ブランデージの魔法の城
魔王子さまと鏡の部屋の秘密
著者 橘香いくの/挿絵 石川沙絵
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)傲慢《ごうまん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)自信|過剰《かじょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)「ブランデージの世継ぎの君、ドナティアン・シャルル王子に書状! ブランデージの世継ぎの君、ドナティアン・シャルル王子に書状!」[#「「ブランデージの世継ぎの君、ドナティアン・シャルル王子に書状! ブランデージの世継ぎの君、ドナティアン・シャルル王子に書状!」」は本文より1段階大きな文字]
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目次
ブランデージの魔法の城
魔王子さまと鏡の部屋の秘密
魔王子さまのお師匠の事
あとがき
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魔王子さまと鏡の部屋の秘密
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プロローグ
その昔、ブランデージという国の辺境に、たいそう堅固《けんご》な石の城がそびえていた。といっても、それは領土を守るために築かれたわけではなく、周辺に人々の住む町があるわけでもなかった。それどころか、誰も足を踏み入れることのない広大な森の奥深くにあり、存在を知る者すらまれだった。
城の主は、若くして隠棲《いんせい》した魔術師だった。もとは王国の世継ぎだったのだが、ある禁忌《きんき》にふれたために都を追われ、この地に落ち着いたのである。
傲慢《ごうまん》で偏屈《へんくつ》な魔術師は、以来、決して人と交わろうとはしなかった。昼も夜も魔術の研究に没頭《ぼっとう》し、人のなしうる限界に挑むことにのみ日々のよろこびを見出《みいだ》していた。
心境に変化が訪れたのは、それから一年ほど後のこと。彼はいつしか、あるむなしさにとらわれるようになっていた。彼はこれまで、先人たちの残した厖大《ぼうだい》な知識にふれ、数々のおどろくべき秘術をわがものとしてきた。しかし、どれほど大きな力を得たとしても、すべては自身の死とともに失われてしまう。そんなことには耐えられなかった。
そこで彼は、息子をつくろうと考えた。血肉をわけたわが子を跡継ぎとし、己《おのれ》のすべてをわけあたえようと。
魔術師はさっそく配下の小鬼たちに命じ、村から一人の娘をさらわせた。
ただし、娘を愛するつもりはなかった。これまで誰も愛したことはなく、そんな感情の存在すら信じてはいなかったからだ。彼が必要としたのは息子の母であり、妻ではなかった。
かつて王子だった魔術師は、すべての民はわが意志に従うものと思いこんでいた。ところが、娘は彼にあらがった。人の心をもたず、自分をただの道具としか見ていない男を嫌悪《けんお》したのである。彼女はいかなる誘惑にも屈さず、あらゆる機会をつかんで逃げ出そうとした。
しかし、魔術師の心の奥底に隠された孤独とやさしさに娘が気づいたとき、そして、娘の勇気や誠実さ――純粋な心のみがもち得る数々の美質に彼が気づいたとき、すべては変化していった。二人は互いに惹《ひ》かれあい、やがてそのことを自覚するにいたったのだ。
魔術師は、娘に時間を与えることにした。これまで一度も愛を知らずに生きてきた彼は、まず恋人になるところから学ぶことにしたのである。
そして、それから――?
二人のその後の物語の、はじまりはじまり。
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「あなたのその傲慢《ごうまん》な態度には、ほとほと愛想が尽きたわ! 金輪際《こんりんざい》、顔も見たくない! お城を出て行かせてもらいます!」
アドリエンヌはすさまじい剣幕《けんまく》で別れの言葉を突きつけると、くるりときびすを返して、部屋の外に飛びだした。
「待て。わたしはまだ退出を許してはおらぬぞ」
呼び止める声はいつもながらに尊大で、おまけに、腹立たしいほど落ち着き払ったままだ。アドリエンヌはドナティアン・シャルルをふりかえり、ふんと鼻を鳴らした。
「許していただく[#「いただく」に傍点]必要なんてないの。わたしはあなたの家来じゃないんだから。いつだって、好きなときに好きなところへ行く権利が――あっ!」
相手が指を鳴らそうとしたのを見てとって、アドリエンヌはさっと扉の陰にかくれた。
「また魔法を使う気!? 卑怯《ひきょう》よ!」
「なに?」
ドナティアン・シャルルの眼差《まなざ》しが、このときはじめて不穏なものに変わった。
「わたしを卑怯者呼ばわりいたすのか?」
「だって、そうじゃないの! か弱い女性を力ずくで思い通りにしようなんて、最低の男がすることなんだから!」
ドナティアン・シャルルは腹立ちを抑えるように黙りこみ、そして冷ややかに言った。
「では、好きにするがよい。この強情者が」
「同じセリフをお返しするわ、この頑固頭《がんこあたま》! あなたなんか、幽霊相手に一人でいばってるのがお似合いよ!」
アドリエンヌは痛烈な捨て台詞《ぜりふ》を残し、憤然《ふんぜん》とその場から立ち去った。
生まれつき傲慢で身勝手な男に道理をわからせるのは、かんたんな仕事ではない。ましてや相手が王子様なんて身分で、まわりの者はみな自分に従うのが当然だと思いこんでいるような場合は、なおさらだ。さらにはその男が、強大な力をもつ魔法使いでもあったとしたら? ことはますます面倒になる。
ところが、それこそまさに今、アドリエンヌが直面している問題なのだった。
その男――ドナティアン・シャルルはブランデージ王国の元[#「元」に傍点]世継ぎの王子で、すぐれた魔術師でもあった。わけあって今は都を追放された身だが、そんな不遇な境涯《きょうがい》も、彼の歪《ゆが》んだ性格を矯正《きょうせい》する役には立たなかったらしい。彼はどんなときでも、徹頭徹尾《てっとうてつび》、自分の都合しか考えないし、世間一般の常識なんて、はなから敬意を払うに値しないと思っている。アドリエンヌにとって厄介《やっかい》なのは、そんな相手に恋をしてしまったことだ。
そう、アドリエンヌは彼に恋をしていた。自分でも、頭がどうかしてしまったのではないかと思う。二人には共通するところなど何一つないし、そもそもの出会いだって、まったく尋常《じんじょう》でない動機によってもたらされたものだったのだから。
それは、今から三週間前にさかのぼる。ドナティアン・シャルルは魔術師としての知識と秘術を継承させるため、息子を得たいと望んでいた。そこで、当然の順番として、まずは妻を迎える必要があった。
まともな男なら、好意のもてる女性と出会い、恋をして、求婚することを考えるだろう。あいにく、ドナティアン・シャルルは神経も思考回路もまともではなかった。彼は花嫁を迎えるための準備段階をみんなすっとばし、いきなり見ず知らずの村娘を誘拐《ゆうかい》するという非道にでたのである。被害にあったのが、アドリエンヌだったというわけだ。
もちろん、アドリエンヌはパニックを起こしたし、なんとか家に逃げ帰ろうとしたし、そのために思いつくことはなんでもやった。彼女はそれまで、平凡《へいぼん》な田舎《いなか》で平凡に暮らす、きわめて平凡な十七歳の娘にすぎなかったのである。なのに、ある日突然、見たこともない城に連れ去られ、元世継ぎの王子から息子を産めと強要されるなんて、そんな突拍子《とっぴょうし》もない現実をどうやって受け入れろというのだろう?
ところが、運命というのは、ときとしてとんでもないイタズラを仕掛けてくるから、油断がならない。横柄《おうへい》で自己中心的で自信|過剰《かじょう》の最低男だと思っていた相手と、いつしか惹《ひ》かれあうようになっていたのだから。
今、アドリエンヌはドナティアン・シャルルの築いた魔法の城で暮らしている。これがお伽噺《とぎばなし》なら、きっとこんな言葉で結ばれたはずだ。
そして二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ[#「そして二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ」は太字]
しかし、アドリエンヌの場合、めでたしめでたし[#「めでたしめでたし」は太字]≠ナは終わらなかった。
なぜか? 王子のような最低最悪の傲慢《ごうまん》男が、一夜にして品行方正《ひんこうほうせい》な恋人に早変わりすることなど、絶対にありえないからである。
アドリエンヌは、それを改めて思い知るはめに陥《おちい》っていた。
魔術の研究に没頭《ぼっとう》するあまり、王子が平気で食事の約束をすっぽかすことには、もう慣れた。たまには気晴らしに外出させてくれるよう再三たのんでいるのに無視されることや、いちいちえらそうな態度をとられることだって、まだ我慢できる。だが、今度ばかりは――誰がなんと言おうと、今回の件だけは――
「絶対に許せない! 今度という今度は、本当に堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》が切れたわ! わたしたち、もうおしまいよ!」
王子の部屋を後にしたアドリエンヌは、その足でまっすぐ城の外にむかった。衛兵のいない城門を猛然と通り抜け、跳ね橋にさしかかったとき――
「きゃあああっ!」
彼女は突然、悲鳴をあげた。目の前に巨大なクモの巣があらわれ、視界いっぱいに広がったのだ。彼女はとっさに止まることができず、自ら罠《わな》に飛びこむ羽虫さながら、一瞬にして虜《とりこ》にされてしまった。
「なによ、これっ!? ドナティアン・シャルルの仕業《しわざ》ね!」
もちろん、こんなことのできる者など、ほかにはいない。アドリエンヌが勝手に城をぬけださないよう、あらかじめ魔法の罠を仕掛けていたのだろう。
「信じられない! なんて根性の曲がった男なの! こんな――こんな――よくも――」
アドリエンヌは悪態をつきながら、必死で巣から逃れようとした。だが、もがけばもがくほどネバネバの糸がからみついてきて、ますます身動きがとれなくなってしまう。
「ああ、もうっ! 誰か――」
しばらく格闘したあと、彼女はついに音《ね》をあげて助けをもとめた。
といっても、呼びかけた相手は人ではない。この城で召し使われているのは、王子に魂《たましい》を呪縛《じゅばく》された幽霊たちだった。影と呼ばれる彼らは、しかし案外に気のいい存在で、たのめばたいていの願い事は叶えてくれる。はずが――
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なぜかこのときばかりは、いくら待ってもあらわれる気配がない。
「もうっ! 肝心《かんじん》なときに、みんな、なにしてるのよ?」
しびれを切らしかけたとき、城の上空を舞う黒い影に気づいた。アドリエンヌは助かったとばかり、大声で叫んだ。
「ゲルガラン!」
すると、彼女のそばに一羽のカラスが降りてきた。王子の使い魔だ。漆黒《しっこく》の羽と金色に光る双眸《そうぼう》をもつこの鳥は、すでに二百年近い時を生きている、知恵のある魔物である。
――また、いさかいがあったようだな。
アドリエンヌの頭の中で、おだやかな声が響いた。ゲルガランは心話で人に意思を伝えることができるのだ。
――あなたの元気な声が空にまで届いていた。
アドリエンヌは、ぷうっと頬《ほお》をふくらませた。
「あんなにわがままな暴君が相手なんだもの、ちっとも不思議じゃないでしょ」
――そう。しかし、王子に面とむかって逆らう者など、あなたくらいのものだ。今まで、誰もそんな人間はいなかった。
「だから、あんな根性の腐《くさ》ったろくでなしになるのよ。誰かが彼の間違いを正してやるべきだったんだわ」
――王子の水盤は、その誰か[#「その誰か」に傍点]にあなたを選んだのだ。
それを聞くと、アドリエンヌはますます気がふさいだ。
王子の結婚相手なら、もっと高貴な生まれの女性のほうがふさわしかったはずだ。にもかかわらず、平民であるアドリエンヌがこの城に連れてこられたのは、あらゆる問いに答えてくれるという魔法の水盤が、彼女を選んだからだった。王子自身は、肝心の息子さえ手に入るなら、そのために誰と結婚することになろうと、どうでもよかったのである。
実は、王子と相思相愛《そうしそうあい》になった今でも、アドリエンヌの心にはいつもそのことがひっかかっていた。
「水盤が選んだのは王子の恋人じゃなくて、教育係だったってこと?」
それなら、自分が適任だと判断された理由はわかる。アドリエンヌには五人もの弟妹がいて、子供のころからずっと彼らの面倒を見てきたのだから。
「でも、あんな大きな子供、しつけるには手遅れだわ」
アドリエンヌは、口をとがらせてばやいた。
――あなたの役目は、王子に愛を教えることなのだ。彼もそれを望んだはずだが?
「……」
彼女が赤くなって黙りこむと、ゲルガランは笑うように首をゆすり、ふたたび羽を広げた。
――健闘を祈る。
「あっ! 助けないで行っちゃう気!?」
――わたしに、王子の術をやぶれるはずがない。
ゲルガランは平然とこたえ、彼女を置いてさっさと消えてしまった。
「もうっ! 薄情者――っ!!」
アドリエンヌは、ため息をついた。
つまり、ドナティアン・シャルルに助けをもとめないかぎり、わたしはこのままってこと?
どうやら、そうらしい。いまだに影たちがあらわれないのも、王子に手出しを禁じられているせいかもしれない。
ほんとにもう。なんて腹の立つ人かしら。
だが、この程度で泣いて助けを請《こ》うなんて思ったら、大間違いだ。それだけは絶対にしたくなかった。たとえこのまま干涸《ひから》びたって、思い通りになんかなるもんですか。アドリエンヌは意地を張り、持久戦を覚悟した。
とはいえ、季節はすでに冬になっていた。いくら晴れているといっても、大気はやはり冷たい。ふるえながら空を眺めていると、自分の馬鹿さかげんがつくづく身にしみた。
魔法使いなんかを好きになるから、こんな目にあうんだわ。村に帰って、もっと真面目《まじめ》でやさしい男と付き合っていたらよかったのよ。
じわりと目に涙が浮かんだとき、近くに人の気配を感じた。ギクリとして首をめぐらすと、ドナティアン・シャルルが城壁によりかかって立っていた。黙って腕を組み、じっとこちらを見つめている。
とたんに、アドリエンヌの涙はひっこんだ。
「あら。お忙しい王子様が、いったいなんのご用ですの?」
冷ややかに言うと、王子は片方の眉《まゆ》を吊りあげた。
「そなたのほうが、わたしに用があるのではないのか?」
「まさか! ご冗談でしょう。あなたになんか、なんの用もないわ。さっさと大事な研究におもどりになったら?」
「まったく、強情な女だな」
ドナティアン・シャルルは苦笑し、ぱちんと指を鳴らした。すると、アドリエンヌを捕らえていたクモの糸がゆるみ、どさりと獲物《えもの》を地面に放りだした。
「い……ったあ……」
アドリエンヌは尻もちをついてひっくり返り、痛みに顔を歪《ゆが》めた。
「意地を張っても益《えき》はなかろう。なぜ、おとなしくわたしに従おうとせぬ? ここでわたしとともに暮らすことには同意したではないか」
その声は頭の上から聞こえた。ハッとして顔をあげると、いつの間にか、すぐ目の前にドナティアン・シャルルが立っていた。不可解そうな表情でこちらを見下ろしている。
アドリエンヌはムッとしながら立ち上がり、体に巻きついていた残りの糸を無造作《むぞうさ》に引き剥《は》がした。
「それとこれとは話がべつよ。わたしは、あなたの奴隷《どれい》になるつもりはないわ」
「なにを馬鹿な。そなたはわたしの想い人ではないか」
「でも、わたしを思い通りに操ろうとしてるじゃない。いいこと? わたしはあなたにとってただの平民にすぎないかもしれないけど、それでも一人の人間よ。心があるの。誰にも縛《しば》られない、自由な心がね。いくらあなたが王子だからって、媚《こ》びへつらったりしませんからね」
すると、王子の口もとに微笑が浮かんだ。
「それはわかっている」
アドリエンヌは疑わしげな視線をむけた。
「そうかしら。とてもそうは思えないけど」
「わたしがそなたをいとおしく思うのは、それゆえだ」
アドリエンヌの心臓がドキンと跳ねた。胸の中でうっかり幸福感がふくらみかけたが、あわててそんな自分を叱《しか》りつける。
だめよ、だめ! こんな言葉に騙《だま》されちゃ! この笑顔が曲者《くせもの》なんだから。
ろくでもないことに、ドナティアン・シャルルはすぐれた容姿の持ち主でもあった。均整のとれたしなやかな肢体《したい》、端正な顔立ち、カラスの濡《ぬ》れ羽色《ばいろ》をした長い髪に、底なし沼を思わせる深い深い緑の瞳。魔術師の黒衣を身にまとうと、妖《あや》しく美しい魔物のようだ。彼は、そんな自分の外見が人にどんな印象を与えるかをちゃんと心得ていて、いつも遠慮《えんりょ》なくそれを利用した。
これもまた、アドリエンヌにとって腹立たしいことの一つだった。彼女は決して他人を見た目で判断するような人間ではないのだが、それでもあの緑の瞳で見つめられると、どうしようもなく心がざわついて、落ち着きをなくしてしまう。
アドリエンヌは懸命《けんめい》に平静を装《よそお》い、嫌味な口調でかえした。
「あら。あなたは愛なんてごぞんじないんじゃありませんでした? たしか、前にそう言ったわ」
「そなたが教えてくれるのだろう? そなたはその取り決めにも同意したな」
そう言うと、王子は指でアドリエンヌの顎《あご》をつまみ、顔を上向かせた。
「悪くない。新たな知識が増えるのは楽しいものだ。刺激的でもある。この上なくな。さあ、やり方を教えてくれ。そなたを愛するには、どうすればいい?」
誘うような声音《こわね》に、体がゾクリとした。アドリエンヌは耳まで真っ赤になって、王子の手を払いのけた。
「からかってるのね!」
すると、王子の笑みがさらに深まった。
「まさか。そなたをからかうなど、思いもよらぬこと。なにしろ、そなたは愛についての大家《たいか》ではないか」
嘘《うそ》ばっかり。アドリエンヌは恨《うら》みがましい目で王子をにらんだ。わたしに経験がないのは、とっくにお見通しのくせに。
「さわらないでったら!」
王子がまた手をのばしてきたので、アドリエンヌはさっと身を引き、二人の間に距離をとった。そうして、深く息をすいこむと、女教師のような口ぶりになって言った。
「いいこと? 愛の初歩というのは、つまり――思いやりです。相手を思いやること。決して、馬鹿にしたりからかったり、ましてや自分の思い通りに操ろうなんて考えてはいけません。それから――」
王子はしらけたように横をむき、小さな吐息をもらした。
「その退屈な講義を、いつまでつづけるつもりだ?」
「あなたが真面目《まじめ》に耳を傾けるようになるまでよ」
「わたしはちがう方法で教えて欲しいのだがな」
「わたしはちがう方法は認めません」
「いや、きっと気に入る」
言うが早いか、王子はさっとアドリエンヌの腕をつかまえ、そばにひきよせた。彼女が抗議しようとすると、すばやくその口が唇でふさがれる。
一瞬にして、まわりの世界が消え去った。感じられるのは、ドナティアン・シャルルのことだけ。彼の胸からつたわる体の熱と唇のやわらかさ、かすかに漂う麝香《じゃこう》のような香りに、思わずうっとりした。日ごろの傲慢《ごうまん》さとは裏腹な、やさしく誘うようなキスに、怒りを保ちつづけるのが難しくなる。全身が甘くしびれるようになって、抵抗する力がぬけていく。両膝がふるえ、思わず王子の肩にしがみつくと、彼はアドリエンヌの腰に手をまわして、いっそう強く抱きよせた。
「そなたはわたしに従いさえすればよい。それがわたしを愛するということだ。これ以上、わたしをいらだたせるな。よいな?」
耳もとでささやかれたとたん、アドリエンヌはハッとわれに返った。
「よくなんかあるもんですかっ!」[#「「よくなんかあるもんですかっ!」」は本文より1段階大きな文字]
王子を突き飛ばして叫ぶ。
「またわたしを操ろうとしたわね!」
すると、王子は悪びれる様子もなく、平然と言った。
「道理を説《と》いて聞かせようとしたまでだ」
アドリエンヌは、ふたたび怒《いか》り心頭《しんとう》に発した。
「あなたにとってだけ[#「だけ」は本文より1段階大きな文字]都合のよい道理でしょ!? 結局あなたは、ちっとも改心してなんかいないのよ! 馬鹿っ! 大っ嫌い!」
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アドリエンヌは、逃げるように城に駆けもどった。これ以上、ドナティアン・シャルルの顔を見ていたくなかった。どんなに腹を立てていても、どれほどかたく決意していても、彼にふれられただけで、心はかんたんにくずおれてしまう。そんなふうに、自分に圧倒的な力をおよぼすことのできる彼が、憎くて、悔《くや》しくて、仕方がなかった。
彼はわたしのことなんて、ちっとも真剣に考えてくれない。なのに、わたしだけ彼を無視できないなんて、そんなの不公平じゃないの!
「もういや! 王子のいないところへ飛んで行けたらいいのに! ここじゃなければ、どこでもいいわ!」
癇癪玉《かんしゃくだま》を破裂させて叫んだとき、とんでもないことが起きた。体がふわりと宙に浮き、そのまま空にむかって上昇しはじめたのだ。アドリエンヌは真っ青になって悲鳴をあげた。
「いやあああ! やめてっ!」
この城に仕える、影たちの仕業《しわざ》だった。生真面目《きまじめ》な彼らは、アドリエンヌが口にしたことはすべて命令とうけとり、勝手に実行してしまうのだ。しかも、幽霊だけに昼間は姿が見えないから、彼らがいつ行動に移るのか、こちらにはまったく予測がつかない。
「やめなさい! 今すぐ降ろして! どこでもいいから――あっ、屋根の上はダメ! 床の――いっ、いちばん近くの床の上に降ろして! 早くっっっ!!」
必死の形相《ぎょうそう》で叫ぶと、アドリエンヌは高い塔《とう》の窓から中に飛びこみ、そこでようやく解放された。とたん、彼女は床の上にへたりこんだ。高所恐怖症なのだ。
「もう〜〜。死ぬかと思ったわ。言葉のあやだってことくらい、わからないの? 第一、どこへ連れて行くつもりだったのよ? 自分たちだって、城の外には出られないくせに」
胸の動悸《どうき》がおさまり、ようやく気分が落ち着くと、アドリエンヌはあらためてあたりを見まわした。
「――で、ここはどこなわけ?」
ドナティアン・シャルルが魔法で築いた城は広大で、たくさんの塔にそれぞれ数えきれないほどの部屋が備わっている。ところが、住んでいる人間は彼だけだから、そのほとんどが使われないまま放置されていた。ここもその一つだろう。
アドリエンヌは、ともかくも塔から出ようとして、最初に目についた扉をあけた。そして、ハッと息をのんで後ずさった。戸口のむこうに人影が見えたからだ。
目を丸くしてそこに立っていたのは、麦わら色の髪をおさげにした、若い娘だった。つまり――自分の姿である。
そこは鏡の部屋だった。おどろいたことに、四方の壁ばかりか、天井も床もみんな鏡張りだ。恐る恐る入っていくと、鏡に映るおびただしい数の自分にかこまれた。
こんな奇妙なものを見るのは初めてだ。どこまで行ってもつきあたりのない、無限の空間にいるみたい。
「おかしな感じ……なんだか、目がちかちかするわ」
だが、面白い、とも思った。アドリエンヌはふいに茶目《ちゃめ》っ気《け》をおこし、スカートをつまんでお辞儀《じぎ》をした。
「こんにちは、アドリエンヌさんたち。ごきげんいかが?」
すると、周囲のアドリエンヌも一斉《いっせい》にお辞儀をした。まるで百万の味方を得たようで、なんだかちょっぴりうれしくなる。
「ねえ。あなたたちの世界にも、ドナティアン・シャルルはいるんでしょう? やっぱり、あんな横暴な人なの? それとも……少しは、やさしくしてくれる?」
さりげなくもらした最後の言葉こそ、決して本人にむかって言うことができない、彼女の本当の願いだった。
ドナティアン・シャルルにやさしくしてほしい。もっと自分のことを気にかけてほしい。一人ぼっちじゃないんだと、信じさせてほしい。
アドリエンヌは、さびしかったのだ。
この城で彼女がたよれる者は、ドナティアン・シャルルしかいない。なのに、彼は朝から晩まで魔法実験にかかりきりで、彼女のことはそっちのけ。せめて食事くらいは一緒《いっしょ》にと約束しても、それもかんたんに反故《ほご》にされる。大勢の弟妹と一緒に育った彼女にとって、この城はあまりにもさびしすぎた。
もちろん、ゲルガランだって、ときには話し相手になってくれる。だが、彼は王子の使い魔だ。たいていは王子と一緒にいるし、そうでないときは、主人の用をすますためにどこかへ行っている。いつもいつもかまってくれるわけではなかった。
幽霊たちも親切だ。だが、彼らはそもそも話すことができない。
小鬼たちは、最もよそよそしく遠い存在だった。彼らはなんらかの理由で王子に仕えてはいるものの、もともとは排他《はいた》的な一族らしい。話しかけても、迷惑そうな顔しか見せない。
さびしさをまぎらわすために、アドリエンヌは家族に便りを書いた。夜、手紙を窓辺に置いておけば、小鬼たちが届けてくれることになっていた。
はじめて返事が届いたとき、アドリエンヌは泣きそうになった。妹のファニーは、弟たちのいたずらや失敗の数々を面白おかしくならべたて、こちらは問題ないからと安心させてくれた。母はアドリエンヌを心配し、しきりに近況を知りたがった。ここに自分と心のつながっている家族がいる。その思いが、あらためてアドリエンヌを力づけてくれた。
アドリエンヌはまたペンをとった。そして、城のおどろくべき日常を事細かに書き送った。
家族とのやりとりは、その後もつづいた。アドリエンヌにとっては、それが唯一のなぐさめだったからだ。ところが、やがて彼女はおかしなことに気づいた。すでに書き送ったはずのことを家族が知らないでいたり、同じ質問をくりかえされることが何度かあったのだ。
不審に思って小鬼たちを問い詰めると、彼らはとんでもないことを白状した。ドナティアン・シャルルが勝手に彼女の手紙を検閲《けんえつ》し、ときには破り捨てていたのだと。
アドリエンヌは激怒し、王子の部屋に怒鳴《どな》りこんだ。
「どうして、勝手にそんなことするのよ!」
彼は白《しら》を切ったりはしなかった。いともあっさり自分のしたことを認め、さも当然のようにこう言った。
「わたしのプライバシーを勝手に吹聴《ふいちょう》されては迷惑なのでな」
「はっ! 今さらあなたが世間の評判を気にしたって、遅すぎるんじゃないの?」
世間の人々は、ドナティアン・シャルルを悪魔さながらに恐れている。世継ぎの王子でありながら彼が魔術に手を染めたこと、そして父王から都を追われたことがさまざまな憶測を呼び、それがまことしやかな噂《うわさ》となって広がったためだ。
「気にしてなどおらぬ。それとこれとは問題が別だ」
「だとしても、口で注意すればいいことでしょ? そうすれば、わたしだって、あなたの嫌がることは書かないわ」
すると王子は、皮肉に口もとを歪《ゆが》めた。
「それで? そなたがわたしの命じたことを守ったと、どうやって確認すればよいのだ」
アドリエンヌは、顔を殴《なぐ》りつけられたような気がした。
「……わたしが信じられないの?」
ショックだったのは、そのことだ。ドナティアン・シャルルはわたしを信じていない。彼の名誉《めいよ》を平然と傷つけ、無責任な噂の種にしている人々と同じように見做《みな》されていることが、ショックだった。
どうして? わたしがあなたを裏切るとでも思ってるの? あなたのことを好きだと言っても、それすら信じてくれないの? だったら、どうしてわたしをここに置いておくのよ? わたしのことなんか、少しも気にかけていないくせに!!
喉《のど》まで出かかった言葉を、アドリエンヌは涙とともにのみこんだ。
「もういい! あなたのその傲慢《ごうまん》な態度には、ほとほと愛想が尽きたわ! 金輪際《こんりんざい》、顔も見たくない! お城を出て行かせてもらいます!」
衝動的に別れを突きつけたあとでも、心は痛かった。本当は、追ってきてほしかった。傷つけてすまなかったと、そなたを信じると言ってほしかった。なのに、あの男がしたことといえば――
そのとき、背後でばたんと音がして、アドリエンヌは物思いからひきもどされた。反射的にふりかえると、入ってきた戸口が消えていた。一瞬、ギクリとしたが、風で扉が閉まったのだと、すぐにわかった。どうやら、扉の内側も鏡張りになっていたらしい。彼女はにわかに不安をおぼえ、手探りで出口をさがそうとした。ところが――
のばした手は、なぜか鏡を突き抜けた。そして次の瞬間、アドリエンヌは階段の途中に立っていた。
アドリエンヌは、ぱちくりと目をしばたたいた。後ろを見ると、鏡の部屋は消えていた。そこはただの石の壁。彼女が開けて入った扉もない。
今のはなんだったの? アドリエンヌは唖然《あぜん》とし、次には顔をしかめた。
ほんとにもう。王子の魔法にはうんざり。この城には、いたるところに奇妙な術がかけられている。こんなところで暮らして、われながらよくも正気でいられるものだわ。
アドリエンヌは急いで階段を降り、塔を出た。と、そのとき、脇から彼女を呼び止める声が聞こえた。
「アドリエンヌ」
とたん、アドリエンヌは身をかたくした。
ついてない。会いたいときには無視されてばかりなのに、会いたくないときには、どうしてこう何度も顔を合わせるはめになるのかしら。
しぶしぶ声のしたほうをむくと、思ったとおり、ドナティアン・シャルルが立っていた。
「さがしたぞ。今までどこに行っていたのだ?」
「べつに。何度も言ったけど、どこに行こうと、わたしの勝手でしょ?」
アドリエンヌは、つんとしてこたえた。
「そもそも、どうしてそんなことを気にするの? あなたの許可がなければ、わたしはどこにも行けないって、わかってるくせに」
すると、意外にも王子は傷ついた表情を浮かべた。
「それは、そなたの身を案じてのことだ。わたしのすることを悪くとらないでほしい。そなたになにかあっては、もはやわたしも生きてはゆけぬのだから」
アドリエンヌはびっくりして、まじまじと王子の顔を見つめかえした。
「……ずいぶん大げさね」
王子は、やさしく彼女に微笑《ほほえ》みかけた。
「いいや、大げさではない。あまり体の丈夫《じょうぶ》でないそなたのことを、わたしがいつもどれほど気にかけているか」
「いったい、なんの話? わたし、体は丈夫よ。風邪《かぜ》だって、めったにひかないし」
「嘘《うそ》をついてはだめだ、愛《いと》しい人。昨夜も熱を出したのだろう? 知っているぞ」
アドリエンヌは、あんぐりと口をあけた。
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「……い、愛しい人?」
「さあ、おいで。ベッドにもどろう」
さしのべられた手から、アドリエンヌはギョッと身を引いた。
「昼間っから誘惑する気!?」
今度は、王子がおどろいた顔をした。だが、口もとにはすぐに、いたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「ああ、もちろん、そうしたいのは山々なのだが。しかし、そなたの体にさわるようなことを、わたしがするとでも? まだ万全の体調ではないのだから、ゆっくり休みなさい」
言葉通り、王子はアドリエンヌを寝室まで送ると、自分は礼儀《れいぎ》正しく扉の前でひきかえしていった。その背中を、彼女は呆然《ぼうぜん》と見送った。
「……どういうこと? まるで人が変わったみたい。演技だとしても、あれじゃ、あんまりわざとらしすぎるわ」
そして、真剣に考えこんだ。
「でも、王子の態度がやさしくなるのは、いつだって腹黒いことを企《たくら》んでるときなのよね。いったい、今度はどういうつもりかしら?」
気になって落ち着かないので、アドリエンヌはこっそり王子の様子をさぐることにした。彼が消えたあとを追いかけて階段を下りたとき、ちょうどゲルガランに出くわした。
「まあ。いいところで会ったわ、ゲルガラン」
手招きすると、カラスは飛んできてアドリエンヌのさしだした腕に止まった。
「ねえ、ドナティアン・シャルルはなにを企んでるの? あなた、知ってる?」
声をひそめて言うと、
――企む?
ゲルガランは、けげんそうに訊《き》きかえしてきた。
――なんだ、そりゃ? 王子はなにも企んだりしねえよ。あんたも知ってるだろ? あの通り、ご清潔なお人柄だからな。
アドリエンヌは仰天《ぎょうてん》した。
「ゲルガラン! あなた、どうしちゃったの?」
いつも悔《くや》しいくらい冷静で知的にとりすましているカラスが、こんな汚い下町言葉をつかうなんて、信じられない。
――どうしたって、なにがだよ?
「だって、いつもとちがうじゃない!」
――そうかあ? 自分じゃわからねえな。
カラスは小首をかしげ、ふとアドリエンヌの顔をのぞきこんできた。
――そういや、あんたもいつもと雰囲気《ふんいき》がちがうな。
「そ、そうかしら。自分じゃわからないけど……」
――まだ熱があるのかもな。さっさと部屋にもどって寝ろよ。王子が心配する。
そして、カラスは飛び去った。
残されたアドリエンヌは、ますます困惑した。
いったいみんな、どうしちゃったの?
