半分の月がのぼる空3
橋本紡
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)意地悪《いじわる》そうに
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)秋庭|里香《りか》
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(例)[#改ページ]
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一時間待った。
二時間待った。
三時間待った。
風はどんどん強く、そして冷たくなり、僕の身体から熱を奪《うば》っていった。それでも僕は屋上《おくじょう》に座《すわ》りこんでいた。星がゆっくりと東から西へ動いていく。冬のきらびやかな一等星たちはもう西空に大きく傾《かたむ》いていた。リゲルは建物《たてもの》に隠《かく》れて見えない。ベテルギウスのぎらぎらした輝《かがや》きもすっかりくすんでいる。プロキオンはまるで二等星みたいだ。シリウスだけが強い光を放《はな》ちつづけているけれど、それもあと少しで山に隠れてしまうだろう。
唇《くちびる》が震《ふる》えた。
手が震えた。
心が震えた。
ああ、僕はなにをしてるんだろう。そうだ、月を待っているんだ。大丈夫《だいじょうぶ》。いつかのぼってくるさ。太陽がのぼらない日がないように、月だってのぼらない日はない。澄《す》んだ光で青く輝いて僕を照らしてくれるさ……。
ぼんやりとした視線《しせん》を、僕は夜空にさまよわせた。けれど月はどこにもなかった。東の空はまだ闇《やみ》に染《そ》まりきっていた。
かまうもんか、朝までだって待ってやる。
うつむき、開いたままの本に目を落とした。
こんなにしてかけるなら、もう世界じゅうだってかけれると、ジョバンニは思いました。
里香《りか》。
その名が胸に響《ひび》く。震《ふる》える。手が。心が。かけれると思ったんだ、ほんとそう思ったんだ。里香といっしょなら、なんだってできるって。ガタン、という音がしたのは、そのときだった。顔を上げると、そこに亜希子《あきこ》さんの姿《すがた》があった。僕のほうに向かって早足で歩いてくる。目が吊《つ》りあがっていた。口は右端《みぎはし》が歪《ゆが》んでいた。物凄《ものすご》い形相《ぎょうそう》だった。怒《いか》り狂《くる》っているのが一目でわかった。
亜希子さんは僕の真ん前にやってくるなり、
「このクソガキ!」
そう言って、僕を殴《なぐ》った。
夏目《なつめ》にボコボコにされたばかりだというのに、さらに亜希子さんにまで殴られたというわけだ。しかも思いっきりの握《にぎ》り拳《こぶし》で。おさまりかかっていた顔の痛《いた》みがそれでぶり返し、僕はうううと声を出して呻《うめ》いた。亜希子さんに文句《もんく》を言おうと思ったけど、口の中の傷《きず》が痛んで言葉がすぐに出てこなかった。それに、僕の中には、誰《だれ》かに刃向《はむ》かう言葉も力もなかった。そんな意気地《いくじ》は夏目の拳で粉々《こなごな》に砕《くだ》かれてしまっていた。
黙《だま》りこんでいる僕の首根っこを掴《つか》むと、亜希子さんは強引《ごういん》に立たせようとした。
「ほら! 行くよ!」
「…………」
「ああっ、立ちな! 立て! このクソガキ!」
「い、嫌《いや》です」
ようやくそう言うことができた。僕は月を待たなきゃいけないんだ。ここを立ち去るわけにはいかない。もっとも口が痛くて、出てきた言葉は「ひ、ひやです」って感じになってしまったけれど。
「嫌です」
僕がそう繰《く》り返《かえ》すと、亜希子さんはじろりと睨《にら》んできた。恐《おそ》ろしい目だった。ああっ、もうっ、という言葉がその唇《くちびる》から漏《も》れる。
「腹立ってしかたないから黙ってな」
見事《みごと》にドスのきいた声。
「喋《しゃべ》ったら殺すよ」
結局《けっきょく》、僕はむりやり立たされ、屋上《おくじょう》を去ることになった。亜希子さんに逆《さか》らうなんてできるわけがないのだった。亜希子さんに引きずられ、薄暗《うすぐら》い階段を下りながら、僕はコートのポケットに本をしまった。
こんなにしてかけるなら、もう世界じゅうだってかけれると、ジョバンニは思いました。
僕の足音が、ドタドタという無様《ぶざま》な足音が、響《ひび》く。亜希子《あきこ》さんの足音が、ドスドスという怒《いか》りに満ちた足音が、響く。僕は振り向く。月はのぼっただろうか。僕と里香《りか》の月は――。ふいに腹の底《そこ》がチリチリした。見逃《みのが》したら、なにか大切なものを失ってしまう気がした。もちろん、そんなのはただの思いこみだった。突っ走った強迫観念《きょうはくかんねん》にすぎない。下らない。つまらない。わかってる。そんなこと。でも僕の足はピタリととまっていた。
亜希子さんが恐《おそ》ろしい目で睨《にら》んできた。
「なにしてんのさ。行くよ」
「嫌《いや》です」
今度こそ、僕はきっぱりと言った。
「屋上《おくじょう》に戻《もど》ります」
「はあ? あんた、なに言ってんの?」
「月を……月を見なきゃいけないんです……」
「月? どうして?」
僕はうつむいた。ポケットに突っこんだままの手で、『銀河《ぎんが》鉄道《てつどう》の夜』に触《さわ》る。その尖《とが》った角《かど》を撫《な》でる。
こんなにしてかけるなら、もう世界じゅうだってかけれると、ジョバンニは思いました。
僕は本の尖った角を撫でつづけた。
「見なきゃいけないんです……でないと里香が……里香が……」
なんで声が滲《にじ》んでるんだ。
なんで目が熱《あつ》いんだ。
なんで手が震《ふる》えるんだ。
ちくしょう。僕は心の中で繰《く》り返《かえ》した。ちくしょう。膝《ひざ》からいきなり力が抜け、そのまま薄暗《うすぐら》い階段にしゃがみこむ。亜希子さんがそばにいることなんてもう考えられなくなり、ただ月が月がと、小さな子供みたいに呟《つぶや》くことしかできない。説明しなきゃ、そうだ、亜希子さんだってわかってくれるさ、ほら早く言えよ、月を見なきゃいけないんだって。里香を助けなきゃいけないんだって。
言葉はけれど、出てこなかった。
僕はずいぶん長いあいだ、そこにしゃがみこんでいた。なぜ亜希子さんがなにも言ってこなかったのかはわからない。呆《あき》れてたのかもしれないし、戸惑《とまど》ってたのかもしれない。亜希子《あきこ》さんの顔を見てみたかったけれど、顔を上げることなんてできなかった。顔を上げたら、いろんなものが零《こぼ》れてしまう。僕はもう押《お》しとどめられない……。
ようやく少し落ち着いてから、僕は立ちあがった。
「戻《もど》ります」
屋上《おくじょう》に。
けれど、振り向いて歩きだした途端《とたん》、背中《せなか》のほうからあまりにも冷たい真実《しんじつ》が届《とど》けられた。
「裕一《ゆういち》」
亜希子さんの声はなぜか怒《おこ》っていなかった。
「今夜は新月《しんげつ》だよ」
「え……」
「月はのぼらない」
こんなにしてかけるなら、もう世界じゅうだってかけれると、ジョバンニは思いました。
「のぼらないんだよ、月は」
亜希子さんは繰《く》り返《かえ》した。
まただ、また下らない間違《まちが》いを犯《おか》した。確かに太陽は毎日のぼる。一日も欠《か》かすことなく、少しばかり早くなったり遅《おそ》くなったりするけれど、とにかくのぼらない日はない。しかし月は違うんだ。満《み》ち欠《か》けを繰り返す。時に満ち、ゆえに欠ける。そして今日、月は欠けきってしまっている。
自分はちっぽけだ――。
そんなの、もちろんわかっていた。わかりすぎるくらい、わかっていた。なにしろただのガキにすぎないのだ。こんなド田舎《いなか》に縛《しば》りつけられ、たった数百キロ離《はな》れた場所を夢見ることしかできない程度《ていど》の存在《そんざい》だ。でも里香《りか》といるうちに、なにかがズレてしまっていた。どこかで自分は万能《ばんのう》だと思いこみ、世界中の幸福がここにあると勘違《かんちが》いしていた。
だって。
それくらい幸せだったんだ。
こんなにしてかけるなら、もう世界じゅうだってかけれると、ジョバンニは思いました。
光に満ちた場所から、闇《やみ》に染《そ》まった奈落《ならく》へ。
手をぎゅっと握《にぎ》りしめた。
どこまで落ちればいいんだろう。自らの愚《おろ》かさを、バカさ加減《かげん》を、どれだけ思い知らされなければいけないんだろう。ふいに自虐的《じぎゃくてき》な気持ちが心を満たした。夏目《なつめ》みたいな下らないヤツに殴《なぐ》られて、いいザマだ。おまえにはその程度《ていど》の価値《かち》しかないんだ。里香《りか》みたいにきれいな女の子を好きになる資格《しかく》なんてないんだ。
そうさ、その程度なんだよ。しょせんは。
「あんた、傷《きず》だらけじゃないか。肝臓《かんぞう》が弱ってると、抵抗力《ていこうりょく》が落ちるんだ。そのままだと、ひどいことになるよ。傷の消毒《しょうどく》くらいはしないと。さあ、下りよう」
「…………」
「行こうよ、裕一《ゆういち》」
立ちつくす僕の腕《うで》を取ると、亜希子《あきこ》さんは階段を下りはじめた。まるで幼稚園児《ようちえんじ》みたいに腕を引《ひ》っ張《ぱ》られながら、僕は亜希子さんが放《はな》った言葉の意味を何度も何度も頭の中で繰《く》り返《かえ》していた。月はのぼらない。どんなに待っても。望んでも。願っても。祈《いの》っても。月はのぼらない。そう、世界は冷酷《れいこく》だ。僕のようなガキにはどうにもできないことで満ちている。僕には月を見ることも里香の命を救《すく》うこともできない。
ふと砲台山《ほうだいやま》で里香といっしょに見あげた月を思いだした。藍色《あいいろ》の夜空に、それはくっきりと輝《かがや》いていた。里香を淡《あわ》く照《て》らしていた。けれど、その月は今、完全な闇《やみ》に食われているのだ。まるで里香の命のように。
最後に一度だけ、僕は後ろを振り向いた。闇の中、屋上《おくじょう》に通じる鉄製のドアがぼんやりと見えた。一歩足を踏《ふ》みだすたびに、だんだん遠ざかっていく……。
「裕一、ちゃんと歩きな」
「はい」
鉄製の扉《とびら》から目を離《はな》す。その瞬間《しゅんかん》、なにもかもが断《た》ち切《き》られた。もう戻《もど》れない。ああ、誰《だれ》かが歌っていたっけ。諦《あきら》めたときが、終わるときだって。僕ははっきりと悟《さと》った。なにかが今、確かに終わったんだ……。
「夏目のバカが電話かけてきたんだ。あいつ、ベロベロに酔《よ》っぱらっててさ。屋上で戎崎《えざき》がぶっ倒《たお》れてるから回収してこいとかヌカしやがって」
夏目?
あいつが亜希子さんを呼んだのか?
「ほんと大変《たいへん》だったんだ。あんなに酔っぱらってちゃ急患《きゅうかん》に対応《たいおう》できないから、ウソついて他の先生に来てもらわなきゃいけなかったし。そっちをようやく都合《つごう》つけて屋上に来てみたら、あんたはこんなんだし。それ、殴られた傷だね。夏目にやられたの?」
「…………」
「まあ、いいや。なにがあったのか、あとで聞かせてもらうよ」
「…………」
「男のくせに泣《な》くな」
「はい……」
「泣《な》くなって言ってんだろうが。うざいから泣くな」
「はい……」
目をぎゅっと閉じて歩いていたせいで、途中《とちゅう》で足を踏《ふ》み外《はず》し、階段を転《ころ》げ落《お》ちた。最悪の夜だった。夏目《なつめ》に殴《なぐ》られ、亜希子《あきこ》さんに殴られ、階段に殴られた。
「だから泣くな、バカ」
「はい……」
こんなにしてかけるなら、もう世界じゅうだってかけれると、ジョバンニは思いました。
ああ、それにしてもなんで亜希子さんの声が優しく聞こえるんだろう。罵倒《ばとう》してるはずなのに。さっき転んだせいで耳がおかしくなったんだ。きっとそうだ。
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1
逃《に》げたい、そう思うことしかできなかった。
もし里香《りか》に会ったら、言葉を交《か》わさなきゃいけない。笑わなきゃいけない。下らない冗談《じょうだん》のひとつも言わなきゃいけない。でも自分にそんな器用な真似《まね》ができるだろうか。里香の覚悟《かくご》を、思いを知ってしまった今、呑気《のんき》に笑えるだろうか。
無理《むり》だ……。
情《なさ》けないことに、それがわかるくらいには、自分を理解《りかい》していた。自分の才能《さいのう》だの、潜在能力《せんざいのうりょく》だの、そんなことはまったくわからないくせに。だから僕は里香に会わないことばかり考えた。検査《けんさ》のせいにして病室をずっと出ていようか。それともいっそ転院してしまおうか。だけど転院なんかしたら、里香とは永遠に会えなくなってしまう。それは嫌《いや》だ。駄目《だめ》だ。無理だ。一日一日と季節は律儀《りちぎ》に春へ近づき、病室の窓から見える世界は暖《あたた》かさに満ちているように思えた。陽光《ようこう》はもう春のそれで、こうして病室の中にいるとあまりの暖かさに眠ってしまいそうになる。
頭にふと、屋上《おくじょう》で過ごしたあの瞬間《しゅんかん》が思《おも》い浮《う》かんだ。カムパネルラの台詞《せりふ》を読みあげる里香の声。暖かな日射《ひざ》し。薄汚《うすよご》れたコンクリートの上に、ふたり並《なら》んで座《すわ》って。同じ本を覗《のぞ》きこんで。肩《かた》が触《ふ》れるたび、ドキドキした。抱《だ》きしめたくてたまらなかった。最高の瞬間《しゅんかん》。誰《だれ》もが追《お》い求《もと》める幸《さいわい》を、確かに掴《つか》んでいた。夏目《なつめ》に殴《なぐ》られたこめかみのあたりが痛《いた》い。腹が痛い。蹴《け》られた腿《もも》も痛い。でもなにより……心が一番痛い……。
ノックの音がしたのは、そんな午後のことだった。
叩《たた》き方《かた》で、すぐ里香《りか》だとわかった。
僕は目を閉じ、呼吸《こきゅう》を整《ととの》えた。できるかどうかなんて、知ったことか。でもやるんだ。そうだ。自分に言い聞かせ、目を開く。
そして言った。
「おう」
ドアが開く。
思ったとおり、現れたのは里香で。思ったとおり、彼女の頭にポコンと音を立ててミカンが落ちた。
僕は精一杯《せいいっぱい》の勇気を振《ふ》り絞《しぼ》り、叫《さけ》んだ。
「おっしゃああああ――っ!」
さらにガッツポーズ。
何度も何度も頭の中で思《おも》い描《えが》いたシミュレーションを実行に移《うつ》す。予想《よそう》どおり、里香の目が吊《つ》りあがった。その場に立ちつくしたまま、恐《おそ》ろしい目で僕を睨《にら》んでいる。さすがに背筋《せすじ》がぞくぞくした。
とどめの一言を、さらに放《はな》つ。
「大当たりいいいい――っ!」
ああ、里香が早足で近づいてくる。とんでもなく怒《おこ》ってる。怒《いか》りのオーラがほっそりした肩のあたりで渦巻《うずま》いている。まずいまずい。いやでも、これでいいんだ。大騒《おおさわ》ぎをすれば、それで誤魔化《ごまか》せる。下らない気遣《きづか》いなんて吹っ飛ぶ。そんな計算。
どしゃあっ!
しかしながら、いささか計算|違《ちが》いだった。なにかを投げつけられる程度《ていど》だと思っていたのに、いきなり殴られた。それはもう、亜希子《あきこ》さん並《な》みのグー・パンチだった。僕は派手《はで》にぶっ倒《たお》れた。さらにベッドから転《ころ》げ落《お》ち、腰《こし》を打つ。
「な、なにすんだよ!?」
「裕一《ゆういち》のバカ!」
あ、しまった。
里香の目が少し潤《うる》んでいた。まさかこんなことで、いつも自分がやっていることで、里香が涙《なみだ》ぐむとは思わなかった。
すべての計画が頭から吹っ飛び、僕は本気で慌《あわ》てた。
「ご、ごめん、里香《りか》……」
「裕一《ゆういち》のバカ!」
「だ、だってさ、いつもやられてるからさ……」
「バカ!」
里香が病室を出ていこうとする。僕はベッドを飛び越えると、その里香の腕《うで》にすがった。振《ふ》り払《はら》われる。里香の手が顔に当たって、まだ腫《は》れているこめかみが痺《しび》れる。けれど離《はな》さない。さらにすがりつく。
「わ、悪かった! 謝《あやま》るよ!」
「…………」
「だからっ、謝るってっ!」
「…………」
「里香っ! 頼むからっ!」
なぜか泣《な》きそうな声になっていた。
その声の調子《ちょうし》に気づいたのか、それとも単純《たんじゅん》に気が変わったのか、里香が立ちどまった。じっと冷たい目で見つめてくる。僕は思わず息《いき》を呑《の》んでいた。見透《みす》かされた予感《よかん》に、心の底《そこ》がひんやりと冷える。
黙《だま》りこんでんじゃねえよ。ほら、喚《わめ》け。叫《さけ》べ。バカ騒《さわ》ぎの中に、いつもどおりの騒音《そうおん》の中に、下らない気持ちを消してしまえよ。
でも言葉が出てこない。
喉《のど》に引っかかったまま。
「裕一」
「あ……」
「なに、その顔」
額《ひたい》を触《さわ》られ、僕は痛《いた》みに呻《うめ》いた。
そこは夏目《なつめ》に殴《なぐ》られたところだった。
あれだけ殴られたというのに、意外《いがい》と僕の顔に傷《きず》はなかった。髪《かみ》で隠《かく》れるこめかみのあたりや、腹や、腕や足は傷だらけだというのに、顔はきれいなもんだった。ムチャクチャ酔《よ》っぱらってたくせに、夏目はあとでバレないように気をつけながら僕を殴っていたのだった。
だから僕は自分が傷だらけだってことを、里香には悟《さと》られないと高を括《くく》っていた。
でも里香は気づいた。
「腫れてるよ」
「う、うん……」
「どうして?」
「え、ええと……」
「どうして?」
里香《りか》の真剣《しんけん》な目に、僕は射《い》すくめられた。
「バカみたい」
里香はそう繰《く》り返《かえ》した。
「ほんとバカみたい」
僕は精一杯《せいいっぱい》の演技力を発揮《はっき》して、気まずそうに笑った。
「だってしょうがないだろ」
「しょうがなくない」
「しょうがねえよ。男だから、売られたケンカは買うに決まってんじゃん」
それにしても、よくもまあ、あんなウソが咄嗟《とっさ》に出てきたもんだ。
いやあ、参《まい》ったよ。夜さ、腹|減《へ》ったから病院|抜《ぬ》けだしたんだよ。弁当買って、司《つかさ》んとこ行って食おうと思ったら、コンビニの前でヤンキーに絡《から》まれてさ。ひでえんだぜ、あいつら。オレの弁当、叩《たた》き落《お》としやがってさ。なんかほら、赤いウインナーとか地面にころころ転《ころ》がってんの見たら、妙《みょう》にカッとしちまって。気がついたら取っ組みあいになってて。ヤツら五、六人いたから、フクロにされちまったよ。卑怯《ひきょう》だよな。男なら一対一でやれってんだ。なあ、そう思うだろ。でもさ、オレ、けっこう頑張《がんば》ったんだぜ。ひとりはぶっ倒《たお》してやったね。鼻血《はなぢ》流してたし、涙目《なみだめ》になってたもん。一対一だったら、絶対《ぜったい》勝ってたな。うん、圧勝《あっしょう》だった。間違《まちが》いないな。
圧勝だったね、うん、と僕は繰り返した。
「なんで逃《に》げないのよ?」
「逃げられるわけねえじゃん」
「なんで?」
「男だから」
「はあ?」
「そういうもんなの」
わけわかんない、と里香が言った。
「それで怪我《けが》したらつまらないでしょ」
「つまんなくねえよ」
「どうしてよ」
うまく説明できなかった。でも、もしあのとき、戦わないで夏目《なつめ》から逃げていたら、僕はもっと情《なさ》けない気持ちになっていただろう。そういうのは理屈《りくつ》じゃない。
「とにかく、そういうもんなの」
「ああ、もう。ほんと男の子ってバカみたい」
パシンと頭を叩《たた》かれ、そのせいで殴《なぐ》られたところがズキズキ痛《いた》み、僕はうううと唸《うな》った。けれど里香《りか》はまったく心配《しんぱい》してくれず、怒《いか》り心頭《しんとう》といった感じで睨《にら》んでくる。ちぇっ、こんなに痛いんだから、ちょっとは心配してくれよ。
「痛いなあ。叩くなよ」
「うるさい」
「あーっ、だから叩くなって言ってんだろ」
「罰《ばつ》よ、罰」
僕はベッドに寝《ね》そべり、里香はその真ん前にある丸椅子《まるいす》にちょこんと腰《こし》かけていた。午後の陽光《ようこう》が窓から射《さ》しこみ、病室の半分を照らし、残り半分は陰《かげ》になっている。里香はちょうど、その境目《さかいめ》に座《すわ》っていた。彼女の顔や肩《かた》は光でキラキラ輝《かがや》いているけれど、その足元は陰に沈《しず》んでいる。僕はふいに、ひどく不安になった。このまま里香が闇《やみ》に呑《の》みこまれてしまったらどうしよう……。
「だいたい、そんな相手だったら、ナイフとか持ってたかもしれないじゃない」
「まあ、そうだけどさ」
「刺《さ》されちゃうかもしれないじゃない」
「…………」
「どうしてそういうこと考えられないのよ」
里香《りか》が睨《にら》んでくる。ああ、その、と口ごもりながらも、なぜか僕は浮《う》かれた気持ちになっていた。なんだろう、この感じは。少し戸惑《とまど》った末、気づく。里香が心配《しんぱい》してくれてるのが嬉《うれ》しいんだ。里香は確かに怒《おこ》ってる。そりゃもう、怒《いか》り狂《くる》ってる。でもそれは僕のためなんだ。僕のことを思って、怒るくらい心配してくれてるってことだった。
「ねえ、なにニヤニヤしてんの?」
「え?」
しまった、顔に出てたらしい。
「もうっ、このバカ! ムカつく!」
「ああーっ、叩《たた》くなって言ってんだろ! 響《ひび》いて痛《いた》いんだよ!」
「だから叩いてんの!」
「わかったから! 悪かった! ごめん! ごめんって言ってんだろっ!」
春を感じさせる日射《ひざ》し。ぬくもり。光と闇《やみ》の境目《さかいめ》にいる里香。その怒る声。だからこそ優しい声。至福《しふく》のとき。誰《だれ》もが探《さが》し求める幸《さいわい》が今、確かに、ここにある。腕《うで》で頭を庇《かば》い、次々振りおろされる里香の平手から頭を守りながら、それと同時に僕は今にも泣《な》きだしてしまいそうな顔を隠《かく》していた。こんな幸せな時がいつまで続くんだろう。どれだけ残されているんだろう。
光が強ければ強いほど、闇は深かった。
2
それでも世の中というのは呑気《のんき》なものだった。
放っておいても時間は過ぎていくし、どんなに寒い冬だろうが春になってしまう。そういうのは僕たちの意志《いし》とはなんの関係もなかった。喚《わめ》こうが抵抗《ていこう》しようが、あるいは急《せ》かそうが、時間やら季節やらは勝手にやってきて、勝手に去っていく。
僕たちはちっぽけだ。
まあ、当たり前だけどさ。わかっちゃいるさ、もちろん。時の流れをどうこうできるどころか、僕にはひとりの女の子を救《すく》うことさえできない。
せいぜい女の子を笑わせることができるくらいだ。
それだって、かなり難《むずか》しい。
怒らせてばっかりなんだ、実際《じっさい》は。
なかなか里香は笑ってくれない。
情《なさ》けないけど、僕なんてその程度《ていど》のもんだ。
「あーあ」
というわけで、僕は実に少年らしく、十七歳らしく、ため息《いき》なんぞついていた。
屋上《おくじょう》にはやたらと暖《あたた》かい日射《ひざ》しが降《ふ》り注《そそ》いでいて、こうして手すりにもたれかかってたりすると、だんだん眠《ねむ》くなってくる。
ふと、僕は尻の下、つまりはコンクリートの床《ゆか》を見た。
ここだったよな――。
里香《りか》といっしょに座《すわ》って、『銀河《ぎんが》鉄道《てつどう》の夜』を読んだんだ。
「たまんないよなあ」
まったくだ。
たまんない。
そりゃまんぷく食堂のからあげ丼を食うのは最高だし、激ムズのゲームをクリアすんのも快感《かいかん》だし、誰《だれ》かに誉《ほ》められるのだって悪くない。けどさ、里香といっしょにいるのは、里香が笑ってくれるのは、そんなのとは比べものにならないんだ。
まったくだ。
たまんない。
――ってなことを思いながら、薄汚《うすぎたな》いコンクリートの表面を撫《な》でていると、
「あ、ごほっ」
実にわざとらしい、そんな咳払《せきばら》いが聞こえた。
顔を上げると、そこに夏目《なつめ》が立っていた。なぜかわからないが、眉間《みけん》に皺《しわ》ができている。無精髭《ぶしょうひげ》がだらしなく伸びている。髪《かみ》はボサボサだ。顔自体は相変わらずすっきりした二枚目だが、さすがに少々むさい。
迷《まよ》った。
睨《にら》むべきか、突っかかるべきか、あるいは目を逸《そ》らすべきか。
だが――。
夏目が急に、その視線《しせん》を外《はず》した。
「あぁー、戎崎《えざき》ぃー、そのぉー」
なんだ?
この曖昧《あいまい》な喋《しゃべ》り方《かた》は?
戸惑《とまど》っていると、夏目は頭をバリバリと右手で掻《か》きまわした。どういうわけか、その視線が泳ぎまくっている。
一瞬《いっしゅん》だけ目があったが、すぐに逸《そ》らされた。
「あぁー、オレぇー、なんかしたらしいなぁー」
「はあ?」
「そのぉー、谷崎《たにざき》から聞いたんだがぁー、あぁー」
「……もしかして覚《おぼ》えてないんですか?」
「うーむぅー、少しはぁー、なんとなくだがぁー」
「……つか、その気持ち悪い喋《しゃべ》り方《かた》やめてください」
夏目《なつめ》は僕の横に、すとんと腰《こし》を下ろした。
「すまん」
そして、あっさり言った。
なぜかわからない。自分でも理解《りかい》できない。その瞬間《しゅんかん》、胸《むね》の奥底《おくそこ》でなにかがカッと燃えあがった。隣《となり》の夏目を殴《なぐ》りたい衝動《しょうどう》に身も心も支配《しはい》され、気づくと僕は右手を強く握《にぎ》りしめていた。日射《ひざ》しがチラチラ揺《ゆ》れている。生《なま》ぬるい風が吹いてきて、僕の髪《かみ》を、夏目の髪を、けだるげに揺らす。
もしかしたら……夏目は僕に殴られるつもりなのかもしれない……。
もちろん僕は夏目をボコボコにしてやりたかった。無抵抗《むていこう》だろうが手を抜《ぬ》かず、殴って殴って殴りまくってやりたかった。
なぜその衝動を抑《おさ》えられたのか、自分でもよくわからない。
「は、ははは」
なぜ笑っているのか、それもよくわからない。
「たいしたことないっすよ」
「そ、そうか?」
「まあ、はあ。ははは」
「は、はは」
夏目も愛想笑《あいそわら》いを浮《う》かべたが、その右|頬《ほお》が引きつっていた。
ああ、夏目だけじゃない……。
僕の右頬だって引きつってるじゃないか……。
それからしばらく、僕たちは愛想笑いを浮かべつづけた。端《はた》から見たら、かなり気持ち悪い光景《こうけい》だったに違《ちが》いない。
さすがに愛想笑いにも疲《つか》れ――頬が痛《いた》くなってきた――僕は言った。
「あの」
「な、なんだ」
「認定医《にんていい》試験《しけん》って、なんですか」
意外《いがい》な質問だったのか、
うん?
という顔を、夏目《なつめ》がした。
「そりゃ、まあ、要《よう》するにアレだ。医者ってヤツには専門があるわけだ。簡単《かんたん》に言うと、その専門医《せんもんい》であることを認《みと》められるための試験だな。おまえ、なんでそんな言葉知ってんだ?」
「…………」
「もしかして、オレが言ったのか?」
「マジで覚《おぼ》えてないんですか?」
ようやくまともに視線《しせん》があう。驚《おどろ》いたことに夏目は動揺《どうよう》しまくっていた。口は半開きだし、視線は定《さだ》まらないし……顔全体がこわばっていた。そうか。やがてその口から言葉が漏《も》れる。そうか。かすれた声。
次の瞬間《しゅんかん》に起きたことを、僕はずっと忘《わす》れられなかった。いつまでもいつまでも、たとえば食事の合間に、その光景を思いだしたりした。いっしょに食べてた里香《りか》にどうしたのよと尋《たず》ねられ、いやあなんでもねえよなどと虚《うつ》ろに言ったりした。
夏目が抱《かか》えた膝《ひざ》のあいだに、その顔を埋《う》めたのだ――。
最初はなにをしているかわからなかった。あまりにも突然《とつぜん》の行動に、僕はただ戸惑《とまど》ってしまっていた。だから、たぶん十秒くらいかかったと思う。夏目の肩《かた》がブルブル震《ふる》えていることに気づくまで。
夏目が恐《おそ》ろしく小さく見えた。
まるで子供みたいだった。
さっきまで本気で殴《なぐ》ってやりたかった。右手で殴り、左手で殴り、腹に膝を突き立て、爪先《つまさき》で顔を蹴飛《けと》ばし――。
誰《だれ》を?
この、目の前の、ガキみたいな背中《せなか》を?
半殺しに?
日射《ひざ》しが夏目の震える背中で揺《ゆ》れていた。真新しい白衣《はくい》の表面がその光に輝《かがや》いていた。風が吹き、夏目のボサボサの髪《かみ》をさらに掻《か》き乱《みだ》した。
最初に口を開いたのは、夏目のほうだった。
「戎崎《えざき》、オレにもな、十七のころがあったんだぞ。ウソみたいだけどな。そのころのことを思いだすと、オレは笑っちまうんだ。自分のことで精一杯《せいいっぱい》でさ。カッコつけてばっかで、そのくせ空《から》っぽで、空っぽなのを誰《だれ》かに知られるのが怖《こわ》くて、まあバレバレなんだがな。思いっきり虚勢《きょせい》を張《は》ってたよ」
「…………」
「楽しいよな、でも。最高だよな。未来なんて全然向こうだし、どっからでもやり直せる。そりゃ学校はつまんねえし、嫌《いや》な教師もいるけど、たいした問題じゃねえよな。虚勢張って、女の尻《しり》追《お》っかけて、バカみたいにはしゃいで」
「…………」
「なにかを失うなんて、ろくに考えもしなかったよ。未来は怖かったさ。将来も怖かった。でも、しょせんまだなにも持ってなかったんだ。失うってことがどういうことなのか、ろくにわかっちゃいないんだ。なにせ、失ったことなんてないんだからな」
なにを言いたいんだ、この人は?
震《ふる》える声で、なにを言ってんだ?
「まったく、たまんねえよな。なんなんだろうな。くそっ。いったいなんなんだろうな。なんでこんなことになっちまうんだろうな。おい、戎崎《えざき》」
「なんですか」
「おまえ、あっち行け」
「は?」
「こっから出てけ」
「出てけって……屋上《おくじょう》なんですけど?」
「うるせえ」
震える声。
「出てけ」
どう考えても理不尽《りふじん》だった。さっきまでの殊勝《しゅしょう》な態度《たいど》はなんだったんだ。わけがわからない。けれど僕は立ちあがっていた。日射《ひざ》しを背中《せなか》に受けながら、目の前に伸びる自らの影《かげ》に向かって歩きだす。僕が右足を前に進めると、影も前に進む。左足を前に進めると、やはり影は前に進む。僕は決して僕自身の影に追《お》いつけない。影はどこまでも逃《に》げてゆく。そんなふうに影を追いかける僕の後ろで、誰かが泣《な》いている。白衣《はくい》を着た誰かが。
「戎崎」
呼《よ》びとめられた。振り向くかどうか迷《まよ》った末、僕はただ立ちどまり、身体の向きを変えることなく尋《たず》ねた。
「なんですか」
「里香《りか》を大切にしてやれ。できるだけ大切にしてやれ」
「あんたに言われなくてもわかってますよ」
「時間がねえんだ」
「それもわかってます」
そうか、呟《つぶや》きが聞こえてきた。
「出ていけ、クソガキ」
「わかりましたよ、バカ医者」
反論はなかった。きっと夏目《なつめ》自身もそう思っていたんだろう。僕は上着のポケットに両手を突っこみ、背中《せなか》を丸めながら、屋上《おくじょう》をあとにした。薄暗《うすぐら》い階段を下りる。一段飛ばしで下りる。そして最後の一段を下りきったとき、厚い鉄扉《てっぴ》の向こうから声が聞こえてきた。呻《うめ》くような叫《さけ》ぶような声。
僕はその場で、目をそっと閉じた。
大人が泣《な》く姿《すがた》を見たのは、ほんと久しぶりだった。
父親が死んだとき、僕は喜んだ。
強がりなんかじゃない。
イヤッホウッ――なんて叫びたいくらいだった。
なにしろ父親はひどいヤツだったのだ。父親がしでかしたさまざまな悪事《あくじ》……いや、悪事とも呼《よ》べないような下らないことの数々を挙《あ》げていったら、それこそきりがない。ほんと、あいつは最悪の男だった。人間としてクズだった。もちろん僕だって、実の親のことをクズだなんて呼びたくはない。そりゃそうだ。当たり前だ。でもさ、親だからこそ……身近で見てきたからこそ、僕はそう呼ぶ。クズ、と。
もちろん涙《なみだ》なんて出やしなかった。
ああ、嬉《うれ》し涙なら出たかもしれないっけ。
その父親の最後はあっけないもんだった。死ぬまで苦しみぬいて、それなのに病院を抜《ぬ》けだして飲み屋でぶっ倒《たお》れたり、母親以外の女の家に通ったりして、まあいろいろあったけど、死んだあとは実に静かなもんで――当たり前だけど――通夜《つや》のあいだは黙《だま》ったまま寝ころんでいるだけだったし――それも当たり前だけど――焼き場で焼かれて真っ白な骨《ほね》になっても、やっぱり静かなもんだった。
小さな骨壷《こつつぼ》ひとつ。
喋《しゃべ》らない。
動かない。
父親の親戚《しんせき》だというオバチャンが、
「かわいそうにねえ」
葬式《そうしき》の途中《とちゅう》で、そう言ってきた。
「元気出すのよ」
なんて。
知ったことか! 十分元気で、むしろ嬉《うれ》しいくらいだよ!
もちろんそんな本音《ほんね》は出さず、
「はい……」
と僕は殊勝《しゅしょう》に肯《うなず》いておいたけど。
十代で父親に死に別れるってのは、世間様《せけんさま》ってヤツからすると、相当《そうとう》にかわいそうに思えるらしい。
すぐに別のオバチャンがやってきて、
「あんたがこれから家を守るんだからね」
なんて、さらに下らないことを言ってきた。
オバチャンはレースのハンカチを持っていて、それで涙《なみだ》を拭《ぬぐ》っていたけれど、もう拭いきれないんじゃないかってくらいボロボロ泣《な》いていた。まったく変な話だ。だいたい、そのオバチャンがどこの誰《だれ》なのか僕はまったく知らなかったし、僕が知らないってことは、ウチとはそんなに近い関係じゃないってことだ。
それなのに、なんで泣いてんだろ。
『親と死に別れるってシチュエーションに泣いてるだけじゃないんですか? 悲しいから泣いてんじゃなくて、泣きたいから泣いてんじゃないですか? 手近で身近で安っぽいドラマってことですよね?』
我ながら、実に妥当《だとう》な意見だと思う。
でも僕はどうにか堪《こら》えた。
そのころ僕はもう十五になっていて、まあ十分に子供だけどさ、そんなことを口にしない程度《ていど》の分別《ふんべつ》はどうにか持ちあわせていたってわけだ。偉《えら》いぞ、十五の僕。
僕はひたすらヘコヘコ肯き、
「はい……」
と、やっぱり殊勝に肯いておいた。
葬式《そうしき》が終わったのは夕方近くになってからで、僕は気疲《きづか》れでくたくたになっていた。誰かが頼《たの》んでおいてくれた店屋物《てんやもの》を食べ、早々に二階にある自分の部屋《へや》に引《ひ》き揚《あ》げた。早く寝《ね》ちまおう、夢なんて見ないくらいぐっすり寝よう、そう思って布団《ふとん》に入ったものの、なぜかまったく眠《ねむ》くならなかった。夜の十二時になってもまだ起きていた。疲《つか》れ切《き》っているくせに、心のどこかがピリピリしていた。そういうときって、たまにあるんだ。実は父親の死がこたえてたってことはない。うん。断言《だんげん》する。ない。ただ疲れすぎて眠れなかっただけだ。
――ってなわけで、夜の一時くらいだったかな、ホットミルクでも飲もうと思って僕は階下に向かった。
ちょっと前のラジオの深夜《しんや》番組で、ホットミルクを飲むと眠《ねむ》れるという話を聞いたからだ。カルシウムだのメラトニンだの、なんかそんな物質のせいらしい。薄暗《うすぐら》い電灯《でんとう》の下、僕は古ぼけた階段を下りた。ギシギシという音がした。僕の家はいわゆる町屋《まちや》ってヤツなので、とにかく古くさいのだ。そのうち崩《くず》れるんじゃないかって気がするくらいだった。大きな地震《じしん》が来たら、きっと三秒で天国に強制連行されるだろう。
まあ、ついてないときってのはあるもんで。
「ないじゃん……牛乳……」
冷蔵庫の中は、ほとんど空っぽだった。
考えてみれば当たり前だ。緊急《きんきゅう》入院だの、危篤《きとく》だの、輸血《ゆけつ》だの、手術だの、同じ血液型の方はいませんかだの、ああ親子でも血液型が違《ちが》ったら駄目《だめ》なんですよだの、手を尽《つ》くしたのですがだの、残念ですがだの、通夜《つや》だの葬式だの……とにかく大忙《おおいそが》しだったのだ。
牛乳を買ってる暇《ひま》なんて、あるわけがない。
少々|迷《まよ》った末、僕は近くのコンビニに牛乳を買いにいくことにした。そこまでして牛乳が飲みたかったとも思えないんだけど、きっと気晴《きば》らしのつもりだったんだろう。
あのクソ親父《おやじ》が死んだというのに、世界はなにも変わっていなかった。そのままに存在《そんざい》していた。信号は相変わらず赤い点滅《てんめつ》を繰《く》り返《かえ》していたし、原チャリが甲高《かんだか》い音で夜の闇《やみ》を揺《ゆ》らしていたし、コンビニの前ではヤンキーが実に正しいヤンキー座《ずわ》りで煙草《たばこ》を吹かしていた。
店に入ったが、なんと牛乳はなかった。
参《まい》った……。
どうやら深夜のコンビニには牛乳なんて置いてないらしい。
しょうがないのでジャンプとヤンマガを立ち読みし、そのころ大人気だった美少女アイドルの――今じゃ名前も見ないけど――水着|姿《すがた》をじっくり鑑賞《かんしょう》したあと店を出ようとしたら、そこに見慣《みな》れた姿があった。
なんと山西《やまにし》だった。
「どうしたんだよ、おまえ」
びっくりしたように、山西が言ってきた。
僕もびっくりし、
「お、おう」
と言った。
「そっちこそ、なにしてんだよ」
「いや、勉強してたら腹|減《へ》っちまってさ。気晴らしもかねてカップラーメンでも食おうと思って」
「ああ、オレもそんなとこ」
牛乳が目的だったことは秘密《ひみつ》にしておいた。
なんかガキっぽい気がしたからだ。
ちょっと気まずそうな感じで、山西《やまにし》が尋《たず》ねてきた。
「おまえ、今日|葬式《そうしき》だったんだろ?」
「すっげえ疲《つか》れたよ」
「大変《たいへん》だったな」
山西の声には、同情が山盛《やまも》りになっていた。
ドンブリに盛ったら、ボロボロ零《こぼ》れそうなほどだった。
強調しておきたいのだが、僕と山西のあいだにあるのは、魂《たましい》と魂で結ばれた友情なんて立派《りっぱ》なものじゃない。ただの幼《おさな》なじみで、ただの腐《くさ》れ縁《えん》で、ただの悪ガキ同士だ。遊ぶときはいっつも下らないことを言いあってて、マジな話なんてほとんどしたことがない。
とにかく、山西は下らないヤツなんだ。
僕と同じくらい、下らないヤツだ。
その山西が、今日いっぱい会ったオバチャンたちと同じような反応《はんのう》をしたことに、僕は頭を抱《かか》えたくなった。
あまりの情《なさ》けなさに、陳腐《ちんぷ》さに、泣《な》きたくなった。
なあ、おい。そんな顔すんなよ。たいしたことじゃないだろ。親が死んだだけだぜ。それに、オレの父親がどんな下らないヤツだったか、おまえも知ってんじゃん。だいたい、親なんてうざいばっかでさ。そうだろ、なあ。山西。そうだろ。
それで思わず、本音《ほんね》が出てしまった。
「いや、全然悲しくねーんだけど。むしろ笑いたいくらいだ」
そして実際《じっさい》に笑ってやった。
僕は今でも、この直後に山西が浮《う》かべた表情をはっきり覚《おぼ》えている。山西は僕の笑顔《えがお》をじっと見つめながら、しばらく黙《だま》っていた。ヤツの両目の端《はし》っこがだんだん下がっていった。瞳《ひとみ》がちょっと細くなり、コンビニの薄《うす》っぺらい光を映《うつ》して濡《ぬ》れたように輝《かがや》きはじめた。
はっきり告白《こくはく》する。
僕は山西を殴《なぐ》ってやりたかった。うっせえ、と言ってやりたかった。下らないありふれた同情に浸《ひた》ってんじゃねえって。でも僕はヘラヘラと笑いつづけてた。なぜかはわからない。きっとオバチャンたちの同情|波状《はじょう》攻撃《こうげき》に疲《つか》れ果《は》て、ヘラヘラ笑いが顔に張《は》りついてしまったんだろう。
あのときの山西の顔を思いだすたびに、僕は思いっきり後悔《こうかい》する。
殴《なぐ》ってやればよかったんだ。
いや、殴っておくべきだったんだ。
僕自身のために。
結局《けっきょく》、カップラーメンを選んでいる山西《やまにし》をそのままにして、僕は先に店を出た。夜道をぶらぶら歩いて帰った。相変わらず信号は赤い点滅《てんめつ》を繰《く》り返《かえ》し、原チャリがブワーンと叫《さけ》びながら走り抜《ぬ》けていった。
そうして真っ暗な家に帰り、出かけたときよりも疲《つか》れて重い身体をむりやり動かして二階に向かおうとしたとき、ふいに気づいた。真っ暗な居間《いま》に母親がいた。どうしたんだよ、そう声をかけようとしたが、言葉は喉《のど》に引っかかってしまった。
床《ゆか》に座《すわ》りこむ母親の背中《せなか》がやたらと丸かったからだ。
その真ん前のテーブルに父親の遺影《いえい》が載《の》っていたからだ。
丸まった母親の背中が震《ふる》えていたからだ。
闇《やみ》の中、もちろん母親の姿《すがた》に影《かげ》はなく、外から射《さ》しこむうっすらとした明かりにその輪郭《りんかく》だけが浮《う》かびあがっていた。うっ、という声が時折《ときおり》聞こえた。母親は僕がいることに気づいていないみたいだった。それどころじゃなかったんだろう。僕は立ちつくしてしまった。どうして母親が泣《な》くのかまったく理解《りかい》できなかった。なあ、そいつはあんたにどんだけ迷惑《めいわく》をかけたんだよ? 何回|浮気《うわき》したか知ってるだろ? 結婚しなきゃよかったって、いつも言ってただろ? 我慢《がまん》ばっかだっただろ? なのに、なんで泣いてんだよ? おかしいだろ! そんなの変だろ!
