半分の月がのぼる空4
橋本紡
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)意地悪《いじわる》そうに
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)秋庭|里香《りか》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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屋上《おくじょう》から戻《もど》ったあと、僕はずっと廊下《ろうか》の隅《すみ》に座《すわ》りこんでいた。夜の病院はひどく静かで、それが僕をさらに不安にした。まるで世界がその動きをすべてとめたように思えた。時折《ときおり》、僕はそこがどこなのかわからなくなった。慌《あわ》ててあたりを見まわし、自らの心と記憶《きおく》を探《さぐ》り、ようやく現実に戻るのだった。そうして自分を取り戻すと、僕は里香《りか》のことを考えた。冷たく硬《かた》い床《ゆか》を尻《しり》に感じ、空間のどこかを見つめながら、僕自身の中に宿っている里香の面影《おもかげ》に触《ふ》れようとした。そうすれば里香をこの世にとどめておけるように思えたからだった。僕が忘《わす》れてしまったとき、里香の命が揺《ゆ》らぐような気がした。もちろん、それは下らない思いこみだった。勝手に突っ走った強迫観念《きょうはくかんねん》にすぎない。
『ぼくらはあまりにも考えすぎる』
そう、そのとおりだ。けれど、わかっていながらも、僕は必死《ひっし》になって里香の姿《すがた》を追《お》い求《もと》めた。学校に行ったとき、里香は嬉《うれ》しそうに笑っていた。校門の前の記念写真。みんなに囲《かこ》まれながら笑ってた。あのあとはぐれてしまったけれど、一年の教室で里香を見つけた。みゆきといっしょだった。山西《やまにし》の下らない鉄道|講義《こうぎ》を聴《き》きながら、やっぱり里香は楽しそうに笑った。あれが里香にとって唯一《ゆいいつ》の授業体験だったんだ。初登校。そしてこのままだと最後の登校になるのかもしれない。そしてとめられた一分。いつもいつも、里香は僕の指先を握《にぎ》った。真っ青な顔で笑い、その震《ふる》える唇《くちびる》から優しい声を出した。苦しいはずなのに、僕には笑《え》みしか見せなかった。
どういうわけか僕の頭に浮《う》かぶのは優しい里香《りか》ばかりだった。まったく、おかしな話だ。いつもいつも里香は怒《おこ》ってばかりいたのに。笑ってるより、怒鳴《どな》っているときのほうが圧倒的《あっとうてき》に多かった。ほんと里香は身勝手《みがって》でわがままで気まぐれで、とにかくひどい女なんだ。それなのに、記憶《きおく》の中の里香はひどく優しく微笑《ほほえ》み、僕をじっと見つめているのだった。
僕は『チボー家の人々』を抱《だ》きしめた。里香の思い。気持ち。なによりも大切《たいせつ》なもの。本当に欲しかった、たったひとつのもの――。
やがて、また里香の笑みが脳裏《のうり》に浮かんだ。病院の屋上《おくじょう》。カメラにフィルムを入れようとしていたとき。手間取《てまど》っていたら、僕の手元、つまりカメラを覗《のぞ》きこんできた。ものすごく上機嫌《じょうきげん》だった。ニコニコ笑っていた。なのに、いざカメラを向けたら、恥《は》ずかしそうな顔をした。その顔を撮《と》ったら今度は拗《す》ねた。拗ねた顔ももちろんフィルムに焼きつけた。ああ、あのとき、里香は僕の子供のころの写真を持っていたんだ。
少し前に聞いたばかりの、亜希子《あきこ》さんの声が蘇《よみがえ》ってきた。
「里香ねえ、喜んでたよ。ずーっと、写真見てニコニコ笑ってんの。あの子があんなに嬉《うれ》しそうな顔するの、初めて見たかもしれない。いつまでも見てるからさ、ほら、からかってやるつもりで、顔赤くなってるよとか言ってやったんだよ。いや実際《じっさい》赤くなってたんだけどさ。そしたら、うんって肯《うなず》きやがってさ。そこ恥ずかしがる場面だろって突っこみたかったけど、突っこめなかった。だってほんと幸せそうだったんだもん」
里香は今も、その写真を持っている。
右足に貼《は》りつけていった。
僕が父親の足にしがみついて笑ってる写真だ。
そのことを思うと、胸《むね》が張《は》り裂《さ》けそうになった。なんてことだろう。僕はなんにもわかってなかったんだ。確かに大切だとは思っていたさ。この世界よりも、自分よりも、圧倒的に大切だった。もし神様がやってきて、世界を滅《ほろ》ぼすか里香を殺すかの二択《にたく》を迫《せま》ったら、僕はなんのためらいもなく世界の消滅《しょうめつ》を望んだだろう。里香を助けてくださいと叫《さけ》んだだろう。
けれど、でも、やっぱりなんにもわかってなかった。
もっともっと大切だったんだ。
世界のすべてなんて、どうでもいい。比べることさえもできない。もし里香が助かるのなら、いくらだって、何回だって、滅んだってかまわない。自分の手で破壊《はかい》しつくしてやるさ。
その里香は今、境界《きょうかい》をさまよっている。
生と死の、境界を。
僕は本を抱きしめ、背中《せなか》を丸めた。身体がぶるぶる震えた。とめようとしてもとめられなかった。僕のすべてが震えていた。
「裕一《ゆういち》」
突然、声が聞こえた。里香《りか》の声だった。そこに姿《すがた》があるわけがないと知りつつ、それでも僕は周囲《しゅうい》を見まわした。がらんとした空間に里香を求めた。黒い長椅子《ながいす》は端《はし》っこが破れていて、中のスポンジがだらしなく出ている。リノリウムの床《ゆか》はあちこちはがれたり割れたりしている。すべての扉《とびら》にはいくつも瑕《きず》がついている。そんな当たり前の光景《こうけい》があるだけ。里香の姿はやはりどこにもない。
「本、読んでいいよ」
布団《ふとん》に顔を半分|埋《う》めながら、里香は言った。
「でもゆっくり読んでね」
僕の喉《のど》から声が漏《も》れた。ヒッ。とめられない。ヒッヒッ。目が熱《あつ》くなる。唇《くちびる》が震《ふる》える。手が震える。僕はその本、『チボー家の人々』を中心に身体を丸め、そして頭を床にこすりつけた。なあ、夏目《なつめ》。頼《たの》むよ。里香を助けてくれよ。もし里香を助けてくれるんなら、一生あんたの下僕《げぼく》でいいよ。なんだって聞いてやるよ。ボコボコに殴《なぐ》られたって文句《もんく》なんか言わないさ。タバコを買ってこいって言われたら、犬コロみたいに走って買いにいってやる。だから里香を助けてくれよ。お願いします。里香を助けてください……。
いろんな思いが駆《か》けめぐり、やがてそのすべては消えていった。心が、気持ちが、ゆっくりと燃えつきていった。僕は真っ白な気持ちで空間のどこかを見つめつづけていた。
そして手術が終わった。
「おまえにとっちゃ、最悪の結末《けつまつ》だ」
手術室から出てきた夏目は言った。
「マジで最悪だよ、戎崎《えざき》」
僕は夏目が吐《は》いた言葉を何度も何度も頭の中で繰《く》り返《かえ》した。その意味を掴《つか》もうと足掻《あが》いた。理解《りかい》しようとした。けれど習ったこともない数式を目の前にしたときと同じように、答えどころか、その解き方さえもわからなかった。
夏目はそんな僕をじっと見つめていた。
ひどく暗い瞳《ひとみ》だった。
彼は僕を哀《あわ》れんでいた。
「最悪って――」
あたりが急に騒《さわ》がしくなったせいで、言葉《ことば》に詰《つ》まった。手術室から何人もの人が駆け出てきたかと思うと、別の人が駆けこんでいった。誰《だれ》かがなにかを叫《さけ》んだ。続いて笑い声が聞こえてきた。僕はその笑い声に殺意《さつい》を覚《おぼ》えた。なんなんだよ。なんで笑えるんだよ。おい。こんなときになにが楽しいんだよ。その怒《いか》りをエネルギーにして、詰《つ》まった言葉《ことば》をどうにか吐《は》きだす。
「最悪って、どういうことですか?」
自分の声なのに、そんなふうに聞こえない。いったい誰《だれ》が喋《しゃべ》ってるんだろう。これは本当に僕の声なのか。
「手術が失敗したってことですか?」
夏目《なつめ》は首を横に振《ふ》った。
「いや、うまくいったよ」
「え……」
「やれることはやった。もう一回やっても、あれよりうまくはできないだろう。ただし、しばらく様子《ようす》を見る必要《ひつよう》がある。手術ってのはそういうもんなんだよ。一日か二日……まあ、それくらいだろうな。もし一日か二日して里香《りか》が生きてたら間違《まちが》いなく成功だよ」
「そんな……すぐにわからないんですか?」
「里香はぎりぎりなんだ。どんなにうまくいっても、いつ転《ころ》げ落《お》ちるかわからねえんだ。だがまあ、たぶん成功だ。成功したと思う」
成功。
それは望んでいた言葉だった。
成功。
なによりもそれを欲《ほっ》していた。
しかしいざ告《つ》げられたその言葉はなぜか棘《とげ》だらけだった。僕はわけがわからなくなり、ただぼんやりと夏目の顔を見つめつづけた。夏目のほうも目を逸《そ》らさなかった。僕の瞳《ひとみ》を、その奥底《おくそこ》を、じっと覗《のぞ》きこんできた。やはり夏目の瞳には希望も絶望《ぜつぼう》も宿ってはいなくて、ただ哀《あわ》れみだけがあった。
しばらくして、僕はようやく尋《たず》ねることができた。
「じゃあ、どういうことなんですか?」
やっぱり自分の声には聞こえない。
「最悪って、どういうことですか?」
夏目は笑った。
ひどく悲しそうに笑ったんだ。
「すぐにわかるさ。わかりたくなくても、わかることになる」
そして夏目は歩きだすと、僕の脇《わき》を抜《ぬ》けていった。
僕は振《ふ》り向《む》き、夏目の背中《せなか》に向かって声を放《はな》った。
「それって――!」
けれど、その声はもっと大きな声によってかき消されてしまった。いきなり数人の男が手術室から走り出てきて、夏目《なつめ》を取《と》り囲《かこ》んだのだ。彼らはことごとく興奮《こうふん》していて、この場にはあまりにも不似合《ふにあ》いな大きい声で廊下《ろうか》を満たした。
夏目先生すばらしかったですよ感動しましたあんなに正確で速いオペは初めて見ました噂《うわさ》どおりですもったいないですよまったくです早く医局《いきょく》に戻《もど》ってください医局もガラリと変わったし今ならなんとでもなります上の連中は僕たちが説得《せっとく》しますだから夏目先生――。
彼らは僕のことなんて気にもしてなかった。たぶん僕の姿《すがた》は目に入ってないんだろう。そんなふうに興奮した若い医者に囲まれているのに、当の夏目は冷《さ》め切《き》っていた。背中《せなか》を丸め、無言《むごん》のまま歩きつづけている。その夏目の孤独《こどく》に気づいているのは僕だけだった。同じように孤独の中にいる僕だけが気づくことができた。
手術室の扉《とびら》に目を移《うつ》した。
里香《りか》は生きている。
僕はまだ里香を失っていないんだ。
そうだろ?
なあ、そうなんだよな?
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1
僕の前には、古びたドアがあった。
それは蹴飛《けと》ばせば簡単《かんたん》に壊《こわ》れそうなドアだ。蝶番《ちょうつがい》は錆《さ》びて脆《もろ》そうだし、触《さわ》った感じも薄《うす》っぺらく、本気で蹴ったら一発で吹き飛ぶだろう。でも僕にとって、それは鉄製のドアよりもはるかに頑丈《がんじょう》にできていた。壊すことなんてできない。その向こうには決して行けない。
ドアの上のほうに、こう書かれたプラスチック製のプレートがついていた。
ICU――。
それがどういう単語の頭文字なのかバカな僕にはよくわからないけど、日本語でなんて言うのかはもちろん知っていた。集中|治療室《ちりょうしつ》だ。若葉《わかば》病院には救急車で病人が運ばれてくることがある。意外《いがい》なことに、そういった人たちの半分くらいはたいした病気なんかじゃなくて、運びこまれてから数時間後には、申《もう》し訳《わけ》なさそうな姿《すがた》を晒《さら》して病院を出ていく。本当にヤバいのは――生きるか死ぬかとか――せいぜい一割か二割くらいだそうだ。その人たちは治療を受けたあと、ここに入ることが多い。そして入っていった人の何割かは……それが何割なのかよく知らないけど、生きたまま出てくることはない。
ここは、そういう場所だ。
手術が終わってから数日たった今も、里香《りか》はちゃんと生きていた。夏目《なつめ》の言ったとおり、手術は成功したのだ。それなのに、いまだ里香はICUからは出られないままだった。出られる様子《ようす》もない。そのことに僕は混乱《こんらん》した。僕が思《おも》い描《えが》いていたのは、もっと単純《たんじゅん》な未来だった。手術が成功すれば、それで状況《じょうきょう》はどんどんいい方向に転《ころ》がっていく。すぐにでも里香に会えて、里香は笑ってくれて、僕も笑って、冗談《じょうだん》なんか言ったりするんだ。幸せで、嬉《うれ》しくてたまらないんだ。そして手術が失敗すれば、それっきり。世界が終わる。
しかし世の中はそんなに優しくはなかった。手術が成功しても、なにも終わりはしなかった。始まってさえもいなかった。僕はそのことに戸惑《とまど》った。成功という現実に浮《う》かれながら、同時に絶望《ぜつぼう》の淵《ふち》を覗《のぞ》きこんでもいた。
そう、宙ぶらりんのまま――。
笑うことも泣くこともできない。そのどちらを選べばいいのか、誰《だれ》も教えてくれなかった。手術が成功したら、そこにはバラ色の未来が待っているはずだった。僕は本当にそう思っていた。けれど、そんな浅《あさ》はかな希望はゆっくりと色褪《いろあ》せていった。
やがて、ICUのドアが開いた。
「あ、亜希子《あきこ》さん」
出てきた人影《ひとかげ》に、僕は駆《か》け寄《よ》った。
ん、と亜希子さんが言う。
「あんた、まだいたの?」
「は、はい」
一時間くらい前、亜希子さんがICUに入っていくのを見かけたので、僕はそれからずっと待っていたのだった。
「里香は?」
「まあ、わりと順調《じゅんちょう》だよ」
「そうですか」
ほっとした。膝《ひざ》から力が抜《ぬ》けた。
「よかった」
「ほら、行くよ」
「あ、はい」
どんどん進む亜希子さんのあとをついてゆく。なぜか亜希子さんはいつもよりずっと早足だった。肩《かた》もいつもより上がってる気がする。最近、亜希子さんはずっとこんな調子《ちょうし》だった。口数も少なくて、怒《おこ》ってるわけでもないのに、なぜか僕をきつい目で見てきたりするんだ。いったいどうしたんだろう……。
「なあ、裕一《ゆういち》」
「なんですか」
一秒だけ、目が合った。
「あのさ」
「はい?」
「……なんでもない」
やっぱりおかしい。亜希子《あきこ》さんがこんなに曖昧《あいまい》な態度《たいど》を取るなんて。僕は急に不安になった。亜希子さんの妙《みょう》な言葉《ことば》や態度が、里香《りか》の病状と関係あるように思えたからだ。
思わず声が出ていた。
「あの、亜希子さん」
「なんだよ」
一秒だけ、目が合った。
「えっと、その」
「うん?」
「……なんでもないです」
まったく、どうして言葉ってのはこんなに使いづらいんだろう。胸《むね》の中にあるものを、その十分の一だって表現できやしない。ああ、違《ちが》うのかな。そうじゃないのかな。僕の気持ちが曖昧なのかな。
よくわかんないや……。
それから僕たちはもう口を開くことなく、ただスロープや廊下《ろうか》を歩きつづけた。言いたいことや尋《たず》ねたいことはたくさんあるはずなのに、結局《けっきょく》どれも言葉にならなかった。
そして、ナースステーションの前についた。
開きっぱなしになっているドアのところで、亜希子さんが立ち止まった。
「ところでさ、あんた、レポートやってんの?」
「あ、全然」
「バカ。あんたはほんとバカだね。レポート出さないと留年《りゅうねん》しちゃうんだろ。あたしも赤点取りまくったけどさ、留年だけはしなかったよ」
ムッとして、僕は言った。
「あたしも[#「あたしも」に傍点]ってなんですか、あたしも[#「あたしも」に傍点]って。僕はそんな赤点取りまくってないですよ。せいぜい毎回二科目くらいで――」
「でも留年|寸前《すんぜん》なんだろ?」
「それは……そうですけど……」
「里香も頑張《がんば》ってるんだから、あんたも頑張んなよ」
そう言ってから、亜希子さんはニヤリと笑った。
「今の言い方、看護婦《かんごふ》らしかっただろ」
「…………」
「あー、なんだよ、そのほっそい目は。ったく、これだから最近のガキは可愛《かわい》くないんだ。素直《すなお》に頑張《がんば》りますって言えないもんかね」
パシンと頭を殴《なぐ》られた。ああ、なんで殴るかな、この人は。
「ちぇっ、亜希子《あきこ》さんが茶化《ちゃか》したんじゃないですか」
「うはは」
「笑ってるし」
とはいえ、僕も笑っていた。
「さっさと病室|戻《もど》んな」
「はいはい、わかりましたよ」
しかし、歩きだしたところで、すぐに呼《よ》び止《と》められた。
「裕一《ゆういち》、あんた知ってるの?」
「え? なにをですか?」
さっきまでの余韻《よいん》のまま、笑いながら僕は尋《たず》ねた。でも亜希子さんは笑っていなかった。そうさ、全然笑っちゃいなかったんだ。ああ、亜希子さんの口が動いたぞ。なにか言うんだ。言葉《ことば》が、現実が、もうすぐ僕の耳に届《とど》く。待ち望み、そして逃《に》げまわっていたものがやってくる。
絶望《ぜつぼう》?
希望?
覚悟《かくご》なんてものがもちろんあるわけもなく、僕はただ震《ふる》えながらその言葉を待った。けれど亜希子さんの唇《くちびる》は動きをとめた。その直後、亜希子さんの瞳《ひとみ》に浮《う》かんだ淡《あわ》い輝《かがや》きを、僕はよく知っていた。手術が終わったあと、夏目《なつめ》の瞳に宿っていたものと、それはまったく同じだった。
亜希子さんは僕を哀《あわ》れんでいた。
「とっとと病室に戻りな、クソガキ」
「…………」
「でないと、いつまでたっても退院《たいいん》できないよ」
そして亜希子さんはナースステーションに入っていった。
あるいは逃げこんだのかもしれない。
おかしい。なにか僕の知らないことがあるんだ。そしてみんな……夏目も亜希子さんも他の看護婦さんもそれを隠《かく》している。
突然、胸《むね》が苦しくなった。
僕はその場にしゃがみこんだ。
「息《いき》が……できない……」
吸っちゃいるさ。吐《は》いてもいる。
呼吸《こきゅう》はしてるんだ。
なのに、なんでこんなに苦しいんだよ?
2
それにしても世の中は理不尽《りふじん》だ。
おかしい。
間違《まちが》ってる。
たとえば、なにが間違ってるかといえば……そう、たとえば、こういうことだ。僕が中学一年のとき、わりと好きな子がいた。いやいや、それほど好きだったってわけじゃないさ。好きだとか恋だとか、そういうやたらと立派《りっぱ》で心|躍《おど》るものなんかじゃなくて、そばにいるのがなんとなく当たり前になってたって感じだ。
ああ、そうさ、恋なんかじゃない……強がりじゃなくてさ、ほんとにほんとに……。
ずいぶん前になるけど、その子と並んで道を歩いていたら、正面《しょうめん》からやたらとカッコいいヤツが歩いてきた。当然のごとく、僕はほんの少しムッとした。さっさと通りすぎようとした。
ところが、だ。
僕の隣《となり》を歩いていたその女の子が、いきなり歩調《ほちょう》を緩《ゆる》めた。
「どうしたんだよ?」
僕は彼女に尋《たず》ねた。
「ん」
しかし彼女は無愛想《ぶあいそう》に言ったあと、顔を伏《ふ》せ、さらに歩調を緩めた。僕はそのままの調子《ちょうし》で歩いていたので、彼女とのあいだに一メートルくらいの距離《きょり》ができてしまった。
僕が立ち止まると同時に、向かいからやってきたカッコいい男が、
「あれ? 帰り?」
と実に二枚目らしいさわやかさで彼女に話しかけた。
「うん、そう」
彼女は微笑《ほほえ》むと、思いっきり肯《うなず》いた。
さっき僕に取った態度《たいど》とは、えらい違いだった。
長いつきあいなんだ。
よく知ってるんだ。
だけど、こういう顔をする彼女は知らなかった。
それから二枚目|野郎《やろう》と彼女はしばらく立ち話をしていた。二枚目野郎は二枚目野郎にありがちな誰《だれ》にでも優しいって感じの愛想《あいそ》を振《ふ》りまいていて、彼女のほうはもうとびっきりの笑《え》みを浮《う》かべていた。
僕だけがひとりだった。
ひとりだからこそ、気づいたことがいくつかあった。
そして気づくと同時に、僕は傷《きず》ついてもいた。
僕とつきあってると思われたくなくて、それで歩調《ほちょう》を緩《ゆる》めたってわけか……。
ああ、そう、好きだったわけじゃないさ。
つきあってたわけでもない。
なんでもないんだ。ただの幼馴染《おさななじ》みなんだ。小さいころからいっしょにいたってだけなんだ。だから彼女が他のヤツを好きになろうが、そいつが彼女を全然好きじゃなかろうが、どうだっていいんだ。そんな相手のために、僕と距離《きょり》を置いたって、無愛想《ぶあいそう》になったって、気にするべきことじゃないんだ。傷つくほどのことじゃないんだ。
だけど、それでも、僕は傷ついていた。
「じゃあね」
「ああ、またな」
ありきたりの挨拶《あいさつ》を交《か》わし、ふたりは別れた。
男は向こうへ。
彼女は僕のほうへ……ただし、やっぱり距離を置いて。
「行こうぜ、みゆき」
僕は精一杯《せいいっぱい》笑って、しかも陽気《ようき》な声で言った。
ああ、笑ったさ。
他にどうしろと?
とにかく、そんなふうに世の中には理不尽《りふじん》なことが多い。
大きなことで言えば、たとえば世界のあちこちで起きてる戦争だって理不尽の固《かた》まりだ。バカバカ爆弾《ばくだん》を落としてる軍隊が正義面《せいぎづら》をしたり、親を殺された子供が腹に爆弾を巻《ま》いてその軍隊に突っこんでいってテロリスト扱《あつか》いされたりしている。まあ、そういうことはたくさんある。ありふれまくっていると言ってもいい。
しかし、だ。
これほどまでの理不尽を、これほどまでの間違《まちが》いを、僕は知らなかった。なにが理不尽でおかしくて間違ってるかと言えば……そう、あえて具体的《ぐたいてき》に表現するなら、こういうことになる。
山西《やまにし》に彼女ができた!
それも美人らしい。
なぜわかるかというと、当の山西《やまにし》が盛大《せいだい》に自慢《じまん》しまくっているからである。
「ははははは、やっぱオレ様くらいの男前だと、女が放《ほう》っておかないわけよ。なんつーか、モテモテっていうかさ。入れ食い? 口を開けてたら獲物《えもの》が飛びこんできたっていうの? まあ、要《よう》するにそんな感じよ。ははははは」
「…………」
「参《まい》るよなあ。しょっちゅうメール来るんだぜ。うざいぐらいなんだけどさ、ほら、女って寂《さび》しがり屋《や》だろ? だから、そういうのにもいちいち応《おう》じてやんのが男の甲斐性《かいしょう》っていうかさ。そうだろ、なあ」
山西は僕の病室に来ていた。
でもって、見舞客《みまいきゃく》が置いていった伊勢《いせ》名物の生姜糖《しょうがとう》を恐《おそ》ろしい勢《いきお》いで食べている。僕はこのお菓子《かし》があんまり好きじゃない。あの甘さと辛《から》さがどうにも合わなくて、喉《のど》の奥《おく》がイガイガするような感じになってしまうのだった。それで山西に食っていいぞと言ったら、この有様《ありさま》だ。もう一箱食いつくしそうな勢いだった。
ちょっとは遠慮《えんりょ》しろってんだ、バカ山西め……。
ところで僕はといえば、ベッドに横たわっていた。本当なら起き上がって山西に魔神風車固《まじんふうしゃがた》めをかけてやりたいところなのだが、悲しいことに点滴中《てんてきちゅう》だった。
僕は思いっきり不機嫌《ふきげん》な声で尋《たず》ねてみた。
「おまえ、どうやって告白したんだよ?」
「はあ?」
生姜糖を囓《かじ》りながら、山西は勝者の余裕《よゆう》でせせら笑った。
「おまえ、オレ様の魅力《みりょく》をまだわかってないわけ?」
「魅力? その生姜糖のカケラが唇《くちびる》についてるところか?」
「む……まあ、こういうのも可愛《かわい》いって言うんだけどな、彼女は」
だはは、山西はまた笑った。
くそお。
なんかむちゃくちゃ腹が立つ。
にしても、なんで山西に彼女ができるんだ?
「まあな、向こうからな。うん。そういうことだ」
もったいぶった調子《ちょうし》で山西。
僕は驚《おどろ》き、尋ねた。
「え? 向こうから告白してきたのか?」
「おうよ」
そりゃおかしい。相手が山西《やまにし》のしつこさに根負《こんま》けしてOKしたってのなら多少は……それだってかなり疑問だけど……非常《ひじょう》に疑わしいものだけど……納得《なっとく》……はできないけど……まあとりあえずそういうことにしてやってもいいけど……いやいや、やっぱり大いに疑問だけど、とにかく便宜的《べんぎてき》にそういうことにしておくにしてもだ……相手が告白してきただって?
騙《だま》されてんじゃないのか。
真っ先に浮《う》かんだのは、そんなことだった。いや、もちろんこれは客観的《きゃっかんてき》な意見だ。決してうらやましいとか嫉妬《しっと》に狂《くる》ってるとか、それで貶《おとし》めたいとかってことじゃないぞ。うん。
「なんかさ、いきなり呼《よ》びだされたんだよ。でもって、まさかもしかしてと思ったら、見事《みごと》そのとおりでさ。つきあってくださいだって。ずっとさ、彼女|俯《うつむ》いてたんだぜ。恥《は》ずかしかったんだろうなあ。きっと精一杯《せいいっぱい》の勇気を出して告白してきたんだよ。もうね、オレはじんと来たね。ああ、この子を幸せにしてやらなくちゃってな」
山西は浮かれまくっていた。
本当に嬉《うれ》しそうだった。
そんな山西のとびっきりの笑顔《えがお》を見ているうちに、さっきまでの気持ちがだんだん消えていった。苛立《いらだ》ちも、驚《おどろ》きも、なにもかも。
ただ寂《さび》しさだけが残った。
暗くてやたらと広い心の中で、そいつだけが背中《せなか》を小さく丸めて震《ふる》えていた。
僕はそっと、サイドテーブルに置いてある『チボー家の人々』に触《ふ》れた。
里香《りか》の思い。
気持ち。
僕はずっと、この本を、あの言葉《ことば》を、そばに置いていた。
「戎崎《えざき》。おい、戎崎。――戎崎って!」
「お、おう」
「おまえ、話聞いてんのかよ?」
「うるせえ。ノロケ話なんか聞きたくもねえよ」
僕はニヤニヤ笑いながら、そう言ってやった。
笑えてるかどうかはわからないけどさ。
「なんだよ、元気ねえな」
「うはは、病人だからな」
「ところで、里香ちゃんってどうなったんだよ?」
「さあ、わかんねえよ」
「わかんねえって……」
「だから、わかんねえんだよ」
山西は僕の顔をしばらくじっと見つめていたが、
「ふーん」
などと言って、また生姜糖《しょうがとう》を囓《かじ》りはじめた。
それからしばらく、僕も山西《やまにし》も黙《だま》っていた。ただ山西が生姜糖を囓るぼりぼりという音だけが響《ひび》いていた。窓の向こうに目をやると、一日ごとに呑気《のんき》になっていく空が広がっていた。木の芽《め》もすっかり膨《ふく》らんでいる。世界は、季節は、確かに進んでいた。僕たちがどういう気持ちを抱《いだ》いていようが、幸せだろうが足踏《あしぶ》みしていようが、まったく気にもしない。そのことが少し寂《さび》しく、少しありがたかった。
やがて、開きっぱなしになっていたドアを、誰《だれ》かがノックした。
「あ、加世子《かよこ》ちゃん! 場所すぐにわかった!?」
甲高《かんだか》い声をあげて、山西が立ち上がった。
見れば、そこに立っているのはウチの制服を着た女の子だった。やけにスカートが短くて、ものすごくたくさん足が見えた。パンツまで見えそうだった。髪《かみ》は肩《かた》くらいで、薄《うす》い茶髪《ちゃぱつ》だ。
僕の学校は三流校だけあって、校則が緩《ゆる》い。
以前はけっこういい学校で、この伊勢《いせ》では一、二を争《あらそ》うほどの名門だったらしいが、十年くらい前に自主性を育てるためという名目で校則をゆるゆるにしたら、あっという間《ま》にただのバカ校に成り下がってしまったのだった。
「ほら、来なよ! こいつ、戎崎《えざき》! 友達だよ、ほら、この前話しただろ! ダブり寸前《すんぜん》のヤツがいるって! こいつこいつ!」
山西は僕を指さしまくった。
「生姜糖、食べる? いらない? ああ、そうだよな! こんなしょぼいもん食えないよな! あはは! そうだ! 椅子《いす》椅子……他にないのか? じゃあ、ほら! これ座《すわ》りなよ!」
「ありがと」
山西の浮《う》かれようとは対照的《たいしょうてき》に、彼女のほうは落ち着いていた。
「あの、こんちは」
僕が挨拶《あいさつ》すると、彼女はぺこりと頭を下げた。
「こんにちは。病気、大変《たいへん》なんですか?」
あ、喋《しゃべ》ったら、けっこう普通《ふつう》だ。
丁寧《ていねい》だし。
それにしても可愛《かわい》い声してるな。
「いや、たいしたことないんですよ。肝炎《かんえん》なんてたちの悪い風邪《かぜ》みたいなもんだって」
「だったら、学校を堂々《どうどう》とサボれてラッキーですね」
「あはは、まあ、そうですね」
なんて、まったく当《あ》たり障《さわ》りのない会話を僕たちは交《か》わした。
加世子ちゃんは笑って。
僕も笑って。
言葉《ことば》は滑《なめ》らかで。
でも本当には笑ってなくて。
にしても、山西《やまにし》の[#「の」は底本では「に」]ヤツ、うまいことやりやがったな。本気でそう思ってしまうくらい、加世子《かよこ》ちゃんは可愛《かわい》かった。第一|印象《いんしょう》どおり派手《はで》なタイプで、なおかつ美人だった。唇《くちびる》なんてぷっくりしてて、目は大きくて、鼻は低いけどキュートだ。化粧《けしょう》だってかなりうまい。よく見ると、ピンクのマニキュアを塗《ぬ》っていた。
まさか山西がこんな美人を捕《つか》まえるとは。
「いやあ、春だな。春。もうすぐ暖《あたた》かくなるな。ああ、そうだ、夏になったら海に行こうぜ。海。いいなあ、海。ジャバジャバ泳ごうな。オレ、平泳ぎうまいぞ。一キロくらい泳げるって。いやマジで。ああ、そうだ、スイカも買おう。スイカ。スイカ割りしようぜ。戎崎《えざき》も来いよ。ああ、やっぱ来るな」
山西は完全にはしゃいでいた。
そんな状況《じょうきょう》が十五分ばかり続いた。山西は早口でいろんなことを喋《しゃべ》りまくっていて、カッコ悪くてコッ恥《ぱ》ずかくて微笑《ほほえ》ましかった。バカ山西でさえも微笑ましかった。なのに、加世子ちゃんはやっぱり落ち着いていてカッコよかった。コッ恥ずかしくなんてなかった。
そんなふたりは、そんな調子《ちょうし》のまま、去っていった。
「じゃあな、また来るぜ」
ありきたりな言葉《ことば》の響《ひび》きさえも山西《やまにし》は浮《う》かれていて。
「じゃあ、お大事《だいじ》に」
適当《てきとう》に頭を下げた加世子《かよこ》ちゃんはやっぱりクールで。
僕はなんとなく妙《みょう》なものを胸《むね》に抱《かか》えていた。歯車が少し噛《か》み合《あ》わないような感じ。だけど、それがなんなのかわからなかった。季節の変わり目だからだろうか。ああ、最近僕はずっと変なんだ。考えすぎるんだ。ふらふらしてばっかでさ。
やがて、窓の向こうに、駐車場を横切っていく山西と加世子ちゃんの姿《すがた》が見えた。
仲良く手をつないでいた。
φ
谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》にとって、今日はなかなか大変《たいへん》な一日だった。まず朝起きたらすでに出勤《しゅっきん》時刻を過《す》ぎていた。なんで目覚《めざ》まし鳴《な》らないんだよと思いつつ探《さが》すと、足下に転《ころ》がっていた。古くさいベル式の目覚まし時計だ。そのベルの一個がなくなっていた。文字盤《もじばん》のガラスは割れていた。すなわち目覚まし時計様は見事《みごと》に昇天《しょうてん》なされていたのだった。壁《かべ》になにかがぶつかったあとがあったので、誰《だれ》かが投げつけたらしい。その誰かに悪態《あくたい》をつきつつ、顔を洗って歯を磨《みが》いて着替えて愛車に乗りこんだらエンストした。ここのところ、どうもエンジンの調子《ちょうし》が悪いのだ。それをなだめすかしてどうにか走りだすまで十五分かかった。ようやく病院に着いたら婦長《ふちょう》にむちゃくちゃ怒《おこ》られた。三〇七号室の山岡《やまおか》さん、血管《けっかん》がなかなか出なくて、三回も刺《さ》し直《なお》した。優しい山岡さんが「いやあ、平気平気」なんて言いつつ笑ってくれたのがまた泣けた。そのあとに投薬《とうやく》に行った二一五号室の柴田《しばた》さん、山岡さんと違《ちが》って怒りっぽくて、ぶりぶり文句《もんく》を言われた。ハゲ頭を引っぱたいてやりたかったけど、まあ頑張《がんば》って堪《こら》えた。
ようやく一段落《ひとだんらく》できたのは、お昼を二時間も過ぎてからだった。
「ふはあ――」
ご飯代わりのタバコを、屋上《おくじょう》で吹かす。
まず一本。続いて二本。
吸い終わりかかったところで、夏目《なつめ》がやってきた。
「おい、谷崎」
いきなり怒ってるし。
「三一七号の奥寺《おくでら》さんの点滴《てんてき》にビタメジン入れ忘《わす》れただろ」
「え? ビタメジン入れるの?」
「カルテも読めないのかよ。オレはちゃんと書いたぞ」
言《い》い訳《わけ》もできない。完全に自分のミスだった。
「すみません……」
しかたなく、素直《すなお》に謝《あやま》る。
夏目《なつめ》がニヤリと、実に意地悪《いじわる》く笑った。
「ったく、おまえはほんと雑《ざつ》だな。看護《かんご》学校へもう一回行ってこい。カルテの確認《かくにん》なんてのは、基本中の基本だろうが。そんなこともできないなら、看護婦なんてやめちまえ。いいか、オレたちが扱《あつか》ってんのは人様の命なんだぞ」
当たり前のことを、実に説教《せっきょう》くさく言ってくる。
むむう。そりゃミスしたのはあたしだけどさ、言《い》い訳《わけ》もできないミスだけどさ、夏目のヤツ、ぜーったい好機《こうき》だと思って、グチグチ言ってやがる。
ねちっこい姑《しゅうと》みたいな男だ。
むむう、蹴《け》りたい。むちゃくちゃ蹴倒《けたお》したい。
「今回は許《ゆる》してやる。次から気をつけろ」
「はい……」
それでも、もちろん殊勝《しゅしょう》に肯《うなず》くしかない。
ああ、でも、ほんとあたしは雑だ。なんでこんなに失敗《しっぱい》ばっかしちゃうんだろう。夏目の言うことももっともだ。おかしいよ、そんなの。もっといい看護婦になれると思ってた。なるつもりだった。なのに失敗ばかりの日々。
さすがに落ちこむ。腹の底《そこ》がぐるりと動く。
「おい、谷崎《たにざき》」
「なんですか、先生」
そう言ったら、夏目がひどく嫌《いや》そうな顔をした。
「どうして敬語《けいご》なんだよ」
「なんとなく」
「気持ち悪いからやめろって。てめえはな、ぎゃあぎゃあ喚《わめ》いてりゃいいんだよ。素直に落ちこむなんざ、柄《がら》じゃないだろうが」
「…………」
「まあ、そんなことはどうでもいい。あのな、戎崎《えざき》だが、どうしてる?」
ちょっと意外《いがい》な質問だった。
「元気ないですよ」
「そうか」
「当たり前ですけどね」
「だから、敬語やめろって」
本気で嫌がってる。
うはは。
さっきの仕返《しかえ》しに、しばらく続けてやろう。
「先生、どうなさるんですか?」
「どうなさるって……なにがだよ……?」
「里香《りか》のこと、教えてあげないんですか?」
「教えられるわけないだろ。あいつは家族でもなんでもないんだぞ。勝手に病状を漏《も》らすのは守秘義務《しゅひぎむ》違反《いはん》だ。そんなこと、おまえだってわかってるだろうが」
「そりゃわかってますけどね」
「なんだよ、けどねって」
「裕一《ゆういち》ね、宙ぶらりんなんですよ。あのバカはバカなりに、なにか察《さっ》してるみたいなんですよね。顔を合わせると、もう泣きそうなんです。強がる意気地《いくじ》もなくなっててね。笑おうとはするんですけど、全然笑えてないんです。その引きつった顔がもうイタくてイタくて」
「そうか」
タバコを吹かす。風に紫煙《しえん》が流されていく。もう冬の風じゃなくなりつつある。春の気配《けはい》に染《そ》まっている。その春の気配の中、駐車場を学生のカップルが横切っていった。手をつないで、とても仲が良さそうだ。ふいに、あれが裕一と里香だったらいいのにという考えが浮《う》かんだ。もしそれが叶《かな》うのなら、なんだってしてやるのにさ。一生、夏目《なつめ》に敬語《けいご》を使ってもいいや。
「なんとかなりませんかね、夏目先生」
「無理《むり》だ」
「宿直中に酒飲んでたことをバラしますよ」
「バラせよ」
「患者《かんじゃ》をボコボコにしたこともバラしますよ」
「好きにしろ」
「バレたら首ですよ」
「そりゃ楽しい未来だな」
ムッとした。そろそろ我慢《がまん》も限界《げんかい》だ。
と、夏目がこちらをちらりと見てきた。
「もう、そういう状況《じょうきょう》じゃねえんだよ」
「状況?」
「ああ、里香の母親から申し入れがあってな――」
夏目の口から出てきた言葉《ことば》を、亜希子《あきこ》は絶望《ぜつぼう》とともに聞いた。こんなに悪い知らせは久しぶりだ。点滴《てんてき》のミスも山岡《やまおか》さんの平気平気という声も柴田《しばた》さんの愚痴《ぐち》もたいした問題じゃない。なんなんだよ、気がつくと呟《つぶや》いていた。誰《だれ》にも聞こえなければよかったのに、隣《となり》にいる夏目にはしっかり聞こえたみたいで、ヤツは顔をしかめた。その瞬間《しゅんかん》、なにかが切れた。
背《せ》を向け、早足で歩きだす。
「どこ行くんだ、谷崎《たにざき》」
「里香《りか》のお母さんと話してくる」
「バカ、やめろ」
「だって! そんなのおかしいだろ!」
敬語《けいご》? 知ったことか!
「おかしいじゃないか、そんなのって!」
「しかたねえだろうが!」
「だけど――」
「しかたねえんだよ!」
食いしばった歯のあいだから漏《も》れる夏目《なつめ》の声。
悟《さと》った。
しかたないことを一番よく知っているのは夏目だ。
その夏目が堪《こら》えている。
歯を食いしばってる。
である以上、自分になにが言える? 大声で喚《わめ》き散《ち》らしたところで、そんなのはただの自己満足でしかない。自分自身の怒《いか》りを吐《は》き捨《す》てるだけの行為《こうい》。それに喚いた言葉《ことば》は誰《だれ》にも聞き入れられないだろう。谷崎|亜希子《あきこ》も看護婦《かんごふ》である以上は……たとえどうしようもないポンコツ看護婦であろうと、そんなことは百も承知《しょうち》だった。それでも、言葉が漏れていた。
「そんなのないだろ……」
自分で思っていたよりも弱々しい声が出てしまった。
「そんなのないよ……」
夏目は黙《だま》りこんでいる。
「おかしいよ……」
ずっと夏目は黙っている。
φ
やっぱり正直に言っておこう。
僕は山西《やまにし》がうらやましかった。うらやましくてうらやましくてしかたなかった。あんなふうにノロケたり、デレデレ笑ったりしたかった。そりゃみっともないさ。情《なさ》けないさ。でも幸せならば、どんなにみっともなくてもかまわなかった。
少し前まで……つまり彼女ができるまで、山西はこの世界のありとあらゆるカップルをけなしまくっていた。
「なんだよ、あのカップル。バカじゃねーの。人前でなんであんなふうにイチャつけるんだろうな。こっちが恥《は》ずかしいつーの。マジでバカだな、バカップル黒帯《くろおび》認定《にんてい》だ」
「うわ、すんげえブサイクカップルだ。子供ができたら悲惨《ひさん》だな。どっちに似《に》ても、生まれた瞬間《しゅんかん》に人生終わりだ」
「ありゃ遊ばれてるな。よく見ろよ、あの女。誰《だれ》にでもついてきそうじゃねえか。男のほう、なんであんな黒いんだよ。将来、末端《まったん》労働者決定だ」
山西《やまにし》だって十分にブサイクだし、僕と同じように将来の末端労働者|候補《こうほ》だし、言えば言うほど惨《みじ》めになるだけなのに、それでも山西は毒《どく》づいていた。そして今、あんなふうにカップルを罵《ののし》りまくっていた山西が、実にダサい姿《すがた》を晒《さら》して浮《う》かれまくっているのだった。
みっともない?
ああ、そうさ、確かにみっともないさ。
だけど、僕はうらやましかった。
僕だって、あんなふうに醜態《しゅうたい》を晒したかった。
「里香《りか》がさあ、甘えてきて困るんだよなあ。女ってのはしょうがねえなあ」
なんて言ってみたかった。
うわ、それ、本当に本当に言ってみたいや……。
そして僕は山西のことがうらやましいと同時に、少しばかり憎《にく》たらしかった。なんであいつはあんなに浮かれてるんだろう? 山西、おまえ遊ばれてんだよ。なのにバカみたいに浮かれやがって。そのうち恥《はじ》かくぞ。ああ、絶対《ぜったい》かくね。でもってビイビイ泣くんだぜ。そういう未来をちょっとは想像《そうぞう》しろよ。バカ山西め。
僕はドス黒い気持ちを抱《かか》えながら、駐車場を歩いていく山西と加世子《かよこ》ちゃんを見つめていた。友達に対する思いやりや優しさなんてまったくなかった。僕の心の中は、ヘドロのように薄汚《うすぎたな》いものがどろどろ渦巻《うずま》いているだけだった。
まったく情《なさ》けない。
それじゃあ、山西と同レベルじゃないか。
でも、僕はその程度《ていど》の男なんだ。
しょせん、そんなもんなんだ。
「はあ」
漏《も》れるのは、ため息《いき》ばかり……。
3
一日……二日……三日……。
なにも起こらず、騒《さわ》ぎも悲嘆《ひたん》も希望もなく、だらだらと時間だけが過《す》ぎていった。僕の焦《あせ》りも、里香の苦しみも、世界にはなんの影響《えいきょう》も与えていなかった。ふと気づくと、僕は東|病棟《びょうとう》に向かっていることがあった。渡《わた》り廊下《ろうか》を通り、二階の一番|端《はし》の部屋《へや》、二二五号の前に立っていた。秋庭《あきば》里香《りか》という文字を見つめていた。そうしてドアの前に立っていると、中から笑い声と怒鳴《どな》り声が聞こえることがあった。なにしてんのよ、もう。裕一《ゆういち》のバカ。ああっ、里香、そんな怒《おこ》るなって。駄目《だめ》。でもさ。駄目。あのさ。駄目。慌《あわ》ててドアを開けると、そこにはただの空間があるだけだった。片《かた》づけられた部屋。ほんの少しの荷物《にもつ》。里香の姿《すがた》はない。この病室に里香が戻《もど》ってくることはあるんだろうか。
僕はため息《いき》をひとつつき、ドアの前でまわれ右をした。
ふらふらと、廊下を歩いていく。いろんな音が聞こえる。いや、聞こえない。届《とど》かない。届かなくていい。渡り廊下で、パジャマ姿のおばあちゃんとすれ違《ちが》った。たぶん旦那《だんな》さんだろう、普段着《ふだんぎ》のおじいちゃんが彼女の介添《かいぞ》えをしていた。ああ、こういうの、なんて言うんだっけな。国語の授業で習ったんだよな。ええと、そうだ、共白髪《ともしらが》だ。いっしょに生きて、いっしょに老《お》いて、いっしょに白い頭になって。
通りすぎる。
共白髪が遠ざかっていく。
やがて自分の病室にたどり着くと、その前に亜希子《あきこ》さんが立っていた。ナース服のポッケに両手を突っこみ、まるで子供みたいな感じでドアにもたれかかっている。
ぼんやりしながら、尋《たず》ねた。
「どうしたんですか、亜希子さん」
「お、戻ってきたか」
亜希子さんはよいしょと声を出して、ドアから背《せ》を離《はな》した。
「ちょっと来な」
「はあ、検査《けんさ》ですか?」
「ん、話」
「話?」
「夏目《なつめ》と婦長《ふちょう》がさ、用があるんだってさ」
どうしたんだろう。亜希子さんが僕と目を合わそうとしない。
ざわっ。
心の奥底《おくそこ》が揺《ゆ》れた。
ざわっ……ざわっ……ざわっ……。
ナースステーションに行くと、夏目が窓際《まどぎわ》の席に腰《こし》かけていた。その横に婦長が立っている。亜希子さんがつれてきましたと言った。夏目が目を逸《そ》らした。婦長が咳払《せきばら》いをした。沈黙《ちんもく》が続いた。まるで僕が不吉《ふきつ》な呪符《じゅふ》であるかのようだった。僕は病院の職員が取る、こういう態度《たいど》をよく知っていた。なにしろもう三カ月以上も入院しているのだ。何度も何度も見てきた。そのあとには必《かなら》ず泣き声が聞こえた。それらはまるで仲のいい友達のように、あるいは双子《ふたご》のように、セットになっていた。ざわっ。また心の底《そこ》が揺《ゆ》れる。ざわっ……ざわっ……ざわっ……。
僕は逃《に》げだしたくなった。背《せ》を向け、ナースステーションを、病院を、この世界を飛びだすのだ。聞かなければ、知らなければ、それは起きていないのと同じだ。そしてどこか遠くで、背中を丸め、膝《ひざ》を抱《かか》え、幸せな世界が続いていると信じていればいい。ほら、逃げろよ。早く走れよ。誰《だれ》もとめないぞ。ほら、走れって。けれど足は動かなかった。
「先生」
婦長《ふちょう》が低い声で言った。
「ああ」
顔を上げずに、夏目《なつめ》が呟《つぶや》く。
「戎崎《えざき》、そこ座《すわ》れ」
「そこ?」
あたりを見まわしたが、近くに椅子《いす》なんてなかった。
夏目はなんで気づかないんだ?
