半分の月がのぼる空6
橋本紡
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)意地悪《いじわる》そうに
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)秋庭|里香《りか》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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足に力をこめるたび、自転車のペダルがキイキイと悲鳴《ひめい》をあげる。ペダルの根本が錆《さ》びついているせいだ。手入れをしてない自転車はボロボロで、チェーンだってもちろん錆びているし、カゴは歪《ゆが》んでいるし、前輪のスポークは二本折れている。二年半の自転車通学の成果《せいか》だった。
「はあ――」
ため息《いき》とともに、僕は自転車から降《お》りた。目の前には、なだらかな登り坂が少し左にカーブしながら続いている。たいしてきつい傾斜《けいしゃ》じゃないから、頑張《がんば》って立ちこぎすればまだまだ登っていけるけど、朝っぱらから立ちこぎってのもなんだか疲《つか》れるしさ。
自転車を押して、たらたらと坂を登る。
ため息がまた漏《も》れる。
九月もなかばを過《す》ぎると夏の気配《けはい》は急速《きゅうそく》に薄《うす》れ、もう少しすれば通学路のあちこちに立《た》ち並《なら》んでいる広葉樹《こうようじゅ》が、その葉をきれいな色に染《そ》めるだろう。季節は、こうして巡《めぐ》っていくのだ。春も、夏も、秋も、冬も、いつのまにかきっちり過ぎ去ってしまう。
緩《ゆる》やかなカーブを曲がった途端《とたん》、もうひとつ先のカーブに消えていく背中《せなか》がチラリと見えた。長い髪《かみ》、揺《ゆ》れるスカートの裾《すそ》、重そうな鞄《かばん》をよいしょって感じで持っている。次の瞬間《しゅんかん》、僕はふたたび自転車に跨《またが》っていた。ペダルをキイキイ鳴《な》らしながら、錆びたチェーンが盛大《せいだい》にきしむのを感じながら、太ももに力をこめる。全力の立ちこぎ。秋の高気圧が来ていると美人お天気お姉さんがテレビで言っていたけど、風に夏の熱気はなくて、秋の到来《とうらい》を確《たし》かに感じさせた。
それにしても、早いもんだ。
病院を出てから、もう半年近くになるなんて。
永遠に続くように思えた病院生活、まずい食事、亜希子《あきこ》さんの怒鳴《どな》り声《ごえ》、夏目《なつめ》の嫌《いや》み、毎日の点滴《てんてき》。そういったものが少しずつ遠ざかっていく。確《たし》かに、過去になりつつある。学校の廊下《ろうか》、教師の面倒《めんど》くさそうな声、グラウンドで叫《さけ》ぶ運動部の姿《すがた》。今はそういったものこそが現実だった。
カーブをひとつ曲がると、すぐそこに目指《めざ》す姿が立っていた。
「うわ、なんだ!」
びっくりして足をとめたらコケそうになった。自転車は走りつづけていないと倒《たお》れてしまう乗り物なのだ。どうにか右足をつき、傾《かたむ》いた自転車を両手で支《ささ》えながら、僕は彼女を見上げた。
「おはよう、裕一《ゆういち》」
おお、と僕は自転車を起こしながら肯《うなず》いた。もしかすると待っててくれたのかな。だったら嬉《うれ》しいな。
「おはよう、里香《りか》」
目の前にいる里香は、カラーのところに赤い線が二本入ったセーラー服を身につけていた。それは僕の通う元名門・現バカ校のもので、要《よう》するに僕たちは同じ高校に通っているのだった。
浜松《はままつ》にいたとき、里香はちゃんと入学試験を受け、高校に入学した。とはいっても入学の手続きをしただけの話で、もちろん学校に通えるわけがなく、ずっと休学|扱《あつか》いだったそうだ。里香がようやく高校に通えるようになったのは若葉《わかば》病院を退院したあとだった。里香は僕が通う学校の編入《へんにゅう》試験を受け、あっさり合格した。漏《も》れ伝《つた》わってきた話だと、里香はかなりの点数を取ったらしい。
そう、里香はむちゃくちゃ頭がよかった。
確かに僕が通う学校はバカ校だけど、それでも編入試験はけっこう難《むずか》しい。途中《とちゅう》編入する場合、普通《ふつう》に受験するよりも二ランクくらい下の学校になってしまう。その編入試験で、里香は五科目中二科目で満点だったそうだ。国語と歴史ってのが、いかにも里香らしいよな。
ただし、里香は三年生じゃない。
浜松の高校には入学しただけでまったく通ってなかったので、取得単位はゼロ。編入試験でどんなにすばらしい点数を取っても、最初から始めるしかない。
十八歳の一年生ってわけだ。
僕はじっと里香を見つめた。長い髪《かみ》はまだ縛《しば》ってなくて、さらりさらりと腰《こし》の辺《あた》りで揺《ゆ》れている。坂を登ってきたせいか頬《ほお》は少し赤く染《そ》まっており、それがいかにも健康な感じだった。首の付け根の、皮膚《ひふ》の薄《うす》い場所に、血管がすっと通っている。細い鎖骨《さこつ》は少しカーブしながら制服の中に消えていて、そのラインはたまらなく魅力的《みりょくてき》だった。制服のサイズが少し大きいのか、手の甲《こう》の辺《あた》りまで袖口《そでぐち》に隠《かく》れている。スカート丈《たけ》は膝《ひざ》の少し上くらい。きれいな足に目がいったところで、いきなり頭を鞄《かばん》で叩《たた》かれた。
「痛《い》ってえ! なにすんだよ!」
まじめな里香《りか》は、ちゃんと教科書とかを持ってきている。僕みたいに、学校に置きっぱなしじゃないんだ。鞄はだからけっこう重くて、ズンという衝撃《しょうげき》が頭の芯《しん》まで響《ひび》いた。少しは手を抜《ぬ》いてくれてもよさそうなものなのに、抜かないのが里香であって、マジで眩暈《めまい》がするほど痛《いた》かった。
「脳みそが揺《ゆ》れたぞ! バカになったらどうするんだ!」
「もうバカだから。これ以上バカになっても、そんなに変わらないから」
里香はそう言って、さっさと歩きだした。
僕はその背中《せなか》を追《お》った。
「なんだよ、もうバカって」
「目がいやらしい」
やばい。観察してたのがバレたか。しかしここで認《みと》めてしまうのも悔《くや》しく、また恥《は》ずかしく、無駄《むだ》だと知りつつも僕は精一杯《せいいっぱい》否定《ひてい》した。
「そんなことないって! 被害妄想《ひがいもうそう》だ!」
しかし実は、また彼女の足に見入っていたりする。きれいな膝の裏《うら》だな。皮膚が薄い感じだ。男とは全然|違《ちが》うな。とか思ったりしている。
里香は無言のまま、どんどん坂を登っていった。マジで怒《おこ》らせてしまったのかもしれない。参《まい》った。それくらい許《ゆる》せよな。見るくらい、いいじゃん。だいたい、それを禁止されたら、ずっと目を瞑《つむ》ってなきゃいけないぞ。
もちろん、そんな本音《ほんね》は出せないけどさ。
どんなに話しかけても里香がまったく答えてくれないので、僕はちょっとヘコんでしまった。同じように無言になり、ただふたりで坂を登りつづける。赤いトンボが一匹やってきて、すいっと空間を滑《すべ》るように消えていった。鳥があちこちで盛大《せいだい》に鳴《な》いている。道路|脇《わき》に誰《だれ》かが缶コーヒーの缶を置きっぱなしにしていた。先生に見つかったら、生徒集会のときに注意されるぞ。バカめ。鬼《おに》大仏《だいぶつ》の声が聞こえてきそうだ。
『今朝、こういうものを通学路で見つけました。きっと我が校の生徒でしょう。先生はとても悲しい』
誰にも反論できないようなことを、正論ってヤツを、およそ一時間近くも喋《しゃべ》りつづけるんだ。そんなことを考えていたら、臑《すね》でペダルを蹴飛《けと》ばしてしまった。弁慶《べんけい》の泣き所。そりゃ泣く。こんなに痛かったら泣く。ものすごく痛い。思わず片足でぴょんぴょん跳《は》ねてしまう。
里香《りか》は振《ふ》り返《かえ》ると、そんな僕を見て、おかしそうに笑った。彼女の笑顔《えがお》が嬉《うれ》しくて、僕はもっと派手《はで》にぴょんぴょん飛《と》び跳《は》ねてしまう。
「痛《いた》い! マジ痛い!」
「あはは」
「痺《しび》れてる! 折れたかも!」
「折れてない折れてない。裕一《ゆういち》、変なオモチャみたいだよ」
「失礼なことを言うな!」
怒《おこ》りつつも、やっぱり僕は笑っていた。里香だって笑っていた。さっきまでのヘコんだ気持ちはすっかり消え去り、今はただひたすら楽しい。妙《みょう》なもんだな。こんなふうに笑ってくれるだけで、どうしてなにもかも変わってしまうんだろう。
やがて校門が見えてきた。
その校門を入ったところで立ち止まると、里香は足下に鞄《かばん》を置いた。スカートのポケットから紺色《こんいろ》のゴムを取りだし、口にくわえる。そうしてあいた両手で、長い髪《かみ》をすっとまとめた。きれいな耳が、首筋《くびすじ》が、現れる。僕はスポーツバッグからカメラを取りだすと、里香をそのフレームに収《おさ》めた。カシャンと機械的な音がして、里香の姿《すがた》がフィルムに焼きつけられた。
「なんで撮《と》るのよ?」
「最近、人物撮るのに凝《こ》ってるんだ。ちょっと協力しろよ。ところでさ、おまえ、いつも学校に来てから髪を縛《しば》るよな」
「うん、そう」
里香は手早く髪を縛った。二回三回と、ゴムに長い髪を通した。そうして現れたのは、ひっつめ髪の里香だった。髪型を変えるだけで、イメージがかなり変わる。ちょっとまじめな感じ。あと、ちょっと幼《おさな》くなるかな。
「縛るのって、あんまり好きじゃないから」
「似合《にあ》うけどな」
「ほんとに?」
「ああ、ほんとに」
何気《なにげ》なく言っただけなのに、里香はひどく嬉しそうな顔をした。ニコニコと笑っている。笑《え》みを返そうとした直後、いきなり僕は前につんのめっていた。なんだ、地震《じしん》か。地球が壊《こわ》れたのか。なかばパニックに陥《おちい》りながら辺《あた》りを見まわすと、背後《はいご》に山西《やまにし》が立っていた。
「よう、戎崎《えざき》……うわっ!」
ヤツの呑気《のんき》な顔は、一秒ともたなかった。
「痛《い》ってえ! なにすんだよ!」
それはもちろん僕が見事《みごと》な中段蹴《ちゅうだんげ》りをヤツの太ももに叩《たた》きこんだからだった。山西は太ももを押《お》さえながら、痛い痛いと呻《うめ》いた。
僕はせせら笑いながら言ってやった。
「膝《ひざ》カックンなんか朝っぱらからするんじゃねえ」
「おまえ! 本気で蹴《け》っただろ! うわ、マジ痛《いて》え!」
「上段《じょうだん》食らわなかっただけありがたく思え」
「痣《あざ》になったらどうすんだよ! バカ戎崎《えざき》!」
僕たちは子犬みたいに体をぶつけながら喚《わめ》き合《あ》った。バカ野郎《やろう》とお互《たが》いに罵《ののし》り合《あ》った。しかし山西《やまにし》は突然《とつぜん》にこやかに笑ったかと思うと、里香《りか》に顔を向けた。
「里香ちゃん、おはよう」
「おはよう、山西君」
「この前のテスト、どうだった?」
「うーん、あんまり。国語でケアレスミスしちゃった。ちょっと眠《ねむ》くて、ぼんやりしてたから。あれがなかったらよかったんだけど」
「それでもオレよりいいでしょ?」
僕はそこで口を挟《はさ》んだ。
「おまえより悪いヤツなんかほとんどいねえだろうが」
「戎崎に言われたくねえ」
そして、すぐにまた里香に顔を向ける。
「そうだよね、里香ちゃん」
うん、と里香はあっさり肯《うなず》きやがった。ちょっと不機嫌《ふきげん》な顔をしつつも、しかし実はそれほど悪くない気持ちで、僕は山西と里香が喋《しゃべ》る様子《ようす》を見ていた。こんなふうに里香が当たり前のスクールライフを送っているのが、とても幸せなことに思えたからだ。
なんでもない光景だけれど、それさえも僕たちにとっては貴重《きちょう》なことだった。細い細い、まるで糸の上に作られたような道を通って、僕たちはここまで来たんだ。
見上げると、どこにでもあるような無機質《むきしつ》な校舎が目に入ってきた。奥《おく》の棟《とう》は四階|建《だ》てで、手前の棟が三階建てだ。その三階建てのほうの壁《かべ》にはでかい時計があって、黒くて長い針は今、八時二十一分を示している。校舎の向こうには夏でも秋でもない青空が広がっていた。限《かぎ》りなく秋に近いけれど、まだそこまでの寂《さび》しさを持たない青だ。校門の辺《あた》りで立ち止まっている僕たちを、たくさんの学生服やらセーラー服やらが追《お》い抜《ぬ》いていった。
そのうち、司《つかさ》とみゆきもやってきた。
「よう」
僕はふたりに挨拶《あいさつ》した。司はおはようと律儀《りちぎ》に挨拶を返してきたけれど、みゆきはなにも言わずに里香のほうを向いて話し始めた。それにしてもこいつら、もしかしていっしょに登校してきたのかな。あとで司に尋《たず》ねてみよう。
「おい、そろそろ行こうぜ」
そう言って、山西《やまにし》が校舎のほうを指差した。
おう、と僕は肯《うなず》いた。
「そうだな。自転車とめてこなきゃな」
里香《りか》以外は自転車通学だったので、彼女を除《のぞ》く全員が歩きだす。
僕はちょっと迷《まよ》ってから、里香に言った。
「おまえも来いよ」
「なんでよ」
「ついでだよ、ついで」
「わけわかんない」
なんて言いつつも、里香は僕たちといっしょに歩きだした。
「夏休み、終わっちゃったね」
「早く冬休みが来ねえかなあ」
「それって、受験が近づくってことだよ」
「あたしは関係ないな」
「あ、オレもオレも」
「戎崎《えざき》ってバカだよな?」
「なんだよ! バカって!」
「ほんとに裕《ゆう》ちゃんってバカだよね」
「うん、裕一はバカ」
みんながそろってバカだバカだと繰《く》り返《かえ》すので、正直かなりヘコんだ。人のいい司《つかさ》だけは困《こま》ったように笑っているけれど、その困った様子《ようす》がさらに僕をヘコませる。まあ、いいか。みんな笑ってるし。楽しそうだし。バカってことにしておいてやるよ。
自転車置き場にそれぞれの自転車を並《なら》べると、僕たちはさっき通り過ぎた生徒入り口に戻《もど》った。三年の教室は二階で、二年は三階、一年は四階。つまりまあ、学年が上がるごとに、階は下がっていくというわけだった。階段を十七段上り、まずは踊《おど》り場《ば》。そこでくるりと向きを変え、さらに十七段で二階だ。司と山西、それにみゆきが、僕たちのほうを向いた。
「じゃあね、裕一」
「里香、あとで」
司とみゆきがそう言ったあと、実に不遜《ふそん》な調子《ちょうし》で山西が、
「戎崎、そういや、なんか忘《わす》れてんじゃねえか?」
と僕に言ってきた。
その意味を理解《りかい》しつつも、僕は半眼《はんがん》で尋《たず》ねた。
「はあ? なんのことだ?」
「だっておまえ、先輩《せんぱい》にはさん≠つけるのが日本の美しい習慣《しゅうかん》だろ? おまえ、さっきからオレのことを山西《やまにし》って呼《よ》び捨《す》てにしてないか?」
「それがどうしたんだよ、山西」
「だから、山西≠カゃなくて、山西さん≠セろ?」
「里香《りか》、行こうぜ」
「おい、戎崎《えざき》、無視《むし》すんな! 二年坊主のくせに!」
その言葉《ことば》で、さすがにキレた。
階段を上りながら、僕は振《ふ》り向《む》きざまに叫《さけ》んだ。
「二年坊主って言うな!」
しかしまあ、山西の言っていることは事実なのだった。
恐《おそ》ろしいことに。
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留年《りゅうねん》した。
そりゃもう見事《みごと》にダブった。
どうにかレポートは仕上げたし、追試《ついし》のための勉強もたっぷりした。頑張《がんば》りに頑張った。あんなに頑張ったのなんて、生まれて初めてだったかもしれない。高校受験のときの軽く三倍は勉強したな。
けれど、世の中は非情《ひじょう》だった。
追試当日、起きたら頭がくらくらした。起きあがった途端《とたん》、ふたたび布団《ふとん》に倒《たお》れた。目がぐるぐるまわって世界がひっくり返った。やがて母親がやってきて、怒鳴《どな》り声《ごえ》をあげた。さっさと学校に行けと叫《さけ》んだ。しかし僕の様子《ようす》がおかしいことに気づいた母親は、途端に慌《あわ》てた顔になり、おでこにその手を置いた。
「熱《あつ》い!」
体温計で熱を測《はか》ってみたら、四十度近かった。僕は顔を真っ赤にしながら唸《うな》りつづけた。追試のために一時退院している最中に発熱してしまったのだ。もちろんテストは受けられず、その瞬間《しゅんかん》に僕の留年は決定した。
よりによって追試《ついし》当日に発熱するとは……なんてついてないんだろうか……。
しかも、しかもだ。その日の夕方になったら、熱はきれいさっぱり引いていた。やたらと体が軽いものだから、試《ため》しに熱を測《はか》ってみたところ、見事《みごと》なまでの平熱だった。三十六度七分。そんなデジタル体温計の表示を見ながら、僕は涙《なみだ》したものだった。
「なんで?」
西日が差しこむ僕の部屋《へや》はなにもかもが茜色《あかねいろ》に染《そ》まっていた。古い勉強机も、その上に置かれたカメラも、大きな染《し》みがついた襖《ふすま》も、僕自身も赤く染まっていた。あれだけのレポートを仕上げ、勉強に勉強を重ねたというのに、たった一度の発熱がその成果《せいか》をすべてふいにしてしまったのだった。
まったく人生というのは非情《ひじょう》だ。
ああ、ほんとひどいもんだ。
「まったく、バカ山西《やまにし》め」
ぶつぶつ呟《つぶや》く僕の横で、里香《りか》はおかしそうに笑っている。これがもう、まったく容赦《ようしゃ》なしって感じなのだ。腹を抱《かか》えて笑ってやがる。あまりにも里香が楽しそうなので、僕は八つ当たりで言った。
「笑うなよ、里香」
「あはは」
ちぇっ。まだ笑ってやがるよ、この女は。
十七段上り、踊《おど》り場《ば》で折り返し、ふたたび十七段。そうして三階にたどり着いた。この階の一番|端《はし》にあるのが、僕の教室だ。
立ち止まると、僕は言った。
「おまえな、そんな笑ってると、オレのことを戎崎《えざき》さん≠チて呼《よ》ばせるぞ」
「じゃあ、そうする」
「え?」
「またね、戎崎さん。あとでね、戎崎さん」
手を振《ふ》って、里香は階段をひとりで上り始めた。たとえ十八歳でも、里香は一年生なわけで、教室は四階にある。
階段を上るその背中《せなか》に向かって、僕は言った。
「里香! やっぱり戎崎さんってのはやめよう!」
「なんで? 戎崎さんがそうしろって言ったんでしょ?」
「いや、おまえのは嫌《いや》みっぽいっていうか」
なんてことをぶつぶつ言っていたら、里香が髪《かみ》を押《お》さえる仕草《しぐさ》をした。
「戎崎《えざき》さん、寝癖《ねぐせ》」
「え?」
「髪《かみ》、跳《は》ねてる」
僕は右手で髪を押《お》しつけた。
「これでいいか」
「駄目《だめ》。全然直ってないよ」
「ええ、どこだよ」
「もっと右」
「右?」
「そっちは左だから。お茶碗《ちゃわん》持つほう」
「お茶碗って……。ガキじゃねえぞ」
しょうがないなあと呟《つぶや》いて、里香《りか》は上ったばかりの階段を下りてきた。僕よりも二段高いところで立ちどまり、僕の右耳の上|辺《あた》りをその手で梳《す》くようにして押さえつけた。里香の顔は、僕と同じ高さにあった。真っ黒な瞳《ひとみ》に、僕が映っている。なんだか照《て》れくさくなってきて、僕はそっぽを向いた。
「直ったよ、戎崎さん」
「だから、さん≠ヘつけんなって」
「嫌《いや》がってる? 戎崎《えざき》さん?」
「連呼《れんこ》すんな」
「どうして? 戎崎さん?」
「おまえ、絶対《ぜったい》わざとだろ」
あはは、と笑う声が聞こえたあと、階段を駆《か》け上《のぼ》る音が聞こえてきた。慌《あわ》てて顔を戻《もど》すと、里香《りか》はもう踊《おど》り場《ば》に立っていた。そこまで一気に駆け上がったらしい。スカートから伸《の》びるほっそりした足が見えた。
「おい! 走るなよ、里香!」
「これくらい大丈夫《だいじょうぶ》だよ」
「とにかく走んなって!」
里香の体は、完治《かんち》したわけじゃない。移植《いしょく》した弁膜《べんまく》はいつその働きをやめるかわからないのだ。今かもしれないし、明日かもしれないし、十年後かもしれない。里香が走るたび、だから僕はドキリとしてしまう。その軽《かろ》やかな足取りが、里香の命を縮《ちぢ》めるように思えるからだ。僕は里香に走って欲しくなかった。ただじっとしていて欲しかった。
本当のことを言うと、僕は里香が学校に通うのも反対だった。
けっこう大変《たいへん》なんだ、学校って。
山の上に建《た》てられたうちの学校は通学路がずっと坂だし、体育は休めるからいいとしても、普通《ふつう》の授業だって里香には負担《ふたん》になる。ただ生きるというそのことが、当たり前の日常《にちじょう》が、里香の命を危険《きけん》にさらす。
僕は里香を小さな箱《はこ》の中に閉じこめておきたかった。
「いいか、絶対走るなよ!」
だから最近の僕はやたらと口うるさい。
案《あん》の定《じょう》、里香は顔をしかめた。
「戎崎さん、うるさいなあ」
「先輩《せんぱい》の言うことは聞いておけって。わかったか」
「はーい、戎崎さん」
しかめた顔のままで里香は言うと、踊り場の向こうに消えていった。それでも階段を上る足音が聞こえてくる。僕は目を閉じ、耳を澄《す》ました。うん。大丈夫だ。もう走ってない。僕が言ったとおり、ゆっくりと一段ずつ上っている。それはとても幸せな響《ひび》きだった。
里香の足音が聞こえなくなるまで、僕はずっとそこに立っていた。
「谷崎《たにざき》! 吉田《よしだ》さんの点滴《てんてき》したの!?」
廊下《ろうか》を走っていたら、後ろから婦長《ふちょう》に声をかけられた。その声はちょっと怒《おこ》っているようだった。やべえと思いつつ、谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》は立ち止まった。
「すみません! 谷崎、忘《わす》れてました!」
直立不動《ちょくりつふどう》で叫《さけ》ぶ。
右手に尿瓶《しびん》を下げているのが、少々みっともないが。
「じゃあ、早くやりなさい! サボらないの!」
「はい!」
尿瓶の中身を始末《しまつ》し、手を洗ってから、ナースセンターに戻《もど》る。忙《いそが》しすぎて、ぶっ倒《たお》れそうだ。煙草《たばこ》を吸いたい。二本まとめて吸いたい。ナースセンターには夏目《なつめ》がいて、シガレットチョコを呑気《のんき》に咥《くわ》えていた。
「働けど働けど我が暮《く》らし楽にならざり、だな」
やはり呑気にそんなことを言ってくる。
嫌《いや》みをかましておくことにした。
「あんたは暇《ひま》そうだね」
「ちょうど患者《かんじゃ》が途切《とぎ》れたからな。休憩中《きゅうけいちゅう》」
手伝ってくれ、とは言えない。医者には医者の仕事があるし、看護婦《かんごふ》には看護婦の仕事がある。それにまあ、医者がのんびりしていられるのはいいことだ。
「谷崎! 点滴《てんてき》は!」
また婦長の怒鳴《どな》り声《ごえ》。
「今から行きます!」
「遅《おそ》い! 島田《しまだ》さんの点滴もやりなさい!」
「わかりました!」
ストレスが限界《げんかい》を超《こ》えたのか、なぜか顔が笑えてくる。頭の中で膨《ふく》れ上《あ》がった血管が、今にもぶちりと切れそうだ。でもまあ、我慢《がまん》だ。我慢。谷崎亜希子、二十五歳。もうガキではない。多少の社会の理不尽《りふじん》くらい、我慢しようではないか。
「おまえ、なにしたの」
夏目が尋《たず》ねてきた。
「すんげえ目の敵《かたき》にされてるじゃないか」
「知らない。あっちに聞いて」
新しい婦長が赴任《ふにん》してきたのは、二週間ほど前だった。ふくよかな五十代の女性で、大阪にある大きな病院から引《ひ》き抜《ぬ》かれたらしい。かなりのやり手という噂《うわさ》だった。その婦長との関係が、どうにもよろしくない。他に暇な看護婦がいても、下らない用事を次々言いつけられる。ちょっとしたミスで延々《えんえん》怒鳴られる。難《むずか》しいことばかり要求される。
自慢《じまん》じゃないが、いじめられたことなんてないのだ。
生まれてこの方、どんな場所でも序列《じょれつ》のトップを張《は》っていた。媚《こ》びを売るなんて別世界の出来事《できごと》だ。現在の状況《じょうきょう》は、従《したが》って初めての体験だった。病院において、婦長《ふちょう》というのは医者以上の権力者であり、一《いち》看護婦《かんごふ》の亜希子《あきこ》が逆《さか》らえる存在《そんざい》ではなかった。
胃《い》が痛《いた》い。
頭も痛い。
慌《あわ》ててたせいで、点滴《てんてき》のパックを取《と》り違《ちが》えそうになった。やばいやばい。下手《へた》したら医療《いりょう》事故だ。
この程度《ていど》のミスでも、人の命はあっさり消え去る。
「ところでさ」
パックに貼《は》られたシールをじっくり確認《かくにん》してから、亜希子は尋《たず》ねた。
「あれ、ほんとなの」
「なんだよ、あれって」
夏目《なつめ》はそっぽを向いている。ちぇっ、しらばっくれやがって。
「噂《うわさ》だよ、噂」
夏目が他の病院から声をかけられている。どうやら相当《そうとう》いい話らしい。そんな噂があるのだった。もっとも、詳《くわ》しいことは誰《だれ》も知らなくて、勝手な憶測《おくそく》だけが飛《と》び交《か》ってるのが現状だが。年収数千万が条件とか。すごいポストが準備《じゅんび》されてるとか。
「いい話なんでしょ?」
「さあ、どうなんだかな」
「決めたの?」
ようやく夏目がこちらを見てきた。
すぐ目を逸《そ》らしたけれど。
「まだだよ」
「うちの先生たち、あんたのことうらやましがってるよ。誰だって、あんたみたいになれるわけじゃないんだ。せっかくチャンスが巡《めぐ》ってきたんだから、それを棒《ぼう》に振《ふ》るなんて――」
「行こうぜ」
「え?」
「島田《しまだ》さんの点滴、オレがやるよ」
「でも――」
「看護婦なんざ、医者の言うこと聞いてればいいんだよ」
思いっきり不遜《ふそん》に言って、夏目はすぐさま立ち上がった。相変わらずシガレットチョコを咥《くわ》えたまま、島田さんの点滴パックを持って歩きだす。
亜希子は吉田《よしだ》さんの点滴パックを取ると、慌ててその背中《せなか》を追《お》った。
目の前を歩く背中はありとあらゆる質問を拒否《きょひ》していた。それにしても、わかりやすい男だ。怒《おこ》るときは目が吊《つ》り上《あ》がるし、苛々《いらいら》してるときはすべての動作《どうさ》が荒《あら》っぽくなる。そのくせ嬉《うれ》しがってる姿《すがた》だけはまったく見せない。嬉しいとか楽しいとか感じることがないのだろうか。
「ここも悪くないしな」
「え?」
しばらく、なにを言われたのかわからなかった。どうやらさっきの話の続きらしいと、五メートルほど歩いてから気づいた。
まあね、と肯《うなず》いておく。
「田舎《いなか》だけど、それもいいもんだよね」
「ああ。ほんと悪くない」
「だけどさ、それでいいの?」
「なにがだよ」
「上を目指《めざ》したこともあったんだろ?」
「昔の話だ」
「あたしはさ、ここでいいわけ。地元みたいなもんだし。ダチもいっぱいいるし。澤田《さわだ》先生とか藤野《ふじの》先生なんかも、ここがお似合《にあ》いだよね。分相応《ぶんそうおう》っていうか。だけど、あんたは違《ちが》うだろ。人にはふさわしい場所ってものがあるんじゃないのかな」
夏目《なつめ》が立ち止まった。
いきなりだったので、その背中《せなか》にぶつかりそうになった。なにかあったのだろうかと彼の視線《しせん》を追《お》ってみたが、ただの病室だった。
『二二五号室 本木《もとき》茂《しげる》』
そんなプレートがかかっている。
本木さんは糖尿病《とうにょうびょう》で入ってきた。とはいっても、たいして悪いわけじゃない。ずぼらな性格で、家にいると指示された食事制限を守れないし、薬も時間どおりに飲めないから、奥さんがむりやり入院させただけだった。
一週間もすれば退院してしまうだろう。
「あいつら、もういねえんだな」
半年前まで、二二五号室には肝炎《かんえん》のクソガキが入院していた。
そして、東|病棟《びょうとう》には、ひとりの少女が。
ふたりがいなくなって、もう半年ほどになる。いたときはうざくてしかたなかったのに、いないとなるとそれはそれで寂《さび》しいものだ。少年のうろたえた声を、少女の怒声《どせい》を、今はもう聞くことはない。
廊下《ろうか》に響《ひび》く彼らの声を思いだしながら、亜希子《あきこ》は言った。
「あんな若い連中に、いつまでもいられちゃ困《こま》るよ」
「まあ、そうだな」
夏目《なつめ》が視線《しせん》を落とした。ほんの少しだけ、彼の雰囲気《ふんいき》は変わっていた。この病院に来たころは近寄るなというオーラをわかりやすいくらい放っていたのに、今はそこまでトゲトゲしていない。患者《かんじゃ》のわがままにも辛抱強《しんぼうづよ》くつきあっている。なにが彼を変えたのだろうか。どんなに抵抗《ていこう》しても、否応《いやおう》なしに流れていく時だろうか。それとも、あのクソガキと過ごした下らない日々だろうか。
「おまえの言うとおりだな」
「ん? どういうこと?」
「あいつらはあいつらにふさわしい場所に戻《もど》ったんだ」
彼らが生きる場所は、ここではない。病院は通り過ぎるべき場所だ。やってくる。しばし留《とど》まる。いつかは去っていく。それでいいのだ。
「ああ、そうだね」
亜希子は肯《うなず》いた。
「あの子たちは戻ったんだよね」
当たり前の日常《にちじょう》に。
昼休みの教室はそれなりにざわめいている。隠《かく》し持《も》ってきたH本を覗《のぞ》きこんでいる野郎《やろう》の輪《わ》。女子に気づかれないように、幾重《いくえ》にも人の垣《かき》を巡《めぐ》らしている。その近くでは、アイドルの顔写真にきゃあきゃあ声をあげている女子たちがいる。割《わ》り箸《ばし》で輪《わ》ゴムガンを作ってきたバカどもが、その飛距離《ひきょり》を競《きそ》っている。アニメっぽい絵がついた小説を堂々《どうどう》と読んでいる見事な強者《つわもの》がいる。それなりの混沌《こんとん》と、だからこその秩序《ちつじょ》。
僕だけが、居場所《いばしょ》を持たなかった。
なにしろ、僕はたったひとり、年上だ。大人になってしまえば、ひとつやふたつの年の差なんてたいしたことないのかもしれないけれど、高校における一年はものすごく大きい。体育系の部活なんかだと、まさしく主人と奴隷《どれい》ほどの違《ちが》いがある。
だから、たいていの場合、ダブったヤツは学校を辞《や》めてしまう。
残るのは三分の一ってところだろうか。だいたい、高校なんて、よほどのことがないとダブらない。本人に少しでもやる気があれば、なんやかんやと理屈《りくつ》をつけて進級させてくれるものだ。そのなんやかんやという理屈をことごとくぶち壊《こわ》してしまうのは、よほどのバカだけだ。
もちろん僕のことじゃないぞ。
僕はただ、ものすごい悪運に見舞《みま》われ、追試《ついし》当日にたまたま高熱を出してしまっただけだ。ああ、世の非情《ひじょう》よ。ダブった以上当然のことだが、僕の周《まわ》りにいるのは後輩《こうはい》ばかりだ。去年まで一年坊主とバカにしてたガキどもだ。楽しいかといえば、そんなわけはない。
とにかく……いたたまれない……。
僕は里香《りか》から借りた『人間失格』を読みながら、とりあえずこの孤独《こどく》と孤立《こりつ》を誤魔化《ごまか》していた。そう、別に話す相手がいないわけではないのだ。本がおもしろいから読みふけっているだけなのだ。
顔を上げると、ひとりの男子と目が合った。
そいつは慌《あわ》てて頭を下げてきた。
友達ではなく、先輩《せんぱい》に取る態度《たいど》。よそよそしさ。親《した》しみのカケラもない。そのことにホッとすると同時に、ますますいたたまれない気持ちが高まっていく。
僕は軽く手を上げておいた。
「よう」
ってな感じで。
しかたなく、ふたたび太宰《だざい》治《おさむ》に目を落とす。それにしても、この主人公はひどい男だった。騙《だま》すわ騙されるわ、捨てるわ捨てられるわ……傲慢《ごうまん》なくせに、すぐに泣き言を言う。まさしく人間失格だ。失格してしまえ、と僕はページごとに毒づいていた。とはいえ、小説自体はなかなかおもしろかった。まあ、うん、悪くない。
二十七ページの、
『表面は相変らず哀《かな》しいお道化《どうけ》を演じて皆を笑わせていましたが、ふっと思わず重苦しい溜息《ためいき》が出て、何をしたってすべて竹一《たけいち》に木《こ》っ葉《ぱ》みじんに見破られていて、そうしてあれは、そのうちにきっと誰《だれ》かれとなく、それを言いふらして歩くに違《ちが》いないのだ、と考えると、額《ひたい》にじっとり油汗がわいて来て――』
というところを読んでいるときだった。
なにかの気配《けはい》を感じたので顔を上げると、そこに元下級生・現同級生が立っていた。僕を見る視線《しせん》が落ち着かない。
僕は本を机に置いた。
こいつ、なんか用でもあるのだろうか。
ふと見ると、教壇《きょうだん》の辺《あた》りで三人くらいの野郎《やろう》どもがこちらの様子《ようす》を興味深《きょうみぶか》く窺《うかが》っていた。僕と視線が合うと、慌《あわ》てて目を逸《そ》らす。さて、どうしたものだろうか。一発かますか。それとも軽く流しておくか。
考えた末、流しておくことにした。
「なんだよ?」
軽い調子《ちょうし》で尋《たず》ねる。
まあ偉《えら》そうぶるのも大人げないしさ。
目の前にいる元下級生・現同級生はもじもじしている。どうやら仲間にいいところを見せようとして僕のところに来たものの、そこで意気地《いくじ》が尽《つ》きてしまったらしい。それにしても、なんだろうな。
僕は隣《となり》の席から椅子《いす》を引《ひ》っ張《ぱ》りだすと、座《すわ》れよと言った。
「名前、なんだっけ?」
「伊沢《いざわ》……です」
座りながら、言う。
僕はふんふんと肯《うなず》いた。
「で、なんだよ?」
「あの、戎崎《えざき》さん」
ちゃんとさん≠テけだったことにホッとした。これでもしタメ口でもきかれた日には、どうしていいかわからなくなってしまうではないか。ぶん殴《なぐ》っておくというのもひとつの手だが、殴り返される可能性《かのうせい》がある。勝てればいいけど負けたりなんかしたら最悪だ。考えたくもない。
「秋庭《あきば》さんのことなんですけど」
意外《いがい》な響《ひび》きに戸惑《とまど》った。
「里香《りか》のことか?」
「はい」
学年で言えば、この伊沢よりひとつ下だが、里香はだいたいさん≠テけで呼《よ》ばれている。まあ微妙《びみょう》なところだ。十八歳の一年生なんて、滅多《めった》にいないもんな。
「戎崎さんと秋庭さんって……その……あの……えっと……つきあってんですか?」
「はあ?」
「あの……だから……戎崎さんと秋庭さんって……」
「それがどうしたんだよ?」
「いや……あの……そういう噂《うわさ》があるんで……本当かなーって……」
「誰《だれ》か里香のこと好きなのか?」
冗談《じょうだん》を言ってみることにした。
「もしかしておまえか?」
「うっ」
伊沢とやらは、言葉《ことば》に詰《つ》まった。そりゃもう見事《みごと》なもんだった。まず頬《ほお》が赤くなって、首が赤くなり、最後は耳まで朱に染《そ》まった。
うわ、こりゃマジだ。
しばらく微妙な間が続いた。伊沢は顔を真っ赤にしたまま黙《だま》っているし、僕のほうもなんと言っていいかわからず黙ったままだ。教壇《きょうだん》のほうで様子《ようす》を見守っている連中まで焦《あせ》りだしている。どうやら黙りこんだ僕の顔が、怒《おこ》っているように見えるらしい。
里香に惚《ほ》れてるヤツは少なくない。
なにしろあの顔で、あの姿《すがた》だ。
男なら、誰《だれ》だって目をとめる。
「あのな――」
頭を抱《かか》えつつ、口を開いたときだった。
いきなり教室に侵入《しんにゅう》してきたヤツが、実に呑気《のんき》な声で、
「よう、二年坊主ども」
と口にしつつ、僕に近づいてきた。
しかもそいつは僕の頭頂部《とうちょうぶ》に手を置き、ぐるぐると頭をまわしてきた。視界《しかい》が揺《ゆ》れて気持ち悪い。僕は揺さぶられながら、そいつを睨《にら》みつけた。
思いっきり低い声で、言ってやる。
「なんだよ、山西《やまにし》」
お、と山西は言った。
「おいおい、二年坊主が三年を呼《よ》び捨《す》てにしていいと思ってんのか。日本は儒教《じゅきょう》の国だぜ。礼節《れいせつ》を重んじるのが大切だろ。いいか、戎崎《えざき》。一回だけチャンスをやる。山西≠カゃなくて、山西さん≠セ。ほら、言ってみろ」
「うるせえ、クソ山西」
ちょっと喧嘩《けんか》になった。ヤツは僕の髪《かみ》を引《ひ》っ張《ぱ》り、僕はヤツの唇《くちびる》を引っ張ってやった。伊沢《いざわ》はそんな僕たちの騒《さわ》ぎから慌《あわ》てて待避《たいひ》した。
「痛《いた》い痛い痛い! 離《はな》せよ、戎崎!」
「おまえが先に離せ!」
「それが先輩《せんぱい》に対する口のきき方か!」
「あー、マジでむかつく! つか痛いから! おまえ、離せよ!」
「じゃあ、一、二の三だ!」
「絶対《ぜったい》だぞ!」
「おう!」
一、二の三で……もちろん離さなかった。
「この嘘《うそ》つき! バカ戎崎!」
「おまえこそ! クソ山西!」
ぎゃあぎゃあ喚《わめ》き合《あ》った末、ようやく僕たちは手を離した。うわ、頭皮《とうひ》がジンジンする。ハゲたらどうすんだよ!