どれだけ立ちつくしていたのか、僕にはよくわからない。たぶん一分か二分……いや、もう少し長かったかもしれない。その日、誰《だれ》もが悲しみと寄《よ》り添《そ》っていたというのに、ただ僕だけが戸惑《とまど》ってばかりいた……。
気がつくと、足の先が冷え切って、少し痛《いた》くなっていた。母親はずっと泣きつづけていた。僕は痛む足先を気にしながら、けれど決して音を立てないように注意しつつ、身体の向きを変えた。
薄闇《うすやみ》の中、廊下《ろうか》を歩いた。それから階段を一段上った。ギシ、という音がした。さらに一段上った。またギシという音がした。母親の泣き声が聞こえていた。目をぎゅっと閉じ、一段二段と数えながら、僕は階段を上りつづけた。
大人だって、たまには泣く。
ああ、わかってるさ。
そんなの、当たり前だ。なんでもない。そう、なんでもないんだ。
二年前の母親の泣き声を思いだしながら、僕は階段を下りきった場所に立ち、ずっと目を閉じていた。目を開ければ、そこには世界がある。誰《だれ》かが泣《な》こうが悲しもうが、なにひとつ変わることなく存在《そんざい》している。
まあ、たぶん、それでいいんだろう。
「裕一《ゆういち》、なにしてるの」
そんな声で、僕は目を開けた。
里香《りか》がいた。
不思議《ふしぎ》そうに、僕を見あげている。
その瞬間《しゅんかん》、恐《おそ》ろしく強い衝動《しょうどう》が僕の心を埋《う》めつくした。里香を抱《だ》きしめたかった。小さな身体を腕《うで》の中にすっぽり収《おさ》め、自分のものにしたかった。もし明日世界が滅《ほろ》びるとしたら、僕は神に祈るだろう。里香だけは助けてくれって。たとえ世界を火で焼きつくそうとも、里香だけは見逃《みのが》してくれって。
この、目の前にいる、ただの少女。
確かにきれいだけど、やたらとわがままで、ムチャクチャ性格の悪い女の子。
その女の子が、世界よりも、自分よりも、大切だった。
「どうしたの、裕一」
立ちつくす僕に、里香がまた尋《たず》ねてきた。
僕は慌《あわ》てて笑った。
「なんでもねえよ。それより、おまえこそ、どうしたんだよ」
「あ、忘《わす》れてるし」
里香が険《けわ》しい顔になった。
「いつもの散歩《さんぽ》だよ」
ああ、そうか。
手術に向けて体力をつけるため、毎日散歩してるんだった。で、屋上《おくじょう》に行くってのが、お決まりの散歩コースなんだった。
ふと僕は気づいた。
屋上には夏目《なつめ》がいる。
「あー、屋上には出られないみたいだぞ」
「え? なんで?」
「給水塔《きゅうすいとう》の塗《ぬ》り替《か》え工事だってさ。――なあ、オレの病室に行こうぜ。赤福《あかふく》があるから、いっしょに食べよう」
「赤福? なにそれ?」
「知らないのか!? 赤福を!?」
「うん」
「マジかよ! じゃあ来い! すぐ来い!」
「もうっ! 手、痛《いた》いっ!」
「うっせえ! 赤福《あかふく》知らないヤツに文句《もんく》言う資格《しかく》なし!」
「なんでよ! バカ! エッチ! 離《はな》して!」
僕は里香《りか》の手を引《ひ》っ張《ぱ》って歩きだした。珍《めずら》しく強引《ごういん》な僕に、里香は少し戸惑《とまど》ってるみたいだった。僕を罵《ののし》る声に、いつもほどの切れ味がない。それにしても赤福を知らないなんて、伊勢《いせ》にいる資格なしだ。これから一箱丸々食べさせて、赤福の偉大《いだい》さを教えてやる。――と、そんな下らないことを思いつつ、僕は別のことも頭に浮《う》かべていた。
おい、夏目《なつめ》。これでひとつ貸しだからな。しっかり覚《おぼ》えとけよ。
3
どうにか日常《にちじょう》ってヤツが戻《もど》ってきた。
相変わらず口の中は切れまくっていて水を飲むだけでも痛かったし、腹や足は痣《あざ》だらけだし、プライドはどうしようもなくズタズタだったけれど、そういうのにもだいぶ慣《な》れた。人間、まあどうにかなるもんだ。
朝はまず検温《けんおん》。朝食。でもって点滴《てんてき》。それが終わったら昼飯。いそいそと里香の病室へ。下らない話をしながら里香の散歩につきあい、屋上で太陽の光を浴《あ》び、彼女を病室に送り届《とど》けてから、たまに検査《けんさ》。夕方の検温。そして夕食。
病院の生活なんてつまんないもんだ……当たり前だけどさ……。
多田《ただ》さんがエロ本を集めてたのもよくわかる。なにか熱中できるものを見つけないと、退屈《たいくつ》で退屈でやってられない。まあ、さすがにあのエロ本コレクションはとんでもないけどさ。
ところで相変わらず亜希子《あきこ》さんは点滴がヘタクソだった。昨日なんか針が血管《けっかん》に入ってなかったせいで、血管の脇《わき》がぷっくり膨《ふく》れてしまった。慌《あわ》ててナースコールで呼《よ》びだしたら、来たのはまた亜希子さんで、僕の腕《うで》を見るなり、
「あー、うー」
とか言いながら、頭を抱《かか》えてしまった。しかも頭を抱えているばっかりで、全然針を抜《ぬ》いてくれない。点滴|液《えき》が血管に入らないと、けっこう痛いんだ。
僕は叫《さけ》んだ。
「取ってくださいよ! 早く! 痛い痛い痛い!」
もう泣《な》きそうな勢《いきお》いだった。
自慢《じまん》じゃないが、僕は痛みに弱い。ちょっとしたことで、ぎゃあぎゃあ喚《わめ》いちゃうくらいだ。誰《だれ》でもそうだろ、と思うかもしれないが、世の中にはなんと痛みに強い人もいて、ろくに麻酔《ますい》がきいていない状態《じょうたい》で縫合《ほうごう》手術をしても顔色ひとつ変えなかったりするそうだ。
まあ、ともあれ、僕は痛みに弱い。
だから、やっぱりぎゃあぎゃあ喚《わめ》いたのだが、しかし亜希子《あきこ》さんは頭を抱《かか》えるばかり。
「なにしてんですか!?」
「いやあ、ちょっと反省《はんせい》を……」
「その前に取ってくださいって!」
「わかったよ、うるさいなあ」
まったく理不尽《りふじん》な話なのだが、亜希子さんはぶりぶり怒《おこ》りながら、実に荒《あら》っぽい手つきで針を抜《ぬ》き取《と》った。なんで僕が怒られなきゃいけないんだ。
「じゃあ、やり直すね」
「今度は外《はず》さないでくださいよ」
「わかってるって」
あ、外した……。
「もう嫌《いや》だっ!」
僕はもう半泣《はんな》きだった。
「誰《だれ》か他の看護婦《かんごふ》さん呼《よ》んでくださいよっ!」
「はあ!? 他の看護婦!? あんた、あたしをバカにしてるわけ!?」
「だって! 外してるし!」
「そういうこともある! たまにはある!」
「しょっちゅうじゃないですか! 亜希子さん、ぜーったい看護婦の才能《さいのう》ないですって! なんでこんな外すんですか!」
「むむう」
「唸《うな》ってないで早く抜いてください! 痛《いた》い痛い痛い!」
「むむう」
「は・や・く!」
というわけで、それからさらにもう一回外したあと、ようやく点滴針《てんてきばり》は僕の血管《けっかん》に命中《めいちゅう》した。たかが点滴でなんでこんな痛い目にあわなきゃいけないんだろう……。
「いやあ、悪かった。ごめんよ」
珍《めずら》しく、亜希子さんが謝《あやま》ってくれた。
「もういいです……ぐすっ……」
もちろん、謝ってくれたからといって、痛みが消えるわけじゃない。
「男なんだから、泣かない」
「泣いてないですって」
「あのさ、裕一《ゆういち》」
亜希子さんの声が少し低かった。
「なんですか」
「看護婦《かんごふ》の才能《さいのう》ってのも、あるのかねえ」
「そりゃ、どんな仕事だって向き不向きはあるんじゃないですか」
当たり前のことを、なーんにも考えずに、ほとんど脊髄《せきずい》反射《はんしゃ》で言ってみたところ、
「そうだよねえ」
亜希子《あきこ》さんがなんだか考えこんでしまった。
予想外《よそうがい》の反応《はんのう》だったので、ちょっと戸惑《とまど》った。
「どうしたんですか、亜希子さん」
「うーん」
「なんか悪いもんでも食ったんですか」
「まお、そんなところ」
そして亜希子さんは「じゃあ」とか「お大事に」とか「おとなしく寝《ね》てろクソガキ」とか言わずに、無言《むごん》のまま去っていってしまった。
春が近づいてくると、どうやら人は少々おかしくなるものらしい。
「裕一《ゆういち》のバカ」
亜希子さんのことを話すと、里香《りか》は呆《あき》れたような顔をした。
「無神経《むしんけい》」
僕は少しむくれて言った。
「なんでだよ」
「向いてないって言われて、喜ぶ人がいるわけないじゃない。谷崎《たにざき》さんだって、そういうのが気になるときはあるよ」
里香は亜希子さんのことを名字《みょうじ》で呼《よ》ぶ。
「でもさ、亜希子さんだぜ」
「それがどうしたの」
「あの人にそんな普通《ふつう》の神経あるかなあ――痛《いた》っ!」
いきなり足を踏《ふ》まれた。
「なにすんだよ!?」
「別に。なにも」
また踏まれた。
「ああっ、もう! また踏みやがって! 痛いだろうが!」
「ごめんごめん」
「おまえ、その言い方はぜんっぜんっ反省《はんせい》してないだろ!?」
「そんなことないよ」
「ウソつけ!」
まったく、なんて性格の悪い女なんだ。
僕は里香《りか》の手を引いて、屋上《おくじょう》へと続く階段を上っていた。相変わらず、里香といっしょだと、たかが十数段の階段が恐《おそ》ろしく長く感じられた。ようやく屋上の鉄扉《てっぴ》の前にたどりつく。少し錆《さ》びついて固《かた》くなったその扉《とびら》を、僕は身体を使って押《お》し開《あ》けた。ああ、そうだ、今度病院を抜《ぬ》けだしたら家に寄って機械油を持ってこよう。蝶番《ちょうつがい》に油を差したら、ずいぶん開けやすくなるはずだ。僕がついてこられないとき、里香はひとりでこのドアを開ける。こんなに重いんじゃ大変《たいへん》だからな。
鉄扉を開けた途端《とたん》、少し冷たい空気が流れこんできた。今日は早めに引《ひ》き揚《あ》げよう。里香の身体に障《さわ》る。急な気温の変化でさえ、里香の身体には良くないんだ。
僕は里香の手を少しだけ強く握《にぎ》った。もちろんふらついたフリをしてだ。これならまあ、気づかれないだろう。里香の手は相変わらず小さくて温《あたた》かくて、思いっきり柔《やわ》らかかった。こうしてずっと手を繋《つな》いでいられればいいのに。そうすれば里香をこの世界にとめておけるのに。
「手、痛《いた》い」
「あ、ごめん」
「ふらつかないでよね。こけたら道連《みちづ》れじゃない」
「わかってる」
ああ、そうさ、わかってるんだ。里香、僕はもう、あの本を最後まで読んだんだぜ。おまえがなにを考えてるのか、ちゃんと知ってるんだ。
「里香、寒くないか」
「ちょっと」
「じゃあ、今日はさっさと引き揚げようぜ」
うん、と里香は肯《うなず》いた。
「でも、あたし、寒いの嫌《きら》いじゃないよ」
「へえ。そうなのか」
僕は嫌いだ。いつもコートやらセーターやらモコモコ着こんでいる。寒いとなんだか落ち着かなくなるからだ。
「オレは嫌いだけどなあ」
「自分の輪郭《りんかく》とか、わかる気がするし」
「輪郭……」
「うん、世界と自分の境目《さかいめ》っていうか。夏だと、ほら、空気が生ぬるいでしょ。ああいうのって嫌いなの。世界と自分が曖昧《あいまい》になっちゃうし」
「ふーん」
わかるような気もしたし、わからないような気もした。ただまあ、確かに冬の凛《りん》とした空気が気持ちがいいのは確かだった。自分の心も澄《す》んでいくような感じがする。里香《りか》の言ってるのはそういうことなんだろうか。それとも全然|違《ちが》うんだろうか。尋《たず》ねてみたい気もしたけれど、いちいち言葉にしたら大切な意味が失われてしまうようにも思えて、僕は結局《けっきょく》黙《だま》っていた。言葉って不思議《ふしぎ》なもんだ。言葉でしか伝《つた》えられないことはたくさんあるのに、言葉にすると駄目《だめ》になってしまうこともたくさんある。もっと長く生きて、大人になって、いろんなことを軽々《かるがる》とできるようになったら、使える言葉も増《ふ》えていくんだろうか? うまく思いを伝えられるようになるんだろうか?
揃《そろ》って手すりにもたれかかる。前を向いたまま。手すりは冷たくて、掌《てのひら》がひやりとした。ああ、今日はやっぱり早く引《ひ》き揚《あ》げよう。
里香が口を開いたのは、西から流れてきた雲で太陽が霞《かす》んだのと同時だった。
「――さんね、怒《おこ》られてたの」
「え?」
いろんなことを考えていたせいで、里香がなにを言ったのか聞き取れなかった。
「なんだって?」
里香が思いっきり不満《ふまん》そうな顔になる。
このまま爆発《ばくはつ》したらどうしようと、僕は怖《おそ》れおののいた。とにかく里香は理不尽《りふじん》な女で、こちらが悪くなくても、いきなり怒りだすことがあるのだ。いつだったか三時に病室に来なかったといって、怒鳴《どな》り散《ち》らされたことがある。三時に行くなんて言ってないし、来いとも言われてなかったのに。
『知るか、そんなの!』
言い返してやりたかったけど、もちろん僕は黙って怒鳴られておいた。そういうことを口にしたら、ますます怒鳴られるからだ。
ああ怒るかな……、と身を固《かた》めていたら、実にあっさりとした口調《くちょう》で、
「谷崎《たにざき》さんね、怒られてた」
里香はそう言った。
ほっとしつつ、尋《たず》ねる。
「亜希子《あきこ》さんが? 誰《だれ》に?」
「婦長さんに。ほら、あたしの病室の隣《となり》に、おばあちゃんが入院してるでしょ。その人にした点滴《てんてき》、別の人のと間違《まちが》えちゃったんだって」
「うわ、それヤバいだろ」
点滴といったって、僕がしてるようなお気楽なものばっかじゃない。いろいろときつい薬が入ってることもある。ただでさえ病人は身体が弱ってるわけで、下手《へた》すると命に関《かか》わるくらい大きなミスだった。
「ただの補液《ほえき》だったから、たいしたことなかったみたいだけどね」
「そっか。ついてたな、亜希子《あきこ》さん。抗《こう》ガン剤《ざい》とかだったら、とんでもないことになってたもんな。そりゃ怒《おこ》られるよ。でもまあ、いい教訓《きょうくん》になったんじゃねえの。ほんとあの人って不注意でガサツだから――痛《いた》っ、なに足|踏《ふ》んでんだよ!?」
ああ、もう、なんなんだよ。さっきから何度も何度も足を踏みやがって。左足の爪先《つまさき》がジンジンする。
「裕一《ゆういち》が谷崎《たにざき》さんの話するから教えてあげたのに」
「え――」
「誰《だれ》だって落ちこむことはあるよ。当たり前じゃない」
ついさっき自分が発した言葉が蘇《よみがえ》ってきた。亜希子さん、ちょっと変だったんだよなあ。ぼけーっとしてるっていうかさ。オレに看護婦《かんごふ》の才能《さいのう》とか聞いてくるんだぜ。春が近づいてくると、人間ってちょっとおかしくなるんだな。あの亜希子さんでもさ。笑っちゃうよな。あの亜希子さんが物思いなんてさ。ほんと笑っちゃうよな。
里香《りか》に言われたとおり、自分のバカさ加減《かげん》が嫌《いや》になる……。
確かにあの亜希子さんだっていろいろ悩《なや》んだり落ちこんだりするのは当然だった。そんなことにさえも思い至《いた》らなくて。気がまわらなくて。自分のことで精一杯《せいいっぱい》で。そのくせ根拠《こんきょ》のない自信だけはあったりして。他人をバカにして、嘲《あざけ》って。でもしょせん根拠がないわけで。薄《うす》っぺらい自信なんてそっくり吹っ飛んで。逆《ぎゃく》に押《お》し寄《よ》せてくる不安に怯《おび》え、足の裏《うら》に嫌《いや》な汗《あせ》をかいたりして。
おかしいなあ……おかしいよ……そうだろ……。
子供のころは、大きくなったらいろんなものに手が届《とど》くようになるって思ってた。だから少しでも早く大人になりたいって。でもさ、全然届かねえよ。十七になっても触《ふ》れられないものばっかじゃねえか。
そんなことをずっと考えていたせいで、気がつくと身体がすっかり冷え切っていた。僕の身体が冷え切っているってことは、もちろん里香の身体も冷え切ってるってことだった。
「里香、戻《もど》ろうぜ」
僕は慌《あわ》てて言った。
ほったらかしだったことで、里香は怒ってるかもしれない。
「うん、そうだね」
だけど里香は全然怒ってなかった。それどころか、なんだか優しい顔をしていた。あまりにも意外《いがい》だったので、僕はちょっとぼーっとしてしまった。
「行こう、裕一」
「うん」
取った手が冷たい。くそ、オレのバカ。クズ野郎《やろう》。また自分のことでいっぱいいっぱいになりやがって。落ちこんだそばから、またこれだ。救《すく》いがない。ああ、見ろ、里香の唇《くちびる》が青いじゃないか。それにしても、どうして里香《りか》は優しく笑ってるんだ。どうして僕の顔をじっと見てるんだ。
情《なさ》けなさでいっぱいになりながら、屋上《おくじょう》の鉄扉《てっぴ》を強引《ごういん》に身体で押《お》し開《あ》けたとき、
「あのね、裕一《ゆういち》」
里香が後ろから声をかけてきた。
「お願いがあるんだけど」
鉄扉を身体で押さえながら、振り向く。
「お願い?」
悪い予感《よかん》がした。
「うん」
里香はまだ優しい顔をしたまま、肯《うなず》いた。
4
悪い予感ってヤツは、どうして当たるんだろう。
まったく理不尽《りふじん》だ。
たとえばサイコロを振ると、出てくる数字は半分が奇数《きすう》で、半分が偶数《ぐうすう》だ。世の中にはだいたい同じくらいの幸運と不運があるんだろうし、いい予感《よかん》も悪い予感も等しい確率《かくりつ》で当たるはずなんだ。
ところが、だ。
当たるのはいつも悪い予感ばっかりだった。
まったくこの世界ってのは理不尽だ。
だから僕は参《まい》ってしまう。いやいや、もちろん参ってる一番の原因《げんいん》は、今日の昼飯のおかずが大嫌《だいきら》いなはんぺんのチーズ包《つつ》み焼《や》きだったってことだ。あの柔《やわ》らかさとか、中にチーズが入ってることとか、とにかくたまらないくらい嫌いなんだ。あんな食べ物があるなんて、どうかしてる。味といい、食感といい、最悪だ。
そう、はんぺんのチーズ包み焼きのせいで参ってるだけだ。
それだけさ。
『写真、撮《と》って』
里香の声が時々心に響《ひび》くのは、全然関係ない。
屋上から病室に戻《もど》る途中《とちゅう》、里香がそう言ったのだった。写真を撮って、と。なんの写真だよと尋《たず》ねると、いろいろと里香は答えた。あたしとか、裕一とか、谷崎《たにざき》さんとか、夏目《なつめ》先生とか、この病院とか。カメラ持ってる? ああ、持ってるよ。インスタントカメラとかでいいから。いや、あの、もっといいカメラがあるぞ。へえ、そうなんだ。今度家に行って取ってくるよ。あー、また病院|抜《ぬ》けだすんだ。いけないんだ。おまえなあ、よくそんなこと言えるなあ。おまえに言われて、昨日も市立図書館行ってきたばっかじゃん。亜希子《あきこ》さんの目を盗《ぬす》むのにどんだけ苦労《くろう》したかわかってんのかよ。わかんない。簡単《かんたん》に言うな。ははは。笑うなって。ちょっと前に見つかって土下座《どげざ》させられてたよね。ナースステーションの前で。おまえ、あん時、ニヤニヤ笑いながら、三回くらい前を通っていったよな。用事があったのよ。ウソつけ。――と、僕たちは普通《ふつう》に笑って、普通に怒《おこ》って、普通に喋《しゃべ》り、普通に病室で別れ、普通にじゃあななんて言ったりした。どうして、という言葉だけは決して口にしないまま。
まあ世の中なんて、下らないもんだ。
そうだろ?
腹が空《す》けばなんか食いたくなるし、ナースステーションの前で正座《せいざ》させられるとさすがにヘコむし、喉《のど》が渇《かわ》けば泥水《どろみず》だって飲んじまう。
そう、下らないんだ。
僕も世界も。
ありふれたことや当たり前のことで満ちてるんだ。
里香《りか》もまた、そういった下らなさから逃《のが》れることはできない。自分の命がいつ消えるかもしれないってときになにかを残したくなったとしても不思議《ふしぎ》じゃなかった。ああ、でもこれは僕が人一倍下らないから、そんな想像《そうぞう》をしちゃうだけなんだろう。里香にはなにかとんでもない思惑《おもわく》が、全然下らなくない考えがあるに違《ちが》いない。たとえば……たとえば……原チャリの免許《めんきょ》を取るのに写真が必要《ひつよう》だとか……いや、それはありえないけど……まあ、僕には思いもつかないなにかがあるはずだ。
里香くらいの美少女なんだ、僕の想像《そうぞう》を超《こ》えてるさ。
そうに決まってる。
というわけで。僕は翌日《よくじつ》、すぐさま病院抜けだしを計《はか》った。しかも真っ昼間である。なかなか危険《きけん》な賭《か》けだが、最近は夜の警戒《けいかい》も厳《きび》しいので、ここは一発|逆《ぎゃく》をついてやるぜなんてつもりだったのだが……。
裏口《うらぐち》を出た瞬間《しゅんかん》、いきなり亜希子さんに見つかった。
「あー、いい天気だねえ、裕一《ゆういち》」
笑いながら。
「で、どこ行くわけ」
僕はもちろん思いっきり焦《あせ》った。
「そ、そそそうですね! い、いいい天気ですよね! つ、つつつつい外の空気を吸いたくなっちゃいますね! いや、もちろんちょっとですよ! ほら、この裏庭《うらにわ》を散歩《さんぽ》するとか!」
「なるほど。なんでコートを着てるんだろう」
「春めいてきたけど、やっぱ寒いじゃないですか。あ、あと、急に寒くなることもあるし。春は三寒四温《さんかんしおん》とか言うし」
「じゃあ、つきあうよ」
「は?」
「だから散歩《さんぽ》」
「い、いや、悪いからいいっすよ。だって亜希子《あきこ》さん、仕事中じゃないですか。看護婦《かんごふ》が忙《いそが》しいことくらい知ってるし」
「もう上がりだからさ、あたし。帰るだけなんだ」
「じゃあ、帰ってゆっくり休んだらどうですか?」
「迷惑《めいわく》? あたしがいると?」
言いつつ、亜希子さんは不敵《ふてき》に笑った。
実に楽しそうな笑《え》みだった。
僕は急に怖《こわ》くなり、ブンブンと首を横に振った。
「んなことないですよ!」
「じゃあ、歩こう」
「はい……」
亜希子さんと並《なら》んで裏庭《うらにわ》を歩く。まあ、裏庭なんて、寂《さび》しいもんだ。枯《か》れちゃった芝生《しばふ》とか、貧相《ひんそう》な松とか、そんなものしかない。ゆっくり歩いても、三分もしないうちに一周してしまう。
「あの、亜希子さん」
「うん?」
「…………」
「なんだよ?」
僕は亜希子さんに謝《あやま》りたかった。この前、無神経《むしんけい》なことを言ってごめんなさいって。でも、そんなことを言ったら、亜希子さんはよけい傷《きず》つくかもしれない。僕の気遣《きづか》いなんて、実は身勝手な優しさなのかもしれなくて。自分のための言葉にすぎないかもしれないわけで。
「なんでもないです」
「ふーん」
ごめん。
心の中でだけ、謝ってみる。
なにかが亜希子さんに伝《つた》わればいい。
いや、伝わらないほうがいいのかな。
よくわかんないや。
「あったかいねえ」
「そうですね」
「ほんと、あったかいねえ」
亜希子《あきこ》さんはナース服のポッケに手を突っこみ。足を投げだすようにして歩いていた。なんだか小さな子供みたいな歩き方だった。ああ、そういえば、僕も亜希子さんと同じように小さな子供みたいな歩き方をしてる……。
ふと、自分の靴《くつ》が目に入ってきた。安売り靴店で買ってきたスニーカーだ。買ってきたときはきれいなクリーム色だったその靴は、すっかり薄汚《うすよご》れてしまっていた。いつのまに、こんな汚れたんだろう。
「さあ、引《ひ》き揚《あ》げな」
一周したところで、亜希子さんが言った。
「とっとと病室に戻《もど》って寝《ね》なよ、クソガキ」
「…………」
「どうしたんだよ、なに突っ立ってんのさ」
「…………」
「ほら、早く帰りなって」
僕はうつむき、薄汚れたスニーカーを見つめた。なあ、いつからそんなに汚れちまったんだよ。でもさ、新品のときより、なんかいい感じだぞ。新しい靴って妙《みょう》に恥《は》ずかしいんだよな。
「亜希子さん、見逃《みのが》してください」
「は?」
「家に戻《もど》りたいんです。一時間……いや、四十分で戻ってきます」
「なんで?」
いきなり怒鳴《どな》られるかと思ったのに、亜希子さんの声は意外《いがい》と静かだった。ポケットから煙草《たばこ》を取りだし、口にくわえる。火はつけないまま。
「カメラを取りにいきたいんです」
「カメラ? 写真を撮《と》るヤツ?」
「はい」
「そっか」
なにを考えていたのかわからないけれど、亜希子さんはしばらく黙《だま》っていた。僕たちの周囲《しゅうい》には、ちょっとばかり呑気《のんき》に感じられる春めいた日射《ひざ》しが降《ふ》り注《そそ》いでいた。その日射しに照らされ、病院の薄汚れた壁《かべ》さえもが、やはりちょっとばかり呑気に輝《かがや》いている。里香《りか》の病室を探《さが》したけれど、ここからは見えなかった。
「待ってな」
亜希子さんがそう言ったのは、たぶん一分か二分……もしかすると三分くらいたったころだったと思う。
「車、取ってくるからさ」
「え? 車?」
「つれてってやるよ」
5
亜希子《あきこ》さんの車は銀色のスポーツタイプだった。
シルビアという車種だそうだ。
ただ、どういうわけか、町で見かける同じ車種とはなんだか形が違《ちが》うような気がする。妙《みょう》な羽みたいなものがテールのあたりについているし、フロントにはマスクみたいなパーツがはめこまれてもいる。排気《はいき》ガスが出るところなんて、やたらと大きな、まるで大砲《たいほう》みたいなものがぶら下がっていた。
こりゃ絶対《ぜったい》ノーマル仕様《しよう》じゃないな……。
そんなことを考えつつ、突っ立っていると、
「ほら、乗りなよ」
得意気《とくいげ》に、亜希子さんがそう言ってきた。
「えーと……」
「乗りなって」
「えーと……」
なんで乗る前から命の危険《きけん》を、こう、ヒシヒシと感じるんだろ?
「ほら、行くよ」
「は、はい」
せっかくの好意《こうい》を無《む》にするわけにもいかず、僕は緊張《きんちょう》しつつ車に乗りこんだ。シートに座《すわ》った瞬間《しゅんかん》、背中《せなか》がすっぽりと収《おさ》まった。まるでシートに抱《だ》きしめられてるような感じだった。
「あの、亜希子さん」
「なんだよ」
「このシートって……」
亜希子さんの目が、きらんと輝《かがや》いた。
「いいだろ、バケットシート。ぴたっと来るよね。旧二十三号で思いっきりターンかましても、全然平気だから。視点《してん》がぶれないってのが大事なんだよね。ベルトもちゃんと四点式だし」
「はあ……」
いや、あの、そのシートベルトの締《し》め方《かた》が全然わかんないんですけど? なにをどこにとめればいいんですか?
「じゃあ、行こうか」
亜希子《あきこ》さんがキーを捻《ひね》ると、
ブロロロオオオ――――ンッ! ロロロオオオ――ンッ!
凄《すさ》まじい音がした。
腰《こし》の下から振動《しんどう》がズンズン響《ひび》いてくる。
やっぱエンジンもノーマルじゃないし……。
硬直《こうちょく》する僕をよそに、亜希子さんは実に手慣《てな》れた仕草《しぐさ》でシフトを入れ、いっきにアクセルを踏《ふ》みこんだ。病院の駐車場に見事《みごと》なブラックマークを残しつつ、シルビアがその優《すぐ》れたパワーウェイトレシオを発揮《はっき》して飛びだす。
とんでもない加速《かそく》で、身体がシートに押《お》しつけられた。
「あ、亜希子さん。あ、あああ安全運転を」
「わかってるわかってる」
わかってるんなら、たかが一般道《いっぱんどう》に出るのに、なんでタイヤがギャウンッなんて音してるんだろう……。
「あんたん家《ち》、吹上町《ふきあげちょう》だったっけ」
「そ、そうです」
物凄《ものすご》い勢《いきお》いで車は加速してゆく。カコン、二速。カコン、三速。恐《おそ》ろしく滑《なめ》らかなシフトアップだった。無駄《むだ》がまったくない。カコン、四速。はるか前方を走っていたはずの車がどんどん近づいてくる。
「あ、亜希子さん!?」
前走車が赤信号でとまった。ぶ、ぶつかる。
キッ!
しかしそんな音とともに、シルビアはピタリととまった。
前走車との距離《きょり》はおそよ十センチ。
「え? とまった?」
びっくりして、そんな声が漏《も》れていた。
亜希子さんが得意気《とくいげ》に微笑《ほほえ》む。
「パッドがハイパーカーボンタイプでさ、ローターの表面に皮膜《ひまく》を作るんだよね。利《き》き幅《はば》があるっていうか、慣れないと踏みこみが浅くなりがちだけど、そのぶん細かいコントロールができるんだ。あと大事なのはローターだね。金はかかるけど、やっぱスリット式がいいよ。全然レスポンスが違《ちが》ってくるからさ」
あの? わけわかんないすけど? 亜希子《あきこ》さん?
「シルビアはさ、まあノーマルでもいいんだけど、やっぱターボだよね。知れば知るほどそう思うよ。あと絶対《ぜったい》六速マニュアルね。バランスがいいんだよ。カコンって感じで。S14が出たころにいいなあって思って、今はS15だけど――」
ほとんど独演会《どくえんかい》になりつつあった。
しかも得意気《とくいげ》に喋《しゃべ》れば喋るほど、車のスピードが増《ま》していく気がする。なんだか、これはヤバい……とてもヤバい……。本能《ほんのう》がヒシヒシとそう訴《うった》えてくる。
なにか他の話題はないだろうか。
話題話題、えーと。
「そういや夏目《なつめ》……先生っていつ若葉《わかば》病院に来たんですか?」
焦《あせ》りに焦った末、ようやく思いついたのが、それだった。
気持ちよく喋っていた亜希子さんが、僕のほうを見た。少しだけスピードが落ちる。慌《あわ》てて僕は続けた。
「ほ、ほら、僕が入院したばかりのころはいなかったじゃないですか? でも、その前から来てたんですよね?」
「ああ、まあね」
車の話題から離《はな》れたら、スピードが少し落ちた。よかった……。
「着任《ちゃくにん》して、いきなり長期|休暇《きゅうか》って感じだったんだよ」
「へえ? そんなのありなんですか?」
「ないよ、普通《ふつう》は」
「普通は?」
「うん」
肯《うなず》き、亜希子さんは古市《ふるいち》街道《かいどう》に入った。
「あいつはさ、ちょっとイレギュラーだから」
「はあ……」
「ほんとはウチみたいな地方病院に来る人じゃないんだ」
「どういうことですか?」
「うちはさ、あんたも知ってるだろうけど、K大学の系列《けいれつ》なんだよ。で、まあ、田舎《いなか》だからさ。序列的《じょれつてき》には低いわけ。言っちゃ悪いけど、うちに来る先生はみんな落ちこぼれ組ってこと。大学病院の医局に残れなかったあぶれ組さ」
「なるほど」
「だけど夏目は本流なんだよね。ド真ん中っていうかさ。とにかく腕《うで》がいいんだよ。K大学の若手じゃ飛び抜けてて、こと手術の技量に関しては教授クラスでもかなわないって話だよ」
また車のスピードが上がりはじめた。前走車のテールがどんどん近づいてくる。あの、車間|距離《きょり》が五メートルない気がするんですけど……前の車、思いっきりビビってるような……。
背中《せなか》にじっとりと嫌《いや》な汗《あせ》をかきながら、僕は亜希子《あきこ》さんの言ったことを理解《りかい》しようとした。若葉《わかば》病院は末端《まったん》も末端。なのに夏目《なつめ》は腕《うで》がいい。本流。なんだかおかしな話だった。
「物好きなんですかね、夏目……先生って」
前走車のテールランプを睨《にら》みつつ、僕は言ってみた。
「田舎暮《いなかぐ》らしとか、そういうの流行《はや》ってますもんね」
僕の言葉を聞いた亜希子さんが妙《みょう》な顔をした。僕をバカにしてるような、あるいは困《こま》ってるような顔だ。
「――ったく、これだからガキは」
「は?」
「飛ばされたんだよ、夏目は。決まってるだろ。だいたい妙なんだ。静岡《しずおか》にいたこと自体がおかしいのに、ウチみたいなもっと小さい病院に来るなんてありえない話だし。それで着任《ちゃくにん》した途端《とたん》長期|休暇《きゅうか》なんてさらにありえないし。婦長に聞いても、話を逸《そ》らされるし。まあ、なんかあったんだろうね」
「なんかって……」
「さあ、よくわかんないけどね。噂《うわさ》だと学部長を殴《なぐ》――」
赤信号でとまった。僕の家は、この信号を左に曲《ま》がって、さらに数分走ったくらいのところにある。
「亜希子さん、ここ左です」
反応《はんのう》がない。
「亜希子さん、左に曲がらないと」
繰《く》り返《かえ》した、そのときだった。
ブロロロロロ――ンッ!
急にエンジン音が大きくなった。
車体が震《ふる》える。
僕の腹の底も震える。
慌《あわ》てて右を見ると、亜希子さんも右を見ていた。なんだ、なにを見てるんだ。身体を前に倒《たお》して覗《のぞ》きこむと、すぐ隣《となり》の車線に、亜希子さんと同じシルビアがとまっていた。しかも同じように変なパーツが車体のあちこちについている。
ブロロロロロ――ンッ!