「アドリエンヌがいない?」
夕方、ドナティアン・シャルルが書庫で古い魔法書を調べていると、ゲルガランがやって来て告げた。だが、王子はたいして気にもせず、軽く肩をすくめただけだった。
「またどこかに登って降りられなくなったか、穴に落ちてぬけられなくなったかしたのであろう。でなければ、へそを曲げて隠れているのやもしれぬな」
――彼女がへそを曲げたのは、あなたが原因だ。
ゲルガランの指摘に、王子は顔をしかめた。
「わたしを非難するとは、そなたもずいぶんとあの女の肩をもつようになったものだ」
――あなたのために忠告している。彼女は思いつめると、なにをするかわからない。
「……たしかに。それは本当だ」
王子は認め、しぶしぶ書物を閉じた。それから彼は、ゲルガランとともに中庭にむかった。魔法の水盤に、アドリエンヌの居所を訊《たず》ねるためだ。
「水盤よ。アドリエンヌはどこに――」
そのとき、ちょうど回廊《かいろう》のほうから本人があらわれた。アドリエンヌは王子に気づいて足を止め、はにかむように微笑《ほほえ》んだ。
それは、王子にとって意外な反応だった。
「どうした、アドリエンヌ。もう仏頂面《ぶっちょうづら》はやめたのか?」
からかうように言うと、アドリエンヌはギョッとした様子で目をみはった。そして、おずおずと口をひらいた。
「あの、わたくし、なにか失礼をいたしましたか?」
「なに?」
「もしそうなら、申し訳ありません。昨日から気分がすぐれないものですから」
王子はたちまち険しい目つきになって、アドリエンヌを見つめた。
「……そなた、アドリエンヌではないな?」
「まあ、そんな!」
アドリエンヌは心外そうに声をあげた。
「なぜ、そんなことを? わたくしはアドリエンヌですわ」
ドナティアン・シャルルはすっかり合点《がてん》し、ため息をついた。
「……なるほど。あのあわて者が、またしでかして[#「しでかして」に傍点]くれたというわけか」
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三日経っても、アドリエンヌにたいする王子の不可解な態度は変わらなかった。ゲルガランの言葉遣いもあいかわらずで、それがますます彼女の混乱に拍車《はくしゃ》をかけていた。
まるで狐《きつね》に摘《つま》まれているみたいだ。そうでなければ、夢を見ているのか。
あれから、王子は信じられないほどやさしくなった。食事の約束はいつもきちんと守られたし、毎日必ず彼女のために時間をとって、日々の生活のあれこれに気を配ってくれる。足りないものはないか? 家族と離れてさびしくはないか? 退屈してはいないか? そんなとき、彼は決して横柄《おうへい》な態度はとらなかった。心からの気遣いと愛情を感じることができた。要するに――
アドリエンヌにとって、今の彼はまさに理想の恋人そのものだったのだ。彼女はずっと、こんなふうに彼から愛されることを望んでいたのだから。
なのに、なぜだろう? 彼女は素直によろこぶことができなかった。これだけの思いやりを示されても、心は今もさびしいままだ。彼が急に見知らぬ他人になってしまったようで、なんだか落ち着かないのである。
それに、まだ納得のいかない気持ちも残っている。やさしい態度を装って、また彼女を都合よく操ろうとしているのではないかという疑念だ。
彼の真意は、いったいどこにあるのだろう?
アドリエンヌは、それを確かめる方法を思いついた。魔法の水盤だ。彼女はさっそく中庭に行き、そっと水盤に話しかけた。
「ねえ、水盤さん。相談にのってちょうだい。ドナティアン・シャルルのことよ。近ごろ、薄気味悪いくらい親切なの。だけど、彼の厚意が素直に信じられなくて。彼は本当にやさしくなったんだと思う? それとも、やっぱりなにか企みがあるのかしら?」
だが、水盤はなんの反応も示さなかった。
「どうして、答えてくれないの?」
アドリエンヌが知るかぎり、こんなことは初めてだった。まるで水盤までよそよそしく変わってしまったようで、彼女は途方に暮れた。
「わたし……わたし、本当は、以前のドナティアン・シャルルに会いたいの。だって、今の彼は知らない人みたいなんだもの」
つぶやいたとたん、水面にさざなみが立ち、きらきらと輝きだした。ハッとして身をのりだすと、水盤はそこにドナティアン・シャルルの姿を映しだした。眉間《みけん》にしわをよせ、めずらしく深刻そうな表情をうかべている。
「アドリエンヌは鏡の部屋に入ったのだ。間違いない」[#「「アドリエンヌは鏡の部屋に入ったのだ。間違いない」」は太字]
王子が話しかけた相手は、ゲルガランだった。彼はいつものように、使い魔のカラスを肩にとまらせていた。
――すると、この女性は?[#「――すると、この女性は?」は太字]
ゲルガランが視線をむけた先には――なんと、アドリエンヌが立っていた!
それを見て、水盤の前のアドリエンヌは混乱した。
「わたし……ここにいるのに! どうして!?」
あわててあたりを見まわしたが、もちろん、そばにはだれもいない。ドナティアン・シャルルも、ゲルガランもだ。彼女は間違いなく一人だった。なのに、なぜ王子のそばに、自分がいるのだろう?
そのとき、水面に映ったアドリエンヌが、不安そうな表情を浮かべて言った。
「どうして、そんなお顔をなさっているのです? そのお部屋は、いったいなんなのですか?」[#「「どうして、そんなお顔をなさっているのです? そのお部屋は、いったいなんなのですか?」」は太字]
「異世界との接点だ」[#「「異世界との接点だ」」は太字]
ドナティアン・シャルルがこたえた。
「あるいは境界、通路、扉、なんと呼んでもよい。この世には、われわれの属するこの世界のほかにも、似て非なる無数の世界がある。そして、過去も現在も未来も、同時に存在する。われわれは肉体をもつ限り、一つの世界、一つの時間に縛《しば》られている身だが、鏡の魔法によって境界を超えることが可能になる」[#「「あるいは境界、通路、扉、なんと呼んでもよい。この世には、われわれの属するこの世界のほかにも、似て非なる無数の世界がある。そして、過去も現在も未来も、同時に存在する。われわれは肉体をもつ限り、一つの世界、一つの時間に縛られている身だが、鏡の魔法によって境界を超えることが可能になる」」は太字]
「よくわかりませんけれど……つまり、これも現実だということですか? 夢や幻ではなく」[#「「よくわかりませんけれど……つまり、これも現実だということですか? 夢や幻ではなく」」は太字]
「現実だ。そなたがここに存在しているように、どの世界にもそなたがいる。だが、一つの世界に二人のそなたが存在することはできない。そなたがここにいるということは、つまり、わたしの世界のアドリエンヌとそなたが入れ替わったということだろう」[#「「現実だ。そなたがここに存在しているように、どの世界にもそなたがいる。だが、一つの世界に二人のそなたが存在することはできない。そなたがここにいるということは、つまり、わたしの世界のアドリエンヌとそなたが入れ替わったということだろう」」は太字]
「鏡の魔法……?」
アドリエンヌはつぶやき、ハッとした。
「あの鏡だらけの部屋! そうよ! そういえば、あのときからだわ。王子がおかしくなっちゃったのは」
ようやくそのことに思い当たって、アドリエンヌは親指の爪を噛《か》んだ。
「道理で、おかしいと思った。ドナティアン・シャルルがあんなにやさしいはずないもの。よくわからないけど、鏡の部屋に入ったとき、なにかの魔法が作動したんだわ!」
でも、どうすれば、もとの世界にもどることができるのかしら?
もう一度、鏡の部屋に入る? そう、それよ!
アドリエンヌは矢も盾もたまらず、塔《とう》にむかって駆けだした。ところが、鏡の部屋にたどり着くことは、ついにできなかった。すべての階のすべての部屋をしらみつぶしに調べたのに、三日前に入ったあの場所が、どうしても見つからないのである。
「嘘《うそ》よ! 絶対にあるはずだわ。塔を間違えたのかしら?」
そうかもしれない。この城には、似たような塔がいくつもある。だが、そうこうするうちにあたりが暗くなってきたので、アドリエンヌはしかたなく途中で探索を打ち切った。晩餐《ばんさん》に姿を見せないと、この世界の心配性《しんぱいしょう》王子がまた彼女をさがしにくるかもしれないからだ。
だが、食堂で王子と顔を合わせたとき、城のことは彼に聞くのがいちばんだと、唐突《とうとつ》に気づいた。
「――あの、質問があるんですけど。いいですか?」
テーブルに着くなり切りだすと、王子はにこっと微笑《ほほえ》んだ。
「なんなりと」
アドリエンヌは、ぎこちなくコホンと咳払《せきばら》いをした。この王子はわたしの[#「わたしの」に傍点]ドナティアン・シャルルではないのだと思うと、なんだか急に気恥ずかしくなってきた。
今となっては、どうしてすぐに気づかなかったのか、不思議なくらいだ。ドナティアン・シャルルは、決してこんなさわやかな[#「さわやかな」に傍点]笑い方はしない。一方、目の前にいる彼は、誠実さの塊《かたまり》だ。演技なんかではなく、本当にそうなのだろう。王子は清潔な人柄だと、この世界のゲルガランも言っていたではないか。その言葉を、もっと真剣に考えてみるべきだったのだ。
だが、気づいたのが遅れたからといって、どうということはない。むしろ、彼が信頼できる人間だとわかって好都合だった。彼ならきっと、まじめに質問にこたえてくれるはず。
「えーと。このお城に、たぶん鏡張りの変わったお部屋があると思うんですけど。壁も天井も床も、みんな鏡になっている……」
すると、王子の顔から笑みが消え、かわりに警戒の色が浮かんだ。
「……なぜ、そんなことを?」
「え? なぜって……」
アドリエンヌが言葉につまると、王子は食事の手を止めた。いつになく厳しい口調になって言う。
「アドリエンヌ。そなたがなぜ鏡の部屋のことを知っているのかは問わぬ。だが、警告しておく。あそこに近づいてはならない」
「どうして?」
「危険だからだ」
「危険なんか、なんにもなかったわ。ただ……ものすごくおかしなことになったけど」
ぽつりとつぶやくと、王子の顔色が変わった。
「……まさか。そなたは鏡の部屋に入ったのか!?」
血相を変えて問い詰めてくる王子に、アドリエンヌはたじろいだ。
「え、ええ。入ったわ。でも、別にわたし、悪いことなんかなんにも……」
王子は最後まで言わせなかった。
「それで? おかしなことになったというのは?」
アドリエンヌは迷ったが、結局は正直に打ち明けることにした。真実を知れば、王子は彼女を責めるかもしれない。それでも、彼に相談するよりほか、もとの世界にもどる方法はないように思えた。彼女は息をすいこみ、勇気をふるいおこして言った。
「実はわたし、あなたのアドリエンヌじゃないの。わたしがここにいるのは、なにかの間違いなのよ」
王子は眉《まゆ》をひそめた。
「なにを馬鹿なことを」
「いいえ、本当なの! 聞いて。みんな説明するから」
アドリエンヌは、この世界の水盤が見せてくれたこともふくめて、すべてを話した。王子は黙って聞いてくれたが、しかし、その後は気難しい顔をしたまま、自分の考えに沈み込んでしまった。
そんな相手の反応を見て、アドリエンヌは不安にかられた。
「どうして、なにも言ってくれないの? あの、わたし、もといたところにもどりたいの。もどれるんでしょう?」
すると、王子はうめくようにこたえた。
「それは……難しい」
「嘘《うそ》! だって、わたしはただ……あの部屋に入って、出てきただけなのよ。他にはなんにもしなかったのに!」
「そう。そなたは自分の世界の鏡の部屋に入り、そしてわたしの世界に移って出てきた。鏡の魔法をつかえば、誰でも境界を通り抜けることはできるのだ。しかし、どの世界のそなたと入れ替わったか、あとから特定するのは容易ではない。そなたも見たはずだ、鏡に映る無数の世界を。その一つ一つを精査するためには、無限の時が必要だ」
アドリエンヌは、凍りついた。
「無限の時? じゃ、じゃあ、まさか……一生もどれないことも、あるってこと?」
「そういうこともあり得る。いや、はっきり言おう。むしろそうなる可能性のほうが、はるかに高い」
ショックで言葉が出なかった。頭の中が真っ白になり、なにも考えられない。
二人の間に、ふたたび重苦しい沈黙が流れた。だが、王子はやがて立ち上がり、アドリエンヌのそばまでやってきた。そして、かたわらに膝をついて彼女の手をとると、憐《あわ》れむような表情を浮かべて言った。
「アドリエンヌ。運命を受け入れることはできぬか?」
「えっ?」
「どの世界から来ようと、そなたはそなただ。わたしが愛しているアドリエンヌに変わりはない」
アドリエンヌは、ギョッとして王子の手をふりほどいた。
「だって……だめよ! あなたがあきらめたら、わたしの世界に行った、あなたのアドリエンヌはどうなるの?」
「そなたのドナティアン・シャルルは、そなたを愛していたのだろう?」
アドリエンヌはためらい、自信のない声でこたえた。
「それは……あの、ええ、たぶん……」
「それなら、わたしのアドリエンヌも愛してくれるはずだ。わたしがそなたを愛するように」
アドリエンヌは愕然《がくぜん》とした。そして、自分がどれほど大きな陥穽《かんせい》にはまってしまったのかを、ようやく悟った。
もとの世界にもどれないかもしれないという現実を、もう一人のアドリエンヌは静かに受け止めた。彼女はしばらく黙りこんだ後、表情をこわばらせて言った。
「……つまり、この世界のアドリエンヌが見つからなければ、わたくしはずっとここで暮らすことになるのですか?」
「おそらく、そうなるだろう」
ドナティアン・シャルルはこたえ、あまりにもおとなしい目の前の娘に不審そうな目をむけた。
「なぜ、なにも言わぬ? そなたはどう考えているのだ」
すると彼女は、うなだれたままこたえた。
「これが運命なら……わたくしは受け入れます。仕方のないことですもの」
「ほう」
ドナティアン・シャルルは目を細め、別世界から来たアドリエンヌを注意深く観察した。
「ではもし、わたしがそなたに、わたしの息子を産めと命じたら、どうする?」
彼女はハッと顔を上げると、たちまち首まで真っ赤になった。
「まあ……はい」
「はいとはどういう意味だ?」
「それが運命なら、仕方がないと思います」
ドナティアン・シャルルは顔をしかめた。
「仕方がない[#「仕方がない」に傍点]?」
「いえ、それほどいやではありません」
彼女はあわてて言い直した。
「あなたもドナティアン・シャルルであることにかわりはないのですし。子供はいつか欲しいと思っていましたから」
王子は娘を部屋に下がらせると、ゲルガランを連れ、いらいらしながら自分の書斎《しょさい》にもどった。
「――つまらぬ」
力まかせに扉を閉めたあと、吐き捨てるようにつぶやく。
「あの女には、まったく手ごたえがない。運命なら受け入れるだと? アドリエンヌであれば、口が裂けても言いそうにないセリフだ。なにしろあの女は、そもそものはじめから、わたしに逆らってばかりいたからな」
王子は今さらながらに、自分がアドリエンヌの威勢のよさをどれほど気に入っていたかを思い知らされた。
「くそっ! なんという、けしからぬ女だ。このわたしに、二度ばかりか三度までも、こんな思いをさせるとは」
以前にも、こんなことがあった。一度目は、アドリエンヌが彼との結婚を拒絶し、城から逃げ出したときだ。彼女は危うく森で命を落としかけ、おかげで彼は、欺《あざむ》かれたことへの怒りと彼女を失うことへの恐怖を同時に味わうはめになった。
二度目は、アドリエンヌが故郷の村で幼なじみに誘拐《ゆうかい》されたとき。王子が助けに行くと、あろうことか彼女は自分から水晶の中に隠れ、彼を拒絶したのである。
だが、今回の事態がもっともたちが悪い、と彼は思った。このままでは、彼は今度こそ永遠にアドリエンヌを失ってしまうだろう。
「……ゲルガラン。わたしはしばらく塔にこもる。影と小鬼どもに邪魔をするなと伝えろ」
――なにをするのです?
なじみのない心の痛みに、王子は歯を食いしばった。
「わかりきったこと。わたしの[#「わたしの」に傍点]アドリエンヌをさがす。絶対に見つけだして、もはや二度とこんな愚《おろ》かな真似《まね》をしでかさぬよう、厳しく説教してくれる!」
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結局、アドリエンヌは鏡の部屋の場所を王子から聞きだすことはできなかった。それどころか、決して部屋を探さないようにと厳命されさえした。彼女がふたたびちがう世界にまぎれこみ、問題をさらに拡大させるのを危惧《きぐ》したのだ。
日ごろのやさしさとは裏腹に、この件に関する彼の態度は徹底していた。なにしろ、彼女が二度と利用できないよう、お気に入りの水盤を魔法で凍らせることまでしてのけたのだから。
王子を責めることはできなかった。おそらく、彼は正しいのだろう。ふりかかった災難に、現実的に対処しようとしているだけ。そう。悪いのはアドリエンヌであって、彼ではない。なのに、彼は一言も彼女を責めなかった。彼自身も愛する女性を失ったというのに。
アドリエンヌは罪悪感にさいなまれ、その夜は一睡《いっすい》もできなかった。そうして明け方になると、まだあたりが薄暗いうちから寝室をぬけだした。物思いに沈みながら城壁のそばを歩いていたとき、黒い影がこちらにむかって飛んでくるのが見えた。王子の使い魔だ。
――よお。話は王子から聞いたぜ。おまえさん、こっちのアドリエンヌとは別人だったんだってな?
ゲルガランは、あいかわらず気安い口調で話しかけてきた。
「え、ええ。そうなの」
――道理で、どこか変だと思った。最初に言ったろ? 雰囲気《ふんいき》がちがうってさ。
アドリエンヌは、水盤が見せてくれたもう一人の自分の姿を思い出した。わたしのせいで、彼女も苦しんでいるにちがいない。そう思うと、申し訳なさで胸がいっぱいになる。
「この世界のアドリエンヌって、どんな人なの?」
すると、ゲルガランはちょっと首をかしげた。
――そうさな。やさしくて繊細《せんさい》なお嬢《じょう》さんだ。王子はいつも、壊れ物みたいに彼女をあつかってた。
「まあ。わたしとはぜんぜんちがうわね」
顔は同じなのに、いったいどんな育ち方をすればそうなるのか、アドリエンヌには見当もつかない。
――あんたは、ちょっとやそっとじゃ壊れそうにねえもんな。
ゲルガランに笑われて、アドリエンヌはムッとした。
「悪かったわね。そういうあなただって、わたしの世界のゲルガランとは――」
ただちに言い返そうとしたが、そのときふっと、ある考えが頭に飛びこんできた。
――なんだよ? どうした。
「ねえ、ゲルガラン。この世界のあなたも、すごく長生きなんでしょう?」
――ああ、まあな。人間のじいさん二人分は生きてるな。
「だったら、そのぶん知恵があるはずよね。今まで、どこかで聞いたことはない? 自分がもといた世界を探す方法。なんでもいいから、手がかりがほしいの」
だが、ゲルガランはろくに考えもしないで、あっさりとこたえた。
――気持ちはわかるが、まず無理だ。あきらめろ。
「かんたんに言わないで。あきらめるなんてできないわ」
アドリエンヌは、腹立たしげに口をとがらせた。
「だいたい、今回の件で責任があるのは、絶対にわたしだけじゃないと思うの。王子があんな危ない部屋をつくって放っておいたのだって、重大な過失だわ」
――まあ、そう言うな。王子は、母親がまだ生きている世界から、彼女を呼びよせようとしたのさ。
「えっ?」
ゲルガランの弁護は思いもかけないものだった。しかし、考えてみると、その言葉はアドリエンヌにもすんなり納得できた。
「そうだったの……」
ドナティアン・シャルルが魔術に手を染めたのは、若くして死んだ母親の魂《たましい》をこの世に呼びもどすためだったということは聞いていた。結局は断念せざるを得なかったとはいえ、それは幼い日の彼の、心からの願いだったのだ。
「でも、そんなことをしたら、今度は別の世界の王子から母親を奪うことになるんじゃない?」
――ああ、まあな。だから王子はあきらめたんだ。もっとも、あきらめて正解だったぜ。別の世界にちょっかいを出して、ただですむとは思えねえからな。
「……そんなに難しいことなの? ちがう世界の探索って」
――そりゃそうだ。生身の体はここに残して、精神だけを飛ばすって方法もあるが、どっちにしろ危険なのは同じさ。下手《へた》すりゃ、二度と自分の世界にもどってこられなくなる。永遠にさまよいつづける放浪者になるんだ。あわれなもんだぜ、そうなると。
「でも、わたしは帰りたいわ! どんなに危険でも、絶対に帰りたいの!」
――無理だって言ってんだろ。王子はあんたで満足するさ。あんたはこの世界の王子は嫌いか?
「嫌いじゃないわ。でも……」
言いかけた言葉を、アドリエンヌはのみこんだ。
彼はちがうの。わたしの王子じゃない。
それからの一週間を、アドリエンヌはなすすべもなく悶々《もんもん》として過ごした。この世界の王子とは食事のたびに顔を合わせたが、それはほとんど苦行《くぎょう》でしかなかった。別人だとわかっていながら、愛する人とそっくり同じ姿を見せつけられるのはつらい。
しかしそのくせ、もとの世界のドナティアン・シャルルのことは、片時も頭から離れなかった。ただ城の中を歩いているだけで、彼と交わした会話がそこかしこでよみがえってきて、アドリエンヌを思い出に縛《しば》りつけてしまうのだ。
王子の指図で誘拐《ゆうかい》され、初めて彼と顔を合わせたのは大広間だった。高くそびえる外城壁は、逃げようとして降りられなくなり、子供のように泣きわめいてしまった場所。その逃亡計画も二度目には成功したが、結局は森で捕まった。あのときの彼の怒りは、今も忘れられない。
――だったら、なぜ逃げる? なにが不満だ? そなたには好きな男も人生の目的もないと言った。家に帰っても身の置き所がないと。だったら、なぜ――
――黙れ! わたしに口ごたえする気か?
あのときすでに、アドリエンヌは彼に恋をしていた。それでも逃げ出したのは、自分が彼を想うように彼から想われることなど決してないと、悲観していたからだ。ところが、城に連れもどされた後、彼はためらいながらも、信じられない言葉を口にした。
――そなたはわたしが愛を知らぬと言った。愛することを学ばなかったと。その通りだと認めよう。だが……だから、そなたに教えてほしいのだ。
涙がアドリエンヌの頬をつたった。
あれは王子の本心だったと、彼女は信じる。たしかに、彼は愛を――人を信じることを学んでいるところなのだ。なのに辛抱《しんぼう》することを忘れ、安易に彼から離れようとした自分を、彼女は恥じた。そんなことは、できるはずもなかったのに。
彼に会いたい。傲慢《ごうまん》でも、冷たくても、それでもいい。わたしが恋した王子は彼だけだ。わたしを理解し、はじめて認めてくれたのも――
真夜中になるのを待って、アドリエンヌはこっそりと部屋をぬけだした。すでに決意はかたまっていた。どれほど時間がかかっても、城中をしらみつぶしにしてでも、必ず鏡の部屋を見つけようと。そして、自分のもといた世界をさがすのだ。
それがどれほど危険なことかは、王子からもゲルガランからも、くどいほど聞かされた。だが、試してみずにはいられなかった。なにもせずにあきらめることなど、どうしてもできない。たとえわずかでも可能性があるのなら、それに賭《か》けてみたかった。
最初にこの世界にやってきたとき、アドリエンヌはなにも知らなかった。だから、あんなにも不用意に鏡を通り抜けてしまったのだ。しかし、今なら用心することもできる。境界を越えずに、ほかの世界をさぐる方法はないだろうか? 知恵を絞《しぼ》れば、なにか浮かぶかもしれない。
ただ、このことを王子に知られるわけにはいかなかった。止められるのはわかっているからだ。となると、動けるのは夜の間だけ。そのための準備は怠《おこた》りなかった。寒さをしのぐために彼女は厚手のマントを着こみ、風で炎が消されないよう、ランタンも用意していた。
その夜は月が出ていなかった。あたりは漆黒《しっこく》の闇で、明かりの届かない数歩先はなにも見えない。ただ、白く透明な影たちが、ときおりすうっと中空をよぎっていくのはわかる。彼らに出くわしそうになると、アドリエンヌはさっと物陰に隠れてやりすごした。うっかり見つかって、王子のところにご注進に走られてもしたらたいへんだ。彼女は慎重に歩を進め、やっとのことで城門近くの塔《とう》にたどりついた。そして、階段を上り、最初の扉を押し開けたとき――
「ここになんの用だ?」
突然、暗がりから声が聞こえた。
アドリエンヌは心臓が止まりそうになった。
部屋の中に、王子が立っていた。彼女は、よろめくようにあとずさった。逃げ出したい衝動を、やっとのことで抑える。
「わ、わたし――」
言い訳の言葉は思いつかなかった。そんなことをしても、王子の厳しい眼差《まなざ》しを見れば、無駄だとわかる。
「そなたの様子を見ていて、いずれ禁を破るのではないかと危惧《きぐ》していた」
つまり王子は、彼女の行動を見越して、ここで待ちかまえていたのだ。
アドリエンヌは唇を噛《か》んだ。まんまと網《あみ》にかかった己《おのれ》の迂闊《うかつ》さにも腹が立ったが、同じように王子にも怒りを感じていた。
彼の冷静さが理解できない。どうして、そうもかんたんに、彼自身のアドリエンヌを見限ることができるのか。
「なぜ、わかろうとしない? そなたが別の世界に移れば、その世界のアドリエンヌが犠牲《ぎせい》になる。世界を移動しつづけるかぎり、限りなく混乱が広がっていくのだ。そんなことは、そなたも望むまい?」
「わかってるわ!」
とうとう、アドリエンヌは感情を爆発させて叫んだ。
「わかってる、そんなこと! でも、だめなの! もといた世界を――わたしのドナティアン・シャルルを忘れるなんてできない! どうしても、できないのよ!」
すると、王子は声を荒げた。
「つらいのが、自分だけだと思うのか!?」
叩きつけられた言葉に、アドリエンヌはたじろいだ。息をのみ、身をかたくして立ちすくむ。
しかし、一瞬でもわれを忘れたことが、彼には不本意だったようだ。彼はわずかに顔をしかめ、今度は静かに言った。
「大切な者を失ったのが、自分だけだと思うか?」
たとえわずかでも、王子が心の内をさらけだしたのは、これが初めてだった。それも――ほの暗い炎のような、怒りの感情を。それは、今も彼の瞳の中で燃えていた。やさしい微笑の裏側で、彼はずっと彼女を責めつづけていたのだ。そのことに思いいたったとき、アドリエンヌにはなにも言えなくなった。
「わたし自身も、愛する者を失った。わたしがわたしの愛《いと》しいアドリエンヌをとりもどしたくないとでも思うのか?」
「ごめんなさい……」
アドリエンヌは、消え入るような声で言った。
「言葉だけなら、謝罪などいらない。わたしはそなたに、分別《ふんべつ》をとりもどしてくれとたのんでいるのだ」
承前《しょうぜん》とうなだれながらも、アドリエンヌは皮肉を感じずにはいられなかった。よりによってドナティアン・シャルルから、この自分が分別を諭《さと》されているなんて。
「今はつらいだろう。だが、時が忘れさせてくれる」
アドリエンヌは、黙ってかぶりをふった。
「では、わたしが忘れさせる」
その意味を問う前に、王子は近づいてきた。アドリエンヌは本能的に後ずさった。だが、彼はすばやく彼女を捕らえ、唇を奪った。ランタンが足もとに転がり、一瞬、なにも見えなくなる。
「やめて――」
アドリエンヌは、あらがった。だが、王子は彼女の背に手をまわし、もっと強く抱きよせようとする。もみあっているうちに足がからまり、二人は床の上に倒れこんだ。と、すかさず王子の体が彼女の上にのしかかってきた。
「い――」
拒絶の言葉は、ふたたび唇で封じられた。アドリエンヌは必死でもがくが、彼の重みで、手も足も動かない。絶望に襲われたとき――彼は言った。
「愛している、アドリエンヌ」
アドリエンヌは息をのんだ。切ないほどになつかしい、男らしく深みのある声が、耳もとでささやく。
「わたしがそなたを愛する。必ず幸せにする」
みるみる、目に涙があふれた。
[#挿絵(img/bra2_061.jpg)入る]
たとえ誘惑するときでさえ、彼女のドナティアン・シャルルは、決して愛しているとは言わなかった。まるで、言葉に宿る力を恐れているかのように。
そう、本当に恐れているのかもしれない。不用意に心をあけわたすことを。愛して、そして傷つけられるのを。
なのにもう一人の王子は、こんなにもかんたんに偽りを口にすることができるのだ。
彼はただ、責任感から彼女を受け入れようとしているにすぎない。それとも――彼自身も苦しみから逃れるためにか。
王子の唇が喉《のど》もとから鎖骨《さこつ》をつたい、キスの跡を残していく。体をまさぐる手の感触から逃れようと、アドリエンヌは懸命《けんめい》に身をよじった。
「わたしは――あなたの、アドリエンヌじゃ――ない」
あえぎながら言うと、王子は頭をあげた。転がったランタンの光が反射して、彼の緑の瞳がキラリと光る。
「そうだ。だが、本物にすることはできる。今宵《こよい》、そなたをわたしのものにすれば、二度ともとの世界にもどろうとは思うまい」
彼は、心変わりを期待しているのではなかった。一度でも汚されてしまえば、彼女は己を恥じ、ふたたび愛する人をもとめることができなくなると思っているのだ。
「ひ、卑怯《ひきょう》よ!」
一瞬、彼の眼差《まなざ》しがゆらいだ。しかしそれでも、はじめたことをやめようとはしなかった。
「ちがう。これが最善なのだ。そなたのためにも」
そして、つぶやくように付け加えた。
「ゆるしてほしい」
ふたたび王子の顔がおりてきたとき、アドリエンヌは彼の唇に噛《か》みついた。彼はうめいて身をひいた。その隙《すき》をついて彼の体を蹴《け》りあげ、這《は》うようにしてその場から逃れた。
「アドリエンヌ!」
なんとか立ち上がって駆け出すと、王子は追いかけてきた。
だが、明かりもなしに逃げたので、彼にはアドリエンヌの姿が見えないようだ。彼が魔法であたりを照らしたときには、彼女は階段を駆け下り、塔《とう》から飛び出していた。
それから城門まで一散に走り、柱の陰に身をひそめた。心臓は躍り狂っていたが、懸命《けんめい》に息を殺して、見つからないよう祈る。
王子の足音が近づいてきて、光がアドリエンヌの足もとまで届いた。一瞬、ひやりとしたが、彼は気づかなかった。気配が遠ざかっていくと、体中から力がぬけた。
アドリエンヌは、早くその場から離れたかった。だが、まだ膝がガクガクふるえていて、すぐには動けそうにない。
唇には、王子の血の味が残っていた。
「う……」
どうしようもなく嗚咽《おえつ》がこみあげてきて、我慢できなくなった。
ああ、もう。頭の中がぐちゃぐちゃだ。なにも考えられない。ただ、つらかった。夜が明けて、また彼と顔を合わせるのは耐えられない。
彼は絶対に間違っている。わたしは彼のアドリエンヌではない。彼がわたしのドナティアン・シャルルではないように、わたしも彼のアドリエンヌにはなれない。
どうして、それが彼にわからないんだろう?
――王子はあんたで満足するさ。
ゲルガランは、いかにも気楽そうにそう言った。今ここにいたら、首を絞《し》めてやるのに。
だが、そのときふと――今まで考えてもみなかったある可能性が、頭をよぎった。
まさか。
わたしのドナティアン・シャルルも、ちがうわたしで満足するのかしら……?
