半分の月がのぼる空
橋本紡
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)意地悪《いじわる》そうに
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)秋庭|里香《りか》
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(例)[#改ページ]
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僕は父親を下らない男だと思っていた。
なにしろヤツは呑《の》んだくれのギャンブル好きで、しかも妻子持《さいしも》ちのくせに女たらしだったのだ。実際《じっさい》、母親は泣《な》きに泣《な》き、苦労に苦労を重ねていた。そんなわけで、僕は父親を敵《てき》だと思い、常《つね》に嫌悪《けんお》し、接触《せっしょく》を避《さ》け、ときに殴《なぐ》りあったりなどしていたわけだ。
ところで、そんな父親がいつだったか、やけにしみじみした感じでこんなふうに言ったことがある。
「おまえもそのうち好きな女ができるんだろうなあ。いいか、その子、大事にしろよ」
バカか、と思った。
あんたはしてねーだろ、と。
こっちのそんな気持ちを感じ取ったのだろう。父親は気まずそうな顔をしたあと、なにか思い直したような顔をし、次にムカッと来たような顔をし、そして最後になぜかまた妙《みょう》にしみじみした顔になった。
父親は言った。
「オレだってな、昔は母さんのために命がけだったもんよ。いや、今でもだぞ。うんうん。今でもだ」
説得力《せっとくりょく》ゼロだ、と思った。
カケラもそんな様子《ようす》は見えねーぞ、と。
ちなみに、そんなことがあったのは夏の真っ最中。気温が連日三十度|突破《とっぱ》するような、記録的に暑い夏だった。というわけで暑がりの父親はパンツ一丁だった。パンツは紺《こん》と白の縞《しま》パンだった。
その姿《すがた》を見て、やはり説得力《せっとくりょく》ゼロだ、と思った。
まあ、今になってみれば、あのセリフは説得力に欠けてはいても、父親なりの本心だったのかもしれないという気がする。確かに、あのとき、父親の目には――長年の放蕩《ほうとう》のせいですっかり薄汚《うすよご》れてしまった目なのだが――やけにキラキラした輝《かがや》きが宿っていた。馬券《ばけん》を選んでるときの輝きとまったくいっしょだったので、まず間違《まちが》いない。あれは本気の目だ。
どこかの偉人《いじん》が、
『真実を告《つ》げるのは愚《おろ》か者《もの》である』
なんて格言《かくげん》を残してたが、まさしくそのとおりというわけだ。
今の僕には、それがわかる。
父親の言葉《ことば》は正しかった。
そう――。
今ならば、わかる。
たとえ、少々ひどい目にあっていたとしても。
少々ひどい目というのは、ちなみにこういうことだ。
里香《りか》の顔に雑誌《ざっし》をぶつけてしまったのは、ただの偶然《ぐうぜん》だった。
おもしろいマンガを見つけたので、僕はわざわざロビーからそのマンガが載《の》っている雑誌を持ちだし、彼女の病室へと向かった。最近ずっと調子《ちょうし》がよくない里香に、たとえほんの少しでも気晴らしをさせてやりたかったからだ。我ながら、いたいけで泣けてくる。飼《か》い主《ぬし》に尻尾《しっぽ》をブンブン振る犬っころみたいなもんだ。
だが、そんな僕に彼女が返してよこしたのは、
「ありがとう」
でもなく、
「さんきゅ」
でもなく、
「裕一《ゆういち》って優《やさ》しいね」
でもなく、
ミカン攻撃《こうげき》
だった。
どういうことか説明するならば、彼女の病室に入った瞬間《しゅんかん》、ミカンが頭上《ずじょう》に降《ふ》ってきたのである。見舞品《みまいひん》のミカンをドアの上に挟《はさ》み、僕がドアを開けたら落ちてくるように仕掛《しか》けておいたというわけだ。
昔のドラマなんかで、
『教師の頭に落ちる黒板消し』
ってのがよくあるけど、それと似《に》たようなトラップだ。
マヌケな僕は、そのあまりに古典的なトラップの直撃《ちょくげき》を喰《く》らった。そして、突然《とつぜん》の攻撃《こうげき》に慌《あわ》てふためき、持っていた雑誌《ざっし》を放りだしてしまった。その雑誌がベッドにいた彼女の顔を直撃したわけである。
断言《だんげん》するが、わざとではない。
というか、これは不可抗力《ふかこうりょく》であり、むしろ下らないトラップを仕掛けた彼女の責任だと思うのだが……。
もちろん里香《りか》はそんなふうに思わなかった。
「ふぁにするのよっ!?」
怒《いか》り狂《くる》った里香は、真っ赤になった鼻を押《お》さえながら、手元にあったミカンを次々と投げつけてきた。一個、二個、三個――、立てつづけにミカンが飛んでくる。うわわわっ、と叫《さけ》びながら、僕はそれを次々受け止めた。だが、四個めでついに手が完全にふさがってしまい、五個めが顔を直撃した。
「くわっ――」
衝撃《しょうげき》に声を漏《も》らしつつ、倒《たお》れる。
それを見て、里香は大きな声で笑った。
「やったっ! 思い知ったか!」
まったく、ひどい話だろう?
けど、こんなことがあっても、僕は諦《あきら》めない。めげるし、腹も立つけれど、それで諦めたりはしない。
父親の、あの言葉《ことば》を思いだすのは、そういうときである。
ひとつ、断《ことわ》っておく。
これは、なんでもない、ごく普通《ふつう》の話だ。
男の子と女の子が出会う、ただそれだけの話だ。
つけくわえることはなにもない。
まあ、それなりにいろいろあったわけだが、そういうのはたぶん、世界中のありとあらゆる場所で起きている本当に深刻《しんこく》なことに比べれば(たとえば何百万人も死ぬような飢餓《きが》とか、バカで乱暴《らんぼう》な独裁者《どくさいしゃ》による戦争とか、株《かぶ》の大暴落《だいぼうらく》とか)、たいしたことじゃないんだろう。
そう、なんでもない、ごく普通《ふつう》の話だ。
もちろん、僕たちにとって、それは特別なことだったけれど。
いや、ちょっと違《ちが》うな……。
僕たちにとっては、本当に本当に特別なことだったけれど。
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1
「ふう――」
息《いき》を吐《は》くと、それはすぐさま白く凍《こお》りつき、やがて空気に溶《と》けこんでいった。僕は立ち止まり、空を見上げた。冬の夜明けは遅《おそ》くて、もう五時だというのに、深く重い闇《やみ》を湛《たた》えた空にたくさんの星が誇《ほこ》らしげに輝《かがや》いている。
一番強い光を放《はな》っている星は南空にあるシリウスだ。
僕はそういう星の名前なんてよく知らないのだが、友達の司《つかさ》がやたらと詳《くわ》しくて、いろいろ教えてくれたのだった。もっとも、今でも覚《おぼ》えている名前はシリウスくらいで、他はぜーんぶ忘《わす》れてしまったけど。
少し歩くと、商店街にさしかかった。
アーケードの下は、恐《おそ》ろしく静かだ。
死んだように眠《ねむ》っている。
いや――。
事実、死んでいるのだ。
駅前から少しはずれたこのあたりは、もうすっかり寂《さび》れきっている。昔は賑《にぎ》わいのある商店街だったのだが、店の大半は潰《つぶ》れてしまった。かつて色|鮮《あざ》やかに塗《ぬ》られていたシャッターは今やすっかり錆《さ》びついてしまい、昼間でも開くことはない。シャッター銀座、なんて哀《かな》しい呼《よ》び方《かた》をされてるくらいだ。
僕が小さかったころはまだ、こんなふうじゃなかった。
なにか買いたいものがあるとき、町中の人間がこの商店街に来てたもんだ。いつも楽しそうな買い物客がいっぱいで、店の人たちは忙《いそが》しそうに働いていて、このアーケードの下を歩いているだけでわくわくした。
今でもまだ鮮明《せんめい》に覚《おぼ》えている風景《ふうけい》がある。あれは、そう、僕が四歳か五歳のころだと思う。僕は母親に手を引かれながら、この商店街を歩いていた。周《まわ》りには人がたくさんいて、誰《だれ》もがせかせかと早足で、やたらと楽しそうな感じだった。そんな雰囲気《ふんいき》だけで僕もなんだか楽しくなってきて、通り過ぎていく人々や、活気のある店を、きょろきょろと眺《なが》めていた。あのころ、この商店街は確かに町の中心だったんだ。
今はもう、面影《おもかげ》もない……。
僕はたった十七年しか生きていないけれど、それでもこの商店街のアーケードの下には思い出がいくつも詰《つ》まっている。初めて本を買ったのはこの商店街の本屋だった。千円札を握《にぎ》りしめ、買いにいった。初めて映画を観《み》たのはここの映画館だった。キザな船長が主人公のSF映画だ。生まれて初めてお酒を飲んだのは、商店街の真ん中くらいにある寿司屋だった。そのとき、僕はまだ小学生にもなってなかったと思う。
酒は父親に飲まされた。
「うまいぞお、飲んでみるか?」
なんて言われたものだから、当時まだ幼《おさな》くて純粋《じゅんすい》だった僕は本当においしいのだと思い、コップ半分くらいの日本酒を一気に飲み干してしまったのだった。
もちろん、飲んだ直後、ぶっ倒《たお》れた。
目がくるくるまわり、世界はぐらぐら揺《ゆ》れ、なにもかもがぐにゃぐにゃになった。今でもはっきり覚えている。真っ赤になってぶっ倒れた僕を見て、父親はあろうことかゲラゲラ笑ったっけ。まったく、最低の父親だ。
まあ、とにかく、この商店街には思い出がいろいろ詰まっている。だから、だんだん廃《すた》れていくのを見るのはちょっとばかり寂《さび》しかった。アーケードの下を吹き抜けていく冷たく乾《かわ》いた風、その流れを頬《ほお》で感じるとき、心にも同じような風が吹く――。
とはいえ、この明け方の時間、人の気配《けはい》などないまま町が闇《やみ》に沈《しず》んでいる瞬間《しゅんかん》が、僕はわりに好きだった。なにもかも正しくない世界で、ただこのときだけは、すべてが正しい位置《いち》におさまっているような気がするからだ。
もちろん、そんなのはただの思いこみみたいなものだけど。
びろ――んっ! びろろぉぉ――――んっ!
「う、うおっ!」
いきなり響《ひび》きわたった音楽に、思わず声をあげてしまった。
音の発信源《はっしんげん》は僕の携帯《けいたい》である。
慌《あわ》ててポケットに手を突《つ》っこみ、そいつの息《いき》の根をとめる。きっちりとめる。誰《だれ》かから電話がかかってきたわけではない。五時にセットしてあったアラーム機能《きのう》が作動《さどう》したのだ。
恐怖《きょうふ》が一気に、胸《むね》の中で膨《ふく》れあがった。
(ま、まずい。早く帰らないと亜希子《あきこ》さんに怒《おこ》られる……)
その恐怖感に急《せ》かされ、僕は駆《か》けだした。
商店街を抜《ぬ》けると、腰《こし》の高さぐらいの門に突き当たる。門を飛び越えたそこは病院の駐車場だ。夜間スタッフのものだろう、数台の車がとまっていた。その向こうに三階建ての小さな病院があった。
すでに明かりのついている窓がいくつかある。
僕は焦《あせ》りを感じながら、さらに足を早めた。病院の正面玄関《しょうめんげんかん》をそのまま通り過ぎ、建物の右側へ進む。この時間、正面玄関には鍵《かぎ》がかかっているのだ。裏側《うらがわ》にまわりこむと、そこに茶色のドアがあった。
ノブに手をかけ、そっと、そーっと開ける。
夜間の出入りができるところは、ここだけだ。
僕は慎重《しんちょう》だった。
以前、亜希子さんに待《ま》ち伏《ぶ》せされて、入った途端《とたん》にスリッパの底《そこ》で顔をブッ叩《たた》かれたことがあるのだ。あのときの亜希子さんはムチャクチャ怒っていて、その場で正座《せいざ》をさせられた上に、二十分以上も説教された。こっちはいちおう病人なんだから、もうちょっと気を遣《つか》ってほしいもんだ。
ドアを開けたまま、身を固《かた》める。
気配《けはい》を探《さぐ》る。
(いけるか――?)
音に注意する。
そっと顔を出す。
人の姿《すがた》はなく、そこにはただ、長椅子《ながいす》だけが整然《せいぜん》と並《なら》んでいた。ロビーだ。昼間はごった返すこの場所も、今はさすがに静かなものだった。
ホッと息をつく。
第一|関門《かんもん》、突破《とっぱ》だ。
中に入り、静かにドアを閉めると、靴《くつ》を両手に持って、小走りで暗い廊下《ろうか》を進んだ。十メートルほど進んだところで左折《させつ》。緩《ゆる》やかな上り坂になっている。車椅子用《くるまいすよう》のスロープだ。スロープは安全のためにラバーが床《ゆか》に敷《し》いてあり、足音が響《ひび》きにくい。、
ただ、このスロープには難点《なんてん》がある。
途中《とちゅう》で大きく折れ曲がっていて、その先はナースステーションから丸見えなのだ。
僕は角のところで立ち止まり、向こうを覗《のぞ》いてみた。突《つ》き当《あ》たりのナースステーションには煌々《こうこう》と明かりが点《とも》っている。当直の看護婦《かんごふ》が起きているのだろう。
角からナースステーションまではおよそ十メートル――。
恐怖《きょうふ》の十メートル、と僕は呼《よ》んでいる。身を隠《かく》すものはなにもない。看護婦がこっちを見たら終わりだ。その視線《しせん》が僕を確実に撃《う》ち殺《ころ》す。
一回だけ大きく息《いき》を吸うと、僕は飛びだした。できるだけ姿勢《しせい》を低く保《たも》ち、できるだけ足音をたてないようにしながら、駆《か》けてゆく。
十メートル。
七メートル。
五メートル。
心臓がドキドキした。慌《あわ》てすぎたせいで足がもつれ、危《あや》うく転《ころ》びそうになる。だが、どうにか体勢《たいせい》を立て直し、そのまま速度を上げた。
三メートル。
一メートル。
そして一気に廊下《ろうか》へ出る。突破《とっぱ》成功だ。僕はすぐさま左に曲がった。ここから三番目のドアが僕の病室だ。胸《むね》に達成感《たっせいかん》がわきあがってきた。
しかし!
ドアに手をかけた、そのときだった。
「裕一《ゆういち》ぃ――っ!」
背後《はいご》から、誰《だれ》かの叫《さけ》ぶ声。
慌てて振《ふ》り返《かえ》ると、そこには思ったとおり、亜希子《あきこ》さんの姿《すがた》があった。左足を上げ、右手を後ろにまわしていた。要するに――振りかぶっている、というヤツである。女にしては、なかなか見事《みごと》な投球フォームだった。
僕は立ち止まり、両手をブンブンと振った。
「あ、亜希子さん、違《ちが》うんだって! オ、オオオオオレは別に抜《ぬ》けだしてたわけじゃ――」
僕の必死《ひっし》の弁解《べんかい》は、途中で切れた。
すぱこぉぉぉ――――んっ!
そんな見事な音をたてて、茶色の物体――すなわち病院|備《そな》えつけのスリッパ(の底《そこ》)が僕の
顔を直撃《ちょくげき》したからだった。
まず熱が出た。
身体《からだ》がやたらとだるかった。
風邪《かぜ》だと思った。
今から二カ月ほど前の話である。
風邪なんてものは寝《ね》てると治《なお》ってしまうものだし、僕も母親も病院は好きなほうじゃなかったから、病院には行かずにひたすら眠《ねむ》りつづけた。毎日毎日、二十時間くらい眠ってたと思う。睡魔《すいま》が身体の芯《しん》あたりに住み着いていて、いくらでも眠れるのだった。今思えば、このときにおかしいって気づくべきだったんだ。
身体の調子《ちょうし》はどんなに眠ってもよくならなかった。熱は上がったり下がったりするものの常《つね》に三十八度以上あったし、身体のだるさは全然なくならない。そのうち、腕《うで》を上げるのさえも辛《つら》くなった。
一週間ほどそんな状態《じょうたい》が続いた時点で、さすがに風邪じゃないと気づいた。それでも僕は病院に行かないつもりだったのだが――病院は本当に本当に嫌《きら》いだ――心配した母親が急に慌《あわ》てはじめ、結局《けっきょく》むりやりつれていかれた。
診察《しんさつ》を終えた医者はあっさりと言った。
「君、入院ね」
それはもう、あっさりと。
「最短でも二カ月はかかるから」
病名は急性肝炎《きゅうせいかんえん》。
ウィルス性の病気で、風邪《かぜ》なんかといっしょなのだが、このウィルスは肝臓《かんぞう》をダメにしてしまうのだった。とはいっても、それほど重病ってわけじゃない。二カ月から三カ月で完治《かんち》するし、後遺症《こういしょう》なんかもまったくなし。
ただ、その二カ月から三カ月のあいだ、運動はいっさい禁止。
ストレスなんかもよくないらしい。
とにかく、なーんにも考えず、気楽に眠《ねむ》りつづけるのが一番の特効薬《とっこうやく》なのだそうだ。
しかし、しかしである。
入院して一カ月もすると、身体《からだ》の調子《ちょうし》はだいぶよくなってきた。普通《ふつう》にしてるかぎり、自分が病気だなんて感じはまったくしない。しかも、こっちは十七歳の高校生である。ただベッドで眠りつづけるなんてできるわけがないのだった。
だいたい、病院というのは恐《おそ》ろしく退屈《たいくつ》な場所だ。まず夜の九時にはすべての明かりが消える。それ以降《いこう》はテレビもラジオもつけられない。真っ暗だから、本を読んで過《す》ごすってわけにもいかない。とにかく暇《ひま》で暇でしかたなかった。
僕はやがて、夜になると病院を抜《ぬ》けだすようになった。うまい具合《ぐあい》に、友達の家が病院の近くにあるので、そこに避難《ひなん》するようになったのだ。そいつんちに行けばテレビがあるし、ゲームがあるし、マンガがある。病院に比べれば楽園だった。
もちろん、看護婦《かんごふ》の亜希子《あきこ》さんにしてみれば、それを見過《みす》ごすわけにはいかない。
というわけで。
亜希子さんとの壮絶《そうぜつ》なバトルが、毎夜のように繰《く》り広《ひろ》げられる[#「る」は底本では無し]ことになったわけである。
人生というのは、ままならんものである。
これは父親がしょっちゅう――だいたい、はずれた馬券《ばけん》を引きちぎりながらだが――呟《つぶや》いていた言葉《ことば》だ。僕は今、それをしみじみと感じていた。まったく、人生というのは、うまくいかないもんだ……。
「あのさ、裕一《ゆういち》」
スリッパの爪先《つまさき》でコツコツと僕の頭を叩《たた》きながら、亜希子さんはそう言った。
「何度言えば、あんたはわかるわけ」
亜希子さんは相当《そうとう》怒《おこ》っているらしく、声がやたらと低い。
ちなみに、僕はナースステーションの前で正座《せいざ》をしている。背筋《せすじ》をピンと伸《の》ばして、両膝《りょうひざ》をきっちりそろえ、両手は膝の上――って感じだった。
まあ、見せしめみたいなもんだ。
そんな姿《すがた》に、年輩《ねんぱい》のおばちゃんなんか僕を指さしてクスクス笑ってたりするし、子供の患者《かんじゃ》が「あの人、なにしてるの?」とかお母さんに聞いている。お母さんは「見るんじゃありません!」と早口で言って、子供の手を引いて僕の前を慌《あわ》てて通り過ぎていった。
ああ、地獄《じごく》だ……。
無駄《むだ》と知りつつ、僕は愛想笑《あいそわら》いを浮《う》かべてみた。
「は、ははは。やだなあ。ちょっと散歩をしてただけですよ」
ダメだ、どうも自分でもうまく笑えてない気がする。
亜希子《あきこ》さんが半眼《はんがん》になった。
「はあ? 散歩? あんた、消灯《しょうとう》時間のすぐあとにはいなくなってたでしょ?」
心臓が跳《は》ねあがったが、落ち着けと自分に言い聞かせる。もしかするとただの誘導尋問《ゆうどうじんもん》かもしれないじゃないか。
「そ、そんなことないですよ。寝《ね》てましたって」
力説《りきせつ》。
亜希子さんの目が、さらにほっそーくなった。
「確かに寝てたわね。あんたのバッグが」
「うっ――」
出かけるとき、僕は布団《ふとん》の中にバッグを押《お》しこんできた。ちゃんと人が寝てるように見せかけるためだ。亜希子さんがそれを知っているということは、つまり――。
ばれている。
完全に。
ガタガタと膝が震《ふる》えた。慌《あわ》てて、両手で膝を押さえる。思いっきりビビリながら顔を上げると、亜希子さんは不気味《ぶきみ》に笑っていた。
ふふ、と彼女の頬《ほお》が吊《つ》りあがる。
「は、ははは」
思わず笑《え》みを返してしまった。
「は、ははは」
笑う以外、他にどうしろというのだ。
亜希子さんはこの病院の看護婦《かんごふ》さんだ。わりときれいな顔をしていて、黙《だま》っていればちょっとばかり派手《はで》めな美人って感じなのだが、これがもうやたらと怖《こわ》い。噂《うわさ》に聞くところでは、高校のころの亜希子さんはとにかくワルかったらしい。
一度だけ、高校時代の亜希子さんの写真を見たことがある。
十七歳の亜希子《あきこ》さんが着ている服には、
『伊勢湾岸《いせわんがん》爆走《ぼうそう》夜露死苦《よろしく》』
とか
『十七代女一匹|愛死天琉《あいしてる》』
とか
『喧嘩《けんか》上等《じょうとう》天下|無敵《むてき》』
なんて文字が刺繍《ししゅう》されていた。
まあ、要するに、そういう人だったわけだ。
今は看護婦《かんごふ》なんてしてるから、たいていの患者《かんじゃ》相手には優《やさ》しい顔で接《せっ》しているものの、怒《おこ》ると地が出るのだった。
僕は笑いつづけた。
「はははは」
亜希子さんも笑いつづけた。
「ふふふふふふふふ」
「はははははははは」
「ふふふふふふふふふふふふふふふふ!」
「はははははははははははははははは!」
僕と亜希子さんはひたすら笑いつづけた。
なんというか、異様《いよう》で微妙《びみょう》である。
すぱこぉぉぉ――――んっ!
異様で微妙な光景《こうけい》は、およそ七秒後、そんな音によって断《た》ち切《き》られた。
「い、痛《いた》い……」
僕は頭を抱《かか》えた。
スリッパの裏《うら》で思いっきり頭を叩《たた》かれたのだ。角度が見事《みごと》だったらしく、叩かれたところがズキズキ痛む。
亜希子さんのドスのきいた怒鳴《どな》り声《ごえ》が降《ふ》ってきた。
「ちょーっと身体《からだ》がよくなったからって、勝手《かって》に出歩いてんじゃねーよ! そんなことしてっと永久に退院《たいいん》できねーんだぞ!」
「あ、亜希子さん……」
「なんだよ!?」
「ムチャクチャ男|言葉《ことば》なんですけど……」
「はあ?」
睨《にら》まれる。ものすごい迫力《はくりょく》だった。僕は苦笑《にがわら》いを浮《う》かべたまま、固《かた》まった。まさしくヘビに睨まれたカエルというヤツである。
「裕一《ゆういち》」
「は、はい」
「あたしに約束《やくそく》しな。もう二度と、夜中に病院を抜《ぬ》けださないって」
僕はガクガクと首を縦《たて》に振《ふ》った。
「しますします」
「ほんとだね? 約束を破ったら――」
「破ったら?」
「素《す》っ裸《ぱだか》で盆踊《ぼんおど》りでもしてもらおうか」
「す、素っ裸!? 盆踊り!?」
「嫌《いや》だろ? そーゆーのは哀《かな》しいだろ?」
ニヤリと笑う。
悪魔《あくま》の笑《え》みというヤツだ。
「やりたい? 裸踊《はだかおど》り?」
いくらなんでもそんなのはただの脅《おど》しだろう、と思うのは愚《おろ》かな間違《まちが》いだ。亜希子《あきこ》さんはやると言ったら本当にやる女なのだ。そのとき、僕の頭には、素っ裸で盆踊りをする自分自身の姿《すがた》がくっきりと浮かんでいた……。
「や、やりたくないです」
顔を引きつらせつつ、答える。
亜希子さんはうんうんと肯《うなず》いた。
「じゃあ、約束を守るんだね。なにしろ、この病院には女の子もいるんだよ」
「は、はい」
素直《すなお》に肯いた僕はふと、亜希子さんの言葉《ことば》に疑問を覚《おぼ》えた。
女の子がいるだって?
僕が入院している市立若葉病院は小さな病院で、入院|患者《かんじゃ》はせいぜい百人くらいしかいない。そのうち半分は七十を超えたジイサンバアサンで、残りの半分もほとんど三十代以上だった。
女の子なんていたっけ?