その隣《となり》の車から、派手《はで》なエンジン音が響《ひび》いてきた。煽《あお》り返《かえ》すように、亜希子《あきこ》さんがさらにエンジンを吹かす。二台の車は赤信号を前に、ノーズをピタリと停止線にあわせ、その心臓であるエンジンを激しく震《ふる》わせあっていた。
ああ、これは……このパターンは……もしかして……。
「裕一《ゆういち》」
「は、はい」
「シートベルト、きっちり締《し》めておきな」
「は、はい」
「本物のロケットスタートってヤツを見せてあげるよ」
ああ、信号が変わる……ああ、神様……。
「ブッちぎる」
亜希子さんは目をらんらんと輝《かがや》かせながら宣言した。
6
「死ぬ……」
車から降《お》りると同時に、すぐさま道路|脇《わき》にしゃがみこんだ。僕はジェットコースターが嫌《きら》いだ。あんなものに乗ってキャアキャア言ってるヤツらを見ると、どこが[#「が」は底本では「か」]おもしろいんだバカ野郎《やろう》と怒鳴《どな》りたくなるくらいだった。そのジェットコースターのほうがマシだと思える乗り物が、こんなそばにあったとは。
「吐《は》く……」
バタン、というドアの閉まる音がした。
亜希子さんが車から下りたんだろう。
「いやあ、いい勝負だったねえ」
背後《はいご》から聞こえてきたのは、実に満足そうな声だった。
「なかなか相手もうまかったし。でもまあ、しょせんあたしの敵《てき》じゃないね」
「あう……」
「どうしたの、裕一」
「いや、なんか胃がひっくり返ったような……」
「見た? 最後のあいつ? ビビってアクセル緩《ゆる》めただろ? 最後は結局《けっきょく》、気合い勝負なんだよ」
気合いだよ、うんうん、と亜希子さんは繰《く》り返《かえ》している。
どうにか立ちあがれるようになると、僕は自分の家に向かった。亜希子さんの車は家の真ん前にとまっていたのですぐ玄関《げんかん》にたどりつく。
亜希子《あきこ》さんが当たり前のようについてきた。
「あの、亜希子さん。ありがとうございました」
遠まわしに遠慮《えんりょ》してくれと伝《つた》えたつもりなのだが、もちろんまったく伝わらなかった。
「あー、帰りも送るよ」
「い、いいっすよ……」
マジでビビって、僕は言った。
むしろ自分で歩いて帰ったほうが、ずっと安全な気がする。
「そ、それはさすがに……わ、悪いし……」
「大丈夫《だいじょうぶ》大丈夫。気にしなくていいから。ほら、行くよ。早くしな。いちおう誤魔化《ごまか》してきたけど、婦長にバレないうちに戻《もど》らなきゃいけないんだ」
「は、はあ」
逆《さか》らうこともできず、僕はコートのポケットから鍵《かぎ》を取りだし、玄関《げんかん》を開けた。母親は仕事中なので、もちろん家の中には誰《だれ》もいなかった。ギシギシいう廊下《ろうか》を歩き、ギシギシいう階段を上り、自分の部屋《へや》へ。亜希子さんは煙草《たばこ》を吹かしながら、ふっるいねえーと呟《つぶや》きつつ、あとをついてきた。
「あ、煙草ヤバい? 燃える?」
「薪《まき》じゃないですって」
「似《に》たようなもんじゃん」
「まあ、そうですけど」
確かに僕の家は古い。
「ここです」
階段を上がりきってすぐのドアを、僕は[#「は」は底本では「を」]開けた。
どうにか六|畳《じょう》の部屋。安物のパイプベッド、十四インチのテレビ、リサイクルショップで買ってきた三千六百円のラジカセ、本棚《ほんだな》はほとんどすべてがマンガで、だいたいどれも最終巻まで集めていない。入院前は雑誌やら服やらCDやらが畳《たたみ》を埋《う》めつくすように散《ち》らばっているのが常《つね》だったけれど、今はきれいに片《かた》づいていた。どうにか畳が二枚見える。すっかり傾《かたむ》いた太陽が橙色《だいだいいろ》の日射《ひざ》しをそんな畳に投げかけていた。
僕はコートを脱《ぬ》ぎ、ボロボロの押入《おしい》れの襖《ふすま》を開けた。
「ちょっと待っててください」
「あいよ」
肯《うなず》き、亜希子さんが勉強机の椅子《いす》に腰《こし》かけた。ろくに座《すわ》りもしないくせに、その椅子は背《せ》もたれが壊《こわ》れてぐらぐらになっている。
「亜希子さん、それ、もたれかかるとひっくり返りますよ」
「うん? ああ、危《あぶ》っないねえ!」
「それから、机の中、漁《あさ》らないでくださいね」
「了解《りょうかい》了解」
「言ってるそばから、なに抽斗《ひきだし》開けてんですか!」
「え?」
「すっとぼけないでください! 開けないでくださいよ!」
「わかったわかった、そんな怒《おこ》らなくてもいいじゃん」
つい本気で怒ってしまったのがよかったのか、珍《めずら》しく亜希子《あきこ》さんが拗《す》ねたような顔でそう言った。
――っっ[#「っ」は底本では「つ」]たくもう、この人は。
亜希子さんの気配《けはい》に注意しつつ、僕は押入《おしい》れの中に頭を突っこんだ。なんかわけのわからないものがいっぱい詰《つ》まっている。壊《こわ》れてるのを承知《しょうち》で貰《もら》ってきたレコードプレーヤー。ああ、これは直して使おうと思ってたんだった。そういや直してないや。昔大好きだった歌手のCDがプラスチックケースにいっぱい詰まっていた。今じゃ見るのも恥《は》ずかしい。この歌手、どこに行っちゃったんだろうな。最近テレビに出てないよな。中学卒業のときに貰ったアルバム、それに卒業文集。こいつらもやっぱり見たくないや。どんどんどんどん奥に潜《もぐ》りこんでゆく。
ようやく目当ての箱を見つけだしたのは、膝《ひざ》まで押入れに入ったころだった。金属製のボックス。あちこち瑕《きず》だらけで、そこがもう錆《さ》びてしまっている。それを抱《かか》え、いい加減《かげん》に積みあげた段ボール箱の隙間《すきま》を縫《ぬ》いながら、ようやく押入れから脱出《だっしゅつ》した。ああ、大変《たいへん》だったけど、見つかってよかった。――と思っていたら、亜希子さんが抽斗を全開にして、中を吟味《ぎんみ》していた。
「なにしてんですか!?」
慌《あわ》てて駆《か》け寄《よ》り、抽斗を閉める。
亜希子さんはつまんなさそうに言った。
「あーあ、まだ見はじめたばかりなのに」
「開けないでくださいって言いましたよね!」
「そんな怒らないでよ。わかってるって。で、それ、なに」
「カメラです」
蓋《ふた》を開けようとしたのだが、錆びついてしまっているのか、なかなか開かなかった。蓋の隙間に爪《つめ》を差しこみ、ギチギチという音をさせながら揺《ゆ》らし、少しずつ押《お》しあげてゆく。最後は意外《いがい》と簡単《かんたん》に、パカンという音とともに蓋は開いた。
中には、一台のカメラと、三冊のアルバムが入っていた。
僕はアルバムを取りだすと脇《わき》に置き、最後にカメラを手に取った。鈍《にぶ》く光るニコンの一眼《いちがん》レフだ。レンズキャップを開けると、レンズに少しカビが生《は》えていた。押入れに放《ほう》りこんでおいたんだから、しょうがないか。それにしても、どうしてガラスにカビが生えるんだろう。父親に理屈《りくつ》を聞かされたような気もするけど、もちろんカケラも覚《おぼ》えちゃいなかった。
僕はファインダーを覗《のぞ》き、レンズ越しに部屋《へや》を見まわした。まあ、なんとか大丈夫《だいじょうぶ》そうだ。そして隣《となり》の亜希子《あきこ》さんをファインダーに収《おさ》め、ピントをあわせたところ――。
亜希子さんがアルバムを開いていた。
「ああーっ、なにしてんですか!」
カメラを左手に持ったまま、右手を伸ばす。けれど、亜希子さんはその手を軽く払《はら》い、アルバムをめくりつづけた。
「この赤ちゃん、もしかして裕一《ゆういち》?」
「そうですけど! 見ないでくださいよ!」
「かっわいいじゃん」
「だから、見ないでくださいって!」
「ひー、可愛《かわい》い可愛い!」
「なに笑ってんすか!?」
「ああ、なんだ、散髪《さんぱつ》されて泣《な》いてんじゃない。うわ、ぶっさいくだね、あんた。鼻水《はなみず》出てるよ、鼻水」
「返してくださいって!」
「もうちょっと見たらね」
「あー! もー! ほんと返してくださいって!」
しかし亜希子さんはなかなか返してくれなかった。足で僕の肩《かた》をぐいぐい押《お》し、ヒーヒー笑いながら、ページを繰《く》っている。
ところが――。
あるページにさしかかったところで、亜希子さんの目が急に細くなった。
「ねえ、これ誰《だれ》?」
「誰って……」
僕はかなり拗《す》ねながら、それでもアルバムを覗きこんだ。
「ああ……父親です……」
「へえ、男前じゃん。で、こっちはあんた?」
「そうですけど……」
ふーん、と亜希子さんが唸《うな》った。
なにを言われるのかと身も心も準備《じゅんび》していたが、亜希子さんはしかしなにも言うことなく、アルバムをパタンと閉じた。
僕はちょっと拍子抜《ひょうしぬ》けしてしまった。
「このアルバムを取りにきたんじゃなくて、そっちのカメラだよね?」
「そうですよ」
「なんで急にそんなこと言いだしたのさ?」
「写真を撮《と》るんです」
「そりゃわかってるよ。当たり前だろ。だから、なんでって聞いてんの」
迷《まよ》った末、僕は正直に言うことにした。
「里香《りか》が写真を撮ってほしいって言ったんです」
「へえ? 里香が?」
「はい」
ふーん、と亜希子《あきこ》さんはさっきと同じように唸《うな》った。そして、やはり今回もなにも言うことなく、ただ黙《だま》っていた。僕が持っているカメラを、じっと見つめている。変な間合《まあ》いに僕はどうしていいかわからなくなり、亜希子さんと同じようにカメラを見つめつづけた。
それにしても、まったく古くさいカメラだ。時代|遅《おく》れもいいところだった。
一眼《いちがん》レフだからレンズはいいものだけど、なにしろ古いのでオートフォーカスなんてついていない。ファインダーを覗《のぞ》きこんで、いちいちピントをあわせなければならないのだ。もちろん自動|露出《ろしゅつ》補正《ほせい》機能《きのう》もなかった。シャッタースピードと、レンズの絞《しぼ》り……まあ、カメラにはそういう機能があるんだけど、それを天候《てんこう》や照明《しょうめい》にあわせて自分で調整《ちょうせい》しなきゃならない。要するに、やたらと面倒臭《めんどうくさ》いカメラだってことだ。適当《てきとう》にファインダーを覗きこんで適当にシャッターを押《お》せばいいだけのインスタントカメラとは全然|違《ちが》う。そのぶん、ちゃんと扱《あつか》えば物凄《ものすご》くきれいな画《え》を撮ることができるんだけど。
それ、あんたの、と亜希子さんが尋《たず》ねてきた。
「元は父親のですけどね」
「いいカメラだね」
「よく自慢《じまん》してましたよ。二十万もすんだぞって」
「へえ、高級品じゃん」
「まともな趣味《しゅみ》って、これだけでしたからね。あとは競馬《けいば》とか競艇《きょうてい》とかで」
日射《ひざ》しはさっきよりさらに傾《かたむ》いていた。窓枠《まどわく》の影《かげ》が長く長く伸び、畳《たたみ》を切《き》り裂《さ》き、襖《ふすま》までも切り裂いている。そんな橙色《だいだいいろ》の光の中で、小さなチリが無数に舞《ま》っていた。二年ぶりに持つカメラがやけに重く感じられた。
「裕一《ゆういち》、あたし、喉《のど》渇《かわ》いた」
「はあ……」
「だから、渇いたって言ってんだろ」
「はあ……」
いきなり蹴《け》られた。
「なにすんですか!?」
「気をきかしな! このボケガキ! 喉が渇いたって言ったら、なにか飲み物でも持ってくるのが普通《ふつう》だろ!」
「だからって、いきなり蹴《け》らなくてもいいじゃないですか!?」
「ほらほら、すぐに持ってきな! でないと、三番目の抽斗《ひきだし》に入ってたもののこと、里香《りか》にバラすよ?」
「あ……」
「いやあ、裕一《ゆういち》も男だねえ。多田《ただ》さんに負けないねえ。自分であれだけのコレクションを――」
ニヤニヤ笑う亜希子《あきこ》さんの言葉を、僕は早口で遮《さえぎ》った。
「あ、亜希子さん! なにがいいっすか!? コーラ? サイダー? 牛乳? あ、それともビールでも持ってきましょうか?」
「んー、コーラでいいや。運転しなきゃいけないし」
「じゃあ、すぐに!」
僕はカメラをベッドに放りだすと、全速力《ぜんそくりょく》で階段を駆《か》けおりた。くそお、しまった。やっぱ亜希子さんを部屋《へや》に入れるんじゃなかった……。
オリジナル戎崎《えざき》コレクションがバレたってことは、しばらくパシリ決定だった。
亜希子さんはやたらと上機嫌《じょうきげん》で帰りの車を運転しており、僕のほうはカメラを手にしながら、これからどんな無理《むり》難題《なんだい》を押《お》しつけられるのかということを想像《そうぞう》して、ひたすらブルーになっていた。
ああ、人生は非情《ひじょう》だ。
まったく、ひどいもんだ。
「ちょっと遅《おそ》くなっちゃったから飛ばすよ」
そう言ったものの、意外《いがい》と亜希子さんは飛ばさなかった。
周《まわ》りの車とたいして変わらないスピードで、古市《ふるいち》街道《かいどう》を走ってゆく。遠くに神宮《じんぐう》の森が見えた。砲台山《ほうだいやま》も見えた。
亜希子さんの携帯《けいたい》が鳴《な》りだしたのは、走りだしてから数分たったころだった。
「あ? なに? ああ、そこにいるんだ?」
もちろん車をとめることなく、片手《かたて》でハンドルを操《あやつ》りながら、片手で携帯を耳に当てている。亜希子さんの頭には道路交通法という言葉は存在《そんざい》しないらしい。
やがて亜希子さんは電話を切った。
「悪い、裕一。ちょっと寄り道してくよ」
「はあ、いいですけど」
「昔の友達からでさ。こっちに戻《もど》ってきたばっかで、まだ車持ってないんだよね。近鉄の駅で拾ってくから」
「戻《もど》ってきたって? どこからですか?」
東京、と亜希子《あきこ》さんは言った。
へえ、と僕は言った。
少しスピードをあげたシルビアは、滑《なめ》らかに道路を走ってゆく。まるで空を飛んでいるみたいだった。駅近くのコンビニを過ぎたあたりで減速《げんそく》しはじめ、そのままいささか荒《あら》っぽく路肩《ろかた》に寄る。
歩道橋のそばに、女の人がひとり、立っていた。
「後ろ、乗ってよ」
窓を開け、亜希子さんが言った。
「後ろね、わかったわ」
聞こえてきた声は、やたらと艶《つや》っぽかった。少し鼻にかかってるような感じで、語尾が柔《やわ》らかい。亜希子さんとは全然|違《ちが》う喋《しゃべ》り方《かた》だった。
後ろの扉《とびら》が開き、閉まった。
その途端《とたん》、甘《あま》い匂《にお》いが車内に満ちた。香水《こうすい》だ。僕は男なので、女物の香水なんてなにがなんだかわからないけど、ムチャクチャいい匂いだった。
バックミラーを見ると、ふっくらした胸《むね》がいきなり目に飛びこんできた。
「こいつ、裕一《ゆういち》」
走りだすなり、亜希子さんが僕の頭を小突《こづ》いた。
「入院|患者《かんじゃ》で悪ガキ」
クスクスという笑い声が、後ろから聞こえてくる。
「よろしくね、裕一君」
そしてまた、あの柔らかい声。
まるで僕に甘えてるような感じだった。
僕はやたらと緊張《きんちょう》して、頭をぺこぺこ下げた。
「ど、ども」
「でもって、こっちは与謝野《よさの》美沙子《みさこ》。あたしの中学からの友達《ダチ》」
紹介《しょうかい》されたのをいいことに、僕は後部座席に顔をやった。まず目に入ってきたのは、白いシャツだった。ボタンをふたつも外《はず》しているせいか、もう下着が見えるんじゃないかってくらい前が大きく開いており、その胸元《むなもと》ではシルバーの細いネックレスが優雅《ゆうが》な曲線《きょくせん》を描《えが》いている。要《よう》するに……まあ、なかなか立派《りっぱ》な胸をしてるってことだ。膝丈《ひざたけ》より少し短いスカートからは、二本のほっそりとした足が僕のほうに向かって伸びていた。膝とくるぶしをきっちりあわせ、優雅に折り曲げてる。
伊勢《いせ》だって三重《みえ》じゃわりと大きな町だ。とはいえ、もちろん田舎町《いなかまち》なわけで。シャネルだのグッチだのエルメスだのは普通《ふつう》に売っていない。だからみんな、それなりにダサい。いや普通なんだけどさ、それが。ただムチャクチャ色っぽい人とか、ムチャクチャカッコいいヤツとか、とにかくテレビに出てくるような人間は滅多《めった》にいない。
美沙子《みさこ》さんはテレビに出てきてもおかしくなかった。
体つきがやたらとほっそりしてる上、それを強調するような服を着ており、しかも一目見ただけで安物じゃないってわかるくらいの服だ。持ってるバッグもいい革《かわ》を使ってるらしくツヤツヤしていた。とにかく、これだけは言える。こんなに盛大《せいだい》に胸元《むなもと》が開いたシャツを着る女なんて、伊勢《いせ》にはまずいない。
顔だけでいったら、亜希子《あきこ》さんのほうがよっぽど美人だろう。それは間違《まちが》いない。でも美沙子さんには、そういうのとは違うなにか≠ェあった。そのなにか≠フせいで、僕はぼんやりと美沙子さんの顔を見つめてしまっていた。
まったく嫌《いや》がる素振《そぶ》りもなく、美沙子さんがにっこりと笑う。
それは身体の奥底《おくそこ》がムズムズするような笑《え》みだった。
「裕一《ゆういち》君、いくつ?」
「あ、十七です」
「高二?」
「は、はい。今度三年ですけど」
「もう受験生じゃない。勉強はしてる?」
「そ、それはその……あんまり……」
美沙子《みさこ》さんがクスクスと笑う。
「駄目《だめ》よ、ちゃんとしておかないと。あとで大変《たいへん》だもの。ああ、あたしがこんなこと言っても説得力《せっとくりょく》ないか」
「ないね」
亜希子《あきこ》さんが一言。なんだかその声はやたらと低かった。
「そうね」
けれど美沙子さんは相変わらず機嫌《きげん》よさそうに笑っている。
「裕一《ゆういち》君、進学するの?」
「は、はあ、いちおう」
「どこ? 県内?」
「まだはっきりとは決めてないんですけど……そういや、美沙子さんは東京にいたんでしたっけ……」
少しの間《ま》があった。
「そうよ」
どうして帰ってきたんですか、という言葉は呑《の》みこんでおいた。初対面《しょたいめん》の人にそういうことを聞くのはまずい気がしたからだ。それに、亜希子さんがいきなり加速《かそく》したせいでシートに身体が押《お》しつけられ、タイミングを逃《のが》してしまったってのもある。
車内には、いい匂《にお》いが満《み》ちていた。
それは美沙子さんの[#「の」は底本では無し]首筋《くびすじ》から、胸元《むなもと》から、スカートの裾《すそ》から、発していた。
亜希子さんの煙草臭《たばこくさ》さとはえらい違《ちが》いだ。
その匂いにぼーっとしているうちに、車は病院の駐車場に着いていた。
「下りな」
亜希子さんの声は低いままだった。
「婦長に見つかんじゃないよ、クソガキ」
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なんだか、どうにも不可解《ふかかい》だ。
世の中にはまあ、いろいろ不可解なものがあるけどさ。たとえば司《つかさ》の料理好きとか、昨日|亜希子《あきこ》さんが一発で点滴《てんてき》を成功させたこととか。でもニコニコ笑ってる里香《りか》ってのはもうなんというか……とてつもなく不可解だ……。
いつもの散歩《さんぽ》。
いつもの屋上《おくじょう》。
僕は隣《となり》でニコニコ笑う里香の顔を、ぼんやり見つめていた。
「なによ」
里香が尋《たず》ねてくる。
我に返り、僕は慌《あわ》てて言った。
「い、いや、なんでもないよ」
「ふーんだ」
まだニコニコ笑っている。
おかしい……。
絶対《ぜったい》おかしい……。
里香《りか》はとんでもない女なんだ。ちょっと見つめてただけで裕一《ゆういち》のエッチバカとか言って、本を投げつけてきたりする。そりゃまあ、ちょっとは邪《よこしま》なことを考えてたりもすることも――ほんとたまには――あるけどさ、いきなり怒《おこ》らなくてもいいだろ?
なのに、だ。
今日の里香はずっと笑っていた。
それどころか、僕の顔をじーっと見つめてたりするんだ。
でもって、クスクス笑ったりする。
「……おまえ、なに笑ってんの?」
「べっつにー」
「……なんかいいことでもあったのか?」
「べっつにー」
その声も弾《はず》んでいる。
まったくわけがわからない……気味《きみ》が悪い……。
というわけで。
上機嫌《じょうきげん》な里香とは対照的《たいしょうてき》に、僕はビクビクしながらカメラをいじっていた。
「えーと、ここかな?」
ツマミのようなものを捻《ひね》ってみたが、カメラはまったく反応《はんのう》しない。どうなってんだよ、おい。どこをいじったら、蓋《ふた》が開くんだよ。
「どうしたの?」
里香が手元を覗《のぞ》きこんできた。
「写真、撮《と》れないの?」
「フィルムの入れ方がわかんないんだよ」
「え、知らないの?」
「父親のカメラだったからさ。すっげえ大事にしてて、滅多《めった》に触《さわ》らせてもらえなかったんだ。それで使い方とかよくわかんないんだよ」
「ふーん、見せて」
里香のほっそりとした肩《かた》が、僕の肩に少し触《ふ》れる。彼女の息遣《いきづか》いを感じる。ぬくもりを感じる。僕は緊張《きんちょう》して、思わず固《かた》まった。すぐ目の前に、里香の首筋《くびすじ》があった。きれいなラインを描《えが》いて、それは顎《あご》へ、耳へ、伸びていた。瞬《まばた》きができない。そんなもったいないこと、できるわけがない。僕は息《いき》をすることさえもやめて、ただじっと、目の前にある至福《しふく》を見つめていた。
「いろいろボタンがあるんだね」
「う、うん」
「この数字はなに?」
「そ、それはシャッタースピード」
春を感じさせる風に里香《りか》の髪《かみ》が揺《ゆ》れる。うなじのラインが、一瞬《いっしゅん》はっきり見える。僕は固《かた》まったままだった。
「じゃあ、こっちの数字は?」
「フィルムの感度《かんど》……だったかな……たぶん……」
「感度って?」
「暗いところでも写せるフィルムとかあるんだ。数字が大きいほうが暗いとこで有利なんだけど、その分|画質《がしつ》が悪くなるから、どういう写真を撮《と》るかでフィルムを選ぶわけ。普通《ふつう》は感度百とか四百のフィルムだけど」
「へえ、よく知ってるね。なのに、蓋《ふた》の開け方はわかんないの?」
「教えてもらわなかったんだよ、それは」
「お父さんから?」
「うん」
里香の吐息《といき》を感じた。温《あたた》かい。柔《やわ》らかい。もし今、里香を抱《だ》きしめたら、怒《おこ》るかな。それとも、もしかすると――。
「裕一《ゆういち》のお父さんって、どんな人だったの?」
「下らないヤツだったよ」
里香が顔を上げた。
変な表情だ。
怒《おこ》ってるような、戸惑《とまど》ってるような顔。
「なんだよ」
「どうしてそういう言い方するの?」
「だって、実際《じっさい》そうだったし」
「ふーん」
怒ってるような、戸惑ってるような声。
その里香の反応《はんのう》をどう扱っていいのかわからなくて、僕はただじっとカメラを見つめた。父親が遺《のこ》していったものの中で、唯一《ゆいいつ》まっとうなもの。けれど、今やどうしようもなく古くさくなってしまった、時代|遅《おく》れの一眼《いちがん》レフ。ああ、そっか。お父さん子だった里香には、僕の感覚《かんかく》は理解《りかい》できないのかもしれない。
里香が手を伸ばして、小さなツマミを捻《ひね》った。
「ねえ、これじゃない」
パカ、と蓋が開いた。
「あ、ほんとだ」
びっくりした。
「どうやったんだよ」
「わかんないけど、これ捻《ひね》っ[#「っ」は底本では「つ」]てみたの」
「どれだよ」
「ほら、これ」
里香《りか》が指差したのは、フィルムを巻《ま》くレバーの脇《わき》についている、銀色の小さなツマミだった。蓋《ふた》を閉めて、そのツマミを捻ってみると、さっきと同じようにちゃんと蓋が開いた。なるほど。
「すげえな、里香」
「へへえ」
里香は得意《とくい》そうだ。
そんな里香の笑顔《えがお》はムチャクチャ可愛《かわい》かった。
「じゃあ、フィルムを入れるか」
「それで撮《と》れるようになる?」
「なるよ。いっぱい撮ってやるよ」
なんか、こういう里香もいいな。うん。ちょっとしたことで感心《かんしん》してくれたり、笑ってくれたり、得意気《とくいげ》になったり。うん。こういう里香の笑顔は全然悪くないぞ。
立ちあがると、里香は屋上《おくじょう》をぶらぶらと歩きはじめた。両手を後ろで組んで、長い髪《かみ》を揺《ゆ》らしながら、身体も揺らしながら、いかにも楽しげで軽《かろ》やかな足取りだった。それにしても、なんでこんなに上機嫌《じょうきげん》なんだろう? なにかいいことでもあったのかな?
日射《ひざ》しがやたらと眩《まぶ》しく感じられ、僕は目を細めていた。
「さてと――」
買ってあったフィルムを上着のポケットから取りだし、それを溝《みぞ》にはめこむ。でも舌のように伸びたフィルムの先端《せんたん》をどこに固定すればいいのかわからなかった。これかな、この隙間《すきま》みたいなとこかな。あれ、全然うまく入らないぞ。ほんとここでいいのか。だいたいフィルムの向き、あってんのかな。だんだん焦《あせ》りが高まってゆく。しまった、ちょっとフィルムが曲がった。駄目《だめ》にしちゃったら、どうしよう。すぐにフィルムを入れて、里香を撮る予定だったのに。ああ、どうすりゃいいんだよ。
そのとき、すぐそばで声がした。
「あってる、それでいい」
息《いき》が酒臭《さけくさ》い。
僕はムッとしながら言い返していた。
「わかってるよ」
「ウソつけ、わかってねえだろうが。ほら、そこだよ、そこ。フィルムのベロを一センチくらい入れりゃいいんだよ」
「だから、わかってるって」
「おお、それでいいぞ。ほら、ギザギザのとこあんだろ。そいつを巻《ま》け」
「うっさいな」
「巻き足りねえって、おい、もうちょっと巻かないと――」
「うっさいんだよ、このクソ親父《おやじ》」
え?
僕は顔を上げた。もちろん、そこには誰《だれ》もいなかった。穏《おだ》やかな日射《ひざ》しが、コンクリートの上でチラチラ揺《ゆ》れているだけだった。
今のは?
なんだったんだ?
幻聴《げんちょう》?
急になにもかもが遠ざかっていった。揺れる日射しも、薄汚《うすよご》れたコンクリートの床《ゆか》も、錆《さ》びた手すりも、空を流れていく雲も、眼下《がんか》に広がる寂《さび》れた町並《まちな》みも。まるで違《ちが》う世界を覗《のぞ》きこんでいるような感覚《かんかく》。フィルムを買ってこい。さっき聞いたのとまったく同じ声が、頭の中で聞こえた。いいか、トライエックスだぞ、間違《まちが》うなよ。そして幼《おさな》い自分の声。うん、わかった。なにを買ってくるのか言ってみろ。とらいえっくす。よし、それでいい。とらいえっくすって名前、カッコいいね。ああ、いいフィルムだぞ。安いし使いやすい[#「い」は底本では無し]しな。ほら、行ってこい。お釣《つ》りでアイス買っていいぞ。ほんとに? おお、好きなの買ってこい。
僕は目を閉じた。
ぎゅっと、上の瞼《まぶた》と下の瞼をあわせた。
なんなんだよ、おい……なんなんだよ……。
やがて、今度は別の声がした。
「どうしたの、裕一《ゆういち》」
目を開けると、そこに里香《りか》の顔があった。
僕は少し情《なさ》けない顔で、それでも精一杯《せいいっぱい》笑った。
「眠《ねむ》い……」
もうすぐ春だもんねえ、と里香が呑気《のんき》に言った。
おお、と僕は相変わらず少し情けない顔のまま肯《うなず》いた。
「写真、撮《と》ってやるよ」
「うん」
「ほら、なんかポーズ取れよ」
「……やだ」
「なんでだよ」
「……恥《は》ずかしい」
ファインダーの中、里香《りか》は本当に恥ずかしそうな顔をしていた。ちょっと唇《くちびる》が尖《とが》っている。だから僕は迷《まよ》わずシャッターを切った。カシャン。二十年前に造られたカメラが、父親の遺《のこ》していった機械が、時間と至福《しふく》を見事《みごと》に切り取る。うまく撮《と》れた。なぜかそういう確信《かくしん》があった。ピントも露出《ろしゅつ》もバッチリだ。
「え? 今撮ったの?」
「撮ったよ」
僕は得意気《とくいげ》に言った。あの里香の恥ずかしそうな顔が今、フィルムに焼きつけられたんだ。プリントしたら、一万回くらい見てやろう。
「ほら、笑えよ」
「ヤダ」
「なんだよ、わけわかんないぞ。撮ってくれって言ったの、おまえじゃん」
「そうだけど」
「だから、笑えって」
そこで里香が悔《くや》しそうに『イーだ』をしたので、もちろん今度もまったく迷わずシャッターを即座《そくざ》に切った。
「あ、また撮ったでしょ!」
「撮ったよ」
「もう! 裕一《ゆういち》のバカ!」
怒《おこ》った顔も悪くない。シャッターを押《お》す。これで照《て》れた顔、イーだ、怒った顔……三つも撮ったことになる。悪くないスタートだった。それからも僕は次々とシャッターを押した。いろんな顔を撮った。呆《あき》れた顔、拗《す》ねた顔、楽しそうに笑う顔――。
やがてファインダーの中、里香が少し寂《さび》しそうな表情を浮《う》かべた。
今度はシャッターを押せなかった。
なぜかわからないけど。
僕はファインダーを覗《のぞ》くのをやめ、手すりにもたれかかっている里香に話しかけた。
「どうしたんだよ」
「ん」
「なんかいるのか」
里香の隣《となり》に並《なら》び、その視線《しせん》の先を追《お》う。
と、そこには下校|途中《とちゅう》の高校生の姿《すがた》があった。男が三人。女が三人。グループらしく、一塊《ひとかたまり》になって、だらだら歩いている。そういや、そろそろ下校時間だ。
彼らを見つめたまま、里香《りか》が尋《たず》ねてきた。
「あれ、裕一《ゆういち》の学校の人?」
「違《ちが》うよ。伊勢《いせ》高校じゃないかな」
「裕一の学校はどこなの?」
「あそこ」
僕は西の方角《ほうがく》を指差した。小高い山の頂上《ちょうじょう》、灰色《はいいろ》の校舎がその頭だけを緑から覗《のぞ》かせている。昔は伊勢高校と並《なら》ぶ名門だったらしいけど、今はその面影《おもかげ》もない三流高校だ。
「へえ、そうだったんだ。もっと早く教えてくれたらよかったのに」
「なんでだよ? そんなの知っても全然おもしろくないだろ?」
「そんなことないよ」
上機嫌《じょうきげん》に、里香が言う。
「ふーん」
どうもよくわからない。僕が通《かよ》ってる学校なんか知ったって、まったく役にも立たないぞ。いったいなにがおもしろいんだ? ああ、学校っていやレポート全然やってないんだった。ヤバい、マジでヤバすぎる。このままじゃ留年《りゅうねん》しちまう。
――と、そんなことを思いつつ焦《あせ》っていたら、意外《いがい》なことを里香が口にした。
「行ってみたいなあ、裕一の学校」
「え? 学校へか?」
僕はちょっと驚《おどろ》いて尋ねた。
「なんで学校なんか行きたいんだ?」
「あたし、行ったことないから」
「…………」
「小学校のときに入院して、それからずっと病院だもの。中学も卒業証書|貰《もら》っただけで一回も登校してないんだよ」
「…………」
「小学校のことも、もうよく覚《おぼ》えてないし」
「…………」
「行ってみたいなあ。制服とかも着てみたいし。裕一の学校ってセーラー服? それともブレザー?」
「セーラー服だよ」
「いいなあ、セーラー服」
「…………」
「どうしたの、裕一?」
「…………」
「なに考えてるの?」
なるほど。それは悪くないアイディアだった。里香《りか》は驚《おどろ》くかな。それから喜ぶかな。今日みたいに上機嫌《じょうきげん》に笑ってくれるかな。おい、親父《おやじ》、あんた言ってたよな。好きな女ができたら、大事にしろってさ。確かにそう言ってたよな。
2
とはいえ、実に無謀《むぼう》だった。
どう考えてもヤバい。
あまりにも危険《きけん》すぎる。
「…………」
というわけで、怖《お》じ気《け》づいた僕は立ちつくしていた。
どこに立ちつくしているかというと古ぼけた家の前で、これまた古ぼけた『水谷《みずたに》』という表札《ひょうさつ》がかかってる。
ちなみに――。
その表札のすぐ横には注連縄《しめなわ》がぶら下がっていた。今はもう二月も末である。他の地方ならとっくの前に注連縄なんて外《はず》してるらしいのだが、伊勢《いせ》では一年中ずっと注連縄を玄関《げんかん》につけつづけるのだった。五月になっても、八月になっても、とにかくその年の暮《く》れまで注連縄は一年中ぶら下がっている。
その注連縄の、すっかり干涸《ひか》らびた橙《だいだい》を見つめながら、僕は咳払《せきばら》いをした。
言葉ってのは、そうさ、なにかを伝《つた》えるためにあるんだ。
つまり話せばわかるってことだ。
「…………」
とはいえ、もちろん注意は必要《ひつよう》だった。
ほんの少しでも対応《たいおう》を間違《まちが》えると変態《へんたい》扱《あつか》いだ。しかもそれを学校で言いふらされるかもしれないというオプションつきだった。そんなことになったら最悪だ。学校中の白い視線《しせん》を浴《あ》びて、残り一年間を過ごさなければいけなくなる。考えただけで脂汗《あぶらあせ》が出てくる事態《じたい》だった。
恐怖《きょうふ》に引き返しそうになったものの、ありったけの勇気を僕はどうにか引っぱりだした。
「あのー、こんちはー」
そう言いつつ、ガラガラと音をさせながら玄関を開ける。
別にお洒落《しゃれ》でもなんでもない風景《ふうけい》が目に入ってきた。三和土《たたき》に靴《くつ》が四足、乱雑《らんざつ》に脱《ぬ》ぎ散《ち》らかされている。男物の革靴が二足。黒いエナメルのパンプスが一足。やたらと小さく感じられる女物のスニーカーが一足。右側に置かれた靴箱の扉《とびら》は安っぽい合板《ごうばん》で、その角《かど》はもうボロボロだった。テレビとか雑誌を見てると、お洒落な家なんてものがこの世には存在《そんざい》するらしいが、それは本当にあるんだろうか? 僕が知ってる世の中は、こういう安っぽい合板《ごうばん》チックなもので満《み》ちている。その合板チックな世界観を加速《かそく》させるように、靴箱《くつばこ》の天板《てんぱん》にはすっかりくすんでしまったレース布が敷《し》いてあって、その上になぜか大小のコケシがふたつ(ふたり?)ニコヤカに笑いながら立っていた。コケシの横には大きな水槽《すいそう》が並《なら》んでおり、赤い金魚が三匹、なにを考えているのかさっぱりわからない顔をして泳いでいる。金魚といってもかなり大きい。まるで鯉《こい》みたいだ。あまり掃除《そうじ》をしてないらしく、水槽の水はすっかり濁《にご》りきり、ガラスには緑色のコケがびっしりはえていた。
「こんちはー」
少し大きい声を出すと、奥のほうから、はーいという声がした。そして、パタパタというスリッパの音。やがて顔を出したのは、四十くらいのおばさんだった。僕の顔を見るなり、にっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「あら、裕一《ゆういち》君。久しぶり。もう退院したの?」
「えーと、はい、まあ」
言葉を濁しつつ、ぺこぺこ頭を下げる。
「それで、その――」
「みゆきでしょ。呼《よ》ぶわね」
「すんません」
おばさんはにっこり笑ったあと、そのままの場所で振り向き、背後《はいご》の階段に向かって叫《さけ》んだ。みゆきー、ゆういちくーん、ほらー、はやくしなさーい、ゆういちくんよおー。物凄《ものすご》くでかい声だった。
ああ、なんでこういうのって、妙《みょう》にコッ恥《ぱ》ずかしいんだろ……。
僕はとりあえず、ヘラヘラ笑いながら立っていた。
おばさんが少なくとも七回は僕の名前を連呼《れんこ》したころ、階上からスリッパの音が近づいてきた。そのリズムだけで、足音の主が上機嫌《じょうきげん》じゃないことがはっきりとわかった。
案《あん》の定《じょう》、僕の顔を見るなり、水谷《みずたに》みゆきは面倒臭《めんどくさ》そうな顔をした。
「なに?」
声も実に面倒臭そうである。
まあ、美人というわけじゃない。愛らしいってタイプでもない。でも一重の目のラインはなかなか優しい感じだし、唇《くちびる》がふっくらしてるのも悪くない。ニコニコしてれば、わりと可愛《かわい》いと言えなくもないような……気がしないでもないような……そんなタイプだ……たぶん……。
身長は里香《りか》よりは高い。だいたい百六十ってとこだろう。ジーンズ地の膝丈《ひざたけ》スカートに薄《うす》いピンクのパーカーを身につけており、スカートの裾《すそ》からわりときれいな足が二本伸びていた。
「よ、よお」
精一杯《せいいっぱい》の笑《え》みを浮《う》かべてみたが、みゆきは面倒臭《めんどくさ》そうな顔のままだった。
微妙《びみょう》な空気。
その気まずさをまったく察《さっ》することなく、おばさんが、
「裕一《ゆういち》君、上がってきなさい。ああ、そうそう、朔日餅《ついたちもち》あるのよ。お茶|淹《い》れるから、食べてきなさい」
と言った。
僕はまたもやぺこぺこ頭を下げた。
「い、いや、いいっすよ」
「遠慮《えんりょ》しなくていいのよ。今月の朔日餅、おいしいの。パート先の店長が買ってきたのをわけてもらったんだけど――」
「お母さん、外で話すから」
少し低い声で、みゆきが言った。
「せっかく裕一君が久しぶりに来てくれたんだから、上がってもらえばいいじゃない」
おばさんは残念そうな声を出しながら、僕のほうに顔を向けた。
「昔はしょっちゅう遊びにきてたのにねえ」
「は、はあ、そうっすね」
僕はヘラヘラ笑いつづけていた。同じ筋肉《きんにく》をもう三分くらい使っているので、頬《ほお》が疲《つか》れてきた……。
ありがたいことに、みゆきはさっさとスニーカーを履《は》くと、玄関《げんかん》を開けた。振り向き、すぐ帰ってくると母親に告《つ》げてから歩きだす。僕はおばさんにぺこりと頭を下げ、みゆきの背中《せなか》を追《お》いかけた。
「どうしたのよ」
前を向いたまま。
僕はようやく一息《ひといき》つきながら言った。
「いや、その、頼《たの》みがあるんだよ」
「頼み?」
「あ、ああ」
「なによ」
僕は大きく息を吸った。さあ、いよいよだ。ここで失敗すると、変態《へんたい》扱《あつか》いの刑《けい》が待っている。学校中に言いふらされるという凶悪《きょうあく》オプションつき。なんとしても、それは避《さ》けなければ。
「あ、あのさ――セーラー服を貸してくれよ」
「はあ?」
みゆきが立ちどまり、と同時に振り向いた。
「なに言ってんの?」
その顔には思いっきり歪《ゆが》んだ表情が張《は》りついていた。
し、しまった……。
どうもいきなり失敗したらしい。考えに考え、ここはそうだ、下手《へた》な策《さく》を弄《ろう》するより率直《そっちょく》に打ち明けるべきだと思ったのだが。策士《さくし》策に溺《おぼ》れるとはこのことだろうか。いや、策にもなってなかったかもしれない。
汗《あせ》がだらだら出てきた。
「だ、だから、セーラー服を借《か》りたいなあ……なんて……ははは……思ったり……い、いや、別に変なことに使おうって思ってないぞ! そ、そんなつもりはまったくないからな! 本当だって! マジで! 絶対《ぜったい》そんなつもりじゃないから!」
あ、あれ、はっきり言えば言うほど怪《あや》しくなってないか?
「変なことってなによ」
案《あん》の定《じょう》、さらに顔を歪めながら、みゆきが尋《たず》ねてきた。
「う……」
ついギクリとしてしまった。ああ、また失敗した。今のは言葉に詰《つ》まる場所じゃなくて、むしろ見事なトークで乗り切るべきところだ。ギクリとした時点で、相当《そうとう》にヤバい。当然、みゆきの目はまるで汚《きたな》いものでも見るような感じになっていた。
絶対《ぜったい》に誤解《ごかい》してる……。
みゆきの唇《くちびる》が少し動いた。きっと問《と》い詰《つ》められるに違《ちが》いない。目の輝《かがや》きが尋常《じんじょう》じゃないのだ。怒《おこ》ってるというより、憤《いきどお》ってるって感じだった。なにに使うのよ、なんて言われるんだろう。それどころか、いきなり変態《へんたい》と罵《ののし》られる可能性《かのうせい》だってある。
僕は思わず息《いき》を呑《の》みこんだ。
ゴクリと、やけに大きな音がした。
φ
あたしは三日前、十七歳になった。
英語でいうと、セブンティーン――。
そういうのをあたしはバカらしいって思うんだけど、短大を出たあと百五銀行に勤《つと》めてるお姉ちゃんが、自分が十七になったとき、
「セブンティーンっていいよねえ」
なんて、うっとりした口調《くちょう》で言ってたことがある。
特別だよねえ、なんて。
あたしはお姉ちゃんみたいには思わない。というか、思えない。だって十七になったからって生活がいきなり変わるわけじゃないし、相変わらず子供|扱《あつか》いされたり大人扱いされたりだし、お小遣《こづか》いだって三千五百円のままだし。
全然特別じゃないよ、ほんと。
とはいえ――。
十七の女の子に向かってセーラー服を貸せだなんて、戎崎《えざき》裕一《ゆういち》はほんとバカだとは思う。バカでアホでマヌケだ。なんにもわかってない。いくら十七年のつきあいだからって、言っていいことと悪いことがある。
本当は追《お》い返《かえ》してやるつもりだった。
バカじゃないの、って。
帰れ、って。
だけどあたしは今、クローゼットの中を引《ひ》っ掻《か》きまわしていた。ああ、なんでこんなに服がいっぱい入ってるんだろう。どれも子供っぽくて嫌《いや》になる服ばっかり。こんな柄《がら》の服、なんで買ったのかな。どうかしてたんだ、あたし。
どうかしてた――。
よくあるんだ、それって。ううん、そういうことばっかりなのかもしれないって思うときもある。人間って、あっち行ったりこっち行ったりしてばっかなんじゃないかって。年を取って大人になっても同じなんじゃないかって
たぶん、そのとおりなんだろうな。
今になってみると、去年までずっと裕《ゆう》ちゃんと仲良かったのが不思議《ふしぎ》に思える。家が近かったし、親が友達同士だったので、赤ん坊のころからいつもいっしょだった。お菓子《かし》を買いに行くときは当然のように裕ちゃんを誘《さそ》ったし、縁日《えんにち》には手を繋《つな》いで出かけた。裕ちゃんはすっかり忘《わす》れてるみたいだけど、玄関《げんかん》の金魚は小学生のときに裕ちゃんが縁日ですくってきたものだ。自分の小遣《こづか》いを使い切り、あたしの小遣いまで注《つ》ぎこんで、それでたったの三匹。
古いアルバムを見ると嫌《いや》になる。
裕ちゃんといっしょの写真ばっかなんだもん。しかも情《なさ》けないことに、あたしはいつも裕ちゃんに寄《よ》り添《そ》っている。腕《うで》にしがみついてたり、袖《そで》を持ってたり。今でもたまにお母さんがそんな写真を見ると、
「ちっちゃい夫婦みたいねえ」
なんて嬉《うれ》しそうに笑いながら言う。言われるたびに、あたしはすぐ自分の部屋《へや》に戻《もど》ることにしている。だって我慢《がまん》できないから。そういうのは理屈《りくつ》じゃない。
気づくのが遅《おそ》かったんだと思う――。
あれは高校に入ってから三カ月くらいたったころだった。そう、ようやく学校に慣《な》れてきたばかりのころ。これが腐《くさ》れ縁《えん》ってヤツかって感じで、あたしと裕ちゃんは同じクラスになった。百五十人も同級生がいて、五クラスもあるのに、よりによって同じクラスになってしまったのだ。
どうしてああいうことが起きたのか、今じゃよくわからない。いきなりだった気もするけど、そのちょっと前から裕ちゃんにイライラするようになってた気もする。消しゴムを勝手に持っていったりすることとか、みゆきって呼《よ》び捨《す》てにすることとか、全然女|扱《あつか》いしてくれないこととか、後ろから追《お》い抜《ぬ》いていくときにポコンと頭を叩《たた》いていくこととか……どれもつまんないことだけど、そういうのが積み重なって、嫌で嫌でしかたなくなっていた。
だから。
だから、そう。
気がついたら、ケンカみたいになっていた。
教室の真ん中で。
もっとも怒《おこ》ってたのはあたしだけで、裕ちゃんは戸惑《とまど》って目が泳いでいた。そういうのも気にくわなくて、あたしは裕ちゃんを突き飛ばした。裕ちゃんは机に足を引っかけて転《ころ》びそうになり、わざとか反射的《はんしゃてき》にかわからないけど、あたしの腕を掴《つか》んだ。もちろん、いっしょに転んだ。ガタガタンって派手《はで》に机を倒《たお》しながら。
わけがわからなくて、でも肘《ひじ》のあたりがやたらと痛《いた》くて、なんだか情《なさ》けなくて、その痛みと情けなさに泣《な》きそうになりながら起きあがると――。
裕《ゆう》ちゃんがあたしの胸《むね》を掴《つか》んでた。
わざとじゃないって、わかってる。
そんなことができるほど、戎崎《えざき》裕一《ゆういち》は器用な男じゃない。
ヘタレで、優柔不断《ゆうじゅうふだん》で、ただのバカだ。
あ、しまった……。
そういう顔をしてた。
裕ちゃんの表情にあたしはさらに情けなくなって、しかも周《まわ》りに集まっていたクラスメイトたちも「ああっ」って感じになった。その瞬間《しゅんかん》、あたしにはもう選択肢《せんたくし》なんてなくなっていた。だから裕ちゃんを殴《なぐ》った。平手《ひらて》で。バシンって。そして逃《に》げた。トイレに駆《か》けこんだ。仲のいい女の子たちがすぐやってきて慰《なぐさ》めてくれたけど、そういうのも情けなくてたまらなかった。なにより泣きそうになりながら大丈夫《だいじょうぶ》大丈夫なんて言ってて、とにかく笑ってて、でも全然大丈夫じゃなくて、友達はもちろんそんなこと百も承知《しょうち》で、それでも大丈夫大丈夫って繰《く》り返《かえ》してる自分が一番情けなかった。
やっぱり気づくのが遅《おそ》かったんだと思う――。
クローゼットから半分くらい服を放《ほう》りだしたところで、ようやく目当てのものを見つけだした。クリーニング屋のビニールがかかったままの、予備《よび》の制服。元はあたしのものじゃなくて、お姉ちゃんのだ。同じ学校だったから譲《ゆず》り受《う》けたのだった。もっともサイズがぴったりじゃないから、まだ一度か二度しか着ていないけど。
自分の制服を貸すのは嫌《いや》だった。
理由はだいたいわかったから、
「絶対《ぜったい》嫌だ」
って思った。
お姉ちゃんの制服は、だから妥協点《だきょうてん》みたいなものなのだ。
φ
さ、寒い……。
冬の太陽は無情《むじょう》にもあっさりと傾《かたむ》き、周囲《しゅうい》はもう暗くなろうとしていた。しかも強い風が吹きはじめ、それがまたやたらと冷たかった。コートのポケットに両手を突っこみ、身体をユサユサ揺《ゆ》すっているが、まったく温《あたた》かくならない。
これは絶対《ぜったい》なにかの罰《ばつ》ゲームだ……とんでもないことを頼《たの》んだ僕を震《ふる》えあがらせようというみゆきの魂胆《こんたん》に違《ちが》いない……。
だいたい制服を持ってくるのに、こんなに時間がかかるわけがないし。
――と、そんなことを思いながら、僕はコンクリートの堤防《ていぼう》に寄りかかっていた。堤防の向こうには運河《うんが》があって、風が吹くたびその濁《にご》りきった水面《みなも》にさざ波が立った。盛大《せいだい》に潮《しお》の匂《にお》いが漂《ただよ》ってくる。
ぽんぽんぽんと呑気《のんき》な音を立てながら、小さな船が小さな運河を遡《さかのぼ》っていった。
「ちょっと待ってて」
みゆきはそう言ったまま、走り去っていった。
なにしろそれしか言わなかったので、本当に制服を取りにいったのかどうかもわからない。怒《おこ》って走り去っただけという可能性《かのうせい》もある。
そして罰ゲームの可能性も。
「さぶい……」
そう呟《つぶや》く僕の声は震《ふる》えていた。
ああ、もう、マジで寒いや。
やっぱりみゆきに頼んだのは間違《まちが》いだったんだろうか。あのときから、胸《むね》を鷲掴《わしづか》みにしてしまったときから、なんとなくみゆきとは気まずくなっている。まあ怒《おこ》るのはわかるけどさ、しばらくしたら許《ゆる》してくれるだろうと思ってた。その日の放課後《ほうかご》、ごめんって謝《あやま》ったし。うんってみゆきは肯《うなず》いたし。
でも許してくれてないらしい。
みゆきは相変わらず不機嫌《ふきげん》なままだ。
まだ怒《おこ》ってるのかな?
