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Around40
〜注文の多いオンナたち〜
橋部敦子
[#改ページ]
Around40 〜注文の多いオンナたち〜
1 かわいそうなの私!?
アラウンドフォーティー、『Around40=四十歳前後』と呼ばれる世代がある。
たとえばこの女性、緒方聡子《おがたさとこ》。三十九歳、独身。キリリとした端整な顔立ち、ゆるやかにウェーブを打つロングの髪、すらりとしたプロポーション。
そんな彼女も、二〇〇八年の今年、不惑の四十歳を迎える。
この世代は、八十年代にアイドルブームを支え、女子高生ブームの中心となり、青春期をバブル経済の真っ只中《ただなか》で過ごしてきた。そして、バブル崩壊間際に、滑り込みで就職。彼女達は『男女雇用機会均等法世代』とも言われ、自分の生き方を選べる時代の象徴だった。
しかし現在、そんな時代を走り続けてきたゆえに、迷い多き人生の岐路に立たされようとしている女性達がいる。
そんな彼女達を、人は、『アラウンドフォーティー』と呼ぶ――。
「精神科って、なんか来るの怖くて。このまま入院させられるんじゃないかって……」
本日一人目の患者は、母親につきそわれた女子高生だ。
愛斉会《あいせいかい》総合病院精神科。聡子はここで、精神科医として働いている。
「心配しないでください。あなたのように軽症の鬱《うつ》状態であれば、通院でも十分治りますよ。一緒に治していきましょうね」
二人目は、会社に行けない五十代のサラリーマン。三人目は、薬マニアの中年主婦。最後は、二十代のキャリア女性だ。
「時間がないんです。私、もう二十九なのに、婚約破棄だなんて……どうしたらいいのかわかりません。もう三十になっちゃう……」
もう二十九[#「もう二十九」に傍点]。もう三十[#「もう三十」に傍点]。
「そうですか。もう二十九とか三十とか言っても、考え方しだいだと思うな」
そう言って、聡子は水が半分入ったペットボトルを机の上に置いた。
「ここにお水があるけど、どう思う? もう半分かな? まだ半分かな?」
黙ってペットボトルを見つめているその女性に、聡子はニコッと笑いかけた。
「考え方ひとつで、現実の見え方が、変わると思わない?」
病院からほど近い、1LDKのマンションが聡子のお城だ。
シックなインテリアで統一された、広々とした室内。デスクの上には医学書や医学雑誌が山積みになっているが、キッチンは空のペットボトルや空き缶が少しある程度で、普段あまり使っていないことが一目でわかる。
「お腹、へった〜」
冷蔵庫の中には、調味料や飲み物がまばらに入っているだけ。聡子は部屋を出ると、再び通勤用の自転車にまたがった。こんなとき、実家が近くにあるのは本当に助かる。
「ただいま〜」居間に入っていくと、三歳の姪《めい》が「聡子おばちゃん!」と駆け寄ってきた。
「こんばんは、瑠花《るか》」と頭をなでてやる。くりくりお目目が可愛い。
聡子はまっすぐ仏壇の前に行き、線香をあげると、亡き母の遺影に手を合わせた。
「聡子さん、晩御飯食べてくでしょ」晴子《はるこ》さんが、キッチンから顔をのぞかせた。
料理上手な義母の手料理を楽しみに、聡子は自宅とつながった病院へ向かう。
父の友康《ともやす》が二十三年前に開業した『緒方内科・小児科医院』は町の小さな病院だが、今も現役で地域医療に徹している父を、聡子は心から尊敬している。
「嫁がどんどんお金、使っちゃうんだから」
「それは大変だねえ」
友康は、古くからの患者さんである丸山《まるやま》のおばあちゃんの診察――というより、話し相手をしていた。ひょいと、診察室に顔をのぞかせる。
「丸山さん、こんばんは」
「あー、お嬢さん。ウチの嫁がバカ嫁で」
「バカ嫁なんですか? 私なんて、結婚もできないバカ娘ですよ」聡子は笑って言った。
聡子は晴子の料理に「おいし〜」を連発しながら、ふと思い出して、弟の達也《たつや》に言った。
「ねえ達也、髪の毛、ちょっと切ってくれる? 同窓会があるから」
共学だった中高一貫校の同窓会で、同級生たちに会うのも、確か十年ぶりである。
「同窓会? いいよ」
達也は腕のいい美容師で、同じ美容サロンで見習いをしていたマキと『できちゃった婚』をして、今も実家に同居している。瑠花は二人の子供なのだ。
「私だけかもしれないなぁ。女子でまだ結婚してないの」言ったとたん、家族がいっせいに聡子を見た。「……何」
「まだ[#「まだ」に傍点]結婚してないって言った?」友康は驚いて娘を見つめている。「それはつまり、まだ結婚する気、あるってこと?」
「うん」きょとんとする聡子。
「まだあきらめてなかったんですね」マキが明るく言った。まだ二十四歳の義妹《いもうと》は、悪気はないのだが、たまに屈託なさ過ぎるきらいがある。
「なんであきらめなきゃいけないの」むっとしていると、「あ、晴子さん、例のあれ」と友康が急いで晴子を促した。
「お断りするつもりだった、あれですね」
「ああ、あのお見合いの話ね」と達也。
「お見合いなんかしないよ。出会いは、自然な出会いじゃなきゃ」
「やっぱり、しないか」友康はがっくりしている。
「出会いに自然も不自然もないでしょ」と晴子が席を立って、写真と釣書を取りにいく。
「そんなんだから、結婚もできないんだろ? どうするんだよ」
「別に私は毎日楽しいし、幸せだけど」
独身時代は自由奔放が身上だった達也だが、父親になってからは、結婚にも人生にもまったくあせる様子のない姉の能天気ぶりが心配でならない。
晴子が戻ってきて、「私はタイプじゃないなぁ。見るだけ見てみる?」と言いながら、相手の写真を聡子に差し出した。
「見るだけならね」写真を手に取った聡子の反応を、家族全員がじっとうかがっている。
「この方、おいくつ?」
「五十」
「私のパパと同じだ」マキの一言にカチンときて、聡子は写真をテーブルの上に置いた。
「五十じゃ子供が成人した時、七十過ぎじゃない。冗談じゃないわよ」
「姉貴だって六十過ぎだろ、もう四十なんだから」
「まだ三十九よ。ごちそうさま」鳴り出した携帯を持って立ち上がる。
「病院から呼び出し?」晴子が尋ねると、うん、という返事。いつものことながら大変な仕事だ。
「はい、緒方です」聡子は、すでに医師の顔になっている。
竹内瑞恵《たけうちみずえ》がファッション誌をパラパラめくっていると、息子の洋介《ようすけ》が携帯でメールを打ちながらリビングに入ってきた。
「明日のお弁当、ハンバーグね」明るく声をかける。
「いらない。パン、食うから」
「また?」瑞恵は顔をしかめた。
洋介は冷蔵庫からペットボトル飲料を取り、携帯から一度も目を離さないまま、部屋を出ていった。瑞恵はため息をつく。中二の息子なんて、どこもこんなものなんだろうか。
テーブルを見れば、生命保険会社の営業マンをしている夫の彰夫《あきお》が、漫画雑誌片手に食事をしている。
「ねえ、同窓会に着ていく服が欲しいんだけど」瑞恵は少し鼻にかかった甘え声を出した。
「あるだろ」彰夫が面倒くさそうに言う。
「学校行事に着ていくスーツくらいしかないもの。久しぶりの同窓会なんだから、オシャレしていきたいじゃない」
「今さらオシャレして、誰にアピールするっていうんだよ。もう四十なのに」
「三十九よ」むっとして訂正する。
「一緒だろ? そんな金あったらローンに回してくれよ」
「主婦の幸せは、ファッションに表れるの。それに――」
テーブルの上の携帯が鳴った。と思った次の瞬間には、彰夫はもう電話に出ている。
「はい、竹内でございます。はいぃ、いつもお世話になっておりますぅ……」
相手は顧客らしく、愛想のいい声を出しながら部屋を出ていく。先ほどの瑞恵に対する態度と、足して二で割ってちょうどいいくらいだ。
瑞恵はまたしてもため息をつきながら、ファッション誌に目を戻す。
「……いいわねえ」
『主婦の幸せはファッションに表れる』の特集記事に、瑞恵はしばし現実を忘れた。
同じ頃、都内の大手出版社にある第三スタジオでは、ファッション誌の翌月号の撮影が行われていた。ライフスタイルプロデューサー、新庄高文《しんじようたかふみ》の特集記事である。
真剣な表情でゲラを見ているのは、副編集長の森村奈央《もりむらなお》だ。奈央は、高文を囲んで談笑している女性たちの輪から、編集長の中山美智子《なかやまみちこ》が立ち上がったのを目の端に捉《とら》えると、すばやく歩み寄った。
「編集長、すみません。新庄さんのインタビューを頭にした方が、注目度が上がると思うんですけど」
「あなたに任せる。自分のセンス、信じなさい」
「はい」自信満々の笑顔で答える。
美智子がスタジオを出ていくと、奈央のもとに高文がやってきて耳元でささやいた。
「森村さん、いつになったら結婚してくれるの?」
しょっちゅう冗談でプロポーズを口にするのだが、高文は三十二歳で独身、時代の最先端を行く職業の有名人、イケメンで高収入とくれば、結婚したい女性など引く手あまただろう。
「結婚しない宣言は変わりませんから」軽くいなして、奈央は苦笑する高文を残し、編集部員の三波由香里《みなみゆかり》のところへ歩いていった。彼女が担当しているファッションページに載せる洋服を、一着一着、丁寧にチェックする。
「由香里。ウチの雑誌のターゲットは?」
「三十五歳です」
まさに奈央の歳と同じ年齢層が、読者層と重なっている。
「これって四十じゃないかなあ」
その一着をハンガーラックから外したとたん、奈央の頭にある顔が思い浮かんだ。
翌日の昼間、聡子の病院に、中高時代、ダンス部の後輩だった奈央がやってきた。
「先輩、同窓会にどお?」
奈央が聡子に見せているのは、昨夜、撮影から外したセクシーな黒のドレスだ。
「いいよ、あるの着てくから」セクシーすぎて、聡子はちょっと気が引けてしまう。
「どんなの?」
「学会の時なんかに来ていくスーツ」
ペットボトルを取り出して歩き出すと、奈央も一緒に肩を並べ、しきりにそのドレスを勧めてくる。
「いい? 先輩。同窓会っていうのは、自分がどれくらい幸せなのかを確認しに行くところなの」
「初めて聞いた」
「だからみんな四十になると、同窓会したくなるの。人生の折り返し地点だし」
「確認なんかしなくたって、私は幸せだから」
「これくらいの服着なくちゃ、幸せだってことみんなに伝わらないの。それに先輩は、みんなの憧《あこが》れの的だったんだから、きめてかなきゃ」
「そうお?」そんなふうに言われれば、聡子とて満更でもない。
「じゃあ、バッグと靴もそろえておくね」
「あ、ねえ、同窓会の前に瑞恵とお茶飲むけど、来れば? 最近、会ってないでしょ?」
「瑞恵先輩、ますますオバサンになってるのかな」
「心のひろい、いいお母さんって感じでしょ」
聡子がたしなめると、奈央はいたずらっぽく、ペロッと舌を出した。
翌日の日曜日、同窓会のあるホテルのラウンジに三人が集まった。
「高そうな服。でも、ホント素敵」瑞恵がうらやましそうに聡子を見る。「私も奈央のセンスでなんとかしてよ」瑞恵は結局、学校行事用のありふれたスーツ姿だ。
「瑞恵先輩は、心のひろい、いいお母さんって感じがいいんじゃないですか」
そう言う奈央のファッションは、彼女の雑誌から抜け出てきたような華やかさで、それがまた小憎らしいほどよく似合っている。
「それがいやなのよ。家事と育児であっというまに三十九。もうすぐ四十だなんて、どうしましょうって感じよね」
このグチモードが、すでにオバサンの証《あかし》であることに、瑞恵は気づいていない。
「そうお? 私はあんまり感じないなあ。もうすぐ四十だからって、特に変わったこともないし」聡子はのんびり言った。
「私はずっと洋介の中学受験にかかりきりだったでしょう? 去年、無事合格して、子育てが一段落したところだから、よけいに色々考えちゃうのかもしれない」
瑞恵の口調が優越感モードに変わってきた。
「ね、今の中学受験って、大変?」聡子が聞くと、
「大変よ。塾選びから学校選び。子供の体調管理だって母親である私の責任なわけだから」
「へ〜、いつか私が母親になったらいろいろ教えてね」
「えっ、産むつもりなの?」これには瑞恵も奈央もびっくりだ。
「うん、いつかはね」
「だったら早くしなくちゃ。わかってる? 三十五くらいから妊娠しにくくなってくのよ」
身を乗り出す瑞恵に、聡子は医師らしく答える。
「高齢出産は精神的に余裕もって産めるって言うし、医療の技術も進んでるから」
「産んだとしても、育児って恐ろしく体力がいるの。子供の運動会には保護者競技だってあるのよ? 四十過ぎて全力疾走して骨折した人、何人も見てきたんだから」
「そうなの?」やけに説得力のある話だ。聡子は少々不安になった。
「先輩、その前に相手探ししないとね」奈央が痛いところを突いてくる。
「なんだかんだ言って、一人でいるのラクだからねえ」
のんきにメニューを広げている聡子を横目で見つつ、瑞恵はため息交じりに言った。
「奈央、こうなる前に早く結婚しなさいよ。まだ三十五だって思ってるかもしれないけど、三十五から四十なんてあっというまなんだから」
「私は結婚も出産もしない。いくつになっても恋愛してたいから」
「老後はどうするの? 夫や子供がいなくちゃ、さびしいと思わない?」
「老後のために結婚しようとは、思わないかなあ」と聡子。
「でもね」ムキになって説得しようとする瑞恵に、聡子が「先、注文しよ」とメニューを差し出す。
「あ、そうね」メニューに目を落としたとたん、瑞恵は思わず言った。「高」
奈央が結婚したくないと思うのは、こんなときだ。結婚なんて、女が損ばかりする。
「ロイヤルミルクティー頼んどいて。お手洗い行ってくる」
瑞恵が席を立って行ってしまうと、聡子は申し訳なさそうに言った。
「もっと安いところにしたほうがよかったかな」
「全然。瑞恵先輩、ここ来たこと、主婦仲間に絶対自慢すると思う」
「そうお?」そこのところの心理は、聡子には今一つわからない。
「それより、なんで主婦って、こうゆうとこ来ると絶対ロイヤルミルクティーなんだろ」
「じゃ、私もロイヤルミルクティー」
サバサバしているようでも、人に優しい。そんな聡子が、奈央は好きなのだ。
貸し切りのレストランは、青春時代を一緒に過ごした懐かしい顔であふれかえっていた。しかし、聡子の視線は、女友達の胸についている名札に注がれている。
「あの子も結婚したんだぁ」
どの名札も、現在の苗字《みようじ》のあとにカッコで旧姓が書いてある。
「あれ、雑誌に載ってた六万九百円のバッグよ」
一方の瑞恵の視線は、もっぱら服、靴、バッグの三種の神器に注がれている。
「やっぱり旧姓なのって私だけかな」言うわりには、聡子にまったく悲愴《ひそう》感はない。
瑞恵はあちこちに目を走らせていたが、会場の片隅に自分と同じような地味な服装のグループを見つけ、「久しぶり」と輪に入っていった。聡子も一緒についていく。すぐに話題は小中学生の子供を持つ母親の最大の関心事、すなわち中学受験のことになった。
「瑞恵んとこ、私立行ったのよね」
「やっぱり大変だった?」
「もう大変」と瑞恵は大げさに顔をしかめる。
「何年生から塾、行った?」
「うちは遅かったわよ。四年生だから」
まったく話題についていけない聡子は、一人蚊帳の外だ。そのとき、進行係の男性の声が、マイクを通して響いてきた。
「みなさんにご報告です。今日、この場を提供してくださったのは、旧姓|川上《かわかみ》、ジョバンニ久美子《くみこ》夫妻です!」
壇上には、幼い娘を真ん中にして、久美子とフランス人の夫が寄り添っている。
「この店は、旦那様のドミニクさんがオーナーシェフを務め、久美子さんがインテリアデザインを手がけたそうです」
ちょっとしたセレブだ。同級生たちからワーッと羨望《せんぼう》の入り混じった歓声が上がる。
「昔は全然目立たない子だったのにね」聡子は意外そうに言った。
「女は男次第で、人生変わるから」瑞恵がしたり顔で答える。
「私だけか、変わってないのは」
そのとたん、周りの女友達が急にそわそわして、聡子を褒め始めた。
「聡子は、変わらなくたって素敵よ。すごく若いもん」「ホントに若いよね」
気を遣われていることにまったく気づかないどころか、聡子はうれしそうだ。
「みんなだって、全然変わらないよ」
「あいかわらず、スタイルいいし」「昔と体形、変わってないんだもん。ねえ」
「そうかな、子供、産んでないからじゃない?」
聡子が言った瞬間、場がシンとなった。聡子は言葉どおりのことを普通に言っただけなのに、瑞恵以外の友達は、哀れむような目で聡子を見ている。
「気にすることないわよ」「子供、持たない人生だって、全然ありよねえ」「自分のためだけにお金と時間を使えるって、一番幸せなことかもしれない」
「聡子、料理とってこよ」瑞恵が、思わぬ反応に戸惑っている聡子の腕を引っ張っていく。
「みんな私のこと、子供産まないって決めつけてた」聡子が言った。
「……みんな、悪気があったわけじゃないよ」
「なんでかなあ」料理を皿に取りながら、聡子は首をひねる。
「もう四十だもの。人から見ると、結婚も出産もあきらめた、かわいそうな女っていうふうに見えるんじゃない?」
聡子は思わず、とりかけていたサーモンを落としてしまった。
「かわいそうなの? 私」聞き返すと、瑞恵が、しまった、という顔をした。
「先輩は、女の市場価値を全然、わかってない」赤ワインを飲みながら、奈央が言う。
「市場価値?」仕込みをしていた大橋貞夫《おおはしさだお》は、奈央の言う意味がわからずに問い返した。
ここは、洋食店『グランポン』。シェフの貞夫が父親から受け継ぎ、一人で切り盛りしている、こぢんまりした店だ。
「昔から憧れの存在でチヤホヤされた頃の気分のままだから、男に対する要求が高いのよ。年々、女としての市場価値は下がってるのに」
「でも聡子、じゅうぶんきれいだと思うけど」
貞夫は聡子と瑞恵の中高の同級生で、奈央とは近所の幼なじみという、親しい間柄だ。三人の女友達からは『マーくん』と呼ばれている。
「もちろん、奈央もきれいだけど」マーくんがちょっと照れながらつけ加える。
「先輩はきれいだから、まだ自分がイケてるって勘違いするのよ」
「よくわからないけど、女は大変だね」
「男だって大変なんじゃない?」と奈央が貞夫を見る。「男の市場価値は何で決まるか知ってる?」
貞夫は少し考え、自信を持って言った。「……そりゃあ、ハートでしょ」
「年収よ」きっぱり断言され、貞夫は情けなさそうに店内を見回した。
奈央のほかに、客は一人もいない。店への愛着と料理への情熱は人一倍あるのだが、いかんせん、商売っ気がないのだ。と、奈央の携帯が鳴った。瑞恵からである。
「――えっ、同窓会で?」
「聡子、傷ついたと思うんだ。きっと、三十九歳が崖《がけ》っぷちだっていうことに気づいて、すごくショック受けてると思う」
「そうかなあ。たぶん先輩、全然わかってないと思いますよ。三十九歳が崖っぷちだってこと」
この五年、結婚どころか恋人のこ[#「こ」に傍点]の字もない。あれだけ『おひとりさま』人生を謳歌《おうか》している聡子が、それしきのことでショックを受けるなんて、奈央には考えられなかった。
「いらっしゃいませ」顔なじみの仲居が、うやうやしく聡子を出迎えてくれる。
「緒方様、いつもありがとうございます。本日も、お一人様ですね」
「はい」一人電車に揺られて、いつもの高級旅館にやってきた聡子は、ニッコリ笑って答えた。なにしろ、ここの露天風呂は見晴らしが最高なのだ。
「気持ちいいね〜」湯につかりながら、我知らず声が出てしまう。「ん〜〜」
近くにいた女性グループが、幸せそうに一人の世界に浸っている聡子を怪しげに見ながら、スーッと離れていく。
が、聡子は思うぞんぶん湯を満喫し、いつものように、脱衣場の体重計の前に立った。深呼吸して体重計に乗り、恐る恐る目盛りを見る。……やった! ぱあっと笑顔になり、「セェェフ」と小さくジェスチャーする。目盛りの位置次第で、このあとのお楽しみが大きく変わってくるのだ。
「ん〜〜」テーブルいっぱいに並んだ豪華な料理を次々平らげながら、聡子は幸福のうめき声を漏らす。「お刺身、いきま〜す」アワビに鯛に、伊勢えびに……。
締めくくりは、ふかふかのお布団に横になって、お笑いビデオの鑑賞タイムだ。
布団の横には抜かりなくお気に入りのビデオテープが何本も積んであり、ひいきの芸人が出てくれば、すでに頭に入っているネタを一緒にやって大笑いする。
そんな聡子の顔には、崖っぷちの恐怖どころか、至福の表情が浮かんでいるのだった。
翌日、勤務時間中に呼び出しを受けた聡子は、開口一番、副院長の川崎《かわさき》に嫌みを言われた。
「緒方先生、あいかわらず初診に一時間、再診に三十分もかけてるみたいだね。もっと短縮するように。初診三十分。再診十分」
いつものことなので、黙って受け流す。
「それから今度、臨床心理士が一人辞めるよね。代わりの臨床心理士、入れなくても大丈夫かな」
聡子のパートナーだった心理士が出産を機に退職することになり、ただでさえ優秀な彼女の代わりを探すのは大変だと思っていたところなのに、とんでもない話だ。
「病院経営にとって、心理士を置くことは負担なんだよ」
「でも、患者さんの治療には精神科医と心理士の連係プレーが必要ですから。お願いします。心理士さんを今まで通り、置いてください」聡子は拝むようにして頭を下げた。
「ま、緒方先生がそこまで言うなら、私から院長に頼んでみてもいいけど。その代わり、今後は緒方先生も病院側に立った物の見方をしてもらわないと困るから」
「……病院側に立つって、どうゆうことですか?」
「経営のことも考えてもらわなくちゃ困るっていうこと。ちゃんとわかってる?」
察しの悪い生徒を見るように、川崎は聡子に言った。
「なんかピンとこないよね。病院側に立って、経営のこと考えろって言われても」
その夜、聡子は奈央を誘い、貞夫の店で夕食を食べていた。
「普通じゃない? 先輩もそうゆう歳なんだから」
「ねえ、同窓会で誰か僕のこと言ってた? この店のこと、みんなに宣伝してくれた?」出席できなかった貞夫が期待に目を輝かせて尋ねるが、聡子にあっさりスルーされる。
「同窓会って言えば、私、結婚も出産もあきらめたかわいそうな女に見えるんだって。私は全然、そんなふうに思ってなかったのに」
「やっぱり先輩は、一人でもじゅうぶん楽しく暮らしていける人なんだから、いっそのこと、私みたいに結婚しない宣言しちゃえば?」
「やだやだ」聡子が首を横に振る。
「結婚しなくても楽しいかどうかは、友達しだいだよね」と奈央。
「……もし俺が結婚したとしても、奈央とは、ずっと友達でいてやるから」
「マーくん、パンちょうだい」
せっかくちょっとカッコつけてみたのに、奈央にもスルーされ、貞夫はがっかりである。
「まあねぇ、奈央と一緒なら、楽しいかなぁ」
「だから先輩、女どうし、結婚しないで楽しくやろ。ラクになれるよ〜」
「やめてよ〜、誘惑しないで」耳を塞《ふさ》いでいる聡子を見て、奈央はケラケラ笑った。
「先輩、私、今度創刊される雑誌の編集長になれそうなんだ。しかも、最年少編集長」
帰り道、並んで歩きながら、奈央がうれしそうに告げた。
「えっ、すごいじゃない。どんな雑誌?」自転車を押しながら、聡子が尋ねる。
「アラサー向けのファッション雑誌」
「アラサー?」
「アラウンドサーティ。三十歳前後の女性向けってこと」
「奈央にぴったりじゃない。絶対見る」
「見なくていいよ。先輩は、アラフォーなんだから」
「アラウンドフォーティーで、アラフォーかぁ」
奈央のバッグの中で、マナーモードになっている携帯が震え始めた。こっそり見ると、着信は『新庄高文』からだ。奈央は電話を無視して、聡子に決意表明した。
「ついに私の時代が来る。私、三十五が勝負の時だと思って、ずっと走り続けてきたから」
バッグの中で、携帯は高文からの着信を知らせ続けている。
「……私は、なんにも考えずに走ってきちゃったなぁ」聡子は、つぶやくように言った。
数日後、奈央はイタリアの高級家具ブランドとの業務提携を記念した、高文主催のパーティーに出席していた。
「森村さん、ケータイも出ない宣言してるの?」たくさんの人に囲まれていた高文が、輪の中から奈央のところにやってきた。
「いつかはそうなるかも。忙しくなるし」奈央はいたずらっぽく言った。「今度『グランドゥール』の妹雑誌が創刊されることになりました。編集長は、誰でしょう」
えっ、と驚いている高文に、ニッコリ笑いかける。「人生、何が起こるかわからないわよ」
そこへ、美智子が由香里と連れ立ってやってきた。
「新庄さん、うちで今度、『グランドゥール』の妹雑誌を作ることになったんです。明日、社内で発表があるんですが、新庄さんには、一足早く編集長を紹介させていただきます。最年少編集長になります」
予想外の展開に少し驚いたが、最年少編集長と聞いて、奈央の頬が思わずゆるむ。
「三十二歳の三波由香里です」
奈央は耳を疑った。まさか、そんなこと……。
「三波です。若さだけが取り柄ですが、自分のセンス、信じなさいと言われ、編集長という大役を引き受ける決心をしました。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」そう言うと、高文は皮肉っぽい笑みを浮かべて、呆然《ぼうぜん》としている奈央を振り返った。「人生、何が起こるかわからないから」
その頃、瑞恵の家には、洋介の小学校時代のママ友達が三人、遊びに来ていた。
「私立のママ達とのつきあいって大変なの?」久保亮子《くぼりようこ》が尋ねてきた。
「ウチの学校は、そうでもないから」瑞恵は、込み上げてくる優越感を抑えて謙遜《けんそん》してみせる。みんな同世代の平凡な主婦で、子供たちは近所の公立に通っている。
「洋介クンのとこ、今年また偏差値上がったわね」瑞恵と同い年の山岸静香《やまぎししずか》が言った。
「洋介、勉強、大変みたいよ。いくら小学校で成績よくても、今じゃがんばっても真ん中くらいだから。紅茶、おかわりどお?」
「私、もうすぐ失礼するから。パート始めたの」
「え、何の?」瑞恵は驚いて静香に尋ねた。
「薬剤師。十五年ぶりに復帰したんだけど、薬が変わってて、大変よぉ」
「いいじゃない、社会復帰できたんだから」一番年長の亮子が、うらやましげに言う。
「私も早く働きたい」
なんと二つ年上の杉田恵子《すぎたけいこ》も、介護ヘルパーの資格を取得中だと言う。
「へえ……」じわりとあせりが芽生えてくる。「何かやってる?」瑞恵は亮子に聞いた。
「私は資格もないし、四十過ぎじゃ就職は難しいから」
「そう」ホッとしたのもつかの間、亮子の話には続きがあった。
「だからボランティアを始めたの。いらなくなった子供服を集めて売って、その売り上げを援助が必要な子供達に寄付するの。あ、チラシあるから」
「それだって、立派な社会参加じゃない。ねえ」
「うん、すごいじゃない」渡されたチラシを見ながら、瑞恵は引きつった笑顔で言った。
「よかったら、これ、どうぞ」マキがパンフレットを差し出した。
「結婚相談所?」
達也に話があると言われて実家に来てみれば、余計なお世話だ。友康と晴子も知らなかったらしく、パンフレットを手に取り、まじまじと眺めている。
「言ったでしょ。自然な出会いじゃなきゃって」聡子は一蹴《いつしゆう》した。
「だいたい姉貴には、人生設計ってもんがないの?」
「なんで達也に人生設計がどうのって言われなきゃいけないの? 働かないでふらふらしたり、できちゃった結婚した無計画な人は、どこの誰よ」
「今はちゃんと美容師としてやってて、結婚もした俺のほうがよっぽどしっかりしてるし、親孝行だと思うけど」そう言う達也に、マキがつけ加える。「孫の顔も見せてあげられたし」
ズシリとこたえた聡子だった。
診察室の椅子に座ってぼんやりしていると、友康がきて、聡子を見るなり言った。
「……びっくりしたぁ。ますますお母さんに似てきたな」
「えー、私、そんなに老けた? やめてよ」
「……そっかぁ。お母さんが亡くなったの四十だもんね。私ももうすぐ、その歳になるのか……全然実感ない」
「……まったく達也のやつ、自分一人で一人前になったような口きいて。聡子がどれだけお母さん代わりをしてくれたと思ってるんだ」
「そうよ」と、ふざけて胸を張る。
「……聡子には、ずいぶん負担をかけたな」
「……何、急に。一番大変だったのは、お父さんでしょう? 私と達也のために外科医辞めて、ここ開業して」
友康は若い頃、大学病院の外科のエースだったが、妻を亡くし、子供たちの面倒をみるため、自宅兼用のクリニックを開業した。晴子も元は、同じ大学病院で働いていた看護師である。
「ここは、晴子さんが手伝ってくれたから。家のことも、聡子に甘えっぱなしで……そのせいかな、お前が誰かに甘えるのが下手になったのは」
「……今、じゅうぶん、この家に甘えさせてもらってるじゃない。今週だけで、ご飯食べに来たの、三回よ」
「……ま、してあげられるうちはな」そう言って笑うと、友康は老眼鏡をかけ、カルテの整理を始めた。思えば、父も六十九歳だ。聡子はしみじみ、その老いた背中を見つめた。
聡子は奈央に頼まれ、マンションの内覧会につき合っていた。二十代の夫婦が抱っこしている赤ちゃんを見るともなく見ていると、愛想のいい声が聞こえてきた。
「お客さまの場合、二十五年ローンですと、月々のお支払いは、こちらとなります」
「そんなにするの?」奈央は、いつになく攻撃的な口調だ。
「ちなみに三十年ローンですと」不動産会社の男が、すばやく電卓を叩《たた》く。
「それは結構です。ローンは六十歳までに返せる範囲で組まないと、老後の計画が立たないから」
「もうそんなこと考えてるの?」聡子が少し驚いていると、
「一人で生きていくなら、住むとこくらい確保しないと」
「賃貸じゃ、ダメなの?」
「六十までバリバリ働いて、仕事辞めたら、まずは温泉巡りしたいな。夏油《げとう》温泉とか、湯浜《ゆばま》温泉とか青荷《あおに》温泉とか。私、温泉特集やったことあるから詳しいんだ。塩《しお》の湯《ゆ》温泉でしょ。高湯《たかゆ》温泉でしょ」明るかった奈央の声が、だんだん涙声になってきた。「奥山田《おくやまだ》温泉でしょ、七味《しちみ》温泉でしょ、稲住《いなずみ》温泉でしょ、平田内《ひらたない》温泉でしょ……」
「奈央? どうしたの?」びっくりして、奈央の顔をのぞき込む。
「編集長になれなかった……」奈央は必死に涙をこらえ、絞り出すように言った。
「私より、三つ下の子が、編集長になった」
奈央がマンションを買うと言い出したのは、そんなつらい出来事があったからなのだ。
「……実は、ずっと眠れてないんだ……先輩、こうゆう時は、どうしたらいい?」
「私のこと精神科医として聞いてる? 友達として聞いてる?」
「友達」
聡子はうなずいて、奈央の腕を取った。「よし、奈央、行くよ」
「気持ちいい〜」「う〜ん」二人は口々に言って、大きく伸びをした。
快晴の空の下で入る露天風呂は、また格別だ。
「いいところだね。彼と来た思い出の場所だったりするの?」
「ううん、誰か連れてきたの、奈央が初めて」
奈央はつくづくあきれた顔になる。「だから先輩はダメなのよ。温泉一人で来て、何が楽しいの? 男と来なくてどうするの?」
「そんなこと言ったって、楽しいもんは楽しいんだもん」
「先輩の、これだけはゆずれない男の条件って何?」
「やっぱり、肩幅がひろい人かな」
「は?」
「それだけはゆずれないな」
温泉を堪能した二人は、電車の時間まで、売店で土産物を物色することにした。
「職場で出会いはないの? 医者とか、臨床心理士とか」
「男の心理士さんは、ものすごく少ないから」漬物などを選びながら、聡子が言う。
「どうして? 私なら、女より男の人に話を聞いてもらいたいけどな」
「臨床心理士って、資格取るのが大変な割に、給料が安いの」
「先輩のほうがずっと高収入じゃ、恋愛は難しいか」
そんな奈央の言葉は耳を素通りして、聡子は、少し離れた場所にいる男性に目をひかれていた。目立つタイプではないが、正統派の美男子で、爽《さわ》やかな清潔感がいい。
ガラにもなくドキドキして髪を手で整えたりしていると、奈央が「ちょっと、ごめん」と鳴り出した携帯を手に売店を出ていった。
ちらちら様子をうかがっているうちに、彼が聡子のほうに背を向けた。さっそく親指と人差し指をひろげ、片方の目をつむって、肩幅を目測してみる。
――理想には、ちょっと足りない。それに、どう見ても年下だし。
と、若い女性が買い物のレジ袋を提《さ》げて、その男性に走り寄っていった。
――なんだ。彼女持ちか。聡子はちょっぴり落胆した。
「お茶、買ったの?」彼がレジ袋の中のペットボトルを見て言った。「部屋にお茶っ葉あったよ」
聡子は思わず聞き耳を立てた。彼は、ペットボトルのお茶ではなく、部屋のお茶を飲めと言っているのだ。が、文句をつけているというより、当たり前のことを言っている口調である。
「……冷たいの、飲みたかったから」彼女がふくれっつらになる。そりゃそうだろう。
「廊下のつきあたりの冷凍庫に、氷あったよ」
聡子は、めずらしいものでも見るように、チラリと彼に目をやった。
「それにこのレジ袋だって、もらわなくてもよかったんじゃない? ペットボトルとガム一個だけなら、袋いりませんって言わなきゃ」
「ケチ!」彼女が、たまりかねたように叫んだ。
彼のほうは、いかにも心外という顔つきである。「そうじゃないよ。いつも言ってるだろう? 僕は環境のことを考えて言ってるんだって。ケチじゃなくてエコ!」
「別れる」彼女は断固として言った。「そうゆうとこ、直してくれないなら」
――え、こんなとこで、いきなり別れ話?
「わかった」彼が、しかたなさそうにため息をつく。
――ついに彼氏が折れた。と、聡子が思った瞬間。
「別れるしかないよ」
「!……私より、ケチが大切なんだ」彼女の顔が、みるみる真っ赤になっていく。
「ケチじゃなくてエコ」
聡子はあっけにとられて男を見つめた。最初の好印象が、音を立てて崩れ落ちていく。
「さよなら」背を向けた彼女に、彼が一言、声をかける。
「ゴミの分別、ちゃんとしろよ」
――結婚できない男、発見。て、私が言うな。聡子は、ノリツッコミでしめてみた。
「先輩、今日は、ホントにありがとう」温泉街を駅に向かって歩きながら、奈央が言った。
「今度は、日帰りじゃなくて泊まりで来られるといいね」
「先輩」奈央が微笑む。「やっぱり持つべきものは、女友達だね」
照れくさくて、聡子はフッと顔を背けた。その拍子に、大きなくしゃみが出る。
「……ねえ。先輩って、今まで結婚考えた人っているの?」
ふいに質問されて、聡子はつい、真顔になってしまった。
「いるんだ。いつ?」
「……三十四の時だったかな」
「カメラマンだった人?」その人の話は奈央も聞いている。「どうして結婚しなかったの?」
「どうしてだったかな」あいまいな返事をして、答えをはぐらかす。
「……その人と結婚すればよかったって、後悔したことある?」
「それはない。全然ない」
奈央はそれ以上、質問をやめた。聡子が強がっているのが、わかったからだ。
「ん〜、今日もいいお湯だった〜」聡子は大きく伸びをした。
夜、部屋に帰ってきた聡子は、思い出に引かれるように、本棚の写真立てに目をやった。
一枚のモノクロ写真が飾ってある。あれは、春の海――砂浜で、この世の幸せを独り占めしているみたいに笑っている、聡子がいた。
聡子は着替えもせず、時の経つのも忘れて、写真の中の自分を見つめていた。
湯冷めしたのか、翌日、聡子は熱を出してしまった。一度は病院に出勤したのだが、けっきょく朝の申し送りをしただけで倒れてしまい、自宅に帰ってくるという始末だ。
熱はなかなか下がらず、寝ていてもつらい。夕陽が差し込むベッドの中で、ふと、『孤独死』という週刊誌の記事が思い浮かぶ。
いつになく気弱になってしまった聡子は、ベッドサイドの電話に手を伸ばした。
「……もしもし晴子さん?」聡子のSOSに応《こた》えて、晴子がすぐに駆けつけてきてくれた。
「あったかい……」晴子の作ってくれた生姜《しようが》湯を飲むと、ようやく心が落ち着いた。
「今までは、熱くらい出たって平気だったのに」
「ウチに来たら?」晴子が言ってくれる。が、聡子はすぐに「ううん」と首を横に振った。
「どうして」
「……いつかは、実家に頼れない日が来るんだよね」
晴子がふとテーブルの上を見ると、結婚相談所のパンフレットが開いて置いてある。
「だからみんな、自分の家族を作りたがるんだろうね」
「まあ、めずらしい、弱気になっちゃって。もしかして孤独死したらどうしようとでも思った?」晴子が、わざと明るく言う。
「えっ、なんでわかるの?」
「私が何歳まで独身だったと思ってるの? 五十三歳よ」
「でも、お父さんと一緒になったじゃない」
「おかげさまで。若い時に、あせって結婚しなくてよかった」
八年前、友康が病気で倒れたことがきっかけで、二人はよき人生のパートナーになった。
「……お父さん、私に結婚してほしいと思ってるよね。私の赤ちゃん、抱きたいと思ってるよね」
瑞恵の言うとおり、もうそんなに時間はないのかもしれない。
「なんでもいいんじゃないの?」晴子はやさしく微笑んだ。「聡子さんが、幸せだったら」
でも――聡子はその幸せに、だんだん自信が持てなくなってきた。
「先生、言ってくれましたよね。もう半分って思うか、まだ半分って思うかで、現実の見え方が変わるって」
婚約破棄されてしまった、例のキャリア女性が診察にやってきた。
「私、まだ二十九歳って思ってればいいんですよね」彼女は、半分飲料が入ったペットボトルを聡子に見せて微笑んだ。聡子のアドバイスで、前向きになれたようだ。
「はい。そう思いますよ」聡子も微笑んだ。
スタッフの控え室に戻ると、聡子は疲れたように白衣を脱いだ。
テーブルに置きっ放しになっていたペットボトルに何気なく目をやると、水が半分残っていた。そのまま目が釘《くぎ》付けになったみたいに、半分になったペットボトルを見つめる。
……もう四十……。心の声が聞こえてきて、聡子はじっと考え込んだ。
どうもくさくさする。医局で片づけをしながら、聡子は奈央の携帯に電話をかけた。
「もしもし奈央? ごはんまだだったら、おいしいものでもパー! っと食べにいかない? パー! っと。私のおごり」
こんな時は、おいしいお酒と料理、そして気の合う女友達だ。
「ゴメン、今日はちょっと」
「そっか……うん、わかった。じゃあ、またね〜」聡子は内心落胆しつつ、携帯を切った。
一人で食事しても味気ないので、もう少し残って仕事でもしようと、売店で買ったおにぎりを食べながら書類に目を通していると、瑞恵から携帯に電話がかかってきた。
「ついに三十九歳、最後の日になっちゃったわよ。どうしよう、明日からもう四十よ」
以前なら軽く聞き流せたのに、今は瑞恵の言葉に、胸がちくちくする。
「なんかしなきゃ」瑞恵は、次々と社会復帰していくママ友達を見て、あせっていた。
「誕生会やろ」聡子は明るく言った。
「そうゆうことじゃないのよ。聡子はホントにのんきなんだから。聡子だってあと少しで四十なのよ。もう四十。聡子はどう思ってるのか知らないけど、私は、何かしなきゃって思ってる。今のままじゃいけないって。だってね……」
「ゴメン、切るね」思わず、口をついて出た。「……ナースが呼びに来たから」
誰も呼びになど来ていないのに、会話が重くなって、瑞恵に嘘をついてしまった。
「……ゴメン仕事中だったんだ。じゃあね」瑞恵は謝って、電話を切った。振り返ると、食卓に家族の夕飯が手つかずのまま残っている。空しさが、瑞恵の全身を蝕《むしば》むように襲ってきた。
「年齢は、四十歳から四十四歳の方を希望しています」
人目を気にしながら思いきって結婚相談所の扉を開けたわりには、聡子は細かい条件を告げた。
「ずいぶんとストライクゾーンがせまいですね」相談員の柳原《やなぎはら》が笑みを絶やさずに言う。
「年下はダメなんです」そう言って、聡子は少し照れながらつけ加えた。「やっぱり、頼られるより頼りたいっていうか」
「四十四歳までというのを見直してみましょう」
「四十五だと四捨五入すると五十ですよね。それはちょっと……あ、大切なことを忘れてました。肩幅はがっちりした人でお願いします」
「は?」
「あ、あと絶対初婚で」
「緒方様」柳原が、ぱたんと資料を閉じる。「よく若いって言われませんか」
「言われます」
「でもそれは、あくまで歳の割に若く見えるということなんです。どんなに若く見えようと、三十九歳は三十九歳。まずは、そのことを自覚していただかないと」
「それくらいのことはわかってます」むっとして言い返す。
「わかっていらっしゃいません。はっきりと申し上げます」柳原は、ひたと聡子を見据えて言った。「女性の市場価値は、三十を過ぎるとジワリジワリと下がっていき、三十五を過ぎるとガクンガクンと下がっていきます」
パソコンのデータも見せる。こういう甘い考えの客には、ビシリと言ってやることが必要だ。
「つまり、子供を持つことを望む男性会員の多くは、三十五歳までの女性を望んでいらっしゃるんです。それを理解していただかないと、ご入会をおすすめできません」
現実にすっかり打ちのめされてしまった聡子である。
「四十歳、おめでとう!」貞夫の店で、瑞恵の誕生会が開かれた。
「あ〜あ、とうとう四十になっちゃった。人生の選択肢がどんどんなくなっていく感じね。昨日までは三十歳と同類だったのに、今日からは四十九歳と同類なんだから」
「僕と奈央と聡子は、同類だね。一人モン同士」貞夫が言った。
「なんでマーくんと同類なの? ねえ」と、聡子が同意を求めるように奈央を見る。
「……報告があるんだ」奈央はいつになく静かで、なんだか普段と様子が違う。
「あ、マンション買った?」
「ううん」一瞬ためらったあと、奈央はなんでもないことのように、さらりと口にした。
「私、結婚する」
みんなは言葉を失って奈央を見つめた。――結婚? 奈央が?