見ていないから?
そんなこともわからないのか?
慌《あわ》てた婦長が小走りで椅子を持ってきた。婦長は五十歳くらいのオバサンで、どっしりとしたおっかさんタイプの人だ。たいていの医者より落ち着いており、夏目みたいな若いヤツだと子供|扱《あつか》いだったりする。その婦長がこんなに慌てた様子《ようす》を見せるなんて。
立ちつくしてると、亜希子《あきこ》さんが言った。
「ほら、座りな」
「はい」
腰《こし》を下ろそうとしたものの、その瞬間《しゅんかん》、椅子なんてないような気がした。腰を下ろしたら、どこまでもどこまでも尻《しり》が落ちていき、床《ゆか》にさえもつかず、ひたすら落ちつづける……。
けれど、尻はすとんと椅子におさまった。
「戎崎、これは警告《けいこく》だ」
やはり顔を上げることなく、夏目が言った。
「おまえはこれから東|病棟《びょうとう》に行くな」
「え?」
「里香《りか》は今日、ICUを出て病室に戻《もど》る。病状が少し安定したんで、今度は病室で様子見というわけだ。それで、だ。おまえは東病棟の里香の病室に近づくな」
里香の病状だと思っていた。それを聞かされるのだと。けれど、耳に届《とど》いたのは、病状だけじゃなかった。別の、まったく予想《よそう》もしない言葉《ことば》がくっついてきた。
「いろいろ勘違《かんちが》いしてるみたいだがな、おまえは里香の家族でもなんでもない。ただの知り合いだ。仲良くしてたことは知ってる。だが、それとこれは別だ。はっきり言って迷惑《めいわく》なんだよ。おまえのせいでガタガタと落ち着かないんだ。向こうのな、里香《りか》のお母さんも困《こま》ってる」
「お母さん?」
手術のとき、長椅子《ながいす》に座《すわ》っていたその背中《せなか》を思いだした。ひどく地味《じみ》な人だ。里香とはあまり似《に》てない。目元がほんの少しだけ。
「だから、近づくな。もしこの警告《けいこく》を無視《むし》したら、すぐに強制|退院《たいいん》させるぞ」
夏目《なつめ》の声には抑揚《よくよう》がまったくなかった。
近づくな。
東|病棟《びょうとう》。
里香の病室。
僕はうろたえ、すぐ後ろに立っている亜希子《あきこ》さんに目をやった。亜希子さんの顔は能面《のうめん》のように固《かた》まったままだった。砲台山《ほうだいやま》に行ったとき、亜希子さんが助けに来てくれた。一分間の面会《めんかい》、亜希子さんが時間をとめてくれた。なのに今、その亜希子さんでさえもが無力だった。慌《あわ》てて今度は婦長《ふちょう》を見る。婦長の顔にも表情がなかった。夏目はずっと俯《うつむ》いたままだった。
それだけだ、夏目が言った。
「病室に戻《もど》れ」
「で、でも……」
「他に用事はない。戻れ」
「あの……」
「以上だ」
急に立ち上がると、夏目は一度も僕の顔を見ないまま、ナースステーションを出ていった。婦長も静かに立ち去った。僕と亜希子さんだけが残された。コチコチという時計の音がやけにはっきり聞こえる。他の音は聞こえないのに。コチコチ、コチコチ、コチコチ、コチコチ――。
「病室に戻ろう、裕一《ゆういち》」
「はい」
「立ち上がりな」
「はい」
「行くよ」
「はい」
でも立ち上がれなかった。
4
なにもかもが流れていってしまう。変わらないように思えても、すべては変わっていってしまうんだ。そして変わっていくように思えるときに限って、なにも変わっていかなかったりするんだ。
そういうのは、じりじりと、実にゆっくりやってくる。そしてなぜか、これが本当に不思議《ふしぎ》なことだけれど、速《はや》くもある。むちゃくちゃ素早《すばや》いヤツと『だるまさんが転《ころ》んだ』をしてるようなもんだった。だるまさんが転んだ。全然動いてない。だるまさんが転んだ。全然動いてない。近づいているようにも思えない。だるまさんが転んだ。だるまさんが転んだ。しかし何回かそう唱《とな》えるうちに、ヤツは背後《はいご》に立っている。だるまさんが転んだ。肩《かた》にポンとヤツの手が置かれる。ヤツは言う。ほら、オレの勝ちだ。あんたの負け。そんな宣告《せんこく》が下される。
変化ってのは、そういうもんだ。
逃《に》げたいとは思ってるさ、そういうのから。避《さ》けて通りたいって。でも逃げられないし避けられない。
ヤツはいつか、僕の肩に手を置く。
ほら、オレの勝ちだ……あんたの負け……。
そんな宣告を下す。
そんなわけで、僕は屋上《おくじょう》にいた。
「はあ――」
脇《わき》に『チボー家の人々』を挟《はさ》み、手すりに両手を置き、顔を上に向けていた。
晴《は》れ渡《わた》った空は青かったけれど、春が近づいたせいか、その青は少し呆《ほう》けたような色合いになっていた。輪郭《りんかく》のはっきりしない雲が東から西へと流れていく。見ていると、その雲は少しずつ形を変えていた。青に巻《ま》かれ、青を巻きこみ、曖昧《あいまい》な輪郭をさらに曖昧にしている。
僕は手すりにおでこをつけた。
「はあ――」
さっきから、ため息《いき》ばかりが出る。
手すりから離《はな》れると、僕は黄色い装丁《そうてい》の本を両手で持って眺《なが》めた。それにしても古くさい本だ。お父さんのなんだろうな。ほんと、あいつはお父さんっ子だったんだな。どんなお父さんだったんだろう。優しかったのかな、怖《こわ》かったのかな。痩《や》せてたのかな、太ってたのかな。
里香《りか》とはもちろん、会えないままだった。お母さんがよほど強く申し入れたらしく、病院中の職員が僕を監視《かんし》していた。ちょっとでも東|病棟《びょうとう》のほうに歩きだそうものなら、誰《だれ》かがすごく疑《うたが》わしそうな目で追《お》ってきた。そして訪《おとず》れたのは、里香と出会う前の日常《にちじょう》だった。なんの変哲《へんてつ》もない、当たり前でつまらない日々。その当たり前さに、僕は打ちのめされた。
里香がいなくても、時間は普通《ふつう》に過ぎてゆく……。
病院の駐車場に女の子が三人いた。誰かの見舞《みま》いにでも来たんだろうか。やがて、その三人がいきなり走りだした。右|端《はし》の子が目にとまる。彼女は腰《こし》まである長い髪《かみ》を風に揺《ゆ》らし、肩《かた》から提《さ》げたピンクのバッグも揺らし、走っていた。里香《りか》はあんなふうに走ったことあるのかな。ないんだろうな。ずっと病院だって言ってたし。
思考《しこう》が雲のように流れていった。
定《さだ》まらない。
とまらない。
たまに、こんな日があるんだ。こういうときは寝《ね》ちゃうのがいいんだよな。考えたって、なにかいい考えが浮《う》かぶわけでもないんだしさ。昼寝でもすれば、少しはまともになるさ。
やがて、背後《はいご》から声がした。
「やあ」
振《ふ》り向《む》くと、隣《となり》の病室の大学生が立っていた。
「あ、こんちは」
「読書でもしてんの?」
大学生が『チボー家の人々』に気づき、そう尋《たず》ねてきた。
あはは、と笑っておく。
「そんなとこです」
でも実際《じっさい》には、僕はこの本をずっと開いていなかった。だから、あの言葉《ことば》も見ていない。なんだかそれがひどく大切《たいせつ》で、何度も見たらすり減《へ》ってしまいそうで……そんなことは決してないとわかってはいたけれど……やっぱり見ることができなかったのだった。僕はただ、この本を抱《だ》きしめつづけていた。それだけでよかった。それだけしかできなかった。
「へえ、デュ・ガールなんて読むんだ。珍《めずら》しいよね、君くらいの年の子がそんなの読むなんて。だいたいそれ、もう絶版《ぜっぱん》だよね」
「あ、よく知ってますね……」
「オレ、専攻が仏文だからね」
大学生はそして、苦笑《にがわら》いを浮《う》かべた。
「まあ、ろくに勉強はしてないんだけどさ」
「僕もです」
留年《りゅうねん》がかかったレポートはまったくの手つかずだった。
「だるいよね、勉強」
「だるいっす」
あはは。僕たちは笑いあった。けれど、たいして親《した》しいわけでもなく、その笑いが消えた途端《とたん》に喋《しゃべ》ることがなくなった。僕も黙《だま》っていたし、大学生も黙っていた。僕はぼんやり空を眺《なが》めた。さっきの雲はどこに行ってしまったんだろう。探《さが》したけれど、見つけられなかった。見えないところまで行ってしまったんだろうか。それとも消えてしまったんだろうか。
なにもかもが流れていってしまう――。
なぜか急に寂《さび》しくなって、僕は『チボー家の人々』を持つ手に力をこめた。これだけはなくさないようにしようと思った。たとえなにがあったとしても、いつか他のすべてを失ってしまうのだとしても、これだけはしっかりと持ちつづけよう。もしこの決意を守れなかったら、僕はきっとなにひとつ守れない男になってしまうだろう……。
「――ったよ」
いろんなことを考えていたので、大学生の言葉《ことば》を聞《き》き逃《のが》した。
「え、なんですか」
「ふられちゃったよ、彼女に。参《まい》ったよ」
この大学生には、それこそ毎日のように見舞《みま》いに来る彼女がいた。病室のドアはたいてい開きっぱなしになっていたので、彼の病室の前を通りかかるたび、幸せそうなふたりの姿《すがた》を見かけたものだった。
なにもかもが流れていってしまう――。
信じられないという顔で見つめると、彼は本当に参ったという顔で笑った。弱々しい笑《え》みだった。それで彼の言葉が真実《しんじつ》だとわかった。なんてことだ。むちゃくちゃ仲良さそうだったんだ。イチャつきまくってたんだ。なのに、別れだだって? マジで?
「オレさ、入院してるだろ。それで寂しかったのかなあ。彼女、合コンとか行ってたらしいんだよね。それでさ、合コンって、まあノリだからさ。彼女、けっこう飲むほうだし。強くないくせに飲むんだよな。それでまあね、他のヤツとね」
「浮気《うわき》、ですか?」
「泣きながら告白されちまったよ。彼女なりに誠実《せいじつ》になろうと思ったらしいけど、むしろ騙《だま》されてるほうがいいよな。いや、嫌《いや》だけどさ。正直に言われても許《ゆる》せないもんは許せないしさ。ったく、参るよなあ」
ああ、ほんと参るよなあ、まったく参るよなあ、大学生は繰《く》り返《かえ》した。
そのあいだ、僕は美沙子《みさこ》さんとのことを思いだしていた。大学生の彼女さんの気持ちが、僕にはよくわかった。なんだかとにかく申《もう》し訳《わけ》なくて、自分がどうしようもないクズに思えて、すべてをぶちまけてしまいたくなるんだ。実際《じっさい》、僕は里香《りか》に美沙子さんとのことを告白し、許しを請《こ》いたいという気持ちをずっと抱《かか》えつづけていた。どうにか抑《おさ》えられたのは、夏目《なつめ》と亜希子《あきこ》さんにやめろと脅《おど》されたからだ。もしふたりの脅しがなければ……僕も同じようにすべてを打ち明けてたかもしれない。
話さなくて正解だった。
里香《りか》はきっと許《ゆる》してくれないだろう。
ああ、許さないのは里香じゃない。この僕だ。僕は僕を許せない。あのとき、里香は苦しんでいたんだ。僕の人差し指を掴《つか》んだ。ふふ、と笑った。ピーターラビットの絵本持ってくるからな。駄目《だめ》だよ、盗《ぬす》むのは。わかってるって。ちょっと長期で借《か》りるだけだって。まあ、それならいいか。笑いながらの会話。お互《たが》いになにかを秘《ひ》めながらの言葉《ことば》。そのすべてを僕は遠ざけた。美沙子《みさこ》さんのぬくもりに、誰《だれ》でもいい誰かの優しさに負けた。
レースでできた十個の花びら。
ピンポン連打《れんだ》。
亜希子《あきこ》さんのビンタ。
そのすべてが鮮《あざ》やかに蘇《よみがえ》り、僕は突然現実感を失った。足下がふわふわする。ここはどこなんだろう?
「君もなんだか辛《つら》そうな顔してるね」
いきなりそう言われ、焦《あせ》った。
「そうっすかね」
むりやり笑ってみる。大学生もむりやり笑った。ああ、そうか、僕もこんな顔をしてるんだ。ちぇっ、全然笑えてないじゃないか。
「うん。なんだかね。オレも辛いからね。なんとなくね」
「まあ、辛いっすね」
「元気出そうぜ」
空《から》元気で彼は言った。
「オレはとりあえず、新しい彼女でも作るわ」
「え? マジっすか?」
「おお。古い恋は新しい恋で洗い流すんだよ。うはは」
「うはは、そりゃいいっすね」
僕たちは、うははと笑いつづけた。うはは、うはは。まったく笑えてなかったけど、とりあえず声だけは出しつづけた。しかしまあ、なんというか、大人というのは偉大《いだい》だ。それを思い知ったのは次の日のことだった。二時間の点滴《てんてき》を終えたあと、我慢《がまん》に我慢をしていたトイレに駆《か》けこもうと病室を出たら、大学生の病室のドアが開いていて、そこから女の人の声が聞こえてきた。すごくはしゃいだ声だった。僕は思わず立ち止まり、中を覗《のぞ》きこんだ。
女の人がいた。
大学生もいた。
ふたりはちょっとイチャついていた。
最初、彼女と仲直りしたのかと思ったのだが、しかしよく見てみると前とは違《ちが》う女の人だった。有言実行《ゆうげんじっこう》とは、まさにこのことだ。あまりの素早《すばや》さに呆然《ぼうぜん》としていると、大学生が僕に気づき、親指をこっそり立ててきた。うわ、すげえよ。すごいっすよ。
僕も同じように親指を立てた。
自然と笑《え》みがこぼれた。
あれ、そういや、久しぶりにちゃんと笑った気がするな。
「あ、ヤバ。漏《も》れそうだ」
慌《あわ》ててトイレに駆《か》けこみ、用を足しながら、僕はまた笑った。
なにもかもが流れていってしまう――。
そうさ、だけどさ、必《かなら》ずしも悪いことばかりじゃない。悪いことは多いけど、さっきの大学生の輝《かがや》くような笑顔《えがお》は偽物《にせもの》じゃなかった。女の人の弾《はず》んだ声もちゃんと本物だった。ずっと沈《しず》んでいた心が少し、ほんの少しだけれど、浮《う》き上《あ》がるのを僕は感じた。
そんな気分のまま病室に戻《もど》ると、意外《いがい》な姿《すがた》がそこにあった。
「おう、戎崎《えざき》」
なんと夏目《なつめ》だった。
その七分後――。
浮き上がっていた気分はきれいさっぱり吹っ飛んだ。
5
山西《やまにし》がやってきたのは午後十時三十七分だった。そのとき、僕はベッドの中でもぞもぞ身体を動かしていた。眠《ねむ》りたかったけれど眠れなかったのだ。闇《やみ》の中、僕はいろんなことを考えていた。どこにも行かない思考《しこう》。同じ場所からスタートし、あっちこっち巡《めぐ》るけれど、結局《けっきょく》は同じ場所に戻ってくる。
やけに大きな音を立てて、ドアが開いた。
亜希子《あきこ》さんだな、と思った。
いつまで起きてんの。とっとと寝《ね》な、このクソガキ。いいかい、問答無用《もんどうむよう》で明日五時に叩《たた》き起《お》こすからね。だから寝な。
そんな言葉《ことば》を予想《よそう》していたのに、聞こえてきたのは意外にも野太《のぶと》い声だった。
「おーう、戎崎」
上半身を起こしつつ、顔をドアのほうに向けると、そこに山西が立っていた。廊下《ろうか》の淡《あわ》い光を背負《せお》っている。僕はびっくりして言った。
「なんでおまえがここにいるんだよ?」
その問いには答えず、山西《やまにし》が近づいてきた。
「おいおい、病院って簡単《かんたん》に忍《しの》びこめるんだな。不用心《ぶようじん》にもほどがあるぞ。誰《だれ》かに呼《よ》び止《と》められると思ってドキドキしてたのにさ、ここまであっさり来れちまったよ。ヤバいんじゃないの、こういうのって。警備《けいび》とかいねえのかよ」
「いや、いるけどさ。しょっちゅう見まわったりしてないし。それより、おまえ――」
山西が近くに来ると、あからさまな臭気《しゅうき》が鼻を突《つ》いた。
「――おい、山西、おまえ酒飲んでるのか」
「飲んでるぞ。飲んでるとも」
ぬはは、と山西が笑った。
明らかに酔《よ》っぱらいの声だった。
「もうちょっと声低くしろよ! 誰かにバレるだろ!」
「悪い悪い! ぬはは!」
「だから、低くしろって! なんで飲んでんだよ?」
そこで、ピンと来た。
「もしかして、おまえ、加世子《かよこ》ちゃんと?」
「ピンポーン!」
山西は得意《とくい》げに叫んだ。
ああっ、なんてことだ。先を越《こ》された。彼女ができれば、そういうこともあるだろうさ。高校生だしさ。つきあってる以上、いろいろしちゃったりできちゃったりもするだろう。しかし山西に先を越されたショックはでかかった。こいつにだけは負けないと思っていたのに。
愕然《がくぜん》としつつ、僕は言った。
「それは……めでたいな」
「ぬはは。ということでだ、戎崎《えざき》、飲もうぜ。祝い酒だ。おまえもオレ様を祝ってくれ。今日はとことん飲もう」
しばらく、僕は笑いつづける山西を眺《なが》めていた。
そのとき、どういうことが僕の心の中で起きたのか、僕自身にもよく理解《りかい》できなかった。ただ動いた。ごろりと、それまで動かなかったものが動いた。
僕は目尻《めじり》の熱《あつ》さを感じながら言った。
「うおっしゃ! 飲もう!」
病室をこっそり出た。ナースステーションの前を匍匐《ほふく》前進で進んだ。浮《う》かれまくった山西が僕の足を掴《つか》んでくすぐってきた。頭を蹴《け》ってやった。引《ひ》っ張《ぱ》られた。蹴った。うひひ、と笑いながら進んだ。それから階段を上った。目指すのは屋上《おくじょう》。そこが一番バレにくい場所だった。
「おお、ちょっと寒いな」
屋上に着くと、山西が酒臭《さけくさ》い息《いき》で言った。
「贅沢《ぜいたく》言うなよ。中で騒《さわ》いだら、すぐに見つかっちまうだろ」
「まあな。よし、飲もう」
ドカリと腰《こし》を下ろすと、山西《やまにし》は持っていたバッグから酒瓶《さかびん》を次々取りだしはじめた。それを見て、僕はびっくりした。ヘネシー、マッカラン、シャトーマルゴー、十四代|大吟醸《だいぎんじょう》……よくわからないけど、とにかく高そうな酒ばかりだった。最後に山西はやたらと立派《りっぱ》な木箱《きばこ》をバッグから出した。
その木箱を手に取った僕は、つい叫《さけ》んでしまった。
「うわ! これってドンペリ?」
おお、と言って、山西がその親指を立てた。
「しかも二十二年物のゴールドだぜ!」
「いくらくらいするんだろ……」
「オヤジが言ってた話だと、まあフカシかもしんないけど、二十万くらいだってよ」
「に、二十万!?」
僕は慌《あわ》てて木箱を床《ゆか》に置いた。なんてこった。二十万なんて現金持ったことないし、二十万の品物だってやっぱり持ったことない。ちょっと……いや、かなりビビった。
「い、いいのかよ? こんなの持ってきて?」
「かまわねえよ。どうせ貰《もら》い物《もの》なんだからさ。オヤジもろくに飲まないまま人にあげちまったりするし。――んじゃ、まずはヘネシーで」
と言って、山西はいきなり瓶をあおった。
ごくごく飲んでいる。
「ふはーっ、うめえ! おまえも飲めよ!」
「お、おう!」
瓶を受け取り、軽く舐《な》めた。
本当のことを言うと味はまったくわからなかったけど、僕は大声で叫んだ。
「すげえ! うまいな!」
「お、こっちもいけるぞ!」
山西はマッカランを勢《いきお》いよくあおっていた。マジで嬉《うれ》しいらしく、やけにハイペースだ。僕のほうは逆《ぎゃく》にチビチビ飲んでいた。さすが高い酒だけあって、口当たりがものすごくいい。たまにこっそり飲んでる安ウィスキーとはまったく違《ちが》った。
頭の芯《しん》がぽかぽかして、腹もぽかぽかして、いい気分になってきた。
「山西、よくやった!」
ああ、酔《よ》っぱらいの声だ。
「おまえは男だ!」
「おお、オレは男だ! 男になった!」
僕たちは声をそろえて笑った。
瓶《びん》をそろえて高級酒をがぶ飲みした。
口元をぬぐいながら、山西《やまにし》が言った。
「それにしても、どうしたんだよ、戎崎《えざき》?」
「あ、なにがだよ?」
「なんか今日は妙《みょう》にノリがいいじゃねえか?」
「それは――」
昼間の光景《こうけい》が頭に浮《う》かぶ。いつもどおり散《ち》らかった病室。ベッドに腰《こし》かける自分。窓際《まどぎわ》に立つ夏目《なつめ》の背中《せなか》。ヤツの足下で光が揺《ゆ》れていた。枯《か》れ木《き》の影《かげ》が揺《ゆ》れていた。
「――オレ様はいつもノリがいい!」
断言《だんげん》して、僕はうははと笑った。
山西が茶化《ちゃか》すように言ってくる。
「嘘《うそ》つけ。けっこう根暗《ねくら》のくせに」
「と見えて、実は明るいんだよ!」
僕はシャトーマルゴーというワインをごくごく飲んだ。むせた。つかえた。しかしさらにむりやり飲みこむ。腹の底《そこ》がカッと熱くなる。その熱さとともに、脳裏《のうり》の景色《けしき》が遠ざかってく。これでいいんだ。あんな背中や言葉《ことば》なんか思いだしたくもないんだ。
「飲め!」
僕は山西に強要《きょうよう》した。
「おお!」
山西は受けた。
「|チアアアア――ズッ《cheers》!」
「かんぱあああ――いいいい――っ!」
6
「なに、起きてたの?」
寝《ね》ぼけ眼《まなこ》で、谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》は言った。
ハードワークに次ぐハードワークのせいで、仮眠室《かみんしつ》のベッドに入った瞬間《しゅんかん》、眠《ねむ》りに落ちた。一秒かからなかった。即死《そくし》のように寝た。ところが、きっちり二時間で目が覚《さ》めた。なぜかはわからない。なにか不吉《ふきつ》な予感《よかん》がした。誰《だれ》かが自分を笑っているように思えた。むむう、とか思いつつ仮眠室を出ると、ナースステーションに夏目がいた。
回転する椅子《いす》に座《すわ》り、バカみたいにくるくるまわっている。
まるで子供みたいだ。
「寝《ね》ないの?」
「まあな」
まわりっぱなしで答えてきた。
やっぱり子供みたいな声だ。
冷蔵庫から『谷崎《たにざき》上等《じょうとう》! 勝手に飲んだらシメる!』と書かれたミネラルウォーターのボトルを取りだし、そのまま口をつける。冷えた水が喉《のど》を流れていく感触《かんしょく》。少し目が覚《さ》めた。
夏目《なつめ》は相変わらず椅子《いす》をまわしている。
「うざい、やめなよ」
「ああ」
でも、やめない。
「やめなって」
「ああ」
「だから、やめな」
少しドスをきかせた。
やめた。
無視《むし》されると思っていたので、いささか意外《いがい》だった。それにしても今日は男どもがことごとくおかしい。夕方の検温《けんおん》のとき、裕一《ゆういち》も妙《みょう》におとなしかった。へらへら笑ってばかりいるのだ。怒《おこ》ってもへらへら。優しくしてもへらへら。そして夏目は椅子をくるくるまわし、怒るとあっさりおとなしくなった。
おかしい。どうも妙だ。
「飲む?」
ボトルを差しだしたら、素直《すなお》に受け取った。そして飲まない。手の中で揺《ゆ》さぶってるだけ。取り返して、一口飲んだ。
「どうしたのさ」
「嘘《うそ》をな、ついちまったよ」
「嘘?」
「ああ、戎崎《えざき》にさ。自分でも信じてないことをな、言っちまったんだよ。あいつ、クソみたいな顔してやがんだ。だから、つい思ってもみねえことを言っちまった。ったく、あのガキ。自分で自分の面倒《めんどう》も見れねえくせに、ダサいとかカッコ悪いとかばっか気にしやがって。なんでオレがあんなクソガキのためにあんなこと言わなきゃいけねえんだよ」
ふーん、と唸《うな》ってから、言葉《ことば》を口にした。
「それ、ほんとに信じてないの?」
「あ? なんて言った?」
「あんたが裕一に言ったことをさ、ほんとに信じてないわけ?」
夏目《なつめ》は答えなかった。ただどこかを見つめている。亜希子《あきこ》はその視線《しせん》を追《お》った。しかし、そこにはなにもなかった。夏目はあるはずのないものを見つめているのかもしれない……。
「信じたいと思ったことはあったんだろ。だったら、もう一回信じてみればいいじゃん」
「無理《むり》なんだよ」
「かもね。でも、そうじゃないかもね」
「なにを言いたいんだ」
「さあ」
ミネラルウォーターを一口。
「あたしにもよくわかんないよ」
φ
「開けるぞ開けるぞ開けるぞおおおお――――っ!」
山西《やまにし》が叫《さけ》んだ。
「おおおおお――――っ!」
目を見張《みは》って、僕も叫んだ。
山西がその手に持っているのは、ヤツが持ってきた酒の中でもとびっきりの高級品であるド
ンペリ二十二年物だったそいつはなんと木箱《きばこ》に入っていて、栓《せん》なんて蝋《ろう》でフタをしてあった。山西はしかし、まったくためらうことなく蝋をはぎ取り、コルクを押《お》さえている針金を毟《むし》りとると、最後の関門《かんもん》であるコルクに親指をかけた。
さすがに山西が興奮《こうふん》している。それに酔《よ》っている。
もちろん僕も興奮し、酔っている。
「やまにーし! たもーつにいいい――っ! かんぱあああああああい――っ!」
僕は夜空に拳《こぶし》を突《つ》き立《た》てた。
「えざあーき! ゆーいちにいいい――っ! かんぱあああああああい――っ!」
叫《さけ》ぶと同時に、山西がコルクを飛ばした。
しゅぽおおおおおお――――んっ! おおおおおお――――んっ!
見事《みごと》な軌道《きどう》を描《えが》いてコルクは空間を飛び、夜の闇《やみ》を切《き》り裂《さ》いた。そして直後、真っ白な泡《あわ》が派手《はで》に溢《あふ》れた。実に見事な二十万円の泡だった。
「うわ、もったいない! 飲め飲め!」
「おおっ! げほっ!」
飲んだと思ったら、山西はいきなりむせた。
「バカ! 貸せ!」
奪《うば》い取《と》り、僕も飲む。口の中で泡が弾《はじ》けた。思っていたよりもそれはずっと甘くて、いくらでも飲めそうだった。しかしいざ泡と液体が喉《のど》に入った瞬間《しゅんかん》、それは一気に膨《ふく》れ上《あ》がり、僕は山西と同じようにむせた。
「げほっ! げほっ!」
「げほっ! げほっ!」
ふたりそろってむせる。そのあいだに、ドンペリの三分の一は泡となってコンクリートの上に消えてしまった。消えた分だけで七万円くらいはしただろう。
「シャンパンって飲むの難《むずか》しいな」
「ゆっくり飲めよ」
「わかってるって」
僕たちはそんなことを言い合いながら、残りをきっちり飲んだ。足下がふわふわする。心もふわふわする。ものすごくいい気持ちだった。
「うまいなあ、ドンペリ」
「ああ、マジうまい」
「なにしろ二十万だもんな」
「すげえな、二十万」
「ああ、マジすげえ」
僕たちは声をあげてゲラゲラ笑った。
「ところでさ、おまえ、肝炎《かんえん》だろ? 酒なんか飲んでいいのかよ?」
「おまえな、さんざん飲ませてからそんなことよく聞けるな! 飲ます前に聞け! いいか、教えてやる! そんなのはな……思いっきり駄目《だめ》に決まってんだろうがっ!」
「だははっ、おまえはバカだな! おまえのようなバカは退院《たいいん》不可《ふか》だな! ダブり決定だ!」
「うっさいな! たとえダブっても、その一年間で思いっきり勉強するんだよ! でもって、有名大学に一発合格するんだ!」
「いや、またダブるんじゃねえのか? ああ、ダブりじゃねえな。トリプるか? 戎崎《えざき》、オレはな、都会の大学に行くぞ。でもって、毎日毎日ナンパしまくって、女作りまくるんだ!」
ああ、まったくなんてバカなヤツなんだ……。
ああ、まったくなんて楽しいんだ……。
やがて山西《やまにし》は立ち上がった。どこに行くのかと思って見ていると、山西は手すりを乗《の》り越《こ》えた。いやまあ、乗り越えたっていうか、正確に表現すると手すりに両手をかけ、右足を上げて跨《また》ごうとしたが途中《とちゅう》でバランスを崩《くず》し、しかも片手に酒瓶《さかびん》を持っていたものだから、そのまま手すりの向こうに転《ころ》げ落《お》ちたのだ。
いてて、と呟《つぶや》きながら山西は立ち上がった。
「なにしてんだよ、山西」
「むはは」
笑いつつ、山西は一段高くなっている屋上《おくじょう》の縁《へり》に上がった。もちろん、その向こうにはなにもない。ただの空間だ。落ちたら真《ま》っ逆《さか》さま。若葉《わかば》病院は斜面《しゃめん》に建《た》ってるので、玄関《げんかん》のほうから見ると三階建てだけど、この中庭部分は五階分の高さがある。もし落ちたら、間違《まちが》いなく大ケガをするだろう。
「やめろって、バカ」
僕は笑いながら言った。
「下手《へた》すると死ぬぞ」
大丈夫《だいじょうぶ》だって、と山西は酒瓶片手に言う。
「ほら、こんなことだって平気だぞ。ほらほら、見ろって。片足立ちだ。ふらふらしても倒《たお》れない。風が吹いても大丈夫。なんていうんだっけ。ええと、そうそうヤジロベエだ」
だはは、と僕は笑った。
「死ぬからやめろって」
「……死にてえよ」
「はあ? なんだって?」
死にてえよ、と聞こえたんだけど、ただの聞き間違いだろう。むちゃくちゃ楽しいのに、そんなことを思うわけがない。
僕はへらへら笑いながら、ドンペリの瓶《びん》を逆《さか》さにして、最後の一滴《いってき》を舐《な》めた。ラベルを見ると、二十二年前の年号が並《なら》んでいた。考えてみれば、この酒は僕より長生きなんだよな。悪いな、ドンペリゴールド。ろくに酒の味もわからないガキががぶ飲みしちまってさ。
酒のせいか、思考《しこう》がふらふらする。とまらない。
「山西《やまにし》、さっきなんて言ったんだよ?」
「ん、なんでもねえよ」
山西は縁《へり》に立ったまま、両手を広げた。まるで鳥のようで、今にも飛びだしそうだった。
「こうしてると飛べそうだ」
虚空《こくう》を見つめ、呟《つぶや》く。
僕も調子《ちょうし》に乗って、言った。
「おお、飛べるぞ」
「飛べるかな?」
「飛べるとも!」
だはは。僕たちは笑った。
「よし、飛んでみよう」
あっさりと山西は言った。
そして飛んだ。
φ
夜の病院は静かだった。そのせいで、外の音が耳に届《とど》いた。どこかでガキが酔《よ》っぱらっているらしく、騒《さわ》ぐ声がする。ったく、人が仕事してるのに遊《あそ》び呆《ほう》けやがって。どこのどいつだろう。きっと駐車場にでも忍《しの》び込《こ》んで安酒をあおっているに違《ちが》いない。
まあ、酒の力が必要《ひつよう》なときもあるけどね……。
夏目《なつめ》は相変わらず宙の一点を眺《なが》めている。なにか話しかけたい気もするけれど、なにを口にすればいいのかわからなかった。やがて一昨日くらいに聞いた噂話《うわさばなし》を思いだした。点滴《てんてき》の準備《じゅんび》をしていたら、婦長《ふちょう》と内科の高木《たかぎ》先生の話し声が耳に入ってきたのだ。
「夏目先生、どうするんですかね」
「あの人はここにいるような人じゃないけど、K大のほうでもいろいろあるみたいだよ。若手はずいぶん騒《さわ》いでるみたいだけど、前科《ぜんか》が前科だからね」
「でも学部長が退任《たいにん》したって」
「その学部長とは別のグループだったから、確かに夏目先生にとっては有利《ゆうり》だろうね。ただ、あれだけ派手《はで》なことした以上、そう簡単《かんたん》に戻《もど》れるとは思えないけどなあ。うーん、でもそれが逆《ぎゃく》にいい方向に転《ころ》ぶ可能性《かのうせい》がないでもないか」
「え? どういうことですか?」
「要《よう》するに、昔の件で夏目《なつめ》先生は反主流派ってことになったわけさ。ほんとはどっちでもなかったんだけどね。で、あのころの反主流派が、今は主流派になってるわけだから」
「なるほど。泥《どろ》をかぶった夏目先生が、逆に有利《ゆうり》になると」
「そういうこと。ただ、夏目先生はなにを考えてるかわからないところがあるからなあ。僕だったら、全速力《ぜんそくりょく》で戻《もど》るけどね」
もともと噂話《うわさばなし》やら陰口《かげぐち》やらは嫌《きら》いだから、事情《じじょう》はよく知らない。知りたくもない。しかし夏目がなにかやらかしたことくらいは知っている。医療《いりょう》の世界はいまだ徒弟《とてい》制度みたいなところがある。もし噂どおりに学部長を殴《なぐ》ったのだとしたら、まさしく前代未聞《ぜんだいみもん》だろう。
「なあ、谷崎《たにざき》」
やがて、夏目のほうから話しかけてきた。
「昔話をしてやろうか」
「昔話?」
「ああ、オレの友達のな、下らなくてつまらない昔話さ」
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「――ったくさ、あの講師《こうし》って絶対《ぜったい》アホだぜ。たかが予備校《よびこう》の講師のくせに、なに偉《えら》そうにしてるんだか。なんかさ、学生運動とかしてたらしいんだけど、そんなことを偉そうに喋《しゃべ》るんだよな。自らの敗北《はいぼく》を見せびらかしてるようなもんだろ、それって」
僕が吐《は》きだすように言うと、小夜子《さよこ》はくすくす笑った。
「吾郎《ごろう》くん、生き生きしてるねえ」
「は? なんだよ?」
「だって、いつもそうなんだもん。人の悪口言ってるときの吾郎くんって、ほんと楽しそう」
僕は黙《だま》りこんだ。
しょっちゅう、この調子《ちょうし》なのだ。
小夜子はこっちの胸《むね》にグサリと突《つ》き刺《さ》さるようなことを平気で言う。別に嫌《いや》みとか悪口とかってわけじゃない。なんていうか、小夜子にはそういう凡人《ぼんじん》にありがちな――つまり僕なんかにありがちな――面倒《めんどう》くさいことをしない。思ったことを、思ったままに言うだけ。
だから、それは真実に近くて。
見たくないことや聞きたくないことも時に含《ふく》んでいて。
僕は言葉《ことば》に詰《つ》まってしまう。
まるで鏡のように、自分の姿《すがた》を見せつけられる。
「…………」
ちらりと様子《ようす》を伺《うかが》うと、小夜子《さよこ》はニコニコ笑いながら歩いていた。
まだ十月の末だっていうのに今日はやけに寒くて、彼女はキャメル色のダッフルコートを着ていた。少しばかりコートのサイズが大きいのか、彼女の両手は甲《こう》のあたりまで袖《そで》に隠《かく》れてしまっている。ただでさえ背《せ》が低いのにそんな格好《かっこう》をしているものだから、まるで小学生みたいだった。しかも彼女はかなりの童顔《どうがん》なので、ふたつかみっつは幼《おさな》く見られる。学校でも二年生に下級生|扱《あつか》いされることがよくあるそうだ。しばらく僕たちは無言《むごん》で歩きつづけた。冷えた空気に、僕たちの白い吐息《といき》が現れては消えていった。
僕たちは大きな公園の中にいた。元はこの地方を治《おさ》めていた藩主《はんしゅ》の城があったところで、今は城址《じょうし》公園と呼《よ》ばれている。もっとも城址と呼べるような遺構《いこう》はあまりなかった。せいぜい石垣《いしがき》の一部くらいだ。明治|維新《いしん》のとき、その当時の藩主が佐幕派《さばくは》に与《くみ》し、最後の最後まで討幕派《とうばくは》と戦ったせいで、かつて名城《めいじょう》と呼ばれていた城は取《と》り壊《こわ》されてしまったのだった。
ほんと要領《ようりょう》の悪い殿様《とのさま》だ。
さっさと勝てそうなほうについておけばよかったのに。
僕なら絶対《ぜったい》そうしただろうな。
周囲《しゅうい》には大きな木が何本も並んでおり、僕たちはその木々を縫《ぬ》うようにして作られた遊歩道《ゆうほどう》を歩いていた。目的地はこの先にある博物館だ。小夜子は高校生のくせに陶磁器《とうじき》が好きで、博物館でやっている『安土桃山《あづちももやま》時代の陶器展』に行きたいと言いだしたのだ。僕自身は陶器になんてまったく興味《きょうみ》はなかったけれど、小夜子が喜んでくれるのなら陶器展だろうが書道展だろうがいっこうにかまわなかった。
少し迷《まよ》った末、僕は強がることにした。
「別に悪口ってわけじゃないだろ。ほんとのことだしさ」
「うんうん」
小夜子はニコニコ笑ったまま、肯《うなず》いた。
「わかってますよ」
ちぇっ、なんで丁寧語《ていねいご》なんだよ。
「別に的《まと》はずれじゃないだろ」
「うんうん。確かに」
「だいたい日本って国はなあなあが多すぎるんだよ。おかしいと思っても、へらへら笑ったりとか、受け流したりとか。オレ、そういうのは嫌《きら》いなんだよな。変なことは変って言うべきだし、黙《だま》ってるほうがよくないよ」
まあ、屁理屈《へりくつ》だった。言ってて恥《は》ずかしくなってきたくらいだ。だから僕はその恥ずかしさをごまかすために、途中《とちゅう》から思いっきり冗談《じょうだん》っぽく、大げさに自分の主張《しゅちょう》を展開《てんかい》した。小夜子《さよこ》は相変わらずニコニコ笑いつづけている。
僕がさらに青臭《あおくさ》い主張を続けようとすると、
「あのね、吾郎《ごろう》くん」
実に自然な感じで、小夜子が腕《うで》を組んできた。
「そんなふうに生きてると、大変《たいへん》でしょ」
「大変って……」
「ほらほら、あんまり考えないの。あたしねえ、吾郎くんのそういうところは嫌《きら》いじゃないから。そういう意味で言ったんじゃないから」
ね、と言って、無邪気《むじゃき》な感じで見あげてくる。
「…………」
僕はあっさりと言葉《ことば》に詰《つ》まった。
僕がぐるぐるいろんなことを考えて、まるで道化者《どうけもの》みたいにおどけながら薄《うす》っぺらい自尊心《じそんしん》を隠《かく》そうとしていたのに、小夜子は実に簡単《かんたん》に自分の言いたいことを伝《つた》えてくる。それも、きっちりと。そんな小夜子の芸当《げいとう》に、僕の熱弁《ねつべん》はまったくかなわない。太刀打《たちう》ちもできない。
ぐうの音《ね》も出ないとは、こういうことだ。
どうして小夜子とつきあうことになったのか、時々僕は不思議《ふしぎ》になる。
クラスには三人か四人くらい、ただそこにいるだけで場が盛《も》り上《あ》がって、派手《はで》で、なぜか笑い声の大きな女の子がいる。その手の子はたいてい、男とつきあ[#「あ」は底本では無し]いはじめるのも早くて……まあいろいろと話も早い。
僕はそういう手軽《てがる》な女の子たちが好みだった。彼女たちと適当《てきとう》に遊んでるのが性《しょう》に合うのだ。それはたぶん、僕自身が手軽だからなのだろう。
鏡なんだ、要《よう》するに。
自分と同じものを自然と求めてしまう。
ところが小夜子ときたら、全然|違《ちが》うんだ。彼女はぼんやりしてて、どちらかというとクラスで目立たないほうの三人か四人に入る。それほど美人ってわけじゃない。スタイルがすごくいいってわけでもない。口数も少なくて、彼女がなにを考えてるのかわからなくなることがある。
そんなとき、僕はものすごく不安になる。
お手軽な女の子たちは[#「は」は底本では無し]なにしろ鏡そのものなわけで、ちょっと自分の心を覗《のぞ》いてみれば、彼女たちが考えていることなんてそっくり知ることができる。
だけど、小夜子はわからない。
彼女は僕と違う。
どんなに自分の心を覗《のぞ》いたって、答えなんか見つけられない。
もしかすると、そういうのに僕はやられてしまったのかもしれない。
小夜子《さよこ》と出会ったのは、文化祭の打ち上げだった。
少し遅《おく》れて、僕は会場についた。
「おう、夏目《なつめ》。おっせえぞ」
友達の森《もり》が、店に入るなり、そう話しかけてきた。
そこは駅前から少し離《はな》れたところにあって、昼は喫茶店《きっさてん》で、夜は居酒屋《いざかや》って感じの店だった。滝口《たきぐち》さんというウチの学校のOBがマスターをやっている。それでまあ、こういうお祭り騒《さわ》ぎのときは、多少の飲酒《いんしゅ》を見逃《みのが》してくれるのだった。
というわけで、森はもう酔《よ》っぱらっていた。
「できあがるの早すぎだよ、おまえ」
僕は苦笑《にがわら》いしながら応《おう》じた。
「盛況《せいきょう》じゃん、幹事《かんじ》」
皮肉《ひにく》だった。
できあがってるのは森だけで、店の中は文化祭の打ち上げとは思えないほど静かだった。いつもなら、もう潰《つぶ》れてるヤツのひとりやふたりはいてもおかしくない。
ふてくされた様子《ようす》で、森は言った。
「幹事様が偉大《いだい》だからな」
「偉大すぎるんじゃねえの」
「オレのせいじゃないって。せっかくS女を呼《よ》んだのに、彼女たちさ、ノリが悪くてつまんないんだよ」
S女というのは、地域《ちいき》一番のお嬢様《じょうさま》学校だった。
僕の通ってる第一高……略《りゃく》してイチコーと呼ばれることが多いけど……その我らがイチコーとは校風が全然|違《ちが》う。ウチはどっちかっていうと庶民的《しょみんてき》で荒《あら》っぼい学校だった。それなりに成績のいいヤツが多いし、ここらじゃ一番の進学校でもあるのだけれど、品《ひん》のいいできるヤツは私立に行くことが多い。結果《けっか》として、ウチに来るのはちょっと品のないヤツらばっかりということになってしまう。
僕ももちろん、その品のないひとりだった。
「S女なんか呼んだのかよ」
「いや、坂崎《さかざき》の彼女がS女だろ。それで呼べることになったからさ。高嶺《たかね》の花だし、チャンスじゃん。彼女たちと話せるなんて」
「それで飛びついたわけ? おまえ、節操《せっそう》ないね?」
「うるさいな」
森《もり》は持っていたビールをあおった。
「適当《てきとう》に散《ち》ってろよ。ちょっとは可愛《かわい》い子もいるぜ。おまえ、この前、早樹《さき》ちゃんと別れたばっかりだろ。次の子、探《さが》せよ」
僕は顔をしかめた。
「早樹のことは言うなって」
「おまえ、ひでえヤツだよな。浮気《うわき》とかよく平気で――」
「だから言うなって」
僕は逃《に》げるようにして……いや、事実逃げていたんだけど、店の奥《おく》に向かって歩きだした。しかし慌《あわ》てて立ち止まり、森に言った。
「早樹とのこと、女の子たちには絶対《ぜったい》黙《だま》ってろよな」
うひひ、と森は笑った。
「もしおまえが可愛い子を捕《つか》まえたら、速攻《そっこう》でバラしてやるよ」
「勘弁《かんべん》しろって」
言いつつ、すでに店の中へと視線《しせん》は移《うつ》っている。
それにしてもまあ、ほんと静かなもんだ。大声で騒《さわ》いでるヤツがほとんどいない。しかも、男と女がきっちり分かれて座《すわ》っていた。これじゃあ、なんで集まったのかさっぱりわからない。
そんなことを考えていると、通路のそばに座っている女の子と目が合った。雰囲気《ふんいき》ですぐにS女の子だとわかった。僕は試《ため》しに思いっきりにこやかに笑ってみた。森のヤケが伝染《でんせん》したのかもしれない。ところが、その女の子が返してきたのは、思いっきり冷《ひ》ややかな笑《え》みだった。
ああ、これじゃ森も飲みたくなるだろうな……。
「おい、ヤバいな」
とりあえず、僕は見知った連中のいる席に腰《こし》を落ち着けた。
「むちゃくちゃ盛《も》り下《さ》がってるな」
すぐさまテーブルからビールの入ったコップを取り、ごくごくと飲む。同じクラスの太田《おおた》が文句《もんく》の声をあげた。
「おまえ、それオレの」
「いいだろ、別に」
「おまえと間接《かんせつ》キスなんてしたくないっての。ただでさえ盛り下がりまくってるんだから、これ以上ブルーにさせんなよ」
「なあ、誰《だれ》か突入《とつにゅう》してこいよ」
僕がそう言うと、席にいた連中が全員顔をしかめた。
「自爆《じばく》だ」
「それ、辛《つら》すぎ」
「ほとんど罰《ばつ》ゲームだ」
「オレは嫌《いや》だぞ」
口々にそんなことを言う。
ったく、腰抜《こしぬ》けばっかりだ……。
言いだしっぺの法則《ほうそく》というヤツで、必然的《ひつぜんてき》に僕が突入《とつにゅう》を敢行《かんこう》することになった。とはいえ、ひとりで突っこむのはさすがにヤバいので、森《もり》をつれていくことにした。森はそうとう嫌がったが、そこは当然|無理強《むりじ》いした。まあ、幹事《かんじ》だしな。責任は取ってもらわないと。
森と肩《かた》を抱《だ》きあい、適当《てきとう》な席に突入を敢行する。
「こんばんはー!」
「こんばんはー!」
僕たちの野太《のぶと》い声は見事《みごと》にハモった。
しかし、すべった……女の子たちは実に冷《ひ》ややかな目をするだけ……。
こういうときは次だ、次へ行こう。
「やめようぜ、夏目《なつめ》」
泣きそうな声で森が言った。
もちろん僕は強要《きょうよう》した。
「おまえ、幹事だろ。幹事にはな、場を盛《も》り上《あ》げる義務《ぎむ》ってのがあるんだよ。ほら、もっと笑えよ、次もハモるぞ」
「勘弁《かんべん》してくれって。それに、オレ、飲みすぎで気持ち悪くなってきた……」
「ほら、行くぞ。せーの!」
嫌がってるわりには、森はなかなかいい声を出してくれた。
「こんばんはー!」
「こんばんはー!」
またばっちりハモる。
六人くらい座《すわ》ってる女の子たちの目が丸くなった。あ、ヤバ、今回もすべったか……と思ったら、手前にいた子が爆笑《ばくしょう》してくれた。
よし、もらった! これでいける!
