半分の月がのぼる空2
橋本紡
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)意地悪《いじわる》そうに
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)秋庭|里香《りか》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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戎崎《えざき》コレクションが里香《りか》にバレた。
恐《おそ》ろしいことが起きた。
本当に本当に恐ろしいことが起きてしまった。
ここのところ、僕と里香の関係は今までにないくらい、うまくいっていたのだ。里香のわがままは相変わらずだったものの、それでもたまには優《やさ》しい言葉《ことば》をかけてくれたし、ふと目があったときなんて、
「なによ」
とか言いつつ、少し照《て》れた顔になったりした。
そんな里香はマジで可愛《かわい》かった。
ぎゅっと抱《だ》きしめたくなるくらい可愛かった。
なにしろあの里香が優しいなんて奇跡《きせき》のような話で、ただそれだけで僕は有頂天《うちょうてん》になっていた。誰《だれ》かが見舞《みま》いに持ってきたおいしいプリンを僕のためにとっておいてくれたし、いっしょに昼飯を食べようと誘《さそ》ってくれたし、剥《む》いたばかりのミカンを半分わけてくれたし、それはまるで天国にいるかのような日々だった。渡《わた》された半分のミカンを持ったまま、しばらくぼんやりしちゃったくらいだ。
もうむちゃくちゃいい感じだったんだ。
あと少しだったんだ。
なにがあと少しかというと……それはまあ、あれだが、とにかくあと少しだったんだ!
しかし、そんなものは消し飛んだ。
一瞬《いっしゅん》だった。
それが起きたのは、年が明けてから二回目の金曜日だった。
僕の病室にはそのとき、クラスメイトの山西《やまにし》が来ていた。山西はいつも下らない冗談《じょうだん》ばっかり言ってるようなヤツで、小学校のころからの幼《おさな》なじみだ。ただ、高校に入った辺《あた》りから、僕たちはあまり話さなくなっていた。ケンカしたとか仲が悪くなったとかじゃなくて、新しい友達といるほうが楽しくて、なんとなく距離《きょり》ができてしまったのだ。しかし、その山西は、ここしばらく僕の病室に通いつづけていた。
ヤツの目的は――戎崎《えざき》コレクションだ。
最後の授業が終わってから一時間とたたないうちに、山西は僕の病室にやってくる。本人|曰《いわ》く、見舞《みま》いなのだそうだ。もっとも、山西は学校の様子《ようす》や友達のことなんかをほんの五分ほど話しただけで、
「じゃあ、帰るわ」
と、あっさり立ち上がり、それからいかにもたった今思いつきましたって感じで、
「あ、そうだ、ついでだから一冊か二冊借りていってもいいか?」
なんて言って、そのくせ僕が返事をする前にもうベッドの下に潜《もぐ》りこんでいるのだった。
「おい、山西」
僕はベッドに寝《ね》ころんだまま、なかば呆《あき》れながら、なかば感心しながら、言った。
「おまえは偉大《いだい》だよ」
「は? なんか言ったか?」
そう言う山西の声は低くこもっている。
なぜならヤツはベッドの下に潜りこみ、戎崎コレクションを漁《あさ》っているからである。
「目的のためには恥《はじ》も外聞《がいぶん》もないってのは偉大だってことさ」
「聞こえねえって! なんだよ!?」
「おまえを褒《ほ》め称《たた》えてんだよ!」
僕はやけになって怒鳴《どな》った。
「おまえは偉大なバカだよ!」
「だから聞こえねえって。――おっ、これ、すげえ!」
「そ、そうなのか……」
「マジすげえ! 戎崎、おまえも見るか?」
「お、おう……」
正直《しょうじき》に告白しておくが、別にぜひとも見たかったわけではない。なんというか、ほら、男のつきあいってヤツだ。誘《さそ》われた以上、男たるもの、断《ことわ》るわけにはいかないだろ?
僕は起きあがると、山西《やまにし》と同様、ベッドの下に潜《もぐ》りこんだ。
「うおお」
山西が唸《うな》った。
「むむう」
僕も唸った。
「すげえな」
「た、確かに」
「次のページに行くぞ」
「ちょっと待てって」
「おお――っ」
「むう――っ」
「次は……こっちもすげえ!」
「ぬぬ――っ」
「ふう――っ」
夢中《むちゅう》になってそんなことを話していると、ふいになにかの気配《けはい》を感じた。
恐《おそ》ろしい気配だった。
その瞬間《しゅんかん》、僕の背筋《せすじ》はカキンと音をたてて凍《こお》りつき、手はぶるぶる震《ふる》え、頭の中が真っ白になっていた。僕の様子《ようす》に気づいた山西がどうしたんだよと尋《たず》ねてきたが、とても答えられない。というより答えたくない。言葉《ことば》にしたら、その事実と向きあわねばならなくなってしまう。
しかしもちろん、言葉にしようがしまいが、向きあわねばならないのだった。
僕はベッドの下から這《は》い出《で》た。
「あ、里香《りか》……」
思ったとおり、里香が病室の中にいた。
「なにしてんの?」
明るい声で、彼女はそう言った。
ここでうまく振《ふ》る舞《ま》ってれば、どうにかごまかせたのかもしれない。けれど僕の頭の中は混乱《こんらん》を極《きわ》めていた。適当《てきとう》な理由をつけて病室を出よう理由ってなんだ理由理由理由えーっと造反有理《ぞうはんゆうり》造反有理ってなんだっけ落ち着け里香はまだ気づいてないベッドの下だからわかるもんか掌《てのひら》に人≠チて三回書いて飲むと落ち着くって叔母《おば》さんが言ってたいやそんなことはどうでもよくてとにかく――。
と、背後《はいご》でなにかがモゾモゾと動いた。
「おい、どうしたんだ」
山西《やまにし》、だった。
バカ山西、だった。
「戎崎《えざき》、なんだよ」
あろうことか、バカ山西はその手に戎崎コレクション(の一冊)を持ったまま、ベッドの下から這《は》い出《で》てきたのだった。
「あ――」
戎崎コレクションに気づいた僕の口から、そんな声が漏《も》れた。
「え――」
里香《りか》に気づいた山西の口から、そんな声が漏れた。
僕たちは凍《こお》りついた。
バカ山西、それを早く隠《かく》せっ! 隠してくれっ!
心の中で叫《さけ》んだが、もちろん口には出せない。
そしてすでに遅《おそ》かった。
里香はまるで汚《きたな》いものでも見るような目で僕たちを見ていた。さっきまでの笑顔《えがお》はどこか遠くへ、それこそ北極圏《ほっきょくけん》の彼方《かなた》よりもさらに遠いところへ吹き飛んでしまっていて、戻《もど》ってくる気配《けはい》はまるでなかった。そして北極圏のド真ん中よりも冷たい風が病室の中を激《はげ》しく吹《ふ》き荒《あ》れていた。
里香がひょいと、ベッドの下を覗《のぞ》きこんだ。
その眉間《みけん》に皺《しわ》が寄《よ》る。
その背中《せなか》の後ろでなにかがドロドロと渦巻《うずま》く。
僕たちの脇《わき》をすり抜《ぬ》けて、里香はベッドの下に潜《もぐ》りこんだ。僕と山西はずっと凍りついていた。眼前《がんぜん》で起きている出来事《できごと》が理解《りかい》できなかったのだ。いや……理解したくなかったのかもしれない。
やがて里香がベッドの下から出てきた。
「裕一《ゆういち》」
静かに言った。
「あれ、あんたの?」
「…………」
「物凄《ものすご》い数だね?」
「…………」
「百冊とか二百冊じゃきかないよね?」
「…………」
「裕一《ゆういち》って、すごい人だったんだね?」
里香《りか》が笑った。恐《おそ》ろしい笑顔《えがお》だった。そして里香はなぜか鼻歌《はなうた》を陽気《ようき》に歌いながら病室を出ていった。
あとには僕と山西《やまにし》だけが残された。
少ししてから、山西が尋《たず》ねてきた。
「あれ、誰《だれ》?」
「…………」
僕はまだ、口がきけなかった。
「おまえの彼女?」
「…………」
「そうか」
なにかを悟《さと》ったらしく、山西はまるで禅僧《ぜんそう》のような顔をしつつ、神妙《しんみょう》な調子《ちょうし》で僕の肩《かた》をぽんと叩《たた》いた。
「しょうがない。諦《あきら》めろ」
殴《なぐ》った。
山西を。
当然《とうぜん》だ。
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1
さすがに冬だった。
吹きつけてくる風は冷たく強く、そんな風に吹かれつつ顔を上げると、そこにはカラリと晴《は》れ渡《わた》った空が広がっている。パジャマの上にシャツを着て、さらにジャケットとコートまで羽織《はお》り、上半身はあたかもダルマのごとき着膨《きぶく》れ状態《じょうたい》なのだが、いかんせん下半身はパジャマのズボンのみ。さっきまで足の爪先《つまさき》は冷えすぎてジンジンと痛《いた》かったが、今はその痛みさえも感じなくなりつつある。身体は芯《しん》まで凍《こお》りつき、腰《こし》がやたらと重い。というか痛い。
このままだと、まず間違《まちが》いなく凍死《とうし》だ。
「病院の屋上《おくじょう》で凍死かあ……」
僕はぼそりと呟《つぶや》いた。
コートのポケットに放《ほう》りこんである腕時計を取りだし、時間を確認する。
午後三時――。
手術を受けるためにはある程度《ていど》の体力がいるということで、里香《りか》は最近、毎日病院内を歩いている。屋上はその散歩コースの折り返し地点で、ここ一週間の統計《とうけい》ではおおむね三時すぎにたどりつくことになっていた。
一番早かったのが三日前で、三時一分。
一番|遅《おそ》かったのが昨日で、三時十五分。
心の余裕《よゆう》を持つために、僕は三時前にスタンバイをしていようと屋上《おくじょう》に来たのだが、自分でもよくわからなくなるくらい気が急《せ》いていたのか、屋上に着いたのは二時半だった。それからすでに三十分も寒風《かんぷう》に吹かれながら立ちつくしているというわけである。
寒い……。
情《なさ》けない……。
辛《つら》い……。
さすがに限界《げんかい》だった。
しかし、今さらすごすご帰るわけにはいかない。ありったけの勇気を振《ふ》り絞《しぼ》って、ここに来たのだから。
「早く来ないかな、里香《りか》……」
ずず、と鼻水《はなみず》を啜《すす》る。
このまま来ないほうがいい気もしてきた。
里香と顔をあわせるのがとにかく怖《こわ》い。
想像《そうぞう》しただけで身が竦《すく》む。
とにかく、この一週間、里香の仕打《しう》ちはあまりにもひどいものだった。戎崎《えざき》コレクションが見つかった直後、僕はすぐさま里香の病室に飛んでいった。土下座《どげざ》でもなんでもして、許《ゆる》してもらおうと思ったのだ。
ノックをした。
「誰《だれ》?」
声が聞こえた。
「オ、オレ」
沈黙《ちんもく》。
「り、里香、入っていいか」
沈黙。
「そ、その、話せばわかるっていうかさ」
沈黙。
そこでふと、希望が芽生《めば》えた。黙《だま》っているということは、きっと中に入って弁解《べんかい》しろということに違《ちが》いない。弁解を聞く気があるってことは、許す気もどこかに少しは……ほんの少しはあるに違いない。
そうだ!
そうに決まってる!
希望を強引に掻《か》き集《あつ》め、僕はドアのノブに手をやった。このとき、気づくべきだったのだ。ドアが少し開いていたことに。なんだかやけに重たかったことに。けれど僕はそのままドアを開け、里香《りか》の病室に足を踏《ふ》み入《い》れた。
「り、里香! ごめ――」
言葉《ことば》が切れた。
ずごんっ!
そんな音とともに。
あとになってわかったのだが、里香は少し開いておいた扉《とびら》の上に『日本語大辞典』(縦《たて》二十五センチ、横十八センチ、厚さ七センチ、重さ五キロ、函《はこ》入り)を載《の》せていたのだった。それが落下《らっか》し、函の角《かど》が、僕の頭を直撃《ちょくげき》したのだった。
星が見えた、と思う。
絶望《ぜつぼう》とともに。
「あ、あ、あ――」
頭を抱《かか》えて転《ころ》げまわる僕を、里香はまったくいたわることなく、病室の外へ放《ほう》りだした。僕は五分近く病室の前でうずくまっていた。たぶん、その五分のあいだに、二十人くらいの入院|患者《かんじゃ》や看護婦《かんごふ》にクスクス笑われたと思う。
二回目のチャレンジはその翌日《よくじつ》だった。
今度はドアの上に気をつけた。
なにも載っていなかった。
よし、これなら大丈夫《だいじょうぶ》だ……。
ノブに手をやると、ドアを開け、里香の病室に入った。
「り、里香、ごめ――」
言葉が切れた。
ずべしゃっ!
そんな音の直後に。
むちゃくちゃ古典的な手法《しゅほう》なのだが、ドアの下に紐《ひも》が一本、ピンと張《は》ってあったのだ。それに足を引っかけ、すっころんだのだった。
顔から床《ゆか》に突《つ》っこんだ。
鼻《はな》をもろに打った。
頭の芯《しん》がカーンと来て、そのあとに鼻《はな》がむちゃくちゃ熱《あつ》くなって、押《お》さえた指のあいだから生温《なまあたた》かいものがポタポタと滴《したた》った。
鼻血、だった。
「は、鼻が……鼻血が……」
正直に告白《こくはく》しよう。
チャンスだ、と思った。
いくら里香《りか》でも出血は見すごせないはずだ。やりすぎたと思って、駆《か》け寄《よ》ってくるかもしれない。そして優《やさ》しい言葉《ことば》をかけてくれるかもしれない。
鼻血と戎崎《えざき》コレクションで、チャラ。
プラスマイナスゼロだ。
邪《よこしま》な希望を勝手《かって》に巡《めぐ》らせていた僕は、しかし里香を見くびっていた。痛《いた》みに声をあげ(大げさに)、転《ころ》げまわり(かなり大げさに)、血の赤さに焦《あせ》る僕を(もぢろん大げさに)、またもや里香はあっさり病室の外に放《ほう》りだしたのだった。問答無用《もんどうむよう》だった。
いたわりの言葉?
なかった。
謝罪《しゃざい》?
もちろんなかった。
「もう来るな! バカ!」
吐《は》き捨《す》てられただけだった。
僕は絶望《ぜつぼう》と痛《いた》みに耐《た》えながら、鼻血がとまるまで天井《てんじょう》をずっと見つめていた。
天井の模様《もよう》が滲《にじ》んで見えた。
里香の病室を訪《たず》ねるのはそれで諦《あきら》めた。このままじゃ身体《からだ》がもたないからだ。下手《へた》すると、今度は点滴台《てんてきだい》が倒《たお》れてきかねない。いや、点滴台ならまだマシだ。なにかもっととんでもないものが飛んでくるかもしれなかった。なにしろ病院というのは凶器《きょうき》だらけなのだ。
というわけで、待《ま》ち伏《ぶ》せ作戦に切《き》り替《か》えたわけである。
「さぶい……」
それにしても、さすがに里香は強情《ごうじょう》だった。
この一週間、まったく口をきいていない。顔もろくに見ていない。僕はわりと呑気《のんき》な人間なので、少々イヤなことがあっても三日もすれば忘《わす》れてしまうのだが、里香は全然|違《ちが》う性格《せいかく》をしてるらしい。
女の子ってのは、こういうもんなんだろーか?
――そんなことを考えていると、目の前でドアがキイッと音をたてた。心臓《しんぞう》が弾《はず》む。鉄製のドアがゆっくり開き、そうして生まれた隙間《すきま》にほっそりとした手が見え[#「え」は底本では無し]た。
里香《りか》だ。
僕は息《いき》を呑《の》み、頭の中で練《ね》りに練った手順《てじゅん》を思《おも》い浮《う》かべた。
『里香、ごめん!』
叫《さけ》ぶなり、即《そく》土下座《どげざ》だ。
『オレが悪かった!』
薄汚《うすよご》れたコンクリートに頭をごりごりとすりつけ、とにかく謝《あやま》って謝って謝り倒《たお》すのだ。里香が呆《あき》れてイヤになって許《ゆる》さざるを得《え》なくなるまで謝るのだ。
情《なさ》けないだって?
知るか。
男のくせにだって?
かまうもんか。
そんなものは全力|投球《とうきゅう》で冬の青空の彼方《かなた》に捨ててやる。
里香に許してもらえるならなんだってするぞ!
「ふう――」
里香が息を吐《は》く音。
そして、彼女の姿《すがた》がそこに現れた。目が合う。同時に里香の顔が固《かた》まった。今だ、この瞬間を逃《のが》すなっ!
僕は土下座し、叫《さけ》んだ。
「里香、ごめん!」
よし、シミュレーションどおりだ。
それから僕はありとあらゆる謝罪《しゃざい》の言葉《ことば》を並《なら》べた。
ごめん里香あれは山西《やまにし》が勝手《かって》に持ってきたんだあいつはバカでどうしようもなくてでも友達だから隠《かく》しておいてくれって言われて断《ことわ》れなかったんだ友達は大事にしなきゃダメだろオレはイヤでイヤでしかたなかったんだけどさ言《い》い訳《わけ》にならないことはわかってるしやっぱりオレがバカだっただから謝るよ里香許してくれお願いだなんでもするからこれから毎日図書館に行って好きな本をいっぱい借《か》りてきてやるからピーターラビットの絵本全巻プレゼントしてもいいからさとにかく悪かったごめん里香――。
喉《のど》が痛《いた》くなるまで喋《しゃべ》りつづけたあと、恐《おそ》る恐る顔を上げた。
里香はいなかった。
どこにも。
立ちあがると、僕はドアの前まで行った。ドアはきれいに閉まっている。どうやら里香《りか》は僕の顔を見た直後に立ち去っていたらしい。
僕はずっとドアに向かって謝《あやま》っていたのだった。
「ううっ……」
情《なさ》けないことに、マジで泣《な》きそうになった。
自分でもイヤになるくらい、僕は里香と喋《しゃべ》りたかった。里香に笑いかけてほしかった。その長い髪《かみ》がさらさらと揺《ゆ》れるのを見たかった。里香にわがままを言ってもらって、それにホイホイ従《したが》いたかった。いや別にマゾとか虐《いじ》められ体質《たいしつ》とかじゃなくて、なんでもいいから里香と接《せっ》したかったんだ。
僕は里香が好きだった。
この世界の全部をあわせたよりも、里香のほうが大切だった。
しばらく僕は冷たいコンクリートの上に座《すわ》りこんでいた。ショックで立ちあがれなかったのだ。このまま里香に嫌《きら》われたらどうしようと、むちゃくちゃ打ちのめされていた。そんなことになったら、人生終わりだ。希望の終焉《しゅうえん》だ。ああ、どうしよう。
ようやく立ちあがれたのは三十分以上たってからで、僕の身体は完全に冷え切っていた。
別の方法を考えよう。
とにかく、なんとしても許《ゆる》してもらおう。
鼻《はな》を啜《すす》りながら、僕はドアノブに手をやった。まわした。が、まわらなかった。ガチンとなにかに引っかかる。嘘《うそ》だろと思いつつ、強引《ごういん》にドアノブをガチャガチャやったが、しかしやはりまわらなかった。それでもノブを引《ひ》っ張《ぱ》る。びくともしない。蹴《け》る。足が痛《いた》くなった。殴《なぐ》る。手が痺《しび》れた。
どうやら鍵《かぎ》をかけられたらしい。
「マ、マジで……?」
冷たい風がヒュウウッと音をたてて吹《ふ》き抜《ぬ》けていった。
すでに日は傾《かたむ》き、屋上《おくじょう》はすべて深い影《かげ》に沈《しず》んでいる。あと一時間もすれば完全に日が暮《く》れるだろう。東の空は陽光《ようこう》を失い、その淡《あわ》い藍色《あいいろ》の中に、白い半月が冴《さ》え冴《ざ》えと輝《かがや》いていた。頭にふと、今朝ロビーで観《み》た七時のニュースのテレビ画面が浮《う》かんだ。若い気象予報士《きしょうよほうし》が嬉《うれ》しそうに叫《さけ》んでいた。今年一番の寒さです! セーターとコートをしっかり着こんでくださいね! 行ってらっしゃーい!
凍死《とうし》、という文字が頭に浮かんだ。
なんてこった。
天国に行ってらっしゃい?
マジで?
2
「あー、やっぱ熱があるねえ」
亜希子《あきこ》さんのそんな声を、僕はベッドに横たわったまま聞いていた。
熱があることなんて、言われなくてもわかっている。身体《からだ》がやたらと熱《あつ》くて、おでこにヤカンを載《の》せたら一分で中の水が沸騰《ふっとう》しそうだ。身体中の関節《かんせつ》が痛《いた》い。喉《のど》はもっと痛い。そして鼻水《はなみず》がとまらない。
僕は垂《た》れてくる鼻水を啜《すす》り、言った。
「何度ですか?」
「八度七分」
「そんなに……」
「まあ、たぶん風邪《かぜ》だろうね。いちおう先生に診察《しんさつ》してもらうよ。肝炎《かんえん》のほうだったら、ヤバいからね」
僕は今、肝炎という病気で入院している。
肝炎の症状《しょうじょう》は風邪に似《に》ているので、あっさり風邪と決めつけるわけにはいかないのだった。もし肝炎が悪化《あっか》してるとなれば、それなりの処置《しょち》が必要《ひつよう》になる。たとえば連日二時間の点滴《てんてき》。
三日に一回の検査《けんさ》。面会謝絶《めんかいしゃぜつ》。入院期間ももちろん延《の》びる。
体温計を振《ふ》りながら、亜希子《あきこ》さんが尋《たず》ねてきた。
「裕一《ゆういち》、なんで屋上《おくじょう》なんかにいたわけ? あれは新種の自殺かなんか? 屋上で凍死《とうし》してあたしの管理《かんり》責任《せきにん》を問《と》わせようっていう嫌《いや》がらせ?」
「い、いや、それはその……」
「あのままだったら、ほんと死んでたよ」
そのとおりだった。
僕が救出《きゅうしゅつ》≠ウれたのは夜の十一時で、屋上に閉めだされてから八時間が経過《けいか》していた。強い北風が吹きつづけ、気温はどんどん下がってゆき、屋上はまるで冷凍庫《れいとうこ》の中みたいになっていた。
僕は給水塔《きゅうすいとう》の脇《わき》に座《すわ》りこみ、カメみたいに背中《せなか》を丸め、その寒さに耐《た》えた。
本気で凍死を覚悟《かくご》した。
ああ、こんなところで死ぬのか、死んだら里香《りか》も少しは悪いと思ってくれるかな、涙《なみだ》なんて流してくれるかな――。
ぼんやりした頭で、ずっとそんなことを考えながら。
僕が死なずにすんだのは、警備《けいび》の江戸川《えどがわ》さんが見まわりにきてくれたからだった。禿頭《はげあたま》が見事《みごと》な江戸川さん(四十二歳|既婚《きこん》子供ふたり)は、僕を見つけた瞬間《しゅんかん》、
「ひいいいぃ――っ!」
と女の子みたいな悲鳴《ひめい》をあげた。
たぶん幽霊《ゆうれい》だと思ったんだろう。
僕は慌《あわ》てて立ちあがったつもりなのだが、なにしろ寒さに身体《からだ》が凍《こお》りついていたので実はひどくのっそりとした動きで、しかも両手が上がらなかったもんだから胸《むね》の辺《あた》りでぶらんとさせていた。
本当に幽霊みたいな動きだったらしい。
「ひいいいぃ――っ!」
やっぱり女の子みたいに叫《さけ》びながら、江戸川さんは階段を駆《か》け下《お》りていった。
江戸川さんの禿頭が蛍光灯《けいこうとう》の明かりでピカピカ光っていたのをはっきりと覚《おぼ》えている。そして覚えているのは、そこまでだった。
気がついたら、自分のベッドに寝《ね》ていた。
江戸川さんの禿頭じゃなくて、蛍光灯そのものが天井《てんじょう》で輝《かがや》いていた。
「閉めだされたんです」
正直に、僕は言った。
亜希子さんが、その眉《まゆ》をひそめる。
「閉めだされた? 誰《だれ》に? あ、里香?」
「はあ」
「なんで?」
「その……見つかっちゃったんです」
「見つかった? なにが?」
寝転《ねころ》がったまま、僕はベッドを――正確にはその下にあるものを――指差した。
不思議《ふしぎ》そうに、亜希子《あきこ》さんが僕の指を眺《なが》める。
考えこむ。
ベッドの下を覗《のぞ》きこむ。
さらに考えこむ。
笑い声が爆発《ばくはつ》したのは、およそ七秒後だった。
「見つかったんだ! うわー、それは怒《おこ》るよ! 絶対《ぜったい》怒る! だははははっ! それで閉めだされたわけだ! ひーっひーっ、お腹《なか》痛《いた》いっ!」
腹を抱《かか》え、亜希子さんは思いっきり笑っていた。まったく容赦《ようしゃ》のない笑い方で、本気でおもしろがっているのは明らかだった。ただ笑うだけでは足りないのか、ばしばしと僕のベッドを叩《たた》いてもいる。
さすがに傷《きず》つき、僕は叫《さけ》んだ。
「そんな笑わなくてもいいじゃないですかっ!」
「だってだってだって――」
「こっちは死ぬとこだったんですよっ!」
「死ね!」
ゲラゲラ笑いながら、亜希子さんは叫んだ。
「いっそ死ね!」
「看護婦《かんごふ》がなに言ってんですかっ!」
ちくしょう。
情《なさ》けなさに涙《なみだ》が出そうだった。
なにしろ里香《りか》に無視《むし》されつづけているだけで、僕はけっこう本気で参《まい》っていたのだ。目に入る景色《けしき》はすべて虚《うつ》ろだし、ご飯はおいしくないし、テレビはつまんないし、人生|灰色《はいいろ》っていうヤツを嫌《いや》になるくらい味わっていた。たかが女の子に嫌《きら》われたくらいでそんなふうになるなんてまったく情けない話で、もしこれが他人事《ひとごと》だったら僕も亜希子さんと同じように腹を抱えてゲラゲラ笑ったかもしれない。でも実際《じっさい》に自分で味わうと、それは本当に本当に辛《つら》いものだった。このまま里香と話せなかったらどうしようと思っただけで泣《な》きそうになる。
そんなことを考えながら亜希子さんの笑い声を聞いていると、本当に泣けてきた。
「……ううっ」
「あれ? 泣いてんの、裕一《ゆういち》?」
「……泣《な》いてなんかいないです」
鼻《はな》を啜《すす》る。
「あー、ごめんごめん。まさかそんな気にしてるとは思わなくてさ」
「……もういいです、ほっといてください」
「それにしても見つかるとはね。あのくらいの年の女の子って妙《みょう》に潔癖《けっぺき》なところがあるし、おまけに里香《りか》はずっと病院|暮《ぐ》らしの純粋《じゅんすい》培養《ばいよう》だから、そりゃ怒《おこ》るよ。まあ、今まで隠《かく》し持《も》ってたあんたが悪いね、うん」
あんたが悪い、念《ねん》を押《お》すように亜希子《あきこ》さんは同じ言葉《ことば》を繰《く》り返《かえ》した。
そんなのもちろんわかっている。だからなんだっていうんだ。問題なのはどうやったら許《ゆる》してもらえるかということじゃないか。
そこでふと、僕は気づいた。
亜希子さんも女であるということに。
里香と同じ女であり、しかも大人の女であるということは、こういう問題について少しは詳《くわ》しいはずだ。なにかいい助言《じょげん》が貰《もら》えるかもしれない。思いっきり笑われたことはまだ引っかかっていたが、なにしろ僕はたとえ一本の藁《わら》でも掴《つか》みたい気持ちだった。もし里香に許してもらえる方法を教えてくれるなら、亜希子さんに土下座《どげざ》だってしただろう。
恐《おそ》る恐る、僕は尋《たず》ねてみた。
「亜希子さん、どうすればいいですかね」
「どうすればって?」
「里香、ずっと怒ってんですよ。全然許してくれなくて。どうしたら許してもらえると思いますか」
「無理《むり》」
あっさりと亜希子さんは言い切った。
目の前が真っ暗になった。
「そんな……」
「女の子ってねえ、残酷《ざんこく》だよ。あたしの友達《ダチ》なんだけどさ、つきあってた男が約束《やくそく》破ったのよ。煙草《たばこ》をやめるっていうつまんない約束だよ。でも許さなくてさ、すぐに別れて他の男と結婚しちゃったもん」
「マ、マジですか?」
「もちろん。他人には下らないように思えても、本人にはすごく大事なものってあるからね。ほら、古い歌にもあっただろ」
そして亜希子さんはいきなり歌いだした。
抱《だ》きしめた〜いの〜に〜
君は〜いな〜い〜
あんなこと〜で〜
終わりだな〜んて〜
ア〜イ・ミ〜ス・ユウウゥ〜ゥ
意外《いがい》にもそれはきれいな声で、狭《せま》い病室によく響《ひび》いた。
僕の心にも響いた。
「……ううっ」
鼻水《はなみず》がだらだら垂《た》れる。
そう鼻水だ、もちろん。
「裕一《ゆういち》、男なんだから泣《な》くな。なんだったら、あたしが可愛《かわい》い子を紹介《しょうかい》してやるからさ。女は里香《りか》だけじゃないぞ」
「……ううっ」
僕にとって、女はこの世で里香だけだった。
他の女なんてどうでもいい。
鼻水を垂らしつづける僕を見て、亜希子《あきこ》さんがやれやれというように首を振《ふ》った。
「これは重症《じゅうしょう》かもねえ」
「重症なのか?」
いきなり誰《だれ》かの声がした。
顔を上げると、病室の入口にひとり、見知らぬ男がいた。雰囲気《ふんいき》はまるで大学生みたいな感じだが、よく見るともっと年を取っている。三十代前半くらいだろう。ボサボサの髪《かみ》をしていて、顔は無精《ぶしょう》ヒゲだらけ、着ている服はしわくちゃだった。
まあ冴《さ》えない感じの男だ。
「風邪《かぜ》だって聞いてきたんだが?」
亜希子さんが慌《あわ》てて言った。
「あ、夏目《なつめ》先生。重症ってのは別の話で……」
夏目先生?
誰だ?
