半分の月がのぼる空5
橋本紡
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)意地悪《いじわる》そうに
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)秋庭|里香《りか》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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渡《わた》り廊下《ろうか》をすぎると、そこは東|病棟《びょうとう》だ。僕は息《いき》を殺し、辺《あた》りの気配《けはい》を窺《うかが》った。人影《ひとかげ》はなし。足音も聞こえない。意を決し、一歩|踏《ふ》みだす。さらに一歩。そこで急に悪い予感に襲《おそ》われ、慌《あわ》てて立ち止まった。後ろを見る。人影はなし。足音も聞こえない。ただガランとした空間が広がっているだけだ。
「はあ」
思わず息が漏《も》れる。風船が萎《しぼ》むときに吐《は》きだすような空気。実際《じっさい》、僕もちょっとだけ萎んでいるような気持ちになった。それにしても警戒《けいかい》しすぎかもしれない。そうだ、そうだよな。こんなにビビることじゃないよな。いや、ビビってなんかないけどさ。ほんのちょっと警戒してるだけだ。うん、そうだ。それだけだ。手の中にある包《つつ》みを、僕は見つめた。ヒカリカメラ、と写真屋の店名が書いてある。それは夏目《なつめ》が取りだしてくれたフィルムを現像《げんぞう》したものだった。ヒカリカメラのオッチャンは、「フィルムは大丈夫《だいじょうぶ》だったよ。きれいに焼けてるから。見るかい?」と店頭で尋《たず》ねてきたけど、僕は「いや、いいです」と答えておいた。里香《りか》といっしょに見たかったからだ。里香の拗《す》ねた顔、イーだの顔、照れた顔。そのすべてが今、手の中にある。
よし、行くか――。
今度こそ、どんどん歩いていく。一歩。二歩。三歩。だんだん足の動きが速くなってゆく。たいしたことないだろと思いながらも、鼓動《こどう》は速くなるばっかり。ちくしょう。おさまれ、おさまれよ、バカ心臓。たいしたことないだろ。角を曲がると、そこからは一直線に廊下《ろうか》が延《の》びていた。この廊下の端《はし》っこ、突き当たり近くに、里香《りか》の病室がある。さすがに病棟《びょうとう》の内廊下に入ると、人気《ひとけ》がないってわけにはいかない。あちこちから話し声やら足音やらが聞こえてくる。看護婦《かんごふ》さんがカートを押しているガラガラという音もどこからか響《ひび》いてきていた。ふと気づくと、すぐそばの病室の入り口にお婆《ばあ》ちゃんが立っていた。確か胆管障害《たんかんしょうがい》で入院してるお婆ちゃんだ。そのお婆ちゃんは僕と目が合うと、にやあっと笑った。なんというか、それはものすごく楽しそうな笑《え》みだった。ははっ、と笑い返してみる。ああ、頬《ほお》が引きつるぞ。お婆ちゃんはさらに楽しそうに笑いながら僕を見てきた。
なんだか、ヤバい……ヤバい気がする……。
しかしここまで来てしまった以上、今さら引き返すわけにはいかなかった。そうさ、ここはもう東病棟なんだぜ。里香の病室まで数十メートルくらいしかないんだ。たいした距離《きょり》じゃないだろ。さっさと歩いたら、一分もかからずに着いてしまう。悪い予感を抱《いだ》きながらも、僕は歩きだした。お婆ちゃんはまだ笑っている。その笑みが悪い予感をさらに加速させる。しかし意外となにごともなく、里香の病室に着いた。
『二二五号室 秋庭《あきば》里香』
そんなプレートがドアの脇《わき》についていた。何度このプレートを見てきただろう。時には絶望《ぜつぼう》に沈《しず》みながら、時には息苦しいほどの希望に溺《おぼ》れながら、僕はここに立った。このプレートを見つめた。秋庭里香、という名前。その文字の並《なら》びに、頬が緩《ゆる》んだ。ここに、あの子がいるんだ。なによりも大切な人。この世界よりも、自分よりも、はるかに大きな存在《そんざい》。こんな気持ちがあるなんて、今まで知らなかった。そりゃさ、話には聞いてたさ。映画とかマンガとか小説とか、そんなんで見たり読んだりもしたさ。だけど、駄目《だめ》だな、ありゃ。そんなもんじゃ表現できねえよ。軽く超《こ》えてる。どんな言葉だって、どんな絵だって、すごい作家だろうが絵描きだろうが音楽家だろうが、今僕の胸《むね》の中にあるものを表現しきるなんて不可能《ふかのう》だ。
うはは、と笑ってみる。もちろん声は出さずに。そんな笑い声を聞かれたりなんかしたら、里香に「気持ち悪い。なに笑ってんの」なんて言われかねないからだ。
わきあがってくる笑みを必死《ひっし》に抑えながら、僕はドアノブに手を伸ばした。
「里香、入るぞ――」
言った瞬間《しゅんかん》、ドアノブがまわった。僕がまわしたわけじゃない。ドアノブのほうが勝手に動いたんだ。びっくりする間もなく、ドアが開いた。
「おお、戎崎《えざき》」
病室から現れたのは、夏目《なつめ》だった。
「おまえ、なにしてんだ」
「え、なにって――」
僕の言葉《ことば》を聞こうという素振《そぶ》りさえ見せずに、夏目《なつめ》は病室の中に顔をやった。おい、なんなんだよ、自分から尋《たず》ねてきたくせに。なに無視《むし》してんだよ。
「じゃあ、薬|忘《わす》れるなよ、里香《りか》」
そう言って、夏目は僕を押《お》しのけるようにして病室から出てきた。バタンと音を立てて、ドアが閉まる。里香と通じていた空間が、一枚の板っきれによって仕切られた。今、空間は通じていない。板っきれの、ドアの、向こう。
夏目は不自然な位置《いち》に立っていた。僕とドアのあいだの、ものすごく狭《せま》い空間だ。僕から見ると、すぐ目の前に夏目の顔がある。まるで里香の病室の前に立ちはだかっているような感じだった。
「あの、先生」
フィルムを取りだしてもらって以来、僕は夏目のことをちゃんと先生≠チて呼《よ》ぶことにしていた。
「なんだ」
至近距離《しきんきょり》で夏目が尋ねてくる。ああ、くそ、むちゃくちゃ近いぞ。まるでキスする寸前《すんぜん》みたいな感じだ。ああ、気持ち悪い。気持ち悪いよ、夏目。
「その、いいっすかね」
「なにがだ」
「なにがって……つまり……里香に用事があって……」
「それがどうした」
やけにまわりくどい。
「どうしたって……だから……用があるから病室に入りたいって……」
「あー、駄目《だめ》だ」
「え? 駄目って?」
「医師としての判断《はんだん》だ」
「なんかあったんすか? 具合《ぐあい》が悪くなったとか?」
「いや、そういうわけじゃないがな」
「じゃあ、なんで?」
「だから医師としての判断だ」
まるで禅問答《ぜんもんどう》をしてるみたいだった。なにをどう尋ねても、最後には「医師としての判断だ」という言葉が返ってくる。どうやら里香の病状は安定してるらしい。特に変化はない。順調ということだ。それなのに病室には入るなと夏目は繰《く》り返《かえ》す。
「なんで駄目なんですか」
さすがに声が殺気立《さっきだ》ってくる。
夏目は見下すような視線《しせん》を――まあ、実際《じっさい》に見下していたんだけどさ、夏目のほうが僕よりちょびっとだけ背《せ》が高いからさ――投げかけてきた。
「なんでそんなことをおまえに説明しなきゃいけないんだ?」
「それは……」
「おまえ、里香《りか》の家族か?」
「違《ちが》いますけど……」
「里香と結婚でもしてんのか?」
「し、してないですけど……」
「他人、だよな?」
「それは……」
「他人、だよな?」
「えっと……」
「他人、だよな?」
なんだよ、他人他人って繰《く》り返《かえ》しやがって。
「そうですけど……」
ムカつくが、認《みと》めるしかなかった。
勝《か》ち誇《ほこ》ったように、夏目《なつめ》は言った。
「面会《めんかい》ができるのは家族だけだ。だから、おまえは駄目《だめ》だ」
「あの……でも……」
「じゃあな、戎崎《えざき》」
言うなり、夏目はさっさと歩きだした。肩《かた》がぶつかって、よろけてしまう。しかしそんなことにも気づかない様子《ようす》で、夏目の背中は遠ざかっていった。あのバカ医者、立ち去るときに、ふふんって笑いやがった。確かにふふんって笑った。絶対《ぜったい》笑った。
僕は写真の入った袋《ふくろ》を握《にぎ》りしめ、夏目の背中を憎《にく》しみとともに見つめた。面会|不可《ふか》なんて、嘘《うそ》に決まってる。僕を里香に会わせたくないから、そんなことを言っただけだ。医師の判断《はんだん》だって? ちくしょう、適当《てきとう》なこと言いやがって!
里香といっしょに写真を見るつもりだったんだぞ。
拗《す》ねた顔をからかってやるつもりだったんだ。
イーだも。
照れた顔だって。
並《なら》んで座《すわ》ってさ、顔を寄せあってさ、写真を見るつもりだったんだ。そのことばっかり考えていた。里香の照れる顔とか、照《て》れ隠《かく》しで怒《おこ》る声とか、ずっとずっと思い浮かべてた。しかし今、僕は病室の前でむなしく立ちつくしていた。
ああ、ちくしょう。
たった一度でも夏目に感謝《かんしゃ》した自分がバカみたいだ。まったく、なんて嫌《いや》なヤツなんだ。くそっ。僕は急に走りたくなった。全速力《ぜんそくりょく》で突っ走って、夏目《なつめ》の背中《せなか》にドロップキックを見舞《みま》ってやりたい――。
自然と身体が動きだしていた。思いっきりドロップキックだ。さすがに背後《はいご》からの攻撃《こうげき》は避《よ》けられないだろう。思い知れ、夏目め。
しかし誰《だれ》かに肩《かた》をがっしり掴《つか》まれた。
「あ、亜希子《あきこ》さん!?」
「やめときな、裕一《ゆういち》」
ひどく低い声で、亜希子さんは言った。
「あいつ、強いよ。またボコボコにやられるよ」
「うっ」
反論したいが、できない。どう考えてみても、亜希子さんの言うとおりだった。夏目の足下《あしもと》に這《は》いつくばっている自分が、まざまざと目に浮《う》かぶ。
ニヤリと笑う夏目……すっかり打ちのめされている僕……。
それは泣きたくなるくらい情《なさ》けない姿《すがた》だった。
「どうしても行くっていうんなら、しかたないけど。男だからね、そういうときもあるさ。どうする? 行く? ボコボコにされるけど、その覚悟《かくご》ある?」
熟考《じゅっこう》した。一秒ほどだけど。
「……やめときます」
ああ、情けねえ、情けねえよ、戎崎《えざき》裕一。
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「ちぇっ」
呟《つぶや》きながら、僕は自分の病室へ向かっていた。あそこで引いちゃうのが、僕の悪いとこなんだよな。まあ、だけど、負けるとわかってるのに喧嘩《けんか》するのもバカだよな。うん。それに殴《なぐ》られたら痛《いた》いしさ。痛いのは嫌《いや》だよな。
渡《わた》り廊下《ろうか》で立ち止まると、僕は窓越しに里香《りか》の病室を探《さが》した。病棟《びょうとう》の一番|端《はし》の、あの病室だ。里香は今、なにをしてるんだろう。寝てるってことはないな。さっき起きてたわけだから。僕は目を閉じ、病室の中にいる里香を想像《そうぞう》してみた。くっきりした目は開いているだろうか、閉じているだろうか。もしかしたら……僕のことを考えてくれているだろうか。
あの、真夜中の病室突入事件から、ちょうど一週間がすぎていた。ほんとならその一週間、毎日だって里香に会いに行きたかったけれど、里香の具合《ぐあい》が悪かったり、僕の検査《けんさ》があったり、さっきみたいに夏目《なつめ》が邪魔《じゃま》したりで、たった一回しか里香とは会えていなかった。それだって、ちゃんと話せたわけじゃない。ドアの隙間《すきま》から、ほんの数秒のあいだ、お互いの顔を確認しただけだ。そのとき、僕は思いっきり笑った。里香の顔が見えただけで、そんなふうに笑っていた。ドアの隙間から見えた里香の顔には、僕と同じような笑《え》みがあった。すっかりやせ細っていたけれど、それでも彼女の笑顔《えがお》はむちゃくちゃ可愛《かわい》かった。
「うはは」
つい、笑《え》みが漏《も》れる。
「うはは」
今度は意識《いしき》して笑ってみる。まあ、今日は会えなかったけど、たいした問題じゃないさ。僕たちにはこれから、たくさんの時間が残されているんだ。一日や二日なんて、どうってことねえよ。そうさ、あの夜、僕たちは未来を手にしたんだ。いっしょに、手を添《そ》えて、未来を掴《つか》んだんだ。
僕は弾《はず》むような足取りで歩きだした。両脇《りょうわき》が窓ガラスになっている渡《わた》り廊下《ろうか》は、春の温《あたた》かな日差しに満《み》ちていた。その光の中を、まるで泳ぐように僕は進んだ。光を、温かな空気を、世界を、確かめながら病室に向かった。
病室に戻った僕は、ベッドに腰《こし》かけた。写真が入った袋《ふくろ》を脇に置き、そのまま寝転《ねころ》ぶ。天井《てんじょう》には小さな穴がいっぱい開いていた。そういう模様《もよう》なのだ。まだ入院したばかりで、身体がひどくだるくて起きあがれなかったころ、あの穴を数えて一日すごしたっけ。七十個くらい数えたところで、どこまで数えたかわかんなくなっちゃうんだよな。そうなったら、また頭から数え直すんだ。やっぱり七十個くらいでわからなくなるんだけど。いつまでも終わらないひとり遊び。
首を横に動かすと、ヒカリカメラと書かれた袋が目に入った。
「見ちゃおうかな……」
ずっと我慢《がまん》してるんだ。ほんとは見たくて見たくてたまらない。手を伸《の》ばして、その袋を持ってみる。ああ、見たい、見たいよ。むちゃくちゃ見たいよ。だってさ、里香《りか》が笑ってるんだぜ。拗《す》ねてたりするんだぜ。その姿が袋の中に入ってるんだ。
ものすごい葛藤《かっとう》だった……。
今見てしまったら、里香といっしょに見るっていう野望《やぼう》が消えてしまう。おい、裕一《ゆういち》、戎崎《えざき》裕一、よく考えろ。確かに今見るのも楽しいさ。最高かもしれない。だって里香が写ってるんだもんな。だけど、里香といっしょに見るのはもっと楽しいだろ? 隣《となり》に座《すわ》ってさ、顔を寄せあって、いろいろ感想を言いながら見るんだぜ? きっと里香は照れるだろ? それを間近《まぢか》で観察できるんだぞ? どっちが楽しい? 今見るのと、里香といっしょに見るのと、どっちが楽しい?
「そんなの決まってるだろーがっ!」
つい叫《さけ》んでいた。ひとりきりの病室に、僕の声がうわんうわんと響《ひび》く。
ああ、ヤバい。
ひとりでブツブツ言って、急に叫びだすなんて、他の人が見たらただのヤバいヤツだ。まあ、見てる人間はいないけどさ。それにしても危《あぶ》なかった。ついひとりで見ちゃうところだった。偉《えら》いぞ、裕一《ゆういち》。よく堪《こら》えたぞ。
またブツブツ呟《つぶや》きながら、僕はヒカリカメラの袋《ふくろ》をサイドテーブルの上に置いた。
その瞬間《しゅんかん》だった。
「気持ち悪い……」
いきなり声がした。
え――?
慌《あわ》てて顔を上げると、里香《りか》が病室の中に立っていた。
何度か見たことがある、青いパジャマ。サイズがちょっと大きいらしく、親指のつけ根くらいまで袖《そで》に隠《かく》れてしまっている。長い髪《かみ》が、腰《こし》の辺《あた》りで揺《ゆ》れている。きれいな弧《こ》を描《えが》く眉《まゆ》。やたらと大きくて黒い瞳《ひとみ》。
それは何度も何度も思い描いてきた姿《すがた》。
時には絶望《ぜつぼう》し、時には狂喜《きょうき》し、なんでこんな女に振《ふ》りまわされてるんだろうと自問《じもん》しながら、それでも絶対《ぜったい》に忘れられなかった存在《そんざい》。
「なんかブツブツ言ってるし……ひとりで叫《さけ》んでるし……」
ものすごく細い目で見てくる。それもまた、何度も見てきた表情。容赦《ようしゃ》ないんだ、里香は。
平気で人を罵倒《ばとう》する。バカだの気持ち悪いだの、あっち行けだの、さっさと帰れだの。傷《きず》ついたさ、もちろん。マジでヘコんだこともあった。だけど里香《りか》っておもしろいんだ。なかなかいないからさ、そういう子って。それに、慣《な》れさえすれば、まあ罵倒されるのも悪くないし。いや、マゾってわけじゃなくてさ。
「里香?」
ポカンとしながら、僕は尋《たず》ねていた。
「は? なに言ってるの、裕一《ゆういち》?」
里香はまったく容赦《ようしゃ》のない、鋭《するど》い視線《しせん》を向けてくる。
「あたしじゃなきゃ、誰《だれ》なの?」
ああ、里香だ。
間違《まちが》いない。
この口の悪さは里香だ。
ものすごく嬉《うれ》しくなってきた。バカにされればされるほど、心が弾《はず》む。いやいや、ほんとマゾってわけじゃなくてさ。里香なんだよな、うん。これが里香なんだ。間違いない。目の前に立っている少女は、確かに里香だ。
僕は思わず笑っていたらしい。
「帰る」
いきなり背《せ》を向け、里香がドアノブに手をやった。
「ええっ、なんで!?」
「裕一、ニヤニヤ笑ってて気持ち悪いんだもん」
「いや、それは! だって!」
慌《あわ》てて追《お》いすがったら、急に里香が振《ふ》り向《む》いた。
「あたしに会えて嬉しかった?」
ニヤリ、と笑う。
「うっ――」
僕はなにを期待《きたい》してたんだ。里香がにっこり笑ってすがりついてくるとでも? 手術前からやけに素直《すなお》だったから、どこかで忘《わす》れてしまっていた。里香はもう、マジで性格悪いんだよな。ああ、もう洒落《しゃれ》にならないくらいさ。最初は諦《あきら》めのような感覚《かんかく》に包《つつ》まれたが、しばらくしたら腹が立ってきた。
「里香、おまえな――」
「なに?」
「おまえというヤツは――」
「だから、なに?」
いくら考えても、いい言葉《ことば》がまったく出てこない。なんで僕はこんなに口がまわらないんだろう。なんでもいいんだ、とにかくわけのわからない屁理屈《へりくつ》でも叫《さけ》んでおけば、少しは気がおさまるのにさ。いっそ本気で怒《おこ》ってみるかな。怒鳴《どな》り散《ち》らすとか。マジ切れすれば、さすがに里香《りか》もビビるよな。僕だって男だしさ。本気で怒れば、けっこう迫力《はくりょく》がある……はずだ……いや、あるといいなあ……。
さんざん悩《なや》んだ末、僕の口から出てきたのは、
「座《すわ》れよ。ずっと立ってるの、身体に悪いだろ」
なんて言葉《ことば》だった。
ベッドの脇《わき》に置いてある丸椅子《まるいす》を指さす。里香は僕の顔をちょっと窺《うかが》うように見たあと、意外と素直に椅子に座った。その横を通りすぎ、僕はベッドに腰《こし》かける。里香との距離《きょり》は、だいたい五十センチくらい。手を伸ばせば触《ふ》れられる。ほんとのことを言うと、僕は里香をぎゅっと抱《だ》きしめたかった。コッ恥《ぱ》ずかしい台詞《せりふ》でも言って――ずっと待ってた、とかさ――お互いの気持ちを確かめたりしたかった。
でも、まあ、なんか恥《は》ずかしいしさ。やっていいのかどうかわかんないし。里香は怒るかもしれないし。いや、怒るかな。喜んでくれたりしないかな。どうなんだろ。ああ、やっぱよくわかんないや。
ふと気づいた。
「おまえ、病室出てきて大丈夫《だいじょうぶ》なのか?」
「ほんとは駄目《だめ》だよ」
里香は僕の病室を見まわしていた。
「だから、すぐに戻《もど》らなきゃ。ママが電話かけに行ってるあいだに抜《ぬ》けだしてきたから」
「へえ」
平静《へいせい》を装《よそお》って、僕は言った。
ほんとはさ、感動してたけど。病室を抜けだしてきたんだ、里香は。ここに来るために。つまりは、僕に会うために。
やっぱ抱《だ》きしめようかな。まずいかな。
「あんまり変わってないね」
「え? なにが?」
「裕一《ゆういち》の病室。あたし、久しぶりだから」
「ああ、まあな」
「その花瓶《かびん》くらいだね、増えたのって」
「花瓶?」
里香の視線《しせん》を追《お》うと、そこには確かに小さな花瓶があった。なんて名前か知らないけど、黄色い花が生けてある。母親が三日くらい前に持ってきたものだった。
「他は全然変わってないね」
「よくわかるな、そんなこと」
「もう見られないかもしれないから、ちゃんと覚《おぼ》えておこうと思って。最後にね、手術の前だけど、ここに来たとき、全部覚えたんだよ。どんな本が置いてあるかも知ってるよ」
目を閉じると、里香《りか》はいくつかのタイトルを口にした。七割がマンガで、二割が雑誌、小説は残り一割くらいだ。その一割は、里香が貸《か》してくれたものだった。僕はベッド脇《わき》に積《つ》んである本と雑誌の山に目をやった。里香の言ったとおりに、本と雑誌と小説が並んでいた。ってことは、ここ数週間、僕はこの本と雑誌の山にまったく触《さわ》ってなかったらしい。
里香は、覚えていたんだ。
なにもかも。
僕以上に、僕のことを。
「あってる?」
目を開けた里香が尋《たず》ねてきた。
僕は肯《うなず》いた。
「あってる」
「えへへ」
得意《とくい》げな笑顔《えがお》。
ああ、今だ。今だよ、裕一《ゆういち》、迷《まよ》うことなんかないだろ。里香はさ、覚えていてくれたんだぜ。なにもかもをさ。見ろよ、この得意げな笑顔を。むちゃくちゃ可愛《かわい》いじゃねえか。今だよ、立ちあがってさ、たいした距離《きょり》じゃないんだ、手を伸ばせば届《とど》くんだ。ぎゅっと抱《だ》きしめて、言えばいいんだ。
そうさ、たった一言、口にすればいいんだ。
よし――。
覚悟《かくご》を決め、僕は立ちあがろうとした。たとえ里香を怒《おこ》らせたってかまうもんか。気持ちをちゃんと伝《つた》えるんだ。ここにおまえがいるのがどんなに嬉《うれ》しいか。どれほど待っていたか。それを伝えよう。
けれど、先に立ちあがったのは里香のほうだった。
「そろそろ戻《もど》らなきゃ」
「そ、そっか」
なに肯いてんだよ、バカ裕一。まだ遅《おそ》くないぞ。ほら、早く動けよ。動けって。
「じゃあね、裕一」
「おう、足下に気をつけろよ」
ああ、こんなこと話してる場合じゃないだろ!
里香《りか》はゆっくりとドアに向かう。背中《せなか》が遠ざかっていく。動くべきだと思ってるのに、僕の足は動かない。ただへらへら笑ったまま、立ちつくしているだけ。僕はまた、大切な瞬間《しゅんかん》を逃《のが》そうとしている。臆病者《おくびょうもの》め。わかっているのに動けない。臆病者め。今までもそうだったし、今もそうだし、きっとこれからもそうなんだ。臆病者め。
「裕一《ゆういち》」
里香が立ち止まった。
「ずっといっしょにいようね」
あの日、交《か》わした約束《やくそく》。
確かな言葉《ことば》。
かけがえのない気持ち。
里香の顔には、当たり前のように笑《え》みがあった。
「おう」
自然と声が出ていた。
「当たり前だろ。ずっといっしょだって」
そして里香は病室を出ていった。彼女の身体に触《ふ》れることはできなかった。指一本たりとも届《とど》かなかった。だけど心には触れられた。
ああ、そうさ。
確かに触れられたんだ。
にしても、だ。
世の中ってヤツは、なんでこう、うまくいかないんだろ。いいことが続いてさ、これからも続くって、どんどん前に進んでいけるって、そんな気になったりするのにさ。空にだって手が届きそうな気がしてさ。百メートル五秒くらいで走れそうに思えたりさ。そういうときがあるもんだろ。いや、さすがに百メートル五秒は無理《むり》だよ。空どころか、天井《てんじょう》にだって届かねえよ。わかってるけど、それくらいのさ、気持ちをさ、持てるときがあるんだ。
そうだろ?
誰《だれ》だって、そういうときがあるもんだろ?
なあ?
ちょっと前までの僕が、まさしくそうだった。里香が笑ってくれて。照れたりなんかして。手の届くところにいて。ほんと最高だったんだ。マジで、どこまでだって行けそうだった。百メートルなんて五秒だぜ。天にだって手が届くぜ。軽いね。楽勝だ。なんて感じた。
なのに、今の僕ときたら――。
気がついたら思いっきりため息《いき》をついていたらしく、ベッドの向こうからみゆきが恐《おそ》ろしい目で睨《にら》んできた。
「休まないの、裕《ゆう》ちゃん」
「わかってるって」
「じゃあ、なんでため息なんかついてるのよ」
「そりゃ……おまえ……」
僕は目の前に積みあがった教科書をまじまじと見つめた。恐ろしい量だ。まさしく全科目が、なんと保健体育まで揃《そろ》ってやがる。ちくしょう、みゆきのヤツ、わざわざこんなに持ってこなくてもいいじゃねえか。
「こんなに……なんでいっぺんに持ってくるんだよ……」
「どうせ持って来なきゃいけないんだから、いっぺんに持ってきたほうが楽だもん。だいたい、どうしてそんなことで文句《もんく》言ってるのよ。大変《たいへん》だったんだよ。ほんと、すっごく重かったんだからね」
みゆきがぶりぶり怒《おこ》っているので、僕はそれ以上口答えするのをやめた。里香《りか》に出会ってからというもの、僕はどんどん軟弱《なんじゃく》になってる気がする。他人が怒ると、つい黙《だま》りこんでしまう癖《くせ》がついてしまった。目の前にいるのは、たかがみゆきなのにさ。にしても、不思議《ふしぎ》だな。うざったいけど、全然|怖《こわ》くないや。里香が相手だと、すんげえ怖いのにさ。なんだろな、この違《ちが》いは。みゆきだってけっこうな迫力《はくりょく》で怒ってるんだけど。ああ、そっか。怒ってる里香が怖いんじゃなくて、嫌《きら》われるのが怖いんだな、僕は。みゆきだったらまあ、長いつきあいだしさ、妹っていうか姉貴っていうか、とにかく身内みたいなもんだし。嫌われるとか絶交《ぜっこう》とか、そんなのないもんな。
「裕ちゃん、聞いてる?」
「ああ、聞いてるって」
みゆきが恐ろしい目をしているので、僕は適当に肯《うなず》いておいた。その適当さに気づいたらしく、みゆきがさらになにか言いたそうな目で見てきたが、もちろんあっさり無視《むし》して、僕はノートに視線《しせん》を落とした。
「あのさ、まだ五行なんだけど」
「それがどうしたのよ」
「マジで十ページも書かなきゃいけないのか?」
「そう。一科目十ページ。八科目分」
つまり全部で八十ページってことだ。僕に課《か》されていたレポートの提出期限は、あと二週間に迫《せま》っていた。その日までにレポートを出さないと、僕は留年ってことになってしまう。留年か。なんて恐ろしい響《ひび》きだろう。もう一度、二年をやり直すってことだ。今までさんざんバカにしてきた今の一年坊主と同級生になってしまう。周《まわ》りからはダブり野郎と蔑《さげす》まれ、体育はひとりだけ色の違《ちが》うジャージで授業を受けなければならない。机を並べる同級生からは間違《まちが》いなく浮《う》くだろうし、向こうは敬語《けいご》で話しかけてくるに違いない……いやいや敬語じゃなくてタメ口なんかきかれた日には……どうなってしまうんだろう……考えたくもない……。
しかし、それだけの恐怖《きょうふ》を前にしても、レポートは全然進んでなかった。
里香《りか》の手術やら、そのあとのドタバタ騒《さわ》ぎやらで、レポートに取りかかる余裕《よゆう》なんてこれっぽちもなかったのだ。
しかし現実は迫《せま》ってくる。
少しずつ、じりじりと、しかし確実にやってくる。
その迫ってきた現実の象徴《しょうちょう》こそ、僕の目の前に座《すわ》っている水谷《みずたに》みゆきだった。担任の川村《かわむら》に、僕の監視役《かんしやく》を頼《たの》まれたのだそうだ。僕がレポートを仕上げるまで、みゆきはだいたい一日おきに通ってくることになっている。
ちなみに、今日は初日である。
まあ、なんだってそうなんだけどさ、最初ってのは難《むずか》しいもんだ。慌《あわ》てるし、うろたえる。慣《な》れてみればたいしたことないことだって、最初だけはうまくいかなかったりするもんだ。いくら一万回くらい顔を見てきて、小さいころはお医者さんごっこなんかもしたりして、母親と同じくらい見飽《みあ》きたみゆきが相手だって、さすがに初日はどうしていいかわからない。ギャグでも言ってみようかと思ったが、どう考えても滑《すべ》りそうなのでやめた。それでしかたなくまじめにレポートを書いてみようと試《こころ》みたところ、再開《さいかい》してわずか三行目、すなわち通算八行目にして、ぴたりと筆がとまってしまった。
ああ、叫《さけ》びたい。
喚《わめ》きたい。
十ページも書けるかあああああ――っ!
とりあえず日本史の教科書をぱらぱらめくってみる。
こうなったら必殺《ひっさつ》丸写し作戦だ。
「ただの丸写しは駄目《だめ》だよ、裕《ゆう》ちゃん」
「う……」
なんでバレたんだろ。
「ほとんど丸写しでもいいけど、ちょっとずつ表現を変えて、それから三行に一回は自分の意見を入れるの。あと、最初になにか仮定《かてい》を作っておくのもありかな。三ページかけて状況《じょうきょう》を説明《せつめい》して、四ページ目になんらかの仮定を打ちだすといいよ。そこから三ページは仮定の補強《ほきょう》ね。で、七ページ目の最初に『しかし、はたしてそうであろうか』って書くの。ここから反証《はんしょう》が三ページ。今まで書いたことをとにかく否定《ひてい》するわけ。ただし、否定しきれないって感じで。最後の一ページがまとめ。やっぱり最初の仮定《かてい》が正しかったってところに落ち着かせる。主論、反論、結論ね」
雑誌《ざっし》を退屈《たいくつ》そうにめくりながら、みゆきはそんなことをすらすら語った。あまりにも簡単《かんたん》に言うので、本当に簡単なことのように思えたりするのだが、しかしいざやってみると主論を作ることすら難《むずか》しい。ましてや補強《ほきょう》なんてどうすればいいのかさっぱりわからない。
恨《うら》めしげに、僕はみゆきを睨《にら》んだ。
「そういや、おまえ、国語の成績よかったよな」
「裕ちゃんは悪かったね」
なんだ、この冷たい声は。
「体育はわりと得意《とくい》だったぞ」
「小学校のときまでね」
くっ、やっぱ冷たい声だ。
いろいろ考えた末、僕は思いきって尋《たず》ねてみた。
「おまえ、なんで怒《おこ》ってるの?」
「怒ってない」
断言《だんげん》。あっさり。顔を上げもせず。
「ほら手を動かす」
せっかくの春休みなのに、病院にしょっちゅう来なきゃいけないんだから、まあ機嫌《きげん》だって悪くなるだろう。なんとなくそれだけじゃないって気もしたけど、そう思っておくことにした。
小さくため息《いき》をついて、僕は窓の外に目をやった。日差しはもう春のそれで、ちょっと前まで寒そうな北風に揺《ゆ》れていた裸木《らぼく》が大きな芽《め》をつけていた。あと少ししたら、ぽつりぽつりと葉っぱが生えてくるんだろう。ふたたび室内に目を戻《もど》すと、そんな春の光が満ちた病室に、みゆきの姿《すがた》があった。丸椅子《まるいす》に腰《こし》かけ、ファッション誌を読んでいる。その背中《せなか》のラインとか、髪《かみ》の揺れ方とか、床《ゆか》に落ちる影《かげ》とかを見ているうちに、昔のことを思いだした。十年……いや、そんな昔じゃないな……せいぜい五、六年前か。
あのころ、みゆきはしょっちゅう僕の部屋《へや》に遊びに来ていた。もういるのが当たり前って感じで、夕食をいっしょに食べたり、お風呂に入っていったりしてた。母親が「うちの子になっちゃえば」なんて言うと、みゆきは「えへへ」って笑ってたっけ。そういうとき、僕はどういう顔してたんだっけな。全然|覚《おぼ》えてないや。でも笑ってたんだろうな。きっとさ。えへへ、ってさ。笑ってたんだろう。
そんな関係が消え失せた今となっては、かつての日々がひどく不思議《ふしぎ》に思えた。そしていつのまにか終わってしまっていたことが、もっともっと不思議に思えた。きっかけがあったわけじゃない。まあ、胸《むね》鷲掴《わしづか》み事件がきっかけといえばきっかけだけど、ほんとはもっと前に終わってたんだ。
いつだろう?
なぜだろう?
僕はちょっとだけ……そうさ、ちょっとだけ寂《さび》しくなった。みゆきのことが好きってわけじゃない。そんなたいした気持ちじゃない。ただ、なにかが終わってしまったということが、その事実が、やけにこたえた。
みゆきが顔を上げた。
視線《しせん》がばっちり重なる。
「早く書かないと終わらないよ」
まだ怒《おこ》ってやがるよ、この女は。
どうしたもんかな。
ああ、まったく面倒臭《めんどくせ》えなあ。
「あのさ、みゆき」
「なによ」
「ジュースでも飲むか? 奢《おご》るけど?」
とりあえず、機嫌《きげん》を取ることにしてみた。
みゆきは少し考えたあと、早口で言った。
「いらない」
ああ、駄目《だめ》だ……どうすりゃいいんだよ……。
救世主《きゅうせいしゅ》がやってきたのは、それから五分後だった。いやまあ、救世主なんて言葉《ことば》を使うのはすごく嫌《いや》だが、今回に限《かぎ》ってはそういうことにしてやろう。
「よう、戎崎《えざき》!」
やけに元気な声を張りあげながら、山西《やまにし》が病室に入ってきたのだった。
「一年坊主と席を並《なら》べる覚悟《かくご》はできたか?」
僕は山西を睨《にら》んだ。
「できてねえよ」
「お、監視《かんし》つきか」
山西はへらへら笑いながらみゆきのほうに目をやったものの睨み返され、○・一秒で視線《しせん》を僕に戻《もど》した。ったく情《なさ》けないヤツだ。たかが女に睨まれたくらいでビビりやがって。自分のことは棚《たな》に上げ[#「上げ」は底本では「置き」]つつそんなことを思っていると、でかい身体が病室に入ってきた。
「あれ、司《つかさ》もいたのか?」
「う、うん」
お互いに軽く手を挙《あ》げ、挨拶《あいさつ》する。
「もしかして、おまえら、ふたりで来たのか?」
「なんだか暇《ひま》だから」
司《つかさ》がそう言って肯《うなず》くと、
「ほんとやることねえしよ。しょうがないんで、見舞《みま》いにきてやったわけだ。友達ってのはありがたいだろ。感謝《かんしゃ》しろよ、戎崎《えざき》」
山西《やまにし》が恩着《おんき》せがましくつけ足した。
病院の個室なんて狭《せま》いもので、こうして四人もいると少しばかり圧迫感《あっぱくかん》がある。だいたい司が大きすぎるんだ。こいつ、また大きくなったんじゃないか。司がいるだけで、部屋《へや》の空気が少なくなるような気がするくらいだった。
「そうだ。これ、お見舞い」
司が差しだしてきたのは、赤福《あかふく》だった[#「た」は底本では「だ」]。餅《もち》をアンコでくるんだ和菓子《わがし》で、いちおう伊勢《いせ》名物ってことになっている。
「うわ……」
僕は顔をしかめた。
「どうしたの?」
呑気《のんき》に司が尋《たず》ねてくる。
僕は無言《むごん》のまま、部屋の隅《すみ》にある冷蔵庫を指さした。
「なんだよ?」
言って、冷蔵庫のそばにいた山西がドアを開ける。冷蔵庫の中には、すでに赤福が三箱入っていた。隣《となり》の病室の大学生からのお裾分《すそわ》けが一箱。看護婦《かんごふ》さんに貰《もら》ったのが一箱。母親の友達が持ってきたのが一箱。ったく、なんで赤福ばっか集まってくるんだよ。
「ごめん……気が利《き》かなくて……」
素直な司が、ヘコんだ顔になる。
その司の手から、山西が赤福を取りあげた。
「あ、オレ、腹|減《へ》ってんだけど。食っていいか」
「裕一《ゆういち》がいいんなら、いいけど」
「食え食え」
僕は言った。
「好きなだけ食ってくれ」
「おお。じゃあ、貰うぜ」
「ストップ! ちょっと待って!」
そのとき、ずっと黙《だま》っていたみゆきが声を発した。すっくと立ちあがり、山西に歩み寄ると、赤福を取りあげる。その箱の側面《そくめん》を、じっと見つめた。
「な、なんだよ……水谷《みずたに》……」
山西《やまにし》は戸惑《とまど》った様子《ようす》で尋《たず》ねたが、みゆきは答えず、今度はしゃがみこんで冷蔵庫の中の赤福《あかふく》をひとつひとつ調べはじめた。そして司《つかさ》が持ってきた赤福を冷蔵庫に入れると、冷蔵庫の中に積んであったヤツをひとつ取りだし、それを山西に押《お》しつけた。
「これから食べて」
「なんでだよ?」
「賞味期限《しょうみきげん》が近いから」
当たり前でしょ、ってな感じの声。そしてみゆきはそれ以上なにも言うことなく、丸椅子《まるいす》に戻《もど》ってふたたび雑誌を読みはじめた。みゆきの視線《しせん》は雑誌にだけ向けられ、まるで僕たちがいないかのような態度《たいど》だ。話の輪《わ》に加わるとか、ナイスな話題を提供《ていきょう》するとか、女の子らしく可愛《かわい》さを振《ふ》りまくとか、そういう気はまるでないらしい。
すっかり冷え切っているであろう赤福の箱を持ったまま、山西が救《すく》いを求めるような視線を送ってきた。僕は首を小さく横に振っておいた。どうしろっていうんだ。司はとりあえず、へらへら笑っている。
「あのさ、みゆき」
「なに」
やはり雑誌から顔を上げない。
「ちょっと休憩《きゅうけい》していいか。司たちも来たしさ。屋上《おくじょう》で外の空気吸ってきたいんだけど」
「屋上?」
ようやく顔を上げたと思ったら、疑《うたが》わしそうな目で見られた。
「逃《に》げない?」
「逃げねえよ。つか、どこ逃げるんだよ」
「じゃあ、十分だけね」
腕時計を見て、冷たい声でみゆきはそう言った。
「固《かた》い、固いぞ。戎崎《えざき》。この赤福の餅《もち》は固い。それに冷たい。ったく水谷のヤツ、四箱もあったらどうせ食いきれないんだから、一番新しいのを食わせてくれてもいいよな。まったく女ってのは、なんでああいうことに細かいんだろうな。まるで母ちゃんみたいじゃねーかよ」
屋上の真ん中にべったり座《すわ》りこんだ山西は、そう愚痴《ぐち》りながら赤福を食べていた。
「それに戎崎も戎崎だ。赤福は冷蔵庫に入れちゃいけないんだぞ。餅が固くなっちまうからさ。そんなの伊勢人《いせじん》の常識《じょうしき》だろうが。ああ、固い。この餅は固い。うわっ、よく見たら賞味期限五日もすぎてるぞ、これ。マジかよ」
盛大《せいだい》に愚痴ってるわりには、ひたすら食いつづけている。
僕はそんな山西《やまにし》などもちろん無視《むし》して、屋上《おくじょう》をぶらぶら歩いていた。ずっとレポートを書いていたので……とはいっても、まだ八行だけど……こうして外の空気を吸うのは気持ちよかった。それにしても暖《あたた》かいな。すっかり春だよ。
隣《となり》を歩いている司《つかさ》も同じことを思っていたらしい。
「もう春だね、裕一《ゆういち》」
のんびりしたいつもの口調《くちょう》でそう言ってきた。
僕は肯《うなず》いた。
「ああ、春だな」
「ずいぶん長く入院してるよね」
「まったくだ。じっとしてれば二カ月くらいで退院《たいいん》できるって言われたのにさ、もうその倍くらい入院してるんだぜ。参《まい》ったよ」
「参った? ほんとに?」
司が尋《たず》ねてくる。
まあ、なにを言いたいのか、だいたいわかった。司にしては珍《めずら》しく、僕をからかうような目をしていたからだ。確かにさ、ずっと入院してるおかげで、里香《りか》といっしょにいられるわけでさ。退院しちまったら、毎朝毎晩会うなんてこともできないし。
少し迷《まよ》った末、僕は強がることにした。
「参ってるさ、マジで」
僕たちはへらへら笑いあった。
やがて屋上の端《はし》っこにたどりついた。錆《さび》が浮《う》かんでいる手すりにもたれかかる。手のひらに、剥《は》げかかったペンキのじゃりじゃりした感じ。目の前に広がる伊勢《いせ》の町はやっぱりしょぼかった。まったく、しょぼさ全開だ。ただの寂《さび》れた田舎町《いなかまち》だ。
司も僕と同じように手すりにもたれかかった。
「僕さ、裕一は退院するつもりないんじゃないかって思ってたよ」
「どういうことだよ」
意味を理解《りかい》しつつも、僕は尋ねた。
というか、とぼけた。
山西と違《ちが》って素直な司は、素直に言葉《ことば》を重ねる。
「里香ちゃんのそばにいてあげるつもりなのかなって」
「そういうわけじゃねえよ」
「あのさ――」
喋《しゃべ》りかけた司が、いきなり言葉に詰《つ》まった。司は思いっきり緊張《きんちょう》していた。手に取るようにわかる。なにしろ顔にも態度《たいど》にも出まくっているのだ。そのせいで、こっちも緊張しそうになった。いいから、早く聞けよ、司。わかってるからさ。ほら、早くしろって。
「な、なんだよ」
思わず急《せ》かしてしまう。
ようやく、司《つかさ》はその質問を口にした。
「里香《りか》ちゃん、まだ身体悪いの? 手術したんだよね?」
「まあ、あんまりよくねえよ。手術自体は成功だったんだけどな」
流れていく雲を目で追《お》いかける。よく見ると、雲は少しずつ形を変えていた。端《はし》っこのほうが空の青を巻《ま》きこみ、巻きこまれ、だんだん細ってゆく。緩《ゆる》い風が吹き、僕の前髪《まえがみ》を揺《ゆ》らした。同じように、僕の心も揺らしていった。
「治《なお》るとか治らないとか、そういう病気じゃないからさ」
「え、どういうこと?」
「心臓のさ、なんとか膜《まく》ってのがぶっ壊《こわ》れてんだって。オレもよくわかんないけど。この前の手術でどうにか持ち直したけど、移植《いしょく》した膜がいつまで保《も》つかわかんないらしい。何年かは大丈夫《だいじょうぶ》っぽいけど、それでも明日|駄目《だめ》になるかもしれないし、明後日《あさって》かもしれないし……とにかく、そんな感じなんだよ。だから、もう治るとか治らないとかないんだよ。いつかさ、よくわかんねえけど、いつかそのときがくるまで、それがいつかわかんねえんだよ」
変な日本語|喋《しゃべ》ってるなと思ったけど、いちいち言い直すのはやめた。そんなことをしなくても、きっと司はわかってくれてるだろうから。
「明日なのか、明後日なのか、五年後なのか、十年後なのか、医者にもわかんないんだ。とにかく、そのときが来るまで里香は生きつづけるし、それまではずっといっしょにいようと思ってるよ。しばらくしたらオレは退院《たいいん》しちまうけどさ。そうなったらそうなったで、毎日来ればいいし。……ほんとのこと言うと、ずっと入院してたいんだけどな」
僕はえへへと笑った。精一杯《せいいっぱい》、笑ってみせた。ああ、結局《けっきょく》本音《ほんね》を喋っちまったな。司のせいだぞ。バカみたいに素直な顔しやがるからさ。下手《へた》な嘘《うそ》ついたら、そのまま信じちまうし。まあいいか、司なら。こういうことを話せる人間は、司しかいないもんな。それに……僕は里香のことを誰《だれ》かに聞いて欲しかったのかもしれない。ひとりで抱《かか》えこんでいけるほど、僕は強い人間じゃないんだ。でも僕は強くなろう。どんどん形を変えていく雲の塊《かたまり》を見ながら、そう思った。少しでも強くなろう。里香のために、僕のために、僕は強くならなきゃいけないんだ。
「そうだったんだ……」
司はすっかりしょぼくれていた。でかい背中《せなか》が、小さく丸まっている。
「もう治らないんだね……」
「ああ、覚悟《かくご》はしてる。オレも、里香も、覚悟はできてる」
「すごいね、裕一《ゆういち》」
「しょうがねえよ。そういうもんだからさ」
手のひらに、剥《は》げかかったペンキの感触《かんしょく》。手を少し動かすと、そのペンキがぺりぺりと足元に落ちてきた。
「しょうがねえよ」
僕はひたすら同じ言葉《ことば》を繰《く》り返《かえ》した。
それからは僕も司《つかさ》もあまり言葉を交《か》わさず、ただ眼前《がんぜん》に広がる町の風景《ふうけい》を眺《なが》めていた。司は何度か口を開こうとしたけれど、そのたびに思い直したように口を閉じた。僕が……いや僕と里香《りか》が向きあっている現実に、司は憤《いきどお》りやら悲しみやらを感じてるんだろう。だからこそ、安易《あんい》な慰《なぐさ》めも、なにもかもをごまかす空騒《からさわ》ぎも、選べないでいる。司はほんと、小さな子供みたいだった。こいつと友達になれたのはラッキーだったかもな。こんなヤツ、なかなかいねえもんな。僕だったら、下らない冗談《じょうだん》を言って、この空気をごまかしちゃうだろう。
僕はすぐ隣《となり》にいる友達がひどく大切に思えた。
ありがとうと言いたかった。
気持ちはわかってるぜ、と。
だけど、そんな言葉をあっさり口にできるほど、僕は素直じゃなかった。そうさ、司のように、素直にはなれない。
人間って変なものだ。
僕は、そういうことが、ちょっと嬉《うれ》しくて、ちょっと悔《くや》しかった。
「おい……戎崎《えざき》……」
しかしなにもかもをぶち壊《こわ》す人間というのが、どこにでもいるものである。そんな声がしたので振《ふ》り向《む》くと、背後《はいご》に山西《やまにし》が立っていた。山西はなぜか身体をくの字に曲げ、腹を押《お》さえていた。心なしか、顔が青い。
「オレ……トイレ行ってくるわ……」
「は? どうした?」
「腹|痛《い》てえ……賞味期限切《しょうみきげんぎ》れの赤福《あかふく》をバカ食いしたのがヤバかったらしい……」
僕は頭を抱《かか》えたくなった。ったく、なんなんだ、この情緒《じょうちょ》のない人間は。おまえは世古口《せこぐち》司の爪《つめ》の垢《あか》を煎《せん》じて飲め! 一リットルくらい飲め!
