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レヴィナス入門
熊野純彦
目 次
はじめに
序 論[#「序 論」はゴシック体] 個人的な経験から[#「個人的な経験から」はゴシック体]
――ばくぜんと感じた悲しみ[#「ばくぜんと感じた悲しみ」はゴシック体]
第T部 原型[#「原型」はゴシック体] じぶん自身を振りほどくことができない
――『存在することから存在するものへ』を中心に[#「――『存在することから存在するものへ』を中心に」はゴシック体]
第1章[#「第1章」はゴシック体] 思考の背景[#「思考の背景」はゴシック体]
――ブランショ・ベルクソン・フッサール・ハイデガー[#「ブランショ・ベルクソン・フッサール・ハイデガー」はゴシック体]
1 ユダヤ人として
2 現象学者として
3 生涯の軌跡から
第2章[#「第2章」はゴシック体] 存在と不眠[#「存在と不眠」はゴシック体]
――私が起きているのではなく夜じしんが目覚めている[#「私が起きているのではなく夜じしんが目覚めている」はゴシック体]
1 大戦の終結まで
2 復員の光景から
3 イリヤの夜から
第3章[#「第3章」はゴシック体] 主体と倦怠[#「主体と倦怠」はゴシック体]
――存在することに耐えがたく疲れてしまう[#「存在することに耐えがたく疲れてしまう」はゴシック体]
1 存在への倦怠感
2 定位と瞬間から
3 未‐来の他性へ
第U部 展開[#「展開」はゴシック体] 〈他者〉を迎え入れることはできるのか
――第一の主著『全体性と無限』をよむ[#「――第一の主著『全体性と無限』をよむ」はゴシック体]
第4章[#「第4章」はゴシック体] 享受と身体[#「享受と身体」はゴシック体]
――ひとは苦痛において存在へと追い詰められる[#「ひとは苦痛において存在へと追い詰められる」はゴシック体]
1 主著の公刊まで
2 享受することへ
3 身体であること
第5章[#「第5章」はゴシック体] 他者の到来[#「他者の到来」はゴシック体]
――他者は私にとって〈無限〉である[#「他者は私にとって〈無限〉である」はゴシック体]
1 世界のなりたち
2 全体性と無限性
3 エロスの現象学
第6章[#「第6章」はゴシック体] 世界と他者[#「世界と他者」はゴシック体]
――他者との関係それ自身が〈倫理〉である[#「他者との関係それ自身が〈倫理〉である」はゴシック体]
1 他者のあらわれ
2 他者という問題
第V部 転回[#「転回」はゴシック体] 他者にたいして無関心であることができない
――第二の主著『存在するとはべつのしかたで』へ[#「――第二の主著『存在するとはべつのしかたで』へ」はゴシック体]
第7章[#「第7章」はゴシック体] 問題の転回[#「問題の転回」はゴシック体]
――自己とは〈私〉の同一性の破損である[#「自己とは〈私〉の同一性の破損である」はゴシック体]
1 デリダとの交錯
2 主体性のゆくえ
3 身体性のかたち
第8章[#「第8章」はゴシック体] 志向と感受[#「志向と感受」はゴシック体]
――顔はいつでも皮膚の重みを課せられている[#「顔はいつでも皮膚の重みを課せられている」はゴシック体]
1 感受性の次元へ
2 他者との近接へ
3 他者と死の強迫
第9章[#「第9章」はゴシック体] 他者の痕跡[#「他者の痕跡」はゴシック体]
――気づいたときにはすでに私は他者に呼びかけられている[#「気づいたときにはすでに私は他者に呼びかけられている」はゴシック体]
1 老いという現前
2 現前という痕跡
3 非‐場所の倫理
あとがき
*レヴィナスを読むためのブックガイド
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はじめに[#「はじめに」はゴシック体]
ボリス・サヴィンコフという男がいた。筆名をロープシンという。今日では読まれることも稀になったが、『蒼ざめた馬』『漆黒の馬』という作品をのこしている。
サヴィンコフは、社会革命党(エス・エル)戦闘団の指導者のひとりであった。『蒼ざめた馬』は、その経験をおそらくはしたじきにして、暗殺者が確信にもとづいて行動し、しかしいったんわが手を血に染めてからは、果てもなく荒んでゆくすがたをえがいている。
ナロードニキ以来の伝統を継ぐ左翼エス・エルは、ロシア革命当時、党員数にあってはボリシェヴィキを上回り、とくに農村部において支持をあつめていた。一〇月革命後もいったんは政権に参加しながらやがて野に下り、内戦の一方の当事者となってゆく。『漆黒の馬』は、泥沼のようなこの内乱を背景とする。
主人公が恋人と再会し、問答をかわす場面がある。その「あまりに信じやすい」ひとみをかつてテロリストが愛したオリガは、いまやボリシェヴィキの同調者となっている。ボリシェヴィキのように、チェー・カー(秘密警察)のように「殺してよいのか」というテロリストのことばに、オリガは「じゃ、あなたは殺してなくて?」と応じる。
主人公ユーリイ・ニコラエヴィチのことばを引く。
[#2字下げ] 結構だ。かまいやしない。そうだ、ぼくは掠奪し殺し信ぜず、裏切っている。しかしぼくは、それが許されるのか、とたずねているのだ。
[#地付き](工藤正広訳・晶文社版より)
ひとは現にひとを殺してきた。今日もなお、ひとを殺しつづけている。だが、それは「許される」ことなのだろうか。テロリストこそが、おそらくはもっとも深刻に、この問いのまえで立ち竦んだにちがいない。――レヴィナスが立ち尽くしたのも、おなじこの問いをまえにしてである。殺人とは、ある意味で「日常茶飯事」である。だが、それは「許される」ことなのだろうか。それは、あるいは「可能なこと」なのであろうか。
はじめに、ロープシンなどという、おそらくは場ちがいとおもわれるに相違ない人物に言及したのは、レヴィナスの問いの深さを照らしだしておきたかったからである。レヴィナスはたんに「殺すなかれ」という説法を説いているのではない。レヴィナスはむしろ、殺人が現に果てなく生起している、ぎりぎりの場所で思考している。その場所から、人間の生存の条件を問い、他者の意味を問い、殺人の(不)可能性を問いつめているのだ。
そのことについては、本論でゆっくりと語りだすことにしよう。序論ではまず、もうすこし身ぢかな地点から考えはじめてゆくことにしたい。
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序論 個人的な経験から[#「個人的な経験から」はゴシック体]
――ばくぜんと感じた悲しみ
†個人的経験[#「†個人的経験」はゴシック体]
ひどく個人的な経験からはじめたい。六〇年代後半は、この国のいわゆる高度成長期である。私は、京浜工業地帯に隣接する、海と山に囲まれたちいさな町に住む小学生だった。
ときおりはおとなに手をひかれ、東京にでかけたものだ。住んでいたのは街ともいえない街である。田園風景がむしろ身ぢかであった。終点に近づくにつれ、車窓をながれてゆく景色が典型的な工業都市の光景へと変わってゆく。おそらく鶴見、川崎あたりになるのか、河ぞいに工場が建ちならび、煙突からは煙がたなびき、空はどんより煤けている。
この国は、絶え間なく成長してゆく。おとなたちはそう語り、私もたぶんそう信じていた。すくなくとも、街が瞬く間に(と、子どもにはおもわれた)変わっていったのはたしかである。都下の親戚の家にいくと、いつのまにか近所からはトロリーバスが消え、やがて路面電車のすがたも見えなくなる。なにより、電車から見える風景が変貌した。工業地帯は、子どもの目にもあきらかにとめどなく密集し、また絶えず拡大してゆくかに見えた。
†存在の余剰[#「†存在の余剰」はゴシック体]
ばくぜんと感じた悲しみは、やはりそれなりのものであったにちがいない。つまり、子どもなりの感情だったに相違ない。だが、悲哀を感じたという事実に、おそらく記憶ちがいはないような気がする。路面電車が廃止され、田圃が消えてゆくこと自体が哀しかっただけではない。工業地帯の佇まいそのものが、どこかもの悲しかったのである。
そのときの感情そのままを、いまことばによって再現することはできない。かたちのさだかでないおもいは、しかしやがて沈殿し、不思議と忘れえない記憶の一部となった。
[#2字下げ] 個別的な〈もの〉は、ある面で工業都市に似ている。工業都市にあっては、いっさいが生産という目的のために適合させられている一方で、工業都市は煙にみち、屑と悲しみとにあふれて孤立しているのだ。〈もの〉にとっての裸形とは、その〈もの〉の存在が目的にたいして有する余剰のことなのである。
いっけん謎めいたこんな文章を、レヴィナスのテクストに発見したのは、それから四半世紀以上経ってからのことであった。レヴィナスの第一の主著といわれる『全体性と無限』(一九六一年刊)の一節である。
かつて感じた奇妙に割りきれない感情に、ことばが与えられているようにおもわれた。そのときまた、レヴィナスについてなにごとかを理解しえたと信じたものである。テクストとの出会いは、ときにそんなかたちで、ふいに訪れることがある。
†裸形の風景[#「†裸形の風景」はゴシック体]
車窓をながれてゆく街は、あまりに裸形であったのだ。寒々しい光景が、子どもにすら悲しみをおぼえさせたのである。それは、当時かまびすしく論じられはじめ、子どもの耳にもとどいていた、いわゆる「公害」の問題とはとりあえず関係がない。裸形の風景がよびおこす感情は、ひとが世界のうちで生きてゆくこと自体の悲しみと、どこかでふかく通じあっていたようにおもわれる。裸形の風景は、〈私〉を拒んでいる。世界は私とは無縁に、私の存在などすこしも必要とせず、煙を吐き出し、廃棄物を堆積させてゆく。――なぜ「通じあって」いたのか。もうすこしことばを補っておかなければならないだろう。個人的な経験にいまいちど立ちもどりたい。
慣れ親しんだ風景が消えてゆく。失われたもののみが、むしろ慕わしく美しく感じられる。あらたに目のまえにひろがる光景に、どこか馴染んでゆくことができない。じぶんを包みこみはじめた景色が、どうしても「異郷」のようにおもわれてならないのだ。
こうしたおもいはたぶんありふれたものであろう。子どものころ、だれでも感じたものだろう。そうであるなら、いっけん逆説的なことだが、子どももまたノスタルジーとエキゾティズムとに無縁ではない。ただしエキゾティズムといっても、異文化への憧憬ではない。ここでいうエキゾティズムとはなにより、いま在る目のまえの世界を異郷ととらえる[#「世界を異郷ととらえる」に傍点]感覚である。その意味でのエキゾティズムは、やがてノスタルジーのむしろ背面となる。
世界それ自体がエキゾティック(異邦的)であり、世界そのものが異郷であるかぎり、私には身のおきどころがない。ノスタルジーは募るばかりである。しかもゆえなきノスタルジーが募るばかりである。ノスタルジーは、ここではむしろ、けっして与えられなかったもの、あらかじめ失われているものへの郷愁であるからである。――ランボーがうたうように、世界には「真の生が欠けている」。だが、その詩句を引きながらレヴィナスがいうとおり、「にもかかわらず、われわれは世界内に存在している」(『全体性と無限』)。
†芸術の意味[#「†芸術の意味」はゴシック体]
過ぎたもののみが美しくおもわれるのは、過去が、あたえられた世界からすでに距離をもっているからだ。だから、ことは子どもがときに感じる感覚という域をおそらくは越えている。たとえば芸術がなりたつのは一般に、世界からのこの距たりのゆえである。芸術は、あたえられた世界をひとつの「異郷」として手わたす。しかも世界をその「裸形」において、その異邦性をあらわにしつつ手わたすのである。ロダンの彫刻にみとめられる荒々しい塊の存在感、セザンヌの絵画における剥き出しの形態、「色と線との純然たる戯れ」、あるいは「存在の膨らみ」の表現、それらがあらわしているものは、物質がある[#「ある」に傍点]ということ、世界が存在するということそのものだ(『存在することから存在するものへ』一九四七年刊)。
戦後まもなく発表された作品のなかでレヴィナスは、文脈のあいまを縫うようにして、そんなことを書きとめている。そうした表現の背後にあることがらについては、本論で立ちいることだろう。ここでは強いて単純にいえば、問題となっているのは、世界が私とはなんのかかわりもなく、たんに存在する[#「たんに存在する」に傍点]ということである。
芸術は、その意味でおしなべて「異邦的(エキゾティック)」であり、異郷としての世界をこそあらわにするものである。芸術によって開示された世界のまえで感じられるものは、この世界そのものが異邦であることにほかならない。
†存在の裸形[#「†存在の裸形」はゴシック体]
この世界が異邦的であるとは、だが、どういうことだろうか。それは、ひとつには、この世界のなかで〈私〉の存在がたんなる偶然にすぎないということだろう。私はどのみち、世界のなかで「異邦人」でありつづける。芸術作品は、この意味でも真理を語っている。子どもの私が目にした工業都市の風景も、おなじ真実をあかしていたとおもわれる。
「あらゆる場所で、世界の連続性に亀裂が生じている。個別的なものが、存在するという裸形において浮きたっている」。初期の著作のなかでレヴィナスは、そんなふうにも語っていた(『存在することから存在するものへ』)。
私とはなんらかかわりもない裸形の世界のただなかに、私もまた身ひとつの裸形で投げだされている。それは一箇の悲哀であろう。この世にあることの、底しれない悲惨でもあるようにおもわれる。だが、この悲惨のゆえに、他者へと私はひらかれるのではないか。
レヴィナスもじっさい、さきに引用した部分のすこしあとで、「存在することはそれ自体としては、世界のうちで一箇の悲惨である」と書いている。だが、とレヴィナスはつづける。「この悲惨さのうちに、私と他者とのあいだにはレトリックを超えた関係がある」(『全体性と無限』)。レトリックを超えるとは、レヴィナスにあっては、さしあたり支配と暴力とを超え出るということである。レヴィナスのテクストは、私にとっては異様な魅力を湛《たた》えてうったえてくるようになった。
†本書の狙い[#「†本書の狙い」はゴシック体]
この本は『レヴィナス入門』と題されている。私はしかし、いくつかの概念(たとえば「責任」や「倫理」や「正義」)について、今日ではよく知られたレヴィナスの所論を繰りかえし要約しようとはおもわない。このちいさな本ではむしろ、私にとってレヴィナスの思考の核心とおもわれることがらについて語ってゆきたい。あらかじめひとことだけ限定しておくならば、私がかたどりたいレヴィナスは、経験の細部へと繊細な視線をとどかせようとするレヴィナスである。だから私は、具体的な経験のひだへと入りこもうとするレヴィナスの論述にこそ、目を向けたいとおもう。そうした細部をのぞいてしまえば、レヴィナスの著書は、たぶんたんなる断言と説教の集積にすぎないのではないだろうか。
多くの読者にとっては、とはいえレヴィナスのなまえ自体が、馴染みぶかいものとはいえないであろう。本論の最初では、だから、独創的な哲学者として登場するにいたるまでの、レヴィナスの経歴を簡単にたどっておく。それはまた、レヴィナスに独特な思考の、ある背景をかえりみることともなるはずである。
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第T部 原型[#「原型」はゴシック体] じぶん自身を振りほどくことができない
――『存在することから存在するものへ』を中心に[#「『存在することから存在するものへ』を中心に」はゴシック体]
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第1章 思考の背景[#「思考の背景」はゴシック体]
――ブランショ・ベルクソン・フッサール・ハイデガー
1 ユダヤ人として[#「ユダヤ人として」はゴシック体]
†歴史の辺境[#「†歴史の辺境」はゴシック体]
エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Levinas) は、一九〇五年一二月三〇日、リトアニアのカウナスに生まれた。当時のリトアニアはロシア帝国領である。カウナスはリトアニア第二の都市であり、一〇万ちかい人口があったといわれる。
リトアニアは、だがいずれにせよ、列強のおもわくが渦巻く辺境であった。歴史が大きく流れをかえて水かさを増してゆくたびごとに、濁流に呑みこまれてゆく現代史の谷間である。この本の主人公は、今世紀の初頭(ロシア暦にあっては最初の革命とその敗北の記憶が刻みこまれた、その年のすえ)ユダヤ人として帝国のかたすみに生を享けたことになる。
大ロシア帝国の一隅で「ユダヤ人」であるとはどのような経験であったのか、わけしり顔で書きしるすことはむしろひどく憚《はばか》られる。ポワリエの問いに応え、レヴィナスがみずからの生の軌跡をふりかえっている対話に拠ると、とりあえずたしかなことがふたつある。
†記憶の陰影[#「†記憶の陰影」はゴシック体]
ひとつは、当時、大部分のユダヤ人は「旧市街」に住んでいたにせよ、旧市街は「ゲットー」(他の住民から隔離され、明確に境界づけられたユダヤ人居住区)と呼ばれる地域ではなかったということである。シナゴーグ(ユダヤ教徒の集会所)が立ちならび、住民の三割ほどがユダヤ人であったといわれる街で、書籍商をいとなむ小ブルジョアの家に生まれたレヴィナスが、パーリア民族(社会的環境から儀礼的に遮断された客人民族)の末裔たる宿命を意識しはじめたのがいつの頃からなのか、はっきりとはわからない。
いまひとつは、いわゆる「ポグロム」(帝政末期の政情不安にも一因を有する、ユダヤ人虐殺)からもリトアニアは免れていたものの、しかしポグロムの存在そのものはレヴィナスも当時から知っていたということである。タルムード(ユダヤ教聖典の総称。口伝法の集成であるミシュナーにたいし、その後の解釈と討論とをあわせて編纂されたもの)解釈の高度な伝統を育んだ街で生まれたことともならんで、この件がレヴィナスの少年期にある陰影をあたえていると考えることは、それほど不遜な憶測ではないであろう。――それは「広大なロシアの〈どこかべつの場所で〉起こっていた」(ポワリエとの対話)事件であった。にせよ、文学を好み、おもうに想像力ゆたかでもあったであろう少年にたいして、歴史のこの暗部が影をなげかけなかったと考えることのほうが、おそらくはやや不自然である。
†流民の群れ[#「†流民の群れ」はゴシック体]
リトアニアがロシア帝国の一部となったのは、一八世紀のすえのことである。一九世紀をつうじて、いうところの「同化政策」が貫徹していった結果かえって、自治権を要求する運動がちょうどレヴィナスの生年にはじまっている。第一次大戦下の一九一八年、占領軍であったドイツ軍の庇護のもと、リトアニア共和国が成立した。ほどなく赤軍が侵入、しばらくのあいだリトアニアは、まさに革命期の混乱の縮図ともなる。歴史の辺境は当然また、流民の群れを生まずにはおかなかったはずである。
カウナスのレヴィナス家はどうであったか。第一次大戦の勃発とともに、母は子どもたちの手をとり故郷をはなれ、やがて父も合流する。一家はウクライナのハリコフに落ち着き、二〇年、ふたたび独立したカウナスにもどるまでその地で生活することになる。レヴィナスも当地の中学への入学を許可され、帝政支配のもとにある学校で学ぶことになった。
†ロシア革命[#「†ロシア革命」はゴシック体]
やがて革命である。ウクライナを、白軍、赤軍、民族主義者がつぎつぎと支配する。レヴィナスは、ことの進行をどのようにとらえていたのか。ポワリエの問いに応えて回想する一節を引用しておく。
[#2字下げ] ツァーが退位した一九一七年二月には、私はほんの子どもでした。大事件は中学入学の翌年に起こったのです。だから、中学の一年をまずツァー体制のもとで、途中からは二月革命政権のしたですごしたことになります。一〇月革命についてはまったく理解できず、どう位置づけてよいのかわかりませんでした。いずれにせよ、まずボルシェヴィズム、南部での白軍の創設と内戦というできごとを、両親は深刻にうけとめ混乱していました。両親はユダヤ人であり、しかもブルジョアであったからです。
[#地付き](ポワリエとの対話)
「革命が意味しているものが両親を脅えさせた」のは、たぶんそのとおりであろう。レヴィナスそのひとは「レーニンの革命の誘惑と、到来しつつある新しい世界に無関心ではいられなかった」(同)。第二次大戦ののちに出版された『存在することから存在するものへ』(邦題は『実存から実存者へ』)もまた、「その意図が誠実であるかぎり、飢えと渇きとを癒そうとするよき意図があるかぎり、マルクス主義哲学が提起する闘争と犠牲の理想、それが提示する文明は、よき意図の延長上にある」と語る。だが、レヴィナスは革命的な熱狂にたいしては終生シニカルでありつづけたようである。
さらに時代はくだるが、一九六八年の五月革命にたいするレヴィナスの対応は、その意味で微妙であった(第7章 問題の転回「1 デリダとの交錯」『パリの五月』参照)。叛乱に同情的であったポール・リクールすら公の場で学生たちの罵倒に曝《さら》されたことにも、レヴィナスはふかく傷ついたといわれる。レヴィナスにとってパリの五月は「悲しみの季節」であった。レヴィナスのそうした態度の背後には、ハシディズム(ユダヤ教内部の、感情的経験を重視する一種の敬虔主義)にたいする若年からの反発があり、(それ自体としては大衆運動でもあった)三三年のナチズムの勝利の経験もあるだろう。だがもしかすると、多感な少年期に見ききした、革命と混乱のとおい記憶が、レヴィナスのうちで僅かにわだかまりつづけていたのかもしれない。
†遊学の開始[#「†遊学の開始」はゴシック体]
一九二〇年から二三年まで、レヴィナスはふたたび故郷にもどる。ヘブライ語で授業がおこなわれるカウナスのユダヤ人学校で、レヴィナスはドイツ語と〈ヨーロッパ〉とに出会うことになる。二三年、青年レヴィナスは、しかしストラスブールへと留学の旅にたつ。ストラスブールはドイツに接している。だが、なぜフランスであったのか。レヴィナスにとっては、「それがヨーロッパだった!」(ポワリエとの対話)からである。
ストラスブールでは、モーリス・ブランショと出会っている。当時(いくぶんかは反ユダヤ主義の萌芽をもふくんだ)民族主義運動にも加担していたこの友にたいして、レヴィナスは終生、感謝と敬意を表しつづける。六八年にはふたたび政治的立場が岐《わか》れることになる親友がレヴィナスに植えつけたものは、ひとことでいえばフランス的なものにたいする敬意である。それは、具体的にはヴァレリーの知性でありプルーストの感性であったろう。
†ベルクソン[#「†ベルクソン」はゴシック体]
ここではしかし、ベルクソンとの関係を強調しておきたい。当時のストラスブールでは、ベルクソン主義者のシャルル・ブロンデルが心理学を講じていた。レヴィナスも、とくにその名をあげて回顧している(ネモとの対話)。
いっさいを数量化し、つまりは均質化してしまう〈空間の思考〉にたいして、ベルクソンは内的に体験される時間、いわゆる「純粋持続」を対置する。それは質的な多様性の時間であり、一般には記憶が織りなす心的時間とも理解されている。レヴィナスが読み込んだベルクソンはややべつである。レヴィナスは、むしろベルクソンの時間論のうちに到来する未知のものへの希望を見てとった。昨日のような明日がやがてくることにあらがい、いっさいがすでに決定されている世界に抵抗する、つまり「不条理な運命」(同)に抗する力を読みとったのである。要するに、「生の飛躍」(ベルクソン)の可能性を、である。
レヴィナスはしかし、やがてドイツのフライブルク、フッサールのもとへと向かうことになる。遊学のその軌跡をなお辿りつづけておくことにしよう。
2 現象学者として[#「現象学者として」はゴシック体]
†フッサール[#「†フッサール」はゴシック体]
一九二七年は、哲学史的にはハイデガー『存在と時間』の公刊によって記憶される年である。その年は、哲学者[#「哲学者」に傍点]レヴィナスにとってもとくべつな意味をもつ年となる。
同年、ストラスブールにおける学部教育を終了する。レヴィナスは「哲学で仕事をする」ことを望んでいた。つまり、たとえば「一篇の詩のように」すでに完成されたベルクソンの哲学を反復したり、その亜流となることを、ではなく、みずから哲学することを希望していたのである。そのためには、だが「方法」の習得が必要である。「哲学で仕事をする」方法をレヴィナスに教示したのが、フッサールの著作であった(ネモとの対話)。
出会いは、ほんの偶然のように訪れた。学部終了をまぢかに控え、しかし将来の方途をさぐりあぐねていたレヴィナスの周辺で、たまたまストラスブールの研究所にいた、パイフェルという若い女性がフッサールを読んでいたのである。
パイフェルに導かれレヴィナスが手にしたのは、フッサールの『論理学研究』である(ポワリエとの対話)。『論理学研究』とは、それではどのような作品であったのだろうか。
†論理学研究[#「†論理学研究」はゴシック体]
『論理学研究』第一巻(初版は一九〇〇年刊)は、出版当時の文脈でいえば、心理学主義への批判のゆえにひろく受け容れられた。心理学主義とは、たとえば「数」の概念の基礎を「数える」心理的作用にもとめる立場である。だが、一例を挙げれば「2×2=4」といった算術的真理が、具体的に計算するそのつどの体験に依存すると考えることができるだろうか。そこにはむしろ、ある「イデア的」なものが、つまり主観の、そのときどきの個別的な体験からは独立な「意味」の領域がみとめられるべきではないだろうか。
この主張それ自体は、フッサール固有のものということはできない。それは、同時代でいえば新カント学派の諸論客にも共有された認識であった。だが、第二巻(初版は一九〇一年刊。二版は二分冊となり、それぞれ一三年、二一年刊)は、フッサールのいわば現象学宣言をふくんでいる。「客観性〈自体〉が〈表象〉へともたらされること、つまり認識において〈把握〉され、したがって結局はふたたび主観的なものとなるということは、どのように理解されるべきか。対象が〈自体的〉に存在し、しかも認識のうちに〈与えられている〉とはどういうことなのか」(第二巻「序論」第二節)。
心理学主義への後退の途は、すでに絶たれている。であるとすれば、「認識」について、「意識」について、意識の「志向性」について、あらためて問われなければならない。現象学はまず、そのような問いとして開始されたのである。
†ハイデガー[#「†ハイデガー」はゴシック体]
一九二八年から翌年にかけて、レヴィナスはフライブルクに遊学する。いうまでもなく、現象学の創始者フッサールを目指してのことである。二九年、ストラスブールにもどったレヴィナスは、フッサールにかんする博士論文を提出する。『フッサール現象学における直観の理論』(一九三〇年刊)がそれである。この書はその後、同世代の哲学者サルトルやメルロ=ポンティに、現象学の思考と方法とをつたえることになる。
ある意味では皮肉なことに、レヴィナスはしかし、フライブルクにおけるフッサールそのひとの講義からは、つよい印象をうけなかったようである。相手は、すでに停年をまぢかに控えた老教授でもある。そこには「もう驚きはなく」、むしろ「なにか完結してしまったもの」があった、とレヴィナスは回想している(ポワリエとの対話)。
では「驚き」をあたえ、(すでに「完結」したのではなく)いままさに生成しつつある思考の息吹をつたえたのはだれか。ハイデガーである。じぶんは「フッサールの家にでかけて、ハイデガーに出会ったようなものだ」、とレヴィナスはいう(同)。
†思考の魔力[#「†思考の魔力」はゴシック体]
フッサールに質問しても、かえってくるのは「まるで講演のように淀みない回答」であり、質問をきっかけに「対話」がはじまることはまずなかった、とレヴィナスは回想している。「新鮮さ」や「意表をつくもの」は、もはやない。
[#2字下げ] これにたいしハイデガーにあって、とくに『存在と時間』においては、それがまだ現象学にぞくするものであるとはいえ、一ページずつが新鮮でした。ただしこれはあくまで印象であって、それが正しく真実なものであるかについては、あまり自信がありません。フッサールは、私には意外性がさしてないぶん説得力を欠いていました。逆説的なことですし、あるいは子どもっぽいことですが。ハイデガーにおいては、いっさいが意表をつくものでした。情態性[#「情態性」に傍点]についてのハイデガーのみごとな分析、日常性[#「日常性」に傍点]への新鮮な接近、存在と存在者とのあいだの、有名な存在論的差異[#「存在論的差異」に傍点]。それらをこのうえなく印象的な定式の照明のなかで思考するさいの厳密さです。
[#地付き](ポワリエとの対話。強調は引用者)
ハイデガーについてつよく印象にのこっているのは、これらのことがら――「フッサールによって発見された現象学的な分析の天才的な適用」――と、「そして遺憾なことに、一九三三年の恐怖」である、と一九八六年の時点でレヴィナスは回顧する(同)。
一九三三年、ヒトラーが首相に就任、ハイデガーはフライブルク大学総長として「ドイツ大学の自己主張」という講演をおこなう。この件については、しかしあとの話である。ハイデガーの主著のなにに、レヴィナスが感応したのかがまず問題となる。
†存在の意味[#「†存在の意味」はゴシック体]
ハイデガーの主著については、これからもいくどか立ちかえることだろう。ここでは、この著作のアウトラインだけとらえておく必要がある。
「存在(ザイン)」は「存在者(ザイエンデス)」ではない。存在する個々のものと、それらが存在することそのものとは異なる。それゆえにこそ存在者が存在する、まさにその「存在の意味」が問われなければならない(『存在と時間』第一節。この間の消息がのちに存在論的差異[#「存在論的差異」に傍点]と定式化される)。しかもまずは人間的な存在、「現存在(ダーザイン)」を通路としながら、その日常性において問いが立てられ、仕上げられなければならない。
日常性[#「日常性」に傍点]にあって現存在は、道具的な存在者を「配慮」し、他者たちを「顧慮」している。フッサールの志向性がかくて二重化され、また具体化される。現存在にとって世界はこうして「有意義性」においてあらわれ、その世界へとかかわり、世界に住まう存在として、すなわち「世界内存在」として、現存在は存在することになる。
目のまえのハンマーは、「目」で見られるよりまえに「手」にたいして差しだされている(第4章 享受と身体「2 享受することで」『目から手へ』参照)。世界はこうした有意義性において立ちあらわれ、他者もまた道具をかいして出会われる。岸辺につながれたボートが、それを漕いで向こう岸にわたる知人を、あるいは見知らぬ他人を指示するように、である。そうした日常性において在るとき、私もまた「ひと」のひとりであって、「この私」としては生きていない。世界は安定した意味をもち、私はその安定性とひきかえに、「この私」としての生をなかば喪失している。
†不安と先駆[#「†不安と先駆」はゴシック体]
こうした世界の静寂が、「ひと」(ダス・マン 「ダス」はドイツ語の中性[#「中性」に傍点]名詞につく定冠詞)のうちでの私のまどろみが、しかし破られるときがある。それは、「不安」という気分に私が襲われるさなか、あるいは不安という根本的な情態性[#「情態性」に傍点]の虜となってしまう瞬間である。世界はそのとき居心地の悪いものとなり、世界内存在そのものが不気味なものとなる。世界の有意義性は解体し、私はもはや「ひと」として生きることができない。――ほかならない、この私が死ぬ。私はだれのかわりに死ぬこともできず、だれも私のかわりに死んでくれることがない。避けがたく「死にかかわる存在」であることこそが、不安という、存在することの気分、もしくは情態性(第3章 主体と倦怠「1 存在への倦怠感」『存在の気分』参照)の底にはあるのである。
ハイデガーはさらに、現存在の時間性を問い、その歴史性を問うてゆく。そこで説かれてゆくのは、現存在の死への「先駆」であるとともに、「共同体の、民族(フォルク)の生起(ゲシェーエン)」でもある(同・第七四節)。――レヴィナスそのひとが、また他の多くのハイデガー信奉者が、ことのあやうさに気づくには、歴史的な経験が必要であった。ナチズムと絶滅収容所の経験を経ることが必要だったのである。
3 生涯の軌跡から[#「生涯の軌跡から」はゴシック体]
ハイデガーとの出会いは、レヴィナスにとって二重の意味で決定的なものとなる。『存在と時間』は、以後のレヴィナスにあって、それにたいする吸引と反発とが、思考の縦糸をかたちづくる著作となるのである。
その間の消息をたどり、レヴィナスの足跡をさらにあとづけるに先だって、ここで、レヴィナスの生涯について、おおまかな見とおしをえておくことにしよう。まずは年譜ふうに、その生涯の軌跡にふかく関連するできごととともに、レヴィナスの経歴を挙げておく。登場する地名については、地図をご覧いただきたい。本書で言及するレヴィナスの著作については、年譜中に出版年を示しておくことにしよう。
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†05年〜28年[#「†05年〜28年」はゴシック体]
一九〇五年 ロシア第一次革命。ロシア暦でこの年の一二月三〇日、レヴィナスは、リトアニアのカウナスに生まれる。
一九一四年 第一次世界大戦勃発。レヴィナス家は、ウクライナのハリコフに仮寓することになる。
一九一七年 ロシア革命。ウクライナは、二月革命から一〇月革命、さらに内戦期の混乱の渦中におかれる。
一九一八年 二月、リトアニア独立。一一月には共和国になる。
