半分の月がのぼる空7
another side of the moon - first quater
橋本紡
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)里香《りか》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)写真|貼《は》るから
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
-------------------------------------------------------
秋。里香にとって初めての文化祭──山上祭。祐一はまったくやるきがなく、だらけにだらけていた。だが、山西に無理やり引っ張られていった視聴覚室では『古典ロシア映画上映会』なるものが始まろうとしていてそれはつまり先生にバレたら停学もののいわゆるエ○ビデオ鑑賞会でそこに先生が突入してきて……。
一方里香は、みゆきと共に演劇部の練習を見学していた。そこで部長の柿崎に、ある目的で声をかけられ──。
書き下ろし短編『雨 fandango』の前編に『気持ちの置き場所』『君は猫缶を食えるかい?』『金色の思い出』の番外編三編を加えた『半月』短編集第1弾。
橋本《はしもと》紡《つむぐ》
三重県伊勢市出身。第4回電撃ゲーム小説大賞で金賞を受賞。大好きなのは眠ること。平気で十二時間くらい寝てるので、人生のほぼ半分は寝てるらしい。もったいない気はするけど、それはそれで幸せだったり。小さな家に人間二人と猫二匹で暮らしている。
イラスト:山本《やまもと》ケイジ
1978年生まれで和歌山在住。別ペンネーム『超肉』。ジェット・リーをこよなく愛す内蔵やばい引き篭もり。イラストレーターを夢見て修行中。
[#改ページ]
[#改ページ]
[#ここから目次]
おまけショートコミック
[#ここまで目次]
[#改ページ]
1
僕と里香《りか》が通う学校にも文化祭というものがあって、それは山上祭《やまがみさい》と呼《よ》ばれている。たぶん学校が山の上にあるから、そんな名前になったんだろう。今や三流《さんりゅう》のバカ高ではあるものの、かつては伊勢《いせ》で一、二を競《きそ》う名門校だっただけに歴史は古く、今度の文化祭が七十回めになるそうだ。
その記念すべき第七十回山上祭が楽しみかといえばもちろんそんなわけがなく、僕はだらけにだらけていた。
「もう帰りたい」
実験台の上に寝転《ねころ》び、そんなことを呟《つぶや》く。
「点呼《てんこ》さえなきゃなあ」
ったくセコい話だ。
生徒の逃亡《とうぼう》を防ぐために、朝と夕方に教室で点呼があるのだった。たとえ朝に登校していても、夕方の点呼のときにいないと、出席したとは見なされない。クラブ活動をしておらず、しかもダブったためにクラスで見事《みごと》な浮《う》きっぷりを見せている僕にとって、この文化祭は辛《つら》いばかりだった。
ああ、帰りたい。
帰りたいよ。
でもって、買ってきたばかりのゲームでもしたい。第七ステージが厳《きび》しいんだよなあ。中ボス、どうしても倒《たお》せねえし。魔法《まほう》使えばいいのかな。それとも回復薬《かいふくやく》かな。中ボスの三回めの攻撃《こうげき》、あそこが厳しいんだよな。
ああもう、だるい。面倒臭《めんどくさ》い。眠《ねむ》い。
「裕一《ゆういち》、どいてくれないかな」
そんなことを言われ、足を突《つつ》かれた。
「ん?」
顔だけあげて声のほうを見ると、そこに司《つかさ》が立っていた。相変《あいか》わらず呑気《のんき》な顔をしており、目がやたらと細い。そして盛《も》りあがった筋肉のせいで制服がぱつんぱつんである。
「ここに写真|貼《は》るから」
「写真か」
身体《からだ》を起こすと、僕はあぐらを組んだ。そして手を伸《の》ばす。
「見せてみろ」
「わかるの?」
「最近、ちょっと凝《こ》ってんだよ。写真っておもしろいんだよな、意外《いがい》とさ。面倒なんだけど奥《おく》が深いっていうか」
「そういえばずっとカメラ持ち歩いてるよね。それ、すごくいいカメラなんじゃないかな」
「古いけどな」
なにしろ父親が生前《せいぜん》使っていたものなのだ。渡《わた》された写真には、星空が写《うつ》っていた。ただ星が点じゃなくて線になっている。かすかに弧《こ》を描《えが》きながら伸びているというか。
「あれ、なんでこんなふうに写るんだ」
「カメラを固定して撮《と》ったんだと思うよ。ほら、星って動いてるから」
「ああ、そういうことか」
たぶんシャッタースピードをバルブに設定《せってい》して、五分くらい開《あ》けっ放《ばな》しにしたんだろう。バルブに設定すると、シャッターボタンを押《お》しているあいだ、ずっとシャッターが開きっぱなしになる。一眼《いちがん》レフにだけついている機能だ。
「おもしろいな。バルブって、こんなふうに使えるのか」
「どうやって撮ったかわかるの?」
「まあ、なんとなく」
司に写真を返すと、僕は足下に転《ころ》がっていた自分のカメラを手に取った。古臭《ふるくさ》いニコンの一眼レフ。もちろんデジカメじゃないし、オートフォーカスさえもついていない。シャッタースピードも、絞《しぼ》りも、ピントも、全部自分で操作《そうさ》するのだ。
そのカメラを構《かま》え、なんとなくドアのほうに向ける。ピントを合わせる。ちょうど合ったその瞬間《しゅんかん》、ドアが開き、切り取られた空間の真ん中に里香《りか》が現れた。
「あ、いた」
フレームの中、里香はいきなり怒《おこ》っていた。
「なにしてんの、裕一《ゆういち》」
「いや、司《つかさ》の手伝い。ほら、司が天文部《てんもんぶ》の作業《さぎょう》を手伝うっていうから、オレも手伝おうかと思ってさ」
まあ、ほとんど嘘《うそ》である。
手伝わずに寝転《ねころ》んでいただけだ。
「嘘つき。なんでそんなところに座《すわ》ってるのよ」
もちろんあっさり見抜《みぬ》かれた。
うわ、ヤバい、と思いつつシャッターを切っている自分がいた。里香が怒った顔のまま近づいてくる。ピントを合わせつつ、焦《あせ》りつつ、さらに一枚。三枚めを撮《と》ろうとしたところで、フレームの中が真っ白になった。里香の制服だ。あ、もしかしてちょうど胸《むね》の辺《あた》りだろうか。じゃあ、撮っておくか。近すぎてピントが合ってないけど。
しかし果《は》たせなかった。
「痛《いた》い痛い痛い!」
前髪《まえがみ》を引《ひ》っ張《ぱ》られた。
「なにすんだよ!」
「裕一《ゆういち》のバカ」
「なんでだよ!」
「バカはバカだから」
カメラのレンズを上に向けると、フレームの中に怒《おこ》った里香《りか》の顔があった。こうしてレンズ越《ご》しに世界を見るのも、なかなか楽しい。
しかしそのカメラを取りあげられた。
「裕一のクラスの子、裕一を捜《さが》してたよ」
「え? なんで?」
「店番だって。裕一もやるんでしょ」
「ああ、あんなもんサボっておきゃいいんだよ」
僕はため息《いき》とともにそう言った。まったく、文化祭で喫茶店《きっさてん》なんて、想像力《そうぞうりょく》の欠如《けつじょ》以外のなにものでもないね。確《たし》かに店番は割《わ》り振《ふ》られたけれど、二年坊主どものお祭り騒《さわ》ぎにつきあうなんてうんざりだ。
「それよりカメラ返せって。おい、なにしてんだよ」
「今すぐ行かないと、これ落とすよ」
言いつつ、里香がカメラを両手で掲《かか》げた。
「落ちたら壊《こわ》れるんじゃないかな」
「バ、バカ! なに言ってんだよ! 壊れるに決まってるだろ! それ、いくらするかわかってんのか!」
「じゃあ、店番、行けば」
「あんな下らないもの──」
里香が手を離《はな》しそうになったので慌《あわ》てた。しまった。里香に下らない言《い》い訳《わけ》をしても無駄《むだ》なんだ。ただの脅《おど》しだと思いこむのは危険《きけん》すぎる。そう、里香はやると言ったらやる。しかも言い訳なんて聞きもしない。
「──あ、行く! 行くってば!」
「ほんとに?」
「ほんとに!」
言って、実験台から下りる。上履《うわば》きを履《は》く。司《つかさ》に写真を返す。ちらりと様子《ようす》を見たが、里香はまだカメラを掲げ、目を細めている。全然信用されてない。ああ、行くよ。行きますってば。
「カメラ、返せよ」
「やだ」
「だいたい、なんでおまえがオレを呼《よ》びにくるんだよ」
「二年の高木《たかぎ》さんとすれ違《ちが》ったら、戎崎《えざき》さんどこにいるか知りませんかって聞かれたの。里香《りか》先輩《せんぱい》、知りませんかって。裕一《ゆういち》がサボると、他の人が代わりにやらなきゃいけないってわかってる? 押しつけてるのといっしょだよ?」
意外《いがい》と里香は真面目《まじめ》だ。
思いっきりわがままだし、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》だし、天上天下唯我独尊《てんじょうてんがゆいがどくそん》だし、人の言うことなんて聞きもしないくせに、こういうことだけはやけに律儀《りちぎ》なのだ。
わかったわかった、と言って、僕は手を伸《の》ばした。
「行くから、カメラ返せって」
「ダメ」
「もう行こうとしてるだろ」
「信用しない」
というわけで、カメラを掲《かか》げたままの里香と並《なら》んで教室に向かうことになった。周《まわ》りの連中がじろじろ見てくるものだから、無茶苦茶《むちゃくちゃ》恥《は》ずかしい……。
「あの、里香さん」
「なによ」
「もう十分わかったんで、カメラ返してください。さっきからいろんな人に見られて恥ずかしいです。お願いします。返してください」
思いっきり低姿勢で頼《たの》んでみた。
僕をじっと見たあと、里香は楽しそうに笑いながら言った。
「ダメ」
この女、どうにかしてくれ……。
2
谷崎《たにざき》がうるさい。タバコをやめろとうるさい。じゃあおまえがやめろと言ったら、いやいやあたしは日本でのんびり暮らしますからと慇懃無礼《いんぎんぶれい》に言ってきやがった。あのヤンキー女、こっちがもう行くと決めてやがる。全然決めてねえってのに。そりゃスタッフドクターってのは魅力的《みりょくてき》な話だが、とにかくなんにも決めてねぇんだよ。
というわけで、夏目《なつめ》吾郎《ごろう》はいささかげんなりしつつ、屋上《おくじょう》に寝転《ねころ》がっていた。
いつ谷崎|亜希子《あきこ》がやってくるのかと思うと、おちおちタバコも吸えない。もし吸っているところを見られたら、携帯灰皿《けいたいはいざら》を突《つ》きだされて、ほら消せ今消せと迫《せま》られるのだ。あの調子《ちょうし》じゃしばらく嫁《よめ》に行けねえなと思いつつ、夏目吾郎はもしかしたら最後の一本になるかもしれないタバコをゆっくりと大切に吸った。肺の奥《おく》まで煙《けむり》をまわし、吐《は》きだす。ああ、谷崎みたいに三連の輪《わ》っかは作れねえな。ひとつが限界《げんかい》か。
それにしてもいい天気だ。
この田舎町《いなかまち》に来たのはもう一年ほど前だったろうか。三十数年生きてきた身からすると、一年なんてたいした時間じゃない。気がつくとあっさり過《す》ぎ去《さ》っているものだ。かつては十年が永遠に思えたのに、今は決して永遠ではないと知っている。そう、時は否応《いやおう》なしに流れていくのだ。泣こうが、喚《わめ》こうが、どれほど大切な思いさえも置き去りにしてゆく。
「まあ、それでいいんだろうがな」
声に出して言ってみた。
「それでいいんだよな」
誰《だれ》に言っているのだろうか。
とはいえ、この一年はやけに長かった。長く感じられたと言うべきか。その長さの中で、ただ窓の向こうを過ぎ去っていくだけだったすべてのことが、こちら側《がわ》に戻《もど》ってきた。
呆《ほう》けた秋の空。
輪郭《りんかく》のはっきりしない空気。
タバコの煙。
今はそんなすべてがちゃんとこちら側にあって、自分がそれらとともに生きているのだということが感じられる。
前は、そうではなかったのだ。
世界が終わったと思った。
消えたと感じた。
いや、消えてしまえと願った。
静かに眠《ねむ》る小夜子《さよこ》の顔はひどく穏《おだ》やかで、笑っているようでさえあった。本当はいつまでも彼女の身体《からだ》をこの世界に留《とど》めておきたかったけれど、恐《おそ》ろしく残酷《ぎんこく》なことに、医者である自分は遺体《いたい》というものがどう変化していくのかよく知っていた。ほんの二日かそこらで、目は落ちくぼみ、肌《はだ》は蝋《ろう》のようになり、内臓《ないぞう》は腐敗《ふはい》し……どんどん人間ではなくなってゆく。そんな小夜子を見るのはとても耐《た》えられず、勧《すす》められるままにすぐさま茶毘《だび》に付《ふ》した。
骨壷《こつつぼ》が入った桐《きり》の箱《はこ》を、火葬場《かそうば》で抱《だ》いた。
彼女の身体を焼きつくしたその熱はまだ冷《さ》めておらず、箱はかすかに温《あたた》かかった。それが彼女のぬくもりを感じた最後になった。
こうしていると、小夜子と出会ったころのことを思いだす。
自分は十七で。
彼女も十七で。
あのころの自分たちは、いったいなにを見ていたのだろうか。
「あのねえ、おもしろいの」
いつだったか忘れてしまったけれど、とにかくつきあいはじめたころ、小夜子がそう言ったことがあった。
「なにがだよ」
コートのポケットに両手を突《っ》っこんだまま、彼女に尋《たず》ねた。
冬の博物館に人気《ひとけ》はなく、広い空間の中にいるのは自分と小夜子《さよこ》だけだった。陳列棚《ちんれつだな》には地《じ》味《み》な磁器《じき》やら陶器《とうき》やらがずらりと並《なら》んでおり、時折《ときおり》足をとめて彼女はそんなものを楽しそうに見つめたりしている。
正直に言えば磁器にも陶器にも興味《きょうみ》はなかったけれど、彼女が楽しければそれでいいのだ。
だって──。
笑う彼女のそばにいるのが楽しいから。
「みんながね、学校の友達のことだけど、吾郎《ごろう》君とつきあうのやめろやめろって言うの。ほんとね、しつこいくらい言われるんだよ」
「……そうか」
それはよく理解《りかい》できる話だった。もし自分が小夜子の友人だったら、やっぱり同じようにやめろと忠告《ちゅうこく》するだろう。自業自得《じごうじとく》ってヤツだ。どうしようもない。けれど、やっぱりへこむ。わかっていてもへこむ。
重たい石を呑《の》みこんだような気持ちでいたら、
「まあまあ、吾郎君」
小夜子が肩《かた》をぽんぽんと叩《たた》いてきた。
「元気出しなさい」
「うす」
「あたしはちゃんとわかってますから」
なぜかやけに丁寧《ていねい》な言葉《ことば》だった。ちらりと見ると、小夜子はにこやかに笑っていた。そしてそれは確《たし》かにちゃんとわかってる顔だった。慰《なぐさ》めているわけでもなく、ごまかしているわけでもない。なんの迷《まよ》いもなく、自分のことを信じてくれている。
「うす」
じん、と痺《しび》れた。誰《だれ》かから本気で信用してもらうのが、こんなにもすごいことだったなんて初めて知った。
「うす」
だから、ただ肯《うなず》くことしかできない。
「この器《うつわ》、カッコいいね。色がきれい」
「…………」
「楽しいね、吾郎君」
なかなか喋《しゃべ》れなかったので、とりあえず小夜子の手を握《にぎ》った。ぎゅうっと握ると、ぎゅうっと握り返してきた。小さい手が精一杯《せいいっぱい》握ってくる感触《かんしょく》がたまらなかった。離《はな》すもんか。そう思った。どこまでもどこまでもいっしょに行くんだ。
そうして黙《だま》りこんだまま、ひたすら歩きつづけた。さして広くない博物館の中を何周もした。言葉《ことば》はなくても、ぬくもりが、それ以外のすべてが、ちゃんとあった。
ようやく口をきけるようになったのは、博物館を出るころだった。
「あのさ、小夜子《さよこ》」
「なに?」
「絶対《ぜったい》、そういうこと言われなくてもすむようにするからさ。おまえが嫌《いや》な思いをしないですむようにするからさ。あの、だから、オレさ──」
ぽんぽん、と肩《かた》を叩《たた》かれた。
「わかってますよ」
またやけに丁寧《ていねい》な言葉だ。そして、にこやかに笑っている。
「……うす」
すげえな。なんかわからないけど、すげえよ。
3
「お腹痛《なかいた》い。もうやめたい」
リハーサルの真っ最中に放《はな》たれた藤堂真美《とうどうまみ》のそんな一言《ひとこと》に、演劇部《えんげきぶ》部長|柿崎《かきざき》奈々《なな》はカチンと来た。本当はこの女を主役にしたくはなかったのだ。演技《えんぎ》はうまいのだが性格にムラがあり、やる気がないときはとことんダメな舞台《ぶたい》になってしまう。
どうも今回はやる気がないらしい。噂《うわさ》に聞くところでは、一週間ほど前に彼氏と別れたのだそうだ。まあ、だいたい事情は察しがつく。真美のわがままに相手の男がつきあいきれなくなったのだろう。今まで何度も繰《く》り返《かえ》されてきたことなので、またかという感じだ。
演劇に高校生活をかけている柿崎奈々としては、そんなことで大切な舞台を投げやりにするなど言語道断《ごんごどうだん》なのだが、なにしろ主役である以上、彼女|抜《ぬ》きで舞台は進まない。上演《じょうえん》は文化祭二日め、つまりは明日だ。
今さら主役|交代《こうたい》というわけにもいかないし、ここは我慢《がまん》するしかなかった。
「真美、ちゃんとやってよ」
穏《おだ》やかにと思いつつ、どうしても声が尖《とが》ってしまう。
「わかってるけどぉ」
その語尾のお≠ヘなんだ。かわいい声を出せば許《ゆる》されると思っているのか。
「具合《ぐあい》が悪いからぁ。真美、休みたい」
自分のことを名前で呼《よ》ぶ女は苦手《にがて》である。自分だって女だけれど、どうしたってあんなことはできない。それにしても不思議《ふしぎ》なものだ。自分のことを名前で呼《よ》ぶ女ほど、男にモテる。きっと男という生き物はバカなのだろう。
ああいう女がどれだけ性格が悪いか、わからないのかしら?
休みたい休みたいと真美《まみ》が連呼《れんこ》するので、根負《こんま》けして休むことにした。この加減《かげん》が難《むずか》しい。甘えるなと怒鳴《どな》るべきなのだが、下手《へた》に追いつめると真美はますますやる気をなくす。そんなことになったら、舞台が成《な》り立《た》たなくなってしまうではないか。悔《くや》しいことに、真美には役者としての華《はな》がある。そこに立つだけで、場が明るくなるというか。天性《てんせい》のものであって、こればっかりは他の誰《だれ》かに置き換えられるものではない。
丸《まる》めた台本《だいほん》を握《にぎ》りしめつつ、窓際《まどぎわ》でため息《いき》をついていたら、副《ふく》部長の相馬《そうま》千佳《ちか》がやってきた。
「ヤバいんじゃないの、今回」
ずばり感じていることを言う。
「あんたもやっぱりそう思う?」
「まあね。真美、たぶん今回は使えないよ。さっきから台本ばっかり見てるし。ろくに台詞《せりふ》を覚《おぼ》えてないんじゃないかな」
「だろうね」
「明日だよ、本番。どうするの、部長」
普段《ふだん》は名前で呼ぶくせに、千佳はあえて部長≠ニいう言葉《ことば》を使った。ちょっとしたプレッシャーだ。
胃《い》がきりきりと痛《いた》くなる。
「前もそうだったけど、真美は本番には合わせてくるから」
「合わせてくるときもある、でしょ?」
「…………」
「まあ、部長はあんただから。任《まか》せるけどね」
まったく容赦《ようしゃ》のない女だ、千佳は。
「失敗したくないよね、部長。これで最後だし」
高校を卒業したら、こんなふうに舞台《ぶたい》をやることはないだろう。高校生活最後、いやおそらくは人生最後の舞台だ。発声練習をしたり、台本を徹夜《てつや》で練《ね》ったり、緊張感《きんちょうかん》の中で本番を迎えたり……そんな日々が終わりだと思うと寂《さび》しくてたまらない。なんとなく誘《さそ》われたから入った演劇部《えんげきぶ》だったけれど、だんだん楽しくなってきて、ここ二年は高校生活のすべてを捧《ささ》げてきたといってもいい。だからこそ、今回の舞台は成功させたかった。
だが、このままでは無理《むり》だ。
真美がこんな調子《ちょうし》では、ものすごく間《ま》の悪い芝居《しばい》になってしまうだろう。周《まわ》りが張《は》りきれば張りきるほど、真美の緊張感の無《な》さが際立《きわだ》ち、そういうのは当然|観客《かんきゃく》に伝《つた》わるもので、やっているほうも見ているほうも苛立《いらだ》つばかりになってしまう。
迷《まよ》った末、千佳《ちか》に打ち明けてみた。
「真美《まみ》の台詞《せりふ》、思いっきり削《けず》っちゃおうか」
「削るって?」
「あの子、立ってるだけなら、とにかく華《はな》があるでしょ。だから、もうそれだけにしちゃうのよ。もともと台詞は頭と後半にあるだけだから、その頭の部分をそっくり削っちゃえばいい。姫《ひめ》が話せなくなったところから始めるの」
物語の筋《すじ》は簡単《かんたん》だった。ある国に美しい姫がいる。彼女の声は鳥のさえずりのように優《やさ》しく、国中の誰《だれ》もが姫のことを誇《ほこ》りに思っている。国の内外《ないがい》から求婚者《きゅうこんしゃ》が押《お》し寄《よ》せる。そのことに嫉妬《しっと》した意地悪《いじわる》な魔法使《まほうつか》いが、姫の声を奪《うば》ってしまう。声を失った姫は、絶望に涙《なみだ》する。求婚者たちが姫の声を取《と》り戻《もど》そうと努力するが、結果は空《むな》しいばかり。やがてひとりの青年が現れ、魔法の言葉《ことば》によってついに姫の声を取り戻す。
「姫が話せなくなってるシーンから始めて、なぜそうなったかは周《まわ》りのみんなに説明してもらうの。それなら真美は立ったり泣いたりしてるだけでいいから、台詞はいらないでしょ」
「なるほどね。でも尺《しゃく》が短くなっちゃうよ」
「全体の締《し》まりがなくなるより、そのほうがいい」
「それはそうかもしれないけど。台本《だいほん》はどうするの?」
「どうにかなる。徹夜《てつや》で書きかえれば、明日には間《ま》に合《あ》う。あとはみんなが承諾《しょうだく》してくれるかだけど。最初のほうの台詞を覚《おぼ》え直《なお》してもらわなきゃいけないから」
「明日だもんねえ」
「その気になればどうにかなるよ」
うーんと唸《うな》って、千佳は黙《だま》りこんでしまった。確《たし》かにこれは荒療治《あらりょうじ》だ。本番一日前に考えることではない。ここまで決断《けつだん》を引《ひ》っ張《ぱ》ってしまった自分の失態《しったい》だ。もっと早く真美を切るべきだったのだ。
「真美、拗《す》ねないかな」
痛《いた》いところを突《つ》かれた。
「あの子、そういうことだけは聡《さと》いから、自分のせいで台本変わったことに気づくよ」
「拗ねてもかまわない。どうせ黙って立ってるだけだし」
「逃げたら?」
「逃げはしないでしょ」
言ってる自分が信じてない言葉だった。
さすがは長いつきあいだ。千佳は容赦《ようしゃ》なく突っこんでくる。
「逃げた場合の話をしてるの。真美、前にも一回逃げてるんだよ。あのときのこと、覚《おぼ》えてるでしょ。代役《だいやく》立てたけど、最悪の舞台《ぶたい》になっちゃったじゃない。同じことになるよ」
「じゃあ、そのときはわたしが姫《ひめ》をやる」
「あんたが? 本気?」
無茶《むちゃ》なことを言っているのはわかっていた。姫《ひめ》をやれる華《はな》など自分にはない。だからこそ演出《えんしゅつ》にまわっているのだ。だが、真美《まみ》が逃げたら、そうするしかない。やはり最悪の舞台になってしまうだろうが、とりあえず幕《まく》は開く。
そのとき、ふと気づいた。
「あそこにいる子、なんて名前だっけ?」
「え? 誰《だれ》?」
「後《うし》ろのほうで見学してる子。水谷《みずたに》みゆきといっしょにいるでしょ」
ああ、と千佳《ちか》が肯《うなず》いた。
「秋庭《あきば》里香《りか》。一年だけど十八で、ほんとはわたしたちとタメ」
「すごく髪《かみ》が長いね」
ピンと来たのだ。設定上《せっていじょう》、姫の髪はとても長い。真美はミディアムだからエクステンションをつけさせているけれど、秋庭里香ならそのままでいける。
華は、ある。
間違《まちが》いなくある。
ああして後ろの壁《かべ》にもたれて立っているだけで、すぐ目に飛びこんでくるくらいだ。教室中の誰もが彼女を意識《いしき》しているし、普段《ふだん》は自分のことしか気にしない真美でさえチラチラと秋庭里香を確認《かくにん》している。
まったく、たいした存在感だ。
「あの子、髪長いね」
演出家《えんしゅつか》の血が騒《さわ》ぎはじめた。
「ああ、確《たし》かに」
「姫の髪も長いんだよね。真美はエクステンションつけてるけど、安物《やすもの》だからちょっと似合《にあ》ってないと思わない?」
「いや、あんなものでしょ。舞台《ぶたい》だからわかんないって」
「でも本物の髪なら、もっと映《は》えるよね」
千佳もようやく気づいたらしい。
「奈々《なな》、あんたまさか」
「ちょっと考えてみただけよ。ほら、準備《じゅんび》はしておいたほうがいいじやないの」
つい笑ってしまう。なかなか自分も意地悪《いじわる》だ。
「真美が逃げちゃったときのためにね。念《ねん》のためよ、念のため」
4
カメラを返してもらい、店番を三十分|務《つと》め、ようやく解放されたときにはすっかり腹が減《へ》っていた。喫茶店《きっさてん》で出しているサンドイッチをこっそり食べるという手もあったが、なんだかそれも悪い気がして、腹が減ったまま教室を出ようとしたら後《うし》ろから声をかけられた。
「あの、戎崎《えざき》さん」
クラス委員をやってるヤツだった。
「ありがとうございました」
律儀《りちぎ》に頭を下げてくる。
「いや、当番だったから」
「そうですけど」
「楽しかったぞ、わりと」
嘘《うそ》をついて、さっさと教室を出た。気まずい。実に気まずい。ダブってから半年、いまだクラスからは見事《みごと》に浮《う》いている。まあ、しかたないことだ。そのうち慣《な》れる……わけないか。これからも同じような日々が続くのだろう。
ため息《いき》をつきつつ、ぶらぶら校舎の中を歩いていく。祭りの雰囲気《ふんいき》に校内はすっかり浮かれている。ブルース・リーの格好をした集団がぬんちゃくを振《ふ》りまわし奇声《きせい》をあげつつ廊下《ろうか》を走り抜《ぬ》けていく。二年C組はなにを勘違《かんちが》いしたのか教室内で戦隊《せんたい》ショーを繰《く》り広《ひろ》げている。怪人《かいじん》の見事《みごと》な跳《と》び蹴《げ》りを食らったレッドが倒《たお》れこみ、動かなくなる。怪人と手下《てした》が慌《あわ》ててレッドを介抱《かいほう》する。隣《となり》の二年D組はメイドカフェだが、なぜかメイドの格好をしているのは男子生徒で、女子生徒は男子の学生服だ。見事にコンセプトを間違《まちが》えた店内はガラガラである。様子《ようす》を見にきた女性教師が店内に入った途端《とたん》、「いらっしゃいませ! ご主人様!」という決まり文句《もんく》が野太《のぶと》い声で響《ひび》き渡《わた》る。女性教師はのけぞり、慌てて店内から逃げだす。その様子を眺《なが》めていたら、メイドのひとりと目があってしまう。ヤバいと思い、必死で逃げる。ふう、危《あぶ》ないところだった。もし引きずりこまれたら地獄《じごく》を味わっていたかもしれない。いくらなんでもミニスカートはないだろう、ミニスカートは。せめてすね毛は剃《そ》るべきだ。いやそれも気持ち悪いか。
などと思っていたところ、脇《わき》を小突《こづ》かれた。
「よう、戎崎」
山西《やまにし》であった。ニヤニヤ笑っている。
「ちょっとこっち来いよ」
「なんだよ」
「いいから、来いって」