僕の表情に気づいたのか、亜希子さんが説明してくれた。
「ああ、あんたは知らないか。こちらは外科《げか》の夏目先生。ちょうどあんたが入院してきたころから長期|休暇《きゅうか》を取ってたんだけど、えーと、今日でしたっけ?」
「昨日だ」
ぶっきらぼうに、夏目先生とやらが言った。
なかなか渋《しぶ》い声だった。
「そう、昨日からまた勤務《きんむ》することになったの。今晩の当直《とうちょく》だから、診《み》てもらうよ」
「はあ」
ぼけーっとしていると、夏目《なつめ》先生がそばにやってきた。意外《いがい》に丁寧《ていねい》な手つきで僕の腕《うで》を取り、脈《みゃく》を診る。
「どうだ、具合《ぐあい》は? 喉《のど》は痛《いた》いか?」
「痛いです」
「屋上《おくじょう》にいたんだって?」
「はあ」
「呑気《のんき》に星でも見てたのか?」
笑いながら、夏目先生は言った。
顔はヒゲだらけだが、なかなか優《やさ》しそうな感じだ。長く入院してると、医者の善《よ》し悪《あ》しはだいたいわかるようになる。なんというか、いい医者というのはすぐ患者《かんじゃ》と馴染《なじ》むのだ。警戒心《けいかいしん》を抱《いだ》かせない、という言い方が近いかもしれない。
夏目先生の目は、小さな子供みたいな目だった。
その表面に好奇心《こうきしん》の輝《かがや》きがいつも宿っているような目だった。
「まあ、そんなとこです」
僕は適当《てきとう》に、いい加減《かげん》に、答えた。
初対面《しょたいめん》の相手に言えることじゃない。
夏目先生の背後《はいご》では、亜希子《あきこ》さんがその腹を両手で抱《かか》え、笑いだしそうになるのを必死《ひっし》になって堪《こら》えていた。
ちくしょう、そのうちひどい目にあわせてやるっ。
3
病院の屋上には、今日も無数のシーツやタオルがはたはたと舞《ま》っていた。
まるで踊《おど》っているみたいだ。
僕はそんな光景《こうけい》を眺《なが》めながら、ぼんやりと日向《ひなた》ぼっこをしていた。空は澄《す》み切《き》って青く、雲なんてひとつもなく、風は穏《おだ》やかで、まるで春のように暖《あたた》かい。日溜《ひだ》まりに座《すわ》りこんでいると、身体《からだ》の芯《しん》まで温《あたた》まり、だんだん眠《ねむ》くなってくる。三日くらい寝《ね》こんだおかげで、風邪《かぜ》はだいぶ抜《ぬ》けたみたいだった。まだ少しだるいけど。
そういや、多田《ただ》さんもよく、こうして屋上に座りこんでいた。
まるで年老いたカメのように。
多田さんの病室には、もう新しい患者《かんじゃ》が入っている。足を骨折《こっせつ》した大学生で、うらやましいことに……いや全然うらやましくないけど、毎日彼女らしい女の人が見舞《みま》いにくる。屋上に向かうとき、彼の病室の前を通りかかったら、ドアが開いていて中の様子《ようす》が見えた。まるで光の塊《かたまり》みたいな病室の中で、ふたりは楽しそうに話していた。男が笑うと、女もまた笑った。もう、ってな感じで男の腕《うで》を叩《たた》きながら。
なにもかもが過ぎ去ってしまう――。
僕は病室に入っていって、彼らに教えてやりたかった。そこに多田《ただ》さんっていうエロジジイが十年も住んでいたことや、多田さんが下らないエロ本を数千冊もコレクションしてたことや、死ぬ間際《まぎわ》にそのエロ本を僕にくれたことを話してやりたかった。
多田さんは確かに、生きていたんだ。
この世にいたんだ。
八十年も。
もちろん僕は彼らにそんなことを話したりはしなかった。
「はあ?」
ってな顔をされるのがオチだからだ。
「それで?」
とか言われるかもしれない。
ああ、それにしても多田さん、あんたはひどい人だよ。あんたのせいで、里香《りか》に嫌《きら》われちゃったじゃないか……。
死んでまで迷惑《めいわく》かけるなんて、最悪だ。
きっと天国の多田さんは、
「ぬははは――っ!」
と笑っているに違《ちが》いない。
あのジイサンのことだから、腹を抱《かか》えて思いっきり笑っているだろう。
そんなことを考えていたところ、
「おう、なにしてんだ?」
という声が頭上《ずじょう》から降《ふ》ってきた。
眠気《ねむけ》に霞《かす》んだ視界《しかい》を、上に向ける。と、そこにはまだ若い感じの男が立っていた。白衣《はくい》を着てるってことはたぶん医者なんだろうが、今まで見たことのない顔だった。
大学病院から派遣《はけん》されてきた新米《しんまい》かな?
入院してから知ったことだけれど、若葉病院みたいな地方の小病院は、どこかの大学病院の系列《けいれつ》に属《ぞく》している。まあ要《よう》するにコンビニのチェーンみたいなもんだ。時々、その本部……すなわち大学病院から、若い医者が派遣されてくるのだった。地方病院はそれで医者を確保できるし、大学病院は若い医者に経験を積《つ》ませることができる。持ちつ持たれつってわけだ。
僕は多田さんみたいにへらへら笑ってみせた。
「日向《ひなた》ぼっこです」
若い医者はふーんと唸《うな》った。
「寒くなる前に引《ひ》き揚《あ》げろよ。まだ風邪《かぜ》が抜《ぬ》けてないんだからな」
「は、はあ」
なんで風邪のことを知ってるんだ?
この若葉病院は小さな病院だが、それでも百人くらいの入院|患者《かんじゃ》がいるし、そのそれぞれの病状《びょうじょう》をすべての医者が把握《はあく》しているわけじゃない。担当医《たんとうい》制度ってヤツがあるからだ。ましてや、大学病院から来たばかりの医者が、僕の病状を知ってるとは思えなかった。しかも、引いたばかりの風邪のことまで知ってるとなると、明らかに変な話だ。
僕の疑念《ぎねん》に気づいたのだろう、医者が笑った。
「おい、気づけって」
「は?」
「オレだって」
笑う顔はピンと来なかったが、その目の輝《かがや》きはピンと来た。
「な、夏目《なつめ》先生!?」
「おう」
二枚目はニヤリと笑った。
「なかなか男前だろうが」
信じられなかった。
初めて会ったとき、顔はヒゲだらけで髪《かみ》はボサボサ、とにかく冴《さ》えないオヤジにしか見えなかったのに!
目の前にいるのは、実にさわやかな好青年《こうせいねん》だった。髪は流行の感じでカットしてあって、少し長いその毛先が見事《みごと》なまでのさわやかさを発散《はっさん》している。顔の彫《ほ》りは深く、目はきれいな二重《ふたえ》で、長いまつげが色の薄《うす》い瞳《ひとみ》にかかっていた。唇《くちびる》を吊《つ》りあげる笑い方はちょっとばかり気障《きざ》な感じがしたが、なにしろ二枚目なのでそれさえもかっこよく思える。
頭がクラクラした。
男なら誰《だれ》だってそうだと思うが、二枚目を見ると腹が立ってくる。ちくしょう、と思うもんだ。
やっぱり、ちくしょう、と思っていると、
「山に行ってたんだよ」
夏目先生がそう言った。
いや……夏目で十分だ。
心の中で、僕は彼の呼《よ》び名《な》を変えた。
先生なんてつけてやるもんか。
「学生時代からの趣味《しゅみ》でな。丸二カ月、山小屋に閉《と》じこもって、ずっとひとりで暮《く》らしてたんだ。それで、聞いてくれよ。ひどいんだぜ。山から下りてきた途端《とたん》、すぐさま当直《とうちょく》をやれって呼《よ》びだされちまってさ。なにしろ二カ月も山にいたから、風呂《ふろ》には入ってないし、ヒゲは剃《そ》ってないし、髪《かみ》は伸《の》び放題《ほうだい》だし、急患《きゅうかん》で来た子供に泣《な》かれちまったよ」
ははは、と夏目《なつめ》は笑った。
「当直が明けたら、さっそく風呂に入って、床屋《とこや》へ行ってきたんだ。なんか山猿《やまざる》から人間に戻《もど》った気がするな。おい、戎崎《えざき》、オレの言ってることわかるか? なーんでそんな怖《こわ》い顔でオレを睨《にら》んでるんだ?」
「いや、別に……」
なにが楽しいのか、夏目はニヤニヤ笑いつづけている。そして、すとんと僕の脇《わき》に腰《こし》を下ろした。どうやら煙草《たばこ》を吸うらしく、少しだけ煙《けむ》ったい匂《にお》いが漂《ただよ》ってきた。そうして隣《となり》で見ると、やっぱり三十は越《こ》えてるみたいだった。結婚して子供のひとりやふたりはいてもおかしくないくらいの年だろう。ただし、雰囲気《ふんいき》だけはやたらと若い。年寄《としよ》りくさくないっていう言い方が近いかもしれない。
学校にも時々、こんな教師がいる。ざっくばらんな性格《せいかく》で、教師っていうより兄貴《あにき》みたいな感じで、喋《しゃべ》るのがうまくて、たいてい女子生徒に人気がある。
僕はそういうタイプの教師が苦手《にがて》だった。
だから夏目も苦手に違《ちが》いない。
うん、きっとそうだ。
そうに違《ちが》いない。
「おまえ、里香《りか》に嫌《きら》われてるらしいな」
いきなり、ずばりと言われた。
「え? なんでそれを――」
「里香に愚痴《ぐち》られたんだよ。あいつ、本気で怒《おこ》ってたぞ。目に怒《いか》りの炎《ほのお》が燃えあがってたもんな。こう、メラメラって感じでさ。『男の子ってバカみたい!』なんて怒鳴《どな》ってたな。あいつ、怒るとおっかないだろ?」
「むちゃくちゃおっかないです」
僕はコクコクと肯《うなず》いた。
里香の怒《いか》り狂《くる》った目を思《おも》い浮《う》かべると、背筋《せすじ》が寒くなってきた。
「なにしろ、あの里香だからな」
それにしても、こうして夏目《なつめ》の声を聞いていると、やけに胸《むね》がむかむかする。なんだろうと考えてみたところ、すぐにわかった。夏目が里香の名前を呼《よ》び捨《す》てにしているからだった。他の男が、しかもこんな二枚目が、里香のことを呼び捨てにするなんて、ただそれだけで気にくわなかった。
「あの……里香のこと、知ってるんですか?」
「知ってるさ、もちろん。主治医《しゅじい》だからな」
「主治医? じゃあ……心臓の?」
そう尋《たず》ねると、夏目が意外《いがい》そうな顔をした。
「病気のこと、里香に聞いたのか?」
「はい」
ふーん、と夏目が唸《うな》った。
「珍《めずら》しいな。里香が病気のことを話すなんて」
「そうなんですか?」
「あいつとはわりと長いつきあいなんだ。静岡の病院にいたときからだから、もう五年……いや六年になるかな。あいつが自分の病気のことを他人に話すなんて、たぶん今まで一度もなかったんじゃないかな」
「はあ……」
「それに、もともとあの性格《せいかく》だろ? 今まで友達だってほとんどいなかったんだ。自分からそういうのを遠ざけてたっていうかさ」
夏目が嬉《うれ》しそうに笑った。
「だから、おまえがいてくれるのは、里香にとっていいことなんだ。病気のことを話せる相手がいるってのはな。あいつとはこれからも仲良くしてやってくれ」
それにしても、この人は本当に嬉《うれ》しそうに笑う。
僕は少し、考えを改《あらた》めた。
もしかすると、そんなに悪いヤツじゃないのかもしれない。
「友達[#「友達」に傍点]としてつきあっていくのは悪いことじゃないからな」
うん?
今、友達って言葉《ことば》を妙《みょう》に強く言った気がするぞ?
気のせいか?
「友達[#「友達」に傍点]ってのは大切だ。いろんなことを話したりできるからな。そりゃ恋人とは違《ちが》うし、恋人と友達[#「友達」に傍点]じゃ絶対《ぜったい》越《こ》えられない壁《かべ》があるけど、しょうがないよな。だって友達[#「友達」に傍点]なんだからな。男と女で友情が成り立たないってバカな説があるけど、ありゃ嘘《うそ》だ。だって、おまえと里香《りか》は友達[#「友達」に傍点]だろ。そうだろ」
なんか、だんだん腹が立ってきたぞ。
友達友達って、なんでそんなに連呼《れんこ》するんだ?
越えられない壁?
恋人じゃない?
僕と里香はただの友達なんかじゃないぞ……そりゃ、ちゃんと言葉にしてつきあおうって言いあったわけじゃないけどさ……とにかくそんな軽い関係じゃないっていうか……はっきりしたものはないけど……とにかくただの友達じゃない……と思いたい……。
気がつくと、僕は夏目《なつめ》を睨《にら》んでいた。
その視線《しせん》を受けながら、夏目は不敵《ふてき》に笑った。
「仲良くしてやってくれな、友達として[#「友達として」に傍点]」
さっき改めた考えを、また改めることにした。
やっぱり僕はこいつが嫌《きら》いだ。
すげえ嫌いだ。
4
世の中には理不尽《りふじん》なことが多い。本当に本当に多い。さすがに十七年も生きてると、そういう理不尽の数をいちいち数えたりしないし、まあ世の中そんなもんだよなあって諦《あきら》めたりもしている。
しかし、だ。
その理不尽が、目の前で、しかも盛大《せいだい》に繰《く》り広《ひろ》げられるとなると、少々話は違ってくる。人間の我慢《がまん》には限界《げんかい》というものがあって、限界があるからには、どうしても納得《なっとく》できないことだって出てくる。
「ほら、食べるぅ?」
「食べる食べる」
「もうっ、焦っちゃダメ」
「いいじゃん」
「だからっ、ダメだってばっ」
僕は今、むちゃくちゃ腹を立てている。あまりにも腹が立ちすぎて、目の前にある椅子《いす》を蹴《け》り倒《たお》してやりたいくらいだ。実際《じっさい》、さっきからその衝動《しょうどう》に駆《か》られ、二回くらい足を上げてしまった。まあ、どうにかギリギリで抑《おさ》えこんだけど。
僕の病室には今、四人の人間がいた。
ひとりめはもちろん僕。
ベッドに寝《ね》ころんで、いろんな感情を抑えこんでいる。
ふたりめは司《つかさ》。
ベッドの脇《わき》に突《つ》っ立《た》ち、曖昧《あいまい》に笑っている。
三人めは隣《となり》の病室に入院してる大学生。
僕がさっきから蹴り倒したいという衝動に駆られている椅子に座《すわ》り、ギプスをはめられた足をゴロンと投げだしている。
ああ、蹴り倒したい……。
四人めは、そいつの彼女。
大学生の脇に立ち、フォークに突《つ》き刺《さ》したケーキを食べさせてやっている。
「ほら、がっついちゃダメよ」
「早く食わせてくれよ」
「おいしいんだから、味わって」
女が差しだしたケーキに、大学生がかぶりついた。ああ、うまい、と甘《あま》えたような声で言う。女のほうが満足そうに笑った。その笑《え》みを、今度は僕と司に向ける。
「ありがと、君たち。よかったのかしら、お呼《よ》ばれしちゃって」
苛立《いらだ》ちを抱《かか》えたまま、けれど僕は笑った。
「もちろんですよ。なあ、司」
そして司を思いっきり睨《にら》みつける。
司は目を瞬《またた》かせながら肯《うなず》いた。
「う、うん」
コクコクと、トラの首振《くびふ》り人形みたいに肯いている。
と、大学生が実に朗《ほが》らかな声を出した。
「いやあ、これ、マジでうまいね。ほんとに君が焼いたの? 男なのにケーキを焼くなんて変わってんね。――おい、弓子《ゆみこ》、早く食わせろよ」
「じゃあ、あーんして」
「あーん」
殺す。僕は心の中で呟《つぶや》いた。そして、この悲惨《ひさん》な状況《じょうきょう》を招《まね》いた司《つかさ》をまた睨《にら》みつけた。
お菓子《かし》作りが趣味《しゅみ》の司は、見舞《みま》いと称《しょう》しつつ、いつも自分が焼いたケーキやらクッキーやらを持ってくる。僕は甘《あま》い物がわりと好きなので、司の見舞い(と見舞い品)を歓迎《かんげい》していた。中には失敗作もあるが、司はほんとお菓子作りがうまいんだ。
ところが、だ。
いつものように見舞い品を持った司が病室にやってきたとき、僕はちょうど夏目《なつめ》と屋上《おくじょう》で話していた。もちろん、病室は空《から》っぽである。誰《だれ》もいない病室でケーキを持った司が途方《とほう》に暮《く》れていたところ、隣《となり》のカップルが偶然《ぐうぜん》前を通りかかった。そして司は彼らに話しかけられた。司はよく人に話しかけられる。なんというか、人に警戒心《けいかいしん》を抱《いだ》かせない雰囲気《ふんいき》をしてるからだろう。いつだったか、駅前でバスを待っていたら、どこかの知らないお婆《ばあ》ちゃんに話しかけられ、なぜか『伊勢《いせ》名物|七越《ななこし》ぱんじゅう』を十個も貰《もら》っていたことがあった。
いつまでたっても僕が帰ってこないので、司はカップルとの世間話《せけんばなし》の末に、
「あの、ケーキ食べますか?」
と言ってしまったらしい。
それで、僕が怒《いか》りに燃えつつ――もちろん夏目に対する怒りだ――病室に帰ってきたとき、カップルはいちゃつきながらケーキを食べていたというわけだった。
恋は盲目《もうもく》、なんていうけれど、まさしくそのとおりだ。
僕と司がそばにいるのに、(バ)カップルはふたりっきりの世界に突入《とつにゅう》していた。
「おいしい?」
「うん、うまい」
「もっと食べたい?」
「食べたい食べたい」
「ケーキだけでいい?」
「おまえ、それは……子供の前でまずいだろ。なははは」
「もうっ、やだっ。孝《たかし》君のえっち」
耐《た》えきれなくなって、思わず声が出ていた。
「あのっ」
(バ)カップルがふたりそろって、僕のほうを向く。彼らの口元には、いちゃついていたときの笑《え》みがそのまま残っていた。むちゃくちゃ幸せそうだった。たとえバカに見えようが、実際《じっさい》に(バ)カップルであろうが、その幸福感がドサドサ出ているであろう脳内《のうない》麻薬《まやく》物質《ぶっしつ》の働きによるものであろうが、とにかく幸せなのだった。
ふたりの笑顔《えがお》を見ていたら、残りの言葉《ことば》が出てこなくなった。沈黙《ちんもく》が続く。一秒、二秒、三秒――。
司《つかさ》がゴクリと音をたてて、息《いき》を呑《の》んだ。
「おふたりはどうやって知りあったんですか?」
気がつくと、僕はへらへら笑いながら、そう尋ねていた。
結局《けっきょく》、およそ数十分にわたってノロケ話を聞かされることになった。話すだけ話して、自分たちの幸福をたっぷり確認した(バ)カップルは、相変わらずいちゃつきながら自分たちの病室に戻《もど》っていった。
そして、僕の病室には、僕と司だけが残された。
「ご、ごめん」
すぐさま、司が謝《あやま》った。
「裕一《ゆういち》、帰ってこないと思ったから、つい誘《さそ》っちゃったんだ」
僕は天井《てんじょう》の模様《もよう》を眺《なが》めながら言った。
「いいよ、気にすんなって」
「あ、あのさ」
「なんだよ」
「裕一、さっき怒《おこ》りだすかと思ったよ」
「ああ、まあな」
実際《じっさい》、怒鳴《どな》りかかっていた。
「どうして怒らなかったの」
「いや、幸せなんだなって思ってさ」
「幸せ?」
「ふたりとも笑ってただろ。オレたちがいるのに、あんなにいちゃついてさ。できねえよな、ああいうの」
司は肯《うなず》くと、椅子《いす》に腰《こし》かけた。
「そうだね。普通《ふつう》はみっともなくてできないよね」
違《ちが》う。
そういう意味じゃない。
自分でもよくわからないけれど、ふたりの笑顔《えがお》を見ていたら、そういう幸せがとても貴重《きちょう》に思えてきたのだった。そして、そんな貴重な瞬間《しゅんかん》を、邪魔《じゃま》したくなくなった。うらやましいってわけじゃないし、あやかりたいってわけでもない。自分のことなのに、それがいったいどういう気持ちなのかよくわからなかったけど……とにかく、そのままにしておきたくなったのだった。
そういうことを司《つかさ》に話してみようかと思ったが、やめておくことにした。
言ったって、なにがどうなるもんじゃない。
伝《つた》わるかどうかもわからない。
もし言葉《ことば》の奥底《おくそこ》に宿るものをそっくりそのまま伝えられるのなら、僕はたぶん、大学生にこう言っていたはずだ。あんたの病室にちょっと前まで多田《ただ》さんっていうジイサンがいたんですよ、このジイサンが食えない人で、しかもエロジジイで、ベッドの下に、ほら、あんたが寝《ね》てるベッドの下に、山のようにエロ本を隠《かく》してたんです――。
話しても伝わらないだろう。
僕の言いたいことは言葉と言葉のあいだに埋《う》もれてしまうだろう。
だから僕は話さない。
伝わらないこと、伝えられないこと、そんなものは心に放《ほう》りこんでおくんだ。やがて、それは心の奥底に消えてしまう。そして二度と戻《もど》ってこない。
そのほうがいいんだ、きっと。
「学校のほうはどうだ?」
僕は適当《てきとう》に話を変えた。
「なんか変わったこととかないか?」
「うーん、別にないよ。三学期ってつまらないよね。文化祭とか体育祭とか、そういうイベントがまったくないしさ。そういや、裕一《ゆういち》、まだ退院《たいいん》できないんだよね。単位とか大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
「ヤバい」
汗《あせ》がたらりと流れた。なにしろ、僕はすでに三カ月近く入院してる。しかも、このままだと、あと一カ月は入院生活が続く可能性《かのうせい》がある。当然出席日数は足りないし、受けてない授業の内容なんてわかるわけもない。
「担任《たんにん》の川村がちょっと前に来て、さんざん脅《おど》された」
「じゃあ……ダブり?」
ダブり。
留年《りゅうねん》。
落第《らくだい》。
なんて恐《おそ》ろしい言葉だろう。
「本当なら、もうダブり決定なんだってさ。ほら、出席日数がどうしようもなく足らないだろ? でも原因が病気だから、救済《きゅうさい》措置《そち》があるらしい。全科目のレポートを提出《ていしゅつ》して、それからテストで合格点を取ったら、なんとか進級させてくれるって」
「よかったね」
まるで自分のことのように、司《つかさ》は嬉《うれ》しそうな顔をした。
「じゃあ、いっしょに三年になれるんだ」
その言い方に、
『おまえは小学生の子供か!』
と突《つ》っこみたくなった。
でも、もちろん僕は突っこまなかった。僕は司のこういうところが好きだった。司だって、僕と同じ年月を生き、僕と同じくらい嫌《いや》な目にあったり、世間《せけん》ってヤツに小突《こづ》きまわされたりしているはずなのに、こんなに無垢《むく》な言葉《ことば》をためらいもせず言えるんだ。
僕には絶対《ぜったい》に無理《むり》だった。
だから僕は司が好きだ。プロレスラーみたいな身体《からだ》をしていて、女の子に好意《こうい》を寄《よ》せられてるのに気づきもしないで、ただ星のことやケーキのことを熱心に語り、子供のように笑う司が好きだった。
もちろん、そんなことを口にしたりはしない。
男には、言えることと、言えないことがある。
そして、大切であるがゆえに、言うべきじゃない言葉も。
「きっついって! 全科目のレポートだぜ!」
だから僕はわざと、大きな声でそう言って嘆《なげ》いた。
「しかも、そのあとにテストまであるし!」
「頑張《がんば》れば大丈夫《だいじょうぶ》だよ。いっしょに三年になろうよ」
おう。
胸《むね》の中でだけ、大声で言っておく。
いっしょに三年になろうぜ。
僕はそれからも、ぶちぶちと進級の大変《たいへん》さを愚痴《ぐち》った。司はニコニコ笑いながら、その愚痴を聞いてくれた。
やがて、その司が、なにかを思いだしたような顔をした。
「あ、そうだ。これ、山西《やまにし》君から渡《わた》してくれって言われたんだ」
そう言って、自分のカバンに手を突っこむ。
「なんだ? MDか?」
司がその大きな手で差しだしてきたものは、オレンジ色のMDだった。
「お詫《わ》びだって。よくわかんないけどさ」
「へえ、意外《いがい》と律儀《りちぎ》なんだな山西って」
里香《りか》を怒《おこ》らせてしまったことに対する詫びなのだろう。それにしても、本当に律儀なヤツだ。怒《いか》りにまかせて一発|殴《なぐ》ってしまったのに、怒りもせず詫びてくるとは。
「山西君、すごかったんだって」
「え? すごいって、なにがだ?」
「東高の悪いヤツとケンカしたんだってさ。五人に囲《かこ》まれて脅《おど》されたのに、ひとりで立ち向かったって話だよ。頬《ほお》に殴《なぐ》られた痣《あざ》とかあって、すっごく痛々《いたいた》しかったなあ。僕、山西《やまにし》君って調子《ちょうし》がいいだけの人だと思ってたけど、けっこう勇気があるんだね」
ちょっと待て。
「司、山西の殴られた痣って右か? 左か?」
「え、左だよ」
間違《まちが》いない。
僕が殴った痣だ、それは。
「もしかして、山西って男気《おとこぎ》があることになってんのか?」
「そうだね。周《まわ》りの見る目が変わったって感じがするかなあ」
「…………」
「どうしたの、裕一《ゆういち》?」
僕は手の中のMDをまじまじと見つめた。
山西よ。
これはお詫《わ》びじゃなくて、口止めなのか?
5
なにを考えているのかさっぱりわからないが、山西がくれたMDにはアニソンが入っていた。ヘッドフォンから聞こえてくる熱《あつ》い歌声を聴《き》きながら、僕は頭を抱《かか》えた。なあ、山西、なんでアニソンなんだ?
GO! GO! GOGOGOOOOO!
ゆ〜け〜!
戦え〜!
ぶぅとばせえええ〜!
勝つんだ!
負けるな!
ぶぅとばせえええ〜!
ああ、アニソンだよ。見事《みごと》なアニソンだ。しかもこれは十年くらい前の名曲アニソンだ。その素晴《すば》らしいシャウトに頭が痛くなってきたが、もしかするとなにか意味があるのかもしれないと思い、我慢《がまん》して聞きつづけた。
二曲目もやはりアニソンだった。
そして三曲目。
途中《とちゅう》で、とめた。
「…………」
プレイヤーから、オレンジ色のMDを取りだす。ゴミ箱に向かって投げる。MDは壁《かべ》に当たり、そのあとゴミ箱に見事《みごと》に入る。カラ――ンと乾《かわ》いた音が響《ひび》く。
世の中、ほんとわけのわからないことが多い。
たとえば夏目《なつめ》。
あんな二枚目で、あんな性格《せいかく》が悪くて、その上、里香《りか》の主治医《しゅじい》だなんて。
たとえば山西《やまにし》。
あんな調子《ちょうし》がよくて、あんな軽くて、その上、人気|上昇中《じょうしょうちゅう》だなんて。
たとえばMD。
まさかこんな曲が入ってるなんて。
窓の外を見ると、まるで春のような光が降《ふ》り注《そそ》いでいた。僕はぼんやりその光を見つめつづけた。そういえば、あのときも冬だった。そしてこんな光が降り注いでいた。痛《いた》みに耐《た》えながら這《は》いつくばっていたとき、冬なのに背中《せなか》が温《あたた》かかったっけ。
昔話をしよう。
そう――。
昔話だ。
一度だけ、父親と殴《なぐ》りあいのケンカをしたことがある。父親が死んだのは僕が十四のときで、つまりは三年前の出来事《できごと》だった。殴りあいのケンカをするには、それなりに力の拮抗《きっこう》というものが必要《ひつよう》になる。十歳と大人では、たとえどれほど憎《にく》みあっていたとしても、殴りあいにはならない。一発殴られたら、それで終わりだ。
僕はそういうことをよく知っている。
なぜなら、この身体《からだ》で味わってきたからだ。
九歳のとき――。
平手《ひらて》で叩《たた》かれて鼻血《はなぢ》を流して終わりだった。
十歳のとき――。
一年前と大差なし。
十一歳のとき――。
春ごろから、僕はわりと身長が伸《の》びた。それまで掴《つか》まることさえもできなかった一番高い鉄棒《てつぼう》に掴まれるようになったし、その鉄棒で逆上《さかあ》がりだってできるようになった。ちょっと言い争ったとき、だから僕は息巻《いきま》いて父親に挑戦《ちょうせん》した。でもやっぱり平手打《ひらてう》ち一発で終わりだった。
このころまで、僕は悪戯《いたずら》をして親に叱《しか》りとばされる子供以上のものじゃなかった。ただの悪ガキ、と言っていい。
そうして、僕は鬱屈《うっくつ》しながら十四歳になった。
この年、父親が本当にひどいことをした。母親が一カ月かけて稼《かせ》いできたパート代を残らず競馬《けいば》に突《つ》っこんだのだ。もちろん父親は負けた。それはそれは見事《みごと》な負けっぷりだった。一カ月分の生活費をたった七レースで消費《しょうひ》されてしまった母親は目を腫《は》らして泣《な》いた。奥《おく》の座敷《ざしき》で背中《せなか》を丸めているその姿《すがた》を見ているうちに、なにか言いしれぬものが僕の中にわきあがってきた。
言っておくが、僕はマザコンなんかじゃない。
むしろ母親なんて鬱陶《うっとう》しいと思ってるくらいだ。
まあ、僕の年くらいの男なら、誰《だれ》だってそうだろ?
