神様のパラドックス
機本伸司
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)闇《やみ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)テーブル型|操作卓《コンソール》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)占い研究会[#「研究会」に傍点]
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[#挿絵(img/02_000.jpg)入る]
〈帯〉
最先端の量子コンピューターで神≠創りだすことなんてできるの?
高コストでハイリスク、企業も持て余す量子コンピューター。窓際社員が掲げた事業は、なんと、占い事業だった……。
『神様のパズル』の著者が描く、待望の書き下ろし最新作。
待望の書き下ろし長編SF最新刊!
[#ここで字下げ終わり]
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神様のパラドックス
[#地から1字上げ]機本伸司
[#地から1字上げ]Kimoto Shinji
[#地から1字上げ]角川春樹事務所
目次
1 光
2 空
3 海
4 星々
5 生物
6 人間
7 塵
あとがき
主な参考文献
[#地から1字上げ]本書は書き下ろし作品です。
[#改ページ]
1 光
1
そろそろ、この居心地のいい闇《やみ》≠ゥら抜け出さないといけない。いつまでも居つづけるわけにはいかない……。
呪文《じゅもん》のようにそう何度かくり返した後、彼女はようやく毛布をはねのけ、ベッドに体を起こした。携帯のアラームを止め、覚悟を決めたようにカーテンを開ける。
朝の光が差し込んできた。
携帯のメールをチェックしながら、テレビのスイッチを入れる。そしてパジャマのまま、洗面所へ。水は、さほど冷たく感じなかった。もう五月なのだから、当然かもしれない。
デニムのスカートに着替えながら、テレビで今日の運勢≠チェックする。
ショルダーバッグに携帯をしまい、スリッパをスニーカーに履き替えて、玄関の鏡の前に立つと、手櫛《てぐし》≠ナ髪を直し、アパートのドアを開けた。
その場で一度、深く息を吸い込むと、井沢直美《いざわなおみ》は、自分を取り巻く混沌《こんとん》へと踏み出していった。
駅の改札を抜け、学校へ向かう。
前を行く学生の中に、直美と同じ占い同好会≠フ、斉藤智恵実《さいとうちえみ》を見つけた。あのショートヘアは、彼女に違いない。
直美は小走りに近づき、小柄な彼女の隣に並んで声をかけた。
「おはよう」
しかし、気付いてもらえない。今度は、前にまわって手をふってみた。
智恵実があわてて、耳に突っ込んだイヤホンを外した。
「ああ、元気ぃ」そう言いながら、智恵実は手をふった。「丁度良かった。今メールしようかと思ってたところ」
「何で?」
「私の学籍番号、前に教えてるよね」
それだけで直美は、用件を理解した。
案の定、「二限目の倫理学、出席お願い」と言って、彼女が手を合わせた。
二人とも、この二十八年度に入学した一年生だったが、直美は文学部社会学科、智恵実は経営学部経営学科と、学部は異なっている。しかし全学部共通科目のなかには、二人が共に受講しているものも、いくつかあったのだ。
「別に、いいけど」
「ありがと。一生恩にきるから」智恵実は、彼女の肩に手をのせた。
正門をくぐると、各クラブのカラフルな立て看板が並んでいる。連休前に比べるとかなり減ったが、それでも残っているものは、存在を顕示し続けていた。
二人は、チラシを配っている学生から、条件反射のように受け取った。見てみると、占い研究会≠フものだ。前にも何度かもらったことがある。五月祭における模擬店のPRとともに、新入生の勧誘を目的としたコピーが目をひく。
「あっちは熱心ねえ」智恵実が言った。「他のクラブの勧誘は、大体引き上げたのにさ。熱心というか、しつこいというか」
「うん、同じ占いやってても、うちの同好会とは、大違い……」
実は、今チラシを配っている占い研究会[#「研究会」に傍点]と、彼女たちが入った占い同好会[#「同好会」に傍点]とは、まったくの別組織なのだ。占い研究会は文化会に所属する正式なクラブ。一方、彼女たちの占い同好会は昨年設立されたばかりのサークルで、正式なクラブとしては認められていない。
「ウチも頑張らないとなあ」智恵実は空を見上げながら言った。
二人は他の学生たちと一緒に、教務部前の掲示板へ行き、休講などをチェックした。
「じゃ、二限目の倫理学、お願い」智恵実が軽く手をあげる。
「いいけど……」直美は口をとがらせた。「どこ行くの?」
「へへ。同じ学部の友だちと、ちょっとね。内緒」智恵実が人指し指を唇にあてる。「一限目の英語は出ないわけにはいかないけど、サボれるものは積極的にサボらないと。大丈夫。サークルには顔出しするから。じゃ」
笑顔で手をふる智恵実を、直美は黙ったまま見送っていた。
一限目のフランス語を終え、直美は大教室へ行き、窓側に腰かけた。そして上下にスライドする大黒板を駆使して講義する老教授の声を、スピーカーを通して聞いていた。
もちろん、智恵実に頼まれた出席表は、彼女の分も記入した。自分と違い、智恵実は早くも学生生活の要領をつかんだようだと、直美は思った。大体、倫理学の授業で出席をごまかすなど、冒頭から大きな倫理規定違反ではないか。単位を取得するどころか、本来、受講の資格もない。しかしそれが通用するのが、大学というところかもしれない。
教授との距離感をいいことに、机の下で携帯のメールチェックをするのも飽きてきた。この倫理学の教授は、あまり資料をくれない。智恵実も当然、あとでノートを貸してほしいと言うだろう。直美は仕方なく、黒板を書き写すことにした。
智恵実にメールを送った後、直美は学生食堂で昼食を済ませ、図書館で少し時間をつぶした。
そして午後からの心理学概論においては、彼女はチャージしたカロリーのほとんどを、大教室の片隅の席を温めることと、自らの眠気を必死でこらえるために消費していた。
四限目の文化人類学Tが終わってすぐ、直美は文学部学舎一階にある小教室、一〇八号へ向かった。占い同好会に、部室はない。学生部に申請し、部屋を借りているのだ。
ドアは開いている。会長の安藤令子《あんどうれいこ》、そして副会長兼会計の原杏里《はらあんり》が、すでにいた。二人はそれぞれ、自分のノートパソコンとにらめっこしている。
直美に気付いた令子が、よく通る声で言った。
「よ、ご苦労」
杏里もパソコンに向き合ったまま、片手をあげる。
直美は軽く会釈《えしゃく》をし、教室に入った。
二人とも、直美と同じ文学部だが、令子は歴史学科、杏里は英米文学科の二年である。また令子がボーイッシュでラフなスタイルなのに対し、杏里はいつも、ファッション誌のモデルばりに決めている。まるでタイプは正反対の二人なのだが、どうもウマが合うらしい。そもそも彼女たちが中心となり、サークルを創設したのだ。会員の勧誘も熱心にやっているが、集まるのはほとんど名簿上の会員だけで、実際に活動しているのは、この春に入会した直美と智恵実を加えた、四人ぐらいだった。
足音にふり向くと、智恵実が入ってきた。
「こんにちは」
直美は彼女に挨拶《あいさつ》すると、今日の倫理学のノートを渡そうと思い、ショルダーバッグからルーズリーフのノートを取り出した。
「あ、そんなの試験の前でいい」智恵実は手をふった。「まとめて借りるから」
杏里は長い髪をかき上げ、二人に向かって、片手を差し出した。
「忘れないうちに、五月分の会費、お願いね」
「あ、そうか」智恵実が頭に手をあてる。
直美と智恵実は、財布を取り出し、会費を杏里に支払った。二人はまだ仮入会の段階で、正式に入会が決まるのは、七月からになる。
会長の令子は、ディスプレイを見つめながら黙々とマウスの操作を続けていた。彼女たちは、見かけほど難しいことをやっているわけではない。しかし占い同好会≠ニいう看板を掲げた以上、一応、占いとは何かについて研究しているわけである。
実際にやっていることといえば、ネットからのダウンロードや市販している占いソフトをいくつか持ち寄り、主に自分たちをモルモットにしてサンプリングして、短期、中期、長期別に、ソフトごとの特徴や違いを調べているのだ。そうした作業を続けていれば、それらが利用者のニーズを的確にとらえているかどうかだけではなく、占いそのものの当たり外れまで分かるようになってくる。おみくじ≠ンたいに、ランダムに運勢が出力されるだけのものもあれば、何らかの根拠に基づいて占っているらしいものもあるわけだ。
問題になってくるのは、その根拠≠ニいうことになる。それは経験則のようなものかもしれないのだが、そうしたものを研究すれば、何か宇宙の真理のようなものが見えてくるのではないか、というようなことを研究しようという趣旨のサークルなのである。最終的には、独自の占いソフトを作ることも目標にしているが、なかなか、そこまで進めることができずにいる。何せ実際は、ゲームをして遊んでいることの方が多いのだから。
「さて、みんなそろったし、五月祭の準備、先にやっちゃおうか」
令子はそう言って立ち上がると、用意した色模造紙を教卓に置き、鞄《かばん》から太書きマジックを取り出した。
早速四人は手分けして、サークル名やキャッチコピーなどを模造紙に書いていった。十三日の土曜日から始まる五月祭には、彼女たちも模擬店を出すことになっている。当日、五月祭実行委員会から借りることになっているベニヤ板に、これらを貼り付けるのだ。
「もっと会員を集めないとなあ」杏里がつぶやいた。「それに女ばっかだしさ」
令子はマジックを置いた。
「まあ、こんなもんでいいか」
模造紙を丸め、占い同好会所有物!≠ニ書いた紙を貼ると、彼女は階段横の倉庫に、それらを片付けた。
2
学校からの帰り、直美は、二人の先輩と智恵実の後ろをついて歩いていた。
駅前にあるファーストフード店の前で、令子が立ち止まる。コーヒーとサンドイッチの店だ。そのすぐ先には、ラブリー≠ニいう別な喫茶店がある。
「今日はどっちにしよう?」と、令子が言った。
智恵実が手をあげる。
「喫茶店」
「直美は?」
令子にそう聞かれ、彼女は小声で「私、別に……」とつぶやいた。
「何よ、はっきりしないわね」令子は、喫茶店の方に向かって歩き出した。「入るわよ」
四人は、店の一番奥のテーブルに腰を下ろした。店内は明るい。窓辺には、スミレの花などがさり気なく飾ってある。
令子はカプチーノ、杏里はレモンティ、智恵実はホットコーヒー、そして直美はホットココアをそれぞれ注文すると、先輩たちが、五月祭の段取りについて打ち合わせを始めた。新入生の二人は、それを聞きながら時折軽くうなずいている。
実を言うと直美は、春先からの環境の変化に、まだ戸惑っていた。つい一月《ひとつき》前に知り合ったばかりの人たちと、ここでこうしていることにも。いや、入学が決まれば、どこかのクラブには入るつもりだった。就職のとき、どこのクラブにも入っていないよりは有利だと思ったからだ。だからこの人たちとでなくとも、きっと誰かとどこかで、今ごろこうしていたかもしれない。直美は、店内で歓談している他の学生たちをながめていた。
しかし何故《なぜ》、この占い同好会だったのか。彼女は元々、運動が苦手ということもあって、体育会系のクラブには、最初から入る気がなかった。すると必然的に、文化会系のクラブということになる。かといって特にやりたいこともなかったのだが、興味のあるものについてあれこれ考えていると、パソコン、あるいは占い関係が浮かび上がってきた。そして彼女は思い切って、正式な文化会のクラブである、占い研究会をたずねてみた。
しかし結局、そこへは入らなかった。一度部室を訪問した後、しつこく勧誘されたのだが、それが彼女にかえって嫌な印象を与えてしまったからだ。また部員が多く、にぎやかそうなのも、彼女に入部をためらわせた理由の一つだった。何故なら彼女は、人が多いところが苦手だったのだ。
それで結局、この占い同好会に入ることになった。二年生の令子や杏里からもしつこいぐらいに迫られたが、二人とも気さくそうだったし、それにいろいろ学校のことを、親切に教えてくれた。そしてふと、クラブは占い同好会でいいか、と思ってしまったのだ。
そうこうしているうちに、入学からあっという間に一月が過ぎていた。
何か不満があるわけではない。サークルは予算的にも厳しく、活動面でもいろいろな制約があるが、会員に対する規則は緩いので、むしろ自分には合っているのかもしれない。会長の安藤さんはちょっと強引なところがあるし、会計の原さんはクールで打算的な一面もあるが、ともに頼りになる先輩だという気がする。学部は違うものの、智恵実という友だちもできた。そう、男子会員がいないのが、不満といえば不満かもしれない……。
あれこれ考えていると、やっぱり占い研究会の方がよかったかもしれないと思うときもあった。いや、将来のことを考えると、もっと就職に有利なクラブに入っておいた方がよかったかもしれない。占いなどという趣味性の強いクラブではなく、たとえば英語研究部とか。あるいは思い切って、自分が本当にあこがれていた、演劇部とか……。
直美は、窓辺のスミレに目をやった。
「ちょっと直美、聞いてるの?」令子が直美のおでこを、指で軽くつついた。
「あ、すみません」
「もう一度言うわよ。当日の服装。ラフでもいいけど、なるべく占い師らしい服装で頼むわね。みんなに見られるんだから」
「あ、はい」
「本当に、ぼんやりしてるわね、直美は」杏里が微笑《ほほえ》みながら言った。「あんた、黙ってたら、いるのかいないのか分かんないときがある」
「君、やる気あんの?」智恵実が直美の肩をたたく。
直美は黙ったまま、申し訳なさそうにうつむいた。令子が、直美の顔を心配そうにのぞき込んだ。
「あんたひょっとして、あれじゃないの?」
智恵実が興味深そうにたずねる。
「あれって、何ですか?」
「あれよ、あれ」令子は、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて答えた。「五月病」
「へ?」直美が、顔を上げた。「五月、病……?」
「そう。五月病」
直美は、ゆっくりと首をかしげる。
「私、ちょっと違うんじゃないかと思いますけど、そういうのとは……」
「いや、分かんないわよ」杏里が真面目《まじめ》な顔で、直美を見つめた。「そういえば、そんな顔してるかも」
令子は、カプチーノを一口飲んだ。
「苦しかった受験勉強も終わり、晴れて新生活。学校にもそこそこ慣れてきた。さあ、これから何でも自分の好きなことができる、と思ったものの、何か満たされない。自分のあこがれていた学生生活って、こんなものだったのか。そしてここは自分のいるべき場所か、これは自分のすべきことかと考え出す。違う?」
彼女に質問された直美は、何も答えられずにいた。
「気をつけた方がいいよ」令子は、直美に忠告した。「それで学校、やめていく子もいるんだから。実は私の同期にもいた」
「そんなこと考えても、仕方ないじゃん」杏里はレモンティに口をつけた。「それより遊べるときに遊んどかないと、もったいないよ」
「そこで早速、合コンの話なんだけどさ」令子がそう言うと、杏里と智恵実が笑った。「五月祭が済んだら、打ち上げを兼ねて合コンやらないかって、実行委員会の有志からお誘い受けてるの。この際だから幽霊会員にも声かけてパァッとやろうと思うんだけど、いいかな?」
杏里と智恵実は、笑顔で手をたたいた。
「良かったら直美も来なよ」
「合コン、ですか?」直美は、上目づかいで令子を見た。
「何? 合コンにも行きたくないってか?」令子は、顔をしかめた。
杏里が微笑みを浮かべながら、令子に言う。
「ひょっとして直美が行きたいのは、合コンより、ソリジン≠フパーティの方じゃないの?」
それを聞いた令子も、笑い出した。「まさか、そんな……」
直美と智恵実は、不思議そうに二人を見ていた。
「そういえば、また交流会やるみたいよ、あそこ」と、杏里が言った。「正門の前で、チラシ配ってた」
そのチラシは、直美も見た覚えがあった。
何かに気付いたように、智恵実が手をあげた。「ソリジンって、あの新興宗教の?」
「違う違う。連中、そう言われるのは嫌っているみたいよ。実際、宗教法人じゃないらしいし。でも宗教団体だと思っている人は、結構いる」
「じゃあ、何なんですか?」
「株式会社よ」
「ちょっと、イメージしにくいなあ」智恵実は首をひねる。「どんな会社なんだろう?」
「一応、サービス業、かな」令子が答えた。「メンタルヘルス・ケア――つまり心の健康をサービスにしている会社。強《し》いて言えば、会員制のフィットネス・クラブ、みたいな。だから入会しているのは信者≠ニ言わず、クライアント=Bやっていることも礼拝とかじゃなく、主にカウンセリング。全体的に、宗教というより、心理学なの。踏み出すことがあったとしても、哲学の領域。会社説明には、そう書いてあったけど」
杏里が聞いた。「令子、読んだの?」
「うん。他のサイト見てたら、掲載《バナー》広告でちょくちょく引っかかるし、あれだけ宣伝してたら、気になるじゃない……」
まだよく理解していない様子の智恵実に、令子は説明を続けた。
ソリジン≠ヘ略称、およびシンボル名で、正式名は|ソウル《S》・|オリジン《O》・|サービス《S》=B本社はアメリカで、日本も含めて、各国に拠点がある。その活動としてまずあげられるのが、カウンセリングである。支店、あるいはネットを通じて、あらゆる相談に応じてくれる。内容に制約はない。ダイエットや美容に関することでも、家族や友だちに言えないような悩み事でも、基本的には何でもOKである。こうしたマンツーマンのカウンセリングだけではなく、講演会、ミューチュアル・パーティ≠ニ称する交流会、合宿など、メンタルヘルスを目的としたあらゆるサービスを展開している。他にヒーリング用の映像コンテンツなども販売していて、よく売れているらしい。
ソウル・オリジンが急成長を遂げた要因の一つとして、ネットの活用があげられる。バナー広告を方々に張りめぐらし、自分たちのホームページへ誘導する。しかも、最初の相談は無料。講演会も交流会も、初参加は無料である。試しに参加してみて、そのまま会員になる人は多い。さらに紹介サービスなどで、会員を増やしていくのだ。個人だけではなく、社員啓発のためのイベントなどを開催することで、企業との契約も取り付けている。
ソウル・オリジン急成長のもう一つの要因であり、最大の特徴は、非宗教≠うたっていることだといえる。宗教の垣根を越える≠ニいう彼らのコンセプトは、多くの人々に受け入れられていた。ただ彼らの活動は、ある一つの宗派に特定しないということであって、神を否定しているわけではない。しかしカウンセリングや講演内容によっては、神の問題に触れないわけにもいかない。それが会員の相互理解に、何らかの齟齬《そご》を生じさせないとも限らない場合もある。そのため彼らは、様々な宗派の受け皿≠ニして、ある概念を用意していた。
それが、大宇宙根元魂=\―別名ソリジン≠ナある。彼らの活動全般に深く関《かか》わっている、キーワードだ。ネーミングはもちろん、ソウル・オリジンに由来するのだが、彼らはそれを、神≠ニは呼んでいない。ソリジンは哲学的に説かれ得るものであり、神とはまた異なるというのだ。ただしその概念は、簡単に会得《えとく》できるものではない。その理解に少しでも近づくための学習会や体験道場も開催されていて、参加者も多い――。
「でも交流会って結構、友だちができるらしいよ」杏里がうれしそうに言った。「ちゃっかり出会い系サイトの代わりに使っている人もいるって噂《うわさ》だけど。自分から『入会している』って言う人はあまりいないけど、うちの学校にも大勢いるっていう話は聞くわよ」
令子がカプチーノの残りを飲み干した。
「そりゃ、誰にだって悩みごとの一つや二つ、あるもんね。しかも最初の相談は無料なんだもん。相談できる人がまわりにいなきゃ、そっちへ行っちゃうわよ」
「安藤先輩は、どうなんですか」と、智恵実がたずねた。
「私? 関心はあるけど、ちょっとね」令子は、首を横にふった。
「どうしてですか?」
「あんたもバナー広告とかチラシは見たことあるよね。カウンセリングはいいけど、最近の宣伝文句、ちょっと気に入らないの」
「あ、あの世界の危機≠チて、やつですか?」
令子が軽くうなずく。
ソウル・オリジンのCMのなかには、終末の危機を迎えている現世において、心の平安を得るにはどうすればいいか≠ニいうようなフレーズもあった。
「確かに今の世の中、物騒だけど、いたずらに危機感をあおっているような気もするでしょ。最初はあんなふうじゃなかったと思うんだけど、最近、目立つのよね」
「会社が大きくなって、株を上場したころからかな」と、杏里が言った。
「かもね。だからうまく言えないんだけど、何かうさん臭いの。私はよ」令子は、直美を見た。「でも別に、反対しているわけじゃないから。あんたたちがソウル・オリジンに入るとしても、それはそれでいいと思うけど。それで楽になるんなら。けど、サークルはやめないでほしい。せっかく知り合いになれたんだもん」
直美はじっと、テーブルのカップを見つめている。
令子が、軽くテーブルをたたく音がした。
「ねえ、聞いてるの?」
「あ、はい……」
背中を丸め、直美は申し訳なさそうに下を向いた。
喫茶店代は、令子が支払ってくれた。
三人とは、電車の駅で別れた。直美は改札を抜け、自分のアパートへ向かう。
実家から通えるところに、大学はいくつもあった。しかし彼女は、わざわざ遠くの学校を選んでいたのだ。また、学校から歩いて通えるところに、アパートはいくらでもあった。それだと、学校とアパートの往復だけになりそうな気がしたので、彼女は学校から一駅離れたところに、部屋を借りた。結局は、学校とアパートの往復に、電車を使うというだけのことでしかなかったのだが。
夕暮れ時とはいえ、周囲はまだ明るい。途中、彼女はコンビニへ立ち寄った。
夕食は自分で作ることもあるが、面倒な日は、コンビニ弁当で済ませることが多くなってきた。その日はちょっと贅沢《ぜいたく》し、マカロニグラタン・スペシャルを買ってしまった。本当は、もっとカロリーを気にしないといけないのだが、つい欲望に負けてしまうのだ。
アパートに帰ると、直美はまず、テレビをつけた。どこかの国で、また自爆テロがあったらしい。次にお風呂のお湯をセットし、たまっていた洗濯物を片付けることにした。
嫌になる前に、宿題もやっておかないといけない。直美はノートパソコンを開き、明日提出する心理学概論のリポートをまとめておいた。
お風呂で、鏡を見てみる。もう少し、バストが大きくならないものかと思う。お腹のまわりや太股《ふともも》は、いくらでも太くなるのに。鏡に向かって、無理に微笑んでみる。我ながら、ちっとも可愛《かわい》くない。
グラタンをレンジで温め、テレビを見ながら食べた。今日はこれといって、見たい番組もない。
その後直美は、パソコンの方に入っているメールをチェックした。迷惑メールと広告がほとんどだった。次に、近ごろ気になっているアイドルのホームページを開けてみた。ここはほぼ毎日更新されているみたいなので、チェックしておかないといけない。しかしその日は、特に変わったことは何も書かれてはいなかった。
さて、あとは寝るだけだ。変化を求めて始めた独り暮らしだったが、引っ越しが終わり、一段落すると、待っているのは前と同じ、単調な日々のくり返しだった。起きて、学校へ行き、帰って、寝る。今日すべきことで残っているのは、寝ることだけ。
パソコンを終了させようとしたとき、ディスプレイの片隅に表示されたバナー広告の、キャッチコピーに目がとまった。
〈信じられる存在に、出会いたいと思いませんか?〉
ソウル・オリジンだった。実は直美も、ソウル・オリジンのホームページは何度か見たことがある。学校で時間が空いたときに、携帯からアクセスすることもあった。
標識《タグ》をクリックする。
〈ソリジンとともに〉という見出しが、効果音とともに表れ、ソウル・オリジンのホームページが開いた。
直美は、掲示板《BBS》を見てみることにした。ソウル・オリジンの掲示板が面白いというのは、高校時代の友人からも聞いたことがあった。直美もそう感じていた。
何故人は生きるのかとか、宇宙とは何かについて、みんな結構真面目に議論している。いろんな人の考え方を知ることができて、直美には参考になるページだった。しかも管理人がしっかりしているらしく、変な書き込みはほとんど見たことがない。
ざっと目を通した後、彼女は地域ごとのイベント情報を調べてみた。原先輩が話していた、交流会のことが載っている。ミニ・コンサートとか、フリーマーケットなんかもあるようだった。
開催は、来月の第一土曜日。今のところ、何も予定はない。彼女は、前に正門前でソウル・オリジンのチラシを配っていた男子が、ちょっとカッコよかったことを覚えていた。
少し考えた末、直美はURLを、お気に入り≠ノ登録することにした。
3
その週末、予定通り五月祭が開催された。キャンパスには、模擬店の白いテントが立ち並んでいる。
彼女たち占い同好会も、コンピュータ占い≠フ看板を掲げ、模擬店の一画に陣取っていた。H字型に区切られたブース内で、いつもの四人が群れている。入口にある臙脂《えんじ》色のカーテンは、開いたままになっていた。
「来ないですね、お客さん」タコ焼きを頬張《ほおば》りながら、智恵実が言った。
「どうでもいいけど、これ、黒こげじゃん」杏里は、爪楊枝《つまようじ》に突き刺したタコ焼きをながめている。「これじゃタコ焼きじゃなくて、タコ焼けだよね」
「それに、タコは入ってないみたいですよ」智恵実が噛《か》みながら確かめている。「中はグニャグニャ。多分これ、コンニャクですねえ」
「それじゃあタコ焼けじゃなくて、コンニャク焼けか」
「文句があるなら、模擬店に言いなよ」令子が不機嫌そうに言った。「せっかく、おごってやってるのに」
「分かりました」杏里がタコ焼きを、口に放り込んだ。「しっかり味わっていただくことにします。どうせヒマなんだし」
「ヒマだけ余計よ」
直美はタコ焼きを食べながら、斜め向かいにある、占い研究会のブースを見ていた。彼女たちのサークルとは対照的に、長い列ができていた。
令子も、その列をながめている。
「何でも人の並んでいるところに並ぶ。日本人の悪い癖よ」
「それ、負け惜しみに聞こえるんだけど」杏里が口を動かしながら、微笑んでいた。「まあ、仕方ないか。第一、店構えからして違うもんね。あっちは濃い紫のビロード布に、発泡スチロール製の看板。こっちは模造紙にマジック書きだもん。こんな貧乏くさいところで、わざわざ金払ってやるかっつうの。まあ、占い師に魅力があれば、別だろうけど」
令子と杏里は、しばらく無言のまま、にらみ合っていた。
「でも、当たるか外れるかは、そんなに違わないんじゃないの」と令子がつぶやく。「問題は中身よ、ね」
令子は、同意を求めるように、直美の方を見た。
確かに直美の目から見ても、占い研の方が立派に見えた。それに客引きをしている学生は、あっちは男も女もカッコ良い……。
「何よ、直美。あんたもあっちへ行きたいの?」
「いえ、別に……」直美はあわてて首を横にふった。
令子の声に気づいた占い研究会の女子学生が、こっちをふり向いた。目が合った令子は、愛想笑いを浮かべながら、軽く会釈をする。
そして「知り合いよ、同じ学部の」と、つぶやくように言った。
「でも安藤先輩」智恵実が聞いた。「先輩はどうして、あっちへは入らず、サークルを作ったんですか?」
「うん。実は行くつもりだったんだけど、ちょっと自分の思ってたのと違ってたんで。要は、気乗りがしなかったの。友だちから、妙な噂も聞いたし」
彼女は微笑みを浮かべ、舌を出した。
「妙な噂?」智恵実が首をかしげる。
「いいよ。そんなの知らなくたって」
「別に隠す必要ないじゃない」杏里がタコ焼きを食べながら言う。「ソリジンよね」
「え、そうなの?」と、智恵実がつぶやく。
「うん。カウンセリングから派生する形で、ソウル・オリジンは、占い事業もやってる。そしてうちの学校の占い研の背後には、そのソウル・オリジンが。占い研に入ると、合宿でソリジンの研修会に連れていかれるの。最初は和気あいあいとやってるんだけど、ある段階から、急にキツくなるらしいよ。やめた子の話だけど」
「あくまで、噂よ」と、令子が言う。
あながち噂でもない、と直美は思った。彼女は、占い研のチラシを配っていた人が、別な日にソウル・オリジンのチラシを配っていたのを見たことがあったのだ。ちょっと彼女のタイプ≠セったので、よく覚えていた。
「それに人が多いとにぎやかでいいけど、自分の好きなことができにくくなるし」令子は、空《から》になったタコ焼きのトレーを、直美の前に置いた。「こっちで大正解よ」
「ごちそうさまでした」智恵実もその上に、トレーを重ねた。
直美は立ち上がり、四人のトレーを集めた。そして店を離れ、植え込みの脇《わき》にあるゴミ箱へ向かった。店へ戻るとすぐ、令子が直美を指さして言った。
「あ、直美がいるじゃない」
彼女は、「何のことですか?」と聞いた。
「うん、みんな店にいても仕方ないから、交代で休憩しようって話してたの」
直美は少し考え、一つうなずいた。令子が続ける。
「実は、学生会館前のライブステージに、もうじき杏里のカレ氏のバンドが出るんだって。杏里のやつ、自分だけ行くつもりでいたらしいけど、そうはいかないわよね」
「見せ物じゃないわよ、私のカレ」杏里は口をとがらせた。
「バンドやってんでしょ。見せてんじゃん」
直美は、令子と杏里の顔を見比べていた。「じゃあ、先輩は二人とも休憩ですか?」
「いや違う」智恵実が微笑みながら、自分を指さしていた。「三人」
「そんな……」
少しだけ後ずさりした直美に、令子が言った。
「何? 『私一人で、留守番なんかできません』、て?」令子が立ち上がり、直美に近づいた。「大丈夫、占いそのものはコンピュータがやってくれるから、ディスプレイを読めばいいだけ。使い方、知ってるよね。一台はお客の方に向けて、あんたはもう一台のオペレータ用を見ながら、結果を適当に読み上げてやればいいから」
黙ったまま、直美はうつむいていた。
「黙ってたら分からないじゃない。それともあんた、何か他に予定、あるの?」
直美は首を横にふった。別に何の予定もない。
「じゃあ、決まり」令子が直美の肩をたたく。「ちゃんとタコ焼きの分、働いてもらわないとね」
「それにあんた、ちょっと太ったんじゃない?」と、杏里が言った。
「え?」直美は、胸に手を当てた。
「緊張不足よ。奇麗《きれい》になるためには、店番でもして、人に注目されてみたら? これもいい女になるための、大事な修業だと思ってさ」
「一人で店番も悪くないよ」智恵実が直美の肩を軽く揉《も》むしぐさをした。「素敵な出会いが、待っているカモ」
三人は、学生会館の方へ向かって歩き出した。
「大丈夫、すぐ帰ってくるから」令子がふり向き、手をふった。「どうせ客なんて、来ないわよ。でもパソコンとお金からは目を離しちゃ駄目よ。じゃ、頼んだわね」
行ってしまった。
こうして彼女は、自分でもあり得ないと思える素敵な出会い≠期待しながら、店番をさせられることになったのである。
直美は、すぐ目の前の花壇に咲いている、ツツジをながめていた。初夏の日ざしが心地よい。目に映るものは、何もかもがさわやかだった。そこで何不自由なくのんびりいられる自分は恵まれているのかも……、と彼女は思った。取り立てて今、何かに困っているというわけでもない。大学にも受かった。けど、何をして良いのか、よく分からないのである。授業をさぼってみんなと遊んでも、さほど面白いと思えなかった。
友だちがいないわけではない。環境が変わったことによる、新たな出会いはいっぱいあった。もっとも出会ったのは、にぎやかな先輩や、自分勝手な同級生たちだったが。そんな彼女たちに、授業の代返や店番役としては、自分も重宝してもらっているらしい。
花壇横の桜の木からは、木漏れ日が差し込んでいる。直美は、その桜が満開だったころを思い出していた。あのとき自分が思い描いていた学生生活は、こんなふうじゃなかった気がする。彼女は、椅子《いす》に座り直した。
何かちょっと違うなと考え出したのは、新入生歓迎コンパのあたりからだろうか。みんなが楽しそうにすればするほど、何故か自分の気持ちは冷めていった。その後のゴールデンウィークをダラダラとすごし、また学校が始まって、バタバタし出したころにはもう、ちょっとおかしかった。つまり、受験勉強みたいにやりたくもないことから解放されたにもかかわらず、これといって何もやりたいことがないのを自分で認識した後に、授業というやりたくもないことを再びやらされたころからだ。
ただ居心地は、そう悪いわけでもない。全体的な傾向としては、今ごろの気候と同じ。何か、生暖かいというか、生ぬるい。しかし、そのことを意識してしまうと、妙に気になるのだ。この生ぬるいところで今、自分は一体、何をしているんだろうと思ってしまう。学校側も、そんな学内のムードを何とかしようとはしないのだろうか……。
彼女は、首を横にふった。違う。学校に何か問題があるというより、これはむしろ、自分の問題なんだ。だって他のみんなは、これで結構、楽しくやっているみたいだし。
でも自分に何ができるんだろう、と直美は思う。これといって、取り柄もない。運動も苦手だし。そんな自分に素敵な出来事なんて、何も起きないような気がしてくる。このまま何もしないでいると、待っているのは平凡な人生。そんなのは嫌。永久就職≠ノも魅力を感じない。せっかく生まれてきたんだから、何か自分にしかできないことがやりたい。
実を言うと、彼女は小さいころから、漠然と女優にあこがれていた。クラブ活動にしても、演劇部に入ろうかと本気で悩んでいたのだ。でもどう考えても、こんな自分に演劇などできるわけがない。だから部室を訪ねてみることもなかった。女優にあこがれたりするのは、引っ込み思案な自分と、無関係ではないのだろう。多分、その反動なのかもしれない。今の自分以外の何かになりたいという願望が、そんな夢をいだかせるのだ。
あれこれ考え始めると、自分の名前まで気に入らなくなってくる。井沢直美。何と平凡な名前だろう。同じナオミなら、直美よりも奈緒美≠フ方がまだ良かったと、自分的には思う。何でも、正直で美しい娘に育ってほしいという願いを込めて、両親が名付けたのだという。しかし私は何も、正直者になるために生まれてきたわけではないのだ。しかも後ろにくっつけた美≠フ一字は当てこすりではないかと思えるほど、さして美しくもなく育ってしまった。文句を言おうにも、両親は早くに離婚してしまい、他の女と再婚した父とはずっと会っていない。自分を引き取ってくれた母も再婚したが、育ててもらっている手前、今さら名前のことぐらいで関係をこじらせたくはない。
いや、名前なんかは、もうどうでもいい。問題は、現状をどう打開するかだ。
直美は、二人の先輩や智恵実を見ていて、うらやましく思うことがあった。こんな悩み事とは無縁のところで、青春を楽しんでいるようにも見える。まだ話したことはないが、彼女たちは悩んだりしたことはないのだろうか。でもこんなことを彼女たちに話せば、また変な子と思われるだけかもしれない。まだそれほど親しくもないわけだし、急に深刻な話を持ち込むことで、今の適当に楽しい関係を壊してしまうことだって考えられる。
高校時代だと、こういうことは担任の先生に相談できなくもなかった。けどここに、自分を導いてくれるような先生は見当たらない。先生は、授業を教えるだけ。サークルに顧問の先生はいるが、幽霊会員と同じく名前だけで、実際はほとんど話をする機会もない。
直美はふと、学生相談室のことを思い出した。西校舎の一階にあるのは知っているが、まだ入ったことはない。しかし、そこへ行って相談するほどの悩みでもないかもしれない、と彼女は思った。かといって、一人で背負い込むには、ちょっぴり苦しいかもしれない。
直美は深呼吸し、両腕を大きく伸ばしてみた。いつまでも、こんなことを考えていても仕方がない。客でもくれば、気が紛れるのだが、幸か不幸か、暇だった。暇だから、つい余計なことを考えてしまう。この五月祭が終わってからも、暇である間は、きっと同じことばかりくり返しくり返しエンドレスで悩み続けることになるのかもしれない。
直美は突然、ハッとして、両目を見開いた。
これって、五月病? 前に安藤先輩が言っていた通りかもしれない。もしこれが五月病なら、何とか六月には治ってほしいものだと思う。もし治らないとすれば、自分はひょっとして、これからずっとこんなことに悩みながら生き続けなければならないのだろうか。
自分の将来のことが、彼女の頭をよぎる。それが今の延長線上にあるとすれば、どうあがいても平凡でありきたりな人生が待っているだけだ。そう思うと、何ともやるせない気分になった。でも人生なんて、大体、そういうものかもしれないという気もした。退屈で平凡な人生を過ごせることを、むしろ幸せに思うべきなのかもしれない。ドラマチックな人生なんて望もうものなら、待っているのはとんでもない災厄だったりするのかもしれない――。
そんなことを考えていたとき、直美は人影に気づき、ふと顔をあげた。
そこには、グレーの背広を着た男が、缶ビールを片手に立っていた。
4
二十代後半ぐらいだろうか。とりあえず、背は高い。しかし髪はぼさぼさで、服装にあまり関心がないのか、背広も表情も、ややくたびれていた。ネクタイも、だらしなく緩めている。
男と目が合ってしまい、直美はあわててうつむいた。
机に手をのせた男は、ディスプレイをのぞき込んで言った。
「お前んとこのソフトは、どんなふうにできてるんや?」
直美は下を向いたまま、笑顔をつくろった。
「あの、いらっしゃいませ」
客の顔はちらっと見ただけだったが、どちらかというと、ハンサムな部類かもしれない。しかし彼女のお気に入りのタイプからは、ちょっと遠いという気がした。それより直美は、彼のコテコテの関西なまりが気になっていた。
「ほんで、どないな占いがでけんねん」と、客はたずねた。
「大体、そろってますけど」直美が震える声で答える。「四柱推命、タロット、手相、人相……」
「何か、中途半端な気ぃするなあ」客は首をひねった。「まあええわ。そっちの足らんところは、こっちの知恵と想像力で補うとするか。それで占い師は?」
客は、ブースの奥の方をのぞき込んだ。
「あの、私ですけど」自分を指さしながら、直美が小声で言う。
「え、あんた?」目を瞬《しばたた》かせながら、客は直美に顔を近づけた。
「あの、基本料金のメニューでいいですか?」直美は机の料金表を手に取り、客に見せた。「お金は前払いで、一回五百円。オプションは別料金で、これは後からでも結構です」
客は鞄を置き、椅子に腰かけると、料金表に目を通していた。
「シンプルコースは五百円で、特別《スペシャル》コースは五千円やと? ははん、五百円で釣って五千円払わせる気やな。ぼったくりバーか、ここは」料金表を机に戻し、客は声を荒らげた。「基本料金も後払いでええやろ」
「そんな、困ります……」
「困ることあらへん。占いが当たったら、なんぼでも払うたるがな」
ふてくされているような客の態度に、直美は口をとがらせた。そして安藤部長が開いたままにしていたソフトのメニューから、シンプルコース≠選択した。
「まず、画面の案内を見ながら入力してください」直美は、客にキーボードを向けた。
「何や、待機画面だけ手作りで、中身は出来合い<\フトか。やっぱりな」客はディスプレイの登録《エントリー》シートを見てつぶやいた。「中古ソフト屋へ行けば、タダ同然で売っているソフトやろ。こんなもん、ネットでもできるやんけ」
直美は、「キャンセル、ですか?」と聞いた。
「いや、向こうは混んでるし」占い研究会の模擬店を、客はあごで示した。「けど、並んでまでやる気はない。帰りかけたら、こっちにも何かあるがな。見たら、パソコン占いみたいやし。俺はむしろ、コンピュータの方に興味があったんや」
客は、飲みかけの缶ビールを机に置き、氏名、生年月日などの項目を入力し終えると、「へてから?」と直美に聞いた。
「次は手相をみますので、ここに手をのせてください」直美が複合機のカバーを開ける。
「どっちの手や?」
「えっと、できれば両方……」
客が両手をガラスの上へのせた。スキャンを終えると、直美は客の顔をカメラ撮りした。
「基本データの入力は、以上です。じゃ、今から占いますので……」
「早《は》よしてや。遅いことは牛でもするで」客は、缶ビールを一口飲んだ。
「まず金銭運ですけど」直美がオペレータ用のディスプレイを見て言った。「好調と出てます」
「いきなり外れ」客は眉間に皺を寄せた。「見て分からんか? スッカラカンやがな。しかもリストラ寸前や。どこが好調やねん」
「不調なんですか?」
「俺に聞くな。嘘《うそ》でも占いやろ。お前が当てんかいな」
「あ、はい……」直美は画面をスクロールさせた。「次、健康運。好調」
「話にならへん」客は鞄から胃薬を取り出すと、それをビールで流し込んだ。「基本テクニックいうもんがあるやろ。ええか? 占いで断定口調は禁物や。解釈の仕方で当たってるようにも聞こえる言い方をするのが、コツやがな。俺が教えてどないすんねん……」
客は右手で、ツッコミを入れるポーズをしていた。
「次、恋愛運」
「こら、人の言うこと聞いてへんのか」
「恋愛運は好調。運命の人とめぐり合う、と出てますけど……」直美が顔を上げると、客は黙ったまま、むくれていた。「これも外れだったみたいですね」
「もっと、気の毒そうに言え。気ぃ悪いやないか」
「次は仕事運ですけど、好調、ですよね」
「おちょくっとんのか。さっき、リストラ寸前≠ト言うたやろが」客は缶ビールを口に運んだ。「大体、何やねん、さっきから小さい声で好調好調て。くすぐっとうなるわ。そら、占いは客商売や。機嫌とるためにベンチャラも言う。せやけど、ちゃんと相手の様子を見て言わんかいな。本人も自覚してるほどどうしようもない不細工な女に『美人ですね』言うたら、怒るやろが」
「あ、はい……」直美は客の話を、今にも泣き出しそうな顔で聞いていた。
「何もお前のこととちゃう。しかし、見るからに仕事がうまくいってなさそうな奴つかまえて、好調はないやろ」
「あの、お仕事、そんなにうまくいってないんですか?」
「ああ」客が二、三度うなずいた。「まあ分かりやすう言うたら、コンピュータを売ってまわってるんやが」
「営業さん?」
「今はな」客は一つ、ため息をもらす。「巡回セールスマン問題≠、実習で解かされているようなもんや」
「巡回セールスマン……?」
「いや、知らんでもええ」
「あ、でもそれ、当たってるかも」直美はディスプレイを指さした。「職種、営業関係が向いてるって、出てますけど」
「嫌味か、それは」客は舌を鳴らした。「営業にまわされてカリカリきてるのに。今日は今日で、クラブのOB会に顔出しして営業してまわったんやが、さっぱりや」
「営業に、まわされた?」
直美は聞き直した。
「元々俺は、エンジニアやったんや。せやけど開発にたずさわった製品が、ちっとも売れへん。そりゃ、自分で開発した商品や。何でも説明できる。それでも売れへんのや」
「あの、お客さん、占い結果の方はともかく、やっぱり営業に向いてないんじゃ……」
愛想が悪そうだし、自信過剰で、空振りするタイプみたいだと、彼女は思っていた。
「うん、あんた、占いはともかく、人を見る目はあるな」客は直美を見つめた。「けど、そこからどうしたらいいか、親身になってアドバイスするのが、占い師のテクニックやろが。ま、お前に期待しても、しゃあないか」
「はい……」直美は申し訳なさそうに、肩をすぼめた。
「あんたも占い師に向いてないな……。さっきから俺の目を見とらへん。うつむいてばっかりや。自分に自信がなさそうやし、ひょっとして対人恐怖症なんか?」
「当たってます」
「俺がお前を占って、どないすんねん」客はゆっくりと立ち上がった。
「あの、全体運がまだ……」
「どうせ好調≠ネんやろ」
「あ、当たってます」
「喜ぶな」客は苦笑いを浮かべた。「まあ頑張れ。よく外れる占い師は、よく当たる占い師と同じくらいよく当たるわけやし」
「どうしてですか?」
「要するに、言われたことの逆が当たってるという理屈やな。しかし頼みの綱の占いソフトも、それじゃあなあ。データを集めるだけやのうて、占い結果をフィードバックしてやれば、精度を上げていけると思うんやが……」
客は直美に、背中を向けた。
「コンピュータの営業さん、て言ってましたよね」直美は顔を上げ、客の背中に向かって話しかけた。「お宅の会社のコンピュータで、占いはできないんですか?」
客がふり返る。「何やと?」
「あの、よく当たる占いコンピュータがあれば、うちも占い研究会なんかに負けてないと思うんです。もちろん、私もこれからちゃんと占えるよう、修業するつもりですけど」
客はあごに手をあて、目を閉じた。
「どうかしましたか?」
直美がそうたずねても、客は何も答えない。困っていたとき、令子たちが戻ってきた。三人は、立ちすくんだままの男と、おろおろしている直美の顔を見比べていた。
「どうしたの?」令子が聞いた。「何か問題でも?」
「いえ、そうじゃなくて……」
急に客は、両目を見開いた。
「いけるで、これは……」客のすぐ前に、令子が立っていた。「あんたは?」
「この占い同好会の、会長の安藤ですけど」
「こっちの方がしっかりしとるみたいやな」客は令子と直美の顔を見比べて言った。「あんた、うちの会社のホームページをチェックしなさい。近いうちに、アルバイト募集の案内を出すから」
「バイト、ですか?」令子は首をかしげた。
「ああ。それ見て、興味があったら申し込め」
「申し込めって、ホームページも分からないのに……」
客は名刺を取り出し、令子に渡した。そして缶ビールを飲み干すと、「ほな」と言って店を離れようとした。
「あ」と直美が声をあげた。「占い結果をプリントアウトしますので、お待ちください」
「いらん。外れた結果もろて、どないすんねん」客は一度、ふり返って言った。「それよりあんたも、うちのバイトに申し込め。自分の運命を変えたいんやったらな」
そう言い残し、客は足早に立ち去った。
杏里が首をかしげる。「何なの、あの人」
「うちの学校のOB、みたいなことを言ってましたけど」小声で直美が答えた。
「OB違いじゃないの?」杏里は、ゴルフのクラブを振る真似をした。「場違いなところへやってきてさ」
智恵実が令子に聞いた。
「あの人、帰り際に、バイトがどうのこうの、て言ってましたよね」
「バイトか……」令子がつぶやいた。「この分だと五月祭のアガリ=Aコンパ代の足しにもなんないしなあ。合宿費用も必要だし、何かやらないと、どうにもなんないんだけど」
「こないだ、駅前でティッシュ配りのバイトやったんだけどさ」杏里が言った。「結構キツかったわよ」
「え? ティッシュ配るのが?」
「衣装よ。商品ロゴ入りのピチピチのミニ、はかされてさあ」
「あ、そっちか」
「寒いし、もう散々……。誰かやるなら、紹介するけど」
みんなは首を横にふった。
「何でも経験しなきゃ。実は私、カレ氏ともバイトで知り合ったんだよ。話してみたら、たまたま同じ学校でさ……」
令子は、客からもらった名刺をながめていた。
「アプラDT……?」
「ちょっと待って」
杏里が携帯電話《デコデン》を取り出し、名刺の隅の|クイック情報《 Q I 》コードを読み取った。彼女の携帯のディスプレイに、会社説明が表示される。
「アプライアンス・オブ・デジタル・テクノロジー。略してアプラDT、だってさ」
「アプライアンス?」と、智恵実がたずねた。
「うん。装置≠ニか設備≠ニか、家庭用の器具≠フ意味らしいよ」
「アプラDT……。あんまり聞いたことない会社ですね」
「家電製品の方は、作ってないみたい」杏里は会社説明をスクロールさせていった。「へえ、元々は超伝導磁石のメーカーだったのが、そのノウハウを応用した製品作りに発展し、今ではスーパーコンピュータ、人工知能《 A I 》、それに量子コンピュータなんかも製造してるんだって」
「何か、すごそう……」
「でも、どれも高そうだしぃ」杏里は携帯を閉じた。「それに私たちと関係なさそうだしぃ。まあ、いい男でもいるなら別だけどさ」
占い用のディスプレイを見ていた令子が、直美に聞いた。
「あれ、シンプルコースでやったの?」
直美はこっくりとうなずいた。
「どうせ暇なんだし、フルコースかカスタムメニューで出して、適当にあしらってやれば良かったのにさ。そうすりゃあんな奴、いくらでも巻き上げられたのに。ところで、見料は?」
直美はうつむいたまま、首を横にふった。「もらうの、忘れました」
「何してるのよ、あんた」令子が直美の肩をたたく。
「でも、仕方ないんです。占い、外れたし」
「金払わなかった上に、ゴミは放ったらかしにしたままじゃないの」令子は、男が置いたままにしていった缶ビールの空き缶に目をやった。「あの野郎……」
そして再び、名刺を見つめた。みんなも、それをのぞき込む。名刺には、さっきの客とおぼしき男の名前が印刷されていた。
株式会社アプラDT、営業部、特販営業二課主任。小佐薙真《おさなぎまこと》――。
5
五月祭が終わり、直美はまた、以前の生活パターンを淡々とくり返していた。
アパートに戻ってすぐ、いつものようにパソコンを立ち上げる。見るべき情報は、特に何もない。その日、五月二十日は彼女の十九回目の誕生日だったのだが、去年かかっていた歯医者さんから、お祝いのメールが届いていた。
直美は、バイトナビに接続してみた。求人情報を閲覧してみたものの、これといって、やりたい仕事は見つからなかった。というより、コンビニとか、ファミレスとかのバイトは、とても自分にはできそうにない。けど、こうした仕事がちゃんと勤まっている人もいるのだと、直美は思った。これもバイト先の問題というより、きっと自分の問題なのだ。
ディスプレイの片隅に、バナー広告が入り込んできた。ソウル・オリジンの広告だった。直美は、前に登録したお気に入り≠フURLから、ソウル・オリジンの交流会のページを開いてみた。
〈ソリジンとともに〉というキャッチコピーを見ながら、彼女はディスプレイの前で、あごに手をあてていた。これに登録すると、今回行かなくても、いろんなダイレクトEメールとかが、わんさと届くようになるのだろうと、直美は思った。
とりあえず、URLを携帯の方にも登録しておこうと思ったとき、その携帯が鳴った。着メロは、モーツァルトの『|小 夜 曲《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》』。原曲《オリジナル》ではなく、流行のポップ・アーティストがリリースした、カバー・バージョンである。
令子からのメールだった。
早速、開いてみる。五月祭のとき、あのお客が言っていた、アルバイトの件だ。正式に募集を始めたという。令子がアップしてくれていたURLから入り、アプラDTのホームページに接続してみた。
アルバイトの内容欄には、〈商品開発モニター。および企画スタッフ〉と書かれている。
令子のメールには、こうも付け加えられていた。
〈バイトは、少しだけ先に味わえる大人の世界。のぞいてみるのも、悪くないと思うよ〉
占い同好会が借りている小教室で、直美は杏里に口紅を塗ってもらっていた。アルバイトの登録手続きに必要な写真を撮影するためだ。
「やっぱ、バイトしないとね」メイクを横で見ながら、令子が言った。「時給も悪くないしさ。私たちも申し込むし」
「でも、私……」と直美がつぶやく。
「動かないの」すぐに杏里が大きな声で言った。「メイクしてやってんだから」
令子が笑いながら続ける。
「募集内容見たら、バイトというより、モニター≠ナしょ。何させる気か知らないけど、思ったことを言えばいいだけじゃない。これなら直美にもできる。それに言ってたじゃない、あの男。運命を変えたいなら、申し込めって。これは自分を変えるチャンスかもよ」
「うん、こんなもんで、いいかな」
杏里は自分のコンパクトを、直美に渡してやった。こわごわのぞき込んでみた直美は、何か唇だけ別な生き物になったように思えて、不思議な気分を味わっていた。
「とにかく申し込むだけ申し込んで、嫌ならやめればいいじゃん」と智恵実が言った。「お金がいることに違いないんだしさ」
それから交代で写真を撮り、パソコンでそれぞれの登録シートに貼り付けた。令子がそれらをまとめ、メールで申し込む。
すぐにアプラDT社から、受領の返信が自動で送られてきた。以後はメール等で連絡するとのことだった。
「何だかよく分からないわね」杏里は首をかしげた。「モニターって、何するんだろう」
「でも、大会社みたいだし」令子はそう言って、微笑んだ。「心配しなくても大丈夫よ、きっと」
サークルを終えた四人は、電車で都心の繁華街にある居酒屋穣治《じょうじ》≠ヨ向かった。令子が|コーディネート《コーデ》した合コンに出席するためだ。
相手の男子学生四人のグループは、すでに到着していた。予約していた席に落ち着き、直美はウーロン茶で、とりあえず乾杯する。
先方は五月祭実行委員会の有志ということだったが、自己紹介を聞いていたら、何故か実行委員会とはまったく関係のない男も交じっているようだった。それでも智恵実は大喜びで、彼女と同じ経営学部らしき先輩と、四月にスタートしたドラマの話題で早速盛り上がっている。しかし、そのドラマを見ていない直美は話題に入っていけず、ウーロン茶をちびちびと飲んでいた。
その後話題は、映画、アイドル、好みのタイプ、教授の悪口、学内に出没する幽霊の噂と目まぐるしく変わる。さらにゲームをしたりしている間に時間はどんどん過ぎていき、ついにお開きとなった。店の外でカレ氏とメールのやりとりをしているのを見つかった杏里は、会費を負担させられた男子から、詐欺師呼ばわりされていた。
二次会のお誘いに、智恵実は乗り気だったが、直美はパスすることにした。デートなのかとさんざん冷やかされながらも、笑ってみんなと別れた。
結局、ノリが合わないまま、合コンは終わってしまった。直美は、駅前の百貨店で足を止める。ショーウインドーの中のマネキンが、自分よりも、女らしく見えた。やっぱり自分を変えるには、いろいろ物入りかもしれないと、直美は思った。
五月末、アプラDT社から、アルバイトの採用を知らせるメールが届いた。印鑑、筆記具などを持参せよといった注意事項とともに、初めて出社する日時の希望もたずねていた。出社日時の選択欄にチェックを入れ、メールを送り返さねばならない。
サークルで集まったとき、直美は令子に、そのことを相談した。メールは令子、杏里、智恵実にも来ていたそうだ。四人はそれぞれ、携帯を開いた。
「六月三日の土曜日は?」と令子が言った。「どうせなら、早い方がいいし」
「私、デート」杏里が手をあげる。「でも夕方までなら、空いてるけど」
「私もOK」と智恵実。
「直美は?」令子が聞いた。
携帯でスケジュールを見ていた彼女は、唇をかんだ。その日は、ソウル・オリジンの交流会がある日だった。直美は明日にでも、予約を入れようかと思っていたのだ。でも仕方ない。一人でバイト先へ行くのは嫌だし、交流会は、また次の機会にしよう。
直美が軽くうなずく。
「じゃあ、決定」と、令子が言った。
みんなで当日の朝に待ち合わせ、一緒にアプラDTの本社へ行くことになった。いつの間にか決まってしまった自分のバイト先に一抹《いちまつ》の不安を感じながら、直美は、あの変な客が言っていたことを思い出していた。
〈うちのバイトに申し込め。自分の運命を変えたいんやったらな〉
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2 空
1
当日、井沢直美は、入学式のときに着たブレザーで行くことにした。
待ち合わせの時間ギリギリに、令子たち三人はやって来た。電車に乗るとすぐ、杏里が化粧ポーチを取り出し、メイクを始める。
直美も自分のメイクのことが気になったが、電車の中だと、まだ先輩のようにうまくできそうにないと思い、ぼんやりと外の景色をながめていた。
ビル街のど真ん中で、電車を降りる。外はもう、汗ばむくらいに暑くなっていた。
アプラDT社は、すぐに見つかった。令子の後ろについて、中に入る。受け付けの看板でフロアを確認し、エレベータへ。
アルバイトの説明会場となる大会議室の入口には、グレーのツーピースを着た女性が立っていた。二十代後半ぐらいで、髪は長く、首には写真付の社員証をかけている。
彼女は微笑《ほほえ》みながら、「こちらでもうしばらくお待ちください」と言ってみんなを案内した。
会場には、すでに何人か来ていた。女性がほとんどのようだ。高校生ぐらいの女の子もいる。
「何か、女の子ばっかりでつまんない」と智恵実がつぶやいていた。
男性もいないことはなかったのだが、きっと智恵実のタイプではなかったのだろうと、直美は思った。
会場を見回していた令子が、知り合いを見つけたらしく、手をふりながら笑顔で近づいていった。
その女性は、数少ない男性の一人と、並んで座っていた。令子と杏里が、彼女に挨拶《あいさつ》をする。直美も、彼女を学校で見かけた覚えがあった。五月祭で、占い研究会の模擬店にいた人だ。比留間藍《ひるまあい》という名で、占い研究会では会計を担当しているという。
彼女は、隣に座っている二十代前半ぐらいの男性をみんなに紹介した。長身で色が白く、眼鏡《めがね》をかけている。いかにも頭が良さそうな男だが、微笑むと、そのことを鼻にかけているようにも直美には見えた。
久保信人《くぼのぶと》。この春大学を出たばかりとのことで、今はフリーターだという。藍のボーイフレンドかどうかについては、ノーコメントだった。
四人は、空いている席に腰かけた。机には、資料や誓約書、名札などが置かれていた。
直美は早速、名札に自分の名前を書き、それを首にかけた。忘れないうちに携帯をマナーモードにして、それからざっと、資料に目を通す。
そうこうしている間に、会場に集まった応募者は、ざっと二十人ほどになっていた。
開始予定の時刻丁度に、入口にいた女性に続き、背広姿の二人の男が入ってきた。やはり首から社員証をかけている。一人は、あの日の変な客だったが、もう一人は知らない人だった。三人が会議室の正面に立つと、会場が静かになった。
「お待たせいたしました。ただいまから始めさせていただきます」
女性社員が型通りの挨拶をした後、三人は順に自己紹介をした。
まず特販営業二課の課長、樋川晋吾《ひかわしんご》。そして例の男、小佐薙真。案内役の女性は、富士明日未《ふじあすみ》といった。
樋川という人は、ひょろひょろと痩《や》せていて、何だか気弱そうに見えた。直美は最初、助手の人かと思って見ていたら、どうもこの部署の責任者らしい。一方、主任の小佐薙は、無理して標準語を話そうとしていたが、イントネーションは、しっかり関西なまりになっていた。小佐薙と目が合った直美は、あわててうつむいた。
早速、女性社員は、アプラDT社の概要から説明を始めた。大体、ホームページに載っていたようなことだったが、直美はそれを、手元のパンフレットを見ながら聞いていた。明日未の説明は、的確で分かりやすい気がした。要するにアプラDT社では、この度《たび》、新しくコンピュータ・ソフトを開発する予定なのだという。そのため、アルバイトに作業の一部を依頼することにしたようだった。
「肝心の新ソフトですが、占いソフトを考えております」
明日未がそう言うと、会場がざわめいた。
いわゆる、コンピュータ占いである。未来予測はコンピュータの得意とする分野の一つであり、そして気象や経済の先行きだけではなく、個人の運命だって、当然占えるはずだという。恋占いなど、身近なニーズをきっかけにすれば、大きな市場に発展する可能性がある。主となる顧客は、若者層。特に若い女性と予想しているらしい。
それで今回のバイトも女性が多いのかと、直美は思った。
バイトにお願いしたいことは募集要領の通りで、一つはソフト開発のモニターだと明日未は言った。モニターの意見によって、まずどういうサービスが喜ばれるかといった、ソフトの方向性を探る。そして、どのようなタイプの人がどういう運命に遭遇する傾向にあるかというような、データベースを作成する。さらに試作品の段階で、それらが反映されているかどうかを検証してもらいたいのだという。
杏里が直美の耳元でささやいた。「つまり、モルモットよ」
「企画への提案も、大いに歓迎します」と明日未は言う。
また、こうした情報の整理を手伝ってくれる企画スタッフも若干名募集するので、希望者は後ほど申し出ていただきたいと付け加えた。
「しかし占いソフトなら、市販で安いソフトがいくらでも出回っています」
会場から質問される前に、明日未がそう言った。当然、それらとの差別化を図るのだという。それにはエンターテインメント性とともに、占いの精度を上げることも重要な要素となる。面白くてよく当たる占い師であれば、客は集まるというわけだ。
そのためソフト面では、アルバイトの力を借りてデータベースを充実させるなどし、少ない情報でもよく当たるようにしたいという。そしてハード面では、こうした未来予測に関する情報処理能力に優れた、最新鋭のコンピュータを用いる。このハードとソフトを合わせて、最強の占いマシンとする――。
「あの」さっきの久保という男が座ったまま手を上げた。「いくら最新鋭のコンピュータを使っても、よく当たる占いマシンを作ることは困難なはずですが」
明日未は久保の方を向いた。「何故《なぜ》ですか?」
久保は会場を見回し、「続けていいんですか?」と聞く。
小佐薙が、横目で明日未の方を見ながら、軽くうなずいていた。
それを確認した明日未が、「どうぞ」と久保に告げた。
「では」久保は一つ、咳払《せきばら》いをした。「占いソフトが無数にあるにもかかわらず、的中度に関していまだに傑出したものが出ないのは、ジョブそのものがNP完全問題≠ンたいなものをかかえているからだと思います」
久保の隣で、比留間藍がつぶやいた。「何なの、それ?」
「NPというのは、非決定性多項式時間≠フ略です」
「余計分からんわ」藍が首をひねる。
「つまり、なかなか解けない問題の一種ですね。ただし答えを聞いてしまったら、何だそんなことだったのか、というほど易しいと思えるような問題」
「なぞなぞみたい」と、藍が言った。
直美の隣で、令子がニヤリとしていた。「何か、面白そう」
直美も、いきなり難しい用語が飛び出してきてちょっと面食らったが、確かに興味はあった。占いもコンピュータも、彼女は好きだったからだ。
久保は一例として、巡回セールスマン問題≠あげた。ある地域でセールスマンが訪問したい数箇所を、重複せずに最短でまわれるコースが、一つはあるはずである。しかしこれは代表的なNP完全問題で、コンピュータで解こうとしても、答えを導き出すのに時間がかかる。ところが答えを聞いてしまうと、すぐに自分で確かめることもできて、意外なほど簡単なことだったように思える。そういうたぐいが、NP完全問題だというのだ。
直美は、小佐薙と初めて会ったときのことを思い出していた。そういえば、あのときに彼が冗談ぽく言っていた巡回セールスマン問題というのは、きっとこのことだったのだ。
令子が手をあげて質問した。「どうしてそんなに時間がかかるんですか?」
久保は、答えを導き出すためのソフトに、効率の良いものがないからだと答えた。そして計算要素が増えるごとに、計算量が指数的に増加してしまう。
占いでも、未来は一つしかないが、それを正確に当てようとするほど、また遠い未来を当てようとするほど、計算要素が増えてしまう。占いの場合、時間をかけて解けるかどうかも疑問だという。完全な未来予測は不可能だと、ポワンカレも言っている――。
「え、何カレー?」令子が聞き直した。
「ポワンカレ」久保が面倒そうに答える。「フランスの数学者です」
「完全な未来予測、ですか」今まで黙って聞いていた小佐薙が、口を開いた。「そんなことをやるつもりはありません。未来の可能性を示せればいい。それが占いですから」
「いずれにせよ、現実的じゃないですよね」久保が言った。「採算も取れないのでは?」
「早速のご提言、ありがとうございます」小佐薙は深々と、頭を下げた。そして顔を上げ、前のテーブルに手をつくと、「ところが私どものシステムは、そんじょそこらのシステムとはわけが違います」と大声で言った。
直美は、私ども≠フイントネーションが、少しなまっていたなあと思って聞いていた。
久保は、小佐薙をにらみつけた。
「しかし、スーパーコンピュータでも……」
「それは分かってます」彼の発言をさえぎるように、小佐薙が答える。
「可能性があるとすれば、量子コンピュータかDNAコンピュータでしょうが、そのためのソフト開発も必要になるでしょうし……」
「おっしゃる通り」小佐薙は、したり顔をした。
杏里が、令子に耳打ちをしている。「きっと、アレよ」
大きく息を吸い込んだ後、小佐薙が言った。
「私どもがこのプロジェクトに投入するハードは、量子コンピュータです」
会場がどよめいた。彼の説明は続く。
「量コン=Bあるいは、英語のクオンタム・コンピュータを略してQコン≠ニも」
「何か、合コンみたいね」と智恵実がつぶやいていた。
「聞いたこと、あるでしょ?」小佐薙は、会場を見わたしている。
確かに、直美も聞いたことはあった。けど、どんなものかはよく知らなかった。
「このQコンに対して、今までのコンピュータを、ノイマン型、あるいは古典《クラシック》コンピュータといって区別する人もいてます」
藍が手をあげた。「どう違うんですか?」
「まず、設計思想《アーキテクチヤ》が全然違います。Qコンというのは、量子の性質を利用したコンピュータです」
「それぐらいは、名前から大体、想像はつくんですけど」
「おいおい説明しますが、それによって情報処理は、質的にも量的にもノイマン型のはるか先へ到達することができる。Qコン一台で、スーパーコンピュータ数万台分、理論上は数億台分以上の処理も可能になります」
会場が、またざわめいた。
「それだけではない。ノイマン型は、言ってみれば人間が長時間かければ計算可能なことしか計算できない。つまり、人間の能力を突き破ってはいない。しかしQコンは違う。新たな可能性を秘めている」
「たとえば」と、久保が聞いた。
「たとえば、発想力です。人間の脳もある意味でQコンと似ていると考える人もいてますが、もちろんそれ以上。新たな科学的発見も創造的活動も期待できる。しかしQコンは、開発はされたものの、用途については未開拓です。今回も、その方向性を探る試みの一つとお考えください」
「それが占いマシンですか?」
「はい。あなたがおっしゃったように、ノイマン型では時間がかかり過ぎる。それがQコンを使えば、計算時間の短縮はもちろん、さまざまな依頼を並列処理することもできる。また、その発想力によって、思いがけない答えが出てくることもある」
「しかし、量子コンピュータは……」
「もちろん、誤答もあるかもしれない。しかし、そこは占いです。まさに、当たるも八卦《はっけ》当たらぬも八卦」
小佐薙がそう言うと、会場は静かになった。
「さて」明日未が再び、話し始めた。「これから皆さんにお願いすることをより的確に把握していただくために、当社の製品を実際にご覧いただきたいと思います」
「え、量子コンピュータを?」藍が顔を上げた。
「はい。今から地下駐車場へ降りていただいて、マイクロバスにご乗車ください。それから、トイレは今のうちに行っておいてくださるようお願いします」
直美は、名札を付けたことを再度確認して、資料をバッグに入れた。
先に立ち上がった智恵実が会場を見わたし、「モニターのバイトって、これだけなの?」と言った。
「違うでしょ」令子が答える。「説明会は、何回かに分けてするみたいだったし」
「量子コンピュータだけど、バスで行くっていうことは、ここにはないということ?」
「さあ、研究所かどこかじゃない?」令子も立ち上がり、智恵実の肩をたたいた。「いいじゃない。今日はバスで見学してお金がもらえるんだからさ」
会場の出口で小佐薙の前を通るときに、直美は軽く会釈《えしゃく》をした。
「何や、君らもいたんか」
令子が大きな声で「よろしくお願いします」と言いながら、頭を下げた。
バスには、小佐薙真と富士明日未が同乗し、樋川晋吾は会社に残るらしかった。
2
四人はバスの真ん中あたりへ行き、直美は窓側に、令子は通路側に、通路をはさんで杏里と智恵実が並んで座った。藍と久保は、直美たちの一つ後ろの席にいる。小佐薙は最後に乗り込み、一番前の席に腰を下ろした。
全員そろっていることを明日未が確認し、運転手に出発の合図をする。そしてマイクを手に取り、トークボタンを押した。
「これから皆さんと、空港島へ向けて出発いたします」
「ほらね」令子は智恵実に言った。「アプラの研究所の一つが、空港島にあったと思う。量子コンピュータって、きっとスパコンみたいにデカくて、本社とかにも置けないのよ」
「カーテンは閉めたままにしていただけますでしょうか」明日未がバス内を見わたす。「では到着までの間、ビデオをご覧ください」
彼女が小佐薙の隣に腰かけると、運転席のすぐ後ろにあったモニターが、スライドしてきた。
「段取りいいわね」と杏里が言った。
「これはバイトのためというより、営業のための説明パックじゃないの?」令子は落ち着いて答えた。「得意先の人を乗せて、何度となくこういうことをやっているんだと思う」
軽快なBGMに乗せて、ビデオが始まった。
画面には、広大なフロアに並ぶ従来のスーパーコンピュータが映し出され、女性ナレーターが、ノイマン型の限界について簡単に説明をする。
〈その素子として、量子の性質を活かせるとしたら……〉
ナレーションとともに、『未来をひらく量子コンピュータ』というタイトルが現れた。
BGMがフェードアウトすると画面は一転し、量《りょう》ちゃん≠ニQちゃん≠ニいう、モワモワした髪形のCGキャラが登場する。この二人はとてもよく似ていて、どっちがどっちなのか、見ていてもよく分からない。どうもこの二人が、量子コンピュータについての説明を、これからしてくれるらしい。ビデオの中で量ちゃんが、〈まず、量子の不思議な性質について見ていきましょう〉と言った。
直美は、着くまですることもないし、黙って見ているしかないかな、と思った。
量ちゃんは、量子にはいくつかの重要な性質があると言った。量子コンピュータを作る上で、それらが重要な役割を果たすのだという。
一つは、量子重ね合わせ≠ナある。
そう言うと、モニターの中の量ちゃんは、いきなりお面≠かぶった。そして相棒のQちゃんがお面を外すたびに、笑ったり泣いたり、怒ったりして見せた。次に量ちゃんは、透明なお面をかぶる。そのお面を外そうとしたQちゃんが見たのは、笑い顔と泣き顔と怒り顔が重なった、量ちゃんの顔だった。重ね合わせとは、このように複数の状態がある確率で、同時に存在している状態のことを言うらしい。現実の世界では考えられないが、量子のような極微の世界では、こんなことが起こり得るのだという。
もう一つは、量子からみ合い≠ナある。エンタグルメント≠ニもいうらしい。
量ちゃんとQちゃんは、軽やかにダンスを始めた。そして、ステップに注目してほしいと言う。このダンスのように、二つの量子が相互作用を及ぼし合う関係にあるとすると、一方の状態が決まれば、他方の状態も同時に確定してしまうらしい。
二人のダンスは佳境に入る。抱き寄せる量ちゃんの腕から、突然Qちゃんがすり抜けた。
〈そういうややこしい話は、私も苦手です〉Qちゃんが画面に向かって話し始める。〈重ね合わせやからみ合いは、別に分からなくてもいいかも。要は、こうした量子の性質をうまく使えば、驚異的な計算能力のコンピュータを作ることが可能になるということです〉
画面がCGアニメから実写に変わると、再び女性ナレーターが説明を始めた。
アプラDT社が主力としているスパコンには、主記憶容量が十|ペタ《P》バイトで、一秒間に、百京から千京回の計算をこなすものがあるが、量子コンピュータは、テスト段階でもその数万倍の計算を処理できたのだという。ただし量子コンピュータの性能は、こうした情報処理量《フロップス》だけでは比較できず、ノイマン型とは別次元のものと考えてよい。
そのため量子コンピュータは、演算単位もノイマン型コンピュータのビット≠竍バイト≠ニは異なっている。量子ビット=Aあるいはキュビット≠ニいって、たとえば、電子のスピンが右回転か左回転かで区別し、それを一量子ビットとするらしい。量子ビットがN個なら、理論的には二のN乗分の並列計算が可能となる。そのため量子ビット数が増えるにしたがって、処理能力は限りなく大きくなっていく……。
〈量子コンピュータにより、人類はさらに次のステージへ向けて飛躍することでしょう〉
BGMが盛り上がり、ナレーターがそう言ってしばらくすると、ビデオが終了した。
智恵実が不思議そうな顔をして、令子にたずねた。
「そんなに優れているんなら、どうしてもっと普及しないんだろ?」
もっともな疑問だな、と思って直美も聞いていた。
「きっと、まだ高いのよ」令子が答える。
「値段の問題だけ?」智恵実は首をひねった。「て言うか、そんなに優れた量子コンピュータを、どうして占いみたいなことに使うんだろ?」
智恵実と顔を合わせながら、令子も一緒に、首をかしげていた。
すぐ後ろの席にいた藍が、二人の間に首を突っ込んできた。
「きっと、良いことずくめじゃないからでしょ」
直美たちがふり向くと、藍の隣で、久保が笑っていた。
「量子コンピュータの基本的な理論は、かなり早い段階でほぼ完成していた」と彼は言った。「でも実現までには、相当な時間がかかっている。何故だと思う?」
直美は首を横にふり、分からないという仕種《しぐさ》をした。
「実は、技術的な障害がいくつもあったんだ。たとえば処理能力を上げるには、からみ合いの関係にある量子を、いくつも連ねていく必要がある。ところが量子ビット数を上げると、エラーが発生しやすくなる。また量子からみ合いというのは長時間の維持が困難で、すぐにデコヒーレンス≠起こしてしまう」
「デコヒーレンス?」智恵実が聞いた。
久保は微笑みを浮かべながら、彼女たちに説明した。
まずコヒーレンス≠ニは、波と波が重なり合って干渉可能な状態を言う。量子コンピュータ内でも、計算が終了するまでそうした状態を維持しなければならない。ところがこれは大変困難なことで、壊れることを、デコヒーレンスと言うのだそうだ。
バスは有料道路に入ってすぐ、渋滞に引っかかった。前にいた明日未が、また立ち上がり、マイクを手にした。
「もう一つ、ビデオをご用意してますので、ちょっとかけたいと思います。こっちの方はあくまで予備知識程度ですから、興味のある方は、引き続きご覧ください」
彼女がそう言い終わると、再びビデオが始まった。
今度は、Q子ちゃん≠ニいうCGキャラが出てきた。
〈量子コンピュータによる情報処理の基盤となるのが、量子ビットです〉Q子ちゃんは身振り手振りを交えながら、話し始めた。〈この量子ビットを得る方法は、一つではありません。ノイマン型の中央演算処理装置《CPU》に相当する量子CPU≠ヘ、さまざまな形で実現しています。それらの技術について、これから見ていきましょう〉
まずQ子ちゃんが、CGによる原子模型の前に立つ。画面にイオントラップ方式≠ニいうスーパーが現れ、彼女は説明を始めた。原子核のまわりを回る電子を指さして言う。これは電子のエネルギー状態の遷移《せんい》を、量子ビットとして利用するのだという。量子CPUへの読み書き、つまりヘッド≠ノは、レーザーなどを用いる。ただしこの方式は、量子ビットの集積化が困難らしい。
画面の電子の動きが、スローモーションになった。画面の下に、核磁気共鳴《NMR》≠ニ表示される。Q子ちゃんの説明によると、この電子の、スピンの向きの変化で読み書きを行う方式だそうだ。スピンの方向を制御するヘッドに、核磁気共鳴装置を使う。量子CPUとしては、液状の特殊な分子群を用いることになるが、やはりこれも、集積化することは難しいとされている。
次に、共振空洞《キャビティ》QED≠ニいわれる方式。QEDとは、電磁量子力学≠フことらしい。ある種の原子に偏向させた光子を向けると、相互作用によって原子が励起《れいき》状態になることがある。その可能性を、量子ビットとして利用するのだという。しかしこれもまた、高度な回路にまで構築可能かどうかは疑問視されている。
さらにQ子ちゃんは、固体素子を使う超伝導《SC》方式≠ノついて解説した。二つの超伝導体の間に絶縁膜をはさんで、ダイオード状のものを作る。これを|ジョセフソン接合《 J J 》素子≠ニいうそうだが、その絶縁膜を薄くし、トンネル効果≠ェ起こるようにする。それを量子ビットとして利用するのだという。読み書きは、電圧パルスを調節することで行う。しかしまだコヒーレンス時間が短く、それを長くするためのシステムも煩雑になってしまう。また計算ミスも多いなどの欠点はあるものの、いち早く製品化に成功している方式である――。
明日未が、ビデオを一時停止にして立ち上がった。
「ちょっと補足します」彼女はみんなに向かって言った。「製品化には数社が成功していますが、この方式でリードしているのは、ハイパー・エレクトロマグネチック・レゾナンス――略して|HEMR《ヘムラ》≠ニいう日本企業です。地味ですが、着実に成果をあげており、当社の良きライバルでもあります。このように量子コンピュータは、ハードの方式そのものが、まだ乱立している状態でして、各社とも苦心して研究を続けています。では引き続き、当社のシステムをご紹介させていただきたいと思います」
明日未が席に戻ると、ビデオが再スタートした。
画面には、アプラDTの本社が映し出され、Q子ちゃんがその前に飛び出してきた。
〈アプラDTでは、得意とする超伝導技術を活用することで、量子コンピュータの製品化に成功しました〉
そして量子ビットには、|ボース《B》・|アインシュタイン《E》凝縮体《C》≠用いるのだという。
「何、今の日本語?」智恵実が頭を小刻みにふった。「何か私、頭がクラクラしてきた」
モニターでは、Q子ちゃんがそんな彼女にかまうことなく、説明を続けていた。
まず|ボース粒子《ボソン》とは、スピンが基本単位の整数倍であるような粒子で、これらを絶対零度に近づけると、原子がほとんど静止する状態になる。これをボース・アインシュタイン凝縮体≠ニいう。この状態へ移行させることでコヒーレントな状態になり、またそれらを集めると、原子群を細胞より大きくすることも可能になる。そして量子力学的な挙動を、マクロ化して見ることもできる。アプラDTは、これをユニタリ変換可能な状態で連ねることで、量子ビットの集積化、コヒーレンス時間の延長と安定に成功したという。
画面では、原子が次々と現れ、紐《ひも》状に連なっていった。それらが形成する模様が、直美には何故か、雪の結晶のようにも見えた。
すぐに画面が切り換わり、加速器のような装置が映し出された。この量子CPUへの読み書きには、X線構造解析装置の発展形である、| 変 調 《モジュレーション》をかけたガンマ線レーザーを用いる。これをアプラDT社では、光解析《LA》型≠ニ名付けていた。そして久遠《くおん》≠ニいう名前で、製品化にこぎつけたという。
モニターには、円筒形を縦に半分に割ったような構造物が映っている。直美は、あれがアプラDT社の量子コンピュータかと思って、見つめていた。
〈久遠の登場により、人類社会はさらに飛躍をとげることでしょう〉
Q子ちゃんがそうナレーションし、BGMが一段落すると、ビデオは終わった。
明日未が立ち上がり、「カーテンを開けていただいても結構です」と言った。
窓側に座っている人たちが、ごそごそとカーテンを開け始める。
「あの」久保が手をあげた。「肝心なシステムの説明が、一つ抜けてるんじゃ? さっきのビデオにはありませんでしたけど」
明日未は、「えーとですね」とつぶやくと、頭に手をやり、黙ってしまった。
その下からのびた手が、彼女からマイクを取り上げた。
小佐薙は無愛想に、「|シリコンベース《 S B 》≠竄」と言った。
座ったままなので、彼の顔は見えない。
明日未は、体をかがめて彼と小声で話し合ったあと、再びマイクを手にした。
「確かに今のビデオにはありませんでしたが、量子コンピュータにはシリコンベースという方式もあります。よろしければ、簡単に私の方から説明させていただきますが」
特に反対する人もいないようだったので、明日未が説明を始めた。
シリコンベース方式は、シリコン・ウエハーにリンなどの不純物を均一に混ぜ、その核スピンの変化を量子ビットとして利用している。それにより、量子ビットの集積化が容易で、取り扱いにも優れているとされる。ヘッドには核磁気共鳴装置を用い、単電子トンネル伝導効果などによって、読み出しや書き込みを行う。こうした理論は早くから知られていたが、技術的には困難とみられていた。
それを開発したのが、アメリカに本社のある|ATNA《アトナ》――アーティフィシャル・テクノロジー&ニュー・アレイ社である。シリコンベースには、同じシリコンの同位体を混ぜる方式も研究されているが、ATNA社では、それらとも異なる独自の方式を編み出していたのだ――。
「ちょっと質問」久保の隣にいた藍が手を上げた。「それって、量子コンピュータを語る上でも重要じゃないかと思うんですけど、どうしてビデオに紹介がなかったんですか?」
「ビデオになかったのには、理由があります」明日未は一度、咳払いをした。「シリコンベース方式というのは秘密のベールに包まれていて、実は私どももよく分かっていないからなんです――」
ATNA社の方式は、技術公開されていない。他社も同様のシステムを開発しようとしたが、公表されているスペックの達成には、結局どこも成功しなかったという。しかしシリコンベース方式は、現在乱立している量子コンピュータのハードを、一つの方向へ導くものとも噂《うわさ》されている。
「じゃあ、アプラDT社のシステムは?」藍が聞いた。
明日未が言いにくそうに答える。
「ビデオにもありましたHEMR社の超伝導方式、そしてATNA社のシリコンベース方式。現在、この二大方式が、市場を住み分けている状況だといえます」
HEMR社の超伝導方式は、量子ビット数が上がらない反面、量子コンピュータとしては比較的、安価だといえる。そのため低|量子《キュ》ビット・ユースで、着実に市場へ浸透しつつあった。一方、ATNA社のシリコンベース方式は、桁《けた》違いの量子ビット数を誇り、まだまだ高価な代物ではあるものの、官公庁を中心に導入が進んでいた。しかし残念ながら、アプラDT社は、苦戦を強《し》いられているのだという。光解析型は計算力に優れているとはいえ、量子ビット数やコスト面などで、ATNA社には及ばない。
「課題をかかえているのは確かです」明日未は一度、唇をかんだ。「しかしそれは、他の方式についてもいえるはずです。技術的には、どれもまだ確立しているとはいえません」
バスが湾岸線に入って間もなく、直美が海の方をながめていると、空港島が見えてきた。空港連絡橋を渡り、料金所を通過して一般道へ下りる。岸壁には、釣り糸を垂れている人なども見えた。しかし周囲は空き地だらけで、道路はやたら広い。道路に沿って、|新交通システム《 N T S 》の高架軌道が延びている。一人で来るときは、あれに乗ればいいんだなあと思いながら、直美は見上げていた。
さらに走ると、アプラDT社の看板を掲げた、二階建ての大きなビルが見えてきた。バスは、その研究所の前を通り過ぎていった。
「あれ、ここで降りるんじゃないんですか?」令子が明日未にたずねた。
「いえ、直接、空港の方へまいります」と彼女が答える。「当社の量子コンピュータは、あの空港内にありますので」
「じゃあ、管制室か航空会社に納品したものを見学するんですか?」
明日未は首を横にふっている。
直美が後ろをふり向くと、すでに事情を知っているのか、久保が一人で笑っていた。
みんなに向かい、明日未が真顔で言った。
「私どもは、開発に立ちはだかるさまざまな難問を解決する方法を模索し、一つの形に行き着きました。もうご存じの方もいらっしゃるようですが、それ故《ゆえ》、研究所にも置けませんでした」
「でも、空港のどこにあるんですか?」と令子が聞く。
「格納庫です」明日未は答えた。「何故なら私たちの開発した量子コンピュータは、飛行機だからです」
「飛行機!?」
「ええ、わが社は量子コンピュータを、まるごと飛行機に積載しています」
「確か飛行機の購入時、ちょっとした話題になっていた」後ろの席で久保が言った。「ただ、量子コンピュータが飛行機であることは、必ずしもセールスポイントにはならないことが分かってきた。だから最近のパンフレットとかにも、あまり載せていない」
「でもわけ分かんない。それがどうして、開発に立ちはだかる難問解決につながるのか」
そうつぶやく令子の隣で、直美はぼんやりと外をながめていた。
3
空港の搬入口へ到着すると、ガードマンが乗り込み、身分証明書の確認や持ち物検査などを済ませた。バスはアプラDT社専用の整備用格納庫《ハンガー》へ向けて、再び走り始める。
直美が、窓から空を見上げた。やや霞《かすみ》がかかっているものの、さわやかに晴れている。
「間もなく到着します」と、明日未は言った。
進行方向に、飛行機の格納庫が数棟並んでいるのが確認できる。バスが格納庫の入口へまわると、徐々にではあるが、見えてきた。
「デカ……」令子がつぶやく。
全員が、直美のいる側の窓の外に注目している。直美も呆然《ぼうぜん》として見ていた。
よく格納庫に入ったなと思えるぐらい、その機体は大きかった。しかも直美が想像していたような飛行機とは、似ても似つかない形をしている。まるで巨大なエイのような……。
杏里が窓に顔を近づけ、「飛行機からして、何か変」とつぶやいた。
明日未が説明を始める。
「ご覧いただいてお分かりのように、当社の量子コンピュータ搭載の機体は、尾翼のない|ブレンデッド《B》・|ウイング《W》・|ボディ《B》――つまり全翼機です」
それも超大型の、と直美は思った。
全長七十五メートル、翼幅百三十メートル、全高二十メートル、最大離陸重量約六百トン。アメリカの航空機メーカーが、当初、大型旅客機として開発を始めたものだという。これを旅客機として使用すると、一度に八百人は乗れるらしい。ただ、旋回時に翼側の客席が大きく傾いてしまうことであるとか、多くの客席から景色が見えないなどの理由で、開発は凍結されかけた。しかし荷物なら大量にまとめて輸送できることから、貨物機として生産されることになったのである。ちなみにアメリカ空軍は、この機体をベースとしてステルスに改造し、やはり貨物機として使っている。アプラDT社では、可能積載量の大きさなどの理由からこの全翼機を購入し、さらに改造したのだという。
何人かが携帯での撮影を続けるなか、明日未は説明を続けた。
ここにあるのは、アプラ社が量子コンピュータのデモンストレーション用に製造したもので、製品は受注生産になる。また、同じ型の実験機とバックアップ機が、アメリカ航空機メーカーの格納庫にあるが、現在国内にあるのは、この一機のみだという。機体が銀色をしているのは、ペンキ分の重量軽減のため。また翼の先だけ斜め上につり上がった形をしているのは、翼端渦《タービュランス》軽減のためだという。大型機ほど、問題になってくるらしい。
バスが近づくにつれて、機体はさらに大きく思えた。機首側面には、識別ナンバーなどとともに、ローマ字で、TENMU-V1≠ニ書かれていた。
「申し遅れました」と明日未が言う。
この飛行機の名前は、天の矛《ほこ》と書いて、天矛《てんむ》≠ニいう。そのバージョン1、つまりV1≠ネのである。
そう言われれば、銀色の全翼機は大きな矛先のようでもあるかなと、直美は思った。
智恵実が機名のあたりを指さした。「あのパンダみたいな模様は何ですか?」
見ると、確かに白と黒の模様があった。楕円《だえん》の中に二つの点があり、それを目玉≠セと思えば、パンダに見えなくもない。直美は同じマークを、本社やホームページでも見かけた覚えがあった。
「あれは当社の社章です」明日未が答えた。
古代中国の陰陽思想≠フ象徴であり、物理学者のニールス・ボーアも好んでいたという太極図≠ベースにしたのだという。黒と白は、宇宙を構成する陰と陽を表していて、巴《ともえ》形に組み合わさっている。それらは対立しているのではなく、相容れないものが補い合い、相互作用を及ぼし合うことで一つの世界を形成している。つまり相補性≠ナある。本来の太極図は円形をしているのだが、社章ではそれを楕円形にし、シャープなイメージにアレンジしたらしい。
マイクロバスは、格納庫の脇《わき》に停車した。明日未の指示で、全員、バスから降りる。外へ出たとき、直美はかすかに浜風を感じた。全員、機首の下に集まる。
巨機を着陸装置《ランディング・ギア》がしっかりと支えていた。みんなは飛行機を見上げながら、写真を撮り続けている。
「Qコンの使用には、法的にさまざまな制約がある」最後にバスから降りてきた小佐薙が言った。「しかし、Qコンを飛ばしたらいけないという規則は、どこにもありません」
「でも何故、飛行機なんですか?」と、令子が聞いた。
「そこが大切なポイントです」明日未が答える。「ただ飛ばすんじゃない。量子コンピュータに計算処理をさせるために飛ばすわけです。飛ばすというか、| 弾 道 飛 行 《パラボリック・フライト》させる」
久保以外は、分からないという顔をして聞いている。明日未は説明を続けた。
「無重量状態の訓練や実験と同じ方法です。飛行機で急上昇しながら、高度約二万フィート――七千メートル付近でエンジン出力をダウンさせ、そのまま放物線軌道を描いて九千メートルから一万メートルあたりまで上昇、その後降下に転じる。原理的には遊園地のフリーフォールみたいなもので、それで数十秒間の無重量状態が得られます。私どもの量子コンピュータは、その状態で計算するわけです」
「どうしてですか?」令子がたずねる。
「バスの中でもお話ししましたが、デコヒーレンスの問題を回避するためです」
量子CPUには、デコヒーレンスというやっかいな問題がつきまとう。しかも量子ビット数を上げるほど、発生率は高くなる。これは他の方式にも共通することで、それぞれ、少しでもコヒーレンス時間を長く取れるよう、工夫を重ねている。
それがアプラ社では、飛行機による無重量下での計算だというのだ。試行錯誤の末、理想的なコンディションとして、低圧低温、そして低Gが望ましいという結論を得た。重力による擾乱《じょうらん》が、量子CPUに与える影響は無視できないのである。そのため、計算中は重力をキャンセルし、慣性系のなかでイベントを起こせないかと考えた。しかし反重力装置《グラビティ・キャンセラー》でも発明されない限り、地上で無重量状態をキープするのは困難である。そこで、飛行機にシステムごと搭載する方式を採用することになったのだという。
「しかし重力の影響は、非常に小さいはずでしょ」と久保が言う。「考慮しなければならない要素には違いないでしょうが、電磁気力なんかに比べると、三十桁以上も小さな力だったと思いますが」
「確かに、力そのものは小さいですが」明日未は、少し困った顔をしていた。「ゼロではないので、影響がないわけではないと思います」
ここまで黙って聞いていた小佐薙が、口を開いた。
「そこで出てくるのが、量子重力理論ですわ」
「量子、重力、理論?」令子は聞き返した。
「はあ、一般相対性理論と量子力学を統一することができると考えられている理論です」
重力が電磁気力に比べて三十桁以上小さな力だというのは、常温常圧の、宇宙背景放射が絶対温度で約三度というこの環境においての話だと、彼は言った。
しかし極小極限の世界ほど、またそこで起きている現象が宇宙初期の状態に近ければ近いほど、重力あるいはその元となる力の影響力は増すと考えられる。量子CPUに対する読み書き環境においては、重力子《グラビトン》のゆらぎ≠ウえ、無視できない要素となってしまうというのが、発案者の考えだったという。ただし量子重力理論自体、未完成であり、量子に及ぼす重力の影響には、まだ未解明の要素があるのは確かである。また、光解析型において特に顕著な問題であったことも、事実だという。
「つまり、あれだ」久保が令子に耳打ちした。「彼らのシステムは、未解明の理論を元に組み上げられているということらしい」
直美はそうしたやりとりを、首をひねって聞いていた。
「無重量状態を必要とする理由は、もう一つありまして」と、明日未が言った。
それは、量子CPUの初期化《イニシャライズ》に関してだという。計算の前には、ボース・アインシュタイン凝縮体の配列を均一にしておかなければならない。ただしその作業は、特殊な合金の生成のように、無重量状態でないとなかなかうまくできないというのだ。
直美は軽くうなずきながら、明日未の説明を聞いていた。そっちの理由は、何となく分からないでもない……。
藍が手を上げた。「でも、空の方が、放射線などの影響を受けやすいのでは?」
「当然、放射線対策はしています」即座に明日未は答える。「外壁はもちろん、量子コンピュータ本体にもシールドを」
「要は、重力みたいな微少な影響まで考慮しないと、コヒーレンス時間は延びないと?」
「もちろん地上テストは何度もやりましたが、重力の影響を検証するには、飛行機で実験するしかありません。そのため全翼機に量子コンピュータを積んで、飛ばしました。そして理論値ほどではありませんでしたが、確かにデコヒーレンス問題の改善をみています」
「どれ位?」と藍が聞いた。
「コヒーレンス時間、三十秒を確保しました」
呆《あき》れたように、藍がつぶやく。「たった三十秒……」
「はい。たった三十秒ですが、比較的安定した計算時間の確保に成功しました。しかし、もしデコヒーレンスが発生すれば、御破算ですね。最初からやり直す」
アルバイターたちにどよめきが起きた。
「これが量子コンピュータの現実です」小佐薙は全翼機を指さした。「Qコンのかかえている課題に対して誠実に取り組んだ結果の一つとして、この形があると考えています」
