半分の月がのぼる空8
another side of the moon - last quater
橋本紡
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)女人《にょにん》禁制
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)写真部|盗撮班《とうさつはん》
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山上祭二日目。秘密のオークション会場では、女子の写真の競りが白熱していた。特設リングでは伝説のマスクマン、スペル・ソラールが華麗な技を繰り出していた。そして、体育館の舞台では、演劇部長に急遽スカウトされた里香が、ヒロインとして舞台に立とうとしていた。夏目、亜希子も駆けつけて、いよいよ緞帳が上がろうとしたとき、謎の乱入者が現れ!?
書き下ろし番外編『雨 fandango』の後編に、『dragonfly』『私立若葉病院猥画騒動顛末記』『as the summer goes by』の番外編三編を加えた『半月』短編集短編集第2弾。大人気シリーズ、最終巻!
橋本《はしもと》紡《つむぐ》
三重県伊勢市出身。第4回電撃ゲーム小説大賞で金賞を受賞。大好きなのは眠ること。平気で十二時間くらい寝てるので、人生のほぼ半分は寝てるらしい。もったいない気はするけど、それはそれで幸せだったり。小さな家に人間二人と猫二匹で暮らしている。
イラスト:山本《やまもと》ケイジ
1978年生まれで和歌山在住。別ペンネーム『超肉』。ジェット・リーをこよなく愛す内蔵やばい引き篭もり。イラストレーターを夢見て修行中。
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文化祭二日目。秘密のオークション会場が設置されたのは、西校舎三階の物理化学準備室だった。本来は写真部の展示会場であったが、いつの間にか『女人《にょにん》禁制』と汚《きたな》い字で書かれた札が貼《は》られ、入り口には監視《かんし》の男子写真部月が立っている。物理化学準備室……いや、オークション会場は、まるで熱気を溜《た》めこんだ箱のようだった。黒い制服に身を包んだ益荒男《ますらを》どもが狭《せま》い準備室にすし詰《づ》め状態になり、事前に渡《わた》された全十三ページに及《およ》ぶ白黒コピー二色刷のカタログに見入っている。そのカタログがまた、ひどいものなのだ。カタログを謳《うた》っているくせに写真部部長のアジ文が最初の二ページを埋《う》めている。昨今の写真を巡《めぐ》る状況《じょうきょう》、すなわちデジカメの普及《ふきゅう》と銀塩カメラの衰退《すいたい》を憂《うれ》いつつ、やがてそれを促《うなが》す社会情勢へ批判は向かい、右翼《うよく》を面罵《めんば》し、左翼を痛罵《つうば》し、衰退する田舎《いなか》を呪《のろ》い、繁栄《はんえい》する都市を恨《うら》み、最後は某《ぼう》国民放送夜七時のニュースに出演しているお天気お姉さんはエロいという結論で締《し》めくくるという支離滅裂《しりめつれつ》なものだった。
さらに特筆すべきは、印刷されているサンプルが縦横二センチ程度の小さなもので、しかも画質が非常に粗《あら》いものだから、どんな構図なのかさえもわからない。もっとひどいことに、写真の下に付記されたデータは、イニシャルだけときている。誰《だれ》のどんな写真なのか、これではわからないではないか。しかし、わからないというそのことが、妄想《もうそう》にさらなる妄想を呼び起こし、そうして膨《ふく》れあがったリビドーによって益荒男《ますらを》どもは鼻の穴を広げ、手を握《にぎ》りしめ、粗《あら》い画像に見えるはずのないものを見ようとしていた。
やがて予定時間を七分ほど過ぎたころ、写真部部長が準備室中央の机の上に立ち、両腕《りよううで》を誇《ほこ》らしげに広げ、いきなり演説を始めた。
集まってくれた諸君にまず感謝を申しあげる。これから供される写真は我《わ》が写真部|盗撮班《とうさつはん》が半年間にわたって集めつづけた逸品《いっぴん》である。ご存知のように、我が校にはおよそ五百人の女子がいるが、その半分近くが我らの掌中《しょうちゅう》にある。しかも、ただ普段《ふだん》の姿を撮《と》っただけではない。貴重な一瞬《いっしゅん》を、ここに集まってくれた賢明《けんめい》なる諸君は理解してくれると思うが、極《きわ》めて貴重な一瞬をフィルムにおさめたのだ。もちろん写真はいくらでも現像できるものではあるが、我々はそんな無粋《ぶすい》なことなどしない。一コマのネガにつき、現像する写真は一枚のみである。落札者にはネガと写真をそれぞれ差しあげようではないか。世界に一枚だけのネガと写真である。そのつもりでふさわしい値をつけてもらえればと思う。友よ、ここに集まりし勇者どもよ、我らの労苦に報《むく》いたまえ。我らが校門の陰で、植えこみの茂《しげ》みで、校庭の隅《すみ》に転がるドラム缶《かん》の中で、時には夏の灼熱《しゃくねつ》を浴びながら、時には冬の寒風に凍《い》てつきながら、三百ミリの望遠レンズの重さに耐《た》えて撮り溜《だ》めた美しき女子の姿を、そのリビドーとともに手に入れるのだ。そのときこそ、我らが魂《たましい》はひとつとなり──。
最初はおとなしく聞いていた益荒男どもも、演説が三分を超《こ》えるに至り、苛立《いらだ》ちを深めていった。うるせえいつまでも喋《しゃべ》ってんじゃねえ、と誰《だれ》かが叫《さけ》ぶ。下りろ。おまえの演説を聞きに来たんじゃねえ。そうだそうだ。どうせ売りあげで高い酒でも買うんだろうが。おら、始めやがれ。買わせろ。下りろ下りろの合唱は高まり、ついにはシュプレヒコールとなって会場に響《ひび》き渡《わた》った。丸められたパンフレットを次々投げつけられた写真部部長は、目を血走らせた益荒男どものシュプレヒコールの中、這々《ほうほう》の体《てい》で机から飛び下りた。続いて壇上《だんじょう》に──まあ、ただの机ではあるが──登ったのは写真部副部長だった。部長の惨状《さんじょう》を目にしていた副部長は、賢明にも身の危険を犯《おか》すことなく、すぐさまブツを開示した。
第一物件は、一年三組|高木《たかぎ》よしえであった。女子テニス部のホープで、身長百六十一センチの長身、よけいな肉付きのないスレンダーな体をしている。副部長が掲《かか》げた四つ切りプリントは、その高木よしえの胸元《むなもと》を見事に写し取っていた。アングルから察するに、東校舎三階に望遠カメラを据《す》えてテニスコートを狙《ねら》ったものであろうか。それにしても、さすがは第一物件だ。実に見事な写真だった。露光《ろこう》もピントも完壁《かんぺき》である。ただし、拡大された写真にはほとんど顔が写っておらず、確認《かくにん》できるのは顎《あご》と首、それに鎖骨《さこつ》、胸のみ。Vネックのユニフォームが少し緩《ゆる》み、その隙間《すきま》からかすかに胸が見える。黒だ、と誰かが呆《ほう》けたように呟《つぶや》いた。本当だ。黒だ。すげえ、黒だ。おとなしい顔して黒のブラジャーかよ。見ろ、あのレース。なんかさ、エロくねえ。オレ、高木は清純派かと思ってたよ。まさか黒かよ。バカ、いまどき清純派なんて言葉使うな。いやでも黒はすげえよ。ああ、黒はすげえ。掲《かか》げられた写真を前に、益荒男《ますらを》どもがどよめく。少し上ずった声で写真部副部長は告げた。最低価格は三百円です。すぐさま誰《だれ》かが三百と叫《さけ》ぶ。三百十、三百二十、三百三十──。益荒男どものボルテージは果てしもない勢いで高まっていく。
二年四組、朝永《あさなが》愛子《あいこ》。階段の踊《おど》り場《ば》でペンを拾おうとした瞬間《しゅんかん》だった。しゃがんだせいで、スカートが持ちあがり、後ろから写した画像は極《きわ》めてギリギリであった。いろんな意味で、とにかくギリギリだった。三人が粘《ねば》ったせいで、落札価格は二千円を超《こ》えた。
一年二組、佐伯《さえき》由佳《ゆか》。ボーイッシュなタイプの美人である。こちらは一転、さわやかな顔であった。ただ笑っているだけである。しかし卓球部のユニフォームは濡《ぬ》れていた。誰かに水をかけられたのか、飲み物でもこぼしたのか。張りついたユニフォームは透《す》けて、青いレースが浮《う》かびあがっている。最初の一声で、千円を超えた。
三年三組、村上《むらかみ》玲子《れいこ》。偏差値《へんさち》七十三、スポーツ万能《ばんのう》、生徒会副会長。絵に描いたような優等生である。しかも容姿端麗《ようしたんれい》。天が二物も三物も与《あた》えた例だ。なのに写真が掲示《けいじ》されたとき、場は盛りあがらなかった。なにかしらリビドーに訴《うった》えるものが少なかったのかもしれない。落札価格は四桁《けた》に至らなかった。
白熱しつつオークションは進んだ。机の下に座りこみ、どんどん集まってくる現金を数える部長は、もう笑いがとまらない。これで今年の印画紙《いんがし》代は確保したも同然だ。高価なポジフィルムにも手を伸《の》ばそうか。いやいや、新しい望遠を買うべきか。それとも、だいぶくたびれた引き延ばし機を買い換《か》えるべきだろうか。妄想《もうそう》を膨《ふく》らませていた彼を揺《ゆ》さぶるかのように、いきなり歓声《かんせい》がわきあがった。野太い声が、準備室の壁《かべ》を、床《ゆか》を、彼ら自身をも揺らしていた。
ついに来たか──。
ふふと笑いながら、彼は机の下から這《は》い出て、壇上《だんじょう》に目をやった。思ったとおり、一枚の写真を副部長が誇《ほこ》らしげに掲げていた。もう何度も見た写真であったが、それでも部長の目はその一葉に吸い寄せられていた。
秋庭《あきば》里香《りか》、であった。
オークションが最高潮に盛りあがっていた瞬間に出された逸品《いっぴん》に、場は騒然《そうぜん》とした。財布の中身を確認《かくにん》しているものがいる。千円札をくしゃくしゃになるまで握《にぎ》りしめているものがいる。共同出資連合を提案しているものがいる。しかしながら、彼らの興奮振《こうふんぶ》りとは対照的に、副部長が掲げる写真は極めて平凡《へいぼん》なものであった。廊下《ろうか》を歩いている姿でしかない。スカートはめくれていないし、胸元《むなもと》にカメラが寄っているわけでもない。なのに、この興奮振りはどうだろうか。秋庭《あきば》里香《りか》のなにが、彼らを駆《か》り立てるのであろうか。
「最低落札価格は──千円です」
開始価格としては、初の、そして唯一《ゆいいつ》の四|桁超《けたご》えであった。しかし副部長の声が空間に消える前に、二年五組|榊原信吾《さかきばらしんご》が千百円と叫《さけ》んだ。三年一組|西原武《さいばらたけし》が千二百円だふざけるな二年|坊主《ぼうず》と叫んだ。一年五組|石橋《いしばし》清治《せいじ》が千五百五十円です今月買う予定の本を諦《あきら》める全財産だ負けませんよ先輩《せんぱい》と叫んだ。すぐさま十和田《とわだ》幸雄《さちお》がなんと二千円と叫んだ。一気にレートを上げてライバルを振《ふ》り落とそうという作戦だったが、甘《あま》かった。すぐさま二千百五十円という声が続き、二千二百円、二千二百五十円、二千三百円と五十円刻みに値は上がりういに十七人目、一年四組|都築功《つづきいさお》によって三千円の大台を記録した。
今までの最高落札価格をあっさりと打ち破った瞬間《しゅんかん》であった。しかし、それは恐《おそ》ろしき闘《たたか》いの始まりに過ぎなかった。
間髪《かんぱつ》いれず、三島純《みしまじゅん》によって五千円の値がつけられた。二千円もの大幅アップである。野太いどよめきが会場を埋《う》めつくしたが、わずか五秒後、溝口潤一《みぞくちじゅんいち》が五千五百円と告げた。五千円を超《こ》えた瞬間、いつの間にか単位が五百円になっていた。高校生が気軽に払う額ではないのだが、すっかり熱くなった益荒男《ますらを》どもの意地と熱意は加速し、六千円、六千五百円となり、あっという間に七千円に達した。その七千円という数字を三年二組|木元《きもと》義一《よしかず》が叫んだとき、オークション会場、すなわち物理化学準備室に一年二組の大岡《おおおか》幸恵《さちえ》とその女友達数人が間違《まちが》って入ってきた。門番役の写真部員までもが、すっかり職務を忘れてオークションに見入っていたせいである。掲《かか》げられた秋庭里香の写真、金額を叫ぶ男子生徒たち、渦巻《うずま》く興奮《こうふん》──。一瞬にして、大岡幸恵たちは会場で行われていることを理解した。男子ってバカだなボラれてるだけなのに、と呆《あき》れつつ出ていこうとした大岡幸恵は、叫ぶ男子生徒の中に、ほんの三日ほど前に告白してきた高橋《たかはし》泰西《たいせい》を見つけた。ここであえて高橋泰西を擁護《ようご》するならば、彼が好きなのはあくまでも大岡幸恵であり、秋葉里香はいわばテレビの中におけるアイドルのごとき存在だった。心の憧《あこが》れに過ぎない。しかし、そんな男の純情を、大岡幸恵が理解するはずがなかった。慌《あわ》てて駆け寄り弁明する高橋泰西は、見事な平手打ちを食らい、頬《ほお》を朱《しゆ》に染めた。そうして、彼はフラれた。実にあっさりしたものであった。
近寄らないで気持ち悪いから!
大岡幸恵の言葉にはひとかけらの容赦《ようしゃ》さえなく、高橋泰西はその場に崩《くず》れ落ちた。彼らを取り囲んでいた男たちはそろって、ひでえ女は怖《こわ》いあそこまで言うかと同情を口にし、逆に女子たちは当然であるといった風情《ふぜい》で準備室を出ていった。しばらくそこに伏《ふ》していた高橋泰西十六|歳《さい》水泳部であったが、突然《とつぜん》起きあがると、滂沱《ぼうだ》のごとく流れ落ちる涙《なみだ》を拭《ふ》く素振《そぶ》りも見せず、新たな数字を叫んだ。すなわち八千円、彼の全財産であった。周囲にいた男どもが、うおおっという声を上げた。よくやった一年|坊主《ぼうず》。それでこそ男だ。いよいよ決するかと思われた瞬間《しゅんかん》、遅《おく》れて現れたのが三年一組|芝野《しばの》真澄《ますみ》野球部引退だった。彼は一瞬だけ今秋発売のギャルゲーのことを思い浮《う》かべた。伝説のシナリオライターが三年ぶりに書き下ろしたという新作で、なんと限定三千セットのみという貴重なものだった。欲《ほ》しい。とてつもなく欲しい。なんとしても手に入れたい。転売すれば、数倍の値がつくことは確実だ。もちろん転売などせず、すべてのシナリオをクリアしたあとは、大切に保管するつもりである。将来|誰《だれ》かと結婚《けっこん》しても、こっそり婿入《むこい》り道具として持っていく覚悟《かくご》だ。けれど今、彼の前には秋庭《あきば》里香《りか》の写真があった。
しばしの逡巡《しゅんじゅん》の末、芝野真澄はこう口にしていた。八千七百円。ギャルゲーは諦《あきら》めよう。やむを得ない。人生とは、そういうものだ。なにかを得るためには、なにかを失わねばならない。ここに至ってういに事態は消耗戦《しょうもうせん》の様相を呈《てい》しはじめた。八千六百円。高橋《たかはし》泰西《たいせい》は諦めない。先月の小遣《こづか》いの残りを計算し、予算に加える。芝野真澄野球部引退はすぐさま八千七百円を提示した。高橋泰西、財布の中身を確認《かくにん》し、その総額である八千八百七十三円と叫んだ。しかし芝野真澄野球部引退は冷ややかに笑いながら、実に意地悪く八千八百七十四円と口にした。高橋泰西の顔に悔《くや》しそうな表情が浮かぶ。背後の友達に泣きつき、金を貸せと喚《わめ》くが、むしろ諭《さと》された。おまえはよくやった。よくやったよ。頑張《がんば》ったぞ。ううっ、と高橋泰西が呻《うめ》く。よくやった。頑張ったぞ、一年坊主。おまえは最高だ。わきおこる拍手《はくしゅ》と口笛、敗者を称《たた》える清清《すがすが》しい益荒男《ますらを》たち。そして羨望《せんぼう》と憎《にく》しみと反感が渦巻《うずま》く中、秋庭里香を写し取った写真が芝野真澄野球部引退の手に落ちようとした瞬間──。
「一万円だあああああああっ! この野郎《やろう》おおおおおおっ!」
大声で叫んだものがいた。
戎崎《えざき》裕一《ゆういち》であった。
ちなみに半泣きだった。
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あ、え、い、う、え、お、あ、お。発声練習をする部員たちの真剣《しんけん》な声が、音楽室の中に響《ひび》いている。か、け、き、く、け、こ、か、こ。本番まであと三時間と迫《せま》り、そろそろ部員たちの顔にも緊張《きんちょう》が見えるようになってきた。まだまだ顔には余裕《よゆう》があるし、はしゃいだりふざけたりもしているけれど、やはりいつもとは雰囲気《ふんいき》が違《ちが》う。声が大きすぎたり、小さかったり。笑いすぎたり、逆にまったく笑みがなかったり。たとえどれだけ舞台《ぶたい》を重ねようと、本番前の雰囲気に慣れることはなかなかできない。なにしろ舞台の上に立ち、自分ではない別の誰かを演じ、声を張りあげ、泣いたり喜んだり抱《だ》きあったり殴《なぐ》りあったりするのだ。演劇というシステムであるがゆえに、公然と許される非日常。自らをさらけだすということ。
なのに、まったく緊張している様子のない人間が、ひとりだけいた。
「だからぁ、真美《まみ》はぁ」
そんな声が聞こえてくる。
柿崎《かきざき》奈々《なな》は声のほうに顔をやり、軽くため息を吐いた。さっきから真美は携帯《けいたい》電話で誰《だれ》かとずっと話している。甘《あま》えた声が時折|潤《うる》み、すがるような色合いを帯びるところをみると、どうやら相手は別れた彼氏なのだろう。盗《ぬす》み聞きしているつもりはないものの、真美の声が大きいせいで、なにからなにまで耳に入ってくる。別れた理由は、相手の男にあるらしい。真美の他《ほか》に好きな子ができたのだ。それで真美はフラれた。捨てられた。プライドの高い真美にとっては納得《なっとく》できない状況《じょうきょう》だ。
自分のところに戻《もど》ってきてほしい──。
切々と訴える真美の声は、なかなかに健気《けなげ》である。あの声で迫《せま》られたら、たいていの男はほろりと来るに違《ちが》いない。さすがは演劇部というところか。
今までの真美の恋愛を振《ふ》り返ってみるに、おそらく彼女はもう相手の男のことを好きではない。フラれて、捨てられて、プライドが傷ついたから、男を取り戻そうとしているだけだ。断言してもいい。もし男が戻ってきたら、三日以内に真美は彼を捨てるだろう。意趣返《いしゅがえ》しではなく、自らのプライドを守るための行為《こうい》。要するに、真美はそういう女なのだ。
やれやれと思いつつ、またため息を吐いていたら、副部長の相馬《そうま》千佳《ちか》がやってきた。
「我《わ》が姫君《ひめぎみ》はどうかね」
男の声を作っているのは、千佳の役が大臣だからだ。国王以上に有能で、国を実質的に仕切っているという設定。いったいなんの嫌《いや》みだろう?
大げさに、奈々は両手を広げてみせた。
「見てのとおり、心うつつでございますよ」
「ほう」
「なんとかなりませんかね、大臣」
「わたしの職務は国を治めること。姫君を諌《いさ》めるのは、父上であられます国王様のなさることかと」
国王? 演出家のわたしのことか?
まったく千佳は意地悪な女だ。
φ
「おまえ、バカじゃねえの」
山西《やまにし》のそんな声なんて、聞こえない振りをしておいた。今、廊下《ろうか》を歩く僕の手中には、里香《りか》の写真があった。秘密のオークションで落札したものである。
「写真なんて、おまえもいっぱい撮《と》ってるだろ」
山西《やまにし》はしつこく文句を言っている。
さすがに腹が立ってきたので、僕は反論しておいた。
「そりゃそうだけど、だからって、この写真を他《ほか》の誰《だれ》かに買われるのは嫌《いや》だったんだよ」
「気持ちはわかるけど、一万だぜ! 一万!」
「……それがどうしたんだよ」
「一万あれば、なんだって買えるだろうが! もったいないだろ!」
むう、そのとおりだ。
ゲームだって本だってフィルムだって買える。高い望遠レンズを購入《こうにゅう》するための貯金にまわすって手もある。確かに一万の出費は痛い。
でもさ、考えてもみろよ。
この写真が他の誰かの部屋に貼《は》られるなんて耐《た》えられるか?
無理だね。耐えられないね。たとえ落札価格が十万を超《こ》えようと、僕は必ず手に入れようとしただろう。
僕のそんな気持ちを察したのか、山西が呆《あき》れたようなため息を吐いた。
「いいじやねえか、写真くらい。他の誰かにあげてもさ」
「絶対にダメだ」
「だって写真だぜ? 里香《りか》ちゃん本人じゃねえんだぞ?」
「ダメって言ったらダメなんだよ」
まーったく、と山西が大きな声で言う。
「これだから嫉妬《しっと》に狂った男は怖《こわ》いな!」
「なんだと!」
ちょっと喧嘩《けんか》になった。ヘッドロックを噛《か》まし、山西の頭をぐいぐい絞《し》めあげる。山西は呻《うめ》き声を漏《も》らしながら、僕の右|脇腹《わきばら》にレバー打ちを叩《たた》きこんできた。くそっ、こいつ、僕が肝臓《かんぞう》を痛めたのを知ってるくせにレバー打ちかよ。
「離《はな》せ! 離せって! やめろ!」
「おまえこそ!」
「頭割れたらどうすんだ!」
「肝炎《かんえん》再発したら責任取ってもらうからな!」
「バカ戎崎《えざき》!」
「クソ山西!」
焦《じ》れた山西が、いきなり僕の腹に手をまわし、さらにもう一方の手を左足に絡《から》めてきた。そのまま腰《こし》をぐっと落とす。まさか、このままジャーマン・スープレックスか!? 投げっぱなしとか!? 死ぬ。それは下手すると死ぬ。僕は前のめりになり、山西の目論見《もくろみ》に抵抗した。投げられてたまるか。
「なにをしておるかああああ────っ!」
突然《とつぜん》、怒鳴《どな》り声がしたかと思うと、ドスドスという足音が駆《か》け寄ってきて、いきなり僕と山西《やまにし》は引き離《はな》されていた。というか弾《はじ》き飛ばされていた。床《ゆか》にしたたか尻《しり》を打ちつけ、何事かと顔を上げると、そこに立っていたのは鬼大仏《おにだいぶつ》だった。国語教師、近本覚正《ちかもとかくしよう》四十三|歳《さい》である。
「なにをしておる! 戎崎《えざき》! 山西!」
「すいません! ちょっとじゃれてただけです!」
「立てえええい──っ! 直立不動おおお──っ!」
「はい!」
「うす!」
僕と山西は直立不動の姿勢を取った。これ以上、鬼大仏を怒《おこ》らせるのはまずい。ちなみに、昨日もまったく同じことをさせられたばかりである。
視聴覚《しちょうかく》教室における攻防《こうぼう》は、実に当然のことながら、僕たちの敗北で終わった。男子教員隊のスクラムはついにドアをぶち破り、最後までドアを守っていた僕と山西は床に這《は》いつくばることになった。けれどまあ、それは僕たちの勝利でもあったのだ。なにしろそのとき、視聴覚教室のスクリーンには美しいロシア映画が映しだされていたし、やばいブツはすべて搬出《はんしゅつ》されていたのだから。
取り調べは厳しかったが、もちろん僕はシラを切った。
「先生、どうしたんですか?」
そうさ、さわやかに言ったものだった。
「ただ映画を見ていただけですよ?」
ほら、と言ってスクリーンに目をやる。白黒の古臭《ふるくさ》い画面で、ほっそりした身体《からだ》つきの少年が歌を歌っていた。ソプラノの調べが、実に美しい。鬼大仏は悔《くや》しそうな顔で男性教員隊に捜索《そうさく》を指示したものの、ロシア映画のビデオテープがごっそり出てきただけだった。
「どうしてすぐにドアを開けなかった!?」
「びっくりしちゃって。先生だとは気づかなかったんです」
「嘘《うそ》をつくな!」
「いや、本当です」
鬼大仏は生徒ひとりひとりに詰問《きつもん》していったが、友情連帯保身勝利という名の固い絆《きずな》に結ばれた僕たちがゲロることはなかった。
結局、鬼大仏たちは悔しそうな顔で去っていった。
僕と山西がちょっとふざけあってたくらいで怒鳴られたのは、たぶん昨日の腹いせみたいなものなのだろう。理不尽《りふじん》だが、まあこれくらいの仕打ちは笑ってすませてやろうじゃないか。
勝者の余裕《よゆう》を胸に立っていたところ、鬼大仏がその巨体《きょたい》をぐいっと近づけてきた。
「戎崎、昨日のことは忘れておらんぞ」
僕の顔を舐《な》めまわすような至近距離《しきんきょり》で、そう言う。なかなかの迫力《はくりょく》である。
さすがに頬《ほお》が引きつってしまう。
「ロ、ロシア映画上映会のことですか?」
「まだ、とぼける気か?」
「なんのことですか、とぼけるって。おまえ、わかるか?」
山西《やまにし》に顔を向ける。
もちろん山西も盛大にとぼけた。
「いや、全然。先生、なんのことでしょうか」
「貴様ら、いい根性《こんじょう》をしておるな」
鬼大仏《おにだいぶつ》の顔に、苛立《いらだ》ちが浮《う》かぶ。ただでさえ細い目が、さらに細い。いろんなものが燃えている。あまりの迫力に身が震《ふる》えそうになったものの、いちおう余裕《よゆう》をかまして僕と山西はへらへら笑っておいた。
「このままですむと思うなよ」
ありがちな台詞《せりふ》を残し、鬼大仏は去っていった。その背中を見ながら、僕と山西は顔を見合わせ、にやりと笑った。
鬼大仏をここまでやりこめられるなんて、滅多《めった》にあることではない。
「戎崎《えざき》、腹すかねえか」
「ああ、そうだな」
「模擬店《もぎてん》でなにか食おうぜ」
φ
なにもかも、ちょっとした偶然が重なっただけだった。世古口司《せこぐちつかさ》に料理を教わっている竹内《たけうち》恵那《かな》が、一念発起《いちねんほっき》して個人屋台をやることになった。とても張りきっていた。手打ちパスタを供する本格的なイタリアン屋台だ。メニューの開発には世古口司も協力した。ところが竹内恵那は突然《とつぜん》の頭痛で学校を休むことになった。もちろん屋台などできるわけがない。窮《きゅう》した竹内恵那は世古口司に電話をかけ、涙《なみだ》の滲《にじ》む声で頼《たの》んだのだ。屋台を引き継《つ》いでくれ、と。
「世古口|先輩《せんぱい》なら、安心して任せられますから」
涙声で頼まれては、断るわけにはいかない。というわけで、中庭に立ち並ぶ屋台村の一角に、リストランテ・セコグチが開店することになった。
料理人世古口司の腕《うで》は、女子ならば誰《だれ》もが知っている。
店は開店直後から長蛇《ちょうだ》の列を形成し、世古口司ひとりではとうていまわらなくなった。心配して付き添《そ》っていた水谷《みずたに》みゆきが手伝うしかなくなった。
ふたりの店、というわけである。
水谷《みずたに》みゆきは懸命《けんめい》に働いた。
「フィトチーネ、ふたり分|茹《ゆ》ででくれるかな、水谷さん」
「はい」
「ペスカトーレとカルボナーラ、できあがったよ」
「はい」
ふたり分の皿を客に渡《わた》し、代金を受け取る。世古口《せこぐち》君の料理の進行具合を見ながら、次の客の注文を聞く。
「ペスカトーレの注文、入ったよ」
「わかった。ペスカトーレだね」
「あとフィトチーネがもう茹であがるよ」
「うん、わかってる」
最初は手順がわからず戸惑《とまど》っていたけど、慣れてくると自然にリズムができてくる。注文を取り、麺《めん》を茹で、世古口君が作ったパスタを客に渡し、会計をすませる。早く動きすぎてもダメだし、遅《おそ》すぎてもダメ。ちゃんと呼吸を合わせなければいけない。
まるで、本当にふたりで店をやっているみたい──。
大変は大変なんだけど、それでもとても楽しかった。世古口君となにかをいっしょにやるというそのことが、まず楽しい。彼の作った料理を出すのが、さらに楽しい。その料理を食べて、お客さんがおいしいと口にするのが、もっと楽しい。
こういうのもいいかもしれないな、と思った。いつの日か、こうして世古口君と店を持つのだ。今は夢みたいな話だけど、十年後とか、十五年後とか、意外に実現してたりして。
ようやくお客さんが切れたのは、二時近くになってからだった。
「休もうか、水谷さん」
世古口君は、ちょっと疲《つか》れた声をしている。
「うん、そうだね」
肯《うなず》く自分の声もやっぱり疲れている。
狭《せま》い屋台の中、小さな丸椅子《まるいす》に並んで座った。世古口君が大きいものだから、背中をくっつけて座るしかない。
恥《は》ずかしいけど、嬉《うれ》しかったり。
「大変だったね、世古口君」
「そうだね。だけど、水谷さんがいてくれて助かったよ」
「邪魔《じゃま》じゃなかった?」
「ううん、すごく助かったよ。水谷さんがいなかったら、こんなにうまくいかなかった」
えへへ、と笑いあう。
恥《は》ずかしいけど、嬉《うれ》しかったり。
店を持つという夢みたいな話が、ちょっとだけ現実的に思えてくる。ふたりでいっしょに働いて、料理を作って、お店を守って。
楽しいだろうな、きっと。
「お、もう閉店か?」
やがて戎崎《えざき》裕一《ゆういち》がやってきた。山西保《やまにしたもつ》もいっしょだ。
「まだやってるよ」
世古口《せこぐち》君はすぐに立ちあがった。くっついていた背中が離《はな》れてしまった。寂《さび》しいけど、料理をするために立ちあがる世古口君を見るのは、けっこう好きだったりする。
「いらっしゃいませ」
水谷《みずたに》みゆきも立ちあがると、あえて店員っぽく言ってみた。
「なんになさいますか」
おや、という感じで戎崎裕一が見つめてくる。鈍《にぶ》いなりに悟《さと》ったのか、彼は少し悩《なや》んだ振《ふ》りをしつつ、いかにも客という感じの口調を作った。
「おすすめはありますかね」
わざとらしく悩んだ顔なんかしてるし。
得意げに言ってみる。
「うちはどれでもおすすめです。シェフの腕《うで》がいいですから」
「ほう? そうなんですか?」
「ええ、なにを食べてもおいしいですよ」
世古口君は律儀《りちぎ》に照れた。いや、そんな、僕なんてまだまだ──なんて赤い顔で呟《つぶや》いたりしてる。酒落《しゃれ》でやってることを理解しているのか、していないのか。あまりにも世古口君らしいものだから、その場にいる全員が笑ってしまった。
「じゃあ、ボンゴレ・ロッソで」
「オレもそれにする」
ふたりは同じものを注文した。
いちおうオーダー表にメモを取り、声を張りあげる。
「オーダー、お願いします! ボンゴレ・ロッソ、ふたつ入りました!」
「ボンゴレ・ロッソ、ふたつ!」
お決まりの言葉を互《たが》いに繰《く》り返してから、世古口君がてきぱきと料理を始める。その様子を横目で見つつ、ようやく戎崎裕一が普通《ふつう》の口調で話しかけてきた。
「みゆき、おまえが店を手伝ってるのか」
「うん」
「なかなか楽しそうだな」
「わりとね」
ベースになるトマト・ソースはすでに作ってあるので、ボンゴレ・ロッソはすぐにできあがった。世古口《せこぐち》君がフライパンを煽《あお》ると、麺《めん》とソースがあっという間に絡《から》みあう。トングで皿に移し、エクストラ・バージンオリーブオイルをかければできあがりだ。
「お、うめえ」
「すげえ、本格的だな」
戎崎《えざき》裕一《ゆういち》と山西保《やまにしたもつ》は、お腹《なか》を減らした犬みたいにがっつき、もりもり食べている。本当はもう少しじっくり味わってほしいところだ。
「ねえ、裕ちゃん」
「なんだよ。これ、マジでうまいな」
「里香《りか》はどうしたの」
「さあ、柿崎《かきざき》って子に呼びだされてどっか行っちゃったんだよ。司《つかさ》、おまえ、また腕《うで》を上げたんじゃないか」
「え、そうかな?」
「ああ、駅前の店よりうまいって。なあ、山西もそう思うだろ?」
「思う思う」
「おまえ、もうちょっと味わって食え」
「ああ、なんだよ、バカ戎崎。揺《ゆ》らすなよ。食いにくいだろ」
「食べ終わったら、アイスティーでも飲む? サービスするよ」
「お、やった!」
「さすが司、太っ腹!」
男の子三人はやたらと楽しそうにふざけあっている。なんだか、その様子がちょっとだけうらやましい。男の子たちって、どうしてこんなふうにじゃれあえるんだろう。女の子同士のつきあいとは、やっぱりちょっと違《ちが》う。
それにしても──。
里香、どうするつもりなのかな。
演劇部の柿崎に呼ばれたってことは、例のあれだよね。
3
とりあえず隠密《おんみつ》行動。部員には、まだ台本の変更しか伝えていない。もし真美《まみ》が使えるなら、彼女で行くつもりだ。いちおうは、そのつもり。というわけで、柿崎|奈々《なな》が秋庭《あきば》里香を呼びだしたのは、大道具置き場になっている体育館の用具倉庫だった。跳《と》び箱やら体操マットやらのあいだに、お城や樹木や橋の書き割りが押しこんである。この書き割りを壇上《だんじょう》のあちこちに並べれば、舞台《ぶたい》ができあがるというわけだ。
「ごめんね、急な話で」
申し訳ないという感じで、柿崎《かきざき》奈々《なな》は言った。
「それに、あくまでも代役だから、出られるとはかぎらないの」
秋庭《あきば》里香《りか》はお城の書き割りを見あげている。一番大きな舞台装置で、高さが三メートル近くあるヤツだ。それにしても、本当に長い髪《かみ》。舞台に立てば、この黒髪だけで映《は》えるだろう。
「大丈夫《だいじょうぶ》、わかってるから」
振《ふ》り返った彼女を見て、柿崎奈々はさっきの考えを否定した。黒髪だけじゃないや。顔立ちも、姿も、なにもかもが映えるだろう。それにしても、たいした存在感だ。無理なことを頼《たの》まれ、こんなところに呼びだされても、まったく動じていない。凛《りん》とした姿は、すでに舞台の上にいるようではないか。
真美《まみ》の比じゃないな──。
もちろん真美だって、ちょっとしたものなのだ。近隣《きんりん》の高校の演劇部を探したって、真美クラスの演技をする部員はなかなかいない。けれど、その真美でさえも、秋庭里香には及《およ》ばないだろう。なにかが決定的に違《ちが》う。そのなにかがなんなのか、柿崎奈々にもよくわからなかった。
「それで台詞《せりふ》だけど」
「今宵《こよい》あなたが窓辺に立たれ、その姿を見せてくれるならば、わたしはただそれだけで幸せでしょう。世界の端《はし》から端までの幸せを合わせたものを、すべて手に入れるでしょう」
秋庭《あきば》里香《りか》が口にしたのは、変更した台詞《せりふ》だった。
姫《ひめ》がほとんど喋《しゃべ》らなくてもすむよう大幅《おおはば》にカットしてあるとはいえ、それでもやっぱり、王役なので、少しは台詞がある。台本を渡《わた》したのは昨日の夕方だったから、台詞を覚える時間はたった一晩しかなかった。慣れていないと、台詞を覚えるのは大変なのだ。独特の記憶力《きおくりょく》を要する。コツというか。さすがに無理だろうと思った。覚えきれないだろう、と。だからカンペを出すつもりだったのに、今の秋庭里香の台詞は完壁《かんぺき》だった。一文字も間違《まちが》えていない。
ちょっとびっくりしてしまった。
「もしかして全部覚えたの?」
「覚えた」
「シーンの繋《つな》がりも?」
「覚えた」
「どういう演技をするかは?」
「ト書きにあったことは覚えた」
「全部?」
「うん、覚えた」
試しに第二幕の臣下の台詞を口にしてみたところ、秋庭里香は対応する台詞をきっちり言ってみせた。しかも、ただ台詞を読んだだけではない。言葉の切り方や、抑揚《よくよう》の付け方で、姫の感情が見事に表現されている。
完壁だ。いや、こちらの想像していた完璧の、さらにその上か。
「驚《おどろ》いた……」
つい呟《つぶや》いてしまったが、秋庭里香は照れることもなく、誇《ほこ》るわけでもなく、ただ穏《おだ》やかに立っている。
演出家の血が騒《さわ》いだ。
この子に演技を仕込んでみたい。そして舞台《ぶたい》に上げさせたい。台詞を吐《は》かせたい。最高の舞台になるだろう。間違いない。この子がいれば、それだけで十分だ。ああ、どうしてもっと早く彼女を見つけなかったのか。この、最高の宝物を。
興奮《こうふん》を抑《おさ》えながら、柿崎《かきざき》奈々《なな》は言った。
「いちおう、一通りの演技をつけるわね。各シーンにはちゃんと狙《ねら》いがあるから、それに沿った演技をしてもらいたいの」
もしかしたら、と柿崎奈々の頭にある考えが浮《う》かぶ。この子はわたし以上に姫を理解しているのかもしれない。
演技とは、ただ声を張りあげることではないのだ。泣いたり喚《わめ》いたりすることでもない。登場人物の心を、存在を理解し、それを観客に伝えることだ。なによりもまず、演技者が登場人物を理解する必要がある。
わかった、と秋庭《あきば》里香《りか》は肯《うなず》いた。
じゃあ始めましょう、と柿崎《かきざき》奈々《なな》は告げた。
φ
だてに長い歴史を誇《ほこ》るわけではない。山上祭《やまがみさい》にはたくさんの来賓《らいひん》が訪れる。その大半が凋落《ちょうらく》してしまったかつての名門を嘆《なげ》く。校長は肩身が狭《せま》くてしかたない。わたしが赴任《ふにん》してきたときにはもう立て直しようがないほど落ちぶれてました──などと言えるわけもなく、OBの嫌《いや》みにただ愛想笑《あいそわら》いを浮《う》かべるばかり。
とにかく、そういった来賓のために、駐車場《ちゅうしゃじょう》は一般人《いっぱんじん》の使用が禁止されている。駐車場使用禁止と書かれた立て札まである。なのに、そんな立て札を完全に無視した黒いスポーツカーが、むりやり駐車場に入ってきた。神経が太いのか、ただバカなのか、立て札をいったんどけてから駐車場に車を入れ、ふたたび立て札を元の場所に戻《もど》したりしている。
車に乗っていたのは、いまどきありえないデザインパーマを頭に当てた男だった。センスは最悪だが、着ているものは高級品ばかり。手首にはフランク・ミューラーの時計が光っている。数少ない地元有力企業の御曹司《おんぞうし》である。
「ほら、どうぞ」
そのバカ息子《むすこ》に導かれて車を降りたのは、やたらと短いスカートをはいた女だった。大きく開いた胸元《もなもと》には、ダイヤのついたネックレスがぶら下がっている。隣《となり》のバカ息子からのプレゼントだ。ヴィトンのモノグラムも、プラチナのアンクレットも、ティファニーのリングも、同様に男から貰《もら》ったものだ。ただし、左手の薬指にぴったりのリングだけは、まだ貰っていない。相手は渡したがっているが、それを察知した女は巧妙《こうみょう》に断り……いや、遠慮《えんりょ》しつづけていた。
金は持っているし、顔はきくし、遊び相手としては最高だが、こんな田舎男《いなかおとこ》と結婚する気などまったくない。
「この学校、オレがいたころは名門だったんだけどな。今はレベル下がっちまったよ」
男が偉《えら》そうに言った。
えぇ、そうなんだあ、と女は大げさに感心してみせる。甘《あま》さたっぷりの声で。
「すごぉーい! 慎治《しんじ》君って頭いいんだね!」
「たいしたことねえけどな」
ほんと、たいしたことない。男の年齢《ねんれい》からすると、彼が進学したとき、すでにこの学校は名門ではなくなっていたはずだ。三流手前の二流というところか。こっちだって地元生まれの地元育ちなので、それくらい知っている。
すぐバレる嘘《うそ》をついて、薄《うす》っぺらい見栄《みえ》を張るということは、どうしようもないバカなのだろう。まあ、実際バカだし。
なんて思いつつも、男の腕《うで》に絡《から》みついておく。
「ねえ、行こう」
「オヤジが来賓《らいひん》できてるから紹介《しょうかい》するよ」
「ええ、どうしよう。困っちゃう」
「大丈夫《だいじょうぶ》だって。前にも一回会ってるだろ。オヤジ、気に入ってくれてるから、緊張《きんちょう》なんかしなくていいんだぜ」
そういう意味で困ってるんじゃない。あんな品のないバカオヤジに会いたくないんだよ。こっちをエロい目で見やがってさ。
そろそろ別れどきだろうか。
今度、ダイヤの入ったピアスをねだろう。それを買ってもらったら、すぐに別れよう。
φ
今日の谷崎《たにざき》希子《あきこ》は、少々目が血走っている。ただでさえ人手不足なのに、日勤の久保田《くぼた》明美《あけみ》が倒《たお》れてしまったのだ。どうやら貧血《ひんけつ》を起こしたらしい。おかげで仕事が二倍になった。点滴《てんてき》を打って打って打ちまくり、プライドだけは高いボケ医者の手伝いに追われ、エロ患者《かんじゃ》のお触《さわ》り攻撃《こうげき》をすべて撃退しつつ、とにかく働いた。
「吉田《よしだ》さん、お熱はかり──」
やられた。いきなり吉田さんは嘔吐《おうと》した。気分が悪いなら、早めに言ってくれ。そうすればバケツを持ってきたのに。
嘔吐物の片づけは、もちろん看護婦の仕事である。
さらに忙《いそが》しくなった。
目がまわる。
いろいろなものに耐《た》えつつ、拭《ふ》いたり捨てたり洗ったりして、ようやく休憩《きゅうけい》が取れたのは午後二時だった。今日は中番なので、あと一時間半であがりである。こんな中途半端《ちゅうとはんぱ》な時間に休憩を貰《もら》ってもしかたない。体はすっかり疲《つか》れきり、息をするのも辛《つら》いほど。
泥水《どろみず》みたいなコーヒーをずるずる飲みつつ、休憩室に向かった。
「どう、具合は」
「あ、谷崎さん」
ソファに横になっていた久保田明美は起きあがろうとした。
もちろん制しておく。
「寝《ね》てなって」
「すみません」
「ちょっとは良くなった?」
「はい、少し」
「血圧、はかろうか」
「だけど、谷崎《たにざき》さん、休憩《きゅうけい》なんじゃないですか」
「いいって」
血圧の数値は、上が八十九、下が五十七。立派な低血圧である。これじゃ倒《たお》れてもおかしくない。
「今日はもう働くのは無理だね。帰ったほうがいいよ」
「そんな勝手なことできないです」
ちゃんと休むのを覚えろってこと。あえてきつい口調で言っておく。
「無理した結果、周りに迷惑《めいわく》かけちゃしょうがないだろ。真面目《まじめ》なのがあんたのいいところだけど、なにからなにまで完璧《かんぺき》にこなすのなんて無理だよ。そんなのはね、夏目《なつめ》みたいな人間にしかできないの」
「夏目先生、すごいですよね」
「あいつは、特別だから。あんなの、滅多《めった》にいないよ」
一昨日の夜、工場の事故で重傷者が三人運ばれてきたのだが、当直だった夏目の手際《てぎわ》は見事だった。患者《かんじゃ》のトリアージを一目で行い、まるで機械のように縫合《ほうごう》やらガラス片の摘出《てきしゅつ》やらを行っていった。トリアージというのは、患者の状態を見分け、治療《ちりょう》の優先順位をつけることで、これをスムーズかつ完壁にこなせる医者はそう多くない。場合によっては、治療の放棄《ほうき》、すなわち患者の命を見捨てなければならないこともあるからだ。実際、一昨日の夜だって、ひとりは助からなかった。夏目はなんのためらいもなく、迷いもなく、そのひとりを見捨てた。そして残りふたりの命を救うことに注力した。結果、ふたりは助かり、ひとりが亡《な》くなった。もし他《ほか》の医者だったら……三人とも助からなかったかもしれない。
「どうして夏目先生みたいに生きられないんでしょうね」
明美《あけみ》の呟《つぶや》きに、亜希子《あきこ》はなにかを感じた。
「もしかして、あんた、夏目のこと好きなわけ?」
沈黙《ちんもく》が答えだった。
どうにも理解しがたい。あのわがまま男のどこがいいのだ。病院において、医者は特権的な存在で、だから憧《あこが》れる看護婦は多い。結婚《けっこん》しちゃえば玉《たま》の輿《こし》だし。とはいえ明美はそういう計算をする女ではないはずだ。もっと真面目というか、不器用というか。
丸椅子《まるいす》に腰《こし》かけ、尋《たず》ねてみる。
「あいつのどこがいいわけ」
「優《やさ》しいじゃないですか」
ええ、優《やさ》しい? 夏目《なつめ》が?