二年近くもたつのに?
あるいは……気づかないうちに、他にもなんかやらかしたんだろうか?
いちおう考えてみたが、思い当たるようなことはなかった。いや、待てよ。もしかすると、ずっと昔のことを根に持ってるのかもしれない。小学校三年のとき、スカートに顔を突っこんだことだろうか。あのとき、泣《な》きだしちゃったんだよな、みゆき。マジで焦《あせ》ったぞ、あれは。まさか泣くとは思わなかったからさ。でもまあ、三日もしたら普通《ふつう》に戻《もど》っていたけど。それとも縁日《えんにち》で買ってもらったラムネを勝手に二本とも飲んじゃったことかな。借《か》りたシャーペンをなくしたことかな。ああ、昔の話だったら、いくらでも思い当たる節《ふし》があるや。
ただ、こういうのってよくあることなんだろうなあ……。
寒さに震《ふる》えながら、ふいにそう思った。たとえば昔よくつるんでた小林《こばやし》とか伊沢《いざわ》とか吉村《よしむら》なんて、今はもう滅多《めった》に会わない。学校が違《ちが》うってのが理由だと勝手に思ってるけどさ、ほんとはわかってんだ。そうじゃないって。要するに――僕たちは変わってくんだと思う。いいことも、悪いことも、時が流れれば自然と遠くへ行ってしまう。僕たちは生きていて。生きるということは変わってくということで。大切ななにかも、忘《わす》れたくないことも、忘れちゃいけないことも、いつかはきっちりきれいさっぱりなくしてしまうんだ。それはどうしようもないことなんだ。
たぶん同じことが僕とみゆきのあいだでも起きたんだろう。
僕が気づかないうちに。
一方、みゆきは気づきつつ。
「しょうがねえよなあ……」
僕はそう呟《つぶや》いていた。
なんだかちょっと心の奥底《おくそこ》がカサカサする。空《あ》き缶《かん》でもあったら、ぐしゃぐしゃに踏《ふ》みつぶしたい気持ちだった。冷たく乾《かわ》いた風が吹く。運河《うんが》の水が揺《ゆ》れる。さざ波が水面《みなも》を走っていく。まあ、いいや。病院に戻《もど》ったら、里香《りか》の顔でも見にいこう。下らない冗談《じょうだん》でも言って、里香を笑わせてやろう。いや、里香は怒《おこ》るかもな。うん。その可能性《かのうせい》のほうが圧倒的《あっとうてき》に高いな。でもってミカンなんか投げてきたりするんだ。まったくあの女は病弱なくせに乱暴《らんぼう》なんだよな。
そんなことを考えていたせいで、気づかなかった。
「これ――」
いきなり背後《はいご》から声。
振り向くと、みゆきが立っていた。
走ってきたのか、息《いき》が荒《あら》い。
「え?」
「これ、持ってきたから」
みゆきは紙袋《かみぶくろ》を僕のほうに突きだしていた。しばらく意味がわからなくて混乱《こんらん》したが、やがてそれが頼《たの》んであったもの、つまり制服だとわかった。
「お、おお。さんきゅ」
戸惑《とまど》いつつ、受け取る。
まさか本当に持ってきてくれるとは思わなかった。いやまあ、待っててと言って家に戻ったわけだから、普通《ふつう》に考えれば持ってきてくれるわけだけど。ひとりで待っているあいだに、僕の思考《しこう》が勝手に自虐《じぎゃく》暴走《ぼうそう》して、そう思えなくなってただけだった。
僕はいろんなことを考えすぎるんだ。
考えなくてもいいことばっかりなんだけどさ。
でもって考えなきゃいけないことは考えないんだ。
「ねえ、それ、どうするの」
ようやく理由を聞かれた。
僕は用意してあった言葉を口にした。
「オレ、入院してるだろ。それで病院に同じ年の子がいるんだよ。そいつ、身体が弱いせいでずっと病院|暮《ぐ》らしでさ。学校とか行ったことないんだ。で、この前、行きたいって言いだしやがって。まあ気まぐれってヤツ? わがままなんだよな、そいつ。言いだしたらきかないし。性格ムチャクチャだし。だけど、つれてってやろうって思ってさ。ただ私服だと目立つだろ? 生徒指導の近松《ちかまつ》とかに見つかったら追《お》いだされかねないし。それで――」
「制服を着せようってわけ?」
みゆきが尋《たず》ねてきたので、僕は肯《うなず》いた。
「そういうこと」
「里香《りか》ちゃん、だっけ?」
「あ……」
いきなりの攻撃《こうげき》だった。焦《あせ》った。
「なんで知ってんだ……」
「山西《やまにし》君が学校中に言いふらしてるよ。裕《ゆう》ちゃん、彼女作ってウハウハだって。同じ病院だし、もう好き勝手にイチャついてるぜ、すげえよな、なんでもありだ、もうきっと行くところまで行ってるぜって」
「…………」
「裕ちゃんが学校につれていきたい子って、その子でしょ?」
山西、殺す。
僕は心に深く深く復讐《ふくしゅう》を刻《きざ》みこんだ。
絶対《ぜったい》、殺す。
「そ、そうだよ」
「美人なんだってね。すっごく可愛《かわい》いって、山西君が言ってたけど」
クソ山西。殺すだけじゃ不足だ。殺す前にまた魔神風車固《まじんふうしゃがた》めをかけてやろう。ギブアップしてもやめてやるもんか。ところで――なんでみゆきは不機嫌《ふきげん》なんだ?
戸惑《とまど》いつつ、肯く。
「ま、まあ、わりと」
ふーん、とみゆきは唸《うな》った。
「それで裕ちゃん、そんな必死《ひっし》なんだ」
「必死じゃねえよ」
僕は即座《そくざ》に否定《ひてい》した。
さすがにそこまでせっぱ詰《つ》まってはいない……はずだ。
ふーん、とまたみゆきは唸《うな》った。
「まあ、いいけど」
「…………」
「だけど裕《ゆう》ちゃん、こんなふうに遊び歩いてて大丈夫《だいじょうぶ》なの? このままじゃ留年《りゅうねん》しちゃうよ?」
いいけどって言ったくせに、全然いいけどじゃない。
「レポート頑張《がんば》るさ」
「それで追《お》いつく? もう三年だよ?」
「追いつくしかないだろ」
さすがに僕の言葉もちょっと尖《とが》りはじめていた。
「なんとかなるよ」
みゆきはまだなにか言いたそうだったけど、やがて僕から視線《しせん》を外《はず》し、ぶらぶらと堤防《ていぼう》の切れ目まで歩いていった。もう用事は済《す》んだし、帰ってもよかったのだけれど、僕はただぼーっとしながら立ったままでいた。このまま、「じゃあな」なんて言って立ち去ってしまったら、なにかを置きっぱなしにしてしまうような感じがしたからだ。それがなんなのかはよくわかんなかったけど。
「裕ちゃん、よその学校行くんだよね」
よそのというのは、伊勢《いせ》以外のという意味だ。
その答えは里香《りか》のことがあるので曖昧《あいまい》になっていたけれど、今までの気持ちを引きずったまま、僕は肯《うなず》いた。
「まあな」
「伊勢以外の場所へ行きたい?」
「そういうわけじゃねえけど」
「じゃあ、なんで?」
答えに詰《つ》まった。
だって、「そういうわけ」だからだ。
僕は伊勢以外の場所に行きたかった。でもそれをみゆきにそのまま指摘《してき》されたら、素直《すなお》に肯けなかった。
黙《だま》ったままでいると、みゆきが僕を見てきた。
「まあ、いいけど」
そう言って、すぐ目を逸《そ》らす。
なんだか、僕もみゆきもさっきから同じことばっかり言ってる気がする……。
「学校、いつ行くの」
「明後日だよ」
「そっか」
みゆきは最後まで目をあわせようとしなかった。
怒《おこ》ってるんだろうか?
いったい、なにに?
まったく女って生き物はわけがわかんねえよ……。
3
「ところで、だ」
僕はできるだけ低い声でそう言った。
「なんでおまえらがいるんだ」
僕が押《お》している車椅子《くるまいす》には里香《りか》が座《すわ》っている。里香はダッフルコートを着て、さらにクリーム色の膝掛《ひざか》けを使っていた。その小さな両手は僕の手袋《てぶくろ》に――三交《さんこう》百貨店のバーゲンで母親が買ってきた八百円の安物だけど――すっぽりと収《おさ》まっている。手袋を持ってないというので貸してあげたのだった。だから車椅子を押す僕の両手は剥《む》きだしのままだった。風が冷たいけど、まあなんてことない。
そう、なんてことないんだ、寒さなんて。
問題なのは、僕の右横にみゆきが立っていることだ。みゆきは学校指定の、紺色《こんいろ》のコートを着ていた。襟元《えりもと》からセーラー服の襟が見えているので、制服を着ているらしい。そして僕の左横には山西《やまにし》がいた。山西も制服を着ている。上着はなしで、マフラーだけ巻《ま》いていた。でもって、山西の左横には司《つかさ》がのっそり立っていた。司もまた、山西と同様に制服|姿《すがた》である。この一年でさらに五センチ伸びたという身長のせいで、制服はパツンパツンになっていた。今にもボタンが飛《と》び散《ち》りそうだ。
僕と。
里香と。
みゆきと。
山西と。
司と。
なぜか僕たちは五人で道を進んでいるのだった。
「まあ、いわば援軍《えんぐん》ってヤツだ」
妙《みょう》に押しつけがましい態度《たいど》で、山西がそう言った。
「おまえひとりじゃ心配《しんぱい》だからな」
「心配? なにが心配なんだよ?」
殺気《さっき》とともに尋《たず》ねる。
答えたのは山西《やまにし》じゃなくてみゆきだった。
「裕《ゆう》ちゃん、要領《ようりょう》悪いから。先生とかに見つかりそうだし」
「……悪くねえよ」
「悪いよ」
「……悪くねえって」
「悪いよ」
押《お》し問答《もんどう》になりそうだったので僕は黙《だま》った。それになぜか妙《みょう》な気配《けはい》を感じるのだ。みゆきと言葉を交《か》わすたびに、前から――つまり車椅子《くるまいす》のほうから――なにかが押し寄せて来るような来ないような。か、勘違《かんちが》いかな? そ、そうだ、勘違いだ。あ、ああ、きっとそうだ。
「あの! つまり手伝《てつだ》いたいってことだよ!」
険悪《けんあく》な雰囲気《ふんいき》に慌《あわ》てた司《つかさ》が早口でそう言った。
「ぼ、僕たちにもなにかしたいって! 思ったっていうか!」
調子《ちょうし》のいい山西が、即座《そくざ》に同調《どうちょう》する。
「おお、そういうことだって! オレたち友達じゃねえか、戎崎《えざき》!」
「はあ? 友達?」
「そんな怒《おこ》った顔すんなって! いや、本心だよ、本心!」
ウソつけ!
絶対《ぜったい》興味本位《きょうみほんい》のくせに!
山西はこういうイベントが好きなだけだ。観察して冷《ひ》やかしてあとでバカにできるネタを拾ってやろうとか思ってるに違いない。ひとりじゃ心細いから、司を巻《ま》きこんだんだろう。だけどみゆきはなんでついてきたんだ? 山西が誘《さそ》ったのかな?
今さらなにを言っても無駄《むだ》だと諦《あきら》め、僕は里香《りか》に尋《たず》ねた。
「里香、寒くないか」
「…………」
「だ、大丈夫《だいじょうぶ》か」
「…………」
「そ、そうか。だ、大丈夫だよな。ははは」
里香の無言《むごん》が恐《おそ》ろしくて、思わずひとりで場を取《と》り繕《つくろ》ってしまった。車椅子が進む。僕たちも進む。無言のまま進む。やがて道路の段差《だんさ》を越《こ》えたとき、僕が肩《かた》にかけていたカメラが揺《ゆ》れ、その角《かど》が里香の肩に当たった。
「うわ、悪い」
僕は慌てて謝《あやま》った。
「ごめんな。痛《いた》くなかったか」
「貸して、それ」
ようやく里香《りか》が口をきいてくれた。
「え? それって?」
「カメラ。持っててあげるから」
「そ、そうか」
僕は肩《かた》からストラップを外《はず》し、里香にカメラを渡《わた》した。里香はそれを両手で受け取ると、大切そうに膝《ひざ》の上に乗せた。父親が遺《のこ》していったカメラが、古くさい一眼《いちがん》レフが、里香の膝の上にあるのを見るのは不思議《ふしぎ》な気持ちだった。
「おまえ、そんないいカメラ、よく持ってたなあ」
呑気《のんき》な声で、山西《やまにし》が尋《たず》ねてくる。
僕はぶっきらぼうに答えた。
「親のだよ」
「親って……親父《おやじ》さんのか?」
「まあな」
「い、いいカメラだよね、ほんとに」
なんでこんな慌《あわ》てた声出しちゃうんだろうな、司《つかさ》は。
またもや僕はぶっきらぼうに答えた。
「古くさいけどな」
「こういうの、マニアとかに売ればいい値段《ねだん》になるんじゃねえの。ネットのオークションとかに出して見ろよ。十万くらいになるかも――痛《いた》っ!」
「あ、ごめんね。足、踏《ふ》んじゃった」
山西の悲鳴《ひめい》と、みゆきの低い声。
「おまえ、女のくせに重いなあ。ムチャクチャ痛かった――痛っ!」
今度踏んだのはみゆきじゃなくて僕だった。
「ああ、ごめんごめん」
いちおう謝《あやま》っておく。
「戎崎《えざき》、おまえ、今のは絶対《ぜったい》わざとだろ!」
「なわけないだろ。里香、そこの段差《だんさ》越《こ》えるぞ」
「わかってる」
「舌|噛《か》むなよ」
「噛まないわよ」
「冗談《じょうだん》だよ」
「つまんない」
確かにつまらない会話をしながら、僕たちは歩きつづけた。なんだか途中《とちゅう》から里香の声が穏《おだ》やかになってきたように思えるのは気のせいだろうか? まあ、とにかく、こうしてみんなでだらだら歩くのも、そう悪いもんじゃなかった。楽しいってほどじゃないけどさ、うん、悪くはない。
やがて僕たちは校門にたどりついた。
「あ、そうだ」
僕はふと思いついて、言った。
「里香《りか》、カメラ貸せよ」
「うん」
「写真、撮《と》ってやるよ」
桜が咲いてないのが残念だけど、おまえの初登校だもんな。制服だって着てるしさ。ほら、記念写真ってヤツだ。――という言葉は、みんなが周《まわ》りにいるので、もちろん言わないでおいた。恥《は》ずかしいしさ。
僕は無言《むごん》のまま、三メートルくらい後ろに下がった。そしてファインダー越《ご》しに、里香を覗《のぞ》きこむ。車椅子《くるまいす》に座《すわ》った里香は、その両手を膝《ひざ》の上に並《なら》べていた。まるで小さな子供みたいだった。
「おい、おまえら、どけよ」
僕は顔を上げ、里香の両|脇《わき》にぼけーっと突っ立ったままのみゆきと山西《やまにし》と司《つかさ》に言った。
「邪魔《じゃま》だって」
「そ、そうだね」
司が気をきかして、どこうとする。
だが、里香がそれを制した。
「いいよ、このままで」
「でもさ――」
「このままでいいから」
里香は笑っていた。
なぜか。
その笑顔《えがお》に戸惑《とまど》いつつ、僕は肯《うなず》いた。
「お、おう。――じゃあ、撮るぞ」
ファインダーの中の里香も、やっぱり笑ったままだった。
なあ、里香。
おまえ、なんで嬉《うれ》しそうに笑ってんだ?
φ
近松《ちかまつ》覚正《かくしょう》はその名から推察《すいさつ》されるように、お寺の跡取《あとと》り息子である。まあ息子とはいっても実際《じっさい》は四十二歳のオッサンだ。齢《よわい》七十八の父親が健康そのもので、いまだ覚正《かくしょう》があとを継《つ》いでいないからそう呼《よ》ばれるだけだった。その生まれと、顔が大仏《だいぶつ》に似《に》ていることが合わさって、生徒たちからはほぼ必然的《ひつぜんてき》に『鬼《おに》大仏』という綽名《あだな》を奉《ほう》じられている。
鬼と冠《かん》されるのは、覚正が生徒|指導《しどう》担当《たんとう》だからだ。
覚正の認識《にんしき》するところによれば、学校というのは要《よう》するにジャングルであって、動物園の猿山《さるやま》に類《るい》する場所である。誰《だれ》かが集団を統率《とうそつ》しないと、あっというまに猿山そのものになってしまう。鬼と呼ばれようがウゼエと罵《ののし》られようが、お礼《れい》参《まい》りを二年に一回はされようが……とにかく自分が睨《にら》みをきかせていなければならない。それが生徒指導の役割なのだ。
というわけで――。
使命感《しめいかん》に燃えた近松《ちかまつ》覚正四十二歳(確定)円条寺《えんじょうじ》十七代|住職《じゅうしょく》(予定)は、放課後《ほうかご》の校内見まわりを行っていた。問題を起こすタイプの生徒は早々に帰ってしまったが、だからといって油断《ゆだん》はできない。いきがって教室で煙草《たばこ》を吸うヤツがいてもおかしくないし、それどころか一時の情熱に燃えた若きアホ男女が更衣室《こういしつ》でいちゃついている……いや不純《ふじゅん》異性《いせい》交遊《こうゆう》に及《およ》んでいることもある。
「うむ?」
近松覚正(以下略)は廊下《ろうか》の角《かど》を曲《ま》がったところで、その足をとめた。目の前を生徒が五人ほどまとまって歩いている。それ自体は問題ないのだが、一団の中に車椅子《くるまいす》の少女がいるのがまず気になった。
はて、車椅子? 怪我《けが》でもしたのだろうか?
放課後であるからして、運動部がちょうど練習中だ。今もグラウンドのほうからカキーンという打球音が聞こえている。熱心にやれば怪我のひとつやふたつはするだろう。だから、それはいい。
怪我も青春。
挫折《ざせつ》も青春。
しかしそれでも問題がある。なにしろその少女は腰《こし》まである黒髪《くろかみ》を揺《ゆ》らしているのだ。校則第八条|付則《ふそく》第三|項《こう》によれば、肩《かた》より長い髪は編《あ》むなり束《たば》ねるなりしなければならない。この点において、あの少女はすでに失格《しっかく》である。それ以上に問題なのは、あそこまで長い髪の女子生徒が本校にいるという事実を、覚正がまったく認知《にんち》していないことだった。
おかしい。まったくもっておかしい。あれだけ目立つ髪をしていれば、まず間違《まちが》いなく覚《おぼ》えているはずだ。
そしてさらに気になったのは、一団の中にやたらとでかい図体《ずうたい》が混《ま》じっていることだった。おそらく……たぶん……いや間違いなく、あれは二年三組の世古口《せこぐち》司《つかさ》だ。身体は大きいがおとなしい性格で、勉強はあまりできないが熱心ではある。平凡《へいぼん》という言葉から少々|外《はず》れはするものの、おおむね良好な生徒だ。覚正はそう判断《はんだん》している。
ひとつ気にくわないことがあるとするなら、覚正《かくしょう》が顧問《こもん》を務《つと》める柔道部《じゅうどうぶ》に世古口《せこぐち》司《つかさ》が入部しないことだけだった。
なにしろあの身体である。鍛《きた》えれば相当《そうとう》なものになる。骨格《こっかく》が柔道向きなのだ。そう言って一年のときから誘《さそ》いつづけているのだが、はあとかええとか煮《に》え切《き》らない返事をするばかりで、いっこうに入部するとは言わない。二十年前なら首根っこを掴《つか》んで強引《ごういん》に武道場《ぶどうじょう》へつれていき、体落《たいお》とし百回|一本背負《いっぽんぜお》い百回|払《はら》い腰《ごし》百回を喰《く》らわした上、口からキュウと息《いき》が漏《も》れるまで袈裟固《けさがた》めで絞《し》めあげて、むりやり入部|届《とど》けに拇印《ぼいん》を押《お》させるところだが、今はそういう時代ではないのだ。PTAやら教育委員会やら人権ホットラインやら、とにかく面倒臭《めんどうくさ》いことが山ほどあって、生徒の頭を小突《こづ》いただけで校長に呼《よ》びだされたりする。まったく面倒臭い。
そういうわけで世古口司は結局《けっきょく》柔道部に入部しないまま、その素晴《すば》らしい才能《さいのう》を腐《くさ》らせている。――と、覚正には思えてしかたない。自分がみっちり鍛えあげれば、国体は間違《まちが》いなく狙《ねら》える。そのまま大学に進んで練習を積めば、オリンピック候補《こうほ》でさえも夢ではないのに。
しかしながら覚正の夢想《むそう》に反し、世古口司の姿《すがた》を見かけるのは武道場ではなく調理室《ちょうりしつ》だった。たくさんの女子生徒に囲《かこ》まれ、キャアキャア言われている。大人気だ。尊敬《そんけい》されているふしさえある。
覚正にとって、つまり世古口司は不可思議《ふかしぎ》な存在《そんざい》だった。理解《りかい》できない。理解できないのはどうにも困《こま》る。可愛《かわい》さ余《あま》って憎《にく》さ百倍。そんな言葉のままに、覚正は一団に向かって声を発していた。
「おい、そこの! ちょっと待ちなさい!」
一団が立ちどまった。振り返ってこちらを見ている。うむ、間違いない。あのでかい図体《ずうたい》は世古口司だ。二年四組の水谷《みずたに》みゆきもいる。図書委員を務《つと》めており、よく言えば真面目《まじめ》な、悪く言えば地味《じみ》な生徒だ。問題なし。あとふたりボサッと突っ立っている男子生徒は……名前は思いだせないが、まあ名前を覚《おぼ》える必要《ひつよう》もない程度《ていど》の生徒だ。これも問題ない。ところが車椅子《くるまいす》の少女は――まったく覚えがなかった。かなりの美少女だ。たとえ僧籍《そうせき》に入っていようと、四十二であろうと、覚正とて男であることに変わりはない。あれほどの美少女を一度でも見たら、まず忘《わす》れるわけがなかった。誰《だれ》なんだ、あれは。
「おまえら、なにしてるんだ?」
相手を警戒《けいかい》させないように話しかけたつもりではあったが、元々の気性《きしょう》の荒《あら》さ、そして読経《どきょう》で鍛《きた》えた喉《のど》から出た声は廊下《ろうか》に響《ひび》き渡《わた》り、十分に彼らを警戒させてしまっていた。名前を思いだせないボサッとした男子生徒がなにか言った途端《とたん》、一団がくるりと背《せ》を向け、走りだした。逃亡《とうぼう》である。もはや怪《あや》しいというレベルではない。
「待てえええい――っ! こらああああ――っ!」
叫《さけ》びつつ、覚正もまた走りだした。
φ
なにがなんだかよくわからなかった。裕《ゆう》ちゃんが逃《に》げろと言い、その選択《せんたく》は間違《まちが》ってると思いながらも、みんなが走りだしてしまったせいで、結局《けっきょく》その間違った選択に従《したが》うことになっていた。走って走って走って。気がつくと、裕ちゃんが病院からつれてきた女の子、秋庭《あきば》里香《りか》の車椅子《くるまいす》をあたしが押《お》していた。もちろん秋庭里香は車椅子に収《おさ》まったままである。
なんでこんなことになっちゃったんだろ?
ああ、そうだ。裕ちゃんが廊下《ろうか》を曲がったところでコケて、先に行けーっと悲壮感《ひそうかん》たっぷりに叫《さけ》び、ああ先生に事情《じじょう》を話せばきっと許《ゆる》してくれるのにでも一度逃げちゃったら先生は……特に鬼《おに》大仏《だいぶつ》は許してくれないだろうからやっぱり逃げるしかないと思って、車椅子係を引《ひ》き継《つ》いだんだった。
胸《むね》の奥が焼けるようで。息《いき》ができなくなりそうで。あたしは立ちどまった。振り返ると、そこにはガランとした廊下があるだけだった。鬼大仏が追《お》いかけてきそうな気配《けはい》はない。足音も聞こえてこない。どうやら振り切ったらしい。
裕ちゃんとははぐれてしまった。
鬼大仏に捕《つか》まったのかな?
山西《やまにし》君と世古口《せこぐち》君もいないや、そういえば。
あのふたりも捕まっちゃったのかもしれない。
「…………」
参《まい》った。
今まで話したこともない女の子とふたりきりになっちゃった。
それにしても、なんてきれいな髪《かみ》なんだろ。全然|癖《くせ》がなくて、すとんと腰《こし》のあたりまで落ちている。あたしは癖毛だから、伸ばしたくてもこんなに伸ばせない。クシャクシャになっちゃう。
うらやましいと思ったけれど、そう思いたくない自分もいた。
なんでかはわからない。
裕ちゃんがずっと彼女にばかり気を遣《つか》ってるせいかもしれないし、彼女が自分の制服を着てるせいかもしれない。
ああ、なんでこんなにブルーなんだろ。
「みんな、大丈夫《だいじょうぶ》かな?」
長く続く沈黙《ちんもく》に耐《た》えきれなくなって、あたしは独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いていた。
「捕まっちゃったかな?」
秋庭里香の肩《かた》が少し動いた。
「裕一《ゆういち》、バカだから」
「…………」
「捕《つか》まってるかも」
ムカついた。
裕一。
そんなふうに呼《よ》び捨《す》てにされたことで。
「捕まったほうがいいと思ってるんだ?」
つい、そんなことを言ってしまう。
秋庭《あきば》里香《りか》がこちらを見た。
きれいな顔に、瞳《ひとみ》に、圧倒《あっとう》された。
どうして嫌味《いやみ》を言った自分のほうが嫌な気持ちになってるんだろう……。
やがて秋庭里香が尋《たず》ねてきた。
「捕まるとまずい?」
「まあ、そりゃ……」
「じゃあ、行こう」
「え……どこへ……」
「あの先生のとこ」
「行ってどうするの?」
「話す」
「…………」
「裕一が悪いわけじゃないから。あたしが悪いから」
きっぱりとした口調《くちょう》だった。まるで怖《こわ》いものなんてなんにもないみたいな感じ。世界にはたくさんの矛盾《むじゅん》があるって、あたしは知ってる。下らないことばっかだって。スカートが一センチ長いとか短いとか。爪《つめ》が切ってあるとかないとか。そんな下らないことばっかり。特に学校はそういう場所だ。なのに、この子は、秋庭里香は、自分が動けば世界がひれ伏《ふ》すと思ってるみたいだった。
「そんな簡単《かんたん》じゃないよ」
否定《ひてい》するつもりの言葉。けれど弱々しい声。
「鬼《おに》大仏《だいぶつ》だし、相手は」
「でもあたしたちが行かなきゃ裕一は怒《おこ》られるんでしょ」
「…………」
「じゃあ、行かなきゃ」
その目にはまったく迷《まよ》いがなくて。反論のしようもなくて。うんと肯《うなず》くしかなくて。でも職員室とは全然|違《ちが》う方向に車椅子《くるまいす》を押している自分がいて。あたしは無言《むごん》のまま、その足を動かしつづけた。
なんでこんな子に制服を貸しちゃったんだろう?
なんで泣《な》きそうになってるんだろ、あたし?
4
走って走って、走りまくった。そのせいで、右の脇腹《わきばら》が痛《いた》くなってきた。右の脇腹には――肝臓《かんぞう》がある。ああ、これでまた入院が延《の》びたらどうするんだよ! バカ鬼《おに》大仏《だいぶつ》!
人気《ひとけ》のない階段を駆《か》けあがり、やたらと足音が響《ひび》く廊下《ろうか》を突《つ》っ切《き》り、ようやく逃《に》げ切《き》ったことを確信すると、僕と山西《やまにし》は立ちどまった。里香《りか》にみゆき、それから司《つかさ》ともはぐれてしまった。
「くそっ!」
「鬼大仏!」
「死ね!」
「まったくだ!」
息《いき》を切らしながら、それでも悪態《あくたい》をつきつつ、廊下の隅《すみ》に座《すわ》りこむ。もたれかかった壁《かべ》も、尻《しり》の下の床《ゆか》もひどく冷たかったけれど、走ったせいで熱くなった身体にその冷たさが気持ちよかった。
「戎崎《えざき》、コケるなよな!」
「しょうがないだろ!」
好きでコケたわけじゃない。ただまあ、そのおかげというか、怪我《けが》の功名《こうみょう》というか、コケた僕に鬼大仏が気を取られているうちに、里香とみゆきは逃げられたみたいだった。そのあと、鬼大仏から逃げ切るのに死ぬほど走らなきゃいけなかったけど。
「あいつ、絶対《ぜったい》サドだな!」
「ああ、間違《まちが》いない」
「地獄《じごく》行きだ!」
「坊《ぼう》さんだぜ、でも」
「坊主なんて一番|汚《きたな》い職業だろ!」
「ま、まあな……」
「鬼大仏! マジで死ね!」
「…………」
「クズ野郎《やろう》!」
ひどい調子《ちょうし》で山西が罵《ののし》りつづけるので、僕はちょっと引いてしまった。
そりゃ鬼大仏がろくなヤツじゃないってことくらい知ってるさ。でもまあ、鬼大仏は鬼大仏で仕事をこなしてるわけで、ただの中間|管理職《かんりしょく》ってヤツなわけで、どっちが悪いかっていうと僕たちにも非《ひ》があるっていうか……いや、むしろ僕たちが一方的に悪いわけで。
そこまで罵《ののし》るのはなんかやりすぎのように思えた。
「死ね!」
山西《やまにし》の声にはしかし、まったく容赦《ようしゃ》がない。ただ、だからといっていちいち注意することのほどのことでも[#「でも」は底本では「でもでも」]なかったので、僕は黙《だま》っていた。同調もせず、反論もせず。いつもの、実に僕らしい態度《たいど》だ。
それにしても、山西のヤツ、どうしたんだろう?
なんでこんなイラついてんだ?
やがて山西も黙りこみ、僕たちは息《いき》を弾《はず》ませながら、ただ廊下《ろうか》に座《すわ》りこんでいた。放課後《ほうかご》の校舎は静まり返っていて、時折《ときおり》どこかひどく遠いところから、誰《だれ》かの走る足音が響《ひび》いてくる。司《つかさ》だろうか? それともみゆきだろうか? ああ、里香《りか》はどうなったんだろう? みゆきがついてれば、たぶん大丈夫《だいじょうぶ》だと思うけど。
息が収《おさ》まるとともに、寒さを感じるようになってきた。
そろそろ立ちあがって、里香を探《さが》しにいかなきゃ。
――と思って口を開こうとしたら、
「なあ、戎崎《えざき》」
山西のほうから話しかけてきた。
「ん?」
「おまえさ、未来になんかあると思うか?」
「はあ?」
こいつ、どうしちまったんだ?
「未来ってなんだ? なんかってなんだよ?」
「だからさ、その……将来とか未来とか……いつか偉《えら》くなるとか金持ちになるとか……ああ、そんな下らねえことじゃなくてさ……なんつーか、すげえことがあるような気がするかって聞いてんだよ」
「なんだよ、急に」
もしかしてなにかのギャグか?
まあ、普通《ふつう》はこんなわけのわかんないギャグなんて飛ばさないものだが、なにしろ山西は正真正銘《しょうしんしょうめい》のバカ野郎《やろう》なので、時折《ときおり》やたらと間《ま》を外《はず》したことを言ったりするのだった。
しばらく山西の反応《はんのう》を待ってみた。
山西は宙《ちゅう》のどこかを……いや、どこでもない場所をただじっと見つめていた……。
僕はうつむき、言った。
「わかんねえよ、そんなの」
「この前さ、深夜《しんや》に映画やっててさ。ケビン・コスナーが出てて。こりゃすげえ下らねえ映画だぜって思ったんだけどさ。コスナーってクズ映画ばっか出てるだろ? でもこれが意外《いがい》とおもしろかったんだよ。その映画の中で、コスナーの友達がさ、コスナーに言ったんだよな」
そこで言葉が切れる。少し待ってみたが、山西《やまにし》は黙《だま》ったままだった。どうやら僕に尋《たず》ねてほしいらしい。
「なんて言ったんだよ」
「Do you remember? When you were sixteen ... seventeen ... looking ahead ... Next couple of years, I would be great. Just knew it. I don't feel like that any more」
「え?」
なにを言われたのかわからず途方《とほう》に暮《く》れる僕を見ながら、山西はようやくニヤリと笑った。そして、ばーか、と本当にバカにするように言った。
「おまえはどうしようもないバカだ。オレさまの見事《みごと》な英語を聞き取れないなんて、ヒヤリング能力《のうりょく》ゼロだな」
「うっさいな。おまえの発音が悪いんだよ」
山西にバカにされたのが悔《くや》しくて、僕は早口でそう言ってやった。
しかし山西はさらに生意気《なまいき》な感じで笑った。
「よくても聞き取れねえくせに」
「おまえだってそうだろ」
「まあな。BとVを聞き分けるとか絶対《ぜったい》できないな」
「……確かに」
「RとLも喋《しゃべ》るのはどうにかなるけど、聞き取りはできねえし」
「LICEとRICEじゃ意味とか全然|違《ちが》うからヤバいらしいぞ」
「……おい、どっちもいっしょに聞こえたぞ」
「だはは、おまえはどうしようもないバカだな。ヒヤリング能力ゼロだ」
「うっせえ」
僕たちは笑いながら、そんなことを言いあった。そういや、昔はよくこんなふうに話したもんだ。小学校高学年のころとか、山西とはほとんど毎日つるんでたっけ。意味のない悪戯《いたずら》をしたり、ゲームに一日中|没頭《ぼっとう》して親に叱《しか》られたり……まあ、そんなことばっかだったけどさ。いつからこいつとこんなふうに話さなくなっちゃったのかな?
「十六とか十七のころ、覚《おぼ》えてるか――そいつさ、そう言ったんだよ、コスナーに」
「…………」
「あのころは二、三年したらすげえいいことがあるような気がしてたけど、今はもうそんなふうには思えないんだよ――って」
「…………」
「古い映画でさ。たぶん二十年くらい前の映画だけど。そのころの十七歳って、希望とかあったのかな。オレは……オレは全然そんなふうに思えねえよ。頭は悪いし、要領《ようりょう》も悪いし、どうせ下らない人生だろうなあって簡単《かんたん》に予想《よそう》できるしさ。すげえいいことがあるなんて全然思えねえよ」
「…………」
「時代が違《ちが》うってヤツなのかなあ」
そんなことないだろ。僕は山西《やまにし》の丸い背中《せなか》にそう言ってやりたかった。時代とか、そんなの関係ないだろ。下らない人生だなんて決まってないだろ。でも言えなかった。なぜかはわからない。僕が臆病《おくびょう》だからかもしれないし、つまらない自尊心《じそんしん》でがんじがらめになってるからかもしれないし、山西と同じようなことをたまに考えたりするせいかもしれない。確かに未来が光り輝《かがや》いてるなんて思えなかった。僕たちの未来にはわけのわからない薄闇《うすやみ》があるだけだ。
そう、先のことを考えると、僕は立ちつくしてしまう……。
だから僕は先のことをできるだけ考えないようにしてきた。いくら考えたって、どうせろくなアイディアは浮《う》かんでこないんだ。だいたい、今を凌《しの》ぐのに精一杯《せいいっぱい》で、先のことにまで気がまわったことなんてないしさ。
「ケビン・コスナーが主演なんだろ。そんなの三流のクズ映画に決まってる」
だから僕はそう吐《は》き捨《す》ててやった。
「ケビン・コスナーの映画にまともな台詞《せりふ》なんてあるわけないし」
「まあ、そうだけどさ」
「ありゃ、ただのスケベオヤジだ」
「…………」
「だいたい、そんなことをしみじみ語《かた》ってんじゃねえよ! どうせ模試《もし》の結果《けっか》が悪かったんだろうが!」
場の雰囲気《ふんいき》を変えようと思い、冗談《じょうだん》半分でそう言ってやった途端《とたん》、山西がギクリとした。
「……な、なんでわかったんだ?」
僕は頭を抱《かか》えたくなった。
ああ、こいつはバカだ。
どうしようもないバカだ。
「志望校《しぼうこう》、どこにしたんだよ」
「――だよ」
山西が口にしたのは、見事《みごと》なまでの三流バカ大学だった。
「で、C判定《はんてい》とか?」
「……Dだった」
「おまえ、それはひどいだろ。あそこでD判定? 洒落《しゃれ》か? 適当《てきとう》に答え書いてもB判定くらいいくだろ?」
罵《ののし》ると、山西《やまにし》がムッとした顔になった。
「うっせえ!」
どうやら、ちょっとばかし傷《きず》ついたらしい。
だからといって、もちろん僕は容赦《ようしゃ》しなかった。
「だってさ、あそこでD判定《はんてい》じゃバカって額《ひたい》に書かれたに等しいぞ。うん。お墨付《すみつ》きだ。正真正銘《しょうしんしょうめい》のバカってことだ」
「じゃあ、おまえはどうなんだよ!?」
うっ……。
言葉に詰《つ》まった途端《とたん》、山西がざまあみろって感じで笑った。
「つか、おまえ、このままだとダブりじゃねえの?」
ああ、こいつも容赦なしだ。
「もう一回二年やんのか? 今の一年|坊主《ぼうず》と同じ教室だぞ?」
「…………」
「だははは。おまえ、もうすぐオレの後輩《こうはい》に格下《かくさ》げだな。これからオレと話すときは敬語《けいご》にしろよ。山西とか呼《よ》ぶんじゃねえぞ。山西さんって呼べ。わかったな」
「くそ――」
「痛《いた》い痛い! 図星《ずぼし》だからって叩《たた》くな!」
「おまえこそ!」
僕たちは小さなガキみたいに喚《わめ》きあい、床《ゆか》をゴロゴロ転《ころ》がりながら取っ組みあった。僕が魔神風車固《まじんふうしゃがた》めを極《き》めると、今度は山西が昔|懐《なつ》かし四《よん》の字固《じがた》めに挑《いど》んできた。冗談《じょうだん》でかけさせてやったところ、意外《いがい》にもこれがムチャクチャ痛くて、僕は本気で悲鳴《ひめい》をあげた。
「痛い痛い――っ! 足、折《お》れる――っ!」
「おらおらおらっ!」
「マジで痛いって! 離《はな》せ――っ! 離せって――っ!」
「ここで必殺《ひっさつ》四の字|裏返《うらがえ》し!」
「ああああああ――――っ! 折れる折れる折れる――――っ!」
そんなふうにして僕たちは思いっきりはしゃぎつづけた。そう、さっきまでの湿《しめ》っぽい雰囲気《ふんいき》をきれいさっぱりぬぐい去るために。
[#ここから2字下げ]
Do you remember?
なあ、覚《おぼ》えてるか?
When we were sixteen ... seventeen ... looking ahead ...
十六とか十七とか、なんかやたらと前向きだったころがあっただろ。
Next couple of years, I would be great.
二、三年もしたら、すげえヤツになれるって思ってたよ。
Just knew it.
マジでそう思ってたんだ。
I don't feel like that any more ...
でもさ、今はもう、そんなふうに思えねえんだよ……。
[#ここで字下げ終わり]
けれどどんなに喚《わめ》いても、僕の頭の中ではそんな台詞《せりふ》が繰《く》り返《かえ》されていた。きっと山西《やまにし》もそうだったんだろう。
まったく下らない台詞だ。
なあ。
そうだろ?
5
見失った。
しまった。
大失態《だいしったい》だ。
というわけで鬼《おに》大仏《だいぶつ》こと近松《ちかまつ》覚正《かくしょう》四十二歳(確定)円条寺《えんじょうじ》十七代|住職《じゅうしょく》(予定)は校舎をうろうろ歩きまわっていた。まさか連中があれほど速く逃《に》げるとは。ボサッとした男子生徒がコケたので掴《つか》まえようとしたが、こちらも足がつってコケてしまい――ああ、本当に年は取りたくない――見事《みごと》逃げ去られてしまった。
だが、逃がすまい。
絶対《ぜったい》に掴まえてやる。
ヘビのような執念《しゅうねん》で、犬のような嗅覚《きゅうかく》で、覚正は歩きつづけていた。
うん?
話し声がするぞ?
