無花果《いちぢく》少年《ボーイ》と瓜売《うりうり》小僧《ぼうや》
橋本 治 著
男の子と女の子は、一体どちらが大変なんでしょう? どちらも多分おんなじように大変なんでしょう。でも、こんなことは言えるかもしれません。女の子は努力すればいいけれども、男の子は努力なんかしたってダメなんだって。
今の世の中、男の子はどう努力したらいいのか分らないんです。
磯村くんは多分、そんなことを考えていました。考えていたんだと思いますよ。どうしたらいいのか分らないまんま努力なんかしたって、なんの意味もないんだって。
磯村くんはそんなことを考えていたんだけれども、でも、そんなこと考えたってなんにもならないしなァ……と思っていたのでした。
という訳で、磯村くんはものを考えるのをやめてしまいました。
今の世の中、誰も他人の生き方なんかに関心を持ってはくれません。誰にも注目されないでこっそりと生きて行くことなんて、つらいことです。そんな風に思ってもいい年頃が、磯村くんの年頃でした。
誰かに分ってもらいたいことだけは確かだけれども、誰に何を分ってもらいたいのかはさっぱり分らない……。
磯村くんは何も考えないで、そんなことを分ってくれる人がやって来るのだけを待っていたのかもしれません。
だから、なんにも考えないで生きて行ってしまう時間というのは、一番哀しい時間なのかもしれません。人は、自分がそんな風にして黙って人生を生きているんだなんてことを、なかなか考えつきはしませんからね。
という訳で、木川田くんだって、なんにも考えてなんかいなかったのです。
お互い向き合って生きていながら、でも実際はお互いに向き合っている他人のことなんて少しも考えられないということだって、ホントはざらにあることなんですね。人間、やっぱり自分のことを中心にして考えてしまうし、そんなわがままはなかなか許してもらえないことぐらい知っているし、って。
だからそれをわがまま≠セって言うのは、ホントはつらいことなんですね。
ひょっとしたら木川田くんは、ズーッとものなんか考えてなかったのかもしれません。絶対にどうにもなりっこないことをいつまでも考え続けているほど、人間はバカじゃありませんから。やっぱり、誰だって、意味もなくすさんでなんか行きたくないし。それだったらいっそ、見るかいのない夢だけ見ていればいいし、って。
人間誰だって、自分が見えなくなっちゃう時ってあるんですよね。男の子だって、女の子だって。でも、男の子の場合可哀想なのは、「そんなのは一時の迷いだ」って、すぐ人から言われちゃうことなんですね。人が言わなかったら自分で言うし。
誇り≠チて、なんとなく哀しいものなんですね。
自分が見えなくなっちゃってるのに、そんなこと重々知りながら「そんなことない!」「そんなこと大したことじゃない!」って自分に言い聞かせちゃう。見えないまんま人生を始めちゃって、でもそれを始めながら、「見えてない自分がそれを始めてる訳なんかないじゃないか」、そういつもどこかで思っている――。
という訳で、二人の主人公は、なんにもものを考えてはくれないのでした。
所は遠く都心を離れた川のほとりで、季節は春なんかまだ当分やって来そうもない冬の間で。だから、二人でなんにも考えないでいても、それはそれで十分にやっていけることではあったんですけれどもね。
間柄が寒いってことになかなか気がつけない人間だっているんです。外は寒いし、自分が寒がりだってことに気がついちゃうことだってあるし。
ストーブを焚いていれば、暖かくなるのは閉め切った部屋の中だけですけれどもね。
という訳で、二人の主人公が主役《かたりて》を降りちゃったので、この小説は突然、三人称で語られることになったんです。人生を始めちゃったら、誰だって小説の主人公をやってるような余裕っていうものはなくなっちゃうのかもしれませんけどもね。
「困ったもんだ」って、この小説の作者が言ったのかどうかはよく分りません(分らないんです)。でも、それよりも確かなのは、「いいよ、俺がやってやるサ」って、この小説の作者《かみさま》が言ったんだということでしょう。
言ったんですよ。「若いんだからしょうがないや」って。
もしも、この世の中に本当のやさしさというものがあるのなら、そしてそれを感じることが出来るなら、「絶対に僕だってまだまだ頑張ることが出来るんだ」って、そんなことを言わせたがってる人間だっているんです。そんなことが重要なことなんだって、自分の人生に忙しい主人公達が気がつくのは、まだまだ先のことなのかもしれません、けどね。
ともかく、わたくしは話を始めなくちゃならないんです。
(そうか、伏線というのもいるな――)
大丈夫さ、多分。君が人生の主役なんだもの。
そんな伏線≠セってあるのかもしれません。
人生なんて色々です。だから、物語だって色々にあったっていいんです。面倒臭いから、始めちゃいましょ。ホラ――
(始まりです)
磯村くんが家を出たい≠ニ思ったのは、十一月の真ん中辺でした。思ったらすぐ口に出しちゃう磯村くんは、だから、十一月の真ん中辺のお昼頃、キッチンのテーブルで母親の美穂さんにそう言いました。あのクラス会が終って、磯村くんはまだ大学の一年生で、榊原さんはまだ大学生になっていない年の、秋でした。
「ねェ、俺、一人で住みたいなァ」
磯村くんはそう言いました。
お父さんはお仕事で、お兄さんは大学で、講義のない磯村くんだけが、お母さんと二人で昨日の残りのまぜ御飯を温め直したお昼御飯を食べている時でした。
磯村くんが起き出して来た時間は遅かったにしても、寝呆《ねぼ》け眼《まなこ》でなんだか分らないものを詰めこんで、それで目を覚さなければならないような時間ではありませんでした。
磯村くんは、もうシャッキリとしていました。シャッキリしたまんま、お昼御飯になるのだけを待っていた磯村くんは、なんにもすることがなくてただ何かが来るのだけを待っている毎日に、もう飽き飽きしている自分に気がついたのです。
「ねェ、俺、一人で住みたいなァ」――だから磯村くんはそう言いました。そう言って、それだけが家を出たい理由ではないことに、磯村くんは気がつくのです。
「あら、どうしてよ?」
磯村くんのお母さんはそう言いました。磯村くんによく似て、目が丸くて色白のお母さんでした。
「どうしてって――」
磯村くんは言いました。言ったきり口ごもってしまったので、その磯村くんの様子は、お母さんに話しかけているというよりも、白いお茶碗の中のまぜ御飯に話しかけているみたいでした。
「どうしてって――」と言ったら、「どうしてなんだかよく分んないけど」と、うっかり自分の中で分ってしまった磯村くんなのでした。
「どうしてなんだかよく分んないけどサ、ただなんとなく」
磯村くんは言いました。
「ただなんとなくで一人住いされちゃったらたまんないわよ」――そうお母さんは言いました。
「どうして?」
磯村くんは言いました。
「さァね。それこそ別に≠諱v
お母さんは言いました。自分の、二人いる子の内の下の方の息子がまたなんだか訳の分んないことを言い出したと思っていたお母さんは、「訳の分んないことなら訳の分んない風に答えとく方がトクだわ」と思って、そういう風に言ったのです。
お母さんの横では、カラーテレビに映ったタモリが、なんだか訳の分んないことを言って笑っていました。お母さんは、磯村くんが見るんだろうと思って、『笑っていいとも!』を点《つ》けていたのでした。
「ねェ、だめェ?」
磯村くんは言いました。
「何を?」
お母さんです。
「だから、一人で住むの」
磯村くんがかなり本気な顔しているのを、お母さんは「なんの冗談だろう?」と思って見ていたのです。
「一人で住んでどうするのよ?」
お母さんは言いました。
「どうするって?」
磯村くんは言いました。
「だって、別にあなたが一人で住む理由なんてないじゃない」
「ないけどサ」
お母さんに答えて磯村くんは言いました。
「ないけど、一人で住みたいんだもの」
「あら、結構な御身分ねェ」
「だめェ?」
「だめ≠チて、だから何をよ?」
「だから、一人で住むの」
磯村くんのお母さんには、磯村くんがどうして一人で住みたいなんてことを言い出したのか、さっぱり分りませんでした。「この子は時々訳の分らないことを言うけど……」――そう思って、「言うけど、なんなんだろう?」と、磯村くんのお母さんは考えてしまいました。
「あなた、一人で住んで、どうするのよ?」
おんなじことをもう一遍、磯村くんのお母さんは言いました。
「どうしてって?」
磯村くんは、相変らず理由≠訊かれているのかと思って、そう聞き返しました。
「どうして≠カゃないわよ。あなた、一人でお掃除なんかするのよ」
磯村くんのお母さんはそう言いました。
「するよ」
磯村くんは言いました。
「お掃除じゃなくたって、洗濯だって、御飯だって、あなた一人でするっていうのよ」
お母さんの言ってることは、ちょっと分らない日本語でした。「そんなメンドくさいこと出来る訳ないでしょう?」――そういうドメスチックな方面から攻めて行ったら、この訳の分らない子の訳の分らない発言に勝てるかもしれないと思ったから、お母さんは少し口ごもったのです。
「やればいいんでしょ?」――磯村くんは言いました。
やれる!≠チて言ってるのか、ただ口だけでそんなこと分ってるよ!≠ニ言ってるのか、よく分らない磯村くんの言い方でした。
「具体的な裏付けのない発言なんて発言に値しないわよ」――そう言いたそうなのはお母さんでした。
「やれないと思ってんの?」
磯村くんは、空になったお茶碗を差し出しながらお母さんに言いました。
「やれって言えばやれるんでしょう?」
そして、空のお茶碗に冷たい御飯を入れて、それにラップをかぶせながらお母さんは思いました。「ああ、この子も自立≠オたがってるのかしら?」と。
お母さんにしてみれば、自立≠ニいうのはしなければならない義務≠ナした。義務≠セけれども、とっても難しいことで、あんまり深刻には考えたくないようなことでした。自分だってやっぱりしなくちゃいけないけど、それは後四年か五年先のことで、そういうことはあんまり人から言ってほしくないようなことでした。
「私だって無理なんだから、この子には無理に決ってる。だって、自立っていうのは学問とかそういうことじゃないんだから」――そんな風にお母さんは思っていたのです。
電子レンジのタイマーを「1分」に合わせて、お母さんは言いました。
「男の子だって自立した方がいいものねェ」
「そうだよ」
お母さんに自立≠ニ言われて、磯村くんはうっかりそう言いましたが、言ってから「絶対なんか、誤解が始まったな」と思ったものです。お母さんが流行語を使って、それで話のピントが合ったことはなかったからです。
「ねェ!」
何か思いついたように、お母さんは磯村くんの方に向き直りました。両手をテーブルの上について、磯村くんの方に突き出した表情は、キラキラと光っています。
「女の子でもいるの?」
お母さんはそう言いました。〈男の子〉―→〈独立〉―→〈結婚〉―→〈仲間はずれ〉―→〈そんなことになったらたまらない・私は平気〉―→〈だから自立=rと、いつの間にか出来上っていた思考のネットワークに自立≠ニいう言葉を反応させたお母さんは、「そうか!」と思って、先手必勝のゆとり《ユーモア》をこめてそう言ったのです。
「なんのことォ?」
磯村くんは言いました。
「違うの?」
お母さんは言いました。
「だから何が?」
磯村くんは訊き返しました。
「だって、あなたにガールフレンドの一人や二人いたっておかしくないでしょう?」
「おかしくないよ」
ふくれっ面をして磯村くんは言いました。自分のお母さんにそんなことを言われると、今この瞬間、自分の横におかわりシスターズの羽純ちゃん≠ナもいるような気になって、「なんでそういうリアリティーのないことを考えるんだろう」と思えたからです。
磯村くんは、「ひょっとしたら自分は、このユーモラス≠セけが取り柄の一家の団欒《だんらん》に飽き飽きしてんのかなァ……」と思いました。思って、「そんなことじゃないんだなァ」と思いました。
「自分は一人で暮したいって言って、そしてそれに、リアリティーがあるのかどうか知りたいと思ってたんだなァ」と、磯村くんは思いました。
「お母さんがだめ≠チて言ったらリアリティーはあるんだ。そう思ったから僕は、ねェ、一人で住みたいなァ≠チて言ったんだな」って、磯村くんは思いました。
切羽詰った訳じゃない。一人で住まなきゃいけない理由がある訳じゃない。何かに飽き飽きしてるってことに近い。そして、そうすれば何かに知らん顔することだって出来る。磯村くんはそんなことを思っていたのでした。
「ねェお母さん、僕のしてることって、後めたい?」
もっとはっきり言ってしまえば、磯村くんの訊きたいことは、そんなことでした。
木川田くんが帰って行ったのは、昨日のことです。「またお友達が泊りに来た」――それぐらいのことしかお母さんは考えていなかったでしょう。そして実際も、それぐらいのことだけでした。
一昨日は、ただ磯村くんのベッドに、木川田くんが寝てたというだけです。勿論、磯村くんもそこに寝てましたけど。
咋日の木川田くんは妙に元気で、ただ磯村くんの首に腕を回しただけで、そのまんま眠ってしまいました。
木川田くんに勝手に先に眠られて、磯村くんは、パッチリと目をつぶっていただけでした。「別になんでもないんだけどサ」――ベッドの中で目をつぶって、ズーッとそんなことを考え続けているのは、やっぱり、疲れることです。「一体こいつは何考えてるんだろう?」と、「僕は一体なんで他のことを考えるんだろう?」っていうのを替りばんこに考えるのは、ほとんど意味のないことです。結論は、「ひょっとして僕って異常≠ネのかな?」っていう、そこにしか行きつきません。
「一体、僕はどうして木川田と会ってるんだろう?」
「一体、どうして僕は木川田に会いたいと思うんだろう?」
「木川田と会ってるとどうして落ち着くんだろう?」
「木川田と会ってるからって、別に嬉しい訳でもないんだけど、でも――」
「どうして木川田と会ってないと落ち着かないんだろう? でも――」
「別に木川田と会えないからってソワソワしてる訳でもないし――、でも――」
「木川田から電話がかかって来るかなァ、とか思うと妙に落ち着かなかったりするし――、別にヘンなことしてる訳じゃないんだけど――」
でも別に、ヘンなことをしてない訳じゃないんです。
でも、ヘンなことをしない時だって、あるんです。
木川田くんは妙に落ち着かないし――時々は情緒不安定みたいだし――。
そんな時は「やっぱり僕がついててやらなくちゃいけないのかなァ」って磯村くんは思うし、でも、木川田くんだって、いつだって元気がない*でもないし――。
そんな時は「やっぱり僕は、木川田に必要にされてないのかなァ……」とか思って、寂しい思いをする磯村くんではありました。
「ねェ? 僕のしてることって後めたいこと?」――いっそのことそんな風に言っちゃおうかなァって、磯村くんはどっかで考えていたんです。
でも、「僕のしてること≠チて、一体どんなことなんだろう?」――そう思うと、磯村くんはなんにも考えられなくなるんです。
そんな風に思い始めて、自分の心の中から自分が具体的にしてること≠チていうのを拾い出し始めると、「あ、別にそういうことはしてないんだ」って、磯村くんは、別に大したことのない、後めたくないこと≠ホっかり拾い集めるから、何も考えずにすんでしまうのでした。
よく分りません。
分っていたのはたった一つ、どこかで磯村くんが、「このまんまだと、なんか、ヘンな具合に僕は追いつめられちゃうなァ……」って考えていたということだけです。それはどこか、「もうしばらくしたら私だって自立≠オなくちゃいけないわ」って考えている、磯村くんのお母さんの落ち着かなさ≠ニ似ていました。
なんとかしなくちゃいけないけど、でもよく考えたらホントになんとかしなくちゃいけない≠フかどうかよく分らない――あんまりそんなことの必要性なんか考えたくない、というような――。
電子レンジが「チン!」と鳴って、タイマーが止まりました。熱い御飯が湯気でクシャクシャになったラップの下から現われました。とてもさっきまでは冷や御飯だったものとは思われないようなホッカホカさでした。
「結局、ここは御飯を食べるところで、訳の分らないモヤモヤを相談するところじゃないんだな」――そんな感じで、磯村くんは御飯を食べていました。
「一人で住むって、なんかアテでもあるの?」
お母さんはそう言いました。いい≠ニもいけない≠ニも言えないのは、この子≠ェどういう気で言っているのか、それがまだお母さんには分らなかったからです。
「別に」
磯村くんは言いました。「いきなりそんな具体的なこと言われたって、別にまだそんなこと考えてないしサ」――磯村くんがそう言いたがっていたことは確かでした。何故かと言えば、「別に」とだけ言った磯村くんは、その日初めて不機嫌な顔≠見せたからです。
「いいかな?!」――テレビの向うで誰か≠ェそう言いました。
「いいとも!!」
「バカな奴等がそう言ってる」――磯村くんは思いました。「あれぐらいのことだったら、僕だって出来るサ」――テレビに出ているいいとも青年隊≠フ屈託のない笑い顔を見て磯村くんはそう思いました。
「ねェ、お母さん、どうして家のまぜ御飯てこんなに人参ばっかりなのサァ!」
磯村くんは言いました。
「だってあなた達、好きじゃない」
お母さんはそう言いましたけど、でもホントは磯村くんは、「いいのよ、別に心配しなくたって。いつまでも家にいらっしゃい。何も悪いことしてないんだからあなた達≠ヘ」って、そうお母さんに言ってもらいたかったんです。
でももう無理ですよね。お母さんはお人好し≠ノなってしまったし、磯村くんは髭がある年頃になっているんだから。
「やっぱり僕、一人で住まなくちゃいけないのかな?」
磯村くんは茶碗の中のまぜ御飯を見て、そんな風に思いました。昔、磯村くんのお兄さんが人参が嫌いだったから、それを治そうと思って、磯村くんのお母さんは、人参のミジン切りの沢山入ったまぜ御飯を作ったのです。
「おいしい、おいしい」と言って食べていたのは小さい時の磯村くんですが、でもよく考えたら、別に磯村くんは、人参なんか好きでも嫌いでもなかったんです。
「家の御飯て、こういうんだなァ……」
磯村くんは、黙ってお昼を食べていました。
「あなた、お布団干したの?」
お母さんは言いました。
「ウン」
外はいいお天気で、磯村くんはその日の朝起きるとすぐに、ベッドの上掛けをお日様に当てたのでした。(別に、深い意味なんかないですけどね)
空は、ゆっくりと曇り空に向って進んで行きました。
「ねェ、木川田さァ」
次に磯村くんが一人で住みたいと言い出した相手は、木川田くんでした。
「僕、一人で住みたくって」
磯村くんは言いました。
磯村くんは、まだ一人で物事を決めることが出来なかったのです。
「いいんじゃないの」
木川田くんは言いました。場所は、新宿の高層ビル街の喫茶店で、木川田くんはいつものように、気取って煙草をふかしていました。
「うん」
磯村くんは言いました。
「なんかサァ、一人で住んでみたいって、思うんだよねェ」
可哀想に、磯村くんは目の前に人間がいるのに、なんにも答えてもらえないで、ただ一人言を言っていたのです。
「そうだよなァ」
木川田くんも言いました。
「俺も一人で住みてェなァ……」
やっぱり木川田くんも、一人言しか言えなかったのかもしれません。
「あ、君ならサァ、一人でも住めんじゃないの」
木川田くんの言葉に、パッと胸の中に電灯がついたみたいな気のした磯村くんが言いました。
「どうして?」
自分の一人言の邪魔をされた木川田くんは、なんか、おもしろくもなさそうな顔をしてそう言いました。
「だってサァ、君だったら金持じゃない」
「こういうこと言うから、こいつはダセェんだよなァ」
木川田くんは、磯村くんの無邪気さを少し憎たらしく思いました。
「金なんかねェの」
木川田くんはそう言いました。
「フーン」
「木川田の何か≠知ってると思ったのに、でももう自分の知ってる情報って、決定的に時代遅れになっちゃったんだよなァ」、そう思った磯村くんは、少しがっかりして黙りました。
「僕っていつも遅れてんだ」――そう思うと磯村くんは、いつも確実に、つらくなるのです。「自分てホントに、世間知らずだなァ」と思って。
磯村くんにしてみれば、あれだけ金遣いの荒い木川田くんなら――洋服だってバンバン買っちゃうし、タクシーだって平気で乗っちゃうから――絶対に、お金持だと思っていたのです。もしも自分があれだけお金を使えるのなら、自分は当然、その三倍ぐらいの貯金を持っている筈だ――そうじゃなかったら安心してお金は使えないって、磯村くんは思っていました。だから、なんの根拠もないのに磯村くんは、木川田くんのことをお金持≠セと思っていたのです。
「バーカ」――磯村くんは木川田くんにそう言われたみたいな気がしました。
「世の中はそんな風に出来てんじゃねェの。お前みたいのが知らねェことって一杯あんの。お前なんかなんにも知らねェの」――磯村くんは、木川田くんにそう言われてるみたいな気分になって来るんです。そして実際、磯村くんのことをそれに近い感じで木川田くんが思っていたということもあります。
ありますけども、磯村くんは「木川田はそんな風には思わないだろうけどサ」と思っていましたし、木川田くんは「こいつには絶対そういうことって分んねェんだよなァ」と思っていました。
ホントのことがいつだってストレートに伝わるとは、限らないのです。
「あーあ」
木川田くんが言いました。
「でもさ」
強化ガラスの窓の外を眺めている木川田くんに向って、磯村くんは言いました。「木川田はこういうとこの景色見ててもなんか感じんのかもしんないけど、でも僕はあんまり都会の光景≠ネんか好きでもないもんなァ」――磯村くんはそう思っていました。
「僕――」
レモンスカッシュのストローを突っつきながら磯村くんが言いました。
「木川田が、どっかに住んでてくれたら、楽なんだけどなァ……」
「なんで?」
木川田くんが振り返って言いました。よくある、無表情な顔≠ナす。現実によくある無表情な顔≠ナはなくって、芸能人がよくやる、ナウいなんにも考えてないけど深い意味がある≠ニいうような、ハイテックな無表情です。
「うん……」
うつ向いて言いたいことを、パッと木川田くんに振り返られてしまったのでそうすることが出来なくなってしまった磯村くんは、少し困りました。それで、磯村くんはグラスの中にある透明な氷を眺めるしか出来なくなりました。木川田くんにそういう顔をされると、磯村くんは、なんか、自分の中にあるよく分んない部分≠ェ見透かされるみたいで、いやだったんです。
「別に、深い訳がある訳じゃないんだけどサ……」
磯村くんは言いました。
「ふーん……」
木川田くんだって何か、磯村くんに決定的なこと≠言ってもらいたかったのかもしれません。決定的なこと≠ニいうのが何かは分らなくても、やっぱり木川田くんだってすべてがこのまんまじゃヤだ≠ニは思っていたからです。
「たださ、やっぱりサ、なんかね」
磯村くんは言いました。「黙ってればうまく行くのに、でも黙ってるとやっぱり気づまりで、でも、口をきいた途端もっと気づまりになるな」って、口を開いてからそう思いました。
もっと簡単にすべてがうまく行く人間関係だってあったっていいじゃないか!! なんだって僕たちはそういうことが見つけられないんだよォ!!