やけに強引《ごういん》である。そうしてつれこまれたのは視聴覚《しちょうかく》教室だった。なぜか入り口に柔道部《じゅうどうぶ》
の山崎《やまざき》が立っており、鋭《するど》い視線《しせん》を辺《あた》りに向けている。視聴覚《しちょうかく》教室のドアには角張《かくば》った文字で『古典ロシア映画上映会』と書かれた札が貼《は》ってあった。古典ロシア映画だって? どこからそんなものを調達《ちょうたつ》してきたのだろうか。
「勘弁《かんべん》してくれよ、ロシア映画なんて」
逃げだそうとしたが、山西《やまにし》は強引に腕《うで》を掴《つか》んできた。
「いや、いいぞ、ロシア映画」
「それより腹|減《へ》ってんだって」
「腹? それより大事なものがあるだろうが。それがロシア映画だ。人間の、いや男という生き物の存在の根源《こんげん》に訴えるものだ」
「存在の根源? 訴える? ロシア映画が?」
どうも意味がわからない。煙《けむ》に巻《ま》かれたような気分だが、しかし山西は大真面目《おおまじめ》である。目が真剣《しんけん》だし、鼻の穴が膨《ふく》らんでいる。山西は力強く肯《うなず》き、勢《いきお》いこんだ調子《ちょうし》で視聴覚教室のドアに手をかけた。
「入るぞ」
山西の言葉《ことば》に、山崎はうむと肯いた。
「なんで見張りがいるんだよ?」
「女子が入るとヤバいからな」
「女子? なんで?」
その答えは中に入った瞬間《しゅんかん》に知れた。視聴覚教室で上映されていたのは、おそらく非合法《ひごうほう》に属するものだった。少なくとも校内に持ちこまれるべき代物《しろもの》でないのは確《たし》かだ。百インチのスクリーンに映《うつ》しだされたそれは実物以上の大きさで、響《ひび》き渡《わた》る喘《あえ》ぎ声《ごえ》が脳を直撃《ちょくげき》する。視聴覚教室の中は、詰《つ》めかけた男子生徒の熱気《ねっき》でむんむんしていた。誰《だれ》もが黙《だま》りこみ、スクリーンを凝視《ぎょうし》している。
「どうだ? すげえだろ?」
得意気《とくいげ》に山西が言ってくる。
ごくりと唾《つば》を呑《の》みこみ、僕は肯いた。
「確かにすげえな。うわ、あんなことしていいのか」
「お、おお」
「そんな無茶《むちゃ》な」
「ええ、そこまで」
「うわ」
僕と山西はバカみたいにそんなことを繰《く》り返《かえ》すことしかできなかった。確かにそれは、人間の、いや男という存在の根源に訴えるものであった。すげえ、ロシア映画はすげえ。いや、ロシア映画じゃないけど。
φ
里香《りか》を誘《さそ》って、演劇部《えんげきぶ》の練習を見にいった。ほんとは世古口《せこぐち》君といろいろ出し物を見てまわりたかったのだけれど、彼はずっと天文部《てんもんぶ》の手伝いをしている。ほんと、つきあいがいいのだ、世古口君は。
「世古口君、意外《いがい》と人気あるんだよね」
つい愚痴《ぐち》ってしまう。
「いろんな人に頼《たよ》られてるっていうか」
「優《やさ》しいから」
「そうなんだよね。誰《だれ》にでも優しいんだよね」
ついため息《いき》が出てしまう。
ふふ、と里香が笑った。
「なによ」
「べっつにー」
「もう」
身体《からだ》をぶつけておく。里香も身体をぶつけてきた。ぶつけあってるうちになんだか楽しくなってきて、お互《たが》いくすくす笑ってしまった。里香には好きな人がいて、あたしにもいて、だからなんとなく気持ちがわかるのだ。女同士だし、年もいっしょだし。たぶん里香もあたしと同じょうに、ちょっとしたことで悩《なや》んだり、迷《まよ》ったりしてるんだろうな。誰かのことを考えて眠《ねむ》れない夜だってあるに違《ちが》いない。
「裕《ゆう》ちゃん、どこにいるの」
さて反撃《はんげき》でもしておくか。
「さあ、どこだろ。もうそろそろ店番が終わるはずだけど。そのうちあたしを捜《さが》しにくるんじゃない?」
「余裕《よゆう》だねえ」
「裕一《ゆういち》、犬みたいなものだから」
「来ないと寂《さび》しいくせに」
「そんなことないけど」
言い張る声が、ちょっと可愛《かわい》い。平静《へいせい》を装っているものの、実は照《て》れてるし。ふふ、と意地悪《いじわる》っぽく笑ってやった。今度は里香が身体をぶつけてきた。もちろんぶつけ返しておく。そしてやっぱり同じように笑う。
いつかちゃんと里香に聞いてみよう。
眠れない夜はあるのかって。
壁《かべ》にもたれかかり、あたしたちは教壇《きょうだん》の辺《あた》りに集まっている演劇部《えんげきぶ》の子たちを見ていた。うつむくと少し伸《の》びてきた髪が垂《かみた》れ、頬《ほお》をくすぐる。髪のあいだからあたしと里香《りか》の脚が覗《あしのぞ》いて見えた。ふたりともまだ大人の脚じゃなくて、子供の脚だった。あと一年か二年したら、ほんの少しラインが変わって、こんな脚ではいられなくなる。大人になってしまう。一年のときから履《は》いているあたしの上履《うわば》きはもう薄汚《うすよご》れているけれど、里香のはまだ白い。同じように上履きが汚れるまで、あと二年半、里香はこの学校に通うのだ。そう思ったら、里香がとてもうらやましくなった。
「いいなあ、まだ学校に通えて」
髪をゆらゆらと揺《ゆ》らしながら、そんなことを言ってみる。揺れているのは、髪だけだろうか。
「まだ二年もあるんだよね、里香は」
「楽しむよ、高校生活」
「いいな。代わってくれない?」
「やだ」
ふたりとも声が少しだけ笑っている。なにがいったい楽しいんだろう。はっきりとはわからないけれど、こうして里香と話せることが、もしかしたらあたしは嬉《うれ》しいのかもしれない。
「あたし、最後の文化祭なんだよね」
「寂《さび》しい?」
「ちょっとだけ。終わっちゃうのはなんでも寂しいね」
「そうだね」
声が返ってくるまで、ほんの少しの間《ま》があった。そのことを深く考えないまま、次の言葉《ことば》を口にする。
「里香は初めての文化祭だよね」
そう、深く考えないほうがいいのだ。里香だって詮索《せんさく》はきっと望んでいないはずだ。なにもかも言葉にしてしまうのが正しいとは限《かぎ》らない。
曖昧《あいまい》に(あるいはいい加減《かげん》に?)しておいたほうがいいことだってある。
「うん、初めて」
「どう?」
「おもしろいよ。みんな、いつもと違《ちが》う顔してるし。たまにはこういうのもいいかな。日常《にちじょう》と、非日常っていうか」
「日常と、非日常か」
それからしばらくなんにも喋《しゃべ》らず、ふたりでぼんやりしていた。午後の教室に差しこむ光の柱の中で、小さな埃《ほこり》が無数に舞《ま》っている。窓枠《まどわく》や机の影《かげ》が床《ゆか》に落ちて、よく見ているとそれは少しずつ長くなっていった。髪のあいだから盗み見た里香の顔には、かすかに笑《え》みがあった。なんでもないこんな時間でさえもが楽しくてたまらないというふうだ。彼女が見ている風景は、もしかするとあたしとは少し違《ちが》うのかもしれない。
日常《にちじょう》と、非日常──。
明日があって、明後日《あさって》があって、そうして当たり前のようにあたしは未来を信じている。誰《だれ》だって、そうなのだろう。世界のあやふやさに怯《おび》えているくせに、どこかで甘えてしまってもいる。そしておそらく、そのほうが暮《く》らしやすいのだ。下手《へた》に考えて足をとめてしまうより、なにも考えずに歩いているほうが遠くまで行ける。けれど、そうできない運命を背負《せお》った人間だっているのだ。明日も明後日も、それどころか今日さえも信じられない。ただ今を生きるしかない。それはいったいどういうものなのだろう。覚悟《かくご》なのか、諦《あきら》めなのか。
身体《からだ》を揺《ゆ》らしながら、同じように揺れる影《かげ》を見ていた。髪《かみ》も、髪の影も揺れていた。里香《りか》に尋《たず》ねたい気もしたけれど、尋ねないほうがいい気もする。そう、曖昧《あいまい》にしておいたほうがいいのかもしれない。
やがて里香が先に口を開いた。
「演劇部《えんげきぶ》って、いつもこんな感じなのかな」
「こんなって?」
「空気が重たい」
「ああ、そういえばそうかも」
演劇部は確《たし》かにうまくいってない感じ。部長の柿崎《かきざき》が怒《おこ》ってる。主役の子は顔くらいしか知らないけど、こっちも不機嫌《ふきげん》そう。部員はおろおろしてるし。明日が本番なのに、こんなんで大丈夫《だいじょうぶ》なんだろうか。やがて一部の部員たちが時間を持てあましたのか発声練習を始めた。あ、え、い、う、え、お、あ、お。ひとつひとつの音を、丁寧《ていねい》に、大きく口を開けて発している。気がつくと、里香も自分も同じように口を動かしていた。か、け、き、く、け、こ、か、こ。声は出していないけれど。
里香と目があう。里香はおかしそうに笑いながら、口を動かしている。あたしも笑っておく。そうしてこっそり発声練習につきあっていたら、柿崎がこちらに歩いてきた。
「水谷《みずたに》、ちょっといい?」
話しかけられると思わなかったから、びっくりした。
「いいけど? なに?」
「ちょっとこっち来て」
少し離《はな》れたところに呼《よ》ばれた。
「なによ」
「あんたの隣《となり》にいたの、秋庭《あきば》さんだよね?」
「里香がどうかしたの?」
「頼《たの》みたいことあるんだけど、取《と》り次《つ》いでくれないかな。あたしさ、秋庭さんとは話したことないから」
「なによ、頼《たの》みたいことって」
その答えにびっくりした。
「無理《むり》だと思うけど、それって」
「大丈夫《だいじょうぶ》。立ってるだけだから」
「無理だってば」
「とにかく秋庭《あきば》さんに話してみてよ」
ここまで強引《ごういん》に頼まれると、断るわけにもいかない。だいたい受けるかどうかは里香《りか》が決めることだし。
里香、と名前を呼《よ》ぶ。
自分の名前が出たことにびっくりしたのか、里香がきょとんとした顔になった。
「この子、柿崎《かきざき》。あんたに話があるんだって」
φ
「手入れだあ────っ!」
誰《だれ》かが叫《さけ》んだ。
「鬼大仏《おにだいぶつ》が来たあ────っ!」
その直後、どんどんどんと視聴覚《しちょうかく》教室のドアを叩《たた》く音が空間に響《ひび》き渡《わた》った。開けろ、おまえら、ここでなにをしておる、と野太《のぶと》い声がドア越しに響いている。間違《まちが》いなく鬼大仏だ。先生これはなんでもないんですロシア映画を観《み》てるだけです無修正の高尚《こうしょう》なロシア映画です、と微妙《びみょう》に本音《ほんね》を漏《も》らす山崎《やまざき》の悲痛な叫びが聞こえたが、なにかが床《ゆか》に叩きつけられる地響《じひび》きのような音の直後、彼の声は聞こえなくなってしまった。山崎とて三重県高校|柔道界《じゅうどうかい》では猛者《もさ》として知られる男ではあるが、さすがに鬼大仏相手では分《ぶ》が悪い。
「山崎い────っ!」
また誰かが叫ぶ。
「おまえの男魂《おとこだましい》、しかと受け取ったあ──っ!」
「山崎い────っ!」
「やべえ! 逃げろ!」
「どこから逃げんだよ! ここ、三階だぜ!」
「庇《ひさし》だ! 庇|伝《づた》いに隣《となり》の教室だ!」
「その手があったか!」
「山崎い────っ! 山崎い────っ!」
教室内はパニックに陥《おちい》った。こんなところでこんなものを観ていたことがバレたら停学ものだ。窓を開け、庇を伝って隣の教室に逃げだそうとしているものがいる。映写室から大量のビデオテープを抱《かか》えて飛びだしてくるものが三人。その三人はビデオテープを抱えたまま、教室中を闇雲《やみくも》に走りまわる。七人の勇者《ゆうしや》が必死になって教室のドアを押《お》さえている。バリケードだ、バリケードを築け、と叫ぶものがいる。やがて視聴覚《しちょうかく》教室のドアがズンと重く揺《ゆ》れる。焦《じ》れた鬼大仏《おにだいぶつ》が体当たりでもかましたのだろう。ドアを押さえていたうちの三人があっさり弾《はじ》き飛《と》ばされ、残り四人がどうにか支《ささ》える。
「戎崎《えざき》、やべえ!」
「おう!」
僕と山西《やまにし》は慌《あわ》ててドアに駆《か》け寄《よ》った。さらに数人が駆け寄ってくる。そろった十人ほどで必死になってドアを押さえた。
「早くしろ! 窓から逃げるんだ!」
振《ふ》り向《む》き、ビデオテープを持っている連中に向かって叫《さけ》んだ。証拠《しょうこ》さえ隠《かく》してしまえば、どうにかシラを切れるだろう。幸《さいわ》いにもタバコなんかと違《ちが》って、匂《にお》いも煙《けむり》も残らない。スクラムだ、スクラムを組みましょう、とドアの向こうで鬼大仏の声が聞こえた。体当たりして、あんなドアなどぶち破りましょう。
「来るぞ!」
山西が悲壮《ひそう》な声で叫んだ。
「対ショック防御《ぼうぎよ》だ!」
「おう!」
ドアを押《お》さえている僕たちはそろって声をあげ、全身に力をこめた。ドアの向こうで、男性教員隊による鬨《とき》の声。うおおおと叫《さけ》びながら、男性教員隊のスクラムが駆《か》け寄《よ》ってくる。想像していたよりもはるかに強烈《きょうれつ》な衝撃《しょうげき》が来て、開きかけたドアの角で額《ひたい》を打った。頭の中が真っ白になる。
「怯《ひる》むな! 第二弾、来るぞ!」
「おお!」
「させるかあ!」
「行かせん! 行かせんぞ!」
ふたたびの衝撃に、どうにか僕たちは耐《た》えた。しかし衝撃に肩《かた》をやられたひとりが呻《うめ》いて脱落した。さらに続く教師たちの体当たりによって、貴重《きちょう》な戦力がひとりふたりと倒《たお》れていく。僕も打った額から血が滲《にじ》んできた。
「早くしろ! まだか!」
後《うし》ろを確認《かくにん》すると、隣《となり》の教室まで庇伝《ひさしづた》いに退路《たいろ》を確保した搬出《はんしゅつ》部隊が、バケツリレーの要領《ようりょう》で大量のビデオテープを運びだしていた。あれを全部運びだすのに、どれだけの時間が必要だろうか。何度の体当たりに、僕たちは耐えればいいのか。
無理《むり》だ……もたない……。
積みあげられた大量のビデオテープに、搬出部隊の混乱ぶりに、諦《あきら》めの気持ちがわきあがってくる。このままでは耐えきれないのではないか。
「戎崎《えざき》、来るぞ!」
「おお!」
しかし、もはや考えている余裕《よゆう》はなかった。男性教員隊による突撃《とつげき》はあまりにも強烈《きょうれつ》だ。鬼大仏《おにだいぶつ》、体育の島村《しまむら》、ラグビー部|顧問加藤《こもんかとう》が加わっているのは確実として、かけ声から察するに、おそらく物理の田島《たじま》や国語の浜崎《はまぎき》、さらには英語の仁志田《にしだ》も参加しているらしい。うちてしやまんとばかりに繰《く》り返《かえ》される男性教員隊の突撃、その一撃一撃に、防御側《ぼうぎょがわ》の男子生徒が次々と脱落していった。もとより体格で負けている上、向こうは助走をつけての突撃が可能である。それに対し、こちらはひたすらドアに貼《は》りつくしかない。不利なのは明らかだったが、しかしひとり倒れれば別のひとりが加わり、ふたり倒れれば別のふたりが加わり、状況《じょうきょう》はどうにか均衡《きんこう》を保《たも》った。幸《さいわ》いしたのは、視聴覚《しちょうかく》教室に集まっていた男子生徒のスケベ心……いや人数だった。体格と馬力に劣るとはいえ、兵隊の数ではこちらが勝《まさ》る。
こちらも辛《つら》いが、向こうだって辛いはずだ。
耐えろ、耐えるんだ。
突撃を受《へ》けるたびに減っていく仲間たちの姿を見ているうちに、僕と山西《やまにし》の胸《むね》に……いやドアを防御している全男子生徒の胸に同じ思いが去来《きょらい》しつつあった。
「よし! 全部運びだしたぞ!」
やがて搬出《はんしゅつ》部隊の声が聞こえてきた。
「ロシア映画だ! ロシア映画をスクリーンに映《うつ》せ!」
「『僕の村は戦場だった』があるぞ! それとも『アンドレイ・ルブリヨフ』にするか?」
「バカ! この映画オタク! そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」
「なんでもいいから映せ! 早くしろ!」
「よし! 映った!」
「もういいぞ、戎崎《えざき》!」
しかし僕たち防御《ぼうぎょ》部隊は誰《だれ》ひとりとしてドアを離《はな》れようとしなかった。もう映画なんて関係ない。知ったことかボケ。そういう問題じゃねえんだよ。こうなったら意地《いじ》だ。男性教員対男子生徒の総力戦……いや、男と男の、魂《たましい》をかけた闘《たたか》いに口を出すんじゃねえ。
絶対《ぜったい》開けさせるものか!
死守《ししゅ》だ!
迫《せま》ってくる男性教員隊の雄叫《おたけ》びに、僕たちは雄叫びで答えた。
「うおおおおお──っ! 負けるかあああ──っ!」
5
「山上祭《やまがみさい》?」
谷崎《たにざき》希子《あきこ》はその響《ひび》きに首を傾《かし》げた。
「なんだっけ、それ?」
「ほら、裕一《ゆういち》君の学校の文化祭。あそこ、あたしの母校なんですよね。どこにでもある地味《じみ》な文化祭ですけど、行ってあげたらどうですか」
教えてくれたのは後輩看護婦《こうはいかんごふ》の久保田《くぼた》明美《あけみ》だ。ちょうどふたりで点滴《てんてき》の準備《じゅんび》をしているところだった。単純な作業《たんじゅんさぎょう》ではあるものの、決して気を抜《ぬ》けない。下手《へた》に間違《まちが》うと、命に関《かか》わるからだ。明美はまだ若いのに手際《てぎわ》がよくて、次々と薬液《やくえき》を混ぜていく。明らかにこちらより正確で速い。ちっと心の中で舌を鳴《な》らしておく。雑《ざつ》だもんねえ、あたしは。わかっちゃいるけどさ。
「遠慮《えんりょ》しとく。あたし、学校|嫌《きら》いだったからさ、今も行きたくないんだよね。校舎見るだけで逃げたくなるもん」
「あたしは行きたいです。学校好きだったから」
「じゃあ行ってくれば?」
それが日勤《にっきん》なんですよね、と明美は残念そうに言った。
「文化祭ねえ」
学生時代、そんなものはサボるのが当然だった。クラスの行事なんてかったるくてやってられないし、部活には入ってなかったし。朝の点呼《てんこ》が終わったら即座《そくざ》に屋上《おくじょう》へ行って、友達とずっと花札《はなふだ》をやってたっけ。一年のときも、二年のときも、三年のときも、同じことの繰《く》り返《かえ》し。戦績は、負け、負け、大勝ち……トータルで二千円ばかり勝っているかな。いや、微妙《びみょう》なところか。
「あたし、演劇部《えんげきぶ》だったんですよね」
「へえ、そうなんだ」
意外《いがい》だった。明美《あけみ》はとにかく地味《じみ》な子だ。髪《かみ》はきれいな黒だし、化粧《けしょう》もあまりしない。言われたことは真面目《まじめ》にこなすが、機転《きてん》に欠ける。患者《かんじゃ》に無茶《むちゃ》なことを言われると、その場で判断《はんだん》を下せず、人を頼《たよ》りにすることが多い。まあ、要《よう》するに自分とは正反対のタイプだ。そんな明美が舞台《ぶたい》に立って大声を出す姿《すがた》は想像できなかった。
考えていることが伝《つた》わったのだろう。
「柄《がら》じゃないってよく言われるんですけど」
明美は恥《は》ずかしそうに笑った。
「でも舞台に立ったときだけは自分じゃない自分になれる気がして」
「役になりきるってこと?」
「そういうわけじゃなくて」
明美の女の子らしい丸い手がアンプルを点滴《てんてき》のパックに刺《さ》す。規定の液量《えきりょう》を入れる。すぐに抜《ぬ》いて、次のアンプル。よく見ると、使用前のアンプルも使用後のアンプルもきっちり順番に並《なら》べている。だから速くて正確なわけだ。ただ、ああやって並べるのには、事前にかなりの手間《てま》がかかるだろう。器用《きよう》なのか、不器用なのか。
「本当の自分を出せるっていうか」
「ああ、なるほど」
ガラガラの道をシルビアで飛ばしていると、すべての思考《しこう》がふいに抜け落ちていく瞬間《しゅんかん》がある。腕《うで》も足も車と一体化し、あたかもひとつの生き物になったかのように、ただ目の前のストレートを、カーブを走るのだ。そういうとき、自分は自分であって、自分ではない。なにかもっと大きなものに繋《つな》がっている。世界とか、時間とか……よくわかんないけどさ。
彼女が言っているのは、そういうことだろうか。いや、ちょっと違《ちが》うか。
「三年の子に、舞台を観《み》にきてくれって言われてるんですよね。行ってあげたいけど、日勤《にっきん》だから。代わりに谷崎《たにざき》さんが観てきてくれませんか」
「代わりねえ」
どうも気乗りしない。
「夏目《なつめ》先生と行ってきたらどうですか」
「はあ? 夏目《なつめ》と? なんで?」
「だって仲いいじやないですか」
ちょっと待て。よくない。仲は全然よくないぞ。
「あのさ、もしかしてそういう噂《うわさ》ある?」
恐《おそ》る恐《おそ》る尋《たず》ねてみた。
ありますよ、と言って明美《あけみ》は笑った。
「気づいてなかったんですか、谷崎《たにざき》さん」
「まったく」
「そういうところが谷崎さんらしいですね。ちょっとうらやましいです」
「うらやましいって?」
「全然気にしないじゃないですか。あたしだったら、噂とかすごく意識《いしき》しちゃうから」
「あんたはね、気にしすぎ」
わかってるんですけど、と明美は呟《つぶや》く。開きかけたままのふっくらした唇《くちびる》は、なにかを言おうとしているのか、それとも黙《だま》ろうとしているのか。しばらく待ってみたけれど、結局《けっきょく》明美は黙ってしまった。つまり、そういうタイプなのだ。
いろんなことを、内に溜《た》めてしまう。
まあ、わかっていても、どうにかできるものではないのが人間だ。自分だってガサツなのは十分|承知《しょうち》しているけれど丁寧《ていねい》にはなれないし。
「あんたとあたしを足してさ、二で割れればいいのにね」
「悪いところばっかりになっちゃつたりして」
「うわ、それ最悪」
ふたりで笑った。もうすぐ作業《さぎょう》は終わりだ。そうしたら、点滴《てんてき》のパックを持って、病室をまわらなければならない。クソジジイどものお触《さわ》り攻撃《こうげき》を撃退《げきたい》しつつの難行《なんぎよう》だ。
「夏目とはさ、なんでもないんだ」
「そうなんですか?」
「男と女って感じじゃないんだよね。ダチっていうかさ。うん、そうだね。ダチってのが一番あってるかも」
休憩《きゅうけい》時間に屋上《おくじょう》へ行ったら、そのダチが寝《ね》ていた。二枚目だけど、寝顔はなかなかマヌケである。開きっぱなしになった口が魚のようだ。口の中に吸《す》い殻《がら》でも放り投げてやろうかと思ったが、さすがにそれは怒《おこ》るだろうから自粛《じしゅく》。額《ひたい》への落書きも、やっぱり自粛。少し離《はな》れた場所に座《すわ》り、タバコを吹かす。
夏目がなにか言った。
「ん、起《お》きた?」
尋《たず》ねてみたが、返事はなかった。どうやら寝言《ねごと》だったらしい。なんとなく……女の名前だった気がする……。
しばらくマヌケな寝顔を見つめてから、視線《しせん》を秋のぼんやりした青空に移した。
「文化祭ねえ」
やっぱり行く気はしないな。
しかも夏目《なつめ》と?
むしろ勘弁《かんべん》してくれって感じ。
φ
闘《たたか》いは続いている。男と男の魂《たましい》が、ドア越しにぶつかりあっている。激《はげ》しい衝撃《しょうげき》に、戎崎《えざき》裕一《ゆういち》は弾《はじ》き飛《と》ばされる。床《ゆか》で頭を打ち、視界《しかい》が真っ白になる。しかし行かねば。友が、友が闘っているのだ。戎崎──っ、戎崎──っ、と友が叫《さけ》んでいる。ふらふらになりながらも、戎崎裕一は立ちあがると、ふたたびドアを押《お》さえた。傷つきながらも戦線に加わった。数少なくなった戦友たちが笑顔で迎えてくれる。笑いながら親指を立ててくる友がいる。もちろん戎崎裕一も笑顔で親指を立てる。ウィンクしてくる友もいる。もちろん戎崎裕一もウィンクを返す。もはや突破《とっぱ》されるのは時間の問題だ。勝負はすでに決しつつある。このドアはやがて開いてしまうだろう。しかし最後の最後まで闘うのだ。今や闘いこそが我らの大義《たいぎ》なのだから。
φ
話を聞いた秋庭《あきば》里香《りか》は驚《おどろ》く。やけに熱のこもった口調《くちょう》で、柿崎《かきざき》さんとやらが話しかけてくる。いちおうだから。台本《だいほん》を軽く見ておいてくれるだけでいいから。無茶《むちゃ》なのはわかってるしね。ほんと、軽い気持ちでいいの。やってくれって言ってるわけじゃないから。でも、ほら、台本を見ておいてくれるとありがたいなあって。やけに必死である。台本を押しつけられた。ごめんね、と水谷《みずたに》みゆきが謝《あやま》ることじゃないのに謝ってくる。無理《むり》だよね。柿崎の言うことなんて聞かなくていいから。あの子、意外《いがい》と強引《ごういん》なのよね。もちろん秋庭里香も無理だ強引だと思いつつ、なんとなくぱらぱらと台本をめくる。ある言葉《ことば》が目に入ってくる。添《そ》え書《が》きされている設定《せってい》に目をやる。途端《とたん》、なにかが心の中で位置を変える。まあ、読むだけなら、いいか。台本を読んでおくだけなら。それくらいは、かまわない。
φ
あるよく晴れた秋の一日が過《す》ぎていく──。
[#改ページ]
1
伊勢《いせ》の近辺には走れる道が多い。なにしろリアス式海岸ってヤツで、海沿いの道はどこも右に左に曲《ま》がり、しかも高低がついている。田舎《いなか》なので、車も少ない。最初から最後まで一台もすれ違《ちが》わないなんてことさえある。というわけで、谷崎《たにざき》希子《あきこ》にとって、伊勢というのはなかなか住みやすいところなのだった。
今日は伊勢|志摩《しま》スカイライン。パールロードのほうが好きだけど、こっちも悪くなかった。ちょっときつめのカーブが連続している。おまけに路面《ろめん》が悪い。気を抜《ぬ》けない。
早朝の山道は少し煙《けむ》っていて、対向車はなかった。エンジンブレーキをきかせ、アクセルワークを駆使《くし》しつつ、ひとつふたつとカーブをクリアしていく、車と確《たし》かに繋《つな》がっている感触《かんしょく》。手を握《にぎ》るように、足を伸《の》ばすように、車が動く。タイヤのグリップ、ブレーキのかかり具合《ぐあい》、エンジンの唸《うな》り……すべてを確かに感じることができる。
「芝浦《しばうら》さん、元気だったのになあ」
そうこぼしていた。
「昨日まで笑ってたのになあ」
緩《ゆる》やかにS字を描《えが》く道路。一度下って、それから登る。ひとつめのカーブをクリアしたところでアクセルを踏《ふ》みこみ、少々不安定な挙動《きょどう》を楽しみながら、ふたつめへ。アスファルトを、タイヤががっちりと捉《とら》える。その感触《かんしょく》を味わいつつ、さらに確《たし》かなものにするため、エンジンの回転をあげた。よし、完壁《かんぺき》なライン取りができた。
峠《とうげ》を登りきったあとは、ゆっくり流すことにした。冬の山は寒々しい。広葉樹《こうようじゅ》はその葉を散らしてしまい、すっかり裸になっている。点在《てんざい》する杉林の緑はくすんでいた。ああ、ちょっと身体《からだ》がきついな。夜勤明《やきんあ》けだしね。本当はさっさと家に帰って寝《ね》るべきなんだけど。
まあ、しょうがないか。
うん、しょうがないよね。
気がつくと、ふたたびアクセルを踏みこんでいた。ターボが唸《うな》りをあげ、目前の曲線へと突《つ》っこむ。曲がるほどきつくなっていくタイトコーナー。シートに身体が押《お》しつけられた。恐怖と重力のプレッシャーに耐えつつ、一気にクリア。そして視界《しかい》が開けた途端《とたん》息を酎んだ。赤いテールランプの輝《かがや》きが目に飛びこんできたのだった。前走車だ。近い。すぐそばだ。
危《あぶ》ない──!
