ネクラ少女は黒魔法で恋をする
熊谷雅人
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)呪《のろ》う
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)空口|真帆《まほ》
「#」:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)「#改ページ」
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一幕 どろどろ黒魔法
「分からないか?」
俯《うつむ》くわたしに、教師が言う。
違う! その誤解はノーサンキュー!
答えは分かっている。だけど、それを表現することができないだけなのだ。だって、みんなの前で大きな声を出すのが恥ずかしいでしょ。だから、結局いつものように、わたしは首を縦に振った。わたしにはその選択肢しか残っていない。
周りの人間が呆《あき》れたような表情をする。人を小馬鹿《こばか》にしたようなため息が教室の方々からこぼれ、この狭い空間に渦巻き、わたしの周りを取り囲む。二酸化炭素と中傷を大量に含んだその空気が振動し、他《ほか》の生徒の失笑を伝えた。
……こいつら、呪《のろ》ってやる。
ああ、陰鬱《いんうつ》な気持ち。いつだって、わたしはみんなにバカにされている。卑下されている。見下されている。要するに、わたしは超嫌われている。
チャイムが鳴った。最悪のタイミング。あと数分早く鳴っていれば、わたしはこんなに悲しい思いをしなくてすんだのに。どうやら、神様までわたしのことが嫌いらしい。マジで鬱《うつ》になる。
今日の授業はこれで終わりのはずだ。次は掃除の時間。それなのに、みんな教室から出ようとしない。不思議に思い教室を見回すと、級長が前に出てきて話し始めた。
「えっと、それじゃあ一年生最後の席替えをします」
席替え。ああ、そうか。このクラスは月に一回席替えをしている。なんでそんなに頻繁《ひんぱん》にやるか知らないけど、どうせわたしには関係ない。級長がクジを持って教室をまわる。わたしは何を引いても同じ結果にしかならない。その理由は簡単。
「空口《そらぐち》さん、ちょっとお願いがあるんだけど……」
全員がクジを引き終わり、席の移動が始まった時、一人の同級生が話しかけてきた。わたしがクジで何を引いても同じなのはこのせいだ。ああ、ちなみに、空口っていうのがわたしの名前ね。空口|真帆《まほ》。通称、黒魔法。空を『くう』と読み、口を『ろ』と読めば黒魔法になる。それが、小学校からずっと陰で呼ばれている名前だった。言っている人間はばれていないつもりだろうけど、昔から地獄耳なのでしっかりと聞こえている。ちなみに、誰《だれ》が言ったのかもしっかりと覚えている。覚悟しとけよ。
「席替えのことですか?」
聴力検査の一番小さい音くらいの音量で、わたしは尋ねた。わたしが声をかけられるのは、基本的にこの時くらいだ。案の定、わたしに声をかけてきた女子生徒は嬉《うれ》しそうに頷《うなず》いた。
「ほら、空口さんって目が悪いでしょ? だから、後ろの席だと見えにくいんじゃないかなって、思ってさ」
お前には、わたしのメガネが見えんのか! これを装備することで、どんな効能があるのか知らないのか! メガネの力で殺してやる! ……などということは、もちろん内心に留《とど》めておき、わたしはただ黙って話の続きを促した。
「それでさ、ちょうどあたしが前の席だから、ちょっと席を交換してほしいなって思って」
「はい。分かりました」
さっきよりも更に小さな声で、わたしは応答した。ウサギでなければ聞き取れない音なのに、彼女は嬉しそうに、ありがとう、と言って去っていった。きっと、わたしが文句の一つも言わず提案を受け入れると分かっていたのだろう。事実、わたしはこの一年間、一番前以外の席に座ったことがない。いつも誰かに席交換を頼まれ、その度に無条件にそれを認めるからだ。
利用されている。何だか、そんな言葉が虚しく心に浮かんだ。わたしに話しかけてくる奴《やつ》らも嫌いだが、それに何も言わずに、ただなすがままの自分も嫌い。とりあえず、あいつは後で呪《のろ》っておこう。
「空口さーん、サンキューねー」
いきなり大きな声で呼ばれ、わたしはちょっと驚いた。音源は教室の一番隅だった。その一角には悪の温床がある。大河内《おおこうち》裕《ゆう》とその仲間たちだ。どうやら、先ほどわたしに席替えの話を提案してきた子は、大河内の近くの席に座りたいから、交渉にやってきたらしい。そして、親分の大河内自身がわたしにお礼を言ったという筋書きだ。
大河内というのは、簡単に言えばゴリラと人間の交配種のメスである。そのため、粗野で下品なのが特徴。大声で騒ぎ、手を叩《たた》いて笑い、言葉遣いも悪い。更に何よりも問題なのが、わたしの陰口を叩くという点にある。直接耳にしたわけじゃないけど、きっと言っている。間違いなく言っている。奴《やつ》はそんな目をしているのだ。きっと今から、黒魔法から席をとりあげるのなんてチョロイね、などと言いながら、グワッハッハッとカバみたいに笑うに違いない。
ダーウィンに電話できたらすぐに大河内のことを伝えたい。ここにゴリラの進化系がいますよ! すぐに研究室に連れていってください! そう連絡しなくちゃいけない。
ただ、なぜか大河内には人望があった。男子も女子も、彼女になら気軽に話しかける。あんな凶暴《きょうぼう》そうな亜人と話して、何が楽しいのか。わたしにはちょっと理解できない。みんな彼女の周りを囲んで、つまらないことで笑い、何気ないことで楽しそうにする。そんな様子はちょっとだけ、本当にちょっとだけなんだけど、羨《うらや》ましい気もした。
誰《だれ》かに直接的ないじめを受けたことはない。殴《なぐ》られたり、物を取られたり、何かを隠されたりしたことはなかった。多分、そんなことをしたら呪《のろ》われると思っているのだろう。だから、直接攻撃はせずに、裏でこそこそと陰口を蔓延《まんえん》させているんだ。
席替えが終わると掃除が始まる。みんなが自分の椅子《いす》と机を後ろに運び始めた。わたしの掃除場所は教室だった。わたしは真面目《まじめ》に掃除をやっているのに、他《ほか》のメンバーは箒《ほうき》を振り回して遊んだり、隅っこの方で何か楽しそうに話しているだけで、まともに働こうとしない。
ああ、きっとわたしはシンデレラの生まれ変わりなのね。意地悪な連中にいじめられているわたし。だけど、こうやってせっせと掃除をしていれば、そのうち魔法使いがやってきて、お前に究極魔法を伝授しよう、とか言ってくれるのだわ。そしたら、魔王を召喚してこの世界を灰に変えちゃうのに。みんなが恐怖と苦痛でもがいているのを見下ろす、わ・た・し……。めっさ素敵。
そんなことを考えていたら、掃除の時間はいつの間にか終わっていた。結局、わたしもあまり掃除をしなかった。たまには、こういう日もある。
掃除が終わると、ようやく下校時間。友達と一緒に帰る人。恋人と一緒に帰る人。それぞれ自分のグループがあるのに、わたしだけは独りだ。
夕焼けで赤く染まった廊下は、すこし不気味な雰囲気をかもしだしている。これなら強力な魔物が召喚できそうだ。学校くらい片手で壊しちゃうくらい凶暴な奴がね。
そんな廊下に、わたしの足音がやたらに大きく響く。
それに混じって、背後から駆け足で迫る足音が聞こえてきた。右肩に衝撃が伝わる。後ろから走ってきた男子生徒が、わたしの体に当たったのだ。ふらふらと歩いていたわたしは、体勢を崩してショルダーバッグの中身を廊下に撒《ま》き散らしてしまった。一瞬、男子生徒の動きが止まる。床に散らばった書籍を見て驚いているようだった。それらは全《すべ》て馴染《なじ》みの本屋のおじ様から借りた本だ。もちろん、黒魔術関連の高価で有益な書籍ばかり。
わたしはのろのろと本を拾い集める。しかし、ぶつかってきた方の人間は何も言わずに、そのまま逃げるようにその場から離れていった。ちょっと待て、呪《のろ》うぞコラ! そんなわたしの心の叫びなど聞こえるわけもなく、男子生徒はそのままどこかに行ってしまった。
きっと、気持ち悪いと思っているのだろうな。だけど、どんな本を読もうとわたしの勝手だ。ずれた眼鏡《めがね》を元の位置に戻して、そのままとぼとぼと帰路についた。
校門から出ると、ひたすらに歩く。田んぼと畑に囲まれた道をゆらゆらと進み、ローカル線の駅にたどり着いた。そこには、派手な見た目の女子高生が何人かいた。うちの高校の制服を着ている。わたしは、できるだけ彼女たちから離れたベンチに腰を掛けた。
不良少女どもがこちらを見てくる。小声で何か言っている。きっと、わたしの悪口なんだろうな。わたしは、この場から逃げ出したくなった。しかし、そんなあからさまな行動ができるほど、わたしは勇気のある人間じゃない。かわりに、ただ膝《ひざ》の上に手を置いて、最近の困った若者の遠方からの精神攻撃に、そのまま耐える。
「スカート長くない?」
そんな声が聞こえた。お前らみたいな腰蓑《こしみの》なんざ可愛《かわい》くもなんともないんだよ! さっさと不純異性交遊で捕まってしまえ! ……心の中では叫べても、そんなことを口にすることはできない、本当に奥ゆかしいわたし。大和撫子《やまとなでしこ》を辞書で引いたら、わたしの名前を載せてほしいくらい。
電車ががたごとと揺れながら、金属音を響かせて這《は》ってくる。なんとも不恰好《ぶかっこう》な二両編成がわたしの前に止まった。電車に乗り込むと、一番近い座席に腰を下ろす。使い古された硬いシートに身を任せ、ため息をついた。
季節は早春。わたしはもうすぐ高校二年生になる。寒さも大分緩くなり、早いところではそろそろサクラが開花するらしい。日本には毎年必ず春が来るのに、わたしにはやってこない。十六年間で一度も花開いたことなどない。要するに、成功らしい成功をしたことがない。根腐りしているんじゃないか、と心配になることもあった。
四十分ほど電車に乗って、わたしが下車したのは、人気《ひとけ》のない無人駅だった。わたしはそこから、自転車にまたがって自宅を目指す。春になって増えてきた様々な虫を手で払いながら、田んぼのあぜ道を抜けると住宅街の細い道に入った。カーブミラーに惨《みじ》めな少女の姿が映っている。夕闇《ゆうやみ》の街を疾走《しっそう》する魔女。そんなタイトルがぴったりの構図だった。
自分のことが好きだと思ったことは一度もない。きっと、わたしの見た目がいけないんだ。わたしがグラビアアイドルくらい可愛《かわい》かったら、きっとみんなちやほやしてくれるし、悪口も言わなくなるにきまっている。そうなれば、わたしだって友達ができるかもしれない。だけど、そんなのはすぐに変えられるものではない。少なくとも、わたしには変えられない。
髪型を変えて、服を変えて、もっと明るくなれば、彼氏でもできるかな……。
無理。ムリムリ。そんな自分が想像できない。絶対に無理。白いだけで、病人のように見える肌。捨て犬のようだと評される哀《あわ》れな目玉。あたかも魔女のような漆黒《しっこく》の髪。華奢《きゃしゃ》で頼りない体。全《すべ》てが、わたしの嫌いなものだった。
いや、待てよ。そもそもわたしの周りには付き合うだけの価値のある男がいないじゃないか。どいつもこいつもパッとしないぞ。みんな、まだまだ子どもで幼い。わたしとは不釣り合いだな、ふふふ。
そもそも、男なんかと付き合いたいとは思わない。面倒だし、馬鹿《ばか》だし、男はわたしを嫌っている。そういう気配というか、オーラというか、空気をビシバシ感じるわけですよ。
だから、嫌だ。特に最後が重要。何が悲しくて、自分のことを嫌っている人間と一緒にいなければならないのか。そこ大切。世界中の人間がわたしの前に跪《ひざまず》くようなことがあれば、考え直してやってもいいけどな。
家の近くの坂道で、またため息が漏れた。ため息をつくと幸せが逃げるというけれど、もともと幸せを内包しているような人間はため息をつかないに違いない。それとも、わたしは枯渇しかけている幸せすらも吐き出しているのかな。やせ細った幸運貯蔵タンクから、最後の一滴まで搾《しぼ》り取るようなため息。この幸せよ、世界中の恵まれない子どもたちに届け。
……やっぱり嘘《うそ》。利子がついて返ってこい。
目の前に急で長い坂道が現れた。自転車から降りて、手で押してそこを上る。この先にある集合団地の一番高いところにわたしの家がある。
ゆらゆらと坂を上りきり、我が家にたどり着くと、鍵《かぎ》をあけて中に入った。
「ただいま」
返事はない。あったらあったで怖いけど。
薄暗い部屋には誰《だれ》もいない。両親は共働きで、なおかつ妹は部活をやっているので、家族はみんなわたしより遅い。帰宅はいつもわたしが一番だった。
部屋の電気も点《つ》けずに、わたしはソファに腰掛けた。ショルダーバッグが床に落ちて、倒れた。開いた口の中から中身が再び溢《あふ》れ出す。『呪《のろ》いのイロハ』『人を殺すということ』『猿でも分かる黒魔法』などなど、一般の書店ではとても見つけられないコアでダークなタイトルの数々が床に散らばる。こういう本を、わたしは本屋のおじ様から借りているのだ。だって、こんなの図書館に置いてないもん。
わたしはいつ頃《ごろ》からか、そのあだ名の通りに黒魔法に興味を持った。そして、中学生の頃はオリジナルの魔方陣を編み出すことに青春を浪費した。高校に入学してからもその趣味は続き、最近は召喚術の勉強を始めたところだった。とはいえ、日本語の書籍は数が少なく、どうしても外国書籍が中心になってしまう。それを読むために猛勉強を重ね、英語だけは得意になった。知っている単語に偏りはあるけど。
本を足でさばき、適当に広げて並べてみる。そうすると、一冊だけ見たことのない本があった。『A contract with an Evil spirit』その本にはそういう英題がつけられていた。直訳すると、『悪魔との契約』。……こんな本を借りた記憶はなかった。
あのおじ様が勝手に入れたのかな。わたしはお世話になっている本屋の店主の顔を思い浮かべた。しかし、そんな気を配るような人物には思えない。
興味を惹《ひ》かれ、その本を取り上げた。随分と古びた本だ。題名は金色で書かれているが、それ以外は深い緑色だった。表紙には布のような素材が使われており、所々擦り切れたその表紙はかなりの年季を感じさせた。
ぺりぺりと音をたててページをめくる。中身は英語で書かれている。紙は黄色く日焼けしており、保存状態はよくない。わたしは何ページか軽く眺めてみた。
内容は悪魔の召喚方法みたい。呼び出し方や、契約の方法。目新しい情報はない。どれも、他《ほか》の本で読んだことのあるものばかりだった。
ぱり。本の真ん中辺りのページを開く。見開きに大きく魔方陣が描かれていた。それは、見たことのない独特の図形だった。
これは新しいかも。わたしは少し嬉《うれ》しくなって、その恐ろしい図形を学校のプリントの裏に転写してみることにした。
これで、何かが変わるかもしれない。そんな淡い期待が胸に湧《わ》き上がる。いつだって、魔法を使う時よりも、その準備をしている時の方が楽しかった。
「お姉ちゃん! またそんなの着てる!」
大きな目を丸くして妹が叫ぶ。夜中に大きな声を出さないでほしい。
「うるさい。この格好は霊力が高まるのだ、多分」
わたしは黒いローブを頭からすっぽりと被《かぶ》っていた。完全に魔女のいでたちだ。この格好で外を歩いたら、警察に職務質問されても文句が言えない。それに、闇《やみ》と一体化するから、車に轢《ひ》かれても損害賠償が請求できないかもしれない。
「はっきり言って、気持ち悪いよ」
愚妹《ぐまい》は思ったことをそのまま言う。いくら姉に対する言葉でも、もっとオブラートに包んでほしい。そんな、女々しいわたし。
「一生彼氏できないよ」
「そんなもんはいらん」
そこで妹は大きなため息を一つ。自分の幸せを逃がすため息ではなく、他人の不幸を嘲《あざけ》るためのため息。相変わらず嫌な女だ。
「夏樹《なつき》は黙ってなさい。さもないと、呪《のろ》うぞ」
わたしが脅すと妹は黙った。さすがにこの一言は威力が違う。
空口《そらぐち》夏樹。それが妹の名前。入道雲の浮かぶ夏の爽《さわ》やかな空を連想させる素敵な名だ。わたしのような禍々《まがまが》しさがない。しかも、中学校では女子バスケットボール部の部長として、実力人気共にナンバーワンプレイヤーらしい。ショートカットの活発そうなヘアスタイルと悪戯《いたずら》っぽい表情は少年のようでもあるけど、大きな目は可愛《かわい》い女の子のそれだった。背はすらりと高く、スリムで出るところは出ている。現在は一つ年上の彼氏と交際中だとか。どうして、神様は姉妹にこれほどの差をつけたのだろうか。会う機会があれば問いただし、返答しだいでは抹殺《まっさつ》したい。
既に時刻は十時を回ろうとしていた。健全な子どもは布団に入り、不健全な子どもは夜の街に繰り出すわけだが、それらを超越したわたしは部屋に篭《こも》る。ここからがわたしの時間なのだ。
夕方に転写した魔方陣を持ってベランダに出た。わたしたち姉妹の部屋は二階にあり、その部屋から直接ベランダに出ることができる。夏樹が部屋の中でごちゃごちゃと言っていたが、ベランダに出て窓を閉めるとそんな声も聞こえなくなった。
三月とはいえ、まだ夜は冷える。わたしはお手製のローブの裾《すそ》を自分の方に引っ張り、体に密着させた。ほとんど蓑虫《みのむし》のような状態だった。
星の綺麗《きれい》な夜。
住宅街とはいえ、田舎町《いなかまち》なので街の灯《あか》りはあまりない。そのため、空は随分と綺麗に見えた。
宇宙の深海にはきらきらと無数の光源が瞬き、無限に広がっている。眺めていると距離感が分からなくなり、まるで自分が真っ暗な空中を漂っているような気にすらなる。
うむ、何だか霊力が高まってきた気がしてきたぞ。これは、いける感じだよ。
わたしは魔方陣を広げると、本に書いてあった呪文《じゅもん》を口にした。
「Ad keut me a osi adne……」
悪魔を呼び出し、契約するための呪文。
静かな夜に、魔法が微《かす》かに響く。
遠くの方で電車がレールの上を走る音がする。
全《すべ》ての発音が終わった。
星の綺麗《きれい》な夜だった。
遠くの方で船の汽笛《きてき》の音がする。
……。
巨大な悪魔が天を割って、ガオー! みたいなことはない。
おぞましいモンスターが地面を裂いて、ウガー! みたいなこともない。
というか、何も起こらない。
……。
外は寒い。
いつも通りの夜だ。
ため息をついて暖かい部屋に戻るために窓を開けると、夏樹《なつき》が冷たい視線をわたしに送った。何も言わないことが一番効果的な攻撃になる。それを夏樹はよく分かっている。わたしはいつも通り、視線をずらして自分のつま先を見た。そうやって、下を向いて一切の意思|疎通《そつう》を拒否することが一番効果的な防御であると、わたしはよく分かっている。
ずるずるとローブを引き摺《ず》りながら、わたしはベッドにもぐりこんだ。こんな失敗はいつものことだ。だから、いつも通り眠って忘れよう。
「お姉ちゃん、お風呂《ふろ》入らないの?」
夏樹が尋ねる。優しい言葉を装っているが騙《だま》されないぞ。布団から出たところを捕まえるつもりなんだな。
「疲れてるから、あとで……」
あれ……。おかしい。
つまらない受け答えの途中、不意に体に力が入らなくなる。
夏樹かぶれて見える。自分で自分の発した言葉の語尾が聞き取れなかった。
今まで味わったことのない、急速に広がるタールのようなどす黒い不安感。体中から力が抜けていき、感覚が鈍化していく。
「じゃあ、わたしが先に入るからね」
わたしは返事をしなかった。否、できなかった。妹の言葉も途中から聞き取れていない。
これは、一体何なのか。そう考えた次の瞬間、まるで底なしの落とし穴に落ちたように、わたしは何の抵抗もなくストンと眠ってしまった。
あたかも、意識と無意識が急に入れ替わったような不思議な感覚。世界が反転してしまったような不安と驚愕《きょうがく》。
そのまま、どこまでも深い眠りにおちる。わたしは抗《あらが》うこともできずに、ただただ堕《お》ちるだけだった。
堕《お》ちる。落ちる。
途中から浮遊感が体を支配する。無限に落ち続けることと、空を飛ぶことは似ているのかもしれない。真っ暗闇《くらやみ》の中、わたしは浮かんでいた。いや、それともやはり沈んでいるのかな。よく分からないけれど、とにかく不思議な感じ。
辺りは隙間《すきま》なく敷き詰められた闇《やみ》が支配し、とにかく真っ暗で、世界中にある黒をぎゅうぎゅうに押し詰めたような世界だった。そこでは、自分が認識できない。空間と自分が一体化してしまったみたい。
「契約を望む者よ」
どこからか声が聞こえる。聞こえるというよりも、体の中に伝わってくる。つまり、既にわたしの一部であり全部であるこの空間の中で誰《だれ》かの声が響いているのだ。
「汝《なんじ》、我に何を望む?」
何を望む?
「汝、我に何を望む?」
汝って誰?
不意に暗闇が歪《ゆが》む。ぐにゃりと曲がり、やがて形を成す。
ゆらゆらと揺れる炎が現れた。その中に生気のない胎児《たいじ》がいる。だが、それは人間の胎児ではない。体は青白い体毛で覆われ、背中には禍々《まがまが》しい羽が生えている。長く伸びた尻尾《しっぽ》は炎が揺らめくのと同じようにゆらゆら動いていた。
小さく丸まったその謎《なぞ》の生物は、顔の半分ほどもある眼《め》を僅《わず》かに開いた。
「契約者よ、汝の望むものは何だ?」
契約者?
わたしにとって契約といえば悪魔との契約しかない。さっきの召喚も、上手《うま》くいけば悪魔と契約できるはずだったのに。悔しい。失敗はいつものことだけど、やっぱり悔しい。
契約者。
汝の望むもの。
少しずつ状況を理解し始める。
この非現実的な黒い空間と、謎の胎児に謎の言葉。
全《すべ》ての要素が、わたしを答えに導く。
も、もしかして……こいつって悪魔?
そうだとしたら、契約者って……わたしだ!
その瞬間、世界が急に明確になる。闇と自分の境界は明確になり、確かにわたしはわたしとしてそこに確立した。
「あなた、悪魔?」
わたしの喉《のど》が震える。
「汝《なんじ》、我に何を望む?」
答えになっていないが、間違いない。こいつは悪魔だ! わたしの召喚が成功したのだ! 嬉《うれ》しさが体中を突き抜ける。心臓の鼓動が速くなった。
やった。やった! わたしはついに念願の召喚術に成功したのだ。
昂《たかぶ》る気持ちを抑えつつ、黒魔法少女たるわたしは悪魔に目を向ける。
「わわわわたしは真帆《まほ》、空口《そらぐち》真帆! お前を召喚した!」
「汝、我に何を望む?」
わたしは舌なめずりをして落ち着く。唇がやたらと乾いていた。
何を望むのか。その質問をずっと待っていた。苦節数年。この瞬間を待っていた。
「わたしを変えてほしいの」
「変える? 何を変えてほしいのだ?」
わたしが今まで受けてきたいじめの原因はどこにあるのか……。
それは、わたしの外見だ。わたしが可愛《かわい》ければ、わたしの世界は全く別のものに変わるはず。みんなの蔑《さげす》むような視線を一掃してやる。
「可愛くしてほしいんです」
「可愛く?」
「はい。わたしを、宇宙で一番可愛い黒魔法少女にしてください!」
そうだ。わたしは変われる。ここで、わたしは変わるんだ!
自分自身ではどうしようもなかった。自分が嫌いだった。だけど、今からは違う。悪魔の力で、わたしは華麗《かれい》に変身するのだ。
「よかろう」
胎児《たいじ》が言う。そして、音もなく近づいてきた。わたしの顔の目の前で、それは止まる。胎児はわたしが抱えられないほどの大きさがあった。わたしは汗でびっしょりになった手を握り締めた。この悪魔、近くで見ると気持ちが悪い。
「それでは、汝は何を差し出す?」
差し出す?
「契約のために、何を差し出す?」
「あの、仰《おっしゃ》っている意味が不明なのですが……」
「自分の望みを叶《かな》えるためには、何かを犠牲にしなければならない」
そんな!
……だけど、それは当然のことかもしれない。無条件で自分の意見が通るほど、この世界は甘くないということか。
「差し出すものって、何でもいいんですか?」
まさかお金を払うわけではないだろう。かといって、内臓とか寿命とかを取られるのは嫌だった。わたしは美少女になってずっと生き続けて、呆《あき》れるくらい長生きしてから天寿を全《まっと》うしたいのだ。
「契約の対価となるものなら、何でも構わない」
契約の対価。超絶美少女になるのと同じくらい価値のあるものを差し出せというのか。それは何だろうか。少なくとも、わたしは持っていない気がする。そもそも、そんな価値のあるものを持っていないから、わたしは悪魔を召喚して助けてもらおうとしたんじゃないか。
契約とは常にギブアンドテイク。ただただ利益を享受するような契約はできない。
わたしの興奮は少しずつ冷め始めた。結局、こんな幻想的な世界であっても、現実の壁は確実に存在する。
「わたしには……何もありません」
肩を落とし、わたしは呟《つぶや》くような声で言った。すると、悪魔は大きな眼《め》を僅《わず》かに開く。まるでその答えを期待していたかのような表情。気持ちの悪い巨体は嬉《うれ》しそうに、そっと近づいた。青白い腕が持ち上げられ、指と長い爪《つめ》がわたしの胸の前で止まった。
「汝《なんじ》の心」
「はい?」
「汝の心を対価としよう」
「わたしの……心?」
どういう意味なのか分からない。
「今、汝には想《おも》いを寄せる男はいないな?」
「ふぇ?」
突然の質問に動揺する。まさか、心を対価とするというのは、この悪魔にわたしの心を奪われる、つまり今日から二人は彼氏と彼女?
「いえ、あの、何というか、まだお互いによく知っていないし、まずはお友達からというのが王道というか……。それに、ほら、盗まれたのはあなたの心ですっていうのも、なんかちょっとありがちな話ですし、親に紹介するにしても……」
「男と深い仲になることを禁止する」
「いきなり独占欲丸出しですか!」
なんという子ども発言。そして、そこまで愛されるとは、わたしは何と業の深い女!
「汝の心にその制限をかける。それを、契約の対価としよう」
悪魔の少しも動揺しない口ぶりに、わたしもようやく落ち着きを取り戻した。つまり、悪魔はわたしに人間の男と付き合うな、と言いたいらしい。結婚もできないし、一生彼氏がいないまま人生を過ごせということか。
「彼氏つくっちゃダメということですか?」
「そう。その制限で汝《なんじ》の望みを叶《かな》えよう」
男と一切|関《かか》わらない生活。
そんなことは……。
「お安い御用です!」
わたしは満面の笑みで答えた。そんなことで可愛《かわい》くなれるのなら、いくらでも差し出せる。男などいらない。恋人など不要。恋愛なんてしなくていい。わたしに彼氏ができないことで、悪魔にどんな得があるのか分からない。だけど、これはわたしに巡ってきた人生最大のチャンス!
「そんなこと、全然OKです。むしろ、望むところです! 一生しません。未来|永劫《えいごう》しません。輪廻転生《りんねてんしょう》しても、男なんかに近づきません!」
だから。
「わたしを変えてください!」
美少女になってわたしは見返してやるのだ。今までわたしを見下してきた連中が驚愕《きょうがく》し、羨望《せんぼう》の眼差《まなざ》しでわたしを見つめる。今までのような視線を全《すべ》てなくしてやる。世界中がわたしを羨《うらや》み、わたしの前に跪《ひざまず》くのだ!
「承知した」
「マジですか!」
悪魔はゆらゆらと薄らいでいく。同時に、世界もゆらゆらと拡散していく。
嫌だ。ブラックアウトする空間。怖い。何も分からなくなる。
そこで目を覚ました。起き上がると、そこはわたしの部屋だった。
厭《いや》な夢。
体中が汗でびっしょりになっている。別に暑いわけではない。むしろ、体は黒いローブと布団だけでは足りないくらいに冷えきっていた。
……あんな夢を見るようになるとは、わたしもかなり魔力を身につけてきたな。
ベッドからずり落ちるように這《は》い出ると、おぼつかない足取りで階段を下りる。鼻までずり落ちていた眼鏡《めがね》を押し上げると、いつもの自宅の様子がはっきりと見えた。だけどまだ、ゆらゆらと世界が歪《ゆが》んでいる。硬く冷たいフローリングは、わたしの足の裏に反応して泥のようにやわらかくなり、底なし沼と化す。そんな不安定に感じる世界を震えながら進んだ。
廊下で夏樹《なつき》を見つけた。自分のパジャマとバスタオルを持っている。どうやら、今から風呂《ふろ》に入るみたいだ。
「やっぱり、お風呂に先に入るの? ん、お姉ちゃん?」
夏樹はわたしの顔を見て数秒固まる。わたしは汗で顔にくっついた髪をどけると、睨《にら》み返した。
「汗かいたから入る。先に入らせて」
愚妹《ぐまい》はわたしの言葉に、数秒遅れて頷《うなず》き、戸惑うようにまばたきをした。
「なんか、感じ変わったね」
「はぁ?」
「いや、なんかさっきと雰囲気違うような……。つっても、数分前だけど……」
雰囲気が違う……。感じが変わった……。
変わった?
わたしの心臓が激しく鼓動する。洗面所に駆け込むと、自分の姿を確認した。
鏡に黒い少女が映っている。
これが、わたしの顔なの?
今まで自分の顔を鏡でまともに見たことがなかったが、確実に違う。肌理《きめ》細やかな白い肌の上に、つぶらな丸い目がのっかり、その下には形の良い鼻と可愛《かわい》らしい口がちょこんと姿を見せた。目にかかっていた髪を持ち上げれば、見たことのない美少女の笑顔。小柄で可愛らしい、いわゆる守ってあげたくなるような体型。
短距離走を走った後でも、血液はこんなに速く循環しない。みるみるうちに鏡に映った少女の顔は赤く染まっていった。お、これはこれで可愛いぞ。
わたしは眼鏡《めがね》を外した。とりあえず、明日コンタクトレンズを買いに行こうかな、と思った。適当に縛ってある後ろ髪のゴムを取り去り、もう一度高い位置に結わえなおす。
うふふ。まあ、素敵なお嬢さんだこと。
肺が破裂する限界まで息を吸う。
「おっしゃあー!」
そのわたしの雄たけびは、近所三軒範囲に響き渡ったという。
「どうしたの!」
最愛の妹が洗面所に駆け込んできた。わたしは彼女に抱きつくと、その愛らしいほっぺにキスをした。
「ちょ、ちょっといきなり何! っつーか、汗臭いし!」
「やったぞ、夏樹《なつき》! お姉さまは変わったぞ! 明日から友達に自慢していいぞ!」
夏樹の首に腕を回したまま、わたしは彼女の周りを一周した。首をぐるぐると絞められた夏樹は、突然の絞殺未遂行為によって気が動転したらしく、悲鳴をあげた。
「たーすーけーてー!」
「あははー。たーすーけーなーいー!」
この後、登場した母親にわたしたちは怒られたわけだけど、それでもわたしのうきうきした気持ちは少しも揺るがなかった。
すごい! わたしは変わったんだ!
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二幕 どきどき初対面
学校へ向かう電車の中。周りからこそこそと話し声が聞こえる。
昨日までなら、それはわたしの悪口だったはずだ。気持ちが悪いだの、暗いだの、近づくと呪《のろ》われるだの、そういったあながち嘘《うそ》ではない類《たぐい》の悪い噂《うわさ》だった。
だけど、今日は違う。わたしは鼻を電車の天井に向けるくらいに面《おもて》を上げ、胸を張り、堂々と吊《つ》り革に掴《つか》まっていた。
ほほほ、キュートなわたしの姿をたっぷりと拝むといいわ。昨日までのわたしとは全く違う。髪の毛は今までとは違いアップにまとめ、少しだけ化粧もしたし、スカートも短くしてみた(といっても、夏樹《なつき》に全《すべ》てさせたんだけど)。コンタクトは後で買うとして、とりあえず眼鏡《めがね》は外してみた。こうやって背筋を伸ばして世界を眺めてみると、今までとは全く違って見える。眼鏡がないからぼやけて見えるっていう意味じゃない。あれほど、退屈に映っていた田舎町《いなかまち》が、美しい田園風景に見えるのだ。ああ、失われた古き良き日本がこんなところにあったよ。
駅に着くとできるだけ優雅に電車から降りた。田舎の駅なので、ここで降りるのはうちの高校の生徒だけ。わたしは自分の匂《にお》いと姿を振りまくように歩いた。みんな、わたしが誰《だれ》なのか分からないのかもしれない。それも仕方がないかな。だって、昨日までのわたしはもう死んだのだからね。悪魔と契約し、今日からのわたしはまさに無敵のヒロインなのよ!
長閑《のどか》な田園風景を横目に、わたしは学校に向かう。
おはよう、小鳥さん。今日も良い天気ね。あはは。
あら、お花さん。今日も綺麗《きれい》に咲いているわね。うふふ。
気持ち悪い会話を脳内でかわしながら、わたしはスキップするように学校へ向かう。
不意に右肩に衝撃が伝わった。後ろから誰かがぶつかってきたらしい。わたしは思わずよろけて肩にかけたショルダーバッグを落とした。中身が道に散らばる。
「あ、すみません」
学生服の男が頭を下げてきた。
あ! こいつは昨日廊下でぶつかってきた奴《やつ》だ。あの時もわたしはショルダーバッグの中身をぶちまけた。それでもこの男は、それを無視して逃げたのだ。わたしの恨みつらみリストは抜群の記憶力を持っている。少なくとも、あと十年はこの男の顔を忘れない。
「大丈夫ですか? 怪我《けが》とかないですか? 本、汚れちゃいましたよね」
男は顔を赤くして、てきぱきと落ちた本を拾った。そして、ギクシャクした動きで、わたしに渡した。
「何だか、難しそうな本っすね。自分もこういうのが読めるようになりたいっす」
顔真っ赤だね。というか、お前が持っているのは呪《のろ》いのイロハと禁断の魔術本だぞ。
「そ、それじゃ、自分は学校に急ぎますんで」
そう言って男はすごい勢いでその場を去った。
全然違う。
前とは全く違うじゃないか。
変わるということは、こういうことなのか。
男がいなくなってから数秒たって、わたしの中に自分が変わったという自信が、ものすごい勢いで溢《あふ》れ始めた。
すごい! すごすぎる! やっぱり、わたしは完全に生まれ変わったのだ!