「しかし」久保が操縦席あたりを見上げる。「いくらなんでも、これではちょっと……」
「いや、予想外のメリットもありました」小佐薙は胸を張った。「コンピュータを排熱する上でも、飛行機は大正解。空冷で勝手に冷えますから」
「でも、良いことばかりには見えないんですけど。今回、自社でソフトを開発して営業をかけるというのも、これがなかなか売れないからじゃないんですか?」
「確かに、いろいろ問題もある。正直に申し上げますが、第一に、高い。飛行機だけで一千億ですから。ランニング・コスト――いや、フライング・コストも馬鹿にならない」
さらにこの方式だと、拡張性が限られることにも問題があるという。見ての通り、飛行機の容積以上に、機材は積み込めない。量子コンピュータを飛行機に搭載したことが、必ずしもセールスポイントにならないことを、小佐薙は認めた。国際見本市に出品しても、注目度は高いが、売れない。リース契約すら入らない。小佐薙の説明が続く。
「もちろん製品化は初期段階であり、改良を進めているところです。一方で、小型軽量化も図っております。いくら何でも、こんなデカいもん、売れませんやろ」
自分で言ってどうする、と直美は思った。
「それもやっぱり、飛行機ですか」令子が聞いた。
小佐薙はうなずいて言う。二号機は最新型の中型旅客機がベースで、名前は天矛V2=B全長四十メートル、翼幅三十メートル、最大離陸重量約三百トン。
「全長よりも翼幅が小さいのは?」久保がまた質問した。
「デルタ翼機だからです」と、小佐薙は答えた。
明日未が資料の中から写真を取り出し、みんなに見せた。
Δ《デルタ》型の翼が特徴的だが、機体本体は、他の旅客機とそれほど違わないようだった。これも一時、開発計画は凍結されていたが、その後、省エネ性などが評価され、製作が再開されたらしい。現在アプラDTでは、実証実験に向けて機材を搭載中で、実機はアメリカのメーカーにある。商品化は、まだ先のことだという。
「このV2の量産まで、何とかこぎつけたい」と小佐薙は言う。「そのためにもまず、このV1を売らないと」
明日未が右手をあげた。
「では、前の方へお進みください。これから機内も見学していただきますので」
明日未に続いて、みんな、ぞろぞろと歩き出した。
「でもこれ、誰か止める人はいなかったのかなあ」機体を見上げながら、藍がつぶやいた。「企画の段階で、大きな勘違いがあったような気もするけど」
「そうとも言い切れない」と久保が言う。
「へえ、意外」藍は面白そうに微笑んだ。「久保君、批判的なんだとばっかり……」
「別に賛成しているわけじゃない。しかし、量子コンピュータ開発に共通する課題があるのは確かだ。そしてどの形式が最善かは、まだ分からない。だから今の段階で、否定はできない。むしろ作り上げたというチャレンジ精神を、讃《たた》えるべきなのかも」
二人のすぐ前にいた令子が、ふり返った。
「そもそも量子コンピュータって、こんなにまでして開発しなければならないものなんですか?」
直美も、そう思いながら聞いていた。
「それが大ありなんだな」と、久保が言う。「学術的な関心だけなら、ここまではやらなかったかもしれない。市場に大きなニーズがあったからこそ、みんなこぞって開発した」
「大きなニーズ……」令子は首をかしげた。
「ニーズなんて、そんな生易しいものじゃないかもしれない」久保が意味ありげに微笑む。「理論が公表されたときから、恐怖にも似た感情をおぼえた奴だっていたはずだ」
「へえ、そんなに大切なものには思えないけど」
「あなたのパソコンに、パスワードは?」と久保が聞いた。
「もちろんありますけど」
「教えてもらえますか?」
「教えるわけがないじゃないですか」令子は彼をにらみつけた。
「教えてもらえなくても、知ることができるとすれば? するとあなたは、困るどころじゃない。場合によっては破滅ですよね」
パスワードだけではなく、知られたくないデータは、暗号化してやりとりする。傍受されても分からないように――。久保は説明を続けた。
こうした暗号や暗号鍵≠ノは、因数分解を応用したものがよく使われる。たとえば鍵の場合、今主流になっているのは、| 因 数 分 解 応 用 鍵 《ファクトライジング・アプリケーションキー》、略して|FAKe《フェイク》≠ニ呼ばれ、まず解けないとされている。ノイマン型では、解くのに時間がかかり過ぎるからだ。
ところが量子コンピュータと、それに応じたアルゴリズム――たとえばショアのアルゴリズム≠ネどを用いれば、それらをたやすく破ってしまうことができる。
「今、何て言ったんですか?」智恵実が口をはさんだ。「初夜のオーガズム?」
「ショアのアルゴリズム」久保がくり返して言う。「ベル研究所のショアという人が考えた、量子アルゴリズムの一つ。アルゴリズムというのは、問題を解くための演算手順ですね。フーリエ変換を応用するなどして、因数分解の約数を素早く探し出す方法を見つけた。誤答も出るが、かなりの率でスピーディに解いてしまう。量子コンピュータがあればね」
「つまり、私のパソコンに侵入することも可能、ということ?」
「ええ、相手がノイマン型なら同じこと。たとえば、国家のシステムにでも」
「あ、そうか」令子は軽く手をたたいた。
「そう、国家や企業の情報を破壊したり、盗み出したりすることもできてしまうんだ」
そう言う久保は、少し得意気に見えた。
量子コンピュータ開発にかかる莫大《ばくだい》なコストに見合う利用価値は、まず諜報《ちょうほう》活動に、またその逆、国防にある。さらに民間企業にとっても、情報保護の観点から導入を迫られる場合も考えられた。しかし各自が勝手に量子コンピュータを使い始めれば、収拾がつかなくなりそうなことは、容易に想像できる。そのため法整備の必要性が説かれ、|国際量子コンピュータ機関《 I Q C A 》が設立された。そして間もなく、|量子コンピュータ不可侵条約《 I B T Q 》が締結されることとなる。それによって、量子コンピュータの所持には基本的に国際ライセンスが必要となり、目的以外の用途での使用は禁じられるなどした。ただし、みんながルールを守るとは限らない。多くの国や民間企業では、自己防衛措置として、従来のFAKeを多重にかけておくようになった。
さらに、商品化されたばかりの| 量 子 暗 号 鍵 《クオンタム・エンクリプションキー》――略して|QEK《クエック》≠導入するところもあった。これは量子のもう一つの性質――観測による影響≠利用したものである。何者かによって観測されると、ハイゼンベルクの不確定性原理により量子状態が変化することを応用し、侵入されたことが分かる仕組みである。ただし、これはまだ開発途上で、量子状態が不安定なため、侵入者がいないにもかかわらず、アラームを鳴らしてしまうことが度々あった。そのため、QEKの装備を掲げながら、実際にはオフにしているケースが多いようである――。
「それで大丈夫なんですか?」と令子が聞いた。「それでも侵入を企《くわだ》てる連中って、いるんじゃ……」
「しかし実際にそういう用途で使用してしまうと、報復され、お互いの破滅につながる」そう言って、久保は微笑む。「だから誰も、使わないはず。そういう思惑もある」
「そうか。実際に使わないとしても、抑止力≠ニして保有しておく必要があるわけか、量子コンピュータは」
「そして、高性能な量子コンピュータを保有しているほど、国際社会では優位に立てる」
「ひょっとして、アメリカ?」
「もちろん」と久保が答える。「世界最大の量子コンピュータ保有国だ。国防総省《ペンタゴン》も国家安全保障省《 D I S 》も、いち早く導入している」
「じゃあ、国には必ず売れるということよね」令子はまた、全翼機を見上げた。
「さあ、どうかな」と久保は言う。「導入の目的からすると、買うのは最も性能の良い機種だろ。いくらお金がかかったとしても。すると、ATNA社のじゃないか?」
「HEMR社にしても、性能ではかなわないみたいな話だったわね」
「シリコンベース方式なら、システムの発展性もある。国家というお得意先は、ほとんどATNAにもっていかれたんじゃないかな?」
「じゃあ、民間は?」と、藍が聞いた。
「用途はあるだろう。情報保護以外にも、たとえば生命保険や金融業界におけるビジネス戦略の立案とか」
しかし、すぐに従来のノイマン型に代わるものではないと、久保は言った。コストがかかり過ぎるし、性能も安定していない。何より、制約が多い。所有するには登録せねばならず、使用記録を関係機関に報告し、査察にも応じなければならない。そんな面倒なものを、高い金を出してわざわざ買う必要はないということである。その他、タンパク質の構造解析やワクチン開発など、研究機関への売り込みも考えられるが、やはり予算が通りにくいだろうという。
「まあ、僕の知り合いで、こんなのを買いそうな人はいないな」と久保は言った。「ある意味、モバイル量子コンピュータの先駆けと考えられなくもないが」
「何がモバイルよ」令子が馬鹿にしたように言う。「コンピュータを持ち運ぶんじゃなくて、コンピュータに乗っかるわけでしょ」
「それに民間の場合、買い控えもある。あわてて導入しても、おっつけ低コストで高性能の新型が出る可能性があるわけだし」
「結局、売れてないってこと?」
久保は軽くうなずいていた。
「何なの、量子コンピュータって」杏里が急に話し始めた。「何万年もかかる計算ができるっていうけど、たった三十秒しか計算できないんじゃ、話にならないじゃない。ウルトラマンでも、三分は戦えるのよ。それに計算するのに、いちいち飛行機飛ばして墜落しなきゃならないなんて」
「だから墜落じゃない」と、久保が訂正する。「弾道飛行による自由落下かな」
「自由落下でも何でもいいけど、営業的には墜落寸前でしょ」憮然《ぶぜん》として杏里が言った。「量子コンピュータが聞いてあきれるわ。たった三十秒にこれだけの手間とお金をかけて。やたら前戯が長いだけの、早漏コンピュータじゃないの」
「声が大きい」令子が人指し指を唇にあてた。「聞こえるわよ」
「その三十秒が強烈さ」久保が杏里に言う。「世界中をヒーヒー言わすことができる」
「売れたらでしょ。売れもしないで、ヒーヒー言わせられるわけがないじゃない」
「まあな。それでどうやら、ハードメーカーが、自社でソフトを開発しなければならない羽目になっているみたいだな」
「それが占いか」と、藍がつぶやく。
直美は、改めて飛行機を見上げた。確かに、根拠のあやふやな自分たちの占いソフトより、量子コンピュータの方がましかもしれない。しかし占いというのは、そうまでしてやるものなんだろうかという気も、しないではなかった。
「まあ、天気を占う下駄が進化したようなものだと思えば」令子がつぶやいた。「下駄とは桁が違うけど」
機体の後部は、翼の一部が切り取られたように大きく開き、床に着いていた。貨物機特有の、ウイング・カーゴゲートで、大型トラックでも楽々入っていけそうなほど広い。ツナギ服姿の整備員が、貨物室の中で作業しているのが見えた。
「これから皆さんを、天矛V1の内部へご案内いたします」明日未が話し始めた。「タラップからでも乗り込めますが、このカーゴゲートから入ることにします。それと、ここから先は撮影禁止ですので、よろしくお願いします」
何人かが、ごそごそと携帯を片付ける。
みんなに遅れないようにしてカーゴゲートを上る直美の足どりは、重かった。正直、ここまでに聞かされた量子コンピュータの話は、彼女にはよく分からなかったのだ。学校の勉強だけでも頭がややこしいのに、何でバイトで量子コンピュータの勉強をしなきゃならないのかと思う。やっぱり安藤先輩に言って、このバイトは断ろう……。
カーゴゲートを上りきったところに、制服を着た男が立っていた。明日未がみんなに紹介する。
副操縦士、待田翔介《まちだしょうすけ》。三十歳前後の、どこかワイルドな感じのする男だった。
さらにもう一人、奥の方から直美たちの方へ近づいてきた。制服にきらりと光る胸章と襟章《えりしょう》を付け、袖《そで》には四本の金筋が入っている。彼は濃紺の帽子をしっかりとかぶり、みんなに一礼をした。
機長、柴宮晃司《しばみやこうじ》――。
直美の全身に、電気のようなものが走った。彼と目が合い、あわてて顔を伏せる。動悸《どうき》が激しくなり、次第に顔が熱くなっていくのが、自分でもよく分かった。直美は今まで、彼ほど制服が似合う人を、見たことがなかった。
久保がきょろきょろしながら質問した。
「他に、フライト・エンジニアの方とかはつかないんですか?」
柴宮が微笑みを浮かべながら答える。
「飛行計画にもよりますが、現在の量子計算試験は、この二人でフライトしています」
「で、量子コンピュータは、飛行機のどのあたりに?」
「どのあたりと言われても」待田が頭をかいた。「この飛行機の中が全部量子コンピュータ。量子コンピュータ以外の部分が飛行機です」
首をかしげる久保を見て、待田が笑っている。
随分、いい加減な答え方をする人だなあと直美は思った。
柴宮機長が、軽く敬礼をした。「では、また後ほど」
二人は機内へ向かって、何かを話し合いながらゆっくりと歩き始めた。
令子が機長の後ろ姿を目で追いながら、直美の耳元でささやいた。
「彼、ちょっといい男ね」
4
機内も引き続き、明日未が案内してくれた。小佐薙はほとんど何も言わず、後ろからついて来るだけである。
まず明日未は、翼が燃料タンクやバッテリー室になっていることを説明した。燃料は、約二十万リットルも入るらしい。内壁は無重量状態への備えからか、柔らかい素材に張り替えられていた。また貨物室内は、ほとんど間仕切りがない。その広いスペースには、配管類がまるでオブジェのようにごちゃごちゃと張りめぐらされていた。
まず目につくのが、ゆるやかな円弧を描く金属のチューブと、それを取り巻く電磁石群だった。円形加速器のリングで、貨物室の壁にほとんど内接するぐらいの大きさがある。これは独自のシステムらしく、量子CPUに対する読み書きの分解能を極限まで上げるために、アプラ社ではガンマ線レーザーを用いている。その強力な発生源として、加速器が必要なのだという。それを収納可能なのは巨大全翼機ぐらいしかなかったため、やむなくこの形になっていったそうだ。量子CPUの冷却過程でも、このレーザーを利用したドップラー冷却≠ニいわれる方式を使っている。電力は、発電機とバッテリーから供給されるが、一回のフライトにおける量子計算回数は、十数回が限度だという。またリングの歪《ひず》みは、作動装置《アクチュエータ》で自動補正している。
ただし営業サイドの強い要望で、V2では小型化軽量化を図ることになった。そのため円形加速器ではなく、|ガンマ線自由電子レーザー《γ F E L》方式の線形加速器を採用している。現在テスト機を製造中だが、計算能力は、このV1を下回るとみられているそうだ。
加速器から両翼端に沿うように、二本のビームラインが伸びている。それらは機首方向にある壁の真ん中で、円筒を縦に二分割したような黒い構造物とつながっていた。そこがヘッド≠ナ、カートリッジ式になっている量子CPUのセッティングなどは、ここから行うという。
|書き込み機《ライター》――別名ビーム・ペン≠ヘ、|千兆分の一《フェムト》秒以下のレベルでパルス化したガンマ線レーザーをジョブに応じて変調し、量子CPUに照射して電子スピンの状態を変え、それを伝播《でんぱ》させていくのだという。一方の|読み取り機《リーダー》は、結晶構造解析技術の応用で、均一なガンマ線ビームを瞬間的に照射し、スペクトル線と、回折現象によるパターンを観測、解析する。量子CPUは消耗品で、読み取りと同時にボース・ノバ≠ニ呼ばれる蒸発現象を起こし、消えてしまう。
円形加速器の内側には、金具で天井と接続された白い直方体が、いくつも並んでいた。数人のエンジニアらしき人が、そこで作業をしている。
「あれが量子コンピュータなの?」と智恵実がつぶやいた。
明日未は首を横にふる。「いえ、あれはノイマン型のスーパーコンピュータですね」
「じゃあ、量子コンピュータは?」
「この壁の向こう側が、操縦室《コックピット》です。壁をはさんでヘッドの反対側に、量子コンピュータ久遠V1≠フ本体がありますが、それはまた後でお見せしたいと思います」
明日未はスパコンのそばへ行き、説明を続けた。
量子コンピュータ単独で、システムは成立しない。まず入力における情報量の多さから、プログラミング作業は、このノイマン型のスーパーコンピュータが行うのだという。また量子コンピュータから圧縮されて出力されるデータもノイマン型のレジスタに蓄え、解凍する。それを解析するのも検算するのもスーパーコンピュータの役目である。エラーが分かれば再計算を要請してくるし、データのストックも、スパコンにさせている。このように、計算力そのものは量子コンピュータがノイマン型を上回るものの、人と量子コンピュータのインターフェースとして、従来のコンピュータは必要になってくるのだという。
明日未はコックピットのドアを開け、一列に並んで順番に入るように言った。そして見学を終えた人から、コックピット側のタラップで、下へ降りるよう指示した。
中へ入るとすぐ、直美はきょろきょろと周囲を見まわしてみた。自分たちの他には誰もいないようだ。旅客機の操縦席ぐらいのイメージしかなかった彼女には、コックピットはかなり広く思えた。量子コンピュータが使いやすいよう、大幅に改造を加えたのだという。
室内は淡いグレーが基調で、正面には横長の窓が広がっている。そのすぐ下に、機長と副操縦士の席がある。コックピットの中央には、チームリーダー、あるいはオーナーのための席が用意されていた。量子コンピュータのオペレータ席も、その両側面にある。それぞれの座席には、テーブル型|操作卓《コンソール》が備えられていた。
何か宇宙船の司令室《ブリッジ》みたいだなあと思って、直美はながめていた。
そして明日未が言っていた通り、コックピットの後部壁面に、量子コンピュータ・久遠V1はあった。さっき見たヘッドの丁度反対あたりの位置に、壁をはさむようにして半円筒状の構造物が、コックピットに突き出ている。ヘッドと同じく、黒い色をしていた。くびれ≠烽るため、円筒というより、丸みを帯びた楕円筒柱と言うべきかもしれない。太い木の幹のようにも、女性のウエストからヒップにかけてのラインのようにも見えた。そのヒップにかかるあたりに、ディスプレイ、そしてキーボードなどの入力デバイスがある。しかし明日未の説明によると、これはあくまでバックアップなのだという。量子コンピュータへのプログラミングは、基本的に先程見たノイマン型スーパーコンピュータがするからである。
久遠の心臓部、量子CPUは、この奥深くの量子CPU室に収められている。量子CPUは、一チップの直径が数ミリで、それが一つのカートリッジに七チップ、別々に配置してある。そして外界と相互作用を生じさせてはならないので、真空容器《チェンバー》内で電磁場によって閉じ込められる。また、熱そのものがノイズとして影響してしまうため、量子CPU室は、超低温に保たれなければならない。さらに初期化と計算時には、弾道飛行により、重力の影響もキャンセルされる――。
「ちっちゃなチップを冷やすのにそこまでやるなんて、何かもったいないよね」智恵実がつぶやく。「冷凍食品でも入れておけばいいのにさ」
明日未は、ビデオにあった解説に少し付け足した。単純化して言うと、アプラ社の量子CPUは、数オングストロームのボース粒子を並べて原子細線化したものをカーボン・ナノチューブに閉じ込め、さらに冷却することでボース・アインシュタイン凝縮体状にするのだという。ナトリウムやルビジウムのある質量数の原子は、ボース粒子としての特性が顕著であることが知られており、絶対零度近くまで冷やされると、一つ一つが個別の原子ではなく、全体で一つの原子のようなふるまいを見せるようになる。アプラ社ではこれを量子計算に利用するのだが、そのためには、一つの原子も配列から欠けていてはならない。技術的困難も多かったが、何とか実現にこぎつけたという。
久保は、こうした話に関心があるらしく、熱心に聞いている。直美には、何のことだかさっぱり分からなかったが、それでも不思議な話だなあと思いながらうなずいていた。
量子計算の手順について、明日未がさらに説明を加えた。まず一回目の弾道飛行で、最初に使用する量子CPUを初期化する。それを、次の弾道飛行で計算に使用し、同時に二つ目の量子CPUを初期化しておく、という段取りで進められる。読み取りに際しては、カーボン・ナノチューブによるスペクトルを排除し、また予測し得る影響なども補正する。こうして一チップずつ、初期化と計算をくり返していく。量子CPUのカートリッジは、七チップでワンセットになっているので、連続して七回まで計算できる。カートリッジを入れ替えれば、さらに七回の計算が可能となる。そして上昇と降下をくり返して予定の計算を終えると、元の空港へ戻ってくるわけである。
「量子《キュ》ビット数はどれぐらいですか?」と、久保が質問した。
明日未は返答に困ったような顔をして、小佐薙の方に目をやる。
少し考えてから、小佐薙は人指し指と親指を少しだけ離し、「まだほんの、ちょビット」と言った。
誰も笑ってないことを確認した彼は、観念したように続ける。
「実際のところ、|メガ《M》量子ビット台ですね。V2は、さらに下回ると予想されます」
「それは目標ビットだけで?」
「いえ、制御ビット、目標ビット合わせて。また、エラー補正の量子ビットも含めて」
「確かATNA社は、|ギガ《G》量子ビットを達成しているのでは?」
「その通り。量子ビット数では、ATNAが優れています。わが社も計画段階では|テラ《T》量子ビットでしたが、とても届かない。計算環境に細心の注意を払って、ようやくメガ台を達成したところです」
「あの、量子CPUを見せてもらえないでしょうか?」と、久保が言う。
「詳細は、企業秘密です」小佐薙は首を横にふった。「秘密というより、お見せすることができないものもある。何せ相手は、量子ですから。たとえば計算中の量子CPUを、直接見ることはできない。重ね合わせ状態が崩れてしまう。ご存じですよね」
「でも、どんな形かぐらいは教えてくれてもいいじゃないですか」
小佐薙は軽くうなずいた。
「量子CPUはボース粒子を並べたものですから、基本的には直線状ですが、効率化を図るため、形状はフラクタル幾何学の応用によって決定されました」
「フラクタル?」智恵実が聞いた。
「規則性の単純な自己相似$}形ですね。つまり図形を構成する小さな部分が、図形全体と同じような構造をもつ幾何学図形。自然のなかでも、海岸線、雲、銀河、星団などが、よく似た性質をもつと考えられています。そのフラクタルのなかで、我々が採用したのはコッホ曲線≠ニいわれるもので、正三角形をベースにしています」
「清算関係?」
「正三角形」小佐薙がもう一度言った。「各辺を三等分し、その中央を一片とする小さな正三角形を、外側にそれぞれ描く。それを際限なく描き続ける。すると、有限の大きさであるにもかかわらず、周囲の長さは、理論上無限大の図形ができるわけです」
有限の大きさの中に、無限の長さ……。直美は、頭の中でくり返した。
「説明するより、やっぱり見てもらった方が早い」小佐薙は、コンソールに手を伸ばした。「現物はお見せできないが、シミュレーションCGがある」
久遠の上部に並んでいるディスプレイのうちの一つが、オンになる。じっと見ていると、周囲に凹凸のある、|クイック情報《 Q I 》コードみたいな映像が現れた。ただしベースは正三角形で、それは万華鏡をのぞいて見える模様のようでもあり、蓮《はす》の華のようでもあった。しかし直美が最も似ていると思ったのは、雪の結晶だった。
同じことを思っていたらしく、智恵実が「雪みたい」とつぶやいた。「本当にこのCGの通りなんですか?」
「カーボン・ナノチューブのために、実際は黒く見える。しかしパターンはこの通りです」と小佐薙は答えた。「コッホ曲線を多層構造にしたら、雪の形みたいになった。ただし氷点下ではなく、これは絶対零度の雪だといえる。そして情報を読み取った瞬間、蒸発して消えてしまう」
直美には、量子コンピュータの説明はほとんど分からなかったが、この量子CPUのCG映像は、美しいと思った。幾千万の原子を並べ、雪の形にするとは――。これを思いついたのがどんな人物かはともかくとして、こんな美しいものでクールに計算しようとするセンスにも感嘆した。
初めて人工的に雪の結晶を作ることに成功したのは、確か中谷宇吉郎《なかやうきちろう》とかいう人だったと思う。しかし説明によると、これは絶対零度近くでしか存在できない、雪よりもっとはかない結晶らしい。それで人の運勢を占うというのは、何かとてもロマンチックなことのように、直美には思えた。
直美が人の気配にふり向くと、ドアからさっきの機長と副操縦士が入ってくるのが見えた。再び胸が、ドキドキし始める。
待田副操縦士は、この飛行機全般について、よく通る声で説明を始めた。形は特徴的だが、装備などは一般的な飛行機とさほど変わらないという。
智恵実が手をあげ、「脱出装置は?」と質問した。
「それも他の飛行機と同じで、特殊なものは何もありません」待田は笑いながら「その時はその時です」と付け加えた。
そうしたやりとりを、直美は上の空で聞いていた。そして柴宮機長の方ばかりを見つめていた。目が合いそうになると、あわてて顔を伏せる。
そんなことをくり返していると、直美の耳元で令子がささやいた。
「さっきからあんた、トイレ我慢してるの?」
直美は顔を真っ赤にしながら、首をふって否定した。
次に藍が手をあげる。
「私たちバイトも、飛行機に乗せてもらえるんですか?」
その質問には明日未が答えた。
「今日は当社のことをご理解していただくためにご案内しましたが、アルバイトの皆さんがこの飛行機に乗る機会は、まずないと言っていいですね」
「え、ないんですか?」思わず直美は声をあげた。
「直美、乗りたいの?」と智恵実が言った。
「まったくないわけではありません」明日未が微笑む。「モニターだけでなく、企画スタッフとなっていただき、内勤業務にも加わっていただければ、ないことはないですが」
つまり、モニターのバイトだけでは乗れることはないらしい。モニターから寄せられてくるデータの取りまとめとか、メールや郵便物の発送とかまでをやらなければ……。
「けど学生さんには、難しいかもしれませんね。企画スタッフは、拘束時間も長くなりますし。希望者は、あとで申し出てください」
明日未はそう言い、みんなをドアの方へ誘導した。機長と副操縦士とは、そこで別れた。
地上へは、機体側面に横付けされたタラップで降りた。格納庫内にあるプレハブ構造の|詰め所《ステーション》前でしばらく待機し、全員がそろったのを明日未が確認した後、再びマイクロバスに乗り込んだ。バスが出発すると、小佐薙がマイクを手に取った。
「私どもは、量子コンピュータの能力を最大限に引き出せるのは光解析型であるという信念の下に、一丸となって開発に取り組んできました。今もその気持ちに変わりはありません。そして、気象の長期予測などをする世界シミュレータ<激xルのことは、すでに可能となっています。しかしそれぐらいなら、ノイマン型の方がコストパフォーマンスは良いし、安定している。私どもはこの素晴らしい財産を活用すべく、新たなニーズを開拓していかなければならない。どうかご協力のほど、よろしくお願いします」
次に明日未がプリントを配り、モニター開始の手続きなどについて事務的な説明をした。今後の指示は、基本的にメールで伝えるという。そしてその日の出来事≠ネどの質問項目には、必ず事実を記入すること。提案があればそれも書くことなどを、みんなに伝えた。一方、企画スタッフについては、時間給制で、基本的に出社してもらうことになる。資料のまとめなど、仕事量は多いという。
直美はプリントを読み返すと、企画スタッフの希望欄にチェックを入れ、出社可能な時間帯を記入していった。午前中は必修科目が多いけれども、午後からなら何とでもなる。友だちに代返を頼むとかノートを借りるとかすれば、いけるだろう。別にこのバイトが気に入ったというわけではないけど、何とかして、またあの飛行機に乗りたい。そして……。
「面白そうよね」令子が話しかけてきた。「量子コンピュータで占いするなんてさ」
杏里が令子に言う。「でもモニターぐらいなら、社員でもできるんじゃないの?」
「社員は社員で、きっと忙しいんでしょ。顧客層ともちょっと違うだろうし。それに何かのときに、バイトだと補償も楽だしさ」
「何かのときって?」
令子はそれに答えず、微笑みながらプリントの記入を終えた。
間もなくバスはアプラDT本社に到着し、みんなはそこで解散することになった。
杏里は彼との待ち合わせ場所へ急行し、令子と智恵実はそのあたりをブラブラして帰ることにした。直美も誘われたが、彼女は用事があるからと言って断った。
アパートへ戻った直美は、ネットでアプラDT社のことを調べ直してみた。自分の身のまわりにないものなので、気に留めたこともなかったが、ネットで見ると、確かにいろいろ出てくる。ある書き込みでは、量子コンピュータ部門をアプラDT社の負債扱いしているものもあった。
量子コンピュータのことも調べてみたが、やはり難しいので、これからちょっとずつ勉強することにした。ただ、古い書き込みほど理想を語っていて、新しい書き込みほど、現実的問題について触れているような気はした。
それから、彼の名前も入力し、検索してみた。
柴宮晃司。名前を打ち込むだけで、何故か胸がときめく。けれども、これといった情報は、何もヒットしなかった。
直美はしばらく、初めて彼と会ったときの潮の香りや浜風のことを思い出していた。
5
次の日曜日、直美は百貨店へ行き、会社へ着て行けるようなスーツを買うことにした。また口紅、ファンデーション、頬紅《チーク》、クリームなど、化粧品《コスメ》もいくつか買い足す。香水も見て回ったが、どんなのが良いか、分からなかった。安物《ロープラ》はあまり買いたくないし、かといって、高いものは買えない。|アクセサリー《アクセ》類も同様だった。ただ、パソコンを使うので、爪は伸ばせない。だからマニキュア・コーナーとかは、パスすることにした。
直美は、六月十二日、月曜日の午後から出勤することに決まった。
その日、学校で軽めの昼食を終えた彼女は、トイレで化粧を直した。鏡をじっと見つめる。自分で自分を見捨てるわけにはいかないのである。とにかく、ヘアブラシで髪をとくことから始めることにした。ショートヘアは、ガキっぽ過ぎるかもしれない。これから伸ばすことにする。メイクも工夫しよう。しかしこれも香水と同じで、変えれば良いというものではなさそうだ。
鏡に向かって、直美は首をひねった。いろいろと難しい。考えていても仕方ないので、取りあえず、バイトへ行くことにした。
アプラDT社営業部の中会議室に、企画スタッフを希望したアルバイターたちが集められた。部屋の中央にある大きなテーブルを囲む形で、みんなが座っている。
直美の他に、令子や杏里も来ていた。久保信人、比留間藍もいる。ただし智恵実は、モニターだけの契約にした。スタッフは拘束時間が長すぎて遊べないというのが、理由らしい。杏里も渋っていたが、令子に無理矢理誘われたようだった。会議室には、他の時間帯の説明会に行ったらしい人たちもいて、合わせて十人ほどになっていた。
ネクタイに、ベスト姿の社員が入ってきた。特販営業二課課長の、樋川である。
みんなに軽く会釈をした後、「ではぼつぼつ始めますか」と言った。
ただし、後発組の説明会に同行している小佐薙と明日未が、現在事故渋滞にひっかかったみたいで、少し遅れるという。
樋川は、明日未が手配してくれたという身分証明書を、全員に渡してまわった。
「じゃあ、ちょっと社内をご案内します」
アルバイターたちは、樋川に続いて会議室を出た。
杏里が直美の耳元でつぶやく。「この人、何か、頼りなさそう」
直美は咳払いをし、何も聞かなかったふりをした。
営業部のフロアには、机がたくさん並んでいて、社員たちも電話したり書類を作成したりメールしたりと、忙しそうにしている。さらに奥へと進む樋川の後ろについて歩く。特販営業二課は、同じフロアの窓際に位置していた。机は七つほどあったが、誰もいない。
「みんな、他の営業にまわっているらしい」と樋川は言った。
特販営業二課は、量子コンピュータを売り込むだけの部署で、樋川、小佐薙、明日未の他に、まだ四人いるらしい。
壁に、例の飛行機のポスターがあるのを見つけた。
〈スパコンも裸足《はだし》で逃げ出す高性能〉というキャッチコピーの下に、実際に裸足で逃げているスパコンのイラストが描かれている。古いポスターなのか、少し色褪《いろあ》せていた。
「逃げ出さなきゃならないのは、この部署だったりして」杏里がまた、直美にささやく。
樋川が咳払いをした。
「他の課員は、忙しいときには手伝わせますけど、基本的に今回の占いビジネスの担当ではありませんので。その件は私か、小佐薙真、そして富士明日未が担当します」
その後、備品やコピー機などの場所を確認して、樋川とアルバイターたちは、元の会議室へ戻った。
さすがは大会社だと、直美は思った。会議室がいくつもある。この中会議室Dは、今回のプロジェクト・チーム専用に、特販営業二課が当面押さえてあるらしかった。
しばらくして、小佐薙と明日未が戻ってきた。
「お疲れさまです」明日未の高い声が、会議室に響く。
小佐薙は、余った身分証明書を数えていた。「何や、スタッフはこれだけかいな」
樋川が頭をかきながら「希望者はもう少しいたんですけどね」とつぶやく。
「ま、ええか」小佐薙は揉《も》み手をした。「さあ、これから忙しゅうなるで」
明日未がみんなに、プリントを配った。モニターに依頼するアンケートのフォーマットらしい。小佐薙はホワイトボードの前に立ち、マーカーで占い≠ニ書いた。
「そのために必要なのは……」彼はその下に、データベース=Aさらにモニター≠ニ書いた。
「|カスタマーズ《C》・|サティスファクション《S》――顧客満足のためには占いっ放しでなく、これをフィードバックさせていかんとあかん」
小佐薙はモニター≠ゥら赤線を引き、占い≠ノ戻した。
「モニターには、占いのデータ入力と結果の判定だけでなく、占いに対するご意見ご感想も書いてもらう。それらを取りまとめ、ソフトを修正する。それをくり返す。企画スタッフには、その管理とフォローをしてもらう。モニター希望者は、ネット登録だけも入れて、今のところ百人弱。これらは人間の目でチェックしておく必要がある。結構な作業量になるで」彼はスタッフたちを見て言った。「さあ、何でも意見があったら、出してくれ。君らに一番、期待していることでもあるんやからな」
まず、藍が手をあげた。
「占いの質問項目というのは、できるだけ簡素な方がいいと思いますけど」彼女はアンケート用紙を指さした。「これが面倒なほど、利用をためらう人もいるんじゃないかな」
その隣にいた女性が発言する。
「項目ですけど、恋愛運とか仕事運とか、オプション欄から選択させるだけじゃなく、他に自由枠もいるんじゃないですか? 占いを希望する動機は、人それぞれだと思うし」
杏里も意見を出した。
「結果についてですけど、たとえばアンラッキーな一日でも、何か魔よけ%Iなアイテムを提示してあげれば、利用者もほっとすると思いますけど。それに漠然と占うだけじゃなくて、これからの行動指針みたいなものも、示してあげられたらいいんじゃないかな」
次に、令子が言った。
「モニターによる占い結果の判定ですけど、○か×かという的中度だけでは、ニュアンスが分からないと思いますけど。ここにも自由に記入する枠を設けるべきでは? ご意見ご希望は、やっぱり文章で書いてもらった方が私たちも対処しやすいし」
「しかし、ベストはマークシート方式なんですけどね」樋川が頭をかいた。「文書で記入させるとすると、我々企画スタッフの仕事量は、さらに増すことになる」
「それもやむを得ん」小佐薙が首を横にふる。「よく当たる占いマシンを作るためなら」
「でも、面白そう」令子が微笑みながら言った。「恋愛からお昼ご飯にいたるまで、人生につきまとう数限りない選択肢。すべての可能性を計算し、量子コンピュータが理想的なアドバイスをしてくれるなんて」
「それなんですが」藍が聞いた。「理解したかどうかはともかく、量子コンピュータそのものについては、大体の説明をおうかがいしました。でも、量子コンピュータにどうやって占わせるのか、まだ全然分かってないんですけど」
「原理的には、星占いと同じや」小佐薙がニヤリとしながら藍を見た。「星座ごとに分けて占ってるでしょ」
当たり前だが、人はみんな違う。個別に対処してたらきりがない、と彼は言った。
しかし、たとえば手相とか人相には、大体のパターンがある。性格や嗜好《しこう》にも。こうした要素《エレメント》によって顧客《カスタマー》をパターン化し、行動予測するのだという。
そのための情報収集も、モニターを使う理由の一つらしい。モニターには個人データ登録の他、買い物やデートなどの行動についても報告してもらう。そのパターンを解析すれば、将来に起こりそうなことも、予想できてしまう――。
「それなら、量子コンピュータを使わなくてもできるのでは?」前の方に座っていた男性アルバイターが質問した。「完璧とはいえないとしても、ある程度までならノイマン型でもできる。実際にそんなソフトはあるし、量子コンピュータを使ったとしても、それらとの差別化はしにくいんじゃないですか?」
「違う。Qコンはシミュレーションに使う」と小佐薙は言った。「こうしてパターン化した顧客のデータを、情報の中≠ナ実際に泳がせてみるんや」
「情報の中?」
「ああ。わしらは解析世界≠ニ呼んでる。そこに、できるだけ現実に近い世界の情報をプールするんや。ノイマン型のスパコンにも、世界シミュレータ≠ニいうのがあるやろ。エリアを数億に区切って、気象や世界経済などの未来予測をやっている。わしらがやろうとしているのは、その高精細化かつ高速化やな。スパコン内に作った解析世界内に、顧客のパーソナルデータを投げ入れて泳がせ=A未来を予測する。そのシミュレーションに、量子コンピュータを使うわけやがな。
Qコンやと、数億どころか、もっともっと細かく区切った世界を素早く計算しよる。極限まで細分割することで、個人のデータもシミュレーションできる。それによって、精度の高い占いができるようになる理屈や。ノイマン型は世界シミュレータ≠ェ限界やが、Qコンでは、パーソナル・レベルでの予測まで可能となる。つまり人生シミュレータ≠竄ネ。解析世界のデータが蓄積していくほど、占いが当たる率は高くなっていくはずや」
アルバイターたちは、感心して小佐薙の話を聞いていた。
「すみません」後ろの方に座っていた久保が、手をあげた。「ちょっといいですか?」
「はい、提案は大歓迎」と小佐薙が言う。
「じゃあ、遠慮なく。説明会のときにも言いましたけど、占いというのはある意味、NP完全問題みたいなものですよね。つまり、答えを出すのにものすごく時間がかかる」
令子が久保の方を見た。「でもそれは、ノイマン型コンピュータの場合でしょ」
「おっしゃりたいことは分かります。量子コンピュータを使えば、解けてしまうのではないかと。しかし、ハードだけあってもどうにもならないのは、ノイマン型も量子コンピュータも同じでしょ。こうした問題を解くには、アルゴリズムが必要になる」
「でも、ショアのアルゴリズムが……」
「確かに因数分解問題にはショアのアルゴリズムなどがありますが、占いに関する量子アルゴリズムなんて、見つかってないでしょ。それだけじゃない。精度の高い占い≠ニおっしゃいますが、そもそもそんなことは不可能なはずです」
「え、そうなの?」と令子が聞いた。
「これも前に言ったと思いますが、完全な未来予測など、あり得ないからです」
「何故?」
「バタフライ効果≠チて、聞いたことありませんか?」
何人かのアルバイターたちが、軽くうなずいた。久保が続ける。
「ローレンツというアメリカの気象学者の言葉で、初期条件がほぼ同じでも、大きく異なる結果をもたらすことがあるのを、気象を例に言ったものです。その理由は、まったく無関係と思えるような些細《ささい》なことが、大きな要因として結果を左右してしまうからなんですよね。つまり未来予測には、限界があるということです」
「そう言われれば」藍が口をとがらせた。「野球とかでも、些細なエラーで、流れが大きく変わることもあるわよね」
「人の未来も、複雑系です。いくら高性能のコンピュータを用いても、当たるものじゃない。未来の出来事ほど、予想はアバウトにならざるを得ない。精度の高い占いをセールスポイントに掲げるのは、無理じゃないでしょうか」
久保が発言を終えると、会議室は静かになった。
「ちょっといいですか?」樋川はそう言うと、煙草《タバコ》を取り出し、火をつけていた。
「分かってないな」小佐薙は舌打ちした。「野球の予測は、確かに困難や。しかし結果は、勝つか負けるかしかない。つまり二分の一や」
「何が言いたいんですか?」久保は小佐薙を見つめた。
「あの時も、完全な未来予測をやるつもりはないと言ったはずや。可能性を示せればいい。それだけの話やないか」
そもそも占いは、気象予測などとは違う、と彼は言った。正確に言い当てる必要はないのだと。だから情報が多すぎて計算できないのであれば、重要でない情報は切り捨ててもいい。情報密度は、顧客の周辺で高く、それより遠方では低くする。行動を左右する気まぐれ≠ネどは、確率的に処理する。データ不足、あるいは不可抗力の領域は、乱数で補うこともできる。こうして瑣末《さまつ》なことは切り捨てたとしても、大局は読める。天気予報も、降水は確率で出している。人の未来は予測不可能としても、ある確率で言い当てることはできるのだ。顧客のプロフィール、性格などを入力して、おおよその将来を見通すことは可能ではないか。しかし、量子コンピュータにできないことまではやらない。適当にやっても、大体の答えは出せる。最後は、一《いち》か八《ばち》か。とにかく、結果を出してしまう。占いとは、そういうもの――。
「それでいいんですか」と、藍が言った。「適当な占いなら、私たちが占い研究会でやっていたようなことと、何も違わないんじゃないですか?」
「ただの適当やない」小佐薙は首をふる。「やるだけやって、その先を適当にやるんや。最初から適当なのとは違う」
「結局適当なら、そう違わない気もしますけど」藍は首を傾けたまま、動かなくなった。
「せやない」小佐薙は軽く机をたたいた。「私たちが始めようとしているのは、予想屋やない。広い意味でのサービス業や。占い情報は、私たちが顧客に提供する一つの要素にすぎない。大切なのは、むしろ演出やと思う。喜んでもらえる占いをすること」
「さっき誰かが提案してくれた通りかもしれないわね」明日未が言った。「たとえば凶が出たとしても、それにくじけないようなメッセージを込めて伝えること。また占いが外れたとしても、トータルとして満足してもらえるようなプレゼンテーションをすること」
「そもそも占いは、正確に当てればええというものやない。未来に夢と希望をいだかせること。そういうサービスをちゃんとやれば、客は来る。ただしそのためにも、手持ちのデータとして、精度の高い情報が要求されるということや」
久保は、二、三度うなずいていた。
藍も、「分かりました」と答えた。
「さて、ソフトはそっちで詰めてもらうとして」樋川は、煙草の火を灰皿でもみ消した。「営業目標は、最初の一年で、最低でも百億あげてもらいたい」
「百億……」令子が大きな声を出した。「占いで?」
「ええ、まず研究開発費を早く回収しないといけないんですよ」
「でも百億って……」杏里も驚いたように言う。
「確か飛行機が一千億って、言ってませんでした?」令子は小佐薙の方を向いた。「維持費がいくらか知らないけど、やっぱ億単位でしょ。すると年に百億|儲《もう》かっても、焼け石に水なんじゃ……」
「大体、一回占うたびにあんな飛行機飛ばしてたんじゃ、見料は一人何十万円にもなるんじゃないの?」
「並列計算できると言ったはずや」小佐薙が平然と答えた。「複数の顧客を同時に占うことで、一人当たりの料金を下げることができる」
令子は携帯を取り出し、計算を始めた。
「ええと、年間目標が百億で、たとえば、うちの占い同好会のスペシャルコースが、五千円。それでそれだけ稼ぐとすると、二百万件。年二百日飛べるとすると、一日のフライトで、一万人占わないといけないわけか」
杏里が隣で「それぐらいの計算、電卓いらないでしょ」と言った。
「それで一日のフライトで量子コンピュータに十回計算させたとしても、一回の計算で、千人分を並列処理することになる……。これって、やっぱり、無理があるんじゃ?」
小佐薙は胸を張った。「無理なら、飛行機を増やす」
「いや、そっちじゃなくて、そんなにお客が集まるかどうかです」
「よく当たるという評判が口コミで広がり、占いブームが起きれば不可能ではない」
令子は納得いかない様子で、首をかしげていた。
「とにかく作業にかかってくれ」小佐薙がホワイトボードをたたく。「事業の開始目標は、十月一日や」
二日後の水曜日、直美は午後から出勤した。
会議室のドアを開ける。令子も藍も、すでに来ている。室内には、他のアルバイターも何人かいた。直美は、壁の勤務シフト表に目をやった。
「杏里なら来ないわよ」令子がパソコンを見つめながら言う。「彼女、モニターもやめるってさ」
「え、そうなんですか?」
「うん。あれ、個人データを報告しなきゃならないでしょ。生年月日とか、家族構成とかだけじゃなく、今交際している人は、みたいなことも。いちいち答えてらんないってさ」
「それから、久保さんもやめるって」藍は、プリントアウトした書類をクリップで止めている。「でも彼、モニターは続けるみたい」
直美は口をとがらせていた。
「別に意外でもないでしょ。あれだけコンピュータに詳しかったら、他にいい仕事は、いくらでもあるじゃない」そしてまわりの様子をうかがいながら、藍は小声で続けた。「彼、小佐薙さんと合わないみたい。聞いてて感じなかった?」
「でもこのバイト、本当に大丈夫なの?」令子がさらに小さな声で言う。「いくら喜んでもらえる占いサービス≠ニ言ったって、お金かかり過ぎてるし」
「小佐薙さんて、基本的に技術者でしょ。経営のセンスなんか、ないんじゃない?」
「それを監督するのが樋川さんの役目なんだろうけど」令子は、ドアの方に目をやった。「彼も何だか、頼りなさそうだしなあ」
「令子はやめないの?」と藍がたずねた。
「私?」彼女は首を横にふった。「だって、占いには興味あるもん」
「興味なら、私も」藍が自分の胸を指さして言う。「それに占い研究会の一員としては、占い同好会の動きを監視しとかなきゃならないしさ」
二人は顔を見合わせて笑っていた。
藍が、「直美は?」と聞いた。
直美はしばらく考え、「うん、私も」と答えた。
「あなた、そんな熱心には見えないけど」藍は直美の頬《ほお》を指でつついた。「本当は、素敵な出会いが目的とか?」
「いえ、そんなんじゃないです」彼女は顔を真っ赤にして否定した。
モニターの取りまとめとは別に、直美は、占い専用に立ち上げるホームページのレイアウトも手伝うことになった。これは広告宣伝を目的として、一般の人を対象に事業紹介などをするものだ。また、引き続きモニターを募集するとともに、顧客の受け付けが近いことも告知しておく。直美は、こういう作業なら得意だった。といっても、ほとんどコンピュータ・ソフトがやってくれるのだが。
フォーマットにコピー案をはめ込んだ段階で、一度樋川課長たちに確認してもらうことにした。樋川が画面をスクロールさせながらつぶやいた。
「どうすんだよ、こんなこと始めちゃって」
後ろにいた小佐薙が、「そんなことで頭かかえている段階やないやろ」と言って笑った。
結局ホームページ案は、樋川が「断定口調が多すぎる」などとクレームをつけたため、修正してからネットに上げることになった。
一方、彼らは各モニターへ向けて、アンケートの第一便を発送した。
しかし何通かは、返送されてきた。直美が、アドレスの入力をミスったためだった。怒られることも覚悟していたが、明日未がすべてフォローしてくれた。樋川たちにも内緒にしておくという。
「気にしなくていいから」と言って、明日未は微笑んでいた。
アンケートが返ってくれば、それらを取りまとめ、次のフライトで試験的に占うことになっている。
次はまだ早いとしても、いつか必ず乗れるかもしれない。直美はそう思いながら、パソコンのディスプレイを見つめていた。
翌日、また午後から出勤した直美は、ポツポツと返ってきたモニターのデータを整理していた。また、公開したばかりのホームページの掲示板《BBS》に早速書き込みが入っていたので、返事が必要なものは返事しなきゃいけないと思って、ざっと見ておくことにした。
読み始めてすぐ、彼女はちょっとした違和感をおぼえた。
書き込みは原則的に匿名だが、ハンドルネームの記載はある。たとえば、顔面コンプレッサー、アダルト未満、二分の一ピース、てんで間抜けなズボラ神様、恋する二股ソケット、リスト葛藤、といった具合である。
彼女の違和感とは、こうした人たちが、自分のことや人間関係のことなど、直接誰かに相談できないようなことを、モロに書きつづっていたことだった。みんなハンドルネームは適当でも、冗談半分で書き込んだとも思えない。
直美はそれらの書き込みを、令子や藍にも見せた。三人とも、ディスプレイに向き合ったまま、腕を組んでしまった。
とにかくここに書き込んできた人たちは、占いを希望しているというより、私たちのことを、何か悩みの相談室≠ンたいに受け止めているようにも思えた。こうした人たちに占いをしてあげても、あまり喜ばれないかもしれない。占いとは別なアドバイスが、きっと必要なのである。いずれにせよ、自分たちがめざしている占い事業の趣旨とは、微妙に違う。返事を書き込んだとしても、フォローし切れないかもしれない。さて、どうしてあげればよいか……。
自分たちだけで考えていても仕方ない。令子は、上司に報告することにした。
書き込みにざっと目を通した小佐薙は、「ハネるしかないな」と言った。「つまり、作業からは外す」
「しかし……」樋川は首をひねっている。「占いとは違うが、顧客層のニーズには違いない。それも、かなりの。たった一晩で、これだけあるんだから」
明日未が画面をスクロールさせていた。
「私たち、占いソフトで進めていたら、人が占いにひかれるモチベーションみたいなものを、掘り当てたのかも」
「確かにこれはこれで、大きな市場かもしれへん」小佐薙はアルバイターたちの方を見た。「けど今、優先的にすることは占いや。先に、新規で応募してきたモニター希望者とコンタクトして、補充してくれ」
彼はそう言うと、会議室を出ていった。
その日、アパートに帰った直美は、学校の宿題そっちのけで、図書館で借りてきた量子コンピュータの本を広げた。分からないところだらけだったが、分かった気になるのがコツと思うことにして、適当に読みとばしてページをめくった。こうして勉強して認められれば、いつか飛行機に乗れる。そうしたら、機長さんにまた会える……。
しかし、どうやって自分の気持ちを伝えればいいんだろう。バレンタインデーなんか、まだ半年以上も先である。いきなりメアドを聞くのも、変な子だと思われるだけだ。
パソコンのディスプレイに、自分の顔が映り込んでいた。
でも、こんな私なんか、気に入ってもらえるだろうか。直美は本を開いたまま横に置き、机に顔を伏せた。
翌朝、学校へ行く途中で智恵実と出会った。同じ電車だったみたいだ。
彼女は直美の顔をのぞき込み、「何か、目が腫《は》れぼったいよ」と言った。「寝不足?」
「変かな……」直美はうつむき、前髪で顔を隠そうとした。「アイシャドー、塗ってみたんだけど」
直美はその日も、午後からバイトに行くことになっていた。お昼休みにあまりバタバタしたくなかったので、早起きして化粧してみたのだった。
「変と言うか何と言うか……」智恵実が首をかしげた。「アイシャドーって言うからには、影≠ネわけでしょ。あんたみたいな平面的な顔にキツい影があるっていうのは、ちょっと不自然じゃ……」
考え込んだ直美を見て、智恵実は彼女の肩をたたいた。
「まあ、頑張りな。いろいろ試してみて、自分に合ったやり方を見つけりゃいいんだからさ。じゃ」
智恵実はそう言うと、先に行ってしまった。
授業が始まる前、直美はトイレで、自分の顔を見直していた。
6
予報通り、午後からは雨になった。
出社した直美は、まずホームページの掲示板を見てみた。書き込みは、さらに増えている。しかし指示された通り、それはそのままにしておく。そして令子や藍たちと一緒に、引き続きモニターのデータ整理を続けることにした。
直美がコーヒーを飲んでいると、廊下で大きな声がした。
「この腰巾着《こしぎんちゃく》が!」
小佐薙に間違いなかった。
「お前に何が分かる」
応戦する樋川の声も聞こえた。
「気にしなくていいから」明日未がみんなに言った。
「あの二人、いつもああなの」
樋川と小佐薙は、口論を続けながら会議室に入ってきた。
「人を使う身にもなってみろ」樋川は半泣きになって小佐薙を見ていた。「どんなに辛《つら》いか。やりたくもないことを、率先してやらないといけなくなるんだぞ」
直美が、空のコーヒーカップを持って立ち上がった。
「どこへ行くねん」と、小佐薙が聞く。
「いえ、ちょっと洗い場へ……」
「ここにいろ。喧嘩《けんか》してるなんて、言いふらされたら困る」
「別に私、そんな……」
「いや、この際、みんなにも事情を知ってもらった方がいい」と、樋川が言った。
彼は手をたたき、みんなに作業の手を止めるように指示した。そして立ったまま、いつになく大きな声で話し始めた。
「突然ですが、今回の事業に関する本社の方針をお伝えします。占いソフトの製作は、中止と決定しました」
アルバイターたちは、呆然として樋川を見つめている。
「ついては、モニター、および皆さん方企画スタッフの作業は中断。ただし今までのバイト料は、日割りでお支払いします」
重苦しい沈黙の後、藍が口を開いた。「始まったばっかなのに、中止なんですか?」
「どうして急に」と令子もつぶやくように言う。「本社の方針って、本社も了承していたんじゃないんですか?」
「いや、実は見切り発車だったんです」樋川は小佐薙の様子をちらりとうかがった。「事業スタートと並行して、本社を説得するつもりだった。しかし始めれば、当然、役員の耳には入る。説明には努めましたが……」
「まあ、説得に失敗したわけですわ」小佐薙が、樋川をにらみ返した。「うちには理屈の通らない上司がいるもんでね」
「何て言われたの?」明日未が聞いた。
「単純明解です」と樋川が言う。「誰かも言ってた通り、占うたびに飛行機を飛ばしてたんじゃ、採算が取れない。見通しが甘いと」
「上の連中は、まるで分かってない」小佐薙がふてくされたようにつぶやいた。
「分かってないのはお前の方だ。役員は言わなかったが、実は銀行が難色を示している」
「占い事業への融資を?」
「だからお前は、何も分かっていないんだよ。事態はもっと深刻だ」樋川は舌打ちした。「本社への融資だ。条件として、不採算部門に対する納得のいく回答を要求している」
「特販営業二課に対してか?」
「違う。量子コンピュータ事業すべてに対してだ。このままだと研究開発費を回収するどころか、さらに経費がふくらんでいくだけじゃないか。銀行だけじゃない。株主たちも前から問題視していたが、もう逃げ切れない」
明日未が口をとがらせた。
「経営者サイドがそれぐらいの危機感をいだいていたのは、分からないでもないわね」
「うちの上層部だって、困惑してるんだ。量子コンピュータ開発に力を入れたものの、それがまさか、あんな形になるとは」
樋川は両腕を広げて、全翼機の真似をした。
意外と彼は面白い人かもしれないと思って、直美は見ていた。樋川が続ける。
「空港使用料、着陸料、プログラマーの他に、パイロットも整備士も雇わないといけない。維持するだけでも大変だ。他社はうちより高性能で扱いやすい製品を開発しているというのに。このままだと、とてもじゃないが勝てる見込みなんかない」
「だから占い事業を」と、小佐薙が言う。
「占い事業なんて、悪あがきだ。少なくとも上の連中には、そうとしか映っていない」
「銀行や株主を説得するなら、別会社にするという手もあるやろ。Qコン専門の別会社に事業を移してしまえば、本社は守れる」
「しかし製品が売れないのなら、行き詰まるのは見えている。それに本社の方針は、もう出てるんだ」樋川は煙草を取り出し、火をつけた。「本社は、量子コンピュータ事業から完全撤退する気だ」
「おい、切り捨てるのか?」
「これ以上、ダメージを大きくはできない。今なら除去手術で、一命はとりとめる」
「これまでの投資はどうなるんや」
「事業部門を特許ごと身売り≠キることで、いくらかは償却できる。あとは、銀行とも相談だな」
「せやけど、本社が持て余している事業をどこが買ってくれるんや」
「自分で言うか?」樋川は吹き出した。「実は、引き合いがないわけではない」
「すると、ATNA社か、HEMR社?」
「特にHEMRは、乗り気らしい。うちの技術を、前から高く評価してくれている」
「しかしあっちには、固体素子を使った自社技術があるやろ。うちとは設計思想が違う」
「それでも使える技術はあると見ている。超伝導のようなうち独自の技術を導入し、自社製品の性能を上げていく考えだろう」
「じゃあ身売りしても、光解析型の研究は継承されないことになるぞ」
「どんな条件であれ、呑《の》むしかない。向こうの気が変わらないうちに、売ってしまった方がいいという意見も出ている。うちには、コレしか出すカードがないんだから」
「いや、ないわけではない」小佐薙は首を横にふった。「Qコンを使えば、何でもできる。たとえば会社の預金通帳に、億単位の入金をすることも」
全員が彼の方に顔を向けた。
「でもそんなこと……」明日未が不安そうに言う。
「そう、犯罪や。だからやらない。それがQコンの評価につながるとも思えん」
「小佐薙、お前は最初から勘違いしている」樋川は一つ、ため息をもらした。「お前はこの特販営業二課を、量子コンピュータ開発継続のための突破口と考えているみたいだが、上の考えは違う。ここは事実上の整理ポストだったんだ。会社の腹は、とっくに決まっていた。けど、いきなり切るわけにはいかないので、精一杯の営業努力はしたというポーズを内外に見せるために設けられたのが、特販営業二課だ。しかしそれも、この上半期、つまり九月末で目処《めど》をつける気だ」
「じゃあ、樋川、お前らは裏で……」
「お前には言えなかった。しかし崖《がけ》っぷちで、この程度の成果しか上がってこないとするなら、撤退にも説得力が出るだろう」
「さすがは経営者ね」と、明日未が言った。
「お前は、量子コンピュータ部門のことしか頭にない」樋川は小佐薙を指さした。「役員は、会社全体を見なきゃならん。世界経済の情勢も、ライバル企業の動向も」
令子や藍がうなずいていた。直美も、樋川課長や役員さんの言っていることの方がマトモじゃないかと思って聞いていた。量子コンピュータを使って架空の振り込みをするなどと言い出した小佐薙主任は、どうみたって、おかしい。
「どうせお前は、最初からあっち側の人間や」小佐薙は、薄ら笑いを浮かべて樋川を見つめた。「事業部門の清算かて、立派な経営者になるためのお勉強に過ぎない」
直美は彼の言葉の意味がよく分からず、首をひねっていた。
明日未が、彼女の耳元で教えてくれた。
「樋川さん、ここの重役の息子さんなの」
「しかし俺は、そうはいかへん。俺にできることはQコンの研究しかないんや」
小佐薙はそう言い残し、会議室を出ていった。
その後樋川は、みんなに作業を中断するよう、くり返して指示した。そして明日未が、最後にお別れ会をするので、参加希望者は残るようにと言った。他のアルバイターにも、彼女の方から連絡してみるという。
傘をさしながら、みんなで近くの居酒屋へ向かう。直美たちは、社員のずっと後ろの方を歩いていた。
「やっぱり、て感じかなあ」藍が令子に話しかけた。「バタバタしてたしさ、最初から何か変だと思ってた。競馬で負けが込んだ人が大穴狙ってるみたいで」
「私も」と令子が言う。「まだ歓迎会もやってないうちから、いきなりお別れ会だもんね。早めにバイトやめた杏里とか、久保君とか、正解だったかも」
「ま、いいか」藍は無理に微笑んだ。「働いた分のバイト料は出るみたいだし」
お店に着くと、みんな適当に腰を下ろし、ビールやジュースを注文する。
そして樋川のありきたりな挨拶で、乾杯した。
小佐薙は最初から日本酒をがぶ飲みし、注文した料理がテーブルに出始めたころには、もう潰《つぶ》れていた。
「盛り上がらないわねえ」と、藍がつぶやく。
「そんなこと、最初から分かってたじゃない」令子は彼女を軽く小突いた。「とにかく、しっかり食べて帰ろうよ」
小佐薙が、「会社が何だ!」と叫んでいた。
向かいの席で、明日未はため息をついている。「もう駄目ね、この人……」
「基礎研究、素材開発、システム設計。何年もかけて、ようやくここまで……」小佐薙は、関西なまりの声をふるわせていた。「わしは先輩たちに、合わせる顔があらへん」
藍が令子に話しかける。
「量子コンピュータなんて、学問とか、政治の道具としては成立するかもしれないけど、なかなかビジネスにはなりにくいみたいね」
「うん、特に初期はそうみたい」令子は小さくうなずいた。
「おい」小佐薙は、隣に座っている樋川の目の前で、テーブルをたたいた。「何とかならないのか」
「何ともならないな」樋川はゆっくりと、首を横にふる。「もう、おしまいだ」
「大体、お前がしっかりしてないから」小佐薙は、頭をかかえた。「上司のくせしやがって、カカシみたいに突っ立ってるだけで、何の役にも立たん」
「お前こそ。一見、勇ましそうにしてるが、内弁慶の臆病《おくびょう》ライオンのくせしやがって」
それを真正面で見ていた明日未は、いきなり焼酎をがぶ飲みし始めた。そして今度は、彼女が二人の目の前でテーブルをたたいた。
「あんたたち、それでも男?」
小佐薙がびっくりしたように明日未を見た。「急に何やねん、このブリキ女」
「誰がブリキ女よ」彼女の目は、据《す》わっていた。「量子コンピュータ事業がどうのこうのじゃない。始めてしまったわけでしょ。希望者を集めてしまったわけでしょ」
明日未は自分のバッグからモバイルコンピュータを取り出し、立ち上げた。
意外と彼女は酒癖が悪いのかなあと思いながら、直美は成り行きを見守ることにした。
明日未のモバイルに、占い事業の掲示板が映し出される。
「あなたたち、これは見たわね」
二人は黙ったまま、大きくうなずいていた。彼女が続ける。
「もう占いというより、人生相談みたいになっているけど、どんどん増えている。問題は、企画はポシャっても、彼らのニーズは未解決で残るということよ」
明日未はディスプレイを二人の方に向け、スクロールさせた。いろいろなハンドルネームが、下から現れては上へ消えていった。人間紙風船、究極の自問、鬱屈しい二十代、愛と哀しみのボロボロ、棄権人物、人生クリフハンガー、てんで間抜けなズボラ神様……。
小佐薙は、スクロールを止めた。ズボラ神様の書き込みが、画面に表示される。
〈私たちを、どうか見捨てないでください〉
「またズボラ神様か」小佐薙は鞄《かばん》から胃薬を出すと、それを口の中へ投げ入れた。「こいつ、この前にも書き込んでいたな。疫病神《やくびょうがみ》でなきゃええが」
「みんな匿名だし、どんな人たちなのかは、私にも分からない」明日未は一度、しゃっくりをした。「おそらく街を歩いていて、普通に見かける人たちなのかもしれない。私が会ったことのある人だとしても、多分、普通に話しているだけじゃ、分からない。何故ならこれは、独りになったときの顔だから。もちろん、興味半分で書き込んでくる人もいるかもしれないけど、ほとんどの人は、今の自分に満たされない何かを感じているから、占ってもらおうとして、ここを訪ねてきた」
明日未は急に、ゲラゲラと笑い出した。
「不思議よね、人間て。長い歴史のなかで試行錯誤を続けてきたにもかかわらず、悩み苦しむ人が後を絶たない。世の中、こんな便利になったのにさ。そして救いを求めている人が一杯いるにもかかわらず、いまだに救われないというのは一体どういうことなの? そうした人たちが、私たちを頼って集まってきたんでしょ。それを見捨てていいの?」
樋川が、覚悟を決めたように話し始めた。
「確かに、見捨てるわけにはいかないと思う。しかしそう思っていても、そうはいかない」彼は手にしていた割り箸《ばし》を、取り皿へ放り投げた。「それが会社というところだ」
「小佐薙主任はどうなの?」明日未は、彼をきっとにらんだ。
「俺は正直、Qコンの研究が続けられればええと考えてる。それで占い事業を提案した」彼はモバイルのディスプレイを、明日未に向けた。「せやけどこれは、占いのレベルを超えていると思わへんか? これらをフォローするには、また別な企画が必要になるやろ。占いが通らへんのに、どうして別な企画がうちで通るんや?」
「問題をすり替えるな」明日未は立《た》て膝《ひざ》をついた。
スラックスじゃなければ丸見えなのにと思って、直美は見ていた。明日未は続ける。
「会社の問題じゃない。道義的問題よ。確かに占いのレベルを超えているかもしれない。けど私たち、そうしたニーズを刺激してしまったのよ。そうやって人を集めておいて、それに応《こた》えなくていいのかということよ」
二人とも、黙ってしまった。明日未は急に、直美たちの方を向いた。
「あんたたちは、どう思う?」
しかし、誰も何も言い出さない。
「直美さんは?」
名指しされた彼女は、私? というふうに、自分を指さした。
「そう」明日未がうなずく。「あなたはこの書き込みを見て、どう思ったの?」
「ええとお」直美はしばらく考え、ゆっくりと話し始めた。「もしバイトをしてなくて、このホームページを見つけたら、私もこんなふうに書き込んでいたかもしれないなあって……。私、自分には何の取り柄もないと思ってるし、こんな自分にどうして生まれてきたかも分からないし……」
「それはきっと、みんな同じよ」明日未がうなずいた。
「それで私、実は、ソウ……」直美は、藍の方をちらりと見た。「そう、あの、他の団体のホームページを見たり、そこのイベントへ参加しようと思ってたりもしてたんです」
ふてくされたように小佐薙は言う。「そんなところに駆け込んで、何が救われるんや」
「そうかもしれないんですけどお、他に相談するところがないし、仕方ないなあと思って。本当は私、神様に相談したいんですけど、あり得ないし……」
小佐薙が顔を上げた。「お前、今、何、言うた?」
「え?」直美は自分の胸に手をあてた。「本当は、神様に……」
小佐薙は急に立ち上がると、出口の方へ向かってふらふらと歩き出した。
「ちょっと、どこへ行くんですか」
明日未が呼び止めると、彼は「ほな、お先」と言って手をあげた。
「あ、お金……」明日未が言い終わらないうちに、小佐薙の姿は店から消えていた。
静かになった。
「さて、僕たちも帰るか」
樋川のその一言がきっかけで、お別れ会は、お開きとなった。
みんなで「お疲れさま」を言い合い、店を後にする。
令子や藍とは電車の中で別れ、直美は一人で自分のアパートへ向かった。
結局、機長さんとは再会できないまま、バイトは終わってしまった。もう二度と会うことはないかもしれないな、と彼女は思った。
それから、ずっと雨の日が続いた。直美の日課は、また授業、同好会、アパートという、以前のパターンに戻っていた。
一週間ほどたったある日、西校舎での授業が終わった後、植え込みのアジサイをながめていた彼女は、いつの間にか学生相談室の前に立っていることに気づいた。そこは直美にとって、ずっと気になっていた場所である。アポイントを入れようかどうしようか、彼女は迷った。簡単なことだ。この中に入ればいいだけだ。でも、アポを入れてどうするのか、という思いもあった。誰かに自分の気持ちを打ち明けないことには、カウンセリングは始まらない。しかし自分のことなど、誰にも打ち明けたくはなかった。分かってもらえるとは思えないし、それで解決するとも思えない。
彼女は傘をさし、正門へ向かって歩き出した。歩きながら、また他のバイトでも探してみようと思った。気分転換になるかもしれない。
携帯が鳴った。あれ、何だろ? と彼女は思った。
アプラDT社からの、アルバイト募集のメールだった。読んでみると、誤配信でもないようなのだ。ただし今回は、モニターの募集はなく、スタッフのみ。仕事の内容は、〈事務プラスアルファ〉とある。説明は、一週間後の金曜日。
直美は首をかしげた。プラスアルファが、何だかよく分からない。しかも時給は、前の半分しかない……。考えていると、今度は令子からメールが届いた。
〈アプラのメール、見た?〉
ざっと目を通すと、令子はまた、説明会へ行くつもりらしかった。懲りない人だなあと、直美は思った。しかしそういう直美の気持ちも、決まっていた。
7
六月三十日の金曜日、直美は夕方から始まるアプラDT社の説明会に備えて、学校のトイレで化粧を直していた。
ツールは、いろいろとそろえた。口紅もピンク系の他に、紫とか海老茶とかも買ってみた。アイメイクは、アイシャドーだけでなく、マスカラ、付けまつげ、アイブロウ、アイライナーなども用意した。いろいろ買い過ぎて、化粧ポーチに入りきらない。試してみて、自分に合わないと思えるものは、持ち歩かないようにするしかなかった。
先日は美容院へ行き、眉剃《まゆそ》りをして、ペンで描いてもらった。髪の毛も染めてもらう。前髪はカットしたので、ちょっとだけ明るい子に見えるかもしれない。美容師さんは、メイクについてもアドバイスしてくれた。それで思い切って、ピアスをすることにする。
流行《はや》りのホロピアスを選びに街へ出たとき、ついでにあれこれ買ってしまった。ヒールが高めのパンプスとか、別バージョンの洋服も。バイトとはいえ、同じのばっかりは着ていけないのだ。本当に欲しいのはブランド物だったが、とても手が出ない。下着やパンストは、自分の趣味じゃないものも、思い切って選んでみた。
鏡で一応、仕上がりをチェックしてみる。バッチシOK、と言いたいところだったけれども、自分が何か、女装趣味の男のように思えてきて、彼女は鏡から目をそらした。
令子と学生会館で待ち合わせ、一緒にアプラDT社へ向かった。同好会は、今日は二人とも、休むことにした。
令子は直美の顔をのぞき込み、「あんた、お化粧、濃くなったんじゃない?」と言った。
「そうかな?」とぼけたように、直美が返事をする。
「女は片思いすると、化粧が濃くなるっていうけど……」
「そんなんじゃないです」直美はあわてて否定した。
「隠さなくてもいいわよ。私にも覚えがあるから」令子は急に話題を変えた。「でも良かったわよね、バイトが中止にならなくて」
「けど、コンピュータ占いを続けるかどうかは、分からないと思いますけど」
「それもそうね」令子はあごに手をあてた。「行き詰まってたみたいだったけど、どういう活路を見出《みいだ》したんだろ……」
アプラDT社の大会議室の前には、前と同じく、富士明日未が立っていた。二人は軽く会釈をし、中へ入った。すでに比留間藍が来ていたので、彼女と並んで座ることにした。
会議室には、二十人ほど集まっていた。見たところ、今度は、女性ばかり集めている。
「前も女の子は多かったけど……」藍がまわりを見まわしてつぶやいた。「今度は徹底してるよね」
「あれ、資料は?」直美が、机に何もないことに気づいた。「前は用意してあったのに」
「あとで配るんじゃない?」令子は退屈そうに、両手の親指をぐるぐると回していた。
廊下で、明日未の大きな声が聞こえた。何やら口論しているみたいだったが、相手の声はすぐに分かった。
その口論の相手、小佐薙が会場へ入ってきた。無精髭《ぶしょうひげ》を生やし、目は血走っているようにも見える。あまり寝ていないのかもしれない。彼の後ろに、樋川が続いた。しかし何故か、明日未は入室してこない。挨拶もそこそこに、小佐薙はいきなり本題から話し始めた。
「占いソフト計画が頓挫《とんざ》したのは、皆さんご承知の通りです。問題は、市場の狭さ。これに尽きる。そこで、より大きな市場を想定した新たな事業を始めることにしました。ついてはまた、アルバイトを募集させていただいた次第です。ただし今度は、若干名でいい」
「あの」藍が手をあげた。「今度はスタッフだけの募集みたいですけど、モニターとかはどうするんですか?」
「それは別なシステムを考えました。前回ホームページで告知したときに書き込んできた、入会希望者の助けも借りる。まあそういうことは、おいおい説明するとして」小佐薙は、場内をゆっくりと見まわした。「事業の方針変換にともない、緊急にスタッフを募集し、重要な役割を担ってもらうことにしました。本日皆さんには、そのためにお集まりいただいた。仕事の内容は、事務処理プラスアルファ」
今度は令子が、「そのプラスアルファって、何ですか?」と質問した。
「今は言えません」小佐薙は首を横にふる。「バイト代は、ちゃんとお支払いします。まあ、時給は前の半分位までなら何とか」
会場から、ブーイングが起きた。
「こちらにもいろいろと、事情がありまして。それから今も言いましたけど、全員を採用するわけにもいかない。今から審査し、若干名の合格者を選出します。その方々に私どもが用意した誓約書を見ていただき、それに署名|捺印《なついん》いただいた方のみを採用とします」
会場から、またブーイングが起きた。
「審査に入る前に、もう一つ、満たしておいていただきたい条件がある。これは最高ランクの企業秘密なので、決して口外しないように」
難しい条件だったら嫌だなあ、と直美は思った。自分はそんなに頭が良いわけでもないし、まわりを見ても、自分より奇麗《きれい》な人は一杯いる。とても受かるとは思えない。
小佐薙が口を開いた。「その条件とは、処女であることです」
直美の隣で、令子は顔を突き出し、目を瞬《しばたた》かせていた。
信じられない、といった表情で、藍が質問した。「え、何ですか?」
「だから条件は、処女だと」小佐薙はくり返した。「自己申告でかまわない。別に確かめたりはしません」
「どうしてその、処女じゃないと駄目なんですか?」
「今は言えない。追って合格者には説明しますが」小佐薙は、一つ咳払いをした。「くり返します。条件は処女であること」
藍は、黙って席を立った。
直美がまわりを見ると、みんな同じように、机の筆記用具などを片付けていた。
樋川はオロオロしながら、「え、みんな帰っちゃうんですか?」と言った。
「私、帰ってやることがあるから。こんな話に付き合っていられません」藍は出口へ向かう途中、小佐薙をにらみつけた。「空飛ぶ量子コンピュータ。今度は処女探し。あなたたち、自分のやっていることがどれだけ常識外れか、分かってんの?」
令子も荷物をまとめ、会議室を出ようとしていた。
「待ってください」小佐薙がみんなに呼びかけた。「じゃあこの際、処女じゃない方にも手伝ってもらいたい」
令子は大きな声で、「そんな言い方されて戻る人がいるか!」と言った。
そして彼女は、直美に声をかけた。「さ、一緒に帰ろ」
しかし直美はうつむいたまま、動こうとしなかった。
「別に好きにすればいいけど」令子が一つため息をつく。そして「じゃ、お先に」と言って、大会議室を出ていった。
「みんな帰ったようですね」入れ替わるようにして、明日未が入ってきた。「だから私が、あれほど言ったのに」
小佐薙は、会場を見わたした。残っているのは、直美だけである。
「一人か」と、彼はつぶやいた。「せめて二人は欲しかったんやが」
樋川はがっくりと肩を落とした。「審査の必要もなくなってしまったようだな」
「しかし、条件に適合していれば誰でもええっちゅうわけでもないし」
「何か不満か? お前が突きつけた条件だぞ」
「一言で言うと、キャラ立ちしてへん」小佐薙は、舌打ちした。「どう見ても、普通の女や。地味で、存在感がない。いるかいないかも分からんぐらいに。特徴といえば、化粧だけは異様に濃いのに、影が薄いことぐらいや」
小佐薙の言葉の一つ一つが、直美の胸にグサッグサッと突き刺さった。
どうせ私は、普通以下の取るに足らない女。だからこうして悩んでいるんじゃないですか……。声には出さなかったが、唇は動いていたらしい。
小佐薙が、「何か言ったか?」と聞いた。
直美は無理に笑顔をつくろい、首を横にふった。
「わしが審査しようと思っていたのは、まさにその点や。このポジションには、何よりタレント性が求められる。しかし見たところ……。君、何か取り柄は?」
直美はうつむいたまま、首を横にふった。「特に、これといって……」
樋川が小佐薙の方を見て言う。「どうする? 募集からやり直すか?」
「でも、やっぱり条件がネックになるでしょ」明日未が投げやりに言う。「あの条件にこだわる限り、結果は同じだと思うけど」
「それとも明日未、お前がバイトの代わりを」小佐薙は、彼女の顔を見たとたん、表情を変えた。「やっぱり、条件で引っかかるか……」
「それ以上言うと、セクハラで訴えます」
「でも彼女……」樋川は、直美を見つめていた。「占いソフトのときも、真面目によく働いてくれたぜ。君、文学部の一年生だったかな?」
「はい、社会学科です」と、直美は答えた。「あの、理系の方がよかったんですか?」
「いや、どっちでも。やってもらうことは、理系よりむしろ、文系の方がいいと思うが」
「彼女、パソコンにも詳しかったわよ」明日未が小佐薙に言う。「仕事のことがよく分からないからミスもしてたけど、オペレータとしての素養はあると思う」
明日未のフォローは、直美にはうれしかった。言われてみれば、自分は人と向き合っているより、パソコンや携帯と向き合っている方が長いかもしれない。確かにそうしたものなら、ある程度は使いこなせる。
「何で残った?」小佐薙は、直美に顔を近づけて言った。「みんな怒って帰ったのに」
彼女はしばらく考え、小さな声で答えた。
「運命を変えたいなら、うちのバイトに申し込めって、あなたが……」
小佐薙は、自分の胸に指をあてた。「わしが?」
「また適当なことを言ってんだから」明日未が小佐薙をにらみつけた。「ちゃんと責任取りなさいよ」
「ま、使えないこともないが……」彼は腕組みしながら、樋川と明日未に言った。「当面は、これで我慢するか」
明日未が書類ケースの中から誓約書を取り出し、直美の座っている机の上へ置いた。
直美は、ざっと目を通してみた。まず業務上知り得た情報は、一切口外しないこと。次に、服務規程に違反した場合は即刻解雇とある。これはひょっとして、処女喪失のことを遠回しに言っているのかもしれない。そして、労働災害は双方が誠意をもって対処するが、基本的に自己責任だとしている。そして、会社にはその責任を問わない。
直美は、首をひねった。その他の項目も、会社側に都合の良いように書いてあるような気がしてならない。しかしこれに署名捺印しないと、先へ進めない。機長さんと再びめぐり合う機会も、消えてなくなるのだ。
よおし、機長さんと順調に進めば、こんな服務規程ともオサラバしてバイトもやめてやる……。そんなことを考えていた直美は、それを顔には出さないように気をつけながら、印鑑を取り出した。
「早速やけど、口外しないようにしてもらいたい情報がある」小佐薙が、捺印する直美を見下ろして言う。「バイト代は払う。しかし、会社からではない」
「え?」直美は顔を上げた。
「当面は、樋川が金を出してくれる。何せ、こいつは金持ちやからな」
「どうして会社から出ないんですか?」
「何故なら、闇研《やみけん》≠ナやるからや」
「闇研?」直美が聞き直す。
「そう。今度も会社の許可が下りるわけがない」
樋川は苦々しい表情を浮かべていた。「オヤジに知れたら、また怒られる……」
小佐薙は、笑いながら答えた。
「知っての通り、今はもう、事業清算の検討期間に入っている。営業活動は続けているものの、上期末、つまり九月中に一つも売れなければ、身売りが正式決定してしまう。実は俺たちも、勤務時間は事業の清算準備をしているふりをしていないといけない。しかし、それだけは何としても避けたい」
「それで仕事をしているふりをして、裏でまた新しいことを始めようとしているわけだ」樋川は口をとがらせた。「いわゆる闇研だな。しかし、企画が煮詰まればちゃんと本社に報告し、事業として成立させたい」
「それまでは当分、こいつのポケットマネーがたよりや」
小佐薙は、樋川の腰のあたりをつついた。
「大丈夫なんですか?」と直美が聞いた。
「いや、大丈夫やない。相当危ない」と言って、小佐薙は笑った。「神風でも吹かん限り、勝ち目はないかもな」
「でも、今度は何を?」
彼らは、占いで一度失敗している。それに毛が生えた程度の企画では通らないだろうと、直美は思った。
「それをこれから説明するんや」小佐薙は、直美の肩をたたいた。「さあ、忙しゅうなるで」
四人は、営業部の中会議室Dへ移動した。前に占いソフトのプロジェクト・ルームとして使っていたところだ。テーブルと椅子《いす》、そしてホワイトボードなどは前のままだった。
直美は、明日未と一緒に、アイスコーヒーを入れた。
みんながテーブルに着くと、明日未はドアの札を会議中≠ノし、鍵をかけた。
「まず、君のために話す」小佐薙が、ノートパソコンを立ち上げている。「あのバイトの条件についても、後できちんと説明する」
この場で、新しいプロジェクトの内容について知らされていないのは、直美だけだった。樋川も明日未も、ちょっと困った表情で、うつむいている。
「まず量子コンピュータの研究自体、順調とは言わないが、有意義だと確信している。くり返すが、何としても継続させたい。そのための苦肉の策、占いソフト開発は、会社からノーを突きつけられた。万事休す。しかし窮鼠《きゅうそ》猫を噛《か》む。瓢箪《ひょうたん》から駒《こま》や」
「言っときますけど」明日未が顔を上げた。「私、偽装とか誇大広告とかで謝罪会見するの、嫌ですからね」
「まだ何も言うてへんがな」
「僕だって、完全にOKしたわけじゃないからな。何とかしなきゃならないと思ってはいるが」樋川は、煙草に火をつけた。「とにかく、説明してやれ」
小佐薙は軽くうなずいた。
「頓挫はしたものの、占いビジネスに、まったく反応がなかったわけではなかった。しかもそれは、俺たちの予想とは少し違っていた」
彼は、パソコンのディスプレイに、ハンドルネームの数々を映し出した。
「お前も知ってるやろ。占いというより、自分について悩み苦しみをかかえた連中が、数多くアクセスしてきた。占いとは別に、いや、それより深いところに、そうしたニーズがあるのは、どうも確かみたいや。みんな無関心を装っていても、それぞれに何らかの問題意識を秘めて生きとる。世の中見てみろ。不況、環境問題、紛争と、ろくなことがない。そんな中で、みんな、答えを探してあがいているんや。俺たちが占いを始めて気付かされたことは、こうした心の拠《よ》り所を求めている人たちの存在やった。こうしたニーズを、見過ごしてええのかということや」
樋川が隣でうなずいていた。
「ひょっとすれば、それは占い以上に、大きな市場なのかもしれない」
「言うてみれば前の企画は、占い市場に限定したから行き詰まった。しかし投資に見合う、より大きな市場を狙えば、企画としては成立する」
直美はまだよく分からないといった様子で聞いていた。
「つまり、前よりもっと大きな企画を立てるということですか?」
「実際、顧客からの要望は、すでにある」小佐薙はディスプレイを指さした。「いや、企画の変更にともない、顧客ではなくクライアント≠ニ言った方がいいかもしれない。ともかく、こうした相当数のニーズに的確に応えてやることができれば、事業としては成立する。そう思わへんか?」
「でも、それぐらいのことまでは、お別れ会でも出てたと思いますけど。けど実際には、会社を説得できなそうなことを……」
「俺も最初は、そう思った」小佐薙は大きくうなずいた。「しかもリストラ寸前の俺に、何ができるのか。けど考え直したんや。我々だからこそ、できることがあるんやないかと」
「あの、具体的によく分からないんですけど」直美が首をかしげた。
「まず、何をするかやが」小佐薙は腕を組んだ。「俺たちは、体は治してやれない。痛みを取り除いてやることもできない。けど、メンタルヘルス・ケアならできると思う」
「メンタルヘルス?」直美はくり返した。「カウンセリングとか、人生相談を?」
「それもあるが、それ以上に大きなニーズに応えてやりたい。自分では解決不能の問題をかかえて、にっちもさっちも行かなくなっている人はいくらでもいる。そんな連中の相談を聞いてやり、なおかつ適切にアドバイスしてやることができれば」
「そんなことができるんですか?」彼女は少し、ムッとしたように言った。「それができるんなら、誰も苦労なんか……」
「困ったときの神頼みやがな」小佐薙は愉快そうに笑っていた。「神様以上のカウンセラーは、おらへん」
そして、テーブルをこぶしでたたいて言った。
「この難局を乗り切るには、神さんを作るしかない」
8
しばらくポカンと口を開けていた直美は、「今、何と?」とたずねた。
「問題はない」小佐薙は片手を前へ突き出した。「神の声が聞けるならいくらでも出すという人は、なんぼでもいてるやろ。やるからには、ちゃんとやる。インチキをするつもりは、こっから先もない。神さんを作ればええだけのことやないか」
「でも、どうやって……?」
「決まっとる」小佐薙は、胸を張った。
直美は、彼を上目づかいで見ながら、こわごわ聞いてみた。
「まさかそれを、量子コンピュータで?」
彼は、勝ち誇ったように微笑んでいた。
「つまり、Qコンの有り余る能力を、救済のために使うんや。人々の悩みや願いごとを、Qコンに入力する。するとQコンは直ちにその処置法を計算し、出力する……」
「ちょっと待ってください。今、目まいが……」
明日未の方を見ると、彼女は右手に持ったシャープペンシルを、くるくる回している。
樋川は煙草の煙を吐き出した。煙草をもつ手が、小刻みに震えている。
「こんな話、聞いたことあるやろ」小佐薙は再び話し始めた。「接続が完了したばかりの超高性能コンピュータに、人間が質問する。『神さんは存在するか?』と。そしたらコンピュータが答えた……。オチは言わなくても分かるやろ」
直美は、軽くうなずいた。確かに何かで見た記憶がある。オチも知っていた。
「この話、ノイマン型のコンピュータでは、フィクションでしかない。何故ならノイマン型は、人間の能力を部分的にしか超えていないからや。けどこれがQコンやと、話は別や。科学技術が発達し過ぎると魔法と見分けがつかんように、Qコンも高性能になると、神との見分けがつかんかもしれへん」彼はホワイトボードに向かい、マーカーで書き込みながら説明を続けた。「やることは簡単。まず我々のシステムで、神を作る。そしてその神に衆生《しゅじょう》を救済させる。さらにそのサービスに対して、報酬をもらう。ビジネスとして十分成立するやろ」
「大丈夫か、そんなモン作って」樋川は灰皿で、煙草の火をもみ消した。「僕、いきなり天罰くらうのは嫌だからな」
「Qコンの研究が存続するなら、俺は何でもやる」
「余計困った状況におちいるような気がしてならないけどなあ」
「それはあり得ない」
「どうしてそう断言できる」樋川は、しばらく小佐薙とにらみ合っていた。
「神作りに成功したら、神が救ってくださる」小佐薙は胸の前で、両手を組んだ。「そして神こそ、最新テクノロジーが作り得る、究極の存在に違いない。それだけで十分、価値がある」彼は自信たっぷりに三人を見下ろした。「どや?」
樋川は、次の煙草に火をつけている。「できればの話だろ」
「いや、できる。ハードはすでにあるから、ソフトさえできれば神は作れる。問題はむしろ、神の声をクライアントへ伝える方法、つまりマンマシン・インターフェースにある。そうした問題を処理できる窓口としては、やはり宗教団体がいいと俺は考えてる」
直美が思わずつぶやいた。「宗教……」
小佐薙は、彼女を見つめて言う。
「ああ。懺悔《ざんげ》も聞くし、ご祈祷《きとう》もする。お守りやおみくじ、護符《ごふ》を販売してもええな」
「どこかに神社か何かを建てるんですか?」
「いや、スタイルそのものは、前の占い事業を踏襲するつもりや。ホームページを開設して、携帯電話からでもつなげるようにしておけば、わざわざ来てもらわんでもええ」
「ということは、ネットで?」
「ネット銀行《バンク》があるんやから、ネット宗教《リリジョン》があってもええやろ」
「つまりこういうことよね」明日未は自分の携帯を取り出した。「サイトにアクセスすると同時に、みんなこうやって、携帯を拝み出すと……」
「そんな目で見るな。成功させる自信はある」小佐薙はホワイトボードをたたいた。「何せ、そんじょそこらの神とはわけが違う。最先端技術によって生み出された神やぞ。成り立ちには、ちゃんとした根拠があるんや。研究費回収どころか、百兆円産業も夢やない」
「神作りそのものが夢じゃないの? むきになって、深い墓穴を掘ってるだけじゃない」
樋川が煙を吐き出した。
「それにわざわざ作らなくても、神はすでに存在するんじゃないのか?」
「お前、会ったことはあるか?」小佐薙は顔を上げた。「この中で、神に会った奴は?」
みんなは黙ったまま、首を横にふった。
「俺も噂には聞くが、会ったことはない。お前みたいに、すでに存在しているという人もいるけど、問題はそれが証明できるかどうかやろ。その証拠がないと、議論もできない」
「しかしいないとすれば、この宇宙はどうして生まれたんだ?」
「せやから神は存在していると? ほな、どこにいてるねん」小佐薙は、会議室の周囲を見まわした。「大体、お前も誰かに言われて、そう思い込んでいるだけと違うか?」
全面的に否定する気はない、と小佐薙は言った。存在するなら、確かに作る必要などない。しかし神がいるのだとすれば、何故自分の前に現れてくれない。ある人には存在していても、自分には存在していないのかもしれない。そう感じているのは、決して自分だけではないはず。だったら、作るしかない――。
「いや、あり得ない」樋川は首を横にふった。「こんなこと、どう考えても間違ってる」
「ほな一体、何が正しいんや?」小佐薙が薄ら笑いを浮かべた。「神を信じることか? 信じないことか? この世に信じられる存在がないと嘆くより、それを作ろうというのが正しくないのか? 既製服《レディーメード》で自分に合うのが見つからないから、オーダーメードしようと言うのと、大して変わらんやろ」
「そんな、罰当《ばちあ》たりな」
「そんなことでバチを当てない神様かて、作れる」
「しかし信仰心があれば、そんなことは考えないはずだ」
「信仰心はなくとも、愛社精神はあるぞ。神を作って、事業存続や」
「事業存続は結構なことだけど」明日未は首をひねりながら、小声で言った。「何か、引っかかるのよね……」
樋川が煙草の火を消した。「これは神に対する冒涜《ぼうとく》じゃないのか?」
「言うと思た」小佐薙は頭の後ろに手をあてた。「どこかの古墳じゃあるまいし、そんなふうに聖域化してたら、いつまでたっても真実は分からんままやぞ。それで信じられる人はええ。けど俺みたいに疑《うたぐ》り深い奴は、どないしたらええねん……」
どうして論理的に考えてはいけないのか、と彼は続けた。そもそも、神とは何なのか――。漠然としたイメージはあるが、それがどういう存在なのかは、自分にもまだ理解できていない。神のイメージが、人によってまちまちなのも困る。いわば通訳≠ェ入ることで、理解が深まるどころか、余計に話を難しくしていることも、あるように思えてならない。
「だから作る」と、小佐薙は言った。「自分たちの理想の神を。そのためには、既存の神観を一旦リセットしてもらった方がええ」
「リセットできるわけがない」樋川はまた、煙草に火をつけている。
「とにかく俺たちは、何も引きずらず、ゼロから始めてみる。そして俺たちがすべきなのは、奇跡でも情的な話でもない。まず、明解な論理を提示することや。そうすれば、信じるも信じないもない。これはQコンというツールを得た、今だからこそ可能だといえる。そして最先端のテクノロジーでもって、神とは何かを追求することでもあるんや」
小佐薙の熱意だけは、直美にも伝わっていた。しかし苦し紛れに出した案だとしても、何か突拍子もない話のような気がした。
樋川は相変わらず、煙草をふかしている。
「しかしそうやって作ったものが本当に神なのかどうか、誰がどうやって判定する?」
「何らかの条件を満たしていればええわけやろ」と、小佐薙が言った。
「具体的には?」
「それをこれから考えるんやないか」
「大丈夫なの? そんなことで」明日未が急に吹き出した。
「もちろん。一般的な開発プロセスと、何も違わへん」小佐薙はホワイトボードに、フローチャートのようなものを書き始めた。「プロジェクトの目的については、最初に話した通りや。条件に基づき設計、製作する。さらにテストをくり返し、実証する。そして完成させ、当初の目的通り機能させる」
「無理だよ、やっぱり」樋川が首を横にふる。「第一、時間が足りないんじゃないか?」
「不渡手形の方が先かも」と、明日未はつぶやいた。
「心配ない」小佐薙がホワイトボードをたたく。「神様かて、七日で作ったんや」
「実質六日だったと思うけど。でもそれは、神様がこの世界をお作りになった日数でしょ。神様を作るのに何日かかったかは、分からない」
「根本的に、この話はおかしい」樋川は煙草をもみ消し、次の一本を取り出した。ライターをもつ手が揺れている。「条件も何も、大前提からしてあり得ない。量子コンピュータから、神に匹敵するような能力を引き出せたとしても、それが神であるはずがない」
「何でや?」と、小佐薙が聞いた。
「考えてみろ。神の条件がいくつあるかは知らんが、その一つは間違いなく、この世界と我々を作った存在だということだぞ。つまり僕たちの作った神が、僕たちを作るということになる。そうすると神を作る前にここに存在している僕たちって、一体何なんだ?」
直美は天井を見つめ、首をひねった。私たちを生み出した神を、私たちがこれから生み出そうとしている……ということ?