山西は伸びた唇を何度もさすっていた。
「おまえ、なにしにきたの」
そう尋《たず》ねると、
「様子《ようす》を見にきたに決まってるだろうが」
山西は近くにいた伊沢に顔を向けた。
「こいつと仲良くしてやってくれよ。同級生として」
「あ、はい」
伊沢《いざわ》は丁寧《ていねい》に肯《うなず》いた。
山西《やまにし》ごときでも、先輩《せんぱい》は先輩というわけだ。
「おまえ、帰れよ」
僕は言った。
「みんな迷惑《めいわく》してるだろうが」
「わかったよ。ところで、おまえら、なに話してたんだ」
「なんでもねえよ」
追《お》い払《はら》おうとしたが、そこで伊沢がいきなり口を開いた。
「戎崎《えざき》さんと秋庭《あきば》さんがつきあってるって本当ですか?」
あ、こいつ。
僕だとちゃんと答えないと思って、山西に尋《たず》ねやがった。
クラス中がしんとなり、誰《だれ》もが山西を見つめていた。僕だって、山西を見つめていた。まずい。このバカ野郎《やろう》が口を開く前に、どうにかしなければ。足を払うか。コブラツイストか。三沢のエルボーか。それとも難易度《なんいど》を上げて卍固《まんじがた》めか。DDTでもいい。STOもありだ。サソリ固めって手もある。下らない思考《しこう》が暴走《ぼうそう》しまくっているくせに、肝心《かんじん》の体はまったく動かなかった。なんでもいい。とりあえずドロップキックでぶっ倒《たお》そう。
しかしようやく体が動いたそのとき、山西の口はすでに言葉《ことば》を吐《は》いていた。
「いや、こいつら、つきあってねえよ」
え?
立ち上がりかけたまま、動きが完全にとまってしまう。耳に届《とど》いたばかりの言葉がよく理解《りかい》できない。
僕と里香《りか》はつきあってないのか?
いちおう思いを打ち明け合ったし、その、あの、キスだって……何度かした。砲台山《ほうだいやま》での出来事《できごと》は夢なんかじゃない。なのに、僕たちはつきあってないのだろうか。山西があっさりと断言《だんげん》するものだから、意味もなく不安になってきた。
すがるように見つめる僕に、山西が顔を向けた。
「だってさ、おまえら、結婚してるんだよな」
そうだろ、という感じで見つめてくる。
教室中が一気にざわめいた。
結婚、結婚、とあちこちから声があがる。ひそひそ声もあれば、悲鳴《ひめい》のような声もある。泣きそうな顔をしている野郎がいる一方で、女子はそろって嬉《うれ》しそうな顔で「聞いた? 結婚だって!」と叫《さけ》んでいる。
その騒《さわ》ぎの中、僕は思いっきり床《ゆか》を蹴《け》った。
「結婚なんかしてるわけねえだろうがっ!」
僕の延髄切《えんずいぎ》りが、山西《やまにし》の首を直撃《ちょくげき》した。
ゴフウッという息《いき》を吐《は》いて、山西は倒《たお》れこんだ。完璧《かんぺき》に決まったらしく、床に倒れこんだままぴくりともしない。とにかく間違《まちが》いを正さなければ。しかし顔を上げると、教室を駆《か》けだしていく女子の背中《せなか》が見えた。戎崎《えざき》さんと秋庭《あきば》さん、結婚してるんだって――そんな声が廊下《ろうか》の向こうから聞こえてくる。そのあとに、おお、というどよめき。そのどよめきは、廊下を伝わってどこまでもどこまでも広がっていった。一分ほどすると、階上と階下からもどよめきが聞こえてきた。学校中が沸《わ》き立《た》っているという感じだ。
立ちつくす僕の手を、誰彼《だれかれ》が次々と握《にぎ》ってきた。
「おめでとうございます!」
「悔《くや》しいです! でも諦《あきら》めます! 秋庭さんを幸せにしてやってください!」
「ちくしょう! 幸せものめ!」
「里香《りか》先輩《せんぱい》、ほんとは戎崎里香なんですね!」
「戎崎里香で姓名占いしてみます!」
「ううっ……秋庭さんを……ううっ……し、幸せに……いや、僕は認《みと》めないっ……絶対《ぜったい》に認めないんだっ……」
「バカ! 認めるしかないだろ! あっちいけ! 戎崎さん、おめでとうございます!」
「おめとうございます!」
「式はやったんですか?」
「やってないなら、ぜひあたしたちにやらせてください!」
握手攻《あくしゅぜ》めの中、僕は心の中で呟《つぶや》いていた。
違《ちが》う……違うんだ……。
しかし弁明をしてくれるはずの山西《やまにし》は、白目を剥《む》いて床に突《つ》っ伏《ぷ》したままだった。蹴飛ばしても起きやしねえ。
これは悪夢《あくむ》だ。
夢に違いない。
きっとそうだ。
悪事《あくじ》千里《せんり》を行くと言う。一里は四キロであり、千里とはすなわち四千キロである。日本列島の端《はし》から端まで三千キロ。ひとつの学校など、せいぜい数百メートル四方に収まってしまうわけで、昼休みにその噂《うわさ》があたしの耳に届《とど》いたのは、むしろ遅《おそ》いくらいだった。
「水谷《みずたに》さん、結婚の噂《うわさ》のこと知ってる?」
世古口《せこぐち》君のそんな質問で、ようやく知ることになった。
「結婚?」
卵焼きをつまむ箸《はし》が中途半端《ちゅうとはんぱ》な空間でぴたりととまる。
「誰《だれ》が?」
尋《たず》ねられた世古口君は、えーと、あのー、そのー、というのを三回ほど繰《く》り返《かえ》した。ちなみに、彼の前のテーブルには弁当箱が乗っている。実にでかい弁当箱だった。昔ながらのアルマイト。四角四面。まるで道具箱のような弁当箱だ。おかずもご飯もたっぷりと詰《つ》まっている。だけど詰まっているおかずは実にかわいらしかった。卵焼きはくるんと丸まっているし、ウィンナーはタコさんとカニさんだし、赤いチェリーなんかも添《そ》えてある。世古口君の手作り弁当だ。
「裕一《ゆういち》と、里香《りか》ちゃんが」
ためらいにためらった末、ようやく彼はそう言った。
ふむ、と肯《うなず》いてから、あたしは卵焼きをようやく口に入れた。お母さんが作ってくれた卵焼きは、少しばかり甘い。本当のことをいうと、卵焼きは塩味のほうが好きだった。けれど何度変えてくれと頼《たの》んでも、お母さんの卵焼きは甘いままだ。
呑《の》みこんでから、言った。
「本当だと思う?」
「どうかな。そんな話、裕一から聞いたことないけど。水谷さんは?」
「ないよ」
今、あたしと世古口君は食堂の片隅《かたすみ》で向かい合ってお弁当を食べていた。周《まわ》りの席に人影《ひとかげ》はなく、ふたりきりというわけである。いつからか、こうしてふたりでお弁当を食べるのが習慣《しゅうかん》になってしまった。友達は自分たちがつきあってるのだと思いこんでいるし、あたしもあえてそれを否定《ひてい》したことはない。
とはいえ、告白《こくはく》はしてもらっていない。
あの夜、変なマスクをかぶった世古口君からもらった言葉《ことば》がすべてだ。助けるよ、と彼は言った。困《こま》っているときは必《かなら》ず駆《か》けつけるよ、と。それはつまり、そういう意味なのだろうか。違《ちが》うのだろうか。いや、そもそも、あれを世古口君と呼《よ》ぶのには、いささか……いろんな意味で……ためらいがある。
彼があたしのことをどう思っているのか確《たし》かめたい。けれど、確かめるための言葉を口にする勇気はなかった。
いつも、そうなのだ。
思っていても、悩《なや》んでいても、言葉はなかなか出てこない。やがてそんな思いは時間に取り残され、気がつくと最初の輝《かがや》きを失ってしまっている。
そんな自分がちょっと嫌《いや》だ。
わかってても変われないのは、もっと嫌だ。
「だけど可能性《かのうせい》はあるね。ほら、あれ、渡《わた》したし」
あれ、という言い方をしてしまった。
婚姻届《こんいんとどけ》。
確《たし》かに、裕《ゆう》ちゃんに渡した。
「もしかして、裕ちゃんと里香《りか》、あれを書いて役所に出したのかな?」
「ええっ」
人のことなのに、世古口《せこぐち》君の顔は赤くなっていた。こういう色恋ごとには、とにかく弱いのだ。こうしてご飯をいっしょに食べるし、いっしょに学校に来るし、下校もできるだけ合わせるようにしている。なのに、まだ手も握《にぎ》っていない。
「あるよね、可能性としては」
「う、うん」
「世古口君はどう思う? 裕ちゃん、そんなことすると思う?」
「しないかなあ」
「そうだよね」
だって、あのヘタレ野郎《やろう》だし。
だけどさ、と世古口君が言った。
「里香ちゃんのことが絡《から》むと、裕一ってなにするかわからないところがあるんだよね。ほら、里香ちゃんの病室に行ったときだって、あんな無茶《むちゃ》したしさ。あれ、下手《へた》すると、落ちて大怪我《おおけが》だったよね」
「あ、うん」
「だから、ありえなくもないかなあ」
大きな口を開けて、世古口君がウィンナーを一口で食べてしまった。うじうじ考えていたことを忘れ、彼の食べる姿《すがた》をしばらくじっと見つめる。
格別上品というわけではないけれど、彼はとても丁寧《ていねい》な食べ方をする。他の男の子たちなんて、口の中にご飯を詰《つ》めこみながら大声で話したりしてるけど、そんなことはいっさいしない。ちゃんと口の中にご飯やおかずを入れ、ちゃんと噛《か》み、ちゃんと呑《の》みこむ。それから喋《しゃべ》る。
食べ方を見ていると、性格がよくわかる。
彼が料理やお菓子《かし》をうまく作れるのは、こんな食べ方をする人だからなのだろう。
家庭科でお菓子を作ると、よくわかる。たとえばボウルについた水滴《すいてき》を拭《ぬぐ》うか拭わないかだけで、お菓子というのは味が変わってしまうのだ。世古口君はそういうことに気を払《はら》える。
決して疎《おろそ》かにしない。
「どうしたの、水谷《みずたに》さん」
じっと見ていたら、尋《たず》ねられた。
なんだか恥《は》ずかしくなって、笑って誤魔化《ごまか》した。
「なんでもない。世古口《せこぐち》君、その卵焼きもらっていい?」
「いいよ」
ひょいとつまんだ卵焼きを、こちらのご飯の上に置いてくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがと。あ、おいしい」
塩味だった。しかもその塩|加減《かげん》がすばらしい。辛《から》くはないけれど、ちゃんと塩味が舌に伝《つた》わってきて、それが卵の甘みを引き立てている。
「ほんとにおいしいね、この卵焼き」
えへへ、と世古口君は笑った。
「いつもとは違《ちが》う塩を使ってみたんだ。モロッコ産の塩で、日本の塩とは少し味が違うんだよね。ちょっと雑味があるんだけど、それがおいしいんだ」
「うん、わかるよ」
「塩って、いろいろあるんだよ。きれいに精製された塩ばっかり売ってるけど、本当は雑味があるほうがおいしいんだ。それでアクセントをつけられるからね。でも、高いんだよね、そういう塩って」
「お小遣《こづか》いで買ってるの?」
「うん。そうだよ」
色恋ごとはさっぱりなのに、塩とか砂糖とか、ターメリックとかクミンとか、そういうことになると世古口君はすごく饒舌《じょうぜつ》になる。
それがちょっと悔《くや》しい。
あんなに大きなお弁当の中身は、あっさりと消えてしまった。
食べるのが遅《おそ》いあたしを、世古口君はじっと待っていてくれた。
「お茶、持ってくるね」
立ち上がった背中《せなか》が、遠ざかっていく。こういうとき、大切にされているんだなと思う。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
プラスチックの器《うつわ》にお茶がたっぷり注《つ》がれていた。向かい合って座《すわ》り、まるでお爺《じい》ちゃんとお婆《ばあ》ちゃんみたいに、そのお茶をすする。落ち着くのだ、確《たし》かに。こうして彼といると、心の奥底《おくそこ》がすうっと穏《おだ》やかになる。日向《ひなた》ぼっこでもしてるみたいな感じ。この人となら、ずっとこんなふうに日向ぼっこをしてるような気分でいられるだろう。
世古口君の笑顔《えがお》は、あたしを違うところにつれていってくれる。それはとても広くてきれいなところだ。彼がずっと住んでいる場所。あたしひとりでは決してたどり着けない場所。そんな世界を持っている彼がまぶしくてたまらない。
恋なんて、単純なものだ。
世古口《せこぐち》君の笑顔《えがお》が直視《ちょくし》できないくらいまぶしくて、見せてくれる世界があまりにも優《やさ》しくて、その大きな手や、広い肩《かた》や、低い声に、意味もなくドキドキする。かっこいいとか、足が速いとか、あるいは自分と似《に》ているとか、今まではそんな理由で誰《だれ》かを好きになってきた。今回は、全然|違《ちが》う。そういう激《はげ》しさはないけれど、もっと奥深いところから沸《わ》き上《あ》がってくる気持ちがある。
こんな感情が自分の中に眠《ねむ》ってたなんて、思いもしなかった。
あたしという地層《ちそう》をどんどん掘《ほ》っていったら、まるで違うものが出てきた。あるはずがないと思っていたものだった。
それを見つけてくれたのは、世古口君だった。
「世古口君」
「ん、なに」
「あのね」
「うん」
なにを言いたかったのだろうか。彼のきょとんとした呑気《のんき》な顔を見ていたら、なんだかどうでもよくなってきた。
「今日、いっしょに帰ろうね」
「そうだね」
あ、という顔を彼がした。
「家に帰ったら、ドーナッツを作ろうと思ってるんだ」
「え? ほんとに?」
「パン生地《きじ》のヤツじゃなくて、昔っぽい感じのヤツ。レシピを見つけたんだよね。すぐに作れるから、いっしょに食べようよ」
「うん」
まあ、こういう特典もあるしね。昔ながらのドーナッツか。世古口君が作るんだから、きっとおいしいだろうな。
すごく楽しみだった。
「ありえない。ありえないよな」
ぶつぶつ呟《つぶや》きながら、僕は長く続く下り坂を歩いていた。坂道はゆったりと右にカーブしていて、自転車を引きながら歩くのはけっこう大変だ。いや、大変ってほどじゃないけどさ、もちろん。するすると前に進んでいってしまう自転車を抑《おさ》えるのが面倒《めんどう》っていうか。
「結婚とか、なんで出てくるんだろうな」
僕の呟《つぶや》きに、里香《りか》はうーんと唸《うな》った。
「誰《だれ》がそんなこと言ったの?」
「決まってるだろ、バカ山西《やまにし》だよ」
「山西君か」
「おまえもなんか言われたんじゃないか?」
「言われたよ。里香|先輩《せんぱい》、結婚してるってほんとですかっていろんな人に聞かれた」
里香は同級生たちから先輩≠ニ呼ばれている。一年生として学校に通っているとはいえ、実際《じっさい》の里香は十八歳だ。十五歳と十六歳が詰《つ》めこまれている一年の教室の中ではひときわ大人びている。だからまあ、一年どもにしてみれば、先輩≠ニ呼《よ》びたくなるのだろう。
「結婚のこと、たぶん十人以上に聞かれたんじゃないかな」
「うわ、マジかよ」
僕は頭がくらくらしてきた。そんなことをいちいち聞きにいくなってんだ。デマに決まってるだろうが。だいたい山西の言ったことを信じるなんてどうかしてる。――と、そう思う僕の脳裏《のうり》に、例の婚姻届《こんいんとどけ》のことが浮《う》かんだ。
婚姻届のことを、僕は里香に話していない。
だいたいそんなのどう話せばいいっていうんだ。口にしたら、里香は怒《おこ》るか笑うかどちらかだろう。どちらにしろ、全然楽しい反応《はんのう》じゃない。黙《だま》っておくほうが賢明《けんめい》だ。いや、なかったことにするのが一番だ。
山西が下らないことを二度と言わないよう、念押《ねんお》ししておかなければ。
「女の子って、そういう話題好きだからね」
「で、おまえ、なんて答えたの?」
そこで里香が僕を見てきた。からかうような顔をしている。
「なんて答えて欲しかった?」
「それは……おまえ……」
「なに?」
言葉《ことば》に詰《つ》まったのは、里香が意地悪《いじわる》そうな顔をしてたからじゃない。意地悪そうな瞳《ひとみ》の奥《おく》に、少しだけ真剣《しんけん》な輝《かがや》きがあったからだ。僕はその輝きの意味をどう捉《とら》えていいかわからなかった。試《ため》しているのか、確《たし》かめているのか。
悩《なや》んでたせいで、自転車のペダルに臑《すね》を思いっきりぶつけてしまった。
「痛《いた》っ! 打った! 痛い痛い痛い!」
これを幸《さいわ》いに、僕は大げさに痛がった。右手で自転車のハンドルを持ちつつ、左手で臑を押さえて、ぴょんぴょんと、まるで壊《こわ》れたオモチャみたいに飛《と》び跳《は》ねた。里香の瞳からは意地悪な輝《かがや》きも真剣《しんけん》な輝きも消え失せ、ゲラゲラと笑いだした。
「裕一《ゆういち》ってバカなの。朝と同じことしてるし」
「バカとはなんだ! バカとは!」
必要《ひつよう》以上に大きな声で僕は叫《さけ》んだ。
「足、折れそうなんだぞ! うわ、マジで痛《いた》い!」
さらにぴょんぴょんと飛《と》び跳《は》ねる。
そんな僕を見て、里香《りか》は笑いつづけた。笑いすぎて涙《なみだ》が出てきたらしく、そのほっそりした人差し指で目の端《はし》っこを拭《ぬぐ》っている。
僕はひたすら愚痴《ぐち》りつづけた。
「ああ、痛かった。てか、まだ痛い。ジンジンしてる」
「バカだなあ、ほんと」
「人のことをバカバカ言うなって」
僕は自転車に跨《またが》った。
「乗れよ。ふたり乗りで下りちまおうぜ」
「見つかったら、先生に怒《おこ》られるよ」
里香は意外とまじめだ。
それに恐《こわ》がりだ。
「大丈夫《だいじょうぶ》だって。見つからなきゃいいんだよ。ほら、鞄《かばん》貸《か》せよ」
「コケないでよね」
「大丈夫だって。コケねえって」
里香から鞄を受け取ったものの、僕の鞄もあるから、うまく入れないと収《おさ》まらない。ふたつの鞄を出したり入れたりしながら、ごそごそとその位置《いち》を直していたところ、里香が自転車の荷台《にだい》に腰《こし》かけてきた。
その手が、僕の腰の辺《あた》りを掴《つか》む。
なんだか少し心がくすぐったくなった。
「行くぞ。ちゃんと掴まってろよ」
「うん」
僕は地面を蹴《け》り、ペダルを踏《ふ》んだ。下り坂なので、二、三回ペダルをまわせば、あとはどんどん勢《いきお》いがつくばかりだ。むしろブレーキでその勢いを抑《おさ》えなければいけない。
空気が風になって、僕に、里香に、吹きつけてくる。
ものすごくいい気持ちだった。
最高だった。
このままどこまでだって行けそうだ。
木々のあいだから、一瞬《いっしゅん》だけ伊勢《いせ》の町が見えた。あそこまで僕たちは下っていくのだ。僕と里香《りか》が住む世界だ。
ブレーキを握《にぎ》るたびに、僕のボロ自転車がギギイと悲鳴《ひめい》をあげる。
大きな椎《しい》の木があるカーブを曲がると、そこから先はしばらく登り坂になっている。勢《いきお》いで登っていけたのはほんの五メートルほどで、あとは自転車をこがなければいけない。右足に、左足に、力をこめる。当たり前だけど、ひとりで乗っているよりずっとペダルが重い。でも、それはとても幸せな重さだった。
こうして僕は生きていくんだ。
後ろに里香を乗せて、右足に、左足に力をこめて、坂を登っていくんだ。
「下りようか?」
里香が後ろから尋《たず》ねてきた。
僕はちょっとだけ大きな声で言った。
「バカにするなよ。こんな坂、平気だって」
とはいえ、なかなか大変《たいへん》だった。坂の終わりのほうは、頑張《がんば》って立ちこぎまでしなきゃいけなかった。
「がんばれ、裕一《ゆういち》」
「おう」
「がんばれ」
里香の声に励《はげ》まされ、坂を登っていく。
あと少しだ。
残り五メートル。
三メートル。
ほら、もう登りきる。
坂のてっぺんにたどり着くと、青空が大きく広がった。呑気《のんき》な秋の雲がゆっくりと右から左へ流れていく。銀色に輝《かがや》く飛行機が小さく見えた。宇治山田《うじやまだ》駅が見えた。神宮《じんぐう》の森が見えた。そして砲台山《ほうだいやま》が見えた。
「おっし! 登りきった!」
熱《あつ》い息で、僕は言った。
ちょっと得意《とくい》げな声になっていた。
後ろで里香がくすくす笑う。
「偉《えら》い偉い」
そして僕の後頭部《こうとうぶ》を撫《な》でてくる。
僕はあえて不機嫌《ふきげん》な調子《ちょうし》で言った。
「犬じゃねえぞ」
「褒《ほ》めてあげてるんだよ。ほら、偉い偉い」
「だから、犬じゃねえって」
不機嫌《ふきげん》に言いながらも、僕は嬉《うれ》しくてたまらなかった。里香《りか》の手が、僕の後頭部《こうとうぶ》を撫《な》でている。そのくすぐったい感触《かんしょく》に、顔がつい笑ってしまう。もちろん後ろにいる里香に、僕の顔は見えないだろうけど。だからこそ、僕はよけいにニヤニヤ笑っておいた。
しばらくしてから振《ふ》り返《かえ》ってみると、里香の長い髪《かみ》が吹きつけてくる風に揺《ゆ》れ、ふわふわと舞《ま》っていた。まるで今の僕の気持ちのように軽《かろ》やかだった。
そして里香も笑っていた。
空を見て、笑っていた。
弾《はず》んだ気持ちで、僕は言った。
「七越《ななこし》ぱんじゅうでも買って、うちで食べようぜ」
「あ、いいね」
「奢《おご》ってやるよ」
「ほんとに?」
「おお。太《ふと》っ腹《ぱら》だからな、オレは」
「やったあ」
里香の弾《はず》んだ声が、僕の心をさらに弾ませる。
そして坂を下っていく。
ブレーキをかけながら、ギイギイと悲鳴《ひめい》みたいな音を響《ひび》かせながら、下っていく。
新道の向かい側にある店で、七越《ななこし》ぱんじゅうを買った。辺《あた》りには小麦粉を焼く匂《にお》いと、アンコの甘い匂いが漂《ただよ》っている。茶色の紙袋に入った七越ぱんじゅうを、里香《りか》は大事そうに胸《むね》に抱《かか》えた。
「早く早く。冷《さ》めちゃうよ」
「無理《むり》だって。家に帰るころには冷めてるよ」
ええ、と非難《ひなん》するような声。
「じゃあ、ここでひとつ食べよう」
「あ、それもいいな」
伊勢市《いせし》駅前には、変なモニュメントがある。高さ十五メートルくらいの巨大な灯籠《とうろう》で、『ようこそお伊勢さんへ』なんていう独創性《どくそうせい》のカケラもない言葉《ことば》が書いてあったりする。その足下に、僕は自転車をとめた。
「座《すわ》れよ」
荷台《にだい》を指差す。
うんと肯《うなず》いて、里香は座った。里香はわがままだけど、自分が楽になる提案《ていあん》にだけはものすごく素直《すなお》なのだ。
僕はそんな里香の前に立ち、手を伸ばした。
「ひとつ、くれよ」
「はい」
「さんきゅ」
里香が渡《わた》してくれた七越ぱんじゅうはまだ温《あたた》かく、手のひらにそのぬくもりがじんわりと伝《つた》わってきた。
「これ、伊勢名物なんでしょ」
「そうなのかな? 浜松《はままつ》にはなかった?」
「うん」
「そっか。じゃあ、伊勢名物なんだな」
伊勢にしかないなんて、知らなかったな。伊勢を出たことなんてないし。七越ぱんじゅうの形は、たこ焼きに似《に》ている。色も形もまあ、そんなものだ。ただし中に入っているのはタコじゃなくてアンコだし、味はもちろん甘い。要《よう》するにちょっと小さな今川焼《いまがわや》きみたいなものだ。
「うわ、熱《あつ》っ!」
噛《か》むと、中から熱々のアンコが漏《も》れだしてきた。口の上のほうにアンコが張《は》りついて、熱いというよりもむしろ痛《いた》い。
「熱《あつ》い熱い! 火傷《やけど》する!」
慌《あわ》てる僕を見て、里香《りか》は心配《しんぱい》するどころかゲラゲラ笑った。
まったくなんて性格の悪い女なんだ。
口を開けて、息《いき》を大きく吸ったり吐《は》いたりする。アンコが張《は》りついた部分がヒリヒリと痛《いた》かった。マジで火傷したらしい。
僕の失敗を見た里香は、慎重《しんちょう》に七越《ななこし》ぱんじゅうを囓《かじ》った。
「あ、おいしいね」
「いや……痛くてそれどころじゃ……」
「おいしいよ」
もぐもぐ食べながら、幸せそうに笑ってやがる。まったく、なんで女ってのは、こんなに甘いものが好きなんだろうな。
すぐにひとつ食べてしまうと、里香はふたつめを袋《ふくろ》から取りだした。
「おい、待てって。ここで全部食べちまうのかよ」
「だっておいしいよ」
「あとはオレんちで食おうぜ。お茶でも入れるからさ」
「そっか、そうだよね」
なんて言いつつも、名残惜《なごりお》しそうに、里香は七越ぱんじゅうを袋に戻《もど》した。そしてもう一度、自転車にふたり乗りしたとき、気づいた。
女の子がいた。
ひとりっきりで、伊勢市《いせし》駅の前に立っている。
遠目《とおめ》から見ても可愛《かわい》いとわかる顔立ち。なんとなくボーイッシュな感じ。里香とはまったく違《ちが》うタイプだ。同じように気が強いけれど、もっと視線《しせん》が鋭《するど》いっていうか。ちょっと体育会系っぽいっていうか。
吉崎《よしざき》多香子《たかこ》。一年三組。
里香の同級生だった。
僕は気づいた。きっと里香も気づいた。けれど僕たちはそのことを口にしなかった。黙《だま》ったまま、駅を離《はな》れた。
背中《せなか》に吉崎多香子の視線を感じた。
まあ吉崎多香子がバカなんだ。
いくら地元の中学でブイブイいってたからって、ちょっとくらい不良気取りだからって、里香にかなうわけがないんだ。
最初、クラスの中で里香《りか》は浮《う》いていたらしい。
そりゃそうだ。十五歳と十六歳が詰《つ》めこまれた教室の中に、たったひとり十八歳がいるのだ。四十歳とか五十歳になれば、ふたつの年の差なんてたいしたことないかもしれないけど、十代じゃけっこう違《ちが》ってくる。
明らかに里香は大人びていて、それに比べると周《まわ》りのクラスメイトたちはいかにも子供って感じだった。しかし、だからといって、すぐさま周りの連中が里香を敬《うやま》ってくれるかといえば、そんなわけがなかった。
腫《は》れ物《もの》ってヤツだ。
ものすごく丁寧《ていねい》に接《せっ》してきて、ひたすら敬語《けいご》って子もいれば、ろくに口をきこうともしない子もいたそうだ。そして意味もなく突《つ》っかかってくる子も。
吉崎《よしざき》多香子《たかこ》は、その突っかかってくるタイプの女の子たちをまとめていた。
まあ女ボスってところだ。
それにしても女ってのは不思議《ふしぎ》な生き物だった。僕たち男だって、もちろん仲のいい悪いはある。派閥《はばつ》ってほど立派《りっぱ》なもんじゃないけどさ。クラス替えから一週間もすれば、グループみたいなものができあがるもんだ。ただ、女の子たちのグループは、男よりちょっとばかり結束《けっそく》が固《かた》い感じがする。嫌《いや》な言い方をしちゃうと――仲間内だけで盛《も》り上《あ》がって、仲間以外は見下してるっていうか。でもって、どのグループに入るかがけっこう重要らしい。なのに、つまらないことでそのグループから弾《はじ》きだされたりもする。
ちょっと前まで仲良くしてた子たちが、急によそよそしくなって、気がつくと誰《だれ》かがひとりきりになってたりとか。そういう子はたいてい思《おも》い詰《つ》めたような顔をしてテンパってる。
たかが学校のグループだろ?