だからその怒《いか》りがなんなのか僕自身でもよくわからなかったけれど、とにかく怒りを発露《はつろ》させるのに怒りの根源《こんげん》がなにであるか探《さぐ》る必要《ひつよう》などないわけで、というより探りようがないわけで、僕は早足で父親のもとへ向かった。
父親は狭《せま》い庭で煙草《たばこ》を吸っていた。
僕はそのころ、父親のことを『親父《おやじ》』とか『お父さん』とか、ましてや『パパ』なんて呼《よ》んだりなんてしなかった。だいたい「なあ」とか「おい」ですませていた。
だからそのときも、いつものように、
「なあ」
と言った。
父親はその薄汚《うすよご》れた目で、僕を見た。
「なんだよ」
「金、返せよ!」
僕は怒鳴《どな》っていた。
そんなつもりはなかったのに、気がついたら声が大きくなっていたのだった。
「返せって!」
「ねえよ、んなもの。すっからかんだ」
「自分が使ったんだろ!」
「だから、ねえ」
「返せよ!」
父親が煙草《たばこ》を地面に投げ捨てた。あのクソ親父《おやじ》の脳《のう》みそにはマナーなんて言葉《ことば》はなく、いつもそこらに煙草を捨てるのだった。
「なんだ、おい」
そう言う父親の声は低くなっていた。
「親になんて口きくんだ」
自分でも意外《いがい》なことに、怒《いか》り狂《くる》いながらも、頭の一部分だけが妙《みょう》に冷静《れいせい》だった。そのころ僕は急に身体《からだ》が大きくなって、声変わりもすんでいた。とはいえ、それでも父親に比《くら》べればまだずいぶん小さくて、腕《うで》なんて半分くらいの太さしかなかった。まともにやったら、ボコボコにされるのは見えていた。
奇襲《きしゅう》しかない――。
頭のどこか、その冴《さ》えた部分で、僕は思った。父親はズボンのポケットに両手を突《つ》っこんでいる。僕を舐《な》めきっているんだ。今しかなかった。
父親が手をポケットから抜《ぬ》こうとした瞬間《しゅんかん》、僕は縁側《えんがわ》から跳《と》んでいた。
「うあああ――っ!」
乾坤一擲《けんこんいってき》のドロップキックだった。
それは自分でもびっくりするくらい、うまくいった。縁側を蹴《け》った両足をピンと伸《の》ばし、身体もまたピンと伸ばし、その跳躍《ちょうやく》した力のすべてを僕はひとつの矢と変え、父親の腹へと突《つ》き立《た》てていた。完全な不意打《ふいう》ちだった。爪先《つまさき》が父親の腹にめりこみ、なにかを潰《つぶ》したような音がその口から漏《も》れた。
もちろんきれいに着地することなんてできるわけがなく、僕は思いっきり地面に叩《たた》きつけられた。飛び石に肘《ひじ》をぶつけたが興奮《こうふん》状態《じょうたい》だったのであまり痛《いた》さを感じなかった。僕はすぐさま起きあがった。父親はタフな男だ。すぐ戦闘《せんとう》態勢《たいせい》を取らなければ、蹴りの一発や二発は飛んでくるはず――。
けれど、蹴りは飛んでこなかった。
パンチも来なかった。
父親は腹を抱《かか》え、うずくまっていた。
自分の口から漏れた声を、今もはっきり覚《おぼ》えている。
「えっ?」
ひどくマヌケな声だった。
あまりにも意外《いがい》な光景を目にした僕は、その場に立ちつくしてしまった。今まで僕の攻撃《こうげき》が父親にヒットしたことは一度もなく、その記念すべき最初の一撃《いちげき》がいきなり父親をノックアウトしてしまったのだった。あまりにも予想外《よそうがい》で、意外《いがい》で、望外《ぼうがい》で法外《ほうがい》な状況《じょうきょう》だった。
そして僕はどうしようもないミスをおかしてしまった。
父親が立ちあがるまで、立ちつくしたままだったのだ。
やがてゆっくり立ちあがった父親は、僕をぎろりと睨《にら》んだ。その目には怒《いか》りの炎《ほのお》がメラメラと燃えており、まるで猛《たけ》り狂《くる》った雄牛《おうし》みたいだった。その目に射《い》すくめられた瞬間《しゅんかん》、僕は足が動かなくなってしまった。身体中《からだじゅう》にブワッと汗《あせ》が噴《ふ》きあがった。逃《に》げたい、そう思うのにまるで足は動かない。逃げろ、おい、逃げろ。逃げろって。父親が一歩、二歩、と近寄《ちかよ》ってくる。逃走《とうそう》か闘争《とうそう》を選ぶべきなのに、やっぱり僕は動けず、立ちつくしたままだった。足だけじゃなくて、心が動いていなかった。
ドン、と衝撃《しょうげき》が来た。
いきなり顔を殴《なぐ》られたのだった。痛《いた》さは感じず、ただ頭がクラクラした。また衝撃が来た。今度は頬《ほお》がむちゃくちゃ痛くなった。さらに衝撃が来た。腹を殴られたのだった。これはもう、本当に苦しかった。息《いき》ができなくなって、ヒイヒイという声だけが喉《のど》から漏《も》れた。僕は許《ゆる》しを請《こ》うように父親を見つめたが、父親の目にはまだ怒りが宿っていた。逃げだそうとしたら、襟首《えりくび》を掴《つか》まれた。父親は本気で怒《おこ》っていたんだ。それから殴って殴って殴られまくった。頭を、頬を、腹を、次々殴られた。立っていられなくなって倒《たお》れると、父親は足で蹴《け》ってきた。蹴られながら、僕は泣《な》いた。痛かったせいなのか、それとも情《なさ》けなかったせいなのかわからなかったけれど、涙《なみだ》が次々|溢《あふ》れてきてとまらなかった。
父親はどれくらい僕を蹴っていたんだろう。僕には一時間にも二時間にも感じられたけれど、実はほんの数分だったのかもしれない。父親はなんだかはっきりしない言葉《ことば》を吐《は》き捨《す》てたあと、背中《せなか》を揺《ゆ》すりながらどこかへ立ち去っていった。
僕が子供のころ毎週|観《み》ていたアニメの主題歌を歌いながら――。
音程《おんてい》が外《はず》れまくったその歌声が遠ざかっていき、ついに聞こえなくなったとき、僕は心の底《そこ》からほっとした。もうこれ以上、殴られることはないと思うと、急に痛みがひどくなった。口の中が切れて、血の味がした。土が入ってしまったらしく、土の煙《けむ》ったい味もした。立ちあがって、僕は血と土でドロドロになった顔や手足を洗った。水が傷口《きずぐち》に沁《し》みて、むちゃくちゃ痛かった。上着を脱《ぬ》いだとき、また涙がだらだら溢れてきた。
僕はまるで小さな子供みたいに泣いた。
そのとき、僕の頭に浮《う》かんでいたのは、殴られていた僕自身の姿《すがた》ではなく、背中《せなか》を丸めていた母親の姿でもなく、僕の蹴りが決まって痛みにうずくまっていた父親の姿だった。
気がつくと病室は闇《やみ》に沈《しず》んでいた。もうすぐ夕食の時間だ。腹が減《へ》った。病院のご飯は全然おいしくないけれど、それでも腹が空《す》けば食べたいと思う。人間なんて、そんなものだ。喉が渇《かわ》けば、きっと泥水《どろみず》だってグビグビ飲んでしまうんだろう。
ペタペタと足音が聞こえる。
看護婦《かんごふ》さんだ。
ふたり並《なら》んで歩いている。
「志賀《しが》さんの検温《けんおん》すんだ?」
「まだ。あの人、気をつけないとごまかすのよ」
聞こえたのはそれだけで、すぐに声も足音も遠ざかっていく。
しばらくして、またペタペタと足音が聞こえる。
この歩き方は亜希子《あきこ》さんだ。
「内田さ――んっ! それ食べ物じゃないから――っ!」
かなり苛立《いらだ》っているらしく、声が大きい。
「あ――っ! このクソジジ……おじいちゃんっ! それ食べちゃダメ――っ!」
なにもかもが幻《まぼろし》のように思える。
現実感がぐらつく。
足の先に柔《やわ》らかい感触《かんしょく》が蘇《よみがえ》ってきた。父親を蹴《け》ったときの感触だった。あれから三年がたったというのに、その感触は今も残っている。殴《なぐ》られた痛《いた》みも、噛《か》みしめた血の味も、情《なさ》けなさも、うずくまる父親の背中《せなか》も……あのときのことはみんなみんな心に残っている。
僕はベッドから降《お》りると、ドアの脇《わき》まで行って、明かりをつけた。
ゴミ箱の中でMDが、父親があの時歌った曲の入っているMDが、その蛍光《けいこう》シールをキラキラ光らせていた。
6
ちょっと考えてみよう。
もし自分が深い深い山奥《やまおく》で暮《く》らしているとしたら、その生活はどんなものだろうか。熊《くま》やイノシシやサルと楽しい生活? ありえない。そんなのはディズニー映画の中だけだ。熊には襲《おそ》われるだろうし、イノシシは逃《に》げまわるだろうし、サルには小馬鹿《こばか》にされるだけだ。
前に『モスキートコースト』って映画を観《み》たことがある。
自然かぶれの父親がジャングルに移住《いじゅう》すると言いだし、実行し、それに巻《ま》きこまれた家族がさんざん苦労《くろう》するって話だった。結局《けっきょく》、父親は狂《くる》い死《じ》にして、家族は文明社会へと戻《もど》っていく。
主義《しゅぎ》?
主張?
確かに必要《ひつよう》なものかもしれないけれど、それがいつもいつもいい方向に働くってわけじゃない。そのせいで、ひどい目にあうことだってある。
適当《てきとう》にやるのが一番ってことだ。
まあ、適当にやってれば、適当にいいことも悪いこともあるだろうし、適当によすぎることはないだろうし適当に悪すぎることもないだろう。
たぶん、だけど。
僕は今までそんなふうに思ってきたし、だいたい想像《そうぞう》どおりの人生を送ってきた。さして輝《かがや》きに満ちてはいないけれど、悪いことばっかりでもなかった。つまらなくて退屈《たいくつ》で楽しくてそこそこ笑える生活をすごしてきた。
でも、今回ばっかりは最悪だった。
相変わらず里香《りか》は僕を避《さ》けている。廊下《ろうか》で会ったら背《せ》を向けるし、こちらから話しかけようとすると聞こえない振《ふ》りをする。それでも追《お》いすがったら、肘打《ひじう》ちを喰《く》らった。派手《はで》に呻《うめ》いてみたんだけど、里香はまったく気を遣《つか》ってくれず、そのまま立ち去ってしまった。
まったく、ひどいもんだった。
最悪だ。
最低だ。
というわけで、僕は今日もまた、どうやったら里香に許《ゆる》してもらえるかということを考えていた。このことは毎日毎日、だいたい一日当たり二十四時間ほど考えている。それだけ考えればなにかいい知恵が出そうなものだけれど、これが全然出てこないのだった。
僕はバカなのかもしれない。
そういや、里香にも罵《ののし》られたなあ。
「裕一《ゆういち》のバカ!」
実に可愛《かわい》らしい声で、そう言うんだ。
「あんたってバカ?」
怒《おこ》る顔が、また可愛いいんだ。
僕は屋上《おくじょう》で日向《ひなた》ぼっこをしていた。風が少し冷たい。もうすぐ寒波《かんぱ》が来るそうだ。病院にいると本当に暇《ひま》なので、ついテレビの天気|予報《よほう》ばっかり観《み》てしまう。朝のNHKのニュースってのは、もう何度も何度もお天気情報を流すのだった。僕は他のチャンネルの、芸能ネタとかもやるような軽いニュースを見たいのだが、なにしろロビーにあるテレビのチャンネル権を握《にぎ》っているのは古株《ふるかぶ》のジイサンたちなので、どうしようもないのだった。
ああ、それにしても眠《ねむ》い。
「ふああ〜〜〜」
欠伸《あくび》をすると、僕は教科書を広げた。
とにかく少しでも勉強をしておかないと、このままじゃ進級が危《あや》うい。まず第一の関門《かんもん》はレポートだ。なにか文章にまとめやすいところを見つけないと。
パラパラ教科書をめくっていると、頭上《ずじょう》から声が降《ふ》ってきた。
「へえ、偉《えら》いじゃん。勉強?」
顔を上げると、そこに亜希子《あきこ》さんが立っていた。
すでに火がついた煙草《たばこ》を口にくわえている。
「煙草、やめたほうがいいですよ。身体《からだ》に悪いから」
「え? なにか言った?」
「痛《いた》い痛い痛い――っ! や、やめてください――っ!」
背中《せなか》を思いっきり踏《ふ》まれ、僕は身をよじった。亜希子さんは爪先立《つまさきだ》ちで、しかも膝《ひざ》をグッと曲げて、その全体重を僕の背中にかけていた。
「な、なにすんですかっ!? 看護婦《かんごふ》のくせにっ!」
どうにか逃《のが》れ、叫《さけ》ぶ。
亜希子さんはニヤニヤ笑いながら、くわえ煙草を吹かしていた。
「あ? どしたの?」
「だからっ――」
「なにか言いたいことでも?」
亜希子さんの目が剣呑《けんのん》に輝《かがや》く。なんというか、実に楽しそうで、生き生きしている。たぶん亜希子さんは僕を虐《いじ》めるのが趣味《しゅみ》なんだろう。なんて看護婦だ。
悔《くや》しいので、うははと笑っておいた。
「なんにもないですよ。言いたいことなんて」
「あ、そう。あたしは心が広いから、言いたいことがあったら、なんでも言っていいんだよ」
「いやあ、ないですって。うはははは」
「そりゃよかった。ははははは」
僕たちは大声で笑った。
やけになって、笑ってやった。
「ねえ、裕一《ゆういち》」
「はい」
今度はなんだろう。
僕は身を固《かた》めた。
さすがにいきなりヤンキーキックはないと思うが……。
「あんた、まだ里香《りか》とケンカしてんの?」
「…………」
「ああ、してるんだ」
「…………」
「里香《りか》も強情《ごうじょう》だねえ。あんたくらいのクソガキがエロ本の一冊や二冊|隠《かく》し持《も》ってるのなんて当たり前なんだから、許《ゆる》してやりゃいいのにね」
そう!
そのとおりだ!
もっとも隠し持っているのは一冊や二冊じゃないんだけど……。
「ただ、あの子もちょっと参《まい》ってるみたいだよ」
「え? 参ってるって……里香がですか?」
亜希子《あきこ》さんが肯《うなず》いた。
「あの子、あんまり感情を表に出さないから、はっきりとはわからないんだけどね。きつい検査《けんさ》とかが続いて辛《つら》いときなんかも全然辛そうな顔しないし、逆《ぎゃく》に嬉《うれ》しいことがあってもたいして喜ばないしさ。なのに、あんたとケンカしてからはちょっと落ちこんでるように――」
「あの、亜希子さん」
「なんだよ」
「感情を出さないって言いました? 里香のことですよね、それ?」
「そうだよ」
「思いっきり怒《おこ》ったり笑ったりしますよ?」
亜希子さんが目を瞬《またた》かせた。
「ほんとに?」
「はい」
怒《いか》り狂《くる》う里香がどれだけ恐《おそ》ろしいことか。そう、なんといっても、亜希子さん以上に恐ろしいのだ。亜希子さんより怖《こわ》い女なんて、僕は里香しか知らない。泣《な》くわ喚《わめ》くわ、文句《もんく》言いまくるわ、とにかく里香は感情|爆発《ばくはつ》の少女なのだった。
へえ、と亜希子さんが呟《つぶや》いた。
「あんた、――されてるねえ」
「は?」
なにを言ったのか、よく聞き取れなかった。
「いやいや、こっちの話」
亜希子さんはごまかすように、早口で言った。
「それより、もうそろそろかな」
そして、時計を見る。
「なんかあるんですか?」
「里香、午後の点滴《てんてき》のあと、ここに来ると思うよ。あたしが呼《よ》びだしておいたからさ。いいかい、今度はうまくやるんだよ。あの子はあんまり走れないから、とりあえず手すりの辺《あた》りに来るまでどこかに隠れてて、それから、ほら、入り口に立ちはだかるような感じで出ていけば、この前みたいに閉めだされたりしないだろ」
「あ、亜希子《あきこ》さん……」
「それで、土下座《どげざ》でもなんでもして謝《あやま》っておきな。あたしの勘《かん》だけどね、里香《りか》もあんたと仲直《なかなお》りしたがってると思うよ。だから、あんたが土下座して、涙《なみだ》でも流して、まあ百年ずっと下僕《げぼく》になるとか言えば許《ゆる》してくれるんじゃないかな」
ニヤリと笑うと、亜希子さんは吸いきった煙草《たばこ》を携帯用《けいたいよう》の灰皿《はいざら》にしまい、屋上《おくじょう》を去っていった。僕はその背中《せなか》に手をあわせた。ありがとう、亜希子さんっ! 亜希子さんは天使だっ! 神様だっ! 仏様だっ!
僕はしばらく信じられない気持ちで立ちつくしていたが、ふと我に返った。
どこかに隠《かく》れなければ。
慌《あわ》てて辺《あた》りを見まわし、とりあえず給水塔《きゅうすいとう》の脇《わき》に身を潜《ひそ》ませた。陰《かげ》になって寒かったが、そんなことを言っている場合じゃない。
そうして五分くらいたったころ、ドアの開く音がした。
里香が来た!
絶対《ぜったい》に失敗は許されない。とにかく、土下座して、涙を流して、コンクリートに額《ひたい》をごしごし押《お》しつけて、許してもらうのだ。百年下僕に徹《てっ》すると誓《ちか》ってでも許してもらうのだ。
耳を澄《す》ますと、足音が聞こえた。
あちこち歩きまわっている。きっと、亜希子さんを捜《さが》しているんだろう。だんだんと、その足音が近づいてきた。息を呑《の》み、タイミングを計《はか》る。あと、少し。一歩、二歩、三歩――。
今だ!
僕は飛びだすなり、コンクリートに這《は》いつくばった。
「里香! ごめん!」
顔を上げる。
夏目《なつめ》がいた――。
どれくらい沈黙《ちんもく》が続いたのか僕にはよくわからない。
僕は呆《ほう》けたように夏目の顔を見つめつづけ、夏目もまた呆けたように僕の顔を見つめつづけていた。
最初に我に返ったのは夏目のほうで、
「おまえ、なにしてんの?」
と呆《あき》れたように言った。
僕は顔を真っ赤にしながら、立ちあがった。
「……なんでもないです」
くそお、こんなヤツに土下座《どげざ》してしまった。
「いきなりなにかが這《は》いつくばったから、びびったよ。そうだ、戎崎《えざき》、いいもの見せてやろうか」
「なんですか」
「おら」
と言って夏目《なつめ》が取りだしたのは、なんと輸入物のエロ本だった。もうどぎついというか、凄《すさ》まじいというか、あまりの大胆《だいたん》さに思わず目を逸《そ》らしてしまったほどだった。
「これ、おまえにやるよ」
「え? そんな別にいらない――」
「いいからいいから。貰《もら》っておけって。年上の好意《こうい》は受けるもんだぞ」
やけに夏目は早口だった。呆然《ぼうぜん》とする僕に本を押《お》しつけ、慌《あわ》てて去っていく。いったいなにをしにきたんだろう。とにかく、僕の手には、とんでもなくどぎついエロ本だけが残った。
まあ、本というのは、めくってみたくなるものだ。
そうだろ?
部屋《へや》の掃除《そうじ》とかしてると、買ったのに読まなかった本が出てくることがある。そういうとき、僕は本に申《もう》し訳《わけ》ないような気持ちになる。買われたのに読まれないなんて、本にとっては実に哀《かな》しい出来事《できごと》だろうから。
そう、そういうことだったんだ。
別に見たいわけじゃなかったんだ。
僕はつい、ページをめくった。
そのときだった。
足元に影《かげ》が落ちた。ほっそりとした影だった。僕はさして深く考えることなく、反射的《はんしゃてき》に顔を上げた。
里香《りか》がいた。
そこに。
僕はその瞬間《しゅんかん》、なにもかも悟《さと》った。なぜ夏目があんなに慌てていたのか、なぜこんな本を持ってきたのか、そしてなぜ僕に押しつけていったのか。夏目のバカはきっと、亜希子《あきこ》さんの計画を知っていたのだろう。
もちろん、なによりも深く悟ったのは、僕自身のバカさ加減《かげん》だった。
里香が来ることはわかっていたのに、なにをめくっているんだ?
バカか、おまえは?
「り、里香!」
僕はエロ本を投げ捨て、叫《さけ》んだ。
「ち、違《ちが》うんだって!」
しかし里香《りか》は無表情のまま、くるりと背《せ》を向け、歩きだした。僕はその背中に追《お》いすがったが、見事《みごと》な肘打《ひじう》ちを腹に喰《く》らい、足取りが鈍《にぶ》った。そのあいだも里香はどんどん歩いてゆく。僕は痛《いた》みをこらえながら里香に追いつこうと走ったが、その目の前でドアがバタンと閉まった。
ガチャン――!
続いてそんな不吉《ふきつ》な音がした。僕は慌《あわ》てて、ドアノブに手をやった。まわそうとするが、まわらない。ガチン、と引っかかる。やられた。また鍵《かぎ》をかけられたのだ。強引《ごういん》にノブを引《ひ》っ張《ぱ》った。開かない。蹴《け》った。足が痛くなった。殴《なぐ》った。拳《こぶし》が痛くなった。
僕は立ちつくした。
日はすでに傾《かたむ》き、風が冷たくなりはじめていた。
「嘘《うそ》だろ……」
そういえば、今年一番の寒さ更新《こうしん》だと、朝のお天気キャスターが叫《さけ》んでいたっけ。
7
僕は手すりに手をかけ、その向こうを覗《のぞ》きこんでいる。どうにか下の階のベランダに下りら
れないかと考えながら。ちょうど胸《むね》の高さの手すりを乗《の》り越《こ》えると、一メートルほどの張《は》りだしに跪《ひざまず》き、その向こうを確かめる。切り立ったコンクリートの壁《かべ》に息《いき》を呑《の》む。冬の冷たい風に、手が、心が、冷たくなる。
φ
ドタドタドタ――。
秋庭《あきば》里香《りか》は階段を駆《か》け下《お》りている。その足音が、空間に大きく響《ひび》く。夕日の赤い輝《かがや》きが天井《てんじょう》付近《ふきん》にある窓から斜《なな》めに射《さ》しこみ、階段を、壁を、少女を、赤く染《そ》めている。少女の影《かげ》がそんな赤い光の中に長く長く伸《の》びている。少女の髪が踊《おど》る。ふわふわと、ゆらゆらと、まるで彼女の儚《はかな》い命のように踊っている。少女が呟《つぶや》く。バカ、あのバカっ。その目には少し涙《なみだ》が滲《にじ》んでいる。谷崎《たにざき》さんの呼《よ》びだしに裏《うら》があることなんて、もちろん気づいていた。谷崎さんじゃなくて、あのバカが待っているんだろう、と。あのバカが頭を下げて謝《あやま》るなら、しぶしぶだけれど、チャンスをあげてもいいと思っていた。本当は許《ゆる》したくない。もっともっとひどい目にあわせてやりたい。だってバカにしてる。自分というものがありながら、あんなものをあんなにたくさんためこんでいるなんて。男の子って本当にバカな生き物だ。バカでエッチで恥知《はじし》らずだ。
でも自分にはあまり時間がない。
そして少ない時間はどんどん減《へ》っていく。
だから、しょうがないのだ。このまま終わってしまうわけにはいかない。それにあのバカも無視《むし》されるのがよっぽどこたえているらしく、最近はげっそりしていた。ちょっとはかわいそうだな、とも思う。ほんとにちょっとだけど。
だから、許してやってもよかったのだ。
ううん、許したかった――。
φ
僕はため息を吐《つ》く。下りるのは無理《むり》だと諦《あきら》め、今度は反対側を見に行こうと手すりを乗り越える。くしゃみをする。もう一回くしゃみをする。
φ
夏目《なつめ》吾郎《ごろう》は非常《ひじょう》ドアの脇《わき》に立っている。足音が近づいてくる。ダンダンと、まるで階段を蹴飛《けと》ばすような足音だ。よほど怒《おこ》っているらしい。足音がすぐそばまで来ると、夏目は見つからないようにその身体《からだ》を小さくする。足音がドアの向こうを通りすぎ、東|病棟《びょうとう》のほうへと消えてゆく。夏目《なつめ》はクスクス笑う。作戦成功だ。立ち去るタイミングがあと一分|遅《おそ》かったらヤバいところだった。里香《りか》はむちゃくちゃ怒《おこ》っている。あの可愛《かわい》い目を吊《つ》りあげているに違《ちが》いない。里香とのつきあいは長く、彼女の性格《せいかく》は知りつくしている。これでしばらく、あのクソガキが里香に近づくことはないはずだ。里香がまず許《ゆる》さない。土下座《どげざ》しようが、涙《なみだ》を流そうが、里香は問答無用《もんどうむよう》なのだ。里香に怒鳴《どな》られるクソガキの様子《ようす》を思い浮《う》かべ、夏目はクスクス笑う。その笑いが徐々《じょじょ》に大きくなってゆく。腹を抱《かか》えて、身を曲《ま》げて、ただ笑いつづける。その笑いはやがてヒステリックなものに変わってゆく。
φ
さんざん脱出《だっしゅつ》経路《けいろ》を探《さが》し、けれどそれが無駄《むだ》に終わった僕は、もうすっかり諦《あきら》めている。また警備《けいび》の江戸川《えどがわ》さんが来るのを待つしかないと決め、風が当たらない給水塔《きゅうすいとう》の脇《わき》にしゃがみこんでいる。グスッ、と鼻《はな》を啜《すす》る。寒いせいかもしれない。悲しいせいかもしれない。里香、と呟《つぶや》く。里香、オレのせいじゃないんだって――。
φ
「内田さん! ダメだって! それ食べ物じゃないから!」
谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》はいつものように怒っている。
とにかく入院《にゅういん》患者《かんじゃ》というのはどいつもこいつもわがままなのだ。自分が大変《たいへん》な目にあっているから、少々のわがままは許されると思っている。家族に甘《あま》えるのなら、いい。家族に当たるのなら、いい。だって家族なんだから。
でも看護婦《かんごふ》はやめてよ、と思う。
それでも看護婦であるからには、できるだけ患者によくしてあげたい。かつては伊勢《いせ》の女帝《じょてい》だの赤い悪魔《あくま》だの呼《よ》ばれたものだが、なにしろ今の自分は白衣《はくい》の天使なのだ。恥《は》ずかしいから誰《だれ》にも言ったことがないけれど(だってガラじゃないし)、小さいころからずっと憧《あこが》れていた。きれいで優《やさ》しくて可愛い看護婦さん。
本当はニコニコ笑っていたい。
天使のようでありたい。
けれど重度の糖尿病《とうにょうびょう》で食事制限を受けていて下手《へた》すると命に関《かか》わるというのに陰《かげ》で饅頭《まんじゅう》を食っているようなジジイにニコニコ笑うのは難《むずか》しい。おまけに見つかったら饅頭を抱えて逃《に》げるなんて最悪だ。
そりゃ、少しは怒鳴《どな》りたくもなる。
「だーかーら、それをよこしなさい! 死んじゃうよ!」
逃《に》げる老人を追《お》う。
老人は饅頭《まんじゅう》を胸《むね》に山ほど抱《かか》えている。
あれを全部食べたら、死ぬ。
絶対《ぜったい》死ぬ。
「こら――っ! 食べるな――っ!」
「わしゃ、食っとら――んっ!」
「ウソつけ!」
「わしゃ、食っとら――んっ! ほんとじゃ――っ!」
「じゃあ、それはなに!? その抱えてんのは!?」
ほんとはニコニコ笑っていたいのだ。
でもとりあえず今は叫《さけ》ぶ、罵《ののし》る、鬼《おに》みたいな顔で追いかける。そのせいで患者《かんじゃ》が自分を恐《おそ》れるようになるとしたら、それはそれでいいことだ。
怖《こわ》がってくれて、言うことを聞いてくれるのなら、患者の命が延《の》びる。
早く退院《たいいん》できるようになる。
本人はもちろん、家族が笑えるようになる。
とにかく今は、あの頑固《がんこ》で強突張《ごうつくば》りでヒネクレ者の内田さんから饅頭を取りあげるために怒鳴《どな》らねばならないのだ。
「クソジジイッ! 殺されたくなかったら饅頭を捨てな――っ!」
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僕は空を見上げる。冬の夜空に、いくつもの一等星がキラキラと輝《かがや》いている。東の空に半分の月がゆっくりゆっくりのぼってくる。
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夏目《なつめ》は非常《ひじょう》ドアの脇《わき》に座《すわ》りこんでいる。どこかで誰《だれ》かが自分を呼《よ》んでいる。なつめせんせーい、と虚《うつ》ろに声が聞こえてくる。けれど夏目は立ちあがらない。座りこんだまま宙《ちゅう》を見つめている。さきほどのヒステリックな哄笑《こうしょう》はどこかへ消え失せ、その顔には空白《くうはく》が宿っている。夏目は白衣《はくい》のポケットに手を入れる。ずっと持ち歩いているライターを取りだす。それを握《にぎ》りしめる。あまりにも強く握っているせいで関節《かんせつ》が白く浮《う》かびあがっているが、夏目は自分の手に力がこもってしまっていることにまったく気づいていない。その目はどこか遠くを、この世ではない場所を見つめている。ぬくもりを、優《やさ》しい声を、追《お》い求《もと》めている。もう決して戻《もど》らないと知りながら、ゆえに追い求めている。
「ねえ」
甘《あま》く、儚《はかな》い声が聞こえる。
「ねえったら」
ふいに夏目《なつめ》の瞳《ひとみ》に光が戻《もど》った。辺《あた》りを見まわす。まるでなにかを探《さが》すように、きょろきょろと、ひどく慌《あわ》てた様子《ようす》だ。けれどその瞳に求めるものは映《うつ》らず、ただペンキの剥《は》げかけた非常《ひじょう》ドアと、リノリウムの床《ゆか》と、白い壁《かべ》が周囲《しゅうい》にあるのみ。夏目は自分の愚《おろ》かさに苦笑《にがわら》いを浮《う》かべ、けれどその笑《え》みはすぐに消え失せ、まるで虐《いじ》められた子供のような弱々しい顔になり、いつしかその唇《くちびる》が小さく動いてなにごとかをブツブツ呟《つぶや》くが、その声はあまりにも小さく、誰《だれ》の耳にも、夏目本人の耳にさえも届《とど》かない――。
φ
僕は給水塔《きゅうすいとう》の脇《わき》で膝《ひざ》を抱《かか》えている。
半分の月を眺《なが》めながら。
φ
少女は自分の病室に戻る。
闇《やみ》の中、立ちつくす。
ふと、サイドテーブルに積《つ》みあげられた本がその目にとまる。同じタイトル、同じ背表紙、けれどタイトルの下についた数字が違《ちが》う本が四冊――。そして、『1』という数字のついた一冊だけが、枕《まくら》の脇にあった。わざわざ母親に頼《たの》んで買ってきてもらったものだった。あのバカには頼めなかった。だって秘密《ひみつ》だから。いつか、そのときが来るまで、あいつには知られたくなかったから。こんなことに時間と手間《てま》を費《つい》やした自分がバカに思えてきた。情《なさ》けない。本当に情けない。また目に涙《なみだ》が滲《にじ》む。目をごしごし擦《こす》りながら、少女は足早に歩きだす。まずサイドテーブルの前に立つと、四冊の本を手で薙《な》ぎ払《はら》う。バサバサという音をたてて、本が床に落ちる。そのまま向き直ると、枕元にあった一冊を手に取って、振《ふ》りあげる。捨ててしまおう。こんな本は。そしてなにもかも忘《わす》れてしまおう。
けれど、振りあげた手がとまる。
そのまま。
ずっと。
十秒、あるいは三十秒、もしかすると一分……いつしか少女は手を下ろし、その表紙を見つめている。
闇の中、唇が動く。
バカ、と動く。
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1
ほんの三十分前は診療《しんりょう》を待つ人で騒《さわ》がしかったロビーも、今はしんと静まり返っていた。午後五時三十七分――。診療時間は終わり、外来《がいらい》患者《かんじゃ》はすべて帰ってしまった。茶色の長椅子《ながいす》ががらんとした空間に整然《せいぜん》と並《なら》び、その上に沈黙《ちんもく》がチリのように積《つ》もりつつある。それでも空間のどこかに人の気配《けはい》だけが色濃《いろこ》く残っていた。まあ、思念《しねん》みたいなものかもしれない。病院にはもちろん病人がやってくる。あるいは、病人の家族が。長く入院してみて初めてわかったのだけれど、そういう人たちってのは、普通《ふつう》の人たちよりずっとずっと強い思念を自然と放《はな》ってしまっているのだった。
そう、当たり前だ。
病気ってのは、なかなか辛《つら》いものなのだった。僕なんて軽いほうだけど、それでも身体《からだ》が死ぬほどだるくなることがあるし、そんなときは動くことさえできなくなってしまう。それに、痛《いた》みっていうのは、実に鮮烈《せんれつ》なものだった。痛みに耐《た》えられる人間は、いない。痛みはすべてを、命を、心を、削《けず》り取《と》ってしまう。
そんな張《は》りつめた気配の残滓《ざんし》が、ロビーに漂《ただよ》っていた。
「ふう――」
僕は待ちあい席の一番前の列、つまりテレビの真ん前に陣取《じんど》っていた。この時間にジイサンたちがロビーに下りてくることはなく、僕がチャンネル権の主である。だが問題があった。なにしろ午後五時半だ。五時半にやっている番組といえば――。
赤いジャケットを着た若い女性アナウンサーがにこやかに笑っている。
『さて、今日は千葉県の銚子《ちょうし》にやってきました。全国|屈指《くっし》の水揚《みずあ》げ高《だか》を誇《ほこ》る漁港があります』
やたらと高い声が耳に障《さわ》る。
後ろで漁師《りょうし》のオッチャンがわざとらしく網《あみ》の手入れをしている。
『あ、こちらに漁師さんがいました! 少し話を伺《うかが》ってみ――』
次――
子供に囲《かこ》まれた歌のお兄さんとお姉さん。
子供たちは蜂《はち》の着ぐるみ。
『さあ、お兄ちゃんといっしょに歌ってみよう! ぼーくらーはー』
お兄さんとお姉さんがピョンピョン跳《は》ねる。
蜂と化した子供たちがピョンピョン跳ねる。
次――
グレーの背広《せびろ》を着たニュースキャスター。
深刻《しんこく》な表情。
『――議員が収賄《しゅうわい》容疑《ようぎ》で逮捕《たいほ》されました。――議員は選挙区内の建設会社から現金三千七百万を受け取っており、その他にも外国製高級車を――』
いいなあ、高級車。
ベンツかな?
それともBMW?
三千七百万だって?