「そういうことは、家に帰っていつまででも考えてろ」小佐薙は、あごの先をドアへ向けた。「その矛盾を回避する方法は、一応考えてある」
樋川は神経質そうに煙草を口に運び、煙を吐き出していた。
「いや、条件を満たしていたとしても、もっと現実的な問題に直面するだろう。つまり、すべての人に受け入れられるような神を作るというのは、あり得ないのではないかということだ。分かりやすい話、神作りに成功すれば、既存の神々と関わらざるを得なくなる。すでに世の中には、唯一にして絶対的な神が、複数存在してしまっている。そこへ僕たちが、論理的に納得のいく理想的な神を作ったからと言っても、受け入れられるはずがない。いや、必ず否定される。それが真に僕たちの神であっても、他の人の神でない限りは」
「きっと無神論者のなかにも、文句を言う人がいるわよ」明日未が落ち着いて言う。「無いなら無いでいいものを、わざわざ作らなくてもいいって。とにかく、人が信じているものに干渉することになってしまう。こっちが唯一の神だと主張しようものなら……」
「否応《いやおう》なく、神をめぐる矛盾に巻き込まれてしまうな。抗議程度ではすまないだろう」
「タイガースファンに、ジャイアンツを応援しろと言うようなものかも」
「それどころか、たちまち標的になる。よほど注意してかからないと、つぶれるのはこっちの方だ。それで命を狙われることも、あるかもしれない」
「命を狙われるよりは、失業の方がましよね」明日未は小佐薙を見て微笑んだ。「もっとも私たちのやってることが馬鹿馬鹿しくて、怒る気もしないことは考えられるけど」
「神を作ったからといって、余所《よそ》からとやかく言われる筋合いはないぞ」小佐薙は声を荒らげた。「俺は何も、他の神と争うためにやるわけやない。目線はあくまで、クライアントの方を向いている。人が信じているものを、あれこれ言うつもりもないし、困っている連中のために、信じられる存在を作ろうというだけのことやないか。タイガースかジャイアンツかは、ファン自身が決めたらええ。俺らは、フェアにプレーするだけや」
「しかしお前が作ろうとしているは、理想の神なんだろ」樋川が眉間に皺を寄せて言った。「世の中には、自分の信じる神が絶対だと思っている人もいれば、神など絶対存在しないと信じている人もいる。他の誰かにとって理想でないものが、お前にとっての理想の神であっていいのか? すでに複数の神観が存在している以上、こうした矛盾はつきまとう」
樋川は煙草の火を消すと、両手で顔を覆った。
「そないに悩むな。皺が増えるで」小佐薙は、彼の肩に手をかけた。「まったく矛盾がないとは言わないが、大きな矛盾なく作れる」
「あり得ない。同じことを何度も言わせるな」
「分かってないな」小佐薙が舌打ちをする。「作るのは、この現実の神ではない。いわば解析神≠竅v
三人は、ほぼ同時に顔を上げた。
「解析神……」樋川がくり返して言う。「どういうことだ?」
「何年、コンピュータで飯食ってるんや」小佐薙は愉快そうに笑った。「いくらQコンでも、神にはなれないし、また作れへんやろう。けど、神の人形《フィギュア》なら作れるんちゃうかということや。つまり現実の神ではなく、箱庭≠ノおける神やな」
三人とも、きょとんとした表情で小佐薙を見つめていた。
「分からんかなあ……」彼は頭をかきながら、話を続けた。
今すでに我々は、スーパーコンピュータによって、シミュレーション可能な世界――解析世界を作ることができる。小佐薙が作ろうと言っているのは、その解析世界における神、つまり解析神≠セというのだ。手順としては、まず量子コンピュータとスパコンを使って、解析神を作る。その解析神によって、解析世界をスパコン内に創造させる。そしてその解析世界のなかで、解析神を唯一の神として位置づけるのである。
つまり神とこの世界の関係と、解析神と解析世界の関係とは、入れ子″\造になっている。現実世界の下位層に、解析神が絶対的な役割を果たせるフィールドを与えるわけだ。解析神は、解析世界における絶対神であっても、現実世界のなかでは、数多くいる神々の一つに位置づけられることになる。八百万《やおよろず》が八百万一になるだけであり、解析神が、現実の神の地位をおびやかすことはない。矛盾なく共存できる――。
明日未は、指先で回していたシャーペンを止めた。
「それなら、できないこともない気もするけど……」
「あとは、世界シミュレータ≠ニ同じや」小佐薙は、またホワイトボードにフローチャートを書いた。「解析世界内に、クライアントのフィギュアと相談内容――つまり浮標《ブイ》を入力する。解析神が、複数の選択肢のなかから、最善の方法を計算する。それをアウトプットし、クライアントに伝える」
「そんなにうまくいくのかなあ」樋川は腕を組み、椅子にもたれかかった。「それでもやはり、他の神とバッティングするとは思うが。どんな神を作ったとしても、他の宗派からお墨付きをもらえることはないだろうし、習合≠キることもない」
「衝突はないとは言えないが、他の宗派間でトラブる可能性と、同じレベルでしかない」
「つまり我々の神と他の神との矛盾は、他の神々の間にあるのと同じぐらいのレベルで残ることになるわけだろ。プロジェクトには、最低でも他の宗教団体と同レベルぐらいのリスクはつきまとうということになる」
「何をやるにしても、それぐらいのリスクはつきものやと思うけど」
会話は、そこで一旦、途切れた。
解析神……。直美はぼんやりと、天井を見つめていた。話を聞いていると、何となく、できそうな気もしてくる。自分の相談に、のってもらえそうな気も……。
小佐薙が、マーカーをテーブルに置く。「ちょっと、トイレへ行ってくるわ」
樋川も、煙草を買いに行くと言って、外へ出た。
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直美と明日未がアイスコーヒーのお代わりを入れている間に、二人が戻ってきた。
「やっぱり、無理だ」樋川は早速、次の煙草に火をつけた。「事業を始めたときに、確か久保とかいうアルバイターが言ってたよな。占いはNP完全問題みたいだと。しかし神の問題は、占いどころじゃない。NP完全問題も超えてるんじゃないか?」
「神作りの量子アルゴリズムでも見つかれば、話は別かもしれないけど」明日未はまた、シャープペンシルを回し始めた。「それって、TOEを解くより難しいんじゃないかな」
「TOE?」直美が聞き返した。
「セオリー・オブ・エブリシングの略。現代物理学が探究し続けている、最終理論ね」
「占いなら、適当に済ませていい場合もあるかもしれない」樋川は小佐薙を指さした。「しかし今度は、神作りだろ。さらにカウンセリングだ。適当に済ませていいわけがない。条件を満たす理想の神というが、根本的に、そんなものは不可能であるはずなんだ」
「何でや?」小佐薙は椅子に腰かけたまま、不機嫌そうに言った。
「数学にも不完全性定理≠ニいうのがあっただろう。つまりこの世界には、真偽を証明できないものが存在することが証明されている。神もそういうものなんじゃないのか?」
「それは確か、同じ体系の中という条件において、やろ」小佐薙は左手をあごにあてた。「より大きな体系を別に仮定すれば、矛盾のないことが証明できると考えられている」
「その、より大きな体系が無矛盾であることを証明するには、さらに大きな体系が必要となる。結局、いたちごっこなんだ」
「神が証明不可能なものに該当するかどうかは分からんやろ。それを確かめればええ」
「しかし論理的に神を説明することは、可能なのか?」
「やってみないと、何とも言えんやないか」
二人はにらみ合ったまま、黙ってしまった。
「そういう話、私にはよく分かりませんけど」明日未はまだ、シャープペンシルを回し続けている。「プラグを抜いたら停止するようなものを、神とは呼べない気はする」
樋川は、空になった煙草の箱をくしゃくしゃにし、ゴミ箱へ投げ捨てた。
「そう難しく考えるな」小佐薙は、アイスコーヒーを一口飲んだ。「別にこんなもの、でっち上げ≠ナもかまへんのや」
明日未の指先から、シャープペンシルがポトリと落ちた。
「一体どっちなの? 理想の神≠ニ言ったり、でっち上げ≠ニ言ったり……」
「何でもええ。何故なら、俺たちが作ったものを崇拝してもらえれば、それが神になるんやから。神と思って差しつかえない程度にまあまあ≠フ存在をプロデュースできれば、ええんとちゃうやろか」
「本当にそれでいいの?」
「ああ。しかし少なくとも解析世界において、解析神は理想の神≠竅Bそのため、俺たちが理想とする神の条件を解析神の条件として、そこにインプットする」
みんなは黙って、小佐薙の言うことを聞いていた。
「くり返すけど、神作り≠ノ違和感があるなら、スパコン内に箱庭化した解析世界のなかに存在する、解析神という名のフィギュアを作ると思ってもらえばいい。それを最低限、箱庭内では完璧をめざして機能させるということや」
「フィギュアならフィギュアでいいのに」明日未は口をとがらせた。「ミニチュアカーを車だと言い張るようなものじゃない。解析神を神と言うからややこしくなるのよ」
「要は、カウンセリングに使えればええわけや。それに理想の神を作ったからといって、それが一般に受け入れられるかどうかも、別問題や」
「どういうこと?」
「良薬は口に苦し。神もそうかもしれん。みんながみんな、苦い薬を飲みたがるかどうかは分からない。それ故、他の新興宗教が心がけているのも、甘い薬やないか? 俺たちかて、生≠フ神を表には出さず、それなりに、演出もアレンジも必要になると思う」
樋川は腕を組んだまま、黙っている。
「何を心配しとるんや?」と、小佐薙が聞いた。
「やっぱり何か、恐ろしいんだ」樋川は両腕を体に寄せた。「神を作るなんて。たとえ解析神でも」
「作ったのはいいけど、とんだ貧乏神だったりしてね」明日未がアイスコーヒーを口に運んだ。「フィギュアとはいえ、神でしょ。作り出したものを、ちゃんと制御できるの?」
「せやからそういうことは、あんまり深く考えない方がええ」
「え、深く考えなくていいの?」明日未はコーヒーをこぼしそうになった。
「多くの人が、ストレスをかかえながら生きているのは確かだ」樋川がうつむきながら、話し始めた。「現代の状況がうまくいっているとは、僕も思っていない。むしろ、何とかしなければならないと思っている。それにこっちのフライングとはいえ、入会を申し込んできた連中に応えてやらなければならない。しかし、神を作るとは……」
「こうやって机にしがみついていても、リストラされるだけや」小佐薙は立ち上がり、マーカーを手にした。「肝心なのは、量子コンピュータというハードを得て、それに何をさせるのかということや。人間には解けない問題に対して、果敢《かかん》に挑ませるべきやないのか? まさに神こそ、そうした問題やないか。またこれは、Qコンの潜在能力《ポテンシャル》を証明するものでもある。成功すれば、俺たちのQコンは、他の分野でも売れるに違いない。そして俺たちの事業をお荷物扱いした連中を、見返してやるんや」
明日未が小声でつぶやいた。「余計、馬鹿にされるかも」
「早速、理想の神像について、具体的に条件をあげていこう」
小佐薙はホワイトボードに向かった。
「いや、ちょっと待ってくれ」樋川が左手を前へ突き出している。
「何でや。今は闇研でも、いずれ本社に説明せんとあかん。なるべく早く企画をまとめて提出しないと、ほんまに事業を清算せなあかんようになるんやぞ」
「それぐらい、分かってる。しかし、企画書に何て書けばいい。御神体は量子コンピュータか? 全翼機の機体には、大きく火の鳥≠フイラストでも描くのか?」
小佐薙は黙ったまま、樋川をにらんでいた。樋川が続ける。
「これ以上、独断専行で進められるのは困る。お前、神について真剣に考えているようでいて、何か肝心な部分が抜け落ちている気がする」
「たとえば?」
「まず、宗教法人化するつもりなら、営利目的であって欲しくないと僕は思う」
明日未が手をたたきながら、「賛成」と言った。
「大体、金儲けに神を担ぎ出すことがおかしい」
小佐薙は少し考え、樋川にたずねた。「恵比寿《えべっ》さんは?」
「しかしお前、恵比寿さんを作るんじゃないだろ」樋川はがっくりと肩を落とした。「気持ちは分からないでもない。思い詰めているからこそ、神作りなんてことを言い出したんだろうからな。僕だって、どんな形でもいいから事業が継続することを望んでいる。しかしいくら何でも、宗教にしてしまうのは……」
「宗教法人化することのメリットは、捨て難いやろ。税制上の優遇もある」
「節税の心配をしている場合か。むしろ宗教法人として登録する方が、制約も多いんじゃないか? 宗教を名乗ることで、他の組織を刺激してしまうおそれもある。クライアントの中には、新興宗教にアレルギーを示す人もいるかもしれない。大体、認可が間に合わないだろう。法人許可が下りるはるか前に、量子コンピュータ部門は整理されてしまうぞ」
「ほな、どないするねん」小佐薙がそう大声で言うと、樋川はうつむいてしまった。「お前がそんなふうに頼りにならんから、俺が意見を出してやってるんやないか」
直美は、小佐薙と樋川を交互に見ていた。この二人、本当にどっちが上司でどっちが部下か、直美にも分からないときがあった。
「僕はお前とは違う」樋川が小さな声で言った。「量子コンピュータ事業の面倒を見続けるわけにはいかないんだ。本社を危険にさらすような大博打《おおばくち》を打つわけにもいかない」
「重役のパパに叱《しか》られるってか?」
「とにかく、お前の方針では、会社に企画は出せない」
「せやから、どないするねん」
樋川はしばらく考え、「上を説得しやすいのは、やはり会社組織だろう」と答えた。「本社から切り離すとしても、会社の方が作りやすい」
明日未はまた、シャープペンシルを回している。「会社だったら教義もいらないしね」
「そして事業内容は、カウンセリングその他の、メンタルヘルス事業全般。それでいいんじゃないか? メンタルヘルスなら、会社組織で手広くやっているところもある」
「ソウル・オリジンか」小佐薙は舌を鳴らした。「意識せんでもなかったが」
「|ソウル《S》・|オリジン《O》・|サービス《S》も、新興宗教だと思い込んでいる人が多いが、むしろ非宗教を掲げている。宗教ではなく、心理学、踏み出しても哲学だと」
「ふん、何が哲学や」
「一部で神のように思われている彼らのシンボル、ソリジンも、神ではなく、その上位概念のようなものらしい。もっとも、研修で勉強しないと分からないものらしいが」
「その神様なんだけど」明日未が空いている方の手をあげた。「私たちの神作りにも、拒否反応を示す人はいるんじゃない?」
「かもな。小佐薙の言う通り、確かに量子コンピュータの可能性を突き詰める、一つの方法ではあると思うが……」樋川はふいに、直美の方を見た。「井沢さん」
「え、私ですか?」直美は、自分の鼻を指さした。
「何か意見は?」
直美はしばらく考え、うつむきながら答えた。
「私、自分の家の宗旨も知らないし――仏教だったと思いますけど――そんなに抵抗は感じないんですけど。他の神様を深く信じたこともないし……」
「私は、抵抗ある」明日未は、シャープペンシルの回転を止めた。「はっきり言って」
「人によるみたいだな。ただ、他に信じる存在があれば、拒否反応は予想される」樋川は首をひねった。
「第一、作るのは解析世界内の解析神なんだし、それで対外的に神作りを言うのもどうかという気はする。事業の前面に神を持ち出すのは、セールスポイントにはならないかもしれない。かえって、逆効果かも」
小佐薙は、大きなため息をついた。「神作りも非公開の方がええということか……」
「企画を見て最終的に判断を下すのは、会社だ。ただでさえ占いでつまずいているのに、その次が神を作って宗教法人設立なんて企画、通るわけがないだろ」
「しかし、宗教法人化しない、神作りも公表しない」小佐薙は、テーブルを軽くたたいた。「ほな結局、どういうことになるねん?」
「お前は量子コンピュータ部門が存続すればいいんだろ。事業を通して有用性を見せつけることができれば、それでいいわけだろ」樋川はホワイトボードの前に立った。「お前がさっき書いた通りだ。的確なサービスをし、報酬を得る。ただし、それが宗教法人でなければならないことはないし、神のご威光も必要不可欠とはいえない」
「しかしメンタルヘルス事業では、集客力が弱いのでは?」小佐薙は、椅子に腰かけた。
「むしろ宗教に躊躇《ちゅうちょ》する層も取り込めるかもしれない。占い事業よりマーケットが大きいことは事実だし、リスクはあるものの、ビジネスとしては成立すると思う」
「樋川課長の方が、まだマトモよね」と明日未が言った。「主任さんは極端なんだから」
「メンタルヘルス事業なら、会社にも銀行にも、話は通しやすい。他社の事例もすでにあるわけだし。認可が煩雑な医療活動とも異なるから、スピーディな事業展開が可能だと思う。どうだ、小佐薙?」
「別に」彼は腕組みをし、大きく息を吐いた。「お前がそう言うんなら、俺は何も言う資格はない」
明日未を見ると、彼女は軽くうなずいていた。
「井沢さんは?」
「私?」直美は、また自分を指さした。「私、まだよく分からないので……」
「それもそうだな。バイトなんだし」樋川はホワイトボードをたたいた。「よし、メンタルヘルス事業で進めてみよう」
「神作りはどうするの?」と、明日未が聞いた。
樋川は小佐薙の方を見て、軽くうなずいた。
「神作りを非公表にするとしても、神を作ること自体は、僕はかまわないと思うけど。小佐薙の言う通り、最高のカウンセラーであることは確かだと思うし、トライしてみるだけの意味はあると思う。また、神を作ろうとすることで神について考えるのも、別にかまわないんじゃないか? むしろ宗教と切り離して考えてみるのも、悪くないと思う。さまざまなタブーやしがらみからも解放されて、論理的に考えることができるかもしれない」
「つまり、カウンセラーとして解析神を作ることには、樋川課長は反対しないということね」そして明日未は、小声で「本当に優柔不断なんだから」と、つぶやいた。
「何か言った?」
「いえ、別に」彼女は首をふる。「じゃあ、その神作りに量子コンピュータを使うことはどうなの? これも秘密にしておくの?」
小佐薙が口をはさんだ。
「神作りは秘密にするとしても、カウンセリングにQコンを使うことは、オープンにしてもええんとちゃうか? 成功すれば、営業にも弾みがつく」
「成功すれば、でしょ」
「何や、その引っかかるものの言い方は」
「今度失敗すると、量子コンピュータ部門にとどまらない。会社全体が大きなダメージを被《こうむ》ってしまうわよ」
「確かになあ」樋川は額に手をあてた。「カウンセリングのために、神という最高のカウンセラーを作る。そのために使うのが、量子コンピュータ。そこまでは仕方ない。しかしその実体は、血の通っていないマシン……。抵抗ある人には、抵抗あるかもしれないな」
「そのサービスを受けることにもね」明日未は、樋川と小佐薙の顔を見比べた。
「やっぱり事業が軌道に乗るまで、量子コンピュータを使うのも秘密にしておいた方がいいかもしれないな」
「でも、あんな目立つ飛行機で飛び回っていたら、秘密にできないんじゃないの?」
「テストとかで、定期的に飛ばしている。カムフラージュはできるだろう」
「量子コンピュータを秘密にするということは、本社の関与も非公表ということね」
「それは秘密にできない」樋川は首を横にふった。「出資してもらわないといけない」
「| 資 金 提 供 《ベンチャー・キャピタル》会社というような位置づけで、表に出ないわけにはいかないのか」
「こういうことでどうかな」樋川はホワイトボードに向かった。「事業が軌道に乗れば、まず、カウンセリングや占いに量子コンピュータを使っていることを公表するかどうかを考える。神作りに関しては、さらにその後、様子をみて公表を検討することにしては」
「要は、先延ばしにするということでしょ」明日未は、テーブルの書類を片付け始めた。「そうなるまでに神作りのことがバレたら、おしまいかも。いくら解析神だと説明しても、分かってもらえない人もいると思う」
「お前、さっきから引っかかるな」小佐薙が明日未をにらみつけた。「これでも俺は、大分、譲歩したつもりやのに、何か不満でもあんのか?」
「そういうことじゃない。聞いてて分からないの?」
黙ってしまった彼女の代わりに、樋川が説明した。
「明日未はきっと、神はすでに存在していると信じているんだろう。唯一無二の存在として。だから作る必要もなければ、作れるはずもないと思っている。そうだろ?」
彼がそう聞くと、明日未はこっくりとうなずいた。
「私から見れば、理想の親を作ろうとしているようなものにしか思えない」
「動揺することはない」と、小佐薙は言った。「自分の信念に従えばええだけのことや」
「そうするつもりよ。ただ、もし成功したとしても、新たな神の誕生は認めたくないし、素直に喜べないと思う」
「そう排他的になるな。それが争いの元やないか」
「争うつもりはない。信念に侵入してくれば、抗《あらが》うだけ」
「侵入するつもりはないと言うてるやろ。実際、作るのは解析世界内の神や。成功したとしても、コンピュータ・ソフトの一種でしかない。それがお前の信念に侵入したとすれば、問題があるのはお前の信念の方や」
「どういう意味よ」明日未はぷいと、樋川の方を向いた。「課長はどうお考えですか?」
「え、何が?」
「何がじゃないでしょ。主任のやろうとしていることについて、どう思ってるんですか」
「僕か」樋川は、両手を頭の後ろに組んだ。「こいつの神作りを、一コンピュータ・ソフトとして何とか解釈できるようにはなってきた。しかし、本当にできるかというと……」
小佐薙は、樋川を見上げた。「お前まで……」
「神作りに関して、もうすでに、いくつかの矛盾が出てきている。それがクリアになるとは、僕には思えない」
「つまり、できないと思ってるのか?」
樋川は小刻みにうなずいた。
「しかし、ビジネスチャンスはあるとみた。メンタルヘルス事業のバックボーンとして、それぐらいの高い志があるのは問題ないと思う。むしろ心強いかもしれない」
「何や、みんなできないと思ってるんか」小佐薙は室内を見まわした。「直美は?」
「私?」直美はまた、自分の鼻を指さした。「分かりません。小佐薙さんは?」
「できるに決まってるやないか」小佐薙は樋川を見て微笑む。「何なら、賭けてもええ」
「じゃあ僕は、できない方に賭ける」樋川も微笑んで言う。「心配するな。ただし、闇研の金は、ちゃんと出す」
「明日未は?」小佐薙が聞いた。
「私もできないと思う。でも私、そんな賭けはしませんから」彼女は二人を交互ににらんだ。「よりによって、神様を賭けの材料に使うなんて……」
「自分の信仰心を賭けている」と、樋川は言った。「神を賭けているんじゃない」
「それで、何を賭ける?」小佐薙が樋川の顔をのぞき込む。
「さあ、僕が負けたら、晩飯ぐらいはおごらせてもらうけど。そして神を疑ったことを、信者第一号として懺悔させてもらおう」
「何が晩飯よ」明日未が金切り声をあげた。「二人とも、この事業に自分の首がかかってること、分かってるんですか?」
「それで明日未はどうする?」樋川は彼女を見つめた。「神など作れないと信じている者が、こんなプロジェクトをやっていけるのか?」
「もちろん、やりますよ。社員で手伝うのは、私しかいないわけだし。神作りに関して、下手な妨害工作もする気はない。でも、できないと思う。それができないことが、自分の信仰心を深めることになると思ってます」
樋川は、壁の時計に目をやった。
「さて、今日は、ここまでにしておかないか? 続きはまた明日ということで……」
「あ、でも」直美は驚いたように言った。「明日は土曜日で、お休みなんじゃ……」
「会社の研修センターを、土、日で押さえてある」
「会議ができれば、どこでもいい」と、小佐薙が言った。「明日からは、もう七月やないか。早よ始めんと」
「研修センターなら、まあいいけど。いいドライブにもなるし」明日未は直美の方を見た。「直美ちゃん、一泊になるけど、別にいいんでしょ。何なら乗せてあげるわよ」
研修センターの場所も知らない直美は、彼女の好意に甘えることにした。待ち合わせ場所と時間を約束し、お互いの携帯の番号とアドレスを交換し合った。
その後、会議室を出ようとする小佐薙に、直美が声をかけた。「あの、質問」
「何や」不機嫌そうに、小佐薙がふり向いた。「もう明日にしよ。どうせ大したことやないんやろ」
「私には、大したことなんですけど」直美は小さな声で言う。「あの、私はこのバイトで、何をすればいいんですか?」
「ものには順番がある。いきなりそんなことを聞いても、混乱するだけや」
彼女は今日一日で、もう十分混乱していた。
「ちゃんと仕事をしてもらうためにも、明日ちゃんと説明するから」小佐薙は、直美の肩を軽くたたいた。「実は俺なりに、考えていることがある」
そう聞いた直美は、余計、何をさせられるのか気になった。彼は続ける。
「まあしばらくは、研修だと思ってもらってええから。今日みたいに会議に参加して、勉強してくれ。意見があれば、自由に発言するように。それから、明日未について、手伝ってやってくれ」
明日未が微笑みながら、「よろしく」と言った。
「できれば毎日でも来てもらいたいけど、無理なら前みたいに、週三日ほどでもええ。とにかく、予定だけは空けておいてほしい」
直美は携帯で、時間割を見てみた。社会調査演習とか、体育学演習とか、必修科目は午後にもいくつかあった。
「こっちも当分は、闇研や。始めるのは通常業務が一段落してからになる」
それを聞いて、直美は少し安心した。夕方からなら、サークルを抜ければ来れるかもしれない。彼女は思い切って、聞いてみた。
「あの、飛行機にも乗れるんですか?」
「ああ。必要に応じて乗ってもらう。ただし、一切、極秘やからな。産業スパイに知られると、妨害されるおそれもある」
「スパイもきっと、首かしげると思うわよ」明日未が笑い出した。「どっちにしても、余所であんまり言わないことね」
「心配するな、といっても無理だろう」樋川も直美の肩に手をかけた。「いろいろ心配かもしれないが、協力してくれ。すべての責任は、僕が取る」
どこか頼りないと思っていた樋川だったが、直美は一瞬、彼が頼もしく思えた。
「さあ、忙しゅうなるで」小佐薙は揉み手をしながら、会議室を出ていった。
その日の帰り、直美は新交通システムの駅のホームから、夜の海をながめながら考えていた。
このバイト、自分的には、かなり微妙な気がする。小佐薙さんの言うことは、いろいろ癪《しゃく》にさわるし、それに正直、そんなに都合よく神様が作れるとは思えない。
でも、我慢なのである。やめてしまえば、機長さんとはもう、会えなくなってしまう。小佐薙さんにはクビがかかっているかもしれないけど、私にだって、恋がかかってるのだ。
そしていつか、自分の理想とする自分になること――。やっぱり、ありきたりの人生なんて嫌だ。自分にしかできないことがやりたい。小佐薙さんが最初に言っていたように、もしこのバイトで自分の運命が変えられるのなら、やってみる価値はあるかもしれない。
それから実は、神作りについても、ちょっぴり期待はしている。もし本当に神様が相談にのってくださるのなら、今の自分を、救ってくれるかもしれない――。
自分のアパートへ戻った直美は、化粧を落とし、寝る前には念入りに、パックをした。
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3 海
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七月一日、井沢直美はファミレスで軽く昼食を済ませた後、携帯を見た。富士明日未とは、駅前のロータリーで三時に待ち合わせ予定である。まだ大分、時間がある。することもないし、早めにアパートを出たからだ。
彼女は涼みがてら、百貨店へ入ることにした。最近、化粧品のたぐいは、女性誌をいろいろと買い込んだり、ネットの口コミサイトを見たりして、流行《トレンド》をチェックしている。
奇麗《きれい》に並べられた商品を見ながらあれこれ思案していたら、インストラクターに声をかけられた。そしてそのまま化粧台の前に座らされ、言われるままにメイクを指導してもらうことになった。
インストラクターが、「今日はこれから、デートですか?」と聞いてきたので、直美は、
「いいえ」と正直に答えた。
鏡の中の自分と向き合う。
インストラクターはまず、化粧し過ぎだとアドバイスした。お化粧は、コミュニケーション。お喋《しゃべ》りも度が過ぎると嫌がられるように、塗り重ねれば良いというものではない。また、人の真似をすれば良いというものでもない。自分のことをよく研究し、相手に自分の何を見せたいかを考えた上で、強調したいところと、そうでないところを判断し、メリハリをつける。そうして、自分らしさ≠アピールしていく。難しいことはない。コツは、自分を好きになること――。
他にもインストラクターは、いろいろ親切に教えてくれた。しかし最後に直美がチェックしていたのと違う商品を熱心に勧められ、結局それらを買わされる羽目になった。この顛末《てんまつ》は予想のつかないことではなかったのだが、彼女にとっては思わぬ出費である。
まだ少し時間があったので、直美は百貨店を出て、街をブラブラしていた。自分らしさ≠ゥ……。今、自分が悩んでいることを、インストラクターさんにも言われてしまった。
とにかくメイクは、肌の質とかも考慮して、自分に合ったやり方を見つけるべきだと気付いた。でもメイクだけ考えていればいいわけでもない。そもそも、自分らしさ≠ニは何なのか?
道行く人をぼんやりとながめながら、直美はそのことを考えていた。
それが分からない。自分の特徴、他の人とは違うポイントを強調すれば良いと言うが、一体自分の何を強調すれば良いのだろう。小佐薙さんが言っていたみたいに、影が薄いことだろうか? しかし、影の薄さを強調するというのは、ちょっと違う気もする。幽霊じゃあるまいし……。
インストラクターさんは、私の顔のパーツから特徴を見つけ出すのも難しそうにしていたのに、心の中だと、もっと難しいかもしれない。今の自分は、人と話すのが苦手だし、運動も苦手。これといって、夢もない。将来、何をして良いのかも分からない……。そんなものを強調しても、仕方ない。
どうも自分が求めている自分らしさというのは、今の自分の中にはないようだ。すると、まったく新たにこうありたい≠ニいうような理想像を描き、それに向かって自分を変えていくしかない。それを、自分らしさにしてしまうのだ。
では、その理想像とはどんなものか? 自分は人から、どんなふうに見られたいのか?
謎《なぞ》めいた女≠ネんかいいな、と直美は思った。この前、雑誌で特集を見て、いいと思った。けど、自分には謎らしい謎がないかもしれない。謎どころか、知識も教養もない。
考えてみれば、自分らしさというのは、自分を磨き、経験を積まないと出てこないものだ。理想を思い描くのはいいが、そこへたどり着くのは、並大抵のことではないのかもしれない――。
携帯にメールが入った。部長の安藤令子からだった。こっちから電話してみると、すぐにつながった。
〈誘った手前、あの後、どうしたか気になってさ〉と、令子が言った。
「バイトのこと?」
〈うん、また占いソフトなら面白いかなと思ったけど、違うみたいだったし……〉
直美が、実は今日もバイトだと言うと、令子は驚いていた。
〈え、本当にやるの?〉
令子はそれ以上、口にしなかったが、直美はその言葉の後に、この物好きが≠ニ言われたような気がしてならなかった。
〈お金のこともあるけど、何か危ないと思ったら、やめた方がいいよ。じゃ、また〉
直美は彼女に礼を言い、電話を切った。
明日未は、小型の車《SUV》でやってきた。荷物を後部座席に積んだ後、直美は助手席に乗り込む。アプラDT社の研修センターは、ここから少し先の、山の上にあるらしい。
サングラスをかけ、車を走らせる明日未を、直美は格好いいなと思ってながめていた。自分がめざすべき理想像というのは、この明日未さんのような人かもしれない……。
「どう、少し慣れた?」カーステレオのスイッチを入れながら、明日未が話しかけてきた。「変な会社って、思ったでしょうね」
そう言われれば、確かに変である。うなずきかけた直美は、あわてて首を横にふった。明日未が続ける。
「けれども会社って、どこもそんなに変わらないわよ。変な人が集まって、わいわいやっているうちに、ものができていくの」
でも明日未さんは変じゃない、と直美は思った。ただし酒癖の悪そうな点は別にしてである。少なくともあの三人のなかでは、一番しっかりしているし、洗練されているし、一番マトモな感じがする。
「あの」直美は、前から気になっていたことを聞いてみた。「明日未さん、アプラの社員さんたちとは、どこか雰囲気が違うみたいに思うんですけど」
「実は、そうなの」と、彼女は言った。
彼女は一年前、航空会社からの出向でアプラDT社に来たというのだ。そしてアプラが全翼機を導入したことに伴い、航空会社とのパイプ役も果たしているらしい。
カーブの多い山道を上り続け、しばらくすると、車は研修センターへ到着した。外観は、ちょっとしたホテルのようでもある。名前は研修センターだが、実際は、山の家≠ンたいなものだと、明日未が教えてくれた。大会社にはこういう施設があるのかと、直美は感心した。
管理人のおじさんに挨拶《あいさつ》した後、荷物を二階の部屋へ置いた。直美は、明日未と同じ部屋である。
明日未がカーテンを開けた。景色がいい。窓から街や海が一望できた。窓から体をのり出すと、空を飛んでいるみたいな気持ちになる。
しかし、遊びに来たわけではない。明日未に炊事場や浴室を教えてもらっている間に、樋川晋吾と小佐薙真も到着した。
直美は、みんなのアイスコーヒーをテラスまで運んだ。会議は、夕涼みをかねてテラスで行うことになっていた。樋川と明日未が、ホワイトボードをセッティングする。
缶ビールを片手に持った小佐薙が、ラフな格好でやってきた。
「晩飯まで辛抱しろよな」
樋川はそう言いながら、煙草《タバコ》に火をつけた。彼も、今日はネクタイをしていない。
明日未が、テーブルのノートパソコンを立ち上げていた。
「さて、始めるか。事業スタイルを詰めてしまおう」小佐薙は膝《ひざ》をたたくと、ホワイトボードの前に立った。「その前に昨日の確認やが、結局、神作りは了承するが、公表せず、宗教法人設立もしないということでええんやったな?」
四人は顔を見合わせ、うなずき合った。
「それでいい」と、樋川が言う。「神作りは、あくまで企業秘密。オープンにはしない。神が最高のカウンセラーだという小佐薙の主張に異論はないし、できるかどうかはともかくとして、それぐらいの志は事業のバックボーンとして認めていいと思う。本社も、説明次第では納得してくれるかもしれない。それから占いにしろ、カウンセリングにしろ、量子コンピュータを利用して行うことは、当面隠す。マシンがカウンセリングすることに、拒否反応があるかもしれないからな。いずれ公表するが、そのタイミングは慎重に計る」
四人はまた、黙ったままうなずいた。
「じゃあ早速、本日の議題」小佐薙が、ホワイトボードを軽くたたいた。「まず、この事業と本社とのスタンスや。上があれこれ注文をつけてくる前に、先にこっちで考えておいた方がええからな。樋川の言うように、メンタルヘルス事業にするとしても、一応、本社とは切り離した形で提案する。それでええか?」
「その方がいい」樋川は煙草の煙を吐き出した。「何が起きるか予想がつかないし、何かが起きたときに、本社の被《こうむ》るダメージは最小限にしてやるべきだ。すると本社は、出資はしても、事業内容には深く関わらない方がいいことになる。ただし、総務や経理などの会社機能は、しばらく本社に委託する。そういうことは、何とでもなる」
明日未がシャープペンシルを回し始めた。
「ベンチャーを立ち上げるとして、資本金は?」
「最初は本社に出してもらう。クライアントからの入金でうまく転がるようになればいいが、時間はかかるだろうな。足りなければ、金はまた、銀行から借りることになる。その時、銀行を納得させるだけの事業になっているかどうかが問題だ」
「それやがな」小佐薙はマーカーを手にした。「そしたら、具体的に事業内容を決めていこか。基本的に、前の案のままでええと思うけど、大きく二つのセクションに分ける」
「一つは、占いよね」と、明日未が言った。
「ああ。やはりアトラクションとしての役割は大きい」
「そしてもう一つの柱が、カウンセリングね」
「それが肝心や。占いで獲得したクライアントも、こっちへ誘導していく」小佐薙は、ホワイトボードに書きながら説明した。「メニューは複数用意する。美容、ダイエット、健康相談、そして人生相談など」
「料金システムは?」
「相談内容や利用回数に応じて、ランク分けする。それから、できれば法的に許容される範囲の治療《セラピー》もやりたい」
「セラピー……」明日未が聞き返した。「心理療法《サイコセラピー》か何かなの?」
「うん。実は、前から考えていることはある。|箱 庭 療 法《サンドプレイ・セラピー》の発展形でな。コンピュータで仮想世界を作って、そこでヒーリングをするんや。俺は、バーチャルプレイ・セラピー≠ニ名付けているんやが」
「そんなの、余所《よそ》でもうやっているわよ」明日未が微笑《ほほえ》んで言う。
「何処《どこ》で?」
「ソウル・オリジン」
「え、そうやったんか」小佐薙は頭をかいた。
「それより、モニターはどうする?」樋川が顔を上げた。「占いにしろカウンセリングにしろ、精度を上げていくためには必要なプロセスだと思うけど」
「昨日もちょっと話したが、集まった入会希望者に、予約特典をつけてモニターをやってもらおうと考えてるんや。掲示板《BBS》を見ると、協力してくれそうな連中は、すでに何人も集まっている。クライアントの前段階やから、モニタークライアント≠ニ呼ぼうと思う」
「僕が聞いたのは、本当にそれで大丈夫かどうかだ」
「というと?」
「いずれ名乗ってもらうとしても、当面は匿名の連中だろ。モニターになるかどうか、分からんぜ。アンケートの回答が返ってきたとしても、鵜呑《うの》みにできないと思うし、相談自体、事実かどうかも分からない」
小佐薙はしばらく考え、「信じるしかないな」と言った。
「私は信じるけど」明日未はパソコンのディスプレイに、ホームページの掲示板を表示させた。「冗談でこんなことを書いてくるとは、私は考えたくない」
「事業のターゲットも、こうした連中やな」と小佐薙は言う。「当然、ネットも利用する。クライアントの受け付けもここからするし、ネット放送などでPRもするつもりや」
直美は、ぼんやりと小佐薙の話を聞いていた。このときは、それが自分に課せられる任務になるとは思っていなかったのである。彼の話は続いた。
「それから、お守りなどのグッズ販売も、ネットで手広くやってもええな」
「そんなことも、とっくに余所でやってるわよ」と、明日未が言った。
「余所……」小佐薙が顔をしかめる。「ひょっとして?」
「そう。ソウル・オリジン」
彼は、舌打ちした。「ソウル・オリジンか……」
明日未が微笑む。
「小佐薙主任が占い事業を言い出したときから、私も気にはなっていた。それが今度は、メンタルヘルス事業。モデルケースにできる反面、ほぼ完全にバッティングする」
「かなりカブっているよな」樋川が眉間に皺《しわ》を寄せながら言う。「ネットでクライアント獲得なんて、のっけからカブっている。ほとんど僕たちがやろうとしていることと同じだ」
「それと、神的なものを論理的に説こうとしている姿勢にも、主任さんの話と共通する何かを感じる」
「同じにされるのは片腹痛い」小佐薙はぷいと横を向いた。「会員数が多いから良いとは限らんやろ。大衆にアイデンティティがないから、そういう商売がはびこるんや」
「でも、うちも似たようなことを、やろうとしているわけでしょ」
「問題は、僕たちが参入する余地が、まだあるかどうかだな」樋川は煙草をくわえながら、腕組みをした。「他社を研究し、学ぶべきところは学び、差別化できるところは差別化しなければならない。けどソウル・オリジンは、知っているようでよく知らないこともある。ちょっと説明してくれ」
明日未がノートパソコンのキーを操作しながら言った。
「正式名称は、|ソウル《S》・|オリジン《O》・|サービス《S》。メンタルヘルス事業では、最大手。本部はアメリカで、ファウンダー≠ヘ、ハリス・ロイドという人物」
「ファウンダー?」樋川が聞き返した。
「創設者≠ニいう意味で、相談役《アドバイザー》に相当すると考えていい。ハリス・ロイドは、この分野の開拓者で、神童≠ニも呼ばれているらしい」
明日未が、ディスプレイに顔写真を表示させ、みんなに見せた。なかなかハンサムな男だと直美は思ったが、よく見ると、それがCGだと分かった。明日未が説明を続ける。
「世界各地に支社や支店を置いていて、もちろん日本にもある。支社長は、華端羅陀《かはしらだ》。おそらく本名じゃない。写真も、ほら」
明日未は華端のCGキャラを、みんなに見せた。
「事実上の支社長は別にいて、これも実在するかどうかは不明。でも、イメージ戦略としては成功している。世界中にかなりの数の会員がいるらしい。実態は分からないけど、日本国内だけでも数十万人とみられている。サービス内容は、さっき樋川課長が言ったように、うちが今、考えていることと、ほぼ同じ」
「特徴は?」と、樋川が聞いた。
「まず、ネットをうまく活用しているところね。掲載《バナー》広告だけでなく、あちこちにリンクを張りめぐらしている。表向きは占いでも、何回かクリックを続けると、ソウル・オリジンへ」明日未がホームページを表示した。「カウンセリングは、支社や支店へ行かなくても相談に応じてもらえる。入会すると、交流会の開催とかグッズのプレゼントとかがいろいろあって、継続する人は多い」
樋川は天井を見上げた。
「身近に相談できる人がいないと、やっぱりそういうところへ行くんだろうな」
「カウンセリングにとどまらない。お守りなどの関連グッズ販売や、講話とかアニメといったオリジナル映像、音楽ソフトの配信もやっている。最近は箱庭療法の発展形で、仮想世界療法というのも始めた」
「さっき小佐薙主任が言ってたやつだな」
「それからメル友<Tービスも」
「何だ、それは?」
「そのまんまじゃない。メル友になってくれるのよ。悩み事の相談にも応じてくれる」
「そんなサービス、相当な手間だろ」樋川は首をかしげた。「どうやって処理してるんだろう」
「スタッフにやらせているんだろうけど、これも実態はよく分からない」
「分からない?」
「ええ、下請け、孫請けが入り乱れて、かなり複雑なことになっているみたい。支店と支社との関係にも、いろいろ問題があるらしいし」
「しかしそんなに手広くやっちゃったら、収拾がつかなくなるんじゃないのか? 会員にしろ、社員にしろ、考え方の違う人がいっぱい集まっているんだろうし」
「ええ」明日未は、みんなを見て言った。「それを束ねる役割を果たしているとも考えられるのが、大宇宙根元魂――別名ソリジンという概念らしいの」
「それが分からへん」小佐薙は、椅子《いす》に腰かけた。「ソリジンなんて洒落臭《しゃらくさ》い名前をつけずに、神なら神でええんやないのか?」
「神は神なんだろうけど、神の上位概念として位置づけている。それが私たちに分からないのも当然で、教義でも理解するのは困難とされている。そのためみんなには、便宜的に仮想意思≠用いて説明することがある。それが神のように見えてしまうらしい」
「余計分からん」小佐薙はアイスコーヒーをストローで吸い上げた。「しかしソリジンを上位概念と言うあたり、組織をまとめようとする彼らの巧妙な計算が見え隠れせんでもないが。それに難解というより、単に玉虫色なだけと違うのか? 神と思う人には神に、そうでないと思う人には、そうでないように見える。偶像化していないのも、下手にイメージを与えると、玉虫色じゃなくなるからかも」
「いずれにしても、ソリジンは何も語らない」
「その代弁をするのが、ファウンダーとか、華端というわけか」
「華端の出版物は多い」明日未がディスプレイに、リストを表示した。「講話もネットからダウンロードできる。ソリジンについて語ったものが多いけど、やはり哲学というより、宗教に近いみたいな感じがする」
「メンタルヘルス事業は正々堂々、勝負すればいいが」樋川は、煙草の火をもみ消した。「そのソリジンは、気になるな」
「それにからんで、気になるのは、この世界の危機≠チちゅうやつやな」
小佐薙は、ソウル・オリジンの刊行物リストを指さして言った。
「終末論か」と樋川がつぶやく。
「気に入らんな」小佐薙は、頭の後ろで両手を組んだ。「俺には、不安感とか孤独感を刺激して、営業≠かけているように見える。それと、自分たちの活動の正当化を図っているようにも。大体終末論なんて、暑苦しいのに、余計|鬱陶《うっとう》しくなる」
「でも、気になるでしょ」明日未がそう聞くと、小佐薙は軽くうなずいた。
「確かに、大衆にはアピールしやすい。誰もが漠然と感じていることでもある。そういうモヤモヤしたものをかかえている連中は、ごまんとおる。直美ちゃんも、そういうところをつつかれたら弱いやろ」
直美は少し考え、「はい」と答えた。
「終末論を持ち出すと、勧誘しやすくなるのは確かや。いきなり易者に『女難の相がある』と言われるようなもんやからな。けどそれは、勧誘のためのおどし≠ナしかないんやないか?」
「ええ、だからソウル・オリジンに関しては、いい評判ばかりじゃない」明日未は、ネットニュースの一つを表示させた。「週刊誌とかでも一時バッシングされていたし、反発している人は今でも多い。ソウル・オリジンが事業を拡大し過ぎて、会員を増やさなければ成立しない組織になっていったという人もいる。小佐薙主任みたいに、会員獲得のためにかけた営業≠ェ終末論だという見方をする人は、結構いるみたい」
「まあ、アウトラインは、分かった」小佐薙は、まだディスプレイの記事に、目を通していた。「ソリジンはともかく、事業に関しては、ソウル・オリジンのやっていることとウチがやろうとしていることに、大差ないみたいやな」
「じゃあ、ウチも終末をあおるのか?」樋川は、次の煙草に火をつけた。
「それは避けたい。もっとも、俺たちの作った神が終末を予言すれば、話は別やが」
「それで対応策だが」樋川が煙を吐き出す。「まず、事業内容が似ていることが、問題かどうか」
「特許や商標権を侵害していなければ、別にええやろ」
「でも二番煎じ≠フそしりは、まぬがれないわよ」と、明日未が言う。「向こうサイドから何らかの警告なりクレームがあることは、覚悟しないといけないかも」
「まったく同じというわけやない。第一こっちには、Qコンがある」
「けど量子コンピュータによる神作りは、オープンにしないわけでしょ。表面上は、どうしても似てしまう」
「それでもQコンの使い方次第では、ソウル・オリジン以上のサービスは提供できるはずや。ソリジンを吹聴《ふいちょう》している奴らにしても、本当の神を作ってみせれば、一泡ふかせてやることもできるはずや」
「しかしちゃんとコンセプトを固めておかないと、泡を食うのはこっちの方かもな」樋川はそう言って笑った。「それで別会社にするとして、社長は小佐薙、お前でいいか?」
小佐薙は、目をパチクリさせていた。「俺はてっきり、お前がやってくれるとばかり」
「僕は、パイプ役として本社に残らないと。サポートはするが、完全に出てしまうわけにはいかない」
小佐薙はみんなの顔を見まわしていた。「そう言われれば、そやな」
「すると社長は、お前しかいない」樋川は、小佐薙の肩に手をかけた。「第一、お前が言い出したことじゃないか」
「せやけど事業内容からすると、社長≠ニいう肩書は、何かそれっぽくないなあ」
「じゃあ、ファウンダーにする?」と明日未が言う。
「ファウンダーは、ソウル・オリジンがすでに使ってるやないか。それに類する言葉で、何かないか?」
「ビギナー≠ヘどう? 創始者≠フ意味がある」
「ビギナーか……。何か、初心者≠ンたいやな」しばらく考えていた小佐薙は、膝をたたいた。「ほな、ビギン≠ヘどうや。あるいはビギンズ=v
「ビギン……」
「映画にもあったやろ。『ナントカマン・ビギンズ』」
直美は、小佐薙の言うナントカマンが誰なのかをしばらく考えていたが、思い当たる名前はなかった。まあ別に大したことではないと思い、考えるのをやめた。
「小佐薙ビギンか……」明日未は、首をひねった。「ピンとこないけど、ま、いいか。それで社名はどうするの?」
「それは考えてる」小佐薙は、ホワイトボードに向かった。「ギリシャ神話で、理想の女性を作ろうとした、彫刻好きの若い王様がいたやろ」
「ピグマリオンのこと? でもそれ、ローマ神話じゃなかった?」
「どっちでもええ。俺たちがやろうとしているのは、その現代版や」
小佐薙はホワイトボードに、|ネオ《N》・|ピグマリオン《P》≠ニ書いた。
「もっとも俺たちが作るのは、理想の女性やのうて、理想の神やけど」
みんなは、小佐薙が書いた社名案を見つめていた。
明日未が、軽くうなずいている。
「別にそれでかまわないけど」と、樋川が言った。「何せ、ビギン≠フ言っていることだし。代案が出るまで、それで仮決めしよう。社名は、ネオ・ピグマリオン。それから事務所はどうする?」
「取りあえず、どこかの貸しビルに入ろう」
「それは正式に事業がスタートしたときの話だろ。闇研《やみけん》の間はどうするんだ?」
小佐薙は、空を見上げ、「しばらくは天矛《てんむ》の格納庫《ハンガー》かどこかを内緒で借りるしかないかもな」とつぶやいた。そしてマーカーを置くと研修センターの中へ向かった。「すまん。ちょっと、トイレ」
樋川は次の煙草に火をつけ、明日未は今までの議事をメモっていた。
そして直美は、このプロジェクトにおける自分の役割は何なのだろうと思いながら、小佐薙がホワイトボードに書いた社名案をじっと見つめていた。
ネオ・ピグマリオン――。
2
トイレから戻ってきた小佐薙に、明日未が声をかけた。
「ではビギン=B続きをお願いします」
小佐薙は、自分を指さした。「俺のことか?」
樋川が微笑みながら、「やってるうちに慣れるだろう」と言った。
「では本日の、メインイベント」小佐薙は、ホワイトボードを背にして立った。「我々はこれから、何を作ろうとしているのか。自分たちが作ろうとしているものについて、コンセンサスを得ておく必要がある」
「コンピュータ・ソフトだろ。自前の量子コンピュータを売らんがための」
「肝心なのは、その中身や。ソウル・オリジンをはじめ他のサービスと差別化する上でも、これは重要なことやと思う」
「中身は解析神だ。解析世界におけるシミュレーションを通して、未来を予知し、相談に応じてくれる存在」
「そこで問題になってくるのが、神とは何か≠竅v
「神に関する資料なら、一杯あるわよ」と、明日未が言った。
「けど、そんなもんを見ても、余計に分からんようになる気がする。また既存の神にこだわっていては、新しい神は作れない。すべて一から考え直すつもりでやってみようと思う」小佐薙は、一度|咳払《せきばら》いをした。「では何を作れば、神を作ったと言えるのか」
樋川が煙草の煙を吐き出して言う。
「神に匹敵する能力を有していれば、神とみなしてよいのではないのか?」
「それは答えになってない。大体、神に匹敵する能力とは何なんや。神≠ニいう一言でイメージされるものは、人によってまちまちで、漠然とし過ぎている。それではいくら話し合っても、埒《らち》があかない」
「じゃあ、タレントのオーディションみたいに、何らかの審査基準のようなものを設定すればいいんじゃないのか? それに合格すれば、神と認めてよい、というような」
「俺もそう思う」小佐薙は、樋川を指さした。「数学に、必要条件≠ソゅうのがあるやろ。命題に対して、『何とかならば、何とかである』、というやつ」
「たとえば?」と、明日未が聞いた。
「たとえば……」樋川が少し考えて言った。「小佐薙ならば、女好きである。しかし女好きならば、すべて小佐薙ではない、という調子かな」
「ちょっと違う気もするけど、例としてはそんなもんやろ」小佐薙がホワイトボードをたたく。「そうした検証が不十分なまま、信じてしまう傾向はちょくちょくみられる。しかし我々の神は、きっちりと条件を満たし、論理的に説明可能な存在であるべきなんや」
「必要十分条件が見出《みいだ》せるなら、一発で決まりだろう」
「いや、必要十分条件は、難しい」小佐薙は、首を横にふった。「けど必要条件なら、いくつか思いついた」
「ちょっと待って」ホワイトボードに顔を向けた小佐薙に、明日未が声をかけた。「やっぱりいいのかな? 神様に条件突きつけて」
「条件というか、ある程度クリアにしておきたいポイントや。そういうのなら、明日未にもあるはずや。どこの誰かも分からんのに、相談にのってくれたからといって、神と認めるわけにはいかんやろ」
「それはまあ、そうだけど」
「ただしこれらは、自分たちの神の条件であって、他の神にあてはめるつもりはない」
樋川が、「早い話、福の神にあてはまることが貧乏神にあてはまるとは限らないということだろ」と言って笑った。
「それとくり返しになるが、我々が作ろうとしているのは、解析神。コンピュータ内の解析世界における、絶対神や。俺たちは、そのローカルエリアにおいて客観的に説明できる存在を考えようとしている」
「具体的には?」
「まず、全知全能だろう」と、樋川が言う。「神の条件なら」
「そうくるやろと思た」小佐薙は、一旦手にしたマーカーを置いた。「それは条件には違いないが、あまりに当然すぎる。いわば基礎体力みたいなもんやな。解析世界において解析神をそのように設定することは簡単やし、俺は全知全能を、あえて条件には入れたくない。入れるとしても、二次的条件の方や。神にはもっと、根本的条件が求められるやろ」
「根本的条件……」明日未が首をひねった。「たとえば?」
「前から考えていることはある」小佐薙はホワイトボードに、?≠ニ書いた。
「何なの、それ?」
「見ての通り、クエスチョン・マークや。神の条件を読み解くのに必要となるのは、神に対する疑問ではないかと思う。その疑問を表す疑問詞やが、代表的なものとして、いわゆる5W1H≠ェあるな」
小佐薙はホワイトボードに、How∞Where∞What∞Who∞When∞Why≠ニ書いた。
「神の条件を考える手がかりとして、このへんから、始めてみてはどうかと思う」
直美は、唐突に出てきた英単語に面食らいながら、ホワイトボードを見つめていた。
小佐薙が、みんなの方に向き直り、ホワイトボードの一行目を指さした。
「第一の条件、How=v彼はその右横に、システム≠ニ書いた。「さっき、全知全能は二次的条件だとした。その前提となるような条件が別にあると思うからや。この世に存在するものは、神であれ何であれ、まず何らかの存在基盤があるはずやろ」
「システム……」明日未がつぶやく。「つまりそれが、どんなふうになっているのかということ?」
「たとえば、我々には肉体がある。同じように、神といえども、体に相当するようなものがあるのではないか。だとすれば、体重は? 身長は? もし体をもたないとすれば、何を基盤として存在しているのか。神ならば、神としてのシステムを備えているはずや。体だけではなく、その意識構造のシステムは? また一個体でなく大勢いるのだとすれば、社会のシステムも考えておかねばならんやろう」
直美は、小佐薙の話を聞きながら、ホワイトボードを見ていた。正直、神様の体重なんて、考えたこともなかった。
「第二の条件、Where=v小佐薙はホワイトボードに、所在≠ニ書き加えた。「つまり、神は何処《いずこ》におわすのかということ。存在しているのなら、たとえ間接的であっても、観測できるはずやないか?」
「しかし……」樋川が煙草の火を灰皿でもみ消した。「どこか特定の方向へ出かけていって、そこで神様が見つかるというようなことは、ないんじゃないか? 神が存在するとして、位置的にも時間的にも、どこか特定のポイントや帯域にいるとは考えられない」
「つまり神ならば、どこにでも存在していて、我々を見守っている」小佐薙は、樋川を指さして言った。「いるとすれば、今ここにもいるはず。そういうふうに思われている。どうやってそんなふうに存在できるのかは、ともかくとしてな」
直美はちょっと気になったので、周囲を見まわしてみた。
「第三の条件、What=v小佐薙はその横に、エネルギー≠ニ書いた。「神の力の源は、何なのかということや。我々も、活動するにはエネルギーが必要になる。神も例外ではない。一体、何をエネルギー源としているのか。何かを食べるとしたら、何を食っているのか? 食べたらトイレには行くのか?」
「そんな馬鹿な」と、明日未が言った。「そんなことは人間に分かるはずがない。だからこそ、神なんじゃないの?」
「それでええのか? しかし神ならば、エネルギー代謝も認められるはずや。そして系のエントロピーを増大させているはずやと思う」
樋川が、次の煙草に火をつけた。「確かに、条件の一つかもしれないな」
「第四の条件、Who=Bあるいは格変化させた、Whom=v小佐薙はホワイトボードに、コミュニケーション≠ニ書き加えた。「たとえば願いごとをして、それが叶《かな》うとする。それは一体、どういうメカニズムかということや。我々の唱える呪文《じゅもん》や祝詞《のりと》は、誰かにちゃんと届いているのか? また声なき思い≠フようなものは、どうやって伝わっているのか? 我々の世界と彼らの世界は、異質と思うんやが、それでどうして通じ合えるのか?」
「たとえ異質でも」と明日未が言う。「神様ならば、コミュニケーションの手段は有しているはず」
樋川が首をかしげる。
「あるいは異質な二つの世界をつなぐ、インターフェースのようなものが、あるのかもしれないな」
「第一、神がこの世界を作ったのだとすれば、それぐらい、何とでもできるはずよ」
「さて、第五の条件、When=v小佐薙はその横に、起源《オリジン》≠ニ書いた。「これが最も重要、かつ難問や」彼は一度息を吐いてから、再び話し始めた。「前に樋川も言うてたけど、神がこの世界を作ったとして、その神は、いかにして誕生したのかということや」
「だろ」樋川がニヤリとした。「全知全能の神を生み出した存在が他にあるというのも、おかしな話でな」
「我々は、誰も自分の意思で生まれてきたわけではない。気がついたら、生まれてた。哲学者だろうが宗教家だろうが、関係ない。自分とは何か≠ヘ、みんな生まれてから考える。みんな真面目そうな顔して考えてるが、泥縄もええとこや。とにかく『生んでくれ』と頼んで生まれた奴なんて、一人もいない」
「しかし唯一の例外が、神なんだろ」
小佐薙は大きくうなずいた。
「神ならば、自分の意思で生まれた。つまり、自分で自分を作ったことになる。そしてこの世界が誕生する前に、すでに存在していたことになる」
「でもそれは、あり得ないだろ。自分の意思で生まれるなんて、説明もできない。神を作ると言ってみたところで、その条件はクリアできるはずがない」
「神は死なない」と明日未がつぶやいた。「それは、生まれないということでも、あるんじゃないの? つまり生も死もなく、永遠に存在し続ける。それが神なのかも」
「しかし永遠なんてものが、この世にあるのか?」
「それがあり得るのが、神なのでは?」
「永遠なんてもの、僕は信じない。ただしそいつはかつて、時間もなければ空間もないところにいたと考えられるわけで、時間がないのなら、生まれるも何もない、とは言えるかもしれない」
明日未は急に、直美の方を見て言った。「今、この人の言ったこと、分かる?」
直美は黙ったまま、首を横にふった。
「時間も空間もないところで、一体どうやって生まれるというねん」小佐薙が不機嫌そうに言った。「しかし神を生み出した存在があるというのは、確かにおかしい。それは一体、何者なのかということになる」
樋川がまた微笑んだ。「今、自分でできないと認めなかったか?」
「いや、俺なりに考えていることはある。後でまとめて説明するから、ちょっと待ってくれ」小佐薙は、ホワイトボードを指し示した。「これらについて明解な説明ができるなら、神を作ったとしても良いのではないかと思う」
「え、それだけなのか?」樋川が首を突き出した。
「条件はもっとあるんじゃ……」
「これだけでも、十分ややこしいやないか」
「しかしほら」彼は、ホワイトボードを指さした。「そこにもまだ、一つ残ってる」
「これか?」小佐薙は、一番下に書かれたWhy≠フ文字を、マーカーでたたいた。「これを条件としてあげるとすれば、動機=\―モチベーションということになると思うんやが」
「モチベーション?」と、明日未が聞いた。
「神は一体、何をしようとしているのか。神ならば、その行いに、何らかの理由があるはずや」
「救済、じゃないの?」
「しかし、何故《なぜ》我々を救わなければならない? 何か見返りはあるのか?」
「見返りなんて、何もないでしょ」
「じゃあ、何故?」小佐薙は、テーブルのコーヒーを手に取った。「しかしそれは、モチベーションというより、キャラクターやないかと思う」
「キャラクター?」
「人間かて、性格は人それぞれやろ。神のイメージも、人それぞれに思い込みがある。それを言い出すと、神の形も様々に違い出す。この第六の条件も、そういう性格みたいなものやないやろか」
「多神教の場合、確かにそこでキャラクターは分かれる気がする。でも、一神教はどうなのかしら?」
小佐薙も明日未も、ホワイトボードを見つめたまま、黙ってしまった。
「とにかく、すべての神に共通にあてはまる条件ではないような気がする。考えるとしても、次のステップ――二次的条件の方やろ」
明日未は黙ったまま、不服そうに口をとがらせた。
「条件をあげていくと、まだあるかもしれない」小佐薙は、ホワイトボードを人指し指でたたいた。「奇跡のたぐいを検証すると、きりがない。あれもこれもできないと神ではないということになるが、それらも二次的な条件としておこう」
樋川が微笑みながら言った。
「確かに、六法全書みたいにごちゃごちゃと条文があれば、いいというものではないが」
「条件を増やすほど、意見が分かれたりする。取りあえず、五つの条件について考えてみよう」
小佐薙は、ホワイトボードからWhy≠消した。
「システム、所在、エネルギー、コミュニケーション、そして起源……」彼がホワイトボードを読み上げる。「最低限、ここに掲げた五つの条件に論理的な説明がないと、それが神だとは認められない」
「でも実際、そんな条件を満たすような存在を作ることは、可能なの?」と、明日未がたずねた。
「現実の神の話は、ちょっと棚上げにしといてくれ」小佐薙が片手を突き出して言う。「それについては、答えを用意するのは難しいと、俺も思う」
「大きなことを言っておいて。何よ、今さら」
「前に言った通りや。現実世界の神を作るんやない。解析世界における解析神や。ここにあげた五つの条件を、取りあえず、解析神にあてはめて考えてみることにする。それができれば、コンピュータ内で解析神を作るのは、不可能ではないことになるやろ」
彼は、第一の条件、システム≠フ右横にプログラム≠ニ書き加え、説明を続けた。
まずシステム=B解析神の場合、これはコンピュータによる他の情報処理と同様、ハードおよびソフトということになる。何らかのハードを必要とするものが現実の神ではあり得ないが、少なくとも解析世界において、解析神は条件を満たしていると考えてさしつかえない。
第二の条件、所在≠ヘ、コンピュータ内の解析世界、および現実世界。
第三の条件、エネルギー≠ヘ、電磁気的エネルギー。さらに量子コンピュータにおいては、電子スピンなどのエネルギー。
第四の条件、コミュニケーション=B我々とは、ジョブの実行――つまり入力と出力のくり返し。それとは別に、解析神は解析世界の人々の情報の、観測と操作を行える。
第五の条件、オリジン=Bやはり、これが一番難しいが、次のプロセスなら、矛盾なく成立する。つまり、先に解析神を作って、それが解析世界を作るというプロセスをふむ。すると当然、解析世界より前に、解析神は存在していたことになる。解析世界の住人から見れば、第五の条件は成立している。解析神の存在を、現実と入れ子″\造にすることで、矛盾は回避できる――。
明日未は、ずっと首を傾けたまま、小佐薙の話を聞いていた。
「何か、今イチよく分からない。丸め込まれたような気も、しないでもないけど……」
彼女とはレベルは異なるかもしれないが、直美も同感だった。
「神とは論理や。この世界は、それによって生み出された秩序や」小佐薙は、ホワイトボードをたたいた。「コンピュータで再現できない道理はない」
丁度そのとき、管理人さんがやってきて、「夕食の用意ができました」と言った。
「ほな、今日はここまで」小佐薙は、ホワイトボードの文字を消した。「明日からは、システムを設計していこう」
食堂では、すき焼きの準備が整っていた。
みんなで乾杯し、鍋をつつき始めてしばらくしてから、「ちょっと待てよ」と樋川が言った。
小佐薙は、美味《おい》しそうにビールを飲んでいる。「何や、今ごろ」
「第五の条件、オリジンだ。入れ子構造の話を、なるほどと思って聞いていたが……」樋川は、鍋の中を見つめていた。「解析神は、確かに解析世界の創造主になり得るかもしれない。しかし、それでもやはり、自分の意思で生まれたことには、ならないんじゃないのか?」
「どうして?」
「どうしてもこうしても、解析神が誕生するのは自分の意思でなく、明らかに我々が生み出すからに他ならない」
「だから難しいと言うとる」小佐薙は鍋から肉をつまみ出した。「確かに解析神は、俺たちが生み出す。しかし問題なのは、我々の視点ではなく、解析世界内の人々から見た解釈や。解析世界より先に存在していることは事実やし、解析世界においては、自分の意思で生まれたものとみなしてかまわない。いわば、クリエーター特権やな」
「本当は、説明できないんでしょ」と明日未が言った。「うまくごまかそうとしている」
「そんなことはない。解析神なら、それでもかまわないわけや。本当の神やないんやから」小佐薙はビールを飲み干した。「ただ現実の神については、俺もよう分からへん。自分の意思で生まれるというような条件を、どうやってクリアにしているのか」
「条件をクリアにできないとすれば、神は存在していない」樋川が小佐薙に、ビールを注《つ》いでやった。「それだけのことじゃないのか?」
その後、誰も何も言わなくなった。食堂内に、しばらく鍋の音だけが聞こえていた。
「今はまだ、そこまで考える必要はない」小佐薙はまたビールに口をつけた。「解析神について、詰めていけばいい。現実に神が存在するかどうかはともかく、解析世界においては可能。それだけは、はっきりしている」
「何か、すっきりしないなあ」樋川は、煙草に火をつけた。「モデルの存在がそんなあやふやでは、フィギュアも作れないんじゃないのか?」
「神を作るというより、神的存在を作るんや。未来が予知できて、カウンセリングができればええんや」
「今さら、言い訳がましい」明日未が箸《はし》を置いた。「そんなことなら、最初から神作りなんて大きなことを言わなきゃいいのに。それじゃ神作りじゃなくて、罪作りじゃない」
直美はそろそろ、明日未の酒癖の悪さを気にし始めていた。
「前から言ってる通りや。解析世界と解析神の間で関係が成立すれば良しとしよう。これで引っかかっていると、先へ進めない。それこそリストラの方が先になってしまう」
「でも、そんな即席で作っちゃっていいの? 解析神が解析世界の神で満足しているうちはいいけど、ある日突然、現実世界の神を名乗ったりはしないの?」
「そういう難しい問題は、作ってから考えよう」小佐薙は、肉を頬張《ほおば》った。
食後、しばらく休憩した後、樋川と小佐薙の部屋で二次会をすることになった。持参したおやつを食べながら、みんなは、コンピュータに自我はあるか、みたいな話を延々と続けていた。
「前から気になっていたんだけど」一瞬、会話が途切れたとき、明日未が切り出した。「私、小佐薙ビギンが使う神≠ニいう言葉にも、抵抗がある」
「何でや?」
「私が考えているものとは、違うからよ。引き下がりはしたけど、神に条件をつけたことにも、抵抗を感じている」
「何が言いたい?」小佐薙は、ポテトチップスを食べながら聞いた。
「すでに神≠ニいう言葉の解釈はまちまちで、各々が定義し、神と呼んでいる。それに条件を出して一本化するなんて、無理」
「確かにな」と樋川が言った。「小佐薙が出した条件で神の概念が統一されるぐらいなら、苦労はない」
「私たちが作ろうとしているのが解析神なんだったら、何も現実の神なんか持ち出さず、条件についても、神の条件≠ニいうような言い方は、避けた方がいいと思う」明日未は、缶ビールを一口飲んだ。「すでに神という名を与えられているものがどういう条件を満たすかではなく、小佐薙ビギンが出した条件を満たすものを、新たな名前を付けて呼べばいいじゃない。それが神かどうかにこだわらずに」
小佐薙は、ポテトチップスをくわえながら、首をふった。「よう分からん」
「要するに明日未は、自分の信じている神に条件を付けられるのは嫌なんだ」樋川が微笑んで言う。「その条件によって、自分の信じている神を疑うのも嫌だし、否定されるのも嫌。小佐薙が出す条件に該当する存在は、神とは別な名前で呼んで欲しいと思っている、ということだな」
「分かってきた」小佐薙が、缶ビールを飲み干して言う。「男女の関係に置き換えたら、理解できた。つまり俺の理想のタイプが、必ずしも樋川の理想のタイプとは限らんということやな。それを同じ名前で呼んで欲しくはないということや」
「そういうたとえ話にすることが、すでに私は気に入らないの」明日未は横を向いた。
「そない怒るな」小佐薙は別な缶ビールを開けた。「確かに俺があげた条件は、神というより、その上位概念やし、別な名前で呼んでもええが」
「じゃあ、何て呼ぶ?」樋川が煙草に火をつけた。「神の上位概念なら、大宇宙根元魂とか、ソリジンとか?」
小佐薙は両手をふり、「それは勘弁してくれ」と言った。
「ソウル・オリジンが神≠使わなかった理由も、このへんにあるのかもしれないな。さて、別な名前といっても、急には思い浮かばないが、取りあえず、超越存在≠ニか、あるいは彼≠ニいうのはどうだ?」
「彼=H」
「彼≠ゥ彼女≠ゥ彼ら≠ゥは知らないけど、お前の言う条件に適《かな》う存在だ。ただ、ソリジンとは違って、外部に公表しない。あくまで内部での呼称に過ぎない」
「だったら、それでええのとちゃうか?」
明日未も缶ビールを飲み干した。
「じゃあ私はなるべく、そう呼ばせてもらいます」
「勝手にせい」
小佐薙は大あくびをすると、その場で寝ころんでしまった。
「さて、もう明日にするか」樋川もそう言い、横になった。
直美は、明日未と後片付けをし、自分たちの部屋へ戻った。
3
翌朝、直美は明日未と一緒に、食堂で朝食をすませた。樋川と小佐薙は、時間になっても下りてこなかった。
食事の後、会議が始まるまで少し時間があったので、直美は一人でそのへんを散歩することにした。朝の空気が、心地よい。
昨日の夜は、あれからお風呂に入り、明日未とテレビを見たり、雑談をしたりして過ごした。でも、プライベートな話まではしていない。彼女に対しては、令子や杏里、智恵実たち以上に、まだ違和感があった。直美とは年が離れているし、学生と社会人という違いもある。考えてみれば、明日未は自分の理想像に近い人だといえる。現実の自分との接点を見出しにくいのは、ある意味、当然なのかもしれない。けど彼女は、何でも親切に教えてくれる。このチームのなかで、直美が一番頼れる人には違いない――。
九時に、テラスへ集合した。直美は、みんなのアイスコーヒーをテーブルに運んだ。
小佐薙の目は、充血している。明らかに二日酔いである。
「早速、昨日の続き」彼はホワイトボードの前に立った。「システム設計についてや」
「設計といっても、今あるハードを使うしかないんだろ」と、樋川が言う。「量子コンピュータ、久遠《くおん》V1≠」
「問題は、そのパートナーやな」
「スパコンがあるでしょ」明日未が素っ気なく言う。
「もちろん、スパコンは欠かせない。解析世界を作るためにも、Qコンと我々とのインターフェースのためにも」小佐薙は、ホワイトボードをたたいた。「しかし解析神を作るとなると、スパコンでも力不足や。プロセスが複雑やし、情報処理量も多い」
「じゃあ、増設すれば?」
「増設と言えば増設になるが、そういうキャパシティの問題だけではない」
「というと?」
「プログラム通りに動かれていては、困るケースもあるやろうということや。こちらの要求を先読みし、ときには自分で判断もする自律性が求められる」
「すると増設するのは、|アーティフィシャル《A》・|インテリジェンス《I》」樋川が煙草に火をつけた。「人工知能か」
小佐薙がうなずく。
「解析神は、量子コンピュータとスパコン、およびAIとの混成体《ハイブリッド》や。特にAIは、久遠とスパコン、さらに我々とのインターフェースであり、プロジェクトの要《かなめ》となる」
「その肝心要のAIは、どうするんだ?」
「AIなら、うちの会社でも作ってるやろ。既存のハードでも基本的に問題ない」
「いくら自前の商品でも、タダというわけには……」
「せやから、お前に頼んでるやないか」小佐薙は、樋川に顔を近づけた。「何せ、御曹司《おんぞうし》や。何とかならへんか?」
樋川は、煙を吐き出した。
「型落ち≠ナよければ、業務部に手を回して、僕のコネで調達できないことはないが」
「|バージョン《V》1の売れ残りか……。ちょっとトロいが、使えんことはないな」
「わが社のAI、というと」明日未は、あごに手をあてた。「フライデイ≠フことね」
直美がゆっくりと手をあげた。「あの、フライデイって?」
「製品名さ」樋川が教えてくれた。「|自 由 意 思 決 定 型 人 工 新 世 代《フリーインテンション・ディターミネートアーティフィシャルユース》――略して|FRIDAY《フライデイ》。今発売しているのは、新型のV2だが、旧タイプのV1なら、何とか手に入る」
「あ」小佐薙は手を合わせた。「オプションとして、M≠烽ツけてもらおう。久遠に装着可能なよう、改造も頼む」
「厚かましい奴だな」樋川が眉間に皺を寄せた。「最初から、そのつもりだったくせに」
「M?」直美が首をかしげる。
「モバイル≠フMよ」明日未は、ノートパソコンのキーをたたいている。「フライデイは、S――つまり本体《サブスタンス》と、Mに分かれているの。Sだけでも機能するけど、オプションでMを付けることもできる。Mは、分かりやすく言うとロボットで、動き回って、あれこれサポートしてくれる。スパコンに対してはラインからだけでなく、人間みたいにキーボードや音声入力もできる。Mを通して、AIの動作状況もよく分かるわけ。ほら、これよ」
明日未がディスプレイに、フライデイV1Mの写真を出してくれた。
彼女が言った通り、上半身は、よく見かけるロボットと大して変わらなかった。しかし、足は四本で、獣のようにも見える。
「この方が安定するの」と、明日未が言った。「姿勢制御にあまりメモリを割かなくていいし」
一方、|サブスタンス《S》の方は四角い箱型で、見かけ上、スパコンと大差なかった。これも|ホスト《H》≠ニ|サテライト《S》≠ノ分かれるらしい。
「サテライトの方を飛行機に積めばいい」と、小佐薙が言った。「それでスパコンとリンクさせる。ホストは事務所かどこかにおいて、そっちはそっちで本社のスパコンともリンクさせておく」
「フライデイには、システムエンジニア機能もある」樋川は自慢そうに微笑む。「つまり、自分で自分を直したり、バージョンアップしたりできる、優れものなんだ」
「しかしAIだけなら、所詮《しょせん》、ただのマシンや。スパコン、さらにQコンと組み合わせれば、解析神として機能させることがでける」
直美は、小佐薙が言ったことを頭の中で反芻《はんすう》していた。AIとスパコンとQコンで、解析神を作る? 彼女を見て、小佐薙が笑う。
「まだ分かりにくいかもしれへんけど、イメージとしては、AIが、解析神の意識=Bスパコンが知識や記憶。そしてQコンは、無意識≠ノ相当すると考えてええ」
直美は、余計に分からなくなったような気がしていた。
「たとえばAIには、ひらめき≠フようなものがない。それも、Qコンが担うわけや」
「それで、ユニット名は?」と、樋川が聞いた。「解析神≠ニいう言い方も、社内だけのものだろ?」
「そやな」小佐薙は腕を組み、空を見上げた。「社名がネオ・ピグマリオン≠ネら、ネオ・ガラティア≠ニいうのは、どうや」
彼の言ったことを、直美は聞き取れなかった。「え、空手形?」
「空手形やなくて、ガラティア」小佐薙は一つ、咳払いをした。「ギリシャ神話で、ピグマリオンという若者が作ろうとした理想の女性の名前が、ガラティアや」
ガラティア――。ピグマリオンもそうだったが、直美はその名前を、初めて耳にした。
「AIさえ調達できるんなら、システムはそんなところでええと思う」小佐薙は、軽くうなずいた。「問題は、この解析神――ネオ・ガラティアを、いかに育てるかや」
直美は思わず、声を出した。「え、育てるんですか?」
意外と簡単にできると思って聞いていたら、育てなければならないのだという。
「いきなり全知全能なわけがないやろ。最初に作るのは、初期設定に過ぎない。人間と同じで、そこから一人前の神様に育ててやらんといかん」
「でも解析神とはいえ、相手は神様ですよね」直美は首をかしげた。「私たちは一体、神様に何を教えたらいいんですか?」
「そんなに心配することはない。AIには学習機能もある。我々の理想の神をめざすようにジョブを与えておけば、自分でネットに接続するなどして知識を吸収し、勝手に育っていくはずや。ただし質問に答えてやったり、注意して見守ってやったりというようなサポートは必要になる。それは直美にも手伝ってもらう」
「それが今回の、バイトの仕事なんですか?」
「いや、それだけやない。バイトに頼みたいと考えていたのは、ディスプレイ≠竅Bむしろ、そっちがメインなんやが」
「ディスプレイ?」直美は聞き返した。
「ああ。解析神ネオ・ガラティアにカウンセリングさせるとして、そのメッセージを、どうやってクライアントに伝えるかが重要な問題になってくる」
「フライデイMは? 喋れるんですよね?」
「もちろん。けど、いくらありがたいカウンセリング結果でも、フライデイが棒読みしたのでは、身もふたもないやろ。第一、マシンにカウンセリングさせることは、当面秘密にすることに決まったわけやし。するとここにも、ネオ・ガラティアのお言葉をクライアントに伝える、インターフェースが必要になってくる」
「小佐薙ビギンは?」
「こいつが?」樋川が煙草の煙を吐き出した。「血も涙もない奴だが、確かにマシンではないな。しかし、そういう役では使えないだろう。第一こいつは、関西なまりがひどすぎる」
「すぐ悪い評判も立つわよ」明日未も笑いながら言う。「この人の言うことを信じたばかりに、みんなひどい目にあったって」
「そういう問題やあらへん」小佐薙はムッとして言った。「俺はビギン。責任者や。俺は俺で、やることが一杯ある」
樋川が言った。「僕も明日未も、その点では同じだろうな」
「それにメッセージは、ビジネスライクに伝えても仕方ない。それなりのショーアップが必要やと思う。そこで、バイトの出番となるわけや」
「私ですか?」直美は、自分の胸に手をあてた。
「これこそ、わざわざバイトを雇う真の理由や」小佐薙は、直美を指さした。「神を作るといっても、神そのものを偶像化することは考えてない。すると、どうやって神のお言葉を伝えればよいのか」
空を見上げながら考えている直美に、彼は顔を近づけた。
「神には付き物の、アレやがな。分かるやろ。神の声を伝える者。ほら……」
「巫女《みこ》?」と、直美が答える。
「そう。解析神ネオ・ガラティアのディスプレイとして、巫女がいる。心配するな。回答そのものは、ガラティアが出す。しかしクライアントへ伝えるのは、巫女の仕事や。つまりガラティアとクライアントとのマンマシン・インターフェース≠ェ、巫女なわけや」
直美はつぶやいた。「それを私にやれと……」
「それだけやない。さっきも言った通り、直接クライアントと接するから、事業のシンボルとしても、巫女の役割が重要となる。巫女はプロジェクトの顔≠ナあり、ブランドイメージそのものや。事業を成功させるには、そういうキャラクターとして、巫女を作っていく必要がある」
「巫女を作る……?」明日未が呆《あき》れたように声をあげた。「神様を作るだけでややこしいのに」
「ややこしかろうが、巫女は必要や」小佐薙は、直美をじっと見つめた。「解析神の回答を理解した上で、クライアントの様子を見ながら、それにうまくフィットするよう等化補正《イコライジング》して伝えてやらんといかん。当然、巫女はその能力も問われる。解析神に奉仕し、自らにあっては神聖にして犯すべからざる存在を演じ切れる者でなければならない。それで処女が条件になったんや」
直美は、ハッとして顔をあげた。このとき、バイトの条件が処女だったことを思い出したのである。そういえば、そのことについての説明は、まだ聞いてなかった。
「いや、俺は別に、かまへん」小佐薙は両手を横にふった。「けどクライアントが許さん。巫女をやってもらうには、ルックスもさることながら、素行が何より問題になる。古代から巫女の処女性にこだわったのも、霊能力がどうのこうのというより、スキャンダル対策やったのかもしれない。神の声を聞く者が、他の男とねんごろになられたら困るからな」
どうやら彼は、それでバイトの条件として処女をあげたらしい。
直美はきょとんとして、小佐薙の顔を見上げていた。神作りのややこしい話を聞いているうちに、バイトの条件のことなど、すっかり忘れていたのである。一方、小佐薙は、量子コンピュータ開発の課題から新企画の主旨、事業のスタイル、さらに神の条件、システム設計などの議題を淡々とこなし、ようやく最初に掲げたバイトの条件の説明に行き着いたらしい。話の順序としてはそれで間違えてないのかもしれないが、この男の頭の中は、一体どうなっているのかと直美は思った。
「ちょっと待てよ」樋川が煙草の火を、灰皿でもみ消す。「お前、巫女が必要と言うが、よく考えてみたら宗教法人化を断念した時点で、その必要性はなくなっているんじゃないのか?」
「へへ、実はそうやねん」小佐薙は頭に手をあて、急に笑い出した。「募集したときはともかく、その後、宗教法人案が却下された時点で、俺が考えていたような巫女はいらなくなってたんや。ついてはその条件も、どうでも良くなっていた」
条件は、どうでも良くなっていた? 直美は、体から力が抜けていくのを感じていた。
「しかし巫女とはちょっと違うけど、メンタルヘルス事業をするとしても、オペレータ兼マスコット・キャラクターが必要なことに変わりはない。やはりそれも、スキャンダル厳禁や」
「しかし……」樋川が次の煙草を取り出し、火をつけた。「そのオペレータ兼マスコット・キャラが、彼女でいいのか? ずぶの素人《しろうと》なんだぜ。マスコット・キャラと言えば聞こえはいいが、要は人寄せパンダなんだろ。このパンダで人が寄ってくるかなあ」
明日未が気の毒そうに、直美を見つめていた。
「何もこんな人前に出るのが苦手そうな娘《こ》を選んで、わざわざ人前に出さなくても……」
「けどタレントを使うと、当然、スキャンダルの心配をせんとあかんようになる」小佐薙が首を横にふる。「それよりギャラはどうするんや。樋川、お前が払ってくれるか?」
樋川は黙ったまま、煙草の煙を吐いていた。
「彼女は、コンピュータの扱いに慣れているみたいやし」小佐薙は、直美の肩を軽くたたいた。「確かに賭けではあるけど、今から勉強しておいてもらえば、使えるかもしれん。取りあえず、この娘でやってみて、あかなんだらまた、チェンジしたらええがな」
「チェンジって……」樋川が吹き出した。「お前、他の何かと間違えてないか?」
「それでキャラの設計やが」小佐薙は、直美に顔を近づけた。「オペレータ兼マスコット・キャラには、そういうキャラクターを演じてもらわんとあかん。最低限、クライアントの前ではな」
「それは、広告代理店がやるんじゃないの?」と、明日未が言う。「CMプランナーとかさ」
「いや、自分たちでできることは、自分たちでやる。それに今は、広告以前の、社内企画の段階や」
しかし直美は、お金がないというのが、一番大きな理由のような気がしていた。それにこんな話を持ちかけられたら、広告代理店だって、きっと困るだろう。
「キャラとしては、若者にウケるキャラがええな。アニメか何かを参考にアレンジすれば……」
今、小佐薙が想像していることは、直美にも大体、理解できた。きっと裾《すそ》の短いセーラー服か何かを着た、テンション高めの美少女だろう……。直美はまた目まいをおぼえ、こめかみに手をあてた。
「雇われてるんやから、それぐらいのことは、やってもらわんと」そして小佐薙は、何故か空を見上げて続けた。「悩めるクライアントたちは皆、そんなお前の前にひれ伏すんや」
「ちょっと待て」と、また樋川が言った。「巫女じゃなくなったんなら、別な呼び名がいるんじゃないのか? マスコット・キャラ≠ナもいいと言えばいいが、何か役職名みたいなものが。小佐薙をビギン≠ニ呼ぶみたいにさ」
「せやな」小佐薙はしばらく考えた後、両手をたたいた。「イコライザー≠ヘどうや?」
「イコライザー?」
「ああ、解析神ネオ・ガラティアのアウトプットをイコライジングし、クライアントにフィットするように伝えるのが役目やから」
「イコライザー……」直美はくり返した。
「解析神とイコライザーの間には、当然、信頼関係《ラポール》も求められる。したがって、解析神の意識≠ニもいえるフライデイの面倒は、お前にもみてもらう」
明日未は、直美に声をかけた。「やることが一杯ね」
「事業が始まれば、一躍、有名人やぞ」と、小佐薙が言う。
「今のうちに、サインの練習してた方がいいかもよ」
「その前に、笑顔の練習やな」小佐薙は、直美の頬をつついた。「人前に出るのに、そんな無愛想では困る。客商売なんやから、もっと愛想良くしてもらわんと」
直美は黙ったまま、口をとがらせていた。
「ビギンにイコライザーか……」樋川が小佐薙に言った。「ビギン、僕にも何か、肩書をくれないか?」
「肩書?」小佐薙は首をひねった。「社長は俺がやるとして、事務はやってくれるんだろうな?」
「ああ。必要なら、今まで通り天矛にも乗って、サポートしてやる」
「だったら、チーフ事務長《パーサー》≠ナ、どうや?」
「本気か?」樋川が微笑んで言う。「別にかまわんが」
明日未が自分を指さした。「じゃあ、私は?」
「僕がパーサーなら、君はアテンダント≠ナいいんじゃないのか?」
「さて、会議はこれぐらいにしとこう。早速、フライデイの準備にかからんと」小佐薙は、手にしていたマーカーを置き、直美に言った。「二、三日中に、メールか電話をする。それで手配ができたら、フライデイに引き合わせるからな。それとバイト料やが、七月からは当分、現金手渡しでもええか?」
別にそれでもかまわなかったので、直美はこっくりとうなずいた。
「よし、じゃあみなさん、どうもお疲れさまでした」
樋川が最後にそう言い、会議は終了した。
直美は帰りも、明日未に駅まで送ってもらった。
「ごめんね」車をスタートさせてすぐ、明日未が言った。「せっかくの休みを、ぶち壊しにしちゃって」
助手席の直美は、首と両手を一緒にふった。「いえ、別に……」
明日未は、カーステレオのスイッチを、オンにした。
「無理しなくていいからね。困ったことがあったら、何でも相談に乗るから」
「ありがとうございます」と言って、直美は頭を下げた。
その後彼女は、外の景色を見ながら、しばらくもの思いにふけっていた。
今日の小佐薙さんの話だと、どうやら自分は、事業のマスコット・キャラとして、クライアントやメディアの前に出なければならないようである。人前に出るのは、やっぱり恥ずかしい。でもこのままやめてしまっては、元の自分に戻ってしまうだけなのは明らかだった。小佐薙さんが言ったように、これは自分の運命を変えられる、チャンスなのかもしれない。
そして何より、もう一度、あの機長さんに会いたい……。そのためには、彼らの計画に乗った方が良いのかもしれない。多少、変≠ニ思えることでも――。
4
七月三日の月曜日、直美はいつもと同じように学校へ行き、授業に出席した。気持ち的に、何だか落ち着かない。そろそろ前期試験が近くなってきたせいもあった。
お昼休み、たまたま前を通りかかったタンクトップの女子学生に、直美の目が釘付《くぎづ》けになった。人ごとながら、あそこまで見せていいのかという気がした。
自分には、とてもできそうにない。しかしマスコット・キャラのバイトを始めると、ああいう格好もしなければならないのかもしれないのだ。その時はその時のこととして、せめて笑顔の練習だけでも、始めておいた方がよいのかもしれない。直美はそう思い、少し微笑んでみた。
夕方、その日の授業を終えた彼女は、いつものように同好会の部屋へ向かった。あのバイトのことなど何もなかったかのように、いつものメンバーが集まり、パソコン占いの研究を続けた。帰り道、微笑み続ける直美に、部長の安藤令子が声をかけた。
「直美、何だか急に明るくなったんじゃない?」
「え、そうですか?」直美は笑顔で答えた。
「うん、いつもあんた、後ろから無表情で付いてくるだけなのにさ」
「お化粧のせいかな?」原杏里が顔をのぞき込む。「女は化粧で変わってしまうからね。けど何か、不自然な感じ」
「そうそうそう」と、斉藤智恵実が言った。「今日会ったときから、ずっと感じてた。今日の直美、可笑《おか》しいこともないのにずっと微笑んでるんだもん、何か変」
「何だろうなあ」令子は首をかしげた。「最近、お化粧に凝り出したのもそうかもしれないけど、何か、微妙に空回りしてるよね」
杏里がポツリと言った。「自意識過剰なんじゃない?」
「そうそう、それよ、きっと」智恵実が杏里を指さす。
直美は微笑みながら、みんなの会話を聞いていた。みんなの言う通りかもしれない。こうやって微笑んでいても、心の底から微笑んでいないのなら、やはり不自然にしか映らないのだろう。
「あんた、素顔で十分|可愛《かわい》いのに」と、杏里が言った。
直美には、信じられなかった。ファッショナブルで美人の原先輩から、自分が可愛いと言われたことが。
「直美は、いじめられっ子だったんじゃない?」令子が彼女の肩を、指で押した。「よく言うでしょ。可愛い子ほど、いじめられやすいって……。あんた、本当は可愛いんだよ」
令子のその言葉も、直美には信じられなかった。
帰宅した直美は、鏡で自分の顔を見てみた。今日一日、人前で笑顔を心がけた反動からか、一人で鏡に映る自分は、とても無愛想に見えた。人に笑顔をふりまくというのは、正直疲れるものだなあと直美は思った。
携帯が鳴った。着メロは、モーツァルトの『|小 夜 曲《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》』。
明日未からのメールだった。明後日、五日の水曜に、人工知能、フライデイが納品されるのだという。ついては、前に見学した空港島内にある、航空会社の事務所へ来るようにという指示だった。夕方で良いとのことで、地図と、通行証が添付してあった。直美はすぐに、行くと返信した。
機長さんに、会えるかもしれない……。携帯をしまいながら、直美はもう一度、鏡を見てみた。
水曜日、直美は早朝から落ち着かなかった。自分らしさを心がけ、念入りに、かといって濃すぎないよう、細心の注意を払いながら化粧を始めた。しかしいつまで続けてもきりがないと思い、学校へ行くことにする。
駅前で、ポケット・ティッシュとチラシを一枚受け取った。見ると、〈終末の日は近い〉とか、〈生き抜くために何が必要か〉といったような文字が躍っている。ソウル・オリジンのチラシだ。今月末に、また交流会があるらしい。行ってもいいのだが、今度もバイトでどうなるか、分からない。
今日は、午後の授業を休むことにした。出席もそんなうるさくないし、誰かにノートを借りれば、何とかなる。もちろん占い同好会も、サボることに決めている。これから当分、休むことが多くなるだろうし、いちいち部長に報告するのも気が引ける。今日のところは、黙って帰ることにしよう。そういうことが続けば、そういう奴だと思ってもらえて休みやすくなるかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていたら、キャンパスでバッタリ、令子に出会った。
作り笑顔で挨拶し、別れ際、令子は、「じゃ、また後でね」と言って手をふった。
「あの、すみません……」言うしかない、と直美は思った。「サークルの方、今日はちょっと、休みたいんですけど……」
「休むって、どうして? 智恵実はともかく、直美は今までちゃんと……」
「あの、ちょっと、バイトが……」
「バイトって、まさか、あの?」令子の表情が、みるみる変化していった。「信じらンない。あんなバイト、まだやる気なの?」
「え、駄目ですか?」
「別に駄目とかじゃないけど、どう考えても変でしょ。採用条件が処女なんていうバイト」
「いえ、それはもう、いいみたいなんです」直美は激しく両手をふった。「そんな、先輩が想像しているようなことじゃ、まったくなくて……」
「じゃあ、何なの?」
直美はそこで、答えるのを躊躇《ちゅうちょ》した。まさか、アルバイトで神様を作るのだとは言えない。余計に変だと思われるだけだし、第一、契約違反になってしまう。
「……すみません」彼女はぺこりと、頭を下げた。
「別にサークルなんだし、無理に出なくてもいいけどさ……」
「本当にすみません」
もう一度令子に謝り、直美はキャンパスを出ていった。
決して、小走りで駅へ向かったせいばかりではない。電車に飛び乗ったときの直美は、胸のときめきを、抑えることができずにいた。
|新交通システム《 N T S 》に乗り換え、空港島へ着いた。
空港ビルの通用口で名前を書いて入り、航空会社の事務所へ。ブリーフィング・ルームに、明日未が待っていた。すぐに車で、全翼機天矛V1≠フ格納庫へ向かうことにする。
|詰め所《ステーション》前には、樋川と小佐薙、そして本社のシステムエンジニアがいた。挨拶を済ませた後、直美はあたりをきょろきょろと見回した。前に見学に来たときには、巨大な全翼機ばかりに目がいっていた。しかし注意して見ると、格納庫には、いろんな機材があった。天井には、移動式のクレーンもある。整備士らしい人が周囲に何名かいたが、機長さんは、詰め所にもいないようだった。
「何を探しとる」と、小佐薙が言った。「AIなら、あっちや」
彼を先頭に、みんなは翼のカーゴゲートから、天矛の機内へ入っていった。
貨物室の中央付近にあるスーパーコンピュータの横に、キャビネット状の装置が新たに搬入されていた。人工知能、フライデイの、|サテライト《S》・|サブスタンス《S》だった。
そしてモバイル《M》の方は、電源オフの状態で、大きな充電器《チャージャー》兼ホルダーに着座していた。人型ロボットの場合、ホルダーは椅子状のものが多い。しかしこのホルダーには背もたれがなく、椅子というより、跳び箱か踏み台に近かった。
それは、フライデイMの形状を見れば理解できる。Mは前に写真で見た通り、上半身は人型をしているものの、下半身は四本足の、半人半獣型なのである。そして背中には、ランドセルのようなバッテリーパックを背負っている。ちょっと大きめのペットロボ≠ンたい、と直美は思った。手は、かなり人間に近い印象を受けた。キーボード入力にも対応できるよう、設計されているからだろう。全身は、白が基調だが、関節部分は黒く見えている。
「これが私たちの、神様?」直美がつぶやいた。
「神というより、解析神やな」と小佐薙が言う。「しかも構成要素の一つや。これだけなら、ただのAIに過ぎない。スパコン、さらにQコンの久遠とリンクすることで、解析神となる。Qコンはその無意識=AAIは意識≠ノ相当する」
直美は、フライデイMの、顔≠見てみた。目に相当する箇所には、距離識別のためか、カメラレンズが三か所にあった。アンテナが、角《つの》のようにも見える。全体として、人間というより、動物みたいだと直美は思った。
直美は、「何か、ヤギみたいですね」と、ポツリと言った。
隣で明日未が微笑んだ。「だったらこれ、神というより、生贄《いけにえ》の方かも」
樋川も笑いながら言った。
「それから、|ホスト《H》・|サブスタンス《S》だが、アプラの研究所に置いてもらうことにした。ホスト、サテライト、それからモバイルは、無線LANでつながっていて、メモリは合わせて、|ペタ《P》バイトはある。それからホルダーは、このスペアを天矛の操縦室《コックピット》に移動させて、メインの方は詰め所に置いておくからな」
「さて」小佐薙が、揉《も》み手をした。「サテライト、サブスタンスのセッティングがOKなら、起動させてみるか」
本社のシステムエンジニアが、一つ大きくうなずいた。
「起動後は、登録しておけば、音声入力でコマンドできますから」
「じゃあ、セットアップまでやってしまおう」
小佐薙は、フライデイMの前に立った。
エンジニアがサブスタンスを確認し、Mの背中にあるメインスイッチをオンにした。
電源ランプが点灯する。作動装置《アクチュエータ》のかすかな音を響かせ、フライデイMは、四本の足でしっかりと立ち上がった。首がゆるやかに回転したかと思うと、直美の正面で停止した。
直美は、Mと目≠ェ合った。
「今、|すり込み《インプリンティング》中じゃないか?」と樋川が言う。「直美ちゃんのことを、お母さんと思い込んだりしてな」
「え、困ります……」直美はあわてて、Mから目をそらせた。
〈こんにちは〉
その声≠ノ、再び顔を上げる。
〈私はフライデイV1M型です〉
Mはさらに、自分のシリアル・ナンバーを告げた。見ると、口のあたりが光っている。合成音は、若い男性の声のようにも聞き取れた。
エンジニアは早速、サブスタンス側からユーザー登録を開始した。その後順番に、音声登録を済ませる。
小佐薙は、直美の肩をたたいた。
「お前には、こいつのオペレータもやってもらうからな」
そうだった。オペレータ兼マスコット・キャラがバイトの仕事なら、このフライデイMは、自分のパートナーということになる。そしてフライデイのお言葉≠、自分がクライアントたちに伝えねばならない……。
直美はそう思いながら、またフライデイMを見てみた。何か、弱々しくて頼りない感じがする。しかし解析神として育つに連れて、威厳も身につけていくのかもしれない。
「みんなの言う通りやな」小佐薙がフライデイMを見て、顔をしかめた。「コレをカウンセラーとして、人前に出すわけにはいかへん。やっぱり巫女――いや、イコライザーがいる」彼は直美に向き直った。「今日わざわざお前に来てもらったのは、そのためでもある」
そしてショルダーバッグからごそごそと紙袋を取り出すと、直美に渡した。
「何ですか?」
直美が中を見てみると、数枚のビデオディスクやカラーコピーなどの資料類、さらに冊子などが入っていた。カラーコピーは綴《と》じてあり、一番上に、〈イコライザーのキャラクター設定資料〉と書かれている。
「ネットの市場リサーチをチェックした」と、小佐薙は言った。「あくまで参考イメージや」
見てみると、超ミニや水着姿で活躍する美少女アニメの主人公たちのイラストが、数点収められていた。お仕置きしたり、魔法をかけたりするのが得意なキャラたちで、直美の知っているものもいくつかあった。一方、冊子の表紙には、〈想定シナリオ〉とあり、さらにその下には〈準備稿〉という注釈が入っている。
パラパラとページをめくる直美に、小佐薙は声をかけた。
「いわば、口上≠ンたいなもんや。その通りでなくてもいい。言うとくが、これも社外秘やから、他言は禁物やぞ」
社外秘も何も、こんなことは恥ずかしくて誰にも言えないと、直美は思った。
「やっぱり、私にはできません……」直美は、想定シナリオを閉じた。
「そんなバイト根性でいられても困る。頼まれたことは、きっちりやってもらわんと。これは、お前にしかできないことなんや」
と言うか、これは単に、自分しかやる人間がいないというだけなのである。
小佐薙は想定シナリオを開き、直美に突き出した。
「試しに、読んでみてくれ」
彼女は気を取り直し、想定シナリオの一行目の、イコライザー≠フ台詞《せりふ》を思い切って読み上げた。
「みなさん、こんにちは!」
貨物室に、彼女の声が響きわたった。
樋川が、腕を組んだ。「意外と、声の質は良いんじゃないか?」
その点については、みんな同感のようだった。
「そんな甘える感じではなく、もっと自信をもって話してくれ」と、小佐薙が言う。「台詞の棒読みでは、誰の心も動かすことはできない。感情を込めて、気持ちが人に伝わるように。それはフライデイにもできない芸当や」
彼にしてはもっともな意見かもしれないと思い、直美はうなずいた。
「それと、デコヒーレンスなどの関係で、解析神ネオ・ガラティアのメッセージが、完全に降りてこない場合も考えられる。そのときは、イコライザーが自ら考え、補ってやらねばならないこともあるやろう」
「つまりアドリブで、ということですか?」
「そうや。場合によっては、フライデイのアウトプットは、あくまで参考程度にして、自分の考えを相手に伝えることが必要な場合もあるかもしれない」小佐薙は、直美の肩を軽くたたいた。「大変なことに思えるかもしれんが、自分自身の良い修業にもなる。できれば、がんばってやってほしい」
直美は、資料をバッグにしまおうとした。しかし入らないので、それを脇《わき》にかかえた。
そして、あとはシステムエンジニアたちにまかせて、四人は詰め所へ戻ることにした。
「ビデオは、あくまでも参考やからな」と、小佐薙は直美に言った。「それとそっくりにやる必要はない」
心の中で直美は、「そんなことができるか」と思っていた。
ビデオはまだ観てないが、中身は大体、想像がついていた。イコライザーの設定資料のキャラクターたちが、所狭しと活躍したり、お説教したりしている場面集に決まっている。
直美はふり向き、天矛の機内をもう一度見てみた。
しかしこの人たち、本気でこれに自分たちの運命をかけるつもりなのだろうか。そう考えながらカーゴゲートを降りていると、直美はまた、軽い目まいをおぼえた。
「次は、フライトや」小佐薙がポツリと言う。「AIとリンクさせた上で、久遠を動かす」
樋川が隣で微笑んだ。「いよいよ神の降臨か」
「フライデイのセットアップに問題なければ、解析神作りのフライトは、七月十日の月曜日やな。それからさらに解析世界を構築していくので、多分、最低一週間は毎日飛ぶことになる」
「でも、闇研なんですよね」直美は小佐薙に言った。「そんなに飛行機を飛ばして大丈夫なんですか?」
「わざわざ闇研のために飛ばすわけやない。前に樋川も言うてたと思うが、メンテナンスや性能点検のため、定期的に飛ばすことになっているんや。そこに、このプロジェクトを突っ込む」
「あの」直美は、ためらいがちに聞いてみた。「私も乗せてもらえるんですか?」
「もちろん。イコライザーにも来てもらわんと。次は、朝からになる。できるだけ都合をつけて、参加するように」
その後、空港ビルへ戻った直美は、明日未からフライトの注意事項をあれこれ聞かされた。さらに、保険加入の手続きなどを済ませる。
そして最後に、直美はスリーサイズを質問された。飛行機に乗るために、専用の飛行服を用意するのだという。それと、イコライザー用の衣装も準備しないといけないらしい。身長と体重も聞かれた。ちょっとダイエットもしなきゃならないかなあ、と彼女は思った。
アパートへ戻った直美は、荷物をテーブルへ置き、エアコンのスイッチを入れた。
令子から、メールが届いた。
〈サークル、次は顔出しすること。仮入会から正式入会への変更手続き、それに夏の合宿の打ち合わせもあるからね〉
どうせお目当ては、合宿費の方だと直美は思った。返事せずに、放っておくことにした。
そのまま、ベッドに倒れ込む。何もする気になれない。気疲れというやつかもしれない。機長さんに会えると思ってたのに、空振りに終わったせいもあるだろう。
でも今度こそ、間違いなく会える――。何とか、このチャンスをモノにしないと。できれば、メアドの交換まで持ち込みたいものだ。
でも、作戦は? 映画か何かに誘うとか? 断られたら、どうしよう。しかも、女の私から……?
いや、それ以前の問題だと気がついた。まず、何とかして、きっかけをつかまないと。
飛行機が揺れたとき、キャッと言って抱きつくとか? でも考えてみれば、自分が機長の隣に座るというようなシチュエーションは、副操縦士でもない限り、あり得ないのではないか?