学校に着くと、既に何人かのクラスメイトが教室にいた。方々で繰り広げられる他愛《たあい》のない会話で、室内は騒がしかった。
「おはよう!」
新しいわたしを見てほしい。わたしはそんな衝動を抑えきれずに、思わず大きな声で挨拶《あいさつ》をしてしまった。教室の中にいた全員がわたしの方を見る。そして、そのまま全員が固まった。
空間が凍りついた。
誰《だれ》も何も言わない。いや、発すべき言葉が見つけられないのだと思う。衛星中継以上のタイムラグの後に、何人かの女子が、おはよう、と言った。わたしは朝に練習した可愛《かわい》い笑顔をつくると、自分の席に着いた。
完璧《かんぺき》だった。昨日までわたしをバカにしてきたクラスメイト共が動揺している。わたしはいつも通りにしているだけなのに、それだけでも彼らにとっては衝撃だろう。
隣で雑誌を読んでいた女子どもがわたしの方を横目で見る。彼女たちは彼女たちのコミュニティを持っている。そのグループに入ることは容易ではない。だけど、そもそもわたしの目的は、低俗な生徒たちと馴《な》れ合うことじゃない。今までわたしを馬鹿《ばか》にしてきた連中を見返すことなのだ。だから、自分からやつらのグループに入ろうとすることはしない。逆に連中の方からわたしを必要にしてこなければ意味がない。
ふふふ。わたしの前に傅《かしず》かせてやる。
チャイムが鳴り、同時に遅刻ぎりぎりの人間がたくさん滑り込んできた。数分遅れて担任が入室し、朝礼が始まる。わたしは一番前の指定席。いつもなら教師とは絶対に目を合わせない。先生だってわたしのことを侮蔑《ぶべつ》しているからだ。
しかし、くどいようだが今日からは違う。わたしは先生に対して、一番自信のある角度から視線を送り、一番魅力的なポーズで彼が教壇に登るのを待った。教師は見慣れない生徒がいることに驚いた様子でしばらく固まったが、己の仕事を思い出して数秒後に再起動した。
ふふ。びっくりしているな。
「これで、来週から春休みに入るわけだが……」
中年の冴《さ》えない日本史の教師。よれよれのジャケットに、皺《しわ》だらけのシャツにノーネクタイ。全《すべ》てがだらしないこの男こそ、我らが担任であった。わたしは彼がいつもわたしに向ける以上に冷たい視線を、独身中年教師に送りつける。それは、ちょっとした優越感だった。人を見下すことはこれほどまでに気持ちのいいことだったのか。
「心の底まで腐っているな」
ふと耳元で声がする。どこかで聞いたことのあるような、ないような声だった。
わたしは思わず振り向いてしまう。後ろには、わたしの奇行に驚いた男子生徒がいた。もちろん、彼がわたしの耳元で囁《ささや》いたわけではない。
「どうした、空口《そらぐち》?」
担任に言われ、わたしは大人《おとな》しくよじれた体を戻し、前を向きなおした。
次の瞬間、わたしは絶句した。本当に驚いた時というのは、声が出ないのだということを、身をもって知らされた。
声の主は目の前にいた。
相変わらず青白い体と、それを取り囲む青い炎。怪しい翼と、長い尻尾《しっぽ》。小さく丸まっているが、その異形は隠せず、むしろ小さな巨体の禍々《まがまが》しさをより強調している。大きな瞳《ひとみ》は歓喜の色を帯び、ゆっくりと開いた口の中に歯はまだ生えていない。
胎児《たいじ》だ。否、悪魔。
自分で自分の体温がどんどん下がっていくのが分かる。心臓が締めつけられ、体中から汗が噴き出る。悪魔がわたしの机の上でふわふわと浮かび、こちらを見ている。
他《ほか》の人間には見えていないのだろうか。わたしはぎこちなく首だけを動かし、周りの様子を確認する。いきなりこんな地球外生命体が現れたら、クラス中がパニックに陥ってもおかしくない。むしろ、陥るべき状況であるはずだ。だが、そんな様子は微塵《みじん》もない。誰《だれ》一人として、この気持ちの悪いビッグベイビーの存在に気づいていないらしかった。
「変わった姿は気に入ったか?」
悪魔が囁く。地に響くようで、それでいてどこか力のない、不思議でとらえどころのない声。やはり、聞こえるというよりも、体に響くといった方がニュアンスは近い。わたしは頷《うなず》くことで答えた。現状から推測するに、悪魔の声もわたしだけにしか伝わっていないと考えるべきだろう。ということは、ここで声を出して答えれば、わたしの新たな伝説が生まれてしまう。せっかく変身したのだから、これ以上悪い噂《うわさ》を増やしたくはなかった。
「よろしい。これで我の責務は果たされた。あとは、債権を行使するだけだ」
そう言うと、悪魔はふわふわと浮かび上がり、わたしの頭上で止まった。わたしは目玉だけ上に向けて、その姿がいつまでも消えないことを確認した。
「まさか、ずっといるんですか?」
「一限目は日本史だからな」
目玉を本来の位置に戻すと、担任の先生が嫌な顔をしてこちらを見ていた。朝礼は終わったらしい。
「あ、そうですよね。ははは。やったー、嬉《うれ》しいな……」
わたしはわざとらしく笑うと、もう一度頭の上を確認した。
青い炎は燃え盛り、巨大な胎児《たいじ》は堂々と宙に浮かんでいる。
どうやら、わたしの頭の上が気に入ってしまったらしい。せっかく盛り上がった気分が、少しだけ萎《な》えてしまった。
だけど、本当に気持ちが萎えるのはここからだった。
一眼目が終わる頃《ころ》、わたしは周りを見渡してみた。きっと、空口《そらぐち》真帆《まほ》の華麗《かれい》なる変身がクラス中の話題になっていると思ったからだ。だが、もうわたしの方を見ている人は誰《だれ》もいなかった。
二眼目が終わる頃、わたしは恐る恐る周りを見てみた。案の定、誰もわたしのことなんか気にしていなかった。
三眼目が終わった後は、もう怖くて周りを見ることができなかった。昨日までと同じように顔を伏せて、誰にも気づかれないようにひっそりとしていた。
時間と共に、気持ちも落ち着いた。最初は多くの人に変わったわたしを見てほしかったが、そんな気持ちも少しずつ冷めていき、一日が終わる頃には結局いつもと同じわたしだ。
「空口さん、どうしたの?」
下校の支度をしていたわたしは、不意に声をかけられた。大河内《おおこうち》だ。なんだ、姿が変わってもいつも通り暗いままのわたしを馬鹿《ばか》にしにきたのか。
「席はもう替えません」
「そんなことじゃないって」
大河内はそう言って笑った。なんだか、その笑い声がわたしを馬鹿にした笑い声であるように聞こえる。わたしは黙って立ち上がった。
「ちょっと、相談があるんだけどさ」
うるさい。お前の話なんか聞くもんか。なんだかんだ言って、どうせわたしを嘲《あざけ》る気だろう。わたしはそのまま教室から出た。
確かに、わたしは変わった。しかし、だからといっていきなり全《すべ》てが劇的に変わるわけではなかった。わたしはクラスの輪の中には入れない。それは、連中がわたしを拒絶しているからだ。そうに違いない。わたしが暗いネクラ少女の容姿をしていればそれをネタに笑いあうし、姿を変えても無視するんだ。どうしようもない。
何が美少女だ。何も変わっていない。いっそのこと、悪魔にこの国を滅ぼしてもらった方がよかった。その上で、わたしが女王として君臨することにすればよかったんだ。
本当に、そんなことお願いできるほど度胸はないけどさ……。
教室から玄関に向かう道。相変わらず死刑台に向かうような廊下。昨日と同じわたし。歩く。歩く。何も考えたくない。足を前に出す。
右足。
左足。
赤い廊下にわたしの足の裏がくっつく。
ぺたり、ぺたりとナメクジみたいに進む。
後ろから足音が迫ってきた。
ああ、デジャヴ。
男がわたしにぶつかって。
倒れるわたし。逃げる男。
傷つくわたし。あざ笑う女。
悪魔を召喚するわたし。驚愕《きょうがく》する担任。
だけど、何も変わらなかったわたし。やっぱり、冷たい世間の風。
「空口《そらぐち》さん。ちょっと、いいかな」
落ち着いた女性の声。振り返ったわたしの目には、黒髪の女性の姿が映った。
美人だ。すらりと背が高く、綺麗《きれい》な漆黒《しっこく》の髪は腰の辺りまで伸びている。長く伸びた睫《まつげ》の下にある切れ長の目がわたしの方を見ていた。
この少女には見覚えがある。わたしのクラスメイトだ。確か、名前は雛浦《ひなうら》しの。物静かな感じの生徒だ。ただ、静かだといってもわたしとは質が違う。わたしの静かさが暗い井戸の水底だとしたら、雛浦さんの静かさは新緑の湖畔《こはん》の爽《さわ》やかな静かさだった。うん、そんな感じ。
「本当だ! そっくり! すごいね、しのちゃん!」
不意に甲高い大声が地面から響いた。わたしが視線を下ろすと、もう一人少女がいた。
小さい。わたしも大きい方ではないけど、それ以上に彼女は小さかった。地上一四〇センチメートルほどの位置に、体に見合う小さな頭がついていて、そこから声が聞こえる。一瞬、雛浦さんの妹かとも思ったが、うちの高校の制服を着ているので、そういうわけでもなさそうだ。名札を確認すると、そこには|弓ヶ浜《ゆみがはま》という名前があった。
「どーも、初めまして!」
弓ヶ浜という名札をっけた少女が言う。何だか、ご挨拶《あいさつ》がよくできましたねえ、と言いたくなった。だけど、もちろんそんな返事はせずに、わたしは小さな声で、初めまして、と返した。
「えっと、それでなんて言えばいいんだっけか?」
そう言うと、ちびっ子は二つに纏《まと》めてつんつんに立たせている髪の毛を振りながら、急に慌て始めた。この小動物は何がしたいのだろうか。わたしは、得意の冷凍視線を送る。
「とりあえず落ち着いてください、三癒《みゆ》先輩」
先輩? わお。こいつ先輩なの? 雛浦《ひなうら》さんがあたふたする少女の肩を押さえた。その様子は見ていて何だか楽しかったが、いつまでもそうしているわけにはいかない。
「あの、何か?」
わたしの声に、|弓ヶ浜《ゆみがはま》先輩はようやく動きを止めて大きく深呼吸をする。
「え、あの、ごめんなさい。実は、何と言ったらいいのか……。えっと、まぁ、いわゆるアレですよ。うん、そう、アレ」
「あの、わたし帰りますよ?」
「ちょっと待って。先輩、わたしから話しますよ。いいですね?」
「え? わ! ふがー……」
雛浦さんが小さな先輩の口を塞《ふさ》いだ。言葉は丁寧だけど、やっていることは実力行使だ。普段は、物静かでおしとやかなのに……。
「実は、空口《そらぐち》さんにお願いがあるの」
「はぁ……」
「ああ、ちなみにこっちの小さい人は、わたしの先輩で|弓ヶ浜《ゆみがはま》三癒《みゆ》先輩。ちっちゃいけど、一応二年生」
「はぁ……」
「ほら、空口《そらぐち》さん、がらっとイメチェンしたでしょ」
「はぁ……」
その時、雛浦《ひなうら》さんの拘束を解いた弓ヶ浜先輩が大声をあげた。
「そこで! お願いなのですよ! ぜひとも我が部に入部してほしいのです。あなたの入部で我が部の危機は回避されるのです!」
「はぁ?」
弓ヶ浜先輩はものすごい剣幕で叫ぶ。わたしは気のない返事しかしていなかったが、さすがに訊《き》き返した。
「入部ってどういうことですか?」
「お! さっそく興味|津々《しんしん》ですな!」
弓ヶ浜先輩はツンツン髪を揺らして、嬉《うれ》しそうに何度も頷《うなず》いた。そのまま地面に押しつぶして、身長を更に縮めてやろうかと思ったが、それはやめておいた。
「それでしたら、一度見に来てください。そこで、全《すべ》ての謎《なぞ》は氷解するでしょう!」
普通の会話では絶対に使わないような熟語を織り交ぜた弓ヶ浜先輩の台詞《せりふ》に、わたしのいらいらはテンポよくためられた。
「いや、あの、話が全く掴《つか》めないんですけど」
「とりあえず、来てもらえれば分かります。部の危機を救えるのは、あなたしかいないのです」
真っ赤な夕陽《ゆうひ》に照らされて、プレーリードッグのような弓ヶ浜先輩のつぶらな瞳《ひとみ》がうるうると滲《にじ》む。彼女の大きな黒目を見ていると、そこに吸い込まれそうになる。まずい。なんだかこのまま不思議の世界に引き込まれてしまいそうだ。
「空口さんが変わったっていう話を聞いたら、うちの先輩がどうしても空口さんを入部させたいって言い出したの」
雛浦さんが神妙な顔で言う。
「わたしが変わったから?」
「朝の挨拶《あいさつ》とか、何だか今までの空口さんがどこかに行っちゃったみたいに元気だったでしょ。それに、髪型とかも変わって、すごくいい感じになったと思ってね。空口さんがどんな子になったのかっていうのを、昼休みに部のみんなに話したら、みんなものすごく気に入っちゃって。それで、こんな風に勧誘しにきたの。迷惑だった?」
変わったわたしを気に入った?
わたしの思考は停止した。
「わたしたちには、空口《そらぐち》さんの力が必要なのですよ!」
そう言って、|弓ヶ浜《ゆみがはま》先輩が元気よく飛び跳ねた。
「さぁ、レッツゴーなのです、空口さん!」
わたしが必要……。そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
足は自然に動いていた。わたしは二人に連れられるまま、廊下を歩いていた。
何だか、自分が自分ではないような感覚。いきなり、クラスメイトに声をかけられ、見たことのない先輩に必要だと言われて、そして、よく分からない部活の見学に連れていかれる。
それでも、生まれ変わった自分を認められたような気がして嬉《うれ》しかった。
「よかったではないか」
不意に、頭の上から声が聞こえた。見上げると、青い炎。あまり気にしていなかったが、わたしの頭の上にはわたしにしか見えない悪魔がいたのだった。悪魔はいやらしい笑みを浮かべて、わたしを見下ろしていた。
二人はわたしを体育館まで案内した。中からはバスケ部のドリブルの音や、バレー部の掛け声が聞こえる。
運動には一入《ひとしお》の自信があるよ。もちろん、誰《だれ》よりもできない自信がね。握力も腹筋も生まれた時からほとんど進化していない。小学生と相撲《すもう》をとっても負けるかも。よく考えたら、そんなわたしに部の危機を救えるわけがないじゃないか。
わたしにできることといえば、相手チームを呪《のろ》うことくらいか。嫌がらせのスキルならば偏差値七〇はあるぞ。
「わたし、球技ダメですよ。っていうか、スポーツ全般できない」
「大丈夫ですよ! まあ、体力は必要ですけど」
弓ヶ浜先輩はそう言うと、体育館の扉を開けた。外で聞こえていた様々な音が一気に大きくなる。ボールが床にぶつかる音。人間同士がぶつかる音。激しい号令。バッシュがすれる音。全《すべ》てが健全なスポーツの音だった。そして、それはわたしの一番嫌いな類《たぐい》の音でもある。彼らを見ているといつも思う。このエネルギーを日本の新エネルギーとして使いたいと。
飛び散る汗。充満する青春の匂《にお》い。ああ、吐き気がする。
「こっち」
そう言うと、弓ヶ浜先輩は体育館の中に入った。それに、雛浦《ひなうら》さんも続く。わたしも仕方なく、その後について入った。練習の邪魔にならないように隅の方を歩く。何人かの生徒がわたしの方を睨《にら》んだ気がした。ネクラ女がなんの用だ、と言いたげだった。
「やっぱり、美少女は注目されますね。羨《うらや》ましいなぁ」
脳みそまで小さそうな先輩は、能天気にそう言った。その気楽さをちょっとでもいいから分けてほしい。
バスケ部の横を通り、わたしたちは舞台|袖《そで》に入った。緞帳《どんちょう》が下りていたため、舞台の上で何が行われているか、フロアからは分からなかった。わたしは不安な気持ちを抑えつつ、暗い舞台袖を進んだ。
ごみごみとした空間。ここに入るのは初めてだった。何に使うのかよく分からない道具が並んでいる。木製の階段を上ると、明かりのついたステージが広がる。ここは、フロアに比べるとかなり静かだった。
「それじゃあ、一体いつ退院できるというんだ!」
今まで聞いたことのないような大声がステージいっぱいに響いた。わたしは驚いて、しりもちをついて転んでしまった。
舞台の上には二人の人影。ライトに照らされた舞台の中央には、先はどの大声の人物がいた。よく通るその美しい声の持ち主は、合服を身にまとった、すらりと背の高い男子生徒だった。彼は片手に何かの本を持ち、ポーズを決めている。その横には別の男子生徒がいた。ライトに照らされる彼らの元に、|弓ヶ浜《ゆみがはま》先輩が駆け寄る。
「練習中ごめんなさい。例の子を連れてきました」
先輩が嬉《うれ》しそうに言う。わたしは、ステージの隅の方で相変わらず腰を抜かしたままだった。後ろに手をついて立とうとするけど力が入らない。
中央の男子生徒がわたしの方を見て微笑《ほほえ》む。とても、自然な笑みだった。さらさらの髪がふわりとゆれ、わたしの方にすっと歩み寄る。しなやかで女性のように肌理《きめ》の細かい手が差し出された。
「ようこそ、演劇部へ」
先ほどとは全く違う、とても穏やかな声だった。わたしはすぐには反応できず、その手を握り返すことができなかった。
光が逆光になって、彼の顔をよく見ることができない。必然的に見上げる形になるわたしには、ぼんやり映る彼のシルエットが印象的だった。そんな不確かな視覚情報でも、これだけは確実に分かる。彼は美形だ。全《すべ》てが滑らかで、自然で美しかった。色素の薄い目の奥には優しい光が灯《とも》り、優しい笑みをうかべた口元には白い歯が行儀よく並んでいた。
わたしは何も言えなかった。それどころか、少しも動くことができない。ただ、絵画のように美しい彼を呆《ほう》けて見つめるだけだった。それを見ていた能天気な弓ヶ浜先輩がはしゃいだ表情で両手を口元に当てた。
「早く立たないと、パンツ丸見えですよ!」
ステージに氷河期が訪れた。その中で、慌ててスカートをおさえたわたしの体温だけが急上昇していた。
それが、わたしと一之瀬《いちのせ》拓馬《たくま》との出会いの瞬間だった。
これほどの屈辱が今まであっただろうか。廊下の曲がり角でインコースギリギリのコーナリングをきめ、かつてない速度で最後のストレートを突き抜けた。玄関で大急ぎで靴を履き替え、神速で学校から飛び出す。全速力で道を疾走《しっそう》する女子高生。それを遠くで眺める農家の夫婦。それはそれで長閑《のどか》な風景かも。
街は暮れなずんでいた。
でも、ダメです。涙で夕陽《ゆうひ》が見えません。
駅に駆け込み、ベンチに座るとようやく涙が止まった。自分でもどうして泣いていたのか分からない。とにかく、未《いま》だかつてない経験で頭の中は大混乱だった。
同年代の男の人に話しかけられた。しかも、手まで差し伸べられた。そして……。
その続きは、永遠に封印してしまいたい。わたしの心臓は、走ったせいなのか、それとも別の理由によるものなのか、とにかくロック以上の激しいビートを刻んでいた。それに呼応するように高まる感情。下手《へた》をすれば、また泣き出してしまいそうだった。
完璧《かんぺき》なタイミングで電車がやってきた。わたしは電車に乗り込み、人知れず涙を拭《ぬぐ》った。
立ち直りなさい真帆《まほ》。あんなもの見られたからって、減るものではないわ。脳内の天使がそう囁《ささや》く。
だけど、男の方はどう思うかな。いきなりあんな格好を見せつける女は、どう思われるのか。脳内の冷静な自分が叫ぶ。
人に悪く思われることなど、慣れっこのはずだ。それなのに、今のわたしはとんでもなく傷ついている。
わたしは変わった。変わった自分が否定されるのが怖いのだ。せっかく悪魔と契約したのに、何も変わらないのでは意味がない。だから、わたしは人から嫌われることを今まで以上に恐れている。あの男の人から逃げ出したのも、そんな理由からだ、多分。
電車のドアが閉まる。だが、一度閉まったドアが開いた。嫌味のように、駆け込み乗車を注意するアナウンスが響く。
ゆっくり発車する電車。どきんと大きく心臓が跳ねる。
閑散とした車内に、暖かな橙色《だいだいいろ》の夕陽《ゆうひ》に照らされた彼が立っていた。
呼吸が止まる。時間も止まったように感じた。
わたしと彼との距離およそ五メートル。
「忘れ物」
彼はわたしの鞄《かばん》を示す。わたしが体育館に置き去りにしたものだ。
距離は四メートルに縮まる。手のひらに汗が伝う。
「さっきは驚かせてごめん」
距離は三メートル。呼吸のペースが速くなる。
「俺《おれ》は一之瀬《いちのせ》。演劇部の部長をやっているんだけど……」
距離は二メートル。エマージェンシーモードが自動的に作動した。わたしは反射の速さで後ろに一歩引き、視線を下げる。いつもの癖《くせ》だ。他人が近づくと、距離をとり、視線を下げてコミュニケーションを完全に遮断してしまう。
「ああ、三癒《みゆ》が何か変なこと言ったの?」
一之瀬と名乗った彼の声は優しかった。それでも、わたしは顔を上げられなかった。ただ、下を向いたまま首を横に振るだけだった。部長をやっているということは、先輩なのだろうか。
「違うんだね。そう。それなら、よかった。とりあえず、鞄」
差し出された鞄をひったくるように受け取ると、わたしはお礼を言おうとしたが、それは声にならず、虫の鳴き声のような音が喉《のど》から僅《わず》かに漏れただけ。激しい後悔が腹の辺りから全身に広がる。
「なんか、嫌われちゃったかな」
一之瀬先輩は残念そうに言う。わたしは彼の顔を直視できないから、彼がどんな表情をしているのか分からないが、きっと本当に悲しそうな顔をしているのだろう。
「いきなりステージに連れてこられたらそうなるよな」
わたしは別に親切な人が嫌いなわけではない。わざわざ電車の中まで鞄《かばん》を届けてもらったわけだし、そのことに関してはちゃんと感謝している。せめて、それくらいは伝えなければ。
わたしは体中の勇気を、残り少ないマヨネーズのように全身の毛穴から搾《しぼ》り出す。
「別に、あの、そんなことはありません……」
語尾が近づくにつれ、声は小さくかすれていく。それでも、一之瀬《いちのせ》先輩はちゃんと最後まで聞いてくれた。わたしは再び伏せようとした顔を無理やり持ち上げた。
彼と目が合う。
「あの、結局わたしは体育館で何をすればよかったんでしょうか?」
一之瀬先輩はにこっと笑った。
「実は、演劇部に君が必要なんだ」
|弓ヶ浜《ゆみがはま》先輩と同じ台詞《せりふ》。人生でこんな魅力的な言葉を二度もかけられるとは思ってもいなかった。自分が他人に必要とされている。それは、わたしを興奮させるには充分すぎるスパイスだった。
「だけど、わたし演技とか全然……」
「君の姿が、今度やる劇の役にぴったりなんだ。今まで、同じ学校にいたのにどうして気がつかなかったのか不思議になるくらい、俺《おれ》たちはずっと君を探していた」
昨日までのわたしは別人だったのだから、転校生のようなものだ。今まで見つからなかったのは、むしろ当然だと思う。
一之瀬先輩は熱のこもった口調で続ける。わたしは嬉《うれ》しくなって、胸を張るようにして一之瀬先輩の話を聞く。自然と顔も上を向いていた。
「次の発表が近い。脚本はでき上がっているから、あとはキャストだけなんだ。あと一人部員がいないと劇ができない」
キャストのことを考える前に脚本を仕上げてしまったのか。それは大問題な気がする。それとも、演劇というのはみんなそんなものなのだろうか。わたしにはよく分からなかった。
さて、正直な話、わたしは舞い上がっていた。一之瀬先輩の言葉を聞くごとに、体の内側から熱い感動が染み出して、アドレナリンが分泌される。わたしはどこでだって邪険に扱われてきた。いつだって邪魔者で、はみだし者だった。そんなわたしが、初めて何かを乞《こ》われているのだ。学校の座席の交換以外で、誰《だれ》かにものを頼まれたことは一度もない。昨日までの生活が走馬灯のように駆け巡り、暗くてどうしようもなかったかつてのわたしが脳裏によぎった。
きっと、これは可愛《かわい》くなったからなんだ。見た目が変わったから、わたしは人に必要とされるようになれたんだ。悪魔さんありがとう。わたしはこっそり頭上の悪魔にウインクした。
「だけど、突然そんなことを言われても……」
しかし、そこで積極的になれない。それが、わたし。
一之瀬《いちのせ》先輩は表情を曇《くも》らせる。見ているだけで、こちらまで胸が痛くなるような顔つきに、わたしは思わず次の言葉を探した。そんな風に連続して喋《しゃべ》ることは珍しかった。
「ところで、わたしの役ってどんな役柄なんですか?」
話をつなげるための質問。ただ、この点には興味がある。だって、どんな美少女の役がわたしに回ってくるのか気になるでしょ。もしかしたら、いきなり主演女優という可能性も拭《ぬぐ》いきれない。それならば、やはりわたしには荷が重すぎるかも。
「ああ、不思議な少女の役。ちょっと陰のある美人、という感じ。何というか、黒魔術でもやっていそうな子なんだ。あ、別に君が暗く見えるっていうわけじゃないけどね」
ほほう。大した観察眼だ。一発でわたしの本質を見抜くとは。確かに、わたしは宇宙一その役に適しているだろう。だが、どうしてだろう、わたしの目じりには再び熱いものが溜《た》まった。
一之瀬先輩は次の駅で降りた。気が変わったらいつでも体育館に来てくれ、と言って彼はいなくなった。わたしは別れの挨拶《あいさつ》をすることができず、放心しながら自分が降りるべき駅まで立ちっぱなしだった。
彼が立っていた空間だけ、別の色をしているようだった。彼の周りの空気だけ、違う香りがするようだった。彼の言葉だけは、電車の雑音の中でも確かに聞き取れた。
「どうした? 口が開いているぞ」
頭の上から声が聞こえる。わたしは本当に開いていた口を閉じると、悪魔を睨《にら》んだ。大きなお世話だ。
「美しい少年だな」
確かに、かっこいいと思う。まぁ、わたしとつり合うかどうかは分かんないけどね。
「惚《ほ》れたか?」
「な、何言ってるんですか!」
思わず、声が出てしまった。ラッキーなことに、近くに人影はない。電車内で突然叫ぶ女の伝説を残さなくてすみそうだった。ビバ、赤字路線。
「一目惚れとか、そういうのじゃないですから」
わたしは思いきり首を振った。うん、間違いない。
「そうか、それはよかった。契約を破られたら、我もそれなりのことをしなくてはならないからな」
それなりのこと?
気になる一言を残し、悪魔は黙った。
ドキドキしていた心臓が急に冷める。それなりのこともなにも、そもそも一目|惚《ぼ》れしてないから別に関係ないもんね。
わたしは一之瀬《いちのせ》先輩のことを考えないようにしながら、目的の駅まで黙っていた。
いつもより長い時間がかかった気がしたけど、電車は駅に着いた。人がまばらなホームを出て、自転車にまたがる。
わたしは家に帰る前に、いつも行っている本屋に顔を出すことにした。色々なことが短い時間に連続して起こったため、頭が混乱している。それを整理するために、わたしは馴染《なじ》みのある細い路地をくねくねと進んだ。
両サイドが木の塀に囲まれた圧迫感たっぷりの道の先に、その本屋はあった。
木造平屋の古めかしい佇《たたず》まい。見た目はほとんど民家だが、表札の代わりに看板が出ている。ただし、その文字はかすれていて読めない。わたしはその本屋が何という名前なのか知らなかった。
すべりの悪い戸をスライドさせ、かび臭い店内に入る。裸電球に照らされた狭い店内には、本がぎっしりと並べられていた。いつものように、店主のいる店の最深部を目指す。
この本屋が本当に営利を目的で運営されているところなのか、いつも疑問に思う。わたし以外に客が来ているところを見たことがないし、かくいうわたしもこの店で本を買ったことがない。いつも、借りるだけだ。
ここの本は古本のくせに、やたらと価値のあるものばかりが揃《そろ》っている。だから、わたしみたいな一般女子高生はとても手が出ない。いつも立ち読みするためだけに通っていたら、おじ様が貸してくれるようになったのだ。
「こんばんは」
店の奥には白髪《しらが》の男がいた。年代物のイスに腰掛け、ランプの明かりで読書している。わたしの方をちらりと見ると、本を置いてこちらに向き直ってくれた。分厚い老|眼鏡《めがね》を外し、指で目を押さえてマッサージをしている。
「空口《そらぐち》君に似ているけど、例の妹さん?」
老人はかすれた声で言った。
「わたしは真帆《まほ》です。この前も来ていた空口です」
老人は少し濁《にご》った瞳《ひとみ》をわたしの方に向ける。わたしは微笑《ほほえ》んでみせた。
「少し、いや、大分変わった」
「おじ様のお陰です」
「俺《おれ》は何もしとらんぞ」
「おじ様の本のお陰です」
「ファッション雑誌を貸した記憶もないぞ」
「黒魔法の本」
わたしは妖《あや》しく微笑《ほほえ》んでみせる。
「おじ様が貸してくれた、あの本です」
そう言って、鞄《かばん》の中から本を取り出した。わたしが使った魔方陣が掲載されていた本だ。老人はその本を受け取り、しげしげと見つめると、いぶかしげにわたしの方を見た。
「こんな本を貸したか?」
「え? おじ様が貸してくれたんじゃなかったんですか?」
そういえば、この本だけはおじ様から借りた記憶がなかったのだ。
「そういえば、貸したような気もするな……。まぁ、いい。こんな本はここ以外に置いておく店もないだろう」
おじ様は本を机の上に置いた。
「これで黒魔法を使った、と言いたいのか?」
わたしは一瞬、頭の上を見てみた。しかし、そこに悪魔の姿はなかった。自由な奴《やつ》だ。散歩にでも行ったのだろうか。
「そうです。悪魔を召喚し、契約をしました。わたしを可愛《かわい》くしてくれと。そうしたら、わたしは変われたんです。ほら、全然違う姿になったでしょ?」
わたしはその場で一回転してみせた。スカートがふわりと揺れて、花弁のように広がった。だが、店主の疑いの眼差《まなざ》しは変わらなかった。
「悪魔は人の心を支配する。だが、それ以上の力は持たない」
「どういうことですか」
「悪魔に整形手術はできないってことだ。まぁ、いい。空口《そらぐち》君が変われたって言うのなら、変わったことには違いない。それで、この本はもういいのかい?」
「あ、はい。ありがとうございました」
おじ様の言うことはよく分からない。現に、わたしは全く違う人間に生まれ変わっている。
「もう呪《のろ》いの本はいらんな」
おじ様はそう言うと、奥に引っ込もうとした。この本屋の奥に住まいがあるのだ。
「待ってください」
すこし、驚いたようにおじ様が振り向いた。
「まだ、呪いたい人間はいるんです。確実に不幸を届けられる一冊を貸してください」
そう、せっかく変わったわたしに対してちやほやしてくれなかった連中に、神の裁きを下さなければならない。悪魔に頼めばやってくれるのかもしれないが、また何かを差し出さなくてはいけない、とか言われたら困ってしまう。だから、私自身の呪いパワーで不幸をばら撒《ま》かなくちゃいけない。
「変わらんなぁ」
呼吸困難になりそうな乾いた笑い声を出して、おじ様は寂しそうに笑う。そして、お勧めの本の本棚を教えてくれた。
おどろおどろしい文字列が並ぶ本の背表紙を見ながら、わたしは本棚の間を歩く。いい感じに憎悪と怨念《おんねん》に満ちたタイトルの本をチョイスして、おじ様に見せる。
「これ、貸してください」
おじ様は本を見ることなく、持っていけ、と言ってくれた。
「ありがとうございます」
わたしは頭を下げてお礼を言うと、出口に向かった。
店を出ようとした時、わたしの背中におじ様の声が届いた。
「気をつけろよ。悪魔は嘘《うそ》つきだからな」
わたしは振り返ると、手を振った。
悪魔が嘘つき?