次――
居並《いなら》ぶ裸《はだか》の男たち。
ちょんまげ。
まわし。
その前に女性アナウンサーが飛びだしてくる。
『ちゃんこ鍋《なべ》に小松菜《こまつな》を入れると栄養《えいよう》バランス抜群《ばつぐん》なんですよ〜〜〜!』
相撲取《すもうと》りたちが低い声で叫《さけ》ぶ。
『うお〜〜〜っす!』
振《ふ》り向《む》き、アナウンサーが尋《たず》ねる。
『みなさん、それで強いんですよね?』
『うお〜〜〜っす!』
『小松菜パワーです!』
『うお〜〜〜っす!』
『こまつな〜〜〜!』
『こまつな〜〜〜!』
『うお〜〜〜っす!』
『こっまっつっな〜〜〜っ!』
ああ、全滅《ぜんめつ》だ、全滅だよ。
午後五時半なんて[#「五時半なんて」は底本では「五時な半んて」]、こんな下らないニュースしかやっていない。しかたなく、僕は音声を消すと、長椅子《ながいす》にごろりと寝《ね》ころんだ。天井《てんじょう》にテレビの光が映《うつ》って、赤や青の淡《あわ》い色彩《しきさい》を踊《おど》らせている。どうせ観《み》ないんだから消してもいいのだけれど、なんだかそれも少し寂《さび》しかった。天井に踊る光を見ているほうがマシだ。
こうして横になると、身体《からだ》の芯《しん》にだるさを感じる。二度目の屋上《おくじょう》閉めだし事件のせいで、僕はまた風邪《かぜ》をひいてしまったのだった。今もまだ、少し熱があるはずだ。
里香《りか》は怒《おこ》ったままだった。
ここまでこじれると、どう謝《あやま》っていいのかさえわからない。
会わせる顔がないというのはこのことで、ここ数日、僕は自分から里香を避《さ》けていた。避ける? いや、逃《に》げるっていうほうが近いかもしれない。
ああ、どうすればいいんだろう……。
相変《あいか》わらず天井では淡い光が踊っていて、テレビに目を移《うつ》せば、司会業で生き残っている元アイドルがマイクに向かってなにか喋《しゃべ》っており、満面《まんめん》の笑《え》みを浮《う》かべているのに、ふたつの目はまったく笑っておらず――。
「おい、なにしてんだ?」
そんな声とともに、誰《だれ》かが覗《のぞ》きこんでくる。
「死んでんのか?」
山西《やまにし》だった。
僕はのっそり、身体を起こした。
「おまえさ、人気|上昇中《じょうしょうちゅう》なんだって?」
「お、おう……」
「東高の連中と派手《はで》にケンカしたんだって?」
「ま、まあな……」
「で、あのMDはなんなんだ? オレはなんか気の利《き》いた曲でも入ってると思ったぞ?」
「なかなか笑えただろ。ああいう熱《あつ》いの聴《き》くと元気出るぜ」
僕はぽんぽんと、椅子《いす》を叩《たた》いた。
「座《すわ》れって」
「な、なんだよ」
「まあ、座れって」
山西《やまにし》が腰《こし》を下ろした――瞬間《しゅんかん》、僕はがっちりとヘッドロックをかました。そのまま横に転《ころ》がり、同時に足と腕《うで》を極《き》め、魔神風車固《まじんふうしゃがた》めを完成させた。プロレスラー平田《ひらた》淳嗣《あつし》が生みだした必殺技《ひっさつわざ》だ。
「痛《いた》い痛い痛い――っ!」
「おまえのせいでオレがどんなひどい目にあってるかわかってんのかよっ!」
「死ぬ死ぬ死ぬ――っ!」
「うっせえ! 死ね!」
「ぐああああ――っ!」
「おらおらおらっ!」
そのまま袈裟固《けさがた》めキャメルロックの連続コンボに持ちこもうと思ったが、息《いき》が切れてきたし、魔神風車固めがよほど苦しかったのか山西が涙目《なみだめ》になっているのでやめてやることにした。
「ひでえなあ、戎崎《えざき》……死ぬかと思ったぞ……」
喉《のど》をぜいぜい鳴《な》らしながら、山西が言う。
僕は一言《ひとこと》、吐《は》き捨《す》てた。
「死ね」
「あ、マジでひでえ」
確かに僕は少し殺伐《さつばつ》としていた。
そういうのはみっともないと思うし、いつも適当《てきとう》にへらへら笑っていたいと思うが、さすがにできなかった。
ああ、それにしてもみっともない。
なにに腹を立ててるんだろう、僕は。
山西じゃない。
そりゃ、こいつのせいで戎崎コレクションがバレてしまったし、里香《りか》に嫌《きら》われたけれど、一度思いっきり殴《なぐ》ったことでチャラになっている。
もしかすると、僕は僕に怒《おこ》ってるのかもしれない。
僕たちはしばらく黙《だま》ったままでいた。山西《やまにし》はよほど痛《いた》かったのか首の辺《あた》りをずっと擦《さす》っている。なんとなくテレビに目をやると、画面にはなぜか、遊園地なんかでやっている戦隊《せんたい》ショーが映《うつ》しだされていた。赤いヒーローがバック転《てん》をしながら次々と雑魚敵《ざこてき》を倒《たお》してゆく。青も黄も黒もピンクも大活躍《だいかつやく》[#「だい」は底本では「たい」]だ。だが敵の怪人《かいじん》が出てきたところで、情勢《じょうせい》が一変《いっぺん》した。ヒーローはまったく歯が立たない。そこで客席が映った。子供ばかりかと思ったら、大半が若いお母さんたちだった。
「こういうのってさ、暇《ひま》な主婦のアイドルになってんだってな」
山西がそう言った。
「ヒーロー役が二枚目なんだとさ」
ちょっと皮肉《ひにく》っぽい口調《くちょう》だ。
「ああ、そういやそうだったな」
「オレ、行ったことあるぞ、戦隊ショー。幼稚園《ようちえん》のころだけど、そりゃもうワクワクしながら行ったよ。なにしろ本物だと思ってたからさ。あれ、よくできてんだぜ。途中《とちゅう》で、ほら、今みたいにヒーローがピンチになるんだよ。怪人が強くて、全然勝てねえの。そういうときさ、司会のヤツが叫《さけ》ぶんだよ」
山西が黙《だま》った。
どうやら、僕に尋《たず》ねてほしいらしい。
ぼんやりしたまま、僕は山西の期待《きたい》に応《こた》えた。
「なんて叫ぶんだ?」
山西は立ちあがると、司会になりきって叫んだ。
「みんな! 頑張《がんば》れって叫んでくれ! そうすればみんなの勇気がヒーローに届《とど》くから! ほら、一二の三で叫ぼう! いっち、にの、さん! 頑張れ――っ! 頑張れ――っ! ダメだ。もっと大きな声じゃないと届かないよ! ほら、もう一度! 頑張れ――っ!」
両手を握《にぎ》りしめ、何度も何度も振《ふ》りあげる。
そして山西は懐《なつ》かしそうに笑った。
「もうさ、腹の底《そこ》から叫んだよ。そしたら、まあ当たり前だけど、ヒーローが元気を取《と》り戻《もど》すわけ。で、そっからむちゃくちゃ強くなって、怪人をあっさりやっつけちまうんだ。今になってみると完全な子供だましだけど、当時はほんとに自分がヒーローを救《すく》ったんだって感動したなあ。夏休みの絵日記に書いたもん」
僕は山西の顔をさりげなく観察《かんさつ》した。
右の頬《ほお》にできかけのニキビがある。山西はニキビができやすい体質《たいしつ》なのだ。時々目をすがめるのは、ほんとは目が悪いくせにメガネなんてダセえとか言い張って、メガネをかけないでいるからだ。目をすがめるとひどく人相《にんそう》が悪くなって、そのほうがよっぽどダセえことに本人は気づいていないらしい。まあ、二枚目とはとても言えない。頭もよくない。いつだったか、授業中に「発明は九十九パーセントの努力《どりょく》と一パーセントのひらめきであると言ったのは誰《だれ》か」と先生に問われ、胸《むね》を張《は》って「聖徳太子《しょうとくたいし》です!」と大声で答えたことがあるくらいだ。もちろん、その瞬間《しゅんかん》から、山西《やまにし》の綽名《あだな》は『聖徳太子』で決定だった。いまだに昔からの友達には『タイシ』と呼《よ》ばれつづけているくらいだ。
まあ、そう、とにかく山西は正真正銘《しょうしんしょうめい》のバカなのだった。
こんなバカなヤツにも、可愛《かわい》い子供のころがあったのだ。
『頑張れ――っ!』
と声を枯《か》らして叫《さけ》んだときがあったのだ。
僕は山西の膝《ひざ》の後ろを蹴《け》っ飛《と》ばした。
「うおっ!」
そんな声を出して、山西が長椅子《ながいす》の上にこける。
「なにすんだよ!」
「うっせえ。勝手《かって》に思い出話なんかして、勝手に浸《ひた》ってんじゃねえ」
「元気なさそうな顔してるから、慰《なぐさ》めてやろうと思ったんじゃねえかよ……おまえは本当につまんないヤツだ……」
「だいたい、慰めになってねえよ」
「ちぇっ」
僕たちはまた、しばらく黙《だま》っていた。亜希子《あきこ》さんが早足でロビーを横切っていき、僕を見つけると、その右手を銃《じゅう》の形にして、バーンと言いながら去っていった。僕はわざとらしく胸を押《お》さえ、長椅子に寝《ね》ころんだ。女好きの山西は、今の誰だよ、すっげー美人じゃんと興奮《こうふん》した様子《ようす》で聞いてきた。僕は長椅子に寝ころんだまま、やめとけ、と本気で言った。亜希子さんだけはやめておけって。
「んじゃ、帰るわ」
やがて、山西はそう言って立ちあがった。
僕は尋《たず》ねた。
「おまえ、なにしに来たんだよ」
「ん。暇《ひま》つぶし」
「あのな……」
呆《あき》れていると、山西の顔に迷《まよ》いが浮《う》かび、消え、また浮かび……結局《けっきょく》、ひどく弱々しい声がその口から漏《も》れた。
「女にフラれちまったんだよ。それで家に帰りたくなくてさ。まあ、誰でもいいから、ちょっと話したかっただけだ」
「おまえ、彼女なんかいたっけ?」
「いねえよ。いねえから、コクったんだよ」
「ああ、そういうことか」
コクって、フラれた、と。
「ちぇっ、つまんねえよな」
「次、探《さが》せよ。女なんて、いくらでもいるだろ」
「まあな」
山西《やまにし》は歩きだすと、軽く手を振《ふ》った。
「帰るよ」
「おう。元気出せ」
「おまえもな。彼女と仲直《なかなお》りできそうか?」
「全然。まだ怒《いか》り狂《くる》ってるよ」
「あと三日すぎても仲直りできなかったら、オレが土下座《どげざ》しにいってやろうか」
「……やめてくれ。火に油を注《そそ》いじまうよ」
「里香《りか》ちゃんだっけ。あの子、マジ可愛《かわい》いよな」
可愛いという言葉《ことば》に、僕は誇《ほこ》らしい気持ちになった。ああ、里香はマジで可愛いさ。あんなに可愛い子は滅多《めった》にいないだろ。でも、そのすぐあと、里香の性格《せいかく》の悪さを知らない山西に抗議《こうぎ》したくなった。彼女のわがままのひどさを、ひとつひとつ説明してやろうか――。
「戎崎《えざき》、おまえがうらやましいよ」
背中越《せなかご》しに言いつつ、山西は一度も振り返ることなく、去っていった。
山西のせいでいろいろ嫌《いや》な目にあってきたし……というか今もあいつづけているけれど、それでも僕は山西を許《ゆる》すことにした。あいつはあいつでいろんなことを抱《かか》えているんだ。誰《だれ》だって、そうだ。
僕だけじゃない。
目を閉じ、耳を澄《す》ますと、どこからか声が聞こえた気がした。
頑張《がんば》れ――っ!
そう叫《さけ》ぶ声が、がらんとしたロビーに響《ひび》いているように思えた。
もちろん、それは幻聴《げんちょう》だった。目を開けば、そこには誰もいないロビーが、ひどく寂《さび》しい世界が、ただ広がっているだけなんだ。ああ、わかってるさ。だから、そう――。誰か、僕のために、山西のために、そしてなによりも里香のために叫んでくれよ。頑張れって。声が枯《か》れるまで叫んでくれ。
僕たちは怪人《かいじん》と戦わなきゃいけないんだ。
現実という名の、とてつもない怪人と。
2
もちろん、応援《おうえん》だけじゃ意味がないわけで。まずは自分自身で戦わねばならない。当たり前の話だ。たとえ勝機《しょうき》が少なくても、徒労《とろう》に終わるかもしれなくても、とにかく戦うしかないのだった。戦うことから逃《に》げていては、勝つチャンスさえも逃《のが》してしまう。それが勝負というものだった。
勝負……勝負という言葉《ことば》で僕が思いだすのは、小学校三年の運動会だ。
そのころ、僕はなぜか奇跡的《きせきてき》に足が速《はや》かった。今は全然|普通《ふつう》で、というより遅《おそ》いくらいだけど、小学校三年の僕には徒競走《ときょうそう》の神様が降臨《こうりん》していたらしく、勉強は全然だったし、球技《きゅうぎ》なんかもまるっきりヘタクソだったのに、なぜか走るのだけは速くなっていたのだった。
というわけで、僕はクラス対抗《たいこう》リレーのアンカーに選ばれた。
見事《みごと》に晴《は》れ渡《わた》った運動会の当日、最終種目であるリレーが始まったとき、赤いタスキを斜《なな》めにかけた僕はクラスメイトが走る姿《すがた》を緊張《きんちょう》とともに見ていた。一番目の走者はタケダくんで、タケダくんは僕と同じくらい足が速かったので、他のクラスを引《ひ》き離《はな》してダントツの一位でバトンを次の走者に渡《わた》した。二番手はユヅキくん。女の子にモテモテのユヅキくんだ。そういうヤツはたいてい他の男子から嫌《きら》われるものだが、ユヅキくんはやたらと性格《せいかく》がよかったせいで、男子にもモテモテだった。でもユヅキくんはあまり足が速くなくて、リレーという競技《きょうぎ》においては女子にモテモテだとか、男子にもモテモテだとか、そういうことはいっさい関係なく、タケダくんが築《きず》いたリードを失ったばかりか、最後尾《さいこうび》まで下がってしまった。三番目のヨシダくんはそれでも必死《ひっし》に猛《もう》ダッシュをかました。徐々《じょじょ》に前との距離《きょり》をつめてゆくが、相変《あいか》わらず最後尾のままだった。ああ、と僕は情《なさ》けない気持ちで思った。どんなに頑張《がんば》っても、もう一位は狙《ねら》えないな……。しかしどんどん近づいてくるヨシダくんを見ているうちに、やるぞという気持ちが高まってきた。ヨシダくんはまるでサルみたいな形相《ぎょうそう》で走っていて、見るからに必死で、苦しそうで、その気合いの入り方が伝染《でんせん》したのだった。
気がつくと、僕はもう走りだしていた。完璧《かんぺき》なタイミングだった。ヨシダくんの走力《そうりょく》をギリギリまで引《ひ》っ張《ぱ》り、僕自身も十分に加速《かそく》してから、バトンを受け取った。右手で受け取ったバトンを、走りながら左手に持《も》ち替《か》える。すると、バトンに残っていたヨシダくんの熱が伝《つた》わってきた。僕はさらに加速した。
すぐ前を走っていた三組を抜《ぬ》いた。一瞬《いっしゅん》だった。そして、少し先の二組。併走《へいそう》したのは数秒で、あっさり置き去りだった。その前にふたりそろって走っていたけど、彼らは両方とも遅《おそ》かったので、僕は大まわりをしながら、軽くぶっちぎった。
前にいるのは、たったひとりだった。
四組のヤツだ。
(厳《きび》しいか……)
僕は絶望感《ぜつぼうかん》に囚《とら》われた。
四組のランナーは足が速《はや》くて、どんなに足を回転《かいてん》させても、距離《きょり》はほとんど縮《ちぢ》まなかった。その背中《せなか》はあまりにも遠かった。
ちくしょう、と思った。
無理《むり》だ。
追《お》いつけない。
でも、二位だ。
悪くないよな?
なんて思いながら走っているとき、声が聞こえてきた。
「ゆううう――いちぃ――っ!」
父親の声だった。
筒《つつ》みたいに丸めた運動会のパンフレットを、ゴール前に陣取《じんど》った父親がぶんぶん振《ふ》りまわしていた。
父親は僕に向かって叫《さけ》んだ。
「させえええ――っ! させえええ――っ!」
その目は血走っていて、叫ぶ声とともに唾《つば》が大量に飛《と》び散《ち》っているらしく、父親の前にしゃがんでビデオを撮《と》っている他の父兄《ふけい》が迷惑《めいわく》そうな顔をしていた。僕は恥《は》ずかしくてたまらなかった。だいたい、さす[#「さす」に傍点]ってなんだ? 指《さ》す? 刺《さ》す?
「ゆううう――いちぃ――っ! ちょい差《さ》しだ――っ!」
ああ、なんて親だ……。
可愛《かわい》い子供を馬|扱《あつか》いかよ?
結局《けっきょく》、僕はこけた。見事《みごと》にゴール前ですっころんでしまったのだ。父親のあまりの姿《すがた》に、集中力を切らしたせいだった。
思い返しても、あんたは最低だよ、親父《おやじ》……。
とにかく、だ。
そういうハプニングが起きるかもしれないとはいえ、戦わねばならないのだ。だって、僕のすぐ後ろを走っていたヤツは、諦《あきら》めなかったせいで二位になれたんだ。
そう、僕は戦うさ。
戦うとも。
息《いき》をつめ、僕は身を縮めていた。なにがあっても、気づかれてはならない。それにしても寒い。指の先がガタガタと震《ふる》える。ああ、こんなことで貴重《きちょう》な体力を使っていいんだろうか……。だいぶよくなったとはいえ、僕はまだ病人なんだ。もし亜希子《あきこ》さんに見つかったら、怒鳴《どな》り散《ち》らされるだろう。
うん?
僕は耳を澄《す》ました。足音が聞こえる。このリズムは……間違《まちが》いない! タイミングを計《はか》る。あと三メートル、二メートル、一メートル――。
今だ!
叫《さけ》んで、僕は掃除《そうじ》道具用のロッカーから飛びだした。
「里香《りか》!」
僕はずっと、検査帰《けんさがえ》りの里香を待《ま》ち伏《ぶ》せていたのだった。そして、彼女がロッカーの前にさしかかった途端《とたん》、飛びだしたというわけである。
人目《ひとめ》も気にせず、僕は叫《さけ》んだ。
「許《ゆる》して――」
その声は最後まで続かなかった。
里香がロッカーの扉《とびら》をいきなり蹴飛《けと》ばし、その扉の角が僕の眉間《みけん》に命中《めいちゅう》し、グゲッというカエルみたいな言葉が口から漏《も》れ、頭を抱《かか》えてうずくまってしまったのだった。
痛《いた》い。
むちゃくちゃ痛い。
ああ、星が飛んでいる……。
ようやく額《ひたい》の痛みが薄《うす》れてきたので、僕は辺《あた》りを慌《あわ》てて見まわした。里香の姿《すがた》はなかった。車椅子《くるまいす》に乗ったお婆《ばあ》ちゃんがほけーっと[#「と」は底本では無し]しながら通りすぎてゆく。
くそう、諦《あきら》めるもんか。
「里香!」
またもや飛びだした。
今度は近くに扉がない場所で。ふふふ、これなら扉|攻撃《こうげき》はできないだろう。だが僕の顔を見た里香は、その手に持っていたカゴからミカンを取りだすと、ひょいっと放り投げてきた。つい、受け止めてしまう。これがいつものように思いっきり投げてきたのならよければいいのだが、こんなふうに軽く投げられると、受け止めてしまうのだった。また、ひょいっと投げてくる。また受け止めてしまう。さらにもうひとつ、ふたつ、みっつ――。
僕の両手はミカンで埋《う》まった。
「里香、話を聞いてくれっ!」
ミカンを抱えながら僕は叫んだが、里香はすれ違《ちが》いざま、僕の頭になにかを載《の》せた。
「それ、グラスだからね」
「え?」
「落としたら、割れるよ」
「り、里香《りか》っ!」
里香の足音が遠ざかっていく。
それにしてもグラスだって?
なんでそんなものを持ってんだ?
両手にミカンを抱《かか》えている状態《じょうたい》では、グラスを取ることはできない。どうしようもなく、僕は立ちつくしていた。動くことさえもできなかった。
やがて、亜希子《あきこ》さんがやってきた。
「なにやっての、裕一《ゆういち》?」
不思議《ふしぎ》そうに尋《たず》ねてくる。
「亜希子さん! グ、グラスを取ってください!」
「はあ? グラス?」
亜希子さんがひょいっと、僕の頭に載《の》っているものを取った。
ミカン、だった。
「里香!」
スリッパを投げられた。
「里香!」
女子トイレに逃《に》げこまれた。
「里香!」
ロビーってのがまずかった。
痴漢《ちかん》扱《あつか》いされ、外来《がいらい》患者《かんじゃ》に取《と》り押《お》さえられた。
「里香!」
いきなり里香が苦しそうな顔でうずくまった。し、心臓が、と呟《つぶや》く声。僕は慌《あわ》てて医者を呼《よ》びにいった。戻《もど》ったら、里香はいなくなっていた。
演技《えんぎ》、だった。
一計《いっけい》を案《あん》じることにした。
僕の肩《かた》の上に載《の》っているのは、スイカじゃない。かなりスカスカかもしれないけれど、それでもまあ、考えることくらいはできる。
重さもスイカと同じくらいはあるんだから、ちゃんとなにかが詰《つ》まってるってことだ。
「り、里香《りか》!」
またもや飛びだした僕は、彼女を見上げながら[#「見上げながら」に傍点]叫《さけ》んだ。
いつもなら僕を見ただけで顔をしかめ、とっとと逃《に》げだすのに、さすがに今回ばかりは里香も驚《おどろ》いたようだった。
目を見開き、その場に立ちつくしている。
「あ、足をくじいたんだ」
僕は今、車椅子《くるまいす》に乗っていた。しかも、それだけじゃなくて、右足には包帯《ほうたい》を――かなり大げさな感じで――ぐるぐる巻《ま》いてある。自分で巻いたのでヘタクソだが、これはまあ、しょうがない。
黙《だま》っている里香に向かって、僕は早口で言った。
「ほ、ほら、この前おまえに足を引っかけられただろ? あのとき、足をやっちまったみたいでさ。あ、でも、気にしなくていいぞ。別におまえのせいってわけじゃないからさ。そりゃ足を引っかけたのはおまえだけど、オレが受け身を取れなかったのが悪いわけでさ。自分が足をひっかけたからって、おまえが責任を感じる必要《ひつよう》なんてないんだからさ――」
もちろん、たっぷりと責任を感じてもらう必要があった。
里香《りか》はかなり意地《いじ》っ張《ぱ》りだけど、優《やさ》しい気持ちだってちゃんと持っている。そういうのをうまく表に出せないだけなのだ。要するに、人とのつきあい方がヘタクソなのだった。
普通《ふつう》に学校に通《かよ》っていれば、人間関係なんて、誰《だれ》だって鍛《きた》えられる。
そうだろ?
愛想笑《あいそわら》いくらい平気《へいき》だし、そんな親しいヤツじゃなくても教師の悪口で盛《も》りあがることくらいはできる。
でも、里香はずっと、学校に行っていない。
鍛えられていない。
あんまり里香のことを知らない人間は、里香がわがままだの(まあ、わがままだけどさ)、手に負《お》えないだの(確かに負えないけど)、思いあがってるだの(それは違《ちが》う)言うけど、里香も普通の女の子なんだ。
自分が誰かに怪我《けが》をさせたとわかれば、少しは心も痛《いた》むはずだ。
「なあ、里香。話を聞いてくれよ。オレが悪かったからさ。それに、あのエロ……いや、あの本は夏目《なつめ》先生から預《あず》かっただけで――」
「あー、あった!」
後ろから、声が聞こえた。
亜希子《あきこ》さんの声だった。
「その車椅子《くるまいす》、今から使うんだから! バカ裕一《ゆういち》、勝手《かって》に持ちだすんじゃないの!」
「あ、亜希子さん! そ、そそそそれは――」
僕は慌《あわ》てふためき、こちらに駆《か》けてくる亜希子さんを見て、次に里香を見て、また亜希子さんを見て、里香を見ると――。
里香の目には怒《いか》りの炎《ほのお》が燃えあがっていた。
「バカ裕一」
とん、と里香が僕の胸《むね》を人差し指で押《お》す。
「え?」
車椅子が後ろに向かって滑《すべ》りだした。ああ、胸がざわざわする。これは……この感じは……悪い予感《よかん》ってヤツだろうか?
僕は後ろを見た。
下り階段が迫《せま》ってくる。
「うあああ――――っ!」
車椅子《くるまいす》から飛《と》び降《お》りようとしたが、間に合わなかった。
ズダダダダダダ――――ンッ!
物凄《ものすご》い音とともに、車椅子とともに、僕は階段を転《ころ》がり落《お》ちた。腕《うで》を打った。足を打った。肩《かた》を打った。頭を打った。わけがわからなくなった。
気がつくと僕は階段の踊《おど》り場《ば》に転《ころ》がっていた。
すぐ脇《わき》に車椅子が横倒《よこだお》しになっていて、その車輪《しゃりん》がカラカラと空回《からまわ》りしている。
「裕一《ゆういち》! 生きてるっ!?」
階段の上で、亜希子《あきこ》さんが叫《さけ》んだ。
僕は寝転《ねころ》がったまま、天井《てんじょう》を眺《なが》めていた。真っ白い天井。階段の踊り場なので、やたらと高い。細長い窓から午後の太陽の光が射《さ》しこんできて、その光の柱《はしら》の中でチリが無数に踊っている。くるくる、ふわふわ、踊っている。人の気持ちも、あのチリみたいなものなのかもしれない。くるくる、ふわふわ、踊っているのかもしれない。確かに思えたことでさえも、いつの間にかどこかへ行ってしまう。
ドタドタと足音をさせながら、亜希子さんが駆《か》け下《お》りてきた。
「裕一!」
僕の顔を覗《のぞ》きこむ。
「生きてる!?」
右手を少し挙《あ》げ、ひらひらと僕は振《ふ》った。
亜希子さんがつまらなさそうに言った。
「なんだ、生きてるじゃない」
力無く、僕は呟《つぶや》いた。
「いや……死んでます……」
3
夏目《なつめ》吾郎《ごろう》はもちろん大人である。大人であるからには当然、煙草《たばこ》を吸ってもかまわない。しかしながら病院内はこれもまた当然、禁煙《きんえん》である。不良高校生のようにトイレで吸うのは……まあ、たまには昔を思いだして悪くはないのだが……たいていの場合、あまり楽しいものではない。たまの一服《いっぷく》くらい、気持ちよくしたいものである。というわけで、夏目吾郎は今、屋上《おくじょう》で煙草を吹かしていた。銘柄《めいがら》はショートピース。味がいい。うまい。そして身体《からだ》にはよくない。
夏目はひとり、呟いた。
「のんびりするねえ……」
眼下《がんか》には伊勢《いせ》の町が広がっている。
まあ、田舎《いなか》だ。
人口十万は三重県内じゃ立派《りっぱ》なほうで、中核《ちゅうかく》都市といっていい規模《きぼ》だ。とはいえ、夏目《なつめ》が生まれ育ったのは人口数百万の大都市だった。そこと比《くら》べると……いや、比べるのが面倒《めんどう》になるくらいしょぼい。
駅前の商店街は寂《さび》れきってる。
デパートはひとつっきり、それも潰《つぶ》れかかってる。
遊び場所?
ない、はっきり言ってない。
映画館はちっさいのがふたつとかみっつくらい。少しマニアックな映画になると、まず上映されない。
まさかこんな田舎町に来ることになるとは、想像《そうぞう》もしなかった。
「まあ、どうでもいいけどな」
ひとり、また呟《つぶや》く。
そう、もはやどうでもいいのだ。田舎だろうが、しょぼい市立病院だろうが、ろくな映画館がなかろうが、駅前定食屋の客引きがやたらとしつこかろうが、知ったことか。一本、吸い終わる。続いて、二本目。口にくわえつつ、ライターを探《さが》す。白衣《はくい》の右ポケット。ない。左ポケット。ない。落とした可能性《かのうせい》が頭に浮《う》かび少し焦《あせ》ったものの、さっき使ったばかりであることを思いだした。どこかにあるはずだ。あった。右のズボンのポケットだった。渋《しぶ》い色のオイルライター。火をつける。煙を吸いこむ。深々と。ありとあらゆる毒《どく》が自分の肺と気管《きかん》を攻撃《こうげき》していることを思う。煙草《たばこ》の害というのはなかなかのものだ。口腔《こうこう》ガンの発生率《はっせいりつ》は、非喫煙者《ひきつえんしゃ》のおよそ三倍。食道ガンは二倍。肺ガンだと四倍。喉頭《こうとう》ガンに至《いた》っては、なんと三十二倍だ。とはいえ、やめるつもりはない。もしかすると、自分は死にたがっているのかもしれない……。
じっと、ライターを見つめる。
「煙草やめろって言ってたくせに、なんでライターなんかくれたんだよ?」
最近、すっかり独《ひと》り言《ごと》が癖《くせ》になっている。
二本目も短くなり、そろそろ引《ひ》き揚《あ》げようかと思ったころ、屋上《おくじょう》のドアが開いた。誰《だれ》かと思えば、看護婦《かんごふ》の谷崎《たにざき》亜希子《あきこ》だった。
気はやたらと強いが、なかなかの美人だ。
「よう」
陽気《ようき》さを装《よそお》い、声をかける。
谷崎は目を細め、不快《ふかい》そうな表情を浮かべた。まったく、正直な女だ。正直な女は嫌《きら》いじゃないが。
まるでライオンのような足取りで、近づいてくる。
「|ショッピ《ショートピース》ですか」
「そうだよ」
「身体《からだ》に悪いですよ」
どうやら相当《そうとう》嫌《きら》われているらしい。
谷崎《たにざき》は手すりにもたれかかると、ポケットからセブンスターを取りだした。
「なんだ、谷崎も吸いにきたのか。へえ、|セッター《セブンスター》か。ピースとそんな変わらないだろ」
「そっちはニコチンもタールも倍くらいありますよ、確か」
谷崎はそう言ったあと、黙《だま》りこんだまま煙草《たばこ》を吹かしている。それにしても、慣《な》れた吸い方だった。指の先のほうで煙草を挟《はさ》んで、少し斜《なな》めにくわえている。たぶん若いころから吸っていたんだろう。他の看護婦《かんごふ》が嬉々《きき》と話してくれたが、谷崎は元|暴走族《ぼうそうぞく》だったらしい。なるほどと思わせる吸い方だ。
「なあ、谷崎?」
「なんですか」
「オレ、もしかして嫌われてる?」
ジロリと睨《にら》まれた。
これだけ強い目をした女はなかなかいない。
「まあ、そうですね」
それにはっきりしてる。
「好感《こうかん》は持ってませんね」
「なんでだよ」
またジロリと睨まれる。その視線《しせん》の強さに、少し背中《せなか》がぞくぞくした。こりゃ、本物だ。よほど修羅場《しゅらば》をくぐってないと、こういう目はできないものだ。まだ若かったころ、飲み屋でヤクザに絡《から》まれたことがある。その場を収《おさ》めてくれたのは店のママで、彼女がちょうどこういう目をしていた。
「まず、そういうことをズケズケ聞くところですかね」
「ふむ」
「あと、こういう話をしてるのに、ニヤニヤ笑ってるところも」
「なるほど」
「それと、なにより、裕一《ゆういち》をからかって遊んでるのが気に食わない。せっかく仲直《なかなお》りできるようにしてやったのに、夏目《なつめ》先生がぶち壊《こわ》したそうですね。裕一、相当《そうとう》参《まい》ってますよ。あと、里香《りか》も」
「そうか」
「なんであんなひどいことしたんですか」
元ヤンキーの看護婦《かんごふ》は、まだ睨《にら》んでくる。本当に気が強い女だった。怖《こわ》いという言葉《ことば》を知らないみたいだ。少し睨み返してやったが、まったく怯《ひる》まない。それでこちらから目を逸《そ》らした。そのまま、空を見上げる。青は青というより白に近く、雲はひとつも浮《う》かんでおらず、高いビルに遮《さえぎ》られていないために遠くまで広がり、神代《かみよ》の昔から町を見守ってきたであろう山々が彼方《かなた》に見えている。どこからか、少年の叫《さけ》ぶ声が聞こえてきた。そのすぐあとに、盛大《せいだい》な悲鳴《ひめい》。どうやら少年の奮闘《ふんとう》は続いているらしい。まったく、しぶといヤツだ。こんなにしぶといヤツだとは思わなかった。
「別に。理由はないさ」
「じゃあ、夏目《なつめ》先生はただの意地悪《いじわる》な人ってわけですね?」
「そうかもな」
「なに笑ってるんですか?」
「なんでだろうな」
谷崎《たにざき》が舌を鳴《な》らした。顔をしかめた。ナース帽《ぼう》の後ろの髪《かみ》をぐしゃぐしゃと掻《か》き乱《みだ》した。ナース帽が少し横にずれた。ああっ、面倒《めんどう》くさい、と吐《は》き捨《す》てた。
「敬語《けいご》はやめるよ。あんた、最低だね。あんな子供たちを弄《もてあそ》んでなにが楽しいのさ。裕一《ゆういち》はさ、ほんとバカだけど、それでもいい子だよ。里香《りか》だって、そうじゃないか。なのに、どうしてひどいことをするんだよ」
「悪いか?」
「あんた、主治医《しゅじい》だからわかってるだろ。里香は……あんな身体《からだ》なんだよ。いつまで保《も》つかわかんない。もしかすると、あの子たちがいっしょにいられる時間はほんの少ししかないかもしれないんだ。その、ほんの少しの時間をあんたが削《けず》ってる。わかってんだよね。わかってんのに、そういうことしてるんだよね」
「そうだよ」
「もう一度聞くよ、なんであんなひどいことをするのさ」
谷崎は本気で怒《おこ》りはじめている。ヤバいな、そう思った。背中《せなか》のぞくぞくがさっきよりずっと強くなっている。まるで綱渡《つなわた》りだ。ちょっとでも言葉《ことば》を間違《まちが》えたら、真《ま》っ逆《さか》さまに落とされるだろう。心のどこかに、それをおもしろがっている自分がいた。望んでいる自分がいた。真っ逆さまに落ち、それであっさり死ぬことができるのなら、どれほど楽だろうか。そのおもしろがっている自分が、口を開いていた。
「楽しいからだよ」
「あんたねっ――」
言葉と、それは同時だった。腰《こし》の回転《かいてん》といい、膝《ひざ》から下の振《ふ》りの速《はや》さといい、完璧《かんぺき》だった。振りがあまりに速いせいで、その軌道《きどう》が予測《よそく》しづらい。それでもよけることはできただろうが、さっきから成り行きをおもしろがっている自分はただ突《つ》っ立《た》っていた。
強烈《きょうれつ》なヤンキーキックが左の腿《ふともも》にめりこむ!