「……冗談冗談。奈央は、結婚しない宣言してるんだから」貞夫がハハ、と笑う。
「冗談じゃない。ものすごく急だけど、結婚することになりました」
「お相手は?」瑞恵が尋ねる。
「新庄高文っていう人」
「えっ、あのライフスタイルプロデューサーの? すごいじゃない」
瑞恵は大はしゃぎしているが、貞夫には、それがどんな職業かも想像できない。
「もう、奈央ったら! びっくりするじゃない」聡子は動揺を押し隠して、笑顔を作った。
「ゴメンね先輩、結婚しないで楽しくやろって言ってたのに」
「何言ってるの。そんなこと謝ることじゃないでしょ」
「どうして? 結婚しないって言ってたのに」貞夫が不服そうに聞いてくる。
「編集長になれなくて、初めて結婚のこと考えるようになったの」
あの一件以来、奈央は高文とちょくちょく会うようになった。先日、聡子にご馳走《ちそう》するからと誘われて断った日も、彼とデートの約束をしていたのだ。
「それに、結婚するならラストチャンスだと思ったから」
「ラストチャンス?」聡子が聞き返すと、「もう三十五だから」と奈央が言う。
「まだ三十五でしょ?」
「高文は私のこと、すごく大切に思ってくれてることがわかったから。あとになって結婚しとけばよかったって、後悔したくないから」
後悔したくないから――奈央の言葉が聡子の胸に突き刺さる。
「私、仕事だけじゃもう勝てない。先輩みたいに高収入じゃないから、やっぱり二十五年ローン払いながら、老後の資金貯めるの大変だし。先輩みたいにずっと続けられる仕事と違って、やりたいこと任せてもらえるかどうかもわからないような仕事だし。私は、先輩みたいになれない」
「なれないんじゃなくて、なりたくなかったんじゃないの?」つい、そんな言葉が口をついて出てしまう。
奈央の表情が曇った。「……先輩、おめでとうって言ってくれないの?」
「幸せなの?」
「……どうゆう意味?」
「奈央にとって『勝つ』ってどういうこと? 奈央が出版社に入ったのも、ファッション誌の編集長になりたかったのも、人に羨《うらや》ましいって思われたいからだよね。奈央は自分が幸せかどうかより、人に幸せそうに見られることのほうが、大切でしょ。結婚もそうなんじゃない? 違う?」
今度は、聡子の辛らつな言葉が矢となって奈央の胸を貫く。
「……それっていけないこと?」
「幸せかどうか聞いてるの」
「先輩はどうなの? それで幸せなの?」奈央が挑み返すように聞いてくる。
「私は幸せじゃないってこと?」
「ちゃんと現実を見ようとしないじゃない。いつまでも若いわけじゃないのよ」
険悪な空気が流れ始め、貞夫と瑞恵が慌てて二人を止めた。せっかくの瑞恵の誕生会が、すっかり気まずくなってしまった。
「……それで?」ワインで気持ちを鎮めてから、聡子は奈央に聞いた。「……いつ? 結婚式は」
晴れ渡った青空の下、ウエディングドレス姿の奈央は、本当にきれいだった。
「すごいわねえ。セレブな人がいっぱいよ」瑞恵が興奮している。
「ジロジロ見るなよ」貞夫にたしなめられても、瑞恵は懲りずに人垣のすき間から高文をのぞきこんでいる。
「奈央の旦那さん、雑誌で見るよりかっこいいわよね」
「奈央のところに行かない?」聡子が言って歩き出した時、階段の上にいた奈央が、参列者にくるりと背を向けた。
「あ、ブーケ投げるんじゃない?」
三人が立ち止まって見ていると、思ったとおり、奈央がブーケを放り投げた。
ブーケが高く舞い上がり、聡子めがけて落ちてくる。聡子は、じっとブーケの行方を目で追った。やっぱり、聡子のもとへ一直線に飛んでくる。
私の番だ。聡子が確信を持って手を伸ばした、その瞬間――。
隣にいた若い女性が、ブーケをつかもうと聡子にタックルしてきた。聡子が勢いよく横に吹っ飛ぶ。聡子は倒れながら、ブーケがその女性の手の中に収まるのを見た。
「聡子」「大丈夫か?」瑞恵と貞夫が、慌てて聡子の傍らに屈《かが》み込む。
聡子は倒れたまま、ピクリとも動かない。「先輩!」奈央が人をかきわけ、走ってきた。
「すみません」しきりに謝る女性に、聡子は顔を上げ、にっこりして言った。
「大丈夫ですから」立ち上がり、服と手をパンパン払う。
「血、出てるよ」奈央に言われて見てみると、ストッキングに穴があき、ひざ小僧から血が出ている。
「大丈夫大丈夫」聡子は明るく笑ってみせた。「ブーケ、取り損なっちゃった。せっかく私のほうに飛んできたのに」
「先輩」奈央が、まっすぐ聡子を見て微笑んだ。「幸せだよ、私」
「奈央が幸せかどうかは、奈央が決めればいい。だから――私が幸せかどうかは、私が決める」聡子はそう言って、微笑み返した。「おめでとう、奈央」
「おめでとう」瑞恵と、そして少し切なそうに、貞夫も奈央を祝福する。
「ありがとう」純白に輝く奈央がまぶしい。
「写真撮ります。集まってください」カメラマンが参列者に呼びかけ、みんながぞろぞろ教会の前に移動していく。なのに聡子は一人、その場から動けずに風に吹かれていた。
奈央の結婚式のあと、いつもの高級旅館で、露天風呂、食事、お笑いビデオのフルコースを楽しんだ聡子は、すっかりリフレッシュして眠りについた。
ところが翌朝、目を覚ますと電車の時間が迫っている。「まずい……!」
大急ぎで仕度をすませ、駅に向かって猛ダッシュする。
切符を手に駅までたどり着いた時、急行電車はすでに走り出していた。それでも改札を走り抜け、ホームに向かう。
「置いてかないでー!」
スピードを上げて去っていく急行電車に、聡子は夢中で叫んでいた。
周りの人たちが驚いて聡子を見る。売店にいた荷物の配達員までもが、目を丸くしている。
急行電車は停車してくれるわけもなく、ホームに聡子を残して遠ざかっていく。呆然と突っ立っていた聡子は、ハッと人目に気づき、よろよろと近くのベンチに座った。
目に涙がにじむ。ただ無性に悲しかった。しだいに涙がたまっていき、ついにあふれて、涙がぽろぽろこぼれ落ちた。
先ほどの配達員が、ベンチで泣いている聡子を見て、ぎょっとしている。
次から次へと涙があふれて止まらない。今は人目も気にせず、聡子は泣き続けた。
病院の廊下を、白衣の聡子が颯爽《さつそう》と歩いていく。ようやく病院が臨床心理士を雇い入れてくれ、顔合わせのため、副院長の川崎に呼ばれているのだ。
「こちら、新しい臨床心理士の岡村《おかむら》先生です」川崎が聡子に紹介してくれる。
「岡村|恵太朗《けいたろう》です。よろしくお願いします」
今度は男性の心理士さんだ。あきらかに聡子より年下の、爽やかな好青年である。
「緒方です。よろしくお願いします――」
その顔を見た瞬間、聡子の頭にフラッシュバックしてくるものがあった。
『ケチじゃなくてエコ』
インパクトが強すぎて、忘れようにも忘れられない。
――結婚できない男、再発見。
廊下ですれ違うナース達が、恵太朗をチラリと振り返っていく。
「この病院以外、どこかで働いてるの?」ミーティングルームに落ち着いて聡子が聞くと、
「週に三日、カウンセリングルームで働いています。心理士の仕事はそれだけで、あとは全然違うバイトをしてました」
心理士の給料は安いから、生活が苦しかっただろうことは察せられる。
「そう。じゃあ……臨床心理士から見た最近の患者さんについて、何か思うことがあったら、話してくれる? どんなことでもいいから、ざっくばらんに」
「そうですね……あ、患者さんじゃないんですけど、この前、ちょっとびっくりすることがあったんです」恵太朗は、配達員のバイトで、温泉街の駅の売店に荷物を届けに行った時のことを思い出した。「三十代の女性だと思うんですけど、けっこうちゃんとした服装をした女の人が、駅のホームのベンチで号泣してたんです」
「……ベンチで号泣だなんて……めずらしい人がいたのね」
「その人、号泣する前に、電車に向かって『置いてかないでー!』って、叫んだんです」
「!?」タチの悪い偶然のいたずらか、よりにもよってあの時、彼も近くにいたらしい。
「……へえ」聡子は素知らぬ顔を決め込んだ。
「僕はそこに、現代独身女性の悲劇を見ました」
「どうしてその人が、独身だと思ったの?」
「どうしてだろう。なんの理由もなく、独身女性だと思いました」
「どうしてそれが悲劇なの?」
「見方によっては喜劇かもしれません」
「喜劇なわけないでしょう」こめかみがピクリとする。
「やっぱり悲劇です」
「その人のこと、かわいそうだと思った?」
「かわいそうなのか自業自得なのかは、僕にはわかりません」
「自業自得なわけないでしょ!」
「そうかもしれません。でも、どっからどう見ても、幸せそうには見えませんでした」
「勝手に決めないで。たかがベンチでちょっと泣いちゃったくらいで」
乱暴にペットボトルをつかんで水を飲み、イライラとまとめていた髪を下ろす。
その姿を見て、恵太朗が「……あ!」と声を上げた。
正体がバレてしまったらしい。聡子は、ひきつった笑みを恵太朗に向けた。
「……白衣着ると、ずいぶん感じが違うんですね」
「いいの、気にしないで。実は私も、あなたが彼女にフラれたところ見たから」逆襲である。
「私よりケチが大切なんだ、さよならって」
「ケチじゃなくてエコです」恵太朗がむっとして言い返してくる。
「ムキにならなくたっていいじゃない、あれくらいのことで。だからフラれちゃうのよ」
「駅のホームで号泣する人に言われたくありません」
「こっちだって、彼女よりケチのほうが大切な人に、幸せそうじゃないなんて言われたくないから」
「ケチじゃなくてエコです。どうです? 地球に対して優しい気持ちになれば、幸せがやってくるかもしれませんよ」
カチンときて、聡子は残っていた水を一気飲みした。
「私が幸せかどうかは、私が決める」
きっぱり言うと、聡子は空のペットボトルを『燃えるゴミ』の中へ投げ入れた。
「あっ、ゴミの分別!」すかさず恵太朗が指摘する。
「言うと思った」
「は?」
「わざとよ」ニッと笑って、きちんとペットボトル用のゴミ箱に入れ直す。
アラフォー対エコ男。二人は、火花を散らしてにらみ合った。
[#改ページ]
2 39歳のプライドと偏見
三十枚の一万円札を数え終えると、相談員の柳原は言った。
「ご入会、ありがとうございます。緒方様が素敵なパートナーを得られるよう、全力でサポートさせていただきます」
「よろしくお願いします」
奈央の結婚にあせったわけではないが、聡子は『自然な出会い』を捨てることにした。
「念のため、よろしいですか?」
「三十九歳の女の市場価値なら、ちゃんとわかってます。贅沢《ぜいたく》言ってる場合じゃないってこと。私より年収や身長が低い方とも、積極的にお会いしていきたいと思います」
かなり譲歩したつもりだが、柳原は続きを待つかのように、じっと聡子を見つめている。
「……再婚や五十歳の方との結婚も、前向きに考えていこうと思います」
柳原が満足そうにうなずく。写真とプロフィールをパソコンに登録し、聡子の『結婚相談所』入会手続きは無事、完了した。
一方、瑞恵は社会復帰への意欲に燃えていた。
「資格が必要なのは、無理よねえ」と、就職情報雑誌のページをめくっていく。「洗い物や掃除……わざわざ家事みたいなこと外でやらなくてもねえ」と、またページをめくる。
「人気のマスコミ業界? 未経験オッケーだって、どう思う?」
彰夫は返事もせず、ビールを飲みながら食卓にノートパソコンを広げている。
「ねえってば」
彰夫はパソコンの画面から目を離さず、うるさそうに言った。「ずっと専業主婦だった四十歳が、簡単に採用してもらえるわけないだろう。だいたい、なんのためにやりたいんだ」
「そろそろ自分のために、何かをやりたいの」
「洋介、私立入れたのは、誰のためだよ」
「洋介のために決まってるでしょ」
「無理して私立に入れたのも、この家買ったのも、瑞恵が自分のためにしたことじゃないのか?」
「!」今まで、家族のために尽くしてきた、自分の苦労はなんだったのか……。瑞恵は、傷ついて夫を見た。
雲一つない清々しい朝は、ペダルを漕《こ》ぐ足も軽やかだ。聡子が気分よく病院に向かっていると、自転車に乗った男が、スーッと聡子を追い越していった。
「あ」すいすい自転車を漕いでいるのは、新しく来たエコ臨床心理士、岡村恵太朗である。彼も自転車通勤だったのだ。負けてなるものかと、聡子はペダルを漕ぐ足に力を込めた。
「あ」追い抜かされて、恵太朗は初めて聡子に気づいたらしい。
してやったり。聡子が悦に入っていると、再び恵太朗が聡子を追い越していく。
懸命に漕いだせいで、すっかり息が上がってしまった。ハアハア言いながら病院の駐輪場にたどり着くと、恵太朗はすでに自転車を停めている。
「おはようございます」少し勝ち誇った顔なのが小憎らしい。
「……おはようございます」
「大丈夫ですか?」
「何が?」本当はバテバテだったが、平気なふりを装う。
「今日からお世話になります」恵太朗が薄く笑いながら行ってしまうと、聡子は自転車にまたがったまま、「ふぁ〜」と脱力した。
「心理士の岡村です。今日からよろしくお願いします」
恵太朗が爽《さわ》やかな笑顔で精神科のスタッフ達に挨拶《あいさつ》すると、二十五歳の看護師、片山遥《かたやまはるか》と後輩ナースの植村《うえむら》明日香《あすか》は、もう目をキラキラさせている。
「岡村先生、白衣は?」私服のままの恵太朗に、聡子が尋ねた。
「着ません。そのほうが、患者さんと打ち解けやすいと思うので」
「でも、ウチの病院はスタッフだと一目でわかるように、白衣を着ることになってるんだけど」
「わかりました。病院内を歩く時は白衣を着ますが、カウンセリング中は白衣を脱ぎます」
「……まあ、そうゆうことなら」聡子は妥協した。
「それから、先生と呼ぶのはやめてください。僕は医者じゃありませんから」
「でも、ここでは心理士さんも先生って呼んできたんだけど」
「『岡村さん』でいいですか?」と、遥が猫なで声を出す。
「はい」恵太朗がニコッとする。この笑顔がクセモノなのだ。
「……じゃあ岡村さん、まずは室井《むろい》さんをお願いします。会社の人間関係が原因で、出社できなくなって半年になる患者さんよ」
恵太朗のカウンセリングを終えて聡子の診察室に来た室井は、いつになく明るい表情だ。
「心理士さんが替わって不安でしたけど、話しやすいし、安心しました」
室井も、まさか納豆に何を入れるかで盛り上がるとは思わなかった。
「すごくよくなってるって一緒に喜んでくれて、いい心理士さんですねえ」
「そうですか……じゃあ、お薬、今までどおり出しておきますので、飲み続けてくださいね」
喜ばしいことなのだが、どうも恵太朗とソリの合わない聡子は、少し複雑なのだった。
その夜、居酒屋で恵太朗の歓迎会が開かれた。
「よろしくお願いします」とスタッフ全員、まずはビールで乾杯する。
「岡村さん、患者さんの評判、よかったですよ」
「二次会どうしましょう。岡村さん、カラオケ好きですか?」
遥と明日香はちゃっかり恵太朗の両隣に陣取って、しきりにアプローチしている。そんな二人の思惑を知ってか知らずか、恵太朗は腕時計を見ると、あっさり言った。
「僕、九時には失礼します」
「約束でもあるんですか?」遥が、あからさまに残念そうな顔をする。
「十時半に寝ることにしていますから。電気の消費量を抑えたいので」
「ああ、電気代の節約ね」聡子が、ちくっと皮肉る。
「地球温暖化の防止です」
「つまり――」聡子の言葉をさえぎって、
「ケチじゃなくてエコです」恵太朗はきっぱり言った。
恵太朗の思わぬ一面に、スタッフたちは少しばかり驚いている。
店員が大皿料理を運んできて、みんなが用意された割り箸《ばし》を割っていると、恵太朗は鞄《かばん》から年季の入っていそうな箸箱を取り出した。マイ箸である。
「地球のこと、考えてるんですね」恵太朗に話しかけた遥が、うっかり割り箸を落としてしまった。「すみませ〜ん。割り箸くださ〜い」
恵太朗は、店員が持ってきた代わりの割り箸をチラと見て、何か言いたそうにしている。
聡子がみんなの希望を聞いて次々料理を注文していると、「あの」と恵太朗が口を挟んだ。
「何か食べたい物ある?」
「食べられる分だけ注文したほうが、いいんじゃないですか」
スタッフたちは、またしても呆気《あつけ》に取られている。聡子は慌てて言った。
「今日はここ、私がもつから、気にしないでじゃんじゃん食べて」
アネゴ肌の聡子は、スタッフたちからの信頼も厚い。
「ごちそうさまで〜す」
楽しく盛り上がろうという空気をまったく読めないのか、恵太朗が不服そうに言った。
「お金のことを言ってるんじゃありません。もし食べ残したら、それはゴミになるんですよ」
みんながシーンとなる。聡子はそれでも明るく、「大丈夫大丈夫。これくらい食べられるから」と場を盛り立て、店員さんに言った。「とりあえず、それで」
「さあどうだか」と恵太朗はタッパーを取り出した。余ったら持って帰るつもりなのだ。
見た目と中身のギャップが激しすぎて、遥も明日香も引きまくっている。
と、今度はビールをこぼして、明日香の割り箸が濡れてしまった。
「すいませ〜ん割り箸、くださ〜い」店員に頼んでいる明日香に、恵太朗が言った。
「もらわないで、洗ってきたら?」
――この男、絶対結婚できない。完全に場がしらけ、聡子は頭を抱えた。
数日後、聡子は結婚相談所主催のお見合いパーティーに参加していた。男女が一対一で会話をし、決められた時間を過ぎると男性が順に席を移動していく形式だ。
「スタイルいいですね。何か運動されてるんですか?」
最初の相手は、メタボリックを絵に描いたような男性である。
「いえいえ。中学高校の時は、ダンス部だったんですけど」
――人のスタイル褒めてる場合じゃないでしょ。ニッコリしつつ、心の中で突っ込む。
次に来たのは四十代後半の男性で、中学生と高校生の息子が写った写真を出してきた。
「男手一つで育てたもんですから、がさつですが、根はいい子たちなんです」
「しっかりしてそうな息子さん達じゃないですか」
――いきなり二人の母親はないでしょう。ニッコリしつつ、心の中で突っ込む。
何人目かで、多少まともな男性が回ってきた。
「僕も温泉、好きですよ。新婚旅行は露天風呂付きの部屋で、のんびりするっていうのもいいですよね」
「どのあたりの温泉に行かれるんですか?」
――私と一緒に入りたいってこと? ずい分ストレートね。ニッコリしつつ、心の中で突っ込む。
「それでは、ただ今よりフリータイムとなります」司会の声がして、話が中断した。
「何の話でしたっけ。そう温泉」聡子が向き直ると、
「失礼します」男はそそくさと立ち上がり、他の若い[#「若い」に傍点]女性のテーブルへ行ってしまった。他の男性達もお目当ての若い[#「若い」に傍点]女性の席へ移動しているが、聡子のところには誰もやってこない。
――ちょっと! 聡子は心の中で突っ込んだ。
「室井さんですけど、ベックテストをやってみたので、見てください。病状回復してると思います。そろそろ励ましの言葉をかけてみたらどうかと思うんですけど」
テストの結果を見ていた聡子は、え、と顔を上げた。恵太朗は少し性急過ぎる。
「室井さん、ちょっと背中を押せば、会社に行けるようになる気がするんです」
「室井さんは、今のままの室井さんで大丈夫だって声をかけてきたから、ここまでよくなったの。患者さんの背中を押すタイミングを間違えると、かえって悪くなることがあるから、慎重にならないと」
「わかってます」
「だったら、室井さんが自分で現状を変えようって思うまで、待ちましょう」
恵太朗はあまり納得した様子ではなかったが、聡子はそう言って立ち去った。
奈央は結婚生活に満足していた。平日はお互いの生活を尊重する約束で、奈央は以前と変わらず、バリバリ仕事を続けていられる。
奈央が原稿のチェックをしていると、由香里がやってきた。
「森村さん、新庄さんと一緒に取材受けてもらえませんか? 結婚したことで、彼のライフスタイルのコンセプトがどう変わっていくのか、読者も興味あると思うんです」
「わかった。主人に相談してみる」
「お願いします」由香里は丁寧に頭を下げたあと、含みのある口調で言った。「森村さん、さすがですね。まさか結婚で逆転狙ってくるとは、思いませんでした」
「意味がよくわからないけど?」余裕の笑みでかわし、美智子のデスクに歩いていく。
「編集長、特別号の企画書、読んでいただけました?」
美智子は奈央の企画書を手に取り、少し考える顔つきになった。
「仕事も結婚もっていうテーマよね。もう一つ、何かないかな。新庄高文と結婚したあなたならではの企画が、何かあるはずなのよね」
「……はい、考えてみます」
「それが見つかれば、新しい雑誌のコンセプトになるかもしれない」
「! はい」奈央の胸に、新たな闘志が燃えてきた。
「この前のお見合いパーティーですけど、私には合わなかったです」
仕事の帰り、聡子は結婚相談所にやってきた。
「あれは、短時間で自分をアピールするのが上手な人が得をするじゃないですか。だから、私のよさをわかってもらえなかったと思うんです」
柳原はにこやかな笑顔のまま軽くため息をつき、資料を取り出した。
「今日は、緒方様にぜひ御紹介したい男性がいらっしゃるんです」
「はい」聡子の胸が期待に高鳴る。
「五十歳の」
「五十!?」思わず叫んで柳原ににらまれ、慌てて「なんでもありません」とかぶりを振る。
「五十歳の会社経営者で、奥様と死別された方です」
「やさしそうな方ですね」写真を見て、聡子は言った。
五十歳の会社経営者とは、ホテルのラウンジで会うことになっている。お見合いファッションに身を包んだ聡子は、心の準備をするため、本屋に立ち寄って女性雑誌の占いページを開いた。金運も健康運もすっ飛ばし、恋愛運だけを食い入るように見る。
「『恋の女神が、あなたに微笑みかけることでしょう』。よしっ」
雑誌を閉じて出口に向かおうとすると、そこに恵太朗が立っていた。
「やっぱり緒方先生でしたか」
「……びっくりした」
「いつもと感じが違ったので」
「……私だって、プライベートっていう別の顔があるわけだから」
「お見合いでもするんですか?」
「え」ドキッとする。
「一番上の姉がお見合いした時、そうゆう感じでしたから」
「お見合いなんかじゃないから。岡村さんは?」
「仕事です。東京都がやってる悩み相談室の。じゃあ、お見合い頑張ってください」
「お見合いじゃないって言ってるでしょ!」思わず大声を出してしまった。
「――まったく勘弁してくださいよ。今度はちゃんとした人を紹介してください。高いお金、払ってるんですから」
翌日、聡子は道を歩きながら、結婚相談所に電話をかけて柳原に文句を言った。
五十歳の会社経営者は、聡子が精神科のドクターと知るや、涙目になって妻を亡くした喪失感を訴え始めた。終《しま》いには「先生、どうしたらいいんでしょう」と相談される始末だ。
と、聡子の前を歩いていた瑞恵が振り返った。「聡子、何してるの?」
「ううん。じゃあ、失礼します」と携帯を切り、早足で瑞恵と貞夫に追いつく。今日は奈央のマンションに招かれ、三人で遊びに行くところだ。
「ここだ」貞夫が言った。
「奈央の部屋、最上階よ」二十七階を見上げている瑞恵は、首が反り返っている。
「うわぁ……」三人は口を開けたまま、東京湾を見下ろす超高級高層マンションを振り仰いだ。
「ここのスイーツは今一番のおすすめで、この前、雑誌で紹介したばかりなんです」
高文が紅茶とケーキを出してくれる。部屋の中は内装もインテリア家具も聡子たちの想像をはるかに超えた豪華さで、パノラマに開けた窓から見える眺望がまたすばらしい。
「紅茶もいい香り。いいわねえ。私は主人にお茶いれてもらったことなんかないから」と瑞恵。
「この前、取材を受けた時に言っちゃったんです。いつも仕事で忙しいけど、たまの休みには妻にお茶をいれるって」冗談交じりに、高文が言う。
「そんなことだろうと思った」奈央の表情には、愛されている優越感がにじみ出ている。
「さすがライフスタイルプロデューサー」瑞恵が、ねえ、と聡子に同意を求める。
「わからないなあ。ライフスタイルプロデューサーって、なんなのか」貞夫がぼそりとつぶやく。
「奈央のこと、よろしくお願いしますね」聡子は、改まって高文に頭を下げた。
「先輩、何それ」と奈央が笑う。高文は「はい」と笑顔で答え、奈央に向き直った。
「なあ、明日からミラノに出張だから」
「ミラノ? ずいぶん急ね。じゃあ明日の取材、延期しとく」
「悪い。帰る時、連絡するから。じゃあみなさん、ごゆっくり」
高文が行ってしまうと、瑞恵は羨望《せんぼう》のため息をついた。
「いいわねえ、お互いのライフスタイルを認めあってて、相手に気、つかわなくて」
「ただの同居人みたい」貞夫がまたぼそりと言う。
「一人が長いと、気つかう生活なんて想像できないなあ」と言いながら、聡子は雑誌で紹介されたというケーキを一口食べた。「あっ、これおいしい」
「ねえ、子供はどうするの?」瑞恵が奈央に尋ねる。
「子供?……出産はまだいいかな、仕事も楽しいし」
「奈央はそうよね。キャリアもあって、セレブな夫も手に入れて、ホント幸せよね。ね、聡子」
「……うん」ぎこちない返事をする。
「私も社会参加したいな」瑞恵はここ最近、そのことばかり考えている。
「社会参加? どうしたの急に」
「働いて、社会とつながってたいの」
「瑞恵は家族とつながってるじゃない」
「うん……」瑞恵はあいまいな返事をして、聡子に話を振ってきた。「聡子は最近どうなの? 出会いを求めて何かしてる?」
「……え」ドキリ。
「ねえ、結婚相談所とかってどうなの?」
「!」ケーキがのどに詰まりそうになる。「……どうなんだろうねえ」
「行くだけ行ってみれば?」
「……どうかなあ」はぐらかしていると、瑞恵が言った。
「ま、聡子は、結婚しなくてもやっていけるからね。私は一人じゃやっていけないから、結婚するしかなかったけど」
勝手に決めつけられて、聡子は反論した。
「私だって、一人はいやよ。老後は一人じゃさびしいって言ってたのは、瑞恵でしょ」
「老後のために結婚しようと思わないって言ってたのは、聡子でしょ。結婚する理由、ないじゃない」
「……そんなこと……」聡子は急に元気をなくし、残りのケーキを食べ始めた。
外出して遅くなっても、どんなに疲れていても、主婦は夕飯を作らなければならない。
大急ぎで作った料理をテーブルに並べ終え、仕事情報誌をめくっていた瑞恵の目が、ふと『一人で悩んでいませんか?』という一行に留まった。東京都の悩み相談の広告だ。それ以上気にすることもなく次のページをめくっていると、彰夫が帰ってきた。「あー疲れた」
「お帰り。すぐ食べられるから」瑞恵はさっと立ち上がって、みそ汁を火にかけた。
「焼き鳥、食った」彰夫は少しも悪びれずに言い、ソファに座って買ってきたコミック雑誌を読み始めた。
瑞恵は文句を言いたいのをぐっとこらえ、「着替えてきて、シワになるでしょ」と彰夫に声をかけて、先ほど洋介が持ってきた弁当箱を開けた。
やけに重いと思ったら、中身がそっくりそのまま残っている。
「食べなかったの?」
「パン、食った」洋介はそう言うと、テレビをつけ、ゲームを始めた。息子にも、すまなそうな気配はまったくない。
彰夫はソファに寝転び、漫画を読みながら小さく笑っている。
「シワになるって言ってるでしょう」瑞恵が言うと、チッという舌打ちが聞こえてきた。彰夫はしぶしぶ漫画を置き、重い腰を上げて立ち上がった。
「洋介、ごはん食べよう」
今度は息子から、チッという舌打ちの音。その瞬間、瑞恵の中で何かが切れた。
「誰のために作ったと思ってるのよ!」
瑞恵の怒りに驚いた彰夫と洋介が、黙って部屋を出ていく。瑞恵はテーブルに戻ると、洋介の残した弁当を黙々と口に詰め込んだ。
柳原の操作で次々に切り替わるパソコン画面の男性の写真を見ているうち、聡子は絶望的な気分になってきた。
「……他にいませんか?」
「……今、ご紹介した方達に、お会いになってみてはいかがですか?」
「考えてみたんです。私、本当に結婚したいのか。今、結婚したい理由は一つ。出産のタイムリミットがせまってるからです」
「よくわかります」
「私、この方達の子供が欲しいって思えないと思うんです。どう頑張っても」
「……残念です」柳原は深いため息とともに、パソコンを閉じた。「緒方様が条件を変えない限り、ご紹介できる方は以上になります。せめて、あと一年でも早く来てくださっていれば、今とは違う状況になってたと思うんですけどね」
柳原の言葉は、聡子を落ち込ませるのに十分だった。
「どうですか? 何か変わったことはありましたか?」
聡子の診察室に現れた室井は、いつもより明るく、自信に満ちているように見えた。
「今朝、会社に電話をしました」
「……どんなことを話したんですか?」驚きを隠して尋ねる。
「明日、部長に会う約束をしました。これからのことを話してこようと思います」
患者が自ら、立ち直ろうとする勇気を出したのだ。こんなにうれしいことはない。
「すばらしいです。前に一歩、踏み出せましたね」
「カウンセリングで岡村先生、あ、岡村さんが言ってくださったんです。小さな一歩でいいから、そろそろ踏み出す時かもしれないって」
「!」勝手なことを……聡子は憤然として、スタッフの控え室に向かった。
「岡村さん。どうゆうこと? 私は、室井さんが自分で現状を変えようとするのを待ちましょうって言ったはずよ」
「結果的に、室井さん、現状を変えようとしたじゃないですか」
「薬で不安症状が抑えられてただけかもしれない。これからは必ず私に相談して。患者さんの最終責任は、私にあるから」
「僕の判断は、尊重してもらえないんですか?」恵太朗は不満げだ。
「二人三脚でやりましょうって言ってるの」
「僕には、指示通りにしろとしか聞こえません」
お互いの見られたくない姿を知られているせいではないだろうが、恵太朗とは最初から意見がぶつかってばかりだ。
「そんなこと言ってないでしょう。とにかく、これからは勝手なことをしないで」
「どうして怒ってるんですか? 僕が勝手なことをしたからですか?」
「そうよ」
「医者としてのプライドが傷ついたからじゃないですか?」
「……!?」
「患者さんの中には、もっと早く背中を押して欲しかったって思ってる人だっているかもしれませんよ。そうすれば、もっと早く一歩を踏み出せて違った生活を送れてたかもしれないんですから」
恵太朗の言うことを頭から否定できず、聡子は反論することができなかった。
「今までの患者さんの中にもいるんだろうな。私が背中押してれば、もっと早く一歩を踏み出せた人が」
実家にきた聡子は、晴子に作ってもらった夕飯を食べながら、ため息交じりに言った。
「精神科は、患者さんの状態がわかりにくいからなあ。難しいよなあ。大変だ」友康はそう言いつつ、晴子の肩をもんでやっている。
「他人事《ひとごと》だと思って」
「精神科選んだのは聡子なんだから。内科を一年で辞めて精神科行くって聞いた時はびっくりしたけど、聡子が自分の意志で一歩踏み出そうとしてるのがよくわかったから、俺は何も言わなかったんだ。一歩ふみ出すタイミングは本人が決めるべきなんじゃないか?」
「……うん」父としても医師としても尊敬する友康の言葉には、素直にうなずける。
「ありがとう。あー、気持ちよかった」晴子が軽くなった肩を回して立ち上がった。
「よし。風呂でも入るか」
「先生、パジャマ、出してありますから」ニッコリする晴子に、「ありがとう」と微笑み返し、友康は部屋を出て行った。
「あいかわらず、仲、いいねえ」
聡子のためにお茶をいれながら「いいわよお」と晴子が笑う。
「……ねえ、晴子さん。大学病院辞めて、ここでナースやるって決めた時、やっぱり悩んだ?」
「ううん。私はいつも、尊敬できるドクターのところで働けるのが一番って思ってたから」
「晴子さんは、なんでもあんまり悩まないんだろうな」
「悩むわよ。ここでナース始めて十五年経った頃、先生に一緒になってくれって言われた時は、すごく悩んで、なかなかふんぎりがつかなかったんだから」
「へー、晴子さんでも、そうゆうことはなかなか踏み出せないんだ」
「聡子さんも、恋愛はなかなか一歩踏み出せない?」
五年前に終わった恋を思い出し、胸がズキッと痛む。「……昔のことよ」
「結婚したいと思ったの?」
「……その気持ち、彼に言えなかった。言ってたら、今とは違ってたのかな」
「結婚してたかもしれないってこと?」
「……三十九になって、こんなにジタバタしないですんだかも」
「結婚相談所に入ったり?」
「うん」聡子はぎょっとした。「えっ!? なんで知ってるの?」
「やっぱり入ったんだ。この前聡子さんの部屋に行った時、パンフ見ちゃったのよ」
「お父さんには、絶対言わないでよ」
「わかってる」
思春期の頃から聡子のよき相談相手だった晴子には、何でも見抜かれてしまうのだ。
マッサージチェアにもまれていると、聡子の携帯に奈央から電話がかかってきた。
「先輩、明日、あいてる? 紹介したい男の人がいるんだ」
「男の人!?」いきなりのことで、聡子は思わず動揺した。
「主人の会社の顧問弁護士。東大卒。四十三歳」
「独身?」
「バツイチで子供はなし。私の結婚式で先輩を見かけて、ずっと気になってたんだって」
「え〜、性格に問題あったりしない?」
「評判いい人よ。どうする? 会ってみる?」
すでに何を着ていこうか、聡子は考え始めていた。
瑞恵は台所に立ち、黙々と料理を作っていた。自分の人生、これでいいんだ――そう自分に言い聞かせるかのように、トントントントンと野菜を刻んでいく。
鍋がコトコト煮えている間、手際よくフライパンで炒め物をする。できあがった料理を次々とテーブルに並べる。家族のために。文句も言わず。黙々と。
大皿に盛った料理を運ぼうとして、うっかり手が滑った。ハッとして手を伸ばしたが、もう遅い。床に落ちた皿が割れ、せっかく作った料理があたりに飛び散った。その無残な有様が、自分のみじめな姿と重なって見える。
瑞恵はそこに立ったまま、割れた皿や散乱した料理を微動だにせず見つめていた。
「どうもはじめまして。大島《おおしま》です」
車から降りてきた大島は長身で、背の高い聡子が隣に並んでもまったく遜色《そんしよく》なさそうだ。
「じゃあ、私はこれで。先輩をよろしくお願いします」奈央は緊張している聡子を残して、さっさと行ってしまった。
「どうぞ」大島が聡子のために助手席のドアを開ける。そういう動作が自然に身についている感じで、スマートだ。それに、大島は運転技術も確かで安心感がある。
夜景の見える場所に来ると、車を降りて歩くことにした。久しぶりのシチュエーションで、聡子は落ちつかない。
――どうするんだっけ、こうゆう時。もう少し、近寄ったほうがいい?
聡子がぎこちない動きで大島のほうに近づいた時、急に彼が振り返った。
「笑顔で立ち上がったじゃないですか」
「はいっ?」
「結婚式でブーケを取ろうとして、転んだ後」
あの時のことは思い出したくもない。大島も、聡子の無様な姿をしっかり目に焼き付けたはずだ。
「あの時に思ったんです。この人はきっと、誰かに頼ったり甘えたりしないで、一人で頑張ってきた人なんだろうなあって」
大島はそう言って、また歩き出した。その背中に向かって、すかさず親指と人差し指を広げる。
――肩幅オッケー。全てオッケー。
再び大島が振り返り、聡子は慌てて指をしまった。大島は聡子を待ってくれているらしい。聡子が追いつくと、二人は並んで歩き出した。
「聡子さん。ってお呼びしてもいいですか」
「はい」聡子は緊張で硬くなっている。
「今日は楽しかったです。また、会っていただけますか?」
「……はいっ」
大島が足を止め、聡子を見つめた。その視線が、心なしか熱い。
――ちょっと。ちょっとちょっと!
どうしたらいいのかわからず、パニックになりそうになった時、聡子の携帯が鳴り始めた。病院からの電話が、こんなにありがたかったのは初めてだ。
ゆうべのことを思い出すと、知らず知らずのうちに頬がゆるんでしまう。聡子はご機嫌だった。鼻唄《はなうた》交じりに廊下を歩き、すれ違うナースに「おはよう!」と元気よく声をかける。そこへ、遥が少し慌てた様子で聡子を呼びに来た。
「緒方先生、室井さんがお母さんと一緒にいらっしゃってます」
急いで診察室に行くと、母親に付き添われた室井が、頭を垂れて小さくなっていた。
「一度は会社に行こうとしてたんですけど、三日前から部屋に閉じこもるようになりました。薬も飲んでなかったみたいです」
室井は最後まで口を開くことなく、聡子と目を合わせようともしなかった。
ミーティングルームで聡子から室井の病態を聞いた恵太朗は、絶句した。
「しばらく様子を見て、落ちついたらカウンセリング、お願いします」
「……でも、室井さん、かなり回復したように見えて」
「患者さんが本当によくなったかどうかは、簡単に判断できることじゃないから」
「……すみませんでした。もっと慎重になるべきでした」
「ううん、私もちょっと感情的になりすぎた。こっちこそ、ごめんなさい」
恵太朗は無言だ。自分のフライングを反省して、落ち込んでいるのだろうか。
「とにかく、室井さんのことを第一に考えてやっていきましょう」
「何かいいことあったんですか?」
「え」
「二番目の姉がそうなんです。もっと怒るかなぁって思ってもそうじゃない時って、いいことあった時なので。一番わかりやすいのは、男性関係がうまくいってる時ですけど」
ムカッ。聡子の顔が引きつる。やさしい言葉をかけて損した気分だ。
「私はプライベートを仕事に持ちこんだりしないから。じゃあね」
「あの」恵太朗が聡子を呼び止める。「すみませんでした」
「まだ言ってるの?」
「医者としてのプライドが傷ついたんじゃないかなんて、言ったりして。医者としての誇りは、大切だと思います」恵太朗はそう言って、部屋を出て行った。
――案外いい人なのかもしれない。聡子は少しだけ、恵太朗を見直した。
「結婚を前提にしたつきあいなの?」
貞夫の店で夕飯を食べながら大島のことを話すと、瑞恵は目を輝かせて聞いてきた。
「結婚だなんて、そんな。まだ一回しか会ってないのに」
「どうゆうつもりで聡子と会ってると思う?」
「さあ」
「さあじゃないわよ。これ以上いい人、絶対いないんだから。絶対捕まえなきゃ。なんかわくわくしてきた」
「なんで瑞恵がそんなに盛り上がるのよ。ほかに楽しみないの?」
聡子が冗談のつもりで言ったことはわかっているが、今の瑞恵にはグサリとくる。
「ねえ、なんか話があるんじゃなかった?」
「……うん……」
そこへ、奈央がやって来た。なんと大島も一緒である。
「こんばんは。突然すみません。聡子さんがこちらにいらっしゃると聞いたので」
「大島さんですね」瑞恵はすぐにピンときたらしく、興味津々だ。
席を移動し、四人でテーブルを囲むと、貞夫がコーヒーとデザートを出してくれた。
「そうですか。別れた奥様との間には、お子さん、いらっしゃらなかったんですね」瑞恵があれこれ大島に質問を浴びせかける。「ご両親は、ご健在ですか?」
――そこまで聞く? 瑞恵の図々しさに、聡子は少しあ然とした。
「母は亡くなりました。父は、兄夫婦と暮らしています」
「じゃあ万が一、お父様に介護が必要になったとしても、お兄様夫婦が面倒をみてくださるんですか?」
「ちょっと、失礼じゃない」さすがに口を出すと、大島は意外にも瑞恵に味方した。
「そんなことありません。こうゆうことは、ちゃんと話しておくべきだと思います。結婚を前提におつきあいを申し込む前に」
聡子はもちろん、瑞恵も奈央も、カウンターの向こうの貞夫までもが驚いている。
「別れた妻は年下で、仕事を持っていなくて子供もいなかったせいか、僕が全てだったんです。でも、僕は仕事が忙しくて、彼女のことが負担になっていったんです。再婚するなら、自分の世界を持っている女性と一緒になりたいと思います」
「……聡子は、自分の世界、持ってるものね」瑞恵が少し、自嘲《じちよう》気味に言った。
「聡子さん、結婚を前提に、おつきあいをしていただけませんか?」
まだ心の準備ができていない。聡子が声も出せずにいると、奈央が横から言った。
「すみません、こうゆうことになれてないから、舞い上がっちゃったんだと思います」
「今まで待ったかいがあったわね」と瑞恵。
「僕はいつまで待てばいいんだろう」貞夫のつぶやきは、いつものように無視される。
「大島さん、一つだけ、いいですか?」聡子は意を決して言った。
「はい」
「私、三十九歳なんです。子供のことは、どう考えていらっしゃるんですか?」
「授かりものだと思っています。授かったら授かったで嬉《うれ》しいし、授からなかった時は、夫婦二人の生活を楽しめばいいと思います。だから僕は、聡子さんの年齢にはこだわっていません」
結婚相談所で痛い体験をしたばかりなだけに、彼の言葉は素直に嬉しかった。
「ほら、聡子、なんか言いなよ」瑞恵が聡子の脇をつつく。
「……前向きに考えさせていただきます」
「イエスなの? ノーなの?」と奈央。
「……三十九にもなって、こんなふうに言ってもらえるなんて思ってなかったから」
「嬉しくてたまらないってことですから。昔から聡子は、男の人に素直になれなかったり、頼れなかったりで、損してきたんです」瑞恵が余計なことまでしゃべる。
「わかりますよ」大島が言った。「やっぱり女性は、男性と違って、仕事だけしていても幸せにはなれませんからね」
……え? その言葉が、聡子の心に引っかかった。
「そうですよねえ」瑞恵は大きくうなずいている。
「どれだけ世のため人のためになる仕事をしていても、女性として幸せじゃなきゃ、幸せな人生とは言えない。これからですよ、聡子さんは」
聡子はあいまいに微笑んだ。奈央が、そんな聡子の反応を気にしている。
「そうだ。今度、聡子さんと一緒に行きたいところがあるんです。ずっとマンション暮らしだったんですけど、一軒家を持つことを考えているので、モデルハウスを回ろうと思ってるんです。僕の理想の家は、どこにいても家族の気配が感じられる家なんです――」
……やはり聞き流せない。「そうは――」聡子が言いかけた時、「おしょうゆ!」と出し抜けに奈央の大きな声がした。みんなが奈央を見る。
「……おしょうゆ取って、マーくん!」
「しょうゆ? 何にかけるの?」と貞夫がきょとんとする。
「先輩、ようく考えたほうがいいわよ」奈央はそう言って、じっと聡子の目を見つめた。聡子も奈央を見つめ返す。奈央の言いたいことは、わかっているつもりだ。
「え、何? どうしたの?」瑞恵はわけがわからず、聡子と奈央の顔を交互に見る。
聡子は奈央から視線をはずし、大島に向き直って言った。
「大島さん、私はそうは思いません」
奈央が、やっちゃった……というふうに目を閉じる。
「私は今まで仕事中心に生きてきましたけど、幸せじゃないなんて思っていませんでした」
「……失礼なことを言ったのなら、謝ります。過去のことではなく、これからの話をしませんか」大島が言った。
「今までの私の人生を否定する人と、これからのことをどうやって考えればいいんですか?」聡子はきっぱり言い切った。
瑞恵は半ば非難するように、「冷静になりなさいよ。これくらいのことで、可能性を潰《つぶ》しちゃっていいの?」
「これくらいのこと? 私の今までの人生で確かなものって言ったら、仕事だけだったの」
「……確かなもの?」
「瑞恵には、家庭があるじゃない。私には仕事しかなかったから、私を頼ってくれた患者さんのために、一生懸命やってきたの。精神科の患者さんは病状がわかりにくくて、治ったかどうかがわかりにくいし、わからないまま来なくなっちゃう人もいるし、道でバッタリ会った時、声をかけたくてもかけちゃいけないから悩むことも多いけど、私は一生懸命やってきたの」
大島は、黙って聡子の話を聞いている。瑞恵も今はもう、口を挟まない。
「大島さん。やっぱり、あなたとの将来を考えることは、できません」
「……先輩、本当にそれでいいの? 三十九歳ってこと、もう一度よく考えたら?」
「三十九だから、譲れないことがあるの」聡子は毅然《きぜん》として言った。「私は、自分の仕事に誇りを持ってる」
大島が帰っていった後も、店にはまだ緊張感が漂っていた。彼が聡子の言い分を理解してくれた様子だったのが、せめてもの救いだ。
聡子は、ふっと力が抜けた。「……ごめんね、奈央。せっかく紹介してくれたのに」
「なんでああゆうふうにしかできないんだろ。先輩は」奈央はもう、あきらめ顔だ。
聡子はふと思い出し、瑞恵に言った。「あ、何か話したいことがあるんじゃなかった?」
「……ううん、大丈夫」
「どうしてこんな時に人の心配ができるんだろ。先輩は」
大島はやはり素敵な人で、聡子だって、少しの後悔もないわけじゃない。
聡子は部屋に帰って、セットしてあったお笑いのビデオをつけた。が、目はテレビの画面を素通りして、ただボンヤリとあらぬほうを見つめていた。
――結婚が決まれば、先輩も大逆転だったのに。
奈央には信じられないが、それが聡子なのだから、仕方がない。でも、奈央には仕事と結婚以外にもやりたいことがある。
「……どうゆうイミ?」美智子は、奈央の新しい企画書に目を通しながら言った。
「テーマは、仕事も結婚も出産も。出産しても、女を続ける私」
「なるほどね」美智子のアンテナに引っかかったようだ。「……でもインパクトのあるイメージタレントが必要ね。誰を想定してるの?」
「私です。私がやります」奈央は、まだまだ勝ち続けるつもりだった。
瑞恵は緊張の面持ちで、仕事情報誌に広告が載っていた、『心の相談室』にやってきた。
「こうゆうところに来るの……初めてなんです。来るの迷ったんです。『心の相談室』って、どんなところか全然わからなかったですし……」
「よく来てくれましたね。ここでは、どんなことを話しても大丈夫ですよ」
瑞恵より若いその男性は、やさしそうに微笑んだ。思いきって来てよかった――瑞恵はようやく少し緊張が解け、笑みを浮かべた。
「……みんな、遅いね」聡子は時計を見て、首をかしげた。
飲みに行こうとスタッフたちを誘ったのだが、なぜか誰もやってこない。オフの恵太朗を飲み会に誘ったことが原因だとは、夢にも思っていない。
「来ないんですかね?」恵太朗は気にも留めずマイ箸を取り出すと、思い出したように鞄をゴソゴソやりだした。「緒方先生にプレゼントがあるんです。この前のおわびに」
「え、いいわよそんな、プレゼントだなんて」言いつつも、つい頬がゆるむ。たとえ相手が恵太朗でも、男性からのプレゼントなんて久しぶりだ。
「これからも、よろしくお願いします」
恵太朗が差し出したのは、真新しい箸箱である。
――箸か。
笑顔が固まる。当然、ムダなラッピングはされていない。
「ありがとう。こちらこそよろしく」礼を言って受け取り、聡子は店員を呼んで、メニューを次々とめくりながら料理を注文した。
「あの」口を出そうとする恵太朗を、「わかってるから」と手で制する。
「ホントに食べきれるんですか?」
「そんなこと考えながら注文したら楽しくないし、おいしくもないの」
「わかってないじゃないですか」
「好きな物を好きなだけ頼みたいから黙ってて。今日は、私のおごり。お箸のお礼」
「お金の問題じゃありません」
「だったら帰れば?」
「僕が帰ったら、よけいに食べ残しが増えるじゃないですか」
「食べるわよ全部」聡子は意地になって言った。
「あ〜食べすぎた」胃が苦しい。腹ごなしに、自転車を押して歩きながら帰ることにした。
「ホントに全部食べるとは思いませんでした」
「食べるって言ったでしょ」
「三番目の姉も、絶対食べる人でしたけど」
「……何番目のお姉さんまで、いらっしゃるの?」
「三番目です」
お姉さんが三人、恵太朗は四人姉弟の末っ子というわけだ。
「お見合い、どうだったんですか?」恵太朗が思い出したように聞いてくる。
「……お見合いなんかしてないって言ってるでしょう。そんなの岡村さんに関係ないし」
と、何を思ったか、恵太朗が不意に足を止めた。恵太朗がじっと聡子を見つめる。
「緒方先生、つきあってもらえませんか?」
――ちょっと!?
聡子は耳を疑った。つきあうって、岡村さんが私と……?
[#改ページ]
3 思い込み女VS非常識男
恵太朗は、自転車を停め、人気《ひとけ》のない公園に入って行こうとする。
「ちょっと」冷静に、冷静に。「……何しようって言うの? こんな所で。だいたい私、つきあうなんて一言も言ってないからね」
恵太朗にじっと見つめられ、思わず動揺しそうになる。
「何か、勘違いしてません?」恵太朗が言った。
「……全然勘違いなんかしてないから」
公園に捨てられたお菓子の袋や空き缶を拾いながら、聡子は言い張った。
「絶対してました」
「してない」
「してました。ムキになってるのが、その証拠です」
「ま、いいわ。岡村さんがそう思いたいのなら、お好きにどうぞ」
「そうやって形勢不利になると開き直るところ、一番上の姉にそっくりです。あと自意識過剰なところも」
「自意識過剰?」聡子がムッとしていると、恵太朗は植え込みの陰に捨てられていたローテーブルを見つけ、家まで運ぶのを手伝ってくれと言う。
「岡村さんみたいな人が、どうして患者さんには評判がいいんだろう」
「緒方先生だって、患者さんの前じゃちゃんとしてるじゃないですか。プライベートでは駅のホームで号泣してるなんて、誰も思いませんよ」
「その話はもういいから。まだ着かないの? 信じられない。なんで私がこんなこと」
ぶつぶつ言いながら、アパートの外階段を上る。
「ホントに信じられないですよ。まだ十分使えるテーブルを不法投棄するなんて。あ、ここにお願いします」
ようやく部屋にたどり着き、ドアの前にローテーブルを置く。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫よ、これくらい」強がりを言ったが、すでに腰にきている。
「部屋には自分で運びますので。ありがとうございました」
「じゃあ」聡子がきびすを返すと、なぜか恵太朗もついてくる。「……な、何?」
「自転車取りに行くんです。なんだと思ったんですか?」
「別に」
「ホントに自意識過剰ですね」
――やっぱり、いい人なんかじゃない!