慌《あわ》ててブレーキを踏む。車のテールが流れ、タイヤが地面を擦《こす》る嫌《いや》な音がした。どうして今まで気づかなかったんだろ。ちょっと前から見えてたはずなのに。
その前走車はシルバーのカムリだった。まあ、オッサンの乗る車だ。なんでこんな時間にこんなところを走ってるんだろうか。この先の、見通しのいいS字で抜《ぬ》くかな。それまで後《うし》ろを走っていよう。あれ、でも、なんだろ。あのカムリ、やけに飛ばしている。カムリなんて、こんな峠道を走る車じゃないのにさ。
「なにしてるわけ?」
そう呟《つぶや》いていた。どうやらあのカムリ、峠を攻《せ》めてるつもりらしい。無理やり飛ばしてる感じがする。でも全然攻められてない。ブレーキのタイミングがまったくあってないし、加速も思いきりが足りない。アウト・イン・アウトなんてことさえわかってないみたいだ。
危ないよね、あんな走り方じゃ。
だいたいカムリなんかでここを攻めるのは間違《まちが》ってる。町中《まちなか》をのんびり走るオッサン車だ。サスペンションが柔《やわ》らかいし、剛性《ごうせい》もそんなに高くないんだから。うわ、今、右にふらついた。ガードレールに接触《せっしょく》寸前だ。見ているこっちがヒヤヒヤしてしまう。
やがて抜こうと思っていたS字にさしかかったけど抜かなかった。十分な車間距離《しゃかんきょり》を置いて、後ろをついていく。シルバーのカムリは、それからもふらふらと走りつづけた。
大きな尻《しり》が展望台に入っていくのを、そのまま追いかけた。
カムリを運転していたのは、若い男だった。まあ、若いといっても、ほんとに若いわけじゃないか。自分と同じくらい。二十五とか七とか。そんなもの。少々ダサいシャツを着ていた。さすがに肝《きも》が冷えたのか、疲《つか》れた様子《ようす》で車にもたれかかっている。
展望台の駐車場に車をとめると、自動販売機でホットコーヒーを二本買って、亜希子《あきこ》はカムリへ歩いていった。
「おはよう」
声をかけると同時に、缶コーヒーを軽く投げる。
「え? うわ!」
カムリ野郎《やろう》は受《う》け損《そこ》なった。ゴトンという音を立てて、缶コーヒーが地面に落ちる。ああ、運転が下手《へた》なだけじゃなくて、運動神経もないらしい。やれやれと思いつつ、手元に残った缶コーヒーを渡《わた》し、自分は地面に落ちたほうを拾った。
唖然《あぜん》としてるカムリ野郎に、
「おごり」
と言って、缶コーヒーを開け、一口飲む。
「ど、どうも」
ちょっと気弱そうな顔つきだ。細いフレームの眼鏡《めがね》をかけている。髪《かみ》は短め。確《たし》かにカムリに乗ってそうなタイプだった。こんな早朝に峠攻《とうげぜ》めなんて似合《にあ》わない。
「ごちそうになります」
丁寧《ていねい》に言って、彼は缶コーヒーを開けた。
「あんたさ、なにやってたの?」
「え? 僕ですか?」
「他に誰《だれ》もいないだろ」
相手が緊張《きんちょう》してるみたいなので、笑っておいた。
「あんたとあたししか」
カムリ野郎は苦笑《にがわら》いを浮《う》かべた。
「そりゃそうですね」
「うん」
「峠攻めっていうんですか、それをやってみたんです。でも、難《むずか》しいですね。全然うまく走れなくて──」
「後《うし》ろから見てたけどさ、かなりヤバかったよ」
「え? 見てたんですか?」
「気がつかなかった?」
「は、はあ」
まあ、それはそうか。あれだけふらふら走ってたら、後ろを確認《かくにん》する余裕《よゆう》なんてなかったかもしれない。むう、危《あぶ》ないよね、それって。
「よけいなお節介《せっかい》かもしれないけどさ」
「はい」
「危《あぶ》ないから、やめたほうがいいよ。あんただけが事故るんならいいけど、誰《だれ》かを巻《ま》きこみかねないし」
「そうですよね……」
「走るんなら、自分の力量《りきりょう》にあわせて走らないと。あんた、全然わかってないでしょ」
いい大人なのに、がっくり肩《かた》を落としている。手の中の缶コーヒーがやけに寂《さび》しそうだ。山のほうから鳥のさえずりが聞こえてきた。視線《しせん》を右に移すと、そこには伊勢湾《いせわん》が広がっていた何度も何度も見てきた風景だ。早朝。昼間。深夜。十九歳。二十三歳。二十五歳の今。いつ見ても同じだし、いつ見ても違《ちが》う。顔を戻《もど》すと、カムリ野郎《やろう》はまだ肩を落としていた。缶コーヒーを一口飲んだ。吐《は》きだした息《いき》が、まるでため息のようだった。いや、ため息そのものだったのか。なんだか、かわいそうになってきた。
「ごめん。ちょっときつく言いすぎた」
「いえ……」
「悪い癖《くせ》なんだよね、あたしの。口が悪くてさ。いっつも、それで怒《おこ》られてるの。配慮《はいりよ》が足りないって。そういうのが必要《ひつよう》な仕事してるのに、できないから困《こま》っちゃうんだ」
「仕事、なにしてるんですか?」
「看護婦《かんごふ》。見えないでしょ」
「そんなことないですよ」
「いいよ、気を遣《つか》わなくても。似合《にあ》わないってよく言われるんだ」
「いえ、ほんとそんなことないです」
やけにきっぱりと、生真面目《きまじめ》に、カムリ野郎《やろう》は言った。
「似合うと思いますよ。僕は」
「そうかな?」
「はい」
また、やけにきっぱりと肯《うなず》いた。いい加減な肯き方じゃない。慰《なぐさ》めとか、この場の雰囲気《ふんいき》に流されてとか、そんなんでもなかった。気弱そうに見えて、実はしっかりしてるのかな。礼を言いたい気もしたけど、わざわざありがとうなんて口にするのも変な感じ。だから亜希子《あきこ》はとりあえず缶コーヒーを一口飲んだ。疲れているせいか、やたらと甘ったるい缶コーヒーがおいしく感じられた。
「疲れてるみたいですね」
「うん」
「もしかして仕事明けですか?」
「そう」
また一口。
「夜勤《やきん》だったから」
「お疲《つか》れさまです」
「ありがと」
「看護婦《かんごふ》さんって、大変《たいへん》ですよね。僕のお婆《ばあ》ちゃんが前に入院してたんです。入院っていっても、ほとんど病院に住んでるようなものだったんですけど。四、五年いたんじゃないかな。うちのお婆ちゃんってわがままで口うるさかったのに、それでも看護婦さんは嫌《いや》な顔ひとつしないで面倒《めんどう》見でくれたんですよ。最後まで、ずっと。あれはちょっとすごいと思いました」
「お婆ちゃん、死んじゃったんだ?」
「ええ、最後はもう老衰《ろうすい》みたいな感じで」
「…………」
「どうしたんですか」
「お婆ちゃんね、死んじゃったから」
「え?」
「芝浦《しばうら》さんって患者《かんじゃ》さん。昨日の夜ね、息《いき》を引き取ったの。あんたのお婆ちゃんといっしょで、もう五年くらい病院にいて。病院が家みたいになってた人でさ。いっぱいいるんだけどね、そういう入って。病院が長屋《ながや》みたいな感じになってるの。隣《となり》のベッドの人とミカンとかお菓子とか交換して」
「ああ、わかります。僕のお婆《ばあ》ちゃんもそうでしたよ」
「もうずいぶん悪かったんで家族も覚悟《かくご》してたし。十分生きたって言えるような年齢だったし。もちろんあたしたちスタッフもわかってたし。まあ病院だからね。しょっちゅう誰《だれ》かは死ぬから。別にどうってことないんだけど」
缶コーヒーから、少し湯気が立っている。
「芝浦《しばうら》さんと最後に話したのあたしなんだよね。昨日の夕方なんだけどさ、亜希子《あきこ》ちゃん、結婚しないのなんて言われて。こっちはいつもの調子《ちょうし》で、男より車がいいからまだまだなんて軽口叩《かるくちたた》いて。見合いはどう。いい人紹介するよとか言われて。金持ちじゃなきゃ嫌《いや》だって、こっちが言って。そんな下らないことで笑って。まあ、どうってことのない、いつものことなんだけど」
そう、慣《な》れている。人が死ぬのには。いちいち抱《かか》えこんでいたら、看護婦《かんごふ》なんてやってられない。さっさと流してしまうべきなのだ。だいたい考えたところでどうなるものでもない。芝浦さんは眠《ねむ》るように息《いき》を引き取った。家族だって駆《か》けつけてきた。連絡しても来ないことだってあるのに、芝浦さんの家族はそうじゃなかった。亡《な》くなったあと、息子は泣いていた。十分に幸せな死に方だ。
どうでもいいことを、亜希子は延々《えんえん》と喋《しゃべ》りつづけていだ。カムリ野郎《やろう》はいちいち肯《うなず》きながら、その話を聞いてくれた。
気がつくと、手の中の缶コーヒーがすっかり冷たくなっていた。
「それで、どうしたんですか?」
「それだけ」
笑ってみる。ちゃんと笑えてないことが、自分でもわかった。ああ、どうしてこんなことを話してるんだろうか。
「ほんとそれだけなんだ。つまんない話だね。ごめん」
「つまらなくないですよ」
「そうかな」
「はい」
見ると、彼の視線《しせん》はしっかり定まっていた。弱々しいだけかと思ったら、そうでもないんだな。ちゃんと男らしいや。
なんだか、そんなことを思ったら、急に恥《は》ずかしくなった。
あれ、時計を気にしてる?
「もしかして、時間ヤバいの?」
「ええ、まあ」
気弱なのか、人がいいのか。愚痴《ぐち》みたいなことを話していたんだから、さっさと打ちきってくれればよかったのに。
「大丈夫《だいじょうぶ》です。少し飛ばせば間《ま》にあうと思います」
「だったらいいけど。でも飛ばしすぎないようにね」
「わかってます」
しっかり肯《うなず》いたので安心した。
「あたしも帰るよ。後《うし》ろ、ついていくね」
「はい」
安心したのが間違《まちが》いだった。それから十五分後、峠道《とうげみち》の途中《とちゅう》でカムリは見事《みごと》にスピンし、ガードレールに突《つ》っこんでいた。
2
カムリ野郎《やろう》の名前は、中原義晴《なかはらよしはる》だった。その名前は今、市立若葉《わかば》病院五〇六号室のプレートにくっきりと書いてある。つまりまあ、事故現場にやってきた救急車が彼を若葉病院に搬送《はんそう》したのである。とはいっても大きな怪我《けが》をしたってわけじゃない。事故直後に軽い意識《いしき》の混濁《こんだく》があったので、いちおう検査をすることになっただけだ。
中原義時──。
へタクソな字でそう書かれたプレートを、亜希子《あきこ》はじっくりと眺《なが》めた。義晴。お武家《ぶけ》さんみたいな名前だ。しかし、まさかうちの病院に来ることになるとは。気まずいというか、なんというか。申《もう》し訳《わけ》ないというか、ヤバいというか。自分でもわかっていることではあるが、谷崎《たにざき》亜希子はガサツな性格である。細かいことは気にしない。気づいても気にしない。ただ、事故の原因が、まあ一部なんだろうけど、自分にあるかもしれないとなると、気にしないわけにはいかなかった。それに車関係のトラブルだけは敏感なのだ。
あわせる顔がないよね……。
搬送後の応急処置は手伝ったけど、それ以来、中原さんとはまだ会っていなかった。できれば会いたくないという気持ちがないわけじゃない。しかし谷崎亜希子も看護婦《かんごふ》である以上は、逃げるわけにはいかなかった。それに、逃げたいときこそ逃げないのが、谷崎亜希子の主義だった。ここで逃げてしまったら、それこそあわせる顔がなくなってしまうではないか。
「ふう」一度だけ深呼吸して、開いたままのドアをノックした。
「中原さん、点滴《てんてき》」
「あ、はい」
ベッドに寝《ね》ていた中原さんが、その上半身を起こした。持っていた本を枕元《まくらもと》に置く手つきがとても丁寧《ていねい》だ。
「量が多いんで、ちょっと時間かかりますよ。トイレ、大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
ああ、なんで敬語《けいご》になっちゃってるんだろ。でも看護婦《かんごふ》だし。中原《なかはら》さんは患者《かんじゃ》さんだし。あのときみたいに、いい加減《かげん》な言葉遣《ことばづか》いはできない……。
「大丈夫《だいじょうぶ》です」
「じゃあ、腕《うで》出してください」
伸《の》ばされた腕は、男とは思えないくらい細かった。腕相撲《うでず′もう》をしたら、女の自分でも軽く勝てそうだ。
「ちょっとチクッとしますよ」
「はい」
「あ……」
失敗した。
針先が血管に入ってない。
「ごめんなさい。入らなかったんで、もう一回やりますね」
「は、はい」
「あ……」
また失敗した。
おかしい、なんでこんなにぷっくりした血管に入らないんだろう。
「もう一回いいですか?」
頭の上から、くすくすという笑い声が聞こえてきた。
「どうぞ」
ちらりと見ると、中原さんは穏《おだ》やかに笑っていた。全然|嫌《いや》がってる感じじゃない。その笑顔《えがお》のせいでなぜか緊張《きんちょう》してしまい、さらにもう一回失敗した。結局《けっきょく》、成功したのは五回めだった。おかしい。どうしたんだろう。いつもは二回めくらいで入るのに。
「やっぱり似合《にあ》いますよ」
点滴《てんてき》のスピードを調整していたら、そう話しかけられた。
「え? 似合うって?」
「看護婦さんが。ちゃんと看護婦さんって感じです」
ああ、そっか。そういう話をしたっけ。
「ほんとに似合います?」
「はい」
穏やかに、けれどしっかりと肯《うなず》く。なぜか気恥《きは》ずかしくなって、視線《しせん》を窓の外に向けていた。冬の、少し白っぽい青空。風に揺《ゆ》れる裸木《はだかぎ》。駐車場を出ていくセドリック。少し車高を落としてるっぽい。遠すぎて、リアウィンドウに貼《は》ってあるステッカーは読み取れなかった。
「中原さん、ごめんね」
「え?」
「あのとき、あたしが長話しちゃったから、急いでたんでしょ。それで事故っちゃったわけだから、あたしのせいですよね。ごめんなさい」
胸《むね》の奥《おく》に溜《た》めていた言葉《ことば》を口にして、亜希子《あきこ》は深々と頭を下げた。高校のころは誰《だれ》にも下げたことのなかった頭。社会人になってからは、しょっちゅう下げている頭。同じ頭なのに、全然|違《ちが》う使い方をしてる。
「いや、谷崎《たにざき》さんのせいじやないですよ」
ちょっと慌《あわ》てた中原《なかはら》さんの声が聞こえてきた。
「頭上げてください。こっちが困《こま》っちゃいますから」
「だけど……」
「いや、ほんと関係ないです。あのとき、僕、全然急いでなかったですから。ちょっと考え事をしてて、ハンドル切るの遅《おく》れただけなんです」
「考え事ですか?」
中原さんの顔に、迷《まよ》うような色が見えた。
「あの、谷崎さん」
「なんですか」
「谷崎さんなら、もしかしたらわかるかな。えっと、その──」
そのとき、ドアの向こうから、同僚《どうりょう》の岡崎英子《おかざきえいこ》の声が飛《と》んできた。
「亜希ちゃん! 手を借りられる!?」
「あ、うん」
でも話の途中《とちゅう》だ。
どうしようかと迷《まよ》いつつ中原さんに顔を向けると、
「すみません。忙《いそが》しいのに引《ひ》き留《と》めちゃいましたね」
なんて言われた。
ああ、ほんとおとなしい人なんだから。それに引《ひ》き換《か》え、英子は気が短い。とっとと手伝いやがれって目でこちらを見ている。
しかたなく、亜希子は中原さんに、
「じゃあ、点滴《てんてき》が終わったらナースコールしてください」
と言い残して病室を出た。
なんだろう、中原さん。なにを言おうとしてたんだろうか。
中原さんのことが妙《みょう》に引っかかる。自分のせいじやないって言ってたけど、ほんとかどうかわからない。こっちに気を遣《つか》ってくれただけかもしれないし。あのとき、自分は中原さんのすぐ後《うし》ろを走っていた。ゆっくり走ったつもりだったけど、実は中原さんを煽《あお》るような感じになってたかもしれない。あの人、運転へタクソだし。あたしはゆっくり走ってるつもりだったけど、中原《なかはら》さんにとってはオーバーペースだったのかも。ああ、もう、同じことがぐるぐる頭の中を巡《めぐ》っている。気持ち悪い。自分らしくない。そう、こんなふうにイジイジしてるのは谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》らしくない。
そんなことを考えていたせいで、隙《すき》ができていた。
「ふむ──」
背後《はいご》でそんな声がしたのと同時に、お尻《しり》を撫《な》でられていた。しかも、じっくりと。撫でさすられるような感じ。
こんなことを自分にするヤツは、ひとりしかいない。
「このクソジジイ──っ! 死ねえええ──っ!」
叫《さけ》んで、裏拳《うらけん》を背後にかます。
いつもどおり、見事《みごと》に避《よ》けられた。
「亜希子ちゃん、どうしたんじゃ?」
七十代とは思えない身のこなしで一メートルほど後《うし》ろに下がった老人が、怪訝《けげん》そうな顔で尋《たず》ねてきた。見事にハゲあがった頭。白い顎髭《あごひげ》。すなわち、多田《ただ》吉蔵《よしぞう》である。
「なにさ、どうしたって」
落ちこんでることを感づかれたのかもしれない。このジイサン、意外《いがい》と鋭《するど》いところがあるし。伊掛に長生きしてるわけじゃないかも。
しかし、多田さんの口から出てきたのは、こんな言葉《ことば》だった。
「お尻の張《は》りが、今ひとつよろしくないように思えるんじゃが?」
「そんなことを心配するなああああ──っ!」
踏《ふ》みこんでそのハゲ頭を叩《たた》こうとしたが、これもあっさり避けられた。
むううっ!
よぼよぼのジイサンのくせに、なんでこんなに素早《すばや》いんだろ。
「だいたい、なんで張りがないとかわかるわけ!?」
「なにしろ毎日触っておるからな。わかるに決まっておる」
「毎日触るなっ! 決めるなっ!」
「亜希子ちゃんも、もう二十五じゃろう? やはり、そろそろ張りがなくなるころなのかの? 悲しいの」
本気で悲しそうな顔をしている。
「もう二十五とか言うなっ! それに、張りあるから! まだあるから!」
「そうかの? 勘違《かんちが》いかの?」
「絶対《ぜったい》に勘違いだから!」
「じゃあ、確《たし》かめてみようかの」
また触ってこようとする。ちっ、ベタなことしやがって。さすがにこれは避《よ》けた。ついでに伸ばしてきた手をパシンと叩いておいた。
「それにしても亜希子《あきこ》ちゃん」
叩かれた手をさすりながら、多田《ただ》さんがニヤリと笑った。
「意外《いがい》と軟弱《なんじゃく》な男がタイプのようじゃの」
「は?」
「まあ、そんなものかもしれんの」
意味深《いみしん》に笑いつつ、多田さんはよぼよぼした足取りで去っていった。こうして見ると、多田さんの小さな背中《せなか》は老人そのものだった。まあ、実際に七十代なわけだし。年相応《そうおう》の、古ぼけた背中──。
言葉《ことば》の意味に気づいたのは、その姿が見えなくなってからだった。
「タイプ、か」
言われてみて気づくことというのが、確《たし》かにある。
3
谷崎《たにざき》亜希子が生まれたのは、伊勢《いせ》の南のほうにある漁師町《りょうしまち》だった。もうとんでもない田舎《いなか》で、亜希子《あきこ》が生まれる十年くらい前まで、町を出るときは車じゃなくて船を使っていたくらいだった。ろくな道さえなかったのだ。今はなんとかいう県会議員のおかげで立派《りっぱ》な道が通っているけれど(でもって、その道を造ったのは、なんとかいう県会議員の弟が経営してる会社だったりする)。
本当に本当に小さな町だ。堤防《ていぼう》の上から見ると、手のひらにすっぽり収《おさ》まってしまうくらいの広さしかない。学校は堤防の向こうにある島に作られていて、その島までしょぼい橋がかかっている。そんな小さな町だから、半分くらいの人間は知り合いで、残りの半分は親戚《しんせき》だ。
亜希子の父親は、漁師《りょうし》をしていた。小さな釣《つ》り船《ぶね》に乗って、朝早く出かけていく。亜希子が起きるころには一仕事終わって、もう家に戻《もど》っていた。いっしょに朝ご飯を食べると、父親の身体《からだ》から沖の匂《にお》いがしたものだった。
あれは、いつだったろう。平田《ひらた》先生が担任《たんにん》だったから、小学校四年か五年だ。まだ、ただの子供でいられたころ。男の子といっしょに遊びまわっていられたころ。
学校から帰ったら、母親に呼《よ》び止《と》められ、
「これ、お父さんに渡《わた》してきて」
と包みを渡された。
すぐに不満《ふまん》の声をあげた。
「えー、遊びに行く約束したのにー」
「すぐ終わるでしょ。漁業《ぎょぎょう》組合なんて、五分で行けるじゃないの。それないとお父さん困《こま》るんだから」
大人はいつだって理不尽《りふじん》だ。
唇《くちびる》を尖《とが》らせ、堤防の脇《わき》を走った。なんだか海が見たくなったので、途中で木製のガタガタ揺《ゆ》れる梯子《はしご》を使って、堤防に登った。そこにも幅《はば》一メートルくらいの道がついているのだ。錆《さ》びた手すりに掴《つか》まりながら、その細い道を歩いていった。
右側は、群青《ぐんじょう》の海。
左側は、灰色《はいいろ》の町。
海のあまりの大きさと、町のあまりの小ささに、いつも心細くなる。海がちょっと本気を出したら、こんな町なんてあっさり呑《の》みこまれてしまいそうだ。実際《じっさい》、この堤防ができる前は、しょっちゅう高潮《たかしお》の被害《ひがい》があったそうだ。堤防が、足の下にあるコンクリートの塊《かたまり》が、町を守っているのだった。
そんなことを思ったら、なんだか堤防がすごいものに思えてきた。しゃがみこみ、その表面に手を置いてみる。熱をたっぷり溜《た》めこんだコンクリートはヤケドしそうなほど熱《あつ》かった。堤防は、風にも、波にも、そして熱にも耐《た》えている。こういうふうに生きていくのも悪くないかもしれない。同じ場所で、同じように、いつも平気な顔で、ただ生きていくということ。
父親は漁業《ぎょぎょう》組合の事務所にいた。
捩《ねじ》りハチマキ、赤銅色《しゃくどういろ》の肌《はだ》、丸太《まるた》みたいな腕《うで》……絵に描《め》いたような漁師《りょうし》である。気性《きしょう》は荒《あら》い。漁師はたいてい荒いが、父親は輪《わ》をかけて荒い。鬼《おに》の倉五郎《そうごろう》、と呼《よ》ばれているくらいだ。谷崎《たにざき》希子《あきこ》にとって、この世で怖《こわ》いのはフナムシと父親だけである。そんなことをぽつりと漏《も》らしたら、「父ちゃんとフナムシをいっしょにするな!」と言って殴《なぐ》られた。理不尽《りふじん》である。同じ理由《りゆう》で怖いわけじゃないのにさ。
建物《たてもの》に入る前、父親の様子《ようす》をじっくり確認《かくにん》した。
ふむ、機嫌《きげん》はよさそうだ──。
機嫌が悪い父親に近づくのは、なかなかに危険《きけん》である。
ドアを開けると、ひやりとした空気が首の辺《あた》りをくすぐった。漁業組合の中は、冷房《れいぼう》が効《き》きすぎるくらいに効いていた。
こっちに気づいた父親が、
「おう」
と陽気《ようき》に言って手招《てまね》きしてきた。
そばに行くと、父親が座《すわ》っているソファに、いろんな紙が置かれていた。どれもいっぱい字が並《なら》んでいる。やけに薄《うす》っぺらい紙もあった。向こうが透《す》けて見えるんじゃないかってくらい薄い。森永《もりなが》のキャラメルをくるんであるヤツみたいだ。
包みを渡《わた》すと、父親はその中からハンコを取りだした。すごく大きいハンコだった。こんなに大きいハンコが家にあったなんて知らなかった。
父親は字がびっしり並んだ薄っぺらい紙を手に取ると、
「シゲ、ここでいいのか?」
と言って、漁業組合の職員に声をかけた。
シゲと呼ばれたのは、父親の兄弟の三番めの息子で、要《よう》するに亜希子にとっては従兄弟《いとこ》である。
高校を卒業してから、漁業組合で働いているのだ。
「あ、そことそこっす。あと、そこも」
「いっぱい押《お》さなきゃいけないんだな」
「契約書《けいやくしょ》だから」
「ちょっと緊張《きんちょう》するな」
「そっすね」
父親とシゲ兄ちゃんはそんなことを話しながら、ハンコをぽこぽこ押していた。自分も押してみたいな、などと思って、亜希子は父親の手元を覗《のぞ》きこんだ。そうしたら、父親が自分を見てきた。
怒《おこ》られる!
ほぼ反射的《はんしゃてき》に身が竦《すく》んだが、その直後、父親がニッと笑った。赤茶けた顔に、白い歯が浮《う》かびあがった。
「亜希子《あきこ》、最後のハンコ、押《お》すか」
「いいの?」
「おお。押せ押せ」
父親は上機嫌《じょうきげん》だった。それでなんだか、亜希子も楽しくなってきた。どうして父親が嬉《うれ》しいと、自分も嬉しくなるんだろう。手に取ったハンコは、本当に大きかった。その先端《せんたん》にはなんだかわからないウニウニした模様《もよう》が彫《ほ》ってあった。
「亜希子、それ、『谷崎《たにざき》』って彫ってあるんだぞ」
父親がすごいことを教えてやるぞって口調《くちょう》で言った。
まじまじと見つめてみたが、とてもそうだとは思えなかった。
「ほんとに?」
「ほら、ここが『谷』で、ここが『崎』だ」
「英語?」
そう言ったら、父親が爆笑《ばくしよう》した。シゲ兄ちゃんも笑った。ついでに組合にいた人もみんな笑っていた。その笑い声に包まれながら、よーくハンコを見てみたけど、やっぱり『谷崎』だとは思えなかった。
「ほら、ここに押せ」
父親の名前が、父親の汚《きたな》い字で書いてあった。
谷崎|倉五郎《そうごろう》
その名前の後《うし》ろに、ぎゅっとハンコを押しつけた。
うまく押せたかどうか不安だったけど、ハンコをどけてみると、さっき見たウニウニの模様がきれいに赤く写っていた。
父親はその紙をシゲ兄ちゃんに手渡《てわた》した。
「これでいいか、シゲ」
「たぶん。いちおう課長《かちょう》に見てもらってくるよ」
シゲ兄ちゃんが行ってしまうと、父親が顔を寄せてきた。
「亜希子、父ちゃんな、船買うぞ」
「船?」
意味がわからなかった。
「あるよ、船」
港に泊《と》まっている灰色《はいいろ》の船は父親のだ。時々、乗せてもらう。
父親は得意気《とくいげ》に笑った。
「違《ちが》う違う。もっと大きいのをな、買うんだ」
「大きいの?」
「ああ、倍くらいあるぞ」
そうか、それで上機嫌《じょうきげん》だったのだ。亜希子《あきこ》もなんだか嬉《うれ》しくなってきた。倍くらいある新しい船。大きな波だって、ざぶんざぶんって越えていけるに違いない。魚だっていっぱい獲《と》れるだろう。
「叔父《おじ》さん、大丈夫《だいじょうぶ》だって」
やがて戻《もど》ってきたシゲ兄ちゃんがそう言うと、父親はほっとしたような顔になった。緊張《きんちょう》していたのだ。その緊張が緩《ゆる》んだせいか、父親はいつもより饒舌《じょうぜつ》になって、シゲ兄ちゃんといろんなことを話しはじめた。一仕事終えたって感じだった。ふたりが話してることは、子供の亜希子には半分もわからなかった。つまらないので、足をぶらぶらさせながら窓の外を見ていると、同級生たちの姿《すがた》が目に入ってきた。
あ、孝《たかし》とマサキヨとウッサンだ……。
ウッサンというのはあだ名で、ほんとの名前は内田《うちだ》という。内田だからウッサン。あと、弱っちいからウッサン。ここら辺では、浅瀬《あさせ》でちょろちょろ泳いでいる小さな魚のことを、ウッサンというのだった。雑魚《ざこ》とか、ひ弱いとか、小さいとか、つまんないとか、そんな感じの言《こと》葉《ば》。ウッサンは二学期に入ってから転校してきた。東京生まれの東京育ちで、もちろん言葉は標準語である。気取った言葉で話すたび──ウッサンは気取ってるつもりなんてないんだろうけど──みんなにからかわれる。
孝はマサキヨに向かって笑うと、ウッサンの後《うし》ろにまわった。やけに集中してる。タイミングを見計《みはか》らっているようだ。なにするつもりなんだろ。眉《まゆ》をひそめて見ていたところ、孝はウッサンの靴《くつ》の踵を踏《かかとふ》んだ。ウッサンはつんのめり、踏まれたままの靴が地面に残った。右の靴だ。マサキヨがしゃがんでその靴を拾い、掲《かか》げた。ウッサンは左足は靴を履《は》いて、右足は靴下《くつした》のままで、ゲラゲラ笑う孝とマサキヨの前に立ちつくしていた。マサキヨが靴を掲げたまま、足をわざとらしく上げた。まるで野球のピッチャーのように。マサキヨは海のほうを向いていた。海に投げるつもりだ。捨てるつもりだ。ブン、と音が聞こえてきそうな勢《いきお》いでマサキヨの腕《うで》が振《ふ》られる。亜希子は投げられた靴を捜《さが》した。ウッサンもそうだった。けれど靴は見つけられなかった。
いや、あった。
靴はまだ、マサキヨが持っていた。投げた振りをしただけだ。騙《だま》してやったという調子《ちょうし》で、孝とマサキヨは笑っていた。ゲラゲラという笑い声が聞こえてきそうだ。マサキヨは、孝に靴を渡《わた》した。受け取った孝は、さっきのマサキヨと同じように、靴を投げる振りをした。何度も何度も、その動作を繰《く》り返《かえ》した。
ムカムカしてきた。弱い者イジメをしている孝《たかし》とマサキヨに。ただぼーっと突《つ》っ立《た》っているウッサンに。
気がつくと、立ちあがっていた。
父親と目があった。
さっきまで上機嫌《じょうきげん》だったはずの父親の顔は険《けわ》しかった。同じ光景を、どうやら父親も見ていたらしい。
父親は言った。
「行け、亜希子《あきこ》」
「うん」
肯《うなず》き、亜希子は走りだしていた。
まあ、たいしたことはしなかった。うん。いきなりドロップキックをかましただけだ。吹《ふ》っ飛《と》ばされたマサキヨは地面で膝《ひざ》をすりむいて、「なにすんだよお」と呻《うめ》くように言ったあと、いきなり泣きだした。孝のほうはひたすら凍りついていた。じろりと呪《にら》むと、ものすごい作り笑いをした。さらに呪むと、笑ったまま泣きそうになった。
ふたり並《なら》べてウッサンの前に正座《せいぎ》させ、
「謝《あやま》れ」
と亜希子は言った。
さすがにプライドというものがあるらしく、孝とマサキヨはすぐに謝ろうとしなかった。顔を見あわせ、イジイジしている。
だから、亜希子は言った。
「ウッサンに謝れ」
あともう一回だけ言おう。
それでダメだったら、まず孝を張《は》り飛《と》ばそう。まあ、軽くね。軽く。頭のてっぺんをパシンってやるくらい。
などと思っていたら、いきなりウッサンが、
「谷崎《たにざき》さん、いいよ」
と言った。
意味がわからなかった。
「いいって? なにが?」
「いいよ、もう」
ウッサンはなぜか怒《おこ》っていた。
「いいんだ、もう」
「なんでよ。こいつら、あんたにひどいことしたでしょ。だから謝《あやま》らせようとしてるんじゃないの。こいつらバカだから、放っておくとつけあがるばっかりなんだよ」
「いいんだよ、谷崎《たにざき》さん」
「よくない」
「いいんだ」
「よくないでしょ」
「いいんだって、もう」
ウッサンとは思えないほど強情《ごうじょう》だった。信じられなかった。孝《たかし》やマサキヨなんて、いちおうは強がるものの、本気で睨《にら》むとすぐ弱気になる。上級生の女子だって、生意気《なまいき》だのなんだの言いがかりをつけてきたけど、張《は》り倒《たお》してやったらそれからはこっちの姿《すがた》を見た途端《とたん》に逃げるようになった。なのに、だ。よりにもよって、クラス内|序列《じょれつ》最下位のウッサンが、序列最高位の自分に、ここまで反抗してくるとは。
よくない。いいんだよ。よくない。いいんだよ。そんな言葉《ことば》が何度も何度も行《ゆ》き交《か》った。孝とマサキヨはびくびくしながら成《な》り行《ゆ》きを見守っている。なんなんだろう、このウッサンの意固地《いこじ》さは。この弱虫が、ウッサンごときが、どうしてここまで反抗してくるんだろう。
最初は戸惑《とまど》い、そのうち呆《あき》れ、やがて腹が立ってきた。
「よくないでしょ。よくないっていったら、よくないの」
「だけど──」
「よくない」
最後|通牒《つうちょう》のつもりだった。思いっきりドスのきいた声で言って、睨んでやった。これでビビらなかったヤツはいない。六年男子だって泣きそうになった。だけど、驚《おどろ》くことにウッサンはまったく怯《ひる》まなかった。
「谷崎さん」
あ、声は震《ふる》えてる……。
「そのほうが辛《つら》いんだよ」
言った途端、ウッサンは泣きだした。大きな目から、ぽろぽろ涙《なみだ》がこぼれた。亜希子《あきこ》にはなにがなんだかわからなかった。どうしてウッサンがこんなに楯突《たてつ》いてくるのか、なぜビビらないのか、なのに声が震えているのはどうしてなのか、なぜ泣くのか。なにひとつとして、わからなかった。
そのほうが辛いって? どういうこと?