折れたのかと思うほど痛《いた》くて、思わず笑ってしまった。腿を抱《かか》え、うずくまりながらも、顔には笑《え》みが浮《う》かんでくる。ヒヒ、と声が漏《も》れる。あまりに痛すぎて、気が狂《くる》ったのかもしれない。それとも、別のなにかのせいかもしれない。
「このバカ野郎《やろう》っ」
少しはいたわってくれるかと思ったが、しかし谷崎《たにざき》は吐《は》き捨《す》て、歩きだした。立ち去るつもりのようだ。ああ、それにしても、なんておもしろい女だろう。最高だ。
「お、おい……谷崎……」
痛みのせいで言葉《ことば》が長く続かない。顔を上げられない。ただ痛みに耐《た》えるばかり。それでも、元ヤンキーの看護婦《かんごふ》が立ち止まったのは、気配《けはい》でわかった。
「里香《りか》を……説得《せっとく》……してやるよ……」
「説得?」
いぶかしげな声。
ああ、と肯《うなず》く。
「戎崎《えざき》と仲直《なかなお》り……しろ……ってな……里香はさ……オレの言うことなら、聞くと思うぞ……なにしろ、長いつきあいだからな……」
「どういう風の吹きまわし?」
「お、おもしろい……からさ……」
「…………」
「な、なあ……おまえ、むちゃくちゃ蹴《け》りうまいな……し、死ぬほど痛いぞ……折れたかと思った……」
「…………」
「マジ……痛てえ……」
倒《たお》れこみ、そのまま谷崎のほうに顔を向ける。谷崎は戸惑《とまど》った表情を浮かべ、立ちつくしていた。ニヤリと笑ってみたが、もちろん笑い返してはもらえなかった。
ああ、そうか。
白っぽい空を見上げながら、夏目《なつめ》は思った。
オレは自分に罰《ばつ》を与《あた》えたかったんだ。
4
風が吹いている。
ゆっくり、のんびり、吹いている。
今日はやけに暖《あたた》かく、空気には少しだけ春の匂《にお》いがした。僕たちが立ち止まっているあいだも、季節は確かに移《うつ》ろい、揺《ゆ》らぎ、変化しつづけているのだった。あと一カ月もすれば、本格的に春の足音が聞こえてくるだろう。
それにしても、寂《さび》しい……。
ひとりっきりの自分に、孤独《こどく》に耐《た》えている自分に、うっとりと自惚《うぬぼ》れたくなってしまう。たいていのドラマには、孤独でニヒルな敵役《かたきやく》ってのがいるだろ? そう、屋上《おくじょう》で風に吹かれている僕は、あんなふうにかっこいいのだ!
心の中で言《い》い張《は》ってみたものの、たった五秒後にはため息《いき》が漏《も》れていた。
「はあ……」
下らない。
まったく下らない。
どんなに格好《かっこう》をつけても、今の僕は女にフラれかかっている若造《わかぞう》にすぎなかった。びしょ濡《ぬ》れの負け犬みたいもんだった。孤独がかっこいいなんて、とんでもない間違《まちが》いだ。負け犬の遠吠《とおぼ》えだった。だって、僕は寂しくてたまらない。里香《りか》のそばにいたい。声が聞きたい。話したい。触《ふ》れたい。
そんなことを考えるだけで、涙《なみだ》が出てくる。
「はあ……」
ため息ばかりが漏れる。
自分がこんなによわっちい男だなんて、考えもしなかった。そりゃ、強い男だなんて思ったことはないさ。一度だってない。小学校のころ、ドブにはまって泣《な》いたことがあるし、大きな犬に追《お》いまわされて半ベソをかいたことだってある。仲間はずれが怖《こわ》くて、別の誰《だれ》かの仲間はずしに加わったことだってある。
僕はちっとも強くない。
そんなこと、わかりたくないくらい、わかってる。
でも弱い自分を突《つ》きつけられるってのは……楽しくない。
ああ、ちっとも楽しくない。
「はあ……」
空は青くて高かった。
手を伸《の》ばしても触れられそうにもなかった。
遠くに商店街のアーケードが見えている。潰《つぶ》れかかったデパートの青い看板《かんばん》も見える。その少し奥《おく》に神宮《じんぐう》の森がこんもりと盛《も》りあがっている。世界はどこまでもどこまでも広がり、ちっぽけな僕がちっぽけな痛《いた》みやら欲望《よくぼう》やらを抱《かか》えて立っている。
そんなふうに思うと、少し哀《かな》しい気もしたし、少し慰《なぐさ》められる気もした。
「強くなりてえよ」
誰にも聞こえないよう、思いっきり小さな声で僕は呟《つぶや》いた。
僕は強くなりたかった。
なによりも、誰《だれ》よりも、強くなりたかった。
コホン――
咳払《せきばら》い。
背後《はいご》で。
僕は反射的《はんしゃてき》に後ろを見ていた。そしてまたもや反射的にガバリと身体《からだ》を反転《はんてん》させていた。手すりを後《うし》ろ手《で》に掴《つか》み、目をいっぱいに見開く。
里香《りか》が、いた。
パジャマの上にカーデガンを羽織《はお》り、立っていた。
どうしていいかわからず僕は凍《こお》りついていたが、里香のほうも僕と同じように凍りついていた。しかし、どうも様子《ようす》が変だ。怒《おこ》っている顔じゃないのだ。それどころか、やっぱり僕と同じように戸惑《とまど》っているふうにも見える。
最初に口を開いたのは、なんと里香のほうだった。
「え、えっと」
恥《は》ずかしそうに、視線《しせん》を逸《そ》らしている。
「い、いい天気ね」
「あ、ああ……」
「暖《あたた》かいし」
「そ、そうだな」
「風が気持ちいいね」
「う、うん」
言葉《ことば》が途切《とぎ》れた。里香が逸らしていた視線を一瞬《いっしゅん》だけ、僕のほうに戻《もど》す。目があった瞬間《しゅんかん》、胸《むね》の奥《おく》でなにかが弾《はず》んだ。この目を、この視線を、僕はずっと欲していたんだと悟《さと》った。言葉じゃない。理屈《りくつ》でもない。感覚《かんかく》だ。里香がそばにいるだけで、なにかが心に湧《わ》きあがってくるのを感じた。まるで泉《いずみ》のように、心を浸《ひた》していった。
里香がまた視線を逸らす。
けれど、それは拒絶《きょぜつ》じゃなかった。なんとなくだが、わかる。里香は立ち去るわけでもなく、怒《おこ》りだすわけでもなく、僕の前に立っていた。
こんな里香を見たのは初めてだ。
なんだろう……?
自分でもよくわからないけれど、不思議《ふしぎ》な感情が渦巻《うずま》く。
やがて里香がその足を前に出した。一歩、二歩――。ゆっくりと僕に近づいてくる。僕は思わず、息《いき》を呑《の》んでいた。里香《りか》のことだから、なにをするかわからない。いきなり殴《なぐ》られる可能性《かのうせい》だってある。
けれど、里香は僕の横に立ち、手すりにもたれかかった。
「裕一《ゆういち》なんて、大嫌《だいきら》い」
「…………」
「バカだし、うるさいし……エッチだし」
「…………」
「大嫌い」
男の沽券《こけん》にかけて反論すべきだったのかもしれないが、僕は黙《だま》っていた。不思議《ふしぎ》なことに、僕を罵倒《ばとう》しながらも、その声は全然|怒《おこ》っていなくて、むしろ拗《す》ねたような感じだったからだ。それにまあ、確かに僕はバカだし、うるさいし……少しはエッチだ。
「ごめん」
「謝《あやま》ればいいってもんじゃないんだからね」
「そうだけど、ごめん」
「うん」
里香が肯《うなず》いた。
うん、だって?
謝罪《しゃざい》を受け入れてくれたのか?
僕は思わず、早口でさらに謝っていた。
「ごめん」
「うん」
また肯いてくれる。
「もう嫌《いや》な思いはさせないからさ」
「当たり前じゃない、そんなの」
「そ、そうだな。ははは。当たり前だよな」
里香がチラリと、僕を見た。
その顔で、はっきりとわかった。
里香は照《て》れてるんだ。
「裕一なんて、大嫌い」
不思議だった。大嫌いと言われれば言われるほど、心が満《み》たされていく。温《あたた》かいもので溢《あふ》れてゆく。世界が丸ごと自分のものになったみたいだった。今なら、なんだってできそうな気がする。たまりにたまっているレポートだって、一日で片づけられそうだ。僕は身体《からだ》の向きを変え、里香と同じように、手すりにもたれかかった。
「オレ、死ぬ」
「死ぬ? なんで?」
幸せすぎて、とは言えなかった。
さすがにそれは恥《は》ずかしい。
「マジで辛《つら》かったもん」
「…………」
「ああ、よかった」
しみじみと、しみじみと、僕は言った。
里香《りか》がくすりと笑った。
「女々《めめ》しいね、裕一《ゆういち》って」
「悪いかよ」
「別に悪くはないけど……」
「じゃあ、いいじゃん」
「あ、開き直ってるし」
「復活《ふっかつ》復活」
「さっきまで、今にも泣《な》きそうな顔してたのに」
「んなことないって」
「もうちょっと虐《いじ》めたらぜーったい泣いたと思う」
「オレはね、心が優《やさ》しいの」
「優しいって……自分で言う?」
「だって真実だし。――お、飛行機見っけ」
「え、どこどこ?」
「ほら、神宮《じんぐう》のほう。飛行機雲をちょっとだけ引《ひ》っ張《ぱ》ってるよ」
「ほんとだ。あれ、どこに行くのかな」
「どこだろうな。海外だったらいいな」
「変なの。裕一が乗ってるわけじゃないのに」
「そうだけどさ。なんかいいじゃん、遠くまでってのが」
「遠くかあ」
「どこまでもどこまでも行きたいよなあ」
僕と里香は適当《てきとう》なことをだらだらと喋《しゃべ》りつづけた。僕がちょっとした冗談《じょうだん》を言うと、里香はクスクス笑った。バカみたい、と何度も繰《く》り返《かえ》した。そんな彼女の声を聞くと、それだけで僕は幸せな気持ちになった。
なんでもない、こういう時間。
彼女の声。
ぬくもり。
優《やさ》しさ。
しばらく離《はな》れてみて、それがどれだけ貴重《きちょう》なものなのか思い知った。絶対《ぜったい》に失っちゃいけない――。
宝物だ。
この世で一番の宝物なんだ。
「なによ」
里香《りか》が照《て》れた声で言った。
「どうして、あたしをじっと見てるの」
「ん。なんとなく」
「きっとエッチなことでも考えてたんでしょ」
「なんでそうなるんだよ」
「ふーんだ」
拗《す》ねた顔が可愛《かわい》くて、僕は笑ってしまった。
「なあ、里香」
「うん?」
「なんで許《ゆる》してくれる気になったんだ。おまえのことだから、ずっとこのままかと思ったよ」
「――ったから」
「え?」
「夏目《なつめ》先生がね、許してやれって言ったから」
意外《いがい》な名前に、びっくりした。
夏目?
あいつが?
なにかが胸《むね》の中でむくむくと起きあがってきた。
「夏目って、あの外科医の夏目?」
「そう。他にいないでしょ」
「主治医《しゅじい》なんだっけ?」
「前の病院にいたときから、ずっと夏目先生に診《み》てもらってるの。もう五年くらいになるかな。夏目先生がこの病院に転勤《てんきん》になったんで、あたしもここへ転院したの」
「夏目を追《お》ってってこと?」
「うん」
なんなんだろう。胸が気持ち悪い。さっきまですごく幸せだったのに、そんな気持ちはすべて吹き飛んでしまっていた。里香が僕を許す気になったのは、夏目がそうしろって言ったからなんだ。夏目の言うことなら、里香はなんでも聞くんだ。さっきの幸せは、あの嫌《いや》なヤツのおかげだったんだ。極上《ごくじょう》の幸せはあっさりと消《き》え失《う》せた。
「どうしたの? 裕一《ゆういち》?」
「あいつに言われたから、オレと話そうって気になったのか?」
「そうだよ」
里香《りか》は肯《うなず》いた。
「でなきゃ、ぜーったい許《ゆる》してやらないもん」
きっと冗談《じょうだん》だ。というか照《て》れ隠《かく》しだ。そうは思ったが、しかし里香の言葉《ことば》を真《ま》っ正面《しょうめん》から受け止めてしまっている自分がいた。どうしようもなく傷《きず》ついている自分がいた。嫉妬《しっと》に狂《くる》っている自分がいた。下らない感情だ。そんなことは十分にわかっている。誰《だれ》のおかげであろうと、どんなことを犠牲《ぎせい》にしていようと、里香と仲直《なかなお》りできるんならかまわないはずだった。けれど僕はもう笑えなくなっていた。なにかがおかしい。どうかしてる。おまえは小さい人間だ、自分に向かってそう叫《さけ》んでみるが、声はどこにも響《ひび》かず奥深《おくふか》い闇《やみ》にそっくり吸いこまれてしまった。そう、僕の心の中には闇があった。それは今、ねっとりと渦《うず》を巻《ま》き、ありとあらゆるものを……僕自身さえも、飲みこもうとしていた。
目の前に広がる景色《けしき》が遠い。手を伸《の》ばしても届《とど》かない。ふと、線路が頭に浮《う》かんだ。いつもいつも、僕は線路を見つめていた。線路はどこかへと続いている。知らない町が、未来が、その先にある。けれど僕はそんな未来を捨ててもいいと思っていた。里香といられるのなら、それでもかまわないと思っていた。急にそれが惜《お》しくなった。本当に捨ててしまっていいのか? 遠くへ行きたかったんじゃないのか? 知らない町を、人々を、なにかを見てみたかったんじゃないのか? それを女の子ひとりのために捨ててしまっていいのか?
他の男の言うことを、あっさりと聞く女の子のために――。
里香がなにかを喋《しゃべ》ってくる。けれどその声が聞こえない。まるで耳に入ってこない。いや、入ってくるのだが、その意味を頭が理解《りかい》しようとしない。頭の芯《しん》にカッと熱《あつ》くなっている場所があって、そのせいですべての言葉《ことば》が溶《と》けてしまうのだった。里香の口がぱくぱく動いている。だんだんとその顔が険《けわ》しくなっていく。自分がなにか言う。早口で、吐《は》き捨《す》てるように。なにを言っているのか自分でもよくわからないけれど、里香の顔がいっそう険しくなる。その顔にさらに言葉をぶつける。もはや制御《せいぎょ》がきかなくなり、嗜虐的《しぎゃくてき》な快感《かいかん》さえ感じるようになっている。辛《つら》くて苦しくて悲しいのに、それをエネルギーとして快感は暴走《ぼうそう》し、ますます辛さは増《ま》し、苦しさは深まり、悲しさはその輪郭《りんかく》を鋭《するど》くしてゆく。
里香がなにか言い返してくる。
こちらも言い返す。
里香の口が開きかけ、そこで言葉を失ったかのように閉じ、また開きかけ、結局《けっきょく》閉じたままになる。
僕は言った。
「あんなヤツなんかに――」
ようやく声が聞こえた。
そしてその途端《とたん》、僕もまた言葉《ことば》を失った。自分がとんでもないことをしてしまったという感覚《かんかく》だけが残っている……。
里香《りか》がなにかを僕に向かって投げた。
言葉ではなく、物を。
よける。
それは顔の横を通りすぎ、手すりも通りすぎ、バサバサと音をたてながら空間を落ちていった。
里香がふいに、その顔を凍《こお》りつかせた。
「――の本!」
そして手すりの向こうを覗《のぞ》きこむ。
僕もまた、彼女の視線《しせん》を追《お》った。手すりの向こうには、一メートルくらいコンクリートの張《は》りだしがあり、その先は垂直《すいちょく》に切り立った壁面《へきめん》だ。病棟《びょうとう》二階の窓の庇《ひさし》が壁面の途中《とちゅう》に突《つ》きだしていて、そこに一冊の本が落ちていた。
里香が泣《な》きそうな声で言った。
「パパの本が……」
5
ずいぶん迷《まよ》ってから、病院を抜《ぬ》けだした。砲台山《ほうだいやま》事件|以降《いこう》、もちろん抜けだしは禁止《きんし》されていたので――というか、許可《きょか》されたことなんてないけど――明らかな約束《やくそく》違反《いはん》だった。見つかったら、亜希子《あきこ》さんにぶっ殺されるだろう。
まあ、ぶっ殺されたかったのかもしれない。
ぶらぶらと、夜の町を歩いた。夜は更《ふ》け、そろそろ日付が変わろうとしていた。人気《ひとけ》のない田舎町《いなかまち》をいくつもの外灯《がいとう》が照《て》らしだし、寂《さび》れっぷりを際《きわ》だたせていた。
ゆっくり、歩く。
一歩、二歩、と数えながら歩く。
商店街の脇《わき》を通りすぎたとき、コンビニの明かりが見えた。店内に客は誰《だれ》もいなくて、暇《ひま》そうな店員がマンガを読んでいた。僕はまるで光に吸い寄せられる蛾《が》のように、そのコンビニに入った。
僕に気づいた店員が、すっごく面倒《めんどう》くさそうに、
「いらっしゃいませー」
と言った。
別に買いたいものなんてないし、そもそも金だってろくにないのに、僕は適当《てきとう》にいろんなものを手に取っていった。地域《ちいき》限定《げんてい》のスナック菓子《がし》、フィギュアがおまけについた五百ミリリットルのペットボトル、鮭《さけ》のおにぎり、発売から四日たった『少年サンデー』。
それらを、ドン、とレジに置く。
「七百六十四円です」
「あ、はい」
財布《さいふ》を見ると、千円札が一枚と、小銭《こぜに》が数枚だった。
全|財産《ざいさん》の七割を使ったことになる。
オレ、なにしてんだろうな……。
そんなことを思った。
菓子《かし》なんて食べたくないし、おにぎりだって要《い》らない。
『少年サンデー』だって?
買うのは三年ぶりじゃないか。
「あの――」
「あ、すんません」
不審《ふしん》な表情の店員に、愛想笑《あいそわら》いを向ける。
店員はますます不審そうな表情になった。
僕は慌《あわ》てて七百六十四円を払《はら》い、店を出た。スナック菓子とペットボトルとおにぎりと『少年サンデー』の入ったビニール袋《ぶくろ》をぶらぶらさせながら、さらに夜道を歩いていく。
ふと、今日の出来事《できごと》が頭に浮《う》かんだ。
『あんなヤツなんかに――』
自分の、嫉妬《しっと》に狂《くる》った声が浮かんだ。
あのとき、里香《りか》は泣きそうな顔をしていた。いや、目の端《はし》っこには少し涙《なみだ》が滲《にじ》んでいた。僕のせいだった。
ちっぽけで下らない、それこそクズみたいな感情で、一番大切なものを傷《きず》つけたのだ。
あのとき、僕はどんな顔をしてたんだろう?
思ったとおり、司《つかさ》は起きていた。
「あれ、どうしたの?」
窓を開けた僕を見るなり、そう聞いてきた。
僕は窓を乗《の》り越《こ》えつつ、言った。
「鍵《かぎ》くらいかけろって。危《あぶ》ねえだろ」
「そうだけど、裕一《ゆういち》がいつ来るかわかんないからさ」
「人をナマハゲみたいに言うんじゃねえ」
へらへらと笑う。
司《つかさ》もへらへらと笑った。
「まだ寝《ね》ないのか」
「うん、ちょっと勉強をしてたからさ」
「勉強?」
「実力テストだから、もうすぐ」
「ああ、そうか」
考えてみれば、そういう時期《じき》だった。あと少しで僕たちは三年になる。いよいよ受験生というわけだ。
「裕一《ゆういち》は勉強しなくていいの?」
「オレ、レポートでOKってことになってるからさ」
「えー、いいなあ」
本当にうらやましそうな顔を、司はした。司は恐《おそ》ろしく単純なのだ。いつだって、思ったままの表情を浮《う》かべる。
僕には無理《むり》だった。
こんなふうに感心《かんしん》したり笑ったり泣《な》いたりできない。
下らない?
ああ、そうだよ、下らないさ。
でも、できないものはできないんだ。
僕はそういう、ちっぽけな人間なんだ。
だから、里香《りか》にもあんなことを言ってしまったんだ。
「どうしたの、裕一?」
司がそう尋《たず》ねてきた。
いつのまにか、ぼんやりしてたらしい。
僕は慌《あわ》てて笑った。
「ほら、お土産《みやげ》」
コンビニの袋《ふくろ》を渡《わた》す。
司がその目を輝《かがや》かせた。
「うわあ、ちょうどお腹《なか》空《す》いてたんだよね」
「食え食え」
「ありがと」
さっそくおにぎりを取ると、大きな手をびっくりするくらい器用《きよう》に動かしながら、司は包装《ほうそう》をはがした。
「ここの鮭《さけ》おにぎりって、わりとおいしいんだよね」
「おにぎりはやっぱ鮭だろ」
「たらこも捨てがたいけどね」
「確かに」
「明太子《めんたいこ》と焼きたらこじゃ、どっちが好き?」
「うわ、それは厳《きび》しい質問だな」
下らないことを話していると、少しだけ心が落ち着いた。自分の狂態《きょうたい》を忘《わす》れられた。司《つかさ》は僕が冗談《じょうだん》を言うと笑い、怒《おこ》るとごめんごめんと謝《あやま》った。僕も司が冗談を言うと笑い、司が怒ると謝ったり話を逸《そ》らしたりした。なあ、司、僕たちが友達になったときのことを覚《おぼ》えてるか? あのとき、おまえ、子猫《こねこ》を胸《むね》に抱《かか》えながらぶるぶる震《ふる》えてただろ? おまえ、すっげえでっかい身体《からだ》なのにさ、まるで子猫みたいだったぞ。だから、僕はおまえを追《お》いかけたんだ。なんにも考えなかったよ。いや、ちょっとは考えたけど、その前に足が勝手《かって》に動いてた。どうしたら、もう一度あんなふうにできるんだろうな? 教えてくれよ、司。どうしたら、おまえみたいになれるんだよ……。
時間はひどく早く流れ、気がつくと夜一時をすぎていた。コツコツ、と小さな音をたてて動く時計の秒針を眺《なが》めていると、司が尋《たず》ねてきた。
「裕一《ゆういち》、なにかあったの」
「なにかって?」
「わかんないから、聞いてるんだよ」
司はひどく真剣《しんけん》な顔をしていた。
へらへら笑っても、下らない冗談を言っても、バカみたいにはしゃいでも、すべて見透《みす》かされていたんだ……。
僕には悩《なや》みひとつ、隠《かく》すことができない。
「なんでもねえよ」
「だったら、いいけど」
バーカ、と笑いながら僕は言った。
自分でもわかるくらい、それは弱々しい笑《え》みだった。
「そんなマジな顔してんじゃねえよ」
「うん」
「ほんと、なんでもねえんだから」
「…………」
「…………」
「…………」
異変《いへん》に気づいたのは、その沈黙《ちんもく》のおかげだった。
ぽつぽつ――
そんな音が、窓の外から聞こえてきた。
僕は慌《あわ》てて立ちあがり、窓を開けた。
「あっ――」
「どうしたの、裕一《ゆういち》?」
「雨だ!」
空はいつのまにか雲に覆《おお》われており、星はまったく見えなかった。たぶん、僕が病院を抜《ぬ》けだしたときには、もうこんな空になっていたんだろう。顔を上げなかったから、まったく気づかなかった。外灯《がいとう》が作りだす光球の中、無数の雨が線を引いて落ちてゆき、アスファルトには小さなシミが増《ふ》えつつあった。
「今晩から本降《ほんぶ》りだって」
司《つかさ》が言った。
「ここんとこ暖《あたた》かいから、雪にはならないみたいだよ」
本が浮《う》かんだ。
コンクリートの庇《ひさし》に引っかかった本。
里香《りか》が投げた本。
『パパの本が……』
里香の声。
気がつくと、僕は窓を乗《の》り越《こ》えていた。
「どこ行くの、裕一?」
「ヤバいんだ! 早くしなきゃ! 本が……里香の大切な本が濡《ぬ》れちまう! あ、司、おまえも来い! 手伝《てつだ》ってくれ!」
「え? 今から?」
「ああ、早くしろ! ほら、早くしろって!」
「ま、待ってよ! ヤバいんだって! 前にあの怖《こわ》い看護婦《かんごふ》さんにすっごく怒《おこ》られたし! あのとき蹴《け》られた痣《あざ》が今でも――」
「うるさいっ! 来いよっ!」
「わ、わかったから、ちょっと待って! ちょっとだけ!」
「早くしろって! 行くぞ!」
嫌《いや》がる司の腕《うで》を取り、僕は走りだした。
そう――。
なんにも考えずに、足が動いていた。
6
雨はゆっくり、けれど確実に、その勢《いきお》いを増《ま》していた。
僕たちが病院にたどりついたころ、地面はもうすっかり濡《ぬ》れていた。早くもできた水たまりに外灯《がいとう》の明かりがにじみ、雨粒《あまつぶ》によって作り出された波紋《はもん》がその淡《あわ》い光を絶《た》え間《ま》なく揺《ゆ》らしている。僕と司《つかさ》はそんな水たまりを飛《と》び越《こ》え、その勢いのまま夜間出入り口から病院内に突進《とっしん》した。
恐怖《きょうふ》の十メートル?
知ったことか!
僕は全速力《ぜんそくりょく》でスロープを駆《か》け抜《ぬ》けた。見つかることなんて、まったく考えていなかった。司がそのあとからドスドスとすごい足音をさせながらついてくる。通りすぎるとき、チラリとナースステーションを見ると、人の姿《すがた》はなかった。たぶん仮眠《かみん》を取っているんだろう。階段の手前で用具室に入り、三秒ほど中を見まわして、目当てのものを見つけだす。そして、すぐさまそれを手に取って、階段へ向かった。
「どこ行くのさ、裕一《ゆういち》!?」
ぜいぜい言いながら、司が尋《たず》ねてくる。
「屋上《おくじょう》!」
走って走って、喉《のど》の奥《おく》が熱《あつ》く焼けただれるまで走って、僕は屋上の鉄扉《てっぴ》を跳《は》ね開《あ》けた。途端《とたん》、雨粒が顔を打った。少し前より雨はずっと強くなっていた。ただでさえ大きくなっている焦《あせ》りが、さらに膨《ふく》れあがった。急《せ》かされるように手すりに駆《か》け寄《よ》ると、僕はその向こうを覗《のぞ》きこんだ。あった、本はまだ庇《ひさし》に載《の》っていた。
「司、オレの手を――」
叫《さけ》びながら振《ふ》り返《かえ》った僕は、息《いき》を呑《の》んだ。
司がいない。
いや、まあ、いるのだが、いないというか……僕の目の前にいるのはスーパーストロングマシーンだった……。
あまりの衝撃《しょうげき》になにもかも忘《わす》れ、僕は三秒ほど固《かた》まってしまった。
スーパーストロングマシーンというのは、十年くらい前に活躍《かつやく》したプロレスラーだ。マスクマンであるからには、当然その正体《しょうたい》は秘密《ひみつ》ということになっていたのだけれど、対戦相手やマネジャーなどの関係者はもちろん、一般のファンでさえもその正体を知っていた。
平田《ひらた》淳嗣《あつし》である。
でもまあ、いちおう正体はわからないことにしておこう……という暗黙《あんもく》の了解《りょうかい》があった。なにしろマスクマンなんだから、当然だ。なのに当時新日本プロレスのエースだったドラゴン藤波《ふじなみ》はなぜか、そういう周囲《しゅうい》の配慮《はいりょ》をあっさり無視《むし》し、言ったのだった。
「おまえ、平田《ひらた》だろ?」
それはもう、見事《みごと》な名《めい》(迷《めい》)演技《えんぎ》だったらしい。眉間《みけん》に皺《しわ》を寄《よ》せ、首を傾《かし》げ、いかにも推理《すいり》しましたって感じだったそうだ。
そのスーパーストロングマシーンが、僕の目の前にいた。
いつでも笑顔《えがお》のスーパーストロングマシーン。
ギガガガと叫《さけ》ぶスーパーストロングマシーン。
僕は思わず、呟《つぶや》いていた。
「おまえ、司《つかさ》だろ?」
司が……いや、スーパーストロングマシーンがぎくりとした。それはなんというか、不思議《ふしぎ》な驚《おどろ》き方《かた》だった。いろんなことに驚いたという感じだった。
「い、いや、その」
あやしい。
「おまえ、なんでそんなマスクかぶってんの?」
「ほ、ほら、見つかるとまずいから」
そんなもんかぶっても、〇・一秒で見つかるぞ。
「もしかして、おまえさ」
「な、なに」
「プロレスおた?」
「ち、違《ちが》うって!」
ムキになって、司が否定《ひてい》する。
やっぱりあやしい。
むちゃくちゃあやしい。
「じゃあ、なんでそんなマスク持ってんだよ?」
「こ、これはお兄ちゃんの趣味《しゅみ》で……」
モゴモゴと、司が言った。
「お兄ちゃんって、鉄さんか?」
「そうだけど……」
司の兄貴《あにき》は、伊勢《いせ》じゃ有名人である。なにしろただでさえでかい司よりもさらに一回り大きく、相撲部屋《すもうべや》とプロレス団体からスカウトが来たという逸材《いつざい》≠セった。怒《おこ》らせると鬼《おに》のように恐《おそ》ろしいらしく、ヤクザをまとめて病院送りにしたとか、暴走族《ぼうそうぞく》をひとりでぶっ潰《つぶ》したとか、いろんな伝説がまことしやかに囁《ささや》かれている。
まあ、その鉄さんの趣味なら、ありそうだ。
でも……。
僕はさらに尋《たず》ねた。
「なあ、さっきなんであんなに驚《おどろ》いたんだ?」
「え?」
「ほら、『おまえ、司《つかさ》だろ?』って聞いたときだよ」
「そ、それは……」
「やっぱ、プロレスおたなんじゃないのか?」
「ち、違《ちが》うって!」
どうしておたくというのは、自分がおたくであることを指摘《してき》されると、こんなにムキになって否定《ひてい》するんだろう。
「あやしいなあ。そのムキになって否定するところが――」
呑気《のんき》なやりとりは、そこまでだった。
雨足《あまあし》が急に速《はや》くなったのだ。
顔に当たる粒《つぶ》が明らかに大きくなり、その勢《いきお》いを増《ま》していた。まずい、こんな下らないことをしてる場合じゃない!