「あと、真面目《まじめ》だし」
真面目って? どこが?
同じものを見ていても、どうやら感じることは人によってだいぶ違《ちが》うらしい。あるいは、明美《あけみ》の見てるものが正しいのかもしれない……いや、そんなことはないね。絶対にない。断言してもいい。明美の目が曇《くも》っているのだ。
まあ、恋《こい》なんて、そういうもんだけど。
「演劇部の後輩《こうはい》に、昨日の夜、相談されたんです。主演の子がダメになりそうだけど、どうすればいいかって。わたしが夏休みのOG指導で行ったとき、面倒《めんどう》を見た子たちなんですよね」
「へえ」
「いろいろアドバイスしたあと、妙《みょう》に懐《なつ》かしくなっちゃって。自分が演劇部にいたころの台本とか読んでたら、朝になってたんです」
「徹夜《てつや》?」
「はい」
「それで体調が悪かったの?」
「かもしれないです。一晩の徹夜くらいで倒《たお》れちゃうなんて」
明美は顔の上に腕《うで》を置き、そのまま黙《だま》りこんだ。泣いているのかなと思ったけど、そんなわけはないか。泣くほどのことじゃないし。
「体調悪いときは誰《だれ》にだってあるよ」
「はい」
「これからはちゃんと寝《ね》ること」
「はい」
ああ、タバコが吸いたいな。ここで吸うわけにはいかないけど。
「あんた、本当に演劇が好きだったんだね」
「好きでした。あんなに打ちこめたのって演劇だけです。今はもう、あんなに夢中になれるものはないですね」
「もしかして、高校のときが一番楽しかったって思ってる?」
今回も沈黙《ちんもく》が答えだった。
まあ、わからないでもない。学生時代というのは、妙に楽しかったように思えるのだ。十代は輝《かがや》く季節──なんて言った外国人俳優だっている。けれど、本当にそうだろうか。家や親に縛《しば》られたり、将来に怯《おび》えたり、ままならない友達関係に振《ふ》りまわされたり。十代のころだって、楽しいことばかりじゃなかったはずだ。輝きは確かにあったかもしれない。しかし同じだけの影《かげ》だってあったのではないか。
こういうことに気づくのは、少し年を取ってからだ。
かつては、自分だって十代に戻《もど》りたいと思ったことがあった。けれど、二十代も半ばを過ぎると、もうそんなふうに感じることはなくなっていた。
今が、いい。
自分で自分の面倒《めんどう》を見て、辛《つら》いことや苦しいことも、すべてひとりで引き受けて生きている今のほうが、ずっといい。
いつか明美《あけみ》も気づくだろう、そのことに。
「まあ、大人になるのも悪くないよ。あたしが言っても説得力ないかもしれないけど。さて、そろそろ仕事に戻るね」
休憩《きゅうけい》時間は、あっという間に終わってしまった。
「あの、谷崎《たにざき》さん」
「ん?」
「ありがとうございました」
なにに対する礼だろうか。血圧をはかったこと? それとも話をしたこと? よくわからぬまま、谷崎|亜希子《あきこ》は大げさに笑った。
「仕事終わったら家まで送ってあげるから、あと一時間|寝《ね》てな」
「そんな……いいんですか……」
「まあ、ついでにひとっ走りも悪くないからね」
4
夏目《なつめ》吾郎《ごろう》は寝ている。夜勤に疲《つか》れ果て、仕事に疲れ果て、人生に疲れ果て、深い眠《ねむ》りに落ちている。アパートに帰る気力もなく、横たわるのは病院の宿直室。狭《せま》い上にダニがいるらしいというベッドで、布団《ふとん》に丸まっている。目は閉じられている。口も閉じられている。盛大にイビキをかいている。やがて口が開かれる。なにか呟《つぶや》く。けれどその声が誰《だれ》かに届くことはない決してない。
φ
大学病院での競争は熾烈《しれつ》だった。頭も身体《からだ》も徹底的《てっていてき》に使わなければならなかった。自分のために誰かを踏《ふ》み台にしたこともあった。何度も、あった。けれど、それをためらっていては、階段を上れない。
汚《よご》れていく自分に怯《ひる》むこともあった。
「まあまあ、吾郎君」
そのたびに慰《なぐさ》めてくれたのが、小夜子《さよこ》だった。
「吾郎《ごろう》君が悪いわけじゃないよ」
「いや、オレが悪いんだ」
「そんなことないよ」
「わかってるんだ。オレが悪いって」
宮田《みやた》という若い研修医が地方に飛ばされた。原因を作ったのは僕だった。助教授から画策《かくさく》を頼《たの》まれたのだ。もちろん、はっきり言われたわけじゃない。トイレで用を足していたら、隣《となり》に助教授がやってきた。他《ほか》も空《あ》いているのに、わざわざ隣にきたのだ。
「岐阜《ぎふ》のR病院、宮田君が行ってくれるとありがたいんだけどねえ」
助教授はなんの脈絡《みゃくらく》もなく、そんなことを呟《つぶや》いた。
「わかってくれると思うけどねえ、宮田君も」
まったく嫌《いや》なヤツだった。
下らない小細工をさせたいのなら、ちゃんと言えばいいのだ。もっとも、こういうことをはっきりさせないからこそ、あいつは助教授になれたのだろう。
むかつきつつ、それでも僕は命に従った。
他《ほか》に選択肢《せんたくし》などなかったからだ。
重篤《じゅうとく》に陥《おちい》った患者《かんじゃ》を、僕は宮田にことごとく押しつけた。宮田は精神的にタフな人間ではない。線が細いタイプの学究肌で、大学病院に長く残って研究を続けたいと思っていた。医者というより研究者だろう。そんな宮田に、血と苦しみに塗《まみ》れた患者ばかりを担当させた。患者の悲痛な声に、血に、痛みに、家族の涙《なみだ》に、宮田はどんどん追いつめられていった。
「夏目《なつめ》さん」
あるとき、廊下《ろうか》で宮田に声をかけられた。
「どうしてですか」
「ん? なにがだ?」
「どうして僕に末期の患者ばかり担当させるんですか」
偶然だよ、と僕は白々しいことを言った。
「たまたま、おまえにそういう患者がまわってるだけだって」
「でも──」
「ここは大学病院だぞ。難しい患者ばかりになるのは当たり前じゃないか。患者が亡《な》くなるのは辛《つら》いだろうが、それも仕事のうちだ」
やはり白々しいと知りつつ、僕はそう言った。
目の前に立つ宮田の頬《ほお》は、すっかりこけている。体重がごっそり落ちたのだろう。連夜の治療《ちりょう》のせいか。患者を亡くした心労のせいか。宮田は、たった一週間のうちに、三人の患者を亡くしていた。
すっかり追いつめられている。あと少しで落ちるな、と思った。
「夏目《なつめ》さん、僕は──」
「まあ、あんまり気にするな。できるだけ軽い患者《かんじゃ》を担当できるように取りはからってみるよ。ただ、やっぱり大学病院だからな。ここにいる限り、どうしようもないところはある」
ほんの数人だけ軽い患者を担当させたあと、ふたたび末期の患者ばかりを宮田《みやた》に押しつけた。苦しみ、のたうちまわり、時に呪詛《じゅそ》の言葉を吐《は》きながら、患者は亡《な》くなっていった。宮田の頬《ほお》はますますこけていき、やがて自らR病院に行くことを申し出た。
夏目君は見事だねえ、と助教授に言われた。
「君がいてくれると、わたしも楽に仕事ができるよ」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げておいた。
「お褒《ほ》めにあずかり、光栄です」
医局内の派閥《はばつ》争いは、助教授がほぼ制している。現任教授の覚えもめでたく、教授が退任したあとは、おそらく助教授がそのまま教授に持ちあがるだろう。勝ち馬の尻《しり》に乗る、というヤツだ。だいたい、そうするしかないではないか。この世には、ふたつしか選択肢《せんたくし》はないのだ。勝つために努力するか、その努力を怠《おこた》って負けるか。
負けるつもりはなかった。
きれいごとを口にしつつ中途半端《ちゅうとはんぱ》な悪意に留《とど》まるくらいなら、心の底まで黒く染まったほうが潔《いさぎよ》い。自分たちだって荷担《かたん》したくせに「宮田君はかわいそうだったね」とか「夏目先生もあそこまでしなくてもいいのにね」なんて口にする同僚《どうりょう》の偽善《ぎぜん》には吐《は》き気さえ覚えた。
それでも宮田の顔が忘れられない。
どんどんこけていった頬が、しょっちゅう脳裏《のうり》に蘇《よみがえ》ってくる。『なんでだろうな、小夜子《さよこ》。真っ黒になるって決めたんなら、心の底まで真っ黒になりたいんだよ。本当にオレはそう思ってるんだぜ。なのに、そんなことをおまえに愚痴《ぐち》っちまったら、オレはそれだけであいつらより、偽善だらけの同僚より、汚《きたな》くなっちまう』
心の中で、僕は言った。盛大に愚痴った。小夜子は膝《ひざ》を抱《かか》え、僕をじっと見ている。僕の心の声が、全部聞こえているかのようだ。『やっぱり弱いんだよ、オレは。おまえに愚痴って、自分をきれいにしたいんだ。強くなりきれてないんだ。ごめんな、小夜子。おまえにこんな話をしちまうなんてな。ああ、本当に真っ黒になりてえよ。笑って誰《だれ》かを切り捨てられる人間になりてえよ』
やがて小夜子はなにも言わず立ちあがった。明かりをつけていないリビングに、僕ひとりだけが取り残された。僕たちが住んでいる古臭《ふるくさ》いアパートは、窓に磨《す》りガラスがはめられている。雪の結晶《けっしょう》みたいな模様が入った磨りガラスだ。その磨りガラスが、夕暮れの光を浴びてキラキラと輝《かがや》いていた。もうすぐ日が落ちる。そうしたら、寒くなるだろう。そろそろストーブをつけたほうがいいな。
やがて小夜子《さよこ》がやってきた。
「はい、吾郎《ごろう》君」
差しだされたのは、ホットミルクが入ったマグカップだった。
「おいしいよ」
「お、さんきゅ。最近、胃が痛いんだよな」
「飲んでみて」
促《うなが》されて飲んだホットミルクは、ちょっと不思議な味がした。
「おもしろい味だな、これ」
「アカシアの蜂蜜《はちみつ》でね、甘《あま》みをつけてあるの」
「へえ、蜂蜜か」
「蜂蜜っておもしろいのよ。なんの蜜かで、全然味が違《ちが》うの。リンゴの蜂蜜はリンゴの香りがするし、トチは濃厚《のうこう》だし、菜《な》の花《はな》はすっきりしてるの」
「うまいな。マジでうまい」
僕はゆっくりホットミルクを飲んだ。ひとたび傾いた日が落ちるのはやたらと早く、やがて部屋の中は真っ暗になった。小夜子がつけてくれたストーブの赤い炎《ほのお》だけが、部屋をうっすらと照らしている。僕も、僕の持っているカッブも、膝《ひざ》を抱《かか》える小夜子も、みんな炎の赤に染まっていた。
「吾郎君」
「ん」
「かまわないから、いろいろ喋《しゃべ》ってね」
小夜子はそう言うと、僕の腕《うで》に自分の腕を絡《から》めた。そのまま、僕の肩《かた》に小さな頭を預ける。彼女の柔《やわ》らかい髪《かみ》が、頬《ほお》をくすぐった。
「どんなに黒く染まってもいいから、その全部を喋ってね」
だったら、わたしだけは吾郎君を許すから。どんなに汚《よご》れても、嫌《いや》な人間になっても、かまわないから。
ストーブが赤く燃えている。
ホットミルクはまだ湯気を上げている。
口に含《ふく》むと、アカシアの蜜の甘みが口に広がる。
小夜子がいる。
すぐそばにいる。
「ああ、わかった」
そう言うのが精一杯《せいいっぱい》だった。どんなに汚れても、嫌な人間になっても、小夜子だけはそばにいてくれる。理解してくれる。だったら、かまわない。汚れよう。嫌な人間になろう。
小夜子、ごめんな──。
やっぱり口にできない言葉を、僕は心の中で言った。僕はこうして小夜子《さよこ》さえも利用しているのだ。自らの心を軽くするために、彼女に甘《あま》えている。だからこそ、どんなに汚《よご》れても、嫌《いや》な人間になっても、彼女を思う気持ちだけは失わないでおこう。それだけは頑《かたく》なに守ろう。
たったひとつの免罪符《めんざいふ》だ。
φ
夏目《なつめ》吾郎《ごろう》はまだ深い眠《ねむ》りの中にいる。寝返《ねがえ》りを打つ。布団《ふとん》を抱《だ》きかかえる。枕《まくら》に顔を押しっける。唇《くちびる》がかすかに動き、声が漏《も》れる。呟《つぶや》いた言葉を聞く人間は、もうどこにもいない。宿直室の中、彼はひとりきりだ。いつだって、ひとりきりだ。
5
山西《やまにし》が暗い。
さっきから黙《だま》りこんでいる。二組のおばけ屋敷《やしき》に入ろうかと言ったら、首を横に振《ふ》る。当然だ。男メイド喫茶《きつさ》もやっぱり首を振る。当然だ。ミニスカ喫茶はどうだと言ったら、これもダメ。おかしい。
山西が暗い。
うつむき、歩き方がふらふらしてて、ズボンのポケットに両手を突《つ》っこんだりしている。まるで拗《す》ねた子供のようだ。
最初は気を遣《つか》っていたが、だんだん苛立《いらだ》たしさが増してくる。
「シケた顔してんじゃねえよ」
そう言ってケツを蹴《け》っ飛ばしたら、
「痛い痛い」
と呻《うめ》いたものの、プロレスの技を返してくるなんてことはなく、ちょっとだけこちらを見たあと、すぐ黙りこんでしまった。
山西が暗い。
いやまあ、こいつが根暗なのは今に始まったことじゃないし、だからどうだってもんでもない。根が暗いんだから、こんなふうに黙りこむことだってあるだろう。つきあいが悪くなることもあるだろう。
そういうヤツなのだ。わかっている。
にしても、なんとなく引っかかった。どうすればいいのか。悩《なや》んだ末、僕はいつから山西が暗くなったのか思い返してみた。司《つかさ》の店に行くまでは、元気だった。下らないことばかり喋《しゃべ》っているいつもの山西だった。司にお茶を奢《おご》ってもらったころも、やっぱりいつも通りだった。
「おまえ、店とかやったらどうだ」
僕は司《つかさ》にそう言った。
あまりにも料理を作っている司が楽しそうだったからだ。
うん、と司は肯《うなず》いた。
「いつかは店を持ちたいよね」
「お、やる気だな」
「東京の老舗《しにせ》店をさ、叔父《おじ》さんが紹介《しょうかい》してくれるって言ってるんだ。そこで働いてみようかなって。そうなると、やっぱりいつかは自分の店が夢だよね」
おお、と僕は唸《うな》った。
「すっげえ。具体的だな」
「えへへ」
「繁盛《はんじょう》して、テレビに出たりしてな。NHKの料理番組の講師とかさ」
「それは無理だよ」
「いや、わかんねえぞ」
本当にわからない。司には、なにかがあるのだ。目標を持ったら、とことん頑張《がんば》れるというか。頑張ってしまうというか。しかも本人に頑張っているという自覚はほとんどなくて、ただ夢中になっているだけ。
そういう人間は、どこまでも上っていける。
僕や山西《やまにし》じゃ無理なんだ。僕たちはいろんなことを小賢《こざか》しく考えすぎて、だからしばしば立ち止まってしまう。自分たちがどこにいるのか確かめてしまう。そのあいだも、司はひたすら歩いている。自分の理想をただ追い求める。そして何日か、何年か、あるいは何十年かがたつと、ずいぶん先まで司は行ってしまっているのだ。
かつては、そういうことを辛《つら》く感じたこともあった。
司がうらやましくてたまらなかった。
けれど今は、里香《りか》といっしょに生きていく決意を固めてからは、素直に呑《の》みこめるようになっていた。
僕には里香がいるんだ。最高のものを、僕は手に入れた。
だからもう、司をうらやましいとは思わない。
「オレのオヤジ、土建屋だろ」
やがて山西がそう言った。
ああ、と肯いておく。
こんなバカでも、山西はけっこうなボンボンなのだった。オヤジさんが大きな建設会社を経営していて、叔父さんはそこの町会議員をやっている。
山西はひとり息子《むすこ》、つまり跡取《あとと》りだった。
「税金とかさ、いっぱい使ってんだよな。意味のない道路造ったりして。家にいると、そういう話も聞くんだ。談合《だんごう》とかさ。そういうのって泥棒《どろぼう》みたいなもんだろ。国の税金を掠《かす》め取ってるっていうか」
「まあ、そうなるかもな」
「けど、オレ、それで飯食わしてもらってんだよな。オレの制服も鞄《かばん》もパソコンもCDもマンガも、全部そうやってオヤジが稼《かせ》いできた金で買ってるんだ。泥棒の金でオレは生きてるんだ。でさ、いつかオレもそんな泥棒になるんだ。泥棒だって知ってるけど、そうしなきや食えないことも知ってるからさ。そんな仕組みがなくなるのか続くのか、どっちがいいかって聞かれたら、続くのがいいとしかオレは言えないんだよな」
世古口《せこぐち》がうらやましいよ、と山西《やまにし》は言った。あいつは自分の力だけで生きてるもんな。しかも夢に向かってまっしぐらだろ。すげえよ、世古口は。ほんとすげえよ。
やがて山西は黙《だま》ってしまい、僕も口を開かず、騒《さわ》がしい校内をふたりでただ歩きつづけた。女の子の集団が甲高《かんだか》い声をあげながら通り過ぎていく。先生たちも祭りの雰囲気《ふんいき》に気持ちが緩《ゆる》んでいるのか、生徒のタメ口を咎《とが》めることなく、恋人《こいびと》がいるだのいないだのと照れながら話している。着ぐるみはきついよ前見えねえもんサルだし、と愚痴《ぐち》りながら歩いていくヤツがいる。そのすぐあとを全身タイツの男がビラを撒《ま》きながら駆《か》けていく。全身タイツは大声で叫《さけ》んでいるが、顔までタイツをかぶっているものだから、なにを言っているのかさっぱりわからない。僕は何気なくビラを拾いつつ、口を開いた。
「司《つかさ》は特別だって」
「ああ」
わかってる、と山西は呟《つぶや》く。
確かに山西だってわかってるんだろう。けれど、わかっているからといって、そっくり呑《の》みこめるというわけではない。そこまで悟《さと》ることは、なかなかできない。目標をしっかり持ち、それに向かっている司の姿に、山西は自らの愚《おろ》かさと惨《みじ》めさを思い知ったのだろう。
僕自身が何度も繰《く》り返してきたことなので、山西の気持ちはよくわかった。
けれど、慰《なぐさ》めるつもりはなかった。
励《はげ》ますつもりもなかった。
僕と山西の関係は、そういうものじゃないんだ。どついたり、どつかれたり、貶《けな》したり、貶されたり……そういうふうにやってきたんだ。
励ますなんて恥《は》ずかしいことはできない。
さあ、どうやってバカにしてやろう。僕はそんなことを考えた。下らないことで悩《なや》んでんじゃねえよと言ってドロップキックでもするか。それともコブラツイストか。三沢《みさわ》のエルボーを連打ってのもありだな。
騒《さわ》いじまおう。喚《わめ》いちまおう。そうやって消しちまおう。
だってさ。
真面目《まじめ》に語っても、解決することじゃないんだ。
僕はふと、大昔のことを思いだした。小学校三年のころ、生徒数が減ったため、市内のいくつかの学校が統合された。僕と山西《やまにし》が通っていた学校も廃校《はいこう》になり、近くにある別の小学校に春から通うことになった。その春休み、僕たちは取り壊《こわ》される予定の母校に忍《しの》びこみ、音楽室からごっそりレコードを持ちだした。なんでそんなことをしたのか、今となっては思いだせない。僕と山西は、その山のようなレコードを校庭で投げた。右に、左に、思いっきり投げまくった。古いレコードはくるくる回転しながら空間を飛び、もう使われることのない土のグラウンドに落ちた。そうして土埃《つちぼこり》が舞《ま》うグラウンドに、黒い点がいくつもいくつも染《し》みのような模様を作った。あのレコードにはどんな曲が入っていたんだろう? 誰《だれ》の歌声が入っていたんだろう? 僕たちはいったいなにを投げていたんだろう? あるいは壊していたんだろうか?
ああ、なんでこんなこと思いだすのかな。
山西のせいだ。
こいつがおかしいからだ。
まあ、いいさ。とりあえずドロップキックだ。あとのことはそれから考えよう。ドロップキックで吹《ふ》っ飛ばしたら、山西は怒《おこ》るだろうな。
騒《さわ》いじまおう。喚《わめ》いちまおう。そうやって消しちまおう。
「あ──」
けれど、果たせなかった。
廊下《ろうか》を歩く僕たちの前に、一組のカップルがいた。学生じゃない。一般《いっぱん》の来客者だ。男のほうはやたらとセンスの悪い格好をしていて、女のほうはやたらと短いスカートをはいている。僕は手を伸《の》ばし、山西の腕《うで》を取ろうとした。どこでもいいから、近くの教室に入るんだ。男メイド喫茶《きっさ》でも、おばけ屋敷《やしき》でもかまわない。女が僕に気づくその前に、隠《かく》れなければ。
でも、彼女は気づいた。
もう逃げることも隠れることもできず、僕と山西は同じ調子で歩きつづけた。カップルの男のほうが、強引に女の肩《かた》を引き寄せる。女はされるがままって感じで男に寄り添《そ》ったけれど、その顔はすっかり醒《さ》めていた。僕の顔を見た。もっと嫌《いや》そうな顔をした。
だんだんふたりが近づいてくる。
顔がはっきり見える。
もうだいぶ前のことなのに、記憶《きおく》はあまりにも鮮《あざ》やかに蘇《よみがえ》ってきた。
プジョーの助手席。スカートから伸びるほっそりした脚《あし》。彼女の声。柔《やわ》らかい肌。熱い吐息《といき》。されるがままだった自分。オリーブグリーンのタートルネック。右と左、それぞれ五つずつの花。肘《ひじ》のあたりでぶらぶら揺《ゆ》れていたブラジャーの肩紐《かたひも》。亜希子《あきこ》さんの怒声《どせい》。殴《なぐ》られた。頬《ほお》が熱かった。心が熱かった。待っていた夏目《なつめ》は、妙《みょう》に穏《おだ》やかだった。
あのときの相手、美沙子《みさこ》さんとすれ違《ちが》った。
男の腕《うで》に抱《だ》かれたままの彼女は、それまでの嫌《いや》そうな顔を突然《とつぜん》変え、微笑《ほほえ》みかけてきた。誘《さそ》うように、あるいはからかうように。
そうして、彼女は背後に去った。
遠ざかる美沙子さんの気配を感じつつ、僕はいろんな感情を心の奥底《おくそこ》にしまいこんだ。これでなにもかも終わりにしよう。彼女はもう知らない人だ。どこかで会っても無視しょう。話しかけられても応《こた》えないでおこう。
心がカサカサする。
叫《さけ》びたい。
大声を放って、なにもかも消してしまいたい。
気がつくと、さっき拾ったビラを握《にぎ》りしめていた。薄《うす》っぺらい紙はくしゃくしゃになり、端《はし》のほうが少し破れてしまっている。なんとなくその紙を広げ、皺《しわ》を伸《の》ばし、書かれていることを読んだ。出場者|募集《ぼしゅう》、当日飛び入り大歓迎《だいかんげい》──。
「おい、山西《やまにし》」
「なんだよ」
「行こうぜ」
「行く? なにに?」
「これだよ、これ!」
6
「真美《まみ》がいなくなったわ」
そう言って千佳《ちか》が入ってきたのは、稽古《けいこ》が終わりかかったころだった。主役がいなくなったのに、千佳は慌《あわ》てるわけでもなく、むしろうんざりしたという感じ。
「どうするの、部長」
相変わらず責任を押しっけるような声だ。
柿崎《かきざき》奈々《なな》は、近くにあったマットに腰《こし》かけた。
「真美、逃《に》げたの?」
「たぶん。あの子、ずっと電話で話してたでしょう。それでようやく電話を切ったと思ったら、すぐにいなくなっちゃって。たぶん彼のところに行ったのよ。この時間にいなくなったら、帰ってこないかも」
「そうね」
開演まで、あと一時間少しだ。
「で、どうするの」
「どうしようか」
なぜか笑ってしまう。
その笑みを見た千佳《ちか》が、不審《ふしん》そうな顔をした。
「なに考えてるのよ」
「別に」
さらに千佳が不審そうな顔になる。その顔を見て楽しんでいる自分は意地悪だろうか。けれど笑ってしまうではないか。こうなればいいと思っていたとおりに、ことが運んでいるのだから。学生時代最後の演劇が、こんなハプニングに見舞《みま》われるなんて最高だ。そう、最高。間違《まちが》いなく、今日は最高の舞台《ぶたい》になる。
「秋庭《あきば》さん」
奈々《なな》は、少し離《はな》れたところに立っている秋庭|里香《りか》を呼んだ。
それで千佳は、ようやく彼女の存在に気づいたらしい。
「あ、いたの?」
「うん、稽古《けいこ》つけてた」
「稽古? じゃあ、本当に?」
「だって、しかたないじゃない」
主役である真美《まみ》は逃《に》げてしまった。このギリギリの段階で代役なんて危険な賭《か》けだけれど、他《ほか》に方法はない。
しかたないのだ。やむを得ずだ。
「千佳もちょっと協力して。第三幕で、姫《ひめ》と大臣が対立するシーンがあるでしょ」
「うん」
「そこをやってみるから」
「え、そんな急に言われても……秋庭さんだって……」
「いいから、やってみよう」
不承不承《ふしょうぶしょう》、相馬《そうま》千佳はやってみた。いくらなんでも無理だ。無茶《むちゃ》だ。そう思う気持ちが、一秒ごとに変化していった。
この子──!
少し眉《まゆ》を吊《つ》りあげただけで、怒《いか》りの空気があたりに満ちる。微笑《ほほえ》まれれば、演技だと知りつつ、嬉《うれ》しくなってしまう。背中を丸める仕草は、それだけで悲しみを表現している。上手《うま》いとか下手とかいう言葉では表現できない。なにかが違う。天性と言えばいいか。
驚《おどろ》きつつ部長である柿崎《かきざき》奈々を見ると、彼女は笑っていた。
「すごいでしょう?」
「すごい」
肯《うなず》いていた。野心が芽生えていた。彼女と同じ舞台に立ちたい──。
「真美《まみ》、戻《もど》ってくると思う?」
「戻ってこないわよ、きっと」
「じゃあ、しかたないわね」
「そうね、しかたないわね」
逃《に》げた真美が悪いのだ。
φ
校庭の一角、家庭科教室の斜《なな》め前に、黒い人だかりができている。大半はむさ苦しい男どもで、彼らは拳《こぶし》を突《つ》きあげ、何事かを大声で喚《わめ》いていた。人だかりの中央には、真っ白に輝《かがや》くリングがあった。やがてリングの中央に、三年五組|田口《たぐちよ》洋介《うすけ》が立った。白と黒の縦縞《たてじま》シャツはユベントスのレプリカユニフォームの流用であるものの、その下に着たカッターシャツの襟《えり》を出しているせいで、どうにかレフェリーっぽく見える。パツンパツンのズボンと合わせれば完壁《かんぺき》である。三年五組田口洋介は、その頭に見事なハゲヅラをかぶっていた。
「本日のぉー、第一試合いいいい──っ!」
田口……いやニセ山本《やまもと》小鉄《こてつ》の声に、集まった男どもがむさ苦しい歓声《かんせい》をあげる。殺せえ、ぶっ殺せえ、と喚いているものもいる。賭《か》け率は一対三、一対三、とバケツを持って練り歩いているものがいる。出場者|募集《ぼしゅう》だってよオレ出ようかな、と言っているものがいる。
「赤コーナー! 日の本の守り神、神武《じんむ》六千年の化身《けしん》! ザ・グレート・ジングー!」
花道を駆《か》けてきたひょろひょろの男が、「とおっ!」と叫《さけ》んでトップロープに手をかけ、宙へと舞《ま》った。鳥居《とりい》の描《えが》かれたマントが見事に広がる。そしてリングに降り立ったザ・グレート・ジングーは、両腕《りょううで》を上げ、観衆に自らの存在をアピールした。しかし、誇《ほこ》らしげなジングーに浴びせられたのは、罵倒《ばとう》の声だった。
「てめえ、なんで鳥居を赤く描いてんだよ!」
「神宮《じんぐう》の鳥居は白木《しらき》だろうが!」
「偽物《にせもの》!」
「無知!」
「恥《はじ》知らず!」
「下りろ! リングを下りろ!」
「五十鈴川《いすずがわ》に流されて海まで下っちまえ!」
本来ならべビーフェイスであるはずのジングーは、たったひとつのミスによってヒールと化した。その空気を読んだジングーは、リングに群がってくる観衆に痛烈《つうれつ》な悪罵《あくば》を垂れ、中指を立て、さらに蹴《け》りまで入れる。
「かーえーれ! かーえーれ! かーえーれ!」
コールが響《ひび》く中、ジングーは憎《にく》たらしく笑いながら、リングをうろうろ歩きまわった。やがて田口《たぐち》洋介《ようすけ》……いやニセ山本《やまもと》小鉄《こてつ》が青コーナーを指差した。
「青コーナー! 伊勢《いせ》の祖! 真の太陽神! ヒコ・サルータ!」
花道に現れたのはマスクマンであった。というかサルの全身着ぐるみであった。視界が確保できないらしく、ヒコ・サルータはいきなり花道から落ち、観客に戻《もど》してもらうという醜態《しゅうたい》を二度ほど繰《く》り返した末、ようやくリングに立った。なんだかいろいろ間違《まちが》っているが、学生プロレスではよくあることだ。
とにかしリングに両雄《りょうゆう》が並び立つ。
観衆があげる男臭《おとこくさ》い声の中ういにゴングが鳴った。
φ
「んだよ、谷崎《たにざき》」
いきなり起こされた夏目《なつめ》は思いっきり不機嫌《ふきげん》だった。さすがに夏目ほどの二枚目でも、寝起《ねお》きはちゃんとブサイクだ。目は半分しか開いてないし、髪《かみ》はボサボサだし、シャツは披《しわ》だらけで、なぜか右の靴下《くつした》だけ脱《ぬ》げている。
「あんた、今晩の夜勤まで暇《ひま》だろ」
谷崎|亜希子《あきこ》は言うと、車のドアを開け、さらに助手席を倒《たお》した。ほれ、と後部座席を指差す。
「暇だが、暇じゃねえ。寝させろ」
「まあまあ」
「なんだ、押すな。おい、押すなって」
寝ているところを襲《おそ》ったのがよかったのかもしれない。夏目のくせに、わりとおとなしく後部座席に座った。さて、これでOK。
車の前をまわって、運転席に腰《こし》を落ち着ける。
ミラーを覗《のぞ》くと、後部座席に座るふたりが見えた。明美《あけみ》は右側の席で、やたらと小さくなっている。憧《あこが》れの夏目が隣《となり》にいるので緊張《きんちょう》しているのかもしれない。一方、左側の夏目は、そんな明美の様子に気づくふうもなく、だらしなく座席で身体《からだ》を伸《の》ばしている。相変わらず目は半眼、髪はボサボサ、右の靴下をはいていない。
ほれ、と靴下を投げておいた。
「廊下《ろうか》に落ちてたよ。靴下くらいはきな」
「お、おう」
あたふたと靴下をはく様子が、意外にオッサンっぽい。背を丸めているその瞬間《しゅんかん》を狙《ねら》って、いきなり車を発進させた。バランスを崩《くず》した夏目は、そのまま明美のほうへと身体を倒す。明美は夏目の身体を受け止め、顔を朱《しゆ》に染めた。
「谷崎《たにざき》! ゆっくり出せ!」
「た、谷崎さん! あの!」
慌《あわ》てるふたりの声に、あははと笑っておく。
「ああ、ごめんごめん。あたしってガサツだからさ」
ミラーを確認《かくにん》すると、明美《あけみ》はまだ顔を赤くしていた。まあ、ちょっとしたプレゼントである。これくらいはね、いいよね。
ジェットコースターのような荒っぽい運転を心がけたせいで、夏目《なつめ》と明美はしょっちゅう肩《かた》をぶつけた。ふらついた明美を、夏目が支えることも何度かあった。夏目のほうはまったく意識していないが、明美はずっと意識しっぱなしである。ミラー越《ご》しに、訴《うった》えるような視線を送ってくる。困ってます、って感じ。でも、困ってるだけじゃないよね。ちょっとは嬉《うれ》しかったりもするよね。
わかっているから、また急ハンドルを切る。
「おい、谷崎!」
よろけた明美の肩をさりげなく抱《だ》きながら、夏目が抗議《こうぎ》の声をあげた。
「ゆっくり走れ! なに急いでやがんだ!」
「早くしないと劇が始まっちゃうのよ。ね、明美?」
「劇ですか? え? 高校の?」
「せっかく早退してきたんだから、それもいいじゃない。劇を観《み》るくらいなら平気でしょ。息抜《いきぬ》きよ、息抜き」
「そ、そんな……早退したのに家に帰らないなんて……」
「堅苦《かたくる》しいこと言わないの。あたしが許す」
「おい、劇ってなんだ?」
いぶかしむ夏目に、ざっと事情を話す。裕一《ゆういち》と里香《りか》が通う学校の文化祭があること。そこで劇が上演されること。明美の後輩《こうはい》がその劇に出ること。
「そんなんでオレを起こしたのかよ」
すべてを聞いた夏目が、不機嫌《ふきげん》な声で言ってきた。成り行きなのか、ちゃんと気を遣《つか》っているのか、さっきから明美の左肩を右手で支えている。
緊張《きんちょう》している明美は、なかなか可愛《かわい》らしい。
「別に里香やあのクソガキが出るわけじゃねえんだろ」
「まあね。あの子たち、演劇部じゃないし」
「じゃあ、関係ないだろうが。引き返せよ、谷崎。オレは寝《ね》たいんだよ」
「まあまあ、ここまで来ちゃったんだし」
「てめえ、なにをすっとぼけてやがんだ。ほら、引き返せって。ああ、勝手にスピード上げるんじゃねえ」
ドカン、とシートに衝撃《しょうげき》が来た。
「ちょっと! 今、シート蹴《け》ったでしょ!」
「それがどうした!」
「あたしの大事な車になにすんのよ!」
「ああ? てめぇ、喧嘩《けんか》売ってんのか!」
「売ってやろうじゃないの! 上等だ!」
座席の前と後ろで怒鳴《どな》りあうことになった。どかどかシートを蹴ってくるので、空《す》いている道で急ブレーキをかけてやる。前のめりになった夏目《なつめ》は、シートに顔をぶつけた。なにすんだ、と文句を言い終わる前に、今度は急加速。アクセルをベタ踏《ぶ》みする。今度は後部座席に、夏目が叩《たた》きつけられる。ふふふ、ハンドルを握《にぎ》ってるあいだはこっちのものだ。
「あ、あの、夏目先生」
その騒《さわ》ぎの中、いきなり明美《あけみ》が口を開いた。
「た、楽しいですよ、演劇」
「あ? 演劇?」
ようやく明美の存在に気づいたって感じで、夏目がその顔を明美に向ける。もちろんそこにいることはわかっていたはずだが──明美の身体《からだ》を支えていたし──ちゃんと存在を認識《にんしき》したというか。
はい、と明美は肯《うなず》いた。
「見てみる価値はあると思います」
真剣な明美の言葉に、さすがの夏目も肯いた。
「そ、そうか」
ふたりの様子を、亜希子《あきこ》は微笑《ほほえ》みとともに見つめていた。やるじゃん、明美。精一杯《せいいっぱい》の勇気を絞《しぼ》りだして、夏目に話しかけたのだろう。だから、ちょっと声は大きすぎて、強すぎて、ぎこちなくて……本当の言葉になっていた。
「おもしろいのかな、演劇って」
「はい」
「オレはそんなのよくわからないんだが1」
ぎこちなく話すふたりを、そんな瞬間《しゅんかん》を守るため、今度は慎重《しんちょう》にハンドルを操《あやつ》る。ゆっくり走ろう。できるだけ、ゆっくり。
7
当初の|筋書き《ブック》とは違《ちが》い、勝利を収めたのはヒコ・サルータだった。わざとらしく足掻《あが》くジングーをマットに押さえこんだのだ。レフェリーによるスリー・カウントが終わると、ヒコ・サルータはよろよろと立ちあがった。サルの全身着ぐるみはさすがに大変そうで、彼の足下はすっかりふらついている。一方、敗《やぶ》れたジングーはそのひ弱な裸体《らたい》をリングに沈《しず》めたままだった。リングを取り囲む男どもが、ヒコ・サルータの名前を連呼する。眼鏡《めがね》をかけた実況《じっきょう》が、パンチパーマの解説に尋《たず》ねた。どうですかマサさん今の勝負は。いや本当にすばらしい勝負でしたね。六千年の因縁《いんねん》をかけた闘《たたか》いに終止符《しゅうしふ》を打ったということでしょう。ほう、それはどういう意味が。伊勢神宮《いせじんぐう》の前に、猿田彦《さるたひこ》神社がありますね。ああ、ありますね、はい。あれはですね、猿田彦が大和《やまと》の神に仕えていることを象徴《しょうちょう》していると言われてるんですが、本当は猿田彦こそが伊勢の地神だったという説があるんですね。なるほど、そうだったんですか。攻《せ》め入ってきた大和朝廷《ちょうてい》軍に伊勢の豪族《ごうぞく》が降伏《こうふく》した結果、ああなったわけです。ではサル・ヒコータがジングーを倒《たお》したのは、先祖の霊《れい》に報《むく》いる勝利だったわけですね。そうとも言えますね。すばらしい。さすがは伊勢。歴史の町。六千年の後、先祖の霊を慰撫《いょ》したヒコ・サルータ、感激のあまり泣いております。見た目ではよくわからないと思いますが、きつと泣いているのでしょう。花道から落下しました。涙《なみだ》で視界が曇《くも》って見えません。みなさん、助けてあげてください。ヒコ・サルータに拍手《はくしゅ》を。さて、いよいよ注目の第二カードですね。山高プロレス愛好会のメンバーではなく、一般《いっぱん》からの飛び入り参加者によるカードになります。さて、赤コーナーは誰《だれ》でしょうか。おお、マスクマンです。これはまた懐《なつ》かしい。デストロイヤーです。しかも偉丈夫《いじょうふ》。すばらしい肉体美。こんな猛者《もさ》が我《わ》が校にいたでしょうか。柔道部《じゅうどうぶ》の山崎《やまざき》ではありませんね。違《ちが》うでしょうね。身体《からだ》が一まわりは大きい。では、いったい誰が。まさか鬼《おに》……。そ、それはないでしょう! しかしそれ以外にないような……。な、なるほど! 確かに背格好はそっくりですが! まさか本当に鬼……。わかりません、わかりませんよ。マスクマンですから。そうですね。マスクを剥《は》がれるまではわかりません。ああ、青コーナーに対戦相手が現れました。ふたり、こちらはふたりです。ハンディキャップ・マッチということでしょうか。セコンドもひとりついてますね。ああ、セコンドは山西保《やまにしたもつ》です。三年の二学期に偏差値《へんさち》三十八を記録した無敵の猛者、山西保です。ああ、場内から偏差値三十八コールが起きています。山西保、両手を上げて応《こた》えています! さすが偏差値三十八! すばらしいバカっぶり! さあ、その偏差値三十八コールの中、青コーナーにふたりが入場してきました。両方ともマスクをかぶっています。ひとりはマスカラスですよ、マサさん。ええ、あのMマークは間違いなくマスカラスですね。さすがはマスカラス、すばらしいマスクです。金にきらきら光っていますね。ところでマサさん、もうひとりの大きいほうは誰でしょうか。あまり見かけないマスクですが。スペル・ソラールじゃないですかね。なんですと! あの伝説のマスクマンですか? マスカラスを育てあげたという? ええ、そう思いますね。大変なことになってまいりました! 第二カードにして、マスクマン同士によるマスク剥ぎマッチ! ああ、セコンドの山西保がデストロイヤーに張り飛ばされました! 山西保! 試合が始まる前に伸《の》びております! 全国のみなさん、聞こえるでしょうか! この割れんばかりの偏差値三十八コールが!
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「あのさ、裕二《ゆういち》
隣《となり》で囁《ささや》く司《つかさ》の声が、やけに大きく聞こえる。
「なんでこんなことになってるのかな」
僕にだってわかるものか。とにかく、暴れたい気持ちだったんだ。なんでもいいから、大騒《おおさわ》ぎしたかった。この胸のモヤモヤを、なくしてきたものを、いや、なくそうとしているもののために、大声を張りあげたかった。
司を誘《さそ》ったのは、まあ成り行きだ。
しかし、だ。
おまえさ、と言って、僕は司を見あげた。
「いきなり誘ったのに、なんでそのマスクを持ってるんだ?」
「え?」
司がぎくりとした。わざとらしい……。
「な、なんとなくかな?」
「なんとなく?」
スペル・ソラールのマスクを、なんとなく持ち歩くものだろうか。だいたい、どうしてスペル・ソラールなのか。今も裏狙《うらねら》いということか。相変わらず司《つかさ》は趣味《しゅみ》が渋《しぶ》い。僕なんて、よくあるマスカラスだっていうのに。
相手を挑発しにいった山西《やまにし》が、あっさり張り倒《たお》されて帰ってきた。
「うう……戎崎《えざき》、世古口《せこぐち》……敵《かたき》を討《う》ってくれ……」
泣いてやがる。
僕と司は即座に言った。
「オレはマスカラスだ」
「わ、わたしはスペル・ソラールだ」
顔を腫《は》らした山西が、不審《ふしん》そうに尋《たず》ねてくる。
「おまえら、なんで嬉《うれ》しそうなんだ?」
いやいや、嬉しくなんかないぞ。
下らないことをやっているうちに選手|紹介《しょうかい》が終わっていたらしく、ゴングが鳴った。顔を上げると、デストロイヤーがこちらに突《つ》っこんでくるところだった。うわ、もう来るのか。しかし、こいつ、誰《だれ》なんだ? なんでこんなに身体《からだ》がでかいんだ? 筋肉|隆々《りゅうりゅう》じゃないか?絶対に生徒じゃない。間違《まちが》いなく大人だ。まさか、こいつは鬼《おに》──。
デストロイヤーの狙いは司だったらしく、僕はあっさり弾《はじ》き飛ばされた。
「うお!」
鎧袖一触《がいしゅういつしよく》というヤツだ。
リングに這《は》いつくばったまま、目の前で繰《く》り広げられる司と……いやスペル・ソラールとデストロイヤーの闘《たたか》いを見る。まともに手を組みあったふたりは、力比べに入っていた。両者とも筋肉が膨《ふく》れあがり、全身は赤く染まっている。最初はデストロイヤーが優勢だったものの、やがてスペル・ソラールが巻き返した。
手首を捻《ひね》りあげられ、デストロイヤーがその顔を歪《ゆが》める。マスク越《ご》しでも、そういうのはなんとなくわかるものだ。やがて、デストロイヤーはリングに膝《ひざ》をつけた。苦しそうに首を振《ふ》る。
あと少しだ! いけ、司! いや、スペル・ソラール!
