遊技として流行した――というのが、この球技の起源とされている。
武道としての飛礫打は、元弘三年(一三三三年)、鎌倉幕府打倒を企てた後醍醐天皇を|援《たす》けた楠木正成が、千早城、赤坂城の闘いにおいて、幕府軍を相手に戦法として用い、大成功をおさめ、以後、千早流、赤坂流、楠木流等の各流派を生み、全国の武士の間に広まった。また、遊戯としての石打は、それより以前の十二世紀中葉、後白河法皇の集成した『梁塵秘抄』のなかの名高い歌謡が、京の都での熱狂的な流行を今日に伝えている。
遊びをせんとや生まれけむ
石打せんとや生まれけむ
二振三球の声聞けば
豪打柵越の声聞けば
我が身さえこそ |動《ゆる》がるれ
[#地付き]――『日本古典文学大系第73巻梁塵秘抄』
[#地付き](|石《ヽ》波書店・刊)より
当時の飛礫打も石打も、現在の野球で言えばまだ投打の対決のみという単純なものであったが、室町時代末期の戦国の世となり、種子島に鉄砲が伝来し、戦争の戦術変化の影響を受けて九人一組の団体戦へと変化した。これが諸国の武士の擬闘として、また町人の余技として発展したのだが、秀吉の天下統一ののち、刀狩りが行なわれ、武器の一種としての|飛礫《つぶて》も全国で使用が厳禁され、武士の飛礫打、町人の石打ともに、以後、行なわれなくなってしまったのである。
が、その後、徳川三代将軍家光公の治世となり、禄扶持の事務職に就いた下級武士たちが、サラリーマン化した暮らしに愛想を尽かし、讀賣瓦版の後援を得て「職業|飛礫《つぶて》|打《うち》武士団連盟」を設立(慶安三年・一六五〇年)。徳川幕府もこれを民の|慰《なぐさ》みものとして公認し、四代将軍家綱公が初代|勧進元《こみつしよなあ》となって以後、将軍家の庇護のもとに発展するに到ったのである。
そのようにして開始された「職業飛礫打武士団連盟」による|将軍杯争奪仕合《ぺなんと・れえす》は、観客の多くが町人であったため、彼等の呼び馴れた「石打仕合」の名で定着した。と同時に、武芸を町人たちの見せ物に供するところから、飛礫打武士団は河原者と呼ばれ、そのため石打|役者《ヽヽ》の名が広まったのである。しかし、その後、沢村栄之丞、景浦将時、川上哲之介、大下弘兵衛、青田昇助(役者名・邪邪馬之助)らの名手が輩出して、その地位は向上。佐倉宗五郎の係累より長嶋茂蔵が出て大活躍するに及び、職業石打は全国的な人気を得るに到り、|星役者《すたあ》と呼ばれる石打武士は、旗本、小大名にも比する地位を得るようになった。そして、衣笠祥之進も|美星《みすたあ》と呼ばれた長嶋茂蔵にあこがれ、石打役者となり成功をおさめたのだったが、祥之進が活躍しはじめた元禄の頃より、職業石打の様相が少なからず変化したのである。
かつての名手川上哲之介が、宮本武蔵を真似て禅門に入り、大江戸巨人衆の統領として九年連続優勝(|貞 享《じようきよう》元年〜元禄五年)を果たした頃より、彼の唱えた、“管理石打”が、石打界の主流となったのだ。その結果、石打役者たちの多くは、それ以前の|豪放磊落《ごうほうらいらく》な野武士的精神を忘れ、抽象的にして観念的な武士道、あるいは石打道なるわけのわからない屁理屈を頭に叩き込まれ、統領の命じるままに動く|絡繰《からくり》人形と化してしまった。つまり、職業飛礫打武士団連盟創設当時の志は忘れ去られ、石打武士たちは元の木阿弥の如くサラリーマン化してしまったのである。そのうえ、その頃より女子供の石打|扇《ふあん》が激増し、石打役者は、技芸よりも歌舞伎役者同様の容姿が重視されるようになってしまったのであった。
ということは、先に『元禄石打役者評判記』より引用した衣笠祥之進の基本データからもわかるように、祥之進は、サラリーマン化し、まるで歌舞伎役者と化した多くの元禄石打役者のなかにあって、最後の武士とも言い得る少数派の一人だったのである――。
人之巻
明け烏が鳴き、空が白む。が、祥之進はまだ鏡の前に座していた。
|横笛《ふるうと》は大小とともに脇へ置き、両腕を組み、目を閉じていたが、|破無烈徒《はむれつと》の心境であった祥之進に睡魔は無縁。祥之進の大脳皮質の神経叢は、|月代《さかやき》の下で to be to be ten made to be ……と、繰り返し興奮し、乱れ続けていた。
――と、そのときである。
玄関口で、ガサッと音がした
「|何奴《なにやつ》」
祥之進は、左手で大刀を|鷲掴《わしづか》み、勢いよく立ち上がった。が、次の瞬間、祥之進は自らのナンセンスな振舞いを省みて、思わず|貎《かお》をしかめ、苦笑した。この元禄泰平の世に、いまさら何の騒ぐことが起きよう……。祥之進は、大刀を置き、ゆっくりと玄関口へ向かった。もう、朝刊瓦版のくる時刻となっていたのだ。
快打率三十傑に自分の名前が出ていない瓦版を見るのは少々|億劫《おつくう》に思われたが、誰か良心的な石打担当緋鯉番記者が、to be or not to be ……と悩む心に、何かしらの解決策を与えてくれはせぬものかと、祥之進は藁をも掴む思いで、まだ墨のにおいのする瓦版を手にした。が、それを|一瞥《いちべつ》するや、祥之進はがっかりして肩を落とした。瓦版に人生の指針などを期待した|己《おのれ》が|莫迦《ばか》だった、と思った。なんと、その日の瓦版は、一面|一番《とつぷ》が石打に関する記事ではなかったのだ。近頃は、石打専門瓦版までが一面|一番《とつぷ》から石打記事をはずすことが多い。なになに、また三浦某の|羅府《ロス》疑惑に関する記事か……と思いながら見出しに目をやった祥之進は、「あっ」と驚きの声をあげ、|愕然《がくぜん》とした。そして、ざーっと記事に目を走らせる間、瓦版を持つ手がぶるぶると|顫《ふる》え出すほどの興奮をおぼえた。
本紙大特報
赤穂浪士 吉良邸討入決意
|X《えつくす》デーは 師走十四日か――
急進派浪士・堀部安兵衛独占会見
「大石ぬきでも おれはやる」
大高源五 武林唯七も賛同
杉野十平次 微妙発言
「ぼくは もう夜鷹ソバを売りたくない」
浪士結集 最終的には いろは四十七士の精鋭
大石内蔵助 一力茶屋遊興は擬装工作か
天野屋利兵衛 浪士のために武器調達へ
吉良側は 警備の増強を示唆……
「これぞ、武士ではないか!」
祥之進は、江戸時代であることも忘れ、思わずエクスクラメーションマーク(!)をつけて大声で叫んだ。
うーむ……。|儂《わし》が赤穂浪士の一人であれば、武士の本懐を遂げることができるのだが……。いや、たとえ石打役者とて、長嶋茂蔵の現役時代以前の頃ならよかったものを……。いまは、石打界のみならず、世の中のすべてが管理化され、将軍綱吉公は評定所三百余議席の多勢でもって生類憐みの令などという暴政を行ない、民には不平不満が充ち満ちている。なのに将軍の庇護を受け、|飛礫《つぶて》にだけは、牛革、馬革の使用を特別に許可された飛礫打武士団連盟とはいったい何なんだ……。ただ将軍の言いなりになり、民の不満を雲散霧消させているだけではないか。統領の絡繰人形と化した石打役者……。将軍の絡繰人形と化した統領……。
二千余仕合連続無休出場など糞喰え――。
祥之進は、自室に引き返すと、綱吉公より賜った銀の鏡を壁に投げつけて叩き割った。そして、その音に驚いて目を醒ました女房の正子に向かい、再びエクスクラメーションマークをつけて、大声で叫んだ。
「いますぐ、準備をいたせ! 江戸へ|発《た》つ! 赤穂の浪士たちに、我が、|飛礫《つぶて》|棒術《ぼうじゆつ》の秘伝を教授し、きっと本懐を遂げさせるのじゃ!」
蛇足之巻
以上の話には、もちろん作者の推測が大幅に加味されている。が、証拠がないわけではない。それは、現在、東京上野の国立博物館に秘蔵されている二枚の錦絵である。
一枚は、東洲斎写楽の残した有名な石打役者姿絵シリーズのなかの衣笠祥之進の似顔絵。もう一枚は、作者は不明だが、『読本 仮名手本忠臣蔵』の『巻拾参 討入外伝』の挿し絵に出てくる俵星玄蕃の絵である。
俵星玄蕃とは、三波春夫の長編歌謡浪曲の一節「雪を蹴たてて、サク、サク、サクサク、サクサク……」で有名な槍の名手で、夜鷹蕎麦屋に身をやつしていた赤穂浪士杉野十平次らに、槍の極意を伝授したとされる人物だが、彼の顔が、写楽の描き残した祥之進の似顔絵と瓜二つなのである。これは、近年まで『仮名手本忠臣蔵』の絵師が、玄蕃に祥之進の|野性的《わいるどな》面魂をあてたと解釈されていた。が、つい最近、東京芝高輪泉岳寺境内の土蔵より発見された『赤垣源蔵|徳利之訣覚書《とつくりのわかれおぼえがき》』なる古文献により、『仮名手本――』の絵師が、四十七士およびそれに|纏《まつ》わる人々の面貌を、すべて詳細に写生していたという事実がわかったのである。ならば、江戸へ発った祥之進は、俵星玄蕃と名を変えて……
元禄十五年師走十四日――。
江戸の夜風をふるわせて、山鹿流儀の陣太鼓が響く。一打ち、二打ち、三流れ……。
おおっ。あれはまさしく赤穂浪士の討ち入りじゃ。助太刀するは、このときぞ――と、玄蕃こと祥之進は、|長押《なげし》にかかる先祖伝来俵弾正の鍛えたる五尺の撮棒杖を右の手に、切戸を開けて外に|出《い》で、本所松坂町にある吉良の屋敷へとひた走りに走った。
吉良の屋敷に来てみれば、いまや討ち入りの真最中。総大将の大石内蔵助を見つけた俵星、いや衣笠は、「天下無双のこの棒で、お助太刀をばいたそうぞ」と|大音声《だいおんじよう》をあげた。
しかし、大石はこの申し入れを、頭を低くして丁重に辞退した。
「深き御恩はこのとおり、厚く御礼を申します。されども|此処《ここ》はこのままに、棒を納めて御引きあげくださるならば有難し……」
かかる折しも、一人の浪士が雪を蹴立ててサク、サク、サクサク、サクサク……。
「先生」
「おおうっ。蕎麦屋か」
いやいや、襟に書かれた名前を見れば、まことは杉野十平次。|儂《わし》が教えたあの極意、命惜しむな名をこそ惜しめ、立派な働き祈りますぞよ……と言って別れた衣笠祥之進は、両国橋のたもとまで引き返し、「赤穂浪士に邪魔するやつは、|何人《なにびと》たりとも通さんぞ」とばかり、雪の降りしきる中、|撮棒杖《ばつと》を手に、仁王立ちしたのであった。
そのときの様子を、三波春夫は「|棒《ヽ》に玄蕃の涙が|光る《ヽヽ》」と歌っている。おそらく、祥之進の手にしていたのは、武器として、より殺傷能力の高い|金属撮棒杖《きんぞくばつと》だったのであろう。
かくして赤穂浪士は吉良上野介の首を獲り、めでたく本懐を遂げたのであったが、その際、浪士のなかの数名が、|飛礫《つぶて》棒術を用いて吉良側の武士多数を|危《あや》めたため、幕府は翌元禄十六年、老中柳沢吉保の命により、すべての石打を禁じる『飛礫打御法度の令』を布告した。そのため、職業飛礫打武士団連盟はやむなく解散、石打役者たちは、歌舞伎役者や相撲役者に身を変え、原辰之助(のちの尾上辰之助)、江川卓右衛門(のちの雷電為右衛門)らは、それぞれ別の方面で石打役者として以上に成功したのであった。
とはいえ、そのとき以来、日本の石打技術は、明治六年(一八七三)にベースボールが伝えられるまで約百五十年の間、暗黒時代を迎え、アメリカ大リーグに大きく差をつけられてしまったのである――。
[#改ページ]
第5球 風雲児落合博満武勇伝
序の段
サテ、今回御所望によりまして演じまするは、天下に比類なき打撃の達人『落合博満武勇伝』の一席でございます。
|題目《タイトル》に『序の段』と書かれておりますのは、この|講談《おはなし》の主人公が、まだ現役にして日々新たなる武勇伝を生み出している真ッ最中だからでございまして、今日は、|公《かれ》が|此世《このよ》に生を受けましてから現在に至りますまでの半生のうち、アマチュア時代の出来事を中心にお話しさせていただきとう存じます。
サテ、落合公と申さば、先刻、皆様方よーく御存知のとおり、|抜刀《バツト》を持てば豪打無双の三冠王、しかも、自主独立の精神旺盛にして舌鋒鋭く昨今の管理野球やサラリーマン野球に毒舌を|揮《ふる》う、有言実行のプロフェッショナルとして、その名は、全国津々浦々に至るまで|轟《とどろ》く風雲児でございます。
その落合公が、最も落合公たるべき大活躍をいたしましたのが、昭和六十一年の|季節《シーズン》、|猟師三星《オリオンズ》の四番打者として、三度目の三冠王を獲得したときのことでございました。その年、|公《かれ》は、開幕直前に|患《わずら》いましたる|疝気《せんき》、|即《すなわ》ち腰の|病《やまい》のために、不幸にして出足好調とは言い難く、|開幕直後《スタート・ダツシユ》の|卯月《うづき》(四月)一か月間の打率が、二割三分と低迷してしまいました。
ために、野球道を歩めと説く精神論者や、|机上《ダウン》|の《・》|打撃論《スイング》を振り|翳《かざ》す野球解説者のなかには――
△『ホレ見たことか。日頃の|精進《しようじん》を|怠《おこた》り、|駄法螺《だぼら》ばかり吹いておるから、このような|無様《ぶざま》な|破目《はめ》に|陥《おちい》るのじゃ。|自業自得《じごうじとく》とは、このことよのう……アハアハ』
×『|所詮《しよせん》、あのような|邪道の打撃《アツパー・スイング》では、好成績など続かぬも道理。そのくせ三度目の三冠王を取るとか、打率四割を狙うなどと|吐《ぬ》かしおるが、|巨人軍《ダウン・》|正統派《スイング》の王貞治と|較《くら》ぶれば、|落公《おちこう》なんぞ、|到底《とうてい》、|足下《あしもと》にも及ばぬ|猪口材《ちよこざい》な一匹狼に過ぎぬワ。せいぜい|年増《としま》女房の乳でもしゃぶって|慰《なぐさ》んでおれ……アハゝゝゝゝ』
――などと、まるで鬼の首でも|討《う》ち取ったかのように陰口を叩く|輩《やから》が、決して少なくなかったのでございます。こうなりますと、落合公の|支持者《フアン》や|大衆煽動《マスコミ》者の記者のなかにも、 ○『無念。これほどまでに打撃が低迷しては、もはやこれまでじゃ……』と、|諦《あきら》める者が出るまでに到ったのでございましたが、|梅雨《つゆ》が明け、|他《ほか》の選手に疲れの見え始める夏の猛暑の季節になりますと、落合公、腹の|周《まわ》りに|蓄《たくわ》えましたる|脂肪《エネルギー》をば|力《パワー》にいたしまして、打つワ、打つワ、連日連夜、豪打連打の|雨霰《あめあられ》。アッという間に、打率、本塁打、打点の三部門のトップに立ち、あれよ、と思う間に、いとも|易《やす》々と三度目の三冠王を手にしたのであります。
もっとも、この|余《あま》りの|鮮《あざや》かさの|為《ため》か、 王『落合公は、|太平洋連盟《パシフイツク・リーグ》に属するが|故《ゆえ》に、|又《また》、|噛護謨《ロツテ》の一員であるが|故《ゆえ》に、|斯《か》くも猛打を発揮できたのであり、|常時大観衆 注目中央連盟《つねにフアンがおおぜいみているセントラル・リーグ》で、又、我が巨人軍で打席に立てば、如何なる結果になるものか……』などという声も聞かれたのでありますが、改めて申すまでもなく、これは、チト、往年の大打者の唯我独尊的にして甚だ|莫迦《ばか》々々しい意見と言う|外《ほか》なく、口にした人物の人格をこそ疑うべきと申せましょう。が、外野の声はともかく、これほどの偉業に対しまして花束ひとつ用意せず、まったく無視に近い態度を示した|噛護謨《ロツテ》球団に対して、怒り心頭に発しました落合公、自ら|移籍《トレード》を希望し|、尾張昇龍軍団《ちゆうにち・ドラゴンズ》に籍を移すことに相成ったのでございます。が、その|経緯《いきさつ》につきましては、|又《また》の機会に譲ることにさせていただきます。
ところで、落合公と申さば、|何処《どこ》ぞの四番打者のように、|投球《ボール》を怖がって逃げ腰になったり、家庭の|団欒《だんらん》が乱れると|不調《スランプ》に陥ったり、|将又《はたまた》、良き指導者に出遇えば突如好調に転じるというような、|柔《やわ》な、浮わついた男ではございません。その|性根《しようね》の|座《すわ》り|様《よう》、さらに脳味噌の|練《ね》る|練《ね》る|練《ね》ーる|練《ね》り|具合《ぐあい》からして、並みの一流打者の|一等《いつとう》上を行く豪傑とでも申しましょうか、マア、九歳|年長《としうえ》の信子夫人の 信子『あなた、もう|一寸《ちよつと》バットをピンとお立てになって……』という|助言《アドバイス》を必要とする弱点があるとはいえ、|公《かれ》のこれまでの野球人生そのものが、昨今のプロ野球選手のなかにありましては異彩を放ち、|尋常《じんじよう》ならざるところがあるのでございます。されば、このような|講談《おはなし》にもなり、後世にまで語り継がれるというわけでございますが――
サテ、|我等《われら》が主人公が、|此世《このよ》にオギャアと|産声《うぶごえ》をあげましたのは、昭和二十八年十二月九日、|羽後国《うごのくに》秋田県は|若美町《わかみちよう》という小さな町、秋田市内から北々西に進路を取りまして約三十キロ、八郎潟の西、男鹿半島の付け根にあります|田舎町《いなかまち》での出来事でございました。
家業は、母親が中心になりましての和菓子製造業で、産まれたばかりの落合公は、毎日々々、|餡《あん》ころ|餅《もち》を練ります母親の背中に負われて育ちましたる|故《ゆえ》、いつの間にか両脚が|O股《ガニまた》気味に曲がってしまいました。そのため、いまも打席で左足をステップする際、外側へ開き気味に足が出るわけでございます――と、語ります|演者《わたくし》は、もちろん、見てきた様な嘘を言うのが|生業《なりわい》の講釈師、別の名をスポーツ・ノンフィクション・ライターと申します|故《ゆえ》、この|逸話《エピソード》の真偽の程は、保証いたしかねます。
それはさて|措《お》き、|公《かれ》の父親は、と申しますと、米どころ秋田の食糧事務所に勤める平凡なサラリーマン。|斯様《かよう》な両親のもとで、男三人女四人という七人きょうだいの末っ子に生まれましたる博満少年の幼少時代は、決して裕福というわけではなかったようでございます。さりとて、とくに貧困というわけでもなく、当の本人の語るところによりますれば、 落『まったく、|フツウ《ヽヽヽ》の暮しだったよ』とのことでございます。さらに、博満少年が野球を始めましたる|経緯《いきさつ》につきましても、 落『特別なことなんか、ナーンもない。自然に草野球を始めただけのことで、|フツウ《ヽヽヽ》の子供と|同《おんな》じヨ』と語るのでございます。
|講談《おはなし》は少々横道に|逸《そ》れますが、講釈師にとりまして、一番困るのが、この「フツウ」という|奴《やつ》でございます。何か突拍子もない出来事、あるいは奇矯な逸話がございませんことには、|講談《おはなし》の|筋《すじ》を盛り上げることも、|山 場《クライマツクス》をつくることも出来ません。そのため、落合公に関します、他の『外伝』『風伝』『異聞伝』の|類《たぐい》を|紐解《ひもと》きますと、『幼少の|砌《みぎり》は赤貧洗うが|如《ごと》しであった』だの、『小学校に入ります前より、兄者が手取り足取り、野球道の指南役を務めましての英才教育』だのと、まるで『巨人の星』の|型 《パターン》をそのまま踏襲したような書き様をしている| 講 釈 師 《ノンフイクシヨン・ライター》もいるのでございます。が、実際、|羽後国《うごのくに》の当地を訪ねて、親類縁者の方々にお話をお|訊《き》きしましても、其ノ様な事実はございません。当人の口にする通り、幼少の折は、すべての面で|極々《ごくごく》「フツウ」だったようでございまして、|講談《おはなし》に盛り上がりを欠くとの|謗《そしり》を受けますことは十分覚悟の上、ここでは博満少年はフツウの子供であった、と、述べさせていただきます。
|即《すなわ》ち、小学四年になりましたる時、兄の影響から地元の学童野球団に入団したとはいえ、これが昨今のリトル・リーグとはその性質が異なりまして、ただ野ッ原を駆け回る、|洟垂《はなた》れ小僧たちの草野球というわけでございました。
マア、|公《かれ》の少年時代は、巨人軍の原辰徳などと較べますれば正反対。原の場合は、生後わずか三か月、まだ赤ン坊の首も座らぬという時期に、父親の手によりまして何度も|布団《ふとん》の上に|抛《ほう》り投げられ、反射神経の有無が試されるなど、早くから英才教育が|施《ほどこ》されたと伝え聞きます。そこで、 原貢『ウム、この子には野球選手に|相応《ふさわ》しい、有り難き天賦の才があるわい』と、認められましてより、将来へ向けての特訓が始まり、わずか三歳にして腕立て伏が二十回も出来る程の筋力を得たと言われております。もちろん、プリンス原辰徳は、|水洟《みずばな》も垂らさなかったことでございましょう。
|又《また》、掛布雅之や高橋慶彦といった選手たちも、熱心な|野球狂の父《グラウンド・パパ》から、 父『おまえは、ゆく元服すればプロ野球の選手になるのじゃ』と|喩《さと》され、やはり特殊な訓練が|施《ほどこ》されたと聞き及びます。が、落合公の場合には、|斯様《かよう》な少年野球時代の|逸話《エピソード》が、まったくございません。ただ、当時、高度経済成長の時代の、フツウの少年たちと同様、月光仮面と長嶋茂雄に対する憧れを胸に抱きながら、毎日々々、|水洟《みずばな》を垂らして野ッ原を駆け回り、ズボンの膝をスリ切らせ、 落『また、|母《かあ》ちゃんに怒られるゥ……』と思いながらも、夕焼け空に|陽《ひ》の沈みますまで、|棒切れ《バツト》を振り回し、球遊びに興じていたのでございます。
最近は、我が子をプロ野球選手に……と|希《のぞ》む|親御《おやご》さん方が多いようでございますが、|豪放磊落《ごうほうらいらく》なる落合公のようなプロフェッショナルが、|一人《いちにん》でも多く|擡頭《たいとう》することを|希《ねが》うファンの立場から考えますれば、|御子様《おこさま》方にはあまり余計な|御節介《おせつかい》を焼かれませぬよう、|僣越《せんえつ》ながら申し上げたい気持ちになります。イヤ、|閑 話 休 題《むだばなしはさておきまして》――。
|斯《か》くして、現在の落合公の、自立心旺盛にして少々|我儘《わがまま》、反逆児でありながらチョイと甘えン坊、誰が|何《なん》と言おうと我が道を行くという性格は、このような少年時代の環境、|即《すなわ》ち、七人きょうだいの末ッ子が、――ア、申し忘れておりましたが、博満少年は、お爺さん子でもありましたわけで――其ノ様な少年が、自由奔放に草野球を楽しむというなかで|育《はぐく》まれたものと思われます。
そんなわけでございますから、中学時代に|頭角《とうかく》を|露《あらわ》しましたる博満少年の野球の|才《さい》は、百パーセント正真正銘の天賦の才でございました。しかも、その才たるや、まさしく鬼才と言うほかなく、博満少年の投じます球をば、打つことの出来る|級 友《チームメイト》など|一人《いちにん》とておりません。それどころか、|公《かれ》が全力で『ビュン!』とボールを投げますれば、それをミットで受け止めることのできる|級 友《チームメイト》すらいなかったという程の、豪球投手だったのでございます。
こうなりますと、博満少年の名は、干拓された八郎潟の|田畑《でんばた》を駆け巡り、やがて|山間《やまあい》の村から山頂の炭焼小屋に住む者まで、秋田県下で|公《かれ》の名を知らぬ者は皆無というほどの状態になりました。これは、話半分にお聞きいただきましても、相当のもの。|公《かれ》より二歳年下の江川卓少年が、その後、同じく中学生時代に、栃木県下で「怪物フィーバー」なる騒動を|捲《ま》き起こしましたが、博満少年の評判も、それに優るとも劣らぬもの、もしも|公《かれ》が首都圏近辺に住んでおりましたならば、必ずやマスコミの毒牙に……イヤ、マスコミの報道によって、その評判は江川少年のように全国に知れ渡ったことでありましょう。が、奥州は遠隔の地、|公《かれ》の名が|羽後国一国内《うごのくにいつこくない》に|留《とど》まりましたのは、公にとっても、ファンにとっても、幸いな事であったと思われます。
○『オイ、|若美町《わかみちよう》におる、落合ちう|餓鬼《がき》ン子、知っとるだかや』
△『まんず、知っとるも知らんもねえぞかし。|凄《すげ》え|球《たま》ッこサ、投げるツウでねえか。あの餓鬼ン子取った高校サ、甲子園で優勝するに|違《ちげ》えねエ』
×『んだ、|違《ちげ》えねえ』
――テナ噂が、町から村へ、村から山へと伝わったのでございますが、そこに、なんともマズイことが、ただひとつだけございました。いや、マア、マズイと申しましても、それは、|公《かれ》に対して甲子園優勝の期待をかけましたる周囲の人間にとってマズイことでございまして、落合公にとりましては、どうでもいいことだったようです。そのマズイこととは、「天は二物を与えず」と言いますが、|公《かれ》に限って、天が二物を与えてしまったのでございます。|即《すなわ》ち、|公《かれ》には野球の才に加えまして、小学生の頃より図画工作を除く成績が、オール5に近い頭の良さまで与えられたのであります。
とは言え、子供の頃よりの|才気煥発《さいきかんぱつ》というのは少々考えものでございまして、一休さんの時代ならばよろしいのでございましょうが、現代の学歴社会、管理社会は、|頓知《とんち》や|機知《きち》や|機転《きてん》といったものだけでは渡れません。そのような本物の脳味噌の能力、頭の回転の良さ以上に、|紙切試験《ペーパー・テスト》の偏差|知《ヽ》――イヤ、偏差|値《ヽ》というものが、ハバを効かせております。ところが、あまりに才気煥発な少年といいますのは、偏差値なるものの莫迦々々しさに、イチ早く気づいてしまい、往々にして落ち|零《こぼ》れるケースが少なくないのでございます。
博満少年も、どうやら其ノ様なケースに陥りましたようで、中学時代から勉強をサボリ始め、成績がどんどんと下がり、高校に進みましてからは、常に|級《クラス》のびりッ|尻《けつ》になってしまいました。ここで、余分な二行を申し添えますが、|公《かれ》の|他人《ひと》を|喰《く》ったようでいて甘い|顔つき《ルツクス》が、どこか『|LA《エルエー》疑惑伝』の主人公三浦某に似ておりますのには、何か因果が含まれているのかもしれません。
もっとも、学校の成績や偏差値なんぞ、野球選手にとっては、どうでもよいことでございます。が、マズイことに、中学時代に県下|随 一《ナンバーワン》の豪球投手と|謳《うた》われました博満少年は、その才気煥発なる脳味噌が災いいたしまして、甲子園での優勝は|疎《おろ》か、出場すらも出来ず、それどころか野球の|才《さい》までも|磨《す》り減らし始めたのでございます。
その徴候は、|先《ま》ず、高校入学の頃より表立ってまいりました。
|類稀《たぐいまれ》なる|才《さい》の持ち主として、県下の高校は|挙《こぞ》って落合公の獲得に名乗りをあげたのでございましたが、|公《かれ》の選びましたる高校は、ナント、甲子園には程遠く、当時、野球では無名に近い、秋田工業高校だったのでございます。|斯様《かよう》な高校を選択しました落合公の理由が、また|振《ふる》ッておりまして――、
落『練習が一番ラクそうで、|五月蝿《うるさ》いコトをゴチャゴチャと言われんで済むと思ったから……』
と、言うのであります。
しかも、|其《そ》ノ|上《うえ》、|公《かれ》は秋田工業高校の野球部に入部した直後、豪球投手としての|才《さい》を、|最《いと》も簡単に、|自らの手により《ヽヽヽヽヽヽヽ》、捨て去ってしまったのでございます。
その間の事情を、落合公自身は、自著のなかに、「入部三か月で肩をこわしてピッチャーを断念。外野へコンバートされた」と、書いております。が、これはチョイとおかしい。どうも、納得できません。と、言いますのは、当時秋田工業高校の野球部長を務めていた安藤晃先生が、次の様に語っておられるからでございます。
安『アア、あれは、入部して間もなくのこと、落合自身が椎間板ヘルニアを手術したと申し出てきましたので、惜しくも投手としては使えず、|已《や》むなく外野へコンバートした次第……』
|老翁《ろうおう》の青春|回顧譚《かいこたん》ならばイザ知らず、たか十五年前の話に、これ程の食い違いが生ずるとは、アナ不思議。少々|穿《うが》ち過ぎとの|謗《そしり》を受けるやもしれませんが、その裏には、落合公自身の|心《しん》の|底《てい》に、 落『|投手《ピツチヤー》のようなシンドイ仕事は、やっとれんヨ。ラクな|打者《バツター》に転向したほうがいいや』との考えがあり、チョウド都合のいい|具合《ぐあい》に、肩や腰に少々支障が出たため、|公《かれ》は機知を働かせて、外野へコンバートされるよう|企《たくら》んだものと、推量できるのでございます。
それから|後《のち》も、|公《かれ》はヤレ 落『腰が痛む』だの、 落『頭が重い』だの、 落『足を|挫《くじ》いた』だのと申しまして、練習はサボッてばかり。それでも、|公《かれ》に優る打棒を発揮する|級 友《チームメイト》はなく、試合が近づきますと、その一週間前よりグラウンドヘ現われまして、チョチョイのチョイと練習をするだけで、チームの主砲、四番打者を務め続けたのでございます。|公《かれ》に較べますれば、江川卓投手の手抜きなんぞ、まだ可愛いもの、イヤ、プロに入っても投手を続けていただけ|真面目《まじめ》なもの、と、感心したくなるくらいでございます。マア、江川投手も、アマ時代からあれ程マスコミに騒がれることなく、落合公のような機知を働かせて、打者に転向しておりますれば、その後、巨人軍の四番打者として、落合公と三冠王を争っておるようになっていたやもしれません。
が、それはともかく、高校時代の落合公のサボリ癖には、さすがに野球部の先生方も、
安『これでは、マズイ。本人のためにも良くない』
と思われましたようで、何度も|公《かれ》を職員室へ呼び出しまして、いろと|諭《さと》したのであります。
安『のう、落合よ、よーく聞け。人間の一生というものは、結果が良ければそれで良しというものではない。努力する過程、|辛抱《しんぼう》する|根性《こんじよう》こそ大事。友と|和《わ》す精神こそ美しく|尊《たつと》いものなのじゃ。なのにお|主《ぬし》は……ブツ』
しかし、落合公には馬耳東風。その耳の中では、|公《かれ》の大好きなミュージカル『マイ・フェア・レディ』のテーマ『踊り明かそう』が、常に鳴り響いていたのでございます。I could have danced all night, I could have danced all night ………… I could have spread my wings ………
と申しますのも、当時の|公《かれ》は、無類の映画好き少年でございまして、学校をサボリ、野球の練習をサボリ、年平均百本もの映画を見たといいます。 巨人某『映画を見たり、本を読んだりすると、目を悪くしてバッティングの調子が落ちる。だから僕は、映画も見ないし、本も読まない』などと言う選手が少なくないなかで、|公《かれ》の映画館通いは、尋常ではございません。が、これも、現実の社会よりも虚構の世界に遊ぶことを好むという、才気煥発なる少年に有り勝ちな性向と申せましょう。落合公は、天才肌のロマンチストであったというわけですナ。
サテ、|公《かれ》が高校を卒業いたしますとき、当初の就職の予定を突然切り替えまして、安藤先生に|縋《すが》りつき、東洋大学への推薦を受けたのでございましたが、これは、多分、社会人となる前に、もう少々|猶予《モラト》|期間《リアム》を楽しもうとの機転が働いたためと思われます。ところが、|公《かれ》は、そんな無理までいって大学に進んだにもかかわらず、わずか三か月で野球部を|辞《や》め、大学も退学して、郷里に舞い戻ったのであります。そうして、その後二年間、兄が支配人を務めましたるボウリング場でアルバイトをしていたのでしたが、 落『いつまでも、こんなにブラしてはおれんよなァ……』と思いましたる落合公、恥を忍んで再び安藤先生の家の門を叩きました。
そして――
落『先生、私の人生には、やっぱり野球しかありません。どうか、道を開いて下さい』
――と、頭を垂れたのでございますが、もちろん安藤先生にとっては、|公《かれ》の言葉など|眉唾《まゆつば》ものもいいところで、信用することなど出来ません。
そこで、苦虫を噛み|潰《つぶ》したような表情で――
安『おまえは、まるで|馬喰八十八《ばくろうやそはち》のような男じゃな』
落『なんですか、それは?』
安『井上ひさしの小説の主人公で、口から出まかせの嘘八百をつきまくり、調子よく女やカネや地位を得る|変な男《トリツクスター》のことじゃ』
――とは、マサカ、当時まだ小説『馬喰八十八伝』が出版されてはおりませんので、言わなかったでございましょうが、安藤先生の胸中、|斯様《かよう》なものではなかったかと察せられます。
安『のう、落合。おまえが突然、就職するのを|止《や》めて大学へ行くと言い出したとき、|私《わし》は|何《なん》と言ったか、覚えておるか』
落『ハイ、それは……』
安『よもや、忘れたとは言わせんゾ』
落『ハ、ハハア……』
安『高校時代のように、練習をサボッてはいかん。|一《いち》から出直せ。たとえ、どんなに苦しくとも、辛抱して四年間の野球生活を|全《まつと》うせよ、と、|私《わし》はこんと|説《と》き聞かせた。なのに、おまえは、ほんの|一寸《ちよつと》足に肉離れを起こしたくらいで、たった三か月で、|私《わし》との約束を|反故《ほご》にしたのじゃ。なのに、おめと、再び|私《わし》の前に現われて、野球の道を開いてくれとは……、お|主《ぬし》、恥を知れ、恥を……』
――と、マア、安藤先生が怒り心頭に発したのも、無理はありません。が、この話を聞きながら、落合公、心の中でペロリと舌を出し、 落『ヘッ。俺より|下手糞《へたくそ》な|奴等《やつら》が、学年が一ツ二ツ上だというだけで、|反《そ》っくり返って|威張《いば》り散らしているようなところで、誰が野球なんか、出来るもんか』と、|呟《つぶや》いたか|否《いな》か、定かではございません。が、それが|公《かれ》の大学を中退した理由には間違いなかろうと存じます。
とは申せど、教え子を見捨てることの出来ませんのが教師の常。
安『おまえ、今度こそ、本気でやれるか』
――この言葉に、落合公は飛びつきました。
落『ハイ。今度こそ、今度こそ、本気です』
――というわけで、|公《かれ》は、安藤先生の誠に有り難き紹介によりまして、東芝府中に入社出来たのでございますが、一年も|経《た》ちますと|元《もと》の|木阿弥《もくあみ》、 落『給料も安いし、チョット|居《い》づらいこともいろ出来て……』と、早くも退社を決意したというのですから、モウ|所謂《いわゆる》常識的背広姿乃社会人にとっては|処置無《しよちな》しでございます。もっとも、このときばかりは、落合公の姉君に、 姉『お世話になった人たちに、どう顔向けするつもりなの!?』と、|半《なかば》涙声で|怒鳴《どや》しつけられ、よう退社は思いとどまりました。そして、その後五年間、社会人野球東芝府中の一員として活躍を続けるなかで、全日本チームの四番打者にまで成長した落合公は、昭和五十三年、イタリアで行なわれましたる第二十五回世界アマチュア野球選手権大会に出場、十三打点を叩き出す豪打を発揮したのでありました。が、|如何《いかん》せん、守備に弱点有りとの悪評に加え、打撃も我流との判断が加わりまして、プロの高い評価は得ることが出来ず、その年の秋、江川卓の「空白の一日事件」で世間が大騒ぎするなか、マスコミに大きく取り上げられることもなく、|噛護謨猟師三星球団《ロツテ・オリオンズ》にドラフト三位で指名され、プロ野球選手・落合博満が誕生したというわけでございました。
マア、このような落合公の生き様を、奇矯にしてチャランポランの人生と言う人もおりますが、よく考えてみますれば、そうでもございません。むしろ、頭を|刑務所《ムシヨ》帰りのような丸刈りにして、 ○『コンニチワ』と、挨拶するかわりに ×『オオーッス』と|唸《うな》り声をあげ、先輩が煙草を出せば、サッと、まるで銀座のホステスのように後輩がライターの火をつける、というような学生野球の世界に、何年も身を置き、ただ野球に明け暮れるという人生のほうが、よほど奇矯であるとも申せましょう。|将又《はたまた》、それが社会に出てから役に立つ訓練というのであれば、落合公の生き様よりも、ムシロ世の中のほうが奇矯と言ってもよろしかろうかと存じます。
プロ野球の世界も、|建前《たてまえ》としては実力本位とはいえ、そんな世の中の|柵 《しがらみ》と決して無縁ではございません。オーナーの靴磨きをして監督の座に就いた人物、監督に|盆暮《ぼんく》れの贈物を欠かさず一軍に|留《とど》まる選手、また、監督の庭の盆栽の手入れをすることでコーチの座を得た者――|等々《などなど》がおります一方で、本社の方針に|楯突《たてつ》いて二軍生活を余儀無くされた者など、いろでございます。実際、落合公も、プロ入り当時は、打撃理論の|正統 派《レベル・スイング》を自認する監督より、山内『貴様の|振上 打法《アツパー・スイング》は邪道』との烙印を押され、さらに、後に監督に復帰しました声ばかり大きい評論家と称するワケのわからない人物に 金田『アレは、プロでは使いものにならんワイ』などと|糞味噌《くそみそ》に罵倒され、長い二軍生活を|強《し》いられたのでございました。