スタッフ控え室で聡子が出前のそばを食べていると、恵太朗が入ってきた。
「お箸《はし》、使ってくれないんですか?」と聡子の割り箸を見て、眉《まゆ》をひそめている。
「ああ」すっかり忘れていた。
「ちゃんと使ってくださいよ」
「そんなことしたら、食べるたびに岡村さんの顔、思い出さなきゃならないじゃない」
「使わないなら返してください」
「は? それより、何の用?」
「患者さんです。授業中、突然声が出なくなった男の子が、小学校の養護の先生と小児科に来ました。脳のCTや声帯には異状がないので、精神科でも診《み》てほしいそうです」
そばを食べるのを中断し、聡子は診察室に向かった。患者は大泉俊《おおいずみしゆん》、十歳。聡子があれこれ質問をしても一言も話さず、これでは診察にならない。
「……じゃあ、別の部屋でちょっと待っててね。岡村さん、お願いします」
恵太朗は少年の目の高さまで屈《かが》み、「あっちで待ってようか」と俊を連れて診察室から出て行った。聡子が、付き添いの養護教員に話を聞く。
「おうちの方とは、まだ連絡がついてないんですよね」
「はい。お母さんと二人で暮らしていると聞いています。よくわからないんですが、お母さんは最近働き始めて、お忙しいみたいです」
「そうですか。俊クンの治療は精神科で行っていきたいと思うので、お母さんに、俊クンと一緒に来てくださいとお伝えください」
恵太朗は、院内にあるプレイルームに俊を連れて行った。口は閉ざしたままだが、俊の視線は、オモチャのバットとボールに注がれている。
「野球、好きなの?」恵太朗が尋ねたが、やはり答えはない。
聡子と話を終えた養護教員が迎えに来て、俊が先生に連れられて帰って行く。
「俊クン。今度は、キャッチボールしよ」
声をかけると、俊が振り返った。恵太朗は、その幼い顔に、ニッコリ笑いかけた。
瑞恵はご機嫌だった。『心の相談室』で男性の心理士さんに話を聞いてもらった時のことを思い出していると、掃除機をかけるのも、いっこうに苦にならない。
「私、四十なのにこのままでいいんだろうかって、すごくもやもやしたり、あせったりするんです」
「どうして、そう感じると思いますか?」
「仕事を持ったり、ボランティアをしたり、そうゆう社会とのつながりが何もないからだと思います。社会参加したいけど、何をやったらいいのかわからないんです……主人だって、私なんか、何もできないと思ってるし……」
「ご主人に、その気持ちを話してみたんですか?」
「主人に話したって、ちゃんと聞いてくれません。食事だって、作ってもちゃんと食べてくれないし……」
「一生懸命やっても認めてもらえないって、つらいことですよね」
「!……どうしてわかるんですか? その通りなんです。私は、誰かに必要とされてるって思いたいのかもしれません」
「どうしたらそう思えるようになるのか、一緒に考えていきましょう」
「……一緒に?」
「はい」やさしい微笑みが、瑞恵に向けられる。
「はい!」悩みを理解してもらえたうれしさ。瑞恵のハートは、あの時彼の笑顔に引き込まれてしまった……。
瑞恵はニタニタして、再び機嫌よく掃除機をかけ始めた。
「二〇〇八年の今、女性の幸せは、キャリアも結婚も子供も手に入れること。そして母親になっても、女であり続けること。女性はもともと欲ばりなんです。コンセプトはズバリ、『望むもの全て手に入れて、自分も成長する』。私がこの雑誌で証明していきたいと思います」
編集会議で、奈央は新雑誌のコンセプトについて力強く語った。
「本当に、そんなことできると思います?」由香里が小声で美智子に話している。
「さあ、どうかな」と美智子は意味ありげに微笑んだ。
が、奈央は自信に満ちあふれ、高らかに宣言した。「新しい幸せな女性の象徴は、私です」
その夜、聡子は一人で貞夫の店に夕飯を食べに来ていた。
「うわあ、奈央だ。中学高校の時から考えると、奈央が一番変わったよね、中身も外見も。昔は引っ込み思案で太ってたなんて、全く想像つかないよね」
聡子が見ているのは、奈央と高文の記事が載っている、例のアラサー雑誌だ。
「昔はさあ、奈央とマーくん、結婚の約束してたんでしょ」
「……そんなの小学生の時の話だよ」
「ねえ、マーくんは結婚のこと、どう思ってるの?」
「……したいけど、ホントに好きな人としかしたくないから」
「気長に待ってる感じだよね。いいよねえ、男は」無意識のうちに、ため息が出る。
「男はいくつになっても父親になれるけど、女にはタイムリミットがあるもの。だから早く結婚って思ったけど、簡単に好きな人ができるわけじゃないし。なんか年々、人を好きになりにくくなってる気がするなあ。私はずっと一人かもしれないって思い始めた」
「……俺もそうかもしれない」貞夫が独り言のように、ぽつりとつぶやく。
「この『かもしれない』っていうのが、やっかいなんだよね。まだ結婚できるかもっていう期待があるってことだから。あーあ、この先、結婚するのかしないのかがわかったら、こんな中途半端な気持ちでグチグチしなくてすむのに。私って弱い女よね」
聡子の話に半分耳を傾けながら、貞夫は、カウンターの内側にこっそり貼ってある写真を見つめていた。小学生の頃の貞夫と、子供らしくコロコロ太っている奈央が、仲よさそうに手をつないでいた。
貞夫の店からの帰り、聡子は占いの館に寄った。
「あなた、強いね」おばさんの占い師が言う。
「えっ、私の結婚運、強いってことですか?」
「あなたが強いの。人に頼らなくても、やっていけちゃう」
「出会いはどうですか? 男性との出会い」
「出会いはあるんだけどねえ」占い師が、チラリと聡子を見る。「いい人に出会っても自分でダメにしちゃったり、いい出会いってことにすら気づかない」
「どうしたらいいんですか?」
「思い込みを捨てなさい」
「思い込みですか? 私はあんまり思い込み激しくないし、けっこう柔軟だと思います」
「それがすでに思い込みだよ」
「そうですかぁ?」聡子は不信の目で、占い師を見やった。
翌日、診察室前の廊下に男の子が一人、所在無げに立っていた。先日の少年である。
「こんにちは。お母さんと一緒に来てくれたかな」聡子が声をかけても、相変わらず返事はない。
「お母さんと一緒じゃないと、診察が受けられないのよね」
と、少年が聡子の背中越しに向こうを見た。いつの間にか、恵太朗がいる。
俊が聡子の脇をすり抜け、恵太朗のところに走っていく。
「こんにちは」恵太朗はニコッとして時計を見ると、屈んで俊と目の高さを合わせて言った。
「三十分なら時間があるから、キャッチボールやる?」
きっかり三十分後、恵太朗がミーティングルームに戻ってきた。
「俊クン、何しに来たんだろう」聡子が首をかしげていると、
「またおいでって、言っときました」
「え、どうゆうつもりなの?」
「俊クンが声を出せないのは、何か抱えてる問題があるからですよね。それを見つけるために、積極的にかかわっていくべきだと思います」
手応《てごた》えはある。ナイスキャッチを褒めればうれしそうな顔をするし、何よりこうして恵太朗に会いに来てくれた。ただ、清掃係がゴミ箱から空きビンの入った袋を取り出した時、ガチャガチャというビンの触れ合う音に過剰反応したのが、ちょっと気にかかる。
「保護者の許可なしに精神科で診ることはできないの。子供が精神科にかかると、親は育て方が悪かったんじゃないかって、自分を責めたりすることがあるの。勝手に診たりしたら、トラブルになるかもしれないでしょ」
聡子は半ばとがめる口調で説明したが、恵太朗は納得できないようだ。
「親が一緒に来ないなら、しょうがないじゃないですか」
「気持ちはわかるけど、自分の子供を病気扱いされたって怒鳴り込まれたケースもあるわ。とにかく、俊クンと積極的にかかわることはやめてください」聡子は言って、話を打ち切った。
次の休日、達也とマキが、仕事の間、瑠花を預かってほしいと聡子のマンションにやってきた。
「悪いね、急に」
「しょうがないわよ。お父さん達、青森までお葬式なんだから」
「ホントにすみません。お休みのところ」
「どうせ予定なんてないんだろ」
「私、忙しいんだから」聡子は言い返したが、まるで説得力がない。何しろ、つけっ放しになっているテレビ画面には、お笑いのビデオが流れているのだ。
「これじゃあ、男もできないよな」達也はいつもの憎まれ口を叩《たた》いたが、なぜか聡子は無言だ。
「……どうしたの? 黙っちゃって」
「デートの予定は全くないし、このまま一生、一人かも」
「まさか、一人で生きていくって決めたの?」
「決めてないけど、覚悟を決めつつあるっていうかね」
「結婚や出産あきらめても、恋愛っていう道もありますからね」とマキが言う。
「恋愛もなかなかねえ。この歳でドキドキするなんて、めちゃくちゃ難しいんだから」
心臓がドキドキするなんて、最近では、階段を駆け上がった時くらいだ。
カウンセリングルームに入る前、瑞恵はもう一度、コンパクトで顔を入念にチェックした。化粧を変えたおかげか、いつもより数段、若やいで見える。
「こんにちは。今日は、どこかにおでかけですか?」彼が微笑みで迎えてくれる。
「いえ、特に」
メイクばかりでなく、瑞恵は服装にもかなり気合いが入っている。彼は一瞬戸惑った顔をしたが、すぐにまた「そうですか」と微笑んだ。
瑞恵は椅子をできるだけ彼のほうへ寄せ、「よろしくお願いします」とニッコリした。
「……あれから何か、気持ちに変化はありましたか?」
「人って、自分の話を聞いてくれる人が一人いるだけで気持ちが前向きになれるんですね。岡村さんのおかげです」
引き気味の恵太朗へ、瑞恵は大きく身を乗り出した。
「ぶつけただけで、お医者さんもすぐよくなるって言ってたからね」
公園の遊具で瑠花がちょっとした怪我をしてしまい、聡子は愛斉会総合病院で瑠花の手当てをしてもらった。瑠花は痛がる様子もなく、聡子が買い与えたジュースを飲んでいる。
そこへ、恵太朗がやってきた。聡子と瑠花を見てびっくりしたように、
「あれ……お子さんですか?」
「はい?」
「聡子おばちゃん、ごちそうさまでした」聡子がいつもきちんと挨拶《あいさつ》させるようにしているので、瑠花はそこいらの若い連中より、ずっと礼儀正しい。
「おばちゃんでしたか」
むっとして「伯母《おば》です」と訂正し、ジュースのパックをゴミ箱に捨て、歩き出す。
「このおにいちゃん、誰?」瑠花は恵太朗に興味を持ったらしい。
「このおじちゃんは、ここで働いてる人なの」
「なんでわざわざおじちゃんて、言い直すんですか」
「なんで来てるの? オフなのに」今日は院内にいても、お互い私服のラフな恰好《かつこう》だ。
「……ちょっと気になることがあったので」
「気になることって?」
「……もしかしたら、今日も俊クンが来るかもしれないって」
「ちょっと。この前、話したことわかってる?」
聡子は休憩コーナーに場所を変えて、改めて恵太朗に注意を促すことにした。紙と色えんぴつをもらった瑠花は、おとなしく絵を描いている。
「もしかして岡村さん、俊クンのことだけじゃなくて、患者さんとの距離のとり方が近すぎるってことない?」
「……あ」
「思い当たること、あるの?」
「僕、ここ以外で悩み相談の仕事をやってるじゃないですか。そこに相談に来ている四十歳の主婦の方が、僕に好意を持ってるみたいなんです」
「自意識過剰なんじゃない?」
「……もういいです」
「冗談よ。患者さんに好意をもたれることはよくあることだけど、うまく距離をとるべきよね」
「気をつけてるつもりなんですけど」
「四十かぁ。私と同じ歳の人が、あなたに好意をねえ」
「えっ、四十なんですか? 緒方先生」
「今のところ三十九だけど、その驚きは、どうゆう意味?」
「もっと若いのかと思ってました」
「そお?」ちょっとうれしくなる。
「まさかそんなに大人だったとは」
「大人げないってこと? 私」喜んで損した。
「僕、一番上の姉が一番苦手なんですけど、今年四十なんですよね」
「何が言いたいのかな。岡村さんは、いくつなの?」
「三十三になりました」
「六つしか違わないんだ」
「しか? 緒方先生が大学一年の時、 僕は中学一年生ですよ。 それってかなりの歳の差ですよね」
「彼女がホントのあなたを知ったら、がっかりするでしょうね」
「彼女?」
「あなたに好意を持ってる四十歳の女性よ」
えんえん皮肉の応酬が続きそうな気配になった時、聡子の携帯が鳴った。瑞恵だ。
「聡子の弟さんの美容室って、 雑誌に載ったことがあるようなお店よね。 紹介してもらえないかな」
「いいけど、瑞恵の家から、遠いんじゃない?」
「たまにはオシャレなところに行ってみたいのよ」
「わかった。弟に言っとく。あと場所の地図、ファックスしておくね」
携帯を切って、「瑠花、帰るよ」と立ち上がった。聡子が電話している間、瑠花は恵太朗に相手をしてもらっていたらしく、「見て見て」とうれしそうに描いた絵を見せている。
「うわぁ、すごいねえ。今度は何かなあ」
「帰るよ」もう一度声をかけたが、瑠花はいやいやをする。「おにいちゃんと遊んでる」
四十歳の主婦から三歳の子供まで、すっかりあの笑顔にだまされてしまうようだ。
「おじちゃんは、忙しいの」瑠花を連れて帰ろうとしていると、外科のドクターが顔を出し、「入院中の患者さんで診てもらいたい人がいるんだけど」と、聡子に頼んできた。
「あ……弟の子供、預かってて」
振り向くと、瑠花は恵太朗に遊んでもらって楽しそうにしている。しかたなく恵太朗に瑠花の世話をお願いし、小一時間ほどして戻ったが、瑠花はまだ遊び足りないらしく、今も恵太朗とじゃんけんをして、キャッキャッと笑い声を立てている。
聡子が憮然《ぶぜん》としていると、マキが瑠花を迎えにやって来た。
「ホントにゴメンネ、怪我させちゃって。仕事、大丈夫なの?」聡子が詫《わ》びると、
「今日は帰っても大丈夫だって言われましたから。あの、こちらの方は?」
「うちの臨床心理士の岡村さん。瑠花と遊んでくれてたの」
「ありがとうございました。義姉《あね》が、お世話になっております」
違う意味で、マキは恵太朗に興味津々のようである。
翌日、聡子と恵太朗は、副院長の川崎に呼び出された。
「診察を受けてない子供、つまりウチの患者じゃない子供と病院内でかかわって、何か問題でも起きたら、どうするつもり」
きのう聡子たちが帰ったあと、恵太朗は病院にやってきた俊とキャッチボールをしたらしいのだ。聡子は申し訳ありませんと頭を下げたが、恵太朗のほうは納得がいかない顔で、
「……でも、何か助けを求めてここに来てるかもしれないじゃないですか。患者さんじゃないからって、何もしないわけにはいきません」
「岡村さん」聡子が厳しい声で制すると、恵太朗はようやく黙った。
「もし何かトラブルが起きたら、岡村先生個人の問題じゃすまないんだよ。病院全体の責任問題になるんだから」
「二度とこうゆうことがないようにします。申し訳ありませんでした」
副院長室を出ると、廊下を歩きながら、聡子は強い口調で恵太朗をたしなめた。
「あれほど言ったじゃない」
「困ってる人を見て見ぬふりしろって言うんですか?」
「まずは母親と一緒に診察を受けてもらわないと、トラブルになるって言ってるの。勝手なことしないで」釘《くぎ》を刺して、聡子はズンズン先を歩き出した。
その頃、瑞恵は達也の美容室へ来ていた。
「その心理士さん、もしかしたらお義姉《ねえ》さんの特別な人かもしれないって思ったんですよね」達也のアシスタントをしながら、マキが話している。
「心理士さんて、仕事が大変なわりに、お給料安いんじゃなかった?」と達也。
「だからもしお義姉さんが心理士さんとつきあったら、格差恋愛ってことですよね」
――私が心理士さんとつきあったら……。
瑞恵がつい妄想モードに入っていると、達也がせせら笑うように言った。
「若い男なんだろ? 四十女を相手にするわけないだろ」
「そんなことないんじゃない?」瑞恵は思わずムキになって反論した。
「え」瑞恵の剣幕に驚いたのか、鏡の中で達也とマキが目を丸くしている。
「じゃあ、その心理士さんのこと、聡子に聞かなきゃ。ホントに特別な人じゃないのか」瑞恵は慌てて、作り笑いで取り繕った。
「特別な人よ」聡子はワインを飲むと、断言した。
「え!?」瑞恵と奈央、貞夫が同時に声を上げる。
「ホントに特別変な人なんだから」
「へえ、そうゆう心理士さんもいるのね」瑞恵の『心理士さん』とは大違いだ。
「知り合いに心理士でもいるの?」聡子が意外そうに尋ねる。
「ううん、いないよ」
「瑞恵先輩は、どうなんですか?」奈央が瑞恵の顔をのぞきこむ。「髪型と口紅、変えました?」
「え、わかる?」
「わかりますよ」「全然、わからなかった」奈央と聡子が同時に言った。
「まさか、恋でもしてるんですか?」
「恋? そんな大げさなもんじゃないけど、ちょっとね」
「えっ、何、どうゆうこと? 人妻なのに」
「ダメだよ、そんなの」と貞夫も慌てふためいている。
「ちょっとくらい、ときめいたっていいじゃない」
いろいろ聞き出そうとしたが、性格のいい、若い男というだけで、あとは教えてくれない。
「いいと思います。結婚しても、子供産んでも、女を忘れないっていうライフスタイル」
奈央のそういう感覚には、聡子はイマイチついていけない。
「何? 結婚しても子供産んでも、女を忘れない? どれだけ欲張りなのよ」
「奈央は子供、まだ考えてないんでしょ」瑞恵が尋ねると、奈央の答えは意外にも、
「ううん、できるだけ早く欲しい」
「!……なんで急にそう思ったの?」貞夫が動揺を隠して聞く。
「好きな人の子供が欲しくなったってことでしょう?」と聡子。
「それ以上に自分の子供が欲しいと思ったんだ。子供を持つと自分が成長できそうだし」
「ずい分、自分中心だね」と貞夫。
「そりゃそうよ。今や出産だって自己実現のひとつなんだから」
「私、ようやくわかったの。結婚って、才能がなきゃできないのよ」聡子が、妙に悟りきったように言う。
「確かに、先輩が男に好かれる女を演じたとこ、一回も見たことないけどね」
「そこまでして、彼氏がほしいとは思えないんだもん」
「女なら、誰でもやることじゃない」
「私はできない」
「三十九年できなきゃ、これからもできないわよねえ」と奈央は妙に納得している。
「私のことわかってくれる人がいないなら、一人で生きてったほうがいいかも」
「運命の人がいるかもしれないのに」
奈央の言葉に、瑞恵の妄想モードがスイッチ・オンした。
「――運命の人か……偶然、思いもかけないところで再会したりするのよね」
その時、ドアが開いて客が入ってきた。瑞恵は一瞬期待したが、現れたのは、高文だ。
「たまたま近くで仕事だったので」奈央のお迎えに来たらしい。
「いいわねえ。あ、そろそろ帰らなくちゃ」
「私も。お笑い番組、録画セットしてくるの忘れたから」
瑞恵と聡子が席を立つ。レジに入った貞夫の耳に、奈央と高文の会話が聞こえてきた。
「ごはんは?」
「久しぶりに青山の『ラトゥール』に、行かない?」
「せっかくだから、ここで食べていけば?」
「どうしても鴨のポワレが、食べたい気分なんだよね」
「だったらしょうがないわね。ここにはないから」
「あるよ」貞夫が言った。「鴨のポワレ、作るから」
料理人の意地というより、男の意地かもしれない。
「うまい。妻がよく来ているだけのことはあります」高文は驚きの表情をあらわにして、貞夫の料理を褒めちぎった。「味は完璧《かんぺき》なのに、もったいないな。店の内装や外観に、こだわりが感じられないんですよね。この店のコンセプトはなんですか?」
「コンセプト?」
「俺にできることがあれば、なんでもやりますよ。まずは外観をなんとかしたほうがいいんじゃないかな」
「けっこうです」貞夫は挑むように言った。「大切なのは、中身だから……料理も男も」
高文は口をつぐみ、じっと貞夫を見返している。
「この店は、このままでいいんじゃない?」奈央は二人の微妙な空気に気づかず、料理に舌鼓を打ちながら言った。
「そうだろ?」奈央が味方をしてくれたことが、貞夫はうれしい。
「どこかイケてない感じが、マーくんぽくて」
「え」貞夫はがっかりした。
「マーくんが、私のことを好き?」奈央は高文の想像を一蹴《いつしゆう》した。「子供の頃からずっと仲良かったからね」
「そうゆうんじゃなくて、女として好きなんじゃないの?」
「ありえないって。そんなことより、産婦人科に行こうと思ってるんだ。大丈夫だと思うけど、一応、ちゃんと妊娠できる状態なのかどうか、調べてもらおうと思うの」
「子供か……」
「……考えてなかった?」ふと不安になる。
「いや、新しいライフスタイルを提案する材料になるかもな」
「え……?」
「いいね子供」と、ふざけて奈央を抱きしめる。
「ちょっと」奈央は先ほど夫に感じた違和感から目を背けるように、高文とじゃれ合った。
「人生ってわからないものよねえ。地味で目立たなかった奈央がセレブな人と結婚して、聡子みたいにチヤホヤされてた人が、一人で生きていくかもしれないなんて言ってるんだから」奈央と高文が載った雑誌を見ながら、瑞恵は一人でしゃべり続けている。
「じゃあ聡子さんに老後も安心の保険、すすめてみてくれる?」
「聞いてたの?」
彰夫はてっきりコミック雑誌に夢中になっているものと思っていた。
「プラン立てとくから、よろしくな」
「そうゆう時だけ、私を必要とするんだから。ま、いいけど」口ではそう言いつつも、瑞恵は機嫌よさそうにキッチンに立つと、洋介が持ってきた弁当箱を開けた。
「食べなかったの?」
「パン、食った」
「も〜、そうゆう時は言ってくれればいいのに」
いつもならキーキーうるさく怒り出すところだが、今日はどうも様子が違う。
「お母さん、何か変じゃない?」洋介が気味悪そうに、父親に耳打ちする。
「そうか?」彰夫のほうは妻の変化など、明日のお天気ほども気にしていない。
「ありがとう。これで老後も安心だぁ」
瑞恵が病院まで届けてくれた保険のプランをパラパラめくりながら、聡子が言った。
「これ、ロビーで見つけたんだけど、やっぱり検診って受けといたほうがいいのかなあ。四十だし」瑞恵が見ているのは、乳ガン検診のパンフレットだ。
「乳ガンと子宮|頸《けい》ガンの検診は、受けるべきよ」
「やっぱり聡子は、受けてるんだ」
「ううん、私は全然受けてない」
「え、医者がしなくてどうするのよ。もしかしたら、子供産むこと考える時がくるかもしれないんだし」
「くるかなぁ」と、聡子は自分のことなのに半信半疑である。
「ねえ、この前、養護の先生と一緒に来た十歳の男の子、見なかった?」
恵太朗は、近くを通りかかった遥に尋ねた。病院にやってきた俊に、仕事が終わったらキャッチボールをしようと約束しておいたのだが、姿が見えない。
「ああ、帰ったんじゃないですか?」
鬱《うつ》になった中学生の男子が、問題のあった母親と離れ離れに暮らしている≠ニいう自分たちの噂話を偶然俊が聞いてしまったことが原因だとは、遥たち自身、知る由もない。
恵太朗はどうしても気になってしまい、仕事帰りに、俊のアパートにやってきた。大泉の表札を見つけた時まで迷っていたが、思いきってチャイムを押した。
反応がない。もう一度押すと、小さく開いたドアの隙間から、俊が顔を出した。恵太朗に驚いて、目を見開いている。
「……こんにちは。帰ったから、どうしたのかなって」
奥のほうから、母親らしき「俊」という声がする。
「すみません。愛斉会総合病院で、心理士をしている岡村と申します」
恵太朗に中を見せたくないのか、俊が慌ててドアを閉めようとした拍子に、玄関に並べてあったお酒の空きビンが大きな音を立てて倒れた。すると、俊がビクッと体を震わせ、過剰な反応を見せた。いつかキャッチボールをしていた時と同じだ。
「……お母さん、いらっしゃるよね」お酒の空きビンは、台所にも何本も転がっている。
俊はうつむいたまま、恵太朗を押し出そうとする。
「ちょっと待って」恵太朗はすばやくメモに携帯の番号を書き、俊に差し出した。「何か困ったことがあったら、電話して」
俊は黙ってメモを手に取ると、恵太朗のほうを見ずにドアを閉めた。
翌日、恵太朗を医局に呼び出した聡子は、とうとう声を荒らげて叱責《しつせき》した。
「俊クンの母親から家に来るなって、クレームの電話があったそうだけど、どうゆうこと」
「昨日、病院に来たのに、いつのまにか帰ったので、なんかおかしいなと思って」
「だからって、いきなり家に行くなんて非常識よ。だいたいどうして、家がわかったの?」
「……小児科でカルテを」
「それって個人情報を勝手に利用したってことよ。わかってる? あなたの行動の責任は私にあるの。これ以上勝手なことをしたら、かばいきれないから」
沈黙の中でにらみあっていると、マナーモードにしてある恵太朗の携帯が震えだした。震動は止まる気配がなく、妙に胸騒ぎがして、恵太朗はポケットから携帯を取り出した。「……ちょっとすみません」
「大事な話をしてるのよ」
聡子の苛立った声が聞こえるが、嫌な予感はますます大きくなる。携帯に出ると、激しい息づかいだけが聞こえてきた。
「もしもし?」
やはり激しい息づかいだけ。泣いているのだ。恵太朗はピンと来た。
「俊クン!? どうしたの!? 家にいるの!?」
息づかいが、いっそう激しくなる。
「すぐ行くから」携帯を切って慌ただしく出ていこうとしている恵太朗に、聡子は一応、聞いてみた。「どうしても行くの?」
「はい」何をもってしても、恵太朗の考えを変えることはできそうにない。
「私も行く」聡子は頭痛を抑えながら言った。「勝手なことされちゃ困るから」
二人がアパートに着くと、荒れた部屋の中に母親が倒れていた。
聡子がすぐに母親に駆け寄り、呼吸の確認をして声をかける。「大丈夫ですか?」
反応がない。「岡村さん、救急車」言いながら、気道を確保する。
急いで携帯をかけようとした恵太朗の手を、俊がつかんだ。懸命に止めようとしている。
「俊クン、お母さんを助けるためよ」聡子は、なぜなのか理由はわからないまま説得するが、俊は不安そうな表情で、恵太朗の手をぎゅっとつかんでいる。「俊クン」
俊の顔と倒れた母親を交互に見ながら、必死で答えを探していた恵太朗が、やがて言った。
「……大丈夫だよ。お母さんと離れ離れにさせないから」
恵太朗がうなずくと、俊はようやく安心したように、手を離した。
俊の母親は、点滴を受けて眠っている。
「俊クンもわかってると思うけど、お母さん、何かつらいことがあって、お酒を飲みすぎちゃったみたいだね」俊に付き添っている恵太朗が、やさしく言った。「お母さんの病気は、俊クンのせいじゃないからね」
聡子は、出入り口のところから、黙って二人の様子を見守っている。
「俊クン、ずっとつらかったね。ちゃんと治して元気になれば、お母さんも俊クンも、また一緒に暮らせるよ。ここで絶対治すから、僕を信じて」
俊は泣きながら恵太朗を見上げると、口を動かした。「……ありがとう」
二人が初めて聞く少年の声は、まだあどけなかった。
「申し訳ありませんでした」
恵太朗のことで副院長室に呼ばれ、頭を下げるのは何度目だろう。
「今回はたまたま危険な状態だった母親を救えたわけだけど、だからって見過ごすわけにはいかないから。勝手に個人情報を利用した件もあるし、岡村先生には辞めてもらうよ」
「…………」
「遅いな岡村先生。呼んであるのに」
「副院長」聡子は意を決して言った。「岡村さんは、患者さんとの距離のとり方が近すぎたりする面があるかもしれません。でも、助けを求めてくる人の気持ちに寄り添おうとする姿勢は、医療現場で働く者として、間違ってるんでしょうか」
「……間違ってないけど、間違ってるんだよ。わかるだろう?」
「お願いします。もう一度、チャンスをください」聡子は先ほどよりも深く、頭を下げた。
「岡村さんのことは、私が責任を持ちますから」
「岡村先生を辞めさせないでほしいってこと?」
やり方はよくなかったかもしれないが、少年の心の傷を探り当てたのは、恵太朗の人を思う心、そして仕事への情熱だ。
「なかなか心を開かなかった俊クンが、岡村さんのことは信頼しています。岡村さんの代わりをできる心理士は、ほかに誰もいないと思います」聡子は自信を持って断言した。
川崎は、しぶしぶ聡子の意見を聞き入れてくれた。というより、聡子の迫力に負けたのかもしれない。屋上でホッと一安心していると、恵太朗がやって来た。
「緒方先生。ありがとうございました」
「……何が?」
「僕のこと、かばってくれて」
「俊クンのためよ。岡村さんがいなくなったら、俊クンが困るでしょ」そう言って、聡子は小声で付け加えた。「……私も、ちょっとは困るけど」
恵太朗が、え、という顔になる。
「……いつのまにか勝手に思い込んでることって、あるのね。子供の診察は親の許可を得てからやったほうがいいって思い込んでたせいで、私は大切なことに気付けなかった。俊クンの抱えてる問題を早く知ることができたのは、岡村さんのおかげ。ありがとう」
頭を下げる聡子を、恵太朗は胸打たれたように見ている。
「……言っとくけど、岡村さんのやり方が、いつもいい結果を生むとは限らないからね」
「はい」恵太朗は心してその忠告を聞いた。
気持ちのいい風が、まるで二人のわだかまりを吹き飛ばすように、屋上を渡っていく。
「……ねえ。つきあってくれる?」
「えっ……」どぎまぎしている恵太朗をじっと見つめ、聡子が言った。 「何か、勘違いしてない?」
「全然勘違いなんかしてませんから」
「絶対してた」
「してません」
「してた。ムキになってるのが、その証拠」
「別にいいです。緒方先生がそう思いたいのなら、お好きにどうぞ」
聡子は勝ち誇った顔でニッコリ笑うと、恵太朗に出前のざるそばを差し出した。「どうぞ、召し上がれ」
「どうせ一人分だけ出前頼むの悪いと思ったから、二人分頼んだだけですよね」
「よくわかったわね」
「そんなことだろうと思いましたよ。実家にいた時、二番目の姉によくつきあわされて二人分注文してましたから」自分の箸を取り出しながら、ふと聡子を見ると、恵太朗がプレゼントした箸箱を手にしている。
「いただきます」聡子は知らん顔で箸を取り出し、手を合わせた。
「いいんですか? 食べるたびに僕の顔、思い出さなきゃならないですよ」恵太朗も、うれしいくせに、わざと悪態をつく。
「そんなの慣れれば、いちいち思い出さなくなるわよ。それともいちいち思い出してほしいわけ?」
「ああ言えばこう言う人だなあ」
「三番目のお姉さんにでも似てるんじゃない?」
「なんでわかったんですか」
「あー、おいしい」聡子は楽しそうに、おそばをすすった。
数日後、病院のロビーで、思いもかけない運命の再会があった。
「岡村さん」瑞恵が驚きのあまり固まっていると、気づいた恵太朗が、ニッコリしながら近づいてきた。
「こんにちは」「運命ですよね」恵太朗の挨拶に瑞恵の声がかぶる。
「え?」
「白衣姿もまたいいですね」
「……そうですか?」戸惑いつつも、笑顔を作る。
瑞恵は、あ、と声を上げ、恵太朗の白衣についた糸クズを取り払った。
その時、ロビーに続く廊下を、聡子が歩いてきた。
「……!?」聡子は思わず立ち止まった。なぜか瑞恵と恵太朗が、親しげに談笑している。
そのとき、ハタと思い出すことがあった。恵太朗に好意を持っているらしいという、四十歳の主婦。そしてまた、聡子はハタと思い出した。若い男性にときめいているという瑞恵。誰か心理士を知っているような口ぶりだったのも、これで合点がいく。
あんなにこやかな恵太朗は見たことがない。聡子は少し動揺しながら、黙ってその場を立ち去った。
「よろしくお願いします」聡子は、保険に必要な書類を瑞恵に渡した。
「じゃあ、主人に渡しておくから」
「……ねえ。ちょっとときめいてる人って、心理士? ほら、この前、心理士のこと、ちょっと知ってるみたいだったし」
「……うん。それが、さっきロビーでバッタリ会っちゃったのよ。ここでも働いてるんだって」
「岡村さん?」
「え、なんでわかったの?」
「男性心理士は、岡村さんしかいないから」
「そう……じゃあ、聡子が言ってた『変な心理士』って、岡村さんのこと? 信じられない。あんなに穏やかでやさしい人なのに」
「やさしい?」
「私の話、なんでも受け止めてくれるし、私のこと、小さなことでも理解してくれようとするし」
うれしそうに話す瑞恵を見ていると、聡子はなぜか、心穏やかでいられなくなった。
「瑞恵みたいな心理士への愛情や信頼の気持ちって、陽性転移っていって、治療過程でよくあることなの。心理士から見れば、一般的なことだから。あんまり瑞恵が心理士に好意を持ちすぎると、カウンセリングがやりづらくなって、心理士がチェンジしちゃうこともあるからね」
「……聡子、私にヤキモチ焼いてるんじゃない?」瑞恵が、意地悪く言った。
「ヤキモチ?」
「岡村さんが、私によくしてくれてるから」
「は? どうして私がそんなことでヤキモチ焼くのよ」聡子はうろたえているという自覚のないまま、立ち上がった。
確かに、聡子は恵太朗のことを見直してきている。が、それはあくまで仕事上のパートナーとしてのことだ。
「ヤキモチって何。まったく」
聡子は、ぶつぶつ言いながらマンションに帰ってきた。だから、気づかなかったのだ。男の影が、マンションに入って行く聡子をずっと見つめていることに……。
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4 気の合う男VS昔の男
何か用事でもあるのか、聡子が慌てて仕事の後片付けをしている。
「お急ぎですか?」と遥が声をかけると、聡子はウキウキして言った。
「うん、ライブのチケットもらったの」
ようやく緒方先生にもそんな人が……。「デートですか?」明日香が期待して聞くと、
「ううん、一人」とニコニコしている。
二人とも言葉がない。「……盛り上がるといいですね」遥が言った。
「そうなのよ。お先にね」あわただしく出て行く聡子に、遥と明日香が「行ってらっしゃ〜い」と手を振った。
その日のお笑いライブは、今まで聡子が見てきた中でも最高の出来だった。
思わず立ち上がって拍手を贈っていると、聡子のほかにもう一人、同じ並びの席にいた男が感極まったようにスタンディングオベーションしている。これは、かなりのお笑い好きだ。
その同好の士が、なんと恵太朗だったのである。
「僕もたまたまチケットを手に入れて来たんですけど、ホントによかったですよねえ」
「なんでみんなスタンディングオベーションしないんだろう」
「僕、体が自然にそうなっちゃいました」
「でしょう? そうなるわよねえ」
ことごとく意見がぶつかってきた恵太朗と、まるで心がひとつになったように気が合う。
「あのネタは、何度見てもウケますよね」
「あの人は、どこをどうふくらませば面白くなるのかよく解ってるからなのよ!」
「でも織田裕二《おだゆうじ》の芸だけであんなにたくさんバリエーションがあるってことは、相当研究してるってことですよね」
「今回はやらなかったけど、他にもダウンタウンの浜ちゃんとか、柳葉敏郎《やなぎばとしろう》さんとか、まだまだいっぱい芸をもってんのよ」
「緒方先生、すごいよく知ってますねえ」今度は心から感心している。
「岡村さんだって、あの山本クンに目を付けるなんて、なかなか筋がいいじゃない」
二人はすっかり意気投合して、お笑い談義に花を咲かせた。
瑞恵はパジャマのままソファに横になり、聡子に言われたことを苦々しく反芻《はんすう》していた。
「……何が陽性転移よ」
その時、彰夫と洋介が慌てふためいてリビングに駆け込んできた。
「なんで起こしてくれなかったんだ」出かける準備をしながら、彰夫が文句を言う。
瑞恵はチラッと夫を見て、「具合でも悪いのか? の一言くらい、ないわけ?」
「具合でも悪いのか?」
「全然」
「どうゆうつもりなんだ」彰夫がにらむ。
「私だって、たまには家事を休みたいの。会社や学校は休日があるけど、家庭で働く私にはないもの」
「弁当は?」と洋介が瑞恵を振り返った。毎朝テーブルに用意されている弁当がない。
「パン買えば」
「おい、ハンカチ」手を差し出している彰夫にも、「自分でもやってよ」と取り合わない。
「もういい」二人がぶつくさ言いながら家を出て行ったあとも、瑞恵はソファに寝そべったまま、つぶやいた。「今日は、掃除も洗濯もやらないんだから」
聡子が駐輪場に自転車を停めていると、恵太朗がきて、ニコニコしながら言った。
「いつにします? 第二回、お笑いライブ鑑賞会」
「え? 定例会にするの?」
「はい。お笑いは一人で見るのが基本だと思ってたんですけど、僕達みたいに笑いのツボが同じ場合は、例外だと思います」
「まあ、そうよねえ」
「それに、緒方先生には、また解説をしていただきたいと思いますから」
「解説だなんて、それほどでもないわよ。私なんか、まだまだよ」謙遜《けんそん》するが、そのじつ、満更でもない。
「いつにします?」
「いつにしよっかぁ。あ、ねえ。定例会のことは、秘密ね」
「なんでですか?」
「だって誤解されたら、めんどうじゃない。岡村さんだって迷惑でしょ? 四十前の私と、その――」
「別に迷惑じゃありませんけど」
「え、あ、そう」内心、少しうれしい。
「今度の日曜日は、どうですか?」
「日曜日? うーん、どうかな。ちょっと手帳見てみるね」
「みえみえですよ。なんの予定も入ってないのは。ウチの一番上の姉もそうでした」
「失礼ねえ。そうゆうこと言うと、一緒に行ってあげないわよ」口ではムッとしつつも、聡子は恵太朗との会話を楽しんでいる自分に気づいている。
「じゃあ、日曜日ってことで」
「行かないから。絶対に」そう言ってスタスタ先に歩き出すと、恵太朗のちょっとあせった声が追いかけてきた。「ホントに行かないんですか?」
「行かなーい」笑いながら答え、聡子は弾む足取りで病院に向かった。
その日、奈央は一人で産婦人科に来ていた。待合室で待っている間、幸せを詰め込んだみたいなおなかの大きい女性達を、ついぼんやり見つめてしまう。
なぜ、なぜ……なぜ私が。答えの見つからない疑問が奈央を苦しめる。
「森村さん」声をかけられてハッと顔を上げると、由香里である。
「!……どうしたの?」
由香里は検診に来たのだという。動揺を悟られまいと、奈央は笑顔を作った。
「そう。……あ、私も検診なの」
「早く子供、できるといいですね。やっぱり今は、子供ですから」
「……そうよね」強張《こわば》りながら同調する。
「ハリウッド女優だって、出産することで自分の価値をあげてますから。じゃあ私はこれで」
由香里は帰っていったが、奈央の足は重くその場に留まっていた。
店で開店準備をしていた貞夫は、ふと手を止めた。奈央は大丈夫だろうか。
――私、子供産むの、難しいんだって――
店に来た奈央の様子がおかしかったので、わけを聞いてみたら……そんな答えが返ってきたのだ。貞夫がぼんやり考え込んでいると、当の奈央が店に入ってきた。「よ。先輩達、まだ?」
「うん。……ねえ、新庄さんと、子供のこと話したの?」
「まだ。今日の夜帰ってくるから、その時話す。先輩達には、このこと言わないでね」
「え、聡子に相談したら? 医者なんだし」
「今は結婚してて子供のいないキャリア女性より、独身でも子供持ってるキャリア女性のほうがステータスが上なの。子供、持てないかもしれないなんて言いたくない」
「でも」心配する貞夫に、奈央は有無を言わせぬ口調で「言わないで」と念を押した。
「……わかった」
「……高文、なんて言うかなあ」奈央はつぶやくように言った。
「結局、聡子は陽性転移だなんて言って、私と岡村さんのいい関係を壊そうとしてるのよ」
瑞恵はナイフとフォークで豚ヒレ肉を切り分けながら、非難するように言った。
「私は、医師として正しいことを言ったまでよ」
「絶対ヤキモチよ。ねえ」と奈央に同意を求める。
「先輩、自分の気持ちに気付いてないだけじゃないの?」
「前にも言ったでしょ、岡村さんは、特別変な人なんだから」
「もしかして、その変なところにはまってるんじゃないの? 案外、趣味とか合っちゃったりして」
もちろん奈央が知っているわけはないのだが、思わずドキリとする。
「岡村さんは、今までにいないタイプの男で新鮮だから」
「ないないないない。肩幅、私の理想よりせまいし、だいたい六つも年下なんだから。もういいじゃない、この話は。それより瑞恵は大丈夫なの? まさか悩み相談に行ってるなんて、思ってもしなかったから」
「大丈夫よ。結局私の悩みは、岡村さんと出会うために神様が与えてくれたものなのよ」
「瑞恵はいつも大げさだな」貞夫が言った。
「先輩も、瑞恵先輩みたいに少ないチャンスを大切にしないと。せっかく先輩が過去の恋と決別できると思ったのに」
「それじゃ、私が決別できてないみたいじゃない」
「え、何、何、過去の恋って? 決別ってどうゆうこと?」瑞恵がしつこく質問してくる。
「瑞恵はもういいから――」
その時、ふらりと客が入ってきた。男の一人客だ。
「いらっしゃいませ」貞夫はその長身の男の顔を見て、大きく目を見開いた。
「……聡子」貞夫に呼ばれて振り返った聡子は、「ん?」とその視線の先を追った。
懐かしそうに聡子を見る目とぶつかった瞬間、頭の中が真っ白になる。
「……聡子、ただいま」
五年ぶりに見る、金杉和哉《かなすぎかずや》が立っていた。
「この店も変わらないなあ」和哉はのんびりと店内を見回している。
――ただいまって、どうゆうこと?
聡子の頭の中で疑問がぐるぐる渦を巻く。
ぎくしゃくしたまま何も言い出せない聡子を見て、奈央が皮肉を織り交ぜた口調で言った。
「……金杉さん、今までどこにいらしたんですか?」
「ずっとアフガニスタンに」
「ええっ、戦争してるところですよね。どうしてそんなところに?」驚いている瑞恵に、貞夫が「金杉さんは、カメラマンなんだ」と教えてやる。
「日本には、いつお戻りになったんですか?」奈央は刺々しく質問を続けた。
「一ケ月前です」
「この五年間、一度も日本に戻ってないんですか?」
「ええ」
「またアフガニスタンに、戻るんですか?」
「いや、もう戻りません」
聡子はボーッとして、二人のやりとりを聞いている。
「聡子、五年ぶりの再会なんだから、いろいろ話しなさいよ。あっ、私達が邪魔?」
瑞恵に言われて、聡子はハッと我に返った。「へ? そんなことない、いてよ」
と、和哉が聡子のフォークを手に取り、聡子の皿から、料理をひょいと口に運んだ。
「うまい」和哉は屈託なく笑った。「うまいなこれ。相変わらず、いい腕してるね」と貞夫を褒め、ごく自然に、聡子の子羊のローストを食べている。
聡子は戸惑いながらも、胸がドキドキするのを止められなかった。
「あの聡子が、すっかり彼のペースだったじゃない」
二人が帰って行ったあと、瑞恵が奈央に言った。
「だからやめたほうがいいんですよ、あの男は。また振り回されるだけだから」
「いいじゃない。私も振り回されてみたいな」
「最近、妄想激しくありません?」
「いいでしょ、妄想するのはタダなんだから。でも金杉さん、いい人そうだったじゃない」
「急にいなくなっといて、五年もたって、何事もなかったかのように現れたんですよ」奈央は憤然としている。
「ドラマチックな展開じゃない。羨《うらや》ましいわあ」
「瑞恵先輩は子持ちなんですからね。それ以上、何を望もうっていうんですか」
「え、出産しても女を忘れないっていうのがいいって、言ってたじゃない」
一瞬、言葉に詰まる。「……そうだけど」
「奈央はどうなの? 子供」
「……まだです」
「ちゃんと基礎体温、測ってる?」
貞夫が話題をそらそうと、横から口を挟んだ。「それより瑞恵、最近よく来るけど、大丈夫なの? 夜、家空けて」
「今頃、きっと大慌てよ。晩ごはん、作ってこなかったし、ここに来ることも言ってこなかったから」と瑞恵は愉快そうに笑っている。
「ダメじゃん」貞夫が言うと、瑞恵は「いいのよ」と言い張った。
「これくらいしないと、毎日ごはん作る私のありがたみ、わからないんだから」
マンションの前まで来ると、聡子は押していた自転車を止めて、立ち止まった。
「……ありがとう」送ってくれた和哉に礼を言う。
「……聡子が変わってなくて、安心したよ」
――変わってないってどうゆうこと? 戸惑いを冗談口調でごまかしながら、「……結婚でもしてると思った?」
「……してなきゃいいなって思ってた」
「!」――どうゆう意味? 和哉の言動に、聡子はいちいち動揺してしまう。
「……ごめんな聡子。あの時は、急にアフガンに行ったりして」
言いたいことは山ほどある。けれど、聡子はつい物分かりのいい女ぶって言った。
「……いいのいいの、和哉さんは写真のことになると、何も見えなくなるから……それに、もう終わったことだし……」
和哉がフッと傷ついたように苦笑する。「……終わったことか……」
「……そ、そうよ」聡子はその苦笑にうろたえながら「じゃあ、お休みなさい」と振り払うように背を向けた。すかさず「聡子」と和哉が呼び止める。
「やり直さないか?」
「……冗談でしょ?」聡子は、かすかに口元をゆがめて笑った。
「……ダメかな」
「勝手なこと言わないで」驚きや喜びを、怒りがはるかに凌駕《りようが》した。「どうしてそんなふうに言えるの? 和哉さん、ちょっと行ってくるって、煙草でも買いに行くみたいに急にアフガンに行っちゃったのよ。向こうに行っちゃったことも悲しかったけど、それよりも、そんな大事なこと何も話してくれなかったことが、すごくショックだったんだから」
聡子は、溜め込んでいたものを一気に言い放った。五年分の、重たい沈黙が流れる。
「そうだよな……許してもらえないか」帰国して、真っ先に聡子に会いたかった。本当は、このマンションにも何度か足を運んでいたが、勇気が出なかったのだ。
「今日は会えてよかった。お休み」和哉は寂しそうに笑い、きびすを返して帰っていく。
そんな和哉を、聡子はやるせない思いで見つめていた。
彰夫と洋介は、さぞお腹を空かせて困っているに違いない。日頃の瑞恵に対する態度を反省して許しを請うのであれば、疲れてはいるが、ごはんを作ってやらないこともない。
帰宅した瑞恵は、にんまり笑って、そっとリビングをのぞいた。
「おい、洋介、食べすぎだぞ」
「だって、うまいんだもん」
困っているどころか、二人は出前のピザをとって、テレビの野球中継に熱中している。
「ピザがうまいと、ビールもうまい!」
「!」瑞恵の作る料理など、ここ数年褒めたこともないくせに……。
「おい、これ、お父さんの分だぞ。今度からもっと大きいサイズ、頼んでやるから」
瑞恵は少し脱力しながら、リビングに入っていった。「……ただいま」
「お、いった。いったぞこれ。いったいった」彰夫は画面に釘《くぎ》付けだ。
瑞恵がテレビとソファの間を横切ると、「邪魔!」と怒声を浴びせ、「入ったー! よっしゃー!」と立ち上がって洋介と大喜びしている。
瑞恵は怒る気力もなく、言葉もないままリビングを出て行った。
聡子はベッドに座り、フォトスタンドの中の写真を眺めていた。思い出は、聡子の意思とは無関係に次々と、鮮やかによみがえってくる。
春の海辺で、聡子を撮ってくれた和哉。流木に座ってピクニック・ランチを広げ、聡子が沖の船を見ている隙に、和哉が聡子の手のサンドイッチをパクッと食べたこと。
柔らかい陽射しを浴びながら、波際で戯れているうち、ふいに抱きしめられたこと。
和哉の広い胸にすっぽり収まると、聡子はいつも安心した。大きな手で頭をなでられながら、和哉の腕の中で目をつむる。あの時、この幸せは永遠に続くものと信じていた――。
ミーティングルームで書き物をしていると、恵太朗が「緒方先生」とやってきた。
横に来るやいなや顔を近づけ、小声で「日曜日のチケットです」と券を差し出す。
「……ああ。ちょっと近いんじゃない?」
「秘密だって言ったじゃないですか」
「そうだけど……ありがとう」聡子はチケットを受け取り、「あ、いくらだった?」
「いいです、これくらい」
「そうゆうわけにはいかないわよ」と、カバンから財布を取り出す。
「いいですって」安月給とはいえ、男のミエというものがある。
「何言ってるのよ、いくらなの? いくら?」
「……五千円です」恵太朗はしぶしぶ答えた。まったく可愛げのない人だ。
と、財布の中を見た聡子が、バツが悪そうに言った。「……あとで渡す」
「やっぱりいいですよ」恵太朗が笑って言うと、
「ちょっとおろし忘れただけなんだから、あとで渡すわよ」とムキになっている。
そんなところは四十前の大人の女性とは思えなくて、恵太朗は微笑んでしまう。
「緒方先生ー。男性の方がいらっしゃってます」遥が呼びに来た。
「あ、はいはい」聡子は喜色満面になり、いそいそと部屋を出て行った。
「言っとくけど、うちはデリバリーやってないからね」貞夫はぶつぶつ文句を言った。
「だって昨日、全然食べた気しなかったんだもん。おいしー」聡子は幸せそうに、貞夫特製牛肉のワイン煮込みを頬張っている。
その時、恵太朗が食堂に現れた。聡子と見知らぬ男が楽しそうにしゃべっている。恵太朗は気になる様子でこっそり後ろのテーブルに行き、聡子と背中合わせに座った。
「どうしたの? 何か元気ないね」聡子は、ボーッとしている貞夫に言った。
「……なぁ聡子、奈央って、どうしてああなんだろう」
「ああって?」
「自分が幸せかどうかより、人から幸せに見られることのほうが大事だから。そんなのよくない。あれじゃあ幸せとは言えないよ」
聡子は適当に相づちを打っていたが、ふと手を止めた。「……もしかしてマーくん、奈央のこと、本気で好きなの?」
返事のないのは、イエスと同じだ。
「……今まで奈央に、自分の気持ちを伝えようと思ったこと、ある?」
「そんなことできないよ。伝えたところで、結果はわかってる」
「この歳になると、昔より自分が傷つかないようにするもんね……傷ついたとしても傷ついてないふりするの、うまくなったような気、するなあ」
「……聡子は、あの元カレのこと、どうなの?」
恵太朗はハッと聞き耳を立てた。少し椅子を後ろにずらし、できるだけ聡子に近づく。
「金杉さん、何しに来たの?」
「……よくわからない。やり直したいだなんて、言ってたけど」
「聡子の気持ちはどうなの?」
「そりゃあ混乱してるわよ。こんな気持ちのままでいたくない。このままじゃ五年前と一緒になっちゃう……ちゃんと決着つけないと」
「だったら、会いに行って、決着つけてきなよ」
聡子は少し考えてから、貞夫のアドバイスに従うことにした。
「……よし。会いに行って、ちゃんと決着つけてくる」
次の休日、聡子は和哉が世話になっている、荒川《あらかわ》さんという知人の写真館を訪れた。
「!……聡子」店の机で作業をしていた和哉は、突然訪ねてきた聡子に驚いている。
「……仕事中に、ごめん」
「いや、散らかってるけど、そこ座って。飲み物、買ってくる」
和哉が外へ行ってしまい、なんとなく机の上をさまよっていた聡子の目が、隅にあった写真立てを捉《とら》えた。
「!」飾られていたのは、春の海辺で和哉が撮ってくれた、あの写真だった。
ボロボロになった写真の中で、聡子の笑顔だけが、時を隔てて今も息づいている。
和哉が、両手に缶ジュースを持って戻ってきた。聡子が写真を見ていることに気づいたらしく、気まずそうにしている。聡子は、動顛《どうてん》しながら、写真から視線を外した。
「……五年前、アフガンに行く時、どうしてちゃんと話してくれなかったの?」
「いつ戻ってくるかわからないし、ちゃんと戻ってこられるかどうかもわからなかったから」
「じゃあ、どうして今になってやり直そうだなんて言ったの?」
「昔の俺は、撮りたいって思った写真を撮ることでしか、達成感や充実感が得られなかった。『今』っていう一瞬の真実を撮り続けることしか頭になかった。でも、この歳になって、ようやく写真以外の大切なことを考えられるようになったんだ」そう言って、和哉はじっと聡子を見つめた。「真っ先に、聡子の顔が浮かんだ」
聡子はどうしていいかわからず、自分の写真に目をやった。戦下のアフガンで、和哉は肌身離さず、この写真を持ち続けていてくれたに違いない。
「……行ってみる? 海」聡子は、写真立てを手に取って言った。「行こうよ」
「……いいのか?」和哉が喜びに顔を輝かせた。「じゃあ、明日は?」
「明日って日曜日?」恵太朗がチケットを取ってくれた、お笑いライブの日だ。
けれど、うれしそうな和哉の顔を見ていたら、どうしても断ることができなかった。
「この前は、病院でお会いして驚きました」
『心の相談室』にやってきた瑞恵に、恵太朗が言った。
「じつは、同級生があそこの病院に勤めてるんです」瑞恵は、知らん顔で話し始めた。「彼女、三十九なのに独身なんですけど、最近、昔の恋人が五年ぶりに現れて盛り上がってるみたいなんです。カメラマンで、ワイルドで、年上で、岡村さんとは正反対のタイプの人なんですよ」ダメ押しに、ぶっとい[#「ぶっとい」に傍点]五寸|釘《くぎ》を刺しておく。聡子と恵太朗を近づけてなるものか。「私もねえ、彼女にそうゆう人が現れてホッとしてるんです」
「……その方って、緒方先生ですよね」
「ご存じだったんですか? あ、精神科なら、お知り合いに決まってますもんねえ。やだ、私ったら」
芝居がかってわざとらしいくらいだが、本人はまったく気づいていない。
「緒方先生の話はこれくらいにして。その後、どうですか?」
「そうですね。なんのために、自分はあの人と結婚したんだろうって思うばかりで……」
「竹内さん。あなたが変われば、周りのいろんなことも変わると思いますよ」
「……え?」
「将来、なりたい自分を思い浮かべてください。それに近づくための努力を一歩ずつでいいからやってみましょう。小さなことでいいんです。例えば、精神的余裕を持ちたいと思うなら十分早起きするとか、その十分を自分のために使ってみるとか。それができたら、達成できた自分を褒めてあげましょう」
「なりたい自分……」瑞恵の妄想モードにターボがかかった。
その日、奈央は一度も会ったことのない舅《しゆうと》、つまり高文の父親の三回忌の法要のため、田舎のお寺に来ていた。
「高ちゃん、ますます立派になっちまって」
「なんたって、ライフスタイルプロジューサーだから」
お経が終わると、親戚《しんせき》一同が集まって酒宴が始まった。やはり話題の中心は、町一番の出世頭である高文である。高文の記事が切り抜かれたファイルまであり、親類自慢のスターなのだ。
けれど、高文のほうはそんな田舎の人達を軽蔑《けいべつ》しているようなふしがあり、今も奈央の横で居心地悪そうにしている。
「奈央さんみたいな素敵な人がお嫁さんに来てくれたし」高文の母親が、なまりの強いアクセントで言った。
「子供は?」ほろ酔い機嫌のおじさんが無遠慮に聞いてくる。
「……まだです」結局、奈央は高文に子供のことを言いそびれてしまい、そのままズルズル今日に至ってしまっていた。
「奈央さんは、キャリアウーマンだからいいんだべ」
「母さん。俺達も子供、持つつもりだから」高文が言った。
「そうなの? 奈央さん」とっくにあきらめていたらしい姑はびっくりしている。三十五過ぎた女が子供を産むことも、この田舎では珍しいことなのだ。
「こりゃすげえわ。キャリアウーマンで子供まで持つんだ」そんな声まで聞こえてくる。
奈央は居たたまれなくなり、「ビール、持ってきます」と空いた皿を集めて立ち上がった。
「あ〜〜〜〜いいからいいから」と周りでいっせいに声が上がる。
「奈央さんはゆっくりしてくなんしゃ。嫁に来てくれただけでありがてえのに、孫まで産んでくれるなんてねえ」姑はそう言って、ニコニコしている。
早くこの場から抜け出したい……奈央はもう、そのことばかり願っていた。