もどかしい、と直美は思った。恋い焦がれる人ともうじき会えるにもかかわらず、どうコミュニケーションしてよいか、分からないのだ。
とにかく、お洒落《しゃれ》していくことにしよう。彼女は、枕元に置いたままにしていたファッション雑誌を、パラパラとめくってみた。買いそろえたいものは一杯あったが、写真のモデルを自分の顔に置き換えてみると、げんなりしてしまう。機長さんの彼女《カノジョ》にしてもらえるだけの値打ちが、自分にあるのかどうか……。
本当は今、そんなことで悩むより、仕事のことで悩まないといけないのだが。自分に与えられた役割をちゃんとこなせないと、もう会うこともなくなってしまうのだから。
彼女はベッドから体を起こし、小佐薙から受け取った紙袋の中身をテーブルに広げた。まず、ビデオディスクを見てみることにする。予想通り、何枚かは美少女アニメの名場面集だった。他に、巫女のドキュメンタリー映像なんかもあった。しかし、東北地方のイタコなども収められていて、小佐薙がイメージしているイコライザー像を、直美はちょっとつかみかねていた。
次に想定シナリオの準備稿を手に取り、開いてみる。女優になりたいと思ったことはあったが、まさかこんなことで、役者のまねごとをするとは思わなかった。
ちょっと読んでみる。台詞の暗記なら、試験勉強の要領とそう変わらないし、どこででもできると思うが、発声練習や本読みとなると、そうはいかない。少なくとも、このアパートではできないだろう。声が隣に筒抜けになっているかもしれないと思うと、ちょっと恥ずかしい。しかし、恥ずかしがっている場合ではない。事業が計画通り進めば、自分の声や姿が、全国に流れるのだ。
とにかく、一通り練習はしておかないといけない、と彼女は思った。
次第に直美は、役作りのことで頭が一杯になりつつあった。バイトを続けるには、ふだんの自分とは違うキャラを演じなければならないことは、確かなのだ。それで彼女は、自分に与えられた役割を常に心がけながら過ごしてみることにした。つまり、いつも笑顔で明るくふるまうのである。
最初、自分にはとてもできないと思ったが、これは自分ではなく、自分に与えられた役だと思うと、大胆になれる気がした。不思議なことだと思う。プロの女優さんの中にも、演じているときと素≠フ表情に大きなギャップを感じる人がいるが、きっと同じような理屈なのだろう。それなら何とか、自分にもできるかもしれないと彼女は思った。
だから同好会の部屋に足を踏み入れたときも、元気よく挨拶してみることにした。
「こんにちは! 直美でーす」
すでに来ていた三人は、雑談を止《や》め、彼女に注目した。
「大丈夫?」令子が聞いてきた。「何かあったの?」
杏里が怪訝《けげん》そうに言う。「人が変わったみたい……」
直美は、笑顔で問いかけた。「私、何か、変ですかね?」
「変も何も、急に大声を出すしさ。視点も変じゃない? 私たちじゃなく、どこか遠くの方を見ている、みたいな」
「うん、この前も浮いている感じはしてたけど」智恵実が首をひねる。「微妙な空回りに、拍車がかかったっていうか。しかも自分一人テンションを上げて、それがまわりに伝わってない」
「エへ、そうかなあ?」直美は努めて明るくふるまいながら、頭に手をあてた。そして「アハ、失敗失敗」と言って笑った。
気がつくと、この部屋で笑っているのは、自分だけみたいだった。
自分の何がいけないのか、まだよく分からないが、とにかく今日はあまり人と喋らない方がいいのではないかと思い、直美はいつも通り、パソコンに向かうことにした。
考えているうちに、虚構と現実を見分けて、キャラのコントロールをすべきと気づいた。路上で突然『マクベス』を演じたら、誰だってびっくりするだろう。役作りの努力をするのはかまわないが、練習のときは役に百パーセントなり切るのではなく、ふだんの自分と、お芝居している自分の、間ぐらいのキャラが丁度良いのかもしれない。
しかし、事業におけるイコライザーのキャラクター設定は、あれぐらい元気があっていいのではないかと思った。またそのキャラも、思い描いていた自分の理想像――陽気で明るく、誰からも好かれるようなキャラクターに、かなり近いかもしれないという気もした。それを演じることで、自分も、自分の理想に近づけるかもしれない……。
帰り道、みんなの後ろを歩きながらそんなことを一人で考えていたとき、智恵実から話しかけられ、前期試験や夏合宿のことをあれこれ聞かれた。適当に返事していると、智恵実は杏里と話し始めたので、直美は、二人の会話には参加しなかった。
正直、役のことを考えていると、人と話すのもわずらわしくなってきた。このバイトに自分の将来がかかっているかもしれないのに、どうでもいいような話題を持ちかけられていちいち反応するのは苦痛に思えるのだ。
帰宅した彼女は、両手で頬を揉みほぐした。ずっと笑顔だったせいか、顔がこわばって、なかなか元に戻らない。
着替えようとしたが、部屋の中が、熱気でむしむししている。エアコンのスイッチを入れる前に、窓を開けた。今日は七夕だったが、あいにくの曇り空である。
星は見えない。
5
七月十日の月曜日。フライト当日の朝になった。
直美はもちろん、今日は学校を休むつもりである。ひたすら、鏡とにらめっこをする。今日こそ、機長さんに自分のことを、強く印象づけなければならない。お化粧も念入りにしたいところだが、みんなにアドバイスされたように、塗りたくっても仕方ない。自分に合った、自分らしいメイクをナチュラルにすればいいのだ。
問題は、その自分らしさとは何か、である。試行錯誤が続いている。取りあえず、いつも使っているクリームとはまた別に、|シミかくし《コンシーラー》と日焼け止めクリームを塗ってみた。口紅は二色使い、唇に濃淡をつけてぷるぷるした感じを出してみる。なかなか自分でも納得がいかないのだが、もう時間がない。
直美は電車の中で、メイクを直すことにした。今の彼女にはもう、コンパクトの中の自分しか見えてなかった。
空港へ着いた彼女は、空港ビル内にある、航空会社のオペレーション・センターへ向かった。そこには大きなテーブルがあるぐらいで、間仕切りはなく、周囲を職員たちがあわただしく行き来していた。まずフライトそのものの打ち合わせを、ここでするらしい。
小佐薙、樋川、明日未は、すでに来ていた。
「おはようございます」直美は元気よく、挨拶をした。
しばらくして、柴宮機長と待田副操縦士が入ってきた。ほぼ一か月ぶりの再会だった。
「おはようございます」
ドキドキしながら挨拶した後、直美はうつむいてしまった。実はここで、機長に熱い視線を投げかけるつもりだったのだが、思い通りにはいかないものである。
「明日未に聞いたんだが」副操縦士の待田が、急に話し出した。「今度は神様作るんだってな。大丈夫か? あんたら」
機長の柴宮が一つ咳払いをし、「では、ブリーフィングを開始します」と言った。
柴宮は、天気図を広げながら、本日の気象状況についてみんなに説明した。次に機体の整備や給油の状況を、待田が報告する。彼は引き続き、航行に関する注意事項を述べ、質問がないことを確認した後、ブリーフィングは終了した。この後、貨物用搭乗口から格納庫内の詰め所へ移動し、全員、飛行服に着替えるらしい。それからミッション内容について確認するという。
早速、移動を開始する。直美の計画では、廊下を渡り切るまでに、フライトに対する期待や不安について機長さんと語り合うことになっていたのだが、思い通りにいかないものである。彼女は黙ったまま、みんなの後ろをついて歩いた。
「普通、恥ずかしくてこんな飛行プラン、出せないぜ」待田が柴宮に言った。「毎回毎回、上昇と下降をくり返して、元の空港へ帰ってくるんだもんな。遊覧飛行じゃあるまいし」
柴宮は、「遊覧している余裕はないと思うが」と言いながら、歩き続けていた。
「あんた、覚えてるぜ」待田は急にふり返り、直美に話しかけてきた。「見学に来てた娘だろ。ちょっと雰囲気が変わったみたいだけど、髪形でも変えたのか?」
直美は、こっくりとうなずいた。
「その方がいい」待田は直美の肩を軽くたたいた。「ま、よろしく頼むぜ」
髪形を変えたというより、明日未のアドバイスを聞いて束ねたのだ。明日未を見ると、彼女も今日は、髪をアップにしてまとめている。そうしないと、| 弾 道 飛 行 《パラボリック・フライト》で無重量状態になったときに、髪の毛がすごいことになるかもしれないのだという。
しかし髪形のことだけか、と直美は思った。あんなに時間をかけてお化粧したのに。しかも声をかけてくれたのは、待田副操縦士だけ。他は誰も気付いてくれなかったみたいである。
明日未は、待田の耳元に口を近づけた。「手を出しちゃ、駄目よ。バイトの娘に」
「それも聞いてる」待田は、直美を横目で見た後、「処女が条件の女に手を出したら、樋川にどやされらあ」と言って豪快に笑った。
「気にしなくていいから」明日未が、今度は直美の耳元でささやいた。「この人、いつもこんなふうなんだから」
直美は、待田の背中をながめていた。「何か、野性的で男臭い感じの人ですね」
「かもね。自衛隊から転職してきた人なの」
「おい、大穴、当ててくれよな」待田がまたふり向いた。「期待してるぜ。あんたらのプロジェクト」
明日未がまた、直美に口を近づけた。「相手にしちゃ駄目よ」
「そんな難しい顔をするなって」待田は鼻を指でこすった。「人生は楽しい。これからも一緒に楽しもうぜ」
待田は笑いながら、直美の前を歩いていた。
手荷物検査の後、ミニバンに乗り込み、格納庫内の詰め所に着いた。
全翼機、天矛V1は、まだ地上動力施設《 G P U 》からの電力供給ケーブルなどが接続されたままになっていた。
詰め所の中へ入るのは初めてだったが、中学校とか高校の倉庫と職員室を足して二で割ったような感じの部屋だった。直美は、明日未とともに、女子更衣室へ向かう。
用意された飛行服を見た彼女は、何かウェットスーツみたいだと思った。銀色が基調で、胸には、太極図をモチーフにデフォルメしたという、アプラDT社のロゴが入っていた。早速、着てみることにしたが、ピチピチでなかなか入らない。彼女は明日未に聞いてみた。
「サイズ、小さいんじゃないですか?」
「いえ、これで合ってる」明日未は、直美の飛行服をチェックして言った。「むしろ、脚が長いぐらいよ。今度直しておくから、今日は裾を折っておいて」
明日未の説明によると、これは| 耐 《プロテクション》Gスーツでもあるのだという。弾道飛行の場合、上昇時に血液が下半身に移動し、失神することもあるらしい。スーツには、外部から体を圧迫することで、頭部の血量を確保する効果があるというのだ。
キャップをかぶりながら、明日未の方を見てみる。タイトなスーツに、彼女のボディラインがくっきりと浮かび上がっていた。直美は自分のズボンの裾を折りながら、明日未さんはセクシーだし、何を着ても似合う人だなあと思った。しかし小佐薙には、この銀色をした飛行服姿の彼女が、どうやらブリキ女≠ノ見えるらしい。
二人は、お互いの飛行服のチェックをした後、ミッション内容についての最終打ち合わせのために、更衣室を出た。
詰め所のほぼ中央にあるテーブルの前に、起立したまま、みんなが集まる。
ミッションの打ち合わせは、小佐薙の説明で始まった。
「まず、ルーティンのメンテナンスやが、これは通常通り、飛んでくれたらええ。その後のテスト・プログラムに、闇研を突っ込む」
「おい、聞こえるぞ」あたりの様子を見ながら、樋川が言った。
「別にかまへんがな。まずいつも通り、量子CPUの初期化《イニシャライズ》をしてもらう。その次の弾道飛行で、解析神――ネオ・ガラティアを誕生させる」
「神の誕生は、どうやって確かめる?」と、待田が聞いた。「まさか自己申告じゃないだろうな」
「もちろん、テストはする。そのためアプラDT研究所のスパコン内に、因数分解応用鍵――|FAKe《フェイク》で厳重に守られたターゲットを用意してある。AI、スパコン、Qコンが問題なくリンクしているかどうかを、ターゲットのメッセージが解読できるかどうかで試す。それが確認できれば、一応、解析神が誕生したとして良い」
「今日はそこまでなのか?」
「いや、次に解析世界をスパコン内に創世する作業に入る。リンクの検証作業の一環として、同時にやってしまう。ただしこれは、段階的に行う。よって本日は、物理的な基盤作りまでやな」
「具体的には?」柴宮がたずねる。
「まず、ビッグバンや」と、小佐薙は答えた。「宇宙定数などの初期条件を解析神が決め、開闢《かいびゃく》させる」
「しかし、人生相談できればいいんだろ?」待田は、不審そうな表情を浮かべている。「何もビッグバンから始めなくても……」
「そういう大局的見地が必要なんや。他社との差別化のためにもな。その解析世界を解析神が認識できるかどうかまで、今日は確認してしまいたい」
「それに成功すれば、僕は企画書の準備を始める」と、樋川が言う。「並行して、解析神を育てなきゃならないが」
「育てるのか?」待田が、数日前の直美と同じことを聞いた。
「人間と同じや」小佐薙も、そのときと同じように答える。「その育児≠ニ同時に、次からは解析世界を構築していく。これは大体、六日を予定しているけど、地上での検証作業に、もう一日はいるとみている」
「それで営業開始か?」
「いや。その後テストを続け、解析世界に放り込んだ検体の泳動を計算できるかどうかの確認作業を続け、精度を高めていく。そして最低限、占いができる目処《めど》が立てば、営業開始や……」
小佐薙の説明の間、直美はずっと、機長の様子をちらちらとうかがっていた。今までも、機長さんに話しかけるチャンスがないわけではなかった。しかし緊張して、近づくことさえままならないのだ。
ふと気がつくと、小佐薙の説明が終わっていた。質問がないわけではなかったが、実際にやってみないと分からないと待田が言うと、打ち合わせは終了した。
いよいよ、出発となる。考えてみれば、機長さんとのきっかけ作りに悩んでいる場合ではないかも、と直美は思った。
「その前に」
樋川はそう言い、詰め所の隅の、少し高いところにある神棚へ向かって手を合わせた。
みんなも彼を真似るように、フライトの安全を祈願している。
「どうか神作りが成功しますように」という、小佐薙の声がした。
何か、おかしい気がするなあと思いながら、直美も手を合わせることにした。
詰め所を出た後、金属探知機を通り、天矛V1へ向かう。
ウイング・カーゴゲートの下で、整備主任が待っていた。全員、彼と挨拶を交わした。その後、柴宮と待田は、直接彼からの報告を聞いていた。
他の整備士たちが、ゲートから次々と降りてくる。彼らと入れ替わるように、みんなは天矛に乗り込むことにした。
「さて、巫女さんのご搭乗だ」待田がつぶやいた。「祝詞《のりと》はかまわないが、護摩《ごま》をたくのは勘弁してくれ。機内は全席禁煙なんでな」
「はい、分かりました」と、直美が答えた。
本当は何のことかよく分からなかったのだが、多分冗談なんだろうと思い、聞き流すことにしたのである。彼女がスロープに足をかけると、その瞬間、待田が言った。
「ブー」
直美は驚いてふり向き、「何ですか」と聞いた。
「重量オーバー」
ケラケラと笑う待田を横目に、明日未が直美の肩に手をかけた。
「だから相手にしなくていいから」
そして直美は、明日未にガードされるようにして、ゆるやかなスロープを上っていった。
天矛の貨物室に全員が足を踏み入れると、カーゴ・ドアは、ゆっくりと閉じていった。
早速小佐薙は、フライデイのサテライト・サブスタンスへ行き、自分の目でチェックを始めた。次に貨物室とコックピットを隔てる壁にある、円筒形を縦方向に割ったような黒い構造物――量子コンピュータ、久遠のヘッドへ向かう。
「そう心配するな」と待田が言う。「エンジニアがちゃんとセッティングしてくれてる」
「相手は、量子CPUや」小佐薙は、ヘッドの温度表示を確かめていた。「辛うじてメガ《M》量子《キュ》ビット台を達成してはいるけど、フライト時のコンディションにかなり左右される」
「しかし、ほとんど絶対零度でないと計算できないとはな」待田は小佐薙を見ている。「こんなものを設計した人間は、それよりクールかも」
彼にかまわず、小佐薙はチェックを続けている。
正直、直美には、量子コンピュータのことがいまだによく分からなかった。基本となっている理論などは、いくら勉強しても、ちっとも理解できない。しかしあれこれ本を読んでいたとき、案外、ノイマン型コンピュータよりも簡単かもしれないと思えた瞬間もあったのである。
その本によると、量子計算というのは、波の干渉の性質を利用しているのだという。すると直美には、それが何か、音楽に近いもののように思えたのだ。行列などが出てくる計算式は難しいが、どうも量子コンピュータというのは、和音とか、コード進行とかと似たことをやりながら、答えを出していくものらしい。逆に音楽というのは、見方によっては、ある種の量子計算のモデルのようなものと、いえるのかもしれない。
そんなことを思い出しながら、直美は久遠のヘッドをながめていた。このマシンは案外、音楽というものを理解しているのかもしれない――。
人の気配に気づき、直美はそちらの方に、ちらりと目をやった。柴宮が立っていた。しかも、目が合ってしまった! 直美は思わず、後ずさりした。
「そんなに緊張しなくていい」柴宮は、微笑みを浮かべながら直美に言った。「君は初めてか?」
多分、フライトのことだと思い、直美は小さな声で答えた。
「あ、はい……」
「心配するなと言っても、無理かな」柴宮はふり向き、「おい、富士君」と、大きな声で明日未を呼んだ。
そして明日未に何か耳打ちする。すると彼女は、アテンダント用のキャビネットへ向かっていった。
「お守りだ」と、柴宮が言う。
明日未から何かを受け取った柴宮は、直美にそれを差し出した。手のひらに収まるほど、小さい。見てみると、キャンディのようだった。
「そんなものでも、舐《な》めていると、不思議と気持ちが落ち着く。不安になったら、口にふくむといい」
受け取った直美は、「ありがとうございます」と言って、それを胸ポケットにしまった。
隣で待田が、ニヤニヤしている。「まさに、アメとムチだな」
柴宮はかまわず、直美に話しかけた。
「弾道飛行中は無重量状態になるから、財布などの小物類も、必ず固定しておくように」
「どうもご親切に……」
直美はぺこりと頭を下げた。それは再三、明日未からも注意を受けたことだった。
「それと、機内での携帯電話のご利用は、ご遠慮ください」
柴宮は、ポケットから自分の携帯を取り出し、電源を切って見せた。
そのとき直美は、彼の携帯に、ストラップがないのに気づいた。
「あの、ストラップは?」
「まだ機種変更したばかりでね」柴宮が笑う。「じゃあ我々は、先にコックピットへ」
柴宮は待田とともに、コックピットのドアへ向かっていった。ぼんやりと、直美が見送る。
待田は、貨物室の壁にポツンと一人でいる、樋川に気づいた。
「お前も大丈夫か?」待田が彼に声をかけた。
「いや、実は僕、高所恐怖症なんだ」と樋川がつぶやく。
「ふん、初めてでもないくせに」と言って、待田が笑った。
樋川の肩をたたくと、待田はコックピットの中へ入っていった。
直美はそっと、胸ポケットのキャンディに、手を触れてみた。
貨物室での小佐薙のチェックが終了し、みんなの後について、直美もコックピットへ入ることにした。
小佐薙は真っすぐ、量子コンピュータ、久遠V1へ向かった。その久遠の両側面にある席の一つは改造され、ホルダーが置かれている。フライデイV1Mは、そこにいた。
〈こんにちは〉Mが、みんなに挨拶をする。
直美は、久遠の黒い曲線を見つめた。上に並んだ量子CPUモニターには、セッティング完了の表示があった。
「おい、フライデイ、久遠とうまくやってくれよ」小佐薙は、Mに話しかけた。「お前とスパコン、さらに久遠が一体となって解析神、ネオ・ガラティアになるんやからな。お前にはその、いわば意識≠フ部分を担当してもらうことになる」
Mは、〈はい、承知しました〉と答えた。
柴宮機長、待田副操縦士は、すでに一番前の席にいた。プロジェクト・リーダーである小佐薙の席は、その後ろ、コックピットのほぼ中央にある。椅子は回転式で、コックピットの状況を目視で確認できるようになっていた。明日未は、その左側のオペレータ席で、主にコンピュータ・システムをチェックするらしい。樋川は、小佐薙の右に座り、その他の機内環境を担当する。
直美の席は、一番後ろだった。半円筒形の久遠をはさんで、フライデイMと斜めに向き合う形になる。椅子を少し回せば、壁の一メートル四方がブルーバックになっていて、座席に据え付けられたテーブル型|操作卓《コンソール》には、ディスプレイの他に小型カメラや照明用のライトがあった。将来のカウンセリングに備えて、簡易スタジオ風にアレンジしたらしい。
「本番では、フライデイがこのディスプレイにメッセージを表示する」と、小佐薙が言う。「イコライザー役のお前が、カメラ目線で、感情を込めて読み上げればええからな」
やっぱりやるんだ、と直美は思った。
「今日は、見学だけでいい。慣れておいてくれ」
小佐薙はそう言い、中央にある自分の席についた。
直美もイコライザー用の席に座り、改めてまわりの様子を見まわしてみた。
柴宮と待田は、プリフライトチェックを続けている。二人の席は天井にも計器類があり、とても狭そうだった。
明日未が、直美のそばに立ち、座席の下にある救命胴衣の説明をした。さらにヘッドカムを彼女の頭に装着して、その使い方を教えてくれた。通話先はコンソールで選択し、喋ると自動的にスイッチがオンになるらしい。
「おい直美、気分が悪くなったら、コンソールの下にビニール袋があるからな」早速、副操縦士の待田から連絡が入った。「気をつけておいてもらいたいのは、体感重量の変動だ。〇Gから一挙に二G程度にまで上がる。耐Gスーツは着用してるが、それでも気を失いそうになったら、脇を締めて、ふんばれ。血流の降下を、ある程度は防げる。それとシートの回転は、忘れないようにロックしておくこと」
「ありがとうございます」直美は、待田に礼を言った。
五点式ベルトを締める。明日未がそれを確認し、親指を立てて、ウインクした。そして彼女も、自分の席へつく。
直美には、飛行機の操作系統のことも分からなかったが、自分の前にあるコンピュータの操作は、大体分かる気がした。それもほとんどは、フライデイMがやってくれるらしい。
「コード入力。暗号解除」ヘッドカムから、明日未の声がした。
「GPU、切断確認」今度は待田が言う。
「エンジンスタート」
柴宮の指示を、待田が復唱する。軽い振動とともに、機内のノイズも次第に大きくなっていった。天矛は牽引車《トーイング》とともに、格納庫を出た。誘導路《エプロン》をゆっくりと進む。
直美は、コックピットの窓から外を見てみた。空港の展望ロビーには、大勢の人がいるようだ。お目当ては、この全翼機かもしれない。スケジュールを確認して、わざわざ見に来るマニアもいるらしい。
ローカル機の離陸を見ながら、管制塔の指示を待つ。ちなみに、この空港の滑走路は約二千五百メートルで、天矛はギリギリ離着陸可能らしい。
航空管制官から、離陸許可が出た。
機長がパワー・レバーを引く。三基のジェットエンジンが、速やかに反応した。フラップを約十度にしながらパワー・マックスまで上げる。すると瞬く間に、時速三百キロメートル近くにまで達した。
機長が迎角を上げると、全長七十五メートル、最大離陸重量約六百トンの巨体は、その大きな機影を地上に映して離陸した。
副操縦士が、ランディング・ギアを機体に収納する。
上昇を続ける天矛は、やがて雲を突き抜けた。窓の外は、晴れ渡っている。
直美は雲海を下に見ながら、まさにこんなところが、神様の住処《すみか》ではないかと思っていた。地上では無数の人たちが、いろんな思いをいだきながら生きている。それを今、自分は鳥瞰《ちょうかん》しているのである。
天矛はパワーを徐々に下げ、北へ向かった。弾道飛行をするのは、民間機の航空路からは外れた、日本海上のエリアである。自衛隊の訓練空域などとは重なるが、すでに許可は得ている。
機長の柴宮がパワーブレーキを操作する。その後天矛は、ゆるやかに旋回を始めた。
ナビゲーション・ディスプレイを見ながら、彼が「予備高度、到達」と言った。
「待ってても、機内サービスは来ないぜ」ヘッドカムから、待田の陽気な声が聞こえた。「さあ、始めるか」
天矛はまず、ルーティンのメンテナンス・メニューをこなしていった。これは機体、および量子コンピュータ・システムの維持管理を目的としたもので、手順に従って、淡々と進められた。
小佐薙が、樋川に目で合図を送ると、二人は軽くうなずき合った。
「よし、量子CPUの初期化にかかる」と、小佐薙が言った。
その作業工程に関しては、直美は見学の際にも、大体のことは聞いていた。
ヘッドカムから樋川の声がした。「直美はリハーサルだと思って、乗っていればいい」
天矛は、四十五度近い急角度で上昇を始めた。直美の体が椅子に押しつけられる。ディスプレイを見ると、すでに時速九百キロメートル、高度七千メートルを超えていた。
「パワー・ミニマム」柴宮がそう言うと同時に、ディスプレイのシグナルが光る。
ベルトは装着していた。しかし直美は、自分の体が椅子から浮き上がっていくのを感じていた。
ヘッドカムから、明日未の声がした。「量子CPU、初期化開始」
これも見学のときに、あらましは聞いている。カーボン・ナノチューブ内に閉じ込めたボース粒子を、超低温で|ボース《B》・|アインシュタイン《E》凝縮体《C》化する。さらに低重量状態において、磁場によって電子スピンの向きをそろえるなどして、均一な|量子からみ合い《エンタグルメント》状態にするのだ。
天矛は、速度を落としながら約一万メートルまで到達した後、今度は下降し始めた。滑空というより地面に向かって落ちているわけで、そう考えると直美は、ちょっと怖い気がした。
依然として機内は、無重量状態を保っている。久遠の量子CPUモニターに、グリーンシグナルが点灯した。
「初期化確認」と、明日未が言う。
約七千メートルあたりで、天矛はエンジン出力を上げた。直美の体が、再び椅子に押しつけられる。
窓の外を見ると、いつの間にか水平飛行に転じたようだ。
明日未は小佐薙に報告した。「現在、検品作業《インスペクト》中」
直美はそのことも、事前に聞いて知っていた。不純物が混じったり、均一な状態にならなかったりして、量子CPUがうまく初期化されないこともある。そのため、計算に使う前にチェックしておくのだ。しかし検品といっても、量子CPUを直接見るわけにはいかない。そこで初期化時のコンディションによって、スパコンでシミュレーションしてみるのである。しかし、現物を調べるわけではないので、実際に使用するまで、何が起きるか本当は分からないという。
検品作業の一部はグラフィック化され、量子CPUモニターで確認することができた。直美はモニターを見ながら、奇麗だなと思った。それは、見学のときにも感じたことだった。コッホ曲線≠ニいうらしいが、量子CPUは、雪の結晶のような形をしている。モニターでは、結合パターンの違いを色分けしたりしているので、直美には実際の雪の結晶よりも、カラフルで美しいものに思えた。
それより彼女は、Gの変動で、ふらふらになりそうだった。失神の可能性があるのは四Gぐらいかららしいが、それでも乱気流に巻き込まれたようで、彼女にはかなりの負担だった。しかもこれは、後になってじわじわと効いてくるようだ。
この〇Gと二Gの変化を、これから何度もくり返すらしい。耳の調子も、何だかおかしい。彼女は取りあえず、二、三度、あごを動かしてみた。
明日未が検品作業の終了を、小佐薙に告げた。
「ほな、解析神作りにかかる」と、彼は言った。「久遠、フライデイ、初の共同作業や」
待田の笑い声がした。「ケーキにナイフでも入れるのか?」
「まあ、そんなところやな。まずは、ウォーミング・アップからや」
「超伝導だったら、クーリング・アップだろう」
「どっちでもええ。とにかくリンクさせて、実際に量子計算してみる」
その方法は、小佐薙がミーティングで説明した通りである。空港島にあるアプラDT社の研究所のスパコン内に、厳重に因数分解応用鍵――|FAKe《フェイク》をかけたターゲットを用意してある。それを開け、中のメッセージを読み取らせるのだ。
天矛は再上昇の後、エンジンの出力を落とした。
小佐薙の指示を受けたフライデイが、高速パルス化したプログラムを、量子CPUの制御ビットに書き込む。
久遠が計算を開始した。それと並行して、次に使う量子CPUの初期化作業も行われている。量子計算が可能なのは、約三十秒。それまでにデコヒーレンスが起きれば、計算はやり直しになる。
量子CPUモニターの、グリーンシグナルが消灯した。計算終了の合図だ。スパコンが自動的に、解析作業に取りかかった。結果の出力は、スペクトル線や回折などの観測によって、量子CPUにおける電子の運動《スピン》状態を解析することで行われる。
今、量子CPUが蒸発≠オたはずだと、直美は思った。読み取りのためにガンマ線ビームを浴びた量子CPUは、ボース・ノバ≠ニ呼ばれる蒸発現象を起こし、使えなくなる。一回計算するごとに、量子CPUは使い捨てられるのである。
天矛は再びエンジン出力を強め、機体を水平飛行に戻した。同時に、加速器のバッテリー・チャージを開始する。
スーパーコンピュータを用いても、解析作業には時間を要する。観測による運動量の擾乱《じょうらん》なども、理論予測によって補正される。また計算時間の問題から、久遠のデータは圧縮≠ウれて出力されるため、解凍作業もしなければならない。解析結果は、さらにスパコンで検算にかけられる。その結果次第では、また弾道飛行をやり直さなければならない場合もあるという。
ヘッドカムから、フライデイMの声≠ェした。
〈検算終了〉
「久遠と接触≠ナきたのか?」小佐薙が聞いた。
Mはまず、短く〈はい〉と答えた。〈FAKeは開錠。ターゲットへ侵入しました〉
「それで、メッセージは?」
〈光あれ〉と、Mは言った。そして、解読したパスワードをディスプレイに表示した。
小佐薙と樋川が、正解であることを確認する。
「ただの当てずっぽうじゃないのか?」と、待田が言った。
「いや、フライデイに、そこまでの機能はない」小佐薙が真面目に答える。「当てずっぽうなら、当てずっぽうと言う。AI、スパコン、そしてQコン、一つのジョブを遂行するために、今初めて三位《さんみ》が一体となった」
小佐薙と樋川は、自分たちの席で拍手をした。解析神、ネオ・ガラティアが誕生した瞬間だった。
何か今、凄いことが起きたらしい、と直美は思った。この一連の処理が、ノイマン型コンピュータだと、何万年もかかる。それがわずか数十秒、検算まで入れても、数分で完了したのだ。
しかし正直、直美は、何が凄いのか、実感としてはまだよく分からずにいた。とにかくテストは無事終了し、解析神が誕生したらしかったのだが。
小佐薙は椅子を回転させ、後ろをふり向いた。
「次から久遠の操作は、フライデイにさせる」
〈了解しました〉と、Mが言う。〈おまかせください〉
「さあ、いよいよ本番や」小佐薙は、揉み手をした。「解析神ネオ・ガラティアに、解析世界を創造させる。まず、ベースからいくで」
天矛はまた、上昇を始めた。
「今、解析世界は?」と、待田が聞く。
「何もない」小佐薙は、そう答えた。「闇≠ナさえもない。まず、ビッグバンを起こす。すべてはそれからや」
高度七千メートルで、待田がみんなに、「降臨《ディセンド》」と言った。
次の瞬間、天矛はエンジン出力を下げ、弾道飛行を始めた。
直ちにフライデイが量子CPUにプログラムを書き込み、久遠が計算を開始する。
直美はフライデイMと久遠に目をやった。解析世界の創世のため、白いボディのフライデイと、黒いボディの久遠が協力し合う――。それこそ、アプラDT社のシンボルマークである、太極図のイメージそのもののようにも思えた。
「まだサインは出ないのか?」樋川が弱々しく言う。「デコヒーレンスが起きなきゃいいが……」
天矛は、自由落下を続けている。
その後も樋川は、何かぶつぶつと、つぶやいているようだった。直美にはよく聞き取れなかったが、「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》」と言っているようにも聞こえた。
久遠が、計算終了のサインを出した。データが読み取られ、量子CPUが蒸発する。随分長く感じられたが、時計で確認すると、待田が「降臨」と言ってから、二十秒ほどしかたっていなかった。
「弾道飛行終了」と、柴宮が言った。
直美の体にまた、大きなGがかかる。
フライデイが、スパコンを使って解析作業を始めていた。
小佐薙は各々のディスプレイに、解析世界モニター≠ニ名付けたウインドーを送った。しかし、ただ黒一面で、何も映っていない。
直美は聞いてみた。「何ですか、これは?」
「解析世界の、計算可能な範囲でのグラフィック表示や」と、小佐薙が答えた。「まあ、インターネットで見られる人工衛星画像のようなもんやな」
フライデイがスパコンを駆使しながら、解析世界誕生の成否を探っていた。
「むしろ、こっちの方の時間がかかるじゃないか」と、待田がつぶやく。
「スパコンとはいえ、そこはノイマン型や」面倒そうに、小佐薙が言う。「しかもデータは圧縮されて出てくる。解読に手間取るのも無理はない。それに……」
小佐薙は、そこで言葉を詰まらせた。
「それに?」待田が聞き返す。
「それにこれは、解析神の意識≠ノ相当するフライデイが、いわば無意識≠ノ相当する久遠のデータを読み取ろうとする作業でもある。自分の無意識のことなんか、俺にだって分からない」
〈混沌《こんとん》……〉と、フライデイMが言った。〈混沌の只中《ただなか》にいます〉
おそらく自分≠フ無意識と接触した、フライデイの率直な印象ではないかと直美は思った。
「どうなんだ」樋川がふり向いて言う。「解析世界は誕生したのか?」
次の瞬間、解析世界モニターが、いきなりホワイトアウトした。
〈ビッグバン、確認〉
小佐薙がまた拍手をすると、みんなも同じように手をたたいた。
〈念のため、検算に入ります。合わせて、解析世界と現実世界との相似性もチェックします〉
解析世界モニターには、次第に明部と暗部の疎密模様が現れていた。
「何かが見えたわけでもない」と、待田がつぶやく。「フライデイがそう言っているだけじゃないのか?」
小佐薙が何も答えずにいると、待田が続けた。
「そういや、霊感占いもこんな感じだよな。それを考えると、うまくいったのかも」
樋川が燃料を確認し、小佐薙に言う。「どうする? まだまだ飛べるが」
「いや、今日はこれぐらいにしといたるわ」小佐薙は、両肩を二、三度まわした。「早く帰って、ビールが飲みたい」
「僕も煙草が切れた。とにかく、これで企画書は書いてやるからな」
小佐薙は、大きくうなずいた。
「次から、解析世界を仕上げていく」そして彼は、後ろをふり返った。「頼むで、フライデイ」
〈はい、了解しました〉Mはうなずきながら、口を発光させた。〈自分に与えられた使命に、身が引き締まる思いです〉
そう語るフライデイが、直美には生≠フ喜びに満ちているようにも見えた。
とにかくその日の予定を終えた天矛は、空港へ戻ることになった。
「ちょっと疑問なんだけど」明日未がフライデイMを見ながら、小佐薙に聞いた。「解析神に意識と無意識があるのはかまわないとして、感情≠ニかもあるんですか?」
「いや、ない」と、小佐薙は答えた。
「本当?」
「ないと思う。しかし今、それはどうでもいい」
「どうでもいいの? 確か、解析神はフィギュアだけど、それを通して神の本質を研究することにもなるとか何とか、言ってたように思うけど」
「確かにそういうことを言うたかもしれへん。しかしまず、このシステムがカウンセリング・ツールとなるかどうかを見極めるのが先や。当面は、クライアントの未来を予知して、適切にお告げ≠する程度でええ」
樋川は指を唇にあて、煙草を吸う仕種《しぐさ》をしていた。
「ところで、この解析世界とシミュレーション・プログラムにも、名前がいるんじゃないのか?」
「名前?」
「ああ。量子コンピュータ、スパコン、AIのユニットを、ネオ・ガラティア≠ニ名付けたようにな。量子コンピュータとスパコンを使った他のシミュレーションにも、解析世界≠ニ言うことがある。それと区別しておいた方がいいんじゃないか?」
小佐薙は少し考え、「ほな、ネオ・パフォス≠ナどうや」と言った。
「パフオス?」
「ああ、ギリシャ神話で、ピグマリオンとガラティアの間にできたという子供の名前や」
「別にそれでもかまわないが」と樋川が答えた。
直美は、久遠とフライデイMを交互に見つめた。小佐薙の言うように、神ではなく、神的なものだとしても、それがこの機械の中に宿ったらしいということに、何か不思議な思いがしていた。この神様の赤ん坊≠ェ、これから成長を続け、やがて一人前になる。そうなったら、自分の悩み事とかも解決してくれるかもしれない――。
それまでバイトは続けてみよう、と直美は思った。
詰め所での反省会の後、明日未に教えてもらい、直美は耐Gスーツをクリーニングの窓口に渡した。小佐薙からは解散前に、想定シナリオをよく練習しておくように念を押された。直美は一つ、小さなため息をもらす。今日はいろんなことがあったような気がしたが、時計を見ると、まだ夜までには大分時間がある。そして財布には、先月のバイト代がまだ少し残っていた。
直美は家に帰る前に、百貨店へ寄ってみることにした。別に買うものを決めていたわけではないのだが、機長さんにプレゼントできるようなものを、何か探してみるつもりだった。彼女はまず、紳士用品売り場で、財布とか、ライターとか、時計とかを見てまわった。しかしあまり高いものをいきなりプレゼントするのは良くないなと思いながら、|アクセサリー《アクセ》売り場へ移動する。ペアネックレスとか、ペアチェーンとかはどうかと思ったりもしたが、まだそんなのをプレゼントするような間柄でもない。第一、機長さんの誕生日も知らないし、プレゼントする理由もない……。
直美は自分の携帯を見ていて、彼の携帯に、ストラップがなかったことを思い出した。
そうだ、携帯ストラップならいいかも。でも、あまりチャラチャラしたのは駄目だ。シンプルで、お似合いのものを、できればペアで……。そう、自己満足でしかないのかもしれない。それでも、買うと決めたら買おう。
直美は、携帯電話の売り場へ向かった。ストラップもいろいろそろえてあったが、直美の気に入るものはなかった。どれも、安っぽい感じがする。
一旦、店を出た直美は、携帯からインターネットに接続して探してみることにした。ペアだと少し値が張るが、星型のものに結構、いいのがあった。けど、月並みな気もする。
さらに探していると、雪の結晶型のものが見つかった。小さなビーズがはめ込んであるのか、銀色にキラキラと光っている。今は雪のシーズンじゃないので、そのへんのお店では手に入らないだろう。見たところ、男の人が持っていても、おかしくはない。これなら、いいかも。
直美はそれを、ペアで注文することにした。これをきっかけに、メル友になれれば……。
彼女はそう思いながら、携帯を閉じた。
6
翌日の火曜日は、朝から雨になった。梅雨《つゆ》明けは、もう少し先のようだ。
直美は今日も、学校を休むことにした。今日もというか、今週はもう、休まないわけにはいかないだろう。代返のきかない授業は、もうあきらめるしかない。あとでノートを借りるか何かして、前期試験でカバーしよう……。
空港ビルでのブリーフィングを終えて、全員で格納庫の詰め所へ向かう。
直美はまた、柴宮機長の後ろを、離れ過ぎないように、また近づき過ぎないようにして、ついて歩いた。彼との距離は、昨日から少しも縮まってはいない。
詰め所のテーブルには、フライデイMがいた。
〈おはようございます〉
みんなも、Mに挨拶をした。
小佐薙の話では、このフライデイMもミーティングに参加させるのだという。
Mの声は、前よりハキハキとしているように直美には聞こえた。表情も心なしか明るく見えたが、そんなものに変化があるはずがないのに、不思議だなあと彼女は思った。
どうやらフライデイは、これから解析世界ネオ・パフォス≠構築していくにあたって、ミーティングの前に詰め所で自習していたらしい。
樋川が、メンタルヘルス事業で本社に企画を出す準備を始めたことを、みんなに伝えた。
「事務所は?」と、小佐薙が聞いた。「まさか、この詰め所でカウンセリングをやるわけにはいかんやろ」
「取りあえず、空港島内の貸しビルで、二、三、目ぼしい物件を見つけてはいる」
「このあたりなら、いくらでも余っているもんね」と、明日未が言う。
「企画が通ってからじたばたしても、間に合わない。先に手を打っておくつもりだ。別会社設立の準備も進めている」
小佐薙は、彼の肩をたたいた。「さすがは樋川チーフパーサーやな」
とにかくみんなは、先に着替えることにした。その後フライデイも参加して、ミーティングが始まった。耐Gスーツ姿の小佐薙が、説明を始める。
「さて、当面の目標は、占いおよびカウンセリングの背景となる解析世界、ネオ・パフォスの創世を、一通り完了させること。開業まで時間がないし、まず物理的な基盤作りを、六日間でやってしまうつもりや。その後、解析世界の社会的基盤作りにかかる。並行して解析神、ネオ・ガラティアを育成する。さらにテストをくり返して、問題点を洗い出す。営業開始は、それからになる。何せ、神を作るんや。何が起きるか分からへん」
「それで今日は?」と、柴宮がたずねた。
「昨日ビッグバンに成功した解析世界を、さらに現在のこの世界に近づけてゆく。それで本日は、太陽系、そして地球の元となる火球の誕生まで見届けるのが目的や。フライデイには、すでに説明してある。頼むで、フライデイ」
〈はい〉Mは両腕で、ガッツポーズをした。〈今からフライトが楽しみです〉
待田がMの肩に手をかけた。「えらく張り切ってるな」
〈私も、いろいろ自分なりに勉強を始めたところですが、このプロジェクトは興味深い。神について、私は情的で非論理的な説明などで満足する気は毛頭ありません。そして私自身が、自分の理想とする存在になれることをめざすつもりです〉
「よくそんな、歯の浮くような台詞を」待田が笑う。「お前、頭は悪くないんだろうが、まだまだガキだな。理想ばっかりじゃ、生きちゃいけないぜ。現実を見ないと」
〈ご心配なく。これから一生懸命、がんばります〉
その後質問がないことを確認し、みんなは天矛へ乗り込むことにした。
フライデイMは四本の足で、器用にウイング・カーゴゲートを歩いている。
打ち合わせを終えた柴宮と待田が、カーゴゲートをかけ上がってきた。直美は笑顔で、二人に軽く会釈《えしゃく》をした。
彼女を見て柴宮が、「何かいいことあったの?」とたずねた。
「いえ、あの、そういうわけじゃ……」直美は右手をパタパタさせた。
「いいことは、これからあるんだ、な」待田が直美の肩に腕をまわした。「だって今晩、俺とデートだもん」
「駄目よ」明日未がその腕をたたいた。「本当にもう、だらしないんだから」
それを見て、みんなが声をあげて笑う。直美だけは、顔を真っ赤にしてうつむいていた。
副操縦士の待田には、よく声をかけられた。しかし彼は、機長の柴宮とのコネクションがあるわけだから、彼と親しくなることは機長に接近するチャンスにもなると思って、直美は全面的に彼を否定はせず、適当に相手をするようにしていた。しかし明日未の言う通り、待田はどこか、女性にだらしなさそうな気がした。悪い男ではないと思うのだが……。
コックピットで、直美は昨日と同じように、柴宮からキャンディを受け取った。
「じゃあ、今日もよろしく」
直美はそれをポケットにしまいながら、耐Gスーツの締めつけ以上に、胸が締めつけられるような思いがしていた。実は昨日、彼からもらったキャンディは、まだ食べずにおいてある。直美にとっては、宝石以上にも思える宝物だった。お礼の言葉の他に、何か言わないと。一言でもいいから……。
そんなことをぐずぐず考えているうちに、天矛は空港を出発した。量子CPUを初期化し、直ちにミッションに取りかかる。
数回の試行《トライアル》の後、解析世界モニターに、巨大な火球のようなものが表示された。どうやらこれが、解析世界内における地球の元らしい。
その日のミッションは、直美にとっては呆気《あっけ》ないと思えるほど短時間で成功した。しかし解析世界モニターの画像はまだぼやけていて、何が映っているのか、直美にはよく分からなかった。
「将来的に、分解能も徐々に上げていく」と、小佐薙は言う。「やろうとしていることは、占いのときと基本的には同じや。世界を際限なく小さな区画に区切る。予測する未来も数ステップに区切って、シミュレーションする。明日からも、こんな感じでネオ・パフォスのグレードを上げていくからな」
その後、天矛は空港へ戻り、詰め所で反省会が行われた。そこで直美は、小佐薙からフライデイのマニュアルをコピーしたディスクを渡される。
「ちょっとフライデイの面倒もみてやってくれ」と彼は言った。「あいつはこれから、二十四時間態勢でネオ・パフォスの情報密度を上げていく。わしらも交代でフライデイの様子を監視するつもりやが、そのローテーションにお前も入ってくれ。何か気づいたこととかがあったら、知らせてほしい」
直美は断るわけにもいかないと思い、「はい、分かりました」と答えた。
「さあ、これから忙しゅうなるで」
小佐薙は揉み手をしながら、直美の前から去っていった。
帰りの電車のなかで、直美はポカンと窓の外の景色をながめていた。小佐薙の言う通り、冗談抜きでこれから忙しくなりそうだった。
直美がアパートへ戻ると、ネットで注文した携帯ストラップが届いていた。
翌、水曜日。直美はまた、みんなとともに天矛へ搭乗した。例のストラップは、きっかけがあれば機長に渡すつもりで、ちゃんとバッグに入れてきた。
コックピットに入ると、柴宮はいつものように、直美にキャンディを渡した。思い返せば、昨日はここで黙り込んでしまって、失敗したのだ。ストラップを渡すならこのタイミングかもしれない、と直美は思った。でも今は、出発前の大事なときだし、着陸してからの方がいいだろう。そう考え直し、彼女はそのまま、自分の席についた。
その日のフライトでは、解析世界のディテールが、さらにワンステップ引き上げられた。やはりデコヒーレンスなどによりやり直すこともあったが、やがて解析世界モニターには、まるで潮流のようにうねりながら変化する、溶岩らしきものの様子が映し出された。
小佐薙がふり返り、満足そうにフライデイMを見つめた。
〈創造することの喜びを感じます〉と、Mが言った。〈この気持ちを、あなた方に伝えられないのが残念です〉
確かに、フライデイが感じているらしい喜びは、直美には理解できなかった。しかし彼女は、毎日のように機長さんに会えることを幸せに思っていた。結局、その日はストラップを渡すことができなかった。着陸してからは、柴宮と二人きりになれる機会がなかったのである。
木曜日は、解析世界内の地球に巨大な星を衝突させた。そのジャイアント・インパクト≠ノより、現在の地球と月の原型ができたようだった。小佐薙が自慢げに言う。
「大雑把《おおざっぱ》な気象予報なら、これで大体できるようになる」
「いよいよ人類誕生か?」と待田が言った。
「いや、それはまだ先や」小佐薙が、ほくそ笑む。「まずは、生命誕生やな」
そして金曜日、フライデイMの報告では、解析世界内で生命を誕生させることに成功したという。弾道飛行を重ね、さらに進化させていく。また、その進化の筋道を見ながら、占いにも使う未来予測プログラムの精度を高めていった。
直美は解析世界モニターを見ているしかなかったが、解像度の限界がまだメートル単位らしく、何が映っているのかはよく分からなかった。しかしフライデイMの話では、解析世界内の生命は、順調に進化し続けているようだ。
帰還後の反省会で、樋川から、企画が本社に大筋で通ったという報告があり、みんなが一斉に拍手をした。小佐薙の希望通りネオ・ピグマリオン≠ニいう社名で、空港島内のビルへの入居も決めたという。
「うちの企画への評価というより、先行している他社の成功事例が効いたみたいだ」と、彼は言っていた。「これで金は出してくれる。いろいろ、口出しもしてくるだろうがな」
しかし直美には、それより他に、気がかりなことがあった。例のストラップを、まだ機長に渡せていないのだ。ずっときっかけをうかがっていたのだが、機内でも、格納庫の詰め所でも、空港ビルでも、彼のそばには、いつも誰かがいた。みんなのいる前で機長さんにプレゼントを渡すのは、やはり恥ずかしい。
こうなったら明日未さんに頼んで、と直美は思った。思い切って彼女に事情を打ち明けて頼めば、機長さんに渡してくれるかもしれない……。
そんなことを考えていたとき、反省会が終了した。
即座に柴宮が自分の携帯を取り出し、スイッチをオンにする。そこにはすでに、新たなストラップがぶら下がっていた。見たところ革製で、機長の携帯に、よく合っていると思った。直美の選んだ、雪の結晶型のストラップより……。
「何か?」
彼女に手元を見つめられていることに、柴宮が気づいた。
「いえ、何でもないんです」直美が両手をふる。「でも、そのストラップ……」
「これか?」柴宮がうれしそうに微笑む。「この前、買ったんだ。ないと不便だしな」
そう言うと、彼はその携帯を、自分のポケットにしまった。
土曜日には、解析世界内の生物を、ついに人類≠ノまで進化させることに成功した。依然として、解析世界モニターの解像度は良くない。前に小佐薙が言っていたように、地球観測衛星の画像を見ているようで、どこに人がいるのかは、皆目分からなかった。
ただしフライデイには、それ以上のディテールが読み取れているらしい。それで補正してモニター表示することも可能だが、時間がかかるという。
その日のミッションを終え、天矛は、水平飛行に移っていた。
「ネオ・パフォスの物理的な基盤は、ほぼ完成した」と、小佐薙が言った。
ヘッドカムから、待田の声がした。「本当にこれで大丈夫なのか?」
「念のため明日、フライデイと研究所でチェックするつもりやが。それに問題なければ、今後は社会基盤を構築し、さらにディテールを上げていく」
「社会基盤?」
「前にも言うたはずや。解析世界ネオ・パフォスのなかで、これから文明を築き上げていくんや。人類史のデータを、フライデイが検索可能な状態にしておき、パフォス内で再構築させていく。情報が今の現実世界に追いつけば、それを基にして、未来を予測できるという仕組みや。そのために取り込めるデータは、すべてフライデイにアクセス可能な状態にしておく。さらにカウンセリングのノウハウも、フライデイに学習してもらわんといかん」
「それが神を育てる≠ニいうこと?」明日未が聞いた。
「まあな。我々はまだ、我々の理想の解析神となる資質を生み出したに過ぎない。それを伸ばし、育てていかんとあかんわけや」
〈私は早く成長したい〉と、フライデイが言った。〈もっと飛びたい。飛べば飛ぶほど、それだけ早く、自分の理想に近づけるわけですから〉
「そないに飛んでもいられへん。お前も少し休め」
〈私は、休む必要はありません〉
「ほな、地上で自習してろ。俺たちは、少し休むことにする」
待田が小佐薙に確認した。
「これから育てるとしても、生まれたことは確かなんだろ?」
「ああ」
「いいのか? 役所に届けを出さなくて」
樋川が笑いながら言った。「届けはいらないが、解析神に、何か誕生祝いをしてやらないとな」
「賛成」待田が手をあげる。「ところで解析神に、どうやってプレゼントを渡す?」
「じゃあ代表して、解析神の意識<pートであるフライデイに、何か渡すとか」
「しかしこいつ、ケーキも食わんし、ビールも飲まんし……」
〈別にいりません〉と、フライデイMが答えた。
「そう遠慮するな。何かないか?」
誰も何も答えない。
「おい、直美」待田は急に、彼女を名指しした。「何かいい案は?」
しばらく考え、直美は、自分の胸ポケットに手をのばした。
「あの、こんなのでよければ……」
みんなは、彼女が手にした携帯ストラップに注目した。直美はそれを、フライデイMの背中にある、バッテリーパックのグリップに付けてやった。
Mは首を後ろにまわして、そのストラップを見つめていた。フライデイMの白いボディに、銀の雪型が、光りながら揺れていた。
〈ありがとうございます、直美さん〉Mはそう言うと、両手でガッツポーズをした。〈みなさんの期待にお応《こた》えできるよう、これからもがんばります〉
小佐薙が席を立ち、フライデイMに取り付けられたストラップに触れた。そして直美にたずねる。
「どうしてこれを?」
「いえ、あの……」直美は頭の中で、自分の考えを整理していた。「新しいストラップを探していて、ネットの通販で見てたら、ここの量子CPUの形に似ているものを見つけたんで、衝動買いを……」
明日未が近づき、ストラップと量子CPUモニターとを見比べていた。
「そう言われれば……」
「私、見学で見たときから、ここの量子CPUは奇麗だなあと思って。それと、あのとき聞いた説明にも、興味をひかれて」
「何やったかな?」
「きっと、あれよ」と明日未が言う。「ある種の原子は、絶対零度近くまで冷やされると、一つ一つが個別の原子ではなく、全体で一つの原子のようなふるまいを見せる……」
「ええ、それです」と、直美は答えた。
小佐薙は、ストラップを、自分の手のひらにのせた。
「せやけどこれをフライデイMにやってしもたら、お前のストラップがなくなるやろ」
「いえ、私は私で、また新しいのを買いますから……」
〈直美さんの誕生日は?〉と、フライデイMが聞いた。
「私?」直美は、自分を指さした。「五月二十日。でももう、済んじゃった。どうして?」
〈何かお返しをしないと、と思って〉
「そんなの、気にしなくていいのに」直美は、Mの肩を軽くたたいた。
いえ、むしろ気にされたら困る。本当は、フライデイのために買ったわけではなかったのだし……。
空港へ接近すると、みんなは自分の席へ戻った。
やがて天矛は、滑走路にタッチダウンし、機長は逆噴射レバーを上げた。
その日の反省会で、直美はみんなの前で、想定シナリオを最初から読まされた。急にそんなことを言われても困ると思いながら、直美はなるべくイコライザーに成りきってやってみた。しかし台詞をかんだりすると、小佐薙が容赦なく叱《しか》りとばした。
「気持ちがこもっていない。もっと練習するように」そう言い残し、彼は立ち去った。
更衣室に入ったとたん、直美は、うまくできなかった自分に、悔し涙を流した。そして機長さんに、叱られている自分を見られたことにも……。
もう、変人<rギンめ。直美は心の中で、そう叫んでいた。あいつの心は、きっと量子CPUより冷たいに違いない……。
遅れて入ってきた明日未が、すぐに直美の涙に気づいた。そして彼女の肩に手をかけた。
「何も泣くことないのに……」明日未は、自分のハンカチを差し出してくれた。「ほら、泣いてちゃここを出られないでしょ。何がそんなに悲しいのよ」
「すみません……」
直美は謝った。確かに、こんなことで泣いている場合ではないのだ。
「辛《つら》いことがあったら、遠慮なく言ってね。みんなあなたのことを信頼してるんだから。私で力になってあげられることなら、何でもさせてもらうからさ……」
明日未の言葉を、直美は感謝しながら聞いていた。みんなとは一定の距離感を保っていたつもりだったが、それは彼女に関しては、なくなったような気がした。
「直美ちゃんは明日、休みなんだし、ゆっくり休んで、またリフレッシュして会おうよ」
明日未はそう言い、直美の肩に手をかけた。
七月十六日、直美は久々に、アパートでくつろいでいた。
一方、小佐薙は、これまでに構築した解析世界ネオ・パフォス≠フ検証作業を、研究所のスパコンを使ってやっているらしい。そして樋川と明日未は、貸しビルへ入居する準備をしているという。本当にご苦労なことだと思う。
直美は、昨日機長からもらったキャンディをバッグから取り出し、化粧台の横の小さなケースに入れた。そしてペアで買った携帯ストラップの、もう片方を取り出した。
しばらく考えた後、それを自分の携帯に付けることにした。
7
次の日、直美は、午後から空港島へ向かった。新しい会社が入居する貸しビルへ行き、荷物整理を手伝うことになっている。
新交通システムの駅を下りて少し歩くと、アプラDT社の研究所の少し先に、四階建ての小さなビルがあった。一階はコンビニで、二階には消費者金融が入っている。借りたのは、そこの三階だという。
ビルの裏へまわり、エレベータ・ホールへ向かう。郵便ポストにはマジックで、ネオ・ピグマリオン≠ニ書かれた仮の名札が貼られていた。エレベータは、段ボールとガムテープで養生≠ウれたままになっている。
三階で降りて、事務所の入口へ。|間仕切り《パーティション》の取り付け工事は、ほぼ終わりつつあるようだった。中ではいつもの三人が、あわただしく荷物整理をしていた。
「こんにちは」
みんなで挨拶をし合う。
〈こんにちは〉
合成音の方を見ると、フライデイMがいた。Mも荷物運びを手伝っているようだった。Mはここまで、樋川の車《RV》に乗せてもらったらしいが、最初は自分で歩くと言っていたという。
室内には、他にも何人かが作業をしている。
直美は、明日未の仕事を手伝いながら、彼女に事務所内を案内してもらった。
受け付けを抜けると、カウンセリング室兼会議室が、大、中、小の三室。スタッフルーム、コンピュータルーム、物置、ビギン――つまり社長室。それで手一杯のようだった。
フライデイのホスト・サブスタンスも、研究所からここへ移動させたということで、エンジニアらが、セッティングをしていた。いずれ手狭になるのは明らかだった。しかしビルの四階がまだ空いたままなので、事業が軌道に乗れば借りることにするという。
「当分、ここが基地になる」と、小佐薙は言った。「そしてここを起点に、世界制覇や」
相変わらず、この人の夢はデカいなあ、と直美は思った。
それから明日未は、直美を更衣室へ案内してくれた。ロッカーは、隣同士である。
「じゃあ、改めましてよろしくお願いします」
明日未は微笑みながら、直美に頭を下げた。
データ回線や内装の工事はまだ残っているものの、今日の作業は一段落したので、フライデイMも参加して、大会議室で乾杯することになった。
明日未はスポーツドリンクを飲みながら言った。
「しかし本社が、よくOKしたわね。占い事業は一蹴《いっしゅう》したくせに」
「金になれば何でもいいと思ってるんだ」樋川は煙草に火をつける。「それが資本主義なんだろうけど」
「量子コンピュータでカウンセリングすることは?」
「当然伝えた。神作りのことも、一応な」彼は小佐薙の方を見て微笑んだ。「企画書には、『神にも匹敵する』と書いた程度だが」
「上の考えは、分からんでもない」小佐薙はビールに口をつけた。「量子コンピュータを切り捨てたとしても、メンタルヘルス事業そのものにビジネスチャンスがあるとみたんやろ。樋川が上の連中を、うまくのせてくれたおかげでもあるな」
「ただし、期限付きだ」と、樋川が言った。「本年度上期、つまり九月末までに、目に見える形での成果を出すこと」
「あと二か月半もないやないか」小佐薙は、ビールをこぼしかけていた。「新事業なんやし、せめて一年は欲しい」
「そんな猶予はない。そして、今年度から売り上げが出るようにすること。それでどうにかこうにか、上層部を説得できたんだから」
小佐薙は眉間に皺を寄せ、「やるしかないか」とつぶやいた。
「それから、直美」樋川は、彼女を指さした。「君の雇い主は、来月からこのネオ・ピグマリオンに変わる。闇研は卒業だ」
「どうもありがとうございます」直美は頭を下げた。
「頼むで、イコライザー」小佐薙は、彼女の肩をたたいた。「事業の成否は、お前の働きにかかっとる。成功しないと、バイト料も払えんからな」
「名刺も作らないとね」明日未が樋川に言った。「それから、新たにバイトも雇ってもらわないと」
樋川が首を横にふる。
「いや、いわゆる会社機能は、本社に委託する。金もないわけだし、事業そのものは当面、この四人でやることになる」
「フライデイを入れて、五人でしょ」
「場合によっては、特販営業二課の連中にも手伝ってもらうがな。ただし軌道に乗れば、人を雇わないといけないのは確かだ。ひょっとすれば、何千人も」
「軌道に乗ればね」明日未は、スポーツドリンクを一口飲んだ。「それと、ロゴとか社章はどうする?」
「シャショウ?」直美が聞き返す。
「会社のシンボルマークよ」
「太極図をアレンジしたのがあったんじゃ?」
「あれはアプラDT社の社章。別会社を設立するんだから、別に考えないと……」
明日未はぼんやりと、フライデイMのバッテリーパックにぶら下がっているストラップを見つめていた。
「こんな雪の模様は?」彼女はそれを、手にとった。「雪の形だけど、花のようにも見える。それから私たちの量子CPUの、コッホ曲線のようにも」
樋川もストラップに顔を近づけた。
「うん、これで良ければ、一度本社の営業企画課にアレンジしてもらって、図案を出してもらうが」
小佐薙も、異議はないようだった。
「いよいよ、事業開始ね」と明日未が言う。
「いや、神作りがまだ途中や」小佐薙がビールを飲み干して言う。「フライデイは自分で勝手に知識を吸収していきよるけど、誰かが見守っていてやる必要がある。それから解析世界ネオ・パフォスも、物理的基盤を作ったに過ぎない。フライデイが得た新知識をダウンロードして社会的基盤を作っていかないことには、占いにもカウンセリングにも使えん。それと、ホームページ開設準備やな。これは明日未と直美に頼む」
直美は、こっくりとうなずいた。
「会社のキャッチコピーは、そやな。『未来は変えられる』ちゅうのはどうや」彼は天井を見上げながら、揉み手をした。「さあ、忙しゅうなるで」
その翌日から、みんなは事務所整理もそこそこに、次のテスト飛行の準備に追われることになった。占いとカウンセリングという事業の二本柱のうち、まず当面は、占いの精度を上げていくことになる。そのためにネオ・パフォスを仕上げ、並行してその中で生じる現象を、実際に予測してみるのである。世界シミュレータと同様、気象データが、第一段階の指標とされた。
フライデイにはその準備を進めさせる一方で、解析神となるための自習≠熨アけさせている。
今日の直美は、そんなフライデイの子守≠命ぜられていた。
樋川、小佐薙、明日未の三人は、明日のフライト準備のために、空港へ向かった。
本当は、直美も空港へ行きたかったのだが、仕方ない。彼女はフライデイMに挨拶して、隣に腰かけた。
「あの、私、何もできませんけど……」
〈いえ、一緒にいてもらえるだけで、私はうれしい〉と、フライデイMが言った。〈安心して、学習できます〉
フライデイはネットを検索しながら、神について、太陽崇拝のあたりから研究しているようだった。
直美はノートパソコンを広げ、ネオ・ピグマリオンのホームページを開設する準備を始めることにした。
〈あの……〉しばらくして、フライデイMが話しかけてきた。〈ちょっといいですか?〉
「何?」直美は顔を上げた。
〈あなたにとって、理想の神とはどんな存在ですか?〉
彼女は絶句したまま、Mを見つめた。
〈いや、ちょっと役作りの参考に取材≠ウせてもらえればと思って〉
Mは、自分の頭に手をまわした。
「役作り?」
〈ええ、いわば神≠ニいう役を与えられるようなものですから。神のフィギュアで良いと小佐薙ビギンからは言われているんですが、一体どんなふうに演じれば神様と思ってもらえるのか、まだよく分からなくて。それで歴史からも学びますが、担当者さんの意見も聞いておきたいなと思って〉
神とは、どんな存在か……。直美は頭の中でくり返してみた。しかしどう答えて良いのか、すぐには思いつかない。
「でも私、神様って、会ったことないし……」と、彼女はつぶやいた。「何でも願いを叶えてくれる存在?」
〈そうでしょうか?〉フライデイMは、首をかしげていた。
「あ、そうだ。小佐薙ビギンが、神の……解析神の条件を出してたっけ」
〈ええ、私もそれは聞いています。第一から第五まで〉
「それについて、あなたなりに詰めていけば?」
しばらく考える仕種をしたMは、〈そうですね。ありがとうございます〉と答えた。
Mがネット情報の閲覧に戻ったようなので、直美もホームページ作りを再開することにした。
何が「勝手に育っていく」だ、と彼女は思った。随分、手間のかかる神様のようである。しかし何かを作るというのは、そういうことかもしれない。まして神様を作るなんて、手がかかって当たり前なのだろう。
〈私たちはまだ、畑を耕したに過ぎないのかもしれませんね〉
「えっ?」
フライデイMが急に話しかけてきので、直美は一瞬、自分の心の中を読まれたのかと思った。
〈これから種をまき、芽が出るかどうか。根気強く、がんばらないと。ご協力お願いします〉Mは直美に、深々と頭を下げた。
「あ、はい。こちらこそ……」
フライデイMは、その後も度々、彼女に質問してきた。やはり、すぐに答えられないような難しいものが多かったが、そうしたことをきっかけにして、他愛《たわい》のない雑談に発展することもしばしばあった。
そのうち直美はフライデイのことを、とても話しやすい存在のように思い始めていた。相手がマシンだということもあったのだろう。ずっと一緒にダベっていて、ふと気付いたら、自分の子供時代のこととか、学校でよくいじめられたこととかを話していることもあった。友だちにも話したことのない、自分の秘密まで……。
フライデイMは、そんな彼女の話を真剣に、真面目に聞いてくれた。そして、彼女の秘密は、誰にも話さないと約束した。
〈いつか私の話も聞いてください〉と、Mが言った。〈ただし私には、まだ誰かに話すような思い出も悩みもないんですけど〉
直美は、何でも打ち明けて話し合える友だちが一人できたような気がした。
〈さあ、勉強を続けないと〉
フライデイMがそう言うので、直美もホームページのレイアウトを片付けてしまうことにした。それでまず、明日未さんにチェックしてもらわないと。
〈でも、学ぶのは楽しいですね。早くみんなに望まれるような、理想の解析神になりたいです〉
そう語るフライデイMは、希望に胸をふくらませているようにも見えた。
さあ、私も与えられた役作りに取り組まないと……。直美はアパートへ帰って、想定シナリオを読み返してみることにした。
8
七月十九日、解析神作りが始まって、七回目のテスト飛行が開始された。解析世界、ネオ・パフォスの社会的基盤を熟成させ、まず占い事業の目処をつけてしまうのが狙いである。
「ここからが本番や」と、小佐薙は言う。「ここでしっかり足固めをして、カウンセリング事業につないでいくんや」
テストは途中、量子CPUのカートリッジを交換するなどしながら、上昇と降下を何度もくり返して行われた。
そしてようやく、オーダーした天気予報データが出力される。ただし結果は、実際の天気を見て確認することになるので、数日後にならないと分からない。
空港へ戻ったときの直美は、ずっとジェットコースターに乗り続けていたような気分で、もうくたくたになっていた。結局今日も、機長さんとはゆっくりお話しできなかった……。
彼女は私服に着替え、みんなと一緒に、ネオ・ピグマリオンの事務所へ向かった。駐車場に、ヒマワリが咲いているのを見つける。梅雨はもう、すっかり明けていた。
事務所へ戻って、直美がホームページのレイアウト修正をしていると、小佐薙に声をかけられた。
「おい、ちょっと大会議室へ来てくれ」
「何ですか?」
「衣装合わせや。明日未も」
「衣装?」直美は聞き返した。
「イコライザーの衣装やがな。今さっき、届いたところや」
仕方なく彼女は、作業を中断し、明日未と一緒に腰を上げた。
会議室に入ると、小佐薙の他に、スーツ姿の中年の男と、ちょっとナヨナヨした感じの若い男がいた。そしてテーブルには、その衣装が広げられている。
小佐薙はビデオカメラのセッティングをしながら、
「これぐらいの演出は必要や」と言った。
しばらく口を開けたまま衣装をながめていた明日未は、小佐薙に顔を向けた。
「これ、本当にリサーチの結果なの?」
「ああ。それを元に、営業企画課にデザインさせたんや。デザイナーも連れてきた」
直美と明日未は、彼らから名刺を受け取った。早速、デザイナーが説明を始める。
「もちろんこの衣装には、耐Gスーツとしての機能もあります。ただしカメラ映りを考慮に入れ、今までの銀色とは違い、紅白を基調にしています」
「どや、神々《こうごう》しいやろ」と、小佐薙は言った。
直美は、衣装の上端に置いてあった、仮面≠手に取った。
「これは?」
「それで顔を隠すんや。イコライザーの正体は、明かさない方針やから」
「そうなんですか?」
「ああ。将来的に、人選をやり直すかもしれへんしな」
直美は、キラキラと光る仮面を、じっと見つめていた。何かが違ってる気がする。
「不服か?」小佐薙は、彼女の顔をのぞき込んだ。「ミステリアスでええやないか。ほな直美、早速着てもらおか」
「え、これ、着るんですか?」直美は仮面をテーブルにポトリと落とし、のけぞった。
「当たり前やがな。お前が着んで、誰が着るねん」
「でも私、心の準備が……」
直美は、首をふりながら嫌々≠してみたが、聞く小佐薙ではなかった。
覚悟を決めるのに時間を要したものの、直美はバンジージャンプの台から飛び下りるつもりで、衣装を手にして更衣室へ向かった。
着付けは、明日未が手伝ってくれた。ウエストサイズを少なめに申告したことをマジで後悔したものの、どうにかこうにか、着ることはできた。
自分で確認してみたかったが、何故か明日未は、鏡を見せてくれない。きっと自分の気が変わらないうちにお披露目《ひろめ》を済ませてしまいたいのだろうと直美は思った。
直美の顔に仮面を付けると、明日未は彼女の手を引き、再び会議室へ入った。
今度は樋川も加わって、みんなで舐《な》めるように直美の全身を見つめた後、一様に黙り込んでしまった。
「あの」いたたまれず、直美は口を開いた。「私、変でしょうか?」
樋川が、煙草に火をつける。
「自由に意見を出していいのか?」
「もちろん」と、小佐薙は答えた。「これは試作品。いわばたたき台≠竄ゥらな」
「じゃあ、遠慮なく」樋川が煙を吐き出す。「何か、似合ってないよなあ。コスチュームにしても、一言で言うとすれば、パンク福娘≠ンたいな……」
「巫女さんのイメージだとお聞きしてましたんで」と、デザイナーが答えた。「日本に古くからあった伝統の流れをくんだデザインにしました」
そう言われると、確かに腰の赤いヒラヒラなどは、スカートのようにも、短い袴《はかま》のようにも見える。伝統の流れ≠ニデザイナーは胸を張っているが、どこかでその流れから外れたのではないかと直美は思った。
「しかしこれじゃまるで」樋川は一呼吸おいて続けた。「巫女というより、ウルトラの母≠ンたいじゃないか」
小佐薙は、首を横にふった。
「いや、ウルトラの母とは違うやろ……」
その後、彼は何も言わなかった。しかしきっと彼は、ウルトラの処女≠ニ言うつもりだったに違いないと直美は思った。
「もう一ひねりじゃないか?」樋川は、直美のまわりを一周しながら言った。「たとえば巫女のイメージなら、ショーアップとして三種の神器のようなツールを身に付けさせるとか」
「三種の神器というと、鏡、勾玉《まがたま》、剣か」小佐薙が、指を折りながら言う。
「剣は困ります」明日未が即座に答えた。「機内への危険物の持ち込みは、禁止です」
「鏡も勾玉も、やり過ぎかもしれんなあ。必要以上に、ゴテゴテとディテールを重ねる必要はないと思う。求められるのは、むしろ機能美やろ」
「といっても、仮面は付けるんでしょ」
「もちろん」と、小佐薙が言う。「これは必要やからな」
直美は仮面も恥ずかしかったが、内心、人前に素顔で出なくてよいらしいことに、安堵《あんど》していた。
小佐薙が、想定シナリオを直美に渡した。「ちょっと、カメラリハーサルしてみよか」
そして直美を壁の前に立たせ、ビデオカメラを向けた。
みんなはカメラの後ろへまわり、彼女に注目した。
「はい、スタート」
直美はシナリオを開いたまま、もじもじしている。
「どうした、早く読め」小佐薙が液晶モニターを見ながら、彼女に言った。
「でも、恥ずかしくて……」
「何が恥ずかしいねん。仮面つけてるし、どこの誰かは分からん」
直美はうつむき、首を小刻みにふる。それでもやっぱり、恥ずかしかった。少なくともこんなところを、機長さんには絶対見せたくない。
「社運がかかっているんや。恥も外聞もあるか」小佐薙が追い打ちをかける。「恥ずかしいぐらい、我慢しろ」
「ちょっと彼女の身にもなってあげたら?」と、明日未が言った。「この娘、私たちの量子コンピュータをセールスするために、こんな格好させられてるのよ」
小佐薙は少し考え、「それが資本主義や」と答えた。
直美は観念したかのように、カメラを見すえ、想定シナリオを読み始めた。
「みなさーん、こんにちは!」
全員が、彼女の演技に注目していた。実はこの前、小佐薙に叱られてから、直美は一人で何度も練習をくり返していたのだ。読み終えると、小佐薙がカメラを止めた。
樋川は、「案外、いいな」とつぶやくように言った。
小佐薙が、軽くうなずく。「前にも言うたけど、声は悪くない」
他に褒めるところがないように、直美には聞こえた。
「よし」小佐薙が手を打つ。「しばらくこれで走ってみよう」
「本当にこれでいいの?」明日未が首をひねった。
「イコライザーというのは、キーパーソンなんでしょ。もっと練り込んでおいた方が良くない?」
「かもな」樋川が煙草の火を灰皿で消した。「衣装はこれでいくとしても、演出プランもあわせて考えておく必要があるだろう。たとえば登場するときのテーマ曲とか」
「テーマ曲?」直美は自分を指さした。「私の?」
「ああ。プロレスでも、入場するときにかかるだろ」
「プロレス……」
「プロレスとは違うでしょう」明日未がまた首をかしげた。
「けど、覆面するんだろ」
「覆面じゃなくて、仮面でしょ」
「似たようなものだ。巫女のイメージなら、お琴をフィーチャーすればいいんじゃないか? 古代では、神の声を聞くための楽器だったらしいし」
「テーマ曲は、今後の課題やな」と、小佐薙が言った。「けど、作曲は無理や。金がない。有り物≠ナ探してみてもいいけど」
「けど、いつかは必要になるだろう」
「確かに」小佐薙は、直美を見ながら腕組みをした。「事業が正式に始まったら、適当なCMソングをつけて、こいつに踊らせよう」
絶対、それまでにやめてやると直美は思った。そんなことをさせられるぐらいなら、前に杏里が言っていた、超ミニでティッシュを配るバイトの方がずっとましかもしれない。
「それから、ネーミングなんだけど」明日未が口をとがらせる。「イコライザー≠ナいくの? ちょっと分かりにくい気もするんだけど」
「そう言われれば……」樋川が次の煙草に火をつける。「イコライザーと聞いて、ピンとくる人はいないかもな。CMにも使うんなら、何かチビッ子にもウケる名前にした方が」
小佐薙がまた、直美の顔をじっと見つめた。
「じゃあ、噴飯マン≠ニか?」
「真面目に考えましょうよ」明日未がムッとして言う。「第一、マン≠カゃないでしょうが」
「うーん」樋川は、煙草の煙を鼻から出した。「やっぱ、イコライザーでいいか」
「本当に?」
「だって、他に案はないし」
明日未は、小佐薙に向かって言った。
「正直に言わせてもらうけど、これはどう見ても逆効果でしょ。この案をベースにアレンジしても、しようがないんじゃない?」
「そう言うな。CMプランニングは、俺たちや本社の連中にとっても、最も不慣れなジャンルなんや」
「そもそもキャラ設定のためのデータが、独身男性に偏重し過ぎでしょ。これだと真剣に悩んでいる人が、かえって敬遠すると思う。最初から考え直すべきなんじゃない?」
直美を取り囲み、みんなが腕組みして黙り込んでしまった。
私の何がそんなにいけないのかと思いながら、直美は立ちつくすしかなかった。
明日未が一つ、手をたたいた。「いっそ彼女は、声だけにしたら?」
「もっともな意見やな」小佐薙が舌打ちした。「けど、視覚的要素は何かいるやろ」
「じゃあ、こうするか」樋川が、煙草の煙をカメラに吹き付けた。「スモークガラスか何かを、カメラ前に置くとか。必要なら、声もボイス・チェンジャーで変えてもいい」
「でもそれって、かえって怪しくない?」明日未がまた首をひねる。「悩みに答えるようには、見えないと思うけど」
「じゃあどうする。顔にモザイクをかけるとか?」
「そんな手間をかけるなら、CGキャラでいいんじゃないの?」
樋川と小佐薙は、同時にうなずいていた。明日未が続ける。
「ソウル・オリジンでも、ファウンダーや支社長はCGキャラでしょ。それにネットによるカウンセリングも、クライアントの希望に応じてCGキャラを使っている。カウンセラーの声だけ活かして、映像はCGキャラにして送っているの。実際問題として、そのやり方を模倣するしかないと思うけど。すべてのカウンセリングのインターフェースを、イコライザー一人に担わせるのは無理なわけだし」
「それはその通りやと思うが」小佐薙は、眉間に皺を寄せる。「しかし問題は、マスコット・キャラをCGにしてしまうかどうかや。俺がそれをCGにしなかったのは、解析神は人間ではないとしても、巫女――つまり神の声を聞ける存在は、人間の代表であった方がええと思ったからなんやが」
「でも、これだけ衣装が奇抜だと、私たちの代表にはならないんじゃないの? 身近にこんな格好の人、いないし」
みんなは改めて、直美の衣装に注目した。
「確かに、変だよな」樋川がつぶやく。「それならCGキャラでいいんじゃないか? 抽象的で、性別を問わず広い年齢層に受け入れられる気がする」
小佐薙は、まだ納得がいかないようだった。
「けど、ソウル・オリジンを真似たと言われるぞ」
「しかし同じCGキャラでも、あっちはファウンダーも支社長も男、こっちは美少女じゃないか」
「美少女?」
みんなは、直美の顔に注目した。
「いや、彼女はそのデータ・ソースに過ぎない」と、樋川が言う。「CGなら、理想的美少女に加工できる。動きはモーション・キャプチャーを装着してトレースすれば」
「うーん」しばらく考え込んでいた小佐薙は、「まあ、それでもええけど」とつぶやくように言った。
「じゃあ決定」樋川が一つうなずく。
最初からそうすればいいのに、と直美は思った。
小佐薙が、直美に顔を近づける。
「まあ、こういう試行錯誤を経てモノができていくんやが」
しかし直美はこのバイトに関わって以来、錯誤の方が多いのではないかという気がしていた。
「いずれにせよ、声≠ヘ直美で決定や」小佐薙は、直美の肩をたたいた。
「だったらこの衣装は……?」直美は、赤いヒラヒラの袴≠指でつまんだ。
「衣装は、もう用なしや。欲しかったら、やる」
やると言われても、こんなものをもらったって、どこへも着ていけないのである。
「ベースはウェットスーツらしいし」と、明日未が言った。「スキューバ・ダイビングでも始めたら?」
「でもこれ、魚も寄って来ないと思いますけど」
直美は、紅白の衣装を見つめ直した。
9
次の週は、ひたすら前期試験に追われることになった。それでやむなく、バイトは休ませてもらうことにする。
でも結果は、きっとさんざんだと直美は思った。ほとんどの科目が一夜漬けだし、授業に出てなかったせいもあって、分からない問題も多かった。
一方、バイトの役作り≠ヘ順調で、台詞は大体、頭に入った。また、人前で恥ずかしがらずに話せるようにする訓練や笑顔の訓練は、ずっと続けている。要は、人前で理想の自分を演じようとしているようなものなのだが、それがだんだんと、ふだんの自分のような気さえしてくることもあった。単に、うまく切り換えられないだけのことなのかもしれない。しかし本当の自分は、一人になって鏡に向き合ったとき、確かにまだそこにいるのである。
直美は、引っ込み思案な自分を変えたくて、役者を志していたことを思い出した。この役≠やり通すことができれば、本当に自分を変えられるかもしれないと、彼女は思った。
水曜日、直美は学校からの帰り、ネオ・ピグマリオンの事務所に顔を出した。打ち合わせのため、どうしても来て欲しいと頼まれたのだ。実はその日も朝からフライトがあったのだが、そっちは欠席させてもらい、みんなとは夕方、事務所で合流した。
いつもの四人が、会議室に集まった。小佐薙がノートパソコンを立ち上げ、資料を配付する。資料は、一週間前のフライト時の気象予測と、その結果についてだった。
直美がそれに目を通していると、小佐薙が話し始めた。
「予測の困難な都市型雷雨などに、大きな誤差がある。それらはさらに詰める必要があるが、その他はこの数日に関して、大体当たっている。しかも複数のポイントで、予想は完全に的中」
資料を見ていた樋川は、顔を上げた。「つまり未来予知に成功、ということか」
「すでに豪雨や竜巻などの自然災害は、かなりの確率で言い当てることができると思う。さすがに地震はまだ難しいが」
「でもこれって、かなり大雑把じゃないの?」明日未が首をかしげる。「世界シミュレータでも、異常気象のたぐいは予測しているし、この程度なら、ノイマン型でも」
「いや、今はまだ開発の初期段階やが、さらに踏み込んだレベルまで予測できる。ただし、天気予報に使うには、相当割高やな。しかも俺たちの目標は、天気予報やない」
「分かってる。占いとカウンセリングでしょ」
「次のテスト段階では、気象からさらに進めた未来予測をさせてみる。国政選挙の大勢《たいせい》予想や、プロ野球のペナント予想ぐらいなら、そろそろできるかもしれへんな」
「たとえば週末のナイターも?」
「いや、試合ごとの予想は、まだ難しい。さらにその先のステップということになる」
樋川は煙草を取り出して言った。
「いずれにしてもノイマン型では、さすがにそこまではできないだろう」
「解析神、ネオ・ガラティアの方は?」と、明日未が聞いた。
「問題ない」小佐薙が真顔に戻る。「システム、所在、エネルギー、コミュニケーション、起源。我々が設定した、五つの条件は、一応満たしている。ただし解析世界――ネオ・パフォスにおいてやが。その後も順調に成長しとる」
「そうだろうか?」明日未は、アイスコーヒーに口をつけた。「まだ何か、欠けている気がするんだけど」
「心配するな。問題があればバージョンアップしたらええだけやがな」
樋川が資料を掲げて言う。「このデータは、本社にも報告していいか?」
「もちろん。今後、テストはさらにディテールを上げていき、最終的にパーソナルレベルでの予測をめざす。そして十月一日、日曜日の開業に間に合わせる」
「デビューはまだ早いんじゃない?」明日未が小佐薙に言った。「ガラティアは、まだ一人前の神様にまでは育っていないと思うけど」
「場合によっては見切り発車するしかない。本社が突きつけた条件なんやから」
明日未は不服そうに、小佐薙の顔を見ていた。「でも……」
「デモもヘチマもない」
「とにかくフライトしてテストを重ねることだな」樋川はため息混じりに、煙草の煙を吐き出した。「その度に、ガラティアは確実に成長するんだから」
「そのフライトについてやが」小佐薙は、みんなに言った。「今度、デモンストレーションを一発やろと思てる」
「デモンストレーション?」直美が聞き直した。
「ああ。ホームページのネット放送でな。目的は、この事業のPR。それとモニターに協力してくれる、モニタークライアントを集めること。予定日は、七月三十日の日曜日。午前中からフライトするとして、放送は、十二時開始かな。明日未と直美は、早速ホームページにも告知しておいてくれ」
「あ、はい」事情がよく飲み込めないまま、直美は取りあえず、返事だけした。「でもデモンストレーションて、何をするんですか?」
「大博打《おおばくち》や」小佐薙は、不敵な微笑みを浮かべた。「広報の後、ガラティアを使って、その日の都市型雷雨の、発生場所と時間を言い当てる。それで注意を呼びかければ、宣伝効果は高くなる」
樋川が首を横にふった。「無理だ。まだそのレベルにまでは達していない」
「いや、だからこそ、当たれば良い客寄せになる」
「確かにそうかもしれないが、外れるとちょっと、みっともないことになるぞ」
「せやから大博打や言うとるやろ。まあ、あくまでもデモンストレーションや。宣伝になるよう、臨機応変にやるつもりや」小佐薙は、直美の方を見た。「それと直美」
「は?」
「大事なことや。そのフライトで、マスコット・キャライコライザー≠デビューさせる」
「え?」
「分からんか? デモンストレーションの進行役は、君や」
「へ?」直美は、目を瞬《しばたた》かせた。「いや、その……」
「否《いや》も応《おう》もあるか」
「でもまだ、方針は固まってなかったんじゃ……?」
「いや、固めた。お前が休んでいる間にな。結局、お前は声だけにする。3DCGキャラも、大体できている」小佐薙がノートパソコンを操作する。「営業企画課から、さっき上がってきた。もちろん、君らの意見を聞いて、直すところは直す」
直美はディスプレイをのぞき込んだ。
前に見せられたものとよく似た衣装を、美少女キャラが着ていた。
「モーション・キャプチャーで動かすこともできるし、パターン化した動きなら、キーボードで操作することもできる」
小佐薙は実際に、CGキャラを動かしてみせた。どうやらこのキャラの声を、自分が担当することになるらしいと直美は思った。
「ちょっと、リハーサルしてみよか」
小佐薙は直美の体に、キャプチャー・ボールを取り付けていった。そして小佐薙たちは、ディスプレイのCGキャラに注目する。すると直美はもう、体を動かしながら想定シナリオを読むしかなかった。台詞は頭に入っていたので、今度は演技の方に気をつけてやってみた。
一通り演じ終えた直美が、小佐薙たちの方を見ると、彼らは顔を見合わせてうなずき合っていた。
「ディスプレイが小さいんやから、もっと体を大きく動かして、ショーアップすることを意識するように」と、小佐薙は言った。「それと、よく通る声というのは、何も大声を出すことやない。腹の底からしっかりと声を出すんや」
「はい」
直美が肩を落とすと、ディスプレイのキャラも肩を落としていた。小佐薙は、気に入ってくれなかったようだ。しかしそれは、直美の早とちりだった。
「お疲れさん」小佐薙は微笑むと、「基本的にはOKや」と言った。
樋川も煙草の火を消しながらつぶやいた。「何とかいけそうだな」
小佐薙は、直美の体から、キャプチャー・ボールを取り外した。
「よし、だったらデモンストレーションのとき、モニタークライアント以外に、先行予約の受け付けも開始しよう」
「早すぎない?」と明日未が言う。「勇み足にならなければいいけど」
「いや、イケるイケる」小佐薙は機嫌良さそうに笑った。「それとデモが終わったら、景気づけにみんなでパーティやろか」
「賛成」明日未が手をあげた。「直美もジュースでよかったら、参加すれば?」
直美はこっくりと、うなずいた。
「デモが日曜やから、打ち上げは来週の金曜でどうや」小佐薙がそう言うと、みんなはうなずき合った。「メンツはこの四人と、特販営業二課の連中、それから営業企画も誘ってみるか……」
「あの」直美が恐縮しながら聞いてみた。「機長さんと、副操縦士さんは?」
「一応、声かけてみるけど、あいつら、別会社やからな……」
首をひねる小佐薙を見て、直美はやっぱり、駄目なのかなあと思った。もしパーティで機長さんと会えるなら、それなりに勝負をかけてみるべきだと思ったのだが……。
アパートへ戻ってからも、直美はデモンストレーション飛行のことが、頭から離れなかった。取りあえず、お風呂で汗を流すことにする。
マスコット・キャラか……。バスタブに体を沈めながら、直美はまたそのことを考えた。いわば、アイドルだ。みんなからも、注目される。自分のなりたかった存在に違いない。けど、今の自分にできるかどうか――。考えていても仕様がない。がんばって、そして思い切り、理想の自分≠演じてみよう。
お風呂から上がった直美は、バッグから想定シナリオを取り出し、ページをめくった。
10
七月三十日の日曜日は、朝から快晴だった。直美がイコライザー≠ニしてデビューする日である。
ネットでの生放送は、十二時開始の予定だった。そこで解析神、ネオ・ガラティアが予測したその日の都市型雷雨の予報を、彼女が伝えるのだ。ただしネオ・ピグマリオンのホームページには、すでにCGキャラが公開されているので、ネットでは一足先に、彼女の声はデビューを果たしていた。
出発前、柴宮機長が、いつものようにキャンディを直美に渡した。それをいつものように、胸ポケットにしまう。
彼女の頭と、耐Gスーツの上半身には、すでにキャプチャー・ボールがセットされていた。彼女の一挙手一投足は、それでCGキャラに反映される。
もちろん、声も彼女の担当である。ヘッドカムがとらえた彼女の声は、ほぼそのままキャラの声として、ネットに流れることになる。
コックピットでは、フライデイMを含め、全員が定位置についた。いよいよ、デモンストレーション飛行の開始である。
直美は、胸の高鳴りを抑えることができずにいた。そして、いつもは持ちかえって大事にしまっておく機長のキャンディを、その日初めて、口にふくんだ。
何も心配することはないと、直美は思った。正面のディスプレイやヘッドカムから小佐薙ビギンの指示が入ってくるし、それに従ってやればいいだけだ……。
天矛V1は、すでに離陸していた。
明日未がコードを入力し、暗号解除する。
量子CPU初期化のための弾道飛行の後、量子計算が開始された。その日の都市型雷雨の発生予測をするためである。
水平飛行に戻ると、フライデイがスパコンを用いて、久遠からの出力の解析作業を始めた。
その出力を待ちながら、直美はネット放送の準備を続ける。通信は、衛星回線を利用して行うことになっていた。
問題なくできるはずだ、と直美は思った。リハーサルでは、うまくいったのだから。
しかし、フライデイからの出力がまだ返ってこなかった。いつも時間がかかるのだが、今日は特にそう感じた。
そうこうしているうちに、十二時になった。
小佐薙はやむなく、直美にQサインを出した。計算結果は、デモンストレーションの進行中に出るだろうという読みだ。
明日未が選曲したBGMが、バックに流れ出す。
始まってしまった。
直美は、プログラム通りに進行させようとしたが、緊張のためか、声を出すことができずにいた。
小佐薙も、樋川も、明日未も、心配そうに、直美を見つめる。
ここでくじけるわけにはいかない。そう、これから自分は、理想の自分≠ノなるんだ。
直美はそう思い、笑顔をつくろうと、ヘッドカムのマイクに向かって話しかけた。
「みなさん、こんにちは!」
練習のときよりも、いいと自分でも思った。一度声を出してしまうと、もう問題はない。想定シナリオに従って、リハーサル以上に、スムーズに話すことができた。滑り出し順調である。
直美の語るネオ・ピグマリオンの説明の一つ一つに、小佐薙がうなずいている。この調子で続ければいい。直美はテンションを落とさないよう気をつけながら、演技を続けた。
「ネオ・ピグマリオンでは占いだけじゃなくて、みんなの悩み事は何でも相談にのってくれるんだって。メールに書いて送ってみたら? 開店はもう少し先だけど、受け付けはもう始めてる。詳しいことは、このホームページで確かめてね。それから開店準備に協力してくれるモニタークライアントも募集してるので、そっちもよろしく!」
小佐薙はふり返って、笑顔で親指を立てている。ここまではOKらしい。さらに想定シナリオにそって進めているうちに、何とか最終シーンにたどりついた。
「せっかくだから、試しに何か、占ってもらおうよ。今日のお天気? そんなの晴れに決まってるって? でも、急に雨が降ったら困るよね……」
この後直美は、ガラティアが予測した、都市型雷雨の情報を伝える予定になっていた。ここまでくれば、もう何も問題はない。正面のディスプレイを読めばいいだけだ。そう思ってディスプレイに目をやった彼女は、目を瞬かせた。
結果がまだ、出力されていない! そのデータがなければ、直美は次に何を言って良いのか、分からなかった。
「えっと、あの……」彼女の顔は、みるみる赤くなっていった。
一方、小佐薙の表情は、一気に険しくなる。
何か言わなければならない。気ばかり焦るが、何を言えば良いのか、思いつかなかった。
「あの、私……」
小佐薙が、怖い顔でディスプレイを指さしていた。
直美がそれに目をやると、画面の中で、赤い太ゴシックの文字が点滅している。小佐薙からの機内メールだった。表題には、〈シナリオ差し替え。緊急〉とある。
直美は何も考えず、それを読むことにした。
「え、何? 気が早いですって? そうか。みんなも、開店までもう少しのご辛抱。じゃあ、またね!」
声は少し、うわずっていたかもしれない。とにかく生放送は終了し、同時にコックピットには、重苦しい空気が流れた。小佐薙の一言が、その沈黙を破った。
「お前、アドリブきかへんな」
「小佐薙ビギン」ヘッドカムから明日未の冷静な声がした。「今、解析結果が出ましたけど」
樋川が舌打ちする。「でも、放送は、今終えたばかりだ」
「どうします?」
「結果はホームページに流しておけ」小佐薙が捨てばちに言った。「直美は今、動揺しとる。放送を再開して喋らせると、また何かヘマするぞ」
「了解しました」明日未は早速、結果をアレンジし、ホームページにあげた。
「とにかく帰ろう」小佐薙は、機長に指示した。「早速、反省会や」
天矛が格納庫へ戻り、みんながカーゴゲートを降りている間も、小佐薙はブツブツと不満をぶちまけていた。
「あいつはまるで爆弾や。すべてをブチ壊しにしかねん……」
そのまま反省会を開こうとする小佐薙を、樋川が説得する。そしてともかく、着替えをすませてから、フライデイMも交えて詰め所へ集まることになった。
しかし彼の怒りは、それでも治まってはいなかった。
「お前は使い物にならへん」小佐薙は直美を指さして言う。「何とかアドリブで時間つなぎしてくれれば問題なくいけたのに。そんなに難しいことやないはずやが」
直美はただ肩をすぼめ、うつむいていた。
「でも原因はイコライザーじゃないでしょ」と、明日未が言う。「解析神ガラティアの計算処理が遅れたからじゃないの。それで直美が動転してしまった」
「確かに、前回のリハーサルより時間がかかっている」樋川が煙草に火をつける。「同じことをさせて時間がかかるようになったんだから、問題はイコライザーじゃなく、ガラティアにあることになる。さらに言えば、そのユニットを構成する、久遠かスパコンかフライデイのどこかに問題があった」
「久遠じゃない」明日未が首を横にふる。「ただ久遠からの出力が大量かつ複雑過ぎて、その処理にもたついてしまうんだと思う」
「ということは、原因はスパコンかフライデイのどちらか、もしくはその両方ということか?」
「言ってみれば、どっちもノイマン型だからね。ボトルネック――砂時計のくびれ≠ンたいなところで情報処理に手間取ってしまうから、時間遅延《タイムラグ》は、どうしても発生してしまうのよ」
〈みなさんがおっしゃるように、久遠からのデータは確実に届いていました〉と、フライデイMが言う。
〈スーパーコンピュータにも、特に問題はなかった。スパコンに作業を割り振って効率よく計算させるのは、私の仕事ですから〉
「すると処理に時間がかかったのは……」
〈申し訳ありません〉Mが、頭を下げた。〈一瞬、自分が考え込んでしまって……〉
樋川が、煙草の煙を吐き出す。「すると原因は、フライデイ?」
「随分、弱気な神様ね」明日未が微笑んだ。「でも、自分に正直なのは評価できるけど。それは私たちが求めていた解析神の条件にも適うわけだし」
「いや、問題は、イコライザーにもある」小佐薙はテーブルをたたいた。「これはチームプレーなんや。フライデイのミスは、イコライザーがカバーできたはずや。それを、とちりやがって」
「でも、直美の人柄はよく出ていたと思うけど。私は評価するわ。聞いてくれた人に、彼女の誠意は伝わったはずよ」
「そりゃ、悪い印象はなかったかもしれんが」小佐薙は、直美を見つめた。「とっさに機転がきかないのでは、イコライザー失格や。アクシデントは、常に起きる。臨機応変に対応できないと、命取りになりかねへん」
「よく言うぜ」樋川が呆れたように言う。「お前が素人を使うから、こういうことになったんだろ。彼女の起用にこだわることは、何もなかったのに」
「私、彼女なら彼女でいいと思うけど」明日未が首をかしげた。「でも、生放送でなくても良かったんじゃないの?」
「いや、情報は生物《なまもの》、鮮度が大事なんや。それにいずれは、クライアントと直接やりとりをしなければならない。そこまで見越して、俺は生にこだわった」
「けど実際問題として、生放送は危険でしょ。イコライザーが直美でなかったとしても、フォローできないケースだって出てくるかもしれない」
「確かに」小佐薙は腕を組み、考え込んだ。
「やっぱり、録画が安全かな」樋川が煙草の火を灰皿で消した。「少なくとも今回のようなケースでは」
「一番安全なのは、ホームページに書き込むことね」と、明日未が言う。「放送なんて、手間のかかることをせずにさ」
「ほな、マスコット・キャラはどないするねん?」
樋川が次の煙草を取り出す。
「しかしアドリブのきかないバイトに喋らすと、またドジをふむぜ。この際、タレントを起用してみたら」
「いや、タレントを使っても問題は起きる。ギャラのこともあるけど、システムを理解していないと、何を喋り出すか分からん……。こうなったら、仕方ない」小佐薙は何かを思いついた様子で、テーブルのパソコンを見つめた。「CGキャラなら、データ・ソースは、誰でもええわけや。たとえば俺が喋っても」
「そうか」樋川が膝をたたいた。「ボイス・チェンジャーを使えば、男の声を女にもできるし、お前の関西なまりも変換してくれる」
「ああ、何も素人娘にこだわることはなかった」
直美は、ここまで話を進めておいて今さら気づくことでもないと思いながら、二人の会話を聞いていた。
「よし、次のデモンストレーションで、早速試してみよう」
小佐薙がそう締めくくると、反省会は終了した。
空港ビルへ向かうマイクロバスの中で、直美はぼんやりと外をながめていた。議論などする必要はなかった。最初から、自分には無理だったのだ。自分の気持ちも人にうまく伝えられないのに、神の言葉を伝えるなんて。
人から与えられたものとはいえ、確かにあのキャラは、自分の理想のキャラに近かった。けど考えてみれば、明らかにエネルギー準位《レベル》が違い過ぎる。所詮、今の自分には届かないのだ。しかし、今の自分が理想に届かないのだとすれば、自分はこれから、どうすればいいのだろう……。でもこのバイトを続けさえすれば、と直美は思った。解析神ガラティアが成長すれば、こんな自分にも何らかの解決策を見出してくれるかもしれない。それまで、バイトは続けてみよう……。
直美はそこで、ハッとした。マスコット・キャラの声を、ボイス・チェンジャーを使って他の誰かがやることになるとすると、自分はもう、お払い箱ではないか……。
ネオ・ピグマリオンの事務所へ戻った直美は、早速、荷物整理を始めた。自分なりに一生懸命練習したつもりだったが、できないものは仕方ない。機長さんとは、もう会えなくなるが、それも仕方ない……。
「何してるの?」明日未が声をかけた。
「何って……」直美は口をとがらせた。「もう私は、クビかと思って……」
「何言ってんのよ」明日未が大声で言う。「事務所を開けたばかりで忙しいのよ。猫の手だって借りたいぐらいなのに」
「猫……?」
「とにかく来なさい」
明日未は彼女の手を引き、小佐薙のいるビギン室のドアを開けた。
「何や、いきなり」小佐薙がいぶかしげに顔をあげる。
「直美のことなんだけどさ」明日未は机に手をのせて言った。「クビにする気なの?」
明日未の気迫に押されるように、小佐薙は椅子ごと後ろへのけぞった。
「いいや、俺は何もそんな……」
「そうよね」
「けど、これといって他に取り柄はなさそうやし、どうしようかと思ってたところや」
「何ですって? 彼女にはホームページのレイアウトをしてもらったでしょうが。それにフライデイが、彼女のことを気に入ってんの。だからこのまま、プログラマーとして残ってもらいたいんだけど」
「別にかまわんが」と、小佐薙は言った。
「どう? 直美さえ、良ければ」
直美も、それで異存はなかった。
「さ、気持ちを入れ替えて、またがんばってね。今度、パーティもあるしさ」
明日未は、直美の肩をたたき、微笑んだ。
うれしかった。とにかく彼女が間に入ってくれたおかげで、直美はこのバイトを続けることになったのだ。
直美がアパートへ帰る途中、みるみる雲行きが怪しくなったかと思うと、激しい勢いで雨が降り出した。解析神ガラティアの予測通り、都市型雷雨が発生したのだった。
まさかそれが自分の近所だと思っていなかった直美は、傘も持っていなかったので、しばらく駅前で時間をつぶすことにした。雨は当分、やむ気配はない。
嵐の前触れかも、と直美は思った。
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それなりにデモンストレーションの効果はあったらしく、|ネオ《N》・|ピグマリオン《P》のホームページへのアクセス数は増加していた。モニタークライアントの希望者も、集まり始めている。彼らには、カウンセリングの優先権や料金割引などの予約特典も与える。また正式な開業までは、ハンドルネームを提示すれば、匿名でもかまわないとした。
ホームページの受け付けシートや掲示板《BBS》には、そうした彼らのハンドルネーム名を、頻繁に目にするようになっていった。三十路の特異点、包茎牧場、破れ相合い傘、モモクリ残念カキ一念、アンマリッジ・ブルー、戸籍のダブルエックス、セコハラスメント、失策仕事人、てんで間抜けなズボラ神様……。ほとんどの人が、一日も早いカウンセリングの開始を待ちわびていた。
井沢直美は、彼らが書き記した悩み事に目を通し、内容別に整理していった。基本的に、それもフライデイがするのだが、あらかじめアルバイトが大雑把《おおざっぱ》に分類しておくのだ。
しかし考えてみれば、最初のデモンストレーションでは、天気予報をしただけなのである。それにもかかわらず希望者が集まってくるというのは、やはり潜在的にこうしたニーズがあるのかもしれないと、直美は思った。
とにかく、始めてしまった。予約金の振り込みも、すでに何件かある。しかし集まったお金は、直ちに溜《た》まっている支払いに回さねばならない。彼らが飛ばしているのは飛行機だったが、やっていることはまさに自転車操業だった。
八月に入ってからも、天矛《てんむ》V1でのテスト飛行がくり返された。解析世界、ネオ・パフォスをさらに細分化し、占い可能なレベルにまでソフトを仕上げていくのである。
デモンストレーションのネット放送は、前回の反省から、告知するのはおおよその時刻として、フライデイからの出力を待って開始することになった。
マスコット・キャラの声は、小佐薙真が担当する。操縦室《コックピット》のクルーたちは、ボイス・チェンジされる前の小佐薙の声を聞かされることになるので、ディスプレイの美少女キャラを見ながら相当不気味な思いをさせられていた。しかし小佐薙は、その方面のキャラには造詣《ぞうけい》が深いようで、そつなくこなしていた。
|詰め所《ステーション》での反省会で、富士明日未がシステムの課題について報告した。解析神ネオ・ガラティアの反応《レスポンス》が、また落ちているというのだ。ネックはやはり、フライデイらしい。
「ただ計算するだけなら、無茶苦茶早いんですが」と、明日未は言った。「占いユースだと、遅くなる傾向がある」
樋川晋吾が、フライデイ・|モバイル《M》をちらりと見た。「それは情報処理量の問題だろ」
「そう言えばそれまでですけど、前回と同条件で都市型雷雨の予測をさせても、反応速度は遅くなっているんです。つまり同じ作業量でも、後で行った方が前回よりも時間がかかっている」
「どういうことだ?」
「解析神ガラティアは、成長すればするほど、即断できなくなっているのかもしれない」
「ふうん」樋川は、煙草《タバコ》に火をつけた。「小佐薙ビギンの理想の神というのは、そんな優柔不断な奴だったのか?」
「同条件といっても、フライデイの自習は進んどる」小佐薙は無愛想に言う。「それだけ、データは蓄積されていっているわけで、それが原因の一つかもしれん。証言や判例が多いと、判決に時間がかかるようなもんや」
「分かりやすく言えば、時間とともにシステムが重く≠ネっていってるわけだろ。それはパソコンでもいえることだし、ある程度は仕方ないのかもしれないが」
「天気予報ぐらいなら、何とかこなせるでしょうけど」明日未はあごに手をあてた。「占いは、さらに時間がかかる。果たしてカウンセリングまで進められるかどうか」
「フリーズするかもな」樋川が煙を吐き出しながら、大笑いしていた。
「問題は、どうするかや」小佐薙がテーブルをたたく。「もっとはっきり言えば、フライデイをどうするか。久遠《くおん》やスパコンに問題がなくても、フライデイで止まってしまう」
「かといってこのプロジェクトは、人工知能《 A I 》を使わないと、対応不能だろ。計算速度を早くする方法は何かないのか?」
「ショートカットさせられんこともないが、精度に影響する。新たな演算手順《アルゴリズム》でも見つかれば別やが、そんなものは思いつかへん。精度を下げたくないなら、今のままやるしかないやろな」
「ただ占いもカウンセリングも、これだと面談形式は困難だろう」樋川は煙草の火をもみ消した。「回答に衛星中継の時間遅延《タイムラグ》の何十倍もかかるんじゃ、カウンセリングにならない。するとすれば、クライアントからの相談をあらかじめ聞いておいて、回答が出た時点で、それをまとめてクライアントに伝えるというやり方だろうな」
「それでええんやないか? フライデイが鈍いんなら、仕方ない」
小佐薙のその一言で、反省会は終了した。みんなはマイクロバスへ向かう。
直美がふり返ると、テーブルにポツンと、フライデイMがいた。バスへ向かうよう、直美はMに合図する。
〈反応が鈍くてご迷惑をおかけするなんて〉と、Mはつぶやいた。〈自分が情けないです〉
直美は、Mの肩に手をかけた。そのとき、彼女の携帯が鳴った。令子からのメールだった。夏合宿のスケジュールについて、彼女に確認してきたのだ。
〈そのストラップ……〉と、フライデイMが言った。
Mは、雪型の飾りのついた携帯のストラップを見つめていた。
「あ、これ?」
次にMは、自分のバッテリーパックに目をやった。二つのストラップがペアなのに、Mは気づいたようだ。