僕なんかはそんなことを思ってしまうのだけれど、女の子たちにとってはけっこうな死活《しかつ》問題らしい。
吉崎多香子は、クラスで一番声が大きくて、うるさくて、似《に》たような女の子たちをまとめあげた。それならまあ、いいさ。たいした問題じゃない。勝手にやってろって感じだ。気の合う連中とつるんでるのが楽しいのはわかるし。僕だって、司《つかさ》や山西《やまにし》とつるんでるわけだし。
だけど、そんな悠長《ゆうちょう》なことを言ってられなくなった。
どこかの政治家が断言《だんげん》してたけど、組織《そしき》をまとめるのに一番|有効《ゆうこう》なのは、外に敵《てき》を作ることなのだそうだ。誰かを攻撃《こうげき》してれば、勝手に組織はまとまる。仲間割れの心配《しんぱい》もない。さすが中学でブイブイいってただけあって、吉崎多香子はそういうことをよく知っていた。頭じゃなくて、感覚《かんかく》で理解《りかい》していた。
吉崎多香子が選んだ敵は、里香だった。
なぜ里香だったのかは、よくわからない。たぶん里香がちょっと浮いた存在《そんざい》だったからなのだろう。それに大半のクラスメイトたちが里香を先輩《せんぱい》として扱《あつか》うのが気にくわなかったのかもしれない。
ああ、もうひとつあるかも。
吉崎《よしざき》多香子《たかこ》はけっこうな美人だった。男子限定の人気コンテストなら、クラスで一番か二番、学年でも十番以内だ。ところが、そんな吉崎多香子も、里香《りか》の隣《となり》に立つと、途端《とたん》に存在《そんざい》がくすんだ。里香の長い髪《かみ》や細い手足、整《ととの》った顔、なにより自然と誰《だれ》をも圧倒《あっとう》してしまう雰囲気《ふんいき》の前では、吉崎多香子のそれなりの美しさは、なんの意味も持たなかった。たぶん吉崎多香子はなぜ自分が里香にかなわないのか理解《りかい》できなかったんだろう。顔だけを見たら、全然勝負にならないってほどでもない。男が十人いれば、三人くらいは吉崎のほうがいいって言うだろう。だけどいざ並《なら》んで立ってみると、十人中十人が、まず里香を選ぶ。なぜそうなるのか、吉崎多香子にはわからなかった。
僕は、わかる。
だって里香は命の瀬戸際《せとぎわ》で生きてきたんだ。小さなころから、毎日毎日、死の影《かげ》を感じつづけてきた。明日を……いや今日という日さえも、里香は信じられなかった。そんな日々の連続が、里香という人間のなにかを突出《とっしゅつ》させてしまったのだ。
里香は今だけを生きている。
一秒一秒|過《す》ぎていく、その瞬間《しゅんかん》だけを信じている。
だから里香の瞳《ひとみ》は揺《ゆ》るぎない。
強い。
一年先を信じていて、十年先も信じていて、その先さえも当たり前のように受け入れている吉崎多香子が、里香にかなうわけがないのだった。
覚悟《かくご》が違《ちが》う――。
小賢《こざか》しいがゆえに、吉崎多香子はそのことに気づかなかった。里香にちょっかいを出した。最初はまあ、たいしたことなかったらしい。ちょっと悪口を言ったり、班を作るときに里香をハブにしようとしたり、意味もなく体をぶつけてごめんとわざとらしく謝《あやま》ったりする程度《ていど》だったそうだ。
ちょうどそのころ、みゆきに相談されたことがあった。
「里香、ちょっとまずいと思うんだけど」
僕は呑気《のんき》に尋《たず》ねたものだった。
「まずいって? なにが?」
「吉崎多香子って知ってる? 一年で、里香と同じクラスの子」
もちろん知っていた。新入生の女の子をチェックするのは、男子学生の最大の楽しみだ。物好きなヤツなんかは、人気|投票《とうひょう》までやったりする。僕のところには、その人気投票じゃなくて、人気投票に対する賭《か》けがまわってきた。十五人くらいの女の子の名前が書いてあって、それぞれに◎だの△だのがついており、さらにオッズまで書いてあった。吉崎多香子のオッズは七倍ちょっとだった。一番にはならないと思われているものの、ドンケツはないってところだ。
みゆきから吉崎《よしざき》多香子《たかこ》の名前を聞いたとき、真っ先に浮《う》かんだのはその出走表のことだった。もちろん、そんな下らないことは、みゆきには黙《だま》っておいたけどさ。下手《へた》に喋《しゃべ》ったら、軽蔑《けいべつ》されるだけだし。
「吉崎? あのボーイッシュな子だっけ?」
知ってるくせに、僕はトボケておいた。
みゆきは、うんと肯《うなず》いた。
「ちょっとやばいかも」
「やばいって?」
「里香《りか》を敵視《てきし》してる」
「マジで?」
「まだそんなたいしたことないけどね。ちょっとした嫌《いや》がらせくらい。あと陰口《かげぐち》とか。なんかちょこちょこ里香のこと悪く言って、学年から浮《う》かせようとしてるみたい」
「やばいな、それ」
「うん、やばいよね」
僕たちは階段の踊《おど》り場《ば》にいた。上のほうにある窓から、春の陽光《ようこう》が落ちてきていた。階段を誰《だれ》かが下りてくるたびに、その影が僕たちの足下を走っていった。
「おまえ、どうにかやめさせられないか」
「無理《むり》だよ、そんなの」
僕の問いに、みゆきは首を振《ふ》った。
「学年が違《ちが》うと、どうにもならないもの」
「まあ、そりゃそうか」
「大丈夫《だいじょうぶ》かな」
「いや、駄目《だめ》だろ」
「駄目だよね」
僕たちは顔を見合わせ、溜息《ためいき》をついた。
「かわいそうに、あの子」
心底《しんそこ》同情する声で、みゆきが言った。
僕は肯いておいた。
「ほんと、かわいそうにな」
僕たちが心配《しんぱい》してるのは、里香じゃなかった。吉崎多香子のほうだった。なにしろ、里香はずっと病院の中で大人たちを翻弄《ほんろう》しつづけてきたのだ。何人もの看護婦《かんごふ》を泣かせたし、医者だって里香にはお手上げだった。あの意地悪野郎《いじわるやろう》の夏目《なつめ》でさえ、里香を御《ぎょ》すことはできなかった。
吉崎多香子ごときがどうにかできる相手ではなかった。
その杞憂《きゆう》は、杞憂に終わらなかった。
展開《てんかい》はあまりにも早く、僕とみゆきが踊《おど》り場《ば》会談を開催《かいさい》した翌日《よくじつ》、それは起きた。先に手を出したのは吉崎《よしざき》多香子《たかこ》だったらしい。
というか、手を出させられたのだ。
聞いた話だと、吉崎多香子は里香《りか》の席に腰掛《こしか》け、友達と話していたらしい。里香が戻《もど》ってきても席を譲《ゆず》らず、気づいてるくせに気づいていない振《ふ》りをした。里香が戸惑《とまど》って立ちつくすとでも思ったんだろうか。だとしたら、とんでもない思《おも》い違《ちが》いだ。もし僕が過去に戻れるなら、その場に駆《か》けつけて言ってやりたい。やめとけ、と。おまえがどうにかできる相手じゃないんだぞって。
里香はもちろん、立ちつくしたりしなかった。
「邪魔《じゃま》なんだけど」
里香はいきなりそう言ったのだ。クラスの女ボスで、一番声が大きくて、元気で、派手《はで》なグループを率《ひき》いている吉崎多香子に。
そんな口をきかれたことなんて、吉崎多香子はなかったかもしれない。
「はあ?」
余裕《よゆう》を見せようとして、吉崎多香子はトボケたそうだ。
里香は容赦《ようしゃ》しなかった。
「だから、邪魔」
ひどく冷たい声で、そう言い捨てたのだ。そして、吉崎多香子をじっと見つめた。こういうのは、最初にビビったほうが負けだ。里香の視線《しせん》に、その沈黙《ちんもく》の重さに、吉崎多香子は耐《た》えられなかった。あの澄《す》んだ黒い瞳《ひとみ》の輝《かがや》きに、落ち着き具合《ぐあい》に、あっさり負けた。
「えー、聞こえ[#「え」は底本では無し]ないなあ」
ありふれた下らないことを言って、それでも吉崎多香子は抵抗《ていこう》した。沈黙に耐えられなかったものの、どうにか強がったってわけだった。仲間の前で弱いところを見せたくなかったのだろう。精一杯《せいいっぱい》の勇気を奮《ふる》い起《お》こしていたに違いない。
その場にいなくても、彼女の心理《しんり》が手に取るようにわかる。吉崎多香子はすでに震《ふる》え上《あ》がっていたはずだ。そして、こうも思っていただろう。この小さな女がなんでこんなにも怖《こわ》いんだろうって。
里香の視線は、少しも揺《ゆ》るがなかったそうだ。
「そこ、あたしの席だから。どきなさい」
里香は命じた。脅《おど》すのでもなく、頼《たの》むのでもなく、蔑《さげす》んだ。
もしほんの少しでも里香に怯《おび》えの影《かげ》が見えたのなら、吉崎多香子にもチャンスがあっただろう。そこにつけこんで、立場を逆転《ぎゃくてん》させたかもしれない。そういうとき、女という生き物は恐《おそ》ろしく直観的《ちょっかんてき》で、男以上に残酷《ざんこく》なものだから。しかし里香《りか》の言葉《ことば》は冷静《れいせい》で、吉崎《よしざき》多香子《たかこ》を見下しており、それを隠《かく》さず、なおかつ態度《たいど》に微塵《みじん》の怯《おび》えもなかった。里香の持つ雰囲気《ふんいき》はおそらく教室中に広がっていたはずだ。そのとき教室内にいた誰《だれ》もが里香の雰囲気に気圧《けお》され、里香よりもずっと体の大きい吉崎多香子がか弱い生き物のように見えていただろう。仲間を引き連れている吉崎多香子のほうが、劣勢《れっせい》になってしまっていた。
吉崎多香子は、見事《みごと》に間違《まちが》った。
いきなり立ち上がった吉崎多香子は、里香に体を寄せた。たぶんちょっと圧力をかけるくらいのつもりだったのだろう。あるいは勢《いきお》いよく立ち上がったため、里香のほうに体が行ってしまったのかもしれない。けれど、周《まわ》りにいた連中には、吉崎多香子が里香に体をぶつけたように見えた。
里香はあっさりと倒《たお》れこんだ。ただ倒れこんだだけじゃなく、後ろにあった机を巻《ま》きこんで、実に大きな音を立てて、派手《はで》に倒れこんだ。
吉崎多香子は女の子にしては体が大きく、中学の時はバレー部だったそうだ。
里香は逆《ぎゃく》に小さい。
誰だって、里香の体がまともじゃないことは知っている。でなきゃ二年も遅《おく》れて編入《へんにゅう》してくるものか。噂《うわさ》で広まってる程度《ていど》だったけれど、だからこそ里香のことを明日をも知れない命だと思いこんでる連中ばかりだった。
そのか弱い里香を、吉崎多香子が苛立《いらだ》ちまみれに突き飛ばした――ように見えた。
こういうとき、事実がどうかなんて関係ない。事実よりも、どう見えたのか、どう感じられたかのほうが大切なのだ。僕は吉崎多香子に心の底《そこ》から同情する。なぜなら里香は自分から吉崎多香子にぶつかっていったからだ。誰に言ってもそんなこと信じないだろうけど、僕にはわかる。そのわずかなチャンスを、里香が見逃《みのが》すはずはないんだ。立ち上がった吉崎多香子にすっと体を寄せ、ほんのちょっとしか当たってないのに、里香は自ら後ろに吹っ飛んだのだ。里香の性格の悪さを、吉崎多香子は知らなかった。それが敗因《はいいん》だ。里香に反撃《はんげき》のチャンスを与《あた》えてしまった。
小さくてか弱い里香が倒れたら、誰だって吉崎多香子にやられたんだと思う。
体の弱い里香。明日をも知れない里香。その里香に暴力《ぼうりょく》を振《ふ》るったというだけで、その場の空気は、吉崎多香子にとってひどく好ましくないものに変わった。それまでクラスの女子を仕切っていたことも、かえって仇《あだ》になったかもしれない。誰もが吉崎多香子にかすかな反感を抱《いだ》いていたのだ。おそらく里香はそこまで計算していたのだろう。
その反感に、里香が火をつけた。
倒れこんだ里香は、ひどく苦しそうに咳《せ》きこんだ。そして胸《むね》を押《お》さえた。苦しそうだった。今にも死ぬかもしれないとクラスメイトたちは思った。もちろんそれは里香の演技だった。里香の病気は心臓だ。具合《ぐあい》が悪くなったからといって、咳《せ》きこんだりはしない。わかりやすい表現だから、咳きこんだ振《ふ》りをしたのだろう。しかし里香《りか》がそんなことをするとは思わないクラスメイトたちは……普通《ふつう》、そこまでするとは思わないよな……あっさり騙《だま》された。先生を呼《よ》んでくると言ってひとりが駆《か》けだし、三人がそのあとに続いた。数人の女の子たちが里香に駆け寄り、しっかりしてくださいとか、すぐに先生が来ますとか、声をかけた。そして残りの全員が、その事態《じたい》を引き起こした吉崎《よしざき》多香子《たかこ》を冷たい目で見つめた。
吉崎多香子は、間違《まちが》いを重ねた。
「あたしじゃない! だって当たってないし!」
下らない言《い》い訳《わけ》にしか聞こえなかった。
クラスメイトたちの冷たい目に、怒《いか》りが宿った。
現に秋庭《あきば》里香は苦しんでいるではないか。他に誰《だれ》がやるのだ。当たったのは誰もが見ていた。実際《じっさい》にはそう見えるよう里香が仕組《しく》んだだけなのだが、人間というのは一度思いこむと、それが真実だと信じてしまう。
吉崎多香子はそのことにも気づかなかった。
「ほんとあたしじゃない! 違うから!」
叫《さけ》べば叫ぶほど、吉崎多香子は孤立《こりつ》した。
彼女の腰巾着《こしぎんちゃく》Aだった松田《まつだ》由利《ゆり》が、すっと吉崎多香子から離《はな》れた。ほんの五センチくらい身を引いただけだったけど、それがきっかけになった。腰巾着Bの佐原《さはら》雪恵《ゆきえ》はもっと離れた。数分後、教室を駆けだしていった生徒が先生を連れて戻《もど》ってきたとき、吉崎多香子の周《まわ》りには誰もいなかったそうだ。
彼女はひとりだった。
以来、ずっとひとりだ。
「吉崎、まだ浮《う》いてんの?」
自転車をこぎながら、僕は尋《たず》ねた。
うん、と里香の声が背後《はいご》から聞こえてくる。
「気まずそうにしてるよ」
「そうか」
まあ、自業自得《じごうじとく》なのだ。里香に喧嘩《けんか》を売るなんて、バカなことをするからだ。しかし痛快《つうかい》に笑えるかといえば、そんなわけはなかった。里香はなにも言わないけれど、だからこそ吉崎多香子のことを気にしてるのが僕にはわかった。
正直に言うと、僕は吉崎多香子がどうなろうが知ったことじゃなかった。彼女は今まで、自分より立場の弱い子たちをさんざんいじめてきたはずだ。仲間はずれなんて、しょっちゅうやってたんだろう。そして平気で笑ってたんだ。誰《だれ》かの悲しみも、痛《いた》みも、考えもしなかった。むしろ笑って楽しんでた。それが今度は彼女にまわってきただけの話だ。
僕は里香《りか》が楽しく暮《く》らせれば、それでよかった。
他の誰かが泣こうと、辛《つら》い思いをしようと、かまわなかった。
ああ、そうだ、全然気にしちゃいないさ。
「飛ばすぞ」
僕はいろんなことを誤魔化《ごまか》すため、言った。
うん、と里香の声が背後《はいご》から聞こえた。
家の前に自転車をとめると、里香がよいしょと小さな声を出して荷台《にだい》から下りた。彼女のほっそりした足が、地面を捉《とら》える。僕はスタンドを立て、カゴから僕と里香の鞄《かばん》を取りだすと、家の玄関《げんかん》を開けた。伊勢《いせ》は昔ながらの引き戸が多い。横に開けるタイプの玄関だ。でもって僕んちは思いっきり古いから、ガラガラと大きな音がする。
「お帰り」
というわけで、帰ってきたことがすぐ親にばれてしまう。居間《いま》から顔を出した母親は、里香を見るなり、にっこり笑った。
「いらっしゃい、里香ちゃん」
「こんにちは」
里香もまた、にっこり笑う。うちの母親は里香を気に入ったらしい。里香が家に来ると、僕より先に、里香に目をやる。でもって、僕よりもたくさん、里香に話しかける。里香のほうも母親とは気が合うみたいで、下らないことをべらべら喋《しゃべ》り合《あ》ったりする。
「七越《ななこし》ぱんじゅう買ってきたんですけど、食べますか」
里香は言って、袋《ふくろ》を差しだした。
ちょっと待て。僕は叫《さけ》びそうになった。それは僕といっしょに、上の部屋《へや》で食べる予定だっただろ。なにいきなり渡《わた》してんだよ。
母親は喜んで受け取り、さっそく袋の中を覗《のぞ》いた。
「おいしそうね。お茶でもいれるわ」
「あたし、手伝います」
「あら、ありがと」
ふたりはそんなことを言いながら、奥《おく》のほうへと消えていった。僕は「あの」とか「その」とか「オレの部屋へ」とかぶつぶつ言ったけれど、そんな言葉《ことば》はふたりの耳にはまったく届《とど》いていないようだった。
そして僕はひとり玄関に立ちつくし、取り残された。ふと横を見ると、母親が北海道に行ったとき買ってきた木彫《きぼ》りの熊《くま》と目が合った。そいつは靴箱《くつばこ》の上に太い足を踏《ふ》ん張《ば》り、見事《みごと》に鮭《さけ》を咥《くわ》えていた。そう、僕は熊とふたりきりになっていた。
里香《りか》といっしょに部屋《へや》ですごすつもりだったんだ。ふたりきりの時間をさ、たっぷりと味わうつもりだったんだ。
なのに、なんでこんなことになってんだ?
熊に問いかけてみた。
もちろん、答えてくれなかった。
[#改ページ]
司《つかさ》とみゆきが遊びにきているけれど、戎崎《えざき》裕一《ゆういち》はひとりで暗い部屋《へや》に閉《と》じこもっている。北側にある四畳半。布団《ふとん》やらもう使ってない机やらが押《お》し込《こ》まれた場所。その四畳半の雨戸はきっちり閉められ、目張《めば》りまでされている。狭《せま》い空間の中は今、一筋《ひとすじ》の光もなかった。照明は消されている。窓は塞《ふさ》がれている。闇の中、戎崎裕一は手探《てさぐ》りでフィルムを現像《げんぞう》タンクのリールに巻《ま》いていた。これがけっこう難《むずか》しいのだ。溝《みぞ》にフィルムがはまるように指先で確認しながら、ぐるぐる巻いていかなければならない。ここをきちんとしておかないと、フィルムに現像液やら定着液《ていちゃくえき》やらがちゃんと触《ふ》れず、ムラになってしまう。閉《し》め切《き》った部屋の中は、さすがに暑い。ああ、これでちゃんと巻けているのだろうか。大丈夫《だいじょうぶ》だと思うが、なにしろ見えないのではっきりとはわからない。失敗したら、せっかく撮《と》った写真が駄目《だめ》になってしまうではないか。巻き直すか悩《なや》んだ末、戎崎裕一は覚悟《かくご》を決めて、このままいくことにした。きっと大丈夫だ。ちゃんと巻けてるさ。自分に言い聞かせつつ、巻き終わったところでフィルムを切って、端《はし》をちゃんととめる。あとはこのリールを現像タンクに入れればいいだけだ。それでとりあえず、明かりをつけられる。あれ、どこだ。ないぞ。現像タンクはどこにあるんだ。
φ
せっかく遊びにきたというのに、主である戎崎裕一は別の部屋に閉じこもってしまった。ふたりきりで取り残された世古口《せこぐち》司と水谷《みずたに》みゆきはいささか気恥《きは》ずかしそうである。世古口司はその大きな尻を、小さな勉強机の小さな椅子《いす》に乗せている。一方、水谷みゆきはベッドに寄りかかって座《すわ》っていた。伸ばした足をじっと見てみる。ちょっとO脚《きゃく》っぽい。恥ずかしいので、膝《ひざ》に力を入れてみる。どうにかくっついた。でもきつい。力を抜《ぬ》くとすぐに膝が離《はな》れてしまう。ため息《いき》をつきつつ顔を上げたら、世古口司と目が合った。微笑《ほほえ》んでくれた。それで微笑み返した。なんだか恥ずかしい。世古口司のほうも、もちろん恥ずかしかった。こういうとき、どうすればいいのかよくわからない。ちょっとした冗談《じょうだん》でも言って彼女を笑わせるべきなのだろうが、そういう機転《きてん》が自分にないことは百も承知《しょうち》している。あ、あのさ、と声が出る。なに、と彼女が尋《たず》ねてくる。なにを言おうとしていたのだろうか。わからないので、裕一出てこないねと言ってみる。そうだねと水谷みゆきが言ってくる。そこで少し沈黙《ちんもく》してしまう。間をどうにかするため、卓袱台《ちゃぶだい》の上にあったコップを手に取り、透明《とうめい》なサイダーをぐびぐび飲む。あ、と水谷みゆきが言う。なに、と尋ねる。それ、あたしの。え、水谷さんの。うん、あたしの。手の中のコップ。口をつけてしまったコップ。彼女のコップだ、これは。ということは、間接キスということだろうか。ご、ごめんと謝《あやま》る。ついどもってしまう。だ、大丈夫と水谷みゆきが言う。やはりどもっている。コップを卓袱台に置くと、彼女がすぐにそれを手に取り、一口飲んでくれた。気を遣《つか》って、あえて飲んでくれたのだとわかった。そのことがとても嬉《うれ》しい。緊張《きんちょう》が抜《ぬ》けた体を後ろに伸ばしたら、背《せ》もたれがガタンとはずれかかって、世古口司はごろんと後ろに転《ころ》がった。それはもう、見事《みごと》に転がった。大丈夫《だいじょうぶ》世古口《せこぐち》君、と声をあげながら、水谷《みずたに》みゆきが近づいてくる。大丈夫ではない。見事に頭を打った。しかし大丈夫大丈夫と繰《く》り返《かえ》しながら起《お》きあがろうとしたら、机の下に箱が置いてあることに気づいた。まるで隠《かく》してあるかのようだ。好奇心《こうきしん》が疼《うず》いて箱を取り出した。開けた。一枚の紙が入っていた。大きな箱に、紙が一枚。水谷みゆきが覗《のぞ》きこんできた。あ、これ、と彼女が言った。うん、と世古口司は肯《うなず》いた。ふたりでしばらく見ていた。顔が赤くなった。そのアイデアを思いついたのは、水谷みゆきだった。なかなか悪くないように思えた。だから実行した。
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探《さが》しに探し、暗闇《くらやみ》の中を這《は》いまわって、戎崎《えざき》裕一《ゆういち》はようやくタンクを見つけだした。なんのことはない。足下に転がっていた。焦《あせ》っていたせいで、置いた場所を忘《わす》れただけの話だった。明かりをつけると、目の奥《おく》が痛《いた》くなった。瞬《まばた》きを繰り返しながら、現像《げんぞう》タンクを眺《なが》める。大丈夫。ちゃんと蓋《ふた》はしまっている。現像液を入れ、十分。停止液《ていしえき》を入れ、一分。最後に定着液《ていちゃくえき》を入れ、三分。それでフィルムの現像が完了する。ほとんど自己流だし、本を読みながら勉強してるので失敗することも多いが、ここ三回は連続成功している。ようやく慣《な》れてきたのかなと思う。このフィルムには、いろいろなものが収《おさ》められている。里香《りか》の笑った顔。怒《おこ》った顔。いっしょにお弁当を食べる世古口司と水谷みゆきの姿《すがた》。婦長《ふちょう》に怒《おこ》られている亜希子《あきこ》さん。シガレットチョコをくわえた夏目。うまく写っていればいいな、と戎崎裕一は思う。写真に夢中である。だから今、彼の部屋でなにが進行しているのか、彼はまったく知らない。気づいていない。
事態《じたい》は密《ひそ》かに進行している。
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結局《けっきょく》、七越《ななこし》ぱんじゅうを居間《いま》で(僕の部屋《へや》ではなく!)、母親と一緒《いっしょ》に食べたところで(ふたりきりではなく!)、里香《りか》が帰る時間になった。
「夕飯も食べていけば?」
母親はそう誘《さそ》ったけれど、里香は首を振《ふ》った。
「母が夕食作ってると思いますから」
「ああ、そうねえ。里香ちゃんがいないと、お母さんもひとりだし、寂《さび》しいわよねえ」
「はい」
里香は実に健気《けなげ》に肯《うなず》き、玄関《げんかん》を出た。
「裕一《ゆういち》、送っていきなさい」
そんなことを、母親が言ってくる。
僕は唇《くちびる》をとがらせた。
「わかってるって」
なんで親ってのは、こっちがやろうと思ってることを、いちいち言ってくるんだろう。靴《くつ》を履《は》いてるんだから、送っていくつもりなのはわかるだろうに。
玄関《げんかん》を出ると、里香《りか》がそこに立っていた。
「送るぞ」
「うん」
そして僕たちは、少し暗くなった世古《せこ》を歩きだした。秋の日はもう建物《たてもの》の向こうに消え、空はうっすらとした闇《やみ》に染《そ》まっている。西のほうはまだ白っぽく光っているけれど、東はもう夜そのものだ。そんな空に、金色の大きな星が光っていた。宵《よい》の明星《みょうじょう》ってヤツだろう。僕たちが歩く世古のちょうどその先で、星は輝《かがや》いていた。
「きれいだな、あの星」
僕の言葉《ことば》でようやく気づいたらしく、里香は弾《はず》んだ声を出した。
「あ、ほんとだ。金星だね」
「金星だっけ?」
「宵の明星でしょ。金星だよ」
「へえ」
狭《せま》い世古を、僕たちは並《なら》んで歩いていく。金星に向かって歩いていく。あんまりにも星が明るいものだから、僕は振《ふ》り返《かえ》ってみた。
「なにしてるの、裕一」
「いや、影《かげ》ができてないかと思ってさ」
もちろん影なんてなかった。
「あるわけないよな、しょせん星だもんな」
自分の下らない考えに、思わず苦笑《にがわら》いしてしまう。
しかし里香は笑うことなく、
「できるよ、影」
と言った。
「え? できるって?」
「星の光で」
「ほんとに?」
「パパに聞いたことあるもの。まだ元気だったころ、アメリカに行ったのね、パパ。南部のほうの砂漠のど真ん中にいたら、星で影ができたって言ってた。ものすごく深い闇の中だと、星の光でも影ができるんだぞって」
へえ、と唸《うな》ってしまう。
父親のことを話す里香は、相変わらず上機嫌《じょうきげん》だ。僕はそんな里香のそばにいるのが嬉《うれ》しくて、あまり口を挟《はさ》まず、ただひたすら彼女の言葉に肯《うなず》きながら、その隣《となり》を歩きつづけた。世古を曲がると、金星は家の向こうへと消えてしまった。河崎《かわさき》の町屋通りに入り、その真ん中を歩いていく。町屋通りってのは、築《ちく》百年を超える大きな商家が立ち並んでいる通りのことだ。商人街って言い方もあったっけ。最近、こういう古い建物《たてもの》がブームになってるせいか、少しずつ観光客がやってくるようになった。観光客目当ての飲み屋とかお土産屋《みやげや》も何軒《なんけん》かできはじめている。ずっとここに住んでいる僕なんかからすると、ひどく不思議《ふしぎ》なことだった。こんな古くさい建物のどこがおもしろいんだろうか。
しばらく歩くうちに、町屋通りを抜《ぬ》けた。その裏手《うらて》は、すぐ川になっている。
「裕一《ゆういち》、なんで川沿《かわぞ》いに町屋が並《なら》んでるか知ってる?」
里香《りか》がそんなことを尋《たず》ねてきた。
「いや、知らないけど。たまたまじゃねえの」
違《ちが》うよ、と得意《とくい》げに里香。
「昔はこの勢田川《せたがわ》が物流の中心だったの。江戸時代はトラックなんてないでしょう。だから重いものは船を使って運んでたわけ。船でものを運んできて、直接それを搬入《はんにゅう》するために、川沿いに商家が建《た》てられたんだよ」
「ああ、なるほどな」
「地元なのに、全然知らないんだね、裕一は」
「地元じゃないおまえがなんで知ってるんだよ」
「調べたもの」
「え? なんで?」
「だって、おもしろいよ」
どうにも理解《りかい》できない。
そんな古くさいことのどこがおもしろいんだろう。
里香は伊勢《いせ》の歴史をいろいろ教えてくれた。どれも僕の知らないことばかりだった。伊勢生まれの僕がなにも知らなくて、伊勢に来て一年もたってない里香がいろいろ知ってるなんて、考えてみれば妙《みょう》な話だ。でも、まあ、そういうものなのかもしれないけど。ずっと住んでると、それが当たり前で、あんまり興味《きょうみ》とか持てないんだよな。
勢田川を跨《また》ぐ橋にさしかかった。
その真ん中で立ち止まり、僕は川沿いに並ぶ古い商家を眺《なが》めた。
「全然知らなかったな、そんなの」
「教えてもらったりしなかったの?」
「うん、まったく」
よく見ると、川側に小さな扉《とびら》がついている建物が何軒かあった。あそこから荷物を引《ひ》き揚《あ》げてたってわけだ。
「オレさ、伊勢のことって、実はなんにも知らないのかもな」
その瞬間《しゅんかん》、見慣《みな》れた風景がまったく違うものに思えた。
僕はここで生まれ、育ってきた。ありとあらゆる世古《せこ》を、そのつながってる先を、全部知っている。どこになにがあるかなんて、いちいち考えなくても思《おも》い浮《う》かべることができる。けれど今、僕の眼前《がんぜん》にあるのは、よく知らない町だった。
風が吹き、潮《しお》の匂《にお》いを運んできた。
「海の匂いがするね」
里香《りか》が言った。
「海、近いからな。二、三キロで河口《かこう》だし」
「金星、ずいぶん傾《かたむ》いたよ」
「あ、ほんとだ」
本当は少し動いただけなのだろうけれど、空の低いところにあるせいで、実際《じっさい》よりもずいぶん傾いたように感じられた。
僕と里香はしばらく黙《だま》ったまま、その星を眺《なが》めていた。
湿気《しっけ》を含《ふく》んだ重い風が、潮の匂いを運んでくる。そして里香の長い髪《かみ》を揺《ゆ》らす。まるで黒い衣《ころも》をまとっているかのようだ。里香はその顔を上げ、じっと星を見つめていた。彼女の青い髪留《かみど》めがきらりと輝《かがや》いた。外灯《がいとう》の光が反射《はんしゃ》しているのだろうか、それとも……金星の光だろうか。僕はその輝きに触《ふ》れたかった。いや、里香という存在《そんざい》を抱《だ》きしめたかった。
里香、と僕は彼女の名を呼《よ》んだ。
「なに」
星を見つめていたその目で、今度は僕を見る。僕はそっと体を寄せ、彼女の背中《せなか》に手を置いた。嫌《いや》がることなく、里香も体を寄せてきた。僕の肩《かた》に、形のいいおでこを乗せる。彼女の髪が頬《ほお》に触れて、じんと痺《しび》れたような感じになった。
抱きしめているわけじゃない。
ただ寄《よ》り添《そ》っているだけだ。
それなのに、どうしてこんなにも幸せな気持ちになれるんだろうか。手のひらに感じる彼女の背中はほっそりしていて、それがさらに僕の気持ちを締《し》めつけた。この小さな存在を、ぬくもりを、僕は手に入れたのだ。
ポケットに突っこんだままだった右手を出し、僕は彼女を抱きしめようとした。
そしてそのあとに――。
けれどいきなり、里香が僕からすっと身を引いた。僕たちのあいだを、少し冷たくなった風が吹き抜けていく。突然《とつぜん》の出来事《できごと》に僕は驚《おどろ》き、寂《さび》しくなり、切《せつ》なくなり、それからようやく気づいた。自転車がやってきたのだ。丸いライトが、ふらふら揺れながら、僕たちのほうに近づいてくる。僕はその光に殺意《さつい》さえ覚《おぼ》えた。
ああ、ちくしょう……もうちょっとだったのに……。
里香はさりげなく橋の欄干《らんかん》にもたれかかり、僕は星を見上げ、なんでもないですよなにもしてませんよという振《ふ》りをした。光が近づいてくる。ふらふらと地面を照らす。早く通り過ぎろよ、と僕は思った。さっきの雰囲気《ふんいき》が残っているうちに、通り過ぎてくれ。
ギイッ――
しかしそんな音とともに、自転車が目の前にとまった。乗っていたのはなんと山西《やまにし》で、僕の顔を見るなり、よおと声をかけてきた。
「なにしてんだよ、戎崎《えざき》」
「里香《りか》を送っていくところだよ。おまえは?」
「母ちゃんに豆腐《とうふ》買ってこいって言われて、買いにいくとこ。どうでもいいよな、豆腐なんて。別になくてもかまわねえのに、買ってこいとか言いやがってさ。せめて小遣《こづか》い寄越《よこ》せって言ったら、お釣《つ》りはやるって言われたんだけど、渡《わた》されたのたった百円だぜ。絶対《ぜったい》十円くらいしか残らねえよな。十円が駄賃《だちん》なんてガキじゃないんだから――」
下らないことを言い切る前に、山西の乗った自転車は倒《たお》れていた。もちろん山西もぶっ倒れていた。
僕が自転車にぶつかったせいだった。
「悪い悪い。ついふらついちまってさ」
僕はへらへら笑いながら謝《あやま》った。
もちろんわざとだ。
山西が、いやバカ山西が来なければ、里香といい雰囲気のままだったんだ。なのに、こいつが来たせいで、ブチ壊《こわ》しになってしまった。
山西は立ち上がり、突《つ》っかかってきた。
「おまえ、今、むちゃくちゃ痛《いた》かったぞ! あ、手、擦《す》りむいた! 血が! 血が!」
「あー、悪い悪い」
「今の絶対《ぜったい》わざとだろ! なんだよ、戎崎! オレがなにしたってんだよ!」
「いろいろしてるじゃねえか」
顔は笑いながらも、声は笑ってなかった。婚姻届《こんいんとど》けのこととか、そのあとの結婚|騒《さわ》ぎとかが頭に浮《う》かんで、怒《いか》りの導火線《どうかせん》に火がついてしまったのだった。
「はあ? なんだと?」
「だから、いろいろしてるだろ」
「んだよ! はっきり言ってみろよ!」
「おまえ、記憶力《きおくりょく》はないのか? 自分で思いだしてみろよ!」
僕たちは至近距離《しきんきょり》で睨《にら》み合《あ》った。とはいっても、ここでボカスカ殴《なぐ》り合《あ》うような根性《こんじょう》やら度胸《どきょう》やらがあるわけもなく、視線《しせん》を合わせていたのはせいぜい七秒かそこらで、僕たちはすぐに視線を逸《そ》らして、互《たが》いにケッと吐《は》き捨《す》てた。
ふと横を見ると、里香《りか》が笑っていた。
ん? なんで笑ってんだ?