「ま、あとはあんたの心がけ次第《しだい》だよ。約束を破ったら、その日のうちに裸で――」
亜希子さんがいきなり、きゃああああ――っ! と叫《さけ》び声《ごえ》をあげた。
うわっ、亜希子さんが女らしい悲鳴《ひめい》をあげている、とか思いつつ顔を上げると、亜希子さんの後《うし》ろに多田《ただ》さんが立っていた。
ニヤニヤとスケベそうな笑みを浮かべている。
「あんた、お尻《しり》触《さわ》っただろ!」
振《ふ》り返《かえ》るなり、亜希子《あきこ》さんが真っ赤な顔で怒鳴《どな》った。
今年八十になるはずの多田《ただ》さんは、歯のない口でニヤニヤ笑いながら、
「あー、すまんねえ、亜希子ちゃん。ちょーっと手が当たっちまったんだわあ。ほら、この廊下《ろうか》、狭《せま》いからなあ」
と呑気《のんき》に言った。
もちろん、ウソに決まってる。
わざと亜希子さんの尻《しり》を触《さわ》ったのだ。
病室が隣同士《となりどうし》なので僕はよく知っているのだが、多田さんは正真正銘《しょうしんしょうめい》のエロジジイである。なにしろベッドの下にエロ本を山ほど隠《かく》し持《も》っているのだ。人間という生き物は年を取ると『枯《か》れる』とか『落ち着きが出る』とか、まあ、そういうものだとばかり思っていたのだが、多田さんと知りあって以来《いらい》、僕はその考えを改《あらた》めたくらいだ。
もちろん、そんなことは亜希子さんもわかっているようだった。
「このエロジジイっ! ウソつくんじゃないよ!」
「あんた、こんな病気でよぼよぼのジイサンを疑《うたが》うのかい? ひどい娘《こ》だねえ……」
「こんなときだけ病人面《びょうにんづら》すんじゃないよ!」
「心臓がドキドキする。ああ、血圧が……」
「ウソつけ! 死ねクソジジイ!」
ふたりの――いつもどおりの――やりとりを横目で見つつ、僕は亜希子さんに気づかれないようにそーっと立ちあがった。
今のうちに逃《に》げださねば。
2
亜希子さんの監視《かんし》が厳《きび》しくなった。
さすが元不良は気合いが違《ちが》う。消灯《しょうとう》時間になったら、僕の病室の前に長椅子《ながいす》を置くことにしたのだ。この病院の扉《とびら》は外開き式なので、病室内からはドアが開かなくなった。
問答無用《もんどうむよう》の監禁《かんきん》だ。
「トイレに行きたくなったらどうするんですか!」
そう抵抗《ていこう》を試《こころ》みたら、亜希子さんが変な形をした透明《とうめい》の器《うつわ》を押《お》しつけてきた。
尿瓶《しびん》、だった。
あまりの仕打《しう》ちに唖然《あぜん》として、
「マ、マジで?」
と尋《たず》ねたところ、
「マジで! よろしく!」
と尿瓶《しびん》を持ったまま肯《うなず》かれてしまった。
まったく、さすが元不良は気合いが違《ちが》う。
監視《かんし》がきつくなったのは夜だけじゃない。昼間も厳《きび》しくなった。腹が減《へ》ったときなど、僕は病院の向かいにある小さなスーパーにパンとかお菓子《かし》を買いにいったりしていたのだが、それもすべて禁止された。ロビーに行っただけで、受付窓口に座《すわ》っているおばちゃんがギロリと睨《にら》んでくるのだ。それで裏口《うらぐち》にまわろうとしたら、今度は掃除《そうじ》のおばちゃんに腕《うで》を掴《つか》まれた。
掃除のおばちゃんは、静かに、そして冷酷《れいこく》に、言った。
「悪いね、亜希子《あきこ》ちゃんに頼《たの》まれてるんだ。わかるだろ?」
ガクガクと肯き、僕は逃《に》げるようにして自分の病室に戻《もど》った。僕の想像《そうぞう》を超えて、包囲《ほうい》の網《あみ》は広く完璧《かんぺき》に行《い》き渡《わた》っていたのだった……。
「はああ〜〜〜」
思いっきりため息《いき》を吐《つ》きながら、僕は病院の廊下《ろうか》を歩いていた。
もはや僕が気楽に歩ける場所は病院の中だけである。だが、その病院というのは、医者と看護婦《かんごふ》と病人しかいない最悪の場所だった。若い入院|患者《かんじゃ》なんてただそれだけで珍《めずら》しいから、下手《へた》に歩いているとおじちゃんやおばちゃんたちの世間話《せけんばなし》に巻《ま》きこまれるというトラップも用意されていたりする。一度巻きこまれたら、少なくとも一時間は解放《かいほう》してもらえないという、恐《おそ》ろしすぎるトラップだ。
なのに、悪友どもは入院生活というものを完全に誤解《ごかい》していて、
「いいよなあ、美人の看護婦さんとかいるんだろ?」
なんて言ったりするのだが、それは幻想《げんそう》というものだ。
現実を知りたければ亜希子さんに一度|脅《おど》されてみればいい。
ヤツらも死ぬほど思い知るだろう。
「はああ〜〜〜」
もう一度ため息を吐きながら、午後の陽光《ようこう》が射《さ》しこむ廊下をぷらぷら歩いていく。
まったく、退屈《たいくつ》そのものである。
最初のころは学校に行かなくてもいいのが嬉《うれ》しかったりしたのだが、さすがにこれだけ退屈な生活が続くと、むしろ学校が恋しくなってくるから不思議《ふしぎ》なものだ。
ああ、午後の教室で昼寝《ひるね》をしたい……。
まずい学食のうどんが懐《なつ》かしい……。
やがて、僕は渡《わた》り廊下《ろうか》にさしかかった。
市立若葉病院には、東|病棟《びょうとう》と西病棟がある。僕の病室は西病棟で、ここは主に軽い病気の連中用だ。そして、中庭を挟《はさ》んだ向《む》かい側《がわ》が、東病棟だった。こちらは長期入院患者とか、重い病気の人が入っている。
東病棟にはあまり行かないことにしていた。
病院というのは、当たり前だが、病気を患《わずら》っている人間が来る場所だ。そこに入院しているとなればある程度《ていど》以上の病気ということになり、さらに重病用の病棟《びょうとう》に入ってるとなれば本当に深刻《しんこく》な病気の人もいたりする。僕のような、いい加減《かげん》な患者《かんじゃ》ばかりではないのだった。
渡《わた》り廊下《ろうか》の真ん中で、僕は立ち止まった。
冷《ひ》やかしや暇潰《ひまつぶ》しで入っていくには、ちょっとばかり気が引けた。
入院したばかりでなにも知らないころ、東病棟に迷《まよ》いこんでしまったことがある。ぼーっと歩いていたら、どこからか泣き声が聞こえてきた。僕はなんにも考えず、興味本位《きょうみほんい》でその泣き声へと近づいていった。もちろん心の準備《じゅんび》なんてしてなかった。そして見てしまったのだ。廊下の隅《すみ》で若い男と女が寄《よ》り添《そ》って泣いている姿《すがた》を。女は薄《うす》い唇《くちびる》を噛《か》みしめ、男のほうは女に向かって気丈《きじょう》そうになにか話しかけながら、それでも時折《ときおり》目を拭《ぬぐ》っていた。
なにがあったのか、どういうことだったの、それはわからない。
その直後、慌《あわ》てて逃《に》げだしてしまったからだ。
見てはいけないものを見てしまったと思った。
災厄《さいやく》なんて実は珍《めずら》しくもなんともないのかもしれない。実際《じっさい》に触《ふ》れることは滅多《めった》にない気がするけれど、あちこちに転《ころ》がっているのだろう。
東病棟は、僕にそんなことを考えさせる。
「戻《もど》るか」
そう呟《つぶや》き、僕は身体《からだ》の向きを変えた。
屋上《おくじょう》にでも行って、ひなたぼっこをしよう。給水塔《きゅうすいとう》の脇《わき》なら風が来ないし、この時間は暖《あたた》かいんだ。ロビーからマンガを持ちだしてもいいな。
そんなことを考えていると、なにかが目にとまった。
黒い髪《かみ》。
白い肌《はだ》。
渡り廊下の窓からは、東病棟の一部が見える。東病棟の一番|端《はし》の病室、その窓に、少女の姿《すがた》があった。
窓枠《まどわく》に両手を置き、空を見上げている。
僕はちょっとびっくりした。
二カ月も入院してれば、入院してる人の顔はだいたい覚《おぼ》えてしまう。若葉病院はそんなに大きい病院じゃないからだ。
あの年頃《としごろ》の女の子なんて、病院にはいなかったはずだ。
「お見舞《みま》いで来た子かな?」
そう呟いたあと、彼女の格好《かっこう》に気づき、僕はその考えを打ち消した。彼女は淡《あわ》いブルーのパジャマを身につけていた。お見舞いにパジャマで来る人間なんていない。病院でそういう格好をするのは入院患者だけだ。
ふいに、亜希子《あきこ》さんの声が蘇《よみがえ》ってきた。
『この病院には女の子もいるんだよ』
どうやら、そのとおりらしかった。
亜希子さんはもちろん、髪《かみ》が長い女の子のことを知っていた。
「めざといねえ」
ニヤニヤと下世話《げせわ》に笑う。
僕はちょっとむかつきながらも、しかし亜希子さんにむかついてたらきりがないのでグッと堪《こら》えた。それに今、亜希子さんの手には点滴《てんてき》の針があった。その尖《とが》った針先の目標《もくひょう》攻撃《こうげき》地点は、僕の左腕《ひだりうで》の血管《けっかん》だ。
要するに、僕は点滴を受ける患者《かんじゃ》。
そして、亜希子さんはその準備《じゅんび》をしている看護婦《かんごふ》。
というわけなのだ。
この状況《じょうきょう》で亜希子さんに逆らうと、
「あー、悪い悪い。間違《まちが》えた」
とか言いつつ、ぜんっぜんっ違《ちが》うところに針を刺《さ》すことがあるのだった。しかも、それを三回くらい繰《く》り返《かえ》したりもする。最初にそれをやられたときはただのミスかと思ったのだが、同じことが何度か続くうち、ようやく僕は亜希子さんの恐《おそ》ろしさを思い知った。針を持っている亜希子さんには注意しなければならない――。
「いつから入院してるんですか?」
迫《せま》ってくる針先を見つめながら、尋《たず》ねる。ほぼ毎日のように点滴を受けているのだが、どうしてもこの痛《いた》みには慣《な》れることができなかった。
「えーと、三日くらい前かな。県外の病院から転院してきたらしいよ」
答えると同時に、亜希子さんがプスと針を血管に刺しこんだ。
この針を入れる作業《さぎょう》にも上手《じょうず》下手《へた》があって、うまい人ならほとんど痛みもなしにやってのける。がさつな亜希子さんは下手なほうだ。
今回もちょっとした痛みが走り、僕は小さく声をあげてしまった。
「――っ!」
「弱虫」
自分が下手なくせに、亜希子さんはそう呟《つぶや》いた。
「男なんだから我慢《がまん》しな」
我慢、我慢だ。
ここで文句《もんく》でも言おうものなら、なにも教えてもらえないままになるかもしれない。
「その子、なんて名前なんですか?」
「秋庭《あきば》里香《りか》ちゃん。十七だから、あんたと同い年だよ」
「同い年……」
「今、よからぬこと考えただろ?」
ニヤニヤと、またもや下世話《げせわ》に笑う。
僕はムキになって否定《ひてい》した。
「なわけないですよ!」
「あ、そう? ふーん?」
亜希子《あきこ》さんは同じ調子《ちょうし》で笑いつづけている。
僕は怒《いか》りを堪《こら》えつつ、尋《たず》ねた。
「その子、東|病棟《びょうとう》ですよね? けっこう悪いんですか?」
その瞬間《しゅんかん》、亜希子さんの雰囲気《ふんいき》が少し変わった。相変わらず笑ってる。ニヤニヤしてる。でも、違《ちが》う。目だけが笑ってなかった。
「まあ、なんでもないよ」
ウソだ。
僕はこういう反応《はんのう》をよく知っている。重い病気であればあるほど、医者や看護婦《かんごふ》の口は重くなる。適当《てきとう》なことしか言わなくなる。そして、たいしたことないよ、という顔をする。滅多《めった》に病院に来ない人なら、それがなにを意味するのか気づかないかもしれない。本当にたいしたことないと思ってしまうかもしれない。
でも、僕はもう、ここに二カ月もいる。
ウソだ。
あの子はきっと悪い病気なんだ。
なにか重くて黒い塊《かたまり》が、僕の腹の中にどすんと落ちてきた。それは哀《かな》しみとか絶望《ぜつぼう》に近い、けれど微妙に違う感情だった。
たぶん。
諦《あきら》め、だった。
病院に病人がいるのは当たり前だ。
学校には学生がいる。
警察署《けいさつしょ》には警察官がいる。
そういうのは当たり前なのだ。
他にも、似《に》たようなことはある。
たとえば――。
すごく重い病気を抱《かか》えている人がいて、希望も持てぬまま死んでしまうことだってある。それに異議《いぎ》を唱《とな》えることはできる。神様に文句《もんく》だって言える。どこか高いところに行って、大声で叫《さけ》んでみたっていい。でも病気は決してとまらない。ゆっくり、しかし確実に進みつづけ、いつか死をつれてくる。
そういうとき、人が最後に落ち着く場所を、僕は知っている。
諦《あきら》めることだ。
胸《むね》の奥《おく》にためた重く湿《しめ》った息《いき》を、ゆっくりゆっくり吐《は》きだすのだ。
それしかないのだ。
点滴《てんてき》は『必殺《ひっさつ》二倍速!』を使って、二十三分で終わらせた。
長いあいだ入院していると、まあ、いろんなことを覚《おぼ》えるものだ。
たとえば二階の設備室《せつびしつ》には車椅子《くるまいす》があって、三号車(通称――無限回転號《むげんかいてんごう》)に来ると、素晴《すば》らしいドリフト走行を体験できる。右前輪《みぎぜんりん》がはずれかかっているせいで、ぎゅんぎゅんまわるのだ。それから、看護婦《かんごふ》さんの当たりはずれも大切だった。わかりやすい例で言うと、亜希子《あきこ》さんになにかを頼《たの》むとたいてい忘《わす》れる。婦長の横田さんは言ったとおりにしてくれるけれど、それを気にしすぎるところがある。看護婦さんのシフトチェックは入院|患者《かんじゃ》の常識《じょうしき》だった。あと『体調|管理《かんり》』も忘れてはいけない。ちょっと熱っぽいと注射《ちゅうしゃ》を打たれたりするので、やばそうなときは検温《けんおん》の前に体温計をちょうどいい具合《ぐあい》に温《あたた》めておき、ベスト体温を演出《えんしゅつ》したりするのだ。
点滴を早く終わらせる方法もそういった知恵のひとつだが、これが意外《いがい》と難《むずか》しい。
やり方自体は簡単《かんたん》だ。
点滴のチューブについているつまみをまわせばいい。
だが、この簡単さがくせ者で、下手《へた》にスピードを上げると身体《からだ》がついていけず、吐《は》き気《け》を催《もよお》すのだった。初めてスピード操作《そうさ》をやったとき、僕は見事《みごと》にその失敗を犯《おか》してしまい、危《あや》うくベッドを汚《よご》すところだった。
今はもう、慣《な》れたもんだ。
「よっし、終わり!」
早々に点滴を終わらせると、僕は立ちあがった。
二十三分はなかなかの記録だ。
亜希子さんが設定《せってい》したスピードだと軽く一時間以上かかってしまうのだが、そんなに長くベッドに縛《しば》りつけられるのはごめんだった。
もっとも、僕がこの技《わざ》を使えるのは、僕の病気が軽いもので、点滴もただの栄養剤《えいようざい》だからだ。ちゃんとした薬を点滴してる場合、この技を使うと大変《たいへん》なことになりかねない。身体が弱ってる患者《かんじゃ》だと、命取りになることもあるそうだ。
僕は自分で点滴《てんてき》の針をはずし、立ちあがった。
別にどこか目的地があるわけじゃない。だいたい、病院の中しか移動《いどう》できないのだ。それでも僕の足は意識《いしき》しないうちに東|病棟《びょうとう》へと向かっていた。
渡《わた》り廊下《ろうか》で立ち止まる――。
ルビコン川を渡る、って言葉《ことば》があるらしい。もう二千年も前、ローマの偉《えら》い将軍《しょうぐん》が禁《きん》を破ってルビコン川を軍とともに渡ったんだそうだ。それでその将軍は巨大《きょだい》な帝国《ていこく》の支配者《しはいしゃ》になった。まあ、そんな大げさなものじゃないけど、渡り廊下はそれでもやたらと長く見えた。
進むか。
退《ひ》くか。
そんな言葉を思《おも》い浮《う》かべてから、あまりの大げささに馬鹿《ばか》らしくなった。今この瞬間《しゅんかん》、誰《だれ》かが死ねってわけじゃない。それに、見知らぬ人間が死んだところで、それがなんだっていうんだ? 関係ないだろ?
そう自分に言い聞かせ、僕は歩きだした。
ふらふらと、あっさりと、渡り廊下を進む。
勝手《かって》に歩きまわる患者が多い西病棟と違《ちが》って、東病棟は静かなものだった。しんと静まり返り、看護婦《かんごふ》が廊下を歩くペタペタという足音だけがずいぶん遠くのほうから聞こえてくる。僕はなんだか拍子抜《ひょうしぬ》けしたような気分を味わいながらも、しかしその静けさに秘《ひ》められた意味に怯《おび》えつつ、それでも顔だけは呑気《のんき》さを装《よそお》って、廊下を進んでいった。
やがて、あの病室の前にたどりついた。
髪《かみ》の長い女の子の病室だ。
『秋庭《あきば》里香《りか》』
二二五号のネームプレートには、マジックでそう書いてあった。
それが彼女の名前らしい。
眠《ねむ》っているのか、それとも検査《けんさ》にでも行っているのか、病室からはなんの音も聞こえてこなかった。
ああ、こういうとき、つくづく思う。
もう少しナンパな性格だったらなあって。
そうすれば、
「こんちはー」
とか軽く言いつつ、ドアをノックして、なんでもないことを話したりできるのに。でもって、一週間後くらいにはちょっといい雰囲気《ふんいき》になって、二週間後には手を繋《つな》いだりして、三週間後には――。
バカげた妄想《もうそう》を、僕は頭から追《お》い払《はら》った。
もちろん、僕には無理《むり》だ。
そんな恐《おそ》ろしいこと、できるわけがない。もしできるんなら、すでに彼女のひとりやふたりはいたはずだ。
結局《けっきょく》、ため息《いき》だけが漏《も》れた。
「はあ……」
背中《せなか》に敗北感《はいぼくかん》を漂《ただよ》わせつつ、僕は東|病棟《びょうとう》をあとにした。西病棟に戻《もど》ってもまだ、東病棟の静けさが身体《からだ》の周《まわ》りに漂っている気がした。
秋庭《あきば》里香《りか》、か。
遠くから見ただけなので、どんな顔をしてるかまではわからなかった。もちろん、病名だってわからない。なぜ東病棟なのかもわからない。僕になにができるかもわからない。もし話すきっかけがあれば、この病院のことをいろいろ教えるくらいはできるのに……。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか自分の病室にたどりついていた。
「お出かけかい?」
ふと横を見ると、そこに多田《ただ》さんが立っていた。
あんまりにも小さいせいで気づかなかった。
老いぼれてしまった多田さんの背丈《せたけ》は、僕の胸《むね》あたりまでしかない。
「はあ、なんとなく歩いてきました」
「病院の中じゃ、つまらんだろ?」
ニヘヘ、と多田さんが笑う。
元々しわくちゃな顔がますますしわくちゃになるものだから、どこに目があるのか本当にわからなくなった。
「そうですね。つまらないです」
僕もヘラヘラと笑った。
東病棟にいる秋庭里香のことが頭の隅《すみ》っこに引っかかっていて、うまくものを考えられなかった。『東病棟』が引っかかっているのか、それとも『秋庭里香』が引っかかっているのか、それは自分でもよくわからなかったけど。
多田さんが、くいっと首を自分の病室のほうに動かした。
「どうだい? 寄《よ》ってくかい?」
「え、いいんですか?」
その瞬間《しゅんかん》、すべてを忘《わす》れ、僕は思わず息を呑《の》んでいた。
頭に浮《う》かんだのはたったひとつ。
多田コレクション――。
それはこの病院の伝説《でんせつ》になっている。
すでに入院歴が十年に達するという多田さんが、その入院生活の大半をかけて集めに集めてきた膨大《ぼうだい》な数のエロ本のコレクションだ。
二〇七号室の坂田さん(七十三歳、糖尿病《とうにょうびょう》)が、しみじみこう言ったものだった。
「多田さんにはかなわねえ」
それはもう、しみじみと。
二一五号室の榛名《はるな》さん(六十八歳、右腕《みぎうで》骨折《こっせつ》)なんかは、
「ありゃすごいよ」
そう言って、どこか遠くを見るような目をした。
「オレがあと五つ若かったらなあ」
五つ若かったら、どうだというんだろう?
まあ、とにかく、それくらいすごいらしい。
僕は多田さんの病室に顔をやった。
ついにそれを拝《おが》むときが来たのだ。
これまで噂《うわさ》には聞いていたものの、当の多田さんは思わせぶりな言動《げんどう》を繰《く》り返《かえ》すばかりで、まったく見せてくれなかったのだった。いや、まあ、そんなに見たいわけじゃないけどさ……いちおうというか……うん、いちおう見ておいても損《そん》はないし……。
多田さんが肯《うなず》きながら、そのドアを開ける。
「どうぞどうぞ」
「じゃあ、遠慮《えんりょ》なく――」
が、ドアがいきなり目の前で閉まった。
パタン、と音をたてて。
「あー、忘《わす》れとった忘れとった。これから検査《けんさ》だった」
「け、検査?」
「そう、悪いねえ。亜希子《あきこ》ちゃんが怖《こわ》くてねえ」
また今度、と言い残し、多田さんは去っていった。
立ちつくす僕をその場に残して。
「…………」
ひ、ひどいジイサンだ。
こんなに期待《きたい》させて検査だって? たった今、思いだしたって? そんなのずっと前からわかってるはずじゃないか……。
クソジジイ、と怒鳴《どな》る亜希子さんの気持ちを、僕はようやく思い知った。
3
市立若葉病院は町の高台にあり、屋上《おくじょう》からだと町の大半《たいはん》を見渡《みわた》すことができる。僕の住んでいる三重県|伊勢《いせ》市は小さな田舎町《いなかまち》だ。人口は十万弱。ここ十年、その数字は少しずつ減《へ》りつづけている。
要するに、寂《さび》れかけているというわけだ。
実際《じっさい》、駅前にある店は次々と潰《つぶ》れているし、来年には町にひとつしかないデパートも閉店《へいてん》するという噂《うわさ》だった。何年か前には景気《けいき》のいい再開発話《さいかいはつばなし》もあったのだが、すべて頓挫《とんざ》したらしい。あとは寂れる一方なのかもしれなかった。ゆっくり、ゆっくり、死んでいくんだろう。それはどうしようもないことだった。
町で有名なのは、伊勢|神宮《じんぐう》くらいだ。
この伊勢神宮というのは、今の天皇さんの祖先《そせん》を祭《まつ》っている由緒《ゆいしょ》正しいお宮で、正月には総理大臣とかが参拝《さんぱい》にやってくる。伊勢がどうにか寂れきらずにすんでいるのは、この伊勢神宮のおかげだった。もし神宮がなくなったら、こんなちっぽけな町なんて、あっさり消えてしまうのかもしれない。
「ふあああああ〜〜〜」
長い長い欠伸《あくび》が漏《も》れる。
僕は今、屋上《おくじょう》の手すりにもたれかかり、目の前に広がる町の風景《ふうけい》をぼんやりと眺《なが》めていた。町の中心部に、でっかい森がある。それが伊勢神宮だ。伊勢というのは、もともと伊勢神宮を中心に栄《さか》えた町なのだった。
町に高いビルなんてものはない。
のっぺりと、地面に張《は》りつくように、町は広がっている。
右のほうに目を移《うつ》すと、そこにこんもり盛《も》りあがった山があった。龍頭山《りゅうとうざん》というのが本当の名前なのだが、地元の人間は砲台山《ほうだいやま》と呼《よ》んでいる。昔々、アメリカとまだ戦争をしてたころ、そこに大砲《たいほう》の陣地《じんち》があったからだそうだ。今でもその台座《だいざ》が残っているらしい。
それにしても、あんな大きな国とよく戦争なんてしたもんだ。
僕なら真っ先に逃《に》げだすだろう。
おじいちゃんたちは意地《いじ》やプライドをかけて必死《ひっし》に戦ったのかもしれないけど、意地やプライドなんてこの世で一番下らない言葉《ことば》だ、命なんてかけられるものか。
まったく下らない。
そんなどうでもいいことを考えながら、故郷《こきょう》の風景を眺めていると、
「なにしてんのさ」
後ろから声がした。
振《ふ》り向《む》く。
亜希子《あきこ》さんがそこに立っていた。
「ぼーっとしてただけですよ」
本当にそうだったので、ぼーっとした感じで答える。
「ふーん」
つまらなさそうに唸《うな》ると、亜希子《あきこ》さんはナース服のポケットから煙草《たばこ》を取りだした。一本くわえると、実に慣《な》れた動作《どうさ》で火をつけ、深々と吸いこみ、大量の煙《けむり》を一気に吐《は》きだす。紫煙《しえん》は冬の風に吹かれ、渦《うず》を巻《ま》きながら消えていった。
「あー、うまいっ。最高っ」
呆《あき》れた。
なんて看護婦《かんごふ》だ。
「あのー、看護婦が煙草なんか吸っていいんですか?」
「看護婦の喫煙者《きつえんしゃ》ってわりと多いんだよ。なにしろストレスかかるからさ、この仕事は。ま、みんな、こっそりトイレで吸ってたりするんだけどね」
「患者《かんじゃ》の真ん前ってのはまずいんじゃ――」
「はあ? なんか言った?」
ギロリと睨《にら》まれる。
僕はとりあえず黙《だま》っておくことにした。なんだか、亜希子さんにどんどん頭が上がらなくなっている気がする。
ところが、亜希子さんが突然《とつぜん》その顔を崩《くず》し、
「吸う?」
と言って、煙草《たばこ》を差しだしてきた。
「え、いいんですか」
「まあ、高校生だしねえ。煙草くらい吸ったっていいじゃん。あたしなんて、もっと前から吸ってたしさ。中三のころにはヤニ用|歯磨《はみが》き使ってたよ」
僕は煙草を吸ったことがない。
興味《きょうみ》がないわけではないが、積極的《せっきょくてき》に吸おうとまでは思ってこなかったのだ。ただ、こういう機会《きかい》があるのなら、ちょっと試《ため》してもいいかもしれない……。
僕は煙草に手を伸《の》ばした。
「じゃあ、遠慮《えんりょ》なく――うああああっ!」
燃える!
手の甲《こう》が!
なにが起きたのか一瞬《いっしゅん》わからなかった。ようやく理解《りかい》できたのは、たぶん三秒くらいたってからだったと思う。亜希子《あきこ》さんがいきなり、煙草を僕の手の甲に押《お》しつけてきたのだった。いや、押しつけきたってのは少し大げさだけど、とにかくその火をちょんと当ててきたのは確かだった。
僕は悲鳴《ひめい》をあげ、右手を胸《むね》に抱《だ》きしめた。
「な、なにするんですかっ!?」
涙目《なみだめ》で叫《さけ》ぶ。
亜希子さんは意地悪《いじわる》そうに笑っていた。
「ばーか。調子《ちょうし》に乗るんじゃないよ。あんた、病人だろ? 煙草なんて吸っていいわけないじゃん。この程度《ていど》の誘惑《ゆうわく》を断《ことわ》れなくてどうするんだよ」
いつか殺そう。
絶対《ぜったい》殺そう。
僕は心に固《かた》く誓《ちか》った。
実際《じっさい》に殺さないまでも、ひどい目にあわせてやろう。
亜希子さんはなにが楽しいのか、僕の顔を見ながら、ニヤニヤと笑いつづけている。僕はといえば、殺意《さつい》を胸に秘めつつも、やっぱり亜希子さんが怖《こわ》いので、いじけたように背中《せなか》を丸めていた。
そうして、しばらく黙《だま》ったまま、ふたりで町を眺《なが》めていたが、
「小さい町だねえ」
やがて、亜希子さんがそう言った。
「そうですね」
まだ殺意を胸に秘《ひ》めたまま肯《うなず》く。
「あんた、あと一年ちょっとで卒業だろ。そのあと、どうすんのさ」
「東京か名古屋の学校に行こうかと思ってんですけどね。まだわかんないけど」
「出ていくの、この町?」
「そのつもりです」
実のところ、それが一番の目的だった。どこの学校にするかとか、理系だとか文系だとか、そんなのはすべて僕にとってはどうでもいいことだった。僕はこの町を出たかった。世界というヤツを見てみたかった。
こんな小さな町に生まれ、こんな小さな町しか知らないまま死ぬなんてのは、男として正しくない――。
なんとなくだが、そういう気がするからだ。
『行こうと思えばどこにだって行ける』
よく、そんなふうに言う人をテレビや雑誌《ざっし》で見かける。
でも、本当にそうだろうか?
高校生の僕はどこにも行けない。たった数千円の小遣《こづか》いじゃ県内がせいぜいだ。たとえ県外に出られたところで、学校があるからすぐに戻《もど》ってこなければいけない。もちろん学校を辞《や》めるって手もあるわけだけど……親が絶対《ぜったい》許《ゆる》してくれないだろう。
ただ、学校や親といった制約《せいやく》がなかったとしても、どこかに行くのは案外《あんがい》難《むずか》しいのかもしれない。
人はきっと、いろんなものに縛《しば》られている。
見えるものばかりじゃない、見えないものもたくさんある。
意外《いがい》と、見えないもののほうが多いんじゃないか?
そんなことを夜中に考えたりしてると、僕はたまらない気持ちになる。この小さな町でずっとずっと暮《く》らしていく自分の姿《すがた》が浮《う》かんだりして、そういうときは本当に憂鬱《ゆううつ》で、いっそなにもかも捨ててやろうかとさえ思う。まあ、絶対に無理《むり》だけど。
結局《けっきょく》のところ、僕もいろんなものに縛られてるんだ。
わかってるさ、もちろん。
わかってるから、たまらない気持ちになるんだ。
いちおう言っておくが、自分の育った町が嫌《きら》いってわけじゃない。
それなりに好きだし、愛着《あいちゃく》がある。
でも、ずっとここにいたくはない。ここは、この町は、僕にとって世界の果《は》てみたいなものだった。生まれた場所だからこそ、そうなんだ。
歩きだしたい。
切《せつ》に、そう思う。
今すぐにでも、歩きだしたい。
「そっか、いいねえ」
「え? なにがですか?」
「うらやましいよ、あんたが」
亜希子《あきこ》さんの声には、妙《みょう》にしみじみとした感じがあった。
「あたしはずっと、ここだからさ」
「だったら、亜希子さんもどこか行けばいいじゃないですか」
なーんにも考えず、無邪気《むじゃき》に笑いながら、僕は言った。
亜希子さんの目に、彼女らしくない、淡《あわ》い輝《かがや》きが宿った。
「まあ、そうなんだけどね。意外《いがい》と難《むずか》しいもんだよ」
「そんなもんですか?」
「そんなもんだよ。ここしか知らないと出てくのが怖《こわ》かったりするもんさ。うちの猫《ねこ》だって、ずっと家の中で飼《か》ってるから、たまに外につれてくと怖くて動けなくなっちまうもん。雌《めす》なのにすっげー気が強くてさ、あたしの手を引《ひ》っ掻《か》いたりする猫なんだよ。それなのに、やっぱ外は怖いみたい」
「はあ」
亜希子さんの口から怖いという言葉《ことば》が漏《も》れるなんて思いもしなかった。僕はちょっとびっくりして、亜希子さんの顔を見つめた。無敵《むてき》に思える亜希子さんも、実はなにか見えないものに縛《しば》られているのかもしれない……。
亜希子さんは照《て》れくさそうに、ウヒヒと笑った。
「あたしもいちおう女だからね、男のあんたとは違《ちが》うさ。ところであの長椅子《ながいす》だけど、困《こま》ってる?」
長椅子というのはもちろん、夜になると僕の病室の前に置かれるヤツのことである。
僕は思いっきり肯《うなず》いた。
「困ってます」
断言《だんげん》。
亜希子さんはニヤリと笑った。
「あれ、どけてあげようか?」
「え? いいんですか?」
「まあね。でも、条件《じょうけん》があるよ」
「条件?」
「里香《りか》ちゃんの話し相手になってやってくれないかな」
しばらく、なにを言われたのかピンと来なかった。
里香ちゃん?