ちゃんと契約は守られているから大丈夫。わたしの頭は借りた本のことですぐにいっぱいになった。
さて、天才的な黒魔法で変身したわたしだけど、こんなに可愛《かわい》くなったわたしを無視し続けるクラスメイトたちはみんなむかつく。わたしがどれだけ苦労して黒魔法を成功させたと思ってるのよ。
その中でも一番怒りをかっている人は誰《だれ》でしょうか? はい。その通り。正解は大河内《おおこうち》です。ここはテストに出るよ。
大河内は頭が悪くて、全然可愛くないのに、自分のことを天才美少女だと勘違いしている。何より許せないのは、わたしの悪口を言うところだね。そこが大切。いや、別にあいつが悪口を言っているところを実際に見たわけじゃないんだけどね。ほら、あいつってそういう目をしてるのよ。
とにかく死刑に値する。いや、ただ死ぬだけでは足りない。地獄の苦しみを味わった上で、己の愚かさを後悔させなければならない。そこで、呪《のろ》いの登場なわけ。まぁ、本当に殺してしまうのは可哀想《かわいそう》だから、ゴリラと間違えられて、動物園で一泊するくらいの罰で勘弁してやるかね。うふふ。
「またそんな格好を!」
夏樹《なつき》が例の如《ごと》くうるさい声をあげる。二人が同じ部屋に住んでいると、ルームメイトを追い出したくなることもあるだろう。わたしの場合、魔法を使う時がまさにその時だ。
夏樹は腰に手を当てて、頬《ほお》を膨らませた。
「せっかく変わったと思ったのに……」
「変わったよ。だけど、これだけはやめられない。これは世間のためでもあるのよ。世界の浄化はわたしの責務なの」
「何が世界の浄化だよ……。訳の分からんことを言ってると、また昔に逆戻りだよ」
「黙れ! わたしは変わったのだ! だから、変わったわたしを認めない奴《やつ》は許さないの!」
崇高《すうこう》な精神を理解できない妹はわざと大きく瞳《ひとみ》を見開くと、外国人並みのオーバーアクションでため息をついた。一つ一つの動作が腹立たしい。しかし、ここでむきになったら相手の思う壷《つぼ》だね。わたしは年長者らしい落ち着きを取り戻すと、夏樹を無視することにした。こちらからの反応がなくなれば、無能な夏樹でも黙っているしかないと気づくだろう。
「お姉ちゃんが昔に戻らないように、鏡の横に写真を貼《は》っとくからね。これを見て、過去の過ちを繰り返さないようにしてね」
独り言のように呟《つぶや》きながら、夏樹は鏡の横に写真を貼った。昔の写真など見たくもない。その頃《ころ》のわたしはもう死んだのだ。
「あんなもの、絶対に見るんじゃないぞ。すぐに剥《は》がしてしまえ。汝《なんじ》の辛《つら》い過去を思い出させるだけだ」
悪魔の声だ。本屋から出た時から、悪魔は戻ってきていた。今はいつものように、わたしの頭の上でぷかぷかと浮いている。
「すぐにでもあの写真を捨ててしまうんだ」
やたらとうるさいな。さっきまでは何も言わなかったくせに。わたしは適当に頷《うなず》くと、借りた本を開いた。
さあ、大河内《おおこうち》を呪《のろ》うぞ。わたしの脳内では、既に何度も血祭りにあげているが。今のわたしは違う。この世界に数えるほどしかいないであろう、悪魔との契約に成功した人間なのだ。わたしは神に一番近い存在。いや、悪魔と契約したのだから、神からは一番遠い存在の人間。
だが、力はある。全《すべ》てをねじ伏せ、屈服させる圧倒的なパワー。
ああ、完璧《かんぺき》。完璧すぎるぞ、わたし!
昨日と同じ、よく晴れた夜。
違うのはわたしだけ。それと、頭の上の悪魔かな。わたしが黒魔法を使おうとしていることに対して、悪魔は何も言わない。興味がないのかもしれない。
ベランダに出て、夜の冷たい空気で胸を満たす。
本で見た呪いの詠唱。
昨日と同じレスポンス。つまり、世界は無反応。
ただ、わたしの心の中身は違った。これまでのような絶望や挫折《ざせつ》はもうない。体中を駆け巡るのは明るい希望と、檻《おり》で暴れるゴリラ女の妄想だった。
呪いは終わり、そしてわたしは眠った。
動物園の夢を見た。アルプスの少女ハイジみたいに、わたしは園内を駆け巡った。色々な動物さんたちがいる。
あら、あんなところに大きなお猿さんがいるわ。プレートには大河内ってあるわね。こんなに面白い動物がいるなんて、動物園って素敵なところだわ。あはは。
大河内の目の前の鉄柵《てっさく》は、吸い込まれそうな黒色をしていた。それを眺めていると、何だか距離感がつかめなくなる。
どちらが檻の内側で、どちらが檻の外側なのかが分からなくなる。大河内は不敵な笑みを浮かべ、ゆっくりと鉄柵から遠ざかる。
どうして? これじゃあ、まるでわたしが捕まっているみたいじゃない!
だんだんと暗闇《くらやみ》が足元に忍び寄り、明るかった動物園に夜の帳《とばり》が下りた。わたしは檻の中で独り取り残されてしまった。プレートの文字は、いつの間にかネクラ少女に変わっていた。
月が青く変色した。そこで夢は終わった。
ベッドから起きた時、外はまだ薄暗かった。わたしのベッドの上には、青い炎が浮かんでいる。悪魔は、ずっとそこにいたのか。
夢の続きが始まるのを恐れて、わたしはそのまま日が昇るまで起きていた。
最悪の気分のまま、学校へと向かった。悪魔は何も言わずについてきた。
悪いことは続くもの。それとも、あの夢は何かの暗示だったのか。朝礼前の教室では、ゴリラ女がいつものように馬鹿《ばか》笑いをしていた。うっとうしい匂《にお》いのする化粧品を顔全体に塗《まぶ》し、校則を無視した改造制服(別に武器がついているわけじゃないけど)を体に引っかけて、小猿たちと何かを話していた。
わたしは愕然《がくぜん》とした。どうして、人類の亜種がまだこの学びの館に蔓延《はびこ》っているのか。訳も分からず、教室の入り口で途方にくれるしかない。
わたしの視線に気がついたのか、大河内《おおこうち》はこっちに顔を向けた。わたしは反射的に目を逸《そ》らした。何を言われるか分からない。急に膝《ひざ》が震えだして、そのまま動けなくなった。教室には沢山の人間がいるのに、まるで真っ暗な湖に独りで浮かんでいるみたい。猛烈な不安で口が乾いて声が出なくなる。不意に今朝の夢がはっきりと思い出された。
「おはよう」
それが誰《だれ》に向けられたものだったのか、最初は分からなかった。電報でのやり取り並みのタイムラグを置いてから、わたしは顔を上げ、その言葉が自分に向けられたものであることに気がついた。ボス猿が挨拶《あいさつ》をすると、周りの小猿たちもわたしに朝の社交辞令を放った。わたしはただ呆然《ぼうぜん》として固まったまま棒立ちしているだけだった。
ゴリラ女の機嫌が良かっただけか、ただの気まぐれだろう。わたしはそう解釈して、自分にだけ聞こえる声で挨拶を返し、席に着いた。ただ、鼓動だけは確実に速まっていた。
「ねぇ、空口《そらぐち》さん」
自分の席で必死に左胸をクールダウンさせていたわたしに、大河内が寄ってきた。今日はおかしい。まさか、これが呪《のろ》いの影響なのか。もしかしたら、呪詛返《じゅそがえ》しかもしれない。わたしを心臓|麻痺《まひ》で殺すつもりなのか。
「昨日言おうと思ってたんだけどさ、空口さんって占《うらな》いとか詳しいの?」
馬鹿そうな喋《しゃべ》り方だが、わたしに敵意を持った響きはない。わたしは恐る恐る大河内の方を見た。
近くで見ると幼い顔立ちをしている。所詮《しょせん》は十代の小娘。どれだけ厚化粧をしても、偽《いつわ》れないものがある。
わたしは、大河内は自分のクラスメイトなのだな、と思った。別に、本気で彼女がゴリラから進化したとは思っていなかったが、自分とは全く違う世界に住んでいる人間であるとは感じていた。一生|関《かか》わることはないと思っていた(呪いをかけようとはしたけどね。だって、悪口言うからさ)。それが、目の前にいる。わたしは緊張のあまり気を失いかけた。
「ねぇ、聞いてる?」
大河内《おおこうち》が首をかしげて覗《のぞ》き込む。
「き、聞いています」
わたしはかすれた声で返事をする。
「やだー、何で敬語なの?」
そう言うと大河内は両手を腰に当てて、ゴリラのように豪快《ごうかい》に笑った。わたしは笑われたことが恥ずかしくて、再び心のシャッターを下ろす。腹の中では水銀のようにどっしりとした復讐心《ふくしゅうしん》が湧《わ》き出ていた。やはり、こいつは呪《のろ》い殺さねばならぬ。
「別にいいよ、タメ口で。裕《ゆう》って呼んでいいし」
今更フォローのつもりか。人のことを笑っておいて。
「それよりさ、占《うらな》いとかって詳しいんでしょ? なんか、そういう本読んでるじゃん」
わたしが読んでいた魔術の本を、占いの本と勘違いしているらしい。似ていないこともないだろうが、普通は間違えないだろう。やはり、脳みそもまだ猿レベルで人間に及んでいないな。
「別に詳しくない」
「嘘《うそ》だ」
「嘘じゃない」
「タロットとか持ってるじゃん」
確かにタロットは持っているが、学校に持ってきたことはない。憶測《おくそく》かイメージで勝手なことを言っているに違いない。わたしは黙って首を横に振った。
「ねぇ、占ってよ。いいじゃん。ね? ね?」
大河内はわたしの後ろに回りこみ、肩を揉《も》みだした。しつこい女だ。しかも、今日は妙に馴《な》れ馴《な》れしい。本当は心の中でわたしのことを忌んでいるはずなのに。
そうだ。せっかくの機会だから、少しだけこの女の心の中を覗いてやろう。普段、どんなことを考えているのか探れれば、呪いのヒントになるかもしれない。ついでに、少しからかって普段の憂《う》さを晴らしてやる。
わたしは全身の勇気を振り絞るようにして、声帯を震わせた。
「分かった。その代わり、わたしの占いは当たるよ」
「そっちの方がいいよ」
「知らない方がいい未来もあるのにね……」
わたしはぼそりと呟《つぶや》く。この演出は大河内のテンションを確実に下げた。わたしは適当にノートの切れ端を切り取ると、それを大河内に渡した。
「名前を書いて」
「姓名|占《うらな》い?」
「いいから、書いて」
わたしの突き放すような言葉に大河内《おおこうち》は眉《まゆ》をひそめる。少し冷たく言いすぎたかもしれない、とやや反省。
なんとも読みにくい丸文字で、大河内は自分の名前を書いた。わたしはそれを眺めながら、適当に文字を区切った。もちろん、わたしは姓名占いなどできない。
「何を占ってほしいの?」
「恋愛運」
馬鹿《ばか》な人間ほど本能に従って生きる。この女も男にシッポを振って喜ぶ低能な人間なのか。まぁ、予想通りだけどね。おほほ。
「恋愛運ね……。今、好きな人がいるね」
その言葉を聞いた大河内は視線を泳がせ、顔を赤く染める。リアクションが分かりやすすぎるぞ。そもそも、いきなり恋愛運をきいてくる時点で、意中の相手がいるだろう。そこからの単純な推理だ。
「はい。います」
なぜか大河内の言葉が丁寧になる。
「その人は身近にいる人ですね」
身近にいる人間以外に恋することは難しい。まさか、テレビのアイドルに本気で恋愛しているというわけではないだろう。これも、やはり当たり前のことだったが、馬鹿女の反応は面白い。何度も首を縦に振った。わたしはもはや大河内の名前を見ていない。彼女の顔を見て、その反応から次の言葉を探す。
「あなたがその人と出会ったのはいつですか?」
今度はこちらから質問してみた。大河内は息を整えてから、思い出すようにして途切れ途切れに答える。
「半年くらい前です」
秋だ。
「文化祭の時に出会いました」
文化祭で出会った? ということは、相手は学校内の人間だな。うちの高校の文化祭は部外者立ち入り禁止だからね。もしくは、大河内が他校の文化祭に出向いたという可能性もある。どちらの場合でも、相手が高校生であることはほぼ間違いない。
「高校生、それはうちの高校……」
そこで、大河内の目を見る。明らかに、驚きの色が見て取れる。どうやら、我が校の生徒を好きになったらしい。もしも、この時点で反応がなければ、ではないですね、と続けるつもりだった。
「そう、うちの高校ですね。そういう名前をしています」
「そういう名前をしているの? 名前だけでそこまで分かるんだ」
そんなわけないだろう。馬鹿《ばか》め!
「大河内《おおこうち》さんの恋愛運はそこそこ。よくも悪くもない感じ。相手の男の名前が分かると、もっと色々と分かるけど」
この勢いで大河内の弱みを握っておこう。大河内は少し迷っていたが、しばらくすると上目遣いで、今すぐ書くの、と尋ねた。わたしは無表情に頷《うなず》く。
「誰《だれ》にも言わないでよ」
何を今更。メスゴリラのくせに人間のように恥じらうことを知っているというのか。わたしはそれでも蝋人形《ろうにんぎょう》のような無機質さを保って首を縦に振った。大河内は隠すようにノートの切れ端に名前を書いた。
一之瀬《いちのせ》拓馬《たくま》。
そこには、相変わらず阿呆《あほ》っぽい丸文字でそう書かれていた。わたしの動きが止まる。
一之瀬拓馬。その名前にわたしの思考が停止する。同じ名前を昨日聞いた。
「演劇部の人なんだけど。一つ上の先輩」
どうやら、大正解らしい。
不意に、昨日の舞台が思い出された。サスペンションライトに照らされる美少年。わたしは頭を振ってその映像を散らす。何かそれがよからぬ想像であるように思われたからだ。もしかしたら、あの時の屈辱がまだ心に根をはっているのかもしれない。
「あれ、もしかして知ってるの? 知り合いなの?」
さすがにわたしの行動の異変に気がついた大河内が、目ざとく聞いてきた。
「別に知り合いじゃないけど……」
それでも、大河内はまだ疑いの眼差《まなざ》しをわたしの方に向けてきた。
「あたしって演劇とか普段は見ないんだけどね、文化祭で演劇部が劇やってるのを偶然見たのよ。そしたら、めっちゃかっこいい人が出てたから、調べたんだ」
確かに、外見は文句なくかっこいいと思う。きっと人気があるのだろう。そんな、演劇部の人気俳優がこんな半獣人のことを気に留めるとは思えないけど……。
「彼女はいないらしいんだけどさ」
そんなことまで調査済みなのか。それなら、わたしに聞くことなんかもうないじゃん。
「なんか、演劇部の女がよく一緒にいるんだよ」
大河内は憎々しげに言う。その怨念《おんねん》の力は呪《のろ》いに使えそうだから、ビンに詰めて持って帰りたい。ただ、雛浦《ひなうら》さんが一之瀬先輩と一緒にいるところを見たことがない。多分、一之瀬先輩と一緒にいる女子というのは|弓ヶ浜《ゆみがはま》先輩なのだろう。
「なんか、ちっちゃい二年生がまとわりついているんだよ」
わたしの推理大当たり。
「それなら、演劇部に入部すれば?」
「そんなの……無理だし」
何が無理なのか。ああ、演技ができないということか。確かに、この直情ストレート女には高度な技術やテクニックを要する芸能ができるとは思えない。だが、わたしのその想像は少し的外れだったらしい。
「恥ずかしいじゃん」
そう言って俯《うつむ》く大河内《おおこうち》。
僅《わず》かに頬《ほお》を朱に染める。何をやってるんだか。今更奥ゆかしいところを見せても、手遅れだというのに。
だけど、ほんのちょっとだけ可愛《かわい》いと思った。いつも粗暴《そぼう》な人間でも、こんな表情ができるのか。それが意外だった。
「雛浦《ひなうら》さんが演劇部なんだから、雛浦さんに言ってもらえば?」
「言ってもらうって、なにを?」
「好きだってこと」
「無理!」
「何で?」
「雛浦さんとそんなに仲良くないし……」
わたしとも仲良くないだろうが。きっと、大河内がためらっているのは、純粋に想《おも》いを伝えることに対する恥ずかしさが原因なのだと思う。
「それじゃあ、わたしが大河内さんのこと話してあげようか?」
わたしがそう言ったのは、気まぐれではないと思う。また、これ以上彼女を嘘《うそ》でからかおうというわけでもなかった。ただ、何となく恥ずかしそうにしている彼女を見ていたら、ちょっとだけ力を貸してあげてもいいかな、とそう思えたのだ。
昨夜は呪《のろ》おうとした人物なのに、今朝はなんだかんだで恋愛相談を受けている。
自分でもおかしいと思う。
だけど、わたしの心には以前のような猛々《たけだけ》しい邪気はなかった。大河内の本音を聞けて、むしろちょっと嬉《うれ》しいとすら思っている。
話をしてみなければ、その人の本質は分からない。そんな言葉が頭をよぎった。
「え? 知り合いなの?」
「ちょっとだけ関係がある」
「どんな関係なの?」
目つきが厳しくなる。野生に戻った野獣のようだ。わたしは慌てて、弁明のように言葉を続ける。
「えっと、演劇部にちょっと用事があって、顔出すからさ。うん、そんな感じ」
大河内《おおこうち》は逡巡《しゅんじゅん》する。そして、すぐに笑顔になった。
「ありがと! はい、お礼!」
大河内はポケットから出した飴玉《あめだま》をわたしに渡すと、いきなり抱きついてきた。怪力だ。本当に猛獣のような彼女の腕の中で、わたしは悔恨の念で胸の中まで押しつぶされた。
「あ、それとさ」
わたしが三途《さんず》の川の存在を確かに感じた時、大河内はやっと力を緩めた。そして、にっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「空口《そらぐち》さん可愛《かわい》くなったね。いいと思うよ」
正直、ちょっと嬉《うれ》しかった。
放課後。|弓ヶ浜《ゆみがはま》先輩がまた来るかもしれないと、少しだけドキドキしていたが、幸い彼女の奇声は廊下に響かなかった。
しかし、わたしは自ら体育館に向かっている。演劇部が練習をしている体育館のステージ。そこで、わたしは一之瀬《いちのせ》先輩と話をしなければならない。別に、わたしの用事ではない。大河内の件だ。はっきり言ってしまえば、わたしより大河内自身の方がはるかに一之瀬先輩を知っている。ただ、彼と言葉を交わしたことがあるという点で、僅《わず》かにわたしにアドバンテージがある。
約束は約束。守らなければならない。
体育館は相変わらず熱気で満ちていた。体操服以外の人間が入ることを拒む独特の雰囲気がそこにはある。ここは青春の杜《もり》です。そんな若人たちの青臭い活気が満ちていた。
わたしは昨日と同じように、隅っこの方を通りバスケ部の邪魔にならないように舞台|袖《そで》へと向かった。
薄暗い舞台袖にこっそり入ると、昨日のような声は聞こえてこなかった。非常に静かだ。緞帳《どんちょう》が下りているために、ステージには他《ほか》の部活の練習の音はほとんど聞こえてこない。幕の下りた舞台を、裏側から見るのは何だか不思議な感じだった。
ステージには誰《だれ》もいない。今日は練習が休みなのか。
「ん? 誰?」
頭の真上から男の声が聞こえた。わたしが真上を見上げると、確かにそこに動く物体があった。暗くて、それが何なのか分からない。
「昨日の子だね?」
一之瀬先輩の声とは違う男の声。昨日、わたしが演劇部の練習の邪魔をしたことを知っているということは、一之[#「之」は底本では「ノ」]瀬先輩の隣にいた男か。
「そうです」
わたしは大人《おとな》しく白状した。
「ちょっと待ってて。今から下りるから」
そう言うと、物体は動き出した。一体、あそこで何をしていたのか。そもそも、天井裏に上がることができることを、わたしは知らなかった。
しばらくすると、舞台|袖《そで》にあった階段から学生服の男が下りてきた。短髪の男で、まるで軽業師《かるわざし》のような身軽さで大道具らしい張りぼてを飛び越えると、わたしの前に立った。近くで見るとけっこう大きい。体格もがっしりしていて、一之瀬《いちのせ》先輩が柔だとすると、この男は剛といった感じだった。
「入部してくれる気になったんだね」
男は嬉《うれ》しそうに言う。人懐っこそうな笑顔を輝かせている。
「いえ、そういうわけじゃ……」
わたしは俯《うつむ》いて言った。人間と話すのが苦手だ。特に、それが男となると壊滅的《かいめつてき》に言葉が出てこなくなってしまう。
「まだ決心してないのか。ってことは、今日はとりあえず見学ということかな」
「いや、それもちょっと……」
「ということは、また三癒《みゆ》に強引に引っ張ってこられたの? 昨日はごめんね」
「あ、いや、その点は別に大丈夫です。あ、でも、今日は|弓ヶ浜《ゆみがはま》先輩に連れてこられたっていうのとは違うわけでして……。その、まあ、何というか……うー……」
わたしの意味をなさない唸《うな》り声がしばらく続いた。恐らく、この男はわたしの言いたいことを一パーセントも理解していないだろう。
「伝言がある、というか……」
「れんこんガール?」
ああ、もうダメだ。完全に頭がオーバーヒートして、思考が停止してしまう。もはや、何もインプットできないし、アウトプットはもっと難しい。ああ、世界が滅亡してしまえばいいのに……。
「あー! 湊山《みなとやま》君が空口《そらぐち》さんをいじめてます!」
まるで世界中の人間に伝えたいような大声。その声は聞き覚えがある。僅《わず》かに残った意思がわたしの頭をもたげさせ、声の元に瞳《ひとみ》を向けさせた。その先には小動物のような少女と、背の高い女。弓ヶ浜先輩と雛浦《ひなうら》さんだった。当然、大声を出したのは小さい方。
「いじめてないだろ!」
湊山と呼ばれた男は、両腕を限界まで広げて上体を反らし、自分の無罪を全身で表現した。
「雛《ひな》ちゃん、どうします?」
|弓ヶ浜《ゆみがはま》先輩は雛浦《ひなうら》さんの袖《そで》を引っ張る。遠くから見たら親子だと思われてもおかしくないほど二人には身長差があるので、その様子はとても自然だった。
「とりあえず、殺す」
ぞっとするほど冷淡な一言だった。雛浦さんは、つかつかとこちらに歩み寄ってくる。そして、無造作に湊山《みなとやま》と呼ばれた男の胸倉《むなぐら》を掴《つか》んだ。男の人の方が背は高いが、雛浦さんの迫力は圧倒的だった。オーラが違う。わたしはこんなに恐ろしい女子を見たことがない。否、男子であっても同様である。
「せっかくの新入部員を困らせたな。先輩といえども、それは許せん」
先輩? 雛浦さん、先輩の胸倉を掴んでらっしゃるのですか?
「だから、いじめても困らせてもないって!」
湊山先輩は必死で弁明している。しかし、いくら何でも男が女に胸倉を捕まえられて怯《おび》えている様子はあまりに情けない。無知なわたしはその時、彼を弱気な男であると評したが、それが間違いであることは数秒後に明らかになった。
「事実、怯えている。これ以上の弁明は無意味。とりあえず、あとは拳《こぶし》で語り合おうや」
次の瞬間、湊山先輩の巨体が宙を舞った。目の前で何が起こったのか理解できないうちに、巨大な音と共に哀《あわ》れな先輩が床に背中から叩《たた》きつけられた。遅れて、うめき声が聞こえた。
ここにいたら次は自分が殺される。本能的にそう感じた。わたしにもまだ人間が野生だった頃《ころ》の勘が残っていたらしい。
逃げ出そうと半歩引いたところ、武闘派女子部員と目が合ってしまった。
「いらっしゃい、空口《そらぐち》さん」
少し乱れた長髪を手で整えると、雛浦さんは微笑《ほほえ》んでみせた。透き通るような白い肌に、和風で上品なアイライン。やはり美人だった。だが、その足元でうめく男を見れば、彼女が内に秘める狂気を想像しないではいられない。
「今日から入部してくれるのよね?」
殺気だ。確かにこの女からは修羅の気配を感じる。
「は、はい。そうです」
わたしはそう言うしかなかった。
膝《ひざ》が震えているのは対人恐怖症のためだけではない。わたしだってやはり自分が可愛《かわい》い。ここで死を覚悟するのはまだ早すぎる。せっかく悪魔と契約して、ここからが人生の本番なのに……。
弓ヶ浜先輩がいつものようにぴょんぴょん跳ねながら近づいてきた。
「やったー! 新しい仲間です。それじゃあ、練習が始まるまで、空口さんのことを教えてくださいね」
それから地獄のような質問責めが続いた。趣味や特技など、正直に答えれば人格を疑われる質問には、社会的にみて無難な程度にかわし、家族構成や中学校の頃《ころ》の話はあまり踏み込まれない程度に流した。わたしの薄っぺらな人生の大半は、この質問タイムの中で解説し尽くされ、明かすことのなかった暗黒面を除けば、わたしの全《すべ》ては三人(うち一人は意識を取り戻すのに多少の時間を要したが)の演劇部員に披露された。
わたしは自分の話をするのが好きじゃない。人の話を聞くことも好きじゃない。他人に興味はないし、自分に興味を持ってほしいとも思わない。だから、三人に囲まれていた時間はとんでもない苦痛だった。というか、そもそもわたしがここに来たのはこんな話をするためじゃなかったはずだ。大河内《おおこうち》のことを一之瀬《いちのせ》先輩に話したかっただけなのに……。そんなわたしの拷問《ごうもん》タイムに終止符を打ったのは、部長の登場だった。
「こんにちは」
一之瀬先輩はわたしの方を見ると、少し驚いたような顔をした。
「本当に来てくれたんだね」
わたしが来ることを期待していなかったらしい。確かに、大河内の件がなければ、わたしはここにいなかっただろう。
「考えてもらえて嬉《うれ》しいよ。歓迎する」
もはや、完全にわたしは部員として認識されてしまった。ここまできて今更やっぱり入部はなしにして、とは言えない。
「はい、どうも……」
わたしは、ドキドキしながらぺこりと頭を下げる。
大河内の話をすることもできない。
結局、ここに何をしに来たのか分からない。どうやら、呪《のろ》いは本格的にわたしにかかってしまったらしい。
「演劇は全く初めてなんですよね?」
|弓ヶ浜《ゆみがはま》先輩がわたしを見上げながら尋ねた。
「はい」
「そんなら、まずは基礎練からだね」
基礎練……基礎の練習のことだろう。しかし、演劇部の練習とは何をするのか、わたしには全く想像できない。まさか、いきなり脚本を渡されて、その通り動けとは言われないだろう。
「それじゃあ、腹筋しましょうです。その後はランニング」
「へ?」
運動部でもないのに、筋力トレーニングをするのか。弓ヶ浜先輩はそれだけ言うと、舞台|袖《そで》の階段を上っていった。雛浦《ひなうら》さんもそれに続く。わたしがしばらくそのまま立っていると、二人はジャージに着替えて下りてきた。
「空口《そらぐち》さんも、とりあえず着替えておいでよ。上に放送室があるから」
雛浦さんが制服姿のわたしにそう言った。
聞くところによると、湊山《みなとやま》先輩も使っていたその階段は、天井裏の他《ほか》にも放送室に繋《つな》がっているそうだ。女子部員二人はそこで着替えをしたらしい。
「でも、ジャージ持ってきてない……です」
「初めてだから仕方ないよ」
困っているわたしを見かねたのか、一之瀬《いちのせ》先輩がそう言った。僅《わず》かに心が軽くなる。
「明日から持ってきてくださいね」
|弓ヶ浜《ゆみがはま》先輩が飛び跳ねながら言う。わたしは、小さな声で了解を示した。
こうして、わたしは制服のまま筋力トレーニングをすることになった。普段から運動など全くしないわたしにとって腹筋三十回を三セットは黄泉《よみ》の国への旅路であり、二キロメートルのランニングは死への門出だった。また、その後に続いた背筋、ストレッチも過酷《かこく》で、練習の基礎部分だけでわたしは挫折《ざせつ》しかかっていた。
驚くべきは他の部員の体力だった。雛浦さんや湊山先輩など、明らかにスポーツができそうな人間は当然としても、どう見ても華奢《きゃしゃ》な一之瀬先輩は超人的な体力を持ち、わたしよりはるかに小さな弓ヶ浜先輩も、恐るべき筋力と柔軟性を有していた。普段からこんなメニューをこなしていれば、誰《だれ》でもこうなるものなのか。わたしは素直に彼らを尊敬した。
その後に続いた発声練習でも、わたしは腹式呼吸なるものが全く理解できなかった。
一之瀬先輩の話によると、横隔膜《おうかくまく》を上下させる呼吸をすることで、肺により多くの空気を入れることができるらしい。その練習として腹に手を置いて何度も息を吸い、吐くという行為を繰り返した。腹が大きく膨らみ、へこむ。それを意識しながらやるということは存外難しい。ましてや、それに加え大きな声を出さなければならないとなれば、もはや一流大学の入学試験並みの難易度になる。そもそも、わたしにとって大きな声を出すことということは、内臓を取り出すよりも困難なことだった。自分の声を聞かれるのが恥ずかしい。上手《うま》く言葉が喋《しゃべ》れないことが恥ずかしい。様々な要因がわたしの声を小さくしているのだ。
「思いきって一回出しちゃえば、あとは何とでもなりますから」
弓ヶ浜先輩が気楽なことを言う。
「緞帳《どんちょう》を吹き飛ばすくらいやっていいよ」
湊山先輩が無理難題を押しつける。
「とりあえず、殺すくらいのつもりで」
雛浦さんが訳の分からないことを言う。
「落ち着いて、おなかを意識して」
一之瀬《いちのせ》先輩がアドバイスをしてくれた。
わたしは声を出してみる。
「ぁー……」
ダメだ。やっぱり、大きな声など出せない。半ば諦《あきら》めたわたしの腹に、人の手の感触が伝わった。一之瀬先輩がわたしのへその上の辺りを指で押したのだ。
なななななななんてことをするんだ!