アドリエンヌは愕然《がくぜん》とした。
どうして、そのことを考えなかったのだろう? そもそも彼は、アドリエンヌが何者かも知らずに誘拐《ゆうかい》したのだ。どの世界のアドリエンヌであろうと、息子さえ産めれば問題ないと考えても、おかしくはない。
いや、おかしくないどころか、それはいかにもありそうなことだった。彼がさっさと自分をあきらめ、喜々として新しいアドリエンヌを誘惑しているところが目に浮かぶようだ。
疑惑と妄想《もうそう》がアドリエンヌを打ちのめし、奈落《ならく》の底に突き落とした。
「ひ、ひどいっ! そんなのってないわ! わたしがこんなにつらい目にあってるのに!」
アドリエンヌは悔《くや》しさに歯噛《はが》みしながら、地団太《じだんだ》を踏んだ。
「なによ? ドナティアン・シャルルの薄情者! 冷血漢! 女たらし! 馬鹿――っっっ!」
「――わたしを馬鹿だと?」[#「「――わたしを馬鹿だと?」」は太字]
突然、どこからか声がして、彼女は飛びあがった。
「無礼な。馬鹿はどちらだ、この粗忽者《そこつもの》めが」[#「「無礼な。馬鹿はどちらだ、この粗忽者《そこつもの》めが」」は太字]
一瞬、幻聴かと思った。ここに彼があらわれるはずがないからだ。それでも……切ない望みを抑えられなかった。
「……ドナティアン・シャルル? わたしの[#「わたしの」に傍点]ドナティアン・シャルルなの?」
声がふるえる。アドリエンヌはひどく切迫した気持ちで、あたりを見まわした。
「どこにいるの? お願い、姿を見せて! 夢じゃないって、証明してよ!」
「そなたの痕跡をたどるのに手間取った。そこでじっとしていろ。動くでないぞ」[#「「そなたの痕跡をたどるのに手間取った。そこでじっとしていろ。動くでないぞ」」は太字]
「なんですって? どういうこと? ドナティア――」
そのとき突然、世界がぐにゃりと歪《ゆが》んだ。空間がひきつれるような強烈な感覚とひどい耳鳴りが襲ってきて、アドリエンヌは思わず両手で耳をふさいだ。が、おそらくそれは数秒のことだったろう。次に気がついたとき、彼女は薄暗い部屋の中にいた。
アドリエンヌは目をしばたたき、あたりを見まわした。
ここは……? 見覚えがある。王子が魔法実験につかっている地下室だ。彼女は今、魔法陣の真ん中に立っていた。
「どうやら、うまくいったようだな」
その声ではじめて、暗がりにいる王子に気づいた。彼は緊張から解き放たれたように吐息をつくと、アドリエンヌを見てニヤッと笑った。
「鏡の部屋から、そなたの残した思念をたどったのだ。そなたのもつ波動は独特で強い。その強情な性格同様にな。ずいぶんと時間がかかったが、おかげでやっと捕まえられた」
「ドナティアン・シャルル!」
アドリエンヌは王子に駆けより、胸の中に飛びこんだ。虚をつかれた彼は、彼女を抱きとめ、後ろに一歩、よろめいた。
「どうした?」
アドリエンヌは、すでに泣きじゃくっていた。
「も、もう二度とあ、会えないかと思っ……ひくっ」
ドナティアン・シャルルは、当惑の表情を浮かべた。だが、やがて小さな子供にするように、アドリエンヌの背中をぽんぽんと叩いた。そしてその後は、彼女が泣きやむまで、黙って抱きしめていてくれた。
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エピローグ
後日、ドナティアン・シャルルは、アドリエンヌがいなかった間のことをくわしく話してくれた。別世界から迷いこんできたアドリエンヌを彼が一目で別人だと見破ったこと、本物の彼女を探して精神を飛ばすことは、彼自身にとってもひどく危険な賭《か》けだったことを。
実際、彼は何日も塔《とう》にこもり、くりかえし失望を味わったらしい。だが、それでも彼はあきらめなかったのだ。そしてあの夜、ついに二人のアドリエンヌの入れ替えに成功した。今ごろはきっと、もう一つの世界でも、恋人たちの幸せな再会が果たされているだろう。
もはや悲しいことなどなにもない。すべてはもとにもどったのだから。だが、アドリエンヌにはそれでも一つだけ、心にひっかかっていることがあった。
「……でも、不思議。あなたにとっては、どの世界のアドリエンヌでもかまわなかったんじゃない? きっと彼女だって、あなたの子供を産めたと思うわ。なのにどうして、わざわざわたしを探してくれたの?」
アドリエンヌが質問をぶつけると、王子はふんと鼻を鳴らした。
「従順でおとなしいばかりのそなたなど、面白くもなんともないからな」
わたしも、ただやさしいだけのあなたじゃ、つまらないみたい。アドリエンヌは満足とともに思ったが、口にはださなかった。
だって、王子がいい気になって、ますます横暴になったら困るもの。
だからこれは、アドリエンヌだけの秘密なのだ。
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魔王子さまのお師匠の事
[#挿絵(img/bra2_071.jpg)入る]
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プロローグ
近ごろ、ドナティアン・シャルルは機嫌が悪い。顔を合わせたときはいつも仏頂面《ぶっちょうづら》をしていて、気安く声をかけるのもはばかられるほどだ。もともとが傲慢《ごうまん》な偏屈者《へんくつもの》で、お世辞《せじ》にも愛想がいいとはいえないタイプだが、それにしても今回ばかりはアドリエンヌも頭が痛かった。
原因なら、もちろんわかっている。今朝《けさ》も国王から届けられた手紙のせいだ。ドナティアン・シャルルはそれをうけとるなり、開きもせずに暖炉《だんろ》の中に放りこんでしまった。
「王様に直接会って、きちんとお話しすればいいのに……」
見かねてアドリエンヌが口を出すと、ドナティアン・シャルルは鋭い目でにらみつけてきた。だが、彼女は思いきって先をつづけた。
「差し出がましいようだけど、手紙じゃ気持ちは伝わらないと思うわ」
「用件は伝わったはずだ。これ以上、話すことなどない」
ドナティアン・シャルルは、そっけなく切り捨てる。アドリエンヌは、じれったくなった。
「用件じゃなくて、気持ちよ。あなたの気持ち[#「あなたの気持ち」に傍点]。なにより大事なのは、あなたがお父さんを愛しているのをわかってもらうことよ。そうすれば、たとえ意見が食い違ったとしても、理解しあえると思うの」
「馬鹿馬鹿しい。そなたのたわ言は聞き飽《あ》きた」
ドナティアン・シャルルは助言に耳を貸そうともせず、さっさと書斎《しょさい》にひきこもってしまった。
あれから一度も顔を見ないまま、そろそろ日が暮れようとしている。アドリエンヌは暖炉のそばにすわって縫《ぬ》いものをしながら、つくづくと考えこんでいた。
事の発端《ほったん》は、ドナティアン・シャルルの弟王子が亡くなったことだ。世継ぎを失った王はそのせいで考えを変え、一度は都を追放した兄をふたたび宮廷に呼びもどそうとした。しかし、ドナティアン・シャルルはこの辺境の城で気ままに生きる道を選び、父王の帰還命令をはねつけたのである。
王からの使者を送り返した後、王子は一応、返事を書き送ったらしい。だが、おそらくその内容に、王は納得しなかったのだ。使いの小鬼は、さらなる返事をもってもどってきた。今度は、王子はそれを黙殺した。すると、それからは毎週のように手紙が届けられるようになった。
ドナティアン・シャルルは、城の周囲に魔法の結界《けっかい》を張りめぐらせている。だから、彼の領域を侵すことは誰にもできないし、近づくことすらできない。たとえ王の使者であっても、それは同じだ。
そこで、王はきっと腕のいい魔術師でも雇ったにちがいない。手紙はいつも城の上空にひとりでにあらわれた。そこにとどまったまま落ちてこないのは、結界を通りぬけることができないからだ。すると、手紙は実に傍|迷惑《めいわく》な大声でドナティアン・シャルルの名をわめきだす。ほうっておくと、いつまでもうるさくてかなわないから、結局は王子も無視できないというわけだ。
それから一月《ひとつき》以上経った今、事態は改善されるどころか、ますますエスカレートしていた。あのとんでもない騒音のもとは、今や三日とあけずにやってきて、ドナティアン・シャルルをいらだたせている。
「王様に直接会って、きちんとお話しすればいいのに……か」
アドリエンヌはふいに針を動かす手を止め、ぽつりとつぶやいた。今朝《けさ》の会話を思い出すと、ため息がもれる。
「……わたしって、とんだ偽善者だわ」
父と子の関係がいまだ修復されずにいるのは、悲しいことだ。それは、間違いなくアドリエンヌの本心だった。なのに、そう思う一方で、心のどこかではほっとしている自分もいる。もし、ドナティアン・シャルルが王の願いをいれて都にもどることを選べば、彼女はもう彼のそばにはいられないからだ。
父親に会えと口では諭《さと》しながら、それを拒絶する王子に安堵《あんど》する――アドリエンヌは、そんな自分が後ろめたかった。
身分の違いを忘れたことなど、一度もない。本来なら、出会うはずのない運命だったのだ。ドナティアン・シャルルが都を追放されなければ、二人はきっと互いの存在を知らぬまま、一生を終えていたにちがいないのだから。それを思うと、アドリエンヌはいっそうつらくなる。
いっそ、行かないでと泣きつけたなら、どんなにいいだろう? だが、生まれもった分別《ふんべつ》くさい性格は、そうそう変えられるものではない。それに、王子は本当は、父親を慕《した》っている。長い間の確執が、素直にふるまうのを妨げているけれど。それを知りながら、見て見ぬふりをすることはできなかった。
ふたたびため息をついたとき、大音声《だいおんじょう》で呼ばわる声が聞こえた。
「ブランデージの世継ぎの君、ドナティアン・シャルル王子に書状! ブランデージの世継ぎの君、ドナティアン・シャルル王子に書状!」[#「「ブランデージの世継ぎの君、ドナティアン・シャルル王子に書状! ブランデージの世継ぎの君、ドナティアン・シャルル王子に書状!」」は本文より1段階大きな文字]
アドリエンヌは思わず中庭に飛び出し、城の上空を見上げた。くるくる巻かれた羊皮紙《ようひし》が、いつものように宙に浮かんでいる。
「また[#「また」に傍点]?」
今日の分はもう届いているのに。一日に二通というのは、これが初めてだった。王子同様、国王もいらだちを感じはじめているのかもしれない。それとも――なにか緊急を要することでもあったのだろうか?
手紙がふっと姿を消した。ドナティアン・シャルルが一時的に結界《けっかい》を解き、自分の手もとに呼びよせたのだ。と、次の瞬間、
「危ないっ! そこをどけ!」
せっぱつまった怒鳴《どな》り声が聞こえたかと思うと、なにかがガツン! と頭に当たった。
「いたっ!」
アドリエンヌは、声をあげた。そして、あたりを見まわし、落ちてきたものをさがした。すると――
足もとの石畳《いしだたみ》の上に、リスがひっくり返っていた。
アドリエンヌは、ぱちくりと目をしばたたいた。
そして、あらためて空を見上げ、また中庭に注意をもどした。
……誰もいない。
そんな馬鹿な! たしかに今、誰かが叫んだのを聞いたのに。それに、リスが勝手に空から降ってくるなんて、ありえない。
わけがわからなかったが、今はこの気の毒な小動物の心配をするほうが先だ。
しゃがんで手をさしのべようとすると、リスは自分でむくりと身を起こした。そして、そばに落ちていた木の枝のようなものを前足でつかみ、奇妙に人間じみたしぐさで首をふった。
「やれやれ、折れてしもうた。これだから、魔女の箒《ほうき》なんぞというのは、信用がならん」
アドリエンヌは、目をむいた。
「リスがしゃべったっ!?」
「――リスじゃと?」
その生き物は顔を上げ、気分を害したようにアドリエンヌをにらんだ。
「おまえさんの目には、わしがリスに見えるのか?」
アドリエンヌは硬直し、ごくりと唾《つば》をのみこんだ。そして、もう一度、上から下まで、じっくりとその生き物を観察した。
リスでなければ、なんだというのだろう? 頬袋《ほおぶくろ》のふくらんだ愛くるしい顔、下半身のぼってりした胴体、シマ模様のふさふさシッポ、鋭い爪のついたちっちゃな手足――どこをどう見ても、絶対にリスだ。シマリスだ。
「み、見えます……けど……?」
アドリエンヌは、正直に答えた。すると、その生き物は、情けなさそうにうなった。
「うむ。認めるのは癪《しゃく》じゃが、おまえさんは正しい。たしかに、今のわが身はリスである」
「やっぱり!」
「じゃが――」
リスは、またキッと顔をあげた。
「それもこれも、あの不肖《ふしょう》の弟子がしでかしたことじゃ。あの馬鹿モンはどこにおる?」
「――馬鹿モン?」
そのとき、ばさばさと羽音がして、ゲルガランが飛んできた。アドリエンヌは、ホッとして空を仰《あお》いだ。
「ゲルガラン、ちょうどよかったわ。あの、この――」
王子の使い魔は自分から地上に降りてきた。カラスが近づくと逃げるかと思ったが、意外にもリスはその場から動かなかった。それどころか、うれしそうに胸を張って、こう言った。
「おう、ゲルガランではないか。久しいな」
ゲルガランは、リスにむかって頭を下げた。
――ラマコス師。
「知ってるの!?」
びっくりしてアドリエンヌが訊《き》くと、ゲルガランはうなずいた。
――彼はわたしの以前の主人であり、王子の師だ。
アドリエンヌは、あんぐりと口をあけた。
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きっと聞き間違えたんだわ。アドリエンヌは、困惑とともに思った。ゲルガランは、そんな突拍子《とっぴょうし》もない冗談を口にするような性格ではないからだ。
「……ええと、ごめんなさい。彼は、なんですって?」
すると、ゲルガランはもう一度くりかえした。
――彼は王子の師なのだ。
「師? ドナティアン・シャルルのお師匠《ししょう》ってこと? このリスが!?」
すると、リスは不愉快そうに顔をしかめた。
「リスリスと何度も言うな、無礼な娘め」
「あ、ごめんなさ――」
そのとき、
「おやおや。わが結界《けっかい》を破って侵入したのは何者かと思えば――ご老体、まだ生きておられたか」
背後で皮肉な声が聞こえ、ドナティアン・シャルルがあらわれた。
「生きておるとも、おまえさんのおかげ[#「おかげ」に傍点]でな」
リスもまた、苦々しい口調でやりかえした。
「当分、くたばれそうもないわい。いまいましい!」
ドナティアン・シャルルは落ち着き払ったまま、わざとらしく片眉《かたまゆ》を吊《つ》りあげた。
「わたしの記憶が正しければ、たしかあなたはわたしを破門なさったはずだが。とうとう耄碌《もうろく》なされたか。それとも、なにか重大なご用件でも?」
「客人をこんなところに立たせたままもてなすのが、おまえさんの流儀《りゅうぎ》か?」
リスが嫌味な口調で言うと、ドナティアン・シャルルは優雅に肩をすくめた。
「これは失礼。中へご案内いたしましょう。もっとも、こちらが招いたわけではございませんが」
「あいかわらず、口のへらん小僧じゃ」
リスは、箒《ほうき》と呼んでいた木の枝と、そばに落ちていた青い布包みを拾って小脇にかかえ、ブツブツ言いながら王子のあとについていった。
広間に入っていく一人と一匹の姿を見送りながら、アドリエンヌは呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。
「しゃべるリスなんて、はじめて見たわ……」
すると、ゲルガランが言った。
――はじめからリスだったわけではない。賢者ラマコスの名を聞いたことは?
アドリエンヌは少し考えた。知らない名だが、どこかで聞いたことがあるような気もする。
「有名な人なの?」
ゲルガランはうなずいた。
――かつては、ブランデージでもっとも力のある魔術師だった。無論、人間だ。
「まあ、そうだったの。なのに、どうして今はリスなの?」
――人としてのラマコス師は、五年前に死んだ。王子はそこにいあわせ、禁じられていたよみがえりの秘術を師に試したのだ。だが、遺体はすでに使いものにならなくなっていたので、近場にいたもので間に合わせた。
アドリエンヌは唖然《あぜん》とした。
近場[#「近場」に傍点]? 間に合わせる[#「間に合わせる」に傍点]?
「それって……」
――たまたま、そばの木に生まれたばかりの子リスがいた。王子はラマコス師の魂《たましい》を呼びもどし、そのリスの体に呪縛《じゅばく》したのだ。
アドリエンヌは危なく、ぷっとふきだすところだった。だが、思いやりと礼儀を重んじる心が、すんでのところで待ったをかけた。
「……笑っちゃいけないのよね?」
努めて真顔で言うと、カラスの金色の目がキラリと光ったような気がした。だが、彼がこの件を面白いと思っているかどうかはわからない。彼はすまして先をつづけた。
――ラマコス師は、生き返ったことに激怒した。天命を全《まっと》うしたあとは、すみやかに彼方《かなた》の国にむかうことを望んでいたからだ。
「なのに、王子はもとにもどしてあげなかったの?」
――できなかったのだ。王子はまだ未熟な子供だった。術は不完全で、解放の呪文も習得していなかった。
なんだか別の人の話を聞いているみたい、とアドリエンヌは思った。未熟だとか不完全だなんて言葉が、あの傲慢《ごうまん》な王子の形容につかわれるなんて、すごく変な感じだ。もっとも、誰にだってそんな時代はあって当たり前なのだけど。
「つまり、王子はラマコス師から魔術を習っていたの?」
――正確には、少しちがう。王子は生まれたときから、特別な力をもっていた。だが、それをうまくあつかう術を知らなかったので、彼のまわりではたびたび厄介《やっかい》な現象が起きていたらしい。そこで、国王がラマコス師を城に招き、相談したのだ。
「厄介な現象って?」
――無意識のうちに物を動かしたり、感情の高ぶりが気候現象に影響をあたえたりというようなことだ。
「……たしかに、それはたいへんそうね」
――王子はラマコス師について、己《おのれ》の力を制御《せいぎょ》し、正しく使うことを学んだ。
「正しく[#「正しく」に傍点]使う?」
アドリエンヌは、皮肉な口調でくりかえした。王子が都を追放されたのは、禁忌《きんき》とされている魔法に手をだしたからだ。ほかにも、息子を得たいがためにアドリエンヌをさらったりと、日ごろからやりたい放題。王子が自分の力を正しく使っているなんて、断固として認めるわけにはいかない。
――言いたいことはわかる。王子は必ずしも従順ではなかった。師に隠れて、禁じられていた黒魔術を試してもいたようだ。
「やっぱり」
アドリエンヌは、訳知り顔でうなずいた。
「お師匠《ししょう》さまはきっと、とんでもなく手こずったにちがいないわ。よりによって生徒がドナティアン・シャルルだなんて、最悪だもの。素直じゃないし、へそ曲がりだし、すっごくえらそうだし、人を見下してるし……」
王子の性格上の欠点を数えだすと、きりがない。だが、そこでふと気づいた。
「……だけど、ゲルガラン。王子の先生になれるくらいなんだから、ラマコス師は、もっとすごい力の持ち主なんじゃないの?」
――人であったときはそうだった。
「今は?」
――獣《けもの》の身になってからは、苦労していた。はじめは人語《じんご》を話すことすらままならなかったのだ。当時にくらべると、今は少しばかり力をとりもどせたのだろう。まがりなりにも王子の結界《けっかい》を破り、ここまでたどり着いたのだから。
「ほんとにそうね」
今考えてみると、ラマコス師は結界が解かれたあの一瞬の隙《すき》をつき、この城に飛び込んできたのだ。それだけだって、常人にできることではない。
「だけど、それでも王子の呪縛《じゅばく》はとけないってこと?」
――おそらく。五年前、ラマコス師は王子を破門し、解放の呪文を知る魔術師をもとめて旅立った。だが、まだあの姿でいるところを見ると、無駄足《むだあし》に終わったようだ。
「じゃあ、お師匠さまが今回ここに来たのは、今度こそ王子に魂《たましい》を解放してもらうためなのね。今の彼だったら、きっとできるはずだもの」
ところが、ゲルガランは意味ありげな間をおいた。
――さて、それはどうか。
「どういう意味?」
――あなたは先ほど、王子はへそ曲がりだと言った。
アドリエンヌは肩をすくめた。
「言ったわ。だって、本当のことだもの」
――ラマコス師もそうなのだ。
「……」
たしかに、久しぶりの再会だというのに、先ほどの二人の態度はとても友好的とはいえなかった。ラマコス師は明らかにまだ王子に腹を立てていたし、王子は王子で、そんな師匠をわざといらだたせるような不遜《ふそん》な態度をとっていた。そもそも、あのプライドの高い王子が、自分を破門した相手をそうかんたんに許すだろうか?
なんだか急に心配になって、アドリエンヌは二人が消えた広間のほうを見やった。
「あの二人、まさかケンカしたりしてないわよね?」
――大いにありうることだ。
「ちょっと。落ち着いてる場合じゃ――」
そのとき、広間のほうから、どかーん! と、すさまじい爆発音が聞こえた。
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広間に通されると、リスのラマコス師は興味深げにあたりを見まわした。だが、彼の関心をひいたのは美しい城の内部ではなく、日暮れとともに中空を漂いはじめた、白く透きとおった影たちだった。
「なんとのう。この城は人ならぬ者たちでいっぱいじゃ。もはや還《かえ》るべき場所もわからず、亡者になっておる」
ラマコスは首をふりふり、ため息をついた。
「では、噂《うわさ》は本当だったのじゃな。呆《あき》れたものじゃ」
「彼らが望んだのです」
ドナティアン・シャルルはそっけなく返し、ぱちんと指を鳴らした。すると、影たちが飛んできて、なみなみと酒を注いだ杯《さかずき》を二人にさしだした。
「おまえさんがそそのかしたのであろうが。生への執着を利用してな」
ラマコスは、風呂桶《ふろおけ》代わりにもできそうな杯の縁に身をのりだし、くんくんと匂《にお》いをかいだ。
「ふん。上等のぶどう酒じゃな。しかし、今は遠慮《えんりょ》しとこう。おまえさんへの用をすます前に、酔っ払うわけにはいかんわい」
「では、そのご用件とやらをうかがいましょう」
ドナティアン・シャルルは広間の奥にある首座《しゅざ》にむかい、自分がこの城の主であることを誇示するように、ゆったりと腰を下ろした。
「実を言えば、おまえさんのことで国王から泣きつかれたのじゃ」
言いながら、ラマコスはしゃかりきになってテーブルの上によじのぼり、ドナティアン・シャルルの正面でふんぞりかえった。
「そんなことではないかと思っておりました」
ドナティアン・シャルルは、うんざりしたように横をむいた。
「先日、久しぶりにブランデージにもどると、さっそく宮廷に呼びつけられてな。聞けばおまえさん、さしだされた王位をあっさりはねつけたばかりか、花嫁も自分で見つけたと書いて送ったそうではないか。いやはや、王は目をむいておったぞ。いったい、どこのあばずれが息子をたぶらかしたのかとな。都にもどりたがらんのも、その女のせいじゃと思うとるらしい」
そして、ラマコスはふんと鼻を鳴らした。
「まったく。さすがのわしも、王の前で笑いだすところじゃったわ。計算高いおまえさんが、女にたぶらかされる? ありえん」
「同感です」
ドナティアン・シャルルは、皮肉をこめて言った。
「で、どこにおる、その花嫁は?」
「それは先――」
ラマコスは片方の前足をふり、せっかちにさえぎった。
「いや、いい。わかっておる。大ぼらじゃ。そんな女はどこにもおらん。どうせ、父親にたいするあてつけなんじゃ。なにもかも自分の思い通りに運ぼうとする、王への意趣返《いしゅがえ》しよ。まったく。天邪鬼《あまのじゃく》なおまえさんらしいわい」
王子は気分を害したようにいったん口を閉じ、あらためて冷笑を浮かべた。
「それほどなんでもおわかりなら、わたしの話などお聞きになる必要はありますまい」
「まあな」
ラマコスはしたり顔でうなずいた。
「それに、おまえさんが王になろうがなるまいが、わしにはどうでもいいことじゃ。しかし、この際わしも、おまえさんに過《あやま》ちを正す機会をあたえてやろうと思うてな」
「過ち?」
「おまえさんは破門に値することをした。その点、わしはいささかも悔いてはおらん。じゃが、わしは寛容な人間でもある。場合によっては、わしをろくでもない黒魔術の実験台にしたことは許さんでもない。ただし、この場でわしを解放するならじゃ。あれから五年経つ。ひよっ子だったおまえさんも、今ならそれができよう」
すると、王子は鼻でせせら笑った。
「ご冗談を。あなたのように興味深い研究成果を、自らふいにするなどありえない」
「成果じゃと?」
ラマコスも、負けじと笑ってやりかえした。
「なんと、わしのこの身を成果とな? これはおどろいた。ずいぶんといじましい[#「いじましい」は本文より1段階大きな文字]話を聞かされるもんじゃのう。いきあたりばったり[#「いきあたりばったり」は本文より1段階大きな文字]のへたくそ[#「へたくそ」は本文より1段階大きな文字]な呪文で偶然[#「偶然」は本文より1段階大きな文字]かかっただけの術を、よくもまあ、手柄顔で誇れるもんじゃ。こっちが赤面するわい」
ドナティアン・シャルルは、自分の顔に愛想のよい笑みを張りつけた。
「どれほど偉大な研究も、初めの一歩はささやかなもの。学ぶことにおいて、わたしはいつも謙虚《けんきょ》でありたいと願っておりますので」
「口がかゆくならんか?」
「いささかも」
「おまえさんのことじゃ、どうせそのうち、立派によみがえりの秘術を完成させるじゃろうよ。悪魔とでも死神とでも、好きなだけ取引すればよいわ。しかしそうなれば、わしひとり解放したところで、痛くもかゆくもあるまい」
「ご期待に背《そむ》いて申し訳ないが、わたしはよみがえりの秘術を手にすることは断念したのです」
「わしがそんなたわ言を信じると思うのか?」
「信じていただくしかありますまい。事実なのですから」
ラマコスは疑わしげに目を細めたが、それ以上は追及しなかった。
「ふん。なら、今はなにをしておるんじゃ?」
「じきに息子をもうけるつもりです」
それを聞いて、ラマコスは目を丸くした。
「息子? 今度は人造人間でもつくるつもりか? こりゃまた、突拍子《とっぴょうし》もない望みをいだいたもんじゃ」
「馬鹿馬鹿しい。人間の女が産むのです。だから花嫁を見つけたと申し上げた」
「花嫁なんぞ、どこにもおらんではないか」
「先ほどお会いになったでしょう」
いらだたしげに言うと、ラマコスはぽかんと口を開けた。そして、たっぷり五秒間は王子の顔を見つめたあと、今度は意味ありげな表情を浮かべた。
「……ははあん?」
「なにか?」
「なるほど、わかったぞ。人嫌いのおまえさんが、この城に若い娘を連れこんだ理由がな。召使にしては、おかしいと思ったわ」
そして、ラマコスはすうっと息を吸いこむと、いきなり大声を張りあげた。
「とんでもないことじゃ!」[#「「とんでもないことじゃ!」」は本文より1段階大きな文字]
だが、王子はすずしい顔で言った。
「いけませんか」
「いかんに決まっとる! 花嫁じゃと? たわ言をぬかすな! 己《おのれ》の目的を遂《と》げるために、今度は罪のない娘まで利用するつもりじゃな? そんなことは許されんぞ! 今すぐ帰してやれ!」
「あの娘は同意しました」
「おまえさんの顔に騙《だま》されて[#「顔に騙されて」は本文より1段階大きな文字]おるのじゃ!!」
「だとしても、同意したことに変わりはないでしょう」
「うぬう。おのれが色男じゃと思うて、ぬけぬけと言いおったな」
ラマコスは、ぎりぎりと歯軋《はぎし》りをした。
「もう一度言うぞ。あの娘を帰してやれ」
「あなたの口出しなさることではない」
「王子よ、おまえさんのその根性を叩きなおす時間がわしになかったことが、つくづくと残念じゃ。しかし、わしにもまだできることがある」
「ほう。どうなさるというのです?」
ラマコスは背筋を伸ばし、堂々と宣言した。
「世間へのせめてもの償《つぐな》いに、わしはあの娘をおまえさんの毒牙《どくが》から守ることにした」
ドナティアン・シャルルは眉《まゆ》をひそめた。
「正気でおっしゃっておられるのか」
「とことん正気じゃとも。おまえさんが、あくまであのあわれな娘を帰さんというのなら、力ずくでも阻止《そし》するぞ」
王子は、ゆっくりと立ち上がった。
「わたしはもう、以前のわたしではない。そして、あなたも以前のあなたではない。それでもわたしを止められると?」
「おお、それでもやってみせるわい」
ラマコスは小脇にかかえた布包みの中から小さな魔法の杖《つえ》をとりだし、その先端を王子にむけた。
とたん、自分にむかって見えない圧力がかかったのが、王子にはわかった。不意に体が重くなり、抵抗しようとすると、周囲にバチバチと火花が散った。
[#挿絵(img/bra2_093.jpg)入る]
「なるほど」
王子は微笑を浮かべた。
「それなら、わたしも遠慮《えんりょ》はしますまい」
アドリエンヌは爆発音を聞きつけ、すぐさまゲルガランを連れて広間に走った。重い扉を押し開けると、中からぎゃあっ! という悲鳴が聞こえた。
「どうしたの!?」
叫んだとたん、アドリエンヌは煙にむせて咳《せ》きこんだ。あたりには硫黄《いおう》の匂《にお》いが充満していた。手をふって煙を払い、そのむこうに目を凝《こ》らす。と、ラマコスが中空で逆さまになり、ぐるぐるふりまわされているのが見えた。といっても、彼に手をふれている者がいるわけではない。彼はまるで、小さな竜巻に翻弄《ほんろう》されているようだった。ドナティアン・シャルルは、平然とその光景をながめているだけだ。
「やめて!」
アドリエンヌは、ドナティアン・シャルルにむかって叫んだ。彼は、ぱちんと指を鳴らした。とたん、ラマコスは床の上に投げ出された。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですか!?」
アドリエンヌは、急いでラマコスに駆けよった。そして、怪我《けが》はないかと、そっと体に手をのばした。
「まあ、ひどい! シッポの先が焦《こ》げてるわ」
「火炎に焼かれたんじゃな。まあ、毛皮だけじゃ。たいしたことはない。しかし、うーむ……今ので、目がまわって……おえっ」
ラマコスは自力で立ち上がりかけたが、酔っ払いのようにふらふらっとすると、また顔から床につっこんだ。アドリエンヌは、ゲルガランをふりかえった。
「ゲルガラン、お師匠《ししょう》さまをわたしのベッドに運んで! わたしもすぐに行くから」
返事の代わりにゲルガランはラマコスをつかみ、獲物《えもの》でも運ぶようにして飛び去った。それを見届けたあと、アドリエンヌはドナティアン・シャルルにつめよった。
「ひどいわ! あなたのやったことは動物|虐待《ぎゃくたい》――いえ、老人虐待――ううん、そのどっちもよ! いったい、どういうつもりなの!?」
だが、ドナティアン・シャルルに反省の色はない。
「先に力をふるおうとしたのはあの老人だ」
そして、軽く肩をすくめて、広間から出て行こうとした。しかし、アドリエンヌは許さなかった。あとについて歩きながら、しつこく食い下がる。
「だからって――今はあなたのほうが強いのはわかってたんでしょ? 相手はか弱い小動物なのよ? あなたがそうしたんじゃないの!」
すると、ドナティアン・シャルルは顔をしかめた。
「ゲルガランが、またそなたによけいなことをふきこんだようだな」
「ええ、聞きましたとも。あなたのお師匠さまにたいする態度は、ちっとも感心できません。いったい、彼に恨《うら》みでもあるの?」
「恨み?」
ドナティアン・シャルルは、意表をつかれたように足を止めた。
「馬鹿な。あんな死にぞこないのことなど、なんとも思ってはおらぬ」
アドリエンヌは信じなかった。両手を腰にあてて、にらみつける。
「じゃあ、どうして解放してあげないのよ? 今ならできるんでしょ?」
「あの老人は、わたしにとって貴重な成功例だ。そうかんたんに解放するわけにはいかぬな」
「成功なんかであるもんですか! あなた、どうかしてるわよ!」
すると、王子の瞳に怒りが燃えた。
「なんの不足がある? わたしのおかげであの老人は死をまぬがれたのだ!」
アドリエンヌは眉《まゆ》をひそめた。
「本気でそう思ってるの? 死ぬよりも動物でいたほうがましだって」
「そなたの口出しすることではない。そんなことより――」
王子は尊大な表情を浮かべて、アドリエンヌを見下ろした。
「そなたはいつになったら、わたしとの結婚に同意するつもりだ?」
急に矛先《ほこさき》をむけられて、アドリエンヌはたじろいだ。
「いつになったらって……わたしたち、知り合ってまだ一月《ひとつき》しか経ってないのよ?」
「わたしは一月も[#「も」は本文より1段階大きな文字]待った。いったいどれだけ猶予《ゆうよ》をあたえれば、わたしの息子を産む気になるのだ」
アドリエンヌは唖然《あぜん》とし、次には声を張りあげた。
「息子は後回しでいいって言ったじゃない!」
「無制限に待つと言った覚えはない」
「そんな――横暴だわ!」
「そなたがくだらぬことにばかり首をつっこんで、時間を浪費しているからだ」
アドリエンヌは、ムッとした。
「くだらないことなんかじゃありません。それに、時間を浪費してるわけでもないわ。むしろ熟考[#「熟考」は本文より1段階大きな文字]しているんです。だいたい、あなたがそんな調子だから、なかなか決心がつかないんじゃない!」
「わたしのせいだと申すか?」
「その通りよ! あなたがその性格をあらためないかぎり、一生かかっても無理かもね!」
そしてアドリエンヌはくるりときびすを返し、王子を残して立ち去った。
ほんとにもう! 二言目には息子息子って!