一九二〇年 レヴィナス家、カウナスに帰還。レヴィナスはユダヤ人学校に編入。
一九二三年 フランスのストラスブールに遊学。ストラスブール大学文学部に入学して、モーリス・ブランショと知己になる。
一九二七年 ストラスブールの研究所に在籍していた、パイフェルと知り合う。フッサールの『論理学研究』を読みはじめる。おなじ年、ハイデガーは『存在と時間』を刊行。
一九二八年 翌年にかけて、ドイツのフライブルクに遊学。フッサールとハイデガーの講義、演習に参加。とくに後者からつよい印象をうける。
†29年〜44年[#「†29年〜44年」はゴシック体]
一九二九年 ダヴォス(スイス)での、ハイデガーとカッシーラーの論争を傍聴。博士論文をストラスブール大学に提出。
一九三〇年 パリに移住。博士論文をまとめて、最初の著書を刊行。
『フッサール現象学における直観の理論』[#「『フッサール現象学における直観の理論』」はゴシック体]
一九三一年 フランスに帰化。「全イスラエル同盟」に勤務。
一九三二年 ライッサと結婚。兵役を果たし、准尉となる。
一九三三年 一月、ヒトラーが首相になり、三月にはナチス独裁政権が誕生。ハイデガーはフライブルク大学総長となる。
一九三五年 論文「逃走について」[#「論文「逃走について」」はゴシック体]
一九三八年 サルトル『嘔吐』出版。フッサール死去。
一九三九年 九月、ナチス・ドイツのポーランド侵攻。レヴィナスは、ドイツ語およびロシア語の通訳として従軍。
一九四〇年 ナチス・ドイツのパリ侵攻のさい、レンヌ退却時に捕虜となり、四五年まで捕虜収容所に囚われる。
一九四一年 ベルクソン死去。
一九四三年 サルトル『存在と無』刊行。
一九四四年 八月、パリ解放。
†45年〜60年[#「†45年〜60年」はゴシック体]
一九四五年 五月、ドイツ降伏。八月、日本、無条件降伏。第二次世界大戦終結。
一九四六年 レヴィナス、「東方イスラエル師範学校」の第六代目の校長となる。
一九四七年 『存在することから存在するものへ』[#「『存在することから存在するものへ』」はゴシック体]
一九四八年 イスラエル独立宣言、第一次中東戦争勃発。
『時間と他者』[#「『時間と他者』」はゴシック体]
一九四九年 『フッサールとハイデガーとともに実存を発見しつつ』[#「『フッサールとハイデガーとともに実存を発見しつつ』」はゴシック体]
一九五一年 論文「存在論は根源的か?」[#「論文「存在論は根源的か?」」はゴシック体]
一九五八年 クロード・レヴィ=ストロース『親族の基本構造』刊行。
[#ここから改行天付き、折り返して7字下げ]
一九五九年 論文「表象の没落」[#「論文「表象の没落」」はゴシック体]
一九六〇年 サルトル『弁証法的理性批判』第一巻、刊行。
†61年〜73年[#「†61年〜73年」はゴシック体]
一九六一年 五月、メルロ=ポンティ死去。サルトルは長大な追悼文「生きているメルロ=ポンティ」を著す。五月、フーコー『古典期における狂気の歴史』刊行。一〇月、フランツ・ファノン『地に呪われたる者』出版。レヴィナスは国家博士号を取得して、ポワティエ大学助教授となる。
『全体性と無限――外部性についての試論』[#「『全体性と無限――外部性についての試論』」はゴシック体]
一九六二年 レヴィ=ストロース『野生の思考』刊行。
一九六三年 『困難な自由』[#「『困難な自由』」はゴシック体]
一九六四年 デリダがレヴィナス論「暴力と形而上学」を発表。
一九六七年 パリ第十大学哲学科の教授となる。
一九六八年 パリ五月革命。
一九七二年 『他者のヒューマニズム』[#「『他者のヒューマニズム』」はゴシック体]
一九七三年 パリ第四大学哲学科の教授となる。
†74年〜95年[#「†74年〜95年」はゴシック体]
一九七四年 『存在するとはべつのしかたで あるいは存在することのかなたへ』[#「『存在するとはべつのしかたで あるいは存在することのかなたへ』」はゴシック体]
一九七六年 パリ第四大学退官。この年、ハイデガー死去。
一九八〇年 サルトル死去。
一九八二年 『観念に到来する神について』[#「『観念に到来する神について』」はゴシック体]
『倫理と無限』[#「『倫理と無限』」はゴシック体](ネモとの対話)
一九八七年 『外の主体』[#「『外の主体』」はゴシック体]
一九九一年 『われわれのあいだで』[#「『われわれのあいだで』」はゴシック体]
一九九三年 講義録『神・死・時間』[#「講義録『神・死・時間』」はゴシック体]
一九九五年 一二月二五日、死去。
[#ここで字下げ終わり]
†本書の構成[#「†本書の構成」はゴシック体]
本書では以下、だいたいレヴィナスの生涯の軌跡によりそうかたちで、その思考の跡を辿ってみよう。ここで、本書のおおまかな構成と見とおしをえがいておくことが、議論のみちのりをやや辿りやすいものとすることになるかもしれない。
右の年譜では便宜上、レヴィナスの生涯を五つの時期に分けておいた。前節までにみてきたのは、その第一の時期までであるといってよい。
レヴィナスの思考に注目するかぎり、その主要な段階は、戦後のおおむね三期に画される(右の年譜では、だいたい後半の三期にあたる)。著作でいえば、『存在することから存在するものへ』に代表される第三期、つまり第二次大戦後まもない時期に公表された思考。これは、レヴィナスの思考の「原型」をあらわしていると考えることができる(第T部)。つぎに、第一の主著『全体性と無限』に代表される時期。この、いわば第四期にレヴィナスは、もっとも体系的なかたちで思考を「展開」している(第U部)。最後に、第二の主著『存在するとはべつのしかたで』に結実する、第五期の思考。そこでは、レヴィナスのいわば体系期からの、ある「転回」がみとめられるはずである(第V部)。
右で便宜的に五期に分けたレヴィナスの生涯の第二期に、はやくも後年の思考のとおい原型があらわれている。一九三五年に発表された論文「逃走について」にあらわれた思考が、それである。次章ではそれゆえ、さしあたり時計の針を一九二九年までもどして、レヴィナスの思考の、いわば揺籃期をなおかたどっておかなければならない。
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第2章 存在と不眠[#「存在と不眠」はゴシック体]
――私が起きているのではなく夜じしんが目覚めている
1 大戦の終結まで[#「大戦の終結まで」はゴシック体]
†秩序の崩壊[#「†秩序の崩壊」はゴシック体]
一九二九年、ダヴォスにおける歴史的論争にレヴィナスは立ち合っている。新カント派(マールブルク学派)のカッシーラーと、ハイデガーとのあいだで交わされた論争である。
カッシーラー夫人による回想は、二週間にわたるこの集会で、ハイデガーに不躾なところがなかったとはいえず、またハイデガーの反ユダヤ感情がすでに顕われていたとも伝えている(トニー・カッシーラー『わが人生』一九八一年刊)。この機会にレヴィナスが見てとったのは、しかしとりあえずは、「崩壊しつつある秩序」を代表するカッシーラーと、「転倒されつつある世界」を告げるハイデガーとの対立であった。若きレヴィナスは、とうぜん後者にこそつよく共鳴する。それを「後悔」するにいたったのは「ヒトラーの時代」になってからのことであり(ポワリエとの対話)、世界のより深刻な崩壊に立ち合うことになるのは、ナチス・ドイツが敗北し大戦が終結したあとのことである。
†帰化と状況[#「†帰化と状況」はゴシック体]
とまれレヴィナスは一九三〇年パリへと居をうつし、翌年、フランスへの帰化がみとめられる。三二年にはいったん帰郷しライッサと結婚するが、おなじ年には兵役の義務を果たして准尉となり、ロシア語通訳の試験にも合格している。第二次大戦にさいしてレヴィナスはじっさい、ロシア語とドイツ語の通訳として従軍することになるのである。
三〇年代のドイツは、ファシズムへとなだれ込む。三三年、ヒトラーが政権に、「ナチス党員」ハイデガーがフライブルク大学総長の職につく。ハイデガーは、突撃隊の褐色のシャツを着て教壇に立ったともつたえられる。フランスも時代の趨勢と無縁であったわけではない。一九三四年には右翼団体アクシオン=フランセーズや在郷軍人が、コンコルド広場で警官隊と衝突する。その事件は、隣国とならんでフランスにもファシズムの時代が到来したかにおもわせるものであった。もとよりフランス社会もまた、反ユダヤ感情と無縁でありえたわけではない。かつてプルーストが微細に描きとっていたとおりである。
その時代レヴィナスは、『エスプリ』誌にナチズムをめぐる小論を書き、哲学系の雑誌にはフッサールやハイデガーにかかわる論文も発表している。独創的な論稿としては、一九三五年に発表された「逃走について」がある。ここでは、レヴィナスに独自な思考の原型をしめすこの論文についてだけ、すこし問題としておこう。
†逃走と嘔吐[#「†逃走と嘔吐」はゴシック体]
一文が語る「逃走」あるいは「脱出」とは、たとえば生の方向を向きかえることへの欲求(ブゾワン)ではない。また、生それ自体からの離脱、つまり死のがわからの誘惑でもない。脱出とは、レヴィナスにあってなにより、私が私でしかないことからの、私が〈私〉の存在に打ちつけられて在ることからの逃走である。
それはしたがって、一方では(私が私であるかぎり)不可避の欲求であり、他方では(私が私でしかありえない以上)不可能な志向である。逃走は繰りかえし溢れ出る欲望によるものであり、しかし絶えて満たされることのない希求なのである。つまり、レヴィナスそのひとの後年の用語によれば、むしろ存在を超えて〈他なるもの〉へと向かう渇望(デジール)にほかならない(第5章 他者の到来「2 全体性と無限性」『欲求と渇望』参照)。
レヴィナスの例解のうちに、「嘔吐」と「羞恥」という、一見サルトル的な論点が登場することが注目される。すこし触れておこう。
ロカンタンはマロニエの根をまえに、吐き気をおぼえる。その無意味さに、たんに在ることの猥雑さに、である(サルトルの小説『嘔吐』一九三八年刊)。レヴィナスが吐き気を感じるのは、私が〈私〉でしかないことにたいしてである。繰りかえし吐き気がこみ上げ、みずからの内容物を嘔吐するとき、吐き気はただじぶんの内側から到来し、私はひたすらじぶんがじぶんであること、〈私〉が私の存在に貼り合わされていることに嘔吐するほかはない。私は絶望的にみずからの存在を拒否し、しかもその拒否が成就することはない。
†羞恥と孤独[#「†羞恥と孤独」はゴシック体]
羞恥についてはどうか。サルトルのえがく覗視症者は、近づく足音におびえ、他人の視線をまえに羞恥にとらわれる。鍵穴を覗きこんでいたじぶんの存在のぶざまさが、他者の視線をかいしてあかされる。羞恥とはあくまで「他者にたいする」じぶんの存在のかたち、あるいは「他人のまえでの自己についての」意識である(『存在と無』第三部)。
そうしたサルトルの所論にあらかじめ異をとなえるかのように(『存在と無』は大戦中の一九四三年に出版され、戦後ながく版をかさねる)、三五年のレヴィナスはいう。羞恥はかえって「孤独」にあって、ただひとり在ることにおいて深刻なのだ。羞恥とはむしろ脱出の不可能性、じぶんの存在から逃れ出ることの不可能性に由来するものであるからである。その意味では、「地獄とは他人のこと」(サルトル『出口なし』)ではない。他者によってこそ、私が私でしかないことから、私としてひとり在る孤独から救済されうる。みずからの存在の内部で「出口のない」私は、ただ他者にむかってのみ超出することがありうる。
自己からの脱出という思考のかたむきは、以後かわることのない、レヴィナスの基本線となる。ひきつがれてゆく思考のモティーフとして、いまひとつには、「存在への嫌悪」という気分をあげることができよう。
存在への嫌悪という「気分」の背後にあるのは、ナチズムの覇権への予感であった。暗雲のように、ファシズムが忍びよる。存在そのものにたいして「不信」がいだかれる(ポワリエとの対話)。予感が現在となり、やがてナチズムの時代が過ぎ去り、今度はナチズムの過去がいっさいの忘却を禁じる記憶となったとき、思考のモティーフはさらに反復され深められる。嫌悪というたんなる気分は、そのときはっきりと「存在の災厄」(第2章 存在と不眠「3 イリヤの夜から」『存在の災厄』参照)、あるいは〈あること〉そのものの恐怖と表現されることになる。そのまえにしかし、戦争それ自体という現実が到来しなければならなかった。
†捕虜収容所[#「†捕虜収容所」はゴシック体]
一九三九年九月一日、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻する。フランス、イギリスは宣戦を布告、さきの大戦が終結し二十年を経て、欧州はふたたび戦火につつまれることになる。おなじ年の九月、レヴィナスは通訳として従軍する。レヴィナスの回想を聞こう。
[#2字下げ] 私はたいそう早い時期に捕虜となりました。一九三九年より何年かまえに、軍の通訳試験に合格していたので、ロシア語とドイツ語の通訳として徴用されたのです。それで、レンヌで退却するさいに第一〇師団ごと捕虜になったわけです。フランス国内に何ヶ月か勾留されて、それからドイツへと移送されました。私はとくべつな待遇をうけることになります。ユダヤ人であると申告されたのですが、軍服を着ていたおかげで強制収容所を免れたのです。それで他のユダヤ人たちと一緒に特殊部隊に入れられました。フランス人捕虜たちとは隔離されていて、森のなかで労働はしましたが、捕虜の保護をさだめたジュネーヴ条約の恩恵はうけていたようです。
[#地付き](ポワリエとの対話)
レヴィナスの捕虜生活は、本人の証言に信をおくかぎりでは、比較的めぐまれ、平穏なものであったようにおもわれる。森の労働は強制されたが、なにより読書の時間があり執筆のいとますらあった。収容所におけるレヴィナスの思考は、戦後、『存在することから存在するものへ』という著書に、まずは実をむすぶことになる。
†奇妙な戦争[#「†奇妙な戦争」はゴシック体]
もとより収容所での情報はかぎられている。平穏な読書と執筆は、ある意味では情報の遮断によってささえられていた、といってよいかもしれない。すべては「宙づりの状態」にありながら、世界には奇妙な「均衡」がたもたれていた(ポワリエとの対話)。
四〇年、ドイツがベルギー、オランダを侵略するまでの期間、戦争に突入していながら戦闘がおこなわれていない時期を、サルトルは「平和的戦争」(『奇妙な戦争』)と呼んだ。だが前線をはなれ、捕虜としてそれなりに暮らしているときには、戦争はいずれ〈奇妙な戦争〉の様相を呈するかのようである。たとえ、レヴィナスが囚われていた、ドイツ東北部マクデブルクのほど近くの捕虜収容所が、ベルゲン=ベルゼンの絶滅収容所にほぼ近接しており、いくつかの情報が断片的には聞こえてきたにしても、である。レヴィナスたちは、しかしその情報をほとんど信じることができなかった。信じるにはあまりに悲惨すぎるできごとが紛れもない事実であったことを知るのは、戦後になってからのことである。
2 復員の光景から[#「復員の光景から」はゴシック体]
†偶然と僥倖[#「†偶然と僥倖」はゴシック体]
生き延びたことに負い目を感じる必要は、あるいはなかった。それはあくまで「偶然」であったから、である。生き残ったことには、しかしやはりなんらかの咎《とが》があるかにおもわれる。かれ(かの女)が死に、じぶんが生きていること、生き延びていることはたんなる「僥倖」だったのだから、である。
思考はおそらくは循環してしまう。レヴィナスの思考は以後、この循環を、負い目と傷痕とを刻みこまれたものとなる。その意味でレヴィナスの思考は、あるとくべつな意味で〈倫理的〉な思考となるのである。とりあえずはしかし、生還し復員した者、レヴィナスの目にうつる世界の光景が問題である。
†世界の終末[#「†世界の終末」はゴシック体]
一九四七年、レヴィナスは戦後はじめての著作となる『存在することから存在するものへ』を出版する。その本論は、つぎのように書きだされている。
[#2字下げ]〈砕かれた世界〉あるいは〈覆《くつがえ》された世界〉といった表現は、ありふれ、凡庸なものとなってしまったにせよ、それでもなお、ある紛《まが》いものではない感情をいいあらわしている。できごとと合理的秩序との不一致、物質のように不透明になった精神のあいだで相互に交流することが不可能となったこと、そして論理の多様化がたがいに不条理をきたし、私はもはやあなたとはむすびあえないようになったこと、その結果、知性の本質的な機能であったはずのものに、知性が対応することができないこと――こうしたことがらを確認するほどに、たしかに、ひとつの世界のたそがれにあって、世界のおわりというふるい強迫観念がよみがえる。
背景にあるものはひとつには一般的な終末観でもある。戦争はたしかに連合国の勝利におわった。だが、大戦の終結とともに冷戦がはじまり、最終的に平和をもたらしたかにみえる原子爆弾が、はやくもこの平和に影を投じている。さきの大戦終了時よりもなお〈西欧の没落〉のけはいは著《しる》く、西欧はその名のとおり没しはじめていた(第一次大戦後、シュペングラーの同名書が一世を風靡した。ちなみに西欧 Occident とは日没を意味する)。
世界がおわるとき、それではなに[#「なに」に傍点]が立ちあらわれるのだろう。レヴィナスによれば、ある[#「ある」に傍点]が、剥き出しの存在[#「存在」に傍点]が、である。〈ある〉(il y a イリヤ)をめぐる考察は、他方また、「子どものときから胸に秘められていた」体験にも由来する(第二版への序文。なお、第2章 存在と不眠「3 イリヤの夜から」『イリヤの夜』参照)。同書の「大半」は収容所で書かれたものでもある(初版への序文)。
だが、にもかかわらず、〈砕かれた世界〉〈覆された世界〉といった表現が「ある紛いものではない感情」をいいあらわしているのは、生還したレヴィナスが現に目にした世界に裏うちされていたからであるようにおもわれる。――まずはふたたびハイデガーに立ちもどっておこう。ハイデガーの戦後とレヴィナスの戦後との距離を測定しておくためである。
†存在の問い[#「†存在の問い」はゴシック体]
ハイデガーは、存在の意味への問いを覆《おお》いかくすいくつかの「先入見」をとりあげることから、『存在と時間』の考察を開始していた。三つあげられる先入見のうち最後のものは、「〈存在(ザイン)〉は自明な概念である」というものである。空が青い。あるいは、空が青く「ある(イスト)」。私は気分がよい。私は気分よく「ある(ビン)」。自明な存在とはさしあたり空の青さであり、私の陽気さである(動詞「存在する」の不定形ザインは、名詞化して「存在」の意。動詞ザインは、単数・現在において、三人称はイスト、一人称はビンとなる)。この自明さが、しかし問われるべき問いを、つまり存在者が存在することそのものへの問いを覆ってしまう(『存在と時間』第一節)。
ひとは通常、存在者の存在がそれ自体は存在者ではない[#「ない」に傍点](ザイン・イスト・ニヒト[#「ニヒト」に傍点]・ザイエンデス)、ということの消息を忘れてしまっている。存在者のようには、存在は存在しない[#「存在しない」に傍点](ザイン・イスト[#「イスト」に傍点]・ニヒト[#「ニヒト」に傍点])。存在者であるかのようにとらえられた、存在はむしろ無[#「無」に傍点]である(ザイン・イスト・ニヒツ[#「ニヒツ」に傍点])。ひとはこの存在論的差異をわすれ、そのことで存在そのものを忘却している(草稿群『哲学への寄与』、全集・第六五巻ほか参照)。
ほんらい問われるべき問い、存在への問いはかくて覆われ、存在者の存在は自明なものとなる。つまり、存在への驚きは見うしなわれてしまうのだ。ハイデガーのいう「存在忘却」とは、とりあえずこのことである。
†存在の驚き[#「†存在の驚き」はゴシック体]
この忘却には、とはいえ、しかるべき根拠がある。ひとは日常的な生にあってふつう、存在する個々のもの、存在者にこそ向かっているからだ。部屋[#「部屋」に傍点]があり、部屋にはテーブル[#「テーブル」に傍点]があり、つぼ[#「つぼ」に傍点]があって、つぼのなかにはバラ[#「バラ」に傍点]がある。整頓された部屋があり、バラの美しさがある。屋外には風があり、見上げれば青空がある。あるいは空の青さがある。
この自明さが崩壊するためには、なにごとかが生起する必要がある。さきに見たように、『存在と時間』において、それは「不安」という情態性であり死への先駆であった。これは従軍した兵士にも、あるいは兵士にこそ身に沁みて了解されたことだろう。じっさい、ハイデガーの著書を背嚢におさめ、戦地に、死地に赴いたものは数おおい、といわれる。
存在することの不思議、そのさりげなさへの驚きは、しかしまた、復員兵にも親しいものとなったのではないだろうか。国は破れて山河がある[#「ある」に傍点]。飢えて疲れきり、ようやく辿りついた故郷には、空の青さがある[#「ある」に傍点]。樹々のみどりがことさらに目に沁みる。辛くも戦火を逃れ、再会しえた家族、友人がある[#「ある」に傍点]。ひとは、こうして存在そのものに驚く。あるいは驚きうる。存在のあり[#「あり」に傍点]‐がたさ[#「がたさ」に傍点]、存在者が存在することの奇蹟に立ちあうことができる、のかもしれない。存在者の存在とはそのとき、かけがえのない、希有な「贈与」である。
†存在の贈与[#「†存在の贈与」はゴシック体]
ハイデガーは戦後、パリのジャン・ボーフレ宛てへの書簡という体裁をとった小論において、存在の贈与について語っている。「存在が存在する」という言いまわしは避けられなければならない。存在するのは存在者であって、そのように語ったとたん、存在がふたたび存在者としてとらえられてしまうからである。むしろ、こう語るべきなのだ。「〈それ〉が存在をあたえる(Es gibt das Sein)」(「ヒューマニズムについて」一九四七年刊)。
Es gibtとは、ドイツ語で「〜がある」をあらわす、定型表現である(たとえば Es gibt einen Tisch「テーブルがある」)。Es は三人称・単数・中性の名詞を受ける代名詞だが、ここではいわゆる非人称、geben(三人称・単数・現在で gibt)は「あたえる」という他動詞であるが、通常はその含意が意識されることはない。だが、ことの消息を表明するためにあえて直訳すれば、「それが(エス)あたえる(ギプト)」のだ。あるいは存在とは「〈それ〉があたえる」ものである。存在とは贈与である。
ここにはたしかに、存在のあり[#「あり」に傍点]‐がたさ[#「がたさ」に傍点]、存在者が存在することそのものという、希有なできごとへの感覚がある。それはまた、形而上学的な驚きを、つまり自然的なものを超えたことがらへの驚嘆を表現しうるものでもあったはずである。たしかに、「なぜ無ではなく、むしろなにものか(ケルク・ショーズ)がある(イリヤ)のか」(ライプニッツ「自然と恩寵との諸原理」。ドイツ語における非人称の存在表現「エス・ギプト」が、フランス語では「イリヤ」にあたる)が、じゅうぶん一箇の驚きでありうるからだ。
†意味の剥奪[#「†意味の剥奪」はゴシック体]
戦地から生還した者たちのあいだには、しかしべつの存在感覚が芽生えることもありえたにちがいない。「なにものか」と「無」とのあいだのかぎりない隔たりにことあらためて驚くのではなく、在ることのあり[#「あり」に傍点]‐がたさ[#「がたさ」に傍点]に心うたれるのでもなく、かえって世界がいまだ存在することに訝しさをおぼえ、じぶんがなおも生き延びていることにおもい屈してしまう感覚がありうる。――なにもかも変わってしまったのに、なぜ世界は在る[#「在る」に傍点]のか。親しかっただれもかれもいなくなってしまってなお、世界はありうるのか。そうであるなら、世界の存在そのものが無意味ではないだろうか。存在は贈与どころか、むしろ剥奪[#「剥奪」に傍点]、意味の徹底的な剥奪なのではないか。中心を喪失し、意味を剥落させた世界が、なおも存在する。存在しつづけている。そのとき、たんに「ある(il y a)」(それが il そこで y もつ avoir。Avoir は三人称・単数・現在で a)ことが、どこか底知れない恐怖となるのではないか。
レヴィナスはたぶんそうであった。レヴィナスの場合こそがそうであった。一九四六年、レヴィナスは収容所から帰還する。――妻子はブランショと聖ヴァンサン・ドゥ・ポール修道院の修道女たちの尽力で難を免れている。カウナスでは、だがほとんどすべての近親者が虐殺され、ユダヤ人の共同体は根絶やしとなっていた。
3 イリヤの夜から[#「イリヤの夜から」はゴシック体]
†不在の形態[#「†不在の形態」はゴシック体]
世界を戦火に巻き込み、かつてない悲惨をもたらした二度目の大戦が終結する。ひとびとは戦地から帰還し、収容所から解放されて、かつての住居にもどってくる。収容所でも、あるものには家族が失踪したとの報がとどき、またあるものには家族からの返信そのものが途だえている。なにかが[#「なにかが」に傍点]おこっていることはわかっていた(ポワリエとの対話)。
生還してつぎつぎと耳にはいるのは、失踪が〈連行〉であったこと、返信の途絶が〈絶滅〉によるものであったことである。親しい者たちの決定的な不在がたしかめられる。その不在は、しばらくはおよそ耐えがたいものであったにちがいない。それにしても、生き残ったものは生きてゆかなければならない。死者が占めていた場所を、やがて生者が埋めてゆく。喪があければ、日常がはじまる。死者の不在そのものが存在のなかに紛れこむ。
このことは、とはいえ、どこか底なしに恐ろしいことではないだろうか。死は空虚を穿《うが》つ。だが、「イリヤ」のざわめきが、やがてそれを満たしてしまう。「たったいま死んだものによって残される空所が、志願者の呟きによって充たされる」。つねに「存在の否定がのこした空虚を、ある[#「ある」に傍点]が埋めてしまうのだ」(『存在するとはべつのしかたで』)。一九七四年に公刊された第二の主著でも、ことのけはいはなお消えのこっている。
†存在の災厄[#「†存在の災厄」はゴシック体]
砕かれた世界[#「砕かれた世界」に傍点]、親しい者たちという中心を喪失してしまった世界がなお在る。世界から意味がこぼれ落ち、しらじらと漂白されてしまってなお、世界はたんにある[#「たんにある」に傍点]のだ。
親しいものたちの死すら、世界に穴を穿つことがない。無数の死者が持ち込んだ世界の空洞もやがては存在によって埋めつくされる。だとすれば、恐ろしいものは無[#「無」に傍点]ではない。不在が底しれない恐怖を呼びおこすのではない。「ある」が、「イリヤ」こそが底なしの恐怖の対象となる。死すらも呑みこみ、ある意味では死すらがそこで無意味となる、存在が存在すること[#「存在が存在すること」に傍点]そのものが「災厄」なのだ。――物理的に破壊された世界、砲弾によって抉られた街並みはやがて修復される。修復された街並みは無数の死を隠し、穿たれた不在を見えなくさせる。世界内では「あらゆる涙が乾いてゆく」(『存在することから存在するものへ』)。そら恐ろしいのは、そのことである。
†空虚の密度[#「†空虚の密度」はゴシック体]
無は存在しないと、哲学者たちは繰りかえしてきた。レヴィナスがかつて愛読した、ベルクソンもまた説いている。「無」とは、一方では主観的な好みの問題であり、他方では(客観的には)たんなる置き換えであるにすぎない(『創造的進化』)。たとえば、戦火に焼かれ、あるいは災害に襲われた街を歩いてみる、としよう。そこにある[#「ある」に傍点]はずの建物がない[#「ない」に傍点]。ひとは一箇の無[#「無」に傍点]を、あるいは不在をみる。そうだろうか。建物のかわりに[#「かわりに」に傍点]瓦礫があり[#「あり」に傍点]、かつては遠くへだてられていた青空がすぐちかくにある[#「ある」に傍点]。とりあえずは、それだけのことである。――だが、ほんとうにそれだけのこと[#「それだけのこと」に傍点]なのだろうか。ユダヤ人ベルクソンは一九四一年、失意のなか世を去った。ベルクソンの思考はしかし、決定的な意味で〈絶滅収容所以前〉のものではないだろうか。「空虚そのもの、いっさいの存在の空虚、あるいは空虚の空虚」が「存在する密度」が、なおある[#「ある」に傍点](『存在することから存在するものへ』)。
空虚が存在する密度がなおも在る、というレヴィナスのかたり口はいかにも奇妙なものにも聞こえよう。だが、そのように表現しなければ語りえないことがらがある。世界が在りつづける空虚さが、それでも語りだされなければならないのだ。
なにもない[#「ない」に傍点]ことがなおある[#「ある」に傍点]ということ、なにか[#「なにか」に傍点]があるのではなく、ただある[#「ある」に傍点](イリヤ)という事態を考えることができないだろうか。無ではなく、無があるけはいのような存在のしかたを想像すること、覆された世界[#「覆された世界」に傍点]の酷薄さをことばにすることは不可能だろうか。
†沈黙の呟き[#「†沈黙の呟き」はゴシック体]
とりあえず、べつの作品から引用してみる。ジャン・ヴァールのもとめに応え、コレージュ・フィロゾフィックでなされた講演をまとめて、『存在することから存在するものへ』の翌年、活字化された『時間と他者』(一九四八年刊)の一節である。
[#2字下げ] いっさいの〈もの〉、存在者、人物が無へと帰したさまを想像してみよう。われわれは純粋な無に出会うことになるのだろうか。すべての〈もの〉を想像のなかで破壊したのちにも、なにものかではなく、ある[#「ある」に傍点](il y a) ということがらが残る。いっさいの〈もの〉の不在が一箇の現前として回帰する。つまり、すべてが失われた場として、大気の濃密さとして、空虚の充実として、あるいは沈黙の呟きとして立ちもどってくるのである。〈もの〉と存在者とのこうした破壊のあとには、非人称的な、存在することの〈力の場〉がある。それは主語でもなく、実詞でもない、あるものである。それは、もはやなにものもないとき、なおのしかかってくる存在するという事実なのである。その事実はしかも匿名的なものである。だれひとり、あるいはなにひとつ、存在することをみずからに引きうけるものはない。それは、〈雨が降る〉(il pleut) や〈暑い〉(il fait chaud) とおなじように、非人称的である。存在することは、ひとがそれをいかなる否定によって遠ざけようが、回帰してくる。それは、たんに存在することの容赦なさのように、そこにある。
「ある」には容赦がない[#「容赦がない」に傍点]。たんにある、とは酷薄さである。そのような「〈ある〉がふと触れること、それが恐怖なのである」(『存在することから存在するものへ』)。レヴィナスのこのような論じかたの背後には、どのような経験がひかえているのだろうか。
†イリヤの夜[#「†イリヤの夜」はゴシック体]
なにもかも消えてしまって、なおたんにある[#「たんにある」に傍点]。イリヤの経験は、灯かりひとつない夜の闇の経験、しかも子どもが経験するそれに似ている、とレヴィナスはいう。
闇に目を凝らし、微かな音に耳をそばだてようとしても、なにも見えずなにも聞こえない。にもかかわらず「あたかも空虚が充たされ、沈黙がざわめきだっているかのように」感じられる。闇がある[#「ある」に傍点]。それはしかし「存在者」でも「無」でもない(ネモとの対話)。
ベッドに入って、なお眠れず起きつづけているとき、私の意識はしだいに闇そのもののなかに溶け出してしまうように感じられる。私じしんの身体の輪郭さえ闇のなかであいまいとなり、意識は透明にさえわたっていながら、透明となることでむしろ夜そのものと溶け合ってしまう。私が[#「私が」に傍点]起きているのでは、もはやない。「目醒めているのは夜じしんである。〈それ〉(B) が覚醒している」。そうなってしまえば、私はもうどのようにしても眠ることができない。私が[#「私が」に傍点]そう意志して眠らないのではない。なにものかが覚醒しつづけているのだ。その意味で「夜の目醒めは無名である」。あるいは匿名的であり、非人称的である。「この無名の目醒めのなかで、私は存在に残るくまなく曝されている」(『存在することから存在するものへ』)。意味を剥奪された不眠が、イリヤの恐怖に囚われる。
†永遠の不眠[#「†永遠の不眠」はゴシック体]
レヴィナスの説きかたは、なお十分なものではないだろう。もうすこし敷衍しておく。そもそも、なぜ「曝されている」のか。私がもう夜の闇と溶け合ってしまっている以上、私は[#「私は」に傍点]すでにない[#「ない」に傍点]。私がないのだから、私は[#「私は」に傍点]抵抗することもできない。私はイリヤの闇に、存在そのものに徹頭徹尾さらされつづけるほかはない。この事態はしかも、中断しない。私がはじめたのではない以上、私は[#「私は」に傍点]それを中断することができないのだ。この事態にはさしあたり終わりもない。すくなくともいつ眠ることができるのか、私にはわからないからである。それはあたかも、悪夢のように長引かされ、死ぬことも禁じられた、身動きひとつとることのできない生そのもののようである。死ぬことではなく、死ぬことすら不可能なことこそが恐ろしい。はじまりも終わりもないイリヤは、その意味で永遠の恐怖である。
だから、「白昼の夜」もまたありえよう。細密な写実がむしろ幻想に接してしまっている絵画のように、ひとやものがその「厚さ、重さ、大きさ」によって剥き出しの「物質性」のうちに沈みこむ。うすく靄のかかった蜃気楼のような街のなかで、私の存在だけが拒まれ、だが私がそこから立ち去ることもできないような経験がありうるだろう(同)。