話し相手?
そのふたつの言葉が繋《つな》がるのに、ちょっと時間がかかった。
「里香《りか》ちゃんって東|病棟《びょうとう》の子ですよね? その話し相手ですか?」
「そう。彼女さ、県外から来てるんだ。いきなり知らない町だし、初めての土地じゃ友達なんているわけないし、心細いと思うんだよね。暇《ひま》なときでいいから、少し話をしてあげてくれないかな。この条件《じょうけん》を呑《の》んでくれるんだったら、長椅子《ながいす》をどけてあげるけど」
「条件って、それだけですか?」
「うん」
気づくべきだったのだ。
このとき。
こんなに甘《あま》い取引《とりひき》があるわけがないのだと。
「まあ、いいですけど」
だが、なんにも知らなかった僕は、あっさりと肯《うなず》いてしまった。
亜希子《あきこ》さんは、なぜか唇《くちびる》の端《はし》を吊《つ》りあげて笑った。
「じゃあ、頼《たの》むよ。ちょっと[#「ちょっと」に傍点]難《むずか》しいとこもあるけど、いい子だからさ」
4
ごほん――。
ふたたび二二五号室のドアの前に立った僕は、そっと咳払《せきばら》いをした。気分を落《お》ち着《つ》けるためである。このドアの向こうに、秋庭《あきば》里香がいるのだ。
僕の通ってる学校は共学だし、女の子なんて珍《めずら》しくもなんともない。クラスの女子ととっくみあいのケンカをしたことだってある。
ちなみに、ケンカは負けた。
ゴタゴタやっているうちに、つい相手の胸《むね》を鷲掴《わしづか》みにしてしまったのだ。ふんわりとした柔《やわ》[#「やわ」は底本では「やわら」]らかさに驚《おどろ》いたあと、さすがにまずいと思って僕は怯《ひる》んだ。頭が真っ白になっていた。その隙《すき》をつかれ、怒《いか》り狂《くる》った相手に思いっきり殴《なぐ》られてしまったのだった。三時間くらい、左の頬《ほお》がじんじんと熱《あつ》かったのを覚《おぼ》えている。
とにかく、女の子なんて珍しくもなんともない。
それでもまったく会ったことのない女の子を訪《たず》ねるのは緊張《きんちょう》するものだ。僕は手の中にある文庫本をじっと見つめた。芥川《あくたがわ》龍之介《りゅうのすけ》という教科書でしか見たことのない人の本である。なんでも、彼女が芥川龍之介の大ファンなのだそうだ。
亜希子さんの立てた作戦はこうだった。
「あんたも芥川龍之介が好きだって彼女に伝《つた》えておくからさ、それをきっかけに仲良くなればいいんだよ。簡単《かんたん》だろ?」
大ざっぱだ。
どう考えても、行き当たりばったりの作戦にしか思えない。
考えれば考えるほど、うまくいかない気がしてきた。なんといっても、僕は芥川《あくたがわ》龍之介《りゅうのすけ》のファンなどではない。名前くらいは知ってるけど、まともに読んだことさえないのだ。
もし彼女が芥川龍之介について話を振《ふ》ってきたら、いったいどうすればいいんだろう?
文庫は亜希子《あきこ》さんが買ってきてくれたものだった。これを読んでおけばちょっとはマシだったかもしれないが、いきなり渡《わた》されて明日までに読んでおけと言われても、そんなのは絶対《ぜったい》に不可能《ふかのう》だ。
僕はくるりと横を向いた。
ダメだ。
出直そう。
せめてこの本を読み切ってからにしよう。
――と思いつつ、歩きだしたときだった。
ガタン
そんな音がした。
考え事をしていたせいで、ドアのノブに腕《うで》が引っかかってしまったのだった。バランスを崩《くず》し、僕はそのままドアにぶつかった。
さっきよりもずっと大きな音が響《ひび》いた。
直後、ドアの向こうから、
「誰《だれ》?」
という女の子の声が響いた。
緊張《きんちょう》が全身を駆《か》け抜《ぬ》ける。
動けないでいると、また、
「誰? 誰かいるの?」
と声がした。
僕は固《かた》まったまま、ごくりと息《いき》を呑《の》んだ。こうなったら、もはや逃《に》げだすわけにはいかない。もし逃げるところを見られでもしたら、それで終わりだ。二度とチャンスはない。長椅子《ながいす》鍵《かぎ》が復活《ふっかつ》する。
ええい、男は度胸《どきょう》だ!
僕は大きく息を吸うと、ドアを開けた。
「こんちは……」
と言いつつ、中に入る。
その病室は個室だった。広さはおよそ六|畳《じょう》くらいで、ドアの横に洗面台《せんめんだい》と鏡があり、誰かの見舞《みま》いの品らしい花束が水を張《は》った洗面台に浸《ひた》してあった。ベッドがひとつ、ドアの真向《まむ》かいにある窓に沿《そ》うようにして置かれている。そのベッドは病院特有の鉄製のガッチリしたもので、長年使われつづけているために、白いペンキがあちこち剥《は》げてしまっていた。
古い病院はどこでもそうだが、カーテンもシーツも真っ白だ。壁《かべ》も床《ゆか》も天井《てんじょう》も白い。そんな、遠近感《えんきんかん》が狂《くる》ってしまいそうな空間の中に、彼女はひとりでいた。
まるで置き去りにされた小さな子供のようだった。
「え……」
彼女はちょっとびっくりしたらしい。
慌《あわ》てて上半身を起こす。
身を隠《かく》すように――あるいは守るように――シーツを胸《むね》のあたりまで引《ひ》っ張《ぱ》りあげた仕草《しぐさ》が、妙《みょう》に艶《なま》めかしかった。
僕は思わず息《いき》を呑《の》んだ。
「あなた……谷崎《たにざき》さんの言ってた人……?」
ほっそりとした、彼女の声。
谷崎さんというのが誰《だれ》なのかわからなくて戸惑《とまど》ったが、やがてそれが亜希子《あきこ》さんの名字《みょうじ》であることを思いだした。いつも名前で呼《よ》んでるので、ピンと来なかったのだ。
僕は慌《あわ》てて肯《うなず》いた。
「そ、そう!」
ふと思いだし、手に持っていた芥川《あくたがわ》龍之介《りゅうのすけ》の本を彼女に見せた。
彼女は嬉《うれ》しそうに微笑《ほほえ》んだ。
「あたし、それ、読んだわ」
「あ、うん」
「あなたも読んだ?」
読んでないと言えるわけがない。
「ま、まあね」
僕は適当《てきとう》な笑《え》みを浮《う》かべた。
なんだか、話がいきなりやばいほうに進んでる気がする……。
「どうだった?」
「うーん……」
わかるわけがない。
読んでいないのだ。
「あたし、それに入ってる話の中じゃ、『蜜柑《みかん》』が一番好き。短いし、素朴《そぼく》だけど、すごくいい話よね」
「あ、ああ、そうだね」
僕は焦《あせ》った。
彼女の話はどんどん詳《くわ》しいほうへ進んでいった。
作品の細かい内容だとか、オチだとか、とにかく僕にはまったくわからなかった。しかたなく生返事《なまへんじ》を繰《く》り返《かえ》したが、そんな演技《えんぎ》がいつまでも保《も》つわけがなかった。
彼女の顔が少しずつ曇《くも》っていく――。
なにか別の話題を持ちだして話を逸《そ》らそうとは思ったものの、その話題が頭に浮かんでこなかった。焦れば焦るほど頭は空《から》っぽになっていき、そのあいだにも状況《じょうきょう》はどんどん悪化《あっか》していった。
「あなた、本当に読んでるの?」
やがて、彼女はそう尋《たず》ねてきた。
「…………」
僕は黙《だま》りこんだ。ウソをつくのがうまくないからだ。もしうまいなら、こんなことになっていない。彼女も黙りこんだ。そしてただじっと、僕を見つめていた。
いつまでも。
いつまでも。
彼女の顔にはなんの表情も浮かんでいなかった。彼女の目にはなんの気持ちもこもっていなかった。僕はムチャクチャ情《なさ》けない気持ちになった。女の子にこんなふうに見つめられるのがこれほど辛《つら》いことだなんて、考えもしなかった。
彼女の視線《しせん》は、僕をずたずたにした。伝《つた》えないというその行為《こうい》が、すべてを伝えていた。その瞬間《しゅんかん》、とても大切なものを壊《こわ》してしまったのだと、僕はようやく気づいた。
とんでもないバカだ、僕は……たった一度のチャンスを壊してしまった……。
もう取り返しはつかない。この世界では、一度起きてしまったことは決して元に戻《もど》らないのだ。皿を落とせばそれは割れてしまう。ゲームのセーブを失敗すればデータは消えてしまう。人を傷《きず》つければ相手には嫌《きら》われる。元には戻らない。決して。
惨《みじ》めだった。
亜希子《あきこ》さんの作戦に問題があったのは確かだけれど、失敗したのは僕だった。バカで子供で機転《きてん》のきかない僕だった。うまく立ちまわれば、それを笑い話にして、逆《ぎゃく》に仲良くなるきっかけにすることだってできたはずだ。
けど、もう遅《おそ》い。
やがて彼女は僕から視線をはずした。
窓の向こうに顔を向ける。
なんとなく、僕は彼女と同じほうを見た。そこには小さな山があった。龍頭山《りゅうとうざん》だ。地元の人間である僕には、砲台山《ほうだいやま》という響《ひび》きのほうがしっくりくる、あの山だ。
ずいぶん長いあいだ、彼女はその山を見つめていた。
僕は立ちつくしたまま、ずっと居心地《いごこち》の悪さを感じていた。彼女に謝《あやま》るべきだと思ったけれど、きっかけが掴《つか》めなかった。だが、いつまでもこのままというわけにはいかない。もしかすると彼女は僕が出ていくのを待っているのかもしれなかった。
「え、えっと……」
勇気《ゆうき》を振《ふ》り絞《しぼ》って口を開いた、そのときだった。
「ねえ、あの山、知ってる?」
山のほうを向いたまま、彼女が尋《たず》ねてきた。
「あの山?」
「そう、あそこに見える山よ」
「砲台山のこと?」
そう言った瞬間《しゅんかん》、彼女の動きがいきなり加速《かそく》した。少し慌《あわ》てたような感じで、こちらに顔を向けたのだ。
「今、なんて言ったの?」
「え?」
「今よ、今」
「あの……砲台山って……」
「そう呼《よ》ぶの? あの山?」
勢《いきお》いこんで尋《たず》ねてくる。
彼女の目は真剣《しんけん》だった。
その視線《しせん》の強さに怯《ひる》みながら、僕はどうにか説明した。
「もうずっと昔だけど、あそこに大砲《たいほう》があったんだって。だから、地元の人間は、今でもそう呼んだりするんだ」
「ほんとに?」
「う、うん」
彼女はふたたび、山のほうに顔を向けた。
また沈黙《ちんもく》が訪れる。
けれど、さっきとは違《ちが》い、その沈黙に気まずさは含《ふく》まれていなかった。彼女は僕を無視《むし》するためではなく、なにか別の目的で、その山を見つめていた。
僕は彼女の背中《せなか》に声をかけた。
「あ、あのさ。さっきはごめん」
「え?」
彼女がこちらに顔を向けた。
なにを言われたのかわからないって顔をしている。
「亜希子《あきこ》さんが……あ、谷崎《たにざき》さんのことだけど、共通の話題があったほうがいいだろうって言ってたから、それでこれを――」
本を見せ、
「――持ってきたんだ。別に、その、君を騙すとかそういうつもりじゃなくてさ。あの、でも、ごめん」
これで終わりだ。
もう二度と彼女と話すことはないだろう。
彼女は僕のことを嘘《うそ》つきのバカ野郎《やろう》だと思いつづけるだろう。
だが――。
意外《いがい》なことに、彼女は微笑《ほほえ》んだ。
「許《ゆる》してあげるわ」
「え?」
「探《さが》してたものを見つけてくれたから」
「え?」
わけがわからない。
呆《ほう》けたような顔の僕を見て、彼女はさらに微笑んだ。
「ただし、条件《じょうけん》があるわ」
「条件?」
そういえば、亜希子《あきこ》さんにも『条件《じょうけん》』を突きつけられたな……もしかすると、女の子ってのは『条件』が好きなんだろうか……。
「あたしの言うことを聞いて。なんでもよ。あたしが欲しいと言ったら、それを持ってきて。あたしが笑いたいって言ったら、なにかおもしろいことをして笑わせて。そうしたら、許《ゆる》してあげてもいいわ」
彼女はまた笑った。
ただし、意地悪《いじわる》そうに。
それは小悪魔《こあくま》の笑《え》みというヤツだった。
「う、うん」
なんにもわからぬまま、僕は肯《うなず》いていた。
許してもらえるというだけで、嬉《うれ》しくて嬉しくてたまらなかった。
このとき、僕はまだわかっていなかったのだ。自分が泥沼《どろぬま》に向かって全身ダイブをしてしまったことなんて全然《ぜんぜん》気づいていなかった。その泥沼は恐《おそ》ろしく深く、一度飛びこんでしまったら脱出《だっしゅつ》不可能《ふかのう》だなんてまったく理解《りかい》していなかった。
とにかく。
このようにして、僕の奴隷《どれい》生活は始まったのだった……。
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里香《りか》は美人だ。
長い髪《かみ》はつやつやのまっすぐで、そのままシャンプーのCMにだって出られそうなほど。肌《はだ》は雪国で育ったかのように白く、一目見ただけでわかるくらいキメが細かい。その、白と黒のあまりに鮮《あざ》やかなコントラストは、ただそれだけで目を引く。
しかも、顔まで整《ととの》っているのだから、ほとんど反則《はんそく》だ。
日本人形のように清楚《せいそ》でおとなしい感じのする美人である。
しかし!
しかしだ!
天は二物《にぶつ》を与《あた》えずとかいう言葉《ことば》どおり――と言っていいかどうか微妙《びみょう》だが――里香は恐《おそ》ろしく性格が悪い。自分|勝手《かって》でわがまま、人の言うことなんて聞きやしない。自分の思うとおりにことが運ばないと、それだけで喚《わめ》く泣《な》く殴《なぐ》るのオンパレードだ。
これだけ外見《がいけん》と性格《せいかく》が一致《いっち》しない女を、僕は他に知らなかった。
「ただいまー」
ちょっとばかり疲《つか》れた声で言いながら、僕は病室のドアを開けた。
ベッドの里香《りか》が、不機嫌《ふきげん》そうに、
「遅《おそ》かったわね」
と呟《つぶや》く。
ちなみに、僕はわざわざ市立図書館に行ってきたばかりである。今日は朝からひどく寒かった。お天気アナウンサーはまるですごい手柄《てがら》でも立てたみたいに、
「今日は今年一番の寒さです!」
なんて誇《ほこ》らしげに断言《だんげん》してたし、その背後《はいご》のスクリーンではマフラーをした雪だるまのイラストが楽しそうに踊《おど》っていたりもした。
実際《じっさい》、たまらなく寒かった。
風は強く、冷たかった。
空は鈍色《にびいろ》の雲に覆《おお》われていた。
やたらと重くて厚《あつ》いダッフルコートを身につけ、マフラーを巻《ま》き、手袋《てぶくろ》をし、吹きつけてくる寒風《かんぷう》に耐《た》えながら、僕は市立図書館までの長い道程《みちのり》を踏破《とうは》してきたのだった。指先は冷たく凍《こお》りついているし、顔はしもやけになりそうなほどヒリヒリしている。
とにかく、苦労したのだ。
大変《たいへん》だったのだ。
それなのに、
『遅かったわね』
なのだ、この女は。
里香はわがままだ。
まるで王女さまのようにわがままだ。
「本、あった?」
「あったよ」
僕はポケットに押《お》しこんであった本を差しだした。手のひらにおさまってしまうほどの大きさで、その表紙には可愛《かわい》らしいウサギの絵が描《えが》かれている。
ベッドに寝《ね》たまま、里香はそれを受け取った。
「なに、これ?」
途端《とたん》、その顔が険《けわ》しくなった。
形のいい眉《まゆ》の端《はし》が吊《つ》りあがっている。
僕はちょっと焦《あせ》って言った。
「頼《たの》まれてた本だよ。ピーターラビットの」
「これ、確かにピーターラビットのシリーズだけど、あたしが借《か》りてきてほしかったのは別のなんだけど」
「そ、そうだっけ?」
「あたしは『フロプシーのこどもたち』が読みたかったの!」
里香《りか》の声がどんどん険《けわ》しくなっていく。
「あんたが借《か》りてきたのは『こわいわるいうさぎのおはなし』じゃない!」
「け、けど、そいつでもいいって言っただろ?」
里香からはいくつか複雑《ふくざつ》な条件《じょうけん》をつけられていた。あれを借りてきて、もしなかったらこれにして、これもなかった場合は――。なんだかやたらと細かかったので、ちゃんと里香の言ったことをメモに取って出かけたのだが。
「なに聞いてんのよ! それは絶対《ぜったい》に借りてこないでねって言ったヤツじゃない!」
「そ、そうだっけ?」
慌《あわ》ててコートのポケットを探《さぐ》ったが、なかなかメモが出てこなかった。右か? いや、ない。じゃあ、左? そこにもない。ということは、ズボンのポケットのほうか? ありとあらゆるポケットをあたふたと探ったものの、しかしメモは出てこなかった。
(な、なくした……?)
恐《おそ》ろしい。もしそんなことを口にしようものなら、さらに激《はげ》しい里香の罵倒《ばとう》を浴《あ》びることになるに違《ちが》いない。
僕は顔面《がんめん》蒼白《そうはく》になり、うつむいた。
「あ――」
あった。
足元にクシャクシャになったメモが落ちていた。
僕はしゃがみこみ、メモを拾った。ははは、あったあった、と愛想笑《あいそわら》いをしながら、そのメモを広げる。僕の汚《きたな》い字がクシャクシャになった紙片《しへん》に並《なら》んでいた。里香の言うとおり、『こわいわるいうさぎのおはなし』のところには、確かに×印がつけてあった。
選《えら》んでるとき、どうやらその印を見逃《みのが》してしまったらしい。
「は、ははは。そ、そうみたいだな。なんで見逃したのかな」
場の空気を少しでも和《やわ》らげようと笑ってみたものの、うまくいかなかった。
里香はいきなり怒《おこ》りだした。
「このバカ! この程度《ていど》のお使いができなくてどうすんのよ! あんた、いくつ? 子供じゃないんでしょ!」
ああ、どっちにしろ怒鳴《どな》られるんだ……。
「いや、まだ十七だから子供だし」
僕の情《なさ》けない抗弁《こうべん》は、里香の視線《しせん》によって、あっさりと封《ふう》じられた。
「ご、ごめん」
頭を掻《か》きつつ、謝《あやま》る。
初めて話してから三日ほどになるが、僕はこの女にまったく頭が上がらなくなっていた。里香《りか》に命じられると、ついそのとおりに行動してしまうし、怒《おこ》られると即座《そくざ》に謝ってしまう。たとえ自分が悪くなくても、頭を下げてたりする。もはやパシリ状態《じょうたい》だ。やはり出会いのつまずきが大きかった。見事《みごと》に頭を抑《おさ》えられてしまったのだ。
里香はあっさりと言った。
「ちゃんと借《か》りてきて」
「え?」
「もう一回行って、あたしが言ったヤツを借りてきてよ」
「今からかよ? 帰ってきたばっかりだろ?」
なんてことだ。
これでも僕は入院|患者《かんじゃ》である。一カ月前まで面会謝絶《めんかいしゃぜつ》扱《あつか》いだった病人だ。いくら外出禁止令が解《と》かれているとはいっても、そう何度も出かけられるもんじゃない。だいたい身体《からだ》にだって悪い。僕の病気は静養《せいよう》が第一なのだ。
だが、里香はあっさりと言《い》い放《はな》った。
「間違《まちが》えたのは、あんたでしょ」
「今日はさ、すごく寒いんだ。それに、今から出かけたら、帰るころには日が暮《く》れ――」
「それがどうしたの?」
「…………」
「だから、それがどうしたの?」
里香はまっすぐにこちらを見つめていた。
彼女の目はびっくりするくらい色素《しきそ》が濃《こ》い。覗《のぞ》きこんでいると、その瞳《ひとみ》の中で黒い水がゆっくりと渦巻《うずま》いているように見えることがある。そんなとき、僕は里香の瞳に吸いこまれそうな気持ちになった。そして、あとでひとりになってから、なぜかひどく切《せつ》ない感じがしてくるのだった。
今も里香はそんな瞳で僕を見つめていた。
「わかった。行ってくる」
「早くしないと、図書館閉まっちゃうわよ」
「急いで借りてくるよ」
僕はそう言いながら病室を出た。
外はやたらと寒かった。
日が傾《かたむ》いたせいで、一気に気温が下がったみたいだ。吹きつけてくる風もさっきよりずっと強くなっていた。
東の空はもう暗くなりかかっている。
「まいったな……」
そう呟《つぶや》く息《いき》が白く凍《こお》りついた。
僕はマフラーを首にぐるぐる巻《ま》き、コートの前をしっかりとあわせてから歩きだした。身体《からだ》がちょっと重かった。具合《ぐあい》がよくないのだろう。次の検査《けんさ》は一週間後なのだが、もしかするとひどい結果《けっか》が出るかもしれなかった。
里香《りか》の、あの目が、脳裏《のうり》に浮《う》かんだ。
どうして、里香はあんな目をするんだろう?
結局《けっきょく》、夕食の時間までに戻《もど》れず、僕は夕食|抜《ぬ》きになった。
ぐうぐう鳴《な》る腹を抱《かか》えながら里香の病室に入ると、そこは真っ暗だった。窓から微《かす》かに射《さ》しこんでくる外灯《がいとう》の光が、ひとりの女の子の輪郭《りんかく》をうっすらと浮《う》かびあがらせている。里香はベッドでその上半身を起こし、外を見つめていた。
僕は言った。
「明かり、つけないのか? どうしたんだよ?」
返事はない。
「本、借《か》りてきたぞ。今度は間違《まちが》いないから」
やはり返事はない。
僕はベッドに歩《あゆ》み寄《よ》ると、その上に借りてきた本を置いた。そして、ベッドのすぐ横にあるパイプ椅子《いす》に腰《こし》かけた。
里香はピクリともしなかった。
なにも言わなかった。
振《ふ》り向《む》きもしなかった。
隣《となり》の病室から漏《も》れてくるテレビの薄《うす》っぺらい音がよく聞こえた。その他にも、病室の前を通り過ぎていく人の話し声や、医療用《いりょうよう》のカートを動かしているゴロゴロという音や、なにかが倒《たお》れるガシャンという音が耳に入ってきた。急に温《あたた》かい空気に触《ふ》れたせいで、なんだか頭がぼんやりする。夢の中を漂《ただよ》っているみたいだ。
ぼやけた頭のまま、僕はマフラーと手袋《てぶくろ》をはずし、手に温かい息《いき》を吹きかけた。指の先まで凍《こお》りついてしまっていて、まるでぬくもりがわからない。
時間だけが、ゆっくりと流れてゆく――。
さっきから里香は外を見つめたままだった。正確に表現するなら、龍頭山《りゅうとうざん》、すなわち砲台山《ほうだいやま》を見つめたままだった。まるで僕がここにいることを知らないみたいだ。
もちろん、里香《りか》は知っている。
なのに、一言《ひとこと》も口をきかない。
こういう状況《じょうきょう》に慣《な》れてしまった僕は、ただぼんやりと里香の視線《しせん》の先を見つめていた。
一日に一度くらい、こんなことがある。なんの前触《まえぶ》れもなく、急に里香が黙《だま》りこんでしまうのだ。そうなってしまったら、こっちがなにをしても言ってもダメだ。話しかけても彼女は無視《むし》するし、よくても生返事《なまへんじ》がせいぜいだった。それはただでさえ遠い彼女が、さらに遠くへと離《はな》れてしまう瞬間《しゅんかん》だった。僕の手は決して彼女には届《とど》かないのだ。
だから、僕は黙りこむしかない。
沈黙《ちんもく》に耐《た》えるしかない。
そして、彼女がなにを考えているのか、想像《そうぞう》してみたりするのだ。
なにを考えてるんだろ?
なぜ砲台山を見つめているんだ?
あの山に登りたいのかな?