なかなか断りの電話を入れる勇気が出ず、じっとライブのチケットを見つめていた聡子は、ようやく心を決めて恵太朗の携帯にかけた。
「緒方です」
「……どうしました?」
「あのね、明日なんだけど――ごめんなさい。行けなくなっちゃったの」
「えっ!……どうしてですか?」
「……うん、急な予定が入っちゃって……ごめんね、チケットまでとってくれたのに……」
罪悪感にかられながら謝る。が、電話の向こうからは、いつまでたっても返事がない。
「……あの、もしもし? もしもーし」
「……デートですか?」
「え?」
「だまされないように気をつけてくださいね。知ってます? 三十代後半の頭のいいキャリア女性が、一番結婚詐欺にあいやすいそうです」
「そんなこと、誰が言ったの?」
「僕です」
「なんで岡村さんに、そんなこと言われなきゃいけないの?」
「親切で言っただけです」
「ご忠告、ありがとうございます。じゃあね」聡子はむっとしながら電話を切った。
海水浴にはまだ早い、昔の歌とは季節が違うけれど、誰もいない海だ。
「気持ちいいなぁー」
海風に吹かれている和哉を見て、聡子は自然と笑顔になる。こうして並んで波打ち際を歩いていると、本当に五年前に戻ったみたいだ。
「ねえ、今度また写真、撮ってほしいな」
ふと思いついて言ったとたん、和哉の顔に、さっと暗い影が走った。
「……実はさ、俺、カメラマンの仕事は辞めて、写真学校の講師をやるんだ」
「!……どうして? あんなに写真撮ることしか考えてなかったのに」
「カメラを持つと、あちこち飛び回りたくなるし、聡子との時間がなかなか作れない」
「……本当にそれでいいの?」
「写真でやり残したことは、もうない」
和哉はそう言って、聡子を抱きしめた。
「もう聡子に寂しい思いは、させない」
和哉のごつごつした大きな手が、聡子の髪をなでる。たちまち聡子の胸は、愛《いと》おしさと切なさでいっぱいになる。
「……お帰りなさい」背中に腕を回し、聡子はしっかりと和哉を抱きしめた。
お風呂から上がった聡子は、ドアの前でパジャマの胸元を整え、ドキドキしながらリビングに入っていった。
疲れたのか、和哉はソファに座ったまま眠り込んでいる。ちょっとがっかりしながらブランケットをかけてやり、隣に座って、そっと和哉の寝顔をのぞきこむ。
愛しさが込み上げ、微笑んでその寝顔を見つめていると、突然、和哉が「ああっ!」と大声をあげて、ソファから跳ね起きた。
聡子は目を丸くした。「どうしたの?」
「……なんでもない。ちょっと変な夢を見ただけだから」
そのわりには、汗をびっしょりかいている。
「怖い夢?」
「よくわかんない夢だった。……もう大丈夫だから。お休み」和哉は聡子に笑顔を向けた。
気にするほどのことでもないだろう。「……お休みなさい」と聡子も微笑んだ。
ついゆるみそうになる顔を引き締めながら、聡子は駐輪場に自転車を停めた。
「ずいぶん、ご機嫌ですね」恵太朗が、面白くなさそうに声をかけてきた。
「……そんなことないわよ。……昨日は、ゴメンなさいね」
「どうでした? 結婚詐欺の方は」
「だから、そんなんじゃないって言ってるでしょ」
「なんとか四十前に結婚決めたいっていう気持ち、わからなくもないですけど」
「そんなこと、一言も言ってないでしょ。お笑いライブ行けなかったくらいで、そんなに怒らなくてもいいじゃない」
「そんなことで怒るわけないじゃないですか。だいたい僕は、全然怒ったりしてませんから」顔も口調も不機嫌丸出しで言い、さっさと先に歩いていく。
「どこからどう見ても怒ってるって」聡子は半分あきれながら、その背中を見送った。
「なんなんだろうね、重大発表って」「さあ」聡子と奈央は、顔を見合わせた。
瑞恵から電話があって、重大発表があるからと、『グランポン』に呼び出されたのである。
「お待たせ〜」瑞恵が笑顔でドアを開け、外に向かって言った。「入ってください」
おずおずと入ってきたのは、恵太朗だ。
「!……どうして岡村さんがいるの?」
「岡村さんには話したから。私と聡子が同級生だってこと」
「そんなことより岡村さん、カウンセリングルームの外で瑞恵とは会うべきじゃないでしょう?」
「僕もそう言ったんですけど」と、恵太朗も困っているようだ。
「岡村さんは悪くない。『心の相談室』を卒業するのを条件に、私が無理やり連れてきたんだから」
「どうしたの、いったい」聡子には、瑞恵の突飛な行動の真意がつかめない。
「あっ、そうだ。古本屋で偶然見つけちゃったのよ。これ、金杉さんの写真でしょう?」瑞恵は、とある写真雑誌のバックナンバーを取り出し、「金杉さんて、五年ぶりに現れた聡子の恋人で――」と恵太朗によけいな説明を始めた。
とっさに「ちょっと!」と荒い声が出る。
「どうしたの? 聡子」瑞恵が白々しく聞いた。
「あ、ううん、見つけてくれて、ありがとう」聡子は慌てて取り繕った。
「皆さん、今日は私のために集まっていただき、ありがとうございます。では、私のほうから、重大な発表をさせていただきます」困惑気味の聡子たちを前に、瑞恵は高らかに宣言した。「私、竹内瑞恵は、六年後に離婚することになりました」
みんな、まったく無反応で瑞恵を見つめている。
「えっ、どうして驚いてくれないの?」
「意味がわからない」聡子は正直に感想を述べた。
「だから、六年後に離婚するって言ってるの」
「どうして?」
「主人の妻として、このまま一生を終えるなんて耐えられない」
「えっ、旦那さんとうまくいってなかったの?」聡子はびっくりした。「そのことで、岡村さんの相談室に行ってたの?」
「それだけってわけじゃないけど」
「でも、どうして六年後なんですか?」奈央が質問する。
「母親としての責任を、ちゃんと果たすためよ。洋介が成人するまでは離婚したくない。だから、六年後の洋介の誕生日に離婚するの」
「旦那さんとよく話しあったの?」聡子が心配して尋ねると、
「主人には、離婚のこと内緒だから」
「ますます意味がわからない」これが事件なら迷宮入りだ。
「六年後に主人に離婚を言い渡すために、これから着々と準備をすすめるの」
「うわっ、ホラーじゃん」貞夫が恐ろしそうに瑞恵を見る。
「離婚したら生活はどうするの?」聡子は本気で心配になって来た。
「離婚するまでの六年間に自立できるように準備をするんじゃない」
先ほどから、イラついた様子で瑞恵の話を聞いていた奈央が、「どうかな。二十五で結婚してずっと旦那さんに頼ってきた瑞恵先輩が、四十で仕事見つけて自立しようなんて、甘いんじゃないですか?」と、手厳しいが、リアルな意見を言った。
「私だって、やる時はやるのよ。離婚したら、恋愛だってするつもりなんだから」
「恋愛!?」聡子が素っ頓狂《とんきよう》な声を出す。
「六年後って、四十六だよ」貞夫が、またホラーな口調で言った。
「そうよ。恋愛に備えて、まずは毎日腹筋百回やることから始めるつもり」
「腹筋でいいの?」あきれる貞夫に、「腹筋はタダでしょう?」と瑞恵はけろりとしている。
聡子はため息をついた。「本気なの?」
「こんなこと冗談で言うほど暇じゃないわよ」
「こんな瑞恵先輩、初めて見た」奈央の瑞恵を見る目が、少し変わってきた。「ちょっと羨ましいかも」ボソッとつぶやく。
「岡村さん」と、瑞恵が恵太朗の前に進み出た。「なりたい自分に近づくための話をしていただいたおかげで、前向きな決断ができました」
瑞恵が離婚を決意したそもそもの原因は、恵太朗だったのだ。
「ちょっと岡村さん、いったい何やらかしてくれたのよ」文句を言う聡子に、
「僕が離婚をすすめたみたいじゃないですか」と、困ったように抗弁する。
「結果的に、そうゆうことになってるじゃない」
当の瑞恵はみんなの困惑などおかまいなしに、熱のこもった目で恵太朗に言った。
「岡村さんのおかげです。これからの私の六年間を見守ってくださいね」
「瑞恵、ホントにどうしちゃったの?」
「四十六なら、まだ再スタートを切れると思う。その準備を始めるには、四十の今がラストチャンスだと思うから。聡子だってそうよ。結婚して出産も望むなら、金杉さんとの恋愛がラストチャンスなんじゃないの?」
「……私の話は、いいじゃない」
「先輩、また振り回されて、ポイされちゃうよ」
恵太朗は、先ほどから金杉≠ニいう男のことが気になって仕方ない。
「奈央、なんか今日、さっきから言い方きつくない?」
「先輩、今度はだまされないようにしたほうがいいと思う」
「彼は、変わったの」
「どんなふうに?」
一瞬、躊躇《ちゆうちよ》したが、聡子はみんなに納得してもらおうと言った。「私のために、カメラマンを辞めたの。私にもう寂しい思いはさせないって、言ってくれた」
公然たる愛の告白に、場がシーンとなった。その沈黙を破るように、ドアの開く音がして、和哉がふらりと入ってきた。
「あ、金杉さん」
恵太朗は驚いた。先日、精神科の前の廊下で、聡子がまだこの病院で働いているかどうか聞いてきた男だ。
和哉も恵太朗に気づき、すぐに屈託のない笑顔になった。「この前はどうも」
成り行きを知らない聡子は、二人が知り合いらしいことに驚いている。
「金杉さん、先輩から聞きました。寂しい思いはさせないって言ったそうですけど、本気でやり直すつもりあるんですか?」
奈央が和哉をにらみつけるようにして、突っかかっていく。
「ちょっと。ほら、奈央、帰るわよ」瑞恵が奈央を無理やり引っぱっていった。
「……岡村さん、そろそろ地球温暖化防止の時間じゃない?」
瑞恵と奈央が帰ったあとも、なぜか恵太朗は別のテーブルに居すわっている。
「地球温暖化防止?」和哉がきょとんとする。
「消費電力を抑えるために、十時半には寝るんだって」
恵太朗は腕時計を確認すると、「あと三十分は大丈夫ですから」と平然として言った。
「そう」迷惑そうな聡子。
「はい」涼しい顔でコーヒーを飲む恵太朗。
そんな二人の構図を見て、「空気読めない人だな」貞夫はポツリと言い、「これでも見てたらどうですか?」と、瑞恵の持ってきた写真雑誌を恵太朗に渡した。
「私も見たい」そう言えば、どさくさに紛れて、まだ見ていなかった。聡子は恵太朗の横に行き、和哉の写真が載っているページを一緒にのぞきこんだ。
「へー、こんな写真、撮ってたんだ」聡子は写真を食い入るように見つめている。
ふと、恵太朗は和哉の様子がおかしいのに気づいた。目を見開き、こぶしをきつく握りしめている。そのうつろな視線は、あきらかに聡子が手にしている写真雑誌に釘付けになっている。
「大丈夫ですか?」
「ん?……」聡子はようやく和哉の変化に気づいた。「大丈夫!? お水ちょうだい」
どうやら過呼吸になったらしい。
症状はすぐに治まったが、聡子は和哉をマンションに連れて帰ることにした。
「……ねえ。ウチに来れば? 荒川さんのところじゃ落ちつかないし、疲れも取れないでしょ」
「……いいのか?」
「うん」聡子は微笑んだ。
「森村さん」美智子に呼ばれて、奈央は「はいっ」とちょっと慌てたふうに席を立った。
今まで真剣に調べ物をしていたパソコンを離れ、急ぎ足で美智子の席に行く。
そのすぐあとに奈央の席を通りかかった由香里は、ふとパソコンの画面に目を留めた。
奈央が席に来ると、美智子はにこやかに言った。
「あなたの企画、今度の役員会議にかけることになったの」
「!」
「『望むもの全てを手に入れて、自分も成長する』。あなたが身をもって証明してくれるのを、楽しみにしてるわ」
「……ありがとうございます」奈央はぎこちない笑顔で答えた。少し前ならすぐにでも仕事にとりかかるところだが、今回だけはそうはいかない。
由香里が、そんな奈央を意味深な目で見ている。パソコン画面に映っていたのが、『不妊治療』のサイトだったのは、単なる偶然だろうか……。
聡子が休憩コーナーにいると、恵太朗がやってきた。
「緒方先生。金杉さん、あのあと大丈夫でした?」
「うん。大丈夫。……心配してくれてたの?」
「原因は、わかったんですか?」
「……原因? そんな大げさなことじゃないから」
「そうでしょうか」
「……まあ強いて言うなら、久しぶりに日本に戻ってきたし、仕事も変わって環境の変化があったんじゃないかな」
「それだけですか?」
「他に何があるの?」
「緒方先生は、見て見ぬふりをしているんじゃないですか?」恵太朗は怒ったように言った。「先生は患者さんのことはよくわかるけど、自分に関することは本当に見えなくなるんですね」
「どうゆう意味?」と聡子が眉《まゆ》を動かす。
「金杉さん、何か心の傷があるんじゃないですか?」
「……心の傷?」
「精神医療の助けが必要な、心の傷です」
「……何言ってるの? 病気だって言うの?」
「はい」
「彼は私のために人生を変えてくれたの。だから、今少し苦しいだけなのよ」
「自分の大事な人が病気だと認めたくないのはわかりますが、治療をするべきだと思います」
「治療なんて必要ない。私がそばにいて、なんとかする」
「金杉さんは、それ以上の状態じゃないですか」
「あの人のことは、私が一番わかってる」
「!」恵太朗が一瞬、傷ついたような顔になる。
が、話は終わりだと言わんばかりに、聡子はパンの包み紙を勢い良く破った。
コーヒーが落ちるのをボンヤリ見つめながら、聡子は恵太朗の言ったことを考えていた。
悪夢を見て、跳ね起きた和哉。写真雑誌を見ていて、過呼吸になった和哉。
恵太朗に言われた時はつい感情的になってしまったが、冷静になって思い返すと、疑う余地は十分にある……。
聡子は淹《い》れたてのコーヒーをカップに注いで、和哉の待つテーブルに持っていった。
「ありがとう」和哉がうまそうにコーヒーを飲み、穏やかな空気が部屋の中を流れる。
再びこの幸せが崩れてしまうのではないかという不安。けれど、医師としての聡子が、もし彼が問題を抱えているのであれば、このままにしておけないと言う。
「ねえ」「なあ」二人は同時に口を開いた。
「……なあに?」
「聡子は?」
「……ううん、先、どうぞ」
和哉はそんな聡子を見つめ、言った。「結婚しようか」
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5 39歳、人生最後の恋
驚きで言葉をなくしている聡子に、和哉は微笑んで言った。
「返事は急がないから」
「……ねえ、聞きたいことがあるの」聡子は小さく息を吸い、思いきって尋ねた。「アフガンで、何かあった?」
「ないよ、何も」
「ホント?」
和哉の腕が聡子の肩に回り、広い胸に引き寄せられる。
「聡子が心配するようなことはないし、アフガンのことは、もう過去のことなんだから。……そんなことより結婚のこと、考えてみて」
「うん……」和哉に抱きしめられながら、聡子は、結婚という戸惑いと喜びの中にいた。
翌朝、診察室に行こうとしていた聡子を、恵太朗が追いかけて来た。
「金杉さん、あれから発作はないですか?」
「……うん、ない」
「夜、眠れなかったり、何か元気がなかったり」
「……心配してくれるのはありがたいけど、本当に大丈夫だから」
聡子は笑顔で、きっぱりと拒絶した。これ以上、恵太朗には関わってもらいたくない。
「……一つだけいいですか? 金杉さんがカメラマンを辞めたのは、本当に緒方先生のためなんでしょうか」
「!……どうゆう意味?」
「……失礼します」恵太朗はにこりともせず、行ってしまった。
「森村さんが提案した新雑誌の創刊が正式に決まり、森村さんに新雑誌の編集長をお願いすることになりました」
美智子が編集部員達の前で発表すると、奈央の周りから大きな拍手が起こった。
奈央は戸惑いを振り切り、笑顔で挨拶《あいさつ》した。「ありがとうございます。精一杯、やらせていただきます」
ふと、由香里と目が合った。由香里は意味深な笑みを浮かべ、奈央を見ている。
しばらくして、由香里が奈央のところにやってきた。
「新雑誌のコンセプト、『望むもの全てを手に入れて、自分も成長する』。身をもって証明するんですよね。本当にそんなことができるんですか?」
「何が言いたいのか知らないけど、もちろんよ」
「……そうですか。楽しみにしてます」クールに微笑み、由香里は立ち去った。
「私、働こうと思うの。家にずっといても仕方ないし」
夕飯を終えて瑞恵が切り出すと、案の定、彰夫は憮然《ぶぜん》とした。
「働くなんて、みっともない。俺の稼ぎが悪いみたいじゃないか」
反対されることは想定内だ。こういう時のくすぐり所は心得ている。
「今は、妻に理解のない夫のほうがみっともないのよ」
「……そんなわけないだろう」案の定、やや及び腰になっている。
「奈央のご主人を見ればわかるでしょう? 妻が輝くことに理解のある夫が支持される時代よ」
「妻が輝く?」彰夫が眉間《みけん》にしわを寄せた。
「そうよ。輝く妻。輝く母。洋介だって、お母さんが輝いてたほうがいいよね?」
携帯をいじっている洋介から「……別に」と興味なさそうな声が返ってくる。
「……家のことはどうするんだ。手、抜くなんて、ダメだからな」
「抜かないわよ〜。効率アップすればいいんだから。ね、いいでしょ?」
「……仕事なんか見つかるのか?」
「あ、仕事を見つけるには、スーツ買わなくちゃ」
「スーツ?」ますます深いしわが眉間に寄る。
瑞恵はニッコリして、彰夫の腕を取った。「あなたのために、輝くのよ」
「……スーツは五万円以内。家事は手、抜くな。いいな」
「ありがとう!」心にもない感謝の笑顔を作ることなど、朝飯前だ。
彰夫が風呂に行ってしまうと、瑞恵はにわかに戦闘モードになった。
「今に見てなさいよ。スーツくらい、自分のお金で買えるようになってやるんだから」
畳の上で腹筋トレーニングを始めた母親を、洋介がけげんそうに見ている。
聡子は久しぶりに実家に顔を出し、家族に和哉とのことを報告した。
「プロポーズ!?」一同は文字通り跳び上がった。
「するのか? 結婚」聡子の結婚を望んでいた友康だが、いざとなるとうろたえている。
「もちろん、前向きに考えるつもり」
「飛びつけよ、四十なんだから」憎まれ口を叩《たた》く達也に、「まだ三十九よ」と訂正する。
「四十前の駆け込み婚かあ」誤解[#「誤解」に傍点]しているマキにも、「駆け込んでないから」と訂正する。
「これで親父も安心だな」そう言う達也も、心では姉の結婚を喜んでいるのだ。
「その人は、聡子が甘えられる人なのか?」友康が、えらく真剣な顔つきで言った。
「……うん」
「そうか。ならいいんだ」
「今度、連れていらっしゃいよ」晴子が微笑んで言うと、
「え……うん、そうだね」聡子はあいまいに答え、「……あ、帰るね」と立ち上がった。
「もお? 夕飯食べていかないのか?」がっかりしている友康を尻目に、聡子はそそくさ帰っていった。
「皆さん、ちょっといいですか? 給湯室なんですけど、電気がつけっぱなしになってることがあるので、気をつけてください」ミーティングの前に、恵太朗はスタッフの面々に注意を促した。
「でも、しょっちゅう出入りするし」遥が言った。
「昨日の三時から四時の一時間は、誰も使用してませんでした」
「細《こま》か」遥がボソッとつぶやく。
「電気は、こまめに消しましょう」
「はい」スタッフ一同、ちょっとうんざり気味である。
「お待たせ。じゃあ、ミーティング始めましょう」聡子が急ぎ足で部屋に入ってくると、ちょうど電話を受けていた遥が、聡子に受話器をさしだした。「緒方先生、外線にお電話です」
「外線? ありがとう」受け取って、電話に出る。「はい、お電話、替わりました。……あ、マーくん、どうしたの?――えっ、和哉さんが?」
聡子はすぐに行くと返事をして、電話を切った。「ごめんなさい。ミーティング、明日の朝にしてもらえる?」白衣を脱ぎ、青ざめた顔で出て行く。そんな聡子を、恵太朗がロビーまで追いかけてきた。
「金杉さん、何かあったんですか?」
「倒れたって。早く行かないと」足を止めずに答える。
詳しい事情は聞いていないが、貞夫の店でコーヒーを飲んでいて、また過呼吸になってしまったらしい。
「心配です」
「私だって」
「緒方先生のことです」恵太朗は聡子の前に回り込み、行く手をさえぎった。「気づいてないんですか? 先生は巻き込まれて自分を見失いかけています」
「そんなことない」
「どんなに優秀な精神科医でも、身近な人のことになると客観的に見られなくて、冷静さを失うって言うじゃないですか」
「もう放《ほ》っといて!」行こうとする聡子の前に、もう一度恵太朗が立ちはだかる。
「放っとけませんよ! どうしてそんなに一人で何とかしようとするんですか」
「これは、私達二人の問題だから」聡子はそう言うと、立ち尽くしている恵太朗の脇をすり抜け、病院を出て行った。
和哉を部屋に連れて帰り、ベッドに寝かせながら、聡子は労《いたわ》るように言った。
「ゆっくり休めば、よくなるからね」
「……わざわざ仕事、とばして来ることなかったのに、悪かったな」
「大丈夫よ。私がいつもそばにいるから」
「ありがとう」和哉は微笑んで、目を閉じた。
聡子はふと、傍らにあった和哉の傷だらけのカメラに目を留めた。
――金杉さんがカメラマンを辞めたのは、本当に緒方先生のためなんでしょうか――
恵太朗の声が聞こえてきて、聡子は一瞬、胸を刺すような痛みを感じた。
自転車を停め、考え事をしながら玄関に向かおうとしていると、恵太朗がやって来た。
「……おはようございます」
「……おはようございます」
いつもなら楽しく軽口を叩《たた》き合うのに、今日は気まずい沈黙が流れる。
聡子が先に歩き出すと、「あの」と恵太朗が声をかけてきた。
「……いえ。連休明けだから、忙しくなりそうですね……」
振り返った聡子に、恵太朗は言いたいことも切り出せない。
「……そうね」
「あの……金杉さんは――」思いきって尋ねようとした恵太朗を、聡子は強い口調でさえぎった。
「大丈夫。心配いらないから」
それ以上何も言えず、恵太朗は歩いていく聡子の背中を、ただ心配そうに見つめた。
恵太朗は仕事のあと、和哉が働いている写真館を訪ね、近くの公園に誘った。
「それって、カウンセリングですか?」
「そんな大げさなものじゃないです。ただ毎日三十分、話をしませんか? 僕、ここで待ってますから」
「俺は何も話すことはないから」
「それでもいいですから」恵太朗はニコッとして、持っていた水筒を開け、カップに温かいコーヒーを注いだ。「コーヒーどうぞ。オーガニックコーヒーです」
「……どうして、俺にかかわろうとするんだ?」和哉は、怒ったように恵太朗の顔を見つめた。
聡子が時計を気にしながら鍋をかきまぜていると、ようやく和哉が帰ってきた。
「遅かったね」
「あ、うん……これからしばらく遅くなるかもしれない」
「仕事?」
「……ああ」和哉は聡子から目をそらすようにして鍋の中をのぞき込み、うれしそうな声をあげた。「聡子の特製カレーかあ」
「大好物だったでしょ」
「覚えててくれたんだ。うまいんだよなあ」
「どうかな、久しぶりに作ったから」
鶏肉《とりにく》とナスやカボチャなど野菜をたっぷり入れ、ココナッツミルクで仕上げたエスニックカレーだ。ライスには白ゴマとミントの葉をあしらう。
「うん!……あれ?」一口食べた和哉が、首をひねった。「うまいけど、何か足りない」
「うそー」聡子も一口食べ、「シナモンだ……隠し味に入れるの忘れちゃった」
「やっぱりな」二人は笑い合った。
「久しぶりだから。今度はちゃんと作るから」
「無理するなよ。俺が来る前は、メシなんて作ってなかったんだろう?」
「一人だと作る気しないけど、二人だと作りたいの。たくさん食べてよ〜」
二人はまた笑い合う。恋人たちだけが分かち合える、幸せな時間だった。
一方、瑞恵は求人誌を片手に、緊張しながら最初の電話をかけていた。
「年齢ですか? 四十です」
「四十ですかぁ」渋るような声が聞こえる。
「事務なら経験があります。保険会社に勤めていましたから」
――まだ一件めだ。
気を取り直して、次の会社の電話番号をプッシュする。
「経験とおっしゃいますけど、十五年前ですよね」
「はい。でも、すぐに勘を取り戻せると思います」
「あなたの世代の人達の特徴ですよね」薄い笑いが相手の声ににじむ。「大学生、新人OL、いつもチヤホヤされた世代だから、今でもその時の感覚のまま、自分はできるって勘違いしている方、多いんですよね」
「でも私の場合は、業界ナンバーワンの保険会社に勤めてましたから」
――そうそう甘くないことは覚悟の上だ。まだ次がある。
「今はパソコンが使えないとねえ。ワードとエクセルができないと事務職は難しいですね」
「でも私、ワープロ二級ですから」
電話の向こうから、バカにしたような忍び笑いが聞こえてきた。
求人誌に載っていためぼしい会社は手当たり次第あたったが、結果は全滅。が、これしきのことであきらめてなるものかと、瑞恵は派遣会社に登録することにした。
「それでは、ワードのスキルテストを始めます」
数日後、登録希望者を対象にしたパソコンスキル診断が行われ、瑞恵も買ったばかりのスーツを着て参加したが、文字の入力はできても、他の操作がまるでわからない。
「では、始めてください」合図とともに、周りの女性たちがいっせいにキーボードを叩き始めた。それも、すごい速さである。
瑞恵は周囲のスキルの高さに圧倒されつつ、たどたどしい手つきでキーを押し始めたが、あせるばかりで何一つまともな文章を打てなかった。
いよいよ窮地に立たされた奈央は、仕事の合間を縫って不妊治療を開始していた。
「近いうちにご主人の検査もしておきましょう」
「……主人ですか?」
「もしかして、まだ話してないんですか?」
「はい……」奈央が小さくなって答えると、医師は厳しい顔になった。
「不妊治療で一番大切なのは、ご主人の協力です。そうじゃないと、女性の側の心理的負担が大きくなるだけです。次回の予約ですが、来週の水曜日はいかがですか?」
スケジュール帳を広げて確認すると、その日は、第一回目の編集長会議がある。
「……すみません、仕事があるので、別の日にしていただけますか」
医師は渋い顔になると、大げさなため息をついて言った。
「仕事仕事で出産を先送りにしてきて、まだ仕事優先なんですか」
「医者には今まで一生懸命仕事してきた私が悪いみたいに言われるし、親戚《しんせき》には女なら誰でも子供が産めて当然みたいに言われるし。だいたいなんで私、コソコソしないといけないわけ? 私は、なんにも悪いことしてないのに。おかわり」
奈央は不機嫌丸出しの顔で店に現れ、貞夫が作るはしから料理を平らげている。
「あったま来た。絶対、おかしい。なんで私がこんな思いしなくちゃいけないの?」
「奈央だけじゃないんじゃない?」貞夫は何の気なしに言った。「そうゆう思いしてる人、たくさんいるんじゃないの?」
「…………」その時、奈央の頭にフッとひらめくものがあった。
夕方、恵太朗が公園で待っていると、和哉がふらりと現れた。
「……金杉さん、来てくれたんですね」
「君が待ってるといけないと思ったんでね。でも、話すことは何もないよ」
恵太朗は微笑んで言った。「わかりました。でも、せっかく来てくれたんですから、飲んでいきません? オーガニックコーヒー」
「は?」
「今、いれますから、座ってください」
変な男だと思いつつ、和哉は気がつくとコーヒーを受け取っていた。
「言われてみれば、そうなのよ。私の輝かしい花のOL時代なんて過去の話。でも、負けないからね。私」店にやってくるなり、瑞恵はとうとうとまくし立てた。
「はい、グルヌイユ」貞夫が元気づけに、特製料理を運んできてくれる。カエルの足と知って、二人ともびっくりしている。
「あ、マーくん、この前はごめんね」聡子は改めて言った。
「ううん、もう大丈夫?」和哉が急に発作を起こした時は、貞夫も驚いた。アフガンの話を聞いたり、例の写真雑誌で貞夫の気に入っている和哉の撮った写真を教えたりして、別段、変わった様子はなかったのに……。
「でも驚いたよ。金杉さんと一緒に住んでるだなんて」
「住んでるの!?」奈央と瑞恵が、同時に言って聡子を見た。
「あ……うん」
「どうゆうつもり?」
「……結婚しようって言われてる」
「結婚!? おめでとう、聡子、ついに――」盛り上がっている瑞恵に水を差すかのように、奈央が言った。「金杉さんとの結婚は違うと思うな。やめたほうがいい」
「……なんでそう思うの?」本当なら、笑って取り合わないでしかるべきだ。
「聡子、結婚出産のラストチャンスなんだから、迷う必要なんてないわよ」
「迷ってなんてないけど」自分自身にも言い聞かせるように、ムキになって否定する。
「瑞恵先輩は、正解だったんじゃないですか? 結婚出産を先にすませといて」以前の奈央なら考えもしなかっただろうが、今は違う。
「えー、私はもう少しキャリアアップをしてから結婚出産すればよかったって思ってるのに」
「隣の芝生は、青いわけだ」貞夫がのんびりと評した。
「マーくんはもうちょっと隣の芝生、見たほうがいいんじゃない?」瑞恵がからかう。
「そうよ。今のままで満足なわけ? ここ、全然もうかってないじゃない」
他人やライバルに「勝つ」ことがアイデンティティの奈央には、幼なじみの貞夫の欲のなさが、じれったくてしょうがない。
「幸せだと思うよ。いちおう食べていけるし、こうやってみんなも来てくれるし」
「だからマーくんはダメなのよ」
「……ねえ奈央、なんで、和哉さんとの結婚はやめたほうがいいと思うの?」
みんなが話している間、聡子はずっと奈央に言われたことを考え続けていた。
「え? 先輩には、もっと合う人がいると思うから」
「もっと合う人って?」
「岡村さんは違うわよ。聡子には全っ然、合わないと思う」瑞恵が力を込めて断言する。
岡村と聞いて、貞夫が「あ」と声を上げた。「岡村さん、この前、来たよ」
「ここに?」そんなこと、聡子は初耳だ。
「私に会いに来たの?」と瑞恵は期待に目を輝かせている。
「違うよ。金杉さんの仕事場、教えてほしいって」
「なんだ……」瑞恵はがっかりしているが、聡子は恵太朗が知らぬ間に和哉に近づこうとしているらしいことが、不愉快だった。
「まさかカウンセリングをしてるんじゃないでしょうね?」
医局に恵太朗を呼んで問いただすと、「患者さんとの守秘義務がありますから」という答えが返ってきた。
思わず頭がカッとなる。「岡村さんのすることぐらいわかるわよ。どうして?」
「心理士として、見ていられなかったからです」
「だからって――」
「金杉さんは、なんらかの『外傷ストレス』によるPTSDの可能性が高いと思います」
「……PTSD?」
「緒方先生だって、気づいてるはずです。ただ認めようとしないだけで」
「とにかく彼には、もう会わないで」聡子は語気荒く言うと、立ち上がった。
「金杉さんは、自分の意思で僕と会ってるんです。彼がやめると言わないかぎり、僕は続けます」
恵太朗はそう言うと、一礼して部屋を出ていった。
「どうして話してくれなかったの?」夕飯を食べながら、聡子は和哉にカウンセリングのことを尋ねた。
「岡村さんは、まずは自分の病気を認めるべきだって」
――そんなことを!
「大丈夫? 病気だなんて言われて、不安になったんじゃない?」
「いや、ホッとしたんだ」
「……どうして?」
「よくわからないけど、救われた気がした。岡村さんを信じようと思う」和哉の表情にも言葉にも、迷いやぶれ[#「ぶれ」に傍点]はない。「自分と向き合う勇気を持てって言われたんだ」
その言葉に、聡子はハッとなった。自分と向き合う勇気……。
「俺は、病気を治したい」
――もう認めなければいけない。
「……そうね、治しましょ」聡子は今にも泣き出しそうになりながら、笑顔で答えた。
「ごめんなさい」翌日、聡子は恵太朗を屋上に呼び出し、頭を下げた。
「岡村さんの言葉、彼の心に届いたみたい……私の心にも」
「!」
「情けないな。あなたの言うとおり、私、巻き込まれてた。精神科医失格だ」
「大切な人のことになると、冷静な判断ができなくなるものです。緒方先生みたいに優秀な精神科医の先生でも」
「優秀? どうかな」と苦笑する。
「優秀ですよ。優秀な心理士が言ってるんですから」恵太朗が胸を張って言うので、聡子は思わず笑った。
「それって岡村さんのこと?」
「もちろんです。さっき褒めてくれたじゃないですか」
「調子にのることないじゃない。失敗したぁ」
二人の朗らかな笑い声が、気持ちのいい晴れた空に響く。
「久しぶりですね」と恵太朗がうれしそうに微笑んだ。「笑った顔」
「……そうだった?」
「そうだ。第二回お笑いライブ鑑賞会、行きませんか? 新しいコンビ、見つけたんです」
「えっ、どんな」聡子はすぐに食いついた。そういえば、お笑いもご無沙汰《ぶさた》だ。
「コンビがどっちも、ボケとツッコミができるんです」
「それって相当な技術を持った実力派ってことね」
「僕、チケット、取りますから」
「ううん、この前キャンセルしちゃったし、私が」
「今回は、僕が取りますってば」
「じゃあ、第三回の鑑賞会は、私が!――」言いかけて、聡子は決まり悪そうに口をつぐんだ。恵太朗も聡子の心中を察して、微妙な空気が流れる。
「……やっぱりやめとこうかな」
「そうですよね」恵太朗は、中に戻っていく聡子の後ろ姿を切なそうに見送った。
「今日は、何を話そうかな」
公園のベンチに座り、オーガニックコーヒーを飲みながら、恵太朗が言った。
「……この仕事、本当に好きなんだね。見てればわかるよ」
「はい。心理士は自分のこと話したらいけないんですけど、話してもいいですか?」
「聞きたいな」
「僕、商社マンだったんです。けっこう大きな会社の。でも、心理士になりたいっていう思いを捨てられなくて、会社辞めて大学院に入りました」
「へえ。家族に反対されなかった?」
「されました。心理士で食べていくのは大変なので、親や姉達に将来はどうするんだとか、せっかくいい大学入っていい会社に入れたのに、今までの人生、無駄にする気かとか」
「反対を押し切ったんだ」
「はい。将来のためだけに生きてるわけじゃないし。それに……」
「それに?」
「過去にこだわって生きてたら、前には進めません」恵太朗はそう言って、まっすぐ和哉を見つめた。「でも今を生きるって、難しいですよねえ」
夕方になって、風が出てきた。砂場の砂が、風にあおられて風紋を作っている。
その時、和哉の口から、荒い息とともに、ささやくような声が漏れてきた。
「……あの日も、風が吹いてたな。それで俺の帽子が飛ばされて、通訳の少年が取りにいってくれたんだ」少し苦しそうだが、それでも話そうとしている。
和哉が無理を言って連れていってもらった地雷地帯。その赤いラインを超え、帽子を拾い上げて笑顔で振り向いた少年に、和哉はシャッターを切った。
「……彼の笑顔をカメラに収めた直後に……」息が苦しくなる。『グランポン』で発作を起こした時、貞夫がほめてくれた写真も、まさに彼の写真だったのだ。
「大丈夫ですか?……ゆっくりでいいですよ」
和哉は唾《つば》を飲み込み、言葉を吐き出した。「……地雷が爆発……」
「!」たとえようもない悲劇だ。恵太朗は絶句した。
「なんで俺じゃなくて、彼だったんだろう。なんで俺が生き残ったんだろう……」
「……ずっと自分を責め続けて、つらい思いをしてきたんですね」
和哉は、肩を震わせて泣き始めた。今も血を流す傷あとを、涙で洗い流すかのように。
「早くよくなろうと思わなくていいんです。ただ、僕達は、今を生きてます。あなたも今この瞬間を大切に生きましょうよ」恵太朗が言った。
翌朝、聡子に誘われて屋上に出た恵太朗は、うれしいニュースを聞かされた。
「えっ、カメラを持てるようになったんですか?」
「うん。ありがとう。少しずつもどっていけばいいと思う」
シャッターを切ることはできなかったけれど、カメラに触れることができただけでも大きな進歩には違いない。
「……いつ結婚するんですか?」恵太朗は、できるだけさりげなく尋ねた。
「……具体的なことは、まだ」
「緒方先生が家事をするなんて、想像つかないなあ」
「私、家事は得意なんだから」
「僕に見栄張って、どうするんですか」
「ホントよ。私、十六歳の時に母を亡くして、家のことずっとやってたから」
「……そうだったんですか」
「父は私達を育てるために、大学病院の外科医をやめて、開業して大変だったし、弟がまだ五歳だったしね。弟のお弁当だって、中学高校とずっと作ってたんだからね」
「しっかり者のお姉さんだったんですね。誰かに甘えたくても、甘えられなかったんじゃないですか?」
恵太朗が、父の友康と同じようなことを言う。「……そうだったかなあ」
「でも今は大丈夫ですよね。金杉さんがいるから」
「……うん、そう。彼は、私が初めて甘えられた人」聡子はそう言って、恵太朗に明るい笑顔を向けた。「……岡村さんも、早く彼女ができるといいわね」
「よけいなお世話です」
「あ、スタッフの子達、言ってたわよ。給湯室の電気のこと、細かいこと言うって。そうゆうところが彼女のできない原因なのよねえ」
「言われなくてもわかってますから。僕のことわかってくれる人がいないなら、一生一人で生きていったほうがいいです」
「どっかで聞いたせりふ。あ、私か。私もそんなふうに言ってた時があったなぁ」
「ありがとうございます」
唐突に言われ、聡子はびっくりした。「え、何?」
「緒方先生は、僕のこと、ちょっとはわかってくれてるような気がするから」
「……ま、笑いのツボが同じとこだし?」
「はい」
「ケチじゃなくてエコのところとか?」
「はい」
「岡村さんの彼女になった人は、大変だとか?」
「それはよけいなお世話です」
「あと、心理士として本当に信頼してるのよ」聡子は感謝も込めて、そう伝えた。
「ねえ。和哉さんて、人に何か言われてやるのが嫌いな人なの。どうやってカウンセリングを受けるよう、説得したの?」
「それは……」と恵太朗はごまかすように微笑み、「守秘義務にかかわることですから」
「ホントにケチねえ。あ、行かなきゃ」腕時計を見て、聡子は慌てて白衣を翻した。
瑞恵は分厚い入門書と首っ引きで、パソコンの使い方をマスターしようと悪戦苦闘していた。洋介がテレビゲームをしながら、そんな瑞恵をチラリと見る。
そこへ、彰夫が帰宅してきた。「おい、俺のパソコン」
「貸してね。練習したいの」
「仕事、決まったのか?」
「……まだ」瑞恵が答えると、「やっぱり無理か」と鼻で笑う。
「パソコンくらい、ちょっとやればできるようになるんだから」
瑞恵がまた真剣にパソコンに向かっていると、テーブルの上の夕飯を見た彰夫が、チッと舌打ちして文句を言い始めた。
「おい、昨日が天ぷらで今日が天丼? 家のことは手、抜くなって言っただろ」
「それが、効率アップってことじゃない」
「わかんないよなあ。働くより、専業主婦のほうがよっぽどラクなのに」
ムカーッと来たが、ここで爆発しては六ヶ年計画が水の泡だ。瑞恵はニッコリして、
「……そうかもねえ。働いてみて、初めてあなたの苦労がわかるかもしれない」
「わかってほしいよ、まったく」彰夫はぶつぶつ言いながらリビングを出て行った。
「絶対、マスターするんだから」瑞恵は戦闘モードでパソコンに向かったが、気持ちのわりに頭がついていかない。「あれ?……もうっ!」
と、洋介の指が伸びてきて、ポンと一つキーを押すと、魔法のように表計算ができてしまった。「あっ、すご〜い」瑞恵が驚いて息子を見上げると、洋介は少しはにかんで、またテレビの前に戻っていく。そっけないけれど、やさしいところもあるのだ。
「ありがとう」瑞恵はうれしくなって、息子の背中へ声をかけた。
今夜こそ。奈央は覚悟を決めて、不妊治療の本を高文の前に置いた。
「私、不妊治療が必要なの」一息に言う。
「え……」高文は、さすがに驚いている。
「どうしても子供、欲しいから」
「不妊治療って、よくわからないけど大変そうだな」
「高文の協力が必要なの。今度、婦人科に一緒に行って検査を受けてくれる?」
「俺? 婦人科って、男が行くところじゃないだろ」
そんな考えをする人だったのかと一瞬耳を疑ったが、奈央は辛抱強く言った。「……子供は、女だけじゃ作れないでしょ」
「……わかった。ベビー関連の話も進んでるし、協力するよ」
「ありがとう」ホッとしていると、高文が奈央の耳元に、笑顔でささやいた。
「頑張れよ、奈央」まるで他人事《ひとごと》のように、そして、奈央だけに子供を作る義務があるかのように。
カウンセリングを重ねるうち、和哉はここのところ、嫌な夢を見なくなったようだ。
「いい方向に向かってますね。自分の傷と向き合うことができた金杉さんなら、きっと大丈夫ですよ」
「本当にありがとうございました」
「……金杉さん」恵太朗は改まって言った。「自分の傷と向き合ったことで、今までとは違う何かに気付いたりしませんか?」
「……え?」
「カメラマンを辞めた理由は、本当に緒方先生のためですか?」
「……それは、一人の心理士として聞いてるのかな」
少しだけためらい、恵太朗は答えた。「……いえ、違います」
奈央から報告があるというので、聡子と瑞恵は、貞夫の店に集まっていた。
「マーくんには、話したんだけど……不妊治療を始めました」
まさかのことに、二人は言葉を飲んだ。
「でも、別に私は前向きよ。不妊治療のこと、雑誌で連載するつもりだから」
「連載ってどうゆうこと?」貞夫が眉根を寄せる。
「マーくんが言ってくれたじゃない。治療でつらい思いしてる人がたくさんいるって。だから、そうゆう人達の代弁者になるつもり。連載中は高文とのツーショット写真も載せて、夫婦の絆《きずな》をアピールするの。だから、心配しないで。不妊治療のイメージを私が変えてみせるから」
「すごいわねえ、奈央は」瑞恵は感嘆している。
「最近の瑞恵先輩には、負けますよ」
「すごいなあ、二人とも」聡子は、とても二人のパワーに太刀打ちできない。
「聡子は? 金杉さんとの結婚、進んでる?」瑞恵が聞いてきた。
「……あ、うん……」
「いいわねえ、結婚へのカウントダウンが始まったわけね。離婚に向けてカウントダウンを始めた私が言うのもなんだけど」
「先輩どうしたの? 何か元気ないよ。結婚に迷いでも出てきた?」
聡子が黙っていると、だしぬけに貞夫が言った。「やっぱり間違ってる」
「えっ、私の結婚?」
「奈央のやり方」貞夫は、吐き捨てるように言った。「夫婦の絆とか言って自分の結婚を宣伝の道具にしてるだけじゃないか。そんなの嘘くさいよ。もっと中身で勝負しろよ」
「どうしてそんなこと、マーくんに言われなきゃいけないの?」奈央が気色ばむ。
「俺が一番、奈央のことは、わかってるつもりだから」
「どこが? 全然、わかってないじゃない。私は仕事のためなら何でもやるの。私生活をさらけ出しても。マーくんみたいに半端なところで満足してる人にはわかんないでしょうけど」
奈央はそう息巻いて、バッグを手に取った。「帰る」
「帰れ」貞夫が珍しくつっけんどんに言う。
「帰るって言ってるでしょ」と貞夫をにらみつけ、席を立つ。
「ホントに帰るの?」聡子が聞くと、奈央は「じゃあね」と靴音も荒く帰っていった。
瑞恵が、ふと思いついて言った。「ねえマーくん、奈央のこと、ホンキで好きなんじゃない?」
「ああ、そうだよ」
「やっぱりなぁ。そうじゃないかって思ってたのよ」
貞夫は、カウンター裏の幼い二人の写真に目をやった。「まったく、奈央のやつ」
「なんだかんだ言って、マーくんと奈央はいい関係だから。マーくんだけじゃない? 奈央があんなに言いたいことが言える相手って」
そんな瑞恵の言葉を、貞夫だけではなく、聡子もまた、噛《か》みしめていた。
その夜、聡子が仏壇の前に座って母の遺影に語りかけていると、晴子が酔っぱらった友康を抱えるようにして帰ってきた。
「まったくこんな飲み方して」
「どうしたの?」
「複雑なんじゃないの? 聡子さんの結婚、嬉《うれ》しいような寂しいような」
友康はソファに横になって、いびきをかいている。聡子は父に毛布をかけてやった。
「……あいかわらず幸せそうだね」
「幸せよ」
「……私にとっての幸せは、どうゆうことなのかなぁ」
聡子は何かに迷っている。それが結婚のことであるのは、晴子にはすぐに察しがついた。
「聡子さんの幸せは、聡子さんが決めることでしょ。本当は聡子さんの答え、もう出てるんじゃない?」
晴子に言われて、今度こそ自分の気持ちがはっきり見えた気がする。そんな娘の思いが伝わったかのように、途中から目を覚ましていた友康が、再びゆっくりと目を閉じた。
マンションに戻った聡子は、和哉に言った。
「……和哉さん、話したいことがあるの」
「……俺も」
何が言いたいのか、お互いにもうわかっていた気がする。
和哉はフッと微笑み、言った。「明日、海に行かないか?」
「うん」と聡子も微笑んだ。
二人で海辺を歩きながら、和哉はやっと探り当てた、本当の心を聡子に打ち明けた。
「俺、カメラマンを辞めたのは、自分の心の傷から逃げるためだったってわかったんだ。ゴメン。やっぱり俺、写真は止《や》められない」
「私もわかったことがある」聡子もまた、ようやく探り当てた、自分の本心だった。
「和哉さんと一緒にいると、頼れるし、甘えられるし、何が起きるかわからなくてドキドキして……写真撮ってる和哉さんの背中見てるだけで、幸せいっぱいだった。でもそれは、五年前の私。……私はもう、五年前の私じゃない」
「……俺は全然変わってないな。突然、聡子の前から消えといて、今度はいきなり現れて聡子に頼ろうとしてたなんて……勝手な男だよ」
「ううん、会えてよかった」聡子は今、清々《すがすが》しいほど晴れやかな気持ちだった。「これで五年前の自分にケリをつけられる。前に進まなきゃ」
「……今を生きないとな」
「……そうだね」
「……撮っていい?」和哉が微笑んで、カメラを構えた。
「きれいに撮ってよ」冗談めかして言う。
「五年前より老けたな」ファインダーをのぞきながら和哉が茶化すように言い、自然にシャッターを切る。カシャッ。その音が、聡子には福音にも思える。
「わかってるわよ。そんなこと言う人には、撮らせないから」
「でも、五年前よりキレイだ」和哉がシャッターを切り続ける。
「!……ありがとう……」和哉の言葉が、聡子は泣きたいくらいにうれしかった。
荷物を持ってマンションを出る和哉に、聡子は封筒を渡した。
「PTSDを専門にしてる先生への紹介状が入ってるから」
「ありがとう。必ず治すよ」
聡子がPTSD関連の資料を読み漁《あさ》り、その道の権威である教授にも会いに行ったことを和哉は知らないが、さまざまに骨を折ってくれただろうことは想像がついた。
「治ったら、またアフガンに行くの?」
「ああ」
「気をつけてね」聡子は微笑んだ。
「岡村さんによろしく。彼じゃなかったら、俺はカウンセリングを受けなかったと思う」
和哉は、恵太朗が初めて会いに来た時のことを、聡子に話して聞かせた。
「……どうして、俺にかかわろうとするんだ?」不思議に思った和哉が尋ねると、恵太朗は真摯《しんし》な目で、こう答えた。
「緒方先生は、金杉さんのことを大切に思ってます。でも、大切な人だからこそ、あなたの病気を認めることができなくて、苦しんでいます。お願いです。自分の心の傷と向き合う勇気を持ちませんか? あなた自身のために。それから、大切な緒方先生のために」
和哉から初めてその話を聞いた聡子は、胸が震える思いだった。
「本当は、その時からわかってた。岡村さんは、聡子のことを大切に思ってるって。……幸せにな、聡子」
「和哉さんも」
あの日と同じように、和哉はカメラを肩にさげてドアを出ていった。けれど、もう後戻りはしない。
部屋に戻ると、聡子は本棚のフォトスタンドを一度胸に抱きしめ、それから引き出しの奥深くにしまった。
夕暮れの公園で、恵太朗はベンチに座って和哉を待っていた。
「岡村さん」聡子が声をかけると、恵太朗はびっくりしたように振り返った。
「和哉さんなら、来ないから。――シャッターを切ることができたの」
「!」
「どうしてくれるの? 岡村さんのおかげで写真の世界に戻ってっちゃったじゃないの」
「じゃ?……もしかして……」
「よかったのよ、これで」
「……強がってません?」
「全然。あ、チケット、取ったの」聡子はポケットから、チケットを二枚、取り出した。「第二回、お笑いライブ鑑賞会。必見なんでしょ? 例のコンビ」
「はい」恵太朗がパッと笑顔になる。
「その日、大丈夫だよね。きっと特に予定もないだろうし」
「予定がないのは、お互い様ですよね」
「そんなことないわよ。私はわざわざスケジュールを調整したんだから」
「絶対、そう言うと思った。なんでいちいち見栄、張るかなあ」
「そんなこと言うと、一緒に行ってあげないわよ」歩き出した聡子を、恵太朗が追ってくる。
「僕が緒方先生と一緒に行ってあげてるんじゃないですか」
「おなかへったぁ」
「何、食べましょうか」
「誘ってないから、別に」
楽しそうに言い合いながら、いつしか二人は、肩を並べて歩いていた。
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6 格差恋愛の建前と本音
ラーメン店のカウンターで仲良くマイ箸《はし》でラーメンを食べながら、聡子と恵太朗は、見てきたばかりのお笑いライブの話で大いに盛り上がっていた。
何しろ、どのネタでも同じタイミングで笑う二人なのだ。
「ホントにやみつきになりそうね、お笑いライブ」
「はい」恵太朗が笑顔で答え、ツユだけになった丼を出す。「替え玉ください」
「私もいっちゃおうかなぁ」
「いっちゃってください」
「ん〜〜〜替え玉一丁!」聡子も元気よく丼を突き出す。
「昨日テレビ見ました? お笑いスペシャル」
「それが録画するの忘れたの」昨夜、帰ってから気づいてがっかりしていたところだ。
「僕、ビデオ録りましたよ」
「録った? 貸して貸して」
「じゃあ、帰りに僕んチ、寄ってください」
ラーメンを食べ終わり、「ごちそうさまでした」とマイ箸をしまいながら、聡子は、恵太朗の側に置かれた伝票をチラッと見た。
「行きますか」と、恵太朗がその伝票を当たり前のように手にして立ち上がる。
「あ、ねえ」聡子はつかのま迷ったが、「いいわよ、今日は。ビデオ借りるし。伝票貸して」
「ホントにいいんですか?」
「うん、いいのいいの」
「じゃあ、今度は僕がごちそうします。鍋どうですか。緒方先生のウチで」
「えっ、ウチで?」
「ダメですか?」
――この笑顔に弱いのだ。「ううん」聡子が首を横に振ると、恵太朗はニッコリした。
「じゃあ、今度」
恵太朗がアパートのドアを開け、「どうぞ」と聡子を中に促す。
「えっ、ここで待ってるけど……」
「おいしいオーガニックコーヒーがあるんです。どうぞ」
「……お邪魔しまーす」おずおずと足を踏み入れる。
恵太朗は玄関続きの台所に立ち、コーヒーの用意を始めた。1Kの部屋は、狭いけれど、きちんと整頓されている。以前、公園で拾って二人で運んだローテーブルが真ん中に置いてあるほか、余分なものはいっさいない。部屋の隅っこには、畳んだお布団が――。
「緒方先生」恵太朗に呼ばれ、「はいっ」と慌てて布団から目をそらして振り向く。
「ビデオ、ちょうど入ってますから、見ててください」
「あ、うん」聡子はテーブルからリモコンを取って電源を押した。が、何度やっても反応がない。
「……ねえ、テレビつかないよ」
「ああ、コンセント抜いてあります。コンセントは、マメに抜いてるんです」
「……ケチじゃなくてエコね」
「はい」恵太朗がニコッとして、コーヒーを運んできた。
奈央は会議室に美智子を呼び出し、遠まわしに切り出した。
「……実は、病院に通うことになったので、遅刻や欠席がたびたびあるかもしれません」
「……大丈夫? どこか悪いの?」
「いえ……」一瞬、口ごもるが、言うしかない。「通院は、不妊治療のためなんです」
「!……そう……」
「こんな大事な時期に、申し訳ありません」
「困ったわね。新雑誌のコンセプトは、結婚もキャリアも子供もだから」
「いいえ、チャンスだと思います」
「チャンス?」
「現在、不妊に悩んでいる人は、十組のうち一組と言われています。そして、不妊治療をしている人の多くが周囲の理解を得られず、理不尽な思いをしています。私は、そうゆう人達の思いを、この雑誌を通して世間に発信していきたいと思います」
転んでもただでは起きない奈央の根性に、美智子も少なからず驚いているようだ。
「……本当にやるなら、どんなにつらくても、全てをさらけだしなさいよ」
「……はい!」奈央はやる気だった。
その夜、『グランポン』で夕飯を食べながら、瑞恵がしみじみ言った。
「和哉さん、いいと思ったんだけどなあ。別れちゃったなんてねえ」
「先輩、ますます難しいと思うな」と、奈央が考えるような顔つきになる。「女は歳をとるほど男に対する要求を下げなきゃいけないけど、実際はどんどん下げられなくなる。先輩もそこそこの人じゃ満足できないのよ」
「全然、そんなことないから」
「じゃあ例えば、自分より年収低い人とつきあえる?」
「……もちろん。私は何よりも一緒にいて楽しいとか、自分らしくいられるとか、そうゆう人とつきあいたいから」
「その通り。聡子もいいこと言うじゃない」貞夫が力強く同調した。
「私はけっきょく、結婚がしたくて結婚したもんだから、学歴と会社名で選んじゃったのよねえ。失敗したわ」瑞恵が後悔のため息をつく。
「専業主婦になるなら、年収で選ぶしかないじゃない」と奈央。
「自立してる女は、好きかどうかだけで選べるってことか」瑞恵は妙に得心している。
「自立してても、年収で選んでる人、いるけどね」貞夫がここぞとばかりに当てこすったが、
「マーくんは黙ってて」と奈央ににらみつけられ、すぐに口をつぐむ。
「とにかく私は、年収とか関係ないから」聡子は言った。
「先輩がよくても、男のほうがいやなの。男なんて、プライドとメンツが何よりも大切なんだから」
「そんなこと……!」ない、とは聡子も言い切れない。
「とにかく、女のほうが収入や社会的立場が上だと、最初はよくても、すぐに男は女より優位に立ちたがるようになって、ダメになるの」
二人の先輩よりはるかに恋愛経験豊富な奈央のセリフには、説得力がある。
「……人によるんじゃない?」聡子はささやかに抵抗した。
「そうだよ。俺はそうゆうことにこだわらないから」
「マーくんは黙っててって言ってるでしょ」
「なんだよ、その言い方。ここは俺の店なんだからな」
「私はお客です。客にその言い方はないんじゃない?」
奈央と貞夫のケンカは、まだ続いているらしい。
「そういえば私、ワイドショーで大女優が言ってるの見たわよ。夫は舞台の裏方さんで、妻の立場のほうが圧倒的に上なんだけど、家の中では徹底的に夫をたてるんだって」
「そこまでできる人なんて、まれだと思う」奈央が、ありえない、という顔で言った。
ただ一緒にいて楽しいだけじゃダメなんだろうか……悩める聡子である。
「野菜を中心とした鍋でいいですか?」
恵太朗はエコバッグを提《さ》げ、嬉々《きき》として野菜を物色している。
「やっぱり……ウチじゃなくて、どこかで食べてかない?」聡子は遠慮がちに言った。
「もしかして、部屋、散らかってるんですか?」
「ううん、そうじゃないの」そうじゃないけれど、躊躇《ちゆうちよ》してしまうものがある。
と、二人の目の前で、八百屋のおじさんが卵のパックを落としてしまった。割れたのは一、二個だが、もう売り物にはならない。
「それ買います。半額でどうですか?」すかさず恵太朗が声をかけ、交渉成立。恵太朗は戦利品を手に、聡子をニッコリ振り返った。「鍋のシメは、卵雑炊に決定です」
恵太朗は、豪華なマンションのエントランスをきょろきょろ見回している。
――家賃、高そうって、思ってる? 聡子は気が気でない。
「……どうぞ」
「お邪魔します」
恵太朗の部屋の、ゆうに三倍はあるリビングだ。
――部屋広いって、思ってる?