「一番近いトイレって……うっ……どこだよ……」
「階段を下りたら、右に行け」
「わかった……右だな……や、やべえ……マジでやべえ……」
「ああ、右だ。間違《まちが》えるなよ」
というわけで、嘘《うそ》を教えておいた。
ほんとは左なのだった。
「ふあああ〜〜〜」
看護婦《かんごふ》だってもちろん人間であって、人間であるからには呑気《のんき》な春の空気の影響《えいきょう》を受けてしまう。というわけで谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》は先ほどからあくびを連発しながら歩いていた。ったく、もう。帰って寝《ね》たい。ここのところ、忙《いそが》しい日が続いてたしさ。だいたい、こんな陽気《ようき》のいい日に働くなんて間違《まちが》ってる。パールロードを気持ちよくドライブしてくるべきだ。ああ、でも、シルビア直さなきゃ。エンジンがなんか調子《ちょうし》悪いんだよね。キャブっぽいけど。また金かかるよ、あの車。ほんと金食い虫なんだから。
「ふあああ〜〜〜」
三十回目くらいのあくびをしていると、向かいから顔を引きつらせた少年が走ってきた。いや、走るってのはちょっと違うか。急いでるのはよくわかるんだけど、ヨタヨタしてる。両手で腹を押《お》さえているせいで、うまく走れないのかな。近づいてくると、その少年が戎崎《えざき》裕一《ゆういち》の友人であることに気づいた。名前は知らないけど。
「あ、あの――」
向こうから話しかけてきた。
声が裏返《うらがえ》っている。
あくびを噛《か》み殺《ころ》しながら、亜希子は尋《たず》ねた。
「なに」
「ト、トイレはどこですか!?」
やはり声は裏返っている。
ついでに泣きそうである。
そして腰《こし》が引けている。
「トイレ?」
「は、はい!」
彼が歩いてきたほうを、亜希子は指さした。
「あっちだよ」
「え! あっち!?」
「そうだけど」
「うっ――」
少年が悔《くや》しそうな顔をした。あるいは泣きそうな顔を。そのあと、恐《おそ》ろしい形相《ぎょうそう》になって、なにか呟《つぶや》いたあと、ふたたびヨタヨタした調子で歩きだした。まだなにか呟いてる。戎崎、と聞こえた気がした。覚《おぼ》えてろ、とか。
はて?
どこか具合《ぐあい》が悪いのだろうか。だとしたら、手助けするべきかもしれない。しかし少年の背中《せなか》から漂《ただよ》ってくるどろどろした空気からすると、どうもそういう状況《じょうきょう》でもないらしい。まあ、放《ほう》っておいても大丈夫《だいじょうぶ》だろう。たぶん。
たらたらと歩き、長期入院してるお婆《ばあ》ちゃんの長話につきあったり、同じように長期入院しているお爺《じい》ちゃんにお尻《しり》を触《さわ》られそうになりながら、休憩室《きゅうけいしつ》にようやくたどりついた。広さはだいたい八畳くらい。
穴の開いたボロソファに夏目《なつめ》が寝転《ねころ》がっていた。
「よう――」
チラリとこちらを見たあと、そう声をかけてくる。
コーヒーメーカーからサーバーを取りだし、紙コップに黒い液体を注ぎつつ、
「寝《ね》てていいよ。昨日、徹夜《てつや》だったんだろ」
なけなしの優《やさ》しさを全力|発揮《はっき》して、そう言っておいた。
旧国道二十三号で交通事故が起きて、急患《きゅうかん》が三人まとめて運ばれてきたらしい。命に関《かか》わるような怪我《けが》じゃなかったものの、夜勤《やきん》の夏目はかなり大変《たいへん》だったろう。
にしても、タフな男だ。
そのままこうして日勤《にっきん》を勤《つと》めているのだから。
「いや、目を閉《と》じてただけだ。眠《ねむ》れなくてな」
ゆっくりと起きあがったあと、その手を伸ばしてくる。
「コーヒー、オレにもくれよ」
少しだけ口をつけた紙コップを、亜希子《あきこ》は差しだした。
「ほら、これ」
「悪いな」
夏目がコーヒーをすすっているあいだに、あらためて自分の分を入れる。コーヒーの湯気《ゆげ》が顔にかかる。ああ、すっかり煮詰《につ》まってるよ、このコーヒー。案《あん》の定《じょう》、飲んでみると、とてもコーヒーとは思えない味がした。まるで泥水《どろみず》だ。飲む気が失《う》せ、けれど捨てる気にもなれず、ただ紙コップを持ったまま、流し台にもたれかかる。そのまずいコーヒーを、夏目は音を立ててすすっていた。
「ところであんた、ずいぶん邪魔《じゃま》してるみたいじゃない」
「邪魔? なにがだよ?」
「裕一《ゆういち》の。なんで里香《りか》に会わせてあげないの」
「担当医《たんとうい》の判断《はんだん》だよ」
顔を上げず、夏目《なつめ》は答えた。
「へえ、担当医《たんとうい》の判断《はんだん》ねえ」
「そうだ」
「どういう状態《じょうたい》を元にしての判断なのか、お聞かせ願えませんかね。夏目先生」
夏目は答えない。ズルズルと、コーヒーをすすっている。困《こま》ったら黙《だま》りこむのは、男の常套手段《じょうとうしゅだん》だ。亜希子《あきこ》もコーヒーに口をつけてみた。まずい。死ぬほどまずい。よくこんなものを飲めるものだと、むしろ感心する。その泥水《どろみず》モドキから上がってくる湯気《ゆげ》を眺《なが》めつつ、亜希子は率直《そっちょく》に尋《たず》ねてみることにした。下手《へた》な小細工《こざいく》だの嫌《いや》みだの、そういうのは苦手《にがて》なのだ。
「あんたと里香《りか》って、けっこう長いつきあいなんだよね。もう十年くらいだっけ? そんだけ長いと父親みたいな気分になっちゃうもの? 他の男に取られるのは気に入らない?」
夏目は露骨《ろこつ》に嫌な顔をした。
「はあ? なに言ってんだ、おまえ?」
「そうじゃないの?」
あ、黙った。図星《ずぼし》っぽい。さて、どうしたものか。追《お》い打《う》ちをかけてやろうかと思ったけど、ここはもっと意地悪《いじわる》にいくことにした。ひたすらニヤニヤ笑っておく。夏目はチラリとこちらを見たあと視線《しせん》を逸《そ》らし、三秒ほどたってから、またもやチラリと見てきた。
「谷崎《たにざき》、おまえな」
「なにさ」
「デリカシーがないとか言われたことないか?」
「あるよ」
「くそ、開き直りやがって」
「で、やっぱ裕一《ゆういち》の邪魔《じゃま》してるのは嫉妬《しっと》なわけ?」
「違《ちが》うに決まってるだろうが。ただ心配なだけだ。いや、戎崎《えざき》がな、もうちょいまともな野郎《やろう》だったらいいんだ。しっかりしてりゃあな。あいつ、ふらふらしてばっかだろ。だから、納得《なっとく》できないっていうか。いや、心配なだけなんだよ、オレは」
「だって、裕一は十七だよ。あんなもんだろ」
「もうちょいしっかりした十七だって――」
「あんたはどうだったのさ」
速攻《そっこう》で尋《たず》ねてやったら、夏目は言葉《ことば》に詰《つ》まった。まあ、誰《だれ》だって、そうなのだ。しっかりしていて、立派《りっぱ》で、責任感に溢《あふ》れていて、有能《ゆうのう》で、実行力があって、みんなに等しく慕《した》われる十七歳なんているわけがない。人間というのは出来損《できそこ》ないもいいところで。何年も、あるいは何十年もかけて、少しずつ学んでいくしかない。そして恐《おそ》ろしく理不尽《りふじん》なことに、そうしていくつものことを学んだころには、最初に学んだことの大半を忘《わす》れていたりする。結局《けっきょく》、どこまで行っても、いつまで生きても、不完全なまま。不完全に生まれ、不完全なまま死ぬ。ああ、誰だっけな。似《に》たようなことを言ってた作家がいたっけ。僕は不完全な死体として生まれ、何十年かかって完全な死体となる――だっけ。
「気持ちはわかるけどさ。認《みと》めてやんなよ」
「…………」
「あのクソガキも、頑張《がんば》って大人になろうとしてるみたいだしさ」
夏目《なつめ》が意外《いがい》そうな顔をした。
「戎崎《えざき》がか?」
「そんな変わらないんだけどね。変われるもんでもないし。ただ、顔つきとか、ちょっと違《ちが》ってきてるような気はするよ。あの子はあの子なりに、大人になろうとしてるんじゃないかな。たぶん守りたいものができたんだろ」
「守りたいもの、か」
夏目の呟《つぶや》きが聞こえてきた。紙コップを両手で持ったまま、その背中《せなか》を丸めている。表情は見えなかったけれど、見えないほうがいいのかもしれなかった。なんとなくコーヒーを一口飲んでしまい、亜希子《あきこ》はむせた。マジでまずい。吐《は》きそうな味だ。しかし見れば、夏目はそのコーヒーをまだすすっていた。背中がさっきよりも丸く感じられる。
「守れるかな、あのクソガキが」
「無理《むり》じゃないの」
夏目の問いに、亜希子はあっさり答えた。
「そんな簡単《かんたん》じゃないし」
「じゃあ意味ねえだろうが」
「あるよ」
「おい、どういう――」
「たとえ守りきれなくてもさ、守ろうとするだけで意味はあるよ。で、裕一《ゆういち》はもう覚悟《かくご》を決めてる。大人になろうとしてる。里香《りか》もそれをわかってる。で、里香は無理だと悟《さと》ってもいる。聡《さと》いからね、あの子。だけど、聡いから、他のこともわかってる。ちゃんとね、わかってるんだよ、あのふたりは。もしかしたら、あんた以上にさ」
言葉《ことば》はもう必要《ひつよう》なかった。だから亜希子は黙《だま》った。泥水《どろみず》みたいなコーヒーを流しに捨て、コーヒーメーカーから取りだした豆屑《まめくず》も捨て、新しい豆をセットしたあと、抽出《ちゅうしゅつ》ボタンを押《お》した。熱《あつ》いコーヒーが、ポタポタと音を立てつつ、サーバーの中に落ちはじめた。抽出が終わるまで、ほぼ三分。考えるには十分な時間だ。
「ほら、そんなまずいのやめな」
夏目の手からカップを取りあげ、淹《い》れたばかりの新しいコーヒーを渡《わた》した。
「うまいな、これ」
一口飲むと、夏目は嬉《うれ》しそうに言った。ちょっとガキっぽい顔になっていた。
亜希子《あきこ》は、うははと笑った。
「淹《い》れた人間がいいからね」
夏目《なつめ》も、うははと笑った。
「おまえはボタン押《お》しただけだろうが」
「まあね」
しばらくふたりで笑いつづけた。誰《だれ》かが廊下《ろうか》を駆《か》けていく足音。ガラガラとカートを転《ころ》がしているから、きっと看護婦《かんごふ》だろう。続いて、笑い声が聞こえてくる。それが去ってしまうと、急に静かになった。床《ゆか》で揺《ゆ》れる春の日差しを、亜希子はじっと見つめながら、言葉《ことば》を継《つ》いだ。
「ほんと押しただけなんだよね」
コートを着てきたのは明らかに間違《まちが》いだった。あまりの暑さに、だらだら汗《あせ》が垂《た》れてくる。額《ひたい》も首筋《くびすじ》も脇《わき》も汗だくだ。毎朝楽しみにしている天気予報で(予報官のお姉さんがやたらと可愛《かわい》いのだ)、お姉さんが「今日は久しぶりに冷えこみますよ。服装《ふくそう》に気をつけてくださいね」なんてやっぱり可愛らしく言うものだから、僕はちゃんとコートを着てきた。服装に気をつけた。ところが、だ。天から降《ふ》り注《そそ》ぐ日差しはやけにギラギラしていて、むしろ初夏みたいな感じだった。
「コートなんて着てられるかっ!」
悪態《あくたい》をついて、僕はコートを脱《ぬ》いだ。高校入学のときに買ってもらったダッフルコートは、さすが安物だけあって、ひたすら重かった。こうして脱いでみると、一気に身体が軽くなる。
しかしいざコートを脱いでみると……現れたのはブルーのパジャマだった……。
向かいからやってきたオッサンが、「おや?」って感じで僕を見てきた。そう、駅前通りのど真ん中にパジャマで立ちつくしている僕を。三秒ほど迷《まよ》った末、僕はふたたびコートに袖《そで》を通した。たとえ病院を抜《ぬ》けだす非常識《ひじょうしき》さはあっても、パジャマで町を歩きまわる非常識さは持ちあわせていないのだ。
コートを着ると、ふたたびムッとした暑さに包《つつ》まれた。
「暑い……暑すぎる……お姉さんのバカ……」
犬みたいにハアハア言いながら、僕は商店街のアーケードに入った。
日差しがなくなったせいで、ほんの少し涼《すず》しくなった。そして寂《さび》しくなった。昼間だというのに、商店の半分はシャッターを閉めたままだ。どこの町でもそうらしいけど、伊勢《いせ》でも町の空洞化《くうどうか》ってヤツが急速《きゅうそく》に進んでいて、駅前商店街は寂れきっていた。まともに営業してる店のほうが少ないくらいだ。その、ガランとしたシャッター銀座を眺《なが》めていると、昔のことを思いだした。ああ、ここだよ。この、入ってすぐの、右側の店。昔は靴屋《くつや》だったんだよな。父親が白い革靴《かわぐつ》が欲しいって言ってて、ここでちょうどいいのを見つけたんだ。あったよって教えてやったら、父親はやたらと喜んで、あとで鯛焼《たいや》き買ってくれたっけ。
その靴屋も、今はシャッターを閉じている。
まるでそれは伊勢《いせ》という町を象徴《しょうちょう》してるみたいだった。いちおう県内じゃ中心都市|扱《あつか》いされてるけど、人口は減《へ》るばっかりで、駅前のデパートも閉店が決まったって噂《うわさ》だった。僕たちが使うような店も――安い定食屋とかゲーム屋とか――だんだん減っていってる。ちょっとだけ、ああ、そうさ、ちょっとだけ、僕はそういうのが寂《さび》しかった。
だから、ここを出ようと思っていた。
どこでもいい、どこか遠くへ行きたかった。
伊勢じゃない場所へ。
ぼんやりそんなことを考えていると、背後《はいご》から声をかけられた。
「裕《ゆう》ちゃん?」
振《ふ》り向《む》くと、そこに立っていたのはみゆきだった。
「よう」
適当《てきとう》に挨拶《あいさつ》する。
みゆきは睨《にら》むように、僕を見てきた。
「また病院|抜《ぬ》けだしてるの?」
「ちょっとな」
「なによ、ちょっとなって」
「いや、里――」
里香《りか》がさ、という言葉《ことば》を僕は呑《の》みこんだ。本当のことを言ったら、バカにされそうだったからだ。手術が終わったから里香が素直になったかといえば全然そんなことはなくて、あいつは相変わらずわがまま言い放題《ほうだい》の、意地悪《いじわる》女だった。今朝、看護婦《かんごふ》さんが里香から預《あず》かったと言って、折りたたんだメモを持ってきてくれた。ウキウキしながら、そのメモを開いたところ、
太宰《だざい》治《おさむ》。人間失格。買って。
とだけ書いてあった。さんざんこの手の用事を言いつけられてきた僕にとってみれば、その文面は実にわかりやすい内容だった。つまりまあ、読みたいから買ってこいというわけだ。ろくに会えない状況《じょうきょう》なのに、それでも命令だけは伝えてくるんだから、里香はほんと身勝手な女だ。
「本が読みたくなったんだ」
こき使われている現実を知られたくなくて、僕は嘘《うそ》をついておいた。まあ、小さい嘘だ。読みたくなったのは、僕じゃなくて里香なわけで。
「だから買いに行こうと思ってさ」
「なんて本?」
「太宰《だざい》治《おさむ》の『人間失格』だよ」
へえ、とみゆきは言った。納得《なっとく》したような顔。なんだか勝手に理解《りかい》されてしまった感じだった。だけど当の僕にはさっぱりわからなくて、そのせいか少し妙《みょう》な気分になった。
「古川《ふるかわ》?」
みゆきが言ったのは、本屋の名前だった。
「そうだよ」
「あたしも行く。雑誌、見たいから」
「お、おう」
というわけで、ふたり並《なら》んで歩くことになった。とぼとぼと、シャッター通りを進む。それにしても、みゆきとふたりきりで町を歩くなんて本当に久しぶりだった。半年……いや、一年ぶりかな……とにかく、よくわからないくらい久しぶりだ。チラリと見ると、僕の肩《かた》の辺《あた》りでみゆきの髪《かみ》が揺《ゆ》れていた。どうにも不思議《ふしぎ》な感じだ。みゆきはもっと背《せ》が高かった気がする。横を向いたら、そこにおでこがあるくらいっていうか。ああ、そっか。僕の背が伸《の》びたのかな。よくわかんないけど。
「裕《ゆう》ちゃん、レポートちゃんとやってる?」
「やってるさ」
「今日も午後から見に行くからね」
「……たまには休んでみるってのはどうだ? 一日おきなんて、おまえも大変《たいへん》だろ?」
優《やさ》しさたっぷりに、僕は言ってみた。
しかし、その優しさを少しも理解することなく、みゆきは睨《にら》んできた。
「サボってたら、ほんと留年しちゃうよ」
「いや、だからさ、サボるとかじゃなくて。おまえが大変だろうから言ってんの。おまえが来なくても、ちゃんとやるって」
「嘘《うそ》つき」
ああ、なんだ、この女は?
どうしてこんなにギスギスしてんだよ?
さすがに声が低くなる。
「嘘じゃねえって」
「とにかく、行くから」
「わかったよ」
そのあとは僕もみゆきも不機嫌《ふきげん》に押《お》し黙《だま》り、ただ肩を並べてシャッター通りを歩きつづけた。肩を並べていても、歩調《ほちょう》がいっしょでも、心は全然いっしょじゃなかった。
五分くらいで本屋に着くと、僕は階段を指さし、言った。
「オレ、二階見てくるから」
「ん」
ちぇっ、ろくに返事もしねえし、こっちを見もしねえ。
「じゃあな」
ムカついたものの、いちいち文句《もんく》を言うほどのことでもなかったので、僕はそのまま二階に向かった。この本屋は一階に雑誌を置いていて、二階がマンガとか文庫って感じになっている。太宰《だざい》太宰と呟《つぶや》きながら、僕は文庫の棚《たな》を見ていったけど、何度見ても『人間失格』はなかった他のはけっこう揃《そろ》っているのに、たまたま『人間失格』だけがない。
「うわ、どうしよう」
里香《りか》に怒《おこ》られる。喚《わめ》かれる。あの女のことだから、「本一冊|探《さが》せないの?」なんて詰《なじ》ってくるに違《ちが》いない。焦《あせ》って何度も確認してみたが、ないものはやはりなかった。こうなったらしょうがない。隣《となり》駅の本屋も見てみるか。ちょっと遠まわりになるし面倒臭《めんどくさ》いけど、里香に怒られるよりマシだ。
「ないの?」
気がつくと、すぐ隣にみゆきが立っていた。
「あ、ああ。ちょうど誰《だれ》かが買っていっちまったみたいでさ」
「だったら古本屋へ行こうよ。『人間失格』だったら、あると思うよ。名作だし」
「そっか」
「ほら、行こう」
言うなり、さっさとみゆきは歩きだした。揺《ゆ》れる髪《かみ》を見ながら、僕はそのあとを追《お》った。みゆきは店を出ると右に曲《ま》がり、最初の十字路で商店街のアーケードからはずれた。近くの古本屋のほうへ向かっているようだ。
「おまえ、本屋はもういいの?」
尋《たず》ねると、
「雑誌、もう買ったから」
みゆきは右手を少し上げてみせた。本屋の紙袋《かみぶくろ》を持っていた。
「なに買ったんだよ」
「受験雑誌」
「もうか? 早くないか?」
「なに言ってるの、裕《ゆう》ちゃん。どっちかっていうと遅《おそ》いくらいだよ。早い子は、もうとっくの前に準備《じゅんび》始めてるもん」
「へえ」
なにしろ僕は去年の末から入院しているので、そういう高校生活のタイムスケジュールからはずれてしまっている。そのせいか、実感がまったくなかった。けれど考えてみれば、僕たちはもうすぐ三年になる。確かに受験やら就職《しゅうしょく》やらを考える時期《じき》なんだろう。
「ヤバいな」
急に焦《あせ》って、僕は言った。
「ヤバいよ、ほんと」
それにしても、みゆきはどうして帰らないんだろう。目当ての雑誌はもう買ったのに、古本屋までわざわざつきあってくれるんだろうか。
「おまえも古本屋でなんか買うのか?」
「……そういうわけじゃないけど」
あれ、少し言いよどんだ?
わけがわからなくて、だからそれ以上なにをどう尋《たず》ねていいのか、尋ねるべきなのかもわからず、僕は無言《むごん》のまま歩きつづけた。みゆきのほうもやっぱり無言のままだった。鉄工所の前を通ると、鉄の焼ける匂《にお》いが漂《ただよ》ってきた。バチバチと青白い光が作業場の奥で輝《かがや》いている。目を閉じても、その光はしばらく闇《やみ》の中に残っていた。バチバチと爆《は》ぜていた。
古本屋で『人間失格』はすぐに見つかった。
すっかり色|褪《あ》せたそれは、店の前のワゴンに詰《つ》めこんであって、裏表紙《うらびょうし》をめくるとその右隅《みぎすみ》に鉛筆《えんぴつ》で『50』と書かれていた。五十円ってわけだ。いちおう、中をぱらぱらと確認する。古びた本の匂《にお》いがした。奥付《おくづけ》には昭和三十四年なんて書かれている。
古びた本を持って、店内へ――。
明るい場所からいきなり薄暗《うすぐら》い店内に入ったので、一瞬《いっしゅん》、ものが見えにくくなった。引き戸に手をかけたまま立ち止まり、目を瞬《またた》かせる。目が薄暗さに慣《な》れたそのとき、僕は見つけた。そうさ、見つけたんだ。
「あ――!」
棚《たな》の一番上。右の隅。あの黄色い背表紙が五冊|並《なら》んでいた。『チボー家の人々』だ。僕はびっくりして、口をポカンと開け、その五冊を眺《なが》めた。手術の前、病室で渡《わた》された。毛布で半分|隠《かく》れた顔。ゆっくり読んでね。手術のあいだ、ダッフルコートにくるまって読んだ。そしてあの言葉《ことば》を見つけた。きっと永遠《えいえん》に忘《わす》れない言葉。自分の名を忘れても、年を忘れても、なにもかもを失っても、きっと最後まで残る言葉。そのとき、僕は古本屋の中にはいなかった。僕はあの夜の、あの廊下《ろうか》に……手術室の前の廊下にいた。尻《しり》に冷たい床《ゆか》を感じていた。
やがてみゆきが尋《たず》ねてきた。
「欲しいの、あの本?」
ようやく僕は古本屋に戻《もど》った。手術中の空気を、床の冷たさを、まだ少しだけどこかに感じつつ――。
「そういうわけじゃねえけど」
あるアイディアが浮《う》かんだのは、その瞬間《しゅんかん》だった。
「あ、うん、欲しいんだ。買う」
僕はそう言っていた。
みゆきは驚《おどろ》いたみたいだった。
「え? ほんとに?」
「こんなの滅多《めった》に見つからないしな」
自然と早口になっていた。まったくだ。こんなに古くて、しかもフランス文学なんて、マジで滅多に見つからないぞ。ものすごい幸運だよ。その幸運に興奮《こうふん》しながら、思いっきり背伸《せの》びして、どうにか五冊を手に取った。まとめてシュリンクされている。ずっしりした重さが心地よかった。
「すげえ。むちゃくちゃラッキーだよ」
興奮したまま、僕は『人間失格』と『チボー家の人々』を持って、早足でレジに向かった。雲の上を歩くなんて表現があるけど、まさしくそんな感じだった。なにも考えず、ただとにかく浮かれまくりながら、僕は突き進んでいた。
レジには、棚《たな》に並《なら》ぶ古本と同じくらい古びたオッサンがいて、僕の顔をちょっとだけ確認してから、値段《ねだん》を読みあげた。
「五千円と、五十円。――あわせて五千五十円ね」
「え?」
固《かた》まった。
「五千五十円?」
そんな高い値段は考えてもいなかった。いや、そもそも値段なんて気にしてもいなかった。しかしよく見れば、『チボー家の人々』には確かに五千円と書かれた値札《ねふだ》が貼《は》りつけてあった。一冊千円。五冊だから五千円ってことだろうか。珍《めずら》しい本だし、もう絶版《ぜっぱん》になってるらしいので、そんな値段がついているんだろう。プレミア価格《かかく》ってわけだ。決しておかしな話じゃない。それくらいして当然だ。
五千円――それは僕の一カ月分のお小遣《こづか》い全額《ぜんがく》だった。
そしてもちろん、月半ばの今、そんなお金なんて残っているわけがなかった。僕の財布《さいふ》に入ってるのは千円ちょっとだった。バカみたいだ、値段も見ないでレジに持っていくなんて。まるでモノを知らないガキみたいじゃねえか。なにしてんだよ、いったい。
「五千五十円ね」
無愛想《ぶあいそう》に、オッサンは繰《く》り返《かえ》した。窺《うかが》うように、僕の顔を見てきた。
「は、はい」
肯《うなず》いたものの、どうしていいかわからない。
ただ焦《あせ》るばかり。
五千円……いや、五千五十円かよ……。
諦《あきら》めるしかないのはわかりきっていたが、どうしても諦めきれなかった。それに、お金がありませんなんて恥《は》ずかしくて言えそうになかった。でも諦めるしかない。言うしかない。あはは、と笑ってごまかして、本を棚《たな》に戻して、すごすご引き下がるんだ。ほら、バカ裕一《ゆういち》、さっさとオッサンに謝《あやま》っちまえよ。すんませんって。お金足りないんでって。ああ、でも、欲しいな。『チボー家の人々』。だってさ、最高のアイディアなんだぜ。もし他の誰《だれ》かに買われちまったら、台無しになっちまう。次の小遣《こづか》いは……くそっ、二週間も先だよ。二週間のうちに買われちまったら、どうしよう。せっかくのアイディアが台無しだ。まあ、大丈夫《だいじょうぶ》だろうけどさ。そう簡単《かんたん》に売れるもんじゃないだろうし。でも可能性《かのうせい》はゼロじゃないよな。ほら、謝れよ。諦めろよ。ああ、でも諦めたくねえよ。
なんてウジウジしてたら、五千円が出てきた。右手に財布《さいふ》を持ったみゆき。左手には五千円札。その五千円札を、レジに置いた。
言葉《ことば》はなく、けれど雄弁《ゆうべん》に、オッサンが視線《しせん》で尋《たず》ねてくる。
いいのかい?
オッサンはすべて悟《さと》っていた。値段《ねだん》を確かめずにレジに行き、金が足りないと知って焦《あせ》り、
横にいた女の子が出してくれて、それを受け取っていいかどうか迷《まよ》っているガキに、判断《はんだん》を迫《せま》っていた。僕はみゆきの顔を見た。みゆきはひたすら無表情だった。怒《おこ》ってるわけでも、笑ってるわけでもない。どうしていいかわからず、ふたたびオッサンを見ると、オッサンはまだ雄弁《ゆうべん》に尋《たず》ねていた。
いいのかい?
オッサンの視線《しせん》が、ますます僕を焦《あせ》らせる。あっさり受け取っておくべきなのかもしれなかったけど、そうしたくない僕がいた。なんだか妙《みょう》なものを背負《せお》いこんだ僕だった。下ろせよ、そんなもの――誰《だれ》かが言った――下らないもの背負ってんじゃねえよ。おいおい、下ろしてどうすんだよ――別の誰かが言った――それは最後まで背負ってなきゃいけないもんだろ。
結局《けっきょく》、僕は判断を下せなかった。状況《じょうきょう》に流された。財布《さいふ》を出し、五十円玉を見つけると、それを五千円札の横に並べた。
ああ……選んだわけじゃない……。
そうするのが一番楽だったから、そうしただけだ。
古本屋を出ると、ふたたび日差しが僕たちに降《ふ》り注《そそ》いだ。輪郭《りんかく》のくっきりした影が地面にふたつ、落ちていた。大きい影が僕で、その横の小さい影がみゆきだった。僕は無言《むごん》のまま、歩きだした。どんどん歩いていった。右手に持っている袋《ふくろ》の中には、六冊の本が入っている。それはやたらと重くて、投げだしたいくらいだった。さっきまで浮《う》かれきっていたというのに、今の僕は沈《しず》みこんでいた。なぜそんなことになってしまったのか、考えてもまったくわからなかった。いや、そもそもちゃんと考えられなかった。
くそっ、なんでみゆきはお金を出してくれたんだろ?
あのままならよかったんだ。そうすりゃさ、適当《てきとう》に謝《あやま》って、適当に笑って、まあ情《なさ》けないけどさ、それだけのことだったんだ。親に泣きついて小遣《こづか》いの前借りして、買いに行ったさ。もし前借りを許《ゆる》してもらえなかったら、売れてしまうんじゃないかとハラハラしながら二週間待って、幸運にも残ってたらすぐさま買っただろう。そうさ、それだけのことだったんだ。
なのに、みゆきのヤツ!
そんなことを考えている自分に気づき、僕はさらに落ちこんだ。悪いのはみゆきじゃない。僕のほうだ。いや、違《ちが》うのかな。誰が悪いってもんでもないのかな。だったら、どうして僕はこんな気持ちになってるんだろう。
よくわかんねえよ……。
それはどうしようもなく理不尽《りふじん》な感情だった。自分がなにに苛立《いらだ》ってるのかさえ、僕にはわからなかった。たぶん無邪気《むじゃき》に喜んでおくべきなんだろう。ありがとうって。さんきゅって。みゆきにそう言えばすむだけなんだ。だけど、そうできない自分がいた。ひどく小さな自分だった。
「よかったね」
みゆきが言った。
「古本屋でそんな本が見つかるのって、滅多《めった》にないよ」
「そうだな」
僕の声には抑揚《よくよう》がなかった。
古い町屋《まちや》の前を、並《なら》んで歩いてゆく。ふたたび鉄工所の前を通りかかる。やっぱり鉄の焼けた匂《にお》いがする。火花がバチバチと爆《は》ぜている。今度はすぐに目を閉じず、僕は顔を上げた。太陽をまっすぐ見つめた。それから目を閉じた。火花じゃなくて、太陽の残像《ざんぞう》が見えた。
後ろから、みゆきの声。
「その本、読みたかったの?」
「え?」
「読みたかったの?」
「いや、そういうわけじゃなくて」
ああ、なんて言えばいいんだろう。喋《しゃべ》るのも億劫《おっくう》だ。苛立《いらだ》ちが……いや、苛立ちかどうかもわかんないけど、とにかくモヤモヤした感情がすべてを邪魔《じゃま》している。それにしても、さっきからみゆきはよく喋る。いや、違《ちが》うのか。僕が黙《だま》っているだけなのか。
「とにかく、欲しかったから」
どうにか、そんな言葉を絞《しぼ》りだした。
納得《なっとく》したのかしてないのか、
「ふーん」
と、みゆきは鼻を鳴《な》らした。
結局《けっきょく》、別れるそのときまで、僕は「ありがとう」も「さんきゅ」も言えなかった。お金をいつ返すなんてことさえも、もちろん口にできなかった。
「はあ」
僕はため息《いき》をついた。
ベッドの上には『人間失格』と『チボー家の人々』が放り出してある。最高のアイディアだったんだ。マジでさ、最高だったんだ。
なのに今、僕はすっかり落ちこんでいた。
どうすればいいのかさえもわからなかった。
「はあ」
ため息《いき》ばかりが出る。
僕はコートを着たまま、ごろりとベッドに寝転《ねころ》がった。『チボー家の人々』を下に敷《し》いてしまったので、その角が腰《こし》の辺《あた》りに突《つ》き刺《さ》さって痛《いた》い。しかし体勢《たいせい》を変える気にもなれず、痛みを味わったまま、僕は寝転びつづけた。ああ、僕はどうしてこんなに滅入《めい》ってるんだろうか。
五千円……みゆきが払ってくれた……。
この下に敷いている、ゴツゴツした塊《かたまり》は、だからこそ手に入れられたんだ。みゆきが買ってくれたようなもんだった。でもさ、ほんとは自分で買いたかったんだよ。っていっても、親から貰《もら》う小遣《こづか》いだけどさ。誰《だれ》かに手伝《てつだ》ってもらうもんじゃないんだ。そういうのとは違《ちが》うんだ。しかも他の女の子だなんて最悪だ。
ドアが、コンコンと鳴《な》った。ノックの音。
「はい」
母親か、看護婦《かんごふ》さんか。
しかしそのどちらでもなかった。
「このバカガキ、また抜《ぬ》けだしてただろ」
入ってきた夏目《なつめ》は歩み寄ってくると、僕が寝転んでいるベッドをガコッと蹴飛《けと》ばした。
「いい加減《かげん》にしやがれ」
「は、はあ」
素直に謝《あやま》るべきなのかもしれなかったけれど、いろんな気持ちに振《ふ》りまわされているせいでそんなこともできず、僕はただ曖昧《あいまい》に肯《うなず》いた。それにしても、どうして夏目が僕のところに来るんだろう。夏目は僕の担当医《たんとうい》じゃないのに。
「あの、なんすか。抜けだしのことなら――」
「いや、それはどうでもいい……いや、よくねえけど、とにかくそうじゃなくてだな」
「はあ」
「その、だな」
この凶暴《きょうぼう》な医者にしては珍《めずら》しく、やけに曖昧な態度《たいど》だった。戸惑《とまど》っていると、夏目は僕をチラリと見て――今日はよく、こんなふうに人に見られる――そのあと尋《たず》ねてきた。
「戎崎《えざき》、風呂《ふろ》入ってるか?」
「風呂? 週に三回入ってますけど」
ほんとはもう少し頻繁《ひんぱん》に入りたいんだけど、週三回しか駄目《だめ》という指示《しじ》が担当医から出ているのだった。
「もう少し入ったほうがいいな」
だが、夏目《なつめ》はあっさりとそう言ってきた。
「は? なに言ってんすか? 週三回って指示《しじ》出てるんすよ?」
「医者のオレがいいって言うんだから、いいんだよ。ほら、こい」
首根っこを掴《つか》まれ、そのまま引《ひ》っ張《ぱ》られた。夏目がどんどん歩いていくので、コケそうになった。
「痛《いた》い痛い痛い! なにすんですか!」
「まあ、来いよ」
「だから! どうしていつもそういうふうに引っ張るんすか!」
「まあ、癖《くせ》だ」
「癖って……そんな理不尽《りふじん》な……ああ、ほんと痛いってっ! コケるからっ! マジでっ!」
ぎゃあぎゃあ喚《わめ》いているあいだに、入浴室《にゅうよくしつ》に着いていた。入浴室は僕の病室からわりと近いところにあって、小さな銭湯《せんとう》って感じだ。十人くらい入れる湯船《ゆぶね》に、十人くらい座《すわ》れる洗い場。入院|患者《かんじゃ》は指定の日だけ、この風呂《ふろ》に入ることができる。僕は昨日、入ったばかりだった。
「つきあえよ」
言って、夏目は白衣《はくい》を脱《ぬ》いだ。シャツを脱いだ。
「ほら、おまえも脱げ」
「なんで僕も風呂に入らなきゃいけないんすか」
「連れションじゃなくて、連れ風呂だ」
うはは、と笑って、夏目はさっさと脱衣所《だついじょ》から風呂場へと入っていった。なに考えてるんだ、このバカ医者は。ほんとわけわかんねえよ。亜希子《あきこ》さん以上に意味不明だ。さっさと病室に戻《もど》ろうかとも思ったが、どういうわけかそんな気にもなれなかった。ま、いいか。風呂に入るの、気持ちいいもんな。それに、なんだかすっきりしない気分だしさ。こんなときは風呂もいいかもしれない。
僕はパジャマを脱ぎ、風呂場に入った。ムッと湯気《ゆげ》が押《お》し寄《よ》せてくる。夏目はすでに湯船に肩《かた》までつかっていた。お湯で身体を流し、僕もまた湯船に身を沈《しず》める。
「熱《あつ》いな、この風呂」
「そうっすね」
「オレは熱いほうが好きだから、ちょうどいいけどな」
「はあ。僕はもうちょい温《ぬる》いほうがいいですけど」
なに下らないことを話してるんだ、僕たちは?