意味もなく大きな字で、磯村くんの無意識は叫びました。
普通、無意識というのは誰の耳にも聞こえないことになっているので、誰もこういう字幕が出たことは知りませんでした。
誰も簡単なことを知らないでいるから、物語というものは煩雑《はんざつ》なものになって行くのです。
磯村くんは、自分が作り出してしまった沈黙に耐えられなくなってしまいました。
「なんかサァ……まァね、僕……、やっぱり、君ン家《ち》に電話すんのって、いやなんだよね」
磯村くんは言いました。
「うん」
木川田くんも言って、二人揃って「行き止まりからやり直すしかないな」と、二人は別々にそう思いました。
大体、磯村くんは木川田くんが好きだったんです。そして、そもそもの初めを尋ねれば、誰でもいいから、磯村くんは誰かを好きになりたかったんです。誰かを好きになりたいのに、でも誰も、磯村くんが好きになれるようにしてはくれなかったんです。「みんな、こういうことで仲がいいのか」って思って、磯村くんは、あんまし面白くもなさそうな世の中全体を眺めていました。親子≠ニか家族≠ニか兄弟≠ニか学校≠ニか友達≠ニかその他いろいろ≠ニか。女の子≠ニいうのは、ただ自分が好きになってもらえるのを待ってるだけで、好きになったからってちっとも面白いもの≠磯村くんにくれたりはしませんでした。ほしくもないものばっかり山と積んであって、それで、「さァ、ここにあるのはあなたのほしいものばっかりですよ!」と大声で怒鳴っているバーゲン・セールのようなものでした――磯村くんにとっての世の中≠ニいうものは。
そんな磯村くんにとって、ただ一人、木川田くんだけは関係のない人≠ナした。だから磯村くんは、木川田くんを好きになったのでしょう。
他の人はみんな、磯村くんから何か≠持って行きます。磯村くんにとって、他人との付き合いというのはそういうものでした。
いつも他人がやって来て、その他人という人は、磯村くんから見ればいつも確固≠ニしていて、その確固としている基準を元にして、磯村くんを「こっち来いよ!」と交友関係の中に引っ張って行くのでした。
別に交友関係≠ノ限らず、すべてにわたってそうでした。磯村くんは、いつだって受け身だったんです。
別に、磯村くんはいつだって受け身でいなくちゃならないほど臆病な人間ではなかったのですが、磯村くんがなんかしようとする前に、いつだって世の中は出来上って≠「たり確固≠ニしていたりしたもんだから、「ああ、自分の都合だけで人に迷惑をかけたりしちゃいけないな」と思って、磯村くんはいつも、受け身になっていたのでした。
中学生の時女の子にいたずらされたのだって、高校生になって松村くんに押しかけられて来たのだって、よく考えてみればみんなおんなじことでした。
「なんか、よく分んないけどみんなそうしてろって言うからな」って、磯村くんは思ってました。そうしてろ≠チていうことがどういうことなのかは分らないのですが、そうしてた内に、自分はなんにも出来なくなっていたんだっていうことに磯村くんは気がついたのです。木川田くんと付き合って、そういうことが分ってしまったのです。
木川田くんは、磯村くんにはなんにもしてくれませんでした。磯村くんになんにも要求しないかわりに、なんにもしてはくれませんでした。木川田くんは決定的にそっぽを向いていて、磯村くんのことなんか、相手にしてはくれなかったからです。
木川田くんは、ズーッと別の方ばっかり見ていました。木川田くんというのはそういう人なんだと、磯村くんは思っていました。だから、木川田くんと付き合っていれば、磯村くんは自分が自由になれると思っていたのです。
なにしろ木川田くんはそっぽを向いているのです。磯村くんが何をしようと、指図《さしず》がましいことは一切言いません。磯村くんが何かを相談すればその相談には乗ってくれますが、でも、木川田くんは、磯村くんとは全く関係がないんですから、別になんにもない時に一々磯村くんに何かを言う理由というのはなかったのです。
木川田くんは、先輩≠フ滝上くんが好きでした。それだけで、それ以外は一切がどうでもよかったんです。
だから木川田くんは、自分がどんな風にして生きているのかなんてことは、少しも考えませんでした。滝上くんのいないところは現実≠ナはないのですから、別に生きる≠烽ヨったくれもなかったのです。
木川田くんは、ロマンチックな自分自身の妄想の中で生きていました。滝上くんがぼんやりしていてなんにも分らないでいたことが、木川田くんの妄想を増殖させるのに役に立ちました。何があろうと、木川田くんには自分自身のロマンチックな砦≠ニいうものがありましたから、どんな悲劇でも、そこへ逃げこんでしまえば、つらくなる必要なんかはなかったのです。
そんな木川田くんは、曖昧《あいまい》でぼんやりしているくせに、どこかで断固として確固とした人間でした。だから、そんな木川田くんを前にすると磯村くんは――ほとんど想像を絶した比喩ですが、まるで話の分る奔放なお母さん≠ニ一緒にいるみたいな安らぎを感じられたのでした。
そのお母さん≠ヘよその男の人と恋愛をしています。そのお母さん≠フ過剰な母性愛≠ェ男の子に降りかかって来る心配はありませんでした。よく考えたら、磯村くんと関りを持っている人はみんな、磯村くんにとっては過剰な母性愛の人≠セったのです。だから磯村くんは、「悪いな」と思って、受け身になっていたのです。
でも、木川田くんという変ったお母さん≠ヘ違いました。このお母さん≠ヘよその男の人と勝手な恋愛をしているので、男の子を盲愛する畏《おそ》れがなかったのです。このお母さん≠フ子供である磯村くんにしてみれば、この奔放なお母さん≠ヘ、奔放だからこそ初めて、話の分る友達≠ナもありました。そして、このお母さん≠ノは旦那さん≠ェいなかったのです。旦那さん≠ェいなかったから、このお母さん≠ヘ、よその男の人と勝手な恋愛をしていたのでした。
勝手な恋愛をしていて、時々うまく行かなくなると「ねェ薫、お母さんどうしよう?」って相談を持ちかけて来るような、そんな子供みたいなお母さん≠ナもありました。
たとえ磯村くんが本当に子供≠ナあっても、一方的にお母さんから「ああしなさい! こうしなさい!」ばかりではいやになります。だから、磯村くんにとっては、木川田くんという子供と対等になってくれるお母さん≠ニいうのは嬉しい存在だったのです。木川田くんがニコッ≠ニ笑うと磯村くんがホッとしたというのは、実はそういう訳でした。
「お母さん、心配しなくていいんだよ。お父さんがいなくたってサ、僕達二人でチャンとやって行けるじゃない」――そう言ってお母さん≠励ましてあげられると、「僕だってチャンとした男の子だ!」っていう自信が磯村くんには生まれるのでした。
でも、このお母さん≠ヘ――奔放な恋愛をして自由に生きていた(筈の)お母さん≠ヘ――その男の人に、捨てられてしまいました。今まで自由に生きてるお母さん≠ニ二人だけだった明るい母子家庭は、暗い母子家庭に変ってしまいました。
これでお父さん≠ェいてくれたらなんとかなったのに、でも、このお母さん≠ノは初めっからお父さん≠ェいなかったのです。いなかったから、この男の子達二人は、母子家庭≠フ比喩《アナロジー》で語られなければならなかったのです。
ここでいうお父さん≠ェなんなのかは、よく分りません。まだ、よく分らないことにしておきます。ただはっきりしていることは、磯村くんと関係のある他のすべてのお母さん£Bには、みんなお父さんがいたということです。
お父さん≠ェいるのにも拘らず、そのお父さん≠ほっぽり出して、男の子≠ナある磯村くんにだけ一方的な愛情を注ぐばっかりだから、それで磯村くんは、他のお母さん達≠ェいやだったんです。
「お父さん≠ヘどうなるんだよ! そういうものほっぽらかして僕にばっかり向って来たって、近親相姦≠竄髢に行かないだろ!」
磯村くんは、そういう比喩をもし使えるのなら、そういう言葉を使って怒鳴っていた筈でした。そして、「そういう覚悟があるんならいいけどサ、でも、そんな気もないくせにあら、いやらしいわね≠ホっかりで、自分のベタベタした感情を隠そうとするんだ!」って、健全なお母さん達≠憎んでいました。抱きしめんばかりに愛しているくせに決して抱きしめようとはしてくれない、健全なお母さん達≠。
磯村くんにとって、木川田くんは本当にお母さん≠ナした。「行くとこまで行ったっていいじゃないよ、愛してるんだから」って、平気で言ってくれちゃうような、そんな奔放なお母さん≠ナした。
でも、やっぱり磯村くんだって近親相姦≠ヘいやだったんです。お父さん≠ェいなくて孤独だからって、いつまでも自分のベッドの中で泣いているだけのお母さん≠ヘいやでした。磯村くんが好きだったのは、そんなうっとうしいお母さん≠ナはなかったからです。
「行くとこまで行ったっていいじゃないよ、愛してるんだから」と平気で言えちゃうお母さんは勿論、そんなことをしようとは思わないお母さんでした。行くところまで行った時、磯村くんはそれに気がつきました。
磯村くんはズーッと、「僕は平気だ!」と思っていました。「僕は平気だ!」と思えない自分は、常識にとらわれているつまんない自分で、うっかり「困ったなァ……」と思いかけた時、磯村くんはそういうつまんない自分≠ェ自分の中にいたことを知ったのです。九月のある晩、道で木川田くんにキスされた時、磯村くんは一瞬「困ったなァ……」と思いかけたのです。
思いかけて、「僕は平気だ!」と思ったのです。他に誰もいない夜の道で、磯村くんは「僕が君を守ってやるからね」と、そっと一人で思ったのです。
でもよく考えたら、木川田くんは「守ってほしい」と磯村くんに言った訳でもないのです。ただ磯村くんには、木川田くんが全身で「僕のことを助けてよ」って、言ってるように思えたのです。
確かにその時木川田くんはそう思っていたのでしょう。そう言っていたことでしょう。でも、木川田くんがそのことを、はっきりと、磯村くんに向って言ったという訳でもないのです。
木川田くんは、自分以外の誰かに言いたくって言いたくって、それを言わせてくれたのがたまたまそこに居合わせていた磯村くんだった――という方が正解でしょう。
木川田くんは、磯村くんにただ「つらい」と言いたかっただけで、別に、磯村くんに助けてもらいたかった訳でもないのです。その時助けてくれる人がいたら、それは誰でもよかったというだけなのです。
磯村くんも、うっすらとそんなことは感じていました。感じていて、その方が好都合だと、どこかで思っていました。だって、男の木川田くんに百パーセント愛されちゃったら、磯村くんだって困ったからです。磯村くんは、別に男の人と愛し合いたいと思っていた訳ではないからです。
でも、別に男の人と愛し合いたいとは思っていなかった磯村くんだって、年頃の男の子です。別にセックスをしたくないと思っていた訳ではないのです。
電気がついてる時は明らかに相手が男≠チてことは分るけれども、電気が消えちゃったら、別に相手がなんだって分りゃしないサと、磯村くんだって男だから、そんな風には思っていました。勿論、男というものはみんなそういう風に思っているものですけれども、磯村くんにはそんな常識≠ェ存在するんだなんてことは知りようもありませんでした。
電気が消えて、なんだか分らないものが自分のそばにいて、なんだか気持のいいことをしてくれるんだったら、磯村くんは、なんの責任もとらないですむ訳ですから、こんなに楽なことはありません。磯村くんはそんな時、「ああよかった、木川田が別に僕のことを愛してるっていう訳じゃなくって」と、そんな風に思いました。磯村くんは、自分でセックスをするのがつらかったんです。
一人でなんかしてると、やっぱり、寂しくなっちゃうんです。寂しくなっちゃうから、一人で、なんかするのなんか、いやだったんです。だからと言って、女の子とするのもいやなようでした。女の人が嫌いという訳ではなくて、磯村くんが、自分の潔癖さを捨てる気にはなれなかったからです。
女の子が「いい」って言ってくれたら、磯村くんに「やらして上げる」って言ってくれたら、磯村くんは、その瞬間から嘘つき≠ノなるのです。
決定的に好きになれるような女の子は一人もいなくって、「ひょっとしたら好きになれるかもしれないなァ」と思えるような女の子は、(まァ目をつむってうるさいことを言わなければ)結構いて、でも、そんな女の子と好き≠ノなる前にやっちゃったら、自分は絶対にその女の子を好きになる筈がないと、磯村くんは、確信をもって、知っていたのです。「だって、バカな女とメンドクサイつきあいするよりセックスしてる方がズーッといいもん」――それが、一番正直な答というものだからです。
「一遍セックスしちゃったら、自分が嘘つきにならない為にも、絶対に嘘臭い付き合い≠、その女の子と当分は続けるだろうな」
それが分っていて、それをする自分がバカの極みで許せなくて、「そういう自分でだけはありたくない。だってそんなウソクサイ男はゴマンといるもん」――磯村くんはそう思っていました。
早い話、嘘をつくだけの器量――能力といいましょうか――のなかった磯村くんは、潔癖になっているしかなかったのです。
そこら辺を女の子に突っつかれて「嘘つき!」なんて言われたら、今迄突っ張って来た自分の一貫性≠ェぶっ壊れちゃうと思っていたのです。
早い話、一貫性≠ネんかを問題にする、磯村くんの頭のよさがいけなかったのです。
磯村くんは、だからそこのところを、口を噤《つぐ》んで黙っていることにしました。口を噤むことは、みんなが揃ってやっていることです。
ヤバイのが確実だって言うような勝ち目のないことに対しては沈黙が最上なんだということぐらい、勿論、頭のいい磯村くんには分っていました。
だから、ベッドの中では訳知りになってしまう木川田くんは、磯村くんにとって、とっても都合がよかったのです。少なくとも木川田くんは、ベッドの中で「愛してる」なんてことを言い出すような、バカな女みたいな真似はしませんでした。たとえ木川田くんが「愛してる」なんて言ったとしたって、「まさかァ、男が男のことを愛してる≠ネんてヘンだよォ」という健全さが、そんな言葉の持っている奇妙な信憑性《しんぴようせい》を払ってくれるから、磯村くんには、相手が男だということがとっても楽だったんです。
相手が男だったら、相手が木川田くんで、男だったら、いくらでもシラが切れるから、磯村くんは嘘つき≠ノもいやな男≠ノもならずにすめたから、とってもとっても楽だったんです。
だったらなんにも問題なんかないじゃないかと言われたら、それで一番困るのは磯村くんです。
自分のずるさも、潔癖さも、大胆さも知っている磯村くんでしたが、それでもたった一つだけ分らないことが磯村くんにはありました。「確かに分らないことがある。それがなんだか分らないから僕は悩んでるんだ」――磯村くんは、ただその一点で途方に暮れて、悩んでいるといえば悩んで、いたのでした。
それでも磯村くんが悩んでいたことは、実は、とっても簡単なことでした。磯村くんは、実は、木川田くんが自分のことを愛してくれているのかどうかがよく分らなくて、それで悩んでいたからでした。
「ねェ、木川田さァ、僕、一人で住みたくって」――磯村くんはそう言いました。そしてそう言った磯村くんは、実は、木川田くんが「じゃァ一緒に住まない?」って言ってくれるのを待ってたんです。
待ってたけれども、でも磯村くんは別に、木川田くんと一緒に暮したい訳ではなかったんです。
木川田くんが「じゃァ一緒に住まない?」って言ったら、そしたら、「やだよォ、木川田と同棲するのなんてェ」って、そう言おうと思って、磯村くんは「ねェ、木川田さァ」と言い出したのです(実は)。
磯村くんは、木川田くんの支配≠ゥら脱け出したいと思っていました。そして磯村くんは、「俺も一人で住みてェなァ……」と木川田くんが言い出した時、やっぱり「なァ、磯村ァ、一緒に住まない? 俺が部屋探してくっから」と、木川田くんが言い出してくれるのを待っていたのです。
男の子は面倒なことに、プライドというような残酷なものを持っていたりはしたものなのです。
もしも木川田くんが部屋を借りるんなら、「僕は堂々と住んでやる」と磯村くんは平気で同居人になったでしょう。
でも、もし磯村くんが部屋を借りるんだったら、「時々は来てもいいよ」とだけ言って、磯村くんは木川田くんを同居人にはしなかったでしょう。