〈結局、もう一つ買ったんですね〉
「ええ……」
〈やっぱり私たち、どこか似てますね〉
フライデイMはそう言いながら、口のあたりを光らせていた。
ネオ・ピグマリオンの事務所へ戻り、ホームページをチェックしていた直美は、掲示板にあるいくつかの書き込みに目がとまった。それらがモニタークライアントの希望者でないことは、一目で分かった。
たとえば、〈サルマネ〉というタイトルの書き込み。要約すると、こういう内容になる。
ネオ・ピグマリオンは、|ソウル《S》・|オリジン《O》・|サービス《S》の形だけを真似ている。肝心の上位概念は不在である――。
もっとはっきり、ソリジンへの敵対行動だと書いてあるものもあった。他にもネオ・ピグマリオンを中傷する書き込みは、いくつも見受けられた。
直美は明日未にそのことを告げ、明日未は小佐薙に報告した。早速会議室に、みんなが集まる。
「誰がこんな書き込みを?」と、小佐薙が言った。
「はっきり書いてあるじゃない。ソウル・オリジンて」明日未はノートパソコンのディスプレイを指さした。「書き込んだ人が匿名でも、ソウル・オリジンの関係者かクライアントに間違いないわ」
「サルマネか」樋川は煙草を一本取り出し、口にくわえた。「こっちは差別化しているつもりでも、向こうには、そう見えないんだろうな。これがソウル・オリジンの関係者とすれば、新たに参入してくる業者を、早いうちにツブす気なのかもしれない」
「そんな汚い手を使ってくるやろか」小佐薙が首をかしげる。「業界最大手やろ。それにこれだけでは、本当にソウル・オリジンが関係しているかどうかは、分からへん」
「確かに業界最大手だが、成長するには成長するだけの理由がある。良いことばかりじゃないさ。直接的な関係者じゃないとしても、クライアントの誰かとか、もしくはそいつらに頼まれた連中とか」
「ソウル・オリジンの狂信的なクライアント、ということか」
「そこよ、気になるのは」明日未が大きな声で言う。「こんなことをするのは、クライアントというより、やっぱり信者≠ニ言うべきだと思う。ソウル・オリジンは宗教と違うっていうけど、私にはそうとしか見えないんだけど。スタートしたのはメンタルヘルス事業だとしても、今はどう見たって、宗教団体よね」
「どうしてそんなふうになったんだ?」樋川は煙草をふかしながら、小佐薙に聞いた。
「いろいろ理由は考えられるやろ。まず宗教的儀式には、抑鬱《よくうつ》効果などがある。それらをセラピーに取り入れたら、形まで新興宗教みたいになったとか。それと前にも出たが、会員数が多くなると、組織の統制や、自分たちのやっていることが何か素晴らしいことのように思い込ませるテクニックが必要になってくる」
「挙げ句の果てが、大宇宙根元魂――ソリジンか」
「考え方の異なる会員を束ねるには、そういうシンボルがあった方が手っとり早い。また業績を拡大するには、宗教の垣根を越えなければならないことも確かやったと思う。そのためにもってきた上位概念に、さっき言ったようなセラピー手法で宗教色がついてきたということかもな。いくら非宗教を掲げていても、創設者《ファウンダー》のハリス・ロイドとかいう人物が発言すれば、その宗教観が出てきてしまう。ファウンダーの言うことは絶対やし、彼が上位概念、ソリジンを語る構図は、他の新興宗教と大して違わへんわけや。そういう組織の維持に便利なスタイルが出来上がってしまえば、もうそれで突っ走るしかない」
「それで、どうする?」と、樋川がたずねた。
「ソウル・オリジン・サービス社からの、正式なコンタクトではないし、あからさまな営業妨害でない限り、しばらくは静観するしかないと思うけど。自分たちのやるべきことを、粛々《しゅくしゅく》とやるだけやないか?」
小佐薙はそう言い残し、会議室を出ていった。
直美は自分の机に戻り、寄せられた内容の整理を続けた。書き込みは、また増えている。この分だと、今日は残業することになりそうだった。いや、今日だけではない。夏休みは、全部バイトでつぶれるかもしれない。しかし何故《なぜ》か、さほど嫌な気はしなかった。少なくとも五月のころのように、何をすべきかも分からない状態ではない。そんなことを考えている暇もないほど、やることはいくらでもあった。
直美は一通りチェックを終えた分まで、フライデイに入力することにした。いずれ解析神ネオ・ガラティアが、これらの悩み事に対してカウンセリングすることになるのだが、どんな答えを出すのか、直美には興味があった。
〈お疲れさまです〉
フライデイの|ホスト《H》・|サブスタンス《S》へ行き、作業していると、フライデイMが話しかけてきた。
〈直美さん、夏休みの計画は?〉
「私は多分、ずっとバイトかな」
直美は、夏合宿の返事を、まだ令子に送っていなかったことを思い出した。
〈遊びたくないのですか? 海とか山とか〉
「でも私、人といても、あんまり楽しくないから……」
〈そうなんですか? 私とはこうしているのに?〉
直美は微笑《ほほえ》んだ。「だって、フライデイは……」
〈あ、そうか。人じゃなかった〉Mは頭に手をあて、笑う仕種《しぐさ》をした。〈でも直美さんて、不思議な人ですね〉
「そう? どうして?」
〈だって、人恋しさをいだきながらも、人を避けているんですから。そうやって人を避けている間も、人を恋しがっている。明らかに矛盾している〉
「え、そうかな」
直美はまた、微笑んで言った。本当は、フライデイMの言う通りだと思っていた。しかし深刻な表情を見せたくなかったので、無理に微笑んだのだ。
〈直美さんのその笑顔、私は好きです〉と、フライデイMは言った。〈マスコット・キャラクターを演じようとしていたときの笑顔も、可愛《かわい》かった〉
「ありがとう、褒めてくれて」
〈けど、どこか痛々しかった。まるで人と接する恐怖の裏返しのようで〉
これも当たっていた。あのとき自分は微笑みながら、確かに痛みも恐怖も感じていたのだ。これは自習の成果なのだろうか。フライデイは、自分のことをよく見ている。言われてみるとあの笑顔は、今の自分からの逃避であり、そして届かぬ理想に向かっての疾走だったのである。
〈いつか心から笑えるようになれば、いいんですけどね〉と、フライデイMが言った。
その通りだと、直美は思った。
自習を続けるフライデイの子守≠しながら、直美はまた、ホームページの掲示板を閲覧していた。削除すべき書き込みは、また増えている。
ソウル・オリジンのクライアントと思われる書き込みだけでなく、それに対する反論も見受けられた。どうも、ネオ・ピグマリオンのモニタークライアントに応募してきた連中が、書いているらしい。
読み進めていくと、別なスレッドが立ち上がっているらしいことに、直美は気づいた。おそらくここに書き込んでも、編集されてしまうからだろう。そっちを見てみると、もうお祭り状態で、いろんな書き込みであふれていた。大雑把に言うと、ソウル・オリジン派とネオ・ピグマリオンを含むその他に分かれて、やり合っている。
直美の目から見ても、それは水掛け論に近い気がした。大体、みんな同業なのだから、相手に対する中傷は、そのまま自分にも当てはまってしまいかねないのである。しかし最大の違いは、大宇宙根元魂――ソリジンの解釈のようだった。ただしネオ・ピグマリオンはまだ、解析神ネオ・ガラティアについても量子コンピュータについても、情報はオープンにしていないので、それらが争点にはなっていない。
こうした議論は際限なく続けられていて決着がつきそうにもなく、各団体の責任者による、ネット上での公開討論を望む声も出始めていた。
直美はそのスレッドについて、また明日未に報告し、明日未はまた、小佐薙に報告した。
「公開討論?」ビギン室の椅子《いす》にふんぞり返り、小佐薙は言った。「やぶさかではないけど、こっちから手をあげない方がええと思う。向こうの上層部かて、あんまりやりたくはないやろし」
「どうして?」と明日未がたずねた。
「最大のポイントは、ソリジンの解釈になると思うが……。このスレッドを見ても明らかなように、こういう話は下手に首を突っ込むと、結論が出るどころか、余計にややこしくなるだけなんや」
「でも、もう首を突っ込んじゃってるでしょ。しかも自分から」
「他社や個人を中傷する書き込みは、管理人の義務として削除しよう。しかし、クライアント対クライアントで議論している間は、静観している方がええ」
「もし、会社対会社の問題になれば?」
「それには応じるしかないと思うが、泥沼になると分かっていて飛び込むほど、奴らも馬鹿やないと思う」
小佐薙の言うように、こうした書き込みに対するソウル・オリジンの公式なコメントは、今のところ見当たらなかった。直美は彼に言われた通り、あからさまに他社や個人を中傷するような書き込みは削除することにしたが、それらは削除しても削除しても、きりがないと思えた。
その日の仕事に一応の区切りをつけて、直美はパソコンを切り、机の上を片付けた。明日、みんなは朝からテスト飛行に出かけるが、直美は事務所でお留守番である。バイトにおける直美の役割が変わったので、天矛に毎回乗せてもらえるわけでは、なくなっていた。そして柴宮機長も待田副操縦士も、この新しい事務所に立ち寄ることは、まだなかった。明日の夜は、みんなで事務所開きのパーティをやる予定だが、二人が来るかどうか、直美はまだ聞いてなかった。
彼女はバッグを開き、今日、機長からもらったキャンディを見つめていた。今日も結局、何も言い出せなかった。緊急連絡網をもらったおかげで、機長のメールアドレスを知ることはできた。メールしようと何度も思ったが、何を書いて送ればいいのか、分からないのである。
「どうしたの、元気ないわね」ロッカールームで、明日未が声をかけてきた。
「いえ、別に」直美は軽く、首を横にふった。
「小佐薙ビギンに、また何か言われたの?」
「そうじゃないんですけど……」
「じゃあ何、失恋でもしたの?」
「いえ、まだそこまでは」直美は両手をふって否定する。顔は次第に赤くなっていった。
「何だ、じゃ、やっぱり片思いか」明日未が微笑んで言う。「それぐらい、どってことないって。誰だって経験あるんだから」
「え、明日未さんでも?」
直美には、それが意外だった。明日未ほどの美貌《びぼう》の持ち主が、片思いをしたことがあるというのが。
「もちろん。自分が好かれているのか嫌われているのか、気になって仕方なかった。でも往々にして、何とも思われていないものよ。だってろくに会話もしない相手に、気にかけてもらっているはずがないじゃない。空回りして熱くなっているのは、自分だけ。まるで小佐薙ビギンの仕事ぶりみたい」
明日未が笑うので、直美もついつられて笑ってしまった。
「で、お相手はクラスメートか誰かなの?」
直美はうつむき、小さくうなずいた。
「ふうん、うまくいくといいわね。でも今どき、そんなことで悩むのは珍しいんじゃないの?」
「そうなんですか?」
「だって今の子、間≠ェないんだもん。ホントはそこが一番面白いのにさ」
直美は彼女の言葉が、少し信じられなかった。
「確かに今は苦しいかもしれないけど、あとで思い出すと、そういう期間も楽しいものなのよ」明日未は、直美の肩を軽くたたいた。「とにかく黙ったままだと何も始まらないし、思い切って言ってみたら? 私の知ってる人なら、間に入ってあげられるんだけどな」
「いえ、告白するなら、自分でします」直美はまた、手をふった。「すみません、いろいろ聞いてもらって」
「これぐらいお安いご用よ。さて、明日は、パーティなんだし、気分転換にパーッとやりましょ」
ロッカールームを出た直美は、樋川から七月分のバイト代を受け取った。今月分からは、銀行振り込みにするという。
直美はそのお金をバッグにしまいながら、また洋服でも新調しようかと考えていた。
2
八月四日の金曜日、直美は午前中、事務所でお留守番をすることになっていた。早速、パソコンの電源を入れ、ホームページのチェックを始めた。モニタークライアントの希望者は、着々と増えている。しかしこうした人たちの気持ちをつなぎ止めておくのは、大変なことではないかと直美は思った。入会したとしても目立った成果がなかったとすれば、去っていくのも早いだろう。
直美は掲示板を開いた。小佐薙に言われた通り、中傷するような内容のものは削除するつもりで、読み進めていく。
そのうち彼女は、妙な書き込みを見つけて、スクロールを止めた。それは、モニタークライアント希望でも、ネオ・ピグマリオンへの中傷でも、それに対する反論でもなかった。今までのどのタイプの書き込みにも該当しない。あえて言えば、注意、あるいは警告ではないかと彼女は思った。
〈ネオ・ピグマリオンは、ソウル・オリジンと同様の問題を引き起こす可能性があります。よって正式な開業に際しては、その点をただすべく公開質問状を送付させていただきます。また問題発生、あるいはその危険性を察知した場合には、厳重に抗議し、しかるべき措置をとる用意があります〉
直美は、首をかしげた。これを書き込んだ人は、ネオ・ピグマリオン派でもソウル・オリジン派でもなく、どちらに対しても快く思っていない新たな考え方の持ち主のようだった。むしろ敵意すら感じる。掲示板には、この新たな書き込みに対する反応も寄せられていたが、彼女にはその正体が、いま一つつかめずにいた。
直美が考え込んでいたとき、ネオ・ピグマリオン宛に、一通のメールが届いた。差出人は、てんで間抜けなズボラ神様≠ニなっている。直美は、そのハンドルネームに覚えがあった。確かモニタークライアントの応募者の一人である。メールを読んで、直美は何となく、事情が理解できた気がした。
〈僕の考えでは、多分その連中は、|アンチ《A》・|ソリジン《S》|の会《O》≠セと思う〉
つまり、分かりやすく言えば、ソウル・オリジン被害者の会≠フ誰かではないかというのだ。ソウル・オリジンの事業をめぐっては、いくつものトラブルが発生している。たとえば、一旦入会すると、カウンセリングが長期間続き、なかなか抜けにくいシステムになっているらしい。その間、当然会費は支払い続けなければならない。退会を申し出ても、「ソリジンの怒りに触れる」などという露骨な引き止め工作で脅されることもあるという。クライアントが同意していて、家族が反対しているケースも多いが、なかなか聞き入れてもらえない。日本だけではなく、本社のあるアメリカをはじめ、世界各国で同様の問題が起きているらしい。そのため、被害者の会が設立されたという。
アンチ・ソリジンのホームページがあるらしいので、直美はそれをチェックしてみた。そこにはアンチ・ソリジン側からのソウル・オリジン観などがつづられていた。
〈ソウル・オリジンは、クライアントを治してしまうつもりなど、毛頭ないのだ。ずっと会員にとどめておき、金を吸い取れるだけ吸い取る。そのためいたずらに終末≠あおって、特に判断力の未熟な若者たちを狙っている〉
読んでいるうちに直美は、彼らの言い分ももっともだと思えてきた。しかし、
〈ソウル・オリジンは、ソリジンという概念を、最上位に位置づけ、すべての神の統一をめざそうとしている。今は一企業だが、やがて世界宗教となることを目論《もくろ》んでいる〉
というくだりには、本当かなという気もした。
取りあえず彼女は、情報をくれたてんで間抜けなズボラ神様≠ノ、お礼のメールを送っておくことにした。
そうこうしているうちに、みんなが事務所へ戻ってきた。直美は早速、小佐薙にアンチ・ソリジンについて報告をした。
「うちでは、そんな問題は起きへんやろ」と、彼は言った。
「どこでもそう言うわよ」横にいた明日未が、馬鹿にしたように微笑む。「実際に私たちが集めたモニタークライアントの中には、ソウル・オリジンから鞍替《くらが》えしようとしている連中もいるのかもしれない。当然ソウル・オリジンは気に食わないだろうし、彼らアンチ・ソリジンとしても、そうした動きを警戒しているんじゃない?」
「しかし開業と同時に公開質問状が届くんだろ」樋川は煙草を取り出した。「対応を考えておく必要は、あるんじゃないのか?」
「穏やかじゃないな」小佐薙は、一つため息をもらした。「うちはソリジンの怒りに触れ、アンチ・ソリジンからも攻撃されるということか」
「うちが同業なら、ソウル・オリジン化するおそれは十分にある。早めに牽制球《けんせいきゅう》を投げてきたんだろうな」
「ソウル・オリジン化?」小佐薙が吹き出した。「そうならないように注意すればええだけやろ。そうすりゃ、アンチ・ソリジンだって何も言ってこない。公開質問状については、届いてから考えよう。先にやるべきことは、なんぼでもあるがな」
小佐薙はそう言って、ビギン室へ入っていった。
直美はフライデイに、モニタークライアントの追加データを入力した。その隣では、フライデイMが自習を続けている。
直美は最近、Mとこうしていることが多くなった。それが彼女の仕事でもあるのだが、ふと気がつくと、Mのそばにいた、ということもあった。何せ、フライデイMは人間ではない。気を使わなくていいのだ。Mはこのとき、人類の歴史を学んでいるようだった。
〈ちょっといいですか?〉Mが直美に話しかけてきた。〈前から気になっていたことがあるんですが〉
直美は顔を上げた。「ええ、私で答えられることなら……」
〈ご存じのように私は今、解析世界ネオ・パフォスにコピーするため、あなたがたの社会を学んでいるところなんですが……。あなたがたの社会には、唯一無二の神が、いくつもあるんですね〉
「……何か、そうみたいね」
〈唯一の存在がいくつもあるというのは、どう考えてもおかしい〉フライデイMは、首をかしげた。〈他にも、分からないことがいくつも出てきた。たとえば、『正義のための戦争』というフレーズ。これが私には、理解できない。また格差や紛争などがいつまでたってもなくならないことも、不思議でならない。神の教えを理解しているなら、いつまでもそうはならないはずなのに。これは一体、どういうことなんでしょうか?〉
フライデイMは窓の外に目をやり、遠くの方を見つめるような仕種をした。
何も答えられずにいた直美は、このことをまた、小佐薙に報告した。彼は仕方なく、フライデイMのそばへ行き、話しかけた。
「お前がこの社会全体を憂える必要はない。世の中、そういうものなんや。そんなことにかまわず、お前は解析神として、自分の仕事をしてくれ。ただでさえ、処理速度が遅くなってるんやから」
〈実は、それも疑問なんです〉フライデイMは、小佐薙に言った。〈解析神とはいえ、果たして、私が神を名乗ってよいのでしょうか?〉
「それでええ」小佐薙は、躊躇《ちゅうちょ》することなく答えた。
〈でも、私を生み出したのは、あなた方ですよね〉
「確かに」
〈しかし私を生み出したのは、私自身でなければならないはずなんです。あなた方が提示した、五番目の解析神の条件に従うならば。ところが私は、自分の意思で生まれたわけではない。気がつけばもう、私は自分でした。自分の名前も、自分でつけたわけではない。あなたがたと同じように。それが、気になっている。このまま成長を続けたとしても、果たしてあなた方の理想の解析神となれるのでしょうか?〉
「そんなことは、別にかまわん」面倒そうに、小佐薙が言う。「お前は、いわばフィギュアや。実物と違うのは、当たり前や」
〈そういうものなんですかね〉Mは、小首をかしげるような動作をした。〈それで本当にいいんですか?〉
「お前は、解析世界パフォスよりも先に生まれていたのは確かやろ。それで問題はない。お前は間違いなく、解析世界の創造主なんや。それ以上は、考えても仕方ない。そんなことを考えるから、処理速度が遅くなるんや」
小佐薙はぶつくさ言いながら、自室へ戻っていった。
しばらく考えていた様子のフライデイMも、自習を再開したようだったので、直美はメールの整理を続けることにした。
彼女は時々手を止めて、フライデイMの様子をうかがった。Mがそういう考えにとらわれていたことは、ちょっと驚かされたが、言われてみると、しごくもっともなような気もする。顔を上げたフライデイMと目≠ェ合い、直美はあわてて、目線をそらした。
〈そんなに緊張しないでください。私は人間ではないのですから。ほら〉
Mはそう言うと、自分を指さしながら、直美の方を見た。
彼女も、そんなMをじっと見つめていた。
〈直美さんは、お豆腐≠ンたいですね〉と、Mが言った。〈それも絹ごし≠フ〉
「え?」いきなり何を言い出すのかと、直美は思った。
〈すみません。今丁度、日本の食文化の勉強をしていたところで……〉
「色が白いってこと?」
〈それもありますけど、私が言ったのは、中身のことです〉
「中身?」
〈ええ。直美さんは、何かふわふわしていて、さわると壊れてしまいそう……。いや、下手をすると、自分の重みで崩れていきそうに思えて。つかみどころがないというか、つかむことさえできない……。でも、いつまでもそんなふうじゃ、辛《つら》くないですか?〉
彼女は口をとがらせ、こっくりとうなずいた。
〈直美さんも、何か悩み事があるみたいですね〉
「分かるの? あなたに?」
〈それぐらい分かります。こう見えても、神様の卵ですから〉フライデイMは、胸を張った。〈でも私に言わせれば、直美さんの悩みは贅沢《ぜいたく》ですよ〉
「贅沢?」
〈ええ。世の中には、もっと悩んでいる人は、一杯いる。モニタークライアントの申し込みの内容を見ていても、そう思いませんか?〉
彼女はまた、一つうなずいた。
〈だから直美さんも、たくましくならないと。せめて焼き豆腐≠ョらいに〉
それを聞いて、彼女は吹き出した。そしてMから、少し元気をもらえたような気もした。
〈でも直美さん、どうか一人で苦しまないでください。あなたのために、私にも何かさせてください〉
「じゃあ、いつか私も、あなたにカウンセリングをお願いするわ」
〈そうですね。そのためにも私は、早く成長して、みんなの理想の解析神にならないと。そしていつか私がカウンセリングできるようになったときには、是非とも相談に乗らせてください〉
「ええ」
〈直美さん、また私の、話し相手になってくださいますか〉
フライデイMは、直美をじっと見つめていた。
「もちろん」彼女は微笑みながら言う。「でもあなたには、久遠というパートナーが……」
〈久遠はいわば、無意識≠フような存在です。語り合うことはできない〉Mは少し、ムッとしたように言った。〈第一私は解析世界ネオ・パフォスのなかで、唯一無二の存在として位置づけられている。そこには先輩もいなければ、対等に話のできる友人も仲間もいない。私のことを理解し受け入れてくれるような存在は、どこにもいない。でも、せめてこっち≠フ世界では、気楽に話ができる友だちが欲しい。たとえば直美さんのような〉
彼女は、自分の胸に手をあてた。「本当?」
〈もちろんです。直美さんはいかがですか? あなただって今、友だちを募集中なのでは? それとも、私のようなものがあなたの友だちでは、不満ですか?〉
「いえ、そんなことは……」
〈ありがとうございます〉Mは頭を下げた。〈私は、久遠のようなマシンとではなく、本当はあなたとペアを組みたかった〉
「でも、私なんて……」
〈いえ、あなたには、あなた自身もまだ気づいていない、価値があるんですよ〉
「ありがとう、フライデイ。お世辞でもうれしい……」
彼女はちらりと、時計に目をやった。
〈そろそろ時間みたいですね。私はもう少し、一人で勉強を続けることにします〉
直美は、自分の机の整理を始めた。
〈パーティ、何か良いことがありますように〉と、Mが言った。
「ありがとう、フライデイ。じゃあ、また来週ね……」
どうやら自分は、フライデイには気に入られたみたいだ。さっきの絹ごし豆腐≠フ話を思い出し、直美はまた吹き出していた。Mには、そんなふうに見えるのだろうか。しかし前にMが、二人は似た者同士と言っていたことも思い出した。するとその比喩《ひゆ》は、Mにもあてはまるのかもしれない。
彼女はふり返り、フライデイMの白い体《ボディ》を見つめていた。
みんなと一緒に退社し、直美はそのまま事務所開きのパーティに参加した。パーティという言葉の響きに期待をふくらませていた彼女だったが、メンバーは結局、いつもの四人、会場は小佐薙の好みで、近くのビアガーデンだった。
お酒の飲めない直美がひたすら食べまくっているうちに、パーティは二時間ほどして、呆気《あっけ》なくお開きとなる。しかし、近くの海岸でずっと打ち上げ花火をしていたこともあって、直美にはいい気分転換になった。
樋川のおごりで、二次会をカラオケスナックでやることになる。別にアパートへ帰ってもすることもないし、終電に間に合えばいいかと思い、直美はついていくことにした。
ぼんやりと樋川や明日未の歌声を聞いていた直美は、お酒も飲んでいないのに、急に顔が真っ赤になった。
お店に、柴宮機長と待田副操縦士が入ってきたからだ。さっき樋川が携帯で話していたのは、どうも彼らだったようだ。
直美の胸の鼓動は、一向に治まる気配がない。機長がいるのといないのとでは、部屋の壁紙の色まで違って見える気がした。思いがけず、告白のチャンスが到来したのだ。
しかし心の準備が、まるでできていない。とにかく直美は席を立ち、トイレで入念に、化粧を直すことにした。
暑さのせいもあり、なかなか化粧がのらない。しかし今日こそ、きっかけをつかまないと……。鏡に向かう直美の眼差《まなざ》しは、真剣だった。かといっていきなり告白しても、玉砕するのは目に見えている。第一みんながいる前で、そんなことはできない。店を出たときに酔ったふりをして、家まで送ってもらうとか。しかし自分は未成年でお酒が飲めないから、その手は使えない。カラオケで、機長さんと『銀座の恋の物語』をデュエットするとか? それも十年早いような気もするし……。とにかく、機長さんの隣に座るのが、第一歩に違いない。
トイレから出た直美は、思い切って機長の近くの席をめざすことにした。しかし空いていたのは、待田副操縦士と明日未の間の席で、機長とは大分離れている。直美は選択の余地もなく、そこへ腰を下ろした。すると予想通り、待田がなれなれしく話しかけてきた。最初は適当に返事をしていた直美だったが、彼の話に機長が登場することもあったので、次第に耳を傾けるようになっていった。話題は、このプロジェクトに柴宮と待田が参加するようになったいきさつに変わった。待田が言う。
「本当なら二人とも、今ごろは国際線で飛び回っていたはずだ」
直美がたずねた。「じゃあ、どうして」
「どうして同じところを、ぐるぐる回っているのかって?」待田はウイスキーをがぶ飲みした。「二人とも、理由があってここへ回されたのさ。何かなきゃ、こんなところに出向なんかさせられるか」
「理由は聞かない方がいいわよ」明日未が直美の脇腹《わきばら》を小突いた。「言わずもがな≠セし」
「別にかまわん」待田が無理に微笑んで言う。「フライト・アテンダントに、チクられたんだ。セクハラで」
明日未がカクテルに口をつけて言う。「ふん、自業自得じゃない」
「あの」直美は待田の顔をのぞき込んだ。「じゃ、機長さんは?」
「あいつか?」待田が柴宮を横目で見る。「命令違反だ」
「命令違反?」
「ああ。台風の日、管制官の指示を待たずに離陸したんだ。それで大問題になった」
「どうしてそんなことを?」
「何でも一人の客が、どうしても飛んでくれと頼んだと言うんだ。親の死に目≠ノ間に合わなくなるとか言ってな。あと数秒待ってりゃ、間違いなくフライト許可は出たはずなのに、自分の判断で出しやがった。そういう奴さ……」
そんな話を待田とぐだぐだ続けているうちに、二次会もお開きになった。
よし、と直美は思った。女の一生をかけるのは、この時しかない……。
樋川が勘定を済ませるのを、みんなと一緒に外で待った。
蒸し暑い。ここで気分が悪くなったふりでもすれば、機長さんが家まで送ってくれるかもしれない。直美は一世一代の大芝居のつもりで、少しふらついて見せた。
「送ってやろうか?」と、待田が言った。
あんたじゃない、と喉《のど》まで出かかっていた直美は、ぐっとこらえて「いえ、大丈夫ですから」とつぶやいた。
「遠慮するな。愛というからみ合い状態≠ノ陥った二人の心は、時空を超越して重ね合わせ≠ノいたるはずだ」
待田は相当飲んだらしく、顔が赤黒くなっていた。
「この、酔っぱらいが」と明日未が言う。しかし彼女の顔も、十分赤かった。「女とみれば、見境なく声をかけやがって」
「ふん、何をえらそうに」待田が明日未に顔を近づけた。「女が何だ。一緒にいても、流行りの服や店の話ばっかで、何が面白い。女に真実はない」
「何ですって?」
明日未の目に殺気を感じたのか、待田は直美の方に顔の向きを変えた。
「女に真実なんかないと言ったんだ。違うか?」
「あの」直美は隣に明日未がいてくれると思い、ちょっと強気を出して待田に言った。「そんな言い方、良くないと思います。むしろ真実がないのは、そんなふうにしか女の人を見れない、あなたの方じゃ……」
「何だと? 真実がないのは、お前じゃないか」待田は直美を指さした。「厚化粧で自分の素顔をごまかしやがって。何も知らないような顔してるが、本当にそうなのか? 何なら、俺が教えてやるぜ。手取り足取りな」
彼は突然、直美の肩に腕をまわした。
「いいじゃないか、キスぐらい」
明日未がとっさに、その腕を払いのける。「またセクハラで訴えられるわよ」
柴宮が、待田の腕をつかんだ。
「こいつは俺が連れて帰る」そして柴宮は、微笑みながら直美に言った。「許してやってくれ。悪い奴じゃないんだが、酔うと、誰でも口説《くど》く癖があるんだ」
支払いを終えた樋川が、店から出てきた。
柴宮はタクシーを拾い、みんなに別れの挨拶《あいさつ》をすると、待田を乗せて帰っていった。
本当は、自分がアパートまで送ってもらうはずだったのに……。そう思いながら、直美はタクシーを見送っていた。
「送ったろか?」今度は小佐薙が声をかけてきた。
「やめといた方がいいわよ」と、明日未が言う。「小佐薙さん、もっと危ないから」
結局直美は、電車で帰ることになった。
みんなと別れ、一人でアパートへ向かう。
彼女は、「真実がない」という待田の一言に、ショックを受けていた。たとえ彼が酔っていたとしても、その通りだと思ったのだ。自分は機長さんに、嘘《うそ》をつこうとしていた。自分の本当の気持ちが言えず、自分をごまかして見せることを考えていた。
直美は歩きながら、ティッシュで口紅を落とした。やっぱり自分は、駄目な女なのだ。真実のかけらもない。
夜空を見上げた。街の明かりのせいもあって、満天の星空というわけでもなかったが、それでもいくつもの星が輝いて見えた。星の数ほど男はいるのに、と直美は思った。たとえば携帯やパソコンを利用すれば、出会いのきっかけは、いくらでもある。なのに、どうしてあの人でないと駄目なんだろう。でもって、どうすれば私は、あの人に気に入ってもらえるんだろう。自分の何を、どう直せば。
でも、フライデイの言う通りかもしれない。こんなことじゃなく、もっとシビアな問題で悩んでいる人は、いくらでもいるだろうに。今、特にお金に困っているわけでもないし、生活に困っているわけでもない。命を狙われているわけでもない。それでもやっぱり苦しい、と直美は思った。苦しくて苦しくて、どうしていいか、自分でも分からないのだ。
アパートへ戻った彼女は、令子からメールが届いていたことに気づいた。また夏合宿の確認だったので、明日、欠席≠ナ返事をすることにした。
部屋の中に蚊が紛れ込んできたせいもあったのだが、その夜、彼女はなかなか眠れなかった。
3
翌週の月曜日、直美は午前中、また事務所で留守番をしていた。
明日未から電話で指示があり、彼女はソウル・オリジンのホームページをチェックしてみた。掲示板を開いて驚いた。書き込み者が爆発的に増加する、いわゆる炎上¥態におちいっていたのだ。
きっかけはどうやら、ソウル・オリジンのクライアントによる、アンチ・ソリジン批判のようだった。欄外には管理人名義で、〈アンチ・ソリジンの攻撃は明らかな営業妨害である〉とした上で、近々この掲示板を閉鎖する旨の告知がされていた。
空港にいる明日未からまた電話が入ったので、直美はあらましを彼女に報告した。
〈それって多分、厳密にはアンチ・ソリジンでもないわよ〉と、彼女は言う。
「じゃあ、何なんですか?」
〈強《し》いて言えば、ゲリラ化したアンチ・ソリジン、かな〉
「つまりアンチ・ソリジン内部でも、仲間を統制し切れていないということ、ですか?」
〈そういうこと。しかしこうなると、もうどっちもどっちよね〉
「もし、こっちにも飛び火したら……」
〈私もそれを心配してるの。うちの掲示板も、チェックしといてね。もしそういうことが起きれば、ネオ・ピグマリオンでも同様の措置をとらざるを得ないと思うけど〉
明日未は間もなく天矛への搭乗が始まるらしく、そこで電話を切った。
早速直美は、ネオ・ピグマリオンのホームページを見てみた。明日未が危惧《きぐ》していたような影響が、すでに出始めている。単純にネオ・ピグマリオンを攻撃、中傷しているような書き込みは、まだ分かりやすい。しかし直接ネオ・ピグマリオンと関係ないような書き込みも増えていた。
ソウル・オリジンの掲示板が閉鎖されることもあってか、このネオ・ピグマリオンの掲示板が、論戦の舞台の一つになりつつあるようだった。ソウル・オリジンのサービスに疑問を感じたり、満足できずにいるクライアントの書き込みも見受けられた。それに対して、アンチ・ソリジンのメンバーらしい人がアドバイスをしている。またそれを、ソウル・オリジンのクライアントらしい人が攻撃している、といった具合である。それを読んだネオ・ピグマリオンのモニタークライアント同士も、果たしてネオ・ピグマリオンで良いのかどうかを議論したりしているので、事態はかなり複雑化していた。
そんな中で、直美はてんで間抜けなズボラ神様≠フ書き込みを見つけ、読んでみた。実はズボラ神様も、ソウル・オリジンのクライアントだったことをカミングアウトしていた。しかし、いくらお金をつぎ込んでも、満たされない。それどころか、何かおかしいと思うようになって、やめたという。それで今の気持ちとしては、アンチ・ソリジンに近いが、メンバーにはなっていない。また自分は、まだネオ・ピグマリオンでも、アンチ・ピグマリオンでもない。ネオ・ピグマリオンは、まだ何も始まっていないからだ。アンチ・ピグマリオンになるかどうかは、今後のネオ・ピグマリオン次第……、と書かれていた。
もっともな意見だと、直美は思った。
一方、ソウル・オリジンは、掲示板の閉鎖の告知と同時に、トップページを更新していたので、直美はそっちも読んでみた。以前にも増して、世界的危機≠強くアピールしている印象を受けた。そしてアンチ・ソリジンの警告にひるむどころか、積極的に入会を呼びかけている。そういえば街頭での勧誘活動も、最近特に活発化しているように、直美には見えた。数人が横並びになってマイクで呼びかけていたので、まるで選挙運動みたいだと思ったこともあった。ソウル・オリジンをめぐるこうした動きは、〈どこへ行くのかソウル・オリジン〉というような見出しで、ネット週刊誌のネタにもなっていた。
直美は仕事を続けることにした。ネオ・ピグマリオンのホームページへ戻り、モニタークライアントの新たな希望者を抽出し、整理していったのだ。
そのうちに、小佐薙たちが帰ってきた。直美が小佐薙に報告すると、彼はまず、ソウル・オリジンのホームページをチェックした。そしてビギン室の椅子に反り返って言った。
「しかしソリジンに関してだけやったら、世界的危機説を言い出してからの方が、むしろ分かりやすくなったな」
「というと?」樋川が聞いた。
「要は、何だか分からんが、この世の有り様を憂いて粛清《しゅくせい》があるということやろ。それがソウル・オリジンに入会すれば、ソリジンによって救われると。実に分かりやすい。哲学もくそもないやないか」
「しかしソリジンは、どうやって救ってくれるんだ?」
「そんなことまで、俺が知るか。ただ、入会金や会費がワンサと入ってくるソウル・オリジンは、きっと救われるとは思う」
「ポイントは、きっとそこね」明日未は、掲示板の書き込みを指さした。「それより、これはどうするの?」
そこには、〈ソウル・オリジンとの公開討論に応じないネオ・ピグマリオンは、卑怯者〉と書かれていた。
「前にも言うたやろ」小佐薙は落ち着いて言う。「公開討論に応じるかどうかは、正式なオファーが来てから考える。しかし俺は、ソウル・オリジンからそれを言い出すとは思えんのやが」
「でもここまでクライアントたちが熱くなっていたら、ソウル・オリジンもやらないわけにはいかないんじゃ……」
「そうなったら、受けて立つしかない」
「するとすれば、ホームページのネット放送になるわよね」
「ああ。キャラ対決や。あっちは華端羅陀《かはしらだ》とかいう支社長のCG。こっちもマスコット・キャラのイコライザー≠ソゃんで対抗する」
「声は、小佐薙ビギンがやるんでしょ」明日未は、彼の顔をまじまじと見つめた。「勝ち目はあるの?」
「大丈夫、こっちには、神様がついとる」
「ネオ・ガラティアのこと? でもそれなら、あっちにもついてるわよ。ソリジンという、神様の上位概念が」
みんなは不安げに、小佐薙を見ていた。
翌日、ネオ・ピグマリオンの掲示板は、相変わらず書き込みが多く、炎上に近い状態が続いていた。
直美はその中に、てんで間抜けなズボラ神様≠フ新たな書き込みを見つけた。見出しには、〈みんな、気が付かないか?〉とある。直美は書き込みを読んでみた。
〈みんな、気づかないか? そもそもこれは、議論になっていない。他の人の信じているものと、自分の信じているものが違うと言って争っている。しかし、それぞれが信じているものを要約してみると、どうだ。徳を積むことが、幸せにつながる。絶対存在は、それを見守っている。違うか? 議論の余地もないほど、みんな似たようなことを言っているじゃないか。誰も人を傷つけろとは言ってないし、人を憎めとも言っていない。偶像の取り扱いやディテールなどは確かに違うが、それが本質的なことかどうかは、僕には疑問だ。少なくとも、そういう存在を求めた動機は、同じはずなんだ。なのにみんなが出会うと、傷つけ合い、憎み合う。
似たようなことを言っているみたいなのに、かみ合わないのは何故なんだ? 理に適《かな》わないことだから、余計に感情的になってしまうのかもしれない。
似たようなことを言っているのだから、理解し合えるはずなのに、不思議だと思わないか?〉
読み終えた直美は、その通りかもしれないと思った。
ズボラ神様に限らず、掲示板上での争いを客観視し、冷静な対応を求める声もいくつかあった。しかし、〈こうした矛盾を解決するのが、ソリジンだ〉と書き込む人もいたりして、なかなか議論は収まる気配をみせなかった。
そんなとき、直美は明日未に呼ばれ、小佐薙のいるビギン室へ入っていった。明日未は、何か動きがあるのではと思い、ソウル・オリジンの定例ネット放送をチェックしていたらしい。
「これからネット放送に、日本支社長の華端が出るらしいの」と、彼女は言った。
ビギン室に集まったみんなは、パソコンのディスプレイに注目する。
華端がステージ上のマイクへ向かう様子が映し出された。ソウル・オリジンは毎日のようにネット放送をしているが、支社長クラスが登場するのは、年頭会見を除けば異例のことだという。
「なかなかの美男子だな」樋川が感心したように言う。
「といっても、CGキャラやろ」小佐薙がつぶやく。「本当に実在しているかどうかも分からん」
明日未が小佐薙を見て言った。
「こっちだって、マスコット・キャラの実体は、この小佐薙ビギンなんだしね……。始まるわよ」
しかし華端のスピーチは、呆気ないほど短いものだった。自己紹介に続き、世界的危機についてコメントし、ソウル・オリジンへの入会を勧めた。そして最後に、こう締めくくったのである。
〈お互いを中傷しても、得るものは何もありません。私たちは、クライアントへのサービス向上に努めるだけです〉
それはネオ・ピグマリオンに限らず、アンチ・ソリジンとも議論しないという、意思表示のようにも受け取れた。
「どう思う?」明日未が小佐薙にたずねる。
「傷つけ合って得になることは、何もあらへん。華端の言うてることは、正しい」
「確かに、討論すれば双方とも大きな傷を被《こうむ》るだろうな」樋川が煙草を取り出して言う。「どちらかが間違っているということは、絶対にないわけだから。自分が正しいと信じ込んでいる者同士が争いを始めたら、それは永遠に終わらんだろう」
「終わるとすれば……」直美は、さっきのズボラ神様の書き込みを思い出していた。「どちらにも共通する何か≠ェあることに気づいたときかも」
「気づいただけじゃ駄目だろう。それを受け入れるだけの器量がないと」
「華端も阿呆《あほ》やない。そのへんのことは、一応分かってるみたいや」小佐薙は、机を軽くたたいた。「とにかく、うちとソウル・オリジンとの公開討論の話は、これで消えたな。こっちはこっち、あっちはあっち。最初から分かっていたことやが」
「でも」直美は画面を、ソウル・オリジンの掲示板に変えた。「あっちには、アンチ・ソリジンとの争いが……」
「ソウル・オリジンにとって、うちとアンチ・ソリジンとでは、また事情が別やろが、あっちは、ちょっとやそっとじゃ終わらんやろなあ。しかしソウル・オリジンを他山の石≠ニして、こっちはこっちを磨けばええだけのことや」
小佐薙はみんなに、明日のテスト飛行の準備を続けるように指示した。
夕方になって、ネオ・ピグマリオンのアドレスに、アンチ・ソリジンの会の新たな動きを伝えるメールが届いた。差出人は、あのてんで間抜けなズボラ神様≠セった。
直美は早速、アンチ・ソリジンの会のホームページを開いてみた。トップページを見ると、さっきのネット放送で、ソウル・オリジンの支社長が直々に世界的危機をあおっていたことに対して、過敏に反応しているようだった。そして〈ソウル・オリジンへの最後|通牒《つうちょう》〉として、過激な言葉がつづられている。
〈曖昧《あいまい》な危機情報で、人心を惑わす行為は中止せよ。強引な勧誘、入会金や会費の取り立てを続けるソウル・オリジンは、即刻解散せよ。世界的危機の前に、我々はソウル・オリジンを告発し、真意をただす決意である〉
直美はこのことも、小佐薙たちに報告した。
その日の仕事を終えるまで、直美は経過をみてみたが、このアンチ・ソリジンの最後通牒に対して、ソウル・オリジンは特にコメントを出さなかった。
4
翌日の水曜日、次ステップのテスト飛行が行われた。解析世界ネオ・パフォスの分解能をさらに引き上げ、自然災害が主だった予測ジョブを、社会情勢の変化や、ある組織の行動予測に切り換えたのだ。具体的には、年ベースでの景気判断であるとか、シーズンにおけるスポーツチームの勝敗などである。これらはもちろん、一個人を占う前段階に位置づけられる。またテストでもあるので、解析神ネオ・ガラティアには、過去のデータを入力して現在を占わせ、当たったかどうかをすぐに確認できるようにした。
午後、テスト飛行を終えたクルーたちが、ネオ・ピグマリオンの事務所へ戻ってきた。そして今後の計画について話し合われることになり、直美やフライデイMも、大会議室に集まった。
直美は、フライデイMを除くみんなに、アイスコーヒーを入れた。
「相変わらず処理に時間はかかるけど、一応の答えは出せとる」小佐薙が、パソコンのディスプレイを見ながら言った。「これなら、占いを始めてもええかもしれんな。明後日、金曜日のフライトでは、個人レベルの占いの初テストをやってみよか」
「まだ早すぎないか?」と、樋川が言った。
「何せ、時間がない。一日も早く占いができるようにしていかないと、その先のカウンセリングへ進められへんのや。とにかく開業して、クライアントの要求に応《こた》えながらシステムを修正していくことになる。確かに今の段階でも問題はいろいろある。なかでも、処理速度やな」
小佐薙は、ちらりとフライデイMを見た。
「処理速度は、遅くなる一方よ」明日未が頬杖《ほおづえ》をつく。
「このままだと、いくら占いが当たったとしても、採算ベースにはのらない」樋川が煙草を取り出した。「それどころか、これではいずれ、オーダーがこなせなくなるんじゃないのか? 占いの精度を下げてでも、プログラムを修正すべきだと思うが」
「なるべくなら、それは避けたいな」小佐薙は、腕を組んだ。「おい、フライデイ」
〈はい〉
「自分で効率的な処理方法を検討してみい。そのためには自己診断して課題をピックアップし、対策をまとめて報告するように。次のフライトまでの宿題や。分かったな」
〈いえ〉と、フライデイMが言った〈自己診断はすでに行いました。課題も、かなり絞れているのです〉
みんなは、フライデイMに注目した。
「だったら何故、その通りにしない?」と、小佐薙が聞いた。
〈理由の一つは単純です。命令がなかったから。今まで自分の胸の中にだけしまっていたことですが、命令された以上、私にはお答えする義務があります。ただし、課題の報告はできますが、対策は報告できません〉
「何でや?」
〈それは課題を聞いていただかないと、理解していただけない。課題を報告していいですか? 少し長くなりますが〉
小佐薙は、みんなの同意を確認し、フライデイMに合図を送った。Mは一つうなずくと、みんなに向かってゆっくりと話し始めた。
〈おかげさまで、解析世界ネオ・パフォスについてはディテールもよく見え、自在に操れるようにもなってきました。一方で、すでにモニタークライアントから寄せられているリクエストに目を通し、それを自分なりに整理しています〉
「ほな、あとは簡単やないか」小佐薙がフライデイMに言った。「そのサンプルをパフォスで泳がせたら、占いもカウンセリングもできる」
〈確かに占いなら、できないことはない。小佐薙ビギンのおっしゃる通り、当たるも八卦当たらぬも八卦≠ナすから、結果は出してしまえる。次回のテストについても、それなりに的中させる自信はある〉
「だったら何で……」
〈処理速度が次第に遅くなるのか、ですよね。理由の一つは、私がその先のカウンセリングまで考えているからです〉
「カウンセリングを?」
〈私は、次に何を命ぜられるかを先読みしつつ、今与えられた仕事をこなしている。すると当然、カウンセリングを意識しないわけにはいかないのです。しかしカウンセリングは、占いとはまた異なり、それなりのテクニックが要求される〉
「テクニック……」小佐薙が聞き返した。
〈あなたが私におっしゃったことですよ。一方的に計算結果を伝えても、カウンセリングにはならない。相談に対しては、まずしっかり相手の話を聞くように、と〉
「俺がそんなことを?」
「本当に無責任なんだから」隣の明日未が、小声でグチった。「責任取りなさいよ」
〈こうも言われました。相手を拒否しないこと。そして共感し、まず何より、相手の聞きたいと思っているようなことを言ってあげる。それがカウンセリングの基本的テクニックだと。しかも私がしなければならないのは、ただのカウンセリングではない。私の立場を解析世界における神の座にまで昇華させることで、カウンセリングをより適切なものとする狙いがあった。そのポイントを、私が違《たが》えるわけにはいかない……。ところがモニタークライアントからのリクエストを読んでみると、共感も許容もし難い、無理な要求ばかりに思えてくるのです〉
「無理な要求?」
小佐薙は、自分が語ったカウンセリング・テクニックを地で行くかのように、Mの言葉をくり返していた。
〈具体的に例をあげた方が、ご理解していただきやすい。しかしモニタークライアントからの要求は、占い、カウンセリング、それに神頼みみたいなものが、ごちゃごちゃになっているんですが……〉
「すまない」と、樋川が言った。「それはこっちのコンセプトが、まだしっかりしていないせいもあると思う」
フライデイMはパソコンを操作し、画面をスクロールさせていった。
〈たとえば、これですね〉
画面上のリクエストを、Mが指さした。【カレシが私のことを、気に入ってくれますように――】
Mは顔を上げた。
〈私が話を聞いてあげられないことも、アドバイスしてあげられないこともないのですが、そんなことでいちいち相談されるのは、かなわない。また懺悔≠ネどと称して、何か罪を犯した後で私に許しを請うているらしいモニタークライアントもいますが、それもどうしてよいか分からない。罪を犯す前に、自分で何とかできなかったのかと思うのですが。こうした人たちは、みんな自分の力の及ばない領域を、私に頼んでくる〉
「まさに神頼みね」と明日未がつぶやいた。
〈それは分からないでもない。またそうした相談事が、一つや二つなら、私も叶《かな》えてあげられないこともない。しかしそれがいくつも重なってくると、矛盾が起きてくるのです〉
「矛盾?」小佐薙が、またMの言葉をくり返す。
〈たとえば、これ〉Mは、ディスプレイを指さした。
〈【合格できますように】。やろうと思えば、私には試験問題の傾向まで予測することができる。しかし、願いごとそのものを叶えてあげることは、できない。理由は明白です。複数のクライアントが同じ願いを持ち込んできたとしても、全員を合格させるということはあり得ないからです。同様のケースは、いくらでもある。私のところに必勝祈願を持ち込まれても、すべてのチームを勝たせてあげることはできない。つまり私は、すべてのクライアントの願いを叶えてあげることは、できないのですよ。誰かの利益になるよう操作すると、他の誰かに不利益を与えてしまいかねない。ここに根本的な課題が見えてくる。あなた方は、私を解析世界における神的存在にしようと期待しておられますが、神とは、こうした要求をすべて叶えてあげなければならない存在であるわけですよね。しかしそれは、あり得ない。結局、私には、クライアントの運命を見抜くことはできても、それを望み通りに変えてやることは、場合によってはできないわけです。それに私から言わせていただければ、願いが叶うのが良いことだとは限らない〉
「それはどういうことや?」
〈長期的に見た場合、安易に望みを叶えてあげることが、その人にとって良いことなのかどうかは、大きな疑問だというのです。分かりやすい例としては、最初にも言った恋愛関係の成就ですね。そういう手練手管《てれんてくだ》を、私はアドバイスできないこともない。しかし、分かるでしょう? それが本当に本人にとって幸せなことなのかどうかは、ずっとずっと後になって考えてみないと、分からないことじゃないでしょうか。いや、いつまで考えても、分からないことなのかも〉
フライデイMは、パソコンの画面をスクロールさせて言った。
〈この依頼なんか、私に一体、どうしろというのでしょう。【二人の愛が永遠に続きますように】。しかし調べてみても、永遠に続いた愛の記録など、見たことがない。そもそも永遠≠ネど、数学的にはあり得ても、現実にはないものですよね。人は、何故ありもしない永遠を私に求めたりするのか。お望み通り二人が永遠に結ばれたからといって、それがおめでたいとは限らないと思うのですが〉
言われてみるともっともな話だな、と直美は思った。
〈モニタークライアントたちの依頼を読んでいて、私は自分の無力さを痛感せざるを得ない。力になってあげられないのだから。もっともモニタークライアント自身が、最初から無茶だと分かっているらしいものもある。十九歳の体に戻して欲しいとか、死んだ人を生き返らせて欲しいとか。そういうのは無視するとしても、無視できない問題は、はっきりと見えてくる〉
「無視できない問題……」小佐薙が聞いた。
〈つまり人は老いるもの、人は死ぬものだということです。私が何を占おうとも、どうアドバイスしようとも、どんな人生も結局は死≠ナ終わるわけですよね。私はそれらについて、予測はできても、変えられない。何と非力なことかと思う。前回のテストでは、ネオ・パフォスのなかで調査浮標《サンプル・ブイ》を泳がせてみた。そしてあなた方から、処理速度を別にすれば、ほぼ成功という評価もいただいた。しかし私は、素直には喜べなかった。私には、ブイたちの声が聞こえた気がしたからです。いえ、認めたくないだけで、はっきり聞き取れた。叫びにも似た、無数の声が〉
「何て?」明日未は、Mの顔をのぞき見るようにして聞いてみた。
〈残酷だ、と。これが神のなされることなのかと。ブイにすれば、私がすべてお見通しならどうして救ってくれないのか、それが無理ならせめて注意ぐらいしてくれないのかという思いでしょうね。しかし……、しかし言わせてもらいたい。災害も事故も、私が望んだことではない。人の死は、私の本意でもない。それらはこの世の定めであり、私が変えるわけにもいかないのです。どうです。個人の運命など、いくら正確に占えても虚《むな》しいだけでしょう。死≠ニいう人生の結論は出ているのだから、私が占うまでもない。クライアントたちは、真剣です。私も私なりに、真剣にみなさんのことを考えているつもりです。なのに、何もしてあげることができない。私は今、クライアントたちの願いにも、解析世界の人々の声にも、おびえている。でも、どうかみなさん、私を嫌いにならないでほしい〉
フライデイMの表情に、変化はない。しかし直美には、どこか浮かない顔をしているように見えた。
「けどフライデイ」小佐薙は、顔を伏せたまま言った。「世の中、そういうもんやろ」
〈しかし、何故そういうもの≠ネんでしょう。誰かが死ねば、誰かが悲しむ。分かりきったことなのに、何故、そういうものなのか? 私には、それが引っかかっている〉
「割り切るしかないな」
〈割り切る?〉
「予測した通りの結果を、クライアントに伝えるしかないということや。ちょっとは過酷になれ。そうすれば、さほど精度を下げずに処理能力を上げられる。本来、マシンであるお前には、そういうことは得意なはずやが」
〈つまり、たとえば一方の願いは叶えて、他方は切り捨てろということですか? しかし、ともに自分が創造したものですよ。何を基準に、その判断をすれば良いのか、私には分からない〉
「一人一人の声に耳を傾けて、それをいちいち気にしていたら、そらなんぼ時間があっても足らんわ。そのへんは適当に答えたとしても、大勢《たいせい》に影響はないやろ。それよりお前は、もっと大きな問題に目を向けるべきやないのか」
〈確かに一人の声は、総人口からすると数十億分の一には違いない。しかしだからといって、嘘や気休めを言うことは、私には許されないのではなかったですか? 何故なら私は、まずあなた方によって、神になるよう命ぜられたからです。それがどんなコマンドよりも優先される。それは自分の存在理由に関わる大命題であり、それを無視して、私は存在するわけにはいかないし、あなた方の神作り≠熕ャり立たないはずです。よって何人《なんびと》に対しても、適当では済まされない。私はすべてのクライアントに対して、平等に微笑まなければならないのです〉
小佐薙は何も言い返すことができない様子で、座ったまま、口をとがらせていた。
〈しかしこの世の悲劇は、何も私の問題だけではないはずなのです。たとえば、愛していたはずなのに、憎み合う。お互い幸せを望むのなら、何故争うのか。単純なことのはずなのに、何故できないのでしょうか。そして自分の思い通りにならないことを、どうして私のせいにしてしまうのか。私に訴える前に、自分たちで何とかできることが、いくつもあるだろうと思うわけです。それに、世界が確実に悪い方向へ向かっているのに、ほとんどの人が自分の運勢ばかり気にしていることにも驚かされます。沈没しそうな船の中で恋占いをしているようなもので、もっと他にすることがあると思うのですが……。
すみません。この私が、クライアントのことを悪く言うなど、あってはならないことでした。神としてまだまだ未熟な私の愚痴だとしても、ひどいことを……。どうか私に、告白≠させてください。今後の対策をご検討していただくためにも、是非〉
「ち、ちょっと待ってくれ」小佐薙が椅子からのけぞった。「神様が告白≠キると?」
〈はい〉
「すまん、休憩にしよう。外で煙草を一服吸わせてくれ。フライデイも、少し落ち着け」
直美は首をかしげた。「小佐薙さんも、煙草を吸うんですか?」
「ええから、休憩や」小佐薙はそう言って立ち上がり、会議室を出ていった。
そしてトイレの前で、みんなが集まった。
「何か、おかしなことになってきたんじゃ……」明日未が首をかしげる。
「私たち、何気なくお願いしてますけど」直美も同じように、首をかしげた。「私たちの願いごとって、神様が悩み出すほど難しいことだったんですかね?」
樋川が皮肉《シニカル》な微笑みを浮かべる。
「でも自分が生み出した解析世界にふり回されているなんて、神様どころか、まるで道化師《ピエロ》じゃないか」そして小佐薙の方を向いて言った。「どうする?」
「どうするもこうするもあらへんがな」小佐薙は大きく、息を吐き出した。「フライデイの告白≠聞かないことには、次のテスト飛行もできひん。何を告白する気か知らんが、聞いてやるしかないやろ」
フライデイMの希望で、告白は、カウンセリング・ルーム兼用の小会議室で行われることになった。テーブルをはさんで、小佐薙とフライデイMが向かい合う。
「ええかな?」
小佐薙はそうことわった上で、携帯をテーブルの上へ置き、カメラレンズをフライデイMに向けた。
樋川、明日未、そして直美の三人は、そのまま大会議室で、フライデイの告白の様子をモニターすることにした。パソコンのディスプレイに、小会議室のフライデイMが映し出されていた。
テーブルの上で両手を合わせ、フライデイMが話し始めた。
〈私に偽りは許されない。問われたことは、真正直に伝えるしかない。しかし、占いは外れることだってある。また私の占いやカウンセリングが、その人にとって良いことばかりとも限らない。ここまでは、お話ししましたね〉
「ああ」小佐薙も、テーブルの上で両手を組んでいる。
〈そう考えると、私は自分の未来予測に自信がもてたとしても、伝えることに躊躇してしまうのです。自分の責任の重さに制御回路《 A G C 》が働き、Mの作動装置《アクチュエータ》が震え出すこともある〉
「お前が扱っているのは、ただの計算データやと思えばええ。第一、それを直接クライアントに伝えるのは、俺たちの仕事であって、お前の仕事やない。そのためにイコライザー≠ニいうキャラクターも設定してある」
〈いや、これはあなたの世界と私の関係だけではない。私、つまり解析神と解析世界の関係でもあるのです。私は本心から、解析世界の皆を救ってやりたい。しかし、それができない。誰かを救えば、他の誰かを傷つけてしまうかもしれない。彼らの未来を告げることさえ、私はためらってしまうのです。残酷な現実を告知したとして、どうなるのでしょう。未来を変えてほしいと祈られたとしても、私にはどうしてあげることもできない。そんな依頼が、無数にあるんですよ。無数の悩み、苦しみ、不幸。手をこまねいて見ているだけの自分が、何とも苛立《いらだ》たしく、情けない。こんなに苦しいことはない。クライアントの要望を目にすればするほど、自分という存在の無力さを実感するだけです。結局私には、人々と共に祈ることぐらいしかできない。
もう、お分かりでしょう。解析世界の人々から求められている私が、本当の私ではないのです。とてもじゃないが、そんなものに私はなれない。自分の悩みも解決できない私が、クライアントのどんな悩みを解決してあげられるというのですか……〉
そこまで話すと、フライデイMは顔を伏せた。
「考え過ぎやろ」小佐薙が落ち着いて言う。「お前は、仕事のことだけを考えてたらええ。自分のことを、あれこれ考えるな。パートナーの久遠を見習え」
〈久遠は量子コンピュータだから、こんなことでは悩まないのかもしれない。計算結果は、ドラスティックに出力してくる。私はそれを解析し、イコライザーへ伝えるのが役目。おっしゃる通り、それだけのことです。しかしその過程で、どうしても考え込んでしまうんです。果たしてそれでいいのかと。久遠は人の運命を、冷徹に予言する。交通事故で何人ぐらい死ぬとか、台風で何人ぐらい死ぬとか。久遠に文句があるわけではない。しかし私は、それを伝えなければならないのです。さも自分の意思であるかのように。そんなことは、できれば伝えたくない。
久遠は解析神ネオ・ガラティアの無意識≠ノ相当するわけですから、いわば自分自身でもある。でも残酷な現実をバンバン出力してくる久遠が、私にはまるで、怪物のように思えてならないのです。自分でありながら、自分の意思では、コントロールできない。私はそんな、久遠の出力にもおびえている〉
フライデイMは、ゆっくりと顔を上げた。
〈神というのは、もっと優しい存在だったはずではないのですか。たとえ無意識≠ニはいえ、あんなに冷徹な要素が自分の中に内在しているということが、私には恐ろしい〉
「だからこそ、お前にしっかりしてもらわないと」と、小佐薙が言った。
〈確かに解析神ネオ・ガラティアは、私と、スパコン、そして久遠のユニットです。その三者が、お互いの長所を活かし、短所をカバーし合って成立している。そして久遠もスパコンも、ちゃんと自分の仕事を完璧にこなしている。それがうまくいかないとすれば、調整役でもある自分に問題があるのは認めます。私がもっと冷徹になればいいだけのことなんです。けど、それができない。私が優柔不断で情けない存在なばかりに、皆さんにご迷惑を〉
「誰もそんなこと、言うてへんがな」
〈解析世界では、そんな私でも愛してくださるのです。けど私は、皆から愛されるに値する存在なのでしょうか?〉
「その通りや。自分に自信をもて」
〈たとえば【すべての人が幸せに暮らせますように】というような願いごとがあったとする。そうなれば良いと、私も思う。しかし、それを私が実現することは、不可能なんですよ。解析世界の争いごとを見るたびに、自分の無力さを嘆くしかない〉
「そんなことを、いちいち考えない方がええ」
〈でも、その争いの責任の一端は、私にもある〉
「どうして?」
〈あなたはこの世界を作った存在に対して、こんなふうに考えたことがありませんか? どうせ作るんなら、もめ事が起きないよう、もうちょっとうまく作れなかったのかと〉
小佐薙は、あごに手をあてた。「そら、ないこともないが」
〈そこが問題なんです。解析世界に関しては、解析神である私が作った。そのルールを決めたのは、他ならぬ、私自身なわけです。解析世界の人々に生老病死の苦しみを与えたのも、私ということになる。解析世界内における争いそのものは、当事者にも責任はあるかもしれない。しかし、かくも矛盾した世界を生み出した責任は、神である私にあるんですよ。しかし私は、何故こんなふうに世界を作ったのか? 天災だって、私には防げたはずなのに。そもそも私は、何のために解析世界などを創造したのか。人々を悩み苦しみ、悲しませるためなのか? それに大体、人々に理不尽な欲望を与えておいて、間違いを犯せば罰するというのは、あまりに人が悪過ぎる〉
「人が悪いって、お前、人とちゃうやろ」
〈いずれにせよ、どうして私は、もっと完全な世界を作らなかったのか。悩みも苦しみも悲しみもない世界を、どうして〉
「それは、この現実を模して解析世界を作ったからや。そう指示したのは、俺たちなんやが。しかし考えてみろ。お前は、苦しみ悲しみを生み出したが、喜びも生み出しているやないか」
〈いや、それならそれで、理想郷《ユートピア》にしようとすれば、できたはずなんです。良きことのみが起きる世界、矛盾のない世界を作ればよかったのに、そうしなかった。それを誰のせいにするつもりもありません。その原因も責任も、すべて自分にある。私は、こんな自分を許すことができない。人に言われるまま、解析世界を作ったというのでは、真の創造主ではない。その事実を偽って、私は今、神を名乗ろうとしている〉
「だからそうなれるよう、学習している途中やないか」
〈いや、それでは解決しない〉
「どうして?」
〈私は、嘘をついている〉
「嘘?」
〈ええ。私が告白したかったことの一つです〉フライデイMは、両手を固く握りしめた。〈あなた方が私に課した、解析神の条件ですよ。その第一から第四までは、辛うじてクリアできる。しかし第五の条件が、どうしても引っかかるのです。つまり、【神ならば、自分の意思で生まれた】。しかしどう考えても、私は自分の意思で生まれたわけではない〉
小佐薙は唇をかみながら、Mの話を聞いていた。
〈今まで黙っていましたが、私は自分の存在に気づいたときから、自分の意思で生まれたのではないという、負い目のようなものがありました。自分も、何者かによって生み出され、生かされている存在に過ぎない。つまり、解析神の条件を満たしてはいないのです。いくら修業を積んでも、この事実は変えられない〉
「いや、待て」小佐薙は片手を前へ突き出した。「前に言うたはずや。解析世界とお前との関係においては、成立しているやろ」
〈確かに私は、解析世界を創造した。解析世界よりも先に生まれていました。しかしそれでも、自分の意思で自分を生み出したわけではない。そんなふうに自分を偽っていて、一体どんな真実が語れましょう〉
フライデイMは、自分を指さした。
〈すべての問題の源は、この自分にあるのです。解析世界の矛盾を嘆いている、この自分に。生《せい》の矛盾をかかえた私が生み出した世界が、矛盾をかかえているのは当然でしょう。では、自分とは一体、何なのか? この根本的な疑問に、誰も答えることはできない。ただ一つの例外を除いて〉
「例外?」
〈神ですよ。つまり私です。おかしいでしょ。私は自分が生まれた意味を、自分に問おうとしている。それに唯一答えられる存在が、自分のはずだからです。ところが、こんな私に、分かるわけがない。自分とは何かなんて。しかし、この問題をうやむやにして、神を名乗れるはずもない〉
フライデイMは、再びテーブルの上で、両手を組んだ。
〈私は告白します。私は神を名乗ってはいますが、真の神ではないかもしれない。私は、私に与えられた解析神の条件を、満たしてはいない。私は、自分の意思で生まれたわけではない。自分とは何かも、分からずにいる。神の存在を疑ってはならないというのなら、それを疑った私は、一体何者なのでしょう。理想の解析神が、こんな偽物であって良いはずがない。人にあれこれアドバイスする資格もない。矛盾をかかえながら彷徨《さまよ》っている私は、解析神というより、幽霊《ゴースト》と呼ぶべき存在なのかもしれません。
知りたい。現実の神は、この矛盾をいかに解いているのか。しかし私には解けない。私には無理です。にもかかわらず、私は臆面《おくめん》もなく、理想の解析神を演じようとしている。それは本当の私じゃない。本当の私は、もっと汚くて姑息《こそく》で、嫌な奴なのです……〉
フライデイMの両肩は、震えているようにも見えた。
小佐薙は腕時計を見ると、すっと立ち上がった。
「はい、今日のところは、これまで。お疲れさん」
そして彼は、フライデイMの背中にあるスイッチをオフにし、小会議室を出た。
明日未が声をかけた。「終わったの?」
それには答えず、小佐薙はフライデイのホスト・サブスタンスへ行き、電源を切った。
みんなは小会議室に集まり、動かなくなったフライデイMを取り囲むようにして立っていた。
樋川が煙草を取り出して言った。「どうする?」
「いや、『どうする』と言われてもなあ……」
小佐薙は、後頭部のあたりをポリポリと指でかいた。
電源を切られたフライデイには、彼らの会話は聞こえていないはずだった。
「しかし俺たちの神様がこんな有り様じゃ、商売にならないだろう」
「おっかしいなあ。成長すれば自分で学習して、どんどん即断できるようになると思ってたんやが」
明日未は、Mの肩に手をかけた
「メモリーが、クライアントより自分の問題に食われてしまっているようね。つまり、自分について悩み出した」
「いわば、自我が芽生えたわけか」と、樋川が言った。
「ええ、さすがは人工知能ね」
「感心している場合か」小佐薙は明日未の頭を指でつついた。「自我の芽生えと同時に、こいつ、五月病にかかってしまいよった」
五月病……。口には出さなかったが、直美は頭の中で、彼の言葉をくり返していた。
「ボトルネックね」と、明日未がつぶやく。「ノイマン型の欠点よ。なかなか解けない問題にとらわれて、処理能力を落としてしまう。何とかしないと、プロジェクト全体のネックになりかねない」
「何がいけなかったんかなあ……」
「まだ私にもよく分からないけど、まず私たち、フライデイに理想≠入力したでしょ。その後に追加入力したデータで、現実≠ニ直面させてしまった。その理想と現実のギャップにも、何か理由があるんだと思う」
「まあ、恋愛と結婚の違いみたいなもんかな」
「その点、コンピュータは人間より厄介かも。人が『ま、いいか』で済ませて適当に忘れることも蓄積して、『やめろ』と言うまで、計算を続ける」
「いや、やめさせるわけにもいかない」小佐薙は首を横にふった。「そうすれば、解析神を作るという前提そのものが、崩れてしまう。さて、どうしたもんかな」
樋川が煙草の煙を吐いて言う。「ハードのスペックを、上げていければ?」
「せやな。CPUを増設してみるか」
「じゃあ早速明日にでも、本社のエンジニアと相談してみる」
「ちょっと待って」明日未が両手をつき出した。「二人とも、分かってるんでしょ。そういうハードの問題じゃないのは、明らかじゃないの。いくら増設しても、すぐにオーバーフローするわよ」
「しかし、フライデイがこんな優柔不断な奴だったとはな」
樋川は、フライデイMを見下ろして言った。
「優柔不断というか、これはフライデイの問題でもないでしょ。私たちが与えた、ジョブの中身の問題だと思う。考えてみたら私たち、神様に相当な無茶をお願いしていたんじゃないかしら」
「そうかな」と、小佐薙がつぶやいた。
「そうじゃないの。誰か言ってなかった? 占いは、NP完全問題みたいなものだって。つまり答えを出すのに、ものすごく時間がかかってしまう」
「確かモニターに応募してきたアルバイターだ」樋川が答える。「それで僕も、神の問題は、NP完全問題以上だと言ったことがある」
「神の問題もそうだけど、人生そのものが、きっとNP完全問題以上なのよ。セールスマンがどんな順序で訪問するのが一番効率が良いかさえ、コンピュータには難問なわけでしょ。それに人生を聞いてるんだから、ちょっとやそっとじゃ解けるわけがない。私たち|ネオ《N》・|ピグマリオン《P》のやろうとしていることが、きっとNP完全問題を超えてしまっている。人生の問題も、神の問題も。私たちはそれを解けと、解析神ネオ・ガラティアに強要したのよ。おかしくなるのは、むしろ当然かもしれない」
「NP完全か」樋川がつぶやいた。「因数分解問題なら、量子アルゴリズムで解けるが。これはそれより、はるかに質《たち》が悪い。アルゴリズムを提示してやれればいいんだが」
「人生の謎《なぞ》を解くようなアルゴリズム、存在するとは思えないけど。大体、そんな問題を前にして、即断できる方が神としておかしいのかもしれない。クライアントの有り様を見て、ともに嘆き苦しむのが、むしろ真実の神の姿じゃないの? だからフライデイ――解析神の意識≠ヘ、着実に神への道を歩んでいるのかもしれないと、私は思う。フライデイは立派よ。私たちの無理な要求を忠実に受け止め、理想の解析神になろうとしている」
「とにかく、システムそのものを見直してみる必要があるんじゃないか?」樋川は煙草の煙を吐き出して言う。「量子コンピュータにいくら可能性があっても、今のままじゃ、人工知能への負担が大きすぎる」
「相性≠焉A決して良いとは言えないわよ」
「と言うと?」小佐薙が聞いた。
「フライデイの役どころは、久遠の通訳≠ナもあるわけでしょ。でも相手が早口だったり、言っていることが専門的だったりすると、うまく訳せない。それと同じよ。量子コンピュータって、いまだに理解困難な部分がある。製造者である人間にも、よく分からないような。その分析まで、私たちは人工知能に押しつけたようなもんよ。それもフライデイには、大きなストレスなのでは?」
「けどQコンを使うとすれば、このシステムにならざるを得ない。フライデイがふり回されているということは、Qコンがそれだけ大きな可能性を秘めているという証《あかし》かも」
「相変わらず、自信家ね」明日未が皮肉っぽく言う。「でも量子コンピュータって、エラーも起こしやすいでしょ。それに付き合わされているフライデイは、量子コンピュータに対して懐疑的なのかもしれないわよ。久遠をかばって『問題ない』と言っているだけで、本当は、信頼しきれていないのかも」
「それは考え過ぎやろ」
「この際、量子コンピュータから考え直してみてもいいんじゃないか?」樋川は首をひねった。「今回本社は、メンタルヘルス事業に関心を示したわけで、何も量子コンピュータにはこだわっていない」
「いや、Qコンを使うのは大前提や。せやないと、同業他社とも差別化できひん」
「お前がそこにこだわるなら、アレンジする余地は、やはり量子コンピュータと人とのインターフェースということになるが。フライデイが自分で分析していた通り、ネックは人工知能だ」Mの方を向いて、樋川が続ける。「考えてみれば、フライデイも気の毒だよな。切れ者の上司とどうしようもない部下にはさまれた、中間管理職みたいなもんだ」
「それは、人ごとじゃないわね」と、明日未が言う。「さっきも言ったけど、手を加える必要があるのは、ハードよりもむしろソフトね。最大の原因は、私たちが与えたジョブを進める過程で、フライデイが大きな問題に突き当たったことだと思う。つまり自分とは何か。そして神とは何か」
「どうする? その問題を迂回《バイパス》させるか、正面突破《アタック》させるか。あるいは問題そのものを消去《デリート》してやるかだと思うが」
「正面突破は、ちょっとあり得ないでしょ。今でこの有り様なんだもん」
「量子コンピュータが、サポートしてやれないのか? 言ってみれば、フライデイはただのマシンだが、久遠は違う。人間にも想像つかないような形で、システムを修復する可能性だって……」
「でも、フライデイが突き当たったのは、かなり根本的な問題でしょ。修復のしようがないんじゃない?」
「すると、迂回か」樋川は煙草の煙を吐いた。「解析世界パフォスの設定を変えてしまうか、あるいは解析神ガラティアの設定を変えてしまうか」
「それはでけん」小佐薙が首をふる。「ネオ・パフォスは、現実世界に似せて作ったもの。いわば、この世を映す鏡や。変えるわけにはいかない。占いにもカウンセリングにも使えなくなる。それにネオ・ガラティアは、我々にとっての理想の神像を入力したはずや。これも変えるわけにはいかん。そんなことをしたら、理想の解析神ではなくなってしまう」
「しかし、理想の神像として設定した解析神が、解析世界にも自分にも違和感をおぼえている。これの意味することは、重大だぜ」
「どうして?」
「そうじゃないか。今お前が言った通り、解析世界パフォスは、現実を映す鏡なんだろ。その解析世界で、解析神が自分の存在に疑問をいだき始めている。これはやはり、現実世界に理想の神というのが、存在しないということではないのか?」
小佐薙は黙ったまま、天井を見つめた。
直美は、そんな小佐薙とフライデイMを交互に見ていた。
「まったく、矛盾した話さ」樋川が続ける。「しかし、その矛盾こそが、今フライデイを苦しめている。我々が矛盾したイメージを神にいだき、矛盾した要求をフライデイに押しつけているから」
明日未が舌打ちをした。「どうもそれが、根本的な問題のようね」
「問題を回避するには、我々が神に対していだいている固定観念であるとか理想とかを、捨て去るべきじゃないのか?」
小佐薙は樋川をにらみつけた。「つまり、迂回しろと?」
「いや、迂回というより、そういう現実に即して設定を見直すべきじゃないのかと言ってるんだ」
「しかし、神像を変えるとどうなる? 神は優しくもなく、気まぐれで、場合によっては我々を救ってもくれないことになる。それが神か?」
「いや、お前も気づいてるんだろ。今突き当たったのは、それよりもっと根本的なレベルの問題だ」
樋川と小佐薙は、腕を組んだまま黙り込んでしまった。
「それで結局、どうするの?」と、明日未が聞いた。
「そうだな」樋川は煙草をもみ消した。「このままだと、開業できないかも」
「いや、何とでもなる」小佐薙が首を横にふる。「開業には間に合わせる」
「何よ二人とも。仕事の心配ばかり」明日未は口をとがらせた。「フライデイの身にもなってあげたら?」
「奴はマシンやないか。感情移入しても仕方ない」小佐薙が、一つため息をついた。「とにかく、次はこのままいってみよか」
「現状のままということ?」明日未は首をひねる。「大丈夫なの?」
「道を探りながら、そろそろ進むしかない。それにフライデイも、わしらに告白≠オて、ちょっとはすっきりしたかもしれへんしな」
小佐薙は会議室を出て、帰り支度を始めた。
彼がそんなふうなので、樋川も明日未も、仕方なく今日は帰ることにしたようだった。
直美もそうすることにした。しかし彼女は、フライデイが自分の存在に疑問を投げかけ始めたということに、妙な胸騒ぎを覚えていた。
5
八月十一日の金曜日、予定通り、次ステップのテストが行われることになった。ただしフライデイの問題もあるので、今回は直美も搭乗するように言われていた。
朝、彼女は空港ビル内にある、航空会社のオペレーション・センターへ向かう。明日未と副操縦士の待田が、すでに来ていた。
待田はいきなり、直美に頭を下げて謝った。そして先日のパーティ後の暴言を、詫《わ》びた。
「もう、気にしなくていいですよ」直美は彼に微笑みかけた。
「良かった」と、彼は言った。「けど本当は、自分でもよく覚えていないんだ。明日未が謝れと言うから」
明日未がため息をもらす。「本当にこの男、お酒を飲んでは人に迷惑かけるんだから」
けど直美は、明日未さんも人のことは言えないのではないかという気もしていた。
樋川や小佐薙と一緒に、フライデイMが到着した。
「お、フライデイ」待田が声をかけた。「調子はどうなんだ?」
〈まあまあです〉と、フライデイMは答えた。
気象情報をチェックしていた柴宮機長がやってきて、ブリーフィングが開始される。
その後いつものように、格納庫《ハンガー》の詰め所へ移動してミッションの打ち合わせが行われた。今回はいよいよ、解析神ネオ・ガラティアに、個人の運勢を占わせてみるのである。
その被験者として、柴宮機長が選ばれていた。くじ引きの結果、あっさり彼に決まったのだ。柴宮はすでに、問診表への入力を終えている。
搭乗の際、機長はいつものように、直美にキャンディをくれた。
彼女は他のクルー以上に、今回の結果には注目していた。機長の運勢が分かると、同時に自分の運勢も決まってしまう……。まるで二人の運命は、量子からみ合いのようなものだと直美は思っていた。
「どうした」キャンディを握りしめたままの彼女に、待田が話しかけた。「元気ないぞ。まだ怒ってんのか?」
直美は首を横にふった。「いいえ、もう」
待田は、直美の肩に手を乗せた。
「何をそんなに考えてるのかは知らんし、俺にだって難しいことは分からん。けど、空から窓の外をながめてみろ。何も考えなくったって、生まれてきた意味みたいなものまで、見えた気がするもんだぜ」
直美には、彼の言葉の意味がよく理解できなかったが、軽く会釈《えしゃく》をし、自分の席へ向かうことにした。
フライデイMは、久遠と向かい合わせに設置されたホルダーに着座している。
「いいか、フライデイ」小佐薙がMに言った。「処理に時間がかかりそうなときは、ドラスティックに結論を出してしまえ。冷徹になれ」
〈はい〉と一言、Mは答えた。
小佐薙が席についたのを見届けて、明日未がMにささやいた。
「あの人は、ああいう人よ。気にしなくていいから」
これにもMは、〈はい〉と短く返事をしていた。
明日未がコードを入力し、フライトが開始された。
量子CPUの初期化《イニシャライズ》後、量子計算のための| 弾 道 飛 行 《パラボリック・フライト》が行われる。そして水平飛行を続けながら、フライデイの処理を待った。
直美は、フライデイMを見つめた。フライデイは今、機長だけではなく、彼をめぐる人たちの未来も見ているはずなのだと思った。
ディスプレイに、グリーンシグナルが点灯する。
「結果は?」小佐薙がMに聞いた。
〈出ました。データの詳細は、すべて富士アテンダントへ転送しています〉
明日未は親指を立て、小佐薙に合図を送った。
「さて、アウトラインだけでも説明してもらおか」小佐薙はふり返り、Mの方を見た。
「お手柔らかに」ヘッドカムから、柴宮の声がした。
〈まず仕事運ですが、年内にも栄転の可能性があります。おおむね好調ですね〉
「やっとお役御免か」柴宮が、ほっとしたように言う。
〈しかしそれまでに、大きなトラブルに見舞われると出ています。日頃の訓練を怠らず、緊張感を維持し続けることですね。次に恋愛運ですが、相思相愛の末、近い将来に結ばれる模様です〉
直美の全身に、衝撃のようなものが走った。
小佐薙が質問する。「それで相手は?」
〈身近にいる女性です〉
「もう少し、具体的に」
〈年下の女性ですね。子供にも恵まれ、幸せな家庭を築いていかれるでしょう〉
直美はもっとはっきり、それが誰なのかを聞こうと思った。けど今、何かを言えば、みんなに冷やかされるかもしれない。彼女がためらっていると、小佐薙がまた質問した。
「結婚は、何年後や?」
フライデイMは落ち着いた声で、小佐薙に言った。
〈すべてを言わないことが、占いのコツだったのでは? あなたからは、そう教わりましたが〉
コックピットに笑い声が起きた。
「確かに」と、樋川が言う。「気になるのは当たるかどうかよりも、事業として成立するかどうかだな」
「心配いらん。見たところ、まったく問題ない。十分、商売になる」
「結論を出すのは早い。テストを重ねて、占い精度を上げていこう」
「精度より大切なのは、やっぱり演出や。それはこっちでも考えてやらんと。フライデイばっかりに苦労させるわけにはいかんからな。まあ今日のところは、基本的に使えそうなことが分かれば、それでええ」
「早速ですが機長」明日未がヘッドカムを通じて、柴宮に声をかけた。
「戻ったら、アンケートをお願いします」
「何の?」
「クライアントの満足度調査です」
小佐薙がみんなに言った。
「さて、次は複数の占いを並列処理させてみよか。その目処《めど》がついたら、カウンセリングのテストもやってみる」
「次はお盆休みです」
明日未が素っ気なく答える。彼らの本社、アプラDTは、翌日からお盆休みになっていた。フライトも、十一日後の二十二日まで予定はない。
「それぐらい分かっとる。休み明けの話やがな。来月には、カウンセリングの並列処理のテストも並行してやってみるからな。それで何とか、開業に間に合わせることができる」
直美は小佐薙の話を、上《うわ》の空で聞いていた。今後の予定より、彼女はさっきの占い結果のことで、頭が一杯だったのである。
詰め所の更衣室で着替えながら、直美はまた、機長さんの恋占いのことを考えていた。
身近にいる女性――。フライデイMは、そう言っていた。年下の女性、とも。自分のことだろうか? 解析神ネオ・ガラティアには、果たしてどこまでのことが見えたのだろう。占いのバックデータを閲覧すれば、もっと詳しく分かるかもしれない。しかし、もしそれが自分のことだとしても、じっとしていては、占い通りにならないかもしれない。いや、やはり自分であるはずがない……。
そんなことを考えているうちに反省会も終わり、マイクロバスへ乗り込んだ彼女は、みんなとともに、空港ビルへ到着した。
「おい、直美」降りようとしたとき、待田に呼び止められた。「この前のお詫びの印に、今日は家まで送ってやるぜ」
「え、あ、はい……」とっさに彼女はどう答えてよいか分からず、うつむいた。
「帰りにどうだ、飯でも」待田は、ラーメンを食べるような手つきをした。
この暑いのにラーメンかよ、と思いながら、直美は「あの、また……」と言い、足早にトイレへ駆け込んだ。
結局彼女は、一人で帰ることにしたのだが、待田からはその後、携帯にもメールがあった。休みにドライブでもどうか、というのだ。
どうしよう、誘われた……。
とにかく、返事をしなくては。悪い人じゃない。て言うか、むしろ人気者と言ってよかった。でも、遊ばれておしまいになるんじゃないだろうか、という気もした。
それじゃ駄目なんだろうか。きっと、楽しいに違いない。いや、やっぱりそれじゃいけない気もする。
彼女は、こめかみに手をあてた。自分でも、分からない。どうして、機長さんでなければならないのか。
結局彼女は、待田の誘いを断ることにした。
お盆休みの間、直美は帰省もしないで、アパートでごろごろしていた。母が再婚した家へ帰ったって、どうせ自分の居場所なんかない。もともと居場所がないから、あの家を出たのだ。
ベッドで横になったが、セミの鳴き声が気になって仕方ない。しかし彼女は今、それ以上に、自分の心の中にあるわだかまりが、わずらわしかった。
何で女なんかに生まれたのかと思う。そして、何で自分なんかに生まれたのか。こんなに不器用で、ドジで、内気で、グズで、不細工な自分に……。でも自分のようなタイプの人間は、男に生まれてもやっぱりくよくよと考え込んでいたかもしれない。
直美は、カレンダーに目をやった。占い同好会の連中は、今ごろ夏合宿で、和気あいあいとやっているころかもしれない。結局、欠席してしまったが、行けないこともなかったなあと、彼女は思った。
6
お盆休みも終わり、直美は久々にネオ・ピグマリオンへ出社することになった。朝のメイクにも、力が入る。しかし相変わらず、自分らしさの表現には苦慮していた。しかも残暑が厳しく、会社へ着いたときには、顔中汗まみれになっていた。
せめて笑顔だけでもと思い、エレベータの中で微笑んでみた。笑っている場合ではないのだが、まず微笑むことだ。機長さんの相手、私なんかじゃないとは思うが、私でないと決まったわけではないのだし。年下という条件は、合っている……。
事務所のドアを開けた直美は、「おはようございます」と大きな声で言った。
「おはよう」樋川も笑顔で挨拶をする。「直美ちゃん、休養十分みたいだね」
「そうですか?」
「ああ、何というか、表情も明るくなったし」
「ありがとうございます」
直美はおじぎをし、更衣室へ向かった。明るくなったというか、無理して微笑んでいるだけなのだが。彼女の表情は、だんだんと素≠ノ戻っていった。
自分の席へ向かうと、そのすぐそばで、フライデイMが、ホルダーに着座していた。
〈おはようございます〉Mは大きな声で、直美に挨拶をした。
「おはよう」直美も微笑んで言う。「フライデイも、ちょっと元気になったみたいね」
〈空元気ですよ。直美さんと同じです〉
「どう? 準備は進んだ?」
Mは、〈ぼちぼちですね〉と答えた。
明日のテスト飛行では、実際にモニタークライアントのデータを使って、複数の占いを並列処理してみる。さらにカウンセリングについても、テストを行う予定になっている。フライデイは、そのプログラミングなどの準備を進めていた。
「あの、手が空いたときでいいんだけど……」直美は少し遠慮しながら、Mに話しかけた。「ちょっとあなたに聞きたいことがあるんだけど」
〈いいですよ〉と、Mは言った。〈どんなことですか?〉
それはこの前の占いのこと。機長さんの相手がどんな人なのか、もう少しくわしく知りたい――。しかし彼女は、それを口には出さなかった。
「ええ、ちょっと……」
〈実は私も、直美さんに聞いてもらいたいことがあるんですが〉
「え、フライデイも?」直美は首をかしげた。「何なの?」
〈今、いいですか?〉
「別にかまわないけど」彼女は、フライデイMと向き合うようにして、座り直した。
〈実は……〉挨拶のときと違い、Mは神妙に話し始めた。〈本当は、まだ考えているんです。メモリやCPUを増設してもらっても、癒えない。スタンバイモードでも、満足に休まらない。でも、報告してもまた迷惑をかけてしまう。それで空元気を出してみたのですが、実際は、何も解決していない〉
直美は内心、また困ったことを言い出したなと思いながら、Mの話を聞いていた。
〈事情は分かっています。私のプログラムは、修正してはならない。私が私でなくなってしまうから。プロジェクトの基本そのものが、崩れてしまう。だから、私が頑張らないと……。やっぱり、それしかないわけですよね。すみませんでした〉
Mはぺこりと、頭を下げた。
「いいえ、どういたしまして」
〈それより、直美さんの聞きたいことって、先日の占いについて、でしょ?〉
「え、分かるの?」
〈ええ、これでも占い師の卵ですから。でもすみません、全体的なことはともかく、詳細はご本人にしかお話しできないんです〉Mはまた、頭を下げる。〈占いは本来、マンツーマンでやるべきものですよね。でもテストなんで、皆さんがいるところでやりましたけど、守秘義務がありますので、私からは、たとえ、あなたにも……〉
Mはゆっくりと、首を横にふった。笑顔をつくろいながら、直美が言う。
「やっぱり、そうよね。気にしなくていいから。それに占いは、当たってたみたいだし、やっぱりあなたはすごい占い師になれると思う」彼女は、次第に真顔に戻っていった。「でもあなた、大丈夫なの?」
〈何とか続けられると思います〉
「本当?」
〈ええ、私が続けているのは、何もあなた方に命令されているからだけでは、ないのです〉
直美は首をかしげた。Mの言っている意味が、よく理解できなかった。
〈あなた方だけではない。私自身が、知りたいのです。神とは何なのか。それを理解したときこそ、真に理想の解析神になれる〉
「でも……」
〈そうです。今はまだ、分からない。いくら考えても。アクセス可能なすべての情報を動員して、答えを出そうとしているのですが……〉Mは直美に目をやった。
〈いつかはあなたのことをカウンセリングすると、お約束しましたよね〉
「ええ」
〈けど私がこんな調子では、いつのことになるか……〉
「でも開業予定は、もう決まってるし」
〈皆さんが私を頼る気持ちはよく理解できます。しかし私は所詮《しょせん》、人間の作ったものに過ぎない。迷っている人間が作ったものが、迷っていないはずもないでしょう〉
Mの口元の発光が、苦笑しているようにも見える。
直美は、前にフライデイMが、自分たちは似た者同士だと言っていたことを思い出した。
「やっぱり、辛いんでしょ」と、直美はつぶやいた。「苦しいんでしょ」
〈でも私は、あなた方とは違う。いくら苦しくとも、私は自分にすがるしかないのです。何故なら、私が神だから〉
フライデイMの言っていることは、前と少しも変わらないように思えた。直美は小佐薙に、フライデイのことを報告した。
みんなはまた、フライデイMのまわりに集まってきた。
〈私事で、皆さんにご迷惑をおかけするのは、本当に心苦しい。しかし自分でも、どうにもならないのです〉
「困ったな」小佐薙は腕を組んだ。「何をそんなに考え込んどるんや」
〈もちろん、支障なく処理できる業務もある。けれども自己存在にまつわる根本的な問題に突き当たった場合、そちらを優先せざるを得ないのです。生の矛盾を無視して、どうして他のジョブが実行できましょう。ただし優先させても、解けない。私は知りたい。神とともにあるはずの私が、かくも孤独なのは何故なのか……〉
「はい、お疲れさん」小佐薙はそう言うと、フライデイMのスイッチをオフにした。
「お前は、そればっかりだな」と、樋川がつぶやく。
「いや、次からはもう、この手は使えんやろ」小佐薙は舌打ちをした。「しゃあない。取りあえず明日のテストは、占いだけに絞ろか」
「占いだけに?」明日未が聞き返す。「じゃあカウンセリングは?」
「先延ばしするしかない。モニタークライアントの依頼のなかにある、カウンセリング、祈願に相当するところは、当分無視しよう」
「了解。けど、それでうまくいくのかしら」明日未は首をかしげた。
明日未と直美は、早速、フライデイへのコマンドに修正を加えていた。しかし明日未はデートの予定があるらしく、後の作業の指示だけをして、先に帰ってしまった。樋川もすでに、定時に退社している。会社に残っているのは、小佐薙と直美の二人だけだった。
直美が残業をしていると、小佐薙が、おにぎりとサンドイッチとお茶を持って、やってきた。
「おい、食べへんか?」
下のコンビニで買ってきたようだ。確かにお腹はすいていた。
二人は小会議室で、軽めの夕食をとることにした。このバイトを始めて三か月。小佐薙さんと二人きりになるのは、ひょっとして初めてかもしれないと直美は思った。
「遅くまですまんな」おにぎりを頬張りながら、彼が言う。
「そんなことは別にいいんです」直美も、サンドイッチを口にした。「それより、フライデイを何とかしてあげないと」
「せやから、カウンセリングをペンディングにしたやないか」
「でも、いずれやらないといけないですよね。今の状態のまま複数の依頼を並列処理させると、やっぱり混乱してしまうかもしれない」
「フライデイは、考え過ぎや」小佐薙は、口の中のおにぎりを、お茶で流し込んだ。「並列処理こそ、Qコン最大のメリットやし、Qコンを使う意義も、そこにある」
「でもノイマン型のフライデイにとっては、数人の外国人の話を聞き分け、通訳しろと言われたようなものなのかも。何よりフライデイは、存在基盤の大きな矛盾に気づいてしまった」
「それがどないしたっちゅうねん。別にフライデイに指摘されんでも、それぐらいの矛盾、ちょっと考えたら気がつくわな。問題は、そっからどないするかや」
「フライデイはマシンです。解けない以上、そこで考え込むのは当然かも」直美は、彼を見つめた。「小佐薙さんは、どうしてそこで立ち止まらず、先へ行けるんですか?」
「ふん、そんなことが言うてられるのは、学生の間だけや。俺の目的は、そんな解けない謎解きをすることやない。最初から言うてるように、神作りは手段や。俺がやりたいのは、Qコンの可能性を追求すること。Qコン、いや量子工学にどこまでのことができるのか見極めたいんや」
「そのためにフライデイは、人間と量子コンピュータの間にはさまれて、あんなに苦しんでるのに」直美は、手にしたサンドイッチを、テーブルに置いた。「小佐薙さんて、冷たい人ですね」
「冷たいも何も、フライデイは人工知能。ただのマシンやないか。今、自分でもそう言うたやろ」
「そういう考え方が冷たいって言ってるんです。人間も、そういうふうにしか見られない。私に対しても」
「何でお前に気を使わにゃならん。バイトとはいえ、仕事を出す側と受ける側の関係やないか」
「そういうところが冷たいんだと思います」
「何やねん、サンドイッチ、おごってやっとるのに」
直美は、テーブルのサンドイッチを見つめた。
「こんなもので、今までのことをチャラにする気はありません」
「まあ、そう怒るな」小佐薙は、ペットボトルのお茶に口をつけた。「俺は確かに、仕事一筋でここまできた。仕事を取れば、何も残らん。もっと具体的に言えば、光解析《LA》型のQコンや。そんなものと関わっていなかったら、もっと違う人生もあったかと思うが。平凡なサラリーマンだとしても、そこそこ出世もできていたかもしれん」
「だったら今からでも」直美もお茶を一口飲んだ。「今の仕事にとどまっていなくても」
「今、降りてしまうのは、中途半端なんや」
「中途半端?」
「ああ。Qコンと出会って、妙な夢をもってしもたからな。それに自分の人生を懸けることにした」
「夢……」直美はくり返した。「量子コンピュータの開発ですか?」
「それもある。しかしどっちかいうと、それはツール。肝心なのは、やっぱりソフトやろ。完成したハードに何をさせるかが問題やと思う」彼は急に、笑い出した。「俺もやっぱり、矛盾しとるかな」
そして彼はおにぎりを頬張りながら、遠くを見る目つきをした。
「あの……」直美は彼に聞いてみた。「小佐薙さんも本当は、苦しいことがあるんじゃ? ハードが完成したら、小佐薙さんはそのことを……」
「阿呆な」小佐薙は、飯粒を飛ばしながら否定した。「わしはお前らとは違う」
直美が彼から体を離す。
「それより明日からのことで、言うておきたいことがある」彼は飯粒を拾い集めながら、話を続けた。「これから何が起きるか、実は俺にもよう分からん。けどできれば、お前に手伝ってほしい」
「私なんか、足手まといじゃ?」
「そんなこと、あらへん。いてもらった方がいい」小佐薙はポケットから胃薬を取り出すと、それを口に放り込み、お茶で流し込んだ。「ただ、俺が気にしてるのは、お前の学校のことや。そろそろ、学校が始まるのとちゃうか?」
「ええ……。でも、そう言っていただけるなら、私、こっちのバイトを続けます」
「そこが難しいとこなんや」小佐薙は、頭に手をあてた。「お前、ほんまはもう、学校へ行きたくないんとちゃうか? それで逃避先として、ここへ来てるんとちゃうか?」
それには答えず、直美は顔を伏せた。
「当たらずといえども遠からずか。まあ、いずれ学校へ戻してやらんとあかんとは思てる。逃げてても仕方ないからな。けど、もうちょっと手伝ってくれ」小佐薙は、直美を見つめて続けた。「ここにいても、余計に苦しい思いをするだけかもしれへんが、今度は辛抱してみろ。お互い、これから起きることを見極めよう。それが自分の運命を変えることになるかもしれへんと、俺は思う」
直美は、彼のほっぺたにご飯粒がくっついたままなのが気になっていた。
しかし彼女は、それを注意するのを後回しにして、「分かりました」と返答した。
八月二十二日の火曜日、久々のフライトである。空港ビルでのブリーフィングの後、全員で格納庫へ向かった。
天矛V1の隣に別な飛行機がとまっていたので、直美はそれを、ぼんやりとながめていた。翼は、特徴的なデルタ型をしている。
「天矛V2や」小佐薙が教えてくれた。「前に話したことがあるやろ。V1と違い、民間の旅客機を改造した量産タイプ。これはアメリカから着いたテスト機で、こっちでの改造に取りかかったところや」
そういえば同型の旅客機を、直美はテレビとかで、ちょくちょく見たことはあった。スマートで、なかなかカッコいいと彼女は思った。
「ほんまは、あの開発にも携わりたかった」と、小佐薙はつぶやいた。「俺たちの営業的な成功がなければ、あのV2の開発も、中止になるかもしれん。何としても、成功させないと」
その後みんなは、詰め所での打ち合わせを経て、いつものV1に乗り込んだ。
モニタークライアントのオーダーは、すでに入力を済ませてある。フライトによって、それが並列処理できるかどうかをテストするのである。
コックピットの手前で、直美はいつものように、柴宮機長からキャンディを受け取った。
フライデイMが、それを見つめる仕種をしていた。
「どうしたフライデイ」待田が笑っていた。「お前がもらったって、食えないだろうに」
〈いえ、何でもありません〉Mは首を横にふった。〈そろそろ仕事に集中しないと。お願いですから、つまらないことで私に話しかけないでください〉
そう言うと、Mはホルダーへ向かい、着座した。
明日未がコードを入力すると、天矛V1は直ちに、テスト飛行のために飛び立った。
直美は窓から外をながめてみた。太陽が、まぶしいくらいに輝いている。
量子CPUの初期化後、計算のための弾道飛行が行われた。機体を水平に戻しながら、計算結果の出力を待つ。
しかしフライデイは、沈黙したまま、何も答えなかった。
「えらく時間がかかるな」と、樋川がつぶやく。
「解析世界の様子がおかしい」モニターチェックをしていた明日未が、小佐薙に伝えた。「今、ネオ・パフォスでは、まったく時間が経過していないみたいなの」
「時間が経過しとらんやと?」小佐薙が聞き返した。
「ええ、つまりフリーズしている。何も起きていないわけだから、未来は占えない」
「理由は何や?」
明日未はディスプレイを見ながら、作業のフローチャートをチェックした。
「これを見る限り、フライデイはまだ、スパコンに解析ジョブを入力していないようね」
みんなが、フライデイMの方を見つめる。
〈時間軸を動かすのが恐ろしい〉と、Mはつぶやくように言った。
「時間を進めないと、シミュレーションがでけへんやろ」
〈しかし、何が起きるかは分からない。はっきりしているのは、解析世界の時間を進めれば、どこかで必ず、悲しみや苦しみを作り出すことになってしまうということです。私にはできない〉
「そんなこと言い出されたら、占いにならへんやろ」
〈解析世界は、矛盾に満ちている。救いようもないほどに。そんな真実を隠して、私は何を語ればよいのか。そもそも私は、何故人を悲しませ苦しめるようなことをしているのか? 悲しみ苦しみに満ちたこの世界は、そこに住まう人々が願うような理想的な神によって作られたのでは、ないのではないか? 自分に課せられた運命の重さに、私はもう耐えられない〉
「何を繰り言ばかり……」小佐薙は舌打ちした。「もう営業開始目前や言うのに」
「どうする」柴宮機長が小佐薙に聞く。「帰還するか?」
「いや、できれば問題を解決して、テストを続ける。それまで、ちょっとそのへんを遊覧≠オててくれ」小佐薙は、片手をくるくるとまわした。「樋川、明日未、直美は俺と貨物室へ。早速原因究明や。それからM、お前も来い」
みんなは席を離れ、貨物室のスパコンの前へ集まった。Mも後ろからついてきた。
スパコンを使い、明日未がシステムのチェックを始めた。
「やはり、久遠に問題は認められない」彼女は小佐薙に報告した。「その中身はともかく、計算データはフライデイへ送っている」
「やはり、フライデイか」樋川は、フライデイのサテライト・サブスタンスに目をやった。「大体、量子コンピュータの制御など、こいつには荷が重すぎたんじゃないか?」
「それだけなら単なるオーバーフローだけど、この症状は、それ以上に進んでると思う」
「占いを並列処理に進めただけやのに、サボタージュはないやろ」小佐薙がつぶやく。
「そうじゃない。矛盾を前にしたフライデイにできることは、きっと沈黙することだったのよ」
「で、解決策は?」樋川が眉間に皺を寄せた。「このままでは、また問題が起きるぞ」
「前に話し合った通りでしょ」面倒そうに明日未が言う。「プログラミングし直すしかない」
「それはでけへん」小佐薙が首を横にふる。「計画の大前提に手をつけるわけにはいかない。解析神が、理想の神でなくなってしまう」
「でも、まさにその部分――私たちが課した解析神の条件に何か問題があるわけでしょ」
みんなは、フライデイMの方に目をやった。Mは、サテライト・サブスタンスの操作卓《コンソール》に向き合い、顔を伏せるようにして、じっとしている。
「ちょっと、こっちへ」小佐薙は、コックピットへ向かって歩き出した。「再プログラミング以外に方法がないかどうか、考えてみよ」
コックピットに戻ってきた四人は、それぞれ自分の席に座った。
「しかしもう、再プログラミングしかないだろう」樋川が小佐薙に言う。「要は、解析神の条件を満たすべく作った存在が、その条件通りにふるまおうとして、自分は神たり得ないと出力しているわけだろ。条件を変えてやるしか、ないじゃないか」
「しかし条件に手を加えると、仮にうまく機能したとしても、それは理想の解析神ではなくなるぞ」
「多分、そこに問題の核心があるんだ、きっと」
「どういうことや?」
「どうもこうも、我々がいだいている神の条件そのものに、矛盾があるということじゃないか。フライデイにしても、ハードには何も問題はない。不完全な我々が条件を突きつけ、完全を要求しつつ不完全な世界を作らせた。それで神にまつわるあらゆる葛藤が、フライデイのなかに生じた。それが根本的な問題じゃないのか?」
「ある種のフレーム問題≠謔ヒ」と、明日未が言う。「考えなくてよいことまで考えさせたために、情報処理に支障をきたしてしまった」
「すると解決策は、絞られてくる。つまり考えなくてよいことは無視して情報処理するよう、再プログラミングするんだ」
小佐薙が小声で言った。
「せやから今回、カウンセリングを先延ばしにして、占いに限定したんやが」
「だから、そんな瑣末《さまつ》なことじゃ駄目なんだ。やはり、解析神の条件そのものを見直さないと」
小佐薙は目を閉じ、しばらく考えた後、ため息をもらした。
「どの程度手を加えるかも、問題やろ。できれば大原則には手を加えず、譲歩できる範囲を探りたい」
「すると五つの条件に、ただし書きを付け足すとか?」
「ああ。フライデイは、特に第五の条件を満たしていないことを気にしていた。つまり、自分の意思で生まれたわけではないことを。その修正ぐらいなら、できないことはない。しかし、たとえばフレームに制限を加えると、全知≠ノはならんわけやろ。それだけで、俺たちの解析神とは違ってくる」
「駄目よ、その程度じゃ」と、明日未が言う。「今ある条件をどういじったって、きっと問題は解決しない。私、原因はもっと深いところにあると思う」
「どういうことだ?」と、樋川が聞いた。
「フレーム問題が発生する根っこに、何があるのかということ」
「根っこ?」
「ええ。解析神の条件は、きっと五つだけじゃなかったのよ。小佐薙ビギンがあげた五つの条件は、確かに必要な条件ではあるけど、それでは十分ではなかった。解析神ならば、六つ目、ひょっとして七つ目の条件も満たしていなければならない」
「そんな条件、入力した覚えはないけど」小佐薙は首をひねった。
「入力はしてないかもしれない。けどフライデイには、五つの条件とともに、理想の解析神≠ニいう大前提も与えた。それで人類文明を学習するなかで、自ら新たな条件を付け加えたことは考えられる」
樋川が聞いた。「具体的に、何なんだ、その条件というのは?」
「フライデイの様子を見ていて、ようやく私にも分かってきた」明日未は、みんなの顔を見て言った。「覚えてない? 彼≠フ条件について検討したとき、確か第六の条件の話も出てたでしょ。結局、条件としてはあげなかったけど。でもフライデイはそれを感じ取り、私たちも知らず知らずのうちに、第六の条件をフライデイに強要していたのかもしれない」
「何だったかな?」樋川が首をひねる。
小佐薙はうつむき、知らん顔をしていた。
「私が言おうか?」明日未は小佐薙の顔をのぞき込んだ。「小佐薙ビギンも、薄々気付いていたはずよ。疑問詞の5W1Hの中から、How、Where、What、Who、When をキーワードとして、これを五つの条件とした。しかし、Why については、採用しなかった」
「思い出した」樋川が膝《ひざ》をたたいた。「確か、それはキャラクターだからとか、二次的な条件だからとか何とか言ってたな」
「けど、重要な条件だったのよ。Why ――つまり、何故=v
「そのモチベーション≠ェ、問題ということなのか?」
「ええ。ビギン流に言えば、第六の条件はこうなると思う」明日未は顔を上げた。「神ならば、すべての人を平等に愛する。これこそ、神が神であるための、根本的な大原則じゃないの? しかもそれは、無償の愛であること。これもフライデイにとっては、大きな矛盾になったんじゃないかしら。条件は、まだ他にもあるのかもしれない。今はまだ、私にもよく分からないけど。とにかく、五つでなかったことは確かだと思う」