まっすぐ自分の部屋にむかいながら、アドリエンヌはまだ癇癪《かんしゃく》を抑えかねていた。
そりゃあ、わたしだって彼の子供は欲しいわよ。でも、あんな言い方をされたら、わたしのことなんて、どうでもいいみたいじゃない。
もちろん、アドリエンヌも馬鹿ではない。王子が急にこの件をもちだしたのは、ラマコス師のことでうるさく言われたくなかったからだということはわかっている。それでも、反応せずにはいられなかった。彼女にとっては、なにより重要なことだったからだ。なぜなら――
ドナティアン・シャルルはまだ一度も、彼女を愛していると言ったことがないのだから。
そう、それが問題なのだ。彼は愛を知らない。誰のことも愛したことがない。彼はアドリエンヌに愛を教えてほしい[#「教えてほしい」に傍点]と言ったのであって、愛している[#「愛している」に傍点]と言ったのではない。この二つは、ぜんぜん違う。
彼がなんらかの理由で、自分を気に入ってくれているのは知っている。だからこそ、いつかは本当に愛してくれるかもしれないと期待をかけているのだが――
アドリエンヌは、ため息をついた。
そう、それに、父親とのこともある。王子がこの問題に背をむけているかぎり、アドリエンヌの不安が解消されることはないだろう。
こんな状態で結婚して、うまくいくとはとても思えなかった。
アドリエンヌは唇を噛《か》み、小さな声で毒づいた。
「待ってる[#「待ってる」に傍点]のは、ほんとはわたしのほうなんだから! ドナティアン・シャルルの馬鹿! 朴念仁《ぼくねんじん》のわからず屋っ!」
[#改ページ]
リスのラマコス師は、ひとまずアドリエンヌのベッドに落ち着いていた。さいわい、ふりまわされて目をまわしただけで、怪我《けが》らしい怪我は負っていなかった。もっとも、昔の弟子から明らかに手かげんされ、なぶり者にされたという事実は、彼の自尊心に深刻なダメージをあたえはしたが。
「ゲルガランよ。おまえがついていながら、王子にこのような非道を許すとは、なんたることじゃ」
ラマコスは、ゲルガランを相手にブツブツとこぼした。
「せめて王子をとめだてするなり、娘を逃がしてやるなり、できなんだのか。わしが、なんのためにおまえを王子のもとに残したと思っておるのじゃ」
八つ当たりされても、ゲルガランはいつものように冷静だった。
――王子の正しき導き手となるように。
「そうじゃ。五年前、わしはそう言ったはずじゃ。にもかかわらず、監督を怠《おこた》りおって」
――王子は今、さまざまなことを学びつつある。
「ふん。そりゃそうじゃろう。昔から研究熱心な小僧じゃったわ」
――そうではなく。人として生きる上で、必要なことを。
ラマコスは、ゲルガランにけげんそうな目をむけた。
「いったい、なんの話じゃ? 王子がなにを学んでおると?」
――あなた方なら、美徳と呼ぶであろうもの。
だが、ラマコスは本気にしなかった。せせら笑って言う。
「それが本当なら、天変地異《てんぺんちい》が起きるぞ。ゲルガラン」
――人というのは、どのようにでも変わり得るものだ。
「わしにそれを信じろというのか? 突拍子《とっぴょうし》もないカラスめじゃ」
そのとき、ラマコスの耳に、軽やかな足音が近づいてくるのが聞こえた。戸口をふりかえると、アドリエンヌが心配そうな顔をのぞかせた。
「お師匠《ししょう》さま、おかげんはいかがですか?」
とたん、ラマコスは丸まっていた背筋をしゃっきりとのばした。
「あー、おまえさんか。いやなに、たいしたことはないわい。あんな小僧ごときに、このわしがそうかんたんにやられるものか」
ラマコスは虚勢を張り、わざとらしく笑った。そして、ゲルガランが面白そうに目をきらめかせて見ているのに気づくと、しかめっ面《つら》をむけて言った。
「おまえはもういいぞ。さっさと小僧のところにもどるがいい」
ゲルガランは、アドリエンヌと入れ替わりに部屋から出て行った。
アドリエンヌはまっすぐベッドまでやってきて、その端にちょこんと腰を下ろした。彼女の眼差《まなざ》しからは、まだ気遣いの色が消えていなかった。それを見たラマコスは、コホンと咳払《せきばら》いをして、また言った。
「あの未熟者めは、物を破裂させたり、燃えあがらせたり、こけおどし[#「こけおどし」は本文より1段階大きな文字]だけは得意なんじゃが、ま、言ってみればそれだけのことでの。実際には、ほれこのとおり、かすり傷一つ負わせられなんだというわけじゃ」
アドリエンヌは、ほっと息をついて微笑《ほほえ》んだ。
「よかった」
ラマコスは横目でアドリエンヌを値踏みしつつ、さりげない口調で言った。
「ところでな。おまえさん、名はなんと言ったかの?」
「自己紹介が遅れて申し訳ありません。アドリエンヌと言います」
「ふーむ。それで? おまえさん、王子の花嫁になることに同意したというのは、本当か?」
「えっ?」
アドリエンヌの頬《ほお》が、たちまち朱色に染まった。のっけからこんな質問をされるなんて、思ってもみなかったのだ。いったい、ドナティアン・シャルルは、自分のことをどんなふうに話したのだろう?
「あっ、いえ、それは……」
もじもじして口ごもると、ラマコスは眼光鋭く問いつめてきた。
「どっちじゃ? 同意したのか、しないのか?」
個人的なことに答えるのは気がすすまなかったが、なにしろ相手は王子の師匠《ししょう》だ。ごまかすのも失礼だと思い、しぶしぶ言った。
「あの、考えているところです。つまり、ええと、あんまり自信がなくて……」
「自信?」
「つまり、その……彼と結婚して、うまくやっていけるかどうか……」
それを聞いて、ラマコスは満足そうにうなずいた。
「賢い娘じゃ。それなら、わしがこれから言うことも理解できよう。悪いことは言わん。今すぐ親もとにもどるがいいな。王子は顔こそ男前じゃが、中身は傲慢《ごうまん》で勝手きわまりない人間じゃぞ」
「知ってます」
「そうか。知って――なにっ?」
アドリエンヌは口をすぼめてつづけた。
「おまけにとっても威張《いば》ってて、頑固《がんこ》だわ」
「ううむ。しかしな、それだけではない。やつは人を人とも思わぬ冷血漢じゃ」
アドリエンヌは、今度は愛らしいため息をついた。
「ええ、それも知ってます。本当に、困ったことですよね」
ラマコスは、まじまじとアドリエンヌの顔を見つめた。まるで、相手が突然、得体の知れない化け物に変貌《へんぼう》してしまったとでもいうような目つきだった。
「本当に[#「本当に」に傍点]わかっておるのか? 王子はな、あの顔以外なんら評価できるところのない[#「顔以外なんら評価できるところのない」は本文より1段階大きな文字]人間じゃぞ?」
「まあ。そこまで言うのはひどいわ」
さすがのアドリエンヌも、これには憤慨《ふんがい》した。
「彼にだって、少しはいいところがあります」
ラマコスは、意地悪く鼻を鳴らした。
「ほほう。どんないいところがあるというのじゃな?」
「彼にも人間らしい感情はあるし、やさしくしてくれるときもあります。もちろん、人を愛する心だってあるはずだわ。ただ、今は彼の中で眠っているだけなんです」
「……ふむう」
ラマコスは自分のヒゲをひっぱりながら、しばし考えこんだ。
「では聞くがの、娘よ。もしも王子が不細工《ぶさいく》[#「不細工」は本文より1段階大きな文字]になったら、どうする?」
アドリエンヌは、少し考えてからこたえた。
「……ほっとするかも」
「なぜじゃ?」
「だって。彼のせいで、妹から面食いだってからかわれるんですもの。それに、わたしはきれいじゃないから彼につりあわないって、悩まずにすむし。でも、しかたがないですよね? 性格が悪いのも、顔がきれいなのも、彼の個性なんだもの。受け入れるしかないんだわ」
深々とため息をつくと、ラマコスはまごついたような表情を浮かべた。
「……変わったおなごじゃのう。おまえさんは」
すると、アドリエンヌは目を丸くしてラマコスを見かえした。
「どうした?」
「いいえ。まるで王子みたいなことをおっしゃると思って。でも、わたしはごく平凡な人間です。どうして彼がわたしを気に入ってくれているのか、不思議なくらい」
言った後、アドリエンヌはなんだか気恥ずかしくなり、急いで話題を変えた。
「ところであの、ゲルガランから経緯を聞いたんですけど、お師匠さまは、解放の呪文《じゅもん》をさがして、あちこち旅していらしたんですよね?」
「まあな。わしにもいくらか、力のある魔術師や魔女に知り合いがおるでな。じゃが、残念ながら、思ったようにはいかなんだ。なにせ、よみがえりの秘術を試すのは禁忌《きんき》じゃし、どうも王子は自己流でおかしな具合に呪文を歪《ゆが》めてしまいおったらしくてな」
「つまり、解放の呪文は王子にしかわからないってことですか?」
「わしの場合は、そういうことじゃ」
「でも、それなら……解放の呪文さえわかれば、王子の力を借りなくても、なんとかなるのかしら?」
「なるとは思うが、あの強情者が、そうかんたんに呪文を教えるものか」
それは、アドリエンヌもまったく同感だった。しかも、あんなふうにへそを曲げてしまっては、これからますます意固地《いこじ》になるかもしれない。
「じゃあ、どうなさるおつもりですか?」
ラマコスは、ふーっと息を吐いた。
「それを今、考えておるところじゃ」
アドリエンヌも考えた。今までの経験からすると、王子に道理を説《と》いて聞かせるなんて、オオカミに博愛主義を説くのと同じくらい、時間の無駄《むだ》だ。彼から欲しいものを手に入れるためには、思いきった手段にでるしかない。
「ドナティアン・シャルルはいつも、一日の大半を書斎《しょさい》か地下の実験室で過ごすんです。そこにはたくさんの魔法書とか、王子自身の書いたものがあって……わたしには読めませんけど、お師匠《ししょう》さまならわかるんじゃないかしら? 彼の研究から、なにか呪文の手がかりが見つかるかもしれないわ。つまり……」
と、そこでアドリエンヌはラマコスのほうに身をのりだし、小さな声でつづけた。
「本人には内緒《ないしょ》で、こっそりさぐりだすんです」
ラマコスの耳がピクリと動いた。前足を組んで黙りこんだのは、その可能性について考えてみているらしい。ややあって、彼はちらりとアドリエンヌを見た。
「しかし、このことがばれたら、おまえさんが咎《とが》めをうけることにならんかな?」
「かまいませんわ。だって、どう考えたって悪いのは彼のほうだもの」
先刻のやりとりを思い出して、アドリエンヌはまた腹が立ってきた。
「この件については、わたしは全面的にお師匠さまの味方をするって決めたんです」
熱意をこめて宣言すると、ラマコスはなぜか妙な顔をした。
「……そうか。おまえさんは勇気のある娘じゃな」
翌早朝、アドリエンヌはまだあたりが暗いうちから起きて、ラマコスを実験室に案内した。ドナティアン・シャルルはたいてい一晩中、研究に没頭《ぼっとう》していて、ベッドに入るのは明け方なのだ。
「王子はこれからお昼近くまで寝ていますから、ゆっくりさがせると思います」
アドリエンヌは、ラマコスのために扉を押し開けながら言った。
「あやつはそんなに熱心に、なにを研究しておるんじゃ? よみがえりの秘術はあきらめたとかぬかしておったが」
すると、アドリエンヌは顔をくもらせた。
「ええ。どんなに頑張《がんば》っても亡くなったお母さんには会えないとわかって、あきらめたんですよね」
それを聞いて、ラマコスは驚愕《きょうがく》の表情をうかべた。
「なんと。あやつは、そんなことまでおまえさんに話したのか?」
「はい」
ラマコスは眉間《みけん》にしわをよせて考えこみ、やがて、得心したように一つうなずいた。
「なるほどなるほど。それでおまえさん、同情[#「同情」は本文より1段階大きな文字]したんじゃな?」
意味ありげに言うと、アドリエンヌはけげんな顔でかえした。
「いけませんか?」
「いやなに。おまえさんには意外な戦略をとっておるなと思うただけよ」
実験室には棚《たな》や作業台がならんでいて、さまざまなものが雑然と置かれていた。植物や鉱物の標本、動物の骨、器《うつわ》に入ったさまざまな薬、魔法書らしきものもあるし、王子自身が書き記したものもある。
アドリエンヌは、ラマコスにむかって両手をさしだした。抱きあげて作業台の上を見せてやろうと思ったのだが、彼は前足をふってそれを断った。
「いや、けっこう。よじ登るのは得意なんじゃ。それに、わしにはこれもあるでな」
ラマコスは小脇にかかえていた青いボロボロの布包みを広げ、それを肩にはおった。
「それは?」
「浮遊マントじゃ。知り合いの魔女が、使い古した空飛ぶ絨毯《じゅうたん》の切れ端でつくってくれてな。飛行速度では箒《ほうき》にかなわんが、これはこれで使い道があるんじゃ」
そう言って、後ろ足でとんと床を蹴《け》ると、ラマコスはふわりと宙に浮かんだ。そして、まるで影たちのような身軽さで、見事に作業台の上に降り立った。
ラマコスは干からびた木の根やガイコツの間を注意深く歩きまわり、王子がなにか書きつけた羊皮紙《ようひし》の前で止まった。
「すまんが、明かりを近づけてくれんか」
言われたとおり、アドリエンヌは蝋燭《ろうそく》の火でラマコスの手もとを照らした。
しばらくの間、ラマコスは真剣な面持《おもも》ちで王子の書き記したものを読んでいた。が、やがて顔をあげると、低い声でうなった。
「……おどろくべきことじゃ」
「えっ?」
「わしがこの世を去ってから――いや、去りそこなってからというべきかもしれんが――あの生意気な坊主《ぼうず》は、たった五年で厖大《ぼうだい》な知識と力を手に入れたと見える」
そして、悩ましげなため息をついた。
「唯一の救いは、王子がまったく権力欲をもたぬことじゃな。もし、他者を支配するためにこの力を使えば、世界は災厄《さいやく》に見舞われることになるじゃろうて」
「自分は王にはむいてないって、前に言ってました」
アドリエンヌが口をはさむと、ラマコスはうなずいた。
「かもしれんな。じゃが、能力がないわけではないんじゃ。むしろ、王位継承権をもつほかのぼんくら貴族どもよりもいい王になる可能性はある。聡明であることは言うまでもないからの。ただ、それも条件付きでじゃ」
「条件?」
「愛を学ぶことじゃよ。他者をいたわる心をもつことじゃ。あやつには、それが決定的に欠けておる」
「もし……」
言いかけて、アドリエンヌはつづきをためらった。
「なんじゃ?」
「いえ、なんでもありません」
アドリエンヌは、打ち消した。
もし、ドナティアン・シャルルが愛を学んだとしたら、そのときはラマコスも、彼が王になるべきだと思うだろうか?
だが、その答えを聞く勇気はなかった。そもそも王子は彼女が独《ひと》り占《じ》めしていい相手ではないと、諭《さと》されるのが怖かった。それは、誰よりも自分がいちばん強く感じていることだったからだ。
そして、いざとなれば自分は言うのだろう。国のために尽くすのが彼の役割だと。彼はもどって王になるべきだと。そのために身を引くのは正しいことなのだと、自分で自分を納得させるだろう。
きっと、あくまでいい子ぶろうとするんでしょうね。分別《ふんべつ》があって、いつも正しいアドリエンヌ。最低だわ。
アドリエンヌは、自分に嫌気がさしてきた。
わたしは、本当にドナティアン・シャルルに変わってほしいのかしら? そのために彼を失うことになっても?
アドリエンヌは頭をふり、そのことは考えないようにした。ラマコスに目をもどすと、彼はまた王子の研究に集中していた。と、そのときだ。影の一人が戸口のそばに立ち、じーっとこちらを見ているのに気づいた。
「シーッ!」
アドリエンヌは人差し指を唇にあて、あわてて影に駆けよった。
「お願い、見逃して。わたしたち、べつに悪いことをしてるわけじゃないわ。もしお師匠《ししょう》さまが解放の呪文《じゅもん》を見つけたら、あなたたちだって彼方《かなた》の国に行けるのよ。だから、協力してちょうだい。ね?」
すると、影はぶるっと身をふるわせ、ラマコスを指差した。
「ええ。リスに見えるかもしれないけど、彼は本当は力のある魔法使いなの。大丈夫《だいじょうぶ》、信用できる人よ。わたしが請《う》け合う――」
言い終わらぬうちに、影はどこかに行ってしまった。見逃してくれたのだと解釈して、アドリエンヌは胸をなでおろした。
「お師匠さま。このお城の召使は、みんな幽霊なんです」
「うむ。知っておる。王子の失敗作が、ここにはたんとおるようじゃな」
ラマコスは、羊皮紙《ようひし》から目を離さずにこたえた。
「もし呪文が見つかったら、彼らのことも助けてくださいますよね?」
「最善を尽くすと約束しよう。そもそも、あの馬鹿モンがここまで増長したのは、わしのせいでもあるでな」
「お師匠さまの? どういう意味ですか?」
「わしがもっと厳しく教育すべきじゃったんじゃ。そして、死んでこの身になったあとも、あやつを見張っておくべきじゃった。わしとしたことが、とんだまちがいをしでかしたものよ」
「でも、それはお師匠さまの責任じゃ――」
言いかけて、アドリエンヌはハッとした。いつの間にか、たくさんの影たちが、この部屋に集まってきていた。さっき消えた影が仲間を呼んできたのだと、すぐに気づいた。
「まあ。あなたたち、手伝いに来てくれたの?」
そうではなかった。次の瞬間、彼らは一斉《いっせい》にラマコスに襲いかかった。
ラマコスは不穏な気配にふりかえったが、もう遅い。胴体をわしづかみにされ、天井近くまでもちあげられた。
「うわあっ!」
影たちは、奪いあうようにラマコスに手をのばした。
「なにしてるの? 放しなさい!」
アドリエンヌは拳《こぶし》をふりまわして、影たちを追い払おうとした。だが、身軽な彼らはすいすいと彼女をよけて逃げまわり、どうしてもラマコスを放そうとしない。
しかし、ラマコスとて魔術師だ。やられっぱなしではいなかった。影たちの手にもみくちゃにされながらも、懸命《けんめい》に魔法の杖をふるう。ところが、杖の先から放たれた衝撃波は、実体のない影たちには通用しなかった。あっけなく彼らの体を素通りし、かわりに書棚《しょだな》を直撃した。と、本が吹っ飛んで散らばり、台の上の標本を片端からなぎ倒した。
アドリエンヌは、真っ青になって悲鳴をあげた。
「やめなさい―――いっ!!」
と、そのときだ。
「なにをしている!?」
実験室の真ん中でまばゆい光がはじけ、ドナティアン・シャルルがあらわれた。すると、影たちはあっという間に、ラマコスを連れて逃げ去ってしまった。
一人残されたアドリエンヌは、ぜえぜえあえぎながら訴えた。
「彼らを捕まえて! お師匠さまをさらっていったの!」
だが、ドナティアン・シャルルは動かなかった。かわりに、ゆっくりとあたりを見まわした。
彼の実験室は、いまやひどい有様になっていた。書物は床に散乱し、貴重な標本や試薬の類《たぐい》もめちゃめちゃにされ、あるものは割れて粉々になっている。
「その前に訊《き》こう。ここでなにをしていた?」
ドナティアン・シャルルは、異様に静かな声で言った。
アドリエンヌは口をあけたが、言い訳は思いつかなかった。実際、弁解のしようもない。彼女が押し黙ると、王子が言った。
「いや、聞くまでもないな。あの老人にそそのかされたのだろう」
「そ、そそのかされたんじゃないわ。わたしが自分から協力を申し出たのよ。だって――」
「黙れ!」
アドリエンヌは、ビクッと身を縮めた。彼女を見る王子の眼差《まなざ》しは、氷のように冷たかった。
「わたしに隠れて、二度と薄汚いこそ泥のようなまねはするな」
ドナティアン・シャルルは鋭く吐き捨てると、一瞬にして姿を消した。
[#改ページ]
――わたしに隠れて、二度と薄汚いこそ泥のようなまねはするな。
そう言われた瞬間、アドリエンヌは顔をひっぱたかれたような気がした。そして王子は、彼女に謝る暇すらあたえてくれず、その場から消えてしまった。
アドリエンヌは打ちのめされ、呆然《ぼうぜん》とその場に立ち尽くした。
まさか、ドナティアン・シャルルがあれほど激昂《げっこう》するなんて、夢にも思わなかった。
だが、確かに自分が悪かったのだ。たとえどんな大義名分《たいぎめいぶん》があったとしても、勝手に彼の部屋を調べる権利など、アドリエンヌにはない。どれほど時間がかかっても、根気よく彼を説得すべきだったのだと、今なら思う。
以前、アドリエンヌが不注意で書庫を燃やしてしまったとき、王子は一言も彼女をとがめなかった。だが、今回は――
アドリエンヌは唇を噛《か》んだ。
馬鹿ね、わたしったら。本当に馬鹿だわ。
調子にのりすぎていたのだ。なにをしても、きっと彼は許してくれると思って。
王子はわたしを愛しているわけじゃない。そのことに不満ばかりつのらせていたけれど、少なくとも彼は彼なりにやさしくしてくれていた。彼から逃げて水晶の中に隠れたときも、鏡の部屋からほかの世界に迷い込んでしまったときも、彼は許してくれた。なのに、その彼の気持ちを踏みにじるようなまねをしてしまうなんて。
彼が言ったとおりだ。自分が最低の人間になったような気がした。
アドリエンヌはどっぷりと自己|嫌悪《けんお》に陥《おちい》って、もうどうしていいかわからなくなった。
――どうした? 死にそうな顔をしているが。
突然、頭の中で声が聞こえ、アドリエンヌはハッとわれにかえった。
いつの間にか、実験室を出て、中庭をふらふらと歩いていた。あたりを見まわすと、鍛冶場《かじば》の屋根の上にゲルガランの姿が見えた。とたん、アドリエンヌの目から涙があふれだした。
ゲルガランは首をかしげ、アドリエンヌのそばに降りてきた。そして、彼女が泣きやむまで、黙って待っていてくれた。
しばらくすると、アドリエンヌはハンカチをとりだして鼻をかんだ。赤くなった目をあげて、恥ずかしそうに言う。
「ごめんなさい。呆《あき》れたでしょうね、子供みたいで」
――行動に規範をもうけるのは、人間だけだ。
ゲルガランは、いつもの冷静な声で言った。
「……どういう意味?」
――自然な感情をさまたげる必要はない。察するに、また王子と一悶着《ひともんちゃく》あったらしいが。
「あなたって、まるで人の心が読めるみたいね。そうよ。ちょっと……いえ、実は、大失敗しちゃったの」
アドリエンヌは打ち明け、実験室での一幕について話した。
「わたしが悪いのはわかってるの。それについては、ものすごく反省してるわ。わからないのは――影たちのことよ。どうして彼らはお師匠《ししょう》さまを襲ったりしたのかしら?」
すると、ゲルガランはあっさりこたえた。
――彼らはラマコス師を脅威《きょうい》と見なしたのだろう。
「脅威?」
アドリエンヌはおどろいた。
「どうして? だって、お師匠さまは彼らを解放してやるって約束してくださったのよ。わたしの説明が悪かったのかしら?」
――誤解があるようだ。彼らは自ら望んでここにいる。ラマコス師のように、王子に魂《たましい》を縛《しば》られているわけではない。
アドリエンヌは眉《まゆ》をひそめた。
「それ、どういうこと?」
――よみがえりの秘術を断念したとき、王子はあの魂たちも解き放とうとしたのだ。しかし、この世に未練のある一部の者はそれを望まなかった。彼らは、旅立とうと思えばいつでも旅立てる。王子が縛っているわけではない。
アドリエンヌには、それでもまだ納得がいかなかった。
「でも、それなら、彼らはどこにでも行けるはずでしょう? どうしてこのお城にとどまっているの?」
――彼らの存在を認め得る者が、王子しかいないからだ。そしてまた、ここには彼らにも役立てる仕事があるからだろう。
「……誰かの役に立つことで認められたいって気持ちは、わたしにもよくわかる。そうでないと、生きてる意味がないような気がしてくるの。すごく不安になるのよ。彼らもきっと、そうなのね」
そして、少し考え、また言った。
「でも、ねえ。だとすると、なおさら納得がいかないんだけど。王子は幽霊たちを解き放とうとした。なのに、どうしてお師匠さまはだめなの?」
――ラマコス師は特異な存在だ。
「魔術師だから? だったら、少なくとも、もっと敬意を払うべきなんじゃない? どうして、王子があんなに冷たい態度をとるのか、理解できないの。彼は自分を破門したお師匠さまを恨《うら》んでいるの? それとも……ほかになにか理由があるのかしら?」
――その謎《なぞ》は、自分で解くがいい。
「え?」
――自分で答えを見つけることだ。わたしの口出しすることではない。
アドリエンヌは、ぷうっとふくれた。
「あなたって、ときどきとっても無責任になるわよね」
――当然だ。わたしには負うべき責任などなにもない。王子への義務以外には。
「ああ、そうでしたわね。あなたは王子の使い魔だったんだわ。でも、ラマコス師をさがす手伝いくらい、してくれてもいいでしょ? 影たちにさらわれちゃったの。あれからどうなったか、心配で」
――先刻見たときは、厨房《ちゅうぼう》で暴れていた。
アドリエンヌは唖然《あぜん》とした。
「見たときはって――助けてあげなかったの?」
――彼は大魔術師だ。わたしの助けなど必要ない。
「信じられない! ほんとにもう、薄情なんだから!」
戸口から厨房をのぞくと、そこはがらんとして静まりかえっていた。ゲルガランはここでラマコス師が暴れていたと言ったが、それらしい痕跡はない。食器棚《しょっきだな》も作業台の上も、いつもどおりに整然としている。もう日が昇っているから、影たちが見えないのは当然のことだが、ラマコスの姿も見つからないのに、アドリエンヌはがっかりした。
「お師匠さま!」
念のため、声を張りあげてラマコスの名を呼んでみた。
「お師匠さま、いらっしゃいますか?」
すると、
「おう、娘か。こっちじゃ、こっちじゃ」
どこからか、ラマコスの声がした。だが、やはり姿はどこにもない。
アドリエンヌはきょろきょろしながら、厨房の中を歩きまわった。相手が小さいのはわかっているから、流しや戸棚の中までのぞいてみる。
「かまどの横を見てみい。壁の下のほうに、ネズミの開けた穴があるじゃろ?」
アドリエンヌは、言われた場所に目をやった。壁の漆喰《しっくい》が剥《は》がれ落ち、亀裂《きれつ》ができているところがある。彼女はその場に這《は》いつくばり、頭を低くかたむけて隙間《すきま》をのぞいた。なるほど、穴が開いていた。奥は真っ暗でなにも見えない。しかし、ラマコスの声はそこから聞こえてくるようだ。
「なんとか連中から逃れて隠れたんじゃが、腰が痛くて動けなくなっちまってなあ。おまえさん、こっちに来て手を貸してくれんか」
「えっ? そんな、無理だわ」
アドリエンヌは穴の中に手をつっこんだ。しかし、小さすぎてつっかえてしまう。
「大丈夫《だいじょうぶ》じゃ」
ラマコスが呪文《じゅもん》を唱えるのが聞こえた。すると、不思議なことが起きた。空間が膨張《ぼうちょう》しはじめたのだ。天井がぐんぐん高くなり、アドリエンヌから遠ざかっていく。そして気がつくと、ネズミの穴も巨大化して、アドリエンヌがくぐれるくらいの大きさになっていた。
「穴が大きくなったわ!」
アドリエンヌは、仰天《ぎょうてん》して叫んだ。
「おまえさんが小さくなったのじゃ」
ラマコスの声が言う。
「えっ?」
「獣《けもの》の身になってから、最初に習得しなおした魔法でな。身のまわりの物を、なにもかも自分の大きさにあわせる必要があったんじゃ。ま、人に使ったのはこれが初めてじゃが」
アドリエンヌは四つん這《ば》いになって穴をくぐった。すると、ラマコスはそこにいた。なるほど、今は自分と同じくらいの大きさだ。まるで人間があぐらをかくように、後ろ足を前に投げだしている。見れば見るほど、面白かった。身長はかわらなくても、ラマコスのほうがずっと頭が大きい。四頭身くらいで、体もずんぐりしているのだ。それに――
アドリエンヌは興味|津々《しんしん》で、ラマコスの鼻先まで顔を近づけた。
「まあ。この大きさで見ると、おヒゲがすごく長いわ!」
「妙な感心はせんでいい」
じろじろ見られて、ラマコスは迷惑そうな顔をした。
「それよりな、おまえさんに一つ頼みがあるんじゃが」
「はい」
「実は、大事な杖《つえ》をさっきの部屋に落としてきたようなんじゃ。悪いがおまえさん、行ってとってきてくれんか? あれが王子の手にわたると、いささか面倒なことになるのでな」
とたんに、アドリエンヌの顔が強張《こわば》った。ラマコスは、目ざとくそれを見てとった。
「どうした? なにかあったか?」
「あの……実は、王子にばれちゃったんです。わたしたちがしのびこんだこと」
しょんぼりして言うと、ラマコスの目が険しくなった。
「おまえさん、あやつになにかされたのか?」
「あ、いいえ、なにも!」
アドリエンヌはあわてて手をふった。ドナティアン・シャルルは自分に暴力をふるったことは一度もない。そのことだけは誤解されたくなかった。
「ただ、ひどく怒らせてしまって」
「すると、もうしのびこむのは無理かのう?」
その声に失望がにじむのを聞いて、アドリエンヌは申し訳なくなった。そもそも今回のことは、自分からやろうと言いだしたのだ。うまくいかなかったからといって、途中でラマコスをほうりだすわけにはいかない。そう思うと、突如《とつじょ》、責任感がしゃっきりと復活した。
「いえ、やってみます! ちょうどいいわ。この姿のまま行けば、きっと見つからずにこっそり入れるでしょうから」
ラマコスは、気遣わしげにアドリエンヌを見つめた。そんなふうに同情されると、ますますいたたまれない気持ちになる。彼女は無理に微笑《ほほえ》んだ。
「あの、本当に大丈夫です。杖《つえ》を拾ってくるだけのことでしょう?」
ラマコスは、ため息をついた。どのみち、ほかに方法はないのだ。
「そうか、すまんがたのむ」
ラマコス師は、アドリエンヌに浮遊マントを貸してくれた。小さな体で長距離を移動したり、階段の上り下りをするのに便利だからだ。
すりきれて柄が薄れ、汚れてもいたけれど、性能は素晴らしかった。マントをはおって、とんと床を一蹴《ひとけ》りするだけで、体がふわっと浮くのである。まるで空気のように軽くなったみたいだ。前にむかって蹴ればしばらく歩かずにすむし、真上にむかって蹴れば、苦労して階段をよじ登る必要もない。面白くて夢中になっている間に、もう実験室にたどりついていた。
運のいいことに、杖もかんたんに見つかった。戸口のすぐそばに落ちていたのだ。あまりにも小さいので、誰の目にもとまらなかったのだろう。
「さてと」
杖を拾うと、少しだけ肩の荷が下りた。あとは、これをラマコスに届けるだけだ。残る問題は――王子をどうするかだわ。
たぶん、謝りに行くべきなのだろう。だが、ふたたび拒絶されるのが怖かった。また、あの氷のような目をむけられるのが怖い。自業自得《じごうじとく》だとわかってはいるが、今度こそ嫌われてしまったかもしれないと思うと、今はまだ、その勇気はでなかった。
それにしても、この件にたいする王子の態度は、本当に腑《ふ》に落ちない。いつもの彼なら、どんなときでも泰然《たいぜん》とかまえて、めったなことでは度を失ったりしないのに。
――その謎《なぞ》は、自分で解くことだ。
ゲルガランの言葉を思い出す。
「ほんとにもう。ゲルガランったら、いつも思わせぶりばっかり」
アドリエンヌは、ブツブツとこぼした。
「でも、彼が謎≠ニいうからには、やっぱりなにかあるのよね。――ん?」
そのとき、アドリエンヌはいいことを思いついた。
「そうよ! こんなときこそ、魔法の水盤だわ」
アドリエンヌはぽんと手を打ち、さっそく中庭にむかった。
ところが、目当ての場所に行くと、水盤はとんでもなく巨大な姿になっていた。
うっかりしていたが、そうだった。今の体の大きさでは、いつものようにはいかない。水盤の中をのぞきこむには、かなり高く飛び上がらなければならないだろう。
高いところは苦手だが、この際、頑張《がんば》ることにした。大きく息をすいこみ、力いっぱい、地面を蹴《け》る。
アドリエンヌの体は勢いよく飛び上がった。ところが、そのとき横風が吹いてきて、バランスがくずれた。彼女はくるくる回転し、止まらなくなる。彼女は悲鳴をあげ、必死になって両手をバタバタ動かした。そして、どうにか水盤の縁にとりつくと、ぜいぜい息を切らしながら、その上に這《は》いあがった。
アドリエンヌは急いで呼吸を整えた後、両手をついて水の中をのぞきこんだ。
「ねえ、水盤さん。ドナティアン・シャルルとお師匠《ししょう》さまとの間になにがあったのか、教えて。彼はどうして、ラマコス師にひどい態度をとるの?」
すると、水面がゆらめき、きらきらと輝きだした。のぞきこもうとさらに身をのりだしたとき――ふたたび吹きつけてきた風で、マントが大きくひるがえった。彼女は背中を押されたようにつんのめり、頭から水盤の中に飛びこんだ。
「きゃ――」
アドリエンヌの悲鳴は、水にのみこまれて消えた。
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アドリエンヌは息苦しさにもがき、必死で手足をばたつかせた。だが、水から逃れようとあがけばあがくほど、さらに深みへとひきこまれていく。とうとう意識が遠くなりかけたとき――彼女は突然、水から解放された。そして次の瞬間、なにかやわらかいものの上にどさっと投げだされた。
アドリエンヌは、あえぎながら身を起こした。おどろいたことに、そこは絨緞《じゅうたん》の上だった。薄暗いせいであたりの様子はつかめないが、屋内にいるのはまちがいなさそうだ。
どういうことなのか、さっぱりわけがわからなかった。今の今まで、溺《おぼ》れていたはずなのに――なぜか、髪も服も、まったく濡れていない。
眉《まゆ》をひそめたとき、アドリエンヌは地面が揺れるのを感じた。地震!? 彼女は出口をもとめて、あたふたと逃げまわった。そして、やっとのことで部屋の外に飛びだしたが、とたんに今度は、腰を抜かしてひっくり返った。どすんどすんと足音を響かせながら、すぐ目の前を巨人が通りすぎていく。
アドリエンヌは呆然《ぼうぜん》として、しばらく動けなかった。だが、やがて――あれは巨人ではない、と気づいた。自分のほうが、まだ小さいままなのだ。
「……あー。びっくりした」
ひとまず胸をなでおろしたものの、しかしやはり、なにかがおかしかった。
だいたい、今の巨人は何者だろう? ドナティアン・シャルルではない。それは断言できた。彼は歩くとき、猫のように音をたてないし、物腰は洗練されている。巨人は体つきのがっしりした男で、すりきれた鹿革の靴《くつ》を履《は》き、ややガニ股《また》だった。とっさに見てとれたのはそれだけだが、知らない人間であることは間違いない。
正体を突き止めるために、アドリエンヌは巨人のあとをつけようとした。ところが、廊下《ろうか》を歩きだすと、すぐにまた地響きがして、革靴を履いた大足の集団が、今度は大挙しておしよせてきた。彼女は仰天《ぎょうてん》し、近くの部屋に逃げこんだ。
「な、なんなの? あれ」
おかしい。絶対におかしい。
この城には、そもそもドナティアン・シャルル以外の人間はいないはずだ。
「おまえは何者だ? そこでなにをしている」
突然、背後で声が聞こえ、アドリエンヌは飛び上がった。ふりかえって見上げると、戸口に黒髪の少年があらわれた。
ほっとしたことに、誰何《すいか》されたのは、自分ではなかった。その部屋には、もう一人、招かれざる客がいたのだ。少年の視線の先には、黒ずくめの老人が立っていた。
アドリエンヌは、二人を順に観察した。少年のほうは、弟のジャンと同じくらいの年齢に見えた。十四――か、十五くらい。品のある顔立ちと、刺繍《ししゅう》のほどこされた美しい胴衣《チュニック》を見れば、裕福な生まれであることはすぐにわかる。
彼が美しい緑の瞳をしていることに気づくと、アドリエンヌはにわかにドキドキしてきた。彼はあまりにも――あまりにも、ドナティアン・シャルルに似ていた。まだ子供だけれど、人を見下すような傲慢《ごうまん》な表情も、そっくりだ。いや、まだ子供なだけに、なおさら生意気そうに見える。
一方、老人はかなりの高齢のようだった。少なくとも七十は越えているにちがいない。髪もヒゲも長く、白髪まじりの灰色だ。踝《くるぶし》まである黒い長衣姿で、みすぼらしいといってもいいほど質素だが、たたずまいにはどことなく威厳を感じた。
そのとき、老人の肩のところでなにかが動いた。アドリエンヌは、思わず目をみはった。なんと、それは金色の目をしたカラスだった。
ゲルガラン!? いったい、そんなとこでなにやってるの?
