彩乃ちゃんのお告げ
橋本紡
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)教主《きょうしゅ》さま
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)昨日|茹《ゆ》でて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]橋本 紡
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[#挿絵(img/01_000.jpg)入る]
〈帯〉
明日はきっと、いいことあるよ。
小学生にして「教主さま」。ふしぎな力をもつ少女、彩乃ちゃんがひきおこす3つの奇蹟の物語。
注目の著者が描く優しいファンタジック・ストーリー
「誰かの人生にかかわって、ちょっとだけ方向を変える。それでみんな、少し幸せになる」
素朴で真面目で礼儀正しくて。一見ふつうの5年生だけど彩乃ちゃんには、見えている。周りの人のちょっとした未来。うまくいかない相手と仲良くする方法。幸運をよぶ少女と迷える人たちのひと夏のできごと。
ほんの小さなきっかけで世界はたしかに、変わってく。
[#改ページ]
[#挿絵(img/01_001.jpg)入る]
彩乃ちゃんのお告げ
[#地から1字上げ]橋本 紡
[#地から1字上げ]Hashimoto Tsumugu
[#地から1字上げ]講談社
もくじ
第一話  夜散歩
第二話  石階段
第三話  夏花火
[#改ページ]
彩乃ちゃんのお告げ
[#地から1字上げ]装画 クサナギシンペイ
[#地から1字上げ]装幀 高柳雅人
第一話 夜散歩
なぜだか教主《きょうしゅ》さまを預かることになった。
教主さまの名前は彩乃《あやの》ちゃんといって、小学校五年生の女の子だ。この年ごろの子がたいていそうであるように、きれいな真っ直ぐの髪をしている。まとめた髪は艶々《つやつや》と光って、とても美しい。子供のころは、わたしもこんな髪だった。昔の写真を見れば、髪は真っ直ぐ肩まで垂れて、同じように艶々と光っている。なのに、いつからか癖がついた。湿気の多い日なんて、けっこう大変だ。巻いたり跳ねたりする髪を抑えるため、ずいぶんと努力もしたけれど、最近はもう諦め気味。なにをしたって無駄なので、髪ゴムで無理矢理ひっつめている。
真っ直ぐの髪の彩乃ちゃん。
化粧品が大好きな彩乃ちゃん。
わたしの胸辺りまでしか背丈がない彩乃ちゃん。
彼女は偉い偉い教主さまらしい。
戸惑いながら、わたしは言った。
「ねえ、どういうことなのよ」
目の前には、淳司《じゅんじ》が座っている。いきなり彼が来たものだから、部屋はちゃんと片づけられておらず、いろんなものがだらしなく散らばったままだった。せめて電話を入れてくれればいいのにと思いつつ、テーブルに置かれたままの缶ビールについ手を伸ばしてしまう。口をつけようとしたところで、お酒なんて飲んでる場合じゃないことに気づき、いくらか迷ってから、缶をテーブルに戻した。
「大変なんだ」
頭を丸刈りにした淳司は、ひたすら真剣だった。
「とにかく一大事なんだ」
いきなり訪ねてきた淳司は、ずっと正座で、思い詰めた顔をし、やけに緊張した声を出している。わたしはといえば、アルバイトを終えてようやく帰宅し、ビールを引っかけてほろ酔い気分。
酒に酔ってヘラヘラしているのに、真面目な顔で深刻な話をされても、ついていけるわけがない……。
彼が語るところによると、入信しているナントカ教の教祖さまが危篤状態に陥り、大騒動になっているのだそうだ。次は誰が組織を引っ張るのか、宗教的な長を誰にするのか。揉《も》めに揉めているとのこと。
事情を聞くだけで、実に厄介だとわかる。
とはいえ、わたしにとってはどうでもいい話だった。そんな新興宗教があることなんて知らなかったし、もちろん入信もしてない。そもそも、わたしは宗教というものに興味がないのだ。
時計を見ると、もう夜の十時だった。
せっかくの、ひとりでくつろぐ時間が台無しだ。
「わかったわ。事情はわかった」
本当は、あまりわかってないけれど。面倒なことを、これ以上聞きたくなかった。
「どうして、わたしのところに来たわけ」
「僕は重大な役目を与えられた」
「重大な役目……」
「これをなんとかしなければ、僕はもう、どうしようもない」
彼の真剣さに、わたしはドン引き状態だった。ナントカ教――何度言われてもまったく覚えられない――というのがなんなのか、さっぱりわからなかったし、高校時代のチャラチャラした印象しか持ってない淳司が、そんなところに入信して頭を丸めているのも理解しがたかった。
「彩乃さまを保護しなければいけないんだ。次の教主さまになられる方だ」
相変わらず真剣な顔で淳司は言った。
「彩乃さま?」
「ああ、ここにおられる方がそうだ」
彼のまなざしの先には、ひとりの女の子が座っていた。おそらく小学校高学年くらいだろう。女じゃなくて、まだ子供。あとちょっとしたら女になるころ。地味なワンピースを着て、長く伸びた髪を後ろでまとめている。
気まずい間をどうにかしたくて、やむなくビールの缶を傾けた。アルコールが喉を滑りおりていき、胃が熱くなる。いっそ飲んでしまった方がいいのかもしれない。こんなおかしな話、素面《しらふ》で聞いてられないし。
「栃原《とちはら》彩乃さまだ。教祖さまのお孫さまだ」
「孫……」
「素晴らしい力をお持ちなんだ。教祖さまの力を受け継いでおられる。教主さまは、彩乃さましか考えられない」
教祖? 教主?
ビールで唇を湿らせ、わたしは尋ねた。
「ねえ、教祖と教主って違うの」
「教祖さまは、尊い教えを生み出された方だ。教主さまは、その教えを引き継いでいかれる方だ」
「会社にたとえると、創業者と二代目って感じ?」
「まあ、そう思ってもらってもいい」
心外だったらしいが、それでも淳司は頷いた。
ここに至って、なんとなく話の流れが見えてきた。考えるだけでうんざりする。断る口実を探そうとするものの、酔っているせいか、仕事明けで疲れているせいか、頭がちっとも働かない。
思っていた通りの言葉が、淳司の口から放たれた。
「智佳子《ちかこ》、しばらく彩乃さまを預かってくれ」
ああ、やっぱり。
淳司がそのあと取った行動は、しかし予想外だった。彼は床に両手をつくと、深く深く頭を下げたのだ。床に額を擦《こす》りつけた。実に見事な土下座だ。生まれて初めて接する光景に、びっくりしてしまった。
わたしは慌てて言った。
「ねえ、やめてよ。頭を上げて」
困る。戸惑う。
頭を上げた淳司は、やっぱり真剣な目をしている。
そんな目も、短く刈った髪も、ダサい服も、とにかく違和感たっぷりだった。
わたしと淳司は、高校時代の、ただの遊び仲間だ。元恋人でさえない。十七、八のころの淳司は、ちょっとした遊び人だった。有名大学の付属校に通っていて、バスケットボール部では四番をつけていたのだから、モテないわけがない。対抗戦には、何人もの女の子が応援に駆けつけた。泣かした女の子だってたくさんいたし、わたしもさりげなく誘われたことがある。そのときは結局なにもなかったけれど、わたしも淳司もわりと楽しんでる方だった。
目の前にいるのは、わたしが知ってる淳司じゃなかった。
「頼まれてくれるか」
彼が真剣であればあるほど断りたくなった。
「他の誰かに頼んでよ」
わたしは言った。こんなときに酔っぱらっている自分が腹立たしい。ああ、頭がふらふらする。
「知らない子供を預かれるわけないでしょう」
「おまえしかいないんだ。無関係な人のところじゃないと、かえって危ないから」
「危ないって?」
「邪《よこしま》な連中が、彩乃さまを狙ってる」
次の教主を巡って内紛があるということか。詳しいことを知りたかったけれど、淳司はそれ以上教えてくれなかった。
不安が募る。
「智佳子、頼む」
「だから無理だって」
「頼む。本当に頼む」
そして、またもや土下座された。頭がさらにふらふらするのは、ビールの酔いがまわってきたせいだろうか。それとも、目の前で繰り広げられている、この気持ち悪い光景のせいだろうか。
土下座する淳司の姿を見たくなくて視線を横にずらしたところ、女の子の姿が目に入ってきた。
一目で緊張しているのがわかる。なにかが張りつめているというか。
彼女がかわいそうになった。
こんなに小さいのに、ひどくややこしい事態に巻き込まれ、会ったこともない女の家につれてこられたのだ。
同じくらいの年齢だったころ、わたしはどうだったろうか。
少なくとも幸せいっぱいじゃなかったな。
お父さんとお母さんの喧嘩に驚き、離婚しちゃったらどうしようと心配したし(ふたりはあっさり仲直りした)、ちょっとしたイジメで泣いた日もあったし(ああいうのは流行病《はやりやまい》みたいなものなのだ)、中学受験に励んでる友達の姿にひどく焦ったこともある(すぐに公立でいいやと思うようになった)。
だけど、そういうのとは、なにかが違う。
彼女はもっともっと面倒なことに巻き込まれているのだ。
「とにかく頼む」
そう言って、淳司は部屋を出て行こうとした。いきなりだったので反応が遅れ、彼が靴を履こうとしたところで、わたしも慌てて立ち上がった。
足がしかし、ふらつく。
困るよ、待ってよ、警察に届けるよと言っても、淳司は聞かなかった。警察に届けられたら、きっとまずいんだろうけれど、わたしがそこまでするわけないと踏んだのだろう。あるいは、他にアテがまったくなかったのかもしれない。いろいろ巡って、あちこちで断られ続け、わたしが最後の綱だったとか。
ああ、それはいかにもありそうだ。
どうにか追いついたわたしを、淳司はじっと見つめてきた。
「彩乃さまは本当に本当に大切な人なんだよ。素晴らしい方だということが、智佳子にもすぐわかると思う」
冗談を言っている感じではなかった。恐ろしく真剣だ。視線に揺らぎがまったくない。呆れたのか、びっくりしたのか、自分でもよくわからないけれど、なにも言えないでいるあいだに、淳司は去ってしまった。
ひとりの女の子を、教主さまを残して。
一日が過ぎ、二日が過ぎた。あっという間に、一週間も過ぎた。
やがて、教主さまだけじゃなく、夏もやってきた。
部屋を覗《のぞ》いてみると、彩乃ちゃんの小さな背中が見えた。ガラステーブルに向かう彼女は、ちゃんと正座をして、背を伸ばし、素麺《そうめん》を食べている。
彼女はとても行儀がいい。
箸《はし》の持ち方も、その他の礼儀作法も、完璧だ。
さすがは教主さま。
「彩乃ちゃん、トマトも食べる?」
尋ねると、彼女はこちらを向いた。
手に持っている箸が、やけに大きく感じられる。
体が小さいからだと頭ではわかっているものの、子供という存在に慣れていないので、どうにも違和感を拭《ぬぐ》えなかった。自分の子供を持つには早すぎるし、ひとりっ子なので甥も姪もいない。
わたしには、子供という生き物がどうにもよくわからない。
「トマト? 素麺と一緒に食べるの?」
「よく熟れているからおいしいよ」
「じゃあ、食べる」
彩乃ちゃんは普通の女の子だった。
いくらか内気なところはあるものの、わたしがひたすら気軽に話しかけると、すぐ懐いてくれた。よく知らない子供と仲良くなるなんて変な感じだったけれど、一緒に暮らしているのにお互い黙ったままというのは、どうにも気まずい。だったら仲良くなってしまった方が楽というものだ。
もっとも、誰もがこんなふうに考えるわけではないのだろう。
「智佳子は物怖《ものお》じしないね」
なんて友達に指摘されたことがある。
「誰とでもすぐ仲良くなれるよね」
と、うらやましがる友達もいたっけ。
「根がお気楽なのよ、智佳子は」
そう言われたのは、厭味《いやみ》だったのか、あるいは親しみだったのか。
わたしだって物事を深く考えることはあるけれど、それでも最後には希望を見たいし、辛いよりは楽しい方がいいと思う。たとえ辛くても、その向こうには、なにかがあってほしいというか。人がわざわざ高い山に登るのは、頂上に達したとき、とても気持ちがいいからだ。高ければ高いほど、登るのは辛くなる。そして、高ければ高いほど、そのてっぺんに立ったとき、たまらない達成感を得られる。なんの希望も持たないまま、山を登り続けるなんて、わたしには絶対できない。
とにかく、ふたりで押し黙っているよりは、笑っていた方がいい。
そうして仲良くなってみると、拍子抜けするほど彼女は普通だった。テレビを観たがるし、ゲームをしたがるし、わたしのマニキュアやら口紅やらに興味津々だ。
彼女が教主さまだなんて、どうにもピンと来ない。
「すぐに切るね。ちょっと待ってて」
大きなトマトを縦に割った。包丁で半分にする。それを半分、さらに半分。あれ、薄く切りすぎたかもしれない。八等分されたトマトを皿に並べ、部屋に持っていく。
「ごめんね、素麺ばっかりで。お母さんが送ってきたんだけどさ、すごくたくさんなの。飽きてきたでしょう」
彩乃ちゃんは小首を傾げた。
「ちょっとだけ飽きてきたかも」
「わたしなんてさ、もっと飽きてるよ。この一ヵ月、ずっと食べてるんだもの。梅雨が明ける前からだよ。箱いっぱいの素麺なんて、食べられるわけないよね。わたしさ、ひとり暮らしだし」
ガラステーブルの真ん中には大きなボウルがあって、素麺がいっぱい入っている。昨日|茹《ゆ》でて、ずいぶん食べたはずなのに、まだ残っているのだ。彩乃ちゃんの前に、ツユの入った器がひとつ、わたしの前にひとつ。それにコップもひとつずつ。コップには、麦茶が注がれている。
コップはたっぷり汗をかき、その足もとに小さな水たまりを作っていた。
七月も末になり、ずっと暑い日が続いている。食卓の上も、窓の外の日差しも、いきなり真夏という感じだった。
わたしは素麺を啜《すす》りながら言った。
「彩乃ちゃん、すごいね。トマトを食べられるんだね。わたし、子供のときは駄目だったよ。トマト、大嫌いだった。うえってなっちゃうんだよね。給食のときは、いつも隣の子に食べてもらってたよ」
こういうとき、女同士って気楽だ。頭に浮かんだことを喋《しゃべ》ってさえいれば、とにかく時間が流れていく。
ふと気づくと、彩乃ちゃんがわたしを見ていた。
「どうしたの」
尋ねた拍子に素麺が変なところに入ってしまい、わたしはむせた。ごほごほと派手に咳き込む。そのあいだに彩乃ちゃんは立ち上がると、キッチンに向かった。
わたしが暮らすこの部屋は典型的なワンルームで、六畳の洋室に、キッチンがついている。キッチンといっても専用のスペースが設けられているわけではなく、玄関から洋室に至る廊下の脇に、ガスコンロと冷蔵庫を置く場所があるという感じだ。流し台の横に小さな棚を押し込んで、そこに調味料なんかを並べてある。その棚を開けると、彩乃ちゃんは塩の瓶を持ってきた。
あれ、どうして塩のある場所がわかったんだろう。
教えた覚えはないのに。
咳き込みつつ、そんなことを考えていると、戻ってきた彩乃ちゃんがわたしの背中に手を置いた。その途端、するりと息ができるようになった。さっきまであんなに苦しかったのが嘘のよう。
ちょっとびっくりしてしまった。
まあ、たまたま治まっただけなんだろうけど。
わたしの背中から手を離すと、彩乃ちゃんは瓶を傾け、ぱっぱっと塩をトマトにかけた。白くて小さな粒がトマトに乗った途端、すぐ水を吸って透明になり、やがてトマトの赤に染まった。
「彩乃ちゃん、塩でトマトを食べるんだ」
「うん、そう」
頷いてから、彩乃ちゃんは、つるつる滑るトマトを箸で器用につまみ、その口に運んだ。子供なのに、よくもまあ、こんなにうまく食べられるものだ。わたしだったら、途中でトマトを落としてるだろう。
「塩で食べるなんて渋いね」
「智佳子ちゃんは食べられないの」
お姉さんなんて言われるのはどうにも嫌なので、三日目くらいから、彼女には名前で呼んでもらっている。
「今は食べられるよ。食べられなかったのは昔の話」
トマトを一切れ、手でつまみ、口に入れる。そして、さらにもうひとつ。もぐもぐとトマトを噛む。
彩乃ちゃんは目を丸くした。
「ふたつも食べられるんだ」
「大人だからね」
ふふん、と余裕で笑っておく。彩乃ちゃんは驚いて、ぱっちりした目を瞬《またた》かせた。ちゃんと驚いてくれたので、けっこう気分がよくなってしまう。
それで、トマトをあとひとつ。
「智佳子ちゃん、すごい」
呟く彩乃ちゃんにわざとらしくウィンクしておいた。だけど、さすがにみっつはきつかったな。口の中がトマトでいっぱいだ。
彩乃ちゃんもトマトを食べようとしたけれど、その一切れは手強《てごわ》かった。
つるつる滑って、箸でつまめない。
「それ、手で食べてみなよ」
「手で? いいの?」
「ここじゃ誰も気にしないから。わたししかいないしね。それに、手で食べた方がおいしいんだよ」
「本当に?」
「保証します」
片手を上げ、恭《うやうや》しく言ってみる。宣誓しますって感じ。
迷った様子を見せたものの、恐る恐るといった感じでトマトを手で取ると、彩乃ちゃんは口に運んだ。
その目が丸くなった。
「本当だ。おいしい」
「でしょう。手で食べた方がおいしいのよ」
もちろん、残りのトマトを、わたしたちは全部手で食べた。
食事を終えると、彼女はドレッサーの前に座り込んだ。並んでいる化粧品を、ひとつずつ手に取っている。
「ねえ、これはなに?」
「口紅だよ。ディオールっていうブランド」
「これは?」
「シャネルのヴェルニっていうマニキュア。この秋の新色なの。きれいでしょう」
「黒いのは?」
「それを使うと、睫《まつげ》を長く見せられるの。マスカラね」
マスカラはコンビニで買ったものだ。安物なので乾くとぼろぼろ落ちてくる。今はもう、使っていない。化粧品に夢中の少女を横目で見つつ、教主さまねえと思った。宗教の、一番偉い人というわけだ。
とてもそんなふうには思えないけどな。
英輔《えいすけ》とは、付き合って三年になる。大学のときに知り合って、二年くらいは友達期間があった。多摩川にみんなでバーベキューに行ったあと、家まで送ってくれたのが彼だった。それまで異性として意識したことはなかったものの、車の中でなんとなくいい雰囲気になり、翌日メールが来た。告白されたのは、それから一ヵ月ほどあとだ。
顔は二枚目というほどじゃないけれど、悪くはない。よく見ると、味わい深いタイプだ。いい顔、だと思う。それに英輔の服の趣味はなかなかだった。女と違って、男はアイテムで容貌を誤魔化《ごまか》せるのだ。二枚目になるのは無理だけれど、渋さや格好いい雰囲気を身にまとうことができる。
もっとも、ここのところ、英輔にはそういう努力が欠けている。
最近の彼は、とても忙しい。残業時間がどんどん増えるばかり。社会人五年目で、大きな仕事を任されるようになったせいだ。だいぶんくたびれて、ただの若造が大人っぽくなってきた。
夜の十一時ごろ、英輔から電話がかかってきた。
「これから大丈夫? 飯、一緒に食べないか?」
「いいよ。いつものファミレスね。今、どこ」
「新宿駅の南口。もうすぐ電車に乗るところ。十五分くらいでそっちの駅に着くと思う。先に行って、ラブシートを確保しておいてくれよ」
駅前のファミレスには、死角になっている席がある。
そこなら、ぴったりくっついて座ってもあまり恥ずかしくない。わたしたちは、その席を勝手にラブシートと呼んでいた。
ふたりだけの、恥ずかしいネーミングだ。
「わかった。ちゃんと確保しておくね」
わたしと同じようにひとり暮らしをしている英輔は、仕事のあと、外で食事を摂ることが多い。
なかなか会えないわたしたちは、その食事タイムをデート代わりにしていた。
わたしとしては不満たっぷりだ。
文句を言いたくなることだってある。
とはいえ彼が気を遣っているのは、ちゃんとわかっていた。わざわざわたしの住む駅で電車を降り、会う時間を作ってくれているのだ。同じ沿線に住んでいるからできることとはいえ、最近の英輔は疲れ切っているので、本当なら自分の部屋に直行して、すぐにでも眠りたいはずだ。
あれで英輔はなかなかマメなのだ。少し悪ぶったりすることもあるけれど、根が真面目なのだろう。
「あ、そうか」
電話を切ってから気づいた。
うちには今、彩乃ちゃんがいる。どうしようか。置いていっても大丈夫だとは思う。子供とはいえ、もう小学校五年生だし。だけど、ここに逃げ込んできている彼女を置いていくのは、なんだか忍びなかった。
少し迷った末、彩乃ちゃんに声をかけた。
「これから出かけようか、彩乃ちゃん」
「え、今から?」
「夜の散歩ね。あと、お腹|空《す》いてない?」
どうかな、という顔をした。お腹に手をやり、首を傾げる。わざとらしい仕草だけれど、大袈裟《おおげさ》に演技しているわけではなさそうだ。
子供というのはおもしろい生き物だなあと思った。
「そういえば空いてるかも」
「じゃあ、なにか食べようよ。近くのお店にね、しばらくしたら、わたしの友達が来るの。紹介するよ」
外に出たところで、彩乃ちゃんがあくびをした。
「彩乃ちゃん、もしかして眠い?」
「ちょっと」
「やっぱり家で寝てる?」
ううん、と首を振った。
「一緒に行く」
早寝早起きの生活だった彩乃ちゃんにとって、夜の十一時に起きているというそのことが、すごく楽しいらしかった。
「もう寝なくていいの」
最初の夜、そう尋ねられた。
「いいよ、別に。わたしも起きてるし。彩乃ちゃん、普段はいつごろ寝てるの」
「九時」
「早いね。あ、でも、子供ってそんなものか。じゃあ、起きるのは?」
「五時」
「すごい」
いろいろ尋ねてみたところ、彼女はそれ以外の生活をしたことがないようだった。毎朝五時に起きて、禊《みそ》ぎとやらをして、お唱《とな》えとやらを一時間半して、食事を摂って、学校にはいちおう行って、帰ってからまたお唱えをして、勉強を一時間して、さらに夜のお唱えをして、そして就寝。
毎日毎日、まったく変わることはない生活。
同じことの繰り返し。
その禊ぎやらお唱えやらがどれくらい立派で、どれくらい胡散臭《うさんくさ》いのかよくわからなかったものの、規則正しい生活をすること自体は決して悪いことじゃない。それをわたしが崩してしまうのはまずい気もしたけれど、だからといって、いきなり生活を正すなんて不可能だった。
九時に寝て、五時に起きる?