だが、デストロイヤーは手を離《はな》すと、いきなりスペル・ソラールの身体にタックルをした。大木がなぎ倒されるように、スペル・ソラールが倒れる。そのあとのデストロイヤーの攻撃《こうげき》は見事だった。大きな身体でスペル・ソラールを押さえこみ、肩《かた》と腕《うで》でスペル・ソラールの首を締《し》めあげる。これは袈裟固《けさがた》め? 柔道《じゅうどう》の技《わぎ》ってことはやっぱり鬼──。
ぼんやりそんなことを考えていたら、山西が叫《さけ》んできた。
「なにしてるんだ! 戎崎……いやマスカラス! 助けろ! 仲間だろうが!」
「おおっ!」
忘れてた。ハンディキャップ・マッチだから、僕も加わっていいんだった。
「おりや!」
一瞬《いっしゅん》だけ国語の成績が頭に浮《う》かんだものの、ストンビングをデストロイヤーの背中に食らわす。二度、三度と繰《く》り返すと、強固な袈裟固《けさがた》めもさすがに緩《ゆる》み、スペル・ソラールは窮地《きゅうち》を脱《だっ》した。
「グラシアス!」
隣《となり》に来たスペル・ソラールが礼を言う。
「ヤー! アミーゴ!」
「オー! アミーゴ!」
「セニョリータ!」
「タンゴ!」
「サルーサ!」
よくわからないまま、知っている限りのスペイン語を並べて、僕たちは笑いあった。そうさ、これが仲間ってもんだ。
怒《いか》りに全身を赤く染めたデストロイヤーが、雄叫《おたけ》びをあげて突《つ》っこんでくる。ものすごい圧迫感《あっぱくかん》だった。迫力だけで悲鳴をあげそうなほどだ。どいたほうがいい、とスペル・ソラールは僕を横に寄せ、真っ正面からデストロイヤーと組みあった。むんむんした男同士の肉弾戦《にくだんせん》に、場内がわきあがる。またもや仕掛《しか》けたのはデストロイヤーのほうだった。腰《こし》を落としたかと思うと、スペル・ソラールの右腕《みぎうで》を取り、身体《からだ》を反転させる。低くなった腰に、スペル・ソラールの巨体《きょたい》は担《かつ》がれ、両足が宙に浮いた。見事な一本背負い。叩《たた》きつけられる。さすがのスペル・ソラールも立ちあがれないだろう。ああ、負ける。負けてしまうのか。
だが、さすがはルチャの始祖、輝《かがや》ける黄金の太陽、スペル・ソラールだった。身体を宙で反転させると、見事に着地し、そのままデストロイヤーに飛びかかる。それからの攻防もまた激しい。投げられても投げられても、スペル・ソラールはひらりと宙を舞《ま》い、デストロイヤーの攻撃《こうげき》をかわしつづけた。やがてデストロイヤーに疲《つか》れの色が見えはじめる。技《わざ》に最初のころほどの切れがない。ぼんやり見ている僕に、スペル・ソラールが視線を一瞬だけ送ってきた。なに? どういうことだ? コーナー・ポスト? なるほど! わかったぞ!
激しい闘《たたか》いを繰り広げるスペル・ソラールとデストロイヤーを尻目《しりめ》にしつつ、僕は近くにあるコーナー・ポストに登った。リングを取り巻く男たちが「うおおおお──っ!」と声をあげる。なにが起きているか悟《さと》っていないのは、勝負に夢中になっているデストロイヤーだけだ。
「いくぞおおおおお──っ!」
僕は叫《さけ》んだ。
それと同時に、スペル・ソラールがデストロイヤーを羽交《はが》い締《じ》めにする。そして、僕のほうにデストロイヤーを向けた。事態を悟ったデストロイヤーは必死に暴れ、羽交い締めを解こうとしたが、遅《おそ》かった。
僕は、マスカラスは、そのときすでに宙へと跳《と》んでいた。
「ソル・デ・レイ・ケブラアァァァァ──ダ!」
師匠譲《ししょうゆず》りの、太陽光線式体落としだった。
φ
いやあ、マサさん、本当にすばらしい闘《たたか》いでしたね。すばらしかったですね。ルチャの魂《たましい》を見た気がします。そうですね、特に最後のソル・デ・レイ・ケブラーダ! すばらしかったですね! いや、すばらしかったです! ああ、勝利を掴《つか》んだマスカラスとスペル・ソラールがリングの上を誇《ほこ》らしげに歩いています! 繋《つな》いだ手を高々と上げる! ふたりが泣いているように見えるのは、わたしの思い違《ちが》いでしょうか! すばらしい! アミーゴ! グラシアス! セニョール! セニョリータ! サルーサ! ああ、勝者のふたりがセコンドである山西保《やまにしたもつ》を担《かつ》ぎあげました! みなさん、聞こえるでしょうか! この偏差値《へんさち》三十八コールを! 山西保!泣いております! 嬉《うれ》しそうに、あるいは悔《くや》しそうに泣いております! ええ、なんですか、マサさん。え? マスク? ああ、そうでした。これはマスク剥《は》ぎマッチです。勝者は敗者のマスクを剥がねばなりません。デストロイヤーの正体が明かされるときがついにやってまいりました。しかし、いいんでしょうか。我々は禁断の門を開けようとしているのではないか。国語の成績がとても心配です。しかし勝負の結果は厳粛《げんしゅく》に受け止めねばなりません。ああ、マスク剥ぎコールです! マスク剥ぎコールが起こっています! みんなの国語の成績が心配だ!留年か、留年なのか! 推薦《すいせん》を狙《ねら》っている三年生はすぐにここを離《はな》れるべきかもしれません!内申書の数字はとても大事です! 平均評定四以上が必要な方はすぐに退避《たいひ》を! ああ、なんだ! 乱入です! これは男性教員隊ではないでしょうか! 体育の島村《しまむら》がいます! ラグビー部|顧問《こもん》加藤《かとう》! 物理の田島《たじま》! 英語の仁志田《にしだ》! 全員でデストロイヤーを抱《かか》え、去っていきます! このままではデストロイヤーの正体はわからないままだ! なぜ先生たちがデストロイヤーを助けようとするのでしょう! 謎《なぞ》です! わたしにはさっぱりわからない! なぜなんだっ! それでも全員、ほっとしています! 我々の内申書は救われた! ありがとうマスカラス! ありがとうスペル・ソラール! ありがとうデストロイヤー! ありがとう男性教員隊! さあ、盛りあがってまいりました!
8
控《ひか》え室に戻《もど》ると──といっても陸上部の部室だが──僕と司《つかさ》はハイタッチを交《か》わした。やったな、と互《たが》いを称《たた》えあった。
「すごかったね、裕一《ゆういち》のソル・デ・レイ・ケブラーダ」
「まあな」
えへへ、と笑ってしまう。我ながら、あれは完璧《かんぺき》だった。
「よくあんなに跳《と》べたね。怖《こわ》くなかった?」
「夢中だったからな」
頭の中を、一瞬《いっしゅん》、笑いながら通り過ぎていく美沙子《みさこ》さんの顔が浮《う》かんだのだ。それを振《ふ》り払いたくて、どこかにやりたくて、僕はコーナー・ポストを蹴《け》ったのだった。完全に振り払えたわけじゃないけれど、それでも心は少しだけ楽になっていた。こうして、だんだんと薄《うす》れていくのだろう。
それでいい。たぶん、そうするしかない。
「おまえこそ、すごかったよな!」
だから、僕はさらに大きな声を出した。笑った。
「あのデストロイヤーと互角《ごかく》以上だったもんな!」
「強かったよ、あの人」
「ああ、強かった。すごかった」
ところでさ、と山西《やまにし》が青い顔で話しかけてきた。
「あのデストロイヤーつてやっぱり鬼《おに》……」
最後のほうは声が小さくなったので、なんて言ったのかわからなかった。いや、わからなかったことにした。僕と司《つかさ》は腹の底にひりひりしたものを感じながら、しばらく視線をさまよわせた。国語の成績、大丈夫《だいじょうぶ》かな?
「まあ! とにかく! オレたちは勝った!」
「そ、そうだね!」
「勝つのはいいことだ! 国語の成績なんか知ったことか!」
「戎崎《えざき》、国語の成績って……やっぱり鬼……」
「勝った! 勝ったぞ!」
「そ、そうだね!」
やけくそで笑っていたら、いきなりドアが開き、誰《だれ》かと思えばみゆきだった。吊《つ》りあがった目で歩いてくると、みゆきは近くにあったシャツを投げつけてきた。
「これ、早く着て!」
「な、なんだよ?」
「保健室に行くから!」
「え、保健室って?」
尋《たず》ねたが、みゆきは答えない。真剣《しんけん》な顔をして、僕を見つめるばかり。急に胃が縮こまり、僕は慌《あわ》ててシャツを着た。
「行こう、みゆき」
「あれ、裕一《ゆういち》、来たんだ」
保健室のベッドに、里香《りか》は横たわっていた。布団《ふとん》を顔のあたりまで引っ張りあげるその姿は、病院にいるあいだ、何度も何度も見たのと同じだった。僕は突然《とつぜん》、学校の保健室が病院に思えてきた。まだ里香は退院してなくて、僕も同じように病院にいて、亜希子《あきこ》さんは怒鳴《どな》り散らし、夏目《なつめ》は意地悪で、多田《ただ》さんは看護婦さんのお尻《しり》を触《さわ》ってばかりで──。
違《ちが》う。
ここは病院じゃない。
僕と里香が通う学校の保健室だ。
「大丈夫《だいじょうぶ》なのか?」
ベッドのそばの丸椅子《まるいす》に、僕は腰《こし》かけた。
うん、と里香が肯《うなず》く。
「ちょっと疲《つか》れたから、休んでるだけ」
「だったらいいけど」
「演技の練習って、意外と疲れるね」
「演技?」
里香の病気は完全に治ったわけじゃない。いつ再発するかわからないし、日々の生活は制約だらけだ。体育の授業に参加するなんて絶対に無理だし、走ることさえできない。しかも、ちょっと無理をすると体がきついのか、こうして保健室のベッドにお世話になる。
「劇にね、出ることになったの」
「なんでおまえが?」
「主役の子がいなくなっちゃったんだって。ほとんど立ってるだけでいいから、出てくれって頼《たの》まれちゃって」
「こんな状態なのに、大丈夫なのかよ?」
「たいしたことないの。このあと劇に出るから、休んでるって感じ」
やめておけ、と本当は言いたかった。できることなら、そんな無理はさせたくない。だけど、里香が僕の言うことなんて聞くわけがなかった。一度決めたら、里香は誰《だれ》の意見も聞かない。天上天下唯我独尊《てんじょうてんげゆいがどくそん》のわがまま女なのだ。僕にできるのは、こうして付き添《そ》うことだけ。あとは、せいぜい心配すること。
「無理すんなよ」
「わかってる」
「本当にわかってるか?」
低い声で言うと、里香は少し拗《す》ねた顔になった。
「わかってるよ」
気を利《き》かしたのか、みゆきの姿はいつの間にか消えていた。保健室の中にいるのは、僕と里香《りか》だけだ。窓から差しこむ秋の日差しが、床《ゆか》の上でゆらゆら揺《ゆ》れていた。少し開いた窓から風が入って、カーテンを揺らしているせいだ。僕も里香もなにも喋《しゃべ》らず、揺れる光とカーテンを見ていた。。
裕一《ゆういち》、と里香が呟《つぶや》く。
「ん、なんだよ」
里香は僕を見ていた。どうして名前を呼んだんだろう。よくわからなかったけれど、僕は立ちあがり、彼女の顔を覗《のぞ》きこんだ。おでこに手を置き、前髪《まえがみ》を上げる。里香のおでこは、なかなか可愛《かわい》い。
ここでキスをしたら、里香は怒《おこ》るだろうか。
わからないけど、かまうものか。
トントン──
もう少しだったのだ。あとほんの少しで唇《くちびる》が触《ふ》れようかという瞬間《しゅんかん》、誰《だれ》かがドアをノックした。僕は慌《あわ》てて体を起こし、里香は布団《ふとん》に顔を埋《うず》めた。里香がどんな顔をしているのか知りたかったけれど、そんなことを確認《かくにん》してる余裕《よゆう》はなかった。
「どうぞ」
返事をすると、みゆきがドアを開けた。
「裕ちゃんのクラスの子が、店番してほしいって言いにきたんだけど」
「店番?」
ああ、そうか。すっかり忘れてたけど、クラスでやっている喫茶店《きっさてん》の店番がまわってくるころだ。ちぇっ、そんなつまんないことで邪魔《じゃま》されるなんて最悪だ。
わかった、と僕は肯《うなず》いた。
「すぐ行くって言っておいてくれ」
ドアが閉じられ、また僕と里香のふたりきりになる。けれど、そんな大切な瞬間《しゅんかん》は、もう終わりだ。店番に行かなきゃいけない。
「劇、何時からだ?」
「四時だよ」
「観《み》にいくよ。場所は?」
「体育館」
四時、体育館。絶対に忘れないようにしよう。店番が終わってからなら、ちょうど開演に間に合うだろう。
「じゃあ、あとでな」
保健室を出ようとしたが、里香《りか》はやたらと心細そうな目をしている。まだそばにいてほしいんだろうか。さんざん迷った末、僕はふたたび丸椅子《まるいす》に腰《こし》かけた。
「行かないの、裕一《ゆういち》」
「もうちょっといるよ」
「時間、大丈夫《だいじょうぶ》?」
「ダメだけど、まあ大丈夫」
僕はすごくいい加減なことを言った。ほんとはもう全然ダメだった。完全に遅刻《ちこく》だ。担任に怒《おこ》られるかもしれない。だけど、それがなんだっていうんだ。
「あのさ、里香」
「なに」
「そばにいてほしいときは、『もうちょっとそばにいて』って言えよ。おまえの言うことだったら、たいていのことは聞いてやるからさ」
里香は黙《だま》ったままだ。
「わかったか?」
やっぱり里香は答えない。ただ、じっと僕の顔を見ているだけだ。不思議な表情だった。泣きそうにも、怒りだしそうにも、笑いだしそうにも見える。参ったな。そのどれかによって、こっちだって対応が変わってくるんだぞ。しかたなく、僕も黙っていた。
ゆっくりと時間が流れ、五分くらいたったところで、ようやく僕は立ちあがった。マジでそろそろ行かないといけない。
「じゃあ、オレ、行くから」
「ダメ」
「え?」
「もうちょっとそばにいろ」
いきなり実行された。しかもお願いじゃなくて命令だった。なんだか、これは僕が望んでいたこととは、ちょっとばかり違《ちが》う気がする……。
「あのさ、里香」
「なによ」
「そばにいて、じゃないのか」
やんわり訂正《ていせい》してみる。
しかし、そんな手法が里香に通じるわけがないのだった。
「そこ、座っていいわよ」
「いいわよって」
「座らないの? じゃあ立ってる?」
「しかたない。ちょっとだけだぞ」
精一杯《せいいつぱい》の威厳《いげん》と抵抗《ていこう》を示すため、そんなことを言って、僕はまた丸椅子《まるいす》に座った。まあ、いいか。担任に怒鳴《どな》られるくらい、たいしたことじゃないさ。
9
学校に着いたのは、四時少し前だった。開演が近い。学校近くの有料|駐車場《ちゅうしやじょう》に車を停《と》め、三人で校内に入った。外からお祭り騒《さわ》ぎの中に入ると、なかなかその空気に馴染《なじ》めず、どうにも浮《う》きあがったような気分になる。祭りというのは、乗ってしまったほうが楽なのだ。第三者を気取って傍観者《ぼうかんしゃ》でいても、ただ寂《さび》しいだけだ。
「なかなか賑《にぎ》やかだな」
すっかり目が覚めたらしい夏目《なつめ》は、きょろきょろと校内を見まわしている。
「久保田《くぼた》の母校なんだよな」
「はい、そうです」
「わりといい学校じゃないか」
「そんなことないですけど、歴史が古いんで独特のノリがありますね」
「ああ、わかるよ、そういうの」
並んで歩く夏目と明美《あけみ》の会話を聞きながら、谷崎《たにざき》希子《あきこ》は少し先を歩いていた。これでもちょっとは気を遣《つか》っているつもりなのだ。
そのうち、夏目はアメリカに行ってしまう。まだ本人は決めてないと言い張っているが、たぶん行くだろう。行ったほうがいいと亜希子も思っている。夏目はこんな田舎町《いなかまち》に埋《う》もれるべき男ではないのだ。行けるところまで行ったほうがいい。
だからさ、明美、たくさん話しておきな。
そんなちっぽけなことだって、思い出になるだろ。
「おい、谷崎、なんでそんな先に行くんだよ」
「先輩《せんぱい》、こっちです」
「ああ、ごめんごめん」
慌《あわ》てて戻《もど》る。夏目が怪訝《けげん》そうに見てきた。ちぇっ、意外に鋭《するど》いな。明美とふたりきりにしてることに気づいたのかもしれない。
先に行こうと思ったが、明美に引き留められた。
「谷崎さん、学校って好きですか」
「いや、嫌《きら》いだね」
「はっきりしてますね」
くすくす笑う。学校に来てから、明美は少し雰囲気《ふんいき》が明るくなった。懐《なつ》かしさに、心が浮き立っているという感じ。
「あんたは好きだったの?」
「好きでした」
「オレも好きだったな」
夏目《なつめ》が会話に入ってくる。
「なにしろ成績|優秀《ゆうしゆう》だったからな」
「ああ、そうですか。どうせあたしは赤点ばかりのバカでしたよ」
「赤点か。オレ、一度も取ったことないな。久保田《くぼた》もないだろ?」
「はい……」
「普通《ふつう》はそうだよな。赤点なんか取らねえよな」
むむう、むかつく。なんだこの男は。さっきの復讐《ふくしゅう》か、復讐なのか。蹴倒《けたお》したい欲求に駆《か》られたが、ここで乱闘《らんとう》もみっともない。
大人らしく、ぐっと我慢《がまん》しておく。
「明美《あけみ》、なんで笑ってるのさ」
「先輩《せんぱい》と夏目先生って仲いいですよね」
「はあ?」
「なんだと?」
意外な言葉に、ふたりそろって声をあげてしまった。
「だって、そう見えますよ」
「あんた、目が悪いだろ」
「一度検査したほうがいいな。今度オレが視力検査をしてやる」
「眼鏡《めがね》を作ったほうがいいね」
「ああ、眼鏡が必要だ」
おかしいな、と明美がからかうように呟《つぶや》く。
「わたし、ずっと視力は二・〇ですよ」
下らないことを言っているうちに、体育館が見えてきた。
φ
結局、真美《まみ》は戻《もど》ってこなかった。すばらしい。実にすばらしい。今ごろ、例の彼氏と仲良くやっているのか、あるいは喧嘩《けんか》しているのか。とにかく、今ここにいなければ、代役を使うしかない。
鍛帳《どんちょう》が下りたままの舞台《ぶたい》に、柿崎《かきざき》奈々《なな》は立っていた。すでにお城や樹木の書き割りは設置し終わり、あとは開演を待つばかり。腕時計《うでどけい》を見ると、三時五十五分だった。あと五分で幕が開く。高校生活最後の舞台《ぶたい》。波乱|含《ぶく》みで進んできたが、あとはなるようになれだ。
「どうしたの、奈々《なな》」
千佳《ちか》がやってきた。大臣の衣装《いしょう》に身を包み、白髪《はくはつ》のカツラもかぶっている。なかなか立派な大臣姿だ。
ん、と言って、奈々は舞台を見まわした。
「いよいよ最後だなって」
「引退だもんね」
「おもしろかったわ、舞台は。面倒《めんどう》なこともあったけど」
「そうね」
「先輩《せんぱい》、観《み》にきてくれるかな」
「先輩って?」
「久保田《くぼた》さんに声をかけたの。ほら、夏休みに指導しにきてくれたOGの人。すっごく熱心だったよね。いろんなこと教えてくれたし。だから観てほしくって」
「ああ、来てくれるといいねね」
衣装を着た仲間たちが、舞台の上を歩きまわっている。少しでも雰囲気《ふんいき》に慣れようとしているのだろう。開演前の、この瞬間《しゅんかん》が、奈々は好きだった。
心が騒《さわ》ぐ。不安と、期待が、それぞれに疾《はし》る。
「久保田さん、看護婦なんだよ」
「知ってる」
「あたしたちもさ、そうやって社会人になっていくんだろうね。大学行くにしても、いつかは卒業するし」
「なに当たり前のこと言ってるのよ」
千佳は呆《あき》れたように笑った。
同じように笑っておく。ちょっとセンチメンタルになってるのかもしれない。
「いい舞台にしようね、千佳」
「もちろん」
やがて二年生の部員がやってきた。
「秋庭《あきば》さんの着付け、終わりました」
「そう、ここに呼んで」
現れた秋庭里香《りか》を見た瞬間《しゅんかん》、舞台にいた誰《だれ》もが息を呑《の》んだ。小さな声で発声練習をしていたものも、言葉を失った。
まるで光を浴びているかのようだ。
薄暗《うすぐら》い舞台なのに、秋庭里香が立っているその場だけは、なぜか明るく見える。
「すごい……」
千佳《ちか》の口から、そんな言葉が漏《も》れた。
秋庭《あきば》里香《りか》は静かにこちらに歩いてくる。誰《だれ》もが彼女の姿を目で追ってしまっている。姫《ひめ》の衣装《いしょう》を着たのは今日が初めてなのに、とても似合っていた。まるで本物の姫のようだ。歩き方も、雰囲気《ふんいき》も、完璧《かんぺき》。
やがて目の前にやってきた秋庭里香は、膝《ひざ》を折り曲げ、ドレスの裾《すそ》をつまみ、上品に挨拶《あいさつ》をした。
「よろしく」
気品に満ちている。
その姿を見た瞬間《しゅんかん》、柿崎《かきざき》奈々《なな》は成功を確信した。
φ
「戎崎《えざき》さん! 焼きそばとサンドイッチを五番テーブルに持っていってください! それからコーラを七番テーブルに!」
「待て! そんなに持てねえよ!」
大忙《おおいそが》しだった。僕は両手に皿やら瓶《びん》を持ち、店内──教室だが──を走りまわっている。どういうわけか、さっきから客が途絶《とだ》えないのだった。仕入れを間違《まちが》えたとかで、規定時間を過ぎても営業を続けていたところ、他《ほか》から客がなだれこんできたのだった。
五番テーブルに焼きそばとサンドイッチを置き、七番テーブルにコーラを持っていく。
「今、何時だ!」
「三時五十八分です!」
「マジかよ!」
里香の出る舞台が始まってしまう。僕はエプロンをはずして教室を抜けだそうとしたけれど、すぐさま担任に見つかった。
「こら、戎崎! 遅《おく》れてきたんだから最後まで働け!」
「用事があるんですよ!」
「年上のくせにわがままはいかんぞ、戎崎! おまえこそが率先《そっせん》してクラスを引っ張るべきだろう!」
「勘弁《かんべん》してください!」
喚《わめ》いたものの、ふたたびエプロンを押しつけられた。くそ、こうなったら、とっとと客をさばいて営業を終わらせなければ。あと何人だ? 何人食い終われば、閉店できるんだ?
「戎崎さん! 伊勢《いせ》うどんできました!」
「どこだ?」
「三番テーブルです!」
丼《どんぶり》を手に、三番テーブルに走る。せっかくの里香《りか》の舞台《ぶたい》、そうさ、晴れ舞台なんだ。絶対に見逃《みのが》すわけにはいかない。
φ
当然のことではあるが、客席は半分も埋《う》まっていなかった。演劇部の出し物を観《み》にくる物好きなど、この程度だ。それだって大半は出演する生徒の友達か家族であって、純粋《じゅんすい》な観客はせいぜい十人くらいだろう。観劇なんてガラじゃないねと思っていた亜希子《あきこ》は一番後ろで観るつもりだったのだが、明美《あけみ》はなんのためらいもなく中央の客席まで進み、そこに腰《こし》を下ろした。おとなしい彼女には珍《めずら》しく、周囲を気にするふうもない。それだけ夢中になっているということだろうか。夏目《なつめ》と顔を見あわせた末、明美につきあうことにした。
「よけいなことしやがって」
夏目が頭を小突《こづ》いてくる。
「なにさ、よけいなことつて」
「てめえが一番わかってるだろうが」
「明美のこと?」
むう、と夏目が唸《うな》る。
「オレは久保田《くぼた》とつきあうつもりなんかねえからな。誰《だれ》とだってつきあわねえぞ」
「わかってるさ」
「じゃあ、なんで──」
「明美だってわかってるよ。あんたが振《ふ》り向かないことくらい。それでも、ちょっとはドキドキしたいじやないか。思い出でいいんだよ。遠くで見つめるだけでも幸せってことがあったりするもんだろ」
夏目は頭をばりばりと掻《か》いた。髪《かみ》がさらに乱れる。せっかくの男前が台無しだ。
「よくわかんねえな」
「女心ってことにしときな。わからなくて当然だし」
「そういうもんかよ」
「まあ、あんたは普通《ふつう》にしてればいいんだって。呑気《のんき》にいつも通りの嫌《いや》なヤツでいればOK。あんたが優《やさ》しいと気持ち悪いからね」
「なんかむかつくな、おまえ」
それでも本当にむかついた声を出していないのは、夏目なりに戸惑《とまど》っているということか。女心だものねえ。男なんかにわかられてたまるかっての。
三人並んで座り、舞台を眺《なが》める。
「始まりますよ」
そう言う明美《あけみ》の顔は輝《かがや》いていた。
やがて緞帳《どんちょう》が上がり、まばゆい光に照らされた舞台《ぶたい》が現れた。書き割りのお城に、森に、橋。その中央に、赤いドレスを着た少女が立っていた。
あれ、と夏目《なつめ》が声をあげた。
「里香《りか》じゃないか」
「うん」
肯《うなず》いてしまう。確かに、そこに立っているのは里香だった。
φ
結局、店番は途中《とちゅう》でやめた。逃《に》げだした。担任教師の目を盗《ぬす》み、まだ混《こ》みあっている店内から飛びだしたのだ。途中で気づいた教師が、「こら、戎崎《えざき》! 再留年させるぞ!」と叫《さけ》ぶ声が聞こえたが、もちろん立ち止まらなかった。知ったことか、そんなの。再留年なんて平気なんだよ。そもそも、そのつもりだし。全然困らないね。
──などと思いつつ、廊下《ろうか》を駆《か》け、階段を二段飛ばしで下り、渡《わた》り廊下を突《つ》っ切って、ようやく体育館にたどり着いた。腕時計《うでどけい》を確認《かくにん》すると、もう四時半を過ぎていた。どれくらいの長さの劇なのかわからないけど、半分くらい過ぎてしまったのかもしれない。重い扉《とびら》を開けるといきなり里香の姿が目に入ってきた。
見とれた。
光に包まれた舞台に立つ里香は、やけにまばゆかった。ただそこに立っているだけで、なにもかもが輝いていた。長い髪《かみ》は、毛先を可愛《かわい》らしく巻いてある。里香が体を動かすたびに、そのくるくるの髪が軽やかに揺《ゆ》れる。
舞台に立つ里香は、まるで遠い世界に住む本当のお姫様《ひめさま》みたいだった。どんなに手を伸《の》ばしても届かない高嶺《たかね》の花。自分はきっと平民で、お姫様の姿をこうして覗《のぞ》き見るだけでも罰《ばつ》せられるのかもしれない。
いや、違《ちが》う。
そうじゃない。
あの子は僕のものなんだ。
保健室での光景が、頭に蘇《よみがえ》ってきた。あと少しで口づけを交《か》わすことができた。心はもう、交わしている。
なによりも大切な、世界で一番の宝物。
ふらふら舞台に向かって歩いていたら、いきなり誰《だれ》かに腕を掴《つか》まれた。誰かと思えば、亜希《あき》子《こ》さんだ。
びっくりした。
「なんでこんなところにいるんですか?」
慌《あわ》てて尋《たず》ねる。
亜希子《あきこ》さんは大げさに肩《かた》をすくめた。
「さあ、あたしもわかんないよ」
「戎崎《えざき》、相変わらずマヌケな顔をしてるな」
こんなことを笑い声で言うヤツは、この世にひとりしかいない。僕はそいつを細い目で見つめた。
「髪《かみ》、ボサボサですよ」
「ああ、そうか」
「なんか起きたばっかりって格好ですね」
「実際にそうだがな」
「髪くらいとかしたほうがいいっすよ」
「大丈夫《だいじょうぶ》だ。これくらいボサボサでも、おまえよりは男前だからな」
むむう、そのとおりなのが悔《くや》しい。
ところで、と夏目《なつめ》が言った。
「おまえ、知ってるのか?」
「は、なにをですか?」
「この劇、最後にキスシーンがあるらしいぞ」
「ほ、ほんとですか?」
尋ねたら、夏目の隣《となり》に座っているおとなしい女の人が、
「ありますよ」
と言ってきた。
「最後の最後ですけど。あの──」
「どうすんだ」
夏目はニヤニヤ笑っている。
「他《ほか》の男とキスするのを、ここで見ているのか」
「…………」
「まあ、しょうがねえよな。おまえは出演者じゃないし」
「…………」
「情熱的なキスらしいぞ。熱い口づけってヤツだな。こういう劇だと、リアルさを出すために、本当にキスするんだとさ」
「…………」
「ほら、戎崎、ここに座れ。いっしょに里香《りか》のキスシーンを見ようじゃないか」
夏目はずっとニヤニヤ笑っている。相変わらず、嫌《いや》なヤツだ。悩《なや》んだのは、たぶん一秒か二秒だった。僕は夏目《なつめ》の腕《うで》を取ると、強引に席から連れだした。なにすんだこのガキと喚《わめ》く夏目を引っ張り、舞台袖《ぶたいそで》のほうへ向かう。
「夏目……先生」
「なんだ、このクソガキ。おい、痛いから離《はな》せよ。離せって」
「頼《たの》みがあるんですけど」
「なんだよ」
「いちおう医者ですよね? ドクター・ストップ、かけられますよね?」
φ
「キスっていっても、振《ふ》りだけですよ」
残された席で、久保田《くぼた》明美《あけみ》は言った。そのことを少年に告げようと思ったら、なぜか谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》にとめられたのだった。
谷崎亜希子は意地悪な顔をしていた。
やけに楽しそうな顔でもあった。
「まあ、見てなって」
「なにをですか」
「夏目も同じこと企《たくら》んでたみたいだし」
「夏目先生も?」
谷崎亜希子はまた笑った。今度はもっと楽しそうだった。
「いい舞台になるんじゃない?」
φ
二年一組の田村《たむら》博好《ひろよし》は緊張《きんちょう》していた。ついにこの瞬間《しゅんかん》がやってきたのだ。準主役をやるのは初めてで、それだけでも緊張するというのに、なんとあの秋庭《あきば》里香《りか》とのキスシーンまであるという。
龍《りゆう》との闘《たたか》いも、魔法使《まほうつか》いとの騙《だま》しあいも、どうにかこなしてきた。あとは最終シーンのみである。
緊張するが、嬉《うれ》しくもある。
「秋庭さんとキスか……」
つい呟《つぶや》いてしまう。
振りだけとはいえ、彼女と抱《だ》きあい、腕《うで》を絡《から》め、顔を近づけるのは確かだ。それだけでも心が高鳴る。彼女が入学してきて以来、ずっとその姿を眺《なが》めてきた。戎崎《えざき》とかいう彼氏がいるのは知っているけれど、見て楽しむくらいは許されるはずだ。
最後の衣装《いしょう》に着替《きが》えようとしていたところ、着替え用の棚《たな》で区切られている空間に、大人の男が入ってきた。なぜか白衣を着ている。
ごほん、と男はわざとらしく咳払《せきばら》いをする。
「なんですか」
来賓《らいひん》だろうか。口うるさいOBだろうか。OBだとしたら、それなりに丁重に扱《あつか》わなくてはならない。
そう思っていたら、
「ああ、いかん!」
と男が声をあげた。
「な、なんですか」
「君、顔に湿疹《しっしん》ができているじゃないか。その赤い湿疹はファリオ・フェルド・ナコス病の徴候《ちょうこう》かもしれんぞ」
「え、湿疹? 本当ですか?」
「ああ、ひどいな。これはひどい。オレは医者でね。市立|若葉《わかば》病院って知ってるだろう」
「はい、あの、風邪《かぜ》で診《み》てもらったことがありますけど」
「もしかしたら、オレが診察《しんさつ》したかもしれんな。どれ、その発疹を診させてくれ。検査したほうがいいかもしれないな。伝染性《でんせんせい》の可能性がある」
田村《たむら》博好《ひろよし》は嘘《うそ》だろうと思ったが、近づいてきた男の白衣から消毒液の匂《にお》いが漂《ただよ》うことに気づき、さすがに不安を抱《いだ》いた。
「で、伝染性ですか?」
「人との接触《せっしょく》は避《さ》けたほうがいいな」
「でも、舞台《ぶたい》が──」
「それは大丈夫《だいじょうぶ》だ。代役がいるからな」
「代役?」
φ
世古口司《せこぐちつかさ》と水谷《みずたに》みゆきは、端《はし》のほうの席で舞台を眺《なが》めていた。なかなかおもしろい劇だ。さすがに素人《しろうと》の演技ではあるものの、それでもメリハリがあり、なにより里香《りか》の存在に観客が引きつけられている。
舞台上の里香はほとんど喋《しゃべ》らない。途中《とちゅう》の回想シーンでほんの少し台詞《せりふ》を口にしただけで、あとはただ黙《だま》りこくって立っているだけ。
それでも、悲しいシーンの里香は、ちゃんと悲しそうに見える。
空を見あげる横顔には、寂《さび》しさが漂《ただよ》う。
言葉はなくとも、里香《りか》の、いや姫《ひめ》の心情が痛いほど伝わってくる。
「すごいね」
世古口司《せこぐちつかさ》が呟《つぶや》いた。
「里香ちゃんって、演技がうまいね」
「そりゃうまいわよ」
呆れたように言ったのは、水谷《みずたに》みゆきである。
「え、どういうこと?」
「里香って、ずっと演技してきたようなもんだもの。病院は大人ばかりでしょう。だから長く入院してる子供は、仕草や言葉で大人を使うことを覚えるんだって。それって演技みたいなものだから。入院してるあいだ、里香はずっと演技してたようなものなの」
「里香ちゃんがそう言ってたの?」
「うん、泣いた振《ふ》りなんて楽勝だって。それで痛い検査を逃《に》げられるなら、いくらでも泣けるって言ってた」
しばらく考えてから、世古口司は尋《たず》ねた。
「もしかして、里香ちゃんって、すごく性格悪い?」
水谷みゆきは呆れた。
「世古口君、今ごろ気づいたの?」
φ
「仕込み終了」
そう言って、夏目《なつめ》吾郎《ごろう》は戻《もど》ってきた。
ニヤニヤ笑っている。
谷崎《たにざき》希子《あきこ》も同じように笑いながら尋《たず》ねた。
「うまくいった?」
「ばっちり」
「あんた、ワルだねえ。見事だねえ」
「おまえこそ」
そうしてふたりで笑っていたら、不思議そうに久保田《くぼた》明美《あけみ》が尋ねた。
「どういうことですか? 仕込みって?」
夏目吾郎と谷崎亜希子が顔を見あわせる。どちらが話すか押しつけあった末、谷崎亜希子が答えることになった。
「まあ、すぐにわかるよ」
φ
すばらしい舞台《ぶたい》だった。端役《はやく》から照明係に至るまで、今日はテンションが違《ちが》う。ノリにノッている。舞台というのは不思議なもので、しっかり練習したからうまくいくわけではない。どれほど練習を重ねようと、台本があろうと、演技自体は即興《そっきょう》であって、参加するすべての人間の意識が舞台の善《よ》し悪《あ》しを決する。
秋庭《あきば》里香《りか》がそこにいるということ、彼女の悲しみ、痛み、そういったものが舞台に立つ役者の心を掻《か》き立てていた。
誰《だれ》もがいつもより大きな声を出している。
身振《みぶ》りも大きい。
しかも、そのすべてが決して大げさではなく、真剣《しんけん》な訴《うった》えとなっている。
観客にもそういう雰囲気《ふんいき》は伝わるもので、席を立つものはひとりもいなかった。それどころか、なんとなく覗《のぞ》きにきた生徒たちは、ひとたび舞台を観《み》た途端《とたん》、その腰《こし》を座席に落ち着け、食い入るような視線を壇上《だんじょう》に向けた。
文化祭の劇なんて普通《ふつう》ならガラガラなのに、今や席はほとんど埋《う》まっている。
「奈々《なな》、タオルちょうだい」
出番を終えた千佳《ちか》が、舞台袖《ぶたいそで》に引っこんできた。
持っていたタオルを渡《わた》す。
「はい」
「ありがと」
額に溢《あふ》れる汗を、千佳は押さえるようにして拭《ふ》いた。舞台用のメイクをしているので、落ちないように気をつけているのだ。ふう、と熱い息が彼女の口から漏《も》れた。
「いよいよクライマックスね」
「うん」
「いい舞台になりそうじゃない?」
「ほんとにね。最高よ」
ふたりとも興奮《こうふん》していた。時にはひどい舞台にうんざりすることもあるけれど、こういう瞬《しゅん》間《かん》があるから、これまで辞《や》めずにやってきたのだ。
「千佳、そろそろ着替《きが》えたほうがいいよ」
「あ、そうね」
「タキシードも、きっと似合うわよ」
わざとらしく両手を広げ、おどけた素振《そぶ》りをしつつ、千佳は去っていった。今ごろ、着替え用の場所はごった返しているだろう。
なにしろ、最終シーンだ。
10
「いいか、戎崎《えざき》。ためらうなよ。思いっきりいけ、思いっきり」
夏目《なつめ》はそう念押ししていった。
薄暗《うすぐら》い闇《やみ》の中を、僕は歩いていく。照明が落とされているせいで、なにがなんだかわからない。それにしても、なんでタキシードなんだろう。舞踏会《ぶとうかい》という設定だろうか。夏目がなにも教えてくれなかったものだから、わけがわからない。
「出たらわかるさ」
そんなことを夏目は言っていたけど、本当だろうか。
やがて、かすかに人影《ひとかげ》が見えた。丸めた台本を手にしている。ということは、演出をしている人間に違《ちが》いない。
暗いので顔までは見えなかった。
「いよ年よクライマックスは。ばっちり締《し》めていきましょう」
入れ替わっていることを悟られるわけにはいかないので、黙《だま》ったまま肯《うなず》いておく。
「始まるわよ。あと五秒。照明がついたら、すぐに出ること」
また肯く。
「よし、ついたわ! 行って!」
光の中に踏《ふ》みだした。あまりのまばゆさに、なにも見えない。思ったよりも舞台《ぶたい》の上は熱く、目を瞬《またた》かせているうちに、首筋に汗《あせ》が滲《にじ》んできた。くそ、ライトをもろに見てしまった。ああ、見えない、見えないぞ。いったいどうなってるんだ。
φ
え、裕《ゆう》ちゃん、と水谷《みずたに》みゆきが驚《おどろ》いた声をあげた。裕一《ゆういち》、と世古口司《せこぐちつかさ》も叫《さけ》んだ。谷崎《たにざき》希子《あきこ》と夏目吾郎《ごろう》はニヤニヤ笑っていた。事情を知らない久保田《くぼた》明美《あけみ》は、さっき見かけた少年が舞台に現れたことに驚いた。王子役は彼じゃなかったはずだ。いったいどういうことなのだろう。これから始まるのは、結婚式《けっこんしき》なのに。
φ
柿崎《かきざき》奈々《なな》を初めとして、演劇部の誰《だれ》もが言葉を失った。王子の衣装《いしょう》を着た戎崎裕一が、いきなり最後の結婚式に現れたのだ。なにしてるの──叫びそうになったが、柿崎奈々は堪《こら》えた。ここで声を張りあげたら、せっかくの舞台《ぶたい》が台無しになってしまう。うまくいくことを祈《いの》るしかない。うまくいく? なにが?
φ
僕は何度か瞬《まばた》きをした。そうして目が慣れて当ると、ようやく舞台上がはっきり見えるようになった。いつの間にか書き割りはすべて置き換《か》えられ、そこはどうやらお城の大広間のようだった。ほとんどすべての役者が集まっており、男はタキシードを、女は美しいドレスを身につけている。彼らは一様に、目を見開いていた。突然《とつぜん》現れた僕のことを訝《いぶか》っているらしい。まあ、そりゃそうか。にしても、なんで大広間なんだよ。夏目《なつめ》のバカは、出たちわかるっていってたけど、全然わかんねえよ。ライバルと決闘《けっとう》でもするのかな。それとも魔法使《まほうつか》いをやっつけるのだろうか。
だが、わかった。
突然、音楽が流れだしたのだ。それは要するに、結婚《けっこん》行進曲ってヤツだった。例の派手な音楽とともに、大広間の中央にあるドアが開き、そこに照明が集中した。すべての光を浴びて、里香《りか》が現れた。真っ白なドレスを着ている。ベールをかぶっている。ドレスの裾《すそ》は床《ゆか》に垂れるほど長く、その裾をふたりの従者が持っている。そして里香の手には、バラで作られたブーケ。とんでもなくきれいだった。まるで花嫁《はなよめ》みたいじゃないか。
「え──?」
ようやく気づいた。白いドレス、ベール、ブーケ、花嫁以外のなにものでもない。そこにいる誰《だれ》もがタキシードやドレス姿である意味を悟《さと》った。つまりこれは結婚式だ。里香は花嫁。ということは、どこかに花婿《はなむこ》がいるはず。
みんなの視線が僕に集まっている。
母親がいつだったか喋《しゃべ》っていたことを思いだした。従兄弟《いとこ》の結婚式に招待されたとき、なにを着ていくか悩《なや》んでいて、僕がその白い和服でいいんじゃないかと言ったら、母親は呆《あき》れつつ教えてくれたのだ。結婚式で白い服を着るのは新郎新婦《しんろうしんぷ》だけだと。
僕は純白のタキシード姿だった。他《ほか》に白い服を着ているものはいない。要するに、つまり、それは、まあ、そういうことなのだろう。
唖然《あぜん》としつつ客席に目をやると、夏目と亜希子《あきこ》さんが腹を抱《かか》えて笑っていた。
騙《だま》された……。
夏目には、たいしたシーンじゃないと言われていたのだ。ただ出ていって、それっぽく振《ふ》る舞《ま》えばいいと。
ああ、ちょっとだけ匂《にお》わせてたっけ。
「いいか、戎崎《えざき》。必要なのは魔法の言葉だ」
わけわかんねえよ。なんだよ、魔法《まほう》の言葉って。そんなふうに戸惑《とまど》いつつ、僕はここまでやってきたのだ。
しかし、今はわかった。わかりたくなくても、わかった。
逃《に》げだしたくなったものの、いきなり里香《りか》と目があった。純白のドレスを身につけた里香は、僕を見ると驚《おどろ》いたように目を見開き、それから笑った。そうさ、嬉《うれ》しそうに笑ったんだ。
僕はふらふらと前に出ていた。
里香に引き寄せられていた。
どうしてあんなふうに身体《からだ》が動いたのか、あとになっても僕にはよくわからなかった。きっと決められていたんだろう。そうさ。なにもかも決まっていたんだ。
僕が前に進み出た途端《とたん》、舞台《ぶたい》にいた全員が拍手《はくしゅ》を始めた。戸惑っているふうだが、劇はいちおう進行しているらしい。里香も歩み寄ってきて、舞台の中央で僕たちは見つめあった。拍手は鳴りやまない。舞台は光で満ちている。
ベール越《ご》しに見える里香の瞳《ひとみ》は、少し潤《うる》んでいるような気がした。
里香は本当に本当にきれいだった。
この世界のどんなものよりも美しかった。
やがて拍手が鳴りやみ、静けさが訪れた。みんなの視線が、僕と里香に集中している。僕たちの順番というわけだ。
里香が手を差しだしてくる。
もちろん取った。
僕はそして、心からわきあがってきた言葉を口にした。
「結婚《けっこん》してください」
そうさ、魔法の言葉を唱えた。
里香は顔を伏《ふ》せると、しばらくじっとしていた。僕からは里香のベールしか見えない。いったい里香はどんな顔をしているんだろう。
やがて顔を上げた里香は、嬉しそうに笑っていた。
「はい」
里香は言った。
「はい」
二度も言った。
その途端《とたん》、周りにいた大臣やら召使《めしつか》いやらが、驚いた声をあげた。
「姫《ひめ》が声を取り戻《もど》したぞ」
「喋《しゃべ》られた」
「姫の声が戻りましたぞ」
どうにも設定がよくわからなかったけれど、別にかまわなかった。僕に手を預け、微笑《ほほえ》んでいる里香《りか》がすべてだった。
φ
柿崎《かきざき》奈々《なな》はその場にへたりこんでいた。王子役が戎崎《えざき》裕一《ゆういち》に入れ替《か》わっている〔知ったときは、心臓がぶっ壊《こわ》れるかと思った。そして暗然たる気持ちになった。学生時代最後の舞台《ぶたい》が、久保田《くぼた》先輩《せんぱい》がせっかく観《み》にきてくれた舞台が、台無しになってしまう。しかし舞台は無事に大団円《だいだんえん》を迎《むか》えていた。それにどうだ、秋庭《あきば》里香の嬉《うれ》しそうな顔は。彼女の笑顔だけで、すべてが祝福に満たされているようではないか。役者たちは戸惑《とまど》いながらも喜んでいるし、観客はハプニングが起きたことさえ気づいていないだろう。さて、これで舞台は終わりだ。王子が姫《ひめ》にキスをしようとしたところで、幕が下りる。みんな、精一杯拍手《せいいっぱいはくしゅ》してね。エンディングの音楽をそろそろ流さなきゃ。めでたしめでたし。あれ? 戎崎裕一がなにかしようとしてる? ベールを上げた? ちょっと! タイミングが早い! え? まさか?