引き裂こうにも引き裂けない「無名の存在のざわめき」が告げるものは「ひとには存在する義務がある」、ということである(同)。私が存在するかぎり、私は存在そのものに曝されつづける。イリヤの恐怖は止まない。だが、そうであるとすれば、私が存在することには、たんにある[#「たんにある」に傍点]こと以上の、イリヤ以上の意味があることになる。そうではないか。だとすれば、しかし〈私〉はどのようにして存在しはじめることになるのだろうか。レヴィナスの説くところを、もうすこし辿っておく必要がある。
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第3章 主体と倦怠[#「主体と倦怠」はゴシック体]
――存在することに耐えがたく疲れてしまう
1 存在への倦怠感[#「存在への倦怠感」はゴシック体]
†睡眠の意味[#「†睡眠の意味」はゴシック体]
眠れない夜に、イリヤの恐怖が訪れる。私は非人称的な存在へと融解してゆく。
そうであるなら、眠ること、意識をうしなって睡眠につくことこそが、むしろ〈私〉の獲得である、のかもしれない。身をしたに(ヒュポ)おき横たわること(スタシス)、このイポスターズが、私をとりもどす途ゆきの一歩を刻む。「実詞化(イポスターズ)」、つまり匿名的に存在すること[#「こと」に傍点]から、存在するもの[#「もの」に傍点]がなりたつのは、いいかえれば、動詞としての存在から名詞化された存在者がなりたち、要するに〈私〉が成立するのは、この「避難所」にあってのことなのだ(『存在することから存在するものへ』)。――ふつうなら意識の喪失という意味があたえられ、〈私〉の消失が見てとられる眠りということがらのうちに、レヴィナスはかえってこのように、〈私〉の獲得というできごとを読みとっている。
「イポスターズ」ないし「実詞化」(動詞から名詞への「位相変換」あるいは「品詞転換」)をめぐる問題は、おって考えてゆくことにしよう。まず、〈私〉が在ること、存在することのただなかに私があること、たんに「それがそこでもつ(イリヤ)」のではなく、私が存在(エートゥル)を所有(アヴォワール)する、ということの消息を確認しておく。
『存在と時間』における情態性という論点については、レヴィナスの評価との絡みですでに触れておいた(第1章 思考の背景「2 現象学者として」『不安と先駆』)。ここで、ふたたび立ちかえっておきたい。
†存在の気分[#「†存在の気分」はゴシック体]
情態性《ベフイントリツヒカイト》とは、かんたんにいえば存在すること(ジッヒ・ベフィンデン)の気分である。とりあえずはしかも、現存在が世界のうちで「身体的に存在する様態」に根ざす気分である(『ニーチェ講義』)。胃の不調によって世界が煤けて立ちあらわれ、曇り空が気分をゆううつにさせる。情態性は「主観的であるとともに客観的なものでもある」。退屈な本がひとを倦《う》ませ、倦みはてた気分にたいして世界は退屈な相貌をしめす(同)。
『存在と時間』にあって焦点があてられた情態性は、とりあえずは「不安」であった。一九二九年冬学期の講義では、ハイデガーはじっさい、退屈あるいは倦怠こそが現代の哲学を規定する「根本的気分」であると説いている。世界内存在として、ひとは世界に住まい、世界に「滞在(フェアヴァイレン)」する。その滞在そのものが「退屈(ラングヴァイレ)」をうむ。とすれば、退屈ないし倦怠という気分のうちには、現存在の、ある基本的な時間性が告げられているはずである(全集・第二九/三〇巻)。
レヴィナスもまた「疲れ」や「倦怠感」に、基本的な重要性をみとめている。だが、それはハイデガーとはとりあえず遠くはなれた意味においてである。
†倦怠の意味[#「†倦怠の意味」はゴシック体]
倦怠感に囚われているとき、世界もまた退屈なおもざしをしていよう。世界に興味ぶかいもの、意表を突くものが出現すれば、倦怠はとたんに雲散霧消する。もはや退屈している暇(ヴァイレ)はない。その時‐間がない、繰り延べ(ヴァイレン)は効かないのだ。
だが、よりふかい疲れ、取り戻しようのない倦怠感が存在するのではないだろうか。追いつきようのない疲労があるのではないだろうか。「あらゆることがどうでもよいが、とりわけじぶんのことがどうでもいい、といった倦怠感」(『存在することから存在するものへ』)があるのではないか。レヴィナスとともに、そのように問いかえすことができよう。
世界が倦怠を強いるのではなく、世界のうちに存在する気分が退屈であるのでもなく、じぶんがじぶんであることに、私が〈私〉として存在することに耐えがたく疲れてしまうような倦怠感がある。私は「精霊のように、微笑のように、あるいは吹きすぎる風のように」存在しているわけではない(『時間と他者』)。そのことに私がふと、しかし打ち消しようもなくひどく疲れてしまう、そんな疲労があるのではないだろうか。
†存在と疲労[#「†存在と疲労」はゴシック体]
私はたんに存在しているだけではない。私は、私の存在を引きうけなければならない。「ひとは存在するのではない。ひとはみずからを存在する[#「みずからを存在する」に傍点](on nユest pas, onsユest)」(sユest は破格表現。Est はエートゥルの三人称・単数・現在で、腎re は自動詞だから、再帰代名詞 se をとらない。『存在することから存在するものへ』より)。ひとは存在するだけではなく、存在しなければならない[#「しなければならない」に傍点]。ただある[#「ある」に傍点]だけではなく存在をもって[#「もって」に傍点](たもって)いなければならない。みずからで「在ること」とじぶんを「持つこと」とを二重化したうえで、しかもその存在と所有とが〈私〉において一致していなければならないのだ。所有というこの契機に、私は打ちひしがれ、疲れきり、「みずからの所有の重みに押し潰されてしまう」(同)。
レヴィナスはここで、なにか奇妙なできごとについて語りだしているのではない。レヴィナスが問題としているのは、むしろあたりまえのことがらなのだ。たとえば、肉体的な疲労を例にとってみよう。肉体的疲労とは、まず硬直や麻痺、つまり凝りやだるさである。からだの一部分が鉛のように重い。足がおもうように動かない。足はたしかに〈私のもの〉でありながら、私であることに抵抗している。私の所有は私の存在に追いついておらず、私はもはや身体の一部を手ばなしはじめている。じっさい、この凝り[#「凝り」に傍点]、このだるさ[#「だるさ」に傍点]を私から切りはなすことができれば、どんなに楽になることだろう! そういう疲れがある。肩が、あるいは足が私の所有に叛旗をひるがえして、たんなる存在へと立ちもどろうとしている。私はその存在に立ち遅れてしまっているのだ。疲労がやがて全身へとひろがるとき、私はついに私の存在そのものに疲れきり、倦んでしまう(同)。――だが、この疲れには意味がある。疲労は、私の[#「私の」に傍点]存在にたいする倦怠であるからだ。
†劇場の空虚[#「†劇場の空虚」はゴシック体]
たとえば打ち捨てられた寺院を、あるいは住人たちがすがたを消してしまった廃屋を訪《おとな》うとき、ひとはある疲れをおぼえるかもしれない。そこには、ひとびとのいとなみの影がなお「亡霊」のように住みついており、人間たちがそれぞれに否応なく存在を引きうけ、存在を引き摺っていた痕跡がうかがわれるからである。寺院や廃屋は、ひとの行為と存在のあとを染みつかせて、うらぶれ老いている(『存在することから存在するものへ』)。
だが、おなじように不在を刻んでいても、がらんどうの劇場には「怖ろしいほどにひとのけはいがない」。名優サラ・ベルナールやコックランのけはいなら、あるいは存在するだろう。が、俳優たちが扮した「フェードル」や「シラノ」は「その絶望や悲嘆の跡のひとかけらも」止めていない。名優たちも、演じた役柄の存在そのものを引きうけたわけではないからだ。幕が閉じて照明が落ち、観客が去って、すえたような臭いだけが消えのこる劇場の暗闇には、だからおよそひとのけはいが、それぞれの自己が逃れがたい〈私〉の存在を引きずった痕跡が欠落している。そこには「疲労」もないかわりに生の痕跡もない。舞台がみごとにおわるのは、なにごともじつは始まってはいなかったからである(同)。
†疲労の意味[#「†疲労の意味」はゴシック体]
だとすれば逆に、疲労には積極的な意味があるはずである。私が〈私〉であること、主体の誕生となりたちにかかわるなにかが、倦怠には含まれているはずなのである。じっさい、レヴィナスは書いている。
[#2字下げ] 疲れるとは、存在することに疲れてしまうことである。そのことは、いっさいの解釈のてまえで、疲労の具体的な充実においてそうなのだ。疲労の単純さ、その単一性と暗さにおいて、疲労は存在するものによって存在することへともたらされる遅延のごときものである。この遅延が現在を構成する。存在することにおけるこの隔たりのゆえに、存在は一箇の存在するものと存在することそのものとの関係となる。疲労は、存在における一存在者の浮上なのである。
[#地付き](同)
「存在することに疲れてしまう」とき、私は私の存在に遅れている。この遅れ、「遅延」がしかし本質的なのである。ただ「それが[#「それが」に傍点]そこでもつ(イル[#「イル」に傍点]・イ・ア)」、たんにある[#「ある」に傍点](イリヤ)、のではなく、私が私の存在を所有する。私はこの所有に疲弊している。
この疲労が、ある「隔たり」を、つまり「存在すること(exister)」そのものからの距離をつくりだす。その距離によってこそ、「現在」そのものが「構成」される。かくてはじめて「存在するもの(lユexistant)」、〈私〉という「一存在者」が誕生するのである。この間の消息を、レヴィナスにしたがってなお見ておく必要がある。
2 定位と瞬間から[#「定位と瞬間から」はゴシック体]
†問いの方向[#「†問いの方向」はゴシック体]
ハイデガーのばあい、現存在、つまりそのつど私[#「私」に傍点]のもの(イェー・マイネス)であるような、この現に存在すること(ダーザイン)を通路として、存在することそのものへの回帰の途がたずねられていた。レヴィナスにあっては、これにたいして、イリヤの闇のなかで存在からの隔たりが、つまり〈私〉という存在するもの[#「存在するもの」に傍点]が誕生する瞬間[#「瞬間」に傍点]が問われている。
二九年講義のハイデガーと、『存在することから存在するものへ』のレヴィナスは、おなじく倦怠感に注目しながら、問いの方向においてあきらかに異なっている。レヴィナスが倦怠感に目をとめるのは、ハイデガーとは「とりあえず遠くはなれた意味」(第3章 主体と倦怠「1 存在への倦怠感」『存在の気分』)においてであると語っておいたのは、問いの方向の、この差異をふくんでのことである。
ごく単純にいえば、ハイデガーにおいて尋ねられていたものが、〈私〉から存在そのものへのみちゆきであるとすれば、レヴィナスが語りだそうとするのは、匿名の存在から〈私〉が誕生するみちすじである。そのおおよそを、いま辿りなおしてみることにしよう。
疲労という現象があること、私が〈私〉の存在に疲れ、私のうちで所有と存在が離ればなれになるということが逆に、存在することそれ自体にたいする主体の隔たりをしめしている。そうである以上、主体が存在にたいして残るくまなく[#「残るくまなく」に傍点]従属しながら、なお「主体」となる一般的なすじみちが問題となるはずである。
†疲労と不眠[#「†疲労と不眠」はゴシック体]
いま一度イリヤの夜に立ちかえってみよう。イリヤの闇には、空間的な局所が欠けている。〈ここ〉を〈そこ〉から区別し、空間のパースペクティヴを生むものがない。私がここに[#「私がここに」に傍点]いるではないか。そうもいわれよう。だが、身体の輪郭が闇と溶け合い、意識もまた夜のなかに溶け出している以上、特権的な〈ここ〉はもはやない。あるいはいまだない。
不眠の夜には現在も欠落している。いま私が[#「いま私が」に傍点]たしかに眠りにつくことができない。目を凝らし、耳をそばだてても、いっさいは闇に沈み沈黙が支配している。なにごとも生起しない。そうであるなら、眠られぬ〈いま〉と、やはり不眠をかこっていたいま〈さっき〉とのあいだにどのような差異があるだろうか。金縛りにあったかのように入眠が妨げられつづけて、これから[#「これから」に傍点]の時間が永遠につづく(かのようにおもわれる)なら、時間が時間である意味がこぼれ落ち、〈いま〉が繰り延べられてしまっているのではないか。
そのように考えるなら、疲れきっていること、取りもどしようも追いつきようもなく疲労[#「疲労」に傍点]していることと、イリヤの闇に曝されつづける不眠[#「不眠」に傍点]とは、決定的な一点においてべつのものである。イリヤの夜にあっては、〈私〉が存在のなかに消失しつづけてゆく。疲労において私はむしろ、存在との隔たりをすでに獲得している。私は〈ここ〉で〈いま〉存在に立ちおくれ、疲れてしまっているからだ。
†睡眠と位置[#「†睡眠と位置」はゴシック体]
疲労とは、私と存在とのかかわりをあかすものであった。この疲れは原理的[#「原理的」に傍点]である。つまり無名の存在のうちで、この[#「この」に傍点]私が存在することにかかわっている。
他方で、私が眠ることができるのは私が疲れているからである、と考えることもできる。存在からの、この隔たり(つまり疲労)のゆえに私は眠り、存在することとのかかわりを一時的に中断することができる。その中断において、私は〈私〉となる。
イリヤの夜のなかでなお眠りにつくことが、〈私〉が成立する第一の事件である。さきにそう触れておいた。あらためてレヴィナスのテクストをかいして立ちかえっておこう。
[#2字下げ] じっさい眠りとはなんなのか。眠るとは、心理的かつ身体的な活動を中断することである。しかしながら、宙を漂う抽象的な存在には、この中断のための本質的な条件が欠けている。つまり場所が欠けているのである。睡眠への召喚は、横たわるという行為のうちに現成する。横たわるとはまさしく、存在することを場所に、位置に区画づけることである。
[#地付き](『存在することから存在するものへ』)
たとえばデカルトの「精神」は、身体をもたないことが「可能」である。また、哲学者たちの説く「超越論的」な主観には、そもそも「位置」(ポジション)が欠けている。超越論的主観は眠ることもまたありえない。それは「横たわる」場所をもたないからである。
†定位と身体[#「†定位と身体」はゴシック体]
この私は、これにたいして、「位置」をもつことができる。つまり「定位」(ポジション)している。その定位は、空間中に場を占める、ということではない。むしろそれによって〈ここ〉があらわれ、空間的な分節がはじめて可能となるような原初的なできごとが「定位」なのである。
私には、つまり身体がある。私は身体であることで眠りこむ。イリヤの闇から身をしりぞけて〈私〉となりうる。身体と、身体が占める位置とは、超越論的な主観にたいして私が有する余剰である。この余剰によって、私は〈私〉となることができるのである。
たんに存在するのではなく存在を意識することは、存在からの遅延を、存在を引きうけることの「躊躇」を含んでいる。存在には、かくて「ひだ」の、窪みの次元がある。そのひだ[#「ひだ」に傍点]が意識の〈ここ〉である。意識はここ[#「ここ」に傍点]で世界を集約する。しかし「意識がここにあるという事実そのものは、意識的ではない」(同)。レヴィナスによれば、それは意識に先だつ「定位」であって、身体と睡眠があらかじめ可能となる次元にほかならない。
だが、永遠に眠りつづけることはできない。覚醒の瞬間がある。そうであるとすれば、眠りこむことによる〈ここ〉の獲得はなおことがらの半面にしか達していない。イポスターズ(実詞化)の謎、私が〈私〉となる事件はいまだ解かれていない。瞬間の成立が、〈いま〉のなりたちがさらに問われなければならない。
†覚醒の瞬間[#「†覚醒の瞬間」はゴシック体]
覚醒とははじまり[#「はじまり」に傍点]である。だが、はじまりとはなんだろうか。
永遠の存在のうちに〈いま〉を刻みこむこと、存在[#「存在」に傍点]することの現在を獲得することによって、主体はなりたつ。主体は、だから一箇の〈はじまり〉であり、しかも不断のはじまりである。主体は、イリヤの永遠のうちで(アン)立ちとどまり(スタンス)、「瞬間(アンスタン)」を、〈いま〉を形成する。このとき[#「とき」に傍点]、現在そのものが開始される[#「現在そのものが開始される」に傍点]。ちょうど、〈ここ〉という定位が空間それ自体を分節したように、である。「瞬間が存在一般の匿名性を中断する」(『存在することから存在するものへ』)。瞬間はしかし、ほんとうは立ちとどまることがない。瞬間を獲得するとは、絶えまない「努力」であり、消え去ってゆく瞬間に追いつき、瞬間とのみずからの隔たりを回収しようとすることなのである。
「はじまりの瞬間には、すでになにか失うべきものがある」、とレヴィナスはいう(同)。なぜだろうか。はじまりにおいては、なにものかがすでに所有されているからである。それがはじまりの瞬間それ自体[#「瞬間それ自体」に傍点]であるにせよ、すでに所有されているからだ。はじまりをはじめること自身において、このはじまりの瞬間そのものが喪われる。そうであるとすれば、はじまり、もしくはなにごとかをみずから[#「みずから」に傍点]はじめることは瞬間の獲得であり、同時にその喪失である。あるいは、失うことではじめて手にされるような開始である。「瞬く光」の煌《きらめ》きは「消えることで存在する」からだ(同)。
†主体と現在[#「†主体と現在」はゴシック体]
「希望は、それが許されないときにはじめて希望となる。希望の瞬間において取りかえしのつかないものとは、希望の現在それ自体である」(同)。「サルトルの哲学」がどこかその響きをのこしているような「天使的な現在」はありえない(『時間と他者』)。疲労のない現在、あるいは努力を欠いた現在はありえない。
疲労とは「存在することへともたらされる遅延のごときもの」であった(第3章 主体と倦怠「1 存在への倦怠感」『疲労の意味』の引用)。存在することにたいするこの「隔たり」のゆえに、「疲労は、存在における一存在者の浮上」、つまり〈私〉のなりたちを告げることがらとなる(同)。そうであるとすれば、現在を獲得しようとする「努力」つまり主体であろうとする「労苦」と、疲労[#「疲労」に傍点]とはべつのものではない。疲労のはての倦怠とは、この努力の放棄である。放棄がそもそも可能であることが、現在の獲得を、つまり〈私〉の成立を、存在への「従僕(シュジュ)」であることのただなかにおける「主体(シュジュ)」のなりたちをさかのぼって示している。
このような意味で、「現在とはひとつの主体の成就である」(『存在することから存在するものへ』)。だが、ここには、なおある困難が封印されている。ひとつには主体の誕生をかたることそのものにまつわる困難が、いまひとつには現在そのものの逆説が伏在している。
3 未‐来の他性へ[#「未‐来の他性へ」はゴシック体]
†主体と反省[#「†主体と反省」はゴシック体]
目のまえのできごとについてなら、私はその生成と消滅を、特定の視点から語ることができる。炎であるならたとえば、私の目のまえで生まれ、たえず生滅をくりかえし、やがて鎮火する。「火は燃えながらみずからの存在を消尽してゆく」(『存在することから存在するものへ』)。私はその一部始終を、要するに時間的なその推移を観察することができる。
主体の誕生について問うことは、これにたいして、それじたい逆説的なできごとである。すくなくとも困難なことがらである。どうしてだろうか。
私が〈私〉の誕生について問題とするとき、〈私〉はすでになりたっているからである。私がたんに存在するのではなく、この私[#「この私」に傍点]が私にたいして存在し、私は〈私〉を所有している。主体の成立を見とどけようとするどのような反省も、〈私〉がなりたつ瞬間にさかのぼり、それに追いつくことができない。
レヴィナスは、デカルトのコギト(私は考える)以来、くりかえし問われてきたこの難問に、時間論的なこたえを与えようとこころみる。そのすじみちを辿ってみよう。
†現在の逆説[#「†現在の逆説」はゴシック体]
主体の成立は、いつでもあとからそれ[#「それ」に傍点]として気づかれる。私はつねに〈私〉の誕生に遅れている。あるいは、私が成立していた瞬間があとからそれ[#「それ」に傍点]として劃定《かくてい》されることそのものが、〈私〉の誕生なのである。――はじまりは、一般にただたんに存在するだけではない。「はじまりは自己じしんへの回帰においてみずからを所有する」(同)。主体のはじまりもまた、回帰によってはじめて開始されるような開始であり、開始であることが回帰であるようなはじまりである。それは折れかえり[#「折れかえり」に傍点]という意味で「反省」(同)なのである。
このことはひとつには、現在それ自体の逆説と関連している。ある意味では現在しか存在しない。過去は過ぎ去り、未来はまだない。ある意味ではしかし、現在は存在しない。現在はただちに過ぎ去り、気づいたとき[#「とき」に傍点]にはもはやない。だから、主体が存在するとすれば、それは一方では現在においてのみ存在する。だが他方、主体の誕生の瞬間はいつでも遅れて主体に到来する。抵抗による回帰、反省[#「反省」に傍点]によってのみ主体は到達されるのである。
客観的な[#「客観的な」に傍点]時間の内部でも、瞬間は存在する。それはたとえば、数直線のようにイメージされた時間線の切断として存在する。そのような時間にあってもまた、「瞬間の順序」は存在するであろう。時間線に方向をあたえることで、瞬間の順序が考えられる。欠けているのは「中心的な瞬間」、つまり「〈現在〉という比類のない瞬間」である(同)。
それでは、現在という瞬間、主体の瞬間は、純粋な持続[#「持続」に傍点]のうちに、ベルクソン的な〈内的時間〉、主観的な[#「主観的な」に傍点]時間のうちにあるのだろうか。そうではない。純粋持続の「完璧なモデル」はメロディーである。メロディーのなかに、だが瞬間はない。瞬間は旋律のうちに溶け込んで消えているからである。消失するのを拒むのは、むしろ「調子はずれの音」なのだ。現在はここでも「抵抗」と「努力」によって獲得される(同)。
現在はあくまで「担いとられる」ことで現成する。現在を引き受け、担うのは主体であり、この〈私〉である。このことは、しかしなにを意味するのであろうか。
†主体の存在[#「†主体の存在」はゴシック体]
主体は、瞬間を現在として掴みとり引き受けて、存在するものとなる。あるいは、この[#「この」に傍点]私となる。主体である私は、たんにあるのではなく、私の存在を所有することになる。
私が私をもつことになる、存在を所有するにいたるのは、私が私のうちで折れかえり、私へと回帰することによってである。この折れかえりないしは回帰が開始であり[#「回帰が開始であり」に傍点]、つまり主体としての〈私〉の誕生であった。――〈私〉とはかくして、存在[#「存在」に傍点]であるまえに〈できごと〉である。存在の「原初的所有」というできごとなのである(『存在することから存在するものへ』)。主体である〈私〉は、現在という瞬間において不断に存在を所有する[#「存在を所有する」に傍点]。
現在とは、かくて主体の現在、主体の所有する現在である。主体は現在を獲得することで、同時にまたふたたび存在に緊縛される。主体は存在を所有することで、存在によって所有されることになる。主体が現在であるかぎり、主体はどうあっても存在しなければならない。〈私〉は現在のうちで存在しつづけなければならないのだ。
†主体の悲劇[#「†主体の悲劇」はゴシック体]
これは一箇の「悲劇」ではないだろうか。ある[#「ある」に傍点]ことの、イリヤの仮借なさが、いまや現在のうちへと移されている。つまり私が〈私〉でありつづけることの容赦なさ、吐き気を催すほどの仮借なさ(第2章 存在と不眠「1 大戦の終結まで」『逃走と嘔吐』参照)、である。レヴィナスの思考はここで、そのそもそもの出発点にあらためて到達したことになる。
[#2字下げ] 現在は存在に従属している。現在は、存在にかしずいているのである。〈私〉は運命的に自己へと立ちもどる――私は眠りのなかでみずからを忘れることはできるが、やがて覚醒があるだろう。はじまりの緊張と疲労のなかで、存在することの仮借なさによって、冷たい汗が玉のようになる。引き受けられた存在は重荷である。このことによって、存在することの悲劇と呼ばれるものが、その起源において把握されるのである。
[#地付き](同)
悲劇は、自由と運命との相克から生じるのではない。悲劇は、人間存在の有限性から生まれるのでもない。存在することの悲劇とはむしろ、私が「現在」であり、現在が「存在に従属し」、したがって私は現在の存在のうちに閉ざされて、ついに〈私〉でしかありえないことである。存在することのこの「重荷」が「自由」を凍てつかせる。自由と運命が抗うのではなく、存在することの自由がそれじたい「運命」へと変容してしまう(同)。
主体は現在にある。〈私〉はそのことで「自己へと釘づけにされて」いる。「同一性」の起源は、ここにある。同一性は「主体の同一化というできごと」を、つまり私が〈私〉でありつづけるという、存在することそのものの悲劇を内含している(同)。とはいえ、この悲劇には終局が、運命には出口がないのだろうか。
†同一性の檻[#「†同一性の檻」はゴシック体]
私は「じぶん自身を振りほどくことができない」(『存在することから存在するものへ』)。私が私の性格から、職業から解放されることがない、ということではない。私は現在を掴みとることで〈私〉となる。私は私であること[#「私であること」に傍点]に繋縛され、私としてつねに同一化[#「同一化」に傍点]されている。私は厳密な意味でみずからと等しい。この同一性の檻に私は囚われている。
この「現在」がつねに「自己から到来するなにものか」(『時間と他者』)であるかぎり、つまり現在がつねに現在であり、存在するものがいつでも現在にある以上、この同一性には綻びがない。それは原初的な同一性である。私である[#「私である」に傍点]という宿命には出口がない。
そうだろうか。私は定位することによって〈私〉となるのであった。定位するとはさしあたり、身体であることでも[#「も」に傍点]ある。身体である私は、たえず外部に曝され、外部を内部とすることで、また内部を外部化することで生きているのではないか。――この問題については、レヴィナスのふたつの主著を問題とする脈絡で、それぞれにあらためて問うことにしよう(第4章 享受と身体「3 身体であること」、第7章 問題の転回「3 身体性のかたち」参照)。さしあたりの問題はべつのところにある。
†時間と他者[#「†時間と他者」はゴシック体]
現在が自己から到来するものであるならば、それは時間の一部ではありえない。つねに現在でありつづけるものは時間ではない。だから、現在のうちにありつづける〈私〉には、時間がなお欠けている。「他の瞬間」がかりに「絶対的な他性」を有している、つまり、この現在とは端的にことなった未来[#「未来」に傍点]であり、そのことによって時間そのものをもたらすとするならば、そうした瞬間は〈私〉のうちには生じない。「時間」は要するに、「単独な主体のうちには出現しない」のだ(『存在することから存在するものへ』)。
とはいえ、端的に〈私〉の同一性を破綻させるもの、私が私である[#「私である」に傍点]ことを綻ばせ、主体による、みずからの存在の支配を終了させるものがある。つまり、現在を縺《もつ》れさせ、私の支配のそとにある他の瞬間を招きよせるものがある。それは私の死である。
死はさけがたく到来する。私が死ぬということは、「その存在そのものが他であること(アルテリテ)であるような、なにものか」と私が関係しているということである。死とは「他性(アルテリテ)」そのものである。しかも予感される死は死そのものではなく、死の経験は同時に経験する主体の消滅である以上、死という他性は絶対的な他性であり、「全面的な他性」である。死とはけっして現在と地つづきにならず、端的に「未来」であるようななにものかにほかならない(『時間と他者』。なお、講義録『神・死・時間』をも参照)。
だが他者もまた、〈私〉にとって端的に他なるもの、絶対的な未‐来なのではないだろうか。そうであるとすれば、問題はここで終わらない。むしろここからはじまることになる。
[#改ページ]
第U部 展開[#「展開」はゴシック体] 〈他者〉を迎え入れることはできるのか
――第一の主著『全体性と無限』をよむ[#「第一の主著『全体性と無限』をよむ」はゴシック体]
[#改ページ]
第4章 享受と身体[#「享受と身体」はゴシック体]
――ひとは苦痛において存在へと追い詰められる
1 主著の公刊まで[#「主著の公刊まで」はゴシック体]
†未来と他者[#「†未来と他者」はゴシック体]
私の死は、私の現在に回収されない。死は断じて現在との関係に入ることがない。前章の末尾で確認されたのは、このことであった。
そうであるとすれば、死という全面的な[#「全面的な」に傍点]他性はただ他者を経由してのみ私の現在に手繰りよせられる、と考えることも可能である。「未来との関係」をひたすら「他者との対面」のうちにもとめてゆくことも可能であるとおもわれる(『時間と他者』)。
私の死は、私にとっては絶対的に他なるもの、現在に回収されないものである。だから、「死は他者のうちにのみ現前[#「現前」に傍点]している」(『全体性と無限』)と、レヴィナスは考える。死と他者とは、そのいずれも私にとって絶対的に他なるものであるという一点において、いったんはむすびあう。未来もまた、それがまさにいまだ来らず、未知であるかぎりにおいて、絶対的な他性によってしるしづけられる。他者とは、それゆえ、絶対的な未来でもある。
この間の消息にかんしては、とはいえ、レヴィナスの主著そのものについて検討するほうが適当であろう。第U部では、第一の主著となる『全体性と無限』をとりあげることにする。ここではまず、主著の公刊前後にいたるレヴィナスの足取りを、レヴィナスをかこむ状況とのかかわりにも最小限ふれながら、かんたんに辿っておくことにしたい。
†戦後の履歴[#「†戦後の履歴」はゴシック体]
一九二九年レヴィナスが、フッサールにかんする博士論文を提出したことはすでに見た。正確にいえば、これは大学院の課程修了論文にあたるものであり、国家博士論文とはべつである。後者をレヴィナスは、一九六一年、『全体性と無限』によって取得することになる。おなじ年、レヴィナスはポワティエ大学助教授に迎えられ、はじめて大学に籍をおく。
時間をすこしさかのぼっておこう。二九年の博士論文は翌年ヴラン社から出版され、さきに触れたように、三一年レヴィナスはフランスに帰化する。とはいえ、「教授資格試験(アグレガシオン)」を受験していないレヴィナスに、大学での教職の途はひらかれていない。同年レヴィナスは、「全イスラエル同盟」(一八六〇年にパリで創設された、世界最初の国際的なユダヤ人相互扶助組織)に勤務することになる。
第二次大戦のさなか、レヴィナスの妻子は「同盟」から経済的な援助をうけていた。収容所から帰還したレヴィナスはふたたび同盟に復帰し、東方イスラエル師範学校の校長となる。師範学校は「同盟」にややおくれて一八六七年に創立され、レヴィナスが第六代目の校長にあたる。パリにあるその学校では、地中海沿岸各国の優秀なユダヤ人少年があつめられ、フランス政府の教員試験にそなえる一方で、ヘブライ語、ユダヤ教学もおしえられていた。レヴィナスは以後、三十三年間にわたり、ユダヤ人子弟の教育に携わり、他方ではタルムードの研究と講義にも従事することになる。
†イスラエル[#「†イスラエル」はゴシック体]
レヴィナスが東方イスラエル師範学校の校長職についたのは、一九四六年のことである。翌々年、国家としてのイスラエルが独立を宣言し、第一次中東戦争がはじまる。五〇年代、レヴィナスは最初のイスラエル旅行をこころみている。イスラエルにレヴィナスは、故郷カウナスの再生をみたともいわれる。
イスラエル問題は、レヴィナスに共感を抱く者の〈躓きの石〉でありえよう。レヴィナスは、イスラエルとは「他の国家とならぶひとつの国家」ではない、それはむしろ「世界にたいする抗議」なのだ、と語る(『困難な自由』一九六三年刊)。レヴィナスは他方、パレスティナ人の虐殺にふかく困惑し、ナチスの記憶、「ホロコースト」の記憶に正当化をもとめる者たちをつよくたしなめている(一九八三年、『ヌーヴォー・カイエ』誌での対話)。
問題に、この本ではこれ以上たちいることはできない。ひとつのできごとについてだけ触れておく。サルトルとの関係にかかわる有名なエピソードである。
†一通の消息[#「†一通の消息」はゴシック体]
一九六四年、ノーベル賞を拒否したサルトルにレヴィナスは手紙をおくる。サルトルは、みずからを現象学へとみちびいた著者の名を失念していた。時代がレヴィナスの名を忘却していたこと、時代はむしろサルトルのものであったことを語りだすさいに、かならず引き合いに出される挿話である。だが、レヴィナスはなぜサルトルに手紙を書いたのか。
中東和平のために、である。栄誉ある賞を拒否したことで、サルトルは語る権利をもつ「唯一の人間」となった、ナセルのもとに赴き和平を提案せよ、「あなたはナセルが耳を傾ける唯一の人間でしょう」。レヴィナスは、そう書いたといわれる(ポワリエとの対話)。
時代は今日ではサルトルを忘却しはじめ、そのことでレヴィナスの名が舞台の前面に登場したかにもみえる。だが、両者のなまえを単純な対立関係のうちにおくことは、あるいはやや安易にすぎるかもしれない。サルトル歿後、レヴィナスは証言している。
[#2字下げ] 私はサルトルにたいして、(サルトルを裁くことができると思い上がっている恩知らずたちには気にさわるでしょうが)その明白な天才にたいして、その活力と激烈さ、その軽率さにたいしてすら、大きな賛嘆をおぼえます。