僕は叫《さけ》んだ。
「手すり、乗《の》り越《こ》えるぞ!」
「う、うん!」
「急げ!」
ふたりそろって手すりを乗り越える。その先には一メートルほどのコンクリートの張《は》りだしがあるだけだ。少しでもふらついたら、十メートル下のアスファルトまで一直線だった。コンクリートの上に両手と両膝《りょうひざ》をつき、僕はその向こうを覗《のぞ》きこんだ。本はもちろん、まだそこにあった。手を伸《の》ばしても届《とど》く距離《きょり》ではない。二階の庇《ひさし》までは、たぶん二メートルくらいあるだろう。いきなり飛《と》び降《お》りることも考えてみたが、さすがにそれはヤバそうだった。うまく着地できればいいが、濡《ぬ》れたコンクリートで足を滑《すべ》らせたらそのまま下に落ちてしまう。となれば、方法はやっぱりひとつしかなかった。
「司、紐《ひも》の端《はし》を持っててくれ」
「え? どういうこと?」
僕はさっき用具室から持ってきたビニール紐の束《たば》を差しだした。ビニール紐といっても、ちゃんと編《あ》まれたもので、太さが一センチくらいある。僕の体重を支《ささ》えることくらいは余裕《よゆう》でできるはずだ。
「これを使うの?」
「ああ」
僕はビニール紐を両脇《りょうわき》の下に通して、三回くらいぐるぐると身体《からだ》に巻《ま》きつけた。そして、しっかり身体の前で結ぶ。
「や、やめようよ」
司《つかさ》はすっかりびびっていた。
「危《あぶ》ないって」
「濡《ぬ》らすわけにはいかないんだよ! あの本は!」
「え?」
「いいから、持ってろって!」
まだあたふたしている司に紐《ひも》の束《たば》を押《お》しつけると、僕はさらにビニール紐を掌《てのひら》に三回|巻《ま》きつけた。これで少しくらい滑《すべ》っても大丈夫《だいじょうぶ》なはずだ。けれど、絶壁《ぜっぺき》を眺《なが》めた途端《とたん》、恐怖《きょうふ》が喉《のど》の辺《あた》りまでこみあげてきた。落ちたら死ぬかもしれない……。理屈《りくつ》なんかじゃなかった。それは本能的《ほんのうてき》な恐怖だった。
「行くぞ!」
決断《けつだん》させたのは、風だった。強い風が吹きつけてきて、濡れた肌《はだ》を冷《ひ》やした。心を冷やした。けれど、そんなに強い風に吹かれても、本はめくれもしなかった。濡れているのだ。このまま一晩|放置《ほうち》したら、本はダメになってしまう。
僕はテレビで観《み》たロッククライミングの様子《ようす》を思いだしながら、壁面《へきめん》に足をつけた。両手で張《は》りだしの縁《ふち》を掴《つか》み、ゆっくりゆっくり、足を下にずらしていく。
「大丈夫、裕一《ゆういち》!?」
「な、なんとか!」
新しいスニーカーを履《は》いていてよかった。まだゴム底《ぞこ》が柔《やわ》らかいおかげで、しっかりと壁面に足をつけることができた。両手で張りだしを掴んだまま、右足を少し、下へ。次に左足を少し、下へ。力を入れすぎたせいか、それとも恐怖のせいか、コンクリートを掴む両|腕《うで》がぶるぶると震《ふる》えた。こらえろ! 震える腕に力をこめ、さらに足を下へと伸《の》ばす。あとどれくらいで足が着くのかよくわからなかった。十センチ? 三十センチ? それとももっと? そして限界《げんかい》がいきなり訪《おとず》れた。ほんの少し指を伸ばした瞬間《しゅんかん》、急に重さが増《ま》した。壁面を捉《とら》えていたはずの両足がつるりと滑った。
「ああっ!」
僕の悲鳴《ひめい》。
「うおっ!」
司の叫《さけ》び。
なにが起きたのかわからなかった。すべてが混沌《こんとん》に飲みこまれた。どこまでもどこまでも[#「も」は底本では無し]落ちていくような気がした。空間に放《ほう》りだされる感覚《かんかく》。寝《ね》ているとき、布団《ふとん》から落ちると味わう、あの恐《おそ》ろしい落下《らっか》感覚。もちろん布団から落ちてもなんともない。たかが数センチ。落下感覚は恐ろしいけれど、目が覚《さ》めてみれば、その胸《むね》を撫《な》で下《お》ろす。けれど今、自分は夢を見ているわけではないのだ。落ちたら死ぬ。死ななくても大ケガだ。亜希子《あきこ》さんが怒鳴《どな》るだろう。バカ、と怒鳴《どな》るだろう。里香《りか》は怒《おこ》るだろうか呆《あき》れるだろうか。もし僕が先に死んでしまったら泣《な》くだろうか。
気がつくと、僕は空間にぶら下がっていた。両足はどこにもついておらず宙《ちゅう》をぶらぶらと揺《ゆ》れ、両手は顔の前にピンと伸《の》びるビニール紐《ひも》をしっかりと握《にぎ》りしめている。脇《わき》の下にビニール紐が食いこんで痛《いた》い。ようやく状況《じょうきょう》を飲みこんだ。僕は落ちたんだ。手が離《はな》れ、足は滑《すべ》った。けれど身体《からだ》に三回|巻《ま》きつけたビニール紐が僕を救《すく》ってくれたというわけだった。紐を握る両手に、自然と力がこもった。
司《つかさ》のことが心配《しんぱい》だったので、顔を上げると――
そこには僕の体重を支《ささ》えるため手すりにしがみつく司の姿《すがた》があった。まるで巨大《きょだい》なアナコンダみたいな感じで、手すりにその太い腕《うで》や足を絡《から》めている。
僕は思わず息《いき》を呑《の》んでいた。
あれは――魔神風車固《まじんふうしゃがた》めだっ!
スーパーストロングマシーンの必殺技《ひっさつわざ》。相手に身体を絡め、その動きを封《ふう》じる――ということになっているが、実は全然封じられない、けれどそれでも必殺技。手すりに身体を巻きつけた司の姿は、魔神風車固めを決めたスーパーストロングマシーンそのものだった。
僕は叫《さけ》んだ。
「大丈夫《だいじょうぶ》か、司《つかさ》!」
「な、なんとか!」
司も……いや、スーパーストロングマシーンも叫ぶ。
「裕一《ゆういち》、下りられる!?」
「わ、わかんねえけど!」
「は、早く! 手が滑《すべ》るんだ!」
「お、おうっ!」
ぶら下がったまま、下を見る。二階の庇《ひさし》は、足のすぐ先にあった。たぶん十センチくらいだ。これなら下りられる。僕は胸《むね》の前にあるビニール紐《ひも》の結び目に手をやった。ダメだ、引《ひ》っ張《ぱ》られているせいでほどけない。右手で紐を掴《つか》んで、グッと身体《からだ》を持ちあげる。脇《わき》の下に食いこむ圧力《あつりょく》がなくなった。そのまま左手を動かして、どうにか結び目をほどく。右手が限界《げんかい》に来ていた。このままだと、さっきの繰《く》り返《かえ》しだ。慎重《しんちょう》に、けれど素早《すばや》く、左手で紐の余《あま》った部分を握《にぎ》ると、右手を緩《ゆる》めた。するすると紐が手の中を滑り、僕の身体は空間を下りていく。やがて右足の爪先《つまさき》が、コンクリートの庇を捉《とら》えた。続いて、左足が捉える。やった、下りられた!
「司!」
僕は叫んだ。
「もういいぞ!」
両手がひどく痛《いた》かった。
きっと皮がズルむけになってしまっているに違《ちが》いない。
見れば親指と人差し指のあいだに血豆ができていた。まるで碁石《ごいし》みたいに大きくて、ずきずき痛む。全身、ぐっしょりと雨と汗《あせ》で濡《ぬ》れていた。
僕はしゃがみこみ、本を拾った。
すっかり濡れてしまっていた。
「ちくしょう……」
間に合わなかった。
里香《りか》、ごめんな。
オレのせいだ。
オレがバカだったせいで、里香の大切な本が……。
うん?
なんだ、これ?
小説じゃないぞ。
マンガだ。
僕は慌《あわ》てて表紙をまじまじと見つめた。黄色い服を来たメガネ少年(頭頂部《とうちょうぶ》装着式《そうちゃくしき》回転翼《かいてんよく》付《つ》き)と、未来から来た猫型《ねこがた》ロボット(こちらも頭頂部《とうちょうぶ》装着式《そうちゃくしき》回転翼《かいてんよく》付《つ》き)が楽しそうに微笑《ほほえ》みあっていた。これは里香《りか》の本じゃない。少なくとも、里香が投げた本じゃない。
壁面《へきめん》に突《つ》きだした庇《ひさし》の上で、僕は呆《ほう》けた声を出していた。
「はあ?」
「裕一《ゆういち》!? 大丈夫《だいじょうぶ》」
司《つかさ》が頭上《ずじょう》から叫《さけ》んでくる。
「裕一!? どうしたの!?」
「はあ?」
雨に打たれながら、僕は立ちつくした。
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下りるのも苦労したけれど、二階の庇《ひさし》から屋上《おくじょう》へ戻《もど》るのは、もっともっと苦労した。なにしろビニール紐《ひも》しか僕たちにはなかったのだ。そんなもので垂直《すいちょく》の壁《かべ》を登るなんて、できるわけがない。結局《けっきょく》、司《つかさ》が梯子《はしご》を探《さが》しだしてくるまで、僕は三十分近く庇に取り残された。そのあいだ雨はひたすら降《ふ》りつづけ、気温は下がりつづけ、びしょ濡《ぬ》れの僕はガクガク震《ふる》えつづけるしかなかった。
まあ、風邪《かぜ》も引こうというものだ。
ようやく司が見つけてきた梯子で屋上に戻り、それから自分の病室に帰ったときには、僕の身体《からだ》はすっかり冷え切ってしまっていた。ただ立っているだけで、身体が震え、上の歯と下の歯がぶつかってガチガチ鳴《な》るのだ。慌《あわ》てて布団《ふとん》に潜《もぐ》りこみ、エアコンの設定《せってい》温度を最高にしたものの、それでも身体はまったく温《あたた》かくならなかった。まるで身体の芯《しん》が凍《こお》りついてしまったみたいだった。
翌日、朝の検温《けんおん》にやってきた亜希子《あきこ》さんが、
「ええ――っ!」
と声をあげた。
体温計を見つめる亜希子《あきこ》さんの目は、見開かれていた。
「なんで、こんなにあるのさ!?」
「何度なんですか……」
そう尋《たず》ねる僕の声は、嗄《かす》れきっていた。
「三十九度」
「そ、そんなに……」
「もう一回計ろう」
亜希子さんはそう言ったけれど、結果は同じだった。
そりゃもう、ひどいもんだった。
とりあえず、点滴《てんてき》を打たれた。
一本打つのに、一時間。
それが終わったら、次の一本。
これまた一時間。
さすがに『必殺《ひっさつ》二倍速!』を使うわけにもいかず、僕はやがて眠《ねむ》りに落ちていった。いろんな夢を見た。その熱に歪《ゆが》められた眠りの中、父親が出てきて笑った。ゲラゲラ笑っていた。きっと万馬券でも当てたんだろう。お袋《ふくろ》には愚痴《ぐち》を言われた。まあ、これはいつものことだ。司《つかさ》も出てきた。スーパーストロングマシーンと化した司は、上半身|裸《はだか》、下半身黒タイツという格好《かっこう》で、なぜか猪木《いのき》と戦っていた。
「うらあっ!」
猪木が叫《さけ》び、渾身《こんしん》のパンチを司に打ちこむ。
派手《はで》に倒《たお》れた司は、素早《すばや》くマットから起きあがると、今度はウニベルサル・デ・ガルーザ、すなわち変形ダイヤル固《がた》めを極《き》めた。
猪木が叫ぶ。
「うがあああああ――っ!」
さらに叫ぶ。
「うがあああああ――っ!」
そこで、するりと技《わざ》がとけた。
真っ赤に怒《いか》り狂《くる》った猪木は、すぐさまロープへと走った。背中《せなか》からぶつかり、ロープの反動を利用して、さらに加速《かそく》!
どこかで見ていた僕は叫んでいた。
「やばいっ! 司っ! ラリアートが――」
ぼうっとしている司の胸《むね》に、ラリアートが決まった。
吹っ飛ぶ司!
叫ぶ猪木!
猪木《いのき》はその顔に余裕《よゆう》の表情を浮《う》かべ、マットに這《は》いつくばる司《つかさ》を見下ろしていた。ああ、これで終わりなのか? 司、もうダメなのか? 立てないのか? 僕は絶望《ぜつぼう》とともに、司を見つめていた。なにもかも失ってしまうような気持ちだった。
だが、司の手がピクリと動いた――。
猪木が異変《いへん》に気づき、その眉間《みけん》に皺《しわ》を寄《よ》せる。
「司あああ――っ!」
僕は立ちあがり、叫《さけ》んだ。
「いけええ――っ!」
思いっきり拳《こぶし》を振《ふ》りあげた。
声に応《こた》えるかのように、司は素早《すばや》く身体《からだ》を起こし、と同時に猪木の足を取った。そしてスーパーストロングマシーンの必殺技《ひっさつわざ》である魔神風車固《まじんふうしゃがた》めが極《き》まる! 猪木の顔が苦しみに歪《ゆが》む! 猪木は必死《ひっし》になって逃《のが》れようとするが、司の巨大《きょだい》な手はその肩《かた》にしっかり食いこんでいた。
僕は叫びつづけた。
「司あああ――っ! ぶっ殺せえええ――っ!」
周《まわ》りで大勢《おおぜい》の観客《かんきゃく》が立ちあがり、リングが見えなくなった。僕はピョンピョン飛《と》び跳《は》ねて、少しでもリングの様子《ようす》を見ようと思ったが、そのうちなにもかもが闇《やみ》に包《つつ》まれ、意識《いしき》が遠ざかり、歪《ひず》み、消え、生まれ――やがて別の夢へと移《うつ》り変《か》わっていった。
里香《りか》が、いた。
僕の病室に。
そう――。
そんな夢だ。
僕は里香の顔をじっと見つめた。どうせ夢なんだから、見ておかなきゃ損《そん》だと思ったのだ。なにしろ里香は人に顔をじろじろ見られるのが嫌《きら》いで、五秒も見つめていると必《かなら》ずなにかが飛んでくる。あんな可愛《かわい》い顔をしてるんだからゆっくり見させてくれてもいいのに、ほんと里香はケチだ。
夢の中の里香は、さすが夢だけあって、怒《おこ》ったりしなかった。
同じように、じっと僕を見つめていた。
(ちぇっ、可愛いな……)
なんでこんなに可愛いんだろう。
腰《こし》よりも長い髪《かみ》は漆黒《しっこく》で、まるで濡《ぬ》れたように輝《かがや》いていた。癖《くせ》がまったくなくて、風が吹くと、その髪はさらさらと揺《ゆ》れる。一度ゆっくり触《さわ》ってみたいのだけれど、そんな機会《きかい》はなかった。ああ、砲台山《ほうだいやま》でその頭を撫《な》でたっけ。でも、あのときはいろんなことで心がいっぱいになっていて、彼女の髪《かみ》の感触《かんしょく》を味わう余裕《よゆう》なんてまったくなかった。里香《りか》の肌《はだ》は陶器《とうき》のように白くて滑《なめ》らかだ。なにしろ、里香はほとんど病院の外に出たことがない。もう何年も何年も、ずっと病院|暮《ぐ》らしなのだ。看護婦《かんごふ》さんがいつだったか、そんな里香の肌を誉《ほ》めてたのを聞いたことがある。うらやましいわねえ、って。里香は困《こま》ったように笑っていたけれど、彼女の気持ちが僕にはよくわかった。だって、里香は日焼けすることさえもできなかったんだ。そんな当たり前の機会《きかい》さえ、奪《うば》われつづけているんだ。
里香を見ると、僕は少しだけ悲しくなる。
その美しさを生みだしてしまった運命を思い知らされるからだ。
なあ、里香、と僕は言った。
「いつかさ、どこか遠くへ……そうだ、海にでも行こうな。手術が終わって元気になったら、お弁当を持ってさ、鳥羽《とば》のほうへ行こうな。あの辺《あた》りってわりときれいなんだぜ。国立公園に指定《してい》されてるくらいだし。すっげえ透明《とうめい》な波が、ざぱーんざぱーんって打《う》ち寄《よ》せてくるんだ。沖縄《おきなわ》の海とか、テレビでやってるだろ? あそこまではいかないけど、ほんとにきれいなんだぞ。おまえ、海、行ったことあるか?」
「ないよ」
里香が答えた。
ああ、ほんとリアルな夢だ……。
こんなにちゃんと答えてくれるなんて。
調子《ちょうし》に乗って、僕は続けた。
「じゃあ、オレがつれてってやるよ。砲台山《ほうだいやま》のときみたいに。そうだ、鳥羽じゃなくて、南島町《なんとうちょう》でもいいかもな。南島町には、オレの叔父《おじ》さんが住んでるんだ。漁師《りょうし》をやってるから、頼《たの》めば船に乗せてくれるかもしれないぞ。オレ、一回だけ乗せてもらったことがあるんだ。沖《おき》まで行くとさ、もうなんにもないんだ。海と空がどこまでもどこまでも広がってて。ずっと見てると、だんだん海と空の境《さかい》がわからなくなってくる。でさ、すっげえ寂《さび》しくなるんだ。ああ、こんな広い世界に、自分はひとりきりで生きてるんだって。ちっぽけだなあって。それで――」
急に息《いき》が苦しくなった。
胸《むね》の奥《おく》から空気が噴《ふ》きだしてきて、僕は咳《せ》きこんだ。とまらない。息ができなくなり、僕は身体《からだ》をくの字に曲げた。
と、里香がやってきて、背中《せなか》を擦《さす》ってくれた。
「大丈夫《だいじょうぶ》、裕一《ゆういち》?」
「あ、ああ」
おまえがこんなに優《やさ》しくしてくれるんなら、いつだって僕は大丈夫だよ。それにしても、なんていい夢なんだろう……。
目覚《めざ》めるのが怖《こわ》くなってきた。
ようやく咳《せき》がおさまると、里香《りか》は僕が寝《ね》ているベッドに腰《こし》かけた。
「熱《あつ》いね」
そう言って、僕のおでこに手を置く。
そのまま、頭を撫《な》でてくれた。
目覚《めざ》めるのが怖《こわ》くて、僕は喋《しゃべ》るのをやめ、里香の顔をただ見つめていた。里香はひどく優《やさ》しい顔をしていた。その目は少し潤《うる》み、唇《くちびる》の端《はし》に笑《え》みが浮《う》かんでいる。そんな里香の顔を見ているだけで、なぜか泣《な》きたくなってきた。
「ねえ、裕一《ゆういち》」
里香のほうから、話しかけてきた。
「どうして本を拾ってくれたの」
え?
そのことを、なんで知ってるんだ?
ああ、そうか……。
夢だから、辻褄《つじつま》があわないのは当たり前だよな。
「ずっと昔だけどさ、オレ、黄色いミニカーを持ってたんだ」
「ミニカー? それがどうしたの?」
「そのころ、変な遊びが流行《はや》ったんだよ。オレたちは隠《かく》し物《もの》ゲームって言ってたんだけどさ。
まず、自分の大切なものを、どこかに隠《かく》すんだ。生《い》け垣《がき》の中とか、天井裏《てんじょううら》とか、橋の欄干《らんかん》の脇《わき》とか、まあどこでもいいんだけど。それで、隠し終わったら、今度は他のヤツが捜《さが》すんだ。かくれんぼの物バージョンってとこ。意味、わかるか?」
里香《りか》は肯《うなず》いた。
「隠しきったら、もちろん自分のもののままだよ。でも、もし隠したものを見つけられたら、それは見つけたヤツのものになる。なにしろ大切なものだから、みんな必死《ひっし》になって隠すんだ。山西《やまにし》なんてすげえんだぜ。いや、普通《ふつう》にすごいって意味じゃなくて、バカですごいって意味だけどさ。親戚《しんせき》から貰《もら》った輸入物のマカデミアナッツのチョコレートを魔法瓶《まほうびん》の中に隠したんだ。あのころって、まだそういうの珍《めずら》しかったんだよ。今じゃどこでも売ってるけど。で、山西のヤツ、よっぽど慌《あわ》てて隠したらしくて、その魔法瓶の中に少しお湯が残ってることに気づかなかったんだよな」
「え、じゃあ、溶《と》けちゃったの?」
僕はクックッと笑いながら肯《うなず》いた。
「そうだよ。ゲームが終わったあと、隠しきった山西が得意気《とくいげ》にポットを開けたら、チョコレート味のお湯ができあがってたってわけ。山西、半ベソかきながら、残ったナッツだけ囓《かじ》って、負《ま》け惜《お》しみで言ったんだぜ。ああ、うまいなあうまいなあって。その顔が、悲しいようなおかしいような感じでさ。そのときはみんなでゲラゲラ笑ったけど、あとでひとりになったら、妙《みょう》に物悲しくてたまんなかったなあ。うまいなあうまいなあって言ってた山西の顔、今でも覚《おぼ》えてるよ」
あのころからおまえはバカだったよなあ、山西。
「それで、裕一《ゆういち》はなにを隠したの?」
「さっき言った黄色いミニカーを隠したよ」
「見つけられた?」
首を横に振《ふ》る。
「誰《だれ》にも見つけられなかった」
「じゃあ、取られなかったんだ?」
また、首を横に振る。
「どういうこと?」
「うまく隠しすぎて、オレも見つけられなくなったんだ。すぐに隠し場所から出せばよかったんだけど、他《ほか》の遊びに夢中《むちゅう》になっちゃって、しばらく隠したままで……そうしたら、どこに隠したか忘《わす》れちまってさ。あとで必死になって捜したんだけど、いくら捜しても見つからないんだ。日が暮《く》れるまで捜して、次の日も捜して、その次の日も捜して、結局《けっきょく》見つからないままだった」
あれは父親が僕に買ってくれた、数少ないオモチャのひとつだった。ちょっと前にモデルチェンジしたほうじゃなくて、昔のワーゲンビートルだ。その滑《なめ》らかなルーフを、安っぽい塗装《とそう》を、思いだした。父親のでっかい手から、小さいワーゲンビートルが出てきたとき、僕はびっくりして目を瞬《またた》かせた。父親は笑いながら言った。なあ、おい、かっこいいだろ。いつかこんな車に乗ろうな。
ミニカーそのものはなくなってしまったけれど、父親の願望《がんぼう》は果《は》たされないままになってしまったけれど、その記憶《きおく》だけは今も僕の中に残っている。
まるでなにかの傷跡《きずあと》のように。
「すっげえ悲しかったなあ。今でも思いだすと悲しくなるよ。だから、おまえの本、拾おうって思ったんだ。あれ、親父《おやじ》さんから貰《もら》った本だったんだろ? ずぶ濡《ぬ》れになったらやっぱり悲しいよな。でも、なんでかな。せっかく拾ったのにさ、その本、おまえが落とした本じゃなくなってたんだ。ああ、もしかすると、あれも夢だったのかな。そうか、そうだよな。今と同じで夢なんだよなあ。そうだよなあ……」
だんだんと、意識《いしき》が薄《うす》れていった。
いくら夢の中とはいえ、喋《しゃべ》りすぎて疲《つか》れたのかもしれない。世界がうすぼけてゆく。里香《りか》の可愛《かわい》い顔がうすぼけてゆく。
なあ、里香――。
僕はもう声にならない声で話しかけた。
おまえ、なんで泣《な》きそうな顔してるんだ?
「ゆっくり休んでいいよ」
泣きそうな顔をした里香が、やけに優《やさ》しい声で言った。
「ありがとう、裕一《ゆういち》」
ああ、なんていい夢なんだろう。
最高だ。
こんな夢なら、いつまでだって見ていたいな……。
そう思いながら、僕は目を閉じた。
それからも、いろんな夢を見た。
まったく、熱ってヤツはたまらない。人の心の中に眠《ねむ》っているいろんな思いやら記憶やらを勝手《かって》に引っぱりだしてくるのだ。
しかも、現実どおりじゃないってのが、またたまらない。
「させえええ――っ! させえええ――っ!」
丸めたパンフレットを振《ふ》りまわし、父親が叫《さけ》んでいた。
「ゆううう――いちぃ――っ! ちょい差《さ》しだ――っ!」
その声を受けながら、僕は必死《ひっし》にトラックを走った。前には二組のヤツがいて、だんだんとその背中《せなか》が近づいてくる。僕は腿《ふともも》に力をこめ、トラックを思いっきり蹴《け》りつづけた。肺が熱《あつ》くなるまで走りつづけた。
そしてゴール直前で、二組のヤツと並《なら》んだ。
差は少し。
胸《むね》を大きく張《は》った分だけ、僕が先にゴールテープを切った。
父親は狂《くる》ったように叫《さけ》んだ。
「うおおおおお――っ! やったああああ――っ! 万馬券だ――っ!」
一番の旗《はた》を持った僕は、得意気《とくいげ》に笑っていた。
父親に向かって、誇《ほこ》らしげに手を振《ふ》っていた。
「よしよし」
そんなことを言いながら、僕は子猫《こねこ》の頭を撫《な》でていた。
「いっぱい食べろよ」
校舎の裏《うら》に住み着いていた子猫。
野良猫《のらねこ》のくせに人懐《ひとなつ》っこくて、気弱で、大きな物音がするといつもビクリとその身を震《ふる》わせていた。
にゃあ、と甘《あま》えるように鳴《な》いたっけ。
猫にはコゴローという名前がついていた。三組の女子|連中《れんちゅう》がつけたのだ。もっとも、三組の女子はすぐ子猫に飽《あ》きてしまって、一週間もするとコゴローのことなんて忘《わす》れてしまったけれど。
それからは、用務員のオッサンだけがコゴローにご飯をやっていた。
コゴローはずっと腹を空《す》かせていて、食べ物を見ると、どんな人間にだってすぐ近寄《ちかよ》っていった。それに、一匹で暮《く》らしているのが寂《さび》しいみたいで、いつも情《なさ》けない顔をしていた。
そんなコゴローを見ていると、僕も情けなくなった。
まるで自分を見ているようだったからだ。
僕にはもちろん、家族がいる。友達だっている。コゴローみたいに腹を空かせたりしないし、寂しくなったりもしない。
でも、コゴローが抱《かか》える心細さや情けなさは、やっぱり僕の中にもあるもので。
時にはそれに囚《とら》われたりもするわけで。
可愛《かわい》いから、コゴローをかまってたんじゃない。なんだか情けなくて悲しくてたまらなかったから、朝御飯の残りを――ハムの切《き》れ端《はし》とか、焼き魚とか――ときたま、運んでいたんだ。
「まあ、しょうがないねえ」
用務員のオッサンは、コゴローが死んでしまったあと、僕にそう言った。
「あの子猫《こねこ》は弱かったから、どうせ生き残れなかったよ」
僕は生き残れるんだろうか?
そして……里香《りか》は?
2
ようやく熱が下がって歩けるようになると、僕はその足を東|病棟《びょうとう》へと向けた。すっかり慣《な》れてしまった東病棟への渡《わた》り廊下《ろうか》を過ぎ、その向こうの静かすぎる通路を抜《ぬ》け、突《つ》き当《あ》たりのふたつ手前にある里香の病室へと歩いてゆく。ゆっくり歩いたつもりなのに、五分もしないうちに着いてしまった。まあ、当たり前だ。なにしろ小さな病院なのだから。
二二五号室。
秋庭《あきば》里香。
そう書かれたプラスチックのドア・プレートをしばらく見つめていた。この向こうに、里香がいる。今日もベッドに沈《しず》んでいる。
夢の光景《こうけい》が、浮《う》かんできた。
「ゆっくり休んでいいよ」
頭を撫《な》でる、その手のぬくもり。
「ありがとう、裕一《ゆういち》」
急に顔が熱《あつ》くなってきた。
いくら夢とはいえ……というか、願望《がんぼう》ってのが近いけど……とんでもない夢だった。里香があんなに優《やさ》しいわけないじゃないか。
看護婦《かんごふ》五人|泣《な》かせの里香だぞ?
亜希子《あきこ》さんでさえ手を焼いてる里香だぞ?
熱くなっていた顔が、急に冷たくなった。やめよう、今日は引き返そう。体調もよくないし、今ひどい目にあったら、また熱が上がってしまう。ほ、ほら、昔の軍隊でも退却《たいきゃく》って言わないで転進《てんしん》とか言ったじゃないか。そ、そうだ、転進だ転進。
引き返そうとして身体《からだ》の向きを変えた、そのときだった。
「なにしてんの」
ドアがいきなり開き、そんな声が聞こえてきた。
ああ、後ろを向きたくない……。
もちろん背中《せなか》を向けたままでいられるわけもなく、そんなことをすれば後ろから蹴《け》りのひとつも喰《く》らいかねず、僕は慌《あわ》てて振《ふ》り向《む》いていた。
むりやり笑《え》みを浮《う》かべ、言う。
「や、やあ、里香《りか》」
里香がいた。
もちろん。
あの可愛《かわい》らしい顔で、僕を見ていた。
「さっきから、人の病室の前でなにしてんのよ」
「え? 気づいてたのか?」
「だって、なにかブツブツ言ってるんだもん」
もう、と里香が言った。
「まるで変質者《へんしつしゃ》みたい」
僕はその目を見開いていた。
あれ、なんだ?
どうしたんだ?
物凄《ものすご》い違和感《いわかん》があった。いつもの里香はこう、なんていうか、まるでマグマの塊《かたまり》みたいな感じなんだ。触《さわ》ったら火傷《やけど》するし、近づくだけでも恐《おそ》ろしい。きれいな顔で黙《だま》りこんでいると、それだけで圧倒《あっとう》されてしまう。ましてや本気で怒りだしたら、誰《だれ》もどうにもできない。
なのに!