泣いているくせに、やけに毅然《きぜん》とした背中《せなか》で、ウッサンは去っていった。返してあげた右の靴《くつ》を履《は》こうともしないで、手にぷらぷらさせながら、歩いていった。
まったくわけがわからない……。
ふと前を見ると、孝とマサキヨが冷たい目で自分を見ていた。正座《せいぎ》させられたままなのが気に食わないんだろうか。
そんなことを思いつつ、
「なによ」
ふてくされて尋《たず》ねると、
「亜希《あき》ちゃんが悪いよ」
「そうだよ」
声をそろえて、ふたりはそんなことを言った。
「ウッサンだって、男なんだぜ」
4
思いだすと、叫《さけ》びだしたくなる。
もう十年以上も前のことなのに、あのときの記憶《きおく》は、やけに鮮明《せんめい》なまま残っていた。去っていったウッサンの背中《せなか》も、孝《たかし》とマサキヨの冷たい視線《しせん》も。
ほんと、自分は鈍感《どんかん》だ。
あれからいろんなことを体験して、今ではウッサンがあんなに強がったわけも、孝とマサキヨの視線が冷たかった理由《りゆう》も、どうにか理解《りかい》できるようになっている。イジメられることよりも、女に助けられることのほうが辛《つら》かったんだ。あのころの自分は、ほんとアホだった。そういう男のプライドを踏《ふ》みにじってどうする。なによりも、それは大切なものなのに。
だけど、あのころの自分と、今の自分に、どれだけの違《ちが》いがあるんだろうか?
確《たし》かに少しは賢《かしこ》くなったし、成長もしたんだろうけど、どうしようもなく足りないことがまだまだたくさんある。あれと同じ間違《まちが》いを、今もきっと犯《おか》している。そしてこれからも犯していく。少しずつしか成長できないのはわかってるけどさ。まあ、しかたないけどさ。人間だしさ。ちっとも賢くなんてないしさ。ただ、そういうことを、自分の愚《おろ》かさを認《みと》められるほどには、まだ成長できてないんだよね。
「はあ」
というわけで、ため息《いき》をつきつつ、谷崎《たにざき》亜希子は病院の廊下《ろうか》を歩いていた。
「はあ」
ため息ばっかりが出る。
ああ、こんなときはパールロードを飛ばしてこよう。あそこはけっこう危《あぶ》ないから、なんにも考えないですむんだよね。考えてたら事故っちゃうから。アクセルを踏《ふ》んで踏んで踏みまくろう。ぶっ飛ばそう。
と、そのとき、目の前に人影《ひとかげ》が倒《たお》れこんできた。
「里香《りか》ああああ──っ!」
誰《だれ》かと思えば、戎崎《えざき》裕一《ゆういち》である。急性肝炎《きゅうせいかんえん》で入院中のクソガキだ。叫《さけ》びながら床《ゆか》を転《ころ》がった戎崎裕一は、しかしすぐさま立ちあがり、閉《し》まったばかりのドアに手を伸《の》ばそうとした。さすが十代、立ち直りが早い。その戎崎裕一の手がノブにかかる直前、ドアがいきなり開いた。ズゴンとすごい音が響《ひび》き渡《わた》った。ドアの角が戎崎裕一の顔にヒットしたのだ。
「バカっ! もう来るなっ!」
きれいな声が、ものすごい罵倒《ばとう》を放《はな》った。そのあと、派手《はで》にドアを閉める音。戎崎裕一は頭を押《お》さえ、痛《いた》みに震《ふる》えながらうずくまっていた。しかしまあ、毎日毎日、よくも飽《あ》きないものだ。つていうか、このクソガキ、そのうち死ぬんじゃないかな。
「裕一、あんた、今度はなにしたの」
「あ、亜希子《あきこ》さん」
クソガキは情《なさ》けない顔で見あげてきた。
「ジュースを買い間違《まちが》っちゃって」
「ジュース?」
「オレンジジュースが飲みたいっていうから、そのとおりオレンジジュースを買ってきたんですけど、そうしたらほら、つぶつぶ入りだったんです」
戎崎裕一が差しだしてきた缶ジュースには、なるほど『つぶつぶ果肉《かにく》入り』と書いてあった。
「つぶつぶ嫌《きら》いなのに、なに考えてるのとか怒鳴《どな》られちゃって。でも、そんなの知らないですよね。ダメなんだったら、最初に言ってくれればいいのに。たったそれだけのことでむちゃくちゃ怒《おこ》るんですよ」
「あたし、好きだけどね、つぶつぶ入り」
「僕も好きです。……あの、頭切れてないですか、すっげえ痛いんですけど」
「どれ」
赤く腫《は》れているが、切れてはいない。
「大丈夫《だいじょうぶ》」
パシンと叩《たた》いておいた。戎崎裕一はうううっと派手に呻《うめ》いて、また頭を抱《かか》えた。しまった。つい力入れすぎちゃった。うはは。ごめんごめん、裕一。
「男のくせに情けないよ。みっともないだろ」
しかし口からは、そんな言葉《ことば》が出てしまう。
「毅然《きぜん》としてないから、里香《りか》によけい怒られるんだって」
「じゃあ、強気に出ればいいってことですか?」
「それもひとつの手だと思うよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
言《い》い張《は》っておく。ごくり、と戎崎裕一が唾《つば》を呑《の》んだ。覚悟《かくご》を決めたらしい。それでも少々怯《おび》えたふうな目でこちらを見てくる。勇気づけるために、肯《うなず》いておいた。
「頑張《がんば》んな、裕一《ゆういち》」
「は、はい」
そのまま廊下《ろうか》を歩きだす。直後、戎崎《えざき》裕一が秋庭《あきば》里香《りか》の病室に飛びこむ音が聞こえてきた。ドアをいきなり開け、突入《とつにゅう》したらしい。
「里香、いい加減《かげん》にしろ! せっかく買ってきたんだから、つぶつぶオレンジで我慢《がまん》しろよ! うまいぞ、つぶつぶオレンジ! 飲んでみろよ、つぶつぶオレンジ! 意外《いがい》と好きになるかもしれないぞ、つぶつぶオレンジ!」
おー、頑張ってんじゃん、裕一。行け。負けるな。
「誰《だれ》が入っていいって言ったのよ?」
「そういうことじゃなくて──」
「もしあたしが着替えてたらどうするつもりだったの? 裸だったら? そういう可能性《かのうせい》もあったよね? あと、あたし、つぶつぶオレンジって大嫌《だいきら》いなの。言ったよね? そんなの飲んで具合《ぐあい》悪くなったらどうするのよ。責任、取れるわけ? 覚悟《かくご》があって言ってるの?」
「そ、そんな大げさな──」
こらこら、そこで弱気になってどうする。
「出てって!」
「里香、でも──」
「うるさい! あと、こんなもの置いてかないで! ほんと嫌いなんだから!」
「ちょ、ちょっと待て! 投げるなって! 当たったら痛《いた》いだろ! 待て! 待ってくれよ、里香! お、おい、よせって! 勘弁《かんべん》してくれよ!」
ああ、もうグダグダだし。
「だから、うるさい! 出てけ! バカ!」
「うわあああああ──っ!」
むう、やっぱダメだったか。役者が違《ちが》うつてヤツかな。亜希子《あきこ》は背後《はいご》で響《ひび》き渡《わた》る怒声《どせい》と悲鳴《ひめい》、そしてなにかが壊《こわ》れる音には気づかない振りをして、そのまま歩きつづけた。あそこで怯《ひる》むからいけないんだよ、裕一は。ずっと強気なら、どうにかなるのにさ。まあ、そういうタイプなら、里香とはうまくいかないか。あれはあれで、よくできてんのかもね。
「里香あああああ──っ!」
だけど泣くな。男なんだから泣くなって、裕一。
騒《さわ》ぎを背後にしつつ、亜希子は屋上《おくじょう》に向かった。タバコでも吸ってこよう。せっかくの休憩《きゅうけい》時間だしさ。そうして屋上の重い鉄扉《てっぴ》を押《お》し開《あ》けたところ、そこに人影《ひとかげ》が見えた。ちっ、パジャマってことは入院|患者《かんじゃ》だ。さすがに患者の前で看護婦《かんごふ》がタバコを吸うわけにはいかない。いちおうイメージってものがあるし。しょうがない、職員トイレにシケこむか。と思いつつ扉《とびら》を閉《し》めかけたところで気づいた。
中原《なかはら》さん?
青いストライプのパジャマ。男にしてはほっそりしすぎているシルエット。間違《まちが》いない。中原さんだ。閉まりかかった扉をふたたび押《お》し開《あ》け、亜希子《あきこ》は屋上《おくじょう》に足を踏《ふ》みだした。ああ、なんだかな。あのボケジジイが下らないこと言うから、よけいに意識《いしき》しちゃうじゃないか。別にどうってことないのにさ。
「こんちは」
それでも、声をかけるとき、少し……いや、かなり緊張《きんちょう》した。
手すりにもたれかかっていた中原さんは、
「あ、ども」
なんて言って、頭をぺこりと下げてきた。
「なにしてたんですか?」
「いや、別になにも」
嘘《うそ》だよね。なにか考えてたんだ。あたしは鈍感《どんかん》だけどさ、それくらいはわかるよ。にしても、ウッサンに似《に》てるなあ。顔とか全然違《ちが》うんだけど。雰囲気《ふんいき》っていうか。少しだけど、うん、なんとなく似てる。
「あの、谷崎《たにざき》さん」
「なんですか」
「谷崎さんって、走り屋ってヤツなんですか?」
「だった、かな」
「だった?」
「走るのは好きだけど、もう前ほど熱《あつ》くはなれないんですよね。悪く言えばだんだん冷《さ》めてきたってことだろうし、よく言えば力を抜《ぬ》けるようになってきたってことなんだろうけど。前は煽《あお》られたらマジで切れてたんですよ。でも今はそんなことないし。はいはい先どうぞって感じで譲《ゆず》れるし。そんなに悔《くや》しくもないし。そういう自分が、なんていうのかな、つまんないっていうか。寂《さび》しいのは寂しいんだけど、まあこれが大人になるってことなのかなあって思ったりもして」
気がついたら、けっこう喋《しゃべ》ってた。
急に恥《は》ずかしくなった。
「あはは。ごめん、勝手に喋りすぎましたね」
なんだろうな。
このタイプの人には、いっつも喋りすぎちゃう。
「全然かまわないですよ。僕、谷崎《たにざき》さんの話って嫌《きら》いじゃないから」
「そう?」
「はい。谷崎さんと話すの、楽しいです」
また、やけにはっきりと肯《うなず》くんだ。それに視線を逸《しせんそ》らさない。先にこっちが恥《は》ずかしくなって、視線を逸らしてしまった。ああ、顔が少し熱《あつ》いや。気づかれないといいな。ちょっとは気づいてほしかったりもするけど。
「中原《なかはら》さんもなにか話してよ」
聞きたいんだけどさ、あたしが。
「僕ですか?」
「うん」
「僕なんて、そんなに話すことないですよ。普通《ふつう》のつまらない会社員だし。特技もないし。喋《しゃべ》るのもそんなにうまくないし」
「じゃあ、好きなことは?」
うーん、と中原さんは唸《うな》った。
「読書くらいですかね」
「本? どんなのを読むの?」
「いろいろ。雑読派《ざつどくは》なんで」
彼が挙《あ》げた名前は、どれも亜希子《あきこ》にはわからないものだった。サリンジャーとかスピネッリとかミルハウザーとか。外人だってことはさすがにわかるけど。
「そういえば、僕も谷崎さんと同じかもしれないです」
急に思いついたって感じで、中原さんが言った。
「同じって?」
「昔はたくさん読んでたんですよ。月に二十冊とか三十冊とか。いつも本を持ち歩いてたし、読まない日はなかった当らいです。でも、今はもう、昔みたいに読まないんですよね。おもしろいと思う本もすごく減っちゃったし」
確《たし》かに同じことを自分たちは話しているみたいだ。
「あたしたち、大人になったってことなんですかね」
「なんか嫌《いや》ですね、大人って」
「ほんと、つまんないですね」
風を受けながら、ふたりで笑った。つまんないと言いあった。でも、今は全然つまんなくはない。自然と笑える。笑い声が重なるたび、胸《むね》が弾《はず》む。
「だけどね、中原さん、あたし走るの前より好きですよ。自分の限界《げんかい》も見えてるし、ちょっとはまだ意地《いじ》もあるし。両方わかるんですよね。無理《むり》をしないで、でも諦《あきら》めるんじゃなくて、そういうのを両手に持って走ってるっていうか。ああ、自分は走るのが好きなんだなあって思うし」
あ、わかりますわかります、それ。中原《なかはら》さんは早口だった。なんだか嬉《うれ》しそうだ。わかりますよ。同じ言葉《ことば》を繰《く》り返《かえ》した。
「僕もね、なんか矛盾《むじゅん》してるかもしれないけど、前より本を読むこと自体《じたい》は好きになりました。読む量《へ》は減っても、一冊を大切に読むようになったっていうか。つまんないなあって言いながらも、ほら、それでも読みつづけてる自分がいるわけじゃないですか。やっぱり読むのが好きなんですよね」
「あはは、結局《けっきょく》変わってないんですかね」
「そうかもしれないですね」
「ちょっとは変わってるのかもしれないけど」
「でも、たぶん、僕たちが感じてるよりもちょっとですよ」
「そうかな」
「そうですよ」
きれいに晴れた冬の空を、うすぼけた雲がゆっくりよぎっていった。上空は風が強いらしく、やけに急ぎ足だ。天気が崩《くず》れそうな感じがした。子供のとき、こういう雲の流れ方を見ると、とても嫌《いや》な気持ちになった。荒《あ》れた海に出ていく父親と、その小さな船のことを思った。
「あ、そうだ」
ふいに思いだした。
「中原《なかはら》さん、なにかあたしに聞こうとしてましたよね。ほら、病室で」
「ああ、はい」
「なんですか」
どんなことでも答えますよ。そう言って、ニコニコ笑ってみせる。
中原さんはじっとこちらを見たあと、その顔を伏せた。
「もう、いいです」
そんなことを言う。
「もう、わかったんで」
「え? そうなんですか?」
「今さっき、聞きました」
わけがわからなかった。なにを話したっけ。話したばかりなのに思いだせない。どうでもいいことしか話してないような気がする。それに、なんで中原さんの声が重く感じられるんだろう。伏せているせいで表情が見えない。ああ、やけに背中《せなか》が丸いなあ。まさか泣いてるわけじゃないよね。やがて中原さんが顔をあげた。別に泣いてはいなかった。当たり前か。悲しい話をしてたわけでもないし。
「走り屋の友達がね、いるんですよ」
「はあ」
「そいつ、いきなり車|売《う》りはらっちゃって。どうしたんだよって聞いたら、もういらないって言うんですよね。もうそんなことする年じゃないって。ずいぶん熱心だったの知ってたから、もったいないって言ったら、怒《おこ》られちゃって。酔《よ》っぱらったときなんですけど、そいつに怒鳴《どな》られたんですよね。走ったことのないヤツにはわかんないって。おまえなんかにはわからないって。まあ、そのとおりでしたね。走ってみても、わからなかったです」
「ああ、それであんな無理《むり》に走ってたんですか?」
彼は苦笑《くしょう》した。はい、無理でした。
「だけど、走る必要《ひつよう》なんてなかったんですよね。そいつにとって走るのが大切だったけど、僕は違《ちが》うから。僕には僕の大切なものがあるから、それで考えなきゃいけなかったんですよね。僕ね、今わかったんですけど、谷崎《たにざき》さんと話してわかったんですけど、やっぱりそいつは間違《まちが》ってますよ。年取ったから諦《あきら》めなきゃいけないなんてことないんですよ」
大人になるということ。いろんなものを失っていくということ。成長なんて言えば聞こえがいいけど、得るばっかりじゃない。けっこう落とすんだ。得るのと同じくらい……ううん、もし、かしたらそれより多く落とすんだ。
きっと、それは二十五になった今に始まったことじゃないんだろう。もっともっと前、それこそ生まれたときから始まってる。だから十二のときも、十五のときも、十七のときも、二十のときも、同じように得たり失ったりしてきたに違《ちが》いない。
今、気づいただけだ。
そういうことに。
気づけるようになった、と言ったほうがいいのかな。
「ごめんなさい、僕、話しすぎてますね」
彼が照《て》れ笑《わら》いを浮《う》かべた。
不思議《ふしぎ》なものだ。
自分の台詞《せりふ》を、彼が喋《しゃべ》っている。
「ううん、そんなことないよ」
あんたの話、聞くの好きだよ。彼がさらりと言った言葉《ことば》を、けれど自分は言えなかった。彼ほど素直《すなお》じゃないから。
それからはあまりふたりとも話さず、でも別に気まずいってわけじゃなくて、むしろ穏《おだ》やかな気持ちのまま、晴れた空を静かに眺《なが》めていた。彼が飛行機を見つけて、ほら飛行機ですよと教えてくれた。ほんとだ、飛行機だ。やけにはしゃいでしまった。どこに行くんでしょうね。南のほうだといいですね。暖かそうだし。そうね、南がいいね。銀色に輝《かがや》く飛行機はやけに小さくて、まるでオモチヤみたいだった。
残念なことに、休憩《きゅうけい》時間はあっという間《ま》に終わってしまった。
「あたし、仕事に戻《もど》ります」
「頑張《がんば》ってください」
「うん」
「また話しましょう」
「うん」
子供みたいに肯《うなず》いていた。なぜか、指切りをしたくなった。変な話。やっぱり子供に戻ったみたい……。
階段を下りながら、ウッサンのことを思いだした。彼とはついに仲直りできなかった。なんとなくお互《たが》い気まずいまま、ただ時間が流れていき、顔をあわせば向こうかこっちが逸《そ》らしたりして、たまに同じ班《はん》になるとぎこちない会話を交《か》わして……そうして二カ月くらいしたころ、いきなり担任《たんにん》が言った。
「内田《うちだ》君は引《ひ》っ越《こ》すことになりました」
それは急な話で、聞いてから三日後には、彼の姿《すがた》は小さな町からきれいさっぱり消え去っていた。謝《あやま》ることはついにできなかった。というより、そのころはまだ、自分の間違《まちが》いに気づいてなかった。自分がウッサンを傷つけたことは、もちろんわかっていたけど。なぜなのかは、鈍感《どんかん》でガサツな女にはなかなかわからなかった。
以来、弱いんだ。ウッサンみたいな人を見ると、心が少しぐらつく。で、その姿《すがた》を追《お》いかけてたりする。今度は失敗しないでおこうと思って。意識《いしき》しているうちに、だんだん惹《ひ》かれていったりして。
女心?
よくわかんないけどさ。そんなことなんて。
5
親戚《しんせき》が亡《な》くなった。親戚といっても、そんなに近くない。父親の母親の兄弟の娘の旦那とか、そんな感じ。顔だってろくに知らない。ただまあ、なにしろ狭《せま》い田舎町《いなかまち》なので、慶弔事《けいちょうごと》を疎《おろそ》かにはできなかった。顔を出さなかったら、それこそ三年は文句《もんく》を言われつづけることになる。しかたないので婦長《ふちょう》に頼《たの》んで、三日ほど休みを貰《もら》った。久しぶりに戻《もど》った海辺の町は、少し寂《さび》しくなっていた。老人の姿が増えた。若い連中をあまり見かけなくなった。漁師《りょうし》の息子どもはどんどん町を出ていく。家もだんだん古びていく。港に泊《と》まる船の数も減《へ》っていく。オッサンたちは「もう漁師をやってける時代じゃねえ」なんて愚痴《ぐち》るばかり。
家に着いたら、父親と喧嘩《けんか》をした。いきなりだった。向こうも荒《あら》いし、こっちも荒い。それでも酒を飲んで騒《さわ》いだ。仏さんの前で。伝統なのだった。死んだ人が寂しくないように、みんなで騒いであげるのだという。小さいころは不思議《ふしぎ》に思ったけれど、こうして大人になってみると、特に看護婦《かんごふ》なんてものになってみると、実にすばらしい習慣《しゅうかん》だと思う。だから飲んだ。騒いだ。「亜希子《あきこ》ちゃん、結婚は? いい人はおらんのかね?」なんて聞いてきた叔父《おじ》の頭を引っぱたいておいた。うはは、気にしてるんだから聞くなよハゲオヤジ。
誰《だれ》かが曽祖父《そうそふ》の五十回|忌《き》であることを思いだした。
五十回忌なんてやるような立派《りっぱ》な家柄《いえがら》じゃねえだろ。いやジッチャンは立派だったぞ。ほら、高潮《たかしお》来るってひとりで言いだしてさ、家財道具《かざいどうぐ》をリヤカーで山にあげたじゃねえか。ああ、そうそう。他のヤツらは笑ったけど、ジッチャンの言ったとおり高潮が来て、それからみんなジッチャンは偉《えら》いジッチャンは偉いって言うようになったんだよな。そうか五十回忌か。坊《ぼう》さんにお経《きょう》だけでもあげてもらおうじゃねえか、葬式《そうしき》のついでだしよ。
というわけで、葬式の翌日《よくじつ》、曽祖父の墓参《はかまい》りに行くことになった。
お墓は、町はずれの山中にある。斜面《しゃめん》いっぱいに、墓石《ぼせき》が並《なら》んでいた。代々の墓地なので、江戸時代の年号が入った墓石まである。寛政《かんせい》とか。明和《めいわ》とか。きつい坂を登って、斜面の上のほうにある一族の墓にたどり着いたときは、少し息《いき》が切れていた。ふう、と熱《あつ》い息を吐《は》き、振《ふ》り返《かえ》る。途端《とたん》、視界《しかい》いっぱいに青が入ってきた。海と空。ああ、故郷《ふるさと》だ。
「どうした、亜希子」
低い声で、父親が尋《たず》ねてきた。二日酔《ふつかよ》いなのだ。
「ん、海だと思って」
「そりゃそうだ。海は海だ」
「まあね」
ぼんやり眺《なが》めていると、父親も同じほうに顔をやった。その姿《すがた》を、ちらりと盗《ぬす》み見《み》る。相変《あいか》わらずでっかい身体《からだ》だ。肩《かた》も腰《こし》もがっしりしてる。既製品《きせいひん》の喪服《もふく》が、だから全然似合《にあ》わない。首が太いせいで、シャツの第一ボタンはとまってなかった。それでも久しぶりに会うと、老《ふ》けたなあと思う。ずいぶん髪《かみ》が白くなった。自分が年を取るように、父親だって年を取る。
「オヤジ、漁《りょう》はきつくない?」
「なんだ、急に」
父親は苦笑《くしょう》した。
「漁はきついさ。当たり前だ」
「あまり無理《むり》しないでよね。年なんだし」
「むう」
ちょっとむくれた顔になった。年なんて言われたのが気に入らなかったらしい。ちぇっ、意地《いじ》っ張《ぱ》りめ。かわいい娘が心配してやったんだからさ、感涙《かんるい》とまではいかなくても、しみじみしてくれてもいいじゃない。
「おまえはどうなんだ?」
「どうって? 仕事?」
「いろいろだ」
「まあ、なんとか」
潮《しお》の匂《にお》いがする。
「そうか」
父親は肯《うなず》いた。
「なら、いい」
「うん」
お墓の前で読経《どきょう》があって、親戚《しんせき》一同、雁首《がんくび》を並《なら》べた。誰《だれ》もが神妙《しんみょう》な顔をしている。漁師《りょうし》というのは、みんな信仰心が厚い。神様だの仏様だのに頼《たよ》らないと、やっていけないのだ。そうして不安を誰かに預《あず》け、すがり、どうしようもなく大きな海へと出ていく。
家に戻《もど》ったころには、身体《からだ》がすっかり冷えていた。
部屋《へや》で喪服から普段着《ふだんぎ》に着替え、居間《いま》へ。父親も母親も喪服のままだった。甘いもの好きの父親は、葬式《そうしき》で貰《もら》ってきたまんじゅうをもぐもぐ食べていた。
「あたし、帰るよ」
いつまでも仕事を休むわけにはいかない。母親は「せっかく帰ってきたんだから、もう二、三日いればいいのに」と残念がったけれど、父親は「おう」と言っただけだった。あっさりしたものだ。少しありがたかったし、少し寂《さび》しかった。
「亜希子《あきこ》」
玄関《げんかん》で靴《くつ》を履《は》いていたら、父親の声がした。
「なに」
「これ、持ってけ」
父親がその節《ふし》くれのような手に持っていたのは、赤福《あかふく》だった。
「向かいのサッちゃんが、伊勢《いせ》の本店で買ってきたんだと」
「貰《もら》ったの?」
「おう」
「じゃあ、オヤジが食えばいいじやない。せっかく貰ったんだし」
「葬式《そうしき》のまんじゆうをいっぱい持ってきちまったからな。赤福まで食えん。だから、持ってけ」
ぐいと押《お》しっけられた。その不器用《ぶきよう》な仕草《しぐさ》のせいで、断れなくなった。昔はこういうの嫌《いや》だったんだよね。意味もなく腹が立ったりしてさ。よく噛《か》みついたっけ。父親相手の喧嘩《けんか》は、いつも負けっぱなしだったけど。百戦百敗。真っ赤に染《そ》めた髪《かみ》をハサミでズタズタに切られたこともあるし、顔が貼《は》れあがるほど強く貼《は》り倒《たお》されたこともある。だけど今は、父親の不器用さが、生き方の下手《へた》さが、よくわかる。
「うん、ありがと」
だから貰っておいた。それにしてもまあ、変な話だ。伊勢に住んでる自分に、伊勢みやげを渡《わた》すなんて。ほんと気の利《き》かないオッサンなんだから。
ああ、そうだ。
中原《なかはら》さんにあげよう。中原さん、確《たし》か甘いもの好きだったはずだ。誰《だれ》だっけな、婦長《ふちょう》だっけな、英子《えいこ》だっけな、言ってたもん。そういうこと。中原さんにあげて、いっしょに食べよう。うん、そうしよう。
「じゃあね」
「おう」
あっさりと言いあって、家を出た。
なぜだか、今度はそんなに寂しくなかった。
「中原さーん」
けっこう緊張《きんちょう》していたのだ。いやもう、パールロードをアクセルベタ踏《ぶ》みで飛ばすくらい緊張していた。苦手《にがて》なんだ、こういうのは。可愛《かわい》らしく振《ふ》る舞《ま》うなんてできないし。積極的に迫《せま》るなんて、もっと無理《むり》だし。告白《こくはく》? 柄《がら》じゃないよ。
「赤福《あかふく》食べませんか。貰《もら》ったんだけど、あたし甘いもの苦手《にがて》で」
だから姑息《こそく》な理由《りゆう》を作った。絞《しぼ》りだした精一杯《せいいっぱい》の勇気は、しかし空《から》っぽの病室でむなしく響《ひび》いただけだった。荷物はない。気配《けはい》もない。ベッドだけ。慌《あわ》てて病室の入り口にあるプレートを確認《かくにん》すると、それは真っ白だった。名前が消されていた。
「ねえ、中原《なかはら》さんは?」
通りかかった同僚《どうりょう》をつかまえて尋《たず》ねた。
「中原さん? 退院したわよ」
無情な言葉《ことば》が返ってきた。
「それより谷崎《たにざき》、搬送《はんそう》手伝ってよ」
「あ、いいけど。いつ退院したの?」
「さあ。昨日か一昨日《おととい》だと思うけど。どうして?」
「いや、そんなに病状軽かったかなーつて」
あはは。ごまかすために笑ってみる。笑えてるかな。昨日か一昨日か。ちょうど葬式で休んでたときだ。
「軽いもなにも、ただの検査入院だったじゃない」
「そっか。そうだったよね」
退院したってことは、異常はなかったんだろう。確認するまでもない。確認したいけど。そうさ、いろいろ確認したいけど。
「谷崎、ほら、そっち持って」
「はいはい」
ガラガラとキャスターつきの担架《たんか》を押《お》していく。さまざまなことが頭に浮《う》かんだ。ウッサンの背中《せなか》。もういいよと言う声。故郷《ふるさと》の空。海。今ごろの季節は、境界《きょうかい》が曖昧《あいまい》になるんだ。どこまで空なのか、どこから海なのか、いくら見てもわからない。内田《うちだ》君は引《ひ》っ越《こ》すことになりました。いきなりの宣告《せんこく》。誰《だれ》も座《すわ》っていない席。父親のシャツ、第一ボタンがとまってなかった。中原さんと見た飛行機。どこに行くんでしょうね。南のほうだといいですね。暖かそうだし。そうね、南がいいね。
「また話しましょう」
そんな声が、はっきり聞こえた。嘘《うそ》つき。心の中で呟《つぶや》いてみる。またなんてなかったじゃないさ。あんなふうに笑って、優《やさ》しくしてくれて。胸《むね》の中が揺《ゆ》れたのに。披みたいにさ、揺れたんだよ。またなんてなかったじゃないさ。もちろん、誰のせいでもない。検査が終わったら退院するだけのこと。そもそも期待《きたい》するような間柄《あいだがら》じゃなかったし。
まあ、わかってるけどさ。
ナースステーションに戻《もど》ると、赤福を棚《たな》に置いた。早く食べないとおいしくなくなってしまう。でも食べたくない。このままずっと置いておきたい。
気持ちの置き場所が見つかる、そのときまで──。
[#改ページ]
【猫缶《ねこかん》】 猫の餌《えさ》のこと。缶詰《かんづめ》に入ったウエットタイプ。「─を開ける」
1