そう思ったのが顔に出たのか、夏目が黙《だま》ってしまった。僕ももちろん黙っていた。湯気がもうもうと湯船から上がっている。斜《なな》め前に顔だけ浮《う》かべた夏目がいた。
沈黙《ちんもく》は一分ほど続いた。
「昨日な、谷崎《たにざき》に説教《せっきょう》されちまったよ」
話しかけてきたのは、夏目《なつめ》のほうだった。
「亜希子《あきこ》さんに?」
「ああ、ひどいもんだったよ。あいつ、容赦《ようしゃ》ないのな」
「ないっすよ、亜希子さん。もう誰《だれ》にでも怒鳴《どな》りますから。前に多田《ただ》さんって人が入院してたんですけど。ほんと死にそうな年のジイサンで。その死にそうなジイサンに向かって、死ねクソジジイって叫《さけ》んでましたから」
「ひでえな、そりゃ」
「マジひどいっすよ」
「鬼《おに》だな、谷崎亜希子」
「まったく。マジ鬼っすよ」
僕たちは声を揃《そろ》えて笑った。亜希子さんのことなら、いくらでも話すことができた。サザエさん並《な》みにおっちょこちょいなところとか、意外と優しいこととか、だけど怒《おこ》るとまさしく鬼のように怖《こわ》いこととか。この世にもっと、亜希子さんみたいな人がいればいいのにと思った。だったら僕と夏目だって、いくらでもこうして笑いながら話せるかもしれない。
「ところで、なに説教されたんですか」
「ん?」
「亜希子さんに」
「たいしたことじゃねえんだけどな」
夏目は僕から視線《しせん》を逸《そ》らし、その顔を上げた。ずっと同じほうを見ているので、なにかいるのかと思い、ヤツの視線を追《お》ってみたけれど、別になにもいなかった。ただ湯気《ゆげ》が舞《ま》っているだけだった。けれど夏目は見ている。確かに、なにかを、見ている。夏目の目には、いったいなにが映《うつ》っているんだろう。
「ほんとたいしたことじゃねえんだよ」
まるで自分に言い聞かせるみたいな声。
僕は顔を洗い、言った。
「そっすか」
「ああ」
「亜希子さん、たいしたことじゃなくても怒りますもんね」
少しのぼせてきた。僕は両腕を湯船から出し、その縁《ふち》に乗せた。ふう、という息《いき》が自然と漏《も》れる。まるでオッサンみたいだ。
「今日、ミスっちゃいましたよ」
「ミス?」
「はい。つまんないことなんですけど」
僕はさっき起きたことを話した。欲しい本を見つけたこと。それを自分のお金で買いたかったこと。なのにお金が足りなくて、友達の女の子に出してもらったこと。いつもの僕なら、こんなことを夏目《なつめ》に打ち明けたりなんかしないだろう。だけど今は、風呂《ふろ》の湯気《ゆげ》のせいか、他のなにかのせいか、あるいは夏目にさえもすがりたいくらいヘコんでいるのか……よくわからないけど、すらすらと言葉《ことば》が出てきた。
「なんか、ありがとうって言えなかったんすよね。なんでかわかんないけど」
「そうか」
「なんでですかね」
「知るか、そんなの。おまえの気持ちなんざわかるか」
夏目はへらへら笑いながら言った。
おお、わかってるじゃん、こいつ。そうさ、そうだよ。マジな顔でする話じゃないんだ。ちゃんとわかってるよ、こいつ。やるじゃん、夏目|吾郎《ごろう》。
もちろん、僕もへらへら笑った。
「それがわかんないんすよね、自分でも」
「まあ、有《あ》り体《てい》に言うなら、プライドなんじゃねえのか。男だしな。女にはいいカッコしてえよな。だけどできないからヘコむわけだな」
「はあ、それはありそうっすね」
「できねえよな、いいカッコ」
「できないっすよね」
「そういうのにヘコんでる自分に、またヘコんだりするよな。たいしたことじゃねえんだからさ。軽く礼言っておきゃいいのに、言えなかったりするとな。そういう自分の小ささにヘコむよな。ありがちな例に当てはめると、そういうのもあるかもな」
「確かにありそうっすね」
「ありがちってのは、実際《じっさい》によくあるから、ありがちなわけだからな」
「なるほど」
「あと、女があっさり出してきてさ、そのわかってる感じにもヘコむよな。こっちは焦《あせ》ってるのに、向こうはそうじゃなくてさ。バカじゃないのって言われるほうが、むしろすっきりしねえか?」
「ああ、しますします」
「ありがちだよな」
「ありがちっすね」
僕たちはそれからも、ありがちだありがちだと言っては肯《うなず》きあった。
「不甲斐《ふがい》ないのは嫌《いや》だよな」
「嫌っすね」
「ま、そういう自分の不甲斐《ふがい》なさを認《みと》めるしかないんだろうな。そのほうがよっぽど男らしいんだろうし。それにな、戎崎《えざき》」
「なんすか」
「楽だぞ、認めちまったほうが」
「……やっぱそうすか?」
「おお、小さい自分を認めちまったほうが生きやすいな」
「さすが大人っすね」
「伊達《だて》に薄汚《うすよご》れてねえぜ」
うはは、と僕たちは笑った。うははうはは、と笑いつづけた。僕たちの笑い声が風呂場《ふろば》の中で反響《はんきょう》して、まるで何十人も笑ってるみたいだった。僕たちはそれからあまり喋《しゃべ》らず、さっさと髪《かみ》と身体を洗って、風呂を出た。廊下《ろうか》に出たときには、ふたりともほかほかと湯気《ゆげ》を立てていた。
「おい、戎崎」
「なんすか」
「これからいつでも里香《りか》に会っていいぞ」
「え?」
「病状も落ち着いてきたしな。ただ、あちこちつれまわしたりすんのは駄目《だめ》だぞ。そうだな、午後に一回、十五分くらい散歩につれてってやれ。屋上《おくじょう》に行って戻《もど》ってくるくらいがちょうどいいだろう。頼《たの》んだぞ、戎崎」
一方的に、しかも早口で言って、夏目《なつめ》は去っていった。
「ふむ――」
その背中《せなか》が見えなくなるまで、僕はずっと考えた。
どういう心境《しんきょう》の変化なんだろう。ちょっと前まで、里香と会うのを邪魔《じゃま》してたのに。頼んだぞ、だって。まあ、それはいいか。あのバカ医者の頭の中なんて、いくら考えたってわかんないしさ。むしろ気になったのは、里香に会っていいと言うためだけに、夏目が来たのかもしれないということだった。それで、わざわざ風呂に誘《さそ》ったと。
どうしてそんな面倒臭《めんどくさ》いことをしたんだろう?
僕は考えた。そうさ、考えに考えた。そして、ある結論《けつろん》に至《いた》った。もしかすると夏目は僕が苦手《にがて》なのかもしれない。僕が夏目を苦手にしているのと同じくらい、あいつも僕が苦手なのかもしれない。
とにかく、里香に自由に会えるのはいいことだった。
最高のことだった。
その日の午後、言ったとおり、みゆきがやってきた。相変わらず無表情で無口で、全然楽しそうじゃなくて、義務感《ぎむかん》いっぱいで、そのくせきっちり一日おきにやってくるのだった。病室に入ってきたみゆきは、ろくに僕の顔を見ることなく丸椅子《まるいす》に腰《こし》かけ、持ってきた自分用のテキストを開いた。
「今日は古文ね。範囲《はんい》、ちゃんと最後まで読んで――」
「もう読んだよ」
「え?」
「レポートも書いてみたんだけどさ。ちょっと見てくれるかな。こんな感じで大丈夫《だいじょうぶ》だと思うか? 自分だとよくわかんなくてさ」
ルーズリーフを差しだすと、みゆきは信じられないって目で、ようやく僕を見た。
「書いたの?」
「おお。まだ半分ちょっとだけど。後半はこういう感じで書くつもりだってのを……つまり要約《ようやく》だけ書いてある」
「ほんとに? 半分も?」
受け取ったルーズリーフを、みゆきはぱらぱらと見て、次に頭からじっくり読みはじめた。僕はそのあいだ、じっと待っていた。読み終わるまで、だいたい五分くらいかかっただろうか。さらにびっくりした目で、みゆきは僕を見てきた。
「よく書けてると思うよ」
「そうか。よかった」
「ちょっと推論《すいろん》が甘いところがあるけど、これでもいいと思う。あと、後半の要約部分は、そのまま書くと長くなっちゃうから、項目《こうもく》をどれかひとつはずしてもいいんじゃないかな」
「わかった。じゃあ、今日中に完成させるか」
返してもらったルーズリーフを広げ、僕はシャーペンを走らせた。さて、大事なのはここからだ。今まではわりとうまくいってるよな。それにしても、みゆきのヤツ、すげえ驚《おどろ》いてるな。まさか半分も書いてるとは思わなかったんだろうな。さて、アレを出すか。いいか、軽くだぞ、軽く。なんでもないって感じだぞ。
「あのさ、みゆき」
できるかぎりのさりげなさを装《よそお》いつつ、僕は一枚の紙を差しだした。
「これ、持っておいてくれよ」
紙を受け取ったみゆきは、わけがわからないって顔をした。
「借用書《しゃくようしょ》?」
「ああ、金借りたからな」
その紙には、こう書いてある。
借用書《しゃくようしょ》
私こと戎崎《えざき》裕一《ゆういち》は、水谷《みずたに》みゆきより金五千円を借りました。
一カ月以内に必《かなら》ず返済《へんさい》します。
あとは日付と、僕のサインだ。自分で書いたので字は汚《きたな》いし、とてもまともな借用書とは言えないけど、とりあえずこれで十分だろう。
「こんなもの書かなくても……」
「形だよ、形」
僕は、うはは、と笑った。
「金返したら、破って捨ててくれ」
みゆきは複雑そうな顔をしていた。そりゃそうだ。高校生同士の金の貸し借りで借用書なんて大げさもいいところだ。けどさ、こうしたほうがいいんだ。いや、こうでもしないと、思いきれないからさ。
「ありがとな、みゆき。助かったよ。金なかったから、どうしようかと焦《あせ》っちまってさ。それに、あそこで買わなかったら、買《か》い逃《のが》してたかもしれないし。マジで助かった。感謝《かんしゃ》してる。ありがとな」
僕は笑顔《えがお》たっぷりで喋《しゃべ》りつづけた。ああ、顔が引きつってないといいな。それにしても、みゆきに「ありがとう」なんてマジで言ったのは、ほんと久しぶりだ。いや、もしかすると初めてかもしれないぞ。思いだそうとしても、思いだせないし。
まだ戸惑《とまど》っているみゆきに、僕はさらに言った。
「取っておいてくれよ。ほんとありがたかったから、いい加減《かげん》にしたくねえんだ」
その言葉《ことば》は、するりと出てきた。
どもったりしなかったし、顔が引きつったりもしなかった。
本当の言葉だったからかもしれない。
「そっか」
みゆきはゆっくりと、なにかを呑《の》みこんだ。
「じゃあ、預《あず》かっておく」
その日、古文のレポートが仕上がった。たったの一日で最後まで書ききった。まさしく絶好調《ぜっこうちょう》だった。
災《わざわ》い転じて福となす、だ。
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「悪いけど――」
あっさりしたものだった。
ほんと簡単《かんたん》だった。
ものすごく緊張《きんちょう》したし、悩《なや》んだし、胸《むね》が破裂《はれつ》するんじゃないかってくらいの気持ちで呼《よ》びだしたのだ。電話をかけるときは、数字を押《お》す指が震《ふる》えた。十七年間生きてきて、一番緊張したかもしれない。待ちあわせ場所は錦水橋《きんすいばし》の上。そこが竹久《たけひさ》君の家と、あたしの家の、中間だから。時間は昼の三時。自分で指定したくせに、電話をしながら、メモ帳に『錦水橋』と三回も書いていた。『三時』のほうは五回も。やたらと強く書いていたらしく、そのメモを剥《は》ぎ取《と》ったら、下の紙に『錦水橋』と『三時』が合計八つもシルエットを刻《きざ》んでいた。
とにかく、それくらい緊張した。
胸が弾《はず》んだ。
バカみたいだった。
なのに、その結果《けっか》と来たら、ほんとあっさりしてて簡単《かんたん》だった。
「水谷《みずたに》はいい子だと思うよ。いや、お世辞《せじ》とかじゃなくてさ。マジでそう思ってる。だけど、オレ、彼女いるからさ」
「うん」
肯《うなず》いている自分がいた。情《なさ》けないことに、彼がすべて言いきらないうちに、もう呑《の》みこんでしまっている。
「だから、ごめんな」
「うん」
肯いて、そのままうつむく。うつむいているあいだに帰って欲しいと思った。顔を上げたとき、どんな表情を見せればいいかわからないから。笑えるほど強くはないし、泣くほど弱くはない。きっと中途半端《ちゅうとはんぱ》な顔しかできない。幼馴染《おさななじ》みの戎崎《えざき》裕一《ゆういち》と違《ちが》って、竹久《たけひさ》君は気の利《き》く人だから、こっちのそんな気持ちをわかってくれたみたいだった。じゃあな、と呟《つぶや》くように言って、去《さ》ってくれた。ようやく顔を上げると、いかにも春らしい、うすぼけた空の青が目に入ってきた。もう春だ。でも今、あたしの春は去ってしまった。ああ、ちょっと違うかな。来る前に、終わってしまったんだ。
「どうだった?」
友達の玲奈《れな》が、しばらくしてやってきた。少し離《はな》れたところで待ってもらっていたのだ。さすがに、すぐそばにいられるのは辛《つら》いから。
「やっぱり駄目《だめ》だった」
どうにか玲奈には笑えた。
「しょうがないけど」
「彼女、いるもんねえ。竹久って、けっこう一途《いちず》なヤツだし」
慰《なぐさ》めるでもなく、励《はげ》ますでもなく。力の抜《ぬ》け具合《ぐあい》というか、そのままにしてもらってる感じに、ほっとした。これで思いっきり慰《なぐさ》められたら、むしろヘコんでたかもしれない。玲奈についてきてもらったのは正解だった。玲奈って、こういう恋愛ごとに慣《な》れているし。大人っていうか、あたしと違って世慣《よな》れてるんだ。
「じゃあ、帰ろうか」
「そうだね」
橋を渡《わた》り、運河沿《うんがぞ》いの道を歩きだす。暖《あたた》かくなってきたせいで、潮《しお》の匂《にお》いが強かった。水面《みなも》で小魚がはぜる。意外なくらい、ショックを受けていない自分に気づいた。それはそうか。だって、わかってたし。彼女がいるって。すごく大事にしてるって。まじめな人だから、二股《ふたまた》なんてありえないし。略奪《りゃくだつ》なんて無理《むり》だし。
「駅のロッテリア、寄ってく?」
玲奈が赤い看板《かんばん》を指さす。
「あ、うん」
なんだかちょっと疲《つか》れたかもしれない。
「そうする」
お金がないので、コーラのSサイズを頼《たの》んだ。玲奈《れな》のほうは豪勢《ごうせい》にもMサイズで、しかもポテトまで注文していた。
「やったね」
席に着くと、ちょっと大人びたところのある同級生はそう言って、ニヤリと笑った。番号が書かれたプラスチック製のカードを持っていた。
「ポテト、今|揚《あ》げてるって。揚げたて食べられるよ」
「さすがに揚げたてはおいしいよね、ファーストフードでも」
「うん、揚げたてはおいしいよ」
なんだろうか。玲奈は普通《ふつう》に話してても、はすっぱな感じがある。大人っぽいっていうか、肩《かた》の力が抜《ぬ》けてるっていうか。それは言葉遣《ことばづか》いだけじゃなくて、たとえば指で髪《かみ》をいじる仕草《しぐさ》とか、首の傾《かし》げ方《かた》とか、そういうのもちゃんと大人っぽい。あたしだと、そうはいかない。同じことをしても、子供っぽくなっちゃう。しょせんガキって感じ。いったいなにが違《ちが》うんだろうか。
やがて店員がポテトを持ってきてくれた。
「奢《おご》り。半分食べていいよ」
「ありがと」
ほんの数百円の励《はげ》まし。ちょうどいいくらいの好意《こうい》。これだったら受け入れられる。ありがたいって思える。ほんと、玲奈はよくわかってる。
揚げたてはおいしくて、ふたりでもりもり食べた。
「おいしいね」
「あたし、ポテトはロッテが一番好きだな」
「スパイシーだよね」
「ケンタのホクホクしたのも捨てがたいけど、店ないんだよね。そういや、ここもなくなるって知ってる?」
「え、ほんとに?」
「らしいよ。あたしの友達の友達がさ、ここでバイトしてて。その子の情報だから、間違《まちが》いないと思う」
「ここもなくなっちゃうのか」
駅前から、どんどん店が消えていく。
「最後の一本は、水谷《みずたに》みゆきの勇気に」
カリカリに揚がったおいしそうなポテトを、玲奈が差しだしてくる。茶化《ちゃか》したその調子《ちょうし》に合わせて、こっちも茶化して受け取った。
「ありがたく頂戴《ちょうだい》する」
ポテトはおいしかった。最後の一本なので、ロッテらしいスパイシーさがいっそう強く感じられる。そのせいなのか、ちょっとだけ目頭《めがしら》が熱くなった。どうしたんだろう。今ごろになって。さっきまで全然平気だったのに。ああ、でも、ショックってほどでもないんだな。全然平気な自分がちゃんといるし。
もしかしたら、あたしはもう、竹久《たけひさ》君が好きってわけじゃなかったのかもしれない……。
ずっと片思いで、それこそ一年のときからだ。告白《こくはく》しちゃいなよなんて何度も友達に言われながら、でもやっぱりできなくて、ずっと心に秘《ひ》めてきた。そのうち竹久君が他の子とつきあいはじめて、すっごく仲良さそうな姿《すがた》を見かけたりするようになった。そういう姿を思《おも》い浮《う》かべるとそれなりに辛《つら》いんだけど、同時に不思議《ふしぎ》と幸せな気持ちになったりもした。あれはいったい、なんなんだろう。竹久君が幸せそうだから、自分も幸せに感じられるんだろうか。それとも、竹久君の彼女と自分を無意識《むいしき》のうちに重ねて、勝手に幸せを味わってたんだろうか。もし後者《こうしゃ》だとしたら、ひどく惨《みじ》めな話だ。
とにかく、ずいぶん長いあいだ片思いしてたせいで、だんだんその輪郭《りんかく》が曖昧《あいまい》になっていたのは確かだった。好きって気持ちに囚《とら》われてたのかもしれない。好きでなきゃおかしい、あのすごくきれいだった気持ちをそのままにしておきたいって。
だけど、それはとても自分勝手な考え方だ。
わかってる、自分はそんなにきれいな人間じゃないって。きれいじゃない人間が、永遠に変わらない純粋《じゅんすい》な心を持てるわけがないんだ。誰《だれ》だっけな、言ってたもん。
丸いバケツには丸い水しか入らない――。
ああ、ほんとそのとおりだ。いつまでもいつまでも、永遠に純粋な心を持ってられない自分は、しょせんその程度《ていど》の恋愛しかできないんだろう。つまらないことに囚われたり、錯覚《さっかく》したりする。下らないってわかってても、繰《く》り返《かえ》したりもする。こういうことを口にしたら、玲奈《れな》は肩《かた》をすくめて、「誰だってそんなもんだよ」なんて簡単《かんたん》に言うのかもしれない。
「ふられちゃったなあ」
なので、こんなことも自分から言えてしまう。玲奈はうんって肯《うなず》いて、それがちゃんとわかってくれてる感じだったので、そのまま言葉《ことば》を継《つ》いだ。
「でも言えてよかった」
「言わないと、なかなか終わらないからね」
「うん」
「にしてもさ、どうして今ごろ告白なわけ? 竹久のこと好きだって、ずいぶん前から言ってたのにさ」
「……なんでかな」
「自分の気持ちでしょうが」
あはは、と玲奈《れな》が笑う。
あはは、とこっちも笑っておく。
「そうだけど」
「まあ、でも、自分の気持ちが一番やっかいだよね」
「ほんとにね」
「あたしたちってさ、しょせんはガキだし」
そう言う玲奈の口調《くちょう》は、全然ガキっぽくないけれど。
だらだらといろんなことを三十分ばかり話して、店の前で玲奈と別れた。元気出しな、なんて言って笑う玲奈はやっぱり力が抜《ぬ》けていて、立《た》ち姿《すがた》なんかもきれいで、ますます自分が子供に思えたりした。
ひとりで、とぼとぼ歩いていく。昨日、幼馴染《おさななじ》みの裕《ゆう》ちゃんと歩いた道。今はひとりで歩いていく。本屋でお金を出してあげたあと、裕ちゃん、すっごく不機嫌《ふきげん》だったな。話しかけても全然答えてくれなくて、生返事《なまへんじ》ばっかり。怒《おこ》ってるんだな、と思った。勝手にお金なんか出したりしたから。たまたまお金を持ってたし、裕ちゃんがすごくあの本を欲しがってるのがわかったんで出してあげただけなんだけど、考えてみればああいうのはよくなかったのかもしれない。男のプライドってヤツを傷《きず》つけたんだろう。
裕ちゃんのこと傷つけちゃったのわかったから、最初は愛想《あいそ》よく話しかけた。機嫌を取ろうとした。だけど裕ちゃんは黙《だま》ったままだった。あたしだけが喋《しゃべ》ってた。そのうち、だんだんこっちも腹が立ってきた。最後はふたりとも黙りこんで、いっしょに歩いてたけど、全然いっしょじゃない感じだった。
なのに。
数時間してから病院に行ったら、裕ちゃんはすっかり態度《たいど》が変わっていた。びっくりするくらい素直な感じで頭を下げてきた。
ありがとう、だって。
助かった、だって。
しかも借用書《しゃくようしょ》まで準備《じゅんび》してた。
ほんの数時間前まで下らない意地《いじ》を張《は》ってたガキだったのに、いきなり大人みたいになってた。古本屋のことを引きずりっぱなしだった自分のほうが、むしろ子供だった。変わるわけないと思っていた裕ちゃんが、どんどん変わっている。古本屋のことだけじゃない。
ほんとのことを言うと、竹久《たけひさ》君に告白《こくはく》したのも裕ちゃんのせいなのだった。
あの半月の夜、秋庭《あきば》里香《りか》の病室に行くために、裕ちゃんは必死《ひっし》で壁《かべ》を走っていた。絶対《ぜったい》無理《むり》なのに、明らかに不可能《ふかのう》なのに、それでも走りつづけた。その姿はみっともなかったし、惨《みじ》めでさえあった。あまりの惨めっぷりに、こっちが泣きたくなったくらいだ。
あの惨《みじ》めな姿《すがた》が、ずっとどこかに残ってる。
あの惨めな姿に、後押《あとお》しされている。
バカでヘタレで間抜《まぬ》けで腰抜《こしぬ》けの戎崎《えざき》裕一《ゆういち》が、自分より子供だったはずの戎崎裕一が、今はまるで違《ちが》ったふうに思えるのが、やけに悔《くや》しい。失恋《しつれん》の痛《いた》みよりも、自分という人間に対する空《むな》しさよりも、その悔しさのほうがなぜか大きい。
ああ、もう、やだなあ。
裕ちゃんのことになると、どうして気持ちがうまく整理できないんだろうか。
電話がかかってきたのは、その日の夜十時だった。
「あのさ――」
山西《やまにし》保《たもつ》だった。
なぜ山西君から電話が[#「が」は底本では無し]かかってくるのかさっばりわからなかったけど、なんだか変なことを頼《たの》まれそうな気がした。なんとなくだけど、そう感じた。
「なに?」
用心して尋《たず》ねた。
山西君が用件を言った。
予感は、当たった。
起きたのはいつもどおり、朝の七時。病院なんてところにいると、規則《きそく》正しい生活がすっかり身についてしまう。顔を洗い、歯を磨《みが》き、それからさしてうまくもない朝飯をもりもり食った。粗食《そしょく》に耐《た》えられるようになるのも、病院生活の特典(?)かもしれないなと思いつつ、最後にお新香《しんこ》を囓《かじ》っていると、夏目《なつめ》がやってきた。
「戎崎、着替えろ」
「は?」
またなにおかしなこと言ってやがんだ、このバカ医者は?
「なんすか、着替えろって」
ぽりぽり。
お新香を噛《か》む。
ぽりぽり。
「ちょいと出かけるんだよ。だから、着替えろ」
「出かける? どこに?」
「ああ、それはあとで説明するから。時間、ねえんだ。あと二十分で宇治山田《うじやまだ》駅に行かねえと、特急が出ちまうんだよ。ほら、だから早くしろって。そんなまずい漬《つ》け物《もの》なんざ食ってんじゃねえ。早くしろって言ってんだろうが、おら」
まったく理不尽《りふじん》な話である。いきなりやってきて、いきなり急《せ》かして、いきなり怒《おこ》ってやがる。わけわかんねえよ。しかし夏目《なつめ》があまりにも急いでいるので、それに釣《つ》られるように、僕は箸《はし》を置き、立ちあがった。パジャマを脱《ぬ》いで、普通《ふつう》の服を着た。ああ、なんだよ。どうしてこんなダサいシャツしかないんだ? うわ、このズボン、最悪だ! ツータックだって!? こんな格好《かっこう》で出かけたくなかったけれど、母親が準備《じゅんび》しておいてくれた服は他になく――これでもいちおう入院患者なので、外出着は一揃《ひとそろ》いしか置いてないのだ――それで我慢《がまん》するしかなかった。
「行くぞ、戎崎《えざき》」
着替え終わったことを確認すると、夏目は病室をさっさと出ていった。おい! 待てって! まだ財布《さいふ》持ってないし、髪《かみ》もとかしてないし……全然準備できてねえよ!
「戎崎!」
なのに、あの短気|野郎《やろう》は、廊下《ろうか》で怒鳴《どな》ってやがる。
「行きますって!」
しかたなくそう叫《さけ》ぶと、ぼさぼさ髪のまま、僕は病室を飛びだした。それからあっという間に宇治山田駅までタクシーでつれていかれ、あっという間に特急に乗せられた。八時十四分発、名古屋行き特急。三両目の、十三番A席とB席。当たり前のように夏目は窓際《まどぎわ》のA席に座《すわ》った。僕は通路側のB席。それにしても、夏目とこんな近い距離《きょり》にいるのがとてつもなく嫌《いや》だった。できるだけ通路側に身を寄せてしまう。
「あの」
「なんだ」
「どこ行くんすか」
「浜松《はままつ》だ」
いちおう地名は知っているけれど、正確な場所はピンと来ない。静岡県ってことしかわからなかった。
「名古屋と静岡のあいだくらいだ」
わかるようなわからないような。とにかく、名古屋より向こうだ。でもって、静岡よりこっちだ。がたんと揺《ゆ》れて、列車が動きだした。ちょうど通勤時間帯ってこともあって、列車は背広姿《せびろすがた》のサラリーマンで埋《う》まっていた。そんな中、下手《へた》すると学生にしか見えない夏目と、学生以外のなにものでもない僕は、明らかに浮《う》いていた。
眠《ねむ》そうに夏目があくびをする姿《すがた》を眺《なが》めながら、僕は胸《むね》の中で渦巻《うずま》く言葉《ことば》をどうにかまとめあげた。丁寧《ていねい》に、冷静《れいせい》に、論理的に、尋《たず》ねようではないか。
「なんで浜松《はままつ》なんですか?」
「昔、オレが勤《つと》めてた病院がある」
「なにか特別な検査《けんさ》でも?」
「はあ? おまえ、アホか? A型|肝炎《かんえん》に特別な検査なんざいるわけねえだろうが!」
うはは。思わず笑いそうになってしまう。これはアレですかね、喧嘩《けんか》売られてんですかね。こっちが丁寧《ていねい》に、冷静《れいせい》に、論理的に尋《たず》ねてるのに、この答えはないっすよね。アホか、だって。どっちが大人かわかんねえよ!
「……じゃあ、どうして病院に?」
「病院には行かねえ。誰《だれ》が行くって言った?」
まあ、確かに言ってはいないが。
「……どこ行くんすか、いったい?」
「行けばわかるよ」
「……オレ、入院|患者《かんじゃ》なんですけど?」
「知ってる。当たり前だろうが」
「……入院患者をそんな遠くまでつれだしていいんすか?」
ふああ、と夏目《なつめ》はあくびをした。
「細《こま》かいこと気にすんな。A型肝炎くらいじゃ死なねえから」
「……幸田《こうだ》先生、このこと知ってんすか?」
幸田先生ってのは、僕の担当医《たんとうい》だ。夏目とは違《ちが》って、のんびりしたタイプの人だった。ちょっと頼《たよ》りないっていうか、はっきりしなさすぎるくらいだけど。
「いちおう断《ことわ》ってあるよ。オレの元|同僚《どうりょう》がおまえの病状に興味《きょうみ》あるから、ちょっと借りますって言っておいた。ま、嘘《うそ》だけどな。幸田先生はああいう人だから、『ああ、はあ』なんて言ってOKしてくれたよ。つか、わかってなかった可能性《かのうせい》もあるけどな。あの先生、ちょいとボケてっからな」
今のはもしかして同僚の悪口ってヤツだろうか。しかも嘘って。なんなんだよ、この医者は。
「あの」
さらに尋ねようとしたら、面倒臭《めんどくさ》そうに手を振《ふ》られた。
「寝《ね》る。だから黙《だま》ってろ」
「は?」
「夜勤明《やきんあ》けなんだよ。名古屋駅に着いたら起こせ」
そして十五秒後には鼾《いびき》をかいていた。本気で、かなりマジで、僕は夏目の顔に落書きをしてやろうかと思った。この燃えあがる理不尽《りふじん》な心は、そうでもしないと抑《おさ》えられそうになかった。
いったいなに考えてるんだ、このバカ医者は?
φ
待ちあわせ場所は月夜見宮《つきよみのみや》。伊勢《いせ》市内にいっぱいある、伊勢|神宮《じんぐう》の別宮《べつぐう》だ。伊勢に住んでるのにずっと読み方を間違《まちが》えてて、ずっと『つきよみぐう』だと思っていた。ほんとは『ぐう』じゃなくて、『みや』なのだそうだ。
外宮《げくう》や内宮《ないくう》よりもずっと小さい鳥居《とりい》にもたれかかり、玉砂利《たまじゃり》をスニーカーの先で掻《か》きまわす。春休みの最中で、しかも男の子と待ちあわせなんて、シチュエーションだけなら艶《つや》っぽいけど、なにしろ相手が相手なので全然艶っぽくない。
約束《やくそく》の時間の十時になっても、相手は現れなかった。待たせるなんて生意気《なまいき》だ。帰ってやろうかな。十時五分。まだ来ない。わざと待たせるって作戦だろうか。もしそうだったら、絶交《ぜっこう》してやろう。もっとも絶交するほど仲良くないけど。十時十分。だんだん寂《さび》しくなってくる。十時十五分。すっかり寂しくなっている。十時二十分。ようやく声をかけられた。
「あ、あの――」
しかし声が約束の相手と違《ちが》う。ナンパだろうか。こんなところで。寂しさがふたたび怒《いか》りに戻《もど》って、声のほうを睨《にら》む。
「え? 世古口《せこぐち》君?」
しかし目に入ってきた姿《すがた》に驚《おどろ》いてしまった。
「う、うん」
大きい身体をすくめ、世古口|司《つかさ》が肯《うなず》く。
「ご、ごめん。遅《おく》れて」
わけがわからない。あたしが待っていたのは山西《やまにし》君だ。世古口君じゃない。なのに、目の前に立っているでかい図体《ずうたい》は、世古口司以外の何者でもなかった。どうして世古口君なんだろう? なぜ謝《あやま》ってるんだろう?
なにをどう尋《たず》ねていいか戸惑《とまど》っていると、
「いきなり山西君から連絡が来てさ。ほんとさっきなんだけど」
世古口君がそう言った。
「水谷《みずたに》さんがここで待ってるから、行って欲しいって」
「じゃあ、山西君は?」
「親の用事についていかなきゃいけなくなったんだって。ほんとは行きたくないんだけど、親にむりやり引《ひ》っ張《ぱ》っていかれるって愚痴《ぐち》ってたよ。なんかすごく悔《くや》しそうだったけど。それで、水谷さんに悪いから、おまえが行ってくれって」
本当にさっき言われたみたいで、世古口君もあたしと同じように戸惑っていた。息《いき》が切れているのは、走ってきたからだろうか。とにかく、相手が戸惑っているせいで、かえって落ち着くことができた。山西《やまにし》保《たもつ》は要《よう》するに逃《に》げたのだ。親の用事がなんだ。そんなのぶっちぎるくらいできるだろうに。だけどぶっちぎらなかった。で、人のいい世古口《せこぐち》司《つかさ》に押《お》しつけた。
「わかった。でも、あたし、今日なにするか聞いてないんだけど」
昨晩の電話で、山西君は用件をまったく教えてくれなかったのだ。すっごくもったいぶった感じで、とにかくすげえことなんだよって繰《く》り返《かえ》すばかり。いや、ほんとすげえアイディアを思いついちまったんだって。ああ、もうちょっとだけ言ってたっけ。
『戎崎《えざき》のさ、ためなんだよ。一肌脱《ひとはだぬ》ごうぜ』
こうして来てしまったのは、その言葉《ことば》のせいだったのかもしれない。今、戎崎|裕一《ゆういち》という名前は、なんだか妙《みょう》な重みを持ってしまっている。放り投げるべきなのか、受け止めるべきなのか、よくわからないような重みだ。
「それがさ、変なこと頼《たの》まれたんだけど」
世古口君はやっぱり戸惑《とまど》っていた。
「僕も全然わけわかんなくて」
「変なこと?」
「うん。とにかく、市役所に行かないと。今日、やってるよね、市役所?」
「平日だから、やってるんじゃないかな。だけど、なんで市役所なの」
「それがさ――」
そのあとあたしが聞いたのは、とても信じられない言葉だった。
山西保は、アホだ。
史上最低の、とびきりの、アホに違《ちが》いない。
φ
世の中は理不尽《りふじん》だらけだって知ってるさ。僕だって、なんにも見聞きしないで十七年生きてきたわけじゃない。目はだいたい開いてるし(閉じてることもあるけど)、耳だってちゃんと聞こえる(実は聞こえてなかったってこともあるけど)。薄汚《うすぎたな》い靴《くつ》で踏《ふ》みつけられたことだってあるし、理由のない悪意《あくい》に弄《もてあそ》ばれたことだってある。
あれは小学生のときだ。バレンタインデーでさ、好きな女の子にチョコを……まあ義理《ぎり》チョコだけど……貰《もら》えるかと期待《きたい》してたら貰えなくて、今年は誰《だれ》にもあげないのなんて言われて、すっかり信じきって……そうしたら、その子、別のヤツにはしっかりチョコをあげてたんだよな。あとで嘘《うそ》をつかれたって知ったときは、ほんのちょっぴり泣いたりもしたさ。まったく、あれは理不尽だったな。他に好きなヤツがいるんなら、そう言ってくれればよかったんだ。それなら、こっちだって変な期待はしなかったさ。まったく理不尽な話だよな。
しかし、だ。
起こせと言ったから起こしたのに、
「ああ、うぜえ……おまえ、うぜえぞ、戎崎《えざき》……」
などと言われるのは、やはりこれも相当《そうとう》に理不尽《りふじん》なのではないだろうか。
宇治山田《うじやまだ》駅を出てから一時間半後、列車は名古屋駅に着いていた。ホームにその身を横たえた車両からは、ほとんどの乗客がすでに降《お》りてしまっている。車両内に残ってるのは僕たちだけだった。
さすがに温厚《おんこう》な僕だって不機嫌《ふきげん》になり、
「名古屋に着いたら起こせって言ったじゃないっすか」
と強気《つよき》に言ってみた。
夏目《なつめ》は「まだ眠《ねむ》いんだよ」とか「永遠に走りゃいいんだ」とか「起こし方が悪いぞ、クソガキが」とかブツブツ言いながら立ちあがった。どうも最後のは僕に対する悪口のような気がするんだけど、目の前を歩く背中《せなか》を蹴飛《けと》ばしていいかな?
考えた末、蹴飛ばしたらもっとひどく蹴飛ばされそうだったので、やめておくことにした。いやいや、逃《に》げたってわけじゃない。広い心ってヤツさ。うん。夏目が怖《こわ》いわけじゃないぞ。
ホームに降り立った僕は、辺《あた》りを見まわした。意外なくらい名古屋駅は小さかった。宇治山田駅とそんなに変わらない。ホームが三列……いや、四列かな……それだけだ。地下にあるので、空は見えない。低い天井《てんじょう》が頭上《ずじょう》に広がっている。
「ほら、行くぞ。戎崎」
「あ、はい」
どんどん歩いていく夏目の背中を追う。自動改札に切符を流しこみ、僕たちは揃《そろ》って駅の外に出た……と思ったら、全然|違《ちが》っていた。そこは近鉄とJRの連絡通路で、要するにJR名古屋駅の一部なのだった。歩いても歩いても駅はどこまでも続き、通路の両側にいろんな店が並《なら》んでいた。パン屋服屋アクセサリー屋|蕎麦屋《そばや》イタリア料理屋……伊勢中《いせじゅう》にある店が全部集まったかのような勢《いきお》いだった。まんぷく食堂みたいに小汚《こぎたな》い店は一|軒《けん》もなかった。しかも祭りかと思うほど人が多かった。女の人なんてやたらときれいで、思わず見とれてしまったりもした。名古屋ってのは、そういや日本で三番目に大きい都市なんだっけな。すげえよ、大都市。伊勢とは全然違うぞ。僕は田舎者《いなかもの》みたいに――いやまあ、事実、田舎者そのものだけど――きょろきょろ辺りを見ながら歩きつづけた。そのせいで、夏目の姿《すがた》を見失いそうになった。
「戎崎、どこ歩いてんだ」
夏目に怒鳴《どな》られた。
「こっちだ、こっち」
「あ、はい」
慌《あわ》てて、十メートルくらい離《はな》れてしまった夏目の元へ走る。
「そこが新幹線の乗り口だ」
夏目《なつめ》が指さした先に、改札口があった。
「ほんとはもっと近い連絡通路があるんだけどな」
「はあ」
「たまには人込《ひとご》みの中を歩くのも悪くないだろ」
それは独《ひと》り言《ごと》みたいなものなのかもしれなかった。
少し考えてから、僕は聞いてみた。
「先生、東京にいたことあるんでしたっけ?」
「ああ」
「どうなんすかね、東京は。やっぱ名古屋よりでっかいんすか」
「でかいな、東京は。名古屋が三つくらい集まったような感じだ」
「はあ、そりゃでかいっすね」
言ってはみたものの、想像《そうぞう》はできない。そんな大都会から、伊勢《いせ》みたいな田舎町《いなかまち》へやってきたら、そりゃ寂《さび》しいかもな。人込みが懐《なつ》かしくなったりもするだろうな。ああ、でも、どうして夏目は伊勢なんかに来たんだ? 亜希子《あきこ》さんが確か、言ってたっけ。夏目はエリート中のエリートだったって。とすると、伊勢に来たのは都落《みやこお》ちみたいなものなのかもしれない。今度、嫌《いや》がらせに聞いてみるか。
「ほれ、切符」
四角い紙片《しへん》を渡《わた》される。『名古屋→浜松《はままつ》』と書かれていた。夏目はさっさと新幹線用の構内《こうない》へ入っていった。僕ももちろん、そのあとに続いた。新幹線に乗るのは初めてだった。ほんとなら中学の修学旅行で乗るはずだったんだけど、運悪くおたふく風邪《かぜ》になったせいで行けなかったのだった。
初めての新幹線――。
東京、とドアの脇《わき》に書いてあった。この列車は、東京まで走るんだ。乗っていれば、つれてってくれるんだ。二時間とか三時間で。そんなのすぐじゃないか。東京という文字を見つめていたら、後ろにいた夏目に背中《せなか》を押《お》された。
「ほら、早く来れ」
ちぇっ、そんな荒《あら》っぽく押さなくてもいいだろ。
「はいはい。乗りますって」
あえて呑気《のんき》に言いつつ、車内へと足を踏み入れる。新幹線は近鉄の特急よりずっときれいで広かった。座席《ざせき》は右|側《がわ》が二列、左側が三列。僕たちは右側の二列に並《なら》んで座った。やっぱり夏目が窓側を占領《せんりょう》した。座席側に座った僕は車内を見まわした。
これは東京へ行く列車なんだ。
「ああ、うぜえ……おまえ、うぜえぞ、戎崎《えざき》……」
そっくり同じ言葉《ことば》を、夏目《なつめ》は浜松《はままつ》でも繰《く》り返《かえ》した。しかし幸《さいわ》いにも浜松は終着駅じゃなくて、途中《とちゅう》駅だった。のんびりしてたら、新幹線は次の駅に向かって走りだしてしまう。
というわけで、僕は、
「ほら、降《お》りますよ! もう出発のベル鳴《な》ってますから!」
なんて叫《さけ》んで、さっさと通路を走りだした。
このバカ野郎《やろう》だの、早く起こせアホだの、クソガキだの、周囲《しゅうい》の乗客が眉《まゆ》をひそめるような暴言《ぼうげん》を吐《は》きつつ、寝《ね》ぼけ眼《まなこ》の夏目があとを追《お》ってきた。慌《あわ》ててるその姿《すがた》が、けっこう笑える。もうちょい遅《おそ》く起こせばよかったかな。そうしたら、もっと慌ててる姿を見られた。
まったく、夏目とつきあってると、こっちまで性格悪くなっちまうよ。
どうにか僕と夏目がホームに降り立った直後、新幹線のドアが閉まった。そう、なにかが閉ざされた。そして新幹線は東に向かって走りだした。僕はホームに立ちつくし、東京に向かう列車の後ろ姿をぼんやり見ていた。
「なにしてんだ、戎崎。行くぞ」
「あ、はい」
呼《よ》ばれて、歩きだす。歩きながら振《ふ》り返《かえ》ってみると、もう新幹線は見えなくなっていた。途中下車。そんな言葉が思《おも》い浮《う》かぶ。途中下車――。
「さてと」
駅ビルから出た夏目は、ぼさぼさの髪《かみ》を掻《か》きむしってさらにぼさぼさにしながら、ゆっくり周囲を見まわした。右を見て、左を見て。さらに右を見て、左を見ている。
「けっこう変わっちまったな。なんだよ、あのでっかいビルは」
「どのくらい、こっちにいたんですか?」
「まあ、二、三年ってとこだ」
いつまでたっても夏目は動かない。駅の周囲をただぼんやりと見まわしている。ちょっと不自然に思えるくらい、長いあいだだった。夏目はいったい、なにを見ているんだろう。いや、見ようとしているんだろうか。見えないから見ようとしてる?