「ここが丹田《たんでん》。ここに意識を集中して、膨らませたりへこませたりする」
そう言いながら彼は指を離した。わたしの鼓動は馬鹿《ばか》みたいに速くなり、もう手は離れているのに、ずっとその部分が熱い気がした。
体中の血が逆流するような感覚。脳が麻痺《まひ》するような錯覚。
もう一度やってみようか。その言葉は遠くの世界からの通信のように、わたしの体の中でこだました。おなかの辺りが温かい。大きく息を吸い、そこで一度止めた。
「あぁぁぁー!」
とんでもないだみ声だった。そしてそれは、わたしが生まれてから発した言葉の中で一番大きく(ちなみに二番目は召喚成功の時)、一番複雑な感情を織り交ぜたものだった。
腹が痛い。これは、別に腹を下したわけではなくて、腹筋が痛いのだ。つまりは筋肉痛。
初日の練習は基礎練習しかできなかった。本当ならば他《ほか》の部員はもっと違った練習メニューがあるのだろうが、わたしに合わせてくれた。それでも、全《すべ》ての練習が終わったのは六時三十分だった。
辺りは既に暗くなっていた。わたしは|弓ヶ浜《ゆみがはま》先輩と一緒に駅のホームにいた。雛浦《ひなうら》さんと湊山《みなとやま》先輩は自転車通学で、一之瀬先輩はバス通学だった。そんなわけで、わたしは小さな先輩と一緒に、駅で電車を待っていた。そこで、猛烈な腹痛もとい腹筋の筋肉痛に襲われたというわけ。その日のうちに猛練習の後遺症が出るとは、わたしもまだ若い。
「なんか仲間が増えて楽しいな」
ちかちかと点滅する蛍光灯《けいこうとう》の下で、弓ヶ浜先輩は嬉《うれ》しそうに言う。彼女は体とは不釣り合いに大きいバッグを背負い、そこから傘やものさしが飛び出していた。あまり深くそのことについては尋ねないことにした。もしかしたら、何か災害が起こった時のための備えなのかもしれない。もしくは、途中で露店を開くという可能性もある。
「部員はあれだけなんですか?」
わたしが尋ねる。自分から何かを質問するなんて、おなかだけでなく脳まで痛めたらしい。
「そうですよ。三年生がこの前卒業して、今は四人だけ。でも、今日からは五人です。空口《そらぐち》さんを入れて五人」
わたしを入れて五人……。
「ねぇ」
先輩がわたしの服の袖《そで》を引っ張った。そして、上目遣いでこちらを見る。何かをねだる時の顔なのだろうな、と同性の勘が働く。ただ、その仕草は純粋に可愛《かわい》らしかった。
「真帆《まほ》ちゃんって呼んでいいですか?」
小学生じみている。
「はい、いいですよ」
頷《うなず》いて、数秒後に自分が自然に笑顔になっていることに気づいた。何だか、自分が自分でないみたい。
「それなら、わたしは三癒《みゆ》って呼んでくださいね」
「分かりました。三癒先輩」
下の名前で呼ぶのは少し恥ずかしい。それに、自分の名前を呼ばれるのも恥ずかしい。ただ、そんなレモンの砂糖|漬《づ》けのような甘酸っぱさも悪くはないかな。
「どうして、三癒先輩は敬語なんですか?」
出会った時から三癒先輩はずっとわたしに対して敬語だった。部活の時に雛浦《ひなうら》さんに対してもやはり敬語だったし、同級生に対しても同様だった。彼女は二年生なのだから、一年生や同じ二年生に敬語を使う必要はないと思うのだが。
「うわ。やっぱり、気がつきました?」
気づかれないと思っていたのか。
「特に理由はないんですけどね。うん、何というか、その……ノリ? みたいな」
三癒先輩は子犬みたいに首をかしげた。ノリとはどういうことか。わたしには理解できない。
「私ってちっちゃいでしょ。だから、何というか、そっちの方がしっくりくるのですよ。周りもそう思うだろうし、私自身もそっちの方がなんか落ち着くわけです」
「そうなんですか」
どうもよく分からない。だけど、人の心なんてそんなに簡単に分かるわけがない。人にはそれぞれのこだわりがあるものだ。
電車がやってきた。わたしたちは乗車する。
「どの駅で降りるんですか?」
まばらな車内の空いている座席に向かい合って座ると、三癒先輩が訊《き》いてきた。
「北栄《きたさかえ》です」
「へぇ、結構遠い。私は柳生川《やぎゅうがわ》です」
わたしの降りる北栄は終点のひとつ前である。わたしはいつも自宅から一時間以上かけて登校しているのだ。
「いやぁ、本当に感謝しているんですよ。真帆《まほ》ちゃんが入部してくれて」
「そうですか……」
別に後悔しているわけではないが、わたしは入りたくて演劇部に入部したわけではない。それで、ここまで喜んでもらえるのならば、それはそれで良い結末なのかもしれない。
「ところで、わたしがある役にぴったりという話を聞いたのですが……」
例のネクラな女の子の役だ。
「ああ、うん。もう、完璧《かんぺき》ぴったしって感じです。ハマリ役というよりも、真帆ちゃんのために作られた役であるといっても過言ではない!」
「そのお芝居っていつやるんですか? というか、どんなお話なのかも知らないんですけど」
「あり? 一之瀬《いちのせ》君から聞いてないのですか?」
「何も聞いていません。時間がないっていうのは聞きましたけど」
「ありり。そうか。そうきたか。それは、それは」
三癒《みゆ》先輩はよく分からない言葉を連続して呟《つぶや》くとそのまま難しい顔になった。この小動物の表情は大変な勢いでころころ変わる。これが全《すべ》て演技であるならば、間違いなく天才女優になれるだろう。
「『眠り姫症候群』っていう劇なんですけど、台本は明日渡すから待っててです」
「どんな劇なんですか? その『眠り姫症候群』って」
何だか怪しげなタイトルだ。
「ちょっと難しい感じ。生きることと、死ぬことの境界とか、そんなやつ」
そう言って三癒先輩は頭を振った。この中には何も入っていませんよ、とでも言いたそうだった。
「まぁ、主題を読み込むのはこれからですから。一ヵ月後の新入生歓迎式の時。他《ほか》の高校の演劇部も合同でやるから、笑いものにされないようにしなくちゃですね!」
「一ヵ月後!」
車内に響くほど、わたしは素《す》っ頓狂《とんきょう》な声をあげた。発声練習の所為《せい》で、大きな声を出すことに抵抗がなくなっているのかもしれない。
しかし、一ヵ月後というのは予想以上に早い。
「真帆ちゃんの役は沙倖《さゆき》先輩の分身だからさ……」
三癒先輩はわたしの方を見ながら、少し寂しそうに呟いた。沙倖? 聞いたことのない名前だ。わたしがその人物のことを尋ねようとした時、電車が柳生川《やぎゅうがわ》に停車した。まるで、悪魔が計算したかのような完璧《かんぺき》なタイミングだった。三癒《みゆ》先輩はぴょこんと立ち上がった。
「それじゃ、バイバイです」
元気いっぱいに小さい手を振ると、子どものようにジャンプしながら電車から降りた。
わたしも彼女につられて手を振っていた。
あ、そういえば結局|大河内《おおこうち》の話題は出せなかったな……。まぁ、今日の流れでは大河内の話題を出すのは無理だっただろうから仕方ないか。ごめんね、また今度ちゃんと話すからさ。
電車が柳生川から離れると、会話の途中は気にならなかった腹痛が、再び猛威を振るい始めた。それは、北栄《きたさかえ》に着いてもまだ続いた。
わたしは痛みを我慢しながら、本屋に向かった。
相変わらず客のいない本屋は閉店間際だった。その証拠に店主がちょうど店のシャッターを下ろしていた。この店の閉店時間が何時なのか、わたしは知らない。行けばいつも開いている気がする。そもそも、この店の名前も知らないな、わたし。
「おじ様、今日はもうおしまい?」
見た目の年齢のわりには、若々しく働く店主に、わたしは話しかける。
「おや、今日はまた随分遅いな」
「部活で遅くなりました」
おじ様は目を細める。
「部活を始めたか。結構なことだ。若いうちは動かんといかん」
「そうは思いませんけど」
「まさか、黒魔術愛好会ではないだろうな?」
「そんなのありません。あったら、入ってますけど」
「そうだろうな。何部に入ったんだ?」
「演劇部です」
「演劇? また、そりゃ突飛だな。演劇に興味があったのか」
「全くないです。成り行きでそうなっただけです」
おじ様は発作にも聞こえる、いつもの乾いた笑い声をあげた。
「よう分からんが、青春っていうのは、そんなところから始まるもんだ」
「本当によく分かりません」
「それで、今日は演劇の本を借りに来たのか?」
「はい。あと、筋肉痛の治し方って分かりますか?」
「そんなもんは動いているうちに治る。演劇の本っていうのは台本だろ。それなら、古典の名作があるはずだ。ちょっと待ってろ」
そう言って、店主は閉めかけたシャッターを持ち上げた。
「いえ、できれば発声の練習法とか、演技のやり方とかが書いてあるのがいいんですけど」
店の中に体半分だけ入れていた老人は、頭を店の中からわたしの方へと移動させた。
「そういうのはないな。それなら、もっと大きな書店を探せ。うちでは扱ってない」
「そうですか。ありがとうございました」
わたしは一礼して、書店を離れた。後ろでシャッターが下りる音がした。そこで、わたしは振り返り、大きな声で遠くにいるおじ様に尋ねた。
「そのお店、なんていうんですか?」
こちらを見ている老人の目が大きく見開くのが分かった。驚いているようだった。今までぼそぼそとしか喋《しゃべ》らなかった少女が、とつぜん大声を出したことにびっくりしたのだろう。
「伊丹《いたみ》書店だ! また来い!」
そう言っておじ様(恐らく伊丹という名前なんだろう)は所々抜けた歯を見せて笑った。皺《しわ》だらけのその顔は今まで見た中で一番|嬉《うれ》しそうだった。そんなおじ様を見ていたら、わたしも少しだけ幸せになれた気がした。
深呼吸するように胸を張り、空を眺める。そこに雲はない。夜空には綺麗《きれい》な星が輝いていた。
あれ。悪魔がいない。
「友情ごっこもいいが、汝《なんじ》はもう少し世間を知る必要があるな」
背後から声がする。振り返ると、巨大な胎児《たいじ》の姿がそこにあった。少し不機嫌そうにわたしを見ている。
「どこに行っていたんですか?」
「我は常に汝の近くにいる。どこにも行きはしない」
「この前も、あの本屋さんの近くでいなくなりましたよね」
「汝の心の中で、我が魔法は輝き続けている」
何だか、適当にごまかされているような感じだ。
「あ、そうだ。これ食べますか?」
わたしは大河内《おおこうち》から貰《もら》った飴《あめ》を出した。わたしの嫌いなミント味だった。
「我は人間の食べるものなど食べない」
「それじゃあ、普段は何を食べているんですか」
「悪魔が魔力の糧《かて》とするのは、人間のかん……」
悪魔はそこで言葉を止めた。肝臓といったように聞こえた。
人間の肝臓? 怖ッ!
「ところで、汝はあの者たちが本当に汝を受け入れてくれたと思っているのか?」
「あの者たちって、演劇部のみんなのことですか?」
「そうだ」
悪魔は手を前に出す。短い指が開かれると、手のひらからも青い炎が上がった。その炎の中には、雛浦《ひなうら》さんの姿が映っていた。
「汝《なんじ》は忘れたわけではあるまい。雛浦しのは汝のクラスメイトだ。汝の今までを知っている。奴《やつ》らは、それを知った上で、汝を笑いものにするために入部させたいのではないのか?」
「……そんなことありません」
「一度自分自身の胸に手を当てて聞いてみるのだな。果たして、彼らの下らぬ友情ごっこの中に入り込めるか否かを」
そう言うと、悪魔は高度を上げて頭の上に戻った。こうなると、もはやわたしが何を言っても全《すべ》て無視。嫌な気分でわたしは帰路についた。
家に帰ると、わたしよりも先に夏樹《なつき》が帰宅していた。これは本当に珍しいことだ。玄関まで出迎えに来てくれた母親は困った顔をした。
「こんなに遅くまで何をしていたの!」
エプロン姿でおたまとフライ返しを持ち、さっきまで料理をしていました、とアピールしていた。
「いきなりお洒落《しゃれ》になったと思ったら、突然の非行……。これは、我が家から問題児が輩出される前兆?」
「部活に入っただけ」
「部活!」
そう叫んだのは、廊下を偶然通りかかった夏樹だった。彼女はシャワーを浴びたらしく体から湯気をたてている。
「お姉ちゃん、部活始めたの? どうしたの? 何かの病気? いきなり、変わりすぎじゃない?」
「呪《のろ》うぞ」
「そこは、変わらないのね……」
そう言うと、妹は逃げるように階段を駆け上っていった。どうやら、一日一回はわたしにちょっかいを出さないと気がすまないらしい。本当に、どうしようもない妹だ。
「部活ねぇ」
母親はいぶかしげにわたしの方を見る。確かに、今までのわたしを知る人間ならば、わたしが突然部活動を始めることを想像できないかもしれない。だけど、成り行きとはいえ始めてしまったものは仕方がない。それは間違いのない事実だし。
「後でその話を聞かせてね。それじゃ、早く着替えてらっしゃい。ご飯にするから」
母親はそう言うと、お玉とフライ返しをくるくる回しながら台所に向かった。わたしはどう説明したらいいものなのか悩みながら、二階へ上がった。
二階にはわたしと夏樹《なつき》の二人の部屋、それと父の書斎がある。ただ、書斎といっても、そこで父が勉強しているところをわたしは見たことがないので、今はほとんど姉妹がテレビを見るための部屋と化していた。
わたしが部屋に入ると、夏樹がすぐに寄ってきた。
「ねぇ、好きな人ができたんでしょ?」
夏樹がニヤニヤしながら訊《き》いてくる。彼女の背はわたしよりも高いので、何となく威圧感を感じる。
「何を言い出すのかと思えば、馬鹿《ばか》じゃないの」
「だって、いきなり髪型変えて、化粧をちょっとし始めて、そんで部活でしょ。これは、明らかに恋の予感を感じざるを得ないでしょ」
「そんな単純な頭だから、わたしに馬鹿にされるんだよ」
「ま、わたしは彼氏がいるし。恋愛はわたしの方が先輩だもんね」
確かに、夏樹には恋人がいる。とはいっても、所詮《しょせん》は中学生の恋愛。その付き合い方はまだまだ可愛《かわい》いものだ。まあ、わたしが他人の色恋|沙汰《ざた》に口出しできるわけもないのだが。
「ねぇ、どんな人なの? それってお姉ちゃんの初恋?」
「うるさい」
わたしは制服を脱ぐと普段着に着替える。それでも、妹はしつこくつきまとう。
「告白したの? 同じ学校の人?」
「うるさい」
「どうせなら、下着も可愛いのにした方がいいんじゃないの?」
「ぶっ殺す」
わたしが明確な殺意を持って手近な鈍器を持つと、夏樹は笑いながら部屋から出ていった。後を追う気もなく、わたしは一息つくと、着替えを終えた。
上下ジャージ。私服は昔のままだった。鏡を見ると、顔を真っ赤にした少女が立っている。
「まぁ、汝《なんじ》には恋愛は無理だろう」
悪魔が降りてきて、わたしの目の前で止まる。そして、この前夏樹が勝手に貼《は》った写真を一度はがして、裏向きにして貼りなおした。そんなことをしなくても、昔の写真なんか絶対に見ないのに。
一連の作業を終えると、悪魔は背後に回りこみ、わたしにすがるようにして囁《ささや》く。
「友達もつくれないような奴《やつ》には、恋愛など夢のまた夢だ。契約があるから恋愛は絶対に許されないのだがな」
「友達ならいます」
「友達? 汝《なんじ》は本気でそんなことを言っているのか?」
悪魔は舌なめずりをし、嬉《うれ》しそうにこちらを見る。鏡越しに悪魔と目が合った。
「いいか、汝は変わった。だが、所詮《しょせん》それは見せかけだけ。人間には限界がある。どれほど足掻《あが》こうと、努力しようと、その人間の本質は変わらない」
変わらない……。わたしは、ずっと変われない……。
「はっきりと言おう。汝に友達をつくることはできない」
そんなことない。
そんなこと、
ない……。
[#改ページ]
三幕 はらはら友情劇
『眠り姫症候群』
キャスト
少女A
少女B 雛浦《ひなうら》
母 |弓ヶ浜《ゆみがはま》
父 湊山《みなとやま》
医者 一之瀬《いちのせ》
[#ここから2字下げ]
舞台に二つのベッド。スポットライトでそこだけ照らされている。上手側には少女A。下手側には少女B。少女Aだけが起きている。BGM・ブラームス『パガニーニの主題による変奏曲第一部』
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[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
少女A「もういや! こんなところにいたらおかしくなる! 気が狂っちゃう!」
舞台下手から医者。無言で診察を始める。
少女A「毎日体に機械を入れられ、薬を飲まされ、少しずつ少しずつ、寿命を延ばしていると錯覚させてるけど、本当はじわじわと命を削っているだけじゃないの! やめて、触らないで!」
医者は淡々と作業を進める。
少女A「もう、私を殺してよ! こんな苦しみは嫌なの!」
医者がはける。少女Aは泣き崩れる。舞台上手から父が現れ、少女Bのベッドの脇《わき》に近寄る。
父 「ああ、もう楽になっていいのに。早く死んでくれ」
少女A「死んでほしければ殺してあげればいいじゃない! その子だって、ここに来てから一度も目を覚ましてないのよ! ほとんど死んでいるのと同じよ!」
父 「君も『眠り姫症候群』の患者さんなのか……」
少女A「こんな風に一生病院の中で暮らすなんて嫌なの。いつも訳の分からない薬を飲まされて、何度も吐くし……。気分はずっとよくならないし。わたしはだんだん死んでいるの。それが自分でも分かるの」
父 「この病気は複雑なんだ。君にもいつか分かる日が来る」
[#ここで字下げ終わり]
……。
なんだ、こりゃ。
受け取った脚本には異世界が広がっていた。
今まで劇なんて、学芸会くらいしか見たことがなかったし、脚本を読んだこともなかった。だが、途中まで読んだこの脚本が異端であることは分かる。充分に感じ取ることができる。何だか、気持ち悪い。
誰《だれ》がこんな脚本を書いたのだろうか。
「どう? すごい脚本でしょ」
そう言って、三癒《みゆ》先輩がわたしの手元を覗《のぞ》いてきた。ここは、体育館の放送室。演劇部の更衣室を兼ねているのだが、実はそれに加えて女子だけしか使わない部室としても機能していた。それほど広い部屋ではないが、女子部員は三人だけしかいないので、全員入っても多少の余裕はある。
脚本の内容は、『眠り姫症候群』という病気を巡る、患者と両親の会話がメインだった。
「真帆《まほ》ちゃんにやってほしいのは、この少女Aです」
「確かに、すごいですね。なんか、色々と……」
「普通の精神の人が書く脚本じゃないよね」
そう言ったのは雛浦《ひなうら》さんだった。彼女はスティック状のお菓子を食べている。わたしも先ほど勧められたが、丁重に断った。昔から、人から何かを勧められるのは好きではなかった。それは遠慮というよりも忌避《きひ》に近いものがある。人に優しくされることに慣れていない。誰《だれ》かに気を遣ってもらうことが怖い。だから、断ってしまう。
「こんな脚本もあるんですね」
「これはオリジナルですから」
三癒《みゆ》先輩がニコニコしながら言う。
「オリジナル? 誰かが書いたんですか?」
「一コ上の先輩」
「三癒先輩の先輩っていうことは、卒業した三年生ですか?」
「うん、まあ、その世代になるのかな……」
昔はすごい人もいたものだ。先人の偉業に、素直に尊敬の念を抱いていると、舞台の方から部長の声が聞こえてきた。三癒先輩が代表して大声で返事をした。練習が始まる。
「下りよ」
チビとノッポのコンビが狭い部室から出ていく。わたしはその後を追うようにステージに向かう。
今日はちゃんとジャージを着ていた。いくらでも動ける。筋力トレーニングは好きではないが、悪い気分ではない。別にこれから楽しいことがあるわけではないのに。ただみんなと一緒に腹筋をして背筋をして走るだけなのに。だけど、楽しみだった。
どうしてだろう。階段を下りながら自己分析する。
暗く狭い階段を下りると、明るい開けた空間に出る。まだ他《ほか》の部活の練習が始まっていないので、緞帳《どんちょう》も下りていない。ステージは広々としていた。そこにはみんながいる。演劇部の部員。わたしの仲問たち。
ステージでは全員が集まっていた。わたしは駆け足でその輪に加わる。いつも通り筋力トレーニングをして発声練習をする。きっと周りから見たら少しも面白くない練習を、わたしはうきうきしながらこなしていた。
みんなと一緒に、目標に向かって頑張る。ずっとくだらないと思っていたことだったけど、実際にやってみるとそんなに悪いものじゃないかもしれない。わたしはそんな風に感じていた。
一通りの基礎練習をこなすと、一之瀬《いちのせ》先輩が次の練習を提案した。
「今日はエチュードをやろうか」
エチュード……。聞いたことがない。
「エチュードっていうのは、音楽用語で練習曲っていう意味だけど、演劇の世界では即興劇という意味」
隣にいた雛浦《ひなうら》さんが教えてくれた。
「おおまかな設定だけ与えられて、あとは役になりきって、とりあえず全部アドリブで劇をする」
いきなりそんな難しそうなことをさせられるのか。背筋が緊張のため自然に真《ま》っ直《す》ぐになった。発表まで時間がないからなのか、それともみんな初めからそんな練習をするのか、わたしには分からない。ただ、一之瀬《いちのせ》先輩が言うのだから、間違ったことではないと思う。
部長は二つのグループに分けた。わたしと雛浦《ひなうら》さんが同じグループで、チーム一年生と名づけられた。もう一つのグループはチーム無敵二年生(三癒《みゆ》先輩が命名)で、一之瀬先輩と三癒先輩、そして湊山《みなとやま》先輩がチームに加わった。
初めてやる練習で、わたしの小鳥の心臓は縮み上がっている。その場に合わせて台詞《せりふ》を考え、役に合わせて思考と演技をしなければいけない。そんなことがわたしにできるだろうか。
わたしの心配をよそに、練習は始まった。先に無敵二年生が始める。彼らの設定は入院した人のところに友人がお見舞いに来る、というものだった。湊山先輩が交通事故で入院した高校生で、三癒先輩がその母。一之瀬先輩が湊山先輩の友人という設定になった。
「ったく、ずっとこうしてるのも暇だよな」
床に寝転んでいる湊山先輩が言う。既に、エチュードはスタートしていた。傍《かたわ》らにいる三癒先輩が呆《あき》れたような笑みを浮かべた。わが子を見るような、温かい目をしている。
「でも、今日は友達がお見舞いに来てくれるんじゃないの?」
「そうそう。それにしても、おせぇな、あいつ」
そう言いながら、湊山先輩は掛け布団を取る動作をしながら上半身を起こした。彼のパントマイムは天才的に上手《うま》い。
ドアを開ける動作をして、一之瀬先輩がやってくる。彼は笑顔で、それでもやや声を抑えた感じで挨拶《あいさつ》をした。ここが病室だという設定を考慮しているのだろう。
「遅いぞ!」
「元気そうじゃないか」
何だか仲が良さそうだ。これは、普段どおりか。
「一之瀬君、久しぶりねぇ」
おばさんのような口ぶりで三癒先輩が言う。これがいつもの破天荒娘と同一人物であるとは考えられなかった。
「お久しぶりです」
好青年っぽく一之瀬先輩は挨拶をする。一之瀬先輩は湊山先輩に近寄ると、話を始めた。脚本がないとは思えないくらいに、自然な会話だった。そこで、三癒先輩が動く。心なしか、彼女の目が笑っているように見えた。
「三癒先輩の暴走が始まるよ」
腕を組んだ雛浦《ひなうら》さんがそう呟《つぶや》いた。
「一之瀬《いちのせ》君、ちょっといいかしら」
そう言って息子の友人を呼びつける母親。残りの演者二人は不思議そうな顔をして、彼女の方を見る。完璧《かんぺき》な演技だった。一之瀬先輩を連れて病室から出た三癒《みゆ》先輩は、話しづらそうに、それでも舞台に響くような大きな声で喋《しゃべ》った。
「実は、あの子は狼男《おおかみおとこ》なの」
衝撃の展開。これが、雛浦さんの言う暴走?
「どういうことですか?」
一之瀬先輩が真剣な顔で訊《き》く。練習は続いているのだ。
「落ち着いて聞いてね。あの子は、満月の夜になると狼に変身してしまうの。どうしてなのかは分からない。だけど、今の病気もきっとそれに関係があると思うわ。一之瀬君はあの子の一番の友達だから、あなただけには教えておこうと思って……」
「でも、あいつはそんなことを、一言も……」
「狼になっている間は記憶がなくなっているみたいなの。だから、本人も狼になっていることに気がついていないのよ。でも信じて。ほら、もうすぐ変身の時間よ!」
そう言って、三癒先輩は勢いよくドアを開けるジェスチャーをした。湊山《みなとやま》先輩は大きく目を見開き固まったが、すぐに四つんばいになると遠吠《とおぼ》えをした。その声が虚《むな》しく舞台にこだまする。
「って、おい! 何だよ、この設定は!」
湊山先輩が再び吼《ほ》える。
「今の遠吠えは五点です。千点満点中の五点」
三癒先輩はため息をつきながら、それでも嬉《うれ》しそうに言った。湊山先輩はがばっとはね起きた。
「三癒! お前は俺《おれ》に恥ずかしいことをさせたいだけだろ! そもそも、満月の夜に見舞いっていうのが間違ってる!」
「どうしてですか? そういう病院だってあるかもしれないじゃないですか」
「あったとしても、一般的じゃないだろ。それに、この練習は感情の変化の表現とかが重要なんだよ。狼男なんて出す必要はない。拓馬《たくま》も何か言え!」
「まぁ、確かに三癒が悪いな。あれじゃあ、後が続かない」
一之瀬先輩に言われると、三癒先輩はそれ以上反論しなかった。きっと自分が暴走していたことに気がついていたのだ。それなのに、どうしてあんなことを強行したのか。わたしには分からない。
もしかしたら、わたしが緊張しているのを見て、それを和らげようとしてくれたのかな。ありがとうございます、三癒先輩。
「まぁ、とりあえず暴走はいつものことだね」
……なんだ。さっき感謝したことを後悔した。
「それじゃあ、次に一年生チームがやろうか。空口《そらぐち》さんは初めてだよね」
一之瀬《いちのせ》先輩の問いにわたしは頷《うなず》く。今まで演劇の練習なんてしたことがないのだから、初めてなのは当たり前だ。足が震えてきた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。その場で一番|相応《ふさわ》しいと思う感情と台詞《せりふ》を表現してくれればいいから」
一之瀬先輩は爽《さわ》やかに笑う。それが無理難題なのだ。口で言うほど、それは易《やさ》しくない。
無敵二年生と交代して、わたしたちが舞台に[#「に」は底本では無し]立つ。雛浦《ひなうら》さんは背筋をしゃんと伸ばし、かっこよくライトを浴びている。わたしは、猫背の背中を更に丸め、渇水で死にかけているひまわりみたいに、明るすぎるライトに照らされた。
「ルームシェアをしている大学生二人がケンカをしてしまった。それでいこう」
部長がそう言ってから手を叩《たた》いた。スタートの合図だ。わたしは戸惑ってしまう。
ルームシェア? 大学生? ケンカ?
何をどうしていいのか全く分からない。どんな表情をすればいいのか、何を喋《しゃべ》ればいいのか、どう動けばいいのか。
「ちょっと! 何か言いなさいよ!」
先攻は雛浦さんだった。なぜか彼女は烈火の如《ごと》く怒っている。怖い。本当に怖い。わたしは反射的に謝ってしまった。これは、生きるための本能として脊髄《せきずい》に刻まれた野性の行動だ。
「謝ってすむ問題じゃないでしょ! 人の彼氏に手を出すなんて、何を考えたらできるの?」
えー……。そういう話だったのですか……。恋愛がらみとなると、もはやわたしには天竺《てんじく》よりもずっと遠くの物語だ。全く想像できない。人の恋人を寝取る女の気持ちなど知る由《よし》もない。仕方ない。とりあえず、謝るか。
「ごめんなさい」
「だから、どういうつもりなのよ!」
「えっと、なんていうか……」
「もう! はっきりしなさいよ!」
一方的に責められっぱなしだ。何だか、本当に悲しくなってきた。
「だって……」
鼻水が分泌される。どうして練習でこんなに怒られているの……。涙腺《るいせん》が緩む。
「わたしだって好きなんだもん……」
そう言うのが精一杯だった。涙まじりの情けない声が虚《むな》しく響く。雛浦さんはそんなわたしの様子を見て、次の言葉を飲み込んだ。これ以上、わたしに攻撃をするのは躊躇《ためら》われたのだろう。わたしから目を逸《そ》らすと、彼女は数歩離れた。
無言だ。わたしは彼女の方を見ると、雛浦《ひなうら》さんはなんともいえない表情で遠くを眺めていた。わたしがまともな対応をしなかったので、どう続ければいいのか分からないのかもしれない。
「ご、ごめんなさい」
もう一度謝ると、数秒後に、一之瀬《いちのせ》先輩の手が鳴った。
不甲斐《ふがい》ないものを見せてしまった。だが、予想外なことに二年生の一同は驚いたような顔で褒《ほ》めてくれた。
「まさか、最初でここまでやるとは思わなかったよ。涙まじりの一言は感じが出てたよ」
湊山《みなとやま》先輩が人の良さそうな笑顔でそう言ってくれた。
「雛《ひな》ちゃんもすっごい迫力でしたよ〜」
三癒《みゆ》先輩が相変わらずのテンションでそう言った。
「無言が良かったね。きっと、あの状況ならあんな沈黙ができると思う。その時の二人の様子は上手《うま》かったと思う」
一之瀬先輩が言った。わたしは思わぬ賞賛に気を良くして、背中を真《ま》っ直《す》ぐに伸ばすと、頭を下げてお礼を言った。
「ありがとうございます!」
口にする言葉は違えど、結局頭を下げているわたしだった。
休憩時間になった。わたしは放送室にタオルを取りに戻り、そこで大河内《おおこうち》のことを思い出した。一之瀬《いちのせ》先輩に大河内のことを話さないといけない。今日こそ、あの話をしてあげないと。
放送室から出て、舞台にいる一之瀬先輩を目指す。他《ほか》の部員もみんなそこにいるはずだ。
暗い階段。そこで、青い炎が揺らめいた。
「さすがは演劇部だな。みんな演技が上手《うま》い」
頭上から声がする。わたしはそれを無視した。悪魔なんかに構っていてもしょうがない。早くみんなの元に行きたかった。
「練習のことではないぞ。汝《なんじ》を新しい仲間として受け入れる、その演技が上手いと言っているのだ」
「みんなわたしの仲間です。演技じゃありません」
わたしは小さく呟《つぶや》いた。もうすぐ、みんなが待つ舞台にたどり着ける。
それなのに、何だか足が前に進まない。
「そう思っているのは汝だけだ」
「そんなことありません」
そうだ。早くみんなのところに行かなきゃ。
「汝は利用されているだけ」
「違います。みんなわたしを本当に必要としてくれているんです」
「役の適性など見ただけでどこまで分かるというのだ? 百歩譲って、本当に連中が汝を必要としていたとして、果たしてそれはいつまで続くのか。きっと、今度の舞台が終われば、汝は用済みになる。使い捨てだ。汝は姿形が劇の役に適していた、という理由で入部を乞《こ》われたのだろう。つまり、見た目だけが重要だったということだ」
「それはそうかもしれませんけど……」
「今度の劇が終われば汝を仲間にしておく理由はなくなる。もはや、汝の役が出てくる劇は終わるのだからな。そうなれば、汝は邪魔者として除外されるだろう」
「そんなことは……」
「汝のせいでどれだけの迷惑が彼らにかかっているか、考えてみろ」
「迷惑……」
「足を引っ張るだけの人間を、仲間や友達として認められるかな? 汝とて、ここまで言えば分かるだろう。さぁ、絶望せよ。深遠なる負の感情を見せておくれ」
仲間。
仲間か。
仲間だと?
仲間って何?
仲間だなんて。
誰《だれ》かがそう囁《ささや》く。
だけど、それは悪魔の声じゃない。
それじゃあ、誰の声? 誰もいないのに……。
いや、違う。一人いるじゃないか。そう、独りいる。それはわたしだ。ここにはわたしが独りいる。
――お前が仲間とか友達とか言うなんて、どうしてしまったのだ?