この声は……確か……。
φ
里香《りか》を探して山西《やまにし》と歩いていたら、司《つかさ》とばったり会ってしまった。しかし、その司だが……司ではなかった。
スペル・ソラールだった。
ルチャ・リブレ、すなわちメキシコ式プロレスは実にラテン系らしい気質《かたぎ》を反映《はんえい》して、ガチの勝負よりも美しさを最上の誇《ほこ》りとしている。勝つのは正しい。しかし美しいことはより正しい。美しく、なおかつ強いことは、さらに正しい。その華麗《かれい》にして流麗《りゅうれい》なルチャ・リブレのスターといえば千の仮面《かめん》を持つ男、すなわちミル・マスカラスであるが、このミル・マスカラスの師匠《ししょう》こそ、ルチャの黎明期《れいめいき》を支《ささ》え、|真の聖帝《ルミアス・デ・ロゴス》、|創世の神《サンタ・デ・ファウスタ》とマニアに評《ひょう》されるスペル・ソラールである。スペル・ソラールがトップロープから飛ぶとき、その姿《すがた》は輝《かがや》かしさに満ち、あまりの眩《まぶ》しさゆえに対戦相手はなすすべもなく彼の必殺技《ひっさつわざ》、|ソル・デ・レイ・ケブラーダ《太陽光線式体落とし》の直撃《ちょくげき》を受けたと言われている。あまりに古い時代ゆえ、その大技《おおわざ》を記録したフィルムは残っていないが、彼の愛弟子《まなでし》であるミル・マスカラスが後生《こうせい》語《かた》るところによれば「師匠が飛ぶとき、世界はあまねく至福《しふく》の光に包《つつ》まれた」そうである。特に有名なのはワールドカップのために建設《けんせつ》されたアステカスタジアムで行われた一九七一年のルチャ・デ・カルニバルである。当時のスターを集めたこのルチャの大祭典《だいさいてん》にはワールドカップを上回る十二万人の観衆《かんしゅう》が押《お》し寄《よ》せ、興奮《こうふん》のせいで百二十四人が心臓《しんぞう》麻痺《まひ》を起こし(そのうちの七人が昇天《しょうてん》)、発生した迷子《まいご》は三百四十一人、その場で恋に落ち結婚したカップルが二十三組という、まさしく文字通りの祭典であったわけだが、この十二万の観衆が熱気とともに見守る中、スペル・ソラールが繰《く》りだしたソル・デ・レイ・ケブラーダは今もメキシコ民衆《みんしゅう》の伝説《でんせつ》として語《かた》り継《つ》がれている。メキシコ人に彼のことを尋《たず》ねれば、必《かなら》ずやその人は瞳《ひとみ》を潤《うる》ませながらスペル・ソラールの伝説を語りだすだろう――。
そのスペル・ソラールが、メキシコの英雄《えいゆう》が、僕たちの前に現れたのだった。僕は立ちつくし、山西《やまにし》も立ちつくした。それにしても、実にでかい身体だ。首の太さは頭と変わらず、その首はがっしりした肩《かた》に繋《つな》がり、さらに肩からぶら下がる両|腕《うで》はまるで丸太のようである。胸板《むないた》はとにかく厚《あつ》い。百メートルの助走《じょそう》とともにぶつかっていってもあっさり弾《はじ》き返《かえ》されそうだ。腰《こし》も太い。脚《あし》も太い。足はでかい。靴《くつ》のサイズはなんと三十一センチである。そしてなんといっても、立ち姿がとんでもなく美しいのだった。尻《しり》がキュッと上がり、胸《むね》はグッと反《そ》り、両腕はガッと逞《たくま》しい。
僕と山西は思わず見ほれてしまった。
「や、やあ」
しかし司《つかさ》……というかスペル・ソラールの、実に間の抜《ぬ》けた声で、現実に戻《もど》った。
僕はため息《いき》とともに言った。
「なにやってんだ、おまえは」
「だって……」
もぞもぞと、そのでっかい身体を司が動かした。
「バレるとヤバいし……」
「思いっきりバレてんだろうがっ!」
「少しは誤魔化《ごまか》せるかなって……」
「誤魔化《ごまか》せねえっ! 誤魔化せねえよっ!」
僕は両|腕《うで》をバタバタと振りまわした。もし雑誌《ざっし》でも持っていたら、床《ゆか》に思いっきり叩《たた》きつけただろう。
「それになんでスペル・ソラールなんだよ! 普通《ふつう》ルチャといったらマスカラスだろうが!」
「あっちは有名だから……」
「裏《うら》狙《ねら》いかよっ!」
「渋《しぶ》いよね?」
得意気《とくいげ》に司《つかさ》。
マスクから覗《のぞ》く子犬みたいな両目がキラキラと光っている。
ああ、確かに渋い、ムチャクチャ渋いよ。
「だいたい、どこで売ってんだよ、そのマスクは! インターネットの通販《つうはん》でも見たことねえぞ!」
うは、と司が笑った。
「作ったんだ、自分で」
「…………」
「資料《しりょう》が足らなくてさ、右側のクモの模様《もよう》が少し違《ちが》う気がするんだけど、どうかな?」
「知らねえよ!」
と、そこで山西《やまにし》が話しかけてきた。
「あの……おまえら……なに言いあってんだ……?」
「え?」
「オレにはなにがなんだか……もしかしてさ……おまえら、プロレスおたく……?」
僕と司《つかさ》はもちろん、即座《そくざ》に否定《ひてい》した。
「ち、違《ちが》うよっ!」
「違うに決まってんだろうがっ!」
しかし山西はまったく信じていないらしく、実に細い目で僕たちを見ている。
僕は司といっしょにされたくなくて、慌《あわ》てて司から離《はな》れた。と思ったら、すぐに司が近づいてきた。あっち行け! 司! いっしょにされちまうだろうがっ!
山西の目は細いままである。
「怪《あや》しいよなあ」
「そ、そんなことないって!」
「そ、そうだぞ!」
「なんか、すんげえ詳《くわ》しいじゃん、おまえら」
「つ、司には負けるぞ」
「ええっ、裕一《ゆういち》も詳しいよ」
「絶対《ぜったい》、プロレスおたくだろ?」
「ち、違うよ!」
「そ、そう! 違うぞ!」
「どうしておたくってヤツは指摘《してき》されると必死《ひっし》になって否定するんだ? おまえら、どう考えても――」
絶体絶命《ぜったいぜつめい》のピンチだった。僕と司はひたすら固《かた》まったままでいた。ああ、司のバカ野郎《やろう》。こんなとこでスペル・ソラールとは。確かに渋《しぶ》いよ。すげえよ。よく作ったよ。そのマスク、僕だってマジで欲しいよ。五千円……いや、一万までなら出すな。うん。でもさ、こんなとこでかぶらなくてもいいだろ? むしろ思いっきり目立つだろ?
しかし救《すく》いは意外《いがい》なところから現れた。
「おまえら、待ていっ!」
そう叫《さけ》びつつ、鬼《おに》大仏《だいぶつ》が廊下《ろうか》を駆《か》けてきたのだった。
「ヤバい、逃《に》げろ!」
僕は安堵《あんど》しつつ、叫んだ。
「バラバラになるぞ!」
φ
太宰《だざい》先生は女子にモテる。特にカッコいいわけじゃないのだが、なんだか褪《あ》せた感じで、その褪せっぷりが母性《ぼせい》本能《ほんのう》を刺激《しげき》するのかもしれない。たとえ校舎の中にいても、風に吹かれて身体が傾《かたむ》いてる感じだった。そんなふうに傾きつつ「やあ、君たち」なんてキザっぽい言い方をして、それが全然|嫌味《いやみ》じゃなくて、妙に様《さま》になってたりする。
その太宰先生と秋庭《あきば》里香《りか》はあっさりと意気投合《いきとうごう》してしまった。
「川端《かわばた》はねえ、嫌《いや》な人だよ」
やはり褪せた感じで、でも妙《みょう》に艶《つや》っぽい感じで、太宰先生が言う。
「人の頼《たの》みをなかなか聞かなかったらしいよ」
「文章はきれいですよね」
「ああ、そうだね」
「前に桜が出てくる話を読んだんですけど、あれはすごくよかったし」
古い日本文学のことをふたりで話している。今、あたしと里香は……それに太宰先生は……職員室に向かっていた。廊下《ろうか》を歩いていたら、職員室に戻《もど》る途中《とちゅう》だった太宰先生といっしょになってしまったのだった。職員室に行くのに複数のルートがあるわけもなく、かといって逃《に》げだすわけにもいかず、しかたなく太宰先生と揃《そろ》って歩きだした。すると太宰先生がすぐに、秋庭里香がコートのポケットに入れていた本に気づいた。
「川端かい?」
先生の問いに、
「はい、そうです」
秋庭里香が即答《そくとう》した。
「よくわかりますね。カバーがちょっと見えてただけなのに」
まるであたしがここにいないかのように、ふたりで話してばかりいる。ああ、なんでこんなに惨《みじ》めなんだろう。この子はひとりで歩くこともできないのに。ここであたしが捨てていけば、どこにも行けないのに。この子はどういう病気なんだろう。よっぽど重いんだろうか。どうして裕《ゆう》ちゃんはこの子のために必死《ひっし》なんだろう。あたしのために必死になってくれたことなんてあったかな……。
「ところで」
含《ふく》み笑《わら》いをしながら、太宰先生が言った。
「君はうちの生徒じゃないね」
心臓《しんぞう》が口から飛びでるかと思った。
思わず立ちどまってしまう。
けれど秋庭《あきば》里香《りか》は実に落ち着いた感じで肯《うなず》いた。
「はい、違《ちが》います」
「見学かい?」
「そうです」
先生が笑って、里香も笑った。どうしてこの子はこんなに動じないんだろう……あたしばっかりが慌《あわ》ててる……あたしだけが笑えないでいる……。
φ
僕と山西《やまにし》は揃《そろ》って駆《か》けだした。さっきの追いかけっこで、こっちが必死《ひっし》になって逃《に》げれば鬼《おに》大仏《だいぶつ》を振り切ることができるとわかっている。とにかく走って走って走りまくるんだ。あとのことは――知ったことか。
しかし振り返って様子《ようす》を見た僕は、慌てて立ちどまった。
「待て、山西!」
「な、なんだよ?」
山西も立ちどまる。
「え?」
その目が大きく見開かれた。
僕はそして、呟《つぶや》いていた。
「スペル・ソラール……」
そう、その輝《かがや》かしき栄光《えいこう》の名を。
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鬼大仏こと近松《ちかまつ》覚正《かくしょう》四十二歳(確定)円条寺《えんじょうじ》十七代|住職《じゅうしょく》(予定)は、マスクをかぶった巨漢《きょかん》と組みあっていた。今度こそは逃がすまいと、あのボサッとした生徒目がけて走りだしたところ、巨漢が立ちはだかったのだった。反射的《はんしゃてき》にその手を取り、足払《あしばら》いを放《はな》った。かわされた。見事《みごと》な反応《はんのう》だった。懐《ふところ》に飛びこみ、投げようとした。だができなかった。とんでもない腰《こし》の重さであった。学生のころ、当時|全盛期《ぜんせいき》だった山下《やました》泰裕《やすひろ》八段と乱取《らんど》りさせてもらったことがある。そのときのことを思いだした。山下八段は岩のようだった。押《お》しても動かない。引いても動かない。ふと気がつくと自分が畳《たたみ》に転《ころ》がされている……。
驚愕《きょうがく》し、焦《あせ》り、覚正は叫《さけ》んだ。
「お、おまえ、世古口《せこぐち》だろう!」
「ち、違います!」
即答《そくとう》してきた。
「じゃあ、誰《だれ》だ!」
「ス、スペル・ソラールです!」
「なにわけのわからんことを!」
怒《いか》りのままに全身の力をこめ、今度こそ相手の巨体《きょたい》を腰《こし》に担《かつ》ぎあげる。同じように柔道家《じゅうどうか》である父親から習《なら》った払《はら》い腰《ごし》だ。いいか、覚正《かくしょう》、仏《ほとけ》の道も柔《やわら》の道も同じこと、腰すなわち[#「すなわち」は底本では「すわなち」]己《おのれ》をもって投げればよい――。まさしく至言《しげん》だった。
「あああああ――っ!」
謎《なぞ》のマスク男が……いやどう考えても世古口《せこぐち》司《つかさ》が……雄叫《おたけ》びをあげた。左|肩《かた》にヤツの手がかかる。どうやら抵抗《ていこう》するつもりらしい。なにをこしゃくな。体勢《たいせい》は完全。このまま床《ゆか》に叩《たた》きのめしてやるわ。
だが――。
思いっきり身体を捻《ひね》ろうとしたものの、できなかった。まるで万力《まんりき》で身体を締《し》めつけられるような感覚《かんかく》。痛《いた》い。掴《つか》まれた左肩が痛くてたまらない。しかも気がつくと謎のマスク男……世古口司以外にはありえないのだが……の腕《うで》や足が自分の身体にあたかも大蛇《だいじゃ》のごとく巻《ま》きついていて、わずかな身動きすらできなくなっていた。
「む、むむう!?」
駄目《だめ》だ、動かん。なんという技《わざ》だ、これは。
「は、離《はな》せ! 離さんか!」
「い、嫌《いや》です」
「なんだと! 離せ!」
「い、嫌です!」
「おまえ、世古口司だろう!」
「ち、違《ちが》います!」
「ウソをつけ!」
「ウ、ウソじゃありません!」
「声がいっしょじゃないか!」
「そ、そんなことないです!」
「急に高い声を出すな!」
「こ、これが地声《じごえ》です!」
「その喋《しゃべ》り方《かた》やめんか! 気持ち悪いだろうが!」
「じ、地声ですから!」
絡《から》みあったまま下らないやりとりをしているうちに、怒《いか》りのエネルギーが腹の奥底《おくそこ》に溜《た》まってきた。そのエネルギーのまま、全身にふたたび力をこめる。
「南無《なむ》!」
叫《さけ》んだ。
「釈迦牟尼仏《しゃかむにぶつ》!」
仏《ほとけ》のご加護《かご》ゆえか、謎《なぞ》のマスク男……絶対《ぜったい》世古口《せこぐち》司《つかさ》だが……の身体がバランスを崩《くず》した。いける! 仏的懲罰《ぶってきちょうばつ》! 衆怨悉退散《しゅおんしつたいさん》! 以漸悉令滅《いぜんしつりょうめつ》! むかしより主を討《う》つ身の野間《のま》なれば報《むく》いを待てや羽柴《はしば》筑前《ちくぜん》!
決まった。
確かな手応《てごた》えがあった。相手の身体が宙《ちゅう》へと浮《う》きあがった。あとは叩《たた》きつければよい。この固《かた》い廊下《ろうか》では相手も相当《そうとう》のダメージを受けるだろうが、これだけ頑健《がんけん》な身体をしていれば大丈夫《だいじょうぶ》だろう。倒《たお》して押《お》さえこんで袈裟固《けさがた》めでキュウと声が漏《も》れるまで締《し》めあげて、そのまま職員室につれていき、入部|届《とど》けに拇印《ぼいん》を押させてやろう。
しかしその覚正《かくしょう》の夢想《むそう》はまさしく一瞬《いっしゅん》の夢であった。
「――っ!?」
きれいに投げあげたはずの巨漢《きょかん》が、空中でヒラリと身を回転させ、見事《みごと》に両の足で着地したのである。しかも天与《てんよ》の才なのか、着地した直後には腰《こし》を落とし、戦闘《せんとう》態勢《たいせい》を整《ととの》えていた。
飛びかかろうにも、隙《すき》がない。
さすがに覚正の脳裏《のうり》にも疑問が芽生《めば》えた。これほどの腰の重さ、これほどの身のこなし、これほどの隙のなさ。とても素人《しろうと》とは思えない。体格や声は明らかに世古口司だが、彼は格闘技《かくとうぎ》の経験などいっさいないはずである。未経験者がこの自分の投げをかわせるだろうか。否《いな》。断《だん》じて否。膝《ひざ》の怪我《けが》で現役《げんえき》を諦《あきら》めねばならなかったものの、自分とてかつては伊勢《いせ》の虎《とら》と称《しょう》された男である。ということは、この巨漢は世古口司ではないのかもしれない。
では?
いったい誰《だれ》なのだ?
そんなことを考えながら、じりじりと間合《まあ》いを詰《つ》めていく。空気がピンと張《は》りつめていた。学生相手では味わうことのない緊張感《きんちょうかん》。覚正の胸底《むなぞこ》に眠《ねむ》っていた格闘者の血が滾《たぎ》りはじめた。真夏の武道場《ぶどうじょう》。飛《と》び散《ち》る汗《あせ》。畳《たたみ》に叩きつけられ、叩きつけ、技《わざ》を磨《みが》き、心を鍛《きた》え、身体を鍛えた青春の日々。
覚正は笑った。
ニヤリと。
楽しさのあまり、唇《くちびる》の両|端《はし》が上がっていた。
「名はなんといったか?」
「スペル・ソラール……」
「む。ス……なんとかよ、礼を言おう」
「…………」
「この技《わざ》でな!」
まるで弾《はず》んだゴム鞠《まり》のように飛びだした。相手の懐《ふところ》にふたたび入り、と同時に腕《うで》を取り、襟《えり》を取り、身体を反転《はんてん》させ、勢《いきお》いのまま今度こそ会心《かいしん》の払《はら》い腰《ごし》をしかけた。その一連の動きはまさしく無《む》の境地《きょうち》から生まれたものであった。巨漢《きょかん》の身体が高々と宙《ちゅう》に舞《ま》った。今度こそ決まったと思った。確信した。しかし一瞬《いっしゅん》ののち、違和感《いわかん》に襲《おそ》われた。なぜあそこまで豪快《ごうかい》に飛んでいくのだ。確かに投げた。渾身《こんしん》の力だった。完璧《かんぺき》だった。しかし払い腰とは床《ゆか》に叩《たた》きつける技であって、あのように高々と宙を舞うはずがないのだ。呆然《ぼうぜん》とする覚正《かくしょう》の視界《しかい》を、巨漢が横切ってゆく。巨漢はまるで団子虫《だんごむし》のように丸まり、一回二回と回転したあと、ゆっくりと身体を伸ばしながら、宙の一点で静止した。いや、宙の一点ではなく――巨漢の両足が廊下《ろうか》の壁《かべ》を捉《とら》えたのだった。
自分が投げたのではなかった。覚正はやっと状況《じょうきょう》を正確に把握《はあく》した。投げさせられたのだ。こちらが投げようとした瞬間《しゅんかん》、向こうは床を蹴《け》っていたのだろう。そしてその蹴った力と、自分の投げた力を利用し、宙を飛んだ。
だが、なんのために?
その答えを、覚正は直後に知ることになった。壁を蹴った巨漢が、長く逞《たくま》しい両手両足を広げ、こちらに落ちて……いや跳《と》んできたのだ。窓からの光を受けたその身体は神々《こうごう》しく輝《かがや》き、あたかも光の塊《かたまり》が、太陽の光そのものが、世界と自分に祝福《しゅくふく》を与えるために降《ふ》ってくるかのような光景《こうけい》だった。
覚正が感じたのは、恐怖《きょうふ》ではなかった。
あまねく至福《しふく》の光であった。
|ソル・デ・レイ・ケブラーダ《太陽光線式体落とし》であった。
6
忘《わす》れ物《もの》をしたと言って太宰《だざい》先生が立ち去ってしまうと、またふたりきりになってしまった。途端《とたん》、会話が途切《とぎ》れた。ただ無言《むごん》のまま、車椅子《くるまいす》を押《お》しつづけるしかない。
目の前で秋庭《あきば》里香《りか》の髪《かみ》が揺《ゆ》れる。
ふわふわと、さらさらと、揺れる。
この子が裕《ゆう》ちゃんの好きな子なんだ……。
不思議《ふしぎ》な気持ちだった。
ずっと前は、あたしが裕ちゃんの隣《となり》に立っていた。当たり前のように立っていた。でも今、裕ちゃんの隣にいるのはあたしじゃなくて、この子なんだ。
嫉妬《しっと》?
考えてみたけど、ちょっと違《ちが》う気がした。だいたいあたしは裕ちゃんのことが好きってわけじゃない。前は……もしかすると前はそうだったのかもしれないけど、今は他に好きな人がいるし、あんなバカでヘタレな男に興味《きょうみ》なんてない。
なのに、なんでこんなに嫌《いや》な気持ちなんだろう。
「あんた、どこが悪いの?」
そういう言葉が口から漏《も》れていた。
すぐに後悔《こうかい》した。
どうして病気のことなんて聞いてるんだろう。今までこんなふうに大胆《だいたん》になったことなんてなかった。いつも一歩下がってばかりで。無難《ぶなん》な道ばっかり選んでて。人の心に触《ふ》れるのがなんだか怖《こわ》くて。
それなのに、今は相手が嫌がるってわかることを聞いている。
「死ぬの?」
少し嗜虐的《しぎゃくてき》な快感《かいかん》さえ味わいながら、そう言っていた。
秋庭《あきば》里香《りか》が振り返った。
向こうは座《すわ》ってるので、見あげられる感じになる。
肝《きも》が据《す》わったのか、開き直ったのか、今度はその視線《しせん》をまっすぐ受けられた。それにしても、なんて黒い瞳《ひとみ》なんだろう。そのせいで全然感情がわからない。怒《おこ》ってるようにも悲しんでるようにも、あるいは笑ってるようにも思える。
うん、と秋庭里香が肯《うなず》いた。
「たぶんだけど」
さすがにショックだった。半分くらい嫌味《いやみ》で、残りの半分は……なにかわからないけど、とにかく本気で尋《たず》ねたわけじゃなかったのに、まさかそのとおりだったとは。しかし一度|勢《いきお》いのついてしまった気持ちはすぐにはとまらなくて、
「なんで?」
またもやそんなことを尋ねていた。
嗜虐的な感じが残っていた。
けれど秋庭里香はまったく揺《ゆ》るがない。
「心臓が悪いの。もうすぐ手術することになってるけど、失敗する確率《かくりつ》のほうが全然高いから。たぶん駄目《だめ》だと思う」
自分の死について話してるのに、その言葉はあまりにも透明《とうめい》だった。
「裕《ゆう》ちゃん、それ知ってるの?」
そこで意外《いがい》なことが起きた。
秋庭里香の顔に戸惑《とまど》いが浮《う》かんだのだ。
「どうかな」
少しの間《ま》。
「気づいてるのかな」
「…………」
「たぶん気づいてると思うけど。でも。だけど。わかんない」
切れ切れの言葉。
バカじゃないの、そう思った。
もちろん裕《ゆう》ちゃんは気づいてる。
そんなの裕ちゃんの態度《たいど》を見てればバレバレだ。とにかくバカみたいに気を遣《つか》ってるじゃない。慌《あわ》てふためいてばっかりで。時々|泣《な》きそうな顔になってて。そのくせ笑おうとしてて。なのに笑いきれなくて妙《みょう》な顔になってたりして。バカでマヌケでヘタレで。
どうしてわからないんだろう。
あ、そっか……。
少ししてから答えが閃《ひらめ》いた。
秋庭《あきば》里香《りか》は当事者《とうじしゃ》だ。近すぎる。だからわからないんだ。あと気づいてほしくないんだ。なのに気づいてほしいんだ。
なかなか複雑だ。
死んじゃうんだ、この子……。
ピンと来なかった。
死なんてまったく実感できない。どんなに想像《そうぞう》しても触《ふ》れられない。おじいちゃんが死んだのは子供のころだったし、おばあちゃんはまだ生きている。お父さんもお母さんも当たり前のように元気で、お姉ちゃんはうるさいくらい。
死なんて身近に感じたことなんてなかった。
もうすぐいなくなっちゃうんだ……。
同情の気持ちは湧《わ》いてこなかった。
それは死がなんなのか理解《りかい》できないせいかもしれないし、この子と会ったばかりだからかもしれない。あるいは……裕ちゃんがこの子をかまいすぎるせいかもしれなかった。
ああ、単純《たんじゅん》に冷酷《れいこく》なだけなのかも。
死とか現実ってヤツが認識《にんしき》できないくらい子供なのかも。
「――なんでしょ」
「え?」
考え事をしていたので、なにを聞かれたのかわからなかった。
「なに?」
「裕一《ゆういち》と幼《おさな》なじみなんでしょ?」
「あ、うん」
「裕一、小さいときはどんな感じだったか教えて」
教えて、だって。
この子が。
裕ちゃんには命令ばっかしてるのに。
「別に。普通《ふつう》だったよ。弱虫で泣《な》き虫《むし》だった。強がりばっかり言ってるくせに、いざというときになると真っ先に逃《に》げてた。近所で大きな犬を飼《か》ってたんだけど、門扉《もんぴ》があるから大丈夫《だいじょうぶ》だって思って、からかってたの。裕ちゃんといっしょに。そしたら、門扉がガチャンて音を立てて――」
開《あ》いてる、叫《さけ》んだのはあたしだった。そう思えたのだ。大きな犬が飛びだしてきて噛《か》まれる。迫《せま》ってくる犬。大きく開く口。鋭《するど》い牙《きば》。そんなものがまざまざと頭に浮《う》かんで、怖《こわ》くて怖くてたまらなかった。もちろん逃げた。走った。でも自分の前を走ってるヤツがいた。戎崎《えざき》裕一だった。女の子を置きっぱなしにして、見捨てて、真っ先に逃げだしたのだ。そこで妙《みょう》に白けてしまい、なんだかどうでもよくなって立ちどまってしまった。覚悟《かくご》しつつ振り返ると、しかし追《お》いかけてくる犬の姿《すがた》はなかった。犬は門扉の向こうにいた。開いてなかったのだ。ガチャンと音を立てて揺《ゆ》れただけだ。夏だった。暑[#「暑」は底本では「熱」]かった。日射《ひざ》しが強くて、ブロック塀《べい》も走り去る戎崎裕一の後ろ姿もすべて真っ黄色に染《そ》まっていた。アスファルトに落ちる影《かげ》はまるでカッターで切ったみたいにくっきりとした輪郭《りんかく》を持っていた。
「中学に入ったころはお父さんとケンカばっかりしてた。裕ちゃんのお父さん、あんまり評判《ひょうばん》のいい人じゃなかったから。こんなこと言うと悪いけど、でもほんとそうだったから。裕ちゃんがお父さんのこと嫌《きら》うの、だからわかる気がする。だけどね、小さいころは物凄《ものすご》いお父さん子だったんだよ。いつもお父さんにひっついて歩いてた」
「知ってる、それ」
嬉《うれ》しそうな声。
秋庭《あきば》里香《りか》はニコニコ笑っていた。
「知ってるの?」
「うん」
「どうして?」
少し慌《あわ》てた様子《ようす》。この子は裕ちゃんのことになると雰囲気《ふんいき》が変わる。まるで小さい子供みたいだ。裕ちゃんはこのこと知ってるのかな? 知るわけないか。なにしろ戎崎裕一だし。
「そっか、知ってるんだ」
もうしつこく問いただす気持ちにはなれなかった。
なんでだろう。
「あと、しょっちゅうヘマをしてたかなあ。ほら、小学校行くとき、一回待ちあわせ場所に集合するでしょ。集団登校だったから、うちの学校」
「集団登校……」
「あんたのところは違《ちが》ったの?」
「学校、あんまり行ったことない」
「…………」
「一度集まるんだ?」
「そ、そう。それでね、待ちあわせ場所が神社の前だったの。その神社のすぐ近くに上り坂があって、坂に沿《そ》って水路が通ってるのよ。坂だから、上りはじめのところはなんてことない高さなんだけど、坂を上りきったところだと物凄《ものすご》く高いの。でね、裕《ゆう》ちゃん、よせばいいのに坂の縁《ふち》をふらふら歩いてて、坂の一番上のとこで水路に落ちちゃったの」
「え? 大丈夫《だいじょうぶ》だったの?」
「大丈夫じゃないわよ。もう真《ま》っ逆《さか》さま。あちこち擦《す》り傷《きず》だらけだし、肘《ひじ》が大きく切れたし。そのまま病院直行で、肘は三針|縫《ぬ》ったわ。それでバカみたいなんだけど、自慢《じまん》するの。三針縫ったんだぜって。なんで男の子って怪我《けが》自慢するんだろ」
当時のことを思いだし、いつのまにかあたし[#「あたし」は底本では「みゆき」]はなかば本気で憤《いきどお》っていた。落ちたすぐあとはビービー泣《な》いてたくせに、病院から戻《もど》ったら妙《みょう》に得意気《とくいげ》なのだ。実際《じっさい》、男の子たちのあいだでは、裕ちゃんはしばらく英雄《えいゆう》扱《あつか》いだった。たった三針縫った傷のせいで、水路に落ちたという情《なさ》けない事実《じじつ》はどこかに行ってしまったらしい。
憤りながらふと前を見ると、秋庭《あきば》里香《りか》がクスクス笑っていた。
「おもしろい?」
「うん」
素直《すなお》に肯《うなず》いている。
「裕一らしい」
そしてすごく幸せそうだった。
身体からなにかが抜《ぬ》けていった。心からも。妙にぐったりしたような感じになって、口を閉ざしたままあたしは車椅子《くるまいす》を押《お》しつづけた。もうすぐ職員室だ。早く着けばいいと思う一方で、着きたくないという気持ちもあった。どういうことなのか自分でもわからない。秋庭里香は相変わらず笑っていた。
もうすぐ死ぬ子。
裕ちゃんが好きな子。
自分より全然きれいな子。
どちらが恵まれているんだろう。あたしだとは思う。なにしろ未来がある。輝《かがや》かしいかどうかはわからないけど。今までかかった病気なんてせいぜい風邪《かぜ》くらい。あと三歳のときの水疱瘡《みずぼうそう》。だけどあたしだとは言い切れない。彼女のようには笑えない。こんなに幸せそうな顔はできない。
もしこの子といっしょにいるとき犬が追《お》いかけてきたら、裕《ゆう》ちゃんはきっと立ちどまるんだろうな。そして全力で守ろうとするんだろう。
あ、待って、と秋庭《あきば》里香《りか》が言った。
「うん? どうしたの?」
「ここ、入っていい?」
彼女が指差したのは教室だった。
「いいけど、なんで?」
「入ったことないから。あ、怒《おこ》られないかな?」
「大丈夫《だいじょうぶ》よ、そんなの」
上級生の教室だとヤバいけれど、ここは下級生の教室だ。車椅子《くるまいす》で入り口の段差を越えるのに気を遣《つか》った。ガタンと揺《ゆ》らして、それが身体に障《さわ》ったらまずいと思った。まあ、それくらいでどうにかなることはないと思うけど、なにしろ病気のことなんてよくわからないから、つい慎重《しんちょう》になってしまう。
教室に入ると、秋庭里香はきょろきょろあたりを見まわしはじめた。なんだか楽しそうだ。とはいっても、あたしの目から見ると物珍《ものめずら》しいものなんてなんにもない。いい加減《かげん》に並《なら》んだ机、乱雑《らんざつ》にものが詰《つ》めこまれたロッカー、さまざまなプリントが張《は》ってある掲示板《けいじばん》、黒板にはなにも書かれていなくて、その上の壁《かべ》にかかっている時計は四時十五分を指している。
「あ、ちょっと――」
いきなり秋庭里香が立ちあがったのでびっくりした。つい両手を伸ばして支《ささ》えようとしてしまう。しかし彼女は意外《いがい》としっかりした足取りで歩きだすと、教壇《きょうだん》の脇《わき》に立った。腰《こし》の後ろで両手を組み、さらにきょろきょろとあたりを見まわす。彼女が顔を動かすたび、長い髪《かみ》が左右にふわふわ揺れる。ああ、ほんときれいな髪……。彼女が教壇に触《さわ》った。そんなもの触ってもつまらないだろうに。それから三歩後ろに下がると、そこにあった席《せき》から椅子をガタガタと引っぱりだして腰《こし》かけた。まるで授業を受けている最中の生徒のようだった。
なんとなく、隣《となり》の席に腰かけた。
「学校って楽しい?」
「全然。規則《きそく》ばっかりで嫌《いや》になっちゃう。友達と会えるのは楽しいけどね。変な先生とかも多いし。バカみたいな決まりとか、校則とは別にいっぱいあるんだよ。あのね、うちの学校じゃ、一年生と二年生は制服の下にジャージ着ちゃ駄目《だめ》なの」
「え? どういうこと?」
「ほら、寒いから、下にジャージとか着るのよ。ジャージだと着てても先生に怒《おこ》られないし。だけど三年生以外が着ると、三年に目をつけられるの」
秋庭《あきば》里香《りか》が信じられないという顔をする。
「バカみたい、そんなの」
「でしょ? でもずーっとそうなんだって。うちのお姉ちゃんもこの学校なんだけど、やっぱりそうだったって。先生とかに校則|押《お》しつけられてみんなムカついてるのに、そのムカついてるあたしたちが同じように下らない規則作って下級生に押しつけてるんだもん。まったくバカみたいだよね。病院にそういうのある?」
「手を洗うとか、食事は時間までに片づけるとかはあるけど、そんなムチャクチャなのはないよ」
「いいなあ、病院」
「ご飯がおいしくないよ」
「それはヤダな」
放課後《ほうかご》の静かな教室で下らないことを話している。なんだか不思議《ふしぎ》な気持ちだった。少しだけ彼女のことが理解《りかい》できた気がした。なにが理解できたのか言葉にしようと思っても全然できそうもないけれど。
「ねえ、嫌《いや》なこと聞いていい?」
「ん」
「死ぬのって怖《こわ》い?」
秋庭里香が少し首を傾《かし》げる。
言葉を探《さが》しているのだろう。
見つかったのか、少ししてから話しだした。
「前は怖くなかった。ずっとそうなるってわかってたし。それに、身体がきついとね、生きてるのが嫌になっちゃうの。疲《つか》れちゃうっていうか。もういいやってね、そう思えてくるの。死ってそんな遠くにあるわけじゃないし。ずっとそばにいて。手を伸ばしたら、きっと触《さわ》れるわ」
「…………」
「だけどね、最近はちょっと怖い」
「…………」
「終わっちゃうんだなって思うとね」
そんなことを言ってるくせに、どうして幸せそうに笑うんだろう。終わるって、なにが終わるんだろう。命? それとも――。
「あー、ここにいたのか」
いきなり男の子の声がした。
見ると、そこに裕《ゆう》ちゃんと山西《やまにし》君と世古口《せこぐち》君が立っていた。
裕ちゃんはすぐ、秋庭《あきば》里香《りか》に駆《か》け寄《よ》った。
「里香! 大丈夫《だいじょうぶ》か? なんで椅子《いす》に座《すわ》ってんだ?」
やけにうろたえた様子《ようす》でそんなことを聞いている。あまりの慌《あわ》てぶりは見ていてうざかったが、当の秋庭里香もそうだったらしく、見る見る顔が曇《くも》った。
「うるさい!」
「でも、里香――」
「ああ、もう! 声が大きい!」
「だけど、里香――」
なんだか修羅場《しゅらば》になりそうだったので、
「ねえ、鬼《おに》大仏《だいぶつ》は?」
そう割りこんでおいた。
すると、なぜか裕ちゃんと山西君が目を輝《かがや》かせた。
「問題なし」
そう断言《だんげん》する。
よくわからない。
それに、世古口君の目が泳いでるのも、よくわからない。
――と、そこでゴホンと咳払《せきばら》いをしつつ、山西君が教壇《きょうだん》に上った。かなり強引《ごういん》に威張《いば》りくさった態度《たいど》で、一同を見まわしている。
やがて言った。
「さあ授業を始めるぞ」
「ボケ!」
すぐさま裕ちゃんが机の中から引っぱりだした教科書を投げつけた。
「おまえに教師が務《つと》まるわけないだろ!」
「いやいや、あるぞ。こう見えてもオレはある分野に関してはなかなかの知識《ちしき》を持ってるんだ。たとえば、そうだな。よし。おまらに参宮《さんぐう》線を走る列車について教えてやろう。キハとモハの違《ちが》いとか――」
「下りろ! 鉄っちゃんに興味《きょうみ》はねえ!」
「あー、投げるなよ! 痛《いた》っ! おい、やめろって! サンマン、やめろ!」
「うっせえ! 早く下りろよ! タイシ!」
完全に子供のケンカだったので笑ってしまったが、横を見ると里香が不思議《ふしぎ》そうな顔をしていた。
「どしたの?」
「サンマンって? 裕一《ゆういち》のこと?」
「ああ、それはね――」
「やめろ――っ!」
慌《あわ》てて裕ちゃんが割りこんできた。
「言うなっ! 言ったら殺すからなっ!」
まさしく必死《ひっし》の形相《ぎょうそう》というヤツだ。実におもしろい。人の不幸は蜜《みつ》の味。少し違《ちが》うか。でもいいや。そんなとこ。そして秋庭《あきば》里香《りか》は興味津々《きょうみしんしん》という顔をしている。山西《やまにし》君は笑っていた。喋《しゃべ》っちまえと笑っていた。もちろん――そのつもりだった。
「ああっ! やめろ! タイシ! 離《はな》せよ! おまえ、なに羽交《はが》い締《じ》めにしてんだ! ああ、司《つかさ》まで! 離せ! 離せって――っ!」
「まあまあまあ、サンマン。諦《あきら》めろ」
「離せよっ! 離せえ――っ!」
というわけで、暴《あば》れまわる裕ちゃんを山西君が羽交い締めにしてくれたので、ゆっくりと秋庭里香に教えてあげることができた。
放課後の校舎は静けさをいっぱいに孕《はら》んでいた。グラウンドのほうから野球部の野太い声がたまに聞こえてくるだけだった。そんな校舎の空気をあたしたちの笑い声(と顔を真っ赤にした一名の怒声《どせい》)が大きく震《ふる》わせていた。
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たった一日のスクールライフは、意外《いがい》と大きな波紋《はもん》を生みだしてしまった。いちおうバレないように気を遣《つか》ったつもりだったが、もちろん速攻《そっこう》でバレてしまい、僕と里香《りか》はこっぴどく怒《おこ》られた。まず里香がいないことに看護婦《かんごふ》さんが気づき、続いて僕もいないことも発覚《はっかく》し……どこをどうしたらそうなるかわからないのだが、
駆《か》け落《お》ち!
という説が病院中を駆けまわったらしい。なにしろ里香は手術を目前《もくぜん》にしてるわけで、そういう状況《じょうきょう》に置かれた多感《たかん》な少女が少年といっしょに病院を逃《に》げだすというのは、わりと思いつきやすいドラマチックなシナリオなんだろう。
ああ、駆け落ちかあ……してみてえよ……できるもんなら、ほんとしてみてえよ……。
と、そんなことをしみじみ思いながら、僕はひたすら足の痛《いた》みに耐《た》えていた。ナースステーションの前に正座《せいざ》させられてから、すでに二時間がたつ。病院はいちおう全館|暖房《だんぼう》されているけれど、開けた空間である廊下《ろうか》はさすがにかなり寒い。床《ゆか》は冷たい。僕の身体も従《したが》って、すっかり冷たい。
なぜこんなことになっているかというと、まあ要するに病院|抜《ぬ》けだしの罰《ばつ》である。
目を吊《つ》りあげた亜希子《あきこ》さんが、
「ここに座《すわ》んな! 正座だよ正座! ほら、早くしやがれ!」
と言って、僕を蹴倒《けたお》したのだった。
ああ、それにしても駆《か》け落《お》ちかあ……。
それは本当に素晴《すば》らしい響《ひび》きだった。
里香《りか》の手を握《にぎ》って、どこまでもどこまでも行くんだ。北海道とか九州とか、遠くの、そうだな、あまり大きくない町にたどりついたら、古くさいアパートでも借りよう。里香はずっとアパートにいればいい。僕が働くんだ。コンビニとかがいいかもな。レンタルビデオ屋とかCD屋も悪くない。ああ、待てよ。書店とかで働いて、おもしろそうな本を里香に毎日買っていくってのもいいな。
仕事を終えてからアパートに帰ると、里香が待ってるんだ。
「おかえりなさい」
なんて笑顔《えがお》で言ってくれてさ。
「疲《つか》れた?」
なんて聞いてくれて。
もちろん僕は笑う。
「うん、ちょっと疲れたかな」
「ご苦労様。ご飯できてるよ。食べる?」
ああ、最高だ……そういうのはほんと最高だ……。
下らない妄想《もうそう》に励《はげ》んでいると、この惨《みじ》めな状況《じょうきょう》と足の痛《いた》みを忘《わす》れることができた。それで僕は妄想の続きを、ありったけの想像力《そうぞうりょく》を駆使《くし》して思《おも》い浮《う》かべた。まあ、ああいうことやこういうことだ。
そして、思わずニヘラと笑っていると、
「気持ち悪い……」
すぐそばで、声がした。
まだ妄想に半分くらい浸《ひた》ったまま、前を見る。
「――っ!」
里香がいた。
僕の顔を至近距離《しきんきょり》で覗《のぞ》きこんでいる。
「裕一《ゆういち》、なに笑ってるの?」
「そ、それは……」
「もしかしてマゾ? 正座《せいざ》が趣味《しゅみ》とか?」
「い、いや、そうじゃなくて……」
「あと、どうして顔が赤いの?」
「え、ええと、それは……」
よからぬ妄想《もうそう》をしていたからです、とはもちろん言えなかった。そんなことをもし口走ったら、まず間違《まちが》いなく張《は》り倒《たお》されるだろう。踏《ふ》まれるだろう。爪先《つまさき》でグリグリされ、さらにジャンプもされるだろう。そして少なくとも三日くらいは口をきいてもらえないのだ。
「あ、足が痛《いた》くてさ……」
「ふーん」
「も、もう限界《げんかい》……」
実際《じっさい》、ふと素《す》に戻《もど》ってみると、足の痛みは限界に達していた。膝《ひざ》がギシギシ痛み、尻《しり》の下の足首は今にも折れそうだ。僕は自分の顔が青くなっていくのを感じた。ヤ、ヤバい。危機《きき》を感じ、慌《あわ》てて立ちあがろうとしたが、それがいけなかった。痺《しび》れきった足がまともに動くはずはなく、立ちあがろうとした次の瞬間《しゅんかん》、頭から床《ゆか》に突っこんだ。
「裕一、大丈夫《だいじょうぶ》!?」
などと里香《りか》が心配《しんぱい》してくれるかと思ったが、しかしそんなわけはなく、里香は僕の失態《しったい》を見て、大声で笑った。
「あはは。裕一、すごいね。身体を張ったギャグだね」
「ギャグじゃねえ!」
「鼻《はな》の頭、赤いよ」
「ああ、ムチャクチャ痛いよ! それになあ、なんでおまえが笑ってんだよ! おまえだって同罪《どうざい》なんだぞ! なのに、なんでオレだけ正座なんだよ! 理不尽《りふじん》だろ!」
床にへたりこみ、すっかり痺れてしまった両足をさすりながら、僕は叫《さけ》んだ。里香は相変わらずゲラゲラ笑っている。ったく、なんでこんなに性格が悪いんだ。だいたい病院を抜《ぬ》けだしたのだって、里香が学校に行きたいって言ったからじゃないか。だからこそ、僕はあんなことをしたんだぞ。まあ、僕だけが罰《ばつ》ゲームってのはいいさ。うん。里香は身体のことがあるしさ。ただ、感謝《かんしゃ》の言葉くらい、あってもいいだろ。それなのに、罰ゲームを一身に背負《せお》って苦しむ僕を笑うとは。なんて女なんだ。
「おまえも座《すわ》れ! そこに座って謝《あやま》れ! オレの足と腰《こし》と鼻の痛みを償《つぐな》え!」
悔《くや》し紛《まぎ》れの言葉だった。
どうせ僕より里香のほうが言葉が達者《たっしゃ》なので、なにかとんでもない理屈《りくつ》で言い負かされるんだろう。
と思っていたら、
「うん」
肯《うなず》くと同時に、里香《りか》は僕の脇《わき》にすとんと腰《こし》を下ろした。
ムチャクチャびっくりした。亜希子《あきこ》さんが点滴《てんてき》を一発で成功させたときの、だいたい七十倍くらい驚《おどろ》いた。
口を半開きのまま、里香の顔を見ていると、
「なによ」
里香がそう言った。
ちょっと照《て》れた感じで。
「あ、いや、その……」
「裕一《ゆういち》が座《すわ》れって言ったから、座ったんじゃない」
「そ、そうだけど……」
「邪魔《じゃま》?」
「そ、そんなことないって!」
反射的《はんしゃてき》に断言《だんげん》していた。
「全然邪魔じゃないぞ!」
僕はもう動転《どうてん》しきってしまい、ふたたび正座《せいざ》体勢《たいせい》に戻《もど》った。ふたり並《なら》んで正座をしていると思うと、全然|艶《つや》っぽい状況《じょうきょう》じゃないのに、物凄《ものすご》く胸《むね》がドキドキしてきた。それにしても、いったいどうしたんだろう。里香の機嫌《きげん》の良さは、まだ続いてるみたいだった。僕の感覚的《かんかくてき》統計《とうけい》によると、里香の上機嫌と不機嫌の割合は、おおむね「一対十」だった。一日機嫌がいいと、それからまあ十日くらいは機嫌が悪い。なのに、だ。ここのところ、里香はずっと上機嫌だった。今日も、昨日も、その前も。
いったい、いつからだっけ?