[#地付き](同)
サルトルはのちに、イェルサレム大学の名誉博士号を授与される。老サルトルは拒絶しなかった。パリで授与式がとりおこなわれたとき、祝辞をのべたのはレヴィナスである。
†著書の反響[#「†著書の反響」はゴシック体]
レヴィナスが戦後最初の著書を公刊したとき、とはいえ、時代はたしかにサルトルのものであった。たんにあること、即自存在への「吐き気」を説き(第2章 存在と不眠「1 大戦の終結まで」『逃走と嘔吐』参照)、意識(対自存在)の自由をあかして、状況への「参加」を呼びかける哲学のものだった。そのなかで『存在することから存在するものへ』(別様に訳せば、『実存から実存するものへ』)は、一種、場ちがいな異物であったであろうことは、じゅうぶんに想像可能である。
レヴィナスの戦後はじめての著書は、じっさいたいした反響もよばず、しばらくは埋もれていった。おそらくはふかく感応したわずかな例外は、バタイユとブランショである。
一時期、サルトルの主催する『レ・タン・モデルヌ』誌に結集した知識人のなかでは、もしかするとメルロ=ポンティが例外であるかもしれない。メルロ=ポンティは同誌に、T・Mという署名入りで、レヴィナスの他の論文を好意的に紹介したことがある。メルロ=ポンティの遺稿は、ある箇所で「世界」の「ある(イリヤ)」について語っている(『見えるものと見えないもの』)。――第一の主著『全体性と無限』を公刊した年、レヴィナスはコレージュ・フィロゾフィックで、「人間の顔」と題して講演した。出席していたメルロ=ポンティの反応は、だが、好意的なものとはいえなかったようである。
†了解と包摂[#「†了解と包摂」はゴシック体]
一九五一年レヴィナスは、重要な論文を発表している。「存在論は根源的か?」という題名をもつ小論である(『われわれのあいだで』一九九一年刊、所収)。一九四九年、『フッサールとハイデガーとともに実存を発見しつつ』という一書をも刊行したレヴィナスによる、公然たる哲学的なハイデガー批判である。
ハイデガーによれば存在者との関係は「了解」に帰着する。存在者を了解すること、たとえば、手もとにあるハンマーを手にとり、その手ごろさを発見することが、存在者を存在者として存在させることである(第4章 享受と身体「2 享受することで」『目から手へ』参照)。だが、他者との関係はどうだろうか。
他者を「了解」することも、もちろんありうる。とはいえ他者は了解をはみ出し、他者との「関係は了解を溢れ出してゆく」のではないだろうか。他者を了解するとはむしろ、他者が私の知のいっさいから逃れ出る存在であることを理解することではないか。レヴィナスは、そのように問題を提起する。――「了解(コンプランドゥル)する」とは、なにほどかは「包括すること(コンプランドゥル)」でもあるだろう。だとすれば、そうした包摂の対象とはなりえないもの、それゆえにすぐれて「対話」の相手となるものをこそ、ひとは「他者」と呼ぶのではないだろうか。
『全体性と無限』における批判的論点は、原理的な次元ではほぼ出そろっている。十年ののちに公刊されるにいたった、レヴィナスの第一の主著にむかうべきときである。
以下でも、とはいえ、戦後まもなく出版された著作から、なお繰りかえし引用されるはずである。そこではいっけん雑多なかたちで展開されていたかにみえる思考の動機が、どのようなかたちで整理され、位置を獲得してゆくのかを検証するためである。
2 享受することへ[#「享受することへ」はゴシック体]
†具体的思考[#「†具体的思考」はゴシック体]
『全体性と無限』においてレヴィナスは、みずからの哲学的構想をはじめて系統的なかたちであきらかにする。この章では以下、同書で展開された議論の一部――とはいえ、レヴィナスを理解するうえでたぶん本質的な一部――をかいま見ておくことにしたい。
レヴィナスの第一の主著がこころみるのは、ひとことでいえば〈具体的なもの〉の思考である。レヴィナスは生の具体的な細部において、〈他なるもの〉が到来するさまをえがきだす。その手法はさしあたり現象学的なものであるといってよい。レヴィナスによれば、現象学とは「具体的に思考する方法」なのである(マルカとの対話)。
一見したところ、レヴィナスそのひとと、数学研究から出発し、イデア的なものの根拠をもとめて意識の領野をさぐり、(世界にあるすべてのもの・ごとを「意味」において構成する)超越論的主観性の次元を手ばなそうとしないフッサールとのあいだには、ただならぬ距離がひろがっているようにも見える。だが、そうではない、そう考えるものは、フッサールにおける「価値的な志向性」の意義をわすれているのだ、とレヴィナスはいう(ネモとの対話)。まずは、フッサールの所論に触れることを手がかりに考えはじめてゆこう。
†価値の志向[#「†価値の志向」はゴシック体]
超越論的現象学の立場をはっきりと打ち出した(いわゆる中期の)フッサールは、日常的な交渉をつうじて示される世界は「価値の世界」「実践的世界」としても現に存在すると説いている(『イデーンT』一九一三年刊、第二七節)。世界は、認識にたいしてだけでなく行為と実践にとっても、つまり〈目〉のまえに、ばかりではなく〈手〉にたいしても開かれている。〈善〉いもの、〈悪〉いもの、手に取るべきもの、手で払いのけるべきものが、じっさい世界には存在する。目による対象の認知もまた、そうした価値的な色づけに浸されているのだ。――目は〈手〉に仕えている。対象の真なる[#「真なる」に傍点]ありかたをとらえる「知覚(ヴァール[#「ヴァール」に傍点]ネーメン)」には、対象の評価や享受とむすびあう「価値[#「価値」に傍点]知覚(ヴェルト[#「ヴェルト」に傍点]ネーメン)」が平行し貼りついているのである(草稿『イデーンU』第四節ほか参照)。
フッサールにあっても、たしかに、「価値的な志向性」にそれなりの位置があたえられていることはまちがいがない。だが、なお考えておくべきことがらがある。
目はなるほど手に仕えている。とはいえ、手でとらえられるものは、それ以前に〈目〉によってかたどられている、とフッサールは考える。フッサールにあっては、「物質的な実在」の優位、純粋に〈知ること〉の対象が有する第一次性は、うごかしがたい前提であった。だが、その前提そのものはほんとうに疑いえないものなのであろうか。
†目から手へ[#「†目から手へ」はゴシック体]
異論をとなえたのは、さしあたりはシェーラーであった。そもそも世界それ自体は「没価値的」なありかたをしている、世界の意味はまず認識にたいして、〈目〉をつうじてあかされるというのが、抜きがたい偏見の一種なのではないだろうか(『人間における永遠的なもの』)。手[#「手」に傍点]こそが、(目いぜんに、目にもまして)世界にかかわる第一の器官なのではないか。ハイデガーにおける〈手〉の隠喩系の浮上は、現象学じたいのこうした転回のうちにある。
〈目〉でとらえられた、対象の認知的な意味のうえに、〈手〉にかかわる性質がいわば上乗せされる。世界の物質的な層(シヒト)のうえに、その価値的な性格が重畳してゆく。こうした積み上げ法(アウフシヒトゥング 成層法)による世界理解は、しかし、さしあたり・たいてい与えられている世界のあらわれと、世界内部的な存在者とをいきなり「飛び越えて」しまっているのではないだろうか(『存在と時間』第二一節)。
世界のなかで出会われる存在者は、〈目〉のまえに[#「まえに」に傍点]、手もとをはなれて在るもの(フォア[#「フォア」に傍点]ハンデネス)である以前に、〈手〉(ハント)とのかかわりのうちで、手にたいして[#「たいして」に傍点]存在しているもの(ツー[#「ツー」に傍点]ハンデネス)である。ハンマーはなにより手ごろな道具である。ハンマーを手にとって釘を打ちつけること自体が、ハンマーの手ごろさ(ハントリッヒカイト)を発見する。世界のうちに在る〈もの〉たちは、あらかじめ道具として在る。世界はすでに人間たちによって住みこまれ、〈もの〉たちはつねに使いこまれているのだ(同・第一五節)。ハイデガーはおおよそそのように主張する。
†道具の連関[#「†道具の連関」はゴシック体]
「広義の関心(インテレッセ)」とは、対象の「もとに在ること[#「在ること」に傍点](ダーバイ・ザイン[#「ザイン」に傍点])」であり、存在のただなかに存在すること[#「存在すること」に傍点](インター・エッセ[#「エッセ」に傍点])であると、フッサールもつとに論じていた(草稿『経験と判断』第二〇節ほか参照)。存在者はまず関心にたいして、しかも具体的で実践的な関心のまえに開かれる。世界は行為するものにたいして広がっている。ことはたんに、いわゆる(せまい意味での)道具[#「道具」に傍点]にはかぎられない。水の流れは、たしかに〈目〉を楽しませ、せせらぎは耳にもここちよい。だが、川の水はなにより〈手〉にたいして与えられているのではないだろうか。つまり河の流れもまずは(ひろい意味での)道具的な存在者ではないか。じっさい水の流れは畑を潤し、ひとはその流れを利用して水車をまわす。世界の総体は、とりあえずなにかの「ために(ウム・ツー)」あたえられている。
世界はハイデガーの分析にたいして、広義の道具の連関として、その有意義性において立ちあらわれる(第1章 思考の背景「2 現象学者として」『存在の意味』参照)。そうであるとすれば、ハイデガーの主張は、裸の事物にたいする道具の優位といった性格のものではない。それはなにより、世界の見かたの転換なのだ。
とはいえ、そのみごとな分析にも、やはりまた死角があるのではないか。川の水はたしかに〈手〉とのかかわりで与えられている。だが、まずは水を掬ぶ手[#「水を掬ぶ手」に傍点]にたいして、喉の渇きを潤そうとする手にたいして与えられている。つまり、手に先だってむしろ〈口〉とのかかわりで開かれているのではないだろうか。
†道具と資源[#「†道具と資源」はゴシック体]
ハンマーがハンマーであるのは、作業場においてである。ハンマーによって打ちつけられる釘、作業をおこなう机、さらには仕事場の全体が、ハンマーの手ごろさを裏うちしている。ハイデガーが好むのは、こうした、いわば手[#「手」に傍点]作業の現場という比喩であった。
ハイデガーのいう道具の連関としての世界が、だがどこよりも明確なかたちであらわれるのは、戦場や兵営においてである。すべてが「資源」として、「戦争資材」として整序され、道具全体性[#「全体性」に傍点]のうちに立ちあらわれるのは「軍隊の兵站部」にあってのことなのである。日常性にかかわるハイデガーの分析は――おそらくは期せずして――総力戦の現実を映し出していたのではないだろうか(『存在することから存在するものへ』)。
とはいえ、兵站部にあってすら、いっさいが「道具」であるわけではない。「兵営」そのものや「掩蔽壕」は資材ではない。それらはなにかのために[#「ために」に傍点]ある道具ではない。むしろ、それによって[#「によって」に傍点]生きられる「糧」である。――もちろん、兵営は寝るために[#「ために」に傍点]、掩蔽壕は隠れるためにある。だが、この「ために」は、もはやそれ以上の「ために」を指示しない。道具連関はそこで止み、むしろそれ自体が「目的」となり「糧」となる。衣服や食料そのものはまして資材ではない。レヴィナスによれば、それは典型的に「糧」である(同)。
†手から口へ[#「†手から口へ」はゴシック体]
分析が「道具」としてのありかたに止まり、「糧」へと突きぬけていかないのは、「ハイデガーの現存在が飢えをまったく知らない」からである(『全体性と無限』)。飢え、渇く存在、ひとが現にそうであるような存在から出発するかぎり、世界はまたべつの様相において立ちあらわれよう。渇きを癒し、飢えを充たすもの、ひとがその由来も知らず、ひとがそれを所有することもできない、世界のある様相が、「糧」としての相があらわれる。
[#2字下げ] 私をささえる大地の堅固さ、私の頭上の空の青さ、風のそよぎ、海の波浪、光の煌きは、なにかの実体に貼りついているのではない。それらはどこでもないところから到来する。どこからともなく、存在しない〈なにものか〉から到来し、現われるなにものもないのに現われ、したがって、私にはその源泉を所有[#「所有」に傍点]することができずに不断に到来する[#「不断に到来する」に傍点]のである。
[#地付き](同)
「不断に到来する」もの、私がつくりだしたのではなく、私が利用するのでもないもの、かえって私がそれによって[#「それによって」に傍点]生きている糧を消費することが、世界の「享受」(ジュイサーンス)である。世界はたしかに目のまえにひらかれる以前に〈手〉とのかかわりで与えられている、のかもしれない。だが、世界は手に先だって〈口〉にたいして与えられているのだ。そうでなければ、そもそも世界内の、この生そのものが不可能[#「生そのものが不可能」に傍点]ではないか。ことがらのこの消息を、レヴィナスとともにもうすこし掘りさげておく必要がある。
3 身体であること[#「身体であること」はゴシック体]
†世界と超越[#「†世界と超越」はゴシック体]
存在者が在るということ、たとえば頭上にひろがる空の青さがあること、私をささえる大地の堅固さがあること、風のそよぎ、光の煌きがあるということ、これらはすべて、私とのかかわりにおいてあることだ。私の、現にある存在(ダーザイン)とのかかわりにおいて、世界もまた現にそのように存在している。そう考えることができる。
存在者は現象する。存在者は、だが私にたいしてあらわれる。世界(ヴェルト)はたんにあるのではない。世界は世界化する。つまり世界になる(ヴェルテン)。現存在(ダーザイン)の「超越(トランスツェンデンツ)」によって世界が世界となる。現存在は、その意味で世界を構成するもの、つまり「超越論的(トランスツェンデンタール)」なものである(ハイデガー「根拠の本質について」一九二九年刊)。そのように考えることもできよう。
そうだろうか。ハイデガーの(前期)思考はなるほど、現存在と世界との緊密なむすびあいを印象的なしかたでえがき切っている。そこではしかし、世界が否応なく在るということがらの消息が、なにほどか見うしなわれているのではないだろうか。有無をいわせず在りつづける世界が私を囲み、その世界に私は支えられている。そうではないか。レヴィナスとともにそう反問することが、なお可能であるようにおもわれる。
†始原的世界[#「†始原的世界」はゴシック体]
たしかに、私が[#「私が」に傍点]大地のひろがりを見わたし、海のふかさを感じとる。たそがれのなかで色づき、やがて闇に沈んでゆく大地が[#「大地が」に傍点]、朝日がそこから生まれ、ほどなく太陽と番《つが》い、陽光のなかで煌く波浪が[#「波浪が」に傍点]、とりあえず私にたいして[#「私にたいして」に傍点]存在している。私の「視線」が大地と海、海原と空とをとらえてゆく。だが、青空は、海原と大地は、やがて私の「視線を引き延ばし、大地と空のうちに消失させる」(『全体性と無限』)のではないだろうか。天と地のひろがりのなかで、かえって〈私〉が消失してしまうのではないか。
大地のひろがり、海の「ふかさ」は、私とはかかわりなく、しかし私をつつみ、たんにある[#「ある」に傍点]。大地は、海は、また大気は、際限のないもの(ト・アペイロン)として、あるいは汲み尽くすことのできない始原(アルケー)として、そこにある(イル・イ・ア)。ミレトスの哲学者たちは、たとえば「水」を(タレス)、たとえば「大気」を(アナクシメネス)、無際限なものとして(アナクシマンドロス)、アルケーとして語りだした。とりあえず大地であり水であり、火であり、大気あるいは風であるもの、すべてがそこから生まれ、そこへといっさいが滅んでゆくものをレヴィナスは、「始原的なもの」(四士ent エレマン 元素・元基)とよぶ。ひとは始原的なもの、エレマンをこそまず「享受」するのだ。
「世界は道具の体系であるまえに、糧の総体である」ということが、ハイデガーの目から(すくなくとも『存在と時間』における日常性の分析からは)こぼれ落ちている(『時間と他者』)。世界が世界として立ちあらわれるためには、ひとがまず生きていなければならないということ、ひとが生きているのは「世界によって養われている」ことにほかならないという、ことの消息をハイデガーは見のがしている。そうレヴィナスはいう(『全体性と無限』)。
†〈同〉と〈他〉[#「†〈同〉と〈他〉」はゴシック体]
光のなかで〈もの〉のかたちが顕わになり、大地がすがたを現わし、寄せくる波が露わになる。このことを、私の意識が[#「意識が」に傍点]光のなかでもの・ごとのかたちをかたどってゆく、と表現することもできる。光とはそのばあい、光線そのものであるとともに、意識の明るみ[#「明るみ」に傍点]自体のことである。〈もの〉たちは「光に照らされて意味をもち、その結果、あたかも私に由来するものであるかのように存在する」(『存在することから存在するものへ』)。
意識はここで[#「ここで」に傍点]世界を集約している。あるいは〈ここ〉で世界を表象している、といってもよい。世界はたしかに私の外部に、私とは独立に存在している。とはいえ、意識によって集約され表象された世界は、なにほどかは〈私〉のうちに取り込まれている。私が〈私〉であるという同一性、この〈同(ル・メーム)〉の内部に回収されているのである。世界はなるほど私ではないもの、私とは〈他なるもの(ル・オートゥル=ロートゥル)〉である。だが、この〈他(ロートゥル)〉、世界の外部性が結局は〈同〉へと吸収される。世界はここ[#「ここ」に傍点]にたいして立ちあらわれ、そのことで私の[#「私の」に傍点]世界となるだろう(『全体性と無限』)。
とはいえ、意識がここにある[#「ここにある」に傍点]ことそのものは「意識的」な事実ではない。レヴィナスによれば、それは「定位」というむしろ身体的なできごと、意識いぜんのできごとなのであった(第3章 主体と倦怠「2 定位と瞬間から」『定位と身体』参照)。あるいは、身体であること[#「身体であること」に傍点]そのものが一箇の「できごと」であり、身体はできごとであることでたんなる〈もの〉を超えている(『存在することから存在するものへ』)。身体であるとは、それでは、どのようなできごとなのだろうか。
†享受と身体[#「†享受と身体」はゴシック体]
それは一方で、世界という「〈外部性〉を、構成されはしないものとして肯定する」できごとである。身体(である私)、「裸形で貧しい身体」は、世界によって養われていなければならない。(身体である)私が世界という「糧」を必要とする。世界は、意識によって意味づけられるそのまえに、身体を養うためにそこにある(イリヤ)(『全体性と無限』)。
身体であるとは他方また、「他なるもの[#「他なるもの」に傍点]のうちで生きながら私[#「私」に傍点]である」というできごとである。身体である私は、食物を口にし、大気を呼吸する。大地の恵みを享受するとは、食物を咀嚼して、他なるものと私との隔てを解消してゆくことである。私は他なるものを〈同〉化し、私であるものを〈他〉化してゆく。私は消化し、排泄する。私は息を吸い、息を吐く。そうした身体であることで、私は私でありつづける。その意味で「身体とは自己の所有そのもの」、他なるもののうち[#「他なるもののうち」に傍点]で自己を所有することそれ自体なのである(同)。
超越論的主観性は生まれることも、死ぬこともない。現存在は飢えを知らない。だが、身体である私は、生まれ、息をし、飲み食べ、消化し排泄する。そしてやがては死んでゆく。身体であるとは、このような受動的なできごとでもある。身体である私は、それゆえにまた苦痛から逃れられない。労働という労苦からも逃れることができない。
†苦痛と身体[#「†苦痛と身体」はゴシック体]
道具として分節された(ハイデガーの)世界のなかにあるとき、身体はそれじしん一箇の道具である。道具をもつということは、身体をも道具として有するということだ。道具はところで、それがまさに手ごろな[#「手ごろな」に傍点]道具として使いこなされているときには、かえって背景へと退いてゆく。手ごろなハンマーは、ほとんどその重みを感じさせない。同様に、道具として暗黙のうちに立ちはたらく身体については、その存在じたいが忘却されよう。
これにたいして、たとえば〈痛み〉が、たとえばまた〈疾《やま》い〉が、この[#「この」に傍点]身体を、身体として存在しているこの[#「この」に傍点]私、身体へと打ちつけられている〈私〉を意識させる。「肉体的苦痛」は痛みからの「避難所がない」ことの苦しみ、苦しみからの逃亡も後退も不可能であることそのものによる苦痛、存在に容赦なく曝されていることの痛みである(『時間と他者』)。「ひとは苦痛において存在へと追い詰められる」(『全体性と無限』)のだ。
†労働と労苦[#「†労働と労苦」はゴシック体]
おなじように、享受のさなか、世界そのものが無償の贈与であるということ、身体はなんの寄与もいさおしもなく、味わうことを味わい、享受することそのものを享受していることが忘れ去られている。だが始原的なものは、べつの面を、「享受される始原的なものの知られざる面」をあらわにすることがある。それは「未来の不たしかさ」であり、始原的なもの、たんにある[#「たんにある」に傍点]ことの夜の次元である(同)。――イリヤをめぐる独特な思考に回帰するかのように、レヴィナスはそのようにことがらをえがきとる。明日もまた日が射すのだろうか。この川の流れの清らかさはいつまでつづくのか。「享受の幸福」はつねに「憂い」につきまとわれている(同)。この憂いもまた原理的であり、不可避である。
現にかたちをもつものは、やがてかたちを失う。存在するいっさいはほどなく移ろい、すべては始原的なもののなかに没してゆく。「光」の世界の背後には、その始原、あるいは根源が、たんにある[#「ある」に傍点]こと、存在することの「昏がり」がある。
[#ここから2字下げ]
私が住みついている始原的なものは、夜との境界に接している。私のほうを向いている始原的なもののおもてが隠しているのは、あらわれることが可能な〈なにか〉ではなく、不在の絶えず更新されるふかさ、存在するものを欠いた存在すること、際だった意味で非人称的なものなのである。(中略)
われわれは、未来のこの夜の次元をイリヤ[#「イリヤ」に傍点]として記述したことがある(第2章 存在と不眠「3 イリヤの夜から」『沈黙の呟き』以下参照)。始原的なものは〈ある〉へと繰り延べられる。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同)
それでは、ここでなにが必要か。労働が、労苦が必要なのである。
[#改ページ]
第5章 他者の到来[#「他者の到来」はゴシック体]
――他者は私にとって〈無限〉である
1 世界のなりたち[#「世界のなりたち」はゴシック体]
†享受と労働[#「†享受と労働」はゴシック体]
ひとは呼吸するために呼吸し、飲食するために飲食し、散歩するために散歩する。「それらはすべて生きるために[#「ために」に傍点]あるのではない。そのいっさいが生きることである」(『存在することから存在するものへ』)。人間は大気によって、食物によって生きている。エレマンを糧とし、始原的なものを享受することで生きているのである。
ひとは食べるために生きているのではない。だが、生きるために食べるのでもない。たんに「腹が空くから食べる」のだ。享受にあっては、こうして、人間と世界とはぴったりと一致している。「欲求の対象」が「欲求」そのものと合致し、距ては消失して、世界そのものが同化される(同)。
これがレヴィナスの出発点なのであった。第三者的に整理してみれば、ここでは世界としての世界はいまだない[#「世界はいまだない」に傍点]、と考えることもできる。レヴィナスにあって、世界としての世界は労働によって切りひらかれる。もういちど整理しておけば、つぎのようになるだろう。
享受は、始原的なものの深さに支えられている。その無償の贈与に裏うちされている。だが、始原的なもののおなじ深さが、享受の無垢な幸福を阻止するのであった。享受は始原的なものに遅れをとることがありうる。陽は沈み、流れは涸れることがありえよう。始原的なものにたいする、この「遅延を、労働がふたたび取りもどす」。労働が、かくて、「未来の不たしかさとそのあやうさ」を乗りこえることになる(『全体性と無限』)。
†口から手へ[#「†口から手へ」はゴシック体]
始原的なものが未知の面をもち、未来の不確定性をかかえこんでいるならば、ひとはいまだ知られていないものをすでに知られていることにかえ、不確定な次元を確定して、それを「克服」し、「対象を掴みとらなければならない」。その意味で「はたらかざるもの、食うべからず」とは、一箇の「分析命題」である(『時間と他者』)。享受する〈口〉は、かくてふたたび、掴みとる〈手〉を、労働する手をさし示すことになるはずである。
ひとは身体であることで飢え渇き、享受がその飢えと渇きを充足するのであった。享受にあって、世界と私とのあいだには隔たりがない。私はただ享受を生き、享受される世界を生きている。享受はしかし世界の恣意によっても挫折する。享受のその挫折が労働の必要を生み、〈口〉から〈手〉への移行を促がす。手も、しかしもとより身体の一部である。だから、労働の可能性そのものも、私が身体であることによって保証されているのである。
労働することは、とはいえたんに手にかかわるできごとではない。労働する〈手〉は、〈もの〉を掴むことで同時にまた世界そのものをつくりだす[#「世界そのものをつくりだす」に傍点]。つまり、私とはもはやぴったりとは一致せず、〈目〉で隔たりが測られる世界を創設することになる。なぜだろうか。
†労働の意味[#「†労働の意味」はゴシック体]
始原的なものとは、典型的には大地であり、水であり、火であり、風であった。そうしたエレマンにはかたち[#「かたち」に傍点]がない。大地にはほんらい境界がなく、水はかたちをもたないことでどのような窪みにもじぶんを合わせ、火は絶えずすがたを変じ、風はただ吹きすぎる。こうしたいっさいには定まったかたちがない。あるいは、持続する形態が欠けている。
そうであるとすれば、始原的なものにかたちをあたえること自体が労働である。大地を耕し畝をつくり、川の流れをかえて灌漑し、放置すればかたちなく燃えさかる火を炉端へとかぎり、吹きすぎる風をとどめて風車をまわす。この「かたちなきものの形態化」が〈手〉のはたらき、つまり労働することではないだろうか(『全体性と無限』)。
かたちなきものは所有できない。始原的なものは、手によってかたちをあたえられて、〈手〉に従属し、労働する私の所有に帰することになる。いまや大地に境界が刻まれ、水は用水となる。所有が創設される[#「所有が創設される」に傍点]。コップによって水を掬うこと、あるいは手で水を掬ぶことが、水にかたちをあたえ私のもの[#「私のもの」に傍点]とすることだ。だから、とレヴィナスはいう。
[#2字下げ] 労働は始原的なものの未確定な未来を無期限に統御し、それを中断する。〈もの〉を把持し、動産の存在を、家に運搬可能なものを取りあつかうことで、労働はかつてはわれわれにたいする存在の支配を告げていた予見不能な未来をその手におさめている。労働は、この未来をみずからに留保する。所有が、存在から変化を剥奪するのである。
[#地付き](同)
†手から目へ[#「†手から目へ」はゴシック体]
始原的なもの、エレマンには実体がない。すなわち、存続し、性質を担う基体が存在しない。大気はたとえば暖かく、また冷たく感じられる。そのとき大気は端的に温暖であり[#「あり」に傍点]、あるいは冷却されてある[#「ある」に傍点]。暖かさ、冷たさといった、感覚的に感受される質とはべつに、背後でそうした〈性質〉を担っている基体[#「基体」に傍点]、〈あるもの〉など、この場面で意味をもつだろうか。――それ自体としては暖かくもなく、冷たくもない、なんらかの〈自体〉があって、それがときに暖気を帯び、また冷気を帯びるのではない。大気はつねになんらかの温度においてたんにある[#「ある」に傍点]。おなじ[#「おなじ」に傍点]もの、実体が変化して、べつの[#「べつの」に傍点]ものになる、のではない。たんにことなった質があるだけである。〈実体〉も〈自体〉もなお存在しないのだ。
ただ〈手〉だけが、たしかなあるもの[#「あるもの」に傍点]を、つまり実体[#「実体」に傍点]を掴みとり、それを保持する、すなわち「変化を剥奪する」ことができる。それは手がかたちを描きとり、〈もの〉の境界を設定して、世界そのものを、実体からなる世界それ自体[#「世界それ自体」に傍点]を創設することによってである。
手によって与えられた〈もの〉のかたちは、やがて〈目〉によってもかたどられることになる。目がものの輪郭をたどり、〈もの〉を背景から区別し浮き立たせて、その〈もの〉になまえをあたえる。労働によって創設された世界が、かくしてそのまま、認識によって獲得しなおされ、目のまえに[#「目のまえに」に傍点]、知にたいして存在することになるだろう。
†エコノミー[#「†エコノミー」はゴシック体]
世界は、こうして人間にとっての「わが家」となる。家のなかにも大気があるが、風はもはや遮断される。雨を屋根がさえぎり、家屋の内部では水が馴致され、必要なときに井戸から汲み上げられる。火もまた竈のなかでだけ燃えさかる。
おなじように、世界そのものが人間によって制御される。大地が区画され、風が風車を、水が水車をまわす。川の流れは変えられて、火は必要におうじて熾《おこ》され、また鎮められる。「世界のもとで滞在すること」は「世界をわが家とみなすこと」である(『全体性と無限』)。世界に在ることは、こうして「家政(エコノミー)」と「経済《エコノミー》」の問題となる。
労働はかくして、レヴィナスにあって二重の意味でエコノミーの問題となる。労働とは第一に家を建てることであり、第二にはまた、世界を家とみなすことなのである。
世界のなりたち、世界の「組成(エコノミー)」は、かくていまや私の〈手〉に落ちる。私とは〈他なるもの〉である世界が〈私のもの〉となり〈同〉となる。労働と所有とは、「〈他〉の自存性をまさに否定することで〈他〉を肯定する」。あるいは〈他〉の肯定がその否定であるような「〈同〉の様式[#「様式」に傍点](マニエール やりかた)」が所有と労働なのである(同)。
†時間の観点[#「†時間の観点」はゴシック体]
このことをいま、時間という観点からとらえかえしてみよう。「労働は始原的なものの未確定な未来を無期限に統御し、それを中断する」(第5章 他者の到来「1 世界のなりたち」『労働の意味』)。未来の未確定性が、つまり未来が未知であり〈他なるもの〉であること、未来が未[#「未」に傍点]‐来[#「来」に傍点]である理由そのものが、消去され中断[#「中断」に傍点]される。未来はいまや現在と地つづきなものとなり、未来が到来するかわりに現在が繰り延べられる。かくて成立するのが「世界の時間」あるいは「経済の時間」(『存在することから存在するものへ』)なのではないだろうか。
労働は始原的なものを統御し享受を保証する。そのことで労働はまた、労働そのものの時間と、労働の果実を享受する「余暇」の時間とを区分する。世界の時間は「単調」である。そこでは未来の不確定性が消去され、すべての「瞬間」が「等価」であるからだ。経済の時間においては、現在が物質のように引き延ばされる。労働は収穫のためにくわだてられ、投資はあらかじめ回収を目的とする(同)。レヴィナスにあって、労働とはあくまで〈同〉の時間のなかに閉ざされ、〈同〉の時間を繰り延べるものなのだ。
おなじものが繰りかえし到来する、それが〈同〉の時間である。世界の組成のなかでは、〈他なるもの〉が到来することはない。この単調さが破られる。手のとどかない未来が到来する。レヴィナスによればそれは、他者が到来する[#「他者が到来する」に傍点]ことによってである。
2 全体性と無限性[#「全体性と無限性」はゴシック体]
†欲求と満足[#「†欲求と満足」はゴシック体]
ことがらを、べつの視点からとらえかえしてみよう。欲求とその満足という観点、〈同〉と〈他〉という視点から、である。
身体は傷つきやすい皮膚で覆われ、ほんのすこしのことで傷を負ってしまう。身体とはそれ自体としてはひとつの欠如ではないだろうか。じっさい身体として存在していることで私は、いくつもの必要(ブゾワン)に、たとえば衣服や住居の必要に迫られる。裸形の身体は暑さや寒さに曝されているからだ。欠如としての身体はまた、飢え渇く。身体である私は、こうしてさまざまな「欲求《ブゾワン》」をいだくことになる。
レヴィナスがいうとおり、だから、享受の歓びは「渇きをおぼえていることに由来する。享受とは癒しなのである」(『全体性と無限』)。身体こそが欠如をかかえ、身体こそが欠如の充足を、つまり欲求の満足を享受する。われをわすれて清流を掬びとり、果実にむしゃぶりつくとき、ひとは水の冷たさ、果肉の柔かさそのものとなっていよう。世界のうちに存在するとは、欲求への「真摯さ」である。水を飲み干すときにこそ、ひとは「世界を真摯に受けとめる」(『存在することから存在するものへ』)。それはひとときの「自己の忘却」(『時間と他者』)である。
世界は、こうして私の「糧」であり、「糧を消費することが生の糧である」(『全体性と無限』)。欠如を充足させること(空腹を充たすこと)、欲求を満足させることは、しかし他方では、世界の独立性(〈私〉にとっての外部性)をいったんは否定することである。〈他なるもの〉としての世界こそが、たしかに私の欲望をそそる。だが、欲求が充足されたとき、〈他〉である世界はすでに消滅し、世界の一部が〈私のもの〉となっている。つまり〈同〉と化している。そのかぎりで、「欲求が〈同〉の最初の運動なのである」(同)。