そうやって、耳元で呟《つぶや》くのは、わたし自身だ。
内側からの声はどんどん大きくなる。
――お前はここで何をするつもりなんだ。青春ごっこか? 友情の真似《まね》事か? だが真帆《まほ》、お前には無理だ。お前は変わっていない。昔の暗い女のままだ。
体中が焼かれるような感覚。青い炎に体が侵食される。汗が滲《にじ》み出す。
――傷つくのはお前自身だ。よぅく考えろ。
その声はわたしの声なのに、まるで悪魔が耳打ちをしているみたいだった。
不安が胸いっぱいに広がる。それは明確な恐怖を宿しながら膨張し、すぐにわたしの体から自由を奪った。そして、わたしは悟った。
わたしには不釣り合いだ。いや、不自然といった方がしっくりくる。
わたしは独りだ。いつだってそうだった。だから、仲間という言葉を使うのはあつかましい。彼らがこれまで築いてきた信頼の輪の中に、わたしがのこのこと入っていってはいけない。わたしが独りで喜んでみても、先輩たちや雛浦《ひなうら》さんは面白く思わない。そもそも、ダメ部員が入部したことで、明らかに練習の効率は落ちている。人数が足りないから仕方なくわたしで我慢しているだけで、本当はわたしのことをよく思っていないに違いない。
調子に乗っていた自分を愚かに思う。
勘違いしていた自分を疎《うと》ましく思う。
舞台はまぶしく光っている。わたしにはその光が強すぎる。そこに立っている人間たちも、よく考えれば遠い存在だ。
足が動かない。浮かれていた自分が恥ずかしい。その場から一歩も動けなくなってしまう。それでも、無理やり体を動かす。みんなの近くに行きたがっている自分が、操り人形を動かすみたいに外側から体を力ずくで引っ張っている。
やっぱり、わたしに仲間や友達をつくることなんてできない。そんな、結論が頭の中で鳴り響いた。
「どったんすか?」
三癒《みゆ》先輩が細かく跳ねながら手を振る。わたしはその場に蹲《うずくま》りたかった。呼吸が荒くなる。
すぐにでも走ってこの場からいなくなりたい衝動。
目の前が暗くなる。いつの間にか目を閉じていた。鼓動が速い。まるで、内側にいるわたしが、早くここから逃げ出したいと喚《わめ》いているようだった。
顔は上を向いていた。目を瞑《つむ》っていても、悪魔の光を感じる。
やはり、悪魔の言うことは正しかった。わたしでは彼らの中に入れない。
左足を持ち上げ、それを下ろす。
だけど、そこにはわたしの体重を支えるような足場はない。
重力加速度を脳が感じる。
ああ、わたしは落ちる。初めて悪魔と出会った時の感覚。
「危ない!」
男の声が響く。
もう、どうなってもいい。わたしはどこまでも堕《お》ちればいいのだ。
……。
「大丈夫?」
息がかかりそうなくらいの距離で声が聞こえた。意識が一気に覚醒《かくせい》し、目も開かれた。すぐそこには、今までで一番近い距離に一之瀬《いちのせ》先輩の顔があった。心配そうなその瞳《ひとみ》に、慌てふためく自分の顔が映っている。
「貧血?」
呼吸困難の鯉《こい》のように口をパクパクと動かした。だが、声は出ない。わたしは一之瀬先輩に抱きかかえられていた。舞台から足を踏み外したわたしは、ステージから落ちて……。
一之瀬先輩がキャッチしてくれたの? それが本当なら何という反射神経! そして、ほとんどお姫様抱っこの状態! 先ほどとは全く違うタイプの汗が流れ出す。
「保健室に連れていこうか?」
一之瀬先輩は優しく訊《き》く。わたしは何とか自分を落ち着かせようと、深呼吸をした。そんなわたしのとろい動作を、一之瀬先輩はずっと待っていてくれる。
「あ、あの、その……」
「落ち着いて」
「あ、はい。大丈夫です。全然、大丈夫です」
わたしはやたらに首を縦に振る。
「だけど、顔色が悪い。一応、保健室に行った方がいいんじゃないか?」
「本当に大丈夫ですから」
そう言ってわたしは、一之瀬《いちのせ》先輩から下りた。
「れれれ練習を、さ、再開しましょう」
ほとんど舌が回らない。
もっとちゃんとやらないと。
みんなに認めてもらわないと。
わたしは床に置いてあった『眠り姫症候群』の台本をとると、震える手でページを開いた。
「えっと、台本を読むんですよね。はい、えっと、『もういや、こんなところにいたらおかしくなる』」
わたしは台本を一人で読む。何だか、自分がどんどん底なし沼にはまっていく感じがした。
このままじゃダメだ。
上手《うま》くやれなかったら、みんなに見捨てられる。
ちゃんとやらなきゃ。ちゃんとやらなきゃ。
――足掻《あが》いても無駄だ。
悪魔の声? それとも自分の声? もう、誰《だれ》が喋《しゃべ》っているのかも分からない。
世界が回る。
気持ち悪い。
不意に肩に温かい感触。
人の手だ。
一之瀬先輩がわたしの肩に手をのせ、優しい目をわたしに向けていた。先輩はもう片方の手でハンカチを渡してくれた。そこで、ようやく自分が涙を流していたことに気がついた。
「そんなに無理しなくていいよ」
優しい言葉だった。何だか、張り詰めていた糸が切れたような気がした。
少しずつ、意識が失われていく。世界がゆっくりとブラックアウトしていく……。
「保健室に行こうか。まだ、保健室の先生いるかな」
目の前が真っ暗になったわたしは、一之瀬先輩の胸に飛び込む形で抱きついていた。そんなわたしを受け止めてもなお、彼の声は穏やかだった。
「もうちょっと休もうか」
頭が溶ける。頭蓋骨《ずがいこつ》の中身が耳と鼻から零《こぼ》れ出る。遠のく意識の中で、最後に三癒《みゆ》先輩の嬉《うれ》しそうな悲鳴だけが聞こえた。
「キャー! 抱き合ってる! せーしゅーんだー!」
「お姉ちゃん、エビフライ落ちてるよ」
夏樹《なつき》にそう言われて、自分の箸《はし》からおかずが落ちていることに気がついた。慌ててテーブルから拾い上げると、何度か息を吹きかけてからかじりつく。大事な夕食のおかずだ。無駄にはできない。
食卓にはわたしとこいつしかいない。両親は揃《そろ》って外食に出ている。無駄に仲の良いあの夫婦は、月に何回かは二人だけで食事に出るのだ。そういう日は、どうしても姉妹だけの食卓になってしまう。とはいえ、母が食事の支度を全部していってくれるので、わたしたちはそれを食べるだけだ。
「どうしたの? いつもは命を狙《ねら》われてるくらいに気を張ってるのに。妄想中?」
愚妹《ぐまい》は笑いながら納豆をかき混ぜる。
「わたし、もしかしたらバスケで推薦受けられるかも」
「ふーん」
上の空で返事をすると、夏樹はテーブルを叩《たた》いた。
「ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよぉ」
「じゃあ、さっきなんて言ったかもう一回言ってみ」
「バースデイで酔拳《すいけん》うけるかも、でしょ。どんな誕生会なの? それ」
「罰としてエビフライを貰《もら》います」
そう言うと、神速で妹の箸が動き、わたしの皿から最後のフライが奪われた。運動部で鍛《きた》えられたその俊敏性の前に、わたしは彼女の手を目で追うことしかできなかった。この動きならば、バスケの推薦で高校に入学できるのではないのだろうか。
「何をする!」
「話聞いてくれないからでしょ! どうしたの? なんか変だよ。いつも変だけど」
そりゃ、変にもなりますよ。そう言いたかったが、この噂《うわさ》好きの愚か者にそんなことを言ったらば、根掘り葉掘り聞かれ、尾びれ背びれ胸びれと翼までつけられて噂されてしまう。
「何でもない。ごっつぁん」
わたしは自分の分の食器を台所に運ぶ。そこで、自分の分だけ洗うと、さっさと二階に上がった。
部屋のドアを閉めると、一度深呼吸をした。
今日のことを振り返る。とんでもない失態。初日のあられもない姿と同じくらい大きなミスだ。
わたしはあの後、一之瀬《いちのせ》先輩に背負われて保健室に運ばれた。そして、そのまま練習が終わるまで起きなかった。三癒《みゆ》先輩が待っていてくれて、一緒に帰ったのだが、わたしはずっと電車の中で謝りっぱなしだった。ああ、最悪だ。
そんなことを食事中にずっと考えていた。だから、エビフライを落とすし、夏樹《なつき》の話など上の空だった。
彼らとの関係を続けていく自分が想像できない。どうせ、わたしなんか。そんな台詞《せりふ》が頭の中で堂々巡りする。どうやったら、彼らの仲間になれるのか。どうやったら友達として[#「て」は底本では無し]認めてもらえるのか。全く分からない。
ベッドに横になる。天井を見上げると、悪魔がいた。
「あの男に随分と接近していたな。嬉《うれ》しかったか?」
「そんな話しないで……」
「今は他《ほか》の部員のことで頭がいっぱいか」
「うん……。やっぱり、わたしには、無理かも……」
「そうだ。それでよい。ゆっくりと絶望を反芻《はんすう》しろ」
はーい。むしゃむしゃ……、ああ、絶望って何回|噛《か》んでも味がでてくるんだね……。
今日の一件でわたしが友達をつくることができない体質であるということは証明されてしまったのかもしれない。やっぱりわたしには無理だったんだ……。
翌朝。今日は土曜日。だけど、わたしは制服に着替えていた。そう、部活の練習があるのだ。だが、わたしの心の中には、暗い濁《にご》ったものしか入っていなかった。いつもの通学と同じ時間に家を出た。同じく休日練習のある夏樹も一緒に玄関を出る。彼女は家からジャージだった。駅までは同じ道なので並んで歩く。
「休みの日まで練習あるんだね」
「発表まで時間ないから」
「演劇部の練習って何をやるの?」
「色々」
「具休的に!」
やけにうるさい。それに少し嬉しそうだ。夏樹は基本的にいつも能天気に笑っている。なにが楽しいのか分からない。とりあえず、彼女が辛《つら》そうにしていたり悩んだりしているところを、わたしは見たことがない。
「何でそんなに嬉しそうなの?」
夏樹は少し恥ずかしそうにしながら頬《ほお》を赤らめた。
「お姉ちゃんとこういう話するの、夢だったんだ」
「こういう話?」
「学校とか、部活とか、恋愛とか」
確かに、今まで夏樹《なつき》とそんな青臭い話をしたことはなかった。時々、勉強を教えたりする以外に、学生らしい会話をしたことはなかった。
「ちっちゃい夢だな」
「それを叶《かな》えられなかったのは、お姉ちゃんのせいだぞ」
思わず鼻で笑ってしまったわたしに、小さき夢追い人は口をへの字にして反抗した。だが、目が合ったところで二人とも笑い出す。
こんな何でもないことを、こいつは求めていたのか。
「友達ができたから、きっと変われたんだね」
夏樹が嬉《うれ》しそうに笑う。だが、わたしの気分は一気に陰鬱《いんうつ》になった。飛ぶ鳥は地面に堕《お》ち、綺麗《きれい》な花々は腐り、気温は一気に氷点下になる。もしも、わたしの心理がこの世界に影響を与えるのだとしたら、それくらいの変化は起こっただろう。
どうせ、わたしには本当の友達なんかできない。
「どうしたの? 急に黙っちゃって……」
「なんでもない」
「友達が心配するよ」
「心配しないよ」
「するに決まってるじゃん」
「友達なんていないの!」
怒鳴ってしまった。
「失礼だよ、それ」
空気が冷たくなる。夏樹《なつき》はなぜか少し泣きそうな顔になっていた。だが、その目には強い意志の力が込められている。
「失礼?」
「せっかく、お姉ちゃんと一緒にいてくれる人ができたのに、その人たちが友達じゃないって言うのは、すごく失礼だよ」
「だって、わたしなんて最近話すようになったばかりだし、きっと認めてもらえない」
「馬鹿《ばか》!」
今度は夏樹が怒鳴った。わたしは驚いて彼女を見つめた。彼女は顔を真っ赤にしてわたしを睨《にら》んだ。
「時間なんて関係ないでしょ! せっかく仲間に入れたんだから、お姉ちゃんはその人たちとめちゃくちゃ仲良くすればいいの! お姉ちゃんは、その人たちと一緒にいて楽しいんでしょ?」
夏樹の目が僅《わず》かに潤んでいる。そんな夏樹に、わたしは何も言い返せなかった。ただ、黙って首を僅かに縦に振った。
ちょっと前のわたしは、人と一緒にいることなんて疲れるだけでくだらない、と考えていた。だけど、今は違う。確かに、みんなといる時間は楽しかった。みんなと一緒にいられることが嬉《うれ》しかった。
夏樹は語調を少し弱めて続ける。
「だったら、完璧《かんぺき》に友達じゃん。そういうのって、認められるとか、認められないとかじゃないんだと思うよ。遊んで楽しかったり、隣にいて心強かったりしたら、自然と友達になるんだよ」
わたしは俯《うつむ》き、夏樹の言葉を反芻《はんすう》した。
今まで友達になるためにはどうすればいいのか、など考えたこともなかった。そもそも、友達が欲しいとも思わなかった。
だけど、今は違う。演劇部の仲間たちともっと仲良くしたい。もっと一緒にいたい。そう思う。みんなはわたしを迎え入れようとしているのに、わたしは色々と理由をつけて、彼らの好意から目をそむけてきた。怖がって逃げてきた。このままでは、わたしはずっと今のままだ。
「だけど、どうすればいいのか……」
「どうもしなくていいの!」
夏樹《なつき》は強く言う。
「ただ、友達を信じて、ずっと大切にするだけでいいんだよ」
信じて、ずっと大切にする……。
その言葉は、すとんとわたしの中に落ちてきた。
駅に着くと、改札口を通る。そこで、夏樹とはお別れだった。
「それじゃ、部活頑張ってね」
そう言って、夏樹は遠くの方にいる友達の方に走っていった。わたしはその後ろ姿をしばらく眺める。今までは色々と口うるさい邪魔な身内だとしか思っていなかったが、もしかしたらいい奴《やつ》なのかもしれない。
電車に乗り込み学校を目指す。ゆらゆらと揺れる電車の中で、頭の中にもゆらゆらと思うことがあった。
妹がいることで何か得したことはなかった。むしろ、どんなものでも分け前が半分になってしまい、一人っ子の方がどれほどよかっただろうか、と常に考えていた。だが、それは夏樹も同じはずだ。それでも、夏樹がわたしを邪険に扱うことはなかったような気がする。確かに、馬鹿《ばか》にすることはあった。特に、わたしがこの姿になる前は、毎日のように小言を言っていた。しかし、それは姉を厭《いと》う感情とは違った。むしろ、思いやる気持ちの方が大きかったように思う。
わたしは心が狭い。だから、それに気がつかなかった。いや、気がつこうとしなかった。気がついて自分の小ささを思い知るのが怖かったからだ。だから、妹を愚か者扱いして、自分の中でバランスをとっていた。
電車は揺れる。わたしも一緒に揺れる。心地よい揺り篭《かご》の中でうつらうつらとしてきたところで、三癒《みゆ》先輩が乗り込んできた。わたしの周りの空気が一気に明るくなる。
笑顔で挨拶《あいさつ》される。わたしも笑顔で応《こた》えた。
こんなことでいいんだ。わたしにだって友達はできるかもしれない。
わたしは悪魔を睨《にら》みつけてやった。青い赤ん坊は、わたしから目を逸《そ》らすように、わたしの頭上で浮かんでいた。
三癒先輩はいつものように笑っている。わたしもつられて微笑《ほほえ》んでしまう。
わたしがこんな風に笑えるようになったのは、いつからなのだろう。
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四幕 ぎとぎとお花見
「大発表でーす!」
まばらな拍手が舞台にぱちぱちとこだまする。一応、全員が手を叩《たた》いているのだが、四人しかいないのだから、それくらいの音にしかならない。一方、叫んだ三癒《みゆ》先輩の方は全く気にしていない様子で、両手を僅《わず》かに上下させて盛り上がりを抑えるジェスチャーをした。何だか、それはそれで可愛《かわい》らしい。
「まぁまぁ、皆さん、落ち着きを取り戻してください。慌てて、よいことなど一つもありませんよ。OK?」
他《ほか》の部員は拍手を止《や》め、彼女の話に耳を傾ける。基本的に、みんな善良な人たちなのだ。注目を集めた三癒先輩は、わざとらしく咳払《せきばら》いをすると、とんでもない大声で叫んだ。
「お花見がしたーい!」
「声が大きい!」
湊山《みなとやま》先輩が三癒先輩の頭を小突く。それをノーガードの状態で受けた三癒先輩は頭を押さえて転がり、悶絶《もんぜつ》した。
「練習終わりに重大発表があるって、このことかよ」
のたうち回る小動物を見下ろしながら、湊山先輩がため息をついた。そんな男を、三癒先輩は憎らしげに睨《にら》みつける。
「頭は殴《なぐ》らないでください! 馬鹿《ばか》になったらどうするんですか!」
「それ以上はならんだろ」
「湊山君よりはずっと賢いです! 未《いま》だにフェルマーの最終定理が解けてないくせに!」
「あれは、まだ考え中なんだよ!」
いや、そんな簡単に解けたらエライことですよ、先輩……。
「それより、突然どうしてお花見なんですか?」
わたしが声をかける。この場で誰《だれ》かが話を進めなければ、彼らのコントをずっと見ていなければならなくなる。それはそれで楽しいかもしれないけど。
「よくぞ聞いてくれました!」
三癒先輩はぱっと立ち上がり復活した。
「空口《そらぐち》さんの歓迎会とか?」
横から雛浦《ひなうら》さんが言う。三癒先輩は先ほどと同じような恨めしそうな瞳《ひとみ》を、雛浦さんの方に向ける。本当に表情がころころ変わる人だ。
「何で先に言っちゃうのぉ……」
「それは俺《おれ》も考えていた」
そう言ったのは一之瀬《いちのせ》先輩だった。
「空口《そらぐち》さんが入部してくれたし、親睦《しんぼく》を深めるために何かしたいなってね」
「部長まで横取りですか! 強奪ですか! 人の意見に便乗商法ですか!」
訳の分からないことを喚《わめ》く三癒《みゆ》先輩は、まるでいないかのように扱われ話は進む。
「それはいいな。うん。とりあえず、やっておこう」
頷《うなず》く雛浦《ひなうら》さん。だが、湊山《みなとやま》先輩が難しい顔をして腕を組んだ。
「ただ、今の時期はどこも人でいっぱいだぞ」
今は三月下旬。ちょうど桜が花開く季節だった。確かにどこに行っても人で溢《あふ》れかえっているだろう。わたしは人ごみが好きじゃない。あまりにがやがやとしているところに行くと、どうしてもしりごみしてしまう。
そんなわたしの不安を打ち消すように、泣き顔だった三癒先輩が急に小さな胸を張った。
「大丈夫!」
「なにが大丈夫なんだよ」
すかさず湊山先輩が言葉を返す。この二人はとても仲がいいのかもしれない。
「人がうじゃうじゃいるところでやるのは嫌だぞ」
「だから、大丈夫です。うちでやるから!」
うちでやるから?
「ほおー」
三癒先輩の言葉は、わたしには意味が分からなかったが、他《ほか》の部員たちは同時に頷いた。
「ああ、なるほどね。その方法があるか」
そう言うと、湊山先輩は三癒先輩の頭を撫《な》でた。本当に仲がいいらしい。何となく二人の先輩が羨《うらや》ましかった。しかし、問題はそこではない。三癒先輩の家でやるということはどういうことなのか。
「あの、もしかして三癒先輩の家って、広い庭があるんですか?」
わたしは恐る恐る訊《き》いてみる。無邪気な先輩は朗《ほが》らかに答える。
「庭っていうか、山があるんです。何個かね。あれ、山って一個二個って数えるんだっけ?」
「山の数え方は峰とか座」
実は博識なのか、雛浦さんがこっそりと教える。
さて、わたしの心の中の疑問はまだ渦巻いていた。正確に言えば、日本語をそのままの意味で受け取ることはできるのだけど、その事実を現実的なものとして理解できなかった。山をいくつか持っている、ということはどういうことなのか。山と聞くと、国有林が最初にイメージされ、どうしてもそれを個人が所有しているというのが想像できない。
「三癒の家はもともと豪農でね。金持ちなんだよ、すごく」
さも当たり前のように一之瀬先輩が言う。それでも、言葉だけ聞いていても現実味が湧《わ》かない。ただ、頭では理解できているので、すごいな、という月並みな感想だけが浮かんだ。
「いつやる?」
「とりあえず、今度の日曜日がいいんじゃないですか」
「それじゃあ、わたし弁当作るです!」
「ダメだ! こいつだけに任せると恐ろしいことになるぞ!」
「ほほぉう。それじゃあ、湊山《みなとやま》君だけはコンビニのお弁当でも食べればいかが?」
「大丈夫です。とりあえず、わたしも手伝います。先輩だけだと心配ですから」
わたしを取り残して、計画は加速していく。それでも、わたしの歓迎会ということで最後に、これでいいよね、という念押しをされた。もちろん、わたしは無条件に首を縦に振った。ここで横に振るようなことがあれば、そのまま頭をねじ切られそうな雰囲気だったし。
こうして、練習後のささやかなミーティングは終わった。
家に帰っても、まだ実感が湧《わ》かなかった。
自分が友達と一緒にお花見。
なんだか不思議な感じがした。だけど、それは確実にやってくる未来だった。
翌朝。今日は終業式。これで、明日から春休みに突入する。ついに、わたしももうすぐ二年生になるのか。しみじみ。
教室に入ると、みんな少し浮き足立っていた。すぐそばまで迫った連休が、みんなのテンションを上げているのだ。
「おっはよう!」
そう言って、突然わたしの背中を叩《たた》いたのは大河内《おおこうち》だった。もちろん、咳《せ》き込むほど強くは叩かれていないが、いきなりのことだったので思わず悲鳴をあげてしまった。
「空口《そらぐち》さんは軟弱だなあ」
そう言って悪びれる様子もなく、大河内は大声で笑った。いつか本当にこいつを呪《のろ》おうかしらん。封印していた邪気が解放されそうだったけど、どちらかというとそのアイディアは冗談に分類されるものだった。
「空口さん、おはよう」
次に声をかけてきたのは、雛浦《ひなうら》さんだった。彼女は春風みたいにすうっとわたしの横を通り過ぎると、桜の花みたいないい香りを残して自分の席に着いた。雛浦さんと大河内の立ち振る舞いを比べると正反対だ。だけど、わたしは雛浦さんの持つ暗黒面を知っているから、一概にその印象が正しいとはいいきれないのだけど。
「あれ? 空口さんって雛浦さんと仲良かったっけ?」
大河内《おおこうち》が不思議そうに呟《つぶや》いた。
「まぁ、演劇部つながりというか、何というか」
わたしは曖昧《あいまい》に答えた。
「え! 空口《そらぐち》さんって演劇部に入ったの?」
「まぁ、そんな感じ」
「ふーん。それでどうなの? わたしのほとばしる熱いパッションは伝えてくれた?」
まずい。わたしは自分のことで精一杯になっていて、未《いま》だに大河内のことは伝えられていない。
「いや、まぁ、それは……」
「え! まさか、まだ言ってないの?」
「ほら、こういうのってタイミングが命みたいなところがあるじゃないですか。ね? こう、一之瀬《いちのせ》先輩の弱っている時を見計らって、言霊というか呪《しゅ》をぶつけた方が、成功率も高いのかなって……」
「言霊? 呪?」
しまった! 焦りすぎて、ついつい自分の土俵《どひょう》の言葉を使ってしまった! しかし、大河内は首をかしげた後、にかっと笑った。
「まぁ、なんかよく分かんないけど、その方が上手《うま》くいくって言うなら、それでお願い」
馬鹿《ばか》で助かったよ。ああ、嫌な汗をかいた……。
予鈴が鳴る。みんな席に着いた。わたしも自分の席に戻る。雛浦《ひなうら》さんの席の隣を通る時、彼女がわたしを呼び止めた。
「日曜日は、とりあえず十時に柳生川《やぎゅうがわ》駅に集合らしいよ」
「はーい」
わたしは席に着く。今まで感じていた、周りからの冷たい視線はもう感じない。今まで気にしていた、周囲のひそひそ話ももう聞こえない。確かに、わたしの中で何かが変わりつつあった。
「花見か」
そんな浮かれたわたしの背筋を凍らせる声。この嫌な声色は、頭の上に浮かんでいる悪魔のものだ。わたしは上を見ないように、それでもちょっとだけ意識を声の方に向ける。担任の先生が教室に入ってきて何か話しているが、それはほとんど聞こえなかった。
「随分と親しくなれたものだな。だが、汝《なんじ》が特に親しくしたいのは一人だけなのではないのか?」
舌なめずりをするような音を出して、悪魔は続ける。
「一之瀬|拓馬《たくま》……。確かに、なかなかの男だ。だが、汝は恋をすることを禁じられているのだぞ」
「何を言ってるんですか!」
「明日からの休みについての話だ」
担任教師が怒っている。ああ、またやってしまった。わたしは思いっきり頭の上を睨《にら》んだ。悪魔は僅《わず》かに微笑《ほほえ》み、こちらを見下ろしている。
「空口《そらぐち》、お前は少し頭を冷やした方がいいな」
先生が言う。わたしは悔しい思いを殺して、頭を下げた。
「本当に冷やさなければならんのは、汝《なんじ》の恋の炎だがな」
いやらしい笑い声をつけて、悪魔は言う。全然|上手《うま》いことを言っていないと思ったが、もちろん口には出さない。
「好きなのではないのか?」
わたしは黙って首を横に振る。確かに、一之瀬《いちのせ》先輩はかっこいいし、優しいし、演技も上手い。だけど、それと好きだというのは別だと思う。
「舞台から落ちた時、助けてもらっていたな。あの時は、まんざらでもない顔をしていたと思うが」
舞台から落ちた時……。思い出すだけで、顔から火が出そうになる。確かに、わたしはあの時とんでもなく胸をドキドキさせていたけど、あれはきっと立ちくらみのせいであって、そういう恋愛めいたものとは無関係のはずだ。
そう。あれは全然関係ないんだ……。
終業式は体育館で行われる。わたしは雛浦《ひなうら》さんと一緒にそこに向かいながら、自分で自分の説得を続けていた。
式は淡々と進んだ。いつものように校長先生が故事成語か何かから引用してきた話をして、生活指導部の先生が春休み中の活動について、小学生にするみたいな注意を並べた。わたしはそんな話を聞き流していたけど、頭の中では先ほどの悪魔の言葉がぐるぐる回っていた。
不意に、生活指導の先生のありがたいお話を遮る派手な音が響いた。同時にかなり大きな悲鳴が体育館にこだまする。呆《ほう》けていたわたしも、さすがにその声には驚いた。声の方向は二年生の列の方からだった。
「一之瀬先輩!」
今度は聞き覚えのある叫び声。それは、大河内《おおこうち》のものだった。彼女は何度もジャンプしながら状況を確認しようとしている。背の低いわたしに見えるのは、周りの人の背中とジャンプする大河内の頭くらいで、何が起こったのか全く分からない。だけど、何かものすごく嫌な予感がする。急に背筋に冷たいものが走った。
「天井のライトが落ちたようだな」
そう教えてくれたのは悪魔だった。空中に浮かんでいる悪魔からは状況がよく見えるのだろう。
「ライトは二年生の男子のところに落ちたようだぞ。例の一之瀬《いちのせ》という男の上に落ちていればいいな。そうすれば、汝《なんじ》を惑わす男がいなくなり、契約を破ることもなくなるだろう」
背筋が凍りつく。
「まさか、あなたが……」
その続きは恐ろしくて続かなかった。
幸い、天井のライトは列と列の間に落ちたため、終業式で怪我《けが》人が出るという惨事には発展しなかった。ライトをとめていた金具が老朽化《ろうきゅうか》していたのではないか、と担任から説明があった。だけど、わたしはそれを鵜呑《うの》みにすることができなかった。
日曜日は雲ひとつない快晴だった。白に近いくらい透明に透き通った青い空にはツバメが舞い、心地よい春の風が肌をくすぐる。陽春という言葉がすぐに思いつくような、完璧《かんぺき》な気象条件だった。新芽が芽吹いた路地で花の香りを楽しみながら、わたしたちは進む。田んぼと畑とビニールハウスが延々と続く風景を横に、三癒《みゆ》先輩が部員たちを先導した。
ついこの間まで少し寒かったように感じていたが、今日は歩いただけで汗ばむくらいの陽気だった。上着を余分に羽織ってきてしまったかもしれない。そう思ったわたしは、ちらちらと雛浦《ひなうら》さんと三癒先輩の格好を気にした。
制服とジャージ姿以外の部員を見るのは初めてだった。
雛浦さんはフリルの白いカットソーに、下は黒のジーンズ。めちゃくちゃかっこいい。
三癒先輩は水色のワンピースに、ベージュのショールカーディガンを羽織っている。涙が出るくらい可愛《かわい》い。
わたしの私服はとても人前で着られるものではない。初めから、そのことを考えて購入されていないからね。だから、今日は夏樹《なつき》の服を借りてきた。普段は、妹に背が低いことを馬鹿《ばか》にされているが、今日はその体格が吉とでた。多少大きいものの、妹の服は充分に着ることができる。
だが、そんな苦肉の策をもってしても、超えられない壁というのは確実に存在する。わたしが着ているのは、どこにでもあるようなシャツとジーンズ。他《ほか》の二人と比べればわたしの格好など、貧相で子どもっぽい時代遅れのファッションなのだろう。それでも、これはまだマシか。わたしが本当に普段着でここに来ようものなら、空には暗雲立ち込め、小鳥たちのさえずりはかき消され、春風は不穏な北風に変わるだろう。それくらいの邪悪さが、わたしのファッションにはある、マジで。だって、黒マントとかドクロのネックレスとかだもん。
激しい自己嫌悪に押しつぶされそうになりながら、それでもすばらしい気候はわたしの気持ちを無理やりに高揚させた。
最近、自分のことを嫌うことが少なくなってきた気がする。好きになったわけではないが、不必要に傷つけることは減ったと思う。落ち込んでもすぐに立ち直るようになったし、今だって、昔なら絶対に動けなくなっているか、逃げ出しているのに、自分のことを卑下しながらもみんなと並んで歩いている。
これが友達と一緒にいるということなのか。そうだとしたら、これはこれで楽しいことなのかもしれない。
「あとどれくらいで先輩の家の土地なんですか?」
雛浦《ひなうら》さんが三癒《みゆ》先輩に尋ねる。駅から既に二十分ほど歩いている。それでも、周りの風景にはほとんど変化がない。長閑《のどか》な田舎町《いなかまち》があるだけだ。
「駅からずっとわたしの家の土地です」
スカートの裾《すそ》が大きく広がるくらいにターンして、三癒先輩は言った。
ほーほけきょ。
ウグイスの鳴き声が山から聞こえる。みんな何も返事ができなかった。
「駅から? 駅からってかなり歩いているぞ」
湊山《みなとやま》先輩が震えた声で言う。
「うん。あと、ここから見える田んぼと畑と山はほとんどうちのです。まぁ、全部パパが耕しているわけじゃないですけど。もう少し行ったところに、桜がすごく綺麗《きれい》なところがあるです。だから、もうちょい辛抱《しんぼう》プリーズ」
小首をかしげてウインクしながら、嬉々《きき》としてお願いする大富豪の娘に、平民たちはただ頷《うなず》くことしかできなかった。わたしなどは、あまりにスケールの違う|弓ヶ浜《ゆみがはま》家の令嬢の発言で、このお花見に対するリアリティをますます失ってしまった。
さらに歩くこと二十分。わたしたちの目の前には、ひたすら長い白い壁がそびえたっていた。そして、その内側に弓ヶ浜邸があるという。
三癒先輩は門の前までわたしたちを案内すると、しばらく待ってと言って、自分の屋敷の中に入っていった。恐らく、彼女が自分の家の目的の場所にたどり着くまで、相当な時間がかかることが予想された。十五分ほどで帰ってきた彼女は、玄関に置いてあった自分の弁当とビニールシートを取ってきたらしい。門から玄関まで往復で十五分かかるとは、一体どんな構造になっているのだろうか。亜空間に繋《つな》がっているか、もしくはものすごく塀の内側が広いのか。わたしは、前者だと信じることにした。そうすることが、黒魔法少女と呼ばれた自分への、せめてもの手向けだと思ったからだ。
体育館をいくつか並べたくらいの規模のお屋敷から、花見スポットまでもそれなりの距離だった。相変わらず三癒先輩を先頭に、一同は山の中を進む。ほとんど舗装されていない道は歩きづらかったが、みんなと一緒に話しながら歩けば、その過程も楽しかった。
しばらくすると、桜の木に囲まれた絶好の場所が現れた。開けた土地を囲むように、桜が咲き誇り、真ん中にも巨大な桜の木があった。風が通ると、葉や花弁がこすれあい、柔らかい合唱を奏でる。ピンク色の花は地面にも舞い落ち、鮮やかな絨毯《じゅうたん》を敷き詰めたようになっていた。
「すごい……」
それはわたしの素直な感想だった。今まで、こんな綺麗《きれい》な場所を見たことがなかった。
「確かに、さすがは三癒《みゆ》だな」
わたしのすぐ横で一之瀬《いちのせ》先輩も呟《つぶや》く。そして、二人は目を合わせた。同じ感想を持ったことが嬉しかった。
ビニールシートを中心の桜のそばに敷き、そこに全員が座った。大きな[#「大きな」は底本では「大きなの」]シートだったので、荷物を置いても充分な余裕があった。雛浦《ひなうら》さんが料理を広げる。サンドイッチと厚焼き玉子、唐揚げにポテトサラダ。子どもが好きそうなメニューが並んでいる。きっと、雛浦さんと三癒先輩が作ったのだろう。わたしだけ何もしていないようで、悪い気がした。ただ、わたしが手伝ったとしたら、これだけおいしそうなものはできなかっただろう。自慢ではないが、わたしは壊滅的《かいめつてき》に料理ができない。
「それじゃあ、新しい部員の空口《そらぐち》さん、挨拶《あいさつ》を」
セッティングが済むと、部長がそう言ってわたしを立たせた。わたしは驚いて背筋を伸ばす。
「えっと、本日はお日柄もよく、じゃなくて……、あの、その……」
不自然なくらいの直立不動で、口をもごもごさせる。
まずい。何を言えばいいのか分からない。
「いや、まぁ……」
だめだ。みんなきっと呆《あき》れている。こんな人間が演劇部の部員をやっていていいわけがない。
「そんなに緊張しなくていいよ」
そう言ってくれたのは、一之瀬先輩だった。わたしはすがるような気持ちで彼の方を向く。
「空口さんは、演劇部でどんなことがしたいの?」
言葉が見つからないわたしにとって、質問は何よりもありがたい助け船だった。わたしはそんな彼のヘルプに応《こた》えるべく、体中のブドウ糖を総動員して脳を稼動させる。
しかし……。
だめだ。全くいい言葉が出てこない。
全員が心配そうにわたしの方を見ている。あまりにも口をパクパクさせているから、過呼吸になったのではないかと心配しているのかもしれない。
「だ、だいじょ……」
大丈夫です。そう言いかけた。
「大女優?」
湊山《みなとやま》先輩が小さな声で呟《つぶや》く。わたしの耳はそちらの音に反応し、口もそのように動く。
「大女優です」
三癒《みゆ》先輩の目が大きくなるのがよく分かった。雛浦《ひなうら》さんもびっくりしたようにこちらを向く。一之瀬《いちのせ》先輩は優しく微笑《ほほえ》んでいた。空口《そらぐち》真帆《まほ》の発言の意味を理解するのに、わたしは英訳並みの時間を要した。そして、自分が何を言ったのか分かると、顔が真っ赤になって、全身にカイロを貼《は》ったかのように体が熱くなった。
「何て言ったの?」
事件の原因をつくった湊山先輩は、本当に耳が遠いらしく、わたしに先ほどの失言を繰り返すように求めてきた。ここまで来てしまったら、もはや失うものは何もない。発声練習で鍛《きた》えた大声を張り上げ、地球の真裏でカーニバルをしているブラジル人に聞かせるつもりで叫んだ。
「自分、大女優になるっス!」
鳥がわたしの濁声《だみごえ》に驚いて木から飛び立った。雛浦さんも三癒先輩も先ほどより驚き、湊山先輩は突然のことに座ったまま僅《わず》かに飛び跳ねた。そして、十分の一秒のタイムラグを経て、大きな笑い声が起こった。わたしは恥ずかしさのあまり、その場に座り込んでしまった。
三癒先輩は大笑いしながらはしゃいでいたし、雛浦さんは控えめに微笑んでいた。湊山先輩は自分の聞き間違いが原因なのに豪快《ごうかい》に笑った。そして、一之瀬先輩は目を細めて、優しく笑っていた。
わたしを包む彼らの笑みは、それまでわたしが怖がってきた嘲笑《ちょうしょう》とは違う。
もっと柔らかくて、温かいものだ。
わたしを嘲《あざけ》るのではなく、愛《いと》しむ[#「いつくしむ」の誤り?]ような声。
傷つけるのではなく、迎え入れるような空気。
「それじゃあ、いっただきま〜す!」
そう言って三癒先輩が料理に手をつけ、それを合図に食事が始まった。
うららかな太陽が嬉《うれ》しかった。
穏やかな森の香りが気持ちよかった。
鮮やかな桜が美しかった。
そして、自分を受け入れてくれる仲間たちといることが、どんなことよりも楽しかった。
他愛《たあい》のない会話。笑いあい、慰めあい、励ましあう。
きっと、ほとんどの人が当たり前のように過ごしてきたそんな日常が、わたしには欠けていたのだと思う。今まで足りなかったものを求めるように、乾いていた心を潤すように、わたしは大笑いしながら話した。そうやって、少しでも自分の持っていなかったものを、ここで手に入れておきたかった。
「バドミントンしよっか?」
そう言ったのは、湊山《みなとやま》先輩だった。彼は自分の荷物から二本のラケットとシャトルを出した。みんなすぐに賛成する。わたしも当然のように立ち上がって大喜びした。
空が、桜が、みんなが、わたしを囲む全《すべ》てが輝いて見えた。
わたしには運動神経がない。
これは、本当に運動神経が体を通っていないという意味ではなく、体を動かすことが苦手であるという意味の表現である。だけど、わたしの運動神経には何か機能的な欠陥があるのではないのだろうか、と思うことがしばしばある。それくらい、わたしは自分の体を自由に動かせなかった。俊敏性、筋力、持久力、それらはわたしの筋肉には皆無だった。今まで運動系の部活に入ったことがないことが大きな要因だろうし、生活の中でもスポーツらしいスポーツをしていない。
それが、災いした。
「ギャー!」
すさまじい雄たけびと共にわたしはラケットを振り下ろした。なんでそんな大声を出したかというと、テニスプレイヤーが球を打つ時に、何か叫んでいることを思い出してしまったのが原因。プロ選手がやっていることなのだから、何か意味があるはずだ。そして、テニスもバドミントンも同じようなものだろう。そんな推測から、わたしの絶叫スマッシュは放たれた。確かに威力は充分だった。でも、そのコントロールは最悪。シャトルはあらぬ方向に飛んでいった。
森の中のバドミントン。弁当を広げた広場には運動をするスペースがあった。そのため、そこでゲームを始めたわけだが、開始から僅《わず》か五分ほどでシャトルが紛失してしまった。
「ごごごごめんなさい!」
わたしは土下座をした。すぐに謝る癖《くせ》は、幼稚園児の頃《ころ》からずっと直っていない。だが、せっかく楽しく遊ぼうとしていたのに、そのいい雰囲気を一瞬で壊してしまった事実に間違いはない。世が世なら切腹だったかもしれない。
「いいよ、シャトルくらい」
そう言ってバドミントンセットの所有者の湊山先輩が、ごつい体格に似合わぬ優しい手つきでわたしを立たせる。確かに、シャトルがなくなること自体はそれほど大きな損失ではないだろう。しかし、みんなでバドミントンができなくなるというのは大ダメージのはず。わたしは、シャトルが飛んでいった茂みを睨《にら》んだ。
「捜してきます!」
一刻も早く、シャトルを見つけ出さなければ、せっかくみんなで盛り上がっていた空気が冷めてしまう。それが嫌だった。いや、怖かった。自分が初めて溶け込めた仲間たちから、またはぐれてしまうような気がした。
茂みに飛び込むと、木の枝と背の高い草を掻《か》き分けて進む。想像以上に草木が生い茂っており、少し進むと足元は見えないくらいに植物が繁殖していた。腰の高さを超えるくらいまで葉が伸びており、大きな木の枝は天を覆うように周辺を囲んでいる。
足元を何かが通り過ぎる。
「きゃっ!」
思わず大きな声を出して、片足を上げた。広場の方からすぐに心配する声が飛んできた。
「どうしたんですかぁ? 平気ですかぁ?」
「大丈夫でーす!」
わたしは声を張り上げた。すると、こちらに向かって誰《だれ》かがやってきた。草木を押し分けて、あっという間にわたしのところまでやってくる。それは、一之瀬《いちのせ》先輩だった。
「あ、や、あの、本当に大丈夫ですから」
わたしは両手を前に出して大きく振った。オカマさんのような動作だったけど、それくらいわたしは彼に心配をかけたくなかった。というか、恥ずかしい。
「それなら、よかった。それじゃ、一緒に捜そうか。みんな心配しているから」
「は、はい」
大人《おとな》しく頷《うなず》くわたし。それしか言えなかった。それ以外の言葉が見つからなかった。ただ、優しさだけは春の日差しみたいにぽかぽかと伝わった。
わたしは黙って姿勢を低くすると、天然の障害物をどかしながらプラスティック遊具を捜した。一之瀬先輩に何か話しかけた方がいいのかもしれない。だけど、何を言ったらいいのか分からない。むしろ、ここは捜すのに専念して会話はない方がいいのか。そんなことばかり考えていたら、結局は黙々と捜しているのと同じになった。
「そっちの方に飛んだような気がするよね」
そう言いながら一之瀬先輩が近づいてきた。わたしは少し緊張しながら、曖昧《あいまい》に頷いた。
彼との距離が縮まる。
距離にして二メートル。
そんなに近づいたら彼に失礼だ。なぜだか、そんなことを考えた。わたしは彼の方を向いたまま後ろに下がった。
その時、足場を再び何かが通り過ぎた! わたしは驚いて飛びのいたはずみに、体勢を崩す。大きくのけぞったところに、一之瀬《いちのせ》先輩が手を伸ばしてくれた。わたしはその手をしっかりと掴《つか》んだ。
舞台から落ちた時も一之瀬先輩に助けてもらった。また、助けてもらえる!