よく思いだせなかった。たぶん一週間かそれくらいだ。ちょうど写真を撮《と》りはじめたころだった気もする。僕は横に置かれたカメラに目をやった。肌身《はだみ》離《はな》さず、このカメラを持ちつづけている。いつどんなときでも里香を撮るために。
あ、そうだ。
ふと思いついて、僕はあたりを見まわした。
「どしたの、裕一」
「いや、ちょっと考えが……」
「考えって?」
廊下《ろうか》の向こうに、おじいちゃんの姿《すがた》が見えた。少し恥《は》ずかしかったけど、いつまでも里香をここに座らせておくわけにはいかない。身体に障《さわ》る。早くこのアイディアを実行して、病室に帰さなければ。
「あのー! すいませーん!」
「裕一《ゆういち》、どうしたのよ……」
戸惑《とまど》う里香《りか》をそのままに、僕はおじいちゃんに叫《さけ》びつづけた。
「あのー! ちょっといいですか!」
おじいちゃんが僕の声に気づいた。僕はコクコクと肯《うなず》き、それから手招《てまね》きをした。おじいちゃんはわけがわからないみたいだけど、それでもこちらにやってきてくれた。
「なんやね」
物凄《ものすご》い関西|訛《なまり》だ。
おじいちゃんの目を真剣《しんけん》に見つめ、僕は言った。
「あの、お願いがあるんです――」
老人に機械の扱《あつか》い方《かた》を教えるのは、かなり大変《たいへん》だった。絞《しぼ》りだのシャッタースピードだのを言っても、まるでわかってもらえない。しかたないので、絞りもシャッタースピードも、それからピントもおおまかに設定《せってい》し、カメラを渡《わた》した。
「もう少し下がってください! あ、それくらいで! はい! それからシャッターを……ああ、そっちじゃなくて、右側です! 右側! みーぎーがーわー! そう! それです!」
「これを押《お》せばええんかね?」
「はい! じゃあ、お願いします!」
僕は里香《りか》のほうに顔を向けた。
「おい、笑って――」
必要《ひつよう》のない言葉だった。
里香は笑っていた。
ニコニコと、まるで天使みたいに笑っていた。
「チ、チチチチイイイイイィーズ!」
おじいちゃんの震《ふる》える声に、だから反応《はんのう》できなかった。
カシャン――
里香の笑顔《えがお》に見とれているところを、見事《みごと》撮《と》られてしまった。
2
「へへ」
僕は笑いながら、カメラを撫《な》でた。
ここにはいろんな里香《りか》が収《おさ》まっている。最初は照《て》れた顔だろ。それから、イーだだろ。あと拗《す》ねた顔だろ。笑ってる顔もある。校門の前で、嬉《うれ》しそうにしてる顔とか。
そして、ふたり並《なら》んで正座《せいざ》してるのも。
「へへ」
早く見たかった。
とっととフィルムを使い切って、現像《げんぞう》に出そう。今からそれが楽しみで楽しみでしかたない。考えてみれば、僕は里香の写真を一枚も持ってないんだもんな。一枚余分に焼き増しして、枕の下にでも隠《かく》しておこう。
もうひとつ、嬉しいこともあった。
写真の中には、僕が写ってるのもある。里香に写真をあげれば、当然、里香はその何枚かも手に入れることになるわけだ。僕の写真を里香が持っていてくれるなんて、なんだかやけに嬉しかった。変な話だけどさ。もしかすると……もしかするとだけど、里香は時々、僕の写真をわざわざ見たりするかもしれない。
そんなことがあったら最高だ。
まあ、ほとんど妄想《もうそう》……というか完全に妄想以外のなにものでもないことを考えながら、僕は廊下《ろうか》を歩いていた。里香の病室に行くためである。いよいよ本格的に手術をすることが決まり、里香は毎日|屋上《おくじょう》への散歩《さんぽ》を続けていた。その付《つ》き添《そ》いをしなきゃいけないのだ。
「里香、入るぞ」
病室のドアを開けると、里香はすでにカーディガンを羽織《はお》り、ベッドに腰《こし》かけていた。顔色がすごくいい。白く透《す》き通《とお》った肌《はだ》がまるで輝《かがや》いているみたいだった。僕はそれだけで嬉しくなってきて、明るい声をかけた。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
素直《すなお》に肯《うなず》き、手を出してくる。
僕は物凄《ものすご》く誇《ほこ》らしい気持ちで、その手を取った。
「ゆっくり行くぞ」
「わかってるよ、サンマン」
「うっ」
顔が真っ赤になっていくのが、自分でもわかった。
「どうしたの、サンマン」
「…………」
「サンマン、どうしたの? ねえ、サンマン?」
「…………」
「顔が赤いよ、サンマン?」
くそお、なんて性格《せいかく》の悪い女なんだ。僕がその綽名《あだな》を大嫌《だいきら》いだって知ってるくせに連呼《れんこ》するとは。このまま置き捨てていこうかと思ったが、もちろんそんなことをする意気地《いくじ》があるわけもなく、僕は無言《むごん》のまま里香《りか》の手を引いて歩きだした。
「ねえ、サンマン」
「…………」
「手、痛《いた》いよ」
「…………」
「痛いって! サンマン!」
悔《くや》しいので、もっと強く握《にぎ》ってやった。
「痛いってば! もうヤダ!」
まあ、誰《だれ》にだって、嫌《いや》な思い出はあるもんだ。
そうだろ。
嫌な思い出っていうか、情《なさ》けない思い出っていうかさ。
もちろん僕にもいろいろあるけど、特に記憶《きおく》から消し去りたいことのひとつが、小学校三年のときの、アイスリンク事件だ。
伊勢《いせ》神宮《じんぐう》のそばに、小さな池がある。
どこにでもあるような小さな池で、いつも薄汚《うすぎたな》く濁《にご》っていて、いろんな魚がいて、近所の子供たちの釣《つ》り場《ば》になっていて――。
もちろん僕や山西《やまにし》もよく釣りに出かけた。大きな鯉《こい》が釣れるのはそれこそ年に一回か二回あるくらいで、たいていは小魚ばっかりだったけど、とにかくあのころは釣りが物凄《ものすご》く流行《はや》っていたので、僕たちは毎日のように竿《さお》を担《かつ》いで池に向かった。
あれは、そう、冬休みのことだった。
僕と山西、それに谷口《たにぐち》と大西《おおにし》と坂村《さかむら》の五人で、池に向かったところ……とても釣りをできるような状態《じょうたい》じゃなかった。なんと池の表面が見事《みごと》に凍《こお》りついていたのだ。大陸から下りてきた記録的な寒気《かんき》のせいだった。
僕たちは最初、釣りができないことにブウブウ文句《もんく》を言いあった。せっかく来たのによお、ちえーっ、つまんねえ、とか。
けれど、そのうち誰《だれ》かが、
「おい、この氷、乗れるんじゃないか?」
と言いだした。
確かに水面は固く凍《こお》りついていて、試《ため》しに大きな石を投げてみたところ、ガツンと音がしただけで氷はびくともしなかった。
確かに乗れそうだった。
それでも僕たちはビビっていたのだが、まあ五人もいればひとりくらいはバカが混《ま》じってるもので――それは大西《おおにし》だったんだけど――氷の上に恐《おそ》る恐《おそ》る足を乗っけた。
立てた。
歩けた。
滑《すべ》れた。
僕たち五人は競《きそ》うように氷の上を滑り、何度かコケたり、尻《しり》を打ったりしながらも、やがてなかなか見事《みごと》な運動靴滑りをマスターしていった。意外《いがい》にも山西《やまにし》が一番うまく、まるでスケート選手のようなフォームですいすい滑り、谷口《たにぐち》と坂村《さかむら》も山西ほどじゃなかったけどうまく滑れるようになった。
僕と大西だけが、まるっきり駄目《だめ》だった。
とにかく立っているだけで精一杯《せいいっぱい》で、ちょっとでも動くと見事にすっ転《ころ》ぶのだった。僕と大西は『一番ヘタクソ』の称号《しょうごう》を受けまいと、ライバル心を燃やしながら、ヨタヨタと氷の上を歩きつづけた。
そして、気がつくと、僕は池の真ん中近くまで行ってしまっていた。まったくバカな話だ。氷が薄《うす》くなってることに気づかなかった。氷にヒビが入ったことに気づかなかった。気づいたときには、池にもうすっかりはまっていた。なにしろ水面が凍りつくような寒さである。ムチャクチャ水が冷たくて、しかも池の真ん中という状況に、僕はパニックに陥《おちい》った。
死ぬ!
本気でそう思った。慌《あわ》てて駆《か》け寄《よ》ってきた山西たちに向かって、僕はもう無我夢中《むがむちゅう》で叫《さけ》んだ。
「助けて! 助けてよ! なんでもあげるから! 山西、三万やるから助けて! 三万やるから!」
ああ……自分が情《なさ》けなくてしかたない……。
よりにもよって三万円で自分の命を救《すく》おうとしたなんて。よっぽど動転《どうてん》してたんだろう。まあ命がかかってたわけだから、動転するのも当然なんだけど……それにしても三万円とは……ちょうどお年玉を貰《もら》ったばかりで、その総額《そうがく》だった……今も思いだすだけで泣《な》けてくる。
幸《さいわ》い、山西たちが持ってきてくれた棒《ぼう》に捕《つか》まって、どうにか僕は這《は》いあがった。助かったというわけだ。しかし、そのあと、僕を待っていたのは死んだほうがマシという現実だった。山西たちは僕が落ちたときの様子《ようす》を、それからずーっと笑い話にしつづけたのだった。なにしろ五人もいたので、クラス替えがあっても、そのうちの誰《だれ》かとは必《かなら》ず同じクラスになる。でもって、クラス替えあとの自己紹介《じこしょうかい》で、その五人のうちの誰かが、僕の『伝説《でんせつ》』をおもしろおかしく語《かた》るのだった。そう、三万の伝説を。
というわけで。
僕はいつまでたっても、三万《サンマン》のままなのだった。
サンマンサンマン、と里香《りか》は楽しそうに繰《く》り返《かえ》した。
くそお。
なんだか妙《みょう》な節《ふし》をつけて歌ってやがる。
僕はもちろん不機嫌《ふきげん》オーラを全身から発しつつ、まったく口を開かず、とにかく屋上《おくじょう》まで里香をつれていった。軟弱《なんじゃく》な僕にしては、まあ精一杯《せいいっぱい》の抵抗《ていこう》である。
屋上には、春を感じさせる陽光《ようこう》が溜《た》まっていた。
わりと暖《あたた》かい。
僕と里香はいつものように屋上を横切り、町を見渡《みわた》せる手すりに身体を預《あず》けた。
「学校、楽しかったなあ」
その学校のほうを見ながら、里香が言った。
僕はまだ拗《す》ねつつ、
「おかげでひどい目にあったんだぞ」
と愚痴《ぐち》った。
なにしろナースステーション前の正座《せいざ》は三時間に達し、最後に土下座《どげざ》までして、どうにか亜希子《あきこ》さんに許《ゆる》してもらったのだ。鬼《おに》大仏《だいぶつ》と熱闘《ねっとう》を繰《く》り広《ひろ》げた司《つかさ》に至《いた》っては、生徒|指導室《しどうしつ》に呼《よ》びだされ、それこそ戦前の特攻《とっこう》警察《けいさつ》なみの取り調べを受けたそうだ。しかしさすがは司である。「あれは自分じゃないです!」と言《い》い張《は》り、どうにか誤魔化《ごまか》しきったらしい(というか、あまりの強情《ごうじょう》っぷりに、鬼大仏が根をあげたそうだ)。司はいざとなると、鉄のような意志《いし》を見せることができるのだった。僕だったら、たぶん七秒でゲロってるだろうな。
里香が、あはは、と笑った。
「裕一《ゆういち》、正座してたねえ」
おお、ようやくサンマン攻撃《こうげき》から解放《かいほう》してくれる気になったらしい。
「足、折《お》れるかと思ったよ」
「病院だから、大丈夫《だいじょうぶ》。すぐ治してくれるよ」
「……洒落《しゃれ》になってねえ」
「あはは」
「……だから、笑いごとじゃないって」
と言いつつも、自然と僕も笑っていた。上機嫌《じょうきげん》の里香《りか》の笑顔《えがお》と声に接《せっ》していると、拗《す》ねていた気持ちがホロンと溶《と》けてしまったのだった。不思議《ふしぎ》なもんだ。なんでこんなに嬉《うれ》しいんだろうな。ひとりの女の子が笑ってるだけじゃないか。
「ねえ、裕一《ゆういち》」
「うん?」
「『銀河《ぎんが》鉄道《てつどう》の夜』、読んだ?」
「読んだよ」
そっか、と里香が呟《つぶや》いた。
うん、と僕は肯《うなず》いた。
それ以上、僕たちはそのことについて言葉を交《か》わさなかった。言いたいことはたくさんあったけど、同時に言いたくないこともたくさんあった。そしておそらく、そのすべてが言うべきことじゃないんだろう。里香はわかってる。僕もわかってる。里香がわかってるってことを、僕はわかってる。僕がわかってるってことを、里香もわかってる。だから、いいんだ。別に口にすることなんてないんだ。黙《だま》っておくべきなんだ。そうだろ? なあ? どこかの誰かは答えてくれない。
手すりに置かれた里香の手が目に入ってきた。少し視線《しせん》を上げるとそこには肘《ひじ》があり、それはほっそりとした肩《かた》へ続いていた。
その瞬間《しゅんかん》、恐《おそ》ろしく強い衝動《しょうどう》がふたたび僕の胸《むね》で暴《あば》れだした。里香を抱《だ》きしめたい。そう思った。この小さな身体を腕《うで》の中に収《おさ》めれば、言葉では伝《つた》えられないなにかを伝えられる気がした。里香の気持ちがもっとわかる気がした。かなり……それこそほとんど本気で、僕は手を伸ばそうかと思った。簡単《かんたん》なことだ。同じように手すりに置いている自分の手を、ほんの十五センチくらいずらせばいい。手を重ね、握《にぎ》りしめ、引き寄せ――。たったそれだけなんだ。簡単なことなんだ。
それに……抱けるのは今だけかもしれないんだぞ?
情《なさ》けないことに、僕の手は一センチたりとも動かなかった。僕はどうしようもない臆病者《おくびょうもの》だった。なにも手に入れてないくせに、もう失うことを考えてしまっている……。
コツンという衝撃《しょうげき》が来たのは、そのときだった。
「痛《い》て」
里香がなにかで僕の頭をつついたのだ。
「なにすんだよ」
「はい、これ」
「え?」
「次の本」
見れば、里香の手にはやけに立派《りっぱ》な本があった。ちぇっ、痛《いた》いはずだ。函入《はこい》りじゃないか。あの角《かど》でつつかれたら、そりゃ痛《いた》いよ。
「なんだ、これ。えーと――」
恐《おそ》ろしく古い本だった。函《はこ》はすっかり日に焼け、隅《すみ》のほうが変色してしまっている。函を逆《さか》さにし、二、三回振って、中の本を取りだす。へえ、こりゃきれいな本だな。真っ黄色の装丁《そうてい》だ。日本語のタイトルは書いてなくて、アルファベットが並《なら》んでいた。LES THIBAULT。えーと、なんて読むんだ? レス・サイボウルト?
里香《りか》が答えを教えてくれた。
「デュ・ガールの『チボー家の人々』だよ」
「あ、ああ。チボー家ね。そっか、うん」
サイボウルトと読んでしまったことは、絶対《ぜったい》言わないでおこう……。
よく見れば、函のほうにちゃんと日本語のタイトルが書いてあった。『チボー家の人々』。マルタン・デュ・ガール。タイトルも作者名も、まったく知らない。
うん?
第一巻って書いてあるぞ。
「これ、全部で何巻なんだ?」
「五巻だよ」
「ええーっ、マジかよ!?」
僕は悲鳴《ひめい》をあげた。本をパラパラめくってみると、なんと恐《おそ》ろしいことに二段組だった。これで五巻。普通《ふつう》の文庫《ぶんこ》なら、たぶん二十冊分くらいになるんじゃないか? よくわかんないけど。とにかく、物凄《ものすご》いボリュームだった。
「ゆっくり読めばいいじゃない」
「ゆっくりねえ……」
いつ読み終わるんだろ?
一カ月?
二カ月?
半年?
「だけど、まだ読まないでね」
「え? どういうことだ?」
「あたしがいいって言うまで、読んじゃ駄目《だめ》」
わけがわからない。
もっとも里香のわがままに理由を求めるのがどうかしてるんだけど。
すっかり振りまわされることに慣《な》れてしまった僕は、素直《すなお》に肯《うなず》いた。
「わかったよ。なあ、これも親父《おやじ》さんのか?」
「そうだよ」
肯《うなず》くと、里香《りか》が笑いながら、僕の顔をじっと見てきた。なんだかやけに幸せそうな顔だった。どうしてこんな顔をするんだろう? 尋《たず》ねてみたかったけれど、もちろんできるわけがなく、それどころか妙《みょう》に気恥《きは》ずかしくなってきて、僕は本に目をやるフリをしてうつむいた。
くすんだ黄色。親父《おやじ》さんの本。『銀河《ぎんが》鉄道《てつどう》の夜』と同じだ。この本の中には、いったいなにが詰《つ》まってるんだろう……。
「いい天気だねえ、裕一《ゆういち》」
呑気《のんき》な里香の声。
だから僕も呑気に言った。
「そうだな」
「春が来るねえ」
「桜、見にいこうな」
「うん」
まあ、なんというか、いろんなことがあって、僕はそれを全然|背負《せお》いきれていなかったけれど、里香が上機嫌《じょうきげん》であれば、笑顔《えがお》を見せてくれれば、ただそれだけで幸せだった。ろくに手をつけてないレポートも、いまだ怒《いか》り狂《くる》ったままの亜希子《あきこ》さんも、永遠外出禁止も、たいした問題じゃない。
そうさ。
とにかく、もう、たまらなく幸せだったんだ。
「そろそろ戻《もど》ろうか」
言って、僕は立ちあがった。
肩《かた》にカメラをかけ、左手に里香から渡《わた》された本を持ち、右手を里香に差しだした。うんと肯いて、里香が僕の手を取る。
引っ張りあげるようにして、立たせてやった。
目線が重なると、里香が微笑《ほほえ》んだ。
ひどく眩《まぶ》しかった。
ああ、やっぱりさっき抱《だ》きしめておけばよかった。
里香が怒《おこ》ったら、なんか適当《てきとう》なことを言って誤魔化《ごまか》せばよかったんだ。それに、もし里香が嫌《いや》がらなかったら、そっと髪《かみ》を撫《な》で、それから――。
胸《むね》が弾《はず》む。
なにかが暴《あば》れている。
「行こう、裕一」
「あ、ああ、そうだな」
「あのね」
「うん? なんだ?」
「えっとね」
里香《りか》がチラリと僕を見て、目を逸《そ》らした。またチラリと見て、同じように目を逸らす。なんなんだろう。里香がこんなに曖昧《あいまい》な態度《たいど》を取るのは珍《めずら》しかった。それに頬《ほお》が少し赤いような。気のせいかもしれないけど。
「今度ね」
その次の瞬間《しゅんかん》に起きたことを、僕はいつまでもいつまでも覚《おぼ》えていた。
すとん――
そんな感じで、里香の膝《ひざ》がいきなり落ちたのだ。僕の手の中から、彼女の手が滑《すべ》り落《お》ちていった。そして小さな身体が薄汚《うすよご》れたコンクリートに投げだされた。ひどい倒《たお》れ方《かた》だった。まるで人形を押《お》し倒《たお》したような感じだった。
受け身を取ることもなく、ただそのまま里香は崩《くず》れた。
「え?」
なにが起きたのかわからなかった。
僕の瞳《ひとみ》には、さっきまでの里香の笑顔《えがお》がまだ残っていた。少し赤くなった頬。僕のほうをチラチラ見ながら。開きかけた唇《くちびる》。
けれど言葉は途切《とぎ》れた。
続かなかった。
「里香?」
反応《はんのう》がない。
ようやくなにが起きたのか悟《さと》った。しゃがみこみ、里香の身体を抱《かか》え起こす。小さいくせに、ムチャクチャ重く感じられた。身体にまったく力が入ってないんだ。その細い肩《かた》を抱《だ》きしめると、腕の中で身体がだらんとしたままになった。長い髪《かみ》に隠《かく》され、顔が見えない。僕は里香里香と叫《さけ》びながら、その髪を掻《か》きあげた。
彼女の顔は真っ青だった。
唇が震《ふる》えている。
「里香!」
叫んだ。
「どうしたんだよ!」
けれど答えない。
「里香!」
ぐったりしたままだ。
僕はあたりを見まわした。誰《だれ》もいない。声も聞こえない。薄汚《うすよご》れたコンクリート。錆《さび》の浮《う》いた手すり。風に舞《ま》うシーツ。呑気《のんき》な青い空。少し春めいた太陽の光。さっきまでは幸《さいわい》に満ちていた世界。抱《だ》きしめようと思ったんだ。抱きしめたかったんだ。
里香《りか》に目を戻《もど》すと、その瞼《まぶた》が少し震《ふる》えた。
「大丈夫《だいじょうぶ》か! 里香!」
「…………」
「里香……」
少しだけ瞼が開いた。
里香は笑った。僕を見ながら精一杯《せいいっぱい》笑った。
けれどその笑《え》みはすぐに消え去り、ふたたび閉じられた瞼が開くことはなかった。僕は里香の身体を抱《かか》えあげて走ろうとしたけれど、情《なさ》けないことにヨタヨタとして進むことができなかった。里香の手や足はすっかり力が抜《ぬ》け、ぶらぶらと空間を漂《ただよ》い、僕の腹や腿《もも》に当たった。下手《へた》に走ろうものなら、いっしょに倒《たお》れてしまいそうだった。くそ、僕は泣《な》きそうになりながら思った。なんでこんなこともできないんだよ! 司《つかさ》ならこれくらい平気なのに! なんで僕に
はできないんだよ!
里香《りか》を床《ゆか》に下ろし、僕は叫《さけ》んだ。
「待ってろよ! 誰《だれ》か呼《よ》んでくるから!」
まったく反応《はんのう》がなかった。
聞こえているのかどうかさえ、わからない。
僕はそして、ひとりで走りだした。里香を薄汚《うすぎたな》いコンクリートの上に置き去りにして。ちくしょう、そう心の中で叫びながら走った。ちくしょうちくしょうちくしょう……。
3
ここのところ、里香の体調は安定していた。手術を前にして、いい方向に気持ちが充実《じゅうじつ》してるみたいだぞと夏目《なつめ》は言っていた。そういう気持ちの部分がわりと身体に影響《えいきょう》するんだよ、と。なんだか夏目は悔《くや》しそうだった。僕は得意気《とくいげ》だった。そんなわけで誰もが安心していた。どこかで気が緩《ゆる》んでいた。もちろん僕も緩んでいた。里香もそうだったのかもしれない。
そして足元をすくわれた。
里香は担架《たんか》で処置室《しょちしつ》に運ばれた。処置室の黒いベッドに横たわった里香は目を閉じたままだった。僕は立ちつくし、夏目や亜希子《あきこ》さんが動きまわる様子《ようす》をただ眺《なが》めていることしかできなかった。なにが起きているんだろう。そこに寝《ね》ているのは誰なんだろう。里香じゃない。そんなこと、あるはずがない。さっきまでいっしょに話してたんだぞ。すっげえ元気そうだったんだ。あんなふうに目を閉じているはずがない。
誰かにぶつかられ、バランスを崩《くず》した。
「出ていけ!」
夏目だった。殺気《さっき》だった声。
「邪魔《じゃま》だ!」
でも僕は動けなかった。
やがて亜希子さんがやってきて、僕の背中《せなか》に手を置いた。
「外で待ってな」
「…………」
「なにかあったら、すぐに教えるから」
僕は慌《あわ》てて顔を上げた。
「なにかって……」
亜希子さんは無言《むごん》のままだった。
「なにかって……なんですか……」
やはり無言のままだった。
そのまま背中《せなか》を押《お》され、僕は処置室《しょちしつ》から追《お》いだされた。ドアがバタンと音を立てて閉まる。僕はひとり、廊下《ろうか》に立ちつくしていた。
時折《ときおり》、背後《はいご》にあるドアの向こうから怒声《どせい》が聞こえてくる。
夏目《なつめ》の声だった。
「――っ!」
なにを言ってるのか聞き取れない。
僕はあたりを見まわした。ここがどこか急にわからなくなったのだ。ここは……病院だ。そう、そして処置室の前だ。振り返り、そこにあるドアを見る。銀色のノブが鈍《にぶ》い光を放っていた。思いっきり蹴飛《けと》ばせば破れそうな、ちゃちなドアだった。第二処置室という札《ふだ》がそんなドアの上にかかっていた。
僕にはなにもできない……この中に入ることさえもできない……。
そうしてぼんやりしていると、
「裕一《ゆういち》君」
すぐ横で声がした。
看護婦《かんごふ》の吉田《よしだ》さんだった。
「これ、君のでしょう」
ふたつのものを渡《わた》された。
カメラと。
本と。
夏目が処置室から出てきたのは三十分くらいしてからだった。僕はようやく少しだけ落ち着きを取《と》り戻《もど》し、廊下《ろうか》の長椅子《ながいす》に腰《こし》かけていた。心の中が空《から》っぽで、そのぽっかりとあいた空洞《くうどう》にいろんな声が満ちていた。どれも聞きたくない声だった。そんな僕の脇《わき》には、カメラと本が寄《よ》り添《そ》うように置かれていた。父親が残していったカメラ。里香《りか》が渡していった本。僕は急に怖《こわ》くなって、本とカメラを引き離《はな》した。父親が里香を暗闇《くらやみ》の奥へつれていってしまうように思えた。その直後、処置室の扉《とびら》が開き、夏目が出てきたのだった。
「あ、あの――」
反射的《はんしゃてき》に僕は立ちあがっていた。
僕を見た夏目は顔をしかめた。
無言《むごん》のまま、僕を無視《むし》して歩きだす。
「里香は!?」
その背中に、僕は叫《さけ》んだ。
夏目が立ちどまる。
僕はふたたび叫《さけ》んだ。
「里香《りか》はどうなったんですか!?」
声が震《ふる》えていた。
夏目《なつめ》はなかなか答えてくれなかった。ただそこに立ちつくしている。こちらを見ようとしないのはなんでだろう? その肩《かた》が震えているように思えるのはなんでだろう? ああ……震えているのは僕なのか?
「どうにか落ち着いたよ」
それで夏目の声も震えているように聞こえるのか?
「あんな発作《ほっさ》は久しぶりだったんだ」
「た、助かったんですか?」
「まあな」
そこで夏目の言葉が切れた。なにか説明があるのかと思って待ってみたが、しかし夏目は黙《だま》りこんだままだった。背後《はいご》でドアが開き、看護婦《かんごふ》が出てきた。パタパタという足音が廊下《ろうか》に響《ひび》いた。続いてまた別の看護婦が出てくる。入れ替わりに、最初に出て行った看護婦が戻《もど》ってきた。ふたりとも思いつめたような顔をしていた。そう、僕たちと同じように。
「戎崎《えざき》」
「はい」
「なんでここにいるんだ?」
「え……」
「おまえみたいなヤツがなんでここにいるんだ?」
「…………」
「なにかの嫌《いや》がらせかよ? おい? 嫌がらせなのかよ?」
なにを言っているのか、さっぱりわからなかった。当然、答えることなんてできるわけがない。やがて夏目は早足で歩きだした。なんの説明もなく、あやふやな言葉だけを残し、去っていった。
里香に会うことはできなかった。
彼女の病室には『面会謝絶《めんかいしゃぜつ》』の札《ふだ》がかけられ、関係者以外の出入りがいっさい禁止されたのだ。家族でも医者でも看護婦でもない僕は、そのドアを開けることはできなかった。
そうして一日が過ぎた。
二日が過ぎた。
当初|抱《いだ》いていた希望――すぐに快復《かいふく》するという楽観的《らっかんてき》な考えは、ゆっくりと色褪《いろあ》せていった。あれだけ大きな発作《ほっさ》を起こせば、すぐに体調《たいちょう》は戻らない。わかっちゃいるさ。でも僕は信じたかった。
だから僕は毎日、亜希子《あきこ》さんに尋《たず》ねた。
「里香《りか》の具合《ぐあい》はどうですか?」
亜希子さんはまったく表情を変えず、
「まあ相変わらず」
と言った。
そしてもちろん、今日も僕は朝一番の検温《けんおん》のとき、亜希子さんに尋ねた。
「里香は?」
同じ言葉が繰《く》り返《かえ》された。
「変わりなしだよ」
「そうですか……」
「うん」
体温計を確認した亜希子さんは、六度三分問題なし、と言って立ち去る――かと思ったが、急に足をとめた。
「裕一《ゆういち》、ちょっと来な」
「はあ」
「早く来なって」
物凄《ものすご》い剣幕《けんまく》だった。ビビった僕はベッドから飛《と》び降《お》りた。亜希子さんは後ろも見ずに病室を出ていったので、慌《あわ》ててそのあとに続いた。どんどんどんどん、亜希子さんは歩いていく。いっさい喋《しゃべ》らない。なんだかその両|肩《かた》が吊《つ》りあがっていた。とても声をかけることなんてできない。やがて亜希子さんは西|病棟《びょうとう》と東病棟を繋《つな》ぐ渡《わた》り廊下《ろうか》にさしかかった。胸《むね》がドキドキしてきた。足の動きが速くなる。思ったとおり、亜希子さんは里香の病室の前で立ちどまった。あたりを素早《すばや》く見まわすと、僕の肩をガシッと掴んだ。
「一分だよ」
早口で言った。
「一分だけ時間をとめてやるから」
「とめる……」
「バレたら、あたしだってヤバいんだからね。ほら、行け」
「は、はい」
ドアを開け、中へ。
何度も何度も通った病室だった。長期入院してる女の子の病室とは思えないくらい、素《そ》っ気《け》ない。キャラクターグッズなんてひとつもないし、それどころかそもそもほとんど物がない。ポットやらカップやらがあるだけ。あと何十冊かの本。里香はこの世になにも残していかないつもりなのかもしれなかった。
「裕一《ゆういち》」
ベッドに埋《う》もれた里香《りか》がそう言った。
「来たんだ」
すぐさま肯《うなず》いた。
「う、うん……亜希子《あきこ》さんが一分だけ時間をとめるって……」
ふふ、と里香が笑う。
「短いね、一分」
「そうだな」
「でもよかった」
え?
よかっただって?
微笑《ほほえ》む里香の顔を見ながら、僕は泣《な》きそうになった。里香が優しい言葉を口にしたことに打ちのめされた。いつもの里香なら、絶対《ぜったい》にそんなことは言わない。なんで来なかったのよ。だって面会謝絶《めんかいしゃぜつ》だっただろ。それがなによ。ねえ、ピーターラビットの絵本|借《か》りてきて。ええっ、またかよ。オレ、外出禁止なんだぞ。亜希子さんの監視《かんし》が物凄《ものすご》くてさ。だからなによ、借りてきてって言ってるの。見つかったら亜希子さんに殺されるよ。いいから、行ってきて。行かないつもりなの。あ、わかったわかった。行くよ、行きますって。
僕は里香に怒鳴《どな》ってほしかった。いつものようにぎゃあぎゃあ言ってほしかった。そうすればなにもかもが……あの日常《にちじょう》が戻《もど》ってくるように思えた。
けれど里香は笑っていた。
優しく僕を見つめていた。
「…………」
僕はもうとても喋《しゃべ》れなくて、ただ里香のベッドに歩み寄った。
病院特有の大きなベッドに収《おさ》まった里香が、いつもよりずっと小さく見えた。顔色が良くない。真っ青だ。唇《くちびる》の色も薄《うす》かった。自分がなにを考えていたのか、僕にはよくわからない。気がつくと、僕は右手を伸ばし、里香の頬《ほお》に触《ふ》れていた。里香はまったく嫌《いや》がらなかった。初めて触《さわ》った里香の頬はひんやりしていた。まるで陶器《とうき》のようだった。やがて里香が少し身体を動かして、布団《ふとん》から手を出した。そして僕の右手を、その人差し指の先を、ちょこんと子供みたいに握《にぎ》った。まるでお父さんの手に捕《つか》まる幼女《ようじょ》みたいだった。里香は嬉《うれ》しそうに笑っていた。
人差し指を摘《つま》まれたまま、僕はうつむいた。
なあ、里香。ずいぶん前にさ、死に神がいつもそばにいるって言っただろ。今もここにいるのか? どこにいるかわかるか? だったら教えてくれよ。今すぐボコボコにしてやるからさ。殴《なぐ》って殴って殴りまくって、絶対おまえに近寄らないようにしてやるからさ。だから教えてくれよ、里香。どうすればいいのか教えてくれよ。
ゴホン、とわざとらしい咳払《せきばら》いが聞こえた。
亜希子《あきこ》さんだ。
「もう終わりだね」
なに言ってんだよ、里香《りか》。
そんなことねえよ。
全然終わりじゃねえよ。
「うん」
バカ野郎《やろう》。
なに肯《うなず》いてんだ、僕は。
早く喋《しゃべ》れよ! なんか言えよ! おまえ、全然話してないだろ? そばにいただけじゃねえか! なあ、口を動かせよ! ほら! 喋れよ!
里香が僕の人差し指を離《はな》した。
「またね、裕一《ゆういち》」
「うん」
「早くしないと、谷崎《たにざき》さんに悪いよ」
「うん」
ゴホンゴホンと咳払いが何度も聞こえる。僕は背《せ》を向け、歩きだした。ようやく言葉が出てきたのは、ドアノブに手をかけたときだった。
「里香」
「なに」
「今度、ピーターラビットの絵本持ってくるからな」
「ほんとに?」
「ああ、図書館からごっそり盗《ぬす》んで……いや借《か》りてくるよ」
「駄目《だめ》だよ、盗むのは」
ちょっと怒《おこ》ったような顔。
僕はあえて生意気《なまいき》な感じで言った。
「わかってるって。ちょっと長期で借りるだけだって」
「まあ、それならいいか」
「うん、全然OKだ」
里香は最後まで笑っていた。
病室を出ると、亜希子さんがあたりをきょろきょろ見まわしながら立っていた。亜希子さんと声をかけたところ、ひどく慌《あわ》てた様子《ようす》で行こうと言われた。
ふたり並《なら》んで、東|病棟《びょうとう》の廊下《ろうか》を歩いてゆく。
「話せた?」
「はい」
僕は歩きながら、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
そして頭を下げたまま、不自然な格好《かっこう》で歩きつづけた。
亜希子《あきこ》さんにこんな顔を見られたくなかった。
4
消灯《しょうとう》時間を五分過ぎた途端《とたん》、病院を抜《ぬ》けだした。
急に春めいてきたせいで、空気が少し暖《あたた》かかった。息を吐《は》いても、全然白くならない。コートがやたらと重くて暑苦しく感じるほどだった。それでも僕はコートのポケットに両手を突っこみ、夜の街を歩いた。なにもかもが憎《にく》らしくてたまらなかった。呑気《のんき》な気候に腹が立ってしかたなかった。そばを走り抜けていった原チャリの爆音《ばくおん》に殺意《さつい》を覚《おぼ》えた。点滅《てんめつ》する赤信号を蹴倒《けたお》したかった。店のガラスを一枚一枚割って歩いてやりたかった。
そしてなによりも自分をブチのめしたかった……。
あんなに優しくて弱々しい里香《りか》を見たのは初めてだ。なのに僕は本当に大切な言葉をひとつも口にできなかった。ピーターラビットの絵本だって? それがなんなんだよ? もっと里香を勇気づける言葉はなかったのかよ? なんでいつもそうなんだ? 大事なときになにもできなくて。言葉に詰《つ》まって。行動もできなくて。ただ口ばっかりで。自信さえもなくて。里香を抱《だ》きしめる機会《きかい》さえ逃《のが》していて。
最低だ……。
それにしても僕はどこに行こうとしてるんだろう。そんなことさえもわからず、ただ歩きつづけた。なぜか火見台《ひのみだい》のある宇治山田《うじやまだ》駅の前を通りすぎ、寂《さび》れきってしまった商店街を通りすぎ、神宮《じんぐう》の前を通りすぎ、運河《うんが》にかかる橋を何本も何本も渡《わた》り、まるでバカな回遊魚《かいゆうぎょ》みたいにぐるぐると伊勢《いせ》の町を歩きまわった。里香があんな目にあっているというのに、世界はなにも変わっていなかった。いつもと同じように存在《そんざい》していた。
深夜《しんや》営業のファミレスの店内はガラガラだった。マンガを読んでいる若い男がひとり、深刻《しんこく》そうな顔で向きあってる女がふたり……客はそれだけだ。よほど暇《ひま》らしく、カウンターの中に店員がふたり並《なら》んで、お喋《しゃべ》りに夢中《むちゅう》になっている。男と女の店員だった。赤白のストライプが入った制服で、頭には船みたいな形の帽子をかぶっている。普段《ふだん》気にしたことはないけど、こうして見ると本当におかしな制服だ。滑稽《こっけい》で無様《ぶざま》だ。男の店員がなにかを言うと、女の店員が大きく口を開けて笑った。女が馴《な》れ馴《な》れしい素振《そぶ》りで、男の肩《かた》をポンポン叩《たた》く。口の動きで男が『痛《い》ってえなあ』と言ってるのがわかった。まるで子犬がじゃれあっているみたいだった。ふたりのあいだには、ただの店員同士とは違《ちが》う、親密《しんみつ》な雰囲気《ふんいき》ができつつあるらしい。穏《おだ》やかで退屈《たいくつ》で平凡《へいぼん》で温《あたた》かいなにかがその風景《ふうけい》には宿っていた。もしかするとそれは僕には決して戻《もど》ってこない風景なのかもしれなかった。その瞬間《しゅんかん》、指先を握《にぎ》った里香《りか》の手を、柔《やわ》らかい感触《かんしょく》を思いだし、僕は頭を抱《かか》えてしゃがみこみたくなった。情《なさ》けないことに喉《のど》の奥からヒッという声が漏《も》れた。なにかが溢《あふ》れだしそうだった。だから僕は精一杯《せいいっぱい》の勇気を振《ふ》り絞《しぼ》ってふたたび歩きはじめた。足を早めた。その温かい風景を遠ざけた。
そして気がつくと、司《つかさ》の家の前にいた。
「まだ起きてんのか――」
司の部屋《へや》は明かりがついていた。
きっと僕が来ることを予想《よそう》して、窓に鍵《かぎ》をかけてないんだろう。ガラッといきなり開けて、中に押し入ってやろう。下らない冗談《じょうだん》でも言おう。ゲームをしよう。勉強の邪魔《じゃま》をしてやろう。ああ、そうだ。そうしよう。
けれど、またもや僕はくるりと身体の向きを変え、歩きだしていた。背後《はいご》に司の部屋の明かりを感じながら、うつむき、コートのポッケに両手を突っこみ、まるで子供みたいに足を投げだしながら進んだ。どこか遠くのほうで犬が吠《ほ》えていた。空には冬の星々が輝《かがや》いていた。月はどこにもなかった。僕と里香の月は失われたままだった。そしてもう取り戻せないのかもしれない。いつか屋上《おくじょう》から連れ戻されるときに聞いた亜希子《あきこ》さんの声が蘇《よみがえ》ってきた。月はのぼらない。のぼらないんだよ、月は。
どれくらい歩いていたのかわからない……。
気がつくと、僕はまた宇治山田《うじやまだ》駅の前に立っていた。どこをどう歩いてここに戻ってきたのか、ほとんど記憶《きおく》になかった。運河《うんが》の堤防《ていぼう》によじ登ったのは、なんとなく覚《おぼ》えている。でも、どこで堤防を下りたんだろう。あれ、右手の甲を擦《す》りむいてる。堤防を上ったときかな。下りたときかな。それともどっかで転《ころ》んだのかな。ああ、そういえば小田橋《おだばし》を渡《わた》ったっけ。欄干《らんかん》にもたれかかり、闇《やみ》の貯蔵庫《ちょぞうこ》みたいな水面《みなも》をしばらく覗《のぞ》きこんでたんだ。それにしてもなんで火見台《ひのみだい》があるんだろうな、この駅……。
駅を見あげていると、背後《はいご》に車がとまった。
「裕一《ゆういち》君?」
名前を呼ばれたのでびっくりして振り返る。
「裕一君でしょ?」
車の窓が開き、ほっそりとした白い顔が闇に現れた。
美沙子《みさこ》さんだった。
φ
夜勤《やきん》というのも、まあけっこう大変だったりするのだ。なにしろ病院であるからには病人ばっかりがいるわけで、弱っている人間というのはとかく人を頼《たよ》りたがる。やれ背中《せなか》がかゆいだの、腹が空《す》いただの、ほぼ九割は下らない用事で立てつづけにナースコールが鳴《な》ったりする。しかしながら世界というのは実に不均衡《ふきんこう》なもので、まったくナースコールが鳴らない夜もあるのだった。まるで入院|患者《かんじゃ》が全員死んでしまったのではないかと思えるほどだ。これはこれで、かえって気持ちが悪い。谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》にしてみれば、どちらがいいかと問われれば……まだピーピー鳴りっぱなしのほうが落ち着くかもしれない。気持ち的には。身体は疲《つか》れるけれど。
「はあ、暇《ひま》」
というわけで、ナースステーションの中、谷崎亜希子は机の上に両足を投げだし、傾《かたむ》けた椅子《いす》で微妙《びみょう》なバランスを取っていた。これですっ転《ころ》んで頭を打って血でも流そうものなら笑い者だが、ガキのころからその手のヘマをしたことは一度もない。バイク乗りにとって、バランス感覚《かんかく》こそが一番大切なのだ。原チャリでのウィリーくらいなら、現役《げんえき》を退《しりぞ》いた今でも平気で決められる。
やがて、実にむさい雰囲気《ふんいき》が漂《ただよ》ってきた。
「よう、谷崎……」
同じく夜勤の夏目《なつめ》である。
亜希子は実に嫌味《いやみ》ったらしく言ってみた。
「せんせー、お眠《ねむ》りになっていてけっこーですよー」
まあ、暇《ひま》つぶしである。
起《お》き抜《ぬ》けの夏目が――ヨレヨレのボタンダウン・シャツ、ユルユルの紺《こん》ネクタイ、クシャクシャのズボン、ボサボサの頭――その顔をしかめた。
「起きちまったんだよ」
「あーら、それはざんねーん」
「その喋《しゃべ》り方《かた》やめろ」
「だってー、せんせーとかんごふじゃー、たちばがー」
いきなり椅子を蹴《け》られた。
危《あや》うくすっ転ぶところだった。
「なにすんだよ!?」
「先にケンカを売ってきたのはおまえだろうが」
「はあ? あたしは喋ってただけだろ?」
「おまえね、すごいね、笑えるね」
頬《ほお》をピクピクさせながら、笑う夏目。
亜希子も思いっきり笑ってやった。
「あんたこそ」
「楽しいヤツだなあ」
「あんたもねえ」
「どうして伊勢《いせ》の女はどいつもこいつも気が荒《あら》いんだ? いやいや、他の伊勢の女に比《くら》べちゃ失礼だな」
「はあ?」
「だってそうだろうが」
血が滾《たぎ》る。元々|荒事《あらごと》は嫌《きら》いではない。というか大好きである。伊勢の南に新宮《しんぐう》という町があり、そこでは毎年|火祭《ひまつ》りという行事が行われている。しめこみ姿《すがた》の男たちが赤々と燃える松明《たいまつ》を掲《かか》げ、山を駆《か》けのぼるという勇壮《ゆうそう》な祭りである。まあ勇壮というより、ムチャクチャというほうが近い。昨今《さっこん》はだいぶおとなしくなったらしいが、亜希子《あきこ》が子供のころ、参加した父親は毎年のように血ダルマになって帰ってきた。燃える松明は武器《ぶき》にもなりうるわけで、海の町の男たちは気が荒いわけで、武器を持ってるとちょーっと振ってみたくなったりするわけで……それでつい血ダルマになっちゃったりもするわけである。母親はそんな父親を見て卒倒《そっとう》しそうになっていたが、亜希子は「あたしも早く祭りに参加《さんか》したい!」と思っていた。祭りの夜は血が騒《さわ》いで明け方近くまで眠れなかったほどである。しかしながら、いざ大きくなってみれば、火祭りは女人禁制《にょにんきんせい》なのだった。つまらない、と思う。本当につまらない。
「おもしろいねえ」
睨《にら》みあう。
夏目《なつめ》もどうやら、少々血の気《け》が多いようである。
「おもしろいよなあ」
「ははは」
「ふふふ」
「はははははは」
「ふふふふふふ」
狙《ねら》いはネクタイだ。あれを取れば、相手は自由がきかなくなる。それともいきなり太股《ふともも》に蹴《け》りをぶちこむか。ただそれは一回やってしまっている。向こうも警戒《けいかい》してくるだろう。となれば、やはりネクタイをひっつかんで――。
「お――またせえええ――っ!」
いきなり場の雰囲気《ふんいき》がガラガラと崩《くず》れた。甲高《かんだか》い声を震《ふる》わせながらナースステーションに飛びこんできたのは、夜食を買いだしに行っていた新人|看護婦《かんごふ》、金子《かねこ》まなみであった。看護学校を出たばかりの二十三歳、ピンクのマシュマロとミッフィーが好きというバカ女である。車のフロントには六色のミッフィーが右から左まで並《なら》び、助手席《じょしゅせき》には特大ミッフィー・パパがシートベルトを締《し》めて収《おさ》まっている。彼氏、なんだそうである。わけわからん。
「せんぱあああーいっ! ホルモン定食買ってきましたあ――っ! ホルモンって内臓《ないぞう》ですよねえ――っ! よく食えますよね――っ! さっすが看護婦――っ!」
うるさい。ギャルはこれだから困《こま》る。まだ学生気分たっぷりだ。しかもこの甲高《かんだか》い声はどうにかならないもんだろうか。すっかり戦闘《せんとう》意欲《いよく》を奪《うば》われ、ゲンナリしつつ、亜希子《あきこ》はホルモン定食を受け取った。見れば夏目《なつめ》も相当《そうとう》参《まい》っているらしく、顔をしかめ、頭をバリバリ掻《か》きむしっている。
「あ、せんぱーい! 戎崎《えざき》君ってまた抜けだしてませんかー?」
「は? 裕一《ゆういち》? なんで?」
「なんかー、旧二十三号でえー、すれ違《ちが》った車の助手席《じょしゅせき》にー、似た子が乗ってたんですよー」
金子《かねこ》まなみはいそいそと自分の弁当(豚トロ定食らしい)を机に広げながら、マイ箸《はし》をバッグから取りだした。呆《あき》れたことに、マイ箸入れとマイ箸までミッフィーである。
「見間違《みまちが》いかなー。女の人が運転してましたしー。あの子、そんな年上と遊べるタイプじゃないですもんねー。ダッサいってゆーかー」
悪い予感《よかん》がする。
車?