つい声をあげそうになったが、すんでのところで思いなおした。あのカラスがゲルガランだとはかぎらない。同じ種の別人――いや、別鳥の可能性もある。
カラスがこちらに視線をむけたので、アドリエンヌはさっと椅子《いす》の下にもぐりこんで隠れた。間一髪《かんいっぱつ》で、気づかれなかったようだ。カラスはまた視線をもとにもどした。
少年は胡散臭《うさんくさ》そうに老人を見つめていたが、突然、その目に理解の光が浮かんだ。
「魔法使いか」
納得したようにつぶやいたあと、横柄《おうへい》に質問した。
「おまえは死者をよみがえらせることができるか?」
すると、老人は無表情のまま訊《き》きかえした。
「なぜ、そんなことに興味があるのじゃな?」
「訊いているのはぼくだ。こたえろ」
「それは禁忌《きんき》じゃよ。王子」
少年は、鼻でせせら笑った。
「誰が決めた?」
「人には踏みこんではならぬ領域もあるのじゃ」
「ふん。要するに、おまえにその力はないということだろう。ならば、さがれ。もう用はない」
「そうはいかんよ。わしは、おまえさんの父親から、おまえさんの教育係を命じられたのじゃ。本来なら、そんな面倒はごめんこうむりたいところなんじゃが、聞けばおまえさん、ひっきりなしに厄介事《やっかいごと》を起こしているそうな。ほうっておいては、まわりが迷惑じゃからのう」
「厄介事だと?」
「眠っている間に、あれこれしでかしたことがあるじゃろう?」
少年の顔に緊張が走った。老人は気づかぬふりで、さらにつづけた。
「感情が荒れると、とんでもないことが起きるな。地震のように部屋が揺れたり、雨雲を呼びよせたり。知らぬうちに人を傷つけたこともあるはずじゃ」
「ぼくのせいじゃない!」
老人は声をたてて笑った。
「もちろん、おまえさんのせいじゃとも。力を制御《せいぎょ》しきれておらんからそうなる」
少年は怒りに歯を食いしばった。
「出て行け! ぼくに教育係など必要ない」
だが、老人はのんびりと頬をなでるだけだ。
「本当にそうならいいんじゃがのう」
少年はしばらく老人をにらみつけていたが、やがてくるりときびすを返した。
「なら、好きなだけそこにいるがいい。だが、ぼくはおまえなど認めないぞ」
少年の足音が遠ざかっていくと、老人はため息をついた。
「やれやれ、厄介な役目をおおせつかったものよ。子供の相手は苦手じゃというに。先が思いやられるわい」
[#挿絵(img/bra2_133.jpg)入る]
すると、肩の上のカラスがカアと鳴いた。
「わかっておる。世継ぎの王子が闇にとらわれるようなことにでもなれば、もっと厄介《やっかい》じゃからな。わかっておるわい」
そうか! アドリエンヌは、ようやく理解した。わたし、王子の過去にまぎれこんじゃったんだわ。それともこれは、水盤のつくりだした幻の世界なのかしら?
察するに、今の場面が、ドナティアン・シャルルとラマコス師の初顔合わせだったらしい。
そう、あの老人が、リスになる前の本来のお師匠《ししょう》さまなのだ。そして、肩にとまっていたカラスは、昔のゲルガランにちがいない。
いずれにしろ、これが水盤のくれた答えなのね。なにが起こるのか、見届けなくちゃ。
納得すると、アドリエンヌは椅子《いす》の下から這《は》い出した。そして、急いで王子のあとを追いかけることにした。
だが、王宮――子供時代のドナティアン・シャルルがいるんだから、きっとそうだ――は信じられないほど広かった。いったいどこに消えてしまったのか、歩いても歩いても、王子は見つからない。アドリエンヌはとうとうくたびれ果てて、廊下《ろうか》の途中でぺたんとすわりこんだ。
しばらくそのまま休んでいると、どこからか話し声が聞こえてきた。
「さっきの黒ずくめの年寄り、いったい何者なんだね?」
「魔法使いさ。賢者ラマコスを知らないのか? 王さまが呼びなすったんだ。問題の王子のことでね」
アドリエンヌは壁にもたれていた身を起こし、あたりをきょろきょろと見まわした。
誰もいない。
だが、声はまだ聞こえていた。しかも、近い。
「はっ、今ごろやっとかい? 手遅れじゃないのかね。あたしに言わせりゃ、赤ん坊のうちになんとかすべきだったんだ。亡くなった前の王妃《おうひ》さまには申し訳ないけど、あの子は呪《のろ》われてるよ」
辛辣《しんらつ》に言い放ったのは、年配の女の声だった。
「おいおい、めったなことを言いなさんな」
肝《きも》をつぶしたように声をひそめたのは、若い男のようだ。
「だって、そうじゃないか。あの王子が生まれてからってもの、薄気味の悪いことばかり起こってさ。乳母《うば》はみんな一週間ともたずに逃げ出すし、家庭教師だって見つかりゃしない。なんだって王さまは、さっさと追い出しちまわないんだろ。どのみち、弟王子しかかわいくないふうなのに」
「そりゃあ、一応はお世継ぎだもんな」
「悪魔|憑《つ》きだよ。犬猫の死骸《しがい》を山ほど部屋にもちこんだときのこと、覚えてるかい? うー、あのときのひどい臭《にお》いったら! 中でなにやってたかなんて、考えたくもない」
「たしかになあ。世継ぎの王子が、よりによって悪魔崇――あわわ」
それから、ピタリとおしゃべりが止んだ。
アドリエンヌは頭の上に窓を見つけ、浮遊マントでそこまで飛びあがった。窓敷居に立って外をながめると、下働きらしい中年女とお仕着せを着た若い男が、見まわりに来た衛兵の横をすりぬけて、そそくさと立ち去るところだった。
はっきりと名前は出なかったが、今のはどう考えても、ドナティアン・シャルルについての噂話《うわさばなし》だ。
アドリエンヌは、怒っていいのか呆《あき》れていいのかわからず、深いため息をついた。
「子供のときから、こんなに評判が悪いなんて。ま、らしいといえばらしいけど」
アドリエンヌは、それから一日中、王宮内を探検した。はじめて目にするものばかりで面白かったが、夕方になると、せっぱつまった問題が生じてきた。空腹だ。なにしろ、朝から水以外はなにも口にしていなかったので、胃袋の要求を無視しつづけるのも限界に近づいていた。
一度は、食堂に集まる衛兵たちのおこぼれをちょうだいしようかとも考えた。しかし、彼らが大きな足でどすどす歩きまわっている中に出て行くことを思うと、ゾッとする。しょうがないので、ひとまず厨房《ちゅうぼう》に置かれた水瓶《みずがめ》のうしろに隠れ、人気《ひとけ》がなくなってから、あらためて食べ物をさがすことにした。
ところが、さすがに一日歩きまわったあとだ。アドリエンヌはヘトヘトに疲れていた。一度そこに身を落ち着けてしまうと、ものの数分で、ぐっすり眠りこんでしまった。
次に目が覚めたとき、あたりは真っ暗闇だった。アドリエンヌは、しまった、と思った。召使たちはとっくにひきあげたあとで、どこにも明かりがない。
アドリエンヌは蝋燭《ろうそく》をさがすべく、手探りで隠れ場所から這《は》いだした。しばらく、ごそごそ動きまわっていると、近くでなにかが不気味に光っているのに気づいた。丸くて、黄色い光が二つ――
獣《けもの》の目だ! アドリエンヌは硬直し、たちまち膝がガクガクふるえだした。
なんだろう? ネコ? それともネズミ? どちらであっても、今のアドリエンヌにはクマにも等しい。しかも相手は、すでにこちらの気配を察知しているらしく、ヒクヒクと鼻をうごめかしているようだ。そして――それは飛びかかってきた!
とんでもないジャンプ力に、ネコだ! とわかった。アドリエンヌは、あわてて隠れ場所をさがしたが、捕食動物のすばやさには勝てなかった。
幸か不幸か、ネコは一思いに彼女を噛《か》み殺そうとはしなかった。前足の爪で彼女のスカートをひっかけると、いたぶるようにパンチをくりだした。
「いたっ! いたたたたっ! やめっ、やめて! いたいったら!」
遊ばれているのだ。
ネコ族の習性が、これほど恨《うら》めしく思えたことはない。
アドリエンヌは、殴《なぐ》られながらも必死になってネコのヒゲをつかみ、ひっこぬけそうなほど思いっきりひっぱった。ネコはギャアッと悲鳴をあげた。と、スカートが解放されたので、しめたとばかりに逃げ出した。しかしもちろん、ネコは追いかけてきた。
そのとき、遅ればせながらに、浮遊マントの存在を思い出した。
アドリエンヌは必死に床を蹴《け》った。体がふわっと浮き上がる。
無駄《むだ》だった。ネコの脚力のほうがすごかったのだ。アドリエンヌはハエのように叩き落とされ、床に転がった。
体中が痛かったが、それでも起き上がった。あの鋭い爪で引き裂かれる恐怖を思えば、痛いなどとは言っていられない。
まわりがほとんど見えない中、アドリエンヌは死に物狂いで逃げまわった。そして、気がつくと、厨房《ちゅうぼう》の外に飛び出していた。それがわかったのは、上につづく階段の窓から、わずかに月の光が差し込んでいたからだ。
アドリエンヌは浮遊マントの力を借りて、一気に階段を駆け上がった。ネコは、すぐには追いかけてこなかった。獲物の姿を見失ったのだろう。今のうちに、どこかに隠れなければ。
二階に到達するや、目についた最初の部屋に飛びこんだ。そして、なにかにぶつかってひっくり返った。手をのばすと、カーテンのような垂れ幕がさがっていた。天蓋《てんがい》付きのベッドのようだ。
しめた! と思った。ここなら、何時間でも身をひそめていられる。
アドリエンヌは、必死にベッドによじのぼった。運のいいことに、そこは空《から》っぽだった。誰も寝ていない。おそらく、客用寝室かなにかなのだろう。彼女は枕の下にもぐりこみ、ネコが匂《にお》いを追ってきませんようにと、ふるえながら一心に祈った。
神様は助けてくれた。しばらく緊張して待っていたが、ネコはついにあらわれなかった。
アドリエンヌは心の底からほっとし、そして――そのまま眠ってしまった。
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アドリエンヌは、夢を見ていた。もの言う巨大な羊皮紙《ようひし》に、うるさくつきまとわれる夢だ。それはくるくる巻かれた状態で水盤の中から飛び出してきて、おい! と横柄《おうへい》に呼びつけてきた。アドリエンヌは気を悪くして無視したが、ドナティアン・シャルルですら平気で怒らせる相手は、なおもしつこく呼びかけてくる。その声は次第に大きくなり――
「おい、おまえ。そこの小さいの」
「――ん?」
ふっと目を開けると、そこには巨大な子供の顔があった。
「きゃあああああっ!」
アドリエンヌは悲鳴をあげた。気がつくと、よりにもよって少年ドナティアン・シャルルからスカートをつまんでもちあげられていた。彼女は焦《あせ》って手足をばたつかせたが、なにしろ宙|吊《づ》りにされているので、どこにも逃げることができない。
王子は興味|津々《しんしん》という目つきで、さらに顔を近づけてきた。子供とはいえ、あの[#「あの」に傍点]ドナティアン・シャルルが、ふつうではありえないほど至近距離に迫ってきて、心臓が爆発しそうだった。
ああ、なんてきれいな瞳なんだろう? 溺《おぼ》れそうなほど深い緑色で、よく見ると瞳孔《どうこう》のまわりは金色だ。おまけに、うわっ、睫毛《まつげ》が長い! ――いや、そんなことはどうでもいい。とにかく、とんでもなく気が動転していて、自分でもなにがなんだかわからなかった。
嘘《うそ》でしょ? いったいどうして、こんなことになっちゃったの?
しかし、王子も同じ疑問を抱いているらしい。
「なぜ、ぼくのベッドにいる? 妖精族か? おまえのような者を見たのは初めてだ」
「ちがっ、わたしは――いえあのっ」
アドリエンヌは、自分で自分の口をおさえた。本当のことを言っても、信じてもらえるはずがない。わたしはあなたの未来の恋人よ、なんて。こんな状況では、自分でも馬鹿馬鹿しいと思えてしまう。
返事に窮《きゅう》していると、王子の目が脅《おど》すように細められた。
「もし、なにかいたずらを仕掛けるつもりだったのなら――」
「ちがいますっ!」
アドリエンヌは叫び、大急ぎでそれらしい言い訳を考えた。わたしは妖精、わたしは妖精、わたしは――妖精のしそうなことってなによ!?
「ええと――ちょっと、人間のお城見物に来て、迷子《まいご》になっちゃったの。それで、疲れて居眠りしてしまって。あなたのベッドだなんて知らなかったのよ!」
それは、絶対に絶対に[#「絶対に」は本文より1段階大きな文字]嘘《うそ》じゃない。だが、信じてもらえたかどうかはわからなかった。王子の興味はすでにほかのものに移っていたからだ。
「ふん。この薄汚いものはなんだ?」
王子は、空いていたもう片方の手で、アドリエンヌの浮遊マントを剥《は》ぎとった。
「あっ、だめ!」
あわててとりもどそうとしたが、すぐに手の届かないところにもっていかれてしまった。
「返して!」
王子は、彼女のあわてぶりを面白がっているようだ。
「こんなぼろ切れがそれほど大事か? いったいなんなんだ?」
楽しそうな声色に、アドリエンヌは警戒心を呼び起こされた。
本当のことを言ったら、とりあげられてしまうかもしれない。四人も弟のいる彼女には、この年ごろの男の子たちがどれほど残酷《ざんこく》になれるか、よく知っていた。なにしろ、嬉々《きき》としてトカゲのシッポをふんづけたり、カエルを投げつけたりするのだから。
「お、おじいちゃんの形見《かたみ》なの。たたた、大切な思い出の品なのよ。だけどあなたには、なんの価値もないものだわ」
すると、王子の目がきらりと光った。
「嘘つきめ。このぼろ切れには魔法がかかっている。それくらい、ぼくにもわかるぞ」
そう言って、マントを握っていた手を広げると、それはひとりでにふわふわ浮いた。アドリエンヌは、内心でうめいた。
「ほかには、なにができる?」
「えっ?」
「おまえには、なにができると訊いているんだ」
「それって、特技のこと? ええっと、お料理は得意だけど……?」
戸惑いながらこたえると、王子は馬鹿にするように片眉《かたまゆ》をもちあげた。アドリエンヌは気を悪くして、むきになった。
「お洗濯《せんたく》とお掃除《そうじ》と繕《つくろ》いものもできるわ!」
「とぼけるな」
「とぼけてなんかいません。だったら、どんな答えを期待してたわけ?」
「知識だ。鉛《なまり》を金に変える方法、一瞬にして好きな場所に移動する方法、それから――」
「そんなの、知るはずないでしょ」
アドリエンヌは、ぴしゃりと言った。
「へえ、そうか」
気のない返事は、明らかに信じていない証拠だ。アドリエンヌは、ますます警戒した。
なによ? 性悪《しょうわる》子供王子。だったら、どうしようっていうの?
ドナティアン・シャルルは、アドリエンヌをつかんだままベッドから立ち上がった。そして、窓際に置かれていたドーム型の鳥籠《とりかご》の蓋《ふた》を開けて、彼女を中に放りこんだ。
「ちょっと――なにするのっ!?」
落とし格子《ごうし》のような蓋がガシャンと下ろされると、アドリエンヌは真っ青になった。
「出して!」
格子をつかんで、ガタガタゆらす。だが、王子はその蓋に南京錠《なんきんじょう》をかけ、彼女を完全に閉じこめてしまった。
「おまえたちの知識をすっかりぼくにさしだすなら、自由にしてやらないこともない。妖精族は不思議な力をもっていると、ものの本にはあるからな」
「そんなの、知らないって言ってるでしょ!」
だが、王子は無視して言った。
「仲間はいるのか?」
「いたらどうするの?」
アドリエンヌは訊きかえし、意地の悪い口調で付け加えた。
「わたしにこんなことして、復讐《ふくしゅう》[#「復讐」は本文より1段階大きな文字]に来るかもよ?」
脅《おど》したつもりだったが、効き目はなかった。
「願ってもない。それなら、仲間も捕まえるまでだ。番《つがい》で飼えば、数も増えるだろう」
「わたしはペットじゃないっ!」
とんでもないことになってしまった、とアドリエンヌは思った。まさか、よりにもよって、ドナティアン・シャルルに捕まってしまうなんて。
皮肉に思えるのは、今回もまた、王子はアドリエンヌ自身に関心があるわけではないということだ。最初は跡取り息子で、次は――妖精族の知識? 彼らしいといえば彼らしい。魔術のことしか頭にないのだろう。
しかしそれなら、取引材料を見つけてうまく交渉《こうしょう》すれば、ここから出してもらえるかもしれない。ここは一つ、分別《ふんべつ》と知恵を働かせることにした。
それに、落ち着きをとりもどしてよく考えてみれば、そう悪いことばかりでもない。これほど間近で堂々と、王子の行動を見守ることができるのだから。アドリエンヌは、鳥籠の底に敷かれた藁《わら》の上におとなしく腰をおろした。
子供王子の生活は、なんの意外性もなく、ほぼ想像した通りだった。ずっと部屋にこもって、難しそうな分厚《ぶあつ》い本を読んでいるか、こっそり魔術の練習をしているだけなのだ。要するに、未来のドナティアン・シャルルの日常と、呆《あき》れるほど変わらない。
ただし、一つだけ、ものすごくビックリさせられたことある。それは――
魔法がとんでもなく下手《へた》[#「とんでもなく下手」は本文より1段階大きな文字]だったことだ。
いや、ふつうの人間だったら、彼のしていることは十分、驚嘆《きょうたん》に値することだったかもしれない。だが、彼はドナティアン・シャルルなのだ。未来の大魔術師だ。
蝋燭《ろうそく》に火をつけようとして大爆発を起こしたり、瞬間移動を試みて部屋の壁に穴を開けてしまったり、失敗を数えあげると、きりがない。しかも、彼はいちいち時間をかけて呪文《じゅもん》を唱えなければ、何一つできないようなのだ。
アドリエンヌは、自分の見ているものが信じられなかった。大人になったドナティアン・シャルルは、ただ指をぱちんと鳴らしただけで、なんでも思い通りにすることができるのに。
ただし、何度失敗しても、あきらめないのはあっぱれだ。彼はその日の午前中、ずっと新しい呪文を試していて、従僕《じゅうぼく》が朝食を運んできても、見むきもしなかった。盆はテーブルの上に置かれたままで、すっかり無視されている。
一方、アドリエンヌはお腹《なか》がすいて、目がまわりそうだった。昨夜は、厨房《ちゅうぼう》でなにも見つけることができなかったからだ。彼女はとうとう、恨《うら》めしそうな声で言った。
「ねえ、あとにしたら? 食事がさめちゃうわよ」
「うるさい」
アドリエンヌはムッとした。
「あなたが食べないのは、そりゃ勝手ですけど、でも、わたしはお腹がすいたの! いつご飯をくれるのよ? 飢《う》え死にさせる気? あなたがわたしを捕まえたんだから、ちゃんと責任とりなさいよね!」
うるさく催促《さいそく》しつづけると、
「やかましいやつだ」
王子はとうとう根負けして立ち上がった。そして、アドリエンヌのいる出窓まで盆をもってくると、パンを小さくちぎって、鳥籠《とりかご》の中に押しこんだ。
アドリエンヌは、待ってましたとばかりに、パンくずにかじりついた。
「あ、おいしい」
さすがは王さまの料理人だ。焼きたてで香ばしく、中はふわふわだった。夢中になって口をもぐもぐ動かしていると、今度はチーズの欠片《かけら》もくれた。
「エールも飲むか?」
「いらない! イチゴちょうだい、イチゴ!」
アドリエンヌは、子供のように催促した。今度は、王子は気前よく全部くれた。本人は、食べることにはまるで関心がないようだ。もったいない。すごくおいしいのに。
遠慮《えんりょ》なくかぶりつくと、口いっぱいにみずみずしい甘みと酸味が広がって、思わず陶然《とうぜん》とした。
「んー、幸せ! わたし、イチゴ大好き!」
「ちびのくせに、よく食べるな」
王子は呆《あき》れ顔だ。
「だって! 昨日から、ほとんどなにも食べてなかったんだもの」
夢中でイチゴにかぶりつきながら、なんだか変な図だ、とアドリエンヌは思った。王子の手からパンくずやイチゴをもらって食べてるなんて、本当に小鳥にでもなったみたい。
そのとき、窓の外から笑い声が聞こえた。アドリエンヌは、思わず食べるのをやめてふりかえった。だが、外の様子を見ることはできなかった。王子の部屋は二階だし、庭に植えられた木々の枝が張りだして、景色をおおい隠しているからだ。
それでも、耳を澄ますと、窓の下に人の気配が近づいてくるのがわかった。数人の若い男たちの低い話し声と、かすかに聞こえる馬のいななき、それに――小さな男の子の声?
ふとドナティアン・シャルルを見ると、彼は顔を強張《こわば》らせたまま、同じようにじっと耳を澄ましているのがわかった。
「もうポニーには乗れるよ! 父上みたいな馬がいいんだ」
男の子の元気な声が聞こえた。
「おまえにはまだ早い。ポニーでしっかり練習するんだ」
そう言ったのは、堂々として深みのある、大人の男の声だ。
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「いやだ、馬がほしい! ちゃんと乗れるよ。いいでしょう? 父上」
男の子は、しきりと馬をねだっている。愛されていることを十分に知っていて、望めばなんでも叶えてもらえると信じているのがよくわかる、鼻にかかった甘え声だった。
アドリエンヌは、声の主を察した。国王とドナティアン・シャルルの弟王子――アルマン・ジュストだ。昨日、厨房《ちゅうぼう》でちらと耳にした噂話《うわさばなし》によると、王は、ドナティアン・シャルルとは母親のちがう下の息子を、目に入れても痛くないほどかわいがっているのだという。
噂は本当だったようだ。甘い父親は、とうとう根負けした。
「おとなしく言いつけを守っていれば、来年には考えてやろう。それまで我慢しなさい」
ふいにドナティアン・シャルルが立ち上がったので、アドリエンヌはハッとした。彼は黙って部屋から出て行った。
その夜、アドリエンヌは、鳥籠《とりかご》の中でぐっすりと眠りこんでいた。目が覚めたのは、どこかで低いうなり声が聞こえたからだ。はじめは、気のせいかと思った。か細くて、途切れ途切れだったから、風の音かもしれないと。だが、その声は次第にはっきりしてきて、とうとう、誰かがうめいているのだとわかった。
次には、なんだか体がゆらゆら揺れているような気がした。
不審に思っていると、窓から月明かりが差し込んできて、あたりの様子をほのかに浮かび上がらせた。とたん、彼女はぽかんと口をあけた。
部屋中のありとあらゆるものが、ふわふわと宙に浮かんでいた。書き物机も、椅子《いす》も、棚《たな》も、たくさんの書物に、羽ペンやインク壺《つぼ》まで。そして――
自分の鳥籠も同じように浮かんでいるのに気づいて、金切《かなき》り声をあげた。
「きゃあああああああああああああああああああああああっっっ!!」
王子が、がばっと跳ね起きた。するとその瞬間、すべてのものが大きな物音をたてて床に落ちた。鳥籠も衝撃とともに床に転がり、彼女はまた悲鳴をあげた。頭と腰をしたたかに打ちつけ、言葉も出ない。
と、今度は足音がどたどたと近づいてきた。今の騒ぎに気づいて、従僕《じゅうぼく》が駆けつけてきたのだ。
王子はすかさず鳥籠をつかみ、ベッドの中に放りこんで上掛けをかぶせた。
「なに――」
アドリエンヌは抗議しようとしたが、王子の声にさえぎられた。
「シッ! 静かにしろ」
扉が開き、従僕が飛びこんできた。
「王子、なにかございましたか!?」
ドナティアン・シャルルは、たった今、目を覚ましたという顔で、ゆっくりと身を起こした。そしてアドリエンヌは、そのときにできた上掛けの隙間《すきま》から、こっそり外をのぞいた。
「うるさいぞ。なにかとはなんだ?」
王子は目をすがめ、わずらわしそうに言った。
「先ほど悲鳴が――」
「そうか? ぼくにはなにも聞こえなかった。おまえの足音で目が覚めたのだ。きっと、ほかの部屋だろう」
従僕は、信じていない顔だった。束の間、黙りこみ、部屋の中に不審の目をむけた。あたりはいくらか散らかっていたが、たいていの調度《ちょうど》はもとの位置にもどっていたので、彼はなんの証拠も見つけることはできなかった。やがて、
「さようでございますか?」
一応は納得したふりをして、従僕は扉のむこうに姿を消した。
完全に立ち去ったと判断するや、王子は上掛けをはぎ、アドリエンヌを怒鳴《どな》りつけた。
「いったい、なんのつもりだ!? 真夜中に大声を出すとは――」
だが、アドリエンヌも負けずに言い返した。
「こっちが訊きたいわよ! 気がついたら、宙にふわふわ浮かんでたんだもの、おどろくに決まってるでしょ? この鳥籠だけじゃないわ、部屋中のものがみんなよ。いったい、なんなのよ?」
それを聞くと、王子の顔は凍りついた。
「ぼくのせいじゃない」
「ということは、あなたのせいなのね?」
アドリエンヌは、鋭く切り返した。
「……勝手にそうなるんだ。わざとじゃない」
「ラマコス師に相談したらいいのに」
うっかりそう言うと、険悪な目でにらまれた。
「あいつを知っているのか?」
アドリエンヌはたじろぎ、言い訳がましい口調でこたえた。
「いえ、あの、評判を聞いただけ。すごい魔術師なんですって?」
王子は、ふんと鼻を鳴らした。
「どうせ、あの女のまわし者だ。信用できるものか」
「あの女って?」
しゃべりすぎたと後悔したのか、王子は顔をしかめた。
「眠くなった。寝る。おまえもさっさと寝ろ」
王子はぶっきらぼうに言うと、アドリエンヌと鳥籠に背中をむけて、ベッドにごろんと横になった。
「……なによ? そっちが起こしたくせに」
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朝になって、明るい光のもとで見ると、アドリエンヌの体にはあちこちに青あざができていた。床に落とされたり、ベッドに投げこまれたり、鳥籠《とりかご》ごと手荒くあつかわれたせいだ。あらためて王子に文句を言いたい気分だったが、彼はもう起きてどこかに消えていた。
それにしても、昨夜は本当に肝《きも》をつぶしてしまった。今にして思うと、あれがラマコス師の言っていた、王子の厄介事《やっかいごと》≠ネのだろう。眠っている間にしでかすあれこれ≠フ一つというわけだ。それから、えーと、ほかにはなんて言ってたかしら? 感情が荒れると地震が起こるとか、雨雲を呼びよせるとか――
アドリエンヌは、ぶるっと身をふるわせた。
冗談じゃないわ! そんなことに巻きこまれたら、今度こそ本当に死んじゃうじゃない。
だが、本人にはまるで自覚がないらしい。実際、あの現象が起きていたとき、彼はうなされていたようだ。悪い夢でも見ていたのだろうか。
夜泣きやおねしょと同じようなものなのかしら? アドリエンヌは考えこんだ。弟たちがまだ小さかったとき、それでしばしば夜中に起こされたものだ。実を言えば、末弟のルイは今でもときどき、おねしょをする。もっとも、おねしょと一緒《いっしょ》にされたら、王子は相当にムッとするだろうけれど。
とにかく、なにか対策を講じなければ、とアドリエンヌは思った。夜になるたび、あんな荒っぽい目にあわされては、こっちの身がもたない。
「ほんとにもう。どうして、いつもいつもこんな目にばっかり……」
ブツブツぼやきかけたとき、ふいにうなじの毛が逆立った。なにかの気配を感じてふりかえり――たちまち、顔から血の気《け》が引いた。戸口の隙間《すきま》から、丸々と太った白いネコが入りこんできていた。
まずい! アドリエンヌは、急いで藁《わら》の中にもぐりこんで隠れた。だが、遅かった。敵はとっくに、獲物《えもの》の存在に気づいていたのだ。
太っているくせに、ネコは見事な跳躍をみせて出窓に飛びのった。そして、前足を鳥籠《とりかご》にかけ、顔を近づけてきた。格子《こうし》の隙間から、鋭い爪が伸びてくる。
アドリエンヌはパニックを起こし、鳥籠の中を逃げまわった。
「助けて! 誰か! ドナティアン・シャルル!」
必死で助けを呼ぶが、王子が帰ってくる気配はない。
ああ、もう! いちばんいて欲しいときに、どこ行ったのよ!?