磯村くんは、他人の出方を見て、その時に自分の決断を下せばいいと思っていたのでした。「そうじゃなくちゃ僕には分らない(分りたくない)」と、磯村くんは、勝手に一人で決めていました。
磯村くんはやっぱり、木川田くんをどこかで見下したままにしておきたかったのです。
男の子は別に他人が自分と違っているからといって、それだけで差別≠ネんかはしたりはしません。でも男の子は、自分に自信がない分だけ他人を見下していなければ、自分自身のバランスが取れないのです。
プライドというものは、実に厄介なもので、厄介なものを厄介なままぶら下げて、それで人を好きになったり嫌いになったりするものだから、すべての人間関係はややこしくなって行ってしまうのですね。
「もしも木川田が僕のことを好きだっていうんなら、僕もそれとおんなじ分だけ木川田のことを愛して上げよう」――磯村くんはそういう風に思っていました。いましたけれども、木川田くんが磯村くんのことを愛しているのかどうか、磯村くんには分らなかったのです。
分らないから、愛しようがありません。
愛しようがないから、磯村くんはどうしたらいいのか分らなくなって、「ひょっとしたら僕は、木川田のことが好きなのかな?」って、そんなことを考えていました。
好き≠ニいう言葉が一つしかないのにもかかわらず、磯村くんの中にはどうやら、いろんな意味の好き≠ニいう言葉がつまっていたようなのです。
いろんな種類の好き≠ゥら好き≠ヨと、目をつぶって辿って行くと、磯村くんはいつも、一番ヤバイ好き≠ヨと行き着いてしまうのです。それがどういうものかというと、誰かが好き≠ニいうのではなく、それをするのが好き≠ニいうような種類の好き≠ナす。
いつの間にか磯村くんは、一番ヤバイ、スケベ≠ニいう種類の好き≠ノ行き着いてしまうのです。
「そういう訳じゃないのに、でも、僕だって人間だから=vというような、まるで一ミリの距離を測るのに一キロメートルの物差しを持ち出して来るみたいなヘンな感じになって、磯村くんはいつも、自分の中のその不思議な回路≠もてあますのです。
「誰かが何かを言ってくれたら、ここんところで迷う必要なんかないんだけどなァ……」とかは思うのですが、誰かに何かを言ってもらう為には自分の方からその相手に何かを言わなければならないのです。
「好きなんだけど――」――そう言おうとはするんですが、でもいつも、その言葉は宇宙空間に漂う木の葉みたいな感じがして、なんの意味もなくたよりもないような感じにしか思えないのです。
「好きなんだけど――」
木川田くんにそう言って、ニッと笑われてキスなんかされちゃったら、それでおしまいです。
「お前も好きだなァ」って言われちゃったら……。
やっぱりそれはいやでした。
でも、やっぱりそれだけだったらいやなので、それは、ちっともいやではありませんでした――。
困ってしまいますね。
だから磯村くんも、困っていました。
それはほとんど、人前で裸になりたい訳でもないのに、でも、人前で服を着ている自分を意識した途端「人前で裸になりたいのかもしれない……」と思ってしまうような、人類が始まって以来続いている矛盾の上に乗っかっているような困惑でした。
「木川田がなんか言ってくれれば楽なんだけどなァ……」
磯村くんはそう思っていました。
でも、木川田くんはなんにも言ってはくれませんでした。
「お前が好きだからやるんだぜ」
「お前が好きならやってやるよ」
「お前が好きでもそればっかりはヤなの」
「なんだよ変態、俺は別に好きじゃないんだよ」
好き≠ニいうことに関しての木川田くんの答は、この四通りしかありませんでした。
「そういう好き≠ネんじゃないの!」と言っても、木川田くんは「じゃ、どういう好き≠ネんだよ?」としか言ってくれないのは目に見えていました。
磯村くんが問題にしたいような好き≠ヘ全部、木川田くんは先輩≠ニいう質屋さんに預けていたからです。
勿論、木川田くんが預けっ放しにしていた質屋さんは、火事に遭ってとうの昔になくなってはいましたが――。
磯村くんは時々、「一体僕はなんだってこいつと付き合ってるんだろう」と、木川田くんのいる前で考えることがありました。一人で考えなくちゃいけないほど、その二人の会話には沈黙が多かったということでもありますが――。
磯村くんの答は明らかでした。一つは、「木川田が可哀想だから」、二つは、「木川田に負けたくない」でした。
木川田くんが孤《ひと》りで可哀想で、磯村くんのことを必要としてるんだって思うのとは別に、「自分は木川田に勝ってない」という悔しさが、磯村くんを木川田くんとの退屈なデートに縛りつけていたのでした。
だって、木川田くんに「じゃァな」と言われたらもうお別れ≠ェ来るのは確実だけど、磯村くんが「じゃァね」とおんなじことを言っても、「なんだよ、お前、もう帰るのかよ」と言い返されて、磯村くんは「ゴメン」とあやまるか、そのまんまデートを続けるか、どっちかしかなかったのです。
なんだかんだ言ったって、結局、磯村くんより木川田くんの方が威張ってたんですから、それで付き合い≠やめたら磯村くんの方が捨てられたことになってしまいます。
その理由がなんだかは分りませんが、ともかく磯村くんはそう思って、木川田くんに引きずられていたのです。
そして勿論、木川田くんだってそのことは知っていました。
というより、さすがに木川田くんは、そのことだけをしっかりとつかまえてはいたのです。
磯村くんにプライドがあるのと同様、木川田くんにだってプライドはありました。
プライドがあって、磯村くんのことを、木川田くんは斥《しりぞ》けていたのです。
すべては明らかでした。「だって、こいつは先輩≠カゃないもん」――そのことだけを木川田くんは知っていました。
「先輩≠ノだけは嫌われたくないけど、それ以外の人間になんか別に嫌われたっていいもん」と、木川田くんはさすがに(と言おうか相変らず≠ニ言おうか)この期《ご》に及んでも思っていました。
「だって磯村は先輩≠カゃないじゃん」――そう思えばいつだって「バーカ」と磯村くんのことを見下すことが出来たのです。そういうことが出来る状態になってるって、そのことだけは木川田くんに分っていました。
状況がそうなってしまったら、もう木川田くんにはこわいものはありません。悠然と構えていれば、ほしいものはみんな向うからやって来るのです。
木川田くんはだから、磯村くんにはなんにも言いませんでした。
「先輩≠カゃない人間に、なんか言ってもしょうがない」って、そのことだけは分っていました。
そして、木川田くんは、もっと重要なことを分っていました。
「だって、お前、恋愛なんて口でするもんじゃないんだぜ――。あ、口でもするけどよ、ヒッヒッヒッ」って。
「何つまんないこと言ってんだ、お前は」って、だから木川田くんは、磯村くんにいつだって言い出すことは出来たのです。(もっとも、そんなことを簡単に口にするようなバカじゃありませんけどね、木川田くんは)
恋愛≠フことなんかなんにも知らない磯村くんは、こうして、恋愛≠フことならなんでも――そのくせそれ以外のことはなんにも知らない――知っている木川田くんに捕まってしまっていたのです。
可哀想に、磯村くんが木川田くんに勝てる筈はありませんね。
そして可哀想に、木川田くんだってそんなことをしていて、ちっとも幸福ではなかったのです。
可哀想に、だからといってどうすればいいのか、この若い二人には一向に気がつくことが出来なかったのです。
「ねェ、木川田さァ、僕、一人で住みたくって」
だから磯村くんがいくらそう持ちかけても無駄でした。
「勝手にすればァ」
そう木川田くんは思っていたからです。
木川田くんが待っていたとすれば、それは「一緒に住もうよ」という言葉だけで、磯村くんにしてみれば、それはあまりにも唐突で、階段を十八段ぐらい一挙に飛び越した挙句のような提案≠セったからです。
でも磯村くんは、それとなく木川田くんに言いました。あんまりそれとはなさすぎて、自分でもなんで言ってるのかよく分らないような言い方でした。
「僕……やっぱり、君|家《ち》に電話すんのって、いやなんだよね」
それは、何段かは知りませんけども、でも、少なくとも二段目よりは上の方にある階段を見ての言葉ではあったのです。
「僕……やっぱり、君家に電話するのって、いやなんだよね」磯村くんは、電話口の向うから聞こえて来る、木川田くんのお母さんの暗ァい、暗ァい「はい……、木川田です……」という声を思い浮べてそう言いました。
木川田くんのお母さんは「源一くんをお願いします」と言うと、「どなたですか?」とも「お待ち下さい」とも言わずに、黙って受話器を置いて木川田くんを呼びに行ってしまうのです。
それで木川田くんがいたらいいのですが、いなかったらもっと大変です。まるで足音を立てないで受話器のところまでそっとやって来たかのように、いきなり唐突に「いません」とだけ、木川田くんのお母さんは言うのです。
「いません」と言ったきり、それ以外なんにも言ってくれません。伝言もへったくれもなくて、磯村くんはその沈黙がこわくなって、「すいません」と言ってその電話を切ってしまうのです。一遍なんか、うっかり黙って受話器を置いたら、木川田くんのお母さんの背後霊が後に立ってるみたいな気がして、死ぬかと思いました。
それぐらい、木川田くんのお母さんの声は暗かったのです。
木川田くんは磯村くんに言われて、自分のお母さんが美人じゃないという烙印《らくいん》を押されたみたいな気がしました。「そりゃァ、ウチのオカヤン、美人じゃないもんなァ……」とか思って、木川田くんは「うん」と言ったのです。
「みんな俺が悪いんだ」と思って、「うん」と言った木川田くんは、「もう死んじゃおうかなァ」とか、思いました。
ほとんど、口癖になっているモノローグです、この木川田くんの「死んじゃおうかなァ」は。
ちょっとでもメンドクサくなると、すぐ木川田くんは「死んじゃおうかなァ」と思うのです。時々は口に出しても言います。まァ、木川田くんにしてみれば、磯村くんは生きてるテープレコーダーみたいなもんですから、口に出して言おうと言うまいと、大した差ではないのですが、でも磯村くんは、木川田くんの「死んじゃおうかなァ」を聞くと、やっぱりまだドキッとするんです――「僕がいたらなくてごめんね」と思って。(もう少ししたら慣れますけど、慣れて「死んじゃえば」って言いますけど、でもそれはまだ先の話ですね)
木川田くんは、自分が死んだら、絶対に滝上くんが悲しんでくれると思ってるんですね(まだ)。死んだら絶対に悲しんでくれるけど、でも今はイマイチそれが確信出来なくて、「それが確信出来るまで死ぬの待ってよう」と思うんですね。だから、木川田くんの「死んじゃおうかなァ」は、「とりあえず当分は生きてよう」の合図だったりはするのですね。「そんで、先輩が俺のこと好きだって分ってから死んじゃおう」って、木川田くんは思ってるんです。質屋≠ェ焼けても、質屋の焼け跡≠ノは質屋の親父さん≠ョらいはいるんじゃないか、それを確めてからゆっくり死んじゃおうと思ってたんです。質屋の親父さん≠ヘ、ほとんど木川田くんの胸にあるロマンチックな砦≠ニおんなじ意味ですが、さすがにこうなって来るとどういう比喩を使っているのか神様《わたし》にも分らなくなって来ます。神様にも分らない比喩なんか使うんじゃないと思いますが、人間というのは存外、そんなムチャクチャを抱えて平気で生きて行くんですね。
当人は一向に構いませんけど、それに付き合わされる相手は大変です。
普通そういうことを惚れた弱味≠ニいうのですが、そういう言葉をウチの主人公達は知らないもんだから、困ってしまいます。
もっとも、知ってたって使わないとは思いますけど――。
潔癖という無知にも困ってしまいます。
木川田くんに黙られちゃった磯村くんも、だからそれでウジウジしてました。
木川田くんにうっかり黙られちゃったもんだから、「どうしてあのおばさんの暗い声に耐えて僕は木川田とこに電話しちゃうのかな……」なんてことを考えさせられて、「やっぱり僕は|スケベ《ヘンタイ》なのかな」っていういつもの結論に、磯村くんは達しさせられちゃっていました。
磯村くんの場合は、スケベ≠ノいつもヘンタイ≠ニいうルビを振らなければならないので大変でした。何が大変かというと、その困惑が大変だったというだけですが、人間うっかり、スケベ≠ネんていう全く個人的な深みに落ちこんでしまうと情勢が見えなくなってしまうのです。こんなに話が先に進まないのは、みんな磯村くんのせいなのでした。
これで磯村くんが、出ッ歯で鼻ペチャでいかにもスケベェがふさわしい男の子だったら話は簡単だったでしょうが、そうしたら私が「そんな話面白くねェや」と投げ出していたので、そういう話にはならないのでした。
スケベェ≠ニいう要素を取り外してしまえば話は簡単なのです。初めてのスケベェ≠ノ足をとられていた抽象的な磯村くん≠ノは分りにくかったのかもしれませんが、磯村くんはただ「溺《おぼ》れるものはワラをもつかむ」で、木川田くんを求めていただけでした。何に溺れていたのかは分りませんが、木川田くんを求めていたということが磯村くんの溺れている証拠なのでした。
抽象的な磯村くん≠ヘなんでも理屈で割り切って行きましたが、人類というのは長い間、訳の分らない泥沼を振り切った後、それを回顧する為に理屈を編み出すという、磯村くんとは逆の行動パターンで人類そのものを成り立たせていたのですから、磯村くんは間違えていたのです。
それでいったら、溺れているからワラをつかむのであって、ワラをつかんで初めて、自分は何に溺れていたのかが分るということになるのでした。
だからとりあえず、磯村くんは一人暮し≠ニいうワラをつかまえたかったのです。
それが大変だから、今度は木川田くんというワラをつかまえようとして、スケベの泥沼に追いこまれてしまったのです。
それだけなのです。
木川田くんに黙られてしまった磯村くんは、ようやくそのことに気がつきました。どうやら自分は溺れているらしいけど、それをした元凶は、目の前にいる木川田くんだということに。
だから木川田くんに訊いても無駄なんだと、磯村くんは思いました。
「僕が一人で暮したいんだから、僕は一人でその一人暮し≠フ理由を考えよう」と、磯村くんは思いました。
木川田くんに足蹴《あしげ》にされて溺れたのか、木川田くんに引きずりこまれて溺れたのか、よく分らない水の中≠ナした。
両方のような気もするし――だとすると、水の上にはまた水があるのかなァという、ヘンな世界に、磯村くんは気がつくと、いました。
比喩が情景描写に変ります――
天井の高いガラス張りの喫茶店は、水族館のようでした。水族館の中にいるのか、水族館の外にいるのか、高層ビル街の喫茶店にいる磯村くんには、よく分りませんでした。
木川田くんは、外を見ています。「落ちこんだのはお前のせいだって言いたい訳じゃないんだぜ」と、そっぽを向いた木川田くんはそう言ってるんだと磯村くんは思いました。でも、木川田くんの見ている風景に、磯村くんはなんの感動も覚えませんでした。「つまんない顔した人間がつまんないとこをつまんない顔して歩いてる」としか、磯村くんには思えませんでした。
「こいつはなんでこんなとこが好きなんだろう」と、磯村くんは、いかにも「似合ってるだろう」と言わぬばかりの恰好で外を見ている木川田くんを見て思いました。
木川田くんのありさまは、まるで海にいられなくなった人魚姫のようでした。人魚のままで海に上って来たら陸にだっていづらいだろうに――そういう高級な比喩の使えない磯村くんは、使えないまんま、そんなことを考えていました。
「じゃァ、僕はなんなんだろう……?」
磯村くんはそれだけを考えていました。
荒涼とした海岸に立っていれば、一行のヘッドコピーだけでサマになるんだっていうことだけは、とりあえずマスターしてしまった磯村くんです。
海から逃げて来たけど僕は人魚じゃない。ひょっとしたら、「自分は半魚人かもしれない」と思って海を憎んでいる人間なんだろうか?
だとしたら、あのガラス窓の向うにいる人は、みんな人間じゃないということになる。
だとしたら、このガラス窓のこちら側にいる人間はなんなんだろう?
ドア一つで、アッチとコッチをやすやすと行き来しちゃう人間というのはなんなんだろう?