†欲求と労働[#「†欲求と労働」はゴシック体]
労働をかいした欲求の満足についてもおなじことである。始原的なものの昏がりが享受を脅かし、世界の恣意が欲求の充足をはぐらかす。労働とは、そうした不たしかさの超越であった。その意味では、労働とは遅延された欲求、繰り延べられた享受である。欲求がしめす〈同〉の運動は、欲求とその満足との中間に労働という時間を挟むにすぎない。
じっさい労働それ自体もまた、世界の外部性を同化する。労働は世界を「変容」する。かたちなき始原的なものにかたちをあたえる。労働の素材、世界の質料はなるほどそうした変形に抵抗するだろう。だが、労働はまた世界の抵抗そのものによって支えられている。労働はいぜんとして「〈同〉の内部にとどまっている」のだ(同)。
〈欲求‐労働‐満足〉によって描きとられるものは、かくして〈同〉の体系、〈他なるもの〉を吸収する〈欲求の体系〉であるにすぎない。かつてヘーゲルが近代の経済社会、市民社会をそのことばによって記述したように、である。労働と収穫、投資と回収によって枠づけられる世界の組成(エコノミー)からは、〈他なるもの〉が消失している。
それでは、〈他なるもの〉は、しかも絶対的に〈他なるもの〉がどのように到来するのか。それこそが、レヴィナスにとっての主要な問題となる。そのためにはまず、たんなる欲求ではない渇きがみとめられる必要がある。レヴィナスによれば、つまり欲求と渇望[#「渇望」に傍点]とが区別される必要があるのである。
†欲求と渇望[#「†欲求と渇望」はゴシック体]
欲求は充足される。パンを食らい尽くし、パンと私との隔たりを解消して、パンを私の一部と化することで欠如は充たされる。欲求を満足するものは、まさに欲求される対象である。欲求を充足するとき、その対象は消失し、〈同〉と化している。
とはいえしかし、そのようにしては充たされない渇き、どのような対象によっても充足されない欠如、あるいはむしろ不在があるのではないだろうか。充足されることでかえって渇くような渇き、それゆえにけっして満足がありえないような渇き、いつまでも・つねに欠如でありつづけ、だからひたすら追いもとめるしかないような疼きがある。それはもはや「欲求(ブゾワン)」とはいえないだろう。無限の渇き、無限を求め、とはいえ索めるものが無限であるがゆえに絶えて癒されない飢え、もとめることを止めないが、しかし癒されることもない渇きとして、「渇望(デジール 一般には「欲望」と訳される)」と呼ばれるのがふさわしいであろう。レヴィナスは書いている。
[#2字下げ] 無限の観念によって現成する、有限のうちにある無限、最小のうちにある最大は、〈渇望〉として生みだされる。〈渇望されるもの〉の所有によって癒されるような渇望ではなく、渇望されるものが、渇望を満足させるかわりに渇望を引き起こすような〈無限〉の〈渇望〉である。それは完全に利害を離脱した渇望であり、〈善さ〉なのである。しかし、〈渇望〉と〈善さ〉は、具体的にはある関係を前提しており、そこでは〈同〉のうちでふるわれる〈私〉の≪否定性≫を、権力、支配を、〈渇望されるもの〉が停止させてしまう。
[#地付き](『全体性と無限』)
†観念と渇望[#「†観念と渇望」はゴシック体]
欲求されるものは、同時にまた所有の対象となりうるものである。果実は、それを枝からもぎ取る〈手〉によって占有され、消費される。つまり享受され、食べられてしまう。渇望されるものは、これにたいして、けっして所有されることがない。だから「所有によって癒される」こともない。渇望されるもの自体が「渇望を引き起こす」。所有されず、「支配」の対象ともならないものは、それでもなお、あるいはまさにそれゆえにこそ「渇望」されるのではないだろうか。――なぜか。渇望されるものが、他人(オートゥリュイ)という意味での〈他なるもの〉、すなわち、すぐれた意味での〈他者〉であるからである。
アンセルムスを承けてデカルトは、私より〈完全なもの〉という観念は私をはみ出している、それは〈神〉である、という主旨の議論を展開した(神の存在論的証明)。――おなじように、〈他者〉について私がいだく「観念」はじつは観念ではない。それは私を「絶対的に溢れ出してしまっている」。他者の観念は、他者への渇望なのである(同)。
†標題の意味[#「†標題の意味」はゴシック体]
かなり抽象的な水準で展開されているかに見える以上の議論を、より具体的な経験の細部において見とどけるこころみは、次節でおこなうことにする。これまでの論点を受けて、ここではひとつの問題を迂回しておこう。その問題とは、レヴィナスの第一の主著はなぜ『全体性と無限』と題されているのか、という問題である。
ヘーゲルが『精神現象学』の「自己意識」章の冒頭ちかくで、ちょうど逆むきの議論を展開していることは、よく知られている。対照のためすこしだけ触れておく。
ヘーゲルによれば自己意識とは「私は私である」という(フィヒテ的な)確信である。その確信をじっさいに証明するために自己意識は、〈他なるもの〉を同化し食らい尽くす「欲望(ベギールデ)」となる。だが、欲望の満足が対象の否定によって条件づけられているかぎり、欲望は否定すべきものの存在をかえって前提する。この悪循環を断つためには、対象そのものがみずから否定を遂行する必要がある。かくして「自己意識は、ただ他の自己意識においてのみ満足に到達することになる」(ホフマイスター版、一三九ページ)。
†無限と他者[#「†無限と他者」はゴシック体]
レヴィナス的な観点からすれば、このヘーゲル型の議論の構造がまさに「全体性」の哲学の典型を示している。ヘーゲルによれば、欲望の悪循環は〈悪無限〉の見やすいかたちにほかならない。自己意識のあいだの〈相互承認〉によって〈真無限〉が、真の〈無限性〉が到達される。それは直感的にいえば、外部をもたない「円環」であり、中心を軸として運動しつづける「純粋な」運動である(同版、一三六ページほか参照)。
これはしかし見ようによっては、〈他なるもの〉の他性[#「他性」に傍点]そのものを自我が〈同〉化することにすぎないのではないだろうか。すぐれた意味で他なるもの、つまり他者が〈他者〉であるのは、他者そのものが無限として[#「他者そのものが無限として」に傍点]存在することによってではないか。あるいは他者それ自体が、「無限が無限化する」(『全体性と無限』)しかたなのではないだろうか。つまり、「全体性(トタリテ)」をけっして形成することがないもの、〈同〉の内部に閉ざされることがない「無限なもの(アンフィニ)」こそが、〈他者〉なのではないか。その意味では、他者とは一箇の〈外部性(エクステリオリテ)〉でもある。レヴィナスにあっては、かくして、他者とは無限、つまり取りつくしえないものであり、また外部性、すなわち〈同〉への還元を絶対的に拒絶するものとなる。
じっさい、レヴィナスの第一の主著には「外部性についての試論」という副題が付せられている。外部性の経験、他者のあらわれとは、それではなにか。
3 エロスの現象学[#「エロスの現象学」はゴシック体]
†渇望と満足[#「†渇望と満足」はゴシック体]
渇望とは、充足されることでかえって渇くような渇き、それゆえにけっして満足がありえないような飢えであった。レヴィナスにあって、それは〈他者〉への渇望であり、そのゆえに無限の渇き、無限をもとめるのだからけっして癒されない疼きである。渇望されるもの、つまり〈他者〉は絶えて所有されることがない。所有も支配もされないものが、それでもなお、あるいはまさにそれだからこそ渇望される。
渇望とは、あるいは無限としての他者とは、前節の議論のかぎりではひとつのことばにすぎないかに聞こえよう。とはいえ、このような渇望に、ひとはたしかに囚われることがあるようにおもわれる。具体的な場面で、すこし考えてみよう。
戦後まもない著作において、レヴィナスがあげているのは、「握手」という例である。といっても、すべらかな日常にあってあいさつのしぐさとして反復されるそれではない。もうすこし切迫した場面を考えておく必要がある。
†握手の逆説[#「†握手の逆説」はゴシック体]
たとえば戦争が終わって故郷にもどり、友と再会したとする。私は親友の手を握りしめることだろう。「手をにぎる」ことは、もちろん「友情をつたえる」ことである。だが、それは「なにか表現することができないこととして、あるいはなにかなし終えていないこと、なし終えることが不可能なこととして」、つまり渇望[#「渇望」に傍点]として、友情をつたえることではないだろうか(『存在することから存在するものへ』)。
どれほどつよくその手を握りしめても、私のつたえようとすることを伝えることができない。どれほどかたく握手しようと、私が追いもとめるものに到達することができない。友情はあたかも「癒しがたい飢え」であるかのようである。あるいは友情の「積極性そのものが[#「積極性そのものが」に傍点]、その否定性のうちにある[#「その否定性のうちにある」に傍点]」(同)。かけがえのない友情の表現であるもの、それを積極的にあらわす行為は、表現しようとするそのこと[#「そのこと」に傍点]をけっして表現できないのではないだろうか。どれほど力を籠めていっても、つねにそれではない[#「それではない」に傍点]、あるいはそれだけではない[#「それだけではない」に傍点]のだ。握手は、かろうじて〈〜ではない〉という否定形において、なにごとかを表現するにすぎない。友情は表現のすべを奪われて、癒しがたく渇きつづける。――他者はとりつくす[#「とりつくす」に傍点]ことができない。つまり、他者は私にとって[#「私にとって」に傍点]〈無限〉である。
メルロ=ポンティなら、握手に、つまり手を握りあうという経験のなかに、ひととひととの原初的なつながりを、諸身体を縫い合わせる次元、いわゆる「間身体性」のなりたちをみとめるかもしれない(「哲学者とその影」『シーニュ』一九六〇年刊、所収)。だが、そうだろうか。「握手」もあくまで「差異(ディフェランス)のなかにある」(『外の主体』一九八七年刊)。レヴィナスが説くとおり、埋めようもない差異を超えようとする切なさが、あるいは独特な切迫が、一般にひととひとの身体的な接触にはあるようにおもわれる。
†性愛の行為[#「†性愛の行為」はゴシック体]
ことがらをより鮮明にするのは、性愛の場面、エロス的な経験のかたちである。エロス的な経験は「経済活動や世界を超えたところ」にある(『存在することから存在するものへ』)。それゆえに、性愛はとりあえずひとつの錯乱をしめしている。
ひとの身体にあって、〈口〉は世界との原初的なかかわりの器官であった。個体としての人間は、生まれてやがて目をひらき、手をのばして世界を探索する。乳児はしかしそのまえに、〈口〉をひらいて呼吸をし、乳房をふくんで生きる糧を吸いこまなければならない。食物という「糧」は一般に生のなかで特権的な位置を占めつづける。それは「世界内における生の典型」という意味で、まず特権的である。食物による欲求の充足は第二に、欲求とその充足が完全に噛みあっているという意味でも特権的であろう。食欲は、「じぶんの欲望するものを完全にこころえている」(同)のである。
エロス的な経験にあって〈口〉が占めるかたちは、それゆえ印象的であり、悲劇的であって、喜劇的でもある。口によっておこなわれる性愛の行為、たがいの唇をあわせること、相手の肌をかるく噛むこと、つまり「接吻」や「愛咬」は、あきらかに「食べる」ことを真似ている。食欲なら、欲するものをおもいたがえることはない。性愛にあってはしかし、ひとはまるで欲望の性質を勘ちがいして、「当初はそれをなにかの飢えと混同するが、ようやくなににたいする飢えでもないことに気づく」かのようである。おもい違いに気づいてなお、こころえ違いが判明してからもなおさら、愛する他者のからだの一部、身体の表面を口にふくむ[#「口にふくむ」に傍点]しぐさは終わらない。そもそもなにものにたいする飢えでもなかった以上、飢えることそのものはますます増大してゆく。「到達点」もなく「ほの見える果て」もない。それは「純粋な時間の蕩尽」である(同)。
†愛撫の錯乱[#「†愛撫の錯乱」はゴシック体]
〈手〉についてもおなじである。接吻がおわり愛撫へと移行しても、錯乱はおわらない。愛撫もまた、けっして手にされることがないものを手にしようとして焦燥しつづけることになるからである。
レヴィナスにあっては、愛撫という経験は、他者をめぐるある特権的な経験となる。他者をとらえようとして、しかしけっしてとらえることができない(その意味では経験ではない[#「経験ではない」に傍点])経験となるのである。第一の主著において、レヴィナスは書いている。
[#2字下げ] 接触としての愛撫は感受性である。だが、愛撫は感覚的なものを超えることになる。とはいえ、愛撫が感覚されたもののかなたで感覚し、感覚よりも遠くで感覚するからではない。愛撫が、感覚された最上のものとの関係において飢えの志向を維持しながら、至高の糧を手にしているからでもない。飢えの志向は、その飢えに約束され、飢えにあたえられた糧へとおもむくが、その飢えをさらに掘りさげもする。愛撫があたかもみずからの飢えそれ自体に育まれ、それを糧にしているかのように、である。
[#地付き](『全体性と無限』)
記述されている経験の輪郭は、さしあたりあきらかであろう。この(経験ではない)経験の意味について、しかしなお確認しておく必要がある。
†愛撫の意味[#「†愛撫の意味」はゴシック体]
愛撫は感受性である。つまり感覚することにかかわる。じっさい、手が他者のからだの表面に接触して、とりあえずたしかめられるのは、皮膚のたとえば「なめらかさ」であり「ぬくもり」である(『時間と他者』)。触感や温度を、手は伝達するだけである。
愛撫はだが、感覚的なものを超える。愛撫においてもとめられているのは、肌ざわりや体温そのものではないからだ。だとすれば「愛撫されているものは、ほんとうは触れられてはいない」ことになる。愛撫もまたじぶんの求めているものを知らない。あるいはおもい違えている。愛撫は手にされることがないものを手にしようとしているからだ。愛撫は、だから「溢れ出てゆくなにものか」、手からはこぼれ落ちていってしまうなにごとかを索めつづける。愛撫とは、かくして「逃れてゆくなにものかとの戯れ」なのである(同)。
一方でエロス的な経験は、なにごとかの所有として、たとえば他者の肉体の所有として考えられる。そうであるとすれば、愛撫とは「挫折」(同)である。レヴィナスの視点からすれば、愛撫は結局なにものも把持することがないからである。
性愛の経験はまた、「融合」としてイメージされる。愛撫とはこの意味でも、一箇の逆説である。身体のこれ以上ないほどの接近にあってなお、他者との隔たりは増大してゆく。消え去ることがない隔たりこそが、むしろ愛撫の情熱を育みつづける(『全体性と無限』)。
†他者の退引[#「†他者の退引」はゴシック体]
それでは、愛撫が求めているものはなんであろうか。レヴィナスによれば、たえず「未来へとおもむくもの」、「あたかもいまだ存在しない[#「いまだ存在しない」に傍点]かのように、じぶんから溢れ出てゆくもの」である(同)。愛撫は、たえず逃れ去り、つねに退引してゆくものをもとめている。そこ[#「そこ」に傍点]で顕われているように見えて、そこ[#「そこ」に傍点]からはすがたを隠しているもの、裸形においてこのうえなく剥き出しになっているかにおもえて、けっきょく手のとどかないかなた、「存在するもののかなた」(同)へと逃れさるものとはなにか。――他者である。あるいは、より正確にいえば、他者が他者であること[#「他者であること」に傍点]そのもの、他者の他性[#「他性」に傍点]それ自体にほかならない。
〈口〉による愛の伝達も、〈手〉がもどかしげにつたえようとする愛も、なにかべつのものを模倣している。前者は食べ物の咀嚼をまね、後者はなにかの獲得をなぞっている。両者は、一方では他者を享受しようとするこころみであり、他方ではその享受がずれていき、挫折してしまう経験である。それでは、けっして享受ではなく、享受を真似ることもない他者の(経験ではない)経験、(あらわれではない)あらわれとはなんだろうか。
[#改ページ]
第6章 世界と他者[#「世界と他者」はゴシック体]
――他者との関係それ自身が〈倫理〉である
1 他者のあらわれ[#「他者のあらわれ」はゴシック体]
†衣装と裸体[#「†衣装と裸体」はゴシック体]
エロス的な経験は「経済活動や世界を超えたところ」にある、とレヴィナスは書いていた(第5章 他者の到来「3 エロスの現象学」『性愛の行為』)。エロスはある意味で、経済(エコノミー)と、世界の組成(エコノミー)を超える。世界の内部から越え出ている。なぜだろうか。
性愛的な行為は、投資と回収ではなく「時間の蕩尽」(第5章 他者の到来「3 エロスの現象学」『性愛の行為』)であり、それはふつう世界(世間)の目からは隠されているからだ、というとりあえずは単純なこたえがありうる。では、なぜ「隠されている」のか。
解答はふたたび単純なものでありうる。そこでひとは裸形をさらすからである、という回答がそれである。裸形とは、だがなにか。たんに裸体であることなのだろうか。
世界の組成のなかでも、他者が〈もの〉として扱われることはない。〈もの〉と他者、物件と人格とのあいだに差異を設定することは、それ自体とりあえずは、世界の分節化、世界内の存在者を切りわけるさいの、基本的な枠組みである。
だが、世界内で、他者が事物から分離されることもない。世界の内部で出会われる他者は、身にまとった「衣服」そのものによって「対象」となる(『存在することから存在するものへ』)。共通の世界から裁ち切られた布、ときどきの定め(モードやファッション)によってかたちを与えられた衣装をまとうことで、他者はなにほどか私とひとしいもの、〈私〉と共通のなにごとかをあらわす存在となり、私によって見られ、世界の組成のなかで位置づけられる「対象」となる。衣装こそはもろもろの「制度」(同)のはじまりである。
もちろん、衣服を必要としない地域、素裸であることが違和をもたない場所がありうる。ひとは、しかしかならず身づくろいをし、顔をととのえ、ある鋳型に身体をはめ込んでゆく。「徴兵検査」で確認される裸体は、そのようにかたどられた身体たちである。ある理想を体現しているという意味ではまた、「古代の彫像は、ほんとうは裸ではない」(同)。
†裸形と他性[#「†裸形と他性」はゴシック体]
裸形はむしろ、ふと到来し、つかのまに消え去ってしまう。ヴァレリーの詩が書き留めているように「人は見ね 人こそ知らね/シュミイズを替ふるつかのま/あらはなる乳房さながら」(「風神」堀口大学訳。後段をレヴィナスが引用)露われては、消えてゆく。ひとがつうじょう目にする[#「目にする」に傍点]ことがなく、知る[#「知る」に傍点]こともないような一瞬に、他者の裸形が現われる。
だから、逆にいえば、エロス的な経験そのものにあっても、ひとはつねに裸形であるわけではない。他者の「もろい他性」(『存在することから存在するものへ』)、愛される他者の儚《はかな》い「脆弱さ」(『全体性と無限』)が一瞬だけ露わにするものが、他者の裸形、つまり世界と絶縁し、世界の組成から手を切っている、他者の他性なのではないか。
†アレルギー[#「†アレルギー」はゴシック体]
他性そのものへの恐怖、それが壊れ、過ぎ去ってしまうのではないかという「根本的な恐れ」は、ふつうは「病的なもの」とされ「世界から追放される」(『存在することから存在するものへ』)。世界は〈私〉と根本的に異なっている者からではなく、私と似かよった者たちからなりたっている。世界には、他者にたいする拒否反応(アレルギー)がある。
この拒否反応、アレルギーを超えることこそが、レヴィナスにあって他者を受け容れるということである。それはどのようにしてなのか。レヴィナスが「顔」についてかたりだすのは、まさにこの場面においてである。議論のゆくすえをすこし辿っておこう。
世界内の他者たちは、「なにか[#「なにか」に傍点](quoi)」でもある。教師であり警官であり、男であり女である。一定の年齢であり、なにかの[#「なにかの」に傍点]なまえを、呼び名をもっている。これにたいして、「だれか?」という問いに、ほんとうのこたえがありうるだろうか。――与えられるこたえは、かならず「なにか?」にたいする回答となってしまう。固有名によって応えることもまた「なにか」を答えることであるにすぎない。「だれ?」には通常のこたえがない。「だれ[#「だれ」に傍点]? (quoi) という問いは、顔をめざしている」(『全体性と無限』)からである。
†世界の外部[#「†世界の外部」はゴシック体]
とはいえしかし、「顔」も「視覚」にたいして与えられているのではないか(同)。つまり「なにか」としてかたどられ分類されて、世界のうちに位置づけられるものではないだろうか。視覚を逃れ、「なにか?」という問いを中断する「顔」とはなにか?
[#ここから2字下げ]
存在者への接近は、それが視覚に拠るものであればあるほど、存在者を支配し、存在者にたいして権力をふるうものとなる。〈もの〉は私にあたえられ、私に差しだされている。〈もの〉に接近しながら、私は〈同〉のうちにとどまる(第5章 他者の到来「2 全体性と無限性」『欲求と満足』)。
顔は、内容となることを拒否することにおいて現前する。この意味においては、顔は了解されえないもの、つまり内含されえないものである。顔は見られもせず、触れられもしない。見ることや触れることの感覚にあっては、私の同一性が対象の他性を包みこみ、対象はまさしく内容となるからである。(中略)
〈他者〉の他性は、他者を私から区別するなんらかの性質に依存しているのではない。そうした種類の区別は、われわれのあいだでまさに類が共通していることを含意しており、その共通性はすでに他性を無化するものであるからだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](同)
だから――と、レヴィナスはつづける――〈他者〉は「無限に超越的であり、無限に異邦的(エトランジェ)」である。そのような異邦性において、他者の「顔」がなお諸感覚を超えて、私に訴えてくる。顔は〈他者〉の「顕現(エピファニー 「公現」とも訳される)」、たしかなあらわれである。顔において、他者はあらわれる[#「他者はあらわれる」に傍点]。だが他者の顔は「われわれに共通でありうる世界と絶縁している」(同)。なぜだろうか。
†他者の顕現[#「†他者の顕現」はゴシック体]
レヴィナスが語っているのは顔一般ではない。さし向かいになっている顔、対面している顔である。だがそれにしても、レヴィナスはここでなにについて語っているのだろうか。顔ならば、まさに私によって見られ、触れられるのではないだろうか。――そればかりではない。顔も仮面でありうる。素顔こそがもっとも高度に装われたものでありうる。
まずことばを整理しておこう。ほんとうは、他者の顔[#「顔」に傍点]があらわれるのではない[#「ない」に傍点]。通常の所有格で示されるような、他者の[#「他者の」に傍点]顔が「顕現」するのではない。現実の他者の顔[#「の顔」に傍点]は、あるいは高慢であり狡猾であり、暴力的ですらあるだろう。それぞれの他者は、世界のなかで権力者であったり富裕者であったりもする。だが、そうした〈なにか〉への問いをすべて剥ぎ取ったところで、他者が他者であること[#「他者であること」に傍点]が、顔にあって現われる。
その他性[#「他性」に傍点]は、富や権力、肩書きや衣装によって通常はかき消されてしまうから、とうぜん儚くもろいものだ。財や力においても、たしかにひととひととは異なりうる。その差異は、だが、量化可能なものさしで測られ、すでになんらかの「共通性」に裏うちされている。そうしたいっさいを超えて、なんの具体的な「性質」にも依存せずに他者が他者であることが、たしかに顔において顕われる。だから、他者の顔が[#「他者の顔が」に傍点]現われるのではない。他者が顔において[#「他者が顔において」に傍点]微かに、ひとつのけはい[#「けはい」に傍点]のように顕われるのである。
†他性の煌き[#「†他性の煌き」はゴシック体]
〈もの〉としての他者の顔は、見られ触れられる。他者の裸体が見られ触れられるように、である。他者のほんとうの裸形は、しかしながらほんの一瞬、世界の組成のすきまから僅かにかいま見られるだけである。だからほんとうに裸形であるもの、裸形において意味しうるものは、ただ顔だけである。〈他者〉が、顔においてときとして顕現する。顔の〈かたち〉、たんなるおもざしを越えて、他性がひととき煌く。
どのような他者の目にも、一瞬、踏み躙りようのない弱さ[#「弱さ」に傍点]の光が、とはいえ強く[#「強く」に傍点]兆す。〈他者〉とは「寡婦にして孤児」(『存在することから存在するものへ』)であり、「異邦人(エトランジェ)」であるとともに、なにものももたない「プロレタリア」(『全体性と無限』)である。レヴィナスがそう説くのはそのゆえに、である。その「他性」「異邦性」そのものが「どこから[#「どこから」に傍点]由来するのかわからない[#「わからない」に傍点]戒律」をかたる(『観念に到来する神について』一九八二年刊)。「殺すなかれ」という定めを語りつづける。
このことは、しかしただちに理解可能なことがらだろうか。他者という問題そのものに溯り、レヴィナスの解答をかたどっておく必要がある。他者とはそもそもどのような問題であり、レヴィナスにあってどのような問題となったのか。
2 他者という問題[#「他者という問題」はゴシック体]
†他者の問題[#「†他者の問題」はゴシック体]
世界の内部で、他者の[#「他者の」に傍点]顔があらわれるのではない。顔において他者が[#「他者が」に傍点]あらわれる。しかも、世界とは絶縁した他者が到来する。レヴィナスはそう説いていた。
このレヴィナスの所論は、たんなる断言であるかに見える。すくなくともただちに理解可能な明晰さと、主張が意味をもちうる文脈とを欠いているようにおもわれる。以下、本節ではレヴィナスのかたる〈他者〉の位相をたしかめ、レヴィナスがなぜ世界の〈外部〉を、他者の〈到来〉を語りつづけるのかを考えなおしておきたい。
まず他者という問題は一般にどのような問題であったのか、すこしだけ見とおしをえておく必要がある。レヴィナスもまたそこから出発した、現象学の潮流に限定して問題の輪郭をかたどっておこう。とりあえず、フッサールからかえりみておかなければならない。
†「第五省察」[#「†「第五省察」」はゴシック体]
フッサールにおいて他者の問題が登場するにいたった文脈をきちんとおさえようとするなら、フッサール現象学の展開過程そのものに立ちいることが必要となる。ここでは、論点の一、二のみを浮かびあがらせることで満足しよう。日常的な経験から出発してみる。
世界にはさまざまな存在者が、いろいろな〈もの〉が存在する。部屋のなかには椅子があり、机があり、屋外には庭がひろがり、太陽が輝いている。こうした〈もの〉たちを、私は知覚し想像し、また想起しながら、それぞれに意味をあたえている。そのかぎり、〈私〉は世界にたいする一箇の主観であり、存在者は私の認識[#「認識」に傍点]対象である。
存在者、あるいは私にとっての対象のなかにはしかし、あるとくべつな存在者が存在する。他者である。他者はたしかに一方では「世界における[#「における」に傍点]」対象でありながら、他者を「他方、私は同時に世界にたいする主観として経験する」からである(一九二九年のパリ講演を原型とする『デカルト的省察』ドイツ語版、いわゆる「第五省察」第四三節)。
一見したところ、問題はたんに「人間的主観性の逆説」に、つまり人間は「世界にたいする主観[#「世界にたいする主観」に傍点]」であると同時に「この世界のうちにある客観」でもあるという、ことの消息のうちに一般化されてしまうかに見える。さらにまた、論点はただ、現に経験的に存在する他者をみとめることで、「事実」として解消されるようにもおもわれる(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』第三部の草稿部分・第五三節)。そうではないだろうか。
フッサールのばあい、問題はしかし二重に錯綜している。世界にたいする主観そのものが、たんなる経験的な主観ではなく、世界を構成する超越論的主観性であるからだ。いわゆる現象学的な還元によって獲得された主観性、つまり世界の存在をいったんは遮断して、世界の意味を構成する次元として獲得された超越論的主観性であるからである。いまやこの還元が「間主観的還元によって必然的に拡張されなければならない」のである(ブリタニカ草稿)。超越論的主観性こそが、かくして複数化しなければならないことになる。
†他我の構成[#「†他我の構成」はゴシック体]
よく知られているように、フッサールがいわゆる「第五省察」でじっさいに遂行した分析は、そういってよければ、ほとんど拍子ぬけするほどに単純なものであった。
簡単にいえばこうである。世界がそこであらわれる領域は、「還元」を経て獲得された超越論的領野である。しかもとりあえずは、この〈私〉にたいして現出する超越論的な領野である。その領野のなかにとくべつな対象、ある「物体(ケルパー)」があらわれる。私の身体との関係で有する類似のゆえに、「身体(ライプ)」という意味が、その物体には転移される。「対化」とよばれる、あくまで受動的なこの連合によって他者はまず[#「まず」に傍点]「類比的に」とらえられ、ついで[#「ついで」に傍点]自己を、この〈私〉の自己を投入されて他我[#「他我」に傍点]となる。かくして獲得されるものは、いっさいの客観性に、したがってまた世界の客観性それ自体に先だち、それを構成する「超越論的な間主観性」(『デカルト的省察』第六四節)にほかならない。
問われていることがらははっきりしている。ひとことでいえば、世界の客観性の起源である。世界がたんに私にとっての世界であるばかりでなく、同時に〈私〉たち[#「たち」に傍点]の世界、つまり間主観的な[#「間主観的な」に傍点]世界でもあるのは、どうしてだろう。共通のこの世界が現になりたっているのはなぜなのか、が問題なのであった。フッサールそのひとは、超越論的領野そのものにおける〈超越論的な他我〉の構成という手順によって問題に応えようとしたことになる。
†二つの論点[#「†二つの論点」はゴシック体]
論点を一般的なかたちでとらえてみよう。世界がそこにたいして現われる絶対的なここ[#「ここ」に傍点]がある。その〈ここ〉から世界を構成するとくべつな存在者を〈私〉と表記することにすれば、問題はさしあたりふたつに分かれる。ひとつには、そのような〈私〉はふつうの意味で存在者、つまり世界のうちに存在するもろもろの対象とならぶ存在者でありうるか、という問題である。もうひとつ、当面より直接的な論点としては、そのような〈私〉が「複数化すること」(アルフレート・シュッツ)がはたして可能であるか、という問題が存在することになる。
後者については、すでにカントが問題のありかに気づいていた。〈私〉はあるとくべつな存在である。私が考える[#「考える」に傍点]そのつど、〈私〉の存在があかされる(デカルトの「コギト・エルゴ・スム」)。〈私〉においては思考と存在とが一致している。だが、このコギト[#「コギト」に傍点]命題が〈一般化〉されることには、ある奇妙さがある。この〈私〉からの「転移」とでも表現するほかはない奇妙さがあるのである(『純粋理性批判』初版・三四七ページ/二版・四〇五ページ)。
前者の論点にかんしていえば、フッサールとハイデガーのあいだでも理解の一致が存在していた。ブリタニカ論文を共同で執筆する作業のさなか、皮肉なことにフッサールとの隔たりのみがはっきりしてしまったハイデガーもまた、世界が「存在者への回帰」によっては解明されないこと、世界がそれにたいして構成される、あるとくべつな存在者の「存在のしかた」が問題であることをみとめている。ただしハイデガーにあっては、その存在者は「現存在」であり(第4章 享受と身体「3 身体であること」『世界と超越』)、その存在様式を解明することが『存在と時間』の「中心問題」とされていたのである(フッサール宛て書簡。フッセリアーナ第九巻、六〇一ページ)。
†問題の所在[#「†問題の所在」はゴシック体]
フッサール自身の分析には、たしかになお問題がのこる。しかも、他我の構成を問題としようとするフッサールそのひとの構想にそくしてなお問題がのこる。
ひとつには、自己投入もまた、たんなる「借りもの」「幻像(ルフトゲビルデ)」として他者を手わたすにすぎない、ということである(カッシーラー『象徴形式の哲学』第三巻、原版九八ページ)。だが、そればかりではない。ハイデガーが指摘するように、そもそも「自己投入(アインフュールング)」が共同存在を可能にするのではない。むしろ他者と共に在ること、この「共同存在(ミットザイン)」に裏うちされてはじめて、いわゆる自己投入がありうるのではないだろうか(『存在と時間』第二六節)。
他者はたんなる認識の対象ではない。投入[#「投入」に傍点]は、〈私〉とともにある他者について、なにごともあきらかにすることはない。「ともに(ミット)」は、これにたいして、ある関係をあらわしている。現存在がそもそも存在しているかぎり「共同相互存在」であるような、存在の関係を表示しているのだ(同)。だが、この「ともに(アヴェク)」という前置詞は、他者との関係、他者との「本源的な関係」をいいあらわしているだろうか(『時間と他者』)。
†倫理的関係[#「†倫理的関係」はゴシック体]
問題設定そのものが転換される必要がある。レヴィナスはつぎのように書く。
[#ここから2字下げ]