ネコは鳥籠をガタガタ揺らし、勢いあまって押し倒した。アドリエンヌも横様《よこざま》に倒れ、悲鳴をあげた。そして、そのまま真っ逆さまに床の上に落ちて転がった。
幸い、下に絨緞《じゅうたん》が敷かれていたおかげで、衝撃は少なかった。だが、青あざがまた増えたことは間違いない。それに、これで危機が去ったわけではなかった。それどころか、さらなる恐怖の序章にすぎなかったのだ。
ネコはすかさず飛び降りてきて、横倒しになった鳥籠をゴロゴロ転がした。一回転、二回転、三回転――
「いやああああああああああああああああっ!」
ぐるぐる目がまわり、失神《しっしん》しそうだった。だが、ここで気絶したら命がない。アドリエンヌは歯を食いしばって耐えた。
ネコは戯《じゃ》れるように鳥籠を転がしつづけ、ついには廊下《ろうか》まで押しだした。
いったい、どこまで連れていかれるのだろう? アドリエンヌは気が気ではなかった。もし、王子以外の人間に見つかったら、今度はどんなことになるのか、想像もつかない。
「やめっ、やめて! やめなさいってば! わたしはあなたの餌《えさ》でもおもちゃでもないんだから! 本気で怒るわよっ!」
懸命《けんめい》の説得も恫喝《どうかつ》も、ネコにはまったく通用しなかった。もどかしそうにガリガリ格子をひっかき、ニャアと泣くだけだ。
皮肉なことに、アドリエンヌを閉じこめているこの牢獄《ろうごく》が、今は命を守る砦《とりで》となっていた。ここにいるかぎり、ネコは彼女に噛《か》みつくことができない。もっとも、それでも危機に変わりはないが。
と、そのとき、追いつめられたアドリエンヌの耳に、鳥の羽音が聞こえた。空耳? 倒れたまま首をめぐらすと、視界に黒い影が飛びこんできた。
カラスだった。いや、ゲルガランだ! 窓辺に止まって、羽を休めようとしている。
アドリエンヌは、すかさず叫んだ。
「ゲルガランッ! 助けてっっっ!!」
カラスは、ピクッと反応した。こちらを見て、不思議そうに首をかしげる。
「助けて! お願い! ゲルガラーンッ!」
ゲルガランは、こちらに飛んできた。すると、ネコはぱっと後ずさり、臨戦態勢に入った。体中の毛を逆立て、威嚇《いかく》する。一瞬、ネコは飛びかかりそうな気配を見せたが、ゲルガランが大きな羽を広げると、ついには怖気《おじけ》づいて退却していった。
アドリエンヌは、ほっとした。
「た、助かったわ……ありがとう……殺されるかと、思った……」
大声で叫びすぎて、息も絶え絶えになっていた。
ゲルガランは鳥籠《とりかご》の隣に着地し、心話で話しかけてきた。
――あれは王妃《おうひ》の飼い猫だ。餌《えさ》は十分にあたえられている。あなたを食べることはないと思うが。
王妃のネコ? 道理で、太っているはずだ。
「食べられなくても、きっと、いたぶり殺されてたわ……」
そう思うと、ゾッとした。今は心からネズミ族のみなさんに同情したい気持ちだ。
――ところで、あなたはわたしの名を知っているのか?
「えっ?」
アドリエンヌはギクリとした。言われてみれば、このゲルガランは自分を知らないのだ。
「あ、ああ、そうね。それはつまり、あのう……」
急いで、それらしい言い訳を考える。
「要するに、ええっと、ラ、ラマコス師が、あなたをそう呼んでいるのを聞いたの。たまたま、耳に残ってたのよ」
ゲルガランは、アドリエンヌをじっと見つめた。
――あなたは妖精族ではないな。人間の女に見える。
アドリエンヌは、またまたギクリとした。さすがにゲルガランは鋭い。
――魔法の匂《にお》いがする。世継ぎの王子があなたをこんな姿にしたのか?
「いえ、それはちがうわ。べつの魔法使いがしたことなの」
アドリエンヌは否定したが、ゲルガランは疑わしげだ。
――そんなことのできる魔術師は多くはない。
「ええ、まあ、そうかもね」
アドリエンヌは視線をそらして、なんとかこたえずにすむ方法はないものかと思った。
自分に魔法をかけたのは、ほかでもない、ゲルガランの今の主人だ。しかし、それを打ち明けるわけにはいかなかった。説明して信じてもらえる自信はなかったし、そもそも、彼らに未来のことを話していいのかどうかもわからない。これが水盤のつくりだした幻だというなら、べつにいい。だが、もしも現実の過去だったとしたら、自分の行動いかんで未来が変わってしまうかもしれないのだ。
王子に捕まったのは失敗だったが、それでもアドリエンヌは、できるだけ傍観者《ぼうかんしゃ》としての立場をつらぬくつもりでいた。
「実は、事情があって言えないの。あんまり追及しないでくれると、ありがたいんだけど……」
結局、アドリエンヌは正直に言った。ゲルガランを相手に、舌先三寸《したさきさんずん》でごまかせると考えるほど、うぬぼれてはいない。それどころか、人間の中にも、彼ほど賢い存在はいないのではないかと思う。
ゲルガランは、しばらく黙って考えていた。
――ラマコス師なら、あなたをもとにもどせると思うが。
「いえ、それはいいの!」
アドリエンヌは、あわてて断った。
「気持ちはとってもうれしいんだけど、あのー、それもいろいろと、事情があって」
今、もとの姿にもどされたら、それこそとんでもないことになってしまう。ただちに不審者として捕まり、城から追い出されてしまうだろう。小さいからこそ、誰にも気づかれず、ここにこうしていられるのだ。
せっかくの親切を断っても、ゲルガランは気を悪くはしなかった。それどころか、興味深げに目をきらめかせて言った。
――あなたは謎《なぞ》だ。
アドリエンヌは、ため息をついた。
そうでしょうとも。わたしだって、なんだかよくわからないんだもの。
「もとにもどる必要はないんだけど、ほかにお願いがあるの。ここから出るのに、ちょっと手を貸してしてもらえないかしら?」
――わたしにできることならば、協力しよう。
アドリエンヌは、ほっとした。
「ありがとう。あのね、ドナティアン・シャルルの書き物机の引き出しに、この南京錠《なんきんじょう》の鍵《かぎ》があるはずなの。それからたぶん、古くてちっちゃな青いマントも。とってきてもらえない?」
二十分後、アドリエンヌは青空の下を歩きながら、晴れ晴れとした顔でのびをしていた。
「あー、せいせいした!」
やはり、自由はいい、とつくづく思う。食べ物をもらえるのはありがたいものの、一日中、狭いところでじっとしているのは苦痛だし、なにより、プライバシーを保てないのが困りものだ。鈍感王子はまるで気づいていないようだったが、なにしろこっちは女の子なのである。いろいろと気にしないわけにはいかない。あそこでゲルガランに会えたのは、本当に幸運だった。
しかも、ゲルガランはアドリエンヌの苦境を助けてはくれても、必要以上のお節介《せっかい》を焼こうとはしなかった。彼女に鍵《かぎ》と浮遊マントをわたし、無事に鳥籠《とりかご》が開いたのを見届けると、余計なことはなにも言わずに主人のもとにもどっていった。さすがはゲルガラン、今も昔もクールだ。
アドリエンヌはその後、目的もなくぶらぶらと中庭を歩いた。彼女のいたもともとの世界は冬だったが、ここは春らしい。日差しがあたたかいし、そこかしこで色鮮やかな花々が咲き誇っているので、それがわかる。散歩に疲れてくると、アドリエンヌは草地に足を投げだして一休みした。そして、遠くを行き交う人々をぼんやりとながめた。
こうして見ると、宮廷というところは、それ自体が一つの立派な社会だと思う。ここには、アドリエンヌの田舎《いなか》の村の住民たちよりもはるかに多くの人々が暮らしていた。王とそのとりまきの貴族たちだけではない。貴族たちには、彼らの世話をする侍女《じじょ》や従僕《じゅうぼく》がそれぞれにいて、さらにその下には、侍女や従僕のために用をすます下働きの召使たちがいる。衛兵たちの数だって、相当なものだ。
これまで想像してきた王宮の姿といえば、大広間や舞踏室などのきらびやかな場所がすべてだった。しかし、実際には、厨房《ちゅうぼう》や洗濯室《せんたくしつ》や厩舎《きゅうしゃ》など、召使たちが働く場所だって、かなりの部分を占《し》めている。アドリエンヌ自身は、おしろいの匂《にお》いがぷんぷんする貴婦人たちの部屋よりも、いためたニンニクの匂いがただよう厨房にいるほうが落ち着いた。どうしたって、庶民《しょみん》以外の何者にもなれそうにない。つくづく、ドナティアン・シャルルとは身分がちがうのだと思う。
そのドナティアン・シャルルを、アドリエンヌは菜園のそばで見つけた。どんなに遠くからでも、彼の姿はすぐにわかる。まだ少年で小柄《こがら》だからとか、彼が恋する相手だからとか、いろいろ理由は説明できるだろうけれど、それだけではない気がした。彼はどことなく、ほかの人々とは違っていた。誰も近づくなと無言で警告を発しているような、張りつめた空気をまわりに感じるのだ。
大人になったドナティアン・シャルルにも、そんなところが残っていた。彼は今もまだ、外の世界との間に壁をつくっている。彼を恋しく思い、彼からやさしくされても、本当の意味で心がふれあえていないような気がするのは、そのせいなのだろう。
最後に彼と話したときのことを思い出して、アドリエンヌは、またどっぷりと落ちこんだ。
彼との関係を修復できるかどうか、今はまだ自信がない。このままこの世界にとどまっていたほうが幸せかも、とすら思う。もちろん、そんなのは臆病者の結論だけど。
アドリエンヌは立ち上がり、子供王子のあとについていくことにした。今はほかにすることがなかったし、彼がどこにむかっているのか、興味がわいたからだ。
スカートについた泥の汚れを落として歩きだしたとき、どこかで甲高《かんだか》い子供の悲鳴が聞こえた。ハッと顔をあげると、どかどかと地響きがして、信じられないほど巨大な黒い馬が、猛スピードでこちらにむかってくるところだった。
一瞬、恐怖に身がすくみ、次には泡《あわ》をくって逃げだそうとした。が、そのとき、馬の背に子供が――アルマン・ジュストがしがみついているのに気づいた。ゾッとするような悲鳴をあげているのは、彼だった。今にも振り落とされそうになっている。
ああ、なんてこと!
アドリエンヌは、瞬時に悟った。
あのわがままな子供は、父親の言いつけを守らなかったのだ。ポニーでは満足できず、無鉄砲《むてっぽう》にも一人で厩舎《きゅうしゃ》にしのびこんで、大人の馬に乗ろうとしたに違いない。
誰か助けてくれる人をさがして、アドリエンヌはあたりを見まわした。だが、折悪《おりあ》しく人影は見当たらない。
呼びに行く時間があるだろうか? それまであの子はしがみついていられるだろうか?
と、そのとき、ドナティアン・シャルルが、馬の行く手に立ちふさがった。
アドリエンヌは、凍りついた。
王子は馬の暴走を止めようとしていた。それも――魔法で!
信じられない。うまくいくはずがなかった。王子はまだ力をコントロールできない。下手《へた》をすれば、アルマン・ジュストばかりかドナティアン・シャルルまでふみつぶされて死んでしまう!
「だめっっっ!!」
アドリエンヌは、ドナティアン・シャルルを止めようと駆けだした。だが、間に合わない。彼は胸の前で両手の指先をあわせ、呪文《じゅもん》を唱えた。すると――
手のひらから白い光がほとばしり、あたりをカッ! と照らした。
馬は光に目がくらんだのか、それともなにかの見えない力が働いたのか、悲鳴をあげるようにいなないた。そして、勢いよく後ろ足で立ち上がった。
アルマン・ジュストは、もう少しで振り落とされるところだった。だが、死に物狂いで手綱をつかんで離さなかったので、馬の腹のあたりに半《なか》ばぶらさがるようなかっこうになった。それでも、落ちるのは時間の問題だ。
やがて、異変に気づいた人々が、どんどん集まってきた。口々に悲鳴があがり、あたりは騒然となった。厩舎《きゅうしゃ》係も駆けつけてきたが、ふたたび暴走をはじめた馬には、容易に近づくことができない。
馬はますますたけり狂い、ふたたびドナティアン・シャルルにむかってきた。王子はまた呪文を唱えた。だが、あの不思議な光は二度とあらわれなかった。
「ドナティアン・シャルル! 逃げて!」
アドリエンヌは叫んだ。だが、王子の耳には届いていなかった。彼は弟を助けることしか頭にないようだ。顔面蒼白になって、瀬戸際《せとぎわ》まで呪文を唱えつづけた。
暴走馬がいななき、ドナティアン・シャルルにむかって前足をふりあげた。王子はハッと息をのみ、間一髪《かんいっぱつ》で、倒れこむように蹄《ひづめ》から逃れた。と、そのとき――かろうじて馬にぶらさがっていたアルマン・ジュストの姿が、アドリエンヌの視界から消えた。
落ちた!?
アドリエンヌは、思わず目をつぶった。次に起こる残酷《ざんこく》な光景を、見る勇気がなかった。
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アドリエンヌはかたく目を閉じたまま、神様が少しでもアルマン・ジュストに慈悲《じひ》をかけてくれたことを願った。
馬のいななきと蹄の音が遠ざかっていく。人々が一斉《いっせい》に息をのみ、静かになったのがわかった。
だが、それきりだ。誰も口をひらこうとしない。
いったい、どうなったのだろう? アドリエンヌは気になってたまらず、恐る恐る目を開けた。すると――
今まで馬が暴れていた場所にラマコスが立ち、幼い王子を腕に抱いていた。どこにも血は流れていなかったし、重傷を負っている様子もない。
アドリエンヌは、ぱちくりと目をしばたたいた。
どうして? いつの間に?
馬が暴れていたとき、ラマコスの姿を見たおぼえはない。いや、そんなことを気にする余裕《よゆう》はなかったから、本当はいたのかもしれないが、しかしそれにしても――
狐《きつね》に摘《つま》まれたみたいだ。
ただ、ラマコスがアルマン・ジュストを助けたのだということはわかった。なにしろ、彼は魔法使いなのだ。馬の背から幼い王子の姿が消えたのは、振り落とされたのではなく、ラマコスが魔法で移動させたのかもしれない。
アドリエンヌは、臆病にも目をつぶったことを後悔《こうかい》した。
だが、ドナティアン・シャルルは見たのだろう。彼はまだ草地に倒れていたが、そんな自分のかっこうを気にする様子もなく、ただただ呆然《ぼうぜん》として、ラマコスを凝視《ぎょうし》している。
「アルマン・ジュスト! アルマン・ジュスト!」
悲鳴のような女の声に、アドリエンヌはハッとした。集まった人々の群れをかきわけて、美しい貴婦人が飛びだしてきた。
誰だろう? アドリエンヌは、初めて見るその女性に興味を移した。
年は二十代の後半くらい。赤いベルベットのドレスはひきずるほどに裾《すそ》が長く、頭には白いレース飾りをつけていて、いかにも身分が高そうだ。
「安心なされ。王子は無事じゃ」
ラマコスはその女性をふりかえり、おだやかに言った。
「かすり傷一つ、負ってはおらん。ま、ちいと肝《きも》をつぶして、気を失ってはおるがな。ちょうどいいお仕置きになったじゃろ」
だが、その声が耳に入らなかったかのように、彼女はラマコスの腕から幼い王子をひったくった。そして、息をしているのを確かめると、ついてきたべつの女性に医師の手配を命じた。
ああ、そうか、とアドリエンヌは思った。彼女はきっと、アルマン・ジュストの母親――つまり、今の王妃《おうひ》さまだ。そう考えると、アルマン・ジュストと顔立ちが似ている気がする。どちらも鼻筋と顎《あご》が細くて、ハッとするほど目が青い。
そして次には、堂々たる風貌《ふうぼう》の男があらわれた。国王だ、と、今度は一目でわかった。
大人になったドナティアン・シャルルに似ていたからだ。父親のほうがもっと顔がいかつく、横幅も広いけれど。
「ラマコス、なにがあったのだ?」
魔法使いはこたえようとしたが、なにを言ったにせよ、それはすべて王妃のヒステリックな金切《かなき》り声にかき消された。
「ドナティアン・シャルルのせいです! あの子がわたくしの王子に危害をくわえようとして、わざと馬を脅《おど》かしたのですわ! なんて恐ろしい! あの子は悪魔よ!」
ドナティアン・シャルルはそのときゃっと立ち上がったところだったが、その声にふりかえり、自分を指差して責める王妃を唖然《あぜん》として見やった。と、今度は国王が王子に歩みよった。彼はハッと父親に目を移した。そして、次の瞬間――
国王は手をふりあげ、いきなり王子に平手打ちをくれた。
アドリエンヌは驚愕《きょうがく》した。
国王はただの一言も言葉を発することなく、王子に背をむけた。そして、なおもわめきたてる王妃をなだめながら、従者や侍女《じじょ》たちをひきつれて立ち去った。
ドナティアン・シャルルは、一人で残された。
人々はこの光景にざわついたが、王と王妃がいなくなると、やがて、それぞれが自分の持ち場にもどっていった。
アドリエンヌは、怒りと悔《くや》しさで頭がいっぱいになった。
ひどい! ひどい、ひどい、ひどい!!
ドナティアン・シャルルは、危険を冒して弟を助けようとしたのに! なのに、王妃の言葉をうのみにして、事情も聞かずにいきなり殴《なぐ》るなんて!
国王の冷ややかな眼差《まなざ》しからは、愛情の欠片《かけら》すら見てとることができなかった。それが、なによりもショックだった。
悔しくて悲しくて、涙がぽろぽろ出てきた。
ところが、当のドナティアン・シャルルは何事もなかったような顔で、黙って歩きだした。父親は彼に一言も声をかけなかったが、彼もまた一言も弁解しなかった。
きっと、これがはじめてではないのだ、とアドリエンヌは思った。誤解され、信じてもらえないのも、冷たい眼差しをむけられるのも。
アドリエンヌは、今すぐ駆けよって、王子を抱きしめたい衝動にかられた。いつもの大きさなら、そうしていたかもしれない。だが、今は――彼の足首にまとわりつくのがせいぜいだ。
自分の無力さに唇を噛《か》みしめていたとき、ラマコスがやってきて、王子の隣にならんだ。
「まあ、よくやったな。おまえさんのようなひよっ子にしては、頑張《がんば》ったほうじゃ。もちろん、無鉄砲《むてっぽう》ではあるが」
「なんの話だ?」
ドナティアン・シャルルは刺々《とげとげ》しくかえした。
「決まっとる。おまえさんが弟を命がけで助けようとしたことよ」
すると、王子は口もとを歪《ゆが》めて笑った。
「助けようとしたわけではない。わざと脅《おど》かしてやったんだ。おまえが助けさえしなければ、もっと面白いことになったのにな」
ラマコスは微笑を浮かべた。
「まあ、そういうことにしておいてもいい。おまえさんにゃ、それが精一杯じゃろうからな」
王子は険悪な目でラマコスをにらみつけた。
「どういう意味だ?」
ラマコスは、王子の頭をぽんぽんと叩いた。王子はギョッとして、その手を払いのけた。
「なにをする!? 無礼な――」
「おまえさんの父親も、いずれ目を覚ますときがくる」
王子は一瞬、身を強張らせた。だが、
「年寄りが、くだらないたわ言を」
吐き捨てるように言うと、大股《おおまた》でラマコスのもとから離れた。
アドリエンヌは、ちょっとだけ救われた気がした。
少なくとも、ラマコスだけはわかってくれているのだ。王子の善良さも、彼が本当にやろうとしたことも。
残念なのは、王子がラマコスに心をひらこうとしないことだった。だが、王子ばかりを責められない。彼が他人を警戒するのは無理もないことで、それは彼自身のせいではないのだから。
国王は、一つだけドナティアン・シャルルに贈り物をしてくれた。ラマコスは間違いなく、王子にとっていい先生に――そして、たのもしい味方になってくれるはずだ。
アドリエンヌは、早く王子がそのことに気づいてくれるよう、心から願った。
戸口の隙間《すきま》からこっそり部屋の中をのぞくと、窓辺に立っているドナティアン・シャルルの後ろ姿が見えた。
なにをしているのだろう?
せっかくゲルガランの協力で逃げたのに、アドリエンヌはついつい王子の様子が気になって、また舞いもどってきてしまった。なんとなく、あのままほうっておけなかったのだ。
王子はもう、アドリエンヌが逃げたのに気づいていた。彼女は先刻、鳥籠《とりかご》を部屋の入り口に置いておいたのだが、それは今、もとの位置にもどされている。そして、その横に三粒のイチゴが置かれているのに気づいて、目をみはった。
王子はイチゴを食べない。というより、食べることにはほとんど興味がない。あれは、アドリエンヌのために摘《つ》んできてくれたのだ。
罪悪感に胸が痛んだ。そんなものを感じるいわれはまったくないのだが、それでも――自分まで彼を見捨てたと思われるのはたまらなかった。
気がつくと、アドリエンヌはわざと王子に聞こえるように、コホンと咳払《せきばら》いをしていた。
王子は、ハッとふりかえった。
「そのイチゴ、食べてもいいの?」
アドリエンヌは、朗《ほが》らかな口調で言った。
「逃げたのではなかったのか?」
「ちょっと散歩に行っただけ。退屈だったから」
そして、アドリエンヌは浮遊マントを利用して、出窓にぴょんと飛びのった。
王子は、なにも言わずに彼女を見つめていた。おどろいているのがわかる。
アドリエンヌはかまわず、真っ赤なイチゴにかぶりついた。
「んー、おいしい! このお城のイチゴって、今まで食べた中でいちばん甘いわ」
「やはり、おまえは魔法を使えるんだな」
ドナティアン・シャルルは、ぽつりと言った。
アドリエンヌは返事をしなかった。好きなように思わせておいたほうが、下手《へた》な嘘《うそ》をつくよりいいと思ったからだ。そして、ちらりと目を上げて王子を見た。
「捕まえないの?」
「いつでも逃げられる相手をか?」
王子は苦笑し、窓から離れた。なにをするのかと見ていると、彼は書棚《しょだな》から分厚《ぶあつ》い本をとってきて、長椅子《ながいす》にすわった。そして、もうアドリエンヌには興味をなくしたかのように、ページをめくりだした。
しかし実際には、まだこちらの一挙一動《いっきょいちどう》から意識をそらしていないのが、アドリエンヌにはわかった。その証拠に、彼女がイチゴを食べ終え、出窓の縁にすわって足をぶらぶらさせだすと、彼は不機嫌そうにこう言った。
「なにをしている? さっさと行け」
「だって、ここにいたらご飯が食べられるもの」
アドリエンヌは、わざと無邪気《むじゃき》そうにこたえた。
「仲間のところにもどらなくてもいいのか?」
「急ぐ必要はないの。王宮見物って、けっこう楽しいし。しばらく、ここにいてもいい?」
王子は、すぐにはこたえてくれなかった。あんまり返事を待たされるので、追い出されるかと思ったが、
「勝手にするがいい」
やがて彼は、ぶっきらぼうにそう言った。
それからのアドリエンヌは、食事と寝るときだけ王子の部屋にやってくる、気楽な同居人のような存在になった。そして、彼と一緒にいるときは空気のように静かにして、できるだけ邪魔をしないように心がけた。うるさくして追い出されたくなかったからだが、理由はほかにもあった。
王子はおそらく、誰かと二人で過ごすことに慣れていない。その証拠に、アドリエンヌをペットあつかいしていたときには完全に無視していたくせに、今はなんとなく彼女の言動に神経をとがらせてピリピリしているのがつたわってくる。
王子には、誰かを信頼し、他人を受け入れることを学ぶ必要があるのだと思う。だが、それは強要できることではない。彼自身が生き方を選びとらなければならないのだ。
おそらく、ラマコスも同じように考えているにちがいない。彼は王子の家庭教師として雇われたくせに、今までのところ、その職務を果たそうと心をくだいているようには見えなかった。しかし、だからといって、王子に関心をむけていないわけではない。事実はその逆だと、アドリエンヌに気づかせてくれる出来事があった。
ある夕方、アドリエンヌが王子の部屋に入ると、あたりに異臭《いしゅう》がただよっているのに気づいた。それは、ほんのかすかではあったが、アドリエンヌにはたちまち、ピン! ときた。未来の王子の実験室で嗅《か》いだことがあったからだ。それは硫黄《いおう》と、何種類かの薬草を燃やした匂《にお》いだった。
王子は、隠れてなにか[#「なにか」に傍点]をやっている。しかもそれは、よからぬ魔術に関することだ。
アドリエンヌは心配になった。積極的に過去に干渉《かんしょう》するつもりはなかったが、それでも、彼がなにをしているのか確かめておきたかった。そこで、翌日も外に出かけたふりをして、こっそり椅子《いす》の下に隠れていた。
すると、王子は案《あん》の定《じょう》、扉に閂《かんぬき》をかけ、誰も部屋に入ってこられないようにした。そして、白墨《はくぼく》で床の上に魔法陣を描き、そのまわりに蝋燭《ろうそく》を立てて火をつけた。
アドリエンヌは椅子の下で息を殺し、はらはらしながら王子のすることを見守った。
ふつうの魔法だってまだまだ下手くそなくせに、いったい、なにをしようというのだろう?
王子は、あらかじめ分厚い魔法書で確認してから、一心に呪文を唱えだした。
と、蝋燭の炎が勢いを増して、天井近くまで燃えあがった。
王子はハッと立ち上がり、困惑したような表情を浮かべた。どうやら、予想外の事態だったらしい。
炎はやがて青白く変化し、その中に人の顔を浮かびあがらせた。
アドリエンヌは身をのりだして、あっと口をあけた。彼女が見たのは、なんと、ラマコス師の顔だった。
年老いた魔法使いは、炎の中から王子に話しかけてきた。
「やめておけ。今のおまえさんに呼びだせるのは、せいぜいが低級霊ばかりじゃ。役に立たんばかりか、厄介事《やっかいごと》が増えるばかりじゃぞ」
王子はギョッとして後ずさり、「消えろ!」と叫んだ。
だが、炎はわずかに揺らいだだけで、ラマコスの顔は依然としてそこにあった。
「悪《あ》しき力を用いる者は、必ず身を滅ぼす。警告しておくぞ。くだらん望みは捨てるんじゃな。わしはこれからも、おまえさんを見張っておるぞ」
そして、炎は燃えあがったときと同じくらい唐突《とうとつ》に消えてしまった。
王子は小声で悪態をついた。そして、悔《くや》しそうに蝋燭を蹴散《けち》らした。
また夜が来た。アドリエンヌは、王子の部屋の肘掛椅子《ひじかけいす》を自分専用の寝床にしていた。そして、王子からもらったハンカチと浮遊マントが上掛けがわりだ。鳥籠《とりかご》の藁布団《わらぶとん》よりは格段に寝心地《ねごこち》がよく、ぐっすりと眠りこんでいたが、そのうち、奇妙な音で起こされた。
眠い目をこすりながら起き上がると、なぜか風を感じた。そして次の瞬間、彼女の頭の上をかすめて、なにかがものすごい勢いで飛んでいった。そして、それは壁に激突して、ガチャン! と大きな音をたてた。
たちまち、はっきりと目が覚めた。気がつくと、部屋の中で暴風が吹き荒れていた。あらゆるものがめちゃくちゃに飛び交い、激突して、割れたり砕けたりしている。
原因は王子だと、もうわかっていた。自覚があろうとなかろうと、王子がこの現象をひきおこしているのはまちがいない。
アドリエンヌは急いで浮遊マントをはおり、彼のベッドに飛び移った。
「ドナティアン・シャルル!」
声をかけたが、かえってくるのは、苦しそうなうめき声だけだ。
王子はうなされていた。まるで、悪夢から逃れようとするように、しきりに首をふっている。
「大丈夫《だいじょうぶ》、大丈夫よ」
アドリエンヌは王子の枕もとでささやいた。
「大丈夫。困ったことも、つらいことも、なんにもないわ。苦しまなくてもいいの。だって、あなたは愛されてるんだから」
彼の黒い髪に手をすべらせ、なだめるように何度も何度も言い聞かせる。
「信じないの? 本当よ。お母さんはあなたを愛してた。お師匠《ししょう》さまも、きっとあなたの力になってくれるわ。もちろん、わたしも――わたしも、あなたが大好きよ。聞こえてる? わたしは、あなたが大好きなの」
アドリエンヌは、ひとり言のようにつづけた。
「ええ、そりゃあ、あなたには直さなくちゃならない欠点がいっぱいあるけど。でも、今はまだ大目に見てあげる。だって、まだ子供なんだし。それに、たとえあなたが欠点だらけだとしても、やっぱりわたしはあなたが大好きだもの」
とりとめもなく、ただ話しつづけていると、寝息がだんだん穏やかになってきた。
アドリエンヌは子供をあやすように彼の胸を軽くたたきながら、子守唄《こもりうた》をうたいはじめた。弟たちが幼いころ、よくうたってやった唄だ。そうして、しばらくすると、いつの間にか暴風も止んでいた。
アドリエンヌは胸をなでおろした。そして、ぼんやりした月明かりの中で、王子の寝顔をつくづくとながめた。
こんなに近くでドナティアン・シャルルの顔が見られるなんて、なんだかすごく得をした気分だった。大人の彼には近よりがたい雰囲気《ふんいき》があって、恋人同士になった今でも、なれなれしくふるまうことにはためらいを感じるからだ。キスだって、彼女のほうからしたことは一度もない。
でも、今なら彼は眠っているのだから、臆せずなんでも好きなことができる。アドリエンヌは、いたずら心を刺激され、彼の頬《ほお》を人差し指でつついた。すると、
「うーん」
王子は寝ぼけたまま、その指を払いのけた。
「……かわいいかも」
なんだか、胸がキュンとなった。
「生意気でえらそーなのは昔も今も変わらないけど」
目の前で眠っている男の子は、確かに恋人の過去の姿だった。だが、同時に、弟のようにも感じた。いとおしくて、なにがあっても守ってあげたくなってしまう。
アドリエンヌは王子の頬にキスをした。
「おやすみなさい。今度はぐっすり眠ってね」
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翌朝、アドリエンヌは、王子の頭の隣で目を覚ました。彼の寝顔をのぞきこんでにんまりしているうちに、つい眠りこんでしまったらしい。起き上がってのびをすると、部屋中にものが散乱しているのに気づいた。
アドリエンヌは、ため息をついた。
そうだ、これを忘れていた。昨夜、あんなにひどいことが起こったのに、都合よくもとにもどるはずはなかった。従僕《じゅうぼく》が食事を運んでくる前に、片付けておいたほうがいいだろう。でなければ、またどんな噂《うわさ》の種にされるか、わかったものではない。
覚悟を決めて腕まくりをし、ベッドからぴょんと飛び降りた。そして、落ちているものを一つ一つ拾いあげ、あるべき場所にもどしていった。インク壺《つぼ》の破片など、割れて粉々になったものは、羽根ペンを箒《ほうき》がわりにして、掃《は》き集めた。
だが、横倒しになった椅子《いす》や小机をもとにもどすのは、彼女には無理だった。書き物机の引き出しが飛びだして、反対側の壁側に落ちているのを見つけると、今さらながらにゾッとした。昨夜の大騒ぎで命を落とさなかったなんて、われながら奇跡としか言いようがない。
アドリエンヌは、引き出しの一番奥に、布で厳重に包まれたものが入っているのに気づいた。興味をひかれ、包みを解いてみると、それは小さな肖像画《しょうぞうが》だった。描かれていたのは、美しい緑の瞳をした貴婦人だ。まだとても若く見える。二十歳《はたち》にもなっていないだろう。表情はどこか悲しげで、見ていると胸をつかれるようだ。
その女性が誰なのか、アドリエンヌにはわかった気がした。そして、今さらながらに、王子が魔法を習得しようとしている理由を思い出した。彼は、なんとかして母親をとりもどしたいのだ。たとえ、そのために魂《たましい》を売りわたすことになったとしても。
それも無理はない、と今なら思えた。彼には、愛してくれる人が誰もいないのだから。
アドリエンヌは肖像画を丁寧《ていねい》に包みなおし、また引き出しの奥にもどした。そのとき、王子が目を覚ました。
「……なにをしている?」
アドリエンヌは、ぱっと引き出しのそばから離れた。
「お掃除《そうじ》」
すました顔でこたえる。
「言ったでしょ? 得意なの」
そして、箒《ほうき》がわりの羽根ペンをかついで移動しようとしたが、掃《は》き集めたゴミにつまずき、ずべっと転んだ。
「きゃあっ!」
王子は、ぷっと小さくふきだした。
その声を聞きつけて、アドリエンヌは跳ね起きた。
空耳? ちがう。今、確かに王子が笑った。
アドリエンヌはじっと王子の顔をのぞきこんだ。今もまだ、くつろいだ表情に笑いの名残《なごり》が見える。
彼のそんな様子を見るのは、これが初めてだった。少なくとも、今の少年の彼が、苦笑や嘲笑《ちょうしょう》以外の笑みを浮かべているのを見たことはなかった。ぽかんとして見惚れていると、彼は急に眉《まゆ》をひそめた。
「どうした?」
「いえ、なんでもないわ。あいたっ!」
あわてて立ち上がり、アドリエンヌは痛みに顔をしかめた。見ると、膝《ひざ》をすりむいていた。
「怪我《けが》をしたのか? 見せてみろ」
王子はベッドから立ち上がった。
「いいわよ。やだっ!」
アドリエンヌはギクリとして逃げようとした。だが、王子はひょいと彼女の襟首《えりくび》をつかんでもちあげ、スカートをめくった。
「きゃああああああああああああああっ!」
アドリエンヌは真っ赤になって、スカートをひっぱりもどした。
「信じられない! 女の子のスカートをめくるなんて!」
すると、王子はムッとした。
「怪我を見ようとしただけだ」
「たいしたことない! すりむいただけだってば!」
「……ぼくは癒《いや》しの呪文は知らない」
後ろめたそうな声で言われ、アドリエンヌはおどろいた。そうした分野に彼が関心をもっていないのは、とっくに知っている。大人のドナティアン・シャルルは、しばしば自分でそう言うからだ。しかし、彼がそのことを恥じているとは思わなかった。
「いいわよ、べつに。このくらいなら、ほっといても治るもの」
「だが、掃除《そうじ》ならぼくにもできる」
そして、王子は呪文を唱えた。すると、アドリエンヌのやり残した仕事は、ものの数秒で片付いてしまった。
アドリエンヌは感心した。
「へえ、うまくできたわね」
いつも失敗ばかりしてるくせに、とつづけるのはやめておいた。本当は、それがいちばん意外だったのだが。
もっとも、せっかく気を遣って黙っていたのに、王子はアドリエンヌの表情を読んでしまったようだ。不機嫌そうに顔をそむけ、ぼそりと言った。
「よく使うからだ」
つまり、昨夜の大荒れもめずらしいことじゃないってわけ?