無理。
そんなの絶対できない。
というわけで、必然的に、彼女がわたしの生活に合わせることになった。まあ、たまにはそんなふうに過ごすのもいいだろう。きれいにきっちり生きることが、必ずしも正しいわけじゃないし。
心の中で言い訳をしつつ、夜道を進んだ。
幸いにもラブシートは空《あ》いていた。店の一番奥だし、たいていの客はそこに席があることさえ気づかない。忙しく働く店員の脇を抜け、さっさとその席に向かった。途中でいちおう、店員のひとりに目配せをしておく。ここに座りますよ、と。
いつものシートに座った途端、胸が弾んだ。もうすぐ英輔が来る。一週間ぶりに会える。彼が向かいに座る。真っ直ぐに顔を見られる。けれど、向かいに座ったのは彩乃ちゃんだった。
まあ、しょうがないか。つれてきたのは、わたしだし。
五分くらいたってから、英輔がやってきた。目が合うと、英輔は笑ってくれた。一週間ぶりに会えるのが嬉しいという顔だった。わたしも嬉しくなってしまう。顔が自然とほころぶ。
ところが、英輔の笑顔は、すぐ消えてしまった。
「え、誰?」
彩乃ちゃんに気づいた彼が尋ねてきた。
仕事帰りの英輔は、濃紺のスーツを着ている。ネクタイはシルバーで、同系色の細いラインが斜めに入っているタイプだ。似合ってるけれど、一日中働いてきたせいか、いくらかくたびれていた。伸びすぎた髪が、少しみっともない。
「友達から預かっちゃって」
「なに、友達の子?」
「そんなところかな」
いちいち説明するのは面倒なので、曖昧《あいまい》に答えておいた。
たいていの男がそうであるように、大雑把《おおざっぱ》に見えて、英輔には妙に細かいところがあった。焼き餅を焼くし、縛りたがる。
淳司のことを話すと、面倒になりそうだった。
痛くもない腹を探られてはたまらない。
「ふうん」
途端、英輔は不機嫌になった。
「コブつきか」
ごめんねと思いつつ、わたしのせいじゃないという気持ちもあった。好きで彩乃ちゃんを預かってるわけじゃないし、ここにつれてきたのだって、やむをえずだ。
なぜ英輔はそういうことを考えてくれないのだろう。
「今日も仕事大変だったの」
「もう無茶苦茶だよ。限界超えてる。今週はずっと早出だったしさ。明日だって七時に出社しなきゃいけないんだぜ」
「え、七時? もう十一時だよ?」
「四時間は眠れるから、ましな方だって」
鞄《かばん》を持ったまま、英輔はどちらに座るか迷った。わたしの隣か、彩乃ちゃんの隣か。結局、彼はわたしの向かいに腰かけた。つまり彩乃ちゃんの隣だ。
「疲れてない?」
「かなり疲れてるよ」
「わたしと会ってて大丈夫?」
急に申し訳なくなって、わたしは尋ねた。さっきまでの苛立ちが薄まる。
まあ、なんとか、と英輔は言った。
「こうでもしないと会えないからな」
ファミレスの大きなメニューをテーブルいっぱいに広げた英輔は、それでも少し元気になった。
「俺、すごく腹が減ってるんだ」
まるで子供みたいだ。
色とりどりの料理に気をよくしているのだった。
「わたしもしっかり食べようかな」
「太るぞ。腹がたぷたぷになる」
「そうなんだよねえ。最近、まずいかなと思ってるの」
「ヨガでもやったら」
「ええ、ヨガって痩《や》せられるの」
「すぐ体重が落ちるわけじゃないんだって。体のバランスが整うっていうか、それで自然と体重もちょうどいいところにおさまるらしいよ」
「即効性はないわけね」
「まあな。でも、いきなり痩せるのはかえってまずいだろう」
「リバウンド?」
「そうそう。前にさ、おまえ、三キロ痩せたあと、五キロ戻ってただろう」
「あれは大失敗だったかも」
「ぷよぷよしてたよな、あのころ」
思い出したのか、英輔はおかしそうに笑った。
彼の笑顔が戻ってきたのが嬉しくて、わたしも笑った。
「そう、ぷよぷよしてた。入らなくなった服があったもの」
三年も付き合ってると、こんなことだって平気で言える。
気楽だけれど、いくらか寂しくもある。付き合い始めたころは、こうして顔を合わせるだけで緊張したものだった。出張に行く彼を、わざわざ羽田まで見送りに行ったことがあった。たった二十分しか会えないのに、ちゃんと化粧をして、お気に入りの服を着ていった。
今のわたしはすっぴんだし、格好もいい加減そのものだ。変わったのは英輔だけじゃない。わたしだって、ずいぶん気が抜けている。
なんの色も乗ってない爪を見ながら、そんなことを思った。
「――は?」
考えごとをしていたせいで、英輔の言葉を聞き逃した。
「え、なに」
「この子の名前は?」
「彩乃ちゃん」
そうか、と頷き、英輔は隣にいる少女に顔を向けた。不機嫌さが増すのかと思ったら、意外と優しい顔になった。
「よろしくな、彩乃ちゃん」
初対面の人を前にして、彩乃ちゃんは少し緊張してるみたいだった。
なにも言わず、ただ頷いただけ。
「ちょっとトイレに行ってくるね」
わたしはそわそわしながら席を立った。
「わたしの分、注文しておいて。わたしは――」
「グラタンだろう」
顔を上げた英輔がそう言った。
「おまえ、いつもそれだもんな」
「だって好きなんだもの」
「お母さんの味だからな」
疲れた顔で英輔が笑ってくれる。
うん、と頷いて、わたしはトイレに向かった。
ここのグラタンが好きなのだ。少し粉っぽくて、バターの味が強いグラタン。いかにもファミレスという味だけれど、母親が作ってくれたそれに似ている。
トイレに入ると、すぐ鏡と向かい合った。
鏡の上に蛍光灯があって、やたらと白い光のせいか、顔の粗《あら》がはっきり見える。目尻に細い皺《しわ》があるし、右の頬の染みが目立った。唇は少しガサつき気味。こんな顔で恋人に会っていたのかと思うと、ぞっとする。
「駄目だな、わたし」
呟きが漏れた。
「これじゃあ、女失格だよ」
ちゃんと化粧をしたいけれど、なにも持ってきていない。とりあえず薬用リップだけでも塗ろうとバッグを開けたところ、ファンデーションと口紅とマスカラと髪留めが目に入ってきた。
あれ、どうしたんだろう。こんなの、持ってきた覚えないのに。
まあ、いいか。あるんだから使おう。前に出かけたときから、入れっぱなしにしてたのかもしれない。
まず髪を大雑把に上げ、ファンデーションをのばす。一度顔を合わせているので、今さら大袈裟な化粧はできない。ナチュラルな感じを心がける。それからマスカラを丁寧に塗った。睫がほんの少し黒さを増す程度。そして唇に紅を乗せる。最後に髪を下ろし、軽くブラシを入れたあと、もう一度、こんどはちゃんとまとめた。根本を髪ゴムできっちり縛ってからくるりと巻き込み、先の尖《とが》った髪留めで斜めにとめる。シルバーの細長い髪留めは、その辺で売っている安物ではなかった。いくつかちりばめられている赤い石は、本物のルビーだ。ああ、やっぱりおかしい気がする。この髪留めは大切なので、滅多にドレッサーから出さない。前に使ったのがいつなのか、思い出せないほどだ。バッグに入りっぱなしになっているわけがなかった。いったい、どういうことなのか。
答えを出せないまま、いちおう身支度が終わった。何度も何度も鏡で確認した。大袈裟になりすぎていないか、バランスが悪くないか。結った髪の先がきれいに広がるよう丁寧に整える。
うん、これで大丈夫かな。
慌ててトイレを出て、いつものラブシートに向かったら、英輔と彩乃ちゃんは手元を揃《そろ》って覗き込んでいた。
なんだか親子みたい。
もし事情を知らない他人が見たら、英輔と彩乃ちゃんを本物の親子だと思うかもしれない。兄妹にしては、歳が離れすぎているし。母親は? あ、わたしか。そのとき、ふいに結婚という言葉が頭に浮かんできた。最近、英輔が発する言葉の端々に、なんとなくそういうものを感じることがある。こちらの反応を窺っているのか、ただ気持ちが漏れてしまっているのか、はっきりとはわからないけれど。
もし英輔からプロポーズされたら、わたしはどうするんだろう? イエス? それともノー?
わたしは英輔を愛している。わがままなところや、つまらないことで不機嫌になる狭量さに我慢できないこともあるものの、優しさや誠実さには惹《ひ》かれるし、ちょっと強引なところも嫌いじゃない。なにより、たまに彼が見せる弱さに、心が揺れる。今まで何人かの男と付き合ってきたけれど、守ってあげたいと感じる相手は英輔が初めてだった。
でも、それだけがわたしの道なんだろうか。
英輔との結婚は悪くない。
ただ、他の道だってあるんじゃないか。
真っ暗な場所に、わたしは立っている。振り向くと、今まで歩いてきた道がある。前を向くと、そこには何本もの道が延びている。ただし、その先は薄暗くて見えない。ある道はどこまでもどこまでも延びているかもしれないけれど、ある道はすぐ途絶えているかもしれない。
今ならまだ選べる。
どの道にだって進める。
ぴかりと光っている道があればいいのに。そんな道があれば、迷うことなく、足を進めるのに。
「ねえ、なにしてるの」
定まらない心を持て余したまま、わたしは席に着いた。
「新商品の試作品を彩乃ちゃんに見せてあげてるんだ。社内でも十人くらいしか知らない極秘商品なんだぜ」
得意気に英輔が言う。
子供っぽい自慢が、なんだかかわいかった。
「わたしにも見せて」
彩乃ちゃんが手にしているのは、携帯ゲーム機だった。
「どうするの、これ」
「要するに育て系ゲームだな。キャラクターがかわいいんだ。元のイラストを見たとき、絶対当たると思ったんだけど、ドットでそのかわいさを表現するのが難しくて。再現性の高い液晶を使うと、コストがかかるんだ。試行錯誤してたら、うちの課のバイト君がたまたまドッターの経験があってさ。おまえ、ドッターってわかるか」
「わかんないよ、そんなの」
「小さな点をドットっていうだろう」
「ああ、うん」
ようやくわかった。そうか、ドット柄のドットか。
「ドットで絵を再現する職業をドッターっていうんだよ。そのバイト君が休み時間に遊び半分で作ったドット絵が無茶苦茶よくて、再現性の低い液晶でもいけそうなんだ。もうびっくりだよ。それでいきなり商品化の目処《めど》がついたんだ」
仕事の話に夢中の英輔は、わたしが化粧をしたことなんて気づいてないみたいだった。
つまらないような、それでいいような。
改めて化粧したと知られるのは、なんだか恥ずかしい。だけど、気づかれないのは、ちょっと寂しい。
やがて料理が運ばれてきた。彩乃ちゃんは名残《なごり》惜しそうにゲーム機を英輔に返し、わたしたちは食事をした。ゲーム機のおかげか、英輔と彩乃ちゃんはすっかり仲良くなっていた。英輔君、彩乃ちゃん、なんて呼び合ってるし。ちょっと悔しい気もする。とはいえ饒舌《じょうぜつ》に話すふたりを見るのは楽しかった。もし英輔と結婚して、女の子ができたら、こんなふうになるんだろうな。ふたりでパパを取り合うんだろう。
十二時を過ぎたころ、わたしたちは店を出た。
英輔の乗る最終電車の時間が迫っていた。
店を出たところで、英輔が彩乃ちゃんに声をかけた。
「なあ、彩乃ちゃん、あっち向いててくれないか」
彩乃ちゃんは素直に、その言葉に従った。直後、英輔が顔を寄せてきた。頬と頬が、そっと触れた。
胸の中で、なにかが弾む。
「あんまり会えなくてごめんな」
「うん」
耳元で響く声が、すごく心地いい。
「おまえ、きれいだな」
「なによ。いきなり」
「そう思ったから言っただけ。髪留め、ちゃんとつけてきてくれたんだな」
ルビーがついた髪留めは、英輔からのプレゼントだった。二年前の誕生日、少ない給料をはたいて買ってくれたのだ。バッグにこの髪留めが入っていた理由は、よくわからない。ただの偶然だろうか。だとしたら、神さまの配慮に、感謝しなくては。
こういう奇跡みたいな瞬間があるのだ。
奇跡なんて大袈裟すぎるかな。ただの偶然だし。でも奇跡でいいや。
そう思っておこう。
わたしたちは、その場でキスをした。あっちの方を向いてるけれど、すぐそばに彩乃ちゃんがいるし、たまに人も通るから、軽く唇が触れるだけのキス。一秒もせず、唇は離れてしまう。
それでも十分に幸せだった。
英輔の唇の感触が、いつまでもいつまでも残っている気がした。
「今度は普通に会おうな。すごく楽しいデートをしよう」
「約束ね」
「ああ、約束だ。ええと、彩乃ちゃん」
話しかけられた彩乃ちゃんは、ようやくこちらを見た。言われた通り、ちゃんと背を向けたままだったのだ。
「ちゃんと完成したら、あのゲームをあげるよ」
少し間があった。
「ありがとう」
なんだか小さな声だ。
「七色あるんだけど、何色がいいかな」
「じゃあ、水色」
「わかった。特別に、一番きれいな水色を取っておくよ」
駅まで見送ると、英輔は大きく手を振りながら改札の向こうに消えていった。
帰り道、彩乃ちゃんは落ち込んでいた。
ずっとうつむいている。
英輔と別れたことが寂しかったのだろうかと思ったものの、そんなわけはない。たった一時間かそこら、一緒にいただけなのだ。
どうしたのと尋ねると、しばらくしてから彼女は答えた。
「わたし、嘘ついちゃった」
「嘘って?」
「次なんてない。もう会えない」
彼女は一時期、わたしに預けられているだけだ。とはいえ、期限が決まっているわけではなかった。
「わかんないよ。また会えるかもしれないじゃない」
「無理なの」
「いつ淳司が迎えに来るか決まってないし」
「絶対に無理なの」
やけに言葉がはっきりしていた。
「彩乃ちゃん、もしかしてわかるの」
彼女は頷いた。
「うん。わかる」
なぜそこまで断言できるのだろう。素晴らしい力を持っていると淳司は言っていた。だけど、そんなの、いかにも胡散臭いではないか。
信じがたいし、信じたくもない。
「次なんてないってわかってるのに頷いちゃった。見送るとき、またねって言っちゃった。それって嘘だよね」
彩乃ちゃんは細い声で言った。
今にも泣きそうだ。
彼女が本当にわかる≠フかどうか、わたしにはわからない。けれど、彼女が傷ついていることだけはわかった。
またね、なんてわたしたち大人は平気で口にする。二度と会うことがないと知っている相手でも、挨拶のように言う。世の中、そんなものだと思っているからだ。知恵でもあり、諦めでもある。
たとえ不思議な力を持っているとしても、彩乃ちゃんは子供だった。小さなことで、自分を傷つけてしまう。
駅前の広場で、彼女が立ち止まった。
「どうしたの」
「歌ってる人がいる」
「え、どこに」
「そこ」
彼女が指差した先には、なにもなかった。がらんとした空間が広がっているだけだ。休日の夕方だと、路上ミュージシャンが歌っている姿をたまに見かけることがあるけれど、平日の、しかも深夜になった今は、誰もいない。
「そこって」
「目の前」
あっさり答える彼女の声に、ぞくりとした。
頬に風の流れを感じる。ゆるゆると吹く夜の風だ。たった今、吹き始めたわけではない。吹いていることに気づいただけだ。
飲んだ息の音が、やけに大きく聞こえた。
「わたしにはなにも見えないよ」
「でもいるよ。すごく楽しそうに歌ってる」
わたしには車の音しか聞こえない。
「どんな歌を歌ってるの」
「よくわかんない。英語だから」
「口まねしてみてよ」
ええ、と嫌そうな顔をしたものの、彩乃ちゃんは耳をすました。
「とぅもろーねばーのうず、だって」
「ああ、なるほど」
ビートルズだろうか、それともミスチルだろうか。
「どういう意味なの」
尋ねられたので、わたしは答えた。
「明日のことはわからない」
そう、普通の人にはわからない。未来は見えない。けれど、見える人だっているのかもしれない……。
「島岡《しまおか》さん、休憩行っていいよ」
はあい、と店長の言葉に頷き、わたしは緑色のエプロンをはずした。
わたしが働いているのは、駅前にある花屋だ。新卒で入った通信大手が性に合わず、頑張ってはみたものの二年で辞めた。それからいくつかアルバイトをして、ここ数年は花屋に落ち着いている。時給は高くないし、意外と重労働だけれど、花の世話をするのはとても楽しかった。
花は、生きている。
放っておくと枯れてしまうし、こまめに手入れをすると美しくなるし、不思議なことだけれど毎日話しかけていると、ただそれだけで鮮やかさを増す。人や、犬や、猫と、まったく同じだった。
もっとも、こんなことを言ったって、たいていの人は信じないだろう。だから、わたしは口にしない。大切な秘密のように、心にしまっている。
わたしは花を買っていく人たちのことも好きだった。
彼ら、あるいは彼女たちの、浮かれた気持ちに接するのが心地よかった。
幸せのお裾分《すそわ》けを貰《もら》ってるような感じだ。
「ありがとう」
ラッピングした花束を手渡すと、たいていの人は微笑んでそう言ってくれる。だから、わたしも本気で頭を下げられた。
「ありがとうございました」
そう口にする瞬間が、すごく好きだ。
とはいえ、いつまでも花屋でアルバイトというわけにはいかないこともわかっている。この仕事でずっと暮らしていくのは無理だ。一日一日は楽しいし、満足感もあるけれど、世間の相場からしてもずいぶん低い時給や、先の保証がないことを思うと溜息が出る。ようやく手に入れた自由は、存外小さなものだった。
ぴかりと光る道が見えればいいのにな。
迷わず、その道に飛び込むのに。
昼食代を節約しようと、近くのファストフード店に入った。一番安いメニューを頼み、窓際に腰かける。本当なら、お弁当を作った方がいいのだ。飲み物も水筒に入れて持ってきた方が安くすむ。お金をもっと節約できる。わかってはいるものの、なかなかそこまではできなかった。貧乏くさい気がしてしまう。
まあ、確かに貧乏だけど。たいして貯金もない。わかっているくせに、直視しない甘っちょろい自分がいる。
心の中で自嘲しつつ、ぱさぱさしたハンバーガーを囓《かじ》っていると、花束が目に入ってきた。窓から見える駅前広場の一角に、缶コーヒーと一緒に置いてある。その花束は、わたしが午前中に作ったものだった。
弔《とむら》いの花束、というオーダーで。
店長に聞くと、あっさり教えてくれた。
「五年くらい前かな。配送のトラックがブレーキをかけ損ねて、駅前広場に突っ込んだんだ。たまたまそこに路上ミュージシャンがいて、大騒ぎだったよ。救急車は来るし、車から降りた運転手は酔ってて、大声で騒ぐし」
店長は余分な枝をぱちんぱちんと切っている。おじさんらしい太い指なのに、器用に素早く動く。
「その路上ミュージシャンはどうなったんですか」
「即死だったって。すごい血だったよ」
これ、処理しておいて。店長が百合の束を押しつけてきた。白い蕾《つぼみ》がたくさん。まだ花は開いていないのに、顔を寄せると、ちゃんと百合の香りがする。
百合の香りに包まれながら、彩乃ちゃんを思い出した。
彼女は確かに聴いてたんだ。
事故で死んだ路上ミュージシャンの歌を。
悟ると同時に、英輔と会った夜、バッグに化粧品と髪留めが入っていたことを思い出した。化粧品も、髪留めも、バッグに入れっぱなしにしていたわけじゃない。少し前、彩乃ちゃんはドレッサーの前で口紅を触っていたではないか。
あれから、彼女がバッグに入れたのだ。
いろんなことを見越して、準備してくれたのだ。
八月に入っても淳司は迎えに来なかった。わたしと彩乃ちゃんの共同生活も二週間近くなり、そのころになるとふたりでの暮らしがだんだん板についてきた。馴染むにつれ、彩乃ちゃんはわがままが増えて、その子供っぽさに腹が立つことも多かった。だから彼女に不思議な力があると知っても、特別扱いする気にはなれなかった。
彼女は普通の女の子なのだ。
たまに世界を見通してしまうだけのこと。
「智佳子ちゃん、お外に行きたい」
彩乃ちゃんがそんなことを言い出したのは夜中だった。十時を過ぎ、そろそろお風呂に入って、寝ようかというころ。
パジャマに着替えていたわたしは、困ったなと思った。面倒臭かった。
「お外でなにをするの」
「別に」
うつむき、体をもじもじさせている。
なんだか様子が変だ。
普通のお母さんなら、ここで叱ったり諭《さと》したりするのかもしれなかった。だけど、わたしは、お母さんではない。
ふう、と息を吐いてから立ち上がり、パジャマを脱いだ。
「彩乃ちゃんも着替えて」
「え、いいの」
途端、笑顔が輝く。
やれやれと思いつつ、無邪気な顔を見ると、なんだかわたしまで嬉しくなってしまうではないか。
「だって、彩乃ちゃん、お外に行きたいんでしょう」
アパートを出ると、ぬるりとした風がわたしたちを包んだ。夜になっても気温はあまり下がらない。アスファルトとコンクリートが、たっぷり熱をため込んでいるからだ。
「どこに行こうか」
ううん、と彩乃ちゃんは首を傾げる。お外に行きたいと言ったものの、目指す場所があるわけではないようだった。
「じゃあ、コンビニでも行こうか」
「わたし、夜のコンビニって行ったことない」
「え、ないの」
冗談かと思ったものの、彩乃ちゃんは真剣な顔をしている。さすが教主さま。大量消費主義の象徴、夜のコンビニには縁遠いというわけだ。
「じゃあ、行こう。楽しいよ。夜のコンビニって」
よっぽど嬉しかったのだろう。
るうらら、るうらら、と歌いながら、彩乃ちゃんがわたしの前を歩いている。時たまスキップを交えつつ。とても楽しそうな足取りだ。
わたしまで、なんだか楽しくなってしまう。
「夜っていいね、智佳子ちゃん」
振り向いた彩乃ちゃんが言った。長い髪が肩にかかり、ゆるりと流れている。まるで闇の一部を切り取って、体にまとっているかのようだ。
「彩乃ちゃん、楽しいの」
尋ねると、彼女は頷いた。
「うん。夜は楽しい。夜はおもしろい。昼間と違う」
「そうだね。昼間とは違うね」
彩乃ちゃんといるのが、とても特別なことのように思えてきた。
わたしと彩乃ちゃんは親子じゃない。ただの他人だ。なにかの巡り合わせで、たまたま一緒にいるだけのこと。彩乃ちゃんはいつかいなくなってしまう。こうして過ごせる日が、あと何日あるのか。
急に寂しくなって、わたしは彩乃ちゃんの名を呼んだ。
「なに」
彼女が振り向く。笑っている。夜の闇に浮かぶ彼女の白い笑顔は、まるで輝いているようだった。
ううん、とわたしは首を振った。思いが言葉にならない。
「なんでもない」
「智佳子ちゃん、変なの」
「そうだね」
ふたりでくすくす笑った。いつの間にか彩乃ちゃんに追いつき、わたしたちは並んで歩いていた。彼女の小さな頭に手を置いて、軽く抱き寄せる。そうして腕に抱いてみると、彼女の頭はびっくりするくらい小さかった。
「あのね、智佳子ちゃん」
腕の中で、彼女が言った。
「心配しなくていいよ」
「なにが」
「わたしのこと」
「え……」
「もうね、決まってるの。周りの人はいろんなことをしてるけど、本当は全部決まってるの。少ししたら迎えの人が来ると思う。それで智佳子ちゃんとは二度と会えない。それっきりになっちゃう」
手を離し、彩乃ちゃんの顔を見たかった。どんな表情をしているのか知りたかった。だけど怖くもあった。
「わかるんだね、彩乃ちゃんには」
「わかるよ」