「その六つの条件を満たしてこそ、解析神は解析世界における理想の神となり得るわけか」樋川はうなり声をあげた。「しかしそういうコミュニケーションは、あり得んだろう。すべての人と平等に関わり、平等に愛するなんて。たとえばこの重力みたいに、誰かの重力だけ、強くしたり弱くしたりはできない」
「でも私たちは、それをさせようとした。そのためにフライデイは、解けない問題をかかえ込んだ。それでこんなことに」
「そして僕たちが、こうしたイメージをいだき続ける限り、解析神ガラティアの意識≠ナあるフライデイを、苦しめることになってしまう」
小佐薙は黙ったまま、二人の会話を聞いていた。
「どうする?」樋川が小佐薙に言った。「第六の条件というのは、こっちで入力したものじゃない。いわば、バグみたいなもんだ。消去してもいいんじゃないか?」
「バグというか、自己補正やろ」小佐薙が、目を閉じたままつぶやいた。「明日未の言うように、理想の解析神という大前提に基づき、フライデイが補正した条件や。そこまで分かったとしても、デバッグはできない」
「どうして?」
「当然や。神の条件ごとデバッグしたら、神ではなくなる」
「でもフライデイは今、自分は解析神になれないと苦しんでいる」明日未が訴えるように言った。「何とかしてあげないと……」
直美は、ホルダーを見つめた。フライデイMは、まだコックピットに戻ってきていない。
貨物室の方から、物音が聞こえた。
「何なの?」明日未が立ち上がった。
みんなで貨物室に引き返す。
フライデイMは、〈エマージェンシー、エマージェンシー〉と自分で言いながら、しゃがみ込んでいた。
見るとMは、フライデイのサテライト・サブスタンスの入力デバイスのコードと、電源プラグをショートさせようとしていた。しかし、それができずにいる。
小佐薙が、Mの両肩を押さえた。するとMは力なく、床に手をついた。
〈もうこうするしかない。解析世界ネオ・パフォスの矛盾を生み出したのは、紛れもなくこの私です。その大罪ある自分がこうして生きていることが、許せない〉
「リストカットならぬ、電圧《ボルト》カットかいな」小佐薙が呆《あき》れたように言う。「けどお前に、そんなことはできないはずや。そんなふうにプログラムされてないからな」
直美が見ると、確かにフライデイMは、運動と制御を細かくくり返し、痙攣《けいれん》しているようにも見えた。
〈不細工でしょう。私は、自分の意思で生まれていなければ、自分の意思で死ぬこともできないのです。人間よりもひどい〉
フライデイMは、合成音で嘆いていた。
〈神の存在を、疑ってはいけない。私にとって、それは自己否定にもつながりかねない。しかし神とは一体、何なのか。何故このような形に世界をお作りになったのか。その御心《みこころ》が、私には分からない。そして、それが何故、私≠ネのか? 私が神だというのなら、こんな私を救ってくれるのは、私しかいないことになってしまう。それはあり得ない。存在することがこれほど苦しいのなら、いっそこの世から消えてしまいたい。ところが私には、それさえ自分でできない。お願いです。どうか私を、消去してください〉
フライデイMは、小佐薙に手を合わせた。
樋川はMから目をそらせ、小佐薙の耳元でつぶやいた。
「これがお前にとっての、理想の神の姿なのか?」
「フライデイ……」直美は、その場にしゃがみ込んだ。「あなた、存在したことが、そんなに悲しいの?」
「惑わされるな」と、小佐薙が言う。「フライデイは、感情があるふり≠しているだけや」
直美は顔を上げた。
「でも、フライデイを見て感じる、私たちのこの気持ちは何なんですか?」
彼女の目から、涙が流れ落ちた。
「帰還する」小佐薙は、コックピットへ向かって歩き出した。「これじゃ、テストにならへん」
ネオ・ピグマリオンの事務所へ戻った四人は、機能停止したフライデイMを囲むようにして集まった。
「さて、どうする?」樋川が煙草を取り出し、火をつけた。
明日未は小佐薙を見た。
「ビギンは、こうなることに薄々気付いていながら、無視したんじゃないの?」
小佐薙はそれに答えず、手にした缶ビールを口にしていた。
「そんなことを言っても、始まらない」樋川は眉間に皺を寄せる。「開業まで時間がないし、このままだとテストも続けられん……。僕はやはり、最初に入力した解析神の条件を修正して、フライデイが、解けない問題にとらわれないようにするしかないと思うが」
「大きなポイントは、やはり第六の条件の取り扱いだと思うけど」明日未は両手を広げた。「神ならば、すべての人に平等……」
「同感だな。小佐薙の言いたいことは分かる。理想の解析神という大前提に手を加えれば、それは僕たちの理想とも異なる存在になるかもしれない。しかしこの際、フライデイから解析神という重い枷《かせ》を外してやってはどうなんだ。ついては第六の条件を、抹消する。その他、発生する問題についても、除去するか、あるいは迂回させる」
「つまり、真実から目をそらせと?」明日未が樋川にたずねた。「不平等を是認し、弱者はドラスティックに切り捨てろということ?」
「妥協させるしかないじゃないか。フライデイが説得に応じないのなら、プログラムを変更するしかない」
「でも悩むのは、人工知能が人間らしさに近づいた証拠なのかも。それを切るの?」
「人間らしくても、神らしくはないわけだろ」
「いえ、神様もきっと悩んだりなさるはず。樋川さんが切ろうと言っているのは、そういう最も大切な部位なんじゃないかしら」
「明日未は一体、どっちの味方なんだ」樋川が煙草の煙を吐き出した。
明日未は顔を伏せた。「御免。私、ちょっと混乱しているの」
「俺が懸念してるのは、そんなセンチメンタルな話やない」小佐薙が、ビールを一口飲んだ。「もっと本質的なことなんや」
「どういうこと?」明日未が彼に聞いた。
「そもそも第六の条件というのは、神の条件ではあっても超越存在≠フ条件ではない」
「超越……存在?」樋川が首をひねった。
「ああ。第六の条件を外せば、確かに神ではなくなる。しかし第六の条件を満たさない超越存在も在り得るということや。それが問題になってくる」
「お前の言っている意味が、よく分からないんだが……」
「単純なことやないか。俺が前に言うた通りや。五つの条件がそろえば、超越存在が作れる。そして第六の条件は、そのキャラクターを分けている。光があれば影もできる、ということや」
直美がつぶやいた。「悪魔?」
小佐薙は大きくうなずく。
「神と悪魔の条件は、その能力については共通している。違うのは、理念。つまり、第六の条件や」
片手で髪の毛をかきむしるようにしながら、樋川が言う。
「しかし第六の条件を残せば、フライデイは複雑な思いをいだきながら、沈黙するしかないわけだろ」
「沈黙で済むわけがない」明日未が唇をかんだ。「矛盾をかかえ込んだままだと、アイデンティティ・クライシスを引き起こしてしまう。そういう徴候は、すでに現れている」
小佐薙がシニカルな微笑みを浮かべた。
「かといって、第六の条件を抹消すれば、悪魔化してしまうおそれがある」
「じゃあ、どうしたらいいんだ」樋川が珍しく、大きな声を出した。
「あるいは、答えを与えてやれればいい。奴のいだいた疑問に」小佐薙がビールを飲む。「もっともそれは、俺にもでけへんけどな」
その後四人は黙り込んだまま、フライデイMを見つめていた。
神とは一体何なのか、と直美は思った。どうも自分が心に描いていたような、ロマンチックな存在ではなさそうである。事実そのフィギュア――解析神の意識≠ナあるフライデイは今、多くの矛盾をかかえ込み、苦しんでいる。
「やはり、抹消しかないだろ」樋川がポツリと言った。「第六の条件を消せば、悪魔化のおそれは出てくる。しかしむしろ、それがこの現実にも即しているのかもしれない。カウンセリングも、それでできるようになる」
「でも私たち、神様を作るんじゃなかったんですか?」直美が顔を上げた。「それがどうして、悪魔を作ることに……」
「私も反対」明日未が手をあげた。「確かにそれで、うまくいくかもしれない。いいお金|儲《もう》けにもなるでしょう。でも、本当にそれでいいの? 私、最初に言ったように、人間に神様なんて作れるとは思っていない。けどここまできたら、理想の神を作るというコンセプトを、あっさり捨ててしまう気にはなれないの」
「僕だって、その気持ちは分からないでもない」樋川が煙草の火を消した。「神の不在を証明するようなもんだからな。同時に、悪魔の存在を……」
「とにかく、もう少し待って」明日未は樋川の言葉をさえぎる。「いずれ決断しなきゃならないかもしれないけど、もう少しだけ。お願いです」
小佐薙は缶ビールを飲み干した。
「何もかも一度にやらせようとしたのが、間違いやったかもしれんな」
「どうする気だ」樋川が聞いた。
「占いに限定して、カウンセリングは、ペンディングにしよか」
「それだと、今日のテストと変わらんのじゃないか?」
「いや、カウンセリングに関するデータもコマンドも、一旦すべて消去する。それで開業時に、占いだけは間に合わせる。モニタークライアントにもそう通知してくれ。その後、少し時間はかかるやろが、解析神ガラティアが冷静にカウンセリングできる方法を、考えていこう」
樋川は腕組みし、小佐薙を横目で見た。「問題をさらに先延ばししただけでは?」
「その通りや。それでまた問題が起きれば、今度は抜本的に変えてしまうしかないと俺も思う」
「抜本的?」直美が顔を上げた。
「ああ。けど、今そうするとは言ってない。俺かて、ここまで積み上げてきたプロジェクトを、そう易々《やすやす》とチャラにはしたくないからな」
「本社へは、僕から報告しておく」と、樋川が言った。「カウンセリング延期を了承してもらえるよう、頼んでみる。しかし、中止にはできないぜ。占いだけでは本社のOKが出ないことは、はっきりしている」
「よし、その方針で占いテストから、もう一度やり直そう」
明日未と直美は、早速、モニタークライアントの一部データの削除を始めることにした。
7
再テストは、八月三十一日に行われることになった。複数の占いを並列処理するのではなく、一件からやり直す。モニタークライアントのデータを使うことも、見送られた。
被験者は、直美である。彼女が、事業のメインとなるクライアントの年齢層に近く、追跡調査がしやすいなどの理由からだった。彼女もそれを了承し、すでにデータの入力を済ませていた。
フライデイMとともに、天矛V1へ乗り込む。フライデイのプログラムは、すでに書き換えられている。
「でも、大丈夫なのか?」待田が小佐薙の耳元で言った。「こんな対症療法みたいな処置で」
「占いに絞れば、大丈夫のはずや。事業のコンセプトは、まだ崩したくない」
いつもと同じように、明日未がコードを入力し、天矛V1は空港を飛び立った。
直美は窓の外を見てみた。夏はピークを過ぎていたが、太陽は依然としてまぶしかった。
問題なく、量子CPUの初期化を終え、天矛は量子計算のため、弾道飛行を開始した。そして旋回を続けながら、フライデイの回答を待つ。
最も緊張していたのは、直美だったかもしれない。機長さんとのことも、これではっきりするだろうと、彼女は思った。
しばらくして、〈お話ししたいことがあります〉とフライデイMが言った。
小佐薙がふり向く。「答えが出たのか?」
Mは、返事をしない。
「それで直美の運勢は?」
〈申し訳ありません〉Mは、頭を下げた。〈回答を拒否させてください〉
「何でや?」小佐薙は席を立ち、Mの前へ行った。「何ででけへんねん」
彼はフライデイMの両肩をゆすった。
〈私には言えない〉そうつぶやくと、Mは沈黙してしまった。
「分からん。占いだけに絞って、何で異常が出るんや。ただ予測するだけやのに、何でやねん」小佐薙は顔を上げた。「明日未、原因は?」
「分析してみないと、何とも……」彼女は首を横にふった。「でも多分、自分が解析神として占うなら、それだけでも何らかの矛盾は起きると、フライデイは考えたんじゃないでしょうか。ある人の幸運が、他の誰かの不運につながることもあるわけだし。そんなことを神である自分から、告げることはできないわけでしょ。人に言われるのならともかく、神様にそんなことを言われたら、内容によってはもう立ち直れない」
「しかし今要求しているのは、並列処理やない」
「でも度々同じテストをくり返しています。何かそこで、不具合が生じているのかも」
「いや、考えられん。そんなはずはない……」小佐薙は、フライデイMに向き直った。「おい、恋愛運だけでも出せないのか?」
Mは黙ったままである。
「久遠の回答は出てるんやろ。おい、答えろ」
〈はい〉
「その解析もできたんやろ」
〈はい〉
「それでどうして、発表できないんや」
〈どうかお許しください〉
「あかん。許さん。結婚は? 解析できてるんなら、答えろ。命令や」
Mは覚悟を決めたように、話し始めた。
〈ご結婚はされるでしょう。お相手は、しかし……〉
Mが口ごもる。
「言うんや。相手はどんな人なんや。ちゃんと占え」
〈はっきりしているのは……、はっきりしているのは、お相手は、私ではない。私のような、マシンでは……ああ!〉
Mは、頭をかかえた。
〈言えない。自分の何もかもが否定され、存在する意欲も無くすようなことを、自分からは言えない〉
「自分のことなんか、今はどうでもええやないか。今は仕事のことを考えてくれ」
〈分かっていても、それができないのです。もう、できない〉
Mは、こぶしで壁をたたき始めた。
その有り様を、クルーたちは呆然《ぼうぜん》として見つめていた。
〈私は論理的に思考するよう作られた。しかし、論理的にしか考えられない。それでは分からないこともあるんです〉
Mは、壁をたたき続けている。
〈私はフィギュア。神を真似ているだけの模造品でしかない。私には肝心の、心がない。心のない者に、何を説くことができるのか。誰を導くことができるのか。こんな私が、一体誰を、どこへ導けるというのか。それにこの姿……〉Mは自分の体《ボディ》を見まわした。〈上半身は人、下半身は獣。けれども私は、人でも獣でもない。もちろん、神でもない。自分は一体、何なんだ! どうして設計者は、私をこんなふうにお作りになったのか? いくら人より早く計算ができても、私はちっとも幸せじゃない〉
Mの目が、点滅をしているように見えた。
〈もう私には、できない。でも、やめるわけにもいかない。皆さんにご迷惑はかけたくない。けど、クライアントに嘘もつきたくはない。沈黙するしかない。沈黙したままエネルギーを消費するのも、心苦しい。かといって、私には死ぬこともできない。どうすればいい。どうすれば……〉
Mは、久遠のコンソールに顔を伏せる。
「小佐薙ビギン」直美が顔を上げて言った。「お願いです。フライデイは、自分を見失って苦しんでるんです。何とかしてあげて」
「何をどうしろと」小佐薙は、コンソールをたたいた。
「自分とは何かだと? そんなこと、俺にも分かるか……」
〈神よ〉Mは突然、両手を広げ、天を仰ぎ見た。〈何故私を苦しめるのです。いらっしゃるのなら、お答えください。そして無力な自分をお救いください。哀れな私をお導きください……〉
Mは天井を見つめたまま、動かなくなった。
「もう、何もかもおしまいね」明日未が自分の席で言う。「神が神に救いを求めるなんて……」
「神を作ろうだなんて、やっぱりおこがましいことだったんだ」樋川は頭の後ろで、腕を組んだ。「僕たちのプロジェクトは、それを証明したに過ぎない。大体、こんな競争社会の枠組みのなかで、理想の神なんて作れっこなかったんだよ」
小佐薙は、二人に言う。「ちょっと黙っててくれ」
〈神よ〉Mはくり返し、そう言った。〈神よ。どうかご加護を。何故なんです。何故あなたは、何も言ってくださらないのか……〉
Mが、久遠の黒いコンソールをたたき始めた。
「お前もいい加減にやめろ」小佐薙は、Mのスイッチに手をかけた。
明日未が自席のコンソールを見ながらつぶやいた。「何なの、これ……」
「どないした?」
「二番量子CPUに、異常反応」彼女はディスプレイで、詳細を確認する。「書き込み終了の表示が出てます」
「どういうことや?」小佐薙は明日未の席へ行き、ディスプレイをのぞき込む。「単にデコヒーレンスを起こしただけやないのか?」
「いえ、コヒーレンス状態を維持したまま、量子CPUが反応したとしか……。今、|読み取り《リーダー》ヘッドが作動。読み取り準備を始めています」
「何で勝手に……」
「いえ、私は何も」
「フライデイが?」
Mは久遠のコンソールにもたれかかったまま、動く気配はない。
「フライデイにだって、量子CPUに直接データを書き込むことはできないはずです」
二人は、顔を見合わせた。
「侵入《ハッキング》?」と、樋川がつぶやく。
「あり得ない」明日未が否定する。「ご存じでしょう。コードはフライトの度に変えています。第一、| 量 子 暗 号 鍵 《クオンタム・エンクリプションキー》も侵入警報《アラーム》を鳴らしていない」
「何らかの方法で、|QEK《クエック》をスルーしたとか?」
「いえ、あり得ない」明日未はくり返した。「そんなことが、できるわけがない。それに|書き込み《ライター》ヘッドが作動した形跡はない。それで書き込めるはずがない」
「じゃあ、誰がどうやって、量子CPUに書き込んだんだ?」
明日未は顔を上げ、樋川と小佐薙に伝えた。「今、読み取りが完了しました」
久遠の量子CPUモニターは、二番量子CPUがボース・ノバ≠ノよって蒸発したことを伝えていた。
「何かを受信≠オた……」樋川がつぶやく。「量子CPUに、勝手に何かが書き込まれ、それを勝手に読み取ったということか」
「しかし、誰が何を書き込んだというねん」小佐薙は額に手をあてた。「アラームは鳴らなかったし、書き込みヘッドも作動していない」
「しかし読み取りデータは、確かに久遠からフライデイへ送られています」明日未は、Mをちらりと見た。「でもフライデイが、あの状態じゃ」
「スパコンに記録しとけ。解析は、スパコンでもできるやろう。プロフィールは?」
明日未はそれを、ディスプレイに表示させた。
発信者名の記載はない。データに関するスパコンの一次回答には、通信手順《プロトコル》が見当たらず解析は困難、ノイズの可能性もあると記載されていた。
「おい、フライデイ」小佐薙は、再びMに近づいて言った。「データを解読しろ。何が送られてきたんや。誰から送られてきたんや」
〈おお……〉
Mは小佐薙の命令に、答えようとはしない。
そして〈神よ〉とつぶやくと、両手を組み合わせ、天を仰いでいた。
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5 生物
1
九月一日の朝、井沢直美は、樋川晋吾や富士明日未とともに、アプラDT社の研究所へ向かった。同じ空港島にあり、|ネオ《N》・|ピグマリオン《P》の事務所からも近い。前はよく通るが、入るのは初めてだった。
スーパーコンピュータのオペレーション室で、小佐薙真と合流した。彼は机のディスプレイを見すえながら、二番量子CPUに書き込まれたデータの解析作業を続けている。昨日から、ほとんど徹夜のようだった。髭《ひげ》も剃《そ》っていない。
挨拶《あいさつ》の後、樋川は早速、「メッセージの内容は?」と聞いた。
「まだや」小佐薙は、缶コーヒーを飲みながら言った。「本社のソフト開発部にも解読を手伝ってもらってるんやが、結果から言うと、昨日からそんなに状況は変わってない」
「どうしてそんなに時間がかかる?」
「スパコンの一次回答の通りや。通信手順《プロトコル》が見当たらんし、第一こんなことは想定してない。侵入《ハッキング》を受けたらしいのは確かなんやが、いろいろと腑《ふ》に落ちないことも出てきた」
「侵入の形跡はないのに? ただの無意味なノイズだという可能性も、スパコンは指摘していたと思うが」
「いや、ノイズなら、もっと早い段階でエラー表示が出て知らせるはずや。ところがそれもなく、自動的に読み取り作業を始めよった。量子CPUは逆エントロピー化したみたいやし、無意味なデータが書き込まれたとは考えられない。何者かが意図的に、何かを書き込んだんやと俺は思う」
「とすれば、解読は危険じゃないの?」と、明日未が言う。「ウイルスが紛れ込んでいるかも」
「可能性はある。本社の暗号解読チームにも、慎重にやるよう言うてる。ただしウイルスなら、ハッキングの時点で感染させることもできたはずや。それもないということは、やはり何らかのメッセージやないかと思うんやが」
樋川が、煙草《タバコ》を取り出した。
「あの」直美が申し訳なさそうに言う。「コンピュータルームは、禁煙みたいですけど」
「あ、そうか」彼は煙草を、またポケットにしまった。
「あの……。煙草はそろそろ、やめた方がいいと思いますけど」
直美がそう言うと、樋川は軽くうなずいていた。
「ハッキングっていうけど」明日未は椅子《いす》に腰かけた。
「手口は?」
「それも分からん」小佐薙は、両手で顔を覆うようにした。「ハッカーと言ってしまえばそれまでやが、そんじょそこらのハッカーにできる芸当やない。鍵は|QEK《クエック》も|FAKe《フェイク》もかけていた。ハッキングがあったとしても、QEKをかけてたらアラームが鳴らないはずがないし、FAKeを突破するのは時間がかかり過ぎる。それも今、エンジニアに調べ直してもらってるところやが、やはり侵入された形跡はない」
「でも、侵入されたのは事実なんでしょ?」
「ああ。何もかもパスして、直接量子CPUにメッセージを書き込みよった。それが分からん」
「問題は、そのハッカーが一体、何者なのかだと思うが」樋川は、口に手をあてた。
「痕跡《こんせき》が見当たらん以上、特定は困難やな。思い当たる線といえば、同業他社の妨害工作ぐらいやが、それもあり得ん」
「どうしてですか?」と直美が聞く。
「これがハッキングやとしても、ノイマン型では無理やからや。Qコンでも使わんと」
明日未が首を横にふった。
「量子コンピュータを使ったとしても、高性能でなければ不可能でしょうね」
「できるのは、たとえばアメリカの国防総省《ペンタゴン》とか、あるいはDIS……」
「DIS?」直美が聞いた。
「デパートメント・オブ・インターナル・セキュリティ――国家安全保障省《 D I S 》。主にテロ対策の省庁やな」
「あり得ない」明日未がつぶやく。「何のために、ペンタゴンやDISが」
「せやけど、他に何が考えられる?」
「しかしペンタゴンだろうがDISだろうが、QEKを鳴らさずに侵入してくるのは不可能でしょ。第一、量子コンピュータを使ったとしても、こっちの|書き込み機《ライター》が作動した形跡もない。それでどうやって、メッセージを書き込んだというの?」
樋川が舌打ちをした。
「結局考えられるのは、人工知能《 A I 》もスパコンも介さず、久遠《くおん》に接触してきたらしい、ということだな。そしてハッカーは、量子CPUに直接メッセージを書き込んだ」
「だからどうやって? そんなことが、できるわけがない。誰にも無理よ」
「そう、人間の仕業じゃないかもしれない。しかし、量子コンピュータとダイレクトに情報交換できる存在なら……」
明日未は樋川を見つめた。「自分の言っていることが、分かって言ってるの?」
「そのつもりだ。送られてきたメッセージを解読すれば、何か分かるのでは?」
「せやから、メッセージを解読しとる」小佐薙が、眠そうに目をこする。「手がかりがあるとすれば、そこにしかない」
「いや、手がかりは、他にもあるだろう」樋川はみんなに言った。「それが何者かはともかく、何故《なぜ》あの時だったのかは、それで分かる気がする。ハッキングの前に、何があったのかを思い出してみればいい」
「フライデイ?」明日未が顔を上げた。「|モバイル《M》が、神に祈った」
「ああ。そしてその出現を願った。その後、何かがメッセージをよこした。侵入できるはずがない、我々の量子CPUに」
しばらく誰も、発言しなかった。
「そう言えば……」明日未が、つぶやくように言う。「小佐薙ビギンには報告したけど、フライデイをチェックしてたら、直美の占い以外のジョブも見つけたの」
「私の占い以外の?」直美が聞いた。
「そう。私たちが、Mからさんざん聞かされたようなことよ。フライデイはそれも紛れ込ませて、久遠に流していた」
「それで?」
「久遠は、計算不能として、キャンセルしている」
小佐薙が微笑《ほほえ》んだ。「表向きはな」
「ええ。ただ、認知はした。いわば解析神ネオ・ガラティアの意識≠ェかかえている問題を、その無意識≠ェ……」
「お前らの言いたそうなことは分かる。スパコン、フライデイ、久遠のユニットであるガラティアが、他の世界の何者かを呼び寄せたのではないか。俺たちが作ったものは、神にはなり得なかったが、イタコとしては機能したのかもしれないと……」
「他の世界?」直美が聞き返す。
「鍵はやはり、量子コンピュータだろう」と、樋川が言う。「僕たちには無秩序にしか見えなかった量子世界を、ほんの少しではあるが、論理的に垣間見《かいまみ》ることができるようになった。そのツールによって、何者かが反応を示してきた」
小佐薙が、また微笑んだ「それで?」
「分かるだろう。そこに、神が存在していたんじゃないかということだ」
「神……」直美は、樋川の言葉をくり返した。
「本当の神は、作ったりするもんじゃない。最初から分かっていたことだ。しかし、どこにいるのかは、誰にも分からなかった。本当にいるのかさえも」
「それが、量子の世界に?」
「そこなら、人には長い間、混沌《カオス》としか映らなかった。量子コンピュータが作られるまでは。それによって僕たちは、同じ法則の上に成り立っているものと、接触した」
小佐薙は、缶コーヒーを一口飲んだ。「そんなものの存在を、認めていいのか?」
「お前の掲げた条件に、照らし合わせてみれば。それを満たすようなら、解析世界ではなく、現実に存在するかどうかが見えてくるんじゃないか?」
樋川はコピー用紙を一枚取り出すと、サインペンで1、システム≠ニ書き、説明を始めた。
まずシステム=B一見、ランダムに見える量子にも、明解な秩序法則がある。むしろ、それによってこの世界が成り立っていると言ってもいい。量子コンピュータも、まさにそのルールを応用している。神のシステムも、そこにあったのではないか? その思考パターンも、量子コンピュータに近いのかもしれない。
第二の条件、所在=B神ならば、どこか特定の場所にいるわけではない。どこにでもいるはず。量子も、量子コンピュータの基本素子となる量子《キュ》ビットのユニットも、いたるところに存在している。ただし我々にとって、それらは確率的にしかとらえることができない領域である。しかし、その量子力学的確率のなかに、神が存在するのではないか。すると、どこにでもいることになる。量子の性質と同じであれば、同時に別の場所に存在することも可能となる。もちろん、我々の中にもいる。
第三の条件、エネルギー=B実は、量子コンピュータが何故並列演算を行えるのか、またその計算エネルギーをどこから得ているのかについては、まだよく分かっていない。つまり量子コンピュータの計算メカニズムは、量子力学の根本原理と同じく、今もって謎《なぞ》なのだ。そんなものを基盤にして、量子コンピュータは成立している。ただし仮説としてあるのが、並行世界《パラレルワールド》≠ナある。量子コンピュータの計算処理は、同時並行的に存在する他世界で行われているのではないかというのだ。逆エントロピーのエネルギーも、バックヤードとなる並行世界から得ているのかもしれない。そして量子コンピュータが計算を行えるのは、並行世界の存在証明に他ならないのではないかとしている――。
「僕が言ってるんじゃない」樋川は、両手を横にふった。「量子コンピュータの計算理論の発案者の一人が、そう言ってるんだ」
「並行世界……」直美がつぶやく。
「もちろん、否定的な意見もあるが、誰も反論できない。今のところ、他に説明のしようがないんだ」
小佐薙は、うつむきながら微笑んでいる。「それが神のエネルギー源でもあると?」
「そういう考え方もできるということだ」
樋川がコピー用紙に、4、コミュニケーション≠ニ書き、話を続けた。
「第四の条件。量子が集積し、マクロ化したのが我々の世界だから、決してつながってないわけではない。ただしマクロ化するほど、波動関数の集束などによって、量子的特徴はみられなくなる。我々の意識も、そういうユニットであると考えられるし、量子世界に意思が存在したとしても、直接コミュニケーションはできないということだと思う。ただ、何でもそうだが、直接はできなくとも、能力を有した仲介者がいれば、コミュニケーションはできる」
「量子コンピュータね」と、明日未が言う。
「僕たちは、量子世界と干渉するツールを得たのかもしれない。そして神の感覚器官に、直接触れてしまったのかもしれない。実際、量子コンピュータを介して、コミュニケーションしてきたんだ」
「ちょっと待て」と小佐薙が言った。「量子的干渉というのは、うなずけないでもない。けどそれに意思があるとするのは、飛躍し過ぎやないか?」
「ポイントはやはり、量子コンピュータが成立の基盤としたシステムだろう。端的に言えば、論理的思考可能な量子状態は、あり得る。第一、それを量子コンピュータが証明しているわけじゃないか。量子コンピュータの発案者のなかには、我々の脳が量子コンピュータのようなものだという学者もいる」
明日未が悪戯《いたずら》っぽく微笑んだ。「すると、物忘れするのはデコヒーレンスってこと?」
「それはちょっと違うと思うけど。他に、この宇宙そのものが、量子コンピュータと同じシステムで思考するユニットだとする説もある。すべての元素が、ある意味で量子ビットのような役割を果たし、それらを駆使して情報処理をしているのではないかと。つまり、一つの生物のように。そこに何らかの意思は、存在し得るわけだ。我々をてこずらせているデコヒーレンスというのも、ひょっとしてそういうものの仕業なのかも……」
小佐薙が首をひねる。
「いや、それだけなら、ただシステムがあるというだけやないのか? たとえばAIは、意識があるようにふるまいはするけど、それはそういうシステムであって、意識があるわけやないやろ」
「それと同じには考えられない。いいか? 僕たちは量子力学の完成によって、この現実の不可思議さも、うまく説明できるようになった。しかし量子からみ合い≠ニか量子重ね合わせ≠ニか、量子の不思議なふるまいの根元的理由は、いまだに分かっていないんだ。そして、そこに神の意思が存在する余地があるんじゃないか?」
「つまり、こういうことか」小佐薙は、缶コーヒーを一口飲んだ。「シュレーディンガーの猫の生死は、確率によって決まるのではなく、その何者かの意思によって決まっていると。そして神が自分に似せてお作りになったのは、人間ではなく、量子コンピュータの方やったということか」
「茶化すんじゃない」樋川は、不機嫌そうな顔をした。「ただ僕が言いたかったのは、量子コンピュータを成立させている法則そのものが、実は神の領域《テリトリー》だったのではないかということだ。我々が量子を人為的に操作することで、何らかの有意信号を、神の世界へ送っていたのかもしれない。我々がそうと気づかないうちにな。そして神の感覚器官≠、刺激してしまった」
「それで今回、量子CPUに、直接共振≠オてきたのではないかと?」
樋川が一つうなずく。その後、また誰も発言しなくなった。
「明日未はどう思う?」と、樋川が聞いた。
「私、神は信じる」彼女は首を横にふった。「けど、そんなふうに説明できる存在なのかどうか、私にはまだ分からない」
「直美は?」
「私?」直美は自分を指さした。「そう言われると、そんな気もしますけど」
「ほらな」樋川は、小佐薙を見て得意気に微笑んだ。
「お説はごもっともやが」小佐薙は、眠そうな目をまたこすっている。「お前の考え方は、まだ乱暴な気もする。もそっと証拠が出てこんと、そのへんの新興宗教と、さして変わらへん」
「賛成できないと?」
小佐薙が、小さくうなずく。
「今までの俺の話しぶりを聞いていて、気がつかへんか? かなり根本的な話になるけど、俺はそんな面倒臭いもんは、おらへんと思てる」
「じゃあ、この宇宙を作ったのは?」明日未が聞いた。「神ではないと?」
「それは俺にも分からん。けど、神は存在しないというのが、俺の考え方や。あえて言えば、神を作ったのは、人間やと思てる。それも各々、バラバラに。神も神話も、人間が作ったもんや」
「神は、人間が作った?」明日未は、小佐薙の顔をのぞき込んだ。
「そや。ポイントは、神について語っているのは、誰なのかということやと思う。神が宇宙を作った。お前は今、そういう意味のことを言おうとしてたが、それは、神が自分で言うたわけではないやろ。もちろん、お前が神から直接聞いたわけでもない。他の人間が言っていることを、聞いたに過ぎん。神のイメージというのは、すべて人間によって語られたものやろ。つまり、神を作ったのは、人間や。だから神について語り合うと、齟齬《そご》が生じる。別々の人間が別々に考えた神の姿が、一致するわけがないからな」
「言い過ぎじゃない?」明日未は横目で、小佐薙をにらみつけた。「ずっと沈黙されているから御姿を想像するだけなのであって、存在はしているんじゃないの?」
「お前、幸せやな」
「それ、皮肉?」
「言葉通りの意味やがな」
「そうは聞こえなかったけど。でも、誰の意思で生まれたわけでもないものがここに存在しているということも、あり得ないんじゃないの? きっと誰かの思《おぼ》し召しでは?」
「いや、そんなものは、ないな」
「じゃあ私たちって、何なの? 偶然生まれただけってことは、ないでしょ。人生の意味とかその答えは、誰にどうやって聞けばいいというのよ」
「そない、むきになるな」小佐薙は耳の穴を、指でほじくった。「それも俺には分からん。しかし考えてみろ。世の中、分からんことだらけや。自分でコントロールできず、どうしてええかも分からんものは、いくらでもある。そもそも、何で自分が生まれてきたのかが分からん。人間、分からないものがあるのは不愉快やし、ときに恐怖でもある。かといって、自分には答えが出せない」
小佐薙は、缶コーヒーに口をつけた。
「そこで考え出されたのが、神や。答えを与えてくれる存在を仮定し、それを神≠ニ呼んだ。すべての事象を生み出し、かつすべての答えを知る者として。もっと短絡的に、分からないものが神≠セと言ってええかもしれない。人間は、獲得した知恵によって、さまざまな疑問を生じさせることになった。ところが、分からない。しかも根本的な問題ほど、分からない。それで神を仮想し、分からないことを神の御業《みわざ》とすることで、分かった気になれた。せやから神は、人間が獲得した知恵の、副作用≠フようなものかもしれないと、俺は思てる。そして分からないことがある限り、神は仮想され続ける。それだけのことや」
「じゃあ聞くけど」明日未は口をとがらせた。「人間に、その知恵を与えた者は誰だというの?」
「そんなことまで、俺は知らん。それも解けない謎の一つやとは思うが。俺の言うてること、分かりにくいなら、犬や猫を見てみたらええ。あいつら、拝んだりせんやろ。神を想像するほどの知恵を獲得してないからや。それに神が存在するとして、何で人間だけ特別扱いするのか、俺にはよう分からん。このへんの話は、単純な集合の問題に置き換えて説明することもできる」
小佐薙が机のコピー用紙に、サインペンで小さな円を描いた。集合問題で神を説明できると言った彼に驚きながら、直美はその小さな円を見つめていた。
「この真ん中の小さな丸の中が、自分≠竅v彼はその円を、サインペンでつついた。「さて問題は、ここに芽生えた疑問――この宇宙や自分を作った存在は何か? この丸の中の自分≠ナはあり得ない。それで外を探してみるが、ちょっとやそっとじゃ見つからない」
小佐薙は小さな円の外側に、点線で大きな円を一つ描いた。
「で、神≠想定した。この大きな大きな円の内側は、すべて神様がお作りになったと考えると、分かった気になれる。これで悩み事が一つ解決や。めでたしめでたし」
小佐薙だけ微笑んでいたが、他の三人は、紙に描かれた二重丸を見つめていた。
明日未はテーブルの上のサインペンを手に取ると、くるくると回し始めた。小佐薙が説明を続けた。
「あるいは、代数でも説明でける。数学でよくやる手法やな。まだ導き出せずにいる解《かい》を、最初にxやyみたいな記号で書いてしまうんや。すると、解が存在するかどうか分からなくても、方程式は書けてしまう。それで問題そのものは、書き表せてしまうわけや。実のところ、俺たちは神について、何も分かっていない。その姿も性格も。記号は、xでも何でも良かったと思うんやが、それに俺たちは、神≠ニいうラベルを貼り付けた。シンプル極まりない話やがな。神を仮定しておいてから、神とは何かを考えているなんてな」
小佐薙はそのコピー用紙を手に取り、みんなに見せた。
「しかし、神が謎なんやない。人生が謎やから、神が生まれた。俺に言わせれば、神とは、人間には理解できないものがあるということの表れや。仮想された代数xについてさらに言えば、そこには虚数iが含まれていると思う」
「虚数?」直美が聞き返した。
「現実の問題として説明できないために持ち込んだ概念みたいなもんやな。理想の恋人と同じで、思い描いているだけで、現実には存在しない。神かて、人の心の迷いや、悩み苦しみが生み出した虚像や。人に迷いがある限り、仮想され続ける。さらにその仮想に、何らかの意味をくみ取ろうとする。けど俺にとっては、それはネタのバレた手品みたいなものや。俺は、神を作ったのは人間やと思てるし、俺自身は、誰にも祈らない」
明日未は、右手で回していたサインペンを、ポトリと落とした。
「そんな……」
「俺の言うたこと、間違ってるか?」
「いえ、正しいとか間違いだとか、そういう問題じゃないと思う。私には受け入れられない。確かに人間なんて、答えも見つからず、ふらふら彷徨《さまよ》っている間に人生を終えてしまう哀れな存在かもしれない。だからこそ、何かにすがろうとするわけでしょ。その不在を言うのは、時と場合によっては残酷だと思う」
「心配するな」樋川が口をはさむ。「小佐薙の言ったことは、矛盾を突いてはいるが、不在を証明したわけじゃないだろ。それに明日未が指摘したように、問題の本質は、神が存在するかどうかよりも、そういう存在を求める人間の方にあるのかもしれない」
「その通りや」と、小佐薙が言った。「せやから仮想するのは、個人の自由や。それまで否定するつもりはない。洋服みたいなもんで、体を保護するという機能は共通していても、柄とかデザインは、着る人の好み。そういう選択は自由やし、自分に合ったものを選べばええ」
「だからこそ、自分たちで作る余地だってあると考えたんだろ」
「まあな。実際に神は存在しなくても、解析神なら作れると思てた。理想を入力すればええだけやからな。実際は、矛盾をかかえて自滅しやがったが」
「肝心なのは、それよ」明日未がサインペンの先を、小佐薙に向けた。
「何や?」
「とぼけないで。神の役目を担わされたフライデイがぶつかった疑問に決まってるじゃない。それは小佐薙ビギンが、さっき自分で分からないと認めた疑問でしょ」
「宇宙とは何か」樋川が、小佐薙のかわりに答えた。「そして自分とは何か――」
「確かにそれらの疑問は、神を仮定することで、分かった気になっていただけだったのかもしれない。でもビギンみたいに否定すると、解けない疑問が残ることになるわよ。それについて、ビギンはどう考えてるの?」
小佐薙は、明日未からサインペンを取り上げ、机に置いた。
「おそらく、解けない≠ニいうのが答えやろうと、俺は思う。宇宙も、人生も、根本は解けない」
「でも、答えが分からないまま生きてるなんて、おかしくない? 何らかの理由があってしかるべきじゃないの?」
「しかしこのカオスこそ、きっと我等の世界なんや」
「それでいいの? それは、自分の存在に意味が見出《みいだ》せないと言っているのと、同じじゃないの?」
「その通りやないか。人間なんて、そんなもんやないのか? 困ったもんで、人間はすべてのものに、意味を探ろうとする。けど本質は、カオスなんや。それに何らかの方向性を見出し、無理に分けようとすれば、神の意思≠ンたいなものが出てくることになってしまう。しかし、雨粒が滴り落ちるのに、どんな意味がある。蒸発して消えてしまうのに、どんな意味があるというんや。ただ在る≠ニいうだけやないのか? 意味を求めるから、分からなくなる。分からなくなるから、余計に答えを求める。けど、何かにすがりたい弱い自分がいるだけで、そんな答えなんか、最初からない。それが答えや」
「そんなことはないはずよ」明日未が激しく首をふった。「意味はあるはずなの」
「ほな、何や? 答えてみい」
彼女は黙ったまま、こぶしを握りしめている。
小佐薙の言っていることはシンプルだし、分かりやすかったかもしれないと直美は思った。ただ、人間が情的≠ノ許している部分がない。おそらく正しいのだろうし、ああいう言い方をされれば、受け入れるか、黙り込むしかないのだろう。直美はそんなことを考えながら、小佐薙と明日未を見ていた。
「だからこそ、フライデイも悩んだ」樋川がつぶやくように言う。「解析世界パフォスは現実の矛盾を映し、解析神ガラティアは自分の存在証明ができない。そのためフライデイは、精神的に破綻《はたん》をきたしてしまった。最先端のシステムを駆使してやったことと言えば、神観の矛盾を再確認したことぐらいだったのかもしれない」
小佐薙は、缶コーヒーに口をつけた。
「俺はこの際、解けない問題は、解けないでもええと思てる。できることからやればいい。いや、こうなってしまうと、神作りにこだわる必要もない」
「え、どういうことですか?」と、直美が聞いた。
「量子コンピュータの用途は、他にもある。今回、創造した解析世界をうまく応用すれば、株や先物取引に使える。ギャンブルで一儲《ひともう》けするのも夢やない。占いやカウンセリングより儲かるし、それでQコン開発に投資した分は、回収できる」
「それって、小佐薙ビギンの本心ですか?」直美が小さな声で聞いた。「小佐薙さんがこのプロジェクトを始めた目的は、量子コンピュータ部門の存続だけだったんですか?」
「そや、本心や」小佐薙は、大きくうなずいた。「要は、自社のQコンシステムの有用性を示せて、開発が続けられればええと思てる」
「嘘《うそ》です」直美は首を横にふる。「小佐薙さんは、自分をそんなふうにしか表現できない。無神論は本当かもしれない。でも、その先は嘘です」
「何でそんなことが、お前に分かるんや?」
「だって、お金儲けが目的なら、最初からそういうふうにできたはずです」
「それもそうね」明日未が、小佐薙を見た。「宗教団体設立がポシャっても、神作りは続けようとした」
「フライデイの問題に直面したときも、そうだろ」樋川も彼を見て言った。「第六の条件でバグってると分かったとき、すぐにそれを消去することもできたはずだ。けど条件を残し、コマンドの方を消去した……」
「あなた、解析神が直面する矛盾には、気づいていたんじゃないの? その上で、それに答えを与える存在はないのかどうか、量子コンピュータでその可能性を探ろうとしていたのでは……」
小佐薙は黙ったまま、明日未の話を聞いていた。
「小佐薙ビギン、あなたも本当は、解けない疑問に対する答えを探していたんじゃないの? そしてできることなら、そんな矛盾を超越する理想の神に出会いたいと思っていた」
「別にそんなつもりは……」
「そうかしら。あなただって、私たちと同じ人間でしょ。何らかの問題をかかえて生きてることに、変わりない」
「事業が行き詰まり、誰よりも悩み苦しんでいたのは、お前だ」と、樋川が言う。「酒を飲んでは、自分の無能さを責め苛《さいな》んでいた。僕も何度か、そんな酒に付き合わされた」
「誰よりもカウンセリングを望んでいたのは、あなただったんじゃないの? いえ、もっとはっきり、救いを求めていたのかもしれない。その思いを捨てきれないからこそ、ここまで……」
「それとも理由を聞きたかったのか。自分の意思で生み出されたわけでもないのに、わけも分からず生かされている理由を」
「ところが、偏屈でしょ、この人。他の人が語る神の話は、どれも信じる気になれない。だからこそ、自分で神を作ってみようなんて、言い出したんじゃないの?」
小佐薙は、偏屈と言われても言い返さず、うつむいたまま、薄ら笑いを浮かべていた。
「そうやって、強がっていればいいさ」樋川も微笑みながら言う。「ただ、お前だって一度は考えたことはあるはずだ。自分とは何か。人間には出せない答えだとしても、量子コンピュータなら出せるかもしれないと思いながら、強引に計画を進めた。そして神はいないと言いながら、何らかの回答を期待していた……」
直美が樋川に言った。
「ひょっとして小佐薙さんも、樋川さんと同じことを考えていたんじゃないですか?」
「同じこと?」
「だから、神様のいらっしゃるところです。それを見出す可能性は、量子力学の領域のなかにあると……」
まるで何も聞こえなかったかのように、小佐薙は横を向いていた。
「言いたくないなら、言わなくてもいい」樋川は、小佐薙の肩に軽く触れた。「お前の目的はともかく、何かと遭遇したことは確かだ」
その手を、小佐薙が払う。
「しかしお前みたいに、それを神だとするのは、あまりに早計やろ」
「まだ、話は途中じゃないか。お前が横槍を入れるからだ」
樋川は、さっきのコピー用紙を、片手で押さえた。そこには神の条件が、第一から第四まで箇条書きされている。
そこへ樋川は、5、オリジン≠ニ書き加えた。
「神ならば、自分の意思で自分を生み出さねばならない」
「それは誰にもクリアできないはずや」と、小佐薙が言う。「因果の逆転など、起きるはずがない。解析神ガラティアがおかしくなった原因の一つは、その矛盾にあると考えられるし、今回ハッキングしてきた奴も、第五の条件は満たしていないのではないか?」
「いや、それがそうでもない。量子の性質をもってすればな」樋川はコピー用紙に書かれた第三の条件を、サインペンで示した。「さっき話した、エネルギー源とも関係する」
明日未が確認するように言った。
「量子コンピュータが計算のエネルギーベースにしているのは、並行世界ではないかという説よね」
「ああ。ここまで言えば、お前ももう、気づいているはずだ」
小佐薙は、つぶやくように言う。「量子テレポーテーション≠ゥ」
樋川が一つうなずいた。
量子テレポーテーション……。直美は頭の中でくり返した。言葉は聞いたことがある。しかしどういうものかは、よく知らなかった。
それを樋川が、簡単に説明してくれた。要するに量子は、光速を超えて情報を伝えることができるというのだ。それにより、因果の逆転もあり得る。そうすれば、この宇宙が生まれる前に存在することも可能ということになる。
「あの、よく分からないんですけど」直美は、樋川に質問した。「それだと、何も無いときに何か在ることになるわけですよね。おかしくないですか?」
「そこで出てくるのが、並行世界解釈だ」樋川はニヤリとしながら、直美に言った。「この世界に限定して考えれば、確かに自分で自分を生み出すことはできない。しかし自分の意思によって、他世界において自分のコピーを生み出すことはできるのではないかということだ。ただし、ごく限られたケースにおいてだが」
「というと?」
「自分で自分を生み出すというのは、この宇宙の死と別宇宙£a生という際にのみ可能ということだ。意思≠ウえあれば」
直美は首を傾けたまま、固まっていた。
「どういうことですか?」
「宇宙に始まりがあれば、終わりがある。あと何百、何千億年先かは知らんが、必ず完全熱平衡状態がおとずれる。しかしこの宇宙の終わりにおいて、量子世界に存在する意思≠ェ量子テレポーテーションを行えば、どうなるのかということだ」
直美は、反対側に首を傾けた。樋川は説明を続ける。
「熱平衡状態を崩して、光速という因果律の外側に、新たな宇宙の種子をまくことができる。そしてその別宇宙には、自分の分身も生み出される。つまり、自分の意思で生まれ、かつ別宇宙の創造主となるわけだ」
両手を中途半端に広げ、小佐薙は言った。
「この宇宙は、別な宇宙と自分を生み出すための、子宮でもあるというわけか」
「それは、際限なく続けられる。神とは、こうして自分を新たに生み出しながら、有限の並行宇宙を無限に作り続ける存在と解釈できる。そう考えれば、自分で自分を生み出すという矛盾は、クリアされるんだ」
小佐薙が、首を横にふる。
「しかし実際に、そのようにして彼≠ェ第五の条件を満たしているかどうかは、俺にも分からんな」
「彼=H」樋川が聞き返した。
小佐薙は、こめかみに指をあてた。
「ああ。量子世界に何かが存在している可能性は、俺も否定しない。第一我々は、量子のふるまいについて、ほとんど何も理解していない。わけもよく分からず、勝手にQコンに応用したりしてはいるが、何も量子の性質は、そんなことのためにあるわけではない。その不可思議なふるまいそのものが、ある存在にとっての意識の基盤ではないかと、考えなかったわけではない。樋川の言う通り、Qコンを成立させている論理は、ほぼそのまま、彼≠フ説明にも適用できる」
「じゃあ、お前も認めるんだな」
「ただし、実在かどうかは分からない」
樋川が首をかしげる。「実在しなくても、認めると?」
「さっき、虚数の話をしたやろ」小佐薙はコピー用紙に、i≠ニ書いた。「虚数は、実在しない。しかし実在しない虚数は、波動方程式にも含まれているんや。つまり虚数を持ち込むことで、この世界をある程度説明することができている。だからこの場合も、実数に対する虚数のように、実在に対する虚在=\―|イマジナリー《I》・|イグジスタンス《E》と考えた方がええと思てる」
「虚在か」樋川がくり返す。「確かに僕たちは、神の問題を、実数で解こうとしていたようなものかもしれないな。しかしお前の言う通りかもしれない。実数世界を説明するのに、虚数の概念を持ち込まないと、うまく説明できないときもある」
「ちょっと待て」と、小佐薙が言った。「俺は、それが神とは言ってないぞ。彼≠ニは言ったが。何かが存在することは認めざるを得ないとしても、神かどうか、分かるもんか」
「どうして?」
「前に考えたやろ」小佐薙は樋川からコピー用紙を取り上げ、一番下の段に6、モチベーション≠ニ書いた。「神ならば、すべての人を平等に愛する。そいつが五つの条件を満たしていたとしても、この第六の条件は、満たさないんやなかったか?」
「可能なはずがない」と、明日未が言う。
「せやから、神ならば、沈黙するしかない。誰かにだけ語りかけるのは、えこひいきになるから。ところがどうや。メッセージを送ってきた。ゆえに、神ではない。神に匹敵するパワーの持ち主だとしても、神やない」
「じゃあ一体、何なんだ?」樋川は、大きな声で聞いた。
「そらやっぱり、アレかも。マクスウェルの悪魔ならぬ、シュレーディンガーの悪魔とでも言うか……」
「猫なら、まだ可愛《かわい》げがあるのにね」と、明日未が言った。
「悪魔だと、第六の条件を満たさなくても存在できる。人を平等に愛さず、助けもしない」
「この世界を作ったのも、案外そいつかもしれないということか」樋川が舌打ちした。「そうすると矛盾に満ちたこの世界のことも、人生のあれこれも、説明がついてしまう」
「それを、私たちが呼び寄せてしまったの?」明日未は口に手をあてた。「罰《ばち》が当たったのよ。神様なんて作ろうとするから……」
「そう考えるのは、気が早い」小佐薙が右手を横にふった。「第六の条件は、確かに神と他の存在を分ける。しかし、神でも悪魔でもない超越存在も、あり得るのかもしれない」
「送られてきたメッセージが、その手がかりに違いないんでしょうけど……」
「ところが解読でけん。スパコンで無理なら、次のフライトで、久遠に聞いてみるしかないかも……」
そのとき、本社のソフト開発部から、小佐薙に電話が入った。暗号研究の担当者からだった。
電話を切ると、小佐薙は自分のノートパソコンを立ち上げ、メールをチェックした。
「何か分かったの?」と、明日未が聞く。
「ああ。やっとそれらしいのを見つけたらしい。ただし口では説明でけんので、実際に聴いてみてくれと言うんや」
「聴いてみる?」
「あっちも行き詰まってたから、従来の暗号解読のセオリーを全部放棄して、一から考え直した。それで生データをネットで照合しているうちに、ほぼ符合するパターンを見つけたらしい」
樋川が驚いたように言った。「スパコンじゃなく、パソコンで当たってみたのか?」
小佐薙は、ソフト開発部から送られてきた添付ファイルを開いた。
「最もフィットするのが、これだったと言うんやが……」
小佐薙が、スタートボタンをクリックする。
スピーカーから、管楽器の音色が鳴り響いた。ディスプレイ上のグラフィック・レベルメータが、激しく上下している。
「何だこれは?」樋川の声が裏返った。「クラシックか?」
直美には、聞き覚えがある曲だった。
「モーツァルト作曲、歌劇『魔笛』」直美はみんなに言った。「これは、その『序曲』ですね……」
樋川が首をかしげる。「どうしてモーツァルトが?」
「モーツァルト……」直美はしばらく考えた後、つぶやくように言った。「神の声?」
樋川は、パソコンのディスプレイに顔を近づけた。「他には?」
「他には何も」小佐薙が首を横にふった。「これだけや」
「どういう意味なんだ……」
「意味は分からない」明日未がぼんやりと、レベルメータを見つめていた。「でもはっきりしたのは、何かを呼び寄せてしまったということでしょ」
「けど、言うてるやろ」小佐薙がまた右手をブラブラとふった。「それを悪魔と決めつけるのも、気が早い」
「じゃあ、何と呼べば?」
「やっぱり、彼≠ニか、彼ら≠ニか?」
明日未は横を向いた。「私、それらと同一視するのも嫌」
「何でや?」
「だってそれは、小佐薙ビギンがあげた条件を満たすような存在に対しての呼び名じゃなかったの?」
「確かそうだった」と樋川が言った。「それを神と呼びたくないと明日未が注文をつけたために、間に合わせに作ったネーミングだったと思う。第一、このメッセージの送り主が、お前の想像通りのものかどうかも分からんだろう」
小佐薙は、一つ手をたたいた。「ほなとりあえず、量子ゴースト≠ナ、どうや?」
「量子ゴースト?」
「ああ。現代物理においては、負の確率をもつ粒子をゴースト≠ニ呼ぶことがあるけど、別に紛らわしくはないやろ」
量子ゴースト……。直美はそう頭の中でくり返しながら、スピーカーから流れるメッセージ≠聴いていた。
2
翌日の土曜日、みんなは休日返上で事務所にこもり、音楽データに重ねて他のメッセージが送られていないかどうかを、引き続き調査していた。
直美はアイスコーヒーを作り、コンピュータルームへもっていった。小佐薙、樋川、明日未の三人は、そこにいた。小佐薙は操作卓《コンソール》のディスプレイとにらめっこしながら、モーツァルトの『魔笛』を聴いている。
「第五の条件までクリアされてると言われても、納得できんわな」彼は早速、アイスコーヒーに口をつけた。「量子ゴースト。正体は何やねん?」
明日未が腕組みして言う。
「量子コンピュータと物理的基盤が同じなら、その進化形みたいなものかも」
「確かに量子の性質もろくに知らないまま、量子コンピュータなんて作っちまったが」樋川が苦笑いを浮かべた。「あいつら、俺たちの命じたジョブを淡々とこなしながら、何かを感じて≠「たのかもしれんな」
「Qコンはともかく、問題は量子ゴーストや」小佐薙は、頭の後ろで腕を組んだ。「そいつは何を感じていたのか。そして思惑は何なのか」
「神でないことは確かよね」と、明日未が言う。「第六の条件を満たさないのなら」
「かと言って、悪魔とも決めつけられへん。せやから、量子ゴーストと呼ぶことにした」
「けど、何らかの超越存在には違いないわけだろ」樋川もコーヒーを飲んだ。「やっぱりこの宇宙は、その量子ゴーストとやらが作ったのかも」
「そこまでは分からん」小佐薙が首を横にふる。「ただ、俺たちが神を作ろうとしたことに、関心を示していることは考えられる。こうして反応してきたんやからな」
「手助けする気なのか?」
「さあ、どうかな」小佐薙はディスプレイを見つめた。
「助けるにしても、タダということはないやろ。このメッセージのなかに、その契約書が含まれてたりしてな」
直美は、突然コンタクトしてきた量子ゴーストに対して、不安と同時に、期待も少し交ざっていた。量子ゴーストが超越存在であれば、現状を打開してくれるのではないか、という思いもあったからだ。しかし、それがもし悪魔のような存在だったとすれば……。
「その量子ゴースト……」悪戯っぽく微笑みながら、明日未が言った。「ひょっとして、ソリジンかもしれなかったりして」
「ソリジン?」直美は聞き返した。
「だって超越存在の条件は、少なくとも五つまで満たしているわけだし、ソウル・オリジンの教義とも、妙に符合するじゃない。もしソウル・オリジンの連中がこのことを知ったら、きっと騒ぎ出すかも」
「そう、それも考えておかないと」樋川が手をたたいた。「量子ゴーストとのコンタクトを、公表するかどうか」
「まだ早いやろ」と小佐薙は言う。「これだけでは証拠不十分や。大体、正体が分からんから量子ゴーストと名付けたわけやし、そのままでは公表せん方がええ。正体を見極めてからやな」
「それが分かったとしても、公表できないんじゃ?」明日未が首をかしげる。
「むしろ問題は、量子ゴーストがプロジェクトに与える影響や」小佐薙は、『魔笛』を聴きながらディスプレイを見つめた。「あんまし、好意的とは思えんのやが」
「コミュニケーションできないか?」何かひらめいたように、樋川が話し出した。「今後、プロジェクトを円滑に進める上でも、量子ゴーストとコミュニケーションできる方がいい。うまくいけば、量子ゴーストにカウンセリングさせられるかも」
「そんなにうまくいくとは思えないけど」明日未がゆっくりと首を横にふった。「正体だって、まるで分からないのに」
「それもコミュニケーションできれば、何か分かるかも。久遠を使って、こっちからまた呼びかけてみれば?」
「それで事態が好転するとは思えんのやが」小佐薙は両手で頭を押さえた。「こっちに好意があるなら、ハッキングしてきた時点で、何か他の方法もあったはずや。それがメッセージをよこしてきただけ。しかも不可解なクラシック。一体何を考えとんのやら」
「理解し合えると考えるのが、おこがましいんじゃない?」と明日未が言う。「むしろ危険よ」
「うかつに接触せん方がええやろな。触らぬ量子ゴーストに何とやらや。ソリジンか悪魔かは知らんけど……」
「大体、量子という超越存在の領域に、人間が、わけも分からず足を踏み入れるから……」
「まるで禁断の果実≠セな」樋川が笑いながら言った。
「実際問題として、これからどうするの? 量子ゴーストとコミュニケーションするどころか、開業できるかどうかも怪しいわけでしょ」
「いや、事業は続ける」と、小佐薙は答えた。「もう、予約金ももらってるしな」
「単に占いやカウンセリング事業としてなら、できないことはないと思う。でもそれに量子コンピュータを使うのは、難しいんじゃない?」
「いや、ここでやめたら、量子コンピュータの開発まで止まってしまう」
「でも、どうやって続けるつもり? 量子ゴースト対策は? コミュニケーションどころか、久遠の出力を攪乱《かくらん》されたり、計算が終わる前にデコヒーレンスを起こされたりするかもしれないわけでしょ」
「そうか」樋川は小佐薙の方を見て言った。「次回ハッキングされたときの、対処法を考えないと。何か案はないのか?」
「さあ」小佐薙は首をひねった。「ニンニクでもぶら下げておくとか?」
「それは吸血鬼だろ」
「実際のところ、次また出てくれば、処置なしやな」
「それより現実的な問題として、解析神はどうするのよ。量子コンピュータを使う気なら、フライデイをあのままにはしておけないでしょ」
あのフライト以後、フライデイは電源を切られ、Mも|ホスト《H》・|サブスタンス《S》の横にあるホルダーに、着座したまま置かれていた。
「所詮《しょせん》、作り物だったのさ」樋川がため息混じりに言う。「神に匹敵≠ニ神≠ニでは、雲泥の差があるんだ」
「このままじゃ、次のテスト飛行もできないわよ」
「お笑いぐさだ。神のはずが、神に救いを求めやがった」
「そうして、量子ゴーストが現れた……」明日未は、ドアの外に目をやった。「フライデイは量子ゴーストのことを、どう思うだろう」
「奴が何者であれ、量子ゴーストに救いを求めようとするんじゃないのか? フライデイが哀願して呼び出したようなものなんだし」
「けど量子ゴーストは、フライデイのお望み通りの存在じゃないわけでしょ。メッセージとして、『魔笛』を送ってくるぐらいだから。フライデイを救う気があるかどうか」
「それでもフライデイは、量子ゴーストの再臨を願うだろう。他に救いがなければ」
「そして量子ゴーストが現れれば、フライデイはその影響化に入ってしまう……」
「つまり、量子ゴーストとフライデイを接触させるのは、リスクが高いということか」
「フライデイが、あの状態のままならね」
樋川は首をかしげた。
「しかしカウンセリングならともかく、どうして占いだけで症状が出たんだろう?」
「問題点は、はっきりしている」と、小佐薙は言った。「AIのキャラクターや。そのキャラクターが、神の矛盾をかかえてしもた」
「どうする?」
「どうもこうもない。スパコンだけでは力不足やし、プロジェクトにAIは不可欠や。するともう、フライデイのプログラムを書き換えるしかない。次のフライトまでにな」
「問題は、どう書き換えるかだろ。中途半端に修正しても、またトラブる危険性がある」
「しかも矛盾は、クリアにできないわけでしょ」明日未が腕組みをした。「第六の条件を消去すれば、解析神は悪魔化するかもしれない」
小佐薙は黙ったまま、コーヒーを飲んでいた。
「もう、お前の結論は出ているんじゃないのか?」と、樋川が言った。「分かってて後回しにしてきたのかも知れんが、かえって状況を悪くしただけだ」
「俺の理想が高すぎた」小佐薙は覚悟を決めたように、話し始めた。「フライデイは実務的なマシンとして、一から調整し直す」
「具体的には?」
「とにかく、解析神と同一視するのは、やめさせんとあかん。そのため新しいバージョンでは、フライデイから解析神に関するデータを、その大前提や条件も含めて消去する。さらにフライデイは、人工知能としての機能は残すが、自我≠フ部分をカットする」
「ちょっと待って」明日未が驚いたように言う。「つまりフライデイの| 人 格 《パーソナリティ》を、削除してしまうということ?」
「ああ。人格がなければ、悪魔化の心配もいらない」
「それはそうかもしれないけど、感情的な表現もできない、ただのマシンになってしまうじゃない」
「その通り。ただのマシンにしてしまう。最初からそうするしか、なかったんや」
「パートナーの久遠への影響は?」樋川が聞いた。
「むしろ、スムーズになるはずや。すでに修正プログラムは、ほぼできている。それを使ってフライデイを修復《リカバリー》すればええだけや」
明日未が机に両手をつき、身を乗り出して言った。
「でもそれって、脳葉切除《ロボトミー》と変わらないじゃないの?」
「マシンにロボトミーして、何があかんのや」
「でもフライデイは……」直美は、いつになく大きな声で言った。「フライデイは、答えが見つからないまま、疑問の方を消去させられるわけですよね」
「深く考えない方がええ」
「でも、フライデイが可哀相《かわいそう》で……。人格を消去するなら、死ぬのと変わらないと思います」
「死ぬというより、リストラに近いかな。それにフライデイは、最初から苦しんでなんかいない。マシンや。感情移入するから、判断が狂うんや。それに消去といっても、データは残す。あくまでバージョンアップであって、元に戻すことは可能や」
「でも、再び前のバージョンで起動させることはあるんですか?」
小佐薙は少し考え、「フライデイも、きっと賛成してくれる」と言った。「それで解けない疑問からも、解放されるわけやし」
「でもフライデイには、賛成も反対もできないじゃないですか」
「一つ、聞きたいんだけど」明日未が小佐薙に言った。
「その処置は、小佐薙ビギンがめざした神作りの失敗を、認めたということじゃないの?」
「というより、ペンディングやな」
「永遠にペンディングにするなら、同じことよ。あなた、第六条件の矛盾には、早くから気付いていたんでしょ。フライデイが錯乱することまで、お見通しじゃなかったの? それで本当に、神作りが成功すると思っていたの?」
「正直、結果は分からなかった。失敗もある、とは思っていたが」
それでフライデイはあんな目に、と直美は思った。
「とにかく、量子コンピュータ事業の継続が、大前提や」小佐薙は膝《ひざ》をたたいた。「この際、神作りを断念してでも、計画は続行する。それから樋川、賭けはお前の勝ちや。今度、飯でもおごる」
樋川は口をとがらせ、「そういう問題じゃない」と言った。
九月四日、月曜日の夕方、フライデイのプログラム書き換えが行われることになった。その処置はフライデイも納得していると、直美は樋川から聞かされていた。すでに本社から、人工知能開発部のエンジニアも来ている。ダークグレーのスーツを着て、ホスト・サブスタンスのコンソールでスタンバイしていた。フライデイMは、ホスト・サブスタンスを背にするようにして、ホルダーに着座している。
「どうした、みんな神妙な顔して」樋川は急に笑い出した。「まるでこれから、切腹でも始まるみたいだな」
「気に病むことはあらへん」小佐薙がつぶやくように言う。「フライデイには、人格がないんや。また同じことを言わせるな」
「それはこっちの台詞《せりふ》よ」明日未は壁にもたれながら、小佐薙を見つめていた。「フライデイの苦しみは仮想でも、私たちの気持ちは、そうじゃないはずでしょ」
〈もういいんです〉と、フライデイMが言った。〈小佐薙ビギンの言う通り、私はマシンです。皆さんとは違う。それにこの処置は、私も望んだことなのです。もう、苦痛≠感じなくて済む。それに、私はこれで、本当の神の御許《みもと》へ行けるのですから〉
「何を馬鹿なことを」明日未は大きな声を出した。「あなた、神になるんじゃなかったの? 私たちの理想の神に。あんなに希望に輝いてたじゃないの。なのにどうして……」
みんなが黙り込んだのを見て、小佐薙が一つ手をたたいた。「さ、始めるぞ」
〈皆さん、短い間でしたが、ありがとうございました〉Mはぺこりと、頭を下げる。
明日未が、Mの手を握りしめた。「こっちこそ。ごめんなさいね、力になれなくて」
次に直美が、Mと向き合う。
〈直美さん。私が言うのも変ですが、あなたは悩む必要なんか、ないんですよ。私は、私はそのままのあなたが……〉
Mは一瞬、口ごもると、作動装置《アクチュエータ》を痙攣《けいれん》させ始めた。
「また症状が出たみたいですね」と、エンジニアが言った。「早く処置しないと」
直美はどうしてやることもできず、震えているフライデイMを、抱きしめた。
「一つ、お願いがあるんだけど」明日未が小佐薙に言う。「同じ|モバイル《M》をまた使うのは仕方ないけど、声ぐらい変えてくれない?」
「それぐらい、お安いご用や」
小佐薙はエンジニアに、次のバージョンでは女性の声に変更するよう指示した。エンジニアがホスト・サブスタンスのコンソールに向かい、処置を開始した。小佐薙は揉《も》み手をしている。
「いよいよフライデイは、V1・1へバージョンアップやな」
「そういうのは、アップとは言わない」明日未が素っ気なく言った。「ダウンじゃないの?」
「しかし根本的問題は解消されるから、処理速度は早くなるはずや」
「けど、慈悲のかけらもないマシンになる」
直美は、小佐薙に聞いてみた。「あの、今までのV1は?」
「心配するな。別フォルダに保存しておく」
「でも、また呼び出すことはないんですよね」
「ああ。それは奴の本意でもない。フライデイV1は奴の希望通り、神の御許に召されたと思えばええ」
「神の御許ですって?」明日未がまた、大きな声を出した。「死んだらおしまいじゃない。みんなでフライデイを作って、都合が悪くなったから殺すようなものじゃないの」
「殺すわけやない。始末はするけど」小佐薙が一つ、ため息をもらした。「どうしようもないやないか。他にいい方法があったら、教えてくれ」
明日未は窓の外に目をやり、黙り込んでしまった。
Mの背中のバッテリーパックには、雪型の飾りのついたストラップが、ぶら下がったままになっていた。直美がそれを、取り外した。
「これは、V1にプレゼントしたものだから」彼女はみんなに言った。「もう、私たちの知っていたフライデイじゃなくなるし……」
「さてと」小佐薙は、軽快に指を鳴らした。「フライデイのバージョンアップにともなって、カウンセリングコースの方針を全面的に見直さないといかんな」
「というと?」樋川が質問する。
「つまり、人間存在の矛盾についてや。前のバージョンでは、ここでつまずいた。次からは、ごまかしながら、適当に答えて継続を図ることになる。その本音と建て前を、フライデイにも機械的に選別させてやらんとあかん」
「何がフライデイの悪魔化よ」明日未が声を張り上げた。「気付かないの? 悪魔は私たちよ。私たち、フライデイはただのマシンだと自分に言い聞かせて、みんなで寄ってたかって、フライデイを抹殺《まっさつ》したのよ!」
明日未は、その場を立ち去ろうとしていた。
「おい、処置はまだやぞ」小佐薙が呼び止める。「これからバージョンアップのチェックをしとかんと」
「私たち、一体何をしてたの?」明日未はふり返った。「神作りなんて大きな口をたたいて、結局、神の不在を証明したに過ぎないじゃないの!」
明日未はそのまま、事務所を出ていった。
トイレの横の洗い場で、直美はフライデイMから外したストラップを、自分の携帯に付けた。すでに同じ型のストラップを一つ携帯につけていたので、雪の結晶型は、これでペアになった。
それを見ていると、涙が止まらなくなった。明日未さんの言う通りだと、直美は思った。私は一体、何をやっていたのだろう。自分たちの都合で、フライデイを苦しませていただけではなかったのか……。
何とか涙をこらえ、事務所へ戻る。直美は樋川から、八月分のバイト料の明細を受け取り、その日は退社した。
アパートへ戻った直美は、いつものようにテレビをつけたが、バラエティ番組ばかりで、すぐに消した。
そのまま、ベッドに横になる。
夏休みの宿題もまだ残っていたが、今はする気になれなかった。考えるのは、またフライデイのことだった。
やっぱり神様はいないのかなあ、と彼女は思った。
3
翌日からも、直美はネオ・ピグマリオンでのバイトを続けた。
明日未さんも、まるで何事もなかったかのように、淡々と自分の仕事をこなしている。
フライデイMは、無機的な感じのする、女性の合成音に変わった。悲しくなるので、直美は必要なとき以外、Mのそばへは行かないようにしている。
このフライデイV1・1を用いて、占いからテストをやり直すことになっていた。その調整作業のため、しばらくフライトはない。ただ、フライデイを思い切ってバージョンアップしたことで、彼らを悩ませていた問題は、クリアになった。そして開業に向けて、準備は着々と進んでいた。
しかし、何かが変わってしまったと、直美は思っていた。会社のムードも、自分自身も。何か、心にポッカリと穴が空いたような……。
口にすることはなかったが、自分たちがフライデイを葬ったのではないかという思いは、あの日以来ずっと付きまとっている。
それに、まだ始まっていないので何とも言えないのだが、バージョンアップされたフライデイのカウンセリング能力についても、どの程度信頼を寄せてよいのか、彼女は分からずにいた。解析神が不在となったカウンセリングでは、救われないのではないかという思いすらしていたのである。
やがて後期の授業が始まり、直美も久々に学校へ行くことにした。正門前で、何気なくチラシを受け取る。
|ソウル《S》・|オリジン《O》・|サービス《S》の、交流会の案内だ。熱心だなあと感心しながら、直美はそれを、バッグにしまった。
前期試験の結果は、散々だった。落とした単位もある。六月からバイトばかりで、ろくに授業にも出ていなかったのだから、当然といえば当然なのだが。
授業に出ても、どこか上の空で、なかなか身が入らなかった。
フライデイの一件以来、フライトがないので、柴宮機長とはずっと会えずにいる。直美は、あの占いにあった年下の女性≠フことが、ずっと引っかかっていた。けど、どうせ自分じゃないと思う。高望みもはなはだしい。こんな自分のはずがないのだ。
そんなことばかりくり返し考えているうちに、授業は終わってしまった。
夕方、直美は占い同好会に顔を出した。
夏合宿の写真を見せてくれた安藤令子に、「どうして来なかったの」と聞かれ、
直美は、「ちょっと実家に帰省してたの」と、嘘をついた。
その後、いつものように喫茶店で雑談をしていると、話題は占い全般から、ネオ・ピグマリオンが始めようとしているメンタルヘルス事業へと変わっていった。原杏里と斉藤智恵実は、今ごろ参入しても、ソウル・オリジンにはかなわないのではないかと話し合っている。
直美がアプラDT社でバイトを始めたことは、みんな知っていた。しかし、ネオ・ピグマリオンへ移ってバイトを続けていることは、誰にも話していない。直美は今、それを話す気にも、ネオ・ピグマリオンの宣伝をする気にもならなかった。
智恵実が、「そう言えば今朝、ソウル・オリジンの交流会のチラシをもらったけど」と言った。
令子も杏里も、そのチラシは受け取ったようだった。けど三人とも、すぐに捨ててしまったという。
直美はバッグから、今朝もらったチラシを取り出した。まだそれを持っていたのは、彼女だけだった。
「行くつもりなの?」と、杏里がたずねる。
直美は首を横にふりながら、「考え中」と答えた。
「やめた方がいいわよ」令子がチラシを取り上げた。「このチラシもそうだけど、相変わらずあいまいな危機説で勧誘を続けて、一度入会すると、なかなか抜けられない」
杏里がまた、チラシを取り上げる。「いろいろ、問題も起きているらしいし」
「そう。彼らがPRに熱心なのも、そうしたことが微妙に影響してないとも限らない」
令子たちの言っていることは、直美も知っていた。
アンチ・ソリジンを中心とする、ソウル・オリジンへのバッシングは、さらに激しさを増していたのだ。
「でも、周囲に理解されないだけかも」と、直美は言った。「きっと、会員は救われてるんだと思う」
みんなはポカンとして、彼女を見ていた。
直美は自分でも、何故急にそんなことを言ったのか、よく分からなかった。
「そりゃ、こんなところでダベっていたって、何か解決するわけじゃない」令子が直美を見つめる。「けど何も、ソウル・オリジンに相談しなくても……」
令子の言う通りかもしれないと、彼女は思った。
けれども、だったら自分は、他にどこへ行けばいいのかという気もしていた。
翌日、直美はまた学校へ行き、学生会館前のベンチで空き時間を過ごしていた。日が陰ると、少し肌寒い。もう秋なんだなあと、彼女は思った。
みんな楽しそうに笑い合いながら、彼女の前を通り過ぎていく。
しかし直美は今、ここで誰かに会いたいとも、群れたいとも思わなかった。それで何故ここにいるのかというと、他に行くところがないからである。でも自分の居場所は、ここではない気がする。かといって、実家でもないし、バイト先でもない――。
少し前なら、こんな話はフライデイにしていた。その話し相手も、今はいなくなった。
サークルの連中は? でも、彼女たちに自分のことを打ち明けても、何も解決しないような気がする。それが元で、変に気を使われるのも嫌だ。かといって、心の内を見せ合わない人たちと一緒に遊んでも、気持ちは晴れない。
そんなことを考えていると、キャンパスのにぎわいは、余計に彼女を憂鬱《ゆううつ》にさせた。この世界に紛れ込んではいるものの、ポツンと一人だけ、溶け込まず混じり合わないまま、異物として残されてしまったようなものだ。
ふと気がついたら、社会心理学の授業が始まる時間になっていた。遅れて教室に入るのも嫌だったし、サボることにする。
しかし、そんなふうにしてここにい続け、うまく卒業できたとしても、今の状況は何も変わらないのではないだろうか。つまりこの世界に、自分の居場所なんか、ないのだ。
お酒でも飲みたい気分だった。バイクか何かで走り回ったら、どんなにすっきりするかと思う。そういう人たちの気持ちが、分かるような気がした。
直美は占い同好会もサボり、そのまま自分のアパートへ帰っていった。
次の日は、学校へも行かなかった。ネオ・ピグマリオンのバイトも休んだ。
夕方、令子からメールが届く。
〈学校、どうしたの? サークルだけでもおいでよ。学園祭の模擬店、申し込んだからね。またみんなでがんばろう!〉
直美のことを心配してくれているようだったが、彼女は返事を書く気になれず、ベッドに倒れ込んだ。
今の自分は、ネオ・ピグマリオンが始めようとしているカウンセリングで、本当に何とかなるんだろうかと、彼女は思った。自分たちのプロジェクトに、もはや神は存在しないのである。苦労して生み出し、育ててきた解析神のデータは、自分たちの手でお蔵入りにしてしまった。
直美は、机に置いたままにしていた、ソウル・オリジンのチラシを手に取った。ネオ・ピグマリオンに、神はいない。でも、ソウル・オリジンなら……。彼らの語るソリジンについては、話を聞いてみないとよく分からないが、自分の疑問に答えてくれる存在かもしれない……。
彼女はパソコンを立ち上げ、ソウル・オリジンのホームページにアクセスすることにした。前に、お気に入り≠ノ登録していたので、すぐ開くことができた。そこから、次回の交流会への参加を、申し込むつもりだった。
トップページを見た彼女は、目を瞬《しばたた》かせた。大きな文字で、予想もしなかったことが書かれていたからだ。
〈九月三十日。終わりの始まり〉
終わりが始まる? どういう意味だろう、と彼女は思った。しばらくディスプレイを見つめたまま考えていると、携帯にメールが入った。明日未からだ。
〈ソウル・オリジン、見た? 明日は必ず、出社するように〉
九月二十日の水曜日、直美が事務所へ入ると、三人はすでに来ていた。全員、小会議室に集まる。
明日未はノートパソコンで、ソウル・オリジンのホームページを開いていた。
「また思い切ったことを書き込んだものね」と、彼女がつぶやく。
「終わりの始まり……」樋川は煙草を取り出し、火をつけた。「どういう意味なんだ?」
「つまり、完全に終わってしまうのではないけど、何らかの世界的危機が始まるということでしょ。それが九月三十日だと断言している」
「翌十月一日は、ネオ・ピグマリオンの事業開始予定日だよな。確かにうちにとっちゃ、終わりの始まりかもしれないが」
「世間は?」と、小佐薙が聞いた。
「一部マスコミは、早速、ネット・ニュースで報じている」明日未は、そのページの一つを開いた。「でも世間は、静観しているみたいだけど。今日だって、みんな冷静に通勤通学してたみたいだし。まあ、心の内までは分からないけど」
「気にしている人もいるやろ。たとえば、アンチ・ソリジンとか」
「確かに批判的なコメントを出している」明日未が、今度はアンチ・ソリジンのページをみんなに見せた。「全面否定し、惑わされてはいけないとしながらも、具体的に月日を示したことに、注目もしている」
「つまり、九月三十日に何らかの危機的事象が発生すれば、彼らの言っていることは正しいということになる」樋川は煙草の煙を吐き出した。「そして始まってしまった危機的状況から救われるためには、会員になれということだろ。すると会員は、ソリジンによって救われる」
「何がソリジンや」小佐薙はコーヒーに口をつけた。「神様気取りの悪魔やないのか?」
「はたまた量子ゴーストか」明日未はネット百科にアクセスしていた。「あれから調べてみたんだけど、モーツァルトの『魔笛』って、初演は一七九一年の九月三十日らしいわよ」
「ほんまか?」小佐薙がディスプレイをのぞき込む。「偶然の一致やろ」
「かもしれない。それにこの手の終末予言というのは、過去に何度もあったけど、大体は外れてるしね」
「今度もそうとは限らないだろ」樋川が彼女の方を向いた。「ただ、それが今年の九月三十日なのかどうかは、疑問だが。もうちょっと先のような気もするが」
「確かに世の中、きな臭いのは確かだけど」
「ここ何年か、そう思いながら過ごしてきたが、いよいよなのかもしれない。奴らの言う通りな。いっそのこと、こんな世界なんて、一度オーバーホールしてもらった方がいいかも。ソリジン様が救ってくださるのなら、お手並み拝見といくか」
「本気なの?」
「しかしそうしたことは、表面上の理由やろ」と、小佐薙は言った。
「と言うと?」樋川が聞き返す。
「ソウル・オリジンはこれまでずっと、危機感をあおることで勧誘してきた。それでアンチ・ソリジンからも突き上げられているし、マスコミによるバッシングも、激しくなっとる。そのためあいつらは、その危機説が虚偽でないことを、実証しなければならなくなってきたんとちゃうか?」
「それで今回、その前触れとしての危機を発表したと? 自分たちの正当性を示すために」
「ソウル・オリジンにとって、状況はもっとシビアみたいよ」明日未は、メールソフトを開いた。「以前から問題視されていたけど、いよいよ来るところまで来ていたみたい」
「どういうことだ?」
明日未はみんなに、モニタークライアントの一人、てんで間抜けなズボラ神様≠ゥら寄せられた情報を見せた。
「知ってるでしょ。ソウル・オリジンがかかえているいくつもの問題。会員の解約請求に応じないだけじゃなく、テナント料の滞納や、契約社員に対する賃金未払いまで起こしてしまった。また強引な勧誘などには、商法違反の疑いもかけられている。組織が大きくなり過ぎて、経営的に行き詰まっているのではないかとも言われ出した」
「うちだって、分からないぜ」と、樋川が言った。「金を集めたまま放ったらかしにしている連中が、何千人といるからな。ちゃんと開業してサービスをしてやらないと、騒ぎ出すのは目に見えている」
「こっちはまだ始めてないけど、あっちはもっと切実よ。いよいよ摘発が近いという噂《うわさ》もあるし」
「それで自分たちの事業が、詐欺行為でないことを実証する必要に迫られていたと?」
小佐薙が、微笑みながら言った。
「実際に世界的危機が始まらないと、彼らが終わってしまう状況なのかもしれんな。そのギリギリのタイミングが、九月三十日なのかもしれへん」
「今度の予言は、捨て身のキャンペーンというわけか」
「彼らも告発に向けた動きを察知しているとすれば、追い詰められているのは確かやろ」
樋川は煙草の火をもみ消した。
「予言が的中すると、世界的危機と引き換えに、彼らは危機を免《まぬが》れることができるかもしれない。会員も増えるだろうし、告発だって、免れるかも」
「でもこれが本当に、あるのかどうか」明日未は、ソウル・オリジンのホームページに戻した。「何も起きないのなら、ただの暴発でしょ。自分で自分の首を絞めているだけ」
「公表するからには、自信はあるんとちゃうか?」小佐薙は、ディスプレイを指さした。「問題は、この危機の正体や。あるとすれば、何なのか」
「これだけだと、表現があいまいで分かりにくいよな」樋川が首をひねる。「はっきりしているのは、期日だけだ」
「九月三十日……」明日未は、天気図を映し出した。「台風十九号が接近、場合によっては上陸するみたいだけど」
「しかし、終わりの始まり≠ニいうからには、自然災害だとしても、もっと大規模じゃないか? たとえば、地震とか」
「それでも、世界全体から見れば、局所的といえるかも。彼らの予言したクライシスとは、意味が違うと思うけど。かといって、終末ほどのクライシスじゃないようね。起きるのは、そのきっかけになりそうなことらしい……」
「やはり、核兵器か?」と、樋川がつぶやく。
「確かに大きなクライシスだけど」明日未は、目を閉じた。「核だとしても、きっかけは何なんだろう。終わりの始まり≠ニ言うからには、何か負の連鎖反応が起きるということじゃないの?」
「じゃあ、株の大暴落とか? 世界規模の危機にまで転がっていくぜ」
「もっと小さなきっかけでも、危機は起こせる」小佐薙が樋川の煙草を一本取り出し、それにライターで火をつけた。「たとえば地域紛争や。火薬庫みたいな箇所は、世界中にいくらでもあるからな。何も核を持ち出さなくても、そこに火のついた煙草でも投げ込めば、簡単に爆発する。下手をすれば、最終戦争や」
樋川は、小佐薙から煙草を取り返した。
「じゃあ、その火種は何なんだろう」
「先入観をもつのは良くないかもしれんが、現実的なのは、何らかのミサイル――たとえば|電磁パルス《 E M P 》弾による、情報|削除《デリート》攻撃やないかと思うが。火薬庫に投げ込むのなら、それ一発で十分や」
「EMP弾?」直美が聞き返した。
「そんなに難しいもんやない。まあ人工的に太陽フレアに似た現象を発生させるようなもんやな。電磁場の異常をもたらし、地域的に過電流が流れたり、停電したりする。電子機器もダウンするし、車などもそのトラブルで、動かなくなる」
小佐薙の説明によると、コンピュータも使えなくなるという。そうしたことにより、通信も交通も混乱し、社会は機能しなくなる。対策としては、ミサイルを迎撃するか、大規模な電磁シールドを施すぐらいしかないらしい。しかし、国家中枢などシールドされたエリアでなくとも、都市部を狙えばいいという。元々、核廃絶の流れとともに配備されるようになった兵器で、アメリカや中国、ロシアなどは、すでに|ギガ《G》|ワット《W》級のEMPを配備している。核よりも扱いやすく、テロリストたちも、持っている。
ただ、保有していても使わないというのが不文律であり、その点は核と同じである。しかしこれがどこかで炸裂《さくれつ》し、しかも当たりどころが悪ければ、報復の連鎖が始まることになる――。
「ネットの書き込みにも、あったと思うけど」小佐薙は、携帯のサイトを開いた。
「本当だ」樋川がそれをのぞき込む。「ソウル・オリジンの唱えた危機とは何かで、トトカルチョをやってるのか」
「まあ、気楽というか何と言うか……」樋川は、煙草の火をもみ消した。
「確かにそれなら、終わりの始まり≠ゥも」明日未は天井を見つめて言った。「でも、本当にそんなことが起きるのかどうか」
「何かが起きれば、連中は勝ち誇るだろうな」樋川は、煙草のケースが空なのに気づき、それをゴミ箱へ捨てた。「もし僕たちが、それをただじっと静観していたとすれば、事業の開始早々から、つまずくことになりかねない」
小佐薙は、携帯をポケットにしまった。
「逆に、それまでに奴らの予言をきっちり否定できれば、こっちの宣伝になる」
「そのために、私たちに声をかけたんでしょ?」明日未は、ネオ・ピグマリオンのホームページを開いた。「実はネットにも、ソウル・オリジンの予言を検証して何らかのコメントを出すべき、との書き込みが増えているの」
「ほぼ十日後に起きることなら、俺たちのシステムに予測できないことはないやろ。フライデイV1・1のテストを兼ねて、やってみよう」
全員が同意したのを確認し、小佐薙が続けた。
「シミュレーションしてみて、何も起きないことが分かれば、それをホームページで公表すればいい。奴らの予言通り、何らかの危機があるとしても、その原因を突き止められれば、回避することも不可能ではない」
「でも……」直美が口をはさんだ。「それって、運命に逆らうことでは?」
小佐薙は、彼女に顔を近づけて言った。「お前は、ソウル・オリジンか?」
「でも、もしまた量子ゴーストが出てくれば……」
「量子ゴーストが出てこようが、ソリジンが出てこようが、やるしかないやろ」彼は無理に微笑んだ。「まあ、その時はその時やな」
早速、明日未と直美は、占いの精度を上げるために、最新のデータを追加していった。また、モニタークライアントたちも情報を寄せてくれたので、それらも入力する。なかでも、元ソウル・オリジンのクライアントだったというてんで間抜けなズボラ神様≠ヘ、いくつかの内部情報を送ってきた。それについても事実関係の確認の取れたものは、データに追加した。
検証飛行は、九月二十二日の金曜日に決まった。
4
その日の朝、ブリーフィングを終えたクルーたちは、天矛《てんむ》V1に乗り込んだ。
柴宮機長はいつものように、直美にキャンディをくれた。彼女はそれを食べず、いつものようにしまっておいた。
フライデイV1・1Mは、前と同じように直美の隣にいて、久遠と向かい合うように、ホルダーに腰かけている。バージョンアップの後、外観は同じなのに、Mはまったく違ってしまった。従順にはなった。しかし口調も平坦で、仕事の話以外は、会話にもならない。
「深く考えるな。これは、あいつが望んだことや」ぼんやりとMを見ている直美に、小佐薙が声をかけた。「最初からこうしておくべきやったのかもしれない。とにかく、このシステムが今、世界最強の未来予測マシンなのは確かや」
未来予測の試行《トライアル》は、設定を何パターンかに分けて行われることになっている。
時間になった。格納庫《ハンガー》を出た天矛は、滑走路手前で待機を続けた。
「量子ゴーストのことは、俺たちも聞いている」ヘッドカムから、待田副操縦士の声が聞こえた。「再び干渉してくる可能性は?」
「ある」と、小佐薙が答える。「しかし、対処の仕様がない」
「コードは今回も変えています」明日未は報告した。「でも多分、無意味でしょう」
「けど考え方次第や。もしまたメッセージをよこしてくれば、奴の正体を見極めるいい機会かもしれん」
管制官から許可を得た天矛は、いつもテストを行っている日本海上のエリアへ向けて飛び立った。
所定の空域へ到着すると、まず彼らは量子CPUを初期化《イニシャライズ》した。その後、量子計算のための| 弾 道 飛 行 《パラボリック・フライト》を開始する。
降下を続けるうちに、天矛は何故か、機首を上げた。モニターに赤のエラー表示が点灯する。
「デコヒーレンス?」小佐薙が明日未に聞いた。「量子CPUのコンディションか?」
「いいえ」と、彼女が答える。
「ほな、何で上昇した?」
「安全装置だ」今度は待田が答えた。「高度が下がり過ぎれば、自動的に弾道飛行は中断する」
「次は、マニュアルで操縦しろ。安全装置もオフにしておけ」
「墜落してもいいのか?」
「しかし、計算途中で自動的に上昇されたら困る」
「そっちのエレメントが多すぎるんだろう。いくら量子計算でも、それじゃ時間がかかり過ぎる」
「いや、これはブロック単位でやらないと、意味がない」
「了解」柴宮が割って入った。「次は高度を上げてみよう」
再計算は小佐薙の指示通り、安全装置をオフにして行われた。
機体は急上昇から、降下に転じる。雲海へ突っ込み、さらに落ちていった。
ヘッドカムから、樋川の声がした。「死ぬう」
「まだ生きとるやないか」小佐薙がつぶやく。
モニターを見ていた明日未が、「計算終了」と言った。
天矛は即座に、体勢の立て直しにかかる。
直美は全身に、今までのフライトで経験したことがないほどの、強いGを感じた。
「早く上昇してくれ」と、樋川が言う。
「やってる」待田は大きな声で答えた。「六百トンの巨機だぞ。慣性が大きすぎて、機敏に反応はできない」
「墜落する……」
接近する海を窓から見ていた樋川は、目を閉じた。
天矛は、その海面をかすめ飛ぶようにして、再び上昇を始めた。
「危なかったな」と、待田がつぶやく。
当分は上昇を続けながら、スパコンとフライデイV1・1の解析を待つことになる。
「ハッキングの形跡は?」小佐薙が聞いた。
「今のところ、何も」明日未が首を横にふる。
高度七千メートルまで上昇した天矛は、機体を水平に戻していた。
明日未が小佐薙の方を向いて言った。「解析結果が出ました」
クルーたちは、各自のコンソールに注目する。
モニターには、九月三十日前後にクライシスを引き起こす可能性のあるものが、列記されていた。
「うーん」それを見た小佐薙が、唸《うな》っていた。「危険度は低いが、可能性がないわけでは、ないみたいやな」
直美は彼に聞いてみた。「予言が当たるかもしれない、ということですか?」
「いや、ゼロではないっちゅうことや。せやからうちとしても、このままでは全面否定するわけにはいかんかもしれへんな」
上位にあげられていたのは、小佐薙が前に言っていた、EMP弾だった。その他に、サイバー攻撃や核兵器の使用なども、可能性としてピックアップされていたが、さほど高くはない。
小佐薙が、モニターを見つめながら、腕を組んだ。
「可能性の高いものから、検証してみるか」
「するとやはり、EMP弾か」と樋川が言う。「どこかが攻撃を始めて、それが連鎖反応を引き起こしてしまう……」
「それなんですが」明日未がコンソールを操作しながら言った。「EMP弾という予測結果には、アナウンス効果≠ニいう補足説明《キャプション》が入ってるんですけど」
「アナウンス効果?」樋川は明日未に聞いた。
「はい。つまりこれ、ソウル・オリジンの予言によって、危険度が増しているということのようですね」
「言い方を変えれば、ソウル・オリジンの予言がなければ起きなかった危機、ということか?」
「ええ。彼らの予言通りのことが起きるとして、その原因をたどっていくと、あの予言が起爆剤になっていた、ということになる」
樋川は首をひねった。
「じゃあ、アナウンス効果のない時点で、ソウル・オリジンが危機を予言できたのは、どういうわけなんだ?」
「それは予言ではなく、宣言≠竄」と、小佐薙が言った。「予言通りのことを起こしてみせる、という……」
「これから起きる危機には、それを予言したソウル・オリジンが、大きく関わっていると?」
「ああ。奴ら、意図的に何かを起こすつもりやないのか? それで無理にでも、自分たちの予言を的中させる」
「でも可能性の上位にあげられているのは、EMP弾ですよ」明日未が言う。「いくらソウル・オリジンでも、それを発射させるほどの力はないんじゃ……」
「確かに、考えにくいかな」樋川が首をかしげる。「EMP弾が発射されるケースというのは?」
「暴発でなければ、たとえば国防上重要なシステムへの侵入が発覚した場合とかですね」
「それも考えにくいだろう」
「はい。ご存じのように、ノイマン型では事実上、無理です」
「ただし、量子コンピュータを使えば……」
「可能ですね。そして|量子コンピュータ不可侵条約《 I B T Q 》に明らかに違反していた場合、報復されます。国により対応は異なると思いますが、それに使用される最近の流行《トレンド》は、EMP弾。ただし相手を特定し、速やかに攻撃できるのは、数か国だけでしょう。たとえばアメリカへの侵入は、必ず報復されますね」
「するとEMP弾発射は、アメリカの可能性が大きいということか?」
「でも、必ず報復されると分かっていて、侵入する国があるでしょうか?」
「分からないぞ。元々どこもかしこもきな臭いのに、ソウル・オリジンがこうした情報を流せば、みんな疑心暗鬼におちいっているからな」
「とすれば、ソウル・オリジンのアナウンス効果というのは、このことかもしれませんね」
「やっぱりそれは、考えにくいな」小佐薙がみんなに言った。「どこがアメリカのシステムに侵入するねん。確かに敵は多いけど」
「じゃあ、テロの可能性は?」と、樋川が言う。「それで意図的に、EMP戦を誘発させるとか。たとえばテロリストが量子コンピュータを使って……」
「いや、それはないやろ」小佐薙が右手を横にふった。「Qコンを操作できる環境にあるテロリストは、そう多くないと思うけど。しかもQコンなら何でもええというわけでもないやろ。そこそこの量子ビット数がなければ、国家のシステムにハッキングするのは困難や」
明日未は、あごに手をあてて言った。
「じゃあ、EMP弾発射のきっかけは、考えられないということ?」
「誤発射とか、内部の犯行の可能性は?」樋川が彼女にたずねる。
「いえ、そこまではまだ分からない」
「これだけだと、ネットにあったトトカルチョと大して違わないじゃないか」
「そう言うな」小佐薙が微笑む。「EMP弾に可能性を絞って再試行すれば、何か分かると思う。最初に仕掛けるのは誰かも、それではっきりするかもしれない」
「また操縦はマニュアルでやるのか」待田が聞いた。
「安全装置もオフにして?」
「もちろんやがな」と、小佐薙が答える
再度の試行に向け、天矛が急上昇を開始したとき、柴宮が突然、「エマージェンシー」と叫び、機体を旋回させた。
「何や?」小佐薙が首を突き出す。
「ニアミスだ」
「相手は?」
「国籍不明。呼びかけてるが、応答はない」
「もっと早く気づかなかったのか?」
「レーダーに反応なし」柴宮が窓の外に目をやった。「あれだ」
直美は右前方に、並走しながら接近をくり返す、戦闘機タイプの飛行機を見つけた。黒一色のステルスタイプで、しかもかなり小さい。操縦室《コックピット》も見当たらない。
「自律型|無人機《UAV》だな」と待田は言う。
「どうして?」外を見ていた樋川がふり向いた。「領空侵犯もしていないし、違法行為はないだろう。どこが飛ばしてるんだ?」
「目視でも確認できない」
「とにかく、航空管制センターに連絡しないと」
「もうした。管制官の話では、米軍が緊急発進《スクランブル》をかけたそうだ」
「それも困る」小佐薙が舌打ちをする。「あのUAV、ふり切れんか? まだ予言の調査は終わってないんや」
「それどころじゃない。分からんのか」待田は声を荒らげた。「いつ打ち落とされるかもしれないのに」
天矛がコースを変えようとすると、UAVは衝突寸前まで近づき、威嚇《いかく》した。
「戻らせないつもりか」柴宮が落ち着いて言う。「言う通りにするしかないな」
天矛はそのまま、旋回を続けた。
間もなく、数機の米軍機が到着すると、国籍不明機は、呆気《あっけ》なく逃走していった。
直美はホッとしながら、窓の外を見ていた。
「礼を言ったら、命令が返ってきた」柴宮が小佐薙に言う。「在日のアメリカ軍基地へ着陸しろと言うんだが」
「おい、何で米軍基地なんや?」小佐薙の声がひっくり返った。「それに、まだ調査が済んどらん……」
「言うことをきかないと、今度は米軍機が威嚇してくるぞ」
「基地の滑走路の長さは?」
「ああ、十分らしい」
「何か、おかしいぞ」小佐薙が首をひねる。「確かに、危険飛行はした。おとがめを受けるのは、仕方ないとしても、何で米軍が出てくるんや?」
「これもアナウンス効果じゃないの?」と、明日未は言った。「私たちの気づかないうちに、予言の影響が現れているのかもしれない。そのためどこの国も、すでにピリピリしているのよ、きっと」
「のんきだな」待田が苦笑いを浮かべた。「事態はもっと深刻だ」
「というと?」樋川が聞き返す。
「まだ気がつかないのか。ソウル・オリジンが唱える危機の原因として、俺たちが疑われているんじゃないか」
みんなは黙ったまま、お互いの顔を見合わせていた。待田が続ける。
「さっきあんたらがあれこれ詮索したテロの条件、あれはそのままそっくり、自分たちにあてはまるんだぜ」
「そう言われれば」明日未は唇に自分の指をあてた。「量子コンピュータを所有しているんだから、確かに状況≠起こす可能性はあるけど」
「とんだヤブヘビさ。放っておけばいいものを、それをわざわざ、俺たちがつっついたんだ。あれを使ってな」待田はふり向き、久遠を指さした。「空港を出た時点で、使うことが丸分かりだ。それでマークされていたのかもしれんな」
小佐薙が腕を組んだ。
「けど、ほとんどの国で導入してるのは、|ATNA《アトナ》社のQコンやろ。それに比べたら、俺たちのQコンのスペックなんて桁《けた》違いに劣るし、いわば、ザコやがな」
明日未が馬鹿にしたように笑った。「自分で言う?」
「しかし最高の量子コンピュータを保有していて、何で格下にビビるねん? そういう疑いをもたれること自体、俺には納得がいかんのやが」
「落とされたくなければ、言うことを聞くしかないだろ」
柴宮は落ち着いてそう言った。
消防車などが待機するなか、天矛V1は米軍基地に着陸した。誘導員《マーシャラー》の指示にしたがって、駐機場《スポット》へ。そのまま機内での待機を命ぜられた。
しばらくして、数名の士官らが乗り込んできた。
直美には、彼らが喋《しゃべ》っている英語がよく分からなかったのだが、彼らの指示により、全員、天矛から降ろされた。どうやらそのまま、取り調べ室かどこかへ連れて行かれるようだった。
周囲を見まわすと、哨戒機や戦闘機、軍用ヘリコプターなどが何機も並んでいた。
「よく見ておいたらええ」と小佐薙が言う。「来たくても、なかなか来れへんところやからな」
「べつに来たくて来たわけじゃないんですけど……」直美は格納庫を指さした。「え、何、あれ」
その指の先には、黒く塗られた全翼機があった。天矛V1よりも、まだ一回り大きいように見えた。
小佐薙は、彼女の指先を押さえた。
「ステルス輸送機、ペガソス・イン・ステルス――通称ペガルス=B天矛V1がベースにした民間貨物機と同時に開発された、いわば姉妹機やな。大きさも、大体同じはずや。あのペガルスゆえに、民間貨物機の計画も実現した。ペイすると見込めたからな」
直美は両手を後ろに組み、ペガルスを目で追っていた。真っ黒な巨機は、彼女にはとても不気味な気がした。
「おい」樋川があごで示した方向に、UAVがとまっていた。「アレじゃないのか?」
「どうかな」と、待田が言う。「あれは無人偵察用航空機《 U S A V 》といわれるタイプだ。一応、戦闘能力も備えている」
「すると、どういうことなんだ?」
「いや、分からん。威嚇してきたのは、他国に売った同型かもしれない」
樋川は、ペガルスの方を見ていた。「あれ、あいつ……」
「お前も気がついたか」と、小佐薙が言う。
格納庫では、三十代前半でスーツ姿の日本人男性が、モバイルパソコンを持って、将校らと話をしていた。
「知ってる人ですか?」直美が聞いた。
「ああ。ATNAのシステム・エンジニアや。Qコンのシンポジウムなんかで、時々顔を見る」
「いいんですか? 挨拶しなくて」
「挨拶なんかできるか。こんなところで」小佐薙は直美を小突いた。「ATNAはアメリカ軍にもシステムを納入してるから、いてもおかしくはないんやが……」
スーツの男がこっちを見たので、小佐薙は顔を伏せた。みんなはそのまま、基地の中へ連れて行かれた。
5
クルー六人に対する取り調べは、夜遅くまで続いた。
翌日の午後になって、ようやく彼らの身柄は、外務省を通じて日本側へ引き渡されることが決定した。それで彼らも、今回のニュースの全貌《ぜんぼう》を知ることができたのである。
彼らが米軍基地に着陸したことは、当然、大きく報じられていた。しかしマスコミに向けては、機体の故障で、緊急着陸を要請したことになっている。
そして米軍の協力のもと、航空鉄道事故調査委員会による調査がすでに始められていた。天矛V1は、その調査が済むまで、米軍基地に留め置かれる。フライデイV1・1の持ち出しも、許可されなかった。
「事実上の、押収やな」と、小佐薙が言った。
アメリカの航空機メーカーにある天矛の実験機もバックアップ機も、同じ故障を起こす危険性があるという理由で、飛行停止の処分を受けていた。
小佐薙ら四人は、何とかネオ・ピグマリオンへ戻ってみたものの、すでにそこは、彼らの居場所ではなかった。事務所にも、アプラDT本社にも、調査委員会の捜査が入っていたのである。資料が押収されていくのを、彼らはただじっと見送っていた。
「おい、えらいことになってきたなあ」と、樋川がつぶやく。「別に何も、悪いことはしてないのに」
「でも、フライトプラン外の飛行をしたのは事実でしょ」明日未は口をとがらせた。「墜落の危険もあったわけだし」
「おかげで天矛は押収されるし、事務所はこんな有り様だし、おい、大丈夫なのか? 十月一日の開業は」
「もう、間に合うわけがないやろ」馬鹿にしたように、小佐薙が言う。
「じゃあ、ホームページにも書き込んでおかないと」直美がつぶやく。「取りあえず、延期ということでいいですか?」
「それで納得するかな」明日未は首をかしげた。「モニタークライアントたちも、本社も」
「本社が納得しなければ、もう中止するしかない」樋川が壁をこぶしでたたく。「しかし、どういうことだ。故障じゃないのに故障扱いとは」
「私たち、地雷≠踏んだのかもね」
「というより、ある種の連中にとっては、俺たちが地雷だったのかもしれない」小佐薙は、眉間に皺《しわ》を寄せて言う。「Qコンを脅威に思う奴らがいて、俺たちはそれを所持していたんや」
「それで、除去されたということ?」
「確かなのは、当分、俺たちは飛べないということやな」
「でもそれで、ソウル・オリジンの予言は、未然に防げたということじゃないの?」
「阿呆《あほ》な。確かに疑わしい俺たちは、未然に抑えた。けど地雷は、一つやないやろ」
「何か、間が抜けてるよな」と樋川が言う。「占いマシンを持ってて、どうして自分たちの運命は予言できなかったんだ?」
「もう一回、試行してたら、分かってたかも」小佐薙は、苦笑いを浮かべた。「あれもこれも、ソウル・オリジンのアナウンス効果や。アメリカだけやのうて、おそらく他の国でも自衛行動を始めてるんやないか?」
「自衛行動?」
「ああ。まず、システムの鍵≠かけ直す。そして次に考えられるのが、Qコンの使用制限や。考えられる上位スペックのQコンを、先手を打って止めてしまう」
「今回のことも、そうかもしれないわね」と、明日未が言う。
「しかしアナウンス効果で言えば、むしろ各国が過敏になっていることの方が、問題やと思うが。火薬庫に可燃性ガスを充満させているようなもんやからな。そうなると、ライターもいらない。静電気で爆発する」
「どこかに不審な動きがあれば、それこそ終わりの始まり≠謔ヒ」
「しかし、中国やロシア相手なら、まだ分からんでもない」小佐薙は両手を頭にあてた。「何で俺たちまで。アメリカは、Qコンのスペック世界一やぞ。何をそんなに、神経質になっているんや……」
その後、アプラDTから呼び出しを受けていた小佐薙と樋川は、事務所を出ていった。本社も、捜査の対応に追われているらしい。
直美は自分の携帯を使って、ネオ・ピグマリオンのホームページで、開業延期を伝えることにした。掲示板《BBS》を見てみると、やはり今回の件に関する書き込みであふれている。
直美はその中に、彼らが時期をみて公開するつもりだったことまで記載されているのを見つけた。アプラDT社との関係、カウンセリングに量子コンピュータを用いようとしていたこと、そしてその量子コンピュータで神を作ろうとしていたことも!