時計は二時を指している。昼の、ではない。夜の、である。草木も眠《ねむ》る丑三《うしみ》つ時《どき》。寂《さび》れきった伊勢《いせ》の町に人影《ひとかげ》はなく、ただ外灯《がいとう》が白々《しらじら》した光で路面を照《て》らしているだけである。その光の中を、黒猫がトットットッと駆《か》けていった。道路を横切り、家と家のあいだにある細い隙間《すきま》に、その身をするりと滑《すべ》りこませる。人間ならば腕《うで》を入れるのがようやくといった隙間であるが、さすがは猫である。それにしても、この家の密集《みっしゅう》ぶりはどうであろう。いちおう一軒家《いっけんや》が立《た》ち並《なら》んではいるのだが、家と家のあいだは驚《おどろ》くほど狭《せま》く、まるで長屋《ながや》が連なっているかのようである。中にはすっかり傾《かたむ》いた古い家もあって、そういうのは隣《となり》の家に寄りかかって持ちこたえていたりする。隣の家からするとたまらない話に思えるが、そこはよくできたもので、その隣の家は、もたれかかってきている家に自身もまたもたれかかっているのである。お互《たが》い様《さま》というわけだ。新興《しんこう》の住宅地であれば、きれいに区画整理《くかくせいり》が行われ、こんなに家が密集して建てられることなど法規上《ほうきじょう》ありえないのだが、なにしろ伊勢は古い歴史を有する地域だ。江戸《えど》時代は『おかげ参《まい》り』と称された伊勢神宮詣《いせじんぐうもうで》が爆発的に流行し、日本中のあちこちから観光客が押《お》し寄せたそうだ(詳《くわ》しくは十返舎一九《じゅっぺんしゃいっく》の『東海道中膝栗毛《とうかいどうちゅうひざくりげ》』を参照のこと)。
さて──。
黒猫《くろねこ》が滑《すべ》りこんだ隙間《すきま》を作りだしている二軒の家の一方には、世古口《せこぐち》という表札がかかっていた。その世古口家の一室は、深夜であるというのに、まだ明かりが煌々《こうこう》と灯《とも》っている。室内には、三人の少年がいた。
ひとりは世古口|司《つかさ》、部屋《へや》の主《あるじ》である。
ひとりは戎崎《えざき》裕一《ゆういち》、主の友である。
ひとりは山西保《やまにしたもつ》、戎崎裕一の友である。
彼らは今、それぞれの前にある皿を見て、汗《あせ》を垂《た》らしていた。
「た、食べようよ」
おずおずと、世古口司が言う。
「お、おう」
肯《うなず》いたのは山西保であった。声だけは勢《いきお》いがいいものの、その手はぴくりともしない。山西保は自分の左斜め前に座《すわ》っている戎崎裕一に顔を向けた。
「戎崎、食おうぜ」
「マ、マジで?」
戎崎裕一は露骨《ろこつ》に嫌《いや》な顔をした。まず世古口司を見る。目を逸《そ》らされた。ちっ。心の中で舌打ちしつつ、今度は山西保を見る。にっこりとした笑《え》みが返ってきた。しかしその目はまったく笑っていない。期待《きたい》していた反応《はんのう》を得られなかった戎崎裕一は──なにを期待していたのか、自分でもよくわかっていなかったが──目の前の皿に目をやった。
皿にはスパゲティが盛《も》られていた。なかなかおいしそうな匂《にお》いがしている。ツナ缶《かん》を使ったスパゲティといえば、おそらく誰《だれ》もが納得《なっとく》するだろう。料理好きの司が作ったものだけあって、なかなかおいしそうだ。しかしながら、その細い麹《めん》に絡《から》んでいるものは、ツナではなかった。
猫缶《ねこかん》、であった。
すなわち。
猫|餌《えさ》、であった。
2
ことの始まりは、およそ三十一時間前にさかのぼることになる。
開発が遅《おく》れに遅れ、なんと一年七カ月も発売日が遅れた大作ゲームが、ついに発売されることになった。戎崎裕一はひたすら待ちつづけていたし、世古口司もそうだったし、山西保も同様であった。しかしながら、発売ロットの少なさから、彼ら三人の中でその大作ゲームを手に入れられたのは、ただひとり、世古口司《せこぐちつかさ》のみであった。
当然のごとく、戎崎《えざき》裕一《ゆういち》は言った。
「いっしょにやろうぜ」
人のいい世古口司はあっさりと肯《うなず》いた。
「いいよ」
クリアするまでに軽く五十時間はかかるという大作である。ひとりでやるのもいいが、ふたりで相談《そうだん》しながら進めるのも悪くはないだろう。それに交代でレベル上げをやれば、負担《ふたん》は二分の一ですむ。
「オレも行くぞ」
そこに割って入ったヤツがいた。
「三人でやろうぜ」
山西保《やまにしたもつ》であった。
人のいい世古口司はもちろん、
「いいよ」
と肯いた。
そして発売直後の連休初日、彼らは世古口司の家に集合した。肝炎《かんえん》で入院中の戎崎裕一は、わざわざ一時帰宅の許可を取って(病院への提出書類はもちろん偽造《ぎぞう》したものである)、駆《か》けつけていた。きらきら光るディスクをゲーム機に入れると、おなじみのテーマソングが流れだした。少年期のほぼすべてを、そのシリーズと共にしてきた三人は、テーマソングを聴《き》いただけで目を潤《うる》ませた。
山西保がしみじみと言った。
「いいよなあ」
戎崎裕一は肯いた。
「ほんと痺《しび》れるよなあ」
世古口司はほんわかと笑っていた。
「いいね、ほんと」
そしてプレイが始まった。まずは持ち主からということで、世古口司がパッドを握《にぎ》った。村から森へ、森から荒野《こうや》へ、荒野から海へ……長い長い冒険が始まった。戎崎裕一と山西保は、友人の巨大な背中越《せなかご》しに画面を見つめ、あっちじゃないかこっちじゃないかと言いあった。
二時間ごとに交代し、眠《ねむ》くなったら眠り、腹《へ》が減ったら買いこんでおいたお菓子やらオニギリやらサンドイッチやらを食べた。冒険は順調に進み、画面の中で、彼らの分身たる存在はだんだんと逞《たくま》しくなっていった。栄光があり、挫折《ざせつ》があり、復活があった。涙《なみだ》があり、笑いがあり、淡《あわ》い恋があった。そうして一日めの夜が明け、二日めに突入《とつにゅう》した。さすがに若い彼らも疲《つか》れはじめていたが、それでも情熱のままに○ボタンを、ロボタンを、△ボタンを、×ボタンを押《お》しつづけた。Rlを押し、R2を押し、Llを押し、L2を押した。ポテトチップスを食べ、煎餅《せんべい》を食べ、チョコスティックを食べ、炭酸水をがぶ飲みし、オニギリを押しこみ、サンドイッチにかぶりついた。
危機《きき》が訪《おとず》れたのは、二日めの夜であった。
「あれ、サンドイッチは?」
コンビニの袋を覗《ふくろのぞ》きこみながら、戎崎《えざき》裕一《ゆういち》が言った。
「そこに入ってるだろ」
無愛想《ぶあいそう》に答えたのは、山西保《やまにしたもつ》であった。彼は今、第七ステージに進むため、ひたすらレベル上げをしている最中だった。砂漠《さばく》をさまよい、遭遇《そうぐう》する雑魚《ぎこ》モンスターを片づけていくのだ。ここのモンスターは簡単《かんたん》に倒《たお》せるわりに、得られるポイントが高い。毒《どく》を持っているヤツがいるので、それだけは気をつけなければいけないが。
「ないぞ、空《から》っぽだ」
戎崎裕一は袋をくしゃくしゃに丸め、そこら辺に放った。
「じゃあ、そっちの袋は?」
「ない、こっちも空っぽだ」
「嘘《うそ》だろ。じゃあ、そっちは」
「ないぞ」
ようやく彼らは危機に気づいた。ふたりはゲームを放りだし、部屋《へや》のあちこちに転《ころ》がっているコンビニの袋を片《かた》っ端《ぱし》から探《さぐ》ったが、それらはどれも空っぽであった。いつの間《ま》にか、あの大量の食料を食いつくしてしまったのである。
「腹《へ》減ったな……」
「ああ、減った……」
ふたりは顔を見あわせた。食べるものがないと知ると、よけいに腹が減るものである。ぐうっと、ふたりの腹が鳴《な》った。
ちゃっちゃらちゃー ちゃっちゃらちゃー
呑気《のんき》なゲーム音楽が冷ややかに流れる中、ふたりは呆然《ぼうぜん》と立ちつくした。ぐおおおぐおおお、という世古口司《せこぐちつかさ》の鼾《いびき》が、その音楽に重なる。見まわしてみれば、部屋中に料理関係の──主にお菓子だが──本が並《なら》んでいた。その美しいカラー表紙に印刷されているのは、どれもすばらしくおいしそうな食い物だった。戎崎裕一の腹がぐうっと鳴った。山西保の腹もぐうっと鳴った。
ちゃっちゃらちゃー
ぐおおお
ぐうっ
いろんな音がとにかく鳴《な》っていた。戎崎《えざき》裕一《ゆういち》は、まずその昔のひとつ、世古口司《せこぐちつかさ》の鼾《いびき》をとめることにした。
「司、おい、起《お》きろよ」
これがまた、なかなか起きないのだ。揺《ゆ》さぶっても踏《ふ》んでも起きない。すばらしく太い神経《しんけい》である。試《ため》しに魔神風車固《まじんふうしゃがた》めをかけてみたが、それでも起きなかった。
しかたないので、
「司、おまえの番だぞ!」
と耳元で叫《さけ》んだら、すぐに目を覚ました。
「今、どこ? 第七ステージ入った?」
その寝《ね》ぼけた質問には答えず、戎崎裕一は別のことを尋《たず》ねた。
「なんか食べるものないか?」
「え? なんで?」
「食料、全部食べきっちまってさ」
山西保《やまにしたもつ》がそう言うと、世古口司はわけがわからないという顔をした。
「そんな設定、あったっけ?」
ゲームのことだと思ってるらしい。
「ちげーよ。現実のほうだよ。オレたちの腹が減《へ》ってるんだよ。おまえ、腹減ってないか?」
「そういえば……」
起きたばかりなのに、世古口司の腹がぐうっと鳴った。ひどく大きな音だった。
鼾はやんだが、その代わり、腹の鳴る音が三つ重なることになった。空腹の三重奏である。なにか探《さが》してくると言って世古口司が部屋《へや》を出ていったが、それから五分後、彼は暗い顔をして帰ってきた。
食料探しから戻《もど》ってきたパーティの仲間に、戎崎裕一は尋ねた。
「なにかあったか?」
「冷蔵庫《れいぞうこ》の中にはいろいろ入ってるけど」
「けど?」
「明日お客さんが来るみたいで、すごくいい材料ばかりなんだ。母ちゃんがなにか作ると思うんだけど。勝手に食べると怒《おこ》られちゃうよ」
「じゃあさ、使いそうにないものを食べようぜ」
そんな山西保の提案《ていあん》に、世古口司は首を横に振《ふ》った。
「そう言われても……なにを使うかわかんないよ……」
「これは絶対《ぜったい》に使わないってものを探《さが》そう」
「あ、そうだね」
今度はパーティ全員でダンジョンを──世古口《せこぐち》家の台所だが ──探すことにした。確《たし》かにいろいろな食材があるのだが、これは絶対使わないだろうというものはなかなか見つからなかった。母親がどんな料理を作るかわからない以上、当然のことであった。豆腐《とうふ》は? 麻婆《マーボー》豆腐を作る可能性《かのうせい》がある。春菊《しゅんぎく》は? 鍋に入れればおいしい。もしなければ、母親は烈火《れっか》のごとく怒《おこ》るであろう。腹《へ》が減り、しかも三十一時間の連続プレイに疲《つか》れ果《は》てた彼らは、正常な思考《しこう》を失っていた。戎崎《えざき》裕一《ゆういち》など、インスタントラーメンを見つけながら、これをお客さんに出すかもしれないよなと思って棚《たな》に戻《もど》したほどである。インスタントラーメンなど客に出すわけがないのだから食ってしまえばいいのである。
やがて世古口司《つかさ》が大きな声をあげた。
「あ──」
希望に満《み》ちた声であった。
もはや空腹で視界《しかい》が霞《かす》みはじめていた戎崎裕一と山西保《やまにしたもつ》は慌《あわ》てて声の主を見た。彼が、友が、その巨大な手に持っていたのは、ひとつの缶詰《かんづめ》だった。
猫《ねこ》、大喜び──。
缶詰には、大きな金文字でそう書いてあった。可愛《かわい》らしい猫の姿《すがた》も印刷されていた。どう見ても、どう考えても、それは猫の餌《えさ》だった。
「なんでそんなものがあるんだよ?」
戎崎裕一が殺気《さっき》とともに尋《たず》ねた。
「さあ? わかんないけど?」
世古口司は呑気《のんき》に首を傾《かし》げた。その顔には、まだ笑《え》みが少しだけ残っていた。
「猫の餌じゃねえか、それ」
山西保は怒っていた。
「食えるわけねえだろ」
戎崎裕一と山西保の冷たい視線《しせん》を浴《あ》び、ようやく世古口司も状況《じょうきょう》を呑《の》みこんだ。親が絶対に使わないものを見つけたと思って喜んだが、しかし猫缶は猫缶である。親が使わないということは、自分たちも食べられないということだ。
「そ、そうだよね」
あはは、と笑いつつ、世古口司は猫缶を棚にしまおうとした。
そのときだった。
「あれ、そういや、猫缶っておいしいって聞いたことがあるぞ」
戎崎《えざき》裕一《ゆういち》が言ったのだ。
「もしかしたら、食えるんじゃないか」
何気《なにげ》ない一言であった。ふと頭に浮《う》かんだから、言ってみたというだけのことであった。しかし、その一言が、流れを作ってしまった。人間という生き物は、一度でも可能性《かのうせい》を見てしまったら、それを忘《わす》れることなどできない。ましてや腹が鳴《な》りまくっている状況下《じょうきょうか》において、どうして忘れることができようか。
「誰《だれ》に聞いたんだ?」
救いを求めるような、あるいは責めるような、山西保《やまにしたもつ》の声。
戎崎裕一は首を傾《かし》げた。
「さあ、それがよく思いだせないんだけど……」
「まさかテレビとかじゃないよな? お笑い芸人がネタで食ったとかさ」
「いや、テレビじゃないような……」
「じゃあ、どこで聞いたんだよ? 誰が言ってたんだよ?」
「うーん……」
「た、試《ため》しになにかこれで作ってみようか?」
世古口司《せこぐちつかさ》が提案《ていあん》した。
「試し?」
戎崎裕一が確認《かくにん》した。
「試しなら、おもしろいかもな」
山西保の言葉《ことば》が事態《じたい》を決定づけた。
それはまさしく混沌《こんとん》が招《まね》いたさらなる混沌であった。腹《へ》が減っていた。もしかしたら食えるかもしれないものがあった。そしてそこにいる三人は冷静《れいせい》ではなかった。三十一時間の連続プレイによって、現実に対する平衡感覚《へいこうかんかく》を失っていた。ああでもないこうでもないという議論の末、世古口司が猫缶《ねこかん》を使ったスパゲティを作ることになった。ツナスパゲティってうまいよな、という山西保の言葉がきっかけであった。確《たし》かに彼らは現実に対する平衡感覚を失っていたのであろう。どうしても空腹に耐《た》えられないのなら、スパゲティにマヨネーズでも絡《から》めて食べておけばよかったのだ。平衡感覚を失い、さらに猫缶に囚《とら》われた彼らは、そのことにはついに気づかなかった。
そして──。
猫缶スパゲティが、彼らの前に並《なら》んだのである。
3
「匂《にお》いは……いいな」
とりあえず、戎崎《えざき》裕一《ゆういち》はそう言ってみた。世古口司《せこぐちつかさ》と山西保《やまにしたもつ》がものすごい勢《いきお》いで肯《うなず》いた。何度も何度も、首が振《ふ》りちぎれるのではないかという調子《ちょうし》で振っている。
「き、きっとおいしいよ」
世古口司が言った。
しかし、そう思っているのなら、なぜ手をつけない?
「うまそうな匂《にお》いがするものって、だいたいうまいんだよな」
山西保が言った。
それはどういう理屈《りくつ》だ? なんの証拠《しょうこ》があるのだ? だいたい、本気でそう思っているのなら、なぜおまえも手をつけない?
雰囲気《ふんいき》というのはおかしなもので、気がつくと戎崎裕一は、世古口司と山西保にそろって見つめられていた。戎崎裕一は、その視線《しせん》に理不尽《りふじん》なものを感じた。なぜふたりで見てくるんだろう。まるで真っ先に自分が食べなければいけないみたいではないか。そんな約束などしていないのに。まずい。非常にまずい。この雰囲気をひっくり返さなければならない。戎崎裕一の頭に浮《う》かんだのは、秋庭《あきば》里香《りか》のことだった。彼女はいつだってわがままで、自分の要求を無理やり通してしまう。彼女の強引さを見習わねば。
ごくりと唾《つば》を呑《の》み、戎崎裕一は言った。
「山西、おまえから食えよ」
そうだ、大事なのは言《い》い張《は》ることだ。理屈などこねようとするからいけない。とにかくひたすら言い張っておけば、たいていの相手は折れるものだ。
「だいたい、食えるかもって言ったの、おまえだろ」
我ながら、なかなか見事《みごと》な攻撃《こうげき》である。
山西保は「うっ」という顔をした。
「そ、そうだったっけ?」
「ああ、言ったぞ。そうだろ、司?」
「うん、言った言った」
世古口司は繰《く》り返《かえ》した。
「確《たし》かに言ったよね」
実際《じっさい》に言ったかどうかは問題ではない。実のところ、戎崎裕一も世古口司もそんなことなど覚《おぼ》えていなかった。当然、山西保も自分が言ったかどうかなんて記憶《きおく》になかった。言い張ったもの勝ちというわけだ。
形勢逆転《けいせいぎやくてん》である──。
今度は、戎崎裕一と世古口司がじっと山西保を見つめることになった。見つめられた山西保は救いを求めるように、まず世古口司を見つ妙た。世古口司は、彼を勇気づけるように肯いた。慌《あわ》てた山西保は、戎崎裕一へ顔を向けた。戎崎裕一はしかし、しっかりと見返してきた。山西|保《たもつ》はヘラヘラ笑いながらも、その頭をフル回転させた。まずい。恐《おそ》ろしくまずい。この状況《じょうきょう》をどうにかひっくり返さねば。
「あ、あのさ、世古口《せこぐち》」
「え、なに」
「おまえ、味見した?」
「いや、それは──」
世古口|司《つかさ》が言葉《ことば》に詰《つ》まった。それを見た瞬間《しゅんかん》、引《ひ》きつり気味《ぎみ》だった山西《やまにし》保の笑《え》みが、見事《みごと》な笑みへと変化した。きらきらと輝《かがや》くような笑みであった。
「作ったんだから、味見はするよな、普通《ふつう》?」
「そ、そうだけど……」
「味見、したはうがいいんじゃねえの?」
「で、でも、もうできちゃったし」
精一杯《せいいっぱい》の抵抗《ていこう》であったが、しかし言《い》い訳《わけ》としては弱かった。
「コックとか料理人はちゃんと味見してから、料理を客に出すよな。当然のことっていうかさ。できてようがなんだろうが、まず客に食わせる前に味見するもんなんじゃねえの」
ここぞとばかりの屁理屈《へりくつ》を、山西保が吐《は》いた。
「う……」
世古口司の巨大な顔に、汗《あせ》がぶわっと噴きあがった。
もし猫缶《ねこかん》がとんでもない味だったらどうしようか。恐ろしい話が、世古口司の頭を駆《か》けめぐった。それは叔母《おば》さんから聞いた話だった。香港《ホンコン》旅行に行った叔母さんは、旅の思い出にしようと、路地《ろじ》の奥《おく》にある怪《あや》しげな食堂に入った。言葉もよくわからなかったが、壁《かべ》に貼《は》られたメニューを適当《てきとう》に指差したところ、なんだか得体《えたい》のしれない料理が出てきた。中国人の給仕《きゅうじ》はにっこり微笑《ほほえ》み、厨房《ちゅうぼう》の中でコックもやはりにっこり微笑んでいた。その料理からは恐ろしい匂《にお》いがしていたが、もはや断れる雰囲気《ふんいき》ではなかった。日中友好という言葉が叔母さんの頭を駆けめぐったそうだ。日中友好日中友好日中友好と呟《つぶや》きながら、叔母さんは料理をすべて平らげた。味は悪くなかったらしい。意外《いがい》とおいしかったそうだ。しかしなんだかよくわからないスパイスが効《き》きまくっていて、食べているうちにぼろぼろ涙《なみだ》が出てきた。鼻水もだらだら垂《た》れた。そしてそれ以来、叔母さんは味覚がすっかり変わってしまったのだそうだ。以前はおいしくなかったものがおいしく感じられるようになり、以前の好物は匂いを嗅《か》ぐのも嫌《いや》になってしまったという。
猫缶ごときで大げさな話かもしれないが、もし自分の身に同じことが起《お》きたらどうすればいいのだろうか。自分の憧《あこが》れはお菓子職人《パティシエ》である。まだまだ漠然《ばくぜん》とした未来ではあるが、そんなことをぼんやり夢見ている。もし舌がバカになってしまったら、その夢は途絶《とだ》えるだろう。舌がダメな料理人など、存在を許《ゆる》されるわけがないのだから。目の前の猫缶スパゲティを食べる
か否《いな》か。それは世古口司《せこぐちつかさ》の未来を賭《か》けた選択《せんたく》であった。
必死になった世古口司は、考えに考えた。この場をなんとか切《き》り抜《ぬ》けねばならない。まずは、自分に向けられる戎崎《えざき》裕一《ゆういち》と山西保の視線《やまにしたもつしせん》をどうにかしなければ──。
記憶力《きおくりょく》が、彼を救った。
「そういえば、裕一が言ったんだったよね」
「え?」
戎崎裕一がぎくりとした。
「猫缶《ねこかん》がおいしいって聞いたことあるって」
「そ、そうだったっけ?」
「うん。言ったよ」
でかい身体《からだ》で、でかい声で、そう断言《だんげん》する。様子見《ようすみ》を決めこんでいた山西保に顔を向けると、世古口司は必死さが滲《にじ》んだ声で尋《たず》ねた。
「そうだったよね、山西君?」
「お、おう」
ビビった山西保はあっさりと肯《うなず》いた。
「言ったな、そういえば」
まあ山西保にしてみれば、自分が真っ先に食べなくてすむのなら、なんだっていいのである。
勝敗は、決した──。
もはや戎崎裕一に抵抗《ていこう》するすべはなかった。ふたりの強烈《きょうれつ》な視線に、その圧力に押《お》されるように、震《ふる》える手が、フォークが、猫缶スパゲティに近づいてゆく。そして、あと一センチまで迫《せま》ったところで戎崎裕一は顔をあげ、ふたりに目をやった。実に彼らしい──っまりは弱々しい──最後の抵抗であった。
「さあ、裕一」
世古口司が迫った。
「食えよ、戎崎」
山西保も迫った。
「あ、ああ」
戎崎裕一は滲む涙《なみだ》をそっと隠《かく》しながら、フォークを猫缶スパゲティに突《つ》っこんだ。くるくると勢《いきお》いよく巻《ま》いてしまったあと、慌《あわ》ててほどいて、今度は麹《めん》を三本だけ巻き取った。これくらいなら、大丈夫《だいじょうぶ》だろう。きっと。たぶん。おそらく。
そして戎崎裕一は食べた。
猫缶スパゲティを。
思いだしたのは、その直後だった。
4
同じ状況《じょうきょう》が、そうさ、ずいぶん前にもあったんだ。
まだ小学生だった戎崎《えざき》裕一《ゆういち》は、母親がいなくなったことを、それほど深く捉《とら》えてはいなかった。「実家で葬式《そうしき》だ」という父親の言葉《ことば》を、そっくりそのまま、なんの疑《うたが》いもなく信じていた。しかしながら、十七になった今になってみれば、それは父の言《い》い訳《わけ》にすぎなかったのだと確信している。なにしろ母親がいなくなる前日、父親と母親は派手《はで》な喧嘩《けんか》をした。茶碗《ちゃわん》が飛び、皿が飛び、コップが飛び、古くさい卓祇台《ちゃぶだい》がひっくり返った。あのとき、母親は実家に逃げ帰っていたに違《ちが》いない。夫婦の危機《きき》であったわけだ。悪いのは父親だ。間違《まちが》いない。ギャンブルか借金か女か……まあ、そういうありきたりなことが原因だったのだろう。
口うるさい母親がいなくなったことは、戎崎裕一にとってそれほど悪いことではなかった。夜中まで起《お》きていても怒《おこ》られなかったし、露出《ろしゅつ》部分の多い女性が出ているテレビを観《み》ていてもかまわなかった(父親は酔《よ》っぱらって寝《ね》ていた)。お菓子だって食べ放題だった。ジュースだって飲み放題だった。
モラトリアムであった。
解放であった。
自由であった。
しかしながら、さすがに母親のいない日が四用ほど続くと、戎崎裕一も不安になってきた。母親がいなくなる前日の、あの騒《さわ》ぎが頭の中を駆《か》けめぐった。彼の不安に輪《わ》をかけたのは、父親がどんどん不機嫌《ふきげん》になっていくことだった。最初の日はいっしょに夜中まではしゃいだ。次の日は、新道《しんみち》の寿司屋《すしや》につれていってくれた。初めて酒を飲んだ十歳の日だ。三日めも同じように楽しく過ぎた。しかしながら四日め、父親は急に黙《だま》りこんだ。五日め、父親はコップを割った。そのとき、戎崎裕一は食卓でモソモソと冷たいご飯を食べていた。目の前で、父親がひたすら酒を飲んでいた。日本酒。コップ酒。ぐいぐいと飲んでいた。酒の匂《にお》いのせいで、ご飯がおいしくなかった。おかず&つまみは焼き鳥の缶詰《かんづめ》だった(それにしても焼き鳥の缶詰とは不思議《ふしぎ》な食べ物だ)。顔をあげ、戎崎裕一は父親になにか言おうとした。けれど父親の真っ赤な顔を見たら、なにも言えなくなった。ふたたび顔を伏せ、ご飯を口に押《お》しこんだ。その直後、背後《はいご》でがしゃんと音がした。びっくりして振《ふ》り向《む》くと、キッチンの壁《かべ》が濡《ぬ》れていた。花柄《はながら》の、ダサい壁紙が、べっとりと濡れていた。そしてその壁の真下に、粉々になったコップの欠片《かけら》が散《ち》らばっていた。キッチンの中が、さっきよりも酒臭《さけくさ》くなっていた。二、三度|瞬《まばた》きしたあと、父親に顔を向けると、彼はテーブルに突《つ》っ伏《ぷ》していた。軒《いびき》のような唸《うな》りのような声が聞こえた。恐《おそ》ろしい声だった。父親はそのまま眠《ねむ》ってしまった。戎崎裕一はいささかの疑問を抱《いだ》いた。
これはモラトリアムなのであろうか?
解放なのであろうか?
自由なのであろうか?
もしこれがモラトリアムであり、解放であり、自由であるならば、どうして父親はどんどん黙《もく》していくのであろう。自分の腹の底《そこ》は、なぜひりひりするのであろう。
そして六日め、危機《きき》が訪《おとず》れた。
「おかずがない」
父親が低い声で言った。
その言葉《ことば》は、十歳の戎崎《えざき》裕一《ゆういち》にとって衝撃《しょうげき》であった。おかずがないなどという事態《じたい》は、まったく理解《りかい》できなかった。しかも恐《おそ》ろしいことに、時計は夜の十二時を示している。都会ならば近くにコンビニの一軒や二軒はあるだろうが、ここは田舎町《いなかまち》伊勢《いせ》である。一番近くのコンビニまで、自転車で三十分以上かかるのだ。
ここ七時間ほど、彼らはなにも食べていなかった。
もちろん腹が鳴《な》った。ぐうぐう鳴った。
「ないの?」
「ない」
無邪気《むじゃき》な子供の問いに、父親は苦々《にがにが》しく肯《うなず》いた。
それでも彼らはいちおう無為《むい》な抵抗《ていこう》を試みた。冷蔵庫《れいぞうこ》を開けては閉《し》め、食器棚《しょっきだな》の引き出しをひとつひとつ開けては閉めた。何度見ても、食えそうなものはなかった。この六日間で、すべて食いつくしてしまったのだ。
戎崎裕一は情《なさ》けない声で訴えた。
「お腹空《なかす》いた」
「うるさい」
父親は不機嫌《ふきげん》に言った。
戎崎裕一は黙《だま》ることにしたが、五分ともたなかった。
「お腹空いた」
「うるさい」
父親はやはり不機嫌であった。
しかしながら、すがるように見つめる息子の視線《しせん》がよほどこたえたのか、彼は重い腰《こし》をあげ、ふたたび冷蔵庫を開け、食器棚の扉《とびら》を開けた。そしてがっくりと肩《かた》を落とした。そこにはなにもないよ。冷ややかに息子戎崎裕一は思った。何度も見たよ。それでも父親は諦《あきら》めず、今度は家中を探《さが》しはじめた。戎崎裕一はキッチンの椅子《いす》に腰かけたままだった。彼は頑《がん》として動くつもりはなかった。このまま飢《う》え死《じ》にするつもりだった。もちろんそれは弱々しい決意であって、さっきと同じように五分もすればあっさりと崩《くず》れ去《さ》るものだったが、とにかくそのときは固《かた》く決意していた。
予想どおり、五分ほどで決意が揺《ゆ》らぎそうになったとき、
「あったあった! あったぞ!」
父親がそう言って、キッチンに駆《か》けこんできた。
相変《あいか》わらず冷ややかな態度を取っているつもりで──まあ、しかし、思いっきり目をきらきらさせていたのだが──戎崎《えざき》裕一《ゆういち》は父親を見た。
父親は缶詰《かんづめ》を持っていた。焼き鳥の缶詰だと戎崎裕一は思った。すっかり食《た》べ飽《あ》きたが、腹《へ》が減っているんだからしかたない。それに、父親が必死になって探《さが》してくれたものだ。それで我慢《がまん》しよう。我慢しようではないか。
しかし、よく見てみると、柄《がら》が違《ちが》った。大きさも違った。なぜか猫《ねこ》の絵がラベルに印刷されていた。猫肉の缶詰? そう思って、ビビった。まさかそんなものがこの世に存在するとは。もちろん勘違《かんちが》いであった。三秒ほどで訂正された。
父親が言ったのだ。
「猫の餌《えさ》だけど、猫が食えるんだから人だって食えるぞ」
わけのわからない理屈《りくつ》である。
抗議したかったものの、腹が減っていたし、妙《みょう》に嬉《うれ》しそうな父親を見ていたら、なにも言えなくなってしまった。父親は冷《ひ》や飯《めし》をお茶碗《ちゃわん》によそい、無造作《むぞうさ》に戎崎裕一の前に置いた。そして猫缶を開けた。なかなかおいしそうな匂《にお》いが漂《ただよ》ってきた。戎崎裕一の腹がぐうっと鳴《な》った。
「食え、裕一」
父親の言葉《ことば》が、戎崎裕一には信じられなかった。食え、だって?