「すごいな。ねえ、そういうのって辛い?」
「たまに」
「そっか。いいことばかりじゃないよね。誰かね、偉い人が言ってたよ。なにかを得ると、なにかを失うんだって。誰にだってキャパシティっていうのがあって――」
「きゃぱしてぃ?」
「ああ、つまりバケツみたいなものよ。人はみんな、それぞれがひとつずつバケツを持ってるの。だけど、人によって、バケツの大きさが違うのね。ある人はものすごく大きなバケツだし、別のある人はすごく小さなバケツ。同じバケツなのに、だから入れられる水の量が違うの」
自分がなにを言おうとしているのか、だんだんわからなくなってきた。
「たまに大きなバケツを持たされて、水をたっぷり入れられちゃって、持ちきれなくて落とす人もいるよ。それって最悪だよね。とにかく、大きさはそれぞれだけど、入れられる水の量には限りがあるわけ。バケツの大きさ以上に水は入らない。入れようとしたら、どんどん溢《あふ》れちゃう」
わたしはどんなバケツを持っているのか。たいして大きくはないだろうな。それに、水はまだ、ろくに入ってないかもしれない。淳司のバケツは、もう溢れていそうだ。あんな顔をしてたんだから。
そんなことを考えつつ、黙ったまま夜道を歩き続けた。
しばらくしてから手を離すと、彩乃ちゃんはなにかを考え込んでいた。怖いくらい真剣な顔だった。
参ったな……。
楽しい雰囲気を、真面目な話で壊しちゃった。どうして、あんなことを言ってしまったんだろう。
バケツか。バケツなんて、どうでもいいのに。
「彩乃ちゃんさ、欲しい化粧品ある?」
だから、あえて笑いつつ、話しかけた。
え、という感じで彼女が見てくる。
「わたしが持ってる奴、ひとつあげるよ」
「本当に?」
「化粧品って溜《た》まっちゃうんだよね。全部使わないうちに、次のが欲しくなっちゃうの。もったいないと思うけど、そういうものなんだ。季節ごとに商品も替わるしさ。だから、なにかあげるよ」
「ええ、なんにしようかな」
「考えておいて。なんでもいいよ。好きなのをあげるから。でもファンデーションはいらないよね。彩乃ちゃん、お肌つるつるだもんね。口紅か、マニキュアかな。マスカラでもいいけど、マスカラだけって変だし」
さっきまでの怖いほど真剣な表情は消え去り、ただの少女がそこに現れた。今も真剣だけれど、全然怖くなくて、かわいらしい。
「あれがいい。蓋《ふた》に目の検査の記号が書いてある奴」
「目の検査の記号?」
「蓋が黒くて、中身が赤いの」
ちょっとばかり怯《ひる》んでしまった。それは買ったばかりのマニキュアではないか。シャネルのヴェルニ。秋の新色。しかし、わたしだって大人だ。まだまだ大人になった気はしないし、覚悟もないけれど、一度口にしたことを曲げるわけにはいかなかった。
「わかった。あれ、あげるね」
「うん」
彩乃ちゃんは無邪気に頷いた。もうあげられないとは、絶対に言えない……。
コンビニでポッキーとジュースと缶ビールを買った。帰り道、ポッキーの箱を開け、彩乃ちゃんに差し出す。
「一本どうぞ」
「いいの?」
ちょっとびっくりしている。
「もしかして、彩乃ちゃん、歩きながら食べちゃ駄目って言われてる?」
「うん。座って食べるようにって」
さすがは教主さまだ。
「もしかして買い食いも駄目?」
「したことない」
「じゃあ、わたしの部屋に来てから、悪いことばっかりしてるね」
恐る恐るといった感じで、彩乃ちゃんはポッキーを囓った。
かりり、という音がひどく鮮やかに聞こえた。
「おいしい」
かりり、かりり、と囓りながら、彩乃ちゃんが言う。
わたしも、かりり、かりり、と囓った。
「悪いことするのってさ、楽しいよね」
「うん。楽しい」
「いいんだよ、これくらいの悪いことは。たまにはね。人間なんて、ずっと真っ直ぐに生きられないから」
やがて駅前の広場に差しかかった。
「ねえ、今日も彼、歌ってるの」
「歌ってるよ。すごく楽しそう」
リズムに合わせ、彩乃ちゃんは体を揺らしている。わたしには聞こえないのが残念だ。幽霊になっても歌っている彼は、きっと歌うことが本当に好きだったのだろう。だから、今もここにいるのだ。その歌を聴いてみたいと思った。
「ねえ、智佳子ちゃん」
彩乃ちゃんが言った。
「手を出して」
「え、どうして」
「できるかどうかわからないけど、やってみる」
とても真面目な声だったので、わたしは右手を差し出した。彩乃ちゃんが、その手を取る。小さな右手と左手で、つまりは両手で、包み込むように握りしめた。一秒か二秒したころ、ふいに手全体が熱くなった。熱は急速に腕を伝わり、肩を進み、首を上って、耳に達した。
突然、歌が聞こえた。楽しそうな声が耳に届いた。
「あ、聞こえる! 歌だ!」
慌てて横を見ると、彩乃ちゃんは笑っていた。額にうっすらと汗をかいている。
「彩乃ちゃんが声を届けてくれてるの?」
彼女は頷いた。
「でも声までかな。姿までは無理みたい」
起きたことが信じられなかった。夜が生み出した幻のようだ。けれど確かに、歌は聞こえている。姿は見えないのに、弾むような歌声はちゃんと響いていた。ビートルズの『ヘイ・ジュード』だった。ポール・マッカートニーにはとうていかなわないし、決してうまくはないけれど、一生懸命歌っている。ちゃんと心に響いてくるものがあった。その奥底にまで、声が届く。
わたしはかなり感動していたのだけれど、だからこそ気軽に言った。
「この人、楽しそうに歌ってるのがいいね」
「笑って歌ってるよ」
「そうなんだ。笑ってるんだ」
まばらに人を乗せた電車が高架を走りすぎていき、風が吹いて街路樹が揺れ、信号はせわしなく点滅し、死んだ路上ミュージシャンは歌い続け、わたしたちは音に合わせて体を動かした。
他の誰にも聞こえない歌を、確かに聴いていた。
家に帰ってから、一緒にお風呂に入った。長い長い彩乃ちゃんの髪を、丁寧に洗ってあげた。意地悪してお腹をくすぐると、彼女は大きな声で笑って、それから逆にくすぐり返してきた。
「お外を智佳子ちゃんと歩きたかったの」
泡だらけの彩乃ちゃんは言った。
「今日のこと?」
「うん。ふたりでお外を歩きたかっただけなの」
「わたしは楽しかったよ」
彼女の髪を、優しく洗う。こんなにきれいなのだから、ちょっとだって傷つけてはいけない。
彼女がわたしの部屋にいるあいだは、ずっときれいなままにしておくのだ。
それこそが、わたしの義務だった。
「彩乃ちゃんも楽しかった?」
うん、と彼女は頷いた。
「すごく、すごく、楽しかった」
ざばんとお湯をかけ、すべての泡を流してから、狭い湯船に揃って浸かった。そうして、わたしたちは歌を歌った。適当に訳した『トゥモロー・ネバー・ノウズ』とか『ヘイ・ジュード』とか。狭いバスルームに、女ふたりの声がわんわんと響いた。
翌日、彩乃ちゃんは起きるなり、干してあった自分の洗濯物を取り込み、鞄に詰め始めた。同時に起きたわたしは、キッチンの小さな冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、もう片方の手にコップを持って、リビングに戻った。
「どうしたの」
悪い予感がする。
「すぐに迎えが来るから」
「え、今日なの。もう行っちゃうの」
「うん」
彩乃ちゃんは申し訳なさそうな顔をしていた。
「そうか。今日なんだ」
脱力しつつ、頷いた。
いつの間にか、わたしは彼女の言葉をすっかり信じるようになっていた。とはいえ、こんなに急だなんて。
心の準備が、まだできていない。
コップに牛乳を注ぎ、半分ほど飲む。そのコップを差し出し、彩乃ちゃんに飲むと尋ねると、彼女は頷いた。立ったまま、受け取ったコップを傾ける。彼女のほっそりとした首が、長く伸びた。ここに来たころ、なにか口にするとき、彼女は必ず座った。とにかく礼儀正しかった。それを崩してしまったのは、わたしだった。
「立ったまま飲めるのも最後だね」
茶化した感じで言うと、彩乃ちゃんは頷いた。
「うん、最後。こうして飲むのって、おいしいね」
「まだ飲む?」
「あ、お願い」
返してもらったコップに、ゆっくり牛乳を注いだ。それから、また彩乃ちゃんに渡す。同じコップが行ったり来たりした。牛乳だけではなく、いろんなものを溜めて、わたしたちの手を渡った。
「朝ご飯、なににしようか。卵でも焼こうか」
彩乃ちゃんは首を横に振った。
「食べてる時間がないから」
その通りだった。
彼女の言葉が終わるか終わらないかのうちに、玄関のチャイムが鳴った。
わたしと彩乃ちゃんは黙って、その音を聞いていた。
すっかり覚悟した彩乃ちゃんの顔に促され、玄関の扉を開けると、意外にも知らない男の人が立っていた。淳司ではなかった。短く刈り込んだ髪と、やけに真っ直ぐなまなざしで、どういう人間なのかすぐに知れたけれど。
「教主さまをお迎えに参りました」
ものすごく丁寧に言ってから、彼は頭を下げた。
「どちらにおいででしょうか」
「部屋にいますけど」
ただのワンルームだ。ドアから中を覗くと、部屋の奥まで見える。
すっかり準備を整えた彩乃ちゃんは、もう子供ではないような顔をして、背を伸ばし、凜《りん》と立っていた。雰囲気が変わっている。
夜道でポッキーを囓っていた子ではなかった。
化粧品に興味津々だった子ではなかった。
教主さまだった。
「あの、淳司は来ないんですか」
彼のことが気になったわけではない。わたしは彩乃ちゃんを手放したくなかった。教主さまにしたくなかった。
少しでも時間を稼ごうとしたのだ。
「彼は来ません」
穏やかに、けれど緊張感を漂わせながら、彼は言った。
「来ないって、どういうことですか」
「彼は――」
なにか口走りかけた彼は、そこで黙り込んだ。あとはもう、なにを尋ねても駄目だった。わたしの口からは言えませんの繰り返しだ。そんなやりとりを繰り返すうち、だんだんと雰囲気が険悪になる。彼の目に焦りが表れ、部屋の奥を、つまり彩乃ちゃんを確認する回数が増えた。このままだと、なにか起きるかもしれない。部屋に無理矢理上がって、彩乃ちゃんをつれ出すとか。
そんなことになったら叫んでやろう。助けてって大声を張り上げよう。
けれど、心配は無用だった。
「ご苦労さま。行きましょう」
気がつくと彩乃ちゃんが真後ろにいて、わたしの横をするりと抜けると、小さな靴に足を通した。あまりにも滑らかな動きだったので、とめることもできなかった。
玄関に立った彼女に、男は恭しく頭を下げた。
「では参りましょう」
静かに頷いた彩乃ちゃんが、わたしの方を向いた。その一瞬だけ、彼女はただの少女に戻った。
男は白い封筒を置いていった。一万円札がたくさん入っていた。十万円か二十万円くらい。押し返したくなったものの、そんなことをしたら、また押し返されるだろう。下らないやりとりをするのは空しい気がして、わたしは封筒を持ったまま、ひとりで玄関に立ちつくした。
あることに気づいたのは、しばらくしてからだった。
ああ、そうだ!
わたしは部屋に駆け込むと、ドレッサーに並んでいる化粧品を見渡した。
こういうとき、なかなか探しているものは見つからない。焦りが増すばかり。どこだろう。引き出しの奥にでもしまったのか。どこ、どこにあるの。見つけた。あった。なんと目の前に置かれていた。あまりに焦りすぎて、気がつかなかったのだ。それを握りしめ、玄関を飛び出す。
アパートの前に黒塗りの車が停まっていた。運転手が恭しくドアを開け、彩乃ちゃんはその車に乗り込もうとしている。
「彩乃ちゃん!」
叫んで、わたしは駆け寄った。
「これ! 約束の!」
わたしは勢いよく手を伸ばした。彩乃ちゃんはわたしの様子に驚きつつ、それでも手を広げた。わたしと彩乃ちゃんの手が重なる。わたしが手を引っ込めると、彼女の小さな手に、赤い瓶が残った。彼女が欲しがっていた、シャネルのヴェルニ。
彼女は赤い瓶を両手で握りしめた。
「ありがとう」
「約束だから」
「あの」
彩乃ちゃんは小さな声で言った。なぜだか、すぐ意味がわかった。
そばに来て――。
わたしは顔を寄せた。
「今週の金曜日、英輔君に誘われるよ。絶対に断らないで。大切な話があるはずだから。それと、あの髪留めをつけていった方がいいと思う」
彩乃ちゃんの言葉に、わたしは頷いた。
「わかった。そうする」
「きっと英輔君とうまくいくよ」
「うまく?」
「その道はぴかりと光ってるよ」
焦《じ》れたのか、運転手がわたしを押しのけ、ドアを閉めた。ばたんと音がして、もう彩乃ちゃんの声は聞こえなくなってしまった。
ただ単純に、ドアが閉ざされたわけではない。
それぞれの住む世界が断ち切られたのだ。
すぐに車は走り去り、彩乃ちゃんの声も姿も消えてしまった。埃《ほこり》っぽい道端に、わたしだけが残された。今週の金曜日、英輔から誘われる。大事な話がある。英輔に貰った髪留めをつけていく。絶対に忘れないようにしなきゃ。わたしは急いで部屋に向かった。聞いたことを書き留めておこうと思った。
教主さま、いや、友達の彩乃ちゃんがくれた大切なお告げなのだから。
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第二話 石階段
僕はなぜ、こんな馬鹿げたことをしているのか。石階段を掘り出している最中、そんなことをずっと考えていた。降り積もった枯れ葉は長い年月によって土と化し、そこに木が根を伸ばし、根は石階段と土をわかちがたいものにしてしまっている。だから、ちっとも作業が進まない。スコップの先はすぐ根にとめられ、あとはひたすら手で掘るしかなかった。丸一日かけても、ひとりでは一段か二段しか掘り出せやしない。
最初は作業に参加していた伊藤《いとう》と世古《せこ》はすぐに姿を見せなくなった。伊藤は「腹が痛い」という電話があってから、世古は「ジュース買ってくるよ」と言って下山したあと、数時間後に「用事ができた」とメールが送られてきて、それっきり。
というわけで、僕こと、辻村徹平《つじむらてっぺい》はひとりきりだった。ただひとりで石階段を掘り出していた。
もはやボランティアでも、そのレポートのためでもなく、石階段を掘ること自体が目的になってしまっている。
無意味だ。
無価値だ。
こんなことにどれだけ汗を流しても、学校の成績が上がるわけじゃない。模試の結果や、志望校への合格率が、よくなるわけでもなかった。けれど体は動きをとめず、ひたすら作業を続けている。この作業がいつ終わるのか、そもそも終わるのか、僕にはまったくわからない。先の見えない作業をしている自分は馬鹿だと思う。それを知りつつ作業をやめない自分はもっと馬鹿だと思う。
ずっと前屈みで作業しているため、腰や背中がひどく痛くなってきた。
慎重に体全体を伸ばし、改めて周囲を見れば、鬱蒼《うっそう》とした森が広がっている。そうして生い茂る緑と、合間に覗《のぞ》く夏空を確認してから、僕は顔を右に向けた。きれいに姿を現した石階段は、僕がほとんどひとりで掘り出したものだ。ちょうど十段。今、足を置いているのが十一段目。
顔を左に向けると、思わず声が漏れた。
「まだこんなにあるのかよ……」
山道がはるか下まで続いている。一見、ただの坂だが、土中には石階段が埋まっているのだ。これまでの十日間、必死になって掘ってきた。すべての時間と労力を捧げたといっても大袈裟《おおげさ》ではない。なのに、掘り出した石階段よりも、これから掘り出さなければならない石階段の方が圧倒的に多いのだ。
強い風が吹き、頬がひんやりした。
なにかが上から降ってくる。たぶん葉っぱだろう。
顔を上げると、緑がゆさゆさ揺れ、光がちらちら揺れていた。どんなに手を伸ばしても、あの光には手が届かないんだと感じた。なのに僕は石階段を掘り出す覚悟を決めていた。いや、覚悟などという立派なものではない。起きると、まず山の景色が思い浮かぶ。そして、土に埋もれた石階段のことを考える。石階段を掘り出している自分の姿が迫ってくる。
布団《ふとん》から起き上がった体は、作業のための準備を始めている。
毎日泥だらけになって帰ってくる僕に、家族はすっかり呆れていた。
昨日だったか一昨日だったか、作業の準備を整えて自室を出たところ、朝帰りの姉と鉢合わせした。僕たちの性格はまったく違っていて、姉は遊びがうまく、恋の絶えない女だった。
向かい合うそれぞれの格好が、すべてを象徴している。
僕はNPOの人がくれた作業服姿。上下ともくすんだグレーで、実に地味だ。一方、姉は酒と香水の匂いをまとっていた。
血の繋《つな》がった姉弟なのに、どうしてこんなにも違うんだろうか。
「あんた、今日も土掘りに行くの」
その姉が酒臭い息で尋ねてきた。
行くよ、と僕はぶっきらぼうに答えた。
「それに掘っているのは石階段。里山再生だよ。NPO法人がやってることだから真面目なボランティアだし、市の補助金だって出てるんだぞ。あそこの階段には歴史的な価値もあって――」
僕の講釈《こうしゃく》を耳にした姉は、面倒臭そうに手を振った。
「朝からそんな話を聞かせないでよ」
わざとらしく顔までしかめている。
「なんだよ。説明してやってるんだろう」
「だから聞きたくないの。まったく、どうせ勉強をサボるんなら、女の子と遊びに行けばいいのにさ。あんたって本当につまんない男だよね。せっかくの夏を、ボランティアなんかで潰《つぶ》しちゃうなんて」
姉はとにかく口が悪い。思ったことを、そのままずけずけ言う。なのに、どういうわけか人に憎まれないのは、本人に悪意がないからなのだろう。今回に限っていえば、姉の言葉が正しいのかもしれなかった。あんな石階段を掘り出して、なんになるというのか。里山再生やボランティアになんて、実のところ、まったく興味などないというのに。
「ねえ」
階段を下りようとしたら、背中に声をかけられた。
「徹平、あんた、彼女はいないの」
「いないよ」
「だけど好きな子はいるでしょう」
一瞬、反応が遅れてしまった。
「どうでもいいだろう」
さすがは恋多き女を自称しているだけある。僕の言葉の響きから、姉はなにかを感じ取ったようだった。ちょっと待ってなさいと言って、自分の部屋に入っていった。廊下にひとりで立っているのは、どうにも落ち着かない。そわそわする。
ありがたいことに、姉はすぐ部屋から出てきた。
「あんたにあげる」
そう言ったあと、訂正した。
「あんたじゃなくて、あんたの好きな子にあげる」
「なんだよ、それ」
姉の手には、銀色のペンダントがあった。銀細工のかわいらしい貝殻がついている。
「わたしが作ったの」
そういえば、姉はアクセサリー教室に通っていた。女というのは、まったく不思議な生き物だ。たいていのことはずぼらな姉でさえも、こんなチマチマしたものを作れるのだから。ペンダントは、素人製《しろうとせい》だとは思えないほどよくできていた。
「いらないよ」
気恥ずかしさが勝り、僕は受け取らずにそのまま階段を下りようとしたけど、強引に腕を引っ張られた。
「ほら、持っていきなさいよ。せっかくあげるって言ってるんだから。あのね、こういうものを貰《もら》って、嬉しくない女はいないのよ。絶対に喜ぶと思うな。女の本能なんだよね、本能」
本能という言葉を、姉はしつこいくらい繰り返した。いちおう抵抗を続けてみたものの、作業服の胸ポケットにペンダントを入れられてしまった。細い鎖はするりと奥まで滑り込み、姉も同じように自分の部屋へするりと消えた。
姉というのは、まったく厄介な存在だ。弟なんて少しくらい……いや、かなりぞんざいに扱ってもかまわないと思っているらしい。
「まったく、これだから酔っぱらいは」
胸ポケットに手を突っ込み、ペンダントを取り出した。
指に絡《から》んだそれは、きらきらと輝いていた。こうして間近で見ると、本当にきれいなもんだ。なんだか気恥ずかしくなってしまう。
澤口《さわぐち》さんの顔がふと頭に浮かんだ。
これを渡したら、姉の言うように、彼女は喜ぶのだろうか。
気恥ずかしさに耐えられなくなった僕は、そのペンダントを衝動的に胸ポケットへと戻した。
なにしろ高校三年の夏だ。
僕は四大への進学を希望しており、本当なら駅前の塾に通わねばならない。すでに夏期講習の費用は払ってあるので、このままだとお金が無駄になってしまう。クラスの友人たちは、寝る間も惜しんで、参考書に向かっているのだろう。
なのに、朝から晩まで泥塗《どろまみ》れになり、ひたすら石階段を掘り出している自分はどうしてしまったのか。
ただ時を無駄にしているだけではないのか。
あるいは逃避なのか。
さまざまな疑問を頭に浮かべつつ、それでも僕はスコップで土を掻《か》いていた。両手で根を剥《は》ぎ取っていた。ただひたすら石階段ばかり掘り出していた。
わかっている。ちゃんとわかっているのだ。
深い森のおかげで、夏の日差しは遮《さえぎ》られている。酷暑続きというのに、山の気温が三十度を超えることは滅多にない。休んでいるときに風が吹くと、肌寒さを感じることもあるくらいだ。
「進学か、就職か」
石階段に座りながら、僕はぽつりと漏らした。ずっと孤独な作業を続けているせいか、独り言の癖がついてしまった。
「伊勢か、東京か」
この時期に至っても、まだそんなことを考えている自分に対し、焦りを感じた。未来はあまりにも曖昧《あいまい》で、期待よりも常に恐れが勝り、たまらなく不安になることがある。自分はなにものかになれるのか。なれないのか。そもそも、なにものかになるとは、どういうことなのか。
いくら考えても、答えは決して見つからない……。
額にだらだら垂れてくる汗をタオルで拭《ぬぐ》ったとき、山の麓《ふもと》に影が見えた。ああ、あの子か、と思い、僕は軽く手を上げた。彼女は頭を下げると、山道に足をかけた。こちらに来るつもりらしい。
「教主さまって本当なのかな」
また、言葉が勝手に漏れている。
「あんな小さい子なのに」
山のすぐ横に住んでいる石井《いしい》さんが預かった子で、時折こうしてやってくるのだ。最初は石井さんの娘だと思っていたのだが、どうやら違うらしい。
NPOの会合に参加させてもらったとき、隣に座った勝田《かつた》さんが教えてくれた。
「ある筋からのお願いで預かったんだってよ」
勝田さんは五十すぎのおじさんで、きれいな白髪を短く刈り込んでいる。大の酒好きだ。飲む口実を作るためNPOに関わっているんじゃないだろうか。もっとも活動自体は真面目にやっており、NPOの経理は勝田さんがすべて引き受けているそうだ。
「はあ。ある筋ですか」
意味深な響きには気づいたものの、そこからどうやって話を引き出せばいいのかわからなかった。不器用な自分に苛立《いらだ》ちを感じることも多いけど、どこかで仕方ないと諦めているのも確かだ。
僕はこの七月、ちょうど夏休みが始まる日に、十八になった。まだまだ大人だとは思っていないし、選挙権はないし、酒も飲んではいけないことになっているものの、十八年も生きていれば、なんとなく自分というものが見えてくる。できること、できないこと。やるべきこと、やっちゃいけないこと。けれど、見えてきたからといって、それをそっくり飲み込むだけの度量はまだなかった。