やっぱり、ラマコス師に相談すれば? と言いたいのを、アドリエンヌは一生|懸命《けんめい》こらえた。
言ったらたぶん、彼はますます意固地《いこじ》になる。自分の命があるうちに、彼がその気になってくれるのを願うしかない。
王子はその日、手早く朝食をすませると、一人で身支度《みじたく》をはじめた。といっても、彼はいつも従僕《じゅうぼく》の手を借りずに着替えているので、そのこと自体は、とくにめずらしくもない。いつもと様子がちがっていたのは、彼がわざわざ地味な色の上着に取り替え、ベルトに短剣と革袋を吊《つ》り下げたことだ。
「どこか行くの?」
アドリエンヌが訊《たず》ねると、王子はそっけない口調でこたえた。
「街だ」
とたんに、好奇心がふくれあがった。
「わたしも行きたい!」
すると、王子は迷惑そうに顔をしかめた。アドリエンヌはたじろいだが、遠慮《えんりょ》しながらも、もう一度だけ訊《き》いてみた。
「……ついてっちゃダメ?」
王子はため息をついた。
「いいだろう。だが、静かにしていろよ」
王子は上着のボタンをいくつかはずし、アドリエンヌをもちあげて自分のふところに入れた。だが、そこはあまりおさまりのいい場所ではなかった。足もとが不安定で、まっすぐ立つのが難しい。アドリエンヌはさっそく足を滑らせてずるずると沈みこみ、王子のお腹《なか》のあたりで丸まってしまった。だが、革のベルトに上着の内側から足をかければいいのに気づくと、王子のシャツをつかんで姿勢をもどした。
「もぞもぞ動くな」
頭の上から王子の文句が聞こえた。
「そんな、こと、いったって――」
アドリエンヌはふうふう言いながら、苦心してまた胸もとまで這《は》いあがった。ようやく外に顔を出すと、今度はずり落ちないように、しっかり王子の上着につかまる。
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姿勢を保つのはたいへんだが、それでも、こうして王子にぴったりくっついているのは気に入った。体温がつたわってあたたかいし、安心できる。親鳥に守られている雛《ひな》みたいな気分だ。
王子は部屋を出ると、歩いて表門にむかった。従僕《じゅうぼく》に馬車を用意させることはなかったし、どこへ行くと告げることもなかった。もともと召使たちは彼を恐れていて、呼ばれるまではできるだけ避けようとしていた。だから、彼の行動にいちいち口をはさむ者はいない。
街に行くなんて、あっさり彼が言えるのは、そのせいだろう。だが、世継ぎの王子が歩いて街をぶらつくなんて、考えられない。さすがに門衛に見咎《みとが》められるのは避けられないはずだ。
そう思っていると、ドナティアン・シャルルは門を通る前に、呪文《じゅもん》を唱えた。衛兵たちは、歩いて目の前を通りすぎる王子を確かに見たにちがいないのだが、どういうわけか、誰もなにも言わなかった。
「なにをしたの?」
門を通りぬけてから、アドリエンヌは訊いた。
「認知できない魔法だ」
アドリエンヌは、ははあ、と思った。
「察するに、こういうこと、いつもやってるのね?」
掃除《そうじ》の呪文と同じ。場数をふめば上達する。
ドナティアン・シャルルは答えなかった。つまり、それが答えというわけ。とんだ不良王子だ。
王宮から一歩外に出ると、そこはもう都大路《みやこおおじ》だった。とんでもない数の馬車が往来していて、趣向を凝《こ》らしたさまざまな店の看板が、両脇にずらっとならんでいる。興味|津々《しんしん》できょろきょろしていると、王子に指で頭を押さえつけられた。
「もぞもぞするなと言ったはずだ」
「だって!」
見るなというほうが無理だ。広場には大道芸人もいるし、行き交う人々の数もものすごい。まるでお祭りみたいだった。
アドリエンヌは田舎《いなか》育ちで、村には、一度も都を見ることなく一生を終える者もたくさんいる。だから、自分が今ここにいることが信じられなかった。
もう少し広場を見ていたかったのに、王子は無情にも、さっさと人気《ひとけ》のない路地裏に入ってしまった。そして、ミトリダス商会と書かれた、小さな看板のある店の扉を開けた。すると、中からネズミのような顔をした小柄《こがら》な店主が出てきて、愛想よく声をかけてきた。
「おや。これはこれは、ぼっちゃん。いつもごひいきにあずかりまして、どうも」
どうやら、彼には王子の術が効かないらしい。それに気づいて、アドリエンヌはさっと上着の中に隠れた。
「例のものは手に入ったか?」
王子は訊いた。
「もちろん、とりよせてございます。わたくしどもは、ご依頼いただいた品を手に入れそこなったことは一度もございません」
それから足音が遠ざかり、しばらく沈黙がつづいた。アドリエンヌは王子のふところに隠れていたので、彼がなにを買いにきたのかわからなかった。だが、しばらくすると、アドリエンヌのいる狭い場所に革表紙の本がつっこまれた。いきなりぎゅうと押しつぶされて、危うく悲鳴をあげそうになった。
大きな壁のようなその本に手をふれると、背筋にゾッと寒気が走った。理由はわからないが、ひどく気味が悪かった。禍々《まがまが》しい瘴気《しょうき》のようなものを感じる。アドリエンヌは息がつまり、たまらず王子の胸もとから顔を出した。すると、受け取った金貨をかぞえていた店主は、目ざとくアドリエンヌを見つけた。
「おや、ぼっちゃん。面白いものを飼っておいでですな」
アドリエンヌは、あわててまた上着の中に隠れた。だが、今さらごまかせなかった。貪欲《どんよく》そうな灰色の目がのぞきこんでくる。
「ふうむ……妖精族ですな? めずらしい。実にめずらしい」
店主は、舌なめずりせんばかりだった。アドリエンヌは、助けを求めるように王子のシャツにしがみついた。
「ぼっちゃん、それを[#「それを」に傍点]わたしに売ってくださいませんか。そうですなあ……もしもお譲《ゆず》りいただけるなら、この金貨はそっくりお返しします。つまり、金貨二十枚の値をつけますよ」
王子は、さげすむように鼻を鳴らした。
「金などいらぬ」
「さようですか。まあ、たしかにそうかもしれませんな」
店主は、仕立てのいい王子の上着や、金のバックル付きのベルトにすばやく目を走らせて言った。
「では……べつのものと交換ということでは? 絶対に損はさせません」
そう言って、店主は奥にひっこみ、ボロボロの革表紙の本を手にもどってきた。
今度は、王子は興味を示した。
「それは?」
「公《おおやけ》にはできない禁制本で、魂《たましい》の書≠ニ呼ばれております。そうそう手に入らない、貴重なものでございますよ」
王子が息をのんだのがわかった。うわずったような声で言う。
「聞いたことがある。だが、おまえの店にあるとは思わなかった」
すると、店主は得意げに笑った。
「さる高名な魔術師の持ち物だったものが、たまたまわたくしのもとに転がりこんでまいりましてね。実は、すでに二、三、魔術師のお客さまから熱心な引き合いがございましたが、正直、手放すつもりはございませんでした。しかし、生きた妖精が手に入るなら、商《あきな》いのいい宣伝になりますからな」
アドリエンヌは、だんだん不安になってきた。
明らかに、王子はその本を欲しがっていた。心臓の鼓動が速まったのでも、それがわかる。売られたらどうしよう? そう思うと、怖かった。こんなずるそうな男からは、絶対に逃げられっこない。
「金ではだめなのか?」
王子が訊くと、店主は狡猾《こうかつ》そうな笑みを浮かべた。まるで、彼の考えなどお見通しだとでもいうように。
「だめだめ、いけません。金貨に換えられないほど、貴重なものなのですよ。ぼっちゃんがおもちのそれ[#「それ」に傍点]を見るまでは、わたくしだってこの書を手放そうなどとは夢にも思いませんでした。この書か、妖精か、どちらかです」
不安がどんどん大きくなって、アドリエンヌは叫びだしそうだった。だが、店主の注意を引くのは怖い。
「さあ、お手にとってごらんなさい。そうすれば、この書の値打ちがおわかりになるでしょう」
店主は王子に本を差し出した。
アドリエンヌは王子のシャツにしがみついたまま、ガタガタふるえだした。
王子はしばらく黙っていたが、
「こいつを手放すつもりはない」
やがて、はっきりと言った。
アドリエンヌは一瞬、頭が真っ白になった。空耳だろうか?
店主も、意外な顔をした。そして、じっと王子を見つめたあと、わざとらしい笑みを浮かべて言った。
「さようで。それはまあ、残念|至極《しごく》ですな。しかし、もしもお気が変わられたときは、ぜひご連絡ください」
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10
王子が店を後にしたとたん、アドリエンヌは全身から力がぬけるのを感じた。
「……どうして、わたしを売らなかったの?」
戸惑いながら訊ねると、王子は片眉《かたまゆ》を吊《つ》りあげた。
「売られたかったのか?」
「まさか! 冗談じゃないわ!」
あわてて叫んだ。
「でも、てっきり……」
「おまえを押しつけられたら、あとで店主から恨《うら》まれるだろうからな。なにしろ餌代《えさだい》はかかるわ、小うるさいわ――」
「わたしはペットじゃありません!」
「……そうだな」
あっさり同意されて、アドリエンヌは拍子抜《ひょうしぬ》けした。だが、王子もやっとわかってきたようだ。そう思うと、満足感がふくらんだ。
「ええ、そうですとも」
「では、なんなんだ?」
「え?」
「おまえは何者だ? なぜ、ぼくにつきまとう?」
いつになく真面目《まじめ》な口調で問われ、アドリエンヌは当惑とした。
王子はなにを疑っているんだろう? 不安になったが、
「わたしが誰かって? そうねえ……」
そぶりには出さず、気楽そうに言った。
「……友達?」
王子が身を硬くしたのがわかった。アドリエンヌはそのとき、はたと気づいた。
「そういえばあなた、友達いないの?」
少なくとも、王子の部屋に同じ年ごろの友人が出入りしているのは見たことがない。
「そのような者は必要ない」
王子は、むっつりとこたえた。
「そうかしら。友達って、いいものよ。とくに同じ年ごろの男の子と付き合うのは、あなただって楽しいと思うわ」
すると王子は、意地悪く笑った。
「楽しい? 薄笑いを顔に張りつけて、心にもないお世辞《せじ》をならべたてるような連中と付き合うのが?」
「……あらまあ」
つまり、経験がまったくないわけではないらしい。
「ええと、なにしろあなたは王子だから……その子たちも気を遣ったのかもね」
なんとなく、釈明してあげなければならないような気がした。だが、王子だって、それがわかっていないわけではないのだ。
「たしかに、ぼくに気に入られたいんだろう。あるいは、利用したいのか。そのくせ――」
王子が途中で言いやめると、アドリエンヌはつづきを促した。
「そのくせ?」
「心の中では、ぼくを死ぬほど恐れている」
そのことがどれほど彼を傷つけてきたか、アドリエンヌは察した。
「わたしはあなたが怖くないわ」
しばらくして言うと、
「ぼくに売られると思って、ふるえていた」
王子は、ぽつりと指摘した。
アドリエンヌは後ろめたさを感じた。
そうだ。たしかにあのとき、王子がそうするかもしれないと疑った。
「あなたが怖かったからじゃないの。あの男が薄気味悪かったのよ」
無駄《むだ》だと知りながら、アドリエンヌは言い訳した。だが、王子は馬鹿ではない。そんな言葉には騙《だま》されなかった。
「どちらでもいい」
ぶっきらぼうに言われて、ますます心が沈んだ。
おそらく彼は、今まで誰からも信用されたことがないのだろう。
ああ、なんてこと。とんでもない失敗をしてしまった。彼を傷つけた。
ドナティアン・シャルルのやさしさを、自分だけは知っているはずだったのに。
彼をとりまく人々は、彼を悪魔|憑《つ》きだといって恐れる。おそらくそれには、傲慢《ごうまん》で気難しい彼の性格も一役買っているだろう。だが、冷淡そうに見えるのは表面だけのこと。実際には、彼は繊細《せんさい》で傷つきやすい一面ももっていた。なぜなら――
あまりにも聡明だからだ。彼には、人の心の裏を見抜く力がある。そのせいで、誰よりも鋭く、いろいろなことを感じとってしまうのだ。
時間をもとにもどして、やり直せればいいのに。アドリエンヌは、自分の失敗を悔《く》やんだ。だが、そんなことはできるはずもなかった。
午後のまだ早い時間に、二人は王宮にもどってきた。アドリエンヌはもっと街を見てみたかったのだが、王子が許してくれなかったのだ。
理由はわかっていた。手に入れたばかりの怪しげな本に、興味|津々《しんしん》だからだ。
魔術のことはよくわからないが、アドリエンヌは不安でたまらなかった。
今、彼女と同じく王子のふところにおさまっている本が、彼のためになるはずがない。理屈ではなかった。ただ、感じるのだ。この本から発している嫌な瘴気《しょうき》を、どう彼に説明したらいいのだろう? 考えこんでいると、ふいに王子は足を止めた。
「どうしたの?」
何事かと頭を外に出すと、花壇《かだん》の脇にある散歩道を、王妃《おうひ》とラマコスがならんで歩いているのが見えた。めずらしく、王妃のそばにはお付きの侍女《じじょ》がいない。二人だけだ。
王子はいきなりアドリエンヌをつかんで、上着の外に出した。そして、草むらに彼女をひょいと降ろすと、
「ここにいろ」
そう言って、大股《おおまた》で歩きだした。
「え?」
王子は、王妃とラマコスのいる方向にむかっている。
なにをする気だろう?
「待ってよ!」
アドリエンヌは、あわててあとを追いかけた。
王妃とラマコス、そして王子は、雑木林《ぞうきばやし》のほうに入っていった。やっとのことでアドリエンヌが追いついたとき、王子は木の陰に隠れていた。そこから、王妃とラマコスの姿も見える。耳を澄ますと、やっと話し声が聞こえるくらいの距離だ。
王子が、「静かにしろ」と目で合図をよこしたので、アドリエンヌはなにも言わなかった。盗み聞きなんて褒《ほ》められた行為ではないが、王妃とラマコスが二人でなんの話をしているのか、気になったのはアドリエンヌも同じだったからだ。
王子はたぶん、ラマコスは王妃の手先だと疑っているのだろう。それに――自分を廃嫡《はいちゃく》しようとする動きがあることにも、気づいているのかもしれない。アドリエンヌは、いろんなところで人々の噂話《うわさばなし》を耳にしているし、将来、彼が都を追放されることも知っているから、今の彼の立場がひどく危ういことはわかっていた。
だからこそ、ラマコスに力になって欲しかったのだ。
だが、今、こうして王妃とラマコスが二人で会っているところを見てしまうと――
アドリエンヌの中にも、疑いが生まれていた。
未来の王子がラマコスに冷たい態度をとるのは、まさか――?
「ラマコス。聞けばそなた、ずいぶんとドナティアン・シャルルに手こずっているようですね。王から命じられた仕事を、まだ果たせていないとか」
王妃の声が聞こえて、アドリエンヌはハッとした。
「なかなか我の強い子供のようじゃ。少しばかり時間がかかるかもしれませんの」
ラマコスは、はぐらかすように答えた。
「王は、そなたならあの王子をなんとかできるとお考えだが、わたくしはそうは思いませぬ」
「ま、やってみんことには、まだなにも言えませんな」
「とぼけないでおくれ。わたくしがどれほどあの子を恐れているか、そなたなら察してくれよう」
「わしの見たところ、たいていの者が王子を恐れておるようじゃが」
「それでも、わたくしほど切実な者はおるまい」
そして、王妃は声を低くした。
「ラマコス、わたくしの心配をとりのぞいてくれたなら、望みのままに褒美《ほうび》をとらせます」
「さて。意味がわかりませんのう」
「あの呪《のろ》われた悪魔の子が、金輪際《こんりんざい》、わたくしの息子に害をおよぼすことのないようにしてほしいのです」
[#挿絵(img/bra2_201.jpg)入る]
「王子は呪われてなどおらぬ。まあ、神から特別な力を授かってはおるようじゃがな」
「神! なんと馬鹿げたことを」
王妃は声を荒げた。
「そなたも見ていたはず! 王子はあの恐ろしい力で、わたくしの息子を殺そうとしたのですよ!」
「いや、それはちがいますぞ。王子は弟君を助けようとしたのじゃ。そして、現に助けた。たしかに、不安定な力をやみくもに行使したせいで、危なっかしいことにはなりましたがのう」
「なにを言う。そなたは知らぬのですか? ドナティアン・シャルルはほかの者に怪我《けが》をさせたこともあるのです。赤ん坊のころから、それこそ数えきれぬほど――」
「わざとではない。それに、あの力はいずれ自在に操れるようになりますわい。わしはそのために王から呼ばれたのじゃから」
「その力をよからぬことに使わないと、どうして信じられるのです!?」
「信じていただかねばなるまいのう。なにしろ王子はこの国の世継ぎじゃ。たとえ王妃さまとて、めったなことは口にされんほうがよろしいぞ」
王妃は蒼白になり、わなわなとふるえだした。
「人はそなたを賢者ともてはやすが、とんだ評判倒れだこと」
王妃は吐き捨てるように言うと、ラマコスに背をむけて立ち去った。
一人残されたラマコスは、当惑げに頭をぽりぽりとかいた。
「やれやれ。困った嫁さんじゃ。ま、理解しろというほうが無理かもしらんが」
ラマコスがこちらに歩いてきたので、アドリエンヌはあわてて逃げだした。だが、王子は木の陰に立ったまま、動かなかった。今の会話に気をとられているようだ。
「王子、こっちに来るわよ! 立ち聞きしたのが、ばれちゃう! ばれちゃうったら!」
アドリエンヌは小声で注意し、身振り手振りで隠れるように促した。しかし、王子はこちらを見ていなかった。そしてとうとう、ひきかえしてくるラマコスと鉢合《はちあ》わせをした。
ラマコスは王子に気づいて足を止めたが、なにも言わなかった。おそらく、立ち聞きしていたことも、今この瞬間、察したにちがいない。
「本当に、自分で操れるようになるのか?」
王子は、ぽつりと言った。
「わしの教えることをよく聞いて練習すれば、造作《ぞうさ》もないことじゃ」
「……ならば、教えてくれ」
「そのかわり、ふところの本は没収《ぼっしゅう》しますぞ」
王子は、ハッと顔をあげた。次の瞬間、あの禍々《まがまが》しい本は、もうラマコスの手に移っていた。
「王子には王子にふさわしいやり方がある。それを学んでいただかねばの」
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11
「いいかな? 物を動かすのは、王子自身の力じゃ。呪文《じゅもん》は補助的な役割を果たすにすぎん。呪文にたよるより、己《おのれ》の力を信じることじゃ。そうすれば、いちいちそんなもんを唱えんでも、なんでも楽にできるようになる。己の力に少しでも疑いをかけてはいかんのじゃ」
ラマコスの講釈《こうしゃく》に、ドナティアン・シャルルはあからさまな疑いの目をむけた。
「半信半疑じゃな」
弟子の不満を察知して、ラマコスは片方の眉《まゆ》を吊《つ》りあげた。
「まあ、いい。納得するまで、とことん疑いぬいてみることじゃ。結局のところ、それがいちばんの早道なんじゃ。納得できんことを無理に信じる必要はない。安易に信じるのはなおさらいかん」
「おまえの言うことは矛盾《むじゅん》している!」
すると、ラマコスは王子の頭をぽかりと殴《なぐ》った。
「なんじゃ、師匠《ししょう》にむかって、その口の利《き》き方は。わしの言うことに、いささかも矛盾はないわい。理解できんおまえさんが阿呆《あほう》なだけじゃ」
「なんだと? 無礼な!」
「阿呆呼ばわりされたくなければ、ほれ、さっさと次をやらんかい。浮揚術《ふようじゅつ》くらいで手間どっとる場合じゃないぞ」
王子が人気《ひとけ》のない裏庭でラマコス師の教えをうけるのを、アドリエンヌは微笑《ほほえ》ましく見守っていた。傍《かたわ》らにはゲルガランがいて、やはり二人をながめている。
「王子はすっかり、お師匠さまになついちゃったみたいね」
アドリエンヌが話しかけると、ゲルガランはこちらをむいた。
――憎まれ口は変わらないが。
「でも、わかるわ。王子が少しずつお師匠さまに心をひらいていってるのが」
それはアドリエンヌにとって、意外ななりゆきだった。まさかドナティアン・シャルルが、あんなに素直にラマコスを受け入れるなんて、思ってもみなかったのだ。
いや、正確には、素直というのは少しちがうかもしれない。ゲルガランの言うとおり、あいかわらず生意気だし、口の利《き》き方が横柄《おうへい》なのも変わらないからだ。だが、それでも彼の中にあった根強い不信が薄れ、言動に棘《とげ》がなくなったような気がする。
少年が大人に反抗的な態度をとるのは、世間では当たり前のことだ。それがドナティアン・シャルルの問題なのではなかった。彼にとって信じられる大人が、まわりに誰もいなかったことこそが問題だったのだ。
ラマコスは今、国王が決して示してくれない関心を王子に示し、決してくれない愛情を注いでくれている。このささやかで幸せな時間が、いつまでもつづけばいいと、アドリエンヌは思う。だが、同時に、そうならないことも知っていた。
「調子はどう? 今日はなにをしたの?」
ラマコスの講義を終えて王子が部屋にもどってくると、アドリエンヌは待ちかねていたように声をかけた。
「おもしろくない」
王子は不機嫌そうに言い、脱いだ上着を長椅子《ながいす》にむかって投げつけた。
「なにが?」
「この一週間、瞑想《めいそう》、瞑想、瞑想ばかりだ」
アドリエンヌは、きょとんとした。
「それって、どんな役に立つの?」
「いい質問だ」
王子は、皮肉に言った。
「ラマコスに訊《き》いてくれ」
そして、壁に備えられた隠し戸棚から、黒い革表紙の本をとりだした。アドリエンヌは、あっと口をあけた。彼女は、それがなんであるかを知っていた。黒魔術の本だ。
実は、王子はラマコスからとりあげられた本以外にも、同じ類《たぐい》の怪しげな本を山ほど集めていた。だが、てっきり、あきらめたと思っていたのに――
「まだそんなのもってたのね? お師匠さまから禁止されてるでしょ?」
「おまえも小うるさいぞ」
王子は耳を貸そうともしない。
「そんなものに手を出したら、身を滅ぼすって言われたじゃない!」
思わず声をあげると、王子はふんと鼻を鳴らした。
「馬鹿馬鹿しい。なんの根拠がある?」
「目上の人の教えには、必ず人生の知恵が――」
王子は本を閉じてつかつかとアドリエンヌのほうにやってきた。そして身をかがめると、彼女に顔を近づけた。
「う・る・さ・い」
「まあ!」
アドリエンヌは、ぷうっと頬《ほお》をふくらませた。
「後悔《こうかい》しても知らないから!」
――王子がまだ黒魔術に惹《ひ》かれていることは、ラマコス師も知っている。
ゲルガランに相談すると、彼はあっさりとそう言った。
「そうなの? だったら、どうしてお師匠さまは注意してくれないの?」
アドリエンヌは、恨《うら》みがましく言った。ラマコスとゲルガランが悠長《ゆうちょう》にかまえているのを見ていると、自分だけが王子を心配してやきもきしているのが、なんだか腹立たしくなる。
――正しい心を育てることが先なのだ。そうすれば、いずれあんなものは馬鹿馬鹿しく思えるようになる。
「そうかしら」
――しかし得てして、正しさというのは退屈だ。だから若い王子には辛抱《しんぼう》できない。
「それって、堂々巡りなんじゃない?」
アドリエンヌは、呆《あき》れたように指摘した。ゲルガランは答えなかった。要するに、否定できないのだろう。
――一つだけ、確かなことがある。
「なに?」
――王子はいずれ、ラマコス師をしのぐ力を身につけるだろう。
「……そう」
未来のドナティアン・シャルルを知るアドリエンヌは、そのことにはおどろかなかった。
――だからラマコス師は、王子を導くことを最後の仕事に選んだのだ。
「最後って?」
――ラマコス師は高齢だ。いずれは彼方《かなた》の国に旅立つことになる。
アドリエンヌはギクリとした。
「でも……まだ先よね? だって、まだはじめたばかりだもの。王子にはまだ、お師匠さまから教わらなきゃならないことがたくさんあるはずよ」
――死は人間の宿命。ラマコス師にそれだけの時間が残されていることを祈るばかりだ。
考えれば考えるほど、アドリエンヌは不安になってきた。
この世界には干渉《かんしょう》すまいと思っていたのに、気がつくと、どうしても傍観者《ぼうかんしゃ》ではいられなくなっている自分がいる。
アドリエンヌにとって、未来はすでに起きたことだった。何一つ、避けることはできない。ラマコス師の死も、王子の追放も――
水盤は、これ以上、自分になにを見せようというのだろう?
そう、つまり、まだ彼女の見るべきなにかがあるということだ。でなければ、彼女はとっくにもとの世界にもどっているはずだから。そうでない可能性は、考えたくなかった。
考えこみながら廊下《ろうか》を歩いていると、突然、背筋に悪寒《おかん》が走った。この小さな体になってから、アドリエンヌは危険にたいして敏感になったようだ。前方から、王妃《おうひ》のブタネコがやってくるのが見えた。
顔はネコのほうにむけたまま、目だけで退路をさがした。手近に逃げこむところはなかった。一直線の通路なので、進むか、退くか、どちらかだ。しかし、背中を見せると、即座に追いかけられそうな気がした。
そして、ネコはこちらに気づいた。
「……あら。奇遇ね。こんにちは」
じりじり後ずさりながら、アドリエンヌは強張《こわば》った笑みを浮かべた。
「ごきげんいかが?」
「ニャア」
鳴きながら、ネコは近づいてくる。アドリエンヌは、また後ずさった。
「まあ、そうなの。それはよかったわ。いいお天気ですものね。外で遊んできたら?」
「ニャア」
「そう言わずに、行ったほうがいいわ。だって、ほら、ええと――」
ネコは問答無用《もんどうむよう》で飛びかかってきた。アドリエンヌもそれ以上はつべこべ言わず、さっと身をひるがえして逃げ出した。
「もうやだっっっ!!」
しかし、さすがに駆けっこではネコにかなわなかった。アドリエンヌは、またもやかんたんに捕まった。が、今度は負けずにキックとパンチをくりだして応戦した。そして、相手が警戒をおぼえたところで一瞬の隙《すき》をつき、また逃げた。と、そのとき、目の前に二人の人間があらわれた。扉を開けて、どこかに入ろうとしている。
しめた! 彼女はすばやく二人の足もとをすりぬけ、自分が先に飛びこんだ。そして、いきなり方向転換し、扉の陰に隠れた。
敵はここまで来るだろうか? そう思ったとき、ネコを叱《しか》りつける女の声が聞こえた。
「こら、お行儀《ぎょうぎ》が悪いわよ。お客様なの、あっちに行ってらっしゃい」
その声を聞いてはじめて、たった今すりぬけてきたスカートの主は王妃だったのだと気づいた。もう一人は男の足だった。誰だろう?
アドリエンヌは、扉の陰から顔をのぞかせた。すると、ネコは未練がましくこちらをにらんでいる。
「マリー、この子を連れて行っておくれ」
ネコは、新たにあらわれた侍女《じじょ》に抱きあげられ、無理やり遠くへ運ばれていった。
「た、助かった……」
アドリエンヌも、このときばかりは王妃に感謝した。そして、その場から立ち去ろうとしたが、そのとき、聞き捨てならない言葉が耳に飛びこんできた。
「心配にはおよばぬ。あの二人を始末する手はずはもう調《ととの》えてあります」
アドリエンヌは、ギクリとして足を止めた。
「しかし、もし失敗したら? ラマコスも黙ってはおりますまい」
男の声が言うと、王妃はふくみ笑いをもらした。
「証拠もなしに訴えたとて、王がおとりあげになるはずもない。第一、そうなれば、王は必ずわたくしを信じてくださる」
男も低く笑った。
「確かに」
「そもそも、王はドナティアン・シャルルを廃嫡《はいちゃく》なさるおつもりだったのですよ。ラマコスを呼んだは、王子がこれ以上の面倒を起こさぬよう、相談しようとなさったにすぎぬ。なのにあの男は、王子の幽閉《ゆうへい》に反対したばかりか、更正させるべきだとうるさく申して、いつの間にか王をまるめこんでしまったのです」
「まあ確かに、あの力は厄介《やっかい》ですからな。なんとかできるならば、そのほうがよろしいのでは?」
「馬鹿をお言い」
王妃はぴしゃりと叱《しか》りつけた。
「王子が今以上の力を身につけたらと思うと、ゾッとする。なんとしても、今のうちに始末しておかなければ」
王妃は部屋の中をせかせかと歩きまわり、窓のそばで立ち止まった。
「心配はいらぬ。事故に見せかければ、誰の不審をまねくこともない。王とて、心配の種がなくなって、むしろほっとなさるはず」
「そうなれば、万事は王妃さまの思い通りに運びましょう」
アドリエンヌは、そろそろとその場からぬけだした。そして、十分に部屋から離れると、今度は一目散に駆けだした。
「たいへんだわ! お師匠《ししょう》さまに知らせなくちゃ」
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12
アドリエンヌはゲルガランの背中に乗り、都の上空を飛んでいた。
しかし、空を飛ぶのはもちろん初めてだし、これほど高いところから地上を見下ろしたこともない。アドリエンヌはゲルガランの首にしがみついて、ガタガタふるえていた。
――寒いのか?
ゲルガランが声をかけてきた。
「う、ううん。こ、ここここ、高所恐怖症なの、き、気にしないで……」
やっとのことで答えると、いぶかるような沈黙があった。
――それなのに、わたしの背に乗せて森に連れて行けとは。いったい、なにがあった?