「うまいでしょ? オレたち、イチコーハモり隊なんだ。あ、オレは夏目。こいつは――」
「オレ、森」
森のヤツ、調子《ちょうし》いいな。
ウケが取れると悟《さと》ったら、いきなり輝《かがや》くような笑《え》みを浮《う》かべてやがる。
「なんか盛り下がりまくってるから、盛り上げにきましたあ!」
「盛り上げ隊です!」
どうやらその席にいた子たちは軽いグループらしくて、僕たちの三文《さんもん》漫才《まんざい》にくすくす笑ってくれた。
僕たちは席の端《はし》っこに腰《こし》かけさせてもらった。
こうなったら、もうこっちのものである。
さすがS女といえど、やっぱり派手《はで》で軽い子はいるもんだ。その子たちとの会話はすごく盛《も》り上《あ》がって、それが少しずつ伝染《でんせん》したのか、あちこちの席で男女が交《ま》じりはじめた。ようやく打ち上げっぽい雰囲気《ふんいき》になってきた感じだ。
途中《とちゅう》で僕は立ち上がった。
「おう、森《もり》。トイレ行ってくるわ」
「ははは、いいのかよ。そのあいだに貴子《たかこ》ちゃんもらっちまうぞ」
貴子ちゃんというのは、その席で一番|可愛《かわい》い女の子だった。でもって、一番腰が軽そうな子だった。つまり僕の好みにぴったりというわけだ。さらにつけくわえるなら、森の好みにもぴったりだった。僕たちは席に着いた直後から、ちょっとした言葉《ことば》や態度《たいど》で貴子ちゃんにアピール合戦をしつづけていたのだった。
「やってみろよ」
自信たっぷりに言って、僕は席を離《はな》れた。
けれど、その言葉とは裏腹《うらはら》に、僕は思いっきり早足でトイレに向かった。こんな短時間で決定的な一打《いちだ》を食らうわけないとは思うけど、自然と急いでしまう。そして最高速で用を足し、トイレを出たとき、女の子の姿《すがた》が目に入ってきた。
彼女はたったひとりきりでカウンター席に座《すわ》っていた。
騒《さわ》がしくなりつつある店の中、寂《さび》しそうな背中《せなか》がやけに印象的《いんしょうてき》だった。
まあ、もしかするとその姿が気になったのは、彼女が長いふわふわの髪《かみ》をしていたせいなのかもしれない。僕の大好きな髪型だった。
なんとなく……そう、なんとなく、僕は歩《あゆ》み寄《よ》った。
「ひとりっすか?」
話しかけると、彼女は僕の顔を見て、それからにっこり笑った。
「はい」
子供みたいな肯《うなず》き方《かた》をした。
なにかが、騒《さわ》いだんだ、そのとき。
貴子ちゃんのことなんて、一瞬《いっしゅん》で忘《わす》れていた。
「おう、吾郎《ごろう》」
カウンターの中から、マスターの滝口《たきぐち》さんが話しかけてきた。
「小夜子《さよこ》ちゃんの相手してやってくれよ。オレ、忙《いそが》しくなってきたからさ」
「あ、いいっすけど」
いろいろ悪さを見逃《みのが》してもらっているので、滝口さんには頭が上がらない。ひょいひょい、と滝口《たきぐち》さんに手招《てまね》きされた。カウンターの裏《うら》にまわって顔を寄《よ》せると、低い声で言われた。
「この子、オレの知り合いのお嬢《じょう》さんなんだよ」
「はあ」
「こういう飲み会とかほとんど出たことないみたいでさ。だから、こっちでオレが相手したんだけど。おまえ、あと頼《たの》むわ」
「うっす」
「いいか、悪さするなよ」
「なんすか、悪さって」
とぼけたら、軽くボディを殴《なぐ》られた。
「ほんとまじめな子なんだって。おまえなんかがどうにかしていい子じゃないんだぞ。もっとも、おまえの手には負《お》えないかもしれないけどな」
このときは、滝口さんの言ってることがよくわからなかった。まじめなのに手に負えないって、なんだよ、それ――なんて思ってた。でもまあ、実際《じっさい》小夜子《さよこ》は僕がどうにかできるような子じゃなかったんだ。彼女の持っているものは、僕をはるかに凌駕《りょうが》していたからだ。それがなにかは……やたらと恥《は》ずかしい言葉《ことば》だから、口にはしないけどさ。
「じゃあ、頼《たの》むぞ」
「あ、はい」
滝口さんが去っていったあと、僕はカウンターの表に戻《もど》り、彼女の隣《となり》の席に腰《こし》かけた。
「小夜子さんっていうんですか」
「はい」
また素直《すなお》に笑いながら肯《うなず》く。
「樋口《ひぐち》小夜子です」
「あ、僕、夏目《なつめ》です。夏目|吾郎《ごろう》」
それが、始まりだった。
今にして思うと、どうしてあれほど急に心が傾《かたむ》いたのかわからない。ただもうとにかく、彼女の子供みたいな笑顔《えがお》を見た途端《とたん》、なにもかもが吹っ飛んでしまったんだ。貴子《たかこ》ちゃんのノリのいい声も、腰《こし》の軽そうな態度《たいど》も、腹の底《そこ》をくすぐるような笑い方も、すべて消え去っていた。
打ち上げが終わるまで、僕はずっと小夜子とだけ話していた。
そして終わるころには、すっかり恋に落ちていた。
「あの、連絡先《れんらくさき》教えてもらっていいですか?」
ガチガチに緊張《きんちょう》して、僕は言ったもんだった。
女の子の連絡先なんて、『断《ことわ》られるの上等《じょうとう》!』くらいの気持ちで何度も何度も聞いてきたのに、このときばっかりは本当に緊張していた。
失敗したらと思うと、足がガクガク震《ふる》えそうなほどだった。
小夜子《さよこ》は少し考えたあと、
「はい」
と答えて、にっこり笑った。
そのとき小夜子がメモしてくれた電話番号を――店のコースターの裏《うら》だったけど――それからも僕はずっとずっと大事にとっていた。
まさしく宝物だった。
僕の人生で一番……いや、二番目に大切なものになったからだ。
一番はなにかって?
コースターをくれた人だよ、もちろん。
五時の時報《じほう》とともに、僕たちは博物館を追《お》いだされた。
実に半日近くも博物館にいたことになる。
しょせんは市立博物館なのでそれほど展示品《てんじひん》が多かったわけではないのだけれど、小夜子がひとつひとつの壷《つぼ》やら皿の前から離《はな》れなかったのだ。唐津焼《からつやき》とかいう、僕からすると恐《おそ》ろしく地味《じみ》な皿に、それこそ何十分も見入っていたりした。
博物館を出ると、外はすでに暗くなっていた。立ち並ぶ木立《こだち》がまるで置き去りにされた子供の後《うし》ろ姿《すがた》のように思えた。外灯《がいとう》の光が少し滲《にじ》んだように輝《かがや》いている。そんな外灯の下を通りすぎると、僕たちの前に、僕たち自身の影《かげ》が長く伸《の》びた。
「寒い寒い!」
小夜子は悲鳴《ひめい》をあげた。彼女はかなりの寒がりなのだ。
「吾郎《ごろう》くん、寒い!」
「ん――」
すばらしい口実《こうじつ》だった。
僕は小夜子の手を取ると、そのまま自分のコートのポケットに彼女の手を導《みちび》いた。ポケットの中で、僕と小夜子の手が絡《から》みあう。
小さい手だった。
「あのさ、おまえがいればいいや」
わきあがってくる気持ちのまま、僕はそう言った。
小夜子が子猫《こねこ》のように、僕の肩《かた》に頬《ほお》をすりつけてくる。
「ほんとかなあ」
「マジだって」
僕はムキになって言った。
「こんなことで嘘《うそ》なんかつかないよ」
「うん、わかってるけど」
「けど?」
「吾郎《ごろう》くんは野心家《やしんか》だから」
またもや笑いながら、そんな真実《しんじつ》を平気で言うのだ。
確かに僕は社会的にも成功したいと思っていた。いや、するつもりだった。要領《ようりょう》は悪いほうじゃない。かなりいいほうだ。それなりに勉強もできる。学校の教師がしょっちゅうバカに思えるほどには、できる。
僕はなにもかも手に入れたかった。
こんな田舎町《いなかまち》に埋《う》もれるつもりなんて、これっぽっちもない。
「駄目《だめ》かな、野心家って?」
「まあ、いいよ」
「まあ?」
「えっとね、どっちでもいい。たとえ吾郎くんが大失敗して社会の敗北者《はいぼくしゃ》になろうと――」
僕は顔をしかめ、小夜子《さよこ》の言葉《ことば》を遮《さえぎ》った。
「縁起《えんぎ》の悪いこと言うなよ」
「でも、よくあることよ。あのねえ、吾郎くん、世の中ってすごく厳《きび》しいと思うの。あたしも吾郎くんも子供でしょ。だからよくわかんないことばっかりでしょ。だけど、なんとなーく世の中にはいいことばかりじゃないって知ってて、でも悪いことばかりじゃないって知ってて。頑張《がんば》ればいいってもんじゃなくて。頑張ったほうがもちろんいいんだけど、だからってそれが結果《けっか》を保証《ほしょう》するわけじゃなくて。つまり、だから、えーとえーと……」
小夜子は難《むずか》しそうな顔をした。どうやらいろいろ言ってるうちに、論旨《ろんし》がこんがらかってしまったらしい。
僕は助け船を出すことにした。
「つまり、うまくいくとは限《かぎ》らない? どんなに能力《のうりょく》があっても? 努力《どりょく》しても?」
「そう! それ!」
小夜子は、
よし!
ってな感じで、あいているほうの手を握《にぎ》りしめた。
「吾郎くん、頭がいい! さすがK大医学部志望! よっ、秀才!」
「うはは!」
いちおう笑っておいた。ほんとは秀才って言い方に引っかかっていたけれど。そうなんだよな、僕は天才じゃないんだ。こつこつ積み上げてるだけだ。僕だってそれなりに勉強ができるほうだから、うぬぼれてレベルの高い塾《じゅく》に行ったりすることがあるけれど、そういうところには僕なんか足下にも及ばないほどできるヤツがいたりするんだ。
あっさりと自信|喪失《そうしつ》――。
膨《ふく》らんでいた自我《じが》やら自負《じふ》やらを押《お》しつぶされてしまう。そして自分がただの凡人《ぼんじん》じゃないかって、じりじりとした恐怖《きょうふ》を味わうんだ。そう、僕にはたいした能力《のうりょく》なんてない。こつこつ積み上げて、こつこつ積み上がってるだけだ。成績はいいけど、要《よう》するに、どこにでもいるただの秀才クン。
「だからね、あたしは吾郎《ごろう》くんが成功しても失敗してもどちらでもいいの。そういうことって、半分は努力《どりょく》だけど、半分は運だから。吾郎くんって努力はできるけど、ほんと努力家だと思うけど、運の部分はどうにもならないから」
「大丈夫《だいじょうぶ》さ」
僕は言った。
「運はわりといいほうなんだ」
「そう?」
「ああ、間違《まちが》いなく」
その先の言葉《ことば》を、僕は恥《は》ずかしいので呑《の》みこんでおいた。
だってさ、おまえがいるだろ。おまえとつきあえて、ほんとよかったと思ってるんだ、僕は。おまえよりきれいな子はたくさんいるよ。おまえよりスタイルのいい子だってたくさん……これはまあ、ほんとたくさんいるだろうな。おまえより頭の切れる子なんて、それこそ掃《は》いて捨てるほどいる。けどさ、おまえみたいな子は滅多《めった》にいないんだよ。そういう滅多にいない子とつきあえてるんだぜ。むちゃくちゃ運がいいよ、僕は。
言ったほうがいいんだろうな、と思った。
気持ちはちゃんと伝《つた》えるべきだ。
「…………」
でも、なにをどうしたって、そんなことは言えそうになかった。それに、僕の横をニコニコ笑いながら歩いている小夜子《さよこ》を見ていたら、まあ言わなくてもいいかって気もしてきた。もしかすると彼女はなにもかも知ってるのかもしれないし。ぼーっとしてるけど、やたらと勘《かん》はいいんだよな。この世界の、一番大切なところを、ひょいって捕《つか》まえてしまうんだ。
「ねえ、吾郎くん」
「なんだよ」
「あまり変わらないでね。それだけでいいから。吾郎くんが立派《りっぱ》なお医者さんになろうが、社会の敗北者《はいぼくしゃ》になろうが、そんなのはどうでもいいから」
「……うん」
さっき胸《むね》にしまった言葉《ことば》を、僕は口にしようかと思った。でもやっぱり言えそうになかった。小夜子《さよこ》なら、たぶんさらりと言えるんだろう。だって、小夜子は本当にそう思ってるから。信じられるから。だけど世界を斜《なな》めから見ていて、そういう自分自身にがんじがらめになってる僕じゃ無理《むり》だ。僕が言うと、どこかに作為《さくい》が混《ま》じる。言ってるそばから嘘臭《うそくさ》くなってしまう。
だから、僕は言わないことにした。
別のやり方で、伝《つた》えることにした。
「あー、エッチなことをしようとしてるでしょー」
うわ、なんでわかるんだ?
怯《ひる》んだが、強行《きょうこう》することにした。
「黙《だま》ってろよ」
「真剣《しんけん》な顔だなあ」
「茶化《ちゃか》すなって」
こういうことにはやたらと照《て》れ屋《や》な彼女を、僕はむりやり黙らせた。
まあ、その方法を使うと、自然と僕も黙ることになっちゃうわけだけど。
僕も小夜子も十八歳で、十年先のことなんてわからなくて、それどころか半年先のことにも迷《まよ》いまくってばかりだった。大学や学部の選択《せんたく》、模試《もし》の結果《けっか》、有利《ゆうり》な試験日程……そんな下らないことにさえ、僕は振《ふ》りまわされている。けれど今だけは、小夜子を抱《だ》きしめている今だけは、なにもかもが確かだった。吹き抜けていく冷たい風が、小夜子のぬくもりをより鮮《あざ》やかに感じさせてくれた。
完璧《かんぺき》だった。僕は確かに、すべてを手に入れていた。
「人に見られたよ、きっと」
喋《しゃべ》れる状態《じょうたい》になると、小夜子がそう言った。
少し顔が赤かった。
そんな小夜子の様子《ようす》に、さらなる幸せを感じながら、僕は精一杯《せいいっぱい》嘯《うそぶ》いた。
「かまうもんか」
僕は世界に見せつけてやりたかった。
自分が手に入れた、本当に本当にきれいな宝物を、自慢《じまん》したかったのだ。
そうさ。
小夜子の言うとおり、僕はなかなかの野心家《やしんか》なのだ。
2
谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》は机に腰《こし》かけていた。さっきまで話していた夏目《なつめ》は今、黙りこんでいる。その肩《かた》ががっくりと下がっていた。疲《つか》れたのかもしれない。
なにに疲れたんだろう?
酔《よ》っぱらいの声は、いつのまにか聞こえなくなっていた。どこかに行ってしまったんだろうか。それとも酔いが醒《さ》めたんだろうか。今は完全な沈黙《ちんもく》が空間を支配《しはい》している。夏目《なつめ》の姿《すがた》を一瞥《いちべつ》したあと、亜希子《あきこ》はミネラルウォーターのボトルに口をつけた。
ごくりと飲み下し、言う。
「可愛《かわい》い子だったんだ、その子」
「まあな」
夏目は肯《うなず》いた。
「アイドルみたいに可愛いってわけじゃないけどな。素直《すなお》で正直なんだよ」
あはは、と亜希子は笑った。
「それ、思いっきりあたしに欠《か》けてるヤツだ」
「確かに」
「あのね、夏目先生。そこは全肯定《ぜんこうてい》するところじゃないですよ。慰《なぐさ》めたり褒《ほ》めたりするところですよ」
「ああ、悪い悪い。気がきかなくてすまん」
「あはは」
「うはは」
お互いに空笑《そらわら》い。なんにも楽しくないのに笑っている。
「そういう子、あんまりいないよね。わざとらしいのはけっこういるけどさ。素《す》っていうか、天然《てんねん》ってのは、珍《めずら》しいよ。あんたの友達、なかなかラッキーじゃない」
「ああ、まったくラッキーなヤツだったよ」
夏目は弱々しく笑った。
「ほんとラッキーなヤツだったんだ」
φ
山西《やまにし》の身体が、ふわりと宙に浮《う》かび上《あ》がった。その瞬間《しゅんかん》、世界がいきなりスローモーションになった。走りだす僕。山西と叫《さけ》ぶ。山西の足はどこにもついていない。爪先《つまさき》も、踵《かかと》も、完全に宙に浮いている。僕は走る。手すりが近づいてくる。跳《と》び越《こ》えて山西を捕《つか》まえよう。ああ、でも間《ま》に合わない。無理《むり》だ。くそ。なんでだよ、さっきなんて言ったんだよ、バカ山西!
そして山西は落ちた。
ドサッ、と音がした。
「はあ?」
しかし僕は思いっきり低い声を出した。
飛んだはずの山西《やまにし》は、なぜか空間の向《む》こう側《がわ》じゃなくて、空間のこちら側、つまり手すりのほうへと落ちていた。飛んだのは飛んだのだが、後ろ向きに飛んだというわけだった。僕のほうからだと、角度的に前へ飛んだように見えただけだった。
いてて、と山西がうめいた。
「頭打った……」
僕は手すりに歩《あゆ》み寄《よ》り、その隙間《すきま》から山西の頭を靴《くつ》で突《つつ》いた。
「バカ山西!」
「痛《いた》い痛い! なにすんだよ、戎崎《えざき》!」
「うっさい! もっと蹴《け》ってやる!」
「だから痛いって! 蹴るなって!」
「あのな! 死んだかと思っただろ!」
「ははは、やっぱ死ぬって怖《こわ》いな。そこから地面見てたらさ、足がぶるぶる震《ふる》えるのな。思わず後ろに落ちちまったよ」
「ああ、そうかよ!」
「だから蹴るなって!」
もちろん容赦《ようしゃ》せず、さらに三回ほどガシガシ蹴ってやった。
「やめろよ! 戎崎!」
なぜか山西の声は泣きそうになっていた。
演技《えんぎ》かと思ったが、違《ちが》った。そんなに強く蹴ってるわけじゃない。泣きそうになるわけがないんだ。じゃあ、どうして?
そのことに気づいた途端《とたん》、僕は蹴るのをやめた。
「どうしたんだよ、山西」
「…………」
「なあ、おい」
山西は僕を見上げた。
そして――。
泣きそうな顔で、潤《うる》んだ瞳《ひとみ》で、むりやり笑った。
なあ、どうしたんだよ、山西?
φ
谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》は、あたりを見まわした。
「ん? なんか今、ドサッって音しなかった?」
また酔《よ》っぱらいだろうか。
夏目《なつめ》はしかし、首を傾《かし》げた。
「いや、オレは気づかなかったが」
「空耳《そらみみ》かな、あたしの」
そこで意地悪《いじわる》に笑ってみる。
「それとも、元《もと》患者《かんじゃ》さんのアレかな」
どこの病院でも、その手の話は必《かなら》ずある。若葉《わかば》病院で有名なのは、屋上《おくじょう》手すりの武田《たけだ》さんだった。武田さんが若葉病院に入院していたのは、もう十年以上も前のことだそうだ。当然、亜希子《あきこ》はそのころのことを知らない。十年前といえば、まだ高校生だったし。ところでその武田さんはいわゆる不治《ふじ》の病《やまい》だった。しかも老齢《ろうれい》だった。身寄《みよ》りがなかった。ある日のある夜、屋上の手すりにひもの一端《いったん》をかけ、もう一端を首に巻《ま》き、空間へ飛んだ。以来、一年に一度くらいの割合で、病院の職員が武田さんを屋上で見かけるそうだ。
「うはは、そんなのが怖《こわ》くて医者ができるか」
「あはは、看護婦《かんごふ》もできるか」
相変《あいか》わらず空笑《そらわら》い。
幽霊《ゆうれい》が怖いわけじゃない……怖いのはきっと、別のことだ……。
空笑いがあっさり消えたあと、しばらく沈黙《ちんもく》があった。夏目が無言《むごん》のまま、手を伸ばしてくる。ひょいひょいと手を動かして、それから受け取る仕草《しぐさ》。ミネラルウォーターのボトルを渡《わた》すと、一口飲んだ。そしてもう一口。
「なあ、谷崎《たにざき》」
「なにさ」
「昔話……友達の昔話だけど、その続き、聞くか?」
ちらりと時計を見る。
夜の十二時だ。
まだまだ夜は長い。
「まあ、暇《ひま》つぶしに聞こうかな」
3
小夜子《さよこ》とつきあいだしたとき、周《まわ》りの連中は一様《いちよう》に驚《おどろ》いた。彼女は今まで僕がつきあってきた女の子たちとあまりに違《ちが》っていたからだ。そのことで、あからさまにからかってくるヤツなんかもいた。
森《もり》はそのひとりで、
「おまえ、どうしちゃったの?」
なんてことを尋《たず》ねてきたりした。
「どうしたって? なにがだよ?」
「S女の樋口《ひぐち》さんだっけ?」
「ああ、うん」
僕は口の中のご飯をゆっくりと噛《か》んでから飲み下した。
僕たちは学校の屋上《おくじょう》にいた。昼休みだったので、あちこちから騒《さわ》がしい声が聞こえてくる。僕は母親が作ったあまりうまくない弁当を食べているところだった。なんだかすべてのおかずが甘ったるく、食べてて嫌《いや》になる。昔はなんとも思わなかったけど、母親の味つけがだんだん舌《した》に合わなくなりつつあった。まあ、味覚《みかく》だって成長するってことなんだろう。
やっぱり甘ったるい卵焼きを噛みしめながら見上げると、僕たちの頭上《ずじょう》には晩秋《ばんしゅう》のやたらと高い空が広がっていた。そんな空を輪郭《りんかく》のはっきりしない雲が呑気《のんき》に流れていく。
まったく、呑気なもんだ。
こっちは受験のことで悩《なや》みまくってるっていうのに。
「それがなんだよ」
「なんかまじめな子って話だけど、そんなのがタイプだっけ?」
「いや、そういうわけじゃねえけど」
「違《ちが》うよなあ。おまえ、もっと派手《はで》派手《はで》な子ばっかりだったじゃん。だからさあ、いろいろ言われてるって知ってる?」
意味ありげな口調《くちょう》。
僕は弁当を持ったまま、森《もり》を睨《にら》んだ。
「なんだよ、いろいろって?」
「いや、趣味《しゅみ》が変わったとかさ、ああいうおとなしそうな子を弄《もてあそ》んで楽しんでるとか。鬼畜《きちく》だとか悪魔《あくま》だとか。まあ、そういうことだよ。夏目《なつめ》がひどいこと企《たくら》んでるとかさ」
おいおい、鬼畜だって?
悪魔?
ひどいな、そりゃ。
「誰《だれ》が言ってんだ、そんなこと?」
「みんなだよ、みんな」
ちぇっ、ぼかしやがって。たぶん、その『みんな』には森自身も入ってるんだろう。いや、むしろ森が率先《そっせん》して言いふらしてるのかもしれない。
「弄んでねえし、企んでねえよ」
「じゃあ、マジなわけ?」
「さあな」
もちろんマジだったけど、なんだか正直に話す気になれなかったので、僕は適当《てきとう》にそう言って、残りのおかずとご飯をかきこんだ。森《もり》はまだなにか言いたそうな顔で僕を見ている。以前の森なら、こんな目で僕を見たりなんかしなかっただろう。徹底的《てっていてき》にからかってきたはずだ。もともとそんなに仲がいいってわけでもなかったけれど、ここ最近……進路とか入試とかが具体的《ぐたいてき》になってくるにつれ、森との関係がちょっとおかしくなっていた。ぎくしゃくしてるってほどじゃないんだけどさ。以前とはなにかが違《ちが》った。
森は僕から目を逸《そ》らすと、ふらふら歩きだした。
まるで酔《よ》っぱらいみたいだった。
「なあ、夏目《なつめ》」
酔っぱらいみたいな声で、そう言う。
「秋の空がほんとは高くないって知ってるか」
「なんだよ、それ」
「朝の天気予報で言ってたんだよ。可愛《かわい》いお姉さんがさ、これがもうすっげえ可愛いんだけどさ、言ってたんだ。知ってますか、秋の空ってむしろ低いんですよって。ほら、単純《たんじゅん》に気温が下がるだろ。夏と比べるとさ」
「ああ」
どんどん背中《せなか》が遠ざかっていく。
森のヤツ、どこまで行くつもりだ?
「だから、空の空気……って言い方は変か……その空気がとにかく縮《ちぢ》んで、空自体は低いんだとさ。雲も低いところにあるんだと」
「なるほどな」
「さて、ここで問題です。なのに、どうして秋の空は高く見えるんでしょう?」
「知るか」
「答えろよ、夏目」
「どうでもいいだろ、そんなの」
「答えろって」
やけにしつこく尋《たず》ねてくる。
ちょっとムカついてきたので、僕は黙《だま》りこんだ。茶化《ちゃか》す気にも怒《おこ》る気にもなれない。その程度《ていど》のしこり。弁当箱を脇《わき》に置き、そのままごろりと転《ころ》がる。確かに秋の空は高かった。どうして低いはずなのに高く見えるんだろうな。目の錯覚《さっかく》かな。それとも雲の形とかが関係あるのかな。よくわかんないや。
ふと気がつくと、足下に森が立っていた。
「樋口《ひぐち》さんってさ、可愛いのか?」
話が変わったので、少し戸惑《とまど》った。
「見たことなかったっけ?」
「ねえよ。だから聞いてるんだろ」
青空を背負《せお》っているせいで、森《もり》の顔がよく見えない。だから気持ちも見えない。からかうつもりなのか、マジなのか。
わからなかったから、僕は曖昧《あいまい》に言った。
「まあ、普通《ふつう》だよ」
「普通って?」
「そのままの意味だって。むちゃくちゃ可愛《かわい》いってタイプじゃないよ。色っぽい感じでもないし。なんかさ、要《よう》するに……普通」
ふーん、と森が唸《うな》った。
「そりゃおかしいな」
「なにがだよ」
「おまえ、今までそういう子とつきあったことないじゃん」
「まあな」
「なんでだよ? 宗旨替《しゅうしが》えか?」
「なんとなくだよ」
「やっぱ企《たくら》んでるわけ? 夏目《なつめ》鬼畜《きちく》説《せつ》が当たりなのか?」
「違《ちが》うって」
ふーん、とまた唸る。そして森はすぐ隣《となり》に腰《こし》かけてきた。それにあわせるように、僕は上半身《じょうはんしん》を起こした。僕たちの肩《かた》がちょうど横に並《なら》んだ。ちらりと、森のほうを見る。ふむ、こういう顔をしてたのか。相変わらずブサイク……じゃなくて、まあ確かにブサイクだけど……わりとマジな顔だった。
「おまえ、模試《もし》どうだったんだよ」
ああ、また話が変わった。
「悪くなかったよ。どうにかK大医学部のB判定《はんてい》取れたし」
「Bじゃ、まだまだわかんねえぞ」
いひひ、と森が笑う。
僕も、いひひ、と笑っておいた。
「わかんないよな、マジで。だいたい、受験当日に風邪《かぜ》引いたら終わりだし」
「それにしてもさ、なんでおまえが医学部なんだよ。おまえんち、医者とかじゃないだろ。ただのサラリーマンじゃん」
「オレが医者になっちゃ悪いかよ」
「悪いな。もちろん悪いに決まってる。だってさ、おまえってあんまりいい性格《せいかく》してないじゃん。なのに――ああっ! 痛《い》ってえなあ! いきなり肩を殴《なぐ》るなよ!」
「今度悪口言ったら、二回殴る」
「悪口じゃねえだろ、真実《しんじつ》だろ」
二回|殴《なぐ》ろうとしたら、見事《みごと》によけられた。
「そんなおまえが医者になったら、患者《かんじゃ》がかわいそうだって」
「んなことねえよ」
とはいえ、森《もり》の言うことはわりと当たっていた。
僕は病気の人を救《すく》いたいとか、助けたいとか、そんな高尚《こうしょう》な気持ちで医者になろうとしているわけじゃなかった。ごくごく単純《たんじゅん》に、それがいい仕事≠セからだ。世の中からは先生|扱《あつか》いしてもらえて、収入《しゅうにゅう》も抜群《ばつぐん》。不況《ふきょう》で他の仕事が厳《きび》しくなっても、医者なら失業《しつぎょう》なんてことはないだろう。
僕が医者になろうとしている理由《りゆう》は、たったそれだけだった。
「それに、オレ、臨床《りんしょう》に行くつもりはないし」
「リンショウ? なんだそれ?」
「患者を診《み》るってことだよ。医者にもさ、いろいろあるわけ。オレも細《こま》かいことはよくわかんないけど、要《よう》するに研究専門の医者と、患者を治《なお》す医者の二種類っていうかさ。そういうのに分かれてるんだと。で、オレは研究のほうに行くつもりだからさ」
「ああ、そのほうがいいな。おまえ、患者にひどいことしそうだもんな」
「病人って面倒《めんどう》くさそうだもんな」
僕は医者|志望《しぼう》にあるまじきことを言った。
実際《じっさい》、そう思っていた。
「やっぱ、ひどい医者になりそうだな」
「まったくだ」
ようやく僕たちは声をそろえて笑った。楽しかったり、ムカついたり。僕たちの気持ちは秋の空みたいにはっきりしない。まあ、人と人の関係なんて、いつだってそんなものなんだろうけどさ。
「ところで、おまえはどうなんだよ? 国立一本か?」
「まあな。その予定」
「じゃあ、オレより一カ月長く受験生だな」
お返しとばかり意地悪《いじわる》くそう言うと、
「やめてくれ。もう胃《い》に穴あきそうなんだからさ」
森は本気で顔をしかめた。
こいつの志望は地方の国立大学だった。しかも学科は地学だ。そんなところに行っても、絶対《ぜったい》食えないのに。就職《しゅうしょく》のとき、困《こま》るのが目に見えている。まあ、森は夢を追《お》いかけるってことなんだろう。僕と違《ちが》って、ひねくれた振《ふ》りをしていても、森はけっこうロマンチストなのだった。去年の夏休み、こいつはひたすらバイトしまくって、その給料で女の子にバラ百本を贈《おく》ったことがあった。それは仲間のあいだで『森《もり》バラ百本事件』として語《かた》りぐさになっている。僕たちが言いふらしたせいで、学校中の誰《だれ》もが知っている大事件だった。
ちなみに、その女の子にはあっさりフラれたそうだ。
「そろそろ行こうぜ」
予鈴《よれい》が聞こえると、森はそう言って立ち上がった。
弁当箱を持って、僕も立ち上がる。
「おう」
「さっきの答え、わかったか?」
「答え?」
「秋の空がなんで高いか」
「ああ、それか」
そんなことなんて、すっかり忘《わす》れていた。
「わかんねえよ」
「よし、教えてやろう」
森は勝《か》ち誇《ほこ》ったように笑った。
それで僕はまたムッとして言った。
「別に教えてほしくなんかねえよ」
「なんだよ、人がせっかく教えてやろうって言ってるのに」
「どうでもいい。知りたくもない」
「ちぇっ……つまんねえヤツだな……」
「早く行かないとヤバいぞ。数学の木村《きむら》って、いっつも早く来るし」
不満そうな森を無視《むし》して、僕は独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》くと、早足で歩きだした。
楽しかったり、ムカついたり。僕たちの気持ちは秋の空みたいにはっきりしない。
4
三年の三学期も終わりに近づき、つまり高校生活の終わりが迫《せま》ってきて、僕と小夜子《さよこ》のあいだにいくつかのことが起きた。
とりあえず。
いいことと悪いことが、それぞれひとつずつ。
いいことのほうは実にすばらしく、僕はK大医学部に合格した。担任《たんにん》は喜び、何度も何度も僕の肩《かた》を叩《たた》いた。頑張《がんば》れよ、夏目《なつめ》。おまえなら、なんだってできるぞ。そのことを忘れるな。僕は肯《うなず》き、言った。はい、頑張ります。そう、努力《どりょく》ならお手の物だった。こつこつやって、こつこつ積み上げていけばいいだけだ。
悪いことのほうは、まるで曇天《どんてん》に重く垂《た》れこめる雲のようだった。日差しを確かに陰《かげ》らせているのに、僕たちはそれをどうすることもできない。手も届《とど》かない。僕は小夜子《さよこ》と東京に出るつもりでいた。ところが、彼女の両親がいきなり地元の大学を薦《すす》めはじめたのだ。
いよいよ現実ってヤツが差《さ》し迫《せま》ってきた途端《とたん》、娘を手放《てばな》すのが嫌《いや》になったらしい。
「急に言われても困《こま》るよな。だいたいさ、おまえ、こっちの学校はひとつしか受けてないだろ。そういうこと、お父さんたちわかってんのかな」
帰り道に寄ったファーストフード店で、僕は憤《いきどお》りをそのまま口から吐《は》きだした。
向《む》かい側《がわ》に座《すわ》る小夜子が、茶化《ちゃか》すように言った。
「ほら、娘が可愛《かわい》いから」
そしてにっこり笑ってみせる。
僕は不機嫌《ふきげん》になった。
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ。どうにか説得《せっとく》できないかな。理由《りゆう》はなんだっていいからさ。そうだ、こっちの学校だと好きな勉強ができないってことにしようぜ。だから、地元に残ろうとしたら、浪人《ろうにん》しなきゃいけないとかさ」
なかなかいいアイディアに思えたが、小夜子は首を横に振《ふ》った。
「浪人でいいって言うと思う」
「まさか」
「だって、お父さんたち、ほんとはあたしが進学する必要《ひつよう》ないと思ってるもの。女の子だから、学は必要ないって」
学は必要ない。
そんな古くさい言い方にもムカついて、僕は本気で声をあげた。
「そんなの差別《さべつ》だろ!」
「そうだけど……」
「おかしいって! 絶対《ぜったい》に!」
田舎《いなか》というか、遅《おく》れているというか、確かに僕たちの地方にはそういう考え方が根強く残っていた。女の子というのは、最終的にお嫁《よめ》さんになればいいのであって、お嫁さんには知識《ちしき》なんて必要ないのだ。むしろ女が勉強すること、つまり知識をつけることを、本気で厭《いと》うオジサンたちがたくさんいた。
女のくせに賢《さか》しい――。
そういう言い方をするオジサンを、僕は何人も見たことがある。そして、もっと不思議《ふしぎ》なのは、そういう傾向《けいこう》を是認《ぜにん》しているのがオジサンたちだけではないということだった。同じ女であるはずのオバサンたちもまた、口ではいろいろなことを言っても、心の奥底《おくそこ》では女の子が進学する必要《ひつよう》はないと考えているらしかった。女の敵《てき》は女――そういう言い方を聞いたことがあるけれど、まさしくそのとおりだ。
こういうのは、僕の住む地方だけなんだろうか。それとも全国どこでも、田舎《いなか》のほうは同じようなものなんだろうか。
とはいえ、正直に告白すると、そういう傾向《けいこう》に僕は異《い》を唱《とな》えたことなんて一度もなかった。確かにおかしいし変だとは思うけれど、しょせん僕は男なわけで、女ではないわけで、つまり他人事《ひとごと》だった。どこかの見知らぬ誰《だれ》かがそういう偏見《へんけん》のせいで進学を諦《あきら》めることになったとしても、まあかわいそうだなとは思うだろうけれど、ただそれだけだったろう。憤《いきどお》りを感じるなんてことはなかったに違《ちが》いない。
しかし今、その偏見は僕たちに襲《おそ》いかかってきていた。
となると、話は違ってくる。
「んー」
小夜子《さよこ》は困《こま》ったような顔で唸《うな》った。
まさか、と思った。
「おまえ、お父さんたちの思いどおりになるつもりなのか?」
「そんなことないけど」
「けどってなんだよ、けどって」
「これがなかなか強情《ごうじょう》で」
あはは、と小夜子は笑った。
ぴりぴりしてる僕を宥《なだ》めるつもりだったのかもしれないけれど、僕ははぐらかされていると感じてしまった。もしかすると、小夜子は揺《ゆ》れているのかもしれない。僕といるときはそういう素振《そぶ》りを見せないだけで、どこかでお父さんたちに従《したが》うことを考えてるのかも。
心の奥底《おくそこ》がちりちりした。
どうして世界は僕の思うように動かないんだろう。僕は自分勝手に輝《かがや》かしい未来を描《えが》いていた。こんな田舎町をとっとと出て、大きな町で小夜子と暮《く》らすんだ。いっしょに暮らすってわけにはいかないけどさ、それはさすがに無理《むり》だけど、でも近いところにアパートを借《か》りて、お互《たが》い行ったり来たりして。僕は新しい世界を小夜子とともに切り開いていくつもりだった。
そんな輝かしい未来が今、ぐらぐら揺らいでいるように思えた。
焦《あせ》った。
むちゃくちゃ焦った。
もし小夜子がこっちに残ることになったら、僕たちは引《ひ》き離《はな》されてしまう。遠距離《えんきょり》恋愛《れんあい》ってヤツだ。それよりもずっと怖《こわ》かったのは、別の選択《せんたく》が僕自身に迫《せま》ってくることだった。そう、僕もこっちに残れば、小夜子といっしょにいられる――。恐《おそ》ろしいことに、僕は地元の大学をひとつだけ受けて、すでに合格通知をもらっていた。たった今、僕が進路をその地元の学校にすれば、なにもかもうまくおさまるんだ。小夜子《さよこ》と離《はな》れないですむ。
その選択肢《せんたくし》を考えるどころか、考えなきゃいけない可能性《かのうせい》が迫《せま》ってくることにすら、僕は怯《おび》えた。
小夜子と、進路と。
そのふたつを天秤《てんびん》にかけたくない。かけられない。
「おまえさ、本気でお父さんたち説得《せっとく》してるのかよ?」
「してるよ」
「だったら、なんとかなるだろ。いくら親だって、子供を好き勝手にできるわけないんだぞ。おまえがさ、もう絶対《ぜったい》諦《あきら》めないって覚悟《かくご》でいけば、向こうが折《お》れてくるって。弱気にならないのが大事《だいじ》なんだよ」
「わかってるよ」
「ほんとにわかってるか?」
僕は憤《いきどお》りのまま、小夜子を見つめた。
彼女の両親に対する憤りが、将来に対する怯えが、なぜかそっくり方向を変えて、けれど勢《いきお》いだけは増《ま》して、小夜子に向かっていた。
小夜子の顔が、少し曇《くも》った。
「吾郎《ごろう》くん、信じてないの?」
「…………」
「あたしのこと、信じてくれてない?」
言い当てられて、言葉《ことば》に詰《つ》まった。
そのとおりだった。
けれど、ここで黙《だま》っているのは、僕らしくなかった。
「信じてるけど、そういう問題じゃないだろ。だって、お父さんとか、他の人がからんできてるわけだからさ――」
もうむりやり、まっとうな理屈《りくつ》を並《なら》べまくった。まっとう過《す》ぎて、言っているそばからどんどん胡散臭《うさんくさ》くなってゆく。
もう少し年を取って、大人ってヤツになったら、こういうこともうまく乗り切れるようになるんだろうか。誰《だれ》も傷《きず》つけず、自分も他人も守って、生きていけるようになるんだろうか。だとしたら、僕は早く大人になりたかった。そしてすべての望みを叶《かな》え、小夜子を元気づけ、笑わせ、少しも悲しませず、一生楽しく生きていくんだ。
でも、今は無理《むり》だった……僕はまだ十八になったばかりで……自我《じが》に振《ふ》りまわされているだけの子供にすぎなかった……。
やがて帰る時間が来たので、僕たちは店を出た。商店街はにぎわっていて、僕たちはその人込《ひとご》みの中に紛《まぎ》れ、並んで歩いた。通りを埋《う》めつくす人たちは誰もが楽しそうだった。女の笑顔《えがお》が目に入ってくる。その手に大きな紙袋《かみぶくろ》を持っていて、それは地元で一番大きなデパートのものだった。誰《だれ》かへのプレゼントなのかもしれない。そのすぐ後ろに男がいる。子供の手を引いていた。子供が笑うと、男も笑った。ささくれ立っている僕の心には、そんな親子の笑顔《えがお》さえもざらざらしたものに感じられた。たくさん人がいるのに、肩《かた》なんてぶつかりまくっているくらいなのに、僕は孤独《こどく》だった。小夜子《さよこ》がそばにいるのに、ひとりっきりみたいだった。
ふと気づくと、本当にひとりになっていた。
「あれ? 小夜子?」
はぐれたのかもしれない。そういや、さっきから同じことばかりぐるぐる考えていて、小夜子を気にしていなかった。あたりを見まわすと、人込《ひとご》みの向こうに、あのふわふわの髪《かみ》が一瞬《いっしゅん》だけ見えた。
慌《あわ》てて、そちらに向かって走る。
それにしても、どうしたんだろう。なんであんな脇道《わきみち》のほうに向かってるんだ。近道でもないぞ、そっちは。
ようやく彼女に追《お》いついたのは、路地《ろじ》の奥《おく》だった。
「どうしたんだよ、小夜子。勝手にどっか行くなよ」
小夜子が振《ふ》り向《む》き、言った。
「え、言ったよ。吾郎《ごろう》くん、こっち来てって」
聞こえなかった。
そうか、いろいろ考えて、恐怖《きょうふ》に煽《あお》られて、それでいっぱいいっぱいになってたからだ。小夜子のことを心配《しんぱい》してるつもりで、自分のことばかり考えていたからだ。
立ちつくしていると、小夜子がにこりと笑った。
「ほら、吾郎くん」
建物《たてもの》の陰《かげ》を指さす。
そこで、白い固《かた》まりがもそりと動いた。
「ああ、猫《ねこ》か」
薄汚《うすぎたな》い野良猫《のらねこ》だった。
「可愛《かわい》いねえ、吾郎くん。ほらほら、見て。真っ白だけど、おでこに黒い斑点《はんてん》があるよ。公家《くげ》さんみたいだね、昔の」
公家?