恵太朗が、物珍しそうに室内のインテリアを見回している。
――テレビでかいって思ってる? ソファ高そうって思ってる? マッサージチェア、岡村さんチじゃ、絶対置けないし。
「キッチン、お借りします」恵太朗がニコッとして、キッチンのほうへ行こうとする。
「あっ、いいの、私、やるから」
「いいですよ」
「いいから、座ってて。私にやらせて」
「今日は、僕がごちそうする約束ですから」
「あっ、そうだ。私のコレクションでも見てて」聡子は急いでテレビ台の引き出しを開けた。そこには、厳選したお笑いビデオがぎっしり並んでいる。
「うおぉ、すごい」恵太朗が歓声をあげた。
「でしょう? 全ておすすめだから」
「感激だなぁ」
「でしょ。見てて見てて」聡子はキッチンの方へ回り込み、素早くエプロンをつけて鍋の準備にかかった。野菜を切っていると、恵太朗が、じっと聡子を見つめているではないか。
「……何?」思わずドキッとする。
「もう少し、ゴミの量を減らせませんか?」
「えっ」
恵太朗がキッチンに来て、流しに捨てた白菜の芯《しん》だの人参の皮だのをつまみあげる。
「このへん、あと五ミリは食べられますし、これなんて、皮、厚く剥《む》きすぎですよ。やっぱり僕がやります」恵太朗が包丁を奪おうとする。
「ううん、私がやるから」
押し問答の末、けっきょく恵太朗が引き下がった。
「じゃあ、ちゃんとゴミを増やさないようにしてくださいよ」不承不承、ソファに戻っていく。
「わかりました」
「洗い物は、僕がやりますから」
「ううん、食洗機があるから……」――しまった。慌てて口を閉じたが、もう遅い。
お鍋を食べたあと、恵太朗は「おいしかったです」と満足そうに帰っていったが、聡子のほうは、すっかり気疲れしてしまったのだった。
瑞恵はウキウキしながらキッチンに立ち、大量に作ったおかずをラップにくるんでいた。
主婦が多いと聞いて登録した派遣会社で、とりあえず事務の仕事を探してもらったところ、ちょうど欠員の出た会社があったのだ。それも、都心の一等地にある大手商社である。
「こんなにたくさん、どうするの?」洋介がけげんそうに言った。
「冷凍しとくのよ。帰りが遅くなっても、夕飯はチンすればあっというまでしょう?」
瑞恵は弾んだ声で洋介に説明し、ダイニングテーブルでパソコンに向かっている彰夫に言った。
「ねえねえ、万が一、私が歓迎会とか飲み会で遅くなっても、冷凍庫の中のもん、チンして食べてね。ねえ、聞いてる?」
聞こえていないはずはないのに、彰夫は顔も上げない。
「ねえってば」
返事の代わりに、チッ、といういつもの舌打ちが聞こえてきた。「そんなこと、今話さなくたっていいことだろう? 仕事中にどうでもいいことで話しかけるなよ」
どうでもいいこと[#「どうでもいいこと」に傍点]――。怒りをグッと飲み込み、ニッコリする。「ごめんなさい」
「そんなに気がきかなくて大丈夫か? 迷惑かけるなよ」
「コピーとりやお茶くみで、どうやって迷惑かけるっていうのよ。ねえ、洋介」瑞恵はわざとらしいほど明るく言った。夫の優しい言葉など、期待しても無駄というものだ。
テレビの前の定位置から、洋介は眉をしかめて二人を見ている。
「いよいよ、社会復帰ね」瑞恵はせっせとラップしながら、自分自身を励ました。
「ヒューナーテスト?」高文は、聞きなれぬ言葉を繰り返した。
「……うん。その検査、高文の協力が必要なの」
ヒューナーテストとは、妊娠の確率を調べるための検査の一つだ。
「やっぱり一度、病院、行かなきゃダメってこと?」
「ううん」奈央は思いきって口にした。「検査の前の日に、夫婦生活をもつの」
「……え。そんなこと言ったって」
「この検査って、排卵日の時期にするものなの。つまり、月に一回しかチャンスがないの。お願い。その日だけは、絶対に帰ってきて」
高文は軽く息をつき、「……わかった」と言って自室に戻っていく。義務的な夫婦生活にプレッシャーを感じる男性も多いと聞く。けれど、奈央も必死だ。
高文の背中に、「絶対だからね」と奈央は念を押した。
聡子は、副院長じきじきに紹介された新しい患者を受け持つことになった。
有名な実業家、神林昭三《かんばやししようぞう》の息子である。博義《ひろよし》は二十四歳になるが、一年前から家に閉じこもっているという。まだまだ世間の目が気になるらしく、神林は時間外の診察を希望していた。経済界で名の通った人となれば、なおさら世間体が気になるのだろう。
「博義さんは、現段階では薬による治療とともに心理療法の導入が有効かと思います」
聡子が説明すると、神林は「心理療法?」と聞き返してきた。
「はい。病態がやや複雑なので、心理士を入れてカウンセリングや心理テストを含め、多面的にアプローチしたいのです」
「……必要ならば、お願いします」神林が言う。博義は父親の言うなりだ。
「カウンセリングは、こちらの臨床心理士がおこないます」聡子が恵太朗を紹介する。
「臨床心理士さんというのは、お医者さんですか?」
「いえ、医者ではありません」恵太朗が答えると、神林は眉をしかめ、聡子に言った。
「緒方先生に、カウンセリングをお願いすることはできないんですか?」
ずいぶん無礼な言い草だ。一瞬、聡子は恵太朗を気づかうように見やった。
「臨床心理士は、心理士ならではの専門的な知識や技術を持っているので、私は、心理士の力を借りたいと思っていますが」聡子はきっぱり言った。
「……緒方先生が、そうおっしゃるなら」やむなく、というような神林の返事。
「では、心理療法は岡村先生が担当します」
「さっき、僕のこと、岡村先生って言いましたね」ロビーを歩きながら、恵太朗が言う。
「あ、うん。そう言ったほうが神林さんも安心するかなって思ったから。全く、医者じゃないってだけであんな態度とるなんてね」
外は、いつの間にか雨が降り出していた。「天気予報、当たったな」恵太朗が、つぶやく。
「タクシー呼ばなきゃ」聡子が携帯を取り出して振り返ると、恵太朗は用意していたらしいカッパを装着し、すでにフードのひもを締めているところだ。
「……自転車で帰るの?」
「はい」なぜそんな当たり前の質問を、と言わんばかりの顔だ。
「タクシー、乗っていけばいいじゃ……」言いかけて、聡子は口を閉じた。ちょっと待ってて、と恵太朗に言い置いて、病院の売店までカッパを買いに走る。
――十分後、マンションのエントランスにたどりついた聡子は、びしょ濡れのフードを外すと、思わずため息を漏らした。
「何、俺に聞きたいことって」
姉のマンションに呼びつけられた達也は、出前のピザを頬張りながら言った。
「達也ってさ、結婚前に自分より年収や社会的立場が上の人とつきあったこと、ある?」
「俺はないけど。美容師仲間でいたよ。見習いの時、女のオーナーとつきあってたやつ」
「どう思った?」
「ヒモとまではいかないけど、それに近いもんがあるって、みんな思ってたよ」
「なんでそんなふうに思うの? お互い好きでつきあってたわけでしょ?」思わず擁護するような口調になってしまう。
「なんでそんなに姉貴がムキになるんだよ」
「ムキになんかなってないけど」
「ふ〜ん。そうゆうこと」この弟は、妙な時にカンがいいのだ。
「違う」
「俺より若い男はやめてくれよ」
「そこまで若くないわよ」答えてしまったあとに、カマをかけられたことに気づく。
「やっぱそうゆうことなんだ」と、達也はニヤニヤした。
「とにかく違うから」
聡子の本日の昼食は、食堂のAランチだ。「いただきます」と手を合わせ、マイ箸で食べようとしていると、恵太朗が来て、当然のように聡子の前に座った。
聡子としてはちょっぴり周りの目が気になるのだが、恵太朗はまったく意に介していない様子で、自分のマイ箸を取り出す。
「私もBランチにすればよかったかなあ」聡子は恵太朗のぶりの照り焼きをのぞきこんだ。
「チェンジします?」
「ううん、いいから」
「僕、Aも食べたかったんで、どうぞ」恵太朗が、おかずのお皿を取り替えてくれる。
そんな二人の様子を他のテーブルから見ていたらしく、夕方、遥がミーティングルームで聡子に話しかけてきた。
「緒方先生、エコに目覚めたんですか? 自分のお箸で食べてたじゃないですか、岡村さんと一緒に」
「ああ」と、さりげなく返事をしておく。
「一瞬、岡村さんと、つきあってるのかと思っちゃいました」
「!」思わずどきりとしたが、なんとか平静を保った。「つきあってるわけないじゃない」
「そうですよね。女性ドクターが、心理士さんとはつきあわないですよね」
「そりゃあそうよ」言った瞬間が、ドア口に立っている恵太朗に気づいた。
遥は「失礼しまぁす」と、そそくさ部屋を出て行く。恵太朗は少し傷ついた表情で、聡子に背を向け、診療録の整理を始めた。
「あ、ねえ」聡子は弁解しようとしたが、看護師の田島が話しかけてきて、けっきょくそのままになってしまった。
博義のカウンセリングが始まった。恵太朗が尋ねたところ、司法試験に落ちてから人の視線が気になり出したらしい。博義は自分をダメ人間だと思い込んでおり、どうも父親の神林が、息子のいいところを見もしないで、できない部分にばかり目を向けてきたようだ。
小学生の頃、クラスで一番を取った九十五点のテストを見せたら、褒められるどころか間違いを責められたというエピソードからも、そのことがうかがえる。
父親との関係を見直す必要がありそうだ。聡子と恵太朗は、博義には入院を含めた環境調整も有効だろうという結論に達した。
「ありがとう、引き続き、よろしくね」
「はい。……失礼します」行こうとした恵太朗に、聡子はとっさに声をかけた。
「あ、ねえ。……おなか、すかない?」
「心理士とは、つきあうわけないんですよね」いかにもとげとげしい言い方だ。
「あれはさ」
「僕たち、つきあおうって話したわけじゃないから、別にいいんですけど」
「そうよ。それに、もし万が一つきあったとしても、言えるわけないでしょ。仕事がやりづらくなるもの」
「言えない理由は、仕事がやりづらくなることだけですか?」
聡子は、え、と恵太朗を見た。「……他に何があるの?」
恵太朗は答えずに、ぷいとそっぽを向いて部屋を出て行く。
「ちょっと」追いかけようとしたが、タイミングの悪いことに川崎が部屋に入ってきた。
「どお? 神林さんの様子は」
聡子は恵太朗のことが気になりながら、博義の話を聞きたいからという川崎に、食事に連れて行かれてしまった。
広々としたフロアにパソコンの置かれたデスクが並び、社員達が忙しそうに働いている。
「コピー、三十部。でき次第会議室に持ってきて」
瑞恵はさっそく、若い男性社員から資料の束を渡された。社会復帰後の初仕事である。
「はいっ。コピー、三十部ですね」瑞恵は張り切っていた。久しぶりの緊張感だ。
一枚ずつ三十人分のコピーをとり、手際よくワンセットずつホッチキスで留めていると、先ほどの男性社員が不機嫌そうにやってきた。
「どれだけ時間かかるんだよ。五分もあれば、できることなのに」
「すみません。でも、五分はいくらなんでも無理だと思います」
「ソーター機能、使った?」その男性社員がコピー機を操作すると、先ほどの資料がちゃんとセットになって、しかもとじられた状態であっという間にできあがっていく。
「うわっすごい! ホッチキスいらないのぉ!?」
その時だ。あの忌まわしい音が、瑞恵の耳に聞こえてきたのは――。
「チッ。使えねえな」瑞恵は、朝の意気込みが一気にしぼんでいくのを感じた。
「もうがっくりよ。コピー一枚とれないなんて。クビになるかもしれない」
『グランポン』にやってきた瑞恵は、すっかり意気消沈している。
「最初にやり方、教えてくれればいいのにね」と聡子が慰めた。
「聡子と奈央がホントに羨《うらや》ましい。自立できるだけの経済力があって」
「それだけ仕事仕事で突っ走ってきたんだから。お金くらいついてこないと。ね、先輩」
「お金かぁ。やっぱりお金の感覚が違う人とは、つきあうの難しいのかな」ぎくしゃくしたままの恵太朗のことが、つい頭をよぎってしまう。
「私のこと?」瑞恵が聡子をチラリと見た。「例えば、聡子と奈央と一緒に旅行するとするでしょ。部屋のグレード一つ決めるのにも、私に気、つかうでしょ」
「……どうかなあ」聡子はあいまいに答える。
「瑞恵先輩に合わせると思う。自分で使えるお金、私達のほうがあるってわかってるから」
奈央ははっきり物を言うが、裏がないので瑞恵も決して不快には思わない。
「そうよねえ。お母さん友達だって、経済レベルが同じ人のほうがつきあいやすいもの」
「経済レベルなんて、どうやったら分かるの?」聡子が聞くと、
「持ち物とか着てる物とか、住んでる家とか、子供の習い事にどれだけお金かけてるとか、そうゆうことでしょ」奈央が編集者らしく分析した。
「経済レベルが違うと面倒くさいの。子供のクリスマス会でプレゼント交換するでしょ? プレゼントの値段決める時、二百円って言う人もいれば五百円って言う人もいるわけよ」
「ふぅん」
「今、二百円も五百円も変わらないって思ったでしょ」すかさず瑞恵が聡子に突っ込む。
「……ちょっとね」
「やっぱり主人からお金もらって生活してる私とは、全然経済感覚が違うのよ」
「けっきょく男でも女でも、経済感覚が違う人とはつきあいづらいってことかなあ」
奈央の結論に、「そうなのかな」と聡子はつい考え込んでしまう。
「もうさあ、お金の話、やめてくれる?」貞夫が苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔で言った。
「ひがまないの」
「瑞恵先輩、ほっとけばいいのよ。何かって言うとすぐ中身がどうのっていう話になるんだから」
「いやなら帰れ」貞夫が今度は仏頂面になる。「帰る」奈央も意固地である。
「ちょっとまたあ?」聡子と瑞恵があきれていると、奈央は貞夫をにらみつけ、本当に帰ってしまった。貞夫のほうも、むすっとしている。まるで子供のケンカだ。
「いいかげんにしたら?」そんな瑞恵の忠告も、貞夫の耳には届かないようだ。
悩み相談室は卒業したが、岡村さんを卒業するとは言っていない。そんな理屈のもとに、瑞恵は悩み相談室から出てきた恵太朗を五分だけ、と近くの喫茶店に誘い、自嘲《じちよう》気味に打ち明けた。
「実は会社、クビになっちゃって」
「そうですか……大変でしたね」
「私が主人にされていやなことベストワンって、何かわかります?」
「なんでしょう」
「舌打ちなんです。チッて。それが会社でも舌打ちされるなんて……けっきょく、私は主婦しかできないのよ」
「主婦だからできることだって、あるんじゃないですか? 竹内さんが当たり前のこととしてやっていることの中に、実は竹内さんにしかできないことって、あると思いますよ。元気出してください」
瑞恵は感激した。やっぱり自分を理解してくれるのは、岡村さんだけだ。
「なんだか私の話ばかりで悪いわね。岡村さんの話も聞くわよ」
クビになって落ち込んでいたのが、恵太朗の笑顔一つで、すっかり立ち直っている。
「いえ、僕のことは」
「遠慮しなくていいのよ。ねえ、岡村さんて彼女いるの?」
「いません」恵太朗は少しふてくされて言った。「……僕は、給料安いですし」
「私は全然、そんなこと気にしないから、元気出しなさいよ」瑞恵は朗らかに言って、恵太朗の背中を叩《たた》いた。有頂天のあまり、恵太朗の苦笑いにも気づかない。
店を出て別れようとした時、瑞恵が、道路の向こう側に目を留めた。「聡子と奈央だ」
二人は、ガラス張りのオシャレな店に入っていく。瑞恵と恵太朗が道路を渡って行ってみると、その店はいかにも高級そうなフレンチレストランである。
と、店の前のメニューをのぞきこんだ瑞恵が声を上げた。
「うわぁ、五千円のランチよ。こうゆう高い店は絶対誘ってもらえないのよね。私と一緒だと、私の財布の中身の心配しなくちゃならないから」
「…………」恵太朗は外からは見えなくなっている店の奥を、じっと見つめていた。
聡子は息を切らしながら、電話で指定された待ち合わせの場所にやってきた。待っているはずの恵太朗の姿を探して、きょろきょろする。
と、スーツのポケットに手を突っ込んだ、背の高い男性が振り向いた。
――驚いたことに、恵太朗である。聡子に気づき、ニコッとして近づいてくる。
「来てくれて、ありがとうございます」
「ううん、私もちゃんと話したいって思ってたし」
「今日は、僕にごちそうさせてください」
「……うん」聡子は戸惑いつつも、うなずいた。昼間、奈央と食事をしている時、突然恵太朗から誘いの電話がかかってきたのだ。
「行きましょう」と恵太朗が先に歩き始める。
「……そうゆう恰好《かつこう》だと、感じが違うのねえ」
恵太朗のスーツ姿を見るのは初めてだ。何しろ、いつもはトレーナーにチノパンといういたって機能的でシンプルな恰好なのである。
「僕だって、スーツくらい持ってるんです」
恵太朗に連れられてきたレストランは、一見して高級店とわかった。
「ここ高いんじゃない?」客層も雰囲気もちょっと気後れしてしまうほどで、こんなところでディナーを食べたら、いったいいくらかかるのか見当もつかない。
「どうしました?」
「……いったい、どうしたの?」聡子は、シャンパンを飲み干して言った。
「何がですか?」と、恵太朗は素知らぬ顔でソムリエを呼んだ。「すみません、ワインリストを」
「……お水を」
「遠慮せずに、好きなもの頼んでください」
「……遠慮なんか、してないわよ」
「してるじゃないですか」
「だって無理してるんだもの」
「いけませんか、無理して」恵太朗は怒ったように言い返し、テーブルの横で困っているソムリエに頼んだ。「料理に合うおすすめのワインをお願いします」
「いえ、お水をください」
「ワインをお願いします」
「お水をお願いします」
二人は互いに一歩も引かず、にらみあった。
「どうして喜んで食べたり飲んだりしてくれないんですか」
「できるわけないでしょう? どれだけ高い店よ」
せっかくの料理も味わうどころでなく、店を出てからも、二人の口論は続いていた。
「ああゆう店に行きたいんですよね」
「そんなこと誰が言ったの?」
「言わなくたってわかります」
昼間、聡子と奈央の入ったフレンチレストランが、実は高文にメニューの試食を頼まれて招待されたのだということを、恵太朗は知らない。
「何怒ってるの? この前のことなら、謝ったじゃない」
「どうして人の目を気にするんですか」
「だからそれは、仕事がやりにくくなるって」
「それだけじゃないですよ」恵太朗は突き放すように言った。「緒方先生は、自分より年収も立場も下の人とつきあうのが、恥ずかしいと思ってるんですよ」
「!」恵太朗がそんなふうに思っていたなんて。聡子はショックだった。周囲の目を気にしていたのは確かだけれど、彼のことを恥ずかしいと思ったことなんて、一度もない。
「……だから、周りの人に言えないんじゃないですか? だったら、もう無理してつきあわないでください」
「じゃあ岡村さんはどうなの?」さすがに聡子も、言われっぱなしで黙ってはいられない。「岡村さんだって、こだわってるんじゃないの? だから意地張って、無理して、あんな高い店に行ったんじゃないの?」
恵太朗はうつむき気味になり、黙りこくっている。――言いすぎたかもしれない。
「……無理なのかな」
聡子が謝ろうとしたとき、そんな恵太朗のつぶやきが聞こえてきた。
「……失礼します」恵太朗は聡子と目を合わせないまま、足早に去って行った。
一晩中、高文の携帯に電話をかけ続けたが、留守番メッセージが応答するばかり。奈央はソファに座り、まるで憎い敵のように、昇る朝日を見つめていた。
――あれほど、ちゃんと帰ってきてよと念を押したのに。
「ただいま」のんきな声が、ささくれだっている奈央の神経をよけいに逆なでした。
「何時だと思ってるの?」
「ごめん。どうしても抜けられなかったんだよ」
「早くシャワー浴びてきて」
高文が、信じられないというように奈央を見た。「……まさか今から?」
「当たり前でしょ」
「そんな元気ないよ」と興ざめしたように奈央に背を向ける。
「ダメよ! 言ったでしょ。今日を逃したら、次のチャンスは一ヵ月後になるって」
「無理なもんは無理。そこまでして子供欲しいとは、思わないから」高文はあっさり切り捨てると、さっさと自室に入ってしまった。
泣いたら負け。奈央はこぼれそうな涙を必死でこらえていた。
「その後、神林さんの息子さんの様子はどお?」
川崎がミーティングルームに顔を出して、治療の進捗《しんちよく》状態を聞いてきた。
「カウンセリングによって、自分を肯定しようとする気持ちが出てきたみたいです」博義は恵太朗を心頼し、心を開いているようだ。「入院という形で、一度家庭に距離を置いて静養してもらおうと思うんです」
「難しいんじゃない? 神林さん、通院だけでなんとかしてくれって言うと思うよ」
「まずは、話してみます」
「……くれぐれも無理強いしたり、失礼のないようにね」
川崎が行ってしまうと、聡子はぎこちなく恵太朗のほうへ歩み寄った。あれから挨拶《あいさつ》を交わす程度で、ろくに会話もしていない。
「岡村さん、神林さんに入院を認めてもらうように話をするから、一緒に来てくれる?」
「僕が行っても意味ないんじゃないですか? 神林さんは、緒方先生の言うことしか聞きませんから」木で鼻を括った様な返事が帰ってきた。
「博義さんの担当は、私と岡村さんでしょ?」聡子はきっぱり言い返す。
恵太朗はやっと聡子の顔を見て、「……わかりました行きます」と立ち上がった。
一方、恵太朗の言葉に勇気を得た瑞恵は、再び派遣会社の面談に訪れていた。
「私にできることを考えてみました」
主婦だった自分には技術も特技もなく、事務職くらいしかできることはないと思い込んでいた。けれど、恵太朗のおかげで、自分自身の見方をプラスに変えることができた。
「どんなことですか?」と、担当の女性社員が興味を引かれたように瑞恵を見る。
「主婦の仕事の一つに、人間関係を築くということがあります。例えば、ご近所やお母さん友達とは、同じ地域に住んでいるとか、子供が同じ学校に行っていることしか共通点がありません」
前回とは打って変わって、瑞恵の声には自信がみなぎっている。
「年齢や価値観、経済レベルがバラバラな人達と関係を築くのは、とても大変です。でも、それをやらないと主婦の世界では生きていけないんです。ですから――」瑞恵はいったん言葉を切り、胸を張って言った。「私の武器は、おしゃべりをすることです」
貞夫が仕込みをしていると、今夜最初の客がやってきた。
「いらっしゃいませ」と顔を上げる。奈央だ。
むくれた顔でカウンター席に座った奈央に、貞夫は黙って野菜のスープを出した。
「……頼んでないけど」
「おなかをいっぱいにすると、頭がからっぽになる。奈央の口に絶対合うから」
奈央はスプーンを手に取ると、スープをすくって口に運んだ。素朴で、あったかくて、かたくなな心が解《と》けそうになる味だ。
「……おいしい味」言った瞬間、スープの中に涙が滴《したた》り落ちた。「……もうわからない。何をどうがんばったらいいの? 何のためにがんばってるの?……私ががんばろうとしてるのに、全然わかってくれない」
「……旦那《だんな》とうまくいってないの?」
弱さを全部さらけ出す前に、奈央はようやく踏み留まった。
「……帰る」立ち上がって扉に向かうと、カウンターから貞夫が飛び出してくる。
「帰るな」貞夫がいつになく真剣な目で、奈央の腕をぎゅっとつかんだ。「……帰るなよ」
「博義さんですが、環境を変えることで病状に変化が期待できると思うので、私としては入院をお勧めします」
副院長室で、聡子は神林にこれからの治療方針を説明した。
「先生のおっしゃることはわかりましたが、博義のためにも、どうしても入院は避けたい。息子の経歴に傷がつくことを避けてやるのが、親の務めですから」
博義はずっとうつむいたまま、背中を丸めて落ち着かなげに親指の爪を噛んでいる。
「……経歴に傷なんて、つかないと思いますよ」
聡子は控えめに反論したが、神林は聞く耳を持とうとしない。
「無責任なこと言わないでください」
その時、恵太朗が言った。「そんなに世間の目が気になりますか?」
川崎が、ぎょっとして恵太朗を見る。神林の顔にもありありと不快感が浮かんだ。
「世間の目よりも、まずは博義さんの今の苦しみを取り除いてあげることのほうが大事なんじゃないですか?」恵太朗は構わずに続けた。
「岡村先生、失礼でしょう」川崎が冷や汗をかいて取り繕った。が、神林はあきらかに立腹している。このままでは入院どころか、博義を連れて帰ってしまいかねない勢いだ。
しかし聡子は、あえて言った。「岡村さんの言うとおりだと思います」
「緒方先生」川崎はもう、あ然としている。
「神林さん。博義さんは、あなたの大切な息子さんです。世間の目を気にせず、博義さんと、ちゃんと向き合っていただけませんか? 博義さんにとって今、何が必要なのか考えてください」
「博義のことならちゃんと見てきました。今までずっと、子供の頃からどんな父親よりも教育に関心を持ってきたし、たくさん勉強をみてやりました」
「そういうことではなくて、博義さんが本当はどうしたいのか、心の声を聞いてあげたことがおありですか」
「当たり前じゃないですか」神林がこれ以上我慢がならないというように立ち上がりかけた時、隣に座っていた博義が、大きく体をゆすって、ぶつぶつと何事かつぶやき始めた。
「思ってることを、話して大丈夫ですよ」恵太朗がやさしく促すと、博義はすべてを吐き出すようにしゃべり始めた。
「……お父さん、ごめんなさい……九十五点しかとれなかったけど、司法試験に落ちたけど、僕はがんばっても……がんばっても……がんばっても……お父さんみたいになれなくて、ごめんなさい……ごめんなさい……」
「……博義……」見たことのない息子の姿に、神林はショックを受けている。
「お父さん」世にも悲痛な声で、博義は言った。「僕は、もう疲れました……」
神林は絶句したまま、そんな息子の姿を茫然《ぼうぜん》と見つめていた。
どんな形の愛情であれ、子供を思わない親はいない。神林が自分を反省し、博義の入院に同意してくれて、聡子たちはホッと胸をなでおろした。博義がよくなる可能性は十分にある。
聡子と恵太朗がミーティングルームに戻り、仕事の後片づけをしながら相手の様子をうかがっていると、またしても川崎の邪魔が入った。
「緒方先生。病院の体制について、ぜひ緒方先生から意見を聞きたい。時間も時間だし、食事でもしながら」
大方、若い女の子にでも振られたのだろうが、この間から川崎が露骨に聡子にモーションをかけてくる。まったく聡子の眼中になかったから思い出しもしなかったが、そう言えば彼もシングルなのだ。
「……申し訳ありません」聡子はニコッとして言った。「今日はこれから、大切な人を食事に誘う予定なんです」
恵太朗が、聡子を見てハッとする。
「……いるの? そうゆう人」川崎が動揺を隠しつつ、探りを入れてきた。
「はい」
「ああ、そう。へえ、そう。でも緒方先生の目にかなう相手っていうのは、さぞかし社会的にも信用の大きい立場の人なんだろうねえ。ちなみに、何してる人?」
「臨床心理士です」
恵太朗の口元に、うっすらと笑みが浮かぶ。
「またまた冗談を」
「本当です」聡子は笑顔で答え、部屋を出て行く。
「ちょっと」川崎が、そばにいた恵太朗の腕をつかんで言った。「その心理士の顔、見てみたいと思わない?」
すぐ隣を見れば、微笑んでいるその顔が、川崎にも見えたはずだ。
二人で自転車を押して帰りながら、恵太朗が言った。
「僕、心理士になる前は商社に勤めてたんです」
「へえ」どうりで、スーツが似合っていた。
「その頃、はっきり言ってモテました」
「……ずいぶんはっきり言うのねえ」
「でも、心理士になるために大学院入ろうと思って会社辞めたとたん、みんな離れていきました」
「わかりやすいわねえ」
「けっきょく、彼女達は僕の肩書きと顔だけしか見てなかったんだなって」
「顔って自分で言う?」
「僕は収入少なくなっても、自分がやりたい仕事をやってるからこれでいいんだって思ってたつもりでした。でも、やっぱりどこかで気にしてたんですよね」
「私だってそうよ。どう見られるか気にして……そんなことより、自分がどう思うかのほうが大事だってわかってたのに」
「…………」
「でも、もう迷わない。やっと見つけたんだもの。一緒にいると楽しくて、私が私らしくいられる人」
どちらからともなく足を止めると、聡子は、まっすぐ恵太朗を見つめて言った。
「岡村さん、私とつきあってくれませんか?」
「……僕とつきあうと大変ですよ」
「ケチじゃなくてエコなところとか?」
「はい」
「私とつきあうと楽しいわよ」
「笑いのツボが同じとこだし?」
「うん」
恵太朗が、うれしそうに笑う。「わかりました。つきあってあげてもいいですよ」
「そう言うと思った」聡子も、うれしそうに笑った。
「捨てすぎです。あと二ミリ、じゅうぶん食べられるじゃないですか」
「細かいわね」
「あっ、水、出しっぱなしにしないでください」
「わかってるわよ、うるさいわねえ。たまたまでしょ」
二人でキッチンに立って、こんな言い合いをするのも楽しい。
「だから厚く切りすぎだって。もうっ、僕がやりますから」
「そうね。やってくれる?」今回は素直に包丁を渡す。
「あ、寝室の電気、つけっぱなしですよ」
「はいはい、消せばいいんでしょ、消せば」ぶつぶつ言いながらも、寝室へ向かう聡子の足取りは弾んでいる。
恵太朗が野菜を切っている間に聡子が卓上コンロを用意し、テーブルに向かい合った二人は、ぐつぐつ湯気を立てている鍋をつつき合った。
「なんで冬でもないのに、鍋、食べてるわけ?」
「なんででしょう」恵太朗はおかしそうに答えると、何気なく言った。「僕達がつきあってること、病院のみんなにいつかはバレるんですかね」
「バレないんじゃない? 結婚するわけじゃないし」聡子も何気なく答える。
……と、恵太朗が急に箸を止めた。何か言いたげに、聡子をじっと見つめている。その表情は、聡子の答えにショックを受けているようにも、見えなくはない。
――え、何? 聡子はあせった。もう結婚のこと、考えてるってこと……?
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7 4人目のアラフォー
「じゃあ僕、そろそろ」コーヒーを飲み終えた恵太朗が、椅子を立った。
――え、もう帰っちゃうの? 「……帰る?」
「はい」
「……コーヒー、おかわりどお?」
「帰ります」
「……そう」――もう帰っちゃうんだ。
聡子の落胆を知ってか知らずか、恵太朗はさっさと帰り支度をしている。
「ねえ」聡子は思いきって声をかけた。が、やっぱり言い出せない。「……ああ、なんでもない」素直な思いを口にできるほど、若くはないのだ。
「お帰り」
恵太朗がアパートに帰ってくると、和子が来ていた。
「来てたの? 何か用?」本当にしつこい。恵太朗は顔をしかめた。
「わかってるでしょ。ごはんは?」
台所を使っていたらしく、エプロンをつけている。
「食べた」ぶっきらぼうに答えて、ローテーブルに持ち帰った仕事を広げる。
「じゃあ、冷蔵庫に入れておくから明日にでも食べて」
和子は世話女房のように振る舞い、恵太朗の背中にそっと頬を寄せてきた。
「恵ちゃん、お願い。結婚して」
「その気ないって、何度も言っただろ」合鍵《あいかぎ》を渡したのは失敗だった――恵太朗は後悔した。
貞夫につかまれた手が熱く感じられるのは、気のせいだろうか。家に帰ってからも、奈央は先ほどの出来事を思い出さずにはいられない。
「……帰るなよ。奈央のことわかってくれない旦那《だんな》のところになんか、帰るなよ」
奈央は驚いた。貞夫の目が、いつもの幼なじみの目ではなかったから。
「……どうしたの? マーくんらしくない」奈央は思わず茶化してしまった。
「大丈夫。わかってもらえるように、話し合うから」
そう言うと、ふっと手が離れ、奈央は貞夫から逃げ出るように帰ってきた。――今考えるとバカらしい。貞夫は貞夫だ。いつも奈央の愚痴を聞いてくれる、やさしい幼なじみだ。
そんなことをぼんやり考えていると、高文が帰ってきた。
「……お帰り」奈央は笑顔で迎えると、真剣に言った。「ねえ、ちゃんと話したい。子供のこと」
「子供って言えばさ、今度ベビー関連のビジネスパートナーをここに呼びたいんだ。彼、子供が生まれたばかりだし、俺達も子供好きなところをアピールしないとな」
奈央は、またしても思い知らされた。彼にとっては、子供のことより、ビジネスのほうがはるかに大事なのだということを。
「さあ、今日から営業がんばるわよ」
朝、先頭切って家を出てきたのは、瑞恵だ。彰夫と洋介があとからついてくる。
「営業ったって、たいしたことやらないんだろ」
「そんなことないわよ。これ、お願い」とゴミ袋を彰夫に差し出す。
「は? なんで俺が」
「私は回覧板、回してくるから」
「ゴミ出しなんかしてるところ見られたら、恥ずかしいだろ」
「今はね、ゴミ出しは立派な夫の仕事の一つとして世間に認められてて、ゴミ出ししない夫のほうが恥ずかしいんだから」
瑞恵の説を裏付けるように、ゴミ袋を持った近所のサラリーマンたちが家の前の道路を次々と出勤して行く。
「ほらね」瑞恵がにやっとして手を差し出すと、彰夫はゴミ袋をひったくるようにして、しぶしぶゴミ置き場に歩いて行った。この勝負、瑞恵の勝ちである。
回覧板を持って、意気揚々とお隣に向かう。仕事のことで頭がいっぱいの瑞恵は、憂鬱《ゆううつ》そうな息子の顔に、ちっとも気づかなかった。
ミーティングルームで書き物をしていると、遥たちが「緒方先生、聞いてくださいよ」とそろってやってきた。
「岡村さんです」
「……どうしたの?」名前を聞いてどきんとするが、平静を保ち、さりげなく聞く。
「いつものケチです。給湯室の湯沸かしポットですけど、保温禁止って言うんです」
「保温にしておくと電気がもったいないから、お湯は使うたびに沸かすようにって」
若い女性ナース二人はよほど堪えかねているのか、争うように陳情した。
「……まあ、それはケチじゃなくてエコとも言うし」
「え……」スタッフたちは、ぽかんとしている。
――しまった。聡子が口を押さえた時、ちょうど恵太朗が部屋に入ってきた。
「岡村さん。給湯室の湯沸かしポットの件だけど、みんな不便だって言ってるから、保温はあり。そうゆうことでお願いします」聡子はビシッとした口調で言い渡した。
「ケチじゃなくてエコだなんて言っちゃった。バレてないかな」
休憩コーナーで恵太朗と二人きりになると、聡子はしきりに心配した。
「バレないんじゃないですか。みんな他人のことなんて、そんなに気にしてませんから」恵太朗はあっさり言うと、自販機にマイカップをセットしている。
「……あ、ねえ、瑞恵にはちゃんと私達のこと話したいの。瑞恵の気持ち考えると、このまま黙ってるのは心苦しいから」
「僕もです」
「今夜話そうと思うけど、一緒に来る?」
「僕、いったん家に帰らないといけないんで、あとから行きます」
「わかった。マーくんの店で合流ね」
瑞恵は大丈夫だろうか――聡子は、ちょっと心配だった。
一方の瑞恵は、先輩営業ウーマンと、とある駅に降り立っていた。
「いよいよ今日から一人で営業ですね。竹内さんの武器は?」
「おしゃべりです」
「それを営業でぜひ生かしてください。期待してます」
「がんばります」
瑞恵の仕事は、飲食店の紹介をする携帯サイト『はらぺこナビ』の契約をとってくること。
「店舗リストと名刺です」先輩営業ウーマンから、紙と名刺の束を渡される。
――うわあ。瑞恵は感動した。名刺を持つだけで、立派に社会参加している気になる。瑞恵は、名刺に印刷された自分の名前をうれしそうに見つめた。
瑠花の誕生日プレゼントを買ったあと、貞夫の店に向かっていた聡子は、ふとショーウインドーの前で足を止めた。純白のウエディングドレスが飾ってある。
瑞恵ではないが、しばしあらぬ妄想にふけっていると、ふいに「緒方様!?」と声をかけられた。あの四角張った顔は――なんと、結婚相談所の相談員だった柳原である。
「その後どうされてるのかと、ずっと気になってたんですよ」
「おかげさまで……」
聡子が見ていたのがウエディングドレスだと気づくや、柳原はハッと目の色を変えた。
「決まったんですか!? 結婚」
「いえ……つきあい始めた人がいるんです」
「あら、早く結婚決まるといいですね」
「いえいえ、まだつきあい始めたばかりだし、それに……年下なんです。六つも」
「やっと年下のよさにお気づきになったんですね。緒方様のようなアラフォーの方がご結婚されると、日本の女性にとっても、私にとっても励みになります」
柳原は早口でまくし立てると、「お幸せをお祈り申し上げます」と去って行った。
「帰ってよ」恵太朗は、心底、迷惑そうに言った。
「いや。結婚するって言ってくれるまで、帰らないから」和子はその一点張りだ。
「約束があって、行かなきゃならないんだ」恵太朗はあきらめて立ち上がった。
「えっ、まさか女の人? つきあってるの?」
黙って出て行こうとする恵太朗を追ってきて、蔓《つる》のようにしっかり腕にしがみついてくる。
「待って。どうゆう人」
教えるまで、和子は絶対にあきらめないだろう。恵太朗はため息をついた。
「岡村さんのおかげなの」瑞恵は、まるで恋する少女のように胸に手を当てて言った。
「岡村さんが、主婦の私だからできることが何かあるんじゃないかって、アドバイスしてくれたの。それで、私の武器はおしゃべりだっていうことに気づいたの」
「それで営業なんだ」と奈央が納得する。
「そうなんだ……実は、その岡村さんとね――」
「私、思ったんだけど、岡村さんとは出会うべくして出会ったのよ。私の人生にこんな大きな影響を与えてくれた人はいないもの。そう思わない?」
「あの……瑞恵」
瑞恵の妄想は以前にも増して暴走気味で、さっきから聡子は何度も恵太朗とのことを告白しようとしているのだけれど、なかなか切り出すことができない。
「岡村さん、彼女いないって言ってたけど、本当にそうなのかな。ううん、いたとしても、うまくいかないと思う。だって、岡村さんは――」
その時、聡子にとっては最悪のタイミングで恵太朗が現れた。
「……私の運命の人だもの」
瑞恵の目は完全に向こう側へイッている。聡子は頭を抱えた。
「遅くなりました」
「私に会いにきてくれたんですね」瑞恵は飛ぶように恵太朗のそばに行き、「今日こそ、私の気持ちを聞いてくれますか? ううん、お互いの気持ちを確認して、みんなに発表したい気分だわ」と、まるでミュージカルのヒロインである。
恵太朗はどうすることもできず、聡子に目で救いを求めている。
「あ、ねえ――」聡子が意を決して説明しようとした時、またしてもドアが開き、客が入ってきた。聡子はがっくりと椅子に座り込む。
「つけてきたの?」客を見た恵太朗が、苦々しく言った。和子である。
「恵ちゃん、結婚のこと、どうしたら真剣に考えてくれるの?」
「結婚!?」
その時、初めて和子の顔を見た聡子はアッと驚いた。あの特徴ある四角張った顔は――。
聡子の顔を見た和子も、小さい目を思いきり見開いた。あのスラリとした、ウェーブヘアは――「緒方様!」
「知ってるの? 姉ちゃん」恵太朗が和子に言った。
「お姉さん!?」聡子は今度こそ腰を抜かしそうになった。こんなに顔の造作がかけ離れた姉弟なんて、詐欺に等しい。
「一番上の姉です。緒方先生と知り合いなの?」
「私のお客さんだった人よ」
聡子は思わず目をつむった。相談員の柳原が恵太朗のお姉さんだったとは、天を呪わずにいられない。
「えっ、結婚相談所に入ってたんですか?」恵太朗が驚いて聡子を振り向く。
「結婚相談所!?」瑞恵たちもびっくりしている。
聡子は無理やり笑顔を作り、「うん、まあ。昔の話よ」
「恵ちゃん、おつきあいしてる精神科医の先生って、まさか……違うわよね」
「緒方先生だよ」恵太朗がしぶしぶ認めると、和子と瑞恵に衝撃が走った。
奈央と貞夫は、「へえ」と意外そうに聡子を見ている。
「ちょっと待った!」瑞恵が、ゆっくりと前に一歩進み出た。「……つきあってる?」
「ゴメン、瑞恵」
「ゴメンって何? どうして話してくれなかったの!?」
「話そうとしたんだけど、ホントにゴメン」
「すみません」恵太朗も一緒に謝る。
「岡村さんまで何よ……二人とも私の気持ち知ってて、陰で私のこと笑い者にしてたのね」
「してない」「してません」口をそろえて言われると、なおさらバカにされた気がする。
「してたのよ!」
「瑞恵先輩、落ちついて」奈央がなだめようとするが、被害方面に走り出した瑞恵の妄想列車は止まらない。
「ちょっと待った」今度は和子だ。「結婚する気になってくれたとしても、緒方様はダメよ」
「そうよ、考え直して」瑞恵もここぞとばかりに加勢する。
「恵ちゃんは、利用されようとしてるの」
恵太朗と聡子が「え?」と和子を見る。
「緒方様が今すぐにでも結婚したい理由はね、出産のタイムリミットが迫ってるからだっておっしゃってた。緒方様は一人で生きていける十分な経済力があるから、子供ができたら恵ちゃん、すぐ捨てられるに決まってるわ」
確かに結婚相談所に行った理由はそうだったが、とんでもない言いがかりである。
「ちょっと待って……」誤解を解こうとした聡子より先に、「ちょっと待ってよ!」と恵太朗が和子に向かって言った。
「俺、結婚する気ないから」
その発言の威力は、一瞬にしてその場を凍りつかせるに十分だった。
恵太朗と和子が帰ったあと、「大丈夫? 先輩」と奈央が心配そうに言った。
「……何が?」
「そりゃあショックよね。結婚する気ないなんて言われたら」さすがに瑞恵も気の毒そうに言う。
「ショックも何も、つきあい始めたばかりなんだから。結婚のケの字も考えてないって」
「三十九の女と結婚考えないでつきあう岡村さんて、 どうなの?」 と奈央は怒っている。「それを言ったら、六歳年下と結婚できると思ってつきあう三十九の女はどうなんだって話になるでしょ」
「先輩らしくないよ。自分で自分の価値下げるようなこと言うの」
「一般論を言ってるの。結婚相談所で女の市場価値っていうやつを思い知らされたから」
「この先に結婚がなくても、岡村さんとつきあうの?」瑞恵が聞いてくる。
「もちろん。結婚がないからって、別れる理由にはならない。一緒にいて楽しいってことが一番大切だから」
みんなの前では精いっぱい強がっていたが、ああもきっぱり結婚を否定されるとは――やはり聡子も、落ち込まずにはいられなかった。
翌朝、聡子がロビーを歩いていると、恵太朗が「おはようございます」とやってきた。
「おはよう」聡子も明るく振る舞う。
「昨日はすみませんでした。姉が来たことで、話がややこしくなっちゃって」
「ううん、気にしてないから」
「ホントは悪い人じゃないんです。姉は昔、いろいろあって、いろんなことを背負い込んできた、かわいそうな人なんです」
「そう……でも、ホントに気にしてないから」
「それと……」
「それも全然気にしてないから。ホントに」
「まだ何も言ってませんけど」
「だから……」口の中でもごもごと「結婚……」
「え?」
「ううん、何?」
「今日、行ってもいいですか」
「えっ、もちろん」
恵太朗がニッコリする。「じゃあ、お邪魔します」
聡子は複雑な面持ちで、先に歩いて行く恵太朗を見送った。
「どうして副編集長に、先に進めさせたんですか?」奈央は美智子に食ってかかった。
婦人科の診察を終えて会社に戻ると、編集長不在のまま会議が既に始まっていたのである。
「どうなの? 不妊治療のほうは」美智子は質問で返し、わがままな子供を見るような目で言った。「あなたの負担が少しでも軽くなるようにと思ってしたことよ」
「……ありがとうございます」奈央は釈然としないまま、礼を言うよりほかなかった。
瑞恵はバッテン印の並んだ店舗リストを手に、とぼとぼと歩いていた。パンプスから痛む足を引き抜いてみると、ストッキングの指先が少し破れている。
瑞恵の口から、深いため息が漏れた。第一に笑顔。第二に心の触れ合い。第三に自分自身がお店の経営を手伝うつもりで接すること。営業の心得どおり実践しているのだが、どの店でもまったく相手にしてもらえない。
お腹がグーと鳴った。疲れと空腹で店を選ぶ気力もなく、目についた定食屋に入る。古ぼけた店だ。客は瑞恵一人で、店内は外から丸見えだが、かまっていられない。
瑞恵は定食を注文し、テーブルの隅に積んであった雑誌を何気なく手に取った。だが、どれもおじさん向けの男性雑誌である。
「女性のお客さん、めったに来ないから」カウンターの中から、店主の言い訳が聞こえてきた。
「あー、女性は入りづらいかもしれないですよねえ。外から中が見えますし。あるチェーン店の定食屋さんはあえて二階や地下にお店を構える、ってテレビでやってました。私は、とにかく疲れててお腹減ってたから――あ、すみません。どこでもいいから入ったみたいで」
店主がオムレツ定食を運んでくる。一口食べて、瑞恵は目を見張った。
「おいしい。ここに入って正解でした。――あ、すみません。全然、期待せずに入ったみたいで。でもホントにおいしいですから。レシピ教えてもらいたいくらいです」
無口な店主に向かって一方的にしゃべりながら、瑞恵は「あっ、そうだ」と立ち上がり、名刺を差し出した。「私、飲食店の情報を携帯のサイトでご紹介させていただく仕事を――」
話の途中で、瑞恵の手から名刺が消えた。瑞恵はびっくり眼になり、名刺を眺めている店主の顔をまじまじと見つめた。そんな瑞恵に気づいた店主が、けげんそうな顔になる。「何か」
「初めてなんです。名刺受け取ってもらえたの。どこ行っても忙しいやらなんやらで……あ」またしても失言だ。
「暇だからな、ウチは」店主は気を悪くした様子もなく微笑んだが、「ウチはこうゆうの、いつも断ってるから」と名刺を瑞恵に返して、仕事に戻って行った。
――そうはうまくいかないか。ため息交じりに苦笑すると、瑞恵も食事に戻った。
「あれ?……」聡子はリモコンを持ったまま、おかしいな、というように首をかしげた。
「お笑いじゃないじゃないですか」ソファに座った恵太朗が、テレビの画面を見て言う。
「やだ、ショック……間違えて録画しちゃった」
何かの特集番組をやっているチャンネルを予約してしまったらしい。
「けっこうドジなんですね」
「やだなんで? あ〜すごいショックなんだけど」
「かわいそうに」
「ホントかわいそうな私」
「僕は録画しましたから」
「なんだ、早く言ってよ」
そんな話をしていると、いきなり花嫁姿の女性がテレビ画面に映った。よりにもよってこんな時に……聡子はとっさに「他の見る?」とテレビの前で仁王立ちになる。
「……緒方先生」恵太朗が、気まずそうな顔で言った。「僕、結婚しないって言いましたけど、緒方先生とは、っていう意味じゃないですから」
「……え、何、急に」
「僕は、誰とも結婚するつもりないんです」
自分のことはさておき、なぜなのか純粋な疑問が湧く。「……どうして?」
「結婚なんて、僕には無理なんですよ。家族の意味もよくわからないし……それでも僕でいいですか?」
「……もちろん、何言ってるのよ」
「最初にちゃんと言うべきだったのかなって」
「ううん。そんなこと、つきあう前から言うほうが変だと思う」
「じゃあ、これからもよろしくお願いします」
「はい、こちらこそ」どちらからともなく微笑む。
「じゃあ、僕、そろそろ」コーヒーカップを置いて、恵太朗が立ち上がった。
――えっ、やっぱり帰っちゃうの?
「……コーヒーのおかわりは?」いちおう聞いてみる。
「帰ります」恵太朗はカバンを手にして微笑むと、玄関に向かった。
瑞恵はすっかりお気に入りになった定食屋『もりおか』に来ていた。
「ごちそうさまでした。今日のしょうが焼き定食も、ホントにおいしかったです」
支払いに立つと、店主の森岡《もりおか》が、料理に使った野菜の切れ端を捨てようとしている。
「あっ! もったいないじゃないですか」瑞恵はつい、主婦に戻って言った。
「お客さんには、出せないから」
「ジューサーでポタージュにしちゃえばいいじゃないですか。ウチでよくやるんです。キャベツ、長ネギ、ゴボウのポタージュ。手軽に野菜がとれるから、定食の一品に入ってたら、私、ものすごくうれしいです。これってきっと、女性客に受けると思います」
「いや、でもウチは女のお客さんは――」
「あっ、メニューを表にディスプレイしたらどうです? それだけでかなり女性客、入りやすくなると思います。やってみましょうよ」
瑞恵はふと時計を見て、「あっ、行かなきゃ。また来ます」と慌ただしく店を出て行った。
「恵太朗には内緒で来ました」和子はそう言って、マンションの前で聡子を待っていた。とりあえず部屋に通し、コーヒーを用意していると、和子が室内を見回して言った。
「緒方様、結婚とひきかえに、いろんなもの手に入れていらっしゃるじゃないですか。大きなテレビ、大きくて座りごこちのいいソファ、それにお高そうなマッサージチェア」
「別にひきかえたわけじゃありません」
恵太朗と別れてくれ――やはりそういう話なのだろうか。聡子はコーヒーを出すと、自ら切り出した。「あの、お話って、なんでしょう」
「恵太朗、結婚はしないって言いましたけど、それって結婚すると自由がなくなるとか、親戚《しんせき》づきあいが面倒くさいとか、そうゆうことじゃないんです」そう言って、和子はふっと悲しげに目を伏せた。
「かわいそうな恵ちゃん……恵太朗と私は、家族の犠牲になったんです」和子は皮肉な笑みを浮かべながら、事情を語った。「いろいろあったんです。ウチの家。私はそんな家が嫌だったから、さっさと結婚して家を出ました。恵太朗を残して。だから私、恵太朗に負い目があるんです。恵太朗には、ちゃんと結婚して、幸せになってもらいたいんです」
和子が帰ったあとも、聡子はずっと恵太朗のことを考えていた。家族の意味がわからないと言った恵太朗……。その目が、ふと瑠花の誕生日プレゼントに留まった。
「誕生会?」恵太朗は、ちょっと戸惑い気味に問い返してきた。
「うん。よかったら来ない? 瑠花、岡村さんになついてたから喜ぶと思うんだ。メンバーは、父と、父が再婚した晴子さんと、弟夫婦と瑠花と私」
「ふつうは、気軽に行けないシチュエーションですよね」
「一緒に仕事をしてる心理士として来て。つきあってることは言わない。言うと、結婚するのかとか聞かれて大騒ぎになるから」
恵太朗はしばらく逡巡《しゆんじゆん》していたが、最後には来てくれることになった。
案の定、瑠花は大喜びで「おにいちゃ〜ん」と恵太朗に飛びついていった。子供好きの恵太朗も、うれしそうに抱っこしてやっている。聡子は、ホッと一安心した。
一つのテーブルを囲んで食事が始まると、達也が恵太朗に言った。
「岡村さん、姉貴みたいな人と一緒じゃ大変でしょう」
「みたいな人って、どうゆう人よ」
「楽しいですよ」恵太朗が笑って答える。
「聡子はねえ、昔からしっかり者で、がんばり屋で、人のことばかり考えて、それで――」緊張をほぐすためにビールを飲みすぎ、友康はすでにいい気分である。聡子の予想どおり、娘が男を連れてくるというので、大騒ぎしていたのだ。
「お父さん、そうゆう話はいいから」聡子が恥ずかしそうに止めると、ケーキを運んできたマキが笑って言った。「いいじゃないですか。三十九歳の娘の自慢する父親なんて、なかなかいませんよ」
「親父、俺の自慢でもすれば?」と達也が混ぜっ返す。
「お前の何自慢するって言うんだよ」
「あら、 達也さんのお店が載った雑誌の切り抜き、 お財布に大事に入れてるの、 誰だったかしら」
晴子が暴露すると、達也は「マジで?」とびっくりしている。
「知らないなあ」友康のヘタなとぼけ方がおかしくて、みんながどっと笑った。
恵太朗は、そんな家族の団らんにどうやって参加したらいいのかわからないとでもいうように、ぎこちなく表情を強ばらせている。
「ちょっとお父さん、飲み過ぎなんじゃないの?」
ビールをつごうと手を伸ばした友康に、聡子が言った。
「いいじゃないか。ねえ」と恵太朗に同意を求めるが、恵太朗はまごつくばかりだ。
「ダメ」と聡子が缶ビールを取り上げる。
「あ。……晴子さん、ビール」
「ダメです」晴子もきっぱり首を横に振る。
「かわいそうでしょ? 僕。この家で一番弱いから」
「いつまでも元気でいてほしいってことじゃない。ねえ」晴子が微笑むと、瑠花が可愛い声で言った。「おじいちゃん、ながいきしてね」
「うれしいねえ」友康が泣きマネをして、また楽しそうな家族の笑い声が満ち溢《あふ》れる。
しかし、緒方家の温かな空気を感じれば感じるほど、恵太朗は一人この場から浮いてしまうような感覚にとらわれてしまう。
そんな内面を知ってか知らずか、聡子が時おり、恵太朗を気遣うように見ていた。
その頃、奈央たちのマンションには、高文のビジネスパートナーである佐々木《ささき》が、妻と生まれたばかりの赤ちゃんを連れて訪れていた。
「今回、 新庄さんとベビー関連のビジネスを始められることになり、 本当に光栄に思っています」
「こちらこそ。赤ちゃんが誕生したばかりのあなたから、すごくいいパワーをもらえるような気がします。幸せオーラに包まれてるから」
奈央は感情を殺し、作った笑顔を張り付けて二人のやりとりを聞いていた。
「新庄さんは、お子さん、どうするんですか?」
「さあ、どうかな。こればっかりは授かりものですからね」そう言って、高文が奈央の肩を抱く。そんなしぐさも、今の奈央にはしらじらしく感じられるばかりだ。
ふいに赤ちゃんが泣き始めた。夫婦が寄り添うようにして、むずがる赤ちゃんに語りかけている。高文もそばに行き、不器用ながらも、一緒になってあやしている。
――これ以上、とても見ていられない。
「……ごめんなさい。ちょっと疲れてるみたいだから、失礼します。どうぞごゆっくり」
部屋に戻って行く奈央を見る高文の表情が、一瞬、苦々しげにゆがんだ。
佐々木夫妻が帰ったあと、高文は不愉快そうに文句を言った。
「ビジネスパートナーだって言っただろう? 赤ちゃん抱くくらいのこと、してくれてもよかったんじゃないの?」
「今の私、子供産んだ幸せな人を祝福する気になれない。なんで、みんな当たり前のように子供を産めるのに私だけって……どうしても思っちゃう。 そんなふうに思っちゃう自分は、 もっといや」
黙って話を聞いていた高文が、突然きびすを返して玄関へ向かった。
「話の途中でしょ」奈央がとがめるように言うと、
「マイナスオーラに包まれてる人とは、一緒にいたくない」冷たい声が返ってきた。
「おい、瑞恵」名前を呼ばれて、瑞恵はハッと目を覚ました。
「あっ、私、寝てた?」仕事から帰ってきて、少しだけソファに横になるつもりが、うっかり眠ってしまったらしい。何しろ一日中歩き回って、足が棒になったようなのだ。
「スーツがシワになるだろう」いつもの仕返しとばかりに、彰夫が言う。「メシは」
「ちゃんとできてる。チンするだけじゃない」
「してくれよ」
「ただのチンよ」
「家のことは全部やるっていう約束だろ?」
「チンくらいやってよ」どっと疲れが増した気がして、再びソファに倒れこむ。
「言い合ってる間に、チンくらいできるんじゃない?」洋介は黙ってゲームをしていたが、両親のケンカにほとほと嫌気がさしたらしい。
「そうよ。まったくチンくらいなんなのよ」瑞恵は、疲れた体に鞭《むち》打って立ち上がった。
「ちょっと意外だったなあ」
瑠花の誕生会が終わり、恵太朗が帰って行ったあと、友康がしみじみ言った。
「聡子がああゆうタイプを好きになるなんてなあ」
「え、ちょっと待ってよ。岡村さんは、ただの仕事仲間なんだから」
「ま、そうゆうことにしといてもいいけど」友康は含みのある言い方をして、二階へ上がっていった。
聡子があせって晴子を振り返る。「そんなふうに見えた?」
「見えた」と晴子が笑う。
「……お父さん、結婚のこと期待したかな」
「さあ」
「期待されちゃ、困るんだよね。……岡村さん、誰とも結婚する気ないの」
「どうして?」と晴子は驚いている。
「家族関係がうまくいってなかったみたいなんだよね」
「そう。好きな人が家族持ちたくないなんて、ショックだったんじゃない?」
「……別に私は、岡村さんと結婚したいってわけじゃないから」
晴子は聡子の強がりを受け流し、真面目な顔で言った。「でも、岡村さんがその問題を乗り越えるには、一人じゃ無理ね。愛情を持って、一緒に乗り越えてくれる誰かが必要なんじゃないの」
翌朝、病院の玄関で、恵太朗が聡子に追いついてきた。
「昨日はごちそうさまでした」
「こちらこそ、ありがとうね。瑠花、すごく喜んでた」
「瑠花ちゃん、かわいいですよね」
「うん」
「緒方先生もかわいいですよ」
「え?」思わず顔を赤らめていると、「いちおう冗談ですけど」と恵太朗がにやにやした。
「冗談なの?」とムッとする。
「冗談じゃないほうがよかったです?」
「年下にかわいいって言われてもね」
「うれしいくせに」
「さ、今日も仕事がんばるわよ」
「ほら、うれしそうじゃないですか」
弾んだ足取りで歩いて行く聡子を、恵太朗が笑いながら追いかけていった。
「奈央、子供のことで悩んでるみたいですけど、ちゃんとわかってます?」
奈央のことが心配でたまらず、貞夫はわざわざ店を閉めて、朝、出勤途中の高史を待ち伏せした。
「奈央と、ちゃんと話し合ってくれてます?」
「夫婦の問題です。あなたが言うことじゃないですよね」
「奈央、ホントに悩んでるんです」あんな悲しい奈央の泣き顔は、二度と見たくない。
「あなた、妻のことがホントにお好きみたいですね」
その言い方にカッとなる。「バカにするな」
「してませんよ。むしろ尊敬してます。光栄だな。モテる妻を持って」新庄は嘲《あざけ》るような目を貞夫に向け、「時間がないので、失礼します」と去って行った。
貞夫はグッとこぶしを握りしめ、怒りと屈辱に耐えていた。
「どうゆうことですか? 私の知らないところで企画がどんどん進んでいます」奈央は美智子に詰め寄った。こんな人を無視したやり方は、いくらなんでもひどすぎる。
「私をサポートしていただいているのは、わかってますし、感謝しています。でも、編集長は私です」前は言いくるめられたが、今度は引き下がらない。
「そうね、編集長はあなたよ。新庄高文の妻であるあなたじゃなきゃダメなの」
「え……」
「雑誌のコンセプトどおり、早く子供を産むことだけを考えて。あとは他のスタッフでどうとでもなるから」
「……ひとつ聞いてもいいですか?」奈央は震える声で言った。「私が編集長になれたのは、新庄高文の妻だからですか?」
「え? そんなことわかってると思ってたけど」
美智子の言葉を聞いた瞬間、奈央の足元がぐらりと揺れた。
話すら聞いてもらえないまま、また今日も半日が過ぎてしまった。
会社の営業成績グラフが無情にも示すとおり、いまだに一件の契約もとれていないのは瑞恵だけだ。今朝も年下の先輩営業ウーマンに「主婦の甘えは通用しませんから」と叱られたばかりだというのに――。
しょんぼり歩いていた瑞恵は、いつの間にか、例の定食屋の前に来ていた。
しかし、いつもとどこかが違う。瑞恵はアッと声を上げた。素通しだったガラスは、外から見えないように目隠しがされ、店の前には本日の定食がディスプレイされている。
しかも、その定食には野菜のポタージュがついているではないか!