……ああ、なんかわけわかんなくなってきた。
夏目の様子《ようす》が変なものだから、こっちも変になってしまう。このバカ医者の心を読むなんて無理《むり》だし、読みたくもねえよ。僕は十代のガキらしくふて腐《くさ》れることにして、駅ビルの壁《かべ》にもたれかかった。
「行こうか」
夏目《なつめ》がそう言ったのは、たぶん五分くらいたってからだった。
「うす」
僕はおとなしく、ヤツのあとに従《したが》った。
近くのタクシー乗り場に行き、ふたり揃《そろ》って乗りこんだ。夏目が運転手に地名を告《つ》げたが、耳|慣《な》れない言葉《ことば》だったので、ちょっと不思議《ふしぎ》な響《ひび》きに感じられた。サナルダイ……まるで外国の地名みたいだ。最後のダイは「台」だったらしく、やがてタクシーは高台に広がる住宅街へと入った。なんかで聞いたことあるんだよな。高いところに開発された住宅地には『台』という文字がつくんだって。電信柱についている住居表示で、それを確かめることができた。なるほど。佐鳴台《さなるだい》、だ。僕の住む町屋《まちや》とは違《ちが》って、きれいに区画《くかく》整理された住宅が丘を埋《う》めつくすように広がっていた。道幅《みちはば》は広いし、家は大きいし、空には空間がたっぷりと広がっている。ほんときれいな町並《まちな》みだった。
その一角で、タクシーは停《と》まった。
「おら、降《お》りろ。戎崎《えざき》」
「あ、はい」
そして僕たちは、一|軒《けん》の家にたどりついていた。『石川《いしかわ》』という表札《ひょうさつ》がかかっている。どうやら、ここが目的地らしい。ああ、でも、こうして間近《まぢか》で見るとそれほど新しい町並みってわけじゃないんだな。十年くらいはたってる感じだ。いや、もっと古いな。僕が子供のころに作られたのかもしれない。
それにしても、まさかこんな普通《ふつう》の家に来るとは思わなかった。いや、じゃあ、他にどういう場所を想像《そうぞう》してたかっていうと……まあ、なんにも想像してなかったんだけどさ。
ぴんぽーん!
呼《よ》び鈴《りん》を押《お》すと、中でそんな音が響いた。それから、ぱたぱたという足音。数秒後、ドアが開いた。
「遠くから大変《たいへん》だったでしょう。ご苦労さまです」
現れたのは、僕の母親よりちょっと年上のオバサンだった。四十とか五十とか、それくらいだ。さすがに今は立派《りっぱ》なオバサンだけど、目鼻立ちがはっきりしてて、若いころは相当《そうとう》の美人だったに違いない。今でも愛嬌《あいきょう》のある顔をしている。
「夏目先生、お久しぶりです」
「いえ、こちらもご無沙汰《ぶさた》してしまいまして」
夏目が実に大人らしい仕草《しぐさ》で頭を下げた。
「いきなり無茶《むちゃ》を言って申《もう》し訳《わけ》ありません」
「いえいえ、主人も楽しみにしてますよ。昨日から、あれ買ったか、これ買ったかって、うるさくて」
「あ、いえ、そんな気を遣《つか》っていただかなくても――」
恐縮《きょうしゅく》する夏目《なつめ》の姿《すがた》は、ほんと立派《りっぱ》な大人だった。僕に見せる態度《たいど》とは大違《おおちが》いだ。まるで別人のようだった。信じられない気持ちでその光景《こうけい》を眺《なが》めていると、オバサンがチラリと僕を見て、会釈《えしゃく》をしてきた。僕[#底本では「あわ」のルビ有り]も慌《あわ》てて、会釈を返す。
夏目が僕の頭に手を置き、
「これが、あれです」
とオバサンに言った。
おい、なんだよ、これがあれって。
「遠くから大変《たいへん》だったでしょう?」
オバサンが優しい声で話しかけてくる。
僕はぺこりと頭を下げた。
「あの、いえ」
くそっ、夏目みたいにうまく挨拶《あいさつ》できないや。こういうときは、なんて言えばいいのかな。ああ、全然わかんないぞ。
「……よろしくお願いします」
とりあえずそう言って、もう一度、今度は深めに頭を下げておいた。
「さあ、どうぞ。主人が待ってますので」
「おじゃまします」
「おじゃまします」
夏目《なつめ》のあとを、夏目と同じ言葉《ことば》を吐《は》きながら、歩きだす。外見《がいけん》どおり、まあごくごく普通《ふつう》の一戸建《いっこだ》てだった。広めの玄関《げんかん》には大きな下駄箱《げたばこ》があった。もちろんその上には変な置物がふたつくらい置いてあったりもした。玄関からまっすぐ廊下《ろうか》が延《の》びていて、突き当たりがリビングだった。
そのリビングに、お爺《じい》ちゃんがいた。
「先生、お久しぶりです」
ソファに腰《こし》を下ろしたまま、お爺ちゃんは言った。客が来たのに、立ちあがろうともしないなんて、けっこう偉《えら》い人ってことなんだろうか。だけどその姿《すがた》はちっとも偉そうには見えなかった。普通の、どこにでもいるお爺ちゃんって感じだ。白地にオレンジのラインが入った、ダサいジャージを着てたりするし。
「もう二年になりますか」
「ええ、それくらいです」
言いつつ、夏目はそのお爺ちゃんの前に座《すわ》った。ちゃんと正座《せいざ》をしているので、まるでお爺ちゃんに説教《せっきょう》されてるみたいだ。とりあえず、僕は夏目の後ろに、同じように正座しておいた。ふたりして説教されてる図だ。
「どうぞ、足を崩《くず》してください」
「では、失礼します」
夏目が崩したので、僕も崩す。あれ、まるで夏目のコピーみたいになってるぞ。
「申し訳ないけど、わたしはこのままで。もう床《ゆか》に直座《じかずわ》りはできんのですよ」
お爺ちゃんは言った。いや、違《ちが》う。僕はようやく気づいた。目の前にいるのはお爺ちゃんじゃない。顔はシワシワだし、声はしゃがれてるし、すっかり痩《や》せこけてるし、お爺ちゃんにしか見えないけど、ほんとはもっと若い。
「おい、お茶出さんか」
キッチンに向かって、お爺ちゃんが……いやオジサンが叫《さけ》んだ。
「はいはい、持っていきますよ」
さっきのオバサンが叫び返す。
そのやりとりで、確信した。オジサンとオバサンは夫婦だ。ってことは、年が離《はな》れていたとしても、オジサンはせいぜい六十歳くらいだろう。たぶん、もっと若いな。オバサンとさして変わらないくらいなのかもしれない。
やがてオバサンがやってきた。
「あなた、この子が夏目先生の言ってた……ええと、戎崎《えざき》君でしたっけ?」
「あ、はい。そうです」
僕はひたすら、ぺこぺこ頭を下げた。
「遠路《えんろ》、ご苦労さんだったね」
オジサンが深々と、僕よりも低く頭を下げる。申し訳なくて、僕はもっと低く下げておいた。しばらくして、もう十分かなと思ったころ顔を上げると、そこにいた全員がなぜか僕をじっと見ていた。
「この子ですか」
「はい」
「そうか、この子ですか」
「はい」
なんだろう。
みんな、どうして僕を見てくるんだろう。
φ
宇治山田《うじやまだ》駅に比べるとはるかに小さな伊勢市《いせし》駅の前を、ふたりで歩いた。並《なら》んで歩いてみると、世古口《せこぐち》君はいつもよりさらに背《せ》が高く感じられた。まるで壁《かべ》と歩いてるみたいだ。すぐ横をおっきな壁がのしのし移動《いどう》してる感じ。チラリと見上げると、思いっきり上のほうに顔があった。こんなに近くから見上げてるものだから、首の後ろが痛《いた》くなる。それにしても呑気《のんき》な顔だ。まるでなにも考えてないみたい。いろいろ考えて、いろいろがんじがらめになってる裕《ゆう》ちゃんとは全然|違《ちが》う。心地《ここち》いいような、悪いような。
「えっと、市役所ってこっちだよね」
外宮《げくう》の手前にある十字路で、世古口君が立ち止まった。彼が指さしているのは、十字路を左に曲がる道のほうだった。
「うん、そう。あとちょっとだよ」
「じゃあ、い、行こうか」
緊張《きんちょう》しているのかな。ちょっとどもった。よく見ると、いつもより表情がちょっとだけ硬《かた》い気がする。
ああ、それは自分も同じかも。
「なんだか緊張するね」
落ち着かなくて、そんな言葉《ことば》が出ていた。
「う、うん」
世古口君は肯《うなず》いた。
「そうだね。緊張するよね」
「でも……ほんといいのかな?」
「え、なにが」
「あのアイディアって、山西《やまにし》君が考えたんでしょ。世古口《せこぐち》君、相談された?」
「相談はされてないよ。今朝、いきなり言われただけで」
「やっぱり無茶《むちゃ》じゃない?」
「ま、まあね」
「やめたほうがいいと思う?」
うーん、と世古口君が唸《うな》った。しばらく黙《だま》ったまま歩きつづける。交差点を渡《わた》り、十字路の角にある古臭《ふるくさ》い旅館の前を通りすぎると、ひどく小さな郵便局にさしかかる。伊勢《いせ》神宮《じんぐう》オリジナル切手販売中と書かれたポスターが貼《は》ってあった。その隣《となり》は古い建物を利用したフレンチ・レストランだ。元はここが郵便局だったらしい。続いて、無駄《むだ》に大きいシティプラザという名の公共|施設《しせつ》。それから水泳教室。以前、ここに通ってたことがある。ひどい先生がいて、初日にいきなりプールに放《ほう》りこまれた。その先生が怖《こわ》くてたまらず、たった二週間でやめた。水泳教室の次は税務所《ぜいむしょ》。自営業をやってるお父さんが年に一回、確定申告《かくていしんこく》とやらをしにいく。税務署の向こうに、目指《めざ》す建物があった。少し古びた五階建て。伊勢市役所だ。
「水谷《みずたに》さんはさ、どう思う?」
市役所に向かって歩いていると、世古口君が尋《たず》ねてきた。うーん、とこっちが唸ってしまう。即答《そくとう》できない。
「裕一《ゆういち》のことはどうでもいいと思うんだ」
黙っていたら、世古口君がそう言ってきたので驚《おどろ》いた。
「そうかな? 裕ちゃんの気持ちだって大切じゃない?」
「裕一は男だから」
「どういうこと?」
「あ、えっと、ごめん。僕と同じ男だからって言いたかったんだ。裕一の気持ちはなんとなくわかるんだよね。ほら、裕一、壁《かべ》走ってたよね。里香《りか》ちゃんの病室に行くとき、すごくさ、カッコ悪いくらい必死《ひっし》になってたよね」
「……うん」
なんか変な気持ち。ほんとカッコ悪いのに、ダサいのに、あのときの裕ちゃんの姿《すがた》がしょっちゅう蘇《よみがえ》ってくる。
そのせいなんだ、きっと。
竹久《たけひさ》君に告白《こくはく》したのは。
玲奈《れな》は、
「急にどうしたの?」
なんて不思議《ふしぎ》がってたけど、自分でも不思議だった。
竹久《たけひさ》君には彼女がいて。すごく仲が良くて。あたしなんかよりずっと美人で。告白《こくはく》しても駄目《だめ》だってわかってた。だからすっかり諦《あきら》めてた。竹久君を好きでいられるだけでいいって思ったりしてた。告白して竹久君を困《こま》らせるのは、自分勝手だからやめようなんてことまで考えたりもしてた。
そう、告白しないつもりだった。
決めてた。
だけど、その気持ちを変え、告白してしまった。
それはきっと、戎崎《えざき》裕一《ゆういち》のせいなのだ。あの必死《ひっし》な姿《すがた》を見ていたら、背中《せなか》を押《お》されたような気持ちになった。あのみっともなさを見習いたかった。恥《はじ》も外聞《がいぶん》もなく、プライドなんか投げ捨てて、ただひたすら走る――。
あんなふうに走ってみたかったのかもしれない。
「裕一の気持ちは決まってると思うんだ。そこまでする必要《ひつよう》があるかどうかはわからないけど、山西《やまにし》君が言ったようなこともありかなって」
「……うん」
「でも僕には里香《りか》ちゃんの気持ちはわからないから。水谷《みずたに》さんは、女の子だよね。だから里香ちゃんの気持ちがわかるかもしれないって思って、聞いてみたんだ。あの、どうなのかな。里香ちゃんはどうなのかな」
ああ、ぼんやりしてるように見えても、世古口《せこぐち》君って実はしっかりしてるんだな。山西君のアイディアは絶対《ぜったい》思いつきだけど、世古口君はちゃんと考えてここに来てるんだ。あたしみたいに、ただ断《ことわ》れなかったから来てるのとは違《ちが》う。
「水谷さんは、どう思う?」
「……わかんないけど」
世古口君は答えを急《せ》かすことなく、ただじっと待ってくれている。
「……女の子だったら、誰《だれ》だって嬉《うれ》しいかも」
言った途端《とたん》、胸《むね》が苦しくなった。今、自分は逃《に》げた。女の子だったら。そんな一般論《いっぱんろん》に置《お》き換《か》えた。ほんとはわかってるのに。秋庭《あきば》里香だって、裕ちゃんと同じくらい……ううん、それ以上に心を決めてるって知ってるのに。
「じゃあ、いいんじゃないかな。行こうよ、水谷さん」
気がつくと、立ち止まっていた。世古口君もつきあって立ち止まっている。市役所はもうすぐそこだ。入り口まで、あと十メートルくらい。
「行こう、水谷さん」
「……うん」
決めたわけじゃない。選んだわけじゃない。他にどうしていいかわからないから、足を動かしただけだ。玄関が近づいてくる。やけにしっかりしている世古口君が妙《みょう》に憎《にく》らしくなってくる。どんな顔をしてるんだろう。すっごく上を見なきゃいけないから、首の後ろが痛《いた》くなる。そうして目に入ってきた世古口《せこぐち》君は、むちゃくちゃ緊張《きんちょう》していた。目がいつもより細いので、すぐにわかった。あれ、でも、なんだろう。少し違和感《いわかん》がある。変な感じ。
「あ――」
ようやく気づいた。おかしいと思ったら、世古口君の右手と右足が同時に出ていた。もちろん左手と左足も同時に出ている。変な歩き方。よっぽど緊張してるらしい。そのぎくしゃくした歩き方に、思わず噴《ふ》きだしてしまった。
「な、なに、水谷《みずたに》さん」
やっぱり緊張した声で聞いてくる。
ああ、おかしい。
両手両足を揃《そろ》えて歩いてる人なんて、初めて見た。
「ううん、なんでもない」
まったくあたしは意地悪《いじわる》だ。世古口君の変な歩き方を見たくて、そんなことを言っている。市役所から出てきたオジサンが、不思議《ふしぎ》そうな顔で世古口君を見ながら通りすぎていった。ただでさえ大きな身体が目立つのに、おかしな歩き方をしてるから、さらに目立つんだろうな。一度笑ってしまったせいでなんだか急に気持ちが楽になり、意外《いがい》なくらい自然と市役所の中に入っていた。ホールの左側に階段があって、それを取り囲むようにいろんな部署《ぶしょ》が並《なら》んでいる。さて、どこに行けばいいんだろう。五階まであるから、ずっと上のほうかもしれない。案内板ないかな。
きょろきょろ見まわしていたら、すぐ近く、なんと頭上《ずじょう》に『戸籍《こせき》住民課』と書かれた案内板があった。あ、きっとあそこだ。それにしても一階だなんて。まだ心の準備《じゅんび》ができてないのに。
「あれかな?」
世古口君も戸籍住民課を見つけ、指さした。
「……たぶん」
「行こう」
「……うん」
あの夜の戎崎《えざき》裕一《ゆういち》の姿《すがた》が頭に浮《う》かぶ。壁《かべ》を走る無様《ぶざま》な姿。すっごくカッコ悪いスパイダーマン。だけど必死《ひっし》で、全力で、走ってた。身体中を壁にぶつけてた。そしてとうとう、彼の手は東|病棟《びょうとう》の手すりに届《とど》いたのだった。もっともそれは戎崎裕一の自力ではない。隣《となり》にいる世古口|司《つかさ》と、その兄である世古口|鉄《てつ》の助力《じょりょく》があったからこそだ。自分だって手伝《てつだ》ったし、山西《やまにし》保《たもつ》だって手伝った。しかし、たとえそうであったとしても、もし戎崎裕一が最初に諦《あきら》めていたら、そこでなにもかもが終わっていただろう。それに、うまくいったのは偶然《ぐうぜん》なんかじゃない。百回やっても、千回やっても、戎崎裕一の手は東病棟の手すりに届いたはずだ。なんとなくだが[#「が」は底本では「か」]、そういう気がする。最初から諦めていた自分とは違《ちが》う。
戸籍《こせき》住民課の札が近づいてくる。カウンターの向こうで職員が三人、のんびりした感じで働いている。女がふたりに、男がひとり。女のうちのひとりが、こちらをチラリと見た。ちょっと緊張《きんちょう》した。永遠に着かなければいいと思った。このままずっと歩きつづけていれば、いつかは心の準備《じゅんび》もできるかもしれない。しかしたった十秒でカウンターの前に着いてしまった。世古口《せこぐち》司《つかさ》と並《なら》んで立つ。そこで気づいた。これはもしかしたらまずいのかもしれない。勘違《かんちが》いされる。男と女が来て、それから――。
「あの」
世古口君が声を発すると、すぐに職員が飛んできた。さっき自分たちを確認した女の職員だった。
「なんでしょう?」
いかにも公務員らしい、まじめな顔。銀縁《ぎんぶち》の眼鏡。ひっつめ髪《がみ》。ちょっと肌《はだ》が荒《あ》れている。後《おく》れ毛《げ》をとめているピン留《ど》めは二本。髪ゴムは茶色。どうでもいいようなことばっかり観察《かんさつ》しているあたしがいた。
世古口君が言った。
「婚姻届《こんいんとどけ》の用紙って、ここで貰《もら》えるんですか?」
まあ、見事《みごと》に歓待《かんたい》された。寿司《すし》やら刺身《さしみ》やらがテーブルいっぱいに並んだ。これがまた、なかなかおいしかった。海が近いわりに、なぜか伊勢《いせ》の海産物はまずい。海産物の味は、まさしく雲泥《うんでい》の差だった。
「伊勢は舐《な》めた町ですよ」
その席で、夏目《なつめ》は愚痴《ぐち》りに愚痴った。
「よそ者に冷たいっていうんですかね」
「ほお、そういうものですか」
お爺《じい》さんが……いや、オジサンが興味深《きょうみぶか》そうに尋《たず》ねる。オジサンはさっきからなにも食べていなかった。それどころか、身体をほとんど動かしていない。ソファの上にどっしり座《すわ》ったままだ。
「ええ、古くからの観光地で、伊勢|神宮《じんぐう》なんて立派《りっぱ》なものを持ってるんで、妙《みょう》な公家《くげ》意識《いしき》みたいなものがあるみたいなんです。京都とちょっと似《に》てますね。町並《まちな》みも似てますけど、人も似てます」
「ああ、京都もよそ者が入りにくいっていいますな」
「あと女性の気が強いですね。男はわりにおとなしいんですけど」
それにしても、伊勢《いせ》生まれ伊勢育ちの僕の前で、よくもこう伊勢の悪口を言えるもんだ。夏目《なつめ》の悪口|能力《のうりょく》は、生まれつきの、もはや特技だな。スキルって言ってもいいくらいだ。普通《ふつう》、ちょっとは気を遣《つか》うだろうが。
「いや、伊勢の男はほんとだらしないんですけどね。女性はしっかりしてますよ」
だから、僕は伊勢の男なんだって。ムカついたので、刺身《さしみ》をばかばか食べた。それにしてもうまいな、これ。サヨリって魚らしいけど。ヒラメも最高だ。ああ、うまい。夏目の分かもしれないけど、かまうもんか。食ってやる。
談笑《だんしょう》していた夏目が、刺身をつまもうと手元を見て、おやって顔をした。皿が空だったからだ。もちろん、僕がひとりで食べちゃったんだけど。明らかにむかついた様子《ようす》で、夏目は僕を見てきた。しかしさすがに大人が食い物のことでいちいち怒《おこ》るのは――しかも人前だし――みっともないとわかっているらしく、文句《もんく》は言ってこなかった。ニッと笑っておく。夏目はムッと睨《にら》んできた。うはは、ヒラメうまかったすよ、夏目先生。
と、夏目が僕の鼻をつまんだ。
「奥さん、あれありますか」
「ありますよ」
「お願いします」
僕の鼻をつまんだまま、そんな会話をしている。
「ちょ、ちょっと! なんですか!」
やがてオバサンが、なにか盛った皿を出してきた。箸《はし》でそのなにかをつまむと、夏目は僕の口に近づけてきた。
「戎崎《えざき》、ちょっと食ってみろ」
「なんすか、それ」
「石川《いしかわ》さんの故郷《こきょう》のほうの名物でな、鮒寿司《ふなずし》っていうんだ」
「鮒寿司?」
悪い予感がしたものの、オジサンの故郷の名物を断《ことわ》るわけにはいかなかった。なにしろ、こんなに歓待《かんたい》されているのだ。その鮒寿司が口に入ったのと同時に、鼻をつまんでいた手を、夏目が離した。途端《とたん》、僕は口を押《お》さえた。ものすごい臭気《しゅうき》が口中に広がったのだ。うわ、なんだ、これ? 食い物? ほんとに? 腐《くさ》ってるよな? 絶対《ぜったい》腐ってるぞ!
しかし一度口に入れたものを吐《は》きだすわけにはいかず、僕は涙《なみだ》とともにその鮒寿司とやらを飲みこんだ。し、死ぬかと思った。
ほう、と夏目が唸《うな》った。
「おまえ、よく食えたな」
「ど、どうにか……」
「正直、臭《くさ》くてオレは食えないんだ」
「は?」
「いや、おまえ、ほんとよく食えたな。すげえな」
夏目《なつめ》はひたすら感心している。このバカ医者! 僕は殺意《さつい》を覚《おぼ》えた。自分に食えないものを人に食わすなよ!
奥さんがあたしもこれだけは食べられないんですよと言い、ほうたいしたもんだとオジサンは感心し、いやこれは食べられないですよと夏目はしつこく繰《く》り返《かえ》し、それから三人は声を揃《そろ》えて笑った。
うう……大人なんて嫌《きら》いだ……。
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「婚姻届《こんいんとどけ》の用紙って、ここで貰《もら》えるんですか?」
「ええ、はい、そうです」
「じゃあ、一枚ください」
その言葉《ことば》に、職員は戸惑《とまど》ったようだった。世古口《せこぐち》君を見る。それから、あたしを見る。迷《まよ》ったような表情が浮《う》かぶ。明らかに、間違《まちが》いなく、十代のふたり。子供でしかないあたしたち。
「こちらです」
しかしそれでも婚姻届を出してきてくれた。薄《うす》い紙に茶色の文字。婚姻届。はっきりとそう書かれている。まさかこんなものを、たった十七歳で、しかも恋人でも彼氏でも婚約者《こんやくしゃ》でもない人と貰いにくることになるなんて想像《そうぞう》さえしなかった。なんだか急に胸《むね》がドキドキしてくる。自分のことじゃないのに、まるで自分のことのように思えてくる。ああ、これに自分の名前を書いたら、お嫁《よめ》さんになるんだ。お嫁さん。その具体的な響《ひび》きが頭に浮かんだ途端《とたん》、さらに心臓が走りだす。
アイディアを出したのは、山西《やまにし》君だった。
「すっげえアイディアだろ」
世古口君に話を聞いたあと、どういうことなのか確認するため……いや、正気《しょうき》なのか確認するため……山西君に電話をかけた。電話口から聞こえてくる山西君の声は得意《とくい》げだった。すっげえだろ、と何度も繰《く》り返《かえ》した。
「マジですっげえだろ」
「わけわかんないよ! 婚姻届って、本気なの!?」
なぜか竹久《たけひさ》君のことが浮かんだ。未練《みれん》とか、そういうのじゃない。不思議《ふしぎ》なくらい竹久君のことは引っかかっていなかった。告白《こくはく》してみてようやくわかったけれど、あたしは竹久君のことがそれほど好きだったわけじゃなかったんだ。好きって気持ちに囚《とら》われてただけだった。だから一度|告白《こくはく》してしまったら、竹久《たけひさ》君の顔も姿《すがた》も妙《みょう》にぼんやりしてしまった。OKを貰《もら》わなくてよかったと思ったくらいだ。もしOKを貰ったら、あっという間に気まずくなって別れていただろう。
「ああ、本気だよ。戎崎《えざき》と里香《りか》ちゃんにあげようぜ」
「なんで!?」
「だって、あいつらもう両思いなんだろ」
「婚姻届《こんいんとどけ》って、結婚ってことだよ!」
さらに大きな声が出ていた。
「なに考えてるの、山西《やまにし》君!」
「いや、いい考えだろ」
「ちっともよくないよ! そんなに簡単《かんたん》なものじゃないでしょ、結婚って!」
「まあ、そうだけどさ」
山西君はさすがにたじろいだみたいだった。
「あいつらの場合、ちょっと特殊《とくしゅ》だからさ」
「なにがよ」
「……オレさ、戎崎に聞いたんだよな。いや、世古口《せこぐち》と話してるのを、つい聞いちまったんだけどさ」
「なにをよ」
「里香ちゃん、いつまで生きられるかわかんないんだってさ。これ、内緒《ないしょ》だぞ。他のヤツには話すなよ。おまえに頼《たの》むから、話すんだからな」
知ってるよ、山西君。あたし、知ってるから。それでお姉ちゃんの制服を秋庭《あきば》里香にあげたんだよ。
「あいつらさ、未来とかあるわけじゃねえんだよ。今しかないかもしれないんだ。だから、そういうのもありなんじゃねえのかな」
「だけど結婚なんて……」
「いや、オレも別に結婚する必要《ひつよう》はねえと思ってるんだ。要《よう》するにさ、形っていうか。その紙にふたりの名前を書くだけでもいいっていうかさ。役所に提出《ていしゅつ》しなくてもいいし。それじゃなんの意味もないかもしんないけど、なんていうのかな……ちょっとでも形があると、気持ちがはっきりするじゃん? もし戎崎がいらねえんだったら、捨てればいいしさ。おまえはどう思う?」
「どう思うって……」
心が重くなっていく。どこかにじっと立ち止まってるような感じ。なんだろう。事態《じたい》はどんどん進んでいく。戎崎|裕一《ゆういち》も秋庭里香も自分のずいぶん先を歩いている。おかしい。ちょっと前まで、戎崎裕一なんてガキだと思ってた。下手《へた》にいろんなことを知ってるだけに……たとえばサンマンの伝説《でんせつ》とか、干《ほ》し椎茸《しいたけ》が嫌《きら》いだとか、夜店で買った水鉄砲《みずでっぽう》を勢田川《せたがわ》に落として泣いたことがあるとか……よけいに戎崎《えざき》裕一《ゆういち》のことが軽く感じられた。顔を合わせるのも嫌《いや》なくらいだった。なのに気がついたらぶっちぎられている。背中《せなか》もろくに見えない。いったいなにが彼をそこまで変えたんだろう。ああ、簡単《かんたん》だ。
秋庭《あきば》里香《りか》――。
決して嫉妬《しっと》ではないと思う。だって戎崎裕一のことなんて好きでもなんでもないのだから。恋とか愛とか、そんな立派《りっぱ》なものではない。もっと薄汚《うすよご》れていて、ちっぽけなものだ。惨《みじ》めったらしいなにかだ。
ああ、なんだろう……よくわかんないよ、自分のことなのに……。
だけど裕ちゃん、カッコよかったな。あの壁《かべ》を走る姿《すがた》、みっともなかったけど、カッコよかった。あんなことをしてもらえる秋庭里香が羨《うらや》ましい。そしてようやく、気づいた。わかった。そうか。それなのかもしれない。
嫉妬じゃない。
羨ましい、なんだ。
φ
なかなか立派な庭だった。いろんな木が植《う》えてあり、それらはちゃんと手入れされていた。梅の木が一本あって、白い花をいくつもつけている。でかい庭石もあった。その庭石のひとつに、なぜか陶製《とうせい》のカエルの置物が乗っかっていた。ずいぶん長くそこに置いてあるらしく、すっかり薄汚れてしまっている。
カエルはひどく呑気《のんき》な顔で、庭に立っている僕と夏目《なつめ》を見つめていた。
「いい庭っすね」
「そうだな」
夏目は芝生《しばふ》の上で伸びをした。
「あー、ちょいと疲《つか》れたな」
「あの」
「なんだ」
「オジサンですけど……どこか悪いんすか?」
背後《はいご》を確認してから、僕は尋《たず》ねた。オジサンは家の中にいて、相変わらずソファに座《すわ》ったままだった。その向こうにあるキッチンで、オバサンがせわしくなく動いている。
「腎臓《じんぞう》が悪くてな、透析《とうせき》受けてるんだ」
「透析って……」
「ああ、わかんねえか。腎臓ってのは、身体に溜《た》まる老廃物《ろうはいぶつ》を濾過《ろか》したり、血液のバランスを保《たも》つ器官なんだが、それが壊《こわ》れちまったんだ。そうすると老廃物《ろうはいぶつ》が溜《た》まる一方になる上、まあたとえば必要《ひつよう》なビタミンやホルモンを供給《きょうきゅう》できなくなったりするわけだ。わかるか?」
「はあ、なんとか」
「だから週に三回くらい、機械を使って人工的に血液を調整してやるんだよ。それを透析《とうせき》っていうんだ。ただ完全に調整できるわけじゃないし、透析自体が身体に負担《ふたん》をかけるから、相当《そうとう》きつい。あと腎臓《じんぞう》が駄目《だめ》になると、他の器官もだんだん駄目になっていく。石川《いしかわ》さんが腎臓を悪くしてから、もう二十年くらいになるかな。腎不全が素因《そいん》で、心臓まで悪くなっちまってな。オレがこっちにいたとき、心臓の手術をしたんだ。大きな血管が詰《つ》まったんで、バイパスっていう、まあ迂回路《うかいろ》をつけた。それから弁膜《べんまく》がイカレたんで、その移植《いしょく》もした」
「弁膜……里香《りか》といっしょのヤツですか?」
「そうだ」
いい天気だった。今日の空はまるで秋のように澄《す》み渡《わた》っていて、ひどくきれいだった。雨でも降《ふ》ったのかもしれない。けれど吹き抜けていく風は暖《あたた》かく、確かに春の匂《にお》いがした。立《た》ち並《なら》ぶ木々はどれも芽《め》を膨《ふく》らませていた。
「石川さんな、最近弁膜の調子《ちょうし》が悪いんだと」
少ししてから、夏目《なつめ》が言った。
「うまく開閉《かいへい》できなくなってるんだ」
「じゃあ、また手術を?」
「もう無理《むり》だ」
「え? どうして?」
「体力がない。手術ってのは、相当の負担になるんだよ。見てのとおり、石川さんはかなり弱ってる。奥さんが手を貸さないと、百メートルも歩けないくらいだ。石川さんな、ジイサンみたいだろ。だけど、まだ五十六なんだぜ。病気が年を取らせちまったんだよ。とにかく、もう手術は無理《むり》だ。次になにかあったら、それまでだ」
夏目は、完全な説明|口調《くちょう》だった。医者の喋《しゃべ》り方《かた》になっていた。
「知ってるんですか、オジサンはそのこと」
「ああ、もちろん」
「オバサンは?」
「知ってるさ」
僕は後ろを見た。オバサンがオジサンにバナナを渡《わた》していた。全部じゃない。半分に割った、その片一方だ。オジサンが残りも寄越《よこ》せと手を伸ばす。オバサンが駄目ですよと手を振《ふ》る。オジサンがなにか冗談《じょうだん》を言ったらしく、オバサンが笑った。オジサンも笑った。ほんと仲が良いって感じだ。なんでもない日常《にちじょう》なのに、ありふれた日々なのに、彼らはひどく楽しそうだった。
夏目《なつめ》も僕と同じ光景《こうけい》を見ていた。
「二十年の闘病《とうびょう》だぞ。並大抵《なみたいてい》のことじゃねえよ」
「そっすね……」
「医者やってるとな、いろんな家庭を見ちまうんだ。家庭の事情ってヤツをさ。社会的にどんなに偉《えら》くても家族がバラバラってのもよくあるし、病気になった途端《とたん》部下《ぶか》がみんな離《はな》れていくってのも全然|珍《めずら》しくない。まだ生きてるのに、いきなり遺産《いさん》争いはじめたりとかな。病室の中で兄弟姉妹が怒鳴《どな》りあうなんて、しょっちゅうさ」
いつのまにか、夏目は医者の喋《しゃべ》り方《かた》じゃなくなっていた。
「言っちゃあ悪いが、石川《いしかわ》さんは社会的に見れば勝者じゃねえ。病気のことがあったから会社じゃまったく偉くなれなかったし、早々に退職《たいしょく》に追《お》いやられた。稼《かせ》いだ金も、人の半分くらいだろう。それでもな、あの人は幸せだと思うんだ。あんなふうに甲斐甲斐《かいがい》しく面倒《めんどう》を見てくれる奥さんがいるんだぜ。なにもかもわかった上で、ずっといっしょにいてくれる人がいる。十億円|抱《かか》えこんでひとりぼっちのオッサンなんざ、寂《さび》しいもんだったぜ」
ほんとはどうでもよかったんだけど、僕はあえて驚《おどろ》いておいた。
「十億円? そんなに持ってる人、知ってるんすか?」
そうさ、わざとらしいくらい驚いておいたさ。
夏目も大げさにニヤリと笑った。
「ああ、知ってるよ。これがな、戎崎《えざき》、不思議《ふしぎ》なことにすんげえケチ野郎《やろう》だったんだぜ」
「マジっすか?」
「入院費を安くあげるために、個室じゃなくて大部屋《おおべや》に入ってるんだぞ。飲み物なんて、缶コーヒーじゃなくて、紙コップの自販機で買ってたな。ほら、あっちのほうが二十円くらい安いだろ。その二十円のために、わざわざ他の病棟《びょうとう》まで行ってるんだぜ。十億持ってるんだから、ぱっと使っちまえばいいのにな」
「僕だったら、豪遊《ごうゆう》しますよ」
「おお、するよな、普通《ふつう》」
「可愛《かわい》いお手伝いさん雇《やと》いますね。それでゼリーとか食べさせてもらいますね。あーんしてください、なんて言ってもらったりとか」
「悪くないアイディアだな」
夏目は真剣《しんけん》に肯《うなず》いた。
「そいつは悪くないな」
「十億あったら、それくらいしてもいいっすよね」
「そうだな。三人くらい侍《はべ》らすな、オレだったら」
「あ、いいっすね。ひとりは絶対《ぜったい》眼鏡っ子で」
「……おまえ、そういう趣味《しゅみ》なの?」
僕たちは下らないことを言って、ゲラゲラ笑いあった。夏目《なつめ》がしてくれた話はもちろん心に響《ひび》いてきたけれど、ずっとマジな話に浸《ひた》りきれるほど僕たちは純粋《じゅんすい》じゃなかった。そうさ、大切な話ほど、さっさと流しちゃったほうがいいんだ。そういうのは、あとで……たとえば深夜《しんや》の病室のベッドに埋《う》もれながら、ひとりでこっそり考えればいい。
僕はふたたび後ろを見た。オジサンとオバサンはソファに並《なら》んで座《すわ》り、さっきのバナナを仲良く分けあって食べていた。
「いいっすね」
僕は目を細めて言った。
「いいよな」
夏目も目を細めていた。
木の枝《えだ》に小さな鳥がとまり、気ぜわしく顔を動かしたあと、いきなり飛び立った。その影《かげ》が、僕たちの足下を走っていった。
「は? 浜松《はままつ》?」
谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》は、そう叫《さけ》んでいた。
ナースステーションの中は、ほとんど戦場のようなありさまである。同僚《どうりょう》の美奈子《みなこ》はトレイ上の薬品をものすごい勢《いきお》いで仕分《しわ》けしてるし、婦長は耳の遠いお婆《ばあ》ちゃんに「だーかーらー! あれはお孫さんですよー! お孫さん! 忘《わす》れたんですか!?」と叫んでるし、ナースコールは三つ同時に鳴《な》っているし、新人|看護婦《かんごふ》幸恵《ゆきえ》は検査用《けんさよう》のアレとかコレを盛大《せいだい》にぶちまけてるし。
その喧噪《けんそう》の中、亜希子は幸田《こうだ》に尋《たず》ねた。
「どうして裕一《ゆういち》が浜松に行くんですか?」
「さあ」
幸田は他人事《ひとごと》のように首を傾《かし》げた。おい、あんたの担当《たんとう》患者《かんじゃ》だろうが。
「夏目先生に借りますよって言われてね」
「借りるって……理由は?」
「夏目先生の昔の同僚がね、戎崎《えざき》君の症状に興味《きょうみ》があるんだって」
ああ、切れそうだ。なんだよ、借りますよって。しかもそんなわけのわからない理由に納得《なっとく》するな。
「裕一はただのA型|肝炎《かんえん》ですよ。他の病院の方が興味を持つとは思えないんですけど」
「僕にそう言われてもねえ」
当事者《とうじしゃ》意識《いしき》ゼロだし。
「他になにか聞いてます?」
「どうだったかなあ。聞いたかなあ」
ガキか、こいつは。医者は『先生』なんて呼《よ》ばれるし、社会的地位はやたらと高いけれど、とんでもない欠陥《けっかん》野郎《やろう》の比率《ひりつ》も実は恐《おそ》ろしく高い。教科書どおりに麻酔《ますい》を打って、個人差なんて考えもせず、実は効《き》いてないのに効いてるはずだと言い張って切開《せっかい》を始めたりするヤツもいるくらいだ。ちなみに、この、目の前でぼうっとしてるヌケサクがやらかした実話だが。
「A型|肝炎《かんえん》とはいえ、裕一《ゆういち》は入院|患者《かんじゃ》ですよ」
「もちろん知ってるよ」
ああ? なにマジで答えてんだよ?