が、落合公は、その|邪道の 剣《アツパー・スイング》を磨き続けることによりまして、|本家・家元《ダウン・レベル》の打法では、まったく手の出なかった|勇者《ブレーブス》の|最《エ》|高投《ー》|手《ス》・山田久志の|魔球《シンカー》をば、ハッシと叩いてホームランできる、球界唯一の大打者にまで到ったのであります。まさしく、|公《かれ》の発する快音は、|公《かれ》の舌鋒鋭い管理野球批判以上に鋭い現体制批判の|刃《やいば》となって、|中央 連盟《セントラル・リーグ》に移籍しました今日も、現在の管理社会、それに準ずるプロ野球社会を、切りまくっていると申せましょう。
抜けば|球散《たまち》る|公《かれ》の|抜刀《バツト》を、先人の剣に較べますれば、|宮本武蔵《かわかみてつはる》と言うよりも|由比正雪《おおしたひろし》、|佐々木小次郎《はりもといさお》というよりも|丸橋《あおた》|忠弥《のぼる》、これぞ、まさしく快打洗心と呼び得る|打 法《バツテイング》でございます。はたして、これより|後《あと》、 落『三冠王は五回|獲《と》る!』という|公《かれ》の野望、さらに 落『|打 者《バツトマン》としての永遠の|夢《ロマン》・打率四割』、という落合公の|希《のぞ》みは、|如何《いかが》相成りますか。さらに、将来は、落合公の敬愛して|止《や》みません|佐倉宗五郎《ながしましげお》の果たし得なかった夢を継ぎ、一党を率いて管理野球に殴り込みをかけんとするのでありましょうか――。|講談《おはなし》は、これより佳境に向かいますが、お時間でございます。続きはスタジアムにて、お楽しみいただきとう存じます。
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第6球 バースの見た日本
from“Japan Day by Day” by H.T.Bass
▼バースのきたころの日本――
ハンシン・タイガー・バースが最初に来日したのは、一九八三年(明治、大正の後、平成の前にあたる昭和と呼ばれた時代の五八年)三月のことであり、五年後の一九八八年(昭和六三年)六月、子供の病気を理由に日本を去っている。ちょうどいまから百五年前のことである。
当時の日本の世の中は、政治も経済も一見安定した繁栄を続けているように見えた。性急な自然破壊とプルトニウムの蓄積は進行中ではあったが、現在ほど悲惨な状態ではなく、まだ緑色の植物が生存するなかで、国民は、今日二百年以上の歴史を誇るアメリカのベースボールに似た“野球”というスポーツに、毎日うつつを抜かしていた。そのころの日本は、歴史学者が、“野球狂時代”と命名するくらい野球人気が高まり、ベースボールの選手であったバースも、日本に在住したときは職業野球団の「関西猛虎軍」に加わり、大活躍した。
このような時代背景のもと、バースの収集した野球用品の数々は、われわれ日本人の先祖たちの手作り感覚の見事さと、当時世界で最先端を誇った科学技術が奇妙に入り混じり、まったく無機質な今日の物質社会への過渡期の姿を現在に伝えている。
まことに本書におさめられた種々の品物は、百年前のひとびとの“野球”が、徐々に心貧しく、ギスギスしたものになっていく過程のなかで、ついに滅んでしまった原因の一端を、垣間見せてくれるものであるといえよう。
▼百年前のタイムカプセルを開く――
オクラホマ州の州都であるオクラホマシティから車でおよそ四十分。テキサスに近いロートンの町にあるオクラホマ州立掘立小屋協会博物館( Okulahoma Dugout Institution Museum )は、その名のとおり、壊れかかった|掘立《ダッグ》|小屋《アウト》に、薄汚れた青色のペンキが乱雑に塗られ、じつにうらびれた趣を呈している。
が、それが、かつて日本にあった“カワサキ・スタジアム”という|球 場《ボールパーク》の外観を模したものであることを知れば、驚嘆の念を禁じざるを得ない。この粗末な建造物こそ、百年前の日本野球をそのまま保存した「驚異の掘立小屋」なのである。そして、そのなかにあったバース・コレクションにはじめて出逢ったときの感動、知的興奮……。
ここに紹介するのは、そのごく一部ではあるが、その博物館の初代館長として貴重な資料の収集に務めたH・T・バースに感謝の念を捧げつつ、さっそく読者の皆さんに100年前の玉手箱を開けて御覧にいれよう。
from“Japan Day by Day”by H.T.Bass
――「バースの日記」より――
●電算機つきのソロバンは東洋の神秘――
この国の職業野球の選手や指導者は、試合中、つねにこの|計算 機《カルキユレーター》を携帯している。とくに、ペナントレースの終盤になると、誰もがこれを手にして試合に臨む。こんな道具が、野球というスポーツになぜ必要なのか、私(H・T・バース)も最初は|訝《いぶか》ったものだが、そのうち謎は解けた。
彼らは、一打席ごとに、細かく打率の計算(割り算)をしていたのだ。そして規定打席に到達し、シーズン打率が3割や2割8分といった区切りのいい数字に達すると、打率の低下を防ぐため、すなわち翌年の契約条件をよくするため、残り試合の出場をとりやめるのだ。
あるいは、首位打者争いをしている選手が、ライバルとの打率の差を計算するためにも、この計算機は威力を発揮した。そして、計算の結果を得て、選手は試合を欠場したり、|監督《ボス》やコーチは味方の投手陣に、彼のライバルに対する|四 球《フオアボール》攻めを指示したりしたのだった。
私は、本塁打の数(足し算)でボーナス契約を結んでいたので、この機械を使う必要はなかった。それでも、僚友のなかには、ソロバンをパチパチとはじきながら、「いま、あんさんのホームランと|オッチャイ《ヽヽヽヽヽ》選手のホームランの差はこんなもんでっせ。せやから、がんばりなはれや」などと教えてくれる奴がいた。彼(カワトーという選手で、のちに『ピンクパンサー』という映画に“ケイトー”という名で出場した)は、私に将棋――日本のチェス――も教えてくれた。ソロバンは役に立たなかったが、将棋は投手の次の一手を読むのに役立った。
しかし、私にとって何より不思議だったのは、試合に出て給料を得ているはずの職業野球選手が、成績の計算をした結果試合を休むと、翌年の年俸があがるということだった。
計算機の横に、仏教徒の使う|数珠《じゆず》に似た玉が並んだこの機械は、そんな矛盾を超越する、東洋の神秘的な力を秘めているのかもしれない。
●優勝への近道は、電波発信機付き双眼鏡と、受信機付きのヘルメットやバイク――
これは、スコアボードのなかを守備位置にしている、二軍の選手たちが使用していた道具である。
つまり、双眼鏡を使って捕手のサインを盗み、それを解読し、投手の投げる変化球の種類やコースを、電波発信機を使って将棋のできない打者(つまり、投手の次の投球内容を読めない打者)に教えていたのだ。
打者のほうは、耳当てに受信機の付いたヘルメットや、電波に対してビリビリと反応するバイク(俗称「チンカップ」と呼ばれた金属製男性急所保護カバー)を用いて、その信号を受信した。ビリッとくれば速球、ビリッビリッとくればカーブといった具合である。
この国の野球というスポーツの勝敗は、監督の采配や作戦よりも、このスパイの能力に負うところが大きく、我が猛虎軍も有能なスパイが大活躍したシーズンは優勝し、浪花の都が大阪夏の陣と呼ばれる歴史的事件以来の熱狂に包まれた。しかし、電波を受信し続けた結果、難聴になる打者や、ビリビリの反応に対して局部が常時勃起症になる選手が続出し、その結果『焦点』や『金曜日』という名のマスコミが大騒ぎし、これらの道具の使用は控えられるようになり、その後、猛虎軍は勝てなくなった。
●スピードガンによる取り締まり――
この国の野球場は、どこもこの機械(スピードガン)を備え付けていて、投手のスピード違反を厳しく取り締まっていた。制限時速は、だいたい145〜150/hで、それ以上の速度を出すことは許されず、そのため私はホームランを打ちやすかった。
ところが、私は、この道具が一般の道路にも備え付けられていることを知らず、スピード違反で警察に逮捕されてしまった。職業野球のスター選手は、少々のスピード違反や酒酔い運転をしても許されると聞いていたが、それは大江戸瓦版というマスコミがスポンサーになっている江戸を本拠地とする球団の選手だけだった。
●地震の被害を防ぐ人工芝(の切れ端)――
この日記を書いているたったいま、私のテーブルが地震でグラッと揺れた――また揺れた。おお、またあった。まったく、この島国の地震の多さには、肝を冷やされる。
そのためだろうが、この国の野球場の多くは、フィールドが“人工芝”と呼ばれるナイロン・カーペットで覆いつくされている。これで、地割れを防ごうというわけだ。
このカーペットは、土や本物の芝に比べて弾力が乏しく、選手は膝や腰を痛めやすい。
しかし、私も、地震の地割れで黄泉の国に落とされるのはいやだ(この国の地下には、核シェルターがない代わりに、そのようなゾンビの住む国があった)。だから、誰もが肉体を疲れさせ、自然を破壊するナイロン・カーペットの使用を我慢し、気分を紛らわせるために、その化学製品を人工|芝《ヽ》と呼んだ。
ただし、我が猛虎軍の本拠地であるキノエネ・スタジアムは、真夏にサディズムとマゾヒズムとナルシシズムの祭典であるコーコー野球が行なわれるため、ナイロン・カーペットは敷かれておらず、フィールドは土のままだった。そして、コーコー野球ファンは、炎天下に太陽の熱で選手が倒れたり、地割れで選手が黄泉の国に飲み込まれはしないかとハラハラすることによって、この国の夏の蒸し暑さを忘れたのだった。
●竹、白木、合成樹脂混合、そして金属など、用途別に様々なバットがあった――
この国の野球には、木製だけでなく、多種多様なバットがあった。
なかでも、最初に見て驚いたのは、竹でつくられたバットだった。竹という素材は、じつに強靭で、打球を遠くへ飛ばすことができた。そのため、職業野球ではその使用を禁止した。が、竹よりも反撥力のある圧縮バットの使用を長年認めていたことは、わたしには理解できなかった。
考えてみるに、竹は、われらアメリカ人の誇るトーマス・エジソンが、電球を発明したときにフィラメントとして用いたくらい|ヒラメキ《ヽヽヽヽ》の良い素材である。そこで、このバットを使った打者は、次に投手の投げる球の種類やコースを、ピカッと予感することができた。これが、竹バットの使用を禁止したほんとうの理由だろう。また多くの野球選手や球界の|首領《ドン》と呼ばれる人物に嫌われたヒロオカという監督は、この竹製のバットに穴を開け、楽器として愛用し、多くの野球人の理解できない|不協和音《ヽヽヽヽ》を奏でた。そのことも使用禁止の一因となったのかもしれない。
一方、木に合成樹脂を混合した圧縮バットは、ボールに対する反撥力もさることながら、その名の通り、プレッシャー(圧縮)に強いバットで、これを使うと、ここ一番という場面でプレッシャーを撥ね返し、快打を放つことができた。この「ここ一番」という言葉は、「根性」という言葉と並んで、日本人のもっとも好む言葉だが、じっさいは、「ここ一番」に弱い選手(即ち、根性ばかりでプレッシャーを楽しめない選手)が多く、そのため、(プレッシャーに負けない)圧縮バットの使用を認めざるを得なかったのだろう。
その圧縮バットを使用したおかげで、お菓子のホームラン王と呼ばれた選手は、私より1本多い、シーズン55本のホームランを打つことができたのだった。
その他この国には、金属製のバットがあった。これは、少年たちが、両親を殺害するための道具として効果的だった。
●小さなボールと、ボール収納用冷蔵庫――
野球のボールは、ベースボールで用いられるボールと同じで、周囲が9ないし9(22・9〜23・5)と決められていた。が、この国の野球のボールは、最も小さい9のものが主に使われた。それはなぜかと関係者に尋ねると、「球場が狭いのだからボールも小さくしなければならない」という答えが返ってきた。
しかし、小さなボールは大きなボールよりもよく飛び、これでは、ホームランが出過ぎて、ゲームがおもしろくなくなると思われたが、私は、前述のとおりホームランの本数でボーナス契約を結んでいたので、それ以上は何もいわなかった。また、この国の野球ではボールを冷蔵庫の中に保存し、乾燥させてもっとよく飛ぶようにしたりもしていたが、それについても、私は何もいうべき立場にはなかった。
じっさい、選手の心をつかむのは下手だが、少々|小賢《こざか》しい監督が猛虎軍を率いたとき、前の年より30(約9)以上もよく飛ぶボールを使い(もちろん敵の攻撃のときには飛ばないボールを使ったのだが)、私は54本のホームランを打つことができ、我々は猛打で優勝することができた。
ただ、敵の球場へ行き、我々の攻撃のときに飛ばないボールを使われたときは、心の底から、「汚い奴らめ!」と思ったりしたものだった。
●剣山の上の菊の花――
剣山というのは、この国に古くから伝わる華道(生け花)に使う道具である。
この国の野球の指導者たちは、その剣山によく似た、何本かの釘の突き出た|道具《ブロツク》を利用して、捕手の腰の位置を定める練習に用いている。つまり、それを捕手の尻の下に置き、腰が下がりすぎると尻に釘が突き刺さるようにして、投手からの捕球にも、二塁への送球にも、最も効果的な中腰のスタイルを教えるのだ。
かなりサディスティックな練習法ではあるが、バットで尻を叩くよりは効果的に違いない。尻の下にある、この大きな剣山を見て、私はアメリカ人にとっての日本の野球解説書である『菊とバット』という本のタイトルの『菊』の意味をはじめて理解できた。すなわち、この国の野球は、華道を真似て“剣山”の上に“菊”の花を|生《い》けているのである(編者註・この“捕手訓練用の剣山”は、アメリカのスミソニアン協会発行の機関誌『Smithsonian』一九八六年の九月号の記事 "East meets West in the Japanese game of " By R. Whiting にも紹介されている。R. Whiting とは、『菊とバット』の著者でもある)。
●塩ハ神聖ニシテ侵スベカラズ――
野球というスポーツにおいて、最も重要な役割を果たす食べ物は、塩である。それがなくなれば、人間が生きて行けないのと同様、塩がなくては、チームが連敗から脱出することができない。
つまり、チームの敗戦が続くと、監督はベンチの周りに塩をまくか、その片隅に、片手で持てるくらいの量の塩を円錐状に盛り上げて、“負け犬”という名の悪魔を追い払うと同時に、“一匹狼”という名の厄病神の存在を呪ったのだ。そしてチームは「和をもって貴しとなす」という言葉をキャッチフレーズにする勝利の女神に導かれて、勝つことができた。まったく塩の力は恐ろしい。
この国には「審判ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」という格言があるが、これは、この国に住む住人の複雑な深層心理であるホンネとタテマエのうちのタテマエの部分であり、審判に対しては、蹴っても殴っても、罵声を飛ばしてもよく、じっさいは「塩ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」というほうが、ホンネなのである。
だから、次のような事件があった。
動物(原文 Animal)という名前のガイジン選手(編者註・|動物《アニマル》というのが人の名前なのかどうか、意味不明)が、監督が塩をまくという神聖な儀式をしているときに、それをスモウ・レスリングの始まりと勘違いして、ユニフォームを脱ぎ、マワシを締めてフィールドに現われた。その結果、そのガイジン選手は、フザケスギという理由でクビになり、その後、彼は“電波乞食”と呼ばれる職業に身を落とす破目に陥った。
●特別に神聖な砂――
塩は、どの球場でも神聖なものだが、わがキノエネ・スタジアムでは、フィールドの砂も神聖なものである。
もっとも、それはコーコー野球に出場した選手にとってだけで、われわれ猛虎軍の選手がツバを吐いたり、二日酔いでゲロを吐いたり、小便をひっかけたあとの砂を、彼らは両手で大事そうにかき集め、袋や瓶に詰めて、家に持ち帰った。
この国の都市の多くがコンクリートとアスファルトと人工芝で覆われた結果、砂は、貴重で珍しいものになっているのだろう。
●“御守り”は、ファッションの一部――
御守りと呼ばれる紙切れの入った布製の袋は、われわれアメリカ人にとっての兎の足のようなものだと考えればいい。つまり幸運を招くシンボルなのだ。もっとも、それを本気で信じているのは、野球を宗教にまで高めた、パーマネント・リベラル(原文 Permanent Liberal)と呼ばれる教団に所属する選手だけで、彼らは、チャンスやピンチを迎えると、胸にぶら下げた御守りを握りしめて何やらブツブツと独り言を呟いた。
が、それ以外の多くの選手が、この御守りを胸にぶら下げていたのは、選手がネックレスをすることを禁じられていたからである。
●ドーム球場用|団扇《うちわ》――
私が、日本で過ごした最後のシーズン、大江戸に屋根つきのスタジアムができた。
なぜ、大雪も降らず、砂漠地帯でもないところに、屋根つきの球場を造ったのか、私には理解できなかったが、マイケル・マドンナ・ビューティフルスカイというミュージシャンのコンサートを催すためには、屋根が必要だったのだという。私には、日本人は、音楽よりも野球を愛しているように思えたのに、不思議なことだ。なにしろこの国の人々は、私がバッターボックスに立つと、いつも外野スタンドで、モーツァルトのディベルティメントの美しいメロディを、「バアス、かっとばせ、バ・ア・ス」と、トランペットで行進曲のように演奏するほどの悪趣味な音楽的センスの持ち主なのである。なのに、なぜ野球のプレイより音楽の|演奏《プレイ》を重視した屋根つきスタジアムがつくられたのか……。私には理解できなかった。
それはさて措き、屋根付きスタジアムは、両翼が100と、この国の球場にしては広い。それで、ホームランが減ると思われ、本拠地球団である「大江戸瓦版大男軍」は、入り口で観客に古典的な送風道具である団扇を配った。「大男軍」の選手が大飛球を打ち上げたときは、それで風をつくってボールを遠くへ運んでほしいというわけだ。
ところが、スタジアムの経営者は、ビールの売り上げを伸ばそうと考え、ドーム内の温度を上げた。その結果、団扇が本来の目的どおり、顔を扇ぐ道具として使われたため、その年「大男軍」は優勝できなかったという話を、私はアメリカに帰国してから聞いた。
まったく馬鹿気た話で、そのとき私の周囲にいたアメリカ人の友人たちは、誰もその話を信じようとしなかったが、日本に長くいた私には、この金儲け優先主義は、十分理解できる話だった。
●巨大なウタマロ・コンドームと虎印のパンティ――
私が、はじめてこの巨大なコンドームを見たときは、さすがはウタマロの国だと思った。
さらに、猛虎軍がラッキーセブンの攻撃を迎えるとき、五万人の観客がいっせいにこの巨大なコンドームをキノエネ・スタジアムの上空に飛ばしたのには、文字通り仰天させられた。
彼らのセックスに対する大らかさは、テレビ番組に平気でヌードの女性が登場することや、町のレンタル・ビデオ・ショップがディズニー映画のすぐ横にトヨマル(編者註・ウタマロの誤記か?)のビデオを置いていたことでも理解できる。が、それにしても、子どもたちが、コンドームを空に向かって飛ばすとは……。
ただ、この国にいる間に、この巨大なコンドームを使用できる男性にも、また、そのような男性を相手にできるほどの女性にも出逢えなかったことは、非常に残念だった。もちろん、そのような女性にめぐり遇うチャンスがまったくなかったわけではなかったのだが、猛虎軍のファンの女性とホテルへ行き、風呂に入り、イザとなったところで、彼女たちは必ずこういったのだ。
「上だけでもええよってに、猛虎軍のユニフォームを着て|やって《ヽヽヽ》ほしいわあ……」
しかも、彼女たちは、誰もが猛虎印のパンティを身につけていた。彼女たち(メストラ・グルーピーと呼ばれた)は、私個人の|肉体と精神《ボデイ・アンド・ソウル》以上に、猛虎軍という組織を愛していたのだ。
このような、この国の住人たちの個人よりも組織を好む体質は、結局私の性格に合わなかった。彼女たちの言葉を聞いた途端、私の意志も|アレ《ヽヽ》も、著しく意欲を減退させ、結局日米親善はいつも実を結ぶまでに到らなかった。
ホテルで女性と接するときだけでなく、いつの間にか私は、猛虎軍という組織にも、組織をもっとも大事なものとするこの国の考え方にも、馴染めなくなってしまった。そして、ある日、私はいつの間にか私に向かって塩がふりかけられていることに気づいた。優勝したときは、あれほどビールをかけてくれたのに……。
考えてみれば、この国の野球というスポーツは、すべての面で、個人よりも組織を優先させているのだ。野球選手も、野球用具も、そのすべてが、組織のために使われ、組織のためにつくり出されてきた。そのようなこの国の住人の性癖が、将来的に、野球のみならずこの国の文化と社会と自然を、どのように発展させるのか、あるいは滅亡させてしまうのか、私には想像できない。彼らの組織至上主義が、私の好みに合わないものであることは確かだが、組織の一員になってしまえば、それもまた、楽しい野球、暮らしやすい社会、美しい自然と思えるのかもしれない――。
いや、はたして、それは、どうだか……。
▼あとがき
バースの日記は、ここでペンが置かれている。彼の子供の容体が悪化したからか、あるいは、ほかに理由があったからか、それは、百年後のいまとなってはわからない。
が、たとえバースが、日記の先を書き続けていたとしても、いまのこの国の状態――地下百五十メートルの居住区に住み、地下二百メートルにある|保健場《ヽヽヽ》で息子とキャッチボールをするにも、一か月間も順番を待たなければならないという暮らし――は想像できなかったに違いない。
もちろん、コンツェルンの社員であれば、地下百八十メートルの社員専用保健場で、いくらでもキャッチボールをできるのだが……。その話は、また別の機会に譲ろう。
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第7球 野球は楽し・当世野球事情
中田丸大・ソケット/仁生幸朗・生恵倖代
さて、お昼のひとときを、上方漫才二題でお楽しみいただきましょう。まず最初は、中田丸大・ソケットの御両人で、題して『野球は楽し』。では、丸大さん、ソケットさん、どうぞ――。
「君、こないだの日曜日|何処《どこ》ぞ行ったか」
「いや、何処も行っとらん。そういう君は」
「僕は、ナイター見に行ってきたんや」
「なんやて」
「ナイターや。ナイター。君、ナイターも知らんのか」
「うん。僕、煙草|喫《す》わんよって」
「そら、ライターや」
「洗濯は女房にまかしとる」
「そら、ハイターや」
「コーラかジュースのほうが好きや」
「そら、サイダーやがな。あほういうたらあかん。ナイターいうたら、プロ野球の夜の試合のこっちや」
「なんで、わざわざ夜にやりよるねん」
「そら、昼間は働いとる人が多いよって、野球やっても見に来る人が少ないからや」
「ほな、何か。プロ野球選手ちうんは、夜働くわけか」
「まあ、そやな」
「ほんなら、あいつら夜の商売で銭儲けしてるわけやな」
「夜の商売いう奴があるかいな」
「いま、君が、夜働くていうたやないか。つまり、プロ野球は水商売で、|ミナミ《ヽヽヽ》のスナック“ベースボール”の明美ちゃんと|同《おんな》し商売いうわけや」
「野球選手を明美ちゃんと一緒にしたら、どもならんがな」
「けど、どっちゃも夜働いとる」
「いやいや。昼間は練習があるし、試合することもある。野球選手は昼も働いとる」
「明美ちゃんも、昼間買い|物《もん》したり、儲かるときは、昼間からでも店|開《あ》けよる」
「屁理屈をいうな、屁理屈を。君、野球のこと全然知らんのやろ」
「知りまっしぇん」
「知らんのにいばるな。よっしゃ。ほな、僕が、いっぺんナイターに連れてったろ。――ほれ、ここが後楽園球場や」
「えらい簡単に来れるんやなあ」
「そら、後楽園いうたら、東京のど真ん中で交通の便がええ」
「そないな理屈、関係あれへんがな」
「うるさいな。連れて来たったんやから黙っとれ。どや、こういう広々としたとこへ来たら、それだけでも気分がスカーッとするやろ」
「いや。気分は、もやもやしてきた」
「なんでやねん」
「いまは、もう東京ドームちう新しい球場がでけて、後楽園なんてあれへんのに、なんでいまさら古臭い後楽園を話題にせなあかんねん」
「そら、わしらの漫才が古臭いからや」
「えらい理屈やな。けど、まだ気分はもやもやしたままや」
「なんでやねん」
「都心で、こないに広い土地が余っとるのに、なんで土地の値ぇが上がるんか」
「いらんこと考えな」
「ここにアパート建てたら仰山の人が住めるで」
「そら、住宅や土地問題も大事やろうが、こういう遊び場も必要なんや」
「けど、もったいない」
「ええ加減にせえ。おっ。選手が出て来よった。試合開始やでえ」
「なんや。こんだけ広いとこへ、ちょこっとしか出て|来《こ》んがな」
「あほういうたらあかん。野球は一チーム九人でやるもんや。ほれ、いま出て来よったんが、守備につく守る側の九人。ほんで、手前に|一人《ひとり》出て来たんが、攻める側のバッター」
「ちょっと待て。九対一で闘うんは、どう考えても不公平やで」
「いや、そういうわけやない。攻撃側も九人おるけど、残りはベンチに座っとるんや」
「なんやて。こらっ。サボッとらいで|早《は》よ出て来い」
「あほいうたらあかん。別にサボッとるんと|違《ちや》う。攻撃側は順番に一人ずつ出て来て、守備側の真ん中におる、ピッチャーいう奴が投げるボールを打ち返すんや」
「なんで、守備側の奴から攻撃するねん」
「誰も、そないなこというてへんがな」
「うそつけ。守備側のピッチャーから、攻撃側のバッターにボール投げるいうたやないか。ほれ、いま、ピッチャーがバッターをボールで攻撃して、バッターはびっくりして逃げよった。あらどう見ても、ピッチャーのほうが攻めとる」
「屁理屈を言うな。屁理屈を」
「屁理屈やあるかいな。ピッチャーのほうは自由にボール|操《あやつ》って、どないにバッターやっつけたろかいう顔しとる。ところがバッターのほうは|擂粉木《すりこぎ》持って、必死に我が身を守っとるだけや。こらどう見ても、ピッチャーが攻撃側で、バッターが守備側やで」
「あほいうたらあかん。よう見てみい。ピッチャーの|周囲《まわり》に、ちゃんと八人の選手が守っとるやろ」
「君こそ、あほいうな。|後《うし》ろ向いて座っとる奴以外は、皆ボケーッと突っ立っとるだけやないか。こらっ。じっとしとらいで、|早《は》よ働かんけえ」
「ええ加減にせえ。あれは、ああやって、ボールが飛んで来るのを待っとるんや」
「ほな、ボールが飛んで|来《こ》んかったら、なんもせんと坊主丸儲けか。ほんで高校野球の選手は、皆あたま坊主にしとるんか」
「関係あれへんやないか。ほれ、カキーン。バッターが打ちよった。ライトとセンターの間をまっぷたつや」
「あっ。ほんまや。うわ、うわ、うわあー。こら、えらい忙しいこっちゃで、ボールがあっちゃで、打ったバッターがこっちゃで、ごっつい手袋はめとる奴があっちゃでボール追いかけて、打った奴がこっちゃで擂粉木|抛《ほ》り投げて走り出しよった。あっちゃで、こっちゃで、あっちゃで、こっちゃで。うわあー。うわ、うわ、うわ、うわあー」
「せわしない|奴《や》っちゃな、もう」
「けど、びっくりしたなあ。時々テレビで見たことあるけど、野球がこないに首動かさないかんもんとは思わなんだ」
「テレビやったら、カメラのほうで動いてくれよるしな。これがナマの迫力いうやっちゃ」
「さよかあ。凄いもんやな。ところで、いま何点入ったん」
「いや、まだ点は入っとらん。打ったバッターは、ベース二つ進んだだけやよって、|二塁打《ツーベース》。あの男が三つのベース踏んで、ひと回りして元のホームプレートへ還って来よったら一点いうわけや」
「けったいな話やなあ」
「どこがけったいやねん」
「野球ちうんはボールゲームと|違《ちや》うんやな」
「あほいうたらあかん。ちゃんとボールを|使《つこ》とる」
「せやけど、ラクビーでもサッカーでもバレーボールでも、それにテニスでもゴルフでも、ボール使うスポーツは皆、ボールがどないなったかで点数になるもんや。せやのに野球は、ボールがあっちゃのほうに転がっとるうちに、こっちゃのほうで人間が点入れるいうわけや。ちうことは、ボールよか人間のほうが大事いうわけやな」
「そら、まあ、そういうことになるかな」
「ほな、なんでテレビは、ボールの転がるほうばっかし映して、大事な人間の走る姿のほうを映しよらへんねん」
「また屁理屈をこねよる。それはボールの飛んだ場所と、守っとる選手の処理の仕方で、これなら|単打《ヒツト》、これなら二塁打、これなら三塁打いうんが、だいたいわかるからや」
「あ、なるほど。ボールの飛んだ場所で、だいたい|単打《ヒツト》か二塁打か三塁打かってわかるわけか。せやから、打った奴も、力いっぱい走りよらへんのやな」
「いや、それはちょっと別問題かなあ」
「おっ。次のバッターは、擂粉木振り回さんと、ちょこーんとボールに当てよった」
「あれは犠牲バントいうて、自分は死んで、走者を次の塁へ進めるプレーや」
「えっ。|南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏《なんまんだぶなんまんだぶ》」
「何しとるねん」
「犠牲になって死んだいうよって、|南無阿弥陀仏《なんまんだぶ》」
「あほいうたらあかん。ほんまに死んだんと|違《ちや》うわい。犠牲バントちう作戦なんや」
「けど、やっぱし犠牲者が出るんは可哀想やなあ」
「そら、まあ、ヒット打つ機会を奪われたんやから可哀想や」
「せやけど、あの選手、ニコニコ|笑《わろ》とるで。自分が犠牲になったん知らんのと|違《ちや》うか」
「あれは、監督の命令通りに作戦成功させたよって喜んどるんや。それに、犠牲バント決めたら、自分の打率は下がらないで済むし、給料のアップにもつながる」
「ほな、なーんも犠牲と|違《ちや》うやないか。オーバーな名前つけやがって」
「それは、まあ、そやけど、野球の選手には思いっ切りバット振って、ボールを遠くへ飛ばしたいちう本能がある。送りバントは、その本能を抑えて犠牲にせんならんいうわけや」
「たかがボール遊びするのんに、本能まで抑えんならんもんかいな。僕ら観客も、選手が思いっ切りバット振って、思いっ切り走るとこ見たいちう本能があるで」
「そら、そうかもしれん。けど、選手が皆、本能むき出しでプレイしよったら、野球の試合が成り立たん。野球は、ボールを遠くへ飛ばす競争やのうて、点数を争う勝負なんやからな。まあ、ちょっと、この本を見てみい」
「なんや、これ。岩波新書かいな」
「これは野球のルールブックや」
「えらい仰山字が書いたあるなあ。これ全部読まな、野球やったり見たり|出来《でけ》へんのかいな」
「そんなことない。六法全書読まいでも、世の中生きていくんに別段困らんのと一緒で、こんなん読まいでも野球は楽しめる。けど、このルールブックの最初のページの、『一・〇二』いうとこが|面白《おもろ》いよってに読んでみい」
「なんやて、なんやて。『一・〇二 試合の目的』ふんふん。『各チームは、相手チームより多くの得点を記録して、勝つことを目的とする』なんやて。『勝つことを目的とする』こんなん当たり前やないか。どこに負けることを目的にするチームがあるちうねん」
「その通りや。ゲートボールでも、勝った負けたで殺人事件が起きたくらいや。せやから、野球以外のスポーツのルールブックには、何点取ったら勝ちとは書いてあっても、『勝つことを目的とする』とは書いとらん。けど、野球は、きちんとそう書いとかんと、わけわからんようなるんや。試合に負けても、ホームラン二〜三本打った選手は、ニコニコ|笑《わろ》とるよってな」
「ふーん。ちうことは、このルールのいいたいことは、本能丸出しでホームランばっかし狙わんと、|味良《あんじよ》う犠牲バントもやれちうこっちゃな」
「まあ早い話が、そういうこっちゃ」
「けど、さっきから見とったら、この野球、ちょっとバントのやり過ぎやで。あっ。ほら、また、バント。ヒットでランナー出よったら、すぐバントや」
「まあ、この国の野球は、戦前の犠牲的精神を尊ぶ考えが残ってて、たしかにバントが多い」
「そうか、わかった」
「わかったって、何がわかった」
「あないにバントのサインばっかし出しよる監督ちうやつをなくしてしもたら、もっと本能的な|面白《おもろ》い野球が|出来《でけ》るはずや」
「そら、まあ。そうかもしれん。けど、君みたいに|贔屓《ひいき》チームのない男はそれでええかもしれんが、どっか決まったチームを応援しとる人は、そういうわけにはいかん。やっぱり、贔屓にしとるチームに勝ってほしいよって、バントがちょっとくらい多なっても|仕様《しやあ》ないと思とる人が多い」
「ははあ、なるほど。応援団の中に入ってメガホン振っとる連中は、贔屓チームが勝つんやったら、野球が|面白《おもろ》のうなっても|仕様《しやあ》ない思とるわけや。ほんで、バントばっかりで|面白《おもろ》ない野球のプレイなんか全然見んと|抛《ほ》ったらかしで、最初から最後までトランペット吹いて、歌ばっかり|歌《うと》て、欲求不満解消しとるいうわけや」
「そんな阿呆な。君とは、もう野球の話|出来《でけ》んわ」
「君とは、もう漫才|出来《でけ》んわあ」
続きまして、|仁生幸朗《じんせいこうろう》・|生恵倖代《いくえさちよ》のおふたりに登場していただきましょう。もちろん出し物は、ぼやき漫才。題して『当世野球事情』。では、御両人、どうぞ――
「はーなーもー、あらしもー、ふーみこーおえーてー……」
「ほら、また、これや。唄なしで、ぼやきだけやいうとったのに」
「ゆーくがー、おおとーこのー……」
「えらい、すんまへんなあ。御迷惑かけて」
「いいきーいいるう、みーちー……」
「もうすぐ終わりますよってに、我慢しとおくれやっしゃあ」
「なーああいいてー、くれえるうなー、ほろほろどりよー」
「じゃかっしわい!! 何がほろほろ鳥じゃ。ええ加減にさらせ」
「ああ|怖《こわ》やの」
「賢明なるお客様を|眼前《ガンゼン》にして、|何《なん》ちうふざけた唄を誇らし気にうたいよるか。愚かなる女め。くだらん唄ばっかし|唄《うと》とると銃殺にするぞ」
「|何《なん》も、そないにやいのやいのいわはることおまへんやないか。唄は世につれ、世は唄につれ。唄のない世の中は淋しおますよって。ねえ、皆さん」
「そら、まあ、おまはんのいうとおりかもしれん。けど、近頃は、何もかもが世につれて変わりよる。それも、|面白《おもろ》ないほうへ|面白《おもろ》ないほうへと変わるもんが多過ぎる」
「さあ、ぼちぼちぼやきが始まりまっせえ」
「いや、|私《わて》は、|何《なん》もええ|歳《とし》さらして、すき好んでぼやくんと|違《ちや》いまんねん。けど、あんた、|昨今《さつこん》のプロ野球見とったら、これがぼやかいでおれまっかいな」
「プロ野球がどないしたちうねん。それやったら、最近どんどんどんどん人気が出て、若い女の子のファンも多なって、よう繁盛してるやおまへんかいな」
「馬鹿者。おまはんみたいな阿呆なこと|吐《ぬ》かす女がおるよって、プロ野球がどんどんどんどんあかんようなるんじゃ」
「ようポンポンポンポン怒る人やなあ」
「かの漫才ブームを忘れたか。|一時《いつとき》、ギャルたらちうわけのわからん|女子《おなご》が、寄席にがばがば押し掛けた。けど、いつの間にやら、あっという間におらんようなってしもた。プロ野球も、気ぃつけとらんと、その二の舞じゃ」
「プロ野球がどないしたんやいな」
「まあ、皆さん、聞いとくんなはれ。|私《わて》、こないだ久し振りに野球場へ行って来ましたんやが、そこで、びっくりすることが起きましたんや。いや、びっくりするだけやのうて、こないに|肚立《はらた》つ話おまへんで」
「何があったんやな」
「あんた、九回表まで三点リードされとったチームが、その最終回の裏にがんばって同点にして、さあ延長戦や、これから|面白《おもろ》なるでえと思たら、時間切れ引き分けやいいよりまんねん。ほんで、試合を中途で|止《や》めよりまんのやで。客から銭取って、こないな|ええ《ヽヽ》|場面《とこ》で|止《や》める阿呆が、どこにおるか。|味良《あんじよ》う白黒つけたらんけえ。金返せ。観客なめとると承知せえへんぞ。責任者出て来ーい」
「あんた、昔からそればっかしのワンパターンやなあ」
「阿呆|吐《ぬ》かせ。かつての巨人の王監督の、鹿取ばっかし使いよった|王《ワン》パターンより、よっぽどマシじゃ」
「けど、あんた、白黒つけえいうたかって、まあ、切りのええところで時間区切っとかんと、見てるほうも夜遅うなったら、帰りの電車に困ったりするし」
「ど阿呆。帰りの電車が心配な奴は、勝手に|早《は》よ帰りゃええだけのこっちゃ。何も皆が|揃《そろ》て帰らんならんことあれへん。野球ちうんは、大リーグみたいに引き分けなしで、延長戦で白黒つけるんが筋や。せやのに、プロ野球界の偉いさん連中も、やれ帰りの電車やとか、夜遅うなったら子供の教育にどやとか、くだらん屁理屈ばっかり並べてけつかる。ほな、そないにいうんやったら、昼間の試合まで中途で時間切れにするんは、どういうわけや。|味良《あんじよ》う|得心《とくしん》のいく説明してみい。|己《おのれ》ら、延長戦で時間が長引くと、やれ球場で働いとる人の残業手当や、ナイターの照明の電気代やと、カネがかかるよって、勝手に時間切れ引き分けちうルールつくっとるだけやないけえ。そやのに、くだらん御託並べやがって、観客無視すんのも、ええ加減にさらせ。責任者出て来ーい」