僕だっておなじ人間なんだけど……。
磯村くんはまだ何に溺れている≠フかは分りませんでしたが、空気と水がイコールになってしまった、そのことに溺れているだけなのでした。
空気は水になって、水は空気になって平気で存在しているのに、まだ人間達は水と空気を分けて生きてる――その意味のない区別に、磯村くんは混乱していただけなのでした。
もうすぐ世界は濡れて行きます。
「あ、雨だ……」
なんにも言うことのなかった木川田くんが、そのことを発見して、ホッとしたように言いました。
「あ、ホントだ」
「ねェ、磯村、お前、傘持ってる?」
「ううん……。濡れてけばいいじゃない。ね?」
「うん」
ともかく一緒に何かすることが出来てよかったなァと、磯村くんは思いました。
雨は三日三晩地表に降り続いて、どうやらウチの一方の|主人公《ノア》に箱舟≠作るきっかけを与えてくれたようでした。
「あーあ、あのヌルヌル滑る山道を歩いてくのかァ」と思ってユーウツになった主人公は、うつむいたまんま家を出て大学に向って行く途中、「あーッ、メンドクサイ!」と、パッとひらめいたのです。
磯村くんの通う大学は、八王子の山の中にあります。京王線の新宿駅から各駅停車≠ノ乗るというバカなことをすれば二十七コ目の(!)「多摩動物公園駅」という、どう考えても人が住むとは思えないようなところで降りて山道を歩くと(!)大学があるのです。毎日がピクニックだから、ほとんど遠足気分で大学へ行くのです。遠足が楽しいのも、年に一遍か二遍だけならということぐらい、賢明な皆さんには既にお分りだと思いますが、その点に関しては既に、我等が主人公には文句を言う気力というものはないのでした(初めから)。
納得ずくとは、こういうことを言います。
嘘かと思うぐらい、毎日の通学路はピクニックでした。新緑の山道や紅葉の山路を行くと鳥がチュンチュンと鳴いて、その間に「学生ローン」とか「中古レコード」の看板が立っているのです。空き缶の投げ捨てでもすればコーンと、こだまでも返ったでしょう。
そこを学生達がゾロゾロと歩いて行けば(御丁寧にもゾロゾロと歩いて行きます)、本当に、人生は重き荷を背負って長き坂を行くが如しなどという人生訓の世界になって来ます。人生訓を教えないかわりに人生訓を体で覚えさせるのが現代の大学なのですなどと言ったらイヤミですが、イヤミを承知で言うぐらい、現代の当事者達はそういうことをなんとも思わないのでした。
納得ずくとはそういうことを言いますが、現代用語ではヨクアツ≠ニも言うのですが、そういうムツカシイことは、まァいいでしょう。
山を二つ越すとSFがあって、そこが磯村くんの大学でした。一応名前は中央大学≠ニいいますが、これは勿論仮名です。
磯村くんが入試で初めてここへ来た時は別にそうとも思わなかったのですが、合格して二週間も通い出したら、「ほとんどここはSFだ」と思いました。「ウルトラマンに出て来る科特隊の基地に通って自分は何をするんだろう?」とも思いましたが、相手が本気で『ウルトラマン』をやっている以上、冗談にもなりませんでした。勿論、ウルトラマン以外の科特隊のメンバーは、何もしないでただ、ウルトラマンが怪獣をやっつけてくれるのを待っているだけです。あまりにも暗い冗談は冗談にもなりませんでした。
第三者は平気でいやみを言いますが、当事者はそうも行きません。エジプトのピラミッドを見て育ってしまったエジプトの奴隷が、ついぞ叛乱というものを起こす気になれなかったということぐらい、歴史が証明しています。「金がかかってるなァ……」と思うと、物事はどうしようもなくなるのです。
ほとんど嘘のような話ですが、今や東京の大学≠ニいうものは、みんなそういうものに変りつつあるのですね。
磯村くんは雨の中をこの山の中の大学へ、一日行って一日休んで、そしてまた三日目に出かけて行きました。一日目は行かなくちゃならなかったし、二日目は――ちょうどその前の週にはお母さんとまぜ御飯を食べていたように――アキだったのでいい幸いと不貞寝《ふてね》をして、三日目は、上りかかった雨の中を「やだなァ」と思いながら出かけて行きました。一遍休むと人間は、怠け癖というものがつくのです。
雨の中を中央線に乗って新宿駅まで出て行って、水びたしのタイルの上を歩きながら、そしてしみじみと自分の「やだなァ……」気分を確認する為にそのビショ濡れのタイルを眺めていて、「そうだ、なにも僕、毎日一時間半もかけて大学に行くことなんてないんだよなァ」と思いました。「よく考えたら、スゴーク無駄な時間使ってて、毎日、メンドクサイなァ……≠チていう気分を拡大してかったるく生きてんだな」ということに、磯村くんは気がつきました。
雨の日は、どこもかしこもビショ濡れです。誰が拭くのか、駅の中には水たまりなんていうものは出来ていませんが、それでも掃除の済んだ後のタイルの上を歩くと、「人間の足の裏っていうのはこんなに汚れてるんだ」って思うくらい、タイルの上はグショグショで泥まみれになります。十一月も終りに近い冬初めの雨は冷たくって、普段の日の隠れた元気のなさを、みんな拡大してしまいます。ここんところはただの情景描写ではなくして、磯村くんの心的モノローグを代弁する情景描写です。
人間は、言葉で考えるよりも重要なことを、時としてイメージの中から拾い出して来るのですね。
「みんな、結局、しょぼくれてるんだ」、新宿の地下広場を通って京王線の地下ホームに降り立った磯村くんは、まるで未来都市の下水道みたいなホームの中でそう思いました。
天井が高くて階段があって、階段の下の高い天井からは汚水が壁に垂れて、その下にあるベンチの前には読み捨ての新聞紙がウズ高く盛り上っていて、浮浪者じゃないけど、浮浪者にしか見えないおじいさんがそこでアンパンを齧《かじ》っていて……。そこから、山の上の未来都市みたいな大学へ行く電車が出ているのです。
山の上にはまだ未来≠ェあって、山のこちらではとうに終ってしまった未来がまだ現在≠フまんま残っていて……。
電車というのは、時間の断層を貫いて走っているのかもしれないという、そんな気のする駅でした。
永遠に陽が当らないから、永遠に乾きそうもない――そんな気のする地下ホームの水溜りを踏みしめて、「みんなしょぼくれてんだ」と磯村くんは思いました。
「普段は分んないけど、でも、雨が降って寒くって、街中が汚れちゃったら、そういうことはみんなバレちゃうんだ」
天気のせいで湿った心は、磯村くんにそう話しかけました。
二十分間隔で山の方――ウルトラマンの出て来る山です――へ出発する特急電車はもうホームに止っていましたが、発車までにはまだ八分ぐらいありました。
電車の床は湿っていて、まるでオランウータンが集団暴行を働いた跡のような靴跡が一杯残っていました。スチームの通ったシートに坐ると、まるでアイロンの上で湿気をとられているような気分です。
電車の中にはポツポツと、磯村くんとおんなじようなダッフルコートの学生《とつちやんぼうや》達が坐っていました。雨が降ると男の子の髭は伸びるのが早くなるのかもしれません。
「まるで強制収容所に行くみたいだ」――磯村くんは思いました。
「ちっとも強制されないけど、強制されないで行く収容所の方がズーッと惨めだ」って、そう思いました。
磯村くんは、この未来都市に行く下水道発の特急電車があんまり好きではありませんでした。クリーム色の車体にコアラの絵が描いてあるのは一応別にして――。
「なんでコアラが描いてあるんだ!」と思うと陽性の暴力のような怒りが湧いて来て、少なくとも明るくはなれるのですが、自分の未来の同窓生達しか乗っていない――ほとんど中大(仮名)専用車としか思えない(実際はそうでもないのですが)電車の中にいると、どうして自分の同窓生達がこの暗さに耐えていられるんだろうと思って、どうしようもなく、気分が下降して来るのです。
「暗いって分ってるんならいいよ、でも、暗いってこと自覚してないから暗いんだ!」
実際、その車内の暗さはそんなものではありました。まるで、「この苦行には明らかに意味があるんだ」と思いこんでいる二流の修行僧の行列のようではありました。
「大学《山の上》に行ったら大学なんてなんの意味もないんだ≠チて顔平気でしてるくせに、大学《山の上》に行くまでは絶対に大学にはなんかの意味があるんでしょ?≠チて顔してるんだ。そんなの耐えらんない。大学に入ってから、毎日そんなこと繰り返してるなんて!」――磯村くんはそう思っていました。
だから磯村くんは、京王線には乗らなかったのです。
磯村くんの家は、中央線の「高円寺」の駅のそばにあります。だから、八王子の山の中にある大学に行くのは、中央線で新宿まで出て、そこから京王線に乗り換えて行くのが一番早いのです。特急で五つ乗れば「高幡不動」の駅に着いて、「多摩動物公園駅」はそこから支線に乗り換えた一つ目です。ところが磯村くんは、そうはしませんでした。高円寺から中央線に乗って、新宿とは逆方向の、「立川」へ行くのです。中央線の特別快速に乗れば「中野」から二つ目ですが、それ以外なら高円寺から十二コ目です。特別快速は高円寺には止まりません。高円寺から上りの中央線に乗って中野まで行き、そこから改めて下りの特別快速に乗り直すという面倒なことをしなければなりません。
それに乗って立川まで行き、立川で今度は国鉄の南武線に乗り換えて四つ行って、京王線とクロスする「分倍《ぶばい》河原《がわら》」で京王線に乗り換えて、ここは特急が止まりませんから、急行で二つ目が高幡不動、そこで更に乗り換えて多摩動物公園まで行くという、メンドクサイことをやります。接続がうまく行けば狂気の沙汰というほどのことでもありませんが、しかしそれでも、帰り道はほとんど、狂気の沙汰です。中央線の特別快速は、午後の三時を過ぎると下りはもうなくなってしまうからです。クラスメートに「じゃァね」と言って京王線を降りて、のんびりと南武線が来るのを待っていて、それに乗った磯村くんが立川駅に着く頃、下手をすれば、京王線の急行に乗ったままのクラスメートは、「明大前」の駅で乗りこんで来た明治大学の学生達と一緒になって、新宿まで後一つというところにいるのです。ほとんど、双六《すごろく》でサイコロを振り損ねたみたいな磯村くんは、同じ頃、「さァ一眠りでもするか」と、中央線の、各駅にしか止まらない、しかも快速≠ネどという意味のないネーミングの電車の中でポカンとしているのです。
バカとしか言いようのないことを、どうして磯村くんは平然とやっていたのでしょうか?
一つには磯村くんが間違えたということもあります。
磯村くんは中央線の沿線の住民でしたが、人間というものは困ったことに、自分の生活習慣の中から脱け出せないということがあります。
大学入試の時磯村くんは、入試要項に載っている試験場までの地図を見て、「これだけじゃない、もっと別の行き方があるんだ」とそう思ったのです。
磯村くんは、高校迄は通学距離が、家を出てから学校迄の間が三十分以内のところにいました。そうしたところが今度は、忽然《こつぜん》としてとてつもなく遠い≠ニしか言いようがないところになってしまいました。一時間とか一時間半とかいうのではなく、ただとてつもなく遠い≠ニしかいいようがない距離でした。
磯村くんの中には、三十分以上電車に乗っていればそれだけで十分に遠い≠ニいう時間感覚しか備わっていませんでした。約一時間≠ニいわれても、それが実感としてどれぐらいの長さなのか分らなかったのです。
大学が出している入試要項には、京王線の新宿から高幡不動に行って多摩動物公園駅で降りるコースと、もう一つ、中央線の八王子まで行って、そこから京王線の「京王八王子」まで歩く――徒歩5分≠ニその地図に書いてあったのが「クサイ」と思いました――京王八王子から京王線に乗り換えて、京王線の上り電車に乗って高幡不動まで戻るコースの二つしかありませんでした。
受験生というのは、試験場迄の最短距離をとらなければならないと思いこむものです。磯村くんには、中央線の住民が態々《わざわざ》八王子まで行って戻る≠ニいうのが、なんかクサイと思えたのです。中央線の八王子と京王線の八王子の間には徒歩にして5分≠フ距離がある。態々それを徒歩5分≠ニ印刷してあるところに、なんか、大学当局の公式見解性≠発見してしまったのです。
「中央線沿線の住民は態々八王子まで行って戻らなければならない。それに比べて、それ以外の電車の住民はそんなことをする必要がない。これは、中央線沿線の住民に対する差別ではないだろうか? 自分のところが京王線のはずれにあるイナカだからって、京王線の正統性をあまりにも主張しすぎてる」と、磯村くんは入試要項のその地図を見て、思ったのです。
早い話が、磯村くんはヒマだったのです。ヒマで従順になってしまった受験生の常として、大学にイチャモンをつけたかったのです。ただの風車じゃないかと思って、このドン・キホーテは、自分の目の前に立ちふさがる大学当局という巨大なドラゴンの裏をかいてやろうと思ったのです。風車をドラゴンだと思ったのではなく、ドラゴンを風車だと思ったのです。
高円寺の駅に行って路線図を見て、「ホラ見ろ、八王子まで行かなくたって中間の近道≠ェあるじゃないか」と、磯村くんは思ったのです。それが、立川と分倍河原をつなぐ南武線の存在でした。
時計を持って電車に乗り、「こんなもんか」と所要時間を計って、磯村くんは、入試にも、発表にも、そのコースで行きました。よく見たら、そのコースは大学当局≠ェ発行している入試要項にだってチャンと載っているコースではありましたけれども――。
磯村くんは当然のように、入学式から始まる大学の新学期にもそのコースで行きました。自分は悠然と、まるで現代という時間帯から島流しにあっているような、そんな気分が得意でもありました。「ヘンだなァ」と思う前に、ガラ空きの南武線に乗り換えず、相変らず混んだ京王線に平気で乗っていられる学生達を「バカだなァ、平気で群れてる」と思っていた磯村くんではありました。
そういう自分の方がバカな定期通学者だと磯村くんが知るのは、やっぱり、自分の通ってる大学が永遠にウルトラマンの出て来ない科特隊≠セと知る、四月の終り頃なのです。
バカな磯村くんは、それでも意地を張って通いました。雨続きの六月になって、「この方が乗り換えが少ないから、濡れないですむなァ(おまけに早いし……)」と、渋々雨の日だけ新宿から乗り込んで行くという智恵を発揮した磯村くんでした。「だってその方が、いちいち帰りのたんびに新宿に出てなんか面白ェことねェかなァ≠チて言うバカな大学生にならなくてすむから」という理屈もありましたが、でも、バカな大学生≠ノならなければ暗い大学生≠ノなります。敢えて孤立して、それで暗い大学生≠ノならない為には、付き合いだってある程度以上によくなければなりません。
「磯村、お前、今日帰りどうすんの?」と御学友に訊かれて、「ウン、新宿出てもいいよ」と言うたんびに、磯村くんの電車賃は余分にかかるのでした。
当然、磯村くんの遊興費の中に占める交通費の割合は、かなりのものになりました。なりましたけどでも、磯村くんはそれで変り者≠ニいうステイタスを買ったのです。
クラスメートやクラブでの友達と一緒に新宿に降り立った時、そのたんびに磯村くんは改札口で料金の精算をしていました。そんな磯村くんを見て、同僚≠フ男の子達は「変ってんなァ、お前」と冷やかしの賞賛≠投げましたが、それを聞いて「ウン、僕変ってるんだ」とニコニコ笑っている磯村くんではありました。
勿論、そんなバカげた迂回路をとるなんてことを聞いた木川田くんは「バカだ、お前」と言いましたけど――木川田くんだってやっぱり、磯村くんとおんなじ年に山の上の大学を受けに来ていたのです、素直に京王線に乗って――でも磯村くんは、そうでもしないと落着かなかったのです。「このまんま自分が、ありきたりの中に埋もれてしまうのなんかいやだ!」と、ズーッと磯村くんは思っていたのです。
でも、そういう時期はどうやら終ってしまったみたいです。木川田くんとなんだかんだあって、冷たい雨に降られて駅まで行くのが億劫《おつくう》だった磯村くんは、やっぱり自分のことを「ホントにバカだ」と思うしかなくなっていたのです。
木川田くんに「バカだ、お前」と言われて、「いいの!」と言い返して、切れてしまった定期を再び、「高円寺―立川―分倍河原―多摩動物公園」と買い直した磯村くんは、そういう自分の通学定期を見て、そうして来た自分の変り者≠ェ、やっぱりウソ臭いんじゃないか、かなりワザとらしいんじゃないかと、思いかけていました。「自分て、ニセモノかもしれないな」って。「知っててニセモノをやってたって、やっぱり根拠のないニセモノはニセモノだしな」って。
そしてやっぱり、そのことを今日≠ヘはっきりと思ったのです。
「僕だって、やっぱりただの大学生なんだ」――雨に降られて乗り込んだ、京王線の新宿駅の電車の中で磯村くんは、そう思いました。
「新宿通ってイナカに行く、イナカから新宿に出て来る――そういうよくある普通の大学生≠ネんだなァ、僕って……」――スチームの入った冬初めのシートの上で、磯村くんはそう思ったのです。
「トーキョーがあって、そしてそのコーガイに大学があるから、だから僕達は平気でダサイところに行けるんだ。ダサイのは、大学なんかじゃなくって、そういうところに平気で行ったり、ヘンな風に行ったりする僕や、僕達なのかもしれないし――。多分僕達は、トーキョーっていうお母さん≠ノ保護されてるピーター・パンなのかもしれない。だから、平気でみっともなく大学生になってられるんだし、誰もみっともない≠ネんてこと思わないんだろうし……」
見回すともなく辺りを見回して、強制#イきの収容所≠ヨ送られる、モコモコした男の子達の群を見ながら、磯村くんはそう思いました。
「やっぱり収容所だ……。みんなコート着て、寒そうにしてて、ビショ濡れだし――」
ともかく、冬の雨は、ダウンやダッフルコートの上に、ゲルマン民族の土地に住む人達のとおんなじような冷たい露飾りをくっつけさせてはいたのです。
「兄貴が国立《くにたち》行ってるからって、それでもって態々僕なんかもっと田舎行ってるもんね!≠チていう自己主張なんかする必要はなかったんだよねェ……」なんてことを、暗い磯村くん≠ヘ思いました。
暗い時は、うっかり余分なことまでかき集めて、自分のその暗い心理を確実なものにまで高めたいものなのです。
隣りの席に坐った男の子のヘッド・ホンから流れて来るオーソン・ウェルズの英会話≠B・G・Mにして、磯村くんはそんなことを考えていました。
実のところ、磯村くんのお兄さんは中央線で「国立」にある一橋大学に通っていたものだから、弟の薫くんは、「それだったら僕は!」と思って、見えない敵愾心《てきがいしん》を燃やして、一つ向うの立川まで行っていた、という訳なのです。
磯村くんは遂に、自分が家を出る口実を見つけたと思いました。
「僕は、真面目に勉強する大学生になりたいんだ!」――それは、確かなことでした。
そして、「東京の大学なのに、東京から一時間もかかるなんて、やっぱりヘンだと思うんだ」――これも確かではありました。
「僕は、別に都会になんか未練はないしさ」――このことは、多分、磯村くんが思ったことの中で一番確かなことではあったでしょう。カッコいい≠ニかなんとかっていうようなこと、ナウい≠ニかなんとかっていうようなこと――そういうことを磯村くんは、ズーッと、うっとうしいと思っていたことだけは確かだったのですから。
「勉強したいな、静かなところで」――磯村くんはそう思いました。そう思った途端、見えてるようで見えてない、但しいつもヘンなところで目障《めざわ》りになってる、自分の中のスケベ心≠ニいうものが、いつの間にかどっかへ行っていることに気がつきました。
「あー、すっきりした」
それでかどうでか、磯村くんはそう思いました。一人暮し≠ニいうロマンチックな企てが正々堂々と成立してしまった今となっては、そんなことはもうどうでもよかったのです。というより、ロマンチックを身にまとったスケベ心≠ヘ、もう恥かしさに身をくねらせる必要がなかったのです。
「僕はもう、インディアナ・ジョーンズだ!」――一人暮し≠ニいう、いまだかつて誰もまだしたことのない大冒険を目《ま》の当りにして、磯村くんの胸は高鳴りました。
「僕が一人で決めるんだぜ!」
磯村くんはそう思ったのです。
磯村くんが多摩動物公園駅の隅っこにある学生専用≠フアパート貸室相談所の窓ガラスを覗きこんでいたのは、それから約三時間の後のことでした。
「大体、三万五千円だな」
磯村くんはしっかりと、胸の電卓にその数字を叩き込んだのです。
大丈夫《チーン!》≠ニいう音が、どこかでしました。
「高幡不動」というところは、昔はお不動様の門前町として栄えたところです。
今は――。
なんというのでしょう? その内ニュータウンになるところ≠ニでもいうのでしょうか。ともかく、そんなところです。初めて磯村くんがこの町に降り立った時、「人がいないんだァ……!」と思ってホッとしました。人がゴチャゴチャいる高円寺の駅前から、おんなじような人間ばっかりがいる(もしくはしかいない=j大学《エスエフ》の構内へという、そのルートを一歩でもはずれたらこんなところがあるんだということは、ほとんど感動に近い驚きでした。
その雨の午後、雨はもう上っていましたが、空模様はまた雨が降り出すのかそれともこのまんま夕暮れに突入してしまうのか、よく分らないような暗さでした。
駅を降りると右手にはお不動様≠ノ続く参道があって、磯村くんの前をライトバンが一台、しぶきを上げて通って行きました。しぶきと一緒に蒸気も上げて。
それは、古い街にしか残っていない、生きている人間の吐き出す熱い息のように、磯村くんには思えました。