思考と主観‐客観関係とを同一視すること(思考と認識とを同一視し、他者との関係をも認識の枠内で考えること)をやめることで、他者とのある関係がかいま見られることになる。その関係は、思考する者にとって耐えがたい制限を課することでもなければ、他者を内容という形式のもとで自我のうちにたんに吸収してしまうことでもない。いっさいの意味付与が至高の〈私〉の仕事であったところでは、他者はじっさい、一箇の表象のうちに吸収されてしまうほかはなかった。しかし、全体化する表象の活動、全体主義的な表象の活動が、その固有の志向のうちですでに超出されているような現象学(レヴィナス自身が考えるような現象学)にあっては、つまり、いわば欲しはしなかったにせよ、それ無しでは済まされないような地平のうちで、表象がすでに位置づけられているような現象学においては、倫理的な意味付与が、すなわち、〈他者〉にたいして本質的に敬意をはらうような意味付与が可能となるのである。
[#ここから2字下げ]
(「表象の没落」一九五九年。『フッサールとハイデガーとともに実存を発見しつつ』第二版・一九六七年刊、所収)
[#ここで字下げ終わり]
他者との関係はそれ自体として倫理的関係である。あるいは他者との関係それ自身が〈倫理〉なのである。どうしてだろうか。レヴィナスのばあい、問題の焦点はここにある。
3 到来する他者へ[#「到来する他者へ」はゴシック体]
†構成の錯誤[#「†構成の錯誤」はゴシック体]
フッサールの問題設定にもういちど立ちかえってみよう。『デカルト的省察』の(しばしばそう指摘される)「失敗」は、どのような失敗[#「失敗」に傍点]だったのだろう。それはたんに、自己投入という構成のプロセスにかかわる錯誤であったのだろうか。
さきに論文「表象の没落」から引用しておいたとおり(ちなみにこの論文は、ほかでもない、フッサール生誕百年記念論集に寄稿されたものである)、レヴィナスとしては、ここでむしろ問題設定そのものの変更を要求している。が、ことのその次第を見るまえに、いったんは超越論的現象学の構想にたいして内在的に考えてみよう。
超越論的領野においてこそ、さまざまな存在者が存在者としてあらわれる。超越論的領野とは、その意味では、世界がまさしく世界として立ちあらわれ構成される、固有の領域にほかならない。存在者のすべてはその領野のなかで出会われ、その内部にはまた、対象としての他者たちのあらわれもぞくしている。問題は、この他者たちが同時に主体[#「主体」に傍点]、世界にたいする主観でもなければならない、という一点に存在していたのである。
超越論的領野はしかし、世界がそこにたいして現出する、絶対的なここ[#「ここ」に傍点]と貼りあわされている。〈ここ〉にたいして、いっさいは対象として[#「対象として」に傍点]立ちあらわれる。そうであるとするならば、同時に主体であり、しかも超越論的な主観性として[#「主観性として」に傍点]あるような他者は、いわば定義上、〈ここ〉にたいして現われることがないはずである。
そのような他者を、この〈私〉のはたらきによって、つまり自己[#「自己」に傍点]を投入[#「投入」に傍点]する作用において構成しようとすることが、一箇の錯誤なのであった。自己投入という操作をかいして到達される他者は、ついに〈私〉にとっての対象[#「対象」に傍点]である他者となりはてるほかはない。私との絶対的な差異であり[#「差異であり」に傍点]、しかも〈私〉とおなじように超越論的主観性でもあるような他者は、私のはたらきからは不断に逃れさってゆく。構成された他者は、すでに私によって飼い慣らされ、その他性をあらかじめ喪失している他者なのである。
†外部の他者[#「†外部の他者」はゴシック体]
他者は構成されない。他者をその他性において構成することはできない。とすれば、他者は到来する[#「到来する」に傍点]、と表現するほかはないのではないか。しかも超越論的領野の外部から、つまり世界の外部から[#「外部から」に傍点]到来する、と語る以外にないのではないだろうか。
このように考えるなら、超越論的現象学の構想に内在してなお、他者を到来するもの、外部から到来するものとして特徴づける途がありうる。だが、それだけではない。他者との関係が〈倫理〉的な関係であるかぎり、他者としての他者は世界の内部に位置をもたない。他者の他性は、世界の外部を指示しつづける。どうしてか。他者が他者であることは、なぜ一箇の外部性なのか。レヴィナスにもどれば、問題はむしろ、ことのこの消息にこそあることになるだろう。
†世界と他者[#「†世界と他者」はゴシック体]
「世界の組織のなかでは、他者は無きにひとしい」、とレヴィナスはいう(『全体性と無限』)。理由は単純である。現に在るこの世界のうちでは、「殺人」が「日常茶飯事」であり、いわば「人類史上もっともありふれた事件」であるからだ(同)。
殺人が可能であって、そればかりでなく現実的でありつづけ、陳腐な現実でもあるかぎり、この世界の組成(エコノミー)のうちに〈他者〉はない。この世界が同時に「経済《エコノミー》」の世界でもあるかぎり(第5章 他者の到来「1 世界のなりたち」『エコノミー』参照)、殺人はつねにおこりうる。利潤をもとめる投資、〈他〉を解消しつづける〈同〉の論理、エコノミーのなりたちのうちには、殺人を禁止するものはない。ひともまた資材であり、資材である以上は消費し抹消することが可能であるからだ。――世界のなかで、われわれはさまざまな対象とかかわっている。「世界内に存在するとは、〈もの〉たちと結びあわされていることである」(『存在することから存在するものへ』)。他者もまた、世界内に立ちあらわれるかぎりでは、そのような対象のひとつである。つまり「価値を付与され、志向にさしだされた存在」である(同)。他者はじっさい、その価値にあわせて世界のなかで利用され処理されて、かくて無化される。
他者の顔が殺人を禁じる、あるいはより正確にいえば、顔において微かにあらわれる他者の他性が殺人を不可能にするならば、「そこで他者が顕現し、私にうったえかけるその顔は、われわれに共通のものでありうる世界と手を切っている」(『全体性と無限』)。
†世界の亀裂[#「†世界の亀裂」はゴシック体]
繰りかえし確認してみよう。たしかに「世界の組織のなかでは、他者は無きにひとしい」。だが、とレヴィナスはつづけて書きしるす。
[#2字下げ] だが、他者は私に闘いを挑むことができる。つまり、他者を打つ力にたいして、抵抗力によってではなく、その反応の予見不可能性[#「予見不可能性」に傍点]そのものによって対抗しうる。他者が私に対抗するのは、より大きな力によってではない。すなわち、算定可能であり、したがって全体の一部分をなすかのようなエネルギーによってではなく、この全体にたいする他者の存在の超越そのものによってなのである。この超越はなんらかの権力の最上級ではなく、まさしく他者が超越することの無限性である。この無限が、殺人よりも強く、他者の顔においてすでにわれわれに抵抗している。この無限こそが他者の顔であり、根源的な表出であり、≪なんじ殺すなかれ≫という最初のことばなのである。
[#地付き](同)
他者を殺すとは、他者をもはや他者ではないもの、たんなる〈もの〉とすることである。殺された他者は、じっさい刻々と〈もの〉へと還元され、事物としての解消過程をたどって、やがて腐敗し解体する。世界ではありふれたこと、でもある。だが、殺してしまったとき、他者はもはや他者ではない。世界ではありふれたことが、じつはある困難をふくんでいる。「私には〈他者〉を殺すことができないという倫理的不可能性のうちに、〈他者〉の例外的な現前が書きこまれている。〈他者〉は、さまざまな権力のおわりを告げている」(同)。他者の他性が、世界の組成(エコノミー)にたえず亀裂を生じさせる。
†他者の到来[#「†他者の到来」はゴシック体]
〈私〉であるとは、まずは「〈同〉のエゴイスティックな自発性」であるということである。私はその自発性において、世界とかかわり、世界内の存在者に意味をあたえ、存在者を対象として了解(コンプランドゥル)する。つまり存在者を包括(コンプランドゥル)する。世界という〈他〉はかくて〈同〉化されることになる。世界のうちに存在するかぎりでの他者もまた、例外ではありえない(『全体性と無限』。なお、第4章 享受と身体「1 主著の公刊まで」『了解と包摂』参照)。
レヴィナスによれば、この自発性を問いただすものこそが、到来する他者である。しかも世界の外部から到来する他者にほかならない。そうした「〈他者〉の現前」そのものが「倫理(エティク)」なのである。「〈他者〉の異邦性」、他者が世界にはぞくさないということ、他者を「〈私〉に還元することができないということ」が、「倫理として現成する」(同)。倫理とは、レヴィナスのみるところ、世界の外部から到来する他者との関係そのものなのだ。――他者を私が構成する[#「私が構成する」に傍点]のではない。逆である。到来する他者、私の世界の外部から到来する他者のみが、私の単独性を指定し、私を「この」私として、唯一の私として構成する[#「私として構成する」に傍点]。そうであるならば、そのような他者との関係にあってだけ、つまり〈倫理〉的な関係においてのみ、私は〈私〉でありうる、と考えることが可能であることになる。
†私の唯一性[#「†私の唯一性」はゴシック体]
もちろん、「ひとつ」あるいは「ひとり」と数えられる対象は、ひとしなみに個体である。個体とは、その定義上ひとまとまりの不可分割者(分けられない物《も》・者《の》)であり(たとえば、たんなる歯車の集合ではない、「ひとつの」時計)、また原理的には相互にとりかえがきかず、かけがえのないものである(たとえば、まさに「ここ」にある、ほかでもない「この」時計)。だがレヴィナスによれば、〈私〉は、時計や「エッフェル塔」や「モナリザ」が唯一であるように「唯一的」であるのではない(同)。
私の「唯一性(ユニシテ)」が際だったものであるのは、私が他者との関係のうちにあり、その関係のなかで逃れようもなく〈私〉でしかないことによってである。殺さない以上[#「殺さない以上」に傍点]、つまり他者を〈他者〉として、〈私〉に還元不能なものとして遇する以上、私は(殺すのではなく)呼応しつづけるほかはない。応答しつづけるという、この責務には際限がない。他者が無限であるかぎり、呼応にはおわりがありえないからである。この〈責め(ルスポンサビリテ)〉において、私が〈私〉として構成される。〈責め〉の無限性こそが私の唯一性、あるいは「単独性(サンギュラリテ)」なのである。
私の同一性、この〈同〉はしかし、どのようにして〈他〉を迎え入れることができるのだろう。しかも世界を超越した〈他者〉を受容することが可能なのか。この問いには、さしあたりこたえがない。問題は、第二の主著へともちこされてゆくことになる。
[#改ページ]
第V部 転回[#「転回」はゴシック体] 他者にたいして無関心であることができない
――第二の主著『存在するとはべつのしかたで』へ[#「第二の主著『存在するとはべつのしかたで』へ」はゴシック体]
[#改ページ]
第7章 問題の転回[#「問題の転回」はゴシック体]
――自己とは〈私〉の同一性の破損である
1 デリダとの交錯[#「デリダとの交錯」はゴシック体]
†時代の情況[#「†時代の情況」はゴシック体]
レヴィナスの第一の主著が出版されたのは、一九六一年のことである。同書でレヴィナスが博士号を取得し、大学に迎えられたことはすでに触れた(『全体性と無限』。なお、第4章 享受と身体「1 主著の公刊まで」『未知と他者』)。『全体性と無限』の公刊をとりまく時代の情況について、ここで手みじかに見わたしておこう。
一九五八年、フランスは第五共和体制期をむかえる。以後、十年にわたりフランスは、ド・ゴールの強大な指導力のもと経済成長を謳歌することになる。六〇年代すえに学生叛乱の嵐が吹き荒れた他の先進諸国家とおなじように、フランス社会もまた、内部にいくつもの矛盾をかかえながら相対的安定期へと移行したわけである。――哲学界はしかし、一足さきにドラスティックな転換期を迎えていた。ここでは、おもに『フランスの思想 一九四五―一九八八 ある年代記』(ガリマール社、一九八九年刊)に拠りながら、もっぱら第一の主著が刊行された年、つまり六一年の動向に焦点をあわせてみよう。
†思想の動向[#「†思想の動向」はゴシック体]
三月、『全体性と無限』がネイホフ社から、現象学叢書の一冊として出版される。五月三日には、メルロ=ポンティが自宅で急逝、『レ・タン・モデルヌ』特別号は、(ヘーゲルの翻訳・研究で知られる)イポリット、ラカン、ジャン・ヴァール等の論稿とならんで、七〇頁にもおよぶサルトルの追悼文を掲載する。「生きているメルロ=ポンティ」である。
政治的な理由からかつて袂を分かった旧友の感動的な一文は、同時にひとつの時代のおわりを告げていた。皮肉なことに、『レ・タン・モデルヌ』とサルトルとがリードした季節の終焉を、である。――前年サルトルは、歴史理論に踏み込む『弁証法的理性批判』を刊行、六二年にはレヴィ=ストロースの『野生の思考』が、長大な一章を割いて、サルトル的な「歴史」を西欧の「神話」と呼ぶことになる。いわゆる構造主義の登場である。
五月、フーコーの大著『古典期における狂気の歴史』が出版された。八月、バシュラールがフーコーを絶賛する手紙を書いている。フランス構造主義のなかで以後じっさい、言語学、文化人類学、精神分析学が、フランス認識論(エピステモロジー)の伝統と結合してゆくことになるのである。「実存」と「構造」とが、思考の分岐を告げる対立項となる。
べつの文脈にも目を転じてみよう。一〇月、フランツ・ファノンの『地に呪われたる者』が出版されている。サルトルが力強い一文を寄せたこの書の出版後まもなく、ファノンそのひとは世を去ることになる(一二月六日)。時代の目は、ようやく第三世界へと開かれはじめていた。九月には隔月刊行の雑誌『パルティザン』が創刊されている。創刊号は、アルジェリア革命の支持を、第三世界への連帯を、高らかに宣言していた。
†試論の登場[#「†試論の登場」はゴシック体]
このような時代の動向と、哲学界の関心が推移するなかで、レヴィナスの第一の主著は現時点からかえりみても、ほとんど孤島のような印象をあたえる。周囲の大海では思想の交替劇が波たかく、深海ではやがて爆発する社会の潜勢力がうず巻いている。『全体性と無限』が、出版当初ほとんど反響を呼ばなかったであろうことは想像にかたくない。
重要な反応が、だがデリダから寄せられた。「暴力と形而上学――レヴィナスの思考にかんする試論」(一九六四年)である。
のちにデリダの論文集『エクリチュールと差異』(一九六七年刊)におさめられることになるこの一文は、それが、(レヴィナスの死後まもなく公刊された、デリダの本格的なレヴィナス論『アデュー』へといたる)レヴィナスとの、デリダ自身の交渉の出発点であるという意味で重要な論稿である。当面の脈絡にかぎっていえばそれはまた、レヴィナスそのひとにある転回を促す契機となった批判論文であるという意味でも重要なものとなる。ここで、デリダの「レヴィナス試論」がふくんでいた批判的論点をかんたんに考えておこう。
†倫理と暴力[#「†倫理と暴力」はゴシック体]
レヴィナスはフッサールの他我構成論のうちに、〈他〉を殲滅する〈同〉の論理をみてとり、またハイデガーの存在論を「権力の哲学」「不正の哲学」と呼んでいた。レヴィナスの見るところでは、ハイデガーの思考は「存在者[#「存在者」に傍点]との関係における存在[#「存在」に傍点]の優位」を主張し、他者との関係、倫理的関係を「一箇の知の関係」に従属させるものであるからである(『全体性と無限』。なお、第4章 享受と身体「1 主著の公刊まで」『了解と包摂』参照)。――こうした批判は、しかし正当なものだろうか。デリダは、「レヴィナス試論」では原則的な現象学の徒として、また理解あるハイデゲリアンとして、とりあえずふるまって見せる。
デリダの反批判はこうである。第五省察の問題は、他者が「他我」としてあらわれるなら、それはかならず私にとって他我として経験される[#「経験される」に傍点]、ということである。超越論的現象学が問うのは、他者が他者として立ちあらわれる条件そのものである。同様に、「存在の思考」にとっては、他者が他者として存在する[#「存在する」に傍点]ことそのものが了解されなければならない。ハイデガーにあっては、他者がまさに他者という存在者として存在することが問われ、現存在がつねにそれである共同現存在が分析される。他者へのレヴィナスの問いは、その意味ではフッサールの超越論的な問いの地平をすでに前提している。他者の「存在」を問題とし、顔におけるその「顕現」を問うレヴィナスの歩みそのものも、存在への問いと絡みあう。それゆえ「存在の思考は存在論でも第一哲学でもない」。むしろ、どのような「倫理学」もその思考を欠いてはありえないのだ。他者を他者として語りだそうとするレヴィナスの言説も「存在を語る[#「語る」に傍点]」ロゴスとしてしかありえない(「レヴィナス試論」)。
デリダから見れば、問題はそればかりではない。たしかに他者の[#「他者の」に傍点]現前を欠いては〈倫理〉はありえない。だが、他者の現前[#「現前」に傍点]はまた、〈暴力〉の開始をもしるしづけるのではないだろうか。つまり「倫理は暴力的に開始される」(『グラマトロジーについて』一九六七年刊)のではないか。「存在の思考」が、言語の、あるいはロゴスのいわば〈原‐暴力〉(アルシ‐ヴィヨラーンス)であることはみとめてもよい。とはいえ、「レヴィナスのいう意味でのどのような倫理も、倫理的暴力なしには開始されえない」のだ(「レヴィナス試論」)。
†パリの五月[#「†パリの五月」はゴシック体]
この批判は決定的であった。第二の主著の公刊へといたるレヴィナスの歩みは、デリダによるこの批判がなければありえなかったといってもよいほどに、である。ここではしかし、ふたつの主著をつなぐ外的状況をなお見ておくことにしたい。
一九六七年、レヴィナスはポワティエ大学を去り、パリ第十大学の教授に迎えられた。この〈偶然〉によってレヴィナスは、ひとつの事件に居あわせることになる。ほかならないパリで翌年、六八年の五月に燃えさかった学生叛乱、いわゆる「五月革命」である。
なかば自然発生的な学生蜂起に端を発し、やがては教職員組合や労働総同盟を巻き込んでド・ゴール政権を揺るがす政治問題へと発展したこの「革命」は、すでに歴史にぞくしていよう。レヴィナスがこの叛乱にさいして取った態度については、さきにも触れておいた(第1章 思考の背景「1 ユダヤ人として」『ロシア革命』)。のちにレヴィナスは、「階段教室のカーテンにタバコで火をつけた」学生たちを、怒りをあらわにして回想したともいわれる。
†他者の価値[#「†他者の価値」はゴシック体]
パリの五月という、この「街頭におりたったポエジー」(マルカ)にたいして、レヴィナスが好意的でなかったことはまちがいがない。じっさい、レヴィナスは語っている。
[#2字下げ] 一九六八年には、いっさいの価値がブルジョア的であるとして異議を申し立てられたように感じました。とても印象的なことに、〈他者〉というひとつの価値をのぞいて、です。他の人間の権利は――自発的な〈私〉の解放のいっさい、ことばのすべての放縦、他なるものとしての〈他者〉への侮蔑にもかかわらず――口にされないままでいる、ということはだれも語らなかったのです。〈他なるもの〉に対抗することばが響くときでさえ、〈他なるもの〉のためのことばが背後で聴き取られるのですが。
[#地付き](マルカとの対話)
七二年に刊行された『他者のヒューマニズム』は、とはいえその末尾で、「一九六八年の、いくつかの特権的な瞬間がはなつ閃光」について、世界に異議を申し立てる「若さ」の「真性さ」についても語っている。「傷つきやすさ」としての「若さ」(同)はやがて、第二の主著における主題系のひとつともなるであろう。
一九七三年レヴィナスは、パリ第四大学哲学科の教授となる。第二の主著が公刊されるのは、その翌年のことであった。『存在するとはべつのしかたで』がそれである。
2 主体性のゆくえ[#「主体性のゆくえ」はゴシック体]
†第二の主著[#「†第二の主著」はゴシック体]
『存在するとはべつのしかたで あるいは存在することのかなたへ』(一九七四年刊)にあってレヴィナスは、ある「転回」(シュトラッサー)を遂げたといわれる。
ふたつの主著のあいだにはたしかに、表面的にみても多くの差異がある。『存在するとはべつのしかたで』の文体は極度に凝縮され、ほとんどアフォリズムの集積であるかのようだ。転回[#「転回」に傍点]は、しかしまずは問題の設定そのもののうちに辿られるべきであろう。
レヴィナス自身の整理によれば、こうである。『全体性と無限』がじつはすでに「存在のかなた」と呼ばれるべきものの探究であった。同書ではじっさい、「存在」とは「外部性」であるとも語られている。だが、第一の主著が〈かなた〉という語をいまだ積極的に述べたてることができなかったのは、『全体性と無限』がなお「存在論の言語」に囚われていたからである(「問いと応答」『観念に到来する神について』所収、ほか参照)。「存在論の言語」から「倫理の言語」への移行のなかで、「存在」が問われなければならない。
なぜふたたび「存在」が問題であるのか。さらに、「存在することのかなた」が問題となるのか。そのことがまた、「倫理の言語」とどのように関係するのか。
レヴィナスそのひとの自己理解については、ここではこれ以上たち入らないことにしよう。問題を第三者的な視点からもういちど確認しておきたい。
†困難の所在[#「†困難の所在」はゴシック体]
存在は、「自己との同等性(エガリテ)」として定義される。自己でありつづけるもの、自己とのひとしさでありつづけるものが「存在」である。そうであるとすれば、『全体性と無限』にあっては〈同〉と名づけられた、〈私〉の自己同一性こそが、この「存在」の要件をみたしていることになる。自己とは自己同一性であり、〈同〉であって、そのかぎりですぐれて「存在」するものなのである。
だがしかし、ここで困難が生じる。すぐれて存在し、とりわけて自己との同等性であるもの、つまり〈私〉は、いったいどのようにして〈他〉を受け容れることができるのだろうか。しかも、私とは端的にことなり、私との絶対的な差異である[#「差異である」に傍点]ような〈他者〉を受容することができるのか。――他者の〈現前〉によって、というこたえが解答となりうるだろうか。デリダがいうように、他者の現前がかりに暴力の開始をもしるしづけるものであるとすれば、一方では〈現前〉ということがらそのものが再考されなければならない。他方ではまた、主体性の規定それ自体がとらえかえされる必要がある。〈私〉の自己同一性こそが「存在すること」の雛型であるならば、主体性の規定を考えなおすことは、〈存在するとはべつのしかた〉を手さぐりすることともなってゆくはずである。
前者についてはのちに立ちいることになる。まず、後者の問題からはじめよう。
†他者の歓待[#「†他者の歓待」はゴシック体]
〈同〉はいかにして〈他〉を迎え入れることができるのか、についてはさしあたりこたえがない、問題は第二の主著へともちこされる、とさきに語っておいた(第6章 世界と他者「到来する他者へ」『私の唯一性』)。論点をもう少していねいにいいなおすと、つぎのようになるだろう。
『全体性と無限』の「序文」でレヴィナスは、同書の主題は「主体性の擁護」にある、と書いている。第一の主著は、著者の要約が告げるところによれば、他者を迎え入れること、「歓待すること(オスピタリテ)」として主体性を提示する。「無限の観念」が現成する場もまた、「オスピタリテとしての主体性」のうちにあるのである(『全体性と無限』)。
他者を歓待する主体性とは、他者がまさに他者であることを受け容れ、他性によって〈責め〉を負っている、唯一の主体であることである(第6章 世界と他者「到来する他者へ」『私の唯一性』参照)。体系への志向が仄みえる『全体性と無限』にあっては、しかしオスピタリテはやや奇妙ともみえる主題の連関のなかで論じられていた。「内面性と家政」という論脈である。
労働が人間にとっての世界を創設する。労働と所有によって「世界」は「わが家」とみなされ、世界に在ることが「家政」と「経済」の、つまりエコノミーの問題となる。この件については、すでに論じた(第5章 他者の到来「1 世界のなりたち」『エコノミー』)。問題を主体について語りなおせば、私がこの〈私〉となり「内面性」を獲得することは、それじたい「家政」にかかわる問題である。私はつまり「家」の内部で〈私〉となる、とレヴィナスは見ているのである。
†家政と女性[#「†家政と女性」はゴシック体]
家という内部が〈私〉の内面性(アンテリオリテ)を可能にする、とレヴィナスは考えている。それがなぜなのか、はここでは問題としないことにする。問題としておきたいことは、「家」の内部にはある他者が、「女性」という他者が現前している、とレヴィナスが考えていることである。『全体性と無限』のレヴィナスによれば、「女性」こそが他者を歓待し迎え入れる。「家」には「女性」があり、その女性性こそが他者を歓待し受け容れることそのものである。女性性(フェミニテ)とは歓待性(オスピタリテ)である。
この議論の奇妙さは、『全体性と無限』の主題構成にあって〈偶然的〉と片づけうるような奇妙さではない。ことがらは一方では先にみたエロスの現象学の一面性につながる(第5章 他者の到来「3 エロスの現象学」『渇望と満足』以下参照)。多くの論者(たとえばイリガライ)が指摘するように、第一の主著における「愛撫」の分析は、〈男性〉が主体であることをあらかじめ前提する分析であった。問題は、他方では「多産性(フェコンディテ)」という、本書では立ちいらない論点にかかわる。『全体性と無限』のレヴィナスによれば、子を、わけても息子[#「息子」に傍点]をもつことにより、〈私〉は時間の断絶を超越し、死に勝利する。これもまた、ずいぶんと一面的な話のように聞こえよう。問題をここではとはいえ、より一般的なかたちでとらえておかなければならない。
†主体の構造[#「†主体の構造」はゴシック体]
オスピタリテとは、他者の他性を受容することとかかわることがらであった。そうであるとするならば、歓待性を女性性と重ねあわせることに、そもそも問題がある。問題を主体性の構造そのものにかかわる問いとして考えなおさないかぎり、〈同〉はいかにして〈他〉を迎え入れることができるのか、という問いにたいしてこたえがないのだ。
倫理の開始は同時に暴力の端緒ではないか、というデリダの批判をもおそらくは考えあわせながら、『全体性と無限』公刊ののちのレヴィナスは、主体性の規定を考えなおすことになる。再考のけっか獲得された主体概念は、ひとことでいえば「〈同〉における〈他〉」と表現されるものであった。第二の主著から、特徴的な箇所を引用する。
[#ここから2字下げ]
主体性は〈同[#「同」に傍点]〉における他[#「における他」に傍点]として構造化されている。だが、意識のそれとはことなった様相においてである。意識はつねに、主題と、すなわち再現前化された現在と相関的である。つまり私のまえにおかれた主題、現象である存在と相関的なのである。(中略)
主体性とは〈同〉における〈他〉である。だがそれはまた、対話者が平和に共存し、相互に合意に達するような、対話者たちの現前とはちがった様相においてのことである。主体性という〈同〉における〈他〉は、〈他〉によってかきたてられた〈同〉の動揺なのである。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『存在するとはべつのしかたで』)
「〈同〉における〈他〉」とは、ひとことでいって、〈他者〉をうちに抱えこみながら〈私〉であるありかたである。他者は、しかもレヴィナスにあって、私とは端的にことなる他性においてあるもの、絶対的な差異であるものであるから、このことはとりあえず一箇の矛盾であるほかはない。私とはことなっているもの、しかも無限にことなっているものが、なお〈私〉のうちに懐胎されている。あらたな主体概念はまずこのことを告げている。
†主体の綻び[#「†主体の綻び」はゴシック体]
「〈同〉における〈他〉」がさしあたり一箇の矛盾である以上、それは「意識」にたいする「主題」であることはできない。意識は矛盾をとらえることができず、矛盾であるものは、それが意識されることで矛盾であることを止める。だから、意識に起源をもたず、意識の内部にもたらされることのない「〈同〉における〈他〉」は、レヴィナスによれば、とりあえず「動揺」、しかも他者によって「かきたてられた」動揺なのである。
おなじことをレヴィナスは、〈私〉は「自己のうちに休息すること」でも「自己との一致」でもなく、むしろ「自己との関係における差異」である、とも述べている。第二の主著にあっては、「自己」の同一性は「自己の外部」から到来する、とされるのだ(同)。
「主体の主体性」とは「同一性のこうした破産」である。自己はたえず自己からずれてゆく。主体性はあらかじめ破綻しており、傷ついている。「自己とは、〈私〉の同一性のこのような破損あるいは敗北なのである」(同)。どうしてだろうか。論点を具体化するために、まずこの私の身体のありようからあらためて考えなおしてみよう。
3 身体性のかたち[#「身体性のかたち」はゴシック体]
†自己の所有[#「†自己の所有」はゴシック体]
ある意味では「私は私の苦痛であり、呼吸であり、私の諸器官である」(『存在することから存在するものへ』)。私は身体を所有しているのではなく、私は私の身体である[#「である」に傍点]。すでに見てきたとおり、だがレヴィナスにあって、身体は同時に「定位」することそのもの、定位するというできごとそのものでもあった(第3章 主体と倦怠「2 定位と瞬間から」『定位と身体』参照)。身体はいかなる意味でもたんなる〈もの〉ではない。身体であるとはそれじたい一箇のできごとである。
なにものももたず、ただ身体だけをたずさえて世界に生まれ落ちた〈私〉が、世界という「外部性」を肯定する。私は身体であることで、世界という「糧」を必要とする。私は息を吸い、食物を咀嚼することで、つまり〈他なるもの〉としての世界を「享受」することで、この[#「この」に傍点]私でありつづける。そのかぎりでは身体とは、「自己の所有」という〈できごと〉なのであった(第4章 享受と身体「3 身体であること」『享受と身体』)。私が「身体」であることは「偶然」ではない。身体であることによってこそ、私は自己を所有する(『全体性と無限』)。
それゆえにまず「生とは身体である」。身体であることは一方ではじぶんを支え「みずからの主人であること」である。それは、だが他方「大地へと密着すること」でもある。身体であることで〈私〉は土着的[#「土着的」に傍点]となる。身体とは、かくして自己の獲得であるとともに、大地の取得でもある。つまり、じぶんが定位する大地の獲得でもあるのである(同)。
第一の主著におけるレヴィナスは、このようなかたちで、身体であることの意味をおさえようとする。だが、そうだろうか。身体であること、私の身体性をこのようにとらえることは、レヴィナスの思考の、もうひとつの動機と両立するだろうか。
†身体と所有[#「†身体と所有」はゴシック体]
レヴィナスはハイデガーの哲学を「所有し大地に家をたてる、定住民族の運命」を表現するものと考えている(同)。所有と労働とは、そしてレヴィナスによれば、〈他〉を〈同〉と化する形式であった(第5章 他者の到来「1 世界のなりたち」『エコノミー』)。ハイデガーの哲学は、レヴィナスの見るところでは、それだからこそ一箇の「権力の哲学」なのだ(第7章 問題の転回「1 デリダとの交錯」『倫理と暴力』)。ハイデガーを超えることは、この運命と形式とを超えることである。であるとすれば、そもそも、身体を所有[#「所有」に傍点]ということばのつらなりにおいて考えること、身体のうちに自己の[#「自己の」に傍点]所有をみとめること自体が再考されなければならないのではないか。
存在の思考そのものにたいするレヴィナスの批判は、デリダが指摘していたように、ある意味で単純な誤解でもありえよう。問題そのものは、しかしなお残りつづける。身体とは獲得[#「獲得」に傍点]なのか。身体であるとは、むしろ一箇の自己喪失[#「自己喪失」に傍点]ではないだろうか。
†大気と身体[#「†大気と身体」はゴシック体]
第二の主著にあってレヴィナスが主体性を「〈同〉における〈他〉」と規定し、「自己」を「同一性」の「破損」ととらえるにいたったことは、すでにみた(第7章 問題の転回「2 主体性のゆくえ」『主体の綻び』)。論点は、身体性のとらえかえしというかたちであらわれる。それは具体的にはまず、『全体性と無限』が「始原的なもの」と呼んだ世界の様相を再考することによってである。
享受は、始原的なものの深さに支えられている。始原的なもののおなじ[#「おなじ」に傍点]深さが、しかし享受を、享受の無垢な幸福を阻害するのであった(第5章 他者の到来「1 世界のなりたち」『享受と労働』)。始原的なものの深さは「非人称的なもの」「夜との境界」に接していたからである(第4章 享受と身体「3 身体であること」『労働と労苦』)。
だが、そうであるとすれば、始原的なもの、エレマンを、いわば二重化してとらえることに根拠がないのではないだろうか。始原的なものの示す、昼の顔と夜の顔、享受を裏づける面と、それを阻止する面とは、やはりおなじもの[#「おなじもの」に傍点]なのではないか。具体的にいえば、たとえば呼吸することそのものが、始原的なものの強迫に、大気の圧迫に曝されていることとしても再考されなければならないのではないだろうか。大気はたんに呼吸されるのではなく、肺を浸潤し貫通するものなのだ。――レヴィナスは、第二の主著へといたる思考の過程で、そのように考えなおしはじめているようにおもわれる。