手にギュッと力が入る。一之瀬先輩もわたしの手を強く握って、わたしの体勢を元に戻そうとする。
「大丈夫?」
「あ、ありがとうございます」
助けてもらった……。恥ずかしいけど、嬉《うれ》しい。
わたしは何とかバランスを取り戻して茂みに立つ。だが、足をついた場所が悪かった。
「え? わわわ!」
足場になった不安定な岩がぐらりと揺れる。その岩が崖《がけ》のように傾斜の急な坂を転がっていく。草が茂っていて気がつかなかったが、わたしたちのすぐ横には大きな谷のような地形があったのだ。
こんなところに落ちたらえらいことだった。わたしがほっとした瞬間、不意に大きな力で肩を引っ張られた。
「空口《そらぐち》さん!」
わたしを支える一之瀬先輩も大きく揺らぐ。そして、そのままわたしは彼を道連れにして、崖を転がりながら落ちていく。
強く背中を打ち、呼吸が止まり、意識が一気に遠のく。意識と無意識の狭間《はざま》で、青い空と鬱蒼《うっそう》と茂る森の間に青い炎を見た。
広がる羽。胎児《たいじ》の姿。わたしを見つめる悪魔。
否、あの眼《め》は一之瀬先輩を見ているのか。
「さっき、何を考えていた?」
悪魔の声。草むらを駆け回って、わたしを驚かしたのは、こいつだろうか? わたしを急に引っ張って崖から落としたのも、こいつなのか?
「この男のことを考えていたな? 禁止されたことを忘れたか? それとも、やはりあの時にライトをぶつけておくべきだったか」
「もうやめて! 放《ほう》っておいて!」
もしも一之瀬先輩に何かあったら、わたしは……。
悪魔は僅《わず》かに微笑《ほほえ》む。そして、ゆらゆらと炎を残して消えていった。
次の瞬間、目の前は土と草だけになった。
意識が遠のく。
呼吸できない。
何も聞こえない。
感覚も消えた。
全《すべ》てが曖昧《あいまい》になる。
……。
体中が痛い。まずは痛覚から復活した。最悪の目覚め。
瞼《まぶた》を開くと、森の景色が見えた。視覚も正常のようだ。どうやら、わたしは森林のど真ん中で仰向《あおむ》けに横たわっているらしい。土と草の感触が、背中から伝わってくる。体中がだるくて動きたくなかった。でも、このままでいたら森の一部になってしまいそうだ。一大決心をして体を起こす。案の定、腰の辺りから背骨に沿って激痛が走った。
「大丈夫?」
不意に声をかけられ、驚く。わたしのすぐ横に一之瀬《いちのせ》先輩がいた。
「無理して動かない方がいいよ。あそこから転がってきたんだから」
そう言って彼はほぼ垂直に腕を挙げた。その指の先には崖《がけ》の天辺《てっぺん》が見えた。四階建ての建物くらいの高さがある。あそこから転がってよく無事だったものだと、自分でも感心する。途中の植物やら土やらがクッションになったのかな。
「部長は大丈夫ですか? なんか、巻き込んじゃったみたいで……痛っ!」
立ち上がろうとすると、右踝《みぎくるぶし》辺りが鋭く痛む。先ほどの背中の痛みの比にならないほどの刺激。そして、その感覚はじわりと鈍い痛みに変わりながら右足首全体に広がった。今までの人生の中でもトップレベルに痛い。
「右足、痛い?」
彼が心配そうに右足を覗《のぞ》き込む。わたしはその場に座り込んでしまう。すぐに返事ができないほどに痛かった。
すると、彼は何も言わずに身を低くして背中をこちらに向けた。わたしはそれが何を意味するのかすぐには理解できなかった。
「ここから少し行ったところに、ベンチがあった。遊歩道みたいなのもあったから、ここにいるよりもそこにいた方が見つかりやすいと思う。さっき、みんなに電話したら捜しに来てくれるって言ってたから、そこで待っていよう」
だけど、わたしは足が痛くて動けない。
だから、背中を向けて……。負《お》ぶってくれるっていうこと?
……恥ずかしい。だけど、嬉《うれ》しい。
一之瀬先輩は、振り返ってこっちを向いた。わたしは気持ちを固めると、彼の首に腕を回した。体を彼の背中にあずけると、一之瀬先輩はゆっくり立ち上がった。
心臓の動きが速くなる。体をくっつけている彼にその振動が伝わってしまいそうで怖かった。
「重いですか?」
わたしは耳元で尋ねた。何か話していないと緊張で押しつぶされそう。崖《がけ》の上では喋《しゃべ》れなくて困っていたのに、今は不思議と言葉を紡ぐことができる。人間は追い詰められれば大抵のことができるものだね。
「大丈夫。っていうか、むしろ軽いね」
わたしは小柄だ。体重の軽さには自信がある。
「これくらいなら、さっきの崖を上れるかもな」
そう言って彼は笑った。わたしも小さく笑った。
「それに、空口《そらぐち》さんを背負うのは二回目だし」
そうだった。体育館で倒れた時も、一之瀬《いちのせ》先輩に背負われたのだった。
「あ、あの時は、本当にごめんなさい」
「ん? 別にいいよ。無理やり練習に参加させたのはこっちだしね」
別に練習がきつくて倒れたわけじゃない。だけど、倒れた理由を上手《うま》く説明する自信がなかったので、そのまま黙っていた。
一之瀬先輩は何度か、よいしょ、とわたしを負《お》ぶいなおした。そのたびに、わたしは彼にまきつけた腕の力を強めた。そうしなければ落ちそうになる、ということもあったが、本当は深層心理に起因する原因なのかもしれない。
そうだ。こんな目にあわせた悪魔に文句を言ってやらないと! 頭上を見たが、悪魔はいなかった。
逃げやがったな、あの野郎!
……だけど、この状況を見られなくてちょっとラッキーかも。
しばらく進むとベンチが置かれた小道が姿を現した。わたしをその古びた木製の長いすに座らせると、一之瀬先輩は携帯電話を取り出した。どうやら三癒《みゆ》先輩に連絡するみたいだ。彼は自分のいる場所を簡単に説明していた。しばらくすると、電話を切り、わたしの隣に座った。距離にして七〇センチメートルほど離れている。
「ここに来るまで少し時間がかかるかもしれないって。大回りしないといけないんだってさ」
ということは、一之瀬先輩と二人きりの時間がそれだけ続くということか。
今まで、他《ほか》の人間といるよりも、独りでいる方がずっと気が楽だと思っていた。だが、今は違う。今は少しでもこのまま一緒に一之瀬先輩といたかった。いっそ、誰《だれ》も来なければいいのにとも思った。
「あ、あの!」
わたしは意を決して声をかける。一之瀬先輩はこちらを振り向く。頬《ほお》に小さな擦り傷ができているのが痛々しい。
「大河内《おおこうち》さんって知ってますか?」
そう。わたしが演劇部にやってきたそもそもの原因は、彼女にあるのだ。もはや、彼女のことなどどうでもいいのだが、義理はある。一応、あの女のことを話しておかなければならないだろう。
「大河内《おおこうち》? えっと、誰《だれ》だっけ」
「ああ、知らないならいいです。本人は悲しむかもしれませんけど、別に部長が知らなければいけない人ではないですから。むしろ、部長が知らない方が自然ですし」
「その人がどうかしたの?」
「いや、何というか、まぁ大したことではないんですけど」
少し言いよどむ。たとえ他人の気持ちだとしても、好き、という言葉を口にするのは恥ずかしい。
「なんか、部長のことを気にしてましたから……」
「気にしてた?」
「まぁ、あれですよ。舞台を見たらしくて、その時に、かっこいいなっていうか、素敵だなっていうか……。そんな感じです」
なんだそりゃ、といって一之瀬《いちのせ》先輩は笑った。彼が笑顔になると、わたしもなぜか微笑《ほほえ》んでしまう。顔は笑いながら、心の中で大河内に謝った。
「でもありがたいな。悪い気はしないよ」
「え、でも、部長は恋人いるんじゃないんですか?」
大河内の調査ではいないらしい。だが、彼ならばいる方がずっと自然だろう。
「今は、いない」
今は……? それは、過去にいたという意味だろうか。それとも、これからできるという意味か。なんにせよ、現在は恋人と呼べる人物はいないらしい。よかったな、大河内。
「空口《そらぐち》さんは? 彼氏いるの?」
不意にわたしに質問の矛先が向く。わたしは頭がもげるくらいの勢いで首を横に振った。
「いません、いません! 滅相もないです!」
「何でつくらないの?」
何でつくらないか、など考えたこともない。自分にとって恋愛は別世界の話だと思っているし、誰かが自分のことを好きになるなど考えただけでおこがましい。それに、自分が誰かを好きになるというのも、現実的ではない気がした。
「わたしには無理です」
思考を要約すると、そういう返事になった。嘘《うそ》ではないが、正確ではない。そんな返答だった。
「可愛《かわい》いのに、もったいない」
か、可愛い?
自分の鼓膜を振動させた空気の振動が、果たして正しいものであったか疑いたくなる。顔の表面温度が急上昇していく。今なら、頬《ほお》で目玉焼きが作れそうだった。可愛《かわい》い、という言葉を男の人から初めて言われた。しかも、こんなに堂々と!
「そそそそんなことないです!」
そうだ、これは悪魔が作り出したまやかしの姿。これは、本当のわたしではないのだ。それでも、心の中で踊りだす空口《そらぐち》真帆《まほ》のワルツは加速する。真っ赤な顔で満面の笑みをうかべ、彼女は舞っている。
「もっと自分に自信を持っていいと思うよ」
そう言って、一之瀬《いちのせ》先輩は僅《わず》かに近づいた。二人の残りの距離は三〇センチ。
「ありがとうございます」
とりあえず、お礼。しかし、嬉《うれ》しい反面、それを前面に出すことはなぜか憚《はばか》られた。
わたしは膝《ひざ》の上の手を握り締めた。
「でも、これは、その、違うんです。わたしは、本当はもっと全然ダメな奴《やつ》なんです」
「どうして?」
まさか、悪魔と契約したとは言えない。
「どうしてもです」
そう言って、自分の膝を見つめる。まともに一之瀬先輩を見ることができない。
ざわざわと木々が葉を揺らす。
恐れていた沈黙がやってきてしまった。
……。
「昔さ」
一之瀬先輩が話し出した。わたしは、僅かに彼の方を向く。
「沙倖《さゆき》っていう人がいたんだ」
沙倖……。どこかで聞いたことがある。
「先輩だった。順調にいっていれば、この前の卒業式で卒業するはずだった」
「卒業してないんですか?」
「死んだ。卒業前にね」
卒業前に死んだ?
「病気だったんだ。もともと、体は強い方じゃなかったんだけど、それが悪化して三年の後半はほとんど学校にも来られなかった」
「あの……」
思い出した。沙倖というのは、いつだったか三癒《みゆ》先輩が電車の中で口に出した名前だ。確か、わたしは彼女の分身だと言っていた。
「その人、演劇部の部員だったんですか?」
「部長だった。今回の劇の脚本も沙倖《さゆき》が書いた」
呼び捨てだ。先輩なのに、どうして呼び捨てなのだろう。
「それで、本当は空口《そらぐち》さんの役を、沙倖がやるはずだったんだ。ほら、半年間入院していたから留年なんだよ。だけど、その前にさ」
「わたしはその沙倖さんの分身なんですか?」
「三癒《みゆ》から聞いた? そう、似ている。そっくりだと思う。……ごめん。こんなこと言われても、いい気分じゃないよな」
わたしは小さく首を振る。そんなことは、全く気にしていない。むしろ、全《すべ》てが繋《つな》がったようですっきりした。ただ、頭はすっきりしても、心の中には深い粘着質の靄《もや》が渦巻く。
「劇中の台詞《せりふ》に、こんなのがあるのを覚えてる? 沙倖がやるはずだった役の台詞。『生きていくっていうのは、少しずつ死んでいるのと同じ。わたしたちは、生まれた瞬間から死に続けてる。それなのに、どうしてこんなに死ぬのは怖いのだろう。たとえ死に続ける体であっても、わたしは生きることから逃げたくない』ってさ。きっと、これは沙倖が本当に感じていたことなんだと思う」
それは、代役であるわたしが言う台詞だ。どうしてなんだろう。胸がひどく痛んだ。
「もしかして、部長は沙倖さんと付き合っていたんですか?」
そんな気がした。いや、ただの想像ではない。わたしの中ではほとんど確信に近い自信があった。彼の一挙手一投足が、話し方が、間の取り方が、全てそうだと言っている。
少し間をおいて、一之瀬《いちのせ》先輩は頷《うなず》いた。
そうか。
わたしは死んだ先輩の代わりなのか。
「だから、わたしが自分に自信を持っていないのが許せないんですね」
少しだけとげのある言い方だったかもしれない。だが、自分が所詮《しょせん》はただの代用品であることを知った悲しみと悔しさは、言葉のストッパーを緩めていた。
「そうじゃない」
一之瀬先輩ははっきりと否定した。そして、また僅《わず》かに近づく。だが、わたしは彼から離れた。その距離は四〇センチメートル。
「おーい!」
離れたところから声が聞こえてきた。救援部隊が到着したのだ。わたしは黙って立ち上がり、彼らの方に向かった。自分でもどうして、そんな態度をとったのか分からない。だが、そうしないと、泣き出しそうだった。
右足の痛みは気合でカバーした。
こうして、お花見は終わった。
結局、シャトルは失われた。
[#改ページ]
五幕 しくしく昔話
「……だってさ」
わたしは大河内《おおこうち》に全《すべ》てを話した。一之瀬《いちのせ》先輩にはかつて恋人がいたが、今はいないこと。かつての恋人が沙倖《さゆき》という女性で、病死したという話。ただし、沙倖という女がわたしに似ているということは伏せておいた。場合によっては敵をつくる可能性があるからだ。
一通りの報告が終わると、大柄なゴリラ女はわたしに抱きついた。
「ありがとう! やっぱり彼女いないんだ!」
自分の調査の結果と事実が一致したことに、彼女は狂喜乱舞した。わたしは彼女の豪腕に抱かれながら、何となく虚《むな》しい気分になった。わたしは何をしているのだろう。
「だけど、なんか空口《そらぐち》さんの話を聞いた感じだと、一之瀬先輩はまだその女のことを引きずってるんだぁ」
それは間違いないはず。少なくとも、わたしはそう思った。
「さすがに死んだ人間は強敵だよなぁ。だって、死んだ人は浮気しないし、トイレも行かないし、ゲップもしないわけでしょ」
「だけど、死んだ人とは手をつなぐこともキスもできないよ」
思ってもないことを言って大河内を元気づける。わたしもこんなふうに人を思いやることができるようになったのだなあ。偉いぞ、わたし。
「そうだよね! 空口さん、今いいこと言った! 座布団あげようか?」
「いりません」
「冗談だって。じゃあ、なにが欲しい?」
「飴《あめ》」
「せこいなぁ、空口さん。せっかくこうやって運命的な出会いをして、いい話を聞けたんだから、もっとすごいのおごってあげちゃうよ」
「じゃあ、新しいローブ」
今のローブは霊力が切れてきた気がする。
「ロープ? 何かのプレイに使うの? それとも、震災の時の避難用?」
「じゃあ、ハンバーガー」
「ロープはいいの? まぁ、いいや。じゃあ、ハンバーガーでも食うか!」
わたしたちは近くのハンバーガーショップヘと向かった。
学校の授業は新学期までない。つまり、春休み中。
わたしは伊丹《いたみ》書店に本を借りに行こうと思って外出したのだが、その途中で買い物の帰りだという大河内に出会った。これも神の御心《みこころ》か、と思って一応彼女との約束の結果報告をしたというわけだ。だが、何の因果か、そのままハンバーガーショップに行くことになってしまった。昼時だったのでおなかの状況に問題はなかったが、気は進まなかった。
正直なところ、一之瀬《いちのせ》先輩の話をしたくない。どうして、自分がそんな気持ちになっているのか分からない。一之瀬先輩のことを考えると胸がもやもやするし、心臓が痛いような気もする。
そんなわたしの気持ちを全く感じ取っていない鈍感女の大河内《おおこうち》は、わたしをぐいぐい引っ張って最寄りの店に入った。わたしはほとんどペットのような扱いだ。
時間が時間だったため、店内には沢山の客がいた。ファーストフード店に入るのは二年ぶりくらいだろうか。わたしはほとんど外食をしたことがないので、知らない人に食事を作ってもらうことに慣れていない。店員と話をするのも苦手だった。
長い列の一番後ろにつくと、何を注文しようか考える。おごってもらうのだからあまり高いものを注文するのは気が引ける。だからといって、遠慮しすぎるのは逆に失礼である。そんなわたしの妥協点はチーズバーガーだった。
大河内は長い名前のメニューを注文した。それでどんな食べ物が出てくるかは知らなかったが、名前のイメージから大きくてボリュームのあるハンバーガーが出てきそうだった。予想通りわたしの三食分くらいはありそうな巨大なハンバーガーを受け取った大河内と、作り置きされていた量産型のチーズバーガーを受け取ったわたしは、店内の飲食スペースに移動した。
「来年のクラス分けは私立文系にしようと思うんだよね」
「はぁ」
「なんか、四組のあっちゃんが原付で事故ったらしいよ」
「ひぃ」
「ねぇ、あの交差点にいる男さ、どっちの方がいいと思う?」
「ふぅ」
「春休みだし、髪の毛を明るい色にしようかなって思うんだけどさ」
「へぇ」
「この前、コンビニですごいジュースがあったんだよね」
「ほぉ」
席に着いても、大河内のお喋《しゃべ》りは止まらなかった。食べている時以外は、何か言葉を発していた。つまり、彼女の口はその働きは違うにせよ、何らかの形で動き続けていたことになる。その話に適当な相槌《あいづち》を打ちながら、わたしは彼女の唇の動きを見ていた。よく動くものだねえ。
食べているものの体積はわたしの倍以上あるのに、大河内はわたしの半分の時間で食事を済ませた。
「あ、別に焦って食べなくてもいいよ。そうそう。三組のアヤッペいるでしょ? あの子って二股《ふたまた》してるって知ってた?」
焦らなくていいっていうのは、自分が話したいだけだと思う。
わたしがようやく最後の一口を平らげた時、店の自動ドアをくぐる見慣れた姿を見つけた。遠くからでも分かる黒髪の背の高い少女の姿。雛浦《ひなうら》さんだ。男と一緒にいる。声をかけようか迷っていると、雛浦さんの方がわたしに気がついた。彼女は手を振る。わたしはそれに応《こた》えて、控えめに手を振った。隣の男は誰《だれ》だろう。
「あ、雛浦さんだ」
わたしの視線を追った大河内《おおこうち》も、雛浦さんの存在に気がついた。
「へぇ、隣の男子、うちの高校の生徒だよね。確か、一組だったと思う」
大河内が言う。彼女は顔が広いので、他《ほか》のクラスにも沢山の友達がいる。そのため、彼女はどのクラスの人でもほとんど知っているのだ。そんなことを覚える暇があったら、ローマの五賢帝でも覚えた方が、ずっと彼女のためになると思うけど。
「隣の人は、彼氏なのかな」
呟《つぶや》くわたしを見て、大河内は笑った。
「あたしが知るわけないじゃん」
「だよね」
「訊《き》いてみれば?」
「恥ずかしい」
「なにが?」
「そういう話するのが」
「なんで?」
それは、自分でも分からない。とりあえず、恋愛の話題はついていけないから嫌いだ。もしかしたら、怖いのかもしれない。
大河内は、変なの、と言ってすぐに興味をなくしたように、また雛浦さんの方を見た。
「まぁ、雛浦さん可愛《かわい》いし、彼氏がいてもおかしくないよね。男の方は、えーと、ちょっと違うかな。うん、わたしのタイプじゃないな」
雛浦さんと一緒にいる男は、どちらかというとスポーツマンタイプの男だった。背が高く色が黒い。短く刈った頭には、茶色に染めたと思われる髪が立っていた。確かに、一之瀬《いちのせ》先輩とは違うタイプのようだ。
雛浦さんはもうこちらを見ていない。男の隣で何か楽しそうに話していた。二人は付き合っているのだろう。それは、雰囲気から伝わってきた。
そうか、雛浦さんにも恋人がいるのか。わたしは取り残されていく気がした。
「いいなぁ」
そう言ってため息をつく大河内《おおこうち》。
「あの人、タイプじゃないんでしょ?」
「あの男と付き合いたいわけじゃなくて、なんか、恋愛してるっていいなってこと」
「好きな人ならいるでしょ」
「片思いじゃ意味ないの!」
それじゃあ、好きな人すらいないわたしはどうなるのか。
「まぁ、でも両思いよりも、片思いの時の方が楽しいっていうからな……。ダメだ! それじゃダメだ! だって、永遠に片思いはつらすぎるもん!」
短い自問自答で、彼女は何かの境地にたどり着いたらしい。こういう時の大河内は見ているだけで楽しい。
「ところで、空口《そらぐち》さんは好きな人いるの?」
自分の世界から帰ってきた大河内が尋ねる。
「いない」
わたしは即答する。それを聞くと、大河内はわざとらしくため息をついた。
「青春しなくちゃ! っていうか、彼氏ができたから明るくなったんじゃないの?」
「違うよ。別に、男なんてどうでもいいし」
「へぇ、それで楽しい?」
「かなり楽しい。超充実」
わたしは思ってもいないことを口にした。だんだんと、この女と話すことにも慣れてきた。緊張せずに喋《しゃべ》ることができるようになった。
「それはそれは」
やはり大げさにため息をつくと、大河内は肩をすくめた。
「それじゃあ、告白されたらどうするの?」
「そんなのありえない」
「ありえないことないっしょ」
「わたしには考えられないよ。恋愛なんてできないもん」
そうだ。わたしが誰《だれ》かと付き合うなんて考えられない。
「なぁに言ってんの!」
大河内は大笑いしながらわたしの肩を叩《たた》いた。
「できない? していないだけだよ。それか、しようとしていないだけかのどっちかだね。誰だってかっこいい人に会ったら付き合いたいなって思うでしょ」
「そういう人もいるかもしれないけど、わたしは違うもん」
「そんなことない? 本当にそう思うの?」
自分の気持ちに整埋かつかない。
「よく分からない」
それが、正直な気持ちだった。
「誰《だれ》かを見て胸がドキドキしたことはある?」
「何回か……」
「家に帰ってから、一人の時に誰かのことを思い出したことはある?」
「一応は……」
「誰かのために何かをしてあげたいって思ったことはある?」
「ごく稀《まれ》には……」
「誰か、男の人と一緒にいたいって思ったことはある?」
一度だけある。花見の時、わたしは確かに一之瀬《いちのせ》先輩と一緒にいたいと思った。あのまま、誰も来なければいいと思った。
「今の全部に当てはまる相手に、あなたは恋をしています」
病状を伝える医者のように、大河内《おおこうち》は言う。
……。
わたしは俯《うつむ》いた。
そして、こっそりと頭の上を見上げてみた。
悪魔はいない。花見以来、奴《やつ》は帰ってきていない。わたしが、放《ほう》っておいて、と言った
から、姿を消したのだろうか。いや、悪魔がそんなことで大人《おとな》しく引き下がるようには思えない。きっと、どこかでわたしを監視しているのだ。
体育館での事故を思い出す。
悪魔は契約を破らせないために、わたしに好きな人ができたら、その人を殺すかもしれない。そうやって、恋をしないようにわたしを追い詰めるかもしれない。
だけど、もうこの気持ちは止められなかった。
胸を押さえる。切ないけど、激しい気持ちがすっと広がる。
ずっと分かっていたじゃないか。それでも、自分でそのことをずっと隠していた。
しかし、もうこれ以上隠すことはできない。この想《おも》いは、胸の内にしまっておける大きさをはるかに超えてしまっている。
わたしは一之瀬《いちのせ》先輩が好きなのだ。
だから、代役では嫌だった。
だから、大河内《おおこうち》に一之瀬先輩の話をしたくなかった。
だから、彼氏のいる雛浦《ひなうら》さんが羨《うらや》ましかった。
だから、わたしは彼と一緒にいるとあんなに楽しく、あんなにドキドキするんだ。
このことだけは悪魔に知られてはいけない。
「でも、わたし、その、そういうの、つまり、恋愛みたいなのをする資格ないから」
悪魔の耳を意識した言葉。だけど、それはわたしの本心でもあった。
大河内は呆《あき》れた顔になった。
「人を好きになるのに、資格なんていらんでしょ。だって、好きになっちゃったもんは仕方ないじゃん」
「だけど、相手はわたしのことを好きじゃないだろうし……」
「だから綺麗《きれい》になったんでしょ? 振り向いてほしいから。気づいてほしいから。自分に好意を持ってほしいから、変わったんじゃないの?」
それは逆だ。姿が変わったからこそ一之瀬先輩に会えた。姿が変わったからこそ、一之瀬先輩と接することができた。
「空口《そらぐち》さんなら大丈夫だよ。わたしが保証する」
事情も知らないくせに、大河内は自信満々でそう言った。いい加減な言葉なのに、なぜかわたしはそれを心強く感じた。でも、ごめんよ大河内。わたしはあんたのライバルだよ……。
わたしたちは店を出た。大河内に、春休み中の一之瀬先輩に悪い虫がつかないように見張っておいてくれ、と言われた。丁重に断ったのだが、彼女の認識ではそう理解されていないらしい。その証拠に彼女は別れ際に、頼んだぞ、と叫んでいた。厄介な任務を背負ってしまった。わたしは伊丹《いたみ》書店に寄る元気を失い、そのまま家に帰ることにした。
自分の気持ちがようやくはっきりした。
――汝《なんじ》の心を契約の対価としよう。
悪魔の言葉が思い出される。
わたしの一之瀬《いちのせ》先輩に対する想《おも》いを知ったら、悪魔はどうするだろう……。考えただけでも恐ろしくなる。
「空口《そらぐち》さん」
すれ違った人に声をかけられた。自分の世界に没頭していたわたしは、それが誰《だれ》なのかすぐに分からなかった。相手はそんな鈍いタイミングに合わせるように、わたしの返事を待っていてくれた。
「雛浦《ひなうら》さん」
雛浦さんが一人で立っている。隣にさっきの男の人はいない。
「あれ? 大河内《おおこうち》さんは? 何だか珍しい組み合わせだなって思ったんだけど」
「まぁ、何というか成り行きで一緒にいただけだから……。ところで、さっき一緒にいた男の人って、その、何というか」
「ああ、彼氏」
やっぱり、そうか。
「同じ学校の人?」
「うん。一組」
「名前、訊《き》いてもいい?」
「わたしの彼氏は指名手配犯じゃないぞ」
「じゃあ、名前は?」
間。
アンドロメダ星雲くらい美しくて、広大な間だった。
「忘れた」
微笑《ほほえ》んだ雛浦さんは、少し恥ずかしそうに見えた。普段はさばさばして見えるのに、意外な一面だ。
「それじゃ、また部活で」
「あ、あの」
手を振って別れようとする雛浦さんを呼び止める。雛浦さんは少し驚いた顔をした。
わたしはどうしても訊かなければいけないことがある。
「沙倖《さゆき》先輩のことを教えてください」
雛浦さんが渡ろうとしていた横断歩道の信号が赤に変わって、大きなトラックが通り過ぎた。その音に紛れてわたしの声は聞こえなかったのかもしれない。雛浦さんは何も言わずに黙っていた。だけど、少ししてから悲しそうな顔をして口を開いた。
「すごい人だった」
「すごい?」
「いつもみんなのことを考えてるっていうか、周りが見えてるっていうか、まさに部長っていう感じだったかな。みんな沙倖《さゆき》先輩を頼りにしてたし、沙倖先輩もわたしたちのことを信頼してくれてたと思う。だけど、時々天然っぽいところがあったりして、面白い人だったな。なんか、沙倖先輩がいると不思議と明るくなるんだよね。まぁ、三癒《みゆ》先輩も周りを明るくするけど、あんなサンバのリズムの明るさじゃなくてさ。もっとおっとりした空気になるんだよな」
「一之瀬《いちのせ》先輩と付き合っていたんですよね?」
「よく知ってるね」
知りたくもなかったことだけど。
「うん。理想のカップルっていう感じだった。ベストカップルだと思う。美男美女だし、二人ともすっごく性格がいいでしょ」
嗚呼《ああ》、つまらないことを言わなければよかった。雛浦《ひなうら》さんの話を聞けば聞くほど、自分は一之瀬先輩に近づく隙がないのではないのかと思ってしまう。
「だけど、ほら、病気でね……。入院する直前まで一緒に練習していたんだけどな。さすがに、一之瀬先輩も相当へこんでたよ。純愛で熱愛だったらしいから、ショックも大きいよね」
そこで、雛浦さんは悲しい顔をして口をつぐんだ。その時のことを思い出しているのだろうか。それとも、もしも自分の恋人が死んでしまったら、という想像をしているのかもしれない。
「そういえば、沙倖先輩の家ってこの近くらしいよ。前に三癒先輩が言ってた」
家はこの近く……。
雛浦さんは手を振って帰っていった。わたしは彼女に手を振り返しながら、複雑な気持ちでその場にずっと立っていた。
そして、携帯電話を取り出すと、決意のボタンをプッシュした。
『沙倖先輩の家? 知ってますけど、どうしてですか?』
「いえ、どんな人だったのか知りたくなってしまって。教えてもらえませんか? お願いします!」
携帯電話で電話をしながら頭を下げる。
わたしは三癒先輩に電話をかけていた。一之瀬先輩がかつて愛した沙倖という女性のことをもっと知りたい。そう考えると、いてもたってもいられなくなったのだ。
三癒《みゆ》先輩はそれ以上わたしに何か質問することなく、素直に住所を教えてくれた。本当にすぐ近くの場所だった。それでも今から行くとなると、到着するのは夜になるだろう。だが、わたしの決心はついていた。このまま家に帰っても、恐らく眠ることができない、絶対。だから行く。
住所と一緒に電話番号も教えてもらった。わたしは三癒先輩に丁重に礼を言うと、メモした電話番号をダイヤルした。数回呼び出しベルがなった後、受話器が持ち上げられる音がした。中年の女性の声が届く。恐らく母親だろう。
『はい。渋谷《しぶたに》です』
沙倖《さゆき》の苗字《みょうじ》は渋谷だと教えられていた。どうやら、電話番号は間違っていないらしい。
「あの、沙倖先輩の後輩で、空口《そらぐち》といいます」
その後の言葉が出てこなかった。相手は突然電話してきた娘の後輩の言葉の続きを待つ。
「その、もし迷惑でなければ、今からお伺いしてもよろしいでしょうか?」
『いいよ。おいで』
唐突な申し出なのに、相手は優しく言った。わたしはお礼を言いながら電話にもかかわらず頭を下げた。
電話を切ると、今度は家に電話した。帰りが遅くなると言うと、母親は、娘が不良になった、と喚《わめ》いた。わたしはその叫びの途中で電話を切った。これで、多少帰宅時間が遅れても、警察に捜索願が出されることはないだろう。
三癒先輩の説明どおりの道を進むと、渋谷と表札のかかった家はすぐに見つかった。繁華街から外れた寂しい通り。古い木造二階建てのアパートの一階の隅の扉には、確かに目指すべき名前の表札がかかっている。
外に設置された洗濯機の後ろにある窓からは光が漏れているので、中に人がいることは間違いない。チャイムを探したが見つからなかった。仕方なく軽くノックする。思いっきり叩《たた》いたら、半分腐ったような木のドアは壊れてしまいそうだった。部屋の中から返事があり、すぐにドアが中から押し開けられた。
柔らかい橙《だいだい》の逆光を受けて、柔和な顔立ちの女性が出てくる。わたしの母親よりも随分|歳《とし》をとって見えた。髪は半分近く白くなり、刻まれた皺《しわ》も深い。ただ、その目は深く、優しかった。彼女はわたしを中に招いてくれた。部屋の中にはカレーの匂《にお》いが漂っていた。
「沙倖の友達が来るのは久しぶり。半年ぶりくらいかもね。まぁ、それもそうよね」
彼女は寂しそうに言う。狭い玄関からは細い廊下が延びており、すぐに台所があった。奥には部屋の入り口が二つ並んでいた。わたしは大人《おとな》しく彼女に従って、左側の部屋に入った。
小さなテーブルと、やつれて潰《つぶ》れた座布団が畳の上に三つ。わたしはその中の一つの上に座った。沙倖の母親はお茶とせんべいを持ってきてくれた。わたしは小さな声で礼を言った。電話口では頭を下げていたのに、本人を目の前にすると独り言のような謝礼しかできない。そんな自分が情けない。
「えっと、一年生の空口《そらぐち》です。演劇部に入っていて、そこで今度|沙倖《さゆき》先輩の脚本の劇をやることになりました。本当は沙倖先輩がやるはずだった役をわたしがやることになりまして、だから、何というか」
「沙倖に会いに来たわけね?」
母親はそう言うと、わたしの目を見た。はっとするほどその瞳《ひとみ》は深く濃い色をしていた。彼女はタバコを一本取り出すと、それに火をつける。