参道の入り口には小さな食堂とラーメン屋と喫茶店が何軒かあります。いつか友達と一緒に見に行ったにっかつロマンポルノの中にしか出て来ないような、古い、田舎っぽい青春≠ェそこに溜り場≠ニしてあるような感じがして、磯村くんはドキドキしました。道を渡ってその先にある、小さな不動産屋に行く手前で、誰かが縄を張って磯村くんの脚を引っかけようとしているような、そんなロマンチックな匂いのある街のように、磯村くんには思えたのです。
勿論、参道の反対側には大きなスーパーがありますし、アーケードの商店街もあります――まるで炭鉱のある古い田舎町のように。
「幌馬車が通っても不思議はないや」――磯村くんはそう思いました。
勿論、人通りのない参道≠ヘ意味のないものです。土産物屋さんや仏具屋さんやおそば屋さんは商売上ったりになってしまうからです。でも、磯村くんはそんな静かな通りを歩いていて、そこがさびれてるとか見捨てられているとか、そんな風には思いませんでした。
確かにそこが、昔栄えた町だったのだということは確かでした。でも、だからといって今はさびれたというのではなくて、そう、言ってみれば、誰かが来るのを待っている町≠ニいうようなところでした。決してさびれもせずに、永遠に誰かが来るのを信じて待っている町――そんな風に磯村くんは思いました。
「百草園《もぐさえん》駅十二分。新築。6畳・DK2畳。風呂付き。3万7千円。学生向き」とか、「高幡不動駅七分。築2年。6畳・DK。衛生トイレ、風呂付き。3万5千円」とか、そんな字が並んでいるガラス戸の貼り紙を、磯村くんは生まれて初めてしげしげと覗き込みました。誰もいない駅の相談所≠ナはなく、そこは本物の不動産屋さんでした。
「なんにも知らないんだから教えてもらおう」と思って、磯村くんはガラス戸に手をかけました。
「あのう、今すぐっていうんじゃないんですけど、借りるかもしれないと思って、どういうのがあるのかちょっと知りたいんですけど、いいですか?」
磯村くんは、なんにも言わずに黙っている不動産屋さんのおじさんにそう言って、「そうだよ、僕だってこういうことしてもいいんだ」って、そう思いました。
磯村くんがこの町に越して来るのは、それから二週間が経《た》ってからのことなのです。
磯村くんがこの町に越して来たのは十二月八日のことですが、そこに行くまでの話を、ちょっとだけしましょう。
不動産屋のおじさんは、その気のない、冷やかしかもしれない、若い男の子を相手にするのにしてはかなりに親切な方でした。そっけない≠ニいうのはその程度のものです。磯村くんは、そのおじさんの無愛想かもしれないそっけなさと付き合って、人間というものは平気で一人立ちしてしまうものなんだということを知ってしまいました。別に地方出身者じゃなくったって、別に住宅事情に困っていなくたって、別に通学距離に殊更《ことさら》悩まされていなくたって、ひょっとしたらどうしようもない不良≠ゥもしれないのに、学生さんの為の部屋≠ニいうのはゴロゴロ転がっているのだということを知ってしまったのです。たとえ「今の時期はあんまり目ぼしいのってないけどねェ」と言われたって。
磯村くんは自分のことを理論派だと思っていましたがとんでもない、理論派をやっている時の磯村くんは少しも目ぼしい動きをしないでただ黙ってブツブツとモノローグを繰り返しているだけです。状況が行動≠ニなって初めて、なんにも考えずにそこに飛びこんで行ってしまうという、後先なしのむこう見ず少年でしか、磯村くんはありませんでした。だから「だからどうしてよ?」とお母さんに訊かれても、今度の磯村くんは平気でした。今度はもう、理論≠ナはなかったからです。
勿論磯村くんは、不動産屋さんでの説明会≠フ後、帰ってすぐ、お母さんにそのことを言い出しました。
「だから俺、やっぱり一人で住みたい。ねェ、いいでしょ?」
そう言われたって、磯村くんのお母さんには何がだから≠ネのかさっぱり分りません。
「だからどうしてよ?」
磯村くんのお母さんは言いました。
「だからァ、俺、落着いて勉強がしたいのよ」
磯村くんにいきなりそう言われても、お母さんとしては「それで?」としか言いようがありません。なにしろ、一橋に行っている磯村くんのお兄さんは、家にいたまま、落着いて勉強というのをしていたからです。
「だってェ、通うの大変だってことぐらい、お母さんだって知ってるでしょ?」
立川から分倍河原を通って、高幡不動から多摩動物公園に出て、おまけに太って息切れがするからといって悠長にスクールバスが来るのまで待っているという経験をして入学式について行ったお母さんは、そのことを重々承知していました。なにしろその帰り道、「あなた大丈夫? これから毎日こうやって通うのよ?」とそう言ったのは当のお母さんなのですから。
「だから、よく続くわねェと思ったけどサ」
磯村くんに詰問されたお母さんはそう言いました。
「だから大変だって言ってるじゃない」
磯村くんはおんなじことを又言いました。
「でも、一人で住むってなったらもっと大変よ」
「どうして?」
「だって、通学時間が短かくなった分だけ、あなた、自分のこと自分でしなくちゃいけないのよ?」
「するよ」
磯村くんは言いました。
「いいけど」
お母さんはそう言いました。
「いいけど、何よ?」
磯村くんは訊き返しました。
「本気なの?」
お母さんはそう言いました。「いい」とかなんとか言う前に、お母さんはただただ、「一体この子は本気でこんなことを言ってるんだろうか?」と、それだけを知りたかったのです。
「本気だよ」
磯村くんは言いました。「よく考えたら、自分は法学部の法律学科の学生で、よく考えたら、今迄は一遍だってそんなこと考えたことなかったけど、僕は本気で司法試験を目指したっていいんだもんなァ」と、「本気だよ」と言った瞬間、磯村くんはますます本気になりました。磯村くんは、それをやってもいい!≠ニいうことになったら、その件に関する周辺理論を全部かき集めて来て、それで確固とした理論を作ってしまうという、そういう、よく訳の分らない理論派≠セったのです。
「そうなの――」
磯村くんに「本気だよ」と言われたお母さんは、もう返す言葉がありませんでした。この子≠ェ本気であることはもう間違いがないと思ったからです。
そして、そこまでになりました。本気だということが分ったら、もう母親の出る幕じゃないとお母さんが思ったからです。そこから先は、誰か自分以外の人間が決定することで、自分にはそんな重大なことを決める力はないと、お母さんは思っていました。
「だからいいでしょ?」
磯村くんにそう言われた時、だからお母さんは「分んないわよ、そんなの」と、素直に言いました。
磯村くんのお母さんにすれば、自分の息子が不良にでもならない限り、自分の家を出て行く理由なんかないと思っていたからです。
でも、突然に、自分のところの男の子が「本気だよ」と言い出しました。そんな訳の分らないこと、「分らない」でしかなかったからです。
月に三万五千円=\―それだって、別に磯村家にとっては格別無理な出費ではありませんでした。反対する理由も、反対しない理由も、別になんにもなかったのです。
という訳で、お母さんの頭の中は真っ白になりました。真っ白になったから、それ以上は、分りようがないのです。
お母さんに「分んないわよ、そんなの」と言われた磯村くんは、「どうして?」とすかさず訊きました。
「どうしてって言われたって、分んないもの」
お母さんの言葉は、いささか磯村くんにとって不気味ではありました。
自分の行動には正当性があって、自分の行動には確信があって、だから自分の言葉には当然説得力がある筈なのに「分んないわよ」なんていう言葉が返って来るなんて――。
「ひょっとしたら、自分の表現には何か曖昧《あいまい》なところがあるのだろうか?」
そう思った磯村くんは、もう「自分の行動のどこかに後めたさがあるんだろうか?」などということは、決して考えない磯村くんになっていました。
「分んないということは、バカなんだ」――磯村くんはこうして、「日常≠チて鈍感だからいやなんだ!」という、いつものイライラパターンに入って行きました。そうすれば、確信だけは強まるということです。
磯村くんの中では、日常≠ェワン・ランク下げられて、自分の行動の必然性がワン・ランク、アップしました。お母さんは別に反対してる訳でもないんだけど、積極的に賛成もせず、従ってあきらめもしない。お母さんは、「なんとなく気分的に反対している。彼女は男の子を縛りつけておきたいんだ(多分=無意識的に)」というところに位置づけられました。磯村くんは、お母さんの頭の中が真っ白になってるということに気がつかなかっただけなのです。(もっとも、気がついてたって別にどってこともありませんけど)
という訳で、磯村くんはお父さんを待ちました。
お父さんというのは、税理士をやってる人です。二、三の会社の顧問をしてると悠然と喰ってけるというようなお父さんは、だからほとんど、いつも頭の中が白い霧≠ナした。だから磯村くんは、自分のお父さんが何を考えているのかよく分りませんでした。
磯村くんが「ねェ、ダメ?」と言った時、お父さんは「家賃はどうするんだ?」とだけ言いました。
「うん」――少しだけ口ごもって、磯村くんは「バイトでも、するから……」とだけ言いました。
少し口ごもったのは、この件に関して磯村くんは、曖昧にしか考えていなかったからです。
磯村くんは、「そこのところは相手の出方を見て決めよう」と思っていました。
月々の家賃と、敷金礼金とその他の引っ越しにかかる費用――そしてよく考えたら、それとは別に、毎日の生活費というものも要るのです。
「家賃はどうするんだ?」と訊かれた途端、磯村くんは「あ、こりゃダメなんだ」と思いました。「ダメなんだから自分で稼ぐしかない」と思ったのです。全部お金を出してくれるんなら、お父さんが「家賃はどうするんだ?」と訊く筈なんかないと思ったのです。
ところで勿論、磯村くんのお父さんは「こいつ、家賃の支払いなんかどうするつもりでいるのかなァ?」と思ったからこそ、「どうするんだ?」と訊いたのです。
磯村くんは、自分が過保護だとは思っていませんでした。少なくとも、自分が過保護≠セと言われやすい状態にあることだけは知っていましたが、自分の中には、過保護だからダメになった部分がないことぐらい知っていました。
だから、「いざとなったらバイトだってすればいいし」と思っていた磯村くんは、過保護という言葉を、そんなにも過剰に拒《こば》む必要はないと思っていたのです。
だから、「出してやるよ」とお父さんが言えば、「ありがとう」と言って素直にお金を貰うつもりでした。「自分で稼ぐんなら」という条件がつくんなら、自分で生活費ぐらい稼ぐつもりでした。
だから磯村くんは、「どうするんだ?」と訊かれて、「こりゃァバイトだ」と思ったのです。
そして、「バイトでもするから」と言い出して、「あ、ひょっとして、無理なこと言い出して、僕の発言にリアリティーがないって思われたらどうしよう?」と思いました。だから、「バイトでも、するから……」と言って、黙ったのです。
ところで、磯村くんのお父さんは、「子供が一人暮ししたいっていうんならそれくらいは出してやれるだろうけど、ところでこいつは何を考えてそんなことを言い出したんだ?」と思っていました。
思っていて分らないから訊いたのです――「家賃はどうするんだ?」と。
そうしたら、磯村くんはかなり本気そうに、口ごもりながら「バイトでも、するから……」と言いました。
磯村くんのお父さんは、「あ、本気なんだ」と思いました。「本気なんだ」と思って、磯村くんのお父さんは「本気だとすると、俺はどうするかなァ……」と考えていました。
父親の自分はこういう時にどうしたらいいのか、お父さんにはよく分らなかったからです。
白い霧≠フ中でお父さんは、一生懸命、自分の脳味噌の果てにある、真っ白な壁≠フ存在を探り当てようとしていました。
お父さんとお母さんの差というものは、磯村くんの家ではこのようなものだったのです。
あ、それからついでに、磯村くんのお母さんは目鼻立ちのくっきりした丸顔で、体型もコロコロした丸型ですが、磯村くんのお父さんは、目鼻立ちのはっきりしない瓜実顔《うりざねがお》で、おっとりとした気品のある人ということになっていました。お父さん≠ノリアリティーがないのは作者《わたし》のせいではないのです。
お父さんをもう少し刻明にして、もう少し品をなくしたのが磯村くんのお兄さんの尚治くんです。
私に言わせれば、可哀想なのはこの人にトドメを刺します。
お父さんと磯村くんがお互いのリアリティーを探りあぐねて、妙に極端な真実≠フ方に辿り着こうとしていた時、部屋に入って来たのがお兄さんです。
「なァに、お前、一人で暮したいんだって?」
お兄さんの言い方は、既にして嘲弄的《ちようろうてき》でした。磯村くんのことを過保護≠セと決めつけたがっていた人はこの人だったからです。
「なんだよ。いけない?」
お父さんの時とはうって変ったはっきりした口調で磯村くんは言いました。
お兄さんが嘲弄的なら、磯村くんは挑戦的でした。
「お前が一人暮しする必然性なんて、どこにあるんだよ」
お兄さんはそう言いました。
冷静な人間のこういう発言なら磯村くんだって少しはタジッとなったかもしれませんが、磯村くんは、自分のお兄さんの発言が鋭くなっている時は絶対に感情的になっている時だということを、長年の経験から知っていました。突っ張れば、勝てるんです。
「なんだよ、うるさいなァ。関係ないだろォ!」
磯村くんはお兄さんに言いました。
磯村くんのお兄さんが可哀想だというのは、こういう状況に追いつめられた時、お兄さんは、自分がどうすれば傷つかないかということを知っていたということなのです。
「そうかよ」
磯村くんのお兄さんは、顔の向きも体の動きもそのまんまにして、視線だけを流し目≠フように、下回りで横の隅っこの方に流したのです。少し、笑いました。いじけることが日常的になって、それがそのまんま平気で罷《まか》り通ることを許されると、人間というものはどうしようもなく暗くて卑屈な、権力的性格になってしまうのです。可哀想というのは、そういうことでした。
こういう状況になると、お父さんの言うことは決っていました。
「まァいいじゃないか」
お父さんはそう言いました。
お父さんはサッと調停役≠ノなる。そして、お父さんを調停役にする為に、お兄さんは物事の波風を立てる敵役≠ノなる。そういう風に相場が決っていたからです。
お兄さんとお父さんは、あまりにも性格が似すぎていました。顔だってやっぱり似すぎていました。しようがないから磯村くんはお母さん似になったというぐらい、お父さんとお兄さんは似すぎていました。
だから、お父さんが一番ひそかに畏《おそ》れていたのはお兄さんで、お兄さんが一番ひそかに畏れていたのはお父さんでした。
お兄さんとお父さんの話に深入りすると本筋からは少しズレるのですが、少しだけ重要なので、チョッとだけやりましょう。
お父さんは、お兄さんの尚治くんが自分に似すぎているのをよく知っていました。お兄さんの尚治くんも、お父さんが自分によく似ているのを知っていました。ただお互いに、相手が自分によく似ていると思っているのだとは、お父さんもお兄さんも思ってはいませんでした。
お互いによく似ているから仲がいいというのは、勿論間違いです。でも、お互いが似ているからお互いに憎み合うというのはもっと間違いです。なんの目的もない時、おんなじ目的を二人揃って目指すというようなことでもない限り、別に人間は、自分に似ている他人を憎むほど、他人に対して接近したりなんかしません。お兄さんとお父さんは、自分の猜疑心《さいぎしん》の強さ、自分と同じだけの直感の鋭さが、自分と似ている他人にもやっぱりあるのかもしれないと思って、こわがっていました。
磯村くんのお父さんの若い時代、人間心理に関する直感のことを猜疑心と言っていましたから、こういうものはない方がいいのだと思っていました。
磯村くんのお兄さんの場合――現代ですが――直感というものは冗談と共に語られることになっていたので、冗談の介入しないようなシチュエーションでの直感は暗い性格≠ニ言って斥《しりぞ》けられていました。
という訳で、二人とも直感にだけは優れていたのですが、それは二人揃って、表向きにはないものになっていました。
磯村くんのお兄さんのいるところで、磯村くんのお父さんは迂闊《うかつ》なことを、だから言わないようにしていました。何故か知らないけど、磯村くんのお兄さんが、お父さんの言い忘れたことを指摘することにだけは長《た》けているように、お父さんには思えたのです。
だから、磯村くんのお兄さんは、お父さんのいる前では、感情的にならないようにしていました。うっかり感情的になると、「どうも君は女性的だな」とお父さんが言い出しそうな気がして不安になったからです。
磯村くんのお兄さんは、クラシックのコンサートに行くぐらい教養があって、テニスだってやるし車の免許だってチャンと持っていましたが――どれもこれも、磯村くんとは関係のないものばかりですが――どれもこれも一通りに人並みに≠ニいうレベルで、決してそれ以上の進歩とか発展は、努力のワリには望めない人でした。どうも、ヒョロッとして内股ぎみの、お父さんによく似た外見がそれを妨げているのではないかという気もしたのですが、それは言ってはならないことでした。
磯村くんは、脳の中が真っ白になったり脳の中に白い霧がかかったりすると、不安になったり落着かなかったりするタチなのですが、磯村くんのお兄さんは、それとは逆に、白い霧に包まれると落着く、というようなタイプでした。勿論、磯村くんのお兄さんだって現代の青年ですから、「なんとなく家は白い霧≠セなァ」というようなことを(もう少しむつかしい言葉を使って――たとえばぬるま湯≠ニか)考えることもありましたが、磯村くんのお兄さんが不安になるのは(ほんとにそれは滅多にないことですが)、「このまんまだと馴《な》れきっちゃうなァ」というようなことでしかなかったのです。「馴れきったところで別にどってこともないけどサ」というような結論に、この不安というものは達することにはなってなんかはいなかったのですけれども――。
磯村くんのお兄さんも、磯村くんのお父さんも、そして磯村くんのお母さんも、人間というのが孤独なものだということを知っていました。知っていてそれで不安になっていたというのではなくて、時々、意識の切れ目というのが表われた時、「ああ、やっぱり人間て孤独なんだな」って、知って安心するというような形で知っていたのです。
「だからなんだっていうの?」――磯村くんにしてみれば、そうとしか思えないような納得のしかたでした。磯村くんにしてみれば、「だって、孤独なんてヤじゃない」という、そういう形でしかこの孤独≠ニいう言葉は出て来ないものだったからです。
磯村くんの一家は、ともかく、うまくやっていました。磯村くんがいれば、異分子のいる現代的な刺激に満ちた家庭でしたし、磯村くんがいなければ、現代的でほのぼのとした家庭になっていることは目に見えていました。
磯村くんにしてみれば、「出てくからね!」の一言が、ひょっとしてこのなごやかな家庭にとりかえしのつかないような亀裂≠ニいうのを与えて、そうなったら家族のみんなが苦しんで、そうしたら自分もとっても苦しんで、というのが、よく考えたら、唯一苦悩のタネだったのです。勿論それは、磯村くんの取り越し苦労にすぎませんでしたけれども。
磯村くんの家族はみんな大人≠ナした。磯村くんのお兄さんは、磯村くんのお父さんの持っていない感情的な部分≠代弁していましたし、磯村くんのお父さんは、磯村くんのお兄さんの気づいていない怠惰な部分≠拡大して、うまくやっていました。
お兄さんとお父さんがそうやって男としての役割分担をやっているのなら、磯村くんのお母さんも、そういう親子を見て、そういうものを男≠セと思って、自分は女≠ニしての役割分担をキチンと果たしていました。時々はため息をつくことがあっても、それは人間が人間として生きていけば当然のことではありました。だって結局、人間というのは孤独≠ネものなのですから。
磯村くんの家族は、だから、みんなうまくやっていました。でも、誰も磯村くんには、その大人≠ノなっているなり方を教えてはくれないのでした。
磯村くんはその家の中でただ一人、「ああかもしれない、こうかもしれない」と、その自分以外の家族の平然たる大人さ≠考えて、首をひねって、そして、はかない批評≠竄辯諷刺≠竄轤フ攻撃を投げかけていました。でも、ひょっとして、「なんだか分んないけど絶対一人暮ししてみせる」と思っていたその磯村くんの確信を育ててしまった元凶《もと》というのは、そうした団欒《だんらん》≠ゥらの決定的な仲間外れだったのかもしれません。
「人間はみんな孤独だ」と知っていた家族のみんなは、そういう中にいる磯村くんの孤独≠ネんて知りはしなかったのです。勿論、磯村くん自身も含めて、誰一人として、磯村くんが孤独だなんていうことを考えてみた人はいませんでした。
磯村くんが「本気で家を出たがってる」とは、家族の誰もが思ってはいませんでした。でも、磯村くんが本気で「僕は一人でもキチンとやれる」と言っていることだけは、もう家族の誰にも疑う余地がありませんでした。「それは分ったけれども」でも、だからと言ってどうしたらいいのか、それは誰にも分りませんでした。
「好きにやらせればいいじゃない」と言ったのは可哀想なお兄さんですが、ここで言う可哀想≠ニは勿論、弟の愛し方も知らないし、「弟に好かれてない」と思いこんでいる、そっちの方です。
お兄さんは、「多分大丈夫なんだろう」と思っていたんですが、素直に弟を祝福なんかしたくないから、イヤミを言っただけなんです。
「好きにやらせていいんだったら誰も困らないわよ」と言ったのはお母さんです。