「ど、どうしても、急いでお師匠《ししょう》さまに知らせなくちゃ、いけないこここ、ことがあ、あるのよ。ところでよ、まだ着かないの?」
ラマコスは今日、薬草学の講義をするために、王子を森に連れていったのだった。
――まもなくだ。ところで、まだ質問に答えていない。
アドリエンヌは、ためらった。もしも王妃《おうひ》の企《たくら》みを誰かにもらせば、それはすなわち――過去に干渉《かんしょう》することになる。この瀬戸際《せとぎわ》になっても、彼女はまだ自分のしようとしていることが正しいのかどうか、自信がもてないでいた。
賢いカラスは、彼女の迷いを察した。
――あなたは謎《なぞ》が多い。この問いにも答えられないか。
ええい、もう。どうにでもなれだわ。アドリエンヌは覚悟を決めた。だって、ほっとけないんだもの、しょうがないじゃない。
「王妃さまが、ドナティアン・シャルルとお師匠さまを殺そうとしてるの!」
――なるほど。
ゲルガランの反応は、それだけだった。アドリエンヌは拍子抜《ひょうしぬ》けした。
「おどろかないの?」
――さほどでも。いかにもありそうなことだ。
「落ち着いてる場合じゃないんだってば! ありそうな[#「ありそうな」に傍点]ことじゃなくて、とめないと現実になってしまうわ。わたし、王妃さまが誰か男の人と話してるのを聞いちゃったの。事故に見せかけて殺せば、誰の不審もまねかないし、万事は思い通りにいくって。わたし、胸騒ぎがするのよ」
ううん、そうじゃない、とアドリエンヌは思った。胸騒ぎじゃない。知っている[#「知っている」に傍点]からだ。未来のゲルガランが話してくれたことを、彼女はまだ覚えていた。
――人としてのラマコス師は、五年前に死んだ。王子はその場にいあわせ……
今がそのときなのかもしれない。ラマコス師は、王妃の姦計《かんけい》にあって死ぬのかもしれない。そして、王子は――
そのとき、ゲルガランが言った。
――おかしい。
「なにが? どうしたの?」
――森が燃えている。
「えっ?」
アドリエンヌは息をのみ、勇気をふりしぼって、地上を見下ろした。
ゲルガランの言うとおりだった。たしかに、木々の密集したあたりから、煙が立ち昇っている。
「火事だわ!」
――しかし、雷が落ちるような天候ではない。それに、樵《きこり》もめったに入らぬ場所だ。
ゲルガランがほのめかしたことに、アドリエンヌはギクリとした。
「お、王妃さまが仕組んだことだと思う?」
――わからない。ラマコス師をさがさなければ。
ゲルガランは、しばらく森の上空を飛びまわった。アドリエンヌも、このときばかりは怖さを忘れ、懸命《けんめい》に二人をさがした。しかし、なにしろ遠すぎて、緑と煙以外はほとんどなにも見えない。
カラスの目はちがった。ゲルガランはやがて、二人を見つけた。
――いた。あそこだ。
そして、一気に下降した。そのスピードのものすごさに、アドリエンヌは危なく振り落とされるところだった。木々にぶつかるすれすれまで近づいて、ようやく様子がわかった。
王子とラマコスは炎にかこまれ、完全に逃げ場を失っていた。一方は険しい崖がそそり立ち、残る三方は火勢が強すぎて手がつけられない。それはあまりに不自然な状況だった。まるで、誰かが二人を狙って火をつけたかのようだ。疑惑が頭の中でとぐろを巻いたが、それより、今は二人を助けるのが先だ。
ゲルガランは、上空を何度も何度も旋回した。それでも、二人を無事に逃がすための退路は見つけられなかった。
ラマコス師は杖《つえ》をふりあげ、魔法で炎を食い止めようとしていた。だが、火勢が衰える気配はない。このままでは、焼け死ぬ前に煙にまかれてしまう。
「ゲルガラン、わたしを下ろして!」
アドリエンヌは叫んだ。だが、ゲルガランは冷静さを失ってはいなかった。
――そして? あなたも一緒《いっしょ》に死ぬつもりか。
「だって! どうにかしないと!」
――ラマコス師ならどうにかできる。われわれは待つべきだ。
たしかに、今のアドリエンヌでは、彼らの戦力にはならない。それどころか、足手まといになるだけだ。わかっていても、気が気ではなかった。炎は鎮《しず》まるどころか、どんどん勢いを増していた。黒煙がもうもうとたれこめると、視界がまったくきかなくなって、二人の姿も見えなくなった。
「時間がかかりすぎだわ!」
――たしかに。ラマコス師らしくないことだ。
ゲルガランも認めた。
そのとき、アドリエンヌは決断した。
「ゲルガラン、お願いだから、わたしを下に――」
言いかけたとき、いきなりすさまじい衝撃が彼らを襲った。それは青白いエネルギーの波だった。ラマコスがいたあたりから森全体に広がり、空気をビリビリと振動させた。
アドリエンヌはゲルガランの首にしがみつき、その衝撃に耐えた。まぶしさに目を開けていられず、息もできないほどだった。
やがて、衝撃は唐突に止んだ。アドリエンヌはあえぎながら、そろそろと目を開けた。
信じられないことに、火事はすっかりおさまっていた。今は、あちこちでぶすぶすと煙がくすぶっているだけだ。
「すごいわ!」
アドリエンヌは感嘆《かんたん》の声をあげた。
「あなたが言ったとおりね。お師匠さまってすごい!」
――ちがう。
「えっ?」
――今のエネルギーはラマコス師のものではない。
その言葉がなにを意味するのか、アドリエンヌにはわからなかった。ゲルガランはラマコスと王子をさがして地上に降りていった。そして、見つけたのは――
地面に倒れ伏すラマコスと、彼にすがりつく王子の姿だった。アドリエンヌは、心臓が止まりそうになった。
「王子! お師匠さま!」
アドリエンヌの声を聞いて、王子は弾《はじ》かれたように顔をあげた。
「ゲルガラン! 助けてくれ!」
王子のそばに着地するや、アドリエンヌはカラスの背から飛び降りた。
「なにがあったの!?」
「わからない……」
王子の顔は蒼白になっていた。
「術の途中で倒れた。息をしていない。心臓が動いていないんだ!」
――おそらく、発作《ほっさ》を起こしたのだ。
ゲルガランが言った。
「発作?」
――心臓だ。ラマコス師の持病だった。
アドリエンヌはショックをうけた。
「持病があったなんて、知らなかった……」
王子は懸命《けんめい》にラマコスを蘇生《そせい》させようとした。だが、ゲルガランはそれを止めた。
――もう無理だ、王子。
「助けられる!」
――ラマコス師は、もう彼方《かなた》の国に旅立った。
王子は激しく首をふった。
「助けられるんだ! 今なら、まだ――」
そして、打ち明けるように言った。
「ぼくは――方法を知っている」
ゲルガランは、王子の言いたいことを理解していた。
――あなたのしようとしていることは禁忌《きんき》だ、王子。
「そんなことは知るものか!」
――無駄だ。ラマコス師の体は損《そこ》なわれている。生き返っても、苦しみが長引くだけだ。彼を行かせたほうがいい。
「いやだ!」
そのとき、アドリエンヌの目に、もやのような白い光が王子の体をとりまきはじめたのが見えた。いや、それは彼自身が放っているのだった。馬の暴走を止めようとしたときと同じ、たった今、火事を消し止めたときに感じたのと同じエネルギーだった。
アドリエンヌは直感した。彼は今、やろうとしている。そして――成功する。
「だめっ!」
とっさに叫び、王子にむかって飛びつこうとしたとき――
突然、空から巨大な手があらわれ、アドリエンヌの体をわしづかみにした。
あっと叫ぶ暇もなかった。アドリエンヌは王子とゲルガランのいるところから引き離され、空にむかって上昇していった。そして次には、なぜかまわりに水を感じた。唐突《とうとつ》に息ができなくなり、彼女は苦しくなってもがいた。そして――それきり、意識がなくなった。
次に気がついたとき、アドリエンヌは仰向《あおむ》けで地面の上に横たわっていた。
誰かが、そばに立って、彼女を見下ろしている。逆光で影になっているが――
「馬鹿者め!」
いきなり怒鳴《どな》りつけられ、アドリエンヌはがばっと跳ね起きた。
「自分のしでかしたことがわかっているのか? ゲルガランが見つけなければ、そなたは溺《おぼ》れ死ぬところだったのだぞ!」
「はっ?」
すごい剣幕《けんまく》で自分を怒鳴りつけているのは、ドナティアン・シャルル――大人の[#「大人の」に傍点]ドナティアン・シャルルだった。
アドリエンヌは左右をきょろきょろと見まわした。そこは、王子の築いた城の中庭だった。いつの間にか、体の大きさも、もとにもどっている。
「嘘《うそ》っ!?」
彼女の反応は、王子をますますいらだたせたようだった。
「なにが嘘だ? この粗忽者《そこつもの》めが――」
そのとき、アドリエンヌはくしゅん! と盛大なくしゃみをした。どういうわけか、彼女は全身、ずぶ濡れになっていた。急に寒気が襲ってきて、彼女はガタガタふるえだした。
ドナティアン・シャルルは片眉《かたまゆ》をあげ、彼女の額《ひたい》に手をのばした。
「……熱があるではないか」
「え?」
たしかに、頭がふらふらした。そして、急に目の前が暗くなり、アドリエンヌはその場にばたっと倒れた。
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13
アドリエンヌは、あたたかなベッドの中で目を覚ました。だが、熱のせいか眠気のせいか、頭はまだぼんやりしている。とろんとした目を動かすと、枕もとにドナティアン・シャルルが立っていた。
「ドナティア……」
話しかけようとしたが、王子は頭ごなしにさえぎった。
「黙って寝ていろ」
「でも……」
「熱は下げたが、わたしは癒《いや》しの術は得手《えて》ではない。またぶりかえすやもしれぬ」
王子はあいかわらず不機嫌そうな顔をしている。アドリエンヌは一言だけでも謝りたかった。
「ドナティアン・シャルル、わたし――」
「黙っていろと言ったはずだ」
王子は声を荒げ、そして彼女から顔をそむけると、ひとり言のようにブツブツぼやいた。
「今そなたが口をひらくと、怒鳴りつけたくなる」
「……ごめんなさい」
アドリエンヌは、隠れるように上掛けを顔の前まで引きあげ、そして今度はすばやく言った。
「でもあの、一つだけ聞きたいの。お師匠《ししょう》さまの――」
王子は最後まで言わせなかった。
「そなたに術をかけたあの老いぼれは、まだ生きている。それを聞いているのならな」
そして、ふんと鼻を鳴らした。
「そなたが水盤に落ちてもどらなかったので、のこのことネズミの穴から這《は》いだしてきたのだ」
「そんな刺々《とげとげ》しい言い方、しなくったって……」
小さな声でかばうと、王子はいきりたった。
「言い方がなんだ! そなたを殺すところだったのだぞ? 分別《ふんべつ》を学べないなら、年などとるだけ無駄だ。いっそ、この手で絞《し》め殺し――」
ドナティアン・シャルルは唐突《とうとつ》に口を閉ざし、自らをなだめるように息をすいこんだ。感情をあらわにしたせいで、ばつの悪さを感じているらしい。
「……本気で怒ってるのね?」
アドリエンヌは、おどろいた。しかも、王子が腹を立てているのは、彼女の身を心配したからなのだ。
「……いや」
王子はむっつりと否定した。
「不愉快なだけだ」
そして、王子は再度ぶっきらぼうに「寝ろ」と命じると、部屋から出て行った。
アドリエンヌは、それから一週間、ベッドから出ることをゆるされなかった。熱がぶりかえすことはもうなかったし、三日もすると旺盛《おうせい》な食欲ももどってきたが、心配をかけた負い目もあって、ドナティアン・シャルルには逆らえなかった。
この件で今回わかったことは、王子がとんでもなく過保護で心配性《しんぱいしょう》だということだ。とくに、病人にはどう接していいかわからないらしい。アドリエンヌは、ただ風邪《かぜ》をひいて寝こんだだけなのに、彼の態度といったら、まるで重篤《じゅうとく》な伝染病患者でも見舞っているかのようだった。
もしかすると、そんな彼の態度の裏には、トラウマもあったのかもしれない。彼は幼いころに母親を亡くしているし、ラマコスの直接の死の原因も心臓|発作《ほっさ》だった。大切な人が突然、目の前で倒れ、逝ってしまう。そんな経験は、残された者の心に傷を残す。
アドリエンヌがやっとラマコスに会えたのは、寝こんで六日めのことだった。こっそり見舞いに来てくれたのだ。彼はアドリエンヌが溺《おぼ》れたことに責任を感じているらしく、いきなり頭を下げられてしまった。
「今回は、面倒をかけてすまなんだな」
「お師匠さま……」
アドリエンヌは、ラマコスの姿を見てほっとした。
そうだ。彼はあのとき死んだが、王子の魔法でこの世にとどまったのだ。
まだ生きてくれていることが、とにかくうれしくてたまらなかった。そして、はじめて、ドナティアン・シャルルの気持ちがわかったような気がした。
たとえ獣《けもの》になったとしても、そばにいて欲しかったのだ。どんな形でもいい。ただ、生きていて欲しい。あのときの王子の切ない願いが、今なら心から理解できる。
「わしは、考えをあらためた」
ラマコスはベッドのそばの肘掛椅子《ひじかけいす》によじのぼると、神妙《しんみょう》な口調で言った。
「おまえさんなら、あるいは――王子をまともな人間にできるのかもしれん。実は、ゲルガランは最初からその意見だったんじゃが、わしには今一つ信用することができなんだのじゃ。しかし、おまえさんが寝込んだとき、あやつはわしを怒鳴りつけおってな」
それを聞いて、アドリエンヌは顔をしかめた。
「まあ。お師匠さまに、またそんな失礼なことを?」
「いやいや。おまえさんを巻きこんだのは、たしかにわしが悪い。しかしな、そのときのあやつが、実に人間らしい顔をしとってな」
そしてラマコスは、今にもふきだしそうな表情を浮かべた。
「あやつは本気でおまえさんを心配し――そして、恐れておった。想像できるかな? おまえさんを失うことを、あやつは心底、怖がっておったんじゃ。いやはや。それに気づいたとき、わしがどれほど仰天《ぎょうてん》したことか」
「お師匠さま……」
「わしは、おまえさんに賭《か》けてみることにした。そしての、王にも言ってやったんじゃ。二人を引き離すことはできんとな。そんなことをすれば、王国にどんな災《わざわ》いが降りかかるか保証はできんと脅《おど》してやったわい」
一瞬、言われた意味がわからなかった。
「――は?」
戸惑って聞きかえすと、ラマコスはアドリエンヌにやさしい目をむけた。
「実はわしは、おまえさんがふせっとる間、都にもどっとったんじゃ。本来なら、わしはとうに死んどる身じゃから、あれこれ口出しをするつもりはなかったんじゃが。それでも、わしから王に、おまえさんのことを話しておく必要があると思うたもんでな」
「えええっ!?」[#「「えええっ!?」」は本文より1段階大きな文字]
アドリエンヌは、驚愕《きょうがく》して息がつまりそうになった。
「じゃ、じゃあ、王さまは、わたしのことをお知りになったんですか?」
うろたえて訊《き》くと、ラマコスからはもっととんでもない返事がもどってきた。
「いや、王はとっくにおまえさんのことは知っとったよ。前に、王子が自分で書き送っとるからのう。花嫁を見つけたと」
愕然《がくぜん》とした。
ドナティアン・シャルルが、わたしのことを?
一瞬にして、国王から執拗《しつよう》に送られてくる手紙の意味が理解できた。それを無視しつづける、王子の態度も。
二人が折り合えないのは、自分のことだったのだ。
当然だ。平民の娘との結婚を、国王が容認するはずがない。ましてドナティアン・シャルルは、次代の王にと望まれているのだから。
「……ちっとも知りませんでした。そんなこと」
今さらながらに、冷や汗のでる思いだった。
二人が和解し、ドナティアン・シャルルが都にもどることを選んだときは、黙って身をひく覚悟だった。それが優先順位として正しいはずだ。だって、王子がアドリエンヌのために望みを捨てることなんて、ありえないのだから。そう、ありえないはずだ。彼女の存在が、彼の決断を左右するなんて。
「あの、それで、王さまはわたしのことを、なんとおっしゃったんですか?」
きっと激怒したんでしょうね。当然だわ。
ラマコスは気休めでごまかしたりはしなかった。正直にこたえてくれた。
「もちろん、まだ納得はしとらんな。じゃが、心配する必要はない」
「でも――」
「あの男はそもそも、息子のことなんぞなんにもわかっておらんのじゃ。当たり前じゃよ。今まで一度としてわかろうともせんかったのじゃから。王子があの男に不信感をかかえておっても、責められんわい」
「でも! ドナティアン・シャルルはお父さんに認められたがってます。それは絶対に本当です」
アドリエンヌは訴えた。自分の存在が二人の和解を邪魔《じゃま》するなんて、あってはならないことだ。
「まあな」
ラマコスは、あっさりとそれを認めた。
「じゃが、人の心が変わるには、時間がかかる。急《せ》いてはならん。それにな、今から言うことを、おまえさんの胸にしっかり刻んでおいてほしい。あの二人が和解するためには、おまえさんの存在が不可欠なんじゃ」
「どうしてですか?」
「王子をまっとうな人間にすることができるのは、おまえさんだけだからじゃ。いいか? たとえ王位についたとしても、あやつは幸せにはなれん。たとえ父親と和解できたとしてもじゃ。あやつの隣に、おまえさんがおらんかぎりな」
「……そうでしょうか」
アドリエンヌには、とてもそうは思えなかった。
「ほれ、おまえさんのその[#「その」に傍点]疑いが、わしの心配のもとなんじゃ」
ラマコスは、じれったそうに言った。
「もう一度、はっきり言うておくぞ。この先なにがあっても、いいか? なにがあっても[#「なにがあっても」は本文より1段階大きな文字]じゃ、自分が身をひけば王子は幸せになれるなんぞという馬鹿げた考えはもっちゃいかん。どうせ、一度は考えたことがあるじゃろ?」
図星だった。なにも言えずに黙りこむと、ラマコスはため息をついた。
「あやつに必要なのは、王冠でも父親でもないんじゃ。愛を教えてくれる人間じゃよ。無条件にあやつを信頼し、なにがあっても味方になってくれる人間じゃ。おまえさんのほかに、そんな物好きがおると思うか?」
「物好き……」
アドリエンヌがつぶやくと、ラマコスは大きくうなずいた。
「そうとも。あの馬鹿モンにぴったりの物好きじゃ」
ラマコスが真顔で言うので、アドリエンヌはつい、くすっと笑わされてしまった。
それに、もう一つ気づいたことがある。王子に愛を教えてくれる人間、無条件に彼を信頼し、なにがあっても味方になってくれる人間、それは――お師匠《ししょう》さま自身のことだ。かつてのドナティアン・シャルルにとっては、ラマコスこそがそういう存在だった。
「約束してくれるか? この先なにがあっても、あやつから離れんと」
父親のようにやさしい眼差《まなざ》しをむけられて、アドリエンヌは真摯《しんし》な気持ちになった。
「わたし……ドナティアン・シャルルのために、できるかぎりのことをします。そういうお約束ならできます」
アドリエンヌは慎重に考えながら言った。ラマコスに嘘《うそ》はつきたくなかった。
王子の幸せを願うことはできる。だが、自分の幸せのために彼を犠牲《ぎせい》にすることは、絶対にしたくない。
ラマコスの不満そうな顔を見ると申し訳なくなって、アドリエンヌはもう少し譲歩《じょうほ》した。
「ドナティアン・シャルルがわたしを望んでくれるなら、彼から離れたりはしません。そして、どんなときも彼の味方になると、お約束します」
「ま、おまえさんからとりつけられる約束としては、それが精一杯かのう」
ラマコスは、ため息をついて言った。
「……だめですか?」
「わしはな、おまえさんにも幸せになってほしいんじゃ。王子がおまえさんを傷つけるようなことがあれば、わしが許す、遠慮《えんりょ》なくどやしつけてやるがいいぞ」
「あの、それなら、もうしてると思います」
恥ずかしそうに打ち明けると、ラマコスは笑った。
「ほれみい。やっぱり似合いなんじゃよ。あの馬鹿モンをどやしつけられる女子なんぞ、まあ、ちょいとおまえさんのほかには見つからんわな」
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14
その夜、アドリエンヌは寝室をぬけだし、自分からドナティアン・シャルルに会いに行った。彼は書斎《しょさい》にいた。そして、ノックの音で彼女の訪問に気づくと、いきなり扉を開けて叱《しか》りつけた。
「なんと無茶な! 体が冷えるではないか」
王子はアドリエンヌの腕をつかみ、強引に暖炉《だんろ》の前に連れていった。そして、肘掛椅子《ひじかけいす》にすわらせると、彼女の体を毛布でぐるぐる巻きにした。さすがに、これには彼女も呆《あき》れた。
「平気よ。もう風邪《かぜ》はとっくに治ってるの。あなたが大げさなだけなんだから」
王子は盛大に顔をしかめ、その意見には断じて同意できないと態度で示した。
「わたし、実はあなたにお願いがあって……」
アドリエンヌが切りだすと、王子は皮肉な口調で言った。
「そなたが病《やまい》の身でわざわざまいったからには、叶えてやらねばなるまいな。だが、くだらぬ話なら、そなたがなんと言おうと、あと一月《ひとつき》は寝室に閉じこめるぞ」
「お師匠《ししょう》さまを解放してあげて」
ドナティアン・シャルルは、顔を強張《こわば》らせた。
「そのことについて、そなたと話すつもりはない。あの老人はわたしの――」
アドリエンヌは、すばやくその先をひきとった。
「――大切な人。そうよね?」
「たわ言を」
王子は小さく吐き捨てた。
「いいえ、たわ言じゃないわ。それが真実だって、やっとわかったの。本当は、はじめからわかっていてもおかしくなかったのかもしれないけど。でも、最初はすごく仲が悪そうに見えたから……」
「あの老人がへそ曲がりだからだ」
「あなたもよ」
アドリエンヌは、笑いをこらえながら言った。すると、王子は心外そうな顔をした。
「頑固《がんこ》で尊大な男だ。いつも己《おのれ》の意見が正しいと思っている」
「それって、まさにあなたのことでもあるじゃない」
王子は、唖然《あぜん》として二の句が継げなかった。
「ねえ。認めるべきだわ。ゲルガランも言ってたけど、あなたたちって、似た者同士なのよ。そして、お互いをとても……気にかけてる[#「気にかけてる」に傍点]。あなたはお師匠さまが好きなはずよ。だって、彼はあなたに、お父さんが決してくれなかった大切なものをくれたから」
「馬鹿げた空想だ」
「じゃあ、どうしてお師匠さまを解放してあげないの? 影たちには、そうしようとしたくせに」
アドリエンヌは指摘し、王子が言いかえすより先に、また言った。
「お師匠さまに死んでほしくないからでしょう? 別れるのがつらいからよ」
そして、椅子《いす》から立ち上がると、まっすぐ王子の瞳をのぞきこんだ。
「あなたが本当はやさしい人だって、わたしは知ってる。ドナティアン・シャルル、あなた本当は、お師匠さまと別れたくないの。だから、彼の魂《たましい》をこの世につなぎとめた」
「黙って聞いておれば、勝手な世迷言《よまいごと》を」
王子は歯噛《はが》みし、突然、声を荒げた。
「わたしは誰も必要とはしていない! わたしがあんな死にぞこないの老人に執着しているなどと、二度と口にするな!」
そして、ドナティアン・シャルルはアドリエンヌに背をむけて行こうとした。彼女は両手を広げて駆けより、後ろから王子を抱きしめた。彼はビクッと身をふるわせたが、払いのけようとはしなかった。そのことに勇気を得て、彼女は言った。
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「あなたは一人じゃないわ」
「なに?」
「わたしがいる。あなたのそばにずっと。わたしじゃ、あなたのお母さんやお父さんの代わりにはならないかもしれない。でも、子供が生まれたら、あなたには家族もできるわ。このお城は今よりもにぎやかになるわよ。あなたはもう二度とひとりぼっちにはならないわ。だから、お師匠さまを解放してあげて。彼方《かなた》の国に旅立たせてあげて」
ドナティアン・シャルルは、長いこと返事をしなかった。だが、それでもアドリエンヌは待った。やがて、
「……今」
王子は、ぽつりと言った。
「え?」
「わたしの息子を、産むと申したのか?」
「ええ」
「本当だな? あとで言《げん》を違《たが》えはせぬと約束するか」
アドリエンヌは、王子の背中に頬《ほお》を押しつけたまま、微笑《ほほえ》んだ。
「あなたはとんでもなく傲慢《ごうまん》な人だけど、その気になれば、いいお父さんにもなれるわ。だから、ええ。わたしはあなたの子供を産みたい」
ドナティアン・シャルルは息をすいこみ、静かな声で言った。
「ならば……よかろう。そなたの願いを聞きとどける」
翌朝、アドリエンヌは、ドナティアン・シャルルの承諾《しょうだく》をラマコスにつたえた。
そして、その一時間後、ラマコスは晴れ晴れとした顔で、王子とアドリエンヌの待つ実験室にあらわれた。
「娘よ、世話になったの。礼を言うぞ」
ラマコスは、懇《ねんご》ろにアドリエンヌの手をとって言った。
「いいえ、そんな。当然のことしかしてません」
そして、次には渋面《じゅうめん》で王子をふりかえった。
「おまえさんに礼を言うつもりはない」
「お好きなように」
王子は冷ややかに返した。
「じゃが――」
ラマコスは、ウォッホンと咳払《せきばら》いをしてつづけた。
「最後にこれは言うておこう。おまえさんは実にしょーもない[#「しょーもない」は本文より1段階大きな文字]弟子じゃったが、運[#「運」は本文より1段階大きな文字]だけはいい。ただの偶然[#「偶然」は本文より1段階大きな文字]じゃとはいえ、上出来な嫁を見つけたことは評価してやるわい」
王子は、うんざりしたように天井を仰《あお》いだ。
「おっしゃりたいことは、それだけですか?」
「まあな。おまえさんに説教をはじめたら最後、永遠にネタが尽きんからな。その役目は未来の嫁御《よめご》にまかせるとしよう」
そして、ラマコスは自ら魔法陣の真ん中に歩いていき、そこでくるりとふりかえった。
「さあ、いつでもいいぞ」
「お師匠さま――」
アドリエンヌが名残惜《なごりお》しげに声をかけると、ラマコスは笑顔を見せた。
「また会える。おまえさんらが精一杯生きた、そのあとでな。さらばじゃ!」
ドナティアン・シャルルは、呪文《じゅもん》を唱えだした。すると、リスの体から青白い光が立ち昇った。
アドリエンヌは息をのんだ。と、リスは突然、力が抜けたように、ぱたっと床に倒れた。そして、次の瞬間――
ドーン! と天井を突き抜けるような衝撃波が彼らを襲い、たちまちあたりに煙が立ちこめた。アドリエンヌはゴホゴホと咳《せ》きこんだ。そして次には、煙のむこうからラマコスの狼狽《ろうばい》するような声が聞こえた。
「なんじゃ? どうした?」
「お師匠さま!?」
アドリエンヌはビックリして、煙を手で払った。リスはまた元気に立ち上がっていた。
「どういうこと? 失敗したの?」
アドリエンヌとラマコスは、ドナティアン・シャルルに責任追及の目をむけた。
王子は、自分の失敗が信じられないようだった。呆然《ぼうぜん》として自分の指先をながめている。
「……どうやら」
しばらく考えこんだあと、王子は言った。
「本当に呪文を忘れてしまったようだ」
ラマコスは、ぽかんと口をあけた。そして、われに返ると、地団太《じだんだ》を踏んで王子を怒鳴りつけた。
「ば、ばっかモーン!!」
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エピローグ
「そなたが結婚に同意したからには――」
ドナティアン・シャルルは、その端正な顔に罪作りなほど魅力的な笑みを浮かべて言った。
「さっそく息子をつくろうと思うが、どうか?」
たちまち、アドリエンヌは真っ赤になった。誘いかける王子の眼差《まなざ》しに、心臓がドキドキしてしまう。
「あの、それはいいんだけど。じゅ、順番があるんじゃない? たとえば、結婚式――」
しどろもどろに言いかけると、
「その通り!」[#「「その通り!」」は本文より1段階大きな文字]
二人の背後で断固とした声があがり、リスのラマコスが間に割りこんできた。長椅子《ながいす》にならんで腰を下ろしていた王子とアドリエンヌを、右と左に突き放す。
「解放の呪文《じゅもん》を思い出すのが先じゃ! でれでれ[#「でれでれ」は本文より1段階大きな文字]するのはそのあとじゃ!」
ドナティアン・シャルルは、迷惑そうにため息をついた。
「ご老体。気をきかせる≠ニいう言葉を、ごぞんじないか?」
「はん!」
ラマコスはおかしくもなさそうに笑った。
「おまえさんらにあてられ死に≠キるまで待つつもりはないわい」
そして、たちまち王子の肩までよじ登ると、強引に袖《そで》や髪をひっぱった。
「そら、立て立て。実験室まで、きりきり歩け。時間短縮のために、わしが協力してやる。おまえさんの研究成果を、すっかり見せい」
ラマコスにせっつかれ、ドナティアン・シャルルはしぶしぶ実験室にむかった。
その風変わりな師弟の姿を、アドリエンヌは呆《あき》れ顔で見送った。
「しばらく、結婚式はおあずけね」
ため息とともにつぶやくと、
――あまり残念そうには見えないが。
ゲルガランが横から指摘した。
「ええ、そう。本当は、お師匠《ししょう》さまと一緒《いっしょ》にいられるのはうれしいの。わたしもあんまり、ドナティアン・シャルルのことは責められないわ」
そして、ゲルガランのほうに身をのりだし、内緒話をするように声をひそめた。
「ところで。ねえ、どう思う? ドナティアン・シャルルは、本当に[#「本当に」に傍点]解放の呪文を忘れてしまったのかしら?」
実は、いまだにそれがひっかかっているのだ。五年前ならいざ知らず、今は完璧《かんぺき》主義のドナティアン・シャルルが、呪文を忘れたなんてことが本当にあるだろうか?
ゲルガランは、面白そうに金色の目を光らせた。
――さて。その謎《なぞ》は自分で解くことだ。
「ちょっと!」
アドリエンヌが立ち上がると、ゲルガランは逃げるように飛んでいってしまった。
「もうっ。こっちは真面目《まじめ》に訊《き》いてるのに。ゲルガランたら、いつからあんなに人が悪くなっちゃったのかしら?」
思わずぷうっとふくれたが、
「……ま、いっか」
アドリエンヌはすぐに機嫌をなおして、にっこりした。
「これからしばらく、にぎやかになりそう」
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あとがき
こんにちは、橘香《たちばな》いくのです。みなさま、元気でお過ごしでしょうか。
今回は、魔王子さまの三つめと四つめのお話です。といっても、それぞれ内容にはあんまり関わりがないので、読んでいただく順番はどうでもかまいません。ただ、この本をはじめてお手にとられた方は、既刊「魔王子さまの嫁取りの話」のほうもどうぞよろしく。ドナティアン・シャルルとアドリエンヌがいっしょに暮らしはじめた経緯がわかります。
実はこのブランデージ、タチバナの中では、何年も前から書きたいと思っていた別のお話の、セリフの中でだけ語られる国でした。そして、ドナティアン・シャルルはもともと、そのお話に登場する悪役王子だったのです。
なので、本命の主人公カップルは他にいたんですが、残念ながらいろいろあって、いまだに書くことができず。で、Cobalt 本誌に短編を、という話になったとき、ちょっとこっちの脇のストーリーでも書いてみようか、という具合にはじまったのが、「ブランデージの魔法の城」だったのでした。
とはいえ、わたくし、魔法モノにだけは手を出すまいと、長いことこのジャンルを避けておりました。だって、絶対にむいてないと思ったんですよ。たとえば、「十五少年漂流記」とか「ロビンソン・クルーソー」とか「家なき娘」とか、人間の知恵と工夫《くふう》で困難を乗り越えていくお話は大好きなんです。歴史も好きだし、政争も陰謀《いんぼう》も大好きです。しかし、魔法――? どんなふうに使ったらいいんだ、それって? わからん! と。
にもかかわらず、つい書いちゃったのは、一回こっきりの読み切りなら、そうポロを出さずにすむだろうと高《たか》をくくってたからなんですねー。ほんとのとこ。(汗)
しかし、みなさまに応援していただいたおかげで、こうして続きを書かせていただけることになりまして、気がつくと文庫も二冊目に。たいへんありがたく思うと同時に、内心ではけっこうヒヤヒヤしてたりもします。
書きたいお話は数多《あまた》あれど、どれを、いつ、どんな形で、みなさまにお届けできるかというのは、いつもながら、ほんとにわからないものです。運とタイミング次第といいますか。そういう意味では、ドナティアン・シャルルは本当に運がよろしい。
しかしですよ。主人公にするなら、彼を悪役のままにしとくわけにはまいりません。しょうがないので、悪役王子は、このドナティアン・シャルルの子孫にちがいない、ということで勝手に納得しております。
ということは? アドリエンヌには、なんとしても王子の子供を産んでもらわなければ、作者が困るわけで。わたくしタチバナは、お話の中の誰よりも誰よりも誰よりも、王子の子孫|繁栄《はんえい》を望んでいるのでありました。
で、今回のお話。「魔王子さまと鏡の部屋の秘密」は、今年の Cobalt 本誌5月号に掲載していただいた短編を加筆修正しました。「魔王子さまのお師匠の事」は書き下ろし。王子の魔法の先生ってどんな人だ? と思ったのがきっかけでした。ええ、もう、タイトルそのまんま。
しかし、フタをあけてみると――リスのラマコス師よりも、ちびアドリエンヌと子供王子のほうが目立っちゃったかもしれません。お師匠さまには、今後の活躍を期待したいところです。(王子とアドリエンヌが、このまますんなり結婚できるとは、さすがに思えませんのでねー)
というところで、そろそろ紙幅《しふく》が尽きてまいりました。ここまでお付き合いいただきまして、どうもありがとうございました。また元気でお逢《あ》いできますように。
[#地から1字上げ] 橘香いくの
〈公式ホームページ〉 http://www.saturn.dti.ne.jp/~ikuno/
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[#挿絵(img/bra2_249.jpg)入る]
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底本:「ブランデージの魔法の城 魔王子さまと鏡の部屋の秘密」コバルト文庫、集英社
2009(平成21)年12月10日第1刷発行
入力:
校正:
2009年12月24日作成