「はい」
「沙倖の脚本か。読んでみたいな」
「読んだことないんですか?」
「読ませてくれなかった。恥ずかしがってさ」
「とても良い脚本だと思います。ただ、高校生に理解されるかどうかは分かりませんけど」
「あなたも高校生でしょ?」
「はい。ただ、何というか一般受けする内容ではないと思います」
彼女は煙を吐き出す。白い靄《もや》が机の上を立ち上り、部屋全体に拡散する。わたしは、しばらくしてから、ごめんなさい、と謝った。
「どうして、謝るの?」
「沙倖先輩の脚本の悪口を言ってしまって……」
「さっき良い脚本って言ってくれたじゃない」
「でも、今は一般受けしないって言いました」
「一般受けしないくらいの方が芸術的ってもんじゃないの? ムンクとかピカソとか、有名な作品ほど訳分かんないでしょ」
彼女は僅《わず》かに微笑《ほほえ》んだ。
「……すみません」
「ねぇ、線香あげてくれないかな。隣の部屋に仏壇があるから」
彼女は隣の部屋にわたしを導いた。小さなタンスと収納がいくつかあるその部屋の隅に、真新しい仏壇があった。それもやはり小さい。この家の物は全《すべ》てコンパクトサイズだった。
仏壇の扉を開くと二つの写真たてと、その中に二枚の写真があった。若い女の子と、スーツを着た男。少女はわたしにそっくりな顔立ちをしていた。
父親も死んでいたのか。そう考えるのが自然だろう。娘と旦那《だんな》はどちらが先に死んだのか。それを質問することは、わたしにはできなかった。
「あなた、結構いいタイミングで来てくれたのよ」
目を閉じて手を合わせていたわたしに、沙倖先輩の母は後ろから話しかけた。線香の煙が細い線のように立ち昇り、独特の香りを散らす。
「来週には引っ越そうと思っていたから」
「そうなんですか」
「わたし独りで住むには広すぎるでしょ、ここ。思い出があるから離れたくはないんだけど、いつまでもそんなことを言っているわけにもいかないからね」
わたしは悲しくなった。沙倖《さゆき》先輩のことを深く知っているわけではないし、その家族のことは全く知らない。だが、今の話は悲しすぎる。
「沙倖先輩はどんな病気だったんですか?」
「悪性リンパ腫《しゅ》」
病名を聞いてもよく分からなかった。ただ、悪性という言葉がよくない意味であることは何となく分かった。
「最初はおなかが痛いとか言っていただけだったんだけど、扁桃腺《へんとうせん》が腫《は》れて、演劇部だから声が出ないのはまずいとか言って病院に行ったら、あなたは癌《がん》ですって」
癌。
「最初に入院したのが中学生の時で、高校に入って再発して……って、こんな話を聞きに来たわけじゃなかったね」
「すみません」
わたしは意味もなく謝った。そうでもしないと、わたしはここにはいられない気がした。そんなわたしに、彼女は微笑《ほほえ》んでみせた。どうしてそんな風に笑えるのか、わたしには分からなかった。
「あなた、沙倖に似てる」
小さな部屋にその言葉が響く。わたしは彼女の目を見た。相変わらず、吸い込まれそうなくらいに底の見えない色をしていた。
「だから、沙倖先輩の代役に選ばれました。ただ、実はお芝居なんてやったことがないんです」
「でも、演劇部なんでしょ?」
「成り行きでなってしまったようなものです」
それから、わたしは全《すべ》てを彼女に話した。沙倖先輩の仏壇の前で、わたしはいかにして自分がスカウトされたかを語った。そして、そこで沙倖先輩のことを知り、自分がその代用品であることを知り、オリジナルの存在にあたる沙倖先輩のことを知りたくなったと説明した。悪魔との契約はもちろん、一之瀬《いちのせ》先輩のことは言わなかったが、その他《ほか》の部分は全て説明した。沙倖先輩の母親はずっと黙って聞いてくれた。
話が終わると、わたしたちはテーブルのある部屋に戻った。
「もしよかったら、晩御飯を食べていかない?」
わたしが再びさっきの座布団の上に座ると、沙倖《さゆき》の母が言った。
「はい」
わたしは少し迷ったが誘いを受けることにした。家に電話をして、夕食はいらないと伝えた。幸い今度は夏樹《なつき》が出てくれた。
『え? もしかして彼氏とデート?』
「違う」
『じゃあ、彼女とデート?』
「そっちの方が近い」
『……お願いだから、その道には進まないでね、お姉さま……』
「じゃあ、切るぞ」
『あ、あと、鏡の写真をテレビの上に移しといたから。テレビ見ながら、あれで過去の自分を……』
電話を途中で切った。わたしはテレビをほとんど見ないから、写真を見ることもないだろう。
夕食はカレーだった。いつも家で食べるカレーよりもずっと辛《から》かったので、わたしはやたらに水を飲んだ。家族に先立たれた家主は、自分のカレーにはほとんど手をつけずに、そんなわたしをずっと眺めていた。
「ねぇ、あなたの話をしてくれない?」
母親はそう言った。わたしは素直に自分の話をした。彼女に促されると、それを拒むことができない。わたしは、くだらない自分の人生をとうとうと語った。分かりにくい話だったと思うが、彼女はちゃんといちいち相槌《あいづち》を打ってくれた。
それがどんなジャンルの話であったとしても、わたしは人に何かを話すことが苦手だ。だから、長い話を最後まで誰《だれ》かに伝えたことはない。だが、今日は別だった。彼女はとても聞き上手で、わたしはまるで自分がとても面白い話をしているような錯覚に陥った。後から考えれば、つまらない話をしてしまったと反省するような内容だったのに。
全《すべ》ての話が終わる頃《ころ》には、時刻は午後八時をまわっていた。
「あの……」
そろそろお暇《いとま》した方がいいだろう。結局、自分はここに何をしに来たのかよく分からない。
「まだ、一之瀬《いちのせ》君はいるの?」
食器を片付けながら、沙倖の母が尋ねる。わたしは、はい、とだけ答えた。
「元気にしている?」
「はい。今は沙倖先輩の後をついで部長をしています」
「そうなんだ。なら、彼に謝っておいてくれないかな」
「どうしてですか?」
「酷《ひど》いこと言ったから」
一通り机の上を片付けると、彼女は台拭《だいふ》きで四角い机の表面を磨く。年季の入ったその木製の台は、嬉《うれ》しそうに蛍光灯《けいこうとう》の光を反射した。
「沙倖《さゆき》の葬式の時、彼が来てくれたのよ。旦那《だんな》が死んでから、そんなに間もない頃《ころ》だったし、やっぱり娘が死んでわたしも動揺してたのね。いや、相当にいかれてた」
机の下にしまってあった灰皿を取り出すと、彼女はタバコを吸いだした。その動作はとても落ち着いて見える。
「彼、沙倖と付き合ってたらしくて。知ってる?」
わたしは頷《うなず》く。
「だからさ、彼にね、沙倖のことを忘れないでほしいって言ったの」
「それが、酷いことなんですか?」
「彼にとっても、沙倖にとっても、それはとても酷い言葉だった。最悪だったね」
「どうしてですか?」
「あなた、霊って信じる?」
返答に窮《きゅう》してしまう。突然のことだったので、わたしの頭は上手《うま》く回転しなかった。まあ、悪魔がいるのだから、霊がいてもおかしくない。そう思った。困ったわたしを見た沙倖の母親は、ちょっと笑顔を見せて話を続ける。
「ああ、別に家族が死んだショックで変な宗教に入信したわけじゃないからね。そうじゃなくて、わたしは霊っていると思うのよ。ただ、それは足のない透けてるヤツじゃなくてさ。なんていうのかな、人の心に宿る霊がいると思うの」
「人の心に霊が宿る?」
「そう。死んだ人を思う気持ちや、その人の記憶。そういったものが、霊なんじゃないのかなって思う。だから、本人がいなくなってしまっても、霊はこの世界に残る。人の心の中で存在し続ける。だけど、その記憶が人を苦しめるようになると、それは悪霊になってしまう」
悪霊。恐ろしい言葉だ。彼女は穏やかに続ける。
「一之瀬《いちのせ》君って真面目《まじめ》だからさ、墓参りとかも来てくれて、仏壇の前にも毎週来て線香をあげてくれて……。最初は嬉しかったけど、だんだんとこのまま彼を沙倖に縛りつけておいていいのかって思えてきたの。きっと、わたしが何も言わなくても、彼は沙倖のことを忘れることはなかったと思う。だけど、わたしが変なことを言ってしまったものだから、彼は気を遣ってしまったのね」
「気を遣うっていうのは……」
「優しい子だからさ。わたしに気を遣ったんでしょう。沙倖のことを忘れませんよ、っていうのをわたしに伝えるために、一生懸命になってくれたんだと思う。そうやって、わたしを慰めてくれていたんだな。だけど、それじゃ駄目だと思って、ある時から彼を一切家に入れないことにしたの。本当に突然だったから驚いたと思うけど、ああでもしないと彼はいつまでも沙倖《さゆき》とわたしに気を遣いっぱなしで生きていきそうだったから」
「そんなことがあったんですか」
「もちろん、沙倖のことはいつまでも忘れないでほしい。だけど、それと彼が沙倖に憑《つ》かれたまま過ごすのとでは意味が違う。そんなんじゃ誰《だれ》も幸せにならない。沙倖だって、一之瀬《いちのせ》君を困らせる悪霊みたいになってしまったんじゃ浮かばれないでしょ」
一之瀬先輩はそんなことをしていたのか。
何だか、自分が知らない一之瀬先輩を垣間《かいま》見た気がした。
「あの、沙倖先輩ってどんな人だったんですか?」
タバコの煙が舞う。そのまま白い霧が部屋に満ちて、幻想の世界に連れていかれそうだった。沙倖先輩の霊は、どこかでこの話を聞いているのだろうか。
「親が言うのもあれだけど、よくできた子だった。気のきく子で、頭も良かった。心配性だけど、どこか間抜けなところもあって……。全体的にはふわふわした感じの子だったわね。不思議と周りを明るくさせる力があった」
「脚本を書いている時も、そんな感じでしたか?」
あの脚本を読んでも、そんな印象は受けない。むしろ、この世界を悲観したような内容だった。それとも、わたしの理解が間違っているのだろうか。沙倖先輩の母はわたしの質問に答えずにタバコを消した。
「ねぇ、その脚本を読ませてくれない?」
わたしはよれよれに曲がってしまったプリントを鞄《かばん》の中から取り出した。それを受け取ると、彼女は無言で読み始めた。わたしはその様子を見ながら、目の前の女性がどうしてこれほどまでに強いのか考えた。
夫が死に、娘が死んだ。それでも、彼女は全く動じていない。もしも、わたしが同じ状況になったら、どうなってしまうだろうか。一晩中泣き明かし、二度と立ち上がれないかもしれない。後を追うかもしれない。
きっと、彼女の言う霊が、彼女を支えているのだろう。彼女の心の中にある思い出が、記憶が、彼女の動力源になっているのだ。
全部読み終わるのに二十分ほどかかった。何度もページを戻したりしながら、同じところをじっくりと読んでいた。わたしはただそんな沙倖の母親をじっと見つめていた。読み終わると、彼女は軽くため息をついた。そして、満足したような表情でわたしに脚本を返した。
「ありがとう。これが読めてよかった。えっと、何の話をしていたんだっけ?」
「脚本を書いている時の沙倖《さゆき》さんは、どんな風でしたか?」
「ああ、いつも通りだったと思う。確か、新しい脚本を書くって言ったのは、病気の再発が分かってからだったかな。明るく振る舞って、わたしにも一之瀬《いちのせ》君にもいつも笑顔で……。本当に、いつも通りで……」
言葉を詰まらせる。そこで、初めて彼女は涙を流した。
「本当に、わたしは親失格だな……。あの子のこと、何も分かってなかった。こんなに思いつめていたのに、どうして強がりも見破れなかったの……」
頬《ほお》を伝う水滴は、畳に落ちてじわりと滲《にじ》んだ。悲しみがまたこの家に染み込む。これ以上、誰《だれ》も泣かせちゃいけない。
「お母さんは立派だと思います」
わたしは言う。頭が驚く。
――何を言ってるんだ、お前は。
だが、口は動く。目の前の母親を前に、わたしの心は言葉をかけることをやめなかった。
「この脚本は、確かに悲観的な内容です。ですけど、なんていうか、生きていることの大切さが伝わるんです」
――空口《そらぐち》真帆《まほ》よ、お前は無力だ。諦《あきら》めろ。人間の本質は変わらない。
これは、悪魔の言葉だろうか? 違う。これは、私自身の言葉だ。弱い自分が叫んでいるのだ。
――お前はダメなままだ。どうして、気がつかないのだ。
だが、わたしは続ける。どうしても、伝えたい言葉があった。やがて、過去のわたしは沈黙した。
「『生きていくっていうのは、少しずつ死んでいるのと同じ。わたしたちは、生まれた瞬間から死に続けてる。それなのに、どうしてこんなに死ぬのは怖いのだろう。たとえ死に続ける体であっても、わたしは生きることから逃げたくない』。これは、沙倖先輩の台詞《せりふ》であり、わたしの台詞です。これって生きていたいっていう思いがあるからこそ出てきた言葉だと思うんです。これを書いた沙倖先輩も、生きていたいと思っていたんです。先輩にそう思わせたのは、お母さんの力です。お母さんが一生懸命先輩のことを愛していたから、だからこそ沙倖先輩は生きていたいと思ったんです。それって、きっとすごいことなんだと思います」
沙倖先輩は自分の運命と真正面から向かい合った。恐ろしい病魔を相手に戦い抜いた。わたしのようにこそこそと逃げ回るようなことはしなかった。
沙倖先輩の母は何も言わなかった。ただ、窓の方を見て、泣きながらタバコの煙を吹き出すだけだった。わたしは立ち上がる。
「四月の最初の日曜日に、県民会館でこの脚本で劇をやります。十時からです。見に来てください。カレー、ごちそうさまでした」
わたしは一礼して部屋から出た。
空が歪《ゆが》む。星が滲《にじ》む。
わたしもなぜか泣いていた。
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六幕 ぼかすか最終決戦
生まれて初めて、ファッション雑誌を買った。
生まれて初めて、一人で服を買いに行った。
生まれて初めて、予約が必要な美容院に行った。
生まれて初めて、わたしは好きな人ができた。
生まれて初めて、わたしは自分に自信を持てた。
生まれて初めて、他人のために何かをしようと思った。
生まれて初めて、自分から行動をした。
だから、この生まれて初めての恋からは逃げたくない。
渋谷《しぶたに》沙倖《さゆき》の母親に会った次の日、わたしは大きな店の沢山ある街に出かけた。本屋で伊丹《いたみ》書店では買えない本を買い、服しか売っていない店で服を買った。無理を通して午後から美容院の予約を入れてもらい、そこで髪を切った。
わたしが今の姿のままで一之瀬《いちのせ》先輩に会うのは、先輩に悲しい過去を思い起こさせることになる。そんなことをするわけにはいかない。
それに、わたしは沙倖《さゆき》先輩の代用品なんかじゃない。わたしは空口《そらぐち》真帆《まほ》なんだ。わたしは本当の空口真帆として一之瀬先輩に向き合わなくちゃいけないんだ。
契約を解除してもらう。わたしはついにその覚悟を決めた。だけど、昔の姿に戻ったら先輩はわたしのことなど相手にしてくれなくなってしまうかもしれない。演劇部でも役を外されるかもしれない。だから、せめて最後に一度だけ、彼と二人だけで一緒に歩きたかった。
全《すべ》てが終わった頃《ころ》には夕方になっていた。本当に疲れた。こりゃ、どんな魔術よりも体力を使った一日だったな。そんな疲労|困憊《こんぱい》の体に鞭《むち》をうち、わたしは帰りがけに伊丹《いたみ》書店に寄った。いつも通り、おじ様が一人で店番をしていた。
「どーも」
わたしは溶けそうな西日が差し込む店内に入る。老人はちらりとこちらを見る。
「久しぶりだな。また、髪型を変えたのか」
「気がついてくれたんですね。ついこの間までは全然分からなかったのに」
そう言って、わたしは笑った。老人もつられて笑顔になる。
「わたし、変わりましたよね」
「誰《だれ》だって毎日少しずつ変わっていく」
「そうじゃなくて、もっと大きく変化しましたよね。髪型とか、服装とか、顔とか」
「見た目のことか?」
「見た目です」
「確かにお前は変わった。だが、それは外見じゃない。もちろん、外見も変わったが、それよりもお前の中身の方が変わっとる」
「中身が?」
「ずっと活《い》き活きしている」
わたしが変わったのは外見だけだ。中身はずっと同じ、ネクラで晩熟《おくて》で浅はかなダメ女子高生だ。……それでも、少しは成長したかな。
「もう、うちで黒魔術の本なんか借りることもないだろう?」
「いえ、最後に一冊だけ貸してください」
悪魔は相変わらず姿を消したままだ。契約を解除してもらうためには奴《やつ》を呼び出さなければいけない。そのために本をもう一度借りなくてはいけない。わたしは以前に借りた深緑の表紙の本を再び借りると、お礼を言った。
「そろそろ、若者向けの雑誌を仕入れようかな」
「ふふ。ここは古本屋ですよ? でも、それはいいですね。そしたら、また借りに来ます」
「というか、そろそろ買ってくれないか? 一応、うちは図書館じゃなくて本屋なんだが」
「よく聞こえません。それじゃあ、おじ様ありがとうございました」
わたしは走って書店から出る。おじ様の困ったような笑顔が印象的だった。
家に帰ると、部屋に篭《こも》って携帯電話とにらめっこを始めた。どんなメールで一之瀬《いちのせ》先輩を誘えばいいのか、一時間くらい考えた。最初の一行目が書けたところで、夕食だと言われた。食べ終わって二行目が書けたところで、風呂《ふろ》に入れと言われた。最後の三行目を書くところで、夏樹《なつき》が部屋に入ってきて英語の質問をしてきた。結局、寝る前に四行目までしか書けなかった。
『演劇部の空口《そらぐち》です。
明日暇ですか?
もしよかったら、
映画を観に行きませんか?』
五時間以上かけて作り上げたメールの返信は五分後にきた。
『いいよ。何時にどこに集まる?』
わたしは嬉《うれ》しさのあまり、その日は眠れなかった。
わたしの住んでいる街には映画館がない。そのため、大きなスクリーンで映画を観ようと思ったら、電車とバスを乗り継がなければならない。
一之瀬先輩とは駅で待ち合わせをした。複数の路線の乗り換えが可能な、界隈《かいわい》では最大の駅だった。そこからバスや路面電車も出ており、映画館はその駅から二十分ほどの場所にあった。
朝十時に集合だったが、今の時刻は九時三十分。わたしは既に集合場所となった石像の前に立っている。周りを何度も見回し、彼が来るのを待った。
緊張している。ものすごく緊張している。このまま逃げ出したいくらいに心は追い詰められていた。足はちょっとしたことで震えるし、手のひらは汗ばんでいた。あまりにも挙動不審のため、周りの人から怪しまれるほど、わたしは平常心をなくしていた。
約束の時間ぴったりに一之瀬先輩は現れた。遠くから歩いてくる彼をすぐに見つける。何だか、そこだけ空間の色が違う気がした。
初めて二人きりで会う。その状況だけでわたしは舞い上がった。
「おはよう」
一之瀬先輩はいつもの笑顔で言う。わたしは上手《うま》く舌が回らず、普通の日本人では理解できない日本語で挨拶《あいさつ》を返した。
「あれ? 三癒《みゆ》とかは? 一緒だと思った」
ショック。
「わたしと二人じゃ駄目ですか?」
恐る恐る尋ねる。この質問の回答が肯定だったら、わたしは大泣きして道路に飛び出すぞ、とこっそり決心。だけど、一之瀬《いちのせ》先輩はわたしの自殺衝動を察したのか、少し驚いた表情をしたものの、すぐにいつもの優しい表情に戻って首を横に振ってくれた。
「大歓迎」
わたしも思わず笑顔がこぼれる。この人と一緒にいると、不思議と顔の筋肉が緩んでしまう。
「何を観るの?」
「何か観たいのありますか?」
「え? 観たい映画があるから誘ったんじゃないの?」
まさか、先輩と観るのならどんな映画だっていいです、とは言えない。さすがに、そこまでの度胸はない。仕方なく、テレビで宣伝していた、話題のホラー映画の名前を口にした。すると、一之瀬先輩が珍しく困った顔をした。
「ホラー……」
「はい。メチャクチャ怖いらしいです」
「メチャクチャ……怖い……」
そもそもわたしの観る映画の九割がホラーだ。残りの一割はミステリー。そのため、頭の中の選択肢には、ほとんどおどろおどろしいタイトルしか並んでいない。
「ホラー、好きなの?」
「いつかは自分で作りたいと思うほどに」
「マジで?」
わたしは頷《うなず》く。
「それじゃあ、それにしようか」
あまり乗り気には見えない。
「もしかして、怖いの苦手ですか?」
「ちょっとね。まぁ、だけど今日はせっかく空口《そらぐち》さんが誘ってくれたんだから、どんな映画でも付き合うよ」
そう言って、いつもの表情に戻った。わたしは少し心配だったが、一之瀬先輩が歩き出してしまったため彼について歩くことにした。バス停に着く頃《ころ》には、完全にいつもの先輩に戻っていた。
バスは混《こ》んでいた。わたしは一之瀬先輩の体に触れるほど近くで、十五分ほど揺られた。そこで、彼が高校を卒業したら大学に行こうか、どこかの劇団に入ろうかで悩んでいることを聞いた。プライベートな悩みを初めて聞いたので少し驚いたが、何だか自分に打ち明けてくれたのが嬉《うれ》しかった。
バス停からしばらく歩くと巨大な建物が見えてきた。映画館やボウリング場、ゲームセンターなどを有する巨大複合施設。さすがは大きな街は違う。
春休み真っ只中《ただなか》のためか、学生らしいカップルが随所に見られた。みんな仲良さそうに手をつないでいる。もちろん、わたしは一之瀬《いちのせ》先輩と手をつなぐどころか、少し離れたところを歩いているため、肩さえ触れていない。それでも、周りから見ればわたしたちは恋人同士に見えるだろう。そう考えると、鼓動と歩くスピードは速くなった。少しでも、彼の近くに寄ろうとする。
タイミングがいいのか悪いのか、映画はちょうど始まりそうな時間だった。ゆっくりとお喋《しゃべ》りをする時間はなかったが、沈黙の恐怖に震えることもなかった。わたしたちは急いで劇場に入る。人気の映画のため、席はほとんど空いていない。それでも、幸い隣同士に座ることができた。
場内が暗くなり、他《ほか》の映画の予告が始まる。
駄目だ。まだ、実感がない。自分が一之瀬先輩と一緒に映画を観ているという実感が全くない。映画が終われば、隣の一之瀬先輩はいなくなってしまうのではないのか。隣にいるのは、実は彼のドッペルゲンガーなのではないのか。
こっそりと隣を覗《のぞ》き見る。スクリーンの光で僅《わず》かにその輪郭が浮かび上がる彼の顔。
これは現実なのだ。わたしは確かに一之瀬|拓馬《たくま》と一緒に映画館にいるのだ。
沙倖《さゆき》先輩も一之瀬先輩とこんな風にデートしたのかな……。
ダメダメ! そんなことを考えても仕方がない。今は、わたしが一之瀬先輩と一緒にいるのだ。沙倖先輩のことは考えてはいけない。
本編が始まっても、隣が気になって、スクリーンをほとんど観ていなかった。ホラー映画は嫌いらしいので、退屈していないか、嫌がってはいないのか、と心配していたのである。幸い、彼は映画を楽しんでいてくれたようだった。きっと、この映画の監督だって、わたしほどには作品の評価を気にしないだろう。
スタッフロールが流れ始めると、席を立つ客が出始めた。わたしは最後に場内が明るくなるまで席に座っていたい人間なので、そのままスクリーンを観ながら待っている。一之瀬先輩もわたしと同じ人種なのか、ずっと待っていた。全《すべ》てが終わって、スクリーンの前にカーテンがひかれると、わたしたちはようやく顔を見合わせた。
「メチャクチャ怖かった」
それが彼の第一声だった。何となく可愛《かわい》らしいその一言に、わたしは思わず噴き出してしまった。
「え? 怖くなかった?」
「まぁ、そんなには」
ほとんど内容は観ていなかったが、それほど恐ろしい作品ではなかった気がする。
「空口《そらぐち》さん、本当にホラー強いんだね」
「ホラーに強いとか弱いとかあるんですか?」
「あるよ。生まれつきの差なんだと思う」
「沢山怖い映画を観れば慣れますよ」
「そうかな。それじゃあ、また観にこような」
嬉《うれ》しかった。あまりの嬉しさにすぐに返事ができなかった。そのため、間が抜けたくらい遅れたタイミングで、それも不自然なくらい大きな声で、はい、と返事をした。
一之瀬《いちのせ》先輩が笑った。わたしも照れながら笑った。このまま地球が滅亡してもいいと思うくらいに幸せを感じた瞬間だった。
お好み焼きを食べて、生まれて初めてビリヤードをした。興奮しっぱなしだったため、お好み焼きのトッピングで何を食べたのか、その時何を話したのか、ビリヤードとはどんなゲームなのか、ほとんど覚えていない。ただ、何を感じていたかだけは明確に覚えている。
楽しかった。嬉しかった。とにかく、全《すべ》てが最高にいい気分だった。何時間でも、何日でも、何年でもこのまま一之瀬先輩と一緒にいたい。そう思っていた。
鳥たちが寝床に帰るために、斜陽の空を羽ばたく。時間が過ぎるのは、本当にあっという間だった。わたしはとにかく自分が一日中幸せだったことを伝えようと思ったが、どんな言葉で表現していいのか分からなかった。自分の乏しい語彙力《ごいりょく》が憎い。
「今日は、本当にありがとうございました。あの、なんていうか、その、すごく、楽しかったです」
彼はわたしのたどたどしい感謝の言葉を受け止めた。
「それじゃあ、最後にすごく綺麗《きれい》な場所を教えるよ」
最後という言葉が悲しく響く。
彼はわたしを海に連れていってくれた。
彼の通っていた中学校の近くにある海沿いの道。そこからは、夕焼けを反射して無数の宝石が浮かぶ太平洋が見えた。
「通ってた中学校がすぐ近くなんだ。よく、ここで泳いで遊んだ」
彼は、少し高い堤防の上を、バランスをとりながら歩いている。
「見てみたいな……」
「え? なに?」
一之瀬《いちのせ》先輩が振り返る。夕焼けの光が、彼のあどけない表情を照らす。
「その頃《ころ》の先輩を見てみたいです」
「写真とかなら残ってるけど、おっと、わわ」
一之瀬先輩は両手を広げて、体勢を保つ。バランスを崩してしまったようだ。
「危ない!」
わたしは一之瀬先輩のところに駆け寄る。このままだと、彼は海に落ちてしまいそうだった。
しかし、一之瀬先輩はわたしが近づくと、ぴょんと跳ねて何事もなかったかのように道路に着地した。その目は悪戯《いたずら》っぽく笑っている。
「もう! 心配させないでください!」
「心配してくれたの?」
「え? いや、まぁ……。そりゃ、ちょっとはしますよ……」
わたしは顔を真っ赤に染めて、下を向いた。
「冗談だよ。ごめん、ごめん」
一之瀬先輩は爽《さわ》やかに笑った。
やがて、長く緩やかな下り坂が現れ、そのずっと先に駅が見えた。わたしはあの駅から電車に乗って家に帰る。デートの終わりは近づいていた。海から吹く風が少し肌寒い。日
中に比べると、大分気温も下がっていた。
坂道を下るにつれて気分も沈んでいく。心の中で寂しさが暴れだす。本当はその場で立ち止まり、そのまま動かないでいたかった。
「今度の舞台は成功させような」
彼が言う。本当に演劇が好きなのだな、と思う。わたしも次の発表は成功させたかった。わたしの初舞台。そして、初めて一之瀬《いちのせ》先輩と共演する舞台。それは、絶対にいい思い出にしたかった。沙倖《さゆき》先輩の母親だって見に来る。あの舞台は、沙倖先輩の遺言でもあるのだ。
渋谷《しぶたに》沙倖……。思い出したくない名前だった。少なくとも、今日だけは忘れてしまいたかった。だが、もう遅い。絶対に尋ねてはならない質問が心をよぎる。だが、ここで訊《き》いておかなければ、もうそのチャンスは訪れない。
「あの……」
わたしは先を歩く一之瀬先輩に声をかける。彼は振り向く。夕陽《ゆうひ》に照らされたその顔は今までとは違う印象を与え、わたしの心を切なくさせる。
「まだ、沙倖先輩のことが好きなんですか?」
それまでの会話から全く関連のない問い。一之瀬先輩は何も言わず、駅の方に向かって歩き出した。
やはり、答えてもらえないか。わたしは俯《うつむ》いたまま彼の後を歩いた。このまま、坂道を下りきったらそれでお終《しま》い。
「沙倖のことは好きだよ」
紅い陽《ひ》。
輝く水面。
大きな彼の背中。
わたしたちの距離を伝わる音。
たがが外れたように、わたしの感情は暴れだす。
やはり、わたしは沙倖先輩には敵《かな》わない。
悲しみと寂しさが底辺を這《は》うように心の底から染み渡り、悔しさと不甲斐《ふがい》なさがその上で燃え上がった。
「そうですよね。沙倖先輩はすごい人だったんですから……」
訊かなければよかった。わたしはすすり泣いてしまう。
しかし、彼はさらに言葉を紡ぐ。
「だけど、沙倖はもういない。それは分かってる。いつまでも、あいつのことでうじうじしてちゃいけない。多分、あいつが見てたらそう言うと思う。そういうのが嫌いな奴《やつ》だったからさ」
滑り落ちる空。
溢《あふ》れ出す気持ち。
遠くで鳴く海鳥。
振り向く彼。驚く彼。困惑する彼。苦笑する彼。そして、何よりも優しい彼。
そこには笑顔。
泣きながら、微笑《ほほえ》んでしまうわたし。
全《すべ》てがぐちゃぐちゃで、ごちゃごちゃで、温かくて、訳が分からなくて、美しかった。
「沙倖《さゆき》先輩のお母さんが、一之瀬《いちのせ》先輩に謝ってくれって言ってました」
「沙倖のお袋に会ったの?」
「はい。どんな人が脚本を書いたのか知りたくて、沙倖先輩の家に行きました。そこで、お母さんに謝ってくれとお願いされたんです」
「謝らないといけないのは、俺《おれ》の方だ。沙倖のお袋に俺の心配までさせたから。それだって、きっと沙倖は望まないだろう」
「沙倖先輩って、すごい人だったんですね」
一之瀬先輩は何も言わない。彼は今でも沙倖先輩が好きなのだ。好きで好きでたまらなくて、忘れたくても忘れられないのだ。それは、地球が自転していることよりも、ずっと確かなことだった。
「わたし、沙倖先輩に似てますか?」
思いきって尋ねてみる。彼はわたしを見る。その目には誰《だれ》が映っているのか。
渋谷《しぶたに》沙倖を見ているのか。
渋谷沙倖の形をした後輩を見ているのか。
それとも、ちゃんと空口《そらぐち》真帆《まほ》を見ているのか。
「似てる」
似ているから、わたしに付き合ってくれたのだろう[#「う」は底本では無し]か。
「目とか鼻とか口元とか、そっくり。だけど、一番似ているのは」
遠くの方から電車が走ってくるのが見える。わたしが乗らなければいけない電車だ。一之瀬先輩は焦るわたしにそっと近寄った。
「ホラー映画が好きなところと、優しいところかな」
本当に一番優しいのは誰なのだろう。
一之瀬先輩なのか。
沙倖先輩なのか。
沙倖先輩の母なのか。
きっと、みんな同じくらい優しくて、それを全員で共有しているのだ。だから、わたしはこんなにも泣けてしまう。みんながあまりにも優しいから。
わたしは彼に手を振って、電車に乗った。一息つくと、涙は止まったが急に寂しくなった。こんな気持ちになるのは初めてだ。
そこで、一つ大事なことをようやく確信した。
わたしは、一之瀬《いちのせ》先輩をどうしようもないほど好きになってしまったらしい。
最後の決心がついた。わたしは魔方陣を前に、これまでのことを思い出した。悪魔がわたしを変えてからの日々。演劇部に入部してからの日常。沙倖《さゆき》先輩を知ってからの決意。そして、一之瀬先輩とのデート。もしかしたら、一般的にあれはデートではなく、ただ一緒に遊んだだけだというのかもしれない。だが、わたしはそれでも充分だった。全《すべ》てが一瞬に過ぎてしまったもののように思える。
家族が寝静まった時間。わたしは決着をつける準備を終えた。
わたしは自分の力で一之瀬先輩と向き合わなければならない。悪魔の力を借りるわけにはいかないのだ。
父の書斎で呪文《じゅもん》を詠唱する。虚空に響くその音に反応するように、空間が歪《ゆが》む。不快な金属音のようなものが聞こえる。それはまるで、空間を引き裂こうとしているような音だった。やがて、僅《わず》かに青い火が生まれたかと思うと、一瞬でその火は猛烈な火炎となり、わたしを取り囲んだ。
ちょ、ちょっと。これはやばいんじゃないの?