ああ、眉《まゆ》を剃《そ》り落《お》として、丸いのを描《か》いてたヤツか。
なるほど、確かにそんな感じだ。
「公家さん、公家さん」
小夜子はしゃがみこむと、じりじりと公家さんに――そういう名前にしたらしい――寄《よ》っていった。
猫《ねこ》のほうは怯《おび》えた様子《ようす》で、小夜子《さよこ》を見ている。
「怖《こわ》がってるぞ。逃げちまうって」
「野良猫《のらねこ》だしね」
「ほら、行こうぜ」
「ちょっと待って」
またか。僕はため息《いき》をついた。小夜子は猫を見かけると、すぐに飛んでいってしまうのだ。そしてどんなに急《せ》かしても動かなくなる。
「ほら、指だよ、指」
言いつつ、小夜子が人差し指を伸ばす。
すると猫が指の先を嗅《か》いだ。
鼻をひくひくさせている。
「ねえ、吾郎《ごろう》くん。猫って、どうして指を嗅いじゃうんだと思う?」
「さあな」
「どうしてだろうね。ほらほら、すっごく嗅いでる」
言いつつ、小夜子は猫に近寄っていく。そして、そおっとその背中《せなか》を撫《な》でた。猫のほうはまだ緊張《きんちょう》しているけれど、それでも逃げる様子はなかった。なんでだろう。僕が近づくと、すぐ猫は逃げてしまうのに。
僕は諦《あきら》めて、猫を撫でる小夜子の背中を見ていた。
やがて、小夜子が言った。
「ねえ、吾郎くん」
「うん?」
「大丈夫《だいじょうぶ》だから」
「なにがだよ?」
「進学のこと。あたしね、あんまりお父さんたちとケンカしたことないの。うち、わりと仲がいいし。今までそんなに理不尽《りふじん》なこともなかったし。それに、ほら、あたしはぼーっとしてるから、理不尽なことされてても気づかないし」
「…………」
「でもね、今回は頑張《がんば》るから」
頑張るから、と小夜子は繰《く》り返《かえ》した。頑張るから。
小夜子の背中は小さかった。しゃがんでいるせいで、いつもよりいっそう小さく思える。その肩《かた》で、ふわふわの髪《かみ》が揺《ゆ》れていた。僕はずっと、小夜子を守りたいと思っていた。けれど、もしかすると逆《ぎゃく》だったのかもしれない。
僕が小夜子に守ってもらっているのかもしれない。
あの小さな背中に、小夜子はなにを背負《せお》っているんだろうか? 僕のでかい図体《ずうたい》は重くないだろうか?
僕は小夜子《さよこ》の隣《となり》にしゃがみこんだ。
「頑張《がんば》ろうな」
本当は謝《あやま》りたかったけれど、今はそれが精一杯《せいいっぱい》の言葉《ことば》だった。
「頑張ろうぜ、ふたりで」
「うん」
「ふたりでいっしょに行こう」
そう、僕たちはどこまでだって行ける切符《きっぷ》を持ってるんだ。もしその切符を破ろうとするヤツがいるんなら、殴《なぐ》り倒《たお》してやればいい。僕たちにはそれができるはずだった。
「可愛《かわい》いね、公家《くげ》さん」
「そうだな」
「あ、ごろんした」
「こいつ、ほんとに野良猫《のらねこ》かな。こんな無防備《むぼうび》でいいのかよ」
「あはは、あたしの猫力《ねこぢから》だよ」
「猫力?」
「そうそう」
「……わけわかんねえ」
僕たちはくすくす笑いあいながら、そんな下らないことを喋《しゃべ》りつづけた。
5
沈黙《ちんもく》が続いていた。
もうずいぶん長いこと、山西《やまにし》は黙《だま》りこんだままだった。
なにか話しかけても「ああ」とか「うん」とか言うばかりで、まともに返事をしようとしない。ったく、なんなんだ。しかたなく、僕はやたらとうまい酒をちびちび飲みつづけた。これ以上ハイペースで飲むと、さすがに気分が悪くなりそうだった。ああ、そっか。山西はそれで黙りこんでるのかもしれない。そういや、こいつ、酒弱そうだもんな。さっきの泣きそうな顔も、ただ単純《たんじゅん》に吐《は》き気《け》を我慢《がまん》してただけなんだろう。
それにしてもうまいな。
なんて酒だろう。
十四代|大吟醸《だいぎんじょう》、とラベルに書いてあった。日本酒なんだけど、ものすごくフルーティで、まるでワインみたいな味だった。
気をつけて飲まないと、どんどん進んでしまう。
僕は瓶《びん》の口を舐《な》めるように、少しずつその十四代大吟醸とかいう酒を飲みつづけた。ああ、それにしてもあったかいな。身体がぽかぽかする。心もぽかぽかする。そっか、それで大人たちは酒を飲むんだ。
いろんなことが遠ざかっていく。
酒のぬくもりだけ。
ああ、もっと飲もう。
吐いたってかまうもんか。
そう思って、十四代大吟醸をあおったそのときだった。
山西が急に口を開いた。
「彼女さ、浮気《うわき》してたんだよな」
裸木《らぼく》を切《き》り裂《さ》いて、びゅうと風が吹《ふ》き抜《ぬ》けていった。僕の髪《かみ》が揺《ゆ》れ、山西の髪も揺れた。山西は膝《ひざ》を抱《かか》え、子供みたいな背中《せなか》で座《すわ》りこんでいた。
しばらく山西の言ったことがわからなかった。
「浮気って……あの浮気か?」
他になにがあるんだろう。
あるわけがない。
山西はこくりと肯《うなず》いた。
「ああ、他の男といるの、見ちまってさ。すっげえショックだった。オレといるより全然楽しそうなのな。オレといると、そんなに笑わないし、退屈《たいくつ》そうな顔してるときもあるのにさ。あの男といるときは、マジで楽しそうなのな。恋愛《れんあい》っていうか、つきあってるっていうかさ」
「見間違《みまちが》いじゃないのか?」
「絶対《ぜったい》彼女だったよ。それに、オレ、彼女と話したもん。つか、彼女のほうから話してきたっていうか」
僕はびっくりした。
「おまえ、その現場で怒鳴《どな》りこんだのか?」
山西《やまにし》にそんな度胸《どきょう》があったとは。
そういう場面に僕が出くわしたら……すっげえヘコんで逃《に》げだすだろう……現実ってヤツから情《なさ》けなく全力|逃避《とうひ》する確率百パーセントだ……山西、おまえ、すげえよ……。
しかし山西は首を横に振《ふ》った。
「そんなことできるわけねえだろ。そのとき、オレ、情けないんだけど、こそこそと連中に見つからないように隠《かく》れちまってさ。なんでオレが隠れてんだろとか思いながら、でも隠れちまったんだよな。けど、向こうは気づいてたみたいでさ。あとで呼《よ》びだされた」
「うわ……」
最悪だ。
「でさ、理不尽《りふじん》なのな」
山西は笑った。
「彼女、怒《おこ》りやがんの。バカじゃないのって」
「…………」
「そんなんだから、女できねえんだよとかって罵《ののし》りやがんの。ほんとは怒るのオレのほうだろ。けど、オレ怒れなくてさ。ただオロオロしちまって。そうしたら、彼女もっと怒りだしたんだ。なんかイライラした感じでさ」
「…………」
「なあ、戎崎《えざき》、間男《まおとこ》って言葉《ことば》知ってるか」
「マオトコ?」
すぐにはピンと来なかった。
答えを、山西が教えてくれた。
「要《よう》するに浮気《うわき》相手ってことだよ。ちゃんとつきあってるヤツがいる女にさ、ちょっかい出すっていうか。間《あいだ》の男≠チて書いて間男」
「ああ、じゃあ、相手の男がその間男で――」
「ちげーよ」
「え?」
「オレが間男だったんだよ。そいつとさ、見かけた男とさ、ずっとつきあってたんだと。オレなんかと知り合うずっと前から。でも最近うまく行ってなかったらしくて、気晴《きば》らしっていうか、当てつけでオレとつきあったんだと」
「彼女にそう言われたのか?」
山西《やまにし》は肯《うなず》いた。
「はっきりとな。あんたなんか好きでもなんでもないって。で、そのあとがまたひでえの。いっそ、そのまま罵《ののし》ってくれりゃよかったんだよ。そうすりゃオレの下らない思いこみだってバラバラになってさ、はっきりわかったのにさ。オレがただのアホだって、わかったのにさ。彼女、急にしおらしくなって、謝《あやま》りやがんの。ごめんなさいって。それから急に泣きだすんだぜ。泣きたいのはこっちだよなあ」
僕のほうを見て、山西は笑ってみせた。
それはバカみたいに明るい笑顔《えがお》だった。
「オレ、マジで笑っちまったよ。いいよいいよとか言ってさ、彼女|慰《なぐさ》めて。別にたいしたことじゃねえよとか言ってさ。ったく、なんでオレが慰めてんだろうなあ。おかしいよなあ。やっぱ怒鳴《どな》っておくほうがよかったのかなあ」
山西はやっぱりバカみたいに明るく笑っている。
僕は山西の彼女……いや、今となっては彼女だった女の子のことを思《おも》い浮《う》かべた。ああ、彼女でさえもなかったのかな。派手《はで》な感じの、けっこう可愛《かわい》い女の子だった。確か加世子《かよこ》ちゃんだったっけ。なんだっけな、ちょっとだけ話をしたんだよな。もう思いだせないような、どうでもいいことだけど。あんな子が、こういうことするんだな。マジであるんだな。
信じられなかった。
いや――。
信じたくなかった。
その気持ちは山西を思いやってのものなんかじゃなくて、そう、そんなに上等《じょうとう》で優しいものじゃなくて、僕自身のために信じたくなかったんだ。世界とか、世の中とか、世間《せけん》とか……よくわかんないけど、そういうものを……人間とか、あと女の子とか……とにかくそういうものを、僕はまともなもんだって思っていたかったんだ。
まあ、でも、そりゃそうだよな。
女だって人間だもんな。
僕たちと同じように下らないことを考えたり、とんでもないことをやらかしたりするんだよな。女が男よりきれいな心を持ってるわけなんてないしさ。そういうのは男の、しょせんは幻想《げんそう》にすぎない。
わかっちゃいるさ。
もちろん。
でも僕はそんな幻想を見ていたかった。
「まあ、しょうがねえよな」
僕は言った。
「しょうがねえよ、山西《やまにし》」
「うん……」
ちぇっ。
うん、だって。
こいつが素直《すなお》に肯《うなず》くのを見るのは久しぶりだった。前がいつだったか思いだせないくらい、久しぶりだった。
そのことに、また心が揺《ゆ》れた。
「次、見つけろよ」
言って、十四代|大吟醸《だいぎんじょう》をあおる。ごくごくと、思いっきり飲みこむ。
「うん……」
「もっと可愛《かわい》い女の子とかさ。いくらでもいるだろ」
「うん……」
「だからさ――」
「やっぱ駄目《だめ》だ」
「え?」
「駄目だ。戎崎《えざき》、やっぱ駄目だ」
叫《さけ》ぶと、山西は立ち上がった。思いっきりの涙目《なみだめ》で、僕を睨《にら》んでくる。ああ、この顔は知ってるぞ。七歳くらいのときだっけな、山西の大切なオモチャを壊《こわ》しちゃったら、こいつはこういう顔をしたんだよな。で、両手をぶんぶん振《ふ》りまわして襲《おそ》いかかってきたんだ。そのげんこつが鼻に当たって、鼻血が出た。とろーっと温《あたた》かいものが鼻の穴から伝《つた》い落《お》ちてきた。その記憶《きおく》に、僕は思わず怯《ひる》んだ。
「な、なんだよ、山西」
つい鼻を押《お》さえそうになってしまう。
山西は叫んだ。
「うるさい! 勝手にいろいろ慰《なぐさ》めやがって! 次の女? そんなに簡単《かんたん》に見つかるわけねえだろ! どうせオレとつきあうような女はブサイクなんだよ! 決まってるだろ! 見せつけにいくだって? 笑われるに決まってるさ!」
「や、山西……おい……」
なんでこいつ、いきなり怒《おこ》りだすんだ?
わけわかんねえぞ。
「くそ、おまえはいいよな! 里香《りか》ちゃんみたいに可愛い彼女がいてさ! 奇跡《きせき》だよ、戎崎! おまえみたいなヤツがあんな可愛い子を捕《つか》まえるなんて奇跡そのものだ! ミラクルだ! ドリームだ! マジックだ! ちくしょう、うらやましいことしやがって!」
「待て……おい、山西《やまにし》……別に彼女ってわけじゃ……」
「おまえに慰《なぐさ》められると腹立ってくんだよ!」
「…………」
「慰めろ! いや、慰めるな!」
狂《くる》ったように山西は叫《さけ》んでいる。
完全に目が飛んでいた。
その様子《ようす》に、僕はだんだん腹が立ってきた。
「おい、山西」
「うるさい! オレにかまうな!」
「じゃあ、かまわねえよ」
「ちょ、ちょっと待て! このかわいそうなオレを無視《むし》すんのかよ!」
「はあ?」
僕の口から出てきた声は、思いっきり低かった。
こいつはなんにも知らない。わかってもいない。たかが自分が間男《まおとこ》になったくらいで、世界中の不幸を背負《せお》ったような顔をしてやがる。それがなんだよ。たいしたことないだろ。っていうか、短いあいだでも楽しかっただけマシじゃねえか。なあ、山西。クソ山西。おまえ、なにを知ってるんだよ。絶望《ぜつぼう》とか不幸とか、そのなにを知ってるんだよ。どんなに祈《いの》っても届《とど》かないことだってあるんだぜ。世の中ってヤツはどうにもできないことばっかなんだ。足掻《あが》いてもしょうがねえんだ。辛《つら》くて苦しくて息《いき》ができなくて。それでも大嫌《だいきら》いなヤツに頼《たよ》るしかなくて。自分自身はまったくの無力で。
壊《こわ》れたカメラ。
右足に貼《は》りつけていった写真。
優しすぎる笑顔《えがお》。
今やそのどれにも届かないんだぞ。どうにもできないことばっかりじゃねえか。おまえだけじゃねえよ。今回のことでおまえが死ぬのかよ。加世子《かよこ》ちゃんが、加世子ちゃんの本命《ほんめい》の彼氏が死ぬのかよ。どうにもならないだろ。今朝もこの瞬間《しゅんかん》も息を吸《す》って吐《は》いて、明日も息を吸って吐いて、飯食って、下らないメール送って、授業受けて眠《ねむ》くなって……そういうのがずっと続いて、結局《けっきょく》なんにも変わらないじゃねえか。ああ、確かにおまえは傷《きず》ついたよ。かわいそうだよ。間抜《まぬ》けだよ。間男だよ。けどさ、それがなんだよ。明日も明後日も、来年も再来年《さらいねん》も、十年後も二十年後もある僕やおまえになにがわかるんだよ。
ドス黒い気持ちが渦《うず》を巻《ま》き、僕の身体の内側をざわざわと擦《こす》って、次から次へとささくれを作っていった。そんなささくれと、どうしようもなく薄汚《うすよご》れきった気持ちを抱《かか》えながら、僕は山西を睨《にら》みつけた。
クソ山西《やまにし》。
なんか言ってみろ。おい。なんか言ってみろよ。
「う……」
僕の眼光《がんこう》に射《い》すくめられ、山西が怖《お》じ気《け》づいたような顔をした。
「戎崎《えざき》、なんだよ……」
「はあ?」
思い切り低い声で言ってやる。
そしてさらに睨《にら》みつける。
山西の視線《しせん》が周囲《しゅうい》をさまよい、そして急に定まった。
「もういい! オレは飛ぶ!」
「飛べ!」
僕は罵《ののし》った。
「どこにでも飛べよ!」
友達に対する労《いたわ》りの気持ちも優しさも、その言葉《ことば》にはカケラもなかった。本気で飛べばいいと思っていた。
山西は走りだすと、屋上《おくじょう》の縁《へり》へと向かった。その手前の手すりを、さっきと同じように乗《の》り越《こ》える。慌《あわ》てた山西は手すりをうまく乗り越えられず、足を引っかけて無様《ぶざま》に転《ころ》げ落《お》ちた。くそっという悪罵《あくば》が聞こえてくる。はは、ざまあみろ。そんなのも軽く乗り越えられないくせに。
ドジでブサイクで間男《まおとこ》の山西は、またもや屋上の縁に立った。前にはなにもない。ただの空間。十五メートルくらいの落差《らくさ》。山西が僕のほうを見た。ヤツの顔には怒《いか》りも苛立《いらだ》ちもなかった。ものすごくきれいな目をしていた。
そして、穏《おだ》やかな声。
「じゃあな、戎崎」
ヤバい、と感じた。背中《せなか》がぞくりとした。
「待て、山西! 待てって!」
ドス黒い気持ちをその場に残し、僕は全速力で走りだした。しかし直後、コケた。酒を飲みすぎたんだ。思いっきり肩《かた》をコンクリートに打ちつけ、痺《しび》れるような鈍《にぶ》い痛《いた》みが鎖骨《さこつ》のあたりに走った。くそっ。悪態《あくたい》をつく。すぐに立ち上がる。ふたたび走りだす。
「待たない」
山西はやはり穏やかな声で言う。
声を限《かぎ》りに、僕は叫《さけ》んだ。
「そこから飛《と》び降《お》りても死ねないぞ!」
「え?」
「亜希子《あきこ》さんに聞いたんだ! 前に救急車で運ばれてきた人がいて、その人は五階から飛び降りたんだけど腰骨《こしぼね》折《お》っただけで! 亜希子《あきこ》さん、言ってたんだ! バカだねえって! 五階から飛《と》び降《お》りても大ケガして苦しいだけで滅多《めった》に死なないのにって!」
「マ、マジで?」
「マジに決まってるだろうがっ!」
山西《やまにし》の顔が急に弱気になった。死ぬ、というのはひどく抽象的《ちゅうしょうてき》だ。そのあと、苦しむこともない。なにしろ死んでるわけだから。しかしケガとか痛《いた》みとかはひどく具体的《ぐたいてき》なものだった。しかも自殺《じさつ》未遂《みすい》という、実に情《なさ》けない状態《じょうたい》を、周囲《しゅうい》に晒《さら》すことになる。
山西が戸惑《とまど》っているあいだに僕は全速力で手すりに向かい、それを一気に跳《と》び越《こ》えた。ちょっとでもふらついたら中庭に落ちてしまうわけだけど、そんなことはまったく考えなかった。
一気に山西に近寄《ちかよ》り、その胴《どう》に腕《うで》をまわす。
「や、やめろって! 戎崎《えざき》! 危《あぶ》ないって! 危ないだろ!」
「だって、おまえ――」
「やめろって! 落ちる落ちる――っ! 落ちるううううううぅ――っ!」
「うわああああああぁ――っ!」
そして、僕たちは落ちた。
またもや後ろ向きに。
手すりのほうへと。
山西《やまにし》の胴体《どうたい》をがっちり掴《つか》んでいた僕は、まったく受け身が取れなかった。
がつん!
ものすごい音がした。頭を手すりにぶつけたのだ。そうとう激《はげ》しくぶつけたはずなのに、全然|痛《いた》くなかった。ただ頭の芯《しん》がどんどん白くなっていく。
あれ……なんだ……。
頭の芯がどんどん白くなっていくのに、視界《しかい》はどんどん暗くなっていく。こりゃヤバいと思ったが、そのくせなぜかやたらと気持ちよかった。
山西の叫《さけ》ぶ声だけが聞こえてくる。
「戎崎《えざき》! おい、サンマン! サンマン、大丈夫《だいじょうぶ》か!?」
そのあだ名で呼《よ》ぶのはやめろよ、山西。
サンマンはやめてくれ。
マジで嫌《きら》いなんだって、そのあだ名は。
「おい、サンマン! 大丈夫か!?」
6
「いいよなあ、おまえは」
高校最後の冬、つまり卒業する直前に、森《もり》がそう言った。高校の三学期なんて、すでに合格が決まった人間にはあってないようなものだ。というわけで、僕みたいな私立組はたいてい遊《あそ》び呆《ほう》けていた。
「オレは毎日勉強だよ。プレッシャーで血ヘド吐《は》きそうだもん」
その声まで緊張《きんちょう》で細くなっている。
森は地方の国立組だった。試験が近づくにつれ、ぴりぴりしてるのがあからさまにわかるようになっている。まあ、そりゃそうだ。なにしろ自分の人生がこれで決まってしまうわけだし。
僕たちは今、学校の屋上《おくじょう》にいた。三月なのでまだ風は冷たくて、僕たちはそろって腕《うで》を組み、手を脇《わき》で温《あたた》めながら、足をガタガタと震《ふる》わせた。ただ、それでも風はもう、冬のそれじゃなかった。奥底《おくそこ》のほうに春の気配《けはい》を秘《ひ》めている。
いちおう励《はげ》ましのつもりで、僕は言った。
「この時期《じき》くらい頑張《がんば》れよ。あのな、人間っていうのは血ヘドを吐くくらい頑張った時期があると、あとが楽なんだってよ」
「なんだ、それ。どうせマスターの滝口《たきぐち》さんだろ」
「当たり」
あの人、説教《せっきょう》くさいとこあるよな。そう言って、僕たちは笑いあった。オッサンくさいよな。ああ、オッサンくさい。もっとも僕たちは滝口さんのそういうところが嫌《きら》いじゃなかった。
「でも、ほんといいよなあ」
森《もり》がしつこく繰《く》り返《かえ》した。
「おまえがうらやましいよ」
「なんだよ、妙《みょう》にしみじみしやがって」
「だってさ、東京に行くんだろ。日本の中心だぜ」
「まあな」
「オレなんて、田舎《いなか》のほうでずっと暮《く》らしていくんだぞ。国立なんて言っても、しょせんは田舎の三流国立だし」
「おまえね、そういうこと言ってると刺《さ》されるぞ」
その田舎の三流国立にだって、入れない人間はたくさんいるのだ。
「わかってるけどさ。わかってるけど。……おまえには言われたくないな」
森は笑ってみせたけれど、その目は笑っていなかった。
そんなヤツの気持ちが、僕にはよくわかった。この世の中には、二種類の人間がいる。この手の表現はダサいと思うけど、便利といえば便利だ。それにわかりやすい。そう、世の中には二種類の人間がいる。地元に残りたい人間と、出ていきたい人間と。
僕も森も後者《こうしゃ》だった。
そりゃ田舎もまあ、悪くない。ここには友達がいるし、だいたいのことはわかってるし、就職《しゅうしょく》のときなんかコネが使えたりする。市役所とかに入っちゃえば、一生|安泰《あんたい》だ。
ただ、僕にしても森にしても、そういう一生安泰におさまるのはなんだか性《しょう》に合わなかった。もう少しぎらぎらしていたい。出世《しゅっせ》とか金とか、そんなふうに具体的《ぐたいてき》なことを望んでるわけじゃないし、そもそも高校生の僕たちにはそこまで考えることはできなかったけれど、それでもなんとなく、今の自分たちには知りようもない世界があって、頑張《がんば》れば僕たちの手はその知りようもないところにまで届《とど》くんだと感じていた。
だから、手を伸ばしたかった。
背伸《せの》びをしてみたかった。
僕たちはまだ十八で、いろんなことを諦《あきら》めてしまう年じゃなかった。
「田舎で偉《えら》くなれよ」
僕がそう言うと、森は褪《あ》せた笑《え》みを浮《う》かべた。
「まあ、それもいいな」
「県会議員とかさ」
「おお。そのうち議長を狙《ねら》うぜ」
「偉《えら》くなったら、オレを秘書《ひしょ》に雇《やと》ってくれよ」
「そして汚職《おしょく》で捕《つか》まろうぜ」
「……おまえ、秘書のオレを捕まえさせて、自分は逃《に》げ切《き》るつもりだろ」
「うはは、バレたか」
そんな下らないことを言って、僕たちは笑った。
「捕まったら、洗いざらい喋《しゃべ》ってやるよ」
「じゃあ、ふたりで刑務所《けいむしょ》の臭《くさ》い飯を食うか」
冬の空は晴《は》れ渡《わた》っており、雲ひとつなかった。そんな空の下に、僕たちの生まれ育った田舎町《いなかまち》が広がっていた。もうすぐ僕はここを出ていく。そしておそらく、二度と戻《もど》ってくることはない。もちろん帰省《きせい》くらいはするけれど……そういう意味じゃなくて、住むために舞《ま》い戻《もど》ってくることはないだろう。
甘酸《あまず》っぱい感傷《かんしょう》のような気持ちがないわけではなかったけれど、それよりもはるかに希望のほうが大きかった。僕の目には未来しか映《うつ》っていなかった。
ところでさ、と森《もり》が言った。
「樋口《ひぐち》さんの件、どうなったんだよ」
「うん? 小夜子《さよこ》の件って?」
「ちぇっ、忘《わす》れたのかよ。樋口さん、親に地元残れって言われてたんだろ。それでおまえ、ちょっと前まで愚痴《ぐち》ってたじゃん」
ああ、そのことか。
僕は頭の中で起きたことを整理してから、口を開いた。
「どうにかなったよ。なんかさ、小夜子がすっげえ頑張《がんば》ってさ。あとであいつの姉ちゃんから聞いたんだけど、小夜子のヤツ、泣きそうな顔でずっと正座《せいざ》してたんだと。オヤジさんが呆《あき》れて寝《ね》ちまったあともさ、ひとりでずっと居間《いま》に座《すわ》ってたって」
「へえ、あの子が? ほにゃほにゃした感じなのに?」
「ほにゃほにゃって言うな」
僕は笑いながら、いちおう抗議《こうぎ》しておいた。
「オレの彼女をほにゃほにゃ扱《あつか》いするな」
とはいえ、ほにゃほにゃってのはかなり的確《てきかく》な表現だった。確かに小夜子はいつだってほにゃほにゃしている。
そのほにゃほにゃした小夜子は、ずっと居間に座っていたそうだ。
朝になるまで正座だったらしい。
心配《しんぱい》したお母さんがもう寝《ね》なさいと言ったけど、小夜子はぴくりとも動かなかった。やがて夜が明けるころ、オヤジさんがやってきて言った。
「好きにしなさい」
どうやらお母さんが説得《せっとく》してくれたらしい。
小夜子《さよこ》はそのあたりの経緯《けいい》をまったく話そうとしないけれど、全部小夜子の姉ちゃんが教えてくれた。姉ちゃんが言ってたっけ。あの子があんなに強情《ごうじょう》になるの初めてじゃないかな。もうびっくりしちゃったわよ。
僕もびっくりした。
ほにゃほにゃした小夜子が、そんなに頑張《がんば》るなんて、想像《そうぞう》もできなかった。
その話を聞いてから小夜子に会ったとき、僕はぎゅっと彼女を抱《だ》きしめておいた。なかなか手を離《はな》さない僕に、小夜子は戸惑《とまど》って、吾郎《ごろう》くんどうしたのと尋《たず》ねてきたけれど、もちろん僕はなにも言わなかった。なにも言わずに、さらに五分ばかり小夜子を抱きしめつづけた。
だいたいの経緯を話し終えると、森《もり》はそうかと言って肯《うなず》いた。
「じゃあ、ふたりでいっしょに行くんだな」
「その予定だよ」
「よかったな」
「ああ」
森がなにか言いかけて、口を閉じた。先を促《うなが》す気にもなれず、僕はただ黙《だま》って待っていた。結局《けっきょく》、思ったとおり、森が閉じていた口を先に開いた。
「おまえはなんでも手に入れちまうんだな」
「なんだよ、それ」
「だってそうだろ。顔はいいし、勉強はできるし、医学部だし、好きな女の子と東京に行くし。昔から、おまえはそうだったもんな。なんでも思いどおりにしちまうんだよ。おまえ、覚《おぼ》えてるか。一女の時田《ときた》さんのこと」
「ああ、覚えてるよ」
一女というのは第一女子高の略《りゃく》で、公立の女子校だった。男で勉強ができるヤツはウチに来るし、女で勉強できる子は一女に行く。そのせいか、ウチと一女の男女がつきあうってパターンが多かった。なんとなくお互《たが》いに身内|意識《いしき》みたいなものがあったりする。
時田さんとは、一年のときに知り合った。
なにかの集まりで顔を合わせて、しばらくグループ交際《こうさい》みたいなことをしていた。で、森は時田さんのことを好きになった。こいつはほんと、惚《ほ》れっぽいんだ。そのくせ、なかなか行動に移《うつ》せないんだけどさ。
「時田さんもさ、結局、おまえに盗《と》られちまったし」
「盗ってねえよ」
「ごまかすなよ。時田さん、おまえの彼女になったじゃん」
そう、僕は時田さんとつきあった。向こうから告白してきたからだ。もちろん森の思いは知っていたけど、だからといって遠慮《えんりょ》する気持ちはなかった。なぜって、森《もり》の思いが成就《じょうじゅ》する可能性《かのうせい》はゼロだったからだ。それなのに遠慮するなんておかしな話だろ。
「ほんと、おまえはなんでも手に入れちまうんだよな」
森はきっと僕をうらやんでいるんだろう。嫉妬《しっと》ってのもあるかもしれない。ただ、そのわりにヤツの顔をさっぱりしていた。どうしてそんな顔をしてるのか尋《たず》ねてみたかったけれど、僕はその問いを飲みこんだ。下手《へた》なことを聞いたら、森を傷《きず》つけてしまうように思えたからだ。
「努力《どりょく》だよ、努力」
だから、あえて大げさに笑いながら、そう言ってやった。
「水面《すいめん》の下で必死《ひっし》になって足をばたばた動かしてんだよ」
「違《ちが》うって」
「ん?」
「おまえは女神様に気に入られてんだよ」
女神?
小夜子《さよこ》の顔が浮《う》かんだ。
ああ、そうかもな。
あいつはいろんな幸運を運んでくるんだ。
「なにしろ色男だからな」
あはは。
笑っておく。
あはは。
森も笑った。
「偉《えら》くなれよな、夏目《なつめ》」
「おお。日本|医師会《いしかい》の会長を狙《ねら》うぜ」
「すげえな、それ。もし会長になったら、オレを秘書《ひしょ》にしてくれよ」
「そして汚職《おしょく》で捕《つか》まろう」
また下らないことを言って、僕たちはひたすら笑いつづけた。
「夏目、教えてやろうか」
「なにがだよ」
「どうして秋の空が高く見えるのか」
「……もうすぐ春だぜ」
「そうだな。じゃあ、やっぱ教えるのはやめとこう。よく考えておけよ。今度会うときまでの宿題だ」
けれど、森と仲良く話したのは、この日が最後だった。高校を卒業したら、僕たちはそれほど会わなくなった。もともとそんなに親《した》しいわけじゃなかったのだ。学校が同じだから、つるんでいただけだ。そういう縁《えん》が切れてしまえば、それっきりになる程度《ていど》の関係だった。
卒業式の一週間後、僕は小夜子《さよこ》といっしょに故郷《こきょう》を離《はな》れた。
なんの未練《みれん》もなかった。
東京で新しい生活が始まる。世界が僕を待っている。そしてその隣《となり》には小夜子がいるのだ。森の言うとおり、僕はなにもかもを手に入れようとしていた。
「吾郎《ごろう》くん、寂《さび》しい?」
動きだした新幹線の中、小夜子が茶化《ちゃか》すように聞いてきた。
僕はごくごくまじめに答えた。
「いや、全然」
「吾郎くんは冷たいなー、冷酷《れいこく》だなー」
「そのとおり。オレは冷たい男なんだよ」
「――あれ」
小夜子が首を傾《かし》げた。
話の流れが逸《そ》れた感じだったので、僕は不思議《ふしぎ》に思って尋《たず》ねた。
「どうしたんだよ」
「なんか、胸《むね》がドキドキする。変な感じ。どうしたのかな」
とはいえ、そう言う小夜子の口調《くちょう》はひどく呑気《のんき》だった。まあ、いつも小夜子は呑気なんだけどさ。胸を押《お》さえて、ぼけーっと首を傾《かし》げている。
僕は笑って言った。
「センチメントの暴走《ぼうそう》だな」
「え? なにそれ?」
「故郷を離れるんで、ドキドキしてるわけだ」
「そうなのかなあ」
「ああ、きっとそうさ」
このとき、僕はなにもわかっていなかった。わかろうともしていなかった。僕が見ていたのは、輝《かがや》かしい僕たちの未来だけだった。僕は心底《しんそこ》から信じ切っていたんだ。世界は僕たちのためにあり、ふたりならどんなことだって乗《の》り越《こ》えていけるって。
そうさ、本気で信じていたんだ。
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「せんせー、なつめせんせー、なっつめせんせー」
少しハスキーな声が僕の名を連呼《れんこ》しながら近づいてくる。うぜえなあと思いつつ、僕は書類から顔を上げた。まったく医者ってのは、どうしてこんなに書かなきゃいけないものが多いんだろう。しかも一生懸命《いっしょうけんめい》書いたって誰《だれ》も読まないような報告書《ほうこくしょ》ばっかりだ。
「せんせーってばー、なっつめせんせー」
背後《はいご》の気配《けはい》に向かって、僕は言った。
「うるさい」
「だってえ――」
「連呼しなくてもわかるって」
立ち上がると、僕の膝《ひざ》のあたりで白衣《はくい》が揺《ゆ》れた。これを着るようになって、もう五年になる。初めて着たときはなんだか妙《みょう》にいかめしい気がして、そのくせ一枚きりの布は頼《たよ》りなくて、同じ服から受ける相反《あいはん》する感覚《かんかく》に戸惑《とまど》ったものだけれど、今はもうそんな戸惑いに怯《おび》えることはなくなっていた。
今の僕の立場《たちば》は、研修医《けんしゅうい》だ。
すでに国試、つまり医師《いし》国家試験はパスし、立場上は立派《りっぱ》な医師ということになる。もっとも、医師といってもまだ駆《か》けだしもいいところで、実際《じっさい》の立場《たちば》はただの学生だった。大学院に籍《せき》を置きつつ、研修医《けんしゅうい》という形で現場に出ている。
中途半端《ちゅうとはんぱ》なんだ、なかなか。
医者なんだけど、医者じゃないっていうか。医者たる本当の資格《しかく》、つまり知識《ちしき》や経験《けいけん》が圧倒的《あっとうてき》に足りない。
医師|免許《めんきょ》という紙切れ一枚で支《ささ》えられているだけの存在《そんざい》にすぎなかった。
「三〇七号室の田中《たなか》さん、痛《いた》み止《ど》めをほしがってるんだけど、どうしますか」
目の前に立っているのは、看護婦《かんごふ》の沢口《さわぐち》有希《ゆき》だった。
看護婦のくせに髪《かみ》を茶色に染《そ》めていて、勤務中《きんむちゅう》でもわりとしっかり化粧《けしょう》をしている。見た目に気を遣《つか》うタイプなんだろう。目鼻立《めはなだ》ちのはっきりした、派手目《はでめ》の美人だった。私服に着替えると、もう思いっきり色っぽい。
「ああ、あの偏屈《へんくつ》じいさんか」
邪険《じゃけん》にあしらいつつも、なんとなくあやすような感じになっちゃうのは、彼女が僕の好きなタイプだからなんだろうな。そのことを、沢口有希も感じ取ってるみたいだった。
「すごいですよ。もう痛い痛いって喚《わめ》いちゃって。大騒《おおさわ》ぎです。身体が大きいし、顔も怖《こわ》いのに、けっこう臆病《おくびょう》なんですよね」
言いつつ、上目遣《うわめづか》いで僕を見てくる。
秘《ひ》められたものに気づいたが、もちろん気づかない振《ふ》りをしておいた。
これでも妻帯者《さいたいしゃ》だしな。
「ああ、どうするかな。ちょっとカルテ見せてくれよ」
書《か》き連《つら》ねられた文字や記号を確認《かくにん》する振りをしてみたものの、だからといって答えがわかるわけではなかった。痛み止めくらい増《ふ》やしてもいいとは思うが、もうすでにかなりの量を出している。これ以上出していいものだろうか。たいしたことではないけれど、そんなことさえも経験不足の僕にはさっぱりわからなかった。考える振りをしながら、室内を見まわす。指導医《しどうい》の田村《たむら》先生はいなかった。牧村《まきむら》先生の姿《すがた》もない。ああ、白衣《はくい》を着てるのは、つまり医者は僕だけだ。婦長《ふちょう》がちらりと、心配《しんぱい》そうな視線《しせん》を投げかけてきた。それがさらに僕を焦《あせ》らせる。
「けっこう出してるな……」
独《ひと》り言《ごと》のように、呟《つぶや》いてみる。
さすがにいろんな気配《けはい》を読み取りながら仕事をしている看護婦だけあって、沢口有希は即座《そくざ》にヒントをくれた。
「そうですね。少し多くなってきましたね」
少し多く……変な日本語だが……つまり、そういうことなんだろう。多くはなってきたけど。まだまだ。少しって言葉《ことば》をつけられる段階《だんかい》。だから増やしても許容範囲内《きょようはんいない》――。
僕はほっとしつつ、指示《しじ》を口にした。
「じゃあ、ボルタレンを二十五ミリ出しておいてくれ」
カルテに指示《しじ》を書きこみ、沢口《さわぐち》有希《ゆき》に渡《わた》す。僕は感謝《かんしゃ》の意味もこめて、にっこり笑っておいた。沢口有希が実に見事《みごと》な媚《こ》び笑《わら》いを返してくる。
ありがとう。
いえいえ、どういたし[#「いたし」は底本では「したして」]まして。
そんな感じ。
僕のような新米《しんまい》でも看護婦《かんごふ》はいちおう先生として扱《あつか》ってくれる。喋《しゃべ》るときもだいたい敬語《けいご》だ。けれど実際《じっさい》の知識《ちしき》は彼女たちのほうがはるかに豊富《ほうふ》だった。いっそ彼女たちに任《まか》せてしまったほうが、うまく治療《ちりょう》をしてくれるだろう。それに対して、医師《いし》免許《めんきょ》を持っていても、いざという場面になると僕はただオロオロするばかりで、適切《てきせつ》な処置《しょち》なんてまったくできない。ほんと、ヘコむばかりの毎日だった。
「ちょっと前、西麻布《にしあざぶ》に新しいクラブができたみたいですよ」
カルテの指示を確認《かくにん》する振《ふ》りをしながら、沢口有希がそう言ってきた。
すでに指示は口頭《こうとう》で伝《つた》えたし、間違《まちが》うようなことでもないわけだから、さっさと患者《かんじゃ》のところに行くべきだし、患者が喚《わめ》くほど痛《いた》がってるならなおさらだ。
そういう彼女の行動がなにを意味するか……まあ、簡単《かんたん》なことだ。
「へえ、クラブか。どんな感じなんだ」
「ブラック系がメインみたいです。選曲とかすごくうまくて、内装《ないそう》もおしゃれな感じだって。遊びに行った友達から聞いたんですけど。ちょっと行ってみたいですよね」
誘《さそ》ってくれ、と。
たぶん、そういうことなんだろう。
僕は笑ってごまかした。
「ブラック系か、苦手《にがて》なんだよな」
「えー、流行《はや》ってますよー」
「もうオジサンだからな」
さて、どうやって逃《に》げだしたもんだろうか。
沢口有希はくすくす笑った。
「夏目《なつめ》先生、まだ二十五じゃないですか」
「十分オジサンだよ。――おっと、教授に呼《よ》ばれてたんだった」
ああ、わざとらしいな。
「じゃあ、田中《たなか》さんの件、よろしくな」
はーい、とつまらなさそうに沢口有希が返事をした。
ヤバいヤバい。なんかぐらっと来ちまうよな。ああいう猫《ねこ》みたいな大きい目で見つめられるとさ。つい手を出したくなる。伸ばせば、きっと掴《つか》めるしさ。ちぇっ、なに考えてんだ、僕は。バレたら小夜子《さよこ》にぶっ殺されちまうよ。ああ、いや、あいつは黙《だま》って陰《かげ》で落ちこむな。そういうタイプだ。ぐちぐち責《せ》められるより、そのほうがよっぽどきついや……。
冷《ひ》や汗《あせ》をかきながらナースステーションを出ると、婦長《ふちょう》が後ろから声をかけてきた。
「夏目《なつめ》先生」
「あ、はい。なんでしょう」
やり手のキャリアウーマンって感じの婦長には、さすがにこちらも敬語《けいご》で接《せっ》してしまう。大学病院の婦長ってのは、これでなかなかの権力者だし。
「いかがですか、多少は慣《な》れてきましたか」
「はあ、おかげさまで」
「それにしても夏目先生……」
「はい?」
「意外《いがい》とまじめな愛妻家《あいさいか》なんですね」
うふふ、と笑いつつ、婦長は早足で僕を抜《ぬ》き去《さ》っていった。お気をつけて、なんて言葉《ことば》も残して。むむう。どうもみんなに弄《もてあそ》ばれてる気がする。それにしても、気をつけろか。なにに気をつけろってんだろう。慣《な》れない診療《しんりょう》? それとも沢口《さわぐち》有希《ゆき》?
まあ、なんだっていいや。
「ちょっとサボるか……」
呟《つぶや》くと、僕は屋上《おくじょう》に足を向けた。一服《いっぷく》しないと、やってらんない。教授に呼《よ》ばれているというのは、もちろんあの場から逃《に》げるための作り話だった。
ポケットの中のタバコを弄びながら歩いていると、公衆《こうしゅう》電話が目に飛びこんできた。今時|珍《めずら》しいピンク電話だ。ポケットには、タバコの他に、タバコを買ったときのおつりの三十円が入っている。これはつまり、運命のサジェスチョンってヤツかね。ふむ。
僕は公衆電話の前で立ち止まった。そのささやかなサジェスチョンに従《したが》うことにしたのだ。
ちゃりん。
一枚、十円玉を入れる。
ちゃりん。
二枚、入れる。
ちゃりん。
三枚目も入れておくか。そんな長くならないと思うけど、いちおうな。ほら、ポケットの中で余《あま》ってるからな。
四けたの数字を二組《ふたくみ》打ちこんだ。自分の家のナンバーだから、間違《まちが》うはずもない。
「はい、夏目です」
五回目で、そう言う声が聞こえた。
僕はこみ上げてくるものをじっくりと噛《か》みしめながら言った。
「よう、奥さん」
受話器の向こうで、小夜子《さよこ》がくすくす笑う。
「やあ、旦那《だんな》さん」
この、少し気取った小夜子の声が、僕は大好きだった。
大学を卒業すると同時に、僕は小夜子と結婚した。
高校時代の友達はひとりの漏《も》れもなく驚《おどろ》いた。
「大丈夫《だいじょうぶ》かよ? どうかしちまったんじゃねえの?」
なんて真顔《まがお》で聞いてくるヤツもいたくらいだ。
確かに高校のころの僕はろくでもない遊び人で、いろんな女の子にちょっかい出しては、ことごとく切り捨てたり切り捨てられたりしていた。そういうのを楽しんでさえいた。まあ、いっぱしのろくでなしだったわけだ。
なのに、小夜子と出会ってからは、そういう遊びはきっぱりやめた。
自分でも意外《いがい》なくらいだった。
自分で意外なんだから、周《まわ》りはもっと意外だろう。
最初は反対していたというのに、こっちが医者の卵だと知った途端《とたん》、小夜子の両親はあっさり結婚を承諾《しょうだく》してくれた。要《よう》するに――玉《たま》の輿《こし》ってことなんだろうな。そういう大人の変わり身の早さとか適当《てきとう》さとか、世間《せけん》の世知辛《せちがら》さとか、苦笑《にがわら》いしたくなることは多かったけれど、小夜子といっしょになれるのなら僕はなんでもかまわなかった。
それにしても、『いっしょになる』ってのはいい言葉《ことば》だ。
結婚するとか、所帯《しょたい》を持つとか、同じような意味の表現は他にもたくさんあるけどさ、僕はこいつが一番好きだ。
ほんといっしょになるんだ。
世界を。
命を。
運命を。
すべてひとつにしてゆく。
僕はそうして、望んでいた未来をひとつずつ叶《かな》えつつあった。医学部に入ったし、そこそこの成績で卒業して、大学院に進んだ。上のおぼえもわりとめでたくて、上々と言っていいと思う。今は貧乏《びんぼう》だし、なんの権力もないけれど、それは下積《したづ》みだからしかたない。
こつこつ努力《どりょく》して、こつこつ積み上げていくんだ。
「おまえ、寝《ね》てただろう」
僕は笑いながら言った。
いつも小夜子《さよこ》の声はほにゃほにゃしてるのだけれど、受話器から聞こえてくる小夜子の声はさらにほにゃほにゃしていた。
「んー、んー、そんなことないですよー」
「嘘《うそ》つけ。声が寝てるぞ」
「んー、んー、春は暖《あたた》かいからしかたないんですよー」
ほら、やっぱり寝てたんだ。
「ところで、なんで敬語《けいご》なんだよ?」
「あはは、なんとなく」
「やっぱオレ様が偉《えら》いからだな。食わしてやってるからな。一家の大黒柱だからな」
かなり大げさに威張《いば》りくさった調子《ちょうし》で言ってみる。
小夜子も同じような声で言い返してきた。
「誰《だれ》が吾郎《ごろう》くんにご飯を食べさせてあげてるのかなあ? お部屋《へや》がいつもきれいなのはなぜかなあ? 吾郎くん、わかるかなあ?」
うん?
なんか子供をあやすような調子になってないか?