店内はほぼ満席で、女性客ばかりでなく、親子連れまでいる。うれしくなってカウンター席につくと、瑞恵に気づいた店主の森岡が、照れくさそうに言った。
「あんたの言う通りにしたら、少しずつだけど、お客さんが増えたよ」
「よかったです。私も表に出てた、ポタージュついてる定食、お願いします」
「……やってみようかな」森岡がおずおずと言った。「携帯のサイトっていうやつ。名刺、もらえるかな」
瑞恵はきょとんとした。そのあと、じわじわと顔に笑みが広がる。
――夢ではない、初めて契約がとれたのだ。
「ありがとうございます!」満面の笑みで差し出した瑞恵の名刺が、森岡の手に渡った。
聡子が自転車を押しながら帰っていると、病院の外で恵太朗が追いついてきた。
「緒方先生。今日、行ってもいいですか?」
「あ、今日は瑞恵達と約束してるの」
「わかりました。またにします」
「よかったら、ウチで待ってて」聡子は周りをきょろきょろ見回すと、人目をはばかりながら、マンションの鍵をポケットから取り出した。「ちょっと顔出して、すぐ帰ってくるから」
「いいんですか?」
「うん」
「じゃあ、待ってます」恵太朗はうれしそうに、鍵を受け取った。
「あれから岡村さんとは、変わりないの?」瑞恵が言った。
「……うん、変わりないけど」
「私が三十九歳で独身で、彼に結婚する気ないなんて言われたら、今までどおりのつきあいなんてできないと思うな」と瑞恵が首を振る。
「そうお? 私はもともと結婚しない人生もあるのかなあって思い始めてたから、そうでもないけどな」
「でも岡村さん、考え方変わるかもしれないし」貞夫がやさしいことを言ってくれる。
「……瑞恵は、もう大丈夫なの? あの……岡村さんのこと」口ごもりつつ尋ねると、
「……夢を見てたのよ。……って思おうとしてる。そのうち時間が解決してくれるわよ。それにここのところ、全然契約とれなくて岡村さんどころじゃなかったし。それでマーくんにお願いしようかと思った矢先に、なんとか一件とれたの。もううれしくって」
「よかったじゃない」聡子はホッとして言った。
「うん。マーくん、お昼に電話したのよ。どこか行ってた?」
「……うん、ちょっと」貞夫があいまいな返事をする。
「私もようやく自立への一歩を踏み出せたってことよね」
「瑞恵先輩は本当におめでたいですよね。契約一件とれただけで、自立への第一歩だなんて」
ずっと黙っていた奈央が急に口を開いたと思ったら、出てきたのはいつも以上に辛らつな言葉である。聡子は、ちょっとたしなめるように言った。
「奈央、瑞恵にとってはすごいことで、それだけうれしかったってことでしょ」
「いいのいいの。奈央は今、大変だから、ちょっと気がたってるだけよね。でもね奈央、不妊治療って、あせったりするのが一番ストレスになるって聞いたことがあるの。だから、もっと気楽にかまえてたほうがいいわよ」
瑞恵は怒るどころか、逆に奈央を気遣う余裕を見せた。
「そんなこと言ってられない。当たり前のように子供産んだ瑞恵先輩に、わかるわけないのよ」
今日の奈央はおかしい。分別をなくした反抗期の子供みたいに突っかかってくる。
「奈央、何かあったの?」聡子が聞くと、奈央の返事より先に「また旦那?」と貞夫が顔をしかめた。「またって?」と聡子が聞き返す。
「そうに決まってるよ。あんな人をバカにしてる旦那」
貞夫が吐き捨てるように言ったとたん、奈央がさっと顔色を変えて貞夫を見た。
「……ねえ。高史と話したの?」
「……今日、会いに行った」
「どうしてそんなことするの!? ますますうまくいかなくなるかもしれないじゃない!」
「……ゴメン」
高文との仲がこじれているなんて、聡子も瑞恵も初耳である。
「大丈夫?」聡子は心配そうに、奈央の顔をのぞきこんだ。
「先輩……ほらやっぱりって、思ってるでしょ」
「……え?」
「……先輩の思ってるとおり、私は新庄高文の妻になりたかったから結婚したの。先輩、そのことよく思ってなかったから、私がうまくいかなくなって、ほらやっぱりって思ってるでしょ」奈央はまるでケンカ腰だ。
「思ってないよ、そんなこと」
「思ってる」
こんなくだらない水掛け論をしていても仕方ない。聡子はため息をついて言った。
「……何があったか知らないけど、旦那さんとちゃんと話しなよ。肝心なことほど、話しづらかったりすると思うけど」
「先輩はどうなの?」奈央が皮肉っぽい笑みを浮かべる。「結婚できないって言われて、平気なふりしてるじゃない」
「!……別に平気なふりなんかしてないわよ」
「本当は結婚のこと、まだあきらめられないんでしょ? 肝心なこと話せないのは、先輩じゃない。ちゃんと話さなきゃならないのは、先輩じゃない」
ストレートに痛いところを突かれて、聡子は押し黙った。
「奈央」瑞恵の制止も聞かず、奈央はさらに毒づいた。
「けっきょくまた、ものわかりのいい女、装ってるだけなのよ」
「……いいじゃない。そうさせてよ」聡子は、静かに言った。
「今まで、いろんなことでたくさん傷ついてきたの。その度に立ち直って。何回もそうゆうことあって、三十九にもなれば、傷つかないようにすることくらいうまくもなるわよ。傷ついてないふりするのだって、どうってことないの。いつの間にか、忘れちゃうわよ」
今度は奈央が黙る番だった。瑞恵も貞夫も、しんみりして聡子の話を聞いている。
「いいのそれで。もう好きっていう気持ちだけじゃ、突っ走れないんだから」
「お帰りなさい」恵太朗が、玄関のドアを開けてくれた。
「ただいま。はい、おみやげ」と紙袋を差し出す。貞夫の料理をテイクアウトしてきたのだ。
「ありがとうございます」
さっそくテーブルにお皿を並べ、まだ温かい料理を食べ始める。貞夫の作る料理はどれも絶品で、二人は舌鼓を打った。
「また実家にごはん食べにいかない? 私、ふだんからよく晩ごはん食べに行ってるんだ」
聡子が誘うと、恵太朗はまったく見当違いのことを言い出した。
「テレビドラマの食卓シーンって、みんなしゃべるじゃないですか。しゃべらないと、ドラマにならないからしゃべるんだって思ってたんです。 ウチは、 食事中はしゃべっちゃいけなかったから」
「……そう」
「どの家でも、食事中は話をするもんだってわかってからは、ドラマの食卓シーンを見るの、嫌いになりました。でも、緒方先生の家はホントにみんな楽しそうによくしゃべって、すごくいい家族だと思いました」
「そうお?」
それから恵太朗は、居住まいを正すように箸《はし》を置いて言った。「でも、せっかくですが、僕はもう行きません。行っても、つらいだけなんで」
「明日は? 心の相談室の仕事、あるの?」コーヒーを飲みながら、聡子は恵太朗の予定を尋ねた。
「いえ、明日はないです」
「じゃあ、休み?」
「はい」
「そう。私も休み」かなり含みを持たせたつもりだが、あっさり「知ってます」とかわされる。
「そうよね」我ながら間抜けな返事だ。
恵太朗がコーヒーを飲み終え、カップを置いた。いつものパターンである。
「じゃあ、そろそろ」
「……帰る?」
「はい」
「……ねえ」次の言葉が喉元《のどもと》まで出かかったが、やっぱり口に出す勇気がない。「あ、ううん、帰り、気をつけて帰ってね」
恵太朗がお休みなさいを言って帰っていくと、聡子は寂しそうなため息をついて、ドアの鍵をかけた。キッチンでコーヒーカップを洗い、水切りカゴに置く。
ふと、実家で一緒にごはんを食べた時の、居心地悪そうな恵太朗の顔が浮かんだ。
――愛情を持って、一緒に乗り越えてくれる誰かが必要なんじゃないの――
晴子の言葉が思い出される。
――けっきょくまた、ものわかりのいい女、装ってるだけなのよ――
奈央の、きついけれど、的を射た言葉も。
その瞬間、弾かれたように、聡子は部屋を飛び出した。
走る。走る。走る。好き≠ニいう気持ちだけで、夜の道を、聡子は全速力で突っ走った。
ようやく、自転車を押して歩いている恵太朗の姿が、道の向こうに見えた。
「岡村さん!」聡子は無我夢中で叫んだ。「ちょっと待って!」
恵太朗が立ち止まり、びっくりした顔で振り返る。聡子は息を切らして、恵太朗のもとに駆け寄った。
「どうしたんですか?」
戸惑っている恵太朗に、聡子は息を整えてから言った。
「帰らないで」傷ついたってかまうものか。ものわかりのいい女も、もうヤメだ。
「岡村さんと一緒にいたいの」
言いたかったことを、やっと言えた。聡子は真剣な瞳《ひとみ》で、目の前の恵太朗を見つめた。
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8 彼が結婚しない理由
「え」恵太朗は、目を丸くして聡子を見ている。
「……一緒にいたいの」勇気を出して、その続きを口にする。「朝まで」
ややあって、恵太朗が言った。
「……それを言いに、走ってきたんですか?」
「……うん」聡子は急に恥ずかしくなって、小さな声で答えた。
そんな聡子を見て、恵太朗がフフッと笑う。「……かわいい。大人の女の人でも、こうゆうことするんですね」
――は? 「……からかわないでよ」
「からかってません」
「せっかく走ってきたのに……もういい。筋肉痛になったら責任とってよ」聡子がぷっとむくれて、きびすを返す。
恵太朗が「待ってください」と慌てて追いかけていった。
お酒にはめっぽう強い奈央が、今日は珍しく陽気に酔っている。表の看板を中にしまいながら、貞夫は心配そうに奈央を見た。
「……新庄さんは?」
「出張」
「嘘だ。家に帰りたくないんだろ」
「うん」と素直にうなずく。「でも、私の帰るところは、あの家しかないからねえ」
「どうしてそんなに我慢するんだよ。新庄さん、みんなにチヤホヤされて、お金持ちかもしれないけど、奈央一人幸せにしてやれないなんて、最低だ」
「マーくんは、なんっっっにもわかってない」
「わかってるよ。大切なのは、中身なんだ」
「はいはい。帰ります」奈央は立ち上がったが、足元がふらついてハデに転んでしまった。
「大丈夫?」
けっきょく、貞夫が奈央をおんぶしてタクシーを拾うことになった。
「どうして私が編集長になれたか知ってる?」ろれつのあやしくなった奈央が言う。
「そりゃあ、今までの奈央のがんばりが認められたからだろ?」
「新庄高文の妻だからよ」
「!」
「新庄高文の妻をやめると、無くしちゃうものがいっぱいなの。私は、このまま走り続けるしかないんだぁ」
奈央のあきらめたような声が悲しかった。背中に感じる温もりが愛おしく、貞夫はこのまま、どこまでも歩き続けていきたかった。
カーテンの隙間から差し込む朝日で、聡子は目を覚ました。隣を見ると、恵太朗の姿がない。ベッドから起き出し、リビングに行くと、すでに身支度を済ませた恵太朗が、キッチンで朝ごはんを作っていた。
「……おはよう」少々、気恥ずかしい。
「おはようございます」
「……ごはん、作ってくれてるの?」
「はい」恵太朗がニコッと笑うと、とたんに幸せに包まれる。
「うわぁ、きれいな玉子焼き。おいしそ〜」
「ダメですよ、つまみぐいしちゃ」
「してないじゃない」
幸福な空気が部屋いっぱいにあふれて、こぼれ出しそうな朝だった。
「おいしい。この玄米、どうしたの?」
「朝、買ってきました」
「え、わざわざありがとう」
「早く目、覚めちゃったんです。僕、枕が変わるとダメなんですよね」
聡子に気を遣わせまいとしているわけではなく、ただ事実を言っているだけらしい。
「あ……そう」
「緒方先生は、いつでもどこでも寝られそうですよね」
「……ねえ、その緒方先生っていうのやめない?」
「どうしてですか?」
「だって、病院じゃないんだし」
「……仕事中に、思わず下の名前で呼んじゃったりしたら、どうするんですか」
「……まあ、そうだけど、でも――」
「緒方先生のままでいいと思います」
がっかりだが、だだをこねるのも大人気ない。「……そう」聡子は笑顔で答えた。
休日の朝、瑞恵はYシャツにアイロンをかけながら携帯で話すという離れ業をやってのけていた。
「あっ、すみません。忘れてました。……はい……はい……今日中に報告書、必ずメールしておきます。申し訳ありませんでした。はい、失礼いたします」
テーブルでパソコン仕事をしたいのだが、洋介がまだ朝食を食べている。
「まだ食べてるの? 早く食べちゃってよ。いつまでたっても片づかないんだから。それから、部屋に洗濯物あったら持ってきといてよ」
洗濯機を回している間に報告書を書いて、洗濯物と布団を干してから夕方までに掃除機と一週間分の食材の買い出し、それから夕飯の支度をして、ああでもその前に――。
「退屈だから、ゴルフの打ちっぱなしでも行ってこようかな」
「は?」瑞恵は彰夫の言葉に耳を疑った。
「何」と彰夫が瑞恵を見る。瑞恵は、怒りをグッとこらえて言った。「別に」
と、彰夫がたたんであった洗濯物の下のほうからシャツを抜き取った。たちまち洗濯物の山が雪崩を起こす。ハンカチ一つたたんだことがないから、手間がわからないのだ。
「ちょっと、たたんだばかりなのに、仕事増やさないでよ」
「洗濯物ためるからだろ。引き出しの中がカラなんだよ」
「うるさっ」洋介が乱暴にフォークを置いて、部屋を出て行く。
「ちょっと、食べてないじゃない」
瑞恵はため息をつき、洋介が半分以上残した朝食を手早く片づける。
「あ、そうだ。もうすぐおふくろの誕生日だから、いつものように花、頼むな」
「言われなくてもわかってます」瑞恵はスポンジを握り締め、皿をゴシゴシ洗った。
お笑いビデオを見終わると、外はもう夕暮れの時間だった。
「そろそろ帰ります」
「そう……あ、ねえ」聡子は遠慮がちに聞いた。「ご実家には、帰ることあるの?」
たちまち恵太朗の眉間《みけん》が険しくなる。「……そんなこと聞いて、どうするんですか」
「……たまには、帰ってあげたらどうかなぁって」
「姉みたいなこと、言わないでください。おせっかいなところがそっくりです」
「お姉さんとは、あれからどうなの?」
「ほらまたおせっかい」
その時、チャイムが鳴った。聡子が立ち上がって玄関モニターを見る。噂をすればなんとやらで、和子の四角張った顔が、こちらをのぞきこんでいた。
「なんでここに来るんだよ」恵太朗は憮然《ぶぜん》としている。
「家に行ったけど、いなかったから、ここかなと思って」
「用は何」
「お父さんから来た手紙に、恵ちゃん宛の手紙も入ってたの」和子はバッグから封筒を取り出して、恵太朗に差し出した。「読んで」
恵太朗は腕を組んだまま、そっぽを向いている。
「読みなさい」「やだ」二人が押し問答しているところへ、聡子がお茶を運んできて言った。
「読むくらい、いいじゃない」
「緒方様は口を挟まないでください。私は、緒方様を恵太朗の交際相手として認めたわけじゃありませんから」
「はい」和子ににらまれ、聡子は小さくなった。
「緒方先生の部屋に上がり込んどいて、そうゆう言い方はないんじゃない?」
「恵ちゃんだって、自分よりいい暮らししてる女性の部屋に入り浸るなんて、恥ずかしくないの?」
「入り浸ってなんか――」
放っておくと、姉弟戦争が勃発しそうだ。「そうだ! お腹すきません? マーくんの店にごはん食べにいきましょうよ。この前の洋食屋、すごくおいしいんですよ」
聡子が気を利かせて提案したが、すっかりつむじを曲げた恵太朗は、「僕は帰ります」と一人で玄関を出て行った。
聡子が和子を連れて『グランポン』にやってくると、偶然にも瑞恵と奈央が来ていた。
「バツイチなんですか?」和子の話を聞いた瑞恵は、驚きと尊敬の念を込めて言った。
「私もバツイチの予定なんです。六年後に。今日も家にいると腹が立って腹が立って、出てきちゃいました」
「だいたいのことはお察しします。ご主人に内緒で離婚計画をたてていらっしゃる方、珍しくないですから」
「やっぱり離婚て、エネルギーいります?」
「離婚して私は……」和子が、感極まったように声を詰まらせた。みんな、さまざまに和子の苦労を想像して答えを待つ。「……生き返りました」
一同から、「へ〜」と驚きの声が漏れる。
「子供を連れて離婚するのは、とても勇気がいることでした。でも、道は開けました。結婚相談所で再婚相手と出会い、結婚相談所に再就職することもできたんです。離婚して初めて、私は自分の人生を自分の手で選びとることができたんだと思います」
瑞恵はなんだか勇気が湧いてきた。「離婚の先には、再婚っていう道もあるんですよね」
「ちょっと、私が一回も結婚してないのに、二回もするつもり?」聡子がふざけ半分に言う。
「けっきょく、最初の結婚は形だけの結婚だったのよ。それに比べて今の主人は、子供の面倒を見てくれるし、家事も手伝ってくれるし、それに何よりも――」と、含み笑いをする。
みんな、再びいろんな想像を巡らして和子の答えを待つ。
「一日一回、『きれいだよ』って、言ってくれるんです」
一同から、「ほ〜」と、これまた驚嘆の声が漏れる。
「奈央、ちゃんと聞いてる?」貞夫が含みを持たせて言った。
「私は、離婚だけは絶対できないから」
「あの旦那とずっと一緒に暮らせるわけないよ」
「子供さえできれば、高文だってきっと変わるんだから。自分の子供は誰だってかわいいに決まってる」
そんな奈央が、貞夫には痛々しくて見ていられない。「今のままじゃ、奈央の心が壊れちゃうよ」
「気をつけてね。私の離婚の原因は、支配的な夫と暮らしてるうちに、うつ病になってしまったことだから」和子が言った。
「そうだったんですか」聡子は納得した。「精神科の患者さんて、うつ病だけでも女性が男性の二倍以上なの。結婚一つをとっても、男性より悩む機会が多いでしょ」
「仕事と家庭の両立とか、親戚《しんせき》やご近所づきあいとかね」瑞恵が、今の自分の身に照らし合わせて言う。
「そうそう。ま、私はどれも経験してないけど」
「私、そろそろ行かなきゃ」奈央が時計を見て立ち上がった。
「え、仕事?」
「うん、取材に行くの。大人の遊び場に。最近、バブルの時に派手に遊んでたアラフォー達が、昔の遊び場に戻ってきてるんだって。子育てが一段落したりして」
うらやましそうな顔のアラフォー三人に、奈央が言った。「みんなで行く?」
一度アパートに帰ったものの、やはり二人が気になって、恵太朗は貞夫の店にやってきた。
「あ、いらっしゃい」
「……姉と緒方先生は」
「奈央と瑞恵と四人で、どこかに遊びに行ったよ」
「えっ」驚いたが、どうしようもない。せっかくここまで来たので、恵太朗はコーヒーをご馳走《ちそう》になることにした。「あの……マーくん……さんて……」
「マーくんでいいよ」
「え、でも……お名前、まだちゃんと聞いてなくて」
「大橋貞夫」
「大橋貞夫さん……で、なんでマーくんなんですか」
「ま、いずれ」
「はい……あの」恵太朗は少し口ごもったが、「……まだ結婚されてないですよね」
「そうだけど」
「やっぱり結婚して、家庭を持ちたいですか?」
「わかってないな」貞夫は、大げさにため息をついた。「いい? 岡村クン。結婚よりも、まずはやるべきことがあるでしょ」
「……なんですか?」
「相手をまるごと受け止めてあげるってこと」
「……マーくんさんみたいな人が、女の人を幸せにしてあげられるんだろうな」恵太郎は感激している。
「だろう!? ありがとう、岡村クン」と貞夫は恵太朗に握手を求めた。
「マーくんさんのよさ、わかってくれる人が早く現れるといいですね」
「それがさ、僕の知ってる女性っていうのは、みんな全然わかってないんだよ」貞夫はぶつぶつ言った。
「人に幸せそうに見られるのが、一番大事で、好きでもない人と一緒にいる人とか」奈央のことだ。「平凡だけど、いくらでも幸せになれる環境にいるのに、別の人生探し始めちゃう人とか」瑞恵である。「きれいで優秀で面倒見がいいのに、自分のこととなると全然ダメで、素直になれない人とか」これはもちろん、聡子だ。
そんな噂話をされているとも知らず、和子を入れた四人は、アラフォー達の熱気に包まれたディスコで、日頃の悩みを吹っ切るかのように踊りまくっていた。
「あ〜、疲れた〜」聡子は、ぐったりカフェの椅子に深く座り込んだ。
「オールナイトは無理ね」と和子が笑う。
「無理ですよ」聡子も笑った。
奈央はともかく、瑞恵がお立ち台で踊り出したのには驚いた。考えてみれば、瑞恵はバブル時代、大手保険会社のOLだったのだ。
二人も最初は圧倒されていたが、最後はノリノリで踊ってしまった。
「でも楽しかったー。ディスコ行ったなんて、父が聞いたら、どんな顔するかな」
「お父様、そんなに厳しかったんですか?」
「小学校の校長で、しつけが厳しく、勉強もさせられました。私は特に長女だったし。でも、恵太朗が生まれてからは、父の目は全て恵太朗に向けられるようになったんです。待望の男の子だったから」
「父の期待に一人で応《こた》えなくちゃいけなくなった恵太朗を、母も私達三姉妹も、見てるしかありませんでした。父には、誰も逆らえなかった……」
和子は遠い目をして、最後にぽつんと言った。「……かわいそうだったな」
初めての契約がとれて以来、瑞恵はとんとん拍子に営業成績を上げていた。
瑞恵にツキを呼んでくれた例の定食屋にやってくると、ランチタイムを終えた女性客達が中から出てきた。瑞恵はうれしそうに客を見送り、入れ替わりに店に入っていく。
店主の森岡に、店の紹介が出ている『はらぺこナビ』のサイトを見せようと思って来たのだ。
「客が入るようになって、少しは気持ちに、ゆとりが持てるようになったかな」
「……何か、不安に感じることがあるんですか?」気になって、瑞恵は尋ねた。
「母ちゃん亡くなっちゃってるし、子供もいないし、やっぱり、先のこと考えるとねえ」
「一番不安なのは、病気になった時ですよね。保険、入ってます?」
「いや」
「私、結婚する前、保険会社にいたんです。主人も勤めてますし」
「あんたがすすめるなら、話、聞いてみようかな」
明日、閉店後の八時にパンフレットを持ってくると約束して、瑞恵は店を出た。
高文の協力が得られないまま、不妊治療はストップしている。それでも、『赤ちゃん待ち日記』の原稿は書かなくてはならない。不妊治療はつらいけれど、とても夫婦間の絆《きずな》が強まった――という、ありもしない内容を書くことくらい、出版社に十年以上も勤めていれば、朝飯前だ。
ドアの開く音がして、奈央は慌ててパソコンの画面をディスコの記事に切り替えた。
「お帰り」ニッコリして出迎える。
「……ただいま」
「取材に行ったディスコの記事、書いてたの。今、アラフォー達がバブルの頃の遊び場に戻ってるんだって。それって、何か新庄高文的ライフスタイルに参考になったりする?」
「今度のキッズ・プランニングでの会食では、そうゆうのやめてくれよ」
「……え?」
「無理して明るくされてもな」高文は不愉快そうに言って、リビングを出て行く。
絆が強まるどころか、夫婦の間の溝は深まるばかりだ。奈央は唇を噛《か》みしめた。
「一言、いいっすか」
突然、病院を訪ねてきた達也にいきなり言われて、恵太朗は面食らった。
「男なら、ケジメをつけてもらえませんか」姉貴のために一肌脱ごうとやってきたのだ。
「ケジメ……?」
「そりゃあ岡村さんは、姉貴よりずっと若いかもしれないですけど、姉貴は三十九です。自分の家族持ちたいに決まってます」
「……お姉さん思いなんですね」
「……昔、チーマーやっててさんざん心配かけたから。渋谷《しぶや》は怖くて吉祥寺《きちじようじ》だったんですけど。ま、今の俺見たら、想像つかないですよね」
今では、大人になったチーマーに見える。「そうでもありませんよ」恵太朗はつい口を滑らせ、慌てて先を促す。「続けてください」
「それでも姉貴は、毎日弁当作ってくれました……晩メシも。家に帰らないこと多かったんですけど、絶対、作っといてくれたんです。俺の帰る場所はあの家だってこと、姉貴は言いたかったんだと思います」
いかにも聡子らしいと、恵太朗は達也の話に耳を傾けた。
「その姉貴が、今でもあの家にごはん食べに来てるけど、やっぱり俺としては、自分の家族、持ってほしいって思うわけですよ。わかってもらえます?」
力説を終えた達也が、「あ」と目を上げた。向こうから、血相変えた聡子が全速力で走ってくる。
「達也! ちょっと、何してるの!?」
「俺がビシーッと言っといてやったから。姉貴の気持ち」
「はあっ!? よけいなことするんじゃないのっ」達也のお尻に思いきりケリを入れる。
ゆうべ達也が一人で聡子のマンションに来て、恵太朗とのことを根掘り葉掘り聞いてきた時に、ちゃんと釘《くぎ》を刺しておくべきだった。
達也を追い返すと、聡子は恵太朗に謝った。「達也が言ったこと、気にしないでね」
「大丈夫です。達也さんの気持ち、僕にもわかりますから」恵太朗は微笑んだ。
「僕も昔、一番上の姉の別れた旦那のところに行ったことがあるんです。……姉、うつ病になったんですよね」
「……うん、聞いた」
「その旦那、世間体ばかり気にしてたんで、僕が姉を精神科に連れてったんです。商社に勤めてた僕が、心理士っていう仕事に興味を持ったのは、それがきっかけです」
「離婚した姉は、ボロボロでした。実家に戻ろうとしても、父が許してくれませんでした。姉のこと、岡村家の恥さらしみたいに思ってたみたいです」恵太朗が、苦々しい表情になる。「そうゆうウチだったんです。僕が育った家庭は。いつも父親の顔色をうかがって、緊張する場所だったな」
恵太朗が一番緊張したのは、習字の手習いの時間だ。幼い恵太朗を先頭に、姉達が一列に並び、順番を待つ。
「いいな、恵太朗。字は、その人自身を表すんだ」
父の字は自信に満ちて、堂々としていた。その父が恵太朗の後ろに回り、手を重ねて一緒に筆を動かす時、緊張はピークに達した。
今でも思い出すと、手に汗をかいてしまうほどだ。
「姉のことがあって、僕は、姉のような人達の支えになりたいと思うようになりました」
「それで、心理士になったのね」
「父の期待通りに生きてきた僕が、初めて反抗しました。父はショック受けてました。父にしてみれば、自慢の息子に裏切られたわけだから……。それ以来、父とは八年ぐらい音信不通です。姉もそのことに責任を感じて、自分が僕の人生を狂わせたって思い込んでるんです」
恵太朗は淡々と話し続けたが、聡子はその瞳《ひとみ》に、深い悲しみを見た気がした。
瑞恵が保険のパンフレットを持っていくと、森岡は中を見もせずにこう言った。
「あんたの旦那がいいってやつに決めるよ。あんたの笑顔には、かなわないからな」
急いで帰宅した瑞恵は、着替える間もなく食事の支度をしながら、彰夫にそのことを伝えた。
「そうゆうわけだから、そのお客さんのところに行ってくれる?」
彰夫は返事もせず、面白くなさそうに、テレビのニュースを見ている。
「聞こえてる?」
「ああ、行けばいいんだろ。メシは」
「今、やってるから」
「いくらなんでも帰りが遅すぎるだろ。こんな時間まで洋介を一人にさせとくなんて」
「だから今日は、たまたまでしょ」
「洋介が悪い仲間とつきあうようになったりしたら、どうするんだよ」
洋介は暗い目で両親を一瞥《いちべつ》し、耳を塞《ふさ》ぐ代わりに、テレビのボリュームを上げた。
「大げさね。あっ、明日、資源ゴミの日だ」
リビング続きの和室には、新聞や古雑誌が山のように積まれている。
「あんなにためて。先週、出すの忘れただろ」
「はいはいすみませんね。明日はちゃんと出すから」
揚げ足取りのいがみ合いは、いつ果てるともなく続いた。
最近、奈央は一人でふらりと貞夫の店にやってくることが多くなった。
「……私、妊娠してるふりでもしようかな」
カウンターでワインを飲みながら、投げやりな様子で言う。
「お腹にクッションでも入れて……それで、養子をもらうの。そうすれば、高文に不妊治療の負担がかからないし、雑誌のコンセプトも果たせる」
「……冗談に聞こえないよ」
「……冗談に決まってるでしょ」
「……奈央、おかしいよ」
貞夫が言うと、奈央は今にも泣き出しそうに顔をゆがめた。
「ありがとうございます。今日は来ていただいて」聡子は礼を言った。
「職場見学したくらいじゃ私、恵太朗の仕事、認めませんよ」
和子はなかなか手ごわそうだ。けれど、恵太朗にとっても、和子にとっても、今のままで幸せなわけがない。
「あのまま商社に勤めてれば、安定した生活が送れてたんです。私が恵太朗の人生を狂わせたばっかりに」
「……本当にそうでしょうか」
「そうよ」
聡子は足を止め、窓の外を目顔で示した。病院の中庭である。
「あ、恵ちゃん」和子は窓のほうへ近寄った。恵太朗が、どこかの少年とキャッチボールをしている。恵太朗がボールを落としたのを見て、和子はクスクス笑った。
「やっぱり下手ね。昔から運動苦手だったから」
「あの男の子が、今、あんなに元気な笑顔でいられるのは、岡村さんのおかげなんですよ。来た時は、しゃべれなかったんですから」
「え?」和子は再び中庭に目をやった。
「フライ、ちょうだい! 大きいのね」
「よし」
恵太朗が大きく振りかぶって天に向かって投げたボールは、見当違いの方向へ飛んでいく。
「下手くそ!」
「ごめんごめん」
楽しそうな二人の声が、風に乗って和子のところまで聞こえてくる。
「人って、ありのままの自分を受け入れてくれる人が、必要なんですよね」
聡子は、目を細めて恵太朗と俊を見つめている。
「患者さんにとって、岡村さんは、そうゆう存在なんです。岡村さんは、患者さんの押し潰《つぶ》されそうな心の声に耳を傾けてあげられます。私、そうゆうところ、岡村さんにはかなわないんです。だから、すごく助けてもらってるんですよ」
聡子はそう言って、和子に向き直った。「どうして岡村さんには、それができると思いますか? きっと、ご家族とのことがあったからじゃないかなって」
和子は聡子の言葉を噛みしめながら、もう一度、弟を見た。恵太朗が少年の返球を受け損ねて、転がって行くボールを追いかけて行く。
「……ホント下手ね」和子は苦笑して、そしてやさしく微笑んだ。「でも、楽しそう」
雲が流れる青空に、また見当違いの大きなフライが飛んでいった。
「すみません。ちょっと話をさせてもらえますか」
貞夫は、高文のオフィスがあるビルを訪れた。
「じゃあ、アポとってください」高文は迷惑そうに言い、自分の部下を従えて行こうとする。
「お願いします」貞夫が頭を下げると、人目を気にして、高文はしぶしぶ戻ってきた。
「手短にお願いします」
「奈央、ものすごく無理してます。奈央の心が壊れそうで、見てられないんです」
高文がうんざりした顔になる。「そうゆう話でしたら、また」
「奈央、子供の頃、太ってたんです」
「え?」
「そのことで、男の子達にからかわれてました」
貞夫は今も覚えている。近所のいじめっ子達に取り囲まれて「太っちょ太っちょ」とはやし立てられても、奈央は決して逃げようとしなかった。なぜなら、足元に咲いた野の花が男の子達に踏まれないように、その場にしゃがみこんで一生懸命守っていたから――。
「本当の奈央は、自分がどれだけつらくても、踏み潰されそうな野の花をかばってあげるような、やさしくて繊細な子なんです」
「へ〜」と高文が感心したような声を出す。
「わかってもらえますか」
「そんなに太ってたんですか。やっと理解できました。妻が僕を選んだ理由が」高文はうっすらと冷笑を浮かべた。
「妻は、コンプレックスのかたまりなんですね。自分に自信がないから、僕のような男を選んで自分の価値を高めようとしたんだ。妻にとって僕は、アクセサリーってことか」
貞夫はカッとなった。「だから、ホントの奈央は、野の花をかばうような――」
「妻は、ずっと僕にしがみつくでしょうね。一度高級アクセサリーをつけると、安物はつけられなくなりますから」
次の瞬間、貞夫の固めたこぶしが高文を殴りつけた。離れた場所にいた部下連中が驚いて駆けつけ、貞夫の腕を後ろ手にひねりあげて取り押さえようとする。
「ィテッ!」
いつから見ていたのか、奈央が言葉もないまま、貞夫を見下ろしていた。
「なんであんなことしたの?」
二人で店に戻ると、奈央は貞夫の手首に湿布を貼りながら言った。
「マーくんは、子供の頃と変わらないね」奈央がクスッと笑う。「言うことも、やることも」
「どうせ俺は、成長しないヤツなんだ」
「…………」幼い日々を思い出す。奈央がいじめられていると、貞夫がこぶしを振り上げながら、男の子達を蹴散《けち》らしてくれた。そして、奈央に言ったものだ。
「いいか、奈央。大切なのは、外見じゃなくて中身なんだからな」
あの時は、素直に「うん」とうなずけたのに――。
食堂で恵太朗とお昼ごはんを食べたあと、休憩コーナーの椅子で一休みする。
「あ〜おなかいっぱい」
「ごはん、おかわりするからですよ」
「おいしく食べたんだから、いいじゃない」
「別にダメだなんて言ってません」
聡子はチラッと恵太朗を見て、「今晩、何食べようかなぁ」
「おなかいっぱいで、よく次のごはんのこと考えられますね」恵太朗があきれる。
「決めた! スキヤキ」
「え、一人スキヤキですか?」
聡子は機嫌よく言った。「今日、ウチにいらっしゃいってことじゃない」
「でも僕、遅くなりますよ」
「待ってるから。じゃあ、スキヤキね」
「はい、スキヤキで」
話がまとまって、二人はニッコリした。
竹内家では久しぶりにホットプレートが出動して、瑞恵と洋介が焼き肉を食べていた。
瑞恵がビールをゴクゴク飲む。自分で稼いだお金で飲むビールは、やはり一味違う。
しばらくして、彰夫が帰ってきた。
「お帰り。見て、このお肉」瑞恵はホクホクして言った。「今日、初めてお給料もらえたから、奮発して高いお肉買っちゃったの。洋介、やっぱり高いお肉は違うでしょ?」
「うん」洋介は黙々とおいしそうに食べている。
「ねえ、あれどうなった?」瑞恵は、ネクタイを外している彰夫に尋ねた。
「あれって?」
「保険のこと。定食屋さん、行ってくれた?」
「ああ、行ったよ」彰夫が、気乗りしなさそうに答える。
「入ってくれた?」
「ああ、俺がすすめる保険ならってことで、入ってくれた」
瑞恵は彰夫の話など聞いておらず、得意げに言った。「やっぱり私、営業むいてるのかなあ。最初の一件とれるまでは無理なんじゃないかって思ったけど」
「それより、おふくろから花が届いたっていう電話がなかった……」彰夫が言い終える前に、
「ああっ!」と瑞恵が大きな声を上げた。
「まさか」
「すっかり忘れてた。明日、絶対贈っておくから」
もう我慢ならないとばかりに、彰夫が大声で瑞恵を怒鳴りつけた。「何やってんだよ! 調子に乗ってるから、こうゆうことになるんだ」
「どこが調子に乗ってるっていうの?」瑞恵のほうも、堪忍袋の緒がブチッと切れた。
「俺の営業までやった気になってるけど、俺とお前の仕事を一緒にするな。俺の仕事は、家族を養うためでお前とは違う。お前の本来の仕事は、家事なんだからな。洗濯物はためるし、部屋は片づいてないし、風呂だって、掃除の回数減っただろ」
「ちょっとくらい、手伝ってくれたっていいじゃない。何よ。私のほうが営業むいてるから、おもしろくないんでしょ。プライドが傷ついたから、私にイチャモンつけてるのよ」
彰夫の顔が、みるみる真っ赤に。「数週間やそこら仕事しただけで、えらそうなこと言うな」
夢中で怒鳴りあっている二人は、洋介がいつの間にか部屋の外の階段に座り、耳を塞いでいることにも気づかない。
「一回、花、贈るの忘れたくらいで何よ。私は結婚してから、誕生日に花なんかもらったことないわよ。私はそのことで、文句なんか言ったこともなかったわよ」
「そんなに欲しかったのか? 花」
「欲しかったのは、花なんかじゃないわよ!」
「何が不満なんだよ!」
瑞恵は、ハンマーでガンと頭を殴られた気分だった。そんなことも、この人はわからないのか――。あまりにも情けなくて、涙がこぼれそうだ。
百グラム千五百円もした牛肉は、ホットプレートの上でいつの間にか焦げていた。
「ほら、もう煮えてるから。お姉さんも」
聡子は、せっせと和子のお皿にお肉を取り分けてやっている。
「どうゆうことですか?」恵太朗は苦虫を噛み潰したような顔だ。「二人スキヤキ」を楽しみにきてみれば、とんだ邪魔者が現れたのだから。
「スキヤキは二人より三人のほうがおいしいでしょ?」
「またおせっかいですか」
「……いただきます」和子は、お箸《はし》を取って食べ始めた。
聡子も一口食べ、「ん〜おいし〜。早く食べないと、お肉、硬くなっちゃうわよ」
「……いただきます」恵太朗もしぶしぶ手を合わせる。
しばらくはスキヤキの煮える音だけが続き、聡子が姉弟の顔を行ったり来たりしながらチラチラうかがっていると、とうとう和子が口を開いた。
「ねえ、恵ちゃん」
「どうゆうつもりでここに来たのか知らないけど、 父さんからの手紙なら、 受け取る気ないから」
恵太朗が機先を制するつもりで言うと、案に相違して、和子は静かに話し始めた。
「ホントにごめんね。恵ちゃん一人にお父さんを背負わせちゃって……子供の頃から、ずっとそうだったもんね」
一番に思い出すのは、習字の手習いの時間だ。和子がいくら上手に書いても、父の視線は常に恵太朗だけに向けられていた。幼い弟とはいえ、まだ自身も子供だった和子が、嫉妬《しつと》しなかったと言ったら嘘になる。
「ホントはね、私、恵ちゃんのことが妬《ねた》ましかった。ああゆうお父さんでも、私のことを見てほしかった」
「何言ってるんだよ。姉ちゃんは父さんの犠牲になったんだよ」
「でも、いろんなことがあったおかげで、今が幸せって思えるようになったの」そう訴える和子の目には、一点の曇りもない。
「……ホントにそう思ってる?」
「ホントよ。恵ちゃん、誤解してたと思うけど」
「姉ちゃんだって、僕のこと誤解してる。僕が父さんに反発して商社辞めたって思ってるかもしれないけど、僕は――」
「家のことがあったおかげで、自分自身で心理士っていう仕事を選んだんでしょ」和子が、先を引き取って言った。
「……緒方様に、恵ちゃんの仕事ぶり、聞かせてもらった」
いつのまに、そんなおせっかいをやいたのか。恵太朗が聡子を見ると、聡子は素知らぬ顔でスキヤキを食べている。
「恵ちゃんにとって、心理士は天職なのかもね」
恵太朗は、姉との間に横たわっていた溝が次第に埋まっていくのを感じていた。そんな二人を横目で見ながら、聡子はそっと微笑んだ。
「……ホントにおせっかいなんですから」
恵太朗はキッチンで後片づけをしながら、横でコーヒーを淹《い》れている聡子に言った。
「しょうがないわよ。私、長女だし」
「長女だからおせっかいだって言うんですか」
「そうなんです。お姉さん、そうゆうもんじゃありません? 長女って」聡子はコーヒーカップを和子に渡しながら言った。
「そうね。特に弟のことは心配で」
「ほらね」と、あごをそらせる。
「でも、ちょっと心配ごとが減ったかな。少し変り者で、結婚はしないなんて言ってる恵太朗を、ありのまま受け入れてくれる人ができて本当によかった」
聡子は、え、と和子を見た。
「人って、ありのままの自分を受け入れてくれる人が必要なんですよね」和子が聡子に微笑みかける。「どうして恵ちゃんが緒方様なのか、わかったような気がする」
和子は、聡子のことを弟の交際相手として認めてくれたようだ。
「そろそろ失礼するわ。お父さんからの手紙、置いておくわね」
帰り際、和子は封筒をテーブルの上に置き、少し悲しそうな声で言った。
「恵ちゃん、驚かないでね。もう昔のお父さんじゃないから」
和子を見送って聡子がリビングに戻ると、恵太朗は手紙の入った封筒を見つめていた。
「手紙、読む気になった?」
恵太朗の返事はない。聡子は、かまわずに続けた。
「岡村さんは今まで心理士として、つらい思いをした子供達にまっすぐに向き合ってきたのよね。だからみんな、心を開いてくれた。今度は、岡村さん自身が自分と向き合う時なんじゃない?」
アパートに帰ってきた恵太朗は、テーブルの前に座り、封筒と正面から向き合った。心を決め、便箋《びんせん》を取り出す。
そして、「岡村恵太朗様」という書き出しの文字を見た瞬間、和子の「もう昔のお父さんじゃないから」という言葉の意味が理解できた。
「字は、その人自身を表すんだ」――父は、恵太朗に繰り返し言っていた。
あの堂々として自信に満ちた字は面影もなく、今、年老いた父が書いたよろよろと震える字を、恵太朗は涙に曇った目で読み始めた。
玄関チャイムの音がして、聡子は寝ぼけ眼のまま、ベッドから目覚まし時計を見た。
「今、何時よ」
ピンポーン、ピンポーン。しつこくチャイムが鳴り続ける。
「ああっ」布団を跳ね飛ばして、部屋を出て行く。
ドアを開けると、ボストンバッグを持った恵太朗が立っていた。
「すみません、朝早く」
「ホントに早いわね。どうしたの」
「今日、これから父に会いに松本に行ってこようと思います」
「!……そう」聡子は微笑んだ。わだかまりなんて、会えばきっと吹き飛んでしまうに違いない。それが親子というものだ。
「その前に、ちょっといいですか?」恵太朗が、やけに真剣な顔になって言った。
何の話だろうと思いながらリビングに行き、向かい合う。
「笑わないで聞いてください」
「笑える話ってこと?」
「もしかしたら」
恵太朗は、なんだかちょっと緊張しているようにも見える。
「……なんなの?」聡子は、先を促すように尋ねた。
「……僕の夢です」
「どんな夢?」
「子供達が、心を癒《いや》せる村を作りたいんです。青空と緑に囲まれた広々とした場所で、心が傷ついたり、行き場がなくなった子供達と一緒に暮らせるような場所を、いつか作りたいんです。みんなで花や野菜を育てたりしながら、暮らすんです」
一気に言ってしまうと、恵太朗は少し不安げな顔になって、うかがうように聡子を見た。「……どう思います?」
「岡村さんらしい夢じゃない」そして、素敵な夢だ。聡子は本心からそう思う。
「……初めてなんです。誰かに話したの」恵太朗は、真摯な目で聡子を見つめて言った。
「実は僕、ずっと自信がありませんでした。誰かに、ありのままの僕を受け入れてもらえる自信がなかったんだと思います。今までは」
今までは[#「今までは」に傍点]――。聡子の胸に、温かなものが広がっていく。
「どうしてもこのことを緒方先生に伝えたくて」
「……ありがとう。話してくれて」
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関口で見送っていると、恵太朗が急に振り返った。何か忘れ物でもしたのだろうか。
「……なんて呼べばいいですか? 緒方先生のこと」
聡子の口元に、うれしそうな笑みが広がる。「……考えとく」
「……僕も。じゃあ」
「気をつけて」恵太朗を見送りながら、聡子は今、世界で一番幸せな気分だった。
リビングに戻って、もう一寝入りしようかなどと思っていると、ピンポーンとチャイムが鳴った。まさか恵太朗ではあるまいと思いつつ玄関モニターを見てみると、大きなバッグを提《さ》げた瑞恵が立っている。
「ねえ、しばらく置いてくれる?」
「どうしたのよ、いったい」
「よく夫と一緒の空気吸うのも嫌になるって聞くじゃない。その気持ちがすごくよくわかる」
「え?」
話しながらリビングに戻って来たとたん、またピンポーンとチャイムが鳴る。
なんと、今度は奈央だ。瑞恵同様、大きなバッグとスーツケースを持っている。
「どうしたのよ、いったい」聡子は、瑞恵に言ったのと同じセリフを口にした。
「しばらく置いてほしいの」
静かなはずの早朝のリビングが、にわかに駆け込み寺の様相を呈してきた。
「二人そろって家、飛び出すなんて」聡子はあきれて言った。
「このまま離婚までの六年間、我慢できるか自信なくなってきた」瑞恵がため息をつく。
「私は、決めた」奈央はきっぱり言った。「すぐに離婚する」
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9 誕生日にプロポーズ!?
今日は朝から驚かされてばかりだ。それにしても「離婚」とは……。少し落ち着けば奈央も考え直すだろうが、よほどのことがあったのだろうか。
「いったい、どうしたっていうのよ」
「どうしたもこうしたもないわよ。うちの主人……」瑞恵が堰《せき》を切ってしゃべり出そうとした矢先、奈央が言った。「マーくんが、高文を殴ったの」
そして、高文は家に帰ってくるなり、不愉快そうに奈央に言った。
「彼みたいな人間とつきあうのは、やめてくれないか。殴るなんて、感情で動いてかっこいいつもりなのかもしれないけど、気持ち悪いよ。人としてのレベルが低すぎる」
「マーくんのこと、そんなふうに言うのやめてよ」
奈央はカッとして言い返し、それから口もきかないまま、家を出てきてしまったのだ。
「そんなこと言われたの? 信じられない」話を聞いて、聡子も憤慨している。
「ひどいわねえ。ウチも聞いてよ。私はね、別に誕生日に花が欲しいわけでもダイヤモンドが欲しいわけでもないの。主婦の仕事に、常日頃から感謝の気持ちを持ってくれさえすれば――」話の途中で、瑞恵の携帯が鳴った。「ほらきた」
彰夫からの着信を確認すると、電話に出ないまま携帯を戻す。
「出ないの?」聡子が聞くと、瑞恵は今までになく強気で言った。「予行演習させなきゃ。いざ離婚した時のために」
竹内家では、彰夫がウロウロしながら電話をかけていた。
「なんで出ないんだ」彰夫は舌打ちして電話を切った。『しばらく戻りません』などというふざけた書き置きだけ残して姿を消すなんて、一家の主婦がすることか!