「なんか困ることでもあるの?」と言ったのは磯村くんです。
「別に困ってもいないけどサ」
「だったらいいじゃないよ」
枝葉のところで挙げ足の取りっこをするのは、この家では磯村くんとお母さんの二人だけです。
「まァ、きみの気持は分ったけれども、もう少し具体的に考えてみたらどうだ?」
そう言ったのはお父さんです。お父さんがきみ≠ニ言うのは、男の子の人格を認めた客観的な第三者的表現なのですが、でも、そのお父さんの子供に対する客観性はそこで尽きていました。過保護にならない程度に過保護にする≠フが現代の親子関係だと思っていた磯村くんのお父さんには(勿論お母さんもですが)、もう何年も前から、息子の薫くんに筋道立った意見を述べさせるだけの客観性≠ニかゆとり≠ニいうようなものはなくなっていました。
男の子と向き合った途端、どこかお父さんの雰囲気にオロオロ≠ニいったような振り仮名が見えたのだとしたら、それは保護≠ニ過保護≠フ境界線がどこにあるのか分らないという、自信のなさのせいでした。
お父さんに「うん」と言った磯村くんには、別にそれ以上の具体的な考え≠ネどというものはありませんでした。具体的な考え≠ニいうのがあるのだとすれば、どうすればこの一件を、メンドクサイゴタゴタ抜きで、如何に早く通してしまうかという、それだけでした。
頭の中の四隅を支える白い霧の果て≠ノ辿り着いたお父さんは、結局「考え直してみたらどうだ≠ニ言っておけば安心だ」と思っていただけなのですから、こんなところで足踏みしていてもどうしようもないのです。
果してお父さんは言いました。
「まァ、独立したければいつだって出来るんだから、そう早まって物事を考えることもないんじゃないかな」
「そうね」と、頭の中がデジタルになっているお母さんは、あと白いカードが二枚続けば普通に物を考えられる状態≠ノなりそうだと思って、うなずきました。「考え直す」ということだってあるんだと、冷静なお母さんは気がついたのです。
「うん……」
磯村くんは生返事をしました。「もう! みんな、まともに僕のことなんか考えてくれないんだからッ!」と、怒ったりするようなことはありませんでした。
視界の端っこにいて、そっぽ向いたまんまニヤニヤ笑おうかどうしようか考えている気の弱いお兄さんと視線を合わせたらカッ≠ニなるのは分っていましたから、そっちの方を見ないようにして、「そうだ、おばさんに電話してみよう」と、磯村くんは思ったのです。
突然ここに出て来たおばさん≠ニいうのは、勿論、第一部の第二話に出て来た、あの磯村くんのお母さんのお姉さんにあたる独身のおばさん≠ナ、第三部の第四話では、この人の家の周りを榊原さんがほっつき歩いたりもしました。
おばさんの話に深入りする余裕は、ホント言ったらもうないのですが、道草ついでに、そっちにも行きます。磯村くんが独立するのに当って一番の功績があったのは、やっぱりこのおばさんだったからです。
磯村くんは一晩寝て、別に考え直す≠アともしないで、次の日おばさんの会社に電話をしました。勿論おばさんは、エライキャリアウーマン≠ナす。結局、このおばさんがこの一件を簡単に捌《さば》いてしまったのはなんなのかというと、おばさんが磯村くんとはごく近しい他人≠セったという、ただそれだけの話でした。
10
おばさんの会社に電話をした磯村くんは、夜になってからおばさんの家に行きました。おばさんは、四年前に――ということは磯村くんが高校一年の時に――お母さんが亡くなってから、ズーッと一軒家に一人住いでした。
磯村くんは、おばさんに向ってこんなことを言いました――「学校が遠くてサ、毎日通うのがやんなっちゃうんだよね。うんざりするしサ、余分なロスだってあるじゃない? だからサ、落着いて勉強したいから一人で住みたいんだよね。一人でだってなんだって出来るしサ。そういう風に子供≠カゃないんだよね。アルバイトだって、やれって言えばやるしサ、生活費ぐらい稼げる自信はあるんだよね。でもサ、なかなかウン≠ト言ってくれなくって、|家の人《みんな》は。だからメンドクサイからサ、金貸して? 絶対返すから」
「バイトして?」
おばさんは言いました。
磯村くんも「うん」と言いました。
「この子の言ってることには甘いとこもある」と、おばさんは思いました。「矛盾してるとこもある」と、おばさんは思いました。「でも、そんなことは大したことじゃない」と、やっぱりおばさんは思いました。「問題があるとしたら、それはこの子がせっかちすぎるというだけで、他には別に大した問題もない」と、おばさんは簡単に見抜きました。だって、おばさんは別に磯村くんの保護者でもないから、磯村くんの未来に対して、なんの責任も取る必要はなかったから、そんなことぐらい簡単に分れたのです。
おばさんはすごく楽でした。「つまるところはこの子に少しばかりのおこづかいをやればいいんだ」と、自分の役割がはっきりしてしまったら、楽でした。親子だって、ホントはその程度のことでいいんですけど、親子は他人じゃないからそうすっきりと事が運ばないという、それだけのことでした。
自分のやるべきことの分ったおばさんは、「それはそれとして、分りきったことはほっといて、その前に少しこの子をからかってやろう」と思いました。「それでダメならダメだもの」と、管理職でもあるおばさんははっきりとしていました。
「でもサァ」
おばさんは言いました。
「あんた一人で下宿して、それでアルバイトなんてしたら、今なんかよりズーッと勉強する時間なくなっちゃうんじゃないの?」
ホントだったら磯村くんにとって、これは痛い質問のはずでした。お父さんやお母さんにこう言われたら、絶対にムキになって「そんなことないよ」って意地を張るのに決まっている御下問でした。
でももう、言うべきことを一通り言っちゃった磯村くんは、そんなことどうでもよかったんです。表向きの一通りの筋の通った話が出来れば、それはそれでよかったんです。表向きの話がキチンと出来なかったら気持悪いけど、でも、表向きの話だけにキチンと辻褄《つじつま》を合わせたって窮屈な思いをするだけだっていうことぐらい、大人≠フ磯村くんは、もう知っていました。
とりあえず言いたいことを言っちゃったら、残っているのはホントのこと≠セけなのですから――。
「うん、そうなんだよね」
磯村くんは、おばさんの鋭い質問≠ノ素直に答えました。そして、ホントのことを言いました。
「だって、もう、なんか、メンドくさいんだもん。なんか、メンドくさくってサ、一人で住みたい」
磯村くんはそう言いました。
おばさんは黙って、なんとも言いようのない顔をしました。
「ねェ、そういうの、だめ?」
磯村くんははっきりと、ここへ来て甘えました。
「別にダメとは言わないけど」
おばさんは、物分りのいいところを見せました。「この子が一人暮しをしたいのはホントで、この子はホントに一人暮しをやっていけるだろう」と、おばさんはそう思いました。
「この子がこんなに平気でメンドくさい≠チて言うんだから、それは本物なんだ」と、おばさんはそう判断したのです。表面だけの辻褄より、そういう感情≠フ方が実生活ではどれほど役に立つかということを、女のおばさんは知っていたのです。
別にダメとは言わないけどなんにも言わないおばさんを見て、磯村くんは少しだけ、不安になりました。なりましたけど、でもそれはホントに少しだけです。何故かと言えば、そう言ったきり黙ってしまったおばさんの顔は、「全然ダメじゃないよ」と、明らかに言っていたからです。
磯村くんは、もう更にどうでもよくなりました。うっかりホントのことを言ってしまったら、ドンドンホントのこと≠ェ見えて来たのです。
「ねェ、もうサ、メンドくさいからここに置いてくんない? 俺、もう一人だったらどこでもいいや」
磯村くんはそう言いました。結局、磯村くんが一番したかったことは公然と大っぴらに逃げ出したいという、それだけのことでした。
何かからは分らないけども、ともかく何か≠ヘ磯村くんのことをメンドくさくさせて、律義な磯村くんはそのことに真面目に付き合って、理屈ばっかり増えて一向にはっきりしない事態から逃げ出しちゃったらセエセエすると、磯村くんはそう思っていたのです。
一向にはっきりしない事態≠ニは、今迄この本で縷々《るる》書いて来たようなそういう事態≠ナす。どうです、自慢じゃないけど、はっきりしないでしょう――()。
磯村くんは、公然とおばさんに甘えました。ともかく誰かに甘えたかったのだということがはっきりしたからです。でも、磯村くんの「ここに置いてェ」という申し入れに対しておばさんは、即座に「だめよ」と言いました。
「どうして?」
磯村くんは言いました。
「どうしても」
おばさんは、少し笑って言いました。口の端で笑うというより、口の中で笑っているというような秘密の笑い方≠ナした。
「だって、こんなに家広いじゃない」
四室と、更には庭まであるおばさんの一人住いの家を見回して、磯村くんは言いました。
「女の一人住いなんて、寂しくなァい?」
磯村くんはませた口をききましたが、おばさんは「子供みたいなことを言って」と思いました。
「あら、どうしてよ?」
おばさんはそう言いました。
「どうしてって?」
磯村くんもそう言いました。
「あたしだって、別にいつまでも一人じゃないかもしれないじゃなァい」
そう言うおばさんの顔は見物《みもの》でした。でも、それに対して「えーッ!!」と言った磯村くんの顔はもっと見物だったかもしれません。ともかく、その磯村くんの顔を見ておばさんは、「あら、やだ、あたし、言わなくてもいいことまで言っちゃったかしら」と思ったのですから。
ともかく、その磯村くんの「えーッ!!」は、訳知り≠ニ幼さ≠ェ一体になった、ヘンテコリンな「えーッ!!」でした。
「この子、分ってんのかしら」と、おばさんは思いました。だから、「おばさん、結婚するのォ?」と磯村くんに訊かれた時、おばさんは「別にそういう訳じゃないんだけどサ」と、うっかり照れてしまったのです。
おばさんの「別にそういう訳じゃないんだけどサ」発言を受けて、磯村くんは「なんだァ、そうじゃないのォ」と言いました。
それを聞いておばさんは「なんだ、やっぱりこの子は子供≠ネんだ」と思いました。
「結婚するとかしないとかっていうようなスッキリした関係じゃない関係だってあるのよ」って言いたいと思いましたが、おばさんの感覚に従えば、まだ未成年の男の子にそんな話をするのは少し不道徳≠ナした。
おばさんにはひょっとしたら結婚することになるのかもしれないけどそれはまだ分らないわよね≠ニいう、七つ歳下の男の人がいました。ちょっぴり大っぴらにしときたいけど、ちょっぴり秘密にしときたい、そんな関係でした。「大人の関係≠ネのよ」と言おうか言うまいかと、ちょっとおばさんは迷っていましたが、磯村くんはもうそんなことどうでもよかったのです。
「やっぱり一人暮しってそういうことなのかァ!」と分ってしまった磯村くんは、おばさんが「あたしだっていつまでも一人じゃないかもしれない」発言をした時に全部&ェってしまったのです。「そうかァ、この家にそういう部屋数があるということは、そういう意味があったのかァ」と咄嗟《とつさ》に了解してしまった磯村くんは、その時にしっかりと、生臭い情景というものもキャッチしてしまっていたのでした。
「ねェ、お金貸して」と、うっかり磯村くんの前でおんな≠ノなってしまったおばさんに向って磯村くんは言いました。あんまり表沙汰に出来ない関係を持っている人間には、強烈なプッシュが一番効くことを、磯村くんは本能で知っていたのです。
おばさんはよっこらしょ≠チと重い腰を上げました。磯村くんのおばさんはお母さんに似て――それよりももう少しガッチリとしていましたが――やっぱり太っていました。
「お金もいいけど、あんた、お母さんに話してほしいんでしょ?」
おばさんは言いました。
「うん」
「どうでもいいけど、ここへ来れば話はうまくまとまるな」と思っていた磯村くんは、普段あんまり使うことのない天性のブリッ子を精一杯発揮しました。
「もうあんただって大人なんだから、出来るもんならサッサと一人立ちしちゃった方がいいのよ」などと言いかけて電話口の方に歩きかけたおばさんは「そうだ!」と思って急に振り向きました。
「ねェ、あんた誰かいるんでしょ?」
おばさんはそう言いました。
「え? いないよ」
磯村くんはそう素《す》っとぼけました。少なくともおばさんにはそう思えました。「子供だ子供だと思ってたら、この子ももう大人なんだわ、あたしも年を取る筈よ、やっぱりするんだったら、早いとこ形だけはつけといた方がいいのかもしれないわよね」などと、アサッテの方向に思いをそらせながら、磯村くんの一件に再び客観的な立場を取れるようになったおばさんは言いました。
「そうか、そうか」
「何が?」
磯村くんも言いました。
別に女の子なんていないよ=\―そのことだけは確かでした。
別に、だからっていって、僕は男が好きな訳でもないよ=\―そのこともやっぱり確かなことでした。
だからといって、別にヤらしいことしないって言ってる訳じゃないんだけどサ=\―これもまた確かなことではありました。
だから結論としては、「だって、一人暮しって、そういうもんなんでしょ、ねェおばさん?」ということでした。
別に磯村くんは、こんなことを口に出して言うほどのバカではありませんでしたから、黙って「何が?」とだけ言っておいたのです。そしてそのとぼけ方は正に、親にまだ言えないでいる女の子がいる男の子の、そのとぼけ方でしかありませんでした。少なくともおばさんはそう踏んだんです。
「いいけど、相手のこともチャンと考えて上げなさいよ、いるんだったら」
さすがにおばさんは、若い男の子の性欲に踏みにじられる女の子のことだけは気になって、そういう風に釘を刺しました。
「だからいないってェ」
何がいるともいないとも言ってなんかいないのに、ただ「いないってェ」を連発している磯村くんの様子を見て、「ああ、まだそういうとこまで行ってないんだ。今の子って存外しっかりしてるから」って、おばさんは思いました。
そうやって、磯村くんの人生の第二幕が始まることにはなったのです。
11
磯村くんが自分の人生の第一幕が終ったなと思ったのは、お兄さんの運転する車に乗って、お母さんと高幡不動の不動産屋さんに改めて行った時です。
甲州街道を通って多摩川を渡った時、車の中の三人は「ホントに遠いんだ」ということを実感しました。
折角の日曜日をつぶされて運転手をさせられているお兄さんは初めっから「遠いなァ」と思っていましたが、お母さんは、甲州街道が本当に街道≠ニいう正体を現わして来て、ホントに武蔵野で、東京じゃないとこ≠ノある多摩川なんてものを見てしまった時、「よくもまァこんなとこに毎日通って来てたもんだ」とそう思って、そう口に出してしまいました。
「よくもまァあなた、こんなとこに毎日通って来られてたわねェ」
「まだ先だよ」
お母さんの声にお兄さんはうんざりしたような表現を付け加えました。
「だから言ったじゃない」
そう言う磯村くんの口調には、最早《もはや》勝誇ったようなトーンはありませんでした。
「そうねェ……」と言って、「なんだって自分の息子をこんなウラ寂しいところにある大学に入れちゃったんだろ」と、自分の至らなさを反省しているお母さんの表情とおんなじような表情を浮べて、磯村くんは、ホントにもうウラ寂しいだけの冬枯れの多摩川の川原を眺めていました。
「もう引き返せないしなァ……」そのことだけは確実になっていたのです。
12
磯村くんは、木川田くんに電話をしました。それは、おばさんの家から帰って来て、お父さんやお母さんが「いいよ」というのを確認してからのことでした。
「いいよ」とは言ったものの、しかし今イチ「ホントに大丈夫かなァ」という訳の分らない危惧《きぐ》のあったお父さんやお母さんは「やったね!」と言って、まるでおもちゃを買ってもらった子供のようにはしゃいでいる磯村くんを見て、「あ、こりゃ色事《いろごと》にはまだ早い」と思って、ヘンな安心をしました。結局、独立騒ぎの真相は訳の分らない子の気まぐれ≠ニいうところに落着けたからです。磯村くんは、どう見たってガールフレンドに電話しているようではなかったからです。
「あのサァ、僕今度、一人暮しすることになったんだよね」
電話口の向うの木川田くんに、磯村くんは言いました。
「カッコイイ!」
木川田くんは言いました。
「うん、まァね。だからサ――」
そう言いかけて照れた磯村くんに、木川田くんは言いました。
「どこだよ?」
「え?」
磯村くんは言いました。
「どこに住むの?」
木川田くんは、少しやさしく言い直しました。
「高幡不動」
磯村くんはそのやさしさにつられて、素直にそう言ってしまいました。
「えーッ!!」
木川田くんは、受話器の向うで素《す》ッ頓狂《とんきよう》な声を上げました。
「うん。まだ決まった訳じゃないんだけどね、大学に一番近いでしょ」
磯村くんは、なんだか知らないけど、木川田くんのトーンにオタオタして、なんか間違いをしでかしたんだと思ってイジイジ説明をしました。
判定はこうです。
「だっせェーッ!!」
木川田くんは言いました。
磯村くんは、確か木川田くんにもう少しなんか別のことを言いたかった筈なのに、でも、そのことを全部忘れてしまいました。
「なんでそんなとこに住むの?」
住むの≠ニすんの≠フ中間みたいな言い方で、木川田くんは言いました。明らかにそれは、いたわってる≠ニか心配してる≠ニか、そういうトーンでした。
「だってサァ、学校、京王線だしサァ」
「だったら下北沢《シモキタ》とか、もっとそういうとこがあるじゃん」
「あるけどサァ」
「お前って、ホント、そういう趣味な」
磯村くんは、自分がどういう趣味≠ネのかは全く分りませんでしたが、でも、自分がとんでもない内出血を起こすような殴られ方をしたのだということだけは分りました。
「そういう趣味≠チてどういう趣味なんだろ?」「僕が高幡不動に住むっていうことがそういう趣味≠フ一つになるらしいってことは分るんだけど、でも、そのことと他の何が結びついてそういう趣味≠チていうような烙印《らくいん》を押されるんだろ?」「押されたんだろう?」
磯村くんはそう考えて、なんだか分らない不安に襲われました。
自分が木川田くんのことを「こうこうこういう人間なんだ」って考えてる一方で、木川田くんの方でも、磯村くんに対する独自の調査≠ニいうようなものを進めていて、今日その結果が「ダサイ」というハンコ付きで送られて来たような、そんな衝撃でした。
「木川田にとって、僕ってそんな程度の人間だったのか……」って、足許の床が砂地獄みたいに落ちこんで行く、そんな衝撃でした。
それは、一生懸命若々しく装って行ったのに、でもなんかの拍子に話が年齢≠フ方に行っちゃう時の、おばさんが七つ歳下の男性とのデートの時に味わうような、そんな衝撃に似ていました。
おばさんと磯村くんの話が合うのも道理と言ったら、きっと怒られるでしょう。
磯村くんはもう、決定的に正気に戻っていました。戻りすぎて、索漠《さくばく》たる孤独の中にいたと言っても間違いはないのですけれども、磯村くんはまだ、そういう状態を孤独≠ニ呼ぶのだとは知らなかったのです。
「だからサ、よかったら、遊びに来て……」
磯村くんは言いました。
「うん、分った」
木川田くんのうん≠ヘ、まるで何かを食べながら言っているような、あん≠ノ近いうん≠ナした。
「まだどこにするか決まってないんだけどサ……」
そう言いながら磯村くんは、「絶対自分はねェ、一緒に住まない?≠チて言いたくて、それで木川田に電話した訳じゃないんだ」って、繰り返し繰り返し、胸の中で強調していました。
「絶対に一人で、僕は強く生きなくっちゃいけないんだ」って、磯村くんが最初に思ったのはその時でした。
まるで地面の上に書いてある白いコースラインを目で追いながらトコトコと歩いて行く養老院の障害物競走のおじいさんのように、口ごもりながら正確に自分の言葉を拾い集めて話していた磯村くんは、「だからサ、よかったら、遊びに来て……」そしてその|……《テンテンテン》の先に「僕、寂しいから」という言葉があるのを見つけて、ブルブルブルッと、首を振ったのでした。
オアシスの蜃気楼を見る砂漠の旅人は、勿論、喉が乾いているのです。
寂しい≠ニいう言葉が忍び寄って来る時、人は初めて大人になるのです。
そして、そんなことを教えてくれる大人≠ニいうものはいないものだから、寂しさ≠ノ近づかれた子供は、それとは違う方向に足を踏み出して行くのです。
人の距離というものは、こうやって拡がって行くのでした。
木川田くんは、まだ具体的に部屋を見つけにかかっていない磯村くんに、「カッコいい部屋探せよ」と言って励ましてくれました。磯村くんは、それを聞いて、「ああ、木川田だって、やっぱり遊びになんか行きたくない……≠チて言ってる訳じゃないんだ」と思ったので素直に「うん」という返事をしましたが、しかしこの時磯村くんは、「僕が一人で部屋を借りたからって、木川田くんが真っ先に来てくれるっていう訳じゃないんだよね」という、そういう確認だけはしていたのです(胸の中で、こっそりと)。
13
磯村くんは、自分が一人暮しを始める理由を一人でチャンとやって行ける修行をする為≠ニいう風に決めていました。お母さんと、お兄さんの運転する車で冬枯れの多摩川の川原を見ながら走っている時、そういう風に思ったのです。
磯村くんの人生の第一幕は、磯村くんがその車から降りて不動産屋さんの前に立った時に終っていたのでした。後は、新しく始める第二幕の段取りをつける為の具体的な作業だけでした。第一幕と第二幕の間にある幕間《まくあい》は、だからドンドンとその為に進められて行ったのです。
電話はどうするのか?