「えーと、それはだな……。そうだ、小人さんがこっそりやってくれてるに違《ちが》いない」
「その小人さんは偉いなあ。すごく偉いなあ」
「そうかな?」
「でもって、きっとすごく可愛《かわい》らしいですよ」
「ほお」
そんなふうに、どうでもいいことを話しているうちに……いや、まったくどうでもいいことだ……受話器からブザーが聞こえてきた。三枚目の十円玉も呑《の》みこまれてしまったのだ。あと三分しか残っていない。結局《けっきょく》、きっちり三枚使ってしまったというわけだった。
「もうちょっとで切れるな」
「あのですね、吾郎くん」
小夜子が言う。
「そこで十円足すという考え方もありますよ」
「ああ、なるほど」
「お忙《いそが》しいとは思いますけどね」
「確かに忙しいですよ」
「なんといっても、吾郎くんはお医者様ですからね」
「そうですね」
慌《あわ》てて財布《さいふ》を見ると、十円玉が一枚だけ入っていた。
「お、一枚あったぞ」
「うむ。よかったね、小夜子《さよこ》さんとあと三分話せますよ」
「なるほど」
その三分間でなにを話したかって?
「吾郎《ごろう》くんが入れた十円に報《むく》いるためにも、ひとつお願いを聞いてあげます」
「お願い?」
「今日の夕食はなにがいいか言ってみなさい」
僕はいろいろなメニューを思《おも》い浮《う》かべた。かつては料理なんてまったくできなかったくせに、ここ数年で小夜子は腕《うで》を格段《かくだん》に上げていた。なんとなーく大ざっぱという欠点はあるものの、実にいろんな料理を作れるようになっている。天ぷら? 悪くないけど、なんか違《ちが》うな。とんかつ? いや、洋食がいいかな。ミートローフ? なかなか近いぞ。ロールキャベツ? あ、それがいいな。うん。ロールキャベツがいいや。
「そうだな、ロールキャベツが食いたいな」
「よし。その願い、叶《かな》えてあげましょう」
まあ、三分間、そんなつまらないことを話してただけさ。
2
医者になるというのは、なかなか大変《たいへん》なことだった。
まず大学は四年じゃなくて六年だ。卒業後に国試、つまり医師《いし》国家試験を受けることになるわけだが、これに受かると医師|免許《めんきょ》が交付《こうふ》される。とはいえ、受かったからといって、それで終わりってわけじゃない。さらに二年、研修医《けんしゅうい》として経験《けいけん》を積《つ》む必要《ひつよう》があるのだ。その二年が終わると、もう二十六歳になっている。高校の同級生なんて、現場でばりばり働いているというのに、こっちはようやくスタートラインに立ったばかりというわけだ。しかも二年というのは始まりの始まりにすぎなくて、実際《じっさい》にはそれからも勉強を続けなければならない。
けっこう多いのだが、実家が開業してる場合、そっちに行くこともある。
経済的にはもう、万々歳《ばんばんざい》だろう。
なにしろすべての設備《せつび》が整《ととの》っているところに、そのまますんなりとおさまれるのだ。すぐに年収が数千万なんてケースも珍《めずら》しくない。実際のところ、その年収数千万の先生サマとやらは知識《ちしき》も経験もない新人医者だったりするんだけどさ。
ただし、この場合、大学病院を頂点《ちょうてん》とするヒエラルキーからは脱落《だつらく》することになる。
もちろん口にすることはないけれど、大学の医局《いきょく》に残っている僕たちからすると、
「どんなに儲《もう》かっても、しょせんは町医者だろ」
なんて気持ちがどこかにあるのは確かだった。
二年間の研修《けんしゅう》を終えたあと、さらに勉強を積み重ね、博士号《はかせごう》を取り、専門医《せんもんい》認定《にんてい》試験をパスして、ようやく一人前ってところだ。
とにかく、一人前の医者になるためには、膨大《ぼうだい》な時間と金がかかるのだった。僕は今、その長い長い階段の、ちょうど真《ま》ん中《なか》くらいを上っているところだった。ずいぶん上ってきたつもりなのに、顔を上げると同じくらいの段数がそそり立っている……。
もっとも今は足下を見るだけで精一杯《せいいっぱい》だった。とにかく研修医というのはむちゃくちゃ忙《いそが》しいのだ。研究と臨床《りんしょう》だけではなく、それ以外の雑用《ざつよう》も多い……いや、むしろ雑用のほうが多い。たとえば学生の授業|準備《じゅんび》なんかも僕たち下《した》っ端《ぱ》医局員《いきょくいん》の仕事だった。コピーを何枚も何枚も取ったり、資料《しりょう》をそろえたり、カルテを整理《せいり》したり、退院《たいいん》サマリーを作ったりと、下らない仕事は次から次へ降《ふ》ってくる。そんなに働きまくっているのに、報酬《ほうしゅう》はないに等《ひと》しい。もちろん食っていけるわけがなく、しかたなく別の小さな病院でアルバイトをしている。
大学病院で働いて腕《うで》を磨《みが》き、アルバイトで食《く》い扶持《ぶち》を稼《かせ》ぐ。今はそんな生活だ。もちろん、そのあいだも勉強は続けなきゃいけない。研究を重ね、論文を書き、それを発表するのだ。いいものを書けば、誰《だれ》かの目にとまる……こともある。あと、僕の専門《せんもん》は胸部《きょうぶ》外科だから、手技《しゅぎ》を磨くことも大切だった。
自転車をこいでこいでこぎまくる日々。休むことなんて考えていない。考えたら、その瞬間《しゅんかん》に倒《たお》れてしまう。そんなふうにして、どこまでもいつまでも走りつづけるつもりだった。
そうさ。
相変わらず、僕はなかなかの野心家《やしんか》なのだ。
慌《あわ》ててアパートに向かった。
車なんて立派《りっぱ》なものじゃない。もちろん黒塗《くろぬ》りのタクシーが待っててくれるわけがない。あちこち錆《さ》びついたママチャリだ。ろくに油をさしてないせいで、錆びついたチェーンがギシギシ唸《うな》っている。
歪《ゆが》んだカゴに鞄《かばん》と上着を押《お》しこみ、全力こぎ!
なにしろ恐《おそ》ろしく忙しく、ろくに睡眠《すいみん》時間も取れない生活を送っているので、僕は病院の近くにアパートを借《か》りていた。マンションと呼《よ》べるほど立派なもんじゃない。山手線|環内《かんない》なのでむちゃくちゃ家賃《やちん》が高くて、そんなところに住むなんて不可能《ふかのう》だった。木造《もくぞう》モルタルで、築《ちく》二十何年か。地震《じしん》が来たら二秒で潰《つぶ》れるような安アパートだ。
ママチャリをとめると、僕はアパートの安階段を駆《か》け上《あ》がった。
一番|端《はし》の、二〇一号室。
その薄《うす》っぺらいベニア製のドアをノックする。
「悪い! 遅《おそ》くなった!」
ドアが開くなり、叫《さけ》んだ。
息《いき》がまだ切れている……。
エプロン姿《すがた》の小夜子《さよこ》は微笑《ほほえ》んだ。
「お帰りなさい」
「帰《かえ》り際《ぎわ》に捕《つか》まっちまってさ。たいした用事じゃないんだけど、逃《に》げられなくて」
靴《くつ》を脱《ぬ》ぐ。上着と鞄《かばん》を小夜子に渡《わた》す。家にあがる。すべてを同時をこなしつつ、僕はまだおさまらない息のまま言った。
「時間、あんまりねえんだ。あと十五分で出ないと、アルバイトに間《ま》に合わないからさ。飯、食えるか」
うん、と僕の後ろを歩く小夜子が肯《うなず》いた。
「できてますよ」
なにしろ狭《せま》いアパートなのでまともな廊下《ろうか》なんてあるわけもなく、すぐにキッチンにたどり着いた。テーブルには食事がすでに準備《じゅんび》されていた。ご飯が盛《も》られた茶碗《ちゃわん》、深皿で湯気《ゆげ》を上げているロールキャベツ、赤いトマトとレタスのサラダ。そして湯飲みにはお茶。どれもずっと前から準備してあったものじゃなくて、今ちょうど並《なら》べ終《お》わったって感じだった。
「あれ、なんでだよ?」
それが不思議《ふしぎ》だったので、僕は尋《たず》ねた。
「オレが帰ってくる時間わかってたのか?」
へへえ、と小夜子《さよこ》は得意《とくい》げに笑った。
「それはもう、ずばり小夜子さんのすばらしい直観《ちょっかん》」
「すげえな……」
マジで感心《かんしん》する。
小夜子にはそういう勘《かん》の鋭《するど》いところが確かにあるのだ。
「――っていうのは、嘘《うそ》だけどね」
気が咎《とが》めたのか、小夜子が急に申《もう》し訳《わけ》なさそうな顔をした。
こういう彼女の正直なところも、僕はわりと好きだ。
「嘘?」
「ほらほら、急いで食べて」
「あ、そっか」
テーブルにつくと、僕はロールキャベツにかぶりついた。むちゃくちゃうまかった。キャベツはとろとろだし、その中の肉はなにかのスパイスが微妙《びみょう》にきいていて、それがホワイトクリームとばっちり合っている。
「この肉、なに入ってるんだ? めちゃくちゃうまいな」
「おいしい? ほんと?」
「ああ、めちゃくちゃうまい」
向かいの席に座《すわ》った小夜子は、嬉《うれ》しそうに笑った。
「えーとね、手間《てま》かかってるんだよ。まずタマネギを三十分|炒《いた》めるのね。飴色《あめいろ》になるまで。それから挽肉《ひきにく》とあわせて、塩胡椒《しおこしょう》をして、さらにシナモンでしょー、ナツメグでしょー。あとカルダモンのパウダーも入れてるのよ」
「へえ、すげえな」
「専業主婦だから、それくらいはさせていただきますよ」
ぺこり、と小夜子はテーブルに頭をつけた。
「ありがとう。旦那《だんな》様」
「うはは」
笑いながら、ご飯をかきこむ。サラダを半分、口へ放《ほう》りこむ。あと七分しかない。
「ところで、さっきの答えはなんだよ?」
「さっきのって?」
ああ、もう忘《わす》れてやがる。
「なんでオレが帰ってくる時間わかったんだ?」
急に小夜子《さよこ》が胸《むね》を張った。
えっへん、って感じだ。
「ちょっと前にね、発見しちゃったの。北側の部屋《へや》から外を見てるとね、わかるかなあ、電車の高架《こうか》と、その横にお酒のネオン看板《かんばん》があるでしょ」
「ああ、うん」
「ちょうどその隙間《すきま》からね、坂を上ってくる吾郎《ごろう》くんの姿《すがた》が一瞬《いっしゅん》だけ見えるの」
「へえ」
一口で残りのサラダを食べる。ドレッシングの風味《ふうみ》がすばらしかった。きっと手作りなんだろう。ご飯もおいしかった。料理好きの小夜子はご飯の炊《た》き方《かた》までいろいろこだわっているのだ。流水で洗ってね、それから一時間水に浸《ひた》して――。前にそんなことを話してたっけ。確かに手間《てま》をかけたとわかるご飯だった。さて、最後に取っておいたロールキャベツを食うか。ちぇっ、あと三分しかないや。ゆっくり味わいたいのにな。
「吾郎くんねえ、一生懸命《いっしょうけんめい》自転車こいでるよね。立ちこぎで。よいしょよいしょって声が聞こえてきそうだもん」
「言ってねえよ」
ロールキャベツを噛《か》みつつ、僕は笑った。
「聞こえるわけねえし」
「そうだけど、聞こえるような気がするくらい急いでるんだもん。だからね、その姿を見ると、慌《あわ》てて準備《じゅんび》を始めるの。ちょうど並《なら》べ終《お》わったころに、吾郎くんがドアをノックする」
じん、と来た。
小夜子はずっと、あの薄暗《うすぐら》い部屋の窓際《まどぎわ》に立って、電車の高架と酒のネオン看板のあいだから僕の姿が見えるのを待っているんだ。僕に温《あたた》かいご飯を食べさせるために。ただそれだけのために。
残りのロールキャベツは、さっきよりもずっとおいしく感じられた。
「ふう、ごちそうさま」
残り一分。
お茶を飲み干すと同時に、立ち上がった。
「吾郎くん、大変《たいへん》だね」
「大丈夫《だいじょうぶ》」
マジで大丈夫だよ。
そりゃきついさ。
泣き言も言いたいよ。
つか、たまには言ってるよな? ああ、しょ[#「しょ」は底本では「しょう」]っちゅうだっけ? 教授とか助手《じょしゅ》の悪口なんて毎日こぼしてるよな?
でも、大丈夫《だいじょうぶ》。
おまえがいるからさ。
いくらでも頑張《がんば》るよ。
こういう気持ちはちゃんと伝《つた》えるべきなのかもしれないけど、なかなか口にできない。まあ、たぶんそれでいいんだろう。
言ったら、小夜子《さよこ》は照《て》れまくるだろうしさ。
「朝には帰ってくる」
靴《くつ》を履《は》く。上着と鞄《かばん》を[#「を」は底本では「と」]受け取る。あと夜食の弁当も。すべて同時にこなしながら喋《しゃべ》る。
「飯、うまかったぞ」
えへへ、と小夜子は笑った。
「行ってらっしゃい、旦那《だんな》様」
そうして僕はたった十五分の帰宅《きたく》を終えた。電車の高架《こうか》と酒のネオン看板《かんばん》のところで、自転車に乗りながら振《ふ》り返《かえ》ってみると、ほんの一瞬《いっしゅん》だけど、僕たちのしょぼい部屋《へや》の窓と、小夜子の姿《すがた》が見えた。ああ、手を振ってたのかな、そんな感じだったぞ。
手を振り返す余裕《よゆう》はなかった。
「ちぇっ……」
あと七分で駅に着かないと、アルバイトに遅《おく》れてしまう。
3
アルバイト先の病院は、電車で三十分くらい移動《いどう》した先にある。それなりに大きな病院で、たくさんの入院|患者《かんじゃ》を抱《かか》えていた。大学の関連病院だから、経営者はもちろんK大学の出身だ。噂《うわさ》によると現任教授の人脈《じんみゃく》につながる人らしい。
夜の宿直が僕の仕事だった。
ものすごく暇《ひま》なときもあれば、ものすごく忙《いそが》しいときもある。とんでもない重傷《じゅうしょう》患者が運ばれてきたりするときもあれば、指をちょっと切った程度《ていど》で駆《か》けこんでくる人もいる。
僕に限《かぎ》らず、院に籍《せき》を置いたまま働いている研修医《けんしゅうい》は、この手のアルバイトをしているのが普通《ふつう》だった。でないと、とても食っていけないからだ。医者は金持ちだと思われがちだが、僕たちのような新米《しんまい》はたいていのサラリーマンよりよっぽど貧乏《びんぼう》なのだった。
「ふわああ――」
椅子《いす》に座《すわ》ってあくびをしていると、宿直室のドアが開いた。
よう、と言いつつ入ってきたのは、先輩《せんぱい》の田島《たじま》さんだった。田島さんは僕と同じようにK大学の医局《いきょく》に属《ぞく》していて、ここのバイトを紹介《しょうかい》してくれたのが彼だった。
そんなわけで、月に一回くらい、こうして田島さんと夜を明かすことになる。
「おまえ、眠《ねむ》そうな顔してんな」
そう言う田島《たじま》さんも眠そうだった。
髭《ひげ》が伸びはじめており、顎《あご》や頬《ほお》が青々としている。
「腹いっぱいで眠いっす」
「どうせ愛妻《あいさい》の作った夕食でも食ってきたんだろうが。ったく、まだ若造《わかぞう》のくせに奥さんがいるなんて、ほんとうらやましいヤツだ」
言いつつ、田島さんはカップラーメンの包装《ほうそう》を破り、お湯を注《そそ》いだ。
田島さんは独身《どくしん》だった。顔を見れば、まあ独身だろうなと誰《だれ》もが納得《なっとく》するタイプだ。あえてたとえるなら、愛嬌《あいきょう》のないシルベスタ・スタローンってところだろう。
うはは、と笑っておいた。
「金ないから外食できないんすよ」
「奥さん、働いてないんだっけ?」
「パートはしてますよ。おかげでどうにかやってけてます」
「まあでも、生活は確かにきついわな」
田島さんがカップラーメンを持ったまま、隣《となり》の席に腰《こし》かける。フタの隙間《すきま》から、湯気《ゆげ》がゆらゆらと立ち上っていた。
「早く偉《えら》くなりてえなあ、夏目《なつめ》」
しみじみと、田島さんが言った。
しみじみと、肯《うなず》いておく。
「そうっすね」
「おまえ、今月、論文書いたか?」
「今、頑張《がんば》って仕上げてるとこです」
「うまくいくといいな」
「はい。田島さんのほうは?」
「ちょっとヤバい。思ったような結果《けっか》が出なくてな」
それから僕たちはそれぞれの研究のことについて話した。僕も田島さんも同じ研究室にいるので、専門的なことでも話が理解《りかい》できるのだ。この、ふたつ年上の先輩《せんぱい》を、僕はわりに信頼《しんらい》していた。大学病院に残ってる連中というのは、いわば全員ライバルだ。誰もが上を目指《めざ》しているし、同僚《どうりょう》といえど競争心のほうがはるかに強い。けれど、田島さんにはどこか呑気《のんき》なところがあって、その競争心をなぜか煽《あお》られないのだった。
「ところでさ」
カップラーメンを食べ終わったころ、少し低い声で田島さんが言った。
「正岡《まさおか》のこと、知ってるか」
「え? 正岡がどうかしたんですか?」
ああ、と田島《たじま》さんが肯《うなず》く。
「島根のS病院だとよ」
「まさか!」
「まだ正式じゃないけどな。もともと誰《だれ》か出さなきゃいけなくて、そのときにちょうど正岡《まさおか》のほうから行きたいって申し出たって。実際《じっさい》に出向くのは秋ごろになるそうだ」
「正岡から? 嘘《うそ》でしょ?」
信じられなかった。正岡ってのは同じ医局《いきょく》に属《ぞく》しているヤツで、僕とは大学時代からのつきあいだった。とにかく自信|過剰《かじょう》の鼻持《はなも》ちならない男だが、実際に腕《うで》も頭もよかった。僕は正岡にライバル心を持ちつづけていたし、おそらくヤツも同じだったはずだ。よき友……ではなく、そんなこぎれいなものではなく、僕たちは泥《どろ》まみれの嫉妬《しっと》と羨望《せんぼう》を互《たが》いにぶつけあってきたのだった。何度も何度も、こう思ったものだ。正岡にだけは負けたくないって。
だからこそ、田島さんの言葉《ことば》は信じがたかった。
地方の、しかも島根のS病院に出るってことは、出世《しゅっせ》競争からの脱落《だつらく》を意味する。S病院に行って、大学の医局に戻《もど》ってきた人間はいない。つまり正岡は大学での未来を諦《あきら》めたってことだ。あの自信家の正岡が? しかも自分から? どうしても信じられなかった。
「嘘じゃねえって」
「なんで……」
「金みたいだぜ」
お茶をすすりながら、田島さん。お茶が渋《しぶ》いのか、それとも熱《あつ》いのか、怖《こわ》い顔をしかめた。いっそう怖い顔になる。
「あいつの実家、工務店やってるらしいんだけどな、傾《かたむ》いてるんだと」
「建設関係は不況《ふきょう》だって……ニュースで……」
「そういうことなんだろうな。で、あいつへの援助《えんじょ》もきつくなったらしくてさ。今度は実家に援助しなくちゃいけないんだろうよ。S病院はいい金くれるらしいぞ」
そっすか、僕の声は元気がなかった。
一千万くらいもらえるんじゃねえかな、田島さんは相変わらず顔をしかめたままお茶を飲んでいる。
まあ、これでライバルが減《へ》ったわけだ。しかも有力なライバルが。S病院に行ったら、もう大学|中枢《ちゅうすう》には戻ってこられない。誰かが墜《お》ちることは、すなわち自分が上がることだ。僕たちはそいつの頭を踏《ふ》み台《だい》に、上のステージを目指《めざ》す。
それでも、墜ちていく人間を嘲笑《あざわら》うのは、なかなか難《むずか》しかった。
「しょうがないっすね」
「そうだな」
「正岡ならあっちでも頑張《がんば》るでしょう」
この場を慰《なぐさ》めるためだけの言葉《ことば》。正岡《まさおか》のためではなく、僕たちのための言葉。とはいえ、こういう気持ちさえも、しょせんは感傷《かんしょう》にすぎないんだろう。三日もすれば……いや、明日の朝には忘《わす》れてしまうに違《ちが》いない。そして、ひとつの事実だけが残る。ライバルが減《へ》ったという事実が。正岡の頭を踏《ふ》んで、僕はさらに階段を上るんだ。
「お茶、僕ももらっていいっすか」
「おう」
田島《たじま》さんは持っていた湯飲みを、僕に差しだしてきた。
「ども」
確かにお茶は熱《あつ》くて渋《しぶ》くて……僕も顔をしかめてしまった。
正岡の送別会は、十一月の末に行われた。
冷たい雨が降《ふ》っていて、吐《は》く息《いき》が白くなった。そんな寂《さび》しい夜に、寂しい会が行われた。とはいえ教授も助教授も助手《じょしゅ》たちもみんな上機嫌《じょうきげん》で、正岡のコップに酒をついでいた。正岡は顔を真っ赤にしながら、その酒をすべて飲み干した。
途中《とちゅう》で、助教授が挨拶《あいさつ》した。
「正岡くんの輝《かがや》かしい未来を祝って、乾杯《かんぱい》しよう」
白々しい言葉《ことば》だが、それでも狭《せま》い会場に次々と声があがる。
乾杯!
乾杯!
乾杯!
やがて教授が乾杯と言うと、正岡はコップを顔の前に掲《かか》げたまま、深くお辞儀《じぎ》をした。こんな[#「こんな」は底本では「こんんな」]時代|錯誤《さくご》の風景《ふうけい》が、今も医学界には残っている。正岡はずっと笑っていた。
やけに盛《も》り上《あ》がったのに、送別会は九時すぎに終わった。
そのあっさりとした終わり方が、すべてを物語っていた。
「オレ、帰るわ」
田島さんが顔を寄《よ》せ、ささやいてきた。
「痛々《いたいた》しくてやってらんねえ」
僕は肯《うなず》いた。
「そっすね。僕も帰ります」
「ああ、それがいいな。たまには奥さんのところに早く帰ってやれよ」
上の人たちに挨拶して、僕は二次会へと流れていく人の輪《わ》からこっそりはずれた。早く家に帰ろう。小夜子《さよこ》にホットミルクでもいれてもらおう。そうさ、そうしよう。
白い息を吐きながら歩いていると、後ろから声がした。
「おい、夏目《なつめ》」
正岡《まさおか》だった。
悪戯《いたずら》する瞬間《しゅんかん》を見られたような、なんともおさまりの悪い気持ちを胸《むね》に抱《かか》えながら、僕は立ち止まった。
「おい、いいのかよ。すぐに二次会だろ。おまえの送別会じゃないか」
「次の店でまだ席があいてないらしくてな。待たされてんだよ。ちょっとくらいは大丈夫《だいじょうぶ》だ」
正岡は顔を伏《ふ》せた。
「島根だってよ。最悪だな」
「…………」
「でも、しょうがねえからさ」
「…………」
「まあ、あっちでうまくやるよ」
正岡がニヤリと笑ったので、ようやく僕も笑うことができた。
「むちゃくちゃ給料いいんだってな」
「ああ、けっこう期待《きたい》してくれてるらしい。助教授の榊《さかき》さんがかなり大げさなこと口にしたらしくてさ。ウチのホープを出しますとか言ったってよ。あの人、こすっからいからな。オレにも向こうにも恩《おん》を売ってるつもりなんだろうけど」
「いや、マジでホープだろ。嘘《うそ》じゃないって」
「おまえには負けるよ」
その瞬間、僕はふいに目頭《めがしら》が熱《あつ》くなった。こいつが、この自意識過剰《じいしきかじょう》の自信家が、僕に対して負けるなんて言葉《ことば》を使ったのは初めてだった。
僕はだから、精一杯《せいいっぱい》笑ったさ。
「嘘つけ。そんなこと、ちっとも思ってねえくせに」
正岡も笑った。
「バレたか」
「当たり前だろ。バレバレだって」
「おまえに負けない自信はあったんだけどな。でも、しょうがねえからさ。頑張《がんば》れよ、夏目。おまえはここで踏《ふ》ん張《ば》れ」
正岡は僕の肩《かた》を叩《たた》いてきた。
「おう」
ああ、なんで目が熱いんだ。
下らねえな。
ただの薄《うす》っぺらい感傷《かんしょう》だ、こんなの。
それにしても、こんなふうに正岡と話したのは初めてだった。僕たちはいつも嫉妬《しっと》と猜疑心《さいぎしん》を抱《かか》えあってきた。そのふたつを手放《てばな》したことは一度もなかった。
けれど今、僕たちは手放した。
何気《なにげ》なく俯《うつむ》くと、僕の足が見えた。安物の革靴《かわぐつ》はくたくたになっていて、小夜子《さよこ》がどんなに磨《みが》いてくれても、全然手入れされているように見えない。この靴が、薄汚《うすよご》れた底《そこ》が今、正岡《まさおか》の頭の上に乗っているのだ。そうして僕は望みを叶《かな》えていく……。
別れを言って、僕たちは歩きだした。だが、それがなぜかわからないけれど、僕はすぐに振《ふ》り返《かえ》った。驚《おどろ》くことに、正岡も同じように立ち止まり、振り返っていた。その目にはさっきとはまったく違《ちが》う別のものが宿っていた。
純粋《じゅんすい》な憎《にく》しみだった。
目が合っていたのは、たぶん数秒だったろう。正岡はくるりと背《せ》を向けて歩きだした。僕も同じように背を向けた。ああ、そうだ。こういうことなんだ。僕と正岡は今、違う方向に歩きだしたんだ。ある感情が胸《むね》にふつふつとわいてきた。正岡の憎しみに染《そ》まった目のせいだった。
その感情を一言で言い表すと、こうなる。
満足感――。
誰《だれ》かを蹴落《けお》とした快感《かいかん》だった。下らない感情だ。さっきの薄《うす》っぺらい感傷《かんしょう》と同じくらい下らない。だけど、こっちのほうがいい。しっくりくる。偽善《ぎぜん》よりは偽悪《ぎあく》のほうがまだ呑《の》みこみやすい。僕は足を速めた。ほとんど走っていた。なにかを感じ取ったのか、目の前のOL風の女がびっくりしたような目で僕を見てきた。獣《けもの》のように思えたのかもしれない。
こういうことを、乗《の》り越《こ》えていくんだ。
敗者《はいしゃ》は墜《お》ちればいい。
僕は墜ちないさ。
ずっと上りつづけてやる。
しかしそういう気持ちも、しょせんはガキの思いこみだった。僕はまだ、世界の底意地《そこいじ》の悪さを知らなかった。知ったのは、正岡の送別会から一年後のことだった。
「吾郎《ごろう》くん」
少し青い顔で、小夜子《さよこ》が言った。
「心臓がドキドキする」
「え?」
「なんだか変な感じなの」
僕は慌《あわ》てて、小夜子の手を取った。
脈《みゃく》を確かめる――。
親指に感じるリズムが確かに乱れていた。
4
「ねえ、吾郎《ごろう》くん」
彼女がそう言ったのは、アパートの近くにある商店街を歩いているときだった。買い物を終えたばかりで、僕は大きなビニール袋《ぶくろ》を下げており、小夜子《さよこ》は茶色の紙袋を持っていた。紙袋の中身は揚《あ》げたての唐揚《からあ》げだ。肉屋の前を通りかかったら、揚げたてがちょうど店頭《てんとう》に出たばかりで、その臭《にお》いにほとんど衝動買《しょうどうが》いしてしまったのだった。
「ちょっと食べよう、これ」
紙袋を少し持ち上げて、笑う。
僕は肯《うなず》いた。
「ああ、いいな。揚げたてだしな」
「きっとおいしいぞ」
言いつつ、紙袋の中から小夜子が唐揚げを取りだした。左手の親指と人差し指で、ひょいっとつまんでいる。熱《あつ》い熱い、と言いながら、それを僕のほうに差しだしてきた。
「気をつけてね。ほんと熱いよ」
「おお」
小夜子が食べさせてくれた。確かに熱くて、舌《した》がヤケドしそうだったけど、むちゃくちゃおいしかった。
「うまい、マジうまい。おまえも食べろよ」
うん、と肯き、小夜子もまた唐揚げを囓《かじ》った。
「あ、ほんとだ。おいしいね、吾郎くん」
「うん、最高だな」
「もう一個食べる?」
「……夕食の分、なくなっちまうぞ」
「なにか作るよ」
「じゃあ、一個だけな」
「ちぇっ、吾郎くんはケチだ」
ケチだーケチだー、と言いながら、小夜子はそれでも一番大きい固《かた》まりを僕にくれた。噛《か》みしめると、肉汁《にくじゅう》がじゅっと染《し》みだしてくる。ケンタッキー・フライドチキンみたいな味じゃなくて、もっと大ざっぱだった。でも、だからこそ肉の旨《うま》みがよく出ている。そうだよな、肉がおいしければ、味つけなんて適当《てきとう》でいいんだよな。
「ごめんね、吾郎くん」
「うん? なにがだよ?」
「あたし、子供|産《う》めないね」
なにかが喉《のど》に詰《つ》まった。
言葉《ことば》が出てこなかった。
僕たちはしばらく、無言《むごん》のまま歩きつづけた。
「吾郎《ごろう》くん、きっと子供|可愛《かわい》がったよね。意外《いがい》と子煩悩《こぼんのう》になったと思うな。なのに、ごめんね。あたし、吾郎くんの子供産んであげられないね」
喉に詰まっていたなにかを――たいしたものじゃないさ、そうさ、ただの唐揚《からあ》げだ――飲みこんで、僕は言った。
「別にいいよ。気にすんなって」
僕は小夜子《さよこ》を自分の勤《つと》める大学病院につれていった。
自分の勤め先ってのは少し抵抗《ていこう》があったけれど、そこならすべてのデータを僕自身で把握《はあく》できる。それに多少《たしょう》の無理《むり》だってきいてもらえる。心電図《しんでんず》を取るとき、僕は技師《ぎし》を追《お》いだした。小夜子の胸《むね》を、他の男に見られたくなかったからだ。
そのことを看護婦《かんごふ》たちは笑った。
「夏目《なつめ》先生ね、奥さんが来たとき――」
「ああ、聞いた聞いた。技師の和田《わだ》さん追いだして、自分で取ったんだってね。奥さんの裸《はだか》見られるの嫌《いや》だったのかなあ」
「けっこう嫉妬深《しっとぶか》いほうなんだね」
そんなことを雀《すずめ》みたいにさえずった。
けれど、いざデータが出ると、そんなさえずりはささやきへと変わっていった。すれ違《ちが》う看護婦が僕を気遣《きづか》うような目で見るようになった。噂《うわさ》はあっという間《ま》に病院中に広まっていた。
それからも、検査《けんさ》がつづいた。
いくつもいくつも――。
小夜子はいつもどおり、ほにゃほにゃ笑いながら耐《た》えていた。
検査のたびに、僕はそれまでの結果《けっか》が覆《くつがえ》されることを祈《いの》った。そんなことは起きえないと知りつつも期待《きたい》した。しかし検査は次々に現実を補強《ほきょう》していった。胸部《きょうぶ》の投影図《とうえいず》を撮《と》るとき、僕は腕《うで》の震《ふる》えがとまらなくなった。技師がそれに気づき、代わりましょうかと言ってくれた。お願いしますと告《つ》げて、僕は廊下《ろうか》に出た。震えはずっととまらなかった。
「オレさ、子供って嫌《きら》いなんだよ」
そして今も、震えている。
「うん」
「だから、いらねえよ」
「うん」
「マジで嫌いなんだよな、ぎゃあぎゃあうるさくてさ。ガキの患者《かんじゃ》って最悪だぜ。注射《ちゅうしゃ》打とうとするだけで泣《な》き喚《わめ》くし。この前なんて、ひどかったもんな。病室飛びだしやがってさ」
「うん」
「オレと看護婦《かんごふ》で追《お》いかけて、もう病院の出口まで走って、ようやく捕《つか》まえてさ。それから注射《ちゅうしゃ》打つまで、さらに三十分もかかったんだ。待ってる患者《かんじゃ》は殺気《さっき》だってくるし、婦長《ふちょう》には怒《おこ》られるし。マジで子供って最悪だよ」
「うん」
なにを言っても、小夜子《さよこ》は肯《うなず》くばかり。その顔には、やけに細い目の笑顔《えがお》があった。ああ、日差《ひざ》しがまぶしいんだな。西日だしな。それでオレの目も細くなってんだな。まったく、むちゃくちゃまぶしい西日だな。
「いらねえよ、子供なんて」
「うん」
「だから、気にするなよ」
「うん」
夕方の商店街はたくさんの買い物客が歩いており、彼らは僕たちと同じように大きなビニール袋を持っていた。そんな人たちとすれ違《ちが》いながら歩いていると、五メートルごとに違う食べ物の匂《にお》いが漂《ただよ》ってきた。やがて、子供連れが目に入った。お母さんの足にしがみついて、子供がなにかをねだっている。
母子《ははこ》の姿《すがた》を眺《なが》めながら、僕たちはやっぱり細い目で笑っていた。
いろいろなことを、伝《つた》えたかった。僕の胸《むね》の中にあるものを、そっくり小夜子にあげたかった。そうしたら、小夜子もきっとわかるだろう。本音《ほんね》を言えば、僕はいつか子供が欲しかった。今じゃない、もちろん。そんなに具体的《ぐたいてき》に子供のことを考える年じゃないし、経済的にも無理《むり》だ。今は研究に専念《せんねん》すべきときだった。ただ、たとえ子供ができたとしても、僕にとって一番|大切《たいせつ》なのは小夜子だった。子供は二番目だ。
もっとも、他の誰《だれ》かは……たとえば最近子供ができた橘《たちばな》先輩《せんぱい》なんかは、苦笑《にがわら》いしながら、こんなふうに言うんだろう。
「あのな、夏目《なつめ》。子供ってのは可愛《かわい》いもんだぜ。なにしろ自分の分身だからな。理屈《りくつ》じゃねえんだよ。子供ができたら、もうむちゃくちゃ可愛くてさ、子供が世界の中心になっちまうんだ。大きな声じゃ言えないけど、絶対《ぜったい》に嫁《よめ》さんより大切だな」
だけど僕には自信があった。
確かに子供は可愛いかもしれない。思ったよりも可愛くて、子供|嫌《ぎら》いな僕だって子煩悩《こぼんのう》の親バカに変身してしまうかもしれない。
それでも子供は二番だ。
ちゃんとわかってるんだ。
一番は小夜子だって。
なにがあっても、どんなに子供が可愛《かわい》くても、そのことだけは絶対《ぜったい》に変わらない。
だから、子供ができなくったって、僕はかまわなかった。そんなことよりも、小夜子《さよこ》といられることが大切《たいせつ》だった。この世で一番のことを手に入れようと思ったら、なにかを失くしたり落としたりしなきゃいけない場合だってある。それは払《はら》うべき代償《だいしょう》だ。そうさ、言い切ってやるさ。ガキの……大人になりきれていない子供のたわごとだって切り捨てるヤツがいたら、僕はそいつを思いっきりぶっ飛ばしてやる。
この思いを、気持ちを、どうしたら小夜子に伝《つた》えられるんだろう。
勉強ができて、出世頭《しゅっせがしら》で、世渡《よわた》り上手《じょうず》なくせに、僕の頭の中には気持ちをうまく表現できる言葉《ことば》がなかった。
ああ、神様がいればな。
なにかと引《ひ》き換《か》えに、その言葉をもらうのに。
そして小夜子に伝えるのに。
なにが一番大切なのかを――。
もちろん、そんな便利な神様なんていない。
だから僕はあいているほうの手を伸ばして、小夜子の小さな手をぎゅっと握《にぎ》りしめた。これ
が、この手の中にあるものが、僕の一番だ。なによりも大切《たいせつ》なものだ。この世界よりも、自分自身よりも、大切なものだ。
気持ちが伝《つた》わればいい。
ぬくもりで、それ以外のなにかで、伝わればいい。
小夜子《さよこ》はそっと握《にぎ》りかえしてきた。
「家に帰ったら、飯《めし》にしようぜ」
「うん」
「うまいもの、作ってくれよ」
「うん」
そんなことを言いながら、僕たちは手をつないで歩きつづけた。目の前には、大きな西日があった。ああ、マジでまぶしいな、この西日。前がよく見えねえよ……。
5
それでもどうにかなるはずだった。普通《ふつう》の日常生活なら、なんとか送れる。無理《むり》をしなければ働いたってかまわない。だから小夜子はまたパートを始めた。食っていくためには金がいる。それはどうしようもない現実だ。もちろん小夜子が以前のように働くことは無理だった。週に一、二回。ほんの数時間|程度《ていど》。それが限界《げんかい》だった。時給は八百五十円なので、小夜子が月に稼《かせ》いでくるのはほんの数万円にすぎなかった。専門書を一冊買ったら終わりだ。しかたなく、僕は夜のアルバイトを増《ふ》やした。休日|診療《しんりょう》の手伝《てつだ》いにも出かけるようになった。
それまでだってぎりぎりだったけど、さらに追《お》いつめられた。
「大丈夫《だいじょうぶ》、吾郎《ごろう》くん?」
心配《しんぱい》した小夜子が尋《たず》ねてきた。
僕は肯《うなず》いた。
「大丈夫だよ。みんなこれくらいはやってるって」
けれど、体力も時間も限《かぎ》られている。
カンファレンスの下準備《したじゅんび》、教授連の飲み会のアポ取り、助教授の研究の手伝い……そんな下らないことで、さらに僕の貴重《きちょう》な体力と時間は削《けず》り取《と》られていった。下らないミスをするようになった。気がつくとぼんやりしていることが増えた。先生、大丈夫ですか、と看護婦《かんごふ》に聞かれることもあった。
限界だ……。
何度も何度もそう思ったけれど、小夜子の顔を思いだし、暗い気持ちを振《ふ》り払《はら》った。第一、他に選択肢《せんたくし》はなかった。時々、僕は正岡《まさおか》のことを思いだすようになっていた。あの、別《わか》れ際《ぎわ》の、憎《にく》しみを宿した瞳《ひとみ》。小夜子の笑顔《えがお》よりも、むしろ正岡の憎しみが僕を支《ささ》えていた。あんなふうになりたくなかった。
そんなとき、ハプニングが起きた。
「やったな、夏目《なつめ》」
満面《まんめん》の笑《え》みで、田島《たじま》さんが肩《かた》を叩《たた》いてきた。
うす、と僕も笑顔《えがお》で肯《うなず》いた。
「H大の境《さかい》先生、おまえの論文ベタ褒《ぼ》めだったらしいじゃないか。境先生っていえば、心臓血管外科のトップ中のトップだぞ」
あたりを見まわしたあと、田島さんが顔を寄せてきた。
「ところで、境先生に誘《さそ》われたってのは、それ、ほんとなのかよ。あちこちの研究室で話題になりまくってるぞ」
三日前の学会で、僕は論文の発表をした。
ずっと前から研究してきたことが、ようやく形になったのだ。狙《ねら》ったわけではないのだけれど、ちょうど小さな女の子の心臓|移植《いしょく》が世間《せけん》で話題になり、そのせいで僕の研究分野がマスコミの注目を浴《あ》びるようになっていた。ただ、しょせんマスコミなんてのはすぐに去っていくものだし、閉鎖的《へいさてき》な医学界にとってたいした意味はない。一番大きかったのは、僕と同じ研究をしていたヤツがアメリカにいて、その研究が向こうで絶賛《ぜっさん》ともいえる評価《ひょうか》を受けたことだった。医療《いりょう》全般《ぜんぱん》にいえることだけれど、特に心臓外科はアメリカのほうがずっと進んでいる。日本は五年から十年|遅《おく》れているといわれていた。だから、日本の医学界には、アメリカに対する嫉妬《しっと》というか羨望《せんぼう》のようなものがなんとなくある。つまり、向こうに伍《ご》する研究をしたというだけで、僕はスポットライトの真ん中にいきなり立つことになったのだった。
発表のあと、境先生がやってきて、言葉《ことば》をかけてくれた。
「いい研究をしてるね」
たったそれだけだったが、なにしろ学会で大きな力を持つ人の言葉だけに、大きな波紋《はもん》を呼《よ》び起《お》こした。
田島さんの男|臭《くさ》い顔に圧倒《あっとう》されながら、僕は言った。
「いや、直接は聞いてませんよ。あとで向こうの助手《じょしゅ》に、僕をつれてこられないかみたいなことは言ったらしいですけど。でも、そんなの絶対《ぜったい》に無理《むり》だし、リップサービスみたいなもんじゃないっすかね」
違《ちが》う大学間の引《ひ》き抜《ぬ》きは、まあないことはないけど、かなり珍《めずら》しい。なにしろ医学界は徹底《てってい》した縦《たて》社会なので、簡単《かんたん》に師匠筋《ししょうすじ》を裏切《うらぎ》ることなんてできるわけがないのだった。
「いや、リップサービスでもすげえよ。上のほう、けっこう慌《あわ》ててるんじゃないか。ウチの胸部《きょうぶ》外科には境先生みたいに優秀な人はいないからな。これでおまえを引き抜かれたら、しゃれにならねえよ。もしかすると、上からなにか話があるかもしれんぞ」
その田島さんの意味深《いみしん》な発言《はつげん》は、すぐにそのとおりになった。助手の候補《こうほ》に、僕の名前が挙《あ》がったのだ。助手《じょしゅ》になれば、給料が出るようになる。それほど多いわけじゃないけど、同年代のサラリーマンと同額《どうがく》くらいはもらえる。
今より生活がずっと楽になるってことだ。
研究にも打ちこめる。
けれど、残念なことに、その話はすぐに具体化《ぐたいか》しなかった。大学教職員には定員があって、欠員《けついん》もないのに助手を増《ふ》やすわけにはいかないのだ。それでも助教授から内定のようなものを臭《にお》わされた。
「今度な、福田《ふくだ》くんがM病院に出る予定なんだ。そうすると、助手がひとりあくわけだ。今度はね、大胆《だいたん》な人事を考えているんだ」
持ってまわった言い方にうんざりするけど、こういうのが常《つね》だった。とにかく、意味するところは明解《めいかい》だ。まだ若い僕の抜擢《ばってき》は、まさしく大胆な人事に他ならない。そして、それを裏《うら》づけるように、待遇《たいぐう》がぐんとよくなった。今まで同席させてもらえなかった手術《しゅじゅつ》に呼《よ》んでもらえるようになったし、難《むずか》しい施術《せじゅつ》を任《まか》されることが増《ふ》えた。僕は懸命《けんめい》に努力《どりょく》し、手技《しゅぎ》を磨《みが》いていった。もともと手先が器用《きよう》だったし、まあ向いていたということなんだろう。だんだん僕にまわされる手術が増えていった。やがて同僚《どうりょう》やら先輩《せんぱい》やらが僕の手術を見学しにくるようにさえなった。
僕は有頂天《うちょうてん》だった。
ほんの何人かにしか許《ゆる》されない階段を、僕は上りつつあるのだ。確かに扉《とびら》は聞かれた。僕が望めば、どこまでだって上っていける。
懸念《けねん》は、たったひとつだけだった。
その懸念が爆《は》ぜた。
小夜子《さよこ》が発作《ほっさ》を起こした――。
薄暗《うすぐら》い廊下《ろうか》で、僕は椅子《いす》に座《すわ》っていた。
手術は胸部《きょうぶ》外科の先輩がやってくれた。本当は自分でやりたかったけれど、さすがにそれはできなかった。身内の身体を切るのは怖《こわ》かった。手術は成功し、小夜子は命を取《と》り留《と》めた。
「よう、夏目《なつめ》」
顔を上げると、目の前に田島《たじま》さんが立っていた。田島さんはまだ手術衣を着ていた。小夜子の手術に、助手として加わったのだ。
「ありがとうございます」
椅子に座ったまま、僕は深々と頭を下げた。
どすん、と振動《しんどう》が伝《つた》わってくる。
田島さんが隣《となり》に腰《こし》かけてきたのだ。
「ヤバかったな」
「はい……」
「奥さんの心臓、あまりよくないぞ。今回はたいしたことなかったけど、もう完全に快復《かいふく》するのは難《むずか》しいだろうな」
田島《たじま》さんはいつも率直《そっちょく》だ。
「わかってます」
「今を大事にしてやれよ。わかるな」
「はい」
長くないかもしれない、ということだった。
すぐに命がなくなるわけじゃない。おそらく日常生活を送れる程度《ていど》には快復するだろう。しかしやがて、また発作《ほっさ》が来る。それは確実に今回よりも重い。助かったとしても、制約《せいやく》だらけの生活になる。そうしておとなしく暮《く》らしていても、発作を完全に回避《かいひ》することはできない。
残された時間はどれくらいだろう。
二年?
三年?