至らないことはわかる。
だけど至らない自分の受け入れ方はわからない。
気を利《き》かしてくれたのか、それとも彼自身が喋《しゃべ》りたかったのか、勝田さんは事情を詳しく説明してくれた。
「どこかの新興宗教の教主さまらしいよ」
「教主? だってあの子、まだ子供ですよ?」
「不思議な力があるんだと」
勝田さんはお菓子を頬張った。酒をすすった。顔はすっかり赤くなっている。
「なんですか、不思議な力って」
「まあ眉唾《まゆつば》もんだがね。あの彩乃《あやの》ちゃんって子の祖母《ばあ》さんが、祖母さんってのは教祖さま、つまり宗教を始めた人らしいけど、ちょっと前に死んじゃってさ。あとを彩乃ちゃんが継ぐことになったんだそうだ。ただ子供に運営は無理だしな。主導権争いみたいなのがあって、一時的に石井さんのところに預けられてるんじゃねえかなあ」
カルトと呼ばれる宗教のことが頭に浮かんだけど、それほどたいした存在ではないらしい。もっと小さなコミュニティのような感じだそうだ。
すっかりできあがった勝田さんは、さらに酒を飲みながら言った。
「信者が十人いれば宗教は成り立つ。百人いれば財を成すってな」
「こんにちは、彩乃ちゃん」
山道を登ってきた少女に、僕は優しく声をかけた。小さい体でここまで来るのは大変だっただろう。僕が途中まで下りればよかったのだ。彩乃ちゃんがたどり着いてから、ようやくそのことに気づいた。
こんなもんだ……。
心の中で嘆息しつつ、そう思う。子供扱いされるとひどく腹が立つけど、いっぱしの大人なら、とっくの前に気づいたはずだ。僕はまだ、そういうことがすぐにわからない。いつも後悔してばかりだった。
「こんにちは」
頭を勢いよく下げると、彩乃ちゃんがバスケットを差し出してきた。
「石井さんから差し入れです」
バスケットを受け取ると、けっこう重かった。中に入っているのは銀色の水筒と、丸いおにぎりがみっつ。
石井さんの奥さんは、三角じゃなくて、丸いおにぎりを作る。
「ありがとう」
本当はごめんなと言いたいのだ。途中まで下りてあげればよかったね、とか。だけど、そういう言葉を口にするのは、なんだか恥ずかしかった。
少女の額に滲《にじ》んだ汗を見ると、さらに言葉が少なくなってしまう。
「座っていいですか」
「あ、うん。もちろん」
慌てて言うと、彼女は丁寧にスカートを膝の裏にはさみ込み、石階段に腰かけた。石階段の先の方にお尻を置き、並べた膝をきっちり揃えている。背中は真っ直ぐ伸びていた。とても上品な座り方だ。
そういえば、彼女は必ず挨拶をする。
おはようございます。
こんにちは。
ありがとうございます。
そんな当たり前の言葉ばかりだけど、僕のような若い連中はもちろん、大人たちだって、ここまで律儀に挨拶はしない。教主さまというのは、そういうふうに育てられるものなのだろうか。
両親とも普通のサラリーマンの僕には、よくわからなかった。
丸いおにぎりにかぶりつく。がつがつと食べる。あっという間に、ひとつめが胃の中に消えた。きつい作業のせいで、腹がひどく空いていた。
気がつくと、彩乃ちゃんが目を丸くしていた。
「どうしたの」
「早いから」
「え、なにが」
「食べるのが」
ああ、と頷く。体の大きい僕は、確かに食べるのが早い方だ。友達の伊藤や世古なんかと食堂に行っても、真っ先に食べ終わるのは、いつも僕だった。
「俺は早いんだよね。あまり噛まないんで消化によくないって母ちゃんに怒られる」
「わたし、遅い」
「そうなのか。僕と逆だ」
「うらやましいです」
「早く食べたって、ちっともいいことなんてないよ」
そして、ようやく気づいた。バスケットの中から小さめのおにぎりを出して、彩乃ちゃんに渡す。
「食べていいよ」
「こんなに食べられないかも……」
「ああ、そうか」
おにぎりを包んでいるのはアルミホイルだった。これも僕の母親とは違う。母親なら、ラップで包むだろう。がさがさするアルミホイルを開き、土で汚れないように気をつけながら、おにぎりをふたつに割った。
「これくらいなら食べられるかな」
「いいんですか」
丁寧に尋ねる彼女を安心させたくて、僕は笑った。
「いくら俺だってみっつも食えないし」
「ありがとうございます」
いつもと同じように丁寧な礼を言って、彼女はようやくおにぎりを受け取った。小さな口に、半分に割ったおにぎりを運ぶ。
彼女が偉い教主さまだなんて、まったく信じられなかった。
だいたい教主ってことは、なにかの宗教に入ってるってことだ。いや、違うな。宗教を主宰してるようなものか。実際は周りの大人がやってるんだろうけど、中心にいるのは彼女なのだ。
どうしてそんなことになったのか興味があったものの、ずけずけと尋ねることはもちろんできなかった。
黙ったまま、残りのおにぎりを食べた。
「彩乃ちゃん、お茶を取ってくれるかな」
頼むと、彼女はちゃんと蓋《ふた》にお茶を汲《く》んでから、渡してくれた。そのお茶は、たまらなくおいしかった。やたらと甘く、まろやかだ。
思わず、空になった蓋を見てしまう。
「彩乃ちゃん、水筒を貸して」
「どうぞ」
「ありがとう」
彼女に倣《なら》って、丁寧に礼を言ってみる。自分で注いだお茶は、普通の味だった。口に含んでも格別なものは感じない。ちょっと苦すぎるくらいだ。なのに彩乃ちゃんが渡してくれたときは、なぜあんなにおいしかったのか。
甘露というのは、ああいう味なのかもしれないと思った。
きっかけは、一枚の新聞だった。
僕が住むのは三重県伊勢市、人口十数万をどうにか維持している地方の中堅都市だ。伊勢神宮で有名だけど、町としては寂しいものだった。駅前のデパートはもう何年も前に閉鎖されて、再開発の話が出るたびに頓挫《とんざ》している。かつて人で賑《にぎ》わっていた新道という商店街も、今ではすっかりシャッター通りだ。
酒を飲んだときなど、大人たちは誇らしげに言う。
「昔はもう、たいしたもんだった。そこいらから人がいっぱい遊びに来た」
実際、三十年くらい前は、たいした町だったらしい。
人が集まってくる場所だった。
だけど今は、どうしようもなく寂《さび》れた田舎町にすぎなかった。もし伊勢神宮がなければ、誰もこんな町が存在することなんて知らないだろう。時たま、特に受験勉強をしている夜など、僕は自分が世界の果てに取り残されたような気分になることがあった。
列車に乗れば二時間かからないというのに、名古屋ははるか遠くに感じられる。
大阪も同じだ。
東京なんて、まるで違う国みたいだった。
外の世界のことをまったく知らないまま、この町でずっと暮らしていくのかもしれないと思うと、おかしな衝動に駆られることさえあった。ありったけの金を握りしめて列車に飛び乗り、行けるところまで行くのだ。
実に簡単なことじゃないか。
そして、どこかもっと大きな町に住んで、かわいい女の子と、性に合った仕事を見つけ、あとは楽しく暮らすのだ。
そんな妄想をもてあそんでみるものの、結局は下らない理性が勝って、僕はいつものように学校へ行き、友達とどうでもいいことを喋り、授業を受け、塾へ向かい、自分を定義する数字と向かい合うことになるのだった。
テストの点、偏差値、合格率――。
それらの数字は、激しいだけの衝動よりもはるかに強く、またリアルだった。
夏休みに入る前、友達の伊藤が新聞を持ってきた。
「なあ、辻村、これっておまえんちのそばだろう」
新聞の地方面に、近くの山のことが書かれていた。かつて伊勢を一望する豪華な施設が山頂にあったというのだ。けれど時がすべてを埋めつくし、今はすっかり藪《やぶ》や木に覆われているらしい。
地元のNPOが、里山再生の名のもと、山の清掃をしていると記事にはあった。
「これ、使えねえか」
「使うって、なににだよ」
伊藤の言葉に応じたのは、友人の世古だった。世古というのは変わった名字だが、伊勢では珍しくない。もともとは路地を意味する言葉だ。路地の入り口にある家は、世古口さんなんて表札がかかっていたりする。
「夏休みの課題だよ。自主学習ってのがあっただろう」
「あれか」
思い出した僕は、ああと頷いた。
「ボランティアをやってこいって奴だろう」
「それそれ」
「なるほど。NPOの活動を手伝えば自主学習になるよな」
実に伊藤らしい発案だった。
彼はいつも思いつきで動く。腰が軽いというか、とにかく物事をあまり深く考えないタイプなのだ。細面《ほそおもて》の二枚目で、女の子に人気があり、飽きっぽい性格がその傾向を強くしていた。伊藤はすぐ女の子と別れる。そして別の子と付き合い始め、またすぐ別れる。男の僕からすると不思議なことに、伊藤がそういうことを繰り返すたび、女の子たちはますます伊藤のことを格好いいと思うようだった。
どこの学校もそうだろうが、三年生にたいした課題は出されない。受験に関係のない科目に至っては、半日で片づく程度のものばかりだ。『道徳と倫理』という科目の課題が、ボランティア活動だった。町の清掃、お木曳《きひ》きという神宮関連行事の手伝い、お年寄りの家の草取りなど、自主的になにかやって、その内容を数枚のレポートに書けばいいだけのことだ。
「里山再生って面倒臭くないか」
「町の観光案内よりはいいだろう」
「なんだよ、それ」
「澤口さんがやるらしいぜ。駅前で観光客を捕まえて、伊勢の案内をするんだとさ。神宮の成り立ちとか、町の歴史とか、山田奉行のこととか」
「澤口さん、そんなことを勉強したのか」
「さすがは学級委員」
「頭の出来が違うよな」
伊藤と世古の会話を聞きながら、僕は澤口|裕香《ゆか》の姿を探した。
教室の隅で、彼女は友達とお弁当を食べていた。美人というわけではないけど、ふっくらした頬がかわいいと僕は思っている。とはいえ、好きだという強い気持ちがあるわけではなかった。そこまで焦《こ》がれてはいない。ただ、彼女の姿を見ると、つい目で追いかけてしまうし、誰かが「澤口さんがさ」と話していると、聞き耳を立ててしまう。
ああ、それって十分に焦がれてるのかな……。
澤口さんと一緒に神宮の案内ができたらいいだろうなと思った。ふたりで案内をして、暇な時間はお互いのことを喋って、ちょっとだけ仲良くなるんだ。それ以上は望んでいない。少なくとも、今は。
おい、と荒っぽく肩を叩かれた。
「どうするんだよ」
伊藤だ。
「ああ、ええと」
曖昧に応じながら伊藤の手元を見る。奴は新聞の記事を指差していた。NPOの活動に参加するかどうかってことなんだろう。
「いいんじゃないか」
面倒臭くなって、僕は頷いた。
「よし」
伊藤がわざとらしく紙面を叩いた。ぱん、といい音がした。
「決まりだな」
夏休みに入ると、新聞に書かれていたNPOの連絡先に電話を入れ、それから現地を訪れた。近鉄の宇治山田駅から、北西に二キロほど。歩いて二十分くらいのところに、その山はあった。
案内してくれたNPO代表の石井さんは、気のいいおじさんだった。
「ここね、わたしが子供のころは遊び場だったんですよ」
高校生の僕たちにも、丁寧な言葉で接してくれた。
「それが荒れ果ててしまってね。上へ行ってみますか」
「お願いします」
僕も世古も黙り込んでいたので、伊藤が返事をした。実に愛想のいい笑顔で。
こういう調子の良さは、見習いたいもんだと思う。
石井さんの昔話を聞きながら、急な山道を登った。藪が茂っている上、巨大な木が倒れていたりして、完全に荒れ果てていた。気を抜くと足を滑らせ、こけそうになる。世古は二度もこけて、新しいジーンズの膝をひどく汚した。
「本当は階段があるんですがね」
「階段ですか」
伊藤が息を切らしながら尋ねる。
ええ、と石井さんは頷いた。
「立派な石階段が頂上まであって、わたしが子供のころはまだ表に出てました。ところが今はもう、この通り、土にすっかり埋もれてしまったんですわ」
戸惑いながら、僕は足もとの地面を見つめた。この下に、本当に立派な石階段があるんだろうか。もし階段があったら楽に登れただろう。世古だってジーンズの膝を汚さずにすんだかもしれない。
たどり着いた頂上には、巨大な石碑が建っていた。
「日露戦争の記念碑だけど、戦後にGHQの目を気にして、ブロンズで作った碑文は剥ぎ取ってしまったらしいんですわ。戦勝記念とかなんとか書かれてたんでしょうな。戦争を賛美するような言葉とか。じゃあ、この辺りを、好きなように清掃して下さい」
そんなことを言い残して、石井さんは軽々と山道を下りていった。取り残された僕たちは、しばし途方に暮れた。
「おまえ、こんなのがあるなんて知ってたか」
石碑を見上げながら言ったのは伊藤だった。
「知らねえよ」
答えたのは世古だ。
伊藤がさらに言葉を続ける。
「俺たちってさ、意外と地元のことをわかってないんだよな。山田奉行っておまえら知ってるか。神宮のおかげで江戸時代の伊勢は自治領で、武士の完全な支配を受けなかったんだよ。山田の辺りは旦那衆が町を仕切っていたんだと。それで幕府がお目付け役として置いたのが山田奉行で、大岡越前《おおおかえちぜん》っているだろう、ほら――」
「時代劇の?」
「そうそう。その大岡越前も山田奉行だったんだって。そこで立派なことをしたのが徳川|吉宗《よしむね》に認められて、江戸に引っ張られたんだと」
伊藤と世古のやりとりに、僕は口を挟《はさ》んだ。
「よく知ってるな、伊藤」
「まあな」
「誰に教わったんだよ。おまえがそんなの知ってるはずないだろう」
軽い気持ちで茶化したのに、伊藤はなぜだか慌てた様子を見せた。
「こんなの基礎知識だよ、基礎知識。だって地元の話だぞ。知らないおまえらの方がおかしいんだって」
それから三人で作業に取りかかった。最初は落ち葉など集めていたが、どうにもつまらなく、またレポートにもしづらいだろうということで、土に埋まっている石階段を、試しに掘り出してみることにした。なにしろ男が三人もいるわけだし、スコップやら軍手やらの道具は石井さんが揃《そろ》えてくれていたから、さして大変ではないだろうと判断したのだ。
まあ、ちょっとした気まぐれだった。
ところが、いざ始めてみると思ったよりも作業はきつく、最初の一段を掘り出すのに夕方までかかってしまった。積もっている土は厚く、周囲の木々がしつこく根を張っているものだから、スコップを突き刺しても弾き返されてしまうのだ。
「終わった。これでいいだろう」
「ああ、上等だ」
「ここまで大変だとは思わなかったよ」
口々にそんなことを言いながら、僕たちは掘り出したばかりの階段を見た。大きな石が使われていて、すごく立派な造りだった。こんなものが土中に埋まっているなんてびっくりした。
「これ、下まで埋まってるんだよな」
呟いた僕は、その麓の方を見た。ずっと続く山道が目に入った瞬間、土中に埋もれている石階段が思い浮かんだ。
たぶん上から掘り始めたのがいけなかったんだろう。下から掘っていたら、ゆっくり一段ずつ進んでいけた。飽きたり疲れたりしたら、そこでやめることだってできた。だけど僕たちが掘り出したのは、一番上の段だった。ここまでの石階段をすべて掘り出さなければ、今日の作業の意味がない。階段は繋がらない。
ああ、下まで掘らなければいけないんだ……。
山道を眺めながら、僕はそんなことを考えていた。やがて帰り支度をすませた伊藤と世古に、行こうぜと声をかけられた。そうだなと応じ、薄暗くなった山道を下りながら、僕はまた石階段のことを思い浮かべていた。そして、それをすべて掘り出す自分自身の姿を。
だから僕は石階段を掘り続けているのだろうか。
塾の夏期講習を放り出し、友達がひとり消え、ふたり消えしても、ただスコップを振るい続けているのだろうか。
その答えは、僕自身にもよくわからなかった。
もしかすると、自分はこの石階段に魅せられてしまったのかもしれない。石階段を掘り出すことが目的のすべてになってしまったんだ。掘り出せ、と命ずる石階段の指示に、怨念に、縛られてしまったに違いない。あるいは、進路を絞り切れない心の揺れから逃げているという可能性もあるけど。
伊勢を出るのか、残るのか。
出るとしたら名古屋か、大阪か、東京か。
石階段を掘っていると、そんな迷いはどこかに消えていった。汗に、熱い息に、山の空気に、自然と紛《まぎ》れた。
今日もきつかった。疲れ果てていた。長い長い夏の日も、すっかり暮れていた。自転車の影が長く伸びていた。
作業を終えた僕は、麓に停めておいた自転車に跨《またが》ると、一気に坂を下り降りた。
これが、なかなか爽快なのだ。
山に至る道は右に左に曲がり、こがなくてもどんどんスピードを増していくから、ちょっとしたライダー気分を味わえる。坂を下りきると、そこは古市《ふるいち》街道だ。そのまま少し進んでから御幸《みゆき》道路に入った。内宮と外宮を結ぶ道で、石灯籠《いしどうろう》がずらりと並んでいる。
その石灯籠には、やけにたいそうな名前が刻まれていた。内閣総理大臣を務めた人とか、一流企業の創業者とか。彼らがわざわざ寄贈したということらしい。普段はあまり意識することなんてないけど、伊勢というのは、やはり特別な場所なのだろう。
自転車のスタンドを立てると、ぎりりと金属の擦《こす》れる音がした。
そろそろ油を差すころだ。
そんなことを考えつつ、宇治山田駅前にあるコンビニに入ろうとしたところ、店内に見知った顔があった。
伊藤と澤口さんだ。
ふたりは仲良く肩を並べ、レジの列に並んでいた。レジを担当している眼鏡をかけたおじさんは、この店のオーナーだろうか。他のバイトより丁寧に接客しているせいで、列が長くなってしまうのだった。
「そうか」
僕は呟いていた。
「だから伊藤は」
あんなに山田奉行のことに詳しかったんだ。澤口さんと一緒に行動し、知識を得ていたに違いない。
僕を裏切った伊藤と、僕の憧れの澤口さんは、なかなかお似合いのカップルだった。僕はいつか、頭上でちらちら揺れていた光を思い出した。どんなに手を伸ばしても、あの光には決して届かない――。僕は踵を返すと、古びた自転車に跨り、ペダルを力一杯にこいだ。勢いを得た自転車は、ぐんぐんと進んでいく。夏の空気が、夕暮れの匂いが、顔に押し寄せてくる。八間《はっけん》道路に入ったところで、僕は立ちこぎに移った。心の中で叫んだ。思いっきり叫んだ。
田舎町の空に、すべての思いをぶちまけた。
その日以来、僕は石階段掘りにいっそう精を出すようになった。たとえ伊藤がいなくなっても、世古が消えても、かまわなかった。塾から夏期講習への参加を促す葉書が来ても無視した。スコップを振るい、ノコギリを引き、何十年も前に作られた石階段をひたすら掘り出した。
「すごいね。一、二、三……もう十五段も掘ったんだな」
たまたま見に来た石井さんが、驚いたように言った。
僕はただ頷いた。
話をさっさと切り上げて、早く作業に戻りたかった。
「僕もやってみたことあるけどね、二時間で音《ね》を上げたよ。腰がどうにも痛くてね。君、始めてからどれくらいだっけ」
「二週間です」
石井さんは目を何度も開いたり閉じたりした。
「二週間で十五段か」
それはすごい。本気で感心してくれているようだった。それはたいしたもんだ。
ひとりになると、僕はすぐ作業に取りかかった。だいぶやり方がわかってきたらしく、なにも考えずとも、体が勝手に動くようになっていた。太さ一センチくらいの根ならば、スコップの先で切ることができる。体中の力を振り絞って、二、三回叩きつければいいのだ。もちろん大変だけど、時間は稼げる。それより太い根は、ノコギリを使うしかない。
むしろ厄介なのは、細い根だった。
それはまるで蜘蛛《くも》の巣のように広がり、石階段に絡みついていた。スコップもノコギリも役に立たず、手で取るしかなかった。はあはあと息を漏らし、しゃがみ込み、軍手を泥だらけにしながら、僕はそんな根を力任せに剥ぎ取っていった。
今日も彩乃ちゃんがおにぎりを持ってきてくれた。
「ありがとう」
体を動かしたせいか、やけにすっきりした気持ちで、僕はいつものバスケットを受け取った。夢中で作業をしているあいだは、受験のことも、伊藤と澤口さんのことも、滅多に思い出さない。
バスケットの中に入っていたのは、いつもの水筒とおにぎりだった。
あっという間にひとつ食べ、ふたつめは彩乃ちゃんと半分にわけた。
「中身は焼き鱈子《たらこ》だね」
彩乃ちゃんは喜んで、素直な笑みを向けてきた。
僕もまた、笑った。
「焼き鱈子、ちゃんと半分になってる?」
「うん。大丈夫」
「そっちの方が多いくらいじゃないか?」
ちょっとだけ、と彩乃ちゃんは笑った。
「俺のと取り替えませんか?」
「遠慮いたします」
あえて丁寧な言葉を使って冗談っぽく提案してみたところ、やっぱり丁寧な言葉で冗談っぽく断られた。
わざとすましてるような感じだ。
こうして慣れてみると、彼女は普通の女の子だった。今も丁寧な口調は変わらないし、石階段に座るときはスカートを押さえるし、おにぎりも上品に食べるけど、その本質は幼い少女そのものだ。
最後のおにぎりを食べていたら、彩乃ちゃんが言った。
「石井さんが不思議がってたよ」
「不思議って? なにを?」
「辻村さんのこと」
「俺のこと?」
「うん」
頷いてから、彩乃ちゃんはおにぎりを食べた。食べ物を噛んでいるあいだ、彼女は決して口を開かない。そういうふうに教育されているのだろう。だから僕はじっと待った。あちこちで蝉が鳴いている。じぃじぃ、と鳴く蝉がいる。じわっじわっ、と鳴く蝉がいる。かなかな、と鳴く蝉がいる。この森にはたくさんの生き物がいる。自分と彩乃ちゃんもまた、そういう生き物のひとつ……いや、ふたつなのだ。
「どうしてあんなに熱心なんだろうって」
おにぎりを飲み込んでから、彩乃ちゃんは言った。
「夏中やるつもりなのかなって」
「そのつもりだけど」
頷いてから、おにぎりを口に押し込む。頭に浮かんだのは、伊藤と澤口さんが寄り添うように立つ姿だった。
「夏の最後までやると思うよ」
「本当に?」
「全部掘り出すさ、石階段を」
彩乃ちゃんは僕を見て、それから石階段を見て、また僕を見た。
「できるの?」
これまでに掘り出した石階段は二十三段だ。あと、どれだけ残っているのだろうか。二十段か、三十段か。その倍か。
「できるまでやる。夏休みが過ぎても」
自分の言葉やら気持ちやらを曖昧なままにしておきたくて、僕は立ち上がった。
「さて、続きに取りかかるか」
その日の作業はきつかった。
階段のすぐ脇に立っている木が、巨大な根を伸ばしていたのだ。最初は切ろうかと思ったものの、こんなに太い根を切っていいのだろうかという懸念が浮かんだ。もし切ったことによって木が枯れたら、気分がよくないだろう。
たとえ残しておいたところで、これだけ太い根ならば、かえって足を引っかけることもないはずだ。
考えた末、周囲の土だけを掻き出した。スコップは使えず、ひたすら手に頼るしかなかった。石階段の右端から左端まで、およそ二メートルほど。一日の大半は、それだけで終わってしまった。
すっかり疲れ果て、僕は脇の斜面に寝転がった。