この殺伐《さつばつ》とした雰囲気《ふんいき》のどこに、笑える要素《ようそ》があるというのだろうか。笑っている理由《りゆう》を尋《たず》ねてみたかったが、なんとなく口には出せず、僕は顔を橋の向こうに振《ふ》った。
「行こうぜ、里香」
「うん」
里香はまだ笑ったままだ。
「じゃあね、山西《やまにし》君」
その笑顔《えがお》に、山西はだらしなく笑った。
「里香ちゃん、気をつけて。戎崎《えざき》に襲《おそ》われないようにね」
どうも一言多い。
「うん、気をつける」
里香も一言多い。
「ほら、行くぞ」
不機嫌《ふきげん》に言って歩きだした僕の背中《せなか》に、山西が声をかけてきた。
「戎崎」
「なんだよ」
さっきの続きか。しつこいヤツだな。このバカ野郎《やろう》。などと殺伐に思いつつ振り返ってみたところ、山西はやけに真剣《しんけん》な顔になっていた。
ほんの一瞬《いっしゅん》で、雰囲気が変わってしまっていた。
「おまえ、すぐ戻《もど》ってくるのか」
声もやけにまじめだ。
その空気に、僕は戸惑《とまど》ってしまった。
「ああ、まあな。里香を送っていくだけだし」
「そうか。じゃあ、待ってるよ」
「へ?」
「すぐ戻ってくるんだろ?」
「お、おう」
「ここにいるからさ」
山西はそう言って、欄干《らんかん》にもたれかかった。
「ちょっと時間貸せよ」
「お、おう」
肯《うなず》くしかなかった。
里香《りか》が住んでいるのは、僕の家と同じような古くさい町屋だ。似《に》たような造《つく》りだからわかるんだけど、隙間風《すきまかぜ》は吹きこみまくりだし、階段は足を置くだけでぎしぎし鳴《な》るし、閉まらない戸なんかもあるし、とにかくボロい。しかし里香と、里香のお母さんは、そんなボロ屋をすごく気に入ってるみたいだった。
まあ、あれだ、僕たち日本人が外国のアンティークをおもしろがるのと、似たような感覚《かんかく》なんだろう。
その町屋の玄関《げんかん》には『秋庭《あきば》』という表札がかかっていた。表札だけはまだ新しくて、表面にはきれいな木目が浮《う》かび上《あ》がっているし、墨《すみ》は黒々と鮮《あざ》やかだ。それは亜希子《あきこ》さんが書いたものだった。むちゃくちゃ雑《ざつ》で、荒《あら》っぽくて、喧嘩《けんか》っ早《ぱや》いくせに、なんと亜希子さんは書道の有段者《ゆうだんしゃ》なのだった。
僕はその『秋庭』という文字をじっと見つめた。
上手《うま》いとか下手《へた》とかはよくわからないけれど、とにかく勢《いきお》いのある字だった。ずばっと筆が入って、ずばっと抜《ぬ》けている。
字は人柄《ひとがら》を表すと言うけど、なるほど亜希子さんらしい。
同じことを里香も思っていたようだった。
「いかにも谷崎《たにざき》さんっていう字だよね」
「うん、亜希子さんらしいよ。この払《はら》いのところとか」
「勢いがあるよね」
なんて立ち話をしていたら、
「裕一、戻《もど》らなくていいの? 山西《やまにし》君、待ってるんでしょう?」
と尋《たず》ねてきた。
いや、だから、こんなに長々と立ち話をしてるんだってば。どうせろくでもない用件なんだし。だいたい山西とまじめに話すことなんかねえよ。
里香は玄関を開けると、またねと言った。
僕は、おうと肯《うなず》いた。
そして扉《とびら》が閉《と》ざされた。幸せな時は、こうしていつも終わってしまう。だけど、明日になったら、また里香に会える。怒《おこ》る顔も笑う顔も見られる。亜希子さんの書いた表札を、僕は改めて確認《かくにん》した。
不思議《ふしぎ》なもんだ。
里香がこうして、伊勢《いせ》の住人になってるなんて。
病院にいたときだって、いちおう伊勢に住んでたことになるんだろうけど、やっぱり町に住むのとは違《ちが》う。
病院は、ずっといる場所じゃないんだ。
一時期のみ、留《とど》まる場所だ。
やがて人はそこを出て、それぞれの生きる場所に戻《もど》っていく。あるいは、死という究極《きゅうきょく》の場所へ。里香《りか》は生き残った。どうにかってところだけれど。そして里香が戻ったのは、ここだった。この古くさい町屋だった。伊勢《いせ》だった。僕が住む町だった。
「まあ、悪くないな」
僕は呟《つぶや》いた。笑っていた。
「ほんと悪くないよな」
ポケットに手を突《つ》っこみ、踵《きびす》を返して歩きだす。振《ふ》り返《かえ》ってみると、二階の窓にちょうど明かりがついたところだった。里香が自分の部屋《へや》に入ったんだろう。僕は後ろ歩きで、その窓の光をしばらく見つめつづけた。
ふたたび、前を向く。
金星はもうどこにもなく、空は東から西まですっかり闇《やみ》に沈《しず》んでいた。外灯《がいとう》が滲《にじ》むような光を放《はな》ち、その下を通るたびに僕の影《かげ》がぼんやりと道路に落ちた。風が吹き、最近伸びてきた前髪《まえがみ》を揺《ゆ》らしていった。そのうち切らないとな、と思った。生徒|指導《しどう》の鬼《おに》大仏《だいぶつ》に注意されかねない。あいつはほんと、髪が一センチ伸びただけで気づくからな。
そんな下らないことを思いつつ橋に戻ると、山西《やまにし》はまだそこに立っていた。
「遅《お》っせえよ」
いきなり文句《もんく》を言いやがる。
僕はへらへら笑っておいた。
「いや、里香がさ、離《はな》してくれなくてさ」
「はあ?」
「困《こま》るよな、女ってのは。甘ったれでさ」
もちろん嘘《うそ》だけど。
しかしそんなことが山西にわかるわけはなく、ヤツはものすごーく悔《くや》しそうな目で僕を見てきた。うらやましさ全開って感じだ。
胸《むね》がすっきりしたが、しかし直後に空《むな》しくなった。
嘘だもんなあ……本当にそうだったらいいのになあ……。
山西が尋《たず》ねてくる。
「おまえ、なにしょんぼりしてるんだ?」
「いや、別に」
里香がもうちょっと甘えてくれればいいんだけど、どっちかっていうとさっぱりしてるほうなんだよな。
「ところで、なんだよ」
ん、と山西《やまにし》は言った。
しかし次の言葉《ことば》がなかなか出てこない。僕たちが立つ橋の下を、小さな船がぽんぽんと音を立てながら通り過ぎていった。
船に切《き》り裂《さ》かれた水が波打ち、外灯《がいとう》の光を映《うつ》しながら、ゆったりと広がってゆく。
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ちょっと緊張《きんちょう》していた。緊張してない振《ふ》りをしようとすればするほど、逆に緊張が高まっていく。室内はしんとしており、それは自分たちの他に誰《だれ》もいないことを意味していた。すなわち、家の中に今いるのは、あたしと世古口《せこぐち》君だけだった。
文化会館でやっている演歌の公演に、お父さんが行った。
お母さんもついて行った。
お姉ちゃんは三日前から旅行に行っている。
水谷家《みずたにけ》は四人家族であって、三人がそのように出かけている以上、残るはあたしだけである。それでいっしょに夕飯を食べようということになった。最初は世古口君の家でドーナッツの予定だったけど、変更《へんこう》になった。世古口君を誘《さそ》った。いや、自分から誘ったわけではない……と思う。さすがにそこまで大胆《だいたん》にはなりきれない。家族がいなくなることは何日も前からわかっていたし、世古口君が来てくれればいいなと思ったりしたのは事実だけれど、あくまでもそれは思っただけのことで、自分から誘うなんて考えただけで顔から火が出そうな話だった。
ただまあ、なんとなく言ってみただけだ。
「ドーナッツ、いっぱい食べよっと。今日、夕食はなしだから」
そんなふうに。
隣《となり》を歩いていた世古口君は律儀《りちぎ》に、予想《よそう》どおりに、不思議《ふしぎ》がってくれた。
「え、どうして? お母さん、ご飯作ってくれないの?」
「お父さんと出かけてるから。文化会館に、都はるみが来るんだって。お父さん、大好きなんだよね、都はるみ。カラオケの十八番《おはこ》は『アンコ椿《つばき》は恋の花』だもん。三日くらい前から浮《う》かれちゃってさ。お母さんも行くことになったの」
「へえ」
「それに、お姉ちゃんは旅行中だし。ひとりじゃなにか作るのも面倒《めんどう》だから、世古口君のドーナッツだけでいいかなあって」
学校の帰り道だった。高三の二学期ともなれば、部活を続けている人間はほとんどいない。毎月毎月|模試《もし》はあるし、もちろん塾《じゅく》だってあるし、誰もが目を吊《つ》り上《あ》げている時期だ。あたしだってそれは同じで、進学のことを思うと途端《とたん》に胃《い》が重たくなる。
空には明るい星が輝《かがや》いていた。
世古口《せこぐち》君のほうを見ることはできなくて、だからその星をずっと見つめていた。言葉《ことば》が切れたあとに訪《おとず》れる沈黙《ちんもく》がとにかく重い。苦しい。そんなことを感じてるのは自分だけかもしれないけれど。
「あ、じゃあ、僕が夕食を作ろうか?」
あっさりとそんな言葉が落ちてきた。
慌《あわ》てて顔を上げていた。
「ほんとに?」
「前から作りたいと思っていた料理があるんだよね。だけど、ほら、家だと母親が夕飯作っちゃうから、なかなか挑戦《ちょうせん》できなくて」
「じゃあ、ちょうどいいの?」
「そうだね」
世古口君はにこにこ笑いながら、なんの含《ふく》みもない言葉を放《はな》っている。そのことが少し嬉《うれ》しく、少し苛立《いらだ》たしい。
わかってるんだろうか、彼は。
その言葉の意味するところが、誰《だれ》もいない家でふたりきり≠ネんだということに。
「じゃあ、買い物していこうか」
「あ、うん」
道を外《はず》れ、『ぎゅーとら』へ入る。伊勢《いせ》に昔からあるスーパーだ。なぜ『ぎゅーとら』なのか、実はいまだに知らない。ぎゅー≠ヘ牛≠ナ、とら≠ヘ虎≠セろうか。
買い物カゴを手にした世古口君は、ちょっと早足だった。
「とりあえず、白菜《はくさい》とニラかな」
そんなことを呟《つぶや》きながら、野菜売り場に突っこんでいく。どうも他のことはまったく目に入っていないらしい。
寂《さび》しくなって、その大きな背中《せなか》を追《お》いかけてしまう。
「なにを作るの?」
「餃子《ぎょうざ》はどうかなって思ってるんだけど」
「餃子?」
「うん、皮からちゃんと作る餃子だよ」
「皮から?」
「すごくおいしいよ」
ニラの束《たば》を手に取ると、世古口君[#「君」は底本では無し]はしっかり吟味《ぎんみ》してから、買い物カゴに入れた。なんだか手つきとか雰囲気《ふんいき》がお母さんみたいだ。続いて白菜のハーフカットを、これまた丁寧《ていねい》に選び、新鮮《しんせん》そうなのをカゴに入れた。
「うち、皮はいつも店で買ってるよ」
「僕のうちもそうだよ。だけど、皮の作り方を、この前テレビで見たんだよね。だから、やってみたくて」
「へえ」
今度は肉売り場に移動《いどう》する。
「やっぱり餃子《ぎょうざ》は豚ミンチだよね」
「あ、うん」
よくわからないけど、肯《うなず》いておく。
「百グラムくらいでいいかな」
世古口《せこぐち》君は小さなパックをカゴに入れた。そしてレジのほうへと歩きだす。あたしはさっきから世古口君の背中《せなか》ばっかり追《お》っていた。
そのことが、嬉《うれ》しかったり、寂《さび》しかったり――。
店を出ると、肩《かた》を並《なら》べて夕暮れの道を歩いた。同じ方向へ歩いた。これから誰《だれ》もいない家に帰るのだと思うと胸《むね》が高鳴《たかな》った。
たとえ世古口君がそのことを意識《いしき》していないのだとしても。
家は真っ暗だった。
玄関《げんかん》を開けて中に入り、照明《しょうめい》をつける。玄関だけがやけに白っぽく輝《かがや》く。ドアを開け、どうぞと言う。世古口君の大きな体が玄関に入ってくる。ふたり並《なら》んで玄関に立つことになる。
ドアを閉めたら、途端《とたん》にそこはふたりきりの空間に変わる。
「あ、そっか」
急に世古口君[#「君」は底本では無し]が言った。
どうしたの、と尋《たず》ねてみる。
世古口君の顔は少し赤くなっていた。
「いや、えっと……なんでもない」
ようやくそのシチュエーションが意味することに気づいたらしい。
これから三時間くらい、ふたりきりだということに。
彼が顔を赤くしてるものだから、こちらも赤くなってしまった。お互い赤くなっていることが、さらに顔を熱くさせる。
まあ、いっしょにご飯を食べるだけ。
それだけのこと。
「上がって」
言って、スリッパを差しだす。
「う、うん」
ぎこちなく肯《うなず》き、世古口君がスリッパに足を――突《つ》っこめなかった。大きな世古口君の足にスリッパはあまりに小さすぎて、爪先《つまさき》しか入ってない。
それを見て、笑ってしまった。
「ごめん、ちょっと小さすぎたね」
「そうだね」
緊張《きんちょう》が抜《ぬ》け、普通《ふつう》に笑えた。玄関《げんかん》に立ったまま、ふたりで笑った。
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話があるといったくせに、山西《やまにし》はなかなか喋《しゃべ》りださなかった。ただ欄干《らんかん》にもたれかかり、川面《かわも》をぼんやり眺《なが》めている。まあ、僕も特に急ぐ用事があるわけじゃないので、山西と同じようにぼんやり川面を見つめていた。たまに船が通っていくたびに、凪《な》いだ川面は激《はげ》しく揺《ゆ》り動《うご》かされ、その表面に映《うつ》る外灯《がいとう》の光が散《ち》り散《ぢ》りになる。
ああ、ちょっと肌寒《はださむ》くなってきたな。
「おまえさ、どうすんの」
山西がようやくそんなことを言ったのは、金星がすっかり見えなくなったころだった。
僕は欄干に背《せ》を預《あず》け、ぐっと体を反《そ》らした。視界《しかい》いっぱいに、夜空が広がった。ちらちらと星がいくつも瞬《またた》いている。金星ほど立派《りっぱ》な星じゃないけどさ。
「どうするって、なんのことだよ」
「進路だよ」
僕はすぐさま体を元に戻し、山西を睨《にら》みつけた。
「おまえ、それは嫌《いや》みか?」
なにしろ僕はまだ二年なのだ。進路? そんなのは一年先に考えればいいだけの話じゃないか。わかっててそんなことを聞くとは。喧嘩《けんか》売るつもりだな、この野郎《やろう》。
しかし山西は慌《あわ》てた。
「ああ、悪い悪い。そういうことじゃなくてさ」
お? ほんとに慌ててやがるのか?
どうも喧嘩を売っているわけではなさそうだった。ひとしきり僕に謝《あやま》りの言葉《ことば》を述《の》べたあと、山西はまじめな顔で尋《たず》ねてきた。
「もし留年《りゅうねん》しなかったら、どうするつもりだったんだよ」
「うーん」
「皇學館《こうがくかん》は嫌《いや》だって言ってたよな。三重大《みえだい》は……無理《むり》だろ?」
「ああ、まあな」
「やっぱ東京のつもりだったのか?」
僕は欄干に、今度は前向きにもたれかかった。胸《むね》の辺《あた》りに欄干を押《お》しつけ、その上で両手を組む。チラリと山西《やまにし》を見ると、ヤツは真剣《しんけん》な顔のままだった。
なんか調子《ちょうし》が狂《くる》う。
「まあな」
「じゃあ、里香《りか》ちゃんはどうすんだよ」
「前にそういうことを話したときは、そこまで考えてなかったよ」
「じゃあ、今はどうなんだよ」
「今?」
答えを探《さが》す間《ま》が欲《ほ》しくて、そんなことを尋《たず》ね返《かえ》してみる。
山西は肯《うなず》いた。
「ああ、今はどうなんだ」
「だから、今は考える時期《じき》じゃねえんだって。二年なんだから」
「ったく面倒《めんど》くせえヤツだな、おまえは。たとえばの話をしてるんだろうが。進級できてたら、どうだったんだよ」
「仮定《かてい》の質問には答えられないな」
「おまえは政治家か」
山西の声が、マジで苛立《いらだ》ち始めている。
「じゃあ、来年でいいや。来年、どうすんだよ」
「来年のことは来年考える」
「おまえな――」
「そういうもんだろ。おまえ、去年の今ごろ、進路のことなんか本気で考えてたか? 受験の準備《じゅんび》とかしてたか? してなかっただろ? 先のことなんてわかんねえよ」
はっきり言ってやると、山西は黙《だま》りこんだ。
もちろん不満《ふまん》そうだが。
「くそ、オレも留年すればよかった……」
悔《くや》し紛《まぎ》れに、山西はそう呟《つぶや》いた。
うはは、と僕は笑った。
「いいぞ、留年。教室では浮《う》きまくりだし。クラスメイトは全員|敬語《けいご》だし」
「うわ、最悪」
「辛《つら》いぞ。マジで泣きたくなるくらい辛いぞ」
うはは、とさらに笑っておく。
また一隻《いっせき》、船が通っていった。ゴマ塩頭のオッサンが、船の後ろのほうで舵《かじ》を取っている。咥《くわ》え煙草《たばこ》の先が蛍《ほたる》のように明滅《めいめつ》していた。
僕は尋ねた。
「おまえはどうすんだよ」
迷《まよ》ってるんだよな、と山西《やまにし》は呟《つぶや》いた。
「だから相談《そうだん》してるんだって」
「おまえ、どっか都会の大学行くとか言ってただろ。でもって、女をナンパしまくるんだって。あの野望《やぼう》はどうなったんだよ」
「いや、野望は持ってるけどさ」
「けど?」
「なんか、ちょっとさ」
「ちょっと?」
山西が僕の顔を窺《うかが》うように見てきた。
「ちょっと……怖《こわ》くねえ?」
「は? 怖いって?」
「オレら、ずっとここで育ってきたわけだろ。他の場所なんか知らねえしよ。東京とかだと、ほんと大都会じゃんか。そんなところで、オレらみたいな田舎者《いなかもの》がやってけるのかとか考えちまうんだよな」
早口で山西は言った。最後は冗談《じょうだん》めかした口調《くちょう》になっていたけれど、だからこそ、それが本気の言葉《ことば》だとわかった。
「従兄弟《いとこ》がさ、いるんだよ。ふたつ上でさ。けっこう頭よかったんだ。オレなんかより全然よくて、わりといい学校に行ったんだよな、東京の。伯父《おじ》さん、すげえ自慢《じまん》してさ。うちの親父、不機嫌《ふきげん》になってたくらいだもん。けど、その従兄弟、二年で学校|辞《や》めて帰ってきちまったんだ」
「なんでだよ」
「引きこもりみたいになっちまったんだって。きっかけは彼女にフラれたことみたいだけど、サークルでハブられたのが本当の原因らしい。笑っちまうのな。帰ってきたら、その従兄弟、全然すごくねえの。こっちにいたときはさ、けっこうモテるほうだったんだぜ。勉強もできたしよ。なのに、なんか今は覇気《はき》とかまったくなくてさ。今、うちの近くのコンビニでレジ打ってやがんの。そこが一番近いんだけど、オレ、もうその店行けなくてさ。顔会わせるのが情《なさ》けないっていうか、惨《みじ》めっていうか。そういうの見ちまうとさ。なんかさ。オレは――」
なにか言いかけたものの、それ以上、山西の口から言葉は出てこなかった。開きかけた唇《くちびる》は、そのまま開くわけでもなく、閉《と》じるわけでもなく、ずっと同じ形を保《たも》っている。
山西の言ったことを、僕は考えてみた。
かっこいい従兄弟がいた。
颯爽《さっそう》と東京へ出ていった。
たった二年で帰ってきた。
要《よう》するに、目の前にある事実はそういうことだった。まあ、向こうでいろんなことが起《お》きたんだろう。よくあることだ。引きこもっちまったんだろう。よくあることだ。前向きな性格が折れてしまったんだろう。よくあることだ。
どれもこれも珍《めずら》しくもなんともない。ダサくて、かっこ悪い。そういうことは世の中に溢《あふ》れている。
そのとき、頭に浮《う》かんだのは、吉崎《よしざき》多香子《たかこ》のことだった。
彼女もまあ、似《に》たようなもんだ。中学ではブイブイ言ってて、高校に入ってからもしばらくデカい顔をしていた。しかし里香《りか》のことがきっかけになり、クラスでの居場所《いばしょ》をなくした。たまに学校で見かける吉崎多香子は、ただ歩いてるだけなのに、なんだか辛《つら》そうだった。ちょっとテンパった感じで、弱々しくて、背《せ》が丸い。
似たようなことが、山西《やまにし》の従兄弟《いとこ》にも起《お》きたんだろう。
いつまでたっても山西は喋《しゃべ》りださない。ゆっくりと時間が流れていくばかり。もう船が通ることもなく、川面《かわも》は凪《な》いだままだ。
だんだん腹が減《へ》ってきた。そろそろ帰らないとな。
「おまえ、豆腐《とうふ》はいいのかよ」
そんなことを尋《たず》ねると、山西はぎろりと睨《にら》んできた。
「おまえな、人がまじめな話してるときに、豆腐なんかどうでもいいだろ」
「いや、大事だぞ、豆腐」
「大事じゃねえよ」
「健康にいいらしいぞ」
「だからなんだよ」
「いや、それだけ」
不満そうな山西の顔から視線《しせん》をはずし、上着のポケットに手を突《つ》っこんだ。大きく息《いき》が漏《も》れる。いや、ため息だったのか。なんだか体も心も萎《しぼ》んだような感じになった。まあ、隣《となり》にいる山西は、もっともっと萎んでいるように見えるけれど。
参《まい》ったな、と僕は思った。マジな話かよ、参ったな。
普段《ふだん》、こういうことを、僕は誰《だれ》かと話したりなんかしなかった。そりゃいろいろ考えちゃいるさ。僕だって、ただのバカじゃないしさ。将来とか未来とか、いろいろ考える。いや、考えてしまう。けれどだからこそ、僕はそれを口にしないようにしてきた。そういうのはコッ恥《ぱ》ずかしかったし、なんだか面倒《めんど》くさくもあった。
現実ってヤツに押《お》し流《なが》されるほうがいい。
どっちにしろ、そいつはやってくるのだから。
まあ、山西はやってきたということなのだろう。
目の前にそいつが立っている。
そして選択《せんたく》を迫《せま》っている。
弱っちい山西《やまにし》は、その選択《せんたく》に雄々《おお》しく立ち向かうことも、軽く笑い飛ばすこともできない。あっさりと臆《おく》した。ビビった。それで僕にこんな愚痴《ぐち》を吐《は》いている。
まったく情《なさ》けないヤツだ。
ポケットの中で手をぎゅっと握《にぎ》りしめ、僕は言った。
「下んないこと言ってんじゃねえよ」
山西がマジで睨《にら》んでくる。
「なんだよ、下らないことって」
「おまえの言ったことだよ。全部、なにもかも、端《はし》から端まで下らねえよ」
僕は言葉《ことば》を吐《は》き捨《す》てた。
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世古口《せこぐち》君の大きな手が、小麦粉の塊《かたまり》をこねている。本当に大きな手で、まるで手袋《てぶくろ》をはめているみたい。小指でさえも、あたしの親指と同じくらいの太さがある。あたしはキッチンで椅子《いす》に座《すわ》り、テーブルに肘《ひじ》なんかついて、その様子《ようす》を眺《なが》めていた。
世古口君がぎゅっと小麦粉の塊を押《お》し潰《つぶ》すたびに、振動《しんどう》が肘に伝《つた》わってくる。手のひらに乗せているアゴにも伝わってくる。
それにしても、世古口君はエプロンがよく似合《にあ》う。
「うまいもんだね」
あたしが言うと、世古口君は嬉《うれ》しそうに笑った。
「まあ、こういうのはパン生地《きじ》をこねるのと変わりないしね」
「世古口君、パンも焼くの?」
「たまにだけどね。パンはほんと簡単《かんたん》だよ」
「へえ」
「パンは適当にこねて焼けば、なんとかなるから」
料理は嫌《きら》いじゃないし、苦手《にがて》でもないけれど、世古口君のほうがはるかにうまい。だからあたしはただ座りこんで、世古口君にすべてまかせっきりにしていた。なんだか、そういうのがちょっと幸せだったりする。
男の子がいっしょにいて、彼は優《やさ》しくて、あたしのために料理をしてくれている。
よく見ると、世古口君の睫《まつげ》はけっこう長い。あたしより長いんじゃないかな。顔を伏《ふ》せると、そんな睫が目にかかる。すごくきれいだし、かっこいいと思う。顔は……かっこいいとは言《い》い難《がた》いけど。少なくとも二枚目じゃない。竹久《たけひさ》君のような繊細《せんさい》さもない。どちらかというと呑気《のんき》で優しい感じ。
なんだか物足りない気もするものの、世古口君の持つ柔《やわ》らかさや優しさは、それはそれで悪くなかった。
一番重要なのは、いっしょにいると、嬉《うれ》しいってことだ。
ドキドキする。
もちろん今も、胸《むね》は少しだけ弾《はず》んでいる。
「ボウルを取ってくれるかな」
「あ、うん」
銀色の古くさいボウルを渡《わた》すと、世古口《せこぐち》君はソフトボールくらいの大きさになった小麦粉の塊《かたまり》をぽんぽんと手のひらで転《ころ》がして、それからボウルに入れた。そしてその上に布巾《ふきん》をかけ、冷蔵庫《れいぞうこ》にしまった。
「二十分くらい寝《ね》かすよ」
手を洗いながら、そう言う。
「そのあと皮に丸めるから」
「すごいね。皮から手作りなんて」
「うまくいくといいけどね」
ふう、と大きく息を吐《は》いて、世古口君が向かいに腰《こし》かける。静かな家の中、ふたりきりで向かい合うと、何を喋《しゃべ》っていいかわからなくなった。世古口君の様子《ようす》を窺《うかが》ったら、まともに目が合ってしまった。世古口君は、えへへと笑った。生地《きじ》をこねたせいか、少し疲《つか》れたような顔をしている。
「世古口君、疲れた?」
「ちょっとね」
世古口君の言葉《ことば》が途切《とぎ》れた。そして視線《しせん》を少し下げる。なにか考えているときの癖《くせ》だ。
「あのさ、水谷《みずたに》さん」
「なに」
「この前の模試《もし》、どうだった?」
「……ちょっと駄目《だめ》だった」
いきなり天国から地獄《じごく》へって気分だった。模試のことなんて、思いだしたくもなかったのに。どうして世古口君はそんなこと聞いてくるんだろうか。せっかく楽しいのに。
志望校は、三つに絞《しぼ》っている
ひとつは地元にある大学で、それほどレベルが高いわけじゃないけど、国文学がわりと有名だった。志望は国文なので、地元でじっくり勉強するのも悪くない。もうひとつは、名古屋の学校。これは、可もなく、不可もなく。最後のひとつは、東京だ。志望校の中では一番レベルが高い。合格するためには、かなり頑張《がんば》らなきゃいけなかった。
どこに行くかはまだ絞りこめてない。
「よくなかったの?」
「うん。最近、成績|下《さ》がり気味《ぎみ》なんだよね」
「そうなんだ……」
「前は全部B判定が出てたのに、今度はふたつがC判定になっちゃった。けっこう頑張《がんば》ったからよくなってると思ったんだけど、周《まわ》りだってそうなんだよね。みんながそれぞれ努力してるわけだし。ちょっと甘かったかもしれない」
はあ、とため息《いき》が漏《も》れた。
たかが勉強のことだし、どっちにしろたいした大学じゃないのに、それでも考えると頭の中が真っ暗になる。
下らないことに落ちこんでいる自分に、さらに落ちこんでしまう。
「世古口《せこぐち》君はどうだったの」
「志望校はA判定とB判定だったよ」
「じゃあ、安心だね」
そうだけど、と肯《うなず》いたあと、世古口君はまた視線《しせん》を落とした。
「大学行くの、やめようかと思ってるんだ」
「え? どうして?」
初めて聞く話だった。
「まだわからないんだけど。全然決めてないし。僕、やっぱり料理をやりたいんだよね。それで、お父さんの知り合いが東京の料亭で働いてて。けっこう有名な店なんだけど。修行《しゅぎょう》に来ないかって誘《さそ》われてるんだ」
「東京……」
「やっぱりいい店は東京に多いし、修行するんなら厳《きび》しいところがいいと思うんだ。まだ話を聞いたばかりだから、ちゃんとは決めてないんだけど」
「親はなんて言ってるの?」
「進学したほうがいいと思ってるみたいだけど、好きにしろって」
こういう話は、ちょっと難《むずか》しい。
世古口君の進路、というか未来を、あたしがどうこうする権利はない。だけど、できればいっしょにいたいし、せめて会える距離《きょり》であればいいなって思う。遠距離を続けるのが難《むずか》しいのは、お姉ちゃんのことがあったからよく知ってた。一年ちょっとつきあった彼氏が大阪に転勤しちゃって、半年くらいは続いたけど、そのあと自然|消滅《しょうめつ》したのだ。あのときのお姉ちゃん、ちょっと大変そうだったな。どんどん疲《つか》れていくのが、そばで見ててよくわかった。
とにかく、自分の意見をはっきり言うのは傲慢《ごうまん》に思えるし、こっそり探《さぐ》るのは卑怯《ひきょう》に思える。
「あ、そうだ」
あることが頭に浮《う》かんだ。
「B判定だった学校ってね、東京の学校なの」
「え、ほんとに?」
「うん。志望校の中で一番レベルが高いところ」
「一番レベルの高いところがBだったの?」
「そうなんだよね。あたしもびっくりした。たぶん選択《せんたく》科目が違《ちが》うからだと思うんだけど。これからしっかり頑張《がんば》れば合格できるかもしれないって、塾《じゅく》の先生に言われた」
「お父さんたちはどう思ってるの?」
「好きな学校に行っていいって。名古屋でも東京でも、アメリカでもシベリアでも行ってこいって言われたよ。アメリカはともかく、シベリアは無理《むり》だよね」
「シベリアに大学なんてあるのかな」
下らない冗談《じょうだん》で、あたしたちは笑った。
「じゃあ、もしかしたら、いっしょに行けるかもしれないね。東京に」
ニコニコ笑いながら、世古口君がそんなことを言う。
あたしも同じように笑った。
「そうだね。……だったら、近くに住もうか」
さして深く考えず、大胆《だいたん》な言葉《ことば》が口から出てしまっていた。慌《あわ》てて、「なんてね」とつけておく。ああ、恥《は》ずかしいこと言っちゃったかも。顔が熱くなってくる。
世古口《せこぐち》君は、やけにしっかり肯《うなず》いてくれた。
「そ、それもいいよね」
彼の顔が赤くなった。それでこちらもますます赤くなってしまう。今まであんまり深く考えてなかったけど……というより、深く考えないようにしてきた未来が、急にくっきりしつつあった。東京にある大学の名前が、頭の中に浮《う》かぶ。
大きな町での生活。世古口君がそばにいる暮《く》らし。
考えてみると、なんだか夢みたいな話だった。悪くないな、と思う。さっきまでC判定ふたつで真っ暗になってたのが嘘《うそ》のようだった。生まれ育った町を……伊勢《いせ》を離《はな》れるのも、そんなに怖《こわ》くない。世古口君がいっしょだと思うと、全然平気だ。
やがて世古口君が立ち上がった。
「そろそろ皮を作ろうか」
「あ、うん」
「水谷《みずたに》さんも手伝って」
「できるかな?」
「できるよ、きっと」
並《なら》んで立つと、世古口君の体はとても大きい。
「じゃあ、頑張る」
ふたり並んで、餃子《ぎょうざ》の皮を作った。世古口君はものすごくうまくて、麺棒《めんぼう》を軽く転《ころ》がすだけで丸い餃子《ぎょうざ》の皮が次々できあがっていく。それに対し、あたしのは歪《いびつ》な形ばかりだった。こういうのはちょっと……ううん、かなり尊敬《そんけい》する。
いつだったか、お姉ちゃんが言ってたっけ。
「尊敬できる男の人って、いいよねえ」
ほんと、そう思う。
尊敬できる人って、いい。
φ
「下らねえ」
吐《は》き捨《す》てた言葉《ことば》は、やけに熱《あつ》かった。僕はそんな自分の熱さに戸惑《とまど》いながら、しかしやはり同じ言葉をひたすら繰《く》り返《かえ》していた。
「ほんと下らねえよ」
「なんだよ、戎崎《えざき》」
山西《やまにし》の言葉も少し熱くなっている。
まずいな、と思ったけど、口が勝手に動いていた。
「だってそうだろうが。たかが従兄弟《いとこ》がどうかしちまったのがなんだってんだよ。東京なんて、すっげえでかいんだぜ。一千万も人がいてさ、学生だって何十万人もいるだろ。そのみんなが、全員引きこもってんのかよ? そうじゃねえだろ? たいていのヤツは楽しくやってるわけだろ? おまえの従兄弟が、たまたま躓《つまず》いただけの話じゃねえか」
「おまえ、簡単《かんたん》に言うけどな――」
「だって簡単じゃねえか。いちいちそんなことで悩《なや》んでもしかたないだろ。従兄弟は従兄弟で、おまえはおまえだろ。考えたって、ろくなことにならねえんだよ。好きにやりゃいいじゃねえか。まったく、バカくさくて笑えるね。そんなことでシケやがって。ああ、ほんとに笑っちまうね」
実際《じっさい》、僕は残酷《ざんこく》に笑っていた。誰《だれ》かをいたぶる快感《かいかん》にすっかり酔《よ》っていた。山西のヤツは、すんげえ怒《おこ》るだろう。絶交《ぜっこう》ものだな。でも、かまうもんか。たかが山西じゃねえか。喧嘩《けんか》になったって、山西ごときに負けねえぜ。
山西は肩《かた》を怒《いか》らせながら僕をじっと見つめていたけれど、
「まあ……そうかもな……」
いきなり、ぽつりとそう漏《も》らした。
怒らせていた肩をがっくり落とした。
風が吹いて、山西の髪《かみ》を揺《ゆ》らす。僕の髪も揺らす。そして山西は僕から視線《しせん》をはずし、欄干《らんかん》の上で両|腕《うで》を組んで、その腕にアゴを乗せた。
ヤツは僕を見ようとしなかった。川のほうだけ見ていた。
「下らねえよな、確《たし》かに」
「お、おい」
いきなり梯子《はしご》をはずされたような気持ちになった。違《ちが》うだろ、山西《やまにし》。そこは怒《おこ》るところだろ。しみじみと肯《うなず》いたりするところじゃねえだろ。
しかし山西はひたすら、しみじみと肯いた。
「おまえの言うとおりだ」
「…………」
「まったく下らねえ。オレは下らねえ。従兄弟《いとこ》はクズだ。ああ、負け犬だ」
「…………」
「ほんと言うと、オレさ、怖《こわ》いんだよ」
「…………」
「あのバカ従兄弟、すごすご帰ってきやがって。だからオレも弱気になっちまうんじゃねえか」
僕は立ちつくし、毒《どく》づく山西を見ていた。風が一瞬《いっしゅん》強くなり、そのせいで毛先が目に入った。やけに痛《いた》い。涙《なみだ》が出てきた。ちくしょう。目に入った髪が全然出てこねえよ。ごしごしとガキみたいに目を擦《こす》ると、ようやく痛みが取れた。ああ、痛かった。もう大丈夫《だいじょうぶ》だけど。
「たかが東京じゃねえか。人がゴミみたいにいるだけじゃねえか。その程度《ていど》のことで負けやがったオレの従兄弟はクズだ。ゴミだ」
山西はまだ毒づいている。
けれど声はすっかり最初の勢《いきお》いを失って、ただ弱々しくなっていくばかりで、一分もしないうちに風にかすれて聞こえなくなった。
唇《くちびる》だけがぶつぶつと動いている。
僕はそんな山西の横顔から目を逸《そ》らし、橋の下で揺《ゆ》れる川面《かわも》に目をやった。風のせいで、さっきよりも大きく揺れている。光を映《うつ》し、散《ち》らし、揺れている。
山西はきっと、不安になったんだろう。
結婚式の前、女の人が突然不安になるのと同じだ。マリッジ・ブルーっていったっけ。遠くにあるだけだった未来ってヤツがそばまでやってきて、頭の中で思《おも》い描《えが》いていた夢やら希望やらが掴《つか》めるようになった。いや、実際《じっさい》には掴めないのかもしれない。そう思えるだけなのかもしれない。
そのことに、山西は怯《おび》えている。
最初の一歩に、その短い距離《きょり》に、ビビっている。
理屈《りくつ》では実によくわかる話だった。実際、そういうことは世の中にありふれているし、誰《だれ》だって一度や二度は体験している。だけど、山西の不安さえも、僕はうらやましかった。僕はそういう不安を抱《いだ》くことはない。なぜなら、僕はずっとここで暮《く》らしていくからだ。この狭《せま》い空を、見慣《みな》れた勢多川《せたがわ》を、どんどんしょぼくなっていく駅前を、神宮《じんぐう》の森を……そんなものだけを見ながら生きていくのだ。
僕は他のどこにも行けない。いや、行かない。東京よりも、人込《ひとご》みよりも、でっかいビルよりも、大切なものがここにあるからだ。
ああ、なんだろうな。
心がかさつく。
もっともっと山西《やまにし》をバカにしたい気持ちがある一方で、なぜかこのクソ野郎《やろう》を励《はげ》ましてやりたいって気持ちもあった。
なあ、山西。僕は心の中でだけ言ってみた。ほんとはさ、うらやましいんだぜ。うらやましくてたまらないんだ。僕だって、高いビルやきれいな店に囲《かこ》まれながら暮らしてえよ。ずっとそれを望んでたんだ。だけどさ、そんなものよりもっと大事なものができちまったんだ。それはここにしか、伊勢《いせ》にしか、ないんだよ。あの子はここを離《はな》れられないんだ。だからオレもここにいるんだ。そう決めたんだ。
胸《むね》の中は言葉《ことば》で溢《あふ》れているのに、口からはまったく出てこない。
バカにすることも、励ますこともできない。
僕たちはずいぶん長いあいだ、そうして黙《だま》りこんだまま、肩《かた》を並《なら》べていた。海のほうへと吹く風が、どんどん冷たくなっていった。
ああ、寒い。
やけに寒いよ。
帰るわ、と言って、山西が自転車に手を伸ばした。
おう、と僕は肯《うなず》いた。
山西は自転車に跨《またが》らず、なぜか引いて歩きだした。カラカラと車輪が寂《さび》しく鳴《な》っていた。
「おい、山西」
「あ?」
「オレの従兄弟《いとこ》もさ、東京行ってんだよ。十歳くらい離れてるから、そんな親《した》しいわけじゃねえけど。その従兄弟、オレたちと同じ高校出てるんだぜ。下らない三流大に行って、それでもまあまあの会社に就職して、結婚して子供作って、今度家買うってさ」
「すげえ。勝ち組じゃねえか」
「ああ、オレたちと同じ高校だぜ。東京なんて、そんなもんだ。別にたいしたところじゃねえよ。危《あぶ》ないことも多いんだろうけど、チャンスだってごろごろ転《ころ》がってるんだろうし。だからさ、拾えよ、そのチャンスを」
山西は立ち止まり、自転車を持ったまま、僕を見つめてきた。
「オレにそんなことできると思うか?」
そして真剣《しんけん》に尋《たず》ねてきた。
できるさ、と言おうとしたけど、言葉《ことば》が出てこなかった。
「なんで黙《だま》ってんだよ、戎崎《えざき》?」
山西《やまにし》がいきなり泣きそうな顔になった。
「えっと、その……ごめん」
「なんで謝《あやま》ってんだよ?」
ますます泣きそうである。
僕は正直になることにした。
「できるって言おうと思ったけど、口から出てくるまでに白々しくなっちまった。どっちかっていうと、できない確率のほうが……」
「やっぱり……高いと思うか?」
「まあ……その……なんとなくだけど……」
「そうだよなあ」
山西は相変わらず泣きそうな顔で呟《つぶや》いた。
「やっぱできねえよなあ」
僕たちだって、もう十八だ。それなりに自分の力量やら器《うつわ》やらを知っている。もしかすると、これから成長するかもしれないけどさ。でも人間なんてそんなに変わるもんでもないし。
僕たちは同じようなことを考え、同じようにため息《いき》をついた。
「まあ、山西《やまにし》、人並みの幸せくらいなら掴《つか》めるかもしれねえぞ。B判定かC判定ってとこで」
「BかCか……なかなか現実的だな……」
「それでいいんじゃねえの。適当《てきとう》に大学卒業して、適当に就職して、適当に女と結婚して、適当に子供作って、適当に家でも買って……そういうのも悪くねえかもしれないぞ、意外と」
山西はしばらく真剣《しんけん》に悩《なや》んでいた。
「女はちょっと可愛《かわい》い子を選ぶことにするぜ」
やがてそんなことを言った。
僕は肯《うなず》いた。
「おお、いいな」
「里香《りか》ちゃんに負けないくらいの子だ」
言いながら、ふたたび山西は歩きだした。振《ふ》り返《かえ》りもせず、どんどん進んでいく。その背中《せなか》に、僕は声をかけた。
「里香に負けない子だって!? そりゃ無理《むり》だ!」
「いいよな、おまえ! 里香ちゃん、マジで可愛いもんな! うらやましいよ! でも、わかんねえぞ! オレさまの魅力《みりょく》に参《まい》っちまう女が出てくるかもしれねえし!」
だんだん離《はな》れていくので、僕たちは今やほとんど叫《さけ》んでいた。
「だから里香を超《こ》えるのは無理だって!」
「いやいや、世の中にはいろんな可能性《かのうせい》があってだな! オレにだって――」
声が聞こえていたのは、そこまでだった。まだ山西はなにか言っているらしいが、風のせいで、ヤツの声はもう僕には届《とど》かない。それでも不思議《ふしぎ》なことに、自転車のタイヤが回転するカラカラという音だけは聞こえてきた。しかし声はやはり聞こえない。
「うらやましいのはオレだよ、山西!」
だからもちろん、僕の声だって聞こえてないはずだ。
「オレだって行ってみたかったんだよ! 東京へ!」
そうさ、聞こえてないはずさ。
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思いっきり背伸《せの》びしなきゃいけなかった。手を当てた世古口《せこぐち》君の胸《むね》はとても厚くて、がっしりしていた。どんなに押《お》してもびくともしない。自分の小ささが怖《こわ》くなり、けれど彼の両|腕《うで》に包まれていることに安心した。あたしが思いっきり背伸びしてるのに、世古口君は思いっきり屈《かが》みこんでいる。心臓がどきどきする。彼の胸に置いた手が震《ふる》える。彼の手も震えている。一枚の紙のことを思いだす。左側に世古口|司《つかさ》と書いた紙。右側に水谷《みずたに》みゆきと書いた紙。あの紙は大事にとってある。鍵《かぎ》がかかる引きだしの、一番|奥《おく》。誰《だれ》にも見つからないように、けれど決してなくさないように。
餃子《ぎょうざ》を食べる前でよかった。
ふとそんなことを思ったけれど、冷静《れいせい》な思考《しこう》が働いたのは一瞬《いっしゅん》で、柔《やわ》らかい感触《かんしょく》になにもかもが消え去り、頭の中でなにかが白く弾《はじ》け、もうわけがわからなくなった。触《ふ》れている部分だけではなく、頭のてっぺんから足の先までが、じんと痺《しび》れた。
ようやくものを考えられるようになったのは、唇《くちびる》が離《はな》れてからだった。彼の胸《むね》に顔を埋《う》めながら、すごいと思った。どんな感じなんだろうって何度も考えたけど、全然|想像力《そうぞうりょく》不足だった。まったく考えが至らなかった。はるか上だった。
だって、まだ体が震《ふる》えているし。
電話が鳴《な》った。もちろん取るべきだった。しかしクソ忙《いそが》しかった。右手には三〇五号室|柴田《しばた》さんの尿《にょう》ガメを持っている。尿ガメとはまさしくその言葉《ことば》どおり、尿を溜《た》めるカメのことだ。大きさも形も梅干《うめぼ》しをつけるカメそっくりで、そこに尿がたっぷり溜まっている。病気によっては、一日にどれくらい尿が出ているかを把握《はあく》するのがとても大切なので、こういう道具を使うわけだ。データ収集というヤツである。命に関《かか》わる病気でもけっこう使う。病状が深刻《しんこく》なほど、使う度合いが増《ま》す。尿ガメ。決してバカにしてはいけない。尿ガメ。欠かせない存在《そんざい》である。その柴田さんの尿ガメを持ったまま、谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》は電話に出るべきかどうか迷《まよ》った。電話対応も仕事である以上、出るべきではあろう。しかしながら右手には尿ガメを持っている。内科のドクターがさっさと持ってこいと診察室《しんさつしつ》で喚《わめ》いている。右手に尿ガメ、左手に電話というのも、ちょっとアレではないか。しかしナースセンターにいる誰《だれ》もが忙しそうにしていて、電話に一番近いのは他でもない自分であった。
谷崎が取るよね!