僕は頭を抱《かか》えた。小夜子《さよこ》を失ってしまう恐怖《きょうふ》に怯《おび》えた。そして……これは誰《だれ》にも言えないことだけれど、僕はもうひとつの恐怖にも襲《おそ》われていた。このままだと、僕は研究を続けられなくなる。
階段があるんだ。
僕は上れるんだ。
けれど、足が上がらない。おかしいだろ。なんでだよ。歩きだすだけなんだぜ。上ればいいんだ。なのに、なんで足が上がらないんだよ。焦《あせ》りながら下を見ると、小夜子が足にしがみついていた。
彼女を振《ふ》り払《はら》わなければ、僕は階段を上れなかった。
6
僕は町を歩きまわっていた。すっかり慣《な》れてしまった東京の人込《ひとご》みをかき分け、歩いた。退院《たいいん》した小夜子が家で待っているのはもちろんわかっていたけれど、足は勝手に動きつづけた。夜の町はきれいなネオンに彩《いろど》られていて、なにもかもが濡《ぬ》れたように光っていた。僕はそのすべてに殺意《さつい》を抱《いだ》いた。長い鉄棒《てつぼう》を持って、ありとあらゆるものをぶち壊《こわ》して歩きたかった。邪魔《じゃま》な立《た》て看板《かんばん》を、客引きの貧相《ひんそう》な男を、夜の女たちを、ことごとくぶっ叩《たた》いてやりたかった、ふと気づくと、いつのまにか広場の真ん中に立っていた。周囲《しゅうい》は全部映画館で、大きな宣伝《せんでん》用の看板が並《なら》んでいる。男と女がにこやかに笑ったり、兵隊が虫みたいな宇宙人と戦ったりしていた。僕はそれらの看板《かんばん》をひとつひとつ眺《なが》めていった。どれを見てもなにも感じなかった。
そうして突《つ》っ立《た》っていると、英語の歌がどこからか聞こえてきた。誰《だれ》が歌っているのか知らないが、よく聴《き》く曲だった。頭の中で、その歌詞を自然と日本語に訳《やく》していた。
君がいなければ生きていけない。
君のためだけの人生。
君がいなければ生きていけない。
嘘《うそ》つけ、心の中で誰かが、すっかり薄汚《うすよご》れた誰かが叫《さけ》ぶ。人間ってのは、そんなカッコよくできてねえんだよ。誰が死のうが、親だろうが弟だろうが妹だろうが、友達だろうが恋人だろうが、残された人間は生きていくもんなんだよ。へらへら笑って、下らないことに喜んだり泣いたりして、そういうことを積み重ねながらだんだん忘《わす》れていっちまうもんなんだよ。
君がいなければ生きていけない。
君のためだけの人生。
君がいなければ生きていけない。
嘘つけ。叫ぶ。嘘つきやがれ。人間なんて下らない生き物なんだよ。たくさんの人が夜の町を歩いていく。誰もが楽しそうだ。笑っている。女の甘える声が聞こえてくる。男の優しい声が届《とど》く。世界は幸福で満ちているのに、僕はひとりきりで、心の中にドス黒い闇《やみ》を溜《た》めていた。たくさんの人の中にいるのに、だからこそ僕は孤独《こどく》だった。世界を憎《にく》んだ。滅《ほろ》んでしまえばいいんだ。そうすればすっきりする。あの嬉《うれ》しそうに笑ってるブス女、火に焼かれればいい。その肩《かた》を抱《だ》いている男、服がダサい。おまえも死ねばいいさ。なにかに押《お》しつぶされ悲鳴《ひめい》と血を垂《た》れ流《なが》して死にやがれ。ああ、ガキもいるのかよ。ガキはうるさいから嫌《きら》いだ。車の下敷《したじ》きにでもなればいい。全部全部、そうやって潰《つぶ》れて死ねよ。もちろん僕も死ぬさ。それでいいだろ。おあいこだ。完全な公平。無。だから、おい、来いよ。世界の終わり。正真正銘《しょうしんしょうめい》のヤツがさ、ほら、とっとと降《ふ》ってこいよ。
電話が鳴《な》った。
僕の携帯《けいたい》だった。
「おう」
聞こえてきたのは、森《もり》の声だった。
「久しぶりだな、夏目《なつめ》」
確かに久しぶりだった。森とは、もう何年も会っていない。最後はいつだったかな、三年か四年前だ。帰省《きせい》のとき、偶然《ぐうぜん》駅前で鉢合《はちあ》わせしたんだった。
「どうしたんだよ?」
戸惑《とまど》いながら、僕は尋《たず》ねた。
聞こえてくる森《もり》の声はやけに遠く、そして弾《はず》んでいた。
「おまえにだけは言っておきたくてさ。オレな、今度、N社に入ることになったんだよ」
「N社?」
聞いたことのない会社名だった。
「ああ、おまえは知らないか。日本じゃ数少ない航空《こうくう》宇宙関連の会社なんだ。E‐SATってわかるか?」
「いや……」
「アメリカの観測衛星でさ、N社がそいつの日本向けデータを取《と》り扱《あつか》ってんだよ。そこへ中途《ちゅうと》入社が決まったんだ。なかなか競争|厳《きび》しくて、入れねえの。すげえんだぜ。マジで。まあ、しょせんアメリカの下請《したう》けだけどさ、それでもすげえんだよ」
オレなんかが入れたのは奇跡《きせき》だよ、と森は言った。
そういや、高校のころから、森は飛行機だの宇宙だのに関《かか》わる仕事をしたいと言っていた。ダサい顔をしてるくせに、やたらとロマンチストだったのだ。そして今、森は夢を叶《かな》えたのだった。高校生のころの森を思いだし、僕はなんだか嬉《うれ》しくなってきた。
あのガキが、ひねくれたヤツが、そのまま夢を掴《つか》んだのだ。
「やったな」
「おう」
「おめでとう」
それから僕たちはつまらないことを話した。共通の知り合いのこととか、故郷《こきょう》の町のこととかだ。何人かの女の子が結婚して子供を産《う》んで離婚《りこん》していた。
「野村《のむら》と大崎《おおさき》っていただろ」
「野村? 野球部の?」
「そうそう。大崎が女子バレーでさ。スポーツ万能《ばんのう》同士のカップルだったから、やけに目立ってたよな。あいつら、高校のころからつきあっててさ、卒業と同時に結婚したって知ってる?」
「いや……」
そりゃ無謀《むぼう》だなと言いかけて、その言葉を飲みこんだ。
僕と小夜子《さよこ》だって似《に》たようなもんだ。
結婚したのは、大学を出てからだけど。
「すっげえ揉《も》めたってよ。DVっていうんだっけ? 大崎、ボコボコに殴《なぐ》られて、目なんか紫《むらさき》に腫《は》れ上《あ》がってたって。それで離婚だってさ。あいつらさあ、高校生のころ、すんげえ仲良かったよな。オレ、うらやましかったもん」
「へえ……」
「変わっちまうのはしょうがねえけどな。人間だしな」
「そうだな……」
ちょっとしんみりしつつあったが、森《もり》がそれを察《さっ》して急に大きな声をあげた。
「というわけで、オレ様は夢に向かって驀進中《ばくしんちゅう》なわけだ! おまえも頑張《がんば》れよな、夏目《なつめ》!」
「おお!」
「まあ、おまえはオレなんかよりずっと偉《えら》くなっちまうんだろうけどさ。しょせん、オレなんてしがないサラリーマンだしよ。でも、オレは嬉《うれ》しいぞ。しがないサラリーマンでも、マジ嬉しい。やりたかった仕事だからな」
本当に嬉しいんだろう。森の声は浮《う》かれきっていた。
じゃあな、と言って、僕たちは電話を切った。そのとき、僕の顔には笑《え》みが残っていたと思う。しかしひとたび電話を切ってしまうと、その笑みは途端《とたん》に滑稽《こっけい》なものと化した。僕はふたたびひとりぼっちになっていた。偉くなれねえんだよ、森。僕は荷物《にもつ》を背負《せお》ってんだ。これがなかなか重くてさ。前に進めないんだ。しょうがないけどさ。奥さんだしさ。それにしても野村《のむら》と大崎《おおさき》、別れちまったのか。確かに、あのころ、すんげえ仲良かったよな。大崎、子持ちで離婚《りこん》か。大変だよな。野村も女を殴《なぐ》るなよ。おまえ、そういうヤツじゃなかったろ。なにがあったんだよ。ああ、ほんと森はすげえよ。夢を叶《かな》えちまったんだもんな。おまえのほうが僕よりよっぼどすげえって。僕なんて、いまだに無給だぜ。ろくでもないアルバイトに追《お》われてばっかりだよ。しかも、これからどうなっちまうかわかんねえんだ。
そのとき、誰《だれ》かがささやいた。
荷物を背負いつづける必要《ひつよう》はないだろ……重ければ、下ろせばいいんだよ……おまえが背負ったって、なにがどうなるものでもないんだぜ……。
僕はふたたび歩きだした。どんどん、足が速くなる。気がつくと、ほとんど駆《か》けていた。昔|小夜子《さよこ》に借りた本を、『山月記《さんげつき》』のことを思いだした。逃《に》げた李徴《りちょう》、走っているうちに両手両足で地を掴《つか》んでいた。軽々と岩石を跳《と》び越《こ》えた。体中に満ちた虎《とら》の力、能力《のうりょく》を、爆発《ばくはつ》させた。そう、李徴は虎となって野を駆けた。自分も同じだ。虎になればいい。目の前にウサギが現れたら、それを捕《と》って食えばいい。臆《おく》するなんてない。虎にはその資格《しかく》があるのだ。ウサギは虎に食われるために生きている。虎に狩《か》るなというほうが無理《むり》だ。吠《ほ》えるなと言うのがおかしい。力があるものはその力を発揮《はっき》すべきだし、誰にもそれをとめる権利《けんり》などない。そして自分は虎だ。虎になればいい。助手《じょしゅ》は約束《やくそく》されている。今の助手どもを見ろ、まともな手技《しゅぎ》さえ持たない暗愚《あんぐ》ばかりだ。あいつらなんて、一年か二年で蹴散《けち》らせる。助教授だってたいした器《うつわ》じゃない。あいつの頭は教授に下げるためだけにあるんだ。あの程度《ていど》の男は十分|飼《か》い慣《な》らせる。もちろん時間はかかるだろうさ。五年や十年は必要《ひつよう》だ。けれど、今までどおり研究を重ね、手技を磨《みが》いていけば、階段を上りつづけることはできる。なんといっても、自分には能力《のうりょく》があるんだ。李徴《りちょう》は詩作のために、せっかくの官位《かんい》を捨てた。その結果《けっか》、どうなった? すべてを失い、それまで自らが軽《かろ》んじていた輩《やから》に抜《ぬ》かれたじゃないか。そのことを李徴は悔《く》いつづけた。あんなふうになってたまるか。
僕は虎《とら》だ。
身体の疼《うず》きのままに、僕は携帯《けいたい》を取りだした。いちおう記録しておいた名前を探《さが》す。どこだよ、ああ、これか。
「オレだけど。わかるか」
僕の声を聞いた沢口《さわぐち》有希《ゆき》はびっくりしたみたいだった。
「どうしたんですか、夏目《なつめ》先生」
「いや、あのな――」
「夏目先生って、もっとまじめだと思ってたけどな」
安っぽいホテルは、天井《てんじょう》が鏡《かがみ》になっていた。仰向《あおむ》けに転《ころ》がっていると、僕と沢口有希の姿《すがた》がそのまま目に入ってくる。あれ、ちょっと太ったかな。もうガキの身体じゃねえな。そりゃそうだ、ガキって年じゃねえもんな。にしても、沢口みたいな女と遊ぶのって、やっぱおもしろいな。
「まじめじゃないんだよ」
まったく、最高だ。
「だけど奥さん一筋《ひとすじ》って感じだったし……」
「まあな」
「なのに、どうして?」
安っぽいホテルで安っぽい女を相手にしていると、会話までもが安っぽくなる。ああ、でも、それは僕も同じだ。この世の中のすべてが安っぽいんだ。自分に踏《ふ》ん切《ぎ》りをつけるため、他の女を呼《よ》びだした自分が滑稽《こっけい》に思えた。しょせんはその程度《ていど》だ。すべてを吐《は》きだしてしまったあとのせいか、さっきまでの興奮《こうふん》が薄《うす》らいでいた。虎だと思っていたのがバカみたいに思えてきた。猫《ねこ》がせいぜいだな。しかも飼《か》い慣《な》らされた猫だ。にゃあにゃあ鳴《な》くだけ。
だけど、そのどこが悪い?
この世の中が、この場末のホテルのように、この沢口有希のように、この夏目|吾郎《ごろう》のように安っぽいのだとしたら、それはそれで悪くないじゃないか。安っぽい世界を安っぽく生きていけばいい。そして安っぽい研究をして安っぽい出世《しゅっせ》を重ね安っぽい権威《けんい》を獲得《かくとく》するんだ。
それを望んでいたんだろ?
小夜子《さよこ》のことは考えなかった。いや、考えたけど、あまりにも遠かった。手を伸ばしてもきっと届《とど》かない……。
そうさ、これでいいんだ。
なぜか心がまったく動かなかった。どっしりと、石のように転《ころ》がっているだけ。なにも感じない。動かない。
家に帰っても、まだ心は動きをとめたままだった。
ホテルや沢口《さわぐち》有希《ゆき》と同じように安っぽいアパートの階段を、僕は上った。階段はあちこちが錆《さ》びついていた。大家《おおや》はまともなメンテナンスなんてするつもりがないらしい。階段を上りきると、狭《せま》い廊下《ろうか》に出る。オモチャみたいにカラフルな三輪車が置いてあった。こういう底辺《ていへん》みたいな場所で暮《く》らしてる家族がいるんだ。どうせ社会の落ちこぼれだ。高卒か、中卒か。せいぜいどっかの三流大学ってとこだろうな。着ているのはスーパーで売ってる一万円スーツか。こんなところに住んでるのなんて、その程度《ていど》の連中に決まってる。今までは僕もそうだったけど、もう違《ちが》うぞ。そのうち助手《じょしゅ》になるし、そうしたらこんなところはすぐに出ていってやるさ。まともなマンションに住んで、いい家具をそろえるんだ。
ノックをする前に、ドアが開いた。
「お帰りなさい」
笑いながら、小夜子《さよこ》が迎《むか》えてくれた。
ほんの数時間前まで、他の女の身体を触《さわ》っていた手で、僕は小夜子に上着を渡《わた》した。罪悪感《ざいあくかん》なんてまったくなかった。僕はこれから、この女を捨てるんだ。心の中で言葉《ことば》にしてみたけれど、その実感もまったくなかった。
僕の心はどうしてしまったんだろう。
「あれ? なにしてたんだ?」
家にあがると、イースト菌《きん》の匂《にお》いがした。キッチンのテーブルには、丸い小麦粉の固《かた》まり、つまりパン生地《きじ》が鎮座《ちんざ》している。
「パンを焼いてたの」
「やめとけって。けっこう力仕事だろうが。身体に悪いぞ」
「そうだけど、寝《ね》てるばっかりも辛《つら》いから」
えへへ、と小夜子が笑った。
以前に比べると、小夜子はずいぶん痩《や》せていた。もともとそんなに太っていたわけじゃなかったけど、頬《ほお》のあたりには健康的なふくよかさがあった。しかし今、それはすっかり削《そ》げ落《お》ちてしまっていた。丸みを帯《お》びていた彼女の輪郭《りんかく》はどこかに消え去った。いっしょに暮らして、毎日顔を合わせているのに、僕はしょっちゅうそのことにどきりとしてしまう。
たとえば腕《うで》を取ろうとしたとき――。
手に宿っている記憶《きおく》よりもそれはずっと細くて、このままなにも掴《つか》まないままになってしまうんじゃないかという怯《おび》えにいつも襲《おそ》われる。もちろんそんな怯えの直後には、彼女の腕《うで》をちゃんと掴むことができるのだけれど。
いや、違《ちが》うな……それは今だけなのかも……。
その怯えのとおりに、僕の手はただ空間を掴むだけになってしまうのかもしれない。それほど小夜子《さよこ》の病気は重いのだ。完治《かんち》はもはやあり得《え》ない。
ああ、なにを考えてるんだ、僕は。
それをすべて、捨てるつもりなんだぞ。
覚悟《かくご》を決めたんじゃないのか?
あはは、と僕も笑った。
「ほどほどにしとけよ」
「うん」
言って、小夜子は小麦粉の固《かた》まりを指さした。
「これ、なにかに似《に》てるよね」
「うん? なにかって?」
「叩《たた》いてみて」
「叩く? こうか?」
軽く、ぺしとそいつを叩いてみた。
すると小夜子が言った。
「ごろうはすらいむをこうげきした」
「あ、なるほど」
そいつは確かにロールプレイングゲームのスライムそっくりの形をしていた。調子《ちょうし》に乗って、もう一回叩く。
「ごろうはすらいむをこうげきした」
小夜子も繰《く》り返《かえ》した。
僕が叩くと、小夜子は必《かなら》ずその言葉を繰り返した。僕たちはゲーム世代で、それこそこの手のゲームをクリアすることに夢中《むちゅう》になっていた時期《じき》があったのだ。ぺしぺし叩いているうちに、なにかがこみ上げてきた。僕と小夜子は、なにを積み上げてきたんだろう。高校のころからだぞ。一年や二年じゃないんだ。あの安っぽいホテルの安っぽい鏡なんかには映《うつ》らないことばっかりだったんだ。
知り合ったばかりのころ、デパートに入っているペットショップから小夜子が動かなくなったことがあった。子猫《こねこ》がたくさんいて、そいつらに釘《くぎ》づけになってしまったのだ。
退屈《たいくつ》した僕があくびをしていると、ケージの中の子猫と目が合った。茶色の、変な形の耳をした猫《ねこ》だった。僕はそいつの気を引こうとケージをコツコツ叩《たた》いたけど、見向きもしてくれなかった。
と、小夜子《さよこ》が後ろから声をかけてきた。
「ふふふ。まだまだだね、吾郎《ごろう》くん」
高校生の小夜子は、紺色《こんいろ》の制服を着ていた。カラーに赤いラインが三本入ったセーラー服だ。ちょっとダサいけど、伝統校《でんとうこう》なのでそういうのはしかたなかった。
「ん、なにがだよ」
「それじゃ猫の気は引けないんだな」
言うと、小夜子は目の前のケージに入っている猫に向かって、人差し指を伸ばした。そしてそれをケージのすみっこに持っていき、出したり引っこめたりした。途端《とたん》、中にいた猫のお尻《しり》がひょこっと上がった。
「あ、来るぞ」
「うん」
猫が飛びついてきた。慣《な》れたもので、小夜子はその瞬間《しゅんかん》に指を引っこめていた。へえ、この女にもちゃんと反射神経《はんしゃしんけい》があったんだ。
「じらすことがね、コツですよ」
そう言って、十八歳の小夜子は笑った。
大学に行ってたころ、クリスマス・イブにバイトを頼《たの》まれたことがあった。
OKした。
バイト代が三倍だったからだ。
昼ごろからバイト先のビデオ屋に入って、深夜《しんや》までひたすら働きつづけた。楽しそうなカップルが次々やってきては、ロマンチックな恋愛《れんあい》ものを借《か》りていった。彼らはどちらかの家でそれを観《み》て、楽しい夜を過ごすんだろう。
働いて働いて、くたくたになってアパートに戻《もど》った。時計を見ると、夜の二時だった。腹が減《へ》っていたけれど、そんな時間にあいてる店はファミレスくらいだった。貧乏《びんぼう》な僕にファミレスで食事をする余裕《よゆう》なんてあるわけがなかった。たかがハンバーグ定食が千円もするんだぞ。そんな金があったら、イブに十二時間労働なんてするもんか。
部屋《へや》の中で白い息《いき》を吐《は》きつつ、
「カップラーメンでも食べて寝《ね》るか……」
そう呟《つぶや》いたとき、電話が鳴《な》った。
「おーい、吾郎くん」
小夜子だった。
「メリークリスマス」
「あ、ああ。メリークリスマス」
びっくりした。
「バイト、ご苦労様。疲《つか》れた?」
「疲れたよ。すっげえ忙《いそが》しかった」
僕はコートを着たまま、冷え切った部屋《へや》の冷え切ったフローリングに腰《こし》を下ろした。
「客さあ、もうカップルばかりなのな」
クリスマスだからねえ。
そうだな。
「吾郎《ごろう》くん、おなか減《へ》った?」
「減ったよ」
「じゃあ、食べにきませんか。おいしいものを作ってありますよ」
そのころ、僕と小夜子《さよこ》はすぐ近くに住んでいた。自転車で五分くらいの距離《きょり》だった。
「マジで?」
「はい、マジです」
僕が帰るのを、待っていてくれたんだ。
こんな遅《おそ》くまで。
そして、帰ってきたころ、電話をかけてきてくれた。きっと、小夜子の部屋の、あの小さなテーブルには、いろんな料理がぎっしり並《なら》んでいるんだろう。クリスマスケーキだってあるに違《ちが》いない。
僕のために、待っていてくれたんだ。
準備《じゅんび》してくれたんだ。
「じゃあ、行こうかな」
着いたら、ぎゅっと抱《だ》きしめてやろう。息《いき》が苦しくなるくらい抱きしめてやろう。
「はい、お待ちしております」
すました小夜子の声。
そのころには僕のお尻《しり》はすっかり冷えてしまっていたけれど、心はとても温《あたた》かかった。自転車を思いっきりこいで、小夜子のアパートに向かった。
あのときの、自分の口から出た白い息を、その温かさを、僕は今も覚《おぼ》えていた。
いっしょに暮《く》らすようになってから。
時々ひどく胃《い》が痛《いた》くなる僕のために、小夜子はホットミルクをいれてくれた。電子レンジを使うんじゃなくて、ちゃんとミルクパンで温めたミルクだ。
全然味が違《ちが》うのよ、と小夜子《さよこ》は言ったものだった。
「味が柔《やわ》らかくなるの」
そのとおりだった。
冷え切った冬、風に吹かれながら帰ってくると、小夜子がホットミルクを飲ませてくれた。
柔らかい味の、ホットミルクを。
「うまいな」
「でしょ」
「マジうまい」
何度そんな会話を交《か》わしたんだろう。
何杯のホットミルクを飲んだんだろう。
いくつもの出来事《できごと》があった。何年も何年も僕たちはいっしょに過《す》ごしてきたんだ。そんなにロマンチックなことばっかりじゃなかったさ。まあ、よくあることばっかりだった。普通《ふつう》で当たり前の恋愛《れんあい》にすぎない。どこにでも転《ころ》がっている石ころみたいなもので、珍《めずら》しくもなんともないだろう。だけど、それは僕と小夜子だけのものだった。かつて少女だった小夜子が少しずつ穏《おだ》やかに年を重ねていく姿《すがた》を、僕はすべて見てきたんだ。
なあ、本当に捨てられるのか? その普通で当たり前の気持ちを捨てられるのか?
あまりにも突然だった。それまで動いていなかった心が動きだした。沢口《さわぐち》有希《ゆき》の声にも身体にも、そのぬくもりにも反応《はんのう》しなかったものが、いきなり蠢《うごめ》いた。それは僕を揺《ゆ》さぶった。壊《こわ》れる。そう思った。このままじゃ、僕は壊れてしまう。
スライムそっくりのパン生地《きじ》をぺしぺし叩《たた》きながら、だから僕は笑いつづけた。
自らの愚《おろ》かさを嘲笑《あざわら》った。
「どうしたの、吾郎《ごろう》くん?」
「なんでもない」
「変な顔してるよ?」
バカだな、おまえは、と僕は言った。
「前から、ずっとこんな顔だよ」
僕は虎《とら》にはなれない。
悟《さと》った。
僕は虎にはなれないんだ。
ちょうど折良《おりよ》く、静岡の関連病院に勤《つと》め先《さき》があった。田舎《いなか》で、環境《かんきょう》のいいところだった。小夜子が身体を休めるには最高だ。行かせてくださいと申し出ると、助教授は慌《あわ》てた。なにを考えてるんだと問いつめられ、そのうち教授までが説得《せっとく》にやってきた。あとになって田島《たじま》さんが教えてくれたけど、彼らは僕がH大に移《うつ》る口実《こうじつ》を探《さが》してると思いこんでるらしかった。静岡の関連病院に飛ばされたということになれば、僕がK大を出る言《い》い訳《わけ》になる。周《まわ》りもそれじゃあしょうがないと思って、僕がH大に移ってもそれほど悪くは言われないだろう。むしろそんな僕を受け入れたH大の株が上がり、K大の評判《ひょうばん》は落ちる。そのあたりの力学はわかりすぎるほどわかった。もし僕が彼らの立場だったら、同じようなことを疑うだろう。だから僕は助教授を殴《なぐ》った。まあ、殴ったといっても、軽く叩《たた》いた程度《ていど》だ。とはいえ、ヒラの医局員《いきょくいん》が助教授を殴るなんてのは前代未聞《ぜんだいみもん》の出来事《できごと》で、それは一カ月もたたないうちにさまざまな尾ひれがついて、ついには学部長宅に殴りこんだという大げさな話にまでなってしまった。
静岡の関連病院への転出は、あっさり認《みと》められた。
送別会も開かれなかった。
荷物《にもつ》をまとめて大学病院を出るときも、誰《だれ》も話しかけようとはしてこなかった。沢口《さわぐち》有希《ゆき》さえもが無視《むし》した。僕は完全に見放《みはな》されたのだ。
身軽になった気持ちで駐車場を歩いていると、田島さんが追《お》いついてきた。
「夏目《なつめ》!」
立ち止まり、はあはあと息《いき》を切らしている。
僕はおもしろ半分で言った。
「いいんですか。僕と話すと、出世《しゅっせ》に影響《えいきょう》しますよ」
「アホ」
頭を軽く叩かれた。
「どうせオレなんて助手《じょしゅ》がせいぜいなんだよ」
「あはは」
まあ、確かにそんなもんだろうな、田島さんは。
できる人だけど、世渡《よわた》りが下手《へた》なんだ。
「おまえは立派《りっぱ》だよ、夏目」
「ただのドロップアウトです」
「そりゃそうだが、いや、さすがに学部長宅に殴りこむのはすげえよ。あのハゲオヤジ、あれでも医学界の重鎮《じゅうちん》だぜ。中段まわし蹴《げ》りで吹っ飛ばしてから、さらにストンピング十発食らわしたらしいじゃないか。で、立ち上がったところに踵落《かかとお》としだっけ」
「……田島さんですか、それ広めてるの」
「うはは、噂《うわさ》は派手《はで》なほうがおもしろいだろ」
「……踵落としはさすがにやってませんよ」
いや、もちろん全部やってないけどさ。
うはは、うはは、と僕たちは笑いつづけた。
「小夜子《さよこ》さんによろしくな」
「はい」
「学会で会ったら、こっそり飲もうぜ」
僕たちは握手《あくしゅ》をして別れた。駐車場から見ると、大学病院はとんでもなく巨大《きょだい》だった。あそこでずっと走りつづけてきたことが不思議《ふしぎ》に思えた。そう、あそこはすでに僕の場所ではない。
僕は別の場所で別のものを守って生きていく。
「もういいの?」
赤い軽自動車の中で、その人が待っていた。
ああ、と僕は肯《うなず》いた。
「荷物《にもつ》なんてろくに残ってなかったしな」
後部座席《こうぶざせき》に鞄《かばん》を放りだし、僕は車のエンジンをかけた。これから静岡までドライブだ。ちぇっ、エンジンかからないぞ。七万円で買った車だからしょうがないけどさ。せめて二十万は出すべきだったかな。ま、同じようなもんか。
ギュルル、ギュルル、とスターターが鳴《な》りつづける。
「ごめんね、吾郎《ごろう》くん」
泣きそうな小夜子の声が、その音に重なった。
「ごめんね」
ギュルル。
ごめんね。
ギュルル。
ごめんね。
車も小夜子も同じことを繰《く》り返《かえ》している。やがて、エンジンがかかった。古くさい車がぶるぶる揺《ゆ》れる。
泣きそうな顔の小夜子に、僕は言った。
「いいところみたいだぞ、静岡は」
そしてにっこり笑った。
なぜって、誇《ほこ》らしい気持ちでいっぱいだったからだ。
僕はこの女を守って生きていくんだ。
これほどすばらしいことが他にあるだろうか?
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「戎崎《えざき》くん! 戎崎くん! 戎崎くんってば!」
ああ、どこからか声が聞こえる。
誰《だれ》だよ。
僕の名前を呼《よ》んでいるのは。
「戎崎くん!」
そうか、山西《やまにし》だ。
ん?
待てよ……。
くん、だって?
なんだよ、山西。僕のことをくん≠ネんてつけて呼んだことなんてないだろ。小学校で初めて会ったときくらいじゃないか。気持ち悪いな。なんだよ、いったい。どうしちまったんだよ。おい、山西。おまえのせいで頭を打ったよ。むちゃくちゃ痛《いた》いぞ……。
そう思いつつ目を開けると、目の前に立っていたのは山西じゃなかった。
佐和《さわ》さんだった。
「あれ?」
佐和《さわ》さんは僕の頭をこつんと叩《たた》いた。
もちろん、本気じゃない。
ちょっと突《つつ》くような、可愛《かわい》い感じだ。
「仕事中にぼけっとしないの、戎崎《えざき》くん」
「あはは、すんません」
僕は笑ってごまかした。
今、僕がいるのは、会社の会議室だった。西新宿のはずれにある雑居《ざっきょ》ビルの窓からは、高層《こうそう》ビル街が少しだけ見えている。それにしても、さすが日本の首都だ。あんなに高いビルが、あんなにたくさんあるなんて。伊勢《いせ》とは大違《おおちが》いだった。伊勢だったら、僕たちの会社が入っているこのしょぼい雑居ビルでも、かなり高いほうなのにさ。
西新宿にオフィスが移《うつ》ったのは去年のことだ。たいしたビルじゃないけど、それでも以前の倍くらいの広さになっている。ここのところ会社の景気《けいき》がやたらといいらしく、確かに仕事は増《ふ》える一方だった。入社二年目の僕でさえ、仕事に追《お》いまくられているくらいだ。
「S社の山崎《やまざき》さんとのアポ、取ってくれた?」
「あ、それ調整中です。水曜木曜と先方《せんぽう》はつまってるそうなんですけど、佐和さんの都合《つごう》ってどうですか」
「金曜の午後は駄目《だめ》よ、社内のプレゼンがあるもの」
目の前にいる佐和さんは、要《よう》するに僕の上司《じょうし》だった。ショートカットがよく似合《にあ》う美人で、しかもなかなかの才媛《さいえん》だ。年は僕よりふたつ上って話だから、今年で二十六になるのかな。まあ立派《りっぱ》な大人だけど、身長百五十そこそこという小柄《こがら》のせいか、全然大人っぽくない。下手《へた》すると高校生くらいに見える。
「そっすか。じゃあ、先方と話してみます。金曜の午前中なら、どうにかなりそうですか」
「それなら大丈夫《だいじょうぶ》よ」
「わかりました。じゃあ、その方向で」
振《ふ》り向《む》き、そこにあるいつも持ち歩いているメモ帳に、僕は用件を書きこんだ。わりと忘《わす》れっぽいほうなので、とにかくなんでもメモすることにしてるのだ。金曜午前、山崎さんとアポ取ること。
あれ、と後ろで佐和さんが言った。
「戎崎くん、その頭の傷《きず》はなに?」
うーん、声だけ聞くと、佐和さんって色っぽいんだよな。大人の女って感じでさ。なのに童顔《どうがん》で、そのギャップがいい感じなんだけど。
そんなことを考え、内心ニヤつきながら、僕は言った。
「高校のころ、病院に入ってたんですけど、そのときに屋上《おくじょう》の手すりで打ったんですよ。それで十円ハゲになっちゃって」
「あー、見事《みごと》に十円ハゲだね」
「友達が自殺しそうになって、それを助けたんです」
「ほんとに?」
「はい。もう、バカなヤツなんですよ。女の子に二股《ふたまた》かけられたのがショックで、屋上《おくじょう》から飛《と》び降《お》りるとか喚《わめ》いて。そのくせ、僕がその高さじゃ死ねないって教えてやったら、急に弱気になったんですよね」
そこをね、ぐっと引きずりおろしたんです。
へえ、と佐和《さわ》さんは目を丸くした。
「すごいね、戎崎《えざき》くん。その友達からしたら、命の恩人《おんじん》じゃない」
「そうなんですけどね。佐和さんも、感謝《かんしゃ》すべきだって思いますよね。でも、そいつ、全然感謝してないんすよ」
「あら、そうなの?」
「まったく、ひどいヤツですよ。この前、給料日前に金がなくなっちゃったんで、五万貸せって言ったら、速攻《そっこう》断《ことわ》られましたよ。恩知らずとはこのことですよね」
あはは、と佐和さんは僕の下らない冗談《じょうだん》に笑ってくれた。
「それは駄目《だめ》だよ、戎崎くん。お金は別」
けっこう生真面目《きまじめ》なんだよな、佐和さん。
そんなことを思っていると、急に佐和さんが僕の目を覗《のぞ》きこんできた。すっごくきれいな目だったので、胸《むね》が自然と弾《はず》んだ。
ああ、まずいな。
悟《さと》られないといいな。
あ、いや、でも……ちょっとは悟ってほしいかな……。
「戎崎くん、あのね。お金がないんだったら、奢《おご》ってあげようか。今日の夕食、ごちそうしてあげるよ」
「うわ、本気にしますよ!」
「いいよ、本気にして」
「マジ嬉《うれ》しいですよ、それ! うわ、ほんと嬉しいです!」
僕がはしゃぐと、佐和さんも嬉しそうな顔をした。
僕たちはニコニコ笑いながら見つめあった。ここしばらく、僕と佐和さんのあいだは行ったり来たりだった。前に進むかと思えば、二歩|後退《こうたい》とか、そんな感じ。なにしろ佐和さんは会社の上司《じょうし》で、しかも年上で、美人で……僕なんかがどうにかできるような相手じゃないのだ。
でも今、進んだ。確かに一歩、前に進んだ。
「じゃあ、今晩あけておいてね」
「はい」
僕は肯《うなず》いた。
「明日も明後日もあけておきます」
2
会社から四駅|離《はな》れたところにある、小さな居酒屋《いざかや》に入った。
佐和《さわ》さんが学生時代から使っているという店で、二十人も入ればいっぱいになってしまいそうな狭《せま》さだったけれど、それが家庭的な雰囲気《ふんいき》を醸《かも》していた。料理もうまかったし、酒もうまかった。そのおかげでずいぶんと盛《も》り上《あ》がった。
また一歩、進んだ。
いや、二歩かな?