「ダメよ、それがなかったらあなた、こっちの方が心配よ」というお母さんの一声で、サッサと手続きがされました。
部屋は、どっちかといえば新築のアパートの方がいいとお母さんが言うのにも拘らず、磯村くんが「こっちの方がいい」というので築二年≠フ、少しすすけているといえばすすけているけれど、でも見た目にはどうといって違いのないような、六戸建のアパートの一階になりました。
磯村くんは、新しい部屋がこわかったんです。まだ誰も住んでない部屋を見た時、どうやってその部屋に住んだらいいのか自分はちっとも分らないでいることに気がついたのです。
どうやら磯村くんは、そういう趣味≠ナ、それがダサイ≠ニいうハンコを押されるということに縛られてしまったみたいなのです。
誰も住んだことのない部屋を「ここがいい」と言ってもいいのかどうか、磯村くんにはよく分りませんでした。それよりも、誰か前に人が住んだことのある部屋だったら、その部屋のダサさを、その、前に住んだことのある人間のせいに出来るかもしれないと思いました。
それよりも――でもそんなことよりも、築二年≠フアパートの方には縁側があって、庭とは言えないけれど少なくとも庭にも出来るような空間≠ェあって、そしてその向うの垣根越しに貧乏くさい畑≠ェあるのが目につきました。
しょぼしょぼと冬の菜ッ葉の生えている畑を見て、そしてその手前にある、少なくとも人が住んだことのある壁を見て、磯村くんは「ここなら耐えられる」と思ったのです。何に耐えられるのかといえば勿論寂しさ≠ノですけれども。
ダサいとかダサくないという問題を通り越して、磯村くんは、「人が恋しい」と思いかけていました。
学校に行って磯村くんは、「今度一人暮しするんだ」と、友達に言いました。
「ヘエーッ、どこ?」と訊かれて、「ウン、高幡不動」と言いました。
「あんなとこ住むのォ?」というのと、「近くていいじゃない」というのと、意見は二つに分れましたが、「ウン、いいでしょ」って言う磯村くんは、もういつものニコニコした磯村くんでした。
磯村くんは、もう頭の中で「平気だな」と自分に言いきかせて、一人暮しには平気の態勢を作り上げていました。でもまだ「うん、遊びにおいでよ」とは誰にも言えはしませんでしたけれども――。
少なくとも一人暮しを始めてそしてそれに馴れるまでは、迂闊《うかつ》に人を呼んだりしてドンチャン騒ぎなんかやらない方がいいと思っていました。
磯村くんはシーンとして、「冷蔵庫はどうするの? テレビは持ってくの? ベッドはどうするの? 持ってくの? 置いてくの? そうよ、別になくなったら帰って来た時困るものね。取り敢えずお布団持ってく? あなた家具だって少しいるんでしょ?」というようなお母さんの声の中で「分った」「ウーン、分んない」というような、曖昧《あいまい》な返事だけをしていました。
とにかく磯村くんには、一人暮しを始める時、具体的に何がどれだけいるのか、それがよく分りませんでした。とにかく大学はもう少ししたら冬休みに入っちゃうんだし、そうしたら帰って来るんだろうから、とりあえずは実験的に必要最小限度のものだけを持って行けばいいんじゃないかとお母さんに言われるまでもなく、磯村くんの頭には必要最小限度のものだけしか浮かびませんでした。
お母さんと一緒に選んだカーテンが掛けられて、お母さんと一緒に選んだ一通りの食器が運ばれて、家にあったお客さん用の予備の布団が運ばれて、新しいストーブと小さな冷蔵庫とトースターと、机と本箱とカセットテープとラジカセが運びこまれたら、もう荷物はそれだけでした。
引っ越しも、お兄さんが運転手になる筈だとお母さんは思っていたのですが、「日曜日二週も続けて運転手させられる身にもなってよ。第一、あの車じゃ荷物運べないよ」というお兄さんの発言と、「いいよ。そんな、親子揃っての引っ越しなんて、小学生じゃあるまいしィ!」という磯村くんの発言で、引っ越し屋さんのトラックに磯村くん一人が同乗して行くだけになりました。
まるで一人息子がお嫁入りする時みたいな騒ぎ方をしていたお母さんですが、それも、引っ越し当日のトラックの上にある荷物の少なさを見て「これだったら別にどうってことないんだ」という安心をしました。
「お腹空いたら帰ってらっしゃいよ。ちゃんと御飯食べるのよ。それから、火だけは注意して頂戴よ、あなた一人なんだからね!」と、クドクドと言うお母さんに「分った」「分った」と言っていた磯村くんは、でもよく考えたら、それ以外はなんにも分らないでいたのでした。
引っ越して来て第一日目の晩、日が暮れる大分前に明日の朝御飯のパンと牛乳とティーバッグは買ってあったし、晩御飯は「ほっかほか弁当」を買って来てすませてあったし、当座の生活費として二万円は貰ってあったし、おばさんからは餞別《せんべつ》で五万円も貰ってあったしでなんの心配もなかったのですけれど、鳴らない電話とテレビのない空間を見つめているのはなんとなく寂しいもんだなと、それだけを磯村くんは思いました。
「ラジカセだけを頼りにして生きてるなんて、とっても大学生らしいな」と、磯村くんは、木川田くんの家に電話をした少し後で思いました。
木川田くんは、留守でいなかったのです。
「電話番号は知ってるから、その内掛けて来るさ(いつかは)」と、磯村くんは思いました。
「そうだ、みんなに引っ越しの連絡をしなくっちゃいけないんだ。どうしようかなァ……」と思いました。
そう思ってズーッとしばらくして、「そうか、一人暮しってこういうもんなんだ」と思って、磯村くんはどうやら、落ち着いて自分の部屋の中を眺めることが出来るようになったのです。
庭に面したガラス戸のカーテンを少し開けて、内側についた露を少し手で拭いて、「外の畑が見えるかなァ」と思って磯村くんは暗い外を覗いてみましたが、見えるのは、暗いガラス戸に立ちふさがっている自分の影法師だけでした。
第一幕の幕を引くことだけを考えていた磯村くんは、でも、第二幕の演技も台本もなんにも知らないまんまでいる自分には、まだ気がつけないでいたのです。
「星が多いなァ」と思って、磯村くんは、静かに夜空を眺めていました。
14
様式のない芝居は、まずロマンチックな様式で始められます。現実感がないから、とりあえずはみんな、ロマンチックなことだけはやれるのです。
木川田くんがやって来たのは、磯村くんが越して、三日目の晩でした。
三日目の夕方に、畳の上に置きっ放しにしてある電話器が鳴って、「どうォ? 遊びに行ってもいいィ?」という木川田くんの声がしました。
それに対して「うん、いいよ」と言う磯村くんの声は、既にして一人暮しに馴《な》れてしまった、いつもの磯村くんの声でした。
学校に行って「引っ越したんだァ」と言ってみて、帰って来て近所の地理を知る為にアッチコッチ歩き回っていた磯村くんは、もういつもの明るい磯村くん≠ノ戻っていました。
その明るさ≠買う為に彼が何を払ったのか、それはまだ誰も知らないことですが、ともかく、起きて大学に行って、それがあんまりにも近くにあることを体験してしまった磯村くんは、何故かそれだけでウキウキしてしまったのです。
「下手すりゃ歩いてだって行けるもん」――そう思った磯村くんは、ほとんど、特権階級でした。なにしろ、高幡不動の町よりは、下手すりゃ山の向うにある大学の生協の方がなんでも揃っていたからです。青春のざわめき≠ワで、そこでは売っているように思えたからです。
「もう絶対平気だ」と磯村くんが思ったのは無理ありません。
リアリティーというものをどっかに落っことして来たまんま、磯村くんの人生の第二幕というのは始まったのですから、磯村くんは、平気でロマンチックな舞台にも上れました。だからとりあえずの第二幕第一場は、そういうようなストーリーの展開になるのでした――。
15
木川田くんがやって来たのは、午後の七時でした。シーンとして賑《にぎ》やかな駅前に、磯村くんは迎えに出ました。
夜の闇というのは不思議なものです。ここへ来て磯村くんは、初めてそのことを実感しました。
第一日目の夜はあまりにもその闇が深いので足を取られそうになってしまいましたが、二日目からはそのことに馴《な》れました。
ビルはないし、川はあるし、商店街だってそんなに大きくはないし、畑はあるし、空き地はあるしで、街灯がいくらついていても、暗いところは暗いのです。
大体の道にはみんな街灯がついていますが、でも、その道を取り囲む夜というのは、今迄磯村くんの暮していた所に比べると、段違いに深いのです。
夜の中に、街の光が吸いこまれて行きます。振り返れば、山の上まで続く家々の明かりがあるでしょう。でも、それは夜と一緒になってしまった自然の中に埋もれて、あんまりくっきりとは見えませんでした。
電車から降りて来る人の群も、どこかに吸いこまれて行くように、いつの間にかどこかへ消えてしまいました。
そんな、シーンとした賑やかな駅前で、木川田くんは、白い息を手に吐きかけて、立っていました。
「ごめェん、待ったァ」
皮のスタジャン姿の木川田くんを見つけた磯村くんは白い息を吐き出しながらそう言いました。
雪でも降って来りゃもっと絵になったんでしょうが、いくら都心よりも気温の低い多摩の町でもまだそこまでは行きませんでした。
「おっセェなァ!」
木川田くんが言いました。
「でも、すぐ近くなんだよ」
磯村くんが言いました。駅から五分しか離れていないところで、木川田くんから電話を貰ってすぐ磯村くんは飛んで来たんですから、そんなに怒鳴られる理由もないのです。
勿論、木川田くんの「おっセェなァ!」は照れ隠しですが、磯村くんにはそんなことは分りませんでした。磯村くんのする判断というのは、「それは気にした方がいいか、悪いか」という、それだけでしたから。
「行く?」
木川田くんの前に足を揃えて立った磯村くんは少し上体を傾けて、馴れないブリッ子を気取りながら言いました。
「自分だってそういうことやってみたいもん」と、磯村くんは思っていたのです。
「うん」
木川田くんは言いました。
「どっち?」
木川田くんは威張っていました。
知らない他人の家に泊めてもらうんだから虚勢でも張ってないとカッコがつかなかったからなんですが、でもそんな木川田くんは、どこにでも自然に溶けこめちゃう人間みたいでいいなァと、磯村くんには思えました。
「こっち」
「でももう僕だってここには溶けこめてるんだ」って、磯村くんは思いながらそう言いました。
駅を出て左にちょっと行くと、白いペンキ塗りの地下道があります。そこをくぐって線路の向う側に出ると、街灯が地面に氷の池を作っているようなところがあって、葉の落ちた柿の木に赤い実が二つばかり残っています。「こっち」と言って、磯村くんはそこで左側の道を指しました。
木川田くんが「うん」と言って又少し行くと道はもう一回二股になっていて、磯村くんはそこで「ホラ」と言って後を振り向きました。
「なァに?」木川田くんもつられて振り向くと、そこには白い蛍光灯の光を窓々からふりまいている、電車区の大きな細長い建物がありました。
「なァにあれ?」
木川田くんが言いました。
「電車の倉庫」
磯村くんが言いました。
「ヘェ、俺また病院かなんかかと思った」
木川田くんが言いました。
「うん。きれいでしょ」
磯村くんが言いました。
「ふん」
木川田くんは『細雪』のお嬢さん風にうなずきました。
「こっち」
磯村くんは道を右にとりました。
小さな神社の前を通って、小学校の塀に沿って、更に奥に入って行くと、道だけは街灯の光でよく分りますが、でも周りに何があるのかはよく分りません。
「ここら辺、何があんの?」
木川田くんが訊きました。
「うん。よく分んないんだけどサ、シケた畑とか家とか、そういうの」
「ふーん」
磯村くんの返事に、木川田くんも分ったような分らないような答を返しました。
「こっち。ここなんだ」
磯村くんがそう言ったのはそれから二十歩と行かないところでした。
灯りを点《つ》けっぱなしにしてある部屋のドアを開けて磯村くんが言いました。
「上ってよ」
「うん」
木川田くんが言いました。
「ワリといい部屋じゃん」
靴を脱ぎ捨てて上って来た木川田くんは、なんにもない磯村くんの部屋を見てそう言いました。
「そうォ?」
磯村くんが言いました。
「隣り、何があんの?」
部屋の突き当りのカーテンをバッと開けて木川田くんが言いました。
「畑なんだ」
ちょっと照れたように磯村くんが言いました。
「見えねェや」
夜の中を覗《のぞ》きこんで木川田くんが言いました。
「そこが物干しでサ」
木川田くんの横に立った磯村くんは窓の外を指して言いました。
「ふーん」
「だけどサ、なんか干すと、埃《ほこり》がすごくって」
「お前もう洗濯したの?」
「うん、昨日ちょっとね。掃除したから」
「ふーん……。洗濯機あんの?」
「うん? ないよ。コインランドリー行こかな、とか思ってんだけど、まだなくって。なかったら手で洗えばいいんだけど」
「ふーん」
「あ、お茶|淹《い》れるね」
「うん」
磯村くんは玄関の横にあるキッチン≠フ方に歩いて行きました。磯村くんの部屋は、玄関を入るとキッチン≠ニいうガス台と流しがあって、その先に六畳の部屋が庭≠ノ面したガラス戸まで続いているという、細長い部屋です。
「何してたの?」
庭に面して置いてある磯村くんの机を覗いて木川田くんが言いました。
「うん? 年賀状書いてたの」
ヤカンにお水を入れながら磯村くんは言いました。
「もう≠ゥよォ」
木川田くんは磯村くんの椅子に坐って、磯村くんの書きかけた机の上の年賀葉書を見ています。
「うん、引っ越したでしょ。でもサ、それの通知だすのって面倒だからサ、そう言えばもう年賀状だからって買って来たの」
「ふーん」
「なんか、わざわざ引っ越しました≠チていうのだけ書いて出すのって、いやじゃない?」
「ふーん、そうかなァ」
「なんかね」
「ふーん……。何枚ぐらい書いたの?」
「まだ全部書いてないけど、三十枚ぐらい出そうかなって」
「あ、女のもある!」
年賀状をひっくり返しながら木川田くんが言いました。
「いいじゃない」
寄って来た磯村くんは少し照れながら言いました。
「こいつ、誰?」
木川田くんは、その女の子宛の磯村くんの年賀状を見て言いました。そこには磯村くんの角張った青いボールペンの字で大崎幸子≠ニありました。
「知らない? クラス会の幹事やってたじゃない」
「ああ、あいつかァ、鼻ばっかりの」
大崎さんという女の子はワリと顔が檀ふみみたいなヤツ≠ナ、磯村くんに言わせればワリとアレよか目が細く≠ト、木川田くんに言わせればしたら鼻しかねェじゃねェか≠ニいう、高校時代の同級生でした。
「お前、あんなヤツに出すの?」
木川田くんが言いました。
「うん、今年なんだかんだあったし、又、クラス会の幹事やんなきゃいけないかもしれないから」
律義な磯村くんは、椅子にふんぞり返った木川田くんと向き合うようにして、机に手をついて立っていました。
木川田くんは黙って、書きかけの年賀状をめくっていました。「ホントに磯村って、付き合ってる女っていないのかなァ……」って思いながら。
磯村くんの書きかけの年賀状は七枚だけで、その内木川田くんの見た中で女の子の名前があったのは大崎幸子様≠ニいう一通だけでした。
「あ、俺のもあるゥ!」
一番最後の一枚をひっくり返して木川田くんが言いました。
「うん。一応、もう知ってるけど……」
磯村くんは、「ダセェことすんなよォ≠ネんて言われないかなァ」とか思って、少し照れながら言いました。
「今年もよろしく≠セって。ヒッヒッヒ」
磯村くんの書いた字を読みながら木川田くんが言いました。
「いいじゃない、年賀状なんだからァ」
磯村くんは少し恥ずかしくなって目をそらしました。そしたらカーテンが開きっ放しになってることに気がついたので、音を立ててそれを閉めました。
でも木川田くんは本当は嬉しかったんです。宛て名の方を下にして置いてあったのを順番に見て行ったら自分の名前が一番下にあったということは、磯村くんが年賀状を書く時にはまず一番最初に木川田くんの名前を書いたということですから。おまけに木川田くんは、もう磯村くんの住所も電話番号も知っているんですから。そして、「去年は俺に――」と今年≠フことを間違えて思い出しながら、「磯村、年賀状なんかくれなかったもんなァ」と思って、木川田くんは寂しくなりました。少しだけですけど。
「なァ磯村ァ」
「うん?」
机の上に年賀状をポンと置いて、立ち上がりながら木川田くんが言いました。
「腹減らない?」
「減ったねェ」
磯村くんも言いました。
「なんか食いに行かない?」
「うん」
「早くお湯沸かねェかなァ」
磯村くんの横でガスレンジを見ながら、木川田くんが言いました。
「うん、ちょっと待って」
お客さんにお茶を淹《い》れるなんてことになれてない磯村くんは、ガスの火を強くしようと思って出かかったところを木川田くんに捕まりました。
磯村くんの両腕を持った木川田くんは、顔を磯村くんに近づけて、「磯村、俺のこと好き?」って言いました。
いきなりのことでどう言ったらいいのか分らない磯村くんは素直に「うん」と言いました。そしたら、ニヤッ≠ニ笑うかなと思った木川田くんは笑わずに、普通の顔をして、磯村くんの頬っぺたにキスをしました。
「あ――。あ、もうカーテンは閉めてあるか――」