φ
「夏目《なつめ》先生! キスするのが振《ふ》りだけだって教えなかったんですか?」
久保田《くぼた》明美《あけみ》は驚《おどろ》いた。
「まさか裕一《ゆういち》君、本当にキスするつもりですか? みんなの前で?」
夏目《なつめ》吾郎《ごろう》はニヤニヤ笑いながら、両腕《りょううで》を組んでいる。
「やっぱり結婚式《けっこんしき》はキスで終わらなきやダメだろう」
「そりゃキスだよね」
同意したのは谷崎《たにざき》希子《あきこ》である。
ふたりは実に楽しそうに笑っている。
φ
ベールを上げると、里香《りか》が目を瞬《またた》かせた。驚いたようにも見えるけど、きっと光が眩《まぶ》しかったんだろう。まあ、いいや。とにかく、夏目に言われたとおり、キスをしないと。キスをして、それでようやく劇が終わるのだそうだ。ああ、それにしても恥《は》ずかしいな。こんな人前でキスかよ。でも他《ほか》のヤツにされるよりマシだよな。だって里香は僕のものなんだぜ。他のヤツには指一本触《ふ》れさせるものか。
「里香」
小さな声で言って、僕は顔を寄せた。里香の唇《くちびる》に、自分の唇を近づける。マナーとして、途中《とちゅう》で目を閉じる。
衝撃《しょうげき》は、その直後だった。
φ
劇は台無しになった。最後の最後、大団円《だいだんえん》で、姫《ひめ》が王子を張り飛ばすなどありえない。途端《とたん》、感動の大作は喜劇と化し、体育館は爆笑《ばくしょう》で膨《ふく》れあがった。誰《だれ》もが大声で笑っていた。特に笑っていたのは白衣を着た男と、その隣《となり》にいる気の強そうな女だった。やたらと大きな身体《からだ》の男子生徒と、おとなしそうな女子生徒も笑っていた。やっぱり笑っている久保田明美を見て、柿崎《かきざき》奈々《なな》も笑った。学生時代最後の舞台《ぶたい》は大成功だった。喜劇として、だけど。
11
文化祭はそうして終わった。里香にとって、初めての文化祭だ。僕の手には、二枚の写真が残った。一枚は競《せ》り落とした隠《かく》し撮《ど》りの里香。もう一枚は、劇が終わってからみんなで撮った集合写真。集合写真のほうは、僕のカメラで夏目が撮ってくれたものだ。白いタキシードの僕と、白いウエディングドレス姿の里香が、中央に写っている。亜希子さんがいる。山西《やまにし》がいる。司《つかさ》とみゆきもいる。どうにも気に食わないのは、僕の頬《ほお》が赤く腫《は》れあがっていることだが、まあよく見ないとわからないのでいいか。その写真には、小さな白い粒《つぶ》がいっぱい写っている。みんなが投げたお米、つまりライスシャワーだ。結婚《けっこん》を祝う儀式《ぎしき》。幸せと繁栄《はんえい》の雨。
「ねえ、裕一《ゆういち》」
つい笑いながら写真を見ていたら、里香《りか》に名前を呼ばれた。僕と里香は、五十鈴川《いすずがわ》のほとりにいた。深い淵《ふち》は緑に染まり、夏は水遊びをする子供たちの声で賑《にぎ》やかだが、秋になった今では静かなものである。顔を右に向けると、内宮《ないぐう》の宇治橋《うじばし》が目に入ってきた。ひとりふたり、参拝客の姿が見える。
砂州《さす》に立つ里香は、水際《みずぎわ》まで近寄って、ほっそりした指を水につけたりしていた。あんなことして、なにがおもしろいんだろうか。まあ、うろちょろ歩きまわる里香を見ているのは、けっこう楽しいんだけどさ。
「喉《のど》が渇《かわ》いたから、ジュース買ってきて」
「おまえな、ジュースくらい自分で買ってこいよ」
「なによ? 行かないつもり?」
「わかった、わかったよ。百二十円よこせ」
「出しておいて」
「おい! 買いにいかせた上に、奢《おご》らせる気か!」
「まあまあ」
「笑ったってごまかされないからな。なあ、いっしょに買いにいこうぜ。それだったら、いいだろ」
「ちぇっ、しょうがないか」
まったく、わがままな女だ。
近寄ってきた里香を、僕は引き寄せた。ここなら誰《だれ》も見ていない。ああ、宇治橋からは見えるかもな。でも、かまわないや。舞台《ぶたい》の上じゃないんだし、里香だって今度は殴《なぐ》ったりしないだろう。もっとも、里香のことだから、断言はできないけどさ。抱《だ》きしめた里香の腰《こし》は細く、長い髪《かみ》が手の甲《こう》をくすぐる。
殴られませんようにと祈《いの》りつつ、僕は目を閉じ、里香に顔を寄せた。
[#改ページ]
1
此《こ》の澤木《さわき》勇二郎《ゆうじろう》、神州日《しんしゅうひ》の本《もと》の祖《そ》である畏《かしこ》きも恐《おそ》れおほき天照大神樣《あまてらすおおみかみさま》が御座《おわ》します伊勢《いせ》の地へとつひに參《まい》りました。何をさておいても御國《みくに》の母上である大神様《おおみかみさま》へ御挨拶《ごあいさつ》をせねばならぬと、なかなか面白《おもしろ》き建物である宇治山田驛《うじやまだえき》に到着後《とうちゃくご》、すぐに伊勢の社《やしろ》へと向かひました。其《そ》の宏大《こうだい》で美しい神域《しんいき》にひとたび足を踏《ふ》み入れた瞬間《しゅんかん》、此《こ》の身は震《ふる》へ、雙眸《そうぼう》に涙《なみだ》あふるる思ひに包《つつ》まれたのであります。
嗚呼《ああ》、神國萬歳《しんこくばんざい》!
八百萬《やおよろず》の神々萬歳《かみがみばんざい》!
大神様萬歳《おおみかみさまばんぎい》!
扨《さ》て自分の任務ですが實《じつ》に簡潔《かんけつ》であります。すなはち我らに仇《あだ》なす大敵を成敗《せいばい》するのであります。此のおほいなる任務を御與《おあた》へくださつた上官|殿《どの》の期待に背《そむ》かぬやう自分は死をもおそれぬ覺悟《かくご》で戰《いく》さに向かふ積《つもり》です。伊勢へと發《た》つ前、自分は靖國《やすくに》に頭《こうべ》を垂れてきました。其《そ》のうへ伊勢の社《やしろ》にも參《まい》った今、何を思ひ殘《のこ》す事がありませうか。男一匹《いっぴき》、此《こ》の身を肉彈《にくだん》とかへて敵陣《てきじん》深く突《つ》っ込《こ》み、憎《にく》き奴《やつ》に盛大《せいだい》なる一發《いっぱつ》を喰《く》らはせてやらうと思つてゐるのであります。大暴れに大暴れしてやる積《つもり》なのであります。其《そ》れこそが君恩に報《むく》いる道《みち》でありませう。男子の本懷此《ほんかいこ》れにありなのであります。
ところで伊勢《いせ》に向かふ汽車の中で隣合《となりあ》はせたぢぢい……いや老人が何やら旨《うま》さうなものを食《しょく》してをりました。丁度《ちょうど》腹を空《す》かせてゐた事もあり、腹がぐふと鳴つちまひました。御恥《おは》づかしい限りでありますが、何しろ體《からだ》のことなので御許《おゆる》し願ひたい次第《しだい》であります。その老人に何を食《く》ってゐるのか尋《たず》ねたところ、松坂《まつさか》名物の牛肉《ぎゅうにく》だとの事。見れば凄《すさ》まじく旨さうな肉《にく》ではありませんか。また腹がぐふと嗚つちまひました。しかし兄上、伊勢の人フ《にんげん》は御國《みくに》の母上の足下に住《す》む民であると云《い》ふのに、實《じつ》にいぢわるなのであります。涎《よだれ》を垂らさんばかりの自分の目の前で老人は旨さうに肉《にく》を食い續《つづ》け、其《そ》の一ぺんたりともわけて呉《く》れませんでした。仕方無いので、此これは誠《まこと》に本意ではなかったのですが(斷《だん》じてツイ手が出たわけではありません)、老人に鐡槌《てっつい》を以《もっ》て物の道理《どうり》と云う奴《やつ》ををしへてやりました。勇二郎《ゆうじろう》は此《こ》れから御國《みくに》の爲《ため》に盡《つ》くすのでありますから、いぢわるな老人も其《そ》のうち涙《なみだ》を流し、勇二郎に肉一ぺん渡した事を喜ぶやうに成でありませう。いや、思ひだしてみれば、鐡拳《てっけん》を喰《く》らはしてやった直後、既《すで》に老人は泣きに泣いてをりました。嗚呼《ああ》、兄上、馬鹿な勇二郎は漸《ようや》くわかりました。あれが喜びの涙と云《い》ふものなのですね。素睛《すば》らしいことをしたと、我《わ》がことながら深く深く感じ入ってゐるのであります。此《こ》れも日頃《ひごろ》の兄上の御sゥ《ごくんとう》ゆゑでありませう。
兄上萬歳《ばんぎい》!
勇二郎も萬歳《ばんざい》!
老人の涙も萬歳《なみだばんざい》!
其《そ》れにしても此《こ》のぢぢい……いや老人はぐわんぢゃうな奴であり、さすがの勇二郎も少々梃子摺りました。きつと其《そ》れなりに名のある御仁なのでありませう。
其《そ》れでは兄上、そろそろ出陣の時間がまいりました。まづ、第一の目的は滿腹亭《まんぷくてい》なる店であります。聞く所《ところ》によると、此《こ》の店の唐揚《からあ》げ丼なる食べ物は實《じつ》に美味ださうでありますが、しかし何やら不穩《ふおん》な味つけがなされてをり、其《そ》れで幾多《いくた》の臣民が泣かされてゐるとのこと。其《そ》の唐揚げ丼を見事に食《しょく》し、不逞《ふてい》なる店主《てんしゅ》に目の幅涙《はばなみだ》を流させてやる積《つもり》です。それでは出陣に当たり、辭世《じせい》の句を殘《のこ》していかうと思います。樂勝《らくしょう》が豫想《よそう》されるものの、戰《たたか》ひというのは何が起こるか解りません、此《こ》の強靱《きょうじん》な肉體《にくたい》でさへ、たった一發《いっぱつ》の流れ彈《だま》で消《け》し飛んでしまうのであります。いやはや戰《いく》さとは無情《むじょう》なのであります。ナニ、どうか心配なさらないで下さい。御國《みくに》の爲《ため》に命を落とすのはもののふの本懐《ほんかい》であります。何よりこの身は既《すで》に靖國《やすくに》に捧《ささ》げてゐるのでありますから、御心配には及びません。若《も》し自分が歸《かえ》らなかつた時は、どうか靖國を參って喜びの涙《なみだ》を御流《おなが》し下さいませ。よくやつたと譽《ほ》めてやつて下さいませ。
辞世《じせい》──靖國《やすくに》に 眠《ねむ》る御靈《みたま》に ならうとも 此《こ》の身はひとつ みくにのために
2
僕はその日、塾《じゅく》に行っていた。夏期講習ってヤツだ。ただ、学校もそうなのだが、どうも塾というのは眠くなる場所なのだ。しかも学校と違《ちが》って、僕の通っている塾は眠っている生徒は素直に放っておいてくれる。やる気のあるヤツだけ付いてこいという感じだ。
眠れ、と言ってるようなもんだ。
そんなわけで、もちろん僕は熟睡《じゅくすい》しきっていた。前の日、友達の司《つかさ》んちで徹夜《てつや》のゲーム大会を繰《く》り広げたあとだったので、とにかく睡眠《すいみん》不足だったのだ。眠る僕の頭の中では、レーシングゲームのエキゾーストノートがずっと鳴り響《ひび》いていた。
目が覚めたのは授業のあとで、起こしてくれたのは講師の岸田《きしだ》まり子先生だった。
「あのね、起きてくれる、戎崎《えざき》くん」
少し鼻にかかった可愛《かわい》らしい声でそう言われ、僕はようやく目を開いた。
「おはよう、戎崎くん」
「はあ、えっと……」
朦朧《もうろう》としたままあたりを見まわす。たっぷり十秒近くかけて、そこが首都高でも大阪環状《かんじょう》線《せん》でも名古屋高速でもないことを思い知った。
机。
黒板。
チョークの粉っぼい匂《にお》い。
講師。
紛《まぎ》れもなく、塾の教室の中だった。
「素晴らしくよく寝《ね》たって顔してるわね」
「……おはようございます」
そのとおりだった。
あまりにも眠りが深すぎて、起きた直後、自分がどこにいるのかわからなかったくらいだ。まあ、もちろんそこは塾で、目の前で頬《ほお》を膨《ふく》らませているのはまり子先生だった。
まり子先生は地元の大学の教育学部に通っている。
アルバイトでこの塾の講師をやってるってわけだ。
「今日ね、古文だったの。更級日記《さらしなにっき》だったの。更級日記の冒頭って、戎崎くんは言える?」
「えーと」
言えるわけがない。
熟睡しきっていて、授業の内容などまったく聞いてなかったのだ。もちろんまり子先生だってそんなことはわかっているはずだが、それでも尋《たず》ねてくるってことはたぶん僕を虐《いじ》めてるんだろう。
僕は正直に謝《あやま》ることにした。
「ごめんなさい」
机に頭をこすりつけるようにして謝る。
顔を上げると、やっぱりまり子先生は頬《ほお》を膨《ふく》らませていた。それにしてもまり子先生が大学生なんて嘘《うそ》みたいだった。彼女の外見はどうしたって高校生以上には思えない。ちょっとばかり可愛《かわい》らしい格好をさせれば、下手すると中学生だ。とにかく童顔なのだった。
今は短めの髪《かみ》を左右に結《ゆ》っているせいで、いっそう幼く見える。
「戎崎《えざき》くん、二年生だよね」
「いちおう」
「じゃあ、そろそろ志望校とか絞《しぼ》りはじめるころでしょう」
「まあ、そうですね」
「どうするか決めた?」
「いや、まだこれからっていうか……」
「なりたいものとかないの?」
「えーと」
「夢、見たことある?」
僕は少し考え、言った。
「今さっきまですげえ夢を見てました。首都高をGTRで走ってたんですけど、これが記録的に速くて、隠《かく》しマシンのブラックカウンタックもぶっちぎり──」
「その夢じゃなくて、もうひとつの夢!」
身も蓋《ふた》もない強い口調で、彼女は言った。
「将来とか、そういうほうの!」
わかってるさ、もちろん。
だからこそごまかしたのに、そういう機微《きび》ってヤツをちょっとは理解してほしいもんだ。しかしまり子先生は理解するどころか、やけに真剣《しんけん》な瞳《ひとみ》で僕を見つめていた。いかにも塾《じゅく》の講師らしく生真面目《きまじめ》な人なのだ、まり子先生は。
ちょっと生真面目すぎるくらいだった。
「戎崎《えざき》くん、夢がないんでしょう」
黙《だま》りこんでいると、まるでため息《いき》でも吐くような調子で、まり子先生が言った。
「だから、そんなにいい加減なのね」
「はあ……」
「君、やればできないわけじゃないでしょう? なのに全然やろうとしないよね? 目標がないんでしょう?」
参ったな。そんなことをずばずば言われて、どう反応しろというのだ。怒《おこ》るわけにはいかないし、かといってハイソウデスと肯《うなず》くわけにもいかない。だいたい、夢だの目標だのをこんなに連呼されるのはそれだけで恥《は》ずかしかった。教室にいるのが僕たちだけってのがせめてもの救いだ。
「ねえ、少しはなにかを目指してみたらどう? できることなら、わたしも協力するよ。なにかに向かって頑張《がんば》るのって、君が思ってるほど悪いものじゃないよ」
「はあ、確かに」
他人事《ひとごと》のような僕の呟《つぶや》きに、まり子先生は今度こそため息を吐いた。
それでもさらに、尋《たず》ねてくる。
「じゃあ、趣味《しゅみ》は? なにか好きなことってある?」
うーむ、なかなかしぶとい人だ。
適当に聞き流してれば、普通《ふつう》の大人ならそのうち諦《あきら》めるものなのに。
「趣味は……ゲームくらいです」
「じゃあ、ゲームクリエイターを目指してみるっていうのは?」
「いや、ゲームは遊ぶだけで十分かなあって」
「作るほうだって楽しいかもしれないよ」
「そういうのって苦手なんで。元々文系だし」
「じゃあ、シナリオを書いてみるってのはどう?」
「シ、シナリオですか」
「絵でもいいよ」
まり子先生は熱心に、次々といろんな職業を挙げていった。そしてそのためには勉強しなきゃいけないとか、今は辛《つら》くてもそのうち身につくとか、まあ、ありきたりだけどそれなりに正しいことを言いつづけた。僕はといえば、ひたすらへらへら笑いつづけていた。口元の筋肉が痛くなってきたくらいだ。まり子先生がようやく諦《あきら》めてくれたのは、なんと十分くらいたってからだった。
「戎崎《えざき》くんってしぶといね」
やれやれというように、その昔を振《ふ》る。
僕はやっぱり、適当な笑みを浮《う》かべていた。
「は、ははは」
「でもね、そんなのいつまでも続けられないよ」
脅《おど》すように、まり子先生は言った。
「絶対追いつかれるんだからね。現実って、すごく足が速いんだから」
「現実ねえ」
ようやくまり子先生から解放されたあと、僕は線路|際《ぎわ》の細い道をたらたら歩いて家に向かった。今年の夏は異常気象とかでろくに暑くならず、梅雨《つゆ》の続きのような毎日ばかりなのだが、今日は珍《めずら》しく夏らしい青空が頭上に広がっていた。暑さに慣れていないせいで頭が少しぼんやりする。身体《からだ》が熱の塊《かたまり》になってしまったみたいだった。吐《は》き出す息まで熱っぽい。立ち止まって空を見あげると、首筋のあたりを汗《あせ》の玉が滑《すべ》っていった。
「そりゃまあ、速いだろうさ」
たとえ懸命《けんめい》に走っても、いつか現実は僕たちに追いつく。どんなに腿《もも》を高く上げ、腕《うで》を強く振《ふ》り、身体中の力を最後の最後まで絞《しぼ》ったとしてもだ。
まり子先生の言ってることは真実だった。
僕はたった十七年しか生きていないし、わからないことはそれこそ星の数ほどもある。現実の厳しさってヤツも知らないことのひとつだ。とはいえ、もちろん僕だってまるっきりのバカじゃないわけで、それが真実かどうかくらいはわかる。
現実は確かに素早い。
僕たちよりも素早い。
とはいえ、いつか捕《つか》まるとわかっていても、逃《に》げられるかぎり逃げるってのもひとつの選択肢《せんたくし》なのだと思う。
そういうのを、たぶんモラトリアムって言うんだろう。
いろいろなことを考えているうちに、線路を越《こ》える大きな歩道橋にさしかかっていた。その長い階段をゆっくり上る。足を動かすたびにムッとした熱気が漂《ただよ》ってくる。汗《あせ》が零《こぼ》れ落ちていく。家に帰ったらアイスでも食べようと思う。確かまだ一個残っていたはずだ。おふくろが先に食べてしまってないといいんだけど。
階段を上りきると、まっすぐに延びるアスファルトがそこにあった。
そして、その黒く溶《と》けたアスファルトの向こうに、巨大な入道雲が湧《わ》きあがっていた。
今年最初の、夏の一日だった。
「ようやく夏か……」
まるで入道雲に突《つ》っこむように延びるアスファルトの上を、僕は汗を流しながら歩きだした。
翌日──。
まり子先生の質問を、僕はそのまま司《つかさ》にしてみた。
「おまえ、夢ってあるか?」
司はその顔をしかめた。
「ゆ、夢?」
「そう、夢」
「昨日の夜、すごいのを見たよ。なんか大きな剣《けん》を持って洞窟《どうくつ》みたいなところで戦ってるんだ。その敵ってヤツがなかなか憎《にく》らしくてさ──」
僕と微妙《びみょう》に視線を合わせないようにしながら、司は早口でそんなことを言った。ほらな、こういうのがやっぱり一般的《いっぱんてき》な反応なわけだ。
「ああ、わかったわかった。もういいって」
「なんだよ、裕一《ゆういち》」
「いや、塾《じゅく》の講師がやたらと熱血でさ──」
僕たちは今、安っぽいテーブルをあいだにして座っていた。場所は駅裏にあるまんぷく亭《てい》である。その名前のとおり、まんぷく亭はとにかくボリュームが多くて、その上値段が安いので、僕たち学生の定番になっていた。店の中は壁《かべ》も床《ゆか》も天井《てんじょう》もすべて油|染《じ》みているし、これまた油染みて色|褪《あ》せた未来製|猫型《ねこがた》ロボットのマスコット風船(頭頂部装着式|回転翼《かいてんよく》付き)が天井からぶら下がってたりするし、その脇《わき》には薄汚《うすぎたな》い蝿《はえ》取り紙が十枚近くユラユラしているし、店の脇には新聞やら雑誌やらが積み重ねてあって、なぜかその上に薄汚れたバレーボールが乗せてあるし……お世辞《せじ》にもお酒落《しゃれ》な店とは言えないし言いたくもないが、僕たちにとってみれば安くて量が多くて味が良ければそれでなんの問題もなかった。
もっとも問題がまったくないわけではないのだが。
「それは参ったね」
僕から事情を聞いた司《つかさ》はちゃんと同情してくれた。
「だけど、わりといい先生なんじゃないかな」
「まあ、そうだけどさ。夢だの目標だのって連呼されるとなあ」
「裕一《ゆういち》、ほんとやりたいことないの?」
うーん、と僕は唸《うな》った。
「ない」
「まったく?」
「ないな、マジで。おまえはあるのか」
「夢ってほどじやないけど、地学系の仕事をしてみたいとは思ってるよ。あと、ケーキ職人もいいかなあ」
世古口《せこぐち》司はとにかく変わったヤツである。プロレスラーみたいな身体《からだ》をしているくせに、趣味《しゅみ》がケーキ作りなのだ。しかもとんでもない天文おたくでもあり、ヤツの学生服のポケットには軌道《きどう》計算用の関数電卓が常に仕込まれている。
「じゃあ、進路はそっちのほうなのか?」
「まだちゃんと決めてないけどね。ほんとは地学科に進みたいんだけど、地学科なんて出ても仕事がないんだよね。いろいろ調べてみたんだけど、研究者になれるのは一握《ひとにぎ》りだけなんだって。それならケーキ職人を目指したほうが食べていけるかなあって」
「へえ」
そう言ったあと、僕は言葉を失った。ここまで具体的なことが司の口から出てくるとは思わなかった。なんてことだ、こいつは将来どうやって食べていくかまで考えているんだ。確かに進路を選ぶってのはそういうことだった。僕たちは高校生なわけで、卒業したら就職か専門学校か大学って感じになるわけで、それらは多かれ少なかれ専門性を持っているわけで……中学から高校へ進むのとは根本的な違《ちが》いがある。
人生の幅《はば》が、可能性が、かなり絞《しぼ》られるのだった。
司はぼんやりしてるように見える。生まれつきの顔が大仏みたいだってのもあるし、性格が優《やさ》しいってのもあるんだろう。けど、本当の司は実にしっかりしたヤツなのだった。彼はそのほっそーい目でちゃんと末来ってヤツを見据《みす》えているようだった。(参ったな……)
いつもいつも、こうなのだ。
司のことをよくわかっている僕でさえ、その奥底《おくそこ》にあるものを忘れてしまう。そして気がつくとずいぶん距離《きょり》を開けられてしまっている。
司はいつだって僕のずいぶん先を歩いているのだった。
僕は置き去りにされてばかりだ。(マジで参ったな……)
最初感じたよりも実はよほどショックだったらしく、なかなか言葉が出てこなかった。その窮地《きゅうち》を救ってくれたのは、
「はい、おまちどお!」
まんぷく亭《てい》のおばちゃんだった。
ダン!
そんな荒《あら》っぽい音を立てて、ドンブリが僕たちのテーブルに置かれた。うまそうな匂《にお》いが漂《ただよ》ってくる。唐揚《からあ》げ丼《どん》という、ここでしか食べられない名物料理だった。要するに揚《あ》げたでの唐揚げを卵とじにし、それをご飯の上に乗っけただけの食べ物なのだが、これがなかなかうまいのだ。
「よし、食おうぜ」
面倒《めんどう》なことをすべて投げ捨て、僕は割り箸《ばし》を手に取ると、さっそく唐揚げ丼を口に押しこんだ。その途端《とたん》、むせた。
「ぐっ──」
や、やられた。
「うわっ、今日は当たりの日?」
司《つかさ》がその細い目を精一杯《せいいっぱい》見開きながら尋《たず》ねてくる。僕は無言のまま肯《うなず》いた。口の中と喉《のど》がひりひり痛む。それは──コショウのせいだった。なぜかこのまんぷく亭では唐揚げ丼にどっさりコショウを振《ふ》りかけるのだ。しかもそのコショウの量が毎回同じではなくて、たまにやたらと多かったりする。その分量はどうやら、おばちゃんの機嫌《きげん》に比例しているようだった。気分がいいときのおばちゃんはなぜかコショウのビンを激しくシェイクしてしまうらしい。
「さ、最高レベルだ」
口の中の痛みを吟味《ぎんみ》しながら、僕は呟《つぶや》いた。
「今日のおばちゃん、やる気満々らしい」
司がげんなりしたように、自分の唐揚げ丼を見つめる。
「じゃあ、今日はゆっくり食べようね」
「そうだな」
「僕たちは慣れてるからいいけど、あの人は大丈夫《だいじょうぶ》かな」
「あの人?」
「うん、ほら」
司の心配げな視線の向こうに、おじいちゃんの姿があった。カウンターに座り、唐揚げ丼を前に凍《こお》りついている。物凄《ものすご》い汗《あせ》をかいていた。箸を持つ右手なんてブルブル震《ふる》えている。どうやら僕たちと同じ状況《じょうきょう》に陥《おちい》っているらしい。それにしてもあんな年寄りが唐揚《からあ》げ丼《どん》なんて、自ら残り少ない寿命《じゅみょう》を縮めるようなもんだった。なにしろ並を注文してもドンブリ山盛りのご飯なのに、どうやらあのおじいちゃんは大盛りを、しかも特盛りを頼《たの》んだらしい。特盛り用ドンブリの大きさはもはやドンブリという名詞を使うのがためらわれるほどで、どちらかというと洗面器に近い。陶器《とうき》ではなくプラスチック製なので、もしかすると洗面器そのものなのかもしれなかった。あの量この辛《から》さ……想像するだに恐《おそ》ろしい。たぶん旅行者で、事情をよく知らないまま適当に頼んでしまったんだろう。
「下手すると心臓|麻痺《まひ》を起こすかもな」
思わず息を呑《の》み、そう言う。
司《つかさ》は額に汗をかいていた。
「冗談《じょうだん》じゃなくて、ほんとそうならないといいけど」
「少なくとも五年は寿命が縮まるぞ」
そんな下らないことを言いながら、僕たちは慎重《しんちょう》に自分の唐揚げ丼を食べはじめた。おじいちゃんの前に置かれた代物《しろもの》に比べると、まるでお子さまランチだ。しかしそれにしても辛い。だいたい、なんでコショウなんだ? この料理にコショウはいらない気がするんだが……。
3
戰況《せんきょう》はまさに今、風雲急《ふううんきゅう》を告《つ》げてをります。吹《ふ》き荒《すさ》ぶ風は凄《すさ》まじく、湧《わ》き上がる黒雲《くろくも》は恰《あたか》も山の如《ごと》しであります。此《こ》の澤木《さわき》勇二郎《ゆうじろう》の肉體《にくたい》もまた其《そ》の風に吹《ふ》かれ黒雲《くろくも》に包《つつ》まれてをります。と云《い》ふわけで兄上、殘念《ざんねん》な報告《はうこく》を爲《な》さねばなりません。誠《まこと》に遺憾《いかん》でありますが、何しろ戰《いく》さと云《い》ふのは兄上も御存知《ごぞんじ》の通《とお》り時の運《うん》でありまして、例《たと》へ必勝《ひっしょう》の思ひで臨《のぞ》んでも戰況《せんきょう》に據《よ》っては後退《こうたい》……いや轉進《てんしん》せねばならぬ事態も起《お》きうるのであります。乍併、此《しかしながらこ》の澤木勇二郎、英靈《えいれい》であらせらるる兄上の弟として申し上げたいのでありますが、あくまで今囘《こんかい》の行動は轉進《てんしん》でありまして決して一敗地《いつぱいち》に塗《まみ》れたわけではなく、次《つぎ》なる日の勇躍《ゆうやく》、をを、此《こ》の勇二郎の名の如く、次《つぎ》なる勇躍《ゆうやく》のための雌伏《しふく》を齎《もたら》すもの。斯《こ》う言はば御《お》わかりに成《な》りますでせうかうまりグッと膝《ひざ》を曲げるやうなものなのです。御想像《ごそうぞう》下さいませ、兄上。ひとたび我《わ》が膝が伸《の》ばされし時は、此《こ》の強靭《きょうじん》な肉體《にくたい》に溜《た》まった力と云《い》ふ力を一氣《いつき》に解き放ち、恰《あたか》も天を驅《か》ける龍《りゅう》が如き姿《すがた》を御見《おみ》せゐたしませう。
扨《さ》てことの顛末《てんまつ》を御話《おはな》ししませう。
あの日、勇二郎は勇む心と武者震《むしやぶる》ひを冷静《れいせい》なる判斷力《はんだんりょく》で押さへつつ、不逞《ふてい》なる輩《やから》が跋扈《ばっこ》すると云《い》ふ滿腹亭《まんぷくてい》へと向かひました。其《そ》れはまあ、小さな薄汚《うすぎたな》い店でして、勇二郎がチヨットひとあばれしたら店は崩《くず》れ、店主《てんしゅ》は泣き伏《ふ》しさうな様子《ようす》でありました。自分が店の中に入ったところ、其處《そこ》にゐたのはなんと可愛《かわい》らしい娘《むすめ》でありました。どうやら店主の孫と思はれます。戰場《せんじょう》に娘を誘《さそ》ひ込《こ》むとは卑劣《ひれつ》なり! 義憤《ぎふん》に萌《も》えて……いや、字を間違《まちが》ひました……燃えて立ちつくしてゐたところ、なんと其《そ》の少女が自分に言ふのです。
「をぢさん、御腹空《おなかすい》いた?」
ああ、さう言ひながらも、娘は實《じっ》に可愛らしい笑みを浮《う》かべてゐるのでありました。思はず二度も三度も肯《うなず》き、腹が減ったと自分は連呼《れんこ》いたしました。乍併《しかしながら》、兄上、此《こ》の時|既《すで》に勇二郎《ゆうじろう》は敵の策略にはまってゐたのであります。あのやうな小娘を使って敵をだまくらかすとはさすが神国《しんこく》に仇成《あだな》す敵でありませう。
話を戻《もど》しませう……。
愚《おろ》かにも敵の策略にはまった勇二郎は、イザ席につくなり、おそらく年のころは五十か其處《そこ》らと云《い》ふ、少々恰幅《かっぷく》のよい女店主に向かって叫《さけ》びました。
「大盛《おおもり》りを貰《もら》はう! 盛《も》りに盛《も》れい!」
すると店主が尋《たず》ねて来《く》るではありませんか。
「特盛《とくも》りですか?」
正直に御話《おはな》しするなら、此《こ》の時少々嫌《いや》な氣持《きも》ちがしました。
しかし自分のすぐ横《よこ》には先ほどの娘が水を片手に立ってをります。不思議なことに少女は先ほど既《すで》に水を持ってきてをりますのでうまりは二杯目と云《い》ふことに成《な》ります。誰《だれ》かのところに持っていくのかと思ひ、邊《あた》りを見まはしましたが、少し離《はな》れた席にまだ大人とも呼べぬ小僧《こぞう》が二人いるきりではありませんか。案《あん》の定《じょう》、娘は二杯目の水を自分の前に置きました。二杯とも、なみなみと水がつがれてをります……。
其處《そこ》で勇二郎、思ひ出しました。
(なるほど、腹が減ったと連呼《れんこ》したゆゑ、たくさん食《た》べると想像したのであらう。其《そ》れゆゑ、水を二杯も持ってきたのだ。なんと氣《き》のつく娘だらう)
嗚呼《ああ》、今と成《な》っては自分の愚《おろ》かさに腹が立ちます。
勇二郎は見事、敵の策略にはまってしまってゐたのです。
さうとは知らぬ勇二郎、娘の優《やさ》しさに感動し、再び叫んでをりました。
「特盛《とくも》りを貰《もら》はう!」
異常を感じたのは、其《そ》れから三分後でありました。何故《なぜ》か店主は洗面器《せんめんき》に飯《めし》を盛《も》ってゐるではありませんか。モリモリ盛《も》ってゐるのです。まさかあれを出すのではあるまい……。少々狼狽《ろうばい》してゐたところ、すぐ横《よこ》にまた娘が立ってゐるではありませんか。其《そ》の手にはまたもや水が! さうして三杯目の水が自分の前に竝《なら》びました。勇二郎はたいした巨漢《きょかん》でありますが其《そ》れにしても三杯とは……。
途方《とほう》に暮れてゐたところ、ドンと音がゐたしました。まるで地響《じひび》きのやうな音でありました。何事かと前を向ひたところ、其處《そこ》に洗面器《せんめんき》があるではありませんか! 御飯《ごはん》が山盛《やまも》りに成《な》つてをりました! 唐揚《からあ》げが山盛《やまも》りに成《な》つてをりました! 卵が山盛《やまも》りに成《な》つてをりました!
そして女店主《てんしゅ》は愛想笑《あいそわら》ひも苦々しく言ったのです。
「どうぞ、召《め》し上がれ」
喰《く》らはいでおられませうや。男と云《い》ふものは時に敗北を覺悟《かくご》で戰《たたか》はねばならぬことがあります。例《たと》へ敵空母《てきくうぼ》が巨大《きょだい》であらうと、敵戦艦《てきせんかん》が凄《すさ》まじからうと、腹に爆弾《ばくだん》を抱《かか》へ飛び込《こ》まねばならぬのであります。ゆゑに勇二郎《ゆうじろう》、滿面《まんめん》に笑みを浮《う》かべながら女店主に言ってやりました。
「いやあ、旨《うま》さうだなあ」
其《そ》れは其《そ》れは和《なご》やかに爽《さわ》やかに言つてやりました。そして食《く》ひました。食つて食つて食ひまくってやりました。乍併《しかしながら》、どんなに食つても減らないのです。何しろ米|一升《いっしょう》はあらうかと云《い》ふ代物《しろもの》です。しかも何故《なぜ》か此《こ》の唐揚《からあ》げ丼《どん》なる食ひ物には南蠻渡來《なんばんとらい》の黒胡椒《くろこしょう》が死ぬほど振《ふ》りかけられてゐるのです。一口食《しょく》せば舌が痺《しび》れ、二口食せば唇《くちびる》が痺れ、三口食せば喉《のど》が痺れ、四口食せば胃の腑《ふ》が痺れるのであります。此《こ》の勇二郎、背丈は五尺八寸重さは二十七|貫《かん》もありますが辛《から》いのだけはとんと駄目《だめ》なのであります。其《そ》の弱點《じゃくてん》をついてくるとは卑怯《ひきよう》なり!
気《き》がつけば、いつしか我《わ》が雙眸《そうぼう》には目の幅涙《はばなみだ》が溢《あふ》れてをりました……。
兄上、重ね重ね申し上げますが、此《こ》れはあくまでも轉進《てんしん》であります。後退《こうたい》ではないのであります。再び憎《にく》き敵と相まみえた時は今度こそ完膚無《かんぷな》きまでに叩《たた》きのめしてやる積《つもり》です。
取《と》り敢《あ》へず心機一轉《いってん》、自らを取り戻《もど》すためにも、次《つぎ》なる標的《ひようてき》を目指すことにします。見た目は單《たん》なるお好み燒《や》き屋ださうですが、何やら其《そ》の奥底《おくそこ》でよからぬ企《たくら》みを巡《めぐ》らしてゐるやうなのです。此《こ》の勇二郎が乗《の》り込《こ》んで、其《そ》の不達《ふてい》なる輩《やから》を叩《たた》きのめしてやらうと思ふのであります。
4
そしてやはり、今日もまり子先生は熱血だった。
「戎崎《えざき》くん」
講義が終わるなり、そう声をかけてきたのだ。
「夢、考えてきた?」
なんと答えるべきか迷い、僕は言葉に詰《つ》まった。頭の中で、ユメユメと繰《く》り返していたりした。もっとも浮かんだのは『ユメユメ』って漢字だと『努々』って書くんだよなあなんていう、ほんとどうでもいいことだった。
なにしろこの時も起きたばかりだったので、頭がうまく動かなかったのだ。
そんな僕を見ながら、熱血まり子先生は可愛《かわい》らしい顔で僕を睨《にら》んでいた。ふっくらした頬《ほお》は柔《やわ》らかそうで、やっぱり中学生みたいだった。
七秒後、僕は言った。
「いやあ、探しちゃいるんですが。は、ははは」
寝《ね》ぼけ眼《まなこ》に薄笑《うすわら》いを浮《う》かべながら。
まあ、もちろん嘘《うそ》だ。まり子先生にこうして聞かれるまで、夢のことなんてすっかり忘れていた。
まり子先生はテキストを胸に抱《かか》え、僕の前までやってきた。
「戎崎《えざき》くんの嘘つき」
先生、そんなに直截的《ちょくせつてき》な言い方しなくったって……。
「実はなーんにも考えてないでしょ」
「そ、そんなことないですけど」
「ほんとに?」
「えーと」
「ほんとに?」
やたらと大きな目でまっすぐ見つめられ、また言葉に詰《つ》まってしまった。なんというか、熱血まり子先生はやはり熱血であって、その熱血さは熱血であるがゆえに、冗談《じょうだん》とかボケとかごまかすとかいう余地がないのだった。
「その目、なんにも見えてない[#「見えてない」に傍点]でしょ」
「え──」
見えてないって? なにが?
「ううん、戎崎くんは見ようとしてないのよ」
「…………」
「でも、それはそうよね。まだ十七だもんね。十七の男の子なんて、虫みたいなものだから。食べて眠《ねむ》って女の子追いかけて、ただそれだけだもんね。虫と同じよね」
まり子先生はもう、勝手に喋《しゃべ》っていた。
「先のことを考える想像力があるわけないものね。だって想像するには経験が必要だけど、十七の経験なんてたかが知れてるもの。やっぱり虫と同じよ。ううん、虫よりひどいかも」
ひどい言われようだった。
これはさすがに怒《おこ》るべきなのかもしれないと思ったものの、僕はなにしろほけーっとした性格なので、こんなことを言われても怒ることなんてできないのだった。
それどころか、(虫かあ。わりと当たってる気もするなあ)
などと考えていたのだった。
そんな僕の顔を見て、まり子先生は深々とため息を吐いた。
「ダメだ、こりゃ」
まるで独り言のように呟《つぶや》く。
「作戦失敗かあ。わたし、こういうの苦手なのよね」
「は? 作戦って?」
「ほら、君くらいの世代だと、怒《おこ》ることくらいは一人前だったりするじゃない? 苛立《いらだ》ちの世代じゃない?」
「まあ、そうも言いますね」
「だから怒らせてみようと思ったの。怒らせて、そのエネルギーをよい方向に導こうっていう高等テクニックよ。わかる? この前ね、ゼミの先生が教育ってのは優《やさ》しいばかりじゃダメだって言ってたの。だから、それを実践《じっせん》してみようと思ったわけ。なのに戎崎《えざき》くん、全然怒らないんだもん」
「な、なるほど」
もしかして僕は相当バカにされているのだろうか?
あるいは実験に使いやすいように見えるんだろうか?
「それは残念でしたね」
他人事《ひとごと》のようにそう言った途端《とたん》、
「残念? 君、もしかしてわたしをバカにしてるの?」
まり子先生の目がやたらと細くなった。
「なんでそんな言い方するの?」
「そんなって……」
「なによ! そんなぼけーっとした目で見ないでよ! そうよ、どうせわたしは先生なんて向いてないのよ!」
「い、いや、馬鹿《ばか》にしてるわけじゃなくて……目がぼけーつとしてるのは寝起《ねお》きだからで……その、つまり……」
「もういい! そうやってバカにするんだったら、すればいいじゃない!」
なんだか知らないけれど、まり子先生は本気で怒っているみたいだった。それにしても、怒りたいのはむしろこちらだという気がするんだが。
女というのは、世間でよく言うように、男には理解不可能な生き物なんだろうか。
「戎崎くんのバカ!」
叫《さけ》んだ熱血まり子先生は、熱血に走り、熱血にどがしゃんとドアを開け、熱血に走り去っていった。
僕はひとり、取り残された。
黄金色《きんいろ》の西日に満たされた教室の中にいるのは僕だけだった。
「暑っつい」
そう呟《つぶや》きつつ、いつものように線路沿いの道を歩く。たった三両編成の薄汚《うすよご》れた電車が横を通っていった。ガタガタと音を立てながら、茶色の砂塵《さじん》を撒《ま》き散らしながら、線路の上を走っていった。遅《おく》れてきた真夏の太陽に照らされて、油と埃《ほこり》の混じった匂《にお》いがした。あの薄汚れた電車がゆくその先には違《ちが》う町がある。線路ははるか彼方《かなた》まで続いている。行こうと思えば、僕はどこにだって行けるんだ。まあ、これがなかなか難しいんだけれど。
「参ったよな、まり子先生」
僕がなにをしたっていうんだ。
いや、なにもしなかったからこそ、まり子先生は怒《おこ》ったんだろうか。それにしても、子供相手に本気で怒る大人も珍《めずら》しいもんだ。
もっとも、見た目中学生のまり子先生が怒っても怖《こわ》くもなんともない。
でも、やっぱり怖い。
人を怒らせてしまうというそのことが、なんだか意味もなく怖い。
「あんなに怒らなくてもいいのになあ」
まり子先生の声が頭に蘇《よみがえ》ってきた。『戎崎《えざき》くん!』
熱血まり子先生は実に熱血に僕の名を呼ぶのだ。
こんなに熱く名前を連呼されるなんて滅多《めった》にないことだった。まあ、まり子先生は熱血だし、元々そういう性格だし、だからどうだというものでもないのだけれど、大人にこうして向き合ってもらうのは……うざいなりに楽しい気もした。
まあ、気がするだけかもしれないけど。
線路を越《こ》える歩道橋にさしかかった。歩道橋の階段はコンクリートじゃなくてアスファルトなので、スニーカーの底が離《はな》れるたびに、少し粘《ねば》り着くような感じがした。やたらと遅《おそ》かった夏が今、ようやく訪れているのだった。
汗《あせ》を流しながら階段を上りきると、そこには今日も入道雲があった。その先端《せんたん》は物凄《ものすご》い勢いで天を目指して湧《わ》きあがっていた。見ているうちにも、どんどん形が変わってゆく。そんな入道雲に向かって、足を進める。一歩、二歩、歩いてゆく。そうして歩道橋の真ん中にたどりつくと、僕は焼けた鉄製の手すりにもたれかかり、その下を走る線路を見つめた。少し左に曲がりながら、線路はどこまでもどこまでも続いていた。
僕はこの先に行けるんだろうか──?