ナースセンターにいる誰もが、視線《しせん》で、あるいは気配《けはい》で、そんな無言《むごん》の圧力をかけてきているのがビンビンと伝《つた》わってくる。女というのは、なかなか怖《こわ》い生き物だ。言葉を発さず、ここまでの圧力をかけてくるのは、男じゃ無理《むり》だ。あ、婦長《ふちょう》が睨《にら》んできた。なんでこんなに敵視《てきし》されるんだろう。絡《から》め取《と》られるような気配に抵抗《ていこう》しきれず、谷崎亜希子は電話を――右手に尿ガメをぶら下げたまま――取った。
「はい、ナースセンターです」
「外線です」
聞こえてきたのは、代表電話の、取り次ぎの声。
「つなぎます。お願いします」
ん? なんでいつもより早口なわけ?
疑問の答えは一秒後にやってきた。
「Hello?」
「は?」
「Well ... hello? hello?」
英語だ。
代表電話を受けた人間もよくわからなくて、とりあえずこちらにまわしてきたのだろう。シクった。貧乏《びんぼう》クジを引いた。
汗《あせ》がひやりと垂《た》れる。
「は、はろー」
どうにかそんな言葉を返したのが事態《じたい》をより悪化させた。こちらが英語を解すると判断《はんだん》した相手は、途端《とたん》に早口で英語をまくし立ててきたのだ。もちろん聞き取れない。まったくわからない。自慢《じまん》ではないが谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》、高校時代の英語で赤点を取らなかったことは三度しかない。追試《ついし》の追試、あるいは追試の追試の追試を受けて、最後には英語教師の呆《あき》れと同情を頼《たよ》りに、どうにか単位を得てきた。スペルを間違《まちが》わずに書けると断言《だんげん》できる英単語は数えるほどしかない。まずは自分の名――Akiko Tanizaki。続いて愛車の名――Silvia。sky、talk、cat、dog……と中学一年生並みの英単語を頭の中に浮《う》かべているうちに、ようやく相手の言葉《ことば》にかすかな手がかりを掴《つか》んだ。しかし相手に待てと伝《つた》えられない。その程度《ていど》の英語さえわからない。どうすべきか。
二秒ほど悩《なや》んだ末、亜希子は、
「ちょっと待ちな!」
と叫《さけ》んだ。
そして受話器を肩《かた》で押《お》さえ、きょろきょろと辺《あた》りを見まわす。いないか。駄目《だめ》か。どうすべきか。汗がだらだら出てきたところで、目当ての人物が大あくびをかましながらナースセンターの前を通りかかった。
砂漠でオアシスを見つけた旅人のごとく、亜希子は声をあげた。
「夏目《なつめ》……先生! 電話! 電話!」
さすがに人前で看護婦《かんごふ》が医者を呼《よ》び捨《す》てにするわけにはいかない。夏目は寝《ね》ぼけているらしく、「オレ?」という感じで自分を指差した。まぶたが半分|閉《と》じている。仮眠《かみん》でも取っていたのかもしれない。ぎろりと睨《にら》みつけ、こちらに来るように手を振《ふ》った。
やってきた夏目に、受話器を突きだす。
「で、電話!」
「オレに?」
「た、たぶん!」
「なんで、たぶんなんだ?」
「な、なんとなく!」
「はあ?」
説明するのももどかしく、とにかく受話器をぶんぶんと振《ふ》る。いぶかしそうに見つめつつ、夏目《なつめ》はようやく受話器を手に取った。
「はい、夏目ですが」
そこで相手が応《おう》じたらしく、途端《とたん》に夏目の顔が変わった。なんていうか、しゃっきりしたというか、男っぽくなったっていうか、仕事モードに入ったっていうか。
「Hi, Joe! What's up? Is it in the dead of night? Well ... Is that spunk? Well ... Good looks. Yes, pretty good. But she is thorny personality. Suck! A work? Ann ... give me more time. I'm not sure. I'm unable to make a decision. It's a good position for me to get an attending doctor ... well ... but ... give me more time」
ひどく朗《ほが》らかな調子《ちょうし》だ。しかもなんだか見事《みごと》に意思疎通《いしそつう》しているらしい。冗談《じょうだん》なんかも言っているようで、声を出して笑ったりもしていた。その様子《ようす》を、右手に尿《にょう》ガメを持ったまま、亜希子《あきこ》はちょっとぼんやり眺《なが》めてしまった。
なんだか楽しそうじゃないか、夏目|吾郎《ごろう》。
まあ、考えてみれば、そうなのだ。こんな地方の小病院に流れてきているとはいえ、夏目はエリート中のエリートだ。出身大学は、医学界で東大系と覇《は》を競《きそ》う名門だし、しかもその名門で腕利《うでき》きとして知られていた。夏目が執刀《しっとう》する際《さい》は、近隣《きんりん》の系列病院からわざわざ医師が見学に来るくらいである。本来なら、こんなところにいる男ではない。
住む世界が違《ちが》う――。
そういう考え方はどうにも卑屈《ひくつ》だし、受け入れたくはないけれど、現実としてそこにあるのは確《たし》かだった。自分はただの看護婦《かんごふ》でしかなく、その職務《しょくむ》にいかほどの誇《ほこ》りを感じていようと、自分が医者になれるわけではない。
人は人。
自分は自分。
わかっちゃいるけれど、だからといって納得《なっとく》できるかといえば、それは別問題だ。というわけで、屋上《おくじょう》で煙草《たばこ》を吹かしているとき、夏目がやってきても、亜希子はすぐに話しかけなかった。夏目も話しかけてこない。ポケットから煙草を出すと、いつものように銀色のライターで火をつけ、そのまま咥《くわ》え煙草でライターをいじっている。くるくるとライターをまわす手つきは滑《なめ》らかで、手先の器用《きよう》さを感じさせた。なにしろ一ミリ以下の神経《しんけい》をつなぐ手だ。しかもそんな作業《さぎょう》を十時間ぶっ通しで続けられるタフさも持っている。日本全国から集めたとびきり優秀な人間を篩《ふるい》にかけ、残ったヤツに試練《しれん》を与《あた》え、その結果《けっか》をもとにまた篩にかけ、同じことをさらに二、三度|繰《く》り返《かえ》し……そういう競争を勝《か》ち抜《ぬ》くだけの才がこの男にはある。
まあ、別にうらやましかないけどね。
二十五にもなると、自分の器《うつわ》が見えてくる。限界《げんかい》、という言葉《ことば》は使いたくないな。器。キャパシティ。そんなところ。十代の自分があんなに無茶《むちゃ》をしていたのは、それが見えていなかったからなのだろう。そして見たかったからなのだろう。けれどひとたび見えてしまうと、つまらないものだ。どこかで受け入れてしまえば、楽になるとはわかっている。ただし、二十五という年は、受け入れるにはまだ若すぎる。見えるのに、受け入れられない。まったく厄介《やっかい》だ。胸《むね》の中にあるのは、痛《いた》みというよりは、疼《うず》きだろうか。しかしいつかは受け入れられるようになるのだろう。五年後か、十年後か。よくわからないけど。そうなったとき、あるいは器がちょっとだけ大きくなるのかもしれない。
こちらも咥《くわ》え煙草《たばこ》のまま、聞いてみる。
「電話、どっから?」
「シカゴ」
「それって、アメリカだっけ?」
夏目《なつめ》が呆《あき》れたような顔をした。
「おまえ、そんなことも知らねえのか」
「知ってるけど」
いやいや、嘘《うそ》じゃないぞ。
「いちおう聞いてみただけ」
夏目は疑《うたが》わしそうだ。そんな目で見てくるなって。恥《は》ずかしくなるじゃん。
「アメリカだよ。中部。古い町だな。それなりに大きいといえば大きいか。都市|規模《きぼ》はまあ、大阪とか名古屋くらいかな」
手すりにもたれかかり、そのまま顔を上に向ける。首が反《そ》って、大きなのど仏が見えた。煙草の先から、ゆったりと煙《けむり》が上がっている。足の投げだし方とか、腕《うで》の力の抜《ぬ》け具合《ぐあい》に、なんだか高校生みたいな気軽さがある。大人になりきれてないといえば、そうなのだろう。若い心を失っていないという言い方は、きれいすぎるか。
「ちょっと話があってな。来いって言われてんだ。昔発表した論文のことを覚《おぼ》えてくれてた人がいて。この前、学会で会ったとき、今なにしてんだって聞かれたから、田舎《いなか》でのんびりしてますって言ったら、オレのところに来いって」
「それって、いい話なの?」
さあ、どうだろう。夏目は呟《つぶや》くように言った。
「日本にはもう戻《もど》れないかもな。一回海外出ちまうと、外様《とざま》なんだよ。大学病院に残ってるヤツらは、せっせと自分の政治的立場を強化してるわけだ。こうな、ほら、大きな塔《とう》の足場を固《かた》めてるんだな」
夏目《なつめ》は両手を広げ、でっかい塔のシルエットを空間に描《えが》いた。夏目自身よりも大きな塔を描いていた。
「そんなところにだな、五年後とか十年後に、ひょっこり海外から戻ってきたって、もう落ち着く場所はないわけだ。足場を固めた連中にしてみりゃ、煙《けむ》たいだけだしな。ボンクラならまだしも、下手《へた》に腕《うで》が立つと、よけい煙たいよな」
「面倒《めんど》くさいね」
一本吸い終わったので、二本目へ。朝一本吸っているので、今日三本目。一日七本と決めているから、あと四本だ。残りの配分を計算してみる。次の休憩《きゅうけい》で一本、仕事が終わってから二本、夕飯後に一本。ああ、これじゃ寝る前の分がなくなる。二本目に火をつけるかどうか悩《なや》みながら、尋《たず》ねてみた。
「高い塔、登りたい?」
すぐに声は返ってこなかった。
相変わらず咥《くわ》え煙草《たばこ》のまま、夏目は手すりにもたれかかっている。長くなった灰が崩《くず》れ、白衣《はくい》に落ちた。慌《あわ》てて灰を払う仕草《しぐさ》がガキっぽい。まるで隠《かく》れて煙草を吸っている高校生みたいだった。
こちらをチラリと見てきた。
さっきの問いを覚《おぼ》えてるかどうか確認《かくにん》したのだろう。
覚えてるよ。
だから、さっさと答えな。
「登りてえな」
けっこうまじめな声だった。
「というか、登りたかった」
「じゃあ、登ればいいじゃん。あんた、できるだろ」
「無理《むり》なんだよ、もう」
「そう思ってるだけじゃないの」
「いや、まあ、マジで無理だ」
夏目の顔から表情が消え去る。言葉《ことば》も短い。しかも平坦《へいたん》だ。なるほど、と思った。きっとこいつも自分の器《うつわ》が見えているのだろう。そして立場が。がむしゃらに動けるほどには若くなく、諦《あきら》めてしまうほどには年老いてない。進む道も、引く道も見える。
立ってる場所は違《ちが》っても、迷《まよ》うことは同じだ。
人はきっと、こうして生きていくのだろう。小さいころから、いろんなものにぶつかって、たいてい弾《はじ》き返《かえ》され、それでも時には乗《の》り越《こ》え、そんなことを千回も一万回も繰《く》り返《かえ》しながら、やがてどこかに自分の居場所《いばしょ》を見つける。
「だから、アメリカなわけ?」
「ひとつの道だろうな」
「行くの?」
「わかんねえ」
「行けばいいんじゃないの。ここにいたって、あんた、腕《うで》を発揮《はっき》できないだろ。もっとうまくなれるし、人から認《みと》められる。それに、向こうで認められれば、ちょっとは大学の連中の鼻をあかすことだってできるだろ」
「まあな。でも、そういうのが、どうでもよくなっちまったとこもあるんだよな」
「目指《めざ》しなよ、上を」
思ったよりも強い声が出ていた。
「行けばいいんだよ、高いところまで」
夏目《なつめ》が怪訝《けげん》そうに見てくる。
「なんだ? オレを追《お》いだしたいのか?」
「そうだよ」
「ちっ、嫌《いや》な女だ」
「ああ、そうさ。嫌な女さ。あんたを追いだしたいんだ。目障《めざわ》りだからさ。行きなよ、シカゴ。どこまで行けるかわかんないけど、行ける人間は行けばいいんだよ」
夏目はまだ怪訝そうだ。
妙《みょう》にすがすがしい気持ちで、亜希子《あきこ》は空に声を放《はな》っていた。
「どこまでも登ればいいんだ」
あんたはこんなところにいる男じゃないよ。
だから、行きなよ。
夏目はなにか言いかけたものの、しかしその言葉《ことば》を呑《の》みこむと、田舎《いなか》のヤンキーみたいな感じでその場にしゃがみこんだ。根本まで吸った煙草《たばこ》を、床の薄汚《うすよご》れたコンクリートで消そうとする。押《お》しつけるのではなく、縁《ふち》を擦《こす》って火の勢《いきお》いを落とす感じ。実に丁寧《ていねい》な消し方だ。そこらに投げ捨てるのかと思ったけど、意外と律儀《りちぎ》なものである。へえ、繊細《せんさい》じゃないの、と感心していたら、夏目はその吸《す》い殼《がら》を排水溝《はいすいこう》に落とそうとした。
「ちょっと持ちな!」
「は?」
「なにしてんの?」
「いや、煙草を捨てようかと――」
「そこに捨てたら詰《つ》まるだろうが!」
歩いていくと、その頭を張《は》り飛《と》ばし、なんだてめえいきなりなにしやがんだと息巻《いきま》く夏目《なつめ》から吸《す》い殼《がら》を取り上げ、自分が持ってきた携帯灰皿《けいたいはいざら》に放りこんだ。それを見て、夏目がおおと声をあげる。
「おまえ、マナーいいな」
「あんたが悪すぎ。煙草《たばこ》の始末《しまつ》なんか、大人のたしなみでしょ」
正論《せいろん》を吐《は》かれ、夏目は悔《くや》しそうな顔をした。
そのまま黙《だま》ったままでいた。
気がつくと、二本目の煙草に火をつけてしまっていた。むむう。これでは夜の分がない。今から消して残すか。いや、それはセコいか。迷《まよ》った末、吸ってしまうことにした。大切な一本だと思うと、ひどくうまかった。煙《けむり》を肺の奥《おく》までまわし、ゆっくりと吐きだす。少し疲《つか》れているのか、頭がクラクラした。
夏目も二本目を吸っている。
ふたり並《なら》んで、煙を吐きつづけた。煙で輪《わ》を作ったら、夏目も作ってきた。得意《とくい》げに見てきた。それで連続三つの輪を作ったら、びっくりした顔で見てきた。
勝った。
楽勝だ。
へへ、伊達《だて》に十四のときから吸ってないからね。
「アメリカ行くんなら、煙草やめないと。向こうはこっちより喫煙者《きつえんしゃ》には厳《きび》しいんだろ」
「まだ決めてねえって」
「禁煙《きんえん》か。頑張《がんば》りな」
「だから、決めてねえって言ってるだろうが」
「大変だぞ、禁煙」
夏目は不貞腐《ふてくさ》れたように黙《だま》ってしまい、煙草をひたすら吹かしている。まるで今のうちに吸っておかなければならないというように。
「シカゴって寒いの?」
「かなり寒いな」
風が吹いて、煙が流されていく。
「北海道くらいの緯度《いど》だしな」
「マフラーでもあげようか」
「いらねえ。てか、おまえ、本当にオレを追《お》いだしたいみたいだな」
夏目がなにか見ているので、その視線《しせん》を追ったところ、銀色に輝《かがや》く飛行機が、ちょうど雲塊《うんかい》から出てきたところだった。秋の呑気《のんき》な光を浴《あ》びて、そのオモチャみたいな飛行機はきらきらと輝《かがや》いていた。
あれはどこに行く飛行機なのだろうか。
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戎崎《えざき》裕一《ゆういち》は四畳半に閉《と》じこもっていた。赤い光がぼんやりと輝《かがや》くその部屋《へや》の中は、強烈《きょうれつ》な酢酸《さくさん》の臭《にお》いに満《み》たされてる。父親が昔使っていたテーブルの上には、やはり父親が昔使っていた引《ひ》き伸《の》ばし機が据《す》え付《つ》けてある。そこにこの前|現像《げんぞう》したフィルムがセットされている。フィルムの現像はうまくいったらしく、ムラはどうやらないようだ。その画のひとつを、四ツ切サイズに引き伸ばす。ひとりの少女が笑っている。つい戎崎裕一も笑ってしまう。ああ、やった。すっげえきれいに撮《と》れている。ピントもばっちりだ。右側にあるつまみをくるくるまわし、大きさとピントを合わせる。さて印画紙《いんがし》を出して、焼き付けよう。そのとき、ドアがノックされる。なにしてるの、と声が聞こえる。今、引き伸ばし機が映し出している少女だ。プリント、と叫《さけ》ぶ。開けていい、と尋《たず》ねられる。駄目《だめ》、と叫ぶ。絶対《ぜったい》駄目だからな。もしここで開けられたら、高い高い印画紙が全部駄目になってしまうではないか。それにこっそり撮った彼女の足のフィルムとかを見つけられたら、ものすごい勢《いきお》いで没収《ぼっしゅう》される。殴《なぐ》られる。罵《ののし》られる。彼女をここに入れるわけにはいかない。プリント中だから駄目だぞ、と必死《ひっし》になって叫ぶ。駄目だからな。ちぇっ、と少女がつまらな[#「つまらな」は底本では「つまらなら」]そうに呟《つぶや》く声が聞こえてくる。ふう、ピンチは脱《だっ》したようだ。
φ
秋庭《あきば》里香《りか》はいささか不機嫌《ふきげん》である。なぜなら、せっかく来たというのに、部屋の主である戎崎裕一が四畳半から出てこない。プリントだと言っていたが、本当なのだろうか。なんだか叫ぶ声が必死すぎる。あれは絶対、なにかを隠《かく》している。けれど彼がとてもまじめに写真を撮っていることは知っているので、いちおうドアは開けないでおいた。開けてしまったら、光が入ってしまって、彼が大事にしているフィルムやら印画紙やらが駄目になってしまう。それにしても、戎崎裕一が写真に打ち込むようになるとは思わなかった。打ち込む、ってほどじゃないか。そこまで熱心じゃない。だけどとても大切にカメラを扱《あつか》い、一枚一枚プリントしている。秋庭里香がいる部屋にも、そんな写真がぶら下がっている。部屋に紐《ひも》が何本も渡してあって、その紐に乾燥《かんそう》させるためなのかプリント済みの印画紙が何枚もぶら下がっている。一枚見てみる。世古口《せこぐち》司《つかさ》が直立不動《ちょくりつふどう》で立っている。たかが写真なのに、そこまで緊張《きんちょう》することもないだろうに。しかし世古口司らしいと言えば世古口司らしい。その隣《となり》は、世古口司と水谷《みずたに》みゆきの食事シーン。仲がいい感じ。それからあとの五枚は、全部自分、つまり秋庭里香だった。笑ってる顔。怒《おこ》ってる顔。拗《す》ねてる顔もある。いつの間にか、いろんな写真を撮られている。あまり可愛《かわい》く写ってない三枚は没収。洗濯《せんたく》バサミからはずし、自分の鞄《かばん》に入れる。まだ戎崎裕一は来ない。つまらない。だんだん不機嫌になってくる。椅子《いす》に腰《こし》かける。もたれる。後ろにひっくり返った。ああ、これ、背《せ》もたれが壊《こわ》れてたんだった。戎崎裕一がいなくてよかった。スカートがきれいにまくれたから、パンツを見られるところだった。彼がいないことは知りつつも、スカートを整《ととの》える。恥《は》ずかしいなあ、もう。そのとき、机の下に、箱を見つけた。なんだろうと思う。手を伸ばしてみる。ああ、でも、見ちゃ悪いかな。いや、戎崎《えざき》裕一《ゆういち》には前科《ぜんか》がある。Hな本をいっぱい隠《かく》し持《も》っていた。もしこれがH本コレクションだったら、絶対|没収《ぼっしゅう》だ。全部捨ててやる。とか思いつつ、なぜかもう怒《いか》りながら箱を取り出し、開けてみる。意外なものが入っている。驚《おどろ》く。本当に驚いてしまう。胸《むね》が高鳴《たかな》る。
φ
里香《りか》の写真を、高価な四ツ切|印画紙《いんがし》にプリントした。ピントはばっちり。たぶん露光《ろこう》時間もばっちりだ。それをすぐさま、手早く現像液《げんぞうえき》につける。裏側にして、表面に気泡《きほう》がつかないように気をつけなければいけない。気泡がつくと、そこがムラになる。竹製の大きなピンセットでつまみ、全体が液に浸《つか》るように、ゆらゆら揺《ゆ》らす。もういいだろうと判断《はんだん》し、印画紙を表にしてみると、秋庭《あきば》里香の見事《みごと》な笑顔《えがお》がそこに浮《う》かび上《あ》がっていた。あ、可愛《かわい》いじゃん、と思う。こうしてプリントしてみると、ネガで見るよりも全然いい。思わず見とれていたせいで、現像が進みすぎてしまった。慌《あわ》てて取り出し、停止液《ていしえき》につける。バタバタと浸《ひた》す。これが臭《くさ》い。酢酸《さくさん》だ。つまり酢《す》だ。慌てていたせいで、酢酸をこぼした。ズボンにべったりついた。思いっきり酢酸臭い男になってしまった。しまった、と思いつつ、印画紙を定着液《ていちゃくえき》に移す。ゆらゆらと、定着液の中で、四ツ切印画紙が揺れる。大きな里香の顔。笑っている。だから戎崎裕一も笑ってしまう。これは保存版だな、と思う。大事に取っておかなきゃ。戎崎裕一は、今自分の部屋でなにが起きているのか、まったく気づいていない。なにも知らない。
事態《じたい》は密《ひそ》かに進行している。
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「吉崎《よしざき》さん、なに聴《き》いてるの」
ちびっこい綾子《あやこ》が、見上げながら尋《たず》ねてくる。聞こえていたものの、あたしはヘッドフォンから流れてくる音楽のせいにして、首を傾《かし》げた。
ちょっと小馬鹿《こばか》にした態度《たいど》だけど、綾子はこの程度《ていど》じゃめげない。
サンドバッグみたいな子なのだ。
「なに聴いてるの」
わざわざ大きな声でさらに尋《たず》ねてくる。しかたなくあたしはヘッドフォンをはずし、流行のミュージシャンの名前を言った。最近デビューした派手《はで》なグループで、テレビとかにも出まくっている。大人が嫌《いや》な顔をするタイプのミュージシャンだ。
分別《ふんべつ》くさい綾子もそんな顔になった。
「ふーん、おもしろい?」
「別に」
「じゃあなんで聴いてるの?」
「流行《はや》ってるから」
「好きじゃないのに流行《はや》ってたら聴《き》くの?」
なに当たり前のことを聞いてくるんだろう。
「そうだけど」
低い声で言ったら、さすがに綾子《あやこ》も黙《だま》った。それにしても綾子はダサい。小さいのは別にいい。男子で小さいと悲惨《ひさん》だけど、女子ならむしろ可愛《かわい》かったりする。だけど綾子は小さいっていうより、貧相《ひんそう》って感じ。母親に切ってもらったような髪型《かみがた》だし、それでちょっと癖《くせ》があるから、本当にダサい。ガキに見える。高一っていうより、中二って感じ。ほっぺ赤いし。昔の少女マンガを読んでるところなんかもかっこ悪い。
最悪なのが、制服の着方だ。
スカートの裾《すそ》が膝《ひざ》より長い。丈《たけ》をつめるか、ウエストのところで巻《ま》きこむかすればいいのに。足の形は悪くないから、そうすればぐっと大人びるはずだ。そんな簡単《かんたん》なこともわからないなんてバカじゃないのって思う。髪留《かみど》めとか時計とか、身につけてるものも子供っぽくて、だから綾子のそばにいるとうんざりしてくる。可愛いならいいんだけど、子供っぽいのは最悪。
だけど、昼休みの教室で、あたしといっしょにいてくれるのは綾子だけだ。
あたしは今、クラスの中で浮《う》きに浮いている。誰《だれ》も話しかけてこない。男子は無視《むし》、女子はもっと無視って感じだ。話せるのは、あたしと同じように浮きまくっている綾子だけ。浮いている同士ってことなのか、最近向こうから話しかけてくるようになった。
ムスッとしていたら、目の前を奈々子《ななこ》たちが「里香《りか》先輩《せんぱい》!」とか妙《みょう》に高い声を出して駆《か》けていった。まるで宝塚にハマってるおばちゃんたちみたい。
奈々子たちは数学のことを聞きにいったらしい。
でも本当はそんなのどうでもよくて、秋庭《あきば》里香と話したいだけなのだ。クラス中……ううん、学校中の誰《だれ》もが秋庭里香のことを知っている。
十八歳の一年生。
全女子生徒の中で一番細くて、一番色が白くて、一番髪が長くて、しかも頭もいい。学年テストじゃ三番以下になったことがないって話だ。噂《うわさ》だと三年の授業科目も実はほとんどわかってるらしい。病院に入ってるあいだに、ちゃんと自習してたのだそうだ。まあ、もともと頭がいいんだろう。できが違《ちが》うってヤツだ。だったら大検でも受ければいいのに、なぜか学校に来ている。
秋庭里香の周《まわ》りには人がいっぱい。
あたしの周りには綾子だけ。
この落差《らくさ》はいったいなんだろう。
だけど、こうして端《はた》から見てると、秋庭里香は孤独《こどく》なのかもしれないとも思う。ふたつも年下の生徒たちに囲まれたその姿《すがた》は、ちょっと背《せ》が伸《の》びすぎている。なんか無理《むり》してる感じ。そんなことに気づいてるのは、あたしと綾子だけなんだろうな。そばにいたら、秋庭里香のまぶしさに目がくらんで、わからなくなってしまうに違《ちが》いない。
それにしても、なぜこんなことになってしまったのだろうか。
最初から、秋庭《あきば》里香《りか》には負けていた。
入学式は親とか来てるからそうでもないけど、その翌日の初授業がある日は一番大切な勝負だ。そこでなにもかも決まってしまう。十五年も女子をやっていて、そのうち九年は学生だった。男子と違って、女子で学生というのはなかなか大変なのだった。男子なんて、いざとなったら派手《はで》に殴《なぐ》ったり蹴《け》ったりすればいい。脅《おど》したり、脅されたり。体が大きいとか力が強いとか。そんな簡単《かんたん》なことで勝負が決まってしまう。
でも女子はそんなに簡単じゃない。
女子の世界にはいくつも階層《かいそう》があって、その上と下をわけるラインは――ほとんど目に見えないけれど――常にきっちり引かれている。誰《だれ》もそのラインを崩《くず》すことはできない。むしろ、ちゃんと守って生きていこうとする。そしてたいていの場合、階層を落ちることはあっても、上ることはない。
最初が肝心《かんじん》なのだ。決めておかなければいけないのだ。
活発な子。おとなしい子。勉強のできる子。できない子。そういうのは、だいたい一目でわかる。
勉強ができる子は、いい。たとえクラスで少々|浮《う》いても、なにか秀《ひい》でたものがあると、それを頼《たよ》りに生きていけるから。浮いていてもかまわないっていうか。実際《じっさい》、勉強のできる子は、しばしば浮いている。というか、あたしなんかから見ると、自分から浮こうとしてるように思えたりもする。お高くとまってるわけじゃないんだろうけど。要するに下手《へた》なのかもしれない。生き方が。
初授業のある日、登校は早くても遅《おそ》くてもいけない。
それなりに人が集まって、なんとなく緩《ゆる》いグループができかかっているころが狙《ねら》い目《め》だ。教室に入ると、全員がさりげなく、けれどきっちりとあたしを見る。立ち止まり、一瞬《いっしゅん》で状況《じょうきょう》を把握《はあく》する。
そこからが、肝心だ。
絶対《ぜったい》に負け組になりそうな子と言葉《ことば》を交《か》わしてはいけない。こちらにそのつもりがなくても、それがきっかけになって向こうが寄ってくることがあるからだ。なんとなく席を探《さが》す振《ふ》りをしながら、できあがりつつあるグループをきっちり見定め、一番活発で声の大きい子たちに近づき、そして尋《たず》ねる。
「三組ってここでいいんだっけ?」
なんでもいいのだ。話すきっかけにすぎないのだから。それからも気は抜《ぬ》けない。グループ内にも序列《じょれつ》がある。仕切りたがる子。騒《さわ》ぎたい子。目立ちたい子。集まってる子の性格を見極《みきわ》めて、ちょうどいい場所を探《さが》す。進級するたびに、クラス替えがあるたびに繰《く》り返《かえ》してきたことなので、手順《てじゅん》はわかっていた。あとはうまくやるだけ。いつものように。
その手順が狂ったのは、秋庭《あきば》里香《りか》のせいだった。
教室に入った瞬間《しゅんかん》、彼女の姿《すがた》が目に飛びこんできたのだ。びっくりした。大人びた顔つき。長い髪《かみ》。澄《す》んだ肌《はだ》。神様に不公平だと訴《うった》えたくなるくらい整《ととの》った顔立ち。見た瞬間に、誰《だれ》もが目を引かれる。微妙《びみょう》な駆《か》け引《ひ》きをしている同級生たちから離《はな》れ、彼女は窓辺《まどべ》にもたれかかっていた。おそらくそのとき、教室中の誰もが、秋庭里香のことを意識《いしき》していた。男の子だけじゃなくて、女の子も……ううん、むしろ女の子こそが意識していた。
そうして彼女に三秒ほど見とれていたせいで、
「三組ってここですか?」
なんて綾子《あやこ》に話しかけられてしまったのだ。
「あ、そうです」
適当《てきとう》に答えたつもりだったけれど、とりあえず愛想笑《あいそわら》いをしてしまったのが、さらにいけなかった。綾子はそのことを覚《おぼ》えていたから、最近自分を頼《たよ》ってくるようになったのだろう。愚図《ぐず》で、優柔不断《ゆうじゅうふだん》で、成績もスポーツも人並《ひとな》み以下で、今までの自分なら絶対《ぜったい》に関係を持たなかったタイプだ。クラスの序列はほぼ最下位。というか序列外。
同じ種類の人間だと思われたら、そこで学校生活が終わってしまう。
親近感《しんきんかん》を持ってしまったらしい綾子をひたすら冷たくあしらいながら、クラスで一番|派手《はで》な子たちにどうにか紛《まぎ》れこんだ。スタートダッシュ失敗。なんとなく力関係ができてしまったところにあとから入ると、それだけで立場が苦しい。
それにしても秋庭里香は卑怯《ひきょう》だ、ふたつも年上なんて。
三年生といっしょじゃないの。
しかも秋庭里香には三年生に友達がいて、水谷《みずたに》とかいう先輩《せんぱい》とタメ口で話してたりする。となると、周《まわ》りの派手な子たちだって、なんとなく秋庭里香には逆《さか》らおうとはしなくなる。うまく距離《きょり》を置いてつきあうというか。
でも、気に食わなかった。
彼女のせいでスタートダッシュが遅《おく》れた。どうにか派手な子たちを従《したが》えて、いつものポジションをキープしたけれど、かなり大変だった。しかもクラスのトップに立っても、常《つね》にその上に秋庭里香がいる。序列最上位……ってわけじゃないかな。綾子とはまったく逆《ぎゃく》の意味で、序列外。
雲の上って感じ。
なにしろあの顔だし、ふたつも年上だし、ひとりでいても全然平気そうだし。無理《むり》して平気な振《ふ》りをしてるんじゃなくて、そんなのなんでもないってふうなのだ。男子も女子もそろって彼女に憧《あこが》れ、同級生なのに先輩《せんぱい》扱《あつか》い。あたしと同じように彼女を煙《けむ》たく思ってる子は何人かいたけど、誰《だれ》も手を出せなかった。それで、そういう子たちが、気の強いあたしになにか期待《きたい》してくる。もっとも、あたしは秋庭《あきば》里香《りか》とぶつかるつもりはこれっぽっちもなかった。適当《てきとう》にざらざらした関係を作っておくくらいで十分。っていうか、それ以上は荷《に》が重い。伊達《だて》に十五年も女子をやってない。九年も学校生活を送ってない。勝てるかどうかはだいたいわかる。
ぶつかったら負ける。
勝率ゼロ。
わかってた、そんなこと。だから適当に距離《きょり》を置いて、仲のいい子たちと「秋庭里香ってうざいよね、マジうざい」なんて言ってるくらいのつもりだった。
でも、だんだん引っこみがつかなくなってきた。
今になって思い返してみると、あたしをけしかけてた子たちは、あたしが負けるのを見たかったんだと思う。いい気になって、大きな声で喋《しゃべ》ってたあたしは、ちょっと出過ぎてた。うっすらとした、見えないくらいの反感を買ってた。もっとも、そういうのは、けしかけてた当人たちも気づいてないんだろうけど。
というわけで、秋庭里香とぶつかった。
実際《じっさい》、体がぶつかった。
ううん。違《ちが》うか。本当はぶつかってない。ちょっと触《さわ》ったくらい。だけど次の瞬間《しゅんかん》、秋庭里香は机を巻《ま》きこんで倒《たお》れた。長い髪《かみ》がぱあーって床《ゆか》に広がって、それがものすごくきれいっていうか、ぞくぞくした。
見とれて、立ちつくしてた。
わからず、立ちつくしてた。