今、目の前にいる里香は、妙《みょう》に優《やさ》しい顔つきをしていた。
「ご、ごめん」
戸惑《とまど》ったまま、とりあえず謝《あやま》る。
里香は自分の病室のほうを見た。
「ほら、入ってよ」
「あ、ああ」
「今日は寒いね」
とか言いながら、里香は自分のベッドに腰《こし》かけた。
里香の病室に入るのは本当に久しぶりで、僕はどうしていいかわからなくなってしまい、しばらく入り口の辺《あた》りで立ちつくした。きょろきょろと、辺りを見まわす。
女の子の病室にしては、素《そ》っ気《け》ないものだった。
キャラクターグッズなんて、ひとつもない。
ぬいぐるみとかも、ない。
まるで短期入院者の部屋《へや》みたいだった。少しだけ入院して、すぐに去っていく――そんな感じだった。
僕の病室なんて、下んないものでいっぱいなのに。
「どうしたの、裕一《ゆういち》?」
「あ、いや、別に」
僕は慌《あわ》てて、ベッドサイドの丸椅子《まるいす》に腰《こし》かけた。
「おまえの部屋《へや》、こんなに物が少なかったっけ」
「うん、ちょっと処分《しょぶん》したの」
「処分?」
「まあ、気分|転換《てんかん》みたいなものよ」
やけに素《そ》っ気《け》なく言ってから、里香《りか》はなにかをひょいっと放《ほう》ってきた。
「わっ、なんだよ」
手の中に収《おさ》まったのは、ミカンだった。
「それ、わりとおいしいんだよ。食べる?」
「う、うん」
「じゃあ、ちょうだい」
里香は微笑《ほほえ》むと、その両手を伸《の》ばした。今度は僕が、ひょいっと、里香にミカンを投げる。里香はミカンを受け止めると、得意気《とくいげ》に微笑んだ。
「なに得意気なんだよ」
「ちゃんと受け止められたから」
「あったりまえだろ」
僕は呆《あき》れて言った。
「こんな近いんだからさ」
「もう、裕一ってつまんない。ナイスキャッチとか言ってくれればいいのに」
「けっ」
「ふーんだ」
言いながら、里香のほっそりした指がミカンを剥《む》いていく。皮が硬《かた》いらしく、妙《みょう》に一生懸命《いっしょうけんめい》な感じで。その姿《すがた》はまるで小さな子供のようだった。
彼女の顔は俯《うつむ》き気味《ぎみ》で、午後の陽光《ようこう》が斜《なな》め上から射《さ》しこんで、長いまつげがぼんやりした影《かげ》を頬《ほお》の辺《あた》りに落としていた。長いあいだ病院|暮《ぐ》らしの里香の肌《はだ》はミルクのように白く、そのことが少しだけ僕の心を哀《かな》しくさせていた。
なんとしても、里香を護《まも》りたい。
そう思った。
もちろん、僕にできることなんて、なにもないのかもしれない。砲台山《ほうだいやま》に行ったときのように、大きな失敗だってしてしまうかもしれない。それでも。僕は彼女のそばにいたかった。彼女のためになにかしてあげたかった。
なあ、里香《りか》。
オレはおまえが一番大事だよ。
世界よりも、自分よりも、大事だよ。
もちろん、僕はそんな言葉《ことば》を口にしたりはしなかった。心の中で、まるで呪文《じゅもん》のように唱《とな》えただけだ。そう、言わないほうがいいのだ。こういうことは、そっと胸《むね》の奥《おく》にしまっておけばいい。
だいたい、恥《は》ずかしくて言えるわけがないし。
「大丈夫《だいじょうぶ》、ちゃんとわかったから」
里香がいきなりそう言ったので、僕はびっくりした。
もしかすると、僕は思ってることをそのままベラベラ喋《しゃべ》っていたんだろうか。熱にやられて、口が閉まらなくなってしまったんだろうか。
焦《あせ》っていると、里香が続けて言った。
「あの本、裕一《ゆういち》が拾ってきてくれたって、すぐにわかったから」
「あ、ああ……」
ほっとした。
よかった、そっちの話か。
いや、待て。
それはそれでよくないぞ。
「本って……」
「朝起きたらね、枕元《まくらもと》にあの本が置いてあったから、あたしびっくりしちゃった。誰《だれ》かが拾ってくれたことはわかったけど、誰だろうって。でも裕一の他にいるわけないよね。それで、あんたの病室に行ったら――」
里香が僕の顔を見て、すぐ恥ずかしそうに目を逸《そ》らした。
「――裕一、熱出して寝《ね》こんでるんだもん。ほんと、バカなんだから。あんなに雨が降《ふ》ってるのに、本を拾いにいくなんて。ほんと、バカなんだから」
わけがわからない。
本は拾ったさ、そりゃ。
でも、別の本だったぞ。
枕元にあった?
僕じゃない、僕はそんなことしてない。
そのとき、僕はようやく、すべての仕掛《しか》けに思《おも》い至《いた》った。ちくしょうっ、夏目《なつめ》だ。あのバカ野郎《やろう》が、そんな小細工《こざいく》をしたんだ。
里香の本を先に拾っておき、別のに置《お》き換《か》えた。
僕が拾いに行くと、予想《よそう》して。
でも、まあ、ざまあみろだ。里香《りか》は僕が拾ったと思いこんでいる。夏目《なつめ》の手柄《てがら》を横取りしてやったってわけだ。ちょっと後ろめたいけど、かまうもんか。とはいえ……もしかしてこれも夏目の思惑《おもわく》どおりだとしたら? 僕と里香を仲直《なかなお》りさせようと思って、眠《ねむ》っている里香の枕元に本を置いたんだとしたら?
いや、ありえない。
あの意地悪《いじわる》野郎《やろう》が、そんなことをしてくれるもんか。
「はい、あげる」
剥《む》き終《お》わると、里香はミカンを半分に割った。
「食べて」
ひょいっと、その半分を投げてくる。
僕はそれを受け取った。
「ナイスキャッチ」
自分で言ってみる。
里香がおかしそうに笑った。
「裕一《ゆういち》のバカ」
「なんでだよ」
「おいしいね、ミカン」
「ああ、うまいな」
「そっちも甘《あま》い?」
「うん。だって、同じミカンじゃん」
「そうだけど」
「マジで甘いな、これ」
「男の子って、皮ごとミカン食べちゃうんだね」
「んなの、当たり前だろ」
ああ、それにしても、里香が優《やさ》しい。どうしてこんなに優しいんだろう。どうしてこんなに嬉《うれ》しそうな顔をしてるんだろう。この機嫌《きげん》の良さがずっとずっと、それこそ一万年だって続けばいいのに。
ふと、思いだした。
さっきの里香の言葉《ことば》を。
『それで、あんたの病室に行ったら、裕一、熱出して寝《ね》こんでるんだもん』
え?
え?
僕の病室に来た?
熱を出しているときに?
ってことは――。
だんだんと、顔が熱《あつ》くなってきた。あの夢は……夢だと思っていたものは、夢じゃなかったのかもしれない。里香《りか》の小さな手。温《あたた》かい手。それがおでこに載《の》せられたときの感触《かんしょく》。柔《やわ》らかさ。ありがとう、という声。
「裕一《ゆういち》、顔が赤いよ。暖房《だんぼう》、強すぎる?」
「あ、いや……別に暑くは……い、いや……そ、そうかな……あ、暑いな……むちゃくちゃ暑いかもしれないな……」
「温度、下げてもいいよ」
「そ、そうするかな……は、ははは……」
慌《あわ》てて立ちあがりながら、思った。
あれは夢じゃなかったのか?
どうして里香がこんなに優《やさ》しいんだ?
いつ僕たちは仲直《なかなお》りしたんだ?
3
ごうごうと、音をたてていた。
熱を放《はな》っていた。
なにかといえば、それは病院の裏《うら》にある焼却炉《しょうきゃくろ》である。学校にあるのとだいたい形も大きさもいっしょで、高さは一メートルくらい、幅《はば》は五十センチほど。その放《ほう》りこみ口は開け放たれていて、炎《ほのお》が真っ赤に盛大《せいだい》に揺《ゆ》らいでいる。
それにしても、よく燃える。
次々と紙が放りこまれているのだから、当然だが。
「ずず――」
僕は鼻水《はなみず》を啜《すす》った。
まだ風邪《かぜ》が治《なお》っていないのだ。
目の前で揺《ゆ》れる炎を見つめながら、熱を出して寝《ね》こんでいたときのことを思いだした。とにかく、あのときはよく眠《ねむ》った。一日二十時間くらい眠ってた。
それくらい寝てれば、夢だって見る。
幻想《げんそう》だって見る。
額《ひたい》に置かれた、里香の手のぬくもりが蘇《よみがえ》ってきた。あまりにもそれは優しくて、心地《ここち》よくて、ますます現実の出来事《できごと》だとは思えなくなった。
そう、きっと夢なんだ。
幻想《げんそう》だったんだ。
それにしても、顔が熱《あつ》い。まあ、まだ少し熱が残ってるし、目の前でこれだけ紙が燃えていれば、熱いのは当然だった。他の理由なんてないさ。なあ。
僕は涙《なみだ》とともに、言った。
「さよなら、『萌《もえ》ブルマ』」
そして、本を一冊、焼却炉《しょうきゃくろ》に放《ほう》りこむ。
「すげえ可愛《かわい》かったぞ」
僕の言葉《ことば》に応《こた》えるかのように、炎《ほのお》が大きくなった。
『萌ブルマ』が燃えてゆく。
まるでこの世の刹那《せつな》を訴《うった》えるかのように、悲しさを叫《さけ》ぶかのように、炎をメラメラと揺《ゆ》らしながら、燃えてゆく。
僕は次の一冊を放りこんだ。
「さよなら、『未亡人《みぼうじん》旅情《りょじょう》』」
さらに炎が大きくなる。
「色っぽかったっす」
また一冊。
「さよなら、『メガネっ子ふぃーばー』」
ああ、燃えてるよ……。
メガネをかけた女子高生が、女教師が、赤い炎に飲まれていく。燃えたものは二度と戻《もど》ってこない。
僕は天を見上げ、言った。
「ごめんな、多田《ただ》さん」
そう――。
僕が燃やしているのは、戎崎《えざき》コレクションだった。
多田さんから譲《ゆず》り受《う》けた、膨大《ぼうだい》な数のエロ本だ。今、それは僕の横に積《つ》みあげられていた。こうして見ると、本当に凄《すさ》まじい数だ。
よくもまあ、こんなものを、こんなにたくさん、集めたもんだ。
多田さんのことを、僕は思いだした。いつもニヤニヤ笑ってたっけ。毎日のように亜希子《あきこ》さんのお尻を触《さわ》っては、毎日のように怒鳴《どな》られていた。
思えば、亜希子さんに対抗《たいこう》できたのは、多田さんだけだった。
このエロ本は、多田さんが残していったのだ。
いわば、多田さんの生の証《あかし》だった。
それを燃やすのは忍《しの》びないし、護《まも》りきれなかったことがひどく申《もう》し訳《わけ》なかった。まったく情《なさ》けない。
でも、もっともっと大事なものがあるんだ。
「ほんとごめんな、多田《ただ》さん」
燃えろ。
燃えろ。
どうせ燃えてしまうのなら、盛大《せいだい》に燃えてくれ。
やけになって、僕は次々と本を焼却炉《しょうきゃくろ》に放《ほう》りこんでいった。二冊三冊と、まとめて放りこむ。炎《ほのお》は律儀《りちぎ》に燃えあがり、ためらうことなく本をこの世から消し去った。あとに残るのは、灰《はい》と煙《けむり》のみ――。
見上げると、冬の白っぽい空に、煙がたなびいていた。
「おまえ、なにやってんの」
そんな声がしたのは、ほぼ半分を燃やしたころだった(とはいっても、まだ千冊以上の本が残っていたけれど)。
振《ふ》り向《む》くと、背後《はいご》に夏目《なつめ》が立っていた。
僕は鼻水《はなみず》を啜《すす》り、言った。
「本、拾ってあったんですね」
「うん? 本?」
「庇《ひさし》に落ちてた里香《りか》の本ですよ」
「庇? 里香の? なんのことだ?」
ああ、白々《しらじら》しい。
僕は夏目を睨《にら》みつけた。
「とぼけないでください。夏目先生ですよね、里香が落とした本を拾ったのって。それで、別の本に置《お》き換《か》えたんですよね」
「なんだ、バレてんのか」
「他に誰《だれ》があんなことするんですか」
「なかなかおもしろかっただろ」
夏目は悪びれることもなく、うははと大声で笑った。
「ただ拾うだけじゃ、つまらないからな」
「……おもしろくないです」
「オレはおもしろかったぞ」
「ああ、そうですか」
ちくしょう。
なんて嫌《いや》なヤツなんだろう。
こいつは、僕がいつか本を拾いにくるって、予想《よそう》していたんだ。それで、本を先に拾い、別のに置き換えた。
僕をからかうために。
「おまえ、なに燃やしてんの?」
戎崎《えざき》コレクションを手に取った夏目《なつめ》が驚《おどろ》きの声をあげた。
「うわ、すげえな!」
「まあ、そうですね」
「どうしたんだよ、これ。おまえのか」
「貰《もら》ったんですけどね」
「ふーん、いや、こりゃマジですげえわ。しかもこんなにあるのかよ。戎崎って、意外《いがい》とスケベだったんだな。いやあ、感心感心。――うん? おい! これを燃やしてんのか! こんな貴重《きちょう》なものを! もったいないだろうが!」
「里香《りか》に言われたんですよ」
「里香に?」
「燃やせって」
一冊、焼却炉《しょうきゃくろ》へ。
さよなら、『いけない放課後《ほうかご》』。
一冊、焼却炉へ。
さよなら、『午後の誘惑《ゆうわく》』。
一冊、焼却炉《しょうきゃくろ》へ。
さよなら、『団地妻《だんちづま》の妄想《もうそう》』。
「全部燃やしたら、許《ゆる》してくれることになってんです」
エロ本を一生懸命《いっしょうけんめい》めくっていた夏目《なつめ》の手が、ピタリととまった。信じられないって目で、僕を見つめてくる。
「許すって言ったのか? 里香《りか》が?」
「ええ」
さよなら、『いんらんぼー』。
さよなら、『寝室《しんしつ》を駆《か》ける少女』。
さよなら、『マル秘《ひ》クラブの女』。
「マジかよ? あの里香が? 許すだって?」
「これ、全部燃やしたらですけどね」
「なるほど、それで燃やしてんのか。けど、あの里香だぞ? わがままで傍若無人《ぼうじゃくぶじん》で天上天下唯我独尊《てんじょうてんげゆいがどくそん》で、ゴハンぶっかけ事件の里香だぞ? 許すなんて信じられないんだが」
「……ゴハンぶっかけ事件ってなんですか?」
「前の病院であったんだよ。オレの同僚《どうりょう》なんだけどさ、そいつが里香の機嫌《きげん》を損《そこ》ねちまったんだ。里香のヤツ、そいつになにをしたと思う? まったく、ひどいんだぜ。まずペンを床《ゆか》に落としたんだよ。もちろん、わざとだけどな。で、オレの同僚がそれを拾おう[#「拾おう」は底本では「拾うおう」]としたら、お粥《かゆ》のドンブリをそいつの頭に落としたんだ」
「うわ……」
「まあ、お粥まみれだ。当然だな。で、同僚が怒《おこ》ろうとしたら、今度は味噌汁《みそしる》だ。ドボドボっと、頭にな」
「ドボドボっとですか?」
「おお、その日はワカメと豆腐《とうふ》の味噌汁でさ、ワカメがこう、そいつの頭に載《の》ってんのを見たときはもう笑っていいのか怒《おこ》っていいのかわかんなかったよ。しかも、それで終わりじゃなかっ[#「っ」は底本では無し]たんだよな。おかずを一品一品、最後には漬物《つけもの》まで落としてたな。あ、でも、プリンだけは残してたっけ」
話をおもしろくするために、誇張《こちょう》してるんじゃない。
僕にはよくわかった。
里香なら、やる。
それくらいは平気でやる。
「同僚さ、マジで参《まい》ったらしくて、里香の担当《たんとう》をはずしてくれって泣《な》いたんだぜ。その里香が許すだって? ありえねえだろ? いったい、おまえ、どんな手を使ったんだ?」
「なにもしてないですよ」
「なにも? ほんとに?」
「ええ」
そう、あれは夢だ。
きっと夢に違《ちが》いないんだ。
火照《ほて》る顔の熱さを感じながら――いや、もちろん目の前で燃えている炎《ほのお》のせいだ、誰《だれ》がなんと言おうとそうに違いない――僕はそう自分に言い聞かせていた。
4
病室のドアが勢《いきお》いよく開いたと思ったら、亜希子《あきこ》さんがその顔を覗《のぞ》かせた。
「よう、色男」
そう言って、ニヤリと笑う。
僕はそのとき、ベッドで本を読んでいた。里香《りか》から渡《わた》された宮沢《みやざわ》賢治《けんじ》で、ベタなことに『銀河《ぎんが》鉄道の夜』だった。僕が拾ったことになってるけど、ほんとは夏目《なつめ》が庇《ひさし》から拾った、あの本だ。ジョバンニは、口笛《くちぶえ》を吹いているようなさびしい口つきで、檜《ひのき》のまっ黒にならんだ町の坂をおりて来たのでした。――という一文を読み終えてから、僕は本を閉じた。口笛を吹いていると、確かにちょっと寂《さび》しい感じがするよな、なんて思いながら。
僕は言った。
「なんですか、色男って」
「里香ちゃんがさ、呼《よ》んでたよ」
「オレを?」
「そう、あんたを」
亜希子さんは相変《あいか》わらずニヤニヤ笑っている。僕は不機嫌《ふきげん》そうに顔をしかめながら――でも心の中ではニヤニヤ笑いながら――ベッドから下りた。
「ああ、面倒《めんどう》くさいなあ」
「じゃあ、里香ちゃんに裕一《ゆういち》は忙《いそが》しいって言ってこようか?」
「い、いや……別にいいですよ」
「へえ? いいんだ?」
「え、ええ」
「遠慮《えんりょ》しなくていいんだよ?」
亜希子さんのニヤニヤ笑いには、少し意地悪《いじわる》な感じが混《ま》じりつつあった。ああ、まったく、この病院はなんでこんな人ばっかりなんだろう……。
「まあ、行きます」
「ふーん、行くんだ?」
ああ、負けました、負けましたよ。
ちくしょうっ。
僕は悔《くや》しさを紛《まぎ》らわすために、尋《たず》ねてみた。
「亜希子《あきこ》さん、口笛《くちぶえ》って吹けます?」
「口笛? 吹けるよ」
ピュユウウウ――ッ、見事《みごと》な音が病室に響《ひび》いた。
亜希子さんは得意気《とくいげ》に笑っている。
「へえ、うまいもんですね」
「合図に使ってたからね」
「合図?」
「バイクで走ってるとさ、声ってあんま届《とど》かないんだよ。でも、口笛みたいな高い音は、ちゃんと届くんだよね。吹き方でさ、仲間への合図を決めてあるわけ。Uターンするよとか、ぶっちぎれとか、ぶっ殺せとか、そんな感じで」
ぶっ殺せ?
亜希子さんが実に楽しそうに話しているので、尋ねるのはやめておくことにした。本当にぶっ殺してたら怖《こわ》いし……。
スリッパを突《つ》っかけ、部屋《へや》を出る。
「裕一《ゆういち》」
「なんですか」
「里香《りか》ちゃんに優《やさ》しくしてやんな」
「は?」
亜希子さんの顔からは、いつのまにか楽しそうな笑《え》みが消えていた。少し笑っているけど、少し寂《さび》しそうでもあり、なにか別のものも混《ま》じっていて――。
「ほら、早く行きな。待ってるんだから、彼女」
「はい」
どうしたんだろう、亜希子さん。
φ
裕一が里香の病室に向かっているころ――。
若葉病院の医局は二階の中央にあり、その一番|右端《みぎはし》の席が夏目《なつめ》のものだ。机の上は書類やら鉱石《こうせき》やら本やら写真やら……とにかくありとあらゆるもので溢《あふ》れ返《かえ》っており、今にも崩《くず》れそうである。赴任《ふにん》してきてからわずか数カ月でこの有《あ》り様《さま》だから、さして遠くない未来に最初の雪崩《なだれ》を起こすのは目に見えていた。
夏目《なつめ》は煙草《たばこ》をくわえたが、通りかかった看護婦《かんごふ》に、
「先生、ここで吸わないでくださいね」
そう言われ、顔をしかめた。
「これはシガレットチョコなんだよ」
「はいはい。吸わないでくださいね」
「だからシガレットチョコだって言ってんだろうが」
言《い》い張《は》る自分はまるで子供のようだ。
それにしても、こんなときにこそ、煙草を吸いたい。でないとやっていられないではないか。屋上《おくじょう》で煙草を吸ってこようかと思ったが、時計を見るとそんな時間はとてもなかった。
案《あん》の定《じょう》、時間に正確な来客が姿《すがた》を現した。
「どうぞ」
向かいの席を、客に勧《すす》める。
客は――というか、患者《かんじゃ》の母親だが――黙《だま》りこくっていた。俯《うつむ》き、両の手を組みあわせて、その身を固《かた》くしている。
まるで過酷《かこく》な運命に備《そな》えるかのように。
(いや、備えてんだろうな……)
夏目は煙草をしまい、言った。
「お嬢《じょう》さんの病状《びょうじょう》ですが――」
φ
病室のドアを開けると、頭になにかが降《ふ》ってきて、ぽこんと跳《は》ねた。
ミカン、だった。
床《ゆか》にころころと転《ころ》がるその物体を眺《なが》めながら、僕は自らのマヌケさと、里香《りか》の意地悪《いじわる》さに、深くため息《いき》を吐《つ》いた。
またやられてしまった……。
「あのさ、里香」
ため息とともに、言う。
「用事ってのは、これか?」
里香はニコニコ笑っていた。
その笑顔《えがお》を見た瞬間《しゅんかん》、腹の中で渦巻《うずま》いていた怒《いか》りというか憤《いきどお》りがすうっと消えていった。まあ、いいか。里香の笑顔を見ていると、そんな気になる。
今日の里香の顔色は、なかなかよかった。
毎日顔をあわせていれば、里香の身体《からだ》の具合《ぐあい》はだいたいわかるようになる。悪いときはもう動くのも辛《つら》いみたいで、ただじっとしている。顔は青ざめ、そのふっくらした唇《くちびる》から吐《は》きだされる息《いき》さえもが震《ふる》えている。
そんなときは、僕も震えてしまう。
でも、今日の里香《りか》は元気そうだった。
「裕一《ゆういち》、全然|懲《こ》りないねえ」
「うっさい」
「気をつけないと、そのうちひどい目にあうよ」
「ひどい目にあわせてるのは、おまえじゃん。まったく、毎度毎度、ミカンをぽこぽこ落としやがって」
わかってないなあ、と里香は言った。
「あたしはね、裕一を教育してんの」
「教育?」
「そう、現実って怖《こわ》いよ。気をつけないと、すぐに足元をすくわれるんだから」
里香が言うと、その言葉はやけに鋭《するど》かった。まるでガラス片《へん》のように。下手《へた》に触《さわ》ったら、手が切れそうだ。
どう応《おう》じていいのかわからず戸惑《とまど》っていると、里香がベッドから下りた。
「ねえ、屋上《おくじょう》につれてって。少し陽《ひ》に当たりたいの」
「いいよ」
なんだ、そのために呼《よ》んだのか。
里香に頼《たよ》りにされていると思うと、僕は誇《ほこ》らしかった。この、たまらないほど可愛《かわい》い女の子が、僕を頼りにしてくれる。そして僕は彼女のためになにかをすることができる。
僕は輝《かがや》かしい未来なんて信じちゃいない。
下らない。
そうだろ?
でも、里香といるときだけは、未来も、世界も、幸福も、信じることができた。いや、信じたいと思うことができた。
「どうしたの、裕一」
「いや、なんでもないよ……行こうか……」
「うん」
僕は里香の背中《せなか》に手をやった。里香がバランスを崩《くず》しても、すぐ受け止められるように。
そう、受け止めるんだ。
里香になにがあったとしても。
φ
パサン――。
レントゲン写真を投影機《とうえいき》に挟《はさ》むと、そんな音がした。映《うつ》しだされたのは拳大《こぶしだい》の臓器《ぞうき》。人の命を司《つかさど》るもの。英語では心≠ニ同じ名を持つ存在《そんざい》――。
ペンの先で、夏目《なつめ》はその中央|辺《あた》りを指《さ》した。
「問題は、ここです」
「はい……」
「弁膜《べんまく》付近の組織《そしき》がかなり脆《もろ》くなっています。おわかりになりますか、ほら、輪郭《りんかく》が以前に比《くら》べて曖昧《あいまい》ですよね。おそらく周辺《しゅうへん》の組織が肥大化《ひだいか》しつつあると思われます。この状況《じょうきょう》を放置《ほうち》すると――」
たんたんと言葉《ことば》を並《なら》べていく。
医者になってから何度も何度もこの行為《こうい》を――あるいは儀式《ぎしき》を繰《く》り返《かえ》してきた。けれど、いっこうに慣《な》れない。患者《かんじゃ》やその家族に対すると、心のどこかが石のように固《かた》くなってしまう。
むしろ、死そのもののほうが慣れやすいのだ。
同僚《どうりょう》の中には、患者が死亡しても平気で飯を食い、平気でバラエティ番組で笑うことができるヤツもいるくらいだった。
生きている人間の感情こそが、一番|怖《こわ》い……。
痛《いた》みも、悲《かな》しみも、あまりに強すぎる。
「方法はやはり手術しかないと思います。このまま状況を放置しても、改善《かいぜん》される見込みはありません。手術をしなくても三十代まで生きられるケースもあるのですが、お嬢《じょう》さんは病状があまりにも進みすぎており――」
だから、たんたんと喋《しゃべ》る。感情を受け流す。患者の、家族の、そして自分の感情を、すべて流しきってしまう。
母親の握《にぎ》りしめた手は、その関節《かんせつ》が白くなっていた。
「あの――」
「はい」
「里香《りか》は……あの子は助かるんでしょうか」
「最善《さいぜん》をつくします」
母親はじっと、自分を見つめている。なにを待っているのか、夏目にはよくわかった。その答えはすでに準備《じゅんび》してある。
「手術の成功率《せいこうりつ》は――」
φ
里香《りか》に歩調《ほちょう》をあわせ、ゆっくりと階段を上っていく。ひとりならあっというまに上りきってしまうその階段も、里香といっしょだとずいぶん長く感じられた。天にまで続いているかのようだ。長いなあ、僕は思った。バカみたいに長えよ、この階段。
里香がふうっと、その息《いき》を吐《は》いた。
「大丈夫《だいじょうぶ》か、里香」
「うん」
「少し休んだほうがいいんじゃないか」
僕は本当に心配《しんぱい》になった。胸《むね》の奥《おく》がざわつく。その底《そこ》をギザギザの爪《つめ》で引っかかれる。不安はいつも、僕たちのそばにいる。素知《そし》らぬ顔で、別に騒《さわ》ぐわけでも喚《わめ》くわけでもなく、ただじっとそばにいる。
里香がその首を横に振《ふ》るった。
「大丈夫、行こう」
「あ、ああ」
里香は僕を見上げ、力無く、それでも精一杯《せいいっぱい》、笑った。
「心配ないよ、ジョバンニ」
ジョバンニ?
ああ、『銀河《ぎんが》鉄道の夜』か。
僕は里香の趣向《しゅこう》に乗ることにした。
「そうかい、カムパネルラ」
「そうさ」
まるで男の子みたいな口調《くちょう》で、里香が言った。
ちょっと可愛《かわい》かった。
階段を上りきると、里香が得意気《とくいげ》に言った。
「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た」
「それ、銀河鉄道の台詞《せりふ》か?」
「そうだよ。このあとはね――それに、この汽車|石炭《せきたん》をたいていないねえ、ってジョバンニが言うの」
本気で感心《かんしん》しつつ、僕は言った。
「おまえ、よく覚《おぼ》えてんなあ」
「だって何回も読んだもの。あの話、大好きなの」
「ほら、天の野原だよ」
そう言って、屋上《おくじょう》に通ずるドアを開ける。光と風が僕たちを一瞬《いっしゅん》にして包《つつ》んだ。眩《まばゆ》い光に照《て》らされ、風に髪《かみ》をなぶられ、里香《りか》は微笑《ほほえ》んでいた。
「ありがとう」
「うん」
びっくりした、里香がありがとうだって。
まるで奇跡《きせき》だ。
屋上に出ると、いつものように白い布《ぬの》がいっぱいはためいていた。僕たちはそのあいだを縫《ぬ》うようにして進んだ。里香の歩調《ほちょう》はゆっくりだったけれど、それでも彼女の心が弾《はず》んでいるのがなんとなく感じられた。それで僕も嬉《うれ》しくなってきた。まったく、変なもんだ。里香が笑ってると、それだけで僕も微笑んでしまうなんて。
手すりのそばの日溜《ひだ》まりに、里香が腰《こし》かけた。
「あったかいね」
その隣《となり》に、僕も腰かける。
「そうだな。あと一、二カ月もしたら春だよな」
「春かあ」
「ああ、もっともっと暖《あたた》かくなるよ。暖かくなったら、ちょっとだけ病院を抜《ぬ》けだして、そこの河原《かわら》まで行こうぜ。桜|並木《なみき》があるんだけど、すげえきれいなんだ」
「あ、行きたい行きたい」
はしゃぐように、里香が行った。
「つれてって」
僕は誇《ほこ》らしげに肯《うなず》いた。
「おう」
僕たちはしばらく、たっぷりの日射《ひざ》しをただ受けていた。こうして里香といると、心も身体《からだ》もたまらなく暖かかった。目の前には、見慣《みな》れた光景《こうけい》、伊勢《いせ》の町が広がっている。僕が知っている唯一《ゆいいつ》の場所。世界の果《は》て。そして中心。
やがて、里香が日射しに気持ちよさそうに目をすがめたまま、言った。
「おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだろうか」
ぼんやりとした声で。
また銀河《ぎんが》鉄道だ。
僕はポケットに入ったままの、その本を取りだし、今の里香の台詞《せりふ》が載《の》っているところを探《さが》した。運良く、すぐに見つかる。
ごほん、と咳払《せきばら》いをしてから、続きの台詞を僕は読みあげた。
「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸《さいわい》になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう」
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの」
「ぼくわからない。けれども、誰《だれ》だって――」
「ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸《さいわい》なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるしてくださると思う」
里香《りか》の台詞《せりふ》は、まったくよどみがない。
僕は喉《のど》を鳴《な》らして笑った。
「マジでよく覚《おぼ》えてんなあ」
「えへへ」
里香が得意気《とくいげ》に笑う。
僕はなんだかちょっとまぶしいような気持ちになって、手元の本に目を落とした。さっきの台詞に続く言葉《ことば》が、目に入ってきた。
『カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。』
胸《むね》がどくんと、弾《はず》んだ。
「もうじき白鳥の停車場《ていしゃば》だねえ」
里香の声。
僕はページをめくった。
「ああ、十一時かっきりには着くんだよ」
少し先に、こんな文章があった。
二人は、その白い岩の上を、一生けん命汽車におくれないように走りました。そしてほんとうに、風のように走れたのです。息《いき》も切れず膝《ひざ》もあつくなりませんでした。
こんなにしてかけるなら、もう世界じゅうだってかけれると、ジョバンニは思いました。
そう、そのとおりだ。
里香といっしょなら、どこまでだって走れるさ。砲台山《ほうだいやま》に行ったときも、あんなに具合《ぐあい》が悪かったのに、全然平気だったじゃないか。
手術だって、きっとうまくいく。
そうに決まってる。
こんな暖《あたた》かい日射《ひざ》しの中、里香と寄《よ》り添《そ》って座《すわ》り、『銀河《ぎんが》鉄道の夜』なんかを読みあげていると、自然とそんなふうに思えた。
こんな日は、神様だって祝福《しゅくふく》してくれるさ。
φ
夏目《なつめ》は黙《だま》りこんでいた。そして目の前で身体《からだ》を丸めて泣《な》きつづける母親の背中《せなか》を見つめていた。そうするしかなかった。慰《なぐさ》めることも、気休めを言うことも、できない。そんなことをしたって、なんの役にも立たないのだ。現実は常《つね》にそこにあり、逃《に》げることなど不可能《ふかのう》だった。となれば、戦うしかないということになる。たとえ望《のぞ》みが少なくとも、敗北《はいぼく》が決定的であろうとも、投げだしてしまえばそこで終わりだ。しかし、どこまで、いつまで、戦えばいいのだろう。この一瞬《いっしゅん》一瞬にも少女の心臓は弱りつづけている。実際《じっさい》、いつ停《と》まってもおかしくない。もう刀は折れた、矢もつきようとしている……なあ、あの子はいつまで戦えばいいんだ?