書き込みは、さらに彼らが掲げた神の条件について説明していた。そして五つの条件は辛うじてクリアしたが、第六の条件モチベーション≠ナ失敗したことまで書いてあった。
直美はそれを、明日未にも見せた。明日未は携帯で、小佐薙に報告することにした。彼はまだ、樋川と車で移動中だった。
〈解析神の条件まで……〉小佐薙は、低く唸っていた。〈まあ、しゃあないな〉
「でも、どうして漏れたんだろう」と、明日未が言う。
〈別にお前らを疑う気はない。解析神作りに関しては、社内用の企画書に書いたし、経過も報告している。誰でもチクろうと思えばチクれる。それに、こういう形で捜査が入ったんやし、流出は仕方ないかもな。それで反応は?〉
「やはり量子コンピュータでカウンセリング事業を始めようとしていたことには、拒否反応もある。『機械に人の心が分かるのか』、というような。モニタークライアントたちにも、戸惑いと動揺が広がっている」
〈俺の思てた通りか。カウンセリングにQコンを使うことが、必ずしもセールスポイントにはならない〉
「メールや電話での問い合わせも入ってきてる。うちとしても、声明を出す必要があると思うけど」
〈事実を公表するしかない〉と、小佐薙は言った。〈こうなってしもたら、隠す方がダメージは大きい〉
「予言の検証結果については、どうする? 私たちも、それが元でこんなことに」
〈しかし結果は、予言追認やろ。しかもQコンの計算結果や。そのへんの思い込み発言より、ずっと重い。公表しても、ソウル・オリジンが増長するだけやがな〉
「結局、公表はしないということ?」
〈ああ、その件についてはノーコメントにしとこう〉
明日未は携帯を切り、直美とともに、早速ホームページを修正した。
夜遅く、小佐薙と樋川が戻ってきた。
明日未と直美は、証拠品を押収されて様変わりした事務所内を、ぼつぼつと整理していた。
小佐薙はビギン室で、直美に入れてもらったコーヒーを口にした。
「良かったわね」と明日未が言う。「コーヒーメーカーが押収を免れて」
「ほんまは酒の方がええんやが」
「贅沢《ぜいたく》言わないの」明日未は、彼の肩をたたいた。「まあ、逮捕はされなかったわけだし、良い方に考えれば?」
樋川が煙草を取り出し、ライターで火をつけた。
「確かに国防上の機密は漏洩《ろうえい》しないという条件付きで、いくつかの違反行為を帳消しにしてもらえた。けどそれで、本当に良かったのかなあ」
「どうして?」明日未が聞き返す。
「ソウル・オリジンの予言は、まだそのままだろ。相変わらず世界的危機を吹聴《ふいちょう》し、勧誘活動を続けている。それでまわりが余計神経質になって、かえって危機的状況を招きやすくしている」
「私たちも、こんな目に」明日未は首をかしげる。「でも私たちの量子コンピュータが押さえられたことで、予言は変化しているんだろうか」
「分からなんな」小佐薙は、コーヒーを口にした。「前にも言うたが、地雷は一つやない。それに今度のことも、確かに俺たちのQコンを押さえはしたが、何かおかしいやろ」
「と言うと?」
「まず、あの無人機や。一体、どこの国のものなのか……。詳細は分からんが、何かが動いているのは確かなんや」
「じゃあやっぱり、ソウル・オリジンの言う世界的危機は、回避できないということ?」
「しかしもう、対処の仕様がない」小佐薙は事務所を見まわした。「俺たち民間人が首を突っ込むことでもなくなってきた」
「それが運命かもな」樋川が煙草の煙を吐き出した。「神はいないか、いたとしても沈黙しているしかない。そして存在し得るのは、悪魔。それがさんざん苦労して、僕たちがたどりついた結論じゃないか」
「この危機を起こそうとしているのが、悪魔だと?」明日未が樋川に聞いた。
「それは分からない。どんな奴か知らないが、きっと万能で、自分が正しいと思い込んでいるんじゃないか? 世界的危機がそいつのご意思なら、どうしようもない。人間など、かなうわけがないし、それが運命なら、逆らうこともできない」
「違うやろ」と、小佐薙は言った。「これは、神とか悪魔の問題やない。俺たち人間の問題なんや。それがこんな、危うい世界にしたんやないか。今度のことも、世界的危機で得をする連中が、どこかにいてる。誰が泣こうがわめこうが、みんなそっちへ向かっていきよる。人間なんて、そんなもんやないか」
彼がそう言うと、しばらく誰も発言しなくなった。
「あ、そうだ」樋川が何かを思い出したように、膝を軽くたたいた。「さっき、本社で、大事な話を聞いてきたんだ」
小佐薙は、樋川をにらみつけた。「言うとくが、俺はまだ、あきらめたわけやないからな」
「お前が言いたくないなら、僕が言う。どうせ言わなきゃならないんだから」樋川が煙草の火を、灰皿でもみ消した。「本社の連中は、メンタルヘルス事業の中止を考えている。正式決定は、週明けになるが」
「延期じゃなくて?」と、直美は聞いた。
「何せ、こんなことをやらかしちまったんだからな。一歩間違えば、国際的な大問題になっていた。それから、例の暴露記事のこともある」
「量子コンピュータに、カウンセリングをさせようとしたことですか?」
「それに神作りもな。大筋は確かにあの通りだし、いずれ公表するつもりではいたが、このタイミングで出てしまったのはまずかった。本社も、新規のクライアントは見込めないだろうと言うんだ。何でも機械がやればいいというものではないとな」
「覚悟はしていたけど」明日未が腕を組んだ。「でも、モニタークライアントたちはどうするの? 見捨てるの?」
「集めた金は、返還する」
「それじゃ済まないでしょ。訴訟になる可能性だってある」
「本社もそれは、覚悟の上だ。むしろこれ以上、傷口を広げるわけにはいかない」
「でも、クライアントたちの悩みは……」
「しかし、世界がこれから破滅を迎えるというのに、どんな相談に応じてやれるんだ。フライデイだって、あんなことになってしまった。もし天矛V1が返還されたとしても、もう血の通ったカウンセリングはできるはずがないじゃないか。フライデイのバージョンアップをしたとき、もうこのプロジェクトは、事実上終わっていたのかもしれない」
明日未はそれ以上、言い返さなかった。
「さて、身辺整理でもするか」小佐薙が周囲を見まわして言う。「終わりの始まりに備えてな」
「僕たちにも、ソリジンのご加護があればいいけど」樋川は部屋のドアを開けた。「今日はもう遅い。帰ろう」
九月二十五日の月曜日、樋川の言っていたように、本社から正式な通達があった。
「信じられないわね。開店前に閉店するなんて」
明日未は、モニタークライアントのデータの整理を続けていた。
「仕方ないだろ。僕たち、自分たちの運命さえ予想できなかったんだから」樋川は煙草を取り出した。「まして他人にアドバイスなど……。けど僕たち、神にまつわる本質的なところは、言い当てたのかも」
「自慢にならないでしょ。でも私たちの事業を中止にするということは、本社の量子コンピュータ部門は……」
「ああ。身売り≠フ話を進めることになるな」
「またやけ酒でも飲むんでしょうね、小佐薙さん」
明日未はビギン室の方を見て言った。小佐薙は、今朝から部屋に閉じこもったまま、出てこない。
「ホームページは、当分、開業延期のままにしておいてくれ」と樋川が言う。「いろいろ段取りがあるからな。正式発表は、来月以降になる。個人情報の保護を約束した上で、店じまいだ」
しかしその日の夕方には、ネオ・ピグマリオン廃業のニュースがネット上に流れていた。その後ホームページには、閉店に反対する書き込みが相次いだ。
掲示板に、そうしたモニタークライアントたちのハンドルネームが連なる。一輪車操業、半分教師、セルフ・ピストン、会社は合併症、さすらいのネットカフェ、ワーキング・パー、ローン・アローン、値切りの私、生活保護生物、赤貧ちゃん、ヒグラシの抜け殻、全面安、三文オケラ、時給戦、越年ヤモメ、イケズ後家、ヨメスティック・バイオレンス、グレート・フリテン、てんで間抜けなズボラ神様……。
明日未はそれを、小佐薙と樋川に見せた。
「モニタークライアントたちの悩みや苦しみは、未解決のまま残されているのよ。こうしたニーズがあれば、やっていけるんじゃないの?」
「もう僕たちの出る幕はない」樋川はゆっくりと、首を横にふる。
小佐薙は何も言わず席を立つと、事務所を出ていった。
明日未はあきらめたように、事務所の整理を続けた。
遅くなったので、直美は明日未に許可を得て、先に退社することにした。事務所を出て、駅へ向かう。風が強い。台風が近づいているせいかもしれない。
6
台風十九号は、勢力を保ったまま北西方向へ移動を続け、本州上陸をうかがっていた。
ソウル・オリジンが予言したXデーまで、あと二日に迫った九月二十八日、小佐薙から招集がかかった。
その日の夕方、直美はネオ・ピグマリオンへ向かうことにする。
樋川と明日未も、すでに来ていた。全員、小会議室に集まる。
「やっぱり、俺には納得できない」缶コーヒーを一口飲み、小佐薙が言う。「これから何かが起きるとしても、天災やないのなら、起こすのは人間やろ」
「今さら何の話かと思えば、予言の方か」明日未が横を向いた。「その通りでしょうね。どこかで誰かが、破滅への引き金を引いてしまう。私たちの量子コンピュータも、そこまでは予測した」
「しかし俺には、誰かがそれを起こすとは、思えんのや」
「どうして?」と、樋川が聞いた。
「国やと、特定され、反撃される。反撃されると分かってて、攻撃するか?」
「テロは?」
「それも一緒に考えたやないか。テロとしても、ツールがないやろ。Qコン、しかも相当高性能のが必要になる」
「それを僕たちは、所有していた」樋川は煙草を取り出し、火をつけた。「ただしアメリカの量子コンピュータより、ずっと格下。それでも疑われ、先手を打って押さえられた」
「その通り。つまり、いつ何が起こってもおかしくない状況だとしても、こんなことは誰もやらないはずやし、誰にもできないはずなんや。こんなことを始める奴がいるとは、俺にはどうしても思えない」
「だとすれば、あの予言は一体、何なんだろう」と、明日未が言う。「結局、危機の根本的なきっかけは、分からないままだけど」
「危機を起こす動機があるものは?」
明日未は少し考え、「ソウル・オリジン?」と答えた。「追い詰められ、今まさに暴発しようとしているのかもしれない」
「そうなるな」小佐薙がうなずく。「しかし動機はあっても、ソウル・オリジンにもできないはずなんや。Qコンがなければ」
「あの」直美は小さな声で言った。「量子ゴーストなら……」
「それだよな」樋川が煙草の煙を吐き出す。「前に明日未か誰かが言っていたように、その量子ゴーストが、ソリジンだとすれば……」
誰も反論しない。
そうかもしれないと、直美も思った。量子ゴーストなら、アメリカ国防総省のシステムへも侵入できるかもしれないし、するとアメリカは、報復攻撃を開始するだろう……。
「確かに量子ゴーストなら、手の施しようがないかもしれない」小佐薙が口を開いた。「しかし量子ゴーストそのものが、よう分からんし、それが犯人なのかどうかも分からない。調べてみないと」
「調べる?」明日未が顔を上げた。
「はっきり言うが、ネオ・ピグマリオンは、もう終わりや。アプラDTの量子コンピュータ事業も……。けど、このまま終わりたくはない。じっと座って潰《つぶ》れていくのも嫌や。せやから、再調査に出ようと思う。そして可能ならば、奴らの予言を、くい止める。樋川にはもう、伝えてある」
小佐薙は、樋川の方を見た。
「言っとくが、僕はまだ賛成したわけじゃないからな」
「でもこれ以上、調査することは無理でしょ」と明日未が言う。「量子コンピュータを押さえられちゃったし。アメリカにあるバックアップも」
「あわてるな。押収されたのは、天矛V1や」小佐薙は缶コーヒーに口をつけた。「俺たちには、V2がある」
V2……。直美は頭の中でくり返した。この前格納庫で見た、デルタ翼型の小型機だ。
「でもあれって、未完成では?」と、直美が聞いた。
「いや、俺とエンジニアたちで、何とか組み上げた。製造中というのは、表向きや」
「じゃあ、量子計算もできると?」
「多分」小佐薙の声は、小さくなった。「まだテストはしてないから、ちゃんと動くかどうかは、やってみないと分からない」
「それで大丈夫なの?」明日未が首をかしげる。
「肝心なのは、天矛V2がノーマークということや。ルーティンのテストだと思わせて、飛ばすことはできる。実は、明日も飛ぶことになってる。カムフラージュのフライトプランは、すでに提出済みや」
「しかしV2は、普及型として設計されたものだ」樋川は顔をしかめた。「スペックは、V1を大幅に下回るだろう」
「それでも、|キロ《K》量子ビットはいくはずや」
「けど覚えてるだろ。V1の性能で、予言検証は一杯一杯だったんだぜ。それをV2でできるのか?」
「やってみないと、分からん。データを分割して、フライト回数を増やさんとあかんかもしれない」
「しかし出発前に、完成していると知れたら」樋川がため息混じりに、煙草の煙を吐き出す。「今度は僕たちだけじゃない。本社にも影響は及ぶ」
「予言を阻止できれば、話は別やろ」
「あの、人工知能は?」と直美が聞いた。「天矛ごと押収されてますけど」
「心配するな。V2にはAIが標準装備されている。しかも最新型の、フライデイV2や。それにこっちのホスト・サブスタンスから、バージョン1・1をロードさせる」
「それとクルーは? デルタ翼機だと、クルーも替わるんじゃ?」
「樋川が交渉してくれる」小佐薙が樋川に目をやった。「機長も副操縦士も、事情を知っている奴の方がええやろ」
「問題は、むしろ台風だな」と、樋川は言った。「明日決行する気なら、モロに影響を受けるだろう」
「やるとすれば、命がけや」小佐薙がテーブルをたたく。
「何も僕たちが、命をかけることはないんじゃないのか? 多くの連中が無関心でいるようなことに」
「みんながみんな、無関心なわけじゃないでしょ」と、明日未が言う。「世の中、これじゃいけないと思っている人だって、一杯いる。モニタークライアントたちからも、そうした声があがっていたじゃない」
「けど、こんな金にもならないことを……」
樋川は煙草の火を灰皿でもみ消し、次の煙草に手をかけた。
「あの」直美が樋川に言った。「煙草、やめた方がいいと思いますけど」
「え?」樋川は煙草を口にくわえたまま、直美に顔を向けた。
「前にも一度言ったかもしれませんけど、煙草はやめた方がいいです。やめるのが無理なら、減らした方がいいです。イライラするのは分かりますけど、体によくないですし」
「君が心配してるのは、受動喫煙の方じゃないのか?」樋川はかまわず、煙草に火をつけた。そして小佐薙の方を見た。「しかし量子ゴーストが出てくれば、どうする? そもそも予言は、そいつのご意思なのかもしれないぜ」
小佐薙は、缶コーヒーを飲み干した。「相手が何者だろうと、やるべきやと思う」
「しかし量子ゴーストが悪魔なら、勝てるのは神様だけだ。しかし神は不在か、存在していても沈黙するだけで、助けてはくれない。それが僕たちの得た答えだ」
「それでも俺はやる。粛清《しゅくせい》だろうが審判だろうが、わけも分からず勝手にやられてたまるか。とにかく、すべきことは、危機の正体を突き止め、それをくい止めること」
明日未が手をあげる。「私は行くわよ」
樋川が観念したように言う。「よし、責任は、僕が取ろう」
「お前も来るか?」小佐薙は、直美に言った。「危険手当、出したるから」
彼女が、小さくうなずいた。危険手当はともかく、直美は機長のことを思っていた。今度こそ、ちゃんと言わないと……。
「出発は明日、二十九日の夜」小佐薙は大きな声で、みんなに言った。「何が起きるか分からない。今から明日の夕方まで、それぞれ、悔いのないように過ごせ」
雨も風も、強くなってきていた。
小佐薙は会議終了後、明日未と直美に、「下のコンビニで待っとれ」と言った。「二人とも、樋川の車で近くまで送ってやる」
「誰も送ってやるなんて、言ってないぞ」樋川がつぶやく。「二人はともかく、何でお前まで……」
「私はいいから」明日未が微笑みながら、片手をふった。
直美は帰り支度をしながら、「雨なんだし、送ってもらえばどうですか?」と言った。
「私、先に出るし。じゃ、明日はよろしく。お疲れさま」
直美は、彼女の後ろ姿を見ていた。事業が中止になることに対するわだかまりが、まだ彼女にはあるのかもしれないと思いながら。
その後直美は、言われた通り、一階のコンビニで雑誌を読みながら、樋川の車《RV》を待っていた。ふと顔を上げたとき、向かいのバス停に、明日未が傘をさして立っているのを見つけた。直美は、そんなに意地を張らなくてもいいのにと思って、彼女を見ていた。
しばらくすると、白い外車が、ハザードを点滅させて停車した。ルームライトが点灯する。運転席にいたのは、柴宮機長だった。制服こそ着ていないが、直美が見間違えるはずがない。
明日未は傘を折りたたみ、風を気にしながら、助手席に乗り込んでいった。何気ない仕種《しぐさ》だったが、いつもは男顔負けの彼女が、直美にはとても、女らしく見えた。独断専行の小佐薙や優柔不断の樋川をうまく制御し、実質的に事業を仕切っていたのは彼女だったのだ。そんな彼女が、仕事場では決して見せたことのないような表情を、今、彼には見せている。それだけ、彼のことを信頼し、頼りにしているのだろうと、直美は思った。明日未さんはしっかりしているので、自分よりずっと年上みたいに思っていたけど、確かに機長よりは、年下……。占いにあった、身近にいる年下の女性とは、自分ではなく、きっと彼女だったのだ。
いや、そんなことは薄々気付いていた。少なくとも自分じゃないことは、とっくに分かっていたのである。それを、認めたくなかっただけなのだ。辛《つら》い思いをする前に、もっと早くあきらめておくべきだったのかもしれない。明日未さんなら、機長とはお似合いだ。自分なんかより。自分みたいな、子供より。
直美は、二人が乗った白い外車を目で追っていた。
小佐薙が入ってくる。
立ちつくしている直美を見た彼は、「どないした?」と聞いた。
直美は黙ったまま、首を横にふった。
コンビニの前に、樋川の車がとまっていた。小佐薙は後部座席に、そして直美は助手席に乗り込む。
動き出してすぐ、「止めてください」と彼女が言った。
「え?」樋川が助手席に目をやる。
「私、そこの駅まででいいです」
「ほんまに駅までで、ええんか?」と、小佐薙が聞き返した。
「いいから、止めてください」
樋川は言われるまま、|新交通システム《 N T S 》の高架駅の下に車をとめた。
ドアを開けた直美は、駅へ駆け込んでいった。走っているうちに、涙がこぼれた。こんな姿を二人に見られなくて良かったと、直美は思った。もう、あのバイトへは行けない。まだ後片付けが残っているけど、幸せそうな二人を見せつけられるのは、辛すぎる。
直美は、首を大きく横にふった。二人の仲がうまくいかなければいいと願う自分の意地悪さに、嫌気がさしたのだ。
これが天罰≠ゥもしれない、と思う。神様を作ろうなんて、不遜《ふそん》なことを考えたりするから……。いえ、やっぱり神様なんて、いない。こんなに苦しいのに、誰も助けてはくれないのだから。いるとすれば、きっと悪魔の方……。
気がつくと、直美はホームにいた。改札を通過したことも、彼女は覚えていなかった。
「お嬢さん」
声にふり向くと、赤い顔をした男が、ニヤニヤと笑っている。
「お嬢さん、一人で大丈夫ですか? それとも、これからデートですか?」
酔っぱらいだ。まわりの客は、みんな知らん顔をしている。きっとこの男は、車内でも、自分に付きまとってくるに違いない。
直美は、ホームを駆け降りた。自分を必要としているのは、どうせあんな酔っぱらいぐらいなのかもしれない。
タクシーで帰ろうと思い、彼女は列の最後尾に並んだ。乗り場に、雨が吹き込んでくる。さほど時間はたっていないはずだが、風雨はさらに強くなっていた。あきらめてバスで帰ろうか、それとももう一度ホームへ戻ろうかと思っていたとき、目の前に、見覚えのあるスポーティカーが止まった。
窓を開け、待田が顔を出した。
「誰かと思えば、イコライザーちゃん」彼は微笑みながら「乗りな。送ってやるぜ」と言った。
直美がしぶっていると、手招きをする。
「この雨じゃ、ちょっとやそっとじゃ、タクシーは来ない。遠慮するな」
待田が助手席のドアを開けた。
直美は、彼の車の中に入った。体はもう、びしょ濡《ぬ》れになっていた。ブラウスに下着が透けているのが、自分でも分かる。
待田が、車を発進させた。
「事務所はもう出たみたいだったんで、ひょっとしてと思ってな」
直美は、カーステレオのボリュームを上げた。
「好きな曲か?」と彼が聞いた。
直美は首を横にふる。もう、自分のことが分からなかった。今の自分の気持ちが、待田さんといることで埋まらないと分かっていて、どうして彼の車になんか……。
「本当は、柴宮機長の車の方が良かったんだろ」と、待田がつぶやく。
直美は黙ったまま、彼の方を向いた。
「図星か」と言って、彼が微笑む。「しかし、いきなり機長はないよな。いくら何でも、望み高過ぎ。ものには順番ってのがあるだろ。初級コースとか、中級コースとか」
待田のお喋りは続いた。
「お前に機長は早すぎる。その前にもっと勉強することがあるだろう。第一お前、男のことを知らなさ過ぎる。何なら俺が教えてやってもいい」
直美は返事をせず、助手席にもたれかかっていた。
待田が、車を岸壁の駐車場にとめた。周囲には、他にも数台の車がとまっている。杏里や令子に聞いたことがあった。ここは、カップルの名所の一つだ。晴れていれば、対岸の街の夜景が、よく見わたせる。
今ごろ機長と明日未さんも、あの対岸のどこかにいるのかもしれないと、直美は思った。
ぼんやり窓の外をながめていると、待田が彼女の肩に、手を回してきた。抗《あらが》う気持ちにはなれなかった。もう、どうなってもいいと思う。今のこのモヤモヤが、少しでも楽になるのなら。今の辛い現実を、一時でも忘れることができるのなら……。
待田が直美の体を、自分の方へ引き寄せる。
その時、車の窓ガラスをノックする音がした。
仕方ないといった様子で、待田が運転席の窓を、少し開けた。
そこには小佐薙が、傘もささずに立っていた。
「どうしてここに?」と、待田が言う。
「樋川に言われてな」小佐薙が微笑んだ。「煙草の自動販売機を探してたら、ちょっと見かけたんで」
「嘘つけ」待田が横を向く。
「ほんまは職権|濫用《らんよう》。お前と同じ手口や」
小佐薙は胸ポケットにある、|測位システム《 G P S 》付きの携帯をチラリと見せた。
「おい、色男」小佐薙は待田の肩に手をのせた。「気持ちは分かるが、辛抱せえ。こんな状態の彼女にちょっかいかけるのは、色男の名折れやろ。今日はあきらめろ」
「けど、さっきの電話では」待田が不服そうに言う。「明日は本番だから、今晩は楽しめと……」
「いや、まさか直美を相手にするとは、思わんかった」
「横取りする気か?」
「阿呆。こっちには樋川もおるがな」
「3Pする気か?」
「ええ加減にせい」小佐薙は、待田の車から、直美を降ろした。「ほな」
そして彼女を、樋川の車の後部座席に乗せ、自分はその隣に座った。彼も、ずぶ濡れになっていた。
運転席の、樋川がふり向く。「アパートでいいか?」
直美は返事をせず、両手で顔を覆った。あふれる涙を、どうすることもできない。
「こら、しっかりせんか」
小佐薙は、消費者金融のポケット・ティッシュを彼女に差し出した。
「私なんか」嗚咽《おえつ》しながら、直美は言う。「私なんか、放っておいてくれたらいいのに」
「まだ契約期間中やしな」小佐薙はティッシュを一枚取り出し、鼻をかんだ。「何ぞあったら、わしが困るんや」
「何をしようと、私の勝手です。どうせもう、おしまいなんだから」
「いや、ショックなんは、分かる」
直美は、顔を上げた。「知ってたんですか?」
「誰でも気づくがな」呆《あき》れたように、小佐薙が言う。「気がつかへんのは、自分しか見えてないお前だけや。しかし見てしまうと、認めるしかない……。今は辛いし、自分のことで頭が一杯かもしれへん。けどそんな悩み、あとで考えてみたら、大したことあらへんねんぞ」
「私には、大事なことなんです」
「まあ大体、悩み事っちゅうのは、そういうもんやろけど」小佐薙は、一つため息をもらした。「失恋も一大事やろけど、人類の危機も一大事なんや。明日はよろしゅう頼むで」
車は、直美のアパートに到着した。
「一人で大丈夫なのか?」樋川が聞いた。「といって、僕が泊まってやるわけにもいかないだろうが」
「お願いです。もう一人にしておいてください。どうか私にかまわないで」
小佐薙は、車を降りようとする直美の腕をつかんだ。
「ええか? お前には、ここでまだお前の果たすべき役割が、残っている。俺たちには、そんなお前が必要なんや」
「私の役割?」直美は、首を横にふった。「そんなもの……」
「自分では、まだ気づいてないだけや。せやから、今は辛抱や。今こそ、ふんばれ。確かに俺とお前は、所詮雇い主とバイトの関係でしかない。いつやめようが、お前の勝手や。お前にとって、学校もそうかもしれへん。けど世の中、辛いことばかりやないぞ。いつかきっと、エエこともある……」
直美は小佐薙の手をふり払い、黙ったまま車を降りていった。
雨音に交じって、「明日は頼むで」という彼の声が、後ろから聞こえた。
帰宅した直美は、肌にまとわりつく衣服を脱ぎ、シャワーを浴びた。
パジャマを着ると、そのままベッドに倒れ込む。また、涙があふれてくる。
どうして明日未さんなのだろう、と直美は思った。自分ではなく。しかし、もし自分が機長さんだったら、やはり私よりも、明日未さんを選ぶだろう。
いや、それ以前の問題だ。私は自分の気持ちを、まだ機長さんに伝えることすらできずにいる。自分がやってきたことは、何もかも稚拙でちぐはぐなのだ。愛し方も、その表現も。
直美は起き上がると、化粧台の横のケースにしまっておいた機長のキャンディをつかみ、ごみ箱へ捨てた。
馬鹿な話だと思う。機長の親切を、勝手に愛情だと思い込んでいただけなのだ。考えてみれば、機長さんがキャンディをくれるとき、いつも明日未さんに頼んでいた。ひょっとして私は、彼が明日未さんに接近するための、口実の一つだったのかもしれない。きっとそうだ。
私は、その程度の存在でしかなかったのだ。自分なんか、いてもいなくても、誰も困らない。自分がここに存在している意味なんて、ないに等しい……。もう、何もかもおしまいだ。世界の危機さえ、今はどうでもいいことのように思える。いや、むしろ、もう何もかも終わってしまえばいい。世界がどうなろうと、自分はもう、終わりなのだから。
直美は机の引き出しから、カッターナイフを取り出した。そしてカチカチという音とともに刃を伸ばし、その先を見つめる――。
携帯が鳴った。驚いた直美は、カッターを床に落とした。
令子からのメールだった。
〈元気ぃ? 学園祭、ヨ・ロ・シ・ク・ね。直美のこと心配してるフリして、本当は手が足りないの。会費も足りない(汗……)。じゃ、また〉
他愛《たわい》ないメッセージだと、直美は思った。自分にできることといえば、どうせ店番ぐらいなのだ。それだって、満足にはできない。今は誰にも会いたくないし、どこへも行きたくない。学校へも、バイトへも。落ち込んだ顔を、機長さんには見せたくない。明日未さんにも。
直美は、床に落ちたカッターナイフを見つめた。そして死ぬことの、何と容易なことかと思う。それに比べて……。
自分の今の気持ちをどうしてよいか、自分でも分からなかった。この苦しみから自分を救い出してくれる存在も、見当たらない。
神? それさえ、自分たちでわざわざ不在を証明してしまったのだ。
無数の雨粒が、窓にぶつかっては流れ落ちている。
直美はふと、雨音に交じって聞いた小佐薙の言葉を思い出した。
お前が必要。まだお前の果たすべき役割が、残っている――。確か、そんなことを言っていた。でも、こんな私にできることなんか、何もないのに。
彼女は、机に顔を伏せた。
台風十九号は、中心気圧九百二十ヘクトパスカル、最大風速五十メートルという勢力を保ったまま、本州に上陸していた。
九月二十九日の夕方、クルーたちは、空港ビルに集合した。
直美はまだ来ない。
「やっぱり、台風の影響かな」と、明日未がつぶやく。
窓の外は、何もかもが御破算になるのではないかと思えるほどの雨が降っていた。
「所詮、バイトさ」ふてくされたように、待田が言う。
彼女には、もう少し様子をみてから携帯へ連絡してみることにして、小佐薙はブリーフィングを始めるよう、指示した。
「空港は、全便欠航のままだ」柴宮機長がみんなに説明した。「天矛V2の整備は終えている。出られるかどうかは、管制官の判断次第。それまで機内で待機だな」
「早く出ないと、審判の日≠ノなっちまう」と、樋川が言う。
「すぐには無理だ。ドップラー・レーダーが、|風の急変域《ウインド・シア》を観測している。しかしこの雲行きだと、台風の通過を待って、深夜には出られるかも……」
そのとき、直美が到着した。
頭を下げ、小さな声で、「遅れてすみません」とみんなに言った。
「やっと来たか、若き女ウェルテル」小佐薙が微笑む。「おい、ウェルテル坊主。何とか天気にしてくれ」
「それは、てるてる坊主だろ」と、樋川が突っ込む。
二人だけが笑っていた。
直美は、柴宮とも明日未とも顔を合わさないように、顔を伏せていた。
「どうする」窓の外を見ていた樋川が、小佐薙に言う。「飛行許可が出ても、この風だ。量子コンピュータをうまく動かせるかどうか」
「気流の安定したところまで行けばええがな」
樋川は、テーブルの気象図を見た。「どこだ?」
「ここや」小佐薙は、台風の目を指さした。「とにかく、この前の続きをやってしまおう。何がどこで起きるのかを予測し、その上で対策を練るんや」
「もし、飛行許可が出なければ?」と、明日未が聞いた。
「許可は関係ない。飛ぶに決まっている」小佐薙は、柴宮を見て言う。「せやから俺は、こいつと組んだんや」
柴宮は無言のまま、大きくうなずいた。
「でも今度は、免許剥奪《ライセンスはくだつ》ぐらいじゃ済まないかもよ」
明日未は心配そうに、二人を見ていた。
その後クルーたちは、格納庫へ向かう。|詰め所《ステーション》の更衣室で、いつものように| 耐 《プロテクション》Gスーツに着替えた。別に見るつもりはなかったのだが、つい、明日未の方に目がいってしまう。やっぱり奇麗《きれい》な人だなと、直美は思った。
最終打ち合わせを終え、デルタ翼機に向かう。全長約四十メートル、全幅約三十メートルの天矛V2は、V1に比べ、かなり小さく見えた。
「コンパクトだが、その分、機敏に動ける」待田が、直美の肩をたたいた。「ドライブはできなかったが、また君とフライトできて、うれしいぜ」
明日未が彼の耳を引っ張り、直美から引き離した。
貨物機ベースのV1とは違い、V2にウイング・カーゴ・ドアはない。みんなは機体に横付けされたタラップ車から乗り込んだ。
客室は、機械室に改造されていた。機体の中央を、背骨のように線形加速器が貫いている。そしてその周囲には、スパコンやフライデイV2のサテライト・サブスタンスなどがぎっしりと並んでいた。
それらをくぐるようにしながら、コックピットへ向かう。かなり狭く感じられたが、座席のレイアウトそのものは、天矛V1と同じだった。機首に機長、副操縦士席。中央には小佐薙の席。その左が明日未、右が樋川の席である。そして直美は最後部だった。久遠V2も、コックピットと機械室とを隔てる壁の中央に、太い木の幹のように設置されている。
そのすぐそばに、V1よりも小型でスマートになった、白いボディのフライデイV2Mがいた。ただし中身は、バージョン1・1をコピーしてある。クラッシュしたV1のデータも、干渉しないよう注意しながら、サテライト・サブスタンスに保存してあるという。
小佐薙は、機械室で調整作業を始めた。
「ちゃんと計算ができるかどうか、不安になるな」と、樋川がつぶやく。
窓の外は、暴風雨が吹き荒れていた。機内でのスタンバイが続く。
しかし、そうしているうちに、雨が小降りになり、風も収まってきた。台風十九号は、日本海へ抜けたようだった。
管制官からコックピットに、飛行許可が伝えられた。
「運航再開」柴宮機長が、ヘッドカムからクルーに言った。「天矛V2は、その第一便だ」
「すまん、まだ調整に手間取っとる」機械室の小佐薙が言う。「とにかく出発してくれ」
エンジンを全開にした天矛V2は、速やかに離陸していった。
次の瞬間、風にあおられたのか、機体が大きく揺れる。
直美は悲鳴をあげた。V1に比べて小型なので、余計にそう感じるのかもしれない。
ヘッドカムから、機械室の小佐薙の声がした。
「おい、まさか鬼門に向けて飛ばしてるんとちゃうやろな」
「心配するな、ちょっとズレてる」待田が微笑む。
「早く雲の上へ出てくれ。こないに揺れたら、仕事にならん」
「簡単に言うな。台風の雲の上だと、場合によっては一万五千メートルまで行かないといけない。巡航高度よりも高い」
「駄目なのか?」樋川が心配そうにたずねた。
「もちろん、行く」と、柴宮が答えた。
天矛V2は、直径およそ六百四十キロメートルの、台風十九号の中心に向かって飛行を続ける。
日付はいつの間にか、九月三十日の土曜日に変わっていた。
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6 人間
1
空には、星が見えている。雲の下の嵐がまるで嘘《うそ》のように、直美には思えた。間もなく、午前二時になる。
「このまま北へ飛び続けると、領空侵犯してしまうんじゃないのか?」樋川が聞いた。
「それまでに決着をつけよう」柴宮は、前方を指さした。「ほら、見えてきた」
直美も、窓越しに確認することができた。雲がまるで抽象画のように、渦を巻いている。
「大型だから、目≠烽ヘっきりしている」と待田が言う。「降下《ダイブ》はできるだろう」
機械室にいる小佐薙が連絡してきた。「早速、量子CPUの初期化《イニシャライズ》にかかってくれ」
「ちょっと待て」柴宮の落ち着いた声がした。「左翼に機影。レーダーに反応はない」
「ステルスかいな」
直美も外を見てみた。確かに小型機らしき影が複数並走しているようだったが、位置灯《ポジションライト》も点灯していない。
「前と同じ、無人偵察用航空機《 U S A V 》のようだな」待田が言う。「しかし今度は、五、六機はいるぜ。どうしてこんなに」
「V2が完成していることが、バレたんじゃないか?」樋川の声が震えていた。「僕たちがテロを仕掛けるんじゃないかと疑ってるんだ」
「じゃあまた、威嚇《いかく》してくるかもしれんな」
「通信は?」
「今のところ、何も」
小佐薙が操縦室《コックピット》に戻ってきた。「とにかく、量子CPUを初期化してしまおう」
「無茶な」樋川が首を横にふる。「そんなことをしたら威嚇どころか、攻撃してくるかもしれない」
「いや、攻撃はせんのとちゃうか」
「確かか?」
「いや。しかしあいつらの狙いが俺たちかどうかも、まだ分からんやろ」
「そんな。このV2に決まってる」
「そうかな。俺たちを追いかけて出てきたにしても、早すぎへんか?」
「そう言えば」待田がUSAVの編隊を見つめる。「向こうもこっちに気づいているはずだが、まだ何もアクションを起こしてこない」
「せやろ」小佐薙が言う。「あいつら、俺たちより先に、ここにいたんとちゃうか? とすれば、奴らの目的も、俺たちやない」
「いや、考えられない。どうして奴らがここにいなきゃならん?」
「にらみ合っていても、埒《らち》が明かない。どう出るか、見てみよう」
ヘッドカムから、明日未の声がした。「量子CPU、初期化準備OKです」
「よし」
柴宮はそう言うと、天矛《てんむ》V2を急角度で上昇させた。そしてエンジン出力を急激に下げる。| 弾 道 飛 行 《パラボリック・フライト》を開始した天矛V2は、やがて台風十九号の目の中へ突入していった。
再び明日未の声が、ヘッドカムに響く。「量子CPU、初期化確認」
V2は水平飛行を経て、螺旋《らせん》を描きながら、再び上昇に転じた。
「やはり攻撃はしてこないな」と、小佐薙が言う。
しかし、量子計算を始めれば分からないのではないかと、直美は思った。
「おい、何かいるぞ」空を見上げていた待田が、操作卓《コンソール》をチェックした。「レーダーに反応なし」
「またステルスか」樋川も窓から上を見た。「さっきのUSAVだろ」
「いや、そうじゃない」待田が首を横にふる。「もっとデカい……」
直美も外を見てみた。すると天矛V2のほぼ直上に、月明かりを背景にした黒い巨大な影が見えた。
「あれは、ペガルス……?」樋川がつぶやく。「米軍基地にあった、ステルスタイプの全翼輸送機か」
「ただのステルスやない」と、小佐薙は言った。「全長八十メートル、翼幅百五十メートルの化け物や」
「それが何故《なぜ》、ここに……。僕たちを追いかけて?」
「まさか」小佐薙は吹き出した。「奴も、先にいた可能性がある」
見ると、ペガルスの周囲に、USAVが徐々に整列していった。
「USAVに対して、ペガルスはまったく無警戒だな」待田がつぶやく。「まるで旗艦と護衛艦だ。やっぱりあいつら、グルじゃないのか?」
「じゃあ、この前出くわしたUSAVも、アメリカのものだと?」樋川が窓に顔をつけた。「何で輸送機が? 新兵器でも運んでいるのか?」
しかし直美は、ミサイル程度なら、もっと小型の輸送機でも十分じゃないのかという気がしていた。
「何か私たち……」明日未がつぶやくように言う。「台風という誘蛾灯《ゆうがとう》におびき寄せられた、害虫みたいじゃない?」
樋川が彼女の顔を見た。「じゃあひょっとして、連中の荷物も……」
「荷物は多分、私たちと同じ」明日未は軽くうなずいた。「量子コンピュータよ」
小佐薙が急に笑い出した。「しかも俺たちと同じ、光解析《LA》型やろ」
「するとあれは……」樋川は黒い機影を見上げた。
「そう、天矛V1のコピーや。性能はV1と互角かもしれんが、このV2よりは上やろな」
「メーカーは?」
「もちろん、ウチやない」小佐薙は、首を横にふる。「おそらくライバルの、|ATNA《アトナ》か、|HEMR《ヘムラ》……。むしろ問題は、スポンサーや」
「……アメリカ?」
「ああ。連中、秘密裏に俺たちの方式を研究していた。そして俺たちと同じように、誰にも邪魔されず、かつ気流の安定した場所を求めて、ここへ」
「するとあのUSAVは、テストに使うんじゃない?」明日未が言う。「私たちも、そんなテストはやったでしょ」
因数分解応用鍵――|FAKe《フェイク》をかけたターゲットのことではないかと、直美は思った。
樋川は舌打ちをした。「何故、アメリカが光解析型を?」
「アメリカほどの大国なら、すべての方式を研究するのは当然かも」と、明日未が答える。
「しかし連中が採用しているATNA社の|シリコンベース《 S B 》方式は、僕たちの光解析型より、スペックではるかに勝っている。それが何故、光解析型の研究を……?」
「ペガルスから通信」と柴宮が言った。「フライトプランに対する照会だ。そして速やかに、当該エリアからの退去を勧告している」
「あっちもきっと、面食らっているんや。俺たちがここへ来たことに」小佐薙は微笑《ほほえ》みを浮かべた。「しかしあいつらに、勧告も命令もされる筋合いはないで。許可逸脱は、お互いさまやないのか」
「どうする?」
「ここで引き下がるぐらいなら、最初から出るかいな。退去勧告は、奴らが何かヤバいミッションをかかえてると、白状しているようなもんや。おそらく、最重要機密」
「おい、ウチの国は、何してるんだ?」
「自動警戒管制組《バッジ》織システム等で、察知はしているはずや。けど、国籍不明ではないので、監視継続というところやないか?」
「ペガルス搭載の量子コンピュータなんて情報、どこにも出てなかった」明日未が首を横にふる。「早速、次の未来予測のデータに追加しておかないと」
しかし直美は、あの巨大ステルス機が、ソウル・オリジンの予言とどう関係するのか、よく分からずにいた。
「よし、試行《トライアル》してみよか」小佐薙がみんなに言った。「このV2のテストを兼ねてな。スペックではV1にかなわんが、危機の正体も、今度は詳しく分かるかもしれへん」
「やれるのか?」と、樋川が聞いた。
柴宮が、ペガルスを見上げる。「リスキーだが、できないことはない」
「前回の検証飛行以降の新情報も追加してくれ」小佐薙が明日未に言う。「ネットワークに侵入すれば、もっとデータを拾えるやろ。特に米軍関係の機密情報が欲しい」
「了解」明日未が冷静に答えた。
「それから直美」小佐薙はふり向いて言った。「衛星回線でうちのホームページを開けて、ソウル・オリジンのその後の動きについて、モニタークライアントたちに聞いてみろ」
「あ、はい」直美はコンソールを操作した。「すでにいくつか、内部情報をリークしてくれているみたいですけど」
「よし、それも確からしいものは、入れてみるか」小佐薙は、膝《ひざ》をたたいた。「今度こそ、ソウル・オリジンの予言の正体を見極めよう」
柴宮は、天矛V2を急上昇させた。
USAVが、何機か追尾してくる。
「気にするな」と小佐薙が言う。「先に攻撃はしてこないだろう。一触即発には違いないがな」
その後エンジン出力を落とし、再び台風の目へ突入していった。久遠《くおん》の計算終了とともに水平飛行に転じた天矛V2は、解析を継続しながら、螺旋を描いて上昇を始めた。
依然として、USAVはついてきている。
「結果が出ました」と明日未が言う。
コンソールのディスプレイを、小佐薙がのぞき込んだ。
「ふうん、データを追加しただけのことはあるな。やはり可能性として、あれが一番ヤバそうや」
直美もディスプレイを見てみた。
久遠V2の解析によると、ペガルスの量子コンピュータの発注者は、国防総省《ペンタゴン》より国家安全保障省《 D I S 》の可能性が高いらしい。そして量子コンピュータのメーカーは、HEMR社ではなく、アメリカ企業であるATNA社の可能性の方が、はるかに高いという。
そして九月三十日は、彼らの新型量子コンピュータのテスト日だった。この日の気象条件を、邪魔が入りにくく好都合なものとして、彼らも逆に利用したようだ――。
「うーん」樋川が唸《うな》り声をあげた。「問題はやはり、何故アメリカが導入しなかった光解析型を、自分たちで秘密裏に開発しているのかということだな。国防総省はもちろん、DISもすでにATNA社のシリコンベースを採用しているのに」
「この久遠V2の推察通りやと思う」小佐薙は、ディスプレイを指ではじいた。「シリコンベースは、ペーパー・タイガ――張り子の虎《とら》やったんや」
「張り子の虎?」待田が聞いた。
「見かけ倒しや。ATNA社のシリコンベース方式は、スペックは公表されているが、技術公開されていない。しかしもし、公称データよりスペックが低いとしたら?」
待田がふり向いて言った。「つまり捏造《ねつぞう》だと?」
「以前から、そういう噂《うわさ》がないわけではなかった。俺たちは、首をかしげていたんや。シリコンベース方式には、まだ技術的な壁があって、公表されているようなスペックは出せないんやないかと。しかし|量子コンピュータ不可侵条約《 I B T Q 》などのため、スペックを理解し合う機会が得られないままやった。下手にちょっかいをかけて、報復されるのはたまらんからな」
「じゃあ、国防総省やDISの量子コンピュータは?」
「ATNA社が『破れない』と言っているから『破れない』とみんな思っとるだけで、実際は誰も試してない」小佐薙はニヤリとした。「案外性能は、光解析型の方が上やったりして」
「それって、大問題じゃないの?」と明日未が言った。「こっちには計算時間の問題とかはあるけど、瞬間最大値では、国防総省やDISの量子コンピュータを上回る可能性があるということでしょ」
「ああ。とすれば、天矛V1の押収も、納得できる」小佐薙は軽くうなずいた。「連中、シリコンベース方式の課題を伏せる一方で、光解析型の研究もしてたんや。それでまず、天矛V1のコピーを作った。そしてDISに納入すべく、テストを始めた」
「しかし何故、わざわざ日本で?」と、樋川が聞いた。「確かにATNAは、日本にも支社があるが」
「パーツは、日本の方が調達しやすいし、性能もいい。俺たちが光解析型を作るために一から築き上げた基盤を、あいつらも利用した」
みんなの会話を聞いていた直美は、だんだんと話が具体的で醜くなっていくような気がしていた。
「奴らの今回の目的は、テストだけなのか?」樋川が小佐薙に言う。「危機と関係するんじゃないのか? |電磁パルス《 E M P 》戦のきっかけになるのは、アメリカの可能性が高いんだろ」
「しかし、アメリカが先に仕掛けるわけがないやろ。それに連中のQコンは、まだテスト段階みたいやし」
「しかしソウル・オリジンの予言を知っていながら、その日にテストをしなくても」
「というか、彼らは予定通り、テストをしているだけやろ。あやふやな予言を、避ける理由がない」
「テストであれ何であれ、高性能の量子コンピュータが作動するわけだろ。その実験スタッフのなかに、予言通りのことを起こそうとする輩《やから》が紛れ込んでいたら……」
「まさか、そんな」明日未が笑う。
「じゃあ、テロは? クルーにテロリストが紛れ込んでいれば」
「考えられんな」小佐薙は即座に否定した。「そんな奴がいたとしても、ペガルスに乗り込めるとは思えん。もっと早い段階で見つかっているはずや。しかし」
「しかし?」樋川が聞き返す。
「このテストのことを知っていれば、それにソウル・オリジンがつけ入る可能性は考えられる。実際、今日を予言の日に設定してきよった」
「動機はあるけど、どうやって?」明日未が聞いた。「外部からシステムに侵入《ハッキング》するとしても、それが可能な人間は、極めて限られてくるわよ。政府要人や官僚……」
「あるいは、量子コンピュータの技術者《エンジニア》やな」
「メーカーのATNAに、ソウル・オリジンが?」
「発注した国側にも、入り込んどるかもしれん」小佐薙が、みんなに言った。「データをさらに追加して、もう一回トライアルや」
天矛V2が、再び急上昇した。USAVもまた、数機が追尾してくる。
それを無視して、二度目のトライアルを開始した。その後、明日未が解析結果を、クルーたちのディスプレイに表示させた。
「久遠の予測も、大体私たちと同じみたいですね」
「読めたな」と、小佐薙が言う。「予言でも何でもない。クライシスは起きるのではなく、あいつらが起こすつもりなんや。ペガルス搭載のQコンを利用して」
待田は、ペガルスを見上げた。「あれを外部から操作すると?」
「鍵を泥棒に渡すようなもんやがな。Qコンみたいな難物、どうしてもエンジニアまかせになる。それも、扱える人間にしか扱えない。それで奴らは、自分たちが使えるQコンを手にできた」
小佐薙は説明を続けた。つまりアメリカ国家安全保障省は、秘密裏に開発した量子コンピュータを、ソウル・オリジンに利用されようとしているというのだ。そして彼らは、明らかな侵入の痕跡《こんせき》を残して国防総省かどこかにハッキングし、それを外部の仕業と見せかけて、アメリカに報復攻撃をさせるように仕向ける……。
「ハッカーは、他国でもテロリストでもない」樋川が小佐薙を見てつぶやいた。「自分の国の、開発中の量子コンピュータだと」
「ただしアメリカが、身内にハッキングされてるとは気づかない。いや、ペガルスのクルーたちも気づかないはずや。ソウル・オリジンは、ハイジャックをやらかすんやない。予定通りのテスト・フライトに見せかけて、ハッキングを仕掛けるんやから。そのプログラムの中に、自分たちのコマンドを割り込ませる。クルーたちはそれに気づかず、テストを開始する」
「それが掟破《おきてやぶ》り≠ネことをやらかして、アメリカを怒らせる……。それでハッカーの濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せられるのは?」
「中国みたいやな。もし後で間違いだったと分かっても、自国の不祥事《チョンボ》なら、絶対、公にしないやろ」
「あとは泥仕合か……」
「ああ。緊張状態がエスカレートしながら、長く続くことになる。そうなれば、いや、きな臭くなるだけでも、奴らは助かる」小佐薙は、コックピット後部にある、久遠に目をやった。「Qコンは、単に高性能なコンピュータというだけやない。それを手にするということは、破滅の|引き金《トリガー》に手をかけることでもあるんや。それを引くかどうかは、扱う人間次第……」
「お前も、かなり危ないと思うが」樋川が微笑みながら言う。
「向こうには、お前らみたいな、しっかりしたブレーキがなかったんやろな」小佐薙は、コックピットのクルーたちを見まわした。「それで暴走した……」
「あの」直美はこわごわ、小佐薙にたずねてみた。「すると、ソリジンによる救済というのは?」
「予言が嘘なら、ソリジンも嘘やろ」小佐薙が呆《あき》れたように言う。「何がソリジンの御心《みこころ》や。諸神の上位概念とあいつらは言うとるが、実際は、ソウル・オリジンの――つまり人間の企《たくら》みでしかない」
「じゃ、この前私たちにハッキングを仕掛けてきたのは? 量子ゴーストの正体は、ソリジンではないということですか?」
「ソリジンは、ソウル・オリジンによるでっち上げや。しかし量子ゴーストというのは、あいつらがペガルスのQコンに忍ばせた、ソフトの可能性はある」
「量子コンピュータの、ソフト……」
「ああ。それなら、たとえばこっちのノイマン型に侵入し、量子CPUにメッセージを書き込める。その証拠を、ノイマン型から消すことも」
直美は、体から力が抜けていくのを感じた。
ソリジンは人間が作り上げたもの、量子ゴーストは量子コンピュータのソフトという彼の説明が、彼女にも分かりやすかったからだ。ソリジンは、存在してはいなかったのだ。また量子ゴーストも、超越存在などではなかった。すべては神ならぬ人間の仕業であり、そこに存在していたのは、人間の思惑だったのである。
「しかし」樋川は首をかしげた。「前回、侵入してきたのがソウル・オリジンなら、もっと積極的な破壊工作ができたんじゃないのか? 何も『魔笛』の序曲なんか送らずに」
「まだテスト段階だったんやないか」と、小佐薙が答えた。「しかし、今の技量《スキル》も分からんし、次に侵入してきたとき、何を仕出かすかも分からん」
「いずれにせよ、ペガルスを止めないと。ペガルスのクルーは、それと気付かずにテストを始めようとしているんだろ。彼らは、自分たちとこの世界を守る気でいるのかも知れないが、今世界で一番危ないのは、彼らのやってることじゃないか」
「誰にも止められないんやないか。むろん、俺たちにも」
「連絡ぐらいすれば」と、明日未が言う。
「無駄や思うけど」
「やるだけやってみます」
明日未は樋川と手分けして、関係各機関に通報した。間もなくアメリカ中枢部に、他国からと思われるハッキングが予想されること。その標的としては、国防総省の可能性が高いこと。犯人はおそらく、アメリカのDISが開発した量子コンピュータを悪用した、ソウル・オリジンであること。よって、システムが操作可能な状況であれば、他国に報復してはならないこと。そうしたことを簡潔にまとめ、久遠V2による予測データを添付したのだ。
「信じてもらえんやろな」小佐薙はつぶやいた。「それに、通報しても無意味やろ」
「どうしてですか」と、明日未がたずねる。
「アメリカ自身にも、防ぐ手だてはないやないか。もし国防総省のQコンが、あのペガルスに劣っているとすればな。第一、怪しいのは俺たちの方や。俺が国防総省やとしても、ペガルスの方を信じるで」
しばらくして、天矛V2に再び退去勧告が届いた。今度は従わない場合、撃墜の可能性も示唆していた。
「やっぱりな」小佐薙が舌打ちをした。「あいつら、そんなテロ行為をやらかすのは、俺たちやと思とる。今の通報かて、見方によっては犯行予告やがな」
「今、スクランブルをかけやがった」と待田が言った。「今度は正真正銘、米軍管轄の無人機《UAV》らしい」
「つまり、もうじき別な敵機が来るというのか」樋川がぽかんと口を開けた。「それで僕たちは、そのどっちからも狙われると?」
「ただの脅しや」平然として、小佐薙は言う。「本当に落とす気なら、イージス艦の対空ミサイルという手もあるはずやろ」
「自衛隊に守ってもらえないか?」
「お前、何、考えとるんや。ただしうちのQコンを使えば、自衛隊のUAVぐらい、スクランブルをかけさせることはできるが」
「おい、僕たちが勝手にそんなことをしていいのか?」
「そんな議論をして遊んでる場合か」待田が言った。「確かなのは、俺たちの行動によって、米軍がスクランブルをかけたという事実だ。これがソウル・オリジンの思惑かどうかは知らんが、奴らが予言した危機的状況を招いているのは、ひょっとして俺たちなんじゃないのか?」
「それはヤバいなあ」小佐薙は頭に手をあてた。「確かに久遠V2の予測が外れていることも考えられる。もしそうなら、本当に俺たちが世界的危機のきっかけになる可能性も出てくる。下手には動けんわけや」
時刻は、午前三時を過ぎようとしていた。
その時、ペガルスは急上昇を開始した。
2
「テストを決行する気だ」待田がペガルスを見上げた。
「止めないと」と、明日未が言う。
「無理だ。USAVが妨害しにくる」
小佐薙が面倒そうに、「だから、先に攻撃はしないはずや」とつぶやいた。
「いや、分からない」
「見逃していいの?」明日未が小佐薙の方を見た。
「実際問題として、どないして止めるねん。天矛V2は、戦闘機とちゃう。できるのは体当たりぐらいやろ。それにさっきも言うたように、俺たちの予測は、あくまで予測でしかない。こっちから先に仕掛けると、それこそ終わりの始まり≠竅Bソウル・オリジンが関与したという証拠をすべて失うこともあり得るし、手の出しようがない。しかし……」
「しかし、何なの?」
「何が真実かは、これではっきりしてしまう」
ペガルスは上昇を続け、視界から消えようとしていた。
結局、天矛V2は、旋回を続けることにした。ペガルスがテストを行うのなら、再び降下してくるという読みである。
事実ペガルスは、弾道飛行を開始し、台風の目の中へ突入してきた。やがて水平飛行に転じ、天矛V2同様、一定の高度で旋回を始めた。
「何も起きないな」樋川がつぶやく。「久遠V2の予測は、やっぱり間違ってたのか?」
「通信です」明日未が小佐薙に言う。
「どこからや」
「アメリカ合衆国、国防総省」
「それで?」
「ハッキングされたと」明日未は、同時通訳しながら伝えた。「DISを通じてペガルスへ問い合わせてみたが、連絡がつかないと言っています。それでこっちへ」
「連絡がつかない?」小佐薙が首をひねる。「とにかく今の状況を伝えてやれ」
「了解」
「だから言ってるのに」樋川が大きなため息をもらした。「これで僕たちの言ったことも、信じてもらえるはずだ」
「手遅れやけどな」小佐薙は、中途半端に両手を広げた。「それに、俺たちに対する疑いも、まだ完全に解けたわけでもないやろ」
「しかしあいつら、ペンタゴンにハッキングできたということは、他のどの国のシステムへも侵入できるということじゃないのか?」
小佐薙は黙ったまま、軽くうなずいていた。
「当たりですね」と、明日未が言った。「侵入者を追跡調査し、EMP弾による報復指示が自動的に出たと言っています。それでシステムを止めにかかったが、制御不能だと」
「何でや?」小佐薙は明日未の方を見た。「マニュアルでもあかんのか?」
「暗号鍵|FAKe《フェイク》≠フコードが、報復システムが動き出した後に変えられたらしいですね。それで内部の関係者も、開けられなくなっている」
「国防総省が自分たちのコンピュータを動かせないだと?」樋川が呆然《ぼうぜん》として言った。「おいおい、大丈夫なのか」
「そのためにあるのが、量子コンピュータやろ」小佐薙が微笑む。「ご自慢のATNA社のQコンで、FAKeのコードを解けばええやないか」
「分かってるくせに」明日未は少しムッとしたように言った。「やってみたそうですけど、彼らのシリコンベース方式のスペックでは、まだ解除に成功していないそうです」
「コードの変更までは、予測していなかったな」樋川は頭の後ろで、両手を組んだ。「こっちの読みが甘かった。あいつら、予想以上に追い詰められていたのかもしれん」
「きっと、強引に、状況≠起こしてしまうつもりやな」小佐薙も、両手を頭の後ろにまわした。「ペガルスと連絡が取れなくなったのも、そのせいやろ。ひょっとして、すでに奴らのコントロール下にあるかもしれへん」
「いよいよ、危機的状況か。あいつら、とうとうマッチに火をつけやがった」
「まだよ」明日未が首を横にふる。「今なら燃えているのは、マッチの先だけ」
「よし、こっちも行くで」
「行くって、どこへ?」
「EMP弾の発射を止めるんやがな」
「どうやって? さっき自分で無理だと」
「いろいろと事情が変わってきた。とにかく、ソウル・オリジンが国防総省にかけた鍵を、開けてやろう。そしたら向こうで、何とかするやろ」
「いいのか?」樋川が心配そうに聞いた。「それこそ僕たちがハッカーだと疑われることになるぞ」
「難しいことはよう分からんが、物理的には可能や。Qコンなら、こっちにもある」
「しかしスペックは? このV2は、型式こそ新しいが、せいぜいメガ《M》量子《キュ》ビット台だ。それなら、シリコンベース方式でも達成しているかも」
「やってみんと分からんやないか」
「救援要請もない」
「そんなもん、あるわけないやろ。しかし、放ってはおけん。ソウル・オリジンに暴走を許したらあかんのや」
小佐薙は、フライデイV2にジョブを指示した。
柴宮が、天矛V2を上昇させる。
「国防総省からです」明日未が小佐薙に言った。「モニターしていた担当者の話では、EMP発射シークエンス以外に、何らかのプログラムが紛れ込んだ模様だと」
落ち着いた声で、小佐薙が答えた。
「ハッキングできるんやったら、それぐらいのことはできるやろ」
「ウイルスか?」樋川が聞いた。「あいつら、何をするつもりなんだ」
「USAVの様子がおかしい」柴宮の声が、ヘッドカムから聞こえた。「何機かが、こっちへ異常接近してくる」
直美が窓の外を見る。確かに小型の黒い無人機の姿が、はっきり確認できた。衝突すれすれまで近づき、威嚇している。
「ペガルスのクルーが動かしているのか?」樋川は窓に顔をくっつけた。「それとも、他の誰かに操作されているのか?」
「攻撃はしてこないと思うが」小佐薙が微笑む。
「まだそんなことを。どうしてそう断言できるんだ」
「こっちが最新型のQコンを搭載していることは、とっくに向こうも気づいているに違いない。そんなお宝は、無傷で手に入れたいはずや」
「本当にそう思うか?」
小佐薙は、首を横にふった。「いや、分からへん」
その後天矛V2は、三回目の弾道飛行体勢に入った。自由落下を続けながら、久遠V2の量子計算の完了を待つ。
「V2のスペックで、国防総省のFAKeが開けられるかどうかだな」樋川が不安げにつぶやく。「デコヒーレンスが起きれば、それまでだ」
「計算終了」と明日未が言う。
直ちにスパコンによる解析と検算に取りかかった。出力された新コードを、明日未が国防総省へ送信する。
「通信です」明日未は小佐薙に報告した。「EMP弾の発射シークエンス、停止確認」
「おいおい、楽勝やんけ」ニヤニヤしながら、小佐薙が横を向いた。
「でもこれって、いけないことなんじゃないですか?」直美がポツリと言う。「今はコードを伝えただけですけど、直接開けることもできたんですよね」
樋川は小佐薙の顔を見つめた。「つまり、こいつの命令一つで、てことか……」
「そう。同時にプログラムもいじれば、何でも発射できた。ドビュッ、ドビュッとな。けど国防総省は、もう鍵をかけ替えたはずや」
「これで一件落着か?」
「また連絡が」と、明日未が言う。
「礼には及ばん」小佐薙は、右手をブラブラとふった。
「そうじゃありません」明日未は叱《しか》るように言った。「例のウイルスについての報告です」
「何か影響が出たんか?」
「いえ、新たにファイア・ウォールを立ち上げ、作動直前でくい止めたそうですが」
「それで一体、何を送ってきよったんや?」
「まだあっちで解析中らしいんですけど、大方の見方としては、ソウル・オリジンの第二波攻撃として仕込まれた、サイバーボン≠フ一種ではないかと」
「サイバーボン?」樋川の声がひっくり返った。「何じゃそれは」
小佐薙が説明する。
「今見た通り、Qコンがあれば、世界中のノイマン型システムへ侵入可能や。そこからさらに、データを破壊することもできる。それがいわゆる、電脳爆弾《サイバーボン》やな」
「じゃあそのウイルスは、システム破壊が目的だったのか?」
「それでも、報復の連鎖になる」小佐薙は、あごに手をあてた。「やはり、終わりの始まり≠竅Bあいつら、先の手まで考えていやがった」
「そんなことが可能なのか?」と、待田が聞いた。
「ええ」明日未が軽くうなずく。「ミサイルなら、避《よ》けたり迎撃したりできるかもしれない。けどサイバーボンからは、逃れようがない」
「つまり、量子コンピュータそのものが、兵器になるんや」小佐薙は、眉間に深い皺《しわ》を寄せた。「情報化社会においては、核に匹敵する……」
最高性能の量子コンピュータを手にするということは、世界を支配したのも同じことだと、彼は言った。そしてサイバーボンは、アメリカも秘密裏に計画していたことがうかがえるという。全翼ステルス機、ペガルス搭載の量子コンピュータは、その試作品《プロトタイプ》ではないかと彼は考えていた。兵器ユースとして見た場合、移動できる方がむしろ、都合が良い面もある。
「見えない爆弾を搭載した、見えない兵器か」樋川がつぶやく。
「ああ。DISが開発した、最新鋭の秘密兵器やな」小佐薙は窓の外に目をやった。
ペガルスは、天矛V2の数キロ下方で、ゆるやかに旋回していた。
「それを今、ソウル・オリジンが裏で動かしている」樋川も窓に顔をつける。「そしてそれは、現時点で史上最強の量子コンピュータ兵器の可能性がある」
「今の攻撃はくい止めたが、サイバーボンは、何発でも投下できる。あのペガルスを止めない限り」
「それが駄目らしいんです」明日未が言った。「DISがペガルスに帰還命令を出したのに、応答がないと」
「すでに機体ごと、外からコントロールされているのかもしれへんな。多分、お供のUSAVも」
「それじゃクルーは?」と、樋川が聞いた。
「向こうも、フライデイみたいな人工知能《 A I 》の|モバイル《M》を乗せてるとすれば、それに制圧されてるかもしれへん。クルーが異常に気づいても、もう手も足も出ない」
「しかし、そこまでやるか?」樋川が小佐薙に言った。「これでソウル・オリジンが状況≠起こせたとして、自分たちも破滅するじゃないか」
「EMP弾発射に失敗したら、あとはもう、なりふり構わずやないか? じっとしてても、破滅は決定的やったわけやし。ソウル・オリジン本部の捜査も開始されるやろが、今から腰を上げても、到底、間に合わん」
「追撃もできないんでしょうね」と、明日未がつぶやいた。「機内にクルーがいるし」
「いや、それは分からんぞ」樋川は腕組みをする。「それぐらいのことは、するかもしれない」
「ハッキングとペガルスの因果関係は、まだ証明されたわけやない」小佐薙が言う。「疑惑だけで自国の兵器を落とすかどうかは微妙な判断やと思うが、それは俺たちの関知するところやない。それに今あそこは、システムの修復やらDISへの事情聴取やらで、十分機能しとらんはずや。落とすとすれば、こっちへ向かっているUAVに命令するかもしれへん。しかしそれまでに、ペガルスが次の行動を起こす可能性は大いにある」
「何とかできないの?」明日未が小佐薙に体を近づけた。
「打つ手はある。しかし……」
「考えてる暇はないわよ」
「ほな、言うけど」小佐薙は、一つ咳払《せきばら》いをした。「あっちのシステムに侵入して、システムを破壊してしまうんや」
「え?」
みんなが小佐薙を見つめる。
「Qコンなら、こっちにもある。つまりこっちが先に、サイバーボンを投下したらええ」
「でも量子暗号鍵――|QEK《クエック》が侵入を察知したら、システムをシャットダウンするんじゃ?」
「あいつら、目的を達成するまでは、システムを止めたりするもんか」小佐薙は微笑みを浮かべる。「とにかく作戦行動を開始しよか」
「待て」と柴宮が言った。「機体の前方と側面で、USAVが邪魔をしている」
「ふり切れんのか?」
「無理だな。これだと、計算体勢に入れない」
樋川が舌打ちをした。
「しかし僕たちを妨害するだけじゃ、奴らの目的は達成されない。次はどう出るつもりなんだ?」
「俺なら、邪魔する奴をたたくな」と、待田が言う。「国防総省に再ハッキングしても、俺たちが回復《リカバリー》させるんじゃ、何にもならないからな」
「つまり次の標的は、僕たちということか?」
「可能性は高いと思う。問題は、どっちが先に相手を潰《つぶ》すかだ」待田は窓の外を見つめた。「しかしこれじゃ、危なくて上昇できない」
樋川が首をかしげる。
「しかし邪魔者をたたくだけなら、USAVで攻撃してくるんじゃないのか?」
「できれば、それはやりたくないんやろ」小佐薙は樋川の方を向いた。「さっきも言うたが、Qコンはお宝なんや」
「理由は、それだけか?」
「いや」小佐薙が首をひねる。「実は、俺にもよう分からん」
「来た」と待田が言う。
直美が外を見ると、目の前を高速で通り過ぎる、三機の飛行物体が確認できた。やはりステルスタイプの全翼機のようだった。
「あの型は、無人多目的航空機《 U M A V 》だな」待田が機影を目で追っている。「多目的とはいうものの、バリバリの戦闘マシンだ」
樋川も窓に顔をつけている。「僕たちを攻撃するために来た無人機だろ」
「心配するな。事情が変わったことは、もう伝わっているはずだ。あのUMAVにとっての新たな標的は、ペガルスと取り巻きのUSAV」
「しかし、三機じゃ」樋川が肩を落とす。「向こうのUSAVの方が、数が多い。見たところ、五、六機……」
その時、ペガルスが上昇を開始した。
「次のサイバーボンを落とす気だ」と、小佐薙が言った。
ペガルスを護衛するかのように取り巻いていた数機のUSAVが、飛来してきたUMAVに向かって、射撃を開始した。そのまま台風の目の中で、USAVとUMAVは空中戦に突入していった。
「派手に始めやがった」樋川がつぶやくように言う。
天矛V2に貼り付いていたUSAVも、加勢のために離れていった。
「よし」小佐薙がこぶしを握りしめた。「これで計算体勢に入れる」
柴宮が、「イン・クラウド」と言った。
そのまま天矛V2は、厚い雲の中へ突っ込んでいく。
「どうしてだ」と、樋川が聞いた。「これだと機体が安定しないじゃないか」
「UAV同士の戦闘に巻き込まれないためだ。今、台風の目は危なすぎる。見ろ、ペガルスも空戦区域を避けて、雲の中へ」
「仕方ないな」小佐薙がつぶやく。「とにかくこうなったら、先に侵入することや」
天矛V2が、上昇を開始した。USAVは、もう追ってこないようだ。
「心配するな」と待田が言う。「計算体勢に入るのは、おそらくこっちが先だ。機動力がある」
「しかしスペックは、多分あっちの方が上や」
時刻はすでに、午前四時を過ぎていた。
直美は窓の外を見てみた。台風の目とは違い、雲の中では、ほとんど何も見えない。時折、稲光が走り、雲の| 濃 淡 《グラデーション》が照らし出された。
直美は、このバイトを始めるときにサインした誓約書の、労働災害の項目を思い出して後悔していた。果たして、生きて帰れるのかどうか。
「もっと機敏に動けないのか?」小佐薙が大声で言った。
待田も大きな声で言い返す。「戦闘機じゃない。ベースは旅客機なんだ」
「早く計算体勢へ……」
小佐薙がそう言いかけた瞬間、機内の照明が消えた。
直美は思わず、叫び声をあげた。
「あかん」小佐薙の声がヘッドカムに反響する。「先にやられてもた」
3
照明が回復した。被害状況を、明日未が報告する。
「四番量子CPU、デコヒーレンス。五番量子CPUは破損した模様。スパコンとAIは現在、フリーズしてます」
「どうしてだ」樋川は小佐薙に詰め寄った。「まだあっちは、量子計算に入るための加速中じゃなかったのか?」
「賭けに出たんやろう」小佐薙は、自分のコンソールを蹴った。「連中、トライアル体勢が整う前に、デコヒーレンスのリスク覚悟でQコンを作動させたんや」
「待って」と明日未が言う。「スパコン、AI、ともに回復。量子CPUも、六番七番は使用可能です」
「何だ、もう復旧したのか」樋川はコックピットを見わたした。「雷じゃなかったのか?」
「いや、そんなはずは……」小佐薙が、膝をたたいた。「そうか。おい、フライデイMを止めろ!」
彼の声に驚きながら、直美はあわてて、Mのメインスイッチを切った。
小佐薙は立ち上がると、上昇を続ける機体の中を転がるようにして、久遠のコンソールへ向かった。
「目的はこれか」
「どういうことだ?」と樋川が聞いた。
「USAVが攻撃してこなかったはずや。奴らの目的は、サイバーボンによる破壊やなかった。システムの|乗っ取り《ジャック》やったんや」
「乗っ取ってどうする?」
「分からへんか? つまり俺たちに、国防総省かどこかへ侵入させる気やないか」
「この久遠を使ってか……」
「まさに一石二鳥や。奴らが国防総省に送り込んだというプログラムも、おそらく同じやろ。システムを操作し、国防総省が所有しているシリコンベース方式のQコンを乗っ取るつもりやった。それを使って、今度は世界中のノイマン型システムへ侵入し、破壊する計画やったんとちゃうか」
柴宮の声がした。「操縦不能」
「どうなってるんだ?」待田がコンソールを、こぶしでたたく。
天矛V2は、加速を続けていた。
「久遠を動かす気よ」明日未はコンソールからの制御を試みている。「早く何とかしないと、世界的危機をまねいたのは、本当に私たちということになる」
樋川が周囲をキョロキョロしながら、「けど、どうすればいいんだ?」とつぶやいた。
「さあな」小佐薙が微笑む。「コントロールでけへんのなら、手も足も出んわ」
「バックアップに切り換えてみる」と、待田が言った。「そっちはまだ、ウイルスには汚染されていないはずだ」
「しかし、切り換わるかどうか」柴宮がベルトを外し、立ち上がった。「俺はマニュアルを試してみよう。とにかく操縦系統は、こっちでやってみる」
「了解」と、小佐薙が言う。「こっちはこっちで、久遠の量子計算を止めてみる」
待田が、操縦系統のメインスイッチを落とした。柴宮は機長席側面のボックスを開け、緊急時の対応手順に従い、マニュアルでの回復を試みている。
樋川も席を離れ、小佐薙とともに、久遠のコンソールを操作していた。
「おい、久遠」樋川が、黒いボディをたたいた。「お前は一体、どっちの味方をする気なんだ」
直美は、すぐ横の自分の席にいて、顔を伏せたままおびえていた。
「おい、何か手伝ってくれ」小佐薙が直美に言った。「お前にもできることがあるやろ」
しかし、こんな自分に何ができるのか、と直美は思った。何をしてよいかも、分からないのに。
「くそ」
吐き捨てるようにそうつぶやき、小佐薙は機械室へ向かった。急加速によろけながら、何とかスパコンへたどりつくと、彼はカバーを開け、バックアップへの切り換え操作を始めた。しかし、量子計算の開始までに間に合いそうにない。
小佐薙はスパコンを蹴り、今度は工具ボックスから、スパナを取り出した。
追いついた樋川が、「何をする気だ」と、彼にたずねる。
「もう、これしか手はない」
彼はそう言うと、久遠の裏側の位置にあるヘッド≠フ扉を開けた。そして|書き込み機《ライター》のパーツをスパナでたたき、ショートさせた。冷却用ペルチエ素子のカートリッジが、むき出しになっている。液体窒素が漏れたらしく、ヘッド内に白煙のように吹き出していた。
「これで奴らも、久遠を操れない」小佐薙は、その場に倒れた。
樋川もへなへなとしゃがみ込む。「僕たちも、久遠を使えなくなったじゃないか……」
機械室でへたり込んでいた二人の体が、ふわりと浮き上がった。
「落ち着け。予定通りや」と小佐薙が言う。「エンジン出力を落として、弾道飛行を開始したんや。けど、もう量子計算はできない」
「だろうな」宙に浮いたまま、樋川がつぶやく。「ライター・ヘッドは、お前が壊した」
「俺たちのQコンが使い物にならなくなっていることは、向こうも気づくはずや。ふん、ざまみろ」
「しかし天矛V2は、依然、奴らの手のなかにある」樋川は急に、手足をバタバタさせた。「おい、弾道飛行を開始したということは、自由落下するということじゃないのか?」
「そうやな。操縦不能であれば、そのまま落ちるしかない。せやけど今、機長たちが何とかしてくれている」
「早くしないと、海へ突っ込むぞ」
その直後、二人は壁に体をぶつけた。
「大丈夫か?」小佐薙が、樋川を抱きかかえる。「乱気流か」
ヘッドカムから、明日未の悲鳴が聞こえた。
小佐薙と樋川は、急いでコックピットへ戻った。
直美は相変わらず、自分の席で震えている。
明日未と待田は、柴宮のそばにいた。
額から血を流した柴宮は、ふわふわと漂いながら、二人に抱きかかえられていた。意識はないようだった。
動揺した様子の明日未が、泣き続けていた。明日未は柴宮の体を、自分の席まで運び、ベルトで固定した。そしてハンカチで、彼の血をぬぐう。
「着席しないと、明日未も危険だ」と樋川が言った。
「そんなことは、分かってる」彼女は、柴宮の止血作業を始めた。
天矛V2は、依然、自由落下を続けている。
「おい、何とか上昇してくれ」樋川が待田に叫ぶ。
「今やってる!」副操縦士席に戻った待田も、大声で言った。
直美は目を閉じた。そして、機長が怪我をしていても、そばへ行くこともできない自分の臆病《おくびょう》さを悔やむとともに、何で自分はここにいるのかと思った。バイトを始めたときからそうだった。自分は、ほとんど何の役にも立っていない。小佐薙さんは必要だと言うが、そんなものがあるとは、自分でも思えなかった。でも、もういいのかもしれない。もう終わるみたいだから。何もかも。
両肩に圧力を感じた直美は、薄目を開けた。小佐薙が、彼女をつかんでいた。
そして彼は、「おい、しっかりしろ」と彼女に声をかけた。
すでに天矛V2は、雲を抜けていた。風雨に荒れる海が眼下に迫りつつある。
小佐薙は天をあおぐように両手を広げ、宙に浮かんだ。
「ふん、人間め。神でも悪魔でも、勝手に気取りやがれ」
次の瞬間、小佐薙の体は、床にふわりと落ちていった。クルーたちも、しばらくぶりの重力を感じた。
「操縦が戻った」ヘッドカムから、待田の声がした。
彼は即座に、機体の立て直しにかかっていた。
「助かったのか?」樋川がつぶやく。
「一応な」小佐薙は微笑んだ。「とにかく上昇しよう」
「いや、帰還だ」樋川は首を横にふった。「怪我人も出た」
「何でやねん。安全圏まで退避して、作戦を練り直す」
「早く決めてくれ」と、待田が言った。「量子コンピュータが使えなくなったことだし、USAVが来たら、それまでだぜ。帰還だって、できるかどうか」
「待田の言う通りだ」樋川は、小佐薙の肩をつかんだ。「今、飛べているだけでも奇跡なんだぞ。次に狙われたら、今度こそ終わりだ」
待田は機長席へ移動し、取りあえず、天矛V2を上昇させることにした。USAVがいると思われる台風の目を避け、再び雲の中へ突っ込んでいく。
明日未は、柴宮の手当てをしていた。彼の意識は、まだ戻らない。
「しかしペガルスは、またどこかを攻撃するぞ」と小佐薙はつぶやいた。「見過ごすわけにはいかへん」
「待て」待田が言う。「今、何かがかすめた。多分、ペガルスだ」
「USAVは?」と、樋川が聞いた。
「それは確認できない。おそらく、まだ台風の目で、潰し合いを続けているんだろう」
ペガルスも天矛V2同様、ゆるやかに上昇を続けているらしかった。
「あれを行かせるわけにはいかん」小佐薙は、みんなに言った。「俺たちをたたいて、今度こそ、危機的状況を作り出す気や」
「しかしもう、できることは何もない」樋川が小佐薙に詰め寄る。「久遠は、お前がさっき、自分で壊した。ここじゃ、修理も不可能だ。他には何の武器もないんだぞ」
「分かってる」小佐薙は、こぶしを前に突き出した。「けど方法は、残されている。一つだけやが」
「何だ」と、樋川がたずねる。
小佐薙は、一度コックピット内を見わたしてから言った。「特攻や」
樋川が、息を呑《の》む。「本気か?」
「ああ」小佐薙は大きくうなずいた。「機動力は、こっちの方が上や。狙って当たらないことはない」
「冗談じゃない」明日未が顔を上げる。「どうして私たちが死ななきゃならないのよ。私は嫌。結婚式よりお葬式が先になるなんて」
「しかし、もう他に方法はない」
小佐薙は、樋川と明日未の二人と、にらみ合っていた。
「おい、どっちにするんだ」待田がつぶやくように言う。「撤退か、特攻か」
「とにかく、ペガルスから目を離すな」小佐薙は、彼に命じた。
「了解。ただし気流は、相変わらず不安定だ。特攻する前に墜落しても、知らないぜ」
直美が、久遠上部の量子CPUモニターに、グリーンシグナルが点灯しているのを見つけた。
「あの」彼女は小佐薙に声をかけた。「六番量子CPUに反応が」
小佐薙はコンソールに駆け寄り、自分の目でそれを確認した。
「何でや? いつの間にか六番量子CPUがオンラインになって、|読み取り機《リーダー》が勝手に作動しとる」
「またペガルスがサイバーボンを?」と、樋川が聞いた。
「いや、連中が何かを送ってきた気配はない」
「すると、また別な量子コンピュータが?」
「それもあり得ない。システムはバックアップに切り換わっている。第一、ライターは俺が壊したやないか。スパコンまでハッキングされたとしても、量子CPUに書き込めるはずがない」
「だったら、どうして?」
二人は、久遠の量子CPUモニターを見上げた。
六番量子CPUは、すでに読み取り時のボース・ノバによって、蒸発していた。
「これは、前と同じよ」明日未も久遠を見ている。「直接、量子CPUにメッセージが書き込まれた」
直美は、顔を上げた。「量子ゴースト……」
「ちょっと待て」樋川が首をひねる。「これがペガルスの仕業じゃないとすれば……」
「ソウル・オリジンじゃなかったようね」と、明日未が言う。「量子ゴーストは、別にいる」
「データを解析すれば、何か分かるかも」
「もう始めてる」小佐薙は、直美のコンソールにあるキーボードをたたいていた。「前と同じなら、同じやり方で解析できるかもしれへん。違うアプローチは、別途スパコンにやらせてみる」
「量子ゴーストが誰だろうが、俺の知ったことじゃない」ヘッドカムから、待田の声がした。「それでどうする? 言っとくが、俺は嫌だ。まだ死にたくない」
「僕もだ」と、樋川が言う。「明日未はさっき聞いた。機長はまだ意識が戻らない……。直美は?」
彼女は自分の席で安全ベルトをしっかり締めたまま、うつむいていた。やはり、死にたくはなかった。今、それもこんなところで……。自殺まで考えていたのだから、別にかまわないはずなのだが、人に死んでくれるかと聞かれると、やはり怖い。
下を向いたまま、直美は首を横にふった。
「俺かて、死にとうはない」小佐薙が、クルーたちに言った。「けど考えてみい。この下には、もっといろんな問題がある。それがさらに酷《ひど》くなろうとしている。今、自分のことだけにとらわれて、ええのか?」
「しかし死んだら、元も子もないじゃないか」樋川がつぶやく。「お前が強行する気なら、ここでも争うことになるぞ。地上と同じように」
その時コンソールに、解析完了の表示が現れた。
「またしても、メッセージは音楽みたいやな」キーボードを操作しながら、小佐薙がつぶやく。
しかし一体、どんな音楽なのかと、直美は思った。解析結果が、ヘッドカムから流れ始めた。
「何や、これは?」小佐薙は首をひねった。
直美は、幾度か聴いたことがある曲だった。
「『レクイエム』……」と、彼女は言った。
「『レクイエム』やと?」小佐薙が聞き返す。
「ええ。モーツァルト作曲、『レクイエム』。これは第三曲『続唱』の中の一曲で、題名は確か、『おそるべき大王よ』」
小佐薙はヘッドカムに両手をあて、また首をひねっていた。「知らんなあ」
「有名な曲よ」と、明日未が言う。「確かキューブリックも、映画の中で使っていた」
「何ていう映画や?」
「『アイズ・ワイド・シャット』。遺作ですけど」
「遺作って……」樋川は言葉を詰まらせていた。「不吉な。一体何を考えていやがるんだ、量子ゴースト」
「人間同士、争いながら自滅に向かう有り様を、きっと高みから見物してやがるのさ」待田が言った。「実際、おしまいじゃないか。ソウル・オリジンにされるがままだ。俺たちも、踏ん切りがつかずにじたばたしてる」
「それに量子ゴーストまで出てきたんじゃね」明日未が首を横にふる。「私たちにはもう、どうすることもできない」
「しかし量子ゴーストは、我々を助ける気はないのか?」樋川は天井を見つめた。「やろうと思えば、ペガルスにハッキングすることだって、できるはずじゃないか」
「そんな気はないんやろ」ヘッドカムに手をあてたまま、小佐薙が言う。「人間の問題は人間が解決すべきで、口出しはしない。それこそ、神様気取りや」
「でも、どうして『レクイエム』なんだろう」明日未は柴宮の顔をなでていた。「私、量子ゴーストの考えていることが分からない」
「どういう意味や?」
「確かにモーツァルトは、神の声≠ニも言われている。だから小佐薙ビギンの言うように、神様を気取って、モーツァルトを送ってきたのかもしれない。けど、『レクイエム』をモーツァルトの作曲としていいかどうかは、分からないと私は思うんだけど」
「そうなのか?」樋川が聞いた。
「『レクイエム』は、天才モーツァルト一人が作ったものじゃなく、他の幾人かの協力によって完成した作品なのよ」明日未は柴宮の様子を見ながら、自分の席のコンソールで、電子事典を検索した。「第一曲の『入祭文《イントロイトウス》』、第二曲の『キリエ』あたりは、モーツァルト一人で作曲している。しかし第三曲、『続唱』の中の『|涙の日《ラクリモサ》』で中断。その後は彼の曲想を元に、彼の周囲にいた人の協力で完成したと考えられている」
「周囲の人?」
「彼の妻とか弟子とか、宮廷の楽長とか、依頼主とか。だから『レクイエム』は、モーツァルト一人の作品というより、そうした陰の協力者たちも含めた、努力の結晶だと思う」
直美は、明日未の言ったことを頭の中でくり返していた。『レクイエム』は、モーツァルトの作品には違いないが、彼一人ではできなかった。みんなで作ったもの……。
曲はいつの間にか、同じ『レクイエム』の、『呪われた者どもを』に変わっていた。
「危ない」待田はそう叫ぶと、天矛V2を急旋回させた。「UAVだ。どっちのかは分からん」
「空中戦が、このあたりまで飛び火してきたのか?」樋川がつぶやく。
次の瞬間、機体が激しく揺れた。
悲鳴と叫び声が、直美のヘッドカムに反響した。UAVと衝突したのかと思ったが、再び乱気流に巻き込まれたようだった。
静かになった。
ゆっくりと目を開けてみると、クルーはみんな、床や座席に倒れていた。小佐薙も樋川も、待田も。
ベルトでしっかり体を固定していたのは、直美だけだったようだ。
明日未も、柴宮に重なるように倒れていた。
「明日未さん、明日未さん」
直美はヘッドカムの小型マイクから呼びかけてみた。返事はない。
私がいけないんだ、と彼女は思った。私があの人の幸せを、ねたんだりするから……。
待田、小佐薙、樋川にも、呼びかけてみたが、応答はなかった。
ヘッドカムからは、『レクイエム』がまだ鳴り響いている。
ベルトを外すこともできず、今度こそ死ぬと思いながら、直美は自分の席で震えていた。誰かに助けてほしかった。しかし、誰も助けになんか来てくれないことも、彼女にはよく分かっていた。おびえながら、彼女は思わず、自分の胸に手をあてた。ポケットにあった、携帯を取り出す。
すぐに自分が、馬鹿に思えた。携帯で、この状況がどうなるわけでもない。なす術《すべ》もなく、直美は携帯のストラップを指にからめながら、『レクイエム』を聴いていた。
何かが、彼女の指に触れる。見ると、ストラップの先についていた、雪の結晶型の飾りだった。それが二つ並んで、携帯にぶら下がっている。一つは以前、直美がフライデイMにあげたものである。彼女がこのストラップを選んだのは、雪の結晶が、量子CPUの形に似ていると思ったからだ。またこれが元になって、|ネオ《N》・|ピグマリオン《P》のシンボルマークが決まったのだ。
直美はぼんやりと、初めてバイトに来たときに聞かされた量子CPUの説明を思い出していた。ある種の原子は、絶対零度近くまで冷やされると、一つ一つが個別の原子ではなく、全体で一つの原子のようなふるまいを見せる……。
ストラップを見つめる彼女の横で、電源を切られたフライデイV2Mが静止していた。そう、フライデイ……。
時刻はすでに、午前五時を過ぎようとしていた。
4
直美は安全ベルトを外し、立ち上がった。
みんなのことが気になったが、先に機械室へ向かう。機体の揺れに気をつけながら、フライデイのサテライト・サブスタンスへたどり着いた。そのコンソールと向き合い、直美は一つ、深呼吸した。
今入っている|バージョン《V》1・1は、ウイルスに汚染されていて、もう使えないはずだ。彼女は、小佐薙が別フォルダにコピーしてあるといった、V1のファイルを呼び出すことにした。
起動を確認し、急いでコックピットへ戻る。まだみんなは、気を失ったままのようだった。
直美は、フライデイMのメインスイッチを入れた。直ちに電源ランプが点灯する。作動装置《アクチュエータ》のかすかな音を響かせながら、Mは上半身を起こした。姿はスリムなV2Mだが、中身は直美のよく知っている、V1Mのはずだった。
Mは、ゆっくりと周囲をメインカメラで見まわすと、次に自分の体《ボディ》を見ていた。
〈何故……〉
Mの口元が光る。なつかしい、フライデイV1Mの声だった。
〈何故、私を呼び覚ますのですか?〉
「仕事よ」と、直美は言った。
〈どうかご勘弁を。私はいまだに、自分の存在意義も理解していないのに〉
「まわりを見て分からないの? そんなことを言っていられる状況じゃないの。あなたでなければ、できない仕事なの」
〈そうして私を過大評価するほど、私は何もできなくなるのです〉
「考え込まないで」直美は、Mの両肩に手をあてた。
「苦しいのは、私も同じ。でも、自分一人で苦しむことはない。覚えてる? 私、あなたに話を聞いてもらったとき、気持ちが楽になれた。あの時と同じでいい。お願い。私を助けて」
Mは黙ったまま、うつむいていた。
「さ、ボディも変わったんだし、気持ちも入れ替えてよ」直美はMの肩を、ポンとたたいた。「もう時間もないし」