気がついたら責任感の強い男子やら女子やらが職員室に先生を呼《よ》びに走りだしてて、突き倒した――ことになったらしい――あたしを、クラス全員が冷たい目で見ていた。
さすがに派手《はで》グループの子たちも寄ってこない。
しばらくひとりきり。
そのうち、また綾子《あやこ》がなついてくるようになった。
帰り道も、綾子といっしょだった。いっしょに帰ってくれる人が他にいないので、しかたない。友達ができた綾子は嬉《うれ》しそうで、下らないことをあたしにいろいろ話してくる。絵とかマンガとか小説とか……どれもあたしにはよくわからなくて、興味《きょうみ》もないことばかり。だからつまらない。派手な子たちと派手な音楽の話でもしてれば、なんとなく楽しいような気になれるのに。実際に楽しいかどうかはともかく。
「あ、またふたりでいる」
綾子《あやこ》が急に立ち止まった。
つきあうことなんてないのに、つい立ち止まってしまう。
「また? ふたり?」
彼女の視線《しせん》を追《お》って、その意味するところを知った。校庭の端《はし》で、秋庭《あきば》里香《りか》が男といっしょにいた。二年の……といっても、ダブったらしいから、ほんとだったら三年の……戎崎《えざき》とかいう人だ。戎崎さんが鉄棒に手をかけ、秋庭里香はその鉄棒の柱にもたれかかって、なにか話している。ずいぶん離《はな》れてるけど、仲がいいってことが一目でわかった。あ、秋庭里香が戎崎さんのおでこに触《さわ》った。ちょっと色っぽい。見てるだけでドキドキするような仕草《しぐさ》だ。戎崎さんはうるさいなって感じでその手をどけて、きれいに逆上《さかあ》がりをした。くるんと大きな体がまわって、鉄棒の上。ちょっとかっこいい。男の子っていうより、男の人って感じ。同級生の男子なんてみんな子供みたいだけど、さすがに三年生は……ダブってるから二年だけど……ちょっと違《ちが》う感じがする。
その戎崎さんの足を、秋庭里香がひょいと押《お》した。
空中に浮かんでいた戎崎さんの足はなにも捉《とら》えられず、体が鉄棒を中心に半回転して、そのまま地面にどさっと落ちた。
音が聞こえた。いや、聞こえなかったけど、聞こえた気がした。
「あ、痛《いた》そう」
綾子がびっくりしたような声で言う。あたしだってびっくりしたけど、隣《となり》にいる彼女がそんな声を出すものだから、「たいしたことじゃないでしょ」なんて反抗するような気持ちになってしまう。
戎崎さんは頭をさすりながら起《お》きあがると、秋庭里香の前に立って、なにか大きな声をあげた。怒《おこ》ってるんだろうか。だけど、あんなことされたのに、怒ってる感じじゃない。怒ってる振《ふ》りをしてるだけっていうか。
それにしても、距離《きょり》が近い。見ていると、すぐに抱《だ》き合《あ》ってキスでもしそうな距離だ。すんごくイチャついてるってわけじゃないけど、立っているときの距離だけじゃなくて、いろんなものがとにかく近いって感じだった。心と心が寄《よ》り添《そ》っているというか。そういうのは、なんとなくわかる。
んー、と唸《うな》ったあと、綾子が手提《てさ》げ鞄《かばん》からノートを取りだした。英語のノートだったけど、その裏側のほうをめくって、さらさらとなにか描《か》き始《はじ》めた。あ、あのふたりだ。戎崎さんと秋庭里香。綾子は絵が上手《うま》い。勉強もスポーツも全然だけど、美術だけはいつも彼女の絵が最高点を取る。特に習ってたわけじゃなくて、ただ単純《たんじゅん》に好きなのだそうだ。
うまいもので、ふたりを包《つつ》む雰囲気《ふんいき》がほんの数分で紙上に再現されていった。鉄棒のラインがざっと引かれ、その脇《わき》に人影《ひとかげ》がふたつ。それだけなのに、時刻が夕方で、ふたりが恋人同士だって伝《つた》わってくる。なんでだろう。どこにそんなサインが入ってるんだろう。勉強もスポーツもそこそこできるけど、絵はからきし駄目《だめ》なあたしにはさっぱりわからない。
絵を描《か》いてるときだけは、綾子《あやこ》の雰囲気《ふんいき》が変わる。
なんとなく、負けてる気がする。
「あの噂《うわさ》、本当なのかな」
声まで張《は》りがあるから不思議《ふしぎ》だ。
夢中《むちゅう》になると、綾子は周《まわ》りが見えなくなることがある。それでよけいに浮《う》いてしまうのだけれど。
「噂って?」
「結婚してるって。あのふたり。もう」
集中してるせいか、言葉《ことば》の順番がバラバラだ。
手はそのあいだも素早《すばや》く動き、ふたりの輪郭《りんかく》がはっきりしてくる。戎崎《えざき》さんがちょっと情けない感じで、秋庭《あきば》里香《りか》は凛《りん》としている。それにふたりは幸せそうだ。同じようにふたりでいても、あたしと綾子はこんなんじゃないだろう。綾子がもしあたしたちを……あたしと、綾子自身を描いたら、離《はな》れて立っているように描くに違《ちが》いない。
そんなことを考えながら、投げやりに答えておいた。
「嘘《うそ》に決まってるじゃない。高校生で結婚なんてあるわけないよ。もし本当なら退学《たいがく》だし」
「そうだよね、まあ」
そこで綾子《あやこ》は黙《だま》ってしまい、ちょっと悩《なや》んだ末、何本か絵に線を足してから、ぱたんとノートを閉《と》じた。最後に足した線はノートの右|端《はし》から左端まですっと伸びていた。その線が校舎の影《かげ》だったのだと、ノートが手提《てさ》げに消えてから気づいた。
ああ、ほんとだ。ちょうど校庭を切《き》り裂《さ》くように影が伸びている。あたしたちの足もとまで来ている。
最後につけ足したたった一本の線で、絵の印象《いんしょう》ががらりと変わっていた。引《ひ》き締《し》まったというか。夕暮《ゆうぐ》れの寂《さび》しさとか柔《やわ》らかさが、いきなり絵に反映された。こういうセンスは、ちょっとすごいと思う。ただの地味《じみ》な子じゃない、綾子は。
「ごめん、待たせちゃった?」
けれど、そんなふうに尋《たず》ねてくる綾子はもう、いつもの綾子だった。子供っぽくて、ひ弱で、ダサい。貧相《ひんそう》な子犬みたい。
あたしはさっさと歩きだした。
「行こう」
「うん」
急ぎ足で綾子がついてくる。ほんと犬みたい。
「今度、バイトするんでしょ?」
尋ねられたので、うんと肯《うなず》いておく。
「叔母《おば》さんに頼《たの》まれたから」
「なんのバイト?」
「神社でお札を売るんだって」
バイトなんて別にしたくないけど……お金はお母さんに取り上げられちゃうし……学校がおもしろくないから、それもいいかなって思ったのだ。
他の人と普通《ふつう》に話せるなら、それもいいかなって。
「はあ? バイト?」
鉄棒から落ちた僕は、そんな声をあげながら立ち上がっていた。里香《りか》は鉄棒の柱にもたれかかっている。
伸びた前髪《まえがみ》が垂《た》れてきて、里香の顔がよく見えなくなった。
「やっぱり切ったほうがいいよ、前髪」
そう言って、里香が垂れてきた前髪をわけてくれる。指の先が、おでこに少し触《ふ》れた。さっきも同じことを言われたし、されたっけ。そういうのは全然|嫌《いや》じゃなくて……というか、むしろすごく嬉《うれ》しくて、くすぐったかった。おでこじゃなくてさ。気持ちがくすぐったい。
けれど今回は話を逸《そ》らされたような気になり、僕はさらに声をあげた。
「バイトなんかして大丈夫《だいじょうぶ》なのかよ?」
里香《りか》は首をすくめる。
「大丈夫だと思うよ。五時間だけだし」
「でも、おまえ、働くのって大変だぞ」
「売店みたいなところでお札を売るだけだもん。座《すわ》ってできるみたいだし。学校で授業受けるのとそんなに変わらないと思うよ」
「だけどさ――」
僕は思いつくかぎりの否定的意見を口にしてみたけれど、そのたびに里香の顔が不機嫌《ふきげん》になっていった。
「うるさい!」
ついに怒鳴《どな》られた。
それでもどうにかこっちも声をあげる。
「でもさ! バイトなんかしなくても!」
「うるさい! 裕一《ゆういち》が決めることじゃないでしょ!」
今度はさらに強く怒鳴られ、さすがにヘコんだ。里香は本気で怒《おこ》ってるみたいだった。唇《くちびる》が尖《とが》っているのだ。
「あたしは裕一の所有物《しょゆうぶつ》じゃないんだから!」
「そりゃそうだけど」
「あたしがやることは、あたしが決めるの!」
「まあ、うん」
それっきり、僕は言葉《ことば》に詰《つ》まった。まだ怒っている里香のそばに立ちつくし、足下を見つめる。ボロいスニーカーは踵《かかと》のところが破れてしまっていた。もとは真っ白だったけど、今はほとんど茶色だ。けれど、僕は真っ白なスニーカーよりも、こんなふうにボロいスニーカーのほうが好きだった。
面倒《めんど》くさいプライドやら理屈《りくつ》やらを投げ捨て、正直に言うことにした。
「心配《しんぱい》なんだよ」
マジだから、里香の顔を見られない。
「ほんとは学校にだって通わせたくないんだ」
いちおう快復《かいふく》したものの、里香の体はまたいつ悪化するかわからない。
そうなったら、もう終わりだ。
再手術は無理《むり》だと夏目《なつめ》が言い切っている。
あのバカ医者は……まあほんとバカ野郎《やろう》だけど……腕《うで》だけはいいそうだ。その夏目の言葉だけに信じるしかない。終わりはいつやってくるかわからないのだ。明日かもしれない。明後日かもしれない。いや、この直後かもしれない。
だから僕は里香《りか》を閉《と》じこめておきたかった。
病室みたいな小さな箱の中に閉じこめ、そこでおとなしく暮《く》らしていてほしかった。
恐《おそ》る恐る顔を上げると、里香は僕をじっと見ていた。怒《おこ》ってるかと思ったけれど、そういうわけではなさそうだった。顔は怒ってるものの、たぶん怒ってない。でも困《こま》ってる。いや違《ちが》うか。別のなにかか。
よくわかんないや……。
なぜかたまらなくなって、僕はまた顔を伏《ふ》せた。前髪《まえがみ》が垂《た》れてくる。
「裕一《ゆういち》がなんと言おうと、あたし、学校は来るよ」
「うん」
「辞《や》めないからね」
「うん」
「それに、バイトもする」
「うん」
さっきまで文句《もんく》を言っていたのに、今は無条件|降伏《こうふく》だ。まあ、わかっていたのだ。里香をとめられるわけがないのだと。
ふと顔を上げると、校庭の向こうに吉崎《よしざき》多香子《たかこ》がいた。ひとりじゃなくて、小さな女子を脇《わき》に従《したが》えている。友達でもできたのだろうか。ふたりはとぼとぼ歩いて、校門に向かっていた。校舎の長い影《かげ》が、彼女たちを今にも呑《の》みこみそうだった。
やがてふたりは学校を出ていった。
だんだん夕闇《ゆうやみ》が濃《こ》くなっていく。風が吹き始め、紅葉《こうよう》には至《いた》らぬ濃い緑がザザザと音を立てて揺《ゆ》れる。葉っぱが一枚、二枚、僕たちの足下に落ちる。一枚は虫食いのあとがある。職員室の照明がついて、まるで夜空に浮かび上がっているかのようだ。下校時間を過ぎている教室のほうは真っ暗で、人の気配《けはい》はない。
部活を終えた運動部の連中が現れ、校門|目指《めざ》してだらだら歩いていく。
「学校ってさ」
里香の声はなぜか楽しそうだった。
「いいね」
ん、と僕は顔をしかめた。
「そうかな? 学校が?」
「うん、いいよ。世界って、本当にいい」
鉄棒の柱にもたれ、ほっそりした顔を上げ、里香は校舎を、その向こうにある空を、輝《かがや》く星を、世界そのものを見つめていた。いや、感じていた。校庭を吹いてくるこの砂っぽい風でさえも、里香には珍《めずら》しいのだ。物心ついたころから、病院の白い壁と白い天井《てんじょう》と白い床《ゆか》にずっと閉《と》じこめられ、里香《りか》は窓から世界を見つめていた。そう、世界は常《つね》に、窓の外にあった。けれど今、里香はその世界の中に踏《ふ》みだした。風も、星も、木々のざわめきも、クラス内の諍《いさか》いさえも、今の里香には大切なものなのだ。長くそこにいられないと、彼女自身が知っているからよけいに。
帰ろうと里香が言ったので、僕はうんと肯《うなず》き、近くにとめてあった自転車を持ってきた。カゴにはいつものように、鞄《かばん》がふたつ。
校門を出るとき、里香が言った。
「裕一《ゆういち》が心配《しんぱい》するのはわかるけど」
そっと手に触《ふ》れてくる。
人目を気にしたのか、一秒で離《はな》れてしまったけれど。
「でも、バイトはさせて」
自転車のタイヤがカラカラ鳴《な》る。僕はその回転する前輪のスポークを見つめた。外灯《がいとう》の光が近づくたび、細い銀のスポークがきらきら輝《かがや》く。そうだ、僕は飼《か》い慣《な》らさなきゃいけないのだ。里香を守りたいという気持ちを。どこかに閉じこめておきたいという気持ちを。その底《そこ》にある独占《どくせん》したいという気持ちを。里香にたくさん、この世界を見せてあげることのほうが大切だ。
「ごめんな」
謝《あやま》ると、里香がまたそっと手に触れてきた。
今度は二秒くらいで離れた。
「ううん。心配してくれるのは嬉《うれ》しいから」
「バイト、頑張《がんば》れよ」
「頑張る」
「だけど頑張りすぎるなよ」
「わかってる。裕一」
「ん?」
「ありがと」
ああ、自転車が邪魔《じゃま》だ。
もし自転車がなければ、手をつなぐのにな。里香が嫌《いや》がっても、つなぐのにな。
ちょっとびっくりしたけど、嬉しい気もした。
バイト先は市内にある小さなお宮で、一年に一回、ちょっとしたお祭みたいなものがある。地元の人しか知らない行事だけど、それでもぽつぽつ人が来て、お札やらお守りやらを買っていく。その売り子をやることになったのだ。
まあ適当《てきとう》にエプロンでもして売るのかなと思っていた。
けれどお宮の裏手《うらて》にある社務所《しゃむしょ》というところに行くと、白い着物と赤い袴《はかま》が準備《じゅんび》してあった。巫女《みこ》さんってヤツだ。どういうふうに着ればいいのかわからず戸惑《とまど》っていたら、社務所のおばさんが着つけをしてくれた。
白い着物に袖《そで》を通すと、それだけで気持ちが引《ひ》き締《し》まる。
赤い袴はすごく鮮《あざ》やかできれいだ。
「髪《かみ》も上げようかしらね? どうする?」
おばさんが尋《たず》ねてきた。
「そのほうがいいんですか?」
「どちらでもいいわよ。縛《しば》るだけでも」
ええ、どうしようかな。
鏡に映るあたしは、久しぶりに笑っていた。こんな着物と袴を着られることなんて滅多《めった》にないし、なんとなく嬉《うれ》しい気持ちが出ている。
バイトに来てよかったと思った。
「じゃあ、お願いします」
せっかくだし。
おばさんは手早く髪を上げてくれた。さすがに慣《な》れているらしくて、ひょいひょいと髪をつまみ、細いクシを使って後れ毛を拾い、それからきゅっと捻《ひね》って縛ると、きれいに髪が上がっていた。そうして鏡に映る自分は別人のようだった。顔が締まって見える。凛《りん》とした人みたい。本当は全然そうじゃないのに。
凛としているというのは、秋庭《あきば》里香《りか》みたいな人だ。
彼女は凛としている。
ただそこに立っているだけで、周《まわ》りの空気さえも変わってしまうというか。彼女に同級生たちが寄っていくのも、よくわかる。彼女のそばにいるだけで、同じように凛とした雰囲気《ふんいき》をまとえるような気になるのだ。
ああ、やめよう……せっかく学校とは違《ちが》う場所に来てるのに……秋庭里香のことなんて、今日は忘《わす》れるんだ……。
鏡の中で、おばさんは得意《とくい》げに笑った。
「はい、終わり。可愛《かわい》いわよ」
「ありがとうございます」
お世辞《せじ》だとわかってても、やっぱり嬉しい。それにおばさんの言うとおり、いつもよりちょっと可愛くなってるし。
そのまま鏡に見とれていたら、若い女の子の声がした。
「ここで着替えなさいって言われたんですけど」
おばさんが振《ふ》り返《かえ》り、
「あらあら」
と大げさな口調《くちょう》で言った。どうしたんだろう。
「あなたもアルバイトの子?」
「はい」
「じゃあ、いらっしゃい。着物を着せてあげるから」
「お願いします」
まだ気づいてなかった。
鏡に見とれていた。
ドキリとしたのは、自分の背後《はいご》をもうひとりのバイトが横切っていったときだ。鏡に一瞬《いっしゅん》、ものすごく長い髪《かみ》が映った。
おばさんの声があたしのときより華《はな》やいでいる。
「きれいな髪ね。ずっと伸ばしてるの」
「はい」
「これだけ長くするのには、ずいぶんかかったでしょう」
振り返ると、そこに秋庭《あきば》里香《りか》が立っていた。私服の彼女を見たのは初めてだ。思ったより、シンプルな服を着ている。ベージュ色の、落ち着いた感じのワンピース。腰《こし》のところが少し絞《しぼ》ってあって、ただでさえ細い彼女の体がさらに細く見える。
なんで? どうして秋庭里香がここにいるの?
着替える彼女の姿《すがた》を見て、答えを知らされた。そういえば、あとひとり、バイトの子がいると聞いていた。ふたり一組でやるのだと。あたしと、秋庭里香の、ふたりでコンビを組むということだ。最悪。
おばさんはあたしのときより明らかに楽しそうで、きれいねとか、袴《はかま》も似合《にあ》うわねとか、この髪どうしようかとか、秋庭里香に話しかけていた。本当にきれいな髪ねえ。おばさんの声が華やいでいる。
「これだけ長いと上げるのは無理だから、簡単《かんたん》にまとめましょうね」
確《たし》かに、簡単にまとめただけ。後ろで縛《しば》って、それをゴムでとめたあと、そのゴムが見えないように和紙で覆《おお》いのようなものをつけた。形のいい耳が露《あらわ》になる。そこから首筋《くびすじ》へと伸びていくラインは、息《いき》を呑《の》むくらいきれいだった。
さっき鏡に見とれていた自分が、バカみたいに思える。
秋庭里香のほうが圧倒的《あっとうてき》にきれいだ。
勝率ゼロ。
百人に「どちらがきれいでしょう?」という投票《とうひょう》を[#「を」は底本では無し]させたら、百人すべてが秋庭里香に票を入れるだろう。もしあたしに票が入ったら、投票者の中にお父さんかお母さんが紛《まぎ》れこんでいただけだ。
社務所《しゃむしょ》の空気さえもが、入れ替わってしまったような感じ。
おばさんはニコニコ笑いながら、秋庭《あきば》里香《りか》をいろんな角度から見ている。あたしのときは、褒《ほ》めてくれたけど、そこまでしなかった。
そこでようやく、秋庭里香があたしを見た。
「今日、よろしく」
気づいてたわけだ。当たり前か。すぐ横にいたんだし。あたしはただ見とれていただけなんだけど、もしかするとシカトしてたと思われたかもしれない。
「……はい」
ああ、なんで殊勝《しゅしょう》に肯《うなず》いてるんだろう。
もう負けてるみたいじゃない。
負けてるけど。
φ
「おまえ、重すぎ。駄目《だめ》。信じらんねえ」
言って、僕は自転車をとめた。息《いき》が切れ、地面につけた足は痺《しび》れるくらい疲《つか》れ切《き》ってしまっている。
荷台《にだい》に乗っていた司《つかさ》が、ええ、と不満そうに言った。
「代わりばんこでこぐって約束だったよね。猿田彦《さるたひこ》神社までは裕一《ゆういち》の順番だよ」
「いや、それ不公平だから」
「なにがさ」
「体重が違《ちが》いすぎる」
僕はぜいぜい息を切らしながら言った。確《たし》かに順番にこぐことにしたさ。代わる場所を最初に決めた。ジャンケンでどちらが先か決めた。まあ、その点は公平そのものだ。しかし、しかしだ。考えてみれば、体のでかさが違いすぎる。なんで五十キロ台の僕が、八十キロ台の司を乗せてこがなきゃいけないんだ。
「おまえ、今、体重どれくらい?」
尋《たず》ねると、司はうっと言葉《ことば》に詰《つ》まった。
「もしかしてまた増えたのか?」
「ちょ、ちょっと……」
「何キロだよ?」
司はなかなか白状《はくじょう》しようとしない。
「女じゃねえんだから、恥《は》ずかしがるなよ。正直に言えって」
「九十三キロ……くらい」
「マジかよ!」
僕は頭を抱《かか》え、青く抜《ぬ》ける秋の空に声を放《はな》った。九十三キロ。僕の一・五倍以上じゃないか。しかしこいつ、さらに体が大きくなってるのか。信じられねえ。
「おまえ、まだ成長してるのか!」
「身長は変わらないんだけど、なんか増えていくんだよね、体重」
「デブってねえか?」
「そ、そんなことはないと思うけど」
「腹見せてみろ、腹」
僕は自転車に跨《またが》ったまま体をよじり、荷台《にだい》に座《すわ》っている司《つかさ》のトレーナーをめくった。現れた腹は、見事《みごと》に締《し》まっていた。というか腹筋《ふっきん》がきれいに割れていた。デブってるどころじゃない。筋肉《きんにく》の塊《かたまり》だ。
「寒いって、裕一《ゆういち》」
「信じらんねえ。おまえ、なんだ、その腹。力入れてるわけじゃないんだろ。なんでそんな体なんだよ。筋トレでもしてるのか」
「し、してないけど……」
「わけわかんねえ。ちょっとおまえ、腹に力入れてみろ」
「こ、こう?」
さらに筋肉が盛《も》り上《あ》がる。まるで鋼《はがね》のようだった。軽く殴《なぐ》ってみたら、手にドンと重い衝撃《しょうげき》が返ってきた。撥《は》ね返《かえ》されたって感じだ。本気で殴ったら、手首が折れるかもしれない。
「なに食ってんだ、おまえ」
「お菓子《かし》とか、ケーキとか」
生真面目《きまじめ》に司が答えてくる。どうしてそんなものを食っていて、この体が維持《いじ》できるのだろうか。いや、維持じゃないな、強化《きょうか》だな。
僕は自転車から降《お》りると、ハンドルを指差した。
「おまえがこげ」
「ええっ、なんで。裕一の順番だろ」
「おまえの自転車が壊《こわ》れてるから、ふたり乗りで行くことになったんだろ」
「だけど誘《さそ》ったのは裕一だよ」
うっ、痛《いた》いところを突《つ》かれた。
「里香《りか》ちゃんの様子《ようす》が心配《しんぱい》なのはわかるけど、ひとりで行けばいいじゃないか」
僕たちが向かっている先は、里香がバイトをするお宮だった。里香の仕事ぶりっていうか、様子を見にいこうってわけだ。もちろん、里香には秘密《ひみつ》だった。バレないように、こっそり見るだけだ。ほら、やっぱ心配だしさ。あいつ、バイトなんてしたことないし。ただ、ひとりで見にいくのは心細いので、司《つかさ》を誘《さそ》うことにしたのだった。
「おまえ、冷たいな。友達だろ。それともなにか、みゆきと会ってるほうがいいか」
「そ、そんなことないよ!」
ムキになって言い返してくる。
「み、水谷《みずたに》さんは関係ないだろ!」
「ふーん」
「な、なんだよ、裕一《ゆういち》」
「いや、別に」
司とみゆきがつきあってるのかつきあってないのか、ちゃんと聞いたことはない。ただまあ、いっしょにいることが多いから、きっとつきあってるんだろう。けど、今の反応《はんのう》はなんかちょっとあやしかった。司にしては声が大きいというか、反応が早いというか。そのうち、きっちり聞いてみるべきかもしれないな。ふむ。
「とにかく交代してくれ。足がつりそうだよ。もうこげねえ」
「しょうがないなあ」
ここで素直《すなお》に交代してくれるのが、司のいいところだ。もし山西《やまにし》とかだったら、絶対《ぜったい》に代わろうとしないだろう。
「じゃあ、行くよ」
「ちょっと待て」
今度は司がハンドルを握《にぎ》り、僕は荷台《にだい》に跨《またが》った。目の前に広がる司の背中《せなか》は、壁《かべ》のように大きかった。前がまったく見えない。なんだ、この分厚い背中は。これ、全部|筋肉《きんにく》なのか。
「OK。いいぞ」
「うん」
ぎゅん、と自転車は走りだした。僕のときとは比べものにならないくらい、タイヤが力強く大地を噛《か》みしめて、先へ先へと進んでいく。軽くこいでいるようにしか見えないのに、自転車はぐんぐん加速《かそく》していった。軽い登り坂なのに、そんなの関係ないって感じだ。風景がいつもとは全然|違《ちが》うスピードで後ろへ飛んでいく。ちょっと怖《こわ》くなってきた。
「おまえ、いつもこんなふうにこいでるのか?」
「え? こんなふうって?」
息《いき》も切らさず、司が何気《なにげ》ない調子《ちょうし》で言う。ということは、いつもこんなふうなのだろう。司の自転車は、僕よりも速い。そして僕よりも遠くへ行ける。軽々と進んでいってしまう。こいつはきっと、僕が見られない風景を見るのだろう。
「行けよ、司」
僕は言った。
「もっと飛ばせ」
「う、うん」
さらに自転車が加速《かそく》する。ものすごい馬力だった。というか突進力だった。空気がびゅんびゅんと流れていく。
「もっと飛ばせ」
ほんと、まるでバイクに乗ってるみたいだった。
φ
忙《いそが》しいおかげで、気まずさは感じずにすんだ。
たいした行事じゃないけど、それでも何百年も前から続いてるだけあって、途切《とぎ》れることなく参拝客《さんぱいきゃく》がやってきて、お札やお守りを買っていく。お札は三種類。大、中、小。お守りも三種類。白、赤、金。色にはそれぞれ意味があって、白はいろいろ含《ふく》めて人生運、赤は仕事運、金は金運。
白を買っていく人が一番多かった。
赤と金は同じくらい。
「じゃあ、これをちょうだい」
五十歳くらいのおばさんが、金色のお守りを指差した。
「五百円になります」
「一万円札しかないけど、いいかしら」
「はい、大丈夫《だいじょうぶ》です」
指が切れそうなくらいピンとした新札を受け取り、お返しに千円札を九枚と、五百円玉を一枚。お釣《つ》りを間違《まちが》えないように、ちゃんと千円札を数える。慣《な》れてないので緊張《きんちょう》する。だから手間取《てまど》ってしまう。
お釣りとお守りを渡《わた》すと、ふうと息《いき》が漏《も》れた。
バイトって、意外と大変だ。お金を扱うし、人と丁寧《ていねい》に話すのにも慣れていないので、いろいろ疲《つか》れる。しかも休む暇《ひま》がない。まあ暇があったらあったで、よけいに大変だったかもしれないけど。
横を見ると、秋庭《あきば》里香《りか》がすぐそばに座《すわ》っていた。
お札を選んでいるカップルの相手をしている。
あたしたちがいるのは、神殿《しんでん》から五十メートルくらい離《はな》れた建物《たてもの》だった。要するに売店なのだけれど、さすがは神社内だけあって、なんとなく厳《おごそ》かな造りになっている。簡易版《かんいばん》神社という感じ。御札所《みふだどころ》というのだそうだ。
参拝客が次々通り過ぎ、帰りにそのうちの何人かがやってくる。玉砂利《たまじゃり》が踏《ふ》まれるザッザッという音が、ずっと響《ひび》いている。
お客が途切《とぎ》れると、途端《とたん》に気まずさを感じるようになった。
もし他の女の子だったら、お互いのこととか、学校のこととか話して、時間を潰《つぶ》せるのに、秋庭《あきば》里香《りか》だとそうはいかない。話しかけるのは嫌《いや》だし、話しかけられるのはもっと嫌だ。だけど黙《だま》っているのも辛《つら》くて、気持ちがジリジリしてくる。秋庭里香が平然としてるのが、その気持ちをよけいに加速《かそく》させる。これがせめて、彼女のほうも気まずそうだったら、よかったのに。お互い様って思えた。けれど彼女はただ穏《おだ》やかに座《すわ》っていて、その黒い瞳《ひとみ》は静かに空間のどこかを見つめている。まったく気配《けはい》に揺《ゆ》らぎがない。きっと、あたしのことなんて、なんとも思ってないんだろう。
こんなことを考えてしまっている時点で、もう負けている。
負けていることは、他にもあった。
「あ……」
つい声が漏《も》れてしまった。秋庭里香がようやくあたしのほうを見た。なにって感じの顔。バカにしてるふうではないけれど、こっちがいろいろ考えてしまっているせいで、なんだか焦《あせ》ってしまう。
「どうかしたの」
「なんでもない」
そう、と呟《つぶや》いて、彼女はふたたび前を向いた。それと同時にお客さんがやってきて、秋庭里香の前に並《なら》んでいるお守りをひとつ買っていった。これで、彼女の前に並んでいるお守りは、半分近くが売れたことになる。
あたしのほうは、三分の一ってところ。
負けてる。
売り上げ。
圧倒的《あっとうてき》に。
要《よう》するに、どうせ買うならきれいな女の子から買いたいということなのだろう。お客だって、自然と売り子を選ぶというわけだ。それにしても、並んで座ってるのに、どうしてこんなにも差がつくのか。どちらで買ったところで、御利益《ごりやく》――バイトの巫女《みこ》が売っているお札やらお守りやらにそんなものがあるのかどうかわからないけど――なんて変わらないだろうに。
しかし悔《くや》しかった。
まさか、こんなところでも負けるなんて。
ぐるぐるいろんなことを考えていたら、初老のおじさんがやってきた。白い髪《かみ》をきれいにわけていて、品のいいジャケットを着ている。お金持ちだ、と判断《はんだん》した。
気がつくと声が出ていた。
「いかがですか、お札とお守り」
秋庭里香のほうに向きかけていた顔が、声につられてあたしのほうに向く。よし、ここだ。タイミングを逃《のが》さないように、にっこり微笑《ほほえ》んだ。これでもいちおう現役女子高生である。十六歳。若さでは秋庭《あきば》里香《りか》に負けない。
おじさんなんて、ちょろいものだ。
「お守りか。いろんな色があるんだね」
なんて話しかけてきた。
「白が全般の運に、赤が仕事運に、金が金運に効《き》きます」
「ああ、なるほどね」
「うちのお宮のお守りは、御利益《ごりやく》があることで有名なんです」
かなり強引《ごういん》な売りこみだが、おじさんはそれをおもしろがってくれて、お守りをひとつと、お札をひとつ買ってくれた。よし、売りこみ成功。少し追《お》いついた。あたしはそれからも強引な勧誘《かんゆう》作戦を続けた。おかげで、五人連続であたしのほうから売れた。近寄ってくるお客さんを、あたしがすべて奪《うば》っている感じだ。ただ座《すわ》ってるだけの秋庭里香はもう、ひとつも売れない。あと少しで追いつく。背中《せなか》が見えてきたら、余裕《よゆう》が出てきた。
秋庭里香にニヤリと笑っておく。
む、という顔を彼女がした。
あたしの考えてることに気がついたらしい。
「負けないからね」
余裕があるので、タメ口だって使えてしまう。負けそうだったら、絶対《ぜったい》にこんなこと言えなかっただろう。
「あと少しだよ」
むむ、という顔を秋庭里香がした。
あっという間に、お宮についていた。
外宮《げくう》とか内宮《ないくう》ほど大きくはないけど、それでも歴史のあるお宮で、古くから信仰《しんこう》してる人が多いせいか、けっこう賑《にぎ》わっていた。歴史の先生の話だと、実は伊勢《いせ》神宮《じんぐう》よりも古い可能性《かのうせい》があるそうだ。もともとこちらが昔から伊勢にあるお宮で、伊勢神宮はあとからやってきたかもしれないと言っていた。
自転車を道ばたにとめると、司《つかさ》がふうと息《いき》を吐《は》いた。
さすがに汗《あせ》を掻《か》いている。
「悪いな、司」
僕はヤツの背中《せなか》をぽんと叩《たた》いた。
「結局《けっきょく》、おまえが全部こいじまったな」
「ひどいよね、裕一《ゆういち》。代わってくれないんだから」
とか言いつつ、それほど怒《おこ》ってるわけでもないのが、いかにも司《つかさ》らしい。お詫《わ》びってわけじゃないけど、僕はヤツにジュースを奢《おご》ってやった。
「いいの? ほんとに?」
「おう。飲め飲め」
僕は缶コーヒーを、司はペプシを、ぐびぐび飲んだ。司はあっという間に、小さなペットボトルの半分くらい飲んでしまった。
玉砂利《たまじゃり》を踏《ふ》み、神社の境内《けいだい》へ。
ぼんやり歩く司とは違《ちが》い、僕は辺《あた》りを警戒《けいかい》していた。里香《りか》に見つかると、あとでなにしに来たのよなんて怒られるかもしれない。こっちが最初に見つけて、様子《ようす》をこっそり窺《うかが》うつもりだった。
大きな声が聞こえてきたのは、鳥居《とりい》をくぐったときだった。
「お札いかがですか! お札、御利益《ごりやく》ありますよ! 人生運! 仕事運! 金運! なんにでも効《き》きます! 安い、安いよ! たったの五百円! いかがですか!」
「お札、ありますよ! お守りもあります!」
「神殿《しんでん》に近いほうで買ったほうが御利益あります! 人生運! 仕事運! 金運! 悩《なや》んでいるあなたに、ぜひひとつ! そこの学生さん、受験にいかがですか!」
そんな声が、境内に響《ひび》き渡《わた》っていたのだった。
本来ならしんとしているはずの境内は、おかげで一風《いっぷう》変わった異空間《いくうかん》になっていた。通り過ぎる人がみな、なにごとかとその声のほうを見ている。
神社じゃなくて、ここはバーゲン会場なのか?