そんなことをよく考える。授業中に、放課後に、真夜中に。そして考えるたび、胸のどこかがジリジリとする。熱くなってから、冷たくなる。今もまたその熱さと、すぐあとにやってくる冷たさに怯《おび》えていると、ふいに気づいた。
足元に蝉《せみ》が落ちていた。
大きな油蝉だった。
ジジ、ジジ、と鳴いているが、もう飛ぶ力はないようだった。
「終わっちゃったんだな……」
そう。
こいつの短い夏は、もう終わってしまったんだ。
まり子先生のことを話すと、司《つかさ》は呆《あき》れたように言った。
「それは大変だねえ」
「だろ? 参っちまうよな」
「でも、どうしてそんなに聞いてくるんだろ。その人、他《はか》の生徒にも同じような感じなの」
「えーと、どうだっけ」
僕は塾《じゅく》の様子を思い返してみた。
「そんなことないな、うん、あんなにいろいろ言われてるのはオレだけだ」
「なんで裕一《ゆういち》だけなんだろ?」
「オレに惚《ほ》れてる、とか」腕組《うでぐ》みなどしつつ言ってみたものの、司はまったく取りあう様子もなく、生地《きじ》とキャベツが入ったボウルをぐるぐる掻《か》きまわしている。
「おいおい、ボケたんだから突《つ》っこめって」
「は? なんか言った?」
にこやかに笑う司。なんだかもう、やけに楽しそうである。ケーキ作りが趣味《しゅみ》の司は、こういうのも好きだし、得意なのだった。
僕たちは今、お好み焼き屋にいた。
店はすっかり寂《さび》れかけた商店街の真ん中くらいにあって、もういつ天国に行ってもおかしくないようなお婆《ばあ》ちゃんが切り盛りしている。僕と司はそれこそ小学生のころから通っているのだが、その当時からお婆ちゃんはいつ天国に行ってもおかしくないようなお婆ちゃんだった。
もしかすると、このお婆ちゃんは魔女《まじょ》かなんかで、年を取らないのかもしれない。
「そろそろいいかな」
鉄板に手をかざし、司が温度を確認《かくにん》する。
と──。
いつ天国に行ってもおかしくないカメ婆ちゃんがひょいと現れ、言った。
「もうちょっと待ちな。あと一分」
別に見た目がカメみたいだからではなく、名前がほんとにカメなのだ。須和田《すわだ》カメ、だったかな、確か。
「どれ、生地を見せてみな」
返事も開かずに、カメ婆《ばあ》ちゃんは司《つかさ》の手からボウルを取りあげた。ボウルを斜《なな》めにかざし、じいっとその中身を見つめる。ふむ、などと唸《うな》ったりしている。そして司のほうは背筋を伸《の》ばし、全身に緊張《きんちょう》を漂《ただよ》わせていた。
「悪くないね」
やがて、託宣《たくせん》が下る。
「ほ、ほんと!?」
司の声がひっくり返った。
カメ婆ちゃんは肯《うなず》いた。
「ちゃんと具が混ざってるし、空気もよく入ってる。これならふっくら焼けるだろうね。司ちゃん、あんた筋がいいよ」
「ありがとうございます!」
司のヤツ、ほんと嬉《うれ》しそうに笑ってやがる。
ただでさえ細い目が、まるで一本線みたいになっていた。
この店に来るたび、毎回この騒《さわ》ぎなのだ。カメ婆ちゃんはとにかく焼き方にうるさくて、相手がお偉《えら》いさんだろうが一見《いちげん》さんだろうが、必ず徹底《てってい》した指導が入る。そしてこれはなんとなくなのだが、お婆ちゃんは司には特に厳しく当たっているようだった。
他《ほか》のヤツなら、
「まあ、よし」
というレベルでも、相手が司だと、
「生地《きじ》をダメにする気かい!?」
ってな感じになる。
ほら、あれだ、見込《みこ》みがある相手には厳しく当たるってヤツなんだろう。
で、そのカメ婆ちゃんだが、僕に対してはどうかというと、
「ふん──」
僕がかき混ぜた生地を見るなり、そう鼻を鳴らしただけだった。
どうやら僕はまったく期待されていないらしい。
もっとも、だからといって落ちこむかといえば、もちろん落ちこんだりしない。僕は将来、お好み焼き屋になりたいわけではないのだ。それに成績も運動もすべて人並みの僕は、誰《だれ》かに期待されたことなんてほとんどなかった。
期待されないのには慣れてるってわけだ。
「おし、焼こうぜ」
そう言った時、店に新しい客が入ってきた。
カメ婆ちゃんが、
「いらっしゃい!」
と高らかに叫《さけ》んで、客のほうへヨタヨタ歩いていく。
司《つかさ》がちょっと残念そうな顔をした。
「焼き方で聞きたいことがあったんだけどなあ」
「いいじゃんか、お好み焼きくらい好きに焼こうぜ」
言いつつ、僕は生地《きじ》を鉄板に広げた。
「また来るから、その時に聞けばいいだろ」
「そうだね」
司もまた、自分の生地を鉄板に広げる。やたらと身体《からだ》のでかい司は当然、手だってムチャクチャでかい。それなのに、彼の大きな指は実に器用に動き、生地をきれいに広げていた。司には確かに、料理とかお菓子作りの才能があるんだろう。(才能か──)
じゅうじゅう音を立てる生地を見つめながら、そんなことを思った。僕にはなにかしら、才能ってヤツがあるんだろうか。司のような輝《かがや》きがあるんだろうか。少なくとも、今はまだ、見つかっていない。いや、見つかってないんじゃなくて、そもそもまったくないのかもしれない。
すげえ才能を持ってる人間なんて、そんなにたくさんいるわけがない。だからこそ、才能は才能なんだ。たいていの人間はただ穏《おだ》やかに、退屈《たいくつ》に暮らし、年を取り、死んでいくだけだ。
わかっちゃいるさ、もちろん。
でも、自分がそんなふうに退屈な人間かもしれないと思うと、それはまた別の問題だ。へこむ、とまではいかない。そこまで自分に期待しちゃいない。だけど、楽しいわけがない。ああ、まったく楽しくない。
僕は真剣《しんけん》にお好み焼きを睨《にら》んでいる司に目をやった。
たった十七歳《さい》で、こいつは人より優《すぐ》れたなにかを見つけたのだ。そして、その道に向かって、今もこうして歩きつづけているのだ。
蝉《せみ》の姿が頭に浮《う》かんだ。
ジジ、ジジ、と歩道橋の上で鳴いていた死にかけの蝉だ。
あいつはもう、死んでしまったんだろうか? 短い地上での日々を楽しく過ごしたんだろうそんなことを考えていると、司が言った。
「あ、またやってるよ」
司の視線を追うと、その先にはさっきの客がいた。
客の前にはもちろん焼けた鉄板があり、その鉄板にカメ婆《ばあ》ちゃんが両手を押しつけていた。手の焼けるジュウツという音がここまで聞こえてくる。
カメ婆ちゃんは自分の手が焼けていることなどまったく意に介さず、
「いいかい、これくらいの大きさに広げるんだよ」
なんて焼き方指導をしている。
僕は顔をしかめ、言った。
「うわ、まだあれやってんのか」
「儀式《ぎしき》だよね、あれ」
そう、儀式なのだ。この店に来た客はまず、最初にあれをやられる。なにしろ煙《けむり》が上がるほど焼けきった鉄板である。熱くないわけがない。しかしカメ婆《ばあ》ちゃんはその鉄板に手を押しっけ、焼き方指導をするのだった。
鉄板は焼けているし、カメ婆ちゃんは手を押しつけているし、手は焼けてジュウジュウいっているし、それなのにカメ婆ちゃんはまったく平気そうだし……客はもちろん、びっくりする。
まあ、最初にはったりをかますようなもんだ。
僕が最初にこれをやられたのは七歳《さい》の時だった。
それ以来、カメ婆ちゃんにはまったく頭が上がらなくなっている。(ほんと性格悪いよな、あの婆さん……)
心の中で呟《つぶや》くと、僕は焼きたてのお好み焼きにかぶりついた。
「ねえ、裕一《ゆういち》」
司《つかさ》も自分のお好み焼きにかぶりつき、そう言った。
「あの人、前にどっかで見なかった?」
「うん? あの人って、あの客か?」
「なんとなく覚えがあるんだけど」
「ああ、そういえばそんな気もするな。どこだっけ?」
5
まんぷく亭《てい》のおばちゃんこと、本名|桜井《さくらい》かなえは今年で五十三歳になる。父が戦後のどさくさに闇市《やみいち》から始めたまんぷく亭を二十七歳の時に婿《むこ》とともに継《つ》ぎ、その婿殿《むこどの》が三十二歳の時に肺病を患《わずら》って死んでからはひとりでこの店を支え、父考案の唐揚《からあ》げ丼《どん》を看板メニューに多少なりとも名の知れた店へと成長させてきた。電気関係には疎《うと》いかなえはまったく知らぬことではあったが、インターネットの掲示板を調べれば、伊勢《いせ》の話題が出ると必ずまんぷく亭の名もまた語られるほどである。それらの書きこみをしているのは、伊勢で生まれ育ち、そして都市部へと旅立っていったものたちであった。彼らにとって放課後や休日に空腹を満たしたまんぷく亭なる安定食屋は青春の一ページであり、伊勢を象徴《しょうちょう》するものであり、すなわち故郷と直結するものなのであった。今やその名を聞きつけた県外の人間がわざわざ車を飛ばして唐揚げ丼を食べにくることも珍《めずら》しくはないほどである。しかしかなえは店をそのような有名店にしようという野心などカケラもなかった。彼女は父が遺《のこ》した店を、短い幸福であった夫との思い出であるこの店を、ただ守ってゆきたいだけだったのである。今、父と夫は写真の中に収まって、厨房《ちゅうぼう》の隅《すみ》で自分を見守ってくれている……。
そのように愛されているまんぷく亭《てい》の主《あるじ》であるかなえは、カウンターの椅子《いす》に座り、冷たい水を飲んでいた。ふうっ、と熱気を孕《はら》んだ息がその口から漏《も》れる。時刻は午後三時、店に客はひとりもいない。ほんの三十分ほど前は昼食の客で一杯で、目がまわるような忙《いそが》しさだった。従業員といえば夫が残していってくれた一粒種《ひとつぶだね》の息子《むすこ》のみ。自分と息子だけで店を切り盛りするのはひどく大変だが、だからこその喜びもまた存在する。たとえば、この休憩《きゅうけい》の時間。忙しく働いたあとの休みというのは素晴らしいものである。
「ねえねえ、これどうやって折るの?」
足元から声がした。見ればそこにいたのはこれまた喜びのひとつ、臨時に雇《やと》った%X員である雪菜《ゆきな》だった。年は七つ、息子の娘《むすめ》、すなわちかなえにとっては孫である。夏休み中でよっぽど暇《ひま》を持て余しているらしく、店で働きたいと言いだしたので、時給七十円で雇う≠アとにしたのである。店員といってもなにしろ七歳《さい》のことゆえ、できるのはせいぜい水を出すことくらい。それさえもしょっちゅう間違《まちが》えてしまい、同じ客に二度も三度も水を出してしまうことがある。しかしこの店の客の素晴らしいところは、そうして出された水に怒《いか》りを表すことなく、それどころかすでに出ていた水を一気に飲み干し、雪菜が新たに持ってきた水にもちゃんと口を付けてくれることである。かなえはそんな光景を思いだし、口元をほころばせた。まったく自分は客に恵《めぐ》まれている。
「おばあちゃん、開いてる?」
雪菜の声に、かなえは我に返った。
「ああ、ごめんごめん。なんだったっけ」
「これ、どうやって折るの?」
見れば、その手にあるのは赤色の折り紙と、きれいな折り鶴《づる》だった。
「おや、折り鶴かい。どうしたのさ、そんなもの」
「あのおじちゃんがくれたの」
「おじちゃん?」
雪菜の視線を追うと、入り口に巨大《きょだい》な影《かげ》がもっさりと立っていた。
「あら、世古口《せこぐち》さん! そんなとこに立ってないで入ってくださいよ!」
かなえの声が、朗《ほが》らかになる。
「休憩中じゃないのかね?」
影がその身をかがめ、店の中を覗《のぞ》きこんできた。
「いいのいいの。どうせぼおっとしてただけだし」
「すまんな、休みを邪魔《じゃま》してしまって」
そう言って店に入ってきたのは、一言で表現するならば偉丈夫《いじょうふ》であった。普通《ふつう》に立っていてもその頭は店の天井《てんじょう》に届こうかというほど。身体《からだ》の幅《はば》は畳《たたみ》一枚ほどもあり、その幅広い肩《かた》からぶら下がる二本の腕《うで》はまるで丸太のようである。さえない柄《がら》の、いわゆるおじさんシャツを身につけているのだが、そのシャツはぱんぱんに張り、今にもボタンが悲鳴を上げて飛び散りそうなほどだった。ただ、この男、髪《かみ》はすでに真っ白であり、唇《くちびる》の上にちんまり乗った髭《ひげ》もまた白い。ちゃんとした年をかなえは一度も聞いたことがないが、自分の父親と同窓だったそうだから、おそらく七十八か九だろう。とはいえ、その鋼《はがね》のような肉体は老齢《ろうれい》による衰《おとろ》えをまったく感じさせない。
その偉丈夫《いじょうふ》、世古口三郎《せこぐちさぶろう》はかなえの隣《となり》に腰《こし》を下ろした。すでに七十を越《こ》えた老人とは思えない、滑《なめ》らかな身のこなしであった。
「世古口さん、なにか食べてってくださいよ」
「ああ、かなえちゃん、かまわんでくれ」
「なに言ってるんですか、水くさいですよ」
かなえは立ちあがるとキッチンに入り、丁寧《ていねい》に下ごしらえした鶏肉《とりにく》に衣《ころも》をつけ、高温の油で一気に揚《あ》げた。表面の泡《あわ》が小さくなるその時を見計らって一気に唐揚《からあ》げを取りだし、すぐさまダシ汁《じる》へと放りこみ、続いて溶《と》いた卵を入れる。
ここからが勝負であった。
唐揚げの衣のカリカリ感、そして卵の柔《やわ》らかさ、それらを生かし切るタイミングはわずか数秒しかない。早すぎると卵が柔らかいままだし、遅《おそ》すぎると衣のカリカリ感が失われてしまう。かなえは少しだけ鍋《なべ》から視線をはずし、右後ろに目をやった。そこにあるのは、父と夫の写真であった。油で薄汚《うすよご》れた写真の中、ふたりは微笑《ほほえ》んでいた。自分を信じろ、と言っているようにも思えた。自身が肯《うなず》いていたことに、はたしてかなえは気づいていただろうか。ともあれ、ふたたび鍋に顔を戻《もど》したかなえの顔には自然と湧《わ》き出る自信のようなものが宿っていた。そのかなえの目が、やがてキラリと輝《かがや》く。それは職人の目の輝きであった。少々太りはじめた身には似合わぬ素早さでコショウ瓶《びん》を手に取って激しくシェイクしたあと、鍋を火から離《はな》し、その中身をするりとドンブリのご飯へと乗せる。その瞬間《しゅんかん》、ご飯と卵と唐揚げが一体になり、ほんわりとした甘《あま》い匂《にお》いが生まれた。その至高の一品、唐揚げ丼《どん》を、かなえは緊張《きんちょう》とともに世古口三郎の前に置いた。
「はい、どうぞ」
当たり前のように出されたのは、洗面器大の、特盛り唐揚げ丼であった。
世古口三郎もまた、当たり前のようにうむと肯く。
「おお、うまそうだな」
そのふたりの様子を、店の掃除《そうじ》をしていたかなえの息子《むすこ》、桜井《さくらい》太郎《たろう》二十八|歳《さい》は息を呑《の》んで見つめていた。余人にはわかるまいが、店の中は今、凄《すさ》まじい緊張に包まれているのだった。娘《むすめ》の雪菜《ゆきな》がねえねえと甘えるようにやってきたが、その小さな身体を太郎は無言でぎゅっと足元に抱《だ》き寄せた。雪菜《ゆきな》はといえば、なにもわからず、緊張《きんちょう》する父親の顔を不思議そうに見つめている。
世古口三郎《せこぐちさぶろう》は割り箸《ばし》を取った。彼が持つと、普通《ふつう》の割り箸がまるで楊枝《ようじ》のようである。パチン、と音を立てて割り箸を割る。三郎は顔をしかめた。割り箸がきれいに真ん中で割れなかったのだ。齢《よわい》七十八、米国との戦争、進駐軍《しんちゅうぐん》との闇《やみ》取引、ヤクザと結託《けつたく》した土建業者との利権争い……さまざまな苦難を越《こ》え、酸《す》いも甘《あま》いも噛《か》み分けた三郎であったが、いまだ割り箸のきれいな割り方だけはよくわからない。
気を取り直すと、三郎は歪《いびつ》に割れた割り箸を右手に、ドンブリを左手に持ち、その身をかがめた。巨大《きょだい》な鼻腔《びこう》いっぱいに唐揚《からあ》げ丼《どん》の匂《にお》いを吸いこむ。その様子に、かなえと太郎《たろう》は息を呑《の》んだ。雪菜は折り鶴《づる》ってどうやって作るんだろうなあとぼんやり考えていた。そして三郎はドンブリに箸を突《つ》き刺した。そのまま持ちあげ、唐揚げと卵とご飯を一気に口の中に放りこむ。噛《か》んだ。また噛んだ。さらに噛んだ。その口の動きに合わせるように、店内の緊張が高まってゆく。かなえに似てぼんやりした性格の雪菜さえもがなにかを感じ取り、そのつぶらな瞳《ひとみ》を見開いていた。
およそ七秒ののち。
「ふむ、うまい」
三郎がその鼻から大量の空気を満足そうに吐《は》き出した。
「親父《おやじ》さんの味と変わらんな、かなえちゃん」
途端《とたん》、店内の緊張が一気に溶《と》け去った。
なにしろこの御仁《ごじん》、かなえの父の代からまんぷく亭《てい》に通いつづけている唯一《ゆいいつ》の人間なのだった。今となってはもう、父の味を知るのはこの世古口三郎だけである。父の味を守ることだけを願ってきたかなえにとって、その舌はいわば神の託宣《たくせん》にも等しいものなのだった。
かなえは思わず微笑《ほほえ》んでいた。
「さあさ、食べてくださいよ」
「うむ、ダシがいいな」
「そうですか」
「うむ、親父さんの味と変わらんな」
「ほら、肉もいっぱい入ってますよ」
「うむ、柔《やわ》らかいな」
店の外では太郎が娘《むすめ》を高く抱《だ》きかかえていた。雪菜はなんだかよくわからなかったけれど、それでも嬉《うれ》しい気持ちになっていた。折り鶴をうまく折れるようになったら同じ気持ちになるのかもしれないなあ、などと考えながら。
「ごちそうさん」
米粒《こめつぶ》ひとつ残すことなく唐揚げ丼を食べ終えたせ古口三郎はそう言って、洗面器大のドンブリをカウンターに置いた。
「うまかったよ、かなえちゃん」
「いえいえ、お粗末で」
そう言いながらも、かなえの頬《ほお》は輝《かがや》いていた。
「ところで世古口《せこぐち》さん、神様が今年もいらっしゃいましたよ」
「おお、そうか。わしもそのことを言いにきたんだ」
「あら、世古口さんも?」
「この傷がその証《あかし》でな。電車で弁当を食っておったら、いきなりガツンとやられてしもうた」
世古口|三郎《さぶろう》の頬には、大きな絆創膏《ばんそうこう》が貼《は》ってあった。
「相変わらずだったよ、神様は」
「まったくですねえ」
「今年も夏がきたのう」
「夏が来ましたねえ」
「暑い夏だのう」
「ほんとですねえ」
「もう五十八年だのう」
「そんなになりますかねえ」
まるでボケ老人のような会話をしながら、ふたりはなんだか嬉《うれ》しそうなのであった。
6
死中に活を求むと云《い》ふ言葉を兄上は御存知《ごぞんじ》でありませうか。かの劍豪宮本武藏《けんごうみやもとむさし》も愛したと云《い》ふ言葉の意味を、勇二郎《ゆうじろう》は深く深く考へてをります。また必死と云《い》ふ言葉もございます。字にすれば必ず死ぬと云《い》ふことであります。乍併《しかしながら》、いつか兄上が遺《のこ》された通《とお》り、其《そ》れは死を覺悟《かくご》せねば何も爲《な》せぬ、いや死を覺悟《かくご》してこそ何かを爲《な》せると云《い》ふことなのでありませう。心の中に生への未練《みれん》が例《たと》へ一ペんたりとも殘《のこ》ってゐるやうでは、何もかもが中途半端《ちゅうとはんぱ》に成《な》ってしまふのであります。いや、兄上、何卒勘違《なにとぞかんちが》ひなさらないで下さいませ。勇二郎は決して泣き言を漏《も》らしてゐるのではありません。言ひわけをしてゐるのでもありません。少許覺悟《すこしばかりかくご》が足らなかったことをただ悔《く》いてゐるのであります。
まったく此《こ》のたびの敵も恐《おそ》ろしい奴《やつ》でありました。
意欲|滿々《まんまん》、強敵ナニするものゾの氣迫《きはく》とともに、勇二郎はイザ敵陣《てきじん》深くへと飛び込《こ》みました。しかし店にゐたのは老婆《ろうば》ひとり。此《こ》の勇二郎、舐《な》められたものだわいと憤《いきどお》りつつ、壁に竝《なら》ぶ油で薄汚《うすよご》れた品書きを一瞥《いちべつ》し、告《つ》げてやりました。
「廣島風《ひろしまふう》を貰《もら》はう」
何しろ廣島《ひろしま》はかつて兄上が過《す》ごされし江田島《えたじま》が近《ちか》くにあります。其《そ》のことを思ったとき、勇二郎《ゆうじろう》の胸は唯々《ただただ》熱くなり、思はずさう告《つ》げてゐたのであります。兄上の魂《たましい》は今も勇二郎とともにあるのであります。
老婆《ろうば》は勇二郎の顔《かお》をぢつと見つめ、言ひました。
「難《むずか》しいよ、廣島《ひろしま》は」
なるほど兄上ほどの穎才《えいさい》でなければ江田島の士官|學校《がつこう》に入れないのは慥《たし》かであります。ましてや圖體許《ずうたいばか》りでかい勇二郎には無理な話。乍併《しかしながら》、其《そ》れを見知らぬ老婆に指摘されるなど侮辱《ぶじよく》の極《きわ》みでありませう!
しかも老婆は更《さら》に言ふのです。
「卓子《テーブル》ってことは、自分でやる氣《き》かい?」
勿論《もちろん》自分は斯《こ》う言ってやりました。
「散ると知るが大和魂《やまとだましい》」
ふん、と老婆は鼻を鳴らしました。
「まあ、やってみるんだね」
やがて何やら不思議なものが出てまゐりました。皿の上に山盛《やまも》りの甘藍《キヤベツ》と中華|麺《めん》が乗《の》ってをり、小麥粉《こむぎこ》を水で溶《と》いたものを入れた器《うつわ》が添《そ》へてあります。そして老婆は途方《とほう》に暮れる勇二郎の前で鐡板《てっぱん》に手を押しっけたのです。
「此《こ》れくらゐに生地《きじ》を廣《ひろ》げるんだよ」
なんと云《い》ふ恐《おそ》ろしい老婆でありませう! 其《そ》の手は焼《や》けた鐡板《てっぱん》でジウジウと音を立ててゐるにも關《かか》はらず、まるで平氣《へいき》さうなのであります!
挑戰《ちょうせん》か!? 挑戰《ちょうせん》なのであらうか!?
勇二郎は勿論氣《もちろんき》づきました。此《こ》れは勇二郎の心を挫《くじ》くためのものにほかならぬにちがひありません。
負けてはをられませぬ。大和男兒《やまとだんじ》ココニアリ、挑《いど》まれた戰《いくさ》には必ず立ち向かふのであります。うちてしやまむの精神《せいしん》であります。自分も押しつけてやりました。老婆のやうに、鐡板《てっぱん》に手を。
しかし!
しかし!
しかし!
なんと鐡板《てっぱん》は本當《ほんとう》に熱く燒《や》けてゐるではありませんか。掌《てのひら》から熱が傳《つた》はつてきて、其《そ》れはすぐさま腦天《のうてん》にまで達《たつ》する勢ひでありました。堰《こら》へようと思っても、其《そ》の途端《とたん》に足の裏がむずむずする始末。イヤ負けてはならヌ、さう言ひ聞かせたものの、気《き》がつけば兩手《りようて》は鐡板《てっぱん》から離《はな》れ腰《こし》は拔《ぬ》け食臺《しよくだい》の下に呆然《ぼうぜん》と坐《すわ》り込《こ》む勇二郎の姿《すがた》がありました……。
兄上、伊勢《いせ》は恐《おそ》ろしいところです。
魔窟《まくつ》であります。
天照大神《あまてらすおおみかみ》の輝《かがや》かしさの足下にも、此《こ》のやうな場所があるとは。
かうなればなんとしても卷《ま》き返《かえ》さねばなりません。男が廢《すた》ると云《い》ふものであります。自分は再び滿腹亭《まんぷくてい》へ出向く積《つもり》です。
誠《まこと》に必死の思ひなのであります。
此《こ》の氣持《きも》ちを表すためにも、辭世《じせい》を遣《のこ》していかうかと思ひます。
辭世《じせい》──敷島《しきしま》の 大和心《やまとごころ》を人問はば 朝日に匂《にお》ふ唐揚《からあげ》げ丼《どん》よ
7
時は流れてゆく。そしてそれは季節という形になって、僕たちの前に現れる。遅《おそ》かった夏はまるで遅《おく》れてきた分を取り戻《もど》そうとしているみたいにやたらと頑張《がんば》りつづけ、連日三十三度突破《とっぱ》という暑さが続いていた。とはいえ、ひとたび太陽が傾くと、空気には秋の匂いが漂《ただよ》った。夏休みもすでに終盤《しゅうばん》に突入していた。そろそろ終わっていない宿題が頭にちらつきはじめ、それを忘れるために他《ほか》のことに精を出し、結果ますます宿題がたまっていくという負のスパイラルが発生するころでもある。
「どうわああ──っ! 終わらねえ──っ!」
そんな悲鳴がとどろくまで、あと一週間もないだろう。
まあ、わかっていても進まないのが勉強であり、そういった体験がなんらかの教訓になるかといえば……まったくならないのも必然なのだった。
夏期講習の最後の日は、そんな状況《じょうきょう》の中で訪れた。
「まだ二年生だからのんびりしてるかもしれないけど、一年なんてあっという間に過ぎてしまいます。結局、勉強というのは積み重ねだから、一年後に焦《あせ》っても遅《おそ》いのよ。少しずつでいいから、準備をしておいてください」
講義の最後を、まり子先生はわりとまともなことを言って締《し》めくくった。
まり子先生を怒《おこ》らせてしまった日から、僕は彼女と一言も言葉を交《か》わしていなかった。まり子先生は明らかに僕を避《さ》けていたし、となると僕も気まずくて自然と目を逸《そ》らすようになる。
すっきりしなかったけれど、どうすればいいのか僕にはよくわからなかった。
「ありがとうございましたー」
そんなふうに言いながら、たった一カ月間のクラスメイトたちが教室を出ていく。まり子先生は教室の出口に立ち、去っていく生徒たちに、
「頑張《がんば》ってね」
とか、
「気を抜《ぬ》かないように」
とか、
「君は少し気を抜《ぬ》いたほうがいいねえ」
なんて、冗談《じょうだん》を交えつつ言葉をかけていた。
いつまでも教室に残っているわけにもいかず、やがて僕も出口に向かった。
とりあえず無難《ぶなん》に、
「ありがとうございました」
なんて言っておいた。
それまでにこやかだったまり子先生が急に無表情になる。
「ご苦労様」
たった一言。
まあ、こんなもんだ……。
教室を出た僕は、熱気がこもる雑居ビルの階段をのたのた下りた。足を勢いよく下ろすたび、階段の浮《う》きあがったリノリウムがパコンとマヌケな音を立てる。塾《じゅく》に通っている学生たちが苛立《いらだ》ち混《ま》じりに書き殴《なぐ》っていった落書きがあちこちにあった。
『絶対合格』
できるといいよな。
『絶対落ちる』
うわ……。
『ミノックスさいこー!』
ミノックス?
『我々はなぜ受験勉強などという不毛な状況《じょうきょう》に落としこまれているのであろうか。これは陰謀《いんぼう》であり、我々をすりつぶそうという政府与党の若者|収奪《しゅうだつ》計画の一環《いっかん》なのだ。我々は団結し、共闘《きょうとう》し、そのような日帝《にってい》のブルジョア的企《たくら》みを断固|粉砕《ふんさい》せねばならない』
三十七点。
『女にふられた。かなしい』
ざまあみろ。
『ざまあみろ』
そんなこと書かなくてもいいのにな。
意識が浮遊《ふゆう》し、流れてゆく。そしてなにも残らない。残らなくてもいい。どうでもいいことなんだ。この落書きといっしょだ。なんだか落ちこんでいる自分に気づいた。たかが塾《じゅく》の講師と行き違《ちが》っただけじゃないか。もう二度と会わない相手じゃないか。
なんだってんだ。
線路の脇《わき》を歩いていく。今日もまた、薄汚《うすよご》れた列車が埃《ほこり》と油の匂《にお》いを撒《ま》き散らしながら、線路を走っていった。その脇で名も知らぬ花がゆらゆらと揺《ゆ》れており、降り注ぐ日射《ひざ》しはほとんど黄色に感じられ、遠ざかっていく列車の後ろ姿が陽炎《かげろう》の中へと溶《と》けこんで幻《まぼろし》のようで、その先には見知らぬ世界があり、それはテレビの中にだけ存在するに等しく──。
「戎崎《えざき》くーん」
声がしたのは、いつもの歩道橋の手前だった。
振《ふ》り向くと、まり子先生が小さな身体《からだ》で一生懸命《いっしょうけんめい》こちらに走ってくる姿があった。
「ふう」
目の前で立ち止まり、息を吐《は》く。
どうやら塾《じゅく》からここまでずっと走ってきたらしく、彼女のまあるいおでこには玉のような汗《あせ》が輝《かがや》いていた。
驚《おどろ》き、尋《たず》ねる。
「どうしたんですか」
「なんかやっぱり納得《なっとく》いかない」
きっぱりと、まり子先生は言った。
「納得って……」
「このまま気まずいのって、やっぱりよくないと思うの。だから、話そう。話せばきっとわかるから」
熱血まり子先生は、やはり熱血なのであった。
炎天下《えんてんか》の立ち話は死を覚悟《かくご》するようなものなので、少し考えた末にまんぷく亭《てい》へ向かった。この時間のまんぷく亭は空《す》いてるし、腹も減ったし、なにより喫茶店《きつさてん》みたいな場所で向かいあうよりは、ああいう定食屋のほうが多少気が抜《ぬ》けていいように思えたからだ。
今日のまんぷく亭には小学生くらいの女の子がいて、
「どうぞ」
と言いつつ、三回も水を持ってきた。
合計六つ並んだコップを見て、
「これは……こういうサービスなの?」
まり子先生は不思議そうに言った。
本当にわからなかったので、僕も首を傾《かし》げた。
「なんか、ここんとこそうなんですよ。いつもは違《ちが》うんですけど」
「よく来るの、ここ?」
「はあ、しょっちゅう」
「ふーん、男の子が好きそうなところね。女の子は滅多《めった》に来ないでしょ」
「そういや、見かけたことないですね」
「女の子ってね、小綺麗《こぎれい》な場所が好きなの。量とか味は二の次ね。まずなによりも雰囲気《ふんいき》がよくないと絶対にダメ。こんなところに彼女を連れてきたら、すぐにふられるわよ」
もしかすると、ここに連れてきたことに文句を言われてるんだろうか……それとも真面目《まじめ》に忠告してくれてるんだろうか……。
そんなことを考えていると、
「いらっしゃい」
おばちゃんの声がカウンターのほうで響《ひび》いた。
新しい客が来たらしい。
でも、そんなことは僕にはどうでもよくて、この状況《じょうきょう》をどうやって切り抜《ぬ》けるかということを考えていた。
なにしろ熱血まり子先生が相手だけに、下手すると火傷《やけど》しかねない。
「戎崎《えざき》くん、わたしのことうるさいと思ってる?」
うわ、いきなり直球だ。
考えた末、正直に答えることにした。
「少し……」
「だと思った。でもわたしは戎崎くんのことが心配だから、こうしていろいろ話してるのよ。君を見てるとね、不安になるの。なんだか考えばっか先に立っちゃって、足が動いてないんだもん。そんなんじゃコケて頭打って死んじゃうわよ」
「はあ……」
「なのに、なんで君はますます遠ざかっちゃうのかな。言えば言うほど、言葉って届かなくなっちゃう。前に家庭教師してた子ともこんなふうな感じになって、結局やめさせられちゃったの。だからきっと、わたしが悪いの。戎崎くんのせいじゃないの」
なんだなんだ、なんでこんな話になってるんだ。
「わたしね、教師になろうと思ってるの。だから教育学部に進んだし、講義はちゃんと出てるし、将来のために家庭教師やったり塾《じゅく》の講師やったりして、今の子供たちの感覚っていうか、つきあい方を学ぼうとしてるの。なのに、それが全然うまくいかなくて……。わたし、教師に向いてないのかな。ダメなのかな」
それは問いかけの形を取っていたが、僕に聞いてるわけじゃなかった。
バカな僕でも、それくらいはわかった。
そしてまり子先生は黙《だま》りこんでしまった。
僕たちの前にある唐揚《からあ》げ丼《どん》は、手をつけられぬまま冷めようとしていた。(夢を持つのも大変なんだな……)
努力したって、届くとは限らない。
大事なのは努力することではなく、正しく努力することだからだ。
それにしても、こんなふうに自信を喪失《そうしつ》している大人と向かいあうのは初めてだった。なにか言葉をかけるべきなんだろうと思ったものの、いい言葉がまるで浮《う》かんでこない。いや、それなりには浮かぶんだけれど、しょせん僕は十七の子供なわけで、偉《えら》そうなことを言っても嘘臭《うそくさ》くなるだけって気がした。
それに、僕には夢がない。
まり子先生に何度聞かれても答えられなかった。
そんな人間の言葉に、意味があるんだろうか。
気がつくと、僕もうつむいてしまっていた。なんだか情けない気持ちになっていた。まり子先生、まり子先生は熱血でいいよ、そのほうが似合うよ。そりゃ、そういうのをうざく思うヤツもたくさんいるけど、逆に嬉《うれ》しいと思うヤツだっているんじゃないかな……。
僕は顔を上げた。
まり子先生も顔を上げた。
「あ──」
そして同時に、そんな声を上げていた。
今まで気がつかなかったけれど、店の中で異様なことが起きようとしていた。僕たちはテーブル席で向かいあって座っていたのだが、そのすぐ隣《となり》のカウンターにおじいちゃんが座っていた。そのおじいちゃんはなんと、特盛り唐揚《からあ》げ丼《どん》と格闘《かくとう》していたのだ。
もちろん、とても食える量じゃない。
それなのにおじいちゃんは恐《おそ》ろしい勢いでご飯を、卵を、唐揚げを口に押しこんでいた。箸《はし》をドンブリに差し、ごっそりご飯を持ちあげ、それを口へと持っていく。半分も入らず、ご飯はぼろぼろと落ち、口の周りにもべったりとついている。しかしおじいちゃんはまったく気にするふうもなく、ふたたび同じことを繰《く》り返す。
あまりにも異様な光景だった。
僕とまり子先生は話すことも忘れ、その光景を眺《なが》めつづけた。おじいちゃんの恐ろしい格闘は果てしもなく続く。食って食って食いつづけている。箸の動きはまったくやまず、信じがたいまでの勢いだった。しかし相手は特盛り唐揚げ丼である。あの司《つかさ》でさえも食いきるのに一苦労するという代物《しろもの》だ。五分としないうちに、おじいちゃんのペースが鈍《にぶ》りはじめた。兆候は噛《か》む回数が増えたことだ。口に入れても飲みこめないのだった。これでは無理だと気づいたのか、おじいちゃんはむりやりご飯を口に押しこんだ。勢いをつけたつもりなのだろうが、しかしだからといって飲みこめるものではなく、ただ口が膨《ふく》らんだだけだった。
吐《は》き出す──!
僕だけじゃなくて、店内にいる誰《だれ》もがそう思ったはずだった。しかしおじいちゃんは両手で口を押さえると、強引《ごういん》に顎《あご》を動かしつづけ、ついには飲みこんでしまった。そしてふたたびご飯と唐揚《からあ》げと卵を口に押しこむ。
「ね、ねえ、戎崎《えざき》くん」
まり子先生の声はかすれていた。
「ちょっとすごくない」
「そ、そうですね」
「ポックリいっちゃうんじゃないかな?」
「わかんないですけど。あ──」
「どうしたの」
「あのおじいちゃん、前にも見たことあるんですよ。確かこことお好み焼き屋で──」
きゃあ、とまり子先生が悲鳴を上げたのは次の瞬間《しゅんかん》だった。ついに限界点が訪れたのだった。おじいちゃんの顔が真っ赤になっていた。本当に本当に真っ赤になっていた。表情は苦しみに歪《ゆが》んで、手はぴくぴく震《ふる》え、指のあいだから割り箸《ばし》が落ち、椅子《いす》から腰《こし》を浮《う》かす──。
そのあとに起こったことは、あとになって思い返してようやくわかったくらい、なにもかもが素早かった。
店のおばちゃんが物凄《ものすご》い勢いでカウンターの中から飛びだしできたかと思うと、強烈《きようれつ》な張り手をおじいちゃんの背中に叩《たた》きこんだのだ。途端《とたん》、おじいちゃんの喉《のど》に詰《つ》まっていた唐揚げがぽーんと、入れ歯とともに口から飛びだした。
おじいちゃんはそして、倒《たお》れた。
あとになってまり子先生が語ったところによると、まり子先生はおじいちゃんが死んだと思ったそうだ。
僕もそう思った。
僕とまり子先生はいつのまにか立ちあがっており、そして立ちつくしていた。
「ふむ、大丈夫《だいじょうぶ》」
しかしおばちゃんは、おじいちゃんの胸に手をやるなり、そう言った。
「今年も生きてるよ」
「今年も?」
僕の問いは考えた末に出たわけではなく、オウムのようにただ繰《く》り返しただけだった。
おばちゃんは肯《うなず》いた。
「まあ、よかったよかった」
おばちゃんはやけに嬉《うれ》しそうだった。
と、まり子先生が話しかけてきた。
「ねえ、戎崎くん」
「なんですか」
「これ、見て」
手帳だった。
おじいちゃんのポケットからこぼれ落ちたものらしい。
やたらと古いもので、革製の表紙はポロポロだった。黒い色もすっかり擬《あ》せてしまって、灰色になっている。
まり子先生はその開いたページを見つめていた。
僕も覗《のぞ》きこむ。
なんだか変な文章がページいっぱいに並んでいた。わけのわかんない漢字だらけで、昔の人が書いたみたいだ。一人称は『自分』だし、あちこちに『玉砕《ぎよくさい》』とか『報国』なんて言葉がある。右翼《うよく》なのか、このおじいちゃん?
まあ、それはいいとして(いや、よくないが)、さらに問題なのは内容だった。なんというか、誇大妄想《こだいもうそう》というか、妙《みょう》というか、ムチヤクチャなのだ。
唐揚《からあ》げ丼《どん》を食べて、国に報《むく》いるだって?
なんだ、それ。
まり子先生は実に正直なリアクションで、その頭を押さえた。
「あの……変な人なのかな」
僕は肯《うなず》いた。
「そうみたいですね」
このおじいちゃんはなにかを受信しているに違《ちが》いない……。
と、店のおばちゃんが怒《おこ》ったように言った。
「変なこと言うんじゃないよ。この人は神様なんだからね」
「神様?」
「一年に一回、やってくるのさ。もう五十八年もずっとだよ」
「神様って……」
わけがわからなかった。神様なんて、いるわけがない。
「そんなバカな……」
そう呟《つぶや》いた途端《とたん》、まり子先生に腕《うで》を引っ張られた。
(違うよ、戎崎《えざき》くん。そういう意味じゃないから)
(え……じゃあ……)
(このおじいちゃんは確かに普通《ふつう》じゃないみたいだけど、そういう人のことを神様って言ったりするの。ほら、わたしたちよりちょっとだけ無垢《むく》だったりするでしょう? わかる?)