僕はそんなことを考えながら、手に息《いき》を吹きかけつづけた。だんだんぬくもりがわかるようになってきた。
心に浮《う》かんだ疑問を里香本人に尋《たず》ねてみること自体は簡単《かんたん》だったが、そうしようとは思わなかった。やっぱり無視されるに決まっている。投げかけた言葉《ことば》が空中で消えてしまうのを味わ
うよりは、まだこうして沈黙《ちんもく》に耐《た》えているほうがいい。
しょうがないので、僕は里香《りか》の背中《せなか》を見つめた。
ほっそりとした身体《からだ》だった。
ベッドに座《すわ》っている状態《じょうたい》なので上半身しか見えないのだが、肩《かた》から腰《こし》へのラインは見事《みごと》という他なかった。実に美しい曲線《きょくせん》を描《えが》いている。見ているだけで、胸《むね》がドキドキしてくるような曲線だ。
それにしても、人間というのは不思議《ふしぎ》なものだった。どうしてあの曲線が、これほど魅力的《みりょくてき》に感じられるんだろう? 花ビンの曲線だって十分に美しいけど、しかしそれじゃ全然ドキドキしないじゃないか。
ただ、里香はいささか細すぎた。
その細さは、どことなく哀《かな》しさを感じさせた。
ふと、僕は思いだした。
亜希子《あきこ》さんの言葉を。
『まあ、なんでもないよ』
里香の病気のことを、僕は知らない。
亜希子さんは教えてくれないままだし、里香本人に聞くのはさすがにためらわれた。いくらなんでも、そんなことは聞けない。聞けるわけがない。
それに、正直言って、僕は聞くのが怖《こわ》かった。
だから今も知らないままになっている。
グウゥゥゥ――
いきなり、そんな音がした。
発信源《はっしんげん》は僕の腹だった。
僕自身は物思いってヤツにしみじみ耽《ふけ》っていたわけだが、身体のほうは欲望に忠実《ちゅうじつ》だ。腹が減《へ》ればグウと鳴《な》く。
里香が振《ふ》り返《かえ》った。
「ご、ごめん」
思わず謝《あやま》ってしまった。
情《なさ》けない……。
暗いせいで里香の表情は見えなかった。もしかすると怒《おこ》っているのかもしれない。腹が鳴ったくらいで怒るなんて理不尽《りふじん》そのものだし、そもそも夕食|抜《ぬ》きになったのは里香のせいなのだが、彼女にまともな理屈《りくつ》が通じるとはかぎらないのだ。
また怒鳴《どな》られるのかと思い、僕は身を固《かた》めた。
「それ、食べていいわよ」
けれど、頭上《ずじょう》から降《ふ》ってきたのは、そんな言葉《ことば》だった。
「え?」
意外《いがい》すぎて、すぐには意味を呑《の》みこめなかった。
「食べて」
里香《りか》がドアの脇《わき》にある棚《たな》を指さす。
見れば、その棚の上にトレイが一枚|載《の》っていた。夕食だ。ゴハンもおかずもスープもしっかりそろっていた。
驚《おどろ》き、僕は尋《たず》ねた。
「どうしたんだ、これ」
「あんたの分よ、取っておいたの」
「オレのって……わざわざ持ってきてくれたのか?」
コクリと、暗闇《くらやみ》の中で首が動いた。
夕食の時間になると、それぞれの食事を配膳係《はいぜんがかり》の人が病室まで持ってきてくれることになっている。僕の夕食はもちろん、僕の病室に届《とど》けられたはずだ。ただ、その食事を食べようが食べまいが、決まった時間になると回収《かいしゅう》されてしまう。その回収時間はもうだいぶ前に過《す》ぎていた。里香はわざわざ僕の病室まで行って、片《かた》づけられないように食事を持ってきてくれていたのだった。
僕は本当に本当に驚《おどろ》いた。
このわがまま女がそんなことをしてくれるなんて、考えもしなかった。
唖然《あぜん》としたままでいると、
「食べないの?」
里香がそう尋《たず》ねてきた。
「食べないなら、捨てるけど?」
「あ、いや、食べるよ! 食べる!」
「ここ、使っていいわよ」
里香が身体《からだ》をずらし、ベッドの端《はし》を開けてくれた。
「明かりもつけていいから」
「あ、ありがと」
僕は明かりをつけると、ベッドに食事を運んだ。
椅子《いす》に腰《こし》かけるなり、すぐさま箸《はし》を取る。
ゴハンもおかずもスープもすっかり冷《さ》めていたけど、腹が減《へ》っているせいでムチャクチャおいしかった。ガツガツと胃《い》に押《お》しこんでいく。いや、もしかすると、別の理由でおいしく感じられたのかもしれないけど。
そんな僕の姿《すがた》を見て、里香《りか》がおかしそうに笑った。
「裕一《ゆういち》、犬みたい」
場合によっては悪口になる言い方だった。
でも、不思議《ふしぎ》と、そんな気はしなかった。
こっそり顔を上げたところ、里香はなんだか嬉《うれ》しそうに笑っていた。笑っているときの里香は天使のようにきれいだった。
(ずっとこんなふうに笑ってくれればいいのにな……)
ガツガツ食べながら、僕はそんなことを思った。
「どうしたの?」
視線《しせん》に気づき、里香が首を傾《かし》げた。
僕は慌《あわ》てて言った。
「すっげーうまい」
「病院のゴハンがおいしいなんて、変わってるね、裕一」
「い、いや、ほんとうまいって」
「よしよし、いっぱい食べなさい」
まるで大を撫《な》でるように、里香が僕の頭を撫でてきた。
やっぱり嫌《いや》な気持ちはしなくて、それどころか髪《かみ》をすべってゆく里香の手の感触《かんしょく》やその笑顔《えがお》がやたらと嬉しくて……僕はそんな自分の気持ちを悟《さと》られないよう丼《どんぶり》に顔を埋《う》めた。
自分の病室に戻《もど》る途中《とちゅう》で、多田《ただ》さんに会った。
「まーた、どっか行っとったのかい?」
歯のない口をぽっかりと開け、多田さんは笑った。
「コレかい?」
小指を立てる。
まあ、なんというか、多田さんは正真正銘《しょうしんしょうめい》のジジイであり、しかもエロジジイであったりもするので、こういうのはデフォルトなのだった。
僕は、ははは、と適当《てきとう》に笑った。
「友達のとこです」
女ではあるが、コレではない。
「まあ、そりゃいかんわ。おまえさんぐらいの年頃《としごろ》は一番の盛《さか》りじゃろうが。もう、どんどんアタックしんとな」
多田さんには妙《みょう》な訛《なま》りがある。
全国を放浪《ほうろう》していたので、言葉《ことば》がごっちゃになってしまったのだそうだ。
とはいえ、多田《ただ》さんの話は、かなりの部分がでたらめである。どこまで信用していいのかさっぱりわからなかった。いつだったか北海道を旅した話を聞いたときは、なぜか広島が北海道にあることになってたくらいだ。広島は中国地方です、と指摘《してき》したら、そういう時代もあったなあ、と言《い》い張《は》りやがった。まったく食えないジジイだ。
やはり僕は、ははは、と笑っておいた。
多田さんもまた、歯のない口を開け、笑った。
そして、手を差しだしてきた。
「これ、食べんさい」
多田さんが手を引っこめると、僕の手のひらに琥珀色《こはくいろ》の丸い物体が三つ現《あらわ》れた。それは古き懐《なつ》かしき飴玉《あめだま》だった。きれいに輝《かがや》く、三つの甘《あま》い琥珀。
「どうも」
僕はぺこりと頭を下げた。
病室に戻《もど》ってから、そのうちのひとつを口に入れてみた。途端《とたん》、あまりの甘さにむせ、吐《は》きだしてしまった。コロン、と情《なさ》けない音をたてて、飴玉が床《ゆか》を転《ころ》がる。
とても食えたものじゃない。
「甘すぎ、これ……」
どうしよう。
残りの飴玉を、僕は途方《とほう》に暮《く》れつつ、見つめた。
2
司《つかさ》の部屋《へや》は一階にあり、それは通りに面している。
物騒《ぶっそう》この上ない。
誰《だれ》かが石でも投げればガラスが割れるし、簡単《かんたん》に侵入《しんにゅう》できてしまう。
とはいえ、意図《いと》すべき、しかも歓迎《かんげい》されるべき訪問者《ほうもんしゃ》、すなわち僕にとって、それは実にありがたい構造《こうぞう》だった。なにしろ、窓を開けさえすれば、そのまま司の部屋に入れるのだ。夜でも家族を起こしてしまうことはない。
つまり、いつでも出入り自由というわけだ。
「よう」
無事《ぶじ》に長椅子《ながいす》鍵《かぎ》を解除《かいじょ》された僕は、すぐに司の部屋を訪《たず》ねた。
窓を開けた瞬間《しゅんかん》、二十五インチの画面に大映《おおうつ》しにされる男の顔が、いきなり目に入ってきた。そいつはちょうちん袖《そで》のブラウスを身につけ、微妙《びみょう》に女っぽい腰《こし》つきで、泡立《あわだ》て器《き》を高速《こうそく》回転させていた。
甲高《かんだか》い声がテレビのスピーカーから溢《あふ》れ出《で》る。
『ここがポイントよん!』
よん、ってなんですか、よんって。
部屋《へや》に入るなり、わざとらしくため息《いき》を吐《つ》きつつ、言ってみた。
「男が『ひろせよしかずのルンルンクッキング』の再放送を真剣《しんけん》に見てるってのは、なんか問題がないかね、我《わ》が友よ?」
「いいだろ、別に」
ムキになって、司《つかさ》は言った。
世古口《せこぐち》司は少々変わったヤツである。まず天文おたくであることを指摘《してき》しておく。ヤツのポケットには軌道《きどう》計算用の関数電卓《かんすうでんたく》が常《つね》に仕込《しこ》まれている。まあ、これはいい。よくあることだ。次に特徴《とくちょう》を挙《あ》げるならば、身長が百八十七センチで、体重は九十二キロである。まあ、これもいい。よくあることだ。ろくに鍛《きた》えていないくせに、その身体《からだ》は鋼《はがね》のような筋肉《きんにく》で覆《おお》われている。まあ、これもよくあることかもしれない。
問題なのは、趣味《しゅみ》がお菓子作《かしづく》りということである。
でっかい手でちっさい計量スプーンを持ち、よく放課後《ほうかご》の調理室《ちょうりしつ》で女子とお菓子作りなんかしてたりする。しかも、これが一番|解《げ》せないのだが、どの女子が作ったお菓子よりも、司のお菓子のほうが圧倒的《あっとうてき》にうまいのだった。
女子連中は尊敬《そんけい》をこめて『マスター世古口』とヤツを呼び、その下駄箱《げたばこ》には時々ファンレターなどが入ってたりする。
まったく理解《りかい》できない。
「しばらく来なかったけど、どうしたのさ?」
画面の中で踊《おど》り狂《くる》う――としか僕には見えないのだが、どうやら料理を作ってるらしい――ひろせよしかずを注視《ちゅうし》しつつ、司は聞いてきた。
僕は一連《いちれん》の顛末《てんまつ》を説明しようとしたが、やめた。
司が画面に釘付《くぎづ》けになっているからだ。
「まあ、いろいろあったんだ。忙《いそが》しそうだから、あとで話すよ」
この状態《じょうたい》の司になにを言っても無駄《むだ》である。
「そうか、悪いね」
お、と司が声をあげた。
「ねえ、今のホイップを見た? あれぞ神のホイップだよ」
わけがわからない。
いったい、神のホイップとはなんなのだろう。
冗談《じょうだん》で言ってるのかと思ったが、見れば司は真剣《しんけん》そのものだった。大学ノートに――司が持っていると普通《ふつう》のノートがメモ帳のように見えるのだが――なにかを必死《ひっし》になって書き取っている。
やがて、ひろせよしかずがクルンと宙《ちゅう》を一回転した。
空中でまわってる瞬間《しゅんかん》、ひろせよしかずの両手はひらひらと宙を掻《か》き、両足はなよっぽい感じで『くの字』に曲がっていた。なぜか画面には特殊効果《とくしゅこうか》で蝶《ちょう》と星が飛んで、さらにハレーションまでかかっている。
『イリュ――――ジョ――ン!』
着地するなり、ひろせよしかずが叫《さけ》ぶ。そして、画面に真っ白なケーキが大映《おおうつ》しになった。まあ、立派《りっぱ》なケーキである。うまそうでもある。だが、しょせんケーキはケーキだ。やはり、わけがわからない。いったい、なにがイリュージョンなのだろう。
確かに、ある意味、イリュージョンなのかもしれないが……。
いささか混乱《こんらん》しつつ司《つかさ》に顔を向けると、ヤツは瞳《ひとみ》に星を宿し、口を半開《はんあ》け状態で、テレビに見入っていた。
しかも、
「か、神業《かみわざ》だ……」
とか呟《つぶや》いている。
僕は心の奥底《おくそこ》で、深く、深く、ため息《いき》を吐《つ》いた。
(これさえなければいいヤツなんだけどな……)
やがて、番組は終わった。
司《つかさ》はまるで呆《ほう》けたようになって、砂嵐《すなあらし》が吹《ふ》き荒《あ》れる画面を見つめていた。なにか余韻《よいん》に浸《ひた》っているようでもある。
さすがに待ちきれなくなって、僕は声をかけた。
「おーい、司」
「あ、ああ」
慌《あわ》てて我《われ》に返る司。
どうやら本当に呆けていたらしい……。
「大丈夫《だいじょうぶ》か、おまえ」
いろんな意味をこめて聞いてやる。
それが伝《つた》わったのかどうか不明だが、司は思いっきり肯《うなず》いた。
「も、もちろんだよ。ねえ、今の見た? ひろせ先生のあの技《わざ》を」
どうやら伝わってないようだ。
「見たけど、まったくわけがわかんなかった」
「ちぇっ」
不満《ふまん》そうに舌打《したう》ちすると、司は立ちあがった。壁《かべ》にかけてあったコートを手に取って、そのまま袖《そで》を通す。
「おい、どこ行くんだよ?」
「ごめん。親戚《しんせき》が泊《と》まりにきてるんだ。うるさい人でさ、起こすとまずいから外に行こうよ」
「外って……あてはあるのか?」
もう夜の十二時だ。
なにしろ田舎町《いなかまち》なので、こんな時間に開いてる店はかなり少ない。
「あるよ。先輩《せんぱい》がカラオケ屋でバイトしてるんだ。たぶん、ただで入れるよ」
「カラオケか……」
僕は音痴《おんち》である。
自慢《じまん》ではないが、幼児向け番組の主題歌でさえ、半音はずすくらいだ。
「別に歌わなくてもいいんじゃないかな」
それを気遣《きづか》い、司が言った。
顔や身体《からだ》つきはごついものの、司は優《やさ》しいヤツだった。どちらかっていうと、料理を作ってる司のほうが、彼の中身をよく表してるところがある。
僕は半分|冗談《じょうだん》で言ってみた。
「よし、おじゃる丸のテーマだけは歌うぞ」
「う、歌うのか……」
司がかなーり嫌《いや》そうな顔をした。
こいつ、僕を気遣ったんじゃなくて、僕の歌を聴《き》きたくなかったんだな……。
司《つかさ》とは、半年くらい前まで、友達でもなんでもなかった。
ただのクラスメイトだった。
ああいうヤツであるがゆえに学校では有名人だったが、ああいうヤツであるがゆえに近寄りがたいわけで、普通《ふつう》なら友達になろうなんて思わなかっただろう。たぶん、ろくに話したことさえなかったんじゃないかな。
きっかけは、雨だった。
春の、やたらと細い、そのくせなかなかやまない雨だった。
その日、僕は塾《じゅく》の帰りだった。進路|指導《しどう》の個別《こべつ》面談《めんだん》が行われ、僕はすべての志望校でD判定《はんてい》攻撃《こうげき》を喰《く》らっていた。
塾の講師《こうし》は顔をしかめ、
「ランクを落とすしかないねえ」
と面倒臭《めんどうくさ》そうに言った。
言葉《ことば》は丁寧《ていねい》だったが、
『出直してきやがれ!』
と顔に書いてあった。
そんなわけで、僕は憂鬱《ゆううつ》だった。
この成績を見たら、母親がまたもや、
「地元の大学でいいじゃないの」
とか言いだしかねないからだ。
母親はたぶん、僕が進学しても伊勢《いせ》に残ることを望んでいる。あんたの好きにしていいけどね、なんて口では言ってるくせに、いざ志望校の話になると、母親が薦《すす》めてくるのは地元の学校ばかりなのだった。その反対を押《お》し切《き》って出ていく以上、それなりの成績を取っておく必要があった。
D判定なんて最悪だ。
「しょうがねえよなあ」
空から落ちてくる無数の雨粒《あまつぶ》を見つめながら、僕は呟《つぶや》いた。
「オヤジもバカだったもんなあ」
雨は降《ふ》りつづいていたし、とにかく嫌《いや》な気持ちだった。
なぜか火見台《ひのみだい》がある古めかしい駅舎《えきしゃ》の前を通り過ぎ、踏切《ふみきり》を渡《わた》り、家への近道である世古《せこ》へ僕は入った。世古というのは『小道』を意味する方言だ。昔からある言葉らしく、司のようにこれが名前になっている人も多い。世古さんとか世古口《せこぐち》さんとかが、地域《ちいき》によってはクラスに三人くらいいたりする。僕の初恋の女の子も――あれは小三のときのことだ――名前は世古口さんだった。
こういうのは、まあ、歴史の古い町ゆえのことだろう。
その歴史の深さは町並《まちな》みにも現《あらわ》れていて、伊勢《いせ》にはちょっと変わった造りの家が多い。家の間口《まぐち》は狭《せま》いのだが、奥《おく》のほうへやたらと長く伸《の》びているのだ。ウナギの寝床《ねどこ》ってヤツだ。妻入町屋《つまいりまちや》という、独特《どくとく》の形式らしい。
そんな町屋の前を、僕はうつむきながら歩いていた。
と――。
角を曲がったところで、いきなりでかい背中《せなか》が目に飛びこんできた。
特徴的《とくちょうてき》な顔と身体《からだ》で、それがあの世古口《せこぐち》司《つかさ》であることはすぐにわかった。しかし、こんな雨の日に道ばたにしゃがみこんでるなんてどうしたんだろう?
通り過ぎる際《さい》に覗《のぞ》きこむと、司の足元で小さな猫《ねこ》が二匹、ビャアビャア鳴《な》いていた。
捨て猫みたいだった。
その瞬間《しゅんかん》、僕は状況《じょうきょう》を把握《はあく》した。要するに、このでかい男は、世古《せこ》に捨てられていた子猫を見つけてしまったのだ。で、その子猫に傘《かさ》を差《さ》してやっているのだ。で、たぶん、途方《とほう》に暮《く》れているのだ。
子猫なんて、すぐに死んでしまう……。
捨てるほうは誰《だれ》かに拾われることを期待《きたい》してるのかもしれないが、とんでもない。捨てるってことは、つまり殺すってことなんだ。
中学のころ、校舎の裏《うら》に子猫が捨てられてたことがあった。ムチャクチャ可愛《かわい》かったから、いろんな人がエサをやったりして、子猫はわりと元気そうに暮《く》らしていた。僕も何度か、その柔《やわ》らかい背中の毛を撫《な》でたことがある。ゴロゴロと喉《のど》を鳴らして、ほんと可愛かった。日溜《ひだ》まりの中で眠《ねむ》っている姿《すがた》を見ると、ただそれだけで幸せな気持ちにさえなったもんだ。
でも、連休が明けたころ、子猫は突然《とつぜん》いなくなってしまった。
誰かに拾われたんだろうな、僕はなんとなくそう思った。子猫がいなくなってしまったのはちょっと寂《さび》しかったけど、どこかの家でうまいエサにありついてる姿を想像《そうぞう》すると、それはそれで嬉《うれ》しかった。もりもり飯を食ってでっかくなれよ、なんてふうに思ったりもした。
だけど、事実はそうじゃなかったんだ……。
少ししてから、僕は女の子たちが廊下《ろうか》で話してるのを聞いてしまったのだった。
「ねえねえ、子猫、死んじゃったんだってー」
「えー、ほんとにー」
「用務員のオジサンが連休明けに来たら、自転車置き場の隅《すみ》っこで丸くなってたって。オジサンさ、生きてると思ってエサを持っていったのに、動かないからおかしいと思って触《さわ》ったら、もう冷たくなってたんだって」
「で、どうしたの? 埋《う》めてあげたの?」
「ううん、燃えるゴミの日に捨てたって」
「うわー、最悪ー。えぐすぎー」
最悪はおまえだ、バカ!
別に彼女たちが悪いわけじゃないのに、僕は心の中で思いっきり悪態《あくたい》をついていた。そしてそのあと、落ちこんだ。なにがバカだ、そんなことを言う資格《しかく》があるのか? あんな小さな子猫《こねこ》が生き残れないことくらい気づいてただろ? 自分はなにかしたのかよ? しようとしたのかよ?
連休のあいだ、子猫はエサをまったく貰《もら》えなかった。雨だって降《ふ》った。ひどい土砂降《どしゃぶ》りだった。子猫は生き残れなかった。
あのときの子猫の姿《すがた》や、柔《やわ》らかい毛や、そこに宿っていたぬくもりを思いだし、僕はさらにブルーな気持ちになった。そしてほんの少しだけ迷《まよ》った。迷った末、足音を殺して司《つかさ》の背後《はいご》を通り過ぎた。やっぱり僕にできることなんてなにもないからだ。
それに、下手《へた》に関《かか》わって、またあんな哀《かな》しい思いをするのは嫌《いや》だった。
自転車置き場で死んでしまった子猫の柔らかさとぬくもりが、僕を自然と早足にさせていた。雨の音がどこまで歩いても聞こえていた。司の背中《せなか》が頭に浮《う》かぶたび、僕は慌《あわ》ててそれを打ち消していた。
家に帰った僕は、いつものように飯を食ったりテレビを見たりマンガを読んだりして過《す》ごした。つまんないなりに、普通《ふつう》の一日だった。
ところが、夜の十時ごろ、母親の叫《さけ》ぶ声が聞こえてきた。
「裕一《ゆういち》、お友達よお」
こんな時間に誰《だれ》だよ、そう思いつつ玄関《げんかん》に行くと、そこになんと世古口《せこぐち》司が立っていた。びしょぬれで、胸《むね》に毛布《もうふ》でくるんだ子猫を抱《かか》えていた。
「あ、あのさ。ごめん、いきなり訪《たず》ねてきて」
気弱そうな感じで、司は言った。
「き、君んち、猫|飼《か》えないかな」
僕は唖然《あぜん》とした。
司とはクラスがいっしょというだけで、親しくもなんともない。それなのに、なぜ僕を訪ねてきたんだろう。さっき通り過ぎたのを見られたのかもしれないと思い、急に不安になった。
不安を抱えたまま、僕は尋《たず》ねた。
「なんでオレのとこに――」
来たんだよ、という続きの言葉《ことば》は口の中で消えてしまった。
司の胸ポケットに一枚の紙が突《つ》っこまれているのに気づいたからだ。
服や身体《からだ》と同様に、紙は雨にぐっしょり濡《ぬ》れており、そのせいでちょっと透《す》けていた。クラス名簿《めいぼ》、という文字が見えた。要《よう》するに、司は住所がわかっている連中を片《かた》っ端《ぱし》から訪ねていたのだ。そして、猫《ねこ》を飼《か》えないか、いちいち頼《たの》んでいたのだ。
バカか、と思った。
なに考えてんだ、と。
この雨の中、びしょぬれになりながら、捨てられていた子猫の貰《もら》い手《て》を探《さが》すなんてどうかしてる。
しかも、こんな時間まで。
もう十時だぞ。
僕は呆《あき》れた。
思いっきり呆れ、なんだかよくわからないけど苛立《いらだ》ってさえいた。
だが、ふいに気づいた。司《つかさ》は子猫を一匹しか抱《だ》いていなかった。世古《せこ》で見かけたときは、確かもう一匹いたはずだ。
「お、おい、もう一匹はどうしたんだ?」
「加藤さんが貰ってくれたんだ」
同級生の名を挙《あ》げ、嬉《うれ》しそうに司は笑った。
それはまるで、少し足りないヤツが浮《う》かべるような、開けっぴろげな笑《え》みだった。よほどそのことが嬉しかったんだろう。
だが、直後、司は、
『あれ?』
という顔をした。
「戎崎《えざき》くん、どうしてもう一匹いたことを知ってるの?」
「あ……」
しまった。
あのとき、僕が通《とお》り過《す》ぎたのを、こいつは気づいてなかったんだ。
僕は言葉《ことば》に詰《つ》まった。
とても答えられなかった。
その瞬間《しゅんかん》、なにかがカチリと音をたてた。家の狭《せま》い玄関《げんかん》で、司はやたらと大きく見えた。いつもよりずっとずっと大きく見えた。それは家の玄関が狭いせいかもしれなかったし、もしかすると別のなにかのせいなのかもしれなかった。もしかすると自分がちっぽけになっただけなのかもしれなかった。僕はまた、唾《つば》を飲《の》みこんだ。ごくりという音がやたらと大きく聞こえた気がした。司の腕《うで》の中ではちびっちゃい猫が不思議《ふしぎ》そうに僕を見つめていた。その瞳《ひとみ》に僕が映《うつ》っていた。知らない振《ふ》りをした僕が、それをさらに隠《かく》そうとした僕が、子猫の澄《す》んだ瞳に映っていた。僕はバカみたいな顔をして凍《こお》りついていた。
子猫がびゃあと鳴いた。
「どうしたの?」
司《つかさ》が尋《たず》ねてきた。
「あ、いや……」
「ごめん、いきなり変なこと頼《たの》んじゃって」
「あ、うん……」
「無理《むり》、だよね?」
気弱《きよわ》そうに。
僕は肯《うなず》いた。
「母親がダメなんだよ。猫《ねこ》って」
「そう。なら、いいんだ」
司は、ごめん、と何度も何度も繰《く》り返《かえ》した。こんな時間に来ちゃってごめん。変なことを頼んじゃってごめん。こっちが情《なさ》けなるくらいに同じことを繰り返し、ぺこぺことでかい頭を下げた。そして、最後までごめんと言いつづけながら、ドアを開けて出ていった。バタン、と音をたてて、ドアが閉まった。
そして、僕はひとり、取り残された。
そう――。
取り残されたんだ。
「…………」
雨の音が響《ひび》いていた。
玄関《げんかん》の明かりは薄暗《うすぐら》かった。
奥《おく》のほうから母親が見ているテレビの音が聞こえてきた。
「…………」
司のびしょぬれの背中《せなか》が浮《う》かんだ。
子猫のびゃあという鳴《な》き声《ごえ》が浮かんだ。
こそこそと司の後ろを通《とお》り過《す》ぎた自分の姿《すがた》が浮かんだ。
「…………」
飼《か》い主《ぬし》が見つかるまで、司は歩きつづけるんだろう。
探《さが》しつづけるんだろう。
背中を濡《ぬ》らしつづけるんだろう。
「どうしたの? 友達、帰ったの?」
廊下《ろうか》に出てきた母親が、いつもの呑気《のんき》な声で、そう尋ねてきた。
僕はなにか言おうとしたが、言葉《ことば》が出てこなくて、開きかけた唇《くちびる》を閉じた。
なにかが胸《むね》の中で渦巻《うずま》いている。バカらしい、と誰《だれ》かがそれを否定《ひてい》する。けれど渦はさらに強い力で僕の心を引っかきまわしている。ダサい、最悪だ、そう思う。なのに足は動きはじめていて、ぼろぼろになったスニーカーを慌《あわ》てて履《は》こうとしていた。スニーカーはまだ乾《かわ》いていなくて、足を突《つ》っこむと濡《ぬ》れた布地《ぬのじ》が皮膚《ひふ》に張《は》りついて気持ち悪かった。
気がつくと僕は叫《さけ》んでいた。
「ちょっと出かけてくる!」
そして傘《かさ》を持ち、家を飛びだした。慌ててあたりを見まわすと、降《ふ》りつづく雨の向こうに、司《つかさ》の大きな背中《せなか》が見えた。その背中に向かって僕は走った。
どうせたいしたことはできない。
そんなことはもちろんわかってた。
なにしろ僕はかつて、なんにも考えずに子猫《こねこ》を可愛《かわい》がり、なんにも考えずに放《ほう》りだしてしまった人間なのだ。拾われてよかったなあ、なんて呑気《のんき》に思ってた無責任《むせきにん》な人間なのだ。
それでも――。
司といっしょに頭を下げることくらいならできるはずだ。
『ずががん! ずががん! ずががががあああぁ――んっ!』
確かに、ただで入れた。
しかし、その店は恐《おそ》ろしく安っぽい店で、頼《たの》んだグレープジュースは水っぽかったし、壁《かべ》はあちこち剥《は》げたり穴が開いたりしているし、テーブルは傾《かたむ》いてるし、防音《ぼうおん》に至《いた》っては最悪だった。隣《となり》の部屋《へや》の歌声が丸聞こえなのだ。
隣の部屋はどうやらノンストップアニソン状態《じょうたい》に突《つ》っこんでいるようだった。
『大地を震《ふる》わすオレの鉄拳《てっけん》――っ! ごおおおぉぉぉ――っ!』
ものすごいシャウトだった。
壁を越《こ》えたその衝撃波《しょうげきは》は僕たちの部屋に突入《とつにゅう》し、テーブルの上に載《の》っているグラスが揺《ゆ》れてカタカタと音をたてていた。
シャウトがさらに高まってゆく。
『ずががん! ずががん! ずががががあああぁ――んっ!』
カタカタカタ。
テーブルの上で、グラスが小刻《こきざ》みに揺れている。僕と司はしばらく固まったまま、そのグラスの動きをまるでなにかに魅《み》せられたように見つめていた。すげえな、アニソン、そう思った。すげえパワーだ。
カタカタカタ。
グラスはずっと揺れつづけている。
「最近、学校のほうはどうだ!?」
間奏《かんそう》に入ったところで、僕はそう叫《さけ》んだ。揺れっぱなしのグラスを手に取り、グレープジュースで喉《のど》を潤《うるお》す。やっぱり水っぽい。
「まあ、いつもどおりだよ!」
司《つかさ》も叫《さけ》んだ。
「この前、三者|面談《めんだん》があったけど!」
「ああ、オレのとこにも通知が来てた!」
「え、どうしたの!?」
「母親だけ行った!」
僕たちはほとんど怒鳴《どな》りあっていた。そうしないと、隣《となり》から漏《も》れてくる音のせいで、お互《たが》いの声がまったく聞こえないのだ。
「なんか言われた!?」
「最悪だよ!」
そう、本当に最悪だった。
なにしろ、ただでさえ僕はあまり成績がよくない。その上、今度の病気で長期の入院生活を強《し》いられている。授業には出られないし、塾《じゅく》にだって通えない。模試《もし》も受けられない。あと一年で受験なのに、最悪の状態《じょうたい》だった。いちおう勉強はしてるのだが、こんな状態では成績なんてどんどん下がるばかりだ。それどころか、出席日数の関係で、このままだと進級さえ危《あや》うい。下手《へた》すると留年《りゅうねん》だ。
――というようなことを、母親は担任《たんにん》から聞かされたらしい。
「浪人《ろうにん》するって手もあるんじゃないかな!?」
「それは嫌《いや》だ!」
絶対《ぜったい》に。
浪人すると決めてしまえば、確かに楽になる。一年|余裕《よゆう》ができるのだから当然だ。気楽にやろうと思えば、それなりにできるだろう。だが、一年のロスが生じる。僕はたった十七年しか生きていない。一年といえば、僕の全人生の五・九パーセントに当たる。永遠とまではいかないが、今の僕にとっては恐《おそ》ろしく長い時間だった。それだけの時間を無駄《むだ》にし、この町で暮《く》らしつづけねばならないのだ。
最悪だった、それは。
少しでも早く、僕はどこかへ行きたかった。
少しでも遠くの町へ行きたかった。
僕の気持ちを知っている司は、難《むずか》しそうに唸《うな》った。
「うーん」
僕も唸った。
「うーん」
隣の部屋《へや》からは、相変わらずアニソンが聞こえてくる。
『どががん! どががん! どががががあああぁ――んっ!』
さっきと少し歌詞《かし》が違《ちが》う。
どうやら二番に入ったらしい。
『時空《じくう》を震《ふる》わすオレの魂《たましい》――っ! うおおおぉぉぉ――っ!』
震わせてみたいものだ、時空。
しかし現実に震えあがっているのは、むしろ僕の魂のほうだった。将来《しょうらい》ってヤツのことを考えると、まったく憂鬱《ゆううつ》になる。
ところが、司《つかさ》に目をやったところ、ヤツはすごく深刻《しんこく》な顔をしていた。
他人である僕のことなのに、僕自身より悩《なや》んでいるように見えた。
この、やたらとでかい身体《からだ》と、やたらと変な趣味《しゅみ》を持つ友達のことが、僕は好きだった。断《ことわ》っておくが、変な意味じゃない。悲しいとき、司は悲しい顔をする。楽しいときには楽しい顔をする。寂《さび》しければ寂しそうに背中《せなか》を丸めるし、腹が空《す》けば腹をぐうぐう鳴《な》らす(これがまた、すごい音で鳴るんだ)。
司は恐《おそ》ろしく素直で単純《たんじゅん》だ。
なかなかこんなふうにはできないと思う。僕には無理《むり》だ。妙《みょう》な自意識《じいしき》の塊《かたまり》みたいなものが心のどこかにあって、悲しいときには笑ってやろうとするし、嬉《うれ》しいときだってほんとは尻尾《しっぽ》をブンブン振《ふ》る犬みたいに喜びたいのに、つまんなさそうな顔をしてしまう。まったくバカみたいだった。でも、わかっていてもどうにもできない。司のようには振《ふ》る舞《ま》えない。
あの、雨の日の司のようには――。
二匹の子猫《こねこ》たちは今や立派《りっぱ》に成長し、幸せに暮《く》らしている。二匹目は結局《けっきょく》、隣《となり》のクラスの女の子が貰《もら》ってくれた。司は時々、猫たちの様子《ようす》を見にいっているそうだ。
僕はどうにかニカッと笑ってみせた。
「まあ、なんとかするよ。いざとなったら、大学なんて底辺《ていへん》の底辺まであるわけだし」
「そうだけど……お母さん、許《ゆる》してくれる?」
「土下座《どげざ》でもするさ。それに、これでもダッシュきくほうだから、ギリギリまで頑張《がんば》る」
隣の部屋《へや》から、さらに激《はげ》しいシャウトが聞こえてきた。
『ずどががん! ずどががん! ずどがががあああぁ――んっ!』
どうやらクライマックスらしい。
部屋にいる全員がそろって歌っているのか、恐ろしいまでの声量だった。女の声も混《ま》じっている気がする。いったい何人いるんだ?