「ほら、食っていいぞ」
いったいなにを言っているのだ、このクソオヤジは。これは猫の餌ではないか。人の食べ物ではない。自分は猫なのか。にゃあと鳴くのか。ふざけるな。十歳の戎崎裕一は、実に子供らしい純粋な怒《いか》りを、父親に向けた。
自分勝手な父親も、さすがに息子の怒りを感じ取ったらしい。
「父ちゃんが食べてみるから」
そう言って、箸《はし》で缶詰の中身をつまんだ。戎崎裕一は父親の行動をじっと見つめた。父親は少しためらったあと、箸の先を口に入れた。最初はゆっくりと、やがてしっかりと、噛《か》んだ。
「ちょっと味が薄《うす》いな」
父親は言うと、醤油《しょうゆ》を猫缶に垂《た》らした。そして今度はなんのためらいもなく、もぐもぐと猫缶を食べはじめた。
「いけるぞ、なかなかうまいぞ」
さっきから父親ばかりが喋《しゃべ》っていた。うまいうまい。食える食える。父親は上機嫌《じょうきげん》に繰《く》り返《かえ》した。そして、猫缶をつまみに、酒を飲みはじめた。
「裕一《ゆういち》、おまえも食え」
父親は上機嫌《じょうきげん》だった。
「うめえぞ」
戎崎《えざき》裕一は食わなかった。意地《いじ》でも食わないつもりだった。しかたないので、ご飯だけを口に押《お》しこんだ。ご飯だけの食事はむなしかったけれど、もっとむなしいことに、それでも腹が膨《ふく》らむのだった。
父親は猫缶《ねこかん》を半分だけ残した。
息子の分ということらしい。
普段《ふだん》は息子のことなんて気にしないし、それどころか息子が大事に取っておいたケーキだって勝手に食べてしまう男なのに、そのときはきっちり半分、猫缶を残した。
けれど、戎崎裕一は食べなかった。
そう。
意地でも食べないつもりだった。
半分の猫缶は、ただそのままに残された。
翌日《よくじつ》、母親が帰ってきた。なにがあったのかはわからない。親戚《しんせき》のおじさんやらおばさんやらの名前を聞いたような気がするので、きっと彼らが母親を説得し、父親に説教をしたのだろう。当たり前の日常《にちじょう》が、そうして戻《もど》ってきた。
モラトリアムは終わった。
解放は終わった。
自由は終わった。
戎崎《えざき》裕一《ゆういち》はしかし、そのことを歓迎《かんげい》した。帰ってきた母親に怒《おこ》られたときは、嬉《うれ》しくて笑ってしまったほどだった。
「なに、これ」
冷蔵庫《れいぞうこ》の中ですっかりひからびてしまった猫缶を、母親はそう言って取りだした。
「あら、猫缶じゃないの」
なんでもそれは、お隣《となり》の武者小路《むしゃのこうじ》さんから貰《もら》ったものなのだそうだ。貰ったというか、預《あず》かったというか。武者小路さんが旅行に行ったとき、飼い猫に餌《えさ》をやるよう頼《たの》まれて、多めに渡《わた》されたものの残りだった。
「もしかして、これ、食べたの?」
恐《おそ》ろしい顔で、母親が尋《たず》ねてきた。
戎崎裕一は首を横に振《ふ》った。
「食べてない」
真実だった。
食べたのは父親だけだ。
自分は食べなかった。食べなかったのだ。
5
「ど、どうしたんだよ」
山西保《やまにしたもつ》はびっくりして尋《たず》ねた。戎崎裕一がものすごい勢《いきお》いで猫缶《ねこかん》スパゲティを食べているのだ。さっきまで躊躇《ちゅうちょ》していたのに、いったいどうしたというのだろう。顔を伏せたまま、ひたすらモリモリ食っている。
「お、おい、戎崎」
しかし戎崎裕一は答えない。黙《だま》りこんだままである。ただ猫缶スパゲティを食べている。わけがわからないという顔で、山西保は世古口司《せこぐちつかさ》を見つめた。世古口司もわけがわからないという顔をしていた。
「と、とりあえず、食えるらしいな」
「う、うん」
「オレたちも食べるか」
「そ、そうだね」
ふたりはそれでも恐《おそ》る恐《おそ》るスパゲティに口をつけた。いざ食べてみると、なんてことはない、ツナスパゲティそのものであった。妙な匂《みようにお》いや癖《くせ》はまったくない。むしろさっぱりしすぎているくらいだ。
「うまいじゃん、これ」
拍子抜《ひようしぬ》けして、山西保《やまにしたもつ》は言った。
世古口司《せこぐちつかさ》は肯《うなず》いた。
「ほんとだ、おいしいね」
三人の少年はほとんど無言《むごん》のまま、猫缶《ねこかん》スパゲティを食べつづけた。真っ先に食い終わったのは戎崎《えざき》裕一《ゆういち》だった。空《から》っぽになった皿に、フォークを置く。カラン、と音がした。彼の腹はすっかり膨《ふく》れていた。それなのに、胸《むね》の中は空っぽのようだった。
「あのとき、食べておけばよかったな」
他のふたりには聞こえないように、戎崎裕一は呟《つぶや》いた。
「半分、残してくれてたんだよな」
聞こえないように呟いたので、もちろん誰《だれ》の耳にも届《とど》かなかった。
午前四時半。彼らが食料を探《さが》しはじめてから、すでに二時間以上が過《す》ぎていた。テレビのスピーカーからは、ちゃっちゃらちゃーという変わらぬゲーム音楽が鳴《な》り響《ひび》いている。冬の夜は、まだ明けそうになかった。相変《あいか》わらず外灯《がいとう》は白々《しらじら》と輝《かがや》き、枯れ木が冬の風に揺《ゆ》れ、空には冬のきらびやかな星々が輝いている。そして、家と家の隙間《すきま》から、先ほどの黒猫《くろねこ》が現れた。トットットッと早足で夜道を歩いていった。道路を横切った。よく見れば、それは純粋な黒猫ではなかった。右前足の先が白かった。正真正銘《しょうしんしょうめい》の黒猫ではなかった。
さて──
ここで問おう。
君は猫缶を食えるかい?
作者からの補足《ほそく》。
うちの同居人は、新しい餌《えさ》を猫に食べさせるとき、必ず自分で試食します。なかなかおいしいそうです。
[#改ページ]
1
冬にしては暖かい日だった。病室の窓からは春を思わせる穏《おだ》やかな陽光《ようこう》が差しこんできている。白いベッドが、点滴台《てんてきだい》が、おみやげのコケシが、木彫《きぼ》りの熊《くま》が、あるものがぎっしり詰《つ》まった段《だん》ボール箱《ばこ》が、その光にいささか呑気《のんき》な感じで照《て》らされている。
下らない私物が積みあげられた室内の様子《ようす》は、病室の主が長い長い入院生活を送っていることを物語っていた。
その主こと多田《ただ》吉蔵《よしぞう》は、ベッドの上であぐらをかき、手鏡に映《うつ》る自らの顔をじっと覗《のぞ》きこんでいた。てかてかと輝《かがや》くハゲ頭、山羊《やぎ》のような白い顎髭《あごひげ》……自分も年を取ったものだと思う。老人そのものだ。当たり前の話だが。なにしろ齢《よわい》七十三。生まれたのは大東亜《だいとうあ》戦争が始まる前である。頭に毛髪《もうはつ》は一本もない。歯もほとんどない。他にもいろいろない。十分に長く生きたと思う。それなりのことをしてきた、と。振《ふ》り返《かえ》ってみれば、そこには確《たし》かに七十三年分の歴史が積み重なっている。それでも、ふとそんな自分の年を忘れてしまうことがあるのだった。五十のように感じるときもあれば、三十のように感じるときもあれば、十八のように感じるときもある。しかし鏡に映る自分は老人以外のなにものでもない。
ため息《いき》をついたそのとき、開《あ》けっ放《ぱな》しにしてある病室のドアがノックされた。
「このクソジジ……いや、多田《ただ》さん、検査あるから採血《さいけつ》するよ」
そう言いつつ入ってきたのは、看護婦《かんごふ》の谷崎《たにざき》希子《あきこ》だった。
ふふ、と多田吉蔵《よしぞう》は笑った。先ほどまでの感傷的《かんしょうてき》な気持ちはきれいに消え去り、いささか嗜虐的《しぎゃくてき》な楽しみに心が満《み》たされた。
実にいいタイミングではないか。
「おお、亜希子ちゃんか」
「ええっ!?」
絶句《ぜっく》する谷崎亜希子。
多田吉蔵はあえて呑気《のんき》に笑いつつ、少しばかり勢《いきお》いよく顔を振《ふ》った。顔やら頭やらにくっついているものが、ぶらーんぶらーんと揺《ゆ》れる。
亜希子の顔が引きつった。
その意味を十分に悟《さと》りつつ、しかし多田吉蔵は尋《たず》ねた。
「どうしたんじゃ?」
「な、なにそれ?」
「ああ、これかね。これはな、ヒルじゃよ」
「ヒ、ヒル!?」
この谷崎亜希子、かつては三重県最強と言われたレディースの頭《あたま》を張《は》っていた。伊勢《いせ》の女帝《じょてい》、赤い悪魔《あくま》、旧二十三号の疾風《しっぷう》……畏敬《いけい》と畏怖《いふ》とともに冠《かん》された異名《いみょう》は数知れず。伊勢はおろか、三重県、いや東海三県にもその名を轟《とどろ》かせた存在であった。彼女が駆《か》る赤いCB400を見た瞬間《しゅんかん》、誰《だれ》もが慌《あわ》てて道を譲《ゆず》ったものだ。しかしながら、その谷崎亜希子にしても女であることに変わりはない。カエルは苦手《にがて》だ。蛇《へび》は大嫌《だいきら》いだ。ゴキブリは直視《ちょくし》できない。ましてやニョロニョロニュルニュルとしたヒルなど見るだけで鳥肌《とりはだ》が立つ。
「なんでそんなものが顔中にぶら下がってんのさ!」
泣きそうな声で、彼女は叫《さけ》んだ。
多田吉蔵はほっほっほっと笑った。
「健康雑誌で読んだんじゃま。血がさらさらになるらしくてのう。どうだね、亜希子ちゃんもやらんかね」
ベッドから下り、谷崎亜希子に近寄る。七十三歳とは思えぬ軽《かろ》やかな足取りであった。顔に張りついた多数のヒルがさらに激《はげ》しくぶらーんぶらーんと揺れる。谷崎亜希子は両手を激しく振りつつ、後ずさった。
「ちょ、ちょっと! 近寄らないでよ!」
「は? なんでじゃ?」
「当たり前だろ!」
さらに後ずさりする谷崎亜希子。普段《ふだん》の強気は完全に吹《ふ》っ飛《と》んでしまっている。多田吉蔵はその様子《ようす》にある種の満足感を覚《おば》えながら、さらに足を進めた。
「当たり前? どういうことかのう?」
「だ、だだだだって──」
「身体《からだ》にいいそうじゃよ。血がさらさらになれば、血栓《けっせん》もできにくくなるしのう。長生きの秘訣《ひけつ》じゃ」
「近寄らないでったら!」
「ほれ、亜希子《あきこ》ちゃんにも一匹やろう」
ぶち、とヒルを顔から剥《は》ぎ取《と》ると、多田《ただ》吉蔵《よしぞう》はそれを谷崎《たにざき》亜希子の眼前《がんぜん》に突《つ》きつけた。谷崎亜希子の顔が引きつる。
「や、やめて!」
珍《めずら》しく女性らしい声である。
もちろん多田吉蔵はやめるつもりはなかった。
「どうしてそんなに怖《こわ》がるんかのう」
「近寄らないでって言ってるだろ!」
「わけがわからんのう」
さらに近寄ると、一瞬《いっしゅん》だけ谷崎亜希子の瞳《ひとみ》に強気な輝《かがや》きが宿った。
「あんた、絶対《ぜったい》わざとだろ?」
低い声で言う。
普通《ふつう》の男なら縮《ちぢ》みあがるだけの迫力《はくりょく》がこもっていたが、しかし多田《ただ》吉蔵《よしぞう》とて伊達《だて》に七十三年生きてきたわけではない。
まったく怯《ひる》むことなく、とぼけつづけた。
「わざと? なんのことかわからんのう」
「このクソジジイッ! いい加減《かげん》に──」
「ほれほれ。血がさらさらじゃぞ、亜希子《あきこ》ちゃん」
今度は左手でヒルをぶちと頭から剥《は》ぎ取《と》り、両手に持ったヒルを──もちろんニョロニョロニュルニュルと蠢《うごめ》いている──差しだす。
「ほれ、亜希子ちゃん。試《ため》してみんか」
「ひっ」
「血がさらさらじゃぞ」
何事にも限界《げんかい》はある。どれほど巨大なダムとて無限に水を貯《た》めこめるわけではない。いくら心が広くとも、なにもかも我慢《がまん》できるわけではない。頑丈《がんじょう》に造られた車もいつかは壊《こわ》れる。その瞬間《しゅんかん》、谷崎亜希子の胆力《たんりょく》も尽きた。
「きやああああああ────っ! いやあああああ────っ!」
彼女の悲鳴《ひめい》が病院中に響《ひび》き渡《わた》った。
2
病院ってのはひどく退屈《たいくつ》な場所だ。なにしろ病人である以上、一日の大半《たいはん》をベッドの上で過《す》ごさねばならない。入院当初は、ほんと暇《ひま》で暇でしかたなかった。ところが亜希子さんに里香《りか》のことを頼《たの》まれてからというもの、そんな退屈や暇は吹《ふ》っ飛《と》んでしまった。
とにかく秋庭《あきば》里香ってのはとんでもない女なんだ。
僕だって入院|患者《かんじゃ》なのに、いきなり図書館に行けなんて命じてくる。喉《のど》が渇《かわ》いたからジュースを買ってきてとか。この前なんて、なかなか売ってない本を手に入れてこいと言われ、僕は伊勢《いせ》中の本屋を巡《めぐ》る羽目《はめ》になった。
もちろん、そんな里香のわがままにいちいちつきあうことなどない。嫌《いや》だ、と言えばいいだけだ。しかしこれが不思議《ふしぎ》なことに、僕はどうしてもその一言が言えなかった。里香に命じられると、どれほど理不尽《りふじん》なことであろうと、ほいほい従《したが》ってしまう。どんな無茶《むちゃ》な願いだって叶《かな》えてあげたくなる。そして叶えられないときは、自分の無力さがひどく情《なさ》けなくなったりもする。
と、いうわけで──。
僕は今、脂汗《あぶらあせ》をだらだら垂《た》らしながら立ちつくしていた。目の前には、ベッドに横たわる里香《りか》がいる。彼女の日は吊《つ》りあがり、とんでもなく強い眼光《がんこう》が宿っていた。僕はといえば、その里香の前で直立不動状態《ちょくりつふどうじょうたい》である。ヤバい。どうしていいのかわからないくらいヤバい。有効《ゆうこう》な言《い》い訳《わけ》をどうにか捻《ひね》りだそうとするものの、スカスカの僕の頭からはなにも出てこなかった。ただひたすらヤバい≠ニいう言葉《ことば》が巡《めぐ》るばかり。そのあいだにも、里香の視線《しせん》はどんどんきつくなっていく。
「ん?」
だが、どこかから聞こえてきた響《ひび》きに、僕の緊張《きんちょう》は少し緩《ゆる》んだ。
すぐに里香が尋《たず》ねてくる。
「どうしたのよ?」
「いや、なんか亜希子《あきこ》さんの悲鳴《ひめい》が聞こえたような……」
「はあ?」
里香がその可愛《かわい》らしい顔をしかめる。
「そんなことでごまかす気?」
「ち、違《ちが》うよ! ほんと聞こえたんだってば!」
「谷崎《たにざき》さんが悲鳴なんてあげるわけないじゃない」
「そ、そうだけどさ。でも、この病院には多田《ただ》さんっていうバケモノというか妖怪《ようかい》みたいな人がいて──」
「うるさい!」
「だ、だけど──」
「そんなんでごまかす気なの? 男らしくない!」
吐《は》き捨《す》てるように言って、里香はさらに厳《きび》しい目で僕を見つめてくる。僕は黙《だま》りこむしかなかった。
なんでこんなことになったかというと、実のところ、僕にもさっぱりわからない。
夕方近くに里香の病室に行ったら、
「遅《おそ》い!」
と、いきなり怒鳴《どな》りつけられたのだった。
僕はもちろん尋ねた。
「遅い? なにが?」
「今日は本を読みたかったから、図書館で借りてきてもらおうと思ったのに! こんなに遅いんじゃ、図書館|閉《し》まっちゃうじゃない!」
「え? オレ、頼《たの》まれてたっけ?」
僕は慌《あわ》てた。もしかすると、昨日|辺《あた》りに、そういうことを頼まれたのかもしれない。で、僕はすっかり忘れているのかも。だとしたら、里香が怒《おこ》るのも当然だ。
しかし里香はあっさりと言いきった。
「来たら頼《たの》もうと思ってたの!」
「…………」
「裕一《ゆういち》のバカ!」
これを理不尽《りふじん》と言わずして、なにを理不尽と言うべきだろうか。理不尽その一──なんで僕が図書館に行かなきゃいけないんだ。理不尽その二──まあ、行ってやってもいいけどさ、だったらもっと丁寧《ていねい》に頼むのが普通《ふつう》だろ。なんで命令なんだよ。僕は里香《りか》の下僕《げぼく》じゃないぞ。理不尽その三──だいたい図書館のことなんてまったく聞いてない。頼むにしろ命令するにしろ、聞いてないことで責められるなんておかしな話だ。
僕は心の中でそんなことを思いつつも、しかしとりあえず黙《だま》りこんでいた。とてつもなくひどい扱《あつか》いを受けているとは思うのだが、理不尽だと主張したところで里香の機嫌《きげん》が直るわけがなく……というか、ますます悪くなるのは目に見えているわけで、理不尽だろうがなんだろうが僕は黙るしかないのだった。
「もういい!」
さすがに怒《おこ》るのにも飽《あ》きたのか、里香が言った。
「『高瀬舟《たかせぶね》』を返して! 今日はあれ読むから!」
「え? 『高瀬舟』って?」
「貸《か》してあげたじゃない。忘《わす》れたの」
「そ、そっか。そうだったな。あはは、ちゃんと覚《おぼ》えてるって。当たり前だろ。なんだよ、そんな目で見るなま。マジで覚えてるって」
嘘《うそ》だった。
きっちり忘れてた。
里香が言った『高瀬舟』ってのは、森鴎外《もりおうがい》が書いた本だ。ちょっと前に「これ、読んでいいわよ」と言いつつ里香が渡《わた》してきたのだった。ちなみに、里香の場合、「読んでいいわよ」というのは、「読め」という意味だ。しかしながら、あまり本を読まない僕にとって森鴎外はなかなか難《むずか》しく、最初の三行を読んだだけで放りだしてしまっていたのだった。
里香の視線《しせん》を微妙《びみょう》に避《さ》けつつ、病室のドアに向かった。
「ちょ、ちょっと待ってろよ。取ってくるからさ」
「ない……」
僕は絶望とともに呟《つぶや》いた。
自分の病室に戻《もど》ったあと、ありとあらゆる場所を、それこそベッドの下まで捜《さが》したものの、どこにも本はなかった。あんな本やこんな本はあったが、『高瀬舟』だけはどうしても見つからなかった。
どうしよう?
もしなくしたとしたら、里香《りか》に殺される。これが新刊だったら、買ってきてごまかすという手があるものの、里香が貸《か》してくれた本はなんだかひどく薄汚《うすよご》れていて、紙は黄ばみ、あちこちページが剥《は》がれ、とにかくぼろぼろだった。となると新刊でごまかすわけにはいかない。
僕は頭を抱《かか》え、叫《さけ》んだ。
「うわあああ、里香に殺される! 殴《なぐ》られる! 蹴《け》られる! ミカンぶつけられる!」
確実に奴隷《どれい》決定だ。
いや、今でもそうだけどさ、もっとひどいことになる。
病室の中で、僕はない知恵を必死になって絞《しぼ》りだした。なんでもいい。時間稼《かせ》ぎでかまわない。とにかく、この場を乗りきるんだ。でないと、またひどい目にあう。汗《あせ》がだらだら出てくる。胃《い》がきゅうと縮《ちぢ》みあがる。頭がくらくらする。
なにかいいアイデアはないものか。
「あ、あのさ」
「なによ。遅《おそ》かったじゃない。本はどうしたの」
「そ、それだけどさ。読みはじめたらやけにおもしろくてとまらなくなっちまってさ。あの、悪いんだけど……もう一日か二日、貸しておいてくれないか」
考えに考えた末、ようやく浮《う》かんだのはそれだった。まあ、ひどいもんだ。嫌《いや》よ、あたしが読みたいんだから返して──などと言われたら、途端《とたん》にその言《い》い訳《わけ》は破綻《はたん》してしまう。そしておそらく里香はそう言うだろう。このわがまま女が、僕の都合《つごう》なんて気にしてくれるわけがないんだ。あとに待ちかまえている修羅場《しゅらば》を思うと、僕の胃はひくひくと引きつった。ああ、下《へ》手《た》な嘘《うそ》なんかつくべきではなかったかもしれない。よけい里香を怒《おこ》らせるだけじゃないか。僕はなんてバカなんだろう。
ところが、里香はあっさり言った。
「そうなんだ。じゃあ、そのまま持ってていいよ」
「え?」
あまりにも寛容《かんよう》な言葉《ことば》に、驚《おどろ》いてしまう。
「いいのか?」
「うん。だって、読んでるんでしょ?」
「あ、うん」
「じゃあ、そのまま読んでていいよ。そんなにおもしろい、『高瀬舟《たかせぶね》』?」
「うん。うん。うん」
つい三回も肯《うなず》いてしまう。
里香《りか》も、うんと肯《うなず》いた。
「そっか。おもしろいよね」
妙《みょう》に上機嫌《じょうきげん》でさえある。
なんだ?
とりあえず怒鳴《どな》られなかったことに安堵《あんど》しつつ、僕は心の中で首を傾《かし》げた。どうして里香は上機嫌なんだろう。なぜ嬉《うれ》しそうにニコニコ笑っているんだろう。その顔が優《やさ》しく感じられるのは気のせいだろうか。
まあ、とにかく、窮地《きゅうち》を切《き》り抜《ぬ》けた……らしい。
3
ナースセンターの中、谷崎《たにざき》希子《あきこ》は呆然《ぼうぜん》と立ちつくし、ぽつりと呟《つぶや》いた。
「ない……」
机の上に置きっぱなしにしていた赤福《あかふく》が消えた。田舎《いなか》に帰ったとき、父親に持っていけと押《お》しっけられたものである。楽しみにしていた。休憩《きゅうけい》時間に食べるつもりだった。意外《いがい》だとよく言われるのだが、亜希子は甘いものが好物である。特にアンコには目がない。
赤福はどこに行ったのだろう?
立ったまま、ナースセンターの中をぐるりと見まわす。ナースセンターには患者《かんじゃ》やその家族からの差し入れがよくあるので、そういうのと勘違《かんちが》いして他の看護婦《かんごふ》が持っていってしまったのかもしれなかった
冷蔵庫《れいぞうこ》の中、ない。
あちこちの机の上、ない。
給湯室《きゅうとうしつ》の戸棚《とだな》、ない。
仕事そっちのけでナースセンター内を捜《さが》しまわったけれど、目指《めざ》す赤い包装《ほうそう》はどこにも見つけられなかった。ないとなると、よけいに食べたくなる。たっぷりのアンコ。柔《やわ》らかいお餅《もち》。ああ、愛《いと》しの赤福はいずこへ。
「むむう」
唸《うな》っていたら、婦長《ふちょう》に声をかけられた。
「谷崎、点滴《てんてき》お願い」
「あ、はい」
「多田《ただ》さんところね。もう準備《じゅんび》はしてあるから」
すでに薬剤《やくざい》を溶かしこんだ点滴のパックを持って、多田さんの病室に向かう。午後の病院はいささかのどかな雰囲気《ふんいき》が漂《ただよ》っていた。骨折《こつせつ》で入院した若い男性患者を、これまた若い女性が見舞《みま》っている。彼女だろうか。なかなかいい雰囲気である。その隣《となり》の病室では、お爺《じい》ちゃんとお婆《ばあ》ちゃんがお茶を飲んでいる。こちらもなかなかいい雰囲気《ふんいき》だ。うらやましいねえ、と思いつつ、亜希子《あきこ》はたらたら廊下《ろうか》を歩きつづけた。もうすぐ春だねえ、なんて思いながら。
「多田《ただ》さーん、点滴《てんてき》」
開いていたドアをいちおうノックしてから、亜希子は多田さんに声をかけた。
当のクソジジイ……いや、多田さんはベッドの上に座《すわ》りこみ、なにやら食べている。まったく食《く》い意地《いじ》の張《ま》ったジジイである。
「おう、もうそんな時間かね」
振《ふ》り向《む》いた多田さんの顔に、アンコがついていた。
「ちょっと! 多田さん、あんた血糖値《けっとうち》高いんだから、そんな甘いもの食べちゃダメでしょ!」
「亜希子ちゃん、そう堅《かた》いこと言わんでも」
「ダメって言ったらダメ! 寿命縮《じゅみようちぢ》めるよ!」
まあ少しは縮めてほしいものである──などと思いつつも、そんな本音《ほんね》はもちろん胸《むね》にしまいこんだまま、多田さんの手元を覗《のぞ》きこむ。と、そこにあったのは四角い木箱。中にはアンコと餅《もち》が並《なら》んでいた。そのアンコには、特徴的なラインが三本つけてあった。皇室の祖《そ》たる天照《あまてらす》大神《おおみかみ》をまつる伊勢神宮《いせじんぐう》、そのお膝元《ひざもと》を流れる五十鈴川《いすずがわ》の流れを模《も》したラインなのだそうだ。餅を取り分けるヘラは、味気《あじけ》ないプラスチックではなく、情緒《じょうちょ》たっぷりの竹製である。ここら辺にもこだわりが感じられる。要するにただのあんころ餅なのだが、そういった細かなこだわりのおかげで、わりと風情《ふぜい》のある食べ物に仕上がっている。つまりまあ、多田さんの手元にあるのは伊勢名物|赤福《あかふく》であった。
「赤福?」
ぴくり、と亜希子の頬《ほお》が引きつる。
「これ、どうしたの?」
「さっきなあ、ナースセンターを覗いたら、落ちておったんじゃ」
「落ちてた? どこに?」
「亜希子ちゃんの机の上じゃよ」
「それは落ちてるって言わないだろーが!」
あまりにもベタなボケだったので、同様にベタな突《つ》っこみを入れてしまう。三重は東海か近畿かという議論がしばしば繰《く》り広《ひろ》げられるが、言葉《ことば》などは東海よりも近畿に近い。従《したが》って関西ノリもそれなりにある。土曜の昼には吉本新喜劇《よしもとしんきげき》が放送されていたりもする。ベタの呪縛《じゅばく》はひたすら強い。してやったりという感じで多田さん……いや、クソジジイは笑った。
「そうかのう?」
「返せ! あたしの赤福返せ!」
涙目《なみだめ》で叫《さけ》ぶ亜希子。
「ああっ、もうほとんど食べてるし! あんた、これひとりで食ったの?」
「そうじゃよ」
「死ねっ! つか、マジで死ぬよ、このクソジジイ──っ!」
彼女の怒声《どせい》が病院中に響《ひび》き渡《わた》った。
4
僕はこっそりコートを持って、病院の裏口《うらぐち》に向かっていた。昨日の夜、記憶《きおく》を必死になってほじくり返した末、『高瀬舟《たかせぶね》』を置いてきた場所を思いだしたのだ。たぶん司《つかさ》の家だ。一昨日《おととい》、あいつんちに行ったとき、忘《わす》れてきたに違《ちが》いない。里香《りか》に嘘《うそ》がばれる前に、さっさと取りにいかなければいけない。一刻《いっこく》の猶予《ゆうよ》もなかった。なんといっても、相手は里香である。いつ気が変わるかわからない。返せと言われたら、途端《とたん》に困《こま》ってしまう。早く司の家から取《と》り戻《もど》してこなければ。というわけで、僕は昼間の脱出《だっしゅつ》という危険《きけん》を冒《おか》そうとしているのだった。
周囲の気配《けはい》を探《さぐ》りつつ裏口に向かっていると、なにかすさまじい音が響いてきた。
あ、多田《ただ》さんだ。
とても老人とは思えない軽い足取りで駆《か》けてくる。ひょいひょいと、まるで宙を飛ぶような感じだ。このお爺《じい》ちゃん、ほんとは妖怪《ようかい》なんじゃないだろうか。
すれ違ったとき、多田さんが声をかけてきた。
「おお、坊ちゃん。病院の抜《ぬ》けだしはいかんぞ」
「は、はあ」
多田さんはなぜか手に赤福《あかふく》を持っていた。
赤福?
なぜ?