(な、なんとなく)
そういえば、そんな映画を観《み》たことがある。
ある小さな村に狂った男が住んでいて、その男は狂っているからまともに話が通じないし、畑を荒《あ》らしたり物を壊《こわ》したりしてたのに、村人からとても大事にされていた。祭りの時なんか、その人を中心に祭壇《さいだん》を組んで、お供《そな》え物をあげたりもしてたっけ。
まり子先生が言ってるのは、たぶんそれと似たようなことなんだろう。
「この人は勇二郎《ゆうじろう》さんっていって、戦前までは伊勢《いせ》に住んでたの。お兄さんが戦争で死んじゃってね。ほら、特攻隊《とっこうたい》ってヤツでさ」
少し寂《さび》しそうに、おばちゃんは言った。
「それから勇二郎さん、おかしくなっちゃって。お兄さんに懐《なつ》いてたからよっぽどショックだったのかね。いつもは普通《ふつう》らしいんだけど、この季節になると今までのことを全部忘れて、昭和二十年に……十九歳《さい》のころに戻《もど》っちゃうのよ。あら、世古口《せこぐち》さん──」
「ああ、まにあったかね」
のっそりと店に入ってきたのは、なんと司《つかさ》のお祖父《じい》ちゃんだった。
「どうなったかね、かなえちゃん」
「いつもの年と同じでしたよ。勇二郎さん、ほんとなんにも覚えてないんですねえ。今年も唐揚《からあ》げを喉《のど》に詰《つ》まらせちゃって」
「かなえちゃん、すっかり背中を叩《たた》くのがうまくなっただろう」
「まったくですよ。それで、この子たちに、勇二郎さんのことを話してあげてたんですよ」
「おお、そうか。勇ちゃんのお兄さんはわしの同級生でな。慎一《しんいち》っていうんだが、帝大《ていだい》に入るくらいよくできたヤツだったんだ。ひとつの町で帝大に行くのなんてほんの数人くらいのもんだし、将来を約束されたも同然だったなあ。なにせ入学が決まったとき、わざわざ市長が電報打ってきたんだから」
誇《ほこ》らしげに語っていたお祖父ちゃんの声が、急に低くなった。
「それなのに志願なんてバカな話だよ。まあ、そういうヤツだったから志願したりしたのかもしれん。ここだけの話だがな、修造《しゆうぞう》……ああ、この店の先代だが、わしと修造と慎一は幼なじみでな、このかなえちゃんのお母さんを取りあったこともある仲で──」
「あら、そんなことがあったんですか」
恥《は》ずかしそうに、おばちゃんが笑った。
「まあ、昔の話だよ」
司のお祖父ちゃんも、こちらは豪快《ごうかい》にウハハハと笑う。
「なあ、裕一《ゆういち》君、戦争って知っとるかね」
この世の中ではいっぱい戦争が起きているわけだが、お祖父ちゃんの言っているのがそういう意味じゃないってことくらいはマヌケな僕にもわかった。
「えっと、太平洋戦争ですか?」
「うむ、そういう時代もあったってことだ。君らは知らなくてもいいことだがな。ほら、その手帳を貸してみなさい」
「あ、はい」
まり子先生は少し慌《あわ》てたような感じで手帳を差しだした。司《つかさ》のお祖父《じい》ちゃんはそれを受け取ると、ばらばらとめくり、おおと声を上げて、手帳の一番後ろに挟《はさ》んであったポロポロの紙を開いた。
「これは慎一《しんいち》の字だ」
さっきと似たような文章が、少し違《ちが》う字で書かれていた。
僕とまり子先生は、顔を並べて、その文章を読んだ。
「これって……遺書《いしょ》ですか?」
まり子先生が、呟《つぶや》くように言う。
司のお祖父ちゃんは肯《うなず》いた。
「こういうのを、出征《しゆつせい》するときはみんな遺《のこ》していったんだよ」
まり子先生は何度も何度も、瞬《まばた》きを繰《く》り返した。
「そうなんですか……」
声の最後はかすれていた。
読み終わった僕は倒《たお》れているおじいちゃんに目をやった。司のお祖父ちゃんほどではないが、なかなか立派な体格だ。しかしぐったり倒れている今は、年相応の姿に戻《もど》っていた。顔はしわくちゃだし、あちこちシミだらけだし、手の関節なんてまるで木の根っこみたいだ。両手の指先が少し変形している。きっと工場とかで働いてたんだろう。機械工をしていた僕の叔父《おじ》さんもこういう手をしていた。
遺書とともに、写真もあった。
写真に写っているのは、軍服姿《ぐんぷくすがた》の青年だった。
その若者は、五十年前に小さな飛行機に乗って敵艦《てきかん》に突《つ》っこんでいた若者は、まるで子供みたいな顔で笑っていた。(参ったなあ……)
薄汚《うすよご》れたマスコット風船を眺《なが》めながら、僕はそう思った。
8
歩道橋の下を、列車がガタンガタンと音を立てて走ってゆく。夕暮れの匂《にお》いの中に、油と埃《ほこり》の匂いが混じる。日は沈《しず》んでも空はまだ青く、ただ東のほうだけが少し白っぽくなっている。昼間のジリジリとした暑さが空気と大地に残っていて、その熱気に汗《あせ》が滲《にじ》む。
「戦争かあ」
すぐ横にいるまり子先生が、呟くように言った。
「戎崎《えざき》くん、実感ある?」
僕は手すりに乗せたままの顔を横に振《ふ》った。
「ないですよ、そんなの」
鉄製の手すりは日に焼けていて、乗せた顎《あご》が少し熱い。
まり子先生はまた、呟《つぶや》くように言った。
「ないよねえ、やっぱり」
「ないですよ、やっぱり」
「でも、昔の人はあんなふうに思って戦争行ったんだね。なんかすごいようなバカらしいような話だね」
そのとおりだった。あんなふうに自ら死んでいくなんて、すごいけどバカらしい話だった。なにかに殉《じゅん》じるという行為《こうい》は、確かに美しいのかもしれないけれど、それゆえに滑稽《こっけい》さをも備えている。たぶん、そういうのはどうしようもないことなんだろう。
僕は一途《いちず》で美しくて滑稽な遺書《いしょ》を思い返してみた。
暑《あつ》さも日々増《ま》してをりますが、御兩親《ごりょうしん》に於《お》かれましては御元氣《おげんき》に御過《おす》ごしでせうか。何度も手紙を戴《いただ》いたのに返事《へんじ》が出來《でき》ずに申しわけありませんでした。遂《つい》に明かすことが出来《でき》るのですが、愈々出撃《いよいよしゅつげき》が決まったので自分たちの隊《たい》は訓練《くんれん》に訓練《くんれん》を重ねてをり、其《そ》れで手紙を受け取る事が出來《でき》なかったのです。其《そ》の間に溜《た》まった手紙を先ほど一氣《いっき》に讀《よ》み終《お》へました。やうやく返事《へんじ》を出せるのですが、此《こ》れが最後の手紙と成《な》ってしまひます。自分は二十歳《さい》の夏を靖國《やすくに》で迎《むか》へる事と成《な》りました。榮えある特別攻撃部隊《こうげきぶたい》として出撃《しゅつげき》するのです。
父上、言ひつけ通《どお》り、愼一《しんいち》は君と國《くに》のために盡《つ》くします。お喜び下さいませ。母上、言ひつけ通《どお》り、博打《ばくち》と酒と女は控《ひか》へて参《まい》りました。酒は先ほど上官殿《どの》より戴《いただ》きましたがおいしい物ではありませんね。もっと飲《の》めば旨《うま》さがわかるやうに成《な》るのでせうか。博打と女は遂《つい》に知らぬままに成《な》りさうです。勇二郎《ゆうじろう》、甲蟲《かぶとむし》を一緒《いっしょ》に取った事を覚《おぼ》えてゐて下さい。
敵は目前に迫《せま》つてをります。自分がやらねば國《くに》も父も母も勇二郎も滅《ほろ》びてしまひます。此《こ》の身で代へる事が出来《でき》るのなら、何を思ひ残《のこ》すことがありませう。見敵|必殺《ひっさつ》の精神《せいしん》で必ずや敵空母《てきくうぼ》を沈《しず》めてやります。
来年《らいねん》の春に成《な》れば靖國《やすくに》にはたくさんの櫻《さくら》が咲《さ》いてをります。其《そ》の無数《むすう》に咲く櫻花《おうか》の一輪が此《こ》の愼一です。どうか櫻《さくら》の咲く頃《ころ》には面倒《めんどう》でも靖國《やすくに》に來《き》てやって下さい。自分はずいぶんと寂《さび》しがりなので父上と母上の顔《かお》を見たいのです。
さやうなら、父上。
さやうなら、母上。
さやうなら、勇二郎。
よい子に育って父上と母上を喜ばせてやって下さい。
[#地付き]昭和二十年七月十四日 愼一
参った。
どうしろっていうんだ。
バカにすることも感動することもできない。いや、いっそ大笑いしてしまうほうがいいのかもしれない。
だが、感動する人もやはりいるのだった。
「まあ、でも、頑張《がんば》るよ」
なんの脈絡《みゃくらく》もなく、まり子先生がいきなり宣言したのだ。
「うん、わたし、頑張る」
「頑張るって……先生になるってヤツですか?」
「さっきの遺言《ゆいごん》読んだら、こんなんじゃダメだって気がしてきちゃった」
ああ、さすが熱血まり子先生だ……。
僕のほうはなんというか、そんなふうには思えなかった。もっと複雑というか妙《みよう》な気持ちだった。戸惑《とまど》ってるってのが近いかもしれない。
まり子先生みたいに思う人がいるのはわかる。
理解はできる。
でも、なんかそういうのは違《ちが》う気もした。なにがどう違うのかはよくわからないし、言葉にもできないけれど。もしかするとスレた現代の若者は……つまり僕はいろんなものから全力で逃《に》げているのかもしれない。
とにかく、まり子先生みたいには思えなかった。
──ってなことを考えていたら、
「ねえ、これって安っぽい感傷かな?」
まり子先生がそう聞いてきたのでびっくりした。
「いいんじゃないですか、それでも」
「そうかな?」
「たぶん、やる気になれるんならなんだっていいんですよ」
僕は適当なことを言ったが、それでもまり子先生は嬉《うれ》しそうに笑った。
「そうだよね。ありがと、戎崎《えざき》くん」
まり子先生の顔は、夕焼けの光に照らされて、赤く輝《かがや》いていた。そんなまり子先生を見ていたら、なんだかこれはこれでいいのかもしれないという気がしてきた。そう、やる気になれるんなら、なんだっていいのかもしれない──。
その時、僕たちの前をうすぼけた色のトンボが飛んでいった。僕たちはそのトンボを見つめつづけた。トンボはまるで行き場をなくしたかのようにしばらく僕たちの周りをくるくる飛んでいた。
「もう秋ですね」
僕が呟《つぶや》くと、
「そうだね」
まり子先生は肯《うなず》いた。
「夏、終わっちゃったね」
トンボはスイと空を滑《すべ》ったかと思うと、やがて西日のほうへと飛んでいってしまった。赤い光に滲《にじ》むトンボの姿はなんとなく飛行機のようにも見えた。片道だけの燃料を積み、無為《むい》に飛んでいった飛行機に。そしてそれは、地面に転がっていた蝉《せみ》とも少し似ていた。
「戎崎《えざき》くん、夢はある?」
意地悪に、確信的に、まり子先生が尋《たず》ねてきた。
「彼女でも作ります」
僕は苦笑いしながら言った。冗談《じょうだん》半分、本気半分だった。いや、本気が六割……七割くらいかもしれない。
まり子先生が実に生真面目《きまじめ》に尋ねてくる。
「好きな子がいるの?」
「……いや、いないですけど」
「じゃあ、あてはあるの? 彼女になってくれそうな子がいるとか?」
「……いや、それもいないですけど」まり子先生の目がほっそーくなった。まるで司《つかさ》の目みたいだった。
「なんか不純だなあ」
「いいじゃないですか、不純で」
十七の少年なんて不純が服を着て歩いてるようなもんだ。
「可愛《かわい》い子がいいですね、思いっきり可愛い子」
「性格は?」
「顔が可愛かったらどんな性格でも許します」
「すっごいわがままでも?」
「もちろん」
「そんなこと言っても、いざそうなったら後悔《こうかい》するかもしれないよ」
「いやあ、やっぱ許しますよ。可愛かったら」
「戎崎くん、やっぱり不純」なんて言いながら、まり子先生は可愛らしい頬《ほお》を膨《ふく》らませた。まったく熱い人だ。不純だって?かまうもんか。そうだろ?
思いっきり楽しい恋《こい》をしてやろう。手を繋《つな》いで町を歩いてやろう。そしてキスなんかもしてやろう。
僕は密《ひそ》かに、不純に、そんなことを思った。
ドラゴンフライが飛ぶ空の下で──。
[#改ページ]
市立若葉《わかば》病院事務局|極秘《ごくひ》資料三十八号
猥画騒動顛末記《わいがそうどうてんまつき》
持ち出し厳禁|閲覧《えつらん》厳禁
若葉病院を揺《ゆ》るがせし、かの一大事件の経緯《けいい》顛末をここに記す。本来ならば若葉病院の暗黒なる歴史に埋没《まいぼつ》させるべき事柄《ことがら》なれど、遠き歴史の流れの後、後世のより賢明《けんめい》なる人々の思慮《しりょ》をさらに深める一助とすべく、また歴史の反省とすべく、あえてここに筆を取り、残すものなり。なお当文書は事務局ロッカーに保管せし機密文書用小金庫内に厳重かつ慎重《しんちょう》に秘匿《ひとく》し、持ち出し及《およ》び閲覧は不可とする。
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その日、いつものように、多田《ただ》吉蔵《よしぞう》は意気軒昂《いきけんこう》であった。齢《よわい》七十三。身体《からだ》はすっかり衰《おとろ》えてしまったが、心はいまだ十代の若々しさを保っている。
「きゃ──ああああ! 多田さん、お尻触《しりさわ》ったでしょ!」
というわけで若い看護婦の悲鳴が──今日もまた──病棟《びょうとう》に響《ひび》き渡《わた》った。
ほっほっほっ、と多田吉蔵は笑った。
「ああ、すまんのう、春菜《はるな》ちゃん。年を取ると、ほれ、時折手がぴくりと動いてしまうことがあるんじゃよ。リウマチのせいでなあ。わざとではないんじゃ。すまんのう」
「ああ、それじゃ仕方ないですね。リウマチ、痛いですか」
吉岡《よしおか》春菜、二十一|歳《さい》。看護婦免許を取って赴任《ふにん》してきたばかりの新人である。病院という場所がどういうところなのか、病人がいかにわがままなものなのか、まだなにも知らない。その心は白く透《す》き通り、瞳《ひとみ》は理想に燃えている。目の前にいる老人が、狙《ねら》い澄《す》ましてお尻《しり》を触《さわ》ったことなど、想像もしないのは当然であった。
「痛いのう」
多田ただ吉蔵《よしぞう》は、実にわざとらしく、ああ痛いと呟《っぶや》く。
「さすってもらうと楽なんじゃがのう」
「あたしさすります」
「いやいや、春菜ちゃんも忙《いそが》しかろう」
「さすりますよ。ほら、これでどうですか」
「おお、気持ちいい……いや、痛みが消えていくのう」
やはり若い子はいい。これが谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》のような中堅《ちゅうけん》クラスだと、軽くあしらわれたり、ひどいときには頭を思いっきり叩《たた》かれたりする。まあ、それはそれで楽しかったりもするのだが。
「多田さん、長生きしてくださいね」
健気《けなげ》なことを言うではないか。
多田吉蔵は満足そうに笑った。
「そうじゃのう。もう少しさすってもらえると、長生きできるかのう」
「肩《かた》、もみましょうか?」
「いいのう、それも」
若い女の子の手が、肩を優《やさ》しく揉《も》んでくる。極楽《ごくらく》である。至福である。パライソとはこのことか。うっとりと目を閉じながら、多田吉蔵は思った。まだまだ死ぬわけにはいかない。人間、死んだら終わりである。極楽とは、この世にあるのだ。
「おお、そこが気持ちいいのう」
「ここですか?」
「うむ、天国じゃのう」
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僕の隣《となり》の病室には、多田さんというお爺《じい》ちゃんが暮らしている。暮らしているというのはまさしくその通りで、なにしろもう十年くらい病院にいるらしい。だから入院というより、暮らしているという表現のほうが正確なのだった。その病室のドアは今、開け放たれており、ベッドに座る多田《ただ》さんの姿が廊下《ろうか》からも見えた。多田さんの背後には若い看護婦さんが立っていて、老いた背中を優《やさ》しくさすってあげている。いかにも献身的《けんしんてき》な彼女の姿は、見方によっては十分に感動的なのだろうが、しかし僕にとっては少々違《ちが》うふうに思えた。
「またやってるし」
廊下に立ったまま、僕はそんなことを呟《つぶや》いた。
「多田さん、あんたすげえよ」
呆《あき》れ半分、感心半分……ああ、うらやましいってのもちょっとはあるかも。さすがにあそこまではできないよな。ほんとすげえよ。
「ん、どしたのさ」
背後から、そんな声。
振《ふ》り向くと、亜希子《あきこ》さんが立っていた。
実に生意気そうな顔をしている看護婦さんだが、実際に生意気である。というか、むちゃくちゃ怖《こわ》い。病院の抜《ぬ》け出しを見つかったときは、寒い廊下で一時間ほど正座させられた上、スリッパ(の底)で二十回くらい頭をペシペシ叩《たた》かれた。
まあ、悪い人じゃないんだけどさ。
けっこう優しいとこもあるし。
「ほら、あれです」
言って、僕は多田さんを指差した。
亜希子さんの声が低くなる。
「またやってんのか、エロジジイ」
「若い看護婦さんが入ってくると、多田さんって必ずあの手を使いますよね」
「まったく、よくやるよ。毎回毎回、飽《あ》きないもんかねえ」
「飽きないんでしょうねえ」
「春菜《はるな》も新人だから、多田さんがまともなお爺《じい》さんだって騙《だま》されてるし。ったく、もう」
頭を掻《か》きながら、亜希子さんはずんずんと多田さんの病室に入っていった。
「おい、エロジジイ」
あの、亜希子さん。それは実に正しい表現だけど、看護婦が患者《かんじゃ》にエロジジイってのはまずいんじゃ……。
しかしそんなことをまったく気にするふうもなく、多田さんは朗《ほが》らかに笑った。
「おお、亜希子ちゃん」
たぶんだけど、多田さんは亜希子さんのことが好きなんだと思う。いや、もちろん、恋《こい》とか愛とかって意味の好きじゃなくて、気に入ってるって感じかな。亜希子さんの顔を見ると、それはもう、ほんと嬉《うれ》しそうに笑うんだよな。
「ジジイ、いつまでもそんな茶番やってんじゃないよ」
「なんのことかのう」
「ちっ、とぼけやがって」
「わからんのう」
毎度毎度|繰《く》り返されるこのやりとりも、微笑《ほほえ》ましいといえば微笑ましい……わけはないか。
「先輩《せんぱい》、どうしたんですか」
不思議そうに、新人看護婦さんが尋《たず》ねた。
顔をしかめながら、亜希子《あきこ》さんが言う。
「なあ、春菜《はるな》。入院|患者《かんじゃ》に優《やさ》しくするのはいいことだよ。うん。その気持ちを忘れないようにしな。でもさ、世の中にはろくでもない人間もいるわけ。たとえば仮病《けびょう》を使うエロジジイとかお尻《しり》をしょっちゅう触《さわ》るエロジジイとかエロ本を山ほど隠《かく》し持っているエロジジイとか──」
「な、なにを言っておるのかの、亜希子ちゃん」
さすがに多田《ただ》さんも慌《あわ》てている。
亜希子さんの目が光ったのは、そのときだった。
「春菜、これを見な! これが大人の汚《きたな》さだよ!」
叫《さけ》ぶなり、亜希子さんはベッドの下からダンボール箱を引き出した。
僕のいる場所からでも、そこに詰《つ》まっているものがはっきり見えた。大量の、まさしく溢《あふ》れんばかりのエロ本である。一番上に置かれているのはどぎつい洋物で、金髪《きんぱつ》のお姉さんがあられもない姿を晒《さら》していた。おお、すごい。しかしすごいのはそれだけじゃなかった。さらに亜希子さんは次々とダンボール箱を引き出してゆく。どの箱もエロ本がぎっしりだ。いったいどれだけあるんだろうか。つい首を伸《の》ばして、その表紙をじっくりと見てしまった。あれが噂《うわさ》の多田コレクションか。すげえ。半端《はんぱ》じゃないぞ。いったい何冊あるんだ。百や二百じゃきかないよな。千冊? 二千冊? いや、もっとあるか?
新人看護婦さんが悲鳴をあげた。
「きゃああああ──っ! 多田さんの……多田さんの不潔──っ!」
そして走り去ってゆく。
その背中に、多田さんが手を伸ばした。
「あああ、春菜ちゃん……わしの妖精《ようせい》が……」
亜希子さんはちょっと呆《あき》れたような顔をしていた。
「さっすが女子校育ち。免疫《めんえき》ゼロだね」
「春菜さんって女子校育ちなんですか」
まあ、別にそんなことを聞きたかったわけではない。亜希子さんに話しかける振《ふ》りをして、病室に入っただけだ。そばで見ると、多田コレクションはすさまじかった。よくもまあ、これだけ集められるものだ。
ああ、すげえ。
マジすげえよ。
このうちの一冊か二冊でも持ち帰れないだろうか……。
ふと顔を上げると、亜希子《あきこ》さんと視線が合った。亜希子さんは実に細い目で僕を見ていた。ちつ、と舌を鳴らす。
「おら、エロガキ! 誰《だれ》が入っていいって言った! 出てけ!」
「ああっ! 蹴《け》らなくてもいいじゃないですか! 痛い痛い痛い!」
「出てけ! ったく、これだから男は!」
「蹴らないでくださいよ!」
喚《わめ》いたものの、病室から蹴り出された。
ううっ、もうちょっと見たかったな、多田《ただ》コレクション……。
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当たり前の日々であった。繰《く》り返される日常そのものであった。老人が新人看護婦の尻《しり》を撫《な》でるのも、元ヤンキーの看護婦が少年を蹴り倒《たお》すのも、少年がぎゃあぎゃあ喚くのも、それ自体は平凡《へいぼん》な現実だった。やってきて、通り過ぎて、またやってくる……その果てしのない繰り返しこそが日常というものであろう。しかしながら、大いなる戦乱も混乱も、あるいは混沌《こんとん》も、たいていは平凡《へいぼん》な現実に端《たん》を発するものだ。一発の銃声《じゅうせい》が、数百万人の命を奪《うば》うこともある。蝶《ちょう》の羽ばたきが、巨大《きょだい》な台風の源となることもある。男の子の小さな勇気が、女の子の人生を大きく変えてしまうこともある。幸運と不運。光と影《かげ》。希望と絶望。それらをわけるのは、ほんのわずかなことである。とにかく──このありふれた日常の一幕が、のちに市立若葉《わかば》病院を大きく揺《ゆ》るがすことになる猥画騒動《わいがそうどう》の発端《ほったん》であった。
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「院長! あたし、辞《や》めます!」
新人看護婦|春菜《はるな》が駆《か》けこんだのは院長室だった。
「あんな不潔な患者《かんじゃ》と、もう接したくありません!」
涙《なみだ》ながらに訴《うった》えるその声は、悲壮《ひそう》でさえあった。
「不潔? どういうことかね?」
応じた院長は、その名を東条鋼蔵《とうじょうこうぞう》という。三重県医学界の重鎮《じゅうちん》である。父親は戦時中に軍医|総監《そうかん》海軍省医務局長、すなわち軍医の最高位を極《きわ》めた人物で、性格は厳格厳正、公明正大、泰然自若《たいぜんじじやく》、無念無想、無病息災……齢《よわい》九十五で絶命するその前日まで患者を見つづけたという明治の男だった。ちなみに、父親のあだ名は棒一本。まさしく背中に棒が一本入っているような人物であった。鋼蔵はその性格を父からそっくり受け継《つ》ぎ、医学界においても、病院内においても、徹底《てってい》した堅物《かたぶつ》と目されている。
春菜は自らが見てきたことを、体験してきたことを、そのまま鋼蔵に告げた。話しているうちに感情が高ぶってきたのか、双眸《そうぼう》に光る滴《しずく》さえ浮《う》かべている。彼女の熱のこもった声は、鋼蔵の耳の奥《おく》にまでしっかりと届き、鼓膜《こまく》を震《ふる》わせた。
「なるほど」
静かに肯《うなず》く鋼蔵。
「それはいかんな」
「はい。神聖な病院が汚《けが》れてしまいます! いえ、もう汚れてしまっています!」
「わたしの病院が汚れている」
呟《つぶや》く鋼蔵の丸眼鏡《まるめがね》がきらりと光った。
φ
「捨てろ、とな?」
多田《ただ》吉蔵《よしぞう》は尋《たず》ねた。
はい、と若手医師が肯く。
「院長の御意志です。その、あなたのコレクションが風紀上よろしくないとの御判断でして。その、つまり、捨てていただきたいと」
「なんでかわからんのう」
多田《ただ》吉蔵《よしぞう》の病室の中は、重苦しい空気に満ちていた。多田吉蔵とて、伊達《だて》にこの世知辛《せちがら》い世の中を長く生きてきたわけではなかった。多少のことでは、動じない。むしろ動じているのは、彼の孫のような年の若手医師であった。
「ですから、お願いしているわけです」
「嫌《いや》じゃ」
「しかし、院長が……」
「嫌と言ったら嫌じゃ」
「いや、ですから……」
「わしは嫌と言っておる」
医師にとって、院長とは絶対の支配者である。その将来も、出世も、場合によっては婚姻《こんいん》さえも、院長がその手に握《にぎ》っている。医学界は徹底《てってい》した縦社会であって、上に反抗《はんこう》するなど考えられない。しかしながら、それはあくまでも医師にとってであって、一入院|患者《かんじゃ》である多田吉蔵にはなんの関係もないことであった。
「とにかく、捨ててください」
院長の影《かげ》に怯《おび》えた若手医師は、その怯えを隠《かく》すため、あえて強い口調で言った。
「もし自主的に捨てていただけないならば、我々が処分します」一歩、踏《ふ》みこんだ。その一歩が、病室に緊張《きんちょう》をもたらしたのは必然であった。しかし多田老人は動じない。ただ黙《だま》りこみ、その沈黙《ちんもく》の中に明確な否定の意志を示しつつ、若手医師を見つめている。
緊張が充満《じゅうまん》した病室の空気を、第三の声が揺《ゆ》るがしたのは、そのときだった。
「待ちたまえ、君。それは人の権利というものを理解した上で放たれた言葉かね」
なんというか、カクカクした言葉であった。言葉も、響《ひび》きも、やけに角張っている。
「あ、中林《こばやし》さん」
若手医師は驚《おどろ》き、そう呟《つぶや》いていた。彼の前に立っているのは、ダサいストライプのパジャマを着た壮年《そうねん》の男性であった。入院中であるというのに、髪《かみ》をきれいな七三にわけており、銀線《ぎんぶち》眼鏡《めがね》の奥《おく》で双眼《そうがん》が鋭《するど》い光を放っている。名は小林|喜多二《きたじ》。多田吉蔵の隣《となり》の病室に入院している糖尿病《とうにょうびょう》患者であった。
「な、なんですか」
突然《とつぜん》現れた第三者に、医師はいささか怯《ひる》んでいた。
その心の揺れを、小林は容赦《ようしゃ》なく突《つ》く。
「いいかね、それがいかようなものであれ、個人によって所有されるもの、あるいはその趣向《しゅこう》に対して、権力が口を出すことがあってはならん。それは検閲《けんえつ》であり、弾圧《だんあつ》に他《ほか》ならない。自由と平和こそは現平和憲法によって明らかに保障された権利だ。君、憲法の前文を読んでみたまえ。そこで語られる思想を理解していれば、そんな言葉はとうてい口から出てこないはずだ。我々はあなたがたの要求、いや脅迫《きょうはく》を断固として拒否《きょひ》する」
早口で捲《ま》くし立てるその口調は徐々《じょじょ》に熱を帯びていく。
若手医師は圧力に抗《こう》しきれず、後《あと》ずさった。
「脅迫って……そんな大げさな……」
自分はただ、院長の命を伝えにきただけである。
小林《こばやし》はしかし、やはり容赦《ようしゃ》なく言った。
「大げさではない。病院当局による、すなわち権威《けんい》による要求とは、常に脅《おど》しとなることを君はもっと自覚すべきだ。ほら、帰れ、帰りたまえ。かーえーれ! かーえーれ! かーえーれ! 今こそ声を高らかにあげようではないか! かーえーれ! かーえーれ! かーえーれ!」
シュプレヒコールの声が、病室に響《ひび》き渡《わた》った。
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まさしく歴史の不幸であった。院長|東条鋼蔵《とうじょうこうぞう》は軍医であった父を敬い、憧《あこが》れ、思慕《しぼ》し、その気持ちが高じた結果、戦時体制化の日本を一種の理想郷と混《とら》えていた。愛読書は宮本《みやもと》武蔵《むさし》が書いたとされる『五輪《ごりん》の書《しよ》』。定期|購読《こうどく》している雑誌の中には『丸』と『航空ファン』がもちろん入っており、『歴史群像』も太平洋戦争特集のときは必ず買っている。自宅の書斎《しょさい》にはゼロ戦を始めとして、九六式|艦戦《かんせん》、九六式|艦攻《かんこう》、九七式艦攻、九九式|艦爆《かんばく》、烈風《れつぶう》、天山、流星などの三十分の一モデルがずらりとその勇翼《ゆうよく》を並べていた。言論に対する意欲も極《きわ》めて旺盛《おうせい》で、言論誌や新聞に「国を敬うべし」との文章をたびたび寄稿《きこう》している。一方、小林|喜多二《きたじ》は現在予備校講師を務めているものの、三十年ほど前はある大学において全共闘《ぜんきょうとう》議長の地位にあった。朝に夜にマルクスを耽読《たんどく》し、レーニンを愛しながらも憎《にく》んでいる。ちなみに好きな言葉は
「総括《そうかつ》」と「造反有理」。安田講堂を巡《めぐ》る機動隊との決戦においては最後まで講堂内に残り、機動隊にゲバ棒を振《ふ》るいつづけた真の闘士である。彼がゲバ棒を振り上げ振り下ろすときに発していた「くわらっしゃあああ────っ! くわらっしゃあああ────っ!」という叫《さけ》びは、後に転向し保守党の政治家になった斉藤某《さいとうなにがし》の『我《わ》が青春の全共闘その過《あやま》ちのすべて(勇春社一九九七年刊行)』において、「ゲバ棒を手にした小林の姿は鬼《おに》のようであった。その魂《たましい》の叫びは、あれから二十年以上がたった今でも、わたしの耳の奥《おく》に残っている。まるで変節したわたしを責め立てるかのように。ぐっすりと眠《ねむ》る夜中、その声の恐《おそ》ろしさに起きてしまうことがたびたびあるほどだ」とまで記されている。
水と油。光と影《かげ》。右と左。反発するものはなぜか必ず惹《ひ》かれあい、そしてより強く反発するものである。
歴史の不幸であると同時に、必然でもあった。
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「我々はあー、病院当局のぉー、不当な介入《かいにゅう》に対しいー、断固として抗議しいー、その要求の取り下げと謝罪をー、徹底《てってい》して要求するものであるうー」
拡声器で増幅《ぞうふく》された声が病院に響《ひび》き渡《わた》る。
僕は呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。
なんだか知らないけど、起きてみたらいきなり僕の病室の真ん前にベッドと点滴台《てんてきだい》と車椅子《くるまいす》を素材とするバリケードができていたのだった。そしてそのバリケードの上には「断固決戦」とか「粉砕」とか「立て人民よ」と書かれた旗が掲《かか》げられている。赤《あか》い布に白い文字だから、見てるだけで目がチカチカした。しかも、やたらとカクカクした字で、読みやすいんだけど読みづらい。旗はすぐ目に入ってくるのに、よく見ないとなにが書いてあるのかさっぱりわからないっていうか。
拡声器を持っているのは、隣《となり》の隣の病室に入っている小林《こばやし》さんだった。
中林さんはなぜか白いヘルメットをかぶっており、そのヘルメットには旗と同じカクカクした文字で「闘争貫徹《とうそうかんてつ》!」と書かれている。なぜか顔を手ぬぐいのようなもので覆《おお》っていた。まあ、そんなことをしても小林さんであることは一目瞭然《いちもくりょうぜん》だけど。あと小林さんが着ているのはくたくたのパジャマだ。
そのバリケードの前には、病院関係者が唖然《あぜん》とした風情《ふぜい》で立ちつくしていた。
「我々にはぁー、戦う権利があるぅー。守る権利があるぅー。そのような権利を無視したことをー、病院当局は反省しぃー」
ああ、うるさい……なんでこんなにうるさいんだ……。
そこで、小林さんが僕に気づいた。
「おお、戎崎《えざき》くん。おはよう」一転、呑気《のんき》な声である。
僕は戸惑《とまど》いつつ、尋《たず》ねてみた。
「あの、なにやってんすか?」
「闘争だよ、闘争」
「と、闘争?」
「我々はね、戎崎くん、闘《たたか》わねばならんのだ。でないと、政府というものはすぐさま我々のような民から搾取《さくしゅ》しょうとするからね。わかるかね、戎崎くん、毛《もう》主席が言っておるだろう。造反有理と。あれはね、反抗するのには理由があるという意味なんだよ」
「はあ」
「これからの日本を背負っていくのは君たち若い世代だ。君にもぜひ戦線に加わってもらいたいものだね」
戦線って、なんのことだろう? このバリケードのことだろうか?
「あの」
「ん?」
「トイレ行きたいんですけど、バリケード越《こ》えていいですか?」
「いかんよ、それは。ロックアウトの意味がなくなってしまうだろう」
「で、でも! もう漏《も》れそうなんですけど!」
なにしろ僕は起きたばかりである。溜《た》まりに溜まったものが、溢《あふ》れそうだ。ああ、それにしてもこのバリケード、どうやって乗り越えればいいんだよ。うわ、すんげえうまく積んであるな。机やら点滴台《てんてきだい》やらが絡《から》みあうようになってて、ちょっと押したくらいじゃ絶対に崩《くず》れないぞ。まるでパズルみたいだ。
「ほ、ほんと漏れそうなんですけど!」
僕が叫《さけ》ぶのと同時に、他《ほか》の誰《だれ》かが叫んだ。
「貴様、この馬鹿《ばか》げた行動をやめんか! いいかね、君は入院患者《かんじゃ》だ! 入院患者は我々の指示に従っておればよいのだ! 早くあの汚《けが》れた書物を差し出し、大人しくベッドに戻《もど》らんか!たかが入院患者の分際《ぶんざい》で──」
あれ、院長だっけ、あの人。それにしてもまあ、見事な声だ。まるで病院中が震《ふる》えてるみたいじゃないか。
喋《しゃべ》っているうちに感情が高ぶったのか、院長の言葉はだんだん荒《あら》くなっていった。患者を虫くらいにしか思ってないような調子だ。さすがに呑気《のんき》な僕だって、腹が立ってくる。院長だから、そりゃ偉《えら》いんだろうけどさ。でも、そんなに偉ぶることないじゃないか。医は仁術《じんじゅつ》とかいうだろ。仁なんてまったく感じさせない言葉に、僕だけじゃなく、聞いているみんなの苛立《いらだ》ちも高まっていった。
さすがにまずいと思ったのか、そばにいた若い医者が止めに入った。
「い、院長! お言葉がすぎます!」
でもまあ、遅《おそ》かった。
僕だけじゃなくて、騒《さわ》ぎに集まっていた入院患者はみんなむかついた顔をして、院長を睨《にら》んでいる。
そりゃ、いい気はしないよな。入院患者の分際でとか、医者の言うこと聞いてればいいとかさ。患者をバカにしてるのが見え見えだ。医者である自分は偉くて、患者なんて下の人間だって思ってるんだろうな。
「汚《けが》れた書物を捨てろって、どういうことですか?」
気まずい沈黙《ちんもく》の中、入院患者《かんじゃ》のひとりが小林《こばやし》さんに尋《たず》ねた。バリケードの向こうにいるので、叫《さけ》ぶような感じになってしまっている。
「多田《ただ》さんのコレクションを処分しろというのだよ!」
別に大きな声で喋《しゃべ》ったわけじゃないけど、なにしろ拡声器を使っているので、その言葉は病院中に響《ひび》き渡《わた》った。
そのとき、なぜか、病院が震《ふる》えたような感じがした。
なぜかわからないけど。
実際、近くにいる男性患者は軒並《のきな》み動揺《どうよう》し、慌《あわ》てふためいている。口を開けたまま閉じられないのが、三人はいるくらいだ。
そのうち、あちこちからひそひそ声が聞こえてきた。
「嘘《うそ》だろ……多田さんのコレクションを捨てるなんて……」
「そんな……俺《おれ》たちの希望なのに……」
「無茶《むちゃ》な……」
「病院は俺たちを殺す気か……」
だんだんと声が高まっていく。
「なんだよ、これ、なんて言うんだ……」
「弾圧《だんあつ》だ……」
「そうだ、これは弾圧だ……」
「弾圧か……ひどいな……」
「ああ……言論弾圧だ……」
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病院というのは退屈《たいくつ》な場所だ。そのような場所において、男性入院患者の心のよりどころ、オアシス、楽園、見果てぬ夢として憧《あこが》れられていたのが、すなわち多田コレクションであった。輝《かがや》かしい伝説であった。多田コレクションの廃棄《はいき》は、すなわち彼らの娯楽《ごらく》自由思想信条を抹殺《まつさつ》するに等しく、病院側の暴挙に誰《だれ》もが憤《いきどお》りを覚えたのだった。
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あちこちから、声があがった。
「戦おう!」
「多田コレクションを守れ!」
「そうだ! 戦うぞ!」
自発的なものもあれば、そうでないものもあった。
「守ろう、自由を!」
「俺《おれ》たちの夢を渡《わた》すものか!」
「打ってこその武者!」
「おおっ!」
「守れ! 戦うぞ!」
男とは、血の騒《さわ》ぐ生き物である。小さいときはジャングルジムの取り合いで、少し長じてからは部活の主導権争いで、さらに長じてからは会社の覇権《はけん》争いで、血で血を洗う闘争《とうそう》を繰《く》り広げるのだ。男が三人いれば、派閥《はばつ》が生まれる。そのボタンが押された。しっかりと、きっちりと、押されていた。
長く闘争に携《たずさ》わってきた小林《こばやし》が潮目を見逃すはずはなかった。彼は拡声器を構えると、ゆっくりと、しかし腹の据《す》わった声で繰り返した。
「かーえーれ! かーえーれ! かーえーれ!」
その響《ひび》きはあたかも催眠術《さいみんじゅつ》のごとく、怒《いか》り狂った男たちの魂《たましい》の叫《さけ》びを吸収していった。
「かーえーれ!」
「かーえーれ!」
「かーえーれ!」
「かーえーれ!」
「かーえーれ!」
「かーえーれ!」
「かーえーれ!」
「かーえーれ!」
「かーえーれ!」
男たちは叫びつづける。目を血走らせ、拳《こぶし》を振《ふ》り上げ、院長を睨《にら》みつけ、叫びつづける。
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なにがなんだかわからないうちに、患者《かんじゃ》さんたちの心が一体になっていた。まるで渦巻《うずま》くように、叫ぶ声が病院中に満ちている。声は隣《となり》の病棟《びょうとう》からも聞こえてきていた。
僕はしかし、泣きそうに呟《つぶや》いた。
「あ、あの、トイレ……漏《も》れる……」
なんでもいい。とにかくトイレに行かせてくれ。
にっこり笑った小林さんが、あるものを差し出してきた。
「これ、使いたまえ」
尿瓶《しびん》、だった。
ええ? マジで?
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このようにして闘争《とうそう》の幕は上がった。飛び交《か》うアジビラ。二十四時間中響《ひび》き渡《わた》るアジ演説。要所要所に築かれるバリケード。闘争、断固、連帯、貫徹《かんてつ》、糾弾《きゅうだん》……そんな言葉が病院に溢《あふ》れた。もちろん激しい戦いであったが、しかしそれゆえに不思議なほどの連帯感が男たちを包んでいた。バリケードの中でゲバ棒を持ち、信念を胸に溢れるほど抱《かか》え、正義とは真実とはなにかを仲間たちと議論し、鬱屈《うっくつ》した社会では忘れていた生き甲斐《がい》を取り戻《もど》した。彼らは大いに語り、大いに身を震《ふる》わせ、大いに満足していた。そこはひとつの理想郷でさえあった。多田《ただ》コレクションを中心に、彼らはまとまっていたのだった。
だが、やがて病院側の反転攻勢《こうせい》が始まった。夢を語りあう闘士たちとは違《ちが》い、権力側が採ったのは極《きわ》めて実利的な手法であった。老人|患者《かんじゃ》は甘《あま》いものに日がないものが多く、彼らに対し赤福《あかふく》や七越《ななこし》ぱんじゆうといったアンコ製品が大量に投入された。
実弾|攻撃《こうげき》であった。
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吉村《よしむら》老人は最後まで戦う覚悟《かくご》を決めていた。彼自身は実のところ、多田《ただ》コレクションがどうなろうとかまわなかったのだが……まあ、惜《お》しいのは情しいが……むしろ院長の失礼|極《きわ》まりない発言に憤慨《ふんがい》して、闘争戦線に加わったのである。
その吉村老人は、用を足すために、バリケードから離《はな》れた。指導部連中はバリケード内に確保した簡易トイレ(尿瓶&バケツ)で用を足すよう通達していたが、老いた身にそこまでの熱狂はなく、トイレだけはバリケードの外に通っていた。
「あの、吉村さん、お体はいかがですか?」
トイレをすませて出てきたところ、看護婦に声をかけられた。
「ああ、なんとかね」
この時点で、彼は少しの警戒心を持っていた。いちおうではあるが、看護婦は病院から給料をもらう人間である。
しかし、じっと見つめてくる彼女の瞳《ひとみ》は、自分を本当に心配しているふうであった。その途端《とたん》、吉村老人の心が少し緩《ゆる》んだ。ああ、自分はなんと穿《うが》った見方をしているのだろう。この無垢《むく》な娘《むすめ》を疑うなど、心が寂《さび》しくなっているのだ。人間が小さい。この年になっても、なかなか悟《さと》れないものである。
ふっと笑い、吉村《よしむら》老人は言った。
「すまんな、迷惑《めいわく》をかけてしまって」
「いえ」
彼女の顔が曇《くも》る。
「吉村さんが信念を持って、やってらつしやることですから」
「信念と言うほどのことはないんじゃがの」
「それより、赤福《あかふく》でも食べませんか?」
「いいのかね?」
ちょっと早口になってしまっていた。食事制限により、甘《あま》いものは食べるなと医師から言われているのだ。バリケードに入ってからも、その指示を守ってきたというのに。
「はい、吉村さんもお辛《つら》いでしょうから」
「すまんのう」
差し出された赤福を、吉村老人はむさぼり食った。この時点で、彼はもう落ちていたも同然であった。五分後、看護婦の説得を受け入れ、バリケードから出ることを承諾《しょうだく》していた。
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夢も理想も、主義も主張もない。ただただ実利と効果のみを計算した、病院側の見事な作戦だった。武器とはすなわち、色気と食い気である。たったそれだけのことに、まず三人の闘士《とうし》がいきなり脱落《だつらく》した。さらに病院側は攻勢《こうせい》をかける。
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院長室の中には、ふたりの男がいた。ひとりは当然、院長である鋼蔵《こうぞう》。もうひとりは彼の参謀《さんぼう》を務める若手医師である。
「院長、切り札を出しましょう」
若手医師が言う。
その言葉には、切れ者エリートの自負と不遜《ふそん》がぷんぷんと匂《にお》っていた。あたかも大東亜《だいとうあ》戦争を指導した大本営参謀のように。
鋼蔵は首を──最近太ってきたので首はなくなりつつあるのだが──傾《かし》げた。
「切り札?」
「はい、朔日餅《ついたちもち》を入手しました」
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赤福《あかふく》本店が月に一度だけ売り出す朔日餅は、その希少性ゆえに伊勢《いせ》市民でもなかなか食べられない代物《しろもの》である。かつては八月のみ売り出した商品であったが、市民からの熱烈《ねつれつ》な要望により、毎月一日、すなわち朔日に、季節の菓子が一定数のみ発売されるのである。数日前から行列の場所取りが行われるほどの人気商品だ。究極の兵器であった。
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「塚田《つかだ》さーん、朔日餅食べませんか」
看護婦の甘《あま》い声が、甘いものを食べないかと誘《さそ》う。
「ほら、そんなとこにこもってないで」
心が揺《ゆ》らぎ始めていた闘士《とうし》たちにとって、天女《てんにょ》の誘いのようにも感じられる。
「おいしいですよ、朔日餅」
確かにおいしいだろう。珍《めずら》しいだろう。食べたいだろう。
さらに三人が転んだ。
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「むむう。滝川《たきがわ》も切り崩《くず》されたか」
小林《こばやし》さんが腕《うで》を組んで喰《うな》っている。なかなか真剣《しんけん》な顔つきだ。顔はすっかりくたびれた中年オヤジだけど、目の輝《かがや》きはまるで若者みたいだった。
「やはりにわか闘士はぬるいな。なにかアイディアがあるかね、書記」
「え? 僕ですか?」
どうやら僕のほうを向いて言ったらしいので、びっくりしてしまった。
なんだ、書記って?
まるで説教するように、小林さんが言ってくる。
「若い君が書記をしなくてどうするのだね」
「はあ。書記って、なにを書くんですか」
そんなことを尋《たず》ねたら、小林さんは困ったように笑った。
「わかってないね、戎崎《えざき》くん。書記というのはだね、まあ要するに肩書《かたが》きであって、その意味は組織のナンバー2ということだよ」
「ええっ!」
な、なんでそんなことになってるんだろう。
僕はただ、病室を提供……いや、むりやり使われてるだけだ。中林《こばやし》さんとこうしていっしょにいるのだって、ここが僕の病室だからつてだけなのに。
「君はわたしをしっかりと補佐してもらわないとね」
補佐? なにを補佐するんだ?