第二の主著において、じっさいレヴィナスは書いている。
[#2字下げ] 空間の空虚が見えない大気によって――この大気は、風がそよぐときや嵐が迫ってくるときでなければ、知覚には隠されているのであるが――充たされているということが、知覚されるのではなく、内面性の襞《ひだ》にいたるまで私をつらぬくということ、この不可視性あるいはこの空虚は吸いこまれうるものであり、恐るべきものであるということ、無関心なものではありえない、この不可視性は、いっさいの主題化に先だって私を強迫するものであるということ、たんなる四囲[#「四囲」に傍点]が気圧[#「気圧」に傍点]として押しつけられ、この気圧に主体は屈服し、意図も狙いもなく肺までこの気圧に曝されているということ、主体はその実質の基底にあって肺でありうるということ――これらのことが意味するのは、存在に足をつけるに先だって苦しみ、みずからを提供する主体性である。この主体性は受動性であって、まったくもって耐えること[#「耐えること」に傍点]なのである。
[#地付き](『存在するとはべつのしかたで』)
†自己の喪失[#「†自己の喪失」はゴシック体]
『全体性と無限』の身体は、大気を吸いこみ、そのことで生の糧を享受していた。『存在するとはべつのしかたで』におけるレヴィナスの身体は、過酷な大気に曝され、濃密な空気のなかで呼吸し、むしろ喘いでいる。身体であるとは「暑さや寒さ」に曝される「裸形」であることである(『全体性と無限』)。このことは、第一の主著にあってもかわらない。第二の主著では、とはいえ、身体性のべつの面が強調される。身体はいたるところで開口し、その開口部で外部性へと曝されている。「皮膚のうちで捻じれて」いる身体は「みずからの内ですでにみずからの外にある」。身体は「皮膚をじぶんのものとすることなく、皮膚のうちに」痛みをおぼえる(『存在するとはべつのしかたで』)。
身体は、かくして獲得であるまえに喪失である。身体性とは不断の自己喪失である。身体であるとはしかも、「老いること」によっても一箇の自己喪失なのである。レヴィナスが見るところによればつまり、身体はもはや〈同〉ではなく、「自己」でもなく、〈同〉でありつづける「存在」でもない。すじみちをもうすこし辿ってみよう。
†老いる身体[#「†老いる身体」はゴシック体]
身体である私は息を吸い、息を吐く。このことは、しかしたんに〈享受〉ということばで描きとられるべきことがらなのだろうか。それは同時に〈喪失〉ではないだろうか。
呼気と吸気とのあいだの「時‐間」が、私を老いさせる。「息をすること」で、身体は「肺の粘膜」まで不断に脱ぎ捨てながら「ひび割れるのを止めることがない」(『存在するとはべつのしかたで』)。私は息を吸い、息を吐くたびごとに〈他なるもの〉に曝されている。〈他〉に曝されていることで〈私〉はしかも、刻々と老いているのだ。身体の表面はつねに四囲[#「四囲」に傍点]に曝され、気圧[#「気圧」に傍点]は私の身体を圧し変形させ、身体の内部に入りこむ。身体である私は、外部性にさらされ、喘ぎ、「捻じれ」「ひび割れて」ゆく。この自己喪失は、私が老いるということそのもの、老化という「不断の自己喪失」それ自体である(同)。
じぶんの意向(グレ)に反して生きているということ、「〈自己に反して(マルグレ・ソワ)〉ということが、生きることそのものにおける生をしるしづけている」と、レヴィナスはいう。なぜか。私は私の好み(グレ)のいかんとはなんらかかわりなく「老いる」からである。その意味で、「生とは生に反する生なのである」(同)。
†受苦と受動[#「†受苦と受動」はゴシック体]
生は生に反して[#「生に反して」に傍点]剥がれ落ちてゆく。生は生であるとともに[#「ともに」に傍点]、生が剥がれ落ちてゆくことである。老いることが不可避であるとは、そういうことだ。生はじぶんを維持しようとする。だが、自己保存のその過程そのものが同時に[#「同時に」に傍点]さけがたく自己を喪失する過程となる。生とは、だから一箇の矛盾(第7章 問題の転回「2 主体性のゆくえ」『主体の構造』参照)でもある。とはいえ、この矛盾はつうじょう意識されない。老いることはふつう意識されないからだ。老いてゆく生とは「回収不能な過程」であるが、この過程そのものは「いっさいの意志の外部に」ある(同)。
身体である生とは、かくして「同一性の散逸」(同)である。この身体として生きているかぎりでの〈私〉は、こうして不断に自己を喪失している。つまり「同一性」は当初から「破損」し破綻している(第7章 問題の転回「2 主体性のゆくえ」『主体の綻び』)。老いるというかたちで、私は〈私〉からずれてゆき、やがて決定的に自己を喪失する。つまり死んでゆく。第一の主著もそう書きとめていたとおり、時間は「老いと死を産出する」(『全体性と無限』)のである。
老いることにあって、身体は避けがたく受動的である。老いという受動に曝されていることが、主体の決定的な受苦でもあるだろう。身体の受動性が、だが、もうひとつの場面で確認される必要がある。それは、感受性という次元である。感受性という、いっさいの受動性よりも受動的な次元に、他者の懐胎が見とどけられなければならない。
[#改ページ]
第8章 志向と感受[#「志向と感受」はゴシック体]
――顔はいつでも皮膚の重みを課せられている
1 感受性の次元へ[#「感受性の次元へ」はゴシック体]
†論点の確認[#「†論点の確認」はゴシック体]
主体性とは「〈同〉における〈他〉」である。自己の同一性は自己の外部から到来し、〈私〉はむしろ「自己との関係における差異」となる(第7章 問題の転回「2 主体性のゆくえ」『主体の綻び』)。
さしあたりは身体性の次元に着目して考えるとき、私が〈私〉であるとは、私がかえって自己との差異であることであり、 〈私〉 が自己差異化であるとは、 つまり私が老いてゆくことである。身体として存在しているかぎり、私の生は生それ自体から剥がれ落ちてゆく。
〈私〉の「同一性」は「散逸」し、私はやがて死ぬことだろう。老いて死ぬことは、そして、決定的な意味で受動的な過程にほかならない(第7章 問題の転回「3 身体性のかたち」『受苦と受動』)。
前章までに確認しておいた論点は、こうであった。この節ではことがらを、べつの側面から、つまり感受性という面から見ておくことにしよう。
†享受と愛撫[#「†享受と愛撫」はゴシック体]
レヴィナスが、「愛撫」は「感受性」であると規定していたこと、愛撫がまず感覚的なものにかかわり、しかし感覚的なものを超え出てゆくと考えていたことはさきにみた(第5章 他者の到来「3 エロスの現象学」『愛憮の意味』)。愛撫にあって他者は、一方では他性をたもち、他方では私の「享受」へと供されている。これが愛撫の「錯乱」を生み(第5章 他者の到来「3 エロスの現象学」『愛憮の錯乱』)、また「エロス的なもの」の「とくべつな曖昧さ」(『全体性と無限』)を生じさせている。つまり愛撫に特有な、奇妙な飢えを、である。
レヴィナスはここで、他者との直接的なかかわりを身体的な接触という範型のなかにみとめ、それを享受という側面から考えている。そうであるとすれば、愛撫が挫折するのはなかば必然的なことのなりゆきである。享受とは対象を同化することであり、他者とはけっして私によって同化されることのないものであるからだ。――感受性の次元そのものにかんしていえば、しかし、問題とすべきことがらがなお残っている。
正確にいえば、『全体性と無限』におけるレヴィナスは、「感受性」そのものが「享受」一般にぞくすると考えている。感受性は「思考の次元」にではなく「感情の次元」に帰属する。感性的にあたえられるさまざまな「質」は「認識されるのではなく、生きられる」。たとえば「この葉のみどり、この夕日の赤」のように、である。世界を享受することは、まず世界を感覚することである。あるいは――第一の主著におけるレヴィナスの思考の基本線に沿っていえば――「感受性が享受なのである」(同)。
†享受と消費[#「†享受と消費」はゴシック体]
享受するとは、息を吸いパンを食らうことである。享受にあって私は、享受される対象との「隔たりを食い尽くして」(『存在するとはべつのしかたで』)ゆく。呼吸するとは大気を身体の内部へと摂り入れることであり、食べ物を咀嚼するとは享受されるものとのさかい目を抹消してゆくことだ。だが、感覚することそのものも、一般にまたそうではないか。「感覚するとは〈うちにあること〉」(『全体性と無限』)、あたえられて在るものにたんに満足[#「満足」に傍点]することである。日だまりのなかでなかばまどろみながらこの葉のみどり[#「この葉のみどり」に傍点]を感覚するとき、みどりの煌きと私とのあいだに距離はない。私はたんにそれを享受[#「享受」に傍点]している。
レヴィナス自身が注記しているように、「『全体性と無限』においては、感性的なものは消費と享受という意味方向において解釈されていた」(『存在するとはべつのしかたで』)のである。レヴィナスは第二の主著にあっては、この解釈を部分的にかえることになる。
†享受と「傷」[#「†享受と「傷」」はゴシック体]
第二の主著でもなお「享受が感受性の不可欠な契機である」ことにはかわりがない。だがいまや、「感性的なものの直接性」において、感受性が「傷と享受に曝されている、あるいは享受における傷に曝されている」ことが問題となる。かくてもうひとつの契機が、感受性(サンシビリテ)には付けくわえられる。つまり「傷」という契機、あるいは「傷つきうること」「傷つきやすさ(ヴルネラビリテ 「感傷性」あるいは「可傷性」とも訳される)」という契機である(『存在するとはべつのしかたで』)。このことはなにを意味しているのだろうか。レヴィナスの思考の基本的なすじみちになにが生じているのか。
問題の構図をはっきり示している箇所をまず引用する。
[#2字下げ] 主題化されない〈近さ〉はたんに、〈近さ〉の経験がそこに潜在している接触の地平にぞくするものではない。感受性は――また、感受性において意味する〈近さ〉、直接性、動揺は――意識と身体とを結びあわせるなんらかの統覚から構成されるものではない。受肉は、じぶんが表象する世界のただなかに位置づけられた主体にぞくする、超越論的な操作ではない。身体の感性的な経験は最初から受肉している。感受されるものは――つまり母性、傷つきうること、危惧は――自己の統覚よりもひろい筋立てのなかで受肉のむすび目をつくる。その筋立てにあっては、私はじぶんの身体に結びあわされるに先だって、他者たちに結びつけられているのである。
[#地付き](同)
強調されるにいたるのは、かくして、感受性のべつの側面である。享受が消費という側面から考えられているかぎり、享受はエゴイズムの原理でありつづける。第一の主著によればじっさい、「享受にあってはじめて私は結晶化する」のである(『全体性と無限』)。感受性そのものが享受と同一視される以上は、感受性のうちにエゴイズムを超える原理は宿りえない。感受性である私は〈私〉のうちに閉ざされつづける。
だが、そうだろうか。第二の主著にあってレヴィナスは、この点についても再考をくわえることになる。
†志向と感受[#「†志向と感受」はゴシック体]
第二の主著からのさきの引用では、ことがらのべつの側面について語られはじめている。感受性とはまず〈近さ〉である。感受性が〈近さ〉であることで、感受性である〈私〉は「動揺」へと曝されている。感受性はもはや自足の原理、エゴイズムの拠点ではありえない。どうしてか。
〈近さ〉とはなんであるか、〈近さ〉がなぜ「主題化」不能であるかについては、おって問題としよう。また、レヴィナスがその第二の主著で、〈傷つきやすさ〉としての主体性を「母性」と規定することについては、さしあたりたんにそう触れておくに止める。さきの引用から読みとられるべき論点が、とりあえずなおふたつある。
ひとつは「感受性」が「統覚」との区別において、統覚に先だつものとして、つまり意識それ自体に先行するものとして規定されていることである。(統覚とは意識の統一のことである。意識の諸状態を統一することで、統覚は意識そのものを可能にしている。)感受性は意識に先だつ。より正確にいえば、意識の「志向性」に先行する。志向性は、それ自体いっさいを構成するものではない。感受の次元が、志向そのものに先行しているのだ。
第二に、感受性の次元に「他者たち」との「むすび目」が見さだめられていることに注目しておく必要がある。主体性が「〈同〉における〈他〉」であり、主体がすでに〈他者〉を孕んでいるとすれば(「母性」という語はこの事情に由来する)、それは感受性という次元で生起していることがらなのだ。つまり、能動的な志向に先だち、それゆえに受動的な、レヴィナスの表現にしたがえば「いっさいの受動性よりも受動的な受動性」としての感受性の次元において、私は〈他者〉と結ばれている。
†関係の懐胎[#「†関係の懐胎」はゴシック体]
問題はこのふたつの観点が、どのように関連しているかである。この論点については、次節以降で主題的に検討することになるだろう。ここではおおざっぱな見とおしだけしめしておくことにする。
いっさいが意識の志向性によって構成されるものであるとするならば、他者もまた志向性のうちに回収されるはずである。他者はじっさいつねに「なにか[#「なにか」に傍点] (quoi)」として私の世界のうちで意味づけられる。だが、「だれか[#「だれか」に傍点] (qui)」という問いは、私の志向性のうちに回収されない(第6章 世界と他者「1 他者のあらわれ」『アレルギー』)。他者が他者であることは志向性から逃れ、私の現在から逃れつづける。にもかかわらずなお他者が私にかかわってくるとするならば、志向性に先だち、私の現在に先だつ次元で、他者との関係が胚胎してしまっているはずである。その次元こそが、(志向性という)意味とロゴスの水準に先だつレヴェル、感受性の次元なのではないだろうか。
以下では、この間の消息について、第二の主著におけるレヴィナスの主張を読み解きながら、なお見ておくことにしたい。
2 他者との近接へ[#「他者との近接へ」はゴシック体]
†内部と外部[#「†内部と外部」はゴシック体]
身体とは「裸形」であった。裸形の身体にはしかも、いくつもの孔が穿たれている。耳や鼻、肛門や性器ばかりではない。皮膚の表面に無数に開口する毛穴、汗腺口によっても、身体は内部を漏出させ、外部から侵襲されている。
身体であるということは、〈私〉が「暑さや寒さといった匿名の外部性」に曝されているということだ(第7章 問題の転回「2 主体性のゆくえ」『自己の喪失』参照)。熱を帯びた皮膚が酷暑の大気と溶け合い、あるいは寒気に触れて肌が凍りつく。身体である私の内部は、そのつど私の外部とつながり、内部は外部へと反転し、捻じれてしまう。
そればかりではない。「最初から受肉」(第8章 志向と感受「1 感受性の次元へ」『享受と「傷」』)している私は、感受性においていっさいの能動性から見はなされている。レヴィナスによれば、「受肉」としての、「身体性」としての感受性は、「意識」のてまえで「ロゴス」を沈黙させ、あるいは「意識の欠落」を招来してしまうのだ(『存在するとはべつのしかたで』)。なぜだろうか。
†傷つく身体[#「†傷つく身体」はゴシック体]
身体の「皮膚の表面における感受性の直接性」が、つまりそのつど世界に直[#「直」に傍点]‐接[#「接」に傍点]し、いわば逃げ場をもたない感受性が、その「傷つきやすさ」において、すべての能動性、能動的な志向性よりも先に、つまり意識のはたらきのてまえで傷を負ってしまうからである。「感性的なものの直接性」、つまり感覚において感受性がじかに世界と接触していることは、感覚がたんなる認識によって汲みつくされるものではないことを告げている(同)。強いていうなら、感受性はみずから傷を負うこと、じぶんが傷つくことではじめて、対象を感覚的に認知する。じっさい、対象を触知する皮膚は、同時にまた、触知する対象そのものの傷によって傷をおう。肌理の細かさを知る肌は、木目の傷によって傷つけられる。感受性とは同時に「痛みをおぼえる感応性」のことにほかならない(同)。
そのように説く、第二の主著におけるレヴィナスは、感受性の位置づけをあきらかに変更している。感受性とはいまやたんなる享受ではない。感受性とはまた、そのつど傷を負うことである。このことの意味をなお辿っておく必要がある。
感覚するとは「留保なしに‐すでに供されて‐しまっていること」(同)である。すでに供されて[#「供されて」に傍点]‐しまっている以上、感受性には逃げ道がない。感受性はかならず傷を負う。感受性はしかも、そのつど現在にたいして立ちおくれている。すでに[#「すでに」に傍点]供されて―しまっている[#「しまっている」に傍点]かぎり、感受性そのものはみずからのはじまり[#「はじまり」に傍点]ではなく、いつでも・つねにじぶんの現在に遅れている。あるいは、感受性を触発するものの現在にあらかじめ立ちおくれ、触発されるときにはすでに触発するものが過ぎ去っている。
感受性という「自己が引きうけることができない受動性」として主体性が描きとられることが、主体性が「〈同〉における〈他〉」であることをあかすだろう。つまり〈他者〉にたいして〈私〉が曝されているしかたを明示するはずである。いいかえれば、他者との〈近さ〉において動揺する私のかたちをあきらかにするはずである。
†触覚と味覚[#「†触覚と味覚」はゴシック体]
感受性とは〈近さ〉であった(第8章 志向と感受「1 感受性の次元へ」『志向と感受』)。それでは〈近さ〉とはなんだろうか。もういちど享受一般の次元へと立ちもどってみよう。
レヴィナスにあって享受一般のモデルは触覚と味覚である。レヴィナスによれば、味覚はもともと、たとえば味の「認識」であったのではない。認識とは対象とのなんらかの隔たりを含んでなりたつものであるとすれば、味覚そのものには隔たりが欠けている。たんに食べ物に齧りつき、咀嚼すること自体が「味わう」ことの意味である(『存在するとはべつのしかたで』)。
「風景を味わう」「目で食べる」といったありふれた表現がたんなる比喩ではないとすれば、隔たりのこの解消はむしろ感覚的経験一般のかたちをしめしていよう。じっさいさきに触れたように、陽光のなかでこの葉のみどり[#「この葉のみどり」に傍点]を感覚するとき、揺らめくみどりと私とのあいだに隔たりはない(第8章 志向と感受「1 感受性の次元へ」『享受と消費』)。この、隔たりの不在こそがとりあえずは〈近さ〉と呼ばれるものである。
†近さの意味[#「†近さの意味」はゴシック体]
であるとすれば、〈近さ〉は奇妙ななりたちをしていることになる。つまり、〈近さ〉は認識ではない[#「認識ではない」に傍点]以上、近さが〈近さ〉として知られているときにはすでに〈近さ〉は消失している、すなわち対象との隔たりが生じている、ということの消息がそれである。現にたとえば、煌くみどりがみどりとして認識されたとたん、この葉のみどりはすでに私との距離をもち、みどりの葉と私とはへだてられてしまっている。〈近さ〉は生きられるが、認識されることがない。あるいは純粋に感覚的な経験一般において、私は〈近さ〉に取り込まれてしまっているが、その〈近さ〉は認識によって引きうけられることがない。レヴィナス自身のことばでいえば、「〈近さ〉とは物語りえないものなのだ」(同)。
問題は他者との〈近さ〉についても同様である。もしくは、〈他者〉との近さこそが典型的である。論点をふたたび他者との身体的接触、直‐接の場面で考えてみよう。
〈近さ〉とはまず、たんに空間的に近接していることではない。たとえば、真夏の満員電車のなかで否応なくからだを押し付けあい、汗ばんだ皮膚と皮膚とが接触している現場で〈近さ〉が問題となるのではない。そのような場面では、私はむしろ他者と可能なかぎり最大の距離をとろうとするだろう。それが物理的に不可能であっても、私は私の身体の内部へと収縮しようとすることだろう。私は「差異(ディフェランス)」の「うち(アン)」にあろうとする、つまり「無関心(アン‐ディフェランス)」であろうとするはずだ。
かといってしかし、〈近さ〉は「近さの経験」でもありえない。〈近さ〉を「主題化」しようとするこころみはむしろ〈近さ〉を消失させてしまう(同)。このことは感覚的経験一般のばあいと同様である。だが、こと他者にかかわる経験にあって、これはなにを意味するのだろうか。
†愛撫・再考[#「†愛撫・再考」はゴシック体]
まず、〈近さ〉を意識しようとする経験、あるいは〈近さ〉をむしろ積極的に引きうけようとする経験とは、どのような経験でありうるだろうか。レヴィナスがここで「触診」という例を挙げていること、しかも、「愛撫」の経験との対比において触診という行為に触れていることに注目しておこう(『存在するとはべつのしかたで』)。
愛撫と触診とは、では、どのようにことなるのだろうか。医師が患者の身体を触診することと、私がたとえば恋人を愛撫することとの違いはなにか。
表面的にみれば、おこなわれていること自体に決定的な差異は存在しないかにおもわれる。医師も私も、他者の身体の表面に触れ、そこでなにごとかを探っている。レヴィナスそのひとが指摘しているように、じっさい「触診であることに不意に気づいてしまう愛撫」、つまり「冷淡な愛撫」といったものがありうる。それは、だが愛撫ではない。触れているさなかで、意識が立ち合い、「知」へと変容してゆくような接触は愛撫ではない(同)。愛撫とは、それではなにか。
†愛撫と皮膚[#「†愛撫と皮膚」はゴシック体]
第一の主著である『全体性と無限』はもとより、戦後まもなく刊行された諸著にあってすでに、愛撫というエロス的経験は、レヴィナスの思考における主題系のひとつであった(第5章 他者の到来「3 エロスの現象学」『性愛の行為』以下)。感受性にかかわる考察の進展を受けて、そのおなじ主題系がいまいちど問いかえされなければならない。第二の主著『存在するとはべつのしかたで』から、問題となる箇所をまずは引いておく。
[#2字下げ] 愛撫にあって、そこにあるものが、そこにはないものであるかのように、皮膚が自己じしんの退引の痕跡であるかのように、探しもとめられる。愛撫とは、それ以上ではありえないというほどにそこにあるものを、不在として求めつづける焦燥なのである。
愛撫される「皮膚」は「見えるものと見えないもののあいだの隔たり、ほとんど透明な隔たり」(同)である。それゆえにこそ、愛撫にあって「そこにあるものが、そこにはないものであるかのように」求めつづけられる。「それ以上ではありえないというほどにそこにある」、つまり紛れもなく現前しているものを一箇の「不在」として探しもとめる「焦燥」こそが愛撫である。――論点は、このかぎりでは『全体性と無限』と同様であるかにみえる。だが、エロス的経験をめぐる、ふたつの主著の考察には、ある決定的な差異がある。その差異こそが、そして、第二の主著へといたる思考のみちすじの果てに、レヴィナスが到達した地点を告げているのだ。
3 他者と死の強迫[#「他者と死の強迫」はゴシック体]
†現前の撤回[#「†現前の撤回」はゴシック体]
性愛それ自体は、レヴィナス的な意味で〈倫理的〉なものではない。エロス的なものは、その性質からしてそもそも「第三者」を排除する。それは「二者のエゴイズム」であるからである(『全体性と無限』)。
エロス的な次元は、だが、他者をめぐる思考にとってひとつの試金石でもありうる。性愛にあってまさに、他者の他性があらわれ、同時にまた暴力の可能性が、つまり〈同〉による支配と所有の可能性が生起するからだ。問題を原理的なレヴェルへとつなげておくために、いまいちどデリダの批判に立ちかえってみる。
『全体性と無限』のレヴィナスがいうとおり、「他者」の現前こそがたしかに倫理の可能性の条件である。とはいえ、他者の「現前」はまた暴力の開始をしるしづけるのではないか。デリダが提起した疑問は、こうであった(第7章 問題の転回「1 デリダとの交錯」『倫理と暴力』)。
〈倫理〉を他者の現前と規定する第一の主著の視点は、第二の主著にあっては撤回される。次章で主題的にみてゆくように、レヴィナスはいまや「現前」にかえて「痕跡」について語るようになる。視点の変更と用語の撤回が、デリダの批判を受け容れた結果であることは、たぶんまちがいがない。だが、ひるがえって考えてみれば、『全体性と無限』にあってすでに、「現前」の構図が揺らいでいる場面がとりあえずふたつある。
†二つの場面[#「†二つの場面」はゴシック体]
すでに見たように、ひとつはほかならない他者の「顔」をめぐってである。「顔は見られもせず、触れられもしない」、とレヴィナスは語っていた(第6章 世界と他者「1 他者のあらわれ」『世界の外部』の引用)。現前し、かつ見られることがない、というのはやや奇妙である。顔が「内容となることを拒否する」「現前」である(同)と説くことは、そもそも、顔は現前しない[#「顔は現前しない」に傍点]と語ることとひとしい。次章にみるようにじっさい、『べつのしかたで』のレヴィナスは、顔そのものをむしろ「痕跡」として語りだすことになる。
いまひとつの場面は、エロスをめぐる構図である。「愛撫されているものは、ほんとうは触れられてはいない」。愛撫とは「逃れてゆくなにものかとの戯れ」である。そうレヴィナスは説いていた(第5章 他者の到来「3 エロスの現象学」『愛憮の意味』参照)。なにから逃れてゆくのか。皮膚において現前しているかに見える現在から、である。だれが逃れてゆくのか。他者が、である。他者が他者であることが、このうえない裸出であるかにおもわれる現在から不断に逃れ去る。愛撫は、たえず現前から後退し、つねに退引してゆくものをもとめている。
他者は、それではどこへ逃れてゆくのであろうか。未来にむかって、である。愛撫はたえず「未来へとおもむくもの」をもとめている。だから、愛撫は一箇の「飢え」であり、「飢えそれ自体に育まれ、それを糧にしている」ことになるのであった(第5章 他者の到来「3 エロスの現象学」『愛憮の錯乱』の引用)。
†他者の未来[#「†他者の未来」はゴシック体]
えがかれているのはたぶん、愛撫という行為にまとわりついている独特のもどかしさ[#「もどかしさ」に傍点]である。他者は掴めるようで、けっして手にすることができない。他者そのものは触れられるようでいて、断じて触れられることがない。他者は逃れてゆく。捕まえることができず、触れることもできない未来[#「未来」に傍点]へと逃れてゆくのだ。愛撫をめぐる、この特有なもどかしさは、『存在するとはべつのしかたで』にあってもおそらくは分析の根におかれている。
変化したのは、未来のかたちである。『全体性と無限』で暗黙のうちに見こまれていた「未来」は、子どもの、あるいは「息子」という未来である。いまやこの未来が変容する。
第二の主著からふたたび引用する。
[#2字下げ] そこでは――と、前節の引用の直前でレヴィナスは書いている――総合と同時性が拒否されているような、裸形と貧困、退引あるいは死ぬことによる強迫にあって、〈近さ〉は、あたかもそれが深淵であるかのように、引き裂くことのできない、存在が存在することを中断する。その〈近さ〉とは、接近した顔であり、皮膚の接触である。つまり、皮膚によって重みを課せられた顔であり、変質した顔が、そこで淫らなまでに息づいている皮膚なのである。そうした顔と皮膚は、すでにじぶん自身にとって不在であって、過去の回収不能な経過のうちに陥っている。
[#地付き](『存在するとはべつのしかたで』)
一節が説いていることは単純である。引用の直後に「愛撫される皮膚は、生体の防御壁でも、存在するもののたんなる表面でもない」とあるとおり、問題とされているのは、愛撫の経験である。論点はその先にある。
一文は、愛撫される他者について語っている。愛撫される他者の未来について、他者が退引してゆく未来について、それは他者の「死」にほかならない、と説いているのである。愛撫にあってすら、他者は私を「強迫」している。やがては死んでゆくことによって強迫している。(問題はここですでにエロス的経験を超えている。たとえばより直接的に、死の床についている他者の手をとり、呼びかける場面を考えてみてもよい。)
†退引と他性[#「†退引と他性」はゴシック体]
愛撫される他者の未来は、他者の死にほかならない。他者においてすでに時が過ぎ去っている。「回収不能な経過」として、時が過ぎ去っている。他者において過ぎ去った時を、私にはどうすることもできない。やがてさらに時が経過して、他者が死んでゆくことについてもまた、私には手のほどこしようもない。愛撫するゆびさきから、手のひらから、他者がこぼれ落ちてゆく。他者は逃れ去ってゆく。それは、私の手にとどかないところに、他者の死そのものがまちうけているからである。他者の死は、けっきょく私には取りかえしがつかないだろう。そうであるなら、いま・ここで現前している他者についても、私はどうすることもできない。「退引は他性である」(『存在するとはべつのしかたで』)。しかも絶対的な他性である。退引する他性は、他者の死そのものであるからだ。
†皮膚と痕跡[#「†皮膚と痕跡」はゴシック体]
レヴィナスはかつて、エロスの経験にあってひとは「おさなく獣めいた他者と戯れる」と書いていた。「愛される女」は「いささか愚かしい」。女は「幼児性」をしめし、「顔」を解消してしまう。「愛される女の顔は表出することを停止する」。第一の主著において、愛撫される他者は、ひたすら「若く」、すこしく「獣じみて」いる(『全体性と無限』)。――記述は紛れもなく〈男性〉のがわからなされており、〈女性〉は若さと愚かしさのみを露わにするかのようである。これは、しかしひどく一面的な話の組み立てではないだろうか。
そのように考えなおしてみれば、『べつのしかたで』におけるレヴィナスの記述の変化は、決定的なものである。「若さ」すらいまや傷つきやすい[#「傷つきやすい」に傍点](この点については、第7章 問題の転回「1 デリダとの交錯」『他者の価値』で予告しておいた)。若さにかえて、いまや老いの影が問題となる。
若さもまた移ろい、ある意味ではすでに過ぎ去った若さである。あるいは「当の若さのうちですでに過ぎ去った若さ」である(『存在するとはべつのしかたで』)。若さが若さであるのは、それが失われてゆく若さであるからだ。若いということそのもののうちに、むしろ老いの影がさしている。皺ひとつなくみずみずしく見える肌もまた、目にはみえず「皺の刻まれた皮膚[#「皺の刻まれた皮膚」に傍点]、皮膚じしんの痕跡[#「皮膚じしんの痕跡」に傍点]」(同)であるように、である。その意味で、「皮膚」は「すでにじぶん自身にとって不在」(前出)である。つまり、皮膚はそのつど・すでに老いを刻まれ、過ぎ去った時の痕跡を帯びて、不可視の死に曝されている。「皮膚」とは、かくてまさしく「自己じしんの退引の痕跡」(第8章 志向と感受「2 他者との近接へ」『愛憮と皮膚』)なのである。もどかしさ[#「もどかしさ」に傍点]がなおあるとすれば、それは老いと死をまえにしたもどかしさである。
†現前と痕跡[#「†現前と痕跡」はゴシック体]
他者の未来のかたちが変わることは、こうして、他者の現在[#「現在」に傍点]のとらえかたにも変容をもたらす。愛撫される他者は、もはやむやみに若くはない。あるいは、若さという特徴はいまや本質的ではない。むしろ、現前する若さの背後で不断に老いてゆく他者、そのかぎりでつねに「死に曝されている」他者(『存在するとはべつのしかたで』)が立ちあらわれている。まさにその意味で、愛撫には「現在」が欠けている。あるいは、愛撫する手は、他者の現在に追いつくことがない。他者は死の窪みへと不断に退引してゆくからである。
『べつのしかたで』のレヴィナスは、こうして、他者の皮膚と、他者の顔とを、たがいに交換可能なものとしてえがきだすことになる。「皮膚はつねに顔の変容」であり、「顔」はいつでも「皮膚の重みを課せられている」(同)。顔も皮膚も、ともに現在にあって現在にない。それは「痕跡」である。しかも「じぶん自身の痕跡」である。――どうしてだろうか。現前ではなく痕跡について説きはじめることで、レヴィナスはなにを語りだそうとしているのだろうか。ことの消息を、もうすこし辿っておく必要がある。
[#改ページ]
第9章 他者の痕跡[#「他者の痕跡」はゴシック体]
――気づいたときにはすでに私は他者に呼びかけられている
1 老いという現前[#「老いという現前」はゴシック体]
†顔の異邦性[#「†顔の異邦性」はゴシック体]
顔は「じぶん自身の痕跡」である。顔は現前することにおいて、みずからの痕跡となる。レヴィナスはそのように語ることで、なにをあかそうとしているのだろうか。「痕跡」ということばで、レヴィナスはなにをあらためて問題としはじめているのか。
そもそも「じぶん自身の痕跡」ということばが、奇妙なしかたで理解を阻んでいるようにおもわれる。痕跡とはつうじょう、べつのなにかの痕跡である(たとえば雪原にのこされた足跡は、獲物の「痕跡」である)。痕跡は第二に、すでに現前していないものの痕跡なのであって、いま現前しているものが同時にみずからの痕跡となることはありえない(足跡が「痕跡」であるのは、獲物がすでにすがたを消しているからだ)。そうであるとすれば、顔が「じぶん自身の痕跡」であるとは、どのようなことがらでありうるだろうか。
この問いに応えるまえに、まず第一の主著に立ちかえっておこう。『全体性と無限』においてレヴィナスは、すでにつぎのように説いていた。
顔は「われわれに共通でありうる世界と絶縁している」(第6章 世界と他者「1 他者のあらわれ」『世界の外部』)。「顔の現前(プレザーンス)は世界のかなたから到来しながら、私を兄弟関係にまきこむ」。だから、「顔として現出すること」は「現出には還元不能なかたちで現前すること」である(『全体性と無限』)。――顔はたしかにあらわれる。つまり現出する。だが、顔は世界のかなたから到来することで現出する。それゆえにこそ、顔が現前することは、現出することによって取りつくされることがない。その意味で、顔においてあらわれる他者は「無限」である。