声がしているのは、お札やらお守りやらおみくじやらを売っているところだった。売店って言い方は……神社だとなんか引っかかるけど、まあ要するに売店だ。しかし、ここまで積極的にお札とお守りを売ってる神社は初めて見た。
この神社、経営苦しいのだろうか。
「あれ、里香ちゃんじゃないの?」
先に気づいたのは、司のほうだった。
「え? 里香?」
そのとおりだった。
叫《さけ》んでいる女の子のうちのひとりは、確《たし》かに里香だった。
φ
デッドヒートだった。あと三つまで追《お》い上《あ》げたものの、そこから秋庭《あきば》里香も声かけ作戦を始めたせいで、なかなか差が詰《つ》まらなくなった。そのうちお互いに熱《あつ》くなってきて、座《すわ》っているのももどかしくなった。
おじさんが近づいてくる。
カモだ。
女の人よりも、男の人のほうが買ってくれる確率が高い。女はやっぱりしっかりしているというか、財布《さいふ》の紐《ひも》が固い。一度店先……って言い方も変だけど……にまで来てしまえば、男の人は手ぶらで帰るのを申し訳なく思うようだった。
悪くても、一番安いお札かお守りは買ってくれる。
「はい、らっしゃい!」
先に声をかけたのはあたしだった。
もはや魚屋|状態《じょうたい》である。
おじさんは秋庭《あきば》里香《りか》のほうもチラリと見たけれど、にっこり笑うあたしのほうに近づいてきた。どれどれって感じで、お守りを手に取る。
あたしは愛想《あいそ》よく売りこみをはかった。
「その金色は金運です」
「ああ、なるほどね」
「赤は仕事運で、白が人生運です」
さりげなくおじさんの姿《すがた》を確認《かくにん》する。年は五十を少し越《こ》えたくらい。まだ背筋《せすじ》が伸びているし、着ている服は背広だ。つまり、引退《いんたい》はしてない。ネクタイピンはべっ甲《こう》で、けっこういいものだった。お金持ちってほどじゃないけど、それなりに裕福《ゆうふく》なのだろう。ちょっと危険《きけん》な賭《か》けだったけれど、一番大きいお札を勧《すす》めることにした。
「こちらのお札はいかがですか」
一枚五千円の大物である。勝手なルールだが、これひとつでお守り十個分だ。一円一ポイント。お守りは五百円なので五百ポイント。このお札はつまり五千ポイント。
一気に逆転《ぎゃくてん》を狙《ねら》える。
「ああ、お札ね。家には伊勢《いせ》神宮《じんぐう》のが貼《は》ってあるんだが」
「並《なら》べて貼ると効果《こうか》倍増《ばいぞう》と言われてます」
「ほう? そうなのかい?」
「はい。こちらのお宮の神殿《しんでん》は、伊勢神宮の神殿材を下賜《かし》されて造られたものですから。ちゃんとつながりがあります」
売り子をやる前に、説明されたことだった。伊勢神宮は二十年に一回、丸ごと建《た》て替《か》える。遷宮《せんぐう》という大昔から続いている行事だった。遷宮の時期《じき》は、伊勢中がお祭みたいになる。全国から偉《えら》い人がいっぱいやってくるし。その建て替えた神宮の古い木材は、全国の神社に下賜され、再利用される。ここの神殿も、下賜された木材で造られているそうだ。
「一番大きいのじゃなくて、中をもらおうかな」
「ありがとうございます」
ちっ、中か。ケチられた。しかしそれでも二千円。二千ポイント。お守り四つ分である。ひとつ差で、秋庭《あきば》里香《りか》を逆転《ぎゃくてん》できる。
千円札を二枚受け取り、ケースに入れたお札を渡《わた》して、逆転の笑顔《えがお》を秋庭里香に向けたところ、彼女は五人のサラリーマンから、それぞれ五百円玉をひとつずつ受け取っていた。ひとりは人生運の白、ふたりは仕事運の赤、ふたりは金運の金。
やられた。
一発逆転を狙《ねら》っているあいだに、団体客を取られてしまったらしい。
秋庭里香と目が合った。
「ひとつ分、差が広がったよ」
涼《すず》しい顔で言われた。
勝《か》ち誇《ほこ》ってるわけでもなく、バカにするわけでもなく。当たり前って感じ。
むむ、となってしまった。
負けてる。
おばさんたちの集団が、買っていこうかしらという感じで、こちらを窺《うかが》っている様子《ようす》が目に入ってきた。逃《のが》すものか。
あたしは大声を張《は》り上《あ》げた。
「いかがですか! お札にお守り! なんにでも効《き》きますよ!」
こうなったら、なりふりかまっていられない。
φ
鳥居《とりい》に身を隠《かく》しつつ、顔だけ突きだして、僕たちは売店の様子を窺っていた。
「なにしてんの、あいつら?」
僕の問いに、司《つかさ》が首を傾《かし》げる。
「さあ」
「あんなに売りまくっていいのか? ここ、神社だろ?」
「そうだよね」
司がバカ正直に辺《あた》りを見まわす。うっそうとした森。大きな鳥居。敷《し》き詰《つ》められた玉砂利《たまじゃり》。しかしその空間に、騒々《そうぞう》しい女の子の声が響《ひび》いている。
「いかがですか! いかがですか! お札お守りおみくじありますよ!」
「人生運仕事運金運! なんにでも効きます!」
「悩《なや》んでるあなたこそ、当神社のお札とお守りを!」
魚屋か、ここは。
そこで気づいた。里香《りか》の隣《となり》にいるのは、なんと吉崎《よしざき》多香子《たかこ》だった。どうしてあのふたりが並《なら》んで売り子をしているのだろう。
何事だ、これは。
「ねえ、裕一《ゆういち》」
「ん?」
「もしかして勝負なのかな」
「勝負?」
「ほら、どっちがたくさん売るか」
「ええ? お守りをか?」
「そんな感じしない?」
里香と吉崎は立ち上がり、近寄ってくる参拝客《さんぱいきゃく》に片《かた》っ端《ぱし》から声をかけていた。里香のほうに向かいかけたお客を、吉崎があからさまに自分に誘導《ゆうどう》しようとしている。その様子《ようす》に、里香がちょっと悔《くや》しそうな顔をした。他のヤツならたぶんわからないくらいの変化だけど、僕はなんとかわかる。伊達《だて》にずっと同じ病院にいたわけじゃない。
「どうもそうらしいな」
なかなかいい勝負だった。自然と里香のほうに近づいていく客は多いのだが、吉崎は果敢《かかん》に
その流れを阻止《そし》していた。吉崎《よしざき》にとって最大のアドバンテージは、彼女のほうが神殿《しんでん》に近い場所に陣取《じんど》っているということだった。お札やらお守りやらを買うのは、参拝《さんぱい》を終えた客である。つまり神殿のほうからやってくる。里香《りか》より先に、吉崎のほうが声をかけられる。
「あ、また吉崎さんのほうが売れたね」
司《つかさ》の言葉《ことば》に、僕は肯《うなず》いた。
「連続だな」
「今度の人も、吉崎さんから買ったよ」
「あ、でも、次の団体客は里香だ。三人は買うな。吉崎、声をかけるのはいいけど、ちょっと焦《あせ》りすぎだ。大きい客を里香に取られてるぞ」
「そうだね。焦りすぎだね」
それにしても、僕たちはなにを評論《ひょうろん》してるんだ?
「あ、吉崎が追《お》いついた」
「里香ちゃん、すぐまた引《ひ》き離《はな》したよ」
状況《じょうきょう》は一進一退《いっしんいったい》だった。吉崎が追《お》い上《あ》げているが、里香も負けていない。吉崎が説明に手間取《てまど》っているあいだに、里香があっさりひとつふたつと売り上げを増やしていく。思うに、吉崎は一発を狙《ねら》い過《す》ぎだった。満塁《まんるい》ホームランを打とうとして大振《おおぶ》りしてるあいだに、里香がこつこつヒットを重ねているという感じだ。
まあ、だけど、なかなかいい勝負だ。
吉崎も頑張《がんば》ってはいる。
「ところでさ」
様子《ようす》を見ながら、僕は言った。
「おまえとみゆきって、つきあってんの」
「え?」
「どうなんだよ、司」
「な、なななに言ってるんだよ、裕一《ゆういち》!」
「バカ! 声が大きい!」
僕は鳥居《とりい》の陰《かげ》に顔を引っこめると同時に、司のでっかい顔もぐいっと引き寄せた。今の声はマジで大きかった。境内《けいだい》の森にうわんうわんと反響《はんきょう》したくらいだった。やばい。気づかれたかもしれない。十秒ほど間をおいてから、僕はそっと売店の様子を窺《うかが》ってみた。里香と吉崎は相変わらず熾烈《しれつ》な販売競争を繰《く》り広《ひろ》げている。どうやらこっちに気がつく余裕《よゆう》はなさそうだ。ホッとして、ふたたび顔を引っこめる。
見れば、司の顔は真っ赤だった。
「おまえ、なんで顔赤いの?」
「いや、別に……」
「で、つきあってんの?」
「いや、あの……」
「ちゃんと好きだとか言ったか?」
「言ってないけど……」
「は? 言ってねえの? それ、やばいんじゃねえの?」
「そ、そうなの?」
真剣《しんけん》な顔で、司《つかさ》が聞いてくる。簡単《かんたん》な手にあっさり引っかかるのがいかにも司らしい。しかも、引っかかったことにまったく気づいてないのが、さらに司らしい。
「言ったほうがいいだろ、そりゃ」
「やっぱりそうかな」
吉崎《よしざき》が中くらいのお札を売った。どうもあれはポイントが高いらしい。吉崎がやったぜって顔をしている。でもその直後、里香《りか》は一番大きいお札をお婆《ばあ》ちゃんに売った。それを見て、吉崎の顔が曇《くも》る。あいつ、わかりやすくていいな。逆《ぎゃく》に里香のほうはあんまり表情が変わらないから、わかりにくい。
「言葉《ことば》にしないと、わからないだろ」
「う、うん」
「あるいはいきなりキスしちまうとか」
返事がない。
「まあ、そりゃやばいか」
返事がない。
どうしたのかと思って横を見ると、巨大なトマトがすぐそこにあった。つまりまあ、司の顔が真っ赤だったのだ。さっきも赤かったけど、もっともっと赤くなっている。耳たぶまで赤い。おまえ、どうしたの、と言いかけて、気づいた。
「したの、キス?」
「してない」
「嘘《うそ》つくな。しただろ?」
「してない」
「いや、絶対《ぜったい》嘘だろ?」
「してない」
頑《がん》として司は認《みと》めようとしないが、しかし顔はどんどん赤くなっていくばかり。それにしても、司が嘘をつくとは。こいつにも、そんな能力があったんだな。いや、びっくりした。まさか、そこまで進んでるとは。
僕はみゆきの顔を思《おも》い浮《う》かべた。
なんか、よくわかんないけど、微妙《びみょう》な気持ちだった。幼馴染《おさななじ》みっていうか、姉とか妹みたいな感じのみゆきにも、そういうことがあるんだな。そりゃそうか。しかし相手が司《つかさ》ってのがまた微妙《びみょう》だ。いや、待てよ。考えてみれば、けっこうめでたいのかも。よくわからなかったけれど、とりあえずニヤニヤ笑っておいた。
そこで気づいた。
「そういや、おまえ、東京の店に修行《しゅぎょう》に行くんだろ」
「まだ決めてないけど」
話が変わったのでホッとしたらしく、司が大きく息《いき》を吐《は》いた。
いやいや、変わってないんだぜ、司。
「それ、みゆきは知ってるの?」
「あ、うん」
「みゆきはどうするって? あいつ、まだ進路|絞《しぼ》ってないんじゃなかったっけ?」
「えっと、その、東京の学校にしようかって……言って……た……かも……」
「みゆきが?」
「う、うん」
「ああ、なるほど」
事態《じたい》は僕の予想《よそう》を二段階くらい越《こ》えて進行しているようだった。司もみゆきも東京に行くんだ。伊勢《いせ》を出ていく。聞いた瞬間《しゅんかん》はそうでもなかったけど、十秒くらいたってから、ちょっと頭がくらくらしてきた。今はもう十月だ。つまり、たった半年後、ふたりはここを去る。もういない。今のこんな時間は、あと半年きりなんだ。そしてふたりは大きな町で、新しい生活を始める。
そのとき、僕はどこにいるんだ?
わかりきっている。伊勢だ。この町だ。十八年|暮《く》らしてきたこの町で、同じように暮らし、しかも高校に通いつづけている。なにも変わらない。僕はずっと、伊勢を出たいと思っていた。故郷《こきょう》を捨て、広い世界を見たいと思っていた。けれど、そんな瞬間は訪《おとず》れない。なのに、そんな希望を抱《いだ》いていなかった司とみゆきは、あっさりとこの町を出ていくのだ。こんなぎりぎりに進路を決め、去っていく。
そうか、と呟《つぶや》いた。声がかすれていた。
「ふたりで行くんだな」
「う、うん」
「すげえな、司。マジですげえな」
どうにか笑えた。ニッ、と笑っておいた。
司は顔を赤くしたまま、うんと肯《うなず》いた。
「すげえよ、マジですげえ」
ああ、自分の声なのに、よく聞こえねえよ。
鳥居《とりい》にもたれかかり、僕は目を閉《と》じた。胸《むね》の中にあるのは、いったいなんだ。嫉妬《しっと》なのか、焦《あせ》りなのか。それとも他のものか。なんでこんなに動揺《どうよう》してるんだ。わかってたことじゃないか。覚悟《かくご》しただろ。ここで生きていくって決めただろ。里香《りか》のそばで、里香を守って、いっしょに生きていこうって。目を開けると、僕はそっと売店のほうを覗《のぞ》いた。相変わらず、里香と吉崎《よしざき》の売りこみ合戦は続いていた。それにしても里香があんなに頑張《がんば》ってなにかを売るなんて思いもしなかった。あいつにもちゃんと意地《いじ》があるんだな。そりゃそうか。というより、あいつは誰《だれ》よりも意地っ張りだもんな。僕以外のヤツにそんなところを見せないだけの話だ。里香の真剣《しんけん》な顔を見ているうちに、胸のざわめきが収《おさ》まっていった。あんなに美しいものを、僕は手に入れたんだ。この世界で一番きれいなものだ。なによりも大切なものだ。
他になにを望むというんだ? それは贅沢《ぜいたく》というものだろう?
僕にはたったふたつしか手はないんだぜ。その手でしっかりとなにかを抱《だ》きしめてしまったら、もう他のものに手を伸ばすことはできない。僕は手を伸ばしたんだ。掴《つか》んだ。抱きしめた。だから、他にはもう、なにも掴めない。
ゆっくりと息《いき》を吸いこみ、吐《は》いた。
今度はちゃんと笑えた。
「すげえな、司《つかさ》」
そして肩《かた》を軽く殴《なぐ》っておく。
恥《は》ずかしそうに、司も笑った。
僕が自分の未来を選んだように、司も自分の未来を選んだんだ。僕たちはそうして先へ先へと進んでいく。なにがあるかわからないけれど、立ち止まっているわけにはいかない。なにしろ、僕たちはまだ十八だった。
あ、と司が声をあげた。
「どうしたんだ?」
「今の人たち、お守り忘《わす》れたよ」
「お守り?」
売店を見ると、里香の前に小さなお守りがひとつ、置きっぱなしになっていた。ちょうど売店の前を離《はな》れていくカップルが一組。
「あのカップルが買ったのか?」
「お金|払《はら》ってたよ」
「里香、渡《わた》すの忘れたのか?」
「うん。カップルのほうも受け取ってないの気づいてないみたいだね」
カップルは肩《かた》を寄せ合って話しながら、どんどん歩いていく。鳥居の下、つまり僕たちのすぐそばを通り、境内《けいだい》を出ていった。駐車場へ向かってるみたいだ。その姿《すがた》が小さくなったころ、ようやく里香が置きっぱなしになってるお守りに気づいた。
掴《つか》んだ。
姿《すがた》が消えた。
「あ、里香《りか》ちゃん、売店から出てきたよ」
「届《とど》けるつもりなのか? でも――」
間に合わない。
なぜなら里香は走れない。走れる体じゃない。
しぶとい。秋庭《あきば》里香は本当にしぶとい。売っても売っても、必ず先を行っている。それにしても神様は意地悪《いじわる》だ。卑怯《ひきょう》だ。こっちが精一杯《せいいっぱい》の愛想笑《あいそわら》いを振《ふ》りまいて、声を張《は》り上《あ》げて、ようやくひとつ売っても、秋庭里香はにこりと微笑《ほほえ》むだけで同じひとつを売ってしまう。あと、確信《かくしん》した。前からそうじゃないかとは思っていたけど、秋庭里香は本当に性格が悪い。きれいな外見にみんな騙《だま》されているだけだ。たとえばさっき、お金持ちっぽいおばさんがお札を買いそうになった。買うつもりは満々で、大か中かで迷《まよ》っているところだった。あたしが呼《よ》びこんだし、あたしの前にいたし、誰《だれ》がなんといってもあたしのお客さんだった。なのに、おばさんが買うという言葉《ことば》を発しかけたその瞬間《しゅんかん》、秋庭里香が「あっ」と言った。なにか起《お》きたのを見てしまったという感じで。その声につられ、あたしは秋庭里香の視線《しせん》を追《お》った。誰かコケたのかと思った。玉砂利《たまじゃり》に足をとられる人がたまにいるから。けれど、誰もコケていなかった。森と、玉砂利と、呑気《のんき》に歩く参拝客《さんぱいきゃく》の姿があるだけ。腑《ふ》に落ちないまま視線をおばさんのほうに戻《もど》すと、おばさんは二千円札を秋庭里香に渡《わた》していた。
目を離《はな》した数秒のあいだに、お客さんを取られたのだ。
信じられない。
呼びこんだのも、買う気にさせたのも、あたしなのに。
最後の最後だけ、持っていった。
いくら仁義《じんぎ》なき勝負とはいえ、守るべきラインというものがあるはずだ。なんでもありじゃないはず。けれど秋庭里香はあっさりとそのラインを踏《ふ》み越《こ》えてきた。
しかも、おばさんが去ってしまったあと、
「むう」
と顔をしかめていた。
大じゃなくて、中を買っていったことが気に食わなかったらしい。絶対《ぜったい》、この女、性格が悪い……最悪だ……。
怒《いか》りに燃えつつ睨《にら》んだら、にっこり笑ってきた。
「三千ポイント差」
しかも、そんなことまで言った。
「今のはずるい」
「ずるい? なにが?」
「あたしのお客さんだった」
「印がついてるの?」
「ついてないけど」
「じゃあ、誰《だれ》のものでもない」
「今の人があたしから買ってたら逆転《ぎゃくてん》だったのに」
「惜《お》しかったね」
またにっこり笑ってくる。
ああ、なんて女だろう。ここまで意地《いじ》が悪いとは。今のを録音して、学校放送で流してやりたい。秋庭《あきば》里香《りか》に熱を上げてる男どもに、同級生たちに、知らしめてやりたい。
性格最悪だ、この女!
怒《いか》りに燃えているあいだに、さらに客を三人|奪《うば》われた。にっこり微笑《ほほえ》むだけで、ほいほいお守りもお札も売れていく。悔《くや》しさをバネに、あたしも頑張《がんば》って声をあげた。差が詰《つ》まる。けど、すぐまた離《はな》される。時計を見ると、残り時間は一時間を切っていた。夕方が近くなって、参拝客《さんぱいきゃく》もだんだん減《へ》ってくる。このままじゃ逆転は厳《きび》しいかもしれない。あのおばさんのお札が大きかった。二千ポイント。あれがこっちのものだったら、まだ希望があったのに。卑怯《ひきょう》な手を使った秋庭里香に、見た目だけはいい秋庭里香に、怒りやら嫉妬《しっと》やらがぐるぐる渦巻《うずま》く。絶対《ぜったい》負けたくない。でもきっと負ける。追《お》いつけない。ほら、また離された。今の若い男、絶対に秋庭里香を選んで買っていった。あたしのほうを見て、秋庭里香を見て、それから彼女のほうへ行った。あんた、騙《だま》されてるから。この女、性格最悪だから。なんでわかんないの。あたしだって性格いいほうじゃないけど、秋庭里香には負ける。勝負も負ける。悔《くや》しい。クラスの覇権争《はけんあらそ》いでも負け、容姿《ようし》でも負け、売り上げ勝負でも負け……惨《みじ》めなだけだ、あたし……。
ああ、なんでこんなつまらないことしてるんだろう。投げだしてしまえばいいんだ。やーめたって口にすればいい。それで笑ってやればいい。こんな下らないことに本気出してるなんて、あんたバカじゃないのって言ってやればいい。負けそうな勝負なんだから、なかったことにしよう。そう、それが一番だ。なのに、なんであたしはまだ諦《あきら》めてないんだろう。声をあげているんだろう。どんなに呼《よ》びこんでも、半分は秋庭里香に取られるだけなのに。やめな、ほら。やめなよ、多香子《たかこ》。勝てない相手と勝負したってしかたないよ。
「あ――」
先に気づいたのは、あたしだった。さっきのカップル、買ったお守りを持っていくの忘《わす》れた。秋庭里香はどうぞと言ってふたりの前にお守りを置いたのに、持っていかなかった。秋庭里香もそのことに気づいていない。次のお客さんの応対《おうたい》をしてる。カップルの姿《すがた》はまだ見えているけれど、あたしは黙《だま》っておいた。カップルはだんだん遠ざかっていく。鳥居《とりい》をくぐった。姿《すがた》が小さくなる。左に曲がったせいで見えなくなった。駐車場に行ったんだろう。そろそろ教えよう。カップルにお守りを渡《わた》そうと思ったら、秋庭《あきば》里香《りか》はしばらくここを離《はな》れなければならない。そのあいだ、あたしはひとりきりだ。独占《どくせん》で売れる。追《お》いつける。突き放せる。残り時間を考えたら、それであたしの勝ちだ。よし、そろそろ教えてやろう。それ、忘《わす》れてるんじゃないのって。
言う前に、秋庭里香が気づいた。
「あ、これ!」
慌《あわ》てて手に取り、あたしのほうを見てくる。
あたしはニヤリと笑ってやった。
「さっきのカップルじゃないの」
「知ってたのね?」
「ううん、あたしも今気づいた」
バレバレの嘘《うそ》。
ルールを最初に破ったのは、そっちだからね。なんでもありなんでしょう。卑怯《ひきょう》でも勝てばいいんでしょう。
快感《かいかん》さえ覚《おぼ》えながら、笑ってやった。
「届《とど》けてあげたほうがいいんじゃないの」
しかしその言葉《ことば》を放ったときには、秋庭里香は御札所《みふだどころ》から飛びだしていた。ドアが開く音と、閉まる音。そして秋庭里香の背中《せなか》が目の前に現れた。ほら、走りな。もう駐車場まで行っちゃっただろうけど。間に合わないかもね。ああ、なんて楽しいんだろう。あたしの勝ちだ。卑怯だけど、かまわないよね。
秋庭里香はしかし、走りださなかった。あたしのほうを向いた。
「吉崎《よしざき》さん、足が速かったよね」
「それがどうしたの」
「届けてきて、これ」
「知らないわよ。あんたの客じゃないの。あんたがちゃんと持っていくの確認《かくにん》しなかったのがいけないんでしょう。なんであたしが届けなきゃいけないのよ」
そんなふうに言うのは、すっごく楽しかった。
胸《むね》がすっきりした。
ああ、あたしも性格、最悪だ。秋庭里香に負けてないや。
「あたし、走れないの」
「なんで?」
「心臓が悪いから、走れない。走ったら、なにがあるかわからない」
ああ、やっぱり噂《うわさ》は本当だったんだ。
「それがどうしたの?」
「届《とど》けてきて。あの女の人、妊娠《にんしん》してるんだって。それで白いお守りを買っていったの。赤ちゃんの人生運がよくなりますようにって。忘《わす》れたことにあとで気づいたら、あの人たちは不吉《ふきつ》だと思うかもしれない」
「あんたが届ければ?」
「だから、あたしは走れない」
「そうだね」
笑ってやった。秋庭《あきば》里香《りか》がじっとあたしを見てくる。ものすごく色の濃《こ》い瞳《ひとみ》だった。真っ黒で、まるで夜がそこに宿っているみたい。その黒い瞳に、自分が映ってるような気がした。醜《みにく》い顔で笑ってる自分が。でも、かまわない。それでいい。この女に勝てるんなら、善人じゃなくていい。
「どうすれば届けてくれるの?」
「土下座《どげざ》でもしたら」
ほとんど冗談《じょうだん》だった。そんなこと、このプライドの高い女がするわけない。性格、最悪だし。頭を下げられなくて、悔《くや》しそうな顔をするだけだ。それからのろのろ駐車場のほうに歩いていくのだろう。
「わかった」
秋庭里香はいきなりうずくまっていた。
「届けてきてください」
地面に頭をつけているせいで、その声はくぐもっている。
なにかの間違《まちが》いかと思った。しかし間違いではなかった。土下座しろと言ったのはあたしだ。そして秋庭里香はなんの迷《まよ》いも見せず、一秒後には地面に膝《ひざ》をつけていた。冗談は冗談でも、この光景は最悪の冗談だ。趣味《しゅみ》が悪い。頭なんか下げないでよ。白い着物で、赤い袴《はかま》で、土下座なんて。古くさい時代劇みたいじゃない。
おかしい……おかしいよ……。
自分の言葉《ことば》どおりの現実がそこに現れたくせに、あたしはむしろ惨《みじ》めな気持ちになっていた。ちっとも気持ちよくなかった。さっきまでの快感《かいかん》はどこかに消え去ってしまっている。顔を上げた秋庭里香は、あたしをじっと見てきた。地面に頭をつけたせいで、その髪《かみ》に落ち葉が一枚張りついている。すっごくみっともなかった。でもすっごくきれいだった。なぜこんなにみっともないのに、こんなにきれいなんだろう。
秋庭里香は立ち上がると、汚《よご》れた膝で、頭に落ち葉をつけたままで、歩み寄ってきた。
「これ、お願い」
差しだされた手には、お守りがひとつ。
白いお守り。
どうすればよかったのだろう。笑い飛ばして拒否《きょひ》すべきだったのだろうか。もう一回頭を下げさせるべきだったのだろうか。負けを認《みと》めさせるべきだったのだろうか。けれど、まるで主《あるじ》に命じられた奴隷《どれい》のように、あたしはその白いお守りを掴《つか》んでいた。駆《か》けだしていた。ドアを開け、御札所《みふだどころ》を出る。玉砂利《たまじゃり》が走りにくい。履《は》いているのは草履《ぞうり》だし。ああ、玉砂利の上を走ると、白い足袋《たび》が汚《よご》れる。せっかくきれいな格好《かっこう》をしてるのに。どうしてあたしは走ってるんだろう。なんで秋庭《あきば》里香《りか》の言うことを聞いてしまったんだろう。
あの瞳《ひとみ》のせいだ。黒い瞳に、醜《みにく》い自分が映っていたせいだ。秋庭里香の髪《かみ》に、落ち葉がくっついていたせいだ。頭を下げられたみっともなさから逃《に》げたかったのだ。
鳥居《とりい》をくぐり、体を傾《かたむ》けて左に曲がる。全力で走ってるから息《いき》が切れてきた。喉《のど》の奥《おく》が熱《あつ》くなる。それでも走りつづける。腕《うで》を振《ふ》る。腿《もも》を上げる。草履で地を蹴《け》る。駐車場に入ると、舗装路《ほそうろ》になって走りやすくなった。あのカップルはどこだろう。見まわすが姿《すがた》がない。あ、動きだした車がある。違《ちが》うかもしれないけど、もしそうだったらすぐに追《お》いかけないと間に合わない。袴《はかま》が足に絡《から》まって走りづらい。横腹が痛《いた》くなってきた。やっぱりあのカップルだ。追いつかなきゃ。届《とど》けなきゃ。待って。待ってよ。頭を下げていた秋庭里香の姿が浮《う》かんだ。その髪についていた落ち葉が浮かんだ。赤い袴の膝《ひざ》が汚れていた。そんなことがすべて、あたしの足を動かせる。間に合わない。どんどん車は進んでいってしまう。駐車場の出口で、車がとまった。左右を確認《かくにん》してるんだろうか。今しかない。ここで追いつかなきゃ、もう駄目《だめ》だ。道に出てしまったら終わりだ。
「待って!」
バカみたいに叫《さけ》んだ。
「待ってください!」
赤く輝《かがや》くテールランプに向かって、あたしは叫んでいた。
日が傾いた空は、いつのまにか青さを失い、白っぽくなっていた。全力で走ったせいで、体がだるい。脇腹《わきばら》が痛い。どこかで打ったのか爪先《つまさき》も痛い。それに、せっかくきれいに上げてもらった髪が乱《みだ》れてしまった。着物の襟《えり》も崩《くず》れて、なんだかだらしない感じ。白い空を見ると、伸びた喉に冷たい空気が流れこんできた。それがとても気持ちよかった。ああ、なんであんなに走ったんだろう。バカみたい。ああ、ぼうっとするなあ。頭に血が行ってない感じ。ああ、空気がおいしい。空がきれい。
ゆっくり歩いて、御札所に戻《もど》った。あたしが走ってるあいだに、売り場を独占《どくせん》した秋庭里香はお守りやお札をいっぱい売っていた。二万ポイントくらい差をつけられた。
「間に合った?」
秋庭《あきば》里香《りか》が尋《たず》ねてくる。
もう勝負する気にもなれず……どうせ負けだし……あたしは肯《うなず》いた。
「うん、どうにか」
「よかった」
心底《しんそこ》ほっとしたように、そんなことを言う。
「すごく感謝《かんしゃ》された。男の人も女の人も、ぺこぺこ頭下げて、ありがとうありがとうって何度も言った。いい人たちだった」
「そうだね。買うときもすごく丁寧《ていねい》だった」
「間に合った」
「ありがとう」
秋庭里香は素直《すなお》に言って、頭を下げた。まだ髪《かみ》に落ち葉がついている。気づいてないらしい。あたしは手を伸ばすと、その落ち葉を取ってあげた。
「ついてますよ、これ」
「え? いつから?」
「さっきからずっと」
「知ってたの?」
はい、と肯いておく。
秋庭里香は途端《とたん》に険《けわ》しい顔になって、睨《にら》んできた。
「吉崎《よしざき》さんは意地悪《いじわる》だ」
「先輩《せんぱい》には負けますけどね」
まあ、この秋庭里香に頭を下げさせたのだ。考えてみれば、なかなか希有《けう》なことに違《ちが》いない。たぶん世の中であたしだけなんじゃないかな。
そう思ったら、負けたのもかまわないって気がしてきた。
「お守りを届《とど》けた恩《おん》、忘《わす》れないでくださいね」
「もう忘れた」
「じゃあ、また言いますから」
「すぐ忘れる」
「何度も言いますから」
なんてことを話しているうちに、バイトを終える時間がやってきた。売り上げ勝負はボロ負けだった。二万三千ポイント差。あたしは足袋《たび》を汚《よご》したことを、秋庭里香は袴《はかま》を汚したことを怒《おこ》られた。これだから若い子は、と着つけをしてくれたおばさんに文句《もんく》を言われた。
バイト代は四千円だった。
時給八百円。
高いのか安いのかよくわからない額《がく》だ。
小さな池の前にあるベンチに、僕と司《つかさ》は腰《こし》かけていた。時刻《じこく》はもう夕方で、暗くなった水面《みなも》に、白く光る空が映っていた。池を取り囲む林が、その輪郭《りんかく》をくっきりとさせている。どこかでカラスがカアカアと鳴《な》いた。鯉《こい》が跳《は》ね、水面に大きな波が立つ。波はその輪《わ》を重ねながら、ゆっくり広がっていく。
「里香《りか》ちゃん、土下座《どげざ》してたね」
ぽつりと司が言った。
僕は肯《うなず》いた。
「ああ、そうだな。びっくりした」
「ほんとびっくりしたね」
「ああ、びっくりした」
同じ言葉《ことば》を、僕たちは繰《く》り返《かえ》した。あの里香が土下座なんて、ありえない。思い返しても、信じられないくらいだ。
「吉崎《よしざき》さん、走ってたね」
「ああ、走ってたな」
「ものすごい勢《いきお》いで走っていったね」
「ああ、すごかったな」
僕はひたすら司の言葉を繰り返しつづけた。なんだか他の言葉が出てこないのだ。夕暮《ゆうぐ》れの空気は少し甘くて、なぜかそれが寂《さび》しく感じられた。でも寂しいだけじゃなくて、ちょっと懐《なつ》かしい感じもする。寂しいと懐かしいは似《に》てるのだろうか。そうでもないか。下らないことを考えているあいだにも時間は過ぎていき、さっきまで輝《かがや》いていた水面はいつの間にか完全な闇《やみ》に染《そ》まっていた。空と、水面に、それぞれ闇がある。また鯉が跳ねたけれど、今度はほとんど波紋《はもん》が見えない。
「司」
「なに」
「みゆきをよろしくな」
「あ、うん」
「あいつさ、頑固《がんこ》なくせに優柔不断《ゆうじゅうふだん》なところがあるんだよな。思ってることを溜《た》めこむっていうかさ。そういうとこ気を遣《つか》ってやってくれ。オレが頼《たの》むのも変な話だけど。あいつ、オレの姉貴とか妹みたいなもんだからさ。ほんと頼むな」
「うん」
「東京行っても、向こうのきれいな女に誘惑《ゆうわく》されんなよ」
「うん」
司《つかさ》はどう応じていいかわからないらしく、肯《うなず》くばかりだ。
まあ、こいつなら、大丈夫《だいじょうぶ》だろう。
それからしばらく、僕たちは黙《だま》ったままでいた。ひどく静かだ。なにもかもがその動きをとめている。鯉《こい》も跳《は》ねない。水の中で寝《ね》てしまったんだろうか。
背中《せなか》がひんやりしたのは、その直後だった。
「うわああああっ!」
僕は声をあげて飛び跳ねた。背中をなにか冷たいものが伝《つた》っていったのだ。立ち上がると同時に、背中に手を入れ、服をバタバタさせた。と、足下にコロンとなにかが転《ころ》がった。白い玉砂利《たまじゃり》だった。なんでこんなものが?