「それにしても状況《じょうきょう》は厳しいな。こうなったら、同志書記よ」
「同志書記って……それも僕のことですか?」
問いには答えず、小林さんは言葉を継《つ》いだ。
「あの手を使うしかないな」
「あの手、ですか?」
つい反射的に尋《たず》ねてしまう。
小林さんの眼鏡《めがね》がそのとき、鋭《するど》く光った。
「多田《ただ》コレクションの一部を放出しよう」
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市立若葉《わかば》病院において、多田コレクションはまさしく伝説そのものであった。長きにわたる入院期間中に多田|吉蔵《よしぞう》が集めに集めてきたそれはすでに数千冊を超《こ》え、しかもいまだ増殖中《ぞうしょくちゅう》である。今では手に入らない希少本、発禁本も多数所蔵されており、その規模、濃密《のうみつ》さ、ジャンルの幅広《はばひろ》さにおいて、多田コレクションはいっさいの追随《ついずい》を許さず、もはや神格性さえ獲得していた。多田コレクションという名を聞くとき、男性入院患者《かんじゃ》は誰《だれ》しも妄想《もうそう》を膨《ふく》らませ、リビドーの爆発《ばくはつ》を感じるのである。その多田コレクションが放出される。神地に生きるますらをたるもの、心震《ふる》わせずにおられようか。
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「聞いたか」
バリケードをすでに出たものたちのあいだで、バリケードを出ようとしていたものたちのあいだで、その噂《うわさ》は瞬《またた》く間に広がった。跳弾《ちょうだん》のように、右から左から、言葉は飛び交《か》った。
「お、おう、聞いたぞ」
「千冊……いや、二千冊はあるらしいぞ」
「二千……」
「例のあれもあるらしい。ほら、今は女優になってるあの子の──」
「マジっすか! 俺《おれ》、噂《うわさ》にだけは聞いてたんですけど、ほんとにあるんですか!」
「あるらしい。確かに見たものがいるからな」
「うわ、マジで見てえ」
「見られるらしいぞ」
「ほんとっすか?」
「み、見たいっす!」
「オレも!」
「オレも!」
「わしも!」
究極の状態に置かれたとき、人を突《つ》き動かすのはリビドーである。それこそが生きることであり、魂《たましい》の燃焼そのものであった。多くの詩人が、武人が、そのリビドーによって命を失ってきた。それこそ本望だと思い、戦ってきた。二十一世紀に入った今日、極東の島国の、その地方都市においても、やはり人は同じように魂を燃焼させるのであった。
「餅《もち》なんか食ってる場合じゃねえ!」
「そうだそうだ!」
「戻《もど》ろう、バリケードに!」
「俺たちの自由を守るんだ!」
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人を駆《か》り立てるものはなんであろうか。衣食住が満たされれば人は幸せを感じるというが、しかしながら生命の本質とは自らの生命を次なる世代に繋《つな》いでいくことであり、科学者のリチャード・ドーキンスによれば、そもそも生物とは利己的な遺伝子《いでんし》が自らを増殖《ぞうしょく》させるための乗り物にすぎない。すなわち種の繁殖《はんしょく》こそが生物の存在理由、レーゾン・デトールなのである。誰《だれ》もその衝動《しょうどう》には逆らえないのは必然であった。さらに特記すべきは、これまで傍観《ぼうかん》を決めこんでいた青年入院|患者《かんじゃ》が、多田《ただ》コレクションの放出とともに闘争《とうそう》戦線に次々と加わったことである。入院患者とはいえ、若い彼らの体力気力は闘争戦線への大いなるカンフル剤《ざい》となった。
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「ここにぃー、集結したすべての学生……いや病人諸君! 我々はぁー、断固としてぇー、戦い抜《ぬ》くことをー、誓《ちか》おうではないかぁー! 高圧的な病院当局のぉー、不当な介入《かいにゅう》をー、断固拒否するぅー! 官憲……いや病院当局をー、その歪《ゆが》んだ権力意識をー、プチ・ブルジョア意識をー、弾劾《だんがい》するぅー! 諸君、戦列をー、固めよぉー! 連帯こそがぁー、我々のぉー、唯一《ゆいいつ》の武器であるぅー! 鉄のぉー意志を持ってえぇー、断固戦おぅー!」
小林《こばやし》さんの声が響《ひび》く。
「さあ、シュプレヒコールをあげよう! 我々はー、戦うぞぉー!」
「我々はー、戦うぞー!」
「我々はー、戦うぞー!」
「我々はー、戦うぞー!」
声は病院中に響き渡《わた》っていた。
「我々はー、戦うぞー!」
「我々はー、戦うぞー!」
「我々はー、戦うぞー!」
まるで建物さえ震《ふる》えるかのようなその光景を、院長である鋼蔵《こうぞう》は苦々しく見つめていた。事態はついにここまで進んでしまった。今や男性入院|患者《かんじゃ》の九割がバリケードにこもっている。齢《よわい》九十三の、普段《ふだん》は立つことすらできない老人まで含《ふく》まれているほどだ。その老人がなぜだか急に立ち上がり、自らバリケードに入っていったという報告に、鋼蔵は耳を疑った。いかなる治療《ちりょう》も老いさらばえた彼を立たせることはできなかった。最期《さいご》のときが明らかに迫《せま》っていた。なにがその老人を立たせ、バリケードに導いたのであろうか。これはもはや、医療医学の敗北ではないか。父と自らが追い求めてきた理想が負けたのではないか。その恐怖《きょうふ》は鋼蔵を駆《か》り立て、苦しめ、胃が縮こまるような焦《あせ》りさえもたらしていた。
「ダメです、院長! 赤福《あかふく》にも七越《ななこし》ばんじゅうにも食いついてきません!」
若手医師が泣きそうに言う。
苛立《いらだ》たしそうに鋼蔵は叫《さけ》んだ。
「朔日餅《ついたちもち》! 朔日餅はどうしたのだ!」
「ダメです! 見向きもしません!」
「むむう」
そんなふたりを嘲笑《あざわら》うかのように、患者たちのシュプレヒコールが病院中に響き渡る。
「我々はー、戦うぞー!」
「我々はー、戦うぞー!」
「我々はー、戦うぞー!」
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ところで、本来なら当事者とも言える多田《ただ》吉蔵《よしぞう》の姿は、バリケード内にはなかった。そもそもの最初から、一度もバリケードになど入っていない。彼にとって、そんな騒《さわ》ぎはただ迷惑なだけであった。もっと追い求めるべきことがほかにあるではないか。
「春菜《はるな》ちゃん、春菜ちゃん、背中が痛いのう」
というわけで、今日も彼は健気《けなげ》に訴《うった》えていた。
「知りません! あっち行ってください!」
すでに手口がバレているので、つれないものである。
しかしここで諦《あきら》めないのが多田《ただ》吉蔵《よしぞう》だった。
「ほんと背中が痛いのう。さすってもらえると嬉《うれ》しいのう」
「あたし、忙《いそが》しいんです!」
多田吉蔵は胸を押さえ、呻《うめ》いた。苦悶《くもん》に顔が歪《ゆが》む。
経験の浅い春菜はあっさりと騙《だま》された。
「どうしたんですか、多田さん!」
「む、胸が……」
「大丈夫《だいじょうぶ》ですか、多田さん!」
「背中をさすってくれんかのう」
「背中ですね! これでいいですか!」
「おお、楽になるのう」
嬉しそうな声で言う多田吉蔵であった。極楽《ごくらく》とはこのことだ。あのバリケードの中に、この優《やさ》しく柔《やわ》らかい手があろうか。
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多田老人が新人看護婦を騙しているちょうどそのころ、東|病棟《びょうとう》のある病室では、ある少女がこんなことを尋《たず》ねていた。
「あの、谷崎《たにざき》さん。最近病院が騒《さわ》がしい気がするんですけど」
長い髪《かみ》を腰《こし》まで伸《の》ばした少女だ。
本当に不思議そうに尋ねている。
谷崎|亜希子《あきこ》は呆《あき》れたように言った。
「ああ、あれね。まったく、あのアホどもが。院長も院長だよ」
「え? どういうことですか?」
「多田さんって人がさ、ごっそりエロ本ためこんでてさ、それを知った院長が捨てろって言ったわけ。神聖な病院にそんなものを持ちこむのは許さないとかってさ。そうしたら、それは不当だって言い張る人がいて。まあ、だから揉《も》めてるわけ」
少女は、むうと顔をしかめた。
なんだかよくわからない。わからないけど、ひどく不快だ。邪《よこしま》なものを感じる。
「バカみたい」
ついそんなことを言ってしまう。
谷崎《たにざき》希子《あきこ》は肯《うなず》いた。
「まったくね」
「それで、裕一《ゆういち》はどうしてるんですか?」
「ん、バリケードの中にいるよ」
「じゃあ、その……あの……裕一がHな本を守る側に……?」
「まあ、そうなんだろうね。書記らしいよ。ナンバー2ってとこかな」
「ナンバー2? 裕一が?」
気がつくと、恐《おそ》ろしく低い声で少女は唸《うな》っていた。
「裕一がナンバー2? Hな本を守る側の?」
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「どうしたのだね、同志書記よ」
小林《こばやし》さんに尋《たず》ねられ、僕はあたりを見まわした。
「いや、なんか今、寒気が……」
背中のあたりが、こうブルッと来たんだよな。
いきなり。
よくわかんないけどさ。
小林さんは心配した様子で、僕の顔を覗《のぞ》きこんできた。
「いかんな。風邪《かぜ》かね。この大事なときに、ナンバー2である君が倒《たお》れられるのは困るね。これでも飲んでおきたまえ」
そして小林さんが差し出してきたのは、病院処方の薬だった。
僕はびっくりした。
「え、これ、どうしたんですか? 医者にしかもらえない薬でしょう?」
「ふふふ、病院関係者の中にも院長の強引なやり方に不満を持つものがいて、その同志が薬を流してくれるんだよ。考えてもみたまえ。奥《おく》のバリケードを守っている石崎《いしざき》さんにしろ、古沢《ふるさわ》さんにしろ、日々の投薬は欠かせない身体《からだ》だ。それなのに、なぜバリケードの中にこもってられると思う? それはね、薬を流してくれる同志がいるからだよ」
びっくりした。
まさかそんなところまで、小林さんの手が伸《の》びているとは。
「スパイってことですか?」
「まあ、そういう言い方もあるかもしれんがね」
なんだかよくわからないけど、すごい世界だった。大人の戦いだ。息を呑《の》んでバリケード内を見まわした僕は、あることに気づいた。
「そういえば、滝口《たきぐち》さんって最近見ないんですけど」
「ふふ」
不敵に笑う中林《こばやし》さん。
「彼は病院当局に通じていたのでね、粛清《しゅくせい》したよ」
「しゅ、粛清……」
「まあ、政治|闘争《とうそう》に裏切りはつきものだ」
「う、裏切り……」
どうも言ってることがよくわからない。粛清とはいったいどういうことだろうか。聞きたいけど、怖《こわ》くて開けなかった。いやまあ、きっと備品倉庫に閉じこめるくらいのことなんだろうけど。そうして黙《だま》りこむ僕の前で、小林さんの顔が陰惨《いんさん》に歪《ゆが》んだ。
「これも新たな情勢に備えるためだよ。確かにこういったやり方は一部の反感を招くかもしれないが、執行部の断固とした決意はむしろ純粋《じゅんすい》なる闘士の結束を固めるだろう。民主的戦闘的運動の実践《じっせん》だよ、まさしく。いや、思い出すねえ、三十年前を。岡林信康《おかばやしのぶやす》やジョーン・バエズを聴《き》きながら、鬼《おに》の四機と戦ったものだ。今も目を閉じると仲間たちの声が聞こえてくるよ。安保粉砕《ふんさい》、講堂死守、時計台死守、新宿西口広場の歌声、断固|封鎖《ふうさ》の叫《さけ》び声──」
もう口を挟《はさ》むことさえできず、僕は固唾《かたず》を呑んで見守っていた。
結局、小林さんの追憶《ついおく》を途切《とぎ》れさせたのは、外部的要因だった。
「そこまでだあああ!」
とんでもない大声が、響《ひび》き渡《わた》ったのだった。
φ
状況《じょうきょう》が行き詰《づ》まったとき、圧倒的《あっとうてき》力を有する一方が、その物量を背景とした実力行使に打ってでるのは、いわば歴史の必然である。大東亜《だいとうあ》戦争において、日本軍がはるかガダルカナルに達したころ、アメリカ軍は想像しがたいほどの戦力を彼《か》の地に置き、次々やってくる日本軍を機関銃《きかんじゅう》の十字砲火《ほうか》によって圧倒していった。安田講堂に立てこもった学生たちを排除したのは、結局学生たちが見下していた警官たちであった。その歴史の必然が、ここ若葉《わかば》病院でも繰《く》り返されようとしていた。人類の飽《あ》くなき繰り返し、必然、輪廻《りんね》の輪。宿命という名で呼ぶには、あまりにも愚《おろ》かであろうか。
φ
「なんだ?」
バリケードの向こうを覗《のぞ》きこんだ小林《こばやし》さんは息を呑《の》んだ。
続いて、僕も覗きこむ。
「え?」
その途端《とたん》、言葉を失った。バリケードの向こうに立っていたのは、偉丈夫《いじょうふ》であった。身長は軽く百八十を超《こ》え、胸囲一メートルはあろうかという胸をぱんと張り、たくましい腕《うで》をたくましい肩《かた》からぶら下げ、巨大な足をあたかも大地を押さえるかのごとく床《ゆか》に踏《ふ》ん張っている。彼が軽く腕を一振《ひとふ》りしただけで、どんなバリケードでさえも崩《くず》れ落ちそうな迫力《はくりょく》があった。しかしなぜか顔にはマスクをかぶっている。そして学生服である。
「さあ、君」
学生服&マスクマンの横に立っていた院長が、そう言った。
「あの下らないバリケードを壊《こわ》してくれたまえ」
「はい」
肯《うなず》くと、謎《なぞ》のマスクマンが近づいてくる。
僕はバリケードから飛び降りた。考えるよりも先に、体が動いていたのだ。
「なにしてんだよ、司《つかさ》」
叫《さけ》ぶと、学生服&マスクマンがぎくりとした。
「ち、違《ちが》う。わたしは──ミル・マスカラスだ」
なんだか照れくさそうな声だった。「わたしは」と言ったあとにしばし間があって、それから「ミル・マスカラスだ」って口にした感じ。
「おまえさ、マスカラスだって名乗ったとき、ちょっと嬉《うれ》しそうだっただろ?」
「え、ええっ。そ、そんなことないよ」
「ったく、これだからプロレスおたくは」
「ち、違うって! ちょっと知ってるだけだよ!」
ぶっとい両腕を振りまわして、あたふたと学生服&マスクマンが抗弁《こうべん》してくる。言えば言うほど、嘘《うそ》くさくなるだけだ。
僕はあっさり告げてやった。
「じゃあ、なんだよ、そのマスクは。それってプレミアバージョンのマスクだろ」
「う……」
「そんなマスク、普通《ふつう》のヤツが持ってるわけないだろ」
「なんでそんなこと知ってんのさ、裕一《ゆういち》」
「え、それは……」
「裕一こそ、プロレスおたくなんじゃないの?」
「なわけないだろ。ていうか、おまえ、素《す》に戻《もど》ってるぞ」
「あ、しまった」
学生服&マスクマンは……いやまあ、絶対に司《つかさ》なんだけど……頭を抱《かか》えて呻《うめ》いた。それからいきなり低い声で、
「わたしはミル・マスカラスだ」
と言い張る。
僕はため息を吐いた。
「だから、おまえ、なんで嬉《うれ》しそうなんだよ?」
僕たちの下らないやりとりを遮《さえぎ》ったのは、やっぱり院長だった。
「なにをしておる。早くバリケードを壊《こわ》すんだ」
司にそう指示を下す。
肯《うなず》いた司は、バリケードに向かって歩いてきた。いや、すごい迫力《はくりょく》だ。ただ近づいてくるだけで、バリケードが壊れそうな気がする。
しかし僕はその前に立ちはだかった。
「なんでだよ、司。なんでこんなことしてるんだよ」
「わ、わたしはミル・マスカラスだ」
「だから嬉しそうに言うなって。わかった、わかったよ。じゃあ、ミル・マスカラスでいいから。マスカラス、どうしてこんなことしてるんだ。もしかして……金か?」
「う……」
偉丈夫《いじょうふ》が言葉に詰《つ》まる。
くそ、やっぱりそうか。
「いくらだよ。二万? 三万? 金で魂《たましい》売るのか、おまえは?」
「スペル・ソラールのマスクが欲《ほ》しくて……」
問いつめると、正直な司は……いやまあ、いちおう学生服&マスクマンだけど……真実をあっさり告白した。
その言葉を聞いた途端《とたん》、すべての状況《じょうきょう》を忘れ、僕は興奮《こうふん》していた。
「え、売り出すのか?」
「うん。今度、百枚限定で。一万円なんだけど」
「マジかよ! すっげえ欲しいぞ!」
権利関係で揉《も》めているとかで、スペル・ソラールのマスクだけは今まで一枚も売り出されていない。百枚限定となれば、即《そく》完売は確実だ。そのあとネット・オークションで転売すれば、数万の値段がつくだろう。もちろん真のファンはオークションに出したりなんかしないけどさ。
「欲しいな」
「うん、欲しいよね」
「そうか、一万か」
「うん、一万円なんだよ」
僕たちは呪《にら》みあったまま、共に唸《うな》った。考えているのは、華麗《かれい》なるスペル・ソラールのことだった。そのきらびやかなマスクだった。
「もう、いい! わしがやる!」
焦《いじ》れたのか、院長が飛び出してきた。
「させるか!」
小林《こばやし》さんがバリケードから飛び降りる。
僕たちそっちのけで、当事者であるふたりがついに睨みあうことになった。僕たちとは違《ちが》って、かなり真剣《しんけん》な様子だ。
「どけ!」
「断る! むしろ我々は謝罪を要求する!」
「謝罪だと? わしに歯向う気か! わしは院長だぞ!」
「造反有理!」
そしてふたりはいきなり組みあった。うわ、実力行使だ。体格的に勝る院長が簡単に小林さんを組み伏《ふ》せるかと思ったけど、中林さんはむちゃくちゃな勢いで拡声器を院長の頭に打ちつけた。「くわらっしゃあああ────っ! くわらっしゃあああ────っ!」とか叫《さけ》んでて、すさまじい形相だ。軽く二倍の体重を持つ院長がその気合いに押されている。あ、でも、院長もすごい。小林さんに抱《だ》きついて、その細い体をぎゅうぎゅうと締《し》め上げている。とんでもない戦いだ。どちらもまったく負けていない。
「すごい」
学生服&マスクマンが呻《うめ》いた。
「ああ、すげえ」
僕も呻いていた。
もはやそれは誰《だれ》も手の出すことのできない至高の戦いへと昇華《しょうか》しつつあった。病院職員も、患者《かんじゃ》も、我を忘れて見入っている。
決着は、どうなるか──。
息を呑《の》んで見守る僕たちの前で、しかし意外なことが起きた。どういうわけか、拡声器を振《ふ》るう小林さんの勢いが急に衰《おとろ》えたのだ。天井《てんじょう》高く振り上げた拡声器がぶるぶる震《ふる》え、やがて小林さんの手からぽろりと落ちた。床《ゆか》に叩《たた》きつけられた拡声器が「ガ、ピッ」と断末魔《だんまつま》の悲鳴をあげる。
「む、むむ……身体《からだ》が……動かんぞ……」
苦しそうに、小林さんが呟《つぶや》いた。
院長は勝ち誇《ほこ》ったように叫ぶ。
「ふははは、田辺《たなべ》医師が貴様に提供していたインシュリンは偽物《にせもの》だったんだよ。どうだね、血糖値があがったかね」
「田辺《たなべ》め……騙《だま》していたのか……二重スパイとは……くっ、卑怯者《ひきょうもの》め……」
勝負は決しようとしていた。もはや小林《こばやし》さんの目は虚《うつ》ろで、院長の腕《うで》の中でぐったりしている。
院長は蔑《さげす》むように告げた。
「なんとでも言いたまえ。勝てば官軍。まさしく官軍。正義は──」
だが、そこで院長の言葉が切れる。顔を歪《ゆが》めたかと思うと、小林さんを締《し》め上げていた腕の力が一気に緩《ゆる》む。小林さんは床《ゆか》にずるりと投げ出され、それと同時に院長が脇《わき》に倒《たお》れた。
「心臓が……心臓が……」
胸を押さえ、院長が苦しげな声をあげる。
若い医者が駆《か》けつけてきた。
「院長、無理をなさるから! 最近血圧が高くなっているのに!」
「むむう」
しかし、院長は顔を歪めるばかり。
若手医師は傍《かたわ》らに倒れている小林さんの身体《からだ》にも手を置いた。
「小林さん、大丈夫《だいじょうぶ》ですか!」
「くうう」
やはり小林さんも苦しそうに呻《うめ》いている。
「担架《たんか》だ! 担架を持ってこい!」
医師は叫《さけ》んだ。そのあとの混乱をうまく表現するのはなかなか難しい。職員やら患者《かんじゃ》やらが協力して担架を持ってきたのはいいものの、でかい院長の身体は担架に乗らず、乗った途端《とたん》に逆方向に転げ落ち、そのついでに院長はすでに担架に乗っていた小林さんを引きずり落とし、くそ死ねおまえこそいやほんとに死にますから危ないですから造反有理|八紘一宇《はっこういちう》ほらまた乗せるぞ一、二の三また落ちましたどうすればいいんだふたつだ担架をふたつ使いましょうじゃあ小林さんの分はどうするんだわたしがおぶっていきますいかんそれは危険だとにかく担架に乗せないと一、二の三──という具合で、なんだかよくわからないうちに、ふたりは担架に乗せられてどこかへ運ばれていった。
「なあ、司《つかさ》」
「え、なに?」
「スペル・ソラールのマスク、ふたりで買わないか。五千円ずつ出して」
「あ、いいね」
すさまじい喧噪《けんそう》の中、僕と司はそんなことを話していたんだけどさ。
φ
その後の展開は混乱に混乱を極《きわ》めた。中心人物である東条鋼蔵《とうじょうこうぞう》と小林《こばやし》喜多二《きたじ》が倒《たお》れたあと、事態の収拾《しゅうしゅう》に当たるべき人物が誰《だれ》もいなかったのだ。それほどふたりの影響《えいきょう》は強く、今回の混乱はすなわち彼らによってのみ引き起こされたと言っても過言ではなかった。バリケードによる封鎖《ふうさ》は解かれたものの、バリケード自体はそれから二週間にわたり放置され、その隙間《すきま》を縫《ぬ》うように医師看護婦|患者《かんじゃ》は通路を歩かねばならなかった。混乱が最終的に収まったのは、事態の勃発《ぼっぱつ》より、およそ十日後のことであった。多田《ただ》コレクションの存在は黙認《もくにん》された。排除しようとしてあの騒《さわ》ぎが起きてしまったのだから、もう放っておくしかなかったのである。病院側の抵抗《ていこう》は、そのメンツを守るため、ロビーの掲示板《けいじばん》に『風紀を乱す所有物の持ちこみ厳禁』と書かれた紙が一枚張られただけであった。多田コレクションはそのように大きな犠牲《ぎせい》の下に守られた。
これが市立若葉《わかば》病院を震撼《しんかん》させた猥画騒動《わいがそうどう》の顛末《てんまつ》である。
そろそろ最後になるが、院長東条鋼蔵と闘士《とうし》小林喜多二が同じ病室で闘病生活を送ることになった事実を付け加えておく。空き病室がなかったためである。
「この右翼《うよく》! 倣慢《ごうまん》なその性質を断固|糾弾《きゅうだん》するぞ!」
「左翼崩《さよくくず》れがなにを言う! 貴様らの無責任がこの無気力な日本を作ったのだ!」
「大戦の総決算から目を逸《そ》らしたあんたたちにこそ、その責はあるはずだ!」
「黙《だま》れ! アカ!」
「うるさい! ネオコン!」
「八紘一宇《はっこういちう》!」
「立て万国の労働者!」
「五国協和!」
「安保改定反対!」
「打ちてしやまん!」
「プロレタリア万歳《ばんざい》!」
並んだベッドに横たわったまま罵《ののし》りあうその光景は、混乱期にありがちな微笑《ほほえ》ましい一幕であった。
φ
そして僕は凍《こお》りついていた。
「裕一《ゆういち》、バリケードの中にいたんだって?」
「う、うん」
場所は里香《りか》の病室である。ようやく解放されて、足取りも軽く里香の病室に向かったところ、なぜか僕の顔を見た里香がにやりと、そうさ、ひどく不気味《ぶきみ》に微笑《ほほえ》んだのだった。
「い、いや、マジで大変だったんだって!」
僕は慌《あわ》てて言った。嘘《うそ》じゃないぞ。マジで大変だったんだから。病室は占拠《せんきょ》されるし、わけのわかないビラは作らされるし。
「ふーん、そっか。大変だったんだ。Hな本を守るためだっけ?」
うわ、なんで知ってんだ。そりゃ知ってるか。同じ病院で起きたことだし。
「そ、それは小林《こばやし》さんが喚《わめ》いてただけで」
「書記だったんだよね? 書記ってナンバー2なんでしょ?」
「ど、どうしてそれを……」
「すごいねえ、裕一《ゆういち》。そんなにまでして守りたかったんだねえ、Hな本」
「そ、そんなことないけど……」
「ふふふ」
「ははは」
「ふふふ」
「ははは」
ごまかそうと思って笑ってみたが、笑えば笑うほど、里香も笑ってくる。顔はにこやかだけど、しかし目が全然笑ってない。ものすごく怖《こわ》かった。震《ふる》えあがった。だからやっぱり笑うしかない。ああ、どうすればいいんだろう。誰《だれ》かこの難局を乗り越《こ》える術《すべ》を教えてくれ。
「ふふふ」
「ははは」
「ふふふ」
「ははは」
というわけで、僕たちはひたすら笑いつづけた。
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これが私立|若葉《わかば》病院を揺《ゆ》るがせた猥画騒動《わいがそうどう》の全|顛末《てんまつ》である。後生のより賢明《けんめい》なる諸君よ。我らの愚《おろ》かさを知り、笑うなかれ。嘆くなかれ。人は哀《あわ》れ、愚かな生き物である。過《あやま》ちを犯《おか》しつづける定めである。そのことを心に刻み、輝《かがや》かしい未来を築くことを望むものなり。なお、当文書は事務局ロッカーに保管せし機密文書用小金庫内に厳重かつ慎重《しんちょう》に秘匿《ひとく》し、持ち出し及《おび》び閲覧《えつらん》は不可とする。
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なんてことだろう。
嫌《いや》なことを押しつけられてしまった。
あたしはどっちかっていうと引っこみ思案なほうで、誰《だれ》とでもすぐに仲良くできるタイプじゃない。だから学校の友達も舞《まい》ちゃんとか美紀《みき》ちゃんくらい。特に男子と話をするのは二学期になった今でもちょっと怖《こわ》かったりする。舞ちゃんとか見てると、時々すごくうらやましくなる。だって舞ちゃんは誰とでも平気で話せちゃうんだもん。この前、湊《みなと》中との交流会で、向こうの生徒と浜名湖《はまなこ》まで行った。もちろんお互《たが》いに学校の先生とかがいて、普通《ふつう》に真面目《まじめ》な交流会って感じ。研修所みたいなところで午前中は戦争とか差別とかボランティアの勉強なんかをしてたんだけど、その日はやけにいい天気だったから先生たちの気も緩《ゆる》んじゃって、午後は自由時間みたいになった。旅先だからあたしもなんとなく軽い気持ちになれて、みんなと普通に遊んだ。向こうの男子ともそんなに緊張《きんちょう》しなくても話せた。ほんとその日は楽しかった。心がふわりと軽かった。いつもの自分じゃないみたいだった。
ちらちらと光を跳《は》ね返している湖面を見ていたら、木本《きもと》君っていう男の子に言われた。
「その髪留《かみど》め、可愛《かわい》いね」
お気に入りの髪留《かみど》めだった。
去年結婚したお姉ちゃんからもらったもので、暗いところだと普通《ふつう》の青なんだけど、瑠璃《るり》みたいな感じの材質だから、光が当たると澄《す》んだような藍《あい》に変わってキラキラ光るのだ。
木本《きもと》君は優《やさ》しそうな人だった。
話してみたかった。
でもやっぱり恥《は》ずかしくて、
「ありがとう」
なんて言えなかった。
ちょっと笑って、肯《うなず》くだけ。
これがなんでもない会話、たとえば「いい天気だよね」とか「そっちの学校ってどんな感じ?」とかだったら、たぶんいろいろ話せたと思う。
でも褒《ほ》められたから。
あたしじゃなくて、髪留めだけど、褒められたから。
すごく恥ずかしくなってしまった。
それでも勇気を出してなにか言おうと思っていたら、ほかのグループがやってきて、木本君とふたりきりで話す機会はなくなってしまった。ほんとはちゃんとお礼を言いたかった。褒めてもらったんだから。ありがとうって。そればっかり考えていた。そのうち午後も遅《おそ》くなって、帰る時間がやってきた。空の青が薄《うす》くなり、風が吹《ふ》きはじめ、影《かげ》がどんどん長くなって……一日が終わるあの寂《さび》しい感じ。
バスに乗ろうとしたとき、ちょうど木本君の姿が見えた。
なぜかバスの後ろにひとりでまわりこむ姿。
あれどうしたんだろう、とは思ったけど、お礼を言うチャンスだったから、精一杯《せいいっぱい》の勇気を振《ふ》り絞《しぼ》り、あたしは乗りかかっていたバスから降りて、彼のあとを追った。
それで……それで見ちゃったんだ。
木本君と舞《まい》ちゃんが携帯《けいたい》の番号を交換《こうかん》してるところ。
びっくりした。
あたしには、ああいうのって絶対にできない。
思い返してみれば、木本君と舞ちゃんはなんとなくいい雰囲気《ふんいき》だった。ずっといっしょにいたし、時々舞ちゃんが木本君の肩《かた》に手を置いたりしてた。まあ、手を置いたっていっても全然いやらしくなくて、すごく自然な感じ。ああいうふうに男の子と接するなんてあたしにはできないので、むしろすごくどきどきした。そしてどきどきしてるだけの自分が惨《みじ》めに思えた。
だから。
そう。
よく知らない女の子とふたりきりで会うなんて、あたしには荷が重い。
「やだなあ……」
言葉が自然と漏《も》れた。
さっきから同じ言葉をずっと繰《く》り返してる。
後ろを振《ふ》り返れば、アスファルトの表面に、あたしが落としていった「やだなあ」が十メートルごとに張りついてるんだろう。
ああ、病院が見えてきた。
すっごく大きい病院だ。
ようやく見えてきたけど、たどりつくまであとどれくらいかかるのかな。
五分?
十分?
いつまでも着かなければいいのに。
「おい、吉野《よしの》!」
頭に柿崎《かきざき》先生の声が蘇《よみがえ》ってくる。
「吉野|綾子《あやこ》!」
柿崎先生って、せっかちなんだ。
こっちが少しでもぼーっとしてると、すぐにフルネームを連呼する。
あたしは慌《あわ》てて立ち上がった。
「は、はい」
教室中のみんながあたしを見ていて、それが恥《は》ずかしかった。
髪《かみ》、はねてないかな……。
前にこうして立ってたら、みんながくすくす笑った。でもあたしにはなんでかわからなくて、すごく焦《あせ》ってしまい、簡単な回答なのにしどろもどろになった。それでもとにかく答えて席についたら、隣《となり》の席の舞《まい》ちゃんがやっぱり笑いながら教えてくれた。髪はねてるよって。あれからいつも、授業中に立ちあがるときは髪を一度両手で押さえることにしてる。
だからたぶん、髪は大丈夫《だいじょうぶ》。
こんなつまらないことでも、しっかり自分に言い聞かせないと落ち着けない。
「これな、秋庭《あきば》に届けてくれ」
柿崎先生は厚いプリントの束を差しだすと、そう言った。
秋庭……。
開きなれない名前だったので、しばらく誰《だれ》かわからなかった。
「あ、はい」
わかったと同時に肯《うなず》く。
そして教室の一番奥《おく》、入り口の脇《わき》にある机を見た。一学期から置かれっぱなしで、誰も座ることのない席。同じように、誰も使うことのないロッカーが教室の後ろにあって、そこには『秋庭《あきば》里香《りか》』というネームプレートがついている。でもその秋庭里香を見たことがあるクラスメイトはほとんどいない。身体《からだ》が悪いせいで、ずっと病院にいるのだそうだ。なんでも命にかかわるような病気らしい。授業には一度も出ていなかった。それどころか学校に来たことさえもない。
だけど彼女もいちおう高田《たかだ》中学校三年一組の生徒であるのは確かなわけで、柿崎《かきざき》先生は週に数回、クラス委員の岬《みさき》君か立花《たちばな》さんに授業で使ったプリントを届けさせている。
岬君は盲腸《もうちょう》で入院中。
立花さんはこの前部活の試合で──ソフトボール部なんだけど──鎖骨《さこつ》を折って、やっぱり休み。
でも、なんであたしに?
そう思っていたのが顔に出てたのかもしれない。
「幣原《しではら》病院の近くだろ。お前の家。だから頼《たの》む」
柿崎先生は続けてそう言った。
確かに幣原病院は家から近い。歩いて十五分とか二十分くらいだろう。他《ほか》にもっと近そうな人がいるような気もしたけど、よくわからなかった。もう二学期になったのに、三十五人いるクラスメイトたちがどこに住んでるのかあたしはほとんど知らない。それに、もっと近い人がいたとしても、その人に押しっけるなんてできるわけがなかった。
舞《まい》ちゃんなら、違《ちが》うんだろうな。
「松尾《まつお》君のほうがもっと近いですよお」
なんて、ちょっとふざけた感じで言って、でも舞ちゃんだと全然|嫌味《いやみ》に感じられなくて、それで松尾君も舞ちゃんが美人だからしかたないなあってことになって、なんとなく引き受けてしまうんだろう。
あたしには無理だ。そんなことできない。舞ちゃんみたいには喋《しゃべ》れない。全然美人でもない。
だからこうして、病院に向かって、ひとりきりで歩いてる。
病院に着くと、あまりの広さにどこをどう行ったら秋庭里香の病室にたどりつけるのかわからなくて途方《とほう》に暮れそうになった。とにかくロビーの中だけで何十人も人がいて、その誰《だれ》もが不機嫌《ふきげん》そうな顔をしている。まあ病気だからこそ病院に来てるわけで、機嫌がいいはずがない。受付で場所を聞き、それでも何度か迷いながら、ようやく『秋庭里香』っていうプレートがかかっている病室にたどりついた。
どんな子なんだろう。
ずっと入院してるくらいだから、おとなしい子なんだろうな。命にかかわるくらい重い病気なら、なおさらだ。
おとなしい子だったら、あたしでも気後《きおく》れせずに話せるかもしれない。
ノックをすると、
「どうぞ」
と声が聞こえた。一回だけ深呼吸してからドアを開けたら、頭になにか衝撃《しょうげき》がきた。ぽこんって感じ。わけがわからなくなって、でも自然と視界の端《はし》っこで動くものを見たら、それはクマさんのぬいぐるみだった。
なんでこんなものが?
このクマさんが落ちてきたの?
どうして?
混乱したまま顔を上げると、女の子と目があった。
ベッドで上半身を起こし、あたしを見てた。
ちょっと驚《おどろ》いた感じ。
「あ、あの……」
あたしは慌《あわ》てて言った。でも、なんて言えばいいんだろう。ああ、そうだ、プリントを持ってきたんだ。
「えっと……プリント、持ってきたの……」
秋庭《あきば》里香《りか》は黙《だま》ったまま。
「岬《みさき》君も立花《たちばな》さんも休みで……だから……」
あたしだけが喋《しゃべ》ってる。
「だから……あたしが……代わりに……」
なんでなにも言ってくれないんだろう。
少し腹が立ったけれど、ちゃんと事情を説明できない自分が情けなくもなって、あたしの言葉は切れてしまった。
ベッドに歩み寄り、プリントを差しだす。
「そこ、置いといて」
ようやく秋庭里香が口を開いた。
彼女が目で示したサイドテーブルを見ると、そこにはプリントが何校も重ねられていた。学校で使ってるプリントだ。今まで岬君や立花さんが持ってきたもの。そのプリントにはなにも書きこまれていなかった。ただ積み重ねてあるだけ。
きっと見てもいない……。
長い長い道を歩き、汗《あせ》を流し、影《かげ》を踏《ふ》み、影に追いかけられ、「やだなあ」をいくつも落としながらここまで来たのに、まったく無意味だったんだ。ここまでプリントを捨てにきたようなものだ。
ねえ、と秋庭里香が言った。
「車椅子《くるまいす》、取ってきて」
「え? 車椅子《くるまいす》って?」
「外、行きたいから」
いきなりそんなことを言われてもわけがわからず、ただぼんやりしていると、秋庭《あきば》里香《りか》の顔がどんどん不機嫌《ふきげん》そうになっていった。
「あたしひとりじゃ無理だから、連れてってほしいの」
「…………」
「車椅子の場所は看護婦さんに聞けばわかるから」
なんて勝手な子だろう。
どうしてあたしがそんなことを手伝わなければいけないの?
ただプリントを持ってきただけなのに。
だけどもちろんそんなことを言えるはずがなくて、結局あたしは秋庭里香に言われたとおり、廊下《ろうか》へ出た。散々苦労して看護婦さんを見つけだし、理由を説明して、車椅子を貸してもらった。
秋庭里香との散歩は──といってもあたしは車椅子を押してただけ──全然楽しくなかった。彼女はずっと黙《だま》っていて、あたしも黙っていて。病院の外を五分くらい歩いたところで、秋庭里香がいきなり戻《もど》ると言いだした。それであたしは慌《あわ》てて戻った。ほんと、なんて勝手な子なんだろう。なのに、どうしてそんな子にあたしはつきあってるんだろう。嫌《いや》だって言えないんだろう。
秋庭里香を病室に送り届けてから、ようやく家路についた。もう太陽は大きく傾いていて、ちょっと涼《すず》しすぎるくらい。夏のあいだは真っ黒に感じられたアスファルトも、今ではむしろ白っぽく見えた。いつまでも続くように思えた暑い夏は過ぎ去ってしまった。秋に押しだされた。
アスファルトに落ちる自分自身の影《かげ》を見つめながら、あたしは秋庭里香のことを思いだしていた。実際に顔をあわせるまで、秋庭里香のことなんて考えたことさえもなかった。なにしろ彼女の席はずっと空っぽで、その名前を見るのは名簿《めいぼ》のみ。いるかいないかわからない……というより、いないに等しい存在だったのだ。けれどこうして顔をあわせた今、彼女のことがしつこく頭に浮《う》かんできた。やたらときれいな顔をしていて、髪《かみ》が長くて、ものすごくわがままで……この最後のわがままっていうのが大きいのかもしれなかった。
会ったばかりの相手に命令なんて普通《ふつう》はできない。あたしには絶対無理。舞《まい》ちゃんにだってできないだろう。舞ちゃんならもっとうまく、お願いするような感じで、頼《たの》みを聞いてもらおうとするに違《ちが》いない。ああ、だとしたら秋庭里香はわがままっていうより正直なのかな。でも正直って言葉はきれいすぎる。そんな上等なものじゃない。じゃあ、なんだろう。わがまま、正直……気が強い……自分勝手……不器用……あ、それって近いかも。秋庭《あきば》里香《りか》は自分勝手で不器用。そして舞《まい》ちゃんは自分勝手で器用。似てるようで、これってけっこう違《ちが》う。──と、そんなことを考えていたら、目の前でものすごい音がして、あたしは立ち止まってしまった。いきなりだったので頭が真っ白になった。少したってから、その昔が車のクラクションだとわかる。白い大きな車だ。何度も何度も、今もしつこく鳴らしてくる。どうやら駐車場《ちゅうしやじょう》に入るのにあたしが邪魔《じゃま》らしい。だけど、あたしが歩いているのは歩道だし、どう考えたって優先権はあたしにある。こんなにしつこく鳴らさなくてもいいのに。見れば、車に乗っているのは少し太った男の人だった。銀縁《ぎんぶち》の眼鏡《めがね》をかけている。目があうと、さらにクラクションを鳴らしてきた。ぱあーんぱあーん──。なんだか怖《こわ》くなってきて、あたしはぺこりと頭を下げると、慌《あわ》てて脇《わき》にどいた。その途端《とたん》、車はエンジンを唸《うな》らせながら、荒《あら》っぽく駐車場に飛びこんでいった。排気ガスの直撃《ちょくげき》を受け、あたしは咳《せ》きこんだ。喉《のど》が痛い。胸の奥《おく》が気持ち悪い。ほんと今日は嫌《いや》なことばっかり……。
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とんでもないものを見てしまった。
まだ岬《みさき》君と立花《たちばな》さんが休んでるので、次の日も同じようにプリントを秋庭里香に届けることになった。やだなあやだなあ、とやっぱり同じことを思いながら、けれど今度は迷わずに彼女の病室に行ったところ、中から大人の声が聞こえてきた。
ドアが開いていたので覗《のぞ》きこむと、白衣を着た男の人がふたり立っていた。
ひとりは背筋がぴんと伸《の》びている上に顔も整っており、とにかくやたらとカッコよかった。
もうひとりは少し太ってて、陰気《いんき》な感じがする銀線の眼鏡をかけていた。
あの人だ。
白い車に乗ってた人。
クラクションをたくさん鳴らした。
嫌な人。
ふたりはなにかの紙を覗きこみ、真剣《しんけん》な顔で話していた。秋庭里香のほうはベッドに座っており、そんな彼女の前には配膳台《はいぜんだい》に乗った食事があった。
入っていっていいものか悩《なや》んでると、秋庭里香がペンを落とした。
あれ? わざと?
偶然落としたって感じじゃない。わざわざサイドテーブルからペンを取って、床《ゆか》に投げたのだ。カタンって音がしたから、お医者さんたちもすぐに気づいたみたいで、少し太った人がぶつぶつ文句を言いながら──言葉はちゃんと聞こえなかったけど声の調子でわかる──落ちたペンを拾おうとした。
その瞬間《しゅんかん》だった。
秋庭《あきば》里香《りか》は配膳台《はいぜんだい》に乗ったトレイからお茶碗《ちゃわん》を取ると、いきなり傾けた。ぼとぼとと音がして、白いものがお医者さんの頭に滴《したた》り落ちる。ああ、お粥《かゆ》だ。偶然じゃなくて、もちろんわざとだった。続いて秋庭里香は別の椀《わん》を取り、今度はその中身の味噌汁《みそしる》をぶちまけた。具はワカメで、お医者さんの頭にべっとり張りついた。それから煮物《にもの》、鰹節《かつおぶし》がかかった冷奴《ひややっこ》、最後には漬物《つけもの》まで。
「すごい……」
思わず、あたしは呟《つぶや》いてしまった。あんなこと、あたしには絶対できない。しかもデザートのプリンだけは残してるし。
「すごい……」
どうやらそう感じたのはあたしだけじゃないらしく、カッコいいほうのお医者さんは必死になって笑いをこらえていた。いちおう怒《おこ》ったような顔をしているが、頬《ほお》のあたりが引きつってるんで面白《おもしろ》がってるのがなんとなくわかる。
ワカメを頭に乗っけたお医者さんだけが、ショックのあまり呆然《ぼうぜん》としていた。
秋庭里香って、すごい……。
それにしても、秋庭《あきば》里香《りか》はわがままだ。
汚《よご》れた病室を看護婦さんが掃除《そうじ》したあと、ようやくあたしは彼女の病室に入ることができた。
「あの、プリント──」
「本、買ってきて」
言い終わらないうちに、言葉を遮《さえぎ》られた。ほんと、いきなりだった。
「え? 本?」
「あたし、買いにいけないから。買ってきて」
「………」
「この本の続き」
秋庭里香が見せたのは若草物語だった。あ、これ知ってる。中学のとき、お姉ちゃんが読んでて、あたしもお姉ちゃんのあとを追うように読んだんだ。彼女の持ってるのは、アニメの絵がついたヤツだった。お姉ちゃんがいつだったか、ぶつぶつ言ってた。前の表紙のほうがよかったのに、アニメを放映したら、そっちに変わっちゃったんだよ、ひどいよね。ずっとずっと、それこそ何年もそう言って怒《おこ》ってたっけ。
「お金はそこにあるから」
彼女が指差したのは、サイドテーブルだった。
「その一番上の抽斗《ひきだし》」
抽斗を開けると、千円札が七枚と小銭《こぜに》が五百円分くらい入っていた。こんなに無用心でいいんだろうか。
「あの──」
「なに」
「千円だけ持ってくね。文庫だから、それで買えると思うし」
「お願い」
投げやりな感じ。お願いなんて言ってるくせに、全然お願いじゃない。人に命令しなれてると、思いやりとか優《やさ》しさとかなくなっちゃうのかも。命令するのが当たり前で。
「じゃあ、借ります」
自分で言ったくせに、おかしな言い方だな借りるわけじゃないのにと思いながら、千円だけ抜きだし、スカートのポケットに入れた。秋庭里香はあたしの様子を見てもいなかった。ベッドに横たわって、ただぼんやりしてる。あたしがいくらか盗《ぬす》んでも、これじゃ全然気づかないだろう。
プリントと入れ替《か》えに千円札を持って、あたしは病院を出た。秋庭里香は病人なんだから優しくしてあげなきゃいけないんだろうけど、命令なんかされると、そんなふうに思うことなんてできなかった。かといって、今さら買いにいくのをやめるわけにはいかない。お金を持って出てきてしまった以上、ちゃんと買って秋庭里香に本を渡《わた》さなきゃ。
あ、そうだ……。
ふいに思いだした。この本、あたしの家にもあるんだった。お姉ちゃんが置いていったまま、本棚《ほんだな》に入ってる。それを貸してあげれば、お金を使わないですむ。それに、本屋に行くよりも家に行って取ってくるほうが近いし、ずっと楽だ。ちょっと迷った未、あたしは自分の家に向かった。お母さんはまだ帰ってなくて、家の中はしんとしていた。のたのたと階段を上り、お姉ちゃんの部屋に向かう。もう帰ってくることなんてないのに──もし帰ってきたら、それは離婚《りこん》ということで大変だ──お姉ちゃんの部屋は以前とほとんど変わらないままになっていた。ただ壁《かべ》に貼《は》られたアイドルのポスターだけが少しずつ、いろんな意味で色あせていくだけ。本棚を探すと、すぐに目当ての本は見つかった。若草物語の続刊。上下巻。『続・愛の若草物語』なんて恥《は》ずかしいタイトルだった。愛の、なんてつけなくてもいいのに。迷った末、上巻だけを持って、あたしは家を出た。
ふたたび病院を目指す。
それにしても、いったいなんでこんなことをしなきゃいけないんだろう。今度は嫌《いや》だって言おう。あたしはあんたの使いっぱしりじゃないって。だけど秋庭《あきば》里香《りか》が怒《おこ》ったらどうしよう。ものすごく怖《こわ》そうだ。怒鳴《どな》り散らされたら、泣いてしまうかもしれない。そんなことを思うと憂鬱《ゆううつ》になった。このままいっそ、家に帰ってしまおうか。それなら彼女と顔をあわせなくてすむ。ああ、でも、本はどうしよう。使わなかったお金も返さなきゃいけない。
そんなことを考えているうちに、病院に着いてしまった。
ああ、やだなあ……やだなあ……。
だんだんうまく息ができなくなってきた。生ぬるい空気が喉《のど》に絡《から》んで、肺まで入ってこない感じ。立ち止まり、大きく深呼吸してみる。そのとき、すぐそばの植えこみから誰《だれ》かが飛びだしてきた。
いきなりだったので、びっくりした。
ふわふわの髪《かみ》を長く伸《の》ばした女の人だった。
「ねこー、ねこー」
と慌《あわ》てた様子で呟《つぶや》いている。
猫《ねこ》?
どうして?