それくらい進んでるといいな。
「佐和さん、お酒強いですね」
僕は本気で感心《かんしん》して、そう言った。
すでにチューハイを数杯あけているのに、佐和さんはまったく乱れていなかった。背筋《せすじ》もピンと伸びている。僕のほうはたった二杯のビールで頭がくらくらしはじめていた。
酒は強くないんだよなあ。オヤジはいくらでも飲めたのにさ。
「鹿児島の血が入ってるから」
佐和さんはそう言った。
「母親がね、そっちの出身なの」
「ああ、なるほど。やっぱ、そういう地域差《ちいきさ》とかあるんですかね。僕、三重ですけど、みんなわりと酒弱いんですよ。あれ、なんでしたっけ。なんとかいう酵素《こうそ》が――」
アセ、なんとかだ。えーとえーと、なんだっけな。
佐和さんが教えてくれた。
「アセトアルデヒド分解《ぶんかい》酵素。肝臓《かんぞう》でアルコールが分解されるとアセトアルデヒドになるんだけど、これが悪酔《わるよ》いの原因《げんいん》で、分解酵素を持ってる人はお酒が強いし、ない人は弱いわけ」
「すごい」
感心して、僕は言った。
「よく知ってますね、佐和さん」
「たまたまよ」
こういう謙遜《けんそん》もうまいよなあ、大人って感じでさ。
それでも酒が進むにつれ、佐和さんの目が少しずつ潤《うる》みはじめた。そんな目で見つめられると、身体の芯《しん》が疼《うず》いた。抱《だ》きしめたいなと思った。でも、まだ早い。そういう段階じゃない。あと二歩か三歩。それくらいは進まなきゃいけない。遠いけど、それを歩むことを考えると、すごく楽しい気持ちになった。恋愛が始まりかけたときの、あの感じ。
ところで、と佐和《さわ》さんが言った。
「戎崎《えざき》くん、なんで入院してたの」
「肝炎《かんえん》です」
「あー、高校生のくせに酒浸《さけびた》りだったんでしょ」
甘えるような声。
僕はその声に浮《う》かれた。
「んなわけないですって。感染性《かんせんせい》の肝炎だったんです。えーと、三カ月くらい入院してましたよ。もう毎日|寝《ね》てばっかでしたけど」
「美人の看護婦《かんごふ》さんとかいた?」
「あはは、いるにはいましたけど、これが元ヤンキーですんげえ怖《こわ》かったです。マジで何度も叩《たた》かれましたもん」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
僕たちは盛大《せいだい》に笑った。かなり酔《よ》っぱらってるなと思ったけど、とにかく気持ちよかった。佐和さんもさすがに酒がまわりはじめているみたいだ。
「じゃあ、可愛《かわい》い女の子の患者《かんじゃ》とかは?」
突然、周囲《しゅうい》が静かになった。もちろん実際《じっさい》に喧噪《けんそう》が消えたわけじゃない。耳に入ってこなくなっただけだ。その瞬間《しゅんかん》、僕は里香《りか》の髪《かみ》を、その匂《にお》いを、手の小ささを思いだしていた。
けれど、それは僕にどうしようもない現実を突きつけた。どんなに思いだそうとしても、僕はいろんなことを忘《わす》れつつあった。砲台山《ほうだいやま》に向かったとき、おなかにまわされた里香の腕《うで》の感触《かんしょく》、怒《おこ》ったときの瞳《ひとみ》、時々ひどく細くなる吐息《といき》……なにもかもがゆっくりと、しかし確実に遠ざかりつつある。僕はもう、里香の顔をはっきり思いだすこともできなくなっていた。写真を見れば記憶《きおく》が蘇《よみがえ》ってくるのかもしれないけれど、僕は里香の写真を一枚も持っていない。カメラは壊《こわ》れてしまった。フィルムもずたずたになってしまった。写真はだから、一枚もない。
里香は僕の記憶の中にしかいないのだ。
そして少しずつ少しずつ、薄《うす》れていきつつある。
「戎崎くん?」
佐和さんが覗《のぞ》きこんできた。
あはは、と笑っておいた。
「いなかったっすね。寂《さび》しいもんでした」
ああ、なんで嘘《うそ》ついてるんだろ。
いましたよ、佐和さん。すっげえ美人でした。っていうか可愛かったです。だけどものすごいわがままで困《こま》ってばっかでしたよ。あのころはまだまだガキで……ああ、それは今もそうですけど、あんま変わってないんですけど……どうやって自分の気持ちを伝《つた》えていいかわからなかったんです。で、結局《けっきょく》、伝えないうちに終わっちゃいました。彼女、僕の気持ちを知らなかったんじゃないですかね。知ってたのかな、それとも。
確かめられないんです。
彼女はもう、この世にいないから。
「そろそろ帰りましょうか、佐和《さわ》さん」
終電の時間が近づいていた。
「ああ、そうね」
あれ? 今、少し残念そうだった? もしかしたら、このままのほうがよかったのかな? 気がついたら終電がなくなってて、そうしたら泊《と》まるしかないわけで、つまりそれはそういうわけで……
考えすぎかもしれない。
期待《きたい》しすぎかも。
僕はどうも、こういうことには臆病《おくびょう》になってしまう。
性格《せいかく》なんだ。
それで何度もチャンスを逃《のが》してきた。
地下鉄の駅で、僕たちは別れた。僕は都営新宿線の、新宿方面。佐和さんは半蔵門線《はんぞうもんせん》の、渋谷《しぶや》方面。いちおう半蔵門線の改札《かいさつ》まで佐和さんを送った。佐和さんはエスカレーターに消えるそのときまで、手を振《ふ》ってくれた。
新宿線のホームに駆《か》けこむと、最終電車が来ていた。慌《あわ》てて、閉まりかけのドアに身体を押《お》しこむ。最終電車は酒の匂《にお》いが充満《じゅうまん》していて、しかもかなり混《こ》んでいた。それにしても、確かに東京ってのはすごいところだった。伊勢《いせ》なんて、この時間には誰《だれ》も外を歩いてない。なのに、ここじゃ電車はほとんど満員だもんな。
僕は今、故郷《こきょう》から五百キロ離《はな》れた町で暮《く》らしていた。
いや――。
もっともっと離れてしまったのかもしれない。
高校生だった、あのころからは。
あやうく乗り越しそうになりながら、新宿の次の次の駅で降《お》りた。遠くにオペラシティの高層《こうそう》ビルが見えていた。航空《こうくう》警戒灯《けいかいとう》の赤い光が、そのてっぺんでチカチカと点滅《てんめつ》していた。高速道路がごうごうと低い唸《うな》りを放っていた。生ぬるい風が頬《ほお》をなぶっていった。佐和さんとの会話を思いだし、僕は夜道を歩きながら笑った。佐和さん、もしかして僕のことを好きになってくれたのかな。だったらいいな。でも、つりあうかな。あんな美人で、しかもいい大学を出てるんだぞ。でもまあ、学歴じゃないよな。相性《あいしょう》だよな。それに気持ちだよな。
そんなことを考えながら夜道を歩いていると、携帯《けいたい》電話が鳴《な》った。
「あれ? 佐和《さわ》さん?」
液晶《えきしょう》に表示されたのは、彼女の名前だった。
「やあ、戎崎《えざき》くん」
陽気《ようき》な声だ。
「どうしたんですか? 明日の仕事のことですか?」
「ううん、仕事のことじゃなくて。ええとね」
えへへ、と佐和さんは笑った。
僕も、えへへ、と笑った。
「なんですか?」
「なんだろう?」
「うはは」
「あはは」
ほんの少し踏《ふ》みだすだけ。あと一歩。どちらでもいい。どっちかが歩み寄って、もう一方も歩み寄って、そうすればきっと――。
でも僕たちはその一歩を今回も踏みださなかった。なんだかつまらない、どうでもいい話をして、そのうち眠《ねむ》くなってしまったのだ。いいさ、まあ。楽しみはゆっくり味わえばいい。まだまだチャンスはある。
「また明日ね、戎崎くん」
「はい。おやすみなさい」
なんて言ったくせに、それからさらに五分くらい話してから、ようやく僕たちは電話を切った。手のひらの体温で生暖《なまあたた》かくなった携帯をコートのポケットにしまうと、ふうと息《いき》を吐《は》いた。胸《むね》が少し弾《はず》んでいた。あと一歩。もう少し。そんな感じが楽しげに揺《ゆ》れている。
そして見上げた空に、半分の月が輝《かがや》いていた――。
日常《にちじょう》。下らなくてつまらなくてそれなりにおもしろくて退屈《たいくつ》で愉快《ゆかい》な日常。どこまでもどこまでも、それこそ生きていくかぎり続く日常。そんなものに自分はからめとられている。抜《ぬ》けだすことなんて絶対《ぜったい》にできない。たとえ里香《りか》が死のうと、日常は何食わぬ顔をして目の前に立っている。なあ里香、僕は半分の月を眺《なが》めながら呟《つぶや》いた。僕はこうして生きているし、生きていくよ。下らないよな。マジでさ。おまえを失った世界なんだぜ、ここは。あのころ、僕はおまえが死んだら世界が滅《ほろ》ぶと思ってた。本気でそう感じていたんだ。でもさ、世界はなくならなかったよ。そのままに存在《そんざい》していた。なんかさ、そういうもんなんだよな。現実ってバカにできないんだよな。だって僕自身がバカだしさ。
ああ、それにしても遠いよ……なにもかもが遠いよ……おまえといっしょにいたころまで遠くなっちまったよ……。
里香《りか》といっしょに病院を抜《ぬ》けだした夜、砲台山《ほうだいやま》の上で月を見上げた。肩《かた》を並《なら》べ、彼女の存在にドキドキしながら、月の輝《かがや》きに照《て》らされていた。そして今、あの夜とまったく同じ半分の月を、僕はひとりきりで見つめていた。
里香のいない世界を、ごくごくありふれた世の中を、僕は当たり前のように生きている。
そうさ、僕は大人になったんだ。
もう二十四だぜ。
十七だったあのころとは違《ちが》うんだ。
3
まぶたを開けると、半分の月が視界《しかい》に飛びこんできた。冬の澄《す》んだ空気のせいか、その輝きはひどくきれいだった。白々と輝いている。輪郭《りんかく》がくっきりしていて、模様《もよう》もちゃんと見えた。
ああ、それにしても頭が痛《いた》いな。
「戎崎《えざき》! おい、戎崎ってば! おい!」
山西《やまにし》の顔が、その月を遮《さえぎ》った。
僕はびっくりして起き上がった。
「うわ、いきなり起き上がるな! 顔ぶつかるとこだったろ!」
「……え、山西?」
「おお、大丈夫《だいじょうぶ》か?」
あたりを見まわす。そこは病院の屋上《おくじょう》だった。僕は手すりにもたれかかったまま、身体をだらんとさせていた。
「佐和《さわ》さんは?」
「はあ? 誰《だれ》だよ、佐和さんって?」
「いや、だから、会社の先輩《せんぱい》の佐和さんだよ」
目の前にいる山西は、どう見てもただの青臭《あおくさ》いガキで、要《よう》するにただの高校生だった。ってことは、僕も高校生ってことだ。同じように青臭い顔をしたガキなんだろう。ずきずきする頭を手で押《お》さえながら立ち上がると、そこには伊勢《いせ》のしょぼい町並《まちな》みが広がっていた。高層《こうそう》ビルなんてひとつもない町だ。
「あれ?」
思いっきり混乱《こんらん》した。
僕の下らない冗談《じょうだん》に笑った佐和《さわ》さん。酒で上気《じょうき》した頬《ほお》。あと一歩。もう少し。歩みだすだけの関係。手のひらで生暖《なまあたた》かくなった携帯《けいたい》電話。
そのすべてが消え去っていた。
「どうしたんだよ、戎崎《えざき》?」
心配《しんぱい》そうな顔で山西《やまにし》が覗《のぞ》きこんできた。
「おまさえ、全然起きなくてさ。もう思いっきり白目|剥《む》いてたんだぜ。オレ、絶対《ぜったい》おまえが死んだと思った。ズガンって、すげえ音がしたしさ。このまま起き上がらなかったら、すぐ下に行って医者|呼《よ》んでこようと思ったんだけど、そうしたらおまえが急に泣きだしてさ。ぼろぼろ涙《なみだ》こぼして。どっかぶっ壊《こわ》れたのかと思って慌《あわ》ててたら、目を開いて、それで――」
「涙?」
顔に触《ふ》れると、確かに濡《ぬ》れていた。ああ、なんだよ、シャツまで濡れてるぞ。どんだけ泣いたんだよ。くそっ、頭打ったせいで涙腺《るいせん》が壊れたのかな。ああ、頭|痛《いた》いよ。すっげえ痛い。そして僕はあの瞬間《しゅんかん》を、二十四の自分を思いだした。里香《りか》を失った世界。そこで普通《ふつう》に生きている僕。酔《よ》っぱらって、楽しくて、そして見上げた空には。
半分の月が輝《かがや》いていた――。
僕は冷たい風が吹く病院の屋上《おくじょう》で、その月を見つめつづけた。冬の明るい一等星に囲《かこ》まれながら、それは美しく輝いていた。どこかで暴走族《ぼうそうぞく》が走っているらしく、大きな排気音《はいきおん》が聞こえてきた。風が吹き、僕の髪《かみ》が揺《ゆ》れた。僕の心も揺れた。今、この瞬間《しゅんかん》、里香は生きている。まだ僕は失っていないんだ。間《ま》に合う、そう思った。今ならばまだ。
「山西」
「なんだ?」
「手伝《てつだ》ってくれよ」
「手伝う? なにを?」
僕は月を見つめながら、言葉《ことば》を続けた。
「かなり難《むずか》しいけど、どうにかなると思うんだ。ここは西|病棟《びょうとう》の屋上《おくじょう》だから、とにかく東病棟の屋上に行かなきゃいけない。だけど、ほら、そこの給水塔が邪魔《じゃま》していて、そのまま東病棟の屋上ってのは無理《むり》なんだ。下の渡《わた》り廊下《ろうか》で東病棟に行くって手もあるけど、それだと屋上には出られない。あっちには屋上に出る階段がなくて、保守用《ほしゅよう》の梯子穴《はしごあな》だけなんだよ。しかも鍵《かぎ》がかかってるし。あと、警備員《けいびいん》に見つかったら、そこで終わっちまう。とにかく、あっちは無理だ。でも、ここからならどうにかなるはずなんだ。必要《ひつよう》なのはロープと――」
僕は手順《てじゅん》を事細《ことこま》かに説明した。それはずっと考えてきたことだったので、淀《よど》みなく説明できた。そうさ、何度も何度も頭の中でシミュレーションを繰《く》り返《かえ》してきたんだ。無理だとは思ってたよ。実際《じっさい》にはそんなことできないって考えてた。
でも、今は違《ちが》う。
できる。
いや、すべきなんだ。
「おまえ、下手《へた》すると死ぬぞ」
すべてを聞いた山西《やまにし》は、かなりビビりながらそう言った。
「無茶《むちゃ》だって」
僕はにっこりと笑った。
「忘《わす》れたのか、五階から落ちても人間は滅多《めった》に死んだりしないんだよ。それより、おまえだけじゃ無理《むり》だから、人を集めてくれよ」
「マ、マジなのか?」
「ああ。手伝《てつだ》ってくれなきゃ、ひとりでやる」
心はブレなかった。
定《さだ》まっていた。
「お、おう」
やがて肯《うなず》くと、ビビりつつも山西はポケットから携帯《けいたい》を取りだした。
山西の声を聞きながら、僕は顔を上げた。
その空には。
半分の月が輝《かがや》いていた――。
φ
水谷みゆきがその電話を取ったとき、すでに時計は夜の一時を指していた。
こんな時間に電話をかけてくるなんて、いったい誰《だれ》だろう。きっと多恵《たえ》ちゃんだ。また沢村《さわむら》くんとうまくいかないって愚痴《ぐち》を聞かされるに違いない。
ああ、参《まい》ったなあ。
長いんだもん、多恵ちゃんの愚痴って。
「あれ?」
しかし画面を見ると、そこにはタイシと表示されていた。
すなわち山西|保《たもつ》である。
なんだか悪い予感《よかん》がした。このまま留守電《るすでん》さんに任せようかと思った。山西くんと話す用事なんてないし。もし告白とかされたら困《こま》るし。いや、それはないか。彼女ができたばかりで浮《う》かれてるって話だから。ああ、それにしても山西くん、どうするんだろう。あの子、他につきあってる人いるのに。知らないのかな。知らないんだろうな。
そんなことを考えていたら、居留守《いるす》を使うのがかわいそうに思えてきた。
「あのさ、今から出てこられるか」
通話ボタンを押《お》した途端《とたん》、そんな声が聞こえた。
「はあ?」
「えーと、猶予《ゆうよ》は五分だ。寒いから、ちゃんと暖《あたた》かい格好《かっこう》してこいよ。でもロングコートは身動き取れなくなるから駄目《だめ》だぞ」
「ちょ、ちょっと! なに言ってるの?」
「手伝《てつだ》えよ。友達の一大事なんだからさ」
「友達って?」
「戎崎《えざき》だよ」
「裕《ゆう》ちゃん?」
友達って言い方に違和感《いわかん》を覚《おぼ》えた。ああ、でも、友達でいいのか。他に言い方もないし。彼氏じゃないし。でもなんか変な感じ。友達。そんなんじゃない気がする。なにかもっと別のもの。もっともっと大切《たいせつ》……ってわけじゃないけど……近い……ってわけでもないけど……ああ、なんだろう、この曖昧《あいまい》な感じは。
「だから手伝えよ」
「でも、夜だよ! 一時だし! こんな時間に女の子がひとりで出かけるなんて危《あぶ》ないよ!」
「大丈夫《だいじょうぶ》。ボディガードつけるから。最強のボディ[#「ボディ」は底本では「ボディー」]ガードだぜ」
山西くんの声は、なぜか得意《とくい》げだった。
もうわけもわからぬまま、とにかくシャツを三枚着て、セーターを重ねて、さらにパーカーをかぶった。鏡で見るとぬいぐるみみたいにモコモコだった。可愛《かわい》くもなんともない。というか、かなりカッコ悪い……。
最悪だ。
「ほんと来るのかな?」
呟《つぶや》きつつ、窓を開ける。
その空には。
半分の月が輝《かがや》いていた――。
φ
世古口《せこぐち》司《つかさ》にとって、深夜一時は聖なるときである。すなわちその時間に、ファンタジー満載《まんさい》のNHK教育テレビにおいて、ひろせよしかずのるんるんクッキング再放送が流されるからである。もちろん本放送のときにビデオに撮《と》ってある。当然|標準《ひょうじゅん》である。一番高いビデオテープを使ってもいる。それでも放送されるとなるとやはり見てしまう。
「むむう」
なぜあんな短時間でホイップに角《かど》が立つんだろう。しかもその立ち方が美しい。ひろせ先生の手には魔法《まほう》が宿っているに違《ちが》いない。――というわけで、携帯《けいたい》電話が鳴《な》ったとき、彼はテレビ画面に釘《くぎ》づけになったまま、巨大《きょだい》な腕《うで》を振《ふ》りまわして音の発信源《はっしんげん》を探《さが》した。どうにか見つけると、通話ボタンを押して耳に当てる。そのあいだも、ずっとテレビを凝視《ぎょうし》しつづけていた。
『ここで、バニラビーンズを散《ち》らすのよ』
ああ、なんて優雅《ゆうが》な手つきだろう。
電話から聞こえてきたのは、そんな優雅な気分をぶち壊《こわ》すに十分な声だった。
「おい、世古口《せこぐち》」
「え? 山西《やまにし》くん?」
「仕事だ」
「え? 仕事?」
わけがわからない。ひろせ先生はもう盛《も》りつけに入っていた。ふっくらとしたスポンジを台の上で回転させつつ、生クリームを塗《ぬ》りつけている。さっと塗っただけで、もうできあがりという感じだった。速い。しかも正確だ。
「今から病院に来いよ。裕一《ゆういち》の入院してる病院の屋上《おくじょう》だぞ」
「うん」
見とれていたせいで、つい肯《うなず》いてしまった。
「あ、それから、途中《とちゅう》で寄ってほしいところがあるんだ」
「うんうん」
いちおう聞いてはいたが、全神経《ぜんしんけい》の九十三パーセントはテレビ画面に向いていたので、さして考えることもなく山西の言葉《ことば》に肯きつづけていた。そして、画面の中でケーキができあがると同時に、用件をすべて伝《つた》えた電話は切れた。
『はい、ガトーグラマンジェのできあがり!』
すばらしいケーキだ。フォルムが完璧《かんぺき》だし、味も最高なのだろう。あちこちに散らされたベリーの照《て》りがまた見事《みごと》だ。あれはなにを塗《ぬ》ってるのかな。卵白《らんぱく》かな。それともシロップかな。
そこでふと、さっきまでの会話を思いだした。
「あれ?」
なんだかむちゃくちゃなことを頼《たの》まれたような気がする。慌《あわ》てて山西に電話をかけ直したものの、話し中だった。事情《じじょう》を問いただすことも、断《ことわ》ることもできない。だいたい、さっき聞いたことは本当なんだろうか。ただ聞《き》き間違《まちが》えただけなのかもしれないじゃないか。
しかし、このまま放《ほう》っておくわけにはいかない……。
とにかく何事においても律儀《りちぎ》なのが世古口《せこぐち》司《つかさ》なのであって、たとえそれが間違《まちが》いかもしれなくとも、確認できない以上は行動を起こさねばならないと考える人間だった。というわけで、シャツを三枚着て、セーターを二枚重ね、その上にジャンパーを羽織《はお》った。少し迷《まよ》ってからタンスの三段目を開け、さらに迷った末、あるものを取りだした。実を言うと……そのとき少し心がワクワクした。
いつも戎崎《えざき》裕一《ゆういち》が無断侵入《むだんしんにゅう》してくる窓を開け、外へ出る。靴《くつ》は大丈夫《だいじょうぶ》、常《つね》に準備《じゅんび》してある。そして自転車に跨《またが》り、チェーンをギシギシ言わせながら、夜の道を走りだした。
彼の巨大《きょだい》な背中《せなか》の、その向こうに広がる夜空には。
半分の月が輝《かがや》いていた――。
4
静岡の病院を希望したのには、理由《りゆう》があった。地域の基幹《きかん》病院で、とにかく手術数が多いのだ。特に胸部《きょうぶ》外科が優《すぐ》れていて、それは僕の専門であり、小夜子《さよこ》の病気でもあった。当たり前だけれど、どんなことでも数をこなせばうまくなる。経験《けいけん》を積み重ねられるし、さまざまなアクシデントへの対処法《たいしょほう》も覚《おぼ》えられる。そしてさらに幸《さいわ》いなことに、ものすごく腕《うで》の立つ先輩《せんぱい》がひとりいた。T大医学部の出身で、研修《けんしゅう》生活をアメリカで送った宮村《みやむら》さんという人だった。宮村さんの研究は立派《りっぱ》なものだったし、手技《しゅぎ》もすばらしかった。本当ならT大で階段を上っていくべき人だった。けれど、一度外国に出た人間は、なかなか元の場所には戻《もど》れない。どれだけ力をつけ、腕を上げようと、大学の医局《いきょく》ではそういうことは大きな意味を持たないからだ。むしろ一度|離《はな》れてしまったことにより、戻るべきポジションを失ってしまう。従《したが》って、多くの場合、その後の留学経験者は地方の有力病院へと移《うつ》っていく。どの地域にもひとつやふたつはやる気のある病院が存在《そんざい》し、能力《のうりょく》の高い医師を集め、先進的な医療《いりょう》を提供《ていきょう》していたりするのだ。僕が転出した静岡の関連病院は、まさしくそういう場所だった。皮肉《ひにく》なことに、その病院で僕はどんどん腕を上げていった。たくさんの手術を任《まか》され、宮村さんから技術を吸収していった。そのことに僕はやりがいを覚えるようにさえなった。大学での未来は閉ざされてしまったけれど、違《ちが》う未来がそこに広がっていた。そしてそれは小夜子の命を救《すく》う道でもあった。
受け持った患者《かんじゃ》の中に、おもしろい子がいた。
「あの、先生」
三日前に入ってきたばかりの新人|看護婦《かんごふ》が、暗い顔でやってきた。
「五一五室の患者なんですけど」
またか、と僕は思った。
その病室には秋庭《あきば》里香《りか》という名の女の子が入っていた。年は十二で、まだ小学生だ。要《よう》するに子供なのだが、彼女には妙《みょう》な強さがあった。やたらと可愛《かわい》い顔をしているせいなのかもしれないが、彼女がわがままを言いだすと、誰《だれ》もそれを叱《しか》れなくなってしまうのだ。
世の中には、そういう、なにか特別なものを持った人間がたまにいる。
「ああ、あの子か。どうしたんだ」
「点滴《てんてき》、打たしてくれないんです……」
新人|看護婦《かんごふ》は泣きそうだった。
「腕《うで》を出してくれなくて……」
「わかった。オレが話してみるよ」
頭をばりばりかきむしりながら、僕は五一五号室に向かった。まったく、あのわがまま娘め。どうしたら説得《せっとく》できるのか、僕にもさっぱりわからなかった。とにかくやたらと頑固《がんこ》で、一度へそを曲げたら、絶対《ぜったい》にこっちの言うことを聞かないのだ。
ため息《いき》をつきつつ歩いていると、後ろから声がした。
「やあやあ、吾郎《ごろう》くん」
小夜子《さよこ》だった。彼女は三日ほど前から入院していた。別にどこかが悪くなったわけじゃなくて、ただの定期|検査《けんさ》のための入院だ。小夜子の病状は、静岡に来てから安定していた。よくなってはいない、もちろん。ただ、進行してもいない。それはつまり、ほぼベストに近い状態《じょうたい》ということだった。
「なにしてんだよ、おまえ」
「いやあ、暇《ひま》で」
パジャマ姿《すがた》の小夜子はいつもどおりほにゃほにゃ笑った。まったく、なんでこいつはいつも呑気《のんき》なんだろうな。
「おまえさあ、そのパジャマで入院してるのかよ」
「え? 駄目《だめ》?」
小夜子のパジャマは猫柄《ねこがら》だった。これがもう、デフォルメされまくったイラストで、小学生が着そうな代物《しろもの》だ。
「駄目じゃねえけどさ。いや、やっぱ子供っぽすぎるだろ」
「えー、家ではこれ着ててもなんにも言わないじゃない」
「そりゃ家だからだ」
秋庭《あきば》里香《りか》のことを思いだし、僕は歩きだした。
「ヤバい、患者《かんじゃ》待たせてんだ」
「遠慮《えんりょ》したほうがいい?」
「かまわないけどさ。ただし、邪魔《じゃま》すんなよ。後ろから見てろ」
うん、と小夜子は肯《うなず》いた。
「吾郎くんの働く姿《すがた》を観察する」
うっ、そんなことを言われるとなんか緊張《きんちょう》するな。
問題の五一五号室につくと、ベッドの上で秋庭《あきば》里香《りか》が怖《こわ》い顔をして本を読んでいた。たかが十二のくせに、けっこうな迫力《はくりょく》だ。
ごほん、とわざとらしく咳払《せきばら》いをして、僕は病室に入った。
「点滴《てんてき》、嫌《いや》か」
ちら、と秋庭里香がこちらを見てきた。
でもすぐに視線《しせん》を逸《そ》らした。
ああ、無視《むし》ですか、そうですか。
「痛《いた》いのはわかるけど、治療《ちりょう》なんだから我慢《がまん》しろよ」
「…………」
「じゃあ、こうしよう。婦長《ふちょう》の寺岡《てらおか》さんに頼《たの》むから。あの人、針入れるのすっげえうまいぞ。ほとんど痛みなしだから。な、そうしよう」
「…………」
「じゃあ、寺岡さんつれてくるから」
「いい、別に」
歩きだした瞬間《しゅんかん》、背中《せなか》に言葉《ことば》を投げつけられた。足をとめ、ふたたび秋庭里香に顔を向ける。
「いいってどういうことだよ」
「…………」
「点滴しないとまずいだろうが。わかるだろ。治療が必要《ひつよう》なんだよ。遊びでやってるわけじゃないんだ。ちょっとでも身体をよくしたいんなら、言うことを聞いてくれよ」
「…………」
「だからさ」
「本読んでるの。うるさい」
うるさい?
医者にうるさいって言う十二歳がいるか、普通《ふつう》? たかが小学生だぞ? しかも女の子だぞ? うるさいだって? マジかよ? 誰《だれ》にもの言ってんだ、このガキは?
ひく、とこめかみが引きつった。
「そう言わずにさ――」
精一杯《せいいっぱい》の忍耐《にんたい》。
猫撫《ねこな》で声。
と、秋庭里香があっさりと一言。
「だから、うるさい」
あ、駄目《だめ》だ、もう駄目。
あまりの怒《いか》りに顔がニヤけてきた。あはは、おもしろいな、このガキ。うはは、こりゃしょうがねえよな。うん。怒鳴《どな》ってもいいよな。しょうがねえよな。
怒鳴り声をあげようとした、そのときだった。
「こんちはー」
いきなりほにゃほにゃした声が突撃《とつげき》してきた。
「は? なにしてんだ、おまえ?」
小夜子《さよこ》だった。
そのいきなりの闖入《ちんにゅう》に秋庭《あきば》里香《りか》もさすがに驚《おどろ》いたらしく、目を丸くして小夜子を見つめている。小夜子はまったく動じることなく、秋庭里香に歩《あゆ》み寄《よ》ると、その手から本を取り上げた。ぱらぱらとめくり、うんうんと肯《うなず》く。
小夜子は言った。
「宮沢《みやざわ》賢治《けんじ》の『銀河《ぎんが》鉄道《てつどう》の夜』ね。ふむふむ。あ、これは角川《かどかわ》文庫か」
「ちょっと返して――」
珍《めずら》しく、秋庭里香が慌《あわ》てた様子《ようす》を見せた。その秋庭里香に小夜子がいきなり顔を寄せる。秋庭里香はびっくりして、身を引いた。
「ねえ、この話って、いろんなバージョンがあるって知ってる?」
「え?」
「あのね、宮沢賢治って何度も何度も原稿をいじる人だったの。だから、直した時期《じき》によって
台詞《せりふ》とか構成《こうせい》が変わってるのよ。この本のはたぶん第二|稿《こう》じゃないかしら」
「あ、そうなんですか……」
そこからいきなり『銀河《ぎんが》鉄道《てつどう》の夜』講座《こうざ》が始まった。僕は完全に置き去りだ。あのね、少なくとも四回は改稿《かいこう》がされてて、その時々で文章もかなり変わってるのよ。ほら、えーと、このページかな。ああマジェランの星雲《せいうん》だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ。この台詞とかねえ、最終稿ではなくなってるのよ。この台詞だけじゃなくて、このシーンを、ほらこのブルカニロ博士とか、黒帽子の男とか、そっくり削《けず》っちゃってるの。
「ほんとですか?」
秋庭《あきば》里香《りか》は目を丸くして、小夜子《さよこ》を見つめていた。僕は驚《おどろ》いた。この子がこんな顔をするのは初めて見た。
「ほんとよ。この他のバージョンが入ってる本を何冊か持ってるから、貸してあげようか。どうして宮沢《みやざわ》賢治《けんじ》がシーンを削ったのか考えながら読むと、いろいろわかってくることがあっておもしろいわよ」
「あ、お願いします」
「今度持ってくるね」
「はい」
ふたりはにっこりと笑いあった。うわ、なんてことだ。小夜子のヤツ、秋庭里香を手なずけやがった。すげえ、感心《かんしん》した。マジすげえぞ、小夜子。でかした。
ところで、と小夜子が言った。
「この後ろにぼさーっと突《つ》っ立《た》ってるのね、あたしの旦那《だんな》さんなの」
「あ、はい」
「だから、ちょっとは言うこと聞いてあげて。かなり無神経《むしんけい》だし、そうとう傲慢《ごうまん》だし、思いっきり短気だけど、許《ゆる》して[#「て」は底本では無し]あげてね」
秋庭里香が僕の顔を見てきた。
う……。
なんだ、この迫力《はくりょく》は。
「点滴《てんてき》」
「え?」
「点滴、するんでしょ」
「お、おお。そうだ。じゃあ、準備《じゅんび》するから。あはは。ちょっと待ってろよ。うわ、えっと、どこにあるんだっけ」
僕は慌《あわ》てまくりながら、点滴のパックを探《さが》した。
いや、すげえよ、小夜子。
おまえは天才だ。
そんなことを考えていたせいで点滴台《てんてきだい》に足を引っかけ、思いっきり転《ころ》んでしまった。そんな僕を見て、小夜子《さよこ》と秋庭《あきば》里香《りか》はゲラゲラ笑った。
まあ、僕も笑っておいた。
なんかそんな気分だったんだ。
5
もちろん命がけだった。五階から落ちても死なないと亜希子《あきこ》さんから聞かされたのは確かだったけれど、絶対《ぜったい》という言葉《ことば》はどこにもついていなかった。滅多《めった》に、とは言ったか。つまり死ぬ可能性《かのうせい》もあるわけだ。たとえ死ななくても、山西《やまにし》に叫《さけ》んだのと同じことが起きる。死なない程度《ていど》の大ケガ。後遺症《こういしょう》だって残るかもしれない。冷静《れいせい》に考えればバカげていたし、やめるべきだった。けれど僕は冷静ではなかったし、そのことを自覚《じかく》すると同時に喜んできえいた。上等《じょうとう》だ。そう思った。上等だよ。なにが上等なのかさっぱりわからなかったが、僕はそう繰《く》り返《かえ》した。ああ、そうか。まだ酔《よ》っぱらってるのかもな。ずいぶん飲んだしさ。でも、うん、きっと酒じゃない。もっと別のものに酔っぱらってるんだ。
山西の口車に乗せられたみゆきと司《つかさ》が屋上《おくじょう》に到着《とうちゃく》したのは一時間後のことだった。僕と山西の身体は冷え切っており、山西の興奮《こうふん》も冷え切っていた。やめようぜ、と呟《つぶや》くように山西は言った。でも僕の興奮はまったく冷《さ》めていなかった。二十四歳の僕が、僕の尻《しり》を蹴飛《けと》ばしつづけていたからだ。おまえならまだ間《ま》に合う、間に合うんだぜ、十七歳の戎崎《えざき》裕一《ゆういち》……。
しかしまあ、その前にはっきりさせておくことがあった。
「あのさ、司」
「う、うん」
「なんでおまえはドスカラスなんだ?」
そうなのだ、このプロレスバカはまた妙《みょう》なマスクをかぶってきたのだ。しかもマスカラスじゃなくて、ドスカラスのほうだ。渋《しぶ》いよ、渋すぎだよ、司。
「ほ、ほら、親戚《しんせき》がここで看護婦《かんごふ》しててさ。バレるとヤバいから」
ああ、つまらねえ。まったくつまらねえヤツだ。
前とまったく同じ言《い》い訳《わけ》じゃないか。ったく、そのマスクから覗《のぞ》く嬉《うれ》しそうな目はなんだよ。絶対《ぜったい》に堂々《どうどう》とかぶれるのを喜んでるだろ?
まあ、いいけどさ。
「みゆき、持って来てくれたか?」
尋《たず》ねると、まるでぬいぐるみのように着膨《きぶく》れたみゆきがバッグを差しだしてきた。その中身は登山用具である。彼女のお父さんの趣味《しゅみ》が登山なのだ。さすがにこの前みたいなビニール紐《ひも》じゃ危《あぶ》なすぎる。僕は受け取ったバッグからその登山用具を取りだすと、ハーネスを身体につけ、そしてザイールの一端《いったん》をハーネスに固定《こてい》した。
「どうするの、裕《ゆう》ちゃん」
不安そうに、みゆきが尋《たず》ねてきた。
僕は給水塔を指さした。
「あれにぶら下がる」
「危ないよ……」
「わかってるさ。でも、それしかないんだ。ほら、向こうの、東|病棟《びょうとう》の屋上《おくじょう》には直接|渡《わた》れないようになってるんだ。給水塔が邪魔《じゃま》でさ。だから、あそこからぶら下がって、振《ふ》り子《こ》みたいにぶらぶら振れれば、東病棟の手すりに手が届《とど》くだろ」
「無理《むり》だよ……だって五メートルくらいあるよ……」
「だったら五メートル振れればいいんだよ」
「だけど……そんなに勢《いきお》いつけて壁《かべ》にぶつかったら大ケガするよ……」
僕は黙《だま》っていた。反論できなかったからだ。ザイールを伸ばして、長さを確認する。長すぎると東病棟の壁にぶつかるし、短すぎると手すりに属かない。どれくらいなのかな。ちぇっ、よくわかんないや。
「やめようよ、裕ちゃん……無理だよ……」
ああ、なんでそんなに反対するんだよ、みゆき。なんだかみゆきの態度《たいど》にはただ心配《しんぱい》しているのとは違《ちが》う、妙《みょう》な頑《かたく》なさがあった。
僕はちらりとみゆきを見て、作業《さぎょう》を続けた。
「やる。絶対《ぜったい》にやる」
「でも――」
「水谷《みずたに》、とめるなよ」
やけに真剣《しんけん》な声で山西《やまにし》が[#「声で山西が」は底本では「山西が声で」]言った。
「戎崎《えざき》の好きにさせようぜ」
「でも――」
「ぼ、僕も山西くんの言うとおりだと思う」
滅多《めった》に主張しない司《つかさ》の言葉《ことば》に、みゆきも黙《だま》りこんだ。それでもやはり納得《なっとく》できないのか、作業はまったく手伝わず、ただ突《つ》っ立《た》っている。ほんと、なんなんだろうな、みゆきのヤツ。話してみたい気もしたけれど、やっぱりやめておくことにした。なぜかはわからない。
ロープの長さについて、僕と山西と司は話し合った。
「やっぱ三メートルくらいだろ」
「いや、もっとあるって」
「一度短いのでやってみたほうがいいんじゃないかな。そのほうが安全だしさ。届かなかったら、長くすればいいんだし」
「あ、そっか」
「ちょっと待てって。何度も試《ため》してたら、オレの体力がつきちまうよ」
しょうがないので、危険《きけん》を承知《しょうち》で四メートルから始めることにした。もしかしたら壁《かべ》にぶつかってしまうかもしれないけど、そのときはそのときだ。大丈夫《だいじょうぶ》、なんとかなるさ。そうして僕たちが給水塔に上ろうとしたら、みゆきが声をかけてきた。
「試してみればいいのに」
「え?」
「ザイールの先に、なんでもいいから重りをつけて振《ふ》ってみればいいのに。そうすれば、ちょうどいい長さがわかるのに」
あ、なるほど。僕と山西《やまにし》と司《つかさ》はぽかんと立ちつくした。そんな簡単《かんたん》なことに、三人もいたのに気づかなかったなんて。僕たちはほんとバカだ。
「そ、そうだな。じゃあ、なにかを重りにしないと」
「これ」
みゆきがバッグを差しだしてきた。
「さ、さんきゅ」
それにしても、みゆきのヤツ、どうして急に協力してくれる気になったんだろう。それなのに、なんで怖《こわ》い顔のままなんだろう。
調べてみた結果《けっか》、僕たちが思っていたよりもずっと長いことがわかった。みゆきの言うとおり、五メートルはある。五メートルのザイールをずるずる伸ばしていると、その長さにビビった。こんなにあんのかよ……。僕はいわば、振り子の先の重りだ。五メートルの振り子。壁にぶつかったら大ケガだ。だいたい、五メートルの振り子を振ることができるんだろうか。
「無理《むり》じゃねえの、戎崎《えざき》」
同じことを考えていたらしく、山西がビビった声で言った。
それが僕をかえって勇気づけた。
「やるさ。やってやるさ」
給水塔のてっぺんに登り、そこに出《で》っ張《ぱ》っていた支柱《しちゅう》みたいなものにザイールを結びつけた。これでなにかあっても、地上に真《ま》っ逆《さか》さまってことはなくなるだろう。それに、ザイールを司たちが持ってくれた。みゆきは……女だから全然役に立たないだろうし、山西は……ひ弱だから駄目《だめ》だろうけど、司ならひとりでも僕の体重を支《ささ》えることはできるはずだ。
「行くぞ」
言って、僕はザイールを伸ばしながら、給水塔の壁面《へきめん》を下りていった。むちゃくちゃカッコ悪いスパイダーマンだ。五メートルを伸ばしきると、僕の足は四階と三階の境目《さかいめ》くらいにまで達していた。まず壁を蹴《け》った。ふわりと身体が空中に浮き上がる。重力とザイールに引《ひ》っ張《ぱ》られ、僕は壁《かべ》に着地≠オた。と、同時に、僕は横方向に壁を蹴《け》った。要するに、壁面《へきめん》を走るような感じだ。まず東|病棟《びょうとう》のほうへ全速力。二メートルも進まず、重力に押《お》し戻《もど》される。そのまま身体が投げだされ、僕の身体は大きな弧《こ》を描《えが》きながら、後方《こうほう》へ、すなわち西病棟のほうに戻った。戻りきったその瞬間《しゅんかん》を狙《ねら》い定めてふたたび壁面を走る。勢《いきお》いがついたせいで、さっきよりも先に進めた。三メートル。まだまだ先だ。これを何度も何度も繰《く》り返《かえ》していくんだ。振《ふ》り幅《はば》を大きくしていく。そのうち、あそこに、東病棟の手すりに届《とど》くはずだ。
僕は壁面を走った。
φ
ずいぶん夜が更《ふ》けた。酔《よ》っぱらいの声は完全に聞こえなくなり、病院は夜の沈黙《ちんもく》で満たされていた。夏目《なつめ》はさっきから黙《だま》りこんでいる。谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》は自然とポケットを探《さぐ》っていた手をとめた。ちぇっ、タバコが吸いたいや。
沈黙を埋《う》めるように、言ってみる。
「静岡って田舎《いなか》だよねえ。いとこがいるから、何度か行ったことあるよ。ああいう環境《かんきょう》だと、ストレスとかかからないし、奥さんにはよかったんじゃないの」
「ああ、よかったみたいだ」
夏目はさっきから顔をまったく上げない。
「でも、三年だったよ」
「三年?」
「次の発作《ほっさ》までさ」
「ヤバかったの?」
俯《うつむ》いたまま、肯《うなず》いた。
「最悪だった」
φ
走って走って走りまくった。だんだん振り子の弧が大きくなってゆき、手すりに届きそうになった。でも届かなかった。あと少しなんだ。十センチ。いや二十センチはあるか。だけどすぐそばだ。なのになんで届かないんだよ。足が疲《つか》れてきた。ハーネスが腹に食いこんで痛《いた》い。ああ、なんだよ、遠くなっちまったぞ。ちくしょう、だんだん離《はな》れていきやがる。足が痛えよ。手も痛い。壁にぶつかった。どん、という音がして、背中《せなか》にとんでもない衝撃《しょうげき》が来た。
「裕一《ゆういち》、大丈夫《だいじょうぶ》!?」
司《つかさ》の声。しかし答える余裕《よゆう》はまったくない。一度でもとまってしまったら、もうやり直すのは不可能《ふかのう》だ。そんな体力は残っていなかった。だから走るんだ。走ってやるさ。届《とど》けよ、おい。なんで届かないんだよ。
「裕《ゆう》ちゃん!」
今度はみゆきの声が聞こえてきた。
「棒《ぼう》が折《お》れそうだよ!」
なんだよ、棒って?
φ
「ヤバい……」
最初に気づいたのは山西《やまにし》保《たもつ》だった。戎崎《えざき》裕一がぶら下がっているザイールはいちおう三人で持っていたものの、それほど力は入れていなかった。なにしろその端《はし》っこは給水塔から突きでた金属製《きんぞくせい》の支柱《しちゅう》みたいなものに結んであったからだ。支柱はけっこう太くて、人間の体重くらいなら余裕《よゆう》で耐《た》えられそうだった。だから油断《ゆだん》していた。ザイールは軽く持っていただけだった。しかしふと気づくと、その支柱が根本からぐらぐら揺《ゆ》れはじめていた。水色のペンキが浮《う》き上がってぱりぱり落ちてくる。そうして現れた金属面はすっかり錆《さ》びていた。
「折れるぞ、これ……」
山西保は震《ふる》える声で言った。
続いて気づいた水谷《みずたに》みゆきは叫《さけ》んだ。
「裕ちゃん! 棒が折れそうだよ!」
それでも戎崎裕一は必死《ひっし》に壁面《へきめん》を駆《か》けていた。見ていてそれは滑稽《こっけい》に思える光景《こうけい》だった。どう考えても、目標《もくひょう》にしてる手すりには届かない。さっきから振《ふ》り幅《はば》は小さくなるばっかりで、限界《げんかい》をとっくに超《こ》えているのは明らかだった。でもやめろとは言えなかった。それくらい滑稽で必死で情《なさ》けなかった。アホみたいだ。勝ち目のない戦いに泥《どろ》まみれで挑《いど》んでる姿《すがた》そのものだった。山西保にとって、戎崎裕一は昔からの友達である。もっとも親友というほどの仲じゃない。ただの幼馴染《おさななじ》み。それだけのこと。ほんとはこんなバカげた騒《さわ》ぎにつきあうことなんてないのだ。このまま帰ってもいい。そうさ、放《ほう》りだしたってかまわない。だが、あの滑稽さと必死さと情けなさは見捨てておけなかった。だから手伝《てつだ》った。とことんやってやるつもりだった。けれど、これはヤバい。マジでヤバい。
「戎崎! やめろ! 死ぬぞ!」
「大丈夫《だいじょうぶ》」
声がした。
「僕が持つから」
世古口《せこぐち》司《つかさ》……いや、ドスカラスだった。彼のたくましい腕《うで》がザイールを持つ。その瞬間《しゅんかん》、山西《やまにし》保《たもつ》は彼の腕《うで》がいきなり膨《ふく》らんだように思えた。これだけ着膨《きぶく》れているというのに、さらに太くなった。
「山西くん」
「な、なんだ」
「僕の右のポケットに携帯《けいたい》が入ってるから、出してくれるかな」
「あ、ああ。どうすんだよ」
「メモリーの中にさ、たぶん三番目くらいだと思うんだけど、あるはずだから」
「ある? な、なにがだよ?」
φ
「吾郎《ごろう》くん」
電話がかかってきたのは、勤務中《きんむちゅう》だった。その日は長年入院していた患者《かんじゃ》が退院《たいいん》した日で、職員の誰《だれ》もがなんとなく気分がよくなっていた。患者の奥さんは何度も何度も頭を下げ、ありがとうございましたと繰《く》り返《かえ》した。
その浮《う》かれた気分のまま、僕は明るい声で言った。
「どうしたんだよ」
「あのね、ちょっとドキドキする」
「え?」
「おかしいみたい」
なにもかもが吹っ飛んだ。僕は電話を切ると、すぐにタクシー会社に電話を入れた。迎えに行きたかったけれど、勤務中だし、そう簡単《かんたん》にはいかなかった。タクシー会社の電話はなかなかつながらなかった。四回、五回。呼《よ》びだし音が鳴《な》りつづける。六回、七回。永遠《えいえん》に鳴りつづけるように思えた八回目、ようやくつながった。
「三丁目の夏目《なつめ》ですけど、すぐに車回してもらえますか?」
幸《さいわ》い空車《くうしゃ》があり、しかも近くを走っていたので、タクシーは五分で自宅に到着《とうちゃく》し、小夜子《さよこ》を拾ってくれた。電話をしてから十五分後には、小夜子は病院についていた。
タクシーから降《お》りた小夜子は、ちょっと困《こま》ったように笑った。
「ごめんね、吾郎くん。たいしたことないと思うんだけど」
「いや、かまわねえよ」
小夜子の背中《せなか》に手をまわし、僕は彼女を病院の中へ導《みちび》いた。
「慎重《しんちょう》すぎるくらいでちょうどいいんだ」
そしてそのあと、小夜子が元気を取《と》り戻《もど》して病院を出ることは二度となかった。
φ
息《いき》が切れてきた。手が痛《いた》い。壁《かべ》ですりむいたんだ。でもありがたいことに腹はもう痛みを感じなくなっていた。痛すぎて麻痺《まひ》してしまったらしい。それにしても、全然|届《とど》かねえよ。もう無理《むり》なのかな。ああ、ちくしょう。なんでだよ。せっかくやる気になったんだぜ。今まで逃《に》げてばっかりでさ。走るのなんてダサいと思ってて。走らなきゃコケることもないと割り切ってて。だけど走ろうって決めたんだ。コケたら立ち上がればいいと思えたんだ。それでこんなバカなことをして、偽物《にせもの》のスパイダーマンみたいに給水塔からぶら下がってるのに、全然うまくいかねえよ。ああ、こんなもんなのかな、僕って。そうだよな。足も遅《おそ》いし勉強もできないし。この程度《ていど》だよな。
いや……違《ちが》う……違うぞ……。
ふいに熱《あつ》さがこみ上げてきた。それじゃ駄目《だめ》なんだ。僕だけならいいさ。ダサくてしょぼくてもいいさ。でも里香《りか》がいるんだ。里香のために、僕はやり遂《と》げなきゃいけないんだ。くそっ、それなのにどんどん東|病棟《びょうとう》の屋上《おくじょう》が遠ざかっていくよ。さっきからもう二メートルくらいの範囲《はんい》でしか揺《ゆ》れてない。駄目だ、やっぱ駄目なのかな。
そして振《ふ》れの幅《はば》は一メートルにも満たなくなった。もうぶら下がっているだけだ。すりむいた手が痛い。打った肘《ひじ》や膝《ひざ》も痛い。けれどなによりも胸《むね》の奥底《おくそこ》が痛い。そして目の端《はし》っこが熱い。僕は力なく空間にぶら下がったまま、空を見上げた。
半分の月が輝《かがや》いていた――。
その光が滲《にじ》む。輪郭《りんかく》が淡《あわ》くなってゆく。ごめんな、里香。僕はしょせん、この程度《ていど》の男だよ。せっかくの決意も努力も、こんなふうに宙ぶらりんに終わるんだ。――と、月光の中に、ふいに黒い影《かげ》が現れた。ああ、司《つかさ》だ。給水塔の上から僕を覗《のぞ》きこんでるんだ。え、待てよ。僕の目はどうかしちゃったのかな。司がふたりいるぞ。ドスカラスのマスクがふたつ並《なら》んで輝いている。あ、違う。ひとつはドスカラスじゃない。
あれは……マスカラスだ!
マスカラスとドスカラスはともにルチャ・リブレ、すなわちメキシコ式プロレスのスターであり、また実の兄弟でもある。兄マスカラスは仮面《かめん》貴族《きぞく》と呼《よ》ばれ、また千の顔を持つ男として知られていた。まさしくスター中のスターである。ドスカラスはその偉大《いだい》な兄の陰《かげ》に隠《かく》れがちだが、実力は兄に勝《まさ》るとも劣《おと》らなかった。優しすぎる性格《せいかく》が彼を一流のレスラーにしなかっただけなのだ。
あるとき、メキシコシティの戦いで、ドスカラスは見事《みごと》なクロスチョップで敵《てき》をマットに沈《しず》めた。あとは上に乗り、その肩《かた》を三秒マットにつけるだけである。相手はすでに気を失っており、造作《ぞうさ》もないことであった。しかしドスカラスは動かなかった。ただ立っていた。それまで罵声《ばせい》と歓声《かんせい》を空に放《はな》っていた観衆《かんしゅう》は異様《いよう》な光景《こうけい》に静まり返り、レフェリーさえもが首を傾《かし》げた。
やがて、観衆のひとりが気づき、こう言ったそうである。
「|マリポーサ《MARIPOSA》……」
スペイン語で蝶々《ちょうちょ》という意味であった。そう、倒《たお》れた敵《てき》レスラーの胸《むね》に、一匹の蝶々がとまっていたのだった。彼を押《お》さえつけてスリーカウントを取ろうと思えば、その蝶々を潰《つぶ》してしまう。心優しきドスカラスにはそんなことはできなかった。
彼は待った。
レフェリーも待った。
観衆も待った。
メキシコ民衆《みんしゅう》の優しさを物語る、それはすばらしい逸話《いつわ》だった。いや、そうなるはずだった。そうしてなんと十七分もたってから、蝶々はふと思い立ったようにその美しい翅《はね》を広げ、ふわふわと空へと飛び立った。誰《だれ》もがほっとした。蝶々は救《すく》われたのだ。
だが、次の瞬間《しゅんかん》、信じられないことが起きた。
突如《とつじょ》乱入《らんにゅう》してきたマスカラスがトップロープから飛び、倒れていた敵レスラーに師匠《ししょう》譲《ゆず》りのソル・デ・レイ・ケブラーダを食らわしたのだ。飛び立ちかけた蝶々もろとも。
ドスカラスは激怒《げきど》した。
「マリポーサ! マリポォーサッ! マリポォ――サァァァ――ッ!」
叫《さけ》んで、涙目《なみだめ》ドスカラスは兄に飛びかかっていった。
そのあとの大死闘《だいしとう》……まあ、要《よう》するに兄弟ゲンカは、ルチャ・リブレ名勝負の、輝《かがや》かしき歴代《れきだい》一位を長年キープしている。ドスカラスは涙を流しながらクロスチョップを繰《く》りだしつづけ、マスカラスは戸惑《とまど》いながらもそれをすべて受けきったそうである。
その、美しき兄弟愛の象徴《しょうちょう》、マスカラスとドスカラスが今、月光を浴《あ》びて輝いていた。
「は、はあ?」
φ
「は、はあ?」
同じ言葉をその瞬間《しゅんかん》、山西《やまにし》保《たもつ》も吐《は》いていた。
「は、はあ?」
水谷《みずたに》みゆきも吐いていた。
目の前にふたりの巨漢《きょかん》が立っている。ひとりは世古口《せこぐち》司《つかさ》だ。間違《まちが》いない。なにしろその巨大《きょだい》な身体と、マスクから覗《のぞ》く子犬みたいな目は、たとえマスクをかぶっていても彼だとすぐにわかる。しかし今、その隣《となり》に、さらなる巨漢《きょかん》が立っていた。身長は百九十以上、体重は百キロを軽く超えるだろう。しかも胸《むね》の張《は》りが尋常《じんじょう》ではなかった。革《かわ》ジャンを着ているのに、その革ジャンがパツンパツンなのだ。首の太さと頭の幅《はば》がまったくいっしょだった。
恥《は》ずかしそうに、世古口《せこぐち》司《つかさ》が言った。
「え、えっと。お、お兄ちゃんです」
世古口|鉄《てつ》であった。
φ
鉄さんだ……。
僕は確信した。あれは鉄さんだ。鉄さんにはいろいろな伝説《でんせつ》がある。高校時代、すでに鉄さんは伊勢《いせ》の町を仕切《しき》っていたらしい。三重県最大の暴走族《ぼうそうぞく》の総長で、傘下《さんか》におさまるチームは二十七、総数千三百人のボスだったそうだ。その見事《みごと》な体格に目をつけられ、高砂部屋《たかさごべや》とみちのくプロレスからスカウトが来たという類《たぐ》い希《まれ》な逸材《いつざい》である。
まさしく生きる伝説だった。
「裕一《ゆういち》!」
司が……いや、ドスカラスが叫《さけ》んできた。
「まだ動ける?」
「お、おう!」
「僕たちがザイールを振《ふ》るから、裕一も頑張《がんば》ってよ! 勢《いきお》いつけるから、気をつけて!」
「わかった!」
僕はザイールを握《にぎ》り直《なお》した。ちくしょう、やっぱ力が入らないや。もうくたくただ。顔を上げると、東|病棟《びょうとう》の屋上《おくじょう》が見えた。近くて遠い。届《とど》くかな。足、動くかな。ああ、あちこち痛《いた》くなってきたぞ。――なんてことを考えていたら、いきなり身体が揺《ゆ》れた。
「う、うわ!」
ものすごい衝撃《しょうげき》だった。ザイールがブンと音を立て、まず東病棟のほうに揺れた。あっさりと三メートルほど。その反動で、今度は西病棟のほうへ。そこでもまた力が加えられ、さらに一メートルほど身体が後方へ投げだされた。
す、すげえ……。
まるでクレーンに振りまわされているみたいだった。それほど圧倒的《あっとうてき》な力を感じた。顔を上げると、マスカラスとドスカラスが給水塔の上に立ち、そのぶっとい四本の腕《うで》でザイールを握っていた。彼らが腕を振ると、ぶうんと唸《うな》りを立てて、ザイールが風を切る。僕の顔にも風が押《お》し寄《よ》せてくる。
なんてこった! 人間の力じゃないぞ、これ! すげえ、すげえよ、世古口兄弟……いや、マスカラス&ドスカラス兄弟!
東|病棟《びょうとう》の屋上《おくじょう》が近づいてくる。もう少しだ。手を伸ばした。ぎりぎり手すりを掴《つか》めなかった。そのまま反動で後ろへ身体が落ちてゆく。壁《かべ》に身体をぶつけ、弾《はじ》かれた。むちゃくちゃ痛《いた》かったけど、なんてことなかった。そうさ、そんなのどうでもいい。チャンスは次だ。身体がどんどん後ろに下がっていく。やがて空間でとまる。
よし、ここだ!
僕は壁を思いっきり蹴《け》った。同時に、上のほうで「うおっりゃあああ――っ!」と叫《さけ》ぶ声がふたつ聞こえた。ザイールを通じて、彼らが大きく腕《うで》を振《ふ》ったことが伝《つた》わってきた。さらに加速《かそく》し、僕は空間を進む。ものすごい勢《いきお》いで東病棟の屋上、その手すりが近づいてくる。風を感じる。圧力《あつりょく》を感じる。希望を感じる。手すりが目前に迫《せま》ってくる。
「いけえええええええぇぇぇ――っ!」
山西《やまにし》の声が聞こえた。
「裕《ゆう》ちゃああああああぁぁぁ――ん!」
みゆきも叫んでいた。
「うああああああああぁぁぁ――っ!」
当然僕も叫んでいた。
ああ、それにしても情《なさ》けねえな。結局《けっきょく》、僕の力じゃなくて、誰《だれ》かの力を借《か》りちまったよ。で
も、いいさ、それでもかまわない。僕が情《なさ》けないことなんてわかってるさ。僕自身のことだしさ。なんだっていいんだ、この手が手すりに届《とど》くのなら、里香《りか》の元へと近づけるのなら。
なあ、そうだろ?