と、すぐさま亜希子《あきこ》さんが現れた。
「裕一《ゆういち》!」
ものすごい剣幕《けんまく》である。目が吊《つ》りあがっている。眼光《がんこう》がきつい。ぐさりと射貫《いぬ》かれそうだ。ちょっとビビってしまった。
「多田さん、こっち来ただろ?」
「はあ、赤福持ってましたけど」
「くっそおおお、あのアホジジイ!」
アホジジイって。看護婦《かんごふ》がそういう言葉遣《ことばづか》いをしていいんだろうか。そんなことを思う僕の前で、亜希子さんは派手《はで》に頭を抱《かか》えた。まるでこの世の終わりを嘆《なげ》くかのような調子《ちょうし》である。
「あと三個しかないのに、全部食べる気だ! あたしの赤福ううううう──っ!」
ふと多田さんが持っていた木箱風のものを思いだす。
「あの赤福《あかふく》、亜希子《あきこ》さんのなんですか?」
「そう! クソジジイが盗《ぬす》んだ! あっちだね? あっちに行ったんだね?」
「はい」
「どこだあ──っ!? クソジジイ──ッ!」
殺気《さっき》とともに叫《さけ》び、亜希子さんは駆《か》けだした。ものすごい迫力《はくりょく》である。背中《せなか》で炎《ほのお》がめらめらと燃えている。食い物の恨《うら》みは恐《おそ》ろしいというヤツだろうか。亜希子さんの恨みは、さぞかし恐ろしいだろう。しかしそれを受けきるのが多田《ただ》さんである。
まあ、そんなのどうでもいい……。
おかげで抜《ぬ》けだしの現場を見つかったのに、なんにも言われなかった。ふう、よかった。助かった。なんて思っていたら、角のところで亜希子さんが立ち止まり、叫んできた。
「裕一《ゆういち》! 抜けだしたらぶん殴《なぐ》るよ!」
その台詞《せりふ》もまた、とんでもない迫力だった。
八つ当たりって気がしないでもないけど。
むむう。
僕は悩《なや》んだ。里香《りか》にぶん殴られるか、亜希子さんにぶん殴られるか。どちらもかなり嫌《いや》だ。究極《きゅうきょく》の選択《せんたく》だ。どちらにしろぶん殴られるなんて最悪だ。ものすごく理不尽《りふじん》な気がしたが、きっと理不尽なのが人生ってヤツなのだろう。
散々《さんざん》悩んだ末、僕は裏口《うらぐち》を抜けでた。
「なんか里香のほうが怖いや……」
そう呟《つぶや》きながら。
宮後と書いて、みやじり≠ニ読む。歴史が古い町だけあって、伊勢《いせ》には変わった地名が多い。伊勢市駅の北側に広がるいささかゴミゴミした印象のある住宅街が宮後だ。その宮後のど真ん中に世古口司《せこぐちつかさ》の家はある。世古口という名前も、伊勢特有のものだ。世古とは、この辺《あた》りで路地《ろじ》≠意味する言葉《ことば》だった。
宮後の世古口家、その道路に画した部屋《へや》の窓を、僕はいちおう二回ほどノックした。はーい、と言う声が中から聞こえてくる。よかった、今日が休みの日で。どうやら司は部屋にいるらしい。ガラリと窓を開けた途端《とたん》、僕の目にいきなり入ってきたのはテレビ画面で、その四角く切り取られた異空間《いくうかん》にはひろせよしかずのにこやかな顔が大映《おおうつ》しにされていた。
ひろせよしかずが、
「ここがポイントよん!」
とか、なよっぽく、しかし熱《あつ》く叫ぶ。
僕は窓を乗り越えながら、呆《あき》れた口調《くちょう》で言ってみた。
「おまえ、またそれ観《み》てんの?」
司《つかさ》はムキになって反論してきた。
「奥《おく》が深いんだよ、ひろせ先生は。ひろせ先生の手つきを見るだけで学ぶことがたくさんあるんだ。たとえば、ほら、今の──」
「ああ、わかったわかった」
長くなりそうだったので遮《さえぎ》る。司の部屋《へや》は暖房がちゃんと効《き》いていて、寒空《さむぞら》の下を歩いてきた僕の身体《からだ》は一気に溶けてしまいそうになった。古臭《ふるくさ》い昔ながらのストーブが赤く輝《かがや》き、その上に置かれたヤカンからしゆんしゅんと湯気があがっている。僕はストーブの前にしゃがみこむと、かじかんだ両手をあてた。はあ、と自然に息《いき》が漏《も》れる。なんだかオッサンぽいな。
「暖かいな、ここ」
「ああ、うん」
画面を凝視《ぎょうし》する司は上《うわ》の空《そら》という感じだ。でかい身体を丸め、ノートになにやら書きこんでいる。真剣《しんけん》なその背中《せなか》に僕はなぜだかほっとした気持ちになった。こいつの背中はストーブよりも温《あたた》かい感じがする。なぜだろうか。
「コーヒーでもいれようか」
「お、いいな」
ちょっと待ってて、と言って、司は手元のリモコンでビデオをとめた。そしてのっそり立ちあがると部屋を出ていく。画面は真っ黒に染《そ》まり、そこに僕の顔が映《うつ》っていた。ちょっとマヌケな感じの顔。ストーブの火のせいで、赤く染《そ》まっている。にっと笑ってみたら、画面に映るガキもにっと笑った。やがて司が両手にカッブを持って戻《もど》ってきた。
「こっち、裕一《ゆういち》の」
そんな言葉《ことば》といっしょに、大きなマクカップを渡《わた》される。黄色いウサギが描《えが》かれた可愛《かわい》らしいマクカップだ。熱《あつ》いコーヒーがたっぷり入ってることを予想しつつ受け取ったが、しかしカップはやけに軽くて、間合《まあ》いをはずされたような気持ちになった。なんだよ空《から》っぽじゃないかと言いかけたところで気づいた。中に砂糖とインスタントコーヒーの粉が入っていた。
「お湯、入れるよ」
ストーブの上に置かれていたヤカンを司が差しだしてきた。
「なんだ、そういうことか」
「熱いから、気をつけてね」
「おお」
司が手首を軽く捻《ひね》ると、ヤカンからお湯がどぽどぽと出てきた。砂糖とインスタントコーヒーがあっという間《ま》に溶け、コーヒーの匂《にお》いが立ち上る。司が自分のカップにお湯を注《そそ》ぐのを横目で見ながら、僕はコーヒーを口に含《ふく》んだ。ちょっと甘いけど、うまいな。体が温まる。僕たちはしばらくのあいだ、お互《たが》いに黙《だま》ったまま、ただずるずるとコーヒーをすすった。
「うまいな、コーヒー」
「そう? ただのインスタントだよ?」
「いや、うまいよ」
僕が笑うと、司《つかさ》も笑った。
「おまえがいれると、インスタントでもうまく感じるな」
「ほんとに?」
司がマジで嬉《うれ》しそうな顔をしたので、僕は言ってやった。
「嘘《うそ》に決まってんだろ」
「裕一《ゆういち》は意地悪《いじわる》だなあ」
顔をしかめる司。
まったくこいつは小さな子供みたいだ。簡単《かんたん》に喜んだり悲しんだり怒《おこ》ったりする。だからこそ、僕はこいつのことが好きだった。僕や山西《やまにし》じゃ、こんな顔はできないもんな。嬉しいときは仏頂面《ぶっちょうづら》をしてしまうし、悲しいときは無理《むり》して笑うし、むかつくときはもっともっと笑ってしまう。まったく、なんて下らない習性《しゅうせい》なんだろう。
コーヒーを飲み、言う。
「まあ、でも、インスタントにしちゃうまいよ」
「今度、ちゃんと挽《ひ》いたコーヒーをいれてあげるよ。挽き方とかで、けっこう味が変わるんだよ。ちょっと凝《こ》ってるんだよね」
「へえ」
「ところで、今日はどうしたの」
尋《たず》ねられて、ようやく用件を思いだした。
「ああ、そうだ。おまえさ、『高瀬舟《たかせぶね》』がどこにあるか知らないか」
「え? なにそれ?」
「古臭《ふるくさ》い文庫本だよ。この前持ってきたんだけど、ここに置いてっちまったみたいなんだ。どこかに転《ころ》がってると思うんだよな」
あったかなあ、と司は首を傾《かし》げている。僕たちは部屋中《へやじゅう》をぐるぐる見まわした。まあ、見まわすといっても狭《せま》い六畳間《ろくじょうま》なので、たいして捜《さが》す場所があるわけでもない。床《ゆか》の上にも、机の上にも、ベッドの上にも、『高瀬舟』はなかった。
「おっかしいなあ。絶対《ぜったい》、ここだと思うんだけど」
「うーん」
「ほんとに知らないか?」
「覚《おぼ》えはないけど」
ベッドの下を覗《のぞ》きこんでいた司が慌《あわ》てて立ちあがった。
「あ、そういえば」
「どうしたんだよ?」
「今朝《けさ》、雑誌とかをまとめて捨てたんだ。いらないヤツがいっぱい溜《た》まってたから。もしかしたら、それに紛《まぎ》れちゃったのかも」
「ええ、マジかよ!」
頭の中が真っ白になって、それから真っ黒になった。捨てた。『高瀬舟《たかせぶね》』を。里香《りか》の本。なんだかやけに大切にしていた古臭《ふるくさ》い文庫本。
「どこに捨てたんだ?」
「そこのゴミ捨て場」
「うわああああああっ!」
叫《さけ》びながら、僕は慌《あわ》てて窓を開け、部屋《へや》を飛びだした。窓枠《まどわく》を跳《と》び越《こ》えるとき、爪先《つまさき》が引っかかってしまい、顔から道路に突《つ》っこみそうになった。うわ、危《あぶ》ねえ。靴《くつ》を突っかけ、駆《か》けだす。回収されてしまえば、もう取り返すことは不可能だ。里香に殴《なぐ》られる。蹴《け》られる。踏《ふ》みつけられる。ミカンぶつけられる。
「どうしたの、裕一《ゆういち》?」
窓から上半身を出し、司《つかさ》が尋《たず》ねてきた。
立ち止まり、僕は大きく手を振《ふ》った。
「おまえも来い! そのゴミ捨て場に案内しろ!」
5
走った。とにかく走った。全速力だった。ちなみに僕は肝炎《かんえん》である。安静にするようにと医者にきつく言《い》い渡《わた》されている。走るなんてもってのほかだ。しかし僕は走った。司も走った。僕たちの足音が宮後《みやじり》の町に響《ひび》き渡《わた》った。走る僕たちの影《かげ》は足下に縮《ちぢ》こまっている。太陽が真上にいるってことだ。つまり昼だ。もうゴミは回収されてしまっているかもしれない。
「どこだよ、司!」
僕は焦《あせ》って叫んだ。
後《うし》ろを走る司が、先を指差す。
「あそこだよ!」
見れば、数百メートルくらい先にある電柱の根本《ねもと》に、古雑誌やら段《だん》ボール箱《ばこ》やらが積みあげてあった。よかった、間《ま》に合《あ》ったんだ。まだ回収されてない。ほっとして走る速度を緩《ゆる》めたのが間違《まちが》いだった。脇道《わきみち》から突然《とつぜん》白いトラックが現れたかと思うと、その電柱の前にとまったのだ。そして作業服《さぎょうふく》を着たオッサンがふたり、トラックから降《お》りてきて、実に見事《みごと》なコンビネーションで古雑誌やら段ボール箱やらを荷台《にだい》にぽいぽいと投げ入れていく。
「ああっ、ヤバい! 行っちまうぞ!」
さすがはプロである。積みあげであった紙ゴミを、ものの十数秒で片づけると、オッサンたちはさっさとトラックに乗りこんだ。
「待ってください! ちょっと! 待てって言ってるだろうが! おい!」
叫《さけ》んだが、しかしトラックは走りだした。
どうやら僕の声は聞こえてないらしい。
「急げ、司《つかさ》!」
「で、でも、もう間《ま》に合《あ》わないよ!」
「とにかく走れ!」
僕は必死で走った。息《いき》が切れる。喉《のど》の奥《おく》が熱《あつ》くなる。荷台《にだい》が迫《せま》ってくる。僕はふたたび叫ぼうとしたが、肺《はい》の中に空気が残っていなかった。声が出ない。叫べない。叫ぶための息を吸いこむと同時に、トラックはエンジン音を響《ひび》かせながら走りだした。たっぷりの排気《はいき》ガスを僕と司に浴《あ》びせて。
「里香《りか》に殺される……」
僕は呆然《ぼうぜん》と立ちつくすしかなかった。
息を切らした司が、尋《たず》ねてきた。
「そんなに大切な本なの?」
「ああ、すっげえ大切なんだよ。絶対《ぜったい》なくしちゃいけないんだ」
そうさ、なによりも大切なものだ。
「どうしよう。里香の本なのに。オレのせいで」
彼女の顔が浮《う》かんだ。怒《おこ》る顔。そして悲しそうな顔。怒る里香は、なぜかいつも悲しそうでもあった。その瞳《ひとみ》が、声が、頭の中を駆《か》けめぐる。里香に怒鳴《どな》られるのは恐《おそ》ろしかったけれど、それ以上に彼女が大切にしていたものをなくしてしまったことが辛《つら》かった。どうして僕はこんなにバカなんだろう……。
「あのさ、まだ追いつけるかもしれないよ」
「え?」
司がなにを言ったかよくわからぬまま、僕は顔をあげた。
「なんだって?」
「まだ追いつけるかもしれないって言ったんだ。この辺《あた》りのゴミ捨て場をまわって収集してるはずだから、もしかするとどこかで捕《つか》まえられるんじゃないかな」
「そ、そうか!」
φ
谷崎《たにざき》希子《あきこ》は少々呆然《ぼうぜん》としながら病院の廊下《ろうか》を歩いていた。頭に浮かぶのは黒いアンコと自いお餅《もち》。赤福《あかふく》。竹製のヘラ。木版画の栞《しおり》。栞は三百六十五種類あって、つまり毎日違《ちが》う模様《もよう》が入っているのだそうだ。なんとかいう偉《えら》い版画家の作品らしい。そんなどうでもいい豆知識が頭をぐるぐるまわる。逃げる多田《ただ》さんを捕《つか》まえたそのとき、クソジジイは最後のひとつを口に放りこんだ。結局《けっきょく》、ひとつも食べられなかったのだ。
「ああ、赤福……」
なんだかもう仕事をする気分ではない。さっさと帰って不貞寝《ふてね》でもしたい。しかし仕事は次から次へとやってくる。看護婦《かんごふ》というのは、とにかく忙《いそが》しい仕事なのだ。というわけで、悲嘆《ひたん》に暮れつつも、亜希子《あきこ》は点滴《てんてき》のパックを持って病室に向かっていた。
目的の病室に着いた。
二二五号室。
秋庭《あきば》里香《りか》、と書かれたプレートがドアの脇《わき》につけられている。
ノックすると、どうぞという声が聞こえた。ドアを開け、中へ。十七歳の少女はベッドに横たわり、どこかぼんやりとした視線《しせん》を天井《てんじょう》に向けていた。なにを見ているのだろうか。いや、なにも見てないのか。
わざと明るい声で、
「点滴だよ。すっごく痛《いた》いぞ」
と亜希子は言った。
それでようやく、少女は微笑《ほはえ》んだ。
歩み寄り、少女が出してきた腕《うで》を取る。左手の内側には無数の針痕《はりあと》。毎日毎日、何度も何度も、針を刺《さ》されてきたからだ。検査のたびに、点滴のたびに。若い患者《かんじゃ》の血管はたいていはっきりしているのに、彼女の血管はひどく細かった。何度も針を刺されると、血管自体が萎縮《いしゅく》してしまうからだ。二《に》の腕《うで》をゴム紐《ひも》で縛《しば》っても、血管が浮《う》かびあがってこない。軽く叩《たた》く。ダメだ。また何度か叩く。真っ白な肌《はだ》が赤く染《そ》まる。それでようやく少し血管が膨《ふく》らんだ。
「ちょっと痛《いた》いよ」
ついそんなことを口にしていた。針を刺すとき、必ず言うように婦長《ふちょう》から指導《しどう》されているのだ。けれど彼女にそんなことを告げる必要はない。里香は知っている。嫌《いや》というほど。針を刺されない日なんてないのだから。それでも彼女は律儀《りちぎ》に肯《うなず》いてくれた。
「はい」
一発で決めろ、と亜希子は自分に言い聞かせた。自慢《じまん》じゃないが……ほんと自慢じゃないが、谷崎《たにざき》亜希子は点滴が下手《へた》である。とにかくガサツなのだ。危険《きけん》なタイトコーナーに突《つ》っこむ度胸《どきょう》はあっても、細かい仕事をうまくやる繊細《せんさい》さはない。しかし今回は神様が味方してくれたのか、すっと針が血管に入った。
「お、入った」
嬉《うれ》しさについ笑ってしまう。
顔をあげると、少女も笑っていた。
「痛《いた》くなかったですよ」
「ほんと?」
「はい」
「やっぱりあたしには才能があるんだね。もう溢《あふ》れるほどにさ。あんたの血管に一発で決められるのはあたしくらいだね」
少女を笑わせたくて、大げさにそんなことを言いつつ、パックを点滴台《てんてきだい》に引っかけ、それから液《えき》が落ちるスピードを調整する。
「谷崎《たにざき》さん」
「ん、なに」
「『高瀬舟《たかせぶね》』って知ってます?」
「なにそれ」
「小説です。森鴎外《もりおうがい》の」
かろうじて、モリオウガイという響《ひび》きだけは知っていた。
「そういうの全然わかんないんだよね、あたし。国語の授業はたいてい寝《ね》てたしさ。その『高瀬舟』ってどんな話?」
「人殺しの話です」
「人殺し?」
「はい」
物騒《ぶっそう》な言葉《ことば》を口にしながら、しかし少女は静かに肯《うなず》いていた。
φ
走った。もちろん走った。身体《からだ》のことなんて考えちゃいなかった。世古《せこ》に飛びこみ、所狭《ところせま》しと置かれた植木に足を叩《たた》かれながら、走りつづけた。真上に昇《のぼ》った太陽は狭《せま》い世古にまでその光を投げかけていた。僕と司《つかさ》が、その影《かげ》が、冬の寒々しい光の中を駆《か》けていった。真っ黒な猫《ねこ》が道に寝《ね》そべり、ひなたぼっこをしている。駆けてくる僕たちに気づいて身を起《お》こそうとしたが、しかしそのときには僕たちは猫を跳《と》び越《こ》えていた。振《ふ》り向《む》くと、猫はびっくりした様子《ようす》で僕たちを見つめていた。悪いな、猫。驚《おどろ》かせちゃってごめんな。世古を抜《ぬ》けた途端《とたん》、白いトラックの荷台《にだい》が目に入ってきた。
よおおおおお──しっ! 追いついたあああああ──っ!
トラックは十メートルくらい向こうにとまっていた。その荷台には紙ゴミが積みあげられている。ぱたん、という音が聞こえてきた。ドアを閉《し》めた音だった。つまり作業員《さぎょういん》のオッサンたちが車に乗りこんだのだ。
僕は叫《さけ》んだ。
「待ってください! おい! 待ってくれ!」
しかしエンジンが唸《うな》りをあげ、走りだす。伸《の》ばした僕の手は、荷台《にだい》に届かず、むしろ一気に離《はな》された。
ダメだ!
また間《ま》に合《あ》わなかった!
ちくしよう!
「行っちゃった?」
追《お》いついた司《つかさ》が尋《たず》ねてくる。
肯《うなず》くと同時に、僕は走りだした。
「ああ! でも次がある! 次だ、次!」
「うん!」
そして僕たちはふたたび走りだした。
諦《あきら》めるもんか。
φ
少女が語ってくれたあらすじはこんな感じだった。江戸《えど》時代。京都。高瀬川《たかせがわ》を下る船のことを高瀬舟《たかせぶね》と呼《よ》ぶ。高瀬舟に乗せられるのは、島に流される罪人ばかり。あるとき、罪人を見張《みは》るために乗った侍《さむらい》は不思議《ふしぎ》に思う。その夜、船に乗せられた罪人が、妙《みょう》に晴れやかな顔をしていたからだ。月を見る瞳《ひとみ》にはかすかな輝《かがや》きがあり、まるで風情《ふぜい》を楽しむようでさえあった。高瀬舟に乗せられた罪人はたいてい凶悪《きょうあく》な顔をしている。あるいは捕《つか》まった悔《くや》しさに、罪を犯《おか》してしまった息苦《いきぐる》しさに、顔をゆがめている。なのに今日の男はただ晴れやかに笑うばかり。男の罪は弟殺しである。肉親を殺した以上、たとえどんな行きがかりがあるにしても、多少は呵責《かしゃく》の念を持つだろう。その程度の感情さえ持たぬ悪人なのだろうか。いや、そうとも思えない。ふとした気まぐれから、侍は彼に声をかける。どうして笑っているのかと。罪人は言う。今まで自分はひどい暮らしをしてきた。とんでもない貧乏《びんぼう》だった。けれど今は島に流されることになったため、お上《かみ》から少しの金を貰《もら》えた。たいした額ではないが、赤貧《せきひん》にあえいでいた自分にとっては大金だ。こんな金を持ったことなどない。この程度《ていど》の蓄《たくわ》えさえも今まではできなかった。島流しという刑罰《けいばつ》にしても、男にとってはたいしたことではなかった。京都での暮らしだって十分にひどかったのだ。月明かりに照《て》らされる男の顔はどこまでもすっきりしており、その言葉《ことば》に偽《いつわ》りがないことは明らかだった。侍はあまりに無垢《むく》な男の様子《ようす》に驚《おどろ》いた。まるで雑念《ざつねん》がない。この男がいったいなぜ弟を殺したのだろうか。好奇心《こうきしん》に促《うなが》され、侍は尋《たず》ねた。おまえはなぜ弟を殺したのだ、と。
亜希子《あきこ》も尋ねていた。
「そんな男が、どうして弟を殺しちゃったのさ?」
φ
もうとっくの昔に閉店したお好み焼き屋の角を曲がった。隣はやはりとっくの昔に閉店した時計屋だった。昔はけっこう儲《もう》かっていたらしく、その建物《たてもの》は洋風で、なんとなく大正《たいしょう》だの明《めい》治《じ》だのを思わせる。町屋《まちや》だけじゃなくて、伊勢《いせ》にはこういう洋館も多い。近鉄《きんてつ》の宇治山田《うじやまだ》駅なんて実に立派《りっぱ》な洋風建築だ。かつての伊勢はきつとハイカラな文化都市ってヤツだったんだろう。今はもう、その面影《おもかげ》しか残っていないけれど。やがて僕と司《つかさ》は長さ五メートルくらいの短いトンネルに飛《と》びこんだ。近鉄の高架下《こうかした》だ。その短いトンネルの、すっかり薄汚《うすよご》れたコンクリートには、落書きがされまくっていた。『Tクン大好き』『伊勢高校|絶対《ぜったい》合格』『LOVE&PEACE』『ジョンは死んだ』『それがどうした』。下らない言葉の羅列《られつ》。意味なんてない。見る必要なんてない。けれど走る僕の目には、なぜかそれらの文字がやけにくっきり飛びこんでくる。読みたくない文字も読んでしまう。『明日引《ひ》っ越《こ》し伊勢よさらば』『鬼大仏《おにだいぶつ》うぜえ』『学校行きたくない』『失恋した』『次の恋があるさ』『そうかな』『あるともさ』『あるかな』『あるさ。元気出せ』『ありがと』。ちょうど電車が通ったらしく、ガタンガタンというものすごい音が頭上から降ってきた。その音以外、なにも聞こえない。自分の息《いき》の音さえわからない。トンネルを出ると、光の変化に対応しきれなかった目がくらくらした。なにもかもが真っ白に飛《と》ぶ。そのとき、後《うし》ろから声が聞こえた。
「裕一《ゆういち》!」
司《つかさ》だった。
「こっちだよ! こっちに走っていった!」
手を大きく右のほうに振《ふ》っている。
僕は立ち止まった。頭の中で、まだ電車の音がかすかにガタンガタンと響《ひび》いていた。
「え? なんだ?」
「さっきから呼《よ》んでたんだけど! 電車がうるさくて! 回収車、こっちのほうに走っていったから! 早く! 裕一!」
「お、おう!」
くぐり抜《ぬ》けたばかりのトンネルに、ふたたび飛びこむ。絶対《ぜったい》、回収車に追いつくんだ。里香《りか》の本を取り返すんだ。
重い身体《からだ》を引きずるように、僕は走った。
φ
「そんな男が、どうして弟を殺しちゃったのさ?」
亜希子《あきこ》の問いに、少女は言った。
「弟を大切に思ってたからです」
「どういうこと?」
「ひどい暮らしをしてるって言いましたよね、その兄弟」
「ああ」
「だけど、もっとひどいことになっちゃったんです。弟が病気になって寝《ね》こんじゃって。ただでさえ貧乏《びんぼう》なのに、もっと大変になったと思うんですよね。それで、ある日、お兄さんが家に帰ったら、弟が血まみれで倒《たお》れてるんです。喉《のど》に剃刀《かみそり》が刺《さ》さってて──」
「自殺?」
「はい」
本当に信頼しあっていた兄弟だったのだろう。兄に負担《ふたん》をかけることを心苦しく思った弟は、自らの命を絶《た》とうとしたのだ。そうすれば、兄の暮らしが楽になるからと。しかし自らの首に刺した剃刀は急所をはずれ、傷から血と空気が漏《も》れるばかりだった。そこに兄が帰ってきたわけだ。
「抜《ぬ》いてくれって、弟は言ったんです。楽にしてくれって」
「それで?」
「抜きました。そのときにどこかが切れて、弟は……楽になった」
少しためらった末、少女がつけ足した言葉《ことば》は『死んだ』ではなかった。『楽になった』だった。そう、そのとおりなのだろう。弟は死んで楽になった。望んだことだった。そして兄が残された。人殺しとなった兄が。
「谷崎《たにざき》さんはどう思います?」
「どうって?」
「その人は人殺しだと思いますか。どうせ放っておいても弟は死んでたはずですよね。お兄さんは弟を苦しみから助けてあげただけですよね。それでも人殺しだと思いますか」
亜希子《あきこ》は病室の中に突《つ》っ立《た》ったまま、少女の顔を見つめた。彼女はいったいなにを尋《たず》ねたいのだろうか。
「まあ、法律では……江戸《えど》時代はどうか知らないけど、今の法律じゃ人殺しだろうね」
「はい」
「なんか変だとは思うけどね」
「はい」
「弟の最後の望みを、兄貴《あにき》は叶《かな》えてあげたわけだしね」
「はい」
話《はな》し疲《つか》れたのか、少女は大きく息《いき》を吐《は》いた。小鳥のような胸《むね》が、上下する。そうしてふたりとも黙《だま》りこむと、病院内の喧暁《けんそう》がかすかに聞こえてきた。誰《だれ》かが怒鳴《どな》り、誰かが怒鳴られている。笑い声。看護婦《かんごふ》の走る音。もう戻《もど》らなければならない。
「点滴《てんてき》、終わったらナースコールね」
そう言って病室を出ていこうとしたら、背中《せなか》に声をかけられた。
「谷崎さん」
「ん?」
「お兄さんも、弟も、幸せだったと思いませんか。確《たし》かに殺したかもしれないし、殺されたかもしれないけど、でもふたりはちゃんと信じあってたんですよね。ふたりは間違《まちが》ったかもしれないけど、信じてたからこそ間違ったんですよね。だったら、幸せだと思いませんか。誰も信じられず、誰にも信じてもらえないまま死んでいくよりも、ずっとずっと幸せですよね」
「あのさ」
言いかけて、亜希子はあとの言葉を呑《の》みこんだ。呑みこんだ途端《とたん》、自分がなにを言おうとしていたのかわからなくなってしまった。去ることも、言葉をかけることもできぬまま、亜希子は少女を見つめた。少女の病は重い。本人もそのことをよく知っている。気休めでごまかすには、少女の瞳《ひとみ》は真剣《しんけん》すぎた。たった十七歳で、自らの残り時間を数えるのはどんな気持ちなんだろうか。健康な自分にはどうしたってわからないことだ。看護婦《かんごふ》なんかしていても、どれほどの患者《かんじゃ》を受け持とうと、わからないものはわからない。
「里香《りか》」
「はい」
「意外《いがい》とさ、すぐ近くに幸せは転《ころ》がってるかもしれないよ。つまらない石ころに見えるかもしれないけど、持ってみたらきらきら光ってるかもよ」
「どういう意味ですか?」
あはは、と亜希子《あきこ》は笑った。
「ごめん。よくわかんない。なんとなく言ってみただけ」
「はあ」
そこでふと、里香が眉間《みけん》に級《しわ》を寄せた。
「もしかして裕一《ゆういち》のことですか」
最初はなにを言われたのかよくわからなかったが、何度か自分の台詞《せりふ》を反芻《はんすう》するうちに、ようやく気づいた。里香はさっきの自分の言葉《ことば》を比喩《ひゆ》だと思ったらしい。近くに転がっているつまらない石ころ=裕一というわけか。そんなことを意識《いしき》して口にしたわけではないのだけれど、言われてみればなるほどという気がする。
「確《たし》かにあれはつまらない石ころだけどね」
「はい」
やけにしっかり肯《うなず》く。
だから尋《たず》ねてみたくなった。
「あれはダメ?」
「ダメです」
即答《そくとう》。
「どこが?」
「へタレすぎます」
やはり即答だった。
完全に問題外って感じだ。そりゃそうか。これだけの美少女が、あんなバカでヘタレで根性《こんじょう》なしでそのくせ人目ばっかり気にしてるヤツになびくわけがない。もしそんなことが起《お》きるとしたら、なにか奇跡が必要だ。とびっきりの奇跡か、あるいは勇気が。
亜希子は苦笑《にがわら》いしながら言った。
「確かにあのへタレ野郎《やろう》はダメだね」
φ
トンネルを逆《ぎゃく》に抜《ぬ》けるとき、さっき見逃《みのが》していた落書きが目にとまった。赤いハート。その真ん中にKというアルファベット。どこかの誰《だれ》かがKってヤツを好きなんだろう。しかしそのハートは割れていた。他の誰かがハートに亀裂《きれつ》をあとから書き入れたのだ。ちくしよう。焦《あせ》りとともに、僕は心の中で毒《どく》づいていた。簡単《かんたん》に人の心をぶち割りやがって! そんな権利がおまえにあるのかよ! おまえだって誰かを好きになったりするだろ! ほとんど八つ当たりのような怒《いか》りをぶちまけながら、僕はトンネルを抜けた。
「あそこ!」
司《つかさ》が指差す先に、トラックの荷台《にだい》が見えた。もう動きだそうとしている。走りだした僕たちを嘲笑《あざわら》うように、トラックの荷台が遠ざかっていく。僕はさっき見たハートを思いだした。亀裂の入ったハート。あとであの亀裂を消してこようと思った。そんなことをしたって、もちろんなんの意味もない。誰も気づかない。それでもかまわない。消してこよう。角を曲がったけれど、トラックは見えなかった。右か、左か。横を見ると、司も迷《まよ》っていた。ぐずぐずしてる暇《ひま》はない。こうなったら、賭《か》けだ。
「行くぞ!」
叫《さけ》んで、僕は右の世古《せこ》へと飛《と》びこんだ。司があとをついてくる。もしこの賭けに失敗したら、もう回収車は見つけられないかもしれない。里香《りか》の本が行ってしまう。取《と》り戻《もど》せない。里香に怒鳴《どな》られる。怒《おこ》られる。三日は口をきいてもらえない。いや一週間かも。けれど、そんなことよりも、里香を傷つけてしまうことが怖《こわ》い。はあはあと饐《す》えた息《いき》を吐《は》きながら世古を抜けると、そこにはがらんとした道路があるだけだった。回収車はどこにも見えない。追いついてきた司も辺《あた》りを見まわし、がっくり肩《かた》を落とした。ため息をついた。とんでもなく大きいため息だった。その響《ひび》きが僕をいっそう落ちこませる。
「あのさ……裕一《ゆういち》……」
慰《なぐさ》めるなよ、司。心の中で僕は言った。棘《とげ》だらけの調子《ちょうし》で言った。ほとんど八つ当たりだった。司が悪いわけじゃない。部屋《へや》に置きっぱなしにした僕のせいなんだ。わかってる。そんなこと。でも慰められるのは嫌《いや》なんだ。よけいに情《なさ》けなくなるだろ。なあ、司。悲しそうな目で僕を見てくるなよ。
ぶうおん──
そんな音がしたのは直後だった。目の前を白いものが駆《か》けていった。しかし僕はぐちゃぐちゃになった自分の心をどうにかするのに精一杯《せいいっぱい》で、その意味を理解《りかい》できていなかった。バカみ
たいに突《つ》っ立《た》っていた。呆《ほう》けていた。
理解したのは、司《つかさ》のほうだった。
「裕一《ゆういち》!」
叫《さけ》んだ。
「回収車だ!」
顔を右に向ける。司の言うとおり、回収車がそこにとまっていた。作業員《さぎょういん》のオッサンたちが、やはり見事《みごと》なコンビネーションで、ひょいひょいと雑誌やら新聞紙やらの束《たば》を荷台《にだい》に投げていく。どうやら大まわりして、僕たちのところにやってきたらしい。
「あ! あ! あ! いる!」
僕はマヌケに指差した。
「うん!」
司のほうがよっぽど冷静《れいせい》だった。
「行こう! 早く!」
「お、おう!」
走りだした司の背中《せなか》を、僕は追《お》った。あと十メートル、五メートル、三メートル。オッサンたちは僕たちに気づくことなく、運転席に乗りこんだ。僕たちはもちろん大声で待ってくれと叫んだけど、その声はまったく聞こえてないみたいだった。エンジンがぶるんと唸《うな》りをあげる。
テールランプが赤く輝《かがや》く。排気管《はいきかん》が震《ふる》える。今にも走りだしそうなトラックに、僕たちはどうにかたどり着くことができた。荷台に手をかけ、叫んだ。
「オッサン! とめろ! とめろって! 本があるんだよ! 里香《りか》の本なんだよ!」
しかしトラックは動きだした。僕の声は届《とど》いていない。いつもこうなんだ。今に限《かぎ》ったことじゃない。走っても、叫んでも、僕の声は決して現実に届かない。今回もやっぱり同じなんだ。現実と同じように、このトラックも走り去ってしまう。ああ、なんでだよ。どうしていつもいつもこんなふうになっちまうんだよ。
ところが、だ。
トラックはまったく動かなかった。エンジンはぶんぶん唸りをあげているし、タイヤもまわっている。そりゃもう、盛大《せいだい》にまわっている。しかしトラックは僕の眼前《がんぜん》にとまったまま。どういうことだ。なんだよ、これ。奇跡か。奇跡が起《お》きたのか。
「裕一! 早く!」
奇跡ではなかった。司だった。この天文《てんもん》オタクが、料理バカが、プロレスマニアが、荷台の下に手を入れ、トラックの後部を持ちあげているのだった。
なんて力だ!