母親はその手をぎゅっとあわせていた。もしかするとなにかに祈っているのかもしれない。だが、無駄《むだ》だ。そんな祈りなど、どこにも届《とど》きはしない。なぜなら、この世には神などいないからだ。もし神がいるのなら、あの少女をこれほど苦しめるわけがない。かつて、自分だって神に祈った。ありとあらゆる神に祈り、胡散臭《うさんくさ》い祈祷師《きとうし》のもとにまで通《かよ》い、狂《くる》ったように祈った。けれど、なんの役にも立たなかった。大切なぬくもりは、するりと指のあいだを抜《ぬ》け落《お》ちてしまった。そう、自分はよく知っている。人はただ死んでいくのだ。まるで櫛《くし》の歯《は》がかけるように、朝日が昇《のぼ》るように、夕日が沈《しず》むように、ただ死んでいくのだ。そこに特別な意味などない。死は穏《おだ》やかな顔でそこに立っているだけだ。夏目は自嘲的《じちょうてき》に笑った。医者だって、神同様、無力《むりょく》じゃないか。どれほど技術が進歩してもできることはたかが知れている。流れ落ちていくものを、完全にとどめることはできない。このオレがいい実証例《じっしょうれい》だ。自分の一番大切な存在《そんざい》さえ救《すく》えなかったこのオレが――。
煙草《たばこ》が吸いたかった。
無性《むしょう》に、吸いたかった。
φ
僕たちはそれからも、銀河《ぎんが》鉄道ごっこを続けた。僕がジョバンニで、里香《りか》はずっとカムパネルラだった。男の子らしいジョバンニに比べると、カムパネルラはなんだか弱々しくて、全然里香っぽくなかった。
僕は不満《ふまん》げに言った。
「なんでおまえがカムパネルラなんだよ」
「いいじゃない、別に」
「全然|似《に》あってねえもん」
「どういうことよ」
不満《ふまん》そうに、里香《りか》が顔をしかめる。
僕は慌《あわ》てて言った。
「い、いや、なんとなくだって。なんとなく。深い意味はないって」
「ねえ、裕一《ゆういち》、この本もう最後まで読んだ?」
「まだだけど」
里香は僕の瞳《ひとみ》をじっと見つめていた。
「それがどうかしたのか」
「ううん、だったらいいいの。ゆっくり読んでね」
まあ、そのつもりだった。
僕は今まであんまり本を読んだことがないので、いくら短篇《たんぺん》といってもそんなに早く読むことなんてできないのだ。
僕は本をぺらぺらとめくった。
この調子《ちょうし》だと、あと三日はかかるかな。
ちょうど開いたページを、里香が覗《のぞ》きこんできた。
「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか」
里香が言う。
僕も言う。
「どこまでも行くんです」
「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ」
僕はあることを思いだして、笑った。
どうしたの、と里香が尋《たず》ねてくる。
「いや、汽車ってさ、本当にどこまでもどこまでも行くんだよな。オレ、よく電車の線路を見つめてたんだ。あの先に行きたいなあって。線路を見てると、いつもそう思うよ」
「裕一、どこか他のところに行きたいの」
「いつかはな。でも、今はいいや」
「今は? どうして?」
おまえがここにいるからだよ。
僕はわざとらしく笑った。
「だってさ、進学しようと思ったら、勉強しなきゃいけねえもん。オレ、勉強|苦手《にがて》なんだよなあ。本読むのも遅《おそ》いし」
「裕一、バカそうだもんねえ」
「うっさいな」
「自分で言ったんじゃない」
「そうだけどさ」
僕たちは日溜《ひだ》まりの中で下らないことを喋《しゃべ》りつづけた。里香《りか》は本のあちこちを指差しては、ここが好きとか、この言葉《ことば》の響《ひび》きがいいねとか、僕に教えてくれた。僕はうんうんと肯《うなず》きつづけた。どうやら里香はちょっと古風《こふう》な言い回しが好きらしい。それにしても、『銀河《ぎんが》鉄道の夜』に出てくる人は、誰《だれ》もが本当の幸《さいわい》を求めていた。幸を求めて、それをジョバンニに問いつづけていた。
なあ、そんなの簡単《かんたん》じゃないか――。
日射《ひざ》しは柔《やわ》らかく、風は穏《おだ》やかで、まるで春のような日だった。なにもかもが暖《あたた》かくて、僕はもう考えず悩《なや》まず、ただ幸福《こうふく》に浸《ひた》っていた。世界はたくさんの幸に満ちている。探《さが》す必要《ひつよう》なんてない。だって、そうだろ? ここにあるんだぜ。欲しいものは全部そろってる。
里香がいれば、それでよかった。
他にはなにもいらなかった。
5
夜の病院は静かだ。
なにしろ入院|患者《かんじゃ》といえば老人ばっかりで、ただでさえ夜が早くて朝も早い。しかも病院であるからには消灯《しょうとう》時間も早いわけで、夜も十二時になると起きている人間なんて当直の看護婦《かんごふ》くらいしかいない。
もちろん、僕は老人じゃないわけで。
若者であるわけで。
若者であるからには、少々病気をしてても元気が有《あ》り余《あま》ってるわけで。
「眠《ねむ》れねえ……」
闇《やみ》の中で呟《つぶや》き、起きあがる。
いちおう周囲《しゅうい》の気配《けはい》に耳を澄《す》ましてから、僕はベッドを抜《ぬ》けだし、コートを羽織《はお》った。そして、『銀河鉄道の夜』を右のポケットに放《ほう》りこむ。たぶん司《つかさ》はまだ起きているだろう。勉強の邪魔《じゃま》だと言って嫌《いや》がるかもしれないが、知ったことか。
うんうん、友達というのは、そういうもんだ。
そっとドアを開け、僕は通路を確認してみた。よし、人影《ひとかげ》はない。靴《くつ》を手に持ち――足音を殺すためだ――歩きだした。意外《いがい》とあっさり恐怖《きょうふ》の十メートルを突破《とっぱ》し、一階の通路を夜間出入り口に向かう。
その声がしたのは、ロビーにさしかかったときだった。
「よう、戎崎《えざき》」
むちゃくちゃびびった。
背筋《せすじ》が凍《こお》りつき、足元からなにか寒いものが上ってくる。
「なにしてんだ、おまえ」
「え――」
見れば、ロビーの長椅子《ながいす》に夏目《なつめ》が寝《ね》ころんでいた。
よっ、とオッサンくさい声を出して起きあがる。
「なんだよ、抜《ぬ》けだしか」
「あ、えっと、その……」
「まあ、元気が有《あ》り余《あま》ってるのはいいことだ」
立ちあがると、夏目が近寄《ちかよ》ってきた。足元がやけにふらふらしていて、口元はへらへらしている。どうも様子《ようす》がおかしい。夏目が近づくにつれ、強烈《きょうれつ》な匂《にお》いが漂《ただよ》ってきた。
僕は思わず顔をしかめた。
「飲んでるんですか?」
「おお、悪いか」
「当直でしょ? 急患《きゅうかん》とか来たらどうすんですか?」
「なんとかするさ。オレはな、ザルなんだよザル。ちょっとくらい飲んでも酔《よ》わねえんだ。学生のころは教授《きょうじゅ》の財布《さいふ》が空《から》っぽになるまで飲んじまって、危《あや》うく単位落としかけたくらいだぞ」
なに下らない自慢《じまん》をしてるんだろう。
しかも、ちょっとくらいなんて量じゃないぞ、この匂いは。
「おい、戎崎《えざき》、ついてこい」
「なんですか」
「酔いざましだ。来やがれ」
夏目は僕の腕《うで》を掴《つか》むと、問答無用《もんどうむよう》って感じで歩きだした。逆《さか》らうこともできず、僕はずるずる引《ひ》っ張《ぱ》られていった。
ああ、司《つかさ》んちでマンガを読むつもりだったのに……。
あちこちですっころび、そのたびに僕を巻《ま》き添《ぞ》えにしながら、夏目は屋上《おくじょう》へ向かった。今日というか昨日というか、とにかく十二時間ほど前に僕が里香《りか》とすごした屋上だ。里香といっしょにもたれかかっていた手すりが見えてくると、自然と顔がにやけてしまう。
「なに笑ってんだよ、戎崎」
「いや……別に……」
「おう、おまえも飲め」
夏目がウィスキーの瓶《びん》を差しだしてきた。おいおい、一リットル入りの瓶じゃないか。医者がこんなので堂々《どうどう》と飲んでいいのか?
「あの、僕の病気知ってます?」
「うん? 肝炎《かんえん》だろ?」
「酒、まずいんじゃないですか?」
「ああ、そうだったな」
夏目《なつめ》はへらへら笑った。
「気にすんな。A型肝炎なんざ、風邪《かぜ》みたいなもんだ」
ほれ、飲め飲め、と瓶《びん》を押《お》しつけられ、しかたなく僕は受け取った。ウィスキーの強烈《きょうれつ》な匂《にお》いが漂《ただよ》ってくる。飲めと言われて飲まないのも無粋《ぶすい》なので、僕は軽く呷《あお》った。熱《あつ》い液体が舌《した》を滑《すべ》り、そのまま喉《のど》を灼《や》きながら下ってゆく。カッと胃《い》の辺《あた》りが熱くなった。
「うめえだろ」
「はあ……」
「いい酒なんだぞ。ほら、もっと飲め」
また呷る。少し口が慣《な》れたので、さっきより多めに。うまいとは思えなかったけれど、身体《からだ》が一気に火照《ほて》ってきた。冬の夜空の下だというのに、あまり寒さを感じない。それに、なんだか気持ちよくなってきた。足元がふわふわする。
「酒っていいですね」
「嬉《うれ》しいこというなあ、おまえ。もっと飲めよ」
「はい」
「おお、いい飲みっぷりじゃねえか」
僕たちはいっしょになってゲラゲラ笑った。ああ、気持ちいい。最高の気分だった。今日は本当にいい日だ。それにしても、夏目も意外《いがい》といいヤツじゃないか。
「夏目先生――」
ゲラゲラ笑いながら横を見ると、しかし夏目は笑っていなかった。まったく酔《よ》っていないふたつの目が、僕をじっと見つめていた。
あとの言葉《ことば》が出てこない。
僕はなにを言おうとしてたんだ?
「なあ、おい、楽しいだろ」
「え?」
「楽しくてたまんないって顔してるな、おまえ。里香《りか》は美人だもんな、すっげえ可愛《かわい》いよな。オレはこういう商売だからさんざんいろんな人間を……男も女も見てきたけど、里香みたいにきれいな子は滅多《めった》にいねえぞ」
「はあ……」
「十七だろ。最高だよな。あんなに可愛い女の子といっしょにすごせて、それだけで舞《ま》いあがっちまうよな。オレもそうだったから、よくわかるよ。だけどな、はかねえぞ。そんなもん、すぐに消えちまうぞ」
十二時間前のぬくもりが蘇《よみがえ》ってきた。
カムパネルラを真似《まね》る里香《りか》。クスクス笑う声。ぬくもり。優《やさ》しさ。ここで、この場所で、自分は最高の時をすごしたんだ。夏目《なつめ》なんか知らないような幸福を味わったんだ。
それを汚《けが》された気がした。
「大人のくせに、嫉妬《しっと》ですか」
つい嫌味《いやみ》っぽい口調《くちょう》になった。
「酔《よ》っぱらってるからって、みっともないですよ」
「おまえはわかってねえ」
「わかってますよ。あんた、オレが気にくわないんでしょう。里香がずっとオレのそばにいるから、それが――」
言葉《ことば》を最後まで続けられなかった。
あまりのことに、なにが起きたのかわからなかったくらいだ。
(叩《たた》かれた?)
口元をぶたれたのだ。
あとになってから痛《いた》みというか痺《しび》れが伝《つた》わってきた。
「なにするんですか」
「おまえはわかってねえ」
「だから、わかってるって言ってるでしょう! あんたは――」
またぶたれた。今度はさっきより強く。酒を飲んでいたせいもあったのかもしれない、僕の中でなにかがカッと燃えあがり、ほとんど反射的《はんしゃてき》に夏目の肩《かた》を思いっきり殴《なぐ》っていた。だが殴り方が悪かったらしく、拳《こぶし》が痺れ、僕は怯《ひる》んだ。その途端《とたん》、ウィスキーの瓶《びん》で頭をガツンと殴られた。とんでもない痛みに視界《しかい》が真っ白になり、ふらつく。ちくしょうっ、なんて医者だ。医者がこんなことしていいのかよ!? 続いて腹を殴られた。そして頭を殴られた。ドスンという重い衝撃《しょうげき》はたぶん蹴《け》られたんだ。気がつくと僕は薄汚《うすよご》れたコンクリートに横たわっていた。十二時間前、里香と並《なら》んで腰《こし》を下ろしていたコンクリートの上に。情《なさ》けなさと怒《いか》りが混《ま》じり、僕は叫《さけ》び声《ごえ》をあげながら夏目に飛びかかった。夏目がよろける。このまま押《お》し倒《たお》して殴ってやる。ボコボコにしてやる。大人だからって、手加減《てかげん》なんかするもんか。いいか、里香は僕のものなんだ。僕だけのものなんだ。思い知れ。
だが夏目は倒れず、それどころか膝《ひざ》を突《つ》きあげてきた。無防備《むぼうび》の腹に膝が食いこみ、すべての内臓が飛びだしてくるんじゃないかってほどの痛みがやってきた。僕は腹を押さえ、呻《うめ》いた。途端、また蹴られた。今度はさっきより、はるかに痛かった。むりやり詰《つ》めこんだ夕食が喉《のど》の辺《あた》りまでせりあがってくる。どうにか堪《こら》えたが、吐《は》き気《け》が収《おさ》まったときには、顔を二三発殴られていた。ふらつきながら、僕は夏目を睨《にら》んだ。けれど夏目の顔がはっきりと目に入ってきた瞬間《しゅんかん》、ふっと気が抜《ぬ》けた。夏目《なつめ》はまるで泣《な》きそうな顔をしていた。ひどく痛《いた》そうな顔をしていた。おい、と僕は思った。なんでおまえがそんな顔してるんだよ。殴《なぐ》られてるのは僕じゃないか。あんたが殴ってるんじゃないか。それなのに、どうしてあんたが殴られてるような顔をしてるんだよ……。直後、こめかみの辺《あた》りを殴られ、意識《いしき》が白くなった。夏目はケンカ慣《な》れしていた。僕なんかがかなう相手じゃないことを思い知った。でも、逃《に》げるわけにはいかない。僕は男なんだ。逃げることなんてできるものか。ふらついた足で夏目に飛びつく。けれど視界《しかい》が揺《ゆ》らぎ、僕の手は虚《むな》しく宙《ちゅう》をさまよった。バランスを崩《くず》しているちょうどそのとき、夏目に殴られた。蹴《け》られた。また殴られた。さらに蹴られた。ちくしょう、僕は呟《つぶや》いた。ちくしょう、なんで勝てないんだ。なんでこんなに痛いんだ。情《なさ》けない。悲しい。痛い。苦しい。バカらしい。逃げたい。逃げたい。逃げたい。それでも逃げなかったのは、意地《いじ》でも勇気でもなく、もう逃げることさえもできなかったからだった。僕は身体《からだ》を赤ん坊みたいに丸め、コンクリートに横たわっていた。夏目が容赦《ようしゃ》なく蹴ってくる。僕はいつのまにか泣いていた。コンクリートの冷たさと、痛みと、情けなさに耐《た》えながら泣いていた。たった十二時間前のぬくもりが遠ざかっていく……。
やがて、なんの衝撃《しょうげき》も来なくなった。
それでも夏目はまだそばにいた。気配《けはい》と酒の匂《にお》いが濃密《のうみつ》に漂《ただよ》っているからわかる。僕には抵抗《ていこう》する気持ちはなかった。
僕は叩《たた》きのめされていた。
身体だけじゃなく、心も。
今はだから、背《せ》を丸めて耐えるしかない。蹴られようと、殴られようと、バカにされようと、僕にはもう、こうして背を丸めることしかできない。
僕は負けたんだ。
ああ、そういえば……父親に殴られたときもこんなふうだった……抵抗することさえもできず、ただ地面に這《は》いつくばっていた……。
クソガキ、と夏目が吐《は》き捨《す》てた。
「なんでそんな楽観的《らっかんてき》なんだ。能天気《のうてんき》にへらへら笑ってやがるんだよ。なにもかもうまくいくわけないだろうが。世界はおまえのためにあるわけじゃねえんだ。泣いて病気が治《なお》るかよ。喚《わめ》いて治るかよ。希望なんざ……ゴミみたいなもんだ。そんなものにすがりつきやがって。ありもしない幻想《げんそう》ばっかり追《お》いやがって。おまえが……おまえが認定医《にんていい》試験だの論文だの教授の意向《いこう》だの気にしてるあいだに――」
言葉《ことば》がいきなり切れる。
直後、腹をまた蹴られた。
その苦しみに呻《うめ》きながら、頭のどこかで夏目の言葉を考えていた。世界が自分のものだなんて思ってないぞ。わかってる。僕はちゃんとわかってるさ。でも、なんだよ、認定医試験って。論文って。そんなもの、僕は知らないぞ。
なんなんだよ!? なにわけわかんないこと言ってるんだよ!?。
ようやく苦しみが少し収《おさ》まったころ、夏目《なつめ》の気配《けはい》が遠ざかった。僕はじっとしていた。やがて鉄のドアが開くキーッという嫌《いや》な音がして、また同じ音がしたあと、今度はバタンという大きな音とともにドアが閉じた。
僕は丸めていた身体《からだ》を伸《の》ばし、ごろりと転《ころ》がった。
冬の美しい空が、そこにあった。今日の空に、半分の月はなかった。ただ無数の星々だけが輝《かがや》いている。南の空のあれは、きっとシリウスだろう。
口の中が鉄錆《てつさび》くさかった。
ぶっと吐《は》くと、それは唾液《だえき》じゃなくて血だった。
下唇《したくちびる》の脇《わき》が切れていた。
ちくしょう……。
涙《なみだ》が次から次へと溢《あふ》れてきた。こんなふうに殴《なぐ》られたのは、三年ぶりだった。父親に叩《たた》きのめされて以来だ。
ちくしょう……。
まったく太刀打《たちう》ちできなかった。殴り返すことさえもほとんどできなかった。
ちくしょう……。
自分自身のプライドのために、涙を拭《ぬぐ》い、身体を起こす。身体中があちこち痛《いた》い。ありもしないコートの汚《よご》れを払《はら》いながら、立ちあがった。
そこで、気づいた。
ない――。
ポケットに入っていたはずの『銀河《ぎんが》鉄道の夜』がなかった。里香《りか》の本なのに……。僕は慌《あわ》てて辺《あた》りを見まわした。どこだ、どこにいったんだ。
それは、屋上《おくじょう》にたったひとつ設置《せっち》された外灯《がいとう》の下に、落ちていた。
駆《か》け寄《よ》り、拾う。
表紙が少し、破れていた。
「ちくしょう……」
言葉《ことば》にした途端《とたん》、また涙が溢れてきた。
[#改ページ]
夜が更《ふ》け、星が空を東から西へと動いてゆき、風が吹きはじめ、コートの襟《えり》が揺《ゆ》れ……僕はずっと屋上《おくじょう》に座《すわ》りこんで本を読みふけっていた。銀河《ぎんが》鉄道にはさまざまな人が乗りこんでは去っていく。銀河鉄道の旅は続く。あまりの寒さに、ページを繰《く》る手が震《ふる》えた。
マジで寒い……身体《からだ》の芯《しん》まで凍《こお》りつきそうだ……。
さっさと病室に戻《もど》るべきだった。こんな寒いところで、こんな暗い外灯《がいとう》を頼《たよ》りに本を読んで、なんになるんだ。バカなことをやっている自分をどこか遠くから見つめている自分がいた。なにもなりはしないだろ。また風邪《かぜ》を引くだけだ。わかってはいるが、けれどただ本を読みつづける。すっかり黄ばんだ紙に並《なら》ぶ文字を追《お》いつづける。
本の中で、灯台守《とうだいもり》が言っていた。
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら、峠《とうげ》の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」
そうなんだろうか。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至《いた》るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです」
わからない。
もしそうなら、どうして僕はこんなところで本を読んでるんだ。僕の手はどうして震えてるんだ。
ああ、それは寒いからだ。
そうに違《ちが》いない。
ジョバンニが、カムパネルラが、他の誰《だれ》かが言っていた。
「いまこそわたれわたり鳥。いまこそわたれわたり鳥」
「ああ、そうだ、今夜ケンタウル祭だねえ」
「もうじきサウザンクロスです。おりるしたくをしてください」
「僕たちといっしょに乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符《きっぷ》持ってるんだ」
だんだん悪い予感《よかん》がしはじめた。
どうしてジョバンニは銀河《ぎんが》を旅しているんだろう。カムパネルラはなぜここにいるんだ。途中《とちゅう》で乗車してきた少女は、天上へ行くと言って、やがて銀河鉄道を下りて[#「て」は底本では無し]いった。神様のもとへ行くと言って、下りていった。天上? 神様?
ページを繰《く》る手が早くなる。
心臓の鼓動《こどう》が早くなる。
ふたりきりになったジョバンニとカムパネルラ――。
ジョバンニが言った。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕はもう、あのさそりのように、ほんとうにみんなの幸《さいわい》のためならば僕のからだなんか百ぺん灼《や》いてもかまわない」
その台詞《せりふ》に、僕は微笑《ほほえ》んだ。唇《くちびる》を動かすと痛《いた》みが顔中に走ったので、微笑みはすぐに消えてしまったけれど。
里香《りか》が、カムパネルラが、僕のそばで同じように笑っていた。
「うん。僕だってそうだ」
「けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう」
ああ、なんだろう。
カムパネルラが、里香の声で言った。
「僕わからない」
途方《とほう》に暮《く》れる声。
わざと元気な調子《ちょうし》で、だから僕は言ってやった。
「なに言ってんだよ。しっかりしようぜ」
笑うと顔が痛い。
でも笑わなきゃいけないんだ、里香を励《はげ》ますために。
「あ、あすこ石炭袋《せきたんぶくろ》だよ。そらの孔《あな》だよ」
見れば闇《やみ》が広がっていた。それは光を飲みこみ、僕たちの希望を、夢を、そっくり飲みこもうとしていた。絶望《ぜつぼう》はどこにでもある。逃《のが》れることなどできないのだ。里香《りか》が言っていたじゃないか。それはいつもそばに立っているのだと。手を伸《の》ばすそのときを待っているのだと。でもさ、里香、僕がついてるんだぜ。死神《しにがみ》なんて、ぶっ飛ばしてやるよ。なあ、そうだろ。
ジョバンニが夜空を見上げ、言った。
「僕もうあんな大きな暗《やみ》の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たちいっしょに進んで行こう」
僕は呟《つぶや》いていた。
「そうだよ。里香《りか》、いっしょに行こうぜ」
震《ふる》える声で呟いていた。
けれど返事はなかった。そばにいるはずの里香は、カムパネルラは、なにも言葉《ことば》を返してくれなかった。辺《あた》りを見まわすと、そこには誰《だれ》の姿《すがた》もなかった。気配《けはい》さえも消え去っている。僕はひとりきりだった。薄汚《うすよご》れたコンクリートの上に、寂《さび》しく座《すわ》りこんでた。
しばらくぼんやりとしてから、読み進む。
「こどもが水へ落ちたんですよ」
そんな台詞《せりふ》が飛びこんできた瞬間《しゅんかん》、目を閉じた。
もう読みたくない……。
けれど目を開き、僕は文章をふたたび読みはじめていた。水に落ちた子供とは、やっぱりカ
ムパネルラだった。カムパネルラは友達のザネリを救《すく》おうとして、ザネリは救ったけれど、自《みずか》らは救えなかった。
カムパネルラは、死んでいた。
水に溺《おぼ》れた。
「もう駄目《だめ》です。落ちてから四十五分たちましたから」
ジョバンニは銀河《ぎんが》鉄道に乗って、死んだカムパネルラと旅をしていたのだった。銀河鉄道の旅は、死への旅だった。
僕は呟《つぶや》いた。
「そうか……」
里香《りか》はこの本を最後まで読んでいた。
それどころか、台詞《せりふ》のひとつひとつまで、覚《おぼ》えていたくらいだった。
もちろん、その内容も、暗喩《あんゆ》の意味も、最後のシーンも、里香はちゃんと知っていたんだ。そして、だからこそ、僕にこの本を渡《わた》したんだ。
昼間の、里香の声が蘇《よみがえ》ってきた。
『心配ないよ、ジョバンニ』
里香がカムパネルラの台詞ばっかり読んでた理由を、僕は悟《さと》った。
『なんでそんな楽観的《らっかんてき》なんだ。能天気《のうてんき》にへらへら笑ってやがるんだよ。なにもかもうまくいくわけないだろうが』
夏目《なつめ》がさっき吐《は》き捨《す》てていった言葉《ことば》の意味を、理解《りかい》した。
里香の手術は、失敗する可能性《かのうせい》のほうが高いんだ――。
自らの愚《おろ》かさに、頭の芯《しん》が熱《あつ》くなった。
勝手《かって》に希望を作りだし、それだけしか見ようとせず、現実を知らず、知ろうともせず、ただへらへら笑っていた自分をブチ殺してやりたかった。無知《むち》は罪悪《ざいあく》だ。知らないからといって、許《ゆる》されるものじゃない。夏目、どうして僕を殺してくれなかったんだ! あのままブチ殺してくれればよかったのに!
目が熱《あつ》くなった。また涙《なみだ》が溢《あふ》れていた。さっきよりもずっとずっとたくさんの涙が、頬《ほお》を流れ落ちていった。
拭《ぬぐ》うことさえもできなかった。
空には星が輝《かがや》いていた。冬の空には一等星が多く、まるで競《きそ》いあっているかのようにキラキラと光を放《はな》っている。一番明るいシリウスが余裕《よゆう》たっぷりに、南の空を滑《すべ》っていった。いつまで待っても、半分の月はのぼってこない。それでも僕は待ちつづけた。朝までだって、待つつもりだった。
どこに行ってしまったんだ、月は。
僕と里香《りか》の月はどこに行ってしまったんだ。
[#地から2字上げ]おわり
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あとがき
どんなあとがき書いてたのかなあと思いつつ、ちょっと前に出した自分の本をぱらぱらめくってみたら、子猫《こねこ》を拾ったという文章があり、しかも手のひらに載《の》るとかまで書いてやがりました。なんてこった。その猫はもはやデブ化が盛大《せいだい》に進行し、日々ダイエットに励《はげ》んでたりします。
猫二号よ、かつての可憐《かれん》な君はどこにいってしまったんだ(涙《なみだ》)。
まあ、太ってたら太ってたで、顔が丸くなって可愛《かわい》いんですけどね。それに食いしん坊の猫二号は、食いしん坊であるがゆえに、お腹《なか》が空《す》くと「ごはん」と言います。
猫|飼《か》ってない人間に、
「うちの猫、ごはんって言えるよ」
なんて自慢《じまん》すると、
(ああ、この猫バカは幻聴《げんちょう》まで聞くようになったのか……)
たいてい、そういう褪《あ》せた顔をされます。
『リバーズ・エンド』のイラスト描《か》いてくれた高野さんなんて、僕の顔をじっと見つめながら、
「猫バカがここにいる……」
などと、はっきり口にしてくれやがりましたが、ほんとにうちの猫《ねこ》は「ごはん」って言うんだってばっ。
言いますよね、猫飼《ねこか》いのみなさん?
言いませんか?
も、もももももしかして猫バカの幻聴《げんちょう》ですか?
――と、そんな不安に怯《おび》えつつ、こんにちは橋本《はしもと》紡《つむぐ》です。
さて、当初は『電撃hp』用の読み切り作品だった『半分の月がのぼる空』ですが、幸運なことに文庫化され、こうして二巻が出ることになりました。
なにしろ当初は読み切りということで、
「ちゃんと完結《かんけつ》しないとなー」
とか思いつつ書いたため、いちおう考えてあった設定《せってい》や展開《てんかい》を出さずにまとめました。
ただ作者としては書いておきたいことが他にもたくさんありました。なにしろ一度は書きたかったテーマだし、伊勢《いせ》を舞台《ぶたい》にするわけだし、伊勢名物|赤福《あかふく》と七越《ななこし》ぱんじゅうをまだ出してないし(あと伊勢うどんも)。
ファンレターなんかでも続きがどうなるのか心配《しんぱい》してくださる方が多かったんですが、僕自身はまだようやく始まったばかりという気がしてます。なんといっても、一番大切な里香《りか》の手術が終わってないんで。
ちゃんとね、その辺《あた》りを含《ふく》めて、最後まで書く予定です。
里香の病気、裕一《ゆういち》の未来への思い、司《つかさ》や亜希子《あきこ》さんや夏目《なつめ》のこと、きっちり書ききろうと覚悟《かくご》して続編に取りかかりました(読み切りとして好評《こうひょう》だった話をあえて続けるわけですから、書く側《がわ》としてもそれなりの覚悟があります)。
テーマがテーマだけに重い展開になることもあると思うし、楽しいばっかりの話ではないと思います。闇《やみ》を描《えが》くこともあるでしょう。ただ、それでも僕は許《ゆる》されるかぎりの希望《きぼう》を込めて、この物語を書いていくつもりです。
どうか呆《あき》れずに、つきあってやってください。
あと、内容について、もう一点。
この『半分の月がのぼる空』では、なにしろ里香が本好きなので、いろんな物語が出てきます。前回は芥川《あくたがわ》さんの『蜜柑《みかん》』でしたが、今回は宮沢《みやざわ》賢治《けんじ》さんの『銀河《ぎんが》鉄道の夜』です。本文への引用は、昭和四十四年発行の角川文庫版を使わせていただきました。
最初は『銀河鉄道の夜』なんてベタかなあと思ったんですが、久しぶりに読み返してみたら、記憶《きおく》にあるよりもずっといい話でした。
長い時を経《へ》て読み返すと、本というのはけっこう印象《いんしょう》が変わるもんですね。
それから、『リバーズ・エンド5』で告知《こくち》したプレゼント企画《きかく》ですが。
ちょうど今、準備《じゅんび》を始めてます。
遅《おそ》くなってごめんなさい。
ちょっとびっくりするくらいの数が来てしまって慌《あわ》てふためいてますが、年明けには発送できる予定です。ただ、こんなにたくさん応募《おうぼ》してもらったのに当選者が十名そこそこってのはなんだか申《もう》し訳《わけ》ない気もするので、応募していただいた方に漏《も》れなくなにか送ろうかとも思ってます。
ほんとは十ページくらいの短い話でも書き下ろして、それをプレゼントにしたいんですが、
「そういうことをするなら、まず仕事! 原稿よこしやがれ!」
などと編集さんに怒《おこ》られ殴《なぐ》られ脅《おど》されそうなので、他の物になるかもしれません。
まあ、期待《きたい》せずにお待ちください。
なんにしようかなー。
僕がメモ用紙に描《か》いた猫《ねこ》の似顔絵《にがおえ》は……あ、いらないっすね(←美術|超《ちょう》苦手《にがて》)。
プレゼント企画以外でも、毎回たくさんの手紙をいただいてるんですが、楽しみながら読ませてもらってます。今は新シリーズが始まったばかりで、いろいろ悩《なや》んでたりもするので、暇《ひま》だったら感想など聞かせてください。身の周《まわ》りのちょっとした出来事《できごと》なんかも書いてあったりすると、嬉《うれ》しいかもしれません。
ちょっと遅《おく》れますが、返事は必《かなら》ずさせていただきますね。
では、最後に謝辞《しゃじ》など。
まずイラストの山本さん、注文《ちゅうもん》多くてごめんなさいです。山本さんがどんどんうまくなってるんで、こっちも負けないように頑張《がんば》ろうと思ってます。デザインの鎌部《かまべ》さん、前巻を手にしたとき、作りの良さにマジで感動しました。本当にありがとうございました。それからいつも迷惑《めいわく》をかけてばかりの編集|徳田《とくだ》さん、もうなにを謝《あやま》っていいのかわからなくなりつつありますが、これ以上怒られないように気合い入れます。
もちろん、最大の感謝《かんしゃ》は読者のみなさんに――。
前巻を読んでくださった方はおわかりだと思いますが、この物語はSFでもファンタジーでもありません。普通《ふつう》の少年と、普通の少女の、普通の話です。派手《はで》なアクションさえも出てきません。この話の文庫版を手直ししてるころ、いろんな方から「大丈夫《だいじょうぶ》なの?」と聞かれました。ちょっとくらいSFっぽい要素《ようそ》を入れたほうがアピールしやすいんじゃないの、と。確かに、そのとおりかもしれません。
でも、まあ、今回はわがままを通させてもらいました。
そういう経緯《けいい》があっただけに、前巻を買ってくださった読者のみなさんには本当に本当に感謝してます。
このささやかな物語にチャンスを与《あた》えてくれて、ありがとうございました。
期待《きたい》に背《そむ》かぬよう、この先の物語をしっかり綴《つづ》ってゆこうと思ってます。
[#地から2字上げ]二〇〇三年冬 橋本《はしもと》 紡《つむぐ》