「あはは、おもしろい」
原因《げんいん》は声をあげて笑っていた。
「裕一《ゆういち》、変なオモチャみたいに跳ねるんだね」
もちろん里香《りか》だった。
袴姿《はかますがた》から私服に着替えた里香が目の前に立っていて、本当に腹を抱《かか》えて笑っていた。後ろからこっそり近づいてきた里香が、僕のシャツの中に玉砂利を滑《すべ》りこませたというわけだ。ちくしょう、子供みたいな悪戯《いたずら》しやがって。
僕は呆《あき》れながら叫《さけ》んだ。
「おまえというヤツは! ガキじゃねえんだから!」
「あはは、本気で怒《おこ》ってるし」
里香はどうやら、僕たちがいることに気づいていたらしい。
「怒る! そりゃ怒るに決まってる!」
「まあまあ」
「なに宥《なだ》めてんだよ!」
里香はしかしまったく謝《あやま》る素振《そぶ》りも見せず……もちろん謝るわけがない……こんなことをもう一万回くらいされたけれど、一度も謝られていない……さっきまで僕が座《すわ》っていたベンチに腰《こし》かけた。ワンピースの裾《すそ》から、かわいらしい膝小僧《ひざこぞう》が現れる。行儀《ぎょうぎ》よく、ふたつ並《なら》んでいる。里香は小さなバッグに手を入れると、中から茶封筒《ちゃぶうとう》を取りだした。それをまるで水戸黄門《みとこうもん》の印籠《いんろう》みたいに突《つ》きだしてくる。じゃーん、とか言いつつ。
「これ、今日のバイト代」
「お、やったな」
つい手を合わせて拝《おが》んでしまった。司もなぜか同じことをしている。そして里香は得意《とくい》げに笑っていた。
「初めてのバイト代だよ」
「すごいね」
と司《つかさ》が言い、
「すげえな」
と僕も言った。
すごいすごいと僕たちは繰《く》り返《かえ》した。
茶封筒《ちゃぶうとう》の中には、四千円入っていた。その四枚の千円札を見つめながら、里香《りか》はものすごく嬉《うれ》しそうに笑った。そりゃそうか。初めてのバイト代だもんな。親からもらったものじゃなくて、自分で稼《かせ》いだお金だ。
里香は大切そうにお金を茶封筒に戻《もど》し、立ち上がった。
「あたし、お腹《なか》空《す》いた。伊勢《いせ》うどんでも食べにいかない?」
伊勢うどんというのは、伊勢独特の食べ物で、甘辛《あまから》い醤油《しょうゆ》をかけたうどんだ。普通《ふつう》のうどんとは、だいぶ違《ちが》う。初めて食べさせたときはショックを受けていたのに、今じゃ伊勢うどんは里香の好物《こうぶつ》になっている。
「あたし、奢《おご》るよ」
「え? いいのか?」
「バイト代が入ったからね」
わざとらしく、そして得意《とくい》げに、里香は言った。
もちろん素直《すなお》に喜んでおくことにした。
「よっし! 司、大盛《おおも》り食べよう!」
「そうだね!」
「お代わりするぞ!」
「うん!」
ちょっと待って、と里香が言ってきた。
「それじゃ半分くらい使っちゃうじゃない。お代わりはなし。大盛りを一杯ずつ」
「いいじゃん、四千円も入ったんだから」
「駄目《だめ》。大切に使うんだから」
そんなことを話しつつ、僕たちは歩きだした。玉砂利《たまじゃり》を踏《ふ》みしめる音が、闇《やみ》に響《ひび》く。空には星がいくつか輝《かがや》き始《はじ》めていた。里香の初めてのバイト代で奢ってもらう伊勢うどんか。最高だな。むちゃくちゃうまいだろうな。
道路に出たところで、自転車に跨《またが》る吉崎《よしざき》多香子《たかこ》と出くわした。僕は少しドキリとした。けれど里香はいつもとまったく変わらない口調《くちょう》で吉崎に声をかけた。
「伊勢うどん食べに行くんだけど、来る? 奢るよ」
「あ、遠慮《えんりょ》しておきます。お母さんが夕飯作ってると思うんで」
「そっか。じゃあ、また今度ね」
「はい。失礼します」
「あ、吉崎《よしざき》さん」
声をかけた里香《りか》は、なぜか嬉《うれ》しそうに笑っていた。
「今日はありがとう」
「……はい」
吉崎が返答するまで、ちょっと間があった。それからまたちょっと間があり、吉崎はぺこりと頭を下げ、自転車をこぎだした。闇《やみ》の中を、ふらふらと揺《ゆ》れながら、吉崎の乗る自転車が遠ざかっていく。
「なあ、里香」
「なに」
「吉崎って、いつからおまえに敬語《けいご》使うようになったんだ?」
さあ、と里香は首を傾《かし》げた。
「いつからかな」
本当にわからないって顔だった。
まあ、いいか、そんなの。
「行こうぜ。腹|減《へ》ったよ」
僕と司《つかさ》は自転車で、里香はバスで市内に戻《もど》ることにした。そのあと、三人で食べた伊勢《いせ》うどんは本当にうまかった。
マジで最高だった。
夏目《なつめ》に呼《よ》びだされたのは、十月の末だった。いきなり電話がかかってきて、ちょっと病院に来いと言われたのだ。なんの用ですかと当たり前のことを問いかけると、うるせえとにかく来いという声が聞こえてきて、その一秒後に電話は切れていた。むかついたので行くのをやめようと思ったが、里香に関することかもしれないので、しかたなく病院に向かった。ったく、あのバカ医者。誰《だれ》か礼儀《れいぎ》をしこんでくれよ。
「おう、このクソガキ、元気そうだな」
僕の顔を見るなり、夏目はそう言ってきた。
「ちょっと腹|触《さわ》らせろ」
「うわ、なにするんですか」
「じっとしてろ」
右脇腹をぎゅうぎゅうと押《お》される。病院のロビーは混雑していて、その中で剥《む》きだしの腹を触られるのはかなり恥《は》ずかしかった。
「大丈夫《だいじょうぶ》だな。肝臓《かんぞう》に腫《は》れはねえぞ」
「もう治《なお》ってますって」
「いや、おまえ、バカだからな。A型の再発なんざありえねえけど、いちおうな」
そんなことを言って、さっさと歩きだす。どうやらついてこいということらしい。後ろから蹴倒《けたお》したい衝動《しょうどう》に駆《か》られたが、どうにかそれを抑《おさ》えこみつつ、階段を上った。
やがて僕たちは屋上《おくじょう》にたどりついた。
屋上に出た途端《とたん》、風に晒《さら》され、僕たちの髪《かみ》がそろって揺《ゆ》れた。
「ちょっと寒くなってきたな」
「はあ」
「しかしまあ、シケた町だ」
眼下《がんか》の町を眺《なが》めた夏目《なつめ》は、煙草《たばこ》を咥《くわ》えると、銀色のライターで火をつけた。手の中でそのライターをくるくるまわしつつ、盛大《せいだい》に煙《けむり》を吐《は》く。
「里香《りか》、学校のほうはどうなんだ」
「まあ、普通《ふつう》ですよ」
「普通ってなんだ、普通って。もうちょっとちゃんとした日本語を使え」
あんたに言われたくねえ……。
「だから、普通ですって。ちゃんと通ってるし、勉強してますよ」
「クラスには溶《と》けこんでるのか」
「まあ、どうにか。最初は少しごたごたしたんですけど、今はなんか落ち着いてますね。クラスの女ボスと揉《も》めたんですよね」
「ああ、やっぱりな。あいつ、媚《こ》びることを知らねえからな」
「でも里香、負けなかったですよ。むしろ女ボスのほうが浮《う》いちゃって」
「そりゃそうだ。あいつがどれだけ医者やら看護婦《かんごふ》やらを泣かせたと思うんだよ。あいつのせいで飛ばされそうになった医者までいるんだぞ。たかが十五や十六のガキに、里香が負けるわけねえだろ。このオレでさえも手を焼いたんだぜ」
ああ……やっぱり過去にもそういうことがあったんだ……。
「けどなんか、その女ボスとも最近仲悪くないですよ。別によくもないですけど。里香が話しかけるんで、女ボス……っていうか元・女ボスもそれなりにクラスに馴染《なじ》んできたみたいです。まあ、もうボスには戻《もど》れないでしょうけど」
「いいんじゃねえの、それで」
夏目は煙草を吹かしながら言った。
「学校のボスなんざ、卒業するとかえって惨《みじ》めなもんだからな」
「そうなんすか?」
「昔のことばっか自慢《じまん》するような人間になっちまうんだよな。学校にいたころの成功体験から抜《ぬ》けだせねえっていうか。人間、どっかで負けておいたほうが、あとが楽なんだよ。幅《はば》が広がるっていう言い方はちょっときれいすぎるけどな」
「なるほど」
「里香《りか》はうまくやってるんだな?」
「まあ、はい。むしろ、前よりよくなってるかもしれないです。なんていうか、前より肩《かた》の力が抜けたっていうか、楽に学校生活を送っている気がしますね。なんとなくですけど」
「そうか。じゃあ、悪くねえな」
夏目《なつめ》は言った。
「上等じゃねえか」
まあ、そのとおりだった。
悪くない。
上等だ。
しばらく夏目は煙草《たばこ》を吹かしていた。僕のほうは特にやることもないので、屋上《おくじょう》の鉄扉《てっぴ》を開いて、閉じてみた。退院する前に油を差しておいたんだけど、またギイギイいうようになってる。里香の定期検診に付《つ》き添《そ》って病院に来る予定があるから、そのときに油を持ってこよう。
振《ふ》り向《む》くと、夏目が吸《す》い殼《がら》を睨《にら》んでいた。
「どうしたんすか」
「おまえ、これ持ってけ」
「なんでですか」
「そこら辺に捨てると谷崎《たにざき》が怒《おこ》るんだよ」
「知りませんよ、そんなの。夏目先生が吸った煙草じゃないですか」
「おまえね、年上の言うことは聞くもんだぞ」
「絶対《ぜったい》嫌《いや》ですからね」
近寄ってくる夏目から逃《に》げると、夏目はむむうと唸《うな》って、その吸い殼をズボンのポケットにそっと入れた。ああ、まだ火がついてればいいのにな。ズボンが燃えたら、けっこう笑えるのに。熱《あつ》い熱いとか喚《わめ》いてさ。
風が吹いた。
僕の髪《かみ》を、夏目の髪を揺《ゆ》らして、どこかへと流れすぎていった。
φ
吉崎《よしざき》多香子《たかこ》は顔をあげた。風が吹き、頭上《ずじょう》で木《こ》の葉《は》がざわざわと揺れたのだ。半年前、この木はピンクの花びらをたくさんつけ、盛大《せいだい》に散《ち》らしていた。しかし今、花びらは散りきって、十分に濃《こ》くなった緑に覆《おお》われている。葉先で太陽の光が撥《は》ね返《かえ》されている様《さま》は、まるで光が踊《おど》っているかのようだ。その木の根本に、秋庭《あきば》里香《りか》が腰《こし》かけていた。
視線《しせん》を落とすと、足下には綾子《あやこ》が地面にあぐらをかいて座《すわ》り、スケッチブックを広げている。それにしてもまあ、うまいものだった。まだ描《か》き始《はじ》めて十分くらいなのに、木の根本に座る秋庭里香の姿《すがた》が見事《みごと》に浮《う》かび上《あ》がりつつある。決して正確なわけじゃない。見たものをそのままきっちり描いてるわけではないっていうか。木の大きさとか、秋庭里香の姿とか、実際《じっさい》とは少し違《ちが》う。しかしこうして一メートルちょっと離《はな》れたところから見ると、その紙に描かれているのは紛《まぎ》れもなく秋庭里香だった。このモデルが誰《だれ》か告げず、学校中の生徒に「これは誰?」と尋《たず》ねたら、ほとんどすべての人間が「秋庭里香」と答えるだろう。秋庭里香の中に潜《ひそ》むものを、綾子は見抜《みぬ》いているのだ。
スケッチブックの秋庭里香は、少し微笑《ほほえ》んでいた。
はかない。
なのに強い。
そのふたつのバランスが、いかにも秋庭里香という感じだった。
「体。里香|先輩《せんぱい》。弱いし。大丈夫《だいじょうぶ》かな」
綾子が小声でそう言う。
相変わらず、集中してると語順がぐちゃぐちゃだ。
モデルになってほしいと言いだしたのは、綾子だった。けれど内気な綾子はそれを秋庭里香に伝《つた》えられず、なぜかあたしが頼《たの》むことになった。秋庭里香はあっさりと、拍子抜《ひょうしぬ》けするくらい簡単《かんたん》に引き受けてくれた。
今回もしかたなく、綾子の代わりに尋《たず》ねた。
「先輩、体は大丈夫ですか」
「うん、座ってるだけだから」
「じゃあ、もうちょっとお願いします」
綾子は絵に集中して、さらさらと鉛筆を走らせている。本当にうまい絵だ。きれいとか的確《てきかく》とかじゃなくて……とにかくおもしろい。これがきっと才能というヤツなのだろう。今までみたいにクラスを仕切っていたら、きっと綾子の才能には気づかなかっただろうな。気づいても、笑い飛ばしていたはずだ。下らないって。
でも、これは下らなくない。
ちょっとすごい。
φ
ぶすぶすと燃え始めたポケットから煙《けむり》が出て、夏目《なつめ》がうわあと慌《あわ》てるのだ。熱《あつ》い熱いと悲鳴《ひめい》をあげる。助けてくれ戎崎《えざき》、とか泣きそうに言っちゃってさ。思い浮かべるだけで、ついニヤニヤしてしまう光景だった。ああ、燃えないかな、煙草《たばこ》。
「戎崎《えざき》、ちょっとこっち来い」
下らない想像《そうぞう》で笑っていたら、クソ医者……いや、夏目《なつめ》に手招《てまね》きされた。
警戒《けいかい》しつつ、尋《たず》ねる。
「なんすか」
「まあ、来いって」
「だから、なんすか」
「来いって。ほら、こっちだこっち」
「じゃあ、一枚だけ撮《と》らせて[#「て」は底本では無し]ください」
「撮る? なにを?」
「写真です」
返事を聞く前に肩《かた》から提《さ》げていたカメラを構《かま》え、シャッターを切っていた。カシャン、という音とともに、時間が、世界が、切り取られる。狭《せま》いフレームの中、夏目はまるで高校生のガキみたいな顔をしていた。
「おまえ、まだ写真やってんのか」
「なんかおもしろくなっちゃって。現像《げんぞう》も今は自分でやってます。カラーは無理《むり》なんで、白黒ですけど」
「おもしろいよな、写真って。フィルム、なに使ってんだ」
「トライXですけど」
「定番だな。扱《あつか》いやすいだろ」
それにしてもまあ、夏目はなんでもよく知っている。僕は夏目に歩み寄ると、ちょっと上にあるヤツの顔を見上げた。しまった、と思った。こいつの甘い言葉《ことば》を信じた自分がバカだった。夏目の目にはひどく真剣《しんけん》な輝《かがや》きが宿っていた。逃《に》げようとしたがそれも叶《かな》わず、気がつくと僕は首根っこを掴《つか》まれ、引《ひ》き倒《たお》されていた。腹にカメラを抱《かか》え、守る。そのせいで背中《せなか》を鉄製の手すりに思いっきりぶつけた。むちゃくちゃ痛《いた》かった。
「なにすんですか」
「いいから、聞けよ。あくまでも、これはオレの見立てだ。医学的な裏付《うらづ》けはまったくない。執刀医《しっとうい》の勘《かん》ってところだ。里香《りか》の心臓はたぶん、五年はもつ。オレの腕《うで》にかけて保証《ほしょう》する。ほんとな、信じられないくらいうまくいったんだよ。オレの施術《せじゅつ》の中でも、最高の部類だった。ビデオに撮っておきたかったくらいだ。けど、それでもおそらく十年はもたねえ。五年から十年ってのがオレの見立てだ。それ以上はない」
夏目はひどく凶暴《きょうぼう》な顔をしていた。
「よく聞いておけ。最長の十年までいったとしてたら、おまえはそのとき二十八だ。なにかを一から始めるには遅《おそ》すぎる。だが自分の人生を諦《あきら》めるには早すぎる。中途半端《ちゅうとはんぱ》もいいところだ。そこから、なにもかも失ったところから、おまえは生き直さなきゃいけなくなる。いいか、里香《りか》のいない世界を、おまえはたったひとりで生きていかなきゃいけないんだ」
くそ、ヤツの手が首根っこをぐいぐい締《し》め上《あ》げてくるものだから、息《いき》ができない。胸《むね》が詰《つ》まる。僕は体をよじって、首の辺《あた》りに少しだけ空間を作った。喉《のど》が開き、新鮮《しんせん》な空気が流れこんでくる。思いっきり吸って、それをすべて言葉《ことば》に変えてやった。
「わかってるよ、そんなの! わかってるに決まってんだろうが!」
「いや、わかってねえ!」
「わかってるって言ってんだろうが、クソ医者!」
「わからねえんだよ!」
夏目《なつめ》の声は、食いしばった歯のあいだから漏《も》れてくるようだった。
「オレやおまえみたいなバカには、わからねえんだ!」
「くそ、息が……」
「だから、わからないってことを、わかっておけ。それくらいしかできることはねえ。あと、里香がいなくなったときのことを考えて、少しは準備《じゅんび》しておけ。二十七とか八だ。それくらいから道を選び直せるようにしておけ。おまえの人生のために」
うるさいうるさい、と僕は心の中でバカみたいに喚《わめ》いた。夏目の言葉なんか聞きたくなかった。救急車のサイレンでも鳴《な》れよ、飛行機の低空飛行でもいいよ、消防車でもいい……なんでもかまわないから、この不快《ふかい》な夏目の声を消し去ってくれ!
「ただ、もしかすると……もしかするとだ、なにかの奇跡《きせき》でも起きれば、里香はもっと生きられるかもしれない。十一年とか十二年とか、あるいは十五年とか。ほとんどありえねえが、絶対《ぜったい》にないとまでは言えねえ。そのほとんどありえない可能性《かのうせい》に賭《か》けてみるのもひとつの生き方だ。オレは勧《すす》めねえがな。まず負けるぞ。百戦未勝利の馬に全財産賭けるようなもんだ。確実にスッテンテンだ。それでもいいなら、賭けるって手もある」
「うるせえんだよ! このバカ医者!」
ようやく夏目を突き飛ばすことができた。足で思いっきり蹴《け》ったので、さすがの夏目も吹っ飛んで、屋上《おくじょう》の汚《きたな》いコンクリートに尻餅《しりもち》をついた。一気に喋《しゃべ》ったせいか、それとも他のなにかのせいか、夏目はぜいぜいと荒《あら》い息を吐《は》いていた。僕もまた、同じようにぜいぜいと肩《かた》を上げたり下げたりした。僕の見事《みごと》な靴痕《くつあと》が、夏目の白衣《はくい》についていた。そのまま、いったいどれくらいの時間が流れたんだろうか。たいして長い時間じゃなかったと思う。たぶん一分とか二分くらいだ。
立ち上がると、夏目は尻を払《はら》い、空を見上げた。ゆっくり近づいてきて、寝転《ねころ》んだままの僕の足を蹴った。
「なにすんだ、このバカ医者!」
「うはは」
「笑って人を蹴《け》るなよ! ああ、今のマジで痛《いた》かったぞ!」
「うはは」
「だから、痛い痛い!」
とはいっても、そんなに本気で蹴ってるわけじゃない。足を振《ふ》りまわしてる感じだ。ったく、この医者、なに考えてるのかさっぱりわからねえ。やがて夏目《なつめ》が身を屈《かが》め、その手を伸ばしてきた。殴《なぐ》られるのかと思い、僕は反射的《はんしゃてき》に両|腕《うで》で頭を庇《かば》った。その直後、右手の中に、なにかがするりと入ってきた。大きくて温《あたた》かいものだった。
気づくと、僕と夏目は握手《あくしゅ》をしていた。
「うまくやれよ、クソガキ」
夏目は笑っていた。そうさ、ひどく優《やさ》しく笑ってたんだ。
「なにがあっても、里香《りか》を守ってやれ」
そしてあっさり手を離《はな》すと、夏目は白衣の裾《すそ》を翻《ひるがえ》し、去っていった。屋上《おくじょう》のドアに姿《すがた》が消えるまで、一度も振り返らなかった。
それが夏目を見た最後だった。
φ
「もういいそうですよ」
告《つ》げると、秋庭《あきば》里香《りか》はゆっくり立ち上がった。彼女はちゃんと体に気を遣《つか》っていた。本の幹《みき》に手をかけ、足もとを安定させてから、立ち上がっている。なんだか、そういうことが最近わかるようになった。
綾子《あやこ》の才能《さいのう》だけじゃない。
今までのあたしは、人の関係とか、上とか下とかばっかり見てて、他はまったく見てなかったのだろう。相変わらずクラスの派手《はで》な子たちのグループには入れてないし、どっちかっていうと綾子と同じようなはぐれ組だけど、それもまあ悪くないって気がしていた。負け惜しみじゃなくて。
こういう世界も、けっこうおもしろい。
「あ、すごいね」
秋庭里香が綾子のスケッチブックを覗《のぞ》きこんで、弾《はず》んだ声を出した。
「ほんとうまいね」
えへへ、と綾子は笑う。
綾子はあまり秋庭里香とうまく話せない。緊張《きんちょう》してしまうのだそうだ。
「吉崎《よしざき》さんも描《か》いてもらったら」
「あたしがですか?」
「うん。いいよね、綾子ちゃん?」
何度も綾子が肯《うなず》く。
「あたしね」
「うん?」
「描きたかった。吉崎さん」
綾子がそんなこと思ってたなんて、全然知らなかった。いちおう嫌《いや》がってみたけれど、秋庭里香に手を引《ひ》っ張《ぱ》られ、桜の木の根本にまで連《つ》れていかれた。根本に座《すわ》ると、頭上に緑の天井が広がる。その緑は風にザザザと音を立てて揺《ゆ》れ、木漏《こも》れ日《び》がいくつもいくつも落ちてくる。ああ、気持ちいい。
「じゃあ、じっとしててね」
「ちょっと緊張しますね、モデルって」
「そうだね」
肯きながら、秋庭里香が髪《かみ》を整《ととの》えてくれた。ほっそりした指が髪を梳《す》く感触《かんしょく》がとても気持ちいい。まさか秋庭里香にこんなことをしてもらえるとは思わなかった。
「これでいいかな」
言って、秋庭里香は綾子のほうに戻《もど》っていった。
風が吹く。
ザザザと木の葉が揺《ゆ》れる。
光が舞《ま》う。
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飛行機が飛んでいた。冬が近づいてきたせいで空の青がやけにくっきりしており、その青を切《き》り裂《さ》くように雲を伸ばしながら、銀色に輝《かがや》く飛行機が東のほうへと去っていく。
「あれに乗ってんのかねえ」
そう言う亜希子《あきこ》さんの声は、ちょっと細かった。
飛行機を目で追《お》いながら、僕は言った。
「違《ちが》うんじゃないですか。飛行機なんていっぱい飛んでますよ」
「まあ、そうだね」
「あれがアメリカ行きかどうかもわかんないし」
「うん」
僕と亜希子さんはそろって手すりにもたれかかっていた。今日は里香の定期|検診《けんしん》の日で、僕はその付《つ》き添《そ》いで来たのだった。亜希子さんは休憩《きゅうけい》時間……と言っていたけど、たぶんサボり中だ。ここに来るまで、こそこそしてたから。
「マフラー、使ってくれるかねえ」
ぽつりと亜希子さんが呟《つぶや》いた。
「なんですか? マフラーって?」
「ああ、別にあんたには関係ないさ。それよりあんた、進路、決めたの」
かなり強引《ごういん》に話を変えられた。
まあ、いいか。
聞いたって教えてくれないんだろうし。
「いや、二年ですから」
「ああ、そっか。ダブったんだよね」
急に亜希子《あきこ》さんが嬉《うれ》しそうな顔になった。ダブったダブった、と五回くらい繰《く》り返《かえ》した。
「いいじゃないっすか、ダブりくらい」
「あたしでも留年《りゅうねん》はしなかったけどねえ。しかし、里香《りか》のためにダブりまでするなんて、あんたも健気《けなげ》だね。来年もまた落第《らくだい》するつもり?」
「別に里香のためじゃないですよ。熱が出ただけです」
「へえ? ほんとに?」
「うるさいっすよ」
生意気《なまいき》に言ったら、いきなりヤンキーキックが飛んできた。
「痛《いた》い痛い。なにするんですか」
「軽く蹴《け》っただけだよ」
「かなり痛かったですって」
どうもここに来るたび、誰《だれ》かに蹴られているような気がする。もっとも、僕を蹴る人間は、もう亜希子さんしか残っていないけれど。
「友達はどうするのさ。あの勉強教えにきてくれてた女の子とか。進学するの?」
「東京に行くみたいですよ」
亜希子さんは意外そうな顔をした。
「どっちかっていうと、地元に残るタイプに思えたけどね」
「彼氏が東京に行くんです」
「ああ、なるほど。ついていくってわけだ」
「らしいっすよ」
「健気だねえ。そういや、健気なタイプかもねえ」
「そうっすね」
「あのデカい子は?」
「司《つかさ》ですか? そいつが東京に行く彼氏です」
「え? あのふたり、つきあってんの?」
「はあ。そうみたいです」
意外だ、と亜希子さんは言葉《ことば》に出して繰り返した。それは意外だね。
僕は深く肯《うなず》いておいた。
「そうなるとは僕も思ってなかったですよ」
「うーん。男と女はよくわかんないね。あの男の子、東京に行くんだ?」
「料理人になるつもりなんで、向こうの有名店で修行《しゅぎょう》することにしたみたいです。あいつ、そういうの向いてますからね。何年かしたら、ちょっとした有名料理人になってるかもしれないですよ」
「じゃあ、あの子は? ほら、バカ面《づら》した男の子」
山西《やまにし》のことだろう。
「あいつは大阪と京都の大学を受けるみたいです。どっちも三流私大で、それなのにD判定食らってるんで、かなりの確率で浪人ですけどね。まあでも、受かったら、どっちか行くんじゃないですか」
「みんな、ここを離《はな》れちゃうんだ」
「はい」
そうしてみんな、旅立っていく。この寂《さび》れた町をあとにする。残されるのは、僕たち……僕と里香《りか》だけだ。
「うらやましい?」
亜希子《あきこ》さんがニヤニヤ笑いながら尋《たず》ねてくる。
僕は強がることにした。
「いや、別に」
「ほんとに?」
まじめに尋ねてるわけじゃなくて、かなり嫌《いや》みったらしい問いかけだった。目はすっげえ細いし、唇《くちびる》は吊《つ》り上《あ》がってるし。
笑いながら、今度は正直に言った。
「少しはうらやましいですね」
「あたしも少しはうらやましいね」
「亜希子さんも?」
「あたし、ここしか知らないからね。まあ、それでいいけどね」
「僕もそれでいいです」
昨日の夕方、里香が僕の部屋《へや》で寝《ね》てしまった。いやいや、なにか変なことをしたわけじゃないぞ。部屋で本を読んでいた里香が、勝手に僕のベッドで寝てしまっただけの話だ。階下にあるキッチンでコーヒーの準備《じゅんび》をして、カップをふたつ持って部屋に戻《もど》ったら、里香がすうすう寝息《ねいき》を立てていたのだ。
西日が差しこむ僕の部屋の中に、里香がいた。
眠《ねむ》っていた。
頬《ほお》の辺りに赤い反射が映り、その柔《やわ》らかなラインをさらに柔らかく浮《う》かび上《あ》がらせていた。
僕はしばらくカップを持ったまま立ちつくし、そんな彼女の様子《ようす》を眺《なが》めていたけれど、そのうちカップを持つ手が熱《あつ》くなってきた。それでカップを机に置き、ベッドの端《はし》に腰《こし》かけた。すぐ前に里香《りか》の姿《すがた》があった。体を横にし、膝《ひざ》を軽く曲げている。制服のスカートの裾《すそ》から、形のいい二本の足がほっそりと伸びていた。手は軽く開き、胸《むね》の前で重なっている。本が一冊、枕元にあった。僕は里香を起こさないよう気をつけながら、その本を手に取ってみた。芥川《あくたがわ》龍之介《りゅうのすけ》の『蜜柑《みかん》』が入っている短編集だった。里香のすうすうという寝息《ねいき》を聞きながら、僕はふたたびその短い話を読んだ。うん、悪くない。どうってことのないエピソードが描《えが》かれているだけの話なのに、それでもなにかが心に残る。本を閉《と》じると、西日はさらに傾《かたむ》き、部屋《へや》は闇《やみ》の比率が増していた。里香の柔《やわ》らかいシルエットが、うっすらと輝《かがや》く窓を背景に浮《う》かび上《あ》がる。僕は彼女を起こし、抱《だ》きしめたかった。この場で彼女を僕のものにしたかった。けれど、それはまだ先でいい。彼女のほっそりした体や儚《はかな》さを、僕はまだまだ大切にしたかった。僕も里香も、大人になるには早すぎる。そうさ。僕たちにはたくさんの時間が残されているんだ。永遠ではないかもしれないけれど、僕はその長さを信じる。少しでもそれが続くことを願う。
たったひとつのもの。世界で一番大事な存在《そんざい》。僕はそれを手に入れた幸福とともに、いくつかのことを投げ捨てることにした。
まず東京のことを思い浮かべた。大きな町だ。日本の首都。芸能人やら歌手やら俳優やらがたくさんいる。世界的な企業《きぎょう》もいっぱいある。しかしまあ、あそこはダサい町だ。テレビでいくらでも見られる。行きたくもなかった。あそこは人の住むところじゃない。次に思い浮かべたのはニューヨークだった。惜《お》しいけど、駄目《だめ》だ。まったくもって駄目だ。あそこは危《あぶ》ない。近づくのは無謀《むぼう》ってものだ。映画を観《み》てると、年に一回か二回は壊滅《かいめつ》してるじゃないか。パリはどうだろう。いや、やっぱり駄目だな。フランス人ってのは理屈《りくつ》ばっかでうるさいし、自己中《じこちゅう》野郎《やろう》だらけだそうだ。そんなヤツらとやっていけるわけがない。じゃあ、近場で北京《ペキン》とか。ちょいと厳《きび》しいな。人が多すぎる。いっそエジプトとか。でも、なんか砂だらけって感じだな。どうせピラミッドしかないんだろうし。それに中東の人間はこすっからいそうじゃないか。そんな連中とやってられないな。僕はありとあらゆる町の名前を思い浮かべては、その悪いところをあげつらって、徹底的《てっていてき》に罵《ののし》った。良識的《りょうしきてき》といわれる人が聞いたら眉《まゆ》をひそめるようなことだって考えてやった。ああ、たっぷり考えてやったさ。
そして三十分後――。
ほとんど思いつく限りの場所を検討《けんとう》しつくし、国内も国外も行きたいと思えるようなところはひとつもなくなっていた。ああ、他にどこかねえかな。住みやすくてさ、いいところは。そう、すごく魅力的《みりょくてき》なところだ。ここだったら一生住んでもいいって思える場所だ。どこかにあるはずだぞ。でないと、僕は住む場所がなくなっちゃうじゃないか。ああ、そういや、灯台《とうだい》もと暗しって言葉《ことば》があったよな。あれは、なんだっけ、近すぎるとかえって見逃《みのが》すって意味だっけ。近すぎる場所。あ、そうか。忘《わす》れてた。
伊勢《いせ》は……伊勢はどうだ?
意外と悪くないんじゃないか。まあ、うん、田舎《いなか》だけどさ。その分、のんびりしてるっていうか。住みやすいし。生まれたところだから、友達も多いし。冬は暖《あたた》かいし。南に行けば魚がうまいし、北に行けば肉がうまい。けっこういいところじゃないか。たいしたものはないけどさ。でもまあ、悪くない。それに、伊勢には里香《りか》がいる。
ベッドに横たわる少女の輪郭《りんかく》を、僕は見つめた。
すでに部屋《へや》の中は闇《やみ》に染《そ》まり、窓ガラスは陽光《ようこう》ではなく、外灯《がいとう》の光で輝《かがや》いていた。里香のシルエットが、その輝きに浮かび上がっている。彼女の寝息《ねいき》が聞こえる。伊勢には、この子がいるんだ。里香がいる。
ほかに必要《ひつよう》なものなんてあるか?
ないね。
まったくない。
僕はそんな結論を下すと、里香に毛布でもかけてやろうと思った。ちょっと寒くなってきたし、このままじゃ風邪《かぜ》を引いてしまう。そして立ち上がったとき、窓から差しこんでくる光に照らされて、小さな白い三角がきらりと輝いた。机の引きだしから、なにかの用紙の角が、ちょっとだけ出ていたのだった。
「なんだこれ?」
さして深く考えることなく、僕はそいつを引《ひ》っ張《ぱ》りだした。司《つかさ》の名前が書いてあった。みゆきの名前が書いてあった。必要《ひつよう》なふたりの証人《しょうにん》が、つまりちゃんとそろっていた。そして用紙の右側の欄《らん》には、こう書いてあった。
秋庭《あきば》里香
他にも住所とか本籍《ほんせき》とか生年月日とか、いろいろ書いてあった。間違《まちが》いなく、それは里香の字だった。左の欄に僕の名前やら住所やらを書きこめば、必要|事項《じこう》はすべて記入されることになる。あとは役所に持っていけばいいだけだ。もちろん立ちつくした。一分は動けなかった。どうしてこんなことになってるんだろう。いつの間に書いていったのだろう。まったくわからず、ひたすら僕は途方《とほう》に暮《く》れた。
そのあと、どうしたかって?
愚問《ぐもん》だ。決まってるじゃないか。もちろん自分の名前を左側に書いたさ。必要事項は全部記入した。まだ役所には届《とど》けてないけれど、いつか届けることになるかもしれない。
二年後か、三年後か、まあ、そんなころに。
それにしても、いつの間に、司《つかさ》は、みゆきは、里香《りか》は、これを書いたんだ?
「僕もそれでいいです」
亜希子《あきこ》さんに向かって、僕は同じ言葉を繰《く》り返《かえ》した。
「伊勢《いせ》でいいです」
はっきりと告《つ》げた。
ここで、この町で、僕たちは生きていく。だって、僕は自らの手で、未来を、大切なものを、ちゃんと選んだのだ。たったひとりの女の子と、自らの夢を天秤《てんびん》にかけたら、かたんと女の子のほうに傾《かたむ》いた。それはもう、あっさりと傾いた。自分の夢だけじゃない。片方の天秤に乗っているのが世界だろうが、宇宙だろうが、どんなものであろうが、同じように天秤は傾いただろう。
それこそが、僕の選んだものだった。
「小さい町ですけどね。悪くないっすよ」
「そうだね。悪くないね」
「ほんと、マジで悪くないっすよ」
僕は青空に向かって、恥《は》ずかしげもなく大きな声を放《はな》った。亜希子さんがびっくりした目で見つめてきたけれど、にっこり笑っておいた。亜希子さんは、呆《あき》れたように笑い返してきた。そのとき、なにか大きな音が近づいてきた。何事かと思ったら、屋上《おくじょう》の鉄扉《てっぴ》がいきなり開いた。油を差しておいたせいで、実に勢《いきお》いよくバンと音を立てて開いた。そして現れたのはやっぱり里香だった。左|腕《うで》の袖《そで》をまくりあげていて、そこからチューブのようなものが垂《た》れ、チューブの先から血が滴《したた》っている。里香が歩いてきたあとに、血の道筋《みちすじ》がくっきりとできていった。
「おまえ、なにやってんだ!」
悲鳴《ひめい》のような声を、僕はあげた。
血の赤さにドキドキした。
しかし里香は流れる血にまったくかまうことなく怒《おこ》っていた。
「あの医者、最悪! もう帰る!」
「だ、だけど検査《けんさ》は……」
「あんなバカ医者じゃ嫌《いや》! 帰ろう、裕一《ゆういち》!」
「そ、それより血が……」
里香のあとを追《お》うように、白衣《はくい》の医者と婦長《ふちょう》が屋上にやってきた。必死《ひっし》になって里香の機嫌《きげん》を取ろうとしているが、里香は女の子が口にしないほうがいいような罵詈雑言《ばりぞうごん》を彼らに容赦《ようしゃ》なく浴《あ》びせかけた。その一方で、サボっていた亜希子さんは婦長に見つからないように背《せ》を丸めながら早足で鉄扉のほうに動きだしていた。
「裕一《ゆういち》、帰ろう!」
「里香《りか》ちゃん! ただの検査《けんさ》なんだから!」
「そうですよ! 検査室に戻《もど》りましょう!」
「うるさい! バカ! 帰るから! チューブ抜《ぬ》いて!」
その騒《さわ》ぎと、こそこそ逃《に》げていく亜希子《あきこ》さんの背中《せなか》を見ながら、僕はため息《いき》をついた。怒《おこ》っている里香を説得《せっとく》するのは、きっと僕の役目なのだろう。ああ、でも、どうやって説得すればいいんだよ。まあ、たぶん僕が里香に怒鳴《どな》られる方向に持っていけばいいんだろうな。医者だの婦長《ふちょう》だのに向いている感情の矛先《ほこさき》を僕に向けさせて、僕が怒鳴られているあいだに、検査を受けさせるってわけだ。
いつもやってることなので、だんだん慣《な》れてきた。
「なあ、里香――」
里香が怒りそうな言葉《ことば》を探《さが》しつつ、僕は彼女に声をかけた。
まったく、損《そん》な役まわりだろう?
これが僕の選んだものなんだぜ。
[#地から2字上げ]おわり
[#改ページ]
あとがき
今朝、庭にあるデッキの下に、野良猫《のらねこ》が一匹|潜《もぐ》り込《こ》みました。サバトラの、なかなか可愛《かわい》い猫なのですが、猫一号さんにとっては縄張《なわば》り荒《あ》らし以外のなにものでもなく、デッキの上と下で喧嘩《けんか》になりました。いやまあ、ただニャアニャア鳴《な》き合《あ》ってるだけなんですけどね。デッキ越《ご》しじゃ、引《ひ》っ掻《か》くこともできないし。それでも猫一号さんはなかなか楽しそうです。ずっと家の中で飼《か》っているので(完全室内飼いって奴《やつ》です)、こういう刺激《しげき》はたまにあったほうがいいんだろうなあ。その一方、猫二号さんは我関せずって感じで、ぼんやり日向《ひなた》ぼっこ中。むむう。兄妹《きょうだい》なのに、この性格の違《ちが》いはなんだろうか。
というわけで、相変わらず猫バカの橋本です。
ちょっと寂《さび》しいですが、いよいよ『半分の月』も最終巻です。もう少ししたら短編集が出ることになっていますが、本編という意味では、この巻が最後になります。それにしても、なんだか不思議《ふしぎ》なものです。『半分の月』を書き始めたころは、コミック化とかアニメ化とかまったく考えていませんでした。むしろ『リバーズ』よりも売り上げは落ちるだろうという覚悟《かくご》の元に始めたので、ここまで書き続けられたことにびっくりしています。こんな普通《ふつう》の話を最後まで読んでくださったみなさん、ありがとうございました。本編最終巻を書き終えた今、心からお礼を申し上げます。
他にも誤算《ごさん》がいくつか。
最初の構想《こうそう》では、この巻を書くつもりはありませんでした。
僕が考えていたエンディングは五巻のそれで、実際《じっさい》あそこで物語は完結《かんけつ》していると言っていいと思います。ゆえにこの巻を蛇足《だそく》と感じる方もいらっしゃるでしょう。ただ、どの時点だったかは忘《わす》れましたが、『半分の月』という物語を綴《つづ》るうちに、僕はこの巻を書いておきたいと思うようになっていました。裕一《ゆういち》と里香《りか》が生きる場所は、病院ではありません。病院とは通り過ぎるべき場所であって、裕一と里香はやがて日常《にちじょう》に戻《もど》っていきます。たとえ蛇足であろうと、物語としての美しさを壊《こわ》すことになろうと、その日常という名の舞台《ぶたい》で彼らがどう生きていくかを書いておきたかったわけです。
確実《かくじつ》に終わりの来る日常。
それを知りつつ、けれど決して諦《あきら》めることなく、ただ普通に生きるということ。
危機《きき》に振《ふ》りまわされるよりも、はるかに難《むずか》しいことです。
ただ、考えてみれば、それは裕一と里香だけの話ではないんですよね。僕たちだって、いつか死にます。明日か、明後日か、数十年後かわからないけれど、確実に終わりのときが来る。その点において、里香《りか》が抱《かか》えている運命と、なんら変わりない。裕一《ゆういち》たちが持とうとしている思いを、だから僕たちも持つべきなのかもしれません。十年後や二十年後を信じて生きていくには、この世界はいささか不確《ふたし》かです。いつ零《こぼ》れ落《お》ちるのかわからないということを、おそらく僕たちは知っておくべきなのでしょう。とても難《むずか》しいことではありますが。僕もしょっちゅう忘《わす》れてしまいます。
さて、今後の予定ですが、夏前に『半分の月』の短編集が出ることになっています。電撃hpやラジオドラマ用に書いた短編がいくつか入るはずです。それから秋には次シリーズを始めたいと思っています。そこら辺にいる平凡《へいぼん》な若者の平凡な日々をひたすら平凡に描くつもりです。あと、ここで宣伝《せんでん》すると電撃の編集さんに怒《おこ》られるかもしれませんが、この六巻の発売直後に新潮社から『流れ星が消えないうちに』という本が出ることになっています(二月末刊行予定です)。単行本なのでちょっと値段高めですが、お金と時間に余裕《よゆう》があったら、ぜひ手に取ってみてください。半分の月と似《に》たテーマを、違《ちが》う方向から描いた話です。
では、最後にお礼を。あと少しというところまで来ちゃいましたね、山本さん。いったんコンビ解消《かいしょう》かと思うと、すごく寂《さび》しいです。またなにかで組みましょう。デザインの鎌部さん、いつもすばらしいお仕事をありがとうございます。心から感謝《かんしゃ》しています。編集の徳田さん、わがままばっかりで申し訳ないです。いつの日か橋本を担当《たんとう》してよかったと思ってもらえるように頑張《がんば》ります。
このあとがきでお礼を言うのは二回目になりますが、最大の感謝は読者のみなさんに!
『半分の月』を書いていたこの数年間は、物書きとして幸せな日々の連続でした。そんな日々を下さったみなさんに、改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。これからもみなさんに楽しんでもらえる物語を書いていきたいと思います。
[#地から2字上げ]橋本 紡
[#地から2字上げ]http://home.att.ne.jp/theta/bobtail/index.html