あんなにうるさかった蝉の声はほとんど消え、そうなると山の静けさは怖いくらいだった。吸い込む空気には夕暮れの匂いが満ちている。いや、これは夏の匂いなのか。カレンダーをろくに見ていないのでよくわからないけど、もう八月も半ばだろう。あと二週間ちょっとで夏が終わる。夏期講習の残り期間もあとわずかのはずだ。伊藤には会っていない。世古にも会っていない。澤口さんがどうしているのかまったく知らない。自分は世界の果てにいる。
存在するのは、石階段と自分だけだ。
ひたすら土ばかり掘っていると、その違いも感じられるようになる。浅いところの土は柔らかく、ぱさぱさしている。降り積もった枯れ葉がまだ土になりきっていないのだ。軍手をはめた指先で強く押せば、ずぶりと沈む。
ところが表層から数センチ奥には、やたらと固くて粘っこい、まるで粘土のような土があって、ひどく手強《てごわ》かった。そんなところの土は、まさしく古い匂いがする。遠い昔の空気を、そのうちに溜《た》め込んでいるのだろうか。あるいは枯れ葉が土になるまでの記憶を留めているのかもしれない。
一掘り一掘りするたび、匂いは強くなる。
そうしているうちに、僕は昔の自分を、幼かったころを思い出した。
母親の手にしっかり掴《つか》まっていたのは、小学校の入学式だった。手を引かれながら、古びた石の門を通った。体育館でなにやら挨拶を聞いたあと、母親と一緒に教室へ移動した。教室で制服以外の備品の配布があったのだ。機転のきかない母親が持ってきたのは、紺のべレー帽だった。なにも考えず頭をすっぽり収めてから、ようやく周囲の男子がみんな角帽をかぶっていることに気づいた。ベレー帽を身につけているのは女子ばかりで、要するに男子は角帽、女子はベレー帽と決まっているらしい。気の利かない母親は、間違って女子用の帽子を持ってきてしまったのだ。気づいた途端、僕は急に恥ずかしくなり、慌ててベレー帽をはずした。顔が赤くなるのが自分でもわかり、僕は感情をそのまま母親にぶつけ、鋭く詰《なじ》った。
母ちゃんはなんで――。
言葉がやがて途切れてしまったのはなぜだろうか。母親が情けなく思えたからだろうか。とても小さく感じられたからだろうか。怒りは急速に消えて、なぜか悲しい気持ちだけが残った。
まるで残骸のようなものだった。
残骸だからこそ、余計に悲しかったのかもしれない。
僕にとって、それが晴れやかなはずの、入学式の思い出だった。自らの幼さを、母親の不器用さを、ただ思い知らされるだけの、ひどく嫌な記憶だ。
詰られた母親の顔が鮮明に蘇《よみがえ》ってきて、僕の土を掘る手がいっそう早くなった。どうして六歳の自分は、あんな下らないことで怒ったのか。汚い言葉を母親に浴びせたのか。母親は確かに聡い人間ではないが、それでも彼女を責めた六歳の自分の方がよっぽど愚かだ。醜《みにく》い。
土を掘っていると、やがて太い根が現れた。スコップの先で叩き切るには、ちょっとばかり太すぎる。
「悪いな」
呟いてから、ノコギリの刃を食い込ませ、一気に引いた。太さ五センチほどの根はたっぷりの水を含んでおり、ノコギリの表面が濡れた。そうして切った根を、脇の斜面に捨てる。石井さんが教えてくれたのだが、数年も斜面に捨て置けば、幹も根も土になってしまうそうだ。
不思議なものだと思った。
木は土になり、土が木を生み出す。
この山は、それぞれ形を変えているけど、同じひとつのものなのだ。
「そろそろ休むか」
溜息とともに言葉を吐き出し、道具をそのままにして一番上の階段まで行くと、バックパックに手を入れ、パンを取り出した。
石井さんの奥さんが差し入れをくれることが多いけど、毎日というわけではなく、そういうときのために、いちおうパンを二、三個は買ってあるのだった。お金がないので、一番安いジャムパンとクリームパンだ。ふわふわした茶色のパンにかぶりつき、二口か三口で食べてしまった。
さらにもうひとつパンを取り出したとき、山道の一番下に誰かがやってきたことに気づいた。
彩乃ちゃんだ。
おーい、と声をかけ、手を振る。彩乃ちゃんはしかし、別の方に向かって手を振った。なんだろうと思っていると、人影が現れた。
まず僕の目に入ってきたのは、すらりと伸びた脚だった。澤口さんだ。
「辻村君がこんなことしてるって知らなかった」
同じ石階段に腰かけた澤口さんは、とても明るい顔をしていた。なにかに興奮しているようでもあった。
頬が赤く染まっているのは、山道を登ってきたからだろうか。
「澤口さん、どうしてここに来たんだよ」
「あのね、石井さんって、わたしの叔父さんなの。お盆に石井さんと会って。ああ、うちのお祖父ちゃんが今年の初めに死んだのよ」
あっさり言われたので、悔やみの言葉を口にするべきかどうか迷った。
「へえ、そうなんだ」
どうにか言えたのは、それだけだ。伊藤なら、と思った。伊藤なら悔やみの言葉をあっさり口にし、優しく慰め、そのあと気の利いた冗談で彼女を笑わせたりするんだろう。
だから澤口さんは――。
コンビニの店内で肩を並べていたふたりの姿が浮かんだ。伊藤も澤口さんも笑っていた。自分でも嫌になるくらいの、どす黒い感情に、僕はうつむいた。掘り出されたばかりの石階段のあちこちには、まだ少し土がついている。
指先でその汚れを拭うと、石のつるつるとした表面が現れた。
「そのお盆のとき、石井さんが裏山の石階段を掘り出してる男の子がいるって教えてくれたの。それで、もっと詳しく聞いたら、どうもうちの学校の人で、しかも同じクラスの辻村君だってわかったから、びっくり」
たいしたことではないのに、澤口さんは声を弾ませた。
「澤口さんが石井さんの親戚だなんて知らなかったよ。すごい偶然だな」
「うん。本当に」
すごいすごい、と僕たちは何度も繰り返した。もっとも、伊勢は小さな町なので、こんなふうに繋がっていてもまったく不思議ではないんだけど、今は野暮《やぼ》なことを口にしたくなかった。
「これ、辻村君が全部掘り出したの」
「うん」
「たったひとりでやったの」
「うん」
最初の一段は伊藤と世古も加わっていたものの、それは話さないことにした。奴らはすぐ消えてしまったんだし。
「大変だったでしょう」
「確かにきつかったよ」
「この先ってどうするの」
「え、この先って」
「全部掘るのかってこと」
僕たちの前には、掘り出された石階段があった。僕の手によって、地上に姿を現したものだ。
山道の下の方には、もっとたくさんの石階段が埋まっている。
「掘るよ」
言葉が勝手に漏れていた。
「全部?」
「ああ、最後の一段まで掘り出すさ」
澤口さんの驚いた顔が心地いい。
この感覚を味わえるなら、なんだってできると思った。
「やるね、辻村君」
澤口さんは短く、そう言った。とてもきっぱりした感じだった。この場の雰囲気で、ありふれた言葉を口にしたわけではない。直後、山道の下から風が吹き上がってきて、麓に積もった落ち葉を舞い上げた。風の軌跡が、はっきり見えた。落ち葉を舞い上げながら、こちらに近づいてくる。
あとちょっと。
もうすぐだ。
確かに迫ってくる風を、ふたりで待っている。
横を見ると、澤口さんもこちらを見ていた。目が合った。僕たちは、ともに笑った。揃って顔を前に向けたところで、ちょうど風が来た。ふたりを包むように吹き抜けていく。周囲の緑がざわめく。足もとの枯れ葉が激しく舞い躍る。
「今、風が走ってくるのがわかったな!」
「うん! わかった!」
「もう走り抜けていっちゃったけど!」
僕たちは少し興奮して、今の体験を大声で語り合った。澤口さんと話していると、まるで飽きなかった。いくらでも喋れるような気がした。だけど、それがだんだん怖くなってきて、僕は立ち上がった。澤口さんが好きなのは、僕じゃないんだ。伊藤なんだ。あまり近づきすぎちゃいけない。多くを望めば望むほど、失う痛みが増すばかりじゃないか。
「作業を再開するよ」
告げると、澤口さんは意外なことを口にした。
「ねえ、見てていい?」
「いいけど」
「邪魔にならない?」
「ならないよ」
半分本当で、半分嘘だった。澤口さんに見られていると思うと、緊張して、いつものように作業ができなくなってしまった。
動きのすべてが、やけにぎこちない。
それでもしばらく続けているうちに、頭ではなく、体の方が勝手に動き始めた。土を掘り、細い根をスコップの先で叩き切り、土と一緒に脇の斜面へ捨てる。そういうサイクルができると、僕はもうなにも考えなくてもよかった。澤口さんの視線も、受験に対する焦りも、自らの将来という不安も、すべて汗と土塊《つちくれ》の中へ消えていった。
根を三本切り、土を掘り返し、プラスチック製の箱にそれらを詰めると、僕は山道の縁までえっちらおっちら運んだ。あとは投げ捨てるだけだ。枯れ葉も、根も、土も、すべて山が飲み込んでくれるだろう。
山には、それくらいの懐の深さがある。
「あれ――」
捨てようとしたら、斜面のはるか下に澤口さんの姿があった。いつの間に、あんなところに行ったんだろう。
隣にいるのは彩乃ちゃんだ。
僕は箱を持ったまま、しばしその光景を眺めた。ふたりの女の子は、まるで姉妹のように思えた。両腕にかかった重さに気づき、僕は箱を下ろした。どうせ泥だらけなので、ズボンが汚れることなど気にせず、斜面をずるずる滑りながら下りていく。
「なにしてるんだよ」
「仏さま」
尋ねると、彩乃ちゃんがその幼い顔を上げた。続いて澤口さんも僕を見た。彼女の目や唇はもう、ただの子供ではなく、僕の奥底に潜むなにかを少しばかり刺激した。
その刺激に気づかない振りをしながら、僕はふたたび尋ねた。
「仏さまって?」
「ここに納められてたの」
見れば小さな祠《ほこら》があって、ほとんど朽ち果てようとしていた。相当古いものらしい。土台は腐りきって、屋根も壁も傾いている。中に納められていたのは、小さな仏さまだった。高さは十センチに満たないけど、意外と精巧に作られている。祠に守られていたせいか、まったく朽ちていない。
「女の人かしら」
澤口さんが、仏さまを覗き込みながら呟いた。
「きれいなお顔」
お顔、と彼女が言ったことに、僕は嬉しくなった。なんだかいいな、こういうのって。女の子らしいというか。
そんなことを考えていたところ、意外なことを、彩乃ちゃんが教えてくれた。
「仏さまに男とか女はないんだよ」
「え、そうなの」
「悟るとそういうのはなくなるから」
あ、そうか、と澤口さんは頷いた。
「男とか女とか関係ないのね」
「うん。そう」
「だけど女の人に見えるね。ほら、唇が――」
「紅が乗ってるね」
ちょっとびっくりした。たった十歳かそこらの彩乃ちゃんが、紅なんて言葉を使うとは思わなかった。
「きれいだね」
「お顔が整ってる」
「美人だね」
「うん。美人」
澤口さんと彩乃ちゃんは、何度も同じ言葉を繰り返した。
「あれ、彩乃ちゃん、マニキュアしてるんだ」
いきなり澤口さんの声が高くなった。
「すごく鮮やかな色だね」
覗き込むと、確かに彩乃ちゃんの爪は赤く塗られていた。それがまた、やけにきれいな色だった。クラスの女子がコンビニで売ってるような安物を塗っていることがあるけど、明らかに艶《つや》が違う。
「どうしたの、これ」
「貰ったの」
澤口さんに答える彩乃ちゃんは、とても嬉しそうだった。
「本当にきれいだね。すごくいいマニキュアでしょう」
「そうみたい」
「まさか彼氏に貰ったとか」
澤口さんの冗談に、彩乃ちゃんは律儀に応じた。
「ううん。仲良くなったお姉さんに」
「うらやましいな」
かたや小学生、かたや高校生、それでもやっぱり女同士だ。ふたりは赤い爪を挟んで、はしゃいでいる。こういう楽しみは、男の僕にはよくわからない。僕は彼女たちの邪魔をしたくなくて、少し下がった辺りに立っていることにした。
樹木に覆われていることもあり、山の夕は早く訪れる。
「そろそろ帰った方がいい」
真面目に僕は忠告した。
そのとき、僕は自らが山の一部になったような気がした。自分もまた人間であり、やがては電灯の下に帰っていく存在ではあるのだけど、確かにそういう感じがしたのだった。
澤口さんも彩乃ちゃんも、素直に従ってくれた。
「はい」
「はい」
やけに丁寧な、年上に対するような返事。
「行こうか」
はい、はい、と同じような言葉が返ってきた。クラスでは優等生の澤口さんが、そうして自分に敬意を払ってくれるのが妙な感じだった。
山道の入り口、自転車をとめているところまで戻ると、僕は体中についた土を軍手で払った。
「これって橋なのね」
下の方を覗き見ながら、澤口さんが言った。
「ああ、そうらしい」
彼女の隣に、僕は立った。
これまた土に埋もれかかっているのでわかりにくいけど、山道の入り口にコンクリート製の橋が架かっていて、その下に小さな沢がある。ささやかな流れなので、こうして覗き込まなければ、沢の存在にさえ気づかない。以前はかなりの水量があったと石井さんは言っていた。上流に砂防ダムが造られてから、流れる水が激減してしまったんだよ、と。
彩乃ちゃんが頭を下げた。
「今日はありがとうございました。もう帰ります」
「彩乃ちゃん、石井さんのところにいるんだよね」
すっかり仲良くなったのか、澤口さんは気楽に話している。
「あそこって子供が三人もいるし、いつも賑《にぎ》やかだよね」
「楽しいよ。みんなと一緒にいると」
彩乃ちゃんも、澤口さんと同じように喋っている。
こんな彼女の笑顔を、僕は今まで見たことがなかった。女同士の付き合いというのは、たいしたものだ。ほんの一、二時間で、ここまで親しくなれるのだから。その中に入れないことが、寂しくもあり、なぜか嬉しくもある。
「彩乃ちゃんって、石井さんとどういう関係なの」
何気ない口調で、澤口さんが尋ねた。
彩乃ちゃんの顔が強《こわ》ばった。
「もし親戚だったら、わたしとも血が繋がってるかもしれないね」
気づかぬ澤口さんは、変わらぬ口調で質問を重ねる。まあ、この薄闇だ。彩乃ちゃんの表情の変化を読み取れという方が無理だった。
僕は慌てて会話に割って入った。
「そろそろ帰ろうよ、澤口さん」
「あ、そうだね」
澤口さんは辺りを見まわし、暗さに驚いたようだった。
「もうこんなに暗くなってたんだ」
「だって夕方だよ」
「うん。だけど全然気づかなかった」
澤口さんの言っていることは、よくわかった。山にいると、時間の経過をすっかり忘れてしまうことがある。
「明日も来るの」
「天気がよかったら」
彩乃ちゃんの問いに、僕は空を見上げた。厚い雲が、西の方からやってきている。雨が降れば、作業はできない。
「彩乃ちゃん、わたしもまた来るね」
「待ってる」
「約束ね。本当に来るからね」
澤口さんと彩乃ちゃんの挨拶が終わるのを待ってから、手を振り合って別れた。澤口さんと一緒に坂を下った。ふたりきりになると話しにくくなるかと思ったけど、彼女がいろいろ尋ねてくれたおかげで、沈黙が続くことはなかった。石階段を掘り出すことになった経緯とか、彩乃ちゃんのこととか、進路のこととか。自分でもびっくりするくらい、僕はたくさんの言葉を口にした。そばで笑う澤口さんの笑顔や、気軽に肩を叩く仕草に、促されたのかもしれない。
「そうか。伊藤君はすぐいなくなっちゃったのね」
宇治山田駅の前に差しかかった辺りで、ぽつりと澤口さんが漏らした。言外の意味が含まれているような感じだった。
なぜだか、そのときは僕も言葉がすぐ出てきた。
「澤口さんってさ、伊藤と付き合ってるんだっけ」
「どこで聞いたの、それ」
「え、どこって」
言いよどんでいると、澤口さんはたくさんの息を吐いた。
「困ってるのよ。伊藤君が案内ボランティアを一緒にやりたいって言い出してね。断る理由もないじゃない? だから一緒に行動してたら、変な噂が立っちゃったの。だけど、伊藤君、初日だけだったのよ。二日目からは来ないの」
澤口さんは憤《いきどお》っているようだった。唇をかわいらしく突き出している。僕は笑いたくなった。いや、きっと笑っていた。
「澤口さんは利用されたんだよ」
「利用って?」
伊藤はレポートを二種類提出するつもりなんだろう。ひとつは山の清掃。もうひとつは観光案内。いろんなボランティアをやったことにするってわけだ。あいつは就職志望だから、内申が効いてくるのはこれからだった。
友達を売るようで少しは気が引けたけど、そんなことをおもしろおかしく話すと、澤口さんが声を上げて笑ってくれたので、僕はさらにいくつかエピソードを付け足し、彼女をもっと笑わせた。
「伊藤君って本当に要領がいいよね」
「俺も友達ながらうらやましくなることがあるよ」
それからしばらく、伊藤がいかにうまく教師の機嫌を取り、女子とお気楽に付き合ってきたかで盛り上がった。
澤口さんも伊藤の素行をちゃんと知っていた。
学級委員なんかをしている、つまり真面目タイプの澤口さんでさえ知っているということは、女子なら誰でも知っているということだ。そのことが、僕にとっては少しばかり驚きだった。
伊藤はそんな男だとばれているのに、なぜ女子にモテ続けるのだろう。
「そういうところに惹《ひ》かれる子もいるからね」
率直に尋ねると、澤口さんは教えてくれた。
「ちょっと悪いのって魅力的だし」
彼女が今、いったいどういう顔をしているのか、闇に紛れて見えない。そのことがもどかしかった。
「澤口さんはどう」
弾む心臓を胸に抱えながら、僕は尋ねた。
「どうって」
「だから、その、澤口さんもちょっと悪いタイプが魅力的なのかなって」
「伊藤君ってことなら、それは勘弁ね」
澤口さんは大きな声を出して笑った。嘘ではないようだ。
「だって一日でいなくなっちゃうのよ」
「ああ、そうだったな」
「わたしは同じことをずっと続けられる人の方がいいな。周りが気づかなくても、馬鹿にされても、一生懸命になにかをできる人の方が好き」
闇のせいで、やはり彼女の顔はよくわからない。
僕の方を少し見た気もするけど、どんな表情をしていたのだろうか。ただ顔をこちらに向けただけなのかもしれない。
闇はありがたかったのか。それとも邪魔だったのか。
「雲の流れが速いね」
空を見上げた澤口さんが呟いた。同じように顔を上げると、さっき西の方にあった雲が、すぐそばまで近づいていた。
たっぷりの雨を溜め込んだ黒雲だった。
石井さんから電話がかかってきたのは夜九時ごろだった。
「水が出てる」
最初はなんのことだかわからなかった。
「え、水ですか」
「橋の下に沢が流れてるだろう。あれが増水してるんだ。たぶん上流の砂防ダムが土砂か木で詰まって溢《あふ》れたんだと思う。石階段の方には影響がないと思うけど、下手に近づくと危ないから、明日は来ない方がいいよ」
はい、と頷いて電話を切った。近くの窓を開けてみると、確かに本降りになっていた。屋根の瓦がすっかり濡れている。あの小さい沢が増水するなんて信じられなかった。普段は存在さえ忘れているのに。
石井さんの忠告通り、明日の作業はやめようと思いながら窓を閉め、二階にある自室に向かった。
すっかり古くなった町屋の階段は、僕が足を置くだけで、ぎしぎしと音を立てる。その音を聞いているうちに、古びた祠を思い出した。中に納められた仏さま。唇に少しだけ残っていた紅。仏さまの顔はなんとなく澤口さんに似ていた気がする。
祠があるのは山の麓で、沢が近くを流れている。
もし増水したら流されるかもしれない。
久しぶりに勉強しようと机に向かったものの、気持ちが落ち着かなかった。どうしても仏さまを忘れることができなかった。
馬鹿げている。意味などない。危ないだけだ。そう思いつつ、僕は階段を下りていた。階段は律儀に、ぎしぎしと鳴った。物置からカッパを取り出し、身につける。ドアを開け、雨中へと踏み出す。自転車に跨る。ペダルを思いっきりこぐ。雨が押し寄せてきて、剥《む》き出しの顔を打った。カッパは右脇のどこかが破れているらしく、小田橋《おだばし》を渡った辺りで、中のシャツがぐっしょり濡れた。やがて山道の入り口に達すると、傘がふたつ並んでいた。NPOの石井さんと勝田さんだった。
僕の姿を見るなり、おおと大袈裟な声を上げた。
「わざわざ様子を見に来てくれたのか」
「はい」
「たいした水だよ」
貧相な沢は今、姿を一変させていた。黒い水が渦を巻き、橋桁《はしげた》の下まで迫っている。驚くと同時に、水の勢いに恐怖を感じた。この流れに飲まれたら、這《は》い上がることなんて絶対にできないだろう。
「仏さまはどうなんですか」
僕の早口の問いに、ふたりは首を傾げた。
どうやら祠の存在自体を知らないらしい。
僕は橋を渡ると、斜面を覗いてみた。暗くてよくわからないけど、増水した沢は祠のそばまで近づいているような感じだった。あと少し水が増えれば、祠ごと仏さまを流し去ってしまう。澤口さんに似た仏さまを。
衝動的に走り出した僕を、大人ふたりがとめにきた。
「駄目だ駄目だ。落ちたら危ないぞ」
「濡れた斜面は滑るんだから」
やがて雨足がいっそう強くなり、沢の水は勢いを増した。橋の上にまで、跳ね返りが来るようになった。祠は今にもその流れに飲み込まれそうだ。かまうものか、と僕は思った。まず山道を登るんだ。祠の真上まで行ったら、慎重に斜面を下りる。それで仏さまだけ持ち出してくれば大丈夫だろう。
「駄目だ。駄目だって」
僕の気勢に気づいたのか、石井さんが立ちはだかった。
「だけど――」
「あの」
背後から、別の声がした。振り向くと、そこに立っていたのは彩乃ちゃんだった。小さな黄色の傘を差している。
「彩乃ちゃん?」
僕の口から、かすれるような声が漏れた。
彼女は小さく頷いた。
その頷きが、いったいどういうものだったのかわからない。僕の呟きに応じただけかもしれないし、あるいはなにか別のことを伝えようとしていたのかもしれない。僕は言葉を失い、ただその場に立ち尽くし、成り行きを見守った。僕だけじゃない。石井さんも、普段はこまごまと動く勝田さんも、同じようにぼんやりしていた。
彩乃ちゃんは橋の真ん中に立つと、激しく流れる沢を覗き込んだ。そして、小さな手をそっと伸ばし、橋に触れた。
本当なら、こんなところに小さな子供が来ちゃいけないと言うべきだった。帰りなさいと諭《さと》すべきだ。けれど僕たちは言葉を失っていた。畏怖を感じたわけではない。状況に混乱したわけでもない。ただ、そこに彩乃ちゃんがいることがひどく自然に感じられ、余計な口出しをしてはいけないような気持ちになっていた。
うん、と彩乃ちゃんは言った。そして立ち上がった。
「大丈夫」
彼女は短く言葉を発した。
「安心していいよ」
なぜか僕にはちゃんと理解できた。彼女は僕に話しかけているのだ。僕がなにを望み、なにをやろうとしているのか、すべて悟った上でそう言っている。
祠も、仏さまも、大丈夫だと。水に流されることはないのだと。
「本当に?」
僕の声は、縋《すが》るような感じになっていた。
「うん」
彩乃ちゃんはしっかりと頷いた。