「おなか減った」洋介が何度も催促してくる。
「パンか何かあるだろ? 洋介、どこに行ったか、ホントに聞いてないのか?」
「知らない」
パンを探しにキッチンに行けばいっぱいに詰まったゴミ袋につまずき、また舌打ちが出る。
「邪魔だな。ゴミ出し、何曜日だ? パン、ないか、パン」
「弁当は?」また洋介が聞いてくる。
自分の支度もできていないのに、なんで俺が――ぶつぶつ言いながら洋介にパン探しを命じ、自分はハンカチ探しに奔走する彰夫だった。
その頃、シャワーを浴びてバスローブをはおった高文は、ようやく奈央からのメールに気づいた。
『いろいろと考えたいことがあるので、しばく距離をおきたい』
高文は小さく肩をすくめ、そのまま携帯で電話をかけた。相手が出ると、いつものビジネスライクな口調で言った。
「今日の会食だけど、ロバートがホワイトアスパラが苦手ってこと、シェフに伝えておいてくれる? それと、妻は欠席になったから。じゃあ、アスパラの件、よろしく」
とっくに奈央のメールに気づいているはずなのに、高文からは、なんの連絡もない。ため息交じりに携帯を閉じた奈央を見て、聡子が言った。
「旦那《だんな》さん、心配してるんじゃないの?」
「私に離婚なんてできないって思ってるから」
「甘く見られたもんよね。ぎゃふんと言わせてやらなきゃ」瑞恵は意気|軒昂《けんこう》だ。
「さあどうかな。高文は、自分の非を絶対認めないと思うから」
「ウチの主人といい勝負ね」
「あっ、こんな時間。大事な話なのにゴメン、そろそろ仕事行く準備しないと」聡子が慌てて立ち上がると、他の二人もバタバタと出かける用意を始めた。
「続きは今夜、ゆっくり聞くから」聡子はそう言って、家を出た。
ここのところ初診の患者さんが増え、今週はとくに診察の予約が多くて大変なところへ、「急なんだけど」と、川崎が面白そうな仕事の話を持って来た。東京都から、市民フォーラムの講演依頼が舞い込んできたのだという。
「実は別の病院に依頼されてたんだけど、諸事情で急遽《きゆうきよ》ウチにきたんだ。穴埋めだけど、当院をアピールするチャンスなんだ。精神科からは、緒方先生、よろしく頼みますよ」
今度の日曜日というから本当に急な話だが、やりがいはありそうだ。
「わかりました。まだまだハードルの高い精神医療を、身近に感じてもらえるいい機会だと思って、しっかりやらせていただきます」
「地域の方に病院を知ってもらえるチャンスだし、ここで評判を得られると、ベッド数を増やせるかもしれないから、ひとつ頼むよ。ウチもますます経営が厳しくなってることだし。あと一週間しかなくて大変だけど、よろしく」
その頃、奈央は新雑誌の宣伝会議に出ていた。
出来上がってきた創刊のポスターは、高文と奈央の仲むつまじい写真をメインにして、『新庄奈央の赤ちゃん待ち日記・ご主人はライフスタイルプロデューサーの新庄高文氏』という企画が大きくとりあげられている。
「よくここまで不妊治療のことをさらけだしてくれたわね」美智子が満足そうに言った。
「夫婦の絆《きずな》が浮き彫りになってて、とてもいいわ。何もかも持ってる幸せなイメージのモデルより、ずっと読者の共感を得られると思う」
「……ありがとうございます」
「あなたに任せて正解だったわ」美智子がにっこりする。
けれど、美智子がその笑顔の裏側で何を考えているか知った今は、素直に喜ぶこともできない。そのうえ、奈央は家を出てきてしまっている。
「さ、創刊まで、もうひとふんばりよ」編集部員たちにはっぱをかける美智子の声を、奈央はどこか遠い場所での出来事のように聞いていた。
奈央が聡子のマンションに帰ってくると、瑞恵がデパ地下で買ってきたらしい料理がズラッとテーブルに並んでいた。高そうなワインまである。
「うわぁ、ずいぶん奮発したんじゃない?」
「買っちゃったわよ。自分で稼いだお金で好きな物買うのって嬉《うれ》しいし、快感ねぇ。外泊だなんて十何年ぶりだし。今夜は、食べるわよ、飲むわよ、しゃべるわよ」
「そうだよね。三人一緒に泊まるのなんて、部活の合宿以来だし、パーっとやろ」
ワインの栓を抜いた時、ピンポーンと玄関チャイムが鳴った。聡子なら自分で鍵《かぎ》を開けて入ってくるだろうから、誰か来客に違いないが……瑞恵と奈央は顔を見合わせた。
「ホントに緒方先生がいないなら失礼しますから」
瑞恵と奈央に引っ張られるようにしてリビングに連れてこられた恵太朗は、山菜の入ったエコバッグを握りしめ、隙あらば逃げ出そうという体勢だ。
が、抵抗むなしく、「いいから座って」「はい、ここ」と強引に座らされる。二人がこんなにおいしい酒の肴《さかな》を逃すわけがない。
「……どうしてお二人が、ここにいらっしゃるんですか」あきらめて尋ねる。
「私達の話よりも、岡村さんよ」奈央が言った。
「それで、どうするつもりなの? 今度の聡子の誕生日」瑞恵がワインを注ぎながら聞く。
「え、誕生日?」
「知らないの?」奈央はあきれた。彼女の誕生日を知らない男など、奈央なら願い下げだ。
「今度の日曜日」
「そうなんですか」
「四十なんだからね、わかってる?」と瑞恵が恵太朗に詰め寄る。「まさか岡村さん、聡子の四十の誕生日に、何もアクション起こさないってことないわよね」
恵太朗が黙っていると、瑞恵は「結婚のことよ」と、噛みつかんばかりの勢いだ。
「先輩は結婚できなくてもいいって言ってるかもしれないけど、四十の女性と結婚考えないでつきあうなんて、私達が許さないから」
「そうよ」
「……お言葉ですが」反論しようとしたものの、二人に『なんか文句あるの』という目でにらまれて、だんだん声が小さくなっていく。「僕と緒方先生の問題だと思いますけど……」
瑞恵が大げさにため息をついた。「……がっかりよ。岡村さんて、傷ついた人の心には敏感だけど、一般的な女心にはすごく鈍感なのね」
恵太朗はたじたじになり、尻尾《しつぽ》があったら、さっさと巻いて逃げ出したかった。
講演のタイトルを『多様化する女性の生き方と心の病について』に決め、大量の資料をコピーしたり、パソコンを打ったりして準備に没頭していたら、いつの間にか夜の九時を回っている。聡子は後片づけをして、大急ぎで帰宅した。
「ごめん遅くなって」
「お帰り〜」瑞恵と奈央が飲んだり食べたり、陽気にはしゃいでいる。
「うわぁ、すごいねえ」
「聡子も早く、座って」
ふと、聡子は見覚えのあるエコバッグに気づいた。「これは?」
「岡村さんが持ってきた。実家のほうで、今朝採れた山菜だって」奈央が言った。
「え、来たの?」実家はどうだったのだろう。待っていてくれればよかったのに――。
しかし、聡子は恵太朗が早々に帰ってしまった理由を知る由もない。
その頃、恵太朗は貞夫の店にいた。
「――それで、居心地悪くて、帰ってきちゃいました」
二人からよってたかって責められ、今は猛獣の檻《おり》から逃げ出して来たような、ホッと安堵《あんど》の気分である。
「奈央と瑞恵は、ホントにおせっかいだなあ。人の結婚のことより自分のこと考えなきゃならないっていうのに」
と、ドアベルが鳴り、客が入ってきた。「いらっしゃいませ。――あ」
「……こんばんは」バツが悪そうに、おずおずと顔を出したのは彰夫だ。
貞夫が「どうぞ」と促すと、
「あ、いえ、瑞恵がこちらにうかがってないかと思いまして」
「瑞恵なら――」貞夫が言いかけた時、この中年男が瑞恵の夫だと了解した恵太朗が、出し抜けに「あー!」と叫んだ。言っちゃダメ、と貞夫にすばやく目配せし、きょとんとしている彰夫に「……こんばんは。はじめまして」と愛想よく挨拶《あいさつ》する。
今、彰夫が瑞恵を迎えに行っても、おそらく状況は悪くなるばかりだ。けれど、彰夫のほうも困りきっている様子である。
「恥ずかしながら、ほかはどこを捜していいのか、まったくわからなくて」
貞夫が、いいのかなあ、という顔つきで恵太朗を見る。
「……家を出た理由に心当たり、あるんですか?」恵太朗が聞いてみると、彰夫は、首をひねって訴え始めた。
「いやあ、さっぱりわからないんですよ。瑞恵の望みはなんでも叶《かな》えてやってきましたから。マイホームも買ってやったし、息子を私立中学に行かせてやってるし、仕事するのだって許してやったんですよ。いったい、何が不満なんだか」
「旦那さん、今頃、瑞恵のこと捜し回ってるんじゃないの?」聡子が心配して言った。
「捜す場所なんてごくわずかよ。主人は私のこと何も知らないんだから」と、瑞恵はさすがによくわかっている。「自分がいい夫でいい父親だって思ってるから、タチが悪いのよ。洋介には、主人みたいな男性だけにはなってほしくない」
「ねえ、洋介くんは、大丈夫なの?」
「大丈夫。メールしてあるから。もともとそっけない子だから、とくに返信はないけど、食べるものだって冷凍庫に入れてあるし」
「そお?……」と言いつつ、やはりちょっと気にかかる。今の子供達は大人ぶっていても、中身は歳相応に幼いからだ。
「どうせ主人は、洋介置いて出て行くなんて母親失格だって思ってるだろうけど、洋介のこと私に任せっきりにしてきた主人だって、父親失格なんだから」
「男はみんな、勝手なのよ」奈央が決めつける。
「そんなことないんじゃない?」
「勝手よ」二人に一刀両断され、聡子は大人しく口をつぐんだ。
「自分の都合でしか動かなくて、私の気持ちなんか全然、考えてくれない」高文の顔を思い浮かべ、奈央はやりきれなくなる。
『グランポン』では、彰夫が恵太朗の隣に座り、貞夫が出してくれたビールを飲んでいた。
「女はホントに何考えてるかわからないですよ。好きでもない男と一緒にいたり」貞夫の意見、というか本音に、彰夫が大きくうなずく。
「なんでこんなに怒ってるんだろうってことがよくあるんですけど、理由がさっぱりわからない。ま、女は感情で物を言う生き物ですから」
「わからないのは当然ですよ。男性と女性の間には、深い溝があるんですから」
恵太朗が心理士らしくコメントすると、彰夫は「どうすりゃいいんだか」とビールを一気に飲み干した。
少し弱気になっている今なら、夫婦の在り方を見直してくれるかもしれない。
「やっぱり大切なのは、コミュニケーションですよ」恵太朗はここぞとばかりに強調した。
「コミュニケーション?」瑞恵と奈央が聞き返した。
恵太朗と同じセリフを、聡子も二人に言ったところだ。
「そうよ。思ってることはちゃんと伝えないと。私達みたいに」
「それって、岡村さんとのこと?」「それって、のろけ?」瑞恵と奈央から、冷やかし半分のブーイングが飛んでくる。
「のろけだなんて」と、言う顔がすでにのろけている。
「いいわねえ。これから結婚っていう人は」瑞恵は本気でうらやましそうだ。
「先輩の結婚相手として、岡村さん、ベストだと思う」奈央が言った。
「あのねえ、前にも言ったでしょ? そうゆうのは、まだ全然考えてないって」
聡子が言うと、二人は「わからないわよぉ」「そうよ、聡子」とニヤニヤしている。
「……どうゆう意味?」何も知らない聡子は、きょとんとして首を傾げた。
翌朝、奈央は二日酔いの頭を押さえながら起きてきた。
「飲みすぎた〜。元気だなぁ、先輩達は。アラフォー、恐るべし」と、ぐったりしている。
「昨日はとことんストレス発散したもの」言いながら、瑞恵はキッチンで手際よくサンドイッチを作っている。
「さ、今日も働くよ」軽いストレッチをしていた聡子は、最後に大きく伸びをした。
「さあできた。持ってって、お昼にでも食べて。今、包むから」
「さすが瑞恵先輩、気がきくなあ」
「忙しいと、パパッと食べられる物のほうがいいでしょ」
「うん、助かる」
女三人の生活も、なかなか悪くないものである。
「昨日、来てくれたんだって?」早足でせかせか歩きながら、聡子が言った。
「はい。父のことも話したかったし」恵太朗も、聡子に合わせて歩きながら答える。
「ゴメンね、せっかくだったのに」
「今日、お昼どうします?」
「お昼は……」聡子はちょっと迷ったが、「食堂行く?」
「はい。確か今日のAランチは――」
「じゃああとで、食堂でね」聡子は先を急いだ。診療の合間に、少しでも講演会の準備を進めておこうと思ったのだ。
恵太朗はさほど気にもせず、忙しそうな聡子の後ろ姿を見守るように歩いて行く。
そんな二人を遠巻きに見ていたナース達が、コソコソ話をしている。その後ろをたまたま通りかかった川崎は、驚くべき噂話を耳にして、あんぐり口を開けた。
お昼になり、恵太朗は食堂で聡子を待ったが、なかなか姿が見えない。出入り口のほうを気にして見ていると、看護師の田島が、なぜかにやつきながらやって来た。
「緒方先生なら、副院長に呼ばれて行きましたよ」
「……そうですか。え?」
「わかってますから。つきあってるんですよね、緒方先生と」
恵太朗は目をまん丸にして、穴の開くほど田島の顔を見つめた。隠そうとしていたわけではないが、聡子とのことが病院で噂になっているとは、夢にも思っていなかったのだ。
「やっぱり貢いでもらってるんですか?」
「そんなんじゃありませんよ」むっとして言い返す。
「わりきった関係なんですよね」
「決めつけないでください」恵太朗が背を向けて行こうとした時、田島のいかにも心得たような声が聞こえてきた。
「わかってますから。僕も新人の頃、ちょっとだけ女医とつきあってたことがあるんですよ」
「え」
「一つアドバイスするとしたら、彼女が仕事のことで頭がいっぱいの時には近寄らないこと。仕事でちょっとミスすると、すぐに若い男にうつつ抜かしてるって言われちゃうから」
田島の物知り顔は鼻についたが、どんな職場でも人の目は厳しい。彼の言うことには否定できない説得力があった。
「講演の準備は始めてるんだろうね」
「はい、始めています」答えながら、聡子はチラッと腕時計を盗み見た。
川崎が立派なお重の懐石弁当をとってくれたが、聡子は時間ばかり気になって、味わっている余裕もない。
「ま、いちおうね、ちゃんと言っておかないと。講演の準備そっちのけで、若い男にうつつ抜かしたりされちゃあ、困るから」
ふと箸《はし》が止まる。「……どうゆう意味ですか?」
「君が岡村先生とつきあってるって、噂になってるよ」
聡子は思わず息を飲んだ。
「私の耳に入るくらいだから、病院中みんなが知ってるんじゃないの?」
さっき聡子がミーティングルームに入ったとたん、遥たちがパッと話をやめたのは、そういうわけだったのだ。
その頃、奈央は美智子がセッティングしたスポンサーとのランチミーティングに同席していた。
「不妊という状況をポジティブにとらえるなんて、さすが新庄高文さんの奥様ですね」
「ありがとうございます」
「そうだ、今年のベスト夫婦賞は、新庄夫妻にほぼ決まりだそうですよ」
「このタイミングで受賞できたら、雑誌にとってもプラス材料になりますね」美智子はさすが長年女性誌の編集長を務めてきただけあって、売り込みにも抜け目がない。
「もし離婚なんてしたら、大変ですね」
ジョークのつもりだったのに、美智子は奈央を見て一瞬|眉《まゆ》をひそめ、スポンサーが帰ったあと、苦々しい口調で言った。
「冗談でも、離婚なんて言葉、口にしないで」
「……すみませんでした」
「私は離婚してるけど、私とあなたじゃ、話が違うの。万が一、あなたが離婚なんてことになったら、プロジェクトに関わることなのよ」
「……はい」
「何度も言うけど、新庄高文の妻だから、スポンサーになってくれたの。ただの森村奈央なら、こうなってないんだから」
美智子の言葉にただうなずきながら、奈央の中の葛藤《かつとう》はますます激しくなっていく。
「あ〜、疲れた〜」
講演会のための会議が想像以上に長引き、聡子はくたくたになって帰ってきた。
「お仕事、遅くまでごくろうさまです」瑞恵が貞淑な妻のように迎えてくれる。
「そうゆうこと、旦那さんに言うの?」
「言うわけないじゃない。私の家事労働をなんにもねぎらってくれないような人に。はい、どうぞ」と、ビールを差し出す。
「あ、このあと、もうちょっと仕事するから」せっかくだが、聡子は遠慮した。
今回の講演会は相当規模が大きく、すべての科から医師が駆り出されており、厚生労働省の役人もくるという話だ。急なことで準備が大変だと他の医師たちもぼやいていたが、そのうえ今日になって、当日配布する資料の提出が早まったと聞き、聡子はあせっていた。
「働くねえ、先輩も」かくいう奈央も、仕事のことが頭から離れることはない。
「日曜日の講演さえ終われば、一息つける」
「日曜なの? 誕生日じゃない」と瑞恵が聡子を見る。
「いつも誕生日に限って仕事が忙しかったりするんだよね。今年もバタバタしてる間に、誕生日は過ぎてくんだろうなあ」
「でも、岡村さんに会う時間くらいあるでしょ?」奈央が言ったとたん、「あっ! 岡村さん」と聡子は跳ねるように立ち上がった。
けっきょくお昼は食堂に行けなかったので、夜は時間を作るからと言ってあったのを、講演の資料を作成しているうちに、すっかり失念してしまった。
「なんで彼氏との約束を忘れるわけ?」奈央があきれて言う。恵太朗も恵太朗だが、聡子も聡子だ。
「だから講演の準備があったから」
「岡村さんと講演とどっちが大切なの?」瑞恵が言った。
「そんなの比べられないし、選べない。そりゃあ岡村さんのことは大切よ。でも、今は仕事の責任が重くなってるから、自分の気持ちと関係なく仕事を優先せざるをえないの」
「そっかあ。私も仕事、辞めるなんて考えられないもんな。もちろん洋介のことは大切よ。でも、私が一生懸命働いてる姿を見せることって、絶対洋介のためになると思うのよ。私が自分の時間を持てば持つほど、洋介の自立を促すことにもなるし」
「瑞恵先輩、ズルイな」奈央は半分、見直しつつ言った。「一番ぼんやりしてると思ったら、いつの間にか仕事も結婚も子供も手に入れてるんだもん」
「そう言えばそうよねえ」と聡子。
「何言ってるの。近い将来、離婚するし、洋介も親離れするだろうし。私は一人で生きていくの」
「強くなっちゃって」聡子が笑う。
「私は、一人になったら厳しいな。失う物が多すぎる」奈央がため息をつく。「新庄高文の妻をやめたら、編集長を辞めないといけないし、信頼もなくす。生活レベルも落とさなきゃならないし」
「それってやっぱり手放せないの?」
「覚悟を決めたつもりだったけど、捨てる勇気を持てない」
聡子は「そっかぁ」と相変わらず人のことばかり心配している。
「ちょっと先輩、岡村さんに早く電話しといたほうがいいんじゃない?」
「うん。あ、ダメだ」いったん立ち上がったものの、時計を見て、聡子は再び座り直した。「十一時回ってるもの。岡村さん、十時半には寝てるから」
「起こせばいいじゃない」と瑞恵。
「いいわよ、明日で」あとから思えば、遠慮しないで電話しておけばよかったのだ。
その頃、もちろん恵太朗の部屋の電気は消えていた。そして布団の中にはいたけれど、まだ起きていて、聡子に電話しようかどうか迷っていた。
帰り際に聡子を見かけたのだが、ほかの医師と立ち話を始めたので声をかけそびれてしまい、そのうち聡子はその医師と会議室に入ってしまった。
しばらく逡巡《しゆんじゆん》したのち、恵太朗はけっきょく電話をせずに、目を閉じた。
聡子のマンションでは、女たちが三人三様の夜を過ごしていた。
すでに寝る体勢の瑞恵が、『洋介、ごはんちゃんと食べてる?』と息子にメールを打っている。その横でメールをチェックしていた奈央が、ため息をついて携帯を閉じる。
聡子はまだ自分のデスクに向かい、講演の準備に余念がない。恵太朗のことは、考えないようにしていた。
翌日、病院の廊下で恵太朗の姿を見つけた聡子は、急いで走り寄っていった。
「昨日はホントにゴメンね。実は今、すごく忙しくて――」
が、恵太朗はきっとなって聡子をさえぎった。「できない約束は、しないでください」
「!……」そんなきつい言い方しなくても。「ゴメン、副院長に急に頼まれて――……」
釈明しようとしたけれど、悲しいのと腹立たしいのとで、言葉が止まってしまう。
「何をですか」
「あ、ううん、やっぱりいい」聡子もちょっと意地になる。
「そんな言い方ないんじゃないですか」
「そっちがそうゆう言い方するからでしょ」
「そうゆう言い方って、どうゆう言い方ですか?」
その時、聡子のピッチが鳴って救急の呼び出しがかかった。学校の窓ガラスで怪我をした十四歳の男の子が、救急車から降りようとしないので困っているという。
痴話げんかは後回しにして、聡子と恵太朗は救急口に向かって走った。
「患者さんのお名前は」恵太朗が、そばにいたナースに聞く。
「竹内洋介クンです」
「……え?」聡子が目を丸くする。
恵太朗がさっと救急車のドアへ行き、中にこもっている洋介に呼びかけた。
「竹内くん、どうしたの? ――ここにいてもしょうがないから、降りておいで」
恵太朗はニッコリして、「ほら」と手を差し出す。かたくなな心を開かせる、あの笑顔だ。
そろそろと伸びてきた手が、またさっと引っ込む。恵太朗が「ほうら」と自ら洋介の手を取ると、洋介は少しためらったあと、ようやく救急車から降りてきた。
ちょうど洋介の治療が終わった頃、彰夫が慌てて病院にやってきた。
「竹内さん、こちらです」聡子が救急治療室に案内する。
「大事には至りませんでしたが、抜糸をするまで、毎日消毒に来て下さい」救急の医師が彰夫に説明した。
「ありがとうございました」彰夫はホッとして頭を下げると、右手に包帯を巻いた息子のそばに行き、「どうしてこんな怪我をしたんだ」
洋介はうつむいたまま黙り込んでいる。胸の内に、何かを抱え込んでいるのだ。治療の間もずっと付き添っていた恵太朗が、そんな洋介を気にかけるように見ている。
聡子は彰夫を廊下に連れ出し、事情を説明した。
洋介は、窓ガラスに自分から手を突っ込んだのである。
「どうしてガラスを割ったりしたんだ。学校で何かあったのか?」
聡子の話に驚いたものの、やはり父親としては心配で、彰夫はやさしく洋介に尋ねた。
「……別に」
「友達か? いじめられたのか?」
「違うよ」
「じゃあ、なんだよ。黙ってちゃ、わからないだろ」短気な彰夫はため息をつき、ハッとしたように言った。「もしかして、お母さんのことが気にいらないのか? そうなのか? 原因はお母さんなのか?」
洋介がグッとこぶしを握りしめたことに、恵太朗と聡子は気づいた。
その時、瑞恵が血相変えて駆けつけてきた。「洋介! 大丈夫?」
よほど急いだのだろう、髪も首に巻いたスカーフもぐちゃぐちゃだ。
「何やってるんだ!」彰夫が頭ごなしに瑞恵を怒鳴りつけた。
「これでわかっただろう。母親失格だってこと」
――まただ。また始まった。もう我慢できない。「うるさいよ!」洋介はいきなり立ち上がって叫ぶと、外へ向かって走り出した。
「洋介くん!」恵太朗が真っ先に追っていく。
聡子たちも急いであとに続いたが、赤信号に阻まれて、洋介を見失ってしまった。
洋介は、暗くなった公園のブランコにポツンと座っていた。
――ずっと我慢していたものが、一気に爆発してしまった感じだった。けれど、このあとどうしたらいいのか――洋介は途方に暮れていた。
「足、速いなあ」
声をかけられて見上げると、病院でずっと付き添ってくれていた心理士さんが、息を切らして立っていた。隣のブランコに座り、気さくに話しかけてくる。
「痛い?」
痛いに決まってる。でも、怪我した手よりも心が痛い。
「手の傷よりも、もっと痛いところがあるんじゃない?」
考えていたことをずばり当てられて、洋介は驚いた。
「僕、子供の頃、親に言いたいことが言えなかったんだ。洋介くんも、ご両親に言いたいことあるんじゃないかな」
洋介がそっと顔を上げると、やさしく励ますような微笑がそこにあった。
「自分の気持ち、ちゃんと伝えてみない?」
洋介が見つかったと恵太朗から連絡を受けた聡子と瑞恵は、ホッと胸をなで下ろした。瑞恵は安堵のあまり、涙ぐんでいる。
貞夫の店で落ち合うことになり、二人が先に到着すると、すでに奈央が瑞恵の荷物を持って待っていた。
「何やってるんだろう私」カウンターに座って、瑞恵は落ち込んだように言った。
気づいた時は、着信の山だった。営業中で、マナーモードにしていた携帯がカバンの中で鳴り続けていたことに気づかなかったのだ。しかも、その時イケメンの若い店長にお愛想を言われて舞い上がっていたことが、さらに罪悪感を深くしている。
「いい気になって、調子にのって……。やっぱり家をあけるなんて間違ってたのよ。仕事を始めたのも、間違いだったんだと思う。ガラスに自分で手を突っ込むなんて……」そのことを聞かされた時のショックは、とても口では言い表せない。「主人が言うとおり、母親失格よ……」
「仕事、もう辞めるってこと?」聡子がびっくりして聞いた。
「契約取れてあんなに嬉しそうだったし、イキイキしてたじゃない」奈央も言う。
「ねえ、瑞恵が仕事を辞めれば、解決するっていう問題なのかな」聡子は、穏やかに諭し始めた。
「瑞恵がどうしても働きたいって思った気持ちはどうなるの? 無理に押し込めると、別の形でひずみが出てくるかもしれない」
「洋介、まだか?」彰夫が店に入ってきた。「聡子さん、ご迷惑をおかけしました」
「いえ、迷惑だなんて」
彰夫がむっつりしてテーブル席に座ると、瑞恵もしおしおとそちらに移っていく。
「どうするつもりなんだ」
「今日、家に戻ります」
「当たり前だ」彰夫が居丈高に言った。
「……ごめんなさい」瑞恵はしょんぼりとうなだれている。
「家のことそっちのけで好き勝手やってるから、こんなことになるんだ。仕事、辞めるんだろうな」
「……うん、辞める」
「たいした理由もないのに、仕事なんか始めた結果がこれなんだから」
「……たいした理由もない?」瑞恵のこめかみがピクッと動いた。
「家にいても退屈だからだろ? 主婦も働くのが流行ってるからだろ?」
「そんな理由じゃないわよ」
「じゃあ、なんだよ」
家に戻るにしろ、これだけは言っておきたい。そうじゃなければ、短い間だったが、嫌味に耐えて働きに出た甲斐《かい》がない。
「いつか洋介は、私のもとから離れていく」
いったい瑞恵が何を言い出すのかと、彰夫は戸惑っている。
「そうしたら、あの家であなたと二人きりになる。私の顔見て話もしてくれない人とは、一緒に過ごせない」
彰夫には思いも寄らぬことで、ぽかんと口を開けたまま絶句した。
「私には、何も残らないの。そう思ったら、すごく不安でたまらなくなった。だから働いたの。今が、主婦だけで終わらない、最後のチャンスだと思ったの」
「……よくわからないな」
「私にだって自分の人生があるのよ!」
瑞恵の心の叫びだった。彰夫はたじろぎながら、つぶやくように言った。
「……そんなこと、一言も言ってなかったじゃないか」
夫婦の間に気まずい沈黙が流れる。
機を見た聡子が、「……あの、ちょっといいですか?」と口を挟んだ。
「子供の患者さんで、こういうケースがよくあるんです。両親が向き合わなければならない状況を、子供が無意識のうちに作ってしまうことが」
「私達夫婦が向き合うように、わざとガラスに手を突っ込んだってこと?」
「……まさか……なんのためにそこまで……」
彰夫と瑞恵は、がく然としている。
「子供って、それほど両親の不仲に心を痛めるもんですよ。そうゆう子供達を何人も見てきましたから」
その時、ドアが開いて、恵太朗と洋介が入ってきた。
「洋介くんが、話したいことがあるそうです」
恵太朗の手は、励ますように洋介の背中にそっと当てられている。
「洋介くん」恵太朗が微笑みかけると、洋介はうなずき、思いきって言った。
「もう喧嘩《けんか》しないで」
彰夫と瑞恵にとって、何よりも痛烈な、最初の一言だった。
「お父さん、お母さんにもっとやさしくしてやれよ。お母さん、家のこと一生懸命やってたし、仕事、続けたっていいじゃないか。自分なんかなんにもできないって言ってたお母さんより、ずっといいよ」
彰夫は返す言葉もなく、黙っている。
「お母さんも、お父さんに言いたいことがあったら、ちゃんと言えよ」
瑞恵は胸打たれた。いつもそっけなくて、親のことなんかまったく興味がないと思っていた息子が、こんなに自分たちのことを見ていたなんて――……。
「いつかお母さんが離婚して出ていくんじゃないかって、ずっと、ずっと、不安だったんだ」
ふいに洋介が涙声になり、瑞恵はハッとなった。彰夫のほうは、息子の言葉で初めて妻がそこまで思いつめていたことに気づき、まさかという思いで瑞恵を見つめている。
「お父さんも……お母さんも……仲良くしてくれよ」洋介の目から涙がこぼれ落ちた。「いつも笑っててよ……」
瑞恵はたまらずに洋介に駆け寄り、息子を力いっぱい抱きしめた。
「ゴメンネ……ゴメンネ……」
彰夫が二人のそばに行き、家族の肩にそっと手を回した。
「……私、これでも仕事してる時は、笑顔がいいって評判だったの」
親子三人で帰路についた瑞恵は、そう言って自嘲《じちよう》気味に微笑んだ。
「……家の中では、忘れてた。……忘れないようにしなきゃね」
「……ああ、家の中でも、仕事でもな」彰夫がぼそりと言った。
「え……いいの? 仕事続けても」
「……洋介が、そう言ってるんだから……」
「!……ありがとう」瑞恵がうれしそうな笑顔になる。
そんな二人の横で、洋介も久しぶりに明るい、子供らしい笑顔を見せた。
「十五年も一緒にいる夫婦でも、ちゃんと言葉で言わないと、気持ちって伝わらないもんなんだね」
聡子は、恵太朗と並んで歩きながら言った。
「……私、今度の日曜日に講演をやることになってるの。それで忙しくて、時間を作れなかった。ゴメンね。ちゃんと言っておかなくて」
「……僕こそすみませんでした。理由をちゃんと聞けばよかったです。緒方先生が仕事で頭がいっぱいの時に邪魔して何かあったら、年下の男にうつつ抜かしてるからだって緒方先生が言われちゃうんじゃないかって。それで遠慮してました」
「え? そんなこと言いたい人には言わせておけばいいじゃない。私は全然気にしない」
「そうですよね」恵太朗は笑った。聡子はそういう人だ。
「そうよ」と聡子も笑う。
「やっぱり遠慮しないで、聞けばよかったな」
「うん」答えて時計を見た聡子の足が、急にセカセカ速くなった。「戻らないと。一日二十四時間じゃ、足りなくて」
「手伝います」
「ありがとう。助かる」
「今は、講演のことを一番に考えてください。僕のことは、いつも一番じゃなくていいですから」
聡子が、え、足を止めた。恵太朗も足を止め、微笑んで聡子を見る。
「講演が終わったら、デートしてくれませんか? その時は、僕のことを一番に考えてください」
「!……はい」
相手を想うあまりの、ちょっとしたすれ違い。わだかまっていた心がとけ、恋人達はにっこり笑い合った。
「自分の気持ちに正直になれよ」
帰り際に貞夫に言われた言葉を思い出しながら、奈央は数日ぶりにマンションに戻ってきた。
高文が奈央を一瞥《いちべつ》し、「やっぱり帰ってきたか」と小さく鼻で笑う。
「明日だけど、中山さんとの食事、予定どおりでいいのかな」
新雑誌協力のお礼にと、美智子が二人を招待してくれることになっている。
「……うん。よろしくね」奈央はどっちつかずの心を抱えながら答えた。
「洋介、お弁当忘れないでよ。学校終わったら、病院寄って、消毒してもらうのよ」
お弁当をテーブルの上に置くと、スーツ姿でドタバタとゴミをまとめ出す。瑞恵は、いつもどおりの朝の喧騒の中にいた。
「ハンカチは?」彰夫がネクタイをしめながらやってきた。
「そこ出してある」言い終えるより先にハンカチを手にして、彰夫に渡す。「はい」
「ありがとう」
「え」ボソッと聞こえてきたのは――まさか、感謝の言葉?
びっくり眼のまま突っ立っていると、彰夫がゴミ袋を持って玄関へ出て行く。知らん顔を装っているが、どことなく照れくさそうだ。
瑞恵の顔に、ゆっくりと笑みが広がる。洋介が、そんな両親を見て、やれやれというふうに、でもうれしそうに微笑んでいる。
「さあ、今日もはりきっていくわよ」瑞恵は回覧板を手に、先頭切って家を出た。
「今日は、お招きありがとうございます」
高文が丁重に挨拶すると、美智子もまた、慇懃《いんぎん》に礼を述べた。
「お二人には、とてもお世話になっていますから。不妊治療を赤裸々に語っていただけたことで新雑誌のカラーもはっきりしましたし、何よりも夫婦の絆に本当に感動しました」
「ありがとうございます」高文がにっこりする。
その如才ない笑顔を見た瞬間、奈央は自分の心がはっきりとわかった。
「お話があります」奈央は覚悟を決め、一息に言った。
「お願いします。新庄高文の妻をやめさせてください」
「……どうゆうことなんですか?」美智子が顔色を変えて高文を見る。
「どうゆうことなのかな」
平静を装おうとする、その体裁ぶった高文の顔に向かって、奈央は言った。
「ただの森村奈央に戻らせてください」
いよいよ講演を明日に控え、聡子が病院の打ち合わせ室で講演の準備に追われていると、川崎が様子見に顔を出した。
「遅くまでご苦労さま。いよいよ講演は明日だけど、準備は万端……とは、いってないようだね」
「ちょっと時間が足りなくて……スライドやグラフが十分に集められてません」
川崎が、それ見たことかという顔になる。「やっぱり、若い男にうつつ抜かしてたんじゃ――」
その時、恵太朗が資料を抱えて入ってきた。「緒方先生、これ、よければ」
「うわぁすごい! こういうデータが欲しかったの。ありがとう!」
完璧《かんぺき》な資料に歓声を上げる聡子を横目で見ながら、川崎があてつけがましく言った。
「いいねえ、緒方先生は。若い恋人のサポートを得られて」
聡子はにっこりして、臆面もなく言ってのけた。
「はい。おかげさまで、公私ともに信頼できるパートナーに恵まれています」
恵太朗がびっくりして聡子を見る。
「……ほぉん。それは、すばらしい」
「ありがとうございます」
「ホントにすばらしい」すっかり毒気を抜かれた川崎が部屋を出て行くと、聡子と恵太朗はクスッと微笑み合った。
「さ、ラストスパート、がんばりましょう」恵太朗が言い、
「はい!」聡子は、はりきって返事をした。
「あー緊張してきた。どうしよ」
聡子は舞台のそでで、さっきからそわそわしどおしだ。
「こんな緒方先生、初めて見ました」恵太朗が笑う。
「どんな私よ」
「けっこうかわいいですよ」
「けっこう慣れたかも、そのかわいいって言うの」
「なんだつまんないな」
アナウンスがあり、いよいよ講演が始まった。
「どうしよどうしよ」
「緊張しないおまじない、したらどうです?」
「手の平に『人』書いて飲むっていうやつ?」
「それ違うんです。正しくは、手の平じゃなくて手の甲に書くんです」
「えっ、そうなの?」
「やってみてください。よく効きますから」
聡子がさっそく手の甲に『人』と書いて飲むと、それを見た恵太朗がニヤッと笑った。
「あっ、だましたわね」
『愛斉会総合病院、精神科医長、緒方聡子先生――』
聡子の名前がマイクで紹介され、大きな拍手が聞こえてきた。
恵太朗が聡子の肩を持って舞台のほうに向かせ、ポンと背中を叩《たた》く。
「いってらっしゃい」
その笑顔が、どんなおまじないよりも聡子には効いたようだ。
「いってきます」聡子は微笑んで、颯爽《さつそう》と舞台に出て行く。
その姿を、恵太朗はしっかりと見守っていた。
講演が終わり、高台にある会場を出ると、きれいな夕日が空にかかっていた。
「お疲れさまでした」二人はお互いにねぎらい合った。
「すごくよかったですよ」
「……ありがとうね、手伝ってくれて。ホント助かった」
「あのくらい、いつでも言ってください」
「うん……それで、どうだったの? ご実家のお父さんは」
聡子はようやく、ずっと気になっていたことを聞くことができた。
「僕が今、何をしているか。何をしたいのか、ちゃんと話してきました」
「お父さん、なんて?」
「黙って聞いてました」
「そっか」
「それと、緒方先生に会いたがってました」
「私に?」聡子はびっくりして恵太朗を見た。
「僕が、すごく大切な人だって話したから」
「…………」うれしいのと照れくさいので、言葉が出てこない。
「緒方先生。四十歳のお誕生日、おめでとうございます」
「……え、知ってたの?」
「どうですか? 四十歳になった感想は」
「えー、何も変わらないわよ。四十だからってとくに思うこともないし。少し前は、ちょっとあせってジタバタしたけど」
「そんなもんですかねえ」
「そんなもんよ」
と、恵太朗がラッピングされていない小さなケースを取り出した。
これは――指輪!? 聡子はにわかに浮き足立った。まさか――プロポーズ!?
「緒方先生」
――ちょっと待って。待ってってば。心の準備、できてないから。
「受け取ってください」恵太朗が、真剣なまなざしで指輪の箱を差し出す。
――薬指のサイズ、どうしてわかったんだろう。
「……ありがとう」聡子は感動しながら、それを受け取った。
なんだか、映画かおとぎ話の主人公にでもなったみたいだ。
「開けてください」
「あ、はい」聡子は緊張しながら、そっと蓋《ふた》を開けた。「……これは?」
「気に入ってもらえました?」
「……え、まあ」
指輪は指輪である。でも、宝石らしきものは見当たらず、プラチナですらない。どう見ても、これは木[#「木」に傍点]だ。
「よかった。この指輪を買うと、代金の七パーセントが基金に寄付されるんです」
「キキン?」
「森林を守る会です」
「……ああ、地球を守るためね」
恵太朗が満面の笑みになる。「はい」
「……ありがとう。はめてみるね」
「人指し指か中指か薬指に、入ると思います」
「……そうね」聡子は、カエデだかケヤキだかわからないが、そのウッドリングをはめてみた。
「あ、中指にぴったり」
「あ、いいじゃないですか」恵太朗はうれしそうだ。
「そお?」すっかり拍子抜けしてしまったが、こういう男を好きになってしまったのだから仕方ない。それに、このウッドリングも素材の木目が美しく、身に着けると、まるで恵太朗そのものみたいに心地よい温もりとやさしさがある。
「……あ、ねえ、そういえばあれ、考えた? お互いになんて呼び合うか、考えておこうって言ってたでしょ?」
「まだ考え中です」
「……そう」
「ゆっくり考えます。緒方先生とは、長いつきあいにしたいですし」
――えっ。思わず胸が高鳴る。どうゆう意味?
聡子は慌てて歩き出した恵太朗を追いかけた。
「ねえ、岡村さん」
「はい」
「今のって……」思いきって尋ねる。「今のって、プロ――」
途中まで言いかけた時、聡子の携帯が鳴り始めた。
「ちょっとごめんね」着信画面を見ると、達也だ。ふっと、不安が胸をかすめる。
「もしもし達也? どうかした?……え……!?」
携帯を切った聡子を、恵太朗はいぶかしげに見た。その顔から血の気が引いている。
「……どうかしたんですか?」
「お父さんが、倒れたって」聡子は言いながら、もう走り出していた。
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10 事実婚のウソと真実
聡子と恵太朗が愛斉会総合病院に駆けつけてきた時、友康は昏睡《こんすい》状態で個室に移されていた。
「……何か、前触れがあったのかもしれない。ごめんなさい、気づかなくて」
晴子は心痛のせいで、ひどく青ざめている。
「何言ってるんだよ」
「そうですよ。お義父《とう》さん、ぴんぴんしてましたよ」
晴子を力づけようと、達也とマキが口々に言った。聡子も、
「晴子さんがいてくれたから、発見が早かったんじゃない。お父さんなら、絶対大丈夫。信じよ」と、自分にも言い聞かすように、晴子の手を握りしめる。
家族を気遣い、気丈にふるまう聡子を、恵太朗はただ戸口から見守るしかなかった。
家族の心配のなか、友康は昏々と眠り続けている。晴子が一人で病室に残り、待合室に移動した聡子と達也たち家族を、夜の冷ややかな静けさが包んだ。
「……お母さんが亡くなった時も、そうだった」
達也とマキは、聡子が何を言い出すのかと、次の言葉を待っている。
「倒れて気づくの。元気でいてくれるから、私は好き勝手にやってられたんだって……。達也が言ってたとおり、私は何も親孝行してない」
「どうしたんだよ。そんなことないだろ」
「こんなことになるなら、結婚しておけばよかった」聡子の顔が苦しそうにゆがむ。「子供産んでおけばよかった」
少し離れた廊下の角で、恵太朗が立ち止まっていることに聡子は気づかない。
「なんで早く結婚して、安心させてあげなかったんだろう」
「姉貴らしくないよ。そんな弱気になって」
「聡子おばちゃん」ふいに瑠花が、とことこと聡子に歩み寄ってきた。
「……なあに?」
「お誕生日、おめでとう」
瑠花は幼いなりに、悲しそうにしている聡子を慰めようとしているのだろう。
「……ありがとう。ありがとうね、瑠花」聡子は涙ぐみ、瑠花を力いっぱい抱きしめた。
その頃、一人で貞夫の店にやってきた奈央は、ワインでささやかな祝杯をあげていた。
「やっと森村奈央に戻れる」
「え、新庄さん、許してくれたの?」
びっくりしている貞夫に、奈央はゆうべのことを話して聞かせた。
「そんなに奈央に、つらい思いをさせてたのか……気づかなくてごめん」
レストランから帰ったあとの高文は、別人のようにやさしかった。
「奈央を失いたくない」そう言って奈央を抱きしめた。
しかし、奈央は高文から離れると、きっぱり言った。「ううん。もう私に新庄高文の妻は無理」
いくら高文が変わったとしても、奈央の出した答えは同じだ。
「……わかった。でも、一つだけ頼みがある。キッズ・プランニングのオープニングパーティーが終わるまでは、新庄高文の妻でいてくれないか」
高文の仕事への影響を考えると、それくらいの譲歩は甘んじて受けるべきだろう。
「……わかった。そうしたら、別れてくれるのね」
「ああ」と、高文は奈央が用意した離婚届を受け取ってくれた。
「簡単には別れてくれないって思ってたんだけど、これで私、嘘の生活、やめられる」
奈央が言うと、貞夫はホッとしたように微笑んだ。「……よかったな、奈央」
深夜になって達也たち家族が帰って行き、一人でボンヤリしていると、恵太朗が来て、聡子の隣に座った。
「……まだいてくれたの?」
「何か少し食べたほうがいいんじゃないですか? おにぎり、買ってきましたから」
「……ありがとう。あ……あとはもう待つしかないから、帰っていいわよ」
二人の時も気丈にふるまおうとする聡子が、もどかしくもあり、けなげでもある。
「ただいるだけじゃだめですか?」
「でも」
「緒方先生」
恵太朗の温かな目に見つめられて、ふっと聡子の気持ちがゆるむ。
「……ホントは助かる。いてくれるだけで」
「いますから」恵太朗が微笑む。
「うん……」そばにいてくれる人がいることのありがたさ、そしてその人が恵太朗であったことを、聡子は感謝した。
竹内家には、以前と同じ日常が戻ってきた。
「やっぱり、三人で食べる朝ごはんはおいしいわねえ」
洋介もうれしそうだ。と、その洋介の携帯にメールが入る。
「それから、食事中はメール禁止、ケータイ禁止、パソコン中止、テレビ中止」
瑞恵がそう言ってテレビを消したとたん、彰夫が軽く舌打ちした。
「舌打ちも禁止」
「舌打ち? 俺?」
どうも舌打ちするのが癖になっていて、本人は意識していなかったらしい。
「気づいてないの? いつも、すごいんだから」
「……気をつけるよ」
「お願いします」彰夫と洋介が食事している姿を見ているだけで、口元がほころんでしまう。瑞恵は、平凡だけど、ささやかな幸せを噛《か》みしめていた。
「……あのさ。もうすぐ結婚記念日でしょ」洋介が突然、そんなことを言い出した。「二人でどこか行ってきたら?」
「どこかって?」瑞恵は洋介のやさしい気遣いに感激しながら言った。
「レストランとか」
「え?」と言いつつ彰夫に期待の目を向けると、彰夫は少し迷うようなそぶりを見せたが、「……そうだな」とうなずいた。
「ホント?」瑞恵は大喜びだ。「洋介、ありがとう。ねえ、私がお店予約してもいい?」
「まかせるよ」
「何にしようかな。和食もいいし、フレンチもいいし。スペイン料理も捨てがたいなあ」
「ごちそうさま。先、行くから」彰夫がそそくさと席を立つ。
「あ、照れなくてもいいじゃない」ドラマチックじゃない人生だって、満更捨てたものじゃない。
けれども、家を出た彰夫が暗い表情になり、駅へ向かう人々とは反対方向に歩いて行ったことを、瑞恵は知らなかった。
朝を迎えても、友康の昏睡状態は続いていた。病室には晴子と達也もいたが、聡子は時間ぎりぎりまで付き添い、ようやく腰を上げた。「……仕事、行ってくるね」
午前中に初診の予約が入っている。病室を出ると、恵太朗が足早にやってきた。
「緒方先生、まだここにいてください。話だけなら、僕のほうで聞いておきますから」
「……いいの?」聡子は恵太朗の申し出に甘えることにした。
「ありがとう。よろしくお願いします」
「はい。あ、職場には、ちょっとそぐわなかったかもしれません」
きょとんとしていると、恵太朗が「指輪」と聡子の中指をさす。
「ああ」長い一夜だったから、指輪をもらったことをすっかり忘れていた。
恵太朗が仕事に戻って行き、聡子が指輪を外していると、一人で入院の準備をしに家に帰っていたマキが、妙に深刻な顔でやってきた。
ちょっと話があるからと、マキは聡子と達也を待合室に連れて行った。
「晴子さんの保険証なんですけど」
友康の保険証を探していて、たまたま見つけた晴子のそれを、二人に見せる。
「どうかした?」
晴子の保険証を見た聡子と達也は、けげんそうに顔を見合わせた。なぜか、名前の欄に『吉永《よしなが》晴子』と記されている。
「吉永晴子? なんで緒方晴子じゃないの?」聡子は首をかしげ、ハッとなった。「まさか、籍、入ってないってこと?」
「は? 正式な夫婦じゃないっていうのかよ」
「内縁関係?」マキが言いにくいことをズバッと言う。しかし、事実は事実だ。
「お父さん、そんなこと何も言ってなかったよね」
「親父のヤツ、ケジメの一つもつけてなかったのかよ」
「なんか事情があったのかな」マキの言うとおりには違いないが、その『事情』が、聡子にはさっぱり思い当たらなかった。
「新庄高文が離婚なんて、ありえないからな」
「……!?」たまたま忘れ物を取りに戻った奈央は、信じられない思いで、高文が携帯で話しているのを耳にした。
「ま、キッズ・プランニングのオープニングパーティーに行けば、もう妻をやめることなんてできないって奈央もわかるだろうけど、とにかく離婚にならないよう手を打たないと、俺のクリーンなイメージが台無しだ」
高文が携帯を切ると、奈央はリビングへ入って行き、猛然と食ってかかった。
「どうゆうこと!? 離婚するって言ってくれたじゃない」
奈央に聞かれていたことを知って最初は慌てた高文だったが、すぐに冷静さを取り戻し、ふてぶてしく言った。「今さら後戻りできるわけないだろう。ビジネスがからんでるんだ」
「だから、オープニングパーティーが終わったらって――」
「どれだけの人間が係わってると思ってる。もう俺たちだけの問題じゃ、すまないんだ」
そう言って、奈央の目の前で離婚届をびりびりと破り捨てた。
晴子は片時も離れず友康のそばに付き添い、その手を握りしめている。
その姿は、深い愛情で結ばれた夫婦以外の何ものでもない。いったい二人に何の事情が……聡子がさまざまな思いにとらわれていると、ノックの音がした。
診察の時間になり、恵太朗が呼びに来てくれたのだ。
「僕、しばらくここにいられますから」
「……ありがとう」
恵太朗は聡子が行くのを見送ってから病室に入り、晴子に声をかけた。
「大丈夫ですか?……僕がいますから、休んできてください」
「ありがとう。私達家族の力になってくれて」
「いえ。早く目を覚ましてくれるといいですね」
「うん。先生は、絶対大丈夫」疲労の色はあるが、力強い声が返ってくる。
「はい」
「でもね、私は人生八十年だなんて思ったことないのよ」
ふいに晴子が言い出し、恵太朗は思わず「え?」と問い返した。
「私、長く外科でナースをやってて、人の生死に向き合ってたせいかな。当たり前のように明日が来るなんて思わずに、ずっと生きてきた。だから、今日思ってることは、今日伝えるようにしてきたの」そう言って、晴子は恵太朗を見た。
「私がそうだもんだから、聡子さん見てると、大丈夫かなって思うことあるのよ。聡子さん、肝心なことは先送りにするところあるから」
その時、友康の手にかすかに力が入った。確かに、晴子の手を握り返している。
晴子が驚いて顔を見つめると、友康が、うっすらと目を開けた。
知らせを受けて聡子が病室に駆けつけると、担当医の陰から、目を覚ました友康の姿が見えた。
ホッとしている娘に気づいて、友康が「よお」と、とても生死の境をさまよっていたとは思えない、のんびりした口調で言った。
聡子は言葉も出ず、今にも泣きそうになっている。
「泣くやつがあるか」
「何が『よお』よ。泣いてないわよ」言いながら、涙がぽろぽろこぼれ落ちる。
「心配かけたな」
ううん、と泣きながら首を振る。そんな聡子に、恵太朗が黙ってハンカチを差し出す。
「ありがとう」聡子はこらえきれず、恵太朗の肩に寄りかかって泣きじゃくった。
友康の容態が落ち着いたので、聡子はその夜、貞夫の店に顔を出した。
「大変だったわねえ」「お大事にね」
聡子が友康のことを話すと、瑞恵と奈央は大いに驚き、そして励ましてくれた。
「ありがとう。……それで、ちょっと聞いてほしいんだけど」
既婚者の二人に聞きたかったのは、友康と晴子の夫婦別姓のことである。
「それって、事実婚てことでしょ?」奈央が真っ先に反応した。「法律上は婚姻とされてないけど、当事者が結婚してるっていう意識を持ってる状態よ」
「だったら結婚すればいいのに」聡子が言うと、
「事実婚だと女性が名字を変えなくていいし、相手の家に入るわけじゃないから、自由も個人も尊重される」
「不都合だっていろいろあるよね?」
「年金や健康保険は結婚と同じように保障される権利があるけど、遺産相続とか、配偶者控除の対象にはなれない。あと、子供ができると、その子の戸籍をどうするかっていう問題が出てくるかな。日本でも、事実婚って増えてるみたいだけど」
さすがに編集者の奈央は博識だ。と、貞夫が横から口を出してきた。
「奈央もさ、事実婚にしとけばよかったんだよ。そうすりゃ離婚せずにすんだのに」
「奈央はどうなったの?」聡子が尋ねると、
「離婚、決まったから」と貞夫がうれしそうにしている。
「そうなの!?」びっくりしている聡子と瑞恵に、奈央はため息をついて説明した。
「それが、なめられたもんよ。離婚する気なんて、全くなかったんだから」
「は!? あの男、どこまで人をバカにしたら気がすむんだよ」貞夫はカンカンになった。
「……自業自得よ。愛情のない結婚をした私がバカだったの」奈央は自嘲《じちよう》気味に言った。
「私も条件で結婚したところあって、離婚まで考えたけど、今は思うのよね。夫婦がいい関係でいられるかどうかは、心がけ一つなんだなあって」
「結婚かあ、四十目前でちょっと焦ったけど、今は適齢期って人それぞれのような気がするなあ。晴子さんも五十三歳でお父さんと一緒になって、それからずっといい関係なんだよね。そうゆうところが、私の理想だったんだよねえ」
……そう、ずっと理想の夫婦だと思って、うらやましかったのに。だからこそ、聡子は釈然としない気持ちだった。
「事実婚がダメだってわけじゃないのよ。どうしてそんな大事なこと話してくれなかったんだろうってさ」
部屋に寄ってくれた恵太朗とソファに並んで座り、聡子は胸の内のわだかまりを話した。
「やっぱり、何か言えない事情でもあるのかな」
「いつまでも隠せることじゃないし、いつかは話すつもりだったんじゃないですか?」
「お父さんは、そうゆうところあるけどね。肝心なことは先送りにしたり」
恵太朗が思わず微笑む。
「何?」
「いえ。緒方先生こそ、先送りにしないで聞いてみたらどうですか?」
「……そうなんだけど……」
「大丈夫ですよ。緒方先生の家族は」
「……ありがとう」聡子は、ちょこんと恵太朗に寄りかかった。「岡村さんが支えてくれて、ホントに助かってる」
「……すごく大変だった時に、こんなこと言っちゃあれなんですけど……なんとなく、仲のいい家族の一員になったような気分っていうか……そうゆうことを感じることができたっていうか……うまく言えないんですけど……とにかく、お父さん、大丈夫でよかったです。今日は、ぐっすり眠ってくださいね」
返事がないので隣を見ると、聡子は恵太朗に寄りかかったまま、安心しきったように眠り込んでいる。恵太朗は微笑み、その寝顔を愛おしそうに見つめた。
晴子が花瓶の水を換えに病室を出て行くと、聡子と達也はチャンスとばかりに顔を見合わせた。達也がうなずいたのを機に、聡子が思いきって切り出す。
「お父さんに、聞きたいことがあるの」
「なんだよ、あらたまって」
「晴子さんの保険証の名前、どうして吉永晴子なの?」
「まさか籍、入ってないってこと?」
「……見つかっちまったかあ……」と友康は頭をかいている。
「どうゆうことなの?」
「まあいいじゃないか」と、開き直ってはぐらかそうとする。
「よくねえよ」
「なんかだまされてたような気分だもの。ちゃんと教えてよ」
子供たちに問い詰められて、友康は弱り切ったように、けれども、きっぱりと言った。
「言えないんだよ。晴子さんとの約束だから」
「だからって、私や達也にも言えないなんて、どうゆうこと?」
待合室で、聡子は恵太朗を相手に、不平たらたらである。
「そんなに怒らなくたって。家族だから、かえって言えないことだってあるわけだし」
「そんなこと言ったって――」と、聡子はふいに口をつぐみ、何事か考え込んでいる。
「どうかしました?」
聡子が恵太朗を見て、にやっとした。「岡村さん、協力して。いい作戦、思いついた」
貞夫は懲りもせず、高文のオフィスを訪ねていた。
「お願いします。奈央と離婚してください」
「奈央があなたに何を言ったかわかりませんが、奈央は私の妻をやめたりしませんよ」
「そんなことない。やめたくて仕方がないんです」
「今度パーティーがあるんです。ぜひ、いらしてください」高文は用意していた招待状を差し出し、自信満々に言った。「来ていただければわかると思います」
最初は追い返そうと思ったが、思い直して会ってやったのはこのためだ。華やかなパーティーの場で、人々の賞賛と羨望《せんぼう》を浴びる自分達夫婦の姿を見れば、いくらしつこいこの男でもあきらめざるを得ないだろう。
高文が余裕たっぷりに去って行く一方で、貞夫は招待状を手に立ち尽くしていた。
晴子と付き添いを交代した恵太朗が、部屋の窓を開け、空気を入れ換えてくれている。
「なんだか悪いねえ」友康が言った。
「いえ、僕にできることがあったら、なんでも言ってください」
「……君は、聡子が一番頼りにしてる男なんだろ? 仕事でも、それ以外でも」
遠回しな言い方だが、要は、聡子の恋人なのかどうなのかと聞いているのだ。
一瞬の間のあと、恵太朗は、きちんと友康を見て答えた。
「はい。そうなりたいと思ってます」
「……やっぱり。あんなふうに人に寄りかかって泣く聡子、初めて見たよ」
友康は、寂しいようなホッとしているような、なんとも複雑な表情だ。
「……あの」恵太朗は、聡子に託された作戦を開始することにした。「晴子さんと一緒になった時の話、聞かせてもらえませんか?」
その頃、屋上に晴子を連れ出した聡子もまた、作戦を開始していた。
「どうしたの、急に」
「いいじゃない、教えてよ」
「そんな昔のこと、忘れちゃったわよ」
「忘れるわけないじゃない」聡子がしつこく言うと、晴子は笑いながら話し始めた。
「……聡子さんのお母さんが亡くなって先生がクリニックを開業した時、なかなかナースがいなくてね。その頃、私もナースとしていろいろ迷ってたの。だから、どうせだったら、尊敬する先生のクリニックで働きたいなーって」
「晴子さん、大学病院の婦長さんだったのに、辞めて来てくれたんだよね」