驚いてその場に座り込む。これほどの迫力ある登場は初めてだ。腰が抜けてしまって立てない。ただ、その勢いにただ圧倒されるだけだった。
音をたてて燃え盛る業火の中に悪魔が浮かんでいる。心なしかいつもより大きい。鋭い爪《つめ》をわたしに向け、ぎらぎらと射るような眼差《まなざ》しでこちらを睨《にら》んでいる。
やばい。怖い。
「お、お久しぶりです」
何とか立ち上がったわたしの挨拶《あいさつ》など少しも気にすることなく、悪魔は凶暴《きょうぼう》そうな口を僅かに開いた。そこには前まで何もなかったのに、今は切れ味のよさそうな牙《きば》が生えていた。
悪魔は何も言わない。
「ハ、ハロー。ワタシノコトバ、ワカリマスカ?」
外国人を相手にする時のように、わたしは片言の日本語で喋《しゃべ》ってみた。完全に焦りまくっている。
すると、悪魔はようやく地に響くような低い声で話し始めた。
「我を再び召喚した理由は分かっているぞ、空口《そらぐち》」
やばい。怒ってるっぽい。
「契約違反をしたのだな!」
ひぃぃ! 咆哮《ほうこう》のようなその叫びに、わたしはまた腰を抜かしそうになったが、気力で姿勢を保った。ここで負けてはいけない。
わたしは小さく深呼吸をする。
悪魔はわたしの言葉を黙って待っている。だが、その巨躯《きょく》はいつでもわたしに襲いかかることができるように前のめりになり、鼻孔から漏れる息は威嚇するような音を出していた。
体中から冷たい汗が流れる。体が緊張で強張《こわば》った。
悪魔にこの言葉は言いにくい。だけど、これは言わなければならない言葉だ。
思えば、この一言を言うために、あまりに長い時間がかかった。
「はい」
わたしはもう一度息を吸い込む。
「わたしは恋をしました」
語尾に近づくにつれ、言葉は弱くなっていった。それでも、わたしは悪魔から目を逸《そ》らさなかった。
「どうするつもりだ?」
「ですから、姿を元に戻して、契約をなかったことにしてほしいんです」
悪魔の眼《め》が大きく見開かれ、残忍そうな口は更に大きく開かれた。
「ふざけるな! 契約を破っておいて、ただですむと思っているのか!」
わたしは首を縮め、肩をすぼめて小さくなった。予想以上に悪魔の怒りは凄《すさ》まじい。周りの青い炎は烈火のごとく燃え盛り、じりじりと部屋を侵食している。火事になるのではないかと心配したが、他《ほか》のものに燃え移ることはなかった。それに、その炎はわたしの近くにきても不思議と熱さを感じさせない。
「それじゃあ、どうすればいいんですか?」
わたしは恐る恐る尋ねた。半分泣きそうだった。悪魔はこちらを見ると、僅《わず》かに目を細めた。
「違約の代償が必要だ。それは汝《なんじ》に選ばせてやろう。どちらがいいか、汝自身が選ぶがいい」
「違約の代償?」
やはり、手軽にクーリングオフ、というわけにはいかないらしい。わたしが僅かに抱いていた楽観的観測は見事に外れた。
「そうだ。我々悪魔は人間の内臓を喰《く》らって、自身の魔力を増す」
ま、まさか……。
そんなご無体な!
「代償は汝《なんじ》の目玉を二つ。それに、片方の肺と腎臓《じんぞう》。それくらいだろうな」
やっぱり!
目玉に肺と腎臓!
「そ、そんなものは……」
あげられるわけがない。だが、悪魔は怯《おび》えるわたしを楽しそうに眺めるだけだった。
胸が締めつけられるような恐怖で膝《ひざ》が震える。体の末端から冷たくなっていく感覚が分かる。
自分の内臓が取られる。その場面を想像するだけで、わたしは恐怖のあまり卒倒しそうだった。
「これが嫌だというのならば、仕方がない。もう一つの方にすることも可能だ」
そうか。選択肢はもう一つあるんだ。
「はい! 内臓じゃない方でお願いします!」
内臓じゃないとしたら何だろうか? 悪魔だし、もしかしたら呪《のろ》いのビデオや曰《いわ》くつき書籍なんかを喜ぶかもしれない。その手の所有物は、どれも主にネットで購入したレア物ばかりで、絶対に手放したくない品々だったが、内臓に比べれば安いものだ。
「個人的にお勧めなのが、ブードゥー教で実際に使われ、呪殺《じゅさつ》率九割九分七厘を叩《たた》き出した、デューク東郷《とうごう》もびっくりの超強力呪い……」
「男の命」
え?
何だって?
「汝が恋をしている男の命を違約の代償としよう」
すぐに反応できなかった。
正確には、音としては認識できるが、その意味を理解するのに時間がかかる。
頭の中で、悪魔の言葉を反芻《はんすう》させる。
わたしが恋をしている相手の、
命を代償とする?
「命を代償?」
「命を奪うということだ」
「男っていうのは……」
「汝が恋をする相手、確か一之瀬《いちのせ》とかいったな」
「つまり」
ここでわたしは一呼吸おいた。舌が乾いて、うまく動かない。
「一之瀬先輩を殺すってことですか?」
「その通りだ」
殺す?
一之瀬《いちのせ》先輩を殺す?
「え、ちょっと、待って、それって一体……」
「そのままの意味だ。一之瀬という男を殺し、内臓を引き出してそれを喰《く》らう。これならば、汝《なんじ》が恋する相手もこの世からいなくなり、汝はもはや契約違反を恐れることもなくなるぞ。おお、一石二鳥ではないか」
殺して、内臓を引き出す? 一之瀬先輩の?
頭の中で言葉が繰り返されるたびに、体の震えが大きくなる。体の内側からフリーズドライされたみたいに、わたしの心臓は小さく縮み、体が一気に寒くなる。それなのに、汗がだらだらと流れ出した。
「ちょ、ちょっと待ってください。一之瀬先輩は関係ないじゃないですか」
唇が震えた。上手《うま》く呂律《ろれつ》が回らない。
「汝を惑わした男だ。契約違反の責任の一端は彼にもある。だから、殺す」
「そ、そんなこと」
できるわけがない。
いや、体育館でライトが落下する事件があった。お花見の時には、わたしを引っ張って一之瀬先輩ごと崖《がけ》から下に落とした。
悪魔は殺そうと思えば、いつだって人間を殺せるはずだ。
「汝が内臓を差し出さぬと言うのなら、あの男のもので我慢するしかあるまい」
「そ、それだけは……」
視点が上手く定まらない。
膝《ひざ》が笑い、手が戦慄《おのの》く。
頭には一之瀬先輩の顔が浮かぶ。いつもの、優しい笑顔だ。
大好きなその笑顔……。
違約の代償。
目玉。
肺。
腎臓《じんぞう》。
それで、一之瀬先輩が救えるのか。
それなら、安いものだ。
彼が、それで助かって、演劇が続けられるのなら、わたしの体などどうなってもいい。
わたしは震える拳《こぶし》を握り締め、叫んだ。
「それだけはやめて!」
わたしはどうなってもいい。欲しいものは全《すべ》てくれてやる。命だって惜しいとは思わない。ただ、一之瀬《いちのせ》先輩に生きてほしかった。彼に迷惑をかけたくなかった。
その言葉を聞くと、悪魔は嬉《うれ》しそうに笑った。そして、周りの青い炎はさらに盛大に燃え上がった。まるで、これから何かのショーが始まるみたいだ。
「ならば、汝《なんじ》の内臓を代償としていただくとしよう! 我は医者ではないから、激痛が伴うぞ」
炎の中から青白い手が現れる。長い爪《つめ》はわたしの頬《ほお》を確認すると、目の高さにまで持ちあがった。これで目を抉《えぐ》るのか。
背筋に冷たい汗が走る。鋭利そうなその爪は、わたしの体など簡単に引き裂いてしまえそうだった。
ああ、目が見えなくなっても、肺がなくなって、腎臓《じんぞう》がなくなって入院したとしても、一之瀬先輩はわたしのそばにいてくれるだろうか。しかも契約を解除すれば、わたしは沙倖《さゆき》先輩の姿からは遠く離れてしまうのだ。きっと彼はわたしなんかと一緒に話してくれない。興味を持ってくれない。
爪が近づく。わたしは思わず目を瞑《つむ》る。
「瞼《まぶた》を開け。作業がしにくい。その小さな瞳《ひとみ》で、自分の目玉が抉られるところをしっかりと見ているんだ。絶叫して、暴れるんだ。恐怖と激痛でもがくんだ」
違う!
わたしは目を開いた。
たとえ、わたしがどうなったとしても、わたしは一之瀬先輩を振り向かせる。いつまでもいじけているのでは、昔のわたしと何も変わらない。わたしは変わらなければいけないのだ。悪魔の力ではなく、自分の力で。
悪魔の眼《め》を睨《にら》みつける。
もう負けない。
もう逃げない。
「なんだ、その目は。なぜ、怖がらない。なぜ、絶望しない」
「わたしは、何があっても先輩を助けます」
「助ける? 汝が契約違反さえしなければ、こんなことにはならなかったのだぞ。いいか空口《そらぐち》、よぅく聞けよ。汝はダメな人間なんだ。不幸を振りまくペストのような人間だ。いくら姿を変えようと、人間の本質は変えられない。汝はどう足掻《あが》いても変わることなどできない。さぁ、もっと絶望せよ」
人間の本質は変えられない? そうじゃない。
「わたしは、姿が変わればきっと自分は変わると思っていました」
そう。わたしはそれで自分が変わると思っていた。クラスのみんなから陰で何か言われていると思い込み、それを外見のせいにして、みんなを恨んでいた。本当は、わたしの悪口なんて、少しも聞いたことない。ただ、そんな気がしていただけだ。
「確かに、わたしは外見が変わっただけかもしれない。だけど、そのお陰でみんなに出会えた。そこで、気づいた。本当に変わらなくちゃいけないのは、わたしの心なんだって」
演劇部のみんなに出会えて、一之瀬《いちのせ》先輩に出会えて、わたしはようやくそのことに気がついた。自分がやってきたことの愚かさがやっと分かった。わたしは一番大切なものを変えなきゃいけないんだ。
「今までずっと逃げてきたものに、ようやく立ち向かえる勇気が持てた。人を馬鹿《ばか》にして、自分を馬鹿にして、そんな風に逃げ続けることはもうしない! わたしにだって好きな人を助けることくらいできる!」
悪魔の眼《め》が大きくなる。
「調子に乗るなよ小娘! 目玉も内臓もなくなって、生きていけるかさえも分かんねぇようなクソガキが、一体何に立ち向かうっていうんだ! 誰《だれ》が救えるっていうんだ! もっと泣き叫べよ! 未来を悲観しろよ! お前は姿すら変わっちゃいねぇんだよ!」
「わたしは変わる」
次の瞬間、右目に激痛が走った。悪魔の爪《つめ》がわたしの顔に深くめり込み、眼球を抉《えぐ》り取ろうと、中で動き回る。
歯を食いしばり、その苦痛に耐える。涙の代わりに、違う体液が頬《ほお》を伝わるのを感じる。
あまりの激痛に気を失いかけた。だけど、まるでその痛みをしっかりと感じさせるかのように、痛覚だけは確実に機能し続けた。
「ひゃひひ。どうだ、痛いだろう? 苦しいだろう? 死にたくなるだろう? てめぇの覚悟なんざ、この絶望が簡単にへし折ってくれる」
悪魔はもう一本の手を、今度は左目に刺した。わたしの視界は真っ暗になる。
眼球に爪《つめ》が食い込み、中から何かが零《こぼ》れだした。痛い痛い痛い。
「絶望して悲鳴をあげろ! 心が折れる瞬間を見せてみろ!」
「早く……」
「早く? 早く許してほしいのか? 泣いて謝って、男の方を殺してくださいってお願いしたら、許してやるぞ」
「早く、目玉を、と、取り出してくれない?」
「なに?」
悪魔の爪の動きが止まる。
「あんたの気持ち悪い手が体の中に入ってると思うと、気分悪いのよね。それに、まだ肺と腎臓《じんぞう》も取り出すんでしょ? とっとと終わらせようよ」
わたしは汗ばんだ拳《こぶし》にギュッと力をこめて、最後の気力を振り絞りそう言い放った。
確かに痛い。苦しい。辛《つら》い。きつい。
だけど、一之瀬《いちのせ》先輩のためならこれくらい耐えてみせる。
「てめぇ!」
悪魔の両腕が顔面から引き剥《は》がされる。同時に、液体を散らせながら、わたしの両目も奪われた。
「次は肺がいいか? 腎臓がいいか? 言っておくが、今と同じように直接切り取るからな。出血多量で死ぬことになるぞ」
「望むところ」
わたしは僅《わず》かに微笑《ほほえ》んでみせた。
「なぜだ。どうして、お前はそんなに強くいられる……」
悪魔の声に焦りを感じる。どうして、こいつはそんなにわたしを怖がらせたいのだろう。内臓が欲しいのなら、さっさと取ってしまえばいいのに。
その時、ドアが開く音が聞こえた。
「ちょっとお姉ちゃん! めっさうるさいんですけど!」
夏樹《なつき》の声だ。夏樹が書斎の異変に気づいてしまったらしい。
まずい。この状況では、夏樹まで巻き込んでしまう。恐ろしい悪魔のことだ、夏樹にまで危害を加えないとはいいきれない。
「夏樹《なつき》、こっちに来ちゃダメ!」
わたしはできるだけ大きな声で叫んだ。
これはわたしと悪魔の対決だ。妹のお前まで巻き込むわけにはいかない!
「は? なに言ってんの?」
夏樹はさも不思議そうな声を出す。わたしには彼女の姿が見えないが、きっといつもの人をバカにしたような目でこちらを見ているに違いない。
あ! そうか。悪魔はわたしにしか見えないんだ。だから、夏樹はあんなに落ち着いて……。
いや、待てよ。夏樹には悪魔が見えなくても、目玉から訳の分からない液体を流出させている姉は見えているはずだ。それなら、もっと慌ててもいいはずなのだけど……。
夏樹よ、お前は何と薄情な奴《やつ》なのだ。
「っていうか、お姉ちゃんもしかして寝ぼけてる? 目くらい開けて喋《しゃべ》ってよ」
目を開ける?
っていうか、目はいま抉《えぐ》られたところなんですけど……。
頭が混乱する。先ほどのダメージでタダでさえ壊れかけている精神に、これ以上の負担は危険だ。もう、訳が分からない。
これは、悪魔の罠《わな》なのか? わたしに話しかけている夏樹は偽物なのか?
わたしの目の前は真っ暗。
瞼《まぶた》を意識しても、やはり目は開かない。
「やっぱり、寝てるの?」
「ねぇ、わたしに目がついてる?」
恐る恐る目のある場所に手を伸ばし、瞼を無理やり開いてみる。
あ、目玉あるじゃん。
「お姉ちゃん。末期症状?」
むかつく愚妹《ぐまい》の顔がそこにあった。
見える。むかつくけど、見える。
目玉は抉られていない。頬《ほお》を伝っていたと感じた液体は、少しも頬についていなかった。
一体これはどういうことなのか、理解するのに時間がかかる。わたしは必死で現状を把握するための情報を、脳内で検索した。
――悪魔は嘘《うそ》つきだからな。
伊丹《いたみ》書店のおじ様の言葉を思い出す。
もしかして、わたしは騙《だま》されてた?
「お姉ちゃん……。テレビの写真を御覧なさい。あの頃《ころ》の、あなたに戻ってしまうのを、あなたはもっと恐れなさい」
諭《さと》すように夏樹《なつき》が言う。しかも、僅《わず》かに五七五調で心地よいリズムなのが腹立たしい。
だが、わたしは大人《おとな》しく妹の忠告に従う。わたしの心の中に生まれた、一つの疑惑を検証するために、写真を確認する必要があった。
テレビの上には写真が置いてある。分厚い眼鏡《めがね》をかけ、髪がぼさぼさの昔のわたしだ。
そして、その下のテレビのブラウン管は部屋の様子を、鏡のように反射していた。そこには、腕を組んで呆《あき》れた表情の夏樹。心なしか小さくなって、ばつの悪い表情をしている悪魔。そして、茫然自失《ぼうぜんじしつ》のわたし。
あれ? ブラウン管に反射される今のわたしの姿は、悪魔が変化させた完璧《かんぺき》な美少女の姿のはずだ。だけど、おかしい。髪型こそ違うけれど、写真に写る昔のわたしも、テレビが反射する今のわたしも同じ顔をしている気がする。
どゆこと?
――悪魔に整形手術はできない。
再びおじ様の言葉が頭をよぎった。
ま、まさか!
もしも、わたしの考えが正しいとすると、わたしはとんでもない詐欺《さぎ》に引っかかったことになる。
そうだとしたら……。
体中の血液が逆流し、沸騰《ふっとう》するような怒りが腹の辺りからゆっくりと広がる。
……許すまじ。
「夏樹ぃ……」
心の中で燃え上がる呪怨《じゅおん》の炎で恨みの油を煮えたぎらせ、それを表に出さないように妹を呼ぶ。瞳《ひとみ》には暗黒を宿し、口調には抑えきれぬ殺意が混じった。
「ふぇ? いや、はい!」
僅かに漏れ出す憎悪のオーラは、夏樹の背筋をぴんとさせた。彼女はわたしのただならぬ気配を感じ取っているらしい。
「あんた、わたしの姿が変わった日、イメージが変わったって言ったよねぇ……」
「は、はい。確かに申し上げました」
「それは、わたしの見た目が大きく変化したから、そんなことを言ったの?」
「いえ、そうではなく、いつも猫背だった姉上が背筋を真《ま》っ直《す》ぐにして歩いておられ、いつも半開きだった目が、あの日はきっちりと開いているようにお見受けしたからであります!」
「そうよねぇ。わたしの姿が別人になってたら、あんたもっと驚くわよねぇ。クラスメイトだって、担任の先生だって、もっともっと別の反応をするわよねぇ……」
わたしは、夏樹に向けていた視線を、ゆらりと悪魔の方に向けた。先ほどまで大騒ぎしていた悪魔は、わたしと視線を合わせないように、違う方向を向いている。
わたしは騙《だま》されていた。
悪魔はさっき目玉を抉《えぐ》った時と同じように、わたしに暗示のようなものをかけて、勘違いさせていたのだ。
本当はいつも通りのわたしが、まるで美少女に変身したかのような錯覚に陥らされていた。
これは、詐欺《さぎ》だ。
「お姉ちゃんさぁ、深夜番組の室内用エクササイズの宣伝見てたらテンション上がっちゃってさぁ」
わたしは妹の方を見ずに、悪魔の方を睨《にら》みながら続ける。
「マイケルが、あのジェーンが楽にダイエットできた的なことを言ってたし、今から器具なしでそれを実践しようと思うんだよね。だから、大暴れするけど、心配しないでねぇ。うふふ……」
悪魔の体がびくっとなった。
「あ、はい。分かりました。お姉さまの美容と健康のためなら、妹めは一切何の文句もつけません」
そう言うと、夏樹《なつき》は書斎から出てドアを閉めた。
「……この人が、朝起きたらまっとうな人間になっていますように……」
退出する寸前に愚妹《ぐまい》の残した最後の一言は、特別に見逃してやることにする。わたしには、もっと憎むべき敵がいる。
妹が去り、静かになった書斎。ここにいるのは、悪魔とわたしだけ。
「なぁ、悪魔さんよぉ」
わたしは悪魔ににじり寄る。悪魔はようやくこちらを向いた。その瞳《ひとみ》には絶望の色しかない。
「随分となめたマネしてくれるじゃねぇか」
悪魔の首根っこを掴《つか》む。悪魔の炎は熱くない。この炎は偽物だ。ただの見せかけに過ぎない。
「何が契約違反だ、てめぇ。初めから、わたしの姿は同じだったんじゃないのか?」
「いえ、その……」
「言い訳するんじゃないよ!」
まだ何も言っていない悪魔を、わたしは殴《なぐ》り飛ばした。悪魔はほとんど抵抗なく吹っ飛んだ。口から血のような液体を吐き出し、何度か床をバウンドする。
「ちょ、ちょっと待て!」
体を痙攣《けいれん》させ、悪魔は僅《わず》かに身を起こした。
「うっさい!」
わたしは倒れた悪魔の背中を踏みつけた。
「お前の目的は何だ? 内臓が欲しかったから、わたしを騙《だま》したのか?」
前に、こいつが人間の肝臓を食べる、と言っていたような気がする。だけどこいつが内臓や体の一部を欲しがるなら、わたしの目玉を本当に抉《えぐ》らなかった理由が分からない。
「我々悪魔は人間の内臓など食べない。我々が魔力の糧《かて》とするものは人間の感情だ。絶望や苦痛といった負の感情さ」
足の下の悪魔は再び何か液体を吐き出した。一撃で半殺し状態になってしまっている。こいつ、めっちゃ弱いんじゃないのか?
「じゃあ、どうしてわたしに契約を持ちかけた? どうしてわたしを騙した?」
「お前に絶望してもらうためだ」
悪魔は目玉だけをこちらに向け、半笑いを浮かべるようにしていた。
「お前みたいな人間に、守ることができない条件をふっかけて、それを破らせる」
「人を好きにならないっていうのは、確かにメチャクチャな条件だね」
当時のわたしにしてみたら、これほど好条件はないと思ったが、今になって考えてみれば無理な話だ。悪魔は、遅かれ早かれわたしが条件を破ると考えていたのだろう。そうなると、わたしの心、なんていう変なものが契約の対価になった理由も納得できる。
「体育館のライトを落としたりして、お前が俺《おれ》を恐れるように注意しつつも、確実に恋に落ちるように導く。なかなか難しい仕事だった」
忌々《いまいま》しい奴《やつ》め。そんな裏があったのか。
「そして、仕上げは違約の代償として内臓を奪われるような錯覚を与える。普通の人間なら、そこで泣き叫んで助けを請うんだ。その時の悲痛な絶望が、俺たち悪魔に力を与える。特に、愛するものを身代わりに差し出す時の人間の絶望といったら、これは最高だ」
わたしは足に力を込める。悪魔は短い悲鳴をあげた。
こいつ、純粋に性根が腐っている。
「わたしが演劇部のみんなと仲良くなろうとするのを邪魔したのも、わたしに絶望を感じさせて、自分の力にするためだったの?」
「そうだ。そっちの方も上手《うま》くいかなかったが……げほ!」
わたしのエルボーが悪魔の頭に命中する。
こいつ、マジで殺す。
「さっきの芝居と暗示も、わたしを絶望させるためのものだったというわけね」
「きっと、一之瀬《いちのせ》を殺してわたしを助けて、と泣き叫ぶものだと……ぐふ!」
わたしのフライングニードロップが悪魔の背骨を砕く。
怨敵《おんてき》調伏《ちょうぶく》。
「何にせよ、今回は失敗だね。わたしはぜっんぜん絶望とかしてないから!」
そうだ。わたしは一之瀬《いちのせ》先輩のためなら、何があっても構わないと思った。そこにあるのは、絶望ではなくて希望だった。
「そうらしいな」
悪魔は相変わらず半笑いだ。圧倒的に不利な状況であるにもかかわらず、悪魔からは余裕を感じる。嫌な感じだ。
「空口《そらぐち》真帆《まほ》よ。確かにお前は変わった。俺《おれ》の暗示があったとはいえ、あれほど変わるとは思わなかった。お前はたいしたもんだよ」
悪魔の眼《め》が細くなる。
「だが、リセットだ」
そう言うと、悪魔の体が青く輝き始める。
わたしは思わず足をどかした。青い輝きは増し、悪魔の体はだんだんと薄れていく。
「お迎えが来たようだ。さっき、俺自身にかけていた迷彩を解除した。俺の悪事が『奴《やつ》ら』にばれたのさ」
「奴ら?」
悪魔の体がふわりと宙に浮かぶ。
窓の外からカーテン越しでも分かるくらい強烈な光が差し込んでいた。
何かが外にいる。
「『奴ら』は人間界における悪魔の痕跡《こんせき》を一切残さない。そのために、人間界に出現した悪魔を捕まえるんだ。お前らの世界でいう警察みたいなものだ」
青く輝く悪魔の体は半分ほど消えている。
「同時に、悪魔に関《かか》わった人間の物理的影響や記憶は全《すべ》て消される」
悪魔はいやらしく微笑《ほほえ》んだ。
「意味が分かるか? つまり、お前は大好きな一之瀬のことを忘れちまうんだ。一之瀬だって、お前のことを覚えてはいられない。それだけじゃない。演劇部でやったあの友情ごっこも全てなかったことになる。お前は元のネクラ少女に逆戻りだ」
全て忘れる?
みんなのことを?
一之瀬先輩のことを?
「さぁ、最後にとっておきの絶望だ!」
窓の光が強くなり、カーテンがばさばさと音をたててはためく。部屋中のものが光の風に揺らされ、わたしの髪もなびいた。
わたしは……。
「全部、忘れちゃうの?」
悪魔の高笑いが響く。
部屋中が振動する。
意識が消えていくような感覚。
あんなに楽しかった思い出を、全《すべ》て忘れてしまうなんて信じられない。
信じられないのに……。
どうして?
あんなに大好きだった一之瀬《いちのせ》先輩の顔がよく思い出せなくなっていく。
どんな声だったか、どんな匂《にお》いだったか、どんな雰囲気だったか。全てが曖昧《あいまい》になっていく。
悪魔の高笑いが響く。
「いや……」
わたしの頬《ほお》に液体が伝わる。今度はまやかしではなく、本当の涙だった。
「いや! 忘れたくない!」
わたしは叫んだ。
いつの間にかカーテンは開け放たれ、窓も開いていた。外から注ぎ込まれる猛烈な光は部屋中を埋め尽くし、まともに目を開くことも難しい。
物が飛び交い、光の風が渦を巻く。
何かが目の前から飛んでくる。わたしは半目を開けた状態でそれに気がつき、ギリギリでかわした。
その間も、記憶は徐々に薄れていく。デートやお花見、初めて演劇部のステージに立ったこと。そんな過去がどんどん消えていく。
寂しい。
悲しい。
それは、とても辛《つら》い。
だけど、
「また仲良くなるもん」
わたしは呟《つぶや》いた。
ほとんど姿が消えかけている悪魔の高笑いが止まる。
記憶が消えゆく一方で、わたしの中を熱いものがこみ上げてくる。
「何度だって仲良くなれるもん!」
そうだ。弱気になっちゃダメだ。
わたしは何度だって変わるんだ。
強烈な光に対して、わたしは真っ向から立ち向かった。振り返ると、わたしの昔の写真が落ちている。さっき、わたしにぶつかってきたのはそれらしい。
最後に悪魔と目が合った。
「わたしの初恋を、こんなことで終わらせない!」
覚悟はできている。
不安はない。
きっと、わたしならできる。
「どうして……」
悪魔の悲痛な叫び声が響く。
「どうして、絶望しねぇんだよ!」
ついに光は部屋中を埋め尽くし、辺りは真っ白になった。
物が飛び交う騒音は消え去り、辺りは一気に静寂を取り戻した。
白い。
「諦《あきら》めろ。悪魔よ、お前の負けだ」
聞き覚えのある声。同時に、悪魔の姿は消えた。
真っ白い空間に、わたしは浮かぶようにして存在していた。
何だかとても落ち着ける世界だった。
何が起こったのだろう。
ほとんど記憶が残っていない。
あるのは、微《かす》かに胸に残る切なさだけだ。
自分がどうしてこの白い世界にいるのかも、よく分からない。
目の前に羽の生えた人がいる。
誰《だれ》だろう。わたしはその人を知っている気がする。
「あなたは天使?」
そこで、意識が途切れた。
全《すべ》てが白に包まれ、
白紙に戻った。
[#改ページ]
幕前
新学期の初日。わたしは、いつものように下を向いたまま電車に乗り、学校を目指した。
春の麗《うら》らかな気候の下で、わたしの心境はジメジメしていた。
ああ、今日からまた学校が始まっちゃう……。楽しくなかったけど、辛《つら》くもなかった春休みは、もう来年までやってこないのか……。
ため息が漏れる。幸せが体から逃げていくのが分かる。
校舎入り口に新しいクラスの名簿が貼《は》ってあった。そこには人だかりができていた。わたしは沢山の人の中に入ることができず、遠くで人がいなくなるのを待っていた。
「おはよう」
不意に後ろから声をかけられ、わたしはびっくりして跳び上がった。ずり落ちそうになった眼鏡《めがね》を手で押さえて振り返ると、そこには長い黒髪の少女がいた。確か、一年生の時に同じクラスだった女だ。名前は確か……。
「空口《そらぐち》さん、今年も同じクラスみたいだね」
思い出した。名前は雛浦《ひなうら》しのだ。物静かでおしとやかな人物。何だか不思議な感じがした。喋《しゃべ》ったことなど一度もないのに、彼女とは前から仲良くしていたような気がする……。ま、わたしの妄想だろうな。
いや、そんなことよりも驚くべきは、雛浦さんがわたしの名前を覚えていたことだ。この高校に、わたしの名前を正確に答えることのできる人間がいるとは思わなかった。
わたしは嬉《うれ》しかった。いてもいなくても同じだと思っていた自分の存在を、他人が覚えていてくれたとは。
「あの、わたしたち何組なんですか?」
「六組」
六は好きな数字の一つだ。六芒星《ろくぼうせい》を連想させる。何だか、今年度は幸先《さいさき》のいいスタートになりそうだな。
わたしたちは校舎の中に入った。雛浦さんは、大河内《おおこうち》も同じクラスであることを歩きながら教えてくれた。まさか、あの半猿半人の凶悪魔獣まで同じクラスになっているのか。わたしの幸先のいいスタートはここまでのようだ。
三年生の教室が並ぶ廊下の前を通り、もう少しで自分の新しい教室にたどり着ける。
その時、わたしの足は止まった。心臓がきゅんと小さくなった。
目の前に男の人が立っている。長身の男子生徒。爽《さわ》やかな好青年だ。
「あ、部長」
雛浦さんがその男に声をかける。
「入学式用のチラシって、とりあえずできましたか?」
部長と呼ばれた男は、雛浦《ひなうら》さんに向かって困ったような笑顔を見せた。
「いや、三癒《みゆ》がデザインに異様なこだわりをみせててね。まぁ、明後日の入学式までにはなんとかなると思うけど」
男はわたしの方を見る。優しい目だ。わたしは恥ずかしさから目をそむけてしまった。どうしてか分からないけど鼓動が速くなる。
も、もしかして、誰《だれ》かがわたしを式神か何かで攻撃しているのか!
男はそのまま三年生の教室に入ってしまった。わたしは謎《なぞ》の胸の高鳴りでてんてこ舞いになっていた。
「部長のこと知ってるの? なんか、急に様子がおかしくなったけど」
雛浦さんがいぶかしそうに尋ねる。
「知らない! 断じて知らないよ、あんな男!」
知っているわけがない。
「そうなの。演劇部の部長なんだけどね。うちの部さ、たくさん部員が入らないと、ちょっとやばいんだよね。とりあえず、教室に行こうか」
あの男は演劇部の部長なのか……。
一瞬見ただけなのに、はっきりと顔を思い浮かべることができる。
まだ、心臓の暴走は収まらない。どうしてだろう。こんなの初めてだ。
この原因を解明するためには、あの男のことを知る必要がありそうだ。
……演劇部か。
あの男ともう一回ぐらい会ってあげてもいい気がする。
……違う。わたしがあの男にもう一回会いたがっているんだ。
今日はどうしたんだろう。こんな思考は、普段のわたしからは絶対に生まれないのに。
よく分からないけど、演劇部に入部してもいいかな、と思った。
そして、そんなことを考えている間に、雛浦《ひなうら》さんは随分先の方へと歩いていってしまっていた。わたしは彼女に走って追いつく。
「演劇部って、二年生から入っても大丈夫なもんなんですか?」
「え? とりあえず問題ないけど。入部してくれるの?」
わたしはその質問に答えず、笑顔で二年六組の教室の前まで走った。
新しい何かが始まる予感がした。
わたしは教室のドアを開くと、一歩目を踏み出した。
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あとがき
はじめまして、熊谷《くまがい》です。
この本が第一回新人賞受賞者の中で、最後の出版となりました。もしかしたら、熊谷だけは本にならないのではないのか、と心配された方がおられるかもしれません。でも、地球上で一番心配していたのは著者自身です。出版できて良かった、ホントに。
もちろん、今回出版できたのは著者だけの力ではありません。本作品を入選作品として選んでいただいた選考委員の先生方や、担当さんをはじめとする編集部の皆様の力がなければ、このような形で本作品が世に出ることはなかったはずです。また、イラストを描いてくださったえれっとさんの可愛《かわい》らしい絵がなければ、この本を手に取る人は皆無だったと思います。さらに言えば印刷や流通など様々な方の協力によって、この本は書店に並ぶこととなりました。そう考えると、大変な数の人にお世話になったのだな、と感じます。ありがとうございました。あ、なんだか涙が出そうになってきました。嘘《うそ》じゃないですよ。
そして、この本を手にとっていただいた読者の皆さんにも感謝しています。本当にありがとうございます。
さて、本作には読み終わった後に楽しめるような仕掛けを、いくつかセットしてあります。例えば、悪魔召喚の呪文《じゅもん》は適当なアルファベットの羅列ではなく、ラテン語でもありません。つまらないものですが、暇な時に意味をお考えください。また、タイトルにも楽しんでいただけるような工夫をしました。本作のテーマの一つにもなっている言葉が隠れています。このように、作品の内容とは全く関係ないことで興味をひこうとするのはアンフェアかもしれませんが、手にした本で色々と遊んでもらいたいというのが、著者の気持ちです。
今後、『ネク恋』がどのような展開になるのか。それは、著者自身も分かりません。しかし、多くの人に楽しんでいただけるような続編が完成したならば、こうして公の場に現れることもあろうかと思います。その時は、またよろしくお願いします。そして、著者はそんな日が訪れることを切に願っております。
それでは、あなたに素敵な読書が訪れますように。
[#地付き]二〇〇五年 十二月 熊谷|雅人《まさと》