パケモノか、こいつは!
「早く……裕一……もう、もたないから……」
苦しそうな司《つかさ》の声で、ようやく我に返った。
おう、と叫《さけ》んで、僕は運転席へと走った。
「すみません! 車、とめてください! お願いします! 本が……大切な本があるんです! 車をとめてください!」
運転席の窓を叩《たた》きながら、僕は叫んだ。
6
まったく看護婦《かんごふ》の忙《いそが》しさときたらなんだろうか。あっちへ走り、こっちへ走り。泣かれ、喚《わめ》かれ、たまには感謝され。検査の手伝いを終えてナースセンターに戻《もど》った途端《とたん》、婦長《ふちょう》に多田《ただ》さんの点滴《てんてき》してきてと言われた。休む間《ま》もない。
「はあ、疲《つか》れた」
呟《つぶや》きつつ、谷崎《たにざき》希子《あきこ》は病院の廊下《ろうか》を歩いていた。こういうときは甘いものが食べたくなる。栄養|補給《ほきゅう》。そして心の慰《なぐさ》め。ああ、甘い甘いアンコ。多田さんに食べられた赤福《あかふく》のことを思いだした。最後の一個まで、箱の隅《すみ》についたアンコまで、すっかり食べられてしまった。その悔《くや》しさを思いだしつつ、谷崎亜希子はふふと笑った。点滴のパックを見つつ、笑った。この谷崎亜希子、決して点滴が得意《とくい》なほうでない。しばしば針を刺《き》し損《そこ》なう。二連続失敗など余裕《よゆう》だ。
もちろんわざと失敗しょうと思っているわけではない。ただまあ、失敗してしまうときだってあるのだ。三回は刺すかもしれない。
ふふ、あのクソジジイ──。
食い物の恨《うら》みは怖《こわ》い。すれ違《ちが》った患者《かんじゃ》が、彼女の形相《ぎょうそう》にぎょっとして後ずさりしたことにも気づかぬまま、谷崎亜希子は多田|吉蔵《よしぞう》の病室にたどり着いていた。申《もう》し訳程度《わけていど》にノックをし、ドアを開くと、あのクソエロジジイ……いや多田さんはベッドの上に座《すわ》り、なにやら読みふけっていた。どうせまたエロ本でも見ているに違いない。ったく、いい加減《かげん》に悟《さと》れってんだ。
「多田さん、点滴」
悪意たっぷりに笑いながら言ったところ、多田さんがこちらを向いた。
我が目を疑《うたが》った。
「え?」
「おう、亜希子ちゃん」
「あ、ああああの、な、ななななに、そ、そそそそれ」
「これはな、きな粉《こ》キノコじゃ」
多田吉蔵の顔にはびっしりと小さなキノコが生《は》えていた。いや、生えているように見えた。そのキノコがまた、気持ち悪いのだ。小さくて、ぬるぬるしてて、まるでなにかの卵のようだ。それが顔を埋《う》めつくしている。谷崎亜希子とて看護婦である。ベテランというほどではないが、それなりに修羅場《しゅらば》をくぐってきた。臓腑《はらわた》を晒《さら》けだした交通事故者の手当てをしたこともあるし、あんなところやこんなところがとんでもないことになった患者《かんじゃ》を担当したこともある。そりやもう、たいていのことでは驚《おどろ》かない。しかし目の前の光景はあまりにも異様だった。根源的な恐怖を感じる。自然と息《いき》を呑《の》む。怖気《おぞけ》と吐《は》き気《け》に堪《た》えながら、亜希子《あきこ》は尋《たず》ねた。
「きな粉《こ》キノコって?」
「これにな、載《の》っておったんじゃ」
多田《ただ》吉蔵《よしぞう》が得意気《とくいげ》な顔で突《つ》きだしてきたのは、『ザ・健康一番』であった。ありもしない奇跡やら体験談やらを載せまくっているインチキ健康雑誌である。全国の医療《いりょう》関係者が苦々《にがにが》しく感じている悪《あ》しき存在であった。
「そんなもの読むな!」
吐《は》き捨《す》てる谷崎《たにざき》亜希子。
しかし多田吉蔵はやはり得意気に語った。
「いや、亜希子ちゃん、すごいそうじゃよ。きな粉キノコにはな、なんと一グラムに七種類の乳酸菌《にゅうさんきん》が八千四百万個も入っておるそうじゃ。殺菌力《さっきんりょく》は緑茶の百三十倍、ヨーグルトの二百倍。これを食べれば血はさらさら、髪《かみ》はふさふさ。癌《がん》にも肝臓病《かんぞうびょう》にも糖尿病《とうにょうびょう》にも心筋梗塞《しんきんこうそく》にも効果があって、なんと水虫とおねしょにまで効《き》くらしいぞ」
「そんなもん信じるなっ! アホかっ!」
「『ザ・健康一番』の投稿欄《とうこうらん》によると、群馬県|高崎《たかさき》市のAさんはきな粉キノコで息子の登校|拒否《きょひ》が治ったそうじゃ」
「ありえないし! 関係ないし!」
「それからな、キノコパックでシミも消えるんじゃと」
「ん? シミ?」
それまで罵倒《ばとう》しつづけていた亜希子の頬《ほお》がぴくりと動く。谷崎亜希子、二十五歳。お肌《はだ》の曲がり角をちょうど曲がったところである。見事《みごと》なドリフトで、後輪《こうりん》をずるずると滑《すべ》らせながら、しかしクリッピングポイントをきゅっと捉《とら》え、曲がったところである。最近、肌の衰《おとろ》えを感じるようになった。徹夜《てつや》などしようものなら、次の日の肌はかさかさである。いろいろな化粧品を試《ため》した。金もかけてみた。しかし衰えには対抗できない。時はあまりにも非情《ひじょう》であった。しかも、しかもだ。今朝《けさ》鏡を見たら、なんと右頬に新しいシミを見つけてしまった。直径三ミリほどもある大きなシミだ。不思議《ふしぎ》なことに、シミはある日いきなりできる。昨日までなにもなかったところに、ふと現れる。おそらくは突然《とつぜん》気づくだけのことなのだろうが、とにかくショックは大きい。三分ほど凍りついてしまったほどである。
「多田さん」
きな粉キノコの恐怖《きょうふ》に怯《おび》えつつも、谷崎亜希子は一歩前に足を進めた。
「あのさ」
「なんじゃ、亜希子《あきこ》ちゃん」
「シミ、消えるの?」
「おお、消えるとも消えるとも。この『ザ・健康一番』でも特集が組まれておる」
慌《あわ》てて多田《ただ》吉蔵《よしぞう》は雑誌をめくり、あるページを眼前《がんぜん》に広げてきた。きな粉《こ》キノコの特集ページで、二枚の写真が並《なら》べて掲載《けいさい》してあった。右側の一枚にはばっちりシミのある顔。左側の一枚はきれいにシミが消えた顔。ものすごい効果だった。その写真は輝《かがや》いて見えた。こんなに大きなシミが消えるのなら、あたしの三ミリのシミなんて──。
7
病室に戻《もど》ってきたのは、午後遅《おそ》くだった。町中を走りまわったせいで、すっかり身体《からだ》はくたびれてしまっていた。足が重い。身体がだるい。参《まい》ったな。安静第一の病気なのにな。と、そんなことを思いつつも、僕は笑っていた。
「へへ」
手の中には、一冊の文庫本。『高瀬舟《たかせぶね》』だ。トラックの荷台《にだい》を捜《さが》しに捜して、ようやく見つけだしたのだった。作業員《さぎょういん》のオッサンたちはいい人で、しょうがねえなあと言いつつ、捜すのを手伝ってくれた。
病室に戻り、コートを脱《ぬ》ぐと、僕はベッドに転《ころ》がった。さっさと読んで、里香《りか》に返さなきゃ。ありがたいことに『高瀬舟』は短編だった。二百五ページから始まって、二百十八ページに終わっている。つまりたった十四ページだ。これなら僕でもすぐに読める。そこに書かれているのは、バカな男の、バカな話だった。まったく救いがない。さらりさらりとページが進む。二十分ほどで読み終わった。楽しい話ではなかった。爽快《そうかい》な話ではなかった。感動はしなかった。主人公の侍《さむらい》と同じように腑《ふ》に落ちないものが残った。その腑に落ちないものを胸《むね》の下のほうに抱《かか》えたまま──まさしく腑に落ちないってヤツだ──思った。里香はどうしてこの本を読みたがったんだろうか。
やっぱり腑に落ちない……。
とにかく。里香に本を返そうと、片手に『高瀬舟』を持って病室を出た。里香になんて言おうか。おもしろかったと言おうか。おもしろくなかったと言おうか。そんなことを考えつつ横を見ると、隣《となり》の病室、すなわちエロジジイ多田さんの部屋《へや》のドアが開いており、ふたつの背中《せなか》が見えた。ひとつのしょぼくれた小さな背中は多田さん。その横の白い背中は……たぶん亜希子さんだ。なにしてるんだろ。
深く考えることもなく、僕は尋《たず》ねた。
「なにしてんすか?」
ふたりが顔をあげる。
こちらを向く。
僕は息《いき》を呑《の》んでいた。
「ひっ──」
泣くかと思った。
いや。
ちょっと泣いた。
「どうしたのよ、そのおでこ」
不思議《ふしぎ》そうに里香《りか》が尋《たず》ねてくる。僕はひりひりするおでこを、そっと撫《な》でた。亜希子《あきこ》さんもひどいよな。丸めた雑誌でいきなりぶっ叩《たた》くんだもんな。
「亜希子さんにやられた」
「谷崎《たにざき》さんに? どうして?」
「怖《こわ》かったから」
「はあ?」
里香がわけのわからないって顔をした。そりゃまあ、そうか。僕だってよくわかんないもんな。それにしても、あれは怖かった。顔中にぬるぬるのキノコだもんな。しかも多田《ただ》さんとふたりそろって迫《せま》ってくるものだから、僕は思わず「近寄るなあ──っ! パケモノ──っ!」と叫《さけ》んでしまったのだった。そのバケモノって響《ひび》きに怒《おこ》った亜希子さんが、持っていた雑誌でスパコ──ンと僕のおでこを叩いたというわけだった。でもさ、あれは叫ぶよ。うん。思いだしても怖いもんな。それで怒るんだから、ほんと亜希子さんは短気な人だ。しかもあんな怪《あや》しい健康雑誌を、看護婦《かんごふ》のくせに信じるなんて、どうかしてるよな。まったく。
僕のそんな愚痴《ぐち》に、里香は眉《まゆ》をひそめた。
「わけわかんない」
「とにかく怖かったんだよ」
「それより本は?」
「あ、うん」
僕は持ってきた『高瀬舟《たかせぶね》』を里香に渡《わた》した。里香は受け取ると、ぱらぱらと本をめくった。とても大切なものを扱《あつか》うような手つきだった。どうしたんだろう。ただの古臭《ふるくさ》い本なのに。
「おもしろかった?」
大切そうに持ったまま、尋ねてくる。
僕は首を傾《かし》げた。
「なんかよくわかんなかった」
「わからないって?」
「腑《ふ》に落ちないっていうか。ちょっと考えさせられるよな。あの兄弟、幸せだったのかな」
「幸せだったと思うよ」
里香《りか》は肯《うなず》いた。
「あたしはそう思うよ」
僕は彼女の顔をじっと見つめた。里香は僕を見つめていない。たぶん病室のどこも見つめてはいない。他のところだ。ここではない場所にいる誰《だれ》かだ。僕は少し寂《さび》しくなりながら、うつむいていた。
「まあ、うん、そうかもな」
僕はむしろ、いろんなことを曖昧《あいまい》にしておきたかった。お互《たが》いを信じあい、その結果間違《けっかまちが》ってしまった兄弟のことや、その他のいろんなことを、今はまだはっきりさせたくなかった。なんの覚悟《かくご》もなかったからこそ、そうするしかなかった。
それからしばらく、僕たちは黙《だま》ったままでいた。だんだんと窓の向こうが暗くなってゆく。廊下《ろうか》を歩く人の足音がはっきり聞こえるようになる。誰かが笑う。ひそひそ声が近づき、遠ざかってゆく。僕はいつも、こんな沈黙《ちんもく》が怖《こわ》かった。里香といるときだけじゃなくて、友達と遊んでるときも、沈黙が怖くてしかたなかった。そんなとき、僕はわざとふざけた声をあげた。つまらない冗談《じょうだん》で場をごまかした。けれど今は、不思議《ふしぎ》と沈黙を心地《ここち》よく感じていた。さっき感じた寂しさも今はすっかり消えている。そばにいる美しい少女と、彼女の遠い瞳《ひとみ》を、このままずっと大事に見ていたかった。それだけでなぜか幸せだった。
その幸せをたっぷり味わってから、僕は尋《たず》ねた。
「なあ、里香。どうしてそんな古い本持ってんだよ」
里香はゆっくりと顔をあげ、僕を見つめてきた。
ひどく透明《とうめい》な瞳だった。
ん、と言って、里香は本に視線《しせん》を落とした。
「これ、パパのなの」
「お父さんの?」
「パパが昔読んだ本ね、段《だん》ボール箱《ばこ》に詰《つ》めておいてあるの。そこから一冊《さつ》ずつ抜《ぬ》きだして、あたしも読んでるから」
里香はやっぱり大切そうに、『高瀬舟《たかせぶね》』を持っている。両手で包むようにして。その小さな手を見ながら、僕は「へえ」なんて呟《つぶや》いていた。なるほど、そういうことだったのか。お父さんに譲《ゆず》ってもらった本だから、大切にしてたってわけだ。
あ、そうか──。
僕はふいに気づいた。『高瀬舟』をおもしろいと言ったら、里香はなんだか嬉《うれ》しそうだった。あれって、お父さんの本だったからなんだ。お父さんの趣味《しゅみ》が褒《ほ》められたような気がしたからなんだ。
「あのね、おもしろいんだよ。パパの本を読んでるとね、その本を買った店のレシートとか出てくるの。もう二十年前の日付がついたレシートがね。あと、メモみたいな紙切れとかもたまに出てきたりして」
里香《りか》はなんだか幸せそうに微笑《ほほえ》んだ。お父さんのことがよほど好きなんだろう。
「前にね、『藤原《ふじわら》に千円返す』って書いてある紙が出てきたの。藤原って人にお金借りたのかな。若いころのパパを覗《のぞ》き見《み》してるような気分になるよ」
ああ、ほんと嬉《うれ》しそうな顔だな。僕は里香のことが少しだけうらやましくなった。僕自身は父親のことがちっとも好きじやないからだ。
「裕一《ゆういち》、もう少しだったなあ。おしかったなあ」
里香の病室の中に立ちながら、僕はそんな声を聞いていた。その瞬間《しゅんかん》、僕は十七歳じゃなくて、七歳とか八歳のガキに戻《もど》っていた。腕《うで》は今よりもずっと細くて、声はもちろん高くて、背は百三十センチくらいしかなかった。
「最終レース、四番のヤツがビビらなきゃ、絶対《ぜったい》勝てたんだけどなあ」
金色に輝《かがや》く夕日に向かって僕と父親は歩いていた。
あのころ、父親はむちゃくちゃ大きく思えた。その表情を見ようと思ったら、思いっきり顔を上に向けなきゃいけなかった。だけど、写真を見たら、そんなに大きいわけじゃないんだよな。母親より、頭ひとつ高いくらい。たぶん今の僕とそう変わらないはずだ。
七歳とか八歳のころ。父親に遊びにつれていってくれとせがんだら、父親が向かった先は競艇場《きょうていじょう》だった。
「ほら、船だぞ」
父親は紙切れを──船券だろう──握《にぎ》りしめながら、言った。
「楽しいだろ、裕一」
楽しいわけがない。
ああ、まったく楽しくない。
なにしろうるさい音を撒《ま》き散《ち》らしながら船が走っているだけなのだ。周《まわ》りの大人たちはみんな殺気立《さっきだ》っているし、座席は汚いし、タバコと酒の匂《にお》いが充満《じゅうまん》してるし、トイレに行ったら酔《よ》っぱらいが床《ゆか》に倒《たお》れこんで「ちくしょう金返せちくしょう金返せ」と呻《うめ》いているし、イッた目のオッサンから「坊主、金|貸《か》してくれ。十倍にして返すぞ」と話しかけられるし。ほぼ最悪の休日だった。
しかし父親は実に楽しそうで、
「おら、差せ差せ差せええええ──っ!」
とか、
「寺尾《てらお》、モーターまわってんだろうが! ビビんなあああ──っ!」
とか、
「死ぬ気で突《つ》っこめええええ──っ! 弾《はじ》けええええ──っ!」
などと叫《さけ》んでいた。
しかし父親が楽しそうだったのは最初のうちだけで、五レース六レースと進むうちにその声は殺気立《さっきだ》っていき、最終レースを終えたころにはすっかり背中《せなか》を丸めてしょぼくれていた。
「裕一《ゆういち》」
しょぼくれた声で、父親は言った。
「バス代なくなっちまったから歩くぞ」
それでとぼとぼ、ふたりで歩いて帰ったのだった。周《まわ》りには同じようにとぼとぼ歩いているオッサンが何人かいた。どいつもこいつもろくでなしに見えた。その惨《みじ》めさに殺意さえ覚《おぼ》えつつ横を見ると、まったく同じように見える父親がいた。ろくでなしそのものだった。なんでこんなヤツが父親なんだろうか。僕は、もっとかっこいい別の人間を、自分の父親だと思いこもうとした。
自分はなにかのアクシデントに巻《ま》きこまれて、たまたまこのろくでなしに育てられているだけなのだ……実はどこかにちゃんとした本当の父親がいるのだ……。
その妄想《もうそう》はなかなか魅力的《みりょくてき》で、およそ十分くらい楽しい気持ちに浸《ひた》れたが、ふと我に返ってみると、隣《となり》にいるのはやはりろくでなしの父親だった。間違《まちが》いなく血の繋《つな》がった実の親だった。なにしろ耳の形がそっくりなのだ。その耳を見れば見るほど泣きたくなった。
喉《のど》が渇《かわ》いたので、
「なんか飲みたい」
と言うと、父親は顔をしかめた。
それでも父親はポケットを探《さぐ》った。まず右のポケット。それから左のポケット。ちゃりん、と音がした。お金が残っていたのだ。少し期待《きたい》したが、間違いだった。出てきたのは、たった三十円だった。
ジュースどころか、ヤクルトも買えない。
「我慢《がまん》しろ、男だろうが」
それで我慢しつつ歩いていたのだが、古びた家の軒先《のきさき》に差しかかったところで、急に父親が弾《はず》んだ声を出した。
「おい、裕一! 水をわけてもらおうぜ!」
「え?」
「ほら! ここだよ、ここ!」
軒先《のきさき》に手洗い用の水道栓《すいどうせん》が来ていたのだった。その蛇口《じゃぐち》を父親が捻《ひね》ると、透明《とうめい》な水が流れだした。
「ほら、飲め!」
勝手に人の家の水道を使うのは、子供心にもまずいと思ったけれど、得意気《とくいげ》に笑っている父親の顔を見たら、飲めないとは言えなかった。
じかに唇《くちびる》をつけ、水を飲んだ。
渇《かわ》ききった喉《のど》に、澄《す》んだ水はひどくうまく感じられた。それで、お腹《なか》がごぼごぼいうまで飲んだ。
やがて同じように水を飲んだ父親も、
「うまいなあ、裕一《ゆういち》」
そう言って笑った。
「うん、うまいね」
なぜか笑っていた。
水ごときで。
きっと水がうまかったからだろう。
目の前には、金色に輝《かがや》く夕日があった。やけに眩《まぷ》しくて、僕は目をすがめた。水道栓《すいどうせん》も、ぽたぽた溢《あふ》れてくる水も、そこらの石っころも、僕も、父親も、その金色に染《そ》まっていた。振《ふ》り返《かえ》ると、やはり金色に染まった道路に、僕と父親の影《かげ》が長く伸《の》びていた。父親の影は、僕の影よりも、ずっとずっと長かった。
あのときの水のうまさは、今もはっきりと覚《おぼ》えている。
里香《りか》にもいろんな思い出があるんだろう。
そしてそれは、僕のように情《なさ》けない思い出なんかじゃなくて、きつと金色の輝きに満《み》ちているんだろう。
水のうまさを思いだしつつ、僕は言った。
「お父さんも喜んでるだろ」
「え? なにが?」
「おまえが本を読んでくれてさ。親にしてみりや、そういうのってすっげえ嬉《うれ》しいんじゃないか」
「どうかな」
里香は変な感じで笑うと、首を傾《かし》げた。
「だったらいいけど」
「絶対《ぜったい》そうだって。もし嬉しそうにしてなかったら、そりゃきっと照《て》れ臭《くさ》いから隠《かく》してるだけだって」
僕の声は自然と弾《はず》んだ感じになっていた。
そのとき、里香《りか》が迷《まよ》うような表情を見せた。なんだか少し悲しそうにも見えた。泣くんじゃないかと思ったくらいだ。僕はそんな里香の表情に戸惑《とまど》った。いったい、どうしたんだろう。なんで泣きそうな顔するんだ。親父《おやじ》さんに聞いてみればいいだけじゃないか。
やがて里香の顔に笑《え》みが戻《もど》った。
「裕一《ゆういち》の言うとおりだったらいいな」
珍《めずら》しく素直《すなお》な声だった。
「ほんとそうだったらいいな」
「絶対《ぜったい》そうだって」
「そうかな」
「そうだよ」
そうかな。そうだよ。そうかな。そうだよ。僕たちのあいだを何度も何度も同じ言葉《ことば》が行《ゆ》き交《か》った。里香の素直な声、笑顔《えがお》……僕はそんなありきたりな、けれどとても大切なものをやけに眩《まぶ》しく感じながら、同じ言葉を繰《く》り返《かえ》しつづけたのだった。
まだなにも始まってなかったころの話──。
[#地付き]おわり
[#改ページ]
[#改ページ]
猫がうるさいです。とてもうるさいです。にゃおーんと叫び声を上げながら階段を駆け上って来て、仕事場に勢いよく突入し、僕の膝を蹴《け》り、モニターを蹴り、棚《たな》を蹴り、そのまま家の梁《はり》まで一気に駆け上ります。そして梁の上で、さらに一鳴き。
あの、猫二号さん、なにが君をそこまでさせるんでしょうか?
ちなみに今、猫二号さんが梁から下りてきました。順序はさっきの逆。梁、棚、モニター、膝、それから床という感じ。勢いをつけてドスンと下りてくるものだから、膝がちょっと痛かったです。
さて、こんにちは。橋本紡《はしもとつむぐ》です。
いよいよ『半分の月』本編も終了し、ここから先は短編集です。あらすじとかに書いてあると思いますが、本編の続きではありません。『半分の月』は僕のシリーズとしては長く続いた作品なので、『電撃hp』やドラマCDなんかにわりとたくさん短編を書いてたんですよね。せっかくある作品をそのままにしておくこともないので、短編集としてまとめることにしまし
た。でもって、この短編集、あともう一冊出ます。本来なら一冊にまとめてしまったほうがいいんでしょうけど、まとめちゃうとけっこうな厚さになってしまうので、わけることになりました。その分、できるだけいろんなおまけをつけようと思ってます。『半分の月』の舞台になった伊勢《いせ》市のマップも作る予定。宇治山田《うじやまだ》駅とか、若葉《わかば》病院とか、裕一《ゆういち》と里香《りか》が通う学校とか砲台山《ほうだいやま》とかが載るはずです(もっとも、完壁《かんぺき》に実在するのは宇治山田駅くらいですけど。他のはモデルを元にちょっとずつ脚色してあります)。
それにしても、長く書いてきた『半分の月』がもうすぐ終わりだと思うと、ちょっと寂しいです。僕にとっても、この作品は特別でした。自分が生まれ育った町を舞台にした小説をいつか書こうと思いつづけ、それがようやく実現できたのがこのシリーズだったので。あと、いろんな人に言われるんですが、運がよかったかもしれません。四、五年前なら、おそらくこういった作品を書くことは許されなかったでしょう。
応援してくださったみなさまに、伏してお礼申し上げます。
この作品によって、読んで下さった方が、なにかを得られていればいいと思います。どんな小さなことでもかまわない。あるいは怒りや憤《いきどお》りでもいい。
切《せつ》にそう願います。
さて、これからの予定ですが、八月に短編集第二弾が出ます(名目上は八巻になるそうですが、実際は短編集第二弾)。七巻に前半部分が入っている『雨 fandando』の続きと、あと短編が三本かな。それからしばらくは、電撃文庫以外の仕事が続くと思います。書き下ろしの単行本とか、雑誌掲載の短編などですね。電撃文庫での新シリーズは、晩秋か年末になる予定です。このシリーズ、書きたくて書きたくてうずうずしてます。
もしどこかで名前を見かけたら、何ページか読んでみてください。電撃で書いているものとは少し傾向が違う作品もあるだろうし、『半分の月』を読んでくださった方の好みには合わないこともあるでしょう。ただ、それもまた僕の小説です。
みなさんが変わっていくように、僕もまた変わっていきます。
人という生き物は、同じ場所に立ちつづけることはできなくて、どんなに辛《つら》くても苦しくても気がつくと動いてしまう。
変化に痛みを感じながら、けれど未来を信じて、前を向こうと思います。まずはみなさんにおもしろいと言ってもらえる作品を書けるように頑張ります。
では謝辞《しゃじ》など。
まずいつもすばらしいイラストを描いて下さる山本《やまもと》さん。ここで伝えるべきことではないかもしれませんが、時間があったらお遊び企画でもやりませんか? 僕が協力できることがあったら、なんでもやるので言ってください。誕生日プレゼントの「山本さんのためになんでも書きます券」は無期限有効です! それから装丁《そうてい》の鎌部《かまべ》さん、すばらしい本をありがとうございます。毎回装丁を見るのが楽しみです。編集|徳田《とくだ》さん、世の中に徳田さんが十人いればいいのにといつも思います。新シリーズ、頑張ります。
最後にもう一度、読者のみなさまにお礼を!
『半分の月』を盛り上げてくださって、ありがとうございました。最後になる短編集第二弾、頑張りますね。そして、できるかざりいい作品を書きつづけて、それを本当のお礼にしたいと思います。
[#地付き]橋本《はしもと》 紡《つむぐ》