その言葉の意味はすぐにわかった。茶色の子猫が一匹《ぴき》、植えこみの中を歩いていたのだ。どうやらあの子猫を捜《さが》しているらしい。でも女の人のほうからは見えないみたいで、相変わらずねこーねこーと呟きながら、あたりをうろうろしている。それにしても、なんて要領の悪い人なんだろ。本人はあちこち探しまわっているつもりなんだろうけど、同じ場所をひたすら歩きまわるばっかりで、あれじゃ見つかるはずがない。あ、つまずいてこけそうになった。いったいなんにつまずいたんだろう。段差とかない場所なのに。子猫のほうは相変わらず植えこみの中にいて、土の匂《にお》いをしきりに嗅《か》いでいる。
放っておいたら永遠に見つけられそうになかったので、
「あの──」
と話しかけてみた。
びっくりした顔で、女の人があたしを見てくる。
どうやらあたしがいたことに気づいてなかったらしい。こんなすぐ近くにいたあたしまで見つけられないなんて……相当に鈍《にぶ》い。子猫《こねこ》なんて見つけられるわけがなかった。これはこれでひとつの才能なんじゃないだろうか。そんな気がしてくるくらいだった。
あたしは植えこみを指差した。
「猫なら、あそこにいますよ」
「え? ほんと?」
「はい」
ねこーねこーと呟《つぶや》きながら植えこみのそばまで歩いていくと、女の人はしゃがみこんで、その奥《おく》を覗《のぞ》いた。
「あ、いた」
弾《はず》んだ声で言って、その手を伸《の》ばす。しかし子猫には届かず、逆に子猫はさらに奥のほうへと入っていってしまった。逃《に》げてるつもりはないらしいが、探検に夢中なのだ。と、なにを考えたのか、女の人が植えこみに頭を突《つ》っこんだ。そのままほふく前進でどんどん進んでいく。そして腰《こし》のあたりまで植えこみに入ってしまったあと、今度は後《あと》ずさりをしながら出てきた。
「ほら」
両手で抱《だ》いた子猫を得意げに見せてくる。
「はあ」
とりあえず、肯《うなず》いておくことにした。
それにしても変わった人だ。大人っていうのは、もっと思慮深《しりょぶか》いものだと思っていた。植えこみに突入《とつにゅう》したせいで長くてふわふわの髪《かみ》はぐしゃぐしゃになってしまってるし、しかもあちこちに葉っぱがついてるし、スカートの裾《すそ》なんて土で汚《よご》れている。まるで子供みたいだった。そして実際、彼女の顔に浮《う》かんでいるのは、子供のように素直な笑顔だった。
「この子猫ね、でこちゃんっていうの」
「はあ」
でこちゃん?
「ほら、おでこが出っ張ってるでしょ?」
「あ、ほんとだ」
「だから、でこちゃん。吾郎《ごろう》君はでこ助《すけ》がいいって言うんだけど、女の子なのにでこ助なんてかわいそうじゃない。ねえ」
「はあ」
なにを言ってるのかさっぱりわからない。吾郎《ごろう》君って誰《だれ》だろう。女の子って……この子猫《こねこ》のことだろうか。メスってことかな。
「でこちゃんでこちゃん、ごはん食べたらお腹《なか》いっぱいだね」
子猫に向かって甘《あま》い声で話しかけている。子猫がびゃあと鳴いた。その途端《とたん》、女の人がものすごい勢いで尋《たず》ねてきた。
「今の聞いた?」
すごく真剣《しんけん》な顔だった。
思わず怯《ひる》んでしまう。
「聞いたって……」
「この子、今鳴いたでしょ?」
「はい」
「ごはん、って言ったわよね?」
「え……」
ごはん?
「言ったわよ、ごはんって」
「はあ」
「猫もね、言えるのよ」
妙《みょう》に力説している。しかも得意げだ。なんなんだろう、この病院って。秋庭《あきば》里香《りか》といい、自分勝手な人が多いんだろうか。
戸惑《とまど》っていると、背後から声が聞こえてきた。
「ここにいたのかよ」
男の人の声だ。
振《ふ》り返ると、秋庭里香の病室にいたカッコいいお医者さんがすぐ後ろに立っていた。こうして間近で見ると、カッコいいだけじゃなくて、すごくお酒落《しゃれ》な人だった。髪《かみ》はきっちり固めてるし、髭《ひげ》もきれいに剃《そ》ってる。ブルーのシャツはちゃんとアイロンがかけてある上に、シャツの色にあったネクタイを締《し》めていた。なんていうんだっけ、このネクタイの柄《がら》。結婚式《けっこんしき》の前、お姉ちゃんがお母さんにネクタイの選び方とか結び方を教わってて、あたしも隣《となり》でそれを聞いていたからなんとなく覚えてる。あ、そうだ。ピンヘッド・ストライプだ。それで結び方はウィンザー・ノット。輪を作ったら左側に一回巻きこんで、それを今度は右に持ってきて、そちらでも一回巻きこみ、最後にぐるっと一周して後ろから通す。ダブル・ノットよりもずっと難しい。ディンプルの出方がきれいだから、きっといろいろ考えて結んでるんだろうな。ワイドカラーには結び目の大きいウィンザー・ノットがよく似合う。ほんとお酒落だ。お姉ちゃん、何度も何度も練習していた。旦那《だんな》さんのネクタイをちゃんと結んであげられるようになるんだって言って。難しい難しいとこぼしながら。お父さんを練習台にしてたけど、あのときのお父さん、なんだか嬉《うれ》しそうな顔してたっけ。
すぐそばなのに、女の人が大きく手を振《ふ》った。
「でこちゃんを見つけたよ!」
「捜《さが》してたのか?」
「うん」ニコニコ笑いながら、女の人が肯《うなず》く。その笑い方で、ふたりが恋人なんだってわかった。すごく甘《あま》い笑顔だったから。お医者さんもしかたないなあって感じで、やっぱり甘く笑ってる。
「よかったな、でこ助《すけ》」
「違《ちが》う違う。でこちゃんよ」
「どっちでもいいだろ」
「間違って覚えちゃったらどうするのよ」
「おい、野良猫《のらねこ》だぞ。名前なんてどうでもいいだろうが。でこ助だろうかでこちゃんだろうがトラだろうがシマジロウだろうが」
「そんなことないもん」
「名前なんてどうでもいいよな、でこ助?」
「だから、でこちゃんなの」
ああ、なんだかな。むちゃくちゃ幸せそうだ。あたしがそばにいるのに、ふたりきりの世界に突入《とつにゅう》してる。こういうとき、どうすればいいんだろう。さりげなく立ち去ればいいんだろうか。戸惑《とまど》っていると、ようやくお医者さんが話しかけてくれた。
「君も捜してくれたのか?」
「あ、はい……」
「そうか。ありがとうな。里香《りか》の友達だっけ」
「あ、ええと……」
友達、は違う気がする。
と、突然、お医者さんがくすくす笑いだした。
「今日のあれ、最高だったな」
「あれ?」
「君も見ただろ。里香が山崎《やまざき》にお粥《かゆ》ぶっかけたの」
ああ、そのことか。
「はい、見ました」
こくこくと肯く。
「同僚《どうりょう》だから悪く言いたかないんだが、山崎は嫌《いや》なヤツなんだよ。もうなんていうか、どうしようもなく性格が悪くてデリカシーに欠けてて野暮《やぼ》ったくてアホなんだ。医者としちゃ最悪で最低だな」
言いたくないというわりには、実に見事な貶《けな》しっぷりだ……。
「でさ、今日も里香《りか》の機嫌《きげん》を損《そこ》ねるようなこと言いやがってさ。まあ、里香も悪いんだが。だけど、あれはすごいよな。いきなりお粥《かゆ》ぶっかける女なんて普通《ふつう》いねえだろ」
「はい、いないです」
即答《そくとう》してしまった。
お医者さんはもう腹を抱《かか》えてげらげら笑っている。どうしたの、と呑気《のんき》な調子で女の人が尋《たず》ねたので、お医者さんはあの出来事を話して聞かせた。いやあ、すげえよ、里香は。ペンを落としたとき、なんかやるなとは思ったんだけどさ、まさかお粥をぶっかけるとはな。しかもさ、そのあと味噌汁《みそしる》もだぜ。言われた女の人は頭を抱えた。うーんうーんと唸《うな》っている。
「吾郎《ごろう》君、それは怒《おこ》ったほうがいいような気もするんだけど」
「いや、だって笑えるだろ?」
「そういう問題じゃなくて」
「いいんだよ、山崎《やまざき》はあれくらいされてもしょうがないくらいアホなんだから。それより、でこ助《すけ》にエサやったんだろ? オレたちもなんか食べようぜ」
お医者さんはそう言ったあと、あたしのほうを向いた。後ろで女の人が、「でこすけじゃなくてでこちゃんだってば、ごろうくんのばかーばかー」って怒ってるけど、まったく気にしていない……。
「里香はまあ、ああいうヤツだけど、呆《あき》れずにつきあってやってくれ。そうだな、ひとつアドバイスしておくと、コツは──我慢《がまん》だ」
「が、我慢?」
「そう、ひたすら耐《た》えること」
あの、それってコツですか?
尋ねる前に、じゃあなと言って、お医者さんは歩きだした。そのあとを追うように、女の人も歩きだす。十メートルくらい歩いたところで彼女は振《ふ》り向き、子猫《こねこ》を抱《だ》いていないほうの手を大きく振ってきた。ニコニコ笑ってる。それであたしも手を振り返した。しばらく手を振りあったあと、あたしは腕《うで》を下ろした。彼女も同じように腕を下ろす。その下ろしたばかりの手が、するりとお医者さんの手におさまった。だ、大胆《だいたん》だ。お医者さんにとっては職場なのに、恋人と手を繋《つな》いで歩くなんて。恥《は》ずかしくないんだろうか。
ちょっとだけ……そう、ちょっとだけうらやましいかもしれない……。
「これ──」
本を渡《わた》すと、秋庭《あきば》里香の眉間《みけん》に思いっきり深い級《しわ》ができた。
「なに、この本」
「あ、あたしの……っていうか、ほんとはお姉ちゃんのだけど……家に続きがあったから……お金使うのももったいないし……」
ふと思いだした。
舞《まい》ちゃんは古本とか大嫌《だいきら》いだって言ってた。誰《だれ》が読んだかわからない本なんて触《さわ》りたくないって。秋庭《あきば》里香《りか》もそうだったらどうしよう。舞ちゃんみたいにわがままだから、同じかもしれない。だとしたら、新しいのを買いにいかなきゃ。ああ、また行ったり来たりするんだ……。
ベッドに腰《こし》かけた秋庭里香が見上げてきた。
「貸してくれるの?」
「う、うん」
ふーん、と唸《うな》った。
「ありがと」
やっぱり素っ気無い調子だった。
全然ありがたそうじゃない。
3
昼休みに学校の廊下《ろうか》を歩いてたら、舞《まい》ちゃんに呼び止められた。
「ねえねえ、明後日《あさって》さ、どうする?」
すごく楽しそうに笑いながら。
明後日?
どうする?
意味がわからず、あたしは呆然《ぼうぜん》としてしまった。明後日は日曜日。特に用事も予定もない。どうするかも決めてない。
舞ちゃんが不思議そうに尋《たず》ねてきた。
「あれ、綾《あや》も行くんじゃなかったっけ?」
「行くつて、どこへ?」
あたしがそう言った瞬間《しゅんかん》、しまったという表情が舞ちゃんの顔に浮《う》かんだ。思いっきり視線が泳いでいる。
「あー、ごめんごめん。あたしの勘違《かんちが》い」
あはは。むりやり笑いながら。
「塾《じゅく》の子と遊びにいくんだった。そういえば。勘違いしちゃった」
やっぱりむりやり笑いながら、舞ちゃんは慌《あわ》てて去っていった。
そっか……。
遠ざかっていく舞ちゃんの背中を見ながら悟《さと》った。日曜日、みんなでどこかに遊びにいくんだ。その仲間にあたしは入ってないんだ。入れてもらえなかったんだ。
別に珍《めずら》しいことじゃない。
あたしは昔っからこうだった。引っこみ思案で、なかなか思ったことを言えず、だから周りのノリについていけない。そのせいで普段《ふだん》は仲良くしてるつもりの人たちからも、気がつくと距離《きょり》を置かれていたりする。それに、ほんとのことを言うと、あたしは誰《だれ》かといるよりもひとりで本を読んだり空想に耽《ふけ》ったりするほうが好きだった。好きっていうか安心できる。期待すれば裏切られるだけだし、仲良くしようと思ってもやっぱりうまくいかないことのほうが多い。辛《つら》くて苦しいばっかり。ひとりきりなら、そんな思いをしないですむ。あたししかいない、あたしだけの国。王国。だけどひとりきりの王国に住んでいるから、あたし、は余計にダメなのかもしれない。そんなふうに思ってることを、みんなに見透《みす》かされてるのかも。
放課後、ひとりで帰ることになった。
気がついたら舞《まい》ちゃんも美紀《みき》ちゃんもいなくて、ひとりで帰るしかなかったのだ。昼休みの件はもちろんみんなに伝わったはずだから、それで避《さ》けられてしまったんだろう。でも、みんなといっしょに帰らなくてすんで、あたしはむしろほっとしていた。いっしょだったら、どんな顔をすればいいのかわからない……。
ぶらぶらと、子供みたいに足を投げだしながら歩いていく。家まであと少しだ。着いたら麦茶でも飲もう。きっと冷えすぎておいしくないけど、他《ほか》に飲むものもないだろうし。それにしても今日は暑いなあ。もう九月なのに。山の向こうに、暑さの原因の太陽があった。大きく傾いているせいで光はもうあまり強くなくて、まっすぐに見つめることができた。澄《す》んだ茜色《あかねいろ》をしている。ものすごくきれいだ。その光はバス停の古びたベンチを、埃《ほこり》っぽい道路のアスファルトを、ショッピングセンターの壁《かべ》を、あたしのすべてを、同じように澄んだ茜色に染めていた。ああ、そういえば、ずっと前にも、こんな太陽をこんなふうに見つめていたことがあった。あれはいつだったろう。五|歳《さい》とか六歳とか、とにかく小学生になる前だ。近所に住んでいた幸恵《ゆきえ》ちゃんに遊ぼうよと誘《さそ》われて、待ちあわせ場所である公園で待っていた。半袖《はんそで》を着ていて、剥《む》きだしの腕《うで》にじっとり汗《あせ》がにじんだことを覚えているから、きっと夏だったに違《ちが》いないなかなか幸恵ちゃんが来ないのでブランコをひとりで揺《ゆ》らし、鉄棒にひとりでぶらさがり、そのうち高いところにいれば幸恵ちゃんが来たらすぐに気づくと思ってジャングルジムにひとりで登った。茶色の地面にジャングルジムとあたしの影《かげ》が落ちていた。あたしが手を振《ふ》ると、影もまた手を振った。あたしが笑っても、影は笑わなかった。やがてそんな影が長くなってゆき、風が涼《すず》しくなり、夕暮れの匂《にお》いがしはじめた。けれど、それでも幸恵ちゃんは来なかった。太陽はすっかり傾き、山の端《はし》にひっかかろうとしていた。夕方で。昼間の熱気が少し残っていて。だからやけに寂《さび》しくて。悲しくて。幸恵ちゃんは来なくて。どうしたんだろうと思いながら、やっぱりひとりで太陽に照らされていた。じっと太陽を見つめたあと、目をつぶると、その間《やみ》の中で太陽の残像がちらちらゆれた。幸恵ちゃんが来ないことを思うと、鼻の奥《おく》がつんと痛かった。
次の日|尋《たず》ねてみると、幸恵ちゃんはケラケラ笑いながら、
「途中で亜由美《あゆみ》ちゃんと会ったから、プール行ったの」
なんて全然悪びれたふうもなく言った。
それであたしも笑った。
「そうなんだ。プール楽しかった?」
ほんとは怒《おこ》るべきなのかもしれない。あるいは泣くか。だけどそんなことをしたらもっと辛《つら》くなるような気がして、あたしは笑いつづけた。鼻の奥がつんとした。昨日と同じだった。
「すっごい楽しかったよ。──ねえ、もしかして綾《あや》ちゃんずっと待ってた?」
幸恵ちゃんの顔にあたしを気遣《きづか》うような表情がようやく浮《う》かんだ。少しくらいは気にしてたらしい。でも、そういうのもやっぱり辛くて、あたしは嘘《うそ》をついた。
「ううん、すぐに帰っちゃった。暑かったし」
ほんとはずっと待ってたくせに。全然平気じゃなかったくせに。傾いた太陽の赤い光、長く長く伸《の》びたジャングルジムとあたしの影《かげ》、夕方の寂《さび》しい匂《にお》い、誰《だれ》も乗っていない遊具……そんな風景は十四になった今でも胸に残っている。
ううん、違《ちが》う。そうじゃない。
あたしはまだ、あの風景の中にいるんだ。
4
岬《みさき》君も立花《たちばな》さんも休んだままだった。だから秋庭《あきば》里香《りか》にプリントを届けるのは、当然のようにあたしだった。秋庭里香は相変わらずわがままで自分勝手だった。たまにひどく機嫌《きげん》が悪い日があって、そんなときは口さえきいてくれない。話しかけてもほとんど無視って感じで黙《だま》りこんでいる。プリントを届けてあげてるのはあたしなのに、感謝の言葉もなし。
今日の秋庭里香は、いつにもまして不機嫌だった。
「プリント、置いておくね」
反応なし。
「じゃあ、帰るから」
反応なし。
ベッドに黙って沈《しず》みこみ、閉じた瞼《まぶた》さえ開かず、まるで人形が寝《ね》ているみたいだ。病室に入ったときは起きてたから、眠《ねむ》ってるわけじゃない。
ところが病室を出て行こうとしたら、
「下巻、持ってきて」
そう背後から声をかけられた。
ドアのノブを持ったまま、振《ふ》り返る。
「下巻?」
「若草物語の……続・若草物語の、下巻」
ああ、そういうことか。
「上巻、読んじゃったの?」
反応なしに戻《もど》った。
言いたいことだけ言ったら、もうどうでもいいということだろうか。もちろん腹が立ったけれど、それでもあたしは肯《うなず》いた。
「わかった、今度持ってくる」
こういうとき、怒《おこ》れたらいいと思うけれど、そんな気持ちの強さはあたしになかった。
そして翌日──。
学校に行く前、お姉ちゃんの部屋から続・若草物語の下巻を取ってきた。気づいたのは、本を持っていくためにカバンのファスナーを開けたときだった。
この下巻で、ベスが死ぬ。
若草物語には、四人の姉妹が出てくる。一番年上のメグはおしゃれで穏《おだ》やかで気立てがいい。次女のジョーは活発で好奇心|旺盛《おうせい》で作家志望。三女のベスはおとなしく病弱。学校にも行けず、ずっと家で過ごしている。そして末娘のエーミーは生意気でわがまま。鼻が低いことを気にしてるけど、実は一番の美人。本を読むとき、あたしは誰《だれ》かに感情移入する。意識しなくても自然に自分自身と重ねてしまうのだ。あと、そのほうが楽しめるってのもある。若草物語を読むとき、あたしはいつもジョーを応援《おうえん》してた。だって彼女が一番あたしに似てないから。彼女みたいになりたいと、あたしはいつも思っていた。
秋庭《あきば》里香《りか》もそんなふうに感情移入して本を読むのかどうかわからないけれど、病気で学校に行けないという彼女の境遇は、ベスとそっくりだった。そしてもし秋庭里香がベスに感情移入してるとしたら──。
下巻、渡《わた》さないほうがいいのかな?
迷ったまま、あたしは本を持って立ちつくしていた。やがて下からお母さんの声が聞こえてきた。
「綾子《あやこ》、時間|大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
ちょっと声が怒《おこ》ってる。時計を見ると、ぎりぎりだった。とにかく本をカバンに入れ、あたしは家を飛びだした。
放課後、やっぱりプリントを届けるように言われた。
いつもよりもさらに重い足取りで病院に向かう。いろんなことで心が重たかった。もし心というものが胸の中にあるのだとしたら、それは今、お腹《なか》のほうまで落ちてしまっているだろう。舞《まい》ちゃんたちは日曜日どこに行ったんだろう。昼休み、舞ちゃんたちはすごく盛り上がっていた。でもあたしがそばに行ったら、急に話を変えた。あたしに気を遣《つか》ってくれてるのかもしれないけど、そういうのはやっぱりちょっと辛《つら》い。
それに、続・若草物語の下巻……。
秋庭里香に渡していいものかどうか、よくわからなかった。考えても全然結論が出ない。気づかない振《ふ》りをして渡してしまえばいいのかもしれない。こんなことで悩《なや》む必要なんてないのだ。けれど優柔不断《ゆうじゅうふだん》なあたしは考えてしまう。あんなに自分勝手な子で、わがままばっかなんだから、むしろ意地悪してやってもいいくらいだ。そのとき、ふいに嗜虐的《しぎゃくてき》な気持ちが胸を満たした。そうだ、この本、渡《わた》してやればいいんだ。彼女は傷つくかもしれないけど自業自得《じごうじとく》だ。ちょっとした嫌《いや》がらせ。仕返し。胸がどきどきしてきた。なんでもない振《ふ》りをして渡さなきゃ。できるかな。病院が遠く見えている今でさえ、こんなにどきどきしてるのに、いざそのときになったらどうなってしまうんだろう。緊張《きんちょう》と興奮《こうふん》のせいか自然と足が速まり、あっという間に病院に着いた。
あたしの顔を見ると、秋庭《あきば》里香《りか》は、
「車椅子《くるまいす》、持ってきて」
と即座《そくぎ》に言った。
また散歩に連れていけということだろうか。
「散歩?」
「今日は屋上へ行きたいの」
計画を胸に秘《ひ》めているせいか、いつもほど嫌《いや》な気持ちにはならなかった。これから意地悪なことをするのはあたしなのだ。もう車椅子がどこにあるのか知っているので、看護婦さんに断ることなく持ちだし、あたしは病室に戻《もど》った。そして秋庭里香を車椅子に乗せ、屋上へと向かう。ここのエレベータは屋上まで通じていたので、すぐに着いた。空は晴れ渡っていて、薄汚《うすよご》れたコンクリートに給水塔《きゅうすいとう》の影《かげ》が伸《の》びている。流れる風はすっかり秋のそれで、ちっとも暑くなく、なんだかそれが寂《さび》しく思えた。
手すりのあたりまで車椅子を押し、そこでとめた。しばらく、ふたりとも黙《だま》っていた。あたしも本のことを忘れ、ぼんやりと田舎《いなか》の風景を眺めていた。でも、すぐに思いだした。思いだした途端《とたん》、自分がやけに汚《きたな》らしく感じられた。
「ねえ」
自然と声が出ていた。
「誰《だれ》が好き?」
ん、と言いつつ、秋庭里香が見上げてきた。
「若草物語の登場人物の中で」
ベス。その言葉を期待していた。確認《かくにん》してから、すごく意地悪な気持ちを添《そ》えて、あの本を渡そう。
けれど、秋庭里香の口から出てきたのは、
「メグ」
という名だった。
四人姉妹の中で、メグは一番冴《さ》えない女の子だ。ジョーは才能があって勝ち気。ベスは病弱。エーミーはわがままな美人。みんななにかしら特徴《とくちょう》がある。でもメグはおとなしいだけの女の子だった。なにしろ夢はお嫁《よめ》さんになることなのだ。とにかくあたしにはメグはつまらない女の子だとしか思えなかった。秋庭里香の口からジョーとかエーミーとかの名前が出てくる可能性はちょっと考えていた。ジョーは主人公だし、エーミーのわがままで美人というところは秋庭《あきば》里香《りか》に似てるから。だけど、まさかメグだとは。それだけはないと思ってたのに。あたし自身、メグにはあんまり感情移入できない。幸せな結婚《けっこん》をして、普通《ふつう》の奥《おく》さんになる──実際、あたしたち女の子はそういう道を歩むんだろうけど、だからこそ彼女が魅力的《みりょくてき》には思えなかった。ジョーやエーミーのように波乱万丈《はらんばんじょう》だったり、ベスのように薄幸《はっこう》だったりしたほうが魅《ひ》かれる。『はでな結婚式なんかしたいとは思えないわ。私のそばにいる親しいひとたちだけに来ていただいて、いつもの私のように見えればそれでいいと思うのよ』
そんなことを言うのだ、メグは。
なんだかそれは優等生すぎると思う。
「どうしてメグなの?」
びっくりした。意外すぎた。
「だって……」
「ん?」
「結婚したから……」
「え? 結婚?」
少し考えて、ようやく彼女の言葉の意味がわかった。この前|渡《わた》した上巻で、メグは結婚したのだ。ジョンという優《やさ》しい男の人と。
「結婚したから、メグがいいの?」
秋庭里香は黙《だま》りこんだまま。最初はわけがわからなかったが、その顔を見た途端《とたん》、彼女が照れているのだとわかった。
「もしかして結婚したいの?」
「…………」
「結婚に憧《あこが》れてるとか?」
彼女の透《す》き通った肌が少し赤くなっていた。クラスの中でも、結婚したいなあっていう子はたまにいる。でもそういう子は少数で、普通の主婦になりたくないって思ってる子のほうが圧倒的《あっとうてき》に多かった。あたしだってそうで、いつかは普通の主婦になっちゃうのかもしれないけど、なにかしら──それがなにかはわからないけど──ジョーやエーミーのように才能を発揮できればって思っている。
「もしかして、好きな人でもいるの?」
「いないけど」
「じゃあ、どうして?」
「わかんない」
ちらりと見上げてきた。頬《ほお》が赤い。ああ、思いっきり照れてる。わかんない、だって。理屈《りくつ》も理由もなく、とにかくお嫁《よめ》さんになりたいのかもしれない。
「吉野《よしの》さんは誰《だれ》が好き?」
秋庭《あきば》里香《りか》がいきなりそう尋《たず》ねてきた。
きっと話を変えたいんだろう。
「あたしはジョーかな」
「どうして」
「彼女、才能があるでしょ。やりたいことはなんでも自分でやっちゃうし。そういうの、あたしにはできないから」
「できない? どうして?」
「だって、できないよ」
才能なんて誰にでもあるものじゃない。それに、あんなふうに活発な性格じゃないし。
ふーん、と秋庭里香は言った。
「できなくないと思うけど」
「…………」
「できなくないと思う」
なんだか妙《みよう》にきっぱりした口調で、同じことを繰《く》り返す。
「そうかな」
「そうだよ」
どうしてこんなに断言するんだろう。それにしても、考えてみれば秋庭里香とたくさん話したのは初めてだった。ちょっと拍子抜《ひようしぬ》けした。全然ついていけないようなことを言うのかと思ったら、ほんと普通《ふつう》だった。しかも結婚《けっこん》したいなんて言って照れてるし。意外とかわいいところもあるんだ。
「病室、戻《もど》る」
わがままなのは相変わらずだけど。
「あ、うん」
「そろそろ夕食だから」
エレベーターで病棟《びょうとう》に降りると、秋庭里香の言ったとおりに、夕食の準備が始まっていた。大きなワゴンにいくつも食事のトレイが乗っていて、看護婦さんがそれを配って歩いてる。
病室に戻るなり、秋庭里香が尋ねてきた。
「本、持ってきてくれた?」
「え……」
「続・若草物語の下巻」
胸がどきどきした。どうしよう。渡《わた》そうか、渡さないでおこうか。秋庭里香と少し言葉を交《か》わしたせいか、あの意地悪な気持ちはすっかり薄《うす》れてしまっていた。彼女の照れた様子が頭に浮《う》かんだ。わかんない。そう言って、顔を赤くしてた。忘れたって言おう。とにかく今はそうやってやり過ごそう。明日持ってきてって言われるかもしれないけど、そのときはそのときで考えよう。
「ごめん。忘れ──」
けれど、あとの言葉を続けられなかった。気づいたのだ。いつのまにかベッドの脇《わき》に置いてあったあたしのカバンが倒《たお》れていてファスナーをちゃんと閉めてなかったから、中に入れてあった教科書とかが出てしまっていることに。続・若草物語の下巻も。全部じゃないけど、表紙の半分くらいが見えている。セピア色のマーチ家の写真。アニメのセルフィルムを使った表紙。
顔を上げると、秋庭《あきば》里香《りか》もあたしと同じものを見ていた。
忘れた、なんてもう言えなかった。
意地悪じゃなかった。そんなつもりで彼女に本を渡《わた》したんじゃなかった。でも、そういう気持ちをたとえ一時的にでも持ったのは確かだった。今、彼女はあの本をどんな気持ちで読んでいるんだろう。どの辺でベスは死んじゃったのかな。よく覚えてないけど、真ん中くらいだった気がする。彼女はあたしの意地悪に気づくだろうか。
5
岬《みさき》君が学校に戻《もど》ってきた。盲腸《もうちょう》の手術痕《あと》をみんなに見せて自慢《じまん》した。立花《たちばな》さんも戻ってきた。腕《うで》を吊《つ》った彼女はソフトボールがしばらくできないのでちょっと落ちこんでいた。そしてあたしはプリント届け係を解任された。これで秋庭里香と顔をあわせなくてすむと思うと、ほっとした。自分がした意地悪の結果と向きあわなくていいのだ。
ところが、
「吉野《よしの》、これ秋庭に届けてくれ」
柿崎《かきざき》先生にまたそう言われた。
あたしはもう帰ろうとしてるところで、カバンを手に持っていた。
「でも岬君か立花さんが……」
「ふたりとも今日は都合悪いんだそうだ。頼《たの》むわ」
仕方なく、プリントを受け取る。そして重い足をむりやり動かして、病院へと向かった。やだなあやだなあと、言葉をいくつも足元に落としながら。そういうときって、すぐに病院に着いてしまう。いつものようにエレベータに乗って、いつものように廊下《ろうか》を歩き、秋庭里香の病室へ。
けれど。
彼女の病室は空っぽだった。秋庭《あきば》里香《りか》の姿はないし、それどころか荷物もきれいになくなっていた。サイドテーブルに載っていたお茶のセットとか、ベッド脇《わき》に積んであった本とか、すべてが消え去っている。
「ああ、転院したんだ」
ぼんやり突《つ》っ立っていたら、背後からそんな声がした。振《ふ》り返ると、あのカッコいいお医者さんが立っていた。
「転院?」
「ちょっとややこしい検査があるんで、大学病院に戻《もど》ったんだ。またプリント届けてくれたのかい?」
「はい」
「そうか。学校への連絡《れんらく》が遅《おく》れたんだな。ほんとはもうしばらく先だったんだが、向こうのスケジュールにあわせることになって、急に決まっちまったから。──あ、ちょっと待っててくれないか」
慌《あわ》てた様子で、お医者さんがどこかへ走ってゆく。ひとり取り残されたあたしは、ぼんやりと空っぽの病室を眺《なが》めつづけた。秋庭里香は転院した。もう会えない。空っぽの病室が、心の中にすっぽりおさまったような感じがした。同じように空っぽになってしまった気がした。やがてお医者さんが息を切らして戻ってきた。
「これを返しておいてくれって頼《たの》まれてたんだ」
差しだされたのは、続・若草物語の上下巻だった。
「里香な、今朝病院を出ていくまでずっと読んでたんだ」
「ずっと……」
「君に返さなきやいけないからって。慌てて読んでたよ」
本を受け取る。秋庭里香が今朝までこの本を読んでた。あたしに返すために慌てて。あの子のことだから、平気で本なんか持っていったんだと思ってた。そういう意地悪な子だと思ってた。でも違《ちが》ったんだ。意地悪なことをしたのはあたしのほうだ。彼女はこの本にこめられたあたしの悪意に気づいたんだろうか。
「あの」
「うん?」
「秋庭さん、なにか言ってましたか?」
「なにかって?」
どう説明していいのかわからなかった。
「なんでもいいんですけど……」
うーん、と唸《うな》りつつ、お医者さんが首を傾《かし》げた。
「まあ、今さら君に話してもしかたないんだが。ほら、君の前にプリントを届けに来てくれてた子がふたりくらいいただろ。だけど男の子のほうも女の子のほうも里香《りか》を怖《こわ》がっちまってな。いつも看護婦にプリントを預けて、里香には会わずに帰ってくんだ。君だけだったよ、里香につきあってくれてたのは」
「…………」
「あと、君が病室を出ていったあと、里香は窓から君の後ろ姿をよく見てた。あいつはあんまり自分のこと喋《しゃべ》らないからほんとのことはわからないんだが、君のことがうらやましかったんじゃないかな」
「うらやましい? あたしがですか?」
「ああ、里香はずっと入院してるだろ。でも君は外に行ける。学校にも通える。里香にはできないことばっかりだから」
「あ──」
記憶《きおく》が蘇《よみがえ》ってきた。
『できなくないと思うけど』
彼女はそう言った。
『できなくないと思う』
だから断言したんだ。彼女から見れば、あたしはなんだってできるから。彼女にはできないことばっかりだから。
手の中に、二冊の本──。
「どうしたんだい?」
カッコいいお医者さんにそう尋《たず》ねられても、あたしは答えられなかった。
ただ本を見つめるばかり。
結婚《けっこん》するちょっと前、お姉ちゃんが彼氏と大ゲンカした。携帯《けいたい》電話が何度も何度も鳴った。二回、三回と鳴っても、お姉ちゃんはいつもすぐ取らずに、ようやく五回目くらいで携帯電話を手にするのだった。その三回めとか四回めの呼びだし音があたしは大嫌《だいきら》いだった。電話で話すお姉ちゃんの声は低くて、落ち着きすぎたその響《ひび》きが、あたしには怖かった。お父さんは無口になった。お母さんはずっとキッチンの掃除《そうじ》をしていた。
このまま別れちゃったらどうなるんだろ……式場だって予約してあるのに……。
そんなことを考えると、お腹《なか》のあたりでなにかがきゅっと小さくなった。あたしのことじゃなくて、お姉ちゃんのことだけど、やっぱり家族なわけで、そういうのは苦しくてたまらなかった。
そんなある夜──。
喉《のど》が渇《かわ》いたのでなにか飲もうとキッチンに行くと、お母さんがひとりで起きており、テーブルについていた。
「あれ、どうしたの」
びっくりしてあたしは尋《たず》ねた。お母さんはいつもすぐに寝《ね》てしまう人だった。
「ん、なんとなく」
困ったわねえ、という感じでお母さんは笑った。
テーブルの上にはビールの缶《かん》が載《の》っていた。お母さんはほとんどお酒を飲まない。たまにお父さんの晩酌《ばんしゃく》につきあうくらい。お母さんがひとりでお酒を飲んでいる姿を見るのは初めてだった。戸惑《とまど》いながらも、あたしなりに気にしてないふうを装《よそお》って、冷蔵庫から麦茶が入ったポットを取りだすと、もう片方の手にグラスを持って、お母さんの向かいに腰《こし》かけた。ポットを傾け、グラスに麦茶を注《つ》ぐ。勢いよく傾けすぎたせいで、少し麦茶がこぼれてしまった。コップの丸い底に沿って、丸い麦茶の輪ができた。
麦茶は冷えすぎていて、喉の奥《おく》に少し冷蔵庫|臭《くさ》さが残った。なんでうちはこんなに麦茶を冷やしちゃうんだろう。
「うちの麦茶、どうしてこんなに冷たいの?」
「お父さんがそのほうが好きだからよ。あたしもそんなに冷たいのは好きじやないけど、お父さん暑がりだから」
「じゃあ、お父さんには氷を入れてもらおうよ」
「ダメよ、無理」
「どうして」
「お父さん、怒《おこ》るもの。しつこいくらいもっと冷やせって言うに決まってるわよ。あんなにしつこく言われるくらいなら、冷えすぎてるほうがいいわ」
お父さんは拘《こだわ》りがあるというか頑固《がんこ》というか、とにかく諦《あきら》めない人なのだった。それでたいてい、お母さんのほうが妥協《だきょう》してしまう。
あたしはふと、友達から聞いた話を思いだした。
「あのね、友達の家が猫《ねこ》を飼ってるの。オスとメスの二|匹《ひき》。写真見せてもらったけど、すごく可愛《かわい》いの。雑種だけどね」
それがどうしたの。そう言って、お母さんはビールを飲んだ。ひとりでビールを飲むお母さんの姿が不思議でしかたなかった。まるで主婦じゃないみたいだ。ああ、これは偏見《へんけん》ってヤツなのかな。
「時々ね、ほら、虫とか家に入ってくるでしょ。で、猫ってそういうの夢中で追いかけるんだって」
「へえ、ネズミだけじゃないのね」
「そうみたい。ゴキブリとか出ると大騒《おおさわ》ぎらしいよ。それで、メスのほうは虫が高いところにとまっちゃうとすぐに諦《あきら》めるんだって。だけど、オスのほうはずーっと、それこそ半日でも虫が下りてくるの待ってるって言ってた。お父さんも同じなのかな」
「ああ、なるほど。わかるわかる」
おかしそうにお母さんは笑った。わかるわかる。何度も繰《く》り返している。少し酔《よ》っぱらってるのかもしれない。
「お父さんと似てるわねえ、その猫《ねこ》」
「ほんと似てるよね」
お互《たが》いに笑いながら、お母さんはビールを、あたしは麦茶をごくごく飲んだ。こうして夜中のキッチンで向かいあって座っていると、なんだか不思議な感じがした。お母さんがお母さんじゃないみたい。あたしがあたしじゃないみたい。夜のせいだろうか、それとも場所がキッチンだからだろうか。
「お姉ちゃん、どうなっちゃうのかな」
だから普段《ふだん》は言えない言葉がするりと出てきた。
「どうもならないわよ。そのうち落ち着くでしょ」
「だといいけど……」
「あのね、綾子《あやこ》。人間ってつまらないものよ。お腹《なか》が空《す》いたらなにか食べたくなるし、寂《さび》しかったら誰《だれ》かと話したくなるし、結婚《けっこん》前は恋人とケンカしちゃうものなの。ほんとつまらないくらい同じ道を歩くから。それでもみんな、わりと幸せそうに暮らしてるでしょ。あたしもお父さんと結婚して二十一年、あれ、えっと、二十二年だったかな……とにかくそれくらいになるけど、そりゃケンカもしたし、ほんと嫌《いや》だって思ったこともあったわよ。でも、なんとかなってきたし。あれくらいでどうかしちゃうような相手なら、結婚する前にどうかしちゃえばいいのよ」
お酒のせいか、今日のお母さんはやたらと過激で饒舌《じょうぜつ》だ。
「あんたもねえ、そのうち嫌でもこういうことに巻きこまれてくから。ほら、誘蛾灯《ゆうがとう》ってあるでしょ。ブンブンいってる虫をバチッって殺しちゃうヤツ。あんな感じで自分から飛びこんじゃうときがあるから。まあ、いいのよ、それで。なかなか死にはしないしね。痛いのがわかったら次は気をつけるし、そうやって進歩……は嫌になるくらいしないけどね、全然しないんだけど、だんだん慣れてはいくから」
喋《しゃべ》った勢いのままビールを飲み干すと、じゃあ寝《ね》るねと言って、お母さんはキッチンを出ていった。あんたも早く寝なさいという小言はきっちり残して。
ひとりになったあと、お母さんの言ったことを考えてみたけど、わかるような気もしたし、わからないような気もした。ただとにかく、お母さんの言ったとおり、お姉ちゃんはやがて彼氏と仲直りした。結婚式の日、お姉ちゃんはすごく幸せそうだった。いつもよりずっとずっときれいだった。
秋庭《あきば》里香《りか》がいなくなってしまった病院を背負って、道をとぼとぼ歩いた。時折|振《ふ》り返ってみたけれど、そんなことをしたってどうにもならない。彼女は行ってしまった。あそこにはもういない。
結局、彼女のことはよくわからなかった。
すっごく意地悪でわがままなのに、妙《みょう》に素直《すなお》なところもあって、結婚《けっこん》したいって思ってて、恥《は》ずかしがり屋で。
わかったのは、せいぜいそれくらい。
ああ、あともうひとつ。
彼女はあたしに嘘《うそ》をつかなかった。わがままを言ったし、問答無用って感じだったけど、舞《まい》ちゃんたちみたいにごまかすようなことはしなかった。こうして彼女がいなくなってみて、はっきりわかった。一番誠実に接してくれたのは秋庭里香だったのかもしれないって。
生きていると、あたしのたかだか十四年くらいの人生でも、いろんなことがある。そういういろんなことを時には抱《かか》えこみながら、時には忘れてしまいながら、あたしたちは生きていくしかないんだろう。後悔《こうかい》したってなんにもならない。
だから、そう──。
今度彼女に会ったら、ううん、彼女自身じゃなくても、彼女のような人に会ったら、もっとあたしも素直に接してみよう。本音を話そう。そういう人間になろう。きっと無理だけど、少しでも近づこう。お母さんの言ってることが本当なら、あたしだっていろんなことに慣れていくだろうし。
秋庭里香の願いが叶《かな》うといいと祈《いの》りつつ、あたしはどんどん長くなる自分自身の影《かげ》を追いながら歩いた。メグを幸せにしたジョンのような男の人が秋庭里香の前に現れますように。そして秋庭里香を幸せにしますように。せめてもの罪滅《つみほろ》ぼしにと、本気で祈りながら歩きつづけた。
祈りは届くだろうか。
[#地付き]おわり
[#改ページ]
近所の公園をぶらぶら散歩していたら、巣立ったばかりのツバメが七羽飛んでいました。まだ飛ぶのが下手で、コウモリのようにハタハタと羽ばたいています。それでも彼らはとても楽しそう。いつまでもいつまでも飛んでいる。
ツバメ話だけじゃなく、恒例《こうれい》の猫話《ねこばなし》も──。
猫一号さんが外猫と喧嘩《けんか》しました。デッキの隙間越《すきまご》しに引っ掻《か》き合い。さらにその傷が化膿《かのう》して発熱までする始末。傷はほぼ治ったんですが、まだ毛が生えてなくて、右腕《みぎうで》にでっかいハゲがあります(涙)。
こんにちは、橋本紡《はしもとつむぐ》です。『半分の月』のあとがきを書くのも、これが最後です。長いあいだお付き合いいただき、ありがとうございました。このささやかな物語から、みなさんがなにかを感じてくれていればいいのですが。作者としては、切にそれだけを望みます。
今回は作品解説でもしてみましょう。
『雨 fandango』
これが半分の月最後の短編になります。時系列的には六巻前半と重なってるのかな。前後編で百ページくらいの予定だったんですが、つい筆が進んでしまい、後編だけで百ページ以上になりました。筆が進んだ理由は読んでもらえればわかるかも。最後のほうは書きながらドキドキしてました。最後にふさわしい物語になったのではないかと思います。山本《やまもと》さん、例のシーンの里香《りか》をきれいに描いてやってくださいね!
『dragonfly』
ものすごく苦労した作品です。旧かな旧漢字の力作。印刷関係の方にも尽力《じんりょく》していただきました。いや、大変なんですよ、こういうの。そこまで苦労したわりに、ネタモノとしてはスベってる気がする(涙)。機会があったら、読者のみなさんとまんぷく食堂|唐揚《からあ》げ丼《どん》ツアーでもやりたいですね。店のおばちゃん、驚《おどろ》くだろうなあ。
『市立|若葉《わかば》病院猥画騒動顛末記《わいがそうどうてんまつき》』
ラジオドラマ用に書いた話です。原案だけでいいってことだったんですが、その原案をほぼ完成した小説として書いていたため、そのまま電撃《でんげき》hpに掲載《けいさい》。猫缶《ねこかん》と並ぶバカ話だけど、わりと気に入ってます。
『as the summer goes by』
小夜子《さよこ》初登場。夏目《なつめ》の浜松時代の話です。おそらく夏目と小夜子が一番幸せだった時期でしょう。夏目というキャラクターにはそうとう手こずりましたが、彼を書いてよかったなと今は思います。
さて仕事の状況《じょうきょう》ですが、意外なことに、『半分の月』の実写ドラマ化の話が来てます。もし順調に進行すれば、この巻が出るころ正式にアナウンスされるはずです。また、七月の末に光文社から『ひかりをすくう』という単行本が出ます(この八巻より少し前に出てるはず)。自伝に近い内容で、『リバーズ』を終え、『半分の月』を始めたころのことを書いてます。ちょうど作風を大きく変えた時期ですが、『ひかり』を読むとなぜそうなったかわかるかもしれません。僕にとっても、大きな転換期《てんかんき》でした。あのころがあるから、今があるんだと思います。優《やさ》しくて美しいだけの物語ではありませんが、もしお金と時間に余裕《よゆう》があれば読んでみてください。あと、『電撃《でんげき》hp』や、他の文芸誌でも、少しずつ仕事をしていくと思います。電撃での新シリーズもちゃんと書くつもりなので、そちらも気長にお待ちください。
人は決して同じ場所にとどまれません。泣きながら、あるいは喚《わめ》きながら、とにかく歩きつづけるしかない。なにかを捨てて、別のなにかを選び取らなければいけないときもある。この物語で裕一《ゆういち》と里香《りか》が行ったのは、つまりそういうことなんだと思います。夏目も、小夜子も、亜希子《あきこ》さんも、僕も、そしてこの文章を読んでいるあなたも、同じように生きていくのではないでしょうか。
さあ、そろそろこのあとがきを終えなければいけません。
どうするかずいぶん考えたんですが、少々悔《くや》しいものの、夏目と裕一の言葉で締《し》めくくろうと思います。
彼らが胸に抱《いだ》いたこの言葉が、『半分の月』に一番ふさわしいだろうから。
僕たちの両手は──
[#地付き]橋本 紡