「そんな遠くまでつれだすのはまずいんじゃないですか? 親御さんの許可《きょか》は?」
「取ってないけど。いる?」
いるに決まってんだろうがっ。
「……で、つまり、幸田《こうだ》先生はなにもご存知《ぞんじ》ないんですね?」
「うん」
「……いつ帰ってくるんでしょう?」
「さあ」
「……わかりました。よーくわかりました」
駄目《だめ》だ、このボケナスと話してたら、マジで切れそうだ。さすがに医者を殴《なぐ》ったら退職《たいしょく》ものなので、我慢《がまん》するしかない。ヤケ半分でナースコールを取ったら、五〇三号室の高山《たかやま》さんで、点滴《てんてき》の針がはずれたと泣きそうな声が聞こえてきた。慌《あわ》てて行って、針を刺《さ》し直《なお》した。戻《もど》ったら、三一五号室の太田さんが食べたものをもどしたと言われ、その片づけに向かった。途中《とちゅう》で大部屋《おおべや》のエロジジイどもにエロ話を振《ふ》られた。笑ってごまかしておいた。あの辺の木《こ》っ端《ぱ》ジジイなんざ、多田《ただ》さんに比べりゃ可愛《かわい》いもんだ。簡単《かんたん》にあしらえる。そんないつもの日常《にちじょう》。当たり前の日々。白衣《はくい》の天使の実態《じったい》なんて、まあこんなものだ。
「ふう――」
ようやく休憩《きゅうけい》が取れたのは、あと一時間であがりというころになってからだった。今さら休憩|貰《もら》ってもしかたないのになと思いつつ、それでも一服《いっぷく》するために屋上《おくじょう》へと向かう。その途中で、やけにゆっくり歩く小さな背中《せなか》を見つけた。
「大丈夫《だいじょうぶ》かい、里香《りか》」
声をかける。
小さな背中が立ち止まる。
「あ、谷崎《たにざき》さん」
「屋上に行くの?」
「夏目《なつめ》先生に毎日少しずつ歩けって言われてるから」
言って、またゆっくりと秋庭《あきば》里香は歩きだした。それにしても健気《けなげ》なものだ。以前の里香なら、医者の指示《しじ》なんて絶対《ぜったい》守らなかっただろう。泣いて頼《たの》んでも、喚《わめ》いても、完全|無視《むし》だ。あまりにその無視っぷりが徹底《てってい》してるものだから、医者や看護婦《かんごふ》のほうが参《まい》ってしまう。あの夏目《なつめ》でさえも、里香《りか》には手を焼いていたくらいだ。
「手、貸そうか?」
「大丈夫《だいじょうぶ》です」
ただ歩くだけでも一生懸命《いっしょうけんめい》な感じ。よいしょよいしょって声が聞こえてきそうだ。まあ、まだ体力|戻《もど》ってないもんね。それにしても、「大丈夫です」だって。まったく。裕一《ゆういち》のときは、あっさり貸してもらってるのにさ。あたしの手じゃ不足ってわけか。
「今日、裕一いないんですね」
「夏目がつれだしたみたいだよ」
「え、夏目先生が?」
「わけわかんないよね、あの男ども。なにふたりでつるんでるんだか。浜松《はままつ》って言ってたけど。そういや、前にあんたと夏目がいたところだよね」
「……浜松」
「ん、どうした?」
なにか考えこんでいるので尋《たず》ねてみたが、里香は答えない。もう少し突っこんで尋ねてみようかと思ったが、やめておくことにした。里香に無理強《むりじ》いは通用しない。この谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》でも無理だ。怒《おこ》っても喚いても、たとえ殴《なぐ》っても、里香は決して自分のことを変えはしないだろう。
この子を変えられるのは、世界でたったひとりだけだ。
しかたなく、ただ黙《だま》りこんだまま、ふたりで廊下《ろうか》を歩きつづけた。階段を上った。屋上《おくじょう》に近づくと、辺《あた》りはすっかり静かになった。階下で戦場のような喧噪《けんそう》が渦巻《うずま》いているとは、とても思えない。自分たちの足音がやけに大きく聞こえる。
やがて屋上に着いた。
「あれ――」
むちゃくちゃ重いはずの鉄扉《てっぴ》が、すっと開いた。蝶番《ちょうつがい》がきしむときの、あの悲鳴《ひめい》のような音もしない。びっくりしたが、さらにびっくりしたことに、秋庭《あきば》里香がなぜか得意《とくい》げに笑っていた。
「それ、裕一が直したんですよ」
「裕一が?」
「油持ってきて、その蝶番のところに差してました。何度も開けたり閉めたりしながら、いっぱい油差して、そのあと裏側《うらがわ》にあるネジを調節《ちょうせつ》したんです。そしたら開けやすくなったんですよ。それでね、裕一、すっごく生意気《なまいき》に言うんです。ほら、これでおまえでも簡単《かんたん》に開けられるだろって。生意気ですよね、たかがドア直したくらいで威張《いば》っちゃうなんて」
まるで自分のことのように自慢《じまん》している。
「へえ、あのクソガキがねえ」
ドアを閉めてみる。開けてみる。確かに扉《とびら》はすごく軽くなっていた。以前は肩《かた》で強引《ごういん》に押《お》し開けなきゃいけなかったのに、今は片手で軽く開閉《かいへい》できた。
「やるじゃない、裕一《ゆういち》」
ニッと笑っておく。
里香《りか》は嬉《うれ》しそうに笑ったままだ。
「だけど裕一、油をパジャマにこぼして、べたべたにしてたんですよ。なのに全然気づかなくて、そのまま部屋《へや》に戻《もど》ろうとしてるんです。それから、ドライバーがなくなったとか言いだしたりして。そのドライバー、頭に巻《ま》いたタオルに差してたんですけどね」
「あはは。抜《ぬ》けてるところが裕一らしいね」
「ドライバーどこだよってきょろきょろしてるんですけど、あたしにはタオルに差してるのが見えるわけじゃないですか。あれ、かなり間抜《まぬ》けな光景《こうけい》でした」
「教えてあげなかったの?」
「はい、教えませんでした。おもしろかったから」
なかなか意地悪《いじわる》な少女である。
「見つけられた?」
「五分くらいたってから、いきなり気づいてました」
目に見えるようである。ああっ、こんなとこにあったのかよ、なんて叫《さけ》んでたに違《ちが》いない。亜希子《あきこ》は腹を抱《かか》えて笑った。
「駄目《だめ》だ、あのバカ」
「ほんとバカですよね」
ふたりで戎崎《えざき》裕一《ゆういち》の悪口を言いながら、手すりの辺《あた》りまで歩いていった。日向《ひなた》にふたつ、影《かげ》を並《なら》べた。ちょっと迷《まよ》ったあと、タバコを取りだして吸った。この子たちに白衣《はくい》の天使《てんし》面《づら》してもしょうがないし。もうアバズレだってバレてるし。里香《りか》は全然|嫌《いや》そうな顔をせず、手すりにその小さな身体を預《あず》けている。それにしてもまあ、きれいな子だ。睫《まつげ》はやたらと長いし、頬《ほお》から顎《あご》にかけてのラインはまるでガラス細工《ざいく》のように繊細《せんさい》だ。目はやたらと大きい。鼻は可愛《かわい》らしい。桜色の唇《くちびる》はぷっくりしてる。しかも、このきれいな髪《かみ》はなんだろう。まったく癖《くせ》がなくて、すとんと腰《こし》まで落ちている。ああ、神様ってのは不公平だ。こんなにきれいな子がいるなんて。こんなにきれいな子が、あんな病気を患《わずら》ってるなんて。ぐらぐらの平均台。落ちたら終わり。その上を、髪を揺《ゆ》らしながら、他のなにかも揺らしながら、危《あぶ》なっかしく歩きつづける日々。
「谷崎《たにざき》さん」
「ん」
「裕一、わかってると思いますか」
「なにを」
「あたしの病気のこと」
傾《かたむ》いた太陽のせいか、彼女の睫の影が、いっそう長く見えた。
「ちゃんと知ってると思いますか」
煙《けむり》をたっぷりと吸いこみ、肺《はい》にまわしてから、一気に吐《は》く。紫煙《しえん》は風に巻《ま》かれ、流れ去っていった。ああ、ちょっと疲《つか》れてるかな。こんな軽いタバコで、頭がくらくらするなんてさ。
「ちゃんと知ってると思うよ、裕一は」
「終わりがいつかわからないって……終わりが来るまでずっと続くって……どうしようもなく続くって……わかってると思いますか……」
「それはわかってないかもしれないね」
しばらく迷《まよ》った末、正直に言うことにした。
「あいつ、ガキだから」
「…………」
「あんたは病院長いからさ、病気ってのがどういうものか知ってるけど。たいていの人は……健康にすごしてきた人間は、そういうのわからないもんだよ。頭ではわかってても、なかなか感覚的《かんかくてき》には理解《りかい》できないよね」
「…………」
「それでも裕一《ゆういち》は理解《りかい》しようとしてるよ。しょせんA型|肝炎《かんえん》だけど、あいつなりにいろいろ見てきたからね。あいつの隣《となり》の病室にね、妙《みょう》なジイサンがいたんだ。そのジイサン、死んじまってね。裕一にちょっとした土産《みやげ》を残していったんだ。下らない土産だけどさ。ただ、その下らない土産だけじゃなくて、他にもいろいろ残していったと思うよ」
「…………」
「徐々《じょじょ》にわかっていくよ、裕一も。それでいいんじゃないかな」
里香《りか》がなにか言いかけた。挑《いど》むような目で見つめてくる。しかし出かかった言葉《ことば》を呑《の》みこんだ。もちろん急《せ》かさなかった。ゆっくりタバコを吸っておいた。ああ、煙《けむり》が沁《し》みる。身体に悪いってわかってるけど、やめられないんだよね。
「あたし、裕一からなにもかも奪《うば》っちゃうんですよね」
きっちり十秒後、里香がそう言った。さっきの挑むような調子《ちょうし》はたった十秒で消え失せてしまい、その声はむしろ弱々しかった。
今回も正直に肯《うなず》いておいた。
「そうかもしれないね」
「ひどいですよね、それって」
「まあ、そうかもね」
タバコはもう、すっかり短くなっている。
「だけど、それは裕一が選んだことだよ。自分自身で考えて、ちゃんと選んだんだよ」
「選んだ……」
「そう、あのクソガキはクソガキなりにさ、小さい脳みそで必死《ひっし》に考えたわけさ。知識《ちしき》やら経験《けいけん》やらが足りないから、しょせんは浅知恵《あさぢえ》だけどさ。その浅知恵なりに、必死になったと思うよ。それで選んだんだ。自分の道を決めた。だから、あんたがどうこう言う必要《ひつよう》なんてないんだ。ああ、違《ちが》う。そうじゃないや」
そうじゃない。自分に向かって言ってみる。そうじゃないよね。
「あんたにだって、どうこう言う権利《けんり》なんてないんだよ。つまりさ、なんていうかな。むしろ、あんたが悩《なや》んだりしちゃいけないんだ。男がさ、決めたんだよ。自分の人生をさ、選んだんだ。だったらもう、女はなにも言うべきじゃないよ。たとえあんたでもさ、あたしでもさ、その選択《せんたく》に口を挟《はさ》むべきじゃないんだ」
日がゆっくりと傾《かたむ》いてゆく。自分たちの影《かげ》が伸びていく。とっくの前にタバコはフィルターの辺《あた》りまで吸ってしまっている。それでもさらに吸う。赤い光が強く燃えあがる。隣《となり》にいる少女が顔を伏《ふ》せる。睫《まつげ》の先が震《ふる》えている。もちろん気づかない振《ふ》りをする。二本目のタバコに火をつける。
少女が顔を上げたのは、太陽が山の向こうに沈《しず》みかかったころだった。
「裕一、バカですよね」
「そうだね」
全力同意。
「ほんとバカだね」
それからふたりでちょっと笑って、バカだね、アホだね、と繰《く》り返《かえ》した。戎崎《えざき》裕一《ゆういち》がそばにいたら猛烈《もうれつ》に怒《おこ》るくらい、繰《く》り返《かえ》した。
新大阪行きの新幹線は、時間どおりにやってきた。ぷしゅうという音とともに、ドアが開く。その車両に乗ろうとしているのは僕たちだけだった。一歩車両に足を踏《ふ》み入《い》れたところで、振《ふ》り返《かえ》ってみる。
「夏目《なつめ》先生、来ましたよ」
「ああ」
声をかけると、ようやく夏目は歩きだした。しかしその顔はどこかぼんやりしている。さっきから、夏目はこの調子《ちょうし》だった。いや、さっきってわけじゃないな。石川《いしかわ》さんの家を出るちょっと前からだ。
「あ、ここですよ。七番のDとE」
切符を見ながら確認する。問答無用《もんどうむよう》で窓側《まどがわ》に座《すわ》るのかと思ったけど、夏目は僕の後ろで突っ立ったままだった。僕が窓側におさまると、特に文句《もんく》を言うこともなく、通路側に腰《こし》かけた。
どうしたんだろ、夏目のヤツ?
このバカ医者がこんなに静かなのは不気味《ぶきみ》だった。なにか企《たくら》んでるんじゃないかという疑念《ぎねん》に囚《とら》われてしまう。少し揺《ゆ》れたあと、新幹線は滑《なめ》らかに走りだした。里香《りか》が住んでいた町、かつて夏目が住んでいた町、浜松《はままつ》が遠ざかってゆく。
にしても、いつから夏目は静かになっちゃったんだっけ?
ただ座ってるのも暇《ひま》なので、僕は数時間前の記憶《きおく》をたぐり寄せた。飯を食ってるときは元気だったな。つか、思いっきり意地悪《いじわる》な、いつもどおりの夏目だった。そのあと、庭に出て、ふたりで話をしたんだ。あのときも普通《ふつう》だった。金持ちの悪口とか言いまくってたもんな。えーと、それからどうしたんだっけ。ああ、そうだ。カエルの置物の横に三毛猫《みけねこ》がやってきて、日向《ひなた》ぼっこを始めたんだ。
その様子《ようす》を見て、夏目が、
「三毛か。じゃあ、雌猫《めすねこ》だな」
なんてことを言った。
「三毛って雌なんですか?」
「ああ、遺伝的《いでんてき》にそうなんだよ」
「へえ」
「たまに雄《おす》の三毛《みけ》もいるけど、すげえ珍《めずら》しいんだと。漁師《りょうし》に売ったりすれば、百万くらい出してくれるらしいぞ」
「百万? マジですか?」
「雄の三毛|猫《ねこ》がいるとシケにあわないって言われてるんだよ。漁師ってのは信心深いからな」
むう。伊勢《いせ》に戻《もど》ったら、町中の三毛猫を捕《つか》まえてみようかな。一匹でも雄がいたら、百万だ。鳥羽《とば》とか南島町《なんとうちょう》のほうに行ったら漁師はいくらでもいるから、あっちで売ればいい。だけど大変《たいへん》だぞ。滅多《めった》にいないから、そんな値段《ねだん》がつくんだろうし。百匹捕まえて百匹とも雌《めす》だったら、くたびれ損《ぞん》だ。
「猫のこと詳《くわ》しいんっすね。飼《か》ってたことあるんですか」
「いや、ねえよ」
微妙《びみょう》な間。
「詳しいのが、近くにいただけだ」
「はあ」
曖昧《あいまい》な言い方だったので、それからどう話をつないでいいのかわからなくてぼんやりしていると、夏目《なつめ》がいきなり、
「ごはん!」
と叫《さけ》んだ。
突然《とつぜん》なのでびっくりしたが、そんな僕にかまうことなく、夏目はごはんごはんと大きな声で繰《く》り返《かえ》した。なんだ、このバカ医者は。ついに狂《くる》っちまったのか。
唖然《あぜん》として夏目を見上げたところ、夏目が三毛猫を指さした。
「ほら、戎崎《えざき》」
「あ――」
毛繕《けづくろ》いをしていたはずの三毛猫が、今は僕たちのほうをじっと見ていた。なんというか、目が真剣《しんけん》である。
「ごはん!」
三毛猫のお尻《しり》がむずむず動く。
「ごはん!」
「なに言ってんですか?」
うはは、と夏目は笑った。
「こういう住宅地に住み着いてる猫ってのは、野良《のら》っていっても、半分飼い猫みたいなもんなんだよ。で、餌《えさ》を貰《もら》うとき、たいてい『ごはんあげるね』なんて言われてるわけだ」
「はあ」
「だから、『ごはん』って聞くと、無条件《むじょうけん》に反応《はんのう》しちまうんだよ」
ごはんごはん、と夏目《なつめ》は繰《く》り返《かえ》した。三毛猫《みけねこ》はそのたびにお尻をむずむずさせている。僕たちが怖《こわ》いけど、餌《えさ》は欲しいわけで、猫なりに葛藤《かっとう》してるってことなんだろう。それにしても、この男は本当に意地悪《いじわる》だ。猫に期待《きたい》させても、実際《じっさい》に餌をやる気はまったくないらしい。猫がお尻をむずむずさせる様子《ようす》を見て笑ってるだけだ。僕はリビングに行くと、残っていた焼き魚をつまんで、庭に引き返した。
「おまえ、なにしてんの?」
「だってかわいそうじゃないですか」
言いつつ、そっと猫に近づいてゆく。三毛猫は僕を警戒《けいかい》してるみたいだったけど、それでも焼き魚の匂《にお》いに気づいたらしく、その鼻をひくひくさせていた。猫が乗っている庭石の一メートルくらい手前にそっと焼き魚を置くと、僕はそのまま後ずさりして、夏目の隣《となり》に戻《もど》った。猫はずっと僕の動きを用心深く観察している。
「戎崎《えざき》、おまえ、意外と優しいな」
本気で驚《おどろ》いた様子で、夏目が言う。
僕は大げさに、蔑《さげす》むような目をしておいた。
「先生とは違《ちが》いますから」
「……なんかムカつく言い方だな」
「いや、ただの真実です」
「……蹴《け》っていいか、戎崎?」
「あ、来ましたよ」
岩から猫がぴょんと飛《と》び降《お》りた。僕たちのほうを見つつ、それでも焼き魚に近づいてゆく。匂いを嗅《か》いだ。僕たちを見た。また匂いを嗅いだ。僕たちを見た。そしてたっぷり一分くらい様子を窺《うかが》ってから、ようやく魚を食べはじめた。
「うまそうに食ってやがるな」
「そうですね」
「刺身《さしみ》もあげりゃよかったな。誰《だれ》かが強欲《ごうよく》にも食っちまったが」
「……蹴っていいっすか?」
「蹴り返していいか?」
なんて下らないことを話してたら、後ろから声をかけられた。
「うまそうに食べてますね」
オジサンだった。
ああ、まだ歩けるんだな。とはいっても、オバサンに手を引いてもらってるけど。なにかを隠《かく》すためなのか、それとも他に理由があるのか、オジサンは毛糸の手袋《てぶくろ》を右手にだけはめていた。その右手を、オバサンがしっかり握《にぎ》っている。
ヨタヨタと、オジサンは僕たちに近づいてきた。
「ご馳走《ちそう》を貰《もら》ってよかったな」
そして、猫《ねこ》にそう話しかけた。
「すいません、勝手に餌《えさ》をあげてしまって」
夏目《なつめ》が頭を下げた。
「ああ、いいんですよ」
オバサンが大げさに手を振《ふ》る。
あ、そっか。オジサンたちが猫好きとは限《かぎ》らないもんな。餌をやるのを、快《こころよ》く思わないかもしれないんだ。しまった。猫のことしか考えてなかった。
「あの、すいませんでした」
僕も慌《あわ》てて頭を下げた。
オバサンはやっぱり、
「いえいえ、大丈夫《だいじょうぶ》ですから」
と言いつつ、大げさに手を振った。
たとえ嫌《いや》だったとしても、客の前ではそう言わないだろうな。まあ、やっちまったもんはしかたないか。数分後、猫はすっかり魚を食べつくし、ものすごく満足そうな表情で、ふたたび岩の上に戻《もど》った。元の、カエルの置物の横だ。さっきよりも念入《ねんい》りに毛繕《けづくろ》いしている。
オバサンはその様子《ようす》を見て、くすくす笑った。
「あの猫、毎日あそこに来るんですよ」
「はあ」
僕と夏目は揃《そろ》って肯《うなず》いた。
「日が当たって、岩が温《あたた》かくなるんでしょうね。今日みたいに天気がいい日だと、午後はずっとあそこで寝《ね》てるんですよ」
「今日はいい天気だからね」
オバサンの言葉《ことば》に肯いたあと、オジサンが空を見上げた。
「秋みたいな空ですな」
確かに、頭上《ずじょう》に広がった空は、秋のそれのようにやたらと高かった。この時期の空なんて、たいていうすぼけたような青なのに、今日は妙《みょう》にくっきりしていて、手を伸ばしても決して届《とど》きそうにないくらい高く感じられた。
「本当に秋みたいですね」
「去年の秋ごろ、ニュースでやっておったんですけどね。秋の空というのは、むしろ低いそうですよ」
「え、そうなんですか?」
「なんでも空気が澄《す》んでるので、逆《ぎゃく》に高く感じられるらしいです。それから、雲の形が関係あるとも言うとりましたな」
「ああ、なるほど」
「今朝方ちょっと雨が降《ふ》ったから、空気もきれいなんでしょう」
オジサンと夏目《なつめ》の会話を聞きながら、僕は空を見上げた。確かに、今日の雲はずいぶん高いところに浮《う》かんでいる。そうか、あの雲のせいなのか。それに雨が降ったから、空気中の埃《ほこり》が減《へ》ってるってわけか。
「そうでしたか。ああ、なるほど。そういうことだったんですか」
夏目が苦笑《にがわら》いを浮かべた。意外と簡単《かんたん》な答えなんですね、なんて言って、ずっと苦笑いしている。ちょっと変な反応《はんのう》だった。感心するならわかるけど、どうして苦笑いなんだろうか。
夏目が無口になったのは、そのあとだった。しばらくはひどく饒舌《じょうぜつ》で、いろんなことを話していたのに、急に元気がなくなってしまったのだった。しかたなく、僕は愛想笑《あいそわら》いをひたすら浮かべながら、オジサンとオバサンの相手をした。夏目が黙《だま》りこんでるんだから、しかたない。オジサンたちがすごく気を遣《つか》ってくれたので、会話はけっこう弾《はず》んだ。大人とあんなに話したのなんて、初めてかもしれない。そうしてお茶とお菓子《かし》をごちそうになったあと、僕たちは帰ることになった。来たときと違《ちが》って、今度はオバサンが車で駅まで送ってくれた。
オバサンとは、改札口の前で別れた。そのとき、オバサンは突然、僕の手を両手でぎゅっと握《にぎ》ってきた。
「頑張《がんば》ってね」
オバサンはひどく真剣《しんけん》な目をしていた。
「大変《たいへん》なことばかりだけど、精一杯《せいいっぱい》にね」
変な話だった。
頑張らなきゃいけないのは、オバサンのほうだ。だってオジサンは腎臓病《じんぞうびょう》で、ひとりで歩くこともできなくて、五十六なのにお爺《じい》ちゃんみたいで。精一杯やらなきゃいけないのは、オバサンのほうだ。
混乱《こんらん》したあと、気づいた。
オバサンは、知ってるんだ――。
僕と里香《りか》のことを。
慌《あわ》ててそばにいた夏目を見たところ、ヤツはまだぼんやりしたままだった。僕はどうしていいかわからなくなり、ただ「はい」とだけ言って肯《うなず》いた。オバサンの好意《こうい》に応《こた》えるためになにか言うべきだと思ったけど、いい言葉《ことば》がまったく浮かんでこなかった。
動きだした新幹線の中、僕は考えた。いや、考えようとした。けれど思考《しこう》はいっこうにまとまらなかった。さまざまなことが頭に浮かぶものの、それらはどれひとつとして焦点《しょうてん》を結ばぬまま、どこかへ流れ去っていった。とにかく、わかったのは、たったひとつだけだ。なぜ夏目が僕を浜松《はままつ》につれてきたのか、ようやく理解《りかい》した。夏目《なつめ》は見せたかったんだ。オジサンを、オバサンを、ふたりの生活を。僕と里香《りか》が歩むであろう道を。
豊橋《とよはし》をすぎたころ、夏目はすっかり寝《ね》ていた。名古屋まで、あと三十分ってところだ。それにしても、夏目は寝てばっかりいる。まあ、寝た振《ふ》りなのかもしれないけどさ。いいや、寝た振りでも。いいかこのお節介《せっかい》野郎《やろう》、もう少しだけ寝た振りしておけよ。
僕は尋《たず》ねた。
「夏目先生、運命とか未来は僕たち次第《しだい》なんですよね?」
夏目は答えない。
眠《ねむ》ってるんだから、当たり前だ。
「僕たちの両手は、欲しいものを掴《つか》むためにあるんですよね?」
もちろん夏目は答えない。
「オレ、信じますよ、それ」
眠っているであろう夏目に、僕は言った。
「マジで信じますから」
そうさ、どんなに世界が理不尽《りふじん》でも、むちゃくちゃでも、思いどおりにいかなくても、僕たちはなにかを引き寄せようとするべきなんだ。そういう現実に抗《あらが》って生きていくべきなんだ。
だって、そうすることしかできないだろ?
諦《あきら》めるなんて、絶対《ぜったい》に無理《むり》だ。最後の最後まで、僕は信じるさ。世界は僕たちのものだって。僕たちの両手は、必《かなら》ず大切なものを掴めるんだって。
そうさ、僕は信じてやるさ。
市役所にいたのは、たぶん二十分くらい。短かったような気もするし、長かったような気もする。とにかく、市役所を出たときには、すっかり疲《つか》れてしまっていた。たかが二十分立って説明を聞いてただけなのに、十キロマラソンを完走したときよりもずっとずっときつい……。
「疲《つか》れたね、世古口《せこぐち》君」
駅へと向かう足が重かった。
「そ、そうだね」
世古口君は放心《ほうしん》したような顔をしている。
あまりに疲れすぎてそれ以上の言葉《ことば》は出てこず、無言《むごん》のまま歩きつづけた。税務署《ぜいむしょ》の前を通り、水泳教室の前を通り、シティプラザの前を通り、レストランの前を通り、郵便局の前を通り、最後に古臭《ふるくさ》い旅館をすぎたところで右折し、そのまま駅へ向かった。
駅に着くと、そばにあるファーストフード店に入った。
「はあ……」
席に腰《こし》を下ろした途端《とたん》、息《いき》が漏《も》れる。
「はあああぁぁ……」
世古口《せこぐち》君の吐《は》いた息は、たぶんあたし[#「あたし」は底本では「わたし」]の三倍くらいある。
それぞれホットコーヒーをすすり、半分くらい飲んだところで、ようやくちょっと元気が戻《もど》ってきた。
それにしても、ほんと参《まい》ったなあ。
世古口君ったら、肯《うなず》いちゃうんだもん。おふたり用ですか、なんて聞かれて。うん、って肯いちゃうんだもん。そのあと、職員の人がいろいろ説明してくれたけど、なんだか緊張《きんちょう》しちゃって、ほとんど覚《おぼ》えてない。はいはいって聞いてたのに、なにもかも素通《すどお》りって感じ。ああ、もう。世古口君が肯いたりするから。お姉ちゃんに頼《たの》まれて取りにきたんですとか言っておけばよかった。そうすれば、あんなに緊張したりしなかっただろう。顔、真っ赤になっちゃって、それがすごく恥《は》ずかしかった。お姉さん、きっと気づいただろうな。ふたりとも真っ赤になってること。
こっちが世慣《よな》れてないってことがわかったらしく、職員の女の人は婚姻届《こんいんとどけ》の書き方を事細《ことこま》かく説明してくれた。わざわざ婚姻届を一枚|駄目《だめ》にしてまで、試《ため》し書《が》きをさせてくれた。その婚姻届は、今あたし[#「あたし」は底本では「わたし」]のポケットに入っている。枠線内《わくせんない》の左側に世古口|司《つかさ》って書いてある。そして右側に水谷《みずたに》みゆきって書いてある。ふたりの名前の並《なら》んだ婚姻届。思いだすだけで、顔が赤くなってくる。ポケットに手を突っこむと、四つ折りにしたその紙片《しへん》に指先が触《ふ》れた。たった一枚の紙切れが、なんでこんなにも心を動かすんだろう。
「参ったね」
やけに疲《つか》れた感じで、世古口君が笑った。
釣《つ》られて、あたし[#「あたし」は底本では「わたし」]も笑ってしまう。
「うん、ほんと参ったね」
「あの女の人、丁寧《ていねい》に説明してくれたけど、かえって困《こま》っちゃったよね」
「すっごくちゃんと説明してくれるから、あたし、なんか悪いことしてるような気になっちゃった」
「あ、僕も」
「ほんと参ったね」
「ほんと参ったよね」
ああ、変な感じ。世古口君の顔が直視《ちょくし》できない。妙《みょう》に恥ずかしい。つい婚姻届にふたりの名前が並んでるのを思いだしてしまう。ポケットに手を入れると、やっぱりそれはそこにあった。
「あ、あのさ」
「な、なに」
「その、見せてもらえるかな」
「見せるって……」
「あの、書いたヤツ」
「あ、うん」
ポケットに手を入れ、婚姻届《こんいんとどけ》を取りだす。慌《あわ》てたせいで、薄《うす》い紙を少し折り曲げてしまった。そのことが、妙《みょう》にやましく感じられる。こんな大切なものは、たとえ試《ため》し書《が》きでも、折り曲げちゃいけないんじゃないかな。ああ、四つ折りにしたのも駄目《だめ》だったかも。
「うわ」
紙片《しへん》を広げた世古口《せこぐち》君が、そんな声を漏《も》らした。
「ほんとに婚姻届だね」
「あたしにも見せて」
「う、うん」
渡《わた》されたそれを、じっくりと眺《なが》める。婚姻届って書いてある。世古口|司《つかさ》って書いてある。水谷《みずたに》みゆきって書いてある。不思議《ふしぎ》な感じ。まるで本物に思えてくる。まあ紙は確かに本物なんだけど。これをこのまま出せば、あたしと世古口君は結婚することになるんだ。ハンコを押《お》して、証人《しょうにん》をつければ、そのまま認《みと》められる。結婚か。すごい言葉《ことば》だ。思《おも》い浮《う》かべるだけで、頭も心もぐらぐらする。
「すごいね、世古口君。婚姻届だって」
「そ、そうだね」
「ほんとにほんとにすごいね」
「そ、そうだね」
そして二人そろってため息《いき》をついてしまった。ふと顔を上げると、ちょうど世古口君もあたしを見ていた。世古口君がすぐに目を逸《そ》らすものだから、よけいに胸《むね》がドキドキしてきた。ああ、なんだろう。
「これ出したら、あたしと世古口君、結婚しちゃうんだよね」
「え、ええっ!」
世古口君がその身をのけぞらせた。
「け、結婚って!」
「たとえばだよ! もちろん!」
つい早口になってしまう。ああ、あたし、なにを言おうとしてるんだろう。自分のことなのに、舞《ま》いあがっちゃって、全然わけがわからない。
「たとえばの話!」
「そ、それはそうだね」
世古口君の顔が、真っ赤になってる。
あたしもきっと、同じくらい真っ赤になってる。
「すごいね」
「うん、すごいよね」
「ほんとすごいね」
真っ赤なまま、わたしたちは何度も何度もそんな言葉を繰《く》り返《かえ》した。婚姻届《こんいんとどけ》。世古口《せこぐち》司《つかさ》。水谷《みずたに》みゆき。何度も何度もその文字を目で追《お》いつづけた。
病院に戻《もど》ってきたのは、もうすっかり暗くなったころだった。丸一日、出歩いていたことになる。さすがに疲《つか》れたのか、身体が重かった。それにしても夏目《なつめ》め、病人にあんな遠出をさせるなんてどうかしてるぞ。
「ふう――」
息《いき》を吐《は》いて、ベッドに腰《こし》かける。振《ふ》り返《かえ》ると、闇《やみ》に染《そ》まった窓ガラスに、室内が映りこんでいた。白い光を放つ螢光灯《けいこうとう》、無骨《ぶこつ》なベッド、サイドテーブルに積みあげられた教科書。それから、ベッドに座《すわ》るガキがひとり。ああ、背中《せなか》が丸いぞ。もっとしゃきっとしろよ。ニヤリと笑ってみる。ガラスに映ったガキもニヤリと笑った。マジでさ、しっかりしろよ、おまえ。あのオバサンと同じくらいさ、しっかりしなきゃいけないんだぜ。できるか? 尋《たず》ねてみたけれど、ガラスに映るガキはニヤリと笑ったままだ。できるかどうかなんて関係ないよな。やるしかねえよな。そうだろ? やっぱりヤツは笑ったままだ。
やがて誰《だれ》かがドアをノックした。
「はい?」
適当《てきとう》に言って、僕は向き直った。と同時にドアが開き、長い髪《かみ》がその隙間《すきま》からぱらりと垂《た》れた。続いて、白い顔が現れた。僕の顔を見つめてくる。
「なんだよ、里香《りか》」
「……裕一《ゆういち》、大丈夫《だいじょうぶ》?」
「うん? なにがだよ?」
「疲れた顔してるよ」
「そうだな、ちょっと疲れたな」
「大丈夫?」
「もちろん大丈夫だって」
「だったらいいけど」
ドアに手をかけ、里香は覗《のぞ》きこむような姿勢《しせい》のままでいる。僕は笑って、ひょいひょいと手|招《まね》きした。怒《おこ》るかと思ったけど、里香は意外と素直に、室内に入ってきた。ドアがパタンという音を立てて閉まった。静かな室内に、僕と里香《りか》だけがいた。まるでこの室内が、ひとつの世界のように感じられた。僕と里香だけの世界だ。
「やあ」
後ろで手を組んだ里香が、わざとらしく言った。
僕もわざとらしく言っておいた。
「よお」
里香が笑って、僕も笑った。そうしてしばらく、僕たちは笑いあっていた。ちょっと太ってきたな、里香。ああ、駄目《だめ》だ。太ったって言ったら、怒《おこ》るんだよな。えーと、なんて言えばいいのかな。
五秒ほど考えた末、
「だいぶ体重|戻《もど》ってきたんじゃないか?」
と僕は尋ねた。
うん、と里香が肯《うなず》く。
「少しずつね、戻ってるよ」
「頑張《がんば》って食べろよ。おまえ、痩《や》せすぎだからさ」
そこで気づいた。里香に立たせっぱなしってのはよくないよな。しかし見れば、丸椅子《まるいす》はベッドの向こう、つまり窓側《まどがわ》のほうに置いてあった。母親があっちに持っていったんだろう。取りに行こうと思ったが、なんだかそれも面倒《めんどう》な気がして、僕は自分の横をぽんぽんと叩《たた》いた。
「ここ座《すわ》れよ、里香」
「うん」
今度も素直に肯《うなず》くと、里香は僕の横に腰《こし》かけてきた。並《なら》んで座ってるので、わざわざ横を見ないと里香の顔は視界《しかい》に入ってこない。けれどそんなことをしなくても、里香をちゃんと感じられた。なんとなく、ぬくもりが、それ以外のなにかが、伝《つた》わってくる。
「谷崎《たにざき》さんに聞いたんだけど……浜松《はままつ》に行ってたんだって?」
すぐ横で、里香の声がする。
耳に優しく響《ひび》く。
「ああ、行ってきたよ」
「どうだった?」
「いいところだったな。飯とか、最高にうまいしさ。そういや、おまえ、ずっとあそこにいたんだよな」
「そうだよ」
「ほんといいところだったな」
そう言う僕の声は、なぜか弾《はず》んでいた。ああ、なんだろうな。里香といっしょにいると、すんげえ安心するよ。疲《つか》れてるけど、それがむしろ心地《ここち》いいくらいだ。
「お疲《つか》れ様でした」
ぺこりと頭を下げ、里香《りか》が言った。
僕もぺこりと頭を下げた。
「うっす」
それから僕たちはなにも話さなかった。言葉《ことば》はいっさいなかった。けれどそれでも全然|寂《さび》しくはなかった。里香のことがなんとなくわかったし、里香が僕のことをわかってくれていることもなんとなくわかった。そしてそれで十分だった。少し身体が揺《ゆ》れ、僕の肩《かた》と里香の肩が触《ふ》れた。僕たちはそのまま、お互《たが》いにもたれあった。ああ、こうやって生きていけばいいんだ。もたれて、もたれられて。僕は里香を支《ささ》えられるだろうか。そんなのわかんないけどさ、自信だってないけど、僕は精一杯《せいいっぱい》やってみるよ。なあ、里香。できるかぎり、やってみるから。振《ふ》り向《む》き、ガラスに映っているであろう僕たちの姿《すがた》を見たかったけれど、身体を動かしたらこのバランスは崩《くず》れてしまう。だから僕は振り向きたい気持ちを我慢《がまん》して、そのままでいた。石川《いしかわ》さんと、奥さんのことを思いだした。並《なら》んでソファに座《すわ》り、バナナを食べていた。あんな姿が映っているといいな。同じ姿があるといいな。
「もう春だね」
ずいぶんたってから、里香が言った。
僕は肯《うなず》いた。
「そうだな」
「桜、見につれていってね」
つれていって、という言葉に、僕は有頂天《うちょうてん》になった。ああ、なんだろうな。頼《たよ》られるのが、どうしてこんなに嬉《うれ》しいんだろう。
「まかせとけ。最高の場所があるから、そこにつれてってやるよ」
僕は胸《むね》を思いっきり張《は》って、得意《とくい》げに言った。
それがおかしかったのか、里香はくすくす笑った。
「あたし、お餅《もち》買おうっと」
「花より団子《だんご》かよ」
「花もちゃんと見るもん」
「どうせだったら、赤福《あかふく》にしようぜ」
「赤福、おいしいよね」
「今度さ、作りたてのを買ってきてやるよ。うまいぞ、作りたてのは。あ、そうだ。本店に行ったら、赤福ぜんざいってのがあるんだ」
「赤福ぜんざい? なにそれ?」
「赤福のアンコと餅でぜんざいを作るんだよ。あれはほんと、マジでうまいぞ」
「赤福ぜんざい」
そう呟《つぶや》く里香は、やけに真剣《しんけん》な顔をしていた。
「それはやっぱり食べなきゃいけないよね」
「おお、伊勢《いせ》に住んでるんだから、食べるべきだ」
「うん。食べる」
なんだかな。すんげえしっかり肯《うなず》いてやがるよ、この女は。今度は僕がくすくす笑う番だった。女ってのは、どうしてこんなに甘いものが好きなんだろう。よーし、伊勢中の甘いものを里香《りか》に食べさせてやろう。なんてったって伊勢は観光地だから、甘いお菓子《かし》はいくらでもあるんだよな。七越《ななこし》ぱんじゅうだろ、二軒茶屋餅《にけんぢゃやもち》だろ、利休饅頭《りきゅうまんじゅう》だろ、へんば餅だろ……ええと、他にもいっぱいあるぞ。考えているうちに、どんどん楽しくなってきた。里香の前に、甘いものを積みあげてやろう。そうだ、そうしよう。
「もう戻《もど》るね」
言って、里香がぴょんと床《ゆか》に降《お》りた。まるで小さな子供みたいだった。
「送るよ」
僕もぴょんと床に降りた。
「いいよ。ひとりで大丈夫《だいじょうぶ》だから。それに、裕一《ゆういち》、疲《つか》れてるもん」
「いや、送る。つか送りたい。だいたい、男が送るって言ったら、女は断《ことわ》っちゃ駄目《だめ》なんだぞ。ありがとうって言わなきゃ、男のプライドが傷《きず》つくんだよ」
ちょっとばかり恥《は》ずかしかったので、後半は大げさに言っておいた。
里香は僕の顔をじっと見つめてきた。不自然なくらい長いあいだだった。つい緊張《きんちょう》しちゃったくらいだ。やがて裕一のくせに生意気《なまいき》だなあと呟《つぶや》きつつ、里香は歩きだした。ってことは、送ってもいいってことなんだろう。僕は里香のあとを追《お》った。にしても裕一のくせにってなんだ、裕一のくせにって。
里香の髪《かみ》が、揺《ゆ》れている。
楽しそうに、揺れている。
「なあ、里香」
「なに」
「花見、行こうな」
「うん」
「うまいもの、食おうな」
「うん」
「いっしょに行こうな」
「うん」
やけに静かな病院の廊下《ろうか》を、僕たちはぺたぺたと歩きつづけた。里香の長い髪は、相変わらず楽しげに揺れていた。
僕たちは、これから、こうして歩いていくんだ。
なあ、そうだろ、里香《りか》――。
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「ふう――」
その作業《さぎょう》を終えた僕は、大きく息《いき》を吐《は》いた。なにしろ、失敗するわけにはいかなかった。予備《よび》なんてないのだ。たったひとつきり。今書いたばかりの文字を、じっと見てみる。顔を寄せる。逆《ぎゃく》に離《はな》す。うーん、なんか曲がってる気もする。字、下手《へた》なんだよな。けど他の誰《だれ》かに書いてもらうわけにはいかないし。ま、こんなもんか。そうだよな。僕にしては上々だ。そういうことにしておこう。うん。
ぱたんと、ブツを閉じる。
これで準備《じゅんび》は終わりだった。あとは行動あるのみだ。しかしどんな顔をすればいいのか考えると、ただそれだけで恐《おそ》ろしく緊張《きんちょう》した。クールにいくべきだろうか。それとも思いっきり情熱的にいくべきだろうか。クールに振《ふ》る舞《ま》うほうがカッコいい気もするけど、情熱的なほうが里香《りか》は喜ぶかもしれない。いやいや、あのわがまま意地悪《いじわる》女のことだから、素直に喜ぶなんてないかもな。ふん、なんて鼻を鳴《な》らされるだけかも。貰《もら》っておく、なんて一言で終わってしまうかも。いや、だけどさ、さすがにこのアイディアには里香も驚《おどろ》くだろう。すげえ喜ぶんじゃないかな。頬《ほお》を赤らめたりしてさ。
想像《そうぞう》するのは勝手なので、僕は自分に都合《つごう》のいい妄想《もうそう》を思《おも》い浮《う》かべられるかぎり思い浮かべた。まあ、あんなことやこんなことだ。つい顔が赤くなってしまう。いやいや、やましいことは考えてないけどさ。そうさ、ほんのちょっとだけしか――。
病室のドアがノックされた。
「あ、はい」
ブツを布団《ふとん》の下に隠《かく》し、僕は言った。
ドアを開けて現れたのは、みゆきだった。
「あれ? どうしたんだよ?」
今日はみゆきが監視役《かんしやく》としてやってくる日だけど、いつもよりずっと時間が早い。まだ午前中だぞ。
「ん、ちょっと」
そんな曖昧《あいまい》なことを言って、みゆきは病室に入ってきた。そのあとに、やたらとでかい影《かげ》が続く。僕はさらに驚《おどろ》いて尋《たず》ねた。
「あれ? どうして司《つかさ》もいるんだ?」
「あ、えっと、ちょっと」
司も曖昧なことを言って、ぺこぺこと頭を下げた。
用があるのかと思ったが、しかし病室に入ってきたふたりは所在《しょざい》なげに突っ立ったままでいる。どうにも妙《みょう》な雰囲気《ふんいき》だった。司もみゆきも、僕と視線《しせん》を合わせないのだ。それだけじゃなくて、お互《たが》いの視線も合わせない。病室に三人もいるのに、その視線がいっさい重ならないってのも変な話だった。
どうしたんだ、こいつら?