思わず、僕たちは聞《き》き惚《ほ》れてしまった。
『時代を震わすオレの叫《さけ》び――っ! りゃあぁぁぁ――っ!』
たぶん、その瞬間《しゅんかん》、ビルが震えたと思う。
いや、そんな気がしただけかもしれないが。
盛《も》りあがりに盛りあがっているらしく、
『うおーっ!』
とか、
『ひゅーっ!』
とか、
『うおっしゃあ!』
とかいう叫《さけ》びが次々聞こえてきた。ここまでやられると、呆《あき》れるのを通り越して感心してしまう。
「すごいね」
司《つかさ》は拍手《はくしゅ》した。
「すごいな」
僕も拍手をした。
「まあ、裕一《ゆういち》なら、どうにかなるよ」
拍手をしながら、司はニッコリと微笑《ほほえ》んだ。
3
その日、珍《めずら》しく里香《りか》のほうから僕の病室にやってきた。
「どうしたんだよ、里香」
慌《あわ》てて本にしおりを挟《はさ》み、そう尋《たず》ねる。
僕はちょうど本を読んでいた。里香が貸してくれた芥川《あくたがわ》龍之介《りゅうのすけ》である。別に芥川龍之介なんて読みたくもないのだが、読まないと里香が怒《いか》り狂《くる》うのでしかたなく読んでいたのだった。とはいえ、読んでみると、意外《いがい》と芥川さんはおもしろかった。なんというか、ちょっとばかり変わった人なんだと思う。
黙《だま》ったままの里香に、ふたたび尋ねた。
「なんか用でもあるのか」
だが、里香はやはり答えず、黙ったままこちらに歩いてくる。
「お、おい」
里香は僕の手から本を取りあげた。そして、パラパラとページをめくった。しおりが挟んであったので、そこが開いたままになる。
「なにするんだよ」
ああ、神様、悪い予感《よかん》がする……。
「あんた、あたしが来たから、慌ててしおりを挟んで閉じたんでしょ」
「う……」
そのとおりだった。
以前、やっぱり今みたいに本を読んでいたら、やっぱり今みたいに里香《りか》がやってきた。里香は僕から開いたままの本を取りあげると、いきなりそのページを閉じた。
そして、意地悪《いじわる》そうに笑いながら、言ったのだ。
「ほーら、これでどこまで読んだかわかんないでしょ?」
嫌《いや》がらせだ。
意地悪だ。
読めと言って貸してくれたくせに、読まないと怒《おこ》るくせに、そういうことをするのである。まったく、わけのわからない女だ。
教訓《きょうくん》を生かし、僕は今回、しおりを準備《じゅんび》していたのだった。
里香はそのしおりを本から抜《ぬ》き取《と》った。
「ふん、だから、こうしてやるのよ」
そして、本を閉じる。
僕は悲鳴《ひめい》をあげた。
「あーっ! なにするんだよ!」
「小細工《こざいく》した罰《ばつ》よ」
「罰ってなんだよ、罰って! オレは別に罪《つみ》を犯《おか》したわけじゃないだろ! どこまで読んだかわかんなくなった!」
「男のくせにうるさいわね」
可愛《かわい》い顔をしかめる。
「それより、ちょっとつきあいなさいよ」
「は、はあ?」
唐突《とうとつ》な展開《てんかい》だ。
まったくついていけない。
「ほら、早くして」
だが、里香はこっちのことなどおかまいなしという様子《ようす》で、僕に背《せ》を向《む》けると歩きだした。ドアを開け、そこで振《ふ》り返《かえ》る。
「なにしてるの、来なさいよ」
「どこ行くんだよ?」
「ついてくればわかるわよ」
里香の目が険《けわ》しくなる。
「ほら、早くして」
「わかったよ」
僕はあっさり諦《あきら》めた。
里香になにを言っても無駄《むだ》なのだ。せめて屁理屈《へりくつ》のひとつでも言ってくれれば、頑張《がんば》って舌戦《ぜっせん》を繰《く》り広《ひろ》げようかという気にもなるが、里香《りか》はいつでも問答無用《もんどうむよう》だ。となれば、放《ほう》りだすか、あるいは従《したが》うしかない。
そして、なんといってもこれが一番|不思議《ふしぎ》なのだが、なぜか僕はこの女を放《ほう》りだすことができないのだった。
もしかすると里香が美人だからかもしれない。
起きあがり、スリッパを突《つ》っかける。
「じゃあ、行くよ」
里香のあとを、まるで金魚のフンみたいに歩いていく。それにしても、どこに行くつもりなんだろう。ただ歩いているのも暇《ひま》なので、僕は彼女の後《うし》ろ姿《すがた》をしげしげ見つめてみた。今日の里香はストライプ柄《がら》のパジャマを身につけている。ちょっとばかりサイズが大きいらしくて、里香の両手は半分くらい袖《そで》に隠《かく》れてしまっていた。それにしても、小さな身体《からだ》だった。抱《だ》きしめたら、どんな感じがするんだろう。きっと腕《うで》の中にすっぽりおさまっちゃうんだろうな。
里香が右足を前に出すと、左の肩胛骨《けんこうこつ》が薄《うす》いパジャマの生地《きじ》にうっすらと浮《う》かびあがる。左足を出すと、右の肩胛骨が浮かびあがる。そして、そこからほっそりした腰《こし》へと続くラインを見ていると、胸《むね》がドキドキした。
自然と顔が火照《ほて》ってくる。
(ああ、なんて邪《よこしま》なんだろ、オレって……)
十七の男なんて、まあ、不純《ふじゅん》の塊《かたまり》みたいなもんだ。
そんな僕のよからぬ視線《しせん》を感じたのかもしれない。
急に里香が振《ふ》り返《かえ》った。
当然のことながら、ばっちり目があう。
僕は思いっきり焦《あせ》った。
「な、なんだよ」
じろじろ見ていたことを気づかれたのだろうか。だとしたら、里香は怒《いか》り狂《くる》うに違《ちが》いない。張《は》り飛《と》ばされるかもしれない。
「ど、どうしたんだよ」
里香は僕の問いに答えることなく、ふたたび前を向《む》いて歩きだした。
なにを考えてるのか、さっぱりわからなかった。
「なあ、里香」
「なによ」
「どこ行くんだよ」
「ついてくればわかるわよ」
「別に教えてくれてもいいだろ。どうせ病院の中にしか行けないんだしさ。食堂でジュースでも飲むのか?」
「男のくせにうるさいわね」
まるで蚊《か》でも追《お》い払《はら》うような口調《くちょう》だった。
「いいから、黙《だま》っててよ」
僕は深くため息《いき》を吐《つ》いた。
まったく、なんてわがまま女なんだろう。一度くらい、ガツンと言ってやったほうがいいのかもしれない。僕はまたもや暇潰《ひまつぶ》しに、里香に強く振《ふ》る舞《ま》う自分の姿《すがた》を想像《そうぞう》してみた。
そう、ガツンと言ってやるのだ。
うるせえ黙ってろ、とか叫《さけ》ぶのだ。
(ダメだ……想像できない……)
頭をぺこぺこ下げてる自分なら、いくらでも想像できるのだが。
そんなことを考えていると、里香《りか》が廊下《ろうか》の突《つ》き当《あ》たりで立ち止まった。両開きのドアがすぐ目の前にある。手術室、とドアの上に書かれていた。
まさかと思っていると、そのまさかどおり、里香は手術室に入っていった。
「お、おい、里香!」
慌《あわ》てて、里香のあとに続く。
「やばいって! 怒《おこ》られるぞ!」
「大丈夫《だいじょうぶ》。怒られたら、裕一《ゆういち》にむりやりつれこまれたって言うから。あたし、泣《な》き真似《まね》するのうまいんだよ」
里香は笑っているものの、なんだか冗談《じょうだん》とは思えない……。
「裕一は手術室に入ったことある?」
「ないよ」
「あたしも。こんなふうになってるんだね」
僕と里香は並《なら》んで立ったまま、室内をぐるりと見まわした。
思っていたよりもずっと広い。六人|部屋《べや》をふたつ合わせたくらいの空間だった。なにかを収容《しゅうよう》するための大きな棚《たな》が壁一面《かべいちめん》にあり、部屋《へや》の隅《すみ》にボンベのようなものが三本|並《なら》んでいた。その他にも、いろんな機械があちこちに置かれている。僕にわかるのは心電図《しんでんず》のモニターと点滴台《てんてきだい》くらいだ。
そして、部屋の中心には手術台――。
手術台は黒のビニール張《ば》りで、今は緑色の布がかけられている。その上には大きなお椀《わん》を逆《さか》さにしたような照明装置《しょうめいそうち》があった。お椀の中に、丸いライトが十個、等間隔《とうかんかく》で並んでいる。
「裕一、寝《ね》てみてよ」
里香がそう言って、手術台をぽんぽんと叩《たた》いた。
「オ、オレが?」
「他に誰《だれ》がいるのよ」
里香《りか》は妙《みょう》に上機嫌《じょうきげん》だった。
ニコニコ笑ってやがる。
それにしても、こんなに上機嫌な里香を見たのは、もしかしたら初めてかもしれない。そしてこれは新発見だったのだが、上機嫌の里香は不機嫌な里香よりもずっとずっと可愛《かわい》かった。こんなに可愛いんだったら、いつも笑ってればいいのに。
僕は彼女の笑顔《えがお》に見とれ、ぼおーっとしながら手術台に登っていた。
「ごほん」
わざとらしく、里香が咳払《せきばら》いをした。
「では、手術を始めます」
「は?」
「まず胸《むね》の真ん中を喉仏《のどぼとけ》の下から鳩尾《みぞおち》まで切開《せっかい》し、胸骨《きょうこつ》も切開します。心臓が見えるようになったら、人工|心肺装置《しんぱいそうち》で血液の流れを確保しつつ――」
僕は慌《あわ》てた。
「ちょ、ちょっと待て! おまえ、なに持ってんだよ!?」
「メスよ」
「メ、メス!?」
里香の手で、細長い銀の刃がキラリと輝《かがや》いた。ふふっ、と笑いながら、里香がそのメスを僕のほうに近づけてくる。
「やめろ! おい、こら、なんでそんなものがあるんだよ!」
「そこにあったのよ」
里香が指さしたのは、手術台のすぐ脇《わき》にあるカートだった。見れば、確かにメスやら注射器《ちゅうしゃき》やらハサミやらが並《なら》んでいる。
「信頼《しんらい》して。大丈夫《だいじょうぶ》だから」
「なにを信頼するんだ! なにを!」
「じゃあ、始めます」
芝居《しばい》がかった口調《くちょう》で言いつつ、里香がさらにメスを近づけてくる。ぎらり、とメスが輝き、その光が網膜《もうまく》に届《とど》いた瞬間《しゅんかん》、僕は思わず悲鳴《ひめい》をあげそうになった。
それと同時だった。
「誰かいるの!?」
手術室の扉《とびら》が開き、いきなり声が響《ひび》いた。
亜希子《あきこ》さんだ!
里香は慌《あわ》ててしゃがみこみ、僕は手術台からそのまま横向きに転《ころ》げ落《お》ちた。床《ゆか》に腰《こし》と背中《せなか》をもろにぶつけたが、その痛《いた》みをぐっと堪《こら》えて手術台の下に潜《もぐ》りこむ。と、そこにはすでに里香《りか》がいた。
とんでもなく狭《せま》い空間で、里香と膝《ひざ》をくっつけるようにして向かいあう。
(ちょっと! 近づかないでよ!)
(だってしょうがないだろ!)
(あっ、触《さわ》った! もう! バカ! エッチ!)
(だ、叩《たた》くな! ばれるだろ! おいっ!)
僕たちは口だけを動かして怒鳴《どな》りあった。
ペタペタと足音をさせながら、亜希子《あきこ》さんが手術室の中を歩きまわっている。誰《だれ》かいないか確認《かくにん》しているのだろう。その足音が手術台に、すなわち僕たちのほうに近づいてきた。見つかったら、きっと亜希子さんに殺される!
僕と里香はさすがに怒鳴りあうのをやめ、息《いき》を殺した。
すぐ目の前に、亜希子さんの足が見えている。
その足の動きがとまった。
(ま、まずい……)
だが、もっとまずいことが起きていることに、僕は気づいた。
里香がその頬《ほお》をヒクヒクさせていたのだ。
人間というのはおかしなもので、笑っちゃいけないときにかぎって、意味もなく笑いがこみあげてきたりする。どうやら、里香《りか》はその状態《じょうたい》に陥《おちい》っているようだった、ここで笑いだしたら、間違《まちが》いなく見つかる、きっとムチャクチャ怒《おこ》られるだろう。長椅子《ながいす》鍵《かぎ》だって復活《ふっかつ》するかもしれない。
こうなったら、しかたない!
僕は里香の口を押《お》さえた。里香がその手をばたばた動かす。力一杯《ちからいっぱい》押さえていたのだが、それでも指のあいだから微《かす》かに声が漏《も》れてしまい、僕は背筋《せすじ》がひやりとするのを感じた。
聞こえただろうか?
だが、幸《さいわ》いにも、その声は亜希子《あきこ》さんの耳にまでは届《とど》かなかったようだった。ふたたびペタペタと足音をさせながら、亜希子さんの足が動きはじめた。その足音は遠ざかってゆき、やがて扉《とびら》が開く音がし、続いて閉まる音が聞こえた。
「た、助かった……」
亜希子さんが行ってしまったことを確認すると、僕はためていた息を吐《は》き、里香の口から手を離《はな》した。
その途端《とたん》、里香の笑い声が手術室に響《ひび》きわたった。
「裕一《ゆういち》、おかしー! 顔が引きつってたよ! あはは、おかしー!」
「そんなことで笑ってたのかよ!」
「だって、ほんと引きつってたんだもん!」
「誰《だれ》のせいだよ!」
僕はけっこう本気で怒鳴《どな》った。けれど、目の前で弾《はじ》ける里香の笑顔《えがお》を見ていたら、怒《いか》りなんてどこかへ行ってしまった。里香もこんなふうにゲラゲラ笑えるんだ……怒ってるときより、やっぱりずっとずっと可愛《かわい》いぞ……。
なんだか妙《みょう》にまぶしいような気持ちになって、気がつくと僕はその目を細めていた。
「あはは、おもしろかったね」
里香は相変わらず上機嫌《じょうきげん》だった。
僕はブチブチと言った。
「ぜんっぜんっおもしろくねえよ」
とはいえ、それは言葉《ことば》だけで、実はけっこうおもしろかった。
里香のあんな笑顔が見られたのだ。
それだけで、今日は最高の一日だった。
「でも、見つからなくてよかったね」
「そうだな」
僕は肯《うなず》いた。
「見つかったら、絶対《ぜったい》殺されてたよ」
僕たちは今、屋上《おくじょう》へと続く階段を上っていた。なんだかわからないけど、里香《りか》が行きたいと言ったのだ。
屋上に通じる鉄製の扉《とびら》は重い上に錆《さ》びついていて、小柄《こがら》で力の弱い里香は開けるのが大変《たいへん》そうだった。それで僕は後ろから手を伸《の》ばし、扉を開けるのを手伝ってやった。里香は僕の腕越《うでご》しに、少し恥《は》ずかしそうな感じで微笑んだ。
(やっぱり笑ってるほうが全然いいよな……)
外に出ると、冷たい風が僕と里香を包《つつ》んだ。屋上には洗濯《せんたく》されたばかりのタオルやシーツが干《ほ》されていて、風を孕《はら》んではたはたと揺《ゆ》れていた。それはまるで、病院で死んでいった人々の魂《たましい》が幽霊《ゆうれい》となって現《あらわ》れたかのような光景《こうけい》だった。
いくつもいくつも、この病院で命が消えていったのだ。
布の数よりもずっと多くの命が。
そしてこれからも限《かぎ》りなく消えていくのだろう、病院とはそういう場所だ。僕たちは今、そこで暮《く》らしているのだ。
あまりに当たり前すぎて、そんなことを意識《いしき》したことなんてほとんどなかった。しょせん、僕の病気は命に関《かか》わるものじゃない。でも今は違《ちが》った。僕と里香はなにかから逃《に》げるような感じで真っ白なタオルやシーツを避《さ》け、手すりのところまで行った。
町が眼前《がんぜん》に広がった。
病室で見るより、なぜかくっきりしてるように感じられる。
灰色《はいいろ》の町に、砲台山《ほうだいやま》の緑と神宮《じんぐう》の緑が、こんもりと島みたいに浮《う》かんでいた。冬の空は晴《は》れているくせにかすれたように白く、降《ふ》り注《そそ》ぐ日射《ひざ》しは弱々しかった。そのせいか、町に人気《ひとけ》が感じられない。すべての住民が町を見捨ててどこかに行ってしまったみたいだ。僕と里香は置《お》き去《ざ》りにされてしまったのかもしれない――。そんな下らない妄想《もうそう》が頭をゆっくりとよぎっていった。
「ねえ、どうして聞かないの?」
立ち止まるなり、里香がそう言った。
意味がわからず、僕は尋《たず》ね返《かえ》した。
「聞くって、なにをだよ?」
冬の冷たい風が強く吹いた。里香の細くて長い髪《かみ》がさらさらと揺《ゆ》れる。その踊《おど》る毛先を、僕はぼんやりと見つめた。
「あたしのことよ」
「おまえの?」
「あたしの身体《からだ》のことよ」
心臓が突然《とつぜん》、跳《は》ねた。
確かに、ドクンと。
「知ってるんでしょ、よくないってことぐらい」
「う、うん……」
「わかるのよ、あんたが気にしてるの。態度《たいど》でバレバレだから。でも、なんにも聞いてこないでしょう? そういう中途半端《ちゅうとはんぱ》っていうか、バランス悪い感じって、あたし大嫌《だいきら》いなの」
少し間《ま》があった。
里香《りか》はきっと待っている。
僕の言葉《ことば》を待っている。
それがわかったから、尋ねた。
「やっぱ悪いのか?」
ふいに足元が揺《ゆ》らめいた。どこかから落ちる夢を見て、夜中に慌《あわ》てて目覚《めざ》めることがあるけれど、あんな感じだった。
「あたし、たぶん死ぬの」
なぜか笑いながら、里香は言った。
「もう、ほとんど決まってるの」
その瞬間《しゅんかん》、僕の視界《しかい》は急速《きゅうそく》に歪《ゆが》んでいった。まるで水晶体《すいしょうたい》がムチャクチャ性能のいい魚眼《ぎょがん》レンズになってしまったかのようだった。なにもかもがやたらとくっきり見えた。細かいところまで目の奥底《おくそこ》に飛びこんできた。手すりはすっかり錆《さ》びついており、剥《は》げかかった白いペンキが指先のささくれのようになっている。そこに置かれた里香の手はあまりにも小さかった。運命や幸運を掴《つか》み取《と》る能力に欠けているかのように小さかった。爪《つめ》は短く切られている。彼女くらいの年頃《としごろ》の女の子なら、爪を伸《の》ばしたいだろう。マニキュアだって塗《ぬ》ってみたいだろう。けれど病人にそれは許《ゆる》されない。なにかあったとき、たとえば苦しくなって暴《あば》れたりしたとき、医者や看護婦《かんごふ》を傷《きず》つける恐《おそ》れがあるからだ。
同様の無惨《むざん》さは、彼女の全身に偏在《へんざい》していた。
髪《かみ》が長いのも、染《そ》めていないのも、ずっと入院してるせいで美容院になんて行けないからだ。彼女の髪の長さは、その入院生活の長さを物語っているのだった。彼女の入院生活が長いことなんて、だから最初に会ったときに気づいていた。
たぶん、ここ何年も、彼女は服を買ったことなんてないはずだ。朝から晩まで、毎日毎日、ずっとパジャマのまま。パジャマ以外の服は許されない。せいぜい柄《がら》に凝《こ》るくらいのものだ。もちろん化粧《けしょう》だって許されない。マスカラ、アイシャドー、チーク、口紅《くちべに》……もしかすると、里香はそういった同年代の女の子なら持っているはずのものをひとつも持っていないのかもしれなかった。
彼女はいろんなものを奪《うば》われていた。
そして今も奪《うば》われつづけている。
「ど、どこが悪いんだ?」
自分の声なのに、ひどく遠く聞こえる。
頭がクラクラした。
血が足りなくて、頭まで血が行ってないような感じだった。
「心臓よ。弁膜《べんまく》ってわかる? 心臓がポンプみたいに血を送りだすとき、その逆流《ぎゃくりゅう》を防《ふせ》ぐためのものなの。それがちゃんと動かないのよ。移植《いしょく》するしかないんだけど、あたしは組織が脆《もろ》くてうまくいかない可能性が高いんだって」
里香《りか》の声には抑揚《よくよう》というものがまったくなかった。
まるで一昨日の夕食のことでも話してるような口調《くちょう》だ。けっこうおいしかったけど、少し辛《から》かったかな、香草《こうそう》を使えばよかったのに――。
同じ調子《ちょうし》で、里香は続ける。
「遺伝《いでん》なの。パパも同じ病気で、ずっと入院してた。パパね、あたしが八歳のときに思い切って手術したの。一回目は失敗して、それをどうにかしようとして二回目の手術をしたんだけど、やっぱりダメだった。手術の途中《とちゅう》で心臓がとまっちゃったの。そんなことがあったから、あたしの手術を医者が怖《こわ》がっちゃうのよ」
「け、けどさ、お父さんの手術って、十年くらい前だろ? だったら、そのころよりは手術の技術もよくなってるんじゃないのか?」
「確かに成功する確率《かくりつ》はパパのころよりずっといいらしいわ」
里香が少し首を動かした。
縦《たて》に振《ふ》っているようにも、横に振っているようにも見える。
「でも、やっぱり分《ぶ》の悪い賭《か》けみたい」
賭けと聞いて、馬券《ばけん》を破る父親の背中《せなか》が浮《う》かんだ。
馬券を破るのはそれがはずれたからだ。
思えば、いつもいつも父親ははずれていた。それが賭けというものだった。勝つことは滅多《めった》にない。とはいえ競馬《けいば》で負けても少し金を失うだけだ。はずれ馬券を破って捨てて、次の勝負のことを考えればいい。けれど里香が分の悪い賭けに負けたとき、取りあげられるのは彼女自身の命だった。
次などないのだ。
決して。
「もし手術するんなら、覚悟《かくご》しなきゃダメなの。パパみたいに」
「お父さんみたいに……って……?」
「パパがね、手術する前、山につれていってくれたの。パパがまだ小さくて元気だったころ、よく遊びにいってた場所なんだって。ほんとはダメなのよ、山に登るなんて。でも、無理《むり》してつれてってくれたの。パパ、きっと覚悟《かくご》してたんだと思う。その山がどこだったのか、あたし忘《わす》れちゃってた。小さいころだったし、山のちゃんとした名前をパパは言わなかったから。パパはね、その山のこと、砲台山《ほうだいやま》って呼《よ》んでた」
「え、じゃあ――」
コクリと、里香《りか》の首が縦《たて》に動く。
「裕一《ゆういち》が教えてくれたよね。あの山が砲台山だって」
僕は里香の視線《しせん》を追《お》った。
砲台山がそこにあった。
里香と父親の、最後の思い出。すべてを覚悟して出かけた場所。僕は病室での里香の姿《すがた》を思いだした。時々、里香は黙《だま》りこみ、ずっと窓の外を見つめていた。
(そうか……)
里香は龍頭山《りゅうとうざん》を見つめていたんだ。そこに宿る思い出を見つめていたんだ。自分と同じ病気で死んでしまった父親のことを考えていたんだ。
そしてたぶん、自分自身の短い命を。
「もう一度、あそこに行ってみたいな」
ずいぶん時間がたってから、里香はポツリと呟《つぶや》いた。
「そうしたら、あたしも覚悟ができるのかな」
4
消灯《しょうとう》時間になった途端《とたん》、病院を抜《ぬ》けだした。
身体《からだ》がやけにだるかった。
本当は眠《ねむ》らなければいけない。身体を休めなければ検査《けんさ》の数字が悪くなる。検査の数字が悪くなるということは、つまり状態《じょうたい》が悪化《あっか》しているということで、それは非常《ひじょう》にまずい。下手《へた》をすると退院の予定が立たなくなる。まいったな、僕はそう思った。なんでこんなに悪くなっちゃったんだろ。毎日のように出歩いているから? それとも……なにかが心に引っかかっているから?
身体がだるいのは、明らかに悪い兆候《ちょうこう》だった。
だが、僕は抜けだした。
てくてくと冬の夜道を歩いた。
町は静まり返り、人の気配《けはい》はまったくなかった。商店街はことごとくシャッターを下ろし、そのアーケードの下を薄《うす》ら寒《さむ》い風が吹き抜け、信号の赤が点滅《てんめつ》してアスファルトを闇《やみ》と赤の順番に染《そ》めている。
見上げると、そこには半分の月があった。
周《まわ》りに冬の一等星をいくつも従《したが》えている。
さすがのシリウスも、月の光のせいで、いつもより輝《かがや》きが淡《あわ》い。
「あれ、どうしたの?」
窓をコツコツ叩《たた》くと、司《つかさ》がすぐに開けてくれた。
「昨日も来たけど、そんな連続で抜けだしていいの? 怒《おこ》られない?」
僕はニカッと笑った。
「よくない。怒られる」
「身体《からだ》のほうは?」
「それもよくない」
ニカッと笑いつつ、窓を乗り越える。
「いや、まいったよ」
「え、なにが?」
「ほら、この前、話しただろ? ムチャクチャな女の子の面倒《めんどう》を見させられてるって」
カラオケ屋に行った日、僕は里香のことについていろいろ愚痴《ぐち》をこぼしたのだった。やってらんないとか、あんなわがままな女は知らないとか司に言って、憂《う》さを晴《は》らしたのだ。司は大いに同情してくれた。
「あの子のことなんだけどさ」
僕はひたすら気楽な感じで喋《しゃべ》りつづけた。
床《ゆか》に座《すわ》るなり、ゲーム機の電源を入れ、起動《きどう》したシューティングゲームに取りかかる。ビュウワンと効果音《こうかおん》が派手《はで》に鳴《な》り響《ひび》いた。戦闘機《せんとうき》が高速《こうそく》回転を繰《く》り返《かえ》し、目の前に現《あらわ》れる敵機《てっき》を次々|撃破《げきは》してゆく。|グッジョブ《いい仕事だ》! |レッツゴオ《どんどんいこうぜ》! |ユアベスト《あんたは最高だ》! 敵機が炎《ほのお》を噴《ふ》きあげるたびに副操縦士《ふくそうじゅうし》がそんな叫《さけ》び声《ごえ》をあげる。僕は現《あらわ》れる敵《てき》をひたすら攻撃《こうげき》しつづけた。
ドガアァァン!