†寡婦と孤児[#「†寡婦と孤児」はゴシック体]
このように語ることは、しかし、顔にたいして「現前」という性格を否認することとかわらないのではないだろうか。じっさい、現にあらわれ現前する他者の顔は、あるいは高慢であり狡猾でありうる。にもかかわらず、顔において他者はかならず「寡婦にして孤児」であり、「異邦人」であること(第6章 世界と他者「1 他者のあらわれ」『他性の煌き』)をあかすなら、顔をめぐって問われているのは、現前するすがたを超えたなにものかであるはずである。
それにしても、なぜ他者は「寡婦」であり「孤児」であり、「異邦人」であるのだろう。現にあらわれるそれぞれの他者は、あるいは権力者であったり富裕者であったりするにもかかわらず、なぜ他者は一般に寡婦や孤児、異邦人であるのか。世界の内部でさまざまに衣装をまとって立ちあらわれる他者たちが、同時に世界のかなたから到来する裸形においては、なにものももたない「プロレタリア」(第6章 世界と他者「1 他者のあらわれ」『他性の煌き』)であるのはどうしてか。
ユダヤ教の伝統のなかでは、ことがらのつながりは、おそらくはっきりしている。旧約の預言者は「汝ら、正義をおこない、物を奪わるるひとを暴虐者の手より救い、異邦人と孤児と寡婦を悩まし虐ぐるなかれ」と謳い(エレミア書 二二―3)、律法もまた「異邦人、孤児、寡婦の審きを枉ぐる者は詛わるべし」(申命記 二七―19)と命じているからだ。――『全体性と無限』はだが、他者が寡婦であり孤児であることを裏うちする議論のしくみを欠いていたようにおもわれる。いまやこの件が問題となるはずである。
†老いゆく顔[#「†老いゆく顔」はゴシック体]
『べつのしかたで』のレヴィナスは、他者の皮膚と他者の顔とをたがいに交換可能なものとしてえがいている。顔はつねに「皮膚の重みを課せられている」。さきにそう確認しておいた(第8章 志向と感受「3 他者と死の強迫」『現前と痕跡』)。このことはしかし、より具体的にはなにを意味しているのだろうか。
顔は、もちろんそれじたい皮膚でおおわれている。皮膚には、そして、無数の皺が刻まれているはずである。肌理こまかい、若くみずみずしい肌も例外ではない。皮膚にはつねに[#「つねに」に傍点]数えつくすことのできない襞が刻みこまれ、それぞれの皺が他者の生きてきた時間の経過を、もはや取りもどすことのできない、いまやけっして現前せず過ぎ去った時間をあかしている。他者はつまり、顔と皮膚とにおいてすでに[#「すでに」に傍点]老いているのだ。
どのような他者もあらかじめ老いている。私のまえに現前する顔は、いつでも・つねに過ぎ去った時をあとにのこしている。いま現前している[#「現前している」に傍点]ということは、すでに時が過ぎ去っていることのあかしであり、すでに現前していない[#「現前していない」に傍点]時の痕跡である。それはさらに、もはや現前することはないであろう時をしめすものであり、他者の不在そのものを先どりしている。――他者は老いている。「老いることの忍耐」とは「死に曝されていること」である。死はしかもどうあっても「不可視」であって予見不能なものであるかぎり、いつでも「はやく訪れすぎる、つねに暴力的な」死である(『存在するとはべつのしかたで』)。若さすら、それが過ぎ去ってゆく若さであることで、死に曝されている。老いゆく顔とは、同時に死にゆく顔である。しかも、私にはどうしようもなく死に曝されている顔なのである。
†死の不可測[#「†死の不可測」はゴシック体]
だから、とレヴィナスは(『存在するとはべつのしかたで』に先行する、いわば過渡期にぞくする諸論文をあつめた)ある著作に序文を付して書いている。
[#2字下げ] 他の人間は顔によって命令する。顔はあらわれるかたちに封じこまれてはおらず、そのかたちを脱ぎ捨てた裸形であり、他者に固有の横顔としてなお他者を覆いかくしている、他者の現前そのものを脱ぎ捨てている。それは、皺が刻まれた皮膚、それ自身の痕跡、あらゆる瞬間において回帰‐しないことの可能性をともなった、死の窪みへの退引であるような現前である。隣人の他性とは非‐場所のこの窪みのことであり、そこで顔が、つまり他者が、回帰の約束も蘇生の約束もなく、みずからすでに不在となりつつあるのである。
[#地付き](『他者のヒューマニズム』「序文」)
他者はつねに・すでに老い、死は不可測である。他者はそれゆえ、いかなるときにおいてであれ「回帰‐しないこと」がありうる。可視的な横顔、顔だちはたしかに現前する。だが、目にみえ現前する顔だちの背後で他者は老い、「死の窪み」へと、つまり世界の内部では場所をもたない窪み、世界のかなたの窪み、「非‐場所」の窪みへと退引している。「すでに不在となりつつある」他者の、この不在こそがその「他性」なのである。
†死にゆく顔[#「†死にゆく顔」はゴシック体]
死へと曝されていることにおいて、すべての他者は年老いた「寡婦」であり、見捨てられた「孤児」である。あるいは、世界のかなたから到来し、世界の窪みへと吸い込まれてゆく「異邦人」である。第一の主著でレヴィナスがそういうとおり、他者が、私にたいしてかぎりのない「高さ」(『全体性と無限』)に立っているのは、まさにそのときなのだ。
そのときにこそ、「他性が貧しさと弱さの全重量で私にのしかかってくる」(『存在するとはべつのしかたで』)。なぜ「貧しさ」なのか。他者は時のなかで老い、みずからを、つまりはいっさいを失ってゆくからである。そして、その喪失にたいして徹底的に無力であることが、他者をつねに「弱さ」によってしるしづけることになる。――いっさいの「かたちを脱ぎ捨てた裸形」(前出)において、他性がひととき煌く。どのような他者の目にも、ほんの一瞬であれ、踏み躙りようのない弱さ[#「弱さ」に傍点]の光が兆す(第6章 世界と他者「1 他者のあらわれ」『他性の煌き』)。その光じたいはしかし、弱くはない。弱さの光そのもの[#「光そのもの」に傍点]は、ひときわ強くきらめくのだ。他者をまえにする私にとっては、この弱さこそがむしろ抗いえない強さとなる。他者の顔の勁さ、私に命令をくだす顔の強さは、顔が死にゆくことに由来する。他者の顔は、すでに老いていることで、死それ自体と同等の力を、つまり絶対的な他性の力を獲得することになる。
†他者への咎[#「†他者への咎」はゴシック体]
生きているかぎり、いつでも(私ではなく[#「私ではなく」に傍点])他者が死んでゆく。他者のみが死につづけてゆく以上、(レヴィナスが繰りかえし強調するとおり)私はつねに「生き延びた者」でありつづける。そのつどの死者は、その他者ではなかった可能性があり、私であった可能性がある。この私[#「この私」に傍点]が生きのこることに、最終的には根拠などありえようもない。〈私〉はただ生き延びて、この[#「この」に傍点]場所を、たぶん他者が占めていたかもしれない場所を占めている。
そうであるなら、「私は他者が死ぬことについて有罪である」(『存在するとはべつのしかたで』)かもしれない。「生き延びた者としての咎(クルパビリテ)において、他者の死は私のことがらである」(講義録『神・死・時間』)。――私ではなく、他者が[#「他者が」に傍点]死んでゆく。他者が死んでゆくとき、私は他者に追いつくことができない。だとすれば、私はつねに他者にたいして遅れている。やや極端ともいえるこの感覚を、もうすこし突きつめてみよう。それは、他者の〈顔〉にたいして私が〈責め〉をもつことの理由を説明してくれるだろう。
2 現前という痕跡[#「現前という痕跡」はゴシック体]
†弱さと強さ[#「†弱さと強さ」はゴシック体]
無数の皺を刻みこまれた〈顔〉に、私は直面する。顔はそのとき、消えようとする弱さ[#「弱さ」に傍点]そのものにおいて、無限の、あるいは絶対的な強さ[#「強さ」に傍点]をもって私にうったえかけてくる。そのときつまり、顔は〈声〉を獲得している。しかも無言のまま声を獲得している。
他者の顔にこの強さをあたえているのは、世界の内部にぞくするもろもろのことがらではない。他者がほどなく、とつぜん世界の外部へと退引すること、この、世界の〈かなた〉こそが、顔の力の源泉である。その意味で「殺すなかれ」という戒律は、世界の外部から到来する。無力な顔のうちで、「無限」の力とともに到来する。
他者の顔には無数の皺が刻みこまれている。皺は、可視的な顔だちに刻まれている。つまり、目にみられ、手でたどられる、皮膚の表面をおおう無数の起伏が皺にほかならない。その意味で、「皺の刻まれた皮膚」(第8章 志向と感受「3 他者と死の強迫」『皮膚と痕跡』)は可感的(感覚によってとらえられるもの)である。だが、皮膚をおおっている無数の襞を刻みこんだ時間そのものは目にはみえない。その時間は、すでに過ぎ去っている。他者において、決定的に時が過ぎ去っている。
だから、他者の皮膚に刻みこまれた皺は、現在であって現在でない。皺においてはむしろ、過ぎ去って回収されない他者の時間が、もはや現前しないままに現前している。そのかぎり、皺を刻みこまれた皮膚は「皮膚じしんの痕跡」(同)である。
以上は、第二の主著の論述にそくして、これまで確認してきたことのいいかえでもある。本節では、このいいかえに含まれていることがらを、とくに、〈顔〉と〈声〉とのかかわりという視点にそくして、もうすこし顕在化しておこう。
†現象の欠損[#「†現象の欠損」はゴシック体]
顔という、〈あらわれ〉ではない〈あらわれ〉とされるものにもう一度たちもどっておく。レヴィナスはつぎのように書いている。
[#2字下げ] 隣人の顔は再現前化から逃れてゆく。隣人の顔は現象することの欠損そのものである。とはいえ、隣人の顔があまりにも不意に、あるいはあまりにも乱暴に到来するからではない。ある意味では、あらわれることさえ不可能なほど薄弱な非‐現象であるからこそ、もしくは現象以下のものであるがゆえに、隣人の顔は、あらわれることのない、現象することの欠損にほかならないのである。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『存在するとはべつのしかたで』)
「顔」は「再現前化」を逃れる。つまり、顔は私の現在に回収されず、私の意識のうちに起源をもたないということだ。その意味で「隣人の顔」は「現象することの欠損」、つまり〈あらわれる〉ことのないものである。顔はたしかに「裸形」である。顔はだが、「かたちをもたない」(同)。すなわち、目にみえるかたちをもっていない。あるいは、顔そのものは、目にみえるかたちからつねに・すでに逃れ、ずれてゆくものである。
他者の顔は、そのようなものとして私を「触発」(同)する、とレヴィナスはいう。顔はしかもレヴィナスによれば、現象することなく触発する。現前することなく、私を触発するのである。なぜだろうか。
†〈顔〉と〈声〉[#「†〈顔〉と〈声〉」はゴシック体]
顔はかたちをもつ。顔はだが、「あらわれるかたちに封じこまれて」はいない。あるいは顔は、それ自体としては「かたちを脱ぎ捨てた裸形」である(第9章 他者の痕跡「1 老いという現前」『死の不可測』)。とらえがたくあいまいに見える、レヴィナスのこの主張を、どのように考えればよいのだろうか。ここではまず、さしあたり声との類比で考えなおしてみよう。
声とは、とりあえず〈音〉である。物理的には空気の疎密波であり、聴覚を刺戟する音響である。とはいえ、声が声であることは、それが音響であることによっては尽くされない。静まりかえった夜の闇のなかで、わずかに聴き取られる家具の軋み、吹きわたる風に擦れ合う葉おともまた〈音〉であり音響であって、空気の疎密波として聴覚を刺戟する。だが、それらはしかし――つうじょうの意味では――〈声〉ではない。
声はまた、それが言語的な音声であることによっても尽くされない。ことばとしては意味をもたない声やため息、叫び声もまた声である。それらはたんに声の一例であるだけではなく、むしろすぐれて声そのものであろう。私が理解しえない言語の音韻もまた〈声〉でありうる。とくにそれが叫びであるとき、とりわけて声でありうる。声は一般に「コンテクストなく意味すること」(『存在するとはべつのしかたで』)でありうるのである。
そうであるなら、声が声であるとき、それは音声にたいする剰余を有している。その剰余は(たんに音響を聴き取る)聴覚を逃れる。おなじように、顔が顔であることは、たんなる視覚を逃れている。顔は、それがしめすかたちにたいする絶対的な余剰を有している。静寂がなおなにかを意味するとき、静寂じたいが無音にたいして剰余を有しているように、無言の顔は余剰を、みずからとのずれ[#「ずれ」に傍点]を有している。
†声でない声[#「†声でない声」はゴシック体]
ハイデガーはかつて詩人トラクルの作品を論じながら、「静寂の響き(ゲロイト・デア・シュティレ)」ということばを紡ぎだした。詩人が雪、窓、夕べの鐘によって冬の一夕をえがきとるとき、世界との「親密さ」のなかで静寂が支配する。あるいは静寂が「響く」。詩人のことばはそのとき「静寂の響きとして」語りだしている(全集・第一二巻)。
静寂のうちに語るのは、しかしすぐれて顔、かたちを超えた剥き出しの顔、皺を刻みこまれた他者の顔ではないか。皺と皺のあいだで、「声もなく」「救いもなく」、「静寂の響き(レゾナンス・デュ・シラーンス)」が響く(「神と哲学」『観念に到来する神について』所収)。ツェランのいう「声ではない/声」(keine/Stimme ドイツ語の「カイン」は「いかなる〜もない」という否定、「シュティメ」は「声」のこと)が聴き取られる。
顔のまえで、私はすでに召喚されてしまっている。すでに[#「すでに」に傍点]、とはしかし、私が他者のこの叫びに、呼びかけに遅れてしまっている、ということだ。私は「すでに遅れており、この遅れについて有罪なのである」(『存在するとはべつのしかたで』)。どうしてだろうか。
†召喚する声[#「†召喚する声」はゴシック体]
呼びかけられている、という経験についてここですこし考えてみよう。呼びかけられていることに、私が気づく。ということは、他者はすでに[#「すでに」に傍点]私にたいして呼びかけてしまっている、ということだ。他者の呼びかけは、意識がそれをとらえ、私の現在のうちに据えなおすまえに、すでに呼びかけとして響いている。どういうことか。
私はつねにあと[#「あと」に傍点]から、その呼びかけを受けとめるということだ。呼びかけを受容する私の現在は、他者による呼びかけの現在に遅れている。この遅れは、原理的にいえばつねに・すでに生じてしまっており、他者にとっての(呼びかけの現在であった)現在は[#「現在は」に傍点]、私にとってはいつでも取りもどしようのない過去になっている[#「過去になっている」に傍点]。他者の(私にとっての)現在であるものは、じつはすでに・つねに現在じしんの過去であり、「私の反応は、すでに現前じしんの過去である現前を逸してしまって」(『存在するとはべつのしかたで』)いる。だから、他者の現在の現前は、いつでもその痕跡であり、それ自身の痕跡なのである。
気づいたときには、他者がすでに呼びかけている。他者はその裸形の顔において、すでに呼びかけている。他者による呼びかけがつねに先だつ。そうであるとするならば、呼びかけに応じないとき、つまりなんら応答しない場合でも、私はすでに応答してしまっている。いま、ふつうの意味での応答を「諾(ウイ)」、応答の拒否を「否(ノン)」と名づけるなら、私はすでに諾否の選択肢のてまえで応答してしまっている。なぜか。
†無条件の諾[#「†無条件の諾」はゴシック体]
呼びかけを呼びかけとして、声を叫びとして、無言の顔を声ではない声として聴き取ってしまうとき、「無条件の《ウイ》」(同)によってあらかじめ応えてしまっているからだ。聴き取ってしまうこと自体が、応答の拒否にすら先だってしまう、無条件の諾なのである。
いったん応えてしまっている以上、つまり具体的な呼応のいかんに先だってすでに無条件のウイによって応答してしまっているかぎり、私には他者にたいする〈責め〉がある。すなわち応答‐可能性がある。どのような応答も、応答の拒絶すらもが応答となってしまう可能性がある。その意味で、他者にたいする私の〈責め〉は「無限」なのだ。つまり責めは私によってけっして意識的には「引き受け」られておらず、引きうけることもできないがゆえに、それが「いっさいの受動性よりも受動的な」(同)ものであるからこそ、私にとって取りつくすことのできないもの、すなわち「無限」なものなのである。
レヴィナスのこの主張の意味を、最後にあらためて考えておくことにしよう。
3 非‐場所の倫理[#「非‐場所の倫理」はゴシック体]
†責めと責任[#「†責めと責任」はゴシック体]
レヴィナスのいうルスポンサビリテがふつうにいう責任[#「責任」に傍点]であるならば、それは引きうけられもし、果たされもするだろう。ルスポンサビリテは、しかしレヴィナスにあって、いっさいの受動性よりも受動的な「受動性(パッシヴィテ)」であり、対となるどのような「能動性(アクティヴィテ)」も考えることのできない受動性である。それは能動的にはけっして担われることができず、ひたすら受動的に課せられる、むしろ責め[#「責め」に傍点]である。受動的であるからこそ打ち止めがなく、取りつくしようもなく、つまり無限[#「無限」に傍点]なのだ。
〈責め〉が無限であることからは、もちろん、とりあえずは恐るべく無謀な結論がみちびきだされうる。レヴィナスが説くところによれば、〈責め〉が取りつくすことのできないものである以上、〈私〉は「いっさいに責めを負っており」「他者のあやまち」にすら責めがあることになるからである(『存在するとはべつのしかたで』)。
†ヨブの運命[#「†ヨブの運命」はゴシック体]
この、ほとんどゆえなき仮借なさは、ヨブの運命をおもわせる。旧約のなかでももっとも難解な物語りのひとつで、義人ヨブは、いわれなき苦しみをつぎつぎとあたえられる。「私はなにもしなかった」。不条理な仕打ちに苦しむヨブも、ゆえなき責めを負う〈私〉も、なおそう言いたてることができるのではないだろうか(同)。
神はヨブにこたえていう。「地の基をわれ据えたりしとき、汝はいずこにありしや」(ヨブ記 三八―4)。ヨブは「世界の創造」に立ちあったわけではない。私は〈私〉のなりたちに居あわせたわけではない。「主体の主体性は、世界のうちに遅れて到来する」(『存在するとはべつのしかたで』)。私は、そもそも他者からの呼びかけにつねに遅れている。この遅れのゆえに、私にはいつでも責めがある。
不条理である、というのはたやすい。だが、不条理というなら、世界には「不条理な」、あるいは「無用の」苦しみが満ちている。この世紀にはナチズムがありスターリニズムがあり、アウシュヴィッツとソ連の強制収容所があり、カンボジアの、ボスニアの大量虐殺があった。付けくわえるなら、ヒロシマがあり、他国のひとびとの強制連行があった。恐ろしいことだけにはまさにこと欠かなかったこの世紀、「弁神論」(世界の悪にたいする神の義の擁護。神義論)がついに終焉したかにみえるこの世紀は、しかも「これらすべてがふたたび回帰するのではないか、という強迫観念とともに」終わろうとしている(「無用の苦しみ」一九八二年。『われわれのあいだで』所収)。そうであるとすれば、生起し、過ぎ去った、そうしたいっさいにたいして、〈私〉にはほんとうに責めがないのだろうか。もはや回帰しないものごと、者たちにたいして、〈私〉は無垢でありうるのであろうか。
もしも無垢でありえないのなら、そのゆえんが解きあかされなければならない。いわれのない責め、つまり起源をもたない責めがなにに由来するものであるのかが、なお問題とされなければならない。
†責めと借財[#「†責めと借財」はゴシック体]
そうした責めをレヴィナスは――いくぶんかはニーチェ的な〈系譜学〉をおそらくは意識しながら――「負債」あるいは「借財」とも呼んでいる。それはだが、ふつうの意味での借財ではありえない。責めは「借用に先だつ借財」(『存在するとはべつのしかたで』)であるからだ。それはまた、つうじょうの負債でもありえない。「借用」していない以上、あるいはそもそも「借用に先だつ」かぎり、ふつうの意味では返済のしようもない。他者からの借りは、したがってまた他者にたいする責めは、「知らないうちに」生じてしまっており、その奇妙な貸借契約は「≪人間の記憶にあるかぎり≫けっして契約されたことのない」ものであるからである。責めが生じるのは、「現在をとおりすぎる過去」「起源以前の、起源を欠いた過去」、あるいは「還元不能な無起源性(アナルシー)」においてのことである(同)。どうしてだろうか。
私じしんが、私が〈私〉であることが「想起できない過去から到来する」ものであるからである。私がじぶんの同一性(イダンティテ)に、私が〈私〉であることにイニシアティヴをもたないかぎり、私が〈私〉であること、私の同一性は、ひたすら他者にたいして責めを負うこと、呼応しつづけること、他者との関係がけっして完了しないことによるほかはない。私がこの[#「この」に傍点]私である、私が単独であり〈私〉でありつづけるゆえんはひたすら「召喚されたものの唯一性のうちにある」のである(同)。それは、私が気づいたときにはすでに〈私〉であり、この私として他者から呼びかけられていたということの、要するに、私のなりたちにまつわる時間の錯誤(アナクロニスム)の、ひとつの帰結である。
†メシア主義[#「†メシア主義」はゴシック体]
およそ「責めについては、だれも私のかわりになることがない」、「逃げ隠れができないということが、〈私〉であるということだ」(『全体性と無限』)。ここにはたしかに、レヴィナスにおけるメシアニズムがえがかれている。レヴィナスにとってメシアとは、他者への取りつくせない責めを負う〈私〉そのものであるからである。
そのかぎりで、ここにはまたユダヤの伝統のもとで思考するレヴィナスのすがたが極限的なかたちであらわれていると見ることもできる。じっさいレヴィナスによれば、「ユダヤ教とは、同時代と時間を共有しながら、時間を共有しないことである。ユダヤ教とは、そのことばの根源的な意味においてアナクロニックな意識なのである」(『困難な自由』)。アナクロニックである、すなわち時間の錯誤に囚われ、いわれなき苦しみに曝されることが、ユダヤ民族の歴史的命運であったとすれば、その命運はだれにとっても無縁のものではない。およそ〈私〉であるということが、アナクロニスムを含んでいるからだ。
私の「唯一性」は、「われ、ここに(me voici)」(創世記 二二―1)という無条件的な諾にある。「代名詞の〈私(je)〉が対格にあり」、対格 me において「他者に取りつかれている」ような「われ、ここに」にこそあるのである(『存在するとはべつのしかたで』)。
†倫理の意味[#「†倫理の意味」はゴシック体]
そもそも一般に、あらかじめ呼びかけられてしまっていること、〈他者との関係〉に囚われてしまっていることを措いて、倫理は可能であろうか。他者と私とのあいだには、絶対的な差異がある。他者とは私との無限の差異である。にもかかわらず、他者との関係は不可避であり、私はつねに・すでに他者との関係を抱えこんでしまっている。だから、私は他者にたいして「無関心では‐ありえない(ノン‐アンディフェランス)」のだ。
他者とは差異である[#「差異である」に傍点](ディフェランス)。他者にたいして無関心であるとは、差異のうちにとどまっていることである(アン‐ディフェランス)。他者はしかし、絶対的な差異のままに私のうちに食いこんでいる。私とはだから「〈同〉のうちなる〈他〉」である。だからこそ、他者にたいして私は無関心であることができない(non-indiff屍ence)。このことがまさに、およそ〈倫理〉が可能であるための最下の条件ではないだろうか。
†ユートピア[#「†ユートピア」はゴシック体]
レヴィナスは、じぶんは倫理を「構築」しようとしたのではない、たんにその意味を「探究」しようとしたにすぎない、と語っている(ネモとの対話)。それでもなお、レヴィナスの倫理は、あるいは過度なオプティミズムであるとも、逆にひどくペシミスティックだともいわれ、またユートピア的であるとも評されるであろう。ユートピアとは、むろん場所ではない場所、非‐場所のことである。レヴィナスは語っている。
[#2字下げ] ユートピア的ということばを、私はおそれません。じっさい私は、ほんらいの意味での人間は≪あるがままの人間≫においては目覚めることができない、と考えています。それは不安な目醒め、他者の場所を占めてしまっているのではないか、という居心地の悪さなのです。存在における私の席、私の場所を問いただすこと、これがユートピア的ということではないでしょうか。まさにユートピアと倫理なのです!
[#地付き](マルカとの対話)
一九九五年のすえ、レヴィナスは逝去する。奇しくも一二月二五日のことである。今日なお地上のおおくのひとびとが救い主の到来をことほぐその日に、かたくなにユダヤ人でありつづけようとした、つまり「時は満ちた」(マルコ伝 一―15)とはなお信じえず、べつの時、べつの場所の到来を信じつづけた、ひとりの哲学者が世を去った。
かれの名は、ユダヤ的な世界ではたぶんありふれていた。エマニュエル、つまりインマヌエルである。「神われらと共にいます」(イザヤ書 七―14 マタイ伝 一―23)という名をあたえられたひとりの人物は、しかし皮肉なことに、この世紀の悲惨のかずかずを、神の不在を、目にしなければならなかった。その悲惨をまえに紡ぎだされた、強靭で、それゆえにこそ繊細な思考の跡だけが、こんにち私たちにのこされている。
[#改ページ]
あとがき[#「あとがき」はゴシック体]
本書で私は、ときに道徳的な説教として、根拠なき断言の羅列としても「紹介」されてきたレヴィナス像に、一定の変更をくわえることをも意図していた。だから、なるべくていねいな論述をはかったつもりではあるが、新書という形式が課する制約のもとでレヴィナスの全体像をえがきとろうとするこころみが、ときに周到な議論を不可能にした面もある。レヴィナスに、あるいは私のレヴィナスの読みかたに関心をもってくださったむきには、やがて刊行される別著をもあわせてお読みいただければ幸いである(末尾・ブックガイド参照)。
私はもとよりいわゆるレヴィナス研究者ではなく、フランス現代哲学研究者ですらない。一般向きともされる本をひとりで書き下ろすのも、もちろんはじめての経験である。だから、編集部からお話しをいただいたときには、かなり躊躇した。すこしだけ冒険してみる気になったのは、筑摩書房・新書編集部の山野浩一さんが示してくださった熱意とご厚意によっている。まがりなりにも原稿を仕上げることができたのは、ひとえに山野さんのおかげである。しるしてふかく感謝したい。
とはいえ、ものを書くということ、とくに書き下ろしの本を仕上げるということが結局は孤独な作業であるという一面ももっていることを、今回はひどく身にしみておもい知った。ここにまとめられた、このちいさな本は、しかし現時点における私のベストである。だが、書物は出版されたときから、著者よりもむしろ読者のものとなる宿命を帯びていよう。忌憚のない注文、批判をまちうけることだけが、著者の権利としてのこされているようにおもわれる。
最後に、私の連絡先をしるしておきたい。
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[#3字下げ]〒一一三―〇〇三三 文京区本郷七―三―一 東京大学大学院人文社会系研究所
[#ここで字下げ終わり]
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一九九九年 桜花の季節に
[#地付き]熊野純彦
[#改ページ]
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【レヴィナスを読むためのブックガイド】[#「【レヴィナスを読むためのブックガイド】」はゴシック体]
本文中の引用は、原則としてすべて私訳である。ここではしかし、言及したレヴィナスの著作のうち邦訳のあるものを、原著の出版順にしたがい挙げておく。
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1 『フッサール現象学の直観理論』(佐藤真理人・桑野耕三訳)法政大学出版局、一九九一年訳刊
2 「逃走について」(合田正人・内田樹訳『超越・外傷・神曲』所収)国文社、一九八六年訳刊
3 『実存から実存者へ』(西谷修訳)講談社学術文庫、一九九六年再訳刊
4 『時間と他者』(原田佳彦訳)法政大学出版局、一九八六年訳刊
5 『実存の発見 フッサールとハイデッガーと共に』(佐藤真理人・小川昌宏・三谷嗣・河合孝昭訳)法政大学出版局、一九九六年訳刊(部分訳)
6 『全体性と無限――外部性についての試論』(合田正人訳)国文社、一九八九年訳刊
7 『困難な自由――ユダヤ教についての試論』(内田樹訳)国文社、一九八五年訳刊(部分訳)
8 『他者のユマニスム』(小林康夫訳)書肆風の薔薇、一九九〇年訳刊
9 『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』(合田正人訳)朝日出版社、一九九〇年訳刊
10 『観念に到来する神について』(内田樹訳)国文社、一九九七年訳刊
11 『倫理と無限』(原田佳彦訳)朝日出版社、一九八五年訳刊
12 『外の主体』(合田正人訳)みすず書房、一九九七年訳刊
13 『われわれのあいだで――≪他者に向けて思考すること≫をめぐる試論』(合田正人・谷口博史訳)法政大学出版局、一九九三年訳刊
14 『神・死・時間』(合田正人訳)法政大学出版局、一九九四年訳刊
[#ここで字下げ終わり]
本文中で「ネモとの対話」と呼んだのは、11である。なお、9と11は現在、版元の方針転換により絶版、2、7ならびに11の翻訳書については、入手することができなかった。
本書を書くうえで参考にした文献のうち、邦訳のあるもの、また一般に入手しやすいものはつぎのとおりである。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
15 J・デリダ「暴力と形而上学――E・レヴィナスの思考に関する試論」(若桑毅・野村英夫・坂上脩・川久保輝興訳『エクリチュールと差異・上』所収)法政大学出版局、一九七七年訳刊
16 L・イリガライ『性的差異のエチカ』(浜名優美訳)産業図書、一九八六年訳刊
17 E・レヴィナス/F・ポワリエ『暴力と聖性――レヴィナスは語る』(内田樹訳)国文社、一九九一年訳刊
18 S・マルカ『レヴィナスを読む』(内田樹訳)国文社、一九九六年訳刊
19 岩田靖夫『神の痕跡――ハイデガーとレヴィナス』岩波書店、一九九〇年刊
20 港道隆『レヴィナス――法‐外な思想』講談社、一九九七年刊
[#ここで字下げ終わり]
15は、本文中、デリダの「レヴィナス試論」と略称したものの邦訳である。レヴィナスへの関心が一般化するまえの訳業であり、今日の標準的な定訳とはことなる訳語も多い。16には、「エロスの現象学」にかんする(広義の)フェミニストの批判的分析として重要な一章が収められている。なお、訳書は入手することができなかった。本文中で「ポワリエとの対話」と表記したものは17に、「マルカとの対話」は18におさめられている。レヴィナスの経歴をめぐる本書の記述は、このふたつの「対話」のほか、18と20、とくに20におおくを教えられている。19は、レヴィナスにおける神の問題を重視する解釈であるが、ハイデガーとのかかわりでレヴィナスの所論を考えるさい必読であろう。
昨年、一昨年と、『思想』誌上に五回にわたって分載された、私じしんのレヴィナス試論を、本書と前後して一書にまとめ上木することになった。この新書とはべつの視角から、レヴィナスの思考を哲学的に分析している。すこし専門的な関心をおもちの読者のために挙げさせていただく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
21 熊野純彦『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』岩波書店、一九九九年刊
[#ここで字下げ終わり]
また、レヴィナスのことばそのものに手ごろなかたちでなお触れておきたいむきには、おなじ筑摩書房から最近出版されたばかりのコンパクトな一冊を紹介しておく。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
22 合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』ちくま学芸文庫、一九九九年刊
熊野純彦(くまの・すみひこ)
一九五八年、神奈川県に生まれる。東京大学倫理学科卒。同大学大学院博士課程単位取得退学。東北大学文学部助教授を経て、現在、東京大学文学部助教授。倫理学専攻。和辻倫理学の学統に属しながらも、故・廣松渉の哲学からも深く学んだ、若い世代の俊英。「他者とは何か」という本質的テーマを追求し続けている。著書に『レヴィナス ――移ろいゆくものへの視線』『ヘーゲル ――〈他なるもの〉をめぐる思考』『カント ――世界の限界を経験することは可能か』『差異と隔たり ――他なるものへの倫理』『戦後思想の一断面 ――哲学者廣松渉の軌跡』『メルロ=ポンティ ――哲学者は詩人でありうるか?』『西洋哲学史』、訳書にレヴィナス『全体性と無限』ほか。
本作品は一九九九年五月、ちくま新書の一冊として刊行された。