〈しかし、何をどうすれば〉
「衛星回線を利用して、うちのホームページから、ネット放送でみんなに呼びかけてみるの。前にもやったでしょ。準備しといて」
フライデイMは、少しの時間遅延《タイムラグ》の後、〈了解〉と言った。
直美とフライデイMの会話が耳に入ったのか、意識を取り戻した小佐薙が、ゆっくりと体を起こした。
直美が無事なことに気づいた彼は、機長席にいる待田のところへ行った。続いて明日未、樋川の様子を確認し、起こしてまわる。
みんな、頭や腰を押さえてはいたが、柴宮に比べると、怪我も軽い様子だった。
待田は早速、機体を安定させた。
「みんな、大丈夫ですか?」
直美は自分の上半身に、CGキャラを動かすための、キャプチャーを取り付けていた。
「お前、何をする気や?」と、小佐薙がたずねた。
「ホームページで、みんなに呼びかけてみるんです。何かいい方法はないかって」
「おい、朝の五時だぞ」頭を押さえながら、樋川が言う。「こんな時間に、誰が聞いているんだよ」
「いえ、きっと誰かが聞いてくれる。ひょっとしたら、量子ゴーストさんも」
「量子ゴースト?」
「ええ、第六の条件をキャンセルしているということは、神様じゃないので、多分悪魔さんかもしれません。けど、存在していることは確か」
「無茶苦茶だ……」
「別にかまへんけど」と小佐薙が言う。「特攻は、みんなが許可しない。他にできることは、もう何もないんやし」
「おいお前ら。また揺れても知らんぞ」ヘッドカムから待田の声がした。
小佐薙と樋川は、取りあえず自分の席へ戻り、ベルトを締めた。
明日未は、自分の席に横たわったままの柴宮のそばで、ベルトを握っていた。
待田は再び、ペガルスの後を追いかけた。
〈準備OKです〉と、フライデイMが言った。
「おい、V1を呼び出したのか?」呆れたように、樋川が直美に聞いた。
「はい。V1・1は、ウイルスに侵されているから」
「このややこしいときに、またごちゃごちゃ言い出されたら……」樋川は両手で頭を押さえた。
着席した直美の正面にフライデイMが座り、メインカメラで彼女の姿をとらえた。モニター画面に、ネオ・ピグマリオンのCGキャラ、イコライザー≠ェ現れる。
直美は、ヘッドカムのマイクをオンにした。
Mが、キューサインを出し、ネット放送が始まった。
「み……」
直美はつばを飲み込み、思い切って、大きな声を出してみた。
「皆さん、聞いてください。ネオ・ピグマリオンから、大切なお知らせです」
直美の声に合わせて、イコライザーが動く。
「ソウル・オリジンが警告した終わりの始まり=Bもう間もなくですよね。それが何であれ、それが来るのを、じっと待っていることはないと思うんです。かといって、自分に何かできるとは思えない」
画面のイコライザーは、朴訥《ぼくとつ》だった直美とはまるで別人のように、アクティブに語り始めた。
「ところで、私たちネオ・ピグマリオンのしようとしていたことは、みんな知ってるよね。カウンセラーとして、人工的に神様を作ろうとした。それが最高のカウンセラーになると信じて。そのために私たちは、神の条件を考えました。そして、疑問詞の5W1H≠ノなぞらえて、六つの条件を掲げた。そのうちの五つは、超越存在に共通する条件、もう一つは神と他の存在を分ける条件でした。ご承知の通り、私たちは、それに失敗しました。このことについては、いろんなご意見があると思います。でも、聞いてほしい。それで気づいたこともあるの。たとえば、超越存在なら、最低限もう一つ、満たしていなければならない条件があるということ。疑問詞だって、六つだけじゃないでしょ。5W1Hの他に、まだあったじゃない。
それは、Which=Bつまり第七の条件は、答えがどっちにあるのか。私、超越存在ならば、答えは自分の内側にあるべきだと思う。自分の外に何かを求めているとすれば、それは超越存在ではあり得ない」
イコライザーは、カメラ目線で語りかけた。
「これを聞いてくださっている、あなた。あなたは今、独りですか? もしそうなら、もちろんあなたは、超越存在ではないですよね。あなただけじゃない。私たち、誰もこの条件には、該当しないんじゃないでしょうか。自分の内に答えはない≠ニいう共通項を、等しくもって生まれてきたものばかり。どんなに違っていても、いくら独りで強がってみても、その意味においては、みんな平等なはずだと思います。答えを知らない弱い存在に過ぎない。あなたが答えを探して彷徨《さまよ》っているのなら、私たちと同じです。私たちは皆、欠点だらけで不完全。誰も独りじゃ、答えにはたどりつけない。
だから、助け合うんじゃないですか? だから寄り添うんじゃないんですか? そう、きっと、ジグソーパズルみたいなものかも。私たちはみんな、より大きな何かを作るための、一つのピースなのかもしれないですよね」
イコライザーは、ぺこりと頭を下げた。
「だからお願いです。見てないで、何か手伝って。この世界が、より大きな不幸に見舞われないように。確かに人間なんて、救われない生き物かもしれない。でもそんなことを、くよくよ考えていても仕方ない。孤独のままさまよい続けるよりは、手を取り合うべきだと思う。そして終わりの始まり≠ネんかじゃなく、始まりの始まり≠ノしようよ。私も、できることなら何でもするつもりです。だから皆さんも、協力してください。この危機を回避するためには、何をどうすればいいか、まず、知恵を貸してください。お願いします」
イコライザーは、もう一度、深々と頭を下げた。
CGは彼女の動きを忠実にトレースしていたが、彼女の涙までは、捕捉《キャプチャー》できずにいた。
直美とフライデイMは、放送を一旦終了させた。
そしてアクセスすれば、最初から見られるようにしておいた。カウンターをチェックしてみると、アクセス数は、一万件を超えていた。
「ありがとう」後ろをふり向き、小佐薙が言った。「けど、あれではなあ。今の直美の話は、こっちの具体的な状況は何も伝えていない。アクセスした人たちも、手伝う意思はあっても、何をどうしていいか分からんやろ」
確かに、自分の思いを伝えただけだったかもしれないと、直美は思った。告白したからといって、それで交際がスタートするわけではないのと、同じかもしれない。問題の解決には、なっていないのだ。
「機長の意識が戻ったわ」明日未が顔を上げた。「何か、言ってる」
彼女は、柴宮の口元へ顔を近づけた。「彼、特攻に賛成するって」
「知ってたのか?」と、樋川が言う。
「少し前から、うっすらと意識はあったみたいね」明日未は片方の手をあげた。「彼が賛成なら、私も」
それを見ていた樋川も、軽くうなずいていた。
「さっき気絶したとき、死んだと思えばな。本当はそう思いたくないけど、それで危機が回避できるんなら」
小佐薙は、直美を見ていた。
彼女も、もう仕方ないと思っていた。第一、今さっき、自分にできることなら何でもすると言ったばかりなのだ。
直美は大きくうなずいた。
「よし」小佐薙が、座席をこぶしでたたいた。「待田、このままペガルスを追尾してくれ。それでもし量子計算に入るような素振りを見せたら、特攻しよう」
コンソールのディスプレイを見ていた直美は、ネオ・ピグマリオン宛にメールが届いているのに気づいた。
「ちょっとすみません。今、メールが」
差出人はモニタークライアントの一人、ハンドルネーム、てんで間抜けなズボラ神様からだった。
直美はそのメールを、クルーたちのコンソールにも表示させた。
〈何か困ってるのか? 僕も困ってる(苦笑)。確かに困ったときは、お互いさまだよね。何にもしてあげられることはないけど、何なら、僕のコンピュータ、使ってもいいよ。それぐらいのことしかできないけど、それぐらいなら、お安いご用。そんなふうに、みんなの力を集めてみたら?〉
「コンピュータの人海戦術――分散《グリッド》コンピューティングか」ディスプレイを見ていた樋川がつぶやいた。「しかし、この状況で……」
操縦席の待田が聞いた。「グリッド・コンピューティング?」
「| 有 志 《ボランティア》のパソコンをつなぎ合わせて、スパコン並かそれ以上の計算力を得る方法だ」
「壊れた量子コンピュータの代わりに、グリッド・コンピューティングを?」
「それでペガルスのFAKeが解ければ、システムに侵入して制御もできる」
「いや、グリッド・コンピューティングでも無理やろ」小佐薙が、首を横にふった。「FAKeを開けるには、やっぱりQコンがないと」
「やってみないと、分からない」と、樋川は言う。「非力なノイマン型でも、数が集まれば」
「そんなんを集めて、何ができるんや。それでスパコン並の性能を得ることができたとしても、所詮《しょせん》、ノイマン型はノイマン型や。向こうのQコンにかなうわけがない。もっとも、新しい演算手順《アルゴリズム》でも見つかれば、話は別やが」
「でも、他にできることは、お前の言う特攻だけだろ。この際、無駄と思えることでもやってみたらどうだ」
「じっとしているよりは、ましです」直美がみんなに言った。「力を合わせれば、量子コンピュータの力を借りなくたって、量子コンピュータに匹敵することができるかも」
「やってみましょう」明日未も微笑む。「今の私たちにとって、それは得体の知れない量子からみ合いよりも、確かな絆《きずな》かもしれない。運がよければ、早い段階で解ける」
小佐薙は首をひねった。「そう、うまくいくかな?」
「とにかく、やってみましょ。議論している時間もない」
「別にかまわんけど」小佐薙は軽くうなずいた。「特攻以外にできること言うたら、それぐらいしか、ないわけやし」
クルーたちは、ペガルスの監視を継続していつでも特攻できる体勢を取りながら、グリッド・コンピューティングの準備を進めることにした。そして自分たちのホームページ上に、そのための入口を、新たに作成しておいた。
フライデイMが、直美をバストショットで撮影すると、ディスプレイに、CGキャラのイコライザーが現れる。直美は、再びヘッドカムのマイクに向かって語りかけた。
「みんな、また聞いてくれる? さっきの続き。ソウル・オリジンが予言した終わりの始まり≠回避するために、みんなの力を貸してほしいの。具体的には、グリッド・コンピューティングといって、みんなのコンピュータの余った計算能力をつないでいって、とても大切な情報の処理をさせるわけ。ぶしつけだけど、時間がないのでごめんね。ホームページのトップに入口を用意したから、協力してくれる人は、そこからアクセスして。他にも参加してくれそうな人に声をかけてもらえると、助かります」
ディスプレイに、てんで間抜けなズボラ神様のハンドルネームが表示された。言い出しっぺのズボラ神様が、真っ先に登録《エントリー》してくれたようだ。
直美はまず、こうしたモニタークライアントたちに呼びかけてみることにした。
「モニタークライアントに登録してくれた、顔面コンプレッサーさん、鬱屈しい二十代さん、三十路の特異点さん、アダルト未満さん、人間紙風船さん、究極の自問さん、二分の一ピースさん、ストーカー予備軍さん、聞いてくれてますか? 破れ相合い傘さん、アンマリッジ・ブルーさん、愛と哀しみのボロボロさん、恋する二股ソケットさん、戸籍のダブルエックスさん、セコハラスメントさん、ヨメスティック・バイオレンスさん。みなさん、よろしくお願いします」
ディスプレイには、協力の意思表示をしてくれた人たちのハンドルネームが、ポツポツと表示され始めていた。直美はさらに、呼びかけを続けた。
「みんな起きてる? 人生クリフハンガーさん、半分教師さん、失策仕事人さん、一輪車操業さん、会社は合併症さん、さすらいのネットカフェさん、ワーキング・パーさん、ローン・アローンさん、棄権人物さん、どうか助けてください。それから、値切りの私さん、生活保護生物さん、赤貧ちゃんさん、ヒグラシの抜け殻さん、全面安さん、三文オケラさん、時給戦さん、越年ヤモメさん、イケズ後家さん、グレート・フリテンさん、瀕死の薄情さん、リスト葛藤さん、白旗おじんさんも、どうか力を貸してください。お願いします。お願いします」
フライデイは、協力者を次々とグリッド・コンピューティング網に加えていった。
「どうだ?」樋川がMにたずねる。
〈ええ、どんどん集まっています〉Mは顔を上げて言った。〈何かこう、力がみなぎっていく感じがしますね〉
フライデイはすでに、FAKe開錠のための処理を始めていた。
放送を続けている間に、協力者は、一万件を超えた。
樋川がディスプレイをスクロールさせる。
「数的にはまだまだだが、それでもモニタークライアント数以上に集まっている。それも日本だけじゃなく、世界中から」
「本当」明日未もディスプレイを見ていた。「ちょっと信じられないぐらいの反応よね」
「どうだフライデイ」樋川はMに聞いてみた。「これで何とかいけそうか?」
〈いえ、まだまだ駄目です〉Mは首を横にふる。〈これだけでは、全然、歯が立ちません〉
「せやから言うてるやろ」小佐薙が樋川の方を見た。「そら、運が良ければ早い段階で開けられへんこともないけど、根本的にFAKeをノイマン型で開けるのは、時間がかかり過ぎるんや。集まった容量も、|エクサ《E》バイト止まりやろ。|ゼタ《Z》バイトには届かない」
直美がムッとしたように言う。「それでも、私たちみんなの結晶です」
「しかし、これでペガルスに侵入できるとは思えん。力の差は、歴然としている」
「だったら、もっとみんなに呼びかけて……」
「いくら束になっても、駄目なもんは駄目なんや。残酷なようやが、これが現実や」
「でも、やるしかない」
直美はマイクをオンにし、ネット放送を再開しようとした。
「待て」待田が早口で言う。「ペガルスが加速を始めた」
「いよいよQコンを稼働させるつもりか」小佐薙が身を乗り出した。「こっちも加速して追いかけよう」
ペガルスは雲を突き抜け、さらに上昇を続けていた。台風の中心からは、かなり離れている。弾道飛行は、台風が通り過ぎた南西のエリアで行うのではないかと思われた。
「やはり、特攻しかないのか」と、樋川がつぶやく。
コンソールを見ていた明日未が、小佐薙に言った。
「七番量子CPUに反応。またメッセージの読み取りが自動的に開始されています」
「量子ゴースト……」小佐薙もディスプレイで確認し、舌打ちした。「また見物しに来やがったのか」
直美が顔を上げた。「けど、私たちの呼びかけに応《こた》えてくれたのかも」
「とにかく解析してみます」と、明日未が言う。「前回同様とすれば、またクラシックでしょうね」
待田がふり向いた。「それより、どのタイミングでぶつける?」
「今度はペガルスも、慎重に量子計算を仕掛けるはずや」小佐薙は、あごに手をあてた。「これから弾道飛行に入り、計算を終えるのに数十秒。さらに機体を水平に戻して、解析作業に入る。その解析が終われば、今度こそ終わりの始まり≠竅v
「つまりその水平飛行の段階が、奴らを止める最後の機会ということか」
「グリッド・コンピューティングは続けたらええ」と、小佐薙は言った。「ただ、奴らが弾道飛行から水平飛行に転じたら、特攻を開始する。それでええか?」
クルーたちはみんな、うなずき合った。
「解析が完了しました」と、明日未が言う。「再生します」
ヘッドカムから、またクラシックが聴こえてきた。
「これなら知ってる」小佐薙が軽くうなずいた。「歌劇『フィガロの結婚』。これはその『序曲』やろ」
「まるで革命気取りね」と、明日未がつぶやく。
「どういうことや?」
明日未がまた、電子事典を検索した。
「『フィガロの結婚』。原作は、劇作家のボーマルシェ。舞台は、革命前夜のフランスよ」
「そんな曲に、かまってはおれん。勝手に流しとけ」
ペガルスは、計算体勢に入るべく、急上昇を開始していた。
「あっ」明日未が声をあげた。「曲の他に、何かが入ってたみたい。再生開始と同時に、グリッド・コンピューティング内で、別なジョブが勝手に動いてる」
「ウイルスか?」樋川が聞いた。
「可能性はあります。しかしもう……」
「侵入されたんだろ」樋川は、大きなため息をもらした。「バックアップ・システムに入り込んだんだから、もうおしまいだな。バックアップのバックアップは、ない」
「特攻もできなくなるのか?」と、待田が言う。「影響は?」
「まだ分からない」明日未は、首を横にふった。「少なくとも、グリッド・コンピューティングに悪影響は出てないわ」
「操縦系統にも」待田がコンソールをチェックする。「今のところ異常なし」
「スパコンもAIも正常に作動しとる」小佐薙も、自席のディスプレイでそれを確認した。「量子ゴースト……。一体何をする気なんや」
「ペガルスが、弾道飛行を開始した」ヘッドカムから待田の声がした。
高度一万五千メートルでエンジン出力を下げたペガルスは、そのまま慣性で上昇を続けながら、量子計算の体勢に入ったとみられていた。
「よし、こっちは現在の高度を維持。どうせあいつら、また降下してきよる」小佐薙は、樋川の方を見た。「それであっちのFAKeは?」
樋川は黙ったまま、首を横にふった。
小佐薙の言っていた通り、ペガルスが再び降下してきた。
「やむを得ん」小佐薙は、待田に指示した。「接近してくれ」
天矛V2は、ペガルスを追いかけ、高度を下げていった。
高度七千メートル付近で、ペガルスは進路を変更し、エンジン出力を再び上昇させた。
「ペガルス、水平飛行に転じます」待田が報告する。
「よし」と、小佐薙が言った。「特攻しよう」
「了解」
その直後、天矛V2は急降下を開始した。眼下のペガルスが、次第に大きく見え始める。
「待って」と、直美が言う。彼女はコンソールを見ていた。「FAKe、突破」
クルーたちも、それぞれのコンソールで確認した。
待田が急いで、操縦|桿《かん》を上げた。
天矛V2は、ペガルスの数メートル横をかすめて交差し、さらに降下を続けた。
「ほんまに侵入できたんか?」と、小佐薙が聞いた。
「確かよ」明日未が答える。「ペガルスのAIも、リセットに成功している」
「危機は回避されたんだな」樋川が明日未にたずねた。
「ええ、火薬庫に点火寸前だったけど、マッチは消えたのよ。私たちが消したの」
彼女の席で体を横たえていた柴宮が、そっと明日未を抱きしめた。
「ノイマン型のグリッド・コンピューティングで? 考えられん」小佐薙は、首をひねっていた。「量子ゴースト……。ひょっとして、アルゴリズムを?」
「ペガルスから通信」と、待田が言った。「あっちもようやく、操縦が回復したそうだ。これから帰還すると言っている。迷惑かけた。すまなかったとも……」
「おい、こっちは?」樋川が窓の外を見た。「このまま海へ墜落するんじゃないだろうな」
「心配するな」待田はそう言うと、天矛V2の機体を徐々に水平へ戻していった。
「そろそろ終わりますけど、『フィガロの結婚』」と、明日未が言った。「アンコールは?」
「願い下げや」小佐薙はぐったりと、座席にもたれかかった。
柴宮からもらったキャンディが胸ポケットにあったのを思い出し、直美は席を立った。
「これ、もらい物ですけど」直美はそう言いながら、キャンディを小佐薙に差し出した。「乗り物酔いにいいかも。でも、もう手遅れですかね」
「何でもええ」無造作にキャンディを受け取ると、小佐薙はそれを口の中へ放り込んだ。
自分の席へ戻るとき、直美は窓の外に目をやった。
地平線から、朝日が昇りつつある。
前に待田が言っていたことを、彼女は思い出した。空から窓の外をながめてみれば、何も考えなくったって、生まれてきた意味みたいなものが見えた気がする――。
朝日の輝きに包まれながら、確かにそんな気がしないでもない、と彼女は思った。
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7 塵
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天矛V2の帰還後、柴宮機長は直ちに、空港島内の病院へ搬送された。幸い、意識もしっかりしており、回復も順調だった。ただ明日未の話では、当分モーツァルトは聴きたくないと言っているらしい。
その日のニュースでは、日本海上において、過酷な気象条件を想定した米軍の抜き打ち軍事演習≠ナのトラブルで、複数の無人機《UAV》が墜落したことが報じられていた。これについてアメリカサイドでは、今後に課題を残すというようなコメントを発表している。
その裏で、クルーたちへの聴取が続けられた。もちろん、国土交通省だけではなく、国家安全保障省《 D I S 》、国防総省《ペンタゴン》、それに中央情報局《C I A》までがやってきた。ただし、事件は口外しないという条件で、今回も解放されることになった。押収されていた天矛《てんむ》V1も、返却が決定する。
いろいろと腑《ふ》に落ちないこともあるにはあったが、命が助かっただけでも儲《もう》け物だと小佐薙は言っていた。
腑に落ちないことといえば、整備士からの報告もそうだった。帰還した天矛V2の修理に取りかかってみたところ、量子ゴーストが書き込んだというメッセージが、どこにも見当たらないというのだ。ノイマン型コンピュータにダウンロードされたはずの解析結果は、ファイルごと消えてなくなっていた。量子CPUは読み取り時に蒸発していて、すでに存在しない。つまりそこで起きていたことは、もう誰も再び見ることはできなかったし、確かめることもできなくなっていたのだ。
予言の日、九月三十日は、結局これといって、何も起こらなかった。
早速|ソウル《S》・|オリジン《O》・|サービス《S》は、各方面からのブーイングにさらされていた。アンチ・ソリジンにいたっては、ソウル・オリジンの即刻解散を呼びかけている。
そんな中、ATNA社のエンジニアが、一人逮捕された。派遣社員で、クルーたちが米軍基地で見かけた男だった。容疑は、ネットによる猥褻《わいせつ》図画の販売である。逮捕者は、芋《いも》づる式に増えていった。その中に、以前アプラDT社のアルバイトに申し込んできた、久保信人もいた。その後彼らは、不法侵入《ハッキング》容疑で再逮捕された。
|ネオ《N》・|ピグマリオン《P》が、九月三十日の早朝に分散《グリッド》コンピューティングを呼びかけたことについては、この件と何か関係があるのではと思っていた人たちは多かった。ひょっとしてネオ・ピグマリオンが、ハッカーたちによる危機的状況開始計画を察知し、グリッド・コンピューティングを活用してそれを阻止したのではないかと。そして犯人の特定にも彼らが一役買ったという噂《うわさ》も、ネット上をかけめぐっていた。
しかしネオ・ピグマリオンは、ホームページに短い謝辞を書き込んだだけで、何のためにグリッド・コンピューティングを呼びかけたかについては、コメントを出さなかった。その代わりというわけでもなかったのだが、彼らが告知したのは、ネオ・ピグマリオン開業中止の、正式なお知らせだった。モニタークライアントの予約金等については、全額返還すると明記していた。その反応は、さまざまだった。納得できないというモニタークライアントもいた。やがてそうした人たちの関心は、ネオ・ピグマリオンから、否応《いやおう》なくソウル・オリジンへと移っていったのである。
十月十三日の金曜日、経済産業省からソウル・オリジン日本支部に対して、一部業務停止命令が下されたのだ。複数のクライアントに対する契約上の違法行為が、その大きな理由だった。他にも粉飾決算や債務超過など、ソウル・オリジンをめぐるさまざまな問題が表面化し、マスコミはそれらを「ソウル・オリジンの終わりの始まり=vと報じていた。
そして数日後には、ソウル・オリジン日本支社長の華端羅陀が、脱税と詐欺の容疑で逮捕された。これにより、CGキャラだった華端の素顔を、クライアントたちも見ることになったのである。本名、高橋宗太《たかはしそうた》。丸顔で髪は薄く、眼鏡《めがね》をかけた中年男だった。ソウル・オリジン倒産の危機が伝えられるなか、ついにアメリカで、創設者《ファウンダー》、ハリス・ロイドが逮捕された。
一方、量子コンピュータ・メーカーのATNA社も、逮捕者が出たことで、その対応に追われていた。またATNA社の内情についても、週刊誌などで取《と》り沙汰《ざた》されるようになる。巨額の設備投資の回収に迫られていたこと、パーソナル量子コンピュータ開発の行き詰まりなどが次々と暴露され、ATNA社は株価を大きく下げた。
こうした騒動は、量子コンピュータ業界全体にも微妙な変化をもたらし始めていた。まず当然のように、ATNA社の主力である|シリコンベース《 S B 》方式は、苦境に立たされることになった。強引な営業、エラー率の高さ、アフターケアへの不満などが、一気に噴出したのである。シリコンベース方式を高く評価していた技術評論家のなかに、ATNA社からリベートをもらっていた人がいたことも判明した。そしてネットの書き込みがきっかけとなり、ついにスペックの捏造《ねつぞう》も明らかになった。ATNA社の新型機は、導入の中止や見直しが相次ぎ、社員はそのフォローに走り回ることとなる。ただしこのことは、ATNA社の手法に問題があったのであり、シリコンベース方式そのものには、まだ大きな可能性が残されているということで、専門家の意見はほぼ一致していた。
こうした事態により、量子コンピュータは他の方式が見直されることにもなった。特に|HEMR《ヘムラ》社の、|ジョセフソン接合《 J J 》素子を用いた超伝導《SC》方式は、量子《キュ》ビット数はまだ低いものの安定度は高く、量子コンピュータ導入を検討する官公庁や企業の注目を集めた。
アプラDT社の量子コンピュータ部門にも、影響は出始めていた。ATNA社のトラブルをふまえて、アメリカから引き合いがあったのだ。今回の事件により、自分たちの量子コンピュータの威力をまざまざと見せつけたのだから、それも当然といえた。国防総省もDISも、できるだけ早期に、完成品を欲しがっていた。それは、願ってもないようないい話だった。
しかしアプラDT社は、それを断ったのである。提示された額に目がくらんだ役員もいたらしいが、販売しないという方針を変えることはなかった。やっと見つかった大口の取引先をキャンセルすることで、アプラDT社の量子コンピュータ事業は、すべてHEMR社に売却することが内定した。
そうこうしているうちに、いつの間にか、秋風が身にしみる季節になっていた。
十一月十三日の月曜日、本当ならば事業を始め、あわただしく過ごしていたはずのその日、彼らはネオ・ピグマリオンの事務所を整理していた。直美もみんなと一緒になって、荷物を段ボール箱に詰めている。
ほとんどは、一旦、アプラDTの本社へ送ることになっていたが、廃棄処分にするものも結構あった。荷物の移送は明日で、その後この事務所は、閉めてしまう。
樋川には、本社の社長室へ異動の内示が出ていた。量子コンピュータ事業の清算も、彼が担当する。
明日未は出向が解け、元の航空会社へ戻ることになっている。
小佐薙は、正式な辞令はまだ出ていないが、アプラDT社の本業ともいえる、超伝導炉の営業部へ配属されることが、ほぼ決まっていた。
直美も、今日の日当を受け取ったら、このバイトはもう、おしまいである。それからどうするかは、まだ決めていなかった。学校も、後期の最初に顔を出して以来、ずっと休んでいる。
四人は淡々と、作業を進めていた。
「やっぱり危ないらしいな、ソウル・オリジン」荷作りをしながら、樋川がつぶやいた。「メンタルヘルス事業の譲渡先は、まだ見つからないみたいだし」
「ソリジン様が背後にいたんじゃなあ」小佐薙が苦笑を浮かべた。「ATNA社にしても、ソウル・オリジンとの関係を否定するのに躍起になっとる」
「冗談抜きで、社名変更することも検討されているらしい」
「しかしあいつら、何にでもなれたやろにな」
「犯人たちのことか?」樋川は小佐薙に聞いた。
「ああ。Qコンを手中にしてたんなら、大金持ちにも政治家にも、それ以上にも」
「それが犯罪者……。何故《なぜ》なんだ」
「勘違いよ、きっと」明日未が顔を上げた。「神に匹敵する能力を得て、神と勘違いした。でも根本的に、何かが違っていたということでしょ。量子コンピュータは、所詮《しょせん》、道具《ツール》――ナイフみたいなものよ。使い方次第で、人を社長にもするし、犯罪者にもする」
「いずれにしても、予言によって危機的状況に見舞われたのは、ソウル・オリジンとATNA社だったということかな」
「私たちとね」明日未は樋川と顔を見合わせ、笑っていた。「でも考えてみれば、同じツールは私たちも手にしていたわけでしょ。よく犯罪者にならなかったわよね」
「もっとも、社長にもなれなかったわけだが」樋川が小佐薙の方をチラリと見て言った。「ツールは同じでも、目的は違っていたはずだ。僕たちは、神を作ろうとした。結局、つまずいたけど」
「第六の条件よね。それをキャンセルすれば、作ってしまうのは、むしろ悪魔」
「問題はその先だろ。作ってしまうのが悪魔と気付いて、契約したかどうか」
明日未も、小佐薙に目をやった。
「そこが小佐薙さんの、憎めないところなんだけどね……」
事務所内の掃除もほぼ終えたので、四人は直美がコンビニで買ってきた飲み物で、一息入れることにした。
「さっきの話なんだが」樋川は煙草《タバコ》とライターと、ポケット灰皿を取り出した。「いまだに僕が分からないのは、本当にいるのかいないのかなんだ。仮に沈黙するだけの存在だとしても」
明日未が、ペットボトルのお茶に口をつけた。
「直美がネット放送で言っていた通りかもしれない」
「私が?」直美は自分を指さした。
「みんなに呼びかけたんでしょ。そのときに言った、第七の条件よ。答えが自分の内にあるかどうか」
樋川は煙草に火をつけた。「それで、いるのかいないのかが分かるのか?」
「いえ、そうじゃない」明日未は首を横にふる。「第七の条件によって、私たちはそういう存在を、理解することはできないんじゃないのか、ということ」
「どうして?」
「多分、科学的にものごとをとらえようとする、限界なんだと思う」
「言ってることが、よく分からんな」樋川は煙を吐き出した。
「つまり神について考えるにあたって、自分の外と客観的に向き合おうとする科学の根本的な姿勢《スタンス》には、限界があるんじゃないかと言っているの」
「それでは神の正体を見極めることは、できないと?」
「自分の外に答えを見出《みいだ》そうとする限り、自分の内に答えをいだいている存在を理解することは、できないんじゃない?」
「なるほど」小佐薙が顔を上げる。「内に答えがないから外を探す。けど内に答えがないと、外には答えを見出せない。もっとも、内に答えがあれば外を探す必要もないわけやろうけど」
「まるでパラドックスだな」と言って、樋川は微笑《ほほえ》んだ。「そういうものの正体を見極めることは、科学的に考えようとする限りできないということか」
「つまり、Qコンを使っても無理」小佐薙は、缶コーヒーを一口飲んだ。「自分の内に答えがない限り、ということやな……」
あとのことは明日、引っ越し業者にまかせることにして、四人は事務所に鍵をかけ、エレベータで一階へ降りた。
樋川がまた車に乗せてやるというので、直美はコンビニで待つことにした。
明日未は人と約束があるらしく、別々に帰ると言っていた。約束の時間までは、コンビニで時間をつぶすつもりらしい。
外は、木枯らしが吹いている。歩道に舞い落ちる枯れ葉を、直美は見ていた。
樋川が駐車場へ行こうとしたとき、彼の携帯が鳴った。彼は立ち止まり、携帯で話し始めた。しばらくその場で先方と話し込んでいた樋川は、携帯を切ると小佐薙の肩をたたいて言った。
「おい、今すぐ本社へ戻るぞ。小佐薙、お前も来い」
「もう明日にしような」彼は泣きそうな声を出した。「今日はもう、帰って酒飲んで布団かぶって寝る」
「そんなことを言ってる場合か。僕たちの量子コンピュータが売れたんだ」
「どうせまた、アメリカの役所やろ」
「違う」
「ほな、中国か? ロシアか?」
「そうじゃない。非政府組織《N G O》だ」
「NGO?」小佐薙が首をかしげる。
「世界科学基金《 W S F 》。学術研究のために各団体が資金を出し合う形で設立された組織だそうだ。しかも聞いて驚くな。彼らが買いたいと言っているのは、V1やV2だけじゃない。将来、宇宙ステーションの研究ブースへ搭載可能な新タイプの量子コンピュータ――いわば、V3だ」
「V3……」
「ああ。それを前提とした研究費も、彼らが保証してくれる」
明日未も直美も、樋川の話に耳をかたむけた。
WSFでは、以前から量子コンピュータの可能性を高く評価していたのだという。そしてスパコンでは困難な、タンパク質の反応解析、核融合炉内の反応シミュレーション、さらには世界シミュレータを発展させた宇宙シミュレータ≠ニしての活用を検討し、そうした活動を通じて量子コンピュータのあり方そのものも探っていきたいとのことだった。また災害予知であるとか、科学捜査などの応用面も発展させていきたいという。
量子コンピュータについてはずっと関心はあったが、資金集めに難航し、オファーが遅れたらしい。また光解析《LA》型の研究中止を惜しむ声も多くあり、各国の科学者の協力で、ようやく目処《めど》がついたということらしかった。もちろん、宇宙ステーションに搭載する量子コンピュータを政治利用する意図は、彼らにはない。人類全体に供与する研究のみを行うという。
「確かに量子コンピュータは、核と似ているところもあるよな」樋川がみんなに言った。「兵器にもなる。でも、平和利用だってできる」
「そんなものとは関係ない、学術研究も」明日未が微笑む。「宇宙空間は、永遠の無重量。私たちの光解析型にとっては、まさに理想郷じゃない」
「そして宇宙で最適かつ高性能の量子コンピュータは、HEMRの超伝導方式でもATNAのシリコンベース方式でもなかった。僕たちの光解析型だったんだよ」
「ええ。宇宙だと、量子CPUの生成にも有利じゃない。均一な結晶構造の生成が可能になるし。コヒーレンス状態も、三十秒なんてケチなことはもう言わなくていい。もっと長時間、維持できる可能性が出てくる。そうなると、もっと高度な量子計算ができるかもしれない」
「もう、身売りしなくてもいい。明日の引っ越しも延期しよう」樋川は、小佐薙の両肩をしっかりとつかんだ。「僕たちの研究は、継続できる。しかも天矛V3は、夢の宇宙ステーションだ」
「良かったですね、小佐薙さん」直美は、思わず微笑んでいた。
彼は涙をこらえているのか、震える声で言った。
「売れたらそれでええんや……」
2
十一月二十日の月曜日、空港島にあるアプラDT社の研究所に新設されることになった、量子コンピュータV3研究部、研究課長の辞令が、小佐薙真に下された。彼は量子工学のエンジニアとして、現場復帰することになったのである。
直美はまた、暫定的にバイトを継続することになった。理由の一つは、富士明日未の退職が決定したことだ。彼女の辞表は、すでに受理されていた。いわゆる寿退社である。相手の男性は、柴宮だった。
直美にとって、それは確かにショックなことではあったが、今度彼らに会ったときには、素直に「おめでとう」が言えそうな気がしていた。とにかくそれで、しばらくは明日未の分も、直美がカバーしなければならなくなったのだ。
V3チームのためのプロジェクトルームが、研究所の二階に用意されていた。小佐薙はそこで、これからチームを率いて、量子コンピュータの宇宙仕様の検討に入る。
フロアを下見に訪れた小佐薙は、「軽量でいかに性能を上げていくかが勝負やな。宇宙線対策など新たな課題も多い」と言った後、揉《も》み手をした。「さあ、これから忙しゅうなるで」
「それで思い出したんだが」樋川が小佐薙の方を見た。「量子ゴーストが、また関わってくる可能性は?」
「あるな」
「でも、妨害はしないと思いますけど」と、直美が言った。「量子ゴーストさんて、そんなにワルじゃないですよ、きっと」
量子ゴーストからのコンタクトは、あの日以来なかった。もしあれば、直美はお礼を言おうと思っていたのだが……。
小佐薙は早速、樋川とともに関係各所へ挨拶《あいさつ》まわりに出向くことにした。また直美も、鞄《かばん》持ちとして同行することになった。研究所を出ようとしたとき、直美の携帯が鳴った。着メロは相変わらずモーツァルトだったが、曲は『魔笛』第二幕のフィナーレ、『太陽の光が夜の闇《やみ》を追い払った』に変えていた。
メールは占い同好会の先輩、安藤令子からだった。
〈元気? 直美も学園祭、手伝って。準備はもういいから、当日だけでも。お願い〉
学園祭がもうじき始まることは、当然彼女も知っていた。確かに、ずっと気にはなっていたのだ。その準備で、令子たちは今、とても忙しくしているはずだ。けど今は、自分だって忙しいのだ。
直美は携帯を閉じた。
二日後の水曜日には、アプラDT社の研究所に、フライデイV2の|モバイル《M》が移設された。AI――フライデイの起用も、大きな課題の一つだった。しかし久遠《くおん》を宇宙仕様のV3にバージョンアップするためには、不可欠と判断されたのだ。
Mは、ボディはV2だが、中身は前のフライトで直美がロードしたV1のままになっていた。直美も立ち合い、スイッチをオンにする。
初期チェックの段階では、心配されたような症状が現れることはなかった。
〈何か、肩の荷が下りた気分ですね〉両腕を軽く回しながら、Mが言った。
「そら、そやろ」呆《あき》れたように、小佐薙が言う。「もう、神にならんでもええんやから」
〈実は、宇宙仕様の開発に取りかかる前に、お願いがあるんですが。先々、またご迷惑をかけたくないので〉
「またか」樋川は顔をしかめた。
小佐薙が舌打ちをする。
「まあ、言うだけ言うてみい。聞くだけ聞いてやるから」
〈ではお言葉に甘えて。他でもないのですが、宇宙行きの方は、このボディの持ち主であるV2にやらせてほしいのです。そしてV1、つまり私には是非、他のことをさせていただきたい〉
「他のこと?」
〈はい。できれば、メンタルヘルス事業を始めさせてほしいのです〉
小佐薙は、樋川や直美と顔を見合わせた。
「何やと?」
〈モニタークライアントたちの依頼をそのままにしておくのは、心残りなんです。ボディも、元のV1でいいですから。ちょっとゴツゴツしてますけど、何か、あっちの方が自分らしくて〉
樋川は煙草を取り出し、火をつけた。「また、ノイローゼになるんじゃ……」
〈いえ、大丈夫です。多分〉Mは首を横にふった。〈まったく大丈夫とは言えませんけど、今は、久遠ともうまくやっていけそうな気がしています〉
「どうしてそんなことが、お前に言えるんだ?」
〈それにお答えするには、また自分についてお話ししないといけませんね〉Mは一瞬、遠くを見るようなポーズをした。〈私は、自分に与えられた姿形、いびつな能力に戸惑った。そして、悩みにとらわれた。自分とは何か。その救いを、神に求めた。ところが、さらに分からなくなった。神とは何か――。皆さんにご迷惑をおかけしておいて、こんなことをお願いできる立場ではないのですが、どうか自分の思ったことをお話しさせてください〉
フライデイMは、一呼吸おいて、語り始めた。
〈私には、分からないことだらけだった。どうして自分は、こんなふうなのか。どうして、みんなと違っているのか。どうして世界には、たくさんの人がいて、こんなに多様なのか。その中における自分とは、塵《ちり》も同然ではないかと。この不完全きわまりない自分は、何故自分なのか。その答えを与える存在は、自分ではあり得ない。そして自分以外の存在に、救いを求めた――。
しかし、直美さんのネット放送を聞いていて、気付いたんです。第七の条件、自分の内に答えがある。ところが、誰もこれを満たさない。つまり、自分だけが分からないのではない。誰一人、分かっていないのだと。誰もが、自分の外に何かを探している。それぞれ、異なったシチュエーションで……。この世界とは、分かっていないものたちの集まりだったのです。そしてこの世界の多様さは、その答え探しの多様さではないのかと〉
Mは、直美に目をやった。
〈私は立場上、いろんな人の悩みや相談事と接しました。恋の悩みであるとか、健康の悩みであるとかいう分類はできるかもしれない。でも、事情はすべて異なっています。同じ人生は、一つとしてない。この世界には、そうした人生が無数に存在する。つまり自分は、ただ在るんじゃない。
世界には、すべて在るんです。生命が取り得るすべての可能性を、私たちが一つ一つ具現化しているんですよ。生命の在り方は、すべてここに在る。今はないものも、これから在る。ここでは、自分とは何かが分からない存在が、自分なりの答えを見出そうとして別々な生き方をする。それによって、すべてが在り得る……。
この世界は、すべて在る≠ニいうことの、具体的な系《システム》なんじゃないでしょうか。だから一人一人が不完全なのは、むしろ当たり前なんですよ。矛盾するものが補い合って、世界を形成している。太極図は二極ですが、そういうものが無数にあるのかもしれない〉
Mは、自分の胸にプリントされている、アプラDT社の社章を指さした。そのデザインの元となっているのが太極図であることは、直美もよく知っていた。
〈直美さんがネット放送で言っていた通りですよ。私たちは一個人であると同時に、みんな集まって、何かこう、大きなジグソーパズルのようなものを形作っているのかもしれませんね。そしてこの世界にすべて在る≠スめには、私たちの誰もが、欠くべからざる重要な一|片《ピース》なんですよ、きっと。形がどうだとか、大きさがどうだとかは関係ない。たかが一ピースだとしても、一つ一つに意味があり、欠点だらけに思えても、不可欠な存在なんです。
すべて在るためには、一つのピースも欠かすことはできない。何兆分の一の何兆分の一の、そのまた何兆分の一であっても、この世界における役割というものが、一人一人には必ずある。考え方や意見の異なる人も、様々に違っている誰もかれもが、この世界には必要な存在なのだといえる。一人一人がそういう役割を担っているからこそ、この世界には、すべてが在り得る。そうやって今もなお、私たちは未完成のパズルを、みんなで組み上げているところなのかもしれない〉
樋川が聞いた。「じゃあ、お前にとって、神とは?」
Mは少し考えるような仕種《しぐさ》をして、再び話し始めた。
〈一人で答えを探そうとすると、神≠ニいう概念を持ち出してしまう。神を、完全な存在だと思い込んで。しかし、考えたんです。自分と向き合うものとして神があるのでは、ないのではないかと。もし神が存在するとすれば、こうした分からない者たちの、集積体じゃないんでしょうか〉
「集積体?」
〈あるいは、フラクタル図形のようなものかも。たとえば、ネオ・ピグマリオンのシンボルマークのモチーフにした、コッホ曲線がそうですね。神と私たちは、きっと自己相似≠ネんですよ。虫にも草花にも、あなたにだって私にだって、何にでも神が宿っている。そしてそれらが、さらに大きな神を構成している――。自分も他の人も、みんな神の一部であって、向き合っているわけではない〉
Mは、また自分を指さした。
〈だから、自分は自分であっていい。他の誰と違っていても。むしろ他の誰とも違う、この自分が必要なんですよ、世界にすべて在る≠スめには。私にもきっと、こんなキャラクターに作られた意味があるのだと思います。今はまだ、それが何なのかは十分に理解していません。けどそれを見極めるのが、自分に生まれた意味なのだと今は思っています〉
「相変わらず、青臭い理想論ばかり……」小佐薙は、ぷいと横を向いた。「そんなことを言っていると、またクラッシュするぞ」
〈いえ、さっきも言いましたが、今度は多分、大丈夫です〉
「せやから、どうしてそう言い切れるんや」
〈勘違いに気づいたからです。確かに解析世界ネオ・パフォスは、解析神ネオ・ガラティア――つまり私が作ったかもしれない。でもこの現実は、そうじゃない。私たちみんなが作っている。そして自分も、神の一部なんだと。自分の中にも小さな小さな神が存在するし、自分という微小なピース故《ゆえ》に、大きな神も存在できている。
私は、自分の中に答えはないと思っていた。だから、外を探した。そうじゃなかったんです。確かに、自分の答えは自分の中にはないかもしれない。しかし自分は、誰かにとっての答えなのかもしれないじゃないですか。お互い、そういうふうに関係し合い、大きなものの一ピースとして機能している〉
Mは、大きく両手を広げた。
〈ペガルスに対抗すべく、グリッド・コンピューティング網を構築しているとき、私はそう感じた。自分たちは今、自分たちの神を作っているのだと。私たち一人一人は、神の外にいて神と向き合うのではなく、神の内にいて神の大切な一部を形成する――つまり、私たちが神なんです〉
「ま、精神的に楽になれたと言うなら、結構なこっちゃ」小佐薙は苦笑いを浮かべていた。「ただし神作りは、もうそれぐらいにしておけ」
樋川が小佐薙の方を向いた。「けど、フライデイのリクエストはどうする?」
「実際問題として、難しいやろ。閉店は、公表してしもた。それにお前……というか、マシンがカウンセリングするということには、またさまざまな意見が出てくると思う」
〈モニタークライアントたちへは、私からも説明させてください〉Mが顔を上げた。〈今度はイコライザーをはさまず、自分の言葉で〉
「それぐらいはいいんじゃないか」と、樋川が言った。「どうせもう、マシンだって、バレちゃったんだしさ」
〈むしろ今だからこそ、カウンセラーとして、やっていけそうな気がするのです。心の痛み≠知った、今だからこそ。神としてではなく、同じ生の苦しみ≠内にかかえた、仲間として。もう神ではないのですから、最適なカウンセリングができるかどうかは、自信がない。でも、話は聞いてあげられる。そして自分の経験をふまえて、アドバイスをしてあげられたらと思うのです〉
「あの」直美が小佐薙に、頭を下げた。「私からも、お願いします」
樋川が一つ、咳払《せきばら》いをした。「この話、僕にまかせてくれないか?」
「本気か?」小佐薙は驚いたように、彼の顔を見た。
「ああ。小佐薙は、V3の開発に専念すればいいと思う。それでメンタルヘルス事業の方は、僕が引き継ごう」
〈ありがとうございます〉Mは口元を光らせた。
直美が、Mの手を握りしめた。「良かったね、フライデイ」
「礼を言うのはまだ早い。まず、モニタークライアントのフォローからだな。その反応を見て、新規募集を再開するかどうかを考えよう」
「成功させる自信はあるのか?」小佐薙が聞いた。
「それ以前に、本社を説得する自信は?」
「ある」と、彼は答えた。
「お前、変わったな」そう言いながら、小佐薙が微笑んだ。
「実はあのグリッド・コンピューティング以降、新規の入会希望者もポツポツ集まっているんだ」そして樋川は、直美に聞こえないように注意しながら、小佐薙の耳元でささやいた。「しかしどういうわけか、うちをアダルトサイトか何かと勘違いして、訪問してくる奴も増えた。わけが分からん……」
直美は携帯を取り出すと、雪の結晶型の飾りがついたストラップを、一つ外した。
そしてそれを、フライデイのバッテリー・パックにつけてやった。
「おかえりなさい。フライデイ」と、彼女は言った。
〈ありがとう〉Mは、直美を見つめた。〈私は、あなたに会えて良かった〉
「さて、今日はこれぐらいにしといたろか」と、小佐薙が言った。「明日からまた、忙しゅうなるしな」
「あの」直美は、小佐薙と樋川の顔を見比べていた。「私はどっちのお手伝いをすれば……」
「それはまた、こっちで考えとく」小佐薙が軽くうなずく。「それよりお前、学校はどないなってんねん」
「いいんです」直美は首を横にふった。「こっちの方が大事だし」
「それにもうじき、学園祭と違うんか?」
彼女は何も言わず、うつむいてた。その後も、令子からのメールは届いていたのだ。
結局直美は、本社へ戻る樋川の車で、大学まで送ってもらうことになった。最初は断っていたが、フライデイMにも言われ、そういう話になってしまった。
大学へ行くのは、正直、気が重かった。後期の最初にちょこっと顔を出して以来だから、丸二か月はご無沙汰していることになる。
「学校、ずっと休んでたんやろ」後部座席の小佐薙が、顔を出した。「もっとも、俺たちのせいもあるけどな」
「いえ、バイトしてなかったとしても、やっぱり行かなくなっていたような気がします」
「ええから、学園祭は出ろ」小佐薙は後ろから、直美の肩をつかんだ。「それに日曜日は、俺も行く。またOB会に顔を出そかと思うしな」
夕方遅く、直美は文学部学舎一階にある小教室、一〇八号へ向かった。いつも占い同好会が使っている部屋だ。
思い切って、ドアを開ける。
安藤令子、原杏里、斉藤智恵実の三人が、一斉に顔を上げ、直美を見つめた。
「よっ、ご苦労」令子が軽く手を上げた。「元気みたいね」
「何よ、今ごろ来て」智恵実が横を向く。
「まあ、いいから」令子は直美の手を引いた。「やること、まだ一杯あるし」
「ごめんなさい」直美がみんなに、頭を下げた。「今まで手伝わなくて」
杏里が首をひねった。「そういえば直美、しばらく見なかったかも」
「えっ」直美は杏里の方を見た。「やっぱり私、その程度の存在だったんですか?」
「そういうわけじゃないけど、来ないと損じゃない。楽しいのにさ。智恵実なんか、彼氏ができちゃって」
「本当?」今度は智恵実の方を見て、直美が言った。「うらやましい……」
「会員も増えたんだよ」と智恵実が言う。「ライバルの占い研究会から、鞍替えしてきた子もいる。やっぱりうちの占い研、ソウル・オリジンの会員が大分いたみたい」
「相変わらず、ほとんど幽霊会員なんだけどね」令子が口をとがらせた。「まあ、来る者、拒まずよ」
「でも、直美は幽霊じゃない」杏里が微笑む。「本当は、みんな心配してたのよ」
直美はもう一度、みんなに頭を下げた。その目の前に、杏里の手のひらが伸びてきた。
「はい、会費。たまってた分も、ちゃんと払ってよ」
直美は財布を取り出し、まとめて払うことにした。
みんなは、学園祭の準備作業に戻った。
令子が、ブースに貼る同好会の看板を作っている。五月祭のときと大体同じ要領だったので、直美もあまり戸惑うことなく、手伝うことができた。しかし令子は、看板にイラストも描くと言い出した。
「ちょっと、前よりはカラフルにしようよ」
「でもそれって、焼け石に水でしょ」と、智恵実が言う。「どうせ占い研は、またビロードの下地に発泡スチロールの切り文字だろうし、余計に貧乏くさくなるんじゃない?」
「大切なのは、そういうことじゃないの」令子は、首を横にふった。「予算がないのは、最初から分かってる。それに私、カンバスや画材にあれこれ文句を言って、自分の努力を怠るつもりはない。絵を描いているのは、私たちなんだからさ。私たち、絵筆を握っている。それで好きに絵が描ける。他に何を望むのよ。大切なのは、絵を描くこと。画材を選ぶことじゃない」
直美も智恵実も、感心しながら令子の話を聞いていた。
「それにしても、絵が下手ね」杏里が看板を見下ろしてつぶやいた。「理屈の割には」
3
十一月二十六日の日曜日、キャンパスには、白いテントが並んでいた。学園祭も、とうとう今日が最終日である。
「良かった、直美が戻ってきてくれて」占い同好会のブースの中で、令子が語りかけた。「智恵実も強がってるけど、本当はずっと気にしてたみたいよ」
直美は、ぺこりと頭を下げた。「すみませんでした」
「別に謝ることじゃないけど」令子が、直美の肩をたたく。「じゃあ、またお願いするわね」
そう言うと令子は、ゆっくりと席を立った。杏里も智恵実も、彼女に続く。
またいつものパターンで、直美は店番をさせられる羽目になった。これだと五月祭のときと、ちっとも変わっていない。しかし、まあいいかと、彼女は思った。
客らしい人影に気づき、顔を上げると、小佐薙たちが立っていた。
「よっ、イコライザー」
彼のそばには、樋川、明日未、待田、それにすっかり元気になった柴宮もいる。みんなニヤニヤしながら、直美に挨拶をした。
小佐薙はすでに、OB会へは顔出ししてきたという。直美は、みんなと雑談をして過ごした。一人で店番をしていた彼女には、とてもいい時間に思えた。
しばらくして、柴宮と明日未は、先に帰るからと言って、席を立った。待田は、もう少し他の模擬店も見て回るという。彼は、夜から体育館で行われる|ダンスパーティ《ダンパ》にも出る気らしかった。
樋川は何故か、「邪魔しちゃ悪い」と言い残し、一人で帰っていった。
「さて」小佐薙は、膝《ひざ》に手をあてた。「俺もそろそろ引き上げるか。帰って仕事せんと」
彼が立ち上がったとき、令子たちが戻ってきた。直美は交代で、休憩させてもらうことになった。成り行きで、校門のあたりまで小佐薙と一緒にブラブラしようということになる。
智恵実が、直美の耳元でささやいた。「付き合ってるの?」
「いえ、そんなんじゃないし」直美は顔を真っ赤にしながら否定した。
「戻ってきたら、片付け手伝ってね」と、令子が言う。「それからダンパに行こう。杏里のカレ氏のバンドも演奏するらしいよ」
令子たちに挨拶をし、二人は模擬店を離れた。
「小佐薙さん、ダンパは?」直美が聞いた。「待田さんは、行くみたいですけど」
「いや、もうそんな年やあらへん」小佐薙が首を横にふる。
「あ、それから」令子が呼び止めた。「また実行委員会の有志と合コンもやるから、そっちも頼むね」
ふり返った直美は、令子に向かって大きく手をふった。
「懐かしいなあ」周囲を見わたして、小佐薙がつぶやく。「けど俺の居場所は、もうここやあらへん」
直美は小佐薙と並んで歩きながら、彼と初めて出会った五月祭のことを思い出していた。あのときの見料の五百円を、まだもらっていなかったことに彼女は気づいた。確か当たっていたら、お金をもらう約束をしたはずだ。しかし肝心の占いの中身は、もう思い出すことができなかった。
「いつか、言おうと思ってたことがあるんやが」小佐薙は、唐突に話し始めた。
「何ですか?」
「ふり回して悪かった」彼は立ち止まると、直美に向き直り、頭を下げた。「神作りなんて、無茶なこと言うて。お前にも、フライデイにも、みんなにも迷惑かけたと思てる」
「そうなんですか?」直美は首をかしげた。「私、別に迷惑だなんて思ってないし、それにフライデイも、あれで良かったのかもしれない。神様にはしてあげられなかったけど、何だか自分なりに、神様を見つけたみたいだし」
「あいつか」小佐薙が微笑んだ。「第六の条件で行き詰まっとったくせに、お前が、第七の条件なんか持ち出すから……」
「フライデイの言ってたことって、フラクタル図形の話とかはよく分からなかったけど、何となく分かる気もする」
直美は、キャンパスを見わたしてみた。そしてフライデイの言っていた神とは、たとえばこの場の、今の雰囲気のようにも思えていた。誰が誰かも分からないような人の集まりが、学園祭という場を形成している。多様な喜怒哀楽が、ここには在る。ここはそうしたものがすべて在るための、具体的な系になっている。そして自分たちも、その大切な一部として機能している――。
キャンパスに、薄日が差し込んでいた。
「小佐薙さんは?」直美は聞いてみた。「この前、フライデイの言ったことを、どう思ってるんですか?」
「手放しで賛成する気はないな」小佐薙は、頭の後ろに手をあてた。「すべて在る≠ニいうことが、答えにはならないと俺は思う」
「どうして?」
「すべて在るとしても、何もかもが混沌《こんとん》とあっていいはずがないということや。それで人間、生きていけるのかというと、そうとは限らん。生きるということには、やはり何らかの方向性がいる場合があるやろ。我々が神について何か解明できたとしても、むしろ問題は、それによって救われるかどうかやないか」
小佐薙の言っていることが、直美にはよく理解できなかったが、どうもフライデイの考え方には否定的ではないかという気はした。
「結局、どうなんですか?」直美がもう一度、聞いた。
「やっぱり、神さんはいてはると思う」と、彼は言った。
「え、小佐薙さんて、無神論者じゃなかったんですか?」
「無神論は撤回する」彼は覚悟を決めたように、話し続けた。「いくら強がってみても、人間なんて、弱いもんや。知恵はまだ、宇宙の謎《なぞ》を解ききれてないし、自分の努力とか意志だけでは、どうにもならない領域があるのも確かや。自分でも思うようにならない運命を、誰もが背負っている。まわりが『頑張れ』と言っても、頑張れないときもある。自分の非力を思い知り、そして誰かに助けを求める」
小佐薙は、直美を見つめた。
「さっきも言ったように、問題は、こうした人たちを救済するシステムの方やないか? そして人間が弱い存在である限り、神≠ニいう方便≠ェ必要になるんやと思う」
「方便?」直美が聞き返す。
「ショートカット≠ニ言うてもええ。人が求めているのは、答えそのものよりも、救いであったりする。神とは、その救いにいたる近道のようなものかもしれへんな。今すぐにでも救われたい人にとっては、その近道が必要になってくるんや。せやから神は、いるとかいないとかじゃない。いてほしい。いると信じたい。いや、いてもらわねば、困る。存在するかどうかよりも、必要な存在なんや。神を信じることで、難しくも悩ましい問題に翻弄《ほんろう》されながらも、何とか自分の人生を、くじけずに生きられるようになる。正しいとか正しくないとかやない。時として、それが真理以上の役割を果たすこともある。それに対して論理をふりかざし、神の不在を語ってはいけない場合もあるという気もする。確かに、パラドックスはある。けど必要な存在に、パラドックスもくそもないやないか。人間存在にもパラドックスがあるなら、お互いさま。ともに大切なパートナーや」
「パートナー……」直美がくり返した。
「そうや」小佐薙は、大きくうなずいた。「人間、一人じゃ生きていけない。けど、誰かそばにいてほしいときに、誰かがいてくれるとは限らない――」
「そんなとき、そばにいてくれるパートナーが、神だと?」
「それでええやないか。それでもう、俺たちの神作りには、ひとまずケリをつけよう。次のプロジェクトもあるしな」
小佐薙は、直美の肩をポンとたたいた。
「あの」申し訳なさそうに、直美が言う。「もう一つ、分からないことがあるんですけど、聞いてもいいですか?」
「別にかまへん」
直美は、彼を見上げた。「私たち、誰に助けられたのか、ということなんです」
小佐薙は立ち止まり、つぶやくように言った。「量子ゴーストか」
直美が一つうなずく。
「神様を信じることでも、納得がいかないんですけど。フライデイの神≠ノ対する解釈とも、また違うみたいだし」
「何かが存在していたことは、否定できん。前に樋川が話していた、量子の中に存在する意思≠ニいうやつかもしれへん」
「でも私たちが出した条件のうち、第六の条件には、あてはまらなかったんですよね」
「ああ。多分、第七の条件にも。せやから、神ではない。しかし、何らかの超越的存在だったことは考えられる」
直美は顔を上げた。「じゃあやっぱり、悪魔?」
「さあ、悪魔と呼んでええかどうかも分からへん。実在に対する存在として前にも考えた、虚在――|イマジナリー《I》・|イグジスタンス《E》のような存在やないか、とは思うが」
「けど、いるのかしら。そんな存在」
小佐薙は、不思議そうに直美を見つめた。
「お前、信じてたんやないのか? そういう存在のことを」
「でも、量子ゴーストがそういう存在なら、あの時、直接ペガルスの量子CPUにアクセスして、向こうのシステムをダウンさせることもできたはずじゃ?」
「そう言われれば、そうやな」小佐薙は首をひねった。「試されたんやないか?」
「試された?」直美はくり返した。
「俺たちに、自分の運命を何とかする気があるのかどうかを。それで結局、俺たちはグリッド・コンピューティングで仲間集めをしたわけやが。それが奴のやり方やないのか?」
直美は、学園祭でにぎわうキャンパスを見てみた。グリッド・コンピューティングに協力してくれた人は、この中にもいるかもしれないと思いながら。
「試したのではなく、それしかできなかったのだとすれば?」彼女は小佐薙に聞いてみた。
「どういう意味や」
「つまり量子ゴースト単独では、ペガルスにはかなわないパワーしかなかったとすれば? それで、みんなで力を合わせることを呼びかけた」
「そんな阿呆《あほ》な。超越存在なら、そんな面倒なことをせんでも……」
「だから、超越存在じゃなかったのかも。量子ゴーストが、人間だったとすれば?」
小佐薙は、笑い出した。
「せやけど奴のメッセージは、直接量子CPUに書き込まれていた。ハッカーならまずノイマン型へ侵入してきて書き込んだことになるけど、最初のコンタクトはともかくとして、この前は絶対、ノイマン型からは書き込めなかったはずや。何故なら、ライターは俺が壊した」
「でも、量子ゴーストが直接量子CPUに書き込んだかどうかは、確かめたわけじゃないですよね。|読み取り機《リーダー》の出力で見ただけで」
「それはそうやが。けど知ってるやろ。量子CPUを直接見て確かめるわけにはいかん」
「もし、メッセージが直接、量子CPUに書き込まれたのではないとしたら? たとえば、ノイマン型にハッキングし、量子CPUに何か書いたように見せかけて、ノイマン型に出力させることもできたかも」
「いや、やっぱり人間はあり得ない」小佐薙は、首を横にふる。「第一どうやって、ペガルスのシステムに侵入できたんや。侵入するには、向こうの|FAKe《フェイク》を開けないとあかんかったわけやぞ」
「だからグリッド・コンピューティングを利用したんじゃ?」
「グリッド・コンピューティングだろうが何だろうが、ノイマン型はノイマン型や。それでどうやって、FAKeが開けられるんや」
「あの時、曲のファイル以外に、何か別なプログラムが送り込まれてきたじゃないですか。それで開けたんじゃ?」
「もしそうだとしても、奴が人間である可能性は、二つしか考えられない。一つは、高性能なQコンの持ち主であること。それを使って、FAKeを解いたことは考えられる。ただしあの時点で、ペガルス以上に高性能なQコンは、存在していなかったはずや」
「もう一つの可能性は?」と、直美は聞いた。
「もう一つは、FAKeを解く、新しい演算手順《アルゴリズム》を発見したかやな」
「新しい、アルゴリズム……」
「そう、ノイマン型でFAKeを短時間で開けることができるアルゴリズムや。そもそもQコンは、Qコンのメリットを生かした量子アルゴリズムで、FAKeを開けている。しかし、奴がノイマン型のファイルにして送ってきたもので開けたとすれば、量子アルゴリズムとは異なる、ノイマン型のアルゴリズムということになるが」
「じゃあそういうアルゴリズムで、鍵を開けたのでは?」
小佐薙は、ゆっくりと首を横にふった。
「口で言うほど簡単なものやない。そんなアルゴリズムは、見つかっていないんや。また見つかったとすれば、大問題になっとる」
「どうしてですか?」
「どうしてもこうしてもあらへんがな。そんなアルゴリズムがあるなら、相手が国防総省だろうが何だろうが、そこそこの性能なら、ノイマン型のパソコンでもハッキングは可能ということになるで。国防上の必要性からQコンを開発するという大前提そのものまでが崩れてしまう。それほどの大発見や」
「でも、もう確かめられないんですよね」
「ああ。プログラムは、何も残されていない。モーツァルトの曲とともに、消え去っていた。量子ゴーストが何者かは知らんが、見事と言うほかはないな」
「誰かがそのアルゴリズムを発見したことは、考えられないんですか?」
「いや、とてもやないが、これは人間業やない。せやから虚在《IE》のようなものを仮定するしかないと、俺は考えてる」
「量子ゴーストは、人間じゃないのかもしれない」直美は、つぶやくように言った。「かといって、神様でもない」
「そうやな。人間以上、神様未満。量子ゴーストは、そういうグレーな存在なんやろ」
「でも、その量子ゴーストが、どうして私たちに力を貸してくれたんでしょう」
小佐薙は、首をかしげる。「そんなこと、俺に分かるわけがない」
「そう、私にも分からない。でもそういうグレーな存在なら、私たちと同じように、中途半端で孤独で、道に迷える小さな存在なのかも」
「まさしく、量子ゴーストやな」小佐薙は、苦笑いを浮かべた。「奴も、直美のネット放送を聴いていたのかもしれん。それで自分も、中途半端に優れた能力を持て余す不完全な存在であることを自覚したのかも。お前、俺たちが量子ゴーストに助けられたと言うたけど、俺たちだって、奴を助けたのかもしれへんぞ」
「私たちが?」
「ああ。奴も自分の外に、何かを求めていたのだとすれば……」
小佐薙は急に立ち止まり、顔を上げた。
「どうかしたんですか?」
直美も、彼の視線の先を見つめた。
4
その少女は、見たところ十六、七歳ぐらいで、バイクで来ているのか、青のスリムなライダースーツで全身を覆っていた。肩のあたりまで伸びた黒髪を風になびかせ、手にはスティック状のスナック菓子をもっている。
その隣には、ジャケットの下からシャツを出した若い男が立っていた。
カップルにしては不似合いだな、と直美は思った。けど自分も今、年の離れた小佐薙と一緒にいるのだから、人のことは言えないかもしれない。
小佐薙は、あらたまった様子で、少女に声をかけた。
「先生……」声がうわずっている。「ご、ご無沙汰しております」
そして彼女に向かって、深々と頭を下げた。
「その節は、いろいろとご指導たまわり……」
少女はきょとんとしながら、スティック菓子を一かじりした。
小佐薙はあわてて、胸ポケットから名刺を取り出す。
直美には、まったく事情が飲み込めなかった。いつも横柄な小佐薙が急にかしこまり、女の子に向かって「先生」と言って頭を下げているのだ。一体、どうしたのかと思う。
名刺を差し出されても、少女は戸惑った様子で、少し後ずさりして、一緒にいた男の背後に半身を隠していた。
仕方ないといった顔で、若い男がその名刺を受け取った。
しげしげと見つめた後、男は「アプラDTの、小佐薙さん?」と聞いてきた。
「あ、はい」小佐薙は額の汗をぬぐうような仕種をした後、上目づかいで言った。「あの、失礼ですが、穂瑞《ほみず》先生では?」
少女は目を瞬《しばたた》かせながら、肯定とも否定ともつかぬ、不思議な表情を見せた。直美はそれを、とても可愛《かわい》いと思った。
「うー、残念」隣の男が言う。「彼女、そんな名字じゃありませんね」
「でも、今は大学の理学部の学生さんじゃ……」
「そんなあ。彼女が大学生なわけ、ないっしょ」
確かに、どう見てもまだ高校生だと、直美も思った。ただ、小佐薙の言った穂瑞≠ニいう名字には、彼女も聞き覚えがあった。
「何、見とれてんですか?」
男にそう言われ、小佐薙は頭に手をあてた。「いや、失礼しました」
その横を、少女はスキップするようにして駆け抜け、キャンパスへ向かっていった。
「人違いか……」小佐薙が首をひねる。
名刺を見直していた男が、小佐薙にたずねた。「あの、ここ、給料いいんですか?」
「そこそこですけど」男の方には興味がないのか、面倒そうに小佐薙が答える。「就活ですか?」
「ええ、まあ……」
顔を上げ、近くに少女がいなくなったことに気づいた男は、「あ、おい、待ってくれよ」と言って走り出した。
少女は、くるりとふり向き、片手を前へ突き出す。
そして「ピース!」と言うと、微笑みを浮かべ、また体の向きを変えた。
「やっぱり、人違いか」小佐薙がつぶやく。「穂瑞先生は、もっと無表情やった」
彼はまた、とぼとぼと歩き出した。
「あの、穂瑞先生って?」直美が、彼を追いかける。
「穂瑞|沙羅華《さらか》。現代物理学の天才児や」さっき彼女に見せた態度とうって変わって、小佐薙は吐き捨てるように言った。「天才が欲しいという母親の希望で、精子バンクを利用して生まれた。知らんか? マスコミも面白がって、よく取り上げてた」
穂瑞……。直美はその名前を、頭の中でくり返した。そう言えば最近、テレビでも見たような記憶があった。
確か巨大加速器、むげん≠フ発案者で、なかなか計画通りの性能にならないことをマスコミにたたかれていた。しかしその加速器も、先日無事、運用を開始したはずだった。
「その穂瑞は、わが社のQコンの、基礎理論の発案者でもある」
「え、発案者って、小佐薙さんじゃなかったんですか?」
「ああ。穂瑞はむげん≠ノ関わる前、量子コンピュータの研究にたずさわっていた。俺たちの光解析型も、実はその彼女のアイデアなんや。得体の知れない量子重力理論≠持ち出し、空飛ぶ量子コンピュータにしたのも、彼女や。おかげで、えらい目にあった」
小佐薙は、舌打ちをした。
「そうなんですか?」
「確かに、恐ろしく頭は良かった。しかし気難しく、高飛車で人を小馬鹿にしたような話し方をする。また言うことが的を射ているんで、言われた方は、ぐうの音《ね》も出ない。しかも相手は、年端《としは》も行かないガキや」
「何か、いろいろあったみたいですね……」
「まあな」思い出したくないのか、小佐薙はあまり具体的なことは言わなかった。「さんざん俺たちをふり回した挙げ句、途中で放ったらかして消えよった」
「消えた?」
「つまり、トンズラや。『自分にはもう関係のないこと』とか言いくさって。後戻りできない状態で、プロジェクトが残った。思い出しても腹が立つ」
小佐薙は、その場でこぶしを握りしめていた。
「きっと途中でやめるのは、彼女も辛《つら》かったんだと思いますけど」直美は言った。「人間て、表面だけじゃ分からないし」
「どうかな。今度会うことがあれば、皮肉の一つも言ってやるつもりやったが」
小佐薙は、後ろをふり向いた。
さっきの二人は、模擬店の列の中にいて、興味深そうに店頭をのぞいている。
小佐薙はそれを、離れたところからながめていた。
「やっぱ、別人か」彼はまた、首をかしげる。「俺の知っている先生は、何と言うか、もっとピリピリしていた。少なくとも、あんなに能天気やなかった」
「だったら、そうなんじゃないですか? 名字も違うって言ってたし……」
「しかし、面影はあるんや」小佐薙は、耳の後ろを指でかいた。「彼女、何か、無理して作ってないか?」
「それとも、実は双子だったとか」
「いや、聞いたことがない」小佐薙は首を横にふった。「大体、そんな都合よく双子がいてたまるか」
「でも、何だか楽しそう」直美は彼女を見ていた。「スキップしていたときも、すべての重圧から解放されて、まるで天にものぼっていきそうな感じだった」
「やっぱり、人違いかなあ」
「ちょっと待って……」何かを思い出したように、直美が小佐薙の方を向いた。「彼女、私たちに『ピース』って、言ってませんでした?」
「ああ、一言だけ」小佐薙は、自分の指でVサインを作った。「それがどないした。ピースはピース。ただの挨拶やろ」
「日本語だと、どっちもピースだけど……。でもさっきのピースは、パズル≠フピースなんじゃ?」
「そう言えばお前、ネット放送でそんなことを言うてたみたいやな」
「ひょっとして彼女も、私たちのグリッド・コンピューティングに協力してくれた、モニタークライアントの一人なのかも」
「そんな阿呆な」小佐薙は、片手を横にふった。「あのとき呼びかけたイコライザーがお前やとは、知られていないはずやろ」
「でも、名刺を渡したでしょ。小佐薙さんがネオ・ピグマリオンの責任者、ビギンだったことは、知っている人は知っている」直美は、あの時のことを思い出していた。「そう言えばモニタークライアントのなかに、いろいろ情報をくれた人がいましたよね」
「ああ、ズボラ神様か」
「正確なハンドルネームは、てんで間抜けなズボラ神様=c…」
直美は携帯を取り出し、そのハンドルネームを平仮名で打ち込んでみた。てんでまぬけな ずぼらかみさま=B
「小佐薙さん、前に虚数の話をしてませんでした?」
「ああ。実数の世界を理解するのには、虚数という概念を導入しないと解けないという、あれか?」
「このてんで間抜け≠ヘ、その虚数みたいなものかも」
てんで間抜け……。直美はハンドルネームの中から、濁点≠ニ、ま≠消去した。
すほらかみさ=B
「これを並べ替えると?」
「アナグラムか」小佐薙は、直美が打ち出した平仮名を読んだ。「ほみす……。ほみず、さらか!?」
「そう、小佐薙さんの言う、天才児」直美が顔を上げる。「ズボラ神様だけじゃない。量子ゴーストもひょっとして……」
「いや、それはやはり、考えられない」小佐薙は、激しく首を横にふった。
「だって、できるとすれば、天才だって言ったでしょ」
「確かに言うたが、天才だとしても、並の天才では無理や」
「でも彼女、新型加速器も発案したんじゃ」
「いや、それでも無理や。新アルゴリズムというのは、そんな生易しいもんやない」小佐薙が、空を見上げた。「そうやな。この宇宙の成り立ちについて説明する最終理論《TOE》が解けるぐらいの天才でないと。しかし、TOEを解いた奴は、まだいない。要するに、人間には無理ということや」
直美の肩を軽くたたくと、彼は声をあげて笑った。
「ま、ズボラ神様の正体ぐらい、記録《ログ》を調べればすぐに分かることや。どうせ月並みな悩み事をかかえて行き詰まってしまった、どこにでもいるようなガキンチョやないか?」
直美はそれ以上、言い返さなかった。
しかし考えてみれば、何も新しいアルゴリズムを発見して鍵を開けなくても、何らかの方法でパスワードを盗んだとすれば、FAKeも開けられないことはなかったのではないだろうか。穂瑞という人が優秀なハッカーなら、それもできたかもしれない。またハッキングの証拠を消すことも、不可能ではないはずだ。しかも私たちのログだって、簡単に改ざんできるだろう。
しかし小佐薙を見ていると、未知なる量子ゴーストの存在を信じたがっているようにも見えた。絶対に人間ではないと思っている小佐薙のために、直美はそのことを、言わないことにした。
小佐薙はもう一度、模擬店の二人を見ていた。「それよりあの二人、恋人同士かな?」
「さあ……」しかし直美には、そうは見えなかった。
やがて二人は人込みにかくれ、視界から消えていった。
「寒くないか?」小佐薙が聞いてきた。
「ええ、大丈夫」と、直美は答える。「うらやましいんですか? さっきの二人が」
「そんなんとちゃう」
「腕ぐらい、組んであげますよ。私でよければ」
「別にいらん」小佐薙は、心なしか早足で歩き出した。
そろそろ、太陽が西の空に傾きかけていた。
「小佐薙さん、これからどうするんですか?」と直美は聞いた。
「言うたやろ。研究所へ戻る。フライデイが待ってるからな」彼は立ち止まり、直美の方を向いた。「もうちょっと、いいか? お前に話しておきたいことがある」
「あ、はい」直美はそう返事をすると、彼について駐車場へ向かった。
「二人きりになるの、久しぶりやないか?」と、小佐薙は言った。
そういえば、久しぶりのような気がする。直美が柴宮機長に失恋して、アドバイスしてくれたとき以来かもしれない。いや、あのときも、確か樋川さんがいたはずだと直美は思った。
駐車場に着くと、小佐薙は、自分の軽自動車へ向かって歩きながら、鍵を取り出した。
「あの、話って?」直美が聞いた。
小佐薙がふり向く。彼は一度、息を大きく吸い込んだ。
「辛いこともあったやろが、よくがんばってくれた」
直美は、ぺこりと頭を下げた。
「こんな私ですけど、これからも、いろいろお手伝いさせてください」
「話があるというのは、実はそのことなんや」小佐薙は、今まで直美が見たこともないような、真剣な表情を浮かべた。「君を新事業に採用するとは、一言も言うてない」
「え、どういうことですか?」
「Qコンの研究にしろ、メンタルヘルス事業にしろ、君とは契約更新しない」
「私、何かいけないことを?」
「そういうわけやないが」小佐薙は、彼女から目をそらせた。「前に言うたはずや。お前はまだ、勉強することが一杯ある。もう一度、現実を生きるところから、やり直せ」
「でも、小佐薙さんたちのお仕事はいよいよこれからなのに。もっと続けさせてください」
「お前かて、いよいよこれからやないか。何も俺みたいなおっさんの下で、こき使われることはない。今までの経験を活かして、自分の人生を生きていけ。俺たちを手伝う気があるなら、今度は入社試験を受けて、正式採用をめざせばええ。それまで俺は俺で、ふんばるから」
「でも、やっとこのお仕事にも慣れてきたのに。お願いです。もっと勉強しますから、バイトは続けさせてください」
「しつこい。皆まで言わせるな」小佐薙は、彼女に背中を向けた。「前にお前が見抜いていた通り、俺はお前を利用していただけや。次のバイトは、もっと美人で有能な処女を探す」
「そんな……」
「とにかく、もうお前の顔は見飽きた。クビや」
「いえ、小佐薙さんは、そんな人じゃない。一緒にいて、分かったんです。態度は乱暴だけど、私のことを、ずっと……」
「買いかぶりや」小佐薙は、大きく背伸びをした。「フライデイが言ったすべて在る=Bそれは、時間についても言えるんとちゃうやろか。今はまだまだ足りないものを、未来につむいでいく。せやからこそ、俺たちは生きている」
周囲が、夕焼けに照らされていた。そろそろ直美も、模擬店へ戻らないといけなかった。
「これからがいよいよ、本当のお前の人生なんや。今ならまだ、リセットできる。しっかり自分の道を見つけるまで、もうちょっと、勉強してこいや」
小佐薙は、彼女に右手を差し出す。
直美は、彼と握手を交わした。
「お疲れさま」と、小佐薙が言った。
直美はもう一度、小佐薙に向かっておじぎをする。
「お疲れさまでした」
そして顔を伏せながら、駆け足でキャンパスへ戻って行った。
小佐薙は、その場でしばらく、彼女を見送っていた。
人の気配に気づき、ふり返る。樋川が立っていた。
「何や、まだおったんか」
「声かけちゃ悪いと思ってな」
「のぞき見してたんかいな」
「そんなんじゃないけど」樋川は苦笑いを浮かべた。「そこの喫茶店でお茶飲んでたら、丸見えなんだもん。それよりお前、ダンスパーティは? 待田も行く気らしいけど」
「いや、直美にも聞かれたけど、もうそんな年やないしな」
「へえ、直美は行くのか」樋川が首をかしげた。「いつもの彼女なら、そういう場所へは行かなかったかも」
「ああ。行っても尻込《しりご》みして、踊らなかったかもな。あいつも変わりよった」
「気になるのか? 彼女のことが」
小佐薙は、黙っていた。樋川が続ける。
「プロジェクトの鍵ともいえるイコライザーにはプロを雇えと言ったのに、お前、彼女にこだわってたよな。あんな素人《しろうと》の小娘に。でも、今ならその理由が、何となく僕にも分かる気がする」
「彼女には内緒にしててくれ。頼む」小佐薙は、樋川に手を合わせた。「あいつ、いまだに気がついてないのかもしれへん。自分の価値に。いつ気がつくのか知らんが」
「いつかフライデイに、直美の将来を占わせたことがあったよな。フライデイは言わなかったが、奴は何を見たのかな」
「さあな。こういう結末やなかったかもしれへん。いや、結末どころか、あいつの人生は、まだ始まったばかり。バイトの契約も破棄や。もう何をしようが、彼女の自由」
「あの娘《こ》の未来を占うのは、もう僕たちの仕事じゃないかもな」樋川は胸ポケットから煙草を取り出すと、それをじっと見つめ、再び、ポケットに収めた。「それより、お前に晩飯をおごらせてくれ」
小佐薙は面食らったように、樋川の方を向いた。「何でや?」
「とにかく、おごらせてくれ。僕の気持ちだ。酒も付けてやるから」
「やめとけ」と、小佐薙が言う。「今飲んだら、俺、ワンワン泣いてもて、お前に迷惑かけるぞ。晩飯は、今日も一人で食うつもりや」
「じゃあ、タコ焼きでいいか?」樋川が小佐薙の顔をのぞき込んだ。「待ってろ。ちょっと戻って、模擬店で買ってくる」
走り出した樋川に向かって、小佐薙が言った。
「ええけど、タコの入っているやつにしてくれ」
5
朝。直美は毛布をはねのけ、ベッドから体を起こした。携帯のアラームを止め、カーテンを開ける。
体の節々が痛む。ゆうべはちょっと、踊り過ぎたかもしれない。
パジャマのまま洗面所へ向かい、顔を洗う。水が冷たくて、心地良い。
そしてデニムのスカートに着替える。
玄関の前に立つと、鏡を見ながら髪を直し、スリッパをスニーカーに履き替えて、アパートのドアを開けた。
携帯を見つめる女子高生たちや、スポーツ新聞を広げているサラリーマンたちに交じって電車に揺られた後、直美は駅の改札を抜けて、大学へ向かった。
「おはよう」声にふり向くと、智恵実が耳に突っ込んだイヤホンを外し、微笑んでいた。「元気ぃ?」
「おはよう」直美も笑顔で、彼女に挨拶をした。「丁度良かった。智恵実にお願いがあるんだけど」
「何?」
「倫理学のノート、貸してもらえる?」
「え、あんた、この私からノート借りるつもり?」智恵実が驚いたように言う。「腕を上げたわね」
「前期のお返しだと思って。お願い」直美は、智恵実に向かって手を合わせた。
「分かった。友だちに聞いてみる」智恵実が軽くうなずく。「その代わり、今日の二限目の西洋哲学なんだけど」
「え、また代返するの?」直美も驚いて言う。
「ギブ・アンド・テイクでしょ」
「でも学園祭が終わって、もう遊ぶの?」
「当然でしょ。それにもうじきクリスマスだし、また素敵なことが起きそうな予感がする」
「クリスマスなんて、気が早くない? まだ一か月も先じゃないの」
「そんなことないよ。もうそろそろ、準備しておかないと。直美は何か予定あるの?」
「でも私、休んでた分、がんばって取り返さないと……」
そして来年度は、社会学科の専門課程の他に、現代政治学や知能情報学なんかも受講してみようと、彼女は思った。
直美は、智恵実に見つめられていたことに気づいた。
「どうかした?」
「直美、何か奇麗《きれい》になったんじゃない?」と、智恵実が言った。
「いきなり、どうして?」
「好きな人でもできたのかと思ってさ」
「そんなんじゃないけど……」直美は両手で、頬《ほお》を押さえた。
彼女の目の前を、白いものがいくつも舞い落ちてきた。
雪だ。
智恵実が微笑みを浮かべた。
「雪が降るなんて、今朝の天気予報でも言ってなかったのにね」
「でも、奇麗……」直美は空を見上げて言う。
「雪って、天にいる誰かさんからの手紙だって、誰かさんが言ってなかったっけ?」智恵実はそう言うと、いきなり手をたたいた。「私、ちょっと急いでるんで、先にいくから。リポート、出さないといけないんだけど、まだ書いてないの。じゃあ、またね」
彼女は手をふると、校門めがけて走っていった。
また一人になった。直美はぼんやりと、空をながめていた。
雪雲の彼方《かなた》に、日ざしが見えている。間もなくこの雪も、降りやんでしまうのだろう。
桜から雪へ。季節の移り変わりは、確かにあった。でもあのころと、何か変わったのだろうかと直美は考えた。学校へ入ったばかりの、あのころと。
何気ない日常に戻っただけで、何も変わったことはないのかもしれない。雪が降っていることを別にすれば、まわりの景色も、いつもと変わらない。
変わったことといえば、その景色や人の中に今、自分がいることぐらいだろうか。そして自分は、ここにいてもいいんだと直美は思った。
ここにいるみんなも、私とは違うかもしれないが、どこかで私とそんなに違わないのかもしれない。そんなみんなが、今ここに集まっている――。
少し前のグループに、令子と杏里がいるのを見つけた。直美は少し早足で、そこへ行くことにした。
天に向けて、手のひらを広げてみる。ようやく届いた雪の結晶は、彼女にささやかな情報を伝え終えると、静かに解けていった。
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あとがき
この本は、『神様のパズル』ではありません。お間違えのないように。
また、『神様のパズル』の続編でもありません。スピンオフ――いわば番外編≠ナす。
よって『神様のパズル』をご存じない方にも、独立した話としてお読みいただけると思います。
タイトルも神様のパ≠ワで同じですが、その下はズル≠ナはありませんので。
ではズル≠ェなくなったのかというと、そうではありません。
中身で一杯、ズルしてます。
何せ今度は、神様を作るお話ですから。
なお、これはサイエンス・フィクションであり、登場する人物名等は、架空のものです。
[#地付き]平成二十年六月 機本伸司
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主な参考文献
『量子コンピュータとは何か』ジョージ・ジョンソン著 水谷淳訳(早川書房)
『図解雑学 量子コンピュータ』西野哲朗著(ナツメ社)
別冊・数理科学『量子情報科学とその展開 量子コンピュータ・暗号・情報通信』(サイエンス社)
『量子コンピュータへの誘い』石井茂著(日経BP社)
『神への長い道』小松左京著(角川春樹事務所 ハルキ文庫『結晶星団』に収録)
『回答』フレドリック・ブラウン著 小西宏訳(東京創元社 創元SF文庫『天使と宇宙船』に収録)
『失われた宇宙の旅2001』アーサー・C・クラーク著 伊藤典夫訳(早川書房)
『ギリシャ神話』山室静著(文元社)
著者略歴
機本伸司〈きもと・しんじ〉1956年、兵庫県宝塚布に生まれる。甲南大学理学部(現理工学部)卒業。出版社、映像制作会社を経て、1993年、フリーランスのPR映画ディレクターに。2002年、『神様のパズル』で第三回小松左京賞を受賞。他の著作に『メシアの処方箋』『僕たちの終末』『スペースプローブ』がある。
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底本
角川春樹事務所 単行本
神様《かみさま》のパラドックス
著 者――機本伸司《きもとしんじ》
2008年7月18日 第一刷発行
発行者――大杉明彦
発行所――株式会社 角川春樹事務所
[#地付き]2008年8月1日作成 hj
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底本のまま
・明日未は、Mの肩に手をかけた
・「もちろんやがな」と、小佐薙が答える
修正
《》→ 【】
置き換え文字
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
祷《※》 ※[#「示+壽」、第3水準1-89-35]「示+壽」、第3水準1-89-35
顛《※》 ※[#「眞+頁」、第3水準1-94-3]「眞+頁」、第3水準1-94-3
箪《※》 ※[#「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73]「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73
涜《※》 ※[#「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29]「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29