派手な効果音。
グッジョブ!
小うるさい副操縦士の叫び。
「里香《りか》ちゃんだっけ?」
「そうそう。あいつ、死ぬんだってさ」
「え……」
「心臓の膜《まく》がいかれてる上に、組織《そしき》がスポンジみたいに脆《もろ》いらしいんだ。手術しても治《なお》るかどうかわかんないって。オヤジさんも同じ病気で死んでるらしい」
背後《はいご》に敵機が現れた。
僕は振《ふ》り切《き》ろうと高速回転を繰《く》り返《かえ》したが、どうしても振り切ることができなかった。敵の銃撃《じゅうげき》が飛んできて、ビシビシと被弾音《ひだんおん》がする。画面右下にある機体図がだんだん赤くなっていった。右翼《うよく》被弾、左翼被弾、エンジン出力|低下《ていか》――。
|ガッデム《ちくしょう》!
副操縦士《ふくそうじゅうし》が悲鳴《ひめい》をあげる。
「まいるよな、ほんと」
「それ、彼女から聞いたの?」
「向こうから教えてくれた。なんか曖昧《あいまい》にしとくのが嫌《いや》なんだって。そういう子なんだよ。はっきりしてるっていうかさ。だから、あんな過激《かげき》なんだろーな」
機体《きたい》のコントロールが難《むずか》しくなってきた。
そのせいで、敵《てき》の攻撃《こうげき》をもろに受けてしまう。
画面右下の機体図はやがて真っ赤に染《そ》まった。もう副操縦士の悲鳴《ひめい》も聞こえない。跳弾《ちょうだん》にでも当たって死んでしまったんだろう。悪いな、相棒《あいぼう》。
直後、画面がブラックアウト――。
その黒を背景《はいけい》に白い文字が浮《う》かびあがってきた。あなたは撃墜《げきつい》されました。もう一度ミッションに挑戦《ちょうせん》しますか? 僕はイエスを連打《れんだ》した。
「まあ、ちょっとはわかるんだけどさ、そういうのって。ずっと病院に入ってると、イライラしてくるんだ。オレ、最初の一カ月とか面会謝絶《めんかいしゃぜつ》だっただろ? その程度《ていど》でもけっこうキテたもん。里香《りか》はもう何年も病院にいるしさ」
里香のわがままは、必然《ひつぜん》だった。
人間なんて、そんなものだ。辛《つら》い状況《じょうきょう》に置かれればイライラしてくるし、笑ってばかりはいられない。
どうしようもない。
それに、僕も里香も十七歳で。
ただの子供で。
感情をコントロールできるわけがないのだ。
里香の声が、頭に浮《う》かぶ。
『うるさいわね! 出てってよ!』
少し機嫌《きげん》を損《そこ》ねると、彼女はすぐにそう叫《さけ》ぶ。
そのくせ、こちらが本当に出ていこうとすると、
『なによ、謝りもしないの!?』
なんて怒《おこ》ったりする。
僕はそのたびにうろたえ、おろおろし、バカみたいに何度も何度も謝り、彼女の機嫌を取ろうとしてきた。
すべてを知ってしまった今、里香のそんな苛立《いらだ》ちまじりの声はあまりにも哀《かな》しかった。
『このバカ! もう来ないで!』
いつか、そんな罵倒《ばとう》さえも聞けなくなる。
今でも遠い彼女が、本当に遠いところに行ってしまう。
そんなことを考えながら、僕はムチャクチャ機体《きたい》を操《あやつ》り、戦いつづけた。そのせいでなかなかミッションをクリアできず、ようやくステージ3に達したころには、夜が白々と明けはじめていた。
司《つかさ》はずっとつきあってくれた。
今日、司は学校なのだが。
「帰るよ」
身勝手《みがって》に宣言《せんげん》し、僕はいきなり立ちあがった。
「あ、あのさ――」
司がそう言ったのは、僕が窓枠《まどわく》を乗り越えているときだった。
「なんだ?」
「僕、不思議《ふしぎ》に思ってたんだ。どうして裕一《ゆういち》がその里香《りか》って女の子のわがままにつきあってるのか」
「…………」
「それってさ――」
「あー、もう明るいなー」
僕は司の言葉《ことば》を遮《さえぎ》った。
そして、窓の下に脱《ぬ》ぎっぱなしになっていた靴《くつ》を履《は》いて歩きだした。
「司、悪かったな」
「う、うん」
「さんきゅ」
半分の月はもうなかった。
シリウスもなかった。
明けかかった空は銀色に染《そ》まっていて、そのせいかやたらと高く感じられた。背伸《せの》びをし、両手をいっぱいに伸《の》ばしても、決してあの空には触《ふ》れられないのだろう。僕の指先は虚空《こくう》をさまよいつづけるに違《ちが》いない。東の空だけが、地平線のすぐ向こうまで来ている太陽のせいで、眩《まばゆ》い金色に光《ひか》り輝《かがや》いていた。
一日が始まる。
あるいは、終わる。
残り少ない命の日々が削《けず》られようと、そのことで誰《だれ》かが傷《きず》つこうと、誰かが傷ついたことで他の誰かが同じように傷つこうと、ひとりのガキが友人に迷惑《めいわく》をかけようと、日常《にちじょう》はいつもと同じように始まり終わり、それをどこまでもいつまでも繰《く》り返《かえ》す。だからこそ、日常《にちじょう》は日常なのである。路上《ろじょう》にとめられた車にも、道路のアスファルトにも、僕の吐《は》く白い息《いき》にも、日常は等《ひと》しく宿っていた。
そして死もまた、そういった日常の一部にすぎない。
逃《のが》れられない。
僕はよたよたと歩きつづけた。
病院を抜《ぬ》けだしたときより、ずっと身体《からだ》がだるい。徹夜《てつや》のせいだけじゃないのは明らかだった。身体の芯《しん》が腐《くさ》ってしまったようなだるさは、肝臓《かんぞう》がよくないときに特有の症状《しょうじょう》だ。
今度の検査《けんさ》の結果は、きっと最悪に違《ちが》いない。
病院の朝は早く、すでにざわついていた。
これはこれで、かえってありがたい。ざわつきの中ならば、朝帰りも目立たないからだ。僕は堂々《どうどう》と玄関《げんかん》から入り、ちょっとジュースを買いに行ってただけですよー、すぐ帰ってきましたよー、という顔をしつつ病室に向かった。
あっさりと、誰《だれ》にも見つかることなく、病室にたどりつく。
けれど、僕は立ち止まった。
隣《となり》の、多田《ただ》さんの病室のドアが開きっぱなしになっていたからだ。開いたドアが閉じないように、ストッパーがドアの下に挟《はさ》んであった。ベッドは空《から》っぽだ。誰も寝《ね》てないという意味ではない。マットレスがあげられているのだ。剥《む》きだしになったベッドの白いフレームは、まるで巨大《きょだい》な動物の骨格標本《こっかくひょうほん》みたいだった。
空《から》っぽのベッドの意味はふたつしかありえなかった。
退院か、あるいは――。
背後《はいご》から、声がした。
「よう、不良少年」
亜希子《あきこ》さんだった。
「あんた、昨日も抜《ぬ》けだしてただろ」
亜希子さんはひどく眠《ねむ》そうだった。そのせいか、あるいは別のなにかのせいなのか、恐《おそ》ろしく不機嫌《ふきげん》そうな顔になっている。
僕は慌《あわ》てて尋《たず》ねた。
「多田さん、どうしたんですか?」
「急変したんだ、昨日の夜」
亜希子さんは欠伸《あくび》をしながら言った。
「午前三時に亡《な》くなったよ」
死んだ。
あのエロジジイが。
「午前三時……」
「ああ、だからあんたが抜《ぬ》けだしてるのに気づいたってわけ。ほどほどにしときなよ、あたしだってごまかすの大変《たいへん》なんだからさ。もう少しで婦長に見つかるとこだったし。わかった、不良少年?」
「はい……」
肯《うなず》くと、僕は自分の病室に入った。頭の芯《しん》のほうが麻痺《まひ》したような感じになっていて、目に入ってくるものをうまく捉《とら》えることができなかった。
ぼんやりと、ベッドの前で立ちつくす――。
やがて、ふいに思いだした。多田《ただ》さんから貰《もら》った琥珀色《こはくいろ》の飴《あめ》のことを。あの飴は捨てた。とても食えたものじゃなかったからだ。ゴミ箱に放《ほう》りこんだら、カランカランと音をたてたっけ。僕はゴミ箱に走りより、中を探《さが》してみた。読み終わった雑誌《ざっし》、ミカンの皮、クシャクシャに丸められたティッシュ、缶コーヒー、パンの切《き》れ端《はし》、チョコレートの空き箱……。それらをかき分け、ゴミ箱の底《そこ》を指で探《さぐ》る。なかった。指は薄汚《うすぎたな》い底を撫《な》でるばかりで、あの琥珀の輝《かがや》きには決して触《ふ》れなかった。
当たり前だ、飴を捨てたのはもう何日も前だ。
あのときのゴミは回収《かいしゅう》されてしまっている。
トントン――
ノックの音。
「ちょっといいかい?」
亜希子《あきこ》さんがドアを開けて入ってきた。
大きな段ボール箱を重そうに持っている。
「どうしたんですか、亜希子さん……」
「多田さんからの預《あず》かりもんでさ。まったく、あのエロジジイ、最後まで面倒《めんどう》かけるんだよ。困《こま》ったもんだよね」
とか言いつつ、亜希子さんは段ボール箱を床《ゆか》にドンと置いた。そして、その中身をぶちまけた。バサバサバサと音をたてて、雑誌が堆《うずたか》く積みあがる。裸《はだか》裸裸、のオンパレードだった。もちろん、すべて女である。
『女子大生 教室の誘惑《ゆうわく》』
『情事に燃える夜』
『禁断《きんだん》の夏 十六歳』
『メガネっ子ふぃーばー』
『スリーレイディズ&ビッグベイビーズ』
『女体温泉 あたしゆだってます』
『ああ、まぶたの乳《ちち》よ』
『萌《もえ》ブルマ』
実に多様性《たようせい》に富《と》んだタイトルだった。頓知《とんち》のきいているものもあれば、ダサいものもある。ダサいがゆえに、独特の味を醸《かも》しだしているものもある。内容のほうも同様なのであろう。人という生き物の存在性《そんざいせい》には、なるほどさまざまなカタチがあるものだ。神は細部《さいぶ》に宿るというのはこういうことだろうか、いや違《ちが》うか。徹夜明《てつやあ》けのぼんやりした頭で、僕はそんなことを思った。
それは多田《ただ》コレクションだった。
亜希子《あきこ》さんは多田さんと僕の病室を何度も何度も往復《おうふく》してエロ本を運んだ。まったく、とんでもない量だった。百冊どころではない。その十数倍は軽くあるだろう。三十分後、僕の病室にはエロ本の山が――まさしく山そのものだ――できあがっていた。
壮観《そうかん》だった。
実に見事《みごと》だった。
「多田さんから頼《たの》まれたんだ」
息《いき》を切らしながら、亜希子さんは言った。
「このエロ本、あんたにあげてくれって」
「オレに……?」
「そう、遺言《ゆいごん》ってわけ。信じられる? あのジジイ、死ぬ直前に意識《いしき》を取《と》り戻《もど》したんだけどさ、なにか言いたいことあるかって聞いたら、このエロ本をあんたにあげてくれ、だって。もう死ぬって自分でもわかってたはずだよ。それなのに、他のことにはいっさい触《ふ》れないで、そんなことを言いやがったんだ。バカだよ、男って。ほんとバカだよ、底抜《そこぬ》けのバカ。というわけだから、ありがたく貰《もら》っておきな」
病室を出ていくとき、亜希子さんはエロ本の山に見事なヤンキーキックを喰《く》らわしていった。
翌日、検査《けんさ》が行われた。
結果《けっか》は最悪だった。
すべての数値が跳《は》ねあがり、レッドゾーンに突入《とつにゅう》していた。担当医は呆《あき》れ、亜希子さんは怒《いか》り狂《くる》った。
長椅子《ながいす》鍵《かぎ》が復活《ふっかつ》した。
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1
夜――。
消灯《しょうとう》時間を過《す》ぎた病室内は真っ暗だった。カーテンを閉めていない窓から、外灯《がいとう》の光が入ってきてるだけだ。白く淡《あわ》い光に照《て》らされ、なにもかもがぬるりと濡《ぬ》れたように輝《かがや》いていた。天井《てんじょう》のオバケみたいな模様《もよう》、サイドテーブルに置かれたポットやカップ、OXYGEN(酸素)と大きく書かれた供給《きょうきゅう》バルブ、点滴台《てんてきだい》、ペンキが剥《は》げかかったベッドの縁《ふち》――。すべてに現実感がなく、まるで異世界《いせかい》に取りこまれてしまったようだった。
まったく眠《ねむ》くならない。
当たり前だ、このところすっかり夜型生活になっていたのだ。こんな時間に眠れるわけがない。
僕は起きあがると、ベッド脇《わき》に積まれているエロ本の山を見つめた。多田《ただ》さんの遺産《いさん》だ。虎《とら》は死して皮を残すという。あのエロジジイは死してこれを残していった。しかも、僕に。なぜ僕なんだろうと考えたが、はっきりした理由《りゆう》は思いつかなかった。病室が隣《となり》だったせいかもしれないし、僕が十七歳だからかもしれない。
僕はそのうちの一冊を手に取ってみた。
当たり前だが、まあ、女の子の裸《はだか》が載《の》っていた。それもいっぱい載っていた。最初の一ページから最後の一ページまで、ずっとだった。多田《ただ》さんは今年で八十歳になるはずだ。それなのに、こんなものを、こんなにたくさん、集めていたのだ。僕は笑ってしまった。あまりにも哀《かな》しくて笑ってしまった。バカだよ、多田さん。ゲラゲラ笑いながら、そう思う。あんたはほんと底抜《そこぬ》けのバカだよ。
そのときだった、どこからか不思議《ふしぎ》な力が降《ふ》ってきたのは。
不思議な力は僕の心の奥底《おくそこ》、いや僕という人間の奥底を刺激《しげき》し、そこからさらに大きな力を引きだした。それは奔流《ほんりゅう》であり濁流《だくりゅう》であり激流《げきりゅう》であった。なにもかもを押《お》し流《なが》すほどの強さだった。僕は最初は戸惑《とまど》い、そして次に呑《の》まれた。その力は多田さんが送りこんできたのかもしれないし、あるいは僕のどこかに眠《ねむ》っていたものを多田さんがむりやり呼《よ》び起《お》こしたのかもしれなかった。
僕はずっと、そういう力とその作用《さよう》から逃《に》げてきた。
目を逸《そ》らす、という表現が近いかもしれない。
しかし今、それは僕の中でむっくりと起きあがり、叫《さけ》びつづけていた。起きろ、起きろよ! 人なんていつ死ぬかわかんねえんだぞ! 待ってるうちになにもかもなくすかもしれねえんだぞ! 起きろよ、バカ、起きろって! どこまでも逃げられると思うなよ!
僕は右手で拳《こぶし》を作ってみた。不思議なことに、身体中《からだじゅう》に力が満《み》ちていた。全然だるくはなかった。
「よし……」
呟《つぶや》くと、携帯《けいたい》を持ってベランダに出た。
病院で携帯電話は御法度《ごはっと》だが、ベランダならいちおう許《ゆる》されている。
里香《りか》は起きていた。
「なによ……」
僕の顔を見るなり、びっくりした顔でそう言った。
女の子の病室に忍《しの》びこむのはさすがに気が引けたが、今の僕は見えざる力に突《つ》き動《うご》かされていたので平気だった。力が天から降ってきて、まるで操《あやつ》り人形《にんぎょう》のように僕の手足を軽々と動かしていた。
僕は言った。
「病院を抜《ぬ》けだそう」
「え?」
「おまえ、言ったよな。砲台山《ほうだいやま》に行ったら、覚悟《かくご》ができるかもしれないって。だったら、簡単《かんたん》だよ。行こう、砲台山に」
「今から?」
「さすがに昼間は抜《ぬ》けだせないだろ。今しかない」
薄暗《うすくら》がりで見る里香《りか》は、とても小さく思えた。いつか、この姿《すがた》は背後《はいご》の闇《やみ》に溶《と》けこんでしまうのだ。消え去ってしまうのだ。でも、今はまだ、ここにいる。触《ふ》れることだってできる。
「バイクがあるし、おまえは座《すわ》ってるだけでいいから」
「…………」
「里香、行こう」
「…………」
「十年前はお父さんがつれってくれたんだろ? 今度はオレがつれてってやる」
里香がまじまじと見つめてきた。
彼女の瞳《ひとみ》は本当に力が強くて、そんなふうに見つめられると、いつもの僕なら即座《そくざ》に目を逸《そ》らしてしまう。
でも、今は不思議《ふしぎ》な力のせいで平気だった。
「行くわ」
やがて、里香はそう言った。
彼女の瞳にもなにかの輝《かがや》きが宿っていた。
「つれてって」
「この人、誰《だれ》?」
胡散臭《うさんくさ》そうに、里香は司《つかさ》を指さした。
司はぺこぺこと頭を下げた。
「ち、ちわっす」
司を呼《よ》びだしたのは僕だった。
手伝《てつだ》ってもらうためだ。
さすが友達というヤツで、ろくに事情を説明しなかったのに、司はこの深夜《しんや》にやってきてくれた。ちなみに、司はタイガーマスクの仮面《かめん》をつけている。従姉妹《いとこ》がこの病院で看護婦《かんごふ》をしているので、顔を見られたくないらしい。
まあ、顔を隠《かく》しても、でかすぎる身体《からだ》までは隠せないと思うのだが。
「こいつはオレの友達のタイガーマスクだ。タイガーマスクだから、正義の味方《みかた》だ」
やはり胡散臭そうに里香は司を見上げている。
「さあ、行こうぜ」
かまわず、僕は宣言《せんげん》した。
僕が先頭、二番目が里香、しんがりは司という順番で、廊下《ろうか》を歩きだす。
看護婦《かんごふ》の巡回《じゅんかい》時間ははずしてあるものの、いちおう用心しなければならない。最大の難関《なんかん》は恐怖《きょうふ》の十メートルだった。東|病棟《びょうとう》に夜間出入り口はなく、結局《けっきょく》、僕がいつもそうしているように、西病棟の出入り口を使うしかなかった。そして、そこに行くためには、あの長い長い車椅子用《くるまいすよう》スロープを通らねばならない。
その難関に、僕たちはさしかかった。
スロープの真向《まむ》かいにあるナースステーションには、今も煌々《こうこう》と明かりがついていた。この難関は完全に運次第《うんしだい》だ。ナースステーションに詰《つ》めている看護婦がこっちを見るかどうかにかかっている。
その運はある、と僕は踏《ふ》んでいた。
なにしろ、すでに司《つかさ》は一度、ここを突破《とっぱ》してきているのだ。
「いいか、腰《こし》を低くするんだぞ。中腰《ちゅうごし》で走れ。振《ふ》り向《む》くなよ」
僕は小声で言った。
タイガーマスクと里香《りか》が、そろって肯《うなず》く。
「よし、行くぞ」
肯き返すと、僕は一気に走りだした。
ただし、里香がいるので、あまりスピードは上げられない。恐怖の十メートルが、いつもよりずっと長く感じられた。
背中《せなか》がヒヤヒヤする。
きっと、そのヒヤヒヤは予感《よかん》だったのだろう。
「あんたたち、なにしてんの!」
真ん中まで来たあたりで、亜希子《あきこ》さんの声がした。
「こら、とまりなさい!」
やばい!
見つかった!
僕は焦《あせ》りとともに叫《さけ》んだ。
「走れ!」
中腰|体勢《たいせい》を解除《かいじょ》し、普通《ふつう》に走りだす。
里香のことが心配だったので後ろを向くと、里香も懸命《けんめい》に走っていた。たぶん、これくらいなら大丈夫《だいじょうぶ》なんだろう。司はもちろん問題ない。その司の向こうに、亜希子さんの姿《すがた》があった。目を吊《つ》りあげ、ものすごい勢《いきお》いで走ってくる。
直後、地響《じひび》きのような声が聞こえてきた。
「裕一《ゆういち》ぃ――――っ! 待てぇ――――っ!」
こ、怖《こわ》い。
怖すぎる。
亜希子《あきこ》さんはスロープの上段《じょうだん》で一気にジャンプした。その瞬間《しゅんかん》、なにもかもがスローモーションのように見えた。空中《くうちゅう》を降《ふ》ってくる亜希子さん、彼女の前に立ちはだかる司《つかさ》。亜希子さんは司を避《よ》けようとするが、司は巨大《きょだい》な腕《うで》を思いっきり広げて、亜希子さんの追跡《ついせき》を阻止《そし》する。亜希子さんの目が剣呑《けんのん》に輝《かがや》く。直後、ぶうんっという凄《すさ》まじい風切《かざき》[#「かざき」は底本では「かざきり」]り音《おん》と[#「と」は底本では無し]ともに、亜希子さんの見事《みごと》なヤンキーキックが司の太股《ふともも》にめりこんだ。
うぐっ、と声をあげて、司の膝《ひざ》が崩《くず》れ落《お》ちる。
「ああっ、タイガーマスク!」
里香《りか》が叫《さけ》んだ。
僕は強引《ごういん》に里香の手を引《ひ》っ張《ぱ》った。
「行こう、里香!」
「でも、タイガーマスクが!」
「気にするな、タイガーマスクは正義の味方《みかた》だから!」
「でもでも――」
そのときだった。片膝をついたままの司が、左手で見事なガッツポーズを作り、さらに右手の巨大な親指を立ててみせたのは。まるで本物のプロレスラーみたいだった。そして司はポーズを決めたままニヤリと笑った。
行け、という言葉《ことば》が心に直接|伝《つた》わってきた。
僕にも。
きっと里香《りか》にも。
「行くぞ!」
「う、うん!」
僕たちは走る速度を上げた。
背後《はいご》から阿鼻叫喚《あびきょうかん》が聞こえてくる。
「こら! 足を掴《つか》むんじゃないよ!」
「いや、でも、すんません!」
「離《はな》せって! 離しなよ!」
声が一気に尖《とが》る。
「離せって言ってんだよ!」
どぐ――っ!
肉のぶつかる音。
うぐ――っ!
司《つかさ》の呻《うめ》く声。
「あーっ、離せっつーてんだろ!」
「すみませんすみません!」
げし――っ!
あが――っ!
「しつこいね! だから、その手を!」
「すみませんすみませんすみません!」
ばき――っ!
うぎ――っ!
振《ふ》り向《む》かなかったので詳《くわ》しい状況《じょうきょう》はわからなかったが、きっとものすごいことになっているに違《ちが》いなかった。鈍《にぶ》い音と司の呻《うめ》き声《ごえ》が聞こえるたびに、僕と里香は互《たが》いの手を強く握《にぎ》りしめた。なぜか力がこもってしまうのだ。きっと里香もそうだったんだろう。
夜間出入り口の真ん前に、原付バイクがとめてあった。
ヘルメットがふたつ。
わかってるじゃん、と思いつつ、僕はバイクに跨《またが》った。バイクは司が準備《じゅんび》してくれたものだ。本当は司の兄貴の所有物《しょゆうぶつ》なのだが、無理《むり》を言って持ってきてもらったのだった。
シートの前のほうに腰《こし》かけ、後ろをできるだけあける。
そこを指さし、言った。
「座《すわ》れよ」
ヘルメットをかぶる。
エンジンをかける。
「ちゃんと掴《つか》まってろよ」
トントントン、というエンジンの振動《しんどう》が伝《つた》わってきた。
それは少しだけ心臓の鼓動《こどう》に似《に》ていた。
「これで大丈夫《だいじょうぶ》?」
里香《りか》がそのほっそりとした手を腰《こし》にまわしてきた。
僕の臍《へそ》のあたりで指を組みあわせる。
香水とかをつけてるわけじゃないのに、ものすごくいい匂《にお》いがした。首筋《くびすじ》に里香の温《あたた》かい吐息《といき》を感じ、頭と身体《からだ》の芯《しん》がじんと痺《しび》れたようになった。
胸《むね》がドキドキする。
思わず息を呑《の》む。
このまま振り返って里香を抱《だ》きしめたかった。そのきれいな髪《かみ》に、柔《やわ》らかい首筋に、顔を埋《うず》めたい。もちろんそんな余裕《よゆう》はないし、やったら里香に殴《なぐ》り飛《と》ばされるだろう。多田《ただ》さん、と僕はハンドルを握《にぎ》りながら思った。本物の女の子ってすげえんだな。マジですげえよ。
あんなエロ本なんて、比べものにならない。
「行くぞ」
「うん」
アクセルを捻《ひね》ると、原付バイク特有の甲高《かんだか》い音が夜の空気を激《はげ》しく震《ふる》わせた。小さなふたつのタイヤがアスファルトを踏《ふ》みしめて前へと進む。
そうして、僕たちは走りだした。
たぶん――。
終わりのある永遠に向かって。
2
風が冷たかった。僕のかぶってるヘルメットはフルフェイスじゃなくて、頭にちょこんと乗っけるだけのヤツだ。緑の縞《しま》が二本入っていて、その上に『島田建設』と書いてあったりもする。とにかく、吹きつけてくる冷たい風のせいで、僕の顔はすぐにバリバリになってしまった。でも僕は平気だった。臍のあたりで里香が手をあわせている。その腕《うで》の感触《かんしょく》が伝わってくる。背中《せなか》に里香を感じる。里香の温《あたた》かさを感じる。僕は平気だった。
夜の町はまるで死んだかのように静まり返っている。響《ひび》くのは僕たちが乗る原付バイクのエンジン音のみ。
さまざまなものが僕たちの前に現《あらわ》れ、そしてあっという間に流れ去っていった。夜の闇《やみ》を背景《はいけい》にチカチカと点滅《てんめつ》する赤信号、不気味《ぶきみ》に突《つ》っ立《た》っている電柱と空を切《き》り裂《さ》くたくさんの電線、シャッターを下ろした人気のない商店街、数年前に潰《つぶ》れてしまったスーパーのショーウィンドウは割れてしまっていて、その駐車場に散《ち》らばる無数のガラス片《へん》がキラキラと月の青白い光を反射《はんしゃ》している――。
あのスーパーができる前、そこにはカメラ屋があった。
もう十年以上も前の話だ。
小学生のころ、父親によくフィルムを買いにいかされたものだった。父親の趣味《しゅみ》がカメラだったからだ。カメラをいじっているときだけはあのバカオヤジもまっとうな人間だった。
機嫌《きげん》がいいときはカメラを触《さわ》らせてくれた。
「いいか、落とすなよ」
なんて言って、僕のまだ小さかった手にカメラを持たせた。
恐《おそ》る恐《おそ》る手にしたニコン製の一眼《いちがん》レフはずっしりと重く、その感触《かんしょく》を今でもはっきり覚《おぼ》えている。
駅前を通り過ぎたところで、
「あと十分くらいで、山の麓《ふもと》につくから!」
僕は叫《さけ》んだ。
だが、出てきた言葉《ことば》は、
『ふぁひふっふんふはいであまのふほとにふくはら!』
って感じだった。
唇《くちびる》がかじかんで、うまく喋《しゃべ》れなかったのだ。
「なに!?」
里香《りか》が大声で聞き返してくる。フルフェイスのヘルメットをかぶってる里香の口はかじかんでないらしい。
「ふぉおすぐはから!」
もうすぐだから、と言ったのだが、通じただろうか。
通じたらしい。
里香は肯《うなず》いた。
僕はさらにアクセルをまわす。スピード違反《いはん》など、まったく気にしていなかった。なにしろ僕は免許《めんきょ》なんて持っていない。そして今、原付バイクにふたり乗りをしている。そう、どっちにしろ、見つかったら終わりなのだ。となれば、できるだけ早く砲台山《ほうだいやま》につけるようブッ飛ばしたほうがいいに決まっている。
里香が落ちないように気をつけながら、僕はカーブに突入《とつにゅう》した。
軽く減速《げんそく》。
だが、手袋《てぶくろ》をしてない手は凍《こお》りついてしまっていて、一瞬《いっしゅん》だけ反応《はんのう》が遅《おく》れた。オーバースピード気味《ぎみ》だ。心の奥底《おくそこ》がひやりとした。やばい、曲がりきれない! 里香もそう感じたらしく、腕《うで》で腹を締《し》めつけてきた。だが、どうにか曲がりきる。後輪《こうりん》がすべり、ギュウンと嫌《いや》な音をたてた。
あとからわきあがってきた恐怖感《きょうふかん》に、思わず息《いき》を呑《の》む。
里香《りか》が大声で叫《さけ》んできた。
「気をつけてよ!」
「わ、わはってる!」
でも、わかってなかった。
それが証明されたのは、砲台山《ほうだいやま》の麓《ふもと》にたどりついたときだった。砲台山こと龍頭山《りゅうとうざん》は標高《ひょうこう》百メートル程度《ていど》の小さな山で、頂上《ちょうじょう》にまで道がつけられ、ちょっとしたハイキングコースになっている。ただし、その道は舗装《ほそう》されていない。バイクでも登れるのだが、かなりスピードを落とさねばならなかった。
地元の人間である僕は、もちろんそのことを知っていた。だから砂利道《じゃりみち》が見えてきたとき、よし着いた、そろそろスピードを落とすぞ、と思った。しかし、かじかんでいた手はすぐには動かなかった。
まずい。
どんどん砂利道が近づいてくる。
手はどうにか動きだしたものの、力が全然入らない。ブレーキレバーを強く握《にぎ》りしめることができなかった。スピードはひどくのんびりしたペースで落ちただけだった。結局《けっきょく》、さしてスピードを落とすことなく、僕たちを乗せたバイクは砂利道に突《つ》っこんだ。途端《とたん》、拳《こぶし》くらいの大きさの石に前輪《ぜんりん》を乗りあげた。
見事《みごと》なウィリーが決まる!