「また、それかいな」
「まあ、最近は引き分けをなくそうという動きもあって、セ・リーグは引き分け全廃を打ち出しよった。ところが、その途端に警察が、子供の夜遊びが増えるとか、帰りの電車がなくなるとか、またくだらん御託を並べよった。野球に横槍入れるんやのうて、ほんまもんの野球をやりやすいように見守るのが、警察の役目やないけえ。おまえら、自分の仕事が増えるのがいややからそんなこというたんやろ。責任者出てこーい!」
「また、それかいな」
「おまけに、警察だけやのうて、球場周辺の住民までが試合時間の伸びる引き分け廃止には反対やと吐かしよった。おまえら、野球場の傍に住んどって、引き分けのない野球を見たいと思わんのか。住民エゴも、ええ加減にさらせよ」
「あんたこそ、ええ加減にしなさい」
「そのうえ、球場周辺の住民が引き分け廃止に反対やといい出しよったら、それまで『セ・リーグの英断を歓迎』なんていうとったスポーツ新聞が、あっさり手のひら返して『問題多い引き分け廃止』なんていいはじめよった」
「そら、新聞が売れんようなったら困るさかいやね」
「マスコミいうんは、そないに無責任でええのか。住民エゴよりも、国民全体の野球という文化を守り、育てることこそ、マスコミの役目やないけえ。マスコミの責任者出てこーい!」
「またかいな」
「けど、まあ、皆さん。球場周辺住民の言いたいこともわからんわけではおまへん。いまの球団いうたら、地域住民のことなんかなーんも考えんと、親会社の宣伝にばっかり汲々としとる。チームの名称にも都市の名前をつけんと、会社の名前をつけて喜んどるのが現状や。野球に携わっとる|者《もん》が、野球のことなんかなーんも考えとらへん。それをまた、マスコミがなーんも批判せん。もう、どいつも、こいつも、責任者、出てこーい!」
「あっちの責任者呼んだり、こっちの責任者呼んだり、もう、忙しいひとやなあ」
「けど、皆さん。まあ、もうちょっと聞いとくんなはれ。時間切れや引き分けやいうて、延長戦の醍醐味ちう野球の|面白《おもろ》いとこがないようなってしもとるくせに、あんた、平均の試合時間は、逆に引き分けのない大リーグより|長《なご》おまんのやで」
「そら不思議な話やな」
「そもそも試合時間が長引かんようにいうつもりで、時間切れつくったのに、こないに納得のいかん話はおまへんで」
「なんで、そないになるのん」
「それは、時間切れがなかったら、誰もが|早《は》よ勝負つけよとするのに、時間切れがあるもんやよって、ほな、その時間いっぱいまでやったれと思うからや。こないだの試合かって、あんた、家に帰ってプロ野球ニュース見たら、監督がベンチで腕時計ばっかり見とる。ほんで、マウンドのピッチャーに合図送って、だらだら時間を引き延ばしてけつかる。ファンを馬鹿にするんも、ええ加減にさらせ。牛歩戦術は国会だけで十分じゃ。責任者出て来ーい」
「またかいな」
「それに皆さん。この国のプロ野球の|偉《えら》いさんどもは、多分野球の|面白《おもろ》さを全然知らいで、野球が好きいうわけでもないんでっしゃろが、野球を、つまらんほうへつまらんほうへと持って行きよる」
「どない持って行きよるちうねん」
「こないだの試合でも、バッターの打った球が、ライトとセンターの間抜けて、うわっ、二塁打か三塁打か思たら、あんた、ワンバウンドでポーンと外野のスタンドに入ってしまいよりまんねん」
「エンタイトル・ツーベースいうやつでんな」
「そないに恰好のええ名前で呼ぶな。せっかくクロスプレーが見られる思たら、あれでぱあや。ほんで、ホームインしよった一塁走者まで、三塁へ戻されてしもた。こんなん、あんた、プロ野球やおまへんで。エポック社の野球盤と|同《おんな》しだんがな」
「そら、ほんまそうでんなあ」
「そういう野球盤と|同《おんな》しようなプレーが、最近、|何《なん》べんも何べんも続いとるいうのに、だあれもそれを直そうとせん」
「ほな、どないしたらええのん」
「そんなもん簡単なこっちゃ。グラウンド広げるか、外野のフェンス|高《たこ》するか、人工芝やめにしたらええだけの話や。そもそも、あの人工芝たらちうのは、早い話がナイロン・カーペットのくせに芝なんちう偉そうな名前つけやがって。選手は腰痛めるわ、膝痛めるわ。エンタイトル・ツーベースは増えるわ。|何《なん》もええことあれへんのに、いっこうに|止《や》めようとせんのは、どういうわけや」
「そら、あんた、土や芝の手入れをせんでもええよって、経費が浮く」
「それが観客を馬鹿にしとるいうんや。西武球場なんか、きれいな緑の山に囲まれた自然の風景のなかに、わざわざ人工芝敷きやがって、あんなもん自然破壊もええとこじゃ。それに、ルールブックには、ちゃんと『左右両翼は三百二十五フィート(九十九メートル)以上、センターは四百フィート(百二十二メートル)以上』と、球場の広さが決められとるのに、この国の野球場いうたら、みんなそれ以下の、ルール違反の狭いやつばっかしや。そのうえ、いったいどのくらいの広さなんかも公表しよらへん。公表したら、恥ずかしいくらいの狭さやよってにいえへんのや。おまけに、最近出来た屋根付きの東京ドームまで、左中間と右中間を一直線に結んで、なんとかグラウンドを|狭《せも》しようとしとる。そないにチマチマとした四畳半野球が好きやいうのんやったら、コミッショナーも両リーグの会長も、十二球団のオーナーも、家で|炬燵《こたつ》に入って野球ゲームでもしとれ。ど阿呆」
「せやけど、あんた、野球場が広なったら、ホームランが減りまっせ」
「ちょっとくらい減ったほうがええ。このごろ、ホームランが多過ぎる。昨今のホームランを見てみい。ボールがよう飛ぶもんやよって、チョコーンと打った打球がフラフラッと舞い上がって、風に乗ってフェンスぎりぎりのとこへポトンと落ちよる。プロとして恥ずかしいと思わんのか。あんなもん、ホームランやない。審判が自信を持ってアウトにせえ」
「そんな阿呆な」
「阿呆なことあるかい。ラクビーにも認定トライちうのんがある。せやから、四畳半野球でも、こら外野手が捕れると思えるチョロこい|本塁打《ホームラン》は、認定アウトにせえ」
「そんな阿呆なあ………」
「…………と、我がまま勝手なことばかりお喋り申しあげて、こんな|面白《おもろ》ない漫才聞きとうないぞー、という声もなく、最後までお笑いいただきましたる御声援は誠にありがたく、これもひとえに|私《わたくし》ひとりの光栄と存じます」
「なんやとおー。怒るで、ほんまにい」
「しかし、皆さん。笑いと野球は人生の潤滑油にして、|凝《こ》りと痛みの回復剤。健康への栄養素。そして、笑いと野球こそ生活へのエネルギー、|明日《あした》に備えた活動力、働く力のスタミナ注射」
「薬屋のコマーシャルみたいにいうな」
「笑え。笑え。笑う野球に福|来《きた》る。夫と妻と|一《ひと》仕事。家族揃ってお元気で。またの御来場を賜わらんことを、ステージから笑いの嵐を呼ぶ男こと仁生幸朗、|列外《れつがい》一名|生恵《いくえ》倖代、通称サボテンおさち」
「何いいなはんねん」
「ともども、どうかよろしくお願い申しあげて、ぼやき野球講座、これにて終了させていただきます」
お昼のひとときを、上方漫才二題でお楽しみいただきました。時刻は間もなく一時。ニュースに続いて、ナイトゲームで行なわれますロサンゼルス・ドジャース対ニューヨーク・ヤンキースのワールド・シリーズの実況中継をお送りします。|昨年《ヽヽ》ドジャース入りしたクワタ投手とヤンキース入りしたキヨハラ選手の活躍を、お楽しみ下さい。なお、読売ジャイアンツと西武ライオンズの日本シリーズの途中経過は、得点に変化がありましたら、ワールド・シリーズ中継のなかでお伝えします。それでは一時の時報です。PoPoPoPoh…………
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第8球 タマノン国往還記
|野 球 人《ベースボーリスト》Bの冒険
プロローグ
Bは小さい時から遠い見知らぬ土地へ出て行くことなど夢にも思わなかった。
新大陸の|大穀倉地帯《グレートコーンベルト》と呼ばれる地方の大農園に生まれ、父親からベースボールを教えられて育ったBは、作付けされていない広大な休閑地で、sandlot game ――空地のベースボール(草野球)を楽しむことができさえすれば、それだけで満足する少年だった。そしてその満足感を得るのに障害となるものは、何ひとつとして存在しなかった。バットは裏庭の一角に生えている樹齢二百余年のトネリコの樹の枝を折れば、いくらでもつくることができた。ボールの芯になるコルクやその周囲に巻きつける木綿糸も自家製のものが簡単に手に入った。ボールの表面を覆う牛皮やグラブの材料となる馬皮は、父親が殺した牛や馬の皮を剥いで干しておくと、母親や姉が夜の針仕事の合間にそれらをベースボール・グッズに仕立て上げてくれた。Bは、家族の愛情のこもった道具を手にして草原に飛出し、父親、祖父、叔父、兄弟、従兄弟といった農場で暮らす一族のほか、小作人の労働者やその子供たちとともに、毎日まいにち朝から晩までベースボールを play した。つまり、少年時代のBの《世界》は、ベースボールというスポーツのなかだけで完結していたのである。
青年期になっても、Bは《別世界》へ飛び出そうなどとは考えなかった。時にはそのような飛翔願望を持たぬでもなかったが、そういう時にはピッチャーの投げるボールをトネリコのバットで思い切り打ち返し、打球を四百フィート以上飛ばしてホームランにすれば良かった。白球が青空高く舞い上がり、草原の彼方へ消え去る瞬間、Bの心はボールとともに天高く舞い昇るような昂揚感で満たされ、《別世界》へトリップすることができたのだ。
Bはベースボール以外の《世界》など、まったく必要としなかったのである。
第一章 旅 立 ち
Bにとってのベースボールの《世界》は、何もBに限った特別な人生というわけではなかった。新大陸の大穀倉地帯に生まれた男たちのすべてが、Bと同様の《世界》に生きていた。そうしていずれはBも他の男たちも父親たちの跡を継いで大農園主となり、美しいブロンド娘を次から次へと納屋に引きずり込んでは藁の上で make love し、その娘たちのなかからいちばん気に入った女と結婚し、をして男の子をつくり、その|息子《ジユニア》に自分たちの創り出した「父子相伝のベースボール」の楽しみを教えたのち、土に還って一生を終わる、という人生を歩むはずだった。ところがBだけは、そのような|「偉大な 新大陸人の 道」《ザ・グレイト・ニユー・コンチネンタル・ウエイ》(と彼らは言った)を歩まなかった。Bの人生には、もっと偉大なる《別世界》への旅立ちが用意されていたのである。
そうなった原因は、まず何よりも成人になったときのBの体躯が、身長六フィート四インチ、体重二百二十ポンドもの大きさに達したことだった。そのうえBは、強靭な|手首《リスト》と柔軟な足腰、さらにダイヤモンドを十三秒六で駆け抜ける駿足に恵まれ、ベースボール・プレイヤーとして抜群の才能を発揮した。そうなれば当然、新大陸のプロフェッショナル・ベースボール組織であるUBA( Universal Baseball Association, Inc.)が、Bの存在を見逃さなかった。そしてUBA二大メジャー・リーグのひとつである|愛国者《パトリオツト》リーグに所属し、Bの地元である|大穀倉地帯《グレートコーンベルト》の一帯をフランチャイズとするビッグ・カントリー・グレイトコーンズがBをドラフト一位に指名し、Bはメジャー・リーガーの道を歩むことになったのである。
その後、Bは十五年間にわたってグレイトコーンズの|四番打者《クリン・アツプ》一塁手として活躍した。しかし、打率はつねに二割八分程度、ホームラン二十五本前後で、タイトルはベストナインに一度選ばれただけという、いまひとつ際立った活躍のないままユニホームを脱いだ。そんな成績にもかかわらず、Bが十五年間の選手生活のほとんどすべてを四番打者として play できたのは、グレイトコーンズが万年Bクラスの弱小球団だったからにほかならなかった。
|現在《いま》を|遡《さかのぼ》ること約百年、新大陸にメジャー・リーグが創設された当時のグレイトコーンズは、ホーリーウッド・ブリリアントスターズとともに、「強き新大陸の象徴」とも言うべき名門チームとして、五十年以上もの間常時Aクラスを維持し、優勝三十二回、ユニヴァーサル・シリーズ制覇二十八回という圧倒的な強さを誇っていた。が、その後、東部のメトロポリス・スカイスクレイパーズと西部のメガロポリス・ダウンタウナーズが力をつけ、さらにラテンコンチネンタル・ノーホーラーズやデザート・ジェロニモスといった新興球団が擡頭し、グレイトコーンズはブリリアントスターズとともに最下位争いを繰り返すまでに落ちぶれてしまったのだった。とはいえ、グレイトコーンズは新大陸で最も大きな人気を維持し続けた。メトロポリスやメガロポリスに住む若者たちは「カントリー・キャラメル・コーン」と馬鹿にし、知識人たちは「醜悪なるナショナリズムの権化」と批判したが、多くのサイレント・マジョリティにとって、グレイトコーンズは「古き良き新大陸の象徴」であり、そのフランチャイズから久々に出現した生粋の四番打者であるBは、ベースボールを生み出した国の出自正しいプレイヤーとして、「ミスター・ベースボール」と呼ばれる英雄となったのである。
そんなBが、現役選手生活を引退したあと Czar of the Baseball あるいは Caesar of the Baseball と呼ばれる、ユニヴァーサル・ベースボール協会の Commissioner に就任したのは当然の成り行きと言えた。ベースボールの《世界》に生き続けたBは、その《世界》最高の座に就いたわけである。ところが、まったく皮肉なことに、そのことがBの人生を大きく変えた。Bは、Commissioner の地位に就いたことによって、Bにとって、あるいはすべての新大陸人にとって不必要な存在であった《別世界》に触れることを余儀なくされてしまったのだ。そのきっかけとなったのは、新大陸のはるか西方にあるパシフィック海のセントラルに浮かぶ小さな島国「タマノン国」のベースボール協会(TBA)からB宛に届いた一通の手紙だった。
前略。日出ずる処の天子、地球を半周回って日没する処の天子に書を到す。|恙無《つつがな》きや。いずれそのうち、タマノン国と新大陸、両ベースボール協会の優勝チームにより、リアル・インタナショナル・ユニヴァーサル・シリーズを開催致したく候。“タマシン決戦”というわけでひとつよろしく。ついては一度その準備打ち合わせのため、来邦していただければ|物怪《もつけ》の幸い。アゴアシ当方負担。カモン・ベイビー! トラ! トラ! トラ! おせん泣かすな馬肥やせ。
[#地付き]草々
何やら宣戦を布告されたような不快感の漂う書簡に目を通したBは、まったく不思議な思いにとらわれ、何度も首をひねった。
タマノン国は、新大陸とかなり文明文化の異なる国家に違いない。とはいえ、遠い見知らぬ国でもベースボールを play している人々が存在し、その人々が game をしようというのはBにとって喜ばしいことであった。ただわけがわからないのは、そうなら何も「タマシン決戦」などと|肩肘《かたひじ》張ったことを言わなくても、タマノン国でベースボールを playしている player たちが、ユニヴァーサル・ベースボール協会のチームに入団すればいいだけのことである。UBAの各チームは、何も新大陸人しか参加できないというわけではなく、門戸は全ユニヴァースのあらゆる国々に向かって開かれている。事実、旧大陸や南方大陸、および新大陸周辺|島嶼《とうしよ》部に住む多数の player たちが、現在UBA所属のメジャー・リーガーとして活躍している。もちろん player としての技量が劣っているというのであればそれは無理なことだが、「タマシン決戦」なるものの開催を要求してきたということは、実力にかなり自信のある player が大勢いると考えて相違ない。しかし、それなら何故UBAに参加しようとせず、たかが ball game に、あたかも戦争の如き闘いを展開しようとするのか……。Bには、タマノン・ベースボール協会の意図するところがまったく理解できなかった。
が、数日後、国務省に問い合わせた結果が手元に届き、Bはタマノン国について彼なりに理解し、「タマシン決戦」についての対処の仕方を編み出すことができた。というのは、タマノン国は国家成立以来現在まで鎖国政策を|領《し》いていて、最近になって国際化委員会なるものができ、ベースボールの「タマシン決戦」は、“国際化”を目指す具体的政策の一つだというのだ。なるほど、タマノン国の長い鎖国政策の結果、UBAがすべてのユニヴァースに対して門戸を開放していることを、TBAの人々は知らないのだ、とBは了解した。ならば、「タマシン決戦」などという闘いはまったく不要で、タマノン人の player が自由にUBAに参加すればよいこと、さらにタマノン国に住むベースボール・ファンの数と player たちの実力|如何《いかん》によっては、タマノン国の首都であるトキヲにもUBAに所属する球団の設置が可能であること――この二点を文書にして返信するだけで十分だ、とBは考えた。
ところが、そんな結論を出したBに対して、国務省よりタマノン国訪問の強い要望が届いた。しかも、UBAの Commissioner として、Bは可及的速やかに、タマノン・新大陸両ベースボール協会及び両国間の友好関係を結ぶべしという、それは大統領命令だったのだ。その理由は明解だった。鎖国を解いたタマノン国に対して、旧大陸諸国がサッカーやラグビーを伝え、その勢力圏下に置こうとしているというのだ。そこへタマノン国側からベースボールによる交流を求めて来たのは、むしろ新大陸側にとって「物怪の幸い」というべきものであった。もちろんそれはBにとっても望むところで、彼のベースボール魂を奮い|起《た》たせるのに十分なものだった。
ベースボール以外に何の《世界》があるものか! 邪教廃絶の意気込みに燃えたBは、小型自動翻訳機を手にして、単身タマノン国へ乗り込むべく、成層圏高速飛航艇ブラックシップ号に乗り込んだのだった。
第二章 飛 航
Bの先入観では、タマノン国は遠い東の彼方、全ユニヴァーサルを描いた地図の端っこからはみ出すようなところにあり、その方向に向かって地図上の旧大陸の上を|飛航艇《ブラツクシツプ》の飛び続けている姿が、Bの頭のスクリーンに映っていた。が、実際はそうでなかった。飛航艇は反対の方向へ飛んで地図からはみ出したかと思うと、その瞬間、地図の反対側の端に出現し、あっという間にタマノン上空に達したのだった。やがて、飛航艇の窓から見下すと、タマノン国の首都トキヲのビル群が箱庭のように見え始めた。Bは飛航艇の高度を下げ、着陸態勢に入った。着陸にまったく支障はなかった。ただ不思議だったのは、上空から見た箱庭のようなトキヲの街が、いくら高度を下げても大きく視界に迫って来ないことだった。いや、この表現は正しくない。たしかに高度を下げるにつれて、ビルディングやタワーが大きく見えるようにはなったのだが、新大陸のエアポートに着陸するときとは感覚が異なり、建造物が大きく感じられるようになるのではなく、逆に自分と自分の乗った飛航艇が徐々に小さくなっていくように、Bには感じられたのだった。
まるで、箱庭の中へ、玩具の《世界》の中へ入って行くように……。
第三章 パンフレット
『タマノン国往還記』に関するQ&A
*質問者・作者以外で最初に読んだ読者
*解答者・作者
(1)今回の作品は、作品全体を大きな謎が推理小説のように覆っていて、その謎を解かないと批評できない仕掛けになっていますね。
いいえ、大した謎ではないのですが、ちょっとした謎を残したまま最後まで書いています。ですからどうしても終わりまで読んでいただかないと分らない設定になっています。
(2)「タマノン」などという不思議な名前がついていますが?
いいえ、別にそれほど不思議ではないでしょう。「タマ」がない( )から「タマノン」というだけです。
(3)だったら「タマノン国」は女性中心の国という意味ですか?
いいえ、そうではありません。それじゃあ、まるで『アマノン国往還記』になっちゃうじゃありませんか。
(4)では、「タマ」がないというのは……オカマ――?
まあ、新大陸の人間たちにとって、「タマノン国」と「タマノン人」は mother-fucker と呼びたくなる存在であるかもしれません。もっとも、mother-fucker という言葉は、「軽蔑すべきオカマ野郎」という意味のほかに、男同士で親しみを込めて呼び合う場合にも使われるのですが。
(5)「タマノン国」は、いったいどこにあるのでしょうか?
それは、普通の地図上の|極 東《フアーイースト》と考えて読んでいただければいいんです。ただ、それだけではなく、Bが「タマノン国」に到着するときの〈飛航〉の描写は、現実にある国とは別の「物理的世界」を連想するイメージで書いてあります。
(6)そこを訪れる「新大陸」の「B」という人物は、何やら象徴的な存在ですね。
ええ。「B」は Baseball であると同時に、Brother でもあるわけです。まあ、Bassというわけではありません。そういう具体的な存在ではなく、もっと抽象的なイメージです。
(7)しかし、「タマノン国」に「タマ」が|ない《ヽヽ》(non)というのなら、ベースボールができないんじゃありませんか?
いいえ、|本物《ヽヽ》の「タマ」ではなく、|別の《ヽヽ》「タマ」――たとえば、「飛ぶボール」などでもベースボール|もどき《ヽヽヽ》の play はできるわけです。ただ、「タマノン国」では、その|もどき《ヽヽヽ》でさえ、play するのではなく、まるで戦争行為の代用品のように|闘い《ヽヽ》に転化したり、会社で働くことと同じような|仕事《ヽヽ》に転化していることが問題なのですが……。
(8)全体として、この作品には、「ベースボールもどき」の「闘い」や「仕事」――それを「野球」あるいは「プロ野球」と呼んでもいいと思うのですが――に対する作者の嫌悪感のようなものが描かれていると思うのですが?
それは、まあ、本物のベースボールが好きなだけに、ベースボール|もどき《ヽヽヽ》に対する嫌悪感が知らず知らずのうちに出たのかもしれません。
(9)では、この作品は、どこかの国のベースボール|もどき《ヽヽヽ》の「野球」に対して、とくに「風刺」をしようという意図で書かれたわけではないのですか?
それは、この作品の読者の判断にまかせましょう。
このあとの章で出てくる「ヒガンテス」という球団は、スペイン語読みでスペルにすると、Gigantes ――英語では Giants となりますね。
ああそうですか。書いていて気づきませんでした。ただ面白い名前だからと思って使っただけで、他意はありません。
それにしても、どうして第三章に、このような「パンフレット」なるものが挿入されているのでしょうか……?
それは、“純文学”と名のつくものには、必ず「解説パンフレット」が入ってますし、読者も、作品を最後まで読む前に、そのパンフレットに目を通す人が多いようですから、それなら読者に読み易いように……と、本文中に一章を設けて組み込んだわけです。いけなかったでしょうか……?
第四章 到 着
タマノン国の首都トキヲのエアポートに到着したBは、タラップに足を一歩踏み出した瞬間、いったい何事が起きたのかとたじろいだ。というのは、五十人以上もの報道陣がテレビカメラやマイクロフォンをBに向かって突きつけ、大声でわめき始めたからだった。
「タマシン決戦はいつ頃実現しますか」
「タマノン国のベースボールをどのように評価されていますか」
「リアル・インタナショナル・ユニヴァーサル・シリーズとタマシン決戦は、同じものと考えていいのでしょうか」
「タマノン国に来られた感想を聞かせて下さい。タマノンはいい国だとお思いですか」
自動翻訳機のイヤホンを耳につけることによって彼らの質問の内容は理解できたが、どれもこれも今すぐには答えられない質問ばかりで、そのうえ新大陸の英雄と称えられたことのあるBでも、これほどの取材攻めにあった経験はなく、質問に答えるどころか驚きのあまり呆然とするほかなかった。
Bがタラップの上で立ちすくんでいると、ひとりの男が「どいて、どいて! ちょっとどいて!」と叫びながら報道陣を押しのけ、タラップを駆け上がって来た。そして、その男はBの前まで来ると流暢な新大陸語を使って歓迎の言葉を口にした。
「タマノン国へ、ようこそ。さあ、こんな馬鹿な連中は無視して、どうぞこちらへ」
Bは再び驚かざるを得なかった。少々下品でしばしば常軌を逸した行動を取るとはいえ、マスコミ関係者はベースボールにとってきわめて重要な存在である。マスコミを抜きにしてのベースボールや player の人気など到底考えられない。にもかかわらず、彼らを「馬鹿な連中」などと吐き捨てるように言ってのけたこの男は、断じてベースボールの関係者ではない、とBは思った。が、いったんこの凄まじい取材攻勢から逃れるため、Bはその男に従ってタラップを降り、彼に案内されるまま待機していたクルマに乗り込んだ。
運転手がクルマをスタートさせると、隣に座った男が話しかけてきた。
「長旅でお疲れでしょうが、さっそくスタジアムへ御案内させていただきます。そこには|うちのオーナー《ヽヽヽヽヽヽヽ》もおりますから……」
「ええ、宿へ入るより、ベースボールを見るほうが旅の疲れがとれますよ……」と返事をしながら、Bはハッと驚いた。その男はBが断じてベースボール関係者ではないと思った予想を裏切った。しかも不思議なことに、その男はトキヲをフランチャイズとするヒガンテスというチームの球団幹部だと自己紹介したのだ。
「タマノン・ベースボール協会の方ではないのですか」
「違いますよ。タマシン決戦はTBAではなく、ウチのチームと親会社が中心になって推進しているのです。TBAは単なるリーグ運営団体で、イベントを行なう力などありませんから」
「だったら、タマシン決戦とあなたがたが言うものは、一球団の企画したイベントとして考え出されたものなんですか」
「そう考えていただいて結構です」
男は真面目な口調で答えたが、Bは思わず吹き出し笑いをしてしまった。
「それなら何も大層な決戦などを行なう必要はありません。私の権限で、タマノン国全体をフランチャイズとするチームとして、ヒガンテスをUBAに加盟させましょう。来シーズンからでも、ヒガンテスはメジャー・リーグの一員になれますよ」
Bは出来得る限りの社交的笑顔を満面につくってこう言ったが、男は冷たい視線を返しながら、
「それは駄目です。ヒガンテスがUBAに加盟したのでは、タマシン決戦ができなくなるじゃありませんか」と言った。
Bは一瞬この堂々めぐりのような奇妙な答えに戸惑ったが、頭を整理して、要するにタマノン国あるいはヒガンテスは、ベースボールを play することよりもタマシン決戦を実現することのほうに力を注いでいるのだと理解できた。
「それに……」と男は言葉を続けた。「UBAに加盟すれば、ガイジン選手が自由に入ってくることになるでしょう。ヒガンテスは、タマノン人だけの純血チームとしてUBAの優勝チームと、リアル・インタナショナル・ユニヴァーサル・シリーズを行ないたいと考えているのです」
「しかし、それならヒガンテスがタマノン・リーグで優勝しなかった場合はどうなるのですか。タマシン決戦は、イベントとして行なわれなくなるのですか」
「そんな御心配は無用ですよ。じっさいに本当のタマシン決戦が行なわれることになれば、ヒガンテスが絶対に勝つことになります」
「それでは、まるで八百長じゃないですか」
「いいえ。それが国民的総意なのです」
「でも、どうしてゲームに勝つのですか」
しかし、男はこの問いに答えるかわりに、何もわかってない奴だなあ……といった嘲りを込めた笑いを口元に浮かべながら、「ヒガンテスの勝つことを誰もが望んでいるのです。誰もがね……。まあ、三冠王打者のオッチャイ選手をトレードで取ることには失敗して、最近は少々苦戦を|強《し》いられていますが、ヒガンテスが優勝しないことには、国民が黙っていません。いずれ、そのうちに他球団の一流選手をどんどん引き抜いて、優勝することになりますよ。それに、万一ヒガンテスが負けたときは、タマシン決戦を行ないませんから……」と言った。
「しかし、そんなことをすれば、他のチームのファンが怒るでしょう」
「いいえ、そんな心配には及びませんよ。他チームのファンなんて、所詮は少数派だし、それに、ヒガンテス以外の球団は、優勝ということに対して、それほど熱心じゃないのです。事実、オッチャイ選手が以前所属していたチョコレート・カシオペアンズなんか、優勝なんてどうでもいいと考えているから、オッチャイ選手を放出したんですよ」
「そのチョコレートという都市は|何処《どこ》にあるのですか」
「チョコレートは都市名ではなく企業名です」
「だったら、タマノン・ベースボール協会はセミ・プロ組織なんですね」
「いいえ、純然たるプロフェッショナルです」
「ならばチョコレートのフランチャイズは……」
「メガロ・トキヲ・エリアですよ」
「ヒガンテスと同じじゃありませんか」
「ええ。メガロ・トキヲには、他にもソーセージ・イーターズ、ドリンク・チキンズ、シーフード・パッケージズ、ホテルマン・エンペラーズといったチームがあり、あとはビッグ・ナニワ・エリアに三チーム、残りはグレイト・カントリーに二チームとスモール・カントリーに一チーム、合計十二チームがあなたがたのユニヴァーサル・ベースボール協会同様、二つのリーグに分かれて……」
「ちょっと待って下さい。いま、おっしゃったチームの名前はすべて企業名というわけですか」
「ええ、そうですが」
「だったらベースボールファンは、地域社会のシンボルに対してではなく、企業に声援を送るのですか」
この問いに対して、男は「ふふふ」と意味不明の含み笑いをしたのち次のように答えた。
「結果的にはそうなりましょうかね。でも、タマノンの善良な国民はすべて何らかの企業と関わりのある|組織《パルタイ》の構成員で、地域社会よりも企業組織との関わりのほうが強いですからね。企業活動としてのベースボールに声援を送るのが当然と誰もが考えています」
「しかし、そうだとしてもフランチャイズの重複は避け、新たな地域のファンを獲得したほうがベースボールの発展にはプラスではないですか。そもそもスポーツとは、国民ひとりひとりのもの、公共のものであり、企業が私物化するべきものではありませんから」
「ははははは」と、男が今度は大声をあげて笑い出した。「いや、失敬しっけい。まさか新大陸の英雄とまで言われたあなたが、タマノンのインテリゲンチャンと同じ意見を口にされるとは思わなかったものですから……」
「インテリゲンチャン?」
「|組織《パルタイ》に所属しない浮浪者のことですよ。ソフィストとでも言いますか、いい加減なことばかり言う連中なんです。だってそうでしょう。タマノンの人口はトキヲとナニワに集中していて、他の地方をフランチャイズなどにしては、そもそも企業宣伝にならないのですよ。それにカントリーに行けば行くほど中央志向が強く、ヒガンテスのファンが百パーセントと言っていい状態です。タマノンでは、誰もが組織の一員になりたがっているのですから、企業によるスポーツの私物化は当然のことなんです。それを、誰もが組織の一員たるタマノン人は、喜んでいるんですよ。なのに、インテリゲンチャンどもは、そういうヒガンテスの圧倒的な人気を切り崩そうとして、フランチャイズの分散を声高に叫ぶのです。でも、そんなことになってみなさい、ベースボールの人気そのものが|凋落《ちようらく》して、いまはまだベースボールの百分の一以下の支持者しかいないサッカーやラグビーの人気が高まるでしょう。そうなれば、タマノン国の政体は根底から|覆《くつがえ》され、一気に旧大陸の属国になるかもしれません。いや、インテリゲンチャンどもは誰かに操られて、そういう革命的混乱状態を生み出すべくフランチャイズの分散とヒガンテスの人気低下を狙っているのですよ」
たしかに男の言うとおりかもしれない、とBは思った。しかし、現在のタマノン国は旧大陸型のソシアル・フットボール・デモクラシー国家ではないにしても、新大陸型のフリーキャピタル・ベースボール・デモクラシー国家とも言えず、むしろカリビアン島嶼部型のディクタトル・ベースボール・コミュニズム国家に酷似しているように思えた。それが真実だとすれば、いずれタマノンはベースボール人気を維持したままで新大陸とは国交を閉し、旧大陸の支配下に入ることも十分考えられた。
「しかし、どうなんでしょうかねえ。ヒガンテス一チームだけの人気が異常に高く、ヒガンテスばかりが優勝するという状態よりも、その人気が分散したうえでベースボール全体の人気が高まるという状態のほうが……」
当然のことと言えたが、ヒガンテスの球団幹部である男は、強い口調で反論した。
「そんなことは考えられませんよ。まあ、あなたはタマノン国のことをまだよく御存知ないから仕方ないでしょうが、タマノン国はあなたがたの新大陸とは違い、多民族国家ではなく、単一民族国家なのです。ですから、いったん国民の心に根づいた精神的支柱というものを、変えることはできないし、また国民もそういうドラスティックな変革を望みません。ヒガンテスは、そのような存在として、古くからタマノン国の国民的象徴と言えるチームなんですよ」
「そしてタマシン決戦に固執するのも、単一民族国家としての民族意識を昂揚するため、というわけですか……」
しかし、男は、この問いには答えなかった。
「間もなくスタジアムに到着します。あとはオーナーからお聞き下さい」
「だったら、最後にひとつだけうかがいたい。ヒガンテスの親会社は、いったいどんな企業なのですか」
「製薬会社です。正式には、オロミナンGヒガンテスと言います」
「なるほど、タマノン国の国民に幻覚剤でも服ませてヒガンテスのファンを増やし、民族意識を昂揚しているというわけだ」
ほんの冗談のつもりでBがこう言うと、男はサッと顔を青ざめさせて、Bを睨みつけた。
ひょうたんから思わぬ駒が出たものだ、とBは思った。
間もなく、クルマはトキヲの中心にある巨大な屋根付きの球場に到着した。
その入口のアーチには――、
〈打倒! 新大陸メジャー・リーガー!〉
〈撃ちてし止まん ホームラン!〉
〈祈必勝 タマシン決戦!〉
〈欲しがりません勝つまでは!!〉
〈月月火水木金金!〉
〈使うほど安く良くなる国産品〉
――などといった、何やらわけのわかったようなわからないようなタレ幕が、スタジアムの外壁いっぱいにぶら下がっていた。
第五章 ベースボール|もどき《ヽヽヽ》
Bが案内されたのは、スタジアム内のオーナー・ルームだった。そこは観客席の一塁側二階席に位置し、ガラス窓越しに屋内フィールドでのプレイを見物できるようになっていた。Bは、ヒガンテスのオーナーの到着を待たされる間、眼下で行なわれているゲームをボンヤリと眺めながら考えた。自分が|愛国者《パトリオツト》リーグのグレイトコーンズの player として活躍し、新大陸でヒーローに祭りあげられたと言っても、それはいわばノスタルジアだった。ところが、ここタマノンではヒガンテスというチームが国民的象徴とされ、いや、何らかの薬物的効果によって国民がそのように思い込まされ、ベースボールを play したり、play を見たりする楽しみ以外の手段に用いられている。このような状況のまま彼らの主張する「タマシン決戦」を行なえば……。そして、もしも新大陸がタマノンに一試合でも敗れるようなことになれば……。おそらく新大陸でもベースボールを play する喜びは失われ、スタジアムはタマノン人たちが好んで使う「仕事」「闘い」「決戦」といった言葉にふさわしい、|荒《すさ》んだ《世界》に変質してしまうに違いない。そんなことは、なんとしてでも避けなければならない、とBは思った。しかし、もうすぐヒガンテスのオーナーと称する人物が現われ、Bに向かってタマシン決戦に関する「YESかNOか!?」を迫るだろう。Bは、自分が幼い頃ベースボールを play して育った大平原の大きな家を脳裡に思い浮かべ、ああ、パパ、ママ、マーマレード、僕はどうすればいいのでしょう……と心の中で呟いた。
が、そのとき、眼下で行なわれているゲームに、ふとBの眼が止まった。バッターが三塁ゴロを打った。すると驚いたことにそのバッターは、顔をしかめて一塁へぶらぶらと歩き出したのだ。三塁手はゴロをグラブで捕り、ゆっくり二、三歩ステップしてからふわりと山なりのボールを一塁手へ投げた。アンパイアが軽く拳を握る。そこで one play が終わった。
これがタマノン国のベースボールか!? と、Bは我が眼を疑った。バッターは、打てば少しでもセーフになってやろうと思わないのか? たとえアウトになっても、思いっ切り一塁へ走ることに快感を覚えないのか? 野手は思いっ切り速い球をビュッと投げる爽快感を知らないのか? さらに、まったく驚いたことに、二塁手もライトもキャッチャーも、誰ひとりとして三塁から一塁へ送球されたボールのバックアップに走らなかった。彼らは、一塁手がボールを後逸したとき、それをうまくバックアップすれば、その日の試合で素晴らしいヒーローになれるということを知らないのだ!