さらに水かさが増し、ついに橋の上を流れるようになった。このままでは戻れなくなるかもしれないので、道路側に待避した。そこからだと、祠はほとんど見えない。祠が流されるという不安が時折蘇ってきたけど、隣にいる少女の姿を目にすると、その不安はすぐに消えた。
三十分ほどたったころ、雨足が急に弱くなった。沢の水も、それからすぐに勢いを緩めた。ひとたび水が引き始めると、あとは早かった。さらに三十分ほどたつと、沢の水量は半分以下になっていた。
「やれやれだな」
おじさんたちは安堵《あんど》の声を漏らした。
「これでもう大丈夫だ」
僕もまた、ほっとしていた。
「彩乃ちゃん」
すぐ隣に立っている少女に話しかける。
「ちゃんとわかってたのか」
「うん」
彼女はしっかりと頷いた。
「水が祠に届かないって知ってたんだ」
「うん」
そうか、と僕は呟いた。彼女の言葉をそっくり信じていた。
「わかってたんだ」
それからすぐに、彩乃ちゃんはいなくなった。石井さんはただ、迎えが来たからとだけ言った。あまり喋りたくなさそうだったので、僕はあえて事情を尋ねなかった。
彼女はどこかに戻ったのだろう。
彩乃ちゃんにどんな力があって、なにができようと、僕にとっては、爪にマニキュアを塗って喜んでいるただの少女だった。
ああ、そうだ。
いなくなる少し前、彩乃ちゃんがこんなことを言ってたっけ。
「石階段掘り、続けてね」
それはふたりでお弁当を食べているときで、彼女はいつものように半分のおにぎりを頬張っていた。
相変わらず暑く、確かに夏ではあったけど、空気を胸いっぱいに吸い込むと、どこかに秋の匂いを感じることがあった。時は確かに流れていくのだ。僕たちが立ち止まっていようが、迷っていようが、まったくお構いなしだ。
頭上では木々が風に揺れており、木漏れ日が僕たちの足もとで躍っていた。
「それ、どういうこと」
意味がわからず、僕は尋ねた。
「続けると、きっといいことがあるから」
「わかった。続けるよ」
よくわからないまま、僕は頷いた。
「おいしいね、おにぎり」
「彩乃ちゃん、残りの半分も食べる?」
「どうしようかな」
僕は半分を差し出した。
「食べられるところまで食べればいいよ。残りは俺が食べてやるから」
彩乃ちゃんは結局、丸々ひとつ平らげてしまった。
「すごい。食べられたな」
嬉しそうに彼女は笑った。
「うん。おいしかった」
胸ポケットの奥に入ってしまった飴《あめ》を取ろうとして手を差し込んだところ、なにか細いものが指に絡まった。あれ、なんだろう。手を引っ張り出すと、銀色の細い鎖がきらりと光った。
ああ、入りっぱなしになってたんだ。
姉が勝手に滑り込ませたペンダントだった。すっかり忘れていた。澤口さんにあげようかという考えが一瞬だけ浮かんだものの、とてもそんなことはできそうになく、ほんの気まぐれから、目の前にいる少女に銀色の鎖を差し出した。
「これ、あげるよ」
「え?」
「姉ちゃんが作ったんだ。押しつけられて困っててさ。彩乃ちゃん、貰ってくれないかな。ほら、その――」
お礼に、という言葉は、あえて口にしなかった。ただの偶然かもしれないけど、僕は彩乃ちゃんが祠と仏さまを救ってくれたような気がしていた。少なくとも、あのとき、慌てていた僕を落ち着かせてくれたのは確かだ。
冷静になってみると、斜面の上から祠に近づくのは、かえって危なかったかもしれない。途中で足を滑らせれば、そのまま荒れた沢まで落ちてしまう。
仏さまを救ってくれたお礼。そして、僕を助けてくれたお礼。
「本当に貰ってもいいの」
銀色のペンダントを手にした彩乃ちゃんは、泣きそうな顔で僕を見た。
「もちろん」
珍しく気障《きざ》に言いながら、彼女の細い首にペンダントをかけてやった。似合うねと柄にもない台詞《せりふ》まで僕は口にしていた。
子供が相手だとできるけど、澤口さんが相手だと無理だろうな。
「ありがとう」
彩乃ちゃんは何度も繰り返した。貝殻のペンダント・トップを両手で握りしめた。
「ありがとう」
そうして彩乃ちゃんがいなくなり、夏休みが終わりに近づいても、僕は山に通い続けた。彼女との約束を守るためだ。石階段はだいぶ姿を現し、麓まで五メートルほどに迫っていた。埋まっている階段は、あと十段かそこらだろう。最近は朝早く来て一段だけ掘り出し、それから家に帰って昼寝をして、夕方以降は受験勉強をしている。夏休み中盤までの遅れを取り戻すのは大変そうだったけど、妙な充実感があって、自分でも驚くほど勉強ははかどっていた。
「こんなものかな」
僕の問いに、澤口さんが答えてくれる。
「もう少し右じゃないかしら」
僕たちは今、腐りきった祠を脇にどけ、新しい祠を設置しているところだった。意外と手先が器用だった勝田さんが作ってくれたもので、さすがに素人仕事だけど、それでもなかなかの出来だ。
実のところ、石階段掘りを続けている理由のひとつが、澤口さんだった。
「彩乃ちゃんがいなくなったから、わたしが手伝うね」
そう言って、澤口さんがお弁当を持ってきてくれるようになったのだ。しかも石井さんの奥さんが作った丸いおにぎりではなく、澤口さん自身が作ったお弁当だ。おにぎりは俵形で、丁寧に海苔《のり》が巻いてあるし、ウィンナーはカニやタコの形に細工してある。お弁当箱がまた、かわいらしいんだ。キャラクターの絵がついてたりしてさ。僕の手は無骨で、かなり大きい方だ。そんな手が、あんなかわいらしいお弁当箱を持っているのを目《ま》の当たりにすると――なにしろ自分自身が持っているんだから、本当に目の前だ――すごく恥ずかしくなる。
まあ、恥ずかしい以上に、嬉しいんだけど。
「今日も石階段掘りをするの」
「いや、この祠を据えつけたら終わりかな」
角度を調整しながら、僕は言った。
「そろそろ勉強しないと」
「受験生だもんね」
「澤口さんこそ、こんなことしてていいのか」
えへへ、と彼女は笑った。
「わたし、推薦が貰えそうなんだよね」
「ええ、卑怯《ひきょう》だな」
「普段の行いの成果よ」
毎日顔を合わせているせいか、ずいぶんと気楽に話せるようになった。時々、つい澤口と呼び捨てにしてしまうことがある。彼女は別に嫌な顔はしない。もしかすると、そのうち、下の名を呼び捨てにできる仲になるかもしれなかった。告白する勇気はまだないけどさ。ここまで彼女に近づけただけでも、十分に嬉しかった。夏休み前は、顔と名前を知っているだけの間柄だったのだから。僕はそっと胸ポケットに触れた。そこにはペンダントが入っている。姉に頼んで、新しいのを貰ったのだ。
もうひとつペンダントが欲しいと言うと、姉は少しびっくりしたあと、すぐ部屋に引っ込んだ。
「ほら、これ」
二、三分ほどしてから、ペンダントを持って戻ってきた。
小さなリングがみっつ重なっているペンダント・トップで、そのリングは指輪を連想させた。どうやら僕の感じたことは間違いではなかったらしく、姉がこんなふうに説明してくれた。
「いきなり指輪をあげるんじゃなくて、まずこういうのを渡すわけ。予告みたいなもんね。ギリシャだか北欧だかにそういう習慣があるんだって」
「ギリシャと北欧じゃ、だいぶ位置が違うよ」
気恥ずかしさを誤魔化《ごまか》すため、僕はそんなことを口にしていた。世界史の勉強をしたあとだったから、ヨーロッパの地図が頭に残っていたのだ。
どうでもいいじゃない、と姉は面倒臭そうに言った。
「まあ頑張りなさい」
姉はそして、また部屋に引っ込んでしまった。あっさりしたものだった。誰にあげるのとか、いつあげるのとか、どういう子なのとか、いちいち聞かれると思っていた僕は、すっかり拍子抜けしてしまった。
それにしても、どうして姉は嬉しそうな顔をしていたんだろう。自分の恋が実るわけじゃないのに。
祠を固定するため、僕は胸ポケットから手を離した。いつか澤口さんにペンダントを渡すことがあるんだろうか。気持ちを伝える日が来るんだろうか。考えるだけで顔が赤くなりそうだ。
「これでいいかな」
新しい祠に、仏さまは納まった。
「お祈りでもしておこうか」
「うん」
澤口さんと並んでしゃがみ込み、手を合わせる。そして、ようやく気づいた。彩乃ちゃんの言っていたいいこと≠ニいうのは、澤口さんとのことなのだろうか。だとしたら、そのお告げは現実になったわけだ。あるいは、もっといいこと≠ェこの先あるのかな。それは欲張りすぎか。まあ、いいや。
ありがとう――。
仏さまに手を合わせながら、僕は小さな友人への礼を、心の中で呟いた。
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第三話 夏花火
夏休み後半は、花火の音から始まった。
その日は町内会の夏祭りで、お母さんは一ヵ月近くも準備に駆り出され、ずっとぴりぴりしていた。本当は断りたいんだけど、町内会の班長だから逃げられないのだそうだ。班の人や、町内会の役員への愚痴ばかり言っている。わたしがちょっと失敗しただけですぐ怒るし、なんだか嫌な感じ。
ぽん、ぽん、ぽん、と花火は呑気に上がっている。
ベッドに寝そべったまま、顔を横に向けると、憂鬱さが増した。ベッドの横、つまり床に布団《ふとん》が敷かれていて、女の子がひとり、眠っているのだ。名前は彩乃《あやの》という。自分の部屋なのに、こうして他人がいると、ちっとも落ち着けない。
はあ、と朝から溜息が漏れた。
「おはよう、佳奈《かな》」
一階のリビングに下りると、お父さんも起きていた。
テーブルにつき、新聞を読んでいる。まだパジャマ姿だから、お父さんも起きたばかりらしい。
お父さんは新聞が大好きだ。わたしにはまったくわからないけど、ふたつもみっつも取っていて、端から端まで目を通す。佳奈もいつかニッケイを読めるようになりなさい、なんて言われたことがあった。ニッケイというのは、ケイザイの新聞らしいけど、わたしには難しくてよくわからない。
そういうとき、お母さんは困ったような顔をする。
「あなた、佳奈はまだ五年生なのよ」
「早くからこういうことに接しておいた方がいいだろう」
「難しい字がまだ読めないじゃないの」
「それは僕が教えればいいんだ」
なあ、佳奈、と同意を求められたので、わたしは「う、うん」と曖昧《あいまい》に返事をしておいた。「うん」でもないし、「ううん」でもない。お父さんとお母さんの両方に気を遣うのもなかなか大変だ。
今日もお父さんはニッケイを読んでいる。
「夏休みでも佳奈は早起きなんだな」
「花火で目が覚めたの」
冷蔵庫から白い牛乳パックを、食器棚から青いグラスを取り出し、わたしもまたテーブルにつく。
お父さんの斜め向かいだ。
「そういえば花火が上がってたな」
「あの音で起こされちゃった。夏祭りだからかな」
たぶんそうだろう、とお父さんは頷く。
「日曜の朝早くから花火を上げるなんて、まったくおかしな話だよ。この辺ではそういうものなんだろうが、お父さんはどうかと思うよ」
「東京にいたころはなかったね。朝から花火なんて」
「あっちで朝から花火なんか上げたら苦情の嵐だ。夜に働いている人も多いから。機会があったら、町内会の役員に聞いてみた方がいいかもしれないな。本当に必要があるのかどうか」
わたしたち家族がこの町に引っ越してきたのは、去年の春だった。新築の家を買ったのだ。それまではずっと東京に住んでいた。
住所が東京じゃなくなったのは、なんだか田舎者になったみたいで少し嫌だったけど、新しい家は広くて気持ちいいし、自分だけの部屋を二階に貰《もら》ったし、まあ悪くないと思っている。
だいたい、田舎といっても、東京はすぐ隣だ。
川を越えるか、越えないかだけ。
わたしたちと同じ時期に引っ越してきた近所のお父さんたちは、うちと同じように、たいてい東京で働いているそうだ。
東京の一部を切り取って、よいしょと運んできた感じ。
パックを傾けると、青のグラスに滑《なめ》らかな白が溜《た》まっていく。本当は牛乳なんて好きじゃない。だけど、牛乳を飲めば背がぐんぐん伸びると聞いてから、一日に二杯は飲むことにしている。わたしの身長はかなり低くて、クラスごとに整列すると、前から二番目だ。一番前じゃないのは、友美《ともみ》ちゃんがいるおかげだった。とはいえ、友美ちゃんとわたしの差は、二センチくらいしかない。彼女の背が少し伸びたら、あっさり追い抜かれてしまうだろう。
もっとも、わたしが意識してるのは、列の一番後ろにいる亜美《あみ》ちゃんだった。
亜美ちゃんはきれいだ。
顔はまあまあってとこだけど、とにかくスタイルがいい。すらりとした感じ。それなのに、もう胸は膨《ふく》らんでいて、もちろんブラジャーもしている。そのブラジャーがまたかわいいのだ。体育の着替えのとき、ちょっとだけ見てしまった。爽やかな空色で、縁にきれいなレースがついていた。
うらやましい――。
体操着をかぶりながら、そう思ったものだった。亜美ちゃんは、ああいう下着を何枚も持っていて、毎朝どれをつけていくのか考えたりしてるに違いない。わたしには、まったく遠い話だ。なにしろ、わたしの胸は真っ平らで、ブラジャーなんかつけたって滑稽《こっけい》なだけだ。
牛乳を飲むと胸も大きくなると、誰かが言ってたっけ。
「佳奈は牛乳が好きなんだな」
無邪気にお父さんが尋ねてくる。
どうして、こんなに無神経なんだろう。クラスで騒いでいる男子も馬鹿で無神経だけど、お父さんも同じだった。
わたしの気持ちなんて、ちっともわかってないんだ。
「おいしいから」
もちろん本当のことなんて言わない。
「そうか」
お父さんは満足そうに頷いた。
「牛乳は体にいいから、どんどん飲みなさい」
「うん」
頷いて、どんどん飲む。背があと二センチ伸びますように。胸が大きくなりますように。そうしたらブラジャーを買ってもらうんだ。
やがて、お母さんが帰ってきた。
「あら、佳奈、起きてたの」
いつもよりちょっと早口だ。
わたしは警戒した。
「もう歯は磨いたの」
「まだ」
「早く磨きなさい」
「うん」
「ほら、早く」
お母さんは無闇に急《せ》かす。悪い予感、的中だ。わたしは少しむっとしながら、でも穏やかに言った。
「朝ご飯、食べてないよ」
「あなた、佳奈に朝食を食べさせてないの」
攻撃がお父さんに向かった。
「無茶言わないでくれ。佳奈は起きたばかりなんだぞ。リビングに下りてきてから五分もたってない。なあ、佳奈」
「うん」
ここだけは全面同意。事実だし。
「そうなの」
なんて頷いたものの、お母さんはあまりよくわかってない様子で、キッチンに駆け込んでいった。やけにテンパってる。その様子を見たお父さんが、やれやれというように、わざとらしく肩をすくめた。
「母さんも大変だな」
「夏祭りの準備?」
「ああ、婦人部で屋台をやるらしい。町内会なんて面倒臭いだけだよ。町会長の西村《にしむら》さんって、佳奈、知ってたよな」
「あのお爺《じい》ちゃん?」
「そうそう。あのお爺ちゃんだ」
引っ越してきたすぐあと、家に来たことがある。ずいぶん年を取っていて、妖怪みたいだった。皺《しわ》と染みがすごい。言葉が訛《なま》っているせいで、わたしには半分も言っていることがわからなかった。
「おまえさんよお、ずいぶんと痩《や》せっぽちだなあ」
がはは、と町会長は笑った。確かに、がはは、と笑った。あんなふうに笑う人、初めてだった。とんでもない田舎から出てきた人なのかもしれないと思ったものの、お母さんによると町会長はこの町で生まれ育ったらしい。
「わたし、なに言ってるか、ちっともわからなかった」
「訛ってたものね」
「ずっとこの町で育ったのに、どうしてあんなふうに喋《しゃべ》るの」
「ここら辺の昔の言葉って、あんな感じだったのよ」
「嘘だよ、そんなの」
とても信じられなかった。テレビをつけると、東京と同じ番組がちゃんと映る。アナウンサーも、司会も、もちろん訛ってなんかいない。それに、ここは東京のすぐ隣だ。川を越えるか、越えないかだけ。こんなに言葉が違うものだろうか。
「東京だって下町の方は訛りがあるわよ。下町言葉っていってね」
「ええ、東京にも訛ってる人がいるの」
「若い人はそうでもないけど、年配の人だとね。ここら辺なんか、ほんのちょっと前は家もほとんどなくて、どこもかしこも畑だったのよ。そのころから住んでる古い人は、考え方も、言葉も、わたしたちとはだいぶ違うの。シンジュウミンとキュウジュウミンは、同じじゃないのよ」
よくわからなかったので、ふうんと頷いておいた。
シンジュウミンとキュウジュウミン。
お父さんもお母さんもよく使うけど、どんな字なのか、どういう意味なのか、わたしにはさっぱりわからない。辞書に載ってるのかな。
お父さんは、西村さんも現実を直視してほしいよ、と嘆いた。
「この辺だって都内への通勤者の方が多くなったんだから、いつまでも昔の感覚のままじゃ困るんだ。シンジュウミンとキュウジュウミンは、同じように動けないことを理解してもらわないと」
シンジュウミンとキュウジュウミンの話になると、お父さんの声はちょっと大きくなる。あと、カチグミとマケグミの話をするときも。
そんな話を聞きたくなかったので、わたしはさっさと自分の部屋へ戻った。
最近、自分の部屋で過ごすことが増えた。前はずっとリビングにいたのに。お父さんやお母さんと話すのが、なんだか面倒になってきたからかもしれない。変わったのはわたしなんだろうか、それともお父さんたちなんだろうか。
「あれ」
部屋に戻って、後悔した。
「起きてたの」
うん、と頷いたのは彩乃だった。わたしが下に行ってるあいだに起きたらしい。
彩乃は布団を丁寧に畳んでいた。折り畳むたびに、いちいち手のひらでシーツの皺を伸ばしている。ひとつひとつの仕草が、やけに気取ってるというか、いい子ぶってるふう。床についた両膝をきっちり揃《そろ》えてるし。わたしにはこんなこと、絶対できない。適当に畳んで、あとでお母さんに怒られるだろう。
ぽん、と花火が上がった。ぽん、ぽん、ぽん。
「あ、花火」
「夏祭りだから、今日」
「そうなんだ」
彩乃はちょっと嬉しそうな顔をした。
「お祭りなのね」
「そう」
「あ、また花火」
ぽん、と上がる。
昼間の花火って、なんだか間抜けな感じ。
彩乃が家に来たのは、三日くらい前だった。
「佳奈、話があるんだ」
塾から帰ってきたあと、お父さんに呼ばれた。もう遅かったので、わたしはすぐにでも眠りたかったけど、そんな時間にお父さんが家にいるのは珍しく、ちょっとばかり驚いてもいた。
「テーブルにつきなさい」
わたしとお父さんは、テーブルで向かい合った。お母さんはキッチンに引っ込んだまま出てこない。そこでようやく、わたしは面倒な話なんだと気づいた。
しまった……。
そう思ったものの、今さら逃げられるわけがなかった。テーブルの下で、足をぶらぶら揺らすしかない。
「うちで女の子を預かることになった。明日には来ると思う」
「え、どういうこと」
「恩人のお孫さんなんだ。事情があって、お父さんがしばらく面倒を見ることになった。ずっとってわけじゃない。一週間か、二週間くらいだ。年は佳奈と同じだよ。だから、きっと仲良くできると思う」
そんなことを言われても困るだけだ。
「ふうん」
あ、痛い。どこかに足をぶつけた。
「佳奈の部屋で一緒に過ごしてやってくれ」
「ええ、わたしの部屋なの」
「そうだ」
「空いてる部屋があるよ。二階に」
「いきなり他人の家に来て、ひとりきりじゃ心細いだろう。佳奈が優しくしてやってくれないか。そういう思いやりを、佳奈には持ってほしいんだ」
うん、と頷くしかなかった。
あまりにもセイロンだったから。
たまに、お母さんが愚痴る。
「お父さんはね、セイロンが大好きなのよ。セイロンセイロン、いつだってセイロン。それに振りまわされる身にもなってほしいわ」
わたしはたいてい、うんと頷く。
本当はよくわからないこともあったりするけど、とりあえず頷いておくと、お母さんが満足そうな顔をするからだ。
お父さんとお母さんの仲が悪いってわけじゃない。
どちらかというと、いい方なんだと思う。お母さんは、お父さんのお弁当をちゃんと作っているし、年に一回くらいは家族旅行だってするし、たまにお父さんが早く帰ってきた日は、みんなで一緒に夕食を摂る。
ふたりが喧嘩してるところなんて、ほとんど見たことない。
だけど、滅多に喧嘩をしないからといって、本当に仲がいいとは限らないんだろうな、とも思う。
たとえばわたしだって、お父さんとよく話すし、よくわからない問題があると解き方を聞く。お父さんのことをいちいち避けたりはしない。他の人から見たら、仲のいい親子に思えるんだろう。
だけど、わたしは、前ほどお父さんのことが好きじゃない。
お父さんと一緒にいると、苛々《いらいら》することが増えてきた。そういうときは、さっきみたいに、二階にある自分の部屋にさっさと逃げ込む。
部屋でひとりになると、ほっとする。息がふううと漏れる。
ああ、もしかすると、わたしはもう、お父さんのことが大嫌いになったのかもしれない。そういう自分の気持ちをあっさり認めたくないだけなのかな。それもちょっと違う気がするけど。
変なの。
自分のことなのに、ちっともわからない。
一年くらい前は、お父さんのことが大好きだった。はっきり言ったことはないけど、お母さんよりも好きだった。だから、お父さんが仕事から帰ってくるまで、眠いのを我慢して起きてたこともあった。
あのころのわたしは、どこにいったんだろう。
今となにが違ったんだろう。
お父さんが変わったわけではない気がする。喋ることも、姿も、行動も、だいたい同じだ。ということは、変わったのはわたしなんだろうか。そんなことを考えると、胸のどこかがむずむずしてくる。
お母さんも、同じなのかもしれない。
心がむずむずしてるのかもしれない。
わたしの部屋に、他人がやってくる。
なんだか微妙な気持ちだったけど、ちょっとは期待した。もし仲良くなれたら、いろいろ話をしよう。一緒に勉強するのだって楽しいはずだ。彼女がわからないことは教えてあげればいいし、わたしがわからないことは逆に教えてもらおう。
そう考えると、悪くない気がしてきた。
キャンプみたいなものだ。
すごく気があって、夜中まで話が盛り上がるかもしれない。お母さんに怒られたら、一緒に謝って、だけどそのあとも小声で内緒話をするんだ。
「よろしくお願いします」
やってきた彩乃は、丁寧に頭を下げた。
「お世話になります」
完璧な挨拶だ。
さすがという感じでお父さんは頷いたし、不機嫌だったお母さんも感心していた。わたしは、ちょっとだけ居心地が悪くなった。わたしはこんなふうに挨拶することなんてできない。
「佳奈、彩乃ちゃんを部屋に案内してあげなさい」
お父さんの言葉に頷き、わたしは彼女に顔を向けた。真っ直ぐこちらを見つめてくるのでドキドキした。とても大きな目で、黒い部分が大きい。なんだか、こっちの心の奥底まで見透《みす》かされてるよう。気のせいだろうけど。
二階にある部屋に案内し、わたしは改めて自己紹介した。
「わたし、佳奈ね。ここがわたしの部屋だけど、気楽に過ごしていいよ」
ちょっとラフに喋ってみた。その方が仲良くなれると思ったからだ。
彩乃はだけど、丁寧に頭を下げた。