すると、おもむろに晴子が聡子の方に向き直って、切り出した。
「正直に言います。その時から、一人の女としても先生のそばにいたかった」
突然の告白に一瞬とまどう聡子だったが、正直な気持ちを話してくれた晴子の思いが嬉しかったし、同時に、同じ女性として、その思いには共感できた。
病室では友康が、自分も晴子と同じような気持ちだったことを、恵太朗に話していた。
「その時、初めて意識したんだ。残りの人生ってやつを。一人じゃなくて、誰かと共に歩みたいって思った時に、晴子さんしか考えられなかった」
そして、体調が回復したある日の診療後、友康は晴子にプロポーズしたのだ。
『晴子さん。残りの人生、俺と一緒に過ごしてもらえませんか』――と。
「……ホントに嬉《うれ》しかったわ。まさか五十三になって、そんなふうに言ってもらえるなんて思ってなかったから」
晴子の頬がほんのり赤いのは、夕日のせいばかりではないだろう。聡子はそんな義母を微笑ましく見ながら言った。
「私だって、お父さんと晴子さんが一緒になって、なんでも話せる家族ができて嬉しかった」
晴子がうれしそうに笑う。「ありがとう」
「……なのに水くさいんじゃない? 事実婚のこと、話してくれなかったなんて」
「……バレちゃったんだってね」
さあ、ここからが作戦本番だ。
「でも、悪いのはお父さんなんでしょ。お父さん、男として最低よ。ちゃんとケジメもつけずに、無責任すぎる」
聡子が友康を悪しざまに罵《ののし》り始めたので、晴子は慌てている。
「ちょっと待って、先生は悪くないわよ」
――さて、岡村さんはうまくやってくれているだろうか。
「いえ、晴子さんも晴子さんです。黙ってるなんて、緒方先生や達也さんのこと本当の家族だと思ってないんじゃないですか?」
「ちょっと待ってよ。晴子さんは悪くないよ」
「ちゃんと話してくれなきゃ、わかりませんよ」
恵太朗に晴子のことを誤解されるのは不本意だ。友康は仕方なく理由を明かした。
「籍を入れると、もし俺に何かあった時、晴子さんにも財産を相続する権利が発生するだろ。晴子さん、それは聡子と達也が受け取るべきものだから、入籍はしないって言い張ってな……。後妻はそれでなくてもいろいろ言われるし。何よりも俺は、晴子さんの気持ちを最優先してあげたかったんだ」
「そうゆうことだったの……」聡子は納得した。種明かしされてみれば、いかにも清廉な晴子らしい理由ではないか。
「ごめんね、黙ってて。でも、言えばあんたたち、反対したでしょ。……あーあ、ついにしゃべっちゃった」
「……ねえ晴子さん、理由は本当にそれだけなの?」
「そうよ。他に何があるって言うの?」
「……もしかしたら、遠慮してるんじゃないかなって」
「私が遠慮? 誰に?」
聡子は心のどこかで感じていた。晴子は、亡くなった聡子の母、由紀子《ゆきこ》に今でも気を遣っているのではなかろうかと。そのことを伝えると、晴子は少し遠くを見て言った。
「由紀子さんは、いつまでも若いまま先生の心の中で生き続けてるのよね」
「……」
「でも、私は私。先生の仕事上のパートナーとしてずっとやってこられたことは、私の誇りだもの」
そう胸を張って言う晴子が、聡子にはとてもまぶしく感じられた。
微笑む聡子に、晴子が続けて言う。
「聡子さんにはわかって欲しいの。何よりも、大事なのは入籍っていう形じゃなくて、先生と一緒に生きていくってことだから」
晴子のその想いには一点の曇りもない。が、娘としてありがたい半面、それではあまりに晴子に申し訳がなかった。
「晴子さんの気持ちもわかりますけど、それでいいんですか?」
恵太朗が言うと、友康はじろりと恵太朗をにらみつけた。
「よくないに決まってるだろう」
「……すみません」首を引っ込めて謝る。
「俺だって、晴子さんのことはちゃんと考えてる」友康は重々しく言った。
「公正証書?」
待合室で、恵太朗に話を聞いた聡子と達也は、おうむ返しに言った。
「はい。入籍していなくても、晴子さんに財産分与するという意思が書かれた文書を預けてあるそうです」
「遺言ってこと?――親父、やるなあ」
「お父さん、緒方先生と達也さんに、そのこと認めてほしいって」
「もちろん」「当たり前だよ」二人に異存があろうはずもない。
「それから、晴子さんにも」
聡子は唸《うな》った。晴子はなんと言うだろうか。わかっているのは、晴子が素直に「はい」とは言ってくれないだろうということだけだ。
キッチンで夕飯の支度をしながら、瑞恵はテーブルの彰夫に言った。
「最近、早いのねえ」
「……うん、まあ」いったん言葉を濁したが、彰夫は意を決した様子で、瑞恵のほうを見た。「なあ」
彰夫が何か言いかけたことに気づかず、瑞恵はカレーをかき混ぜながら、
「やっぱり私のほうが夜、遅くなるなんてこと、やめたほうがいいのかなあ」
「遅くなるのか?」
瑞恵の営業手腕を見込んで、会社のほうから正式な社員にならないかと打診があったのだ。早出や残業があるので、向こうも迷ったらしいが、ぜひにと乞われている。
瑞恵は、家族と相談してから、と返事を保留していた。
「……実はね――」言おうとした時、洋介が「ごはんは?」と部屋に入ってきた。
「食べられるわよ」
「……何か、言おうとしなかった?」
「ううん、今度にする。さ、今日は野菜たっぷりのカレーよ」
とりあえず瑞恵の今の幸せは、家族のおなかをいっぱいにすることだった。
パーティー会場の出入り口には、各所から贈られてきた花束が所狭しと並んでいる。
「本日は、おめでとうございます」美智子が由香里を伴ってやってきた。
「ありがとうございます」高文と一緒に会釈しながら、奈央は上司の顔を見つめた。
奈央が招待状を渡した時、「安心したわ。あなたの気持ちが変わって」と美智子は満足そうに言った。彼女にとって、新雑誌を無事創刊することが最優先事項であり、一部下の感情など、取るに足りないことなのだろう。
「素敵なパーティーになりそうですね」
「今日も御夫婦の絆《きずな》、見せていただきます」
美智子と由香里が、社交辞令を口にする。
「今日の日を迎えられたのも、妻のおかげですから」高文が空々しいセリフを吐いて、奈央の肩を抱く。奈央は吐き気を覚えながら、強《こわ》ばった微笑を作った。
会場が人で埋め尽くされる頃、高文が壇上に立った。
「本当にたくさんの皆様の支えがあり、今日という日を迎えることができました。本当にありがとうございます」
こうして見ると、みんなの注目を浴びるために生まれてきたような男だと、改めて思う。
「ここで、僕のベストパートナーであり、幸運の女神である妻の奈央を紹介させていただきます。奈央はどんな時も前向きで、プラスのオーラに包まれ、僕にパワーを与えてくれました」
奈央が壇上に上がると、二人に大きな拍手が贈られた。高文が奈央に軽くハグし、階段を下りていく。奈央は作り笑顔で、正面に向き直った。これから数分間は、必死に高文の妻を演じなければならない。
「本日は、夫、新庄高文のためにお集まりいただき、ありがとうございます。今回の企画は、私達夫婦の夢から始まりました。二人の子供を持つという夢です。しかし、私達にとっては簡単なことではなく、不妊治療という現実が待っていました」
しゃべるのがつらくなっていく。けれど、奈央は懸命に続けた。
「不妊治療は、世間でも言われているとおり、とても精神的な負担が大きいのです。私は、高文と手を取り合い……」
ふいに奈央の声が途切れた。高文も、奈央の様子がおかしいことに気づいたようだ。
「……二人の絆で……乗り越えようと……その軌跡を……『赤ちゃん待ち日記』という記事に……」
言葉が切れ切れになっていき、ついに奈央は黙り込んでしまった。その時だ。奈央の目に、貞夫の姿が飛び込んできたのは――。
貞夫が奈央を見る。奈央も、貞夫を見た。
――小さい頃から、いつもそうだったように、奈央をいじめるやつがいたら、きっと貞夫がこぶしを振り回して追い払ってくれる。奈央は決意を固めた。
「奈央?」さすがに不安になった高文が一歩踏み出そうとした時、奈央が決然として言った。
「私は、嘘の記事を書きました」
高文の顔に驚愕《きようがく》が走る。会場の美智子と由香里も、あ然としている。
「人から羨《うらや》ましがられる夫婦でいるために、嘘の記事を書きました」
会場のあちこちでざわめきが起こった。高文はクールな仮面がはがれ、みじめなほどあせっている。
「全てがそうでした。私にとって、人から幸せそうに見られることが何よりも大切でした。結婚した理由も、子供を持ちたいと思った理由でさえ、そうです。そんな私に、この晴れ舞台に立つ資格はありません」
誰が奈央を非難しようとも、自分だけはいつも奈央のそばにいる。貞夫はその思いを伝えるかのように、一心に奈央の姿を見つめた。
「私は、新庄高文の妻をやめたいと思います」
今度こそ、会場は蜂の巣を突《つつ》いたような大騒ぎになった。
「……どうするんですか? ウチの雑誌」由香里が青ざめて隣を見ると、美智子は少し眉《まゆ》をひそめているだけで、少しも慌てた様子はない。
「別の企画を走らせといて、正解だったわ」
「さすが、中山さんですね」由香里が尊敬のまなざしを向ける。
「これで、彼女も全てを無くしたわね」人の忠告を無視し、迷惑をかけた当然の報いだ。もちろん、それなりの責任は取ってもらう。同情の余地はない。
奈央は壇上から降り、呆然《ぼうぜん》としている高文の手に、外した結婚指輪を握らせた。そのまま出口に向かって歩いて行く。そこには、昔と変わらない貞夫の微笑みが待っていた。
友康の退院が決まり、聡子と恵太朗は仕事の合間を見て、後片づけを手伝いにきた。
「今夜は、退院のお祝いしなくちゃね」晴子が言った。
「僕も行っていいですか?」
聡子は驚いて目を見張った。家族の団欒《だんらん》は、恵太朗にとってつらいものだったはずだ。なのに、恵太朗自ら言い出すなんて……。
「もちろん。お誘いするつもりだったし。ねえ」
「待ってるよ、岡村クン」
晴子と友康は喜んで歓迎した。この入院で、二人ともすっかり恵太朗の人柄を気に入っていた。
と、晴子が廊下のほうへ目をやって言った。「ねえ聡子さん、なんかこの病院、雰囲気が慌ただしいんじゃない? ナースの見回りも少なかったし」
「うん……最近、ナースが辞めてってるみたいなんだよね」
「やっぱり。経営厳しいの?」
「まあ、今はどこもいろいろと厳しくて、これが現状なんだ」
聡子もこの時は、まだのんびり構えていた。
晴子が腕によりをかけて作ったご馳走《ちそう》がテーブルに並び、恵太朗を含めた家族は、友康の回復を祝って乾杯した。
「倒れた時は、もうホントにびっくりしたんだから。晴子さんがすぐに気づいて適切な処置をしてくれたから、なんともなくてすんだけど」
「ホント晴子さんと一緒になってよかったよ」友康がいつもの大げさなアクションで感謝の意を表し、すかさず晴子が「そうでしょう?」と冗談めかして返す。
「晴子さん、これからもお父さんのこと、よろしくお願いします」聡子が改めて頭を下げると、達也とマキ、そして瑠花も「よろしくお願いします」と続いた。
「みんな、どうしたのよ」と晴子は照れくさそうに笑っている。
「事実婚のこと、最初は籍が入ってないなんて正式な夫婦じゃないんじゃないかって思ったけど、晴子さんとお父さんは、やっぱり私の理想の夫婦よ」
「ありがとう。こちらこそ、よろしくお願いします」
「それで、晴子さんにお願いがあるんだ」友康が、一つ咳払《せきばら》いをして言った。
「なあに?」
「俺にもしものことがあった時、何が心残りだと思う?」
晴子は、さあ、というように首をかしげた。
「聡子のことは、心配してない。達也達家族のことも心配してない」
「……もしかして私?」
「ああ」
「私だって大丈夫よ。心配しないで」
「最初で最後のワガママを聞いてくれないか?」
友康の真剣さが伝わったように、晴子が居住まいを正す。
「由紀子を亡くした時、もっとしてあげられたことがあったはずだって、ものすごく後悔した。晴子さんにできることはなんでもしてきたつもりだけど、俺が先に死んだ時のことだけが、やっぱり心配なんだ。俺にとって、晴子さんの代わりは誰もいない。かけがえのない人だから」
「!」晴子にとって、これ以上嬉しい言葉はなかった。
「ささやかだけど、晴子さんにも財産を残すという俺の意思が書かれた文書を預けてある。そのことを、了承してくれないか?」
「晴子さん、私からもお願いします」「お願いします」
友康はもちろん、それが家族全員の願いでもある。
「……わかりました。でも、私のワガママも聞いてください」晴子は受け入れ、そして言った。
「先生、私より、長く生きてくださいね」
「!……」
晴子の無償の愛に、その場にいた誰もが胸打たれていた。
その静寂を、恵太朗が静かに破った。
「僕も、お互いのことを思いやれる夫婦になりたいです」恵太朗はそう言うと、改めて聡子に向き直った。「緒方先生、プロポーズの返事、聞かせてもらえませんか?」
「プロポーズ!?」家族がいっせいに叫んだ。
「やっぱり、あれがそうだったの?」
恵太朗が、え、と心外そうに聡子を見る。
「ううん」聡子は慌ててごまかした。
「なんだよ姉貴、そんなこと一言も言ってなかったじゃねえか」
そう言われても、あれがプロポーズだという確信がなかったのだから仕方ない。
「お父さん。僕は、緒方先生より収入がものすごく少ないですし、精神医療に関わる者として、経験も浅く未熟です。でも、どんな時でも支え合っていきたいと思います。お父さんと晴子さんのように」
恵太朗になら聡子を任せられる。友康と晴子は暗黙のうちに確認しあい、恵太朗に微笑んでうなずいた。
「緒方先生、僕と結婚してください」
家族みんなが、固唾《かたず》を呑《の》んで聡子の返事を待っている。
「……私と結婚すると大変よ」
「全然エコじゃないところとか?」
「そう」
「僕と結婚すると楽しいですよ」
「笑いのツボが同じとこだし?」
「はい」
「わかった。結婚してあげてもいいわよ」
「そう言うと思いました」
ワッと家族の祝福の声があがった。
「結婚の準備って、何から始めればいいんですかねえ」
帰り道、二人で自転車を押して歩きながら、恵太朗が言った。
「大変そうよねえ」
「楽しみだなぁ、ウエディングドレス姿」
「いいわよ。ウエディングドレスだなんて」と聡子は照れている。
「どうしてですか? 女の人の夢じゃないんですか?」
「私は、そうでもなかったかなあ」
「じゃあ、緒方先生の夢ってなんなんですか?」
「夢? そうねえ、今はこんな病院があったらいいなあって思い描くことくらいかなあ」
「どんな病院ですか?」
「全ての患者さんが抱える不安を、取り除いてあげられる病院かな」
恵太朗の前では、なんのてらいもなく、率直な思いを口に出来る。
「精神科の患者さんだけじゃなくてね。他の科の患者さんだって、手術は大丈夫だろうかとか、みんな不安を抱えてるわけでしょ? 全ての科、病院全体に精神医療が行き届いた病院が、私の夢」
「緒方先生らしいじゃないですか」
「そんな病院ができたら、精神科医としてこんなに嬉しいことないもんなあ」
そう言って目を輝かせている聡子の横顔を、恵太朗はまぶしそうに見つめた。
「カンパーイ!」テーブル席で、女達の祝杯があがる。
「ホントにびっくりよ。岡村さんと結婚だなんて」瑞恵が言った。
「私だってびっくりよ。四十歳になったとたん、急展開だもの」
恵太朗はカウンターで、ニコニコしながら聡子達の会話を聞いている。
「奈央もよかったわねえ、離婚決めて、顔がすっきりしてる」
瑞恵に言われて、奈央はバッグから離婚届を取り出した。
「高文、離婚届書いてくれたし、会社も責任とって辞めたし」
「え? 会社、辞めたの?」
「うん。結婚もキャリアもなくしちゃった」けれど、そう言う奈央の声に悲愴《ひそう》感はない。「私、けっこうお金は貯めてるのよ。ちょっとのんびりしたら、フリーのライターとして一から出直す」
「奈央なら大丈夫。まだまだやり直せるって。仕事も恋も」
聡子が励ますと、奈央は久しぶりの勝ち気な笑顔で言った。
「当たり前でしょう。私は森村奈央よ」
そんな奈央を見つめる貞夫も嬉しそうだ。
「うちも離婚だなんだってあったけど、今夜は結婚記念日で主人と二人で食事をするの」
「すっかり仲良しなんだ」聡子が冷やかす。
「まだまだそんな仲良しってほどじゃないけど、いい方向に向かってると思う」
「今夜は、恋人気分に戻れるといいね」今度は奈央が冷やかした。
「え〜今さらそんなこと」
「すっかりその気じゃない」聡子が笑った。
女三人が盛り上がっている一方で、恵太朗が貞夫に言った。
「奈央さんに、ちゃんと気持ち、伝えないんですか?」
「いいんだよ、俺は」
「ずっと見守ってるだけですか?」
「いいんだって」
と、奈央がカウンターの中に声をかけた。「ねえマーくん、もっとさっぱりした物、ない?」
「めずらしいな、奈央がそんなこと言うなんて」
奈央の胸にふと、不安がよぎった。もしかして……。
貞夫の店を一足先に出た瑞恵は、彰夫と待ち合わせしたレストランに来ていた。
「お店、いろいろ考えたんだけど、けっきょくここにしちゃった。覚えてる?」
「……ああ」
「この店でデザート食べてた時に、プロポーズしてくれたのよね。テーブルもここだった」
懐かしい思い出に浸りながら、瑞恵が店の中を見回す。
「そうだっけ?」
「そうよ。こんなふうに、洋介抜きで二人で食事をする日が来るなんて、思ってなかった」
「……そうだな」
彰夫はずっと沈んだ表情をしているが、店内が暗いのと浮かれているのとで、瑞恵はそのことに気づかない。
「今だから言うけど、実はね、洋介が成人したら離婚しようと思ってたのよ」と一人でクスクス笑う。あんなに切羽詰まっていた自分がウソのようだ。
「ねえ、これからは、月に一回は二人で食事するようにしない? 私も働いてるし、それくらいの贅沢《ぜいたく》いいじゃない。実はね、私、正社員にならないかって誘われてるの」
「……正社員?」
「うん。もちろん、私は家事をおろそかにするつもりはないし、あなたとよく相談しなくちゃって思ってるのよ。……ねえ、どうしたの? やっぱりダメ?」
「……いや、少し安心した」
「え?」瑞恵がきょとんとしていると、彰夫は、いまだかつて見たことのない真剣なまなざしで言った。
「瑞恵、離婚してくれないか?」
この数日間というもの、聡子は女性としての幸福感を味わっていた。
仕事帰りに買ってきたウエディング雑誌を広げ、いろんなデザインのウエディングドレスを見ているだけで、気持ちが高揚してくる。
棚の上には、この前、みんなで撮《と》った家族写真が飾られている。恵太朗の部屋にも、同じ写真が飾ってあるはずだ。
写真に写った聡子の隣には恵太朗がいて、その手が、さりげなく聡子の肩に回されている。そんなささいなことが、聡子を幸せにしてくれるのだった。
翌朝、病院の出入り口へ向かう聡子の後ろから、恵太朗がやってきた。
恵太朗はなぜか少し深刻そうな表情でその後ろ姿を見つめていたが、やがて決心したように聡子に追いついて肩を並べた。
「おはようございます」
「おはよう」
「あの、話したいことが――」
その時、聡子が唐突に足を止めた。
「どうしたんだろう?」
見ると、出入り口の前に職員達が大勢群がっている。
「何かあったんですかね」
二人が急いで近づいてみると、「どうゆうことだよ、いったい」「どうなるんだよ」と、みんな口々に不安や不平を並べ立てている。
聡子と恵太朗は、自動ドアの張り紙に気づいた。
『当病院は、一ヵ月後に閉鎖します』
「閉鎖ってどうゆうこと?」
「倒産ってことじゃないですか」
「倒産……?」
聡子と恵太朗は、顔を見合わせた。
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11 幸せを決めるのは誰?
「今回こうゆう事態を招いた原因は、一言で言うと、医療機器や設備に多額の資金を投入したにもかかわらず、回収不可能になってしまったということです」
川崎の説明を聞いて、会議室に集まった各科の医長や師長が、「ひとごとみたいに言わないでください」「誰の責任なんですか」といっせいに怒りをぶちまけた。
「申し訳ない」川崎が頭を下げる。
しかし、今ここで川崎だけを責めていても仕方がない。もちろん聡子もショックだが、それよりも、入院患者達の間で不安が広がっていることのほうが心配である。
ミーティングルームに入ると、当然のことながら、遥たちスタッフも動揺していた。
「緒方先生、やっぱり一カ月後に閉鎖なんですか?」
「……残念ながら」聡子は言った。「みんなが不安になるのもわかるけど、まずは患者さんが不安にならないよう、ケア、よろしくお願いします」
「はい」ようやく、みんなが動き出した。
その頃、奈央もまた衝撃と混乱の中にいた。
「妊娠ですね。おめでとうございます」
食べ物の嗜好《しこう》が変わってきたことを貞夫に指摘され、生理が遅れていることに気づいて妊娠検査薬で調べてみたら、結果は陽性――。「なんで?」という以外ない。
「ちゃんと病院で調べないと。俺、一緒についていくから」という貞夫の申し出を断って一人で産婦人科に来たものの、どうしたらいいのか……。
これほど心もとない気持ちは、奈央はこれまで感じたことがなかった。
そして、瑞恵は衝撃こそ収まったけれど、出口の見えない混乱は続いていた。
「ごちそうさま」洋介が立ち上がり、食器をシンクへ運びながら言った。「お父さん、遅いの?」
ここ数日というもの、彰夫の顔を見ていないのだから、洋介がけげんに思うのも無理はない。それに、いつまでも黙っているわけにもいくまい。
「……洋介。お父さん、今、大変なの」
「……どうしたの?」
「仕事のことでいろいろあって、しばらく帰らないかもしれない。でも、心配しないで。大丈夫だから」
洋介は気がかりそうにしながらも、二階の自分の部屋に上がって行った。瑞恵は後片づけも手につかず、ぼんやりレストランでのことを思い出す。
「離婚?……やだ、冗談やめてよ」
「……冗談じゃない」
ようやく夫婦仲がうまく行き始めたと思っていた矢先に、瑞恵にしてみれば青天の霹靂《へきれき》だ。
「……どうして?」
「リストラされたんだ」
「え!?……いつ?」
「二週間前」
「だって毎日、会社行ってたじゃない」
「漫画喫茶で時間、潰《つぶ》してた」
「……どうして話してくれなかったの?」
「次の仕事が見つかったら話すつもりだったけど……四十過ぎじゃ、さすがに厳しい。今までのキャリアをいかした仕事になんか、就けそうにない」
「だからって、どうして離婚になるのよ」
「瑞恵と洋介を養えないで、何が夫だ。何が親父だよ」
夫の性格を知っているだけに、その自嘲《じちよう》めいた言葉を聞いて、いかに彰夫が傷ついているかが察せられ、瑞恵は笑って受け流すことができなかった。
閉鎖が決まってから、聡子の診察室に訪れる患者達はとても不安がっている。
他の病院でも、ちゃんと今までの経過や、使ってきたお薬がわかるように紹介状を書きますから、と説明するのだが、うつむいたまま黙ってしまう患者もいる。
「患者さん達、とても不安になってるわね」
ミーティングルームで、聡子はスタッフ達に言った。
「とにかく、私達にできることを一つ一つ、やっていきましょう」
「緒方先生は、ここが閉鎖になったあと、どうするんですか?」遥が、ファイルを渡しながら聞いてきた。
「まだ何も考えてない。目の前のことでいっぱいで、考える余裕もないもの」
そんな聡子を、なぜか恵太朗は、言いたいことがあるのに言い出せないような――そんな目で見ているのだった。
夕方、聡子と恵太朗は屋上で一息ついていた。
「しばらくバタバタしそうね」
「はい……」
「四十になったとたん、ホントに次から次へと、いろんなことが起こるわねえ」
「……緒方先生」恵太朗は思いきって言った。「実は、僕に仕事の話があるんです」
「え、岡村さん、もう次、探してたの?」思わず、ちょっと責めるような口調になってしまう。
「違います。今回の騒動の前にあった話です」
話そうとしたのだが、病院閉鎖のどさくさで、ずっと言いそびれていたのだ。
「……どこの病院?」
「病院じゃありません。――僕の夢、覚えてます?」
「もちろん。青空と緑に囲まれた広々とした所で、心が傷ついた子供達と一緒に暮らせるような場所を作ることでしょ?」
「はい」
「えっ、もしかして、そうゆう話があったの?」
数日前の夜、突然、平田《ひらた》という男が恵太朗のアパートを訪ねてきた。以前、恵太朗が書いた論文を読んで共感し、今度オープンする施設のスタッフにぜひ加わってもらいたいと、わざわざ会いに来てくれたことを、恵太朗は手短に説明した。
「それで、聞いてみたら精神科医の先生も探してるそうなんです」恵太朗は勢い込んで言った。
「え」
「緒方先生、僕と一緒にそこで働きませんか? 考えてみてください。北海道の日高っていうところなんですけど」
「……北海道?」急な話に、聡子は戸惑うばかりだった。
「まさか四十になって、全く知らないところに住むなんて思ってもなかったから」
その夜、恵太朗の申し出に悩みながら貞夫の店に行った聡子は、ちょうど来ていた奈央と瑞恵に話を聞いてもらった。
「一から人間関係作らないといけないし、住み込みだからプライベートなんてなくなるだろうし、お給料だって、今までみたいには……。それに、父が倒れたばかりだから、それもちょっと気になるし」
「岡村さんと一緒に行ったほうがいいよ。前の私なら、そんなふうに思わなかったけど」
奈央の意見に、瑞恵も賛成した。
「私も行くべきだと思う。岡村さんとだったら、いろんなこと乗り越えられるわよ……二人にはどんな時も一緒にいてほしい……私にはできなかったけど」
なんだか、瑞恵の様子がおかしい。
「瑞恵……どうしたの?」
話を聞いて、みんなは驚いた。「離婚? 家を出てった?」夫婦でレストランに食事に行くのだと瑞恵がうれしそうに話していたのは、つい先日のことなのだ。
「……笑っちゃうでしょ。六年後に離婚してやるなんて言ってた私が、離婚言い渡されたのよ。リストラされてたなんて……私だって、主人のこと全く見てなかったのよ。こうなって初めてわかった。主人がちゃんと仕事してくれてたから、私は好きに働けたんだと思う」
後悔をにじませて語る瑞恵に、友人達は慰めの言葉もない。
「ごめんね。聡子がこれから結婚だっていう時に、こんな話」
「ううん、瑞恵、どうするの?」
「よく考える。……とにかく、聡子と岡村さんには一緒にいてほしいの。もし子供を持つことを真剣に考えてるなら、なおさら」
「先輩には、好きな人の子供、産んでほしい……」
今度は、奈央の様子がおかしい。
「……どうしたの?」
「妊娠した」
「!?」貞夫はすでに心の用意が出来ていたが、聡子と瑞恵には、寝耳に水の話だ。
「……どうして? 離婚したところなのに」
「ううん、まだ離婚届、出してない」妊娠がわかると、やはり迷いが出てきてしまった。なんといっても、赤ん坊の父親は高文なのだ。「仕事も辞めちゃったし、人生最大のピンチ」
「どうするの?」
「新庄さんのところに戻るつもり?」
聡子と瑞恵は、奈央が心配でたまらない。
「戻りたくないけど、子供のこと考えると、何が大切なのかわからなくなっちゃった……」
そう言うと、奈央は強がって微笑んだ。「でも私は大丈夫。今までだって、ピンチをチャンスに変えてきたんだから。そうだ。北海道行くなら、結婚のお祝いパーティーやろうよ」
「でも……」
「そうよ。送別会もかねて、パーッと!」瑞恵が元気よく言った。
「聡子、その時は食べたいものがあったら言ってよ」と貞夫も微笑んでいる。
「……ありがとう」みんなのやさしい気持ちに、聡子は目頭が熱くなった。
翌日の昼休み、聡子が屋上で体操をしていると、恵太朗がやってきた。
「どうしたんですか?」
「もっと体力つけないと。子供達と生活するとなったら、きっと体力、消耗すると思うのよね」
「!……じゃあ」
「北海道に行く」
ゆうべ、恵太朗に渡された施設の企画書にも、隅々まで目を通した。新しい世界への不安はあるけれど、恵太朗と一緒なら、やれそうな気がする。
「そう言うと思ってました」恵太朗がうれしそうに微笑む。
「今までやってきた医療とは全然違って、最初は手さぐり状態だと思うけど、挑戦してみる」
しかし、せっかくの決意を鈍らせるような出来事が、聡子を待ち受けていた。
昼休みから戻った聡子が、川崎に呼ばれて副院長室へ行くと、そこには神林がいた。
「以前から私どものグループでは、病院事業に参入しようという計画を進めていました。そして今回、こちらの病院のことを聞き、ぜひ支援させていただけたらと考えています」
「!……それは、病院存続の可能性があるってことですか?」
「そうゆうことです」
「ありがとうございます。そうしていただけたら、スタッフも患者さん達も安心だと思います」
願ってもないことだった。神林の実業家としての手腕は誰もが認めるところで、彼が後ろ盾になってくれれば、病院は安泰だ。
「緒方先生、これからが本題だよ」もろ手を挙げて喜んでいいはずなのに、川崎はなぜか複雑そうな面持ちである。
「今や医療もサービスの時代です。どうせ再建するなら、患者の隠れたニーズに応《こた》えた理想の病院作りをしてみたいんです。緒方先生、新しい病院を一緒に作っていただけませんか」そして神林は、聡子に向かって驚くべき言葉を口にした。「院長として」
心乱れたまま、聡子はミーティングルームに戻ってきた。
「副院長、なんの話だったんですか?」仕事をしていた恵太朗が、聡子に尋ねてきた。
「あ……今後のことで、話をもってきてくれて……」
「え、どんな話だったんですか?」
「ううん、もう次の職場決めたこと話して、断ったから」
「……そうですか」
「紹介状、書かなきゃ」
そそくさと仕事を始めた聡子の様子が、恵太朗は少しだけ気になった。
営業の合間に、瑞恵は定食屋『もりおか』に来ていた。
「どうですか? その後、お客さんの反応は」
「いいよ、すごく。あ、それと保険のこと、ありがとう」森岡は礼を言うと、ふと思い出したように尋ねてきた。「旦那《だんな》さん、転勤でもしたの?」
「え……」
「保険の契約の時、今後は担当が変わるっておっしゃってたから、異動か転勤にでもなったのかなあって」
「……保険の契約の時?」瑞恵はハッとなった。瑞恵が初めてもらったお給料で、高いお肉を買って焼き肉をした日。帰ってきた彰夫と、大喧嘩《おおげんか》をした、あの日だ……!
「どうして気づかなかったんだろう……」
「どうしたの?」森岡がきょとんとしている。
「すみません、失礼します!」瑞恵は矢も盾もたまらず、店を飛び出した。
妊娠したからといって、ぼんやり過ごしてばかりもいられない。ともかく仕事を探そうと、奈央は知り合いの出版社へ売り込みにやってきた。
「聞いたよ。パーティーの話。勇気あるよね」
「フリーライターとして、一からやっていこうと思います。どんな仕事でも、やらせていただきます」
「どんな仕事でも?」やり手で有名な部長の目が光った。
「はい」
「本、出さない? 新庄高文氏との結婚生活を赤裸々に綴《つづ》った手記」
「……申し訳ありません。そうゆうのは、ちょっと……」
「あ、そ。じゃあ他、当たってくれる?」
しばらくは、どこへ行っても新庄高文の亡霊につきまとわれそうだ。出版社を出た奈央は、疲れて立ち止まると、そっとお腹に手を当てた。――負けてたまるか。
「もしもし、ライターの森村と申します。以前一度、お会いしたことがあると思うんですが……」
気持ちを奮い立たせて携帯で電話をかけると、奈央は駅に向かって歩き出した。
もう何軒、漫画喫茶を回っただろうか。疲れた足を引きずって歩きながら、瑞恵は新しい看板を見つけた。中に入って、店内をきょろきょろ見回すと――いた。
彰夫が、漫画を読むでもなく、うつろな表情でぼんやりとしている。
瑞恵は近づいて行って、そっと声をかけた。「やっと見つけた」
「!……瑞恵」
外はもう夕暮れだったが、二人は漫画喫茶を出て、近くの公園のベンチに座った。
「私、あなたのこと何もわかってなかった。自分のことばかりで……ごめんなさい。ずっと一人で悩んで、つらかったでしょう」
瑞恵は申し訳なさでいっぱいだった。とにかく彰夫に謝らなければと、手当たり次第、漫画喫茶を捜し歩いたのだ。
「そんなんじゃないよ」と彰夫は自嘲めいた笑いを浮かべた。「俺は、瑞恵に嫉妬《しつと》してたんだ」
「……!?」
「会社じゃ部下に優位に立たれて、俺の立場はどんどん悪くなる一方だった。でも家族を養ってるんだって思うことで、プライドを保ってられた。それが、家でも瑞恵に優位に立たれて……嫉妬して……情けない。小さい男だよ」
そんな彰夫を、瑞恵は今までになく愛《いと》しく思う。
「私に嫉妬? 光栄だなあ。でも私は、働き始めて、あなたの大変さがわかって、あなたを尊敬し始めてたのよ」やさしく笑って、冗談交じりに言う。
「……何、言ってんだ」
「もう一度、取り戻してよ。あなたのプライド。あなたならできるって信じてるから。私の夫だもの。洋介の父親だもの」瑞恵はきっぱり言った。「離婚はしない」
「……考えさせてくれ」
去っていく彰夫の背中に、瑞恵は心からの言葉をかけた。
「待ってるから。洋介と」
振り返らずに歩いて行く夫の背中を、瑞恵は切ない気持ちで見送った。
聡子は再び副院長室に呼ばれ、川崎の説得を受けていた。
「……その件でしたら、お断りしたはずです」
「もう一度、考え直してくれないかな。神林さんが一番こだわってるのが、緒方先生が院長になるってことだから。緒方先生が引き受けてくれないと、病院を立て直すという計画が進まないんだ。たくさんの患者さんが困ってる。スタッフもここに残りたいと思ってる。……私も含めて」
「…………」
「理想の病院作り、やってみたくないの?」
聡子は一瞬、返事に詰まってしまった。けれど、北海道行きはもう決めたことだ。
副院長室を出て廊下を歩く聡子の耳に、方々から入院患者達の不安の声が、まるでシュプレヒコールのように聞こえてくる。
「ここで手術が受けられなくなって、手遅れになるなんてことないですよね?」
「ここがなくなったら、車椅子で通える病院がなくなるんです」
「ここから一番近い総合病院は、産婦人科と小児科がちょっと前になくなってますよね。私、どうしたら……」
そこへ、内科病棟の医師が聡子を捜してやって来た。
「うちの病棟、患者さんがかなり動揺して不安が広がってるんだ。ちょっと診《み》に来てくれる?」
「わかりました。外来が終わったら、行きます」
聡子は胸の内に芽生え始めた葛藤《かつとう》を振り払いながら、診察室へ急いだ。
診療を終えた聡子が医局で紹介状を書いていると、しばらく姿の見えなかった恵太朗が「緒方先生」とやってきた。
「ん?」見ると、何か言いたそうな顔をしている。「……何?」
「あ、いえ、緒方先生は、夏休みの宿題、最後に慌ててやるタイプですか?」
「え?……まあ、そうだったかな」
「北海道行きの準備、そうならないようにしてくださいよ」
「そうよね。今から、少しずつ始めておかないと」
聡子は笑って答え、また紹介状の続きを書き始めた。
夕方、貞夫の店に、奈央が疲労|困憊《こんぱい》の体でふらりと入ってきた。
「仕事、見つかった?」
返事はなく、今にもくずおれそうだ。どうも幸先のいいスタートとはならなかったらしい。
「……大丈夫?」
「……もうどうしたらいいのかわからない……」
「おなかすいてるだろ。何、食べる?」
「いい」
「ちゃんと食べなきゃ」
「いらない」
カウンターに突っ伏した奈央の姿を見て、貞夫は思い出すように言った。
「なぁ、奈央。俺がなんでマーくんなのか、覚えてる?」
貞夫が高校生で、まだ健在だった父親に、料理の修業をさせてもらっていた頃だ。
奈央は中一で、あの時もくずおれるようにカウンターに突っ伏していた。
「ダイエットだかなんだか知らないけど、そんなんじゃ体、壊すよ。これ、大好物だろ」
昔の面影がないくらいにやせてしまった奈央の前に、貞夫は熱々のマカロニグラタンを置いた。
「……お父さんのマカロニグラタンとずいぶん違うじゃない」
「初めて作ったから、見た目は悪いけど、味はいいと思う」
「女の子は、見た目が勝負なの」
「中身だよ」
「嘘。太った私なんて、誰も相手にしない」
「約束する。どんな時も、どんな奈央でも、俺は奈央の味方だから」貞夫はそう言って、やさしく微笑んだ。「さ、食べろよ」
貞夫の作ったマカロニグラタンは、懐かしくて、ホッとする味がした。
「おいしい……」
「……あの時から、マーくんて呼ぶようになったんだよね」
「あの時の約束、ずっと有効だから」
タイマーが鳴り、貞夫はオーブンから取り出した皿を奈央の前に置いた。「さ、食べろよ」
奈央の大好物の、マカロニグラタンだ。
「おいしい……」
ずっと見栄えはよくなったが、やっぱり懐かしくて、ホッとする味がした。
「どんな時も、どんな奈央でも、俺は奈央の味方だから」
貞夫のやさしい微笑みが、少しも変わらずに奈央を包んでくれる。明日、離婚届を出そう。
「……ありがとう」
「たくさん食べろよ」
「うん。なんか元気出てきた」
「当たり前だろ。俺が作ったんだから」
「あと、コンソメスープ飲みたい」
「おう」
奈央がおいしそうにマカロニグラタンをほおばっている。貞夫には、それだけで十分だった。
今日診察した下山千鶴子《しもやまちづこ》の紹介状を書こうとして、聡子の手がふと止まり、何かを考え込むように、目が宙をさまよう。
「この病院がなくなったら、治療は続けられないわ」
「治療は続ける必要があります。代わりの病院を紹介しますから」
「遠くへは行けない。足が悪いし……嫁に頼むのも嫌だし……」
「どうするのが一番いいのか、考えましょう。大丈夫ですよ。きっと、いい方法があると思います」
「一番いいのは、この病院がなくならないこと」
救いを求めるような、老人の目を思い出す。
聡子はペンを置き、神林の名刺を取り出して、電話番号をプッシュした。
「愛斉会総合病院の緒方です。……神林さんに、お話ししたいことがあるんです。……わかりました。では、のちほどよろしくお願いします。失礼します」
受話器を置いたとたん、恵太朗が顔を出した。「緒方先生。まだかかりそうですか?」
びっくりしながら、「あと少し」と慌てて答える。
「じゃあ、待ってます」
「……ううん、やっぱりもうちょっと残るから」
「……わかりました」
「うん、ごめんね」
部屋を出た恵太朗は、やはり考えるような顔で廊下を歩き出した。昼間、副院長に聡子を説得してくれと頼まれるまで、恵太朗は病院再建のことも、聡子に院長の話があることも知らなかった。けれど、今の物思いにふけっている聡子の様子や、神林に電話していたこと――恵太朗は、聡子の気持ちが揺れているのではないかと感じていた。
「……お父さん、ホントに帰ってくるかな」
テーブルについた洋介は、空っぽの彰夫の椅子を見て寂しそうにしている。
「大丈夫。いつか絶対に帰ってくるから。食べよ」瑞恵は明るく言った。
「いただきます」
二人が箸《はし》を手に取った時、リビングの戸口に彰夫が現れた。
「お父さん」
「……ただいま」
気まずそうな、照れくさそうな、彰夫の声。
――帰ってきたのだ! 瑞恵と洋介は思わず顔を見合わせ、「お帰りなさい」「お帰り」と笑顔で迎えた。彰夫がおずおずと中に入ってくる。
「今日の晩ご飯は、鯖《さば》の塩焼きよ」
もちろん三人分用意してある。家族がそろった食卓を見回して、瑞恵はニッコリして言った。
「……いただきまーす」
「いただきます」
家族水入らずで食べる夕飯は、どんな高級レストランの食事よりもおいしい。瑞恵はつくづくとそう思っていた。
その頃、聡子は、病院の会議室で神林と向かい合っていた。
「考え直していただけましたか?」
「やはり、どう考えても一精神科医の私に院長が務まるとは思えないんです。申し訳ありません」
「緒方先生、私には特別な能力や才能がない。一つだけ能力があるとしたら、才能を見抜く力です。そして、才能ある人達に気持ちよく仕事ができる環境を提供する。それが私の役目なんです」
「…………」聡子は、神林の次の言葉を待った。
「息子の病気のことで、初めて気づきました。精神医療の大切さを――。いくら体が健康でも心が健康じゃなかったら、生きていくのはとても不安だし、つらい。きっと苦しんでいるのは息子だけじゃない。潜在的に多くの人が、心の不安を抱えて生活しているのではないでしょうか?」
「!……私も、いつもそう思ってきました。精神科以外の患者さんだって、みんな不安を抱えています。大きな手術を控えた方、出産前の女性、リハビリ中の方、ターミナルの方……百人患者さんがいたら百通りの不安や悩みがあるといっていいでしょう。全ての科、全ての患者さんに精神医療が行き届いた病院が、私の理想です」
「いや僭越《せんえつ》ながら、先生が書かれた論文も読ませていただきました。先日の講演も……。専門的なことはよくわかりません。しかし、緒方先生が、ただの一精神科医以上の理想をお持ちだというのは、よくわかりました。緒方先生、一緒に作りませんか? 理想の病院を」
改めて院長を辞退するはずだったのに、聡子の心は、前にも増して千々に乱れることになってしまった。
一方、奈央は貞夫の店で高文に会っていた。
「離婚届は出したから」
「ああ」
「それから、子供ができたの」
「……子供?」高文も、さすがに驚いている。
「私の子として育てるから、親権をください」
「……彼と結婚するのか?」と高文が貞夫を見た。
貞夫は何も言わずに、カウンターの中で黙々と料理を作っている。
「ううん、結婚はしない。まずは、自分一人の足で立てるようになりたいの」
「わかった」
「いいの?」
「母親を信頼できない子供は、全ての人間が信じられなくなる」言いながら、高文は立ち上がった。「養育費は、毎月振り込むから」
「ううん、それは受け取る気ないから」
「その子のためだ」ちらっと奈央のおなかに目をやり、高文は店を出ていった。
きっと彼は離婚のダメージなどものともせず、新しい新庄高文ブームを作って行くだろう。
そう、もし奈央が新しい企画を出すとしたら――『今、もっとも旬《しゆん》な男はバツイチ男性』というところだろうか。美智子と由香里が、すでに声をかけているかもしれない。奈央には、新雑誌の巻頭を飾るそのグラビアが見えるようだった。
と、貞夫がジューサーで作ったフルーツジュースを「どうぞ」と奈央の前に置いた。
「ねえ、マーくん、もし私が、自分一人の足で立てるようになったら――」
「……え?」
奈央は微笑んで首を振り、「ううん、私、がんばるから。マーくん、見ててね」
「当たり前だろ」貞夫がニッコリする。
「うん。乾杯」奈央もニッコリする。
相変わらず客のいない店に、二人のグラスの合わさる音が、やさしく響き渡った。
北海道行きを報告するため、聡子は久しぶりに実家に顔を出した。
「私、北海道行ったことないから、絶対遊びに行こうね」
「よしっ、瑠花、飛行機だぞ」
「ひこうき!」
聡子が仏壇の母親に手を合わせている間も、達也たち家族は大いに盛り上がっている。
「親父、大丈夫? 寂しくなるんじゃない?」
「何言ってるんだよ。やっと嫁にいってくれて、せいせいしてるよ」
達也も友康も、精いっぱい明るく聡子を送り出そうとしてくれている。
達也とマキが瑠花を連れて部屋に引き上げると、聡子はしみじみ言った。
「もう今までみたいにご飯食べにきたり、話聞いてもらったり、できなくなっちゃうなあ」
「なかなかないわよ。四十まで実家でご飯食べられるなんて」と晴子が笑う。
「……そうだね」
「……どうかした?」
心配をかけてはいけないと思いつつ、聡子は人生の先輩である二人に尋ねた。
「……ねえ、今まで、あの時、別の選択しておけばよかったって思ったことある?……ちょっと、聞いてみたいなと思って」
「あるって言えばあるし、ないって言えばないかな」友康が言った。
「どうゆうこと?」
「選ばなかった道を後悔してもしょうがないからなあ」
「そうよね。どんな道選んだって、後悔する人は後悔する。結局、気の持ちようよ」
「……そうだよね」
いろんな分岐点を通ってきた二人の言葉を胸に刻み、聡子は帰って行った。
「聡子さん、何か迷ってるみたいね」
「ま、聡子はどんな人生を選んでも、ちゃんとやっていくさ」
「先生の娘だものね」
友康と晴子は、そう言って微笑み合った。
翌日、聡子は恵太朗とともに、喫茶店で平田に会っていた。
「急でしたのに日高に来ていただけるなんて、本当にありがとうございます。お二人の連係プレーは、すばらしいそうじゃありませんか。とても心強いです」
人柄の温かそうな人だ。聡子は微笑んだ。こういう人物が経営するなら、きっとすばらしい施設になるに違いない。
「緒方先生、岡村先生、日高でお待ちしております」
「……はい、こちらこそよろしくお願いします」
そう言って頭を下げる聡子を、それでも恵太朗は気がかりそうに見ていた。
『グランポン』のドアに『本日貸し切り』の札がぶら下がっている。
今夜は、聡子と恵太朗の送別会が開かれていた。シャンパンの栓が抜かれ、みんながグラスを軽く顔の高さに掲げた。
「聡子、岡村さん、おめでとう!」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
「ホントによかったわねえ。北海道に行っちゃうと、寂しくなるけど」瑞恵が言った。
「環境変わって大変だと思うけど、がんばってね、先輩」
「うん……。奈央も体、大事にね」
恵太朗には、聡子がどことなく無理をしているように思えてならない。
「ねえ、結婚式はどうするの?」
「新しい生活が落ち着いてから、ゆっくり考えようと思ってます」恵太朗が答えた。
「入籍は?」
「できるだけ早くって思ってますけど、とにかく今、バタバタしてるんで」
「……うん、そうなのよね」と聡子のほうは歯切れが悪い。
「そんなことだろうと思ったわよ」瑞恵が、奈央と貞夫に目配せをする。
「ダメよ。先輩は、いつもそのうちにって後に回すんだから」
「じゃーん」貞夫が取り出したのは、婚姻届とペンだ。
すでに証人欄に、瑞恵と奈央のサインがしてある。
「……ちょっと、おせっかいなんじゃない?」
「いいじゃない。ただのイベントだと思ってよ」と奈央。
「別にすぐ出さなくたっていいんだし」
「これだけ盛り上げてるんだから、空気、読めよ」
瑞恵と貞夫にも言われ、恵太朗が「そうですね」と微笑んでペンを取った。
署名欄に名前を書き、婚姻届とペンを聡子の前に置く。聡子がそのペンを持った。
「…………」
しかし、聡子の手は、いつまでたっても動こうとしない。
「……先輩?」
みんながけげんに思い始めた時、いきなり恵太朗が「すみません!」と頭を下げた。
「やっぱり僕、北海道行くの、やめます」
聡子は目を見開いた。みんなも狐につままれたような顔だ。
「病院再建の話も出てるみたいだし、こっちに残ったほうがいいと思います」
「……何を言い出すの?」
「……ずっと考えてたんです。やっぱりこっちに残ります。すみません、こんなパーティーまで開いてもらっちゃったのに」
「ホントにそう思ってるの? ずっと夢だったんでしょ?」聡子はたたみかけるように言った。「このチャンスを逃したら、今度はいつになるかわからないんじゃない? どうしてそんなこと言うの?」
「じゃあ、緒方先生はどうなんですか」恵太朗が言う。「ホントの気持ちは、どうなんですか?」
「!」恵太朗は知っていた。聡子の気持ちが、すでに傾いていることを――。
「目の前で困ってる患者さんを、病院を、助けたいと思ってるんじゃないですか? 理想の病院を作りたいんじゃないんですか? このチャンスを逃したら、もう理想の病院なんて作れないかもしれないんですよ」
「でも結婚と出産のチャンスだって、最後かもしれないわよ」
「先輩、よく考えて。どうしたら幸せなのか」
瑞恵も奈央も、聡子の幸せを心から願ってくれている。
「……そうね。私が幸せかどうかは、私が決める」自分に言い聞かせるように言い、聡子は迷いを吹っ切るように、まっすぐ恵太朗を見た。
「岡村さん、やっぱり私、病院を立て直したい」
恵太朗の顔に、ほんの一瞬、痛みが走る。
「北海道には、一緒に行けない」
「……そう言うと思ってました」
聡子を家族から引き離すことにも、恵太朗にはためらいがあった。
「……でも、岡村さんは――」
「わかってます。僕は、北海道に行きます」
その答えを聞いて、聡子はしっかりとうなずいた。
「約束する。絶対、私にしかできない病院を作るって」
「わかりました。僕も自分にしかできない仕事、するって約束します。それともう一つ、約束してもらえませんか?」
「なあに?」
「何年後になるかわからないけど、必ず戻ってきます。その時は、僕と結婚してください」
「約束はできない」
即答が返ってきて、恵太朗は、え、と言葉を飲んだ。
「岡村さん、そのままずっと北海道にいたいと思うかもしれないじゃない。それに、もし戻ってきたとしても、その時私、岡村さんの子供を産めるかどうかわからないし」
「僕は、子供が欲しいから結婚したいわけじゃありません。緒方先生と結婚したいんです」
「今はそう思ってても、この先ずっとそう思うかどうかはわからないんじゃない?」
だてにアラフォーなわけじゃない。だから、目を背けたい現実もちゃんと見つめられる。
「岡村さん。私は今までずっと、今、自分がどうしたいかで人生を選んできたんだと思う。将来のことばかり考えて、人生を選んできたわけじゃない。今回もそう。今、病院の立て直しをしなかったら絶対、後悔すると思うから」
「子供を持てなくなるかもしれないのよ。その後悔は、ないの?」瑞恵が聞いた。
「今はわからない。この先後悔するかもしれないし、しないかもしれない。でも、今、病院の立て直しをしないと後悔することだけは、わかってる。将来後悔するかもしれないって悩むより、今、後悔しないように生きたいの」
聡子は清々《すがすが》しい気持ちで言った。「それが私。私らしいってことなんだと思う」
「……はい。僕もそう思います」恵太朗がやさしく聡子を見つめる。いつか貞夫が言っていた、相手を丸ごと受け止める、そんな慈しみに満ちた目だ。
「……先輩」奈央が言った。「今、幸せ?」
「私には、すごくやりがいがあって、自分を必要としてくれる仕事がある。いつもそばにいてくれる家族がいる。なんでも話せる友達がいる。離れても、私のことをわかってくれる岡村さんがいる。岡村さんも、夢に向かってがんばってるって思うだけで、私もがんばれる」
聡子は露ほども迷いのない声で言った。「うん。私は幸せ。すごく幸せ」
恵太朗がニッコリする。
「私も」「私も」瑞恵と奈央が口々に言う。
「さあ、パーティーやろうぜ!」貞夫がとっておきのワインを開けた。
「そうよね。盛り上がるわよ」
「マーくん、じゃんじゃん持ってきて」
「おう」
聡子と恵太朗は、笑顔で見つめあった。そして澄み切った湖をのぞきこむように、互いへの想いがあふれる心を見つめていた。
一年後、愛斉会総合病院の廊下を颯爽《さつそう》と歩く聡子の姿があった。
「院長先生、おはようございます」
いまや病院の顔となった聡子に、患者達が親しげに声をかけてくる。
「おはようございます。今日は、顔色いいですね」
遥や明日香、田島に加えて精神科のスタッフも増え、病院全体に精神医療が行き渡るようにという聡子の理想に近づきつつある。あと二、三年もすれば、全てが軌道にのるだろう。
「じゃあ、今日も一日、よろしくお願いします!」
「お願いします!」
聡子と信頼関係で結ばれたスタッフ達が、きびきびと各病棟へと散っていく。
「院長、来月のスタッフ親睦《しんぼく》会の件なんですけど」と川崎がやってきた。
「副院長にお任せします」
「はい! 院長」
聡子は、不安を抱える妊婦達のグループセッションに出るため、産科病棟へ向かった。
ロビーのモニター画面には、こんなモットーが掲げられている。
『エコはケチではありません。この病院はエコを推進しています』
奈央は出産・育児の経験を生かし、赤ちゃん雑誌で活躍の場を広げていた。取材をしている間は、貞夫が仕込みをしながら赤ちゃんの面倒を見てくれている。
二人の関係も、穏やかに、ゆるやかに、進んでいる。
竹内家では夫婦で仲良く家事を分担するようになり、エプロンをつけた彰夫が、朝食の片付けをしていた。
出勤の準備を済ませた瑞恵が来て、彰夫のネクタイを直してやり、上衣を着せて鞄《かばん》を渡す。
「ありがとう」
毎朝必ず言ってくれる彰夫の感謝の言葉に、瑞恵も、毎朝変わらない笑顔を返す。
「さあ、今日もがんばるわよ」
この一年、会社から再三誘われたが、瑞恵は正社員になる気はなかった。家のことにも目を配っていられる、今の働き方が一番自分に合っていると思う。
家族三人で一緒に出かける朝が、瑞恵は大好きなのだ。
「暑い〜」口々に言いながら、聡子と瑞恵が貞夫の店にやってきた。
口コミで評判が広がり、『グランポン』は今や立派な繁盛店で、夜は奈央も貞夫を手伝っている。
「今日も混んでるわねえ」そう言う瑞恵も、営業ウーマンの貫禄《かんろく》が出てきた。
「冷えたワインちょうだい」
聡子の家族はみんな元気で、忙しい時は今も実家でご飯を食べている。仕事と家族と友達と――そして聡子の指には、恵太朗からもらった指輪が、片時も離れずにある。
さらに二年後――。
地平線を見晴らす北の大地で、恵太朗は子供達と楽しそうに畑の手入れをしていた。
ふと気づくと、子供達が作業の手を止め、道のほうを見ている。
恵太朗が土で汚れた顔をそちらに向けると、そこに愛しい人の笑顔があった。
「恵太朗さん」
恵太朗はニッコリして、その人の名前を呼んだ。「聡子先生」
子供達がニヤニヤしながら、「なんの先生?」「だあれ?」と恵太朗を冷やかす。
「聡子先生は、精神科のお医者さんなんだ」
「何しに来たの?」
「それは」
恵太朗より先に、聡子が言った。
「大切な人に会いに来ました」
子供達が大喜びで二人をはやしたてる。
夏の気配を含んだ爽《さわ》やかな風の中で、恵太朗と聡子は、微笑んで見つめ合った。
「今、幸せ?」と聞かれたら、聡子は迷わず答えるだろう。
「今が一番幸せ」と――。
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ドラマ『Around40 〜注文の多いオンナたち〜』
CAST
緒方聡子……天海祐希
岡村恵太朗……藤木直人
竹内瑞恵……松下由樹
森村奈央……大塚寧々
大橋貞夫……筒井道隆
緒方達也……AKIRA
緒方マキ……さくら
緒方瑠花……松本春姫
緒方友康……林 隆三
緒方晴子……加賀まりこ
中山美智子……大場久美子
三波由香里……吉瀬美智子
新庄高文……丸山智己
竹内彰夫……神保悟志
竹内洋介……木村遼希
川崎謙吾……松尾貴史
片山 遥……松本若菜
植村明日香……星野涼子
田島信吾……日栄洋祐
柳原和子……片桐はいり
室井……坂本 真
大島芳彦……寺脇康文
金杉和哉……加藤雅也
大泉 俊……武井 証
神林昭三……橋爪 淳
神林博義……郭 智博
STAFF
脚 本……橋部敦子
主題歌……『幸せのものさし』
/竹内まりや(ワーナーミュージック・ジャパン)
音 楽……山下康介
プロデューサー……瀬戸口克陽 高成麻畝子
演 出……吉田 健 川嶋龍太郎 坪井敏雄
制 作……TBSテレビ
製 作……TBS
BOOK STAFF
ノベライズ……豊田美加
装丁……鈴木久美(角川書店装丁室)
ドラマ『Around40 〜注文の多いオンナたち〜』は2008年4月11日〜6月20日まで全11回、TBS系にて放送されました。
本書は『Around40 〜注文の多いオンナたち〜』のシナリオをもとに小説化したものです。小説化にあたり、若干の変更があることをご了承ください。
単行本『Around40 〜注文の多いオンナたち〜』平成20年6月20日初版発行