女?
ホルモン弁当を机に放り投げ、亜希子は尋《たず》ねた。
「車って、なんだった?」
φ
なぜ乗ってしまったのかよくわからない。
なぜ乗れと言われたのかもよくわからない。
とにかく――。
僕は今、美沙子《みさこ》さんが運転する自動車の助手席に収《おさ》まっていた。まだ新車らしく、新しい匂《にお》いが車内に充満《じゅうまん》している。亜希子さんの車と違《ちが》って、やけにフニャフニャした乗《の》り心地《ごこち》だった。それはまあ、亜希子さんの車がノーマルじゃないからなんだろうけど。
深夜《しんや》のドライブというのは、不思議《ふしぎ》な感じだった。
なんだか異次元《いじげん》を滑《すべ》っているかのようだ。
「病院、脱《ぬ》けだしていいの?」
甘《あま》い声。
甘い匂《にお》い。
「だ、駄目《だめ》です」
愛想笑《あいそわら》いを浮《う》かべてみる。
ふふ、と美沙子さんが笑《え》みを返してきた。身体の芯《しん》がくすぐったくなるような笑い方だった。思わず座席《ざせき》で身を竦《すく》めてしまう。
横を見ると、彼女と目があった。
はは、と笑う。
ふふ、と笑い返された。
今日の彼女も実に大胆《だいたん》な服を着ていた。オリーブグリーンのタートルネックなのだが、身体のラインがくっきりと出るタイプで、肩《かた》の下あたり……つまりまあ胸《むね》の形がはっきりとわかった。思っていたよりもさらに豊かで、それに反してウエストはほっそりとしており、その柔《やわ》らかいラインは直視《ちょくし》するのがためらわれるほどだった。肩までの髪《かみ》はきれいにカットしてあって、彼女がなにか話したり首を傾《かし》げたりするたびに、挑発《ちょうはつ》するように毛先がさらさらと揺《ゆ》れる。僕は息を呑《の》み、うつむいた。
「亜希子《あきこ》に怒《おこ》られる?」
「すんげえ怒られます」
「怖《こわ》いよね、亜希子」
「はい」
「あたし、三回くらいひっぱたかれたことあるもん」
「マジっすか?」
「うん。しかも本気で。身体が吹っ飛んだもん」
「うわあ」
亜希子さん、女も殴《なぐ》るんだ。
「捕《つか》まったら、怒られるね」
「はい」
コクコクと肯《うなず》く。
美沙子《みさこ》さんが僕のほうを見て、悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「逃《に》げちゃおうか?」
ふっくらしたピンクの唇《くちびる》が、そういう言葉を形作る。そして直後、車が左折《させつ》した。病院に向かう道からは外《はず》れる。病院に送っていってあげる、そう言われて車に乗ったはずなのに。
「え、いや、でも、それは――」
慌《あわ》てていると、美沙子さんが、今度は声を出して笑った。
「冗談《じょうだん》よ」
「は、はあ」
「ちょっと家に寄っていくだけだから」
「え? 家?」
「うん。ちょっとだけね」
5
「なんだよ、どこ行くんだよ」
夏目《なつめ》の問いに答えず、亜希子《あきこ》はさしてスピードを落とさないまま信号を右折《うせつ》した。必然的《ひつぜんてき》に後輪《こうりん》が滑《すべ》り、アスファルトに見事《みごと》なブラックマークが残った。信号はちなみに赤く点滅《てんめつ》していたが、まあちゃんと確認したので大丈夫《だいじょうぶ》だ。少なくとも谷崎《たにざき》亜希子の基準《きじゅん》においては問題ない。
「友達んとこ」
「はあ? おまえの?」
「うん」
今度は左折。細い脇道《わきみち》に入りこむ。いきなりの侵入《しんにゅう》に驚《おどろ》いた猫《ねこ》が道路を慌てて横切っていった。さすがにこのあたりは危《あぶ》ない。飛びだしてきたらよけられない。少しスピードを落としつつ、くねくね曲《ま》がる道を進む。
「プジョーなんだよ」
「あの……話が見えないんだが……」
「裕一《ゆういち》が乗ってたって車。友達が買ったんだよね、最近。プジョーなんてこのあたりじゃ珍《めずら》しいだろ」
「ああ、そういうことか」
夏目も不機嫌《ふきげん》そうな声になっていた。
「戎崎《えざき》もやるねえ」
「…………」
「年上のネーちゃんか。おまえと年いっしょなのか、その女」
「そう」
「そりゃたまんねえかもな。十七のガキにとっちゃ」
五秒ほどあいだを置いてから、夏目は言葉を続けた。
「里香《りか》はまあ、怒《おこ》るだろうけどな」
「だろうね」
外宮《げくう》を左に見ながら、緩《ゆる》い坂道を上ってゆく。皇室の祖先《そせん》を祭《まつ》る内宮《ないくう》と違《ちが》い、外宮は食物を生みだす神がその主である。豊受大御神《とようけのおおみかみ》。死んだその身体から五穀《ごこく》……えーと、米と麦と稗《ひえ》と粟《あわ》と……あとなんだったか、とにかくそういうのが生えてきたのだそうだ。神話《しんわ》というのはまったくおかしなものだ。
「東京から帰ってきたばっかなんだよね」
「うん?」
「その子」
「ああ、なるほど。おまえさ、話に脈絡《みゃくらく》がないとか言われないか? いきなり切りだされてもわけわかんねえよ」
「うっさいね」
吐《は》き捨《す》て、続ける。
「モデルとかしてたんだ」
「へえ、すごいじゃないか」
「たいしたことなかったらしいけどね。まだまだ駆《か》けだしでさ。でも雑誌の広告に載《の》ってるのを一度だけ見たことあるよ。わかる? こう腰《こし》に手を当てて、上半身|捻《ひね》ってさ……見てるこっちが恥《は》ずかしくなるような色っぽいポーズ取ってた。挑発的《ちょうはつてき》な感じの目でさ。まあ、きれいだったよ。昔からそういうの好きな子だったんだ。あたしらの学校じゃ東京行く女って少ないんだよね。たいてい名古屋か大阪でさ。でもあの子は最初から東京に行きたかったみたい。バカみたいだろ。都会に憧《あこが》れる田舎《いなか》女《おんな》なんて」
思わず毒《どく》が混《ま》じる。
「でもまあ、そういうもんだろ」
まったくの他人だけあって、夏目《なつめ》の声は穏《おだ》やかだった。
「オレもそうだったし」
「へえ?」
「大学ってのは言いわけみたいなもんで、どっか遠くまで行ってみたかったんだよ。そのどっかってのが、外国とかじゃなくて東京ってのが今になってみると情《なさ》けないんだけどさ。もっともっと遠くに行けるのに、なんでそんな近いとこ選《えら》んじまうんだろうな」
チラリと、一瞬《いっしゅん》だけ夏目の顔を見る。
無表情だった。
この男にもなにか抱《かか》えこんでるものがあるのかもしれない。
「元々ふらふらした女なんだけどさ、こっち帰ってきてから前よりヤバいんだよね」
φ
家だというから普通《ふつう》の一軒家《いっけんや》だと思っていたら、車がとまったのは最近|増《ふ》えてきた敷金《しききん》とかがないタイプの洒落《しゃれ》たアパートだった。マンションと呼《よ》ぶほどじゃないけど、まあわりときれいで新しい。
「行こ」
そう言って、美沙子《みさこ》さんは車から降《お》りた。
「はあ」
肯《うなず》いて、僕も車から降りた。
急に自分の足で立ったせいか、少し頭がくらくらした。自分が今、なにをしてるのかうまく認識《にんしき》できない。こんな時間になんで僕は美沙子《みさこ》さんといっしょにいるんだろう。なにをしてるんだろう。
空を見あげたが、やはり月はなかった。
「裕一《ゆういち》君」
「あ、はい」
「こっち」
二階の一番|端《はし》。二〇五号。ドアの脇《わき》にあるスリットにカードを差しこむと、カチャンという音がして、鍵《かぎ》が開いた。カード式なの、と少し得意気《とくいげ》に美沙子さんが言った。こんな深夜《しんや》、女の人の部屋《へや》へ入るということに、なぜか僕は違和感《いわかん》を持たなかった。なにかが麻痺《まひ》していた。なにも考えなかった。導《みちび》かれるまま進んだ。
部屋の中はこざっぱりしていたけど、里香《りか》の病室に比べるといろんなものが溢《あふ》れていた。横に置かれたカラーボックスにソニーのミニコンポと十九インチの液晶《えきしょう》テレビが乗っており、その隙間《すきま》に十枚くらいのCDが並《なら》べられている。どれも最近|流行《はや》った曲ばかりだった。壁《かべ》には何枚か映画のポスターが貼《は》ってあった。トレインスポティングとかタイタニックとか。カーテンはピンクと白のボーダー柄《がら》で、部屋は全体的にその二色で色調《しきちょう》が統一《とういつ》されている。僕の部屋ともまったく違《ちが》う、ほんと女の人の部屋って感じだった。
座《すわ》って、と美沙子さんが言った。
見まわしてみたけれど、椅子《いす》はなかった。まあ、せいぜい六|畳《じょう》かそこらのワンルームだから、椅子なんていくつも置けるわけがない。
しかたないので、ベッドに腰《こし》かけた。
「なにか飲む?」
「あ、いえ、別に……」
「コーラでいい?」
「は、はあ……」
まだ引《ひ》っ越《こ》してきたばかりだから食器が揃《そろ》ってないの、ごめんなさい、と言いながら、美沙子さんはマグカップにコーラを注《つ》いで持ってきた。『afternoon tea』というロゴが入っていた。ちょっとお洒落《しゃれ》な感じがする琺瑯《ほうろう》のマグカップだ。
「はい、どうぞ」
渡《わた》される。
受け取った直後、当たり前のように美沙子さんがすぐ隣《となり》に座《すわ》った。
物凄《ものすご》くいい匂《にお》いがした。
「裕一君、進学するんだよねえ」
「は、はあ……」
「東京?」
「いや、まだわかんないですけど……いちおう……」
「あたしも東京にいたんだよ」
肩《かた》が触《ふ》れた。
心が揺《ゆ》らいだ。
里香《りか》のことを、ほんの一瞬《いっしゅん》だけ思いだした。
φ
「なんでその子、こっちに帰ってきたんだ?」
「お父さんが病気でね。一人娘だったから、それでね」
「ああ、なるほど」
「この辺じゃ子供が親の面倒《めんどう》見るの当たり前なんだ」
対向車《たいこうしゃ》がハイビームのまま通りすぎていった。目の奥に光が射《さ》しこんできて、その残像《ざんぞう》がチラチラ揺れる。ったく、すれ違《ちが》うときは光落とせってーの。もし急いでなきゃ追《お》いかけまわしてハイビーム攻撃《こうげき》を後ろから浴《あ》びせまくってやるのに。ああ、それにしてもなんでこんなにイライラすんだろ。
「本人は帰りたくなかったらしいけどね」
「ふむ」
「まあ、そういうよくある話」
「まあ、確かによくあるな」
「うん」
ぎゅーとら――なんてダッサい名前のスーパーの前を通りすぎる。看板《かんばん》にはにこやかに笑う虎《とら》の絵。この絵がまたダサい。伊勢《いせ》みたいな田舎町《いなかまち》でも最近は深夜《しんや》営業の店がだいぶ増《ふ》えた。ちょっと前はコンビニさえもなかったのに。
「ほんと下らない話でしょ」
「でも世の中ってのは下らないもんだけどな」
「そうだね」
美沙子《みさこ》は今も都会にいたころの雰囲気《ふんいき》を手放《てばな》していない。こんな田舎で暮《く》らしていて。もう戻《もど》る予定もなくて。前からそれほど好きな女じゃなかったけど、今はいっしょにいると腹が立ってくる。どこかに未練《みれん》を残し、諦《あきら》めを漂《ただよ》わせ、この町を蔑《さげす》み、そして状況《じょうきょう》を打開《だかい》できない自分をもやはり蔑んでいる。下らない、と思う。まったく下らない。世の中には「是非《ぜひ》もなし」という状況に陥《おちい》ることが一度や二度はあるのだ。そうなったら心を決めるしかない。それができないヤツはアホだ。
けれどそういうアホが多いのも事実だった。高二のとき、クラスメイトだった柿崎《かきざき》冴子《さえこ》。美容師《びようし》になると言って大阪に出て、二年で諦《あきら》めて帰ってきた。体質的に薬品を扱《あつか》えなかったのだ。大阪に戻《もど》りたいなあ、いっつもそう言っている。戻りたければ戻ればいいのに戻らない。いつだったか、酔《よ》っぱらったときに「そんなに戻りたいなら戻んな」と言ってやったら、「いろいろあったのよ」なんて哀愁《あいしゅう》たっぷりに言いやがった。ありゃ絶対《ぜったい》演技《えんぎ》入ってた。そういうことを言う自分に酔ってた。はっきりわかったから、呆《あき》れて萎《な》えて、それ以上なにか言う気さえ失った。あと部活でいっしょだった沢口《さわぐち》有理《ゆり》。東京に三年住んでから帰ってきた。今でも喋《しゃべ》っていると、しょっちゅう渋谷《しぶや》とか青山《あおやま》とか六本木《ろっぽんぎ》が出てくる。道玄坂《どうげんざか》を歩いてたらね――渋谷の映画館でね――六本木のバーで飲んでたら――青山に感じのいいカフェが――そんなに渋谷だの六本木だの青山だのが偉《えら》いのか。そういう場所にいた自分がカッコいいと思っているのか。冗談《じょうだん》じゃない。下らない。ああ、もう、まったく下らなくてダサい。
自分は伊勢だって悪くないと思ってる。そりゃ田舎だけどさ。いいじゃん、田舎で。あたしはここが好きだし、都会にも行ってみたいとは思うけど、天秤《てんびん》かけたらこっちに傾《かたむ》くんだよ。
是非《ぜひ》もなし。
そういうこと。
「――だろうな?」
頭が熱《あつ》くなっていたせいで、夏目《なつめ》の声がちゃんと耳に入ってこなかった。
「ん? なに?」
夏目は車窓《しゃそう》の向こうを見つめていた。
「なんであいつが……戎崎《えざき》がいるんだろうな?」
「なんでって? どういうことさ?」
「知ってるんだよ、ああいうヤツをさ。よく知ってんだ。バカでアホで、女の尻《しり》ばっか追《お》いかけてさ。なんにも見えてなくて。見えてないことに気づいてるつもりでいるくせに、実は全然気づいてねえのな」
「ガキだからしょうがないじゃん」
まあ、そういう類《たぐい》のことは自分にもたっぷりとあったからよくわかる。なにもかも見えてるガキなんて、かえって気持ち悪いし。
夏目は窓の外に顔を向けたままだった。
「そうだよなあ。ガキなんだよなあ」
車内に射《さ》しこんできた対向車《たいこうしゃ》のライトのせいで、夏目の顔が窓ガラスに映《うつ》った。ほんと一瞬《いっしゅん》だったので、どういう表情をしているのかはわからなかったけど。
「どうしたのさ?」
返事がない。
「ねえ?」
「なんでもない」
声が少しかすれていた。
「なんでもないんだ」
「そう」
「ほら、飛ばせよ」
「わかってる」
なんだか心のどこかに妙《みょう》なものがつっかえたような感じだったが、かといってそれを問いただす気にもなれず、亜希子《あきこ》[#人称不統一]はアクセルを深く踏《ふ》みこんだ。生きていれば、いろんなものを拾う。拾いたくないものも拾う。そういうものだ。是非《ぜひ》もなし。
6
慰《なぐさ》めてほしかったんだと思う。誰《だれ》でもよかったんだ。夏目《なつめ》でも、亜希子さんでも、他の誰かでも。優しい言葉に飢《う》えていた。心が折《お》れそうだった。だから。そう。誰でもよかったんだ。慰めてほしかっただけだったんだ。
自分が誘《さそ》ったのではないと思う。そういう根性《こんじょう》も甲斐性《かいしょう》もテクニックも持っていない。しかし美沙子《みさこ》さんに誘われた覚《おぼ》えもなかった。自然に。そう言うしかない。けれどそれが言いわけでしかないことも承知《しょうち》していた。
自然に。
なんて都合《つごう》のいい言葉だろう。
自然に。
そんなふうに誤魔化《ごまか》して。
自然に。
ああ、そういうことなんだ。
気がつくと――。
僕はベッドの上に寝転《ねころ》がっていた。右横に美沙子さんの温《あたた》かい身体があった。彼女の唇《くちびる》が僕の頬《ほお》を撫《な》でるように下りてゆく。身体の芯《しん》が痺《しび》れる。もう抵抗《ていこう》する気もなく、ただされるがままになっている。哀《かな》しい。やめたい。でもやめられない。快感《かいかん》に震《ふる》える自分の浅《あさ》ましさが、バカみたいに弾《はず》んでる心臓が、やけに哀しい。美沙子さんが髪《かみ》を撫《な》でてきた。そして耳元に唇を寄せる。温かい吐息《といき》になにもわからなくなった。
それにしてもいつ上着とシャツを脱《ぬ》いだんだろう。
まったく覚えがない。
美沙子《みさこ》さんはあのオリーブグリーンのタートルネックをいつ脱《ぬ》いだんだろう。
まったく覚《おぼ》えがない。
僕が脱いだんだろうか、僕が脱がせたんだろうか。
美沙子さんは薄《うす》い青色のブラジャーを身につけていた。カップの上半分がレースになっていて、縁《ふち》に小さな花の模様《もよう》がついている。右と左に五つずつ、全部で十個の花。柔《やわ》らかい肌《はだ》にその模様がよく映《は》えた。右の肩紐《かたひも》がズレて、肘《ひじ》のあたりにぶらんと垂《た》れている。彼女の肘の内側が、僕の脇腹《わきばら》にピタリと触《ふ》れた。とても温《あたた》かかった。心が緩《ゆる》んだ。ぬくもりに負けた。僕は手を伸ばし、彼女の背中《せなか》にまわした。あ、と彼女の口から声が漏《も》れた。身体を寄せ、そして重なりあう。身体の奥底にある衝動《しょうどう》が動きだし、それは僕の行動を完全に支配《しはい》した。なにも考えてはいなかった。考えられなかった。それでも身体が動いた。僕はオモチャの人形を思《おも》い浮《う》かべた。スイッチを押《お》すと必ず動きはじめる人形。僕も同じだった。どこかわからないけど、とにかくスイッチがあって、それを押すと自動的に動く人形だった。
そしてスイッチが押された――。
美沙子さんの細い腰《こし》に手をまわし、そのまま身体の上下を入れ替える。小さなベッドから落ちそうになりながら、僕は彼女を見下ろした。美沙子さんは楽しそうに、けれどなぜか諦《あきら》めたように、笑っていた。
「ねえ、裕一《ゆういち》君」
「…………」
「つまんないことばっかだねえ」
「…………」
「でも、しょうがないよねえ」
「…………」
「君はあったかいねえ」
美沙子さんは喋《しゃべ》りながら僕の背中を撫《な》でまわしている。そうかな。僕の身体は本当にあったかいんだろうか。美沙子さんが感覚《かんかく》に震《ふる》えるように、その顔を上げた。首筋《くびすじ》が目に入ってくる。僕は自然と、そこに口をつけていた。やだ、と美沙子さんが言う。誘《さそ》うように言う。僕はその誘いに乗った。左側の肩紐をずらし、それから彼女の背中に手をまわして、ブラジャーのホックを外《はず》した。鎖骨《さこつ》のラインをなぞり、かつての肩紐のラインをなぞる。美沙子さんの声が徐々《じょじょ》に大きくなった。僕の中のなにかが刺激《しげき》された。
荒《あら》い息《いき》をしつつ、美沙子さんが言った。
「ほんとつまんないよねえ、伊勢《いせ》って」
「…………」
「あたし、ここ大嫌《だいきら》いだった」
「…………」
「今も大嫌い」
「…………」
「君ならわかるでしょ」
彼女の手は僕のベルトを外《はず》していた。外れた。ズボンのボタンも。続いてチャックを下ろし、それから――。
「ほんと大嫌い」
φ
「まだ温かい」
谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》はプジョーのボンネットに手を置き、そう言った。そして見あげると、二階の一番|端《はし》っこの部屋《へや》に明かりがついていた。間違《まちが》いない。
「なあ、谷崎」
歩きだそうとしたら、夏目《なつめ》が話しかけてきた。
「行くのか」
「うん」
「なんでだよ」
「そりゃ――」
なんでだろう。裕一《ゆういち》の問題だ。自分がかまうことじゃない。もしかしたら自分は美沙子《みさこ》の行動を邪魔《じゃま》したいだけなのかも……いや、違《ちが》う。そうじゃない。裕一が、そして里香《りか》が絡《から》んでるからだ。確かにお節介《せっかい》だろう。無意味で無駄《むだ》かもしれない。だけど放《ほう》っておけない。
「――行くよ」
「わかった」
納得《なっとく》したのかしてないのか、夏目もついてきた。それにしても、なんだろう、夏目のヤツ。さっきからウジウジしやがって。小さなアパートなので、すぐ部屋の前に着いた。ドアの脇《わき》にあるチャイムを押《お》した。鳴《な》った。中で誰《だれ》かが動いた気配《けはい》がした。また鳴らした。
連打《れんだ》連打連打――。
φ
なんの音なのか、最初はわからなかった。
夢中《むちゅう》になっていたからだ。
最初に醒《さ》めたのは美沙子《みさこ》さんのほうだった。顔を上げ、ドアのほうを面倒臭《めんどうくさ》そうに見つめた。
それで気づいた。
チャイムが鳴《な》ってるんだ。
しつこく鳴りつづけたあと、今度は荒《あら》っぽくドアが叩《たた》かれた。そして、みさこー、と声が聞こえる。亜希子《あきこ》さんの声だった。僕はびっくりして起きあがった。逆《ぎゃく》に美沙子さんがベッドに倒《たお》れこむ。彼女はシーツに顔を埋《う》め、なぜかクスクス笑っていた。
「あーあ」
笑いながら。
「バレちゃった」
「なんで……亜希子さんが……」
「勘《かん》がいいんだよねえ、亜希子って。ねえ、どうする?」
甘《あま》えるような声で尋《たず》ねられた。
意味がわからなかった。
「え? どうするって?」
「続ける?」
「…………」
「鍵がかかってるから入ってこれないよ。まあ亜希子だとそのうちドアくらい蹴破《けやぶ》るかもしれないけど、そのあいだにしちゃおうか」
「…………」
「だって、まだ始めたばかりだし」
クスクス笑う声。
大人の女の声。
急速《きゅうそく》に視界《しかい》が歪《ゆが》む。いろんなものが目に入ってきた。クシャクシャになったシーツ、ベッドの脇《わき》に落ちた服や下着、掛《か》け布団《ぶとん》は足元で盛《も》りあがっていて。音が消されたテレビでは、生真面目《きまじめ》なニュースキャスターがぱくぱくと口を動かしていた。
ようやく醒めた――。
僕はもうほとんど裸《はだか》だった。まだ完全にじゃないけど、身につけているものはたった一枚だけだった。美沙子さんのほうも同じようなもんだった。なにをしてるんだろう、僕は……ここはどこなんだ……。
僕の表情で終わりを悟《さと》ったのか、あーあとまた残念《ざんねん》そうに言いながら、美沙子さんがベッドから下りた。そこら辺に落ちていた下着やら服やらを手早く身につけると、まだどんどん叩《たた》かれている玄関《げんかん》に向かう。僕と違《ちが》って、美沙子さんはずっと醒めてたんだと悟った。夢中《むちゅう》になっていたのは僕だけだったんだ。
そして今の僕は、なにもできず、考えられず、ベッドに座《すわ》ったままだった。
「裕一《ゆういち》、いるだろ?」
ドアが開いたらしく、はっきりとした声が聞こえてきた。
そのあと、ドスンドスンという物凄《ものすご》い足音。近づいてくる。もうすぐそこだ。でも見られない。動けない。亜希子《あきこ》さんが来る。怒《いか》り狂《くる》ってる。
いきなり張《は》り飛《と》ばされた。
もっとも張り飛ばされたとわかったのは一瞬《いっしゅん》後《のち》で、最初は物凄い衝撃《しょうげき》がこめかみのあたりに来て、そのまま壁《かべ》に叩《たた》きつけられ、身体が回転し、それで平手《ひらて》を打ち終わったあとの亜希子さんの姿《すがた》が目に入ってきたのだった。その返す手で、また張り飛ばされた。生まれて初めての往復《おうふく》ビンタ。そして蹴《け》られた。髪《かみ》を引《ひ》っ張《ぱ》られた。
「この! クソガキ!」
ベッドから引きずり落とされ、肩《かた》と顔を思いっきり打った。目の奥底《おくそこ》が真っ白になって、キーンと頭の中心で衝撃《しょうげき》が響《ひび》いた。さらに一回だけ肩を蹴られたが、それで腹の虫がおさまったのか、亜希子さんがこいつ車につれてけと誰《だれ》かに命じた。
その誰かの手が僕の肩を掴《つか》んだ。
「戎崎《えざき》、帰るぞ」
え? なんで夏目がいるんだ?
「ほら、立てよ」
立ちあがると、すべての光景《こうけい》が目に入ってきた。
狭《せま》いワンルームに、僕と美沙子《みさこ》さんと亜希子さんと夏目がいた。ひどく惨《みじ》めで情《なさ》けない光景だった。亜希子さんは怒り狂い、夏目は無表情で、そして美沙子さんはあははと笑っていた。亜希子さんが美沙子さんを殴《なぐ》った。それでも美沙子さんは笑っていた。美沙子さんの泣《な》き声《ごえ》みたいな笑い声を聞きながら、僕はシャツをかぶり、ズボンをはいた。夏目に腕《うで》を掴まれ部屋《へや》を出た。背後《はいご》で誰かが誰かを罵《ののし》る声が聞こえた。このバカ女、ガキで遊ぶなっ――。
外階段を下りると、すぐ前の路上に亜希子さんの車がとまっていた。
「後ろに乗れ」
夏目に命じられるまま、後部《こうぶ》座席《ざせき》に乗りこむ。車の中は暖《あたた》かかった。薄暗《うすぐら》い、狭《せま》い場所の中で、僕はなにが起きたのかをはっきりと悟《さと》った。いや思い知らされた。ヒッ、声が漏《も》れた。頭を抱《かか》えて呻《うめ》いた。僕は下らない男だ。クズだ。里香《りか》が苦しんでいる今、こんなことをしてるなんて。もし亜希子さんたちが来なかったら、僕は最後まで続けていただろう。間違《まちが》いない。僕は里香を裏切《うらぎ》ろうとしたんだ。いや裏切ったんだ。世界よりも自分よりも大事だと思いながら、
しかしあっさりと欲望に負けてしまったんだ。里香《りか》。銀河《ぎんが》鉄道《てつどう》の夜。日溜《ひだ》まりの中。すべての幸《さいわい》を感じた瞬間《しゅんかん》。人差し指を摘《つま》んだ手。幼《おさな》い子供のような瞳《ひとみ》。そのすべてが今は遠い。
僕は最低だ。クズだ。亜希子《あきこ》さんに殴《なぐ》られて当然だ。ヒッヒッ、という声が喉《のど》から漏《も》れつづける。もう抑《おさ》えられなかった。闇《やみ》の中、溢《あふ》れてくる涙《なみだ》を袖《そで》でごしごし拭《ふ》くことしかできなかった。ごめん、里香。呟《つぶや》いた瞬間《しゅんかん》、胸《むね》がカッと熱《あつ》くなった。ごめん――恐《おそ》ろしく偽善《ぎぜん》的な言葉。自分自身を許すためだけの謝罪《しゃざい》。この期《ご》に及《およ》んでも、僕は僕を救《すく》おうとしている……いったいどこまで落ちればいいんだろう……どこまで落ちれば底《そこ》があるんだろう……。
7
喋《しゃべ》んなよ、クソガキ。帰りの車内で、亜希子さんにそう言われた。絶対《ぜったい》里香には悟《さと》られんじゃないよ。僕は無言《むごん》のまま肯《うなず》いた。
「いるんだ、けっこう」
亜希子さんの声は静かに怒《いか》り狂《くる》っていた。
「自分に言いわけしたくてさ、なにもかも喋っちゃうヤツ。女にとっちゃ迷惑《めいわく》だっつーの。騙《だま》すんなら、最後まできっちり騙しきりな」
「…………」
「返事!」
「は、はい」
「里香《りか》にバレたら、マジであんた殺すよ」
「はい」
里香にもきっと、殺される。
「はい」
僕は何度も何度も肯《うなず》いた。
ほんとは殺されたかった。
そのほうがマシだった。
けれど世の中は実に強固《きょうこ》なもので、あんなことがあった翌日《よくじつ》も当たり前のように太陽がのぼり、当たり前のように朝がやってきた。いつもどおりの風景《ふうけい》。五時前にはすっかり起きてるおじいちゃんおばあちゃんの雑談《ざつだん》、まったくおいしくない食事、検温《けんおん》、診察《しんさつ》、点滴《てんてき》――。なにもかもが寸分《すんぶん》の狂《くる》いもなく同じだった。美沙子《みさこ》さんのぬくもりも、十個の花も、湿《しめ》った吐息《といき》も、この世界を変えはしなかった。
現実とは、こういうものだ。
つまらなくて。
当たり前で。
変わらなくて。
ただただ退屈《たいくつ》に強固に繰《く》り返《かえ》される。
朝の光をぼんやり見つめながら、僕はそんな世界を手の中に取《と》り戻《もど》そうと足掻《あが》いた。里香といっしょにいたときの気持ちを思いだそうとした。なにもかもうまくいくって思えたんだ。どこまでもどこまでも歩いていけるって。里香といっしょならできるって感じたんだ。
でも今は無理《むり》だった――。
すべては僕の手から滑《すべ》り落《お》ちてしまっていた。自らのバカな行いで、愚《おろ》かな迷走《めいそう》で、それは失われてしまったのだった。床《ゆか》を這《は》いずりまわって掻《か》き集《あつ》めても、かつて持っていたものの百分の一も拾いあげることはできなかった。
僕はシーツに顔を埋《う》め、呻《うめ》いた。
なあ、誰《だれ》か助けてくれよ。
誰でもいいよ。
夏目《なつめ》でも、亜希子《あきこ》さんでも、神様でも、なんでもいいよ。
なあ、どうしてこんなことになるんだよ。
ふらふらと、僕は病室を出た。もうすっかり馴染《なじ》んでしまった病院の風景の中を、まるで幽霊《ゆうれい》のように進んでいく。ふと気づくと、僕は東|病棟《びょうとう》に向かっていた。無意識《むいしき》のうちに里香《りか》の病室に行こうとしていた。目の端《はし》が熱《あつ》くなり、同時に僕はきびすを返した。僕には里香に会う資格《しかく》も権利もなかった。それでどうしていいかわからず、ただぐるぐると歩きまわり、やがて屋上《おくじょう》にたどりついていた。
屋上には、なぜか夏目《なつめ》がいた。
「おう、戎崎《えざき》」
僕の顔を見ると、実に嫌《いや》そうに顔をしかめた。
「どうした」
「いや、別に……散歩《さんぽ》です……」
「そうか」
夏目は錆《さ》びた手すりにもたれかかり、なにか変なことをやっていた。目の粗《あら》い生地《きじ》に、細い糸で刺繍《ししゅう》をしているのだ。なんだか変な道具を使っていた。小さな釣《つ》り針《ばり》みたいなものを、ふたつのピンセットで器用に操《あやつ》っている。
「まあ、座《すわ》れよ」
「はい」
言われるまま、隣《となり》に腰《こし》かける。
「昨日は大変《たいへん》だったな」
「…………」
「おまえがなにをどうしようが知ったこっちゃねえけどな、谷崎《たにざき》の言ったことだけは守れ。里香には悟《さと》られるな。絶対《ぜったい》身体に影響《えいきょう》が出る。なにがあっても誤魔化《ごまか》せ。それがおまえの責務《せきむ》だ」
責務。
滅多《めった》に聞かない言葉だけれど、だからこそ伝《つた》わってくるものがあった。
僕は肯《うなず》いた。
「わかってます」
情《なさ》けない辛《つら》い苦しい。
「ウソつけ」
睨《にら》まれた。
「わかってねえくせに」
そのとおりだ。
「でもまあ、おまえなんて虫みたいなもんだからな、虫の小さな頭でせいぜい考えろ」
まったく反論できないのが悔《くや》しい。それにしても、夏目はなにをやってるんだろう。喋ってるあいだも、ずっと手を動かしつづけている。よほど慣《な》れているのか、見事《みごと》なものだった。まるで機械のように正確なリズムで針が出てきたり引っこんだりする。そしてそのあとに、きれいな青いラインができあがっていた。
「なにやってんすか」
「訓練《くんれん》だ」
「訓練?」
「刺繍《ししゅう》じゃねえぞ。手術のだよ。こうやって指が動くようにしておかないと、すぐに錆《さ》びついちまうんだ」
針は、手術用の針だった。
糸は、手術用の糸だった。
僕はようやく気づいた。近づきつつある里香《りか》の手術のために、こうして訓練をしてるんだ。里香を助けるためなんだ。
夏目《なつめ》がチラリと、一瞬《いっしゅん》だけ僕の顔を見た。
「里香な、手術を受けるんだと」
「…………」
「この前の発作《ほっさ》がきつかったから、延期《えんき》も検討《けんとう》したんだ。身体が負担《ふたん》に耐《た》えられるかどうかわからなくなっちまったからさ。ただ延期したらしたで、今度はもっと大きな発作のリスクがある。手術を強行《きょうこう》するのがいいのか延期するのがいいのか、オレたち専門家でも判断《はんだん》できないくらい微妙《びみょう》なんだ」
「…………」
「だから里香のお母さんに預《あず》けたんだよ。どうするか決めてくれってな。そうしたらお母さん、里香に聞くんだ。あんたはどうしたいって。里香、やるって言ったよ。生きたいから、やるって」
「…………」
「長いつきあいなんだ。あいつが小学校のころから知ってんだ。昔からああいう性格《せいかく》で、強がりで、本音《ほんね》はまったく言わなくて。ほんと子供のころから強情《ごうじょう》な子だったよ。オレもずいぶん泣かされたもんだ」
「…………」
「初めて聞いたよ。あの子が生きたいなんて言ったの」
初めて聞いた。夏目は繰《く》り返《かえ》した。
そしてまた、一瞬《いっしゅん》だけ僕の顔を見た。
夏目が視線《しせん》を外《はず》すと同時に、僕はうつむいた。生きたい、里香はそう言ったんだ。人が生きたいと思うのは当たり前のことだけれど、それを里香が口にしたという事実は、僕の胸《むね》を否応《いやおう》なしに締《し》めつけた。あの瞳《ひとみ》が、あの唇《くちびる》が、あの声が、言ったんだ。生きたいと。
僕はまだ機械のように動きつづけている夏目の手を見た。こいつだけが里香を救《すく》える。その手だけが里香の心臓を蘇《よみがえ》らせることができる。僕は夏目が大嫌《だいきら》いだった。理屈《りくつ》とかじゃなくて、とにかく顔を見るだけで腹が立ってくる。けれど今、僕はその大嫌《だいきら》いなヤツの前に這《は》い蹲《つくば》りたかった。そして懇願《こんがん》したかった。
里香《りか》を助けてくださいお願いします里香の命を救《すく》ってくださいお願いしますお願いしますお願いします……。
声が嗄《か》れるまでそう叫《さけ》びたかった。
もちろん、できなかった。
ただ膝《ひざ》を抱《かか》え、うつむいたままだった。
なぜできないのかよくわからなかった。夏目《なつめ》に対するライバル心ゆえかもしれないし、そういうみっともないことをする覚悟《かくご》が足りないのかもしれないし、ただとにかく意気地《いくじ》がないだけなのかもしれない。
お、と言って、夏目が手を伸ばしてきた。
「いいカメラじゃないか」
始終《しじゅう》持ち歩くことが習慣《しゅうかん》になっていたので、ほとんど無意識《むいしき》のうちにカメラを持ってきてしまっていた。
「へえ、ニコンか」
「はい」
「うん? なんだこれ?」
夏目が顔をしかめる。
「フィルムが巻《ま》けねえぞ?」
「そんなことないですよ。ちょっと貸してください。あれ――」
確かに巻けなかった。
途中《とちゅう》までレバーが動くのだけれど、あともう少しで巻ききれるというところで、ガチリとなにかに引っかかる。
「おかしいな。どうしたんだろ」
ムチャクチャ焦《あせ》った。
僕の手元を覗《のぞ》きこんでいた夏目が、
「おまえ、ちゃんとフィルム入れたか?」
と尋《たず》ねてきた。
「入れましたよ」
「ウソつけ。いい加減《かげん》にやっただろ。フィルムの最初の巻きこみが足らないと、こんなふうに途中でフィルムが噛《か》んじまうんだよ」
覚《おぼ》えがあった。うっさいんだよ、このクソ親父《おやじ》。自分の言葉が蘇《よみがえ》ってくる。指図《さしず》されるのが嫌《いや》で、さっさと蓋《ふた》を閉じた。ギザギザのヤツを二回くらいしかまわさなかった。フィルムが心棒《しんぼう》に巻きつきかかったところで蓋を閉め、そして――。うっさいんだよ、このクソ親父。
やってしまった。
里香《りか》の写真が収《おさ》まったフィルム。イーだの顔。拗《す》ねた顔。照《て》れた顔。校門の前で撮《と》った初登校の記念写真。いっしょの正座《せいざ》。看護婦《かんごふ》さんのVサインに囲《かこ》まれながら、ひとり不機嫌《ふきげん》だった里香の顔。そのあと恥《は》ずかしいなあとブツブツ言っていた。
やってしまった。
もうフィルムは巻《ま》けない。写真は撮れない。里香の期待《きたい》に応《こた》えられない。どうしていつもこうなんだ。失敗ばっかなんだ。自分のバカさ加減《かげん》に頭が熱《あつ》くなる。目の端《はし》が熱くなる。夏目《なつめ》が顔を覗《のぞ》きこんできたが、まるで反応《はんのう》できない。夏目がなにか言いかける。やめてくれ、なにも言わないでくれ。慰《なぐさ》めの言葉もバカにする言葉も、どちらも耐《た》えられない……。
そして救《すく》われた。
「裕一《ゆういち》くーん!」
風に乗って、そんな声が聞こえてきたのだ。
どうにか顔を上げると、屋上《おくじょう》の鉄扉《てっぴ》を必死《ひっし》になって押《お》さえている看護婦さんの姿《すがた》が目に入ってきた。
ひょいひょい、と手招《てまね》きされる。
「お客さんよお!」
8
お客さんという言い方に違和感《いわかん》を覚えた。みゆきの顔を見た瞬間《しゅんかん》。そんなたいそうな相手じゃない。ただの幼《おさな》なじみ。近所の友達。
「なんだよ」
ぼんやりしたまま、そう言った。
一階のロビー。周囲《しゅうい》には外来|患者《かんじゃ》が溢《あふ》れていた。なにしろ病院はひたすら待ち時間が長く、誰《だれ》も彼もが不機嫌《ふきげん》に押《お》し黙《だま》っている。看護婦を捕《つか》まえたら文句《もんく》を言ってやろうと待ちかまえている。そんな殺気《さっき》に満ちたロビーの隅《すみ》で、僕はみゆきと向かいあっていた。
みゆきはあたりを落ち着かない様子《ようす》で見まわした。
「うるさいね、ここ」
「そうだな」
言いつつも、意識《いしき》はカメラにのみ向かっている。どうすればいいんだろう。直せるんだろうか。バカ野郎《やろう》。バカ裕一。死ね。おまえみたいなマヌケはくたばれ。そんなことしか頭に浮《う》かばない。そしてカメラを見つめつづけるばかり。対処法《たいしょほう》はさっぱりわからなかった。せめてフィルムだけでも取りだせないだろうか。現像《げんぞう》できないだろうか。
「裕《ゆう》ちゃん」
「…………」
「裕ちゃん」
「…………」
「裕ちゃん!」
怖《こわ》い声で我に返る。目に入ってきたのはちょうどすれ違《ちが》った老人で、なにがおかしいのか僕とみゆきをニヤニヤ笑いながら見つめ、そして去っていった。痴話《ちわ》ゲンカでもしてると思ったのかもしれない。
「大丈夫《だいじょうぶ》?」
尋《たず》ねられた。けれど、なんでそういうことを尋ねられるのか、さっぱりわからない。自分はただの肝炎《かんえん》だ。放《ほう》っておいても治《なお》る病気にすぎない。とりあえず必要《ひつよう》なのは静養《せいよう》。そしてしっかりした栄養|補給《ほきゅう》。食べて寝《ね》て。また食べて寝て。それだけで治ってしまう。命の危険《きけん》なんてまったくない。風邪《かぜ》に毛が生《は》えた程度《ていど》。盲腸《もうちょう》以下の病気。大丈夫に決まってるじゃないか。
「うん」
だから肯《うなず》く。
みゆきはしかし、憐《あわ》れむような目で、こちらの顔を覗《のぞ》きこんできた。
「裕ちゃん、変な顔してる」
惨《みじ》めだからだ。
でも、惨めな思いなんて、いくらでもしたことがある。それこそ数限りない。まともに思いだしたら顔が三日三晩真っ赤になるだろう。
そう、珍《めずら》しくもなんともないんだ。
あれはもう、十年以上前だった。はっきりとは覚《おぼ》えてないけれど、自動販売機の一番上のボタンが押《お》せないくらい背《せ》が低かったころだ。その自動販売機は寿司屋《すしや》の前にあって、なんでそんなところにいたかといえば、酔《よ》っぱらった父親を迎《むか》えにいったのだった。
父親は茹《ゆ》でダコみたいに真っ赤で、上機嫌《じょうきげん》だった。
「裕一、なんか飲むかあ?」
ろれつのまわらない口で、そう言った。
もちろん肯いた。
夏で。
暑くて。
喉《のど》が渇《かわ》いていた。
「よーし、オレのおごりだ」
父親はそう言うと、ふらふらしながら、ポケットから百円玉と十円玉を取りだした。そうか、あのころ消費税《しょうひぜい》は三パーセントだったんだ。缶《かん》ジュースは百十円だった。ちゃりん。十円玉をスロットに入れた。ちゃりん。百円玉を地面に落とした。それはころころ地面を転《ころ》がり、円を描《えが》きつつ、自動販売機の下へ向かった。慌《あわ》ててしゃがんで押《お》さえつけてどうにか暗闇《くらやみ》への侵入《しんにゅう》を防《ふせ》いだ。酔《よ》っぱらってお金を入れられない父親が滑稽《こっけい》に思えた。
「コーラがいい」
そう言いながら、百円玉を自分で入れた。一番上のボタンに手が届《とど》かなかったので、父親が押してくれた。コーラの隣《となり》はファンタのオレンジで、そのころファンタはダサいことになっていたので、そちらを父親が押すんじゃないかとドキドキしたが、ちゃんとコーラのボタンを押してくれた。ガタン。コーラの缶が受け取り口に落ちた。ピピピピピと電子音が鳴《な》りだした。それで気づいた。当たりつきの自動販売機だったんだ。見ると自動販売機のド真ん中に野球場の絵があり、そのマウンドからホームベースに赤い光が走っていた。バッターボックスにボタンがひとつ。どうやら光がボールで、ボタンがバットを振ることを意味するらしい。
「ボタンボタン!」
飛《と》び跳《は》ねて叫《さけ》んだ。光はゆっくりとホームベースに向かっている。だいたい一秒で一センチ。マウンドからホームベースまでは五センチなので、およそ五秒の勝負。大丈夫《だいじょうぶ》、こんなゆっくりのボールなんて簡単《かんたん》に当てられる。
「そういう仕組《しく》みか!」
中日ドラゴンズファンだった父親もすぐそのゲームの意味を悟《さと》ったらしく、ボタンに人差し指を置いた。赤い光が迫《せま》ってくる。実に遅《おそ》いボールだ。楽勝だ。ホームランになったら、きっともう一本|貰《もら》える。
よし! 今だ!