Bは唖然としながらも、眼下のゲームを眼を皿のようにして眺めた。その後続いて起きた play の数々も、Bにとってはまったく驚くほかないものだった。右中間を抜く、なかなか素晴らしいラインドライヴの打球を放ったバッターは、何故かトコトコと歩くようにして二塁で止まり、三塁ベースを奪おうとしなかった。そのうえ、一死走者二塁だというのに続く打者が送りバントをした。それはサードコーチャーのサインによるもののようだったが、そんな馬鹿馬鹿しい作戦でヒーローになるチャンスを奪われたというのに、バッターは怒りもせず、ニコニコ笑いながらベンチに還って来た。さらに仰天したことには、次のバッターが投球につまってライトへフラフラと打球を打ち上げると、ライトを守っていた野手は途中までその打球を追っただけで立ち止まってしまったのだ。すると次の瞬間、ライトの線審が右手の拳を高くあげて腕をグルグルと回し始めた。何故いまの打球がホームランなのか、Bは一瞬我が目を疑った。が、よく見ると、ライトフェンスのかなり前方に金網が張ってあったのだ。せっかく広いスペースがありながら、わざわざそれを狭くして使っていることが、Bには理解できなかった。しかし、それ以上に、投球につまった打球が、まるでピンポン球のように右翼手の後方まで飛んだことに驚かされた。なんとよく飛ぶボールだ! これは野球の|球《たま》じゃ|ない《NON》! とBは思った。さらに、なにより不思議だったのは、ホームランを打たれたピッチャーや三振をしたバッターが悔しそうな素振りを見せないどころか、薄笑いを浮かべていることだった。
彼らが相手なら勝てる! と、Bは確信した。
そのとき、バタンと大きな音がして、ヒガンテスのオーナーと明らかにわかる立派な腹を突き出した男が、四、五人のボディ・ガードらしき体格のいい男を引き連れて、勢いよく入って来た。彼は挨拶もせず、バン! と中央にあった大きなテーブルをてのひらで叩くと、声を張りあげて叫んだ。
「YESかNOか!?」
Bは、ニッコリ頬笑みながら、「YEEEEEEEEES」と、答えた。
エピローグ
新大陸の上院議会ではタマノン国との貿易不均衡問題について、白熱した論議が交されていた。
「問題の根源は、タマノン国の卑劣なやり方にある!」と、ある野党議員が叫んだ。「いまや、新大陸に住む全住民が、この『シンタマ決戦』と名付けられた小型野球ゲームなるタマノン国製のおもちゃを購入しているのであります」
彼は、演壇の上に置かれたプラスチック製のタテヨコ三十センチ四方くらいの野球盤を指さした。
「この野球ゲームはじつにうまく作られていて、何度 play しても、リアリティあふれるゲーム展開で、必ず新大陸チームが勝つように出来ているのであります」
お前もそれで毎晩遊んでるんだろう! と野次が飛んで、場内は失笑に包まれた。
「オホン。かつてパシフィック地域のセントラルには、新大陸と戦火を交えて敗北したのち、経済成長に成功した島国があり、タマノンはそのノウハウを研究して、何か新大陸相手にわざと負ける材料がないかと求めた結果、我が新大陸の生み出したベースボールに目をつけ、その|遊び《ヽヽ》を|闘い《ヽヽ》に変質させたのであります。そして必ずタマノン・チームが新大陸チームに負ける野球ゲームを作りだし、新大陸人のプライドをくすぐり、外貨を荒稼ぎし、我われの非難までもかわそうとするタマノン国の卑劣な態度を、私は断じて許せないのであります。我が新大陸住民のすべては、タマノン国に対して断固たる抗議を行なうと同時に、今こそ古き良きベースボールの精神を思い起こし、真にベースボールを play する喜びを思い出すべきなのであります。そう! 思い起こせば、あの緑豊かな大穀倉地帯の平原で我々の先祖は……」
――パチンッと、ロッキングチェアに座った白髪の老人はテレビのリモコンのスイッチを切った。そして骨と皮に等しいやせ細った手を頼りなく左右に振りながら、シワがれた声で誰に言うでもなく|独言《ひとりご》ちた。
「おおい。トネリコの木の枝を折って来い。バットをつくろう。牛を殺せ。ワシがボールを縫ってやる。さあ、キャッチ・ボールを始めるぞ。プレエエエエエエイ・ボオオオオオル!」
すると隣の部屋から小学生くらいの子供が飛び出して来て老人の手を取って語りかけた。
「おじいちゃん、そんなに無理して僕と遊ぼうとしてくれなくったっていいよ。だって、パパが野球ゲームを買ってくれたんだ。これ、おもしろいんだよ。新大陸のグレイトコーンズがタマノン・ヒガンテスをやっつけると、おじいちゃんそっくりのミスター・ベースボールがオーナー室の窓越しにニッコリ笑うんだ」
老人はがっくりと肩を落として、濡れ雑巾のように首を垂れた――。
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第9球 巨人伝説 きよしこの人
悪夢の貧民舎特別公演台本
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登場人物
○キヨシ ○聖母マリア
○ドン・スターリン ○ヨゼフ
○ピーマン・ヒロ ○第一の魔女
○ミスター ○第二の魔女
○ビッグ・ワン ○第三の魔女
○カール・マルクス ○巨人の星
1
舞台は漆黒の闇――。
歌声だけが響く。星の流れにー、身を|占《うらな》ってー………こーんな|虚人《きよじん》に、誰がしたー……。
やがて、暗闇のなかに満天の星が浮かぶ。客席の天井にまでキラキラと光る天の川。その光に照らし出されて、何か巨大なものが舞台の上にその輪郭を現わす。いや、その巨大なものそれ自体も、ところどころ輝いている。その輝きは、よく見れば、札幌、仙台、京浜、中京、京阪神、広島、松山、北九州、福岡等の大都市のあかり。すなわち、舞台の上に横たわる巨大なものは、高度三百キロ――スペース・シャトルの軌道から|俯瞰《ふかん》した夜の日本列島だったのだ! ハリボテで造られた日本列島!!
その上空を、三人の魔女が飛び回る。
第一の魔女 |Fair is Foul,《フエア・イズ・フアウル》 |Foul is Fair.《フアウル・イズ・フェア》
第二の魔女 きれいは|穢《きた》ない、穢ないはきれい。
第三の魔女 いいは悪いで、悪いはいい。
第一の魔女 Fair is Foul, Foul is Fair.
第二の魔女 |Safe is Out,《セーフ・イズ・アウト》 |Out is Safe.《アウト・イズ・セーフ》
第三の魔女 |Strike is Ball,《ストライク・イズ・ボール》 |Ball is Strike.《ボール・イズ・ストライク》
第一の魔女 まことに! 最近の|審判《アンパイア》のジャッジは不正確きわまりない。
第二の魔女 いつぞやの|開 幕 戦《オープニングゲーム》で、スワローズのエース荒木がジャイアンツのクロマティに投げた、あの一球!
第三の魔女 あれがボールでなく、正しくストライクとコールされていたならば……
第一の魔女 その年のジャイアンツは、最下位に落ちていたであろう。
第二の魔女 もっとも、それでも、その年の巨人は優勝できなかったがな。
第三の魔女 しかも、七十五勝もの勝ち星をあげながら……(註・一九八六年広島優勝のシーズンを指す)。
三 人 けけけけけ。(と、奇っ怪な甲高い声で笑う)
第一の魔女 Fair is Foul, Foul is Fair.
第二の魔女 七十五勝は最下位、最下位は七十五勝。
第三の魔女 大監督はダメ監督、ダメ監督は大監督。
第一の魔女 そのうえ、同じスワローズとの開幕三連戦で、
第二の魔女 ジャイアンツの篠塚の打った明らかなファウルが、
第三の魔女 ホームランと判定されたこともあった。
第一の魔女 そのおかげで、ジャイアンツは優勝。
第二の魔女 ところが、日本シリーズでは、
第三の魔女 ライオンズに無残な四連敗(註・一九九〇年のシーズンを指す)。
第一の魔女 Fair is Foul, Foul is Fair.
第二の魔女 優勝は惨敗、惨敗は優勝。
第三の魔女 大監督はダメ監督、ダメ監督は大監督。
三 人 Fair is Foul, Foul is Fair. Safe is Out, Out is Safe. Strike is Ball, Ball is Strike ………
第一の魔女 |審判《アンパイア》ハ神聖ニシテ犯スベカラズ。
第二の魔女 |審判《アンパイア》は|帝国《エンパイア》に住む|吸血鬼《ヴアンパイア》。
第三の魔女 それとも、ただのアンパン屋。
第一の魔女 いやいや、巨人の|乾杯《カンパイ》屋。
第二の魔女 タバコは、もちろん“しんせい”を吸い……
第三の魔女 酒は、もちろん“神聖”を好み……
第一の魔女 野球は、もちろん“巨人”を好み……
第二の魔女 選手に殴られても
第三の魔女 監督に蹴られても
第一の魔女 じっと我慢して巨人に味方する
三 人 ソンナ審判ニ、ワタシハ、ナリタイ。
第一の魔女 Fair is Foul, Foul is Fair.
第二の魔女 プロ野球は巨人、巨人はプロ野球。
第三の魔女 アンチ巨人も、巨人ファン。
第一の魔女 喜べ! 巨人ファンよ!
第二の魔女 この国に、権カベッタリのマスコミがある限り
第三の魔女 巨人軍は永久に不滅です。
三 人 Fair is Foul, Foul is Fair. Fair is Foul, Foul is Fair. Fair is ………
第一の魔女 しかし、この|虚《むな》しさは、何だ!?
第二の魔女 審判が味方しても
第三の魔女 権力ベったりのマスコミが後押しをしても
三 人 巨人は、勝てない!!
第一の魔女 いや、よしんば、勝ったとしても、
第二の魔女 圧倒的な戦力を誇りながらの息も絶え絶えの勝利を喜べというのか!?
第三の魔女 スーパースターのいない送りバントによる勝利を|称《たた》えろというのか!?
第一の魔女 なりふりかまわず
第二の魔女 勝てば官軍
第三の魔女 そんな|虚人《ヽヽ》に
三 人 拍手を贈れというのか!?
第一の魔女 スーパースターは、何処へ行った!?
第二の魔女 トリックスターは、何処へ消えた!?
第三の魔女 いったい、誰が、いまの虚人の救い主となれるのか!?
三 人 こんな虚人に、誰がした!?
――再び歌声が聞こえる。星の流れにー、身を占ってー…………
2
歌声に乗って、キラキラと輝く大きな“星”が出現し、ハリボテの日本列島上空をゆっくりと飛び回る。
第一の魔女 おお! あの星じゃ!
第二の魔女 わしらが探しておったのは、
第三の魔女 まさしく、あの星
三 人 巨人の星!!
第一の魔女 最初に、あの“星”を見たのは……
第二の魔女 一九二〇年、大正九年三月二十三日。権力の象徴牡羊座から弾丸ライナーが飛び出し、軍神|火星《マース》に衝突したとき!
第三の魔女 場所は、熊本県球磨郡大村、|ドン《ヽヽ》川の|川上《ヽヽ》にある禅寺野球道場上空。
第一の魔女 そのとき“星”は、
第二の魔女 かつてのNTTの株券のように光り輝き
第三の魔女 ボールは止まって見えた。
第一の魔女 おお! 大いなる|首領《ドン》!
第二の魔女 ヒットラーも裸足で逃げ出す
第三の魔女 プロ野球界のスターリン!
三 人 (歌う)貴様と俺とは 同期の桜 陰謀 裏切り マキャベリズム |何《なん》でもごーざーれ〜…………
――飛びまわっていた“星”がハリボテの日本列島熊本県上空で止まり、輝きを増す。すると、|そこ《ヽヽ》から和服姿のドン・スターリンが誕生する。
ドン・スターリン オホン。プロ野球とは、粉骨砕身の努力と、報恩感謝の精神でもって、チームプレイに徹するものであります。もちろん、それ以上に重要なことは、カネ儲けと利権の追求、その大本をなす実践倫理が、本音と建前の使い分けということでありますから、どうか、みなさん、お父さん、お母さんを大切にしましょう。
三 人 おお! 畏怖すべき|首領《ドン》!
ドン・スターリン |どん《ヽヽ》なもんじゃ。(と言って胸を張り、上手へ去る)
3
第一の魔女 二度目に、あの“星”を見たのは?
第二の魔女 一九三二年、昭和七年二月九日。獅子座を追い出された草食獣座の星が、痛風の風にあおられて吹き飛ばされたとき!
第三の魔女 場所は、広島県呉市、海軍江田島お嬢さん学校上空。
第一の魔女 そのとき“星”は
第二の魔女 女学生のソフトボールのように弱々しく消えかかったが、
第三の魔女 持ち前の学歴と、ソフィスティケートされたソフィストの|詭 弁《ソフイズム》によって、権力の座に就いた。
第一の魔女 |畏《おそ》るべし! 海軍式野菜管理野球!!
第二の魔女 アイアコッカも絶賛する
第三の魔女 ピーマン・ヒロの|管理術《マネージメント》!
三 人 (歌う)うみーの男の |厭味《イヤミ》と管理 月月火水木金金……
――“星”は広島県上空に移動して輝き、|そこ《ヽヽ》から背広姿のピーマン・ヒロが生まれる。
ピーマン・ヒロ 野球ちゅうもんは、|己《おのれ》の力の足りないところをよく自覚して、基本に忠実にやらなあかんのですよ。なのに、最近の若い|子《ヽ》は、フライを片手で|捕《と》ったり、ユニホームの胸のボタンをはずしたり、そのくせ、すぐに自分勝手な屁理屈を口にしたがる。理屈を言いたいなら、自分が監督になってからやりゃええことです。まったく近頃の若い|子《ヽ》は、いったい何を考えているやらわかりません。目的意識を持たず、自分の仕事を認識しとらんし、自覚もないんだから、自己管理なんて無理なんです。だから、もっと|気《ヽ》を入れて野菜を食べさせなきゃ、どうにもならんですよ。
三人の魔女 おお! さすがは、アンチ・|ヒ《ヽ》ー|ロ《ヽ》ー!
ピーマン・ヒロ 捨てるカミあれば、|ひろおカ《ヽヽヽヽ》ミあり(と言って、上手へ去りかけるが、ヤバイヤバイといった感じでUターンし、下手に去る。もちろん、上手の舞台の袖にはドン・スターリンがいたからだ。)
4
第一の魔女 三度目に、あの“星”を見たのは?
第二の魔女 ……ちょっと待て。観客の間から、話がわかりにくいという声が聞こえる。
第三の魔女 ……それに、くだらんシャレが多過ぎる、そんなシャレはやめなシャレという声も聞こえる。
第一の魔女 冗談ではない! 話をわかりにくくして、くだらんシャレを入れないことには、現代演劇にならんじゃないか。
第二の魔女 そうじゃ。観客は、それを、わかったようなフリをして見ていれば、インテリの一員になれるというわけだ。
第三の魔女 そして百貨店も、わかったようなフリをして舞台を貸せば、どこか進歩的な百貨店と思われるわけだ。
三 人 (うなずいて)そうじゃ、そうじゃ。
観客の一人 (客席から立ち上がって)しかし、それは、この国の学生演劇だけの話であって、ベケットやイオネスコ、さらにピンターやアラバールの台本の場合や、ピーター・ブルックの演出の場合は……
第一の魔女 バキューン!(と、本物のピストルで、その観客を本当に射ち殺す)おろか者め! 何を古臭いことを言っとるか。最近の演劇では、観客参加など|流行《はや》らないのだ。それに、わけのわかりにくいことを言ってるのは、てめえのほうじゃないか。バキューン!(と、もう一発本物のピストルを発射し、|止《とど》めを刺す)
第二の魔女 おお! 絶対に上演できぬ台本!
第三の魔女 これぞ、現代演劇の前衛!
第一の魔女 話を、もとへ戻そう。
(作者註・シーン4はカット可)
5
第一の魔女 三度目に、あの“星”を見たのは?
第二の魔女 一九三六年、昭和十一年二月二十日。アポロンとディオニソスを混ぜこぜにした太陽が、最も明るく輝いたとき!
第三の魔女 場所は、千葉県いわゆるひとつの佐倉市上空。
第一の魔女 そのとき“星”は
第二の魔女 きらきらと|眩《まばゆ》い胸毛のように輝き、
第三の魔女 ちょいとベースを踏み忘れたりした。
第一の魔女 おお! 愛すべき|美星《ミスター》!
第二の魔女 |J・C《ジエー・シー》(ジーザス・クライスト)、|E・T《イー・テイー》(エクストラ・テレストリアル)をはるかに凌駕する|M・R《エム・アール》(ミスター)よ!
第三の魔女 比類なきトリックスターよ!
三 人 (歌う)男がひとり できること 指をからめて 祈ること 胸毛を涙で ぬらすこと 愛する|巨人《ひと》に捨てられて 男のケジメを つけさせられて それでも|巨人《あなた》 憎めない 弱い男は 待つだけなのね |巨人《まつすぐ》行こうか|大洋《まがろう》か |巨人《あなた》ひとりに賭けた 恋 恋 I want you love me next year………
――“星”は、千葉県上空に移り、|そこ《ヽヽ》からスポーティなジャンパー姿のミスターが生まれる。
ミスター いやあ、どうもどうも。ハイ。まあ……|明日《あす》に向かって……そして、立ち上がる。この、明日に向かって立つという、いわゆるひとつの諺とでも申しますか、野球というのは、そういうもんじゃないかと、まあ、私は思うわけでありますが、しかし、まあ、ひとはそれぞれでございまして、いわゆるパースナルな考え方と言いますか、ひとつのインディヴィジュアルな文化とでも申しますか、まあ、そういうものがいろいろあってもいいんじゃないかと、まあ、私は思うわけです。ハイ。
三人の魔女 ユニホームの 熱き血潮に触れもみで 淋しからずや 文化を説く君
ミスター 私の血潮はいわゆるひとつのB型。BUNKAのBなんですよ。ハイ。(と言って、上手へ去ろうとして逡巡し、Uターンして下手へ去ろうとしてためらい、考えたあげく、客席へ降りて周囲の観客にニコニコとお辞儀をしたあと、空席のひとつに座る)
6
第一の魔女 四度目に、あの“星”を見たのは?
第二の魔女 一九四〇年、昭和十五年、紀元は二千六百年。五月二十日。星のフラミンゴが八百六十八回、天に高々と舞ったとき!
第三の魔女 場所は、東京都墨田区|荒川《ヽヽ》上空。ちょいと中国浙江省寄り。
第一の魔女 そのとき“星”は?
第二の魔女 狭い小宇宙のへいぎわに、
第三の魔女 何度も何度も、ポトリと落ちた。
第一の魔女 |称《たた》えよう! 小宇宙でのフェンスぎりぎりのジャパニーズ・ホームランを!
第二の魔女 サドも仰天、マゾもびっくり
第三の魔女 彼が耐え抜いた、艱難辛苦の試行錯誤を!
三 人 (歌う)思い込んだら 試練の道を 行くが 男の マゾヒーズーム〜………。
――“星”が東京都上空で輝き、|そこ《ヽヽ》から巨人のユニホーム姿のビッグ・ワンが誕生する。
ビッグ・ワン 監督というのは、自分でバットを持ってホームランを打てるわけじゃなし、だから、実力で私よりもはるかに劣り、練習量も少ないとはいえ、きみたち選手諸君が、滅私奉公の精神でチームのためにがんばってくれないことには、巨人軍の伝統を守ることができないのだ。とにかく、どんなことをしてでも、なりふり構わず勝とう! なんだかんだと言っても、勝てば官軍なんだから……といったところで、私の挨拶はよろしいでしょうか。
三人の魔女 |おお《ヽヽ》! 礼節を知る儒教精神の持ち主! |おお《ヽヽ》!
ビッグ・ワン 口では、そんなことを言っても、心の底では、僕のことを面白くないやつだと思ってるんでしょう。シャレも言えないつまらん奴だと。僕には、わかってるんですよ、そのくらいのこと……(と、ぶつくさ言いながら、上手へ去る。そのとき、一瞬逡巡するが、まあ、いいやといった感じで、上手――ドンの去った方角へ、足早に去る)
7
第一の魔女 そして、いま、天に輝く五度目の“星”!
三 人 巨人の星!!
第一の魔女 いったい、|何時《いつ》?
第二の魔女 |何処《どこ》で?
第三の魔女 “星”は止まり、輝くのか?
第一の魔女 そのとき生まれた男こそ
第二の魔女 |虚《うつろ》で|虚《むな》しい|虚人《きよじん》の救い主!
第三の魔女 おお! “星”は逡巡しておるぞ。
――“星”は、ハリボテの日本列島上空を、あっちへウロウロ、こっちへウロウロ、思案気な顔、困惑した表情で飛びまわる。
第一の魔女 巨人の星も、人材不足に悩んでおるのだ。
第二の魔女 おっ! 星が止まった!
第三の魔女 場所は、福岡県三池炭坑廃山跡エディプス・コンプレックス八丁目だ。
第一の魔女 いや、そこから今度は、神奈川県湘南海岸東海村マザコン八丁目に移った。
第二の魔女 すると、巨人の星は、やはり、あの男か……
第三の魔女 いや、“星”はボールを怖がって腰を引きながら逃げ出した。
三 人 やっぱり……。(と、溜息をつく)
第一の魔女 おお、今度は、福島県いわき市上空に“星”が移動した。
第二の魔女 場所を間違えてるんじゃないか。
第一の魔女 いや、あそこで生まれた男は、のちに栃木県小山市作新村ミー・イズム三十番地に引っ越すのだ。
第三の魔女 ならば、やはりあの男が……
第一の魔女 いや、“星”は、また動いた!
第二の魔女 そうか。あの男は肩に妙な|鍼《はり》を打って逃げ出した。
三 人 残念……。(と、悔やしがる)
第三の魔女 こうなれば、“星”は大阪富田林のピーエル村へ行くしかあるまい。
第二の魔女 しかし、見よ! ピーエル村の上空には、すでに獅子座の星が輝いておるぞ!
第一の魔女 どうして、そのようなことに!?
第三の魔女 それは、第四の巨人の星ビッグ・ワンが、投手王国をつくりたいと言ったからだ。
第一の魔女 そんな馬鹿な! 彼は、打高投低のチームをつくりたいと言っていたのではなかったか!?
三 人 君子豹変! 巨人は大変!
第一の魔女 これでは、トコロザワの|森《ヽ》が、コーラクエンまで動くとき、
第二の魔女 巨人は滅びる
第三の魔女 まるでマクベスそのものだ。
第一の魔女 いや、まだ救いはあるぞ! 見よ! “星”が止まり、あかあかと輝き出した!
第二の魔女 ときは、一九五四年、昭和二十九年一月六日。
第三の魔女 場所は、福島県矢吹町|絶好調《ヽヽヽ》二十四番地。
三 人 そんな馬鹿な!
第一の魔女 あのヒョーキン者に
第二の魔女 どうして、|虚《うつ》ろで|虚《むな》しい虚人を救えるというのだ!?
第三の魔女 しかし、“星”は止まり、輝いた。
第一の魔女 おお、“星”が下降し始める。
第二の魔女 よし、われらも行こう!
第三の魔女 雲の中、汚れた空をかいくぐり、
第一の魔女 虚人の救い主
第二の魔女 |第五《ヽヽ》の巨人の星
第一の魔女 |運命《ヽヽ》の男の誕生を祝うため、
三 人 いざ行かん! ジャジャジャジャーン……。
第一の魔女 祝福されし御子の名は
三 人 キ・ヨ・シ!!
8
三人の魔女、“星”のあとを追って、ハリボテの日本列島の福島県矢吹町に降下し始める。
すると、日本列島は、その場所から左右(下手と上手)に割れ、背後から牛小屋が現われる。牛小屋の中では、産衣を着て生まれたばかり――とはいえ、身長一八五センチで、エラの張った顎に無精ヒゲのあるキヨシが、彼の母マリアに抱かれ、父ヨゼフに見守られている。
女性コーラスが響くなか、三人の魔女が東方の三博士となって登場。キヨシと母マリアを祝福し、ボール、バット、グラブ、ユニホームなどを与え、最後に巨人の帽子をかぶらせる。
もちろん、牛小屋の真上には、“星”が光り輝いている。
女性コーラス きーいよーしー こーのひーとー ほーしはー ひーかりー きょーじんーんのみーいこーはー 牛舎あーあの なーあかにー ねーむりーいたもーおー いーいと やーかましくー………。
――フンギャア、フンギャアと、キヨシの泣き声が響いたあと、彼が、右手にバット、左手にグラブを掲げて立ち上がる。
キ ヨ シ 天上天下唯我ゼッコーチョー!!
マ リ ア まんず、|うつ《ヽヽ》のキヨ|ス《ヽ》はカッコ良かあ、なお、|父《と》っつあん。
ヨ ゼ フ んだ。んだ。
第一の魔女 やはりこれは、何かの間違いではなかったか!?
第二の魔女 しかし、“星”は彼の頭上に、光り輝いている。
第三の魔女 ならば、仕事を始めるべし。
三 人 英才教育を始めよう。
9
舞台一転して、野球のグラウンド。
背番号のない、高校球児の着るようなユニホーム姿で、坊主頭のキヨシが土ならしをしている。そこへ、上手からドン・スターリンとビッグ・ワン、下手からピーマン・ヒロ、客席からミスターが登場。彼を取り囲む。
ドン・スターリン キミが、キヨシくんかね。
キ ヨ シ ハ……ハイ。
ドン・スターリン そうか。親孝行はしとるかね。
キ ヨ シ ハ……ハイ。で、あなたがたは?
ミスター (ドンとキヨシの間に割り込んで)まあ、僕たちはですねえ、いわゆるひとつのインストラクターとでも言いましょうかあ、指導者としてですねえ、エリートとして選ばれたキヨシ君にですねえ……
ビッグ・ワン 要するに、僕たちの教育を受けて、将来、巨人の|お役《ヽヽ》に立ってほしいということなんです。
ミスター そ、そういうことなんですねえ。まあ、巨人の|お役《ヽヽ》に立つと同時に、キミ自身の|お役《ヽヽ》にも立つということ、それで、みんなハッピーになるということなんですねえ……。
ピーマン・ヒロ 理論にならない理屈は、どうでもよろしい。いいか、キミは、目的意識を持って、基本に忠実なプレーを心掛けるんだ。わかったか。
キ ヨ シ ハイッ! わかりました!!
ピーマン・ヒロ それじゃあ、キミの目的意識について、語ってみたまえ。
キ ヨ シ ハ……ハア……ハア?
ピーマン・ヒロ なんだ。なーんもわかっとらんじゃないか。まったく最近の|子《ヽ》は、いい加減な返事ばっかりしおって……
ミスター まあまあまあまあ。理屈は抜き。固いことは抜き。さあ、ハッスルして、ネバー・ギブアップ! レッツ・ゴー! トレーニング・スタート!
キ ヨ シ ハイッ!!
――ドン・スターリンは、舞台後方のベンチに座り、貧乏ゆすりを始める。
ミスター (バットを手にして、バッティング・フォームをキヨシに教える)まず、|バリング《ヽヽヽヽ》をやりましょう。ハイ。|バリング《ヽヽヽヽ》のコツは、ピッチャーの投げた球をよく見て、バシッと打つ。このバシッと打つのが大切なんですねえ。ハイ、やってみよう。まず、スタンスは、体の力を抜いて、雨の日に傘をさして立ち小便をしているように……そうそう、バットは雨の日の傘だから、高過ぎず低過ぎず、腰と膝は小便をしているのと同じだから、柔らかく曲げて……そうそうそう……そして、ハッとボールをとらえたら、腰を使ってピュッとバットを振る。そのとき、太股でギュッと挟みつけていたチンポコを、ビュッと突き出す。わかるねわかるね。それで、バシッとボールを打ったあとのフォロー・スルーは、ソバ屋の出前。つまり、バットを握った両手首が、左肩の上に来る。そう、ソバ屋が出前をするとき、てのひらを上にして|お盆《ヽヽ》を持つように……そうそうそう。うん、いいね。さあ、レッスンしてみて……そうそう、雨の日、傘、立ち小便、チンポコ、太股、ギュッ! ハッ! ビュッ! バシッ! ソバ屋ッ! おお、ベリーグー、ベリーグー、エクセレント! ビューティフル! カンペキ・グーだねえ。
――キヨシは、喜々としてミスターに教えられるままスイングを繰り返すが、ピーマン・ヒロとビッグ・ワンは、うんざりした表情。舞台後方に座ったドン・スターリンも、見ちゃおれんといった態度で、貧乏ゆすりが激しくなる。
ビッグ・ワン ちょっと待って! (と、キヨシのスイングを止める)いまのスイングは、アッパー気味になっているから、もう少し叩きつけるように、ダウン・スイングで振ってみなさい。そう、最初の構えのときに、もう5・3センチほどグリップの位置を高くして……両足のスタンスを6・8センチ広げて……いやいや、ダメダメ。一本足は、やっちゃダメ。それは、僕にしか出来ないんだから。さあ、もう少し0・8ミリほどダウンスイングで……
ミスター うんうんうん。いいねえいいねえ。言われてることは同じなんだよ。要は、自分の打ちやすいように打てばいいんだから……さあ、雨の日、傘、立ち小便、チンポコ、太股、ギュッ! ハッ! ビュッ! バシッ! イヨッ! ソバ屋ッ! いいねえ、決まったねえ、グー、グー、ベリー・グー。
ビッグ・ワン いやいやいやいや、もう少し、1・2センチほどバットを高くして……そうじゃないそうじゃない、バットの軌道は、角速度は……ダメダメダメ、バットの描くのは円軌道じゃなく楕円軌道で……体の軸のブレは、半径5・63センチ以内の円柱の範囲内でとどめるように……おおっと、いかんいかん、10・8センチも体がブレたじゃないか!
ミスター まあまあまあ、|細かい《ヽヽヽ》ことは抜き、|ほそかい《ヽヽヽヽ》ことは抜き。さあ、今度は、スイングのあと、ポーンとヘルメットを飛ばしてみよう。そうそう、カッコ良く、お客さんにアッピールするように……さあ、雨の日、傘、立ち小便、チンポコ、太股、ギュッ! ハッ! ビュッ! バシッ! イヨッ! ソバ屋ッ!…………
ピーマン・ヒロ (ミスターとキヨシの間に割って入り)バッティングは、そのくらいでいいだろう。いくら練習しても、打てんやつは打てんし、打てるやつは打てる。それよりも、|グローブ《ヽヽヽヽ》さばきというやつは、練習すればするほど上達するんだから、さあ、守備練習をしよう。(キヨシのバットを取り上げ、グラブをはめさせる)いかん、いかん! グローブから人さし指を出してはいかん。基本を守れ、基本を……
ミスター (ピーマン・ヒロとキヨシの間に割って入り)まあまあまあまあ。固いことは抜き。理屈は抜き。フィールディングでいちばん大切なことは……ボールに向かってダァーッと突進し、サッと|捕《と》って、パッと投げることですねえ、ハイ。そう、まるでチータが狙った獲物を|獲《と》るように……だから背中を丸くして、腰を低くして……ダァーッと突進するときは、腰を低くしたまま、背中がドルフィンのように揺れる。そうそうそう、チータが全力疾走するときも、そうなりますよねえ、ハイ。ダァーッ! サッ! パッ!(と、自分で手本を見せる)そして、ボールを投げたあとは、お客さんを喜ばせ、なおかつ自己の存在をアッピールするために、一直線に伸ばした腕をそのままにして、指先をヒラヒラヒラーッと振る。そう、カッコ良くカッコ良く……ダアーッ! サッ! パッ! ヒラヒラヒラーッ! おお、ベリー・グーッ、ベリー・グーッ、カンペキ・グーッ。エックセレンッ!
ピーマン・ヒロ あああああ。そんなにあわてちゃいかん、あわてちゃいかん! ボールをよく見て、しっかり捕らなきゃダメだ! ボールは、いろんな回転をするんだから、その回転をよく見て、ボールの|心《ヽ》を理解しようとしなければ……
ミスター そうそうそう。言ってることは同じなんだからねえ。要は、心。肝腎なのは、ハート。そう、ハートをこめて、心をこめて、大好きな野球という素晴らしいスポーツに愛情をこめて……ダアーッ! サッ! パッ! ヒラヒラヒラーッ! おお、ベリー・グーッ!! それでいい、それでいい。カッコいい、カッコいい。お客さんも喜ぶよ。さあ、もう一度! 失敗を|恐《おそ》れずに……失敗は成功のマザーなんだから……基本は、すべて同じなんだから……。
ピーマン・ヒロ 何が同じなもんか!(と言って、グラブを地面に投げつける)
――そのとき、舞台の奥より、キヨシの母マリアの声がする。
マ リ ア こらっ! キヨ|ス《ヽ》ッ! いつまでテレビばっか、見とるんじゃ。まんず、|早《は》よう|牛《ベコ》の乳しぼりをせんかい!
キ ヨ シ ハーイ、|母《か》っつあん、わかったでよう(と答えて)パチンッ!(とテレビのスイッチを切る仕種をすると、ドン・スターリン、ピーマン・ヒロ、ミスター、ビッグ・ワンの四人が、一瞬にして消える)まんず、ミスターは、カッコええなあ。おらも、大きゅうなったら、ミスターのようなるもんのう。おらあ、ワン公やピーマンは好かんもんのう。(と言って、去りかけると……)
10
そこへ三人の魔女が、キヨシの行く手を阻むように、忽然と現われる。
三 人 待てッ! キヨシ!
第一の魔女 おまえは、考え方を間違えておる。
第二の魔女 そんなことでは、巨人の星になれぬどころか、トレードに出されてしまうぞ。
第三の魔女 これを見ろ!(と言って、唖然とするキヨシに、一巻の巻物を手渡す)
キ ヨ シ こ、こ、これは!?
第一の魔女 そうじゃ。門外不出、神出鬼没、巨人の星の系図じゃ。
キ ヨ シ ナ、ナニ!? 寝室亀没?