そして――。
僕は思いっきり手を伸ばした。
6
小夜子《さよこ》の病気は特発性《とくはつせい》心筋症《しんきんしょう》だった。特発性心筋症はふたつに、すなわち拡張型《かくちょうがた》と肥大型《ひだいがた》に分けることができる。肥大型は、心筋が文字どおり肥大して、心室《しんしつ》自体が狭《せま》くなるため、収縮力《しゅうしゅくりょく》をなくしていく。心臓病の典型《てんけい》症状《しょうじょう》である動悸《どうき》、眩暈《めまい》、胸痛《きょうつう》、息切《いきぎ》れなどがあり、不整脈《ふせいみゃく》によって突然死《とつぜんし》に至《いた》る可能性《かのうせい》がある。もちろん重い病気だが、こちらにはさまざまな治療法《ちりょうほう》があった。小夜子はその肥大型ではなく、拡張型だった。拡張型は肥大型と違《ちが》い、心筋が伸びきって心室自体が広がってしまう。いわば古くなったゴムのようなものだった。伸びきって、もう元に戻《もど》ることはない……。症状はやはり典型的な動悸、眩暈、胸痛、息切れなどだが、一方的に悪化《あっか》していくことが多く、特に心不全《しんふぜん》の発作《ほっさ》を起こしてしまうと、生存率《せいぞんりつ》は格段《かくだん》に下がる。
五十パーセント。
それが一般に言われている五年生存率だった。つまり、ふたりにひとりは死ぬ。小夜子は一度、東京で発作を起こしていた。それから三年がたち、小夜子は小康《しょうこう》を保《たも》っていた。そもそも根治《こんち》治療は不可能な病気だ。小康とは、つまり望むべく最高の状態《じょうたい》だった。静岡ののんびりした環境《かんきょう》がよかったのだろうと僕たちは言いあっていた。このまま五年、十年と続いていくはずだと思っていた。平均台《へいきんだい》の上をどこまでも歩いていけるのではないかと思いはじめていた。だが、小夜子は……いや、僕たちは平均台から落ちた。
二度目の発作が起きた。
エコー画像《がぞう》に写《うつ》し取《と》られた小夜子の心臓は大きく腫《は》れ上《あ》がっていた。悪いことに、いくつか血栓《けっせん》ができていた。壊《こわ》れかかったポンプにゴミがつまるようなものだ。僕は全力で小夜子に治療を施《ほどこ》してきた。医師《いし》としてのベストを、家族としてのベストをつくしてきた。強心剤《きょうしんざい》、血管拡張剤、アンジオテンシン変換酵素《へんかんこうそ》阻害薬《そがいやく》および受容体《じゅようたい》阻害薬、ベータ遮断薬《しゃだんやく》……ありとあらゆる薬を選択肢《せんたくし》に挙《あ》げ、わずかでも効果《こうか》が認《みと》められれば藁《わら》をも掴《つか》む思いで使ってきた。
しかし、それらの薬はほんの少しの時間を小夜子に与《あた》えたにすぎなかった。
「手術は無理《むり》だな」
宮内《みやうち》先生が静かに言った。
「患者《かんじゃ》が耐《た》えられない」
「はい……」
明らかだった。小夜子《さよこ》の心臓は弱りすぎていた。手術に踏《ふ》み切《き》ったら、途中《とちゅう》でコントロールできない状態《じょうたい》に陥《おちい》るだろう。小夜子は麻酔《ますい》で眠《ねむ》ったまま、なにも知らずにその命を終えることになる。
「夏目《なつめ》くん――」
宮内《みやうち》先生がなにか言いかけたが、しかし結局《けっきょく》その口を閉《と》ざし、検査室《けんさしつ》を出ていった。僕はひとり、薄暗《うすぐら》い空間に残された。透写板《とうしゃばん》にレントゲン写真やらエコー映像《えいぞう》やらがぶら下がっている。そのすべてが、一枚残すことなく、小夜子の死を予告《よこく》していた。僕は医者だ。腕《うで》はいい。周《まわ》りはそう思ってるし、僕にも自負《じふ》がある。それなのに、妻の死を目前《もくぜん》にして、僕はまったくの無力だった。こうして立ちつくしていることしかできない……。
どこで噂《うわさ》を聞きつけたのか、古株《ふるかぶ》の通院|患者《かんじゃ》であるオッサンがやってきて、いい人がいるんだと言ってきた。いや、すげえんだよ、先生。神通力《じんつうりき》って言うのかね。試《ため》しにさ、まあ気休めに行って[#「て」は底本では「た」]みたらどうだい。もちろん信じていなかったけれど、翌日《よくじつ》僕はグレーのみすぼらしいカローラに乗って山道を走っていた。山奥の、それこそ猿《さる》しかいないような場所に、豪奢《ごうしゃ》な家が突然現れた。祈祷師《きとうし》は太った女で、顔を白く塗《ぬ》り、額《ひたい》に赤い顔料《がんりょう》で妙《みょう》な模様《もよう》を描《か》いていた。狐《きつね》である、と祈祷師は言った。狐がついておる。僕は笑いたくなった。狐ですか、そうですか。じゃあコンとでも小夜子は鳴《な》きだすんですかね。僕が正座《せいざ》する前で、祈祷師はわけのわからない奇声《きせい》を張《は》り上《あ》げ、護摩木《ごまぎ》を次々と炎《ほのお》に放《ほう》りこんでいった。護摩木を放りこむたび、炎が青く燃え上がった。下らない小細工《こざいく》だ。護摩木に硫黄《いおう》を塗っただけじゃないか。硫黄が燃えて、妙な炎が上がるだけだ。僕をつれてきてくれたオッサンは、額を畳《たたみ》にこすりつけ、女が唱《とな》えているのと同じ言葉《ことば》を呟《つぶや》きつづけていた。ああ、なにをしてるんだ、僕は。あの下らない炎の仕掛《しか》けはなんなんだ。小夜子は今もベッドの中で苦しんでいる。なのに僕はこんなところで胡散臭《うさんくさ》い連中の胡散臭い仕掛けを前にして跪《ひざまず》いている。ああ、炎がきれいだ。くそ、どこかに燃えうつれよ。あのクソババアのたいそうな服に引火《いんか》して燃え上がれよ。消さないぞ、僕は。煽《あお》ってやるさ。この建物《たてもの》も、クソ祈祷師も、クソ医者も残らず燃やしてくれよ。祈祷料は十万円だった。安いもんだ、先生。オッサンが言った。医者に治《なお》せないものを治してくれるんだよ。僕はにっこり笑い、十万円を置いてきた。
山奥から帰ってきたその足で、僕は病院に向かった。すでに消灯《しょうとう》時間が近く、病院は静まりかえっていた。ふらふらと歩く。体中のあちこちに炎の匂《にお》いがついている。妙なお香《こう》の匂いもする。ああ、くそ、スーツをクリーニングに出さなきゃな。
小夜子は起きていた。
「よう、奥さん」
僕が言うと、小夜子は嬉《うれ》しそうに笑った。
「やあ、旦那《だんな》さん」
唇《くちびる》が真っ青だった。
ん、とその顔をしかめた。
「変な匂《にお》いがするよ、吾郎《ごろう》くん」
僕はその日のことを全部、小夜子《さよこ》に語った。包《つつ》み隠《かく》さず、祈祷師《きとうし》がどれほど胡散臭《うさんくさ》かったか、それなのにオッサンが信じ切っていたとか、十万円を置いてきたとか、すべて喋《しゃべ》った。それを聞いた小夜子は、ニコニコ笑った。
「儲《もう》かったね、祈祷師さん」
「ああ、ぼろ儲けだ。しかもさ、あの女、これから絶対《ぜったい》僕のことをネタにするぞ。うちにはお医者様もご祈祷《きとう》にきたことがあるんですよって」
「あ、吾郎くん鋭《するど》い」
「たまんねえよな、あはは」
僕が笑うと、小夜子も笑った。
病室の中に響《ひび》くのは、僕たちの声だけだった。照明《しょうめい》がやけに薄暗《うすぐら》く感じられた。窓の外には、深い闇《やみ》が広がっている。あの闇の中に、いつか……いや、近いうちに小夜子は飲みこまれてしまうのだろう。僕はじっと目を凝《こ》らしたけれど、闇は闇でしかなかった。僕はそこに、なにも捉《とら》えることはできなかった。
気がつくと、小夜子も窓の外を見つめていた。
「あたしね、ずっと男の人が怖《こわ》かった」
「え?」
「お父さんね、造船会社に勤《つと》めていたのね。ほら、高度成長期で、ものすごく忙《いそが》しかったんだって。だから、週にほんの何回かしか帰ってこなくて、ほとんどお父さんに会わないまま六歳くらいまで育ったの。たまにお父さんと会うと、すごく怖かったよ。知ってる? 子供ってね、自然と男の人を怖がるものなんだよ。その上、滅多《めった》に会わないでしょ。ほんと怖くてしかたがなかった。お父さんとご飯食べるときね、あんまりにも怖いから、いちいちお父さんに聞いてたもの。ご飯食べていいですかとか、牛乳飲んでいいですかとか」
「牛乳?」
「そう、身体にいいからって、子供のときはお茶じゃなくて牛乳だったの」
「それでおまえ、今でもご飯食べるとき、たまに牛乳飲むんだな?」
えへへ、と小夜子は笑った。
「うん、そう」
「そのわりには身長伸びなかったよな」
「うんうん。胸《むね》も大きくならなかった」
あはは。
うはは。
「お父さんと違《ちが》って、吾郎《ごろう》くんは怖《こわ》くなかったよ。高校のころの友達はみんな怖い怖いって言ったけど、全然怖くなかったよ」
「当たり前だ」
断言《だんげん》しておく。
「オレは優しい男だ」
あはは。
うはは。
「吾郎くん」
「ん?」
「先に死んじゃうけどごめんね」
あはは。
うはは。
僕は小夜子《さよこ》の言葉《ことば》を否定《ひてい》したかった。そんなことねえよと言いたかった。それがもちろん気休めでしかないことは僕も小夜子もわかっていたけれど、最後まで希望を持とうと言いたかった。なあ、小夜子、僕たちはそろって生きていくんだ。同じように年をとってさ、そのうちダサイい服を着るオッサンとオバサンになって、やがてはジイサンとバアサンになるんだ。そりゃケンカもするだろうさ。嫌《いや》なこともたくさんあるだろう。でも、もっともっとたくさんのいいことや楽しいことがあるはずだ。そういうのをいっぱい、それこそ両手に抱《かか》えきれないぐらい味わいながら、いっしょに生きていこうぜ。
ねえ、吾郎くん。
頭にふと、小夜子の顔が浮《う》かんだ。
楽しいね、吾郎くん。
それは今よりも、目の前にいる小夜子よりもずっと若い、高校のころの彼女だった。出会ったばかりのころ、城址《じょうし》公園に出かけた。なにがきっかけだったのか、今となってはもう覚《おぼ》えていないけれど、夕方の城址公園で初めてのキスをした。
そのあとの、ぬくもり。
優しさ。
「人に見られたよ、きっと」
そんな小夜子の声。
僕は今、そのすべてを失おうとしていた。
記憶《きおく》なんて、なんの役にも立たない。いつかは消えてしまうものだ。そばにいれば、笑ってくれていれば、記憶は残りつづけるだろう。なぜなら積み重なっていくからだ。そしてそれは光《ひか》り輝《かがや》くだろう。けれどいなくなってしまえば、もう記憶が積み重な[#「な」は底本では無し]ることはない。ただ置き去りにされ、雨に打たれ、風に晒《さら》され、だんだんとその色を失っていくだけだ。そしていつか、そこにそんなものがあったことさえも忘《わす》れてしまうに違《ちが》いない。
なぜなら、我々はそういう生き物だからだ。
「一日でもいいからさ。一分でも、一秒でもいいからさ。できるだけ長く生きてくれよ。頼《たの》むよ、小夜子《さよこ》」
うん、と彼女は肯《うなず》いた。
「頑張《がんば》る」
その言葉《ことば》のとおり、小夜子は頑張った。
一年間、持ちこたえた。
7
最後の問題は、屋上《おくじょう》から里香《りか》の病室への絶壁《ぜっぺき》だった。マスカラスとドスカラスが放《ほう》り投《な》げてくれたザイールと金具のおかげで、意外《いがい》と簡単《かんたん》にその問題はクリアできそうだった。それにしても、月光に照《て》らされたマスカラス&ドスカラス兄弟のシルエットは実に美しかった。まるで崖《がけ》に並《なら》び立《た》つ兄弟|狼《おおかみ》みたいだ。東|病棟《びょうとう》の屋上で僕がぐっと親指を立てると、マスカラス&ドスカラス兄弟もぐっと親指を立ててきた。その隣《となり》で、山西《やまにし》もぐっと親指を立てていた。みゆきは……ああ、さすがに恥《は》ずかしいのか、そっぽを向いている。あ、こっち見た。なんだろう。変な顔してるな、あいつ。唇《くちびる》を尖《とが》らせて、まるで拗《す》ねてるみたいじゃないか。ったく、女って生き物はほんとわけわかんねえよ……。
ザイールの一端《いったん》を手すりに固定《こてい》し、僕は絶壁に足をかけた。里香の病室のベランダ、というかその庇《ひさし》まで、およそ七メートルほどだ。前にも似《に》たようなことを一回やってるし、なにしろさっきまでもっと恐《おそ》ろしいことをしてたばかりなので、ほとんど恐怖《きょうふ》を感じなかった。するするとザイールを伸ばし、あっさり庇に足がつく。それから庇にしがみつくようにして、ベランダに降《お》り立《た》った。ついに、たどり着いたんだ。
僕は身体に巻《ま》いたハーネスとザイールをはずし、大きく息《いき》を吸《す》った。
そして。
振《ふ》り向《む》き、空を見上げた。
半分の月が輝《かがや》いていた――。
それがわかれば大丈夫《だいじょうぶ》だった。
僕は顔を元に戻《もど》すと、目の前にあるガラスをノックした。コツコツ。乾《かわ》いた音が乾いた空気を震《ふる》わせる。コツコツ。里香が起きているかどうかはわからない。いや、起きていたって、里香がベッドから出るのはおそらく無理《むり》だろう。でもお母さんがついているはずだ。怒《おこ》られるかな。怒《おこ》られるよな、そりゃ。
中で誰《だれ》かが動く気配《けはい》がした。その直後、カーテンが開けられた。里香《りか》のお母さんは驚《おどろ》いた顔で僕を見た。聞こえるかどうかわからなかったけれど、開けてくださいと僕は言った。お願いします。少しでいいんです。すぐに出ていきます。だから開けてください。
お母さんの目が吊《つ》り上《あ》がった。とんでもなく怒っていた。激高《げっこう》していた。その怒《いか》りのまま窓を開け、食いかかってきた。
「あなたね、いい加減《かげん》に――」
ここまで怒《いか》り狂《くる》った大人を見るのは久しぶりだった。とにかく言葉《ことば》は支離滅裂《しりめつれつ》だし、唾《つば》はばしばし飛んでくるし、顔は真っ赤だし、あまりの勢《いきお》いに一歩後ろに下がってしまった。でもそのとき、お母さんの背後《はいご》に白いものが見えた。ベッドの一部だ。あそこに里香がいる。
僕はお母さんの目を見据《みす》え、言った。
「里香と話させてください」
思いっきり頭を下げる。
「非常識《ひじょうしき》なことはわかってます。悪いと思ってます。でも、話したいんです」
「断《ことわ》ります!」
怒りに震《ふる》える声を投げつけられた。
ああ、やっぱ駄目《だめ》なのか……。
こうなったら強行突破《きょうこうとっぱ》しかないかと思っていると、声がした。
「裕一《ゆういち》、いいよ」
里香の声だった。
「入っていいよ」
僕はびっくりして、慌《あわ》てて顔を上げた。僕の目の前にいるお母さんもひどく驚いた顔で後ろを見ていた。そのお母さんが、ふたたびこちらを見た。彼女の瞳《ひとみ》には強い光が宿《やど》っていた。さっきとはまた違《ちが》う光だ。しばらくして、気づいた。ああ、これはたぶん……憎《にく》しみだ。
そうか。
この人は今、里香を僕に取られようとしているんだ。夫の死後、里香とともにこの人は生きてきた。そしてその娘もまた、夫と同じ病気で死にかかっている。娘が死に取られることはわかっていただろう。どこかで覚悟《かくご》ができていたかもしれない。でも、僕に、こんな情《なさ》けない男に取られる覚悟はしていなかったに違いない。
この人の、たったひとつの希望を、僕は奪《うば》おうとしている……。
お母さんの強い眼光《がんこう》をまともに受けながら、僕は揺《ゆ》れる心を抑《おさ》えつけた。決めなきゃいけないんだ。時間はない。ほんの数秒。その数秒で、僕の人生は決まる。里香の人生も、お母さんの人生も決まる。僕は頭上《ずじょう》を見た。ああ、そうか、迷《まよ》うことなんてないんだ。どうせもう、あの壁《かべ》を這《は》い上《あ》がって屋上《おくじょう》に戻《もど》ることなんてできないじゃないか。だとしたら病室に入るしかない。そうさ、そうだよな、もう決まってたんだ。
頭のすみっこに、半日前の光景《こうけい》が蘇《よみがえ》ってきた。
隣《となり》の病室に入院している大学生と、その彼女になりかかっている女の人の姿《すがた》を見たあと、僕は自分の病室に戻《もど》った。そこには夏目《なつめ》がいた。窓枠《まどわく》に腰《こし》かけ、あろうことかタバコを吹かしていた。病院の、しかも病室でタバコを吸う医者なんて普通《ふつう》いるか?
僕はさすがに呆《あき》れ果《は》て、ため息《いき》とともに言った。
「なにしてんすか」
さっき大学生の楽しそうな光景《こうけい》を見たあとだけに、やたらと気分がよくて、夏目のやっている不作法《ぶさほう》にもそれほど腹が立たなかった。
「おまえを待ってたんだよ」
「僕を?」
まあ、そりゃそうだ。僕の病室なわけだし。
このとき、僕は夏目がひどく真剣《しんけん》な瞳《ひとみ》をしていることに気づかなかった。てっきり、僕をからかいに来たんだと思っていた。
でも違《ちが》ったんだ。
「なあ、戎崎《えざき》。おまえさ、運命とか未来とか、押《お》しつけられるもんだと思ってねえか」
「は、はあ」
「運命も未来もおまえ次第《しだい》なんだよ。おまえはこういうのコッ恥《ぱ》ずかしいと思ってるんだろうがな、逃《に》げることなんてできねえんだよ。おれたちはそういうコッ恥ずかしい場所でコッ恥ずかしく生きるしかねえんだ。そして運命や未来がおまえの思うとおりにいきそうにないんだったら、それを否定《ひてい》しろ。曲《ま》げてやれよ。できるかもしれねえし、できないかもしれねえ。でも唯々諾々《いいだくだく》と従《したが》うよりはマシじゃねえか。たった一パーセントの可能性《かのうせい》にでも賭《か》けてみろよ」
わかるだろ、と夏目は言った。
「里香《りか》のためだと思えば、なんだってできるだろ。本当に欲しいものは自分の手で強引《ごういん》に掴《つか》み取《と》れよ。おまえの両手はそのためにあるんだぜ」
そして夏目は白衣《はくい》の裾《すそ》を翻《ひるがえ》し、去っていった。彼の背中《せなか》は恐《おそ》ろしく小さかった。その小さな背中はたったひとりきりで歩いていた。そう、夏目はひとりきりだった。
正直に言って、僕は途方《とほう》に暮《く》れていた。
いきなりやってきて、いきなりわけのわからない言葉[#「言葉」は底本では「こと言葉」]《ことば》を次々ぶつけられたのだ。戸惑《とまど》うなってほうが無理《むり》だ。あのとき、僕は立ちつくすしかなかった。
でも、今は違う。
わかった。
夏目《なつめ》の言いたかったことが、そっくり、なにからなにまでわかった。
僕の……いや、僕たちの両手はなにかを掴《つか》むためにあるんだ。
今が、そのときだった。
僕はお母さんの脇《わき》を抜《ぬ》けた。肩《かた》がぶつかって、お母さんの小さな身体がぐらりと揺《ゆ》れた。ごめんなさい。心の中でだけ、謝《あやま》っておく。僕はあなたから娘を奪《うば》います。残り少ない日々を独《ひと》り占《じ》めにするつもりです。ごめんなさい。
足は震《ふる》えなかった。
心は決まっていた。
一歩進むと、薄闇《うすやみ》の中にぼんやりと女の子の輪郭《りんかく》が浮《う》かび上《あ》がった。二歩進むと、なんとなく顔がわかった。三歩進むと、笑顔《えがお》が見えた。
僕もそして、笑っていた。
「裕一《ゆういち》のバカ」
ああ、いきなりけなすかな、この女は。
「まさかベランダから来るとは思わなかった」
「僕が来るって思ってたのか?」
「きっと裕一のことだから、ドアのところで喚《わめ》いてママに追《お》い返《かえ》されると思ってた」
「そんなみっともないこと、僕がするわけないだろ」
いやまあ、確かにその可能性《かのうせい》のほうが高かったな。うん。もしそのパターンだったら、絶対《ぜったい》追い返されてたな。
里香《りか》はすっかり痩《や》せていた。
「なあ、里香」
時間がない。
無駄口《むだぐち》叩《たた》いてる場合じゃないだろ。
「なに」
まだ笑ってる里香に、僕は言った。
「そばにいていいか? ずっとずっとさ、そばにいていいか?」
さすがにびっくりしたのか、里香が僕の顔をじっと見つめてきた。薄い闇の中で、意志《いし》の光が輝《かがや》いている。同じ瞳《ひとみ》を、僕は前に見たことがあった。あれはいつだったっけ。ああ、そうだ。砲台山《ほうだいやま》に行こうって言ったときだ。
「そんなに長くはないよ」
里香は細い声で言った。
「でも短くもないよ」
「わかってる」
「裕一《ゆういち》、あたしのためになにもかも諦《あきら》めなくちゃいけなくなるよ」
「それもわかってる」
僕は腕《うで》を伸ばした。とめられた一分と同じときの[#のときと同じ]ように、自然と動いていた。里香《りか》が布団《ふとん》から手を出してきて、やっぱり同じように、僕の人差し指の先を握《にぎ》ってきた。
ふたたびの、とめられた一分だ。
今回も許《ゆる》されている時間はそれくらいだろう。いつまでも話して、里香の身体に負担《ふたん》をかけるわけにはいかない。その貴重《きちょう》な一分のあいだに、僕は里香の言葉《ことば》の意味をもう一度考えた。なにもかも諦めなくちゃいけなく[#「ちゃいけなく」は底本では無し]なるって言ったよな、里香。わかってるって答えちゃったけど、ほんとはわかってないのかもな。なにしろそんな体験したことないしさ。でも、かまうもんか。今の気持ち、この胸《むね》の中にあるもの、はっきりと定《さだ》まっているもの、それは絶対《ぜったい》に本物だ。
なあ、裕一、戎崎《えざき》裕一、おまえにとって一番|大切《たいせつ》なものはなんだよ?
実に簡単《かんたん》な問いだった。今この瞬間《しゅんかん》、答えが目の前にあった。答えが僕の人差し指を握っていた。僕が笑うと、答えも笑った。それはひどく素直《すなお》な笑《え》みだった。
「ずっといっしょにいようぜ、里香」
「うん」
里香は肯《うなず》いた。
「ずっといっしょにいよう」
僕はこの子を守って生きていくんだ。
これほどすばらしいことが他にあるだろうか?
8
夏目《なつめ》の話が終わったとき、すでに時計は三時を指していた。夏目はさっきから黙《だま》りこんでいる。その目は空間のどこかを、いや……ここではない場所を見つめていた。
「一年か。よく頑張《がんば》ったね」
「ああ」
視線《しせん》を動かすことなく、夏目は肯《うなず》いた。
「たいしたもんだったよ。でもな――」
「うん?」
「結局《けっきょく》、なにもかも消えちまったんだよ。あのガキ、裕一もな、そのうちそっくり同じ目にあうことになるんだ。里香の病気に完治《かんち》はない。これからもずっと低空飛行だ。ちょっと高い山が現れたらよけられない。終わりだよ。しかも、そういったことに裕一は振《ふ》りまわされつづける。あいつはなんにもわかってねえんだ。結局、いつかすべてを失っちまうんだよ」
ちっ、と谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》は舌《した》を鳴《な》らした。
「あのさ、それがなんだよ。そりゃあんたにとっては……ああ、あんたの友達はそうだったかもね。裕一《ゆういち》もそうなるだろうさ。だけど、里香《りか》にとっちゃ違《ちが》うんだよ」
「どういう意味だよ?」
夏目《なつめ》の殺気《さっき》だった問いには答えず、亜希子はポケットからタバコの箱を出した。一本取りだそうとするが、なにしろ残りが一本で、そいつが奥に入ってしまった上に箱が潰《つぶ》れてるものだから、なかなか出てこない。ようやく引《ひ》っ張《ぱ》りだして、変な角度に曲がったそいつを口にくわえて火をつけながら夏目のほうを見ると、彼は弱々しい目でこちらを見ていた。ああ、なんだかな。この意地悪《いじわる》わがまま男が泣きそうな顔しやがって。
「この病院に来たころの里香ってさ、そりゃもうひどいもんだったよ。いつも機嫌《きげん》悪いわ、わがままだわ、新人|看護婦《かんごふ》泣かすわ。最低最悪の患者《かんじゃ》だったね。病院だからさ、人が弱ってる場所だから、そりゃ患者はだいたいわがままだよ。でも里香は群《ぐん》を抜《ぬ》いてたね。ほんと、ろくに笑いもしないんだよ。あの年ごろの女の子が笑わないなんておかしいだろ。でもさ――」
タバコを吸い、その煙《けむり》をゆっくりと吐きだす。
「――あの子、裕一といっしょだと笑うんだよね。もうお手上げでさ、どうしようもなくって、あたしはむりやり理由《りゆう》作って裕一にあの子の面倒《めんどう》押《お》しつけたんだ。そうしたら、あの子、ちょっとずつ笑うようになってさ。今じゃしょっちゅう笑ってるんだよね。食欲のないときもご飯食べるようになったしさ。痛《いた》い治療《ちりょう》も我慢《がまん》するようになったし。こういうこと、裕一のクソガキは気づいてないんだろうけど、ほんとものすごい変わったんだ。そりゃ、里香の命が延《の》びたわけじゃないよ。あの子はいつか死んじゃうのかもしれない。だけど、ろくに笑わないまま死ぬのと、今みたいに笑いながら死ぬのと、どっちが幸せだと思う?」
「…………」
「あんたらみたいな薄《うす》っぺらいプライドできゅうきゅうしてる男どもはどうか知らないけどさ、女ってのはたとえ短くても……いや、短いからだけどさ、思いっきり幸せで思いっきり笑える瞬間《しゅんかん》があればそれだけでなんか納得《なっとく》できるんだよ。そういうのだけで生きていけるんだ。里香は、あの子は今、幸せだよ」
「残されるほうはどうなるんだよ?」
抗議《こうぎ》の声。けれど弱々しい声。
もちろんまったく容赦《ようしゃ》することなく、亜希子は言い放った。
「耐《た》えるんだね」
「くそっ、あっさり言いやがって」
「だってそれしかないじゃん。だいたいさ、まあ考えてみなよ。裕一の立場になってさ、あんたの知り合いの誰《だれ》かさんでもいいや、その立場になってさ、ちょっと想像力《そうぞうりょく》を働かしてみなよ。一番|大切《たいせつ》だったのはなに? 自分の幸せ? それとも大切な人の幸せ?」
「…………」
「どっちなわけ?」
「…………」
「大切《たいせつ》な人の幸せじゃないの?」
夏目《なつめ》は答えなかった。ただ肩《かた》を落として黙《だま》りこんでいる。
そんな姿《すがた》をしばらく眺《なが》めたあと、亜希子《あきこ》は目を閉じた。そうして訪《おとず》れたのは闇《やみ》ではなかった。月がのぼっていた。満月ではない。半分|欠《か》けた月だ。空気は澄《す》んでいる。だから光は冴《さ》えている。けれどしょせん、それは半分の月の光でもある。満月の輝《かがや》きにはほど遠い。世界は薄《うす》い闇《やみ》に沈《しず》んでもいる。亜希子には見える。そんな光の中を、肩《かた》を寄《よ》せ合《あ》って歩く少年と少女の姿が見える。少女が怒《おこ》る。少年が無様《ぶざま》に謝《あやま》る。相変わらず少女は怒っているふうだが、実は幸せそうに笑っている。そう、自分は知っているのだ。あの子は笑っている。そのことに少年が気づくのはずっと先だろう。なにもかも失ってしまったあとになるかもしれない。
どこまでも行きなよ。亜希子は呟《つぶや》いた。行けるところまで行きな。あんたたちはどこまでだって行ける切符《きっぷ》を持ってるんだ。手の中を見てみな、ちゃんと握《にぎ》りしめてるからさ。それ、ほとんどの人は持てない切符なんだよ。あんたたちはその貴重《きちょう》な切符をもう持ってるんだ。
目を開け、ふたたび夏目を見ると、彼は頭を抱《かか》え、身体を丸めていた。その肩が、背中《せなか》が、小さく震《ふる》えている。彼を抱《だ》きしめてやりたくなったけれど、それはすべきじゃないとわかっていた。やっちゃいけないんだ。自分は夏目の人生を背負《せお》ってあげることなんてできない。ずっとそばにはいられない。
冷たいのかな、あたし……。
そんなことを考えていたら、ふいに思いだした。
ああ、そうか。
「コケたら自分で立て」
厳《きび》しかった父親は、いつもそう言っていた。初めて自転車に乗ったとき、まあわりと早く乗れるようになったほうだったけど、それでも何度も何度もコケた。膝《ひざ》をすりむいた。肘《ひじ》をすりむいた。赤い血が滲《にじ》んで、傷口《きずぐち》がじんじん疼《うず》いた。でも、ほんとに辛《つら》かったのは、その痛《いた》みじゃない。買ってもらったばかりの自転車が、ピンクの補助輪《ほじょりん》つき自転車が、あっという間《ま》に瑕《きず》だらけになったことだった。
「亜希子、コケたら自分で立て」
自分は傷だらけで、大切な自転車も瑕だらけで、半べそをかいているのに、そばにいた父親はそう言った。まあ、今になって考えてみれば、実に理不尽《りふじん》だ。初めて乗った自転車だ。コケるに決まってる。だいたい四歳とか五歳の子供だ。コケれば泣《な》き喚《わめ》く。実際《じっさい》泣いた。喚いた。
けれど、父親は言ったのだ。
自分で立て、と。
つまり、きっと、おそらく、そういうことなのだ。
夏目《なつめ》は自分で立たなきゃいけない。
「外でタバコ吸ってくる。なんかあったら呼《よ》びな」
だから亜希子《あきこ》はそう言って、ナースステーションを出た。タバコの火が、ゆらゆらと目の前で揺《ゆ》れている。ああ、もう、曲がりすぎだよ、このタバコ。タバコの火。赤い蛍《ほたる》。ゆらゆらと揺れている。
心の中で、さっき飲みこんだ言葉《ことば》を言ってみた。
だったらさ、それってもう全部|叶《かな》ってるじゃない。自分のことなんかどうでもよくて、相手のことがなによりも、それこそ世界全部よりも大切《たいせつ》で、その相手が笑ってくれるんならどうでもいいって思えたりするもんだろ。もうさ、すでにさ、そのとおりのことができてるんだ。この先なにがあろうと、里香《りか》がとっとと死のうと、裕一《ゆういち》はその望みを叶《かな》えてるんだ。あのクソガキは、あんたの知り合いの誰《だれ》かさんは、自分でも気づかないうちにね、いつのまにかすべてを手に入れてるんだよ。すでにさ。
[#改ページ]
幻《まぼろし》のような夜が明けた。そして、いつもどおりの、当たり前の朝がやってきた。いきなり亜希子《あきこ》さんに叩《たた》き起《お》こされ、脇《わき》に体温計を突《つ》っこまれた。亜希子さんはなぜか目が腫《は》れていて、すごく眠《ねむ》そうだった。徹夜《てつや》でもしたんですかと言ったら、うっさいと叩かれた。ああもう、いきなり叩くかな、この人は。
「あんたこそ、どうしたのさ」
「え?」
「顔色、むちゃくちゃ悪いよ」
「そ、そうですか」
慌《あわ》てて腕《うで》を上げて頬《ほお》を触《さわ》ったら、パジャマの袖《そで》がずれて、腕が露《あらわ》になった。それを見た亜希子さんが、ああんと低い声を出した。
「ちょっと見せな、裕一《ゆういち》」
「ああ、なにするんすか!」
「だから、見せなって」
亜希子さんは僕のパジャマのボタンを強引《ごういん》にはずしていった。うわわ、脱《ぬ》がされる。僕は慌てふためいて逃《に》げようとしたが、亜希子さんから逃げられるわけもなく、最後のボタンふたつは弾《はじ》け飛《と》んで、いきなり上半身|裸《はだか》にされてしまった。
「なに、その傷《きず》?」
「え、えっと」
「どうしてそんなボロボロになってるわけ?」
壁面《へきめん》を振《ふ》り子《こ》のように揺《ゆ》れているとき、僕は身体のあちこちをぶつけた。肩《かた》も背中《せなか》も腹も腕《うで》も足もぶつけた。そのせいで、擦《す》り傷《きず》と打《う》ち身《み》が僕の全身を埋《う》めつくしていた。
「あんた、なにしたの? しかも酒臭《さけくさ》いんだけど?」
「あ、あはは」
「なにしたって聞いてんだよ? ああん?」
すげえ迫力《はくりょく》だった。いつもより、さらにすごい。半分しか開いてない目が据《す》わっている。あやうく全部ゲロりそうになったが、どうにか堪《こら》えた。昨晩のことは、僕と里香《りか》だけのものだ。誰《だれ》にも分《わ》け与《あた》えたりするもんか。たとえ亜希子《あきこ》さんでも。
珍《めずら》しく強情《ごうじょう》な僕に、亜希子さんは信じられないという顔をした。
「あんた、なんか変なもの食った?」
「いや、別に」
「まあ、いいや。くそっ。なんか男ってわけわかんねえ」
ぶちぶち言いながら、亜希子さんは去っていった。
男? わけわかんない?
いったいなにがあったんだろう。
それにしても、昨晩の出来事《できごと》は夢のようだった。あのあと、僕はほんの少しだけ里香と言葉《ことば》を交《か》わして、ドアから病室を出た。病室の前には司《つかさ》と山西《やまにし》、それにみゆきが待っていた。鉄《てつ》さんはすぐに帰ってしまったそうだ。どうもよくわからないけど、鉄さんはやたらと怖《こわ》がって、おじいさんがおじいさんがと呟《つぶや》いていたらしい。あの鉄さんが怖がるなんて妙《みょう》な話だった。
僕が笑うと、みんなも笑った。
山西は恥《は》ずかしげもなく、親指を立ててきた。
「さて、屋上《おくじょう》にでも行くか」
朝食を取ったあと、僕は『チボー家の人々』とカメラを持って、屋上に向かった。天気がよかったので日向《ひなた》ぼっこをしたかったし、昨日なにか置《お》き忘《わす》れたりしていないか確かめておく必要《ひつよう》があった。
その屋上に、夏目《なつめ》がいた。あれ、夏目も眠《ねむ》そうな顔をしてる?
「おはようございます」
いちおう敬語《けいご》で挨拶《あいさつ》しておく。
「おう」
夏目は不機嫌《ふきげん》そうに言った。なぜか僕のほうを見ようとしない。手すりにもたれかかり、伊勢《いせ》の町を見つめていた。その隣《となり》で、同じように僕も伊勢の町を見つめる。ああ、しょぼいな。夢の中で見た東京とはものすごい差だ。
「戎崎《えざき》」
「なんすか」
「そのカメラ、直ったのか?」
「いや……まだです……直るかどうかわかんないし……」
貸《か》せと言ったあと、返事をする間《ま》もなく夏目《なつめ》が僕の手からカメラを取り上げた。あちこちいじっている。ああ、やめろよ。壊《こわ》れたらどうすんだよ。大切《たいせつ》な写真が入ってるんだぞ。里香《りか》の拗《す》ねた顔が写《うつ》ってるんだ。照《て》れた顔もあるんだぞ。それにイーだも。返せ、返せよ、夏目。
「ああ、駄目《だめ》だな、こりゃ」
夏目はあっさり言った。
「完全にフィルムを噛《か》んでるな」
「わかってますって。だから返してくださいよ」
「うるさい。ったく、ぎゃあぎゃあ騒《さわ》ぎやがって。ムカつくから、おまえちょっとこっち来い。おら、来いって」
髪《かみ》を引《ひ》っ張《ぱ》られ、ずるずると引きずられる。
「な、なにすんですか!」
「うるさいぞ」
「痛《いた》い痛い痛い!」
「あはは」
「笑い事じゃないですって! ああっ、もうっ! 離《はな》してくださいよ! つか離せ! 離せって、バカ医者!」
「うはは」
そのままなぜか検査室《けんさしつ》まで引っ張っていかれた。しかし中に入ったのは夏目だけで、僕は廊下《ろうか》に放《ほう》りだされた。床《ゆか》に尻餅《しりもち》をつき、頭を抱《かか》える。引っ張られた頭皮《とうひ》がむちゃくちゃ痛かった。
「バカ医者! ハゲたらどうすんだよ!」
怒《いか》りのままに、僕は叫《さけ》んだ。遠くを歩いていた看護婦《かんごふ》さんがびっくりしてこっちを見てきたけど、知ったことか。僕はふたたび罵《ののし》った。
「返せ! カメラ返せよ! このバカ!」
大事なものなんだぜ。僕は検査室のドアノブを掴《つか》み、がちゃがちゃまわした。しかし、中から鍵《かぎ》をかけているらしく、ドアは開かなかった。バカ医者! 返せよ! なに考えてんだよ、おい! 開けろ開けろって!
いきなり開いた。
ドアに額《ひたい》をぶつけ、その反動で後ろに転《ころ》げた。
見事《みごと》な後転《こうてん》を決めた僕は、しゃがみこんだまま、出てきた夏目と見つめあった。
「おまえ、なにしてんの?」
「いや……」
「ほれ」
小さな固《かた》まりが飛んでくる。
フィルム、だった。
「ちゃんと巻《ま》き取《と》っておいたから、これで大丈夫《だいじょうぶ》なはずだ。ただフィルムに瑕《きず》がついてるから、現像《げんぞう》に出すときはそこらのコンビニじゃなくて、ちゃんとカメラ屋に持ってけよ。で、事情《じじょう》を説明《せつめい》して、手焼きしてもらえ。噛《か》んだとこまでのコマは全部残ってるはずだ」
「…………」
「それにしても、おまえ、いいカメラ持ってるな。ニコンのF2かよ。おまえなんかにはもったいないくらいだな。ほれ、大事にしろ」
僕にカメラを渡《わた》すと、夏目《なつめ》は去っていった。僕の手にはカメラとフィルムだけが残った。カメラは壊《こわ》れなかった。そしてフィルムも無事《ぶじ》だった。そのフィルムには里香《りか》の姿《すがた》が写《うつ》っている。照《て》れた顔、拗《す》ねた顔、イーだ……僕はそのすべてを手に入れることができるんだ。
「なつめせんせえええええええぇ――――っ!」
角を曲《ま》がるその背中《せなか》に向かって、僕は叫《さけ》んだ。それまでの夏目に対する怒《いか》りも憤《いきどお》りもその他の感情もすべて吹き飛んでいた。いや、それらがまとまって別の感情になっていた。考えてはいなかった。自然と出た言葉《ことば》だった。夏目の動きがとまった。先生なんて呼《よ》ばれてびっくりしたのかもしれない。
「ありがとうございましたあああ――――っ!」
僕は深々と頭を下げた。
十秒くらい、そのままでいた。
頭を上げたとき、夏目の姿は消え去っていた。
そして――。
フィルムが僕の手の中にあった。
照れた顔。
拗ねた顔。
イーだの顔。
すべて写ったフィルムがあった。
[#地から2字上げ]おわり
[#改ページ]
あとがき
先日、うちの庭先に柄《がら》のはっきりした三毛猫《みけねこ》がやってきました。
三毛猫ってのは、遺伝的《いでんてき》に必《かなら》ずメスなんですが、その三毛猫と猫一号さんが窓越しに見つめあうこと丸一時間。うわーうわー、これってミニ猫集会なんだろうか。それともデートなんだろうか。
というわけで、こんにちは。
なんだか友達のデート風景《ふうけい》を見ちゃったような気分の橋本《はしもと》紡《つむぐ》です。
さて、猫話はこれくらいにして、本題に入りましょう。
早いもので、『半分の月がのぼる空』もついに四巻です。しかも巻を重ねるごとに厚くなっているような気が……。基本的に『半分の月がのぼる空』は三百ページを超《こ》えないようにしようと思っているんですが、いろいろ思い入れがあるせいか、つい書きすぎてしまうみたいです。読みごたえがあるということにしてやってください、はい。
でもって、今回はちょっと意外《いがい》な展開《てんかい》に突入《とつにゅう》してます。
章タイトルを見ればわかることなんですが、全体の半分ほどを夏目《なつめ》のエピソードが占めており、この巻の主人公は夏目と言ってもいいくらいになってます。実を言うと、当初《とうしょ》の予定では、四巻は夏目の話だけで終わらせるつもりでした。夏目のために、丸一巻を費《ついや》したかった。ただ、それだと裕一《ゆういち》と里香《りか》のほうが一年近く放《ほう》りっぱなしになっちゃうので、さすがにまずいだろうということで、考えに考えた末、こういう形になりました。
裕一には裕一の思いがあります。
そして。
夏目には夏目の思いがあります。
もちろん、だからといって夏目という人間の欠点《けってん》――自分勝手なところや、どうしようもない傲慢《ごうまん》さ――が許《ゆる》されるわけではないのだけれど。
この巻は、書いてて僕自身がいろいろ考えさせられました。
答えみたいなものを、書き終わった今も見つけられないでいます。
えーと、それから。ファンレター、いつもありがとうございます。巻を重ねるごとにいただく量が増《ふ》えているんですが、ちゃんと全部目を通してますよ。返事もちゃんと出してる……つもりですが、もし着いてないって方がいましたら、「おい、返事来てねえぞ!」って手紙をもう一回送ってやってください。慌《あわ》てて出します、はい。
ファンレターといえば、「猫《ねこ》はごはんと言えるのか?」という調査《ちょうさ》は今も実行中です。たぶん五十通くらいかな、「言えますよ! うちの猫も言います!」ってな手紙をいただいておりますです。やっぱ言えるってことで確定《かくてい》っぽいっす。とか主張《しゅちょう》してたら、あっさり反論《はんろん》されました。
「それは全国に猫バカがたくさんいることを証明《しょうめい》しているだけなのでは?」
むむう。
そうかもしれません。
そんなとき、状況《じょうきょう》をさらなる混沌《こんとん》へと導《みちび》く新たな仮説《かせつ》が、ファンレターとともに届《とど》きました。
「うちの犬もごはんって言いますよ。犬には発音が難《むずか》しいみたいで、『わっふぉー』って聞こえますけど。ごはんって言おうとしてるみたいです」
なんてこった。
まさか犬も言えるとは。
この本を読んでいる犬バカ……いや、犬飼《いぬか》いのみなさん、実際《じっさい》はどうなんでしょうか?
では、そろそろ謝辞《しゃじ》を。
まずはイラストをつけてくださっている山本《やまもと》さん、いろいろ思ってもみなかった展開《てんかい》になりかかってますが、お互《たが》いに頑張《がんば》りましょう。どうなっちゃうんでしょうね、僕たち。それからデザイナーの鎌部《かまべ》さん、カバーを手に取るたびに驚《おどろ》いてます。負けない仕事をしたいっす。編集|徳田《とくだ》さん、すいません&ありがとうございます。あまり自信を持てないんでいるんですが、期待《きたい》に応《こた》えられるように頑張ろうと思ってます。そして今回はいろいろと専門的なことを書いたので、某《ぼう》クリニックの玉田《たまだ》先生に取材《しゅざい》をお願いしました(当然のことですが、文中に錯誤《さくご》があった場合、その責《せき》はすべて橋本が負《お》います)。身体の面倒《めんどう》をみてもらっている上に、小説の面倒までみてもらうことになるとは……。本当にありがとうございました。
もちろん、最大の感謝《かんしゃ》はこの本を手にとってくださった読者のみなさんに。
SFでもなければファンタジーでもない『半分の月がのぼる空』は、ライトノベルの中ではかなり異色《いしょく》なほうみたいです。その作品をこうして書き続けていられるのは、みなさんのおかげです。ほんと感謝してます。もう少しだけ続く予定なので、これからもよろしくお願いします。次はちゃんと、裕一《ゆういち》と里香《りか》を巡《めぐ》る話になると思います。あと、時期《じき》ははっきり決まってないんですが、『毛布《もうふ》おばけと金曜日の階段』に似《に》た話を書くことになるかもしれません。設定《せってい》だけだと暗《くら》い話っぽいですが、全然暗くならない予定。さて、どうなることやら。
[#地から2字上げ]二〇〇四年冬 橋本《はしもと》 紡《つむぐ》
[#地から2字上げ]http://home.att.ne.jp/theta/bobtail/index.html