けれどボールはキャッチャーミットに吸いこまれ、父親はそれと同時にボタンを押した。完全にタイミングが外《はず》れていた。あんな遅いボールを打てなかった。酔っぱらっていたから。立っているのさえ危《あぶ》なっかしいくらいふらふらだから。
「ああ? おっかしいぞ?」
壊《こわ》れてんじゃねえのか。ボロい機械置きやがって。父親が不満の声を漏《も》らす。それにビビったわけではないのだろうが、ふたたびマウンドから赤い光が飛びだし、ホームベースに向かって動きだした。見れば野球場の上に『ストライク』という文字があり、それに沿《そ》ってランプが三つ並《なら》んでいた。そのひとつに赤い光が灯《とも》っている。なるほど。三回勝負だ。まだあと二回、チャンスがある。よーしまかしとけ、と言いながら父親が光を睨《にら》んだ。バカみたいに顔を近づけている。酒|臭《くさ》い。ふらついた。また睨んだ。光が近づいてくる。振った。早かった。少ししてからキャッチャーミットに収《おさ》まった。そして最後の三球目。これも見事《みごと》にしくじった。キャッチャーミットに収まってからボタンを押したのだ。ピー。夜空に虚《むな》しく電子音が響《ひび》いた。残念《ざんねん》でした。ピー。ピー。ピー。
僕はそばで立ちつくしていた。あんな遅《おそ》い光さえ捉《とら》えられない父親のことが哀《かな》しかった。そんな男の息子であることが哀しかった。父親があはは難《むずか》しいなあと酒|臭《くさ》い息《いき》で照《て》れたように言うのも哀しかった。
帰り道、コーラを飲みながら歩いた。
胸《むね》が苦しくて飲みきれなかった……。
そう、あのころはひとりでコーラを全部飲めなかったんだ。
なにも言えないでいると、
「これ――」
みゆきが紙袋《かみぶくろ》を差しだしてきた。
三交《さんこう》百貨店の紙袋だった。
なんにも考えず、ぼんやりしたまま受け取る。父親といっしょに夜道を歩いたときの胸《むね》の熱《あつ》さを、夜の甘《あま》い匂《にお》いを、どこかに感じながら。
袋は軽かった。
「あの子にあげて」
「え?」
「あの子よ」
里香《りか》のことだろう。それでようやく現実に戻《もど》り、袋の中を覗《のぞ》きこんだ。紺《こん》と白が目に入ってきた。
「制服だから」
みゆきがそう言った。
「あげて」
「いいのか?」
「どうせお姉ちゃんのお古《ふる》だから。予備《よび》で持ってたけど、ほとんど使わないし。あの子のサイズにぴったりだったしね」
「でも、なんでだよ?」
そういう約束《やくそく》でもしたんだろうか。学校に行ったとき、三十分くらい里香とみゆきとは離《はな》ればなれになっていた。そのあいだに、ふたりのあいだでどういうやりとりがあったんだろう。里香のことだから、簡単《かんたん》に仲良くなるなんてことはないはずだ。むしろみゆきを怒《おこ》らせてしまった可能性《かのうせい》のほうが高い。なのに、なぜ?
「里香が欲しいって言ったのか?」
「ううん」
「じゃあ、なんで?」
みゆきは答えず、顔を伏《ふ》せた。そのとき彼女が見せた表情で悟《さと》った。知ってるんだ、みゆきは。里香《りか》の命が長くないって。里香に聞いたのかもしれないし、他の誰《だれ》かに教えて[#「て」は底本では「てて」]もらったのかもしれない。ただなんとなく悟ったのかもしれない。なにかみゆきに言うべきだとは思ったけれど、なにを言いたいのかよくわからなかった。
僕たちは無言《むごん》のまま、里香の命という現実をあいだに挟《はさ》み、ただ立ちつくしていた。僕と同様に、みゆきもまた無力《むりょく》だった。
9
一分だけだよ、同じことを亜希子《あきこ》さんは言った。毎日毎日|繰《く》り返《かえ》した。でもどうやら主治医《しゅじい》の夏目《なつめ》も知っているらしく、一度病室に入ろうとしたところを通りかかったが、急に用事があるようなフリをして去っていった。わざとらしい……。
その一分だけの面会《めんかい》で、里香に制服を渡《わた》した。
「え? いいの?」
ベッドの中、里香は目を丸くした。
もちろん僕は笑った。
思いっきり笑いながら、
「当たり前だろ」
と言った。
「元々お姉さんので、使ってないんだってさ」
「でも……」
「貰《もら》っておけよ。返すのも悪いしさ。それとも、いらないのか?」
大きなベッドの中に埋《う》もれた里香は、前よりもさらに小さく見えた。まるで五歳とか六歳の子供みたいだった。僕には里香がどんどん幼《おさな》くなっているように思えた。毎日のように訪《おとず》れる痛《いた》みが、苦《くる》しみが、里香のなにかを削《けず》っているのかもしれない。そんな里香の幼すぎる微笑《ほほえ》みを見るたびに、僕は泣《な》きそうになった。だからこそ僕は笑った。つまらない冗談《じょうだん》を連発した。里香は「裕一《ゆういち》のバカ」とか「もう、つまんない」とか顔をしかめた。でも僕はもっとひどいことを言ってほしかった。あの強気《つよき》な里香が戻《もど》ってきてほしかった。
布団《ふとん》に鼻《はな》のあたりまで埋め、上目遣《うわめづか》いで僕を見ながら、
「欲しいけど……」
と小さな声で里香は言った。
紙袋をベッドに置き、中から制服を取りだす。ちゃんと夏服と冬服の両方が入っていた。僕は白い夏服を肩《かた》の高さで広げ、里香に見せた。
「こっちは着てないんだよな」
「うん」
「元気になったら、着てみろよ」
「…………」
「なんだよ、なに変な顔してんだよ」
「……エッチ」
「はあ?」
「なんかそういう顔してるんだもん」
「ちーがーうって! んなわけないじゃん!」
いや、まあ、ちょっとは想像《そうぞう》したけどさ。袖《そで》から伸びる細い腕《うで》とか、スカートから覗《のぞ》く足とか、風に揺《ゆ》れるスカートとか。だけど、そんな不健全《ふけんぜん》な妄想《もうそう》じゃなかった……と思う。
「ふーん」
もちろん里香《りか》はまったく信じていないらしく、ひどく細い目で僕を見ていた。そんな彼女の様子《ようす》に、僕は少し嬉《うれ》しくなった。以前の里香みたいだったからだ。優しい里香も悪くはない。最高だ、もちろん。でもさ、今は怒《おこ》っててほしいんだ。でないと、本当に終わりが来そうで嫌《いや》なんだ。
「裕一《ゆういち》、写真はどうなったの?」
「あ、えーと、それは……」
「もう現像《げんぞう》したの?」
できるわけがない。まだフィルムは絡《から》まったままだった。どうしていいのかわからなくて、とりあえずそのままにしてある。
「ま、まだだけどさ。うん。そろそろ現像に出そうかと思ってるよ。できたら見せるよ。ちょっと時間がかかるかもしれないけど――」
「あとでいいよ」
「え?」
「手術のあとで見る」
輪郭《りんかく》がはっきりとした声。
僕は肯《うなず》いた。
「わかった」
午後のうすぼけた光が病室に射《さ》しこんでいた。こうして見ると、世界には春が訪《おとず》れているように思えた。雲の形が曖昧《あいまい》で、もう冬のそれじゃなくなっていた。あと少しで本当に春が来る。季節は確かに進んでゆく。僕たちがどれほど足掻《あが》こうが、喚《わめ》こうが、世界にはなんの影響《えいきょう》も与《あた》えられない。
「手術、もうすぐだな」
「うん」
「成功するといいな」
「うん」
「元気になったら、どっか行こうな」
「うん」
里香《りか》は笑っていた。
幸せそうに笑っていた。
僕は里香に気持ちを伝《つた》えたかった。好きだと言いたかった。チャンスはもう、あまりない。手術がすぐそばまで迫《せま》っている。今はこうして亜希子《あきこ》さんの好意《こうい》で会わせてもらっているけど、いつこの面会《めんかい》が中止されるかわからなかった。そもそも家族でもなんでもない僕には、里香に面会する権利なんてないからだ。
でも、言えなかった。
言ったら、本当に里香を失ってしまう気がした。
もし僕たちに未来があるのならば、気持ちを伝えるチャンスなんていくらでも来るだろ。ここで言ってしまうのは、その可能性《かのうせい》を自ら否定《ひてい》してしまうってことだろ。そんなふうに諦《あきら》めてどうすんだよ。まだまだこれからなんだぜ。始まってもいないんだぜ。なあ、そうだろ。里香。これからだよな?
どうしていいかわからなくて、僕も笑った。
すぐ目の前に鏡《かがみ》があればいいのに。
切実《せつじつ》にそう思った。
自分が本当に笑えてるかどうか確認したかった。
やがてドアの向こうからゴホンゴホンとわざとらしい咳払《せきばら》いが聞こえた。とまっていた一分間が動きだしたのだ。
僕は手を伸ばした。
「またな、里香」
里香がその手を、人差し指を、そっと握《にぎ》る。
「うん」
なあ、里香。
どうしてそんなに笑えるんだよ?
「あ、裕一《ゆういち》」
ドアノブに手をかけたところで、声がした。
そのまま振り向く。
「なんだよ」
「本、読んでいいよ」
里香《りか》はなぜか布団《ふとん》に顔を半分|埋《う》めていた。
「でもゆっくり読んでね」
10
一日二日三日……当たり前のように時はどこかに呑《の》みこまれてゆき、やがて里香の手術の日が訪《おとず》れた。手術は昼過ぎからだと亜希子《あきこ》さんが教えてくれた。大変《たいへん》な手術になるから、終わるのは夜だろうとも告《つ》げられた。その数日前から、病院内で何人か見知らぬ医者を見かけるようになった。里香の手術を手伝うために、大学病院からやってきたのだそうだ。
「夏目《なつめ》はさ、腕《うで》がいいから」
点滴《てんてき》のスピードを調節《ちょうせつ》しながら、亜希子さんが言った。
「連中《れんちゅう》、夏目の手術を見学しにわざわざ来たんだよ」
点滴のスピード調節を終えても、亜希子さんは立ち去らなかった。僕は不思議《ふしぎ》に思い、亜希子さんの視線《しせん》の先を追った。窓の外だ。そこにはなんでもない風景《ふうけい》が広がっていた。スレート拭《ぶ》きの倉庫、車が何台もとまっている駐車場、いつ潰《つぶ》れてもおかしくないような和菓子屋《わがしや》、少し芽《め》が膨《ふく》らんできた枯《か》れ木《き》、見慣《みな》れた田舎町《いなかまち》の風景だった。けれど亜希子さんが見ているのはそんなものじゃなかった。そして僕の目にも違《ちが》うものが映《うつ》っていた。
「いよいよだね」
「はい」
肯《うなず》き、尋《たず》ねる。
「今、里香はなにしてるんですか」
「そろそろ手術室に入るころじゃないかな」
点滴が終わると、僕は『チボー家の人々』とカメラを持って、すぐに手術室へ向かった。もちろん中には入れないが、少しでもそばにいたかったのだ。大きな病院だと家族用の待合室などがあるらしいが、なにしろこここは地方の小さな病院なのでそんなものはなく、無機質《むきしつ》な廊下《ろうか》に古くさい長椅子《ながいす》が置いてあるだけだった。その長椅子に里香の母親がひとりでぽつんと座《すわ》っていた。目元が少し里香に似《に》ている。僕がぺこりと頭を下げると、おばさんもぺこりと頭を下げた。少し迷《まよ》った末、僕は彼女の一メートルくらい横に腰《こし》かけた。僕たちは天気のことや病院の食事のことを少し話したけれど、すぐに黙《だま》りこんでしまった。言葉は今、あまりにも無意味《むいみ》だった。そうしてふたりとも黙りこんでしまうと、空間は完全な沈黙《ちんもく》に包《つつ》まれた。おばさんが僕のことをあまりよく思っていないのは知っていた。会えば普通《ふつう》に挨拶《あいさつ》をするし、さっきみたいに世間話《せけんばなし》も交《か》わすけれど、おばさんの目はいつも笑っていなかった。砲台山《ほうだいやま》事件や、ちょっと前の駆《か》け落《お》ち騒動《そうどう》のせいで、おばさんは僕のことを『よけいなことをするヤツ』として認識《にんしき》してしまったのだった。そして実際《じっさい》、僕は『よけいなことをするヤツ』なのかもしれなかった。僕がそばにいるのをおばさんが嫌《いや》がってるのがわかったので、僕は立ちあがるとまたぺこりと頭を下げ、手術室があるのとは逆方向《ぎゃくほうこう》へ歩きだした。もちろん遠くに行くつもりはなかった。おばさんから見えない位置《いち》、廊下《ろうか》の曲《ま》がり角《かど》に移動《いどう》しただけだ。そこのリノリウムの床《ゆか》に腰《こし》を下ろした。さすが冬だけあって物凄《ものすご》く寒かった。それで僕は一度|部屋《へや》に戻《もど》り、コートを持ってきた。やたらと重いダッフルコートを身にまとい、さっきと同じ場所に座《すわ》りこむ。ここならなにかあったらすぐにわかるはずだ。おばさんに誰《だれ》かが話しかければ、その声も聞こえるだろう。床に座りこんだまま、僕は空間を見つめた。今、里香《りか》はまだ生きている。この世界はただそれだけで意味のある場所だった。けれど手術が失敗し、里香がいなくなってしまったら、その輝《かがや》きはすべて失われてしまうだろう。世界が滅《ほろ》ぶ。確かに滅び消え去る。
そうして数時間が過ぎた。手術はまだ終わらなかった。やがて食事の時間が近づき、騒《さわ》がしい声があちこちから聞こえてくるようになった。僕の食事ももちろん準備《じゅんび》されただろう。けれど僕は同じ場所に腰かけていた。さらに一時間が過ぎ、騒がしい声はすっかり収《おさ》まってしまい、その前よりも深い沈黙《ちんもく》が空間を覆《おお》いつくした。日はとっくの前に落ち、蛍光灯《けいこうとう》の白っぽい明かりがすべてのものから色を奪《うば》ってしまっていた。それにしても長い手術だった。始まってから、すでに五時間はたつだろう。長くかかるだろうと亜希子《あきこ》さんは言った。大変な手術だからと。しかしこんなにも長いんだろうか。なにかハプニングがあったんだろうか。不安が胸《むね》を埋《う》めつくした。ちょうどそのとき、亜希子さんがやってきた。
「あんた、そこにいたの」
僕を見下ろし、そう言う。
「食事、片づけちゃったよ」
「亜希子さん! こんなにかかるんですか!?」
僕は早口で尋《たず》ねた。
うん、と亜希子さんが肯《うなず》く。
「まだかかるよ」
そうか。じゃあ、なにか大変なことが起きたわけじゃないんだ。安心したが、しかし次の瞬間《しゅんかん》その意味するところに打ちのめされた。こんなにもかかる手術をして大丈夫《だいじょうぶ》なのか。発作《ほっさ》で体力の落ちた里香が、この長時間を戦いきることができるんだろうか。やめさせればよかったと思った。それで長く生きられなくともいいじゃないか。残された時は一年か二年しかないかもしれないけど、たった今失うよりはマシじゃないか。なぜあやふやな希望にすがったりしたんだろう。
亜希子さんの前だというのに、僕はあからさまにうろたえた。立ちあがりかけ、しかし膝《ひざ》から力が抜け、そのままへたりこんだ。壁《かべ》で頭を打ち、ゴツンという音がした。でも全然|痛《いた》くなかった。鈍《にぶ》く痺《しび》れる頭に、なぜか白いセーラー服を着た里香《りか》の姿《すがた》が一瞬《いっしゅん》だけ思《おも》い浮《う》かんだ。それは想像《そうぞう》とは思えないほどくっきりしていて、白い背中《せなか》で揺《ゆ》れる髪《かみ》や、セーラー服のカラーに入った二本の赤いラインや、そこから伸びる細い首筋《くびすじ》や、そういうなにもかもがあまりにも鮮《あざ》やかに感じられた。里香があのセーラー服を着ることはもうないかもしれない。それから僕は父親が遺《のこ》していったカメラのことを思いだした。フィルムが絡《から》まってしまった[#「た」は底本では無し]ことがひどく不吉《ふきつ》に思えた。そしてそのことで里香にウソをついたことを悔《く》やんだ。里香は僕のウソを信じたまま死んでしまうかもしれないのだ。
亜希子《あきこ》さんは僕の前にぺたりと座《すわ》りこんだ。ポケットを探《さぐ》ると、煙草《たばこ》を取りだした。まずいだろうとは思ったがそれを口にする気にはなれなかった。そんな余裕《よゆう》はなかった。亜希子さんは煙草に火をつけた。
「ごめんね。悪かったよ」
紫煙《しえん》を揺《ゆ》らしながら、亜希子さんがそう言った。
謝《あやま》られる理由がさっぱりわからなかった。
「なんのことですか?」
「写真さ、一枚|貰《もら》ったんだ」
「え? 写真?」
「あんたの家に行っただろ。そのとき、一枚だけ失敬《しっけい》したんだよね。あんたが飲み物取りにい
ってるあいだにさ」
ああ、そういえばそんなこともあった。部屋《へや》に戻《もど》るまでしばらくかかったから、写真を抜《ぬ》き取《と》る時間は十分あっただろう。それにしても、どうして亜希子《あきこ》さんは写真を持っていったんだ。あんなもの、他人には――いや、僕にも――なんの意味もない。
「あんた、里香《りか》の小さいころの写真見たい?」
「見たいです」
僕は即答《そくとう》した。
「そうだろ。そういうもんだよね。里香だって、同じだからさ」
「は?」
「あの写真、里香にあげたくてさ」
「…………」
「それでね、悪いとは思ったんだけど。あんた、笑ってただろ。お父さんの足にへばりついてさ。思いっきり笑ってただろ。ああ、これを里香にあげたら喜ぶだろうと思ったら、手が勝手に動いちまってさ」
「…………」
「里香ねえ、喜んでたよ。ずーっと、写真見てニコニコ笑ってんの。あの子があんなに嬉《うれ》しそうな顔するの、初めて見たかもしれない。いつまでも見てるからさ、ほら、からかってやるつもりで、顔赤くなってるよとか言ってやったんだよ。いや実際《じっさい》赤くなってたんだけどさ。そしたら、うんって肯《うなず》きやがってさ。そこ恥《は》ずかしがる場面だろって突っこみたかったけど、突っこめなかった。だってほんと幸せそうだったんだもん。うんって肯きながら、写真を見つづけてた。なんかさあ、やっぱ特別なんだよねえ。そういう気持ちって。誰《だれ》にでもあることだし、ありふれてんのかもしれないけど、やっぱ特別なんだよねえ。まあ、なんて言うか、ほら、なんて言えばいいのかな、その――」
言葉をしばらく探《さが》したあと、結局《けっきょく》ピンと来るのが見つからなかったのか、
「まあ、そういうこと」
とだけ亜希子さんは言った。
僕は必死《ひっし》になって亜希子さんが話した内容を理解《りかい》しようとした。うまく捉《とら》えられなかったのだ。僕と父親が写ってる写真を、亜希子さんが盗《ぬす》んでいった。そして里香に渡《わた》した。それを見た里香はニコニコ笑った。
あ、そういえば。
「里香にその写真渡したの、いつですか」
「えーと、確か次の日だよ、あんたん家《ち》に行った」
あの日だ。妙《みょう》に里香の機嫌《きげん》がよかった日だ。僕の顔を見ては、なんだか嬉しそうに、ニコニコ笑っていたっけ。あの里香があんなに笑ったのなんて、確かに初めてだった。里香の笑顔《えがお》がはっきりと脳裏《のうり》に蘇《よみがえ》ってきた。その瞬間《しゅんかん》、心の奥底《おくそこ》がぶるりと揺《ゆ》れた。手の中の本を握《にぎ》りしめた。特別なんだよねえ。亜希子《あきこ》さんの言葉。ほら、なんて言えばいいかさ……まあ、そういうこと……。
卑怯《ひきょう》だよ、里香《りか》。
そうだろ。
勝手に僕の写真を見やがって、それでニコニコ笑って、なんで機嫌《きげん》いいんだよなんて尋《たず》ねても全然教えてくれなくて。
なあ、ずっと思いだしてたのか? 僕と父親が写ってる写真を思いだして、笑ってたのか?
僕も亜希子さんもしばらく黙《だま》りこんだままだった。僕はいろんなことを考えて黙っていたのだが、なぜ亜希子さんが黙っていたのかはわからない。きっと煙草《たばこ》を楽しんでいたんだろう。
やがて、亜希子さんが言った。
「里香、持っていってるんだ」
「え……」
「あんたの写真。雑菌《ざっきん》が入るとヤバいからさ、ビニールパックに密封《みっぷう》して、消毒《しょうどく》して……手術の邪魔《じゃま》にならないように、右足に張りつけていったよ」
お守りのつもりなのかねえ、と亜希子さんは最後に言った。そして携帯用《けいたいよう》の灰皿を取りだすと、それに吸い終わった煙草を入れ、立ちあがった。
「あたしが煙草吸ってたこと、内緒《ないしょ》だよ。まだ手術は終わらないから、もし眠《ねむ》れるんなら眠っておきな。終わったら、起こしてやるからさ。あんた、ぶっ倒《たお》れそうな顔してるよ」
亜希子さんはそして、去《さ》っていった。
静まりきった病院の廊下《ろうか》に、亜希子さんの足音がペタペタと響《ひび》く。亜希子さんの足音がこんなに静かだったなんて。その足音がだんだん遠ざかっていき、やがて完全に聞こえなくなるまで、僕はずっとうつむいていた。震《ふる》えそうになる手にぎゅっと力をこめながら。
里香を失いたくなかった。
絶対《ぜったい》に失いたくなかった。
[#改ページ]
確かに手術はなかなか終わらなかった。僕は手元にあったカメラと本に目をやった。カメラのレバーをいじってみたけど、やはり動かなかった。もし強引《ごういん》に巻《ま》いたら、カメラが壊《こわ》れるかフィルムが切れるかどちらかだろう。カメラ屋に持っていけば、どうにかなるかもしれない。今すぐそうしたい衝動《しょうどう》に駆《か》られたが、しかしもう店は閉まっているし、ここを離《はな》れているあいだに手術が終わるかもしれない。しかたなく僕は残された唯一《ゆいいつ》のもの、『チボー家の人々』を開いた。それにしても古くさい本だった。傷《いた》みきった紙は強く引《ひ》っ張《ぱ》ったらバラバラになりそうだった。端《はし》っこはすっかり黄ばんでいる。少し読むと、主人公の名がジャック・チボーであることがわかった。だがジャック・チボーは物語|冒頭《ぼうとう》でいきなり失踪《しっそう》してしまっていた。彼がいなくなったことを周囲《しゅうい》の大人たちが延々《えんえん》話しあっているシーンばかりが続いた。
『ろくでなしめが!』
ジャック・チボーの父親は息子をそう罵《ののし》った。ところでジャックには友人がいた。ダニエル。ダニエル・ドゥ・フォンタナン。厳格《げんかく》な寄宿舎《きしゅくしゃ》の中、規則《きそく》だらけの生活に押《お》しこめられながらも、彼らは互《たが》いの心だけは通じあわせた。周囲の大人たちから見れば、それは許《ゆる》し難《がた》いことだった。なぜなら規範《きはん》に反していたからだ。
まったくおかしな話だった。その規範とは、恐《おそ》ろしく狭義《きょうぎ》な宗教であり道徳だった。ヴィクトル・ユゴーを読むのがどうしていけないんだ? 確か小説家だろ? 小説を読むのが罪《つみ》なのか?
この時代では、そうだったらしい。
僕はページをめくった。破《やぶ》れそうな紙に気をつけながら、少しずつ読み進んでいった。やがて事情《じじょう》がわかってきた。ダニエルもまた、姿《すがた》を消していたのだ。同時に姿を消したふたり。慌《あわ》てる大人たち。そう。それはどこかで誰《だれ》かが繰《く》り返《かえ》してきたこと――。
僕は本を床《ゆか》に置いた。あたりを見まわす。けれどなにも目に入ってこなかった。世界と僕のあいだには、なにかわからないけれど、超えられないものができていた。僕はふたたび本に視線《しせん》を戻《もど》した。
物語の中ではいくつかのことが起きた。親同士の争《あらそ》い。身分。宗教。確執《かくしつ》。けれどそんなことはどうでもよかった。僕はただ、ジャック・チボーとダニエル・ドゥ・フォンタナンのことだけを追《お》い求《もと》めた。ふたりがどうなったのか知りたかった。どこに逃《に》げたんだろう。どうなったんだろう。
親の不貞《ふてい》や、家族の病気が語《かた》られたあと、ジャック・チボーとダニエル・ドゥ・フォンタナンが交《か》わしていた灰色《はいいろ》のノートの中身に文面が移《うつ》った。
僕は貪《むさぼ》るように彼らの言葉を読んだ。
『きみの精神《せいしん》状態《じょうたい》は、無感覚《むかんかく》か、肉欲《にくよく》か、恋愛《れんあい》か、そのいずれにありや? ぼくをして言わせると、むしろ第三の状態にありと思う。前二者にくらべて、ずっときみらしいから』
次のページへ――
『このごろのぼくの陰気《いんき》さをゆるしてほしい。ぼくはたしかに、生成《せいせい》途上《とじょう》にあるにちがいないのだ』
『友よ、きみは苦しいのか?』
次のページへ――
『ぼくらはあまりにも考えすぎる』
そこに綴《つづ》られているのは、あまりにもあからさまな言葉だった。僕はひたすらそれを読みつづけた。語っているのはジャックではなかった。ダニエルでもなかった。僕のよく知っている人だった。あるいは……僕自身だった。夢中《むちゅう》になって次々とページをめくっていくうちに、小さな紙片《しへん》が床《ゆか》に落ちた。
しおりだった。
僕はそれを拾った。なんでもないしおりだ。可愛《かわい》らしい花の模様《もよう》が描《か》いてある。五十六ページと五十七ページのあいだに挟《はさ》んであったらしい。僕は開いたそのページをぼんやりと眺《なが》めた。心が定《さだ》まらなかった。僕たちは……僕と里香《りか》はどこに行くんだろう。
僕はふたたび読みはじめた。そしてそれは、五十七ページの終わりに、失踪《しっそう》したジャックの最後の言葉として綴《つづ》られていた。
『卑怯《ひきょう》な振舞《ふるま》いはぜったいやめよう! 嵐《あらし》に向かって突進《とっしん》するのだ! むしろ進んで死をえらぼう!
われらの愛は、誹謗《ひぼう》、威嚇《いかく》の上にある!
ふたりでそれを証明《しょうめい》しよう!』
そのあとに――
『命をかけてきみのものになる』
ジャックの署名《しょめい》である『J』という文字に、なぜか二本の線が引かれていた。印刷された線じゃなかった。あとから万年筆《まんねんひつ》で引いたんだ。そしてその脇《わき》に、小さな、実に恥《は》ずかしそうな字で『R』と書いてあった。
なにもかもが遠ざかっていった。その文字が目に入ってきた瞬間《しゅんかん》、すべてが消え失せた。どこでもない場所に僕は座《すわ》りこんでいた。僕と、本と、里香と。たったそれだけが残った。ゆっくりと立ちあがる。相変わらず周《まわ》りの景色が目に入ってこない。入ってこなくていい。ふらふらと足を進める。十メートル歩いたところで右に曲《ま》がる。さらに三メートル。左へ。そこにスロープがある。恐怖《きょうふ》の十メートル。ここを駆《か》けた。司《つかさ》と、里香と、僕で。亜希子《あきこ》さんに追《お》いかけられた。手を繋《つな》いで逃《に》げた。今はそのスロープをのたのたと上った。車椅子《くるまいす》のおばあちゃんとすれ違《ちが》った。おばあちゃんが不思議《ふしぎ》そうな顔で見てきたけれど、なんの反応《はんのう》も返すことができなかった。スロープを上りきったところにあるナースステーションで亜希子さんが動きまわっていた。気づかれることなくナースステーションの前を通りすぎ、二〇七号室の前をすぎ、二〇六号室の前を通りすぎ、用具室とトイレも通りすぎ、ようやく階段にたどりつくと、それを一段一段上った。躓《つまず》いた。転《ころ》んだ。立ちあがった。ふたたび上った。踊《おど》り場《ば》で本を落とした。拾った。胸《むね》に抱《だ》きしめた。ヒッ。声が漏《も》れる。けれどそれでも足を動かしつづける。全部で三十五段。上りきったところに鉄の扉《とびら》。ドアノブをまわす。肩《かた》で押《お》し開《あ》ける。屋上《おくじょう》に出た。いつも里香を送ってきたところ。その真ん中で跪《ひざまず》いた。
そして――。
僕はコンクリートに額《ひたい》を押《お》しつけ、本を抱《だ》きしめたまま、呻《うめ》いた。薄汚《うすぎたな》いコンクリートに這《は》い蹲《つくば》り、頭をこすりつけ、手で里香《りか》が座《すわ》っていた場所を撫《な》でながら、泣《な》きつづけた。自分が今失おうとしているものを思うと耐《た》えられなかった。僕の心は折《お》れてしまっていた。里香、なんでだよ。どうしてなんにも話してくれなかったんだよ。臭《くさ》い台詞《せりふ》をいっぱい吐《は》いてさ、一生おまえを守るとか、大切にするとか、なんでもいいから言いたかったんだ、僕は。ほんとはそうしたかったんだ。おまえだってそうだろ。なのに、こんなもの残していきやがって。最後の最後まで読むなとか言いやがって。このままなんてないだろ! そうだろ、里香! なんでだよ! 言《い》い逃《に》げなんて!
泣きすぎて声が出なくなってきた。喉《のど》が鳴《な》るように、ヒッヒッという声しか出てこない。鼻水《はなみず》が垂《た》れる。涙《なみだ》が垂れる。それが薄汚いコンクリートをさらに汚《よご》してゆく。僕は祈《いの》った。助けてください。里香の命をこの世界に置いてください。神なんて信じたことないくせに、そう祈りつづけた。もし今、胡散臭《うさんくさ》い祈祷師《きとうし》が現れて下らない予言《よげん》をしたら、それで里香が助かると言ったら、僕はきっとなんでもするだろう。どんなちっぽけな藁《わら》にさえもすがっただろう。
どれくらい時間がたったのかわからない。涙が出なくなり、声も嗄《か》れ、身体からすっかり力が抜けてしまった。僕はぐったりして薄汚いコンクリートにへたりこんでいた。夜の甘《あま》い空気があたりに満《み》ちていて、吸いこむたびに胸《むね》の奥底《おくそこ》に冷たさを感じた。白い息《いき》が僕の前を漂《ただよ》う。息を吸って吐くたびに漂う。そして顔を上げた僕は、そこに白銀《はくぎん》の輝《かがや》きを見つけた。
半分の月だ――。
それはかつて、里香とともに砲台山《ほうだいやま》に行ったときと同じような、ちょうど半分が欠けた月だった。たった二カ月かそこらしかたっていないのに、あの冒険行《ぼうけんこう》が遠い昔のように思えた。里香のことをなにも知らず、わかろうともせず、ただ浮《う》かれてばかりだったとき。こんな光を浴《あ》びながら、砲台の上で里香といろんなことを話したっけ。
僕は自分でも意識《いしき》しないうちに、手を伸ばしていた。
掴《つか》もう。
あの月を。
僕と里香のために掴もう。
手術が終わったのは、それからさらに二時間後のことだった。そのとき、僕は廊下《ろうか》の隅《すみ》に戻《もど》っていた。看護婦《かんごふ》さんが里香の母親に駆《か》け寄《よ》り、なにか言った。おばさんは肯《うなず》くと、看護婦さんにつれられ、手術室のほうへ歩いていった。僕は立ちあがって、その背中《せなか》を追《お》った。しかし家族じゃない僕は手術室の前までしか行けなかった。立ちつくしていると、いきなりとんでもない勢《いきお》いでドアが開き、夏目《なつめ》が出てきた。
「なんだ、いたのか」
夏目はひどく疲《つか》れている様子《ようす》だった。
「終わったぞ」
しばらく言葉が出てこなかった。
探《さが》して探して、ようやく見つかった。
「あの……里香《りか》は……里香はどうなったんですか……」
夏目が僕の顔をじっと見つめてきた。
ひどく真剣《しんけん》な顔だった。
脆《もろ》いんだよ、その口から震《ふる》える言葉が漏《も》れ出《で》てくる。
「元々|組織《そしき》が脆いんだ、あいつは。父親もそうだったらしいがな。だから予想《よそう》はしてた。対策《たいさく》も練《ね》ったつもりだった。ありとあらゆる文献《ぶんけん》も漁《あさ》ったさ。だが、ひどすぎる」
まるで闇《やみ》をそっくり呑《の》みこんだような声。
「外科医にとっちゃ悪夢《あくむ》だ。糸を通しても通してもすぐに糸の圧力で組織が切れちまう。わかるか、戎崎《えざき》。まるで豆腐《とうふ》を縫《ぬ》ってるみたいなんだ。あんなのはオレも初めてだ。悪夢だ」
では、失敗したのか。
それでこんなにかかったのか。
夏目の目に浮《う》かんだものは、しかし絶望《ぜつぼう》でも希望でもなかった。少なくとも、僕にはそう思えた。
たぶん――哀《あわ》れみだった。
「おまえにとっちゃ、たぶん最悪《さいあく》の結末《けつまつ》だ」
夏目はそう言ったのだった。
[#地から2字上げ]おわり
[#改ページ]
あとがき
なんと家の近所で猫通《ねこどお》りを発見しました。だいたい三、四匹がいつもぶらぶらしてて、近所の人に餌《えさ》をもらってるらしく、どいつもこいつも愛想《あいそ》がよかったりします。わりとよく通る道なので、橋本家《はしもとけ》では帰宅後《きたくご》、
「今日は五匹見たよ」
とか、
「行きは一匹も見られなかったからどうなることかと思ったけど、帰りになんと七匹連続|目撃《もくげき》で大逆転《だいぎゃくてん》だった!」
とか、
「買ってきた魚を一匹に見せびらかしてたんだけど、ふと気づいたらすっかり囲《かこ》まれててビビった!」
などという会話が交《か》わされております。
この猫軍団の中に額《ひたい》がやけに広いヤツが一匹いて、まあ要《よう》するにでこっぱちなんですが、柄《がら》がうちの猫二号とよく似《に》てるんで、そいつはでこっぱち猫二号などと我が家では呼《よ》ばれてたりします(←猫バカ)。
――というわけで、またもや猫話から始めてしまいました。
こんにちは、橋本|紡《つむぐ》です。
さて、お待たせしました。
『半分の月がのぼる空3』をようやくお届《とど》けします。
なんと前巻から七カ月後という実にスローペースな刊行になってしまいました。こんなとこで切るか? しかも続きが半年以上先? おーい早く次出せ! なんて思ってたみなさん、本当にごめんなさいでした。
こうしてあいだがあいてしまったため、どうやら僕自身の中でも溜《た》まっていたものがあったらしく、書きはじめてみたらどんどん量が増え、この三巻は今までよりも格段《かくだん》に厚くなってしまいました(とはいっても最近の電撃はみんな厚いので、これでも平均くらいなんですが)。特に後半は三十枚くらいで仕上げる予定だったパートが、書いても書いても終わらなくなってしまい、そのせいで刊行がさらに一月|遅《おく》れるのではという状況《じょうきょう》でした。
こういう感じって覚えがあるなあと思ったら、ああ、そうか、一巻のときと同じだ……。
あのときも短編予定の話がどんどん長くなってしまい、それがこのシリーズへとつながってるわけですが、あのときと似た感じでした。というわけで、この三巻は少し一巻と重なるものがあるかもしれません。話の展開《てんかい》はまあ、一巻とはもちろん全然|違《ちが》うんですけど、なんだか似たような気持ちで書いていた気がします。
あと今回の作品ではロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』を文中に取り入れました。引用は山内義雄訳、白水社、一九五六年、を使用させていただいてます。もうこの本は手に入らないようですが、今は文庫が出てるはずなので、機会《きかい》がありましたらそちらもぜひ。
ちょいと猫《ねこ》話に戻りましょう。
前巻のあとがきで「猫はごはんって言うよね? え、言わない? 言うよ! 言うから!」と強引《ごういん》に主張《しゅちょう》したところ、ファンレターでそのことに触《ふ》れてくれた方がいました。なんとですね、十五人もの方が「うちの猫もごはんって言えますよ!」と書いてきてくれました(猫バカ万歳《ばんざい》!)。
というわけで、猫がゴハンと言えるのは(ほぼ)確定みたいです。
三日後くらいに高野《たかの》さんと会う予定があるので、そこでこの事実を彼にぶつけてこようと思います。ふふふ、覚悟《かくご》しろ、高野さん。
あと、物は試《ため》しということで、猫通りの猫どもに、
「ごはん」
と言って呼《よ》び寄《よ》せてみたところ、二匹くらいが、
「にゃわん」
ってな感じで鳴《な》いたような気がします。
意外《いがい》と「ごはん」と言える猫は多いのかも。
引き続き調査を続行するので、よろしければぜひ手紙を送ってください。あ、いや、もちろん作品の感想中心で(汗)。返事は必ず書かせていただきます。
では、最後に謝辞《しゃじ》など。
相変わらず迷惑かけっぱなしの編集|徳田《とくだ》さん、お体大切にしてくださいませ。最近僕より体調悪そうなので。イラストの山本さん、絵の出来上《できあ》がりをいつも楽しみにしてます。これからもいい本作っていきましょう。デザインの鎌部《かまべ》さん、二巻もすばらしい出来で、作者としては本当に嬉《うれ》しかったです。相応《ふさわ》しい内容を書き続けられるよう、僕も頑張《がんば》ります。
そしてなんといっても読者のみなさんに一番のお礼を――。
こんな地味《じみ》な話で、しかもスローペースの刊行でありながら、既刊《きかん》は今も毎月のように増刷《ぞうさつ》がかかるような状況《じょうきょう》です。本当に本当に感謝《かんしゃ》しています。買ってくださった方にはありがとうを百回言っても足りないくらいです。
次の巻は今回ほどお待たせしないよう、できるだけ早く書こうと思っています。
[#地から2字上げ]二〇〇四年夏 橋本 紡