第二の魔女 そうじゃ。天照大神より始まり、身の|丈《たけ》八尺の巨人・神武天皇、
第三の魔女 さらに、旧約聖書に出てくるペリシテ人の巨人ゴリアデ、北欧神話の巨人ファーフナー、
第一の魔女 そして、グスタフ・マーラーの巨人、ジェームス・ディーンのジャイアンツと続き、現在に到るまでの巨人の星の名前が、書き連ねてあるのじゃ。
キ ヨ シ (両手で巻物を広げて、食い入るように見ながら)な、な、ない!(系図を読む)ダイシヨーリキ、スクール・ボーイ・サワムラ、ドン・スターリン、特別参加ホシ・ヒュウマ、そしてビッグ・ワン、そのあとに、うすくガンジー・フジータとピーマン・ヒロの名前が書かれているというのに、ミスターの名前が、どこにもない!
第一の魔女 わかったか。ミスターは、わが巨人軍保守本流直系の系譜から見れば、異端児。異端の星だったのだ。
第二の魔女 あるいは、巨人の星などというチッポケなものではなく、プロ野球の星というべきかもしれん。
第三の魔女 ともかく、おまえがミスターを真似ても、異端の星にもプロ野球の星にもなれぬばかりか、巨人の星になるチャンスも失ってしまうのじゃ。
キ ヨ シ だったら、僕の頭の上に輝いているあの“星”は……(と言って上を向くと、たしかに“星”が輝いている)巨人の星なの?
第一の魔女 そのはずなんじゃが……
第二の魔女 それ以外には考えられんのじゃが……
第三の魔女 よう……わからん……
第一の魔女 どうして、おまえのような男の上に、あの“星”が輝いておるのか、
三 人 さっぱり、わからん。
キ ヨ シ (ガクッと、ズッコケる)
第一の魔女 たしかに、おまえには、ファンが多い。
第二の魔女 たしかに、おまえのプレイは、見ていて楽しい。
第三の魔女 じゃが、おまえは、実力も実績も、イマイチじゃ。
キ ヨ シ (ドドドッと、ズッコケる)
――すると、キヨシの頭の上にあった“星”も、ズッコケて転げ落ちる。と、驚くなかれ、この“星”は、ヒゲモジャの顔をした、どこかで見たことのある有名な人物だった。
第一の魔女 おお。“星”が落っこちたぞ!
第二の魔女 これは、どこかで見た顔だ。
第三の魔女 巨人の星のようではあるが、巨人の星の顔ではないぞ!
キ ヨ シ ねえ、ねえ、ねえ。この顔、高校の世界史の教科書で見たことあるんじゃない? いや、倫社だったかなあ……。そういや、政経の教科書にも……。あっ!!
四 人 カール・マルクスだ!
11
カール・マルクス (空から落ちたときに腰を打ったのか、顔をしかめ、ヘッピリ腰で立ち上がりながら)いやあ……えろうお騒がせして、すんまへん。ちょっと雲の上をぶらぶらしとったら、|ええ《ヽヽ》背広着て腹突き出した、どっかの社長さんみたいなお人が、おまえ、ちょっと“星”になって、キヨシちゅう男を助けてやってくれ言いまんのでな。ほんで、いろいろ調べてみたら、この国のプロ野球選手が、あんまりミジメに思えたんで、こないにして、ちょっと出て来ましたんや。
キ ヨ シ けど、野球選手もそうだけど、スポーツマンってのは、普通右翼が多いんだぜ。
カール・マルクス そらもう、十分に心得とりま。いや、あては、べつに革命やれとかストライキやれとか言いに来たんと違いまんのや。ただ、人間疎外とでも言いまんのかいなあ……ほら、プロ野球選手には、自分の入りたい球団を選ぶ自由すらありまへんやろ、ドラフトがあるよってに。せやさかい、そこのところを、改善できるよう|味良《あんじよ》うお手伝いでけたらええと、まあそないに考えとるんですわ。そうしたら、キヨッさんが引退してからも巨人のお役に立てるというわけで……
キ ヨ シ そいつは、有難い。ちょうど、選手会のユニオンのことで、悩んでいたところなんだ。
カール・マルクス いや、まあ、あてがどんだけお手伝いでけるかわかりまへんけど、ほな、きばらしてもらいまっさ。
キ ヨ シ しかし、なぜ、あなたのような人が、非科学的な“星”に化けたりしたの?
カール・マルクス (ドキッとして)いや、まあ、それは……。そうそう、そら、あんた、トインビーなんておひとが、あての考え方を『ユダヤ化されたキリスト教の異端』なんて言うてなはるよって、なーんも、おかしなことはおまへん。
キ ヨ シ ふーん……まあ、いいや。ところで、いろいろ問題があるんだけど……、オールスター戦を一試合に減らすとか、十二月と一月のオフシーズンを、選手の完全な休みにするとか、最低賃金の引き上げとか、十年選手制度とフリー・エージェント制の問題とか……。
カール・マルクス そら、もう、あんた、フリー・エージェント制の問題が、いっちゃん大事に決まってまっせ。ドラフト制ちゅうもんがあるんやよって、選手は、何年か|同《おんな》しチームにおったら、好き勝手に|他《よそ》のチームへ移れるちゅう権利を手に入れんと、さっぱりワヤだっせえ……。
キ ヨ シ やっぱり、そうだよなあ……。
――二人は、いつの間にか舞台上手に用意された机と椅子のほうへ行き、向かい合わせに座り、熱心な話し合いを延々と続ける……。
12
三人の魔女 ……そういうことだったのかあ……。
第一の魔女 おい、あのマルクスは本物か?
第二の魔女 わからんが、グルーチョでないことは確かだ。
第三の魔女 うん。ハーポでも、チコでも、ゼッポでもない。
第一の魔女 ということは……、雲の上にいる巨人の生みの親ダイショウリキは、
第二の魔女 いつもの、根性一本槍の巨人の星ではなく、
第三の魔女 カール・マルクスを巨人の星として、
三 人 地上へ遣わしたのだ!
第一の魔女 そして、フリー・エージェント制を|組合《ユニオン》に実現させ、
第二の魔女 |他《よそ》のチームの一流選手を、どんどん巨人へ迎え入れようという算段か!?
第三の魔女 だったら、第五の巨人の星は……?
第一の魔女 やっぱり
三 人 キ・ヨ・シ!!
第一の魔女 ということは、巨人の将来は、キヨシのユニオン活動いかん……。
第二の魔女 そして、ファンの楽しみも、キヨシの異端児的ハッスル・プレイのみ。
第三の魔女 そして、キヨシが引退したあとは、彼が監督になって戻るのを待つのみ。
第一の魔女 しかし、野球は、そんなにまでして、なりふりかまわず勝てばいいのか!?
第二の魔女 とにかく、勝てば官軍だというのか!?
第三の魔女 おお、見よ!(と、遠方を指さす)トコロザワの|森《ヽ》が、コーラクエンに向かって動き出したぞ!
第二の魔女 おお、見よ! あの|森《ヽ》の先頭に立つ、雄々しきピーエル村の若武者の姿を!
第一の魔女 おお、見よ! その上に光り輝く獅子座の星を!
第二の魔女 もはや、安穏としている事態ではない!
第三の魔女 いまに抜本的な手を打たないと、巨人ファンは、マスコミのつくりあげる虚構のなかでしか野球を楽しめなくなるぞ!
第一の魔女 ああ、あわれむべき
三 人 虚人たち!
第一の魔女 しかし、もうよい。わしらには、もはやかかわりのないことじゃ。
第二の魔女 そうだ。こうなれば、没落する世紀末の虚人たちの姿を、高見の見物と、シャレこもう。
第三の魔女 せいぜい、観客席で、ブリキの太鼓を打ち鳴らすにとどめよう。
第一の魔女 Fair is Foul, Foul is Fair.
第二の魔女 Safe is Out, Out is Safe.
第三の魔女 Strike is Ball, Ball is Strike.
第一の魔女 セ・リーグ優勝は、シリーズ四連敗
第二の魔女 大監督はダメ監督、ダメ監督は大監督
第三の魔女 プロ野球は巨人、巨人はプロ野球。
三 人 Fair is Foul, Foul is Fair. きれいは|穢《きた》ない、穢ないはきれい。いいは悪いで、悪いはいい。正統は異端、異端は正統。Fair is Foul, Foul is Fair. Fair is Foul, Foul is Fair ………
第一の魔女 しかし!?
三 人 おもろいもんは、おもろい。おもろないもんは、おもろない。おもろいもんは、おもろい。おもろないもんは、おもろない…………。
――三人の魔女、たちこめて来た霧の中へフェイド・アウトして……幕。
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第10球 或日の藤田元司之助
芥川龍之介賞立候補作品
立てきった障子にはうららかな日の光がさして、|嵯峨《さが》たる老木の梅の影が|何間《なんげん》かの|明《あかる》みを、右の端から左の端まで|画《え》の如く|鮮《あざやか》に|領《りよう》している。元|川上内哲頭《かわかみてつのかみ》家来、当時|正力《しようりき》家預り中の|藤田元司之助《ふじたもとしのすけ》は、その障子を|後《うしろ》にして、端然と膝を重ねた|儘《まま》、さっきから書見に余念がない。書物はおそらく、正力家の家臣の一人が貸してくれた『財界三国志』の中の一冊であろう。
――と、ここまで書いてきて、ふと「嵯峨たる老木」とはどういう木なのか、ということが気になってしまった。〈気になる木〉というわけである。そこで、神田の古書店で五万円の大枚を投じて手に入れた、昭和五十二年岩波書店刊行の『芥川龍之介全集』第二巻の後のほうの頁をパラパラとめくってみたが、残念ながら註釈は載っていない。一瞬、岩波書店に馬鹿にされたような不快感を覚えたが、おそらく京都の嵯峨野あたりに生えている、風情のある枝振りの好い老木……といった程度の意味だろうと、勝手に納得して先へ進むことにする――。
|九人《ないん》が一つの座敷にいる中で、|松本匡史郎《まつもときようしろう》は、今し方厠へ立った。|上田武兵衛《うえだたけべえ》は、|下《しも》の|間《ま》へ話しに行って|未《いまだ》にここへ帰らない。あとには、|近藤昭《こんどうあき》|右衛《え》|門《もん》、|山内弘太夫《やまうちこうだゆう》、|松原誠《まつばらせい》|右衛《え》|門《もん》、|中村稔左衛門《なかむらじんざえもん》、|瀧安兵衛《たきやすべえ》、|高橋一郎太《たかはしいちろうた》の六人が、障子にさしている日影も忘れたように、|或《あるい》は週刊瓦版を手にしたり、或は遊戯芸能を専門に扱う戯芸瓦版を広げたりしている。その六人が六人とも、現役球士を引退して十年近くか、それ以上を経たものばかり揃っていたせいか、秋の深い座敷の中は、肌寒いばかりにもの|静《しずか》である。時たま、しわぶきの声をさせる者があっても、それは、微かに漂っている瓦版の墨の匂を動かす程の音さえ立てない。
元司之助は、ふと眼を『財界三国志』からはなして、静に手を|傍《かたわら》の戯芸瓦版に伸ばした。決して美しいとはいえない朱色の見出しがけばけばしく躍っていたが、「日本一」という文字を指で撫でると、彼の心には、安らかな満足の情が、今更のようにあふれ出た。丁度、数日前の藤井寺での将軍杯決戦で、三連敗の窮地を挽回して八年ぶりの栄光を手に入れた時、「あらたのし思いははるる身は浮かぶ、浮世の|球《たま》にかかる雲なし」と詠じた、そのときの満足が帰ってきたのである。
の紋装束を再び身に付けて以来、丸一年の月日を、如何に彼は焦慮と画策の中に、費やした事であろう。|動《やや》もすれば、|小山《まうんど》の上や|打席《ぼつくす》の中で足を|顫《ふる》わせる、情ない若衆の弱気を鼓舞し、或は泰然自若の面持を装って見つめ続けただけでも、並大抵な骨折りではない。しかも安芸緋鯉軍の粘りや尾張昇龍軍の威勢、さらには最後の猛牛団の奔放な攻勢は、持病に冒されていた彼の|心《しん》の|臓《ぞう》を締めつけた。|併《あわ》せて又、ふと負けの込んだときに、かつての同僚の士が瓦版を通じて示す辛辣な批評にも耐えねばならなかった。
思い返せば去年の|長月《ながつき》(九月)二十八日の払暁、夫婦で|蓼科《たでしな》へ湯治に|赴《おもむ》こうと駕籠に揺られていたとき、江戸正力家本屋敷から跡を追うようにして走って来た飛脚の届けた一通の書状が、すべての事の始まりだった。
取急一筆啓上仕候。王貞之介成績不振に付解任後、広岡達右衛門、頭領就任要請無下に断わり候事由、唖然呆然之極みにて候。伝統有る我が大江戸巨人衆乃栄光恢復に最早頼みは実績ある貴殿の復帰有るのみにて候。正力泣かすな巨人肥やせ。
[#地付き]草々
正力家のみならず、川上内哲頭の花押まで|刻《しる》されたその書状は、元司之助にとって断わることのできぬ要請だった。が、かつての実績は、片腕というには余りにも重い、名参謀たる|牧野茂兵衛《まきのもへい》の活躍があってのこと。その重鎮が既に他界し、片腕をもがれた今、果して藤田元司之助一人の力で再び栄光を手にし得るものか。とはいえ、このままでは正力家は衰退の一途を|辿《たど》るのみ。火中の栗を拾わされる思いで蓼科に向かっていた駕籠を反転させた時のことを思い返せば、当時の苦衷が再び心の中に甦ってくる。――しかし、もうすべては行く処へ行きついた。
もし、まだ片のつかないものがあるとすれば、それは一党六十人余に対する正力家との俸給更改だけであろう。が、その御沙汰があるのも、いずれ遠いことではないのに違いない。そうだ。すべては行く処へ行きついた。それも単に日本一の大願が成就したというばかりではない。すべてが彼の道徳上の要求と、ほとんど一致するような形で成就した。三連敗後の四連勝。そのような奇蹟ともいうべき大逆転で、完膚無きまでに叩きのめした猛牛団には、かつてまったく逆の立場で、三連勝四連敗の辛酸を舐めさせられた時の仇敵である、|讐家《しゆうけ》出身の|仰木彬之丞《おおぎりんのじよう》、|中西豪太左衛門《なかにしごうたざえもん》の両人がいた。すなわち、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだ後の復讐に、彼は、事業を完成した満足を味わったばかりでなく、道徳を体現した満足をも同時に味わうことができたのである。
又、かつて現役球士時代には「悲運乃英雄」と瓦版に書き立てられ、さらに頭領となっては「幸運の士」と呼ばれた男にとって、いま再び頭領として勝ち得た満足は、復讐を果たし、栄光を手にした結果から考えても、その|臥薪嘗胆《がしんしようたん》の経緯から考えても、悲運幸運というような運命に|弄《もてあそ》ばれたところは少しもない。彼として、これ以上の満足があり得ようか……。
こう思いながら、元司之助は|眉《まゆ》をのべて、これも書見に|倦《う》んだのか、戯芸瓦版から眼を外した近藤昭右衛門に、声をかけた。
「今日は余程暖かいようですな」
「さようでございます。こうして居りましても、春のように暖かいので、どうかすると、|眠気《ねむけ》がさしそうでなりません」
元司之助は微笑した。つい先月、日本一の宴席で、頭から浴びた西洋泡酒に酔った|中畑清之進《なかはたきよのしん》が、「今日や春、恥ずかしからぬ|寝球士《ねきゆうし》かな」と吟じた、その句がふと念頭に浮かんだからである。句意も、藤田が今感じている満足と変わりはない。
「やはり本意を遂げたという、気のゆるみがあるのでございましょう」
「さようさ。それもありましょう」
元司之助は、手元の煙草をとり上げて、つつましく一服の煙を味わった。煙は晩秋の午後をわずかにくゆらせながら、明るい静かさの中に、うすく青く消えてしまう。
「こういうのどかな秋を送る事があろうとは、お互いに思いがけなかった事ですからな」
「さようでございます。手前も、秩父獅子軍の師範代を辞して以来、二度とこのような春に、いや秋に出逢おうとは、夢にも存じませんでした。それも大江戸巨人衆に加わりました一年目にそれが訪れようとは……」
「我々はよくよく運のよいものと見えますな」
元司之助は、自ら「運」という言葉を口にしたことに、一瞬喉を詰まらせた。が、それに気づかず大笑した昭右衛門につられて、笑い合った。――もし此時、元司之助の後の障子に、影法師が一つ映らなかったなら、そうして、その影法師が、障子の引手へ手をかけると共に消えて、その代わりに一人の瓦版筆者が座敷の中へ入ってこなかったら、元司之助は|何時《いつ》までも快い秋の日の暖かさを、その誇らかな満足の情と共に、味わうことができたであろう。が、その安穏な一日をぶち壊しにしてしまう現実は、血気のさかんな瓦版筆者の両頬に浮かんでいるゆたかな微笑と共に、知らず知らずのうちにも遠慮なく、二人の間へ入って来たのであった。
|勿論《もちろん》、そのときは未だ、不快な現実に気づく道理もなかった元司之助は、|闖入《ちんにゆう》してきた瓦版筆者に向かって自ら声をかけた。
「何か面白い話でもありましたか」
「いえ、|不相変《あいかわらず》の無駄話ばかりでございます。秩父獅子軍の頭領である|森太夫《もりぎだゆう》が、今季猛牛軍に敗れたことで、いまや将軍以上に飛ぶ鳥を落とす勢いである|堤秩父乃頭《つつみちちぶのかみ》の|逆鱗《げきりん》に触れたとか、またその堤秩父乃頭の怒りこそ理不尽な乱心であるといったことが、巷間囁かれておりますが、その|外《ほか》には――いや、そういえば、面白い話がございました。江戸中に、奇蹟の大逆転が流布されたため、何かと元司之助殿流の采配とでもいいますか、生き方とでもいいますか、そのような|素体流《すたいる》が流行っているそうでございます」
昭右衛門は、けげんそうな顔をして、南蛮語を用いた瓦版筆者を見た。相手は、この話をして聞かせるのが、何故か非常に得意らしい。
「今も似よりの話を二つ三つ聞いて来ましたが、中でも|可笑《おか》しかったのは、高円寺北町純情街であった話です。|彼地《かのち》にあります|戯球団《ぎきゆうだん》は、草戯球団とはいえ、なんでも年間六十五|仕合《しあい》を行なう本格的なものと聞き及びますが、頭領格の人物が|長嶋茂蔵《ながしましげぞう》の信奉者とやらで、つい先頃まで、|走《はし》り|手《て》が出れば盗塁を敢行させ、|打《う》ち|手《て》には思うが儘に打たせて、一気に大量点を奪うという奔放極まりない戦法を得意としておったようにございます。ところが、元司之助殿の采配によりまして大江戸巨人衆が奇蹟の日本一を果たした途端、走り手が出陣いたしますれば必ず打ち手に犠牲を強い、送り|伴途《ばんと》で走り手を押し進める。|投《とう》じ|手《て》が少々打たれても頭領格の男は泰然として動く事なく、我慢の上に我慢を重ねて僅差で勝つ。そのような、元司之助殿流の戦法を取り入れたというから可笑しいではありませんか。いえ、それどころか、長嶋茂蔵を信奉しておった男が、今では四番打者にも自己犠牲を強い、送り伴途をやらせているというのですから、痛快極まりない出来事という外ありません。そして、少々負けが込んでも『耐え忍んでいれば必ず奇蹟は起こる』などといいながら仕合をやっているそうです……」
瓦版筆者は、|顰《しか》め|面《つら》で腕組をして、戯球場での元司之助さながら、じっと動かぬ高円寺純情街戯球団の頭領の様子を真似つつ、笑い笑い、こういった。
「それはまた、|王素道求主《おうそどつくす》な話ですな」
横から瀧安兵衛が、南蛮語を混えて口を挟んだ。
「仕合に勝つためには、元司之助殿の如く、忍耐の上に忍耐を重ね、確率の高い戦法を用うることこそ至上でございましょう。一点を大切にするのが当たり前で、その一点のためには、|原辰之進《はらたつのしん》といえども身を犠牲にし、戯球団全体の和のために送り伴途に徹するというのが、古来よりの我が伝統の巨人衆戦法。大向こうを|唸《うな》らせようとするような色気があっては、所詮、兵を語る敗軍の将にしかなれないものですよ」
「いや、もっとも至極。そもそも戯球とは、元司之助殿の目指された通り、投じ手を中心とする|守《まも》り|手《て》をまず固めるのが必勝法。守りなど少々弱体でも、攻撃陣が暴れれば……などと、|不埓《ふらち》な輩が唱える戦法の|脆《もろ》いことは、我々が、あの仰木、中西の、大言壮語しか能のない猛牛どもを打ち破ったことで証明されました。なあ、弘太夫殿、誠右衛門殿」
「いやいや、それは仰せの通り……」
大江戸巨人衆の防御陣を統括する中村稔左衛門の言葉に、攻撃陣を指揮する山内弘太夫、松原誠右衛門の両人が、頭を掻き、苦笑いしながら賛同の意を表したので、座は一段と高い笑いに包まれた。
|素郷屋《そごうや》、越後屋その他の商家の大安売りのみならず、復讐と日本一の挙が江戸の人心に与えた影響を耳にするのは、どんな|些事《さじ》にしても、快いに相違ない。ただ元司之助だけは、僅に額へ手を加えた儘、つまらなさそうな顔をして、黙っている。――瓦版筆者と巨人衆の師範代連中の話は、彼の心の満足に、かすかながら妙な曇りを落させた。といっても、勿論彼が、彼のした行為のあらゆる結果に、責任を持つ気でいた訳ではない。彼等が快挙を果して以来、江戸中に忍耐と臥薪嘗胆の風潮が流行したところで、それはもとより彼の良心と|風馬牛《ふうばぎゆう》なのが当然である。しかし、それにも関わらず、藤田元司之助の心からは、今までの春の如き温もりが、幾分か減却したような感じがあった。
事実をいえば、其時の彼は、単に自分達のした事の影響が、意外なところまで波及したのに、|聊《いささか》驚いただけなのである。が、ふだんの彼なら、近藤昭右衛門や山内弘太夫と共に、笑ってすませる|筈《はず》のこの事実が、其時の満足しきった彼の心には、ふと不快な種を|蒔《ま》く事になった。これは恐らく、彼の満足が、|暗々《あんあん》の|裡《うち》に論理と|背馳《はいち》して、彼の行為とその結果のすべてとを肯定するほど、虫の好い性質を帯びていたからであろう。勿論当時の彼の心には、こういう解剖的な考えは、少しもはいって来なかった。彼は唯、秋風の底に一脈の|氷冷《ひれい》の気を感じて、何となく不愉快になっただけである。
――と、ここまで書いてきて、これでは|唯《ただ》芥川龍之介の文章を、ちょいと手直ししながら書き写しているだけではないか、という読者の嘲笑を伴った呟きが、脳裏に響いてきた。が、平成元年秋の藤田元司之助の心理を描写するのに、それ以上の方法があるとも思えないので、書き手としての|廉恥心《れんちしん》など放っぽり投げて、先へ進めることにする――。
しかし、元司之助が笑わなかったのは、格別一座の注意を|惹《ひ》かなかったらしい。いや、人の好い瓦版筆者と師範代連中は、彼等自身にとってこの話が興味があるように、元司之助にとっても興味があるものと確信して疑わなかったのであろう。そうでなければ、正力家筆頭社主という肩書きの大殿様である|正力亨乃頭《しようりきとおるのかみ》までも、わざわざ呼びに|遣《や》るようなことはしなかったに相違ない。亨乃頭は、戯球をこの上なく好み、しかも堤秩父乃頭などとは性格を異にして単純明快な人柄であったため、八年ぶりの日本一に有頂天になっていたことは勿論、この手の自慢話に加わる事が何よりも大好きだった。そうして、程なく、見た所から単明な好人物らしい、福々しい微笑を満面に湛えた亨乃頭が、きらきらと輝く金箔錦織の裾を翻しながら、得々として座敷に入って来た。
「いや、これは、とんだ御足労を願って恐縮でございます」
弘太夫は、大殿様の姿を見ると、元司之助に代わって、こういった。
「いや、|下々《しもじも》のものが、下々のものだけで|忌憚《きたん》なく語り合っているところへ、邪魔をしてはとも思ったのじゃが、どうも一人でいると、尻の辺りがもぞもぞしてくるとでもいうのか、落ち着いてはいられなくなってな。心の底から喜びが込み上げて来て、私は何とも言えない気分になっておりますのでありますのじゃ」
余りにも正直な大殿様の言葉に、元司之助も含めた一座のものが笑い声をあげた。
「どうぞ、御遠慮なく、こちらへお出でなされませ」
元司之助は、いつに似合わない、滑らかな調子で、こういった。幾分か乱されはしたものの、まだ彼の胸底には、さっきの満足の情が、暖かく流れていたからであろう。
「いやあ、今度の快挙は、いくら語っても語り飽きるということがない。今も聞くところでは、面白い話があったようじゃな」
「いえいえ、取り立てて面白いというものではございませぬが、人情というのは、実に妙なものでございます。元司之助殿をはじめとする巨人衆の、臥薪嘗胆の快挙が伝えられますと、町人百姓の草戯球団のものまで、そういう真似がしてみたくなるのでございましょう。日頃は、送り伴途を行なうなど馬鹿らしいといっておるような者まで、すすんで身を犠牲にし始めたとのことでございます。はたまた瓦版では『奇蹟の巨人衆逆転日本一! 落涙の優勝秘話!』などと、江戸時代であることも忘れてエクスクラメーション・マークを用い、感動の物語を語り継いでおる次第。これで、どのくらい自堕落な上下の風俗が、改まるかわかりません。やれ|大人《あだると》映像だの不倫夜話だの、或は|財梃子《ざいてく》だのと、色と金に|纏《まつ》わるものばかり流行っている時でございますから、元司之助殿のような堅実極まりない人柄の人士の果たした快挙が影響を及ぼすのは、丁度よろしゅうございます」
大殿様に対して、瓦版筆者が答えたことによる会話の進行は、又、元司之助にとって、面白くない方向へ進むらしい。そこで、彼は、わざと重々しい調子で、卑下の辞を述べながら、巧みにその方向を転換しようとした。
「手前たちの成果をお褒め下さるのは有難いが、手前一人の量見では、お恥ずかしいほうが先に立ちます」
こういって一座を眺めながら、
「何故かと申しますと、巨人衆に人も多い中で、御覧の通りここに居ります者は、皆小身者ばかりでございます。川上内哲頭殿が御歳を召され、牧野茂兵衛殿が不幸なことになり、町衆の人気を一身に集めている長嶋茂蔵や、現役時代の大記録を誇る王貞之介殿の両人までが、我が巨人衆を離れたとなれば、本来なら、理論に秀で、実績もある広岡達右衛門殿あたりが一軍を率いるのが筋。にもかかわらず、手前どものような小身者が恥知らずにも大役を引き受け、そこで驚いたのは球士達に相違ございませぬ。この事態を何とかせねばと、我々の非力に彼等が発奮した結果、それが実を結んだ事を思えば、お恥ずかしい気のするのも無理はございますまい」
一座の空気は、元司之助のこの|語《ことば》と共に、今までの陽気さをなくして、急に真面目な調子を帯びた。この意味で、会話は、彼の意図通り、方向を転換したといっても差支えない。が、転換した方向が、果たして元司之助にとって、愉快なものだったかどうかは、|自《おのずか》ら又別な問題である。
彼の述懐を聞くと、瓦版筆者が、両手にこしらえていた拳骨を、二三度膝の上にこすりながら、
「|彼奴等《きやつら》は、揃いも揃った|人畜生《にんちくしよう》ばかりですな。一人として、戯球頭領の風上にも置けるような奴は居りません。長嶋茂蔵の如きは、頭領として失敗を繰り返したくせ、町衆人気の高いのをいい事に、『戯球の美は「和」にあらず、「個」にあり』などと|戯《たわ》けた理想論を口にし、充電充電と繰り返すなんぞ、まるで、|えれきてる《ヽヽヽヽヽ》の源内と同様の詐欺師といえましょう。王貞之介は、|流石《さすが》に我が身の失態を恥じてか、おとなしくしておりましたが、それでも近頃は、『最近の戯球は勝敗に|阿《おも》ね過ぎて面白味を欠く』などといい出す始末。しかも、広岡達右衛門に至っては、お家の一大事というときに、計算高く算盤を弾き、勝ち目がないとわかると尻尾を巻いて逃げ出した輩に過ぎません。にも関わらず、今更『元司之助殿の運の強さには舌を巻くのみ。ほんに|楽喜《らつきい》なお方じゃ』とは、自らの非を認めぬ所、畜生より劣ってますて」
亨乃頭が、満足気に|一際《ひときわ》赤く両頬を染めたのを見て、元司之助は思わず眼を伏せた。その途端、「左様、左様」という師範代達の声が、座敷中に飛び交った。
元司之助は、自分の転換した方向へ会話が進行した結果、不遇にも成果を上げられなかった|朋輩《ほうばい》や、或は変心した朋輩の代価で、自らの栄光が|益《ますます》 |褒《ほ》めそやされているという、新しい事実を発見した。そうして、それと共に、彼の胸底を吹いていた暖風は、一段と温もりを減却した。|勿論《もちろん》彼が朋輩の為に惜しんだのは、単に会話の方向を狙い通りに転じ得なかった為ばかりではない。彼としては、彼等の不遇も変心も、不可避のものとして納得できるものであり、それらを遺憾とも不快とも思っていなかった。
茂蔵と貞之介には、たしかに頭領として|拙《つたな》い面はあった。しかし、球士を率い、敵を討とうとする前に、|先《まず》群がる瓦版筆者達と戦わねばならなかった事を思えば、彼等の非を|論《あげつら》う気にはなれなかった。まして、巨人衆の歴史にあって、最高の貢献者であり、人気者でもある彼等が、頭領として|馘首《かくしゆ》されたことによって、球士達に危機感が走ったという事実がある。そのことを思えば、「死せる孔明生ける仲達を走らすの故事ではないか」とも、元司之助には思われたのだった。又、達右衛門の頭領就任を拒否した件にしても、彼が力を入れて展開し始めている、南蛮国と日本を結ぶ戯球事業の問題もあったろう。さらに師範代の選定に当たっては、元司之助自身が彼から有意義な助言を得ている。
それらの事柄を|斟酌《しんしやく》すれば、共に快挙を喜ぶことはあっても、彼等を否定する要素は微塵もない。ましてや人畜生としなければならない理由など皆無である。彼等と自分の差は、仕合の采配や戯球に対する考え方も含めて、存外大きなものではない。――江戸の町人に与えた妙な影響を、前に快からず思った元司之助は、それとは|稍《やや》ちがった意味で、今度は朋輩の蒙った影響と天下の公論の中に、妙な影響を看取した。更に、今得意顔をしている瓦版筆者が、元司之助の頭領就任当時には、「お先真っ暗」などと騒いでいたことを思い出し、彼の胸底の最後の温もりが、完全に冷え切ってしまった事を実感した。彼が苦い顔をしたのも、決して偶然ではない。
しかし、元司之助の不快は、まだこの上に、最後の仕上げを受ける運命を持っていた。
彼の無言でいるのを見た瓦版筆者は、大方それを謙譲な心もちの結果とでも、推測したのであろう。
「それにしても……」
と、尚更得意気に顔を突き出し、声を張り上げた。
「流石は、巨人衆の保守本流を歩んでこられた元司之助殿でございますな。見事に巨人衆の栄光を恢復なされ、伝統を守り抜かれた。それも、広岡達右衛門が見限り、誰もが心許無く思った戦力を率いて、内陣の原辰之進に外陣転向を|折伏《しやくぶく》せられ、昇龍群から獲得した|中尾佐保郎孝義《なかおさぼろうたかよし》を|捕《と》り|手《て》として復活せしめ、|斎藤雅樹之丞《さいとうがきのじよう》、|槇原寛己乃介《まきはらかんみのすけ》に自信を持たせた事はもとより、|香田勲兵衛《こうだくんべえ》、|宮本和知乃介《みやもとわちのすけ》等の若手投じ手達を、次々と独立せしめた手腕は、感嘆に価するという外ありません。いや、それだけではなく、送り伴途を行う時期や、投じ手交替の時期にしても、はたまた代打者、代走者の起用にしても、打つ手打つ手が見事に的中。なかでも、猛牛団に三連敗と剣が峰に立たされた折、|老練簑田浩二郎左衛門《べてらんみのだこうじろうざえもん》を先鋒に抜擢し、その活躍から奇蹟を誘引した様など、|最早《もはや》人間業とは思えませぬ。まさに鬼人か天魔の業か。どっと湧き上がる歓声が、大江戸戯球場の天蓋に轟きましたとき、手前は我を忘れ、観衆と共に快哉を叫んだものでございました」
鼓膜が痛むほどの拍手が座敷中に響き、「佐様、佐様」と歓喜の声が飛び交った。瓦版筆者が、明らかに|故意《わざ》と一人の主力投じ手――|桑田真澄之丞《くわたますみのじよう》の名前を挙げなかったことなど、全く無視して誰も彼もが興奮した声を張り上げた。その中で、片手で日の丸の扇を頭上に掲げて立ち上がった大殿様は、「天晴れ、天晴れ。巨人衆、日本一。天晴れ、天晴れ」と叫びながら、もう一方の手で金箔の袴の裾をたくし上げ、破廉恥|侃侃《かんかん》のように足を跳ね上げて踊り出した。――が、その中に唯一人、藤田元司之助だけは、両手を膝の上にのせた儘、|愈《いよいよ》つまらなさそうな顔をして、ぼんやりと視線を畳の上に落としている。
確かに人事を尽くして天命を待つの|譬《たとえ》通り、自分にできることは我武者羅になってやった。しかし、窮地に立っての苦肉の計までもが、鬼人の業だの天魔の業だのといわれたのでは、矢張り片腹に痛みを感じる。振り返って見れば、あの猛牛団との三連敗の後の第四仕合も、先発の投じ手として送り出した香田勲兵衛が、初回の守りでいきなり敵の先鋒|大石第二郎《おおいしだいじろう》|右衛《え》|門《もん》に、三球連続して悪球を投じるという危機があった。その直後、小柄な大石の肩の辺りに投じた球が、巨人衆に贔屓した判者によって好球と判定されたから救われたものの、もしも正しく悪球と判じられ、無死で敵の走り手の出陣という事態に陥っていれば、その後の展開も、どう転んでいたかわからない。無残にも四連敗……という事も、無論考えられぬではなかった。
いや、将軍杯決戦初出場で、顔面は蒼白、完全に浮き足立っていた勲兵衛の様子を思い起こせば、それ以外の結末のほうが想像し難い。そうなれば、将軍杯決戦に出場するための|三角旗争奪戦《ぺなんとれえす》に優勝したことなど、|唯《ただ》他の戯球団が自滅自壊しただけの結果といわれ、水泡に帰していたことだろう。勿論、元司之助の浴している今の讃辞が、|罵詈《ばり》罵声に変貌したであろう事も、容易に想像できた。――そのような思いが脳裏に巡ると、「天晴れ、天晴れ」と大殿様の音頭に乗って騒いでいる師範代連中の掛け声が、それがたとえ大殿様に対する御機嫌取りであったにしても、元司之助の耳には、|殆《ほとんど》侮蔑されているようにも聞こえ、苦々しく響いた。
しかも、いつの間にか、球士達は勿論の事、どこからともなく瓦版の筆者や画家や、更に|報告者《れぽうたあ》連中などが大勢|蝟集《いしゆう》し、「天晴れ、天晴れ」の馬鹿踊りは、大人数での乱痴気騒ぎと化した。中には、着物を脱ぎ捨て、|褌《ふんどし》一丁になって踊り狂う者、瓦版の女筆者に抱きつく者、さらには日本一の祝宴の時と同じように、西洋泡酒を浴びせ合う者まで現われた。そんな騒ぎが昂まる中、「天晴れ、天晴れ」の声に混じって、|稍《やや》奇妙な声が聞こえて来た。――「年俸上がる」「講演料も上がる」「装束脱いでも評論家」……
余りにも正直というべきか、邪気にまみれながらも、全く無邪気さしか感じられないその声を|確《しか》と聞き分けた元司之助は、思わず吹き出しそうになった。と同時に、心中深く、重く、冷たく沈殿していた|澱《おり》が、突然消え去るのを感じた。他人の評価がどうであれ、自分は今、矢張り大勢の人に喜ばれているのだという実感が、彼の心に走った。
そういえば、|曾《かつ》て赤穂藩の家老|大石内蔵助良雄《おおいしくらのすけよしかつ》も、見事讐家に対して本懐を果した直後、自らの|佯狂苦肉《ようきようくにく》の計を|褒《ほ》められた事に、愕然としたという。その事を、黄表紙か何かで読んだ覚えのあるのを思い出した元司之助は、|熟《つくづく》彼我の違いを思った。内蔵助は、一切の誤解に対する反感に加えて、その誤解を予想し得なかった|己《おのれ》自身に対する反感にまでも、|苛《さいな》まれた。そして、彼の復讐の挙も、彼の同志も、又彼自身も、多分この儘、勝手な賞賛の声と共に、後代にまで伝えられる事であろうと、不快感を抱き、情無さそうにため息をついたという。
しかし、時代は変わった。そうだ。時代は変わったのだ。無から有が生まれ出る時代になったとでもいえばいいのか、名声というものがたとえ誤解の総体に過ぎないにしても、|現在《いま》では、その誤解の上にも|確固たる名声《ヽヽヽヽヽヽ》というものが実体として存在している。いわば|確固たる誤解《ヽヽヽヽヽヽ》とでもいうべきものの上に、己の生活のみならず、多くの仲間の生活が、どっかと腰を据えているのだ。その事実は、疑いようもない。又、大江戸巨人衆とは、元来そのような戯球団でもあるのだ。にも関わらず、己を高踏の高みに置いて、よくも詰まらぬ悩みに|現《うつつ》を抜かしていたものだ。そう思った元司之助は、自分自身をフフンと鼻で|嗤《わら》った。