「お世話になります」
お父さんとお母さんに挨拶したときと同じ口調、同じ言葉。いきなり出鼻をくじかれた気分になった。同じ年だし、女の子同士だと思って、わざとラフに喋ったわたしが馬鹿みたいだ。
「彩乃ちゃん、わたしと同じ年でしょう」
「はい」
「一緒に勉強とかしようね」
「はい」
彩乃は丁寧に頷くばかり。なにを考えてるのかよくわからなかった。十分もしないうちに、沈黙が部屋を満たした。わたしも彩乃もずっと黙ったままだ。我慢できなくなって彩乃の様子をこっそり窺うと、彼女は床にきちんと正座し、落ち着き払っていた。
足をだらしなく揺らしている自分が、ますます子供に思えてくる……。
彩乃は緊張してるんだ。わたしはそう思うことにした。うん、好意的に考えてみよう。わたしだって知らない人の家に行ったら、やっぱり緊張する。だから、そのうち打ち解けられるだろう。きっと大丈夫。
ところが、そうはいかなくなった。
悪いのは、間違いなくわたしだ。彩乃がたまたま出かけているとき――お母さんと服を買いに出かけたのだ――ふと彼女の荷物に目がとまった。
バッグのジッパーが開いていて、中が少し見えた。
「あれ」
言葉が漏れたのは、意外だったからだ。赤い色、きれいな瓶、見たばかりのロゴ。バッグを覗《のぞ》き込んだわたしは、びっくりしてしまった。
「マニキュアだ」
「これ、すごくきれい」
「うわあ、高い。三千円だって」
「買えるわけないよ」
「わたし、買おうかな」
「ええ、どうやって」
「お年玉の残りで」
夏休みに入る前、亜美ちゃんたちのグループが、雑誌を囲んで大騒ぎしていた。そのとき、教室にいたのはわたしと、彼女たちだけだった。
わたしは亜美ちゃんたちのグループには入っていない。というか、どうしたって入れてもらえない。
場違いって感じだ。
女子のグループは、きっちりと分かれている。目には見えないし、男子にはよくわからないみたいだけど、太い太い線が引かれているのだ。その線を越えることは許されない。無理矢理越えようとしたら、すべてのグループから弾かれることになる。
ところが、驚くことに、亜美ちゃんが声をかけてきた。
「佳奈ちゃんも、こっちおいでよ」
びっくりした。驚いたのはわたしだけじゃなくて、席を囲んでいた有希《ゆき》ちゃんも、琴音《ことね》ちゃんも、目を丸くしていた。
リーダーの亜美ちゃんが誘った以上、ふたりは逆らえない。
「あ、うん」
断る勇気はなく、わたしは話の輪に加わった。みんなが見ているのは、大人向けのファッション誌だった。体をのけぞらせるようなポーズを取った女の人ばかり載っている。不自然だなと思ったけど、すらりとした姿は格好良かった。
「この雑誌、お姉ちゃんの部屋から持ってきたの」
亜美ちゃんが言った。
近くで見て、ようやく気づいた。
「亜美ちゃん、お化粧してるんだ」
「あ、わかった?」
「うん」
「ファンデーションと、チークだけね。あとマニキュア」
彼女は両手を開いた。すべての爪が、赤く塗られている。
「先生に見つかったら怒られるよ」
わたしはドキドキしながら言ったけど、みんなは笑った。
「大丈夫だよ。もう放課後だし。先生が来たら、さよならって挨拶して走っちゃえばわからないって」
そう言う有希ちゃんも、やっぱりお化粧をしていた。
なんだか微妙な気持ちだった。学校でお化粧なんかするのはおかしいと思いつつ、どこかでうらやましいと感じる自分がいる。
どちらが本当の気持ちなのかわからなくて混乱した。
「爪、きれいだね」
そんな言葉が漏れたのは、なぜだろうか。
えへへ、と亜美ちゃんは笑った。
「コンビニで買ったの。三百円」
亜美ちゃんはどれくらいお小遣いを貰ってるのかな。わたしは月に八百円だ。髪ゴムや、シールを買ったら、それで終わりだった。余裕なんてまったくない。マニキュアに三百円も出すなんて絶対に無理だ。
「本当はこういうのが欲しいけどね」
彼女は雑誌に目をやった。マニキュア特集で、いろんな商品の写真が載っている。赤く塗られた亜美ちゃんの指先は、やっぱり赤い色のマニキュアをさしていた。シャネルと書いてあった。ヴェルニというのが商品名だろうか。値段は三千円ちょっと。わたしのお小遣いの、四ヵ月分だ。
「すごくきれいなんだろうね」
夢見るように、亜美ちゃんは言った。
「欲しいね、佳奈ちゃん」
「うん。欲しいね」
わたしは頷いていた。写真の瓶はとてもお洒落《しゃれ》で、中に詰まっている赤は、ぬめるように光っていた。
彩乃のバッグに入っていたのは、まさしくそのヴェルニだった。亜美ちゃんや、有希ちゃんが、欲しい欲しいと連呼していたものだ。
信じられなかった。
そんなに派手じゃないわたしから見ても、彩乃は地味だ。ワンピースとかスカートのラインはもっさりしてるし、色や柄もおとなしすぎる。なのに、クラスで一番派手で、胸も大きい亜美ちゃんが憧れるマニキュアを持っているのだ。
気がつくと、その瓶を手にしていた。人のバッグから勝手にものを出すなんていけないと思いつつ、体が自然と動いていたのだ。窓の明かりにかざしてみると、その赤は本当にきれいだった。雑誌の写真とは、全然違う。もっともっとすごかった。亜美ちゃんの、赤い爪を思い出した。
塗ってみようかな……。
心臓が胸の中で暴れまわっていたし、駄目だよいけないよ、これは彩乃のものだよ、と思ったものの、誘惑の方が強かった。蓋《ふた》に手をかけ、力を込める。思ったよりもあっさりと蓋はまわった。
そのとき、ノックの音が聞こえた。
ドアが開くまでに与えられた時間は、たぶん二秒か三秒だった。わたしには慌てることしかできなかった。部屋に入ってきたのはもちろん彩乃で、同時にわたしはマニキュアの瓶を落としてしまった。
蓋が開いていたから、真っ赤な液体が、とろりと床に零《こぼ》れる。
「ああ」
大きな声を上げ、彩乃が駆け寄ってきた。すぐ瓶を拾い上げたせいで、零れたのはほんのちょっとですんだ。
「なにするんですか」
彩乃は珍しく声を上げた。マニキュアの瓶を大切そうに持ったまま、わたしをじっと見てきた。すごく怒っている。当たり前だ。自分の持ち物を勝手にいじられたら、誰だって腹が立つ。
謝ろう。悪いのわたしだ。そう思ったものの、彩乃があまりに強くわたしを見るものだから、ずっと抑えていた気持ちが出てしまった。
「ここ、わたしの部屋なんだよ。あんたが来てからゆっくり眠れないし、勉強もできないし、迷惑してるの」
ああ、どうしてわたしが怒ってるんだろう。むしろ謝るべきなのに。
彩乃は黙ったまま、じっと、わたしを見ている。
なにか言って……わたしをとめて……。
気持ちと言葉は、けれど、まったく重ならない。
「いい加減にしてほしいよ。あんた、いつまでいるつもりなの。自分の部屋なのに、あんたみたいな子がいるなんて最悪だよ」
彩乃が口を強く結んだ。唇の端がぎゅっと上がっている。泣くのかなと思ったけど、彼女は床に落ちていた蓋を拾っただけだった。マニキュアをバッグに入れ、ちゃんとジッパーを閉めると、部屋を出て行った。
残されたわたしの方が、なんだか惨《みじ》めだった。
ティッシュを何枚も使って、床に零れたマニキュアを拭ったけど、ちっとも落ちなかった。赤い染みが広がるばかり。意地になってゴシゴシ擦《こす》ってるうちに、目が熱くなってきた。
わたし、なんで謝らなかったんだろう。
昼にも、ぽん、ぽん、ぽん、と花火が上がった。
時計を見たら、ちょうど十二時だった。
彩乃が居座っている部屋には戻りたくなかったので、わたしはリビングのテーブルにつき、理科のドリルをしていた。ずいぶんとはかどり、五ページくらい進んだ。だけど内容はちっとも残らない。床に零れたマニキュアの赤が頭に浮かんできて、一年間に降る雨の量とか、蟻《あり》の一生とかを、すぐに掻《か》き消してしまう。
謝るべきだった。
ごめんなさいって。
わかってはいるけど、今さらどう切り出していいかわからない。ドリルのページをめくるたび、溜息が漏れてしまう。
「佳奈、頑張ってるな」
お父さんが話しかけてきたので頷いておいた。
「うん」
頭の中は、床に零れたマニキュアの赤のことばかり。ちょっとだけだったとはいえ、元の量だって少ない。わたし、本当にいけないことをしちゃったんだ。だんだん心が重くなる。深いところに沈んでいく。
やがて、意外なことを、お父さんが言った。
「散歩でも行かないか」
「え、散歩って」
「たまには気晴らしでもした方がいいだろう」
お父さんはどんどん歩いていく。わたしは早足で追いかけなきゃいけなかった。国道沿いなのに、歩道はとにかく狭い。どうにか人がすれ違えるくらいだ。東京の歩道はもっと広くて歩きやすかった。隣の県だけど、やっぱり田舎は田舎だ。もう離れて一年以上たつのに、わたしは今でもこっちと東京を比べてしまう。
脇の斜面に茂っている緑はとても濃く、その葉先が艶々《つやつや》していた。
むせかえるような匂いが漂ってくる。
夏の匂いだ。
ほんの数ヵ月前、葉っぱはこんなに茂ってなかったし、もっと柔らかそうだった。強い光に照らされるうち、硬くなったのだ。
追いつけなくなったので、わたしは言った。
「お父さん、待って」
熱い息が漏れた。
ああ、と頷いて、お父さんは立ち止まった。
「速く歩きすぎたな」
「あ、うん」
「悪かった。気をつけるよ」
あれ、なんか変だ。いつものお父さんじゃない。相変わらずきっぱり喋るけど、自分勝手じゃないというか。
緩い坂を下りきると、そこに小さな川が流れている。川原がとても広いので、空の向こうまで見ることができた。川面を吹いてくる風は涼しく、火照《ほて》った体を気持ちよく冷やしてくれる。
「ああ、気持ちいいな」
そう言うお父さんは子供みたいだった。
「寝転ぼう、佳奈」
「え、ここで」
わたしたちが立っているのは、きれいに刈られた芝生なんかじゃなくて、草が生い茂る川原だった。
「こういう川原で寝転ぶのって、すごく気持ちいいんだぞ」
ためらうわたしにはかまわず、お父さんは横になった。草の中に埋もれるような感じだ。ううん、とリラックスした声を漏らす。まだ戸惑っていたけど、あまりにもお父さんが気持ちよさそうなので、つられて横になった。
確かに、とんでもなく気持ちよかった。
まず緑の匂いがして、それから土の匂いもした。首筋が草でちくちくするのも楽しかった。風が吹くと、川原に茂った背の高い草が、ざざざと音を立てて揺れる。真上に広がる空はひたすら青く、駆けていく雲の足取りは爽快だ。
「ほら、気持ちいいだろう」
「うん。最高」
「懐かしいよ。こんなの久しぶりだ」
「前もよくこんなことしたの」
「子供のころはいつもだったよ。お父さんは、とんでもない田舎で育ったんだ。大きな川が流れてて、見まわすと山しか目に入ってこない。テレビなんて、NHKしか映らないんだぞ」
「NHKだけしか映らないって、そんなの嘘だよ」
ちっとも信じられなかった。お父さんがそういうところで育ったということも、NHKしか映らない場所があるということも。
「嘘じゃない。本当だよ。NHKの、総合と教育だけ。他の局がどうにか映るようになったのは、高校に入ったころだ。佳奈はお父さんの故郷に行ったこと一度もないんだよな」
「うん」
「お父さんがずっと避けてたからな。今も帰る気はしないから、佳奈はあの山や川は見ないままなんだろうな」
お父さんとこんなふうに話すのって久しぶりだった。前はいつだったか思い出せないくらいだ。
「避けてたって、なんで」
「お父さんは、お父さんが嫌いだったんだ」
「え、どういうこと」
自分が嫌いなの?
「お父さんのお父さん、佳奈にとってはお祖父《じい》ちゃんのことだよ。佳奈が小さいころに死んじゃったから知らないだろう。お祖父ちゃん、町ではとても偉い人だったけど、本当はたいしたことないんだ。なにしろ小さい町だしな。人口一万ちょっとだよ。東京の、千分の一だ」
わたしは黙っていた。なんて言っていいかわからなかったからだ。風が吹く。草が躍る。前髪が揺れる。
「お祖父ちゃん、猿山のボスみたいなもんだった。お父さんはそういうのがすごく嫌だったから、必死に勉強して、こっちに出てきた。東京でひとり暮らしを始めたときは、心底からほっとしたよ。自由になれた気がした」
お父さんはそのまま喋り続けようとしたけど、なぜか言葉に詰まった。そして黙ってしまった。なにか考え込んでいる。わたしは急に、お父さんがかわいそうになってきた。そんなお父さんを見るのは、嬉しくて、悲しかった。
やっぱり変なの。
自分の気持ちって、さっぱりわからない。
この前、夜中に起きた。トイレに行こうと一階に下りたら、リビングの明かりがついていた。お父さんとお母さんの声が聞こえた。ついでに牛乳を飲んでいこうかな。ああ、でも、そうしたらまた歯を磨きなさいと言われるかもしれない。それは面倒臭いな。――なんて迷っているうちに、言葉がはっきり耳に入ってきた。
「ねえ、どうにかしてよ」
「どうにかって」
お父さんもお母さんも声がいつもより大きい。喧嘩だ。そう思った途端、胃がきゅうっと萎《しぼ》んだ。
「キュウジュウミンの人たちはわかってないのよ」
「連中がわかってないのはわかってるさ」
「だったら――」
「彼らが町内を仕切っている以上、どうにかできるわけないだろう。僕も彼らのやり方が正しいとは思わないよ。だけど、もし変えようと思うんなら、今よりも深くコミットしなきゃいけないぞ。それこそ、僕たちシンジュウミンが仕切るくらいの覚悟が必要だ。その覚悟があるのかい」
「あるわけないでしょう」
「だったら台風をやりすごすしかないよ」
ああ、セイロンだ、とわたしは思った。言葉の意味じゃなくて、声の勢いで感じた。お父さんがこんなふうに喋るときは、たいていセイロンなんだ。
お母さんは納得しなかった。
「じゃあ、あなたが町内会に出て下さい」
お母さん、本当に怒ってる。いつも、そうなんだ。本気で怒ると、お母さんは言葉がすごく丁寧になる。
お父さんはむきになって反論した。
「できるわけないだろう。僕は仕事があるんだ。君は専業主婦なんだから、家のことを取り仕切るのが役目じゃないか」
「好きで家に入ったわけじゃないです。あなたが言うから、従っただけです」
「それでも選んだのは君だろう。何度も話し合って、君も納得したはずだ。本当に嫌だったら、そう主張すべきじゃないか。今さら蒸し返すなんて卑怯《ひきょう》だし、無責任だよ。自分の選択には責任を持ってくれ」
お父さんがさらにセイロンをまくし立てると、お母さんは黙り込んだ。一分たっても、二分たっても、家は静かなままだった。わたしは足が震えてきた。下らない、馬鹿みたい、わたしは関係ない、なんて思おうとしたけど、体はまったく違う反応をする。足だけじゃなくて、体全部が震えてきた。
お母さんが、そのあと、いきなり爆発した。
「あなたはそうやって、いつも理屈ばかりで――」
「彩乃ちゃんのことだって――」
「どうしてわたしが面倒を見なきゃ――」
「ああいう子が、よくわからない理由で家にいるのは、佳奈の教育にも――」
彩乃のことが出てきた途端、お父さんはいきなり黙り込んでしまった。痛いところを突かれたんだな、と感じると同時に、情けないことにお腹が鳴った。お父さんたちに聞こえたかもしれないと思い、慌ててわたしはその場を離れ、二階に向かった。両手をついて、階段を上る。まるで猫のように。
お母さんの声が微《かす》かに聞こえてた。
「好きであの子を預かってるんじゃありませんからね」
やがて自分の部屋にたどり着くと、彩乃は起きていた。
「あ、起きてたの」
「うん」
彼女は頷いた。
「お父さんたちの話、聞こえた」
なぜそこまで踏み込んで尋ねたんだろう。部屋が暗かったからだろうか、それとも心が焦っていたからだろうか。彼女は答えず、布団にずるずる潜り込んだ。顔を隠してるような感じ。もしかして泣いてるの。
「気にすることないよ。お母さん、たまに興奮しちゃうんだよね。全然たいしたことじゃないって。わたしだって、八つ当たりで怒られたことが何度もあるよ」
慰めながら、あることに気づいた。
リビングのドアと、この部屋のドアが開いていれば、下の話し声も微かに聞こえる。だけど今は、どちらのドアも閉まっていた。お父さんとお母さんの声や、話してる内容が、彩乃に聞こえるはずがない。なのに彩乃は全部、なにもかも、お父さんとお母さんの気持ちさえもわかっているようだった。
布団に潜り込んでいるその姿を見て、はっきり悟った。
「ねえ」
彼女は布団に潜り込んだままだ。
「わかるのね」
そして震えている。
「お父さんとお母さんの言ってること」
返事はない。
「ちゃんとわかるのね」
それ以上尋ねるのはなんだか辛くて、わたしはベッドに潜り込んだ。こんな気持ちじゃ眠れないと思ったけど、なぜだかすぐに眠ってしまった。
もしかすると、それも、彩乃の力のせいだったのかもしれない。
「なあ、佳奈」
川原に寝転んだまま、お父さんは言った。
「なに」
「佳奈もいつか、そんなふうにお父さんのことを憎んだり、嫌いになったりするのかもしれないな。お父さん、ちゃんと覚悟してるつもりだから、嫌いになってもかまわないぞ。お父さんにとっては辛いことだけど我慢するから」
うん、と頷くのは悪いし、そんなことないよ、と否定するのは嘘臭い。だって、わたしはもう、お父さんのことが以前ほど好きじゃないのだ。
しばらく黙っていた。風が吹くのに任せた。
「そろそろ帰ろうか」
「わたし、もう少しいていいかな」
「もちろん」
気軽に言ったお父さんは、立ち上がると、体についた草切れを手で払った。背中やお尻についたのは、わたしが取ってあげた。背中を叩くように払うと、お父さんは大袈裟《おおげさ》に痛がった。
「痛い痛い。勘弁してくれ、佳奈」
「嘘だよ。そんなに力を入れてないよ」
「復讐されてるのかと思った」
「え、復讐って」
「いつも勉強しろって怒ってるからな」
お父さんと一緒に笑った。そうして笑うのも、やっぱり久しぶりだった。
「佳奈、頼みがある」
「なに」
「難しいかもしれないけど、彩乃ちゃんと仲良くしてやってくれないか。お父さん、あの子のお祖母《ばあ》さんに恩があるんだ。田舎を出るとき、お父さんはずいぶんと迷った。どんなに憎んでても、家を裏切るのは辛かったんだ。そんなとき、彩乃ちゃんのお祖母さんに会った。お父さんがアルバイトしてた旅館にたまたま来てくれて、お茶を持っていったら、いきなり忠告されたんだよ」
お父さんは少しのあいだ黙った。わたしはなにか言いたかったけど、口が開かなかった。代わりに風が吹いて、お父さんの言葉を促してくれた。
「あんたはここを出て行った方がいいって。でないと、一生、後悔することになるって。会ってすぐ、いきなりだよ。お父さん、びっくりした。迷ってるちょうどそのときだったからね。だからこそ、信じられたっていうか。その言葉に押されて、ここまでやってきた。辛いこともあったけど、よかったと思ってる。お母さんと結婚できたし、佳奈も生まれた。仕事もまあ順調だ。なにもかも思い通りってわけじゃないけど、文句はないな。満足してるよ、お父さんは」
また風が吹いて、緑が揺れる。その尖《とが》った先が、足をちくちく刺した。ちょっと前まで、草はもっと淡い色をしていたし、触ると柔らかかった。こうして風にさんざん吹かれ、夏の陽光に照らされたせいで、変わったんだ。
わたしもいつか、こんなふうに変わるんだろうか。中学生とか、高校生になったとき、同じような強さを身につけてるんだろうか。
たとえば……お父さんのこういう言葉を、素直に受け止められるくらいに。
「夏祭りには行くのか、佳奈」
「わかんない」
「行くんだったら、彩乃ちゃんもつれていってあげてくれ」
歩き出そうとしたお父さんに、わたしは言った。
「ねえ、お父さん」
自然と声が出ていた。
お父さんは坂に右足をかけたまま、振り向いた。
「どうしたんだ」
「本当にわたしが嫌いになっても平気なの」
お父さんは途端に顔をしかめた。眉の両端が下がった。
「平気なわけないだろう」
「でも覚悟してるって言ったよ」
「覚悟してても、辛いものは辛いじゃないか」
わたしは笑ってしまった。
「それって覚悟できてないんだと思う」
「いや、そんなことはないぞ。たとえ覚悟してても、心まで完全に制御できるほど人間という生き物は――」
セイロンを言いかけたお父さんは、けれど言葉を途中で飲み込み、苦笑いしながら去っていった。その、遠くなっていく背中を、わたしはしばらく見ていた。
わたしは、お父さんのことを、なんにも知らない……。
ふたたび寝転ぶと、前ほど気持ちよくなかった。ひとりきりになったせいだろうか。妙に寂しい。草を千切って、空に放ってみる。強い風に巻かれて、草はくるくる舞いながら、どこかへと流されていった。
ぽん、ぽん、ぽん――。
ぴったり五時、花火がまた上がった。今度は色つきだ。赤や黄の煙が、ゆっくり風に流されていった。
こんな時間の花火って不思議な感じがする。
「佳奈、お母さんは焼きそばの屋台にいるからね。遠慮しないで来なさい。これ使っていいわよ」
お母さんに渡されたのは、食券だった。ピンクの紙に、焼きそばと印刷されている。全部で四枚だ。
「お母さん、焼きそばなんだ」
「あら、不満なの」
「わたし、たこ焼きの方がいい」
お母さんは首を傾げた。
「たこ焼きは久井《ひさい》さんが担当なのよね。同じ婦人部だから、頼めばどうにかなるかもしれないけど。ううん、やっぱり焼きそばで我慢しなさい。いっぱい盛ってあげる。富士山みたいに」
「富士山?」
「特大の、山盛りってことよ」
久井さんと、うちは、あんまり仲がよくない。久井さんちのお父さんは、なぜか夜中の十二時くらいに出かけることがあって、車のエンジンをしばらくかけっぱなしにする。非常識だよ、とお父さんもお母さんも言う。キュウジュウミンの人はこれだから困る、という感じ。
「お父さんは行くの」
話を逸《そ》らすため、お父さんに尋ねた。
「僕はおとなしく留守番をしてるよ」
「あら、来てくれたら、焼きそばを奢《おご》るわよ」
「高い焼きそばになりそうだな」
「ああ、そうね。あなたはなにも手伝ってくれなかったんだから、いっぱい取り返さないとね」
冗談だったのかもしれないけど、お父さんは黙り込んでしまい、新聞を広げた。もう読んだはずの新聞だ。わたしは二階に逃げた。
ところが、そこには彩乃がいた。
「なにしてるの」
つい口が動いてしまう。
「見てたの」
「なにを」
彩乃は答えない。黙ったまま、わたしにはよくわからないところに視線を向けている。空間のどこか。見えないなにか。あるいは――。
「ねえ、夏祭りに行こうよ。朝から花火が鳴ってるでしょう。この町の祭りって、わりと盛大なんだよ。夜店とかも出るし。最後には花火も上がるの。お母さんが町内会で屋台を出すんだけど、焼きそばを富士山みたいに大盛りにしてくれるって」
なんでわたしは彩乃を誘ってるんだろう。ひとりでお祭りに行くのが嫌だから? それとも、お父さんに頼まれたから?