しばらく様子《ようす》を窺《うかが》っていたが、やはりふたりともあらぬ空間に視線をさまよわせている。僕はなんだか不気味《ぶきみ》になってきた。じっと見ていると、みゆきと目が合った。〇・一秒で逸《そ》らされた。それで今度は司をじっと見てみた。しばらくして目が合った。やっぱり〇・一秒で逸らされた。
おかしい。よくはわからないが、絶対《ぜったい》におかしい。
「……おまえら、もしかしてつきあってる?」
洒落《しゃれ》というか、ちょっとした揺《ゆ》さぶりのつもりで言ってみたところ、ふたりがビクリとその身を震《ふる》わせた。その反応《はんのう》に、こっちが驚いてしまった。
「え? マジで?」
いつの間に、そんなことになってたんだ?
みゆきが大げさに両手を振《ふ》った。
「ないから! それはないから!」
司も慌《あわ》てている。
「ち、違《ちが》うよ!」
ふたりともやけにムキになっている。僕はちょっと混乱《こんらん》した。いや、司《つかさ》とみゆきがつきあうのなら、それはそれでいっこうにかまわないっていうか、むしろ祝福《しゅくふく》してやりたいくらいなんだけど、ふたりの反応《はんのう》からすると嘘《うそ》をついてるわけじゃない気がする。
「裕《ゆう》ちゃん、違うからね! ほんとに!」
「そ、そうだよ! 水谷《みずたに》さんに失礼だよ!」
「そ、そんなことないけど! 世古口《せこぐち》君に悪いよ!」
「え、ええっ! わ、悪くはないけど……水谷さんが困《こま》るだろ!」
なるほど。ようやく構図《こうず》が見えてきた気もする。ふむ。そういうことなのか。あんまり突っこむのも無粋《ぶすい》なので、僕はとりあえずニヤニヤ笑っておくことにした。ふたりは必死《ひっし》になっていろいろ否定《ひてい》していたけど、やがて顔を赤くしたまま黙《だま》りこんでしまった。にしても、いったいなにがあったんだ。こういうのには、きっかけってのが必要《ひつよう》なはずだ。
「で、おまえら、なんの用?」
それを探《さぐ》るために、僕は尋《たず》ねてみた。
ふたりがお互《たが》いの顔をチラリと見る。
「あのね、裕ちゃん――」
意を決したように、みゆきが近づいてきた。右手をポケットに突っこむ。ポケットから出てきたとき、その手はなにかを持っていた。四つに折った紙切れだ。やけに大切そうに持っている。そして同時に、僕は視界《しかい》の隅《すみ》で、慌《あわ》てふためく司の姿《すがた》を捉《とら》えていた。でっかい両手をぶんぶん振《ふ》りまわし、なにか言おうとしているが、慌てすぎて言葉《ことば》が出てこないって感じだ。
「み、水谷さん!」
ようやく司の声が病室に響《ひび》き渡《わた》った。病院中にも響き渡ったに違いない。
「そ、それ、違う! 書いてないのは僕が持ってるから!」
「え?」
みゆきの動きがとまった。そのとき、みゆきは僕に紙切れを手渡《てわた》そうとしていた。みゆきは手を伸ばしていたし、僕も手を伸ばしていた。あと少しで、紙切れに僕の指が触《ふ》れようかという瞬間《しゅんかん》――。
「あ、違う! 違うから!」
司と同じくらい大きな声を上げて、みゆきが紙片《しへん》を引っこめた。ポケットに押《お》しこみ、それからもさらに首を横に振っている。
なにパニクってるんだ、こいつら?
僕はもうわけがわからなくて、さっきよりもさらに顔を赤くしているふたりの姿を、ただ唖然《あぜん》として見つめた。みゆきがポケットにしまった紙片はいったいなんだったんだろう。
「あのさ、わけわかんないんだけど?」
途方《とほう》に暮《く》れつつ、僕は尋《たず》ねた。
みゆきが僕のほうを見て、それから司《つかさ》のほうを見た。心なしか、司を見た時間は、僕を見た時間より短かった。司のほうも同じように僕を見て、それからみゆきを見た。こっちのほうは逆《ぎゃく》に、僕を見る時間よりも、みゆきを見る時間のほうが長かった気がする。
今度はみゆきじゃなくて、司が僕に近づいてきた。
「あ、あのさ、これ」
「なんだ?」
司はその手に、さっきみゆきが出してきたのと同じような紙片《しへん》を持っていた。
「山西《やまにし》君に、渡《わた》してくれって頼《たの》まれたんだ」
「え、山西が?」
あのブサイクな顔を思い浮《う》かべながら、僕は紙片を受け取った。なんだかやけに薄《うす》い紙だった。茶色のラインが見えた。いろいろ細《こま》かい字が書いてあった。僕はさして深く考えることもなく――ふたりの態度《たいど》からして、深く考えておくべきだったんだ――その紙片を開いた。
「これって!」
そして言葉《ことば》を失った。
婚姻届《こんいんとどけ》――。
紙片には、そんな文字がしっかり書かれていた。
知識《ちしき》として知ってはいたけれど、本物を見たのは生まれて初めてだった。なんというか、ものすごい衝撃《しょうげき》だった。初めて赤福氷《あかふくごおり》を食べたときの、だいたい三百倍は驚《おどろ》いた。『婚姻届』という文字を読み直し、それから司を見て、みゆきを見た。司はうつむき、みゆきはしきりに瞬《まばた》きをした。
「これ、本物?」
尋《たず》ねると、司とみゆきが揃《そろ》ってコクコクと肯《うなず》いた。
「マジで?」
またコクコクと肯いた。
「なんでこんなものがあるんだ?」
「だ、だから山西君が渡してくれって」
司はさっきからどもりっぱなしだ。
「なんのために?」
「ゆ、裕一《ゆういち》が使うかもしれないって」
「は? オレが? なんで?」
「だから……」
言いよどんだ司《つかさ》が、救《すく》いを求めるように、みゆきのほうを見た。みゆきは瞬《まばた》きもせずに司を見つめ返し、視線《しせん》で先を促《うなが》した。
「そ、その、ゆ、裕一《ゆういち》と、り、里香《りか》ちゃんと……」
やっぱりどもりながら、司。
僕はアホみたいに、その言葉《ことば》を繰《く》り返《かえ》した。
「オレと里香?」
言葉を発した瞬間《しゅんかん》は、どうやら僕までもが判断《はんだん》能力《のうりょく》を失っていたらしい。口にした言葉の意味を理解《りかい》できぬまま、僕は手元の紙片《しへん》を見つめた。僕と里香。婚姻届《こんいんとどけ》。そのふたつが、なかなかつながらなかった。
やがて、つながった。
「お、おまえら、バカじゃねえのっ!」
僕は叫《さけ》んでいた。病院中どころか、伊勢《いせ》中にその声は響《ひび》き渡《わた》っただろう。
「な、なんでそういうこと考えられるんだよっ!」
「あ、あたしたちじゃないから! 山西《やまにし》君だから!」
「そ、そうだよ!」
「お、おまえらが持ってきたんだろ! でも!」
「そ、それは山西君に頼《たの》まれたからで!」
「そ、そうだよ! 頼まれたからだよ!」
「た、頼まれたからって、ノコノコ持ってくるなよな!」
「で、でも!」
「そ、そうだよ!」
僕たちはもうわけもわからぬまま、ひたすら大声で怒鳴《どな》りあった。三人とも、顔が真っ赤になっていた。ああ、なんだ、これ。どうして持ってるだけでこんなに恥《は》ずかしいんだよ。うわ。マジで婚姻届だよ。本物だよ。初めて見たよ。すげえ、なんかわかんねえけどすげえよ。
「あのバカの言うことを真に受けるなよな!」
「でも、山西君がどうしてもって言うから!」
「そ、そうだよ!」
「あいつはバカなんだよ!」
「わかってるけど! どうしてもって!」
「そ、そうだよ!」
「司、おまえに自分の意見はないのか! さっきから肯《うなず》いてばっかりじゃねえか!」
その直後、ドアがものすごい勢《いきお》いで開き、亜希子《あきこ》さんが突入《とつにゅう》してきた。
「うるさい! なに喚《わめ》いてんのさ! 黙《だま》れ、ガキども! ここは病院なんだよ!」
まったく亜希子さんはひどい人だ。僕が悪いわけじゃないのに、いきなり頭を張《は》り飛《と》ばしてくるんだもんな。すっげえ痛《いた》かったよ……。
「わかった!? わかったんなら、返事しな! ほら、返事は!?」
「は、はい!」
僕たち三人は、揃《そろ》って声を上げた。
よしって感じで、それでもまだ怒《おこ》りつつ僕たちを見つめたあと、亜希子《あきこ》さんが僕の持っている紙片《しへん》に気づき、尋《たず》ねてきた。
「なに、それ?」
「あ、いや――」
僕は必死《ひっし》になって隠《かく》した。
それは、婚姻届《こんいんとどけ》だった。
恐《おそ》ろしいことに、正真正銘《しょうしんしょうめい》、本物の婚姻届なのだった。
受付のほうに顔を向けると、世古口《せこぐち》君が看護婦《かんごふ》さんにぺこぺこ頭を下げていた。どうやら親戚《しんせき》の人らしい。というわけで、あたしはひとりきりでロビーの端《はし》っこに立っていた。午後のロビーは診察《しんさつ》を待つ人でいっぱいだ。病人なんだから当たり前なんだけど、みんなどことなく元気がなくて、こんなに人がいるのにむしろそれが辛気《しんき》くさい感じ。
ああ、それにしても、裕《ゆう》ちゃんに渡《わた》しちゃったんだ……。
まだ名前の書いてない婚姻届。考えれば考えるほど、あたしたちはバカみたいだ。よけいなお節介《せっかい》もいいところ。ちょっとやりすぎだと思う。山西《やまにし》君の言うように、裕ちゃんと里香《りか》には今しかないのかもしれない。いつかやってくる将来なんて、彼らにはないのかも。だけど、やっぱりあたしたちは高校生だし、高校生に婚姻届ってのは変だ。ああ、それにしても、どうしてこんなに気持ちがすっきりしないんだろうか。もう一度世古口君のほうを見てみたけれど、彼はまだ立ち話をしていた。とはいっても世古口君はほとんど喋《しゃべ》ってなくて、親戚の看護婦さんだけがべらべら口を動かしつづけている。
「はあ――」
立っているのも疲《つか》れてきたので、あたしはロビーに置かれている長椅子《ながいす》に腰《こし》かけた。そしてポケットに手を突っこみ、そこに入っている四つ折りの紙片に触《さわ》ってみた。焦《あせ》ってたせいで、裕ちゃんにこれを渡しそうになっちゃった。慌《あわ》ててポケットに突っこんだから、その紙片はぐしゃぐしゃになってしまっていた。そっと取りだし、膝《ひざ》の上に置くと、両手で膝に押《お》しつけるようにして皺《しわ》を伸ばした。何度|引《ひ》っ張《ぱ》っても、押しつけても、一度ついた皺は全然消えない。そのことがなんだかものすごく惨《みじ》めに感じられた。きっと現実もこうなんだな。いつからでも、どこからでもやり直せるなんて大人は言うけれど、こんなふうに皺だらけにしてしまったら、もう元には戻《もど》らない。そういうことが、世の中にはたくさんある。
そんなことを考えるたびに、途方《とほう》に暮《く》れる。
立ちつくす。
どこでもない場所の、真ん中で。
まるで自分は不満を詰《つ》めこむ袋《ふくろ》みたいだった。いつもいつも嫌《いや》なことばかり考えてる。世の中には、楽しいことや嬉《うれ》しいことがたくさんあるはずなのに、そういうのはほんのちょっとしか入っていない。ああ、違《ちが》う。楽しいときだって、ちゃんとあるよね。
たとえば――好きな音楽を聴《き》いてるとき。自分に重なるような歌詞があると、ちょっとほろりと来る。泣くのは辛《つら》いんだけど、不思議《ふしぎ》と幸せだったりもして。そういうのはとても大切な時間に思える。
たとえば――放課後《ほうかご》の教室で玲奈《れな》たちと話してるとき。新しいお菓子《かし》のこととか、男の子のこととか、音楽のこととか。たわいもない、話すそばから消えてしまうようなことばかりだけど、ただとにかくいっしょにいるのが楽しい。だけど、その楽しさは不思議と曖昧《あいまい》で、輪郭《りんかく》もはっきりしてなくて、すぎてしまうと途端《とたん》に消え去ってしまう。だからあれはただ時間を潰《つぶ》してるだけなのかもしれない。そんな友情なんて学校を卒業したら消えてしまうのかも。だけど、たとえそうであったとしても、あたしはあの放課後の教室が大好きだ。光に透《す》けるガラス片《へん》みたいな感じ。しょせんはガラス片だけど、それでもきらきらと光ってる。
たとえば――お姉ちゃんがたまに買ってきてくれるカンパーニュのケーキを食べてるとき。繊細《せんさい》な甘さを舌《した》で味わってると、ただそれだけで嬉しくなっちゃう。
そう、楽しいことだって、たくさんあるんだ。自分はただの女子高生で、成績は良くも悪くもなくて、運動神経も良くも悪くもなくて、顔やスタイルだって良くも悪くもなくて。楽しいことも、不安も、人並《ひとな》み。そしてその人並みの楽しみはふわふわしてる。不満もふわふわしてる。妙《みょう》に透明《とうめい》で、だけど完全には透明じゃなくて。暖かいのに冷たくて。ひとりが好きなのにひとりは寂《さび》しくて。
よくわかんないけど、とにかく自分にだってうまく掴《つか》めない……そして掴めないからこそ、よけいに溜《た》まっていく……。
裕《ゆう》ちゃんは、違《ちが》うんだろうな。ふと、そんなことを思った。裕ちゃんだって、同じように楽しかったり不安だったりするんだろう。だけど、裕ちゃんはそういうのをもっと深刻《しんこく》に受け止めてる気がする。あたしみたいに、ふわふわしてない。それはたぶん裕ちゃんだけじゃなくて、男の子はみんなそうなんだろう。竹久《たけひさ》君だって可愛《かわい》い彼女がいて、成績がよくて、クラス委員をやるくらい人望があったりするのに、時々すごく辛そうな顔をしていた。
ふわふわしてないから、きっと裕ちゃんは壁《かべ》を走ったんだろう。
必死《ひっし》になれたんだろう。
情《なさ》けなさも、惨《みじ》めさも、そっくり呑みこんで、次の一歩を踏《ふ》みだした。
別に男の子になりたいと思ってるわけじゃないし、男の子が羨《うらや》ましいわけでもないけれど、そういうことを考えると女である自分が情《なさ》けなくなってくる。
ああ、早く世古口《せこぐち》君が戻《もど》ってこないかな。こうやってひとりでいると、どんどん寂《さび》しくなってくるよ。ああ、全然|皺《しわ》がとれない、この婚姻届《こんいんとどけ》。くしゃくしゃのまま。なんの意味もない紙なんだから捨てちゃえばいいのに、どうしてこんなにこだわってるんだろう。
ふと顔を上げると、金属製のゴミ箱が見えた。ずいぶん長く使われているらしく、クリーム色の塗装《とそう》があちこち剥《は》げてしまっている。あのゴミ箱に捨ててしまえばいいんだ。そうすれば、もう囚《とら》われないですむ。
「あ、あの。待たせちゃってごめん」
迷《まよ》っていたら、そんな声が頭上《ずじょう》から降《ふ》ってきた。
世古口君だ。
「行こう、水谷《みずたに》さん」
「うん」
そんなことをしても意味がないと知りつつ、それでもできるだけ丁寧《ていねい》に婚姻届をたたみ、ポケットに入れた。やっぱり捨てられないかもしれない……。
病院を出て、てくてくと駐車場を歩いていく。
太陽が後ろから照りつけてきて、あたしと世古口君の影《かげ》が前に伸びていた。影を追《お》って、どこまでもどこまでも歩きつづけてゆく。後ろを歩いているのに、世古口君の影はあたしの影よりずっと向こうまで伸びていた。男の子って背《せ》が高いんだなあ、大きいなあ、なんて当たり前のことを思ったりした。
駐車場を出ようとしたとき、その脇《わき》に作られた花壇《かだん》に目がいった。レンガで区切られた、車数台分の空間。
あたしは立ち止まった。
「花」
一言だけ、口から漏《も》れる。
当然意味がわかるわけもなく、世古口君が尋《たず》ねてきた。
「え? なに?」
「ほら、そこの紫陽花《あじさい》」
花壇には何種類かの花が植えられていた。あんまりちゃんと手入れされてないらしく、なんとなく雑然としている。その一番奥に、紫陽花があった。
「まだ枯《か》れた花がついてるんだよ」
あ、ほんとだ、と言って、世古口君は生真面目《きまじめ》に感心している。
「紫陽花って梅雨《つゆ》ごろ咲くのに、まだ花が残ってるのか。しぶといんだなあ。あと二、三カ月したら次の花が咲くはずだよね」
「紫陽花《あじさい》って、そういう花なの。だから、あたし紫陽花って嫌《きら》い。もうとっくに枯《か》れてるのに、いつまでもその茶色の花びらをつけてるん[#「ん」は底本では無し]だもん。終わったんなら、早く散っちゃえばいいのにね」
「う、うん」
「桜のほうがいいよ。すぐ散っちゃうもん。終わったら、切り替えられるし。だけど、こんなふうにいつまでも花が……それも全然きれいじゃない花がついてたら、いつまでたっても切り替えられないよ。引きずりっぱなしになっちゃう」
勝手に口が動いていた。こんなこと、世古口《せこぐち》君に言ったってしかたない。だいたい、自分だって、なにを言おうとしてるのかよくわからないし。なんだか曖昧《あいまい》な自分が嫌《いや》になってきた。そんな自分を置き去りにしたくて、足早に歩きだす。だけどついてくる。どこまでも。いつまでも。あたしはあたしでしかいられない……。
「あ、あのさ」
しばらくしてから、世古口君が後ろから話しかけてきた。
「なに」
「え、えっと」
歩きつづける。電柱が近づいてくる、通りすぎる。世古口君は黙《だま》ったままだ。二本目の電柱が近づいてくる、通りすぎる。やっぱり世古口君は黙ったままだ。振《ふ》り返《かえ》ると、彼はひどく情
けない顔をしていた。どうしたんだろうか。
「なに、世古口《せこぐち》君?」
「いや、うん……いいんだ、別に……」
「そう」
ほんとはもう少しちゃんと話しかけたほうがいいのかもしれない。世古口君がなにか言いたいってことはわかってるんだから。余裕《よゆう》を持って、笑って、なにって聞いてあげれば、口下手《くちべた》な世古口君だってその言葉《ことば》を口にできるだろう。だけど余裕なんてなかった。笑えなかった。
だから、ふたりで、無言《むごん》のまま、歩きつづけた。
ああ、まったく信じられねえよ。
なに考えてんだ、あのバカどもは。
婚姻届《こんいんとどけ》?
マジかよ?
ってなことを考えつつ僕は病院の廊下《ろうか》を歩いていた。午後になってから、今度はレポート作成|監視《かんし》のためにみゆきがやってくることになったので、それまでに里香《りか》を屋上《おくじょう》につれていくことにしたのだ。
婚姻届のことを思いだすと、それだけで顔が熱くなってくる。
「山西《やまにし》のバカめ!」
つい、罵《ののし》っていた。
「司《つかさ》とみゆきもどうかしてるだろうが!」
すれ違《ちが》ったお婆《ばあ》ちゃんが、僕の独《ひと》り言《ごと》に気づいたらしく、不審《ふしん》そうな顔で見てきた。殺気立《さっきだ》った目で、ブツブツ呟《つぶや》きながら歩いてるわけだから、相当《そうとう》不気味《ぶきみ》だったんだろう。ごまかすために輝《かがや》くような笑《え》みを浮《う》かべてみたところ、お婆ちゃんはさらに不審そうな顔になって、急ぎ足で去っていった。
ヤバい……なんか危《あぶ》ないヤツだと思われたぞ……。
それもこれも、全部山西と司とみゆきのせいだ。僕は立ち止まり、一回だけ深呼吸《しんこきゅう》した。こんなことに、いつまでも惑《まど》わされてちゃいけない。そうさ、もっと大切な、っていうか、もっとちゃんとしたアイディアを実行に移《うつ》さなきゃいけないんだ。ああ、もちろんそれは婚姻届のことじゃない。あんな恥《は》ずかしいものは、ベッドの下の段ボール箱の、その一番|底《そこ》に隠《かく》してある。
僕は左手に持ったブツを、じっと見た。
偶然《ぐうぜん》見つけられたのは、すっげえラッキーだったよな。これは神様の思《おぼ》し召《め》しってヤツかもしれない。見ていると、顔がニヘラと緩《ゆる》んでくる。山西《やまにし》の婚姻届《こんいんとどけ》と違《ちが》って、こっちはほんと最高のアイディアだった。まあ、あれだな。これが僕と山西の差だな。ふと気づくと、さっきとは別のお婆《ばあ》ちゃんが、けれどやっぱり不審《ふしん》そうに僕を見ながら歩いていた。ひとりで立ちつくし、ニヤニヤ笑ってる僕を。慌《あわ》てて今度も輝《かがや》くような笑みに切《き》り替《か》えたが、お婆ちゃんはやっぱり早足で歩き去っていった。
これはヤバい……本当にヤバい……。
僕は歩きだした。そうさ、さっさと実行に移しちゃえばいいんだ。いろいろ妄想《もうそう》に励《はげ》んでいるから、こんなことになってしまうんだ。それに、こういうのは勢《いきお》いだからさ。今|渡《わた》さないと、渡せなくなっちまうよ。気がつくと、僕は急ぎ足になっていた。なんだか、地面に足がついてる感じがない。まるで空中を進んでいるみたいだ。どうかしてると思ったが、だからこそ僕はさらにいっそう足を速めた。
やがて、目的の場所に着いた。
二二五号室。
秋庭《あきば》里香《りか》。
そんな文字を眺《なが》め、ごくりと息《いき》を呑《の》む。ああ、近づいてきたら、すっげえ緊張《きんちょう》してきた。ああ、待てよ。こいつは隠《かく》さなきゃな。里香に感づかれちゃ、台無しだもんな。左手を背中《せなか》のほうにまわし、パジャマのズボンにブツを差しこんでから、右手でノックした。
「あ、オレ」
「いいよ、入って」
少しくぐもった里香の声が聞こえてきた。
さあ、いよいよだ!
大きく息を吸い、ノブをまわして、ドアを開ける。里香はパジャマの上に紺色《こんいろ》のカーディガンを羽織《はお》り、ベッドに腰《こし》かけていた。宙《ちゅう》にぶらんと浮《う》いた両足がまるで子供みたいだ。
「遅《おそ》いんだけど」
しかし声はやけに恐《おそ》ろしい。
「え?」
「三時って話だったよね」
「あ、ああ」
サイドテーブルに置かれた時計を見ると、三時五分だった。
「五分、すぎてる」
里香は本気で怒《おこ》っていた。
「遅い」
僕は頭を抱《かか》えたくなった。どこかの町中で待ちあわせしたわけじゃなくて、病室で待ってただけじゃないか。五分くらいすぎたって、全然たいしたことじゃないだろ。なに本気で怒ってんだよ、この女は?
「あのさ――」
「なに? 言い訳?」
またもや、そんな憎《にく》たらしい口をきくのだ。どうして僕はこんな女を好きになってしまったんだろう。性格、最悪じゃねえか。せっかく僕が、こんな最高のアイディアを携《たずさ》えてやってきたのにさ、なんか雰囲気《ふんいき》ブチ壊《こわ》しだよ……。
さすがに腹が立ってきたが、しかしなにを言ったところで結局《けっきょく》言い負かされることはわかりきっていた。だいたい、これ以上|里香《りか》を怒《おこ》らせるのは得策《とくさく》じゃない気がする。つか怖《こわ》いし。怖いのは嫌《いや》だし。
なぜか僕は素直に謝《あやま》っていた。
「ごめん、悪かったよ」
ああ、情《なさ》けねえ……情けねえよ、戎崎《えざき》裕一《ゆういち》……。
「次は気をつけるから、許《ゆる》してくれよ」
あはは、と笑ってみせる。
里香はそれでもまだ不機嫌《ふきげん》そうに僕を睨《にら》んでいたが、しばらくして、
「ん」
と言って、手を伸ばしてきた。
まるで王女様に傅《かしず》く臣下《しんか》のように、僕は里香に歩み寄ると、その手を取った。里香がぴょんと、ベッドから降《お》りる。
「行こう、裕一」
「お、おう」
そして僕たちは手をつないで歩きだした。こうして手をつないでいるのは、色っぽいことが理由じゃなくて、単純に里香の足下がおぼつかないからだ。まだ体力が戻《もど》りきっていない里香はちょっとしたことでふらつくし、そうなったらあっさり倒《たお》れてしまう。だから、バランスを崩《くず》したとき、すぐに支《ささ》えられるように手を持ってやってるってわけだ。
ただ、手をつないでることに、変わりはない。
それはいわば、ちょっとした特権だった。この特権を有しているのは、里香のお母さんと、僕だけだ。
なかなか誇《ほこ》らしいことではある。
「なに笑ってるの、裕一?」
「あ、いや、別に」
「どうせまたろくでもないことでも考えてたんでしょ?」
「違《ちが》うって。考えてねえって」
なんてことを言いつつ歩いていたら、廊下《ろうか》の向こうから、もうひとりの、特権を有する人間がやってきた。
里香《りか》のお母さんだ。
「屋上《おくじょう》へ行ってくる」
里香はお母さんにそう言って、立ち止まることもなく進んでいく。
お母さんのほうは立ち止まり、優しい言葉《ことば》で話しかけてきた。
「気をつけてね、里香」
「わかってる」
まあ、いかにも親子らしい会話だった。里香のほうは別になんでもない感じで話してて。お母さんのほうは気を遣《つか》いすぎるくらい遣ってて。僕が母親と話すときも、だいたいこんな感じだ。母親はすげえ世話焼《せわや》きで口うるさい。そういうのがうざくて、僕は母親とあまりまともに話さないことにしてる。はいはい、って感じだ。
すれ違《ちが》うとき、里香のお母さんと目が合った。
「あの、行ってきます」
僕は早口で言って、ぺこりと頭を下げた。お母さんはひどくゆっくりした動作《どうさ》で頭を下げた。そして僕は気づいた。お母さんは、僕と里香の、つながれた手を見た。ほんと一瞬《いっしゅん》だけど、確かに見た。
里香に引《ひ》っ張《ぱ》られ、どんどん進んでいく。
お母さんを置き去りにして、僕たちは歩きつづける。
五メートルくらい歩いてから振《ふ》り返《かえ》ると、お母さんはまださっきの場所に立ったまま、僕たちを見ていた。その姿《すがた》はやけに小さかった。いや、実際《じっさい》小さいんだけどさ。里香と同じくらいだから、身長は百五十ちょっとだろう。だけど、もっともっと小さく見えたんだ。
ふいに、肩《かた》に感触《かんしょく》が蘇《よみがえ》ってきた。
壁《かべ》を駆《か》け、屋上《おくじょう》から里香の病室に降《お》り立《た》ったとき。入っていいよと里香に言われて病室に入ったとき。お母さんの肩に、僕の肩がぶつかった。お母さんはバランスを崩《くず》し、小さな身体がぐらりと揺《ゆ》れた。そしてたぶん、僕は同じことを繰《く》り返《かえ》しつづけているんだろう。今この瞬間《しゅんかん》も、お母さんはあんなふうに揺れているんだ。あの小さな人の、たったひとつの希望を、僕は奪《うば》ってしまった。そうさ、ちゃんと理解《りかい》して、覚悟《かくご》して、奪ったんだ。ああいう態度《たいど》も、だから呑《の》みこまなきゃいけないんだ。わかっちゃいたけど、それでも僕はうつむきたくなった。心がカサカサした。割《わ》れた爪《つめ》でなにかをひっかいたような感じ。
里香の手をぎゅっと握《にぎ》りしめる。
里香も握りかえしてきた。
言葉《ことば》はないままに、やがて僕たちは階段の一番上にたどりついた。屋上《おくじょう》の鉄扉《てっぴ》に手をかけようとしたら、里香のほうが先に手を伸ばした。
小さな手が、あっさりと、鉄扉を開ける。
「ほら、開けられる」
里香《りか》は得意《とくい》げに笑った。
僕は思わず苦笑《にがわら》いしてしまった。
「知ってるって。オレが油を差して調節《ちょうせつ》したんだぜ」
まったく、なに得意げになってるんだろうな、この女は。
僕たちはそうして笑いながら屋上《おくじょう》に足を踏《ふ》みだした。里香の笑顔《えがお》のおかげで、さっきのカサカサした感じは少し和《やわ》らいでいた。
春を感じさせる光を一身に浴《あ》びながら、里香は空を見上げた。
「気にしなくていいよ、裕一《ゆういち》」
「え? なにがだよ?」
手を離《はな》し、里香はゆっくりコンクリートの上を歩いていく。
「ママのこと」
「…………」
「そんなに簡単《かんたん》じゃないかもしれないけど、いつかきっとわかってくれるから。大丈夫《だいじょうぶ》だよ。あたしたちがお互《たが》いにちゃんと信じてれば、なんとかなるよ」
里香はゆっくり歩きつづけている。
その背中《せなか》を見ながら、僕はちょっとびっくりしていた。なんなんだろうな、里香は。どうしてこんなにはっきりした言葉《ことば》を使えるんだろ。僕には無理《むり》だ。よけいなことを考えに考えて。やがてそのよけいなことに囚《とら》われて。足掻《あが》くほど深みにはまって。結局《けっきょく》、曖昧《あいまい》な言葉に逃《に》げてしまう。だけど里香は違《ちが》う。本当の言葉を、そっくり伝《つた》えてくる。
あの『チボー家の人々』で伝えられた言葉のように。
僕はそっと、背中に手をまわした。パジャマのズボンに、それは差しこんであった。黄色い装丁《そうてい》の本。『チボー家の人々』の一巻だ。けれどこの『チボー家の人々』は、里香が僕にくれたものじゃない。この前、古本屋で見つけたヤツだ。みゆきにお金を借りて買った本。
一巻の五十七ページ、その最後のほうに、こう書かれている。
命をかけてきみのものになる。
言葉のあとに『J』という署名《しょめい》があるけれど、パジャマのズボンに差しこんである本は、その『J』に二本、線が引いてある。そして脇《わき》に『Y』と汚い字で書いてある。そう、その頭文字は――。
これが、僕の返答だった。
里香に対する気持ちだ。
今から、これを里香に渡《わた》そう。なんて言おうかな。ああ、難《むずか》しいことを考えないほうがいいな。ただ、渡《わた》せばいいんだ。ほら、って。あとで読んでみろ、って。それだけでいい。きっと、ちゃんと、伝《つた》わる。
僕は右手で『チボー家の人々』を掴《つか》んだ。
さあ、渡そう――。
そのとき、里香《りか》が振《ふ》り向《む》き、言った。
「ママにもね、ちゃんとそういうときがあったんだもん。パパとママ、大恋愛だったんだよ。結婚したとき、もうパパの心臓は悪くなってたから、周《まわ》りにすごく反対されたんだって。それでもママは全部|覚悟《かくご》してパパと結婚したんだよ」
「へ、へえ」
初めて聞く話だった。
ああ、渡すタイミングを外《はず》しちゃったな。こういう話になると思わなかったよ。まあ、でも、いいさ。もう少し様子《ようす》を見て、それから本を取りだそう。焦《あせ》ることはない。僕は本に手をかけたまま、里香に歩み寄った。
と、里香が尋《たず》ねてきた。
「あの本、見た?」
「え? あの本って?」
「『チボー家の人々』だよ」
「あ、ああ」
ドキリとした。僕は今、あれへの返答を持ってるんだぜ。ああ、今だ。そうだ。今こそ出すんだ。ちょうどいいタイミングじゃないか――。
「あ、あのさ、里香」
僕がそう言ったのと同時に、里香も口を開いていた。
「あれね、パパがママにあげたものなの」
「は?」
「あれでプロポーズしたんだって。ママが話してくれたの。パパ、口下手《くちべた》だったから、あの本にああいう細工《さいく》をして……ほら、見たでしょ? 『J』のところを『R』に書《か》き換《か》えてあったでしょ? パパ[#「パパ」は底本では「お父さん」]、玲二《れいじ》って名前だから、その頭文字で『R』。あの本がね、プロポーズだったんだって」
しばらく、里香がなにを言ったのか理解《りかい》できなかった。
理解できた途端《とたん》、叫《さけ》びそうになった。
ちょっと待て!
待ってくれ!
その恐《おそ》ろしい可能性《かのうせい》に打ちのめされながら、僕は言った。
「あの、里香さん」
なぜか、さんづけになってしまう。
里香《りか》は、むうという顔をした。
「なに? なんでさん≠ネの?」
「あの、えっと、あの本はお父さんがお母さんにあげたものなのかな?」
「そうだよ」
里香はちょっと早口で答えた。
「な、なるほど」
呟《つぶや》いたものの、実は『なるほど』なんて思ってなかった。まるでジャイアント馬場《ばば》の十六|文《もん》キックを食らったかのような衝撃《しょうげき》を受けていた。なんてことだ。あの『R』は、里香の『R』じゃなくて、玲二《れいじ》の『R』だったのか。
ということは……あの言葉は……里香が僕のためにくれたものじゃなかったんだ……。
あらためてその事実を頭の中で確認すると、今度はアントニオ猪木《いのき》の延髄斬《えんずいぎ》りを食らったかのような衝撃に襲《おそ》われた。僕は叩《たた》きのめされた。どうにか立っていたけど、実はもう見事《みごと》にKOされていた。そうさ、コンクリートを舐《な》めるかのような勢《いきお》いで這《は》いつくばっていた。
里香が不思議《ふしぎ》そうに僕の顔を覗《のぞ》きこんできた。
「どうしたの、裕一《ゆういち》?」
「いや……」
出せない。
この、背中《せなか》の本は、もう出せない。
と、いうことはだ。
僕は里香に告白《こくはく》なんかされていないわけだ。あの本の言葉《ことば》は、もうなんというか、実に雄弁《ゆうべん》な告白だった。そう信じていた。ところが、あれはお父さんの本だという。お父さんからお母さんへのプロポーズだった、と。
里香の気持ちってわけじゃなかったんだ。
「ああ、もう……ああ、もう……死ぬ……泣く……ああ、もう……」
わけのわからない言葉を漏《も》らしながら、僕はベッドの上でごろごろ身体を転《ころ》がした。あまりに転がしすぎて、ベッドから落ちそうになったくらいだ。枕に顔を押《お》しつけ、僕はわけのわからない言葉をたくさん叫《さけ》んだ。もしかすると、里香は全然僕のことを好きじゃないのかもしれない。友達くらいにしか思ってないのかも。いやいや、ずっといっしょにいようって言ったら、肯《うなず》いてくれたじゃないか。あれはほとんど告白みたいなもんだろ。僕はそのつもりだったんだぞ。で、里香は肯いてくれた。OKってことだ。あ、でも、待てよ。それだって決定打じゃないかもしれない。里香《りか》は友達としてって意味で受け取った可能性《かのうせい》がある。だとしたら、全然OKじゃないぞ。待て待て、戎崎《えざき》裕一《ゆういち》、少し冷静《れいせい》になれ。そんなテンパってんじゃねえよ。一回|深呼吸《しんこきゅう》しろ。深呼吸だ、深呼吸。ほら、息を吸って、吐《は》いて。もう一回しておこう。息を深く吸って、吐いて。うわ、むせた。咳《せき》がとまらねえ。ああ、どうにかおさまったぞ。よし、とにかく仕切り直しだ。今度こそ冷静に考えようじゃないか。里香はさっき、大丈夫《だいじょうぶ》って言ったよな。お母さんもいつかわかってくれるってさ。お互《たが》いにちゃんと信じていればいいって。あれは友達って意味じゃないだろ。さすがに違《ちが》うだろ。話の流れからして。
いや……そうかも……少なくとも決定打じゃない……。
すさまじく恐《おそ》ろしい葛藤《かっとう》だった。十七年間生きてきて、これほどの葛藤を味わったのは初めてだった。あまりに考えすぎて、髪《かみ》の毛が真っ白になりそうだった。髪の毛はともかく、脳みそはほとんど真っ白になっていた。
僕はもう、てっきり里香と両思いになったと信じていた。ずっとずっと、里香のことだけを思って生きていこうって。里香の気持ちに応《こた》えようって。だけど、応えるもなにも、里香の気持ちはまだ見えてなかったってことになる。今まで固く信じていたものが、思いが、見事《みごと》に崩《くず》れ去《さ》っていた。
「ああ、もう……嫌《いや》だ……こんな世界は大嫌《だいきら》いだ……ああ、もう……ああ、もう……」
ベッドをごろごろ転《ころ》がったら、床《ゆか》に落ちた。ごん、と頭を床にぶつけた。しかし起きあがる気力もなく、僕はそのまま冷たい床に転がったままでいた。ああ、いっそ死んでしまいたい。できることならば、時間を少し戻《もど》したい。ああ、頭|痛《いて》えよ。こりゃコブできるな。冷やさないと、そのうち腫《は》れてくるぞ。ああ、そんなのどうでもいいよ。
そうだ――。
僕はがばりと身を起こした。悩《なや》むことなんてない。今から里香のところに行って、気持ちを確かめてくればいいんだ。簡単《かんたん》じゃないか。里香はすぐそばにいるわけだし。そうさ、五分とかからないぞ。意を決し、そのまま立ちあがろうとしたが、しかし膝《ひざ》に力を入れる前に思考《しこう》がほんの少し先んじた。
どうやって確かめるんだ?