其の瞬間、元司之助の耳には、「天晴れ、天晴れ」という乱痴気騒ぎの掛け声が、「ええじゃないか、ええじゃないか」と響いて来るようにも感じられたのだった。
――――――――――─
それから何分かの後である。厠へ行くのにかこつけて、座をはずした藤田元司之助は、独り縁側の柱によりかかって、寒梅の老木が、古庭の苔と石の間に、|的《てきれき》たる花をつけたのを眺めていた。
――「的」とはどういう意味かと思って『大辞林』を引くと、「白く鮮明なさま。光り輝くさま」と書いてあった。つまり、古い歴史を感じさせる|寂《さび》れた庭の、深緑の苔と大きな石の|傍《かたわら》にある「嵯峨たる老木」の見事な枝に、白く光り輝くような梅の花が咲いていた、という訳である――。
日の色はもううすれ切って、早くも|黄昏《たそがれ》がひろがろうとするらしい。が、障子の中では、|不相変《あいかわらず》どんちゃん騒ぎがつづいている。その喧噪を耳にしながら、「的たる梅の花」をじっと見詰めていた元司之助の耳元に、騒ぎに参加していなかった独りの瓦版筆者が、したり顔を突き出すようにして、話しかけて来た。
「矢張り来季の事が心配なのですね。今季は何といっても幸運続きでしたから。たとえ来季も優勝できたとしても、将軍杯決戦に秩父獅子軍が出場してくれば、こうはうまくはいきますまい……」
元司之助は、思わずその瓦版筆者の顔を|睨《にらみ》つけた。が、すぐに眼を和らげ、軽く首を左右に振って、「いや」とだけ答えた。彼のような|下種《げす》な男の誤解に、いちいち肚を立てても仕様がない。ましてや其時、彼の心中に|徐《おもむろ》に去来した一抹の哀情を説明しようとしても、この男に理解される訳もない。したり顔の瓦版筆者が、独善的な嘲笑を投げ掛けて去った後も、元司之助は、まだまだ止みそうにない喧噪を障子越しに聞きながら、「嵯峨たる老木に咲いている的たる梅の花」を見詰め続けた。
このかすかな梅の匂につれて、|冴返《さえかえ》る心の底へしみ通って来る寂しさは、一体どこから来るのであろう。――僅か数分前、確かに結論づけた事は、何の意味も持たないことなのか。時代が変わった、無から有が生まれ出る時代になったなどという思いは、全くの自慰に過ぎないのだろうか。
元司之助は、青空に|象嵌《ぞうがん》をしたような、堅く冷たい花を仰ぎながら、何時までもじっと|佇《たたず》み、或日の大石内蔵助の心中に思いを馳せるのだった。
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第11球 幻の「四番サード長嶋|八段《ヽヽ》」
知られざる昭和史発掘
どんな時代にも、どんな世界にも、「歴史から抹殺された出来事」というものがある。
たとえば、現在の中国に「天安門事件」は存在しない。また、リチャード・ニクソン記念館の資料室に「ウォーターゲート事件」の記録は残されていない。
この国のプロ野球では、「国民リーグ」というのがそれにあたる。
「国民リーグ」とは、第二次世界大戦後間もなく設立されたプロ野球リーグで、一時期、野球ファンのあいだでおおいに人気を呼んだものだった。が、間もなく衰退を余儀なくされ、いつの間にか忘れ去られ、いまではそんな存在があったことすら知らないひとが多くなった。その、“異端のリーグ”が、どのようにして生まれ、どのようにして歴史から抹消されたかについては、作家の阿部牧郎氏が『焦土の野球連盟』(サンケイ出版)に書いているので、ここでは詳述しない。
わたしがここに書き記しておきたいと思うのは、ある意味で、その“異端のリーグ”以上に不可思議な出来事である。というのは、プロ野球界の王道ともいうべき歴史の中心をまっすぐに歩み続けた人物の企図した出来事が、いまでは語り継がれることもなく、日本のプロ野球史から抹殺されてしまっているからだ。
その王道を歩んだ人物とは川上哲治のことであり、のちに歴史から抹殺された事件とは、彼がこの国の野球界に「段位制」を導入しようとしたことである――。
それは、川上哲治がジャイアンツの監督として、色紙に「無敗」という二文字を書きはじめたころの出来事だったから、破竹の五年連続日本一を記録し、前人未踏のV9へ向けて突き進んでいたときのことだった。
川上は、V9以前まで(すなわち昭和三十六年から三十九年まで)は、色紙を求められると「必勝」という文字を書いていた。それが昭和四十年にV1、V2と勝ちはじめたころには「常勝」にかわり、V3、V4を記録したときは「不敗」となった。そしてV5以降、「無敗」という文字を|認《したた》めるようになったのである。
したがって、いま思い出しても、|それ《ヽヽ》は昭和四十四年のシーズンが終了したあとの出来事だったと断定できる。もちろんその当時の彼は、「和」「球禅一如」「誠」「野球是道」「野球三昧」などという文字を色紙に書くこともあった。が、セントラル・リーグの優勝を決めた直後や日本シリーズに勝ったあとには、必ず墨痕鮮やかに「常勝」「不敗」「無敗」といった文字を認め、その言葉の変化をとおして「巨人軍」の強さを誇示するとともに、みずからの監督としての力量を衆目に知らしめ、さらに“権威”を身につけていったのである。
そのような文字を好んで書いた川上が、野球の世界にも「段位制」を導入しようとしたのは、ある意味で自然な成り行きということができた。「段位制」とは、あらためていうまでもなく、柔道、剣道、空手など(さらに書道、算盤など)に存在している、初段、二段、三段……という技術認定制度のことであり、昭和四十四年にV5を達成した川上は、打撃と投球と守備という野球の技術にも、この国古来の武道に倣った「段位制」を導入し、野球の世界に講道館のような、“権威”を持ち込もうと企図したのである。
その詳しい内容については後述するとして、川上にかぎらずプロ野球に草創期から関わってきた人物にとって、“権威”とは砂漠で水を求める以上に、喉から手が出るほど手に入れたいものだった。
かつてプロ野球が職業野球と呼ばれていたころ、その世界に属していた野球人を、当時日本の野球界の頂点に君臨していた六大学野球の関係者は「河原乞食」と呼び、稲門会、三田倶楽部、駿台倶楽部といった各大学のOB会からも除名するほど虐げていた。ところが、長嶋茂雄がプロの世界に入った昭和三十三年以来、プロ野球は人気のうえでアマチュア野球を完全に逆転し、さらに高度経済成長期を迎えた日本のサラリーマン社会と歩調を合わせることによって、より多くの支持を得ることに成功した。すなわち、企業の中間管理職はプロ野球の監督の管理術に注目するようになり、“モーレツ・サラリーマン”たちは、働けば働くほどあのジャイアンツのように勝ち進むことができるという羨望の眼差しでプロ野球選手を見るようになったのである。そうして、いつまでも「精神主義」「教育野球」の四文字にみずからを縛り続けた六大学野球は、衰退の一途をたどるようになったのである。
これは「河原乞食」と呼ばれた日々を知っている者にとっては、信じられないような地位の逆転であり、まさに好機到来ともいうべき事態だった。
そこで、六大学野球でプレイした経験がなく、他のプロ野球人以上に“権威”に対して強いコンプレックスを抱いていたとも思われる川上は、ジャイアンツの監督として連続優勝を果たした実績を背景に、まず六大学の精神野球を凌駕するべくプ口野球に「禅の精神」を持ち込んだ。次いで、サラリーマンからいっそうの支持を得るべく、みずから「管理野球」という旗印を掲げた。そしてさらに、六大学中心のこの国の野球界のヒエラルキーを決定的に粉砕し、プロ野球を中心に全野球界を再編するべく「段位制」の導入を打ち出したのだった。すなわち、この国のすべての野球選手を、その技術レベルによって、高いほうから十段、九段、八段……初段、初級、二級、三級……十級と認定する制度を、確立しようとしたのである。
その段位は、一年に一度行なう段位認定試験によって決定することになっていた。その試験とは、打者は各段位によって難易度の調節されたピッチングマシンを打つことによって、また、投手と野手は段位認定試験官の前で技量を披露することによって、それぞれ技術に見合った段位の免状が与えられることを基本としていた。そして、そのうえに、プロ野球の公式タイトル獲得者は最低五段、一軍の公式戦に一シーズンでもフル出場した選手は三段、都市対抗野球に出場した社会人選手は二級、大学日本選手権に出場した大学生は三級、夏の甲子園大会に出場した高校生は四級……というような、各種の特別認定制度が設けられていた。
しかし、ここで注目するべきは、プロ野球の選手には自動的に初段(すなわち黒ベルト)が付与されるのに対して、アマチュア野球の選手はどれだけ技術的に高度と思われても“級”のクラス(すなわち白ベルト)しか与えられないという規定だった。
もちろんそのような段位認定基準の草案は、川上が中心になって作成したものであり、つまり川上(を筆頭とする職業野球草創期を体験した面々)は、そうすることによってアマチュア野球がプロ野球の下位に属するというイメージを定着させ、みずからは段位認定者(自動的に名誉十段が得られる)のひとりとして、プロ・アマを含めたこの国の全野球界の頂点に君臨しようと企図したのだった。
もっとも川上は、そのようにプロを頂点として野球界のピラミッドを再構築しようとする意図などおくびにも出さず、この計画を新聞記者に披露した席では、次のような建前を述べるにとどめた。
「アメリカから野球を輸入して百年近くを経た現在、いつまでもアメリカ野球に追従するのではなく、日本は日本独自の野球道を推進すべきときがきたと思うのであります。その意味で、段位認定制度は日本独自の野球道の精神をシステム化するための最適の方法であると同時に、アメリカ大リーグを打ち破るための技術の進歩にとっても最適の手段であると思われるのであります……」
ところが、この試みの奥にある真の狙いを敏感に察知したアマチュア野球界は、社会人野球連盟、大学野球連盟、高校野球連盟といったすべての団体が、川上発言をいっさい黙殺した。そして、スポーツ・ジャーナリズムも(巨人系のマスコミを除いて)、「時代錯誤の陳腐きわまりない制度」と批判したのだった。
しかし、そんなことにたじろぐような川上ではなかった。
彼は、アマチュア球界はもちろん、たとえプロの他球団のすべてから反対され、「段位制」の導入がジャイアンツ一球団になったとしても、そのきわめて日本人に馴染んだ制度をいったん採用すれば、圧倒的なファンの支持を得ることができる、と確信していたのである。
「たとえば、長嶋と王のバッティングが八段、高田、柴田が五段、土井が四段というようなランキングを発表すれば、では張本は何段なのか、江藤は、中は、藤田平は、長池は……という興味がファンのあいだに広がります。さらに、ドラフト指名を受けたばかりの田淵君や山本浩二君や星野君はどうなのか。法政大学のエースである江本君は何級なのか……ということを、すべてのファンが知りたがるようになるでしょう。いや、野球ファン以上に野球選手自身が、自分の実力のほどを知りたがり、段位の認定を求めるようになるはずです。そうなれば、プロの他球団はもちろん、いずれアマ球界も段位制に参加せざるを得なくなるでしょう。『四番サード長嶋八段』と後楽園のウグイス嬢がアナウンスすれば、段位制はあっという間に日本の野球界の常識になります……」
当時川上は、親しい新聞記者に向かって、自信に満ちた口調でこう語ったという。
昭和四十四年十一月三〇日――。
寒風の吹きはじめた多摩川グラウンドで、川上は見切り発車的に第一回の段位認定試験を実行に移した。
その場に集まったマスコミは、巨人系の記者を除く誰もが、この時代錯誤的な大仰な試みに対して冷やかな視線を送っていた。が、川上にとってそんなことは問題ではなかった。とにかく、ジャイアンツの選手の段位を定めさえすれば、それでよかった。それだけでこの制度は日本の野球界全体に広がり、プロ野球界全体とそれに属している自分自身の立場に“権威”が生じると信じ切っていたのだ。
ところがそのとき、まったく予期せぬ出来事が生じた。
いや、それはあらかじめ予期することのできた事態というべきかもしれない。が、みずから企図した「段位制」を実行に移したことで、いささか自己満足に浸っていた川上は、それを予期する冷静さを欠いていた。
川上哲治、中島治康、青田昇、千葉茂、藤本英雄、別所毅彦、大下弘という段位認定試験官(名誉十段)が見守るなかで、まず最初に打撃部門の審査が開始された(大下は段位制がジャイアンツのみによる試みでないことを示すために、審査官に選ばれていた)。
そのトップを切って打席に立ったのは、もちろん“ミスター・ジャイアンツ”長嶋茂雄だった。彼は、八段位認定のレベルに調整されたピッチングマシンを相手に、次々とヒット性の快打を放ちはじめた。ところが、そこで大きな問題が生じた。というのは、彼の打席での態度や仕種が、川上が中心になって作成した段位認定審査規定にそぐわなかったのだ。
その規定には〈打撃は礼に始まって礼に終わるべし〉と記されていた。にもかかわらず、長嶋は打席に入るときに帽子を取って一礼しなかった。さらに、〈有段者は、心身ともに不動の姿勢を旨とすべし〉とあるのに、長嶋はニコニコと笑顔を浮かべて打席に立ち、激しく肩や腰を揺すり、誰がどう見てもまったく落ち着きのない様子を見せた。そのうえ、〈心技体の一致はフォームの美をもって判定する〉と書かれているのに、長嶋はバットを振り出す瞬間に、ステップした左足を大きく外側に開き、〈フォームはダウンスイングをもって最善とすべし〉という基準に合わないレベルスイングで、バットを振ったのだった。
それでも次から次へとすばらしいラインドライヴを放つ長嶋に、川上をはじめとする名誉十段たちは少々顔をひきつらせながらも、最初のうちは笑顔を見せていた。が、ついに長嶋が打席に立ったまま大きな音で放屁をするにおよび(それは、打撃の調子が最上になったときに行なう彼の癖だった)、苦虫を噛み潰したような表情を見せた。
段位認定審査規定の要項は、プレス・リリースとしてマスコミにも配られており、もしも長嶋に八段の免状を与えれば、反巨人系のマスコミの記者が言葉じりをとらえて異を唱えることは火を見るよりも明らかだった。
しかも、長嶋の次に打席に立った王の打撃が、川上の野望を完膚なきまでに打ち砕いた。
もちろん王の打席での態度や打撃フォームには何の問題もなかった。が、一本足打法の彼は、ピッチングマシンを相手にまったくタイミングが取れず、八段はおろか初段のマシンを相手にしても、当たり損ねの打球しか飛ばすことができなかったのだ。そこで名誉十段たちは、急遽バッティング投手を相手に打たせることも検討した。しかし、それでは客観的な評価(段位認定)が不可能であると、反巨人系のマスコミから横槍を入れられることが、これまた火を見るよりも明らかだった。
そのとき、ある名誉十段は、「だから、いつも二本足に戻せといっていたのに……」と唸るように呟く川上の声を聞いたという。が、その直後、その場にいた誰もが耳にしたのは、「わっはっはっはっは!」と呵呵大笑する川上の声だった。
「わっはっはっはっは。いや、いや、みんなが、ここまでわしの冗談につき合ってくれるとは思わなかった。いやはや、いやはや、わっはっはっはっは。これで巨人が勝ちすぎて観客が減るなどといわれているプロ野球も、ちょっとは人気を盛り返したかな。わっはっはっはっは。これで、いつも堅物だの石頭だのといわれているわしも、ちょっとはユーモアのある人間だとわかってもらえたかな。わっはっはっはっはっはっはっは……」
もちろん、そのときすでに、川上はジャイアンツの監督として絶大なる“権力”を手にしていた。そこで、それほどの“権力者”が大笑いしたことによって、その場にいたマスコミの記者も、選手も、名誉十段も、誰もが追従するように笑い出した。そして、日本野球界の「段位制」は、「わっはっはっはっはっは」という呵呵大笑のなかに消え、二度と話題にされることはなくなった――というわけである。
しかし、以上書き記したように、「段位制導入」は、じつは川上が深慮遠謀のうえで本気で企図した計画なのだ。したがって、筆者は、職業野球草創期に辛酸を舐めさせられた連中がまだ生きているかぎり、ふたたびこの試みが復活するとにらんでいる。
たとえば、落合博満がプロ球界から引退したときあたりにでも……。
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第12球 マスコミ江川裁判
裁かれたトリックスター
以下は、一九八五年六月一日、東京音羽にあるマスコミ裁判所で行なわれた裁判の速記録である。
廷吏 起立!
裁判長 ウォッホン! では、これより“江川裁判”を開廷する。
廷吏 着席!
裁判長 被告人は前へ出なさい。
江川 なんで、おれが裁判なんかされなきゃいけないんだよォ。
裁判長 つまらん独り言など口にしないように。マスコミによって|英雄《ヒーロー》に祭りあげられた男は、やはりマスコミによって裁かれるのじゃ。ならば、ノンフィクションやコラムやエッセイや野球評論などという曖昧な形ではなく、はっきりと裁判形式で裁かれたほうが、被告人にも、|生来の陪審員たる読者《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》にも、わかりやすいはずじゃ。
江川 どうせ、マスコミはおれを有罪にしかしないんだから、早いとこやってよ。
裁判長 ウォッホン! では、人定質問を行なう。あなたは東京読売巨人軍の投手・|江川卓《えがわすぐる》に間違いありませんね。
江川 まあ……そうです。
裁判長 「まあ」とは、どういう意味かな?
江川 このような裁判形式にしろ何にしろ、マスコミによって活字で取りあげられた虚像としての自分が、はたして本当の自分かどうか、高校生のとき以来おおいに疑問を感じ続けてきたので、「まあ」としか答えられないのです。まあ、僕がロシア文学者の|江川卓《えがわたく》さんでないことだけは確かですが……。
裁判長 屁理屈をこねるのはやめなさい。有名人には、実像と虚像の区別などないのじゃ。おまえは、プロ野球の世界に入って既に何年も経つというのに、それくらいのことが、まだわからんのか。本当にこの男は、馬鹿なレトリックをひねくりまわすのだけは|上手《うま》くて、困ったもんじゃ。
弁護人 異議あり! ただいまの裁判長の発言は、陪審員たる読者に、被告人に対する悪しき先入観を抱かしめるものであります。
裁判長 異議を却下する! 本物の法廷ならばいざ知らず、マスコミの法廷は、つねに先入観と感情論によって動くもんではないか。弁護人は、阿呆な原則論を振りまわすでない。ウォッホン。では、審理を始める。
江川 人定質問はどうなったのですか?
裁判長 それは、もう済んだ。くだらん屁理屈をひねったことで、おまえが江川卓に間違いないと認定できた。
江川 まったく、イヤになっちゃうよなあ。マスコミは、なんでもすぐに決めつけちゃうんだから……。
裁判長 ウォッホン。では、検察官は起訴状の朗読を始めなさい。なお、原稿の枚数に限りがあるので、検察官は起訴状朗読と同時に冒頭陳述も兼ね、|グンサイ《ヽヽヽヽ》に被告人の罪状を示すように。
江川 それは、|詳細《しようさい》と言うんじゃないですか。
裁判長 ウォッホン、ホン、ホン。被告人は座ってよろしい。立って冒陳を聞いていると疲れるほど、おまえの罪状は沢山あるだろうからな。けけけけけけけ。
弁護人 異議あり!
裁判長 却下する! 検察官、始めなさい。
検察官 はっ。では。いざ。オホン。被告人江川卓は、昭和五十三年秋、自己の金銭的利益に執着するあまり、サイン会、CM等の副収入の多い巨人軍への入団を企図、ドラフト制を無視し、公序良俗に反するところの|所謂《いわゆる》「空白の一日」を利用して同球団と契約、|世上《せじよう》を混乱せしめたのであります。しかるに被告人は、現在に到るまでその行為を一切反省することなく、試合では投球の手を抜き、練習では努力を怠り、もって今日、かつて「怪物」と呼ばれた器量もその影を潜め、またたく間に凡庸なる一投手と堕した経緯は、全国一億二千万プロ野球ファンに対する裏切り行為として、看過すべからざるものがあります。すなわち被告人は、中五日以上のローテーションでなければ登板出来ぬとか、|昼の試合《デー・ゲーム》は苦手だとか、開幕戦やペナントを左右するようなプレッシャーのかかる大試合は不得手だとか、リリーフは肩の調整に時間がかかるうえその回復力も遅いから不向きだ等々の御託を並べ、登板をサボタージュしてはファンの期待に背き、そのような登板を強要された場合は|悉《ことごと》くノックアウトを|喰《くら》い、ファンの期待を裏切り続けたのであります。
――そのとき、突然、傍聴人席で野球評論家のカネダ氏が立ちあがり、叫び声をあげる。
カネダ やめい、やめい。こんな裁判はやめてしまえ。時間の無駄じゃ。こんなことをやる暇があったら、江川クンは練習をしなさい! 走りなさい! 気合いを入れて、トレーニングに取り組みなさい! 走れば剛球も復活する。練習、練習。練習あるのみ。気合い、気合い。気合いを入れろ! 江川クン、君は、こんなところにおってはいかん! |早《は》よ、多摩川のグラウンドへ行って、いますぐランニングを始めなさい!
裁判長 ウォッホン! カネダ氏に退廷を命じる! 被告人に対して何か言うことがあるのなら、こういうマスコミの席ではなく、直接、本人に言いなさい。それに、練習だの気合いだのと言っても、被告人が聞くわけもないのに、いまさら何を言っとるか。審理を続ける。他の野球評論家も、くだらん意見で邪魔をしないように。検察官は冒陳を続けなさい。
検察官 はっ。では。いざ。オホン。さらに、被告人は、かかるサボタージュ精神を他の巨人軍選手にも波及せしめ、練習中に住宅ローンやフランス料理やクルマや株の話に熱中するという、|所謂《いわゆる》「江川|症候群《シンドローム》」をチーム内に蔓延させ、伝統ある常勝巨人軍を、ここ一番の勝負強さに欠ける、接戦に弱い、骨抜きシティボーイ集団へと変貌せしめたのであります。また、被告人のかかる行為の結果、長嶋茂雄元巨人軍監督は解任へと追い込まれ、王貞治現巨人軍監督は窮地に立たされ、ONという二大国民的ヒーローを、|悉《ことごと》くスーパースターの地位から引きずり降ろした被告人の罪は、極刑をもってしても許し難いものがあります。しかも、その間の被告人は、プロ入り以来今日に到るまで、速球とカーヴ以外の決め球となり得るような新たな変化球を身につける努力を怠り、ちょっとばかり目先を変えただけの変化球に、『コシヒカリ』だの『マスクメロン』だの愚にもつかない名前をつけてファンを愚弄し、コントロールを一段と高いレベルにまで磨く鍛練に励むでもなく、基礎的体力トレーニングすら徹底してサボり、とてもスポーツマンとは思えぬ脂肪太りの突き出た腹を放置し、よって、技術、体力の急激なる低下を招き、先発すれば百球で降板、それも広島等上位チームとの対決は避け、ヤクルト戦ばかりに好んで登板するという、まったく情けないB級投手に堕してしまったのであります。そのうえ黙過できぬのは、被告人が、かかる事態を招来せしめた主たる要因であるところの、被告人自身のサボリ癖、向上心の欠如、野球に対する情熱の欠落等々の恥ずべき性癖を、屁理屈にもならぬ糞理屈でもって隠蔽しようとした事実であります。すなわち被告人は、「プロは練習を人前で見せるものではない」などと言って、そのような事実はないにもかかわらず、あたかも|他人《ひと》に見えないところで練習に励んでいるかのごとき態度を|装《よそお》ったり、また、「速球派投手にはプライドがあるから、変化球を決め球には使いたくない」などと言って、変化球の練習をサボッている事実を隠し、さらにそれらの言葉によって、素質だけで勝負している自分のような投手こそ真のプロフェッショナルであるなどという、悪しき「天賦論」を展開し、自己の正当化を|図《はか》ったのであります。さらに、また、しかも、そのうえ、被告人は「怪物復活」を願う多くのファンの声に耳を傾けず、練習に励むべき時間を割いて、レストラン経営、旅行代理店、株式投資、自伝出版等々の引退後の生活設計のことばかりに熱を入れ、小林繁氏、江本孟紀氏といったタレント野球評論家に近づき、そのノウハウをレクチァーしてくれるよう求める等々、いまもなお、ファンの期待を裏切り続けているのであります。かかる一連の被告人の行為は、刑法第百六条の騒擾罪、同第二百四十六条の詐欺罪、同第二百四十七条の背任罪に該当するものであり、よって本法廷に起訴するものであります。以上――。ああ、しんど。
江川 パチパチパチパチ。(と、拍手する)
裁判長 それは、どういう意味の拍手ですか?
江川 御苦労さんという意味の拍手です。
裁判長 ふざけてはいかん! いま朗読された起訴状兼冒頭陳述に記されていることは、数年前から数多くのマスコミによって報道され、そのため被告人は、どんどん評価を落とす破目に陥っているのだぞ。
江川 だけど、僕の立場としては、ふざける以外にないでしょう。
裁判長 …………?
江川 だって、起訴状に対して、これから僕が罪状認否をするんだろうけど、起訴状は、僕が罪を認めるほかないように作成されているのですからね。
裁判長 どういうことかな?
江川 つまり、プロ野球選手というのは、成績が落ちれば、何を言われても一切反論できないということです。引退後の生活設計なんか、僕はプロ入りした直後からいろいろ考えていました。それは、プロ野球選手なら誰だって考えることです。そして、昭和五十六年に二十勝したときは、むしろ「将来の生活設計まで見通す、しっかりした考え方をした青年」だと、マスコミにほめられたものです。なのに、成績が少しでも悪くなると、一転して、それが不調の原因だなどと騒ぐ。おまけに、僕のことを「怪物」だと勝手に言い出したマスコミが、「怪物頓死」などと書きたてる。そんな不定見な、マッチポンプ式のマスコミの論理なんかに、つき合っちゃいられませんよ。
検察官 異議あり! 被告人は、真実を故意にねじ曲げようとしています。たしかに、被告人がプロ入り当時から引退後の生活設計に思いを馳せていたのは事実のようでありますが、昭和六十年をもって被告人は、プロ入り前の目標であった通算百勝と千奪三振を達成し、以後、投手としての力の衰えを自覚し、二百勝も二千奪三振も極めて困難と認識するに到り、「引退後」についての考えを具体化させ、野球以上にそのことを熱心に考え、準備し始めたのであります。
裁判長 検察官は、被告人の心の動きをえらく断定的に語りましたが、その証拠となるようなものでもあるのですか。
検察官 はっ。その証拠として、ここに横浜市緑区にあります江川家の登記証を提出し、証人として巨人軍の親会社である読売興業株式会社経理課のA氏、及び融資コンサルタントのB氏を申請、さっそく尋問を始めたいと思います。
裁判長 尋問を許可します。始めなさい。
江川 罪状認否は、どうなったのですか?
裁判長 そんなことはやるまでもなかろう。おまえは罪を認めないのに決まっておるんだから。
江川 いや、僕は、罪を認める認めないというのじゃなく、こういう裁判の存立基盤と存在理由そのものを問題に……。
裁判長 ウルサイ! 『東京裁判』の映画を見たからといって、屁理屈をこねるのはやめなさい。聞きかじりの浅薄な知識で利口ぶるのは、被告人の悪い癖です。
弁護人 異議あり! 裁判長のただいまの発言は、本法廷の審理に関係なく、ただ被告人を愚弄するものであります。
裁判長 異議を却下する。有名人やスターを愚弄するのは楽しいことだということが、弁護人にはわかっておらんようだな。馬鹿め。ウォッホン。では、ゴーゴリは……じゃなかった、検察官は、証人尋問を始めなさい。
検察官 はっ。では。いざ。オッホン。ここにあります江川家の登記証には、昭和六十年の四月二十五日付で、読売興業の抵当権が抹消されております。それは、被告人が読売興業から借りていた五千万円を、住友銀行田園調布支店から借り直して、全額返済したからであります。さて、Aさん、読売興業の融資金利は、年率何パーセントでしたか?
A氏 それは、五パーセントであります。
検察官 五パーセント! これは当時の定期預金の利息よりも低い金利であります。それを、被告人が、わざわざ利息の高い都市銀行から借り直してまで読売興業に返済したというのは、いったい、どういう理由が考えられるでしょうか?
A氏 さあ……その真意は、わからないとしか申しあげようがございません。我われサラリーマンなら、カネは少しでも利息の安いところから借りようと思うものでありますが……正直言って、理解に苦しみます。
検察官 では、同じ質問ですが、融資コンサルタントとして、Bさんはどのようにお考えでしょうか?
B氏 まあ、一般的に言って、会社員の場合でも、会社を辞めようと思えば、会社から借りているカネを、真っ先に返しますよね。返し切れなければ、退職金を充当してでも、利息の高い都市銀行から借り直してでも返済する。ですから、江川さんも、近い将来読売から足を洗うと、つまり巨人を辞めると、まあ、そのように決断したと思われます……。
弁護人 異議あり! 証人の発言は、証拠に基づくことなく、想像力を働かせ過ぎています。
裁判長 ……それで、いいじゃないか。マスコミの法廷は、想像力豊かな証言こそ重要なんだから……。異議を却下する! 検察官、続けなさい。
検察官 はっ。かように被告人は、昭和六十年春頃より、野球に対する情熱を完全に失い「怪物復活」への一切の努力を怠り、すなわちファンを裏切り、具体的な「引退後」への準備を始めたのであります。
弁護人 異議あり! 被告人尋問も行なわず、読売興業に対する借金返済を、即、引退への準備と結びつけるのは、牽強附会も甚だしい行為であります。
裁判長 まったく阿呆な弁護人じゃな。被告人尋問じゃと? そんなことを被告人自身に訊いても、ノラリクラリと答えを逃げるだけではないか。……まあ、いい。せっかく、ここに被告人がおるんじゃから、ちょっと訊いてみるか。どうじゃ、江川くん。なぜ、読売にカネを返したんじゃ?
江川 その理由を言うのは簡単だし、僕にとって別に困ることではありませんが、巨人軍の広報が取材許可を出してませんし、いまは何も言えません。ですから、それを「引退」と結びつけるのはマスコミの勝手ですし、先程も言いましたように、僕らの商売は、成績が悪けりゃ、引退とかなんとかボロクソに言われるものですし、まあ、どうぞ、御勝手に……。
裁判長 ほれみろ。本人に訊いたところで、何も答えん。しかし、被告人は、自分の答えたくないことを訊かれると、逆にだらだらと饒舌になり、接続助詞の「し」を多く用いるという、三浦和義と同様の癖を持っておるのじゃが、その癖をここで確認できたのは、我われにとって収穫であったな。
弁護人 異議あり! どうして被告人を三浦和義などと並べて語るのか!? 裁判長の発言には、陪審員に対して悪いイメージを抱かしめる、悪意が感じられます。
裁判長 別に、悪意などない。三浦和義も江川卓も、現代のマスコミがつくりあげたトリックスターということで、共通しているではないか。なあ、被告人自身も、そう思うじゃろ?
江川 ええ。何を言ってもマスコミに信じてもらえないという点では、共通していますね。だから、僕はマスコミ相手に冗談しか言わない。本音は口にしない。それにマスコミは、本音なんかよりチャランポランの冗談のほうを喜びますからね。まあ、あまりにもひどい嘘っ八を書かれたら、そりゃ怒りますけど、僕の気持ちは、マスコミさん、どうぞ勝手に書いて下さいってところですよ。どうせ、この裁判も結末は有罪に決まってるんだろうし……。
裁判長 おお、そうじゃろ、そうじゃろ。君が、以前そんなふうに言ってくれたから、本法廷も勝手に開くことができたんじゃ。
弁護人 いけない、江川クン! マスコミに対して、そんな投げ遣りな態度を取ってはいけない! |彼ら《ヽヽ》は、君の「空白の一日」のおかげで大儲けしたうえ、ここ数年は、君の『引退騒動』をでっちあげ、その騒ぎを大きくすることによって、またひと儲けしようと|企《たくら》んでいるんだ。君は、何年か前から、どんなに肩の調子が悪くても、昭和六十三年にオープンする屋根付き東京ドームでプレイしたい、それまではがんばりたいと、野球に対する情熱を、繰り返し語っていたじゃないか!
検察官 おおーっと。被告人が「昭和六十三年まではがんばる」と言ったのは、本当ですか?
江川 ええ、本当です。
検察官 陪審員たる読者の皆さん! 被告人の口にした「昭和六十三年」とは、二億円の豪邸といわれる被告人の邸宅のローンが、完済される年であります。つまり、被告人は、「ローンさえ終われば、野球とオサラバ」という|己《おのれ》の打算的本音を、「屋根付きの東京ドームでプレイするまでがんばる」などと美化した言葉で覆い隠しているのであります。
裁判長 けけけけけ。有罪じゃ。有罪じゃ。
弁護人 異議あり! 異議あり! 被告人は、プロ入り以来、肩の調子が好かったシーズンなど一度もなく、そのうえ、昭和五十八年の春のキャンプで、トレーニング中に肩を痛め、以来、常時鈍痛に見舞われながら、いつパンクするやも知れぬ恐怖と闘い、今日まで、敢然とマウンドに立ち続け、なおかつ、屋根付き球場でプレイするまでは、どうかこのまま大事に到らないでくれと、祈る思いでがんばり続けているのであります。
検察官 冗談じゃない! 冗談じゃない! 被告人の肩の痛みたるや、かつての大投手村山実氏のような、「寝返りも打てないような痛み」ではなく、さらに星野仙一氏のような「ハシも持てないような痛み」でもなく、つねに、投球可能な程度の痛みで、ただ被告人が、過度に故障を怖れただけのことだったのであります。しかも、昭和五十八年のキャンプ時におけるアクシデントというのは、当時巨人軍に在籍していたレジー・スミス選手に教えてもらった筋力トレーニングの結果、つまり、突如トレーニングを始めたため、肩の筋肉や腱に支障を|来《きた》したのであり、それが被告人生来のサボリ癖に由来していることは、次の証人の証言でも明らかであります。
渡辺富夫(元作新学院高等部野球部監督) 江川は、作新時代に先輩の八木沢なんかの五分の一くらいしか投球練習をせず、十分の一くらいしか走らなかった。だから、体に故障が出れば、それは体を動かし過ぎたからではなく、鍛えなかったからですよ。
検察官 結局、被告人が不調の原因を肩の故障に求めるのは、野球人として恥ずべき点をみずから暴露しているようなものなのであります。さらに、証人のCさん、あなたが御存知の被告人に関する事実をお話し下さい。
C氏 はい。私はある広告代理店に勤務しておりまして、我が社が被告人とCM出演の交渉を始めたときのことでした。それは、昭和五十六年の秋のことで、担当者が被告人の夫人の実家へ|赴《おもむ》き、そこで被告人と打ち合わせをしたのですが、それが、ちょうど巨人軍の優勝が決定するかもしれないという日だったのです。ところが、その日ベンチ入りしなかった被告人は、プロ入り初優勝が決まるかもしれないという試合のテレビ中継を、全然見ようともせず、「優勝? そんなことより、三千万円。早く、三千万円の話をしましょう」と言って、CM出演の交渉を始めたのでした……。
裁判長 おお。素晴らしい。素晴らしい。練習もせん、チームの優勝も関知せん。これは、見事な有罪じゃ。素晴らしい有罪じゃ。
検察官 さて、いかがでしょう。これが被告人の考え方であり、彼の頭の中は、野球よりも、ファンの期待の声よりも、そして巨人軍の勝利よりも、ただただカネのことでいっぱいなのであります。このような男を、いつまでもヒーローとして祭りあげるのは誤りであり、地に堕ちたスーパースターは、後楽園球場のマウンドの上に柱を立て、一般大衆の眼前で華々しく|磔《はりつけ》の刑に処すのが適当かと思われます。ちょうど、イエス・キリストのように……。
裁判長 うむうむ。なにやら少々オーバーであるような気もするが、裁判は早くも論告求刑まで済んでしまったようじゃな。では、最後に被告人は何か言いたいことがあるかな?