あっという間にすべてが反転した。天と地、夜の闇《やみ》と月の光――。気がつくと、僕は空中《くうちゅう》に投げだされていた。その瞬間《しゅんかん》はやたらと長かった。あれ、なんでこうなってんだろ、と思い、ああ転《ころ》んじまったんだ、と思い、里香は大丈夫《だいじょうぶ》かな、と思い、里香を空中で受け止めて庇《かば》うんだ、と思い、そのほかにも三つくらい考えてから、地面に叩《たた》きつけられた。当然、里香を空中で受け止めるなんてことはできなかった。
背中《せなか》を打ったせいでしばらく息ができず、大声で呻《うめ》きながら、ゴロゴロとのたうちまわった。
ようやく身体《からだ》を起こすと、僕は里香を探《さが》した。
五メートルくらい離《はな》れたところで、里香は膝《ひざ》をついていた。
「里香!」
慌《あわ》てて、里香に駆《か》け寄《よ》った。
里香は僕の顔を見るなり、
「バカ!」
と泣きそうな感じで叫んだ。
「死ぬかと思ったじゃない!」
「ご、ごめん! ケガしてないか!? 大丈夫《だいじょうぶ》か!?」
「わかんない」
ヘルメットを脱《ぬ》ぎ、里香《りか》はゆっくりと立ちあがった。身体《からだ》のあちこちを動かす。痛《いた》みに顔をしかめはしたものの、動かないところはないみたいだった。
「大丈夫みたい。そこらじゅう痛いけど」
「よかった……」
僕はホッと息をついた。
だが、直後、心臓が跳《は》ねあがった。
里香の左膝《ひだりひざ》、パジャマの生地《きじ》が、じんわりと赤く染《そ》まっていた。
「里香、膝」
「え?」
言われて、里香も初めて気づいたらしい。
パジャマの裾《すそ》をめくりあげると、里香のほっそりとした足が現《あらわ》れた。その膝に大きな傷《きず》があった。切れたというより、衝撃《しょうげき》でぱっくりと肉が割れたという感じだ。たくさん血が溢《あふ》れだしていた。そのあまりの赤さに、僕は頭がクラクラした。
つーっ、と赤い血が白い肌《はだ》を伝《つた》って落ちる。
「ち、血が……」
なんてことをしてしまったんだ。
最悪だ。
最低だ。
僕はとんでもないバカタレだ。
「大丈夫」
だが里香はそう言った。
コートのポケットからハンカチを出すと、それを膝に巻《ま》きつける。もちろん、そんなことをしたって、血はとまらない。
なのに里香は立ちあがった。
「さあ、行こう」
「でも……」
「そんな痛くないから」
ウソだ。
「裕一《ゆういち》、言ったでしょ。つれてってくれるって」
「…………」
「あれ、冗談《じょうだん》だったの?」
里香《りか》の瞳《ひとみ》には光が宿っていた。それはたぶん、僕の身体の中で蠢《うごめ》いている不思議《ふしぎ》な力と同種のなにかだった。
「よし、行こう」
肯《うなず》くと、足を引きずりながら、僕はバイクに歩《あゆ》み寄《よ》った。
バイクは横倒《よこだお》しになっており、ふたつのタイヤが宙《ちゅう》でカラカラとまわっていた。もしかすると壊《こわ》れてしまったかもしれない。
アクセルに手をやり、僕は心の底《そこ》から祈《いの》った。
(頼《たの》む、動いてくれ!)
もし壊れていたら、終わりだ。
ただでさえ身体《からだ》の弱い里香を、頂上《ちょうじょう》まで歩かせるわけにはいかなかった。しかも、里香は足をケガしているのだ。
すべてを諦《あきら》め、引き返すしかない。
亜希子《あきこ》さんに助けを求めるしかない。
そんなことを思うと、腹の中でなにかがきゅっと縮《ちぢ》みあがった。
(動け!)
祈りとともに、アクセルを捻《ひね》る。
クアアアアア――――ンッ!
そんな甲高《かんだか》い音とともに、空中で後輪《こうりん》が勢《いきお》いよく回転《かいてん》した。大丈夫《だいじょうぶ》だ、壊れていない。僕たちはまだ、先に進める!
擦《す》りむいた肘《ひじ》の痛《いた》みに耐《た》えながら、僕はバイクを起こした。
里香とともに、シートに跨《またが》る。
「今度はこけないでね」
「わかってる」
慎重《しんちょう》にアクセルを操《あやつ》り、ゆっくりと走りだした。
車が通っていったところは轍状《わだちじょう》になっていて、小石とかが少ない。そこを選《えら》んで走った。だが、それでも砂利道《じゃりみち》は砂利道である。少し大きな石を踏《ふ》んでバイクはしょっちゅうガタガタ揺《ゆ》れた。そして、そのたびに、腰《こし》にまわされた里香の手に力がこもった。
最初は怖《こわ》くてしっかり掴《つか》まってるのだろうと思ったが、ウッという呻《うめ》きが聞こえてきたことで、そうじゃないことがわかった。
足の傷《きず》が痛むんだ……。
里香の傷は思ったよりもずっと深いのかもしれない。引き返そうかという考えが、初めて頭に浮《う》かんだ。けれど、僕はすぐに、その考えを打ち消した。ここで帰るわけにはいかない。なんとしても登り切るんだ。
でないと、これから先、僕たちはなにかも失敗してしまう気がする。
空には半分の月があった。
ひどく明るく輝《かがや》いていた。
シリウスも近くにあった。
道が曲がるたび、その半分の月は右に行ったり左に行ったり後ろに行ったりした。でも、月はいつも僕たちのそばにいてくれた。
道の両脇《りょうわき》は、深い緑に覆《おお》われている。
真っ暗だ。
僕たちの進む道だけが、人の場所であるかのように。
長いあいだ、僕たちは無言《むごん》のままだった。ただ前を見つめていた。そこにあるのは普通《ふつう》の山道などではなかった。僕たちの未来だった。力一杯《ちからいっぱい》走り、求め、それでようやく得《え》られる正しい未来だった。
そして僕は多田《ただ》さんのことを思いだしていた。
3
あれはもう、ずっと前のことだ。
確か、僕の面会謝絶《めんかいしゃぜつ》が解《と》けたばかりのころだったと思う。
なにしろ病院の生活にまだ慣《な》れていなかったし、抜《ぬ》けだすことも覚《おぼ》えていなかったから、とにかく暇《ひま》で暇でしかたなかった。
ずっと病室にいると息《いき》が詰《つ》まるし、気がどうかしそうになる。
牢獄《ろうごく》そのものだ。
それで、せめて外の空気でも吸おうと、僕はしょっちゅう屋上《おくじょう》に行っていた。
ある日、いつものように屋上に行ったところ、先客《せんきゃく》がいた。多田さんだった。多田さんは給水塔《きゅうすいとう》の脇《わき》の日溜《ひだ》まりに座《すわ》りこんでいて、その姿《すがた》はまるでひなたぼっこをしている大きなカメみたいだった。
僕の顔を見ると、ニヤアッと、やっぱりカメみたいに笑った。
「坊ちゃん」
僕のことをそう呼《よ》んだ。
「彼女はおんのかい」
いきなり、これである。
多田さんの頭の中には、きっと女の子のことしか詰まってなかったんだろう。
僕は焦《あせ》りながら、
「いえ……」
とか、
「なんか機会《きかい》がなくて……」
とか、ボソボソ呟《つぶや》いたと思う。
おじいちゃんと話すことなんてそれまであんまりなかったから、とにかく老人という生き物にどう対処《たいしょ》すべきかわからなかったのだ。
多田《ただ》さんはたぶん、心の中でニヤニヤ笑ってたんだろうなあ。
「ほう、おらんのかい。それは寂《さび》しいなあ」
「ははは、そうですね」
「じゃあ、亜希子《あきこ》ちゃんなんてどうかね」
あまりにも意外《いがい》な言葉《ことば》に、
「はあ!?」
と僕は言っていた。
そのころすでに、亜希子さんの恐《おそ》ろしさは身に染《し》みて知っていた。なにしろ前日に点滴《てんてき》の針を三回|刺《さ》されたばかりだったのだ。それだけじゃない。車椅子《くるまいす》で遊んでたら車椅子ごとひっくり返されて腰《こし》を強打《きょうだ》したし、興味本位《きょうみほんい》で霊安室《れいあんしつ》を覗《のぞ》こうとしたら頭をドアで挟《はさ》まれてグリグリされたこともあった。
ほんと手加減《てかげん》を知らないんだ、あの人は。
「……遠慮《えんりょ》します」
腕《うで》と腰と頭の痛《いた》みを思い起こしながら、僕は憂鬱《ゆううつ》に辞退《じたい》した。
そんな僕を見て、多田さんは笑った。
「あれで可愛《かわい》いとこもあるんや、亜希子ちゃんも」
「か、可愛いですか?」
「うん、可愛いなあ」
なにを言ってるんだ、この老人は。それとも多田さんの出身地では、可愛いという言葉《ことば》は意味が違《ちが》うんだろうか。憎《にく》たらしいとか恐ろしいとかを可愛いと言うのかもしれない。
「ええ娘《こ》や、亜希子ちゃんは」
「はあ……」
「わしの初恋の相手も、亜希子ちゃんみたいな子やったな。あれは零戦《ゼロせん》がB29を追《お》いかけてたころやったから、そうさなあ、昭和も十七年か十八年かなあ――」
勝手《かって》に話しはじめた多田さんにびっくりしたが、しかし聞いてみるとこれがなかなかいい話だった。
多田さんの初恋の相手(亜希子さんに似《に》ているらしい)は、庄屋《しょうや》さんの娘のトメ婆《ばあ》さんだった。いや、当時は多田さんだってカメみたいなしわくちゃジジイじゃなくて、立派《りっぱ》な青年の吉蔵《よしぞう》さんだったわけだから、それは美しいトメさんだったんだろう。
とにかく、多田《ただ》さんとトメさんは恋に落ちた。
凄《すさ》まじく激《はげ》しい恋だったそうだ。
身分が違《ちが》ったからふたりの恋は許《ゆる》されず、神社の裏《うら》で忍《しの》び逢《あ》い、馬小屋で逢瀬《おうせ》を重《かさ》ね、ひとときのぬくもりに心を慰《なぐさ》め、ゆえに別れの瞬間《しゅんかん》に涙《なみだ》し、若き日の多田さんは血の滾《たぎ》るような思いでトメさんとの恋を続けたらしい。
しかしまあ、零戦《ゼロせん》だの、竹槍《たけやり》だの、庄屋《しょうや》の娘だの、トメだの吉蔵《よしぞう》だの、すごい時代もあったもんだ。それもせいぜい五、六十年の昔だというんだから、そのことに呆《あき》れるというかびっくりする。庄屋なんて、もうどこにもないぞ。
でもなあ、としわくちゃになった多田さんは言った。
「しょせん身分違いでなあ」
ある日、トメさんは海軍の将校《しょうこう》さんに嫁《とつ》いでしまった。
親の都合《つごう》ってヤツで、むりやり結婚させられたのだ。驚《おどろ》くことに、その将校さんは結婚式の翌日《よくじつ》、前線に行ってしまったらしい。無事《ぶじ》生きて帰ってきたそうだが、それにしてもムチャクチャな話だった。
もし死んでたら、泣《な》く泣《な》く嫁《よめ》に行ったトメさんはどうなったんだろ。
いきなり未亡人《みぼうじん》じゃないか。
「あの別れが人生で一番|辛《つら》かったねえ」
そう言う多田さんの言葉《ことば》に、僕はしみじみ肯《うなず》いた。
「はあ、それは辛いっすね……」
けっこう感動的な話だったので、涙さえ流しそうな勢《いきお》いだった。
そう、あのころはまだ知らなかったのだ。多田さんがとんでもない嘘《うそ》つきだということを。今になって思えば、実際《じっさい》にトメさんがいたかどうか怪《あや》しいし、もしいたとしても多田さんが言うような関係じゃなかった気がする。
ほら、釣《つ》り人《びと》が逃《のが》した獲物《えもの》を実際より大きく言うようなもんだ。
なんでそんなふうに思うかというと、
「坊ちゃんも好きな子ができたら、がーんと行きんさい。それでな、引いたらあかん。男なら、腹を決めにゃならん。引いたら後悔《こうかい》するばっかりやからな」
多田さんがあとでそんなふうに言ったからだ。
もしかすると多田さんはトメさんに思いを伝《つた》えられなかったのかもしれない。身分違いの恋に臆《おく》してしまったのかもしれない。そしてそのことを、八十になってもまだ、後悔してたのかもしれない。
もちろん、これは僕の勝手《かって》な想像《そうぞう》だ。
「もうな、とことん行くんや。そうしたら、たいていのことはなんとかなるもんや。なんもせえへんうちに諦《あきら》めるのが一番のアホやな」
アホというのは、多田《ただ》さん自身のことだったんだろうか。
それにしても、僕の周《まわ》りの大人はどうしてこんなことばかり言うんだろう。
そのとき、僕の頭には父親のセリフが蘇《よみがえ》っていた。
『おまえもそのうち好きな女ができるんだろうなあ。いいか、その子、大事にしろよ』
あのころはまだ秋で、空気はそんなに冷たくなかった。
ぼやけた青空はやたらと高く広がり、雲の輪郭《りんかく》は曖昧《あいまい》で、前日に降《ふ》った雨のせいか空気は少し湿《しめ》って重く、微《かす》かに水の匂《にお》いを含《ふく》んでいた。
サンマでも食いたくなるような秋だった。
あのころ元気だった多田さんは、もういない。
4
月が何度も何度も僕たちの周囲《しゅうい》を巡《めぐ》ったころ、まるですべてが決められていたかのように、僕は自分でも意識《いしき》しないままスロットルを緩《ゆる》めていた。ゆるゆるとバイクが減速《げんそく》し、甲高《かんだか》いエンジン音があたりに張《は》りついた静けさと闇《やみ》に呑《の》まれるような感じでおさまった。
ヘルメットを脱《ぬ》ぐと同時に、ためていた息《いき》を吐《は》く。
「どうしたの?」
里香が尋《たず》ねてきた。
僕は言った。
「着いた」
「え?」
「ここだよ、頂上《ちょうじょう》」
そこは広さが直径二十メートルほどの空間だった。青白い砂利《じゃり》が敷《し》き詰《つ》められており、車が何台か置けるようになっている。
エンジンをとめると、いきなり世界が静寂《せいじゃく》の中に沈《しず》んだ。
冬なので虫の声さえも聞こえてこない。
外灯《がいとう》もない頂上は完全な闇《やみ》に沈んでいて、ただ月の青白い光だけが弱々しく世界を照《て》らしていた。
「ここが頂上なの?」
里香の声は落胆《らくたん》に染《そ》まっていた。
「こんなところが?」
月の光に照らされているのは、なにもない駐車場だった。里香の記憶《きおく》とはまったく違《ちが》っているのだろう。
僕はバイクから降《お》り、言った。
「五年くらい前に整備《せいび》工事があって、今はここが頂上《ちょうじょう》ってことになってる。けど、ほんとはもう少し登れるんだ」
「そこが本当の頂上?」
「うん」
「遠い?」
「そんなことないよ、行こう」
ヘルメットをミラーに引っかけ、僕は手を伸《の》ばした。
里香《りか》がその手を取った。
僕たちは手を繋《つな》いで歩きだした。深い森、そして静寂《せいじゃく》、そこにいるのは僕たちだけだった。怖《こわ》くなったのか、里香が僕の腕《うで》に寄《よ》り添《そ》ってきた。彼女は今も足を引きずっている。パジャマの膝《ひざ》は真っ赤に染《そ》まっていた。血はまだとまっていないらしい。時々、里香は苦痛《くつう》に顔を歪《ゆが》めた。でも僕たちはとまらなかった。
ためらうことなく、獣道《けものみち》のようなところにわけいる。
伊勢《いせ》の冬はそんなに寒くならない。暖流《だんりゅう》が紀伊《きい》半島の南を流れているからだ。なのに、今日はとても寒かった。僕たちの吐《は》く息《いき》はすぐさま凍《こお》りつき、まるで光に照《て》らされたような白さだけを僕たちの目の奥《おく》と心の奥に残して、やがて消えていった。
僕たちは歩きつづける。
手を繋《つな》いで。
しっかりと歩きつづける。
さして時間はかからなかった。たぶん十分くらいだ。もし里香《りか》の足が悪くなかったら、五分もしないで着けただろう。冬でもつやつやと青い杉の葉を手で払《はら》いのけた瞬間《しゅんかん》、唐突《とうとつ》に空間が現《あらわ》れた。さっきの広場よりはずっと狭《せま》く、その開けた空間はせいぜい半分くらいしかない。整備《せいび》されていないせいであちこち雑草《ざっそう》が生《お》い茂《しげ》り、周囲《しゅうい》の樹木《じゅもく》が勝手気ままにその腕《うで》を伸《の》ばしていた。
僕は立ち止まった。
「ここが本当の頂上《ちょうじょう》だよ」
里香はあたりを見まわした。
右。
左。
もう一度、右。
そして、左。
彼女の視線《しせん》が、やがて真《ま》っ正面《しょうめん》でピタリととまった。そこには黒い塊《かたまり》がうずくまっていた。その塊に向かって、彼女は足を引きずりながら歩《あゆ》み寄《よ》っていった。僕はなにも言わず、彼女のあとに従《したが》った。
塊は大砲《たいほう》の台座《だいざ》だった。
その古ぼけたコンクリートの表面に、里香が手を這《は》わせる。
「あたし、これ知ってる」
「お父さんと来たの、ここだった?」
「うん。パパに抱《だ》きあげてもらって、この上に登ったの」
突然《とつぜん》夜の闇《やみ》が消え去ったかと思うと、世界は眩《まばゆ》い光に包《つつ》まれていた。周囲を覆《おお》う木々の葉は日に焼かれて濃《こ》く、雑草は高く高く生い茂り、真上で輝《かがや》く太陽は狂《くる》ったように光を撒《ま》き散《ち》らしていた。夏、だった。
黒ずんだ大砲の台座の前に、父親と娘が並《なら》んで立っていた。ふたりとも汗《あせ》をたくさんかいていて、父親は首にタオルを巻《ま》いている。娘のほうは涼《すず》しそうな水色のワンピース姿《すがた》だった。
娘が、まだ幼《おさな》い里香が、短い腕《うで》をいっぱいに伸《の》ばして父親の首にしがみつく。父親は里香の脇《わき》に手を入れ、小さな身体《からだ》を青空に向けて持ちあげた。里香が嬉《うれ》しそうに笑う。まるで光が弾《はじ》けるように笑う。里香の小さな足が、やがてコンクリートの巨大《きょだい》な塊を捉《とら》えた。大砲の台座だ。夏の強い日射《ひざ》しが古ぼけた台座と里香を照《て》らし、その影《かげ》が地面にくっきりとしたラインを描《えが》いていた。風が吹き、里香の細い髪《かみ》がさらさらと揺《ゆ》れる。父親はそんな里香をまぶしそうに見つめている。里香は嬉しそうに笑っている。
その幻想《げんそう》は一瞬《いっしゅん》のうちに去っていった。
気がつくと、僕はふたたび冷たい冬の空気に包《つつ》まれていた。
里香《りか》といっしょにいるのは、彼女の父親じゃなかった。
この僕だった。
「里香」
静かに決意し、僕は言った。
「登ってみようか」
「え、でも……」
「大丈夫《だいじょうぶ》、これでも男だぞ」
「きゃあ――!」
問答無用《もんどうむよう》で里香を抱《だ》きあげる。思ったより重かった、と言ったら、里香はきっと怒《おこ》るだろう。男の意地《いじ》で里香を台座の上に押《お》しあげた。
「里香、そこに手をかけて」
「う、うん」
まあ、結局《けっきょく》、最後は里香が自分の力で這《は》いあがったのだが。
僕もあとに続いた。コンクリートの縁《ふち》に手をかけ、欠けた壁面《へきめん》に足を載《の》せて、どうにか這いあがった。
台座の上からだと、町がよく見えた。
「きれいだね」
「そうだな」
小さな、ちっぽけな町。
閉ざされた世界。
僕はここしか知らない。
しばらく、ふたりとも黙《だま》ったまま、眼前《がんぜん》に広がる町をただ見つめていた。こうして見ると、確かにきれいなものだ。月明かりに照《て》らされているせいで、それはまるで夢のような淡《あわ》さを湛《たた》えていた。
火見台《ひのみだい》がある不思議《ふしぎ》な駅舎《えきしゃ》。
その前の大きな建物は文化会館だ。
今はもう寂《さび》れてしまった商店街のアーケードも見えた。
駅向こうの川が月明かりで銀色に光っている。
そして、町の中心に、深い深い闇《やみ》が横たわっていた。
神宮《じんぐう》の森だ。
「ねえ、裕一《ゆういち》」
やがて、里香が言った。
「うん? なんだ?」
「ありがとう」
「な、なんだよ」
礼を言われて、ちょっと焦《あせ》った。里香《りか》からありがとうなんて言葉《ことば》を聞いたのはこれが初めてだった。なにか裏《うら》があるのかもしれないと思い、僕は身構《みがま》えた。
だが、里香はやけに素直《すなお》な感じで笑った。
「覚悟《かくご》、できたわ」
「え?」
「死ぬ覚悟よ」
やっぱり素直な感じで笑いながら。
「これで満足して死ねるわ」
その瞬間《しゅんかん》、闇《やみ》の中に落ちこんでいく自分を感じた。なにもかもが間違《まちが》っていたのだと、ようやく僕は気づいた。
屋上《おくじょう》に立っていた里香の姿《すがた》が頭に浮《う》かぶ。
『もう一度、あそこに行ってみたいな』
里香はあのとき、そう言った。
『そうしたら、あたしも覚悟ができるのかな』
覚悟という言葉の意味を、僕は深く考えていなかった。
曖昧《あいまい》にそれを受け止め、その響《ひび》きに宿っている、どこか肯定的《こうていてき》で前向きな部分しか見ていなかった。たぶん危険《きけん》な手術に挑《いど》む覚悟なのだろう、と。生きることを求めるための覚悟なのだろう、と。
けど、違《ちが》ったんだ。
里香は死ぬ覚悟を固《かた》めるために、ここに来たんだ。
生きることを諦《あきら》めるための覚悟だったんだ。
微笑《ほほえ》む里香を見つめながら、僕は立ちつくしていた。なにか言おうと思ったが、僕の中に言葉はひとつもなかった。こんなに頑張《がんば》って、司《つかさ》に迷惑《めいわく》をかけ、亜希子《あきこ》さんを振《ふ》り切《き》って、僕は里香に死ぬ覚悟をさせてしまったんだ……。
半分の月が輝《かがや》いていた。
シリウスが輝いていた。
「パパもこんな気持ちだったのかな? パパもここで――」
言葉が切れた。
里香の瞳《ひとみ》から、なにかがこぼれ落ちる。
それは月の光をそのうちに宿し、キラキラと光りながら、里香の柔《やわ》[#「やわ」は底本では「やわら」]らかい頬《ほお》の上を滑《すべ》り落《お》ちていった。光の滴《しずく》は、いくつもいくつも、溢《あふ》れ出《で》てきた。里香の口から、嗚咽《おえつ》が漏《も》れる。里香の涙《なみだ》には、きっといろんな意味があるんだろう。父親の死、ここにいっしょに来た昔、自分の心臓のこと、手術のこと――。
里香は今、そのすべてを抱《かか》えきれなくなっているのかもしれなかった。
僕は里香の頭に手を置いた。
言葉《ことば》は出てこなかった。
さらさらした髪《かみ》を撫《な》でる。
何度も。
何度も。
里香がその身体《からだ》を寄《よ》せてきた。もう、なにも考えなかった。身体が自然に動いていた。僕は里香の身体を抱《だ》きしめた。腕《うで》の中にすっぽりとおさまった里香は思っていたよりもずっと小さかった。
その小ささが、やけに切なかった。
半分の月が輝《かがや》いていた。
シリウスが輝いていた。
その光は僕たちを照《て》らしていた。
風が吹き、里香《りか》の髪《かみ》が揺《ゆ》れた。髪の一本一本に、月の銀光《ぎんこう》が宿ってキラキラと輝《かがや》いている。微《かす》かにシャンプーの匂《にお》いがした。
里香はずいぶん長いあいだ泣きつづけた。
「神宮《じんぐう》って大きいね」
「そうだな。でもさ、伊勢《いせ》神宮って、もうひとつあるんだぜ」
「え? どういうこと?」
「駅前にあるのが外宮《げくう》で、ほら、あっちの、向こうのほうに暗いところがあるだろ? どっちかっていうと、あっちが本物の伊勢神宮なんだ。内宮《ないくう》っていうんだけどさ」
僕たちは大砲《たいほう》の台座《だいざ》に腰《こし》かけ、町を眺《なが》めていた。そして、いろんなことを話した。どうでもいいことばかりだったけど、それでもやたらと楽しかった。
「なんで同じ神社がふたつあるのよ?」
「知らないけど、とにかくそうなんだよ」
「そんなの紛《まぎ》らわしいじゃないの」
「そうかもしれないけど、とにかく両方とも伊勢神宮なの」
「わけわかんない」
泣きやんだあと、里香はすごく元気になった。ただ、彼女の頬《ほお》のあたりに、拭《ぬぐ》いきれない哀《かな》しさのカケラが少しだけ残っていた。それに気づくたび、僕は里香を抱《だ》いていたときの感じを思いだした。その小ささを思いだした。
「ねえ、裕一《ゆういち》」
「ん?」
「どうしてここまでしてくれたの?」
里香の目は、まだ少し潤《うる》んでいる。
「病院を抜《ぬ》けだしたり、あの看護婦《かんごふ》さん怒《おこ》らせちゃったりして、大変《たいへん》じゃない?」
まったく、大変である。病院に戻《もど》ったら、きっと亜希子《あきこ》さんに殺されるに違《ちが》いない。そのことを思うと身体《からだ》の芯《しん》がひんやりと冷たくなった。
それでも里香の手前、僕は陽気《ようき》に言った。
「父親がさ、昔言ってたんだ。女は大事にしろって」
ほんとは、違《ちが》う。
『おまえもそのうち好きな女ができるんだろうなあ。いいか、その子、大事にしろよ』
正確には、そう言ったのだった。
なんてことだ。
父親の言いつけをしっかり守ってしまった。
顔がやたらと火照《ほて》る。
「ふーん、いいこと言うお父さんね」
暗いせいで、里香《りか》にはばれてないようだ。
僕の顔はたぶん、真っ赤だった。
「そんなことないって。ひどい父親だったんだぞ。酒は飲むし、ギャンブル狂《ぐる》いだし、ほんと最悪だった」
里香は賢《かしこ》い子だ。
僕の微妙《びみょう》な言いまわしに気づいた。
「だった?」
できるだけ、あっさりと言うことにした。
「もうずっと前に死んだんだ。酒で身体《からだ》壊《こわ》してさ」
いつだったか、遊びにいった夜の帰り、司《つかさ》が、
『僕、不思議《ふしぎ》に思ってたんだ。どうして裕一《ゆういち》がその里香って女の子のわがままにつきあってるのか』
と言ったことがあった。
あのとき、司の言葉《ことば》を、僕は遮《さえぎ》った。
わかっていたからだ。
あいつの言おうとしたことが。
里香と僕は、ともに父親を亡《な》くしていた。その空気が、似《に》たなにかが、僕たちを引きつけていたのだ。死者という名の不在《ふざい》が、僕たちの中に宿っているのだった。
あのとき、僕は認《みと》めたくなかった。
バカオヤジのせいで、自分が里香に魅《ひ》かれてるなんて。
バカオヤジのせいで、里香が自分を気にしてるなんて。
決して認めたくなかった。
小さいころから、僕はずっと父親を憎《にく》んできた。父親がなにかするたびに、母親が泣《な》くことになるのだ。いわゆるエディプス・コンプレックスってヤツもあったんだろう。とにかく、小さいころの僕にとって、父親は敵《てき》そのものだった。
そして、その敵は、僕が戦う力をつける前にあっさり死んでしまった。
勝《か》ち逃《に》げってヤツだ。
父親の声が、心の中で響《ひび》く。
『おまえもそのうち好きな女ができるんだろうなあ。いいか、その子、大事にしろよ』
バカオヤジめ。
勝手《かって》に死んだくせに、指図《さしず》するんじゃねえ。
「そっか。だから、つれてきてくれたんだね」
里香《りか》の顔から微笑《ほほえ》みが消えた。
なぜか。
少し残念《ざんねん》そうな顔だった。
「裕一《ゆういち》もパパがいないから、つれてきてくれたんだね」
カチリという音が聞こえたと思った。司《つかさ》が子猫《こねこ》を抱《だ》いて訪《たず》ねてきたときに聞こえたのと同じ音だった。それはたぶん、歯車が違《ちが》う方向に噛《か》みあわさってしまった音だった。
誤解《ごかい》してる。
里香はなにかを間違《まちが》えてる。
それがなんなのかは、はっきりとわからなかったが、あるいはわかりたくないだけなのかもしれなかった。でも、そう、とにかく違うんだ。なにかが今、手の中からこぼれ落ちようとしていた。
僕は必死《ひっし》だった。
ギュッと手を握《にぎ》りしめた。
「ち、違う! そんなの関係ないんだ! オヤジのことなんてどうでもよくて……そうじゃなくて……オレは……」
伝《つた》えなきゃいけない。
違うって。
ふたりとも父親がいないから、似《に》た匂《にお》いがするから、最初は興味《きょうみ》を持ったんだと思う。でも、今は違う。それだけで、こんなことをしたんじゃないんだ。亜希子さんを怒《いか》り狂《くる》わせてまで、ここに来たんじゃないんだ。
もっと、そう、心の奥底《おくそこ》にあるなにかが。
「オレは……オレは……」
「裕一?」
「オレは……」
あれ、と思った。
おかしい。
頭がクラクラする。
ものすごい疲労感《ひろうかん》が身体《からだ》の奥底《おくそこ》のほうからわきあがってきた。今まで僕を突《つ》き動《うご》かしていたエネルギーがいきなり消えてしまったみたいだった。膝《ひざ》が崩《くず》れるのを感じた。視界《しかい》が傾《かたむ》く。思いっきり膝を台座《だいざ》にぶつけたのに痛《いた》みがない。里香が僕の名を叫《よ》ぶ。その声がだんだん遠くなっていく。
僕にわかったのはそこまでだった。
ぷっつりと、意識《いしき》が切れた。
[#改ページ]
僕たちを助けたのは亜希子《あきこ》さんだった。
司《つかさ》から僕たちの目的地を聞いた亜希子さんが駆《か》けつけたとき、里香《りか》はピクリともしない僕を引きずって山を下りようとしていた。僕は死んだように動かなかったし、里香は血塗《ちまみ》れだしベソをかいてるし、とにかくひどい有《あ》り様《さま》だったらしい。さすがの亜希子さんも真《ま》っ青《さお》になったそうだ。
司の名誉《めいよ》のためにつけくわえておくが、ヤツは亜希子さんの鬼《おに》のような追及《ついきゅう》に二時間以上|耐《た》えつづけ、僕たちがなかなか帰ってこないので不安になり、ついにゲロってしまったのだった。まったく司はたいしたヤツだ。
結局《けっきょく》、僕と里香に与《あた》えられた自由は、たったの二時間だった。
その二時間の代償《だいしょう》は、ちょっとばかり高くつくことになった。
ただでさえ症状《しょうじょう》が悪化《あっか》してたのに、僕はかなりの無茶《むちゃ》をしてしまった。そのせいで、僕の肝臓《かんぞう》はまた壊《こわ》れてしまった。入院|当初《とうしょ》並《な》みに悪化したそうで、少なくともあと一カ月は病院を出られないらしい。
病院での年越し決定である。
「こんなに悪くなってるのによく動けたもんだねえ」
担当医《たんとうい》は呆《あき》れながらそう言った。
呆れすぎて笑っていた。
その後ろで、亜希子《あきこ》さんが怒《いか》り狂《くる》っていた。
とにかく――。
一週間ばかり、僕はベッドから動けなかった。ひどく身体《からだ》がだるく、起きあがることさえできなかったのだ。熱は三十九度のあたりをずっとさまよいつづけ、ありとあらゆる点滴《てんてき》をノンストップで受けることになった。熱に歪《ゆが》められた、夢とも現実ともつかない淡《あわ》く歪《ゆが》んだ世界の中で、いろいろなことを考えたり思いだしたりした。だが、そんなものは三十九度の熱に溶《と》けてしまった。
一度だけ、夢の中で父親と話をしたような気がする。
父親は不機嫌《ふきげん》そうな声で、フィルムを買ってこい、と幼《おさな》い僕に命じた。いいか、トライエックスの四百だぞ。僕は肯《うなず》くと、渡《わた》された五百円玉を力一杯《ちからいっぱい》握《にぎ》りしめ、犬ころみたいな元気さで家を駆《か》けだしていった。日射《ひざ》しの中、僕は笑っていた。嬉《うれ》しそうに笑いながら走っていた。まったく不思議《ふしぎ》な話だ。あのころだって、僕は父親を憎《にく》んでたはずなのに。
まあ、夢だから、現実そのままってわけじゃないんだろう。
夢の中で、里香《りか》とも話した。里香と僕はあの夜のように原付バイクに乗っていた。里香が僕の腰《こし》に手をまわして、しっかり掴《つか》まっていた。いつまでもいつまでも、僕たちは走りつづけていた。
「飛ばさないでよ」
少し怒《おこ》ったような声で、里香が言った。
僕は呑気《のんき》に安請《やすう》けあいした。
「わかってるって」
そして里香を脅《おど》かしてやろうと思い、急にスピードを上げた。里香はきゃあと珍《めずら》しく可愛《かわい》らしい悲鳴《ひめい》をあげたあと、僕の頭をヘルメット越しに殴《なぐ》ってきた。
「このバカ!」
殴られながら、それでも僕は嬉《うれ》しそうに笑っていた。夢の中でようやく気づいたのだが、僕は里香の怒る声がわりと好きだった。
そのあとどうなったのかよく覚えていないのだが、僕たちはどこかに着いたんだろうか?