それはもう、とんでもない大問題だった。僕は今までの人生で、告白《こくはく》したことなんて一度もない。本当に好きな女の子に、好きだなんて言えるもんか。ましてや、あの里香だぞ。もし、だ。もし拒否《きょひ》されたら、僕は二度と立ち直れないだろう。
「ああ、もう……誰《だれ》か助けて……ああ、もう……神様……ああ、もう……」
呻《うめ》いて、僕はふたたび床に転がった。
そうして呻いていたら、いきなり扉《とびら》が開いた。
「あれ? 司《つかさ》?」
あのでっかい身体が、横向きに立っていた。まあ、僕が寝《ね》っ転《ころ》がってるから、そんなふうに見えたわけだけど。
枕を抱《かか》えて床《ゆか》に転《ころ》がる僕に、司《つかさ》が尋《たず》ねてきた。
「裕一《ゆういち》、どうしたの?」
「ああ、いや、別に」
ちょっとだけ赤面《せきめん》しながら、僕は立ちあがった。とりあえず、背中《せなか》の埃《ほこり》をぱんぱんと払《はら》っておく。
「それより、どうしたんだよ」
「水谷《みずたに》さんの代わり」
「え? みゆきの?」
どうも話が見えなかった。
「あいつ、なんか用事でもあるの?」
そういうわけじゃないけど。司は呟《つぶや》くように言った。
「頼《たの》んで、代わってもらったんだ」
「なんでそんなことを?」
「いや、あのさ……」
「なんだよ」
「えっと、その……」
どうにも司の態度《たいど》がはっきりしなかった。もともと司は口下手《くちべた》で、たくさん喋《しゃべ》るほうじゃない。だけど、それにしたって変だった。僕はとりあえず冷蔵庫を開け、貰《もら》ったばかりの赤福《あかふく》を取りだした。
「食うか?」
「あ、うん。じゃあ僕、お茶|淹《い》れるね」
「おお、頼《たの》む」
司の淹れたお茶は、けっこううまいんだ。お茶なんて誰《だれ》が淹れても同じようなもんなのにさ、これがびっくりするくらい違《ちが》うんだよな。司は茶筒《ちゃづつ》を開けると、でかい手を器用に動かして、フタに茶葉を取り分けた。それから急須《きゅうす》にその茶葉を入れ、ポットのお湯を注《そそ》ぐ。
「はい、どうぞ」
まるで飲食店の店員みたいな、やけに慣《な》れた手つきで、湯飲みをサイドテーブルに置いた。
「さんきゅ」
そのお茶はやっぱりおいしかった。
司は立ったまま、自分のお茶を飲んでいる。
「おまえ、座《すわ》れよ」
「うん」
どっかりと、司は椅子《いす》に腰《こし》かけた。
「おまえの淹《い》れたお茶って、なんでこんなにうまいんだ?」
えへへ、と司《つかさ》は嬉《うれ》しそうに笑った。
「コツは茶葉の量かな。ほんとはもう少し温《ぬる》いお湯のほうがおいしいんだけど。あと蒸《む》らす時間もけっこう大事だよ。あまり置きすぎると渋《しぶ》みが出ちゃうんだよね」
「へえ」
こういうことを話すときだけは、司も饒舌《じょうぜつ》になる。僕たちはお茶を飲み、すっかり食《く》い飽《あ》きた赤福を、それでももりもり食った。
「裕一《ゆういち》、レポートはどれくらい進んでるの?」
「四科目は終わった。今、五科目目」
「全部で何科目?」
「八科目」
「え、まだ半分しかやってないってこと?」
「……いや、これでも頑張《がんば》ってるんだぜ」
「間に合う?」
「……わかんねえ」
頑張らないと。僕より焦《あせ》った様子《ようす》で、司が言った。そうだな、頑張らないとな。僕も妙《みょう》に焦ってきて、早口で言った。僕たちはひたすら赤福を食った。
「オレさ、もしダブったら、おまえのこと世古口《せこぐち》さんって呼《よ》ぶから」
「ええっ、やだよ」
もちろん洒落《しゃれ》なのに、司は本気で嫌《いや》がった。
「いっしょに三年になろうよ」
いつだったか、司に同じことを言われたことがある。あのときと同じように、司の口調《くちょう》はまるで小学生のガキみたいだった。思ったことをそのまま言っただけ。僕や山西《やまにし》なら、こんなことは言えないだろうな。茶化《ちゃか》してしまうに違《ちが》いない。でも司は言える。こいつはほんとすげえよ。マジですげえよ。
苦笑《にがわら》いしつつ、それを隠《かく》すために、お茶を飲んだ。ああ、まったくうまいお茶だ。
「にしてもさ、もう三年なんだな」
「早いよね」
「ああ、まったく早いよな。全然そんな気しねえもん。そうだ、いっそダブっちまおうかな。そうすりゃ受験を一年|先延《さきの》ばしにできるし」
「本気なの?」
「んなわけねえだろ」
僕たちはそんなつまらないことを言って、へらへら笑った。ああ、司が来てくれてよかったかもな。ひとりだったら、里香のことばっかりが頭をぐるぐるまわって、ただもう悩《なや》んでただろう。司《つかさ》と話してると、ちょっとは落ち着くよ。
「そういや、おまえ、みゆきと代わってもらったって言ってたよな」
「う、うん」
「なんで?」
ちょっと心が軽くなっていたので、僕はさして深く考えることもなく、いい加減《かげん》な調子《ちょうし》で尋《たず》ねた。ところが、その途端《とたん》、赤福《あかふく》を口に運ぶ司の手がとまった。
「え、えっと、その……」
恥《は》ずかしそうな感じで、口ごもったりもしてる。
なんだ?
司のこんな態度《たいど》を見るのは初めてだった。しかも顔がちょっと赤い気もする。そこでようやく、僕は司とみゆきのぎこちない態度のことを思いだした。
ちょっとした冗談《じょうだん》のつもりで、
「おまえら、もしかしてつきあってる?」
なんて聞いたら、ふたりともすっげえ勢《いきお》いで否定《ひてい》してたっけ。
あれはやけに不自然だった。まさか。もしかして。マジでそういうことなんだろうか。意外な気もするけど、お似合《にあ》いって気もする。いやでも、やっぱピンと来ないな。司に恋愛ごとってのが、どうにも似合わないんだよな。
だけど、司だって、僕と同じ十七なんだ。
同じような気持ちを持ってるはずだ。
「もしかしてさ、みゆきのことか?」
僕は助け船を出すことにした。
司は素直に肯《うなず》いた。
「うん」
「あいつ、どうかしたのか?」
「ほら、あの……婚姻《こんいん》……届《とどけ》を……その……渡《わた》しにきたあと、ふたりで帰ったんだよね。途中《とちゅう》までだけど。それで、あの、紫陽花《あじさい》のところで立ち止まって」
「紫陽花?」
「ああ、うん。ここの、病院の出口のところに植《う》えてあって。それ見て、水谷《みずたに》さん、紫陽花が嫌《きら》いだって」
うつむいたまま、司は言葉《ことば》をつないでいく。けれど、その話はひどくわかりにくかった。とにかく話があっちに行ったりこっちに行ったりするのだ。それでも、数分ばかり話を聞いているうちに、ようやく司の言いたいことがわかってきた。
要《よう》するに、司はみゆきを理解《りかい》したいんだろう。
だけど、理解できない。
それで困《こま》ってるというわけだ。
背中《せなか》を丸めたまま要領《ようりょう》の得《え》ない話を続けている司《つかさ》を見て、僕は笑いたくなった。ああ、嘲笑《あざわら》うってことじゃないぞ。そんなこと、できるもんか。なんていうかな、そう、微笑《ほほえ》ましいって感じだ。僕がかつて歩んできた道、里香《りか》のことを考え、悩《なや》み、枕に顔を押《お》しつけて叫《さけ》んできた日々。あのころの僕と同じ思いを、司も抱《いだ》いているんだ。
あ、待てよ……僕はさっきも枕に顔を押しつけて叫んでたっけ……。
つまりまあ、僕と司はだいたい同じ場所に立っているというわけだった。同じようなことで頭を抱《かか》えているんだ。よお同志よ、僕は心の中でだけそう語りかけておいた。女ってのは、まったく面倒臭《めんどくせ》え生き物だよな。僕たちはなんであんな生き物に振《ふ》りまわされてんだろうな。
「裕一《ゆういち》と水谷《みずたに》さんってさ、その――」
「つきあってねえよ」
僕は言った。
「そういう関係になったことなんて一度もないし」
「ほんとに?」
「ああ、ただの幼馴染《おさななじ》みだって」
「だったら、どうして裕一と会うと、水谷さん不機嫌《ふきげん》になるのかな」
「さあな。女ってのは、わけわかんねえ生き物だからな」
「うん」
「きっとオレのことが気に入らないんだろ。だけど、ほら、つきあいは長いしさ。それこそ赤ん坊のころから知ってるし。無視《むし》もできないんじゃねえの。まあでも、正直言って、オレもよくはわかんねえけどな。ただ、オレのことが好きとかそういうのはないと思うぞ」
「ほんとに?」
「ああ、それは絶対《ぜったい》にない」
「そっか」
言ったきり司は黙《だま》りこんでしまい、大きな背中をさらに丸めた。なにか考えていることがわかったので、僕はあえて話しかけなかった。お茶を飲む。ちょっと冷めちまったな。だけど、それでもうまいや。冷めてもうまいお茶を淹《い》れられるなんて、マジですげえな。
「どうしたら、水谷さんを元気づけられると思う?」
やがて司がそう言った。実にまっすぐな言葉《ことば》だった。そして真剣《しんけん》だった。茶化《ちゃか》したりなんてしなかった。僕は急に、このばかでかい身体を持つ友人のことが誇《ほこ》らしくなった。まるで子供みたいだよ、司は。高校生なら、もうちょっとスレてるもんだよな。僕や山西《やまにし》みたいなバカだって、司よりは世慣《よな》れてる。「どうしたら元気づけられると思う?」なんて恥《は》ずかしくて絶対言えないだろう。だけど、司は言える。これが司の良さなんだよな。そう、僕や山西みたいにさ、小賢《こざか》しくないところがさ、司のすげえところなんだ。そういうの、わかってるか、司? 自分じゃわかんないかな? だけど僕はわかってるぞ。ちゃんとわかってるんだぞ。
「あのさ、司《つかさ》」
だから僕はお節介《せっかい》を焼くことにした。
「自分からみゆきに話しかけてみろよ」
「自分からって……」
「おまえだよ、おまえ。ひとりでいくら悩《なや》んでも、全然物事は動かねえよ。おまえ、自分の手を見てみろよ。なんのために、その手はあるんだ?」
司は真っ正直に、自分の手を見た。僕も見た。まったく、すげえでっかい手だ。その手なら、なんだって掴《つか》めるぞ、司。
「いいか、教えてやる。その手はな、なにかを掴むためにあるんだよ。欲しかったら、手を伸ばせよ。そうして強引《ごういん》に掴み取ればいいんだ。ただぼんやり突っ立ってるだけじゃ、なんにもできないままになっちまうぞ」
その言葉《ことば》は、夏目《なつめ》のパクリだった。だけど、今の司にはぴったりだ。バカ医者もこれくらいのパクリなら許《ゆる》してくれるだろう。
「そっか……」
呟《つぶや》きながら、司はじっと自分の手を見ていた。
司が帰ってしまったあとも、その声は僕の中に残った。
「その手はな、なにかを掴むためにあるんだよ」
ああ、そうさ。
司への言葉は、僕への言葉でもあったんだ。
ちょっとでもレポートを進めておこうと、ひとりきりになったあと、僕は保健体育の教科書を読んだ。先生から指定されていない範囲《はんい》を夢中《むちゅう》になって読んだりもしてしまったけれど……まあ、ちょ[#「ちょ」は底本では「ちょっ」]びっとだけだ、ちょびっとだけ……あちこち拾い読みするうちに、レポートの概要《がいよう》が思《おも》い浮《う》かんだ。みゆきに言われたとおり、主論と、反論と、結論を並《なら》べてみる。うん、これでどうにかつながりそうだ。
とりあえず下書きってことで、シャープペンシルをノートに走らせる。
「その手はな、なにかを掴むためにあるんだよ」
けれど頭にはその言葉が浮かんでいた。
すっかり使い古したシャープペンシルを握《にぎ》っている手。たいして意味のないレポートを書いている手。僕はこれからも生きていく。そのあいだに、いろんなものを掴んだり、落としたりするんだろう。頼《たの》むぞ、おい。僕は自分の手に話しかけた。ちゃんと掴《つか》んでくれよ。それから、一度掴んだものは絶対《ぜったい》に落とさないでくれよ。頼むぞ。
一枚目を文字で埋《う》めつくし、二枚目も文字で埋めつくし、三枚目にかかったところで、夕食が準備《じゅんび》できたという放送が流れた。顔を上げると、いつのまにか室内は薄暗《うすぐら》くなっていた。ああ、まったく気づかなかった。明かり、つけなきゃな。それに腹|減《へ》ったな。同じ体勢《たいせい》でずっと書いていたので、肩《かた》の辺《あた》りが痛《いた》かった。
「よいしょ――」
明かりをつけるためにベッドから降《お》りようと思ったら、ドアが開いた。
「あら、暗いわね」
母親だった。
「寝《ね》てたの?」
「いや、レポート書いてた」
「嘘《うそ》おっしゃい。こんなに暗いのに書けるわけないでしょ。裕一《ゆういち》、あんたね、昨日も担任《たんにん》の川村《かわむら》先生から電話があって、このままだと危《あぶ》ないですよお母さんって言われたのよ。もう、ほんと恥《は》ずかしくて、電話の前でぺこぺこ頭下げちゃったわよ。いい加減《かげん》に――」
ああ、うるせえ……。
なんで親ってのはこんなにうるせえんだ……。
レポートやってるって言ってのに……。
ムカついた僕は、
「ちゃんと書いてたって! ほら、これ!」
そう言って、今書いたばっかりのノートを母親に突きつけた。しかしそれでも母親は全然信じてくれず、まだ愚痴愚痴《ぐちぐち》と言っている。ああ、そうですか。息子を信じられませんか。そんなんだから息子も拗《す》ねちまうんだよ。
やがて配膳係《はいぜんがかり》の人がやってきた。
「あらあら、すいませんねえ」
とんでもない愛想《あいそ》の良さで、母親は食事が載《の》ったトレイを受け取った。僕に対する態度《たいど》とは、えらい違《ちが》いだ。
それにしても、母親とふたりっきりで飯を食うのは、どうにも気まずい。まず話題がない。なのに母親は喋《しゃべ》りまくっている。僕にはどうでもいいことを、あるいは聞きたくもないことを、ひたすら喋りつづけている。うるさいから黙《だま》っててくれ、などと言えればいいのだが言えるわけがない。しょうがないので、僕は病院食に集中した。しかしこれがまた、なかなか難儀《なんぎ》なことだった。まず味噌汁《みそしる》がまずい。これは本当に味噌汁なのかと疑《うたが》いたくなるほど、味噌の味がしない。ただの茶色い泥水《どろみず》のように思える。そしておかずははんぺんのチーズ包《つつ》み焼《や》きと、きんぴらゴボウである。どちらも僕の嫌いなメニューだ。やむなく、僕は唯一《ゆいいつ》の希望である卵焼きを主軸《しゅじく》に据《す》えて、食事を進めた。
「裕一《ゆういち》、きんぴらも食べなさい」
「いや、まずいんだけど……」
「贅沢《ぜいたく》言わないの」
ああ、理不尽《りふじん》だ。どうして親ってだけで、無条件で命令されなきゃいけないんだろう。しかし逆《さか》らうのも面倒臭《めんどくさ》いので、とりあえず一口だけきんぴらを食べてみた。ああ、やっぱまずいよ。固《かた》いだけだよ。
「あのさ――」
母ちゃん、って呼《よ》び方《かた》はもう恥《は》ずかしかった。お袋《ふくろ》、ってのもなんかしっくりこない。ママ、なんて絶対《ぜったい》無理《むり》だ。
十七にもなると、親の呼び方がなかなか難《むずか》しくなってくる。
「なに」
幸《さいわ》いにも病室内にはふたりしかいないわけで、話しかけると自動的に母親が応《こた》えてくれた。
僕はもそもそとご飯を食べながら言った。
「なんで親父と結婚したわけ?」
「は?」
母親は顔をしかめた。なに下らないこと聞いてんの、って感じ。
早口で、僕は言葉《ことば》を重ねた。
「いや、ほら、なんとなくさ。いちおう親のことだしさ。ちょっと聞いてみようかなーって。まあ深い意味はないんだけどさ」
「お父さんねえ」
曖昧《あいまい》にそう呟《つぶや》いたあと、母親は急に立ちあがって、お茶を淹《い》れはじめた。ちなみに、湯飲みには、まだたっぷりお茶が残っている。母親は淹れたてのお茶を注《つ》ごうとして、ようやくそのことに気づいたみたいだった。
「裕一、ちょっと飲みなさい」
「……いや、飲みたくないんだけど」
「飲みなさい」
なんだか迫力《はくりょく》に押《お》され、飲んでしまった。ごくごくと茶を一気に流しこむ。トレイに湯飲みを置く。母親が急須《きゅうす》を傾《かたむ》け、熱い茶を注ぐ。
「お父さん、男前でねえ。すごくモテたのよ。若いころ、ちょっと病気をしたことがあって、あんたより軽い病気だったけど、しばらく入院してたの。そのときね、病院の看護婦《かんごふ》さんたちが『誠一《せいいち》さん誠一さん』ってしょっちゅう病室にやってくるのよ。悔《くや》しいくらいにモテたわね」
そう、父親の名前は誠一という。裕一の『一』は、誠一の『一』なのだ。それにしても、あのクズ男の名前が誠一《せいいち》だなんて、ちょっとした詐欺《さぎ》だ。どこをどうひっくり返しても、あいつの中に『誠』なんてなかったのだから。
「ふーん」
とりあえず、僕は曖昧《あいまい》に肯《うなず》いておいた。父親がやたらと女にモテたのだけは事実だからだ。そうさ、結婚したあとだって、モテまくりだった。
「だから、お父さんに結婚を申しこまれたときは嬉《うれ》しくってね。あたしなんかでいいのかって、臆《おく》しちゃったくらいよ。だけどお父さん、おまえが一番だからって――」
それから五分ほど、実に恐《おそ》ろしい状況《じょうきょう》が展開《てんかい》された。なんと母親がノロケにノロケたのだ。いかに父親がすばらしい男だったか。男前だったか。周囲《しゅうい》に頼《たよ》られていたか。そういうことを誇《ほこ》らしげに語りまくった。最初は呆《あき》れ、次に戸惑《とまど》い、最後に僕は叫《さけ》びそうになった。
おいっ! なんで都合《つごう》のいいことだけ覚《おぼ》えてんだよ!
まあ、どうにか我慢《がまん》したけどさ。にしても、この母親の楽しそうな顔はなんだろうか。まるで今も恋する乙女みたいじゃないか。父親の浮気癖《うわきぐせ》とか酒癖とかギャンブル癖《へき》とかは見事《みごと》なまでにスルーされていた。何度も何度も泣かされたはずなのに、その嫌《いや》な記憶《きおく》は脳内からきれいさっぱり消去されているらしい。
どうにかすべてのおかずを胃に押《お》しこんだころ、母親の話も終わった。
お茶をすすりつつ、尋《たず》ねてみる。
「親父と結婚してよかった?」
「なに言ってんの、この子は」
母親は、照れた。
「まったくもう」
どうも結婚してよかったと思ってるらしい。
すげえ謎《なぞ》だ……。
あんなクズ男のどこがよかったんだ?
しかしまあ、きっと愛だの恋だのってのはそういうもんなんだろう。盲目《もうもく》っていうかさ。それに、僕が気づいてないだけで、父親にも少しはいいところがあったのかもしれない。母親はそういうところを見てきたんだろう。なにものにも代《か》え難《がた》い、大切なときをすごしたことだってあったんだろう。
だいたい僕だって、あんなわがまま女の尻《しり》を追《お》いかけてるわけでさ。他人から見れば、どこがいいんだよって言われるかもしれないし。
ああ、思いだした。
思いだしたよ。
あれはそう、やたらと暑い夏だった。小学校高学年くらいだったかな。母親が数日前から出かけていたせいで、僕と父親[#「父親」は底本では「親父」]はふたりっきりの時間をすごしていた。それにしても、あのとき父親は仕事をしてなかったんだろうか。平日だってのに、いっつも家にいた。昼間から酒を飲んだりしてたし、徹夜《てつや》でゲーム機をピコピコ鳴《な》らしてたこともあった。だいたい麻雀《マージャン》ゲームだった。僕にはルールがさっぱりわからなかったし、画面を見ていてもつまんないだけだった。それでテトリスがやりたいと言ってみた。
「なんだ、それ」
父親は酒臭《さけくさ》い息《いき》で尋《たず》ねてきた。
「落ちてくるブロックをはめて消すヤツ」
精一杯《せいいっぱい》考えて、そう説明した。
もちろん父親は理解《りかい》しなかった。
「やってみればわかるよ」
「ふーん」
絶対《ぜったい》拒否《きょひ》されると思った。父親が言うことを聞いてくれることなど滅多《めった》にないのだ。面倒臭《めんどくさ》がられるだけだ。駄目《だめ》だ――そういう言葉《ことば》を覚悟《かくご》して、僕はうつむいた。もうすっかり慣《な》れてもおかしくないのに、千回も一万回も言われてきたのに、全然慣れない言葉。
「やってみるか」
しかしそのとき、父親はそう言った。
駄目だ、じゃなかった。
僕はびっくりして、父親の顔を見つめた。
「やらねえのか?」
「あ、やる。やるよ」
急いでテトリスのディスクを探《さが》した。テレビ台の中にあるはずだ。すっげえ焦《あせ》った。もしかしたら父親が心変わりして、駄目だと言いだすかもしれない。だから早くしなきゃ。何枚も何枚もディスクを放りだし、ようやく目当てのテトリスを見つけだした。
「あった」
見つけたのが嬉《うれ》しくて、父親のほうを見ながら笑っていた。
父親も、ニッと笑った。
「よし、やろうぜ」
「うん」
麻雀ゲームのディスクを取りだし、テトリスのを入れる。お馴染《なじ》みの起動画面。ちょっとわくわくした。すっかり飽《あ》きたゲームなのに、初めて起動したときみたいに心が弾《はず》んだ。父親はもうコントローラーを握《にぎ》っている。
「どうやるんだ?」
「あのね、上からね、落ちてくるんだよ」
「落ちてくる? なにがだよ?」
「ブロック」
「はあ? なんでブロックが落ちてくるんだ? それを誰《だれ》かにぶつけるゲームか?」
「違《ちが》う違う」
どうしてそういう発想《はっそう》になるんだろう。ああ、父親はしょっちゅう喧嘩《けんか》をしていた。強いわけじゃない。むしろ弱かった。血だるまになって帰ってきたことだってあった。実際《じっさい》はどうだったのかわからないけど、たぶん負けまくりだったはずだ。それなのにやたら[#「ら」は底本では無し]と喧嘩をするのだ、父親は。
「ブロックを揃《そろ》えるとね、消えるの」
「……わかんねえ」
父親は少し不機嫌《ふきげん》になっていた。
僕は慌《あわ》てた。
「最初に僕がやってみせるから、見てて。見たらすぐにわかるよ」
慌てたまま言って、僕はセカンドコントローラーを手に取り、ゲームを始めた。画面上部から、次々とブロックが落ちてくる。ブロックを横一列|並《なら》べると、その列が一斉《いっせい》に消える。最初はうまくいったが、すぐにブロックが溜《た》まりだした。うわ、全然|駄目《だめ》だ。久しぶりだから、腕《うで》が鈍《にぶ》ってる。
そのとき、父親が大きな声で言った。
「裕一《ゆういち》! ほら、右だ! 右!」
「あ! うん!」
「まわせ! 左に二回!」
十字ボタンを押して、ブロックを右に移動《いどう》させる。左に回転させる。鍵型《かぎがた》のブロックが、すっぽりと空間におさまり、溜まったブロックが一気に消えた。
「おお、すげえ!」
父親は叫《さけ》んだ。
「やったな!」
僕は、えへへと笑った。
父親も、笑った。
父親の指示《しじ》に従《したが》って、僕はブロックを消していった。意外なくらい、父親の指示は的確《てきかく》だった。指示を聞いて、自動的に手を動かしているだけで、ステージをどんどんクリアしていくことができた。
やがて僕は緊張《きんちょう》しはじめた。
さんざんやってやってやりつくして、もう一年以上も前にマークした最高点が近づいてきたのだ。父親にルールを教えるつもりで始めたのに、まさかこんなところまで来られるとは思わなかった。緊張のあまり、少し手が震《ふる》えた。
父親が罵《ののし》ってきた。
「バカ! そこじゃねえ!」
「あ、うん」
しかし反応《はんのう》が遅《おく》れ、ブロックが積み重なってしまった。父親がチッと舌《した》を鳴《な》らした。僕はさらに緊張した。
「それは左だ。もうひとつ左」
「うん」
どうにかおさまる。ブロックが消える。
「向きを横にしろ。右に二回」
「うん」
失敗した。三回|押《お》してしまった。変な感じにブロックが重なった。
「なにしてんだ、バカ!」
父親が喚《わめ》いた。
それでもどうにかブロックを消していき、僕たちはスコアを伸ばした。もう最高点を超えたかな。まだかな。ああ、まだだ。でも、あと少しだ。
スコアを確認していたせいで、反応《はんのう》が遅《おく》れた。
「裕一《ゆういち》! バカ! 右だって言ってんだろうが!」
「ああっ」
「右だよ! 左じゃねえ!」
失敗した。焦《あせ》った。また失敗した。ブロックが画面最上段スレスレまで溜《た》まった。画面が急によく見えなくなってきた。それなのに僕はまたスコアを確認していた。あと二百ポイント。一列か二列消せば、クリアできる。父親がなにか叫《さけ》んでいる。喚いている。しかし反応できない。余裕《よゆう》がない。いきなりコントローラーを奪《うば》われた。父親もすっかり熱くなっていた。しかし時すでに遅《おそ》く、降《ふ》ってきたブロックが画面最上段に積み重なった。ゲームオーバー。そんな文字が浮かびあがってくる。ゲーム[#「ゲーム」は底本では「ゲームー」]オーバー。
僕も父親も唖然《あぜん》として、その画面を見つめた。
「おい、終わったのか?」
当たり前のことを、父親が尋《たず》ねてきた。
答えられなかった。
ゲームオーバー――
その文字はしつこいくらい、浮《う》かんでは消えた。
消えては浮かんだ。
「ちゃんとオレの言ったとおりにしないと駄目《だめ》だろうが!」
父親は本気で怒《おこ》った。
「あそこで右に落としときゃ挽回《ばんかい》できたんだよ! このバカ野郎《やろう》!」
たかがゲームなのに、怒鳴《どな》り散《ち》らした。
やがて父親はコントローラーを放りだし、黙《だま》りこんだまま、酒をぐいぐい飲みはじめた。僕はなんだか熱くなってきた目で画面を確認した。二百ポイント、足りなかった。
たったの二百ポイント。
父親といっしょに超えられたんだ。すぐそこだったんだ。なのに失敗した。下らないミスを犯《おか》した。どうして手が震《ふる》えたんだろう。なんでスコアを確認したんだろう。落ちてくるブロックに集中してればよかったんだ。
自分のバカさ加減《かげん》が、嫌《いや》になる。
父親の言うとおりだ。
自分はバカ野郎だ。
「……やる?」
尋《たず》ねてみたけれど、父親には無視《むし》された。
そのこともショックで、僕は肩《かた》を落としてしょぼんとしていた。すっかり打ちのめされていた。たかがゲームのことなのに、とんでもなく心が重くなっていた。父親の期待《きたい》に応《こた》えられなかったのがつらかった。あんなに楽しそうだった父親を不機嫌《ふきげん》にさせてしまったのが苦しかった。そんな僕をさらに打ちのめすように、ゲームオーバーの文字がしつこく画面に映っては消えていた。そう、終わったんだ……終わってしまった……。
どれくらい時間がたったのかわからない。
五分かもしれないし、三十分かもしれない。
ふと気づくと、父親が隣《となり》に座《すわ》っていた。
「おい、やるぞ」
父親は言った。
意味がわからなかった。
「え?」
「ゲームだよ、ゲーム。今度はオレがやるからな」
「ほんとに?」
すがるように尋《たず》ねると、父親はニッと笑った。
「おまえの最高点なんざ、オレが一回でクリアしてやる」
「うん!」
バカみたいに、僕は肯《うなず》いていた。
父親は、またニッと笑った。
「任《まか》せとけ。父ちゃんはすげえぞ」
まあ、結果《けっか》から先に言うと、最高点は更新《こうしん》できなかった。というか、ひどいもんだった。ほぼ最悪のスコアばっかりが並《なら》んだ。人への指示《しじ》はあれほど的確《てきかく》だったのに、いざ自分がやるとなると父親はどうしようもない下手《へた》くそだったのだ。
まったく、父親は口ばっかりの男だった。
そうさ。
ほんと口ばっかりだったんだ。
それでも父親はテトリスが気に入ったらしく、しばらく麻雀《マージャン》ゲームじゃなくてテトリスばっかりやっていた。もちろん僕もやった。ふたりでわいわい騒《さわ》ぎながら、一カ月ばかりのあいだ、その単純《たんじゅん》なゲームに興《きょう》じた。もっとも、それだけやったのに、僕たちはついに最高点を更新することはできなかった。僕と父親の最高点は、最初にいっしょにやったときのものだった。ビギナーズラックだったってわけだ。
そのビギナーズラックのスコアは、こんなふうに登録《とうろく》されている。
ranking 2nd――セイイチ+ユウイチ 782400
セーブデータは今もちゃんと取ってある。他のゲームのデータを残すために消したくなったこともあったけれど、それでも僕は大切に取っておいた。あのメモリーカードを差して、セーブデータを読みこめば、今も誇《ほこ》らしげな文字列を見ることができるだろう。
そうさ、ちゃんと残ってるんだ。
もちろん時間は知っていた。若葉《わかば》病院はいちおう完全|看護《かんご》ってことになってるので、特段の事情《じじょう》がないかぎり、身内でも病室に泊《と》まることはできない。親だろうが子供だろうが、面会時間が終わる午後九時には病院を出なければいけない。もっとも杓子定規《しゃくしじょうぎ》ってわけじゃないから多少は余裕《よゆう》を見てもらえるけど、原則《げんそく》はそういうことになってる。だから僕は待った。ロビーの長椅子《ながいす》に座《すわ》り、じっと時計を見つめていた。壁《かべ》にかかっている大きなアナログ時計が、時を刻《きざ》んでいる。九時五分。赤くて長い秒針がゆっくりと一回転する。九時六分。受付の明かりが半分消される。そうして九時七分。階段のほうから足音が聞こえてきた。ぱさんぱさんと、スリッパが床《ゆか》をする音。顔を上げた僕と、里香《りか》のお母さんの目が合った。僕はすぐに立ちあがり、頭を下げた。お母さんは軽く会釈《えしゃく》って感じ。お母さんが戸惑《とまど》ってるのが、よくわかった。やけにゆっくりと階段を下りてくる。僕はずっと立ったままでいた。
やがてお母さんがロビーに降《お》り立《た》った。僕のことを意識《いしき》してるけど、でも意識してない振《ふ》りをしつつ、そのまま出口に向かおうとしている。まあ、当たり前か。話しかけてくるわけないよな。よく思われてないんだし。
だから僕は、自分から話しかけた。
「あの、ちょっといいですか」
「え――」
お母さんはびっくりしたみたいだった。その表情は頑《かたく》なで、隙《すき》を見せないようにしてる。震《ふる》えあがりそうな自分自身をどうにか鼓舞《こぶ》して、僕は言った。
「話したいことがあるんです」
「話ですか……」
「はい。お願いします」
ふたたび、頭を大きく下げる。そうしてしばらく、下げたままでいた。こんなことで誠意《せいい》が伝わるかどうかわからないけど、僕にできることはこれくらいしかなかった。そうさ、空っぽで軽い頭なんて、いくらだって下げてやるさ。
頭を上げると、お母さんが歩み寄ってきた。
「なんですか、話って」
やっぱり頑なな声。
「あの、どうぞ」
僕は椅子《いす》に座《すわ》るように促《うなが》した。もしかすると、長い話になるかもしれないからだ。ちょっと迷《まよ》ったみたいだけれど、それでもお母さんは長椅子に腰《こし》を落ち着けた。普通《ふつう》の、どこにでもいそうなオバサンだ。里香とはあんまり似《に》てない。目元がちょっと重なるくらい。僕は彼女の横に腰かけた。
「なんですか」
「里香の……いえ、里香さんのことです」
「その話でしたら、けっこうです」
あっさり言って、お母さんが立ちあがった。
すたすたと歩きだす。
僕は彼女の前にまわりこみ、頭を思いっきり下げた。
「お願いします!」
ダサかった。
最悪だった。
もし他人がこんなことしている姿《すがた》を見たら、僕はきっと慌《あわ》てて目を逸《そ》らしただろう。だけど今は逸らせなかった。なにしろ僕自身のことなのだ。
それに、ダサくてもかまわなかった。
最悪でよかった。
ああ、そんなの平気だ。
もし土下座《どげざ》が必要《ひつよう》なら、いくらでも土下座してやるさ。話を聞いてもらえるのなら、なんだってする覚悟《かくご》だった。
僕はひたすら頭を下げた。
お願いしますと繰《く》り返《かえ》した。
たぶんお母さんが立ち止まってくれたのは、真剣《しんけん》さを認めてくれたわけじゃなくて、僕があんまりにも惨《みじ》めだったからだろう。あるいは、こんなところで騒《さわ》ぎになるのが嫌《いや》だったのかもしれない。
諦《あきら》めたように、お母さんはさっきと同じ場所に腰《こし》かけた。
僕もさっきと同じ場所に腰かけた。
「あの、ありがとうございます」
礼を言う。
時計を見る。
九時十分。
φ
夜。九時すぎ。世古口《せこぐち》司《つかさ》はそのでかい身体をベッドに投げだし、有名パティシエが書いたケーキの本を読んでいた。作り方じゃなくて、ベーシックなケーキがどのような由来の元にできたのかを書いた、まあいわぱ文化的な解説本だ。かなり高い本だったけれど、こういうことも知っておいたほうがいいと思って、小遣《こづか》いをこつこつ貯《た》めて買ったのだった。ちなみに、彼の巨大な身体は、普通《ふつう》サイズのベッドにおさまっていない。くるぶしから先がベッドからはみ出てしまっている。
「はあ――」
大きな身体から、実に大きなため息《いき》が漏《も》れる。気がつくと、同じページを三回も読んでいた。何回読んでもさっぱり頭に入ってこないのだ。いったいこれはどうしたことだろうか。こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。今まで彼の興味《きょうみ》はまずお菓子《かし》、次に料理、三番目に天文だった。そしてその三つで彼の人生はほとんど成り立っているといってもよかった。まじめな性格なのでちゃんと学校には通うし、勉強もするけれど、それはいわば義務《ぎむ》にすぎなかった。ただこなしているというだけのこと。
ちょっと前の一番の悩《なや》みは、スポンジケーキがうまく焼けないことだった。
やけにパサパサしてしまって、しっとりと柔《やわ》らかくならないのだ。
何度も何度も挑戦《ちょうせん》し、そのたびに失敗し、母親にいい加減《かげん》にしなさいと怒鳴《どな》られながらも、作りつづけた。たまにうまくいくこともあるのだけれど、なぜうまくいったのかさっぱりわからず、だから次に焼いたときは当然のように失敗した。
コツを掴《つか》むのに、三カ月ほどもかかった。
あのころはもう、毎日毎日スポンジのことばっかり考えていたっけ。いろんな手順や、試《ため》してみるべき手法を、頭の中でいくつも思《おも》い浮《う》かべた。
今の自分は、あのスポンジケーキのときと同じくらい、悩んでるかも……。
いやいや、胸《むね》はずっと苦しい。種類がまるで違《ちが》うって感じだった。頭のてっぺんから足の先まで、ぎゅうぎゅう押《お》し潰《つぶ》されてるようだ。本をぱたんと閉じて、世古口司は枕に顔を埋《う》めた。
どうすればいいんだろうか?
答えは実に簡単《かんたん》なように思えたが、その実行は恐《おそ》ろしく難《むずか》しいように思えた。月に立て、と言われているに等しい。そこでふと、友人である戎崎《えざき》裕一《ゆういち》から聞いた言葉《ことば》を思いだした。
「その手はな、なにかを掴むためにあるんだよ」
自分の手を見てみる。なにかを掴めるんだろうか、この手は。指のあいだをすり抜《ぬ》けてしまうだけかもしれない。しかし、掴もうとしなければ、確かになにも掴めないままだろう。ひろせ先生も言ってたじゃないか。何度も失敗することが大事なんだって。いきなり成功できる人はいないのよって。
「よし――」
意を決して起きあがってみたものの、その瞬間《しゅんかん》にくじけた。ふたたび枕に顔を埋《う》める。ああでもないこうでもないと考え、勇気を奮《ふる》い起《お》こし、しかし萎《な》え、そんなことをそれこそ一万回も繰《く》り返《かえ》したところで、ようやく彼は身を起こした。とはいっても心を決めたわけではなかった。なんとなく、試しに……そう試しに動いてみてるだけだ。まずタンスに歩み寄り、上から二段目の抽出《ひきだし》を開ける。ずらりとあるもの[#「ずらりとあるもの」に傍点]が並《なら》んでいる。どれにするか悩む。これか。あれか。ふさわしいのはどれだろうか。さんざん悩んだ末、そのうちのひとつを手に取った。ポケットに突っこんだ。ジャケットを羽織《はお》った。もちろんすべて、試しに行っているだけである。まだ実行すると決めたわけではない。その試しの一環《いっかん》として、窓を開ける。室内に置いてある靴《くつ》を窓の外に放りだす。窓を跨《また》ぐ。裸足《はだし》で路上に立つ。さすがに冷たい。靴下を履《は》いてくるべきだった。しかし部屋《へや》に戻《もど》ったら、もう出られない気がした。それで裸足のまま靴を履いた。走った。最初はゆっくりだったけれど、いつのまにかペースが上がっていた。白い息《いき》がどんどん吐《は》きだされる。身体がだんだん熱くなってくる。心も熱くなってくる。気がつくと、ほとんど最短|距離《きょり》を取っていた。それでももちろん、ただの試《ため》しである。別に実行《じっこう》すると決めたわけではない。決めたわけではないまま、たどりついていた。
水谷《みずたに》みゆきの家に。
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何度も何度も頭の中で話の順番を確認したはずなのに、いざ口を開くと僕の話はバラバラになってしまった。なにを言ってるのか、自分でもよくわからなくなってしまったくらいだ。それでも僕は言葉《ことば》を吐《は》きつづけた。不思議《ふしぎ》なことになぜか言葉は途切《とぎ》れなかった。なにかが溢《あふ》れるように言葉が出てきた。僕はふたりで見上げた月のことを話した。里香《りか》が初めて自分の病気について打ち明けてくれたときのことを話した。とめられた一分のことを話した。
里香に病気のことを打ち明けられたあとも、僕は彼女の命が短いってことをうまく実感できなかった。なにしろ実際《じっさい》に里香は目の前にいるのだ。手を伸ばせば触《ふ》れられたし、つまらない冗談《じょうだん》に笑ってくれたりもした。そんな彼女のぬくもりや笑顔《えがお》がいつか消え去ってしまうなんて信じられなかった。けれどふいに、すごく怖《こわ》くなることがあった。里香がいなくなった世界のことを考えると足が震えた。体中がぶるぶる震えた。そういう瞬間《しゅんかん》は、突然《とつぜん》訪《おとず》れるのだった。そんな揺れ動きの中で、僕は自分がただの子供だってことをわかっていった。この世の中のことを全然わかってないこともわかった。だけどそれでもわかりたいと思うようになった。あのとき、里香がどうして僕に病気のことを打ち明けてくれたのか、僕にできることは本当にあるのか、ちゃんと理解《りかい》したかった。
僕はそういうことをお母さんに話した。
あるいは、僕が口にしているのは、どうでもいい言葉なのかもしれなかった。ただの自己満足みたいなものなのかもしれない。けれど僕が手にしている武器《ぶき》はそれだけだった。たとえ刃こぼれしていようが、折れていようが、僕は僕の武器で戦うしかなかった。あるいは夏目《なつめ》なら、もっとちゃんとしたことを言えるのかもしれない。亜希子《あきこ》さんの言葉になら、説得力《せっとくりょく》があるのかもしれない。彼らは大人で、僕よりも長い時間を生き、僕よりもたくさんの経験《けいけん》を積んでいた。嫌《いや》な目にだって、いっぱいあってきたはずだ。彼らの言葉にあるような重みなんて、だから僕の言葉にはなかった。けれど僕は僕を頼《たよ》りにするしかなかった。そうさ、人を頼るわけにはいかないんだ。どんなにダサくても、カッコ悪くても、みっともなくても、自分でやるしかない。
今まで僕はいろんなことを避《さ》けながら生きてきた。現実ってのが怖《こわ》かったし、マジになるのがダサくて嫌だってのもあった。そういう気持ちは、やっぱり今も持っている。簡単《かんたん》に消せるもんじゃない。けれどもう、避けることはできなかった。この怖い現実を、ダサい世界を、僕は生きていかなきゃいけないんだ。そうするって決めたんだ。
だから、僕は今も喋《しゃべ》りつづけている。
「僕のことをよく思えないのは、しかたないと思います。僕は里香《りか》さんを引《ひ》っ張《ぱ》りまわしたし、もしかしたらそれで病状を悪化《あっか》させてしまったかもしれません。そのことは、本当に申し訳ないと思ってます。すみませんでした。謝《あやま》って許《ゆる》してもらえることじゃないかもしれないけど、謝ります。本当にすみませんでした」
僕はさっきよりも深く頭を下げた。
「僕は子供だし、たぶんバカなほうです。だから、これから先も同じことをしてしまうかもしれません。そのことを考えると、里香さんから離《はな》れたほうがいいのかもしれないって思うこともあります。だけど、もし里香さんが望むなら、僕は里香さんのそばにいたいです。たとえ僕が里香さんの命を削《けず》ってしまうのだとしても、やっぱりそばにいたいと思います」
辛《つら》かったけれど、僕は言おうと思っていた言葉《ことば》を言うことにした。
「たぶん、それって自己満足です。全然きれいな気持ちじゃないかもしれないです。だから、そんなの下らないって言われたら、僕は否定《ひてい》できないです。それでも、たとえ全然きれいじゃなくても、僕はできるだけのことをしようと思ってます」
怒鳴《どな》られる覚悟《かくご》をしていた。ほんとはきれいな言葉だけを吐《は》きつづけるべきなのかもしれなかった。そのほうがきっとアピールできるんだろう。だけど僕はすべてをきれいごとですませたくなかった。自分の浅《あさ》はかさや、若さ、あるいは幼《おさな》さ、もしくは未熟《みじゅく》さ、そういうことも含《ふく》めて、僕はお母さんに認《みと》めて欲しかった。
しばらく沈黙《ちんもく》が続いた。お母さんは怒鳴らなかった。チラリと見ると、彼女は背中《せなか》を丸めていた。小さい姿《すがた》が、さらに小さく見えた。まるで急に年を取ったみたいだった。その姿に、僕はうろたえた。
「あの、僕、父親をずっと前に亡くしてるんです。こんなことを人に話すのは変ですけど、父親は全然すごい人じゃなくて、どっちかっていうと……いやむしろひどい人間でした。欠陥《けっかん》だらけで、母親を泣かしてばっかりでした。だけど、母親に父親のことを聞いたら、いいことばっかり言うんです。アイスクリームを買ってくれて、自分にだけ食べさせてくれたとか。最初の結婚記念日に真珠のピアスをくれたとか。ほんとつまんないことばっかりなんですけど、そういうのを嬉《うれ》しそうに喋ってて。僕にはそれが不思議《ふしぎ》に思えたんです。僕はあの、父親が母親を泣かしてる姿ばっかり覚《おぼ》えてるんで。だけど母親は僕にはわからないことを……父親のことですけど……ちゃんとわかってるみたいなんです。それで少し理解《りかい》できたような気がしたんですけど、夫婦ってそういうもんなんだろうなって。子供にもわからないようなつながりがあって、母親はそのことをちゃんと覚えてるんだと思います」
ああ、なんで僕は父親と母親のことばっかり喋ってるんだろう。こんなこと話す予定なんて全然なかったのに。
「いいなあって思ったんです。自分の親にそんなこと思ったのなんて初めてだったんで、すごく戸惑《とまど》ったんですけど。いつも親とは喧嘩《けんか》ばっかりだったし。だけど、ほんといいなあって思えてきて。どういうことなのか、僕自身もよくわかんないですけど。でも、そういう大切ななにかを持ってるのって、すげえなって思ったんです。もし、もし許《ゆる》されるならですけど、僕もそういうのを持ちたいと思ってます。里香《りか》さんと、そういうことを重ねていきたいと思ってます。できるかどうかわからないですけど、あの、その……お願いします」
もっともっと深く頭を下げる。
おでこを膝《ひざ》につける。
本当に話すべきことを話したのか、さっぱりわからなかった。けれど、もう僕の中に言葉《ことば》はなかった。もしこれでお母さんが怒《おこ》るのなら、しかたない。そのときは、許《ゆる》してもらえなくても、どんなに嫌《きら》われても、強引《ごういん》に里香をさらってしまおう。僕だけのものにしよう。罵《ののし》られたってかまうもんか。里香が僕を必要《ひつよう》としてくれるのなら、罵られるくらいなんでもないさ。
ずいぶん時間がたった。
お母さんは怒りもせず、立ちあがりもせず、ただ横に座《すわ》っていた。呆《あき》れてるのかもしれない。いや、言葉も出ないくらい、怒《いか》り狂《くる》ってるのかも。僕は拒否《きょひ》される覚悟《かくご》をして、頭を上げた。
お母さんは僕を見ていた。
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普通《ふつう》の一軒家《いっけんや》だった。ブロック塀《べい》があって、木が植《う》えてあって、その向こうに古臭《ふるくさ》い家が建《た》っている。二階の窓にだけ、明かりがついていた。きっとあそこが彼女の部屋《へや》なんだろう。それを証明するかのように、窓にぬいぐるみの影《かげ》が映《うつ》っていた。いかにも女の子らしい。形からして、たぶんペンギンだ。くもりガラスなのではっきりとはわからないけど。カーテンは引かれていない。さあ、どうしたものだろうか。そこでふと、彼はなにかの気配《けはい》を感じた。右側を見る。通りの向こうで光が揺《ゆ》れていた。自転車のライトだろう。なんとなくその輝《かがや》き方《かた》に覚《おぼ》えがあった。あれは――。
「まずい!」
呟《つぶや》くと、彼はそのでっかい身体をブロック塀の内側に隠《かく》した。水谷《みずたに》みゆきの家に、これで不法侵入《ふほうしんにゅう》してしまったことになる。いや、家の中じゃなくて敷地《しきち》だから、まだ大丈夫《だいじょうぶ》だろう。いや、やっぱりまずいだろう。そんなことを考えている彼の前を、白い自転車が通りすぎていった。乗っているのは警察官である。見つかるんじゃないかとドキドキしたけれど、警察官はあっさりと通りすぎていった。
以前、夜中に町を歩いていたら、警察官に補導《ほどう》されたことがある。中学生のときだ。それが噂《うわさ》になって、しばらく深夜《しんや》徘徊《はいかい》世古口《せこぐち》というあだ名で呼ばれたことがあった。あれはけっこう情《なさ》けなかった。
十分に様子《ようす》を見てから、彼は路上《ろじょう》に戻《もど》った。二階の明かりはまだついている。テレビを観《み》ているのか、ラジオを聴《き》いているのか。それとも勉強をしているのか。とりあえずルートを考えてみる。ブロック塀《べい》によじ登ってそのてっぺんに立てば、一階の庇《ひさし》に手が届《とど》きそうだ。庇に手をかけて身体を引きあげれば、屋根に登れる。あとは落ちないように屋根を歩いていけばいいだけだ。すぐ彼女の部屋にたどりつく。意外と簡単《かんたん》じゃないか。そこまで考えて、彼は恐《おそ》ろしい事実に気づいた。いきなり部屋を訪《たず》ねたりなんかしたら、間違いなくストーカー扱《あつか》いされる。
どうすればいいんだろう?