江川 別に改めて言いたいことはありませんが、わざわざマウンドの上に柱を立てていただかなくても、磔の刑のかわりに、もう既に|滅多打ちの刑《ヽヽヽヽヽヽ》を喰らってますよ。
裁判長 ははははは。さすがは、現代のトリックスター。自分の立場をよく心得ておるわい。それはいい。磔の刑はやめて、滅多打ちの刑に変更じゃ。そうして、マウンドの上に被告人の人柱を立てるのじゃ。ところで、弁護人は最後に何か……。
弁護人 はっ。では、わたくしは最後に、「こんな江川に誰がした!?」という論点を中心に最終弁論を展開したいと……。
裁判長 なんじゃなんじゃ。情状酌量を狙おうという寸法か。けっ。馬鹿め。かつては試合で腕の抜けんとするまで必死に投げていたひとりの高校生に対して、マスコミが「怪物」などと大騒ぎし、その真面目な性格を歪めてしまったとでも言いたいのか。それとも、カネの成る木の高校生を、政治家や代議士秘書などのおとなどもが食いものにしたとでも言いたいのかな。そして、「空白の一日」も本当は巨人軍とおとなどもの手によって被告人が利用されたに過ぎず、彼のサボリ癖もカネに対する執着心も、すべて、そのような悪しき環境のせいだとでも言うつもりか……。
弁護人 えっ!? 私がこれから喋ろうとしていることを、どうして御存知で?
裁判長 たわけっ! 我われは、それくらいのことはわかったうえで、江川卓を有罪にするべく、本法廷を開いたのじゃ。
弁護人 し、し、しかし、それでは、被告人が、あまりにも可哀想では……。
裁判長 馬鹿者! 被告人も既に自分の運命については心得ておるわ。マスコミと一般大衆が、長嶋茂雄を巨人軍監督時代に馬鹿だの阿呆だのと言って血祭りにあげたあとは、原辰徳では力不足じゃし、落合博満は自ら|俗界の寵児《スーパー・スター》となることを拒否しておるし、結局、やっぱり江川卓が恰好の標的というわけじゃ。その証拠に、いま、後楽園球場に足を運んでみろ。一般大衆は、金網を握りしめて、「江川の馬鹿野郎!」「江川、死ね!」「もう、トレードに出せっ!」と、エクスタシーに浸りながら叫んでおるわ。そして、耳をすませば、遠くのほうから、新たなヒーローを呼ぶ声が聞こえてくるぞ……「キ・ヨ・ハ・ラ」「ク・ワ・タ」「ナ・ガ・シ・マ・カ・ズ・シ・ゲ」……とな。後世の歴史家は、被告人について、おそらく次のように書き記すであろう。「江川卓は、トリックスターとしての生涯を成就するために、引退後の生活設計を立てたうえで、充分な練習もせずにマウンドに立ち、一般大衆の深層心理に潜む真の欲望を満足させるべく滅多打ちを喰らい、そして、引退した。彼こそ、選手として頂点を極め、監督として泥にまみれた長嶋茂雄の後継者たる偉大なスーパースター、いや、トリックスターであった……」と。いやいや、感傷に浸っておる場合ではない。被告人江川卓に対して判決を下す。
裁判長 江川 (声を揃えて)有罪。わっはっはっはっは(と、大笑いする)。
弁護人 そんな馬鹿な……。陪審員たる読者の声も聞かずに……。
裁判長 阿呆ッ! マスコミは、つねに読者の声を先取りするものじゃ。では、被告人は、御苦労じゃが、その足で後楽園へ赴き、一般大衆の望みどおり滅多打ちの刑を喰らってチョーダイ。そして、東京ドームのマウンドに墓標を立てるまで、がんばってチョーダイ。ウォッホン。では、ポンシオ・ピラトは、退廷するぞ。
廷吏 閉廷!
しかし江川は、このようなマスコミの期待までもあっさりと裏切り、東京ドームがオープンする直前、「もう二度となげられないという肩のツボに鍼を打ったこと」を理由に、サッサと引退したのだった。お見事!
[#改ページ]
第13球 浪花ディープ・サウス|物語《ストーリー》
大阪ミナミ非感傷旅行記
かあーん……………かあーん……………かあーん……カンコロロン…カンカラコンカラ…カンカラコンカラ………かあーん……カラカラカラカラ…カラカラカラカラ……かあーん……………かあーん……………かあーん……………かあーん……………………。
試合前の打撃練習の合い間に、観客席のどこかで、空缶がコンクリートの階段を転げ落ちた。
その音が、球場全体に響き渡る。
それほど、スタジアムは閑散としていた。
観客は、レフト側の外野席に、一、二、三…………四、五……六……………七、八、九……十………十一人。ライト側には…………その五〜六倍の数がいるように見えたが、合わせて七十人前後といったところか。振り返って内野席とその上に聳える急傾斜の二階席を見回してみると:………ざっと百五十人。合計二百五十人足らずの観衆が、三万三千百七十九席あるスタジアムのなかに、ぽつん………ぽつん………と、おとなしく座っていた。
パシフィック・リーグの二年連続最下位と九年連続Bクラスを既に確定していた南海ホークスは、そんな大阪球場で、五位の日本ハムファイターズを相手に、一九八六年シーズン最後の本拠地での試合を行なおうとしていた。
わたしがこのゲームを見ようと思い、わざわざ東京から大阪までやって来たのには、いくつかの理由があった。
その第一の理由は、今シーズンの|優勝争い《ペナント・レース》に心の底からうんざりしてしまったからだった。
セントラル・リーグは、誰がどう見ても圧倒的な戦力を誇る読売ジャイアンツが、王監督のバントを多用する小心な采配のために、まったくみじめな自滅を繰り返していた。パシフィック・リーグは、どうして強いのかまるでわからない西武ライオンズと近鉄バファローズが、たがいに黒星を重ね、冷や汗をかきながらも、なぜか首位を争っていた。両リーグの上位チームとも、勝とう勝とうとする焦りとその結果としての敗戦ばかりが際立ち、ベースボールの醸し出す爽快感とはまったく裏腹の、ぶざまな闘いばかりを見せ続けていたのだ。
それならいっそのこと優勝争いとは最もかけ離れたゲームを見てみよう、と思った。
それは、悪くないアイデアだった。
わたしは、十二球団のフランチャイズ球場にはほとんど足を運び、南海ホークスのゲームも小学生のころからテレビや西宮球場で何度か見ていた。が、大阪球場へはまだ行ったことがなく、いちど機会があればそこで野球を見てみたいとつねづね思っていたのだ。そのうえ、大阪球場が近い将来に取り壊されるという話を耳にした。そこは、大阪府南部の沿岸に建設される新関西国際空港のシティ・ターミナルになるという。ホークスの本拠地は、現在練習場のある堺市東部の|中百舌鳥《なかもず》か、あるいは南海電鉄沿線の郊外に移されることになるらしい。あるいは、いずれ球団を身売りするという噂も耳にする。ならば、いまのうちに、かつて南海ホークスが幾多の栄光を築きあげたスタジアムの姿を、この目に焼き付けておかなければ………。そう考えた裏には、もちろん、大阪球場と南海ホークスがどうしてこんな破目に陥ることになってしまったのか、という思いがあった。
かつての南海ホークスはじつに強かった。そして素晴らしい魅力にあふれていた。
二メートル近い巨漢のジョー・スタンカが、白い肌の首筋から耳のあたりまでをピンク色に火照らせ、まさに赤鬼という形容がぴったりの形相でマウンドに仁王立ちしていた。野村克也は、丹波の山奥から風呂敷包みを下げて出て来たときそのままのようなだらしない恰好で打席に立ちながら、次の瞬間バットを一閃させるや火を吹くようなラインドライヴを放ち、観衆の度肝を抜いた。広瀬叔功は、|捩《ねじ》り鉢巻をした魚屋の親父といった雰囲気を漂わせて球界随一のすばしっこさを誇り、走れば必ず盗塁を成功させた。さらに、エースの杉浦忠がいた。痩身で色白、「貴公子」と呼ばれた彼は、眼鏡をきらりと光らせてマウンドに立つと、両腕をさっと白鳥の羽根のように広げ、美しいサイドスローからすうーっと白い糸を引くような見事な速球を地面すれすれに投げ込んだ。ほかにも、小池兼司、森下整鎮、ケン・ハドリ、杉山光平、寺田陽介、穴吹義雄、大沢啓二、森中千香良、三浦清弘、皆川睦雄………。
西鉄ライオンズのような奔放な豪快さには欠け、読売ジャイアンツや阪神タイガースのような華やいだ空気とも無縁だったが、南海ホークスには、痩せてひょろ長い選手、デブの選手、チビの選手、大男、美男子、馬面、髭面……などなど、じつにさまざまな選手たちがいた。それは、ある意味では、町内の草野球チームを構成している雑多な面々と同じ顔ぶれであり、彼らが自分たちならではのスタイルでグラウンドを駆けまわる姿は、わざわざ「個性的」などという形容詞を付けるまでもなく、ファンに対してストレートな親近感を抱かせた(アメリカ人のスタンカも、|スカタン《ヽヽヽヽ》という大阪弁の愛称で親しまれ、ハドリも羽鳥というファンが勝手につけた日本名で親しまれていた)。
そんな連中が、「親分」鶴岡一人監督の号令一下、「浪花の|ど《ヽ》根性」を発揮して勝ち進む――というのは、たとえ(わたしのように)ホークスの熱烈なファンでなくても、また、浪花っ子と呼ばれる大阪人でなくても、素敵な爽快感を得ることのできる素晴らしい出来事だった。
が、しかし――
そんな彼らが暴れまくったスタジアムは、ある程度予想していたこととはいえ、あまりにも淋しく、うらびれた光景をさらしていた。
暗闇に覆われた夜空の下で、ガラーン――としたスタンドを照らすカクテル光線が、まるで|人気《ひとけ》のない四畳半にぶら下がった裸電球のように侘しい。その黄色い光を浴びたプラスチック製の椅子の列は、あちらこちらが欠けていたり折れ曲がっていたりしている。コンクリートの通路は黒ずみ、階段は角がすべて|刮《こそ》げ取られていた。冷たい秋の夜風が、まばらにしか人のいないスタンドの上をぴゅうぴゅうと音をたてて吹き抜け、ところどころで新聞紙や紙袋がばさばさと舞っている。なにしろ、球場の中でいちばん多く人の集まっている場所が、一塁側と三塁側のダグアウトの中という有り様なのだ――。
試合開始までに、まだ三十分以上あったので、わたしは腹|拵《ごしら》えをしておこうと思い、ネット裏内野席の下にある売店へ行くことにした。ところが、出入り口の通路につながる階段を降りたところの《きつね・たぬき・カレー》と書かれた汚れた暖簾の内側は、ぴたりとシャッターが閉ざされていた。
「客が少ないもんやよって、食いもんはやっとらんのですわ。飲みもんとポテトチップくらいやったら、こっちのほうに置いとりますけど……」と、隣の売店の内側で椅子に座っていた学生アルバイトふうの男が言った。彼の膝の上には、読みかけらしい漫画雑誌が開いている。「もし、どないも腹減っとるいうんやったら、|外《ヽ》へ出て、なんぞ食うて来たらええですよ。半券さえ持っとったら、いつでもまた|中《ヽ》へ入れてくれますよって………」
私は、ちょっとばかり呆気にとられたが、なるほどと思い、その男の言葉に従って古びたコンクリートの薄暗い通路を、コーン、コーンと靴の音を響かせながら、出口へ向かった。そして、球場の外へ出た瞬間――、脳天をハンマーでガーンと一撃されたようなショックを受けた。
球場前の道路は、ギラギラとヘッドライトを輝かせたクルマの列でぎっしりと埋まり、クラクションやエンジンをふかす音がいっせいに耳に飛び込んできたのだ。しかも、その道路を隔てた向こう側には、|煌々《こうこう》と光り輝くネオンサインが視野一面に広がっている。さらに、人人人人人人人人………。歩行者信号が青になると、あっちこっちの横断歩道が、舗道からどっとあふれ出た人の波でごったがえした。
球場の|中《ヽ》の静けさに長時間浸っていたわたしは、突然、|外《ヽ》の喧噪を頭から全身に浴び、思わず立ちくらみがしたほどだった。
もっとも、考えてみれば、|外《ヽ》の様子に何も不思議はなかった。そこは、南海、近鉄、二本の地下鉄などの各線が集まる大ターミナル|難波《なんば》のど真ん中であり、大阪ミナミの大歓楽街の一角なのだ。とはいえ、スタジアムの|中《ヽ》と|外《ヽ》のあまりに大きな落差には、改めて驚かざるを得なかった。
クルマで埋まった大きな道路と球場との間には、狭い駐車場があり、横断歩道をこっちへ向かって渡って来る群衆の多くは、駐車場の入り口で左右に分かれ、球場を迂回するように去って行く。なかには真っすぐ駐車場に入り、球場へ向かって歩いて来る人もいたが、どこか様子がおかしかった。
球場の中の観客は、ほとんどがジャンパー姿の中年男か学生で、女性は(とくに若い女性は)まるで見かけなかったのに、球場へ向かって歩いて来るのは、若い女性ばかりなのだ。しかも、なぜか美人揃いで、ハイヒールをはき、ぴったり|身体《からだ》にフィットしたタイトスカートのヒップラインを、自慢気に揺すりながら、通勤帰りと|思《おぼ》しき若いOLが次つぎとやって来る。彼女たちの次に多かったのが、これも球場の中ではほとんど見かけなかった若い男女のカップルだった。そして、彼ら全員が球場の三塁側入り口(ファイターズの応援席)のほうへ歩いて行く。不思議に思いながらついて行ってみると、OLたちは、そこからさっさと球場の中へ入って行った。
しかし、ガラス扉のあるその入り口は、球場への入り口ではなかった。扉には《サンケイ・カルチュア・センター》と書かれており、さらに、その脇には、
――という大きな立看板が立てかけられていた。
ガラス扉の内側は、あかあかと蛍光灯の光が輝くフロアで、受付のような小窓があり、その横には《水曜日 ジャズダンス エアロビクス》と書かれた小さなプラスチックボードがかかっている。扉を入った若いOLたちは、フロアを左に折れ、階段をトントントンとリズミカルに駆け上がって姿を消した。
わたしは、思わず奇妙な笑いがこみあげてくるのを止めることができなかった。ついさっき、寒ざむとしたスタンドで、ファイターズの応援団の連中が四〜五人、もぞもぞと太鼓や旗を袋から取り出しているのを見たが、彼らの足のすぐ下では、ハイレッグのレオタードを身につけた若い女性たちが、ぴちぴちとした肌に汗を光らせながら、寝っ転がって太股を大きく広げているのだ。わたしは、一瞬笑いを吹き出したあと、ふうーっと大きく溜息をついた――。
若い男女のカップルたちは、そのガラス扉の入り口を無視して通り過ぎ、なおも球場の外壁に沿ってレフト側外野席のほうへ歩いて行く。すると、いつの間にか右手にあったはずの野球場が、食堂、古本屋、スポーツ用品店などの並ぶ商店街に姿を変え、左手からは電車のガード下を利用した明るいプロムナードが迫ってきた。そのうちハッと気がつくと、わたしは《ナンバ・シティ別館 グルメの街》という看板が天井からぶら下がっている、デパートの食堂街のような人ごみのなかを歩いていた。店先に楽譜のようなメニューを立てたフランス料理店、檜の格子戸に真っ白い暖簾をかけた寿司屋、門構えに太い自然のままの木を利用した田舎料理店、アコーディオンによるポルカの音楽が漏れ聞こえるドイツ料理の店………などなど、なにやらキツネにつままれたような気持ちでいると、右手の商店街の一角に、一軒の店先の間口と同じ大きさの暗い|坑《あな》がぽっかりとあいていて、その坑の上には他の商店の屋号と同じように《三塁側内野B席入口》という横書きの看板が掲げてあった。そして、|もぎり《ヽヽヽ》のアルバイトが二人、暗い坑と明るいプロムナードとの境い目で、両脚をだらしなく伸ばして椅子に座り、あくびをしていた。
ちょうどそのあたりでプロムナードが終わり、人ごみも消え、その先は、しーん………と静まりかえった暗く淋しい空地になっている。そこは、レフト側外野席の裏側だ。その外壁には、ごちゃごちゃと金網が迷路のように張りめぐらされている。それは場外馬券を買いに来る人びとを整列させるためのものだった。暗くて人っ子ひとりいないその空地は、プロ野球が行なわれる日のスタジアムの入り口とは到底思えず、どう見ても競馬の行なわれない日の閉ざされた場外馬券売り場そのもののように|寂《さび》れた空気が漂っていた。いや、よく眼を凝らすと、暗闇のなかに人がいた。球場のセンター付近で行き止まりになった空地の、いちばん奥の隅っこで、金網にもたれかかった若い男女がしっかりと抱き合い、唇を重ね合わせていたのだ。少し手前のほうにも、まったく同じようなカップルがいて、男の手が女の背中や腰のあたりをまさぐり、女の着ていたミニのワンピースの裾がなまめかしく上下に揺れていた。これもまた、大都会の真ん中にある老朽化したスタジアムの利用法といえるのだろうか。
二組の男女の頭の上には、黒く|巨《おお》きな直方体のスコアボードがヌーッと闇の中に聳え、夜空に向かってシルエットを突き出している。それは、形も色も異なってはいたが、前の日に訪れた通天閣の姿と、どこかよく似た感じがした――。
「大阪球場へ行くんやったら、ついでに通天閣も見とくとええで」と、わたしにアドヴァイスしてくれたのは、大学時代の友人のQだった。Qは生まれも育ちも大阪ミナミの天王寺という生粋の浪花っ子で、最近、転勤で東京に出て来るまで、三十三年間ミナミで暮らし続けた。
「大阪球場も通天閣も、どっちも消えゆく浪花のシンボルや」とQは言った。「近頃のミナミは浮浪者が増えてな。|難波《なんば》あたりでも夜中になったら道端で仰山ゴロ寝しとる。その|もっとミナミ《ヽヽヽヽヽヽ》の通天閣のある新世界あたりは、もひとつひどいもんでな、若い女の子なんか『ディープ・サウス』いうて怖がって、寄りつきもしよらへん。まあ、サウス・ブロンクスとまではいかんやろけど、浅草みたいな寂れかたとは、もう較べもんになれへんでえ……」
――大阪は不景気なんだ、と、わたしは、ほんの合いの手のつもりで口をはさんだ。
するとQは、大きく左右に首を振り、口をとがらせて反論した。
「いやいや。そないなことあれへん。|キタ《ヽヽ》にはヒルトンやらシェラトンやら、ホテルがばんばん建ちよったし、大阪城のそばには松下がツインタワーちゅうでっかいビルを二本も建てよった。それに、ほれ、一万人でベートーヴェン歌いよる大ホールもでけた。ミナミのほうでも、いま、吉本が千日前にごっつい劇場こしらえとる最中やし、なんちゅうても新空港つくるんが本決まりになったしな。最近の大阪は景気悪いいうことないで。ほら、去年タイガースが日本一になりよって、大阪は、うわーっと盛りあがったやろ。あれ以来、なんか冗談やのうて景気良うなったみたいなとこあるんや。けど………ディープ・サウスはあかん。通天閣も新世界もさっぱりわやや。せやから、まあ、いっぺん見とけ。よう見物しといたほうがええで。いずれそのうちなくなるんやろから………」
Qは、新世界のすぐ近くにある|飛田《とびた》も見ておけ、と付け加えた。そこは|旧《ふる》い遊郭の並ぶ街で、いまも、むかしと変わらぬ仕事を続けているという。そしてQは、彼の馴染みにしていた店とそこのおんなまで紹介してくれた。
通天閣は、なるほどQの言ったとおり、新世界の|荒《すさ》んだ空気のなかでくたびれ果てた姿をさらし、ただボケーッと突っ立っていた。
百三メートルの高さなど、いまや見上げて驚くほどのものではなく、土台の太い鉄骨は赤茶けた|錆《さび》とどす黒い汚れに覆われている。塔の側面の上から下までを埋めつくした大きな文字(電気メーカーのコンピュータの広告)ばかりを際立たせたその姿は、首から大きなプラカードをぶら下げて|佇《たたず》む、年老いたサンドイッチマンのように見えた。
周囲にあるみやげ物屋は、すべて汚れたシャッターを降ろしている。それでも、映画館、パチンコ屋、ポルノショップ、芝居小屋、ホルモン屋、串カツ屋、一杯飲み屋、てっちり屋、将棋・碁会所、スマートボール、弓道場、ゲームセンター……などが並び、いまも、かつての大歓楽街の面影をとどめてはいるのだが、街は不気味なほどに静まりかえっていた。
道路は、ごくたまに軽トラックが走るくらいで、やけに広く感じられるアスファルトの上を、風にあおられた新聞紙や紙屑が、バサバサと音をたてて舞っている。この|界隈《かいわい》の道は、通天閣を中心にして放射線状に走っているため、この街に用のないクルマは入って来ないのだ。そのうえ人通りも少なく、陽灼けと酒灼けを合わせたような浅黒い|貌《かお》をした男が、あっちにぶらぶら、こっちにぶらぶら、くたびれた足を引きずりながら歩いていた。彼らを、道端にだらしなくしゃがみ込んだ四十前後の女が、上目遣いにじっと目で追っている。女は、街の角ごとにいたが、誰もがズロースの一部とゆるみ切った太股の皮をのぞかせていた。Qのいったとおり、若い女性はひとりもいない。そのためだろうか、この街の空気は肌に痛く感じるほど、ガサガサに乾き切っている。
映画館の出し物は、阪東妻三郎の『国定忠治』、梅宮辰夫と北大路欣也の『資金源強奪』、小林旭の『日本最大の顔役』の三本立てだった。《次週予告》として《文芸大作特集『金色夜叉』『細雪』超豪華二本立 乞御期待》とある。その隣の芝居小屋の看板には《東映時代劇花形千両役者 伏見扇太郎特別出演》《大衆演劇のマイトガイ やむにやまれぬ男の意地……》などと書かれている。その小屋の前で、よれよれの割烹着姿の小さな老婆がチラシを配っていたので一枚もらった。それは《トンカツの朝日亭 神無月のサービス30円割引》というものだった。
芝居小屋の入り口はビルの二階になっていて、階段を上がると十人も入ればいっぱいになるくらいの小さなロビーがあった。その壁一面に時代劇のさまざまな扮装を凝らした男優の、大きな額入りカラー写真が三十枚ほどかかっている。そのなかに、一枚だけ趣の違う、しっとりとした草木染めの訪問着姿で客席から芝居を見ている女性の写真があり、それには次のようなクレジットが付されていた。
《新歌舞伎座に御出演の折、幕間に当劇場までおいで下さり、御声援をお贈り下すった、皆様方御存知の大スタア 高田美和様の艶姿》
二百席くらいある客席は、半分くらいが埋まっていた。観客はすべて老人と呼んでいい人たちだった。舞台の上では、座長と思しき男が、てらてらと光る真っ白のタキシード姿で、どぎついスポットライトを浴び、金屏風の前に立っていた。
「ガリガリガリガリ……あ、あ、ああ、マイクの調子が良くねえようだな。まあ、いいや。マイクなしでやりましょう。私の声はよく通るんだから」ここでパチパチパチパチと拍手が湧いた。「ねえ、皆さん。いまはエレクトロニクスの時代だかなんだか知らねえが、家でテレビのスイッチをひねれば、いつだってお芝居が見られる世の中だ。けど、あれはなんですかねえ。味わいってものがねえ。感動ってやつがねえ。芸ってもんがねえ。なんですか、あの明石家さんまってやつは」ここで客席に笑いが起きた。「まあ、わたしも、あの人気にはあやかりたいが」一段と大きな笑いが起こる。「けど、皆さん、今日ここに、よく目の肥えた素晴らしいお客様が多勢集まって下さっている。わざわざ足をお運びになって当劇場まで来て下すった。うれしいじゃありませんか。何が|さんま《ヽヽヽ》だってんだ」笑いとともに拍手が湧いた。「本物の芸、本物のお芝居ってやつを見にいらして下すった皆様方のために、さあ、がんばっていきましょう!」拍手の湧くなか、鼓膜が破れるかと思われるほどの音量で音楽が流れ出した。座長はマイクをスタンドから抜いて手に取り、舞台の袖からスパンコールや羽根飾りをいっぱい付けた網タイツ姿の若い女の持ってきた|中折れ帽《ソフト・ハツト》を受けとり、それを目深にかぶって、過度にヴァイブレアションを効かせた太く低い声で歌い出した。恋のからくり夢芝居…………。赤、青、黄、緑などのスポットライトの輪が激しく舞台の上を左右に動く。マイクの調子がまだ悪いらしく、途中で何度もガリガリ、ガリガリという雑音が入り、その度に座長は照れ笑いとも苦笑いともつかぬ微かな笑いを浮かべた――。
通天閣展望台の入り口は、四階建てのビルディングになっていた。そのビルの入り口には《世界都市大阪をめざして 大阪21世紀計画》という看板がアーチ状にかかっている。その横の壁には白い大きな紙に太いマジックインキで書かれた手書きのポスターが貼ってあった。
ポスターに近づいてみると、ハイレッグの水着姿の健康的な女性が海を背景にして立っている写真と《》という文字が、マジックの裏にうすく透けて見えた。
建物の中に入ると、短かい通路の天井から《 YOU ARE WELCOME 客人請進夾羅
いらっしゃいませ 国際都市大阪》という文字の書かれた看板がぶら下がっている。その下を通ってすぐ奥にあるエレベーターに乗る。客は、わたしひとりだった。
四階でいったん降り、展望券(五百円)を買い、エレベーターを乗り換える。二台目のエレベーターの中では、女の甲高い声が典型的なバスガイドの口調で雑音とともに響いた。
「ようこそ通天閣へいらっしゃいませ。ザザー。アメリカのコニーアイランドにならって娯楽街としてつくられました新世界。ザザザー。その街のシンボルにと、ザー、パリのエッフェル塔を|模《も》して、ザザザー、明治四十五年に建設されましたのが、ザー、この通天閣でございます。ザザー。現在の建物は、ザー、終戦後の昭和三十一年に新たに建て直されました、ザー、二代目でございますが、ザー、天に通ずる塔という願いはいまも変わらず、ザザー、国際都市大阪のシンボルとして、ザザザザザ………」
ガックンと大きな音がして、ショックとともにエレベーターが停まり、ガチャガチャガチャガチャと古びた扉が開いた。そして、誰もいない展望台に立ったのだが―――
その瞬間、わたしは、目を見張った。
窓の外に広がる壮大なパノラマ。それは、じつに美しいものだった。
遠くに、紅葉した六甲の山並みが、秋の柔らかい陽射しを斜めから浴びて燃えるように輝いている。その手前には、青くきらきらと光る大阪湾に白い大きな客船が浮かぶ。そして広びろとした大阪平野は、京都、神戸のほうまで一面にぎっしりと箱のようなビルディングで埋めつくされ、視界を右手の方角に移せば、緑豊かな生駒の連山が連なっている。足下を見降ろせば、ゴミゴミとした街並が見えてしまうのだが、視線を遠方へ投げ出していれば、分厚いガラス窓を通しても爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んだような気分に浸れた。
窓際には塗装のはがれた見すぼらしい望遠鏡が並んでいたが、それらはまったく不要だった。それには《新名物出現! 東洋一の大望遠鏡 ニコン35倍の新鋭》と墨汁で書かれた古びたベニヤ板が、赤く錆ついた針金でくくりつけられていたが、そんな望遠鏡など無視して、自然に視野に入ってくるものを、ただボケーッと眺めているだけで、仕事も家庭も何もかも風景の遠くへ消え去り、心が|和《なご》んだ。
「今日はええ天気で、風が強うてスモッグもないよってによう見えまっしゃろ」と、売店のおばはんが話しかけてきた。「近頃は|ウインクデイ《ヽヽヽヽヽヽ》なんか、のぼらはる人がほとんどおまへいでなあ……。こないにええ眺めやというのに、ほんま、もったいないこってすわ。へええー、東京から|来《き》やはったんで。そら珍しいこって。へえ。南海の野球を見に。そらまた珍しいこって。まあ、むかしは強かったけど、いまはさっぱりわやだんなあ……。そうそう、それそれ、そっから真下に国鉄の空地が見えまっしゃろ。そこへ大阪球場持って来て、このあたりを景気ようしょういう話がおまんのやけど、さあ……どないだっしゃろ……。いまのホークスがこっちゃへ来たら、共倒れになるんとちゃいますかいなあ……。このあたりも、むかしはルナ・パークいう名前で、繁盛してましたんやけどなあ……」
「えっ!? ルナ・パーク?」と、わたしは思わず訊き返した。
「へえ。そうだす。お月さんいう意味だす」
私は〈lunatic〉という言葉を思い出して、思わず吹き出した。かつては浅草も“ルナ・パーク”と呼ばれていた。むかしの人々は太陽よりも月を好み、|気を狂わせる《ルナテイツク》ことも好んでいたのか――。
「まあ、ホークスが、いまももうちょっと強いんやったら、このへんに移って来て|喝《かつ》入れてくれたらええんやけど……。あきまへんやろなあ……」
そういって、おばはんは明るく笑った。そして、ミニ通天閣の寒暖計や、世界一大きいというボールペンや、なぜか般若心経の書かれたキイホルダーなどを、わたしに買うよう薦めた。わたしは、苦笑いしながらも、気分よく長さ二十五センチほどもある世界一大きいボールペンを五百円で買った。それは、プラスチック製のただの筒で、中身はまったく普通のボールペンと変わらない芯が入っていたが、周囲に《開運招福》という文字と、《金のたまる人》という十箇条の「金言」が印刷されていた。《一、感謝の生活をする人 一、収入以下で生活をする人 一、夫婦仲の良い人 一、常に節約する人 一、儲をあてにせぬ人……》といった文字をながめていると、「そんなもんよりも、やっぱり般若心経のほうが、ありがとおまっせ」と、おばはんがいった――。
通天閣を降りたわたしは、友人のQに紹介された飛田の店へ向かうことにした。
「乾いた街」を足早に通り過ぎ、ホルモン焼きのにおいがムッと身体に纏いつく小路を抜け、暗いガード下をくぐり――そこにも、五百円の背広、四百円のズボンなどと一緒に、千円の額入り般若心経を売る露店があり、その横で三人の労務者ふうの男が泥酔して寝転がっていた――、さらに広い道路を横切って商店街に入る。どうしてこの商店街には帽子屋が多いのだろう……と不思議に思いながらその通りを抜けると、飛田に着いた。
真っ白い壁に格子のついた窓のある瓦葺きの小さな旅館ふうの二階家が、ずらりと軒を連ねている。どの店の入り口の戸も広く開け放たれており、長い暖簾の下から、狭い土間と上がり|框《かまち》にまで敷きつめられた真っ赤な絨緞が見える。そこには必ず、大きなふかふかとした座布団の上に、派手なワンピースを着たおんなが、俯伏し加減で正座していた。その横には着古した和服姿の、遣手婆という言葉がぴったりの小柄な老婆が座っている。どの婆さんも腰を浮かせて、暖簾の間からわたしに向かって、おいでおいでをした。なかには土間まで下りて片手で暖簾をはらい、「ほら、こない|可愛《かい》らしい、ええ|娘《こ》だっせ」といいながら、もう一方の手に持った物差しのような棒で、おんなの顎を持ち上げて見せる婆さんもいた。なるほど、ちょっと厚化粧ではあったが「|可愛《かい》らしい|娘《こ》」で、彼女は、きっと馴れていることなのだろう、両手を正座した膝の上にきちんと揃えて置き、棒で顎を持ち上げられたままニッコリ頬笑んだ。まだ陽が高かったからだろうが、ふと気づくと、クルマもあまり通らないその街を歩いているのは、わたしだけだった。
Qの紹介してくれた店は、すぐに見つかった。
「へいへい、ようお|来《こ》し、ようお|来《こ》し」とペコペコ頭を下げる婆さんにQの名前を告げると、笑顔が陰険な目つきに変わり、「はあ、はあ、聞いとりまっせ」と、邪魔くさそうにいって奥へ通してくれた。その店の上り口には、肩まで垂れた髪の毛を金色に染めた、高校生女番長といった感じの若いおんなが、まるで針仕事をしている老婆のように肩を丸めて座布団の上に正座していた。彼女の頭上には、観音、薬師、熊野、吉野、鳴戸、如意、香爐、孔雀……などと書かれた木札が横一列にかかっている。もっとも、このような名前は、いまでは使われておらず、Qの紹介してくれたおんなは元キャンディーズのメンバーだった歌手と同じ名前だった。
通された部屋には丸い|卓袱台《ちやぶだい》があったが、布団部屋のような四畳半で、片隅にスヌーピーやミッキーマウスの図柄の、色褪せたぺしゃんこのベビー布団が二十枚近く積み重ねてあった。あとで|訊《き》いてわかったことだが、このあたりの店は飲食店というのが「正業」で、布団を用意してはいけないが、ベビー布団ならばなぜか座布団と同じに見なされるのだそうだ。そのベビー布団の山の横には、歌麿の絵の印刷された団扇が、十枚ほど畳の上に散らかっている。そして炭火鉢がみっつと煉炭火鉢がひとつ、ほこりをかぶっていた。
「いやあ、遠いとっから、わざわざすんまへんなあ。Qさん元気にしてはりますかあ」と甲高い声をあげて、襖の開いている四畳半に入って来たおんなは、一見|二十歳《はたち》過ぎに見える、眼のくりくりとした「|可愛《かい》らしい|娘《こ》」だった。身長は百五十センチくらいと小柄で、ぽっちゃりとした丸顔だったが、首筋の二本の頚動脈がくっきり浮き出るほど痩せていた。手の甲の筋や血管も浮き出しているのがはっきりわかり、青白い皮膚には水気があまり感じられなかった。本当は、見た目よりもかなり歳がいっているのだろう。
彼女は、「ほんま、よう来てくれはったわあ」といって、ピンクのネルの布でこしらえたムームーのような奇妙なワンピースの裾を、右手で和服を扱うように撫でつけながら、卓袱台の向こう側にきちんと正座した。が、そのときわたしは、彼女に対して|訊《き》くことを何も用意していなかったことに気づいた。ただQの「愛人」がどんなおんなかという興味があっただけで、こういう世界で働く女性にインタヴューしたことなどなかったし、しようとも思わなかった。
「こっちへは、どういうお仕事で|来《き》やはったんですか」
わたしが黙っていると、彼女のほうから|訊《たず》ねてきた。
「いや、まあ、仕事っていうか……ちょっと南海の野球を見に……」
「へええ、南海の。このごろはあかんなあ、あのチーム。うちら、やっぱしタイガースが好きやわあ。このまえは、優勝してくれはって、ほんまにうれしかった。あんなうれしいこと、うち、生まれてはじめてやったわあ」
「生まれは、どっち」
「まあ、このへんですう……」
「それでも、タイガース」
「そら、甲子園もユニホームも恰好ええし、ピッチャーの池田が最高ですもん。うち、あの人の顔見てると、胸がジーンとしてきますねん」
「甲子園には、よく行くの」
「ううん、全然。いっぺんくらいナイター見に行きたいんやけど、ちょうど夜には仕事がありますし、テレビだけ……。あっ、おかしいわあ……。うちは、マスコミの人が行くからってQさんから聞いてたもんやよって、なんでこないな仕事しとるんとか、そんなこといろいろ根掘り葉掘り訊かれるんやないかなあ思て、そんなんかなわんわあ、どないしょう思てましたのにい……」
「そんなら、なんでこんな仕事をしているのか、聞かせてよ」
「それは、おカネに決まってますう……」
「おカネを貯めて海外旅行に……」
「そんなんやったらええねんやけどお……うちら、前借りがあるよってにい……」
「借金があるわけ」
「|飛田《ここ》の|娘《こ》は、みんなそうですよう。|他所《よそ》ではおカネ貸してくれへんし、困っとる|娘《こ》は、やっぱり、みんなここへ来るみたいですう……」
「親の借金、それとも亭主の借金……」
「まあ、そのどっちかですわなあ。自分で借金つくれるような力のある|娘《こ》は、こんなとこへは|来《き》やへんやろしい……」
「何年くらい縛られてるの」
「まあ……いろいろやろうけど、五、六年いうとこと違いますかあ……。せやから、|新しい病気《ヽヽヽヽヽ》やなんかの問題がでてきても、さっさと|辞《や》めるようなわけにもいけへんしい………」
「そのうえ、ヤクザのヒモがいたりして……」
「ううん。そんなんはあれしまへん。いえ、ヒモのついとる|娘《こ》はおりますけれど、ヤクザと|違《ちや》いますよう。最近のヤクザの人は、もっとええ商売のほうの|娘《こ》についとるんと|違《ちや》いますかあ。うちの知っとるヒモいうたら、商社とか広告代理店とか、一流企業の|男《ひと》ばっかしですう。うちのお客さんには、そんなヒモみたいな|男《ひと》おらんし、Qさんみたいにええ人ばっかしやけど、ねちねちと甘えられてお小遣いせびられてる|娘《こ》が何人かおりますわ。みんな、きちんとした背広着て、|襟《えり》にバッジつけた人やし、ここの|娘《こ》は、そんな|男《ひと》にあこがれてしまうんやろうと思いますけどお……、まさか、結婚してくれる|男《ひと》なんかおるわけないしい、いずれポイと捨てられるだけですのにねえ……」
「……いろいろ大変なんだなあ……」
「そら、うちら……|フーゾクしてるのんとは違いますよってにい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》…………」