玄関で靴を履いていたら、彩乃が、
「これ、持ってて」
と言った。
差し出されたのは、マニキュアだった。シャネルのヴェルニだ。どういうことかわからずびっくりしていたら、わたしのキュロットのポケットにそれを滑り込ませた。
「え、くれるの」
「ううん。預けるだけ」
彩乃はやけにしっかり言った。
「ずっとポケットに入れててね」
「なんで」
尋ねても曖昧に笑うだけで、彩乃は答えをくれない。まるでお告げのよう。
「佳奈ちゃん、後ろを向いて」
「あ、うん」
不思議だった。彼女に言われると、素直に従ってしまう。
するりと細いチェーンが首に巻かれた。ペンダントだ。貝殻のような銀細工がぶら下がっている。
すごくきれいだった。
玄関を出ると、昼間とはすっかり空気の匂いが違っていた。西空は赤く染まっている。流れていく雲は、その腹に太陽の赤を、背中に夜の闇を溜めていた。昼が過ぎ去り、夜がやってくる。そして、お祭りが始まるのだ。
ふたりで歩いた。
夕方の空気をいっぱい吸った。
思ったよりも祭りは賑《にぎ》わっていた。町の中央にある公園が会場だ。大きな木が何本もあって、やたらと広く、まるで本当の森みたいだった。東京に住んでたころ、近くにこんな場所はなかった。
その広い公園が人で埋めつくされ、いろんな食べ物の匂いが充満していた。
「すごい人だね」
つい興奮した口調になっている。
うん、と彩乃は頷いた。
「お祭りだね」
そうだ。お祭りだ。
引っ越してきたばかりの去年は、あえて祭りに来なかった。自分は東京で暮らしていたというプライドゆえだった。田舎の馬鹿騒ぎだと嘲《あざけ》って、その夜はずっと部屋に閉じこもっていた。
そんなにおもしろいわけない――。
勝手にそう思い込もうとしていた。ところが、いざ来てみたら、心が弾んだ。人がいっぱいいるし、おいしそうな匂いがあちこちから漂ってくるし、お囃子《はやし》が聞こえるし。周りを歩く人たちは、誰もが笑顔だった。
「なにか食べようか」
「そうだね」
「あ、林檎飴《りんごあめ》だ」
さっそく買った。林檎飴を舐《な》めながら、人混みの中を歩いているだけでわくわくした。こんなに楽しいなら、来年も来よう。
変に格好つけてた去年の自分が馬鹿みたい。
「あれ――」
ふと気づくと、彩乃がいなかった。どれだけ見まわしても、姿を見つけられない。いつはぐれたんだろうか。
どうしよう。
早く捜《さが》さなきゃ。
「佳奈ちゃん?」
声をかけられ、慌てて振り向くと、そこにいたのは彩乃じゃなかった。
亜美ちゃんたちだった。
三人とも浴衣《ゆかた》姿だった。
亜美ちゃんは桃色、有希ちゃんは黄色、琴音ちゃんは藍色。みんなで一緒に買ったんだろう。
色がかぶらないよう選んだに違いない。
「あ、浴衣なんだ」
うらやましさに、そんな言葉が漏れる。
三人は顔を見合わせ、笑った。
「みんなで買いに行ったの」
「ずいぶん悩んだよね」
「いろいろ試着したから、店員に睨《にら》まれちゃった」
「だけどお客さんだからいいんじゃない」
「そうだよ。ちゃんと買ったし」
「あれくらいで怒るなんて、大人なのに心が狭いよね」
三人は盛り上がっている。なんだか置いてけぼりにされた気分。格好だって、置いてけぼりだ。わたしだけ普通のTシャツにキュロット。
「ひとりで来たの」
有希ちゃんに尋ねられたので、すぐ否定しておいた。
「友達と一緒。でもはぐれちゃって」
「すごい人だもんね」
こんな人混みではぐれたら、見つけるのは大変だろう。
「歩きながら捜《さが》そうよ」
亜美ちゃんの提案に、みんなが頷いた。
人混みの中を歩いていると、格好のことも、だんだん気にならなくなった。それに、いざ話してみると、亜美ちゃんたちも別に気取ってるわけじゃなかった。好きなアイドルのこととか、勉強のこととか、家族のこととか、わたしが他の友達と話してることとまったく一緒だった。
「ねえ、佳奈ちゃんの友達ってどんな子」
「ワンピースを着てる」
「どんなの」
「ええと、普通の」
わたしは言葉を濁《にご》した。彩乃はわたしよりひどい格好をしている。お祭りなのに、灰色のワンピースなんて最悪だった。しかもラインが全然きれいじゃないのだ。あんな服を着た子が友達だと知られたら恥ずかしい。
「佳奈。ねえ、佳奈」
また名前を呼ばれた。声の方を向くと、お母さんの姿が目に入ってきた。屋台で、焼きそばを作っている。
「食べていきなさい」
亜美ちゃんたちが、誰って顔になった。わたしはできるだけ平静を装って、お母さんと答えた。
「焼きそば、ただで食べられるよ」
「え、本当に」
「食券を持ってきてるから。大盛りにしてくれるって」
やったやった、と亜美ちゃんたちは喜んだ。お母さんに貰った食券は、ちょうど四枚だ。もし彩乃がいたら、一枚足りなかった。もちろん、全員、大盛りにしてもらった。富士山みたいに盛り上がっている。公園の端にあるブロックに腰かけながら、四人で焼きそばを食べた。
「佳奈ちゃんのお母さん、きれいだね」
「ええ、そうかな」
「大盛りにしてくれたし。気前がいいよ」
「美人だよね」
「うん。うちのお母さんの百倍美人」
「やっぱり東京の人って感じ」
東京の人、という言い方に、びっくりした。みんな、そんなふうに思ってたんだ。
「やっぱり違うね」
「佳奈ちゃんって、けっこうセンスいいし」
「ええ、そんなことないよ」
「だって貝殻のペンダントをしてるでしょう。ラフな服に、そういうの合わせるなんてすごいよ」
ああ、そうだ。ペンダント、してたんだ。お祭りに浮かれて、すっかり忘れてた。そのとき、ポケットからなにか転げ落ちた。落ちたよ、と言いつつ拾ってくれた有希ちゃんの声が、急に甲高《かんだか》くなった。
「ヴェルニの赤だよ、これ」
「本当だ」
「すごいね」
みんな、やけに興奮している。実物を見たのは初めてなのかもしれない。
「ねえ、佳奈ちゃん」
亜美ちゃんが恐る恐る尋ねてきた。
「塗ってもいいかな」
これは彩乃のものだ。勝手に使っていいわけがない。だけど、三人の期待に満ちたまなざしを浴びたら、駄目とは言えなかった。
「うん。どうぞ」
ものすごく、いい気分だった。
みんなは恐る恐る、マニキュアを塗った。緊張しているのか、慣れてないのか、けっこうはみ出してる。
わたしは有希ちゃんに塗ってもらった。
四人の爪は、同じ色に染まった。
「きれいだね」
「コンビニで売ってるのとは、やっぱり違うよね」
「違う違う」
ありがとう、と三人に礼を言われた。
嬉しかったけど、複雑な気持ちでもあった。ペンダントをつけてくれたのも、ヴェルニを持たせてくれたのも、彩乃なのだ。どちらもわたしのものじゃない。持ち主は今、どこにいるんだろうか。
あ、もしかして――。
彩乃はなにもかも、わかっていたのかもしれない。こうなることまで、全部。だとしたら、彼女は姿を現さないだろう。
なんとなくだけど、そんな気がした。
やがて有希ちゃんと琴音ちゃんが綿飴《わたあめ》を買いにいった。
わたしと亜美ちゃんだけが残される。
しばらく、ふたりとも黙っていた。
四人でいるときはわいわい騒いでいたけど、ふたりきりになると、なにを話せばいいのかわからない。それでも気まずくないのは、赤い爪のせいだろうか。それとも、周りにいる人がみんな楽しそうだからだろうか。
よかった、と亜美ちゃんは言った。
「え、なにが」
「佳奈ちゃんとこうして話せて。本当のことを言うとね、わたし、佳奈ちゃんがちょっと怖かったんだ。佳奈ちゃんは頭がいいし、東京育ちだし。話なんて絶対合わないって思ってた。もう最初から負けてる感じだったよ」
冗談かと思った。それとも厭味《いやみ》なのかな。恐る恐る確かめてみると、亜美ちゃんはすっきりした表情を浮かべていた。
わたしはなんだか情けなくなった。
お父さんはキュウジュウミンを見下している。そういうの、わたしは大嫌いだった。下らないことで優越感に浸っているお父さんが、むしろ小さく思えた。だけど、わたしだって、同じだったんだ。
胸がぎゅっとなって、わたしは早口で言っていた。
「そんなことないよ」
「ううん。思いっきり負けてるってば。ペンダントとか、ヴェルニとか、持ってるなんてすごいよ」
「これね、友達のなの」
「友達?」
「ほら、さっき言ってた、はぐれた子が貸してくれただけなの。わたし、ちっともセンスよくないよ。このキュロットなんて、ぼろぼろだもん。Tシャツにはカレーの染みだってついてるしさ。だけど亜美ちゃんたちはきれいな浴衣を着てるでしょう。わたしの方が負けまくってるよ。今だけじゃなくて、ずっとそう思ってた」
「嘘だよ、そんなの」
「本当に本当。わたし、亜美ちゃんのこと、すごくうらやましいよ。だって、わたし、まだブラもしてないんだよ」
「え、してないの」
亜美ちゃんはわたしの胸に目をやった。普段、そんなふうに見られたら、とんでもなく嫌な気持ちだったろう。だけど今は平気だった。ほら、と薄い胸を張って、笑うことだってできた。
「こんなんでブラなんてできないでしょう」
「すぐに大きくなるよ」
「そうかな。このまま、ずっとペッタンコの気がする」
「絶対に大丈夫だって。わたしもちょっと前までペッタンコだったよ。だけど急に大きくなったの。牛乳がいいんだって」
「あ、わたし、飲んでる。一日に二杯」
「じゃあ、すぐだよ」
亜美ちゃんとこんなふうに話せるなんて思わなかった。それから、すっかり冷たくなった焼きそばをふたりで啜《すす》った。富士山みたいな大盛りだったけど、ぺろりと食べてしまった。お祭りって不思議。いくらでも食べられる。
「やっぱり佳奈ちゃんと話せてよかった。わたし、負けっ放しじゃなかったんだ」
「わたしもよかった。亜美ちゃんにはかなわないって思ってたから」
それからふたりで、互いの歯を見せ合った。いー、と唇を広げた。青のりがついていると格好悪いからだ。
「右の歯についてるよ」
「この辺?」
「逆だよ、逆。わたしから見て右」
「取れた?」
「うん。わたしはどう」
「前歯にばっちりついてる」
「ええ、最悪」
そのうち、有希ちゃんと琴音ちゃんが帰ってきた。
大きな綿飴を両手に持って。
祭りの最後に、花火が上がった。これが、なかなか本格的だった。スターマインも何回かあった。わたしたちは同じ赤い爪で、白い綿飴を食べながら、夏の終わりの花火を見上げた。
「すごいね」
「きれいだね」
「音が体に響くね」
「うん。響く」
口々に言いながら、わたしたちは夜空を見上げた。公園の誰もが、同じように、顔を上げている。それがおもしろくて、わたしだけ下を眺めていたところ、見覚えのある姿が目に入ってきた。
あれ、お父さん?
ポロシャツに着替えたお父さんは、お母さんの屋台に近づき、照れくさそうに手を挙げた。お母さんは笑って、ものすごい量の焼きそばを、プラスチックの器に盛った。富士山どころじゃない。エベレストだった。
みんなが花火に夢中だから、屋台は暇そうだ。
お母さんは屋台を放り出して、その脇でお父さんと一緒に焼きそばを食べ始めた。お父さんが一口食べると、プラスチックの器をお母さんに渡す。お母さんが一口食べると、お父さんに渡す。その繰り返し。まるで恋人同士みたいだ。ふたりは焼きそばを頬張りながら笑っていた。花火が弾けるたび、笑顔がくっきり浮かび上がった。
「きれいだね、花火」
亜美ちゃんが言う。
「そうだね」
わたしは頷く。
彩乃はどこにいるんだろう。こんなふうに、人に幸せを振りまいて彼女は生きていくのかな。
すごいことかもしれないけど、彩乃の幸せはどこにあるんだろう。
来たときと同じように、去るときも突然だった。
「今日の午後、迎えが来るから」
夏休みが終わる直前、お父さんが宣言した。
「え、なんのこと」
驚いているのはわたしだけで、お母さんも、彩乃も、顔色ひとつ変えなかった。
「彩乃ちゃんが帰ることになった」
「どこに」
変な間があった。
「元の場所に」
そんなこと言われたって、まったくわからない。そもそも、彼女がどこから来たのか、わたしはなにも知らないのだ。彩乃を見ると、彼女は不思議な顔をしていた。表情がないというか。
諦めてる? それとも……受け入れてる?
「ねえ、行くの」
「うん」
「どうしても」
「うん」
「なんで」
「必要だから」
誰にとって?
言葉は浮かんだけど、口には出てこない。なのに彩乃は答えてくれた。
「みんなにとって」
その瞬間、ああと思った。やっぱり彩乃のおかげだったんだ。亜美ちゃんたちと仲良くなれたのは。それだけの力を持っているんだから、必要とする人はたくさん、本当にたくさんいるだろう。
他の誰よりも、彩乃自身が、そのことをわかっている。
だけど、それでいいの。
彩乃の幸せは、どこにあるの。
二階に駆け上がった。
「佳奈、うるさいわよ」
お母さんが怒ったけど、知ったことか。引っ越してきて以来、開けていない段ボールが、クローゼットの奥に積んである。それを片っ端から調べた。嫌なものばかり出てきた。変な柄のワンピースやスカート、やめてしまった習字の道具、手をつけていない塾の問題集。自分の駄目さを見せつけられるばかりだ。それでもわたしは怯《ひる》まず、箱をどんどん開けていった。
あった――。
ようやく見つかったのは、ほとんどすべての箱を開けたころだった。まだ封がされている箱は、みっつだけだ。左側の箱から開け始めたのが間違いだった。右側から開けていればすぐだったのに。彩乃に聞いたら、あっという間にわかったんだろうな。だけど、こればっかりは聞いちゃいけない。
見つけたものを握りしめ、階段を駆け下りた。
「佳奈、うるさくしちゃ駄目よ。何度言えばわかるの」
お母さんがやっぱり怒った。
「これ」
彩乃に、拳《こぶし》を突き出す。
「え、なに」
「あげる」
開いた手から現れたのは、指輪だった。とはいっても、シルバーとかプラチナとかじゃなくて、もちろん宝石なんかもついていない。
わたしが作ったビーズの指輪だ。
東京にいたころ、クラスの女子のあいだで、半年くらいビーズ細工が流行《はや》ったのだった。ブレスレットとか、ブローチとか、携帯ストラップとか、みんなで作った。互いの出来を競い合った。
不器用なわたしがうまく作れたのは、この指輪だけだ。
「あげる」
他の言葉が出てこない。
マニキュアとペンダントを貸してくれたこと。亜美ちゃんたちと仲良しになるきっかけをくれたこと。他にもなにか……よくわからないけど、同じくらい大切ななにかをくれたこと。
本当はもっともっとすごいものをあげたい。彩乃が背負ってるものと、釣り合うくらいのものを。
だけど、わたしはそんなもの持ってなかった。
この安っぽいビーズの指輪が精一杯だ。
「くれるの」
「うん」
「ありがとう」
ビーズの指輪を、彩乃は両手で大切そうに受け取った。顔のすぐそばまで持っていって、じっくり見つめている。リングの部分は小さな銀のビーズで、真珠みたいな白のビーズが宝石代わりだ。
「きれいだね」
「つけてあげようか」
「うん」
指輪を受け取り、入る指を探した。人差し指は駄目。中指も無理だ。小指は緩すぎた。ぴったりなのは、なんと薬指だった。しかも左手。
「これじゃ結婚指輪だよ」
ふたりで笑い合った。
「右手はどう」
「あ、入るよ。ぎりぎりだけど」
彩乃の細くて白い指に、ビーズの指輪は似合っていた。
「きれいだね」
ありがとう、と心の中で言っておく。
きっと伝わっているはずだ。
こんなものじゃお礼にもならない。彩乃が抱えているもの、これから抱えていくものと釣り合うわけがない。
だけど彩乃は嬉しそうに笑ってくれた。
「こちらこそ、ありがとう」
やっぱり伝わってたんだ。目と胸がいきなり熱くなった。
「おかしいよ。彩乃はだって、わたしと同じ五年生なんだよ。なんでそんなにいろいろ抱えてるの。わたしだったら、絶対に放り出してるよ。ねえ、彩乃、どこかに行こうよ。逃げられるところまで逃げよう。わたし、手伝うよ。一緒に行く」
どこかに行こう、遠くまで逃げよう、とわたしは訴えた。心の底ではそんなの無茶だとわかっていたけど、言わずにいられなかった。
彩乃は指輪を見つめている。
「もう十分だから」
「なにが」
「いっぱい貰ったから」
顔を上げた彩乃は笑っていた。貰った? なにを?
「ねえ、佳奈ちゃん。わたしはお祖母ちゃんみたいに生きるよ。もうわかってるの。決まってる。誰かの人生に関わって、ほんのちょっとだけ方向を変える。それでみんな、少し幸せになる」
たとえば、お父さんがそうだったみたいに?
「彩乃だって幸せになろうよ。なんで諦めちゃってるの。他の人のことなんて、どうでもいいよ」
「お祖母ちゃんが言ってた。こういう力を持ったことには、意味があるんだって」
「わかんないよ」
「佳奈ちゃんはわかってる」
「わかんないってば」
「だって佳奈ちゃん、幸せでしょう。お父さんがいて、お母さんがいて、友達もいて。わたしのお祖母ちゃんが、そのことに関わってる。それってすごいことだと思う。ほら、この指輪くらいに」
「すごくないよ、そんな指輪。ただのビーズだよ」
ううん、と彩乃は首を振った。
「わたしにとっては、すごいことだよ。この夏だけで、みっつも貰った」
「みっつ?」
「マニキュアと、ペンダントと、指輪」
本当に嬉しいよ、と彩乃は笑った。
夏はやがて終わって、二学期が始まった。
わたしは亜美ちゃんたちのグループに入るわけでもなく、みんなと仲良くしている。亜美ちゃんたちが声をかけてくれるおかげで、意地悪してくる子が減った。学校に行くのが、すごく楽しくなった。
東京のことも、今はもう、あんまり思い出さない。
彩乃は帰っていった。
すごく大きな車が二台もやってきて、十人近い大人たちが深く頭を下げる中、彼女は堂々と振る舞っていた。そして車に乗り込んだ。
もう別の世界の人だった。
だけど、わたしは知っている。彼女はポケットにマニキュアとペンダント、それにビーズの指輪を忍ばせているのだ。
お父さんとお母さんは、今でも、たまに喧嘩する。
原因はやっぱり、お父さんのセイロンだ。
けれど、そんな喧嘩を見ても、前みたいに体が震えることはなくなった。だって、お父さんとお母さんは、一緒に焼きそばを食べてたんだ。同じ器を行ったり来たりさせていた。花火に照らされ、笑っていた。
日々は過ぎていく。
いろんなことが移り変わっていく。
空の色のように、川原に茂る草のように、お父さんのように、お母さんのように。いつかは、彩乃と過ごしたこの夏さえも、色褪《いろあ》せるかもしれない。
たぶん、それでいいんだと思う。
[#改ページ]
初 出
[#地から1字上げ]夜散歩  「小説現代」二〇〇六年十月号
[#地から1字上げ]石階段  「小説現代」二〇〇七年二月号
[#地から1字上げ]夏花火  「小説現代」二〇〇七年八月号
橋本紡(はしもと・つむぐ)
三重県伊勢市生まれ。
第四回電撃小説大賞で金賞受賞。
他の著書に『猫泥棒と木曜日のキッチン』『流れ星が消えないうちに』『ひかりをすくう』『空色ヒッチハイカー』『月光スイッチ』などがある。
[#改ページ]
底本
講談社 単行本
彩乃《あやの》ちゃんのお告《つ》げ
著 者――橋本《はしもと》 紡《つむぐ》
二〇〇七年十月三十一日  第一刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
[#地付き]2008年9月1日作成 hj
[#改ページ]
底本のまま
・一行あけ
・二行あけ
置き換え文字
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94
蝉《※》 ※[#「虫+單」、第3水準1-91-66]「虫+單」、第3水準1-91-66
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90