目的地はどこだったんだろう?
ようやく身体が動くようになると、僕は亜希子さんの目を盗《ぬす》んで、病室を抜《ぬ》けだした。
すごく身体が重くて、歩くのさえ一苦労だった。
病院にはジイサンやバアサンがたくさんいるのだが、彼らのほうが僕よりよっぽど元気で、カメみたいに歩く僕の脇《わき》をさっさと通《とお》り過《す》ぎていったりした。悔《くや》しいことに、抜き去ったあと、僕のほうを見てニヤリと笑うジイサンが三人ほどいた。食えない老人はどうやら多田《ただ》さんだけじゃないらしい。
あまりの情《なさ》けなさに涙《なみだ》が出そうだったが、自業自得《じごうじとく》というヤツである。
「ふう――」
十分かけて、里香《りか》の病室にたどりついた。
ノックをする。
反応《はんのう》がなかった。
まずい、検査《けんさ》に行っているのかもしれない。だとしたら、完全な無駄足《むだあし》だ。ちくしょう、わざわざ来たのに。
――と思っていたら、ものすごい勢《いきお》いでドアが開いた。
「バカ!」
僕の顔を見るなり、里香は怒鳴《どな》った。
「あのさ」
僕は横たわっていた。
里香のベッドに。
もちろん、里香といっしょにではない。里香はパイプ椅子《いす》に座《すわ》って、こちらを睨《にら》んでいる。亜希子《あきこ》さん並《な》みに恐《おそ》ろしい目だった。
僕は恐る恐る、尋《たず》ねた。
「なんでこうなってるんだよ」
「病人だから」
「それはおまえもだろ? オレよりおまえのほうが重病――」
ギロリと睨まれた。
呆《あき》れた、と本当に呆れた口調《くちょう》で里香は言った。
「裕一《ゆういち》、まだ起きちゃダメなんでしょ。ほんとバカなんだから」
「ちょっとくらいは大丈夫だって」
「ダメ」
「けどさ――」
「ダメ」
「あの――」
「ダメ」
なにを言っても「ダメ」なので、僕は黙《だま》りこんだ。
昼間の病院はうるさくて、いろんな音が聞こえた。お婆《ばあ》ちゃん、危《あぶ》ないわよ、誰《だれ》かが大声で叫《さけ》んでいる。ペタペタという早足の音はたぶん看護婦《かんごふ》さんだ。看護婦さんはいつもいつも早足なのだ。隣《となり》の病室からはテレビのアナウンサーの声が流れてきた。さて、いよいよ今年も終わりに近づいてきました、ここ美倉《みくら》酒房《しゅぼう》では伊勢《いせ》神宮《じんぐう》の初詣《はつもうで》で毎年|振《ふ》る舞《ま》われる甘酒《あまざけ》の準備《じゅんび》に大忙《おおいそが》しです――。
神宮《じんぐう》で甘酒《あまざけ》を飲むと、ものすごい量のショウガを放《ほう》りこまれる。なにを考えているのかわからないが、喉《のど》が痛《いた》くなるくらい入れるのだ。毎年飲むのをやめようと思うのに、それでも次の年になるとすっかり痛みを忘《わす》れて飲んでしまう。
「あのさ」
意を決して、僕は言った。
「オレ、オヤジのことがあったから、砲台山《ほうだいやま》におまえをつれてったわけじゃないから」
そう、僕はこれを言いにきたのだった。
熱を出して寝《ね》こんでいた一週間、考えつづけていたのは、このことだった。伝《つた》えようとして伝えられなかった言葉《ことば》。気を失う直前に言おうとしていた言葉。なんとしても、できるだけ早く、伝えねばならない言葉。
だが。
里香《りか》は、
はあ?
という顔をした。
「裕一《ゆういち》、それを言いにきたの? わざわざ?」
「そ、そうだよ」
なんだ、この反応《はんのう》は。
「ってことは、裕一、なんにも覚《おぼ》えてないの?」
「え? どういうことだ?」
「だから、あの、えっと、砲台山で倒《たお》れたときの、こと」
里香が急にしどろもどろになった。
こんな里香を見るのは初めてだった。
しかも、なぜか顔が赤くなってる。
「ほら、倒れたあと、あの、だから、言った、でしょ?」
「……オレ、なんか言ったの?」
「うん」
里香の顔は真っ赤だった。
「言った」
なにを、とは聞けなかった。
僕もだんだん顔が熱《あつ》くなってきた。手のひらが汗《あせ》でぬるぬるする。胃《い》が喉のあたりまでせりあがってくる。
僕はなにを言ったんだ?
答えは謎《なぞ》のままだ。
三分後に乱入してきた亜希子《あきこ》さんによって、僕はむりやり車椅子《くるまいす》に乗せられ、病室につれもどされることになったからだ。
病室に着くまでのあいだ、亜希子さんはずっと怒鳴《どな》っていた。
「まったく何度言えばわかるのさ。あんた、動ける身体《からだ》じゃないんだからね。どうしてわかんないわけ? きっと頭が空《から》っぽなんだ。うん、絶対《ぜったい》そうだ。すかすかのピーマンで、叩《たた》いたらスカポンって音がするんだ」
言葉《ことば》どおり、頭を叩かれた。
スカポンとは鳴《な》らなかったが、パシンという音がした。
それにしても痛《いた》い……。
病人の頭を叩く看護婦《かんごふ》がいるか、普通《ふつう》?
だが、そんな亜希子さんに、
「オレ、気を失ってるときになにか言いました?」
と尋《たず》ねたら、
「ぷぷっ」
亜希子さんはいきなり噴《ふ》きだした。
「な、なんで笑うんですか!?」
「へえー、あんた、覚《おぼ》えてないんだ?」
「やっぱなんか言ったんですか!?」
何度尋ねても、亜希子さんは答えてくれなかった。
ただ、
「あー、いいねえ」
とか、
「若いねえ」
とか、
「うらやましいねえ」
とか、ニヤニヤ笑いながら繰《く》り返《かえ》すばかりだった。
僕はなにを言ったんだ?
若いというのは、確かにすごいことだった。
寝《ね》ていたら身体《からだ》はぐんぐんよくなった。
というわけで、砲台山《ほうだいやま》事件から二週間後、熱はすっかり下がり、とりあえず亜希子《あきこ》さんによる監禁《かんきん》も解《と》けた。ただし、もちろん病院の抜《ぬ》けだしは禁止である。せいぜい病院内を散歩するくらいだ。
その散歩の途中《とちゅう》、僕は里香《りか》の病室に寄《よ》ることにしている。
相変わらず里香はわがままで、いろんなことを命じてくる。で、情《なさ》けない話なのだが、僕はその命令にほいほい従《したが》ってたりする。なんだか楽しいのだ、それが。どうやら僕には犬|属性《ぞくせい》があるらしい。
里香の機嫌《きげん》は、身体の調子《ちょうし》が悪いと、やっぱり悪くなる。
そんなときの里香の顔は青白く、ベッドに沈《しず》んでいる姿《すがた》は、ただそれだけで痛々《いたいた》しい。命の火が揺《ゆ》らいでいるのだと、はっきりわかる。里香はもっとはっきり感じているのだろう。ある日、ポツリと里香が言ったことがある。死は隣人《りんじん》なのだと。目を閉じれば、そいつはいつも隣《となり》に立っているのだと。脅《おど》すこともなく喚《わめ》くこともなく、ただ静かに立っているのだと。
「ずっとずっとおとなしく待ってるだけなんだけどね、絶対《ぜったい》にいなくならないの。わかるのよ、そばにいるのが。手を伸《の》ばしたら、たぶん触《さわ》れるわ。それであたし[#「あたし」は底本では「わたし」]をどこかへつれていっちゃうの」
僕にはわからない。
僕の病気はどんなに悪化《あっか》しても死ぬようなものじゃないからだ。
だから、そんなとき、僕はただ黙《だま》っている。そして、里香のそばにいる。同じようにそばにいるのであろう死を、少しでも里香から遠ざけるために。
僕は願う。
いつでも、どんなときでも。
(里香をつれていかないでください――)
そう繰《く》り返《かえ》す。
かつて僕の願いはこの町を出ていくことだった。大きな町に住み、人混《ひとご》みにまぎれ、いろんなものを見て、ときには泣きたくなったり情けなくなったりすることもあるだろうけれど、ただ故郷《こきょう》で安穏《あんのん》と暮《く》らす生活に比べればそのほうがずっとマシだと思っていた。
今だって、そう思っている。
けれど、僕が手にしているぬくもりは、そんな夢よりもずっとずっと確かで強かった。そのぬくもりに触れていられるのならば、なにを失ってもかまわなかった。
だから僕は願う。
(里香をつれていかないでください――)
もし死神の姿が僕の目に映《うつ》るなら、二度と起きあがってこられないようボコボコに殴《なぐ》ってやるのに。
ある夜、消灯《しょうとう》時間の前、いつものように里香《りか》の病室にいると、
「ねえ、裕一《ゆういち》」
里香が言った。
「あんたも大変《たいへん》よねえ」
妙《みょう》にしみじみした言い方だったので、僕は警戒《けいかい》した。
今度はなんだろう?
パンを買ってきてよ、だろうか。喉《のど》が渇《かわ》いたからなにか飲み物がほしいな、だろうか。きっと里香のことだから、どんなジュースを買ってくるか尋《たず》ねても答えないで、裕一に任《まか》せるとか言うのだ。それで僕が買ってきたものを見るなり、こんなの嫌《いや》よ別の買ってきて、などと言うのだ。
ああ、我ながら、なんて茨《いばら》の道を選《えら》んでしまったんだろう。
「なんだよ」
僕は覚悟《かくご》して、立ちあがろうとした。
だが、次の瞬間《しゅんかん》、里香の口から出てきたのはこんな言葉《ことば》だった。
「あたしの面倒《めんどう》なんて見なくていいのに」
「お、おい、どういうことだよ……」
「だって、あたし、いつまで生きるかわかんないよ。明日、ふいっていなくなっちゃうかもしれないよ。ほんとにほんとにそうなるかもしれないんだよ。はっきり言っておくけどね、あたしのそばにいてもいいことなんてなにもないからね。辛《つら》いばっかりだから」
誇張《こちょう》でもなんでもなかった。
それは真実だった。
僕の手のひらで輝《かがや》いている宝石は、いつこぼれ落ちてしまうかわからない。どんなに強く握《にぎ》りしめていても、落とすまいと誓《ちか》っても、気がついたそのとき、宝石はすでに僕の足元で粉々《こなごな》に砕《くだ》け散《ち》っているだろう。
里香は笑っていた。
すべてを覚悟《かくご》し、笑っていた。
彼女の笑《え》みを見ていたら、
「そんなことないよ」
なんて言葉は言えなかった。
里香はもう、自分の運命を知っているんだ。すべてを諦《あきら》めてしまったんだ。あの日、砲台山《ほうだいやま》に行った日、死ぬ覚悟を決めてしまったんだ。
僕はうつむいた。
「それでもいいよ……」
声が少しかすれた。
本当なら、もう少しいろいろな言葉《ことば》を使って、里香《りか》に気持ちを伝《つた》えたかった。でも情《なさ》けないことにその言葉が出てこなかった。顔を上げると、里香が僕を見つめていた。里香の顔から笑《え》みは消えてしまっていた。そのとき、里香の顔に浮《う》かんでいた表情はなんだったんだろう。僕はよくわからないまま、ふたたびうつむいていた。
どこか遠くのほうから、亜希子さんの足音が響《ひび》いてきた。ペタペタという看護婦《かんごふ》さん特有の足音なのだが、亜希子《あきこ》さんはそのリズムが少しばかり荒《あら》っぽいのだ。きっとまた怒《おこ》ってるんだろう。誰《だれ》かを怒鳴《どな》り飛《と》ばしたあとなのかもしれない。
亜希子さんの足音が聞こえなくなったちょうどそのとき、里香が口を開いた。
「あたし、手術受けるかもしれない」
意外《いがい》な言葉に、びっくりした。
「え、だけど、大丈夫《だいじょうぶ》なのか? すごく難《むずか》しいんだろ?」
うん、と里香は肯いた。
「でも、手術をしないと、だんだん命が短くなるだけだから」
「…………」
「手術をすれば、まだ可能性《かのうせい》があるんだって」
少しの間《ま》があった。
「覚悟《かくご》、できたから」
そして里香《りか》は、裕一《ゆういち》のおかげで、と小さい声でつけたした。
たった今里香が言った『覚悟』が、砲台山《ほうだいやま》で言った『覚悟』とは違《ちが》うことに、しばらく気づかなかった。あのとき、里香はこう言った。死ぬ覚悟ができた、と。でも、里香が今、口にした『覚悟』は、生きつづけていくためのものだった。だからこそ、危険《きけん》な手術をわざわざ受けるんだろう。ということは、どこかの時点で、『覚悟』の意味が変わったんだ。
どうしてなのか、それがいつなのか、僕にはわからなかった。
わかる気もしたが、恥《は》ずかしいのでわからないことにした。
里香の顔は真っ赤だった。恥ずかしがり屋の里香にしてみれば、それはたぶん精一杯《せいいっぱい》の表現だったのだろう。
僕はといえば、どう言葉を返していいかわからず、
「う、うん」
とか、やっぱり真っ赤になりながら言うのが精一杯だった。
恥ずかしさをごまかすために、僕たちはそろって窓の外に目をやった。
神宮《じんぐう》の森が見えた。
砲台山も見えた。
半分の月があの夜と同じように輝《かがや》いていた。
シリウスも輝いていた。
その光が僕たちを淡《あわ》く照《て》らしていた。
最後にひとつ。
多田《ただ》コレクションは僕のベッドの下におさめられている。時々、悪友どもがやってきては、一冊二冊と持っていく。それは今、戎崎《えざき》コレクションと呼《よ》ばれている。
里香には秘密《ひみつ》にしてある。
もちろん。
[#地から2字上げ]おわり
[#改ページ]
あとがき
ちょいと田舎《いなか》のほうに引《ひ》っ越《こ》したのですが、あたりに野良猫《のらねこ》がわりと多く、うちの軒先《のきさき》にも次々やってきます。でもって、うちにも猫が二|匹《ひき》ばかりいるわけで、必然的《ひつぜんてき》に猫の威嚇合戦《いかくがっせん》がはじまるわけです。野良猫は威勢良《いせいよ》くフシャアーッと声をあげるんだけど、うちの猫一号のほうはウニャアッと妙《みょう》に可愛《かわい》らしい声なんですよ、これが。
あのー、威嚇になってませんよ、猫一号さん?
おおらかな性格の猫二号に至っては威嚇する気さえないみたいで、野良猫さん(威嚇中)をぼーっと眺《なが》めてるし……。
大丈夫《だいじょうぶ》なのかな、うちの猫どもは。
まあ、猫話はこれくらいにして。
この『半分の月がのぼる空』は、『電撃hp22号』に掲載された短編をベースにしています。
もともと読みきりの予定だったのですが、これがなんと読者アンケートで一位になってしまったため(めでたいっ!)、それじゃあ文庫にしてみようかという話になって、こうしてみなさんの手に届《とど》いているわけです。
ただ、『電撃hp』への掲載には紆余曲折《うよきょくせつ》ありました。
「短編書いてねー。文庫|換算《かんさん》五十頁くらいでー」
とか頼《たの》まれたのが最初。
「わかりましたー。五十頁っすねー」
そう返事したのはいいものの、これが書いても書いても終わらない。書いておきたいシーンが次々と出てきて、気がついたら予定の五十頁は軽く突破《とっぱ》し、しかもまだ終わりそうもない。
ようやく書き終わってから枚数を確認したら……やべえ、倍以上になってる……つか三倍はあるような……どうしよう……。
しばらくウンウン悩《なや》んだ末、諦《あきら》めて震《ふる》える手で編集部に電話しました。
「あのー、とんでもなくいっぱい書いちゃったんですけど」
「ずいぶん長く書いてるから、きっとそうだと思ってたよ。で、どれくらいあるの?」
「た、たいしたことないですよ。に、二百頁にちょっと欠けるくらいで……」
「……(絶句《ぜっく》)」
雑誌《ざっし》には予定の掲載量ってのがあるわけで、多少《たしょう》は融通《ゆうずう》きくものの、とてもどうにかできる分量じゃなかったわけです(←橋本が悪いんです、しくしく)。しょうがないから泣《な》く泣《な》く本文を削《けず》ったものの、それでも予定の掲載号には入らなくて、その次のにも入らなくて、ようやく『電撃hp』に載《の》ったのは二号あとでした。
そのときから、文庫にならないかなー、と思ってたわけです。なにしろあちこち削《けず》ったし、どうしても書いておきたいシーンまでばっさりやったし、オリジナルの長編バージョンをこのままにしておきたくなかったんで(『電撃hp』に載った短編バージョンもかなり気に入ってますけどね。あれはあれでうまくまとまったと思うし)。
『電撃hp22号』の読者アンケートに『半分の月』と書いてくれたみなさん、本当にありがとう。感謝《かんしゃ》しています。この物語がこうして書店に並《なら》んでるのは、みなさんのおかげです。
あと、内容というか、設定《せってい》で少しばかり補足《ほそく》を――。
この物語は僕の故郷《こきょう》である三重県|伊勢《いせ》市を舞台《ぶたい》にしています。ただ、僕が伊勢を離《はな》れてからずいぶん長い時間が過《す》ぎてしまっているため、現在の伊勢とは微妙《びみょう》に違《ちが》っています。また、裕一《ゆういち》と里香《りか》が入院している病院は実在《じつざい》の病院をモデルにしているものの、それは伊勢から少し離れた場所にあります。
現実の伊勢ではなく、僕の思い出の中にある伊勢って感じでしょうか。
この話はもう少しだけ続きますが、これからも伊勢の風景《ふうけい》を出していこうと思ってます。たとえば、ま○ぷく食堂とか。ま○ぷく食堂は駅裏にある学生|御用達《ごようたし》って感じの定食屋なんですが、とんでもない量のご飯を出します。下手《へた》に大盛《おおも》りを注文すると、もう絶対《ぜったい》食べきれないという恐《おそ》ろしい定食屋です。食っても食っても減《へ》らないご飯の量に、これはなにかの陰謀《いんぼう》なんだろーかと涙目《なみだめ》で思うほどです。しかも、なぜか卵系ドンブリにもコショウがきいてたりします。この前、久しぶりに食ってきたんですが、やはりとんでもない量で、そしてコショウききまくりでした。なんであんなにコショウかかってるんだろう……。
それから、商店街の中にあるお好み焼き屋のおばちゃんがまたすごい。焼き方|指導《しどう》をしてくれるんですが、とんでもない指導なんですよ、これが。
「ほら、この大きさに生地《きじ》を広げるんだよ。よく見ておきな」
とか言って、鉄板《てっぱん》に両手を押《お》しつけるおばちゃん。
その鉄板、もう火が入ってます。
おばちゃんの手がじゅうーっと音をたててます。
焼けてます焼けてます、手。
でもまったく平気そうな顔してます、おばちゃん。
「わかったかい? これくらいの大きさだよ」
わ、わかりましたから、その手を鉄板から離してください(汗《あせ》)。
まだあのおばちゃんは元気なんだろうか?
では最後に謝辞《しゃじ》なんぞ。
今回初めて組ませてもらうイラストの山本《やまもと》さん、これからよろしくです。デザイナーの鎌部《かまべ》さん、『電撃hp』掲載時《けいさいじ》の月のロゴとかすごく気に入ってます。ありがとうございます。それからいつもお世話《せわ》になりっぱなしの編集|徳田《とくだ》さん、相変わらずわがままでごめんなさいです。マジで感謝《かんしゃ》してます。
そして、この本を手に取ってくれた読者のみなさん――。
今回初めて橋本の本を読んだという方もいると思いますし、以前から読んでくれている方もいると思いますが、本当にありがとうございます。もしよろしければ感想など聞かせてください。できるだけ返事はさせていただくつもりです。
なんでもないことだけれど、過《す》ぎてしまうとやけに懐《なつ》かしく思える風景《ふうけい》。心の中に残っている、さまざまな思い出や感情のカケラ。消えてしまったと思っていたのに、ふいに蘇《よみがえ》ってくるぬくもり。
誰《だれ》だって、そういう「なにか」を持ってますよね? 僕にもあるし、みなさんにもきっとあるはずです。
この物語では、そういう「なにか」を書いていこうと思っています。
最初の一行が決まっているので、次巻はわりと早く出る予定です(たぶん)。
[#地から2字上げ]二〇〇三年夏 橋本《はしもと》 紡《つむぐ》