彼女は、話の深刻な内容とはまったくかかわりなく、「|可愛《かい》らしい」丸い眼に終始微笑を浮かべながら、ゆっくりしたテンポで話した。|はんなり《ヽヽヽヽ》と言えばいいのか、|まったり《ヽヽヽヽ》と言えばいいのか、その緩やかな大阪弁を聞いていると、こっちのほうも話の内容などに関係なく心がほぐれるような気持ちになって、友人のQが馴染みにしていた理由がわかるような気がした。
何かの話の拍子に、彼女が「|明日《あした》は久しぶりのお休みですねん」といったので、「それなら一緒に野球を見に行こう」と誘った。が、彼女は笑顔のまま返事を渋った。
「南海の試合ですかあ……。南海やのうて、タイガースやったらええのにい……。そうか、どうせどっかに行くんやったら、花月で|さんま《ヽヽヽ》さんのお芝居見るとか、マハラジャに行くとか……」
「マハラジャ……」
「ええ、最近、道頓堀にできましてん。東京の六本木のチェーン店とかいうディスコが……。うち、まだいっぺんも行ったことがないよって、行ってみたいなあ思てましてん」
しかし、それに付き合っていては、南海ホークスのナイトゲームが見られなくなってしまうので、「大阪球場の正面入り口で待っているから、おいでよ」と、強引に誘った。
「ほんなら、いっぺん連れて行ってもらいますわあ。ナマでプロ野球見るのんも、はじめてのことやしい……」と彼女はいった。が、「ほな、試合の始まる前の十分間だけ、入り口で待っとってください。ほんで、うちが、もしも行けんかったら、申し訳ないけど、ひとりで球場へ入ってください。いや、必ず行きますう。けど、ほら、万が一行けんようなる用事がでけるやもしれへんし、せやのに外でずっと待ってはったら、それこそ申し訳ないよってにい……」
ていよく断わられたことはわかったが、わたしは、店の出入り口まで送ってくれた彼女に、「じゃあ、明日……」といった。すると彼女は、ニコッと一段と明るい頬笑みを浮かべ、「ええ、ほな、お約束どおりにい……」といって頭を下げた。
わたしは、けっして悪い気分ではなく、むしろ気分よくその店を出た。
あとになって、そのような店に入って何もしなかったことをQに笑われ、私もそういわれてみればおかしなことだと一緒になって笑ったが、そのときは、何も不自然とは思わなかった――。
大阪球場での試合開始は六時十五分だった。
私は《グルメの街》のうどん屋で腹拵えを済ませ、六時五分過ぎに球場の正面入り口の前に戻った。それから、きっかり十分間――、周囲の人波やネオンサインを見て過ごした。その間、《カルチュア・センター》や《グルメの街》のほうへ歩いて行く女性や若いカップルはいたが、球場正面に向かって来る人は、ひとりもいなかった。
彼女ハ、キット心斎橋ヘデモ行ッテ買ィ物デモシテカラ、道頓堀ノマハラジャヘ行ッタニ違イナイ。ソシテ、踊ッテイルノカボーイハントヲシテイルノカハ知ラナイガ、彼女ノ日常ノフラストレーションヲ解消サセテイルノダロウ。イヤ、ソレトモナンバ花月デ、吉本ノ漫才カ新喜劇デモ見テ、彼女自身ノホンモノノ笑イヲ満喫シテイルノカモシレナイ。去年ノフィーバーシテイルトキノタイガースノ野球ニ誘エバ、彼女ハヤッテ来タダロウカ………………。
そんなことを考えていると、すぐに六時十五分になり、試合開始を告げる場内アナウンスが背後から聞こえたので、わたしは球場の中へ入り、コーンコーンと靴の音を響かせながら薄暗い汚れた通路を通り抜け、閑散としたスタジアムのネット裏の席に着いた。
試合は、一対一の延長十一回の攻防の末、四対二で日本ハムファイターズが南海ホークスを破った。それは、接戦とはいえ、ホークスの失点にはすべてエラーがからみ、ファンにとっては苛立ちばかりが募る最悪のゲーム展開だった。
もっとも、とくにホークスのファンというわけではないわたしには、けっこうゲームを楽しむことができた。
ひょろ長い痩身の一塁手のデビッドが、一回表の初っ端にエラーをしたが、それはゴロを恰好よくシングルハンドでひょいと捕ろうとした結果であり、だから、見ていても恰好がよく、いかにもプロのプレイだと納得できた。三番打者の山本和範は、何度も三振を喫してしまったが、空振りをしたあと、あの禅寺の托鉢僧のような顔つきでポカーンと口を開け、何度も首を傾げたのには、思わず吹き出すと同時に、よほど読みがはずれたのだろうと、これも納得がいった。それに四番打者門田博満のスイングはやはりいつ見ても豪快で、たとえ内野に打ちあげられたフライでも、白球がロケットのようにグーンと急上昇して真っ暗な夜空へ吸い込まれていくように見える様は、じつに見事なものだった。ピッチャーの山内和宏は、初回にエラーがらみで点を取られると、次の回から明らかにヤケになったような態度でポンポンと投げまくった。すると十一個も三振を奪うほどの好投につながり、そのことを彼自身が不思議に思いながらも浮き浮きと喜んでいる様が、マウンド上で何度もニヤリと笑いを浮かべた彼の態度からよくわかった。ところが、延長十一回になって勝敗を意識して全身に緊張感を|漲《みなぎ》らせ、厳しい顔つきになった途端、彼は打たれ、いまにも泣き出しそうな表情になった。それは、なかなか面白い無言劇だった。そして、代打の香川伸行が太い腹をボテーッと突き出し、バットをずるずると引きずりながらベンチを出て来るだけで楽しかった。彼は、全身で「|浪花《ここ》の主役は、おれや」と主張しながら、試合の形勢とはまるで関係のないホームランをガツーンとライトスタンドへ叩き込んだ。
はっきりいって、日本ハムファイターズには、ホークスの選手と肩を並べることのできる魅力ある選手など、ひとりもいなかった。おそらく、それは「伝統」というもののせいだろう。
わたしは、観衆の少ないことなど忘れ、ホークスの選手の一挙手一投足を見て楽しみ、ホークスの野球を堪能した。
ただ、イニングの変わるごとに『ワシントン・ポスト』『士官候補生』『雷神』『星条旗よ永遠なれ』といった、いまでは幼稚園の運動会でも聴かれなくなったなつかしいスーザの行進曲が、閑散とした球場全体に紙の破れたスピーカーのような音でガンガンと響き渡り、それが薄暗い大阪球場の雰囲気とホークスの選手たちの動く姿に、あまりにも似合い過ぎていたことには苦笑せざるを得なかった。
一九八六年のシーズン最後の試合を終えたホークスナインは、全員ダグアウトの前に並び、帽子をとって、ほとんど空っぽといってもいい観客席に向かって挨拶をした。ドカベン香川は、帽子を高々と掲げ、笑顔でそれを打ち振った。が、かつて「貴公子」と呼ばれたスーパースターは、頬肉をゴソッと|抉《えぐ》りとられたようなやつれた表情を見せ、総白髪の頭をガクッと|項垂《うなだ》れるように一礼し、その状態で下を向いたままダグアウトのなかへ消えた。ネッ上裏と一塁側にだけ残っていた二百人ほどの観衆は、パラパラパラとではあったが、全員立ち上がって暖かい拍手を贈った。
しかし、わたしには、やはり拍手をすることはためらわれた。
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第14球 さよなら浪花のナンバ球場
続・大阪ミナミ非感傷旅行記
べつにノスタルジックな懐旧の情に浸りたいと思ったわけではない。しかし、来シーズンから南海ホークスが福岡ダイエー・ホークスとなり、大阪球場で試合をするのはこれが最後と聞かされると、いてもたってもいられない気持ちになって、新幹線に跳び乗った。
ところが、大阪球場に着いた途端、そんなセンチメンタルな感情は消え|失《う》せた。
そこは、なにもかもが妙に|ちぐはぐ《ヽヽヽヽ》だった。
居心地が悪い、というのは、まさにこういう心理状態のことをいうに違いない。
雲ひとつない青空の広がる絶好の野球日和にもかかわらず、わたしは胃袋が急に収縮したような苛立ちを感じ続けた――。
一九八八年十月十五日。午前九時四十五分。
試合開始の四時間以上前、球場が開門される十五分前にそこを訪れたわたしは、まず、大阪難波球場の正面入り口の外壁を見上げて、一瞬ウッと息の詰まるような奇妙な感懐に襲われた。というのは、老朽化した建物の最上部に、次のような看板がデカデカと掲げてあったからだ。
21世紀に向けて躍進する南海
躍進するなら何も球団を手放す必要はないじゃないか……。それとも躍進するためには球団が邪魔なのか……。などといったことをぼんやりと考えながら、振り向くと、高速道路の立体交差や多くのビルディングが林立する大阪ミナミの大繁華街のなかに、ひときわ高い威容を誇る建設中の高層ビルが、難波球場を見下ろすように聳え立っていた。
「ああ、あれでっか。あれは、南海が難波の駅のうえにホテルをつくっとるんですわ」と、腹の突き出た中年男がいった。男は、球場前のテントのなかで、ホークスのキャラクター商品を売っていた。
「野球はゼニにならんけど、ホテルやったら儲かるというわけでんな」
男も、|ちぐはぐな《ヽヽヽヽヽ》情況に苛立っているように見えた。
その売店を覗き込むと、Tシャツ、エプロン、色紙、サインボール、テレホンカード、キイホルダー、鉛筆、下敷き、コップ、手拭、ぬいぐるみの人形、選手のメッセージが吹き込まれたコンパクト・ディスク――などなど、緑色のホークス・グッズがずらりと並べられている。
「大人用のTシャツやジャケットなんかは、|昨日《きんの》で全部売り切れ。帽子もヘルメットもおまへん。残っとるもんは、子供用のもんくらいでんなあ。買わはるんやったら、いまのうちだっせ。試合が終わったあとは、大混乱になると思いますよってに……」
売店を覗き込んでいる客は六〜七人だったが、男が|自棄《やけ》のヤンパチ気味に叫んでいるところへ、しわくちゃの顔に鳥打帽をかぶり、腰の曲がった小さな白髪の老人がトボトボと足をひきずるようにしてやってきた。
「灰田勝彦が|歌《うと》とるホークスの応援歌のレコードは置いとらへんのかいな……」
わたしは、「灰田勝彦」というあまりにも古い名前に思わずプッと吹き出してしまったが、売店の男は真面目な顔で、さも申し訳なさそうな表情を見せ、「すんまへんなあ。あれは、とっくの昔に売れ切れてまんねん……」といった。
そして、残念そうにしわくちゃの顔にいっそう皺をよせた老人に向かって、「すまんこってすなあ。そのかわりに難波球場の土でも持って帰っておくれやす。ほれ、そこの段ボールに入れてあるよって……。いやいや、そんなもん誰がゼニ取りまっかいな。好きなだけ持って行ったらようおますがな」と丁寧な口調で話しかけた。
老人が、小さなスコップを手に取り、ビニール袋に砂を入れようとすると、そこへテレビカメラやマイクロフォンやライトを持ったグループが三組、合計九人もの男たちがドカドカと駆け寄り、彼を取り囲んで撮影をはじめた。
周囲を見まわすと、球場前の広場にはテレビ中継車が二台、そこへ社旗を翻した黒塗りのハイヤーが次つぎと到着し、カメラをいくつも首からぶら下げた男や、腕に腕章をした男など、やたらと報道陣ばかりが目立った。
「今日はマスコミだけで満員やで……」
晴れがましくライトを浴びながら難波球場の砂を袋に入れ終えた老人は、こう呟いて球場の入り口のほうへ去って行った。
なるほど、まだ試合開始までたっぷり時間があるとはいえ、甲子園や東京ドームに較べれば、観客の出足はけっしてよいものとはいえない。いや、今日が難波球場での南海ホークスの最終戦で、内外野の席が無料開放されていることを考えれば、さらに相手チームがペナント奪取目前のバファローズであることを思えば、観客の出足はむしろ悪いようにも思われた。
それでも、難波のターミナルから球場へ向かって、ぞくぞくと詰めかける群衆がいたので、わたしも彼らに混ってライト側外野席のほうへ歩いて行くことにした。が、どうも様子がおかしい。というのは、その一団がなぜか中年の男ばかりで、子供や若い女性がひとりもいないのだ。しかも彼らには、野球場へ足を運ぶプロ野球のファンなら誰もが抱く、ドキドキワクワクした華やいだ気持ちがまるで感じられなかった。
今日の先発は誰だろう……門田は難波球場最後のホームランを打つだろうか……優勝のかかったバファローズはどんな闘い方をするだろう……といった期待感あふれる気持ちの昂ぶりが微塵も感じられず、彼らは、何やら真剣に思い詰めた様子で、ほとんど口も開かず、|俯向《うつむ》き加減に黙々と歩き続けている。
いくら南海ホークスの最終戦とはいえ、この殺伐とした通夜のような雰囲気は、野球というスポーツにまったく似つかわしくなかった。が、球場のライト側入り口付近まできて、その理由がわかった。彼らは、野球を見にきた観客ではなかったのだ。
外野スタンドの下は、競馬の場外馬券売り場になっていて、彼らはホークスにサヨナラをいうよりも、もっと実利的な一日を過ごそうと思って難波球場へやってきた男たちだったのだ。そして、外野席の入り口につながるスロープの手前には、少々首をひねりたくなるような看板が立て掛けてあった。
本日は野球のため、二階外野席通路を閉鎖しておりますのでご了承ください。
[#地付き]日本中央競馬会
もちろんスロープを|上《のぼ》ったところの〈二階外野席通路〉は〈閉鎖〉などされておらず、まだチラホラとではあったが、野球を見にきた観客が、その通路を通って球場のなかへ入って行った。
わたしが競馬をやらないせいか……とも思ったが、しかし、この立て看板には、プロ野球ファンとして苛立ち以上の肚立たしさを覚えた。
ここは、もはや野球場ではないのか?
じっさい、そこはいまや野球場ではなかった。
二年前のちょうど同じ時期に、観客が三百人にも満たないホークス対ファイターズのナイトゲームを見にきたことがある。そのとき、球場の三塁側のスタンドの下にあるカルチュア・センターの入り口には、
水曜日 ジャズダンス エアロビクス
と書かれたボードがあり、その横に、
ここは野球場ではありません
と大書された大きな立て看板が立て掛けられているのを見て、愕然とした。
繁華街のど真ん中にある難波球場は、都会の真っ只中で、いわば野球場としての|矜恃《きようじ》を保つことが、もはや不可能になってしまっているのだ。
男たちの|生《なま》なましい欲望でごったがえす場外馬券売り場から球場の外壁を見上げると、巨大なスコアボードが青空に向かって聳え立ち、そこが紛れもなく野球場であることを、さらに幾多の栄光を築きあげたスタジアムであることを、懸命に主張していた。が、その古めかしい漆黒の巨大なシンボルは、薄汚くよごれ、健気ではあったが、やはりどこか物悲しく見えた。
難波球場は、文字通り大都会の「再開発」という名の荒波に浸食され、崩れかかり、息も絶え絶えといった状態で佇んでいるのだ。
ライト側の観客席に入ると、目の前に、黒々とした土と緑の芝生の広々とした空間が広がり、思わずほっと溜め息をついた。その周囲には、観客のほとんどいないガラガラの内野スタンドが真夏のような明るい陽差しを受けて輝き、アッケラカンと広がっている。
外野スタンドの観客もまだ半分くらいしか埋まっておらず、その一角では、古くからのホークス・ファンと|思《おぼ》しき初老の男性が、|嗄《しわが》れ声でラジオのインタヴューを受けていた。
「ここは、むかし、ヤクザの賭け屋が仰山たむろしとってなあ。よう、野球賭博をやっとったもんや。そんな連中が大勢おったもんやよってに、そのうち堅気のお客さんが寄り付かんようになってしもて、おまけにホークスも|弱《よわ》なってしまいよって、ヤクザも顔見せんようになって、そのうち客が全然入らんようなってしもたというわけや……」
マイクロフォンを手にした男が、彼の話を|遮《さえぎ》った。
「おっちゃん、そんな話、放送に使えへんがな。もうちょっと別の話をしてえな」
「ほな、どないな話をせえいうねん」
「そら、まあ、たとえば、ホークスが九州に行くんは悲しいとか、ダイエーになってもがんばってほしいとか……」
上方漫才を地でいくような二人の会話に吹き出しそうになったが、続けて初老の男が口にした言葉には、ドキッと胸を突かれた。
「ホークスが九州へ行きよるんは、まあ残念やけど|仕様《しやあ》ないことかもしれん。南海にやる気がないんやから、いずれこうなるとは思とった。けど、|ここ《ヽヽ》が潰されるのは嫌や。難波球場がなくなるんは、絶対に嫌や。こないに気持ちのええとこを、なんで潰さなあかんねん。ここにホテルなんか|出来《でけ》ても、なんも気持ちええことあらへんやないか。な。おまはんも、そないに思うやろがな……」
そのとおりだ。彼のいうとおりだ、と思った。
初老の男は、マイクを持った男にではなく、自分に向かって呟くように言葉を続けた。
「難波球場いうんは偉いもんやで。いまに潰れて、関西新空港のシティ・ターミナルやらホテルやらショッピング・センターになるらしいけど、なんとか土と芝だけでも残せへんもんかいなあ……。こういうもんが、ほんまの贅沢、ほんまの人間の豊かさいうもんやと思うんやけどなあ……」
そんな男の言葉を背中で聞きながら、わたしは、二〜三か月前に吉本興業に勤める友人のTからかかってきた電話のことを思い出していた。
「もしもし。えらい夜遅うにすんまへん。いや、べつに用事やないんですけど、久し振りにナンバ球場(大阪球場)へ野球を見に行って、ごっつう感激したもんで、ちょっと話がしとうなって電話かけましてん。今日、ミナミのいつもの飲み屋で酒飲んどったら、珍しいことにテレビで南海と日本ハムの野球中継なんちゅうやつをやっとって、ふと見たら、七対七の同点で延長戦になってまんねん。ほいで、こら|面白《おもろ》そうや、ちょっと見に行ったれ思て、飲み屋跳び出して球場のほうへ走り出したら、あっちの飲み屋からもこっちの飲み屋からも人が跳び出して来て、皆、ナンバ球場のほうへ一所懸命走りよるんですわ。ほんで五十人くらいが列になって、『|早《は》よ行かんと、また南海がコロッとコケて、試合が終わってしもとるで』とか『なんや団体で深夜のジョギングやりよるみたいやなあ』とか、阿呆なこといいもって三〜四分で球場に着いたら、切符売りの女の子が『いまは御招待させていただいております』なんていいよりまんねん。|何《なん》のこっちゃいなあと思たら、早い話が試合の終わりかけに行ったら|無料《タダ》で入れるいうこって、『儲けた、儲けた』いいながらベンチ裏の席についたら、もうスコアボードの十回表の日本ハムのとこに|味良《あんじよ》う一点が入ったある。なんや、せっかく走って来たのに、また負けかいなあと、まあ、結局、南海はそのまま負けてしまいよったんでっけど、十回裏の最後の攻撃が結構|面白《おもろ》かったんですわ。というんは、|一死《ワンダン》一塁でバナザードいう、ほら、今年新しい入りよった大リーガーが三振しよったんですけど、そのあとヘルメットをパカーンって地面に叩きつけよって、ほんでそれをポッカーンって蹴っ飛ばしよって、おまけにバットをヒザに当ててベキッと折ってしまいよったんですわ。ヒビも入っとらんバットをベキッとやりよったんでっせ。それを見た子供が『お父ちゃん、あのバッター、力あるなあ……』いや、これ、|私《わて》のつくったギャグと|違《ちや》いまんねん。ほんまにあった話でんがな。ほいで、その子供が『お父ちゃん、南海の野球もなかなか|面白《おもろ》いもんやなあ……』いいよりましてん。よう見たら、その親子は、|親父《おやつ》さんのほうが南海の緑の帽子かぶっとって、子供のほうは|何《なん》もかぶってまへんねん。これ、甲子園なんかとは完全に逆のパターンですわ。それはともかく、バナザードがヘルメット蹴っ飛ばしてバットへし折りよったん、ほんまに迫力ありましたで。そんなんジャイアンツの選手がやったら、罰金でっしゃろ。いや、まあ、罰金は取られいでも、行儀が悪いとか|何《なん》とか、マスコミに叩かれまんのやろなあ。|可哀想《かわいそ》なこってすなあ……。けど、一年ぶりに野球をナマで見ましたけど、やっぱりナマは|面白《おもろ》おまんなあ。だいたい、ミナミのど真ん中に野球場のあるということ自体が凄いこってっしゃろ。あないに広い土と芝生のスペースが、町の真ん中にドッカーンとあるんでっさかいな、改めてびっくりしましたわ。ほれ、演出家のピーター・ブルックが、東京で『カルメンの悲劇』やったときに、銀座セゾン劇場に土運んで、コンクリートの都市の真ん中に土の舞台をつくったとか|何《なん》とか、えらい大層な理屈つけて話題になったことがありましたけど、あんなことしてわざわざ|仰山《ぎようさん》の土運ばんかって、大阪には町の真ん中に、ちゃんと野球場がありまんのやさかいね。ナンバ球場いうんは、|偉《えら》いもんでっせ。その広い土と芝生のスペースで、缶ビール一本飲んで、バナザードがバット折りよるん見て、ほんでまた飲み屋に戻って飲み直したんでっけど、ほんま気持ち良う酔えて、満足できましたで。まだ行ったことおまへんけど、東京ドームというような人工芝の屋根付きでは、こないな|ええ《ヽヽ》気持ちにさせてくれまへんのやろなあ。せやのに、近いうちにナンバ球場を壊すとか、大阪にもドーム球場をつくらなあかんとか、なんのかいうとりまんねん。ほんま、惜しいことでっせ……」
正午。試合開始二時間前になると、その日のゲームを見にきた観衆が、やっと場外馬券売り場の群衆の数を上回るようになり、そのうち内外野の無料席はあっという間に超満員の観客で埋まった。そして球場周辺は、整理券の手に入らなかった観客でごった返した。
私は、内野二階席最上段に場所を移し、席を確保した。
そこは、「門田が高々と打ち上げるフライがもっとも美しく見える席」だと、大阪天王寺育ちの浪花っ子で、根っからのホークス・ファンである友人のQが教えてくれた「難波球場でサイコーの席」である。
「ロケットみたいにグワーンと打ちあがる門田のフライは、下から見上げるのんもええけど、下のほうから真っ正面にひゅうっと舞い上がってきて、一瞬ぴたっと空中に止まるんを真横から見るのんも、またええもんやでえ……」というのが彼の理屈だった。
もっとも、その二階席は角度が四十五度もあるかと思えるほど傾斜がきついうえに、ひとり分の座席のスペースが幼稚園児の体格に合わせたような狭さで、おまけにその日は通路まで観客がぎっしり詰まって身動きが取れず、必ずしも「最高の席」とはいい難かった。
しかし、その席に座った瞬間、わたしは思わずううーん……と唸ってしまった。門田のフライを見る以外にも、Qが、難波球場でいつもこの席に座る理由がわかったのだ。
そこからは、レフトの外野スタンド越しに、通天閣が真っ正面に見えた。
「大阪に行く用事があったら、ちょっとでも時間つくって、通天閣とその周りの新世界に寄っといたほうがええぞ。かつての大歓楽街が、どんなふうに落ちぶれ、消えて行くのか、自分の目で見といたらええ。通天閣も新世界も、消え行く浪花のシンボルなんやから」
というQの助言にしたがって、わたしは、大阪へ行く度にそこへ足を運んだ。
昼間から焼酎の匂いと壊れた公衆便所のような|すえた《ヽヽヽ》匂いが漂い、新聞紙がバサバサと音をたてて路上に舞い、浮浪者が宛もなくブラブラと歩いているその界隈は、ガサガサに乾き切った殺伐とした空気に満ちている。かつてニューヨークのコニーアイランドを真似てつくられ、関西随一の賑わいを誇った歓楽街の面影は、いまやどこを探しても見当たらない。|大阪のミナミのそのまた南《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》にあるこの界隈を、若者たちは“ディープ・サウス”と呼んで忌避しているともいう。
もちろん、この街で若い女性の姿を目にすることはない。この近辺で若い女性を見るのは、通天閣のある新世界からさらに少し南にあたる、飛田と呼ばれる地域だけだ。
そして、そこで生活している彼女たちは、二階建の木造旅館のような、昔ながらの遊郭そのままの建物が建ち並ぶなかで、上がり|框《かまち》にまで敷き詰められた深紅の絨緞の上に座り、遣り手婆と一緒に、道行く男たちに笑顔を振りまいている。
飛田、新世界、ディープ・サウス……。
そんな街のシンボルとして、通天閣は、訪れる人も少なく、侘しげに突っ立っているのだ。
難波球場二階席の最上段に座り、ぼんやりと遠くに佇む通天閣を見ながら、いずれ、あの塔も|取り壊される《ヽヽヽヽヽヽ》のかなあ……それとも、|取り残される《ヽヽヽヽヽヽ》のかなあ……などと考えていると、球場全体に大歓声が轟き、ホークスの選手たちがバラバラとグラウンドに跳び出してきて、「最後の試合」のプレイボールが告げられた。
試合は最高におもしろかった。
逆転優勝めざして必死にプレイするバファローズ・ナインに負けじと、ホークスの選手たちも目の色を変えてボールに|喰《くら》いついた。その様子、彼らの意気込みは、二階席からもはっきり手にとるようにわかった。
もっとも、バファローズのバッターが外野へ打球を飛ばすと、ホークスのディフェンスはカットプレイで必ず誰かが落球し、その度にスタンドに失笑が巻き起こるということはあったが、その日のホークスナインの気合いの入れようは、彼ら自身の技量も、優勝目前のバファローズナインの気迫をも凌駕し、二転三転した試合をものにして、南海ホークスは難波球場での有終の美を飾ることができたのだった。
が、何よりも素晴らしかったのは、やはり門田博光のバッティングだった。残念ながら彼のホームランを見ることはできずに終わったが、カウント|0《ノー》―|3《スリー》から「打つぞ!」と誰もが思ったとき、思いっきりバットを振りまわしてくれた彼の豪快なスウィングを見ただけでも、わたしの心は爽快な満足感に満たされた。そのときの結果はバックネットへのファウルだったにもかかわらず、球場全体がホーッという溜息で包まれた。それは、まさにプロの真骨頂というべきスウィングだった。
そうして試合が終わり、いつの間にかとっぷりと暮れた夕闇のなかで、照明に照らし出された南海ホークスの全選手がグラウンドに整列し、お別れのセレモニーが始まった。
トランペットのソロが物悲しげに南海ホークスの応援歌を奏で、球団旗がスコアボードから降ろされ、全選手がグラウンドを一周する。
福岡でもホークスを率いることの決定している杉浦監督は、「さようなら」とはいわずに「行ってきます」と挨拶し、門田博光は泣きじゃくりながら難波球場の土の感触を足の裏に記憶させるように、一歩一歩地面をしっかりと踏みしめ、ゆっくりと去って行った。
その間わたしは、外野スタンド越しの夜空に薄明るい光を放ちながらボーッと突っ立っている通天閣に、何度も目を遣った。
一方は、取り壊され、もう一方は、取り残される――。
“時代の流れ”というのは、そんなたった二つの選択しかないものなのだろうか……。
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親譲りの冗談好きで子供のときから損ばかりしている。というわけでもないが、あまり得をしたことはない。小学校にいる時分、教師が「この地方で採れる野菜は」などと言いながら、黒板に、ピーマン ハクサイ……と白墨で書いた。そして、それを読めと言ったので、おれは、大声で「ピーマンは臭い」と読んだ。級友には、どっとウケたが、教師には目玉を喰った。そのことを耳にした親父が「つまらんシャレを言うな」と言ったから、この次は先生にもウケるやつを考えますと答えた。
その親父からして、近所の家の便所から|小火《ボヤ》が出たと聞くと、「ヤケクソやな」などと、あまり程度の高くないシャレを言う。が、親父は電気屋をしていて、客が「テレビがおかしいんで見に来てもらえまへんか」と言ったときに、「漫才でもやってまんのかいな」と応じたのは、見事だと思った。
中学三年のときには、『おお!! ロミオ!』という芝居をやった。『ロミオとジュリエット』『月光仮面』『夕鶴』『巨人の星』『ウルトラマン』『婦系図』『ウエストサイド物語』『スチャラカ社員』『カムイ伝』などを、ごちゃ混ぜにした脚本を書き、文化祭で発表したのだ。これも全生徒には大いにウケたが、何人かの教師は「不真面目だ」と眉をしかめた。そのとき、おれは、世の中にはシャレのわからない人の少なくないことを知った――。
野球が好きなのは、親譲りではない。それは、テレビ譲りで、長嶋譲りだ。叔父が西宮に住んでいて、夏休みはそこにあずけられたため、米田譲り、スペンサー譲りでもある。小学四年の頃だったか、生まれてはじめて西宮球場へ行ったとき、米田投手の投げた球が張本のバットをベキッとへし折る瞬間を見た。さらに、スペンサーのスパイクが猛然と敵の三塁手を蹴り上げるのを見た。プロとは凄いもんだと、ほとほと感心した。
その後、紆余曲折を経て、スポーツ・ライターになった。七〇年代|半端《なかば》のことである。以来、しばらくの間は、大好きなプロ野球と身近に接することのできるうれしさから、喜々として仕事をしていたが、あまり近づき過ぎたためか、アバタやホクロが見え始めた。と同時に、|身体《からだ》の中の冗談好きの細胞が、活発に動き出した。そう言えば、「ピーマンは臭い」も『おお!! ロミオ!』も、学校がつまらないと感じた頃の出来事だったように思う。
――というわけで、このような本ができました。とにかく、読者のみなさんに、少しでも笑っていただければ、大変うれしく思います。
この文庫に収録した作品は『不思議の国の|野 球《ベースボール》』(評伝社・一九八七年刊)を中心に、『愛と幻想のベースボール』(JICC出版・一九八九年刊)から二編(『バースの見た日本』と『さよなら浪花のナンバ球場』)、『されど球は飛ぶ』(河出書房新社・一九九〇年刊)から一編(『或日の藤田元司之助』)、さらに単行本未収録の『幻の四番サード長嶋|八段《ヽヽ》』(住友ハウジングサークル誌「パル」一九九〇年8に発表)を加え、加筆訂正をしたうえで、いわば『玉木正之パロディ選集』として再編集したものです。
ただし、評伝社版の『不思議の国の野球』に収録されていた『プロ野球二都物語 甲子園詣』と『甲子園八景亡者の|戯《たわむれ》』は、河出文庫から出版した『タイガースへの鎮魂歌』のほうに収録したため、重複を避けるために本文庫では割愛しました。タイガースもののパロディを楽しみたい方は、そちらのほうをお買い求めください。
この文庫を上梓するにあたっては、文藝春秋の飯窪成幸さんと和田宏さんのお世話になりました。ここに謝意を表わしておきたいと思います。さらに、文庫刊行に際して新たに楽しいイラストを描き加えてくださった畑田国男さんにも、心から感謝したいと思います。
最後に、読者のみなさま、今後とも、どうぞ御贔屓に――
[#地付き]玉木正之 [#改ページ]
〈不思議の国のマスミ〉
ルイス・キャロル/岩崎民平訳『不思議の国のアリス』角川文庫
石川好『青春の探究 オカルトの投手桑田真澄』毎日新聞社
石川好『シャドウ・ピッチング 巨人軍桑田真澄』パンリサーチ
ノーマン・メイラー『一分間に一万語』(ノーマン・メイラー全集6)新潮社
〈小説“実録小説”〉
筒井康隆『火星のツァラトゥストラ』(筒井康隆全集第三巻)新潮社
筒井康隆『小説 私小説』(筒井康隆全集第六巻)新潮社
筒井康隆『大いなる助走』(筒井康隆全集第二十一巻)新潮社
海老沢泰久『堀内恒夫 ただ栄光のためだけに』新潮文庫
沢木耕太郎『敗れざる者たち』文春文庫
山際淳司『江夏の21球』(『スローカーブを、もう一球』)角川文庫
〈スパイクで散歩〉
ニール・サイモン/鈴木周二訳『はだしで散歩』(ニール・サイモン戯曲集第一巻)早川書房
プロ野球コミッショナー事務局編『オフィシャル・ベースボール・ガイド'86年度版』共同通信社
ロバート・ホワイティング/松井みどり訳『菊とバット』文春文庫
ロバート・ホワイティング/松本正志訳『拝啓日本プロ野球』飛鳥新社
レジー・スミス『管理野球なんてぶっとばせ!』講談社
〈安芸国石打役者異聞〉
山本昌代『江戸役者異聞』河出書房新社
W・シェークスピア/小田島雄志訳『ハムレット』白水社
児玉幸多『元禄時代』(日本の歴史第十六巻)中央公論社
芳賀徹『平賀源内』朝日新聞社
週刊朝日百科『悪党と飛礫・童と遊び』(日本の歴史4 中世)朝日新聞社
講談全集『赤穂義士銘々伝』大日本雄弁会講談社
三波春夫『元禄名槍譜 俵星玄蕃』(三波春夫長編歌謡浪曲劇場)テイチクGM35
衣笠祥雄『自分とどう闘いつづけるか』PHP研究所
日本レクリエーション協会監修『遊びの大事典』東京書籍
中沢厚『つぶて』法政大学出版会
中沢厚『石にやどるもの』平凡社
J・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』中央公論社
〈風雲児落合博満武勇伝〉
落合博満『なんと言われようとオレ流さ』講談社
軍司貞則『原辰徳』文藝春秋
井上ひさし『馬喰八十八伝』朝日新聞社
〈バースの見た日本〉
セイラム・ピーボディー博物館/モース・コレクション日本民具編『モースの見た日本』小学館
セイラム・ピーボディー博物館/モース・コレクション写真編『百年前の日本』小学館
ランディ・バース/平尾圭吾訳『バースの日記』集英社
ロバート・ホワイティング/玉木正之訳『和をもって日本となす』角川書店
〈野球は楽し・当世野球事情〉
筒井康隆『一について』(筒井康隆全集第二十三巻)新潮社
草野進『どうしたって、プロ野球は面白い』中央公論社
草野進『世紀末のプロ野球』角川文庫
ロジャー・エンジェル『アメリカ野球ちょっといい話』集英社
〈タマノン国往還記〉
倉橋由美子『アマノン国往還記』新潮社
倉橋由美子『スミヤキストQの冒険』講談社文庫
ロジャー・カーン/池井優訳『輝けるアメリカ野球』講談社
ロバート・クーバー/越川芳明訳『ユニヴァーサル野球協会』若林出版
フィリップ・ロス/中野好夫・常盤新平訳『素晴らしいアメリカ野球』集英社
〈巨人伝説 きよしこの人〉
野田秀樹『彗星の使者宇宙蒸発』新潮社
W・シェークスピア/小田島雄志訳『マクベス』白水社
W・シェークスピア/福田恆存訳『マクベス』(新潮世界文学全集)新潮社
長尾和郎『正力松太郎の昭和史』実業之日本社
川上哲治『もっこす人生』日本放送出版協会
川上哲治『坐禅とスポーツ』成美堂出版
広岡達朗『意識革命のすすめ』講談社
広岡達朗『私の海軍式野球』サンケイ出版
王貞治『回想』勁文社
長島茂雄『ネバー・ギブアップ』集英社
ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』集英社文庫
『聖書』ドン・ボスコ社
欧陽菲菲『恋の十字路 I want you love me tonight』(橋本淳作詞・欧陽菲菲全曲集)東芝EMI TP60148
〈或日の藤田元司之助〉
芥川龍之介『或日の大石内蔵助』(芥川龍之介全集第二巻)岩波書店
藤田元司『耐えて勝つ』日之出出版
藤田元司『これが本当のプロ野球だ』講談社
藤田元司『草野球の戦力強化――勝つためのあの手この手』西東社
ねじめ正一『高円寺純情商店街』新潮社
〈幻の「四番サード長嶋|八段《ヽヽ》」〉
これは筆者の頭のなかだけでデッチあげたものなので、とくに参考資料として書き記すものはありません。
〈マスコミ江川裁判〉
永谷脩『江川卓 熱投20球』飛鳥新社
児玉光雄『これが江川卓だ!』東京経済
後藤進一『江川卓の研究』茜出版
江川卓・玉置肇・西村励也・永瀬郷太郎『たかが江川されど江川』新潮社
〈浪花ディープ・サウス物語/さよなら浪花のナンバ球場〉
谷崎潤一郎『蘆刈』(谷崎潤一郎全集第十三巻)中央公論社
牧村史陽編『大阪ことば事典』
玉木正之『タイガースへの鎮魂歌』河出文庫
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文春ウェブ文庫版
不思議の国の|野 球《ベースボール》
チェンジアップを16球
二〇〇〇年十二月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版
著 者 玉木正之
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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