路上に立ちつくしたまま、彼は考えた。白い息《いき》を吐《は》きつつ考えた。この時点において、「試《ため》しにやってみてるだけ」という言葉《ことば》は、彼の頭からすっかり消《き》え果《は》てていた。しかし彼は迷《まよ》った。諦《あきら》めかけた。実際《じっさい》諦めたほうがいいとも思った。それでも彼が小石を手に取ったのは、戎崎《えざき》裕一《ゆういち》の言葉が蘇《よみがえ》ってきたからだった。
「その手はな、なにかを掴《つか》むためにあるんだよ」
自分は血迷《ちまよ》っているのかもしれない。そんな言葉を真に受けるなんて、どうかしている気もする。けれど彼はすでに小石を持っていた。振《ふ》りかぶっていた。投げていた。小石は一階の屋根に落ちた。弱く投げすぎた。ふたたび小石を拾って、彼は振りかぶった。投げた。今度はうまくいった。窓に小石が当たって、カツンと音を立てた。緊張《きんちょう》して待ったが、しかしなにも起こらない。どうも彼女は気づいてないらしい。何度か石を投げてみたものの、なかなか窓には当たらなかった。いつまでもこんなことを続けていたら、そのうち近所の人に見つかってしまうだろう。
そうなったら、最悪だ。
深夜徘徊世古口じゃなくて、ストーカー世古口になってしまう。
どうする?
考えに考えた末、ある手を思いついた。
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ずっと音楽を聴いていた。ヘッドフォンをして。大音量で。きれいな女性ボーカルが、愛だの恋だのを歌っている。自分で買ったわけじゃなくて、友達から借りたCDだ。すっごくいいから聴いてみなよと言って渡《わた》されたのだった。あんまり好きそうじゃなかったけど、渡されたからには一回は聴いておくべきだと思い、コンポに入れた。やっぱり好きじゃなかった。だって、やたらと歌詞がきれいなんだもん。たとえば『永遠の愛』なんて誰《だれ》が信じるだろうか。言葉がきれいすぎると、かえって嘘《うそ》くさくなっちゃう。それでもこの歌手、最近すごく売れてるんだよね。クラスの女子はみんないいねって言ってるし、男子にもけっこうファンがいる。どんなにきれいで嘘《うそ》くさくても、結局《けっきょく》人はこういうのを求めてるのかもしれない。
あたしだって、本当はそうなんだろう。
誰《だれ》かに好きだって言ってもらえて、自分もその人を好きになれて、手をつないで歩いたり、キスしたり……そういうのはいいなって思う。あこがれる。もちろん、それが永遠に続けばいいって思う。途中《とちゅう》で終わっちゃうんじゃ偽物《にせもの》みたいだから。始まったものは、ずっとずっと続いて欲しい。
信じきることはできなくて。
諦《あきら》めきることもできなくて。
中途半端《ちゅうとはんぱ》なところで揺《ゆ》らいでいるあたしは、きっとまだまだ子供なんだろう。それがわかっているからこそ、裕《ゆう》ちゃんと里香《りか》のことを考えるとブルーになるんだ。あのふたりはちゃんと信じきっている。選んでいる。だから諦めてもいる。あたしができないことを、ふたりは全部やっているんだ。
ああ、それにしても今日は世古口《せこぐち》君に変なこと言っちゃったな。なにを言いたかったのか自分でもよくわからなかったんだから、世古口君だってわからなかっただろう。もしかすると呆《あき》れられたかもしれない。バカ女だと思われたかも。
七曲|聴《き》いたところで、CDをとめた。
「どうしよう、このCD……」
もう最後まで聴く気にはなれない。
決められないまま、リモコンを弄《もてあそ》んでいたら、机の上に置いてある携帯《けいたい》がカタカタと震《ふる》えだした。なんだか救《すく》われたような気になって、あたしは携帯を手に取った。玲奈《れな》だったらいいな。彼女と話してると、この世の中にはたいした問題なんてないんだって思えてくるから。
けれど画面には、世古口|司《つかさ》という文字が表示されていた。
「世古口君?」
どうして彼から電話がかかってくるんだろうか。
受信ボタンを押《お》して、耳に当てる。
「あ、あの……」
聞こえてきたのは、確かに世古口君の声だった。
「世古口君、どうしたの?」
「そ、その……」
「なに?」
ほんの少しの間。
「水谷《みずたに》さんに、会わせたい人がいるんだ」
珍《めずら》しく、世古口君はやけに早口だ。
「あたしに?」
「う、うん。その人さ、来てるんだよね」
「来てるって? どこに?」
「水谷《みずたに》さんちの前」
「え?」
「僕は忙《いそが》しいから、もう電話切るね。あ、そうだ。その人がさ、なにか言いたいことがあるって言ってたから、聞いておいてよ。じゃ、じゃあ――」
「世古口《せこぐち》君!」
叫《さけ》んだときには、もうプープーという音がしていた。
家の前? いったいどういうことなんだろう? 会わせたい人って誰《だれ》? 家の前に来てるって? こんな時間なのに? 世古口君、なに考えてるの?
戸惑《とまど》いながらも、窓を開けてみた。
「え――」
そこに立っていたのは、どう見ても世古口|司《つかさ》本人だった。何度も見たことのあるグレーのジャケットを着ているし、ズボンだって見覚《みおぼ》えがあるし、アディダスのスニーカーはいつも履《は》いているヤツだ。だいたい、あんなに大きな身体をしている人が何人もいるわけがない。ただ、断言《だんげん》はできなかった。というのも、そこに立っている人物が、妙《みょう》なマスクをかぶっているからだ。あ、でも、あのマスクも覚えがあるかも。裕《ゆう》ちゃんが屋上《おくじょう》から秋庭《あきば》里香《りか》の病室に向かったあの夜、あたしと世古口君と山西《やまにし》君が手伝《てつだ》ったあの夜、世古口君がかぶってたヤツだ。ということは、やっぱりあれは世古口君なんだろう。
「世古口君、なにしてるの?」
呆《あき》れながら尋《たず》ねたら、あっさり否定《ひてい》された。
「ぼ、僕は……いや、わたしは世古口君の友達だ。ドスカラスといってね、メキシコからやってきたんだけど」
妙《みょう》な声色《こわいろ》まで使ってる。
「は、はあ」
「なんだか君が困《こま》っていると世古口君に聞いて、それでやってきたんだ」
「困ってる……」
「そ、そうだ。いいかい、僕は……いや、わたしはいつでもどこでも駆《か》けつけるよ。前は戎崎《えざき》裕一《ゆういち》君を助けたこともある。知ってるね? 君もその場にいたから」
「は、はい……」
つい肯《うなず》いてしまっていた。
まあ確かに知っている。
「わたしが助けるのは戎崎裕一君だけじゃないよ。困っている人がいたら、わたしはその人を助けるんだ。もちろん君を助けることもあるかもしれない。もし君が本当に困《こま》っているのならば、だけどね。わかるかい?」
「は、はい……」
「だから安心したまえ。君が困っているとき、わたしは、ドスカラスは必《かなら》ず駆《か》けつけて、君を助けるよ。――じゃあ!」
ピシッと手を挙《あ》げたあと、その謎《なぞ》のマスクマンは背《せ》を向けて走りだした。全速力《ぜんそくりょく》だったらしく、あっという間に、大きな身体が闇《やみ》に消えてしまった。それでもしばらく、あたしはその方向をずっと見つめていた。
なにが起きたのか悟《さと》ったのは、ずいぶんたってからだった。
「変なの」
なぜかくすくす笑ってしまう。
「ほんと変なの」
夜の空気が流れこんできてひどく寒かったけれど、それでもあたしは窓を開けたまま、ずっとずっと笑いつづけた。
笑い声が白い息《いき》となって、あたしの眼前《がんぜん》を漂《ただよ》った。
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「里香《りか》は長く生きられないと思います」
お母さんは僕を見つめたまま、そう言った。
「そのことを知っていますか」
怒《おこ》っていなかった。
呆《あき》れていなかった。
とても穏《おだ》やかな目をしていた。
僕は肯《うなず》いた。
「はい、知ってます」
「それでもいいんですか?」
「もちろ――」
喋《しゃべ》ろうとしたら、遮《さえぎ》られた。
「よく考えてください。あなたはまだ十七歳でしょう。これから就職《しゅうしょく》したり、進学したりするわよね。そのたびに、里香はあなたの足を引《ひ》っ張《ぱ》りますよ。里香は遠くへ旅行することもできないし、この町でずっと暮《く》らしていくことになると思います。あなたには夢がありますよね? その夢を、里香はすっかり潰《つぶ》してしまうんですよ?」
真実だった。
僕はそのことを何度も何度も考えてきた。
里香は僕の夢を奪《うば》うだろう。
潰すだろう。
そして、奪って、潰して、里香は結局《けっきょく》この世から消えてしまうのだ。それがいつかはわからない。来年かもしれない。再来年《さらいねん》かもしれない。あるいは五年後かもしれない。ただ、永遠ではない。必《かなら》ず僕はどこかで放りだされる。たったひとり、残される。
わかっている。
奪われる。
潰される。
それでも、僕は望もう。
手を伸ばそう。
里香と生きる道を、選ぼう。
「覚悟《かくご》してます」
僕は言った。
「僕なりに、全然|経験《けいけん》足りないなりに、考えました」
お母さんと目が合った。
不思議《ふしぎ》と、怖《こわ》くはなかった。
目を逸《そ》らさなかった。
「そうですか……」
声が漏《も》れたと同時に、お母さんのほうが目を逸らした。そしてその背中《せなか》をさっきよりも丸めた。ただでさえ小さい身体が、もっと小さくなった。僕は急に、彼女がかわいそうになった。なにもかも……伴侶《はんりょ》も、娘も、この人は失おうとしてるんだ。
しばらく僕たちは黙《だま》ったままでいた。張《は》りつめていた空気がほんの少し緩《ゆる》み、僕もお母さんも背中を丸めて座《すわ》っていた。秒針の動く音が聞こえた。どこかで看護婦《かんごふ》さんが歩くぺたぺたという足音も聞こえてきた。夜間受付と書かれたプレートの向こうで、宿直の警備員《けいびいん》がカップラーメンを食べていた。その、麺《めん》をすするズルズルという音も聞こえた。辺《あた》りは影《かげ》もできないくらい薄暗《うすぐら》かった。
「同じですね」
やがて、お母さんが言った。
意味がわからず、僕は彼女を見た。
「え?」
お母さんは少しだけ笑った。
「わたしとあなたですよ。わたしもね、あの子の父親と、病気のことを知った上で結婚したんですよ。長くないって知ってたけど、それでも結婚したんです。だから、同じですね」
「はい」
「辛《つら》いですよ」
「はい」
「思ってるよりも、ずっとずっと辛いですよ」
「はい」
「それでもいいんですか」
「はい」
「あなたより長く生きてる立場から言わせてもらうけど……偉《えら》そうに言わせてもらうけど、あなたはたぶんわかってないと思います。あなたが想像《そうぞう》してるよりも、ずっとひどい目にあうことになりますよ。それでもいいんですね」
たぶんお母さんの言うとおりなんだろう。僕は僕なりに、ありったけの覚悟《かくご》をしたつもりだけど、それでも全然足りないのかもしれなかった。まあ、しょうがない。僕は十七なんだ。十七なりの覚悟しかできない。それに、どちらにしろ、もう里香《りか》のことを放りだすなんてできなかった。なぜなら僕は彼女のことが好きだからだ。僕の持っている最高の気持ちが、それだからだ。
僕は肯《うなず》いた。
「はい」
ためらいはなかった。
お母さんは僕を五秒ほど見つめたあと、顔を伏せた。そして、持っていたバッグに手を入れ、その中を探《さぐ》った。やがて彼女が取りだしたのは、なんと『チボー家の人々』の一巻だった。
僕はびっくりした。
「どうしてそれを?」
「あの人に……里香《りか》の父親にね、貰《もら》ったものなの。見てちょうだい」
「は、はあ」
戸惑《とまど》いつつ、渡《わた》された本をめくる。自然と五十七ページが開《ひら》いた。開き癖《ぐせ》がついてるんだろう。そしてあの台詞《せりふ》が目に入ってきた。二本線で消された『J』。脇《わき》に書き足された『R』。僕は混乱《こんらん》した。里香に渡された『チボー家の人々』は、今も僕が持っている。なのに、どうしてここにあるんだ。里香のお母さんがこっそり僕の病室に忍《しの》びこんで、持ってきたんだろうか。そんなことするだろうか。だが、やがて気づいた。
これ、違《ちが》う……。
もちろん『チボー家の人々』に違いはないのだが、僕が里香から渡されたヤツではなかった。まず汚《よご》れ方が違う。染《し》みの位置《いち》が違う。色|褪《あ》せ方《かた》も違う。僕が里香から渡されたヤツは、もっと背表紙の黄色が薄《うす》くなってる。そして一番の違いは、『R』の筆跡《ひっせき》だった。今目の前にある『R』は、いかにも男が書いたって感じの、無骨《ぶこつ》な『R』だった。
「いきなりこの本を渡されたんですよ。口下手《くちべた》な人だったから、顔を合わせてプロポーズなんてできなかったのね。帰りの電車で本を開いたら、そのページにしおりが挟《はさ》んであったんです。電車はけっこう混《こ》んでたけど、わたし笑ってしまって。嬉《うれ》しくてね。ずっとくすくす笑ってたら、周《まわ》りの人が変な目で見てきたんですけどね。でもやっぱり嬉しくてね」
ちょっと恥《は》ずかしそうに、お母さんは喋《しゃべ》っていた。その様子《ようす》を、僕はぼんやり見つめていた。必死《ひっし》になって、事実を整理していたのだ。確かに里香のお父さんはお母さんに『チボー家の人々』でプロポーズした。でもその本は今もお母さんの手元にある。だとしたら、僕が持っている『チボー家の人々』はなんなんだ? あの本の五十七ページ目に書いてある『R』は……どう考えても男の字じゃない『R』は、誰《だれ》が書いたんだ?
「あの」
混乱したまま、僕は口を開いた。
「里香さんもその本を持ってませんでしたか。これとは別に、もう一冊っていうか」
お母さんは肯いた。
「ええ、持ってますよ。手術の少し前だったかしら。どうしても欲しいから探《さが》してきてって言いだしてね。そんなの見つかるわけないって言っても聞かなくて。しかたないんで東京の古本屋さんにまで電話をかけて、ようやく手に入れたんです。……あの、どうしてそのことを知ってるの?」
「あ、いや、持ってるのを見たんで」
僕は嘘《うそ》をついた。本当のことを言うのは、さすがに恥《は》ずかしかったからだ。そして僕の顔には、自然と笑《え》みが浮《う》かんできた。どんなに抑《おさ》え[#「抑え」は底本では「抑さえ」]ようとしても、笑ってしまうのだった。お母さんが不思議《ふしぎ》そうに見つめてきたけれど、それでも僕は笑うのをやめることができなかった。
そう、わかったからだ。
誰《だれ》があの『R』を書いたのか、わかったんだ。
[#改ページ]
僕たちは、歩いていく。いつかふたりできた道を、やっぱり今日もふたりで歩いていく。前回は夜だった。空には半分の月がのぼっていた。吐《は》く息《いき》が白くなった。けれど今回は昼だった。ちょうど正午をすぎたばかりだ。太陽が僕たちの真上で輝《かがや》いている。
僕たちの足が、降《ふ》り積《つ》もった枯《か》れ葉《は》を踏《ふ》む。歩くたびに、カサカサという音がする。顔を上げると、木々は新しい芽《め》を膨《ふく》らませていた。もう少しで、木々は新たな柔《やわ》らかい緑の衣《ころも》で覆《おお》われる。冬は去り、春が今ここにある。ずっと山道を歩いているせいで、少し汗《あせ》ばんできた。それでも僕たちはつないだ手を離《はな》さない。しっかりと握《にぎ》りしめ、握りしめられ、歩いていく。
今日、僕たちを追《お》いかけてくる人間はいない。なにしろ麓《ふもと》まで送ってきてくれたのは亜希子《あきこ》さんなんだ。僕たちはちゃんと外出|許可《きょか》を取って、病院を出てきたのだった。亜希子さんは気を利《き》かしたのか、駐車場で待ってくれている。
大丈夫《だいじょうぶ》かと声をかけると、里香は肯《うなず》いた。
「無理《むり》するなよ。きつくなったら、すぐに言うんだぞ」
「わかってる」
里香《りか》の足下はしっかりしていた。ずいぶん体力が戻《もど》ってきたんだ。里香は病院の中を毎日歩いていた。少しでも早く外に出られるようにと努力しつづけた。それはまったく、信じがたい光景《こうけい》だった。あのわがまま女が、気まぐれ女が、ほんと飽《あ》きもせずにずっと体力作りを継続《けいぞく》したんだ。そのせいで、意地悪《いじわる》な夏目《なつめ》も、里香の一時外出を許可するしかなくなった。
「まあ、いいだろう」
そう言ったときの悔《くや》しそうな顔は、まだ忘《わす》れられない。
夏目《なつめ》の顔を思いだしたせいで、つい足を滑《すべ》らせそうになった。
「裕一《ゆういち》、気をつけてよ」
「ごめんごめん」
「コケたら、あたしまで巻《ま》き添《ぞ》えなんだからね」
ああ、本気で怒《おこ》ってやがるよ、この女は。大丈夫《だいじょうぶ》だって、コケねえよ。おまえの手を握《にぎ》ってるあいだは、絶対《ぜったい》にコケないさ。
それにしても、背中《せなか》が痛《いた》い。なぜなら、ズボンのお尻側《しりがわ》に、この前|渡《わた》し損《そこ》なった『チボー家の人々』が差しこんであるからだ。その五十七ページには、僕の汚《きたな》い字で『Y』と書いてある。頂上《ちょうじょう》に着いたら、僕はこの本を里香《りか》に渡すつもりだった。
要《よう》するに――。
里香も僕と同じことを考えついたんだ。親父さんのやったことを里香はまねた。そして里香のやったことを、僕はまねた。そういうことだったんだ。にしても、里香はほんと恥《は》ずかしがり屋だ。自分で書いたくせに、お父さんのことにすり替《か》えるなんて。素直に、そのままに、気持ちを言えばいいのにさ。それだけで、なにもかもうまくいくんだぜ。ほんと遠まわりしすぎだよ、里香。
それにしても、今日渡すってのは、なかなかいい考えだろう?
もちろん絶対に気づかれるわけにはいかないので、もう三月下旬だというのに、僕はコートを着ている。ジャケットだと、本のシルエットが浮かびあがってしまうかもしれないからだ。もちろん、むちゃくちゃ暑《あつ》い。汗《あせ》がだくだく出てくるくらい暑い。
「裕一、コート脱《ぬ》いだら」
里香が親切にもそう忠告《ちゅうこく》してくれたけど、肯《うなず》くわけにはいかなかった。
「いや、全然暑くねえぞ。なんか寒くって」
「汗かいてるじゃない」
「そ、そうだな。なんでかな」
「熱でもある? 風邪《かぜ》引いた?」
「いや、大丈夫《だいじょうぶ》。行こうぜ。ほら」
不思議《ふしぎ》がる里香の手を引《ひ》っ張《ぱ》って、僕は歩きつづけた。こういうのは、バレるわけにはいかないのだ。そうさ、カッコよく決めなきゃな。ああ、しかし、汗だくになっている僕は全然カッコよくねえけど……。
砲台山《ほうだいやま》に行きたいと言いだしたのは、里香だった。身体がいうことをきくようになったら、行ってみたい、と。行こうぜ、と僕は言った。それを目標《もくひょう》に体力作りをしよう、と。その翌日から、里香《りか》は病院を歩きまわるようになった。夏目《なつめ》に少しは身体を動かせと言われる前に、自分から動くようになった。それから、ご飯もいっぱい食べるようになった。あのまずい病院食を完食しつづけた。そのおかげで、まるでガラス片が飛びだしてくるんじゃないかってくらい尖《とが》っていた里香の頬《ほお》が、だんだんとふっくらしていった。顔色もすごくよくなった。そうして、冬が春に移り変わっていくように、里香も変わっていった。
もちろん僕も変わろうと思った。だから毎日レポートを書いた。残り科目をどんどん片づけていった。それからテストを受けるための勉強も進めた。進級するためには、レポートだけじゃなくて、テストもクリアしなければいけないのだ。四カ月の遅《おく》れを取《と》り戻《もど》すのはさすがに無理《むり》だけれど、まあそんなに難《むずか》しい問題は出題されないらしい。みゆきが先生に聞いてくれたところによると、テストの目的は点数じゃなくて、僕のやる気を確かめることなのだそうだ。だから僕はやる気を出すことにした。精一杯《せいいっぱい》努力した。里香が百メートル歩くあいだに、英単語をふたつは覚《おぼ》えた。
僕たちは確かに、前に進んでいた。
もちろん、ほんの少しだけれど。
ああ、そうだ。タイミングを逸《いっ》していた写真の件も、ちゃんとうまくいった。想像《そうぞう》してたとおり、ベッドに並《なら》んで腰《こし》かけ、顔を寄せあい、一枚一枚見ていった。里香はやっぱり照れたし、照《て》れ隠《かく》しに怒《おこ》ったりもした。写真に写った里香はもちろんすごく可愛《かわい》かった。
その中の一枚を、僕は今、財布《さいふ》に入れている。
少しなだらかなところに達《たっ》したので、僕たちは一回|休憩《きゅうけい》することにした。持ってきたペットボトルに口をつけ、ぐびぐびと飲む。それから、里香に渡《わた》した。里香は両手でペットボトルを持って、ゆっくり飲んだ。
「動いたあとって、水がおいしいね」
当たり前のことを、里香は言った。ああ、里香には当たり前じゃないのかな。水がおいしく感じられるほど、動いたことなんてないもんな。
「ああ、マジでうまいな」
僕はそう言ってペットボトルを受け取り、また一口飲んだ。ずいぶん汗《あせ》をかいたので、喉《のど》がやたらと渇《かわ》く。
「裕一《ゆういち》、テストはいつから?」
「三日後かな」
「大丈夫《だいじょうぶ》そう?」
「……わかんねえ」
「不安だなあ」
「……うん、オレも不安だ」
精一杯《せいいっぱい》勉強はしてるけどさ。
「けどまあ、テストの点はそれほど問題じゃないんだって」
「どういうこと?」
「この前、みゆきが教えてくれたんだけどさ。あ、担任《たんにん》から聞きだしたらしいんだけど。点数じゃなくて、見たいのはオレのやる気なんだと。テストって形はとってるけど、少しくらい点数が悪くても、オレが必死《ひっし》にやってるってわかったら、進級させてくれるんだって」
「じゃあ、頑張《がんば》らなきゃね」
「おお、頑張ってるって。――あ、しまった」
「なに?」
「みゆきから伝言《でんごん》されてたんだ。言うの忘《わす》れてたよ」
「あたしに?」
僕は首を横に振《ふ》った。
「違《ちが》う違う。おまえじゃない。なんかわかんないんだけど、司《つかさ》に。ありがとうって言っておいて、だってさ。なんだろうな。なにがありがとうなんだろうな」
あのときのみゆきは、ちょっと様子《ようす》がおかしかった。いつものようにレポートの手伝《てつだ》いをしてくれたあと、帰《かえ》り際《ぎわ》に「ああ、そうそう」って感じで言づけていったのだった。なんかあれは自然じゃなかった。絶対《ぜったい》に「ああ、そうそう」じゃなくて、あのタイミングで言おうと決めてたんだ。
さあね、と里香《りか》は言った。言葉とは裏腹《うらはら》に、なにか知ってるふうだった。里香とみゆきは最近仲がいいのだ。僕のレポートを手伝ったあと、みゆきは里香の病室に行ったりしてるらしい。ふたりで顔をつきあわせて、なにやら話してるのを見かけたこともある。だいたい僕が近づくと話をやめちゃうんだけどさ。
「行こうぜ、里香」
言って、僕は手を伸ばした。里香がその手を取った。僕たちにとって、それはもう当たり前の行為《こうい》だ。けれどいつも、嬉《うれ》しくて嬉しくてたまらない行為でもある。僕の手の中に、里香の小さな手がすっぽりおさまっている。そして僕たちはふたたび山道を歩きはじめた。降《ふ》り注《そそ》いでくる日差しはすっかり春のものだった。どこかで鳥がせわしく鳴《な》いていた。まるで僕たちのために歌っているみたいだった。
やがて僕たちは頂上《ちょうじょう》に着いた。大砲《たいほう》の台座《だいざ》は、四カ月前とまったく変わらず、そこにあった。里香が少し歩調《ほちょう》を速め、台座に近づいていく。僕はそのあとを追った。
「足下に気をつけろよ」
そんな言葉《ことば》も、里香の耳には届《とど》いてないのかもしれない。それくらい急いでいる。まるで父親に駆《か》け寄《よ》る子供みたいだ。ああ、ほんとにそうなのかもな。台座《だいざ》のそばまで行くと、里香《りか》はコンクリートの塊《かたまり》を見上げた。
「登るか?」
「うん」
里香が肯《うなず》いたので、いつかと同じように、僕は里香の身体を抱《だ》きあげた。しかしやはり司《つかさ》のようにはいかず、やっぱりいつかと同じように、結局《けっきょく》最後は里香が自分で這《は》いあがることになった。むう。退院したら、筋《きん》トレしよう。里香を軽々と持ちあげられるくらい、筋肉をつけよう。里香に続いて、僕も台座に登った。
伊勢《いせ》の町が見えた。
神宮《じんぐう》の森が見えた。
火見台《ひのみだい》のある宇治山田《うじやまだ》駅。
その前の文化会館。
商店街のアーケードが、白く輝《かがや》いている。
それは四カ月前と、なんら変わらない光景《こうけい》だった。夜が昼になっただけだ。やっぱり伊勢の町はしょぼくて、ビルなんてろくになかった。僕が十七年間、暮《く》らしてきた町だ。そして、これから里香と暮らしていく町だ。
僕は隣《となり》に立っている少女に、顔を向けた。
春の日差しに包《つつ》まれた里香は、本当にきれいだった。これほどまでに美しい存在《そんざい》を、僕はかつて一度も見たことがなかった。山道を登ってきたせいで、頬がバラ色に輝《かがや》いていた。揺《ゆ》れる長い髪《かみ》は、まるで光と戯《たわむ》れているみたいだった。大きな瞳《ひとみ》は意志《いし》の強さを宿し、きらきら輝いていた。
僕は里香を抱《だ》きしめたくなった。
いや、抱きしめることにした。
「なによ?」
僕の視線《しせん》に気づいた里香が尋《たず》ねてきた。
僕は言った。
「こっち来いよ」
しかし里香はムッとした。
命令形[#「形」は底本では「系」]だったのが気に食わなかったらしい。
ムッとしたまま、こう言ってきた。
「おまえが来い」
ああ、もう。ほんと里香はわがままだ。しかも気が強い。男に向かって、おまえとはなんだ、おまえとは。もう少し言い方ってもんがあるだろうが。でも、まあいいか。これが里香なんだもんな。しょうがねえよ。こういうわがままさとか、気の強さとか、全部わかった上で、ここに来たんだ。
それに、僕が歩み寄らなきゃいけないのなら、歩み寄ればいいだけだ。
たいしたことじゃないさ。
僕は歩み寄ると、両|腕《うで》を広げ、そっと里香《りか》の小さな身体を包《つつ》みこんだ。里香は驚《おどろ》いたみたいだけど、僕はそのまま顔を少し下げた。不思議《ふしぎ》とためらう気持ちはなく、また恐《おそ》れもなく、僕の唇《くちびる》は里香の唇に近づいていった。里香が緊張《きんちょう》しているのが、よくわかった。普段《ふだん》は強気な彼女の身体が、こわばっていた。その緊張が伝《つた》わってきた途端《とたん》、僕も思いっきり緊張してしまった。そして僕たちはキスをした。時間がとまった。世界がとまった。そのくせ心臓だけは跳《は》ねまわっていた。それはたぶん、恐ろしくぎこちないキスだった。
唇が離《はな》れたあと、僕は里香の顔を直視《ちょくし》できなくて、そのまま彼女をぎゅっと抱《だ》きしめた。僕の腕の中で、彼女の緊張が少しずつ溶《と》けていった。
「里香」
「ん」
「オレさ、絶対《ぜったい》におまえのことを――」
その先の言葉《ことば》は、秘密《ひみつ》だ。誰《だれ》にも、決して、教えない。亜希子《あきこ》さんだろうが、夏目《なつめ》だろうが、殴《なぐ》られようが蹴《け》られようが、話したりするもんか。僕はその言葉を、僕と里香のためにとっておくんだ。里香がこの世からいつか消え去ってしまうその瞬間《しゅんかん》まで、ふたりだけのものにし
ておく。
「――するから」
言い終わってしばらくたってから、僕は腕《うで》の力を緩《ゆる》めた。里香《りか》が顔を上げ、僕を見つめてきた。
「二度目だね」
「え?」
二度目? なにがだ?
「その言葉《ことば》」
里香の顔は少し赤かった。
「前にここに来たときも、言ってくれた」
「前って……」
ああ、そうか。四カ月前のことだ。里香がまだ手術するって決めてなかったころ。里香のことをよく知らなかったころ。司《つかさ》が持ってきてくれた原付バイクでここに来た。今でもガキには違いないけど、あのころの僕はさらにずっとガキで、なんの覚悟《かくご》もできていなかった。小さなことに振《ふ》りまわされ、つまらない苛立《いらだ》ちを里香にぶつけたりもしたっけ。こうして振り返ってみると、それはひどく昔のことのように思われた。たった四カ月のあいだに、僕と里香はずいぶん長い距離《きょり》を歩いたのかもしれない。
「なんだ」
僕はくすくす笑いながら、うつむいた。
「オレ、言ったんだ」
里香もくすくす笑った。
「覚《おぼ》えてないんだよね、裕一《ゆういち》は」
「ああ」
「でも言ったよ」
「そっか」
そのまま、おでこをくっつけて、僕たちはくすくす笑いつづけた。里香の笑う声が、すぐ近くで聞こえる。彼女の笑う振動《しんどう》が、僕のおでこに伝《つた》わってくる。今、僕たちはしっかりとくっつきあっている。一ミリだって、隙間《すきま》はない。こうして生きていくんだ。里香を守って、腕の中に入れて、ずっと生きていく。たとえ彼女の命が短くとも、終わりの日がすぐにやってくるのだとしても、彼女といることがただつらいだけになってしまうのだとしても、それでも僕はやはり彼女と生きることを選ぶだろう。運命なんてものじゃなく、そんなふうに他人|任《まか》せなものではなく、僕自身の意志《いし》として選ぶだろう。そうさ、この瞬間《しゅんかん》こそが、僕が望んだ日常《にちじょう》なんだ。
「裕一」
名前を呼《よ》ばれた直後、いきなり唇《くちびる》をふさがれた。今度は里香《りか》のほうからキスしてきたのだ。思いっきり背伸《せの》びした里香の身体を、僕は両|腕《うで》で支《ささ》えた。そうさ、こうやって、僕たちは生きていくんだ。
僕たちの頭上《ずじょう》には、青い空が広がっていた。空の色はもう春のそれで、うすぼけた雲の輪郭《りんかく》もまた春そのものだった。そう、冬はすぎ去ったんだ。これから春がやってくる。桜が咲く。五十鈴川《いすずがわ》の土手が青い草に埋《う》めつくされる。運河《うんが》に魚の作る波紋《はもん》がいくつも広がるようになる。そして春のあとには夏が来る。里香と赤福氷《あかふくごおり》を食べに行こう。海にだって行こう。手をつないで出かけよう。そんな瞬間《しゅんかん》を、一日一日を、里香といっしょに楽しもう。
さて、これから大きな仕事が待っている。この背中《せなか》でゴツゴツしている本、『Y』と書かれた『チボー家の人々』を、里香に渡《わた》さなきゃならない。里香は喜ぶかな。照れるかな。きっと両方だな。ああ、絶対《ぜったい》両方だ。
僕は背中に手をまわし、その本を掴《つか》んだ。
[#地から2字上げ]おわり
[#改ページ]
あとがき
僕はかなりの散歩好きなのですが、いつものコースに猫屋敷《ねこやしき》が一|軒《けん》あります。全部で何匹|飼《か》ってるのか知らないものの、確認できてるだけでも五匹はいます。そのうちの一匹が立派《りっぱ》な茶トラ猫でして、彼は煮干《にぼ》しが大好物らしく、「煮干し」と声をかけると、「にゃあ」と鳴《な》き返《かえ》してきます。煮干し、にゃあ、煮干し、にゃあ、ってな感じ。
その煮干し君ですが、八月に刊行された『猫|泥棒《どろぼう》と木曜日のキッチン』で重要な役割を果《は》たしてます。いや、モデルに使いたくなるくらい立派なトラ猫なんですよ(←猫バカ)。単行本なのでちょっと値段《ねだん》高めですが、暇《ひま》だったら煮干し君の活躍《かつやく》を読んでやってください。
さて、猫話&宣伝《せんでん》はこれくらいにして――。
実を言うと、『半分の月がのぼる空』はこの五巻で終わる予定でした。もともと長く続ける話ではないし、五巻で十分だと思ってたわけです(それでも長いくらいですけど)。ただ、いろいろ考えた末、もうちょっとだけ出そうかと思います。というのも、『リバーズ・エンド』というシリーズを以前やったことがあるんですが、そのシリーズ終了後に特別編って感じで後日談《ごじつだん》を書いたところ、これが意外なくらいしっくりきました。物語ってのはここまで書かなきゃいけないんだなと、そのとき実感したわけです。
里香《りか》の病気は、あっさり治るものではありません。必《かなら》ず終わりが来ます。けれど、それがいつかはわからない。明日かもしれない。明後日《あさって》かもしれない。あるいは十年後かもしれない。終わりが来るそのときまで、恐怖《きょうふ》と寄《よ》り添《そ》って生きていかねばならないわけです。しかしながら、そういった日常《にちじょう》が悲壮《ひそう》であるかといえば、決してそんなことはありません。日常というのは、やがては恐怖さえも取り込んでしまいます。いや、ちょっと違《ちが》うかな。恐怖でさえも日常に染《そ》まってしまうという感じでしょうか。
なぜそんなことがわかるかといえば、僕の身内にそういった状況《じょうきょう》に置かれている人間がいるからです。この巻に出てくる石川《いしかわ》さんは、彼をモデルにしています。僕はひどくいい加減《かげん》な奴《やつ》なのですが、彼はそんな僕をまともに扱《あつか》ってくれた数少ない人間でした。僕にとっては、実の親よりも大きな存在《そんざい》でした。
本当に大切なのは、日常なんだと思います。危機《きき》の瞬間《しゅんかん》ではありません。どんなに辛《つら》くても、苦しくても、やがて危機は過《す》ぎ去《さ》ってしまう。そのあとに訪《おとず》れる当たり前の日々を、僕たちは生きていかなければならない。裕一《ゆういち》と里香にもまた、日常が訪れます。終わりの見えない、けれど必ず終わりのある日常が。
それにしても、巡《めぐ》り合《あ》わせというのは不思議《ふしぎ》なものです。
ちょうどこの五巻を書いてるとき、しかも石川《いしかわ》さんの登場シーンを書いたまさに当日、モデルとなった彼は二十七年間の闘病《とうびょう》生活を終えました。そのときが、ついに来てしまったわけです。なんなんだろうな、と棺《ひつぎ》の前で思いました。なんで今なんだろうって。ちょうど書き始めたばかりだよって。
ごめんなさい。ちょっと重い話になりました。
もう公表されていると思うので、アニメ化についても触《ふ》れておきましょう。いや、しかし、アニメ化とはびっくりです。最初にそういう話があると聞いたときの印象《いんしょう》は、「すげえなあ。度胸《どきょう》あるなあ。製作者《せいさくしゃ》さんは漢《オトコ》だ」でした。『半分の月』は派手《はで》なアクションシーンが毎回あるわけじゃないし、可愛《かわい》い女の子が何十人も出てくる話でもありません。一巻|冒頭《ぼうとう》に書いたように、なんでもないごく普通《ふつう》の話です。男の子と女の子が出会う、ただそれだけの物語。決して映像化しやすい作品ではないはずです。それをあえて映像化《えいぞうか》するという製作者さんの度胸(と男気《おとこぎ》)にマジで期待してます。つたない作品ではありますが、どうかよろしくお願いします。
イラストの山本《やまもと》さん、毎度すばらしいイラストをありがとうございます。お互《たが》い体には気をつけましょう。デザインの鎌部《かまべ》さん、一度お会いしたいっす。編集|徳田《とくだ》さんには、なにをどう感謝《かんしゃ》していいのかわからないくらい感謝してます。単行本でお礼できてるといいのですが。
最後のメッセージは、いつものように読者のみなさんへ――。
みなさんのおかげで、どうにかこの物語を最後まで書き切ることができそうです。応援《おうえん》ありがとうございます。たくさんいただくお手紙が、本当に励《はげ》みになってます。今回もぜひ感想《かんそう》を聞かせてください。
次巻は、できれば半年以内に出したいと思ってます。
[#地から2字上げ]二〇〇五年夏 橋本 紡
[#地から2字上げ]http://home.att.ne.jp/theta/bobtail/index.html