磯村くんはいきなり、そう思いました。
「でも僕は、別にそういうつもりでカーテン閉めたんじゃないんだけど」と思いかけたところで、小さなホーロー引きの赤いポット《やかん》の蓋がカタカタと音を立て始めました。
「ションベン、ションベン。磯村、トイレどこ?」
木川田くんは磯村くんの顔の前約五センチでそういうことを言いました。
「玄関の横。右の方」
玄関の横にこちらを向いて二つ並んでいるドアの方を指して磯村くんは言いました。
ヤカンのお湯はカタカタカタの後で、もう吹き出しています。
「もっちゃう、もっちゃう」
木川田くんは股間《こかん》を押さえて、左の方のドアを開けました。
「あ、風呂もあるんだ」
「うん」
「いいなァ、お前」
木川田くんはそう言ってトイレのドアを閉めました。
「ホントに、木川田っていうのはァ――!」
そうとだけ思って、磯村くんは戸棚から、まだ封を切ったばかりのリプトンのティーバッグのケースを取り出しました。
判断保留は判断保留だという、ただそれだけです。
「水洗じゃねェのな」
出て来た木川田くんがそう言いました。
「うん」
磯村くんは、カイガイしく、奥さんです。
16
「ねェ、お風呂入る?」
磯村くんがそう言ったのは、二人で駅前まで晩御飯を食べに行って帰って来た後でした。
「うん」
木川田くんは言いました。
「じゃァ水入れるね」
「うん」
磯村くんはお風呂場に入って行きました。
「あのサァ、磯村さァ」
「うん?」
磯村くんはお風呂場の中から答えました。
「なんでお前、一人で住もうと思ったの?」
そういう木川田くんのお前≠ヘ、心なしかいつもよりも少し柔らかいトーンでした。
「なんでって――」
お風呂場の中で、ポリエチレンの洗面器とポリバスがぶつかる音がして、ザーッ≠ニいう水の音が始まりました。
「なんでって、メンドくさくなっちゃってサ」
お風呂場から出て来た磯村くんは、手をタオルで拭きながらそう言いました。
「なにが?」
木川田くんはそう言いました。
「なにがって言うかサァ……、なんていうのかなァ……。あ、ちょっと待ってね」
何か言いかけた磯村くんは、そのまんまトイレの中に入りました。
小さな水音は大きな水音に消されて聞こえません。
木川田くんのいる前で、黒い受話器がリーン≠ニ鳴りました。
「磯村ァ!」
「うーん」
トイレの中で磯村くんが答えました。
「磯村、電話」
「分ってる」
「うん」
そう言って木川田くんは流しの方に歩いて行きました。
電話は鳴り続けて、磯村くんがあわてて出て来ました。
流しに置いてある小さなお皿を取って、木川田くんは「これ灰皿に使っていい?」と言いました。
「うん?」と振り返った磯村くんは、「いいよ」と言って電話に取り付きました。
「もしもし。はい。あ、僕。うん。うん。あ、そう。うん。さっき友達と飯食ってた。うん。うん。あ、そう」
木川田くんは灰皿を手に持ったまま煙草に火を点《つ》けて、磯村くんがトイレの戸をバン!≠ニ閉めた拍子に開いてしまった、お風呂場のドアの中を覗《のぞ》いていました。
お風呂の水はまだ入ったばかりで、なかなか一杯にはなりそうにもありませんでした。
「まだなかなかだな」と思った木川田くんは、でもそれでもしばらくは、お風呂の水の見張りをしていました。
「うん、うん」
磯村くんは木川田くんの方を見てうなずいてばかりいます。
「まだなかなかだな」と思った木川田くんは、灰皿を持ったままお風呂場のドアを閉めました。
「うん、分ったけど、お母さん心配しすぎだよ」
磯村くんは、木川田くんに電話の相手が誰だか分らせる為に、態々《わざわざ》相手の名前≠呼びました。
木川田くんは笑ってうなずいて、磯村くんは左手で受話器の方を指して「うん」と、木川田くんの方にうなずきました。
「大丈夫だって。うん。足りてる。だ・い・じょお・ぶ。うん。そうだって、うるさいなァ。平気だよ、平気。うん。あ、今友達来てんだ。うん、男。ホラ、木川田って、知ってるでしょ。何言ってんだよ、そんなことしてないって。あ、そうだ」
磯村くんは言いました、勿論受話器に向ってです。
「あのサ、ほら、台所にあったテレビサ、あれもらっていい? うん、やっぱりなんか、テレビってあった方がいいみたいだけど、使う? うん。だからァ、分ったけどォ――」
磯村くんは、お母さんが「寂しかったらアレだから、テレビでも持ってったら」というのを無視して――ともかく何を持って行ったらいいのか分らないでいるところにこれ以上家具が増えたらゴタゴタの混乱が増すだけだと思っていたからですが――引っ越して来たけれども、でも友達が来た時なんかテレビがあった方が手持無沙汰じゃないなと思ってそう言ったのです。
「磯村ァ、テレビいるの?」
木川田くんが立ったまま言いました。
「うん? ――あ、ちょっと待って」
受話器を手でふさいで磯村くんが言いました。
「なァに?」
「うん? テレビほしいんなら俺が持って来てやるよ」
「ホント?」
「ウン。中古だけど二万で買わねェかっていうの、俺の友達が。まだ見てないんだけど、二万じゃなくて一万だったら買ってもいいとかって言ったんだけど、まだ新品だっていうんだよな」
「どうしてそんなの売んの?」
「知らねェ。金がいんだって」
「フーン」
「どうする?」
「どうする≠チて?」
「お前がいるっていうんだったら持って来てやってもいいけど」
「うん」
「あ、別に、あるんだったらいいけどサ」
「うん。あ、ちょっと待って」
そうして磯村くんは、受話器に向って話かけました。
「もしもしィ。うん。今さァ、友達が。うん。木川田が来ててサァ、テレビいるんだったら安く手に入るって。うん。うん? うん。だから。うん。うん。でもいいよ。あればいいんでしょ? うん。どうせ家帰った時また見るから。うん。うん。いいんだってェ! うん。ほしいの! いいの! 自分で買うってェ。そんくらいあるよォ。ある! 分ったよ、うるさいなァ。大丈夫だってばァ。うん。日曜日帰るからァ。うん。土曜日帰るよ。分った! 帰るから! ああ、じゃァね。お父さんや兄さんによろしくね。うん。元気だってェ。はい!」
「ホントにまいっちゃうね」
受話器を置いた磯村くんはそう言いました。
「ふん」
木川田くんもそううなずきました。
うなずいてこう言いました。「でもサ、心配なんじゃないの、やっぱり」
「そうなのかなァ」
磯村くんは言いました。
「そうなんだよ、きっと」
「そうなんだろうね」
「うん」
「お風呂の方、どうなってるかな?」
磯村くんは言いました。
「まだ大丈夫じゃないの」
木川田くんは言いました。
「ちょっと見て来るね」
「うん」
磯村くんは立って行きました。
「俺のことどう思ってるのかなァ、家の人」
お風呂場のドアを開けかけた磯村くんに、木川田くんは言いました。
「どう≠チて?」
ドアを開けかけて、磯村くんは振り返りました。
「別に……。どうってこともないんだけど」
木川田くんは、小さいお皿に煙草を押しつけて火を消しました。
「僕、木川田のこと好きだよ」
「うん」
磯村くんに言われて、木川田くんはそれだけ言いました。
「あ、もう大丈夫だ」
お風呂場の中から磯村くんが声をかけました。
「もう火ィ点《つ》けちゃうね。足りなかったら後で足せばいいでしょ、水」
顔だけを出して、磯村くんはそう言いました。
「うん」
そう答えて、木川田くんは電話機に手をかけました。
「ちょっと電話借りるね」
「うん」
黙って相手が出るのを待っている木川田くんに、お風呂場から出て来た磯村くんは「ゼロサン回した?」と訊きました。
「うん。あ、お母さん。俺。今日友達家《ち》泊まるから。うん。普通の友達。なんでもないから。うん。じゃァ」
木川田くんは、目だけで磯村くんに答えて、お母さんに電話をしました。
磯村くんが「そうかな?」と思っていたテレビの友達≠ヘ、その次の電話でした。
「悪いけど磯村、もう一回電話貸して?」
「うん」
木川田くんにそう答えた時、磯村くんは、とってもとっても木川田くんのことが好きな自分に気がついたのです。
17
磯村くんがお風呂から出て来た時、木川田くんはお布団の中で煙草を吸っていました。枕許のラジオの中では所ジョージが「ばほばほ!」と言っています。
部屋の中にはストーブが点いていて、お風呂から出て来たばかりの磯村くんには暑いぐらいでしたが、でも、トランクスとTシャツだけの木川田くんはお布団の中にスッポリと納まっていました。友達に裸の姿を見られるのを恥かしがった木川田くんは、お風呂に入る入り際、「布団ひいとけよ、磯村」と言って、出て来てそのまま、お布団の中に入ってしまったのです。
「あー、暑い」と言って頭をタオルで拭いている磯村くんに向って、「少し開けようか?」と木川田くんは言いました。
「うん、少し開けて」
磯村くんにそう言われて、木川田くんはズリズリズリと、腹這ったまんま、庭のガラス戸を開けに行きました。
「よいしょ」と言う木川田くんの指先に、ガラスの表面のしずくが伝わって、冬なんだなァということがよく分りました。
「木川田ァ、牛乳飲むゥ?」
裸のまんま磯村くんは、冷蔵庫の戸を開けて言いました。
「うん。いい」
木川田くんは畳に顎を乗せて、外を覗《のぞ》いたまんま言いました。
「何見てんの?」
ブリーフ一つの磯村くんは、首にタオルを巻いたまんま、牛乳の入ったグラスを持って窓の方にやって来ました。
「別に」
腹這ったまんま木川田くんは、ペタンと鼻を畳にくっつけて、「やっぱ寒いや」と言いました。
「寒い?」
「うん、別に」
布団の中で木川田くんは、うつ伏せのまんま言いました。一つしかない枕は木川田くんの横で、白い枕カバーを涼しげに光らせていました。
ガラス戸を開けて、外を覗きこんで、「やっぱり寒いや」と言って、磯村くんは又元のようにガラス戸を閉めました。アルミサッシの引き戸は、ゴロッと、重くて滑らかな音を立てました。
「一応鍵かけとこ」
磯村くんはカーテンの隙間から手を突っ込んで、サッシのロックを降しました。
「あーあ、俺も一人暮しがしてェなァ」
磯村くんが牛乳をゴク、ゴクと飲む間に、木川田くんはそう言いました。
「うん。すればいいのに」
言ってから磯村くんは、「少し残酷な言い方だったかなァ」と思いました。でも、「一緒に住もうよっていう気分でもないし」とか、そう思いました。
もう一遍頭をゴシゴシと拭いて、木川田くんが使いっ放しにしてあるドライヤーのスイッチを入れて、そしてそれを止めて、磯村くんは、裸の上にTシャツだけを一枚着ました。
「ここ、三万五千円だっけ?」
木川田くんが言いました。
「うん」
ドライヤーのスイッチを又つけた磯村くんの声は、少し聞き取りにくかったのかもしれません。磯村くんは、「やっぱ、自分て、わがままで、恵まれてんのかなァ……」とか思いました。そういう風にはあんまり自分のことを思わなかった磯村くんなのですけれども。
「なんとかなるかなァ、三万五千円なら」
ドライヤーの音でよく聞き取れなかった磯村くんは、「なァにィ?」と聞き返しました。
「三万五千ならなんとかなるかなって言ったの!」
ガバッと上体を跳ね起こして、木川田くんは笑いながら言いました。
「ああ」
磯村くんの発言はそれだけです。
「でも高幡不動じゃなァ」
木川田くんはもう一遍布団の中にもぐり込んで、磯村くんの枕の下に話しかけました。
「なんか言った?」
「別に」
磯村くんと木川田くんは、まだ行くところまで行っているという、関係ではなかったのです。
「やっぱ、テレビがないと、退屈だねェ」
枕をはずして、腰から下だけを掛布団の下に突っこんだ磯村くんは、両手を後に突いたまんまそう言いました。
「うん」
押入れからパジャマを出して来たけど、「やっぱメンドくさいや」と言って着なかった磯村くんは、さすがに、Tシャツとブリーフだけじゃ心細くなって来た自分に気がついたのです。
「さっきの話さァ」
磯村くんが言いました。
「なァにィ?」
木川田くんが、甘えたような声を出しました。
「うん? テレビ」
磯村くんが上ずったような声で言いました。
「ああ、アレ。痛テ」
寝返りを打つ拍子に、磯村くんの膝頭に頭をぶつけた木川田くんは言いました。
「もう少しそっち行って」
「うん」
磯村くんが三センチぐらい離れると、木川田くんは肘枕で横向きになって磯村くんに言いました。
「高い?」
「何が?」
「値段」
「ああ」
「高いっていうんならカッパラって来てもいいよ」
「またァ」
「あいつ金持だからいいんだよ、そんくらい」
「知ってるヤツなの?」
「うん。医学部だもん」
「医学部かァ。だったらかっぱらって来ても平気だよね」
「お前もすごいこと言うなァ」
「どうしてェ?」
「別にィ」
「ねェ、木川田サァ、そいつと、どういう関係?」
「どういう≠チてェ?」
磯村くんの声がちょっと干からびてるのと反対に、木川田くんの声はちょっと、甘ったれたみたいな感じでした。
「だからサァ――」
磯村くんは、訳の分らないことを言いました。
「別に、そんな関係じゃねェよォ」
でも木川田くんには訳が分っているようでした。
「だったらいいんだけど」
「うん」
「でも、あんまり、なんか、そういう人≠ニ、付き合わない方がいいんじゃないの」
磯村くんは、体にかかった掛布団の、襟の、ちょっと先の方を見ていました。
「うん」――木川田くんは、ほとんど、分ってるよ≠ニおんなじ意味のことを言いました。
「だったらいいんだけど」
磯村くんは、自分の言ってることがあんまりお説教じみない方がいいなと思いましたけどでもそれと同時に、やっぱり自分の言ってることがお説教程度に取られてる方がいいなァとも思いました。
「俺、別にそんな風になんかしてないよ、あんまり」
磯村くんの方を向いていた木川田くんは、頭を支えていた腕をはずすと、クルッと振り返って、磯村くんのいない方の壁に向き直りました。
向き直って、「あんまり」と言う時、宙に迷っていた頭を、磯村くんの腰のところに落ち着けました。
磯村くんが黙っているもんだから、木川田くんは、「枕!」と言いました。
言われて磯村くんは、木川田くんの方にすり寄って、自分の太腿の上にかかっている掛布団を木川田くんの枕がわりにあてがいました。
そのまんま木川田くんは黙っていて、磯村くんの右の太腿が少しだけ、掛布団からはみ出していました。
「さっき言ったことだけどサァ」
木川田くんが黙っているものだから、磯村くんが口を開きました。
「なァにィ?」
何もなかったように木川田くんが答えました。
「うん? さっきサァ、どうして一人で住もうと思ったの?≠チて、きみが言ったじゃない?」
「俺がいるからだろォ」
咄嗟《とつさ》に、磯村くんの言ったことに木川田くんが答えました。
「まァ、それもあるのかもしれないけどォ」
磯村くんは、何かに口ごもったのかもしれないけど、でも自分ではわりと正直に答えられたなと思うように言いました。
「冗談だよ」
別に、冷やかすようでもなく、木川田くんは言いました。
「冗談なの?」
磯村くんは訊きました。
「俺、別に、お前のことそんな風に好きじゃないもん」
掛布団越しに磯村くんの脚に触れていた木川田くんの頭は、その言葉につれてズズッとずれて、木川田くんは、一人で布団の隅にうずくまってしまいました。
ラジオの中の西山浩司と見栄晴だけが喋っている部屋の中でした。
「電気、消そうか?」
「うん」
電気の方を消さずにラジオの方のスイッチを消した磯村くんは、そのまんま布団の中にもぐりこもうとして、「もう寝る?」と、木川田くんに訊きました。
木川田くんが「うん」と言ったので、磯村くんは起き上って、電気のスイッチに手を伸ばそうとして、「ああ、そうだ」と思って、ガスのストーブを消しに立って行きました。
ドアの鍵をかけてストーブの火を消して、電灯のスイッチに手をかけようとすると、目の下の布団の中で木川田くんがうずくまっているので、磯村くんは、「なんか自分がおじさんになったみたいでいやだな」と思いました。
思いましたけど、「しょうがないな」と思って、すぐ灯りを消しました。
寒くならないようにそっと布団をめくって、横になった磯村くんは、「おいでよ」と言いました。
「うん」
磯村くんの腕を枕がわりにして、木川田くんは磯村くんの肩に顔を寄せました。
「枕、いらないね……」
一遍あてかけた枕をはずして、磯村くんは木川田くんの頭に顔を寄せました。木川田くんの頭からは、自分が使ったのと同じシャンプーが、ちょっとだけ違う風な感じで、匂いました。
「ごめんね」
木川田くんが言いました。
「別に俺、お前にそんな風にしてもらわなくてもいい」
「うん。でもいいよ」
木川田くんの言葉に磯村くんは答えました。
「うん、でも俺、磯村のこと、そんな風に好きじゃないもん」
「うん。いいってサ」
「うん。でも、俺ン中で、磯村って、別なんだ」
木川田くんは体を動かして、布団の中で二人は、一緒になって、天井を向きました。
「やっぱり、枕、いるかな……」
磯村くんが言いました。
「いる?」
木川田くんに、磯村くんは訊きました。
「うん? いい」
木川田くんは言いました。
暗い中で磯村くんは、「やっぱり枕がないと寝にくいなァ」と思いました。
「木川田、寒くなァい?」
磯村くんは言いました。
「ううん」
そう言って、木川田くんは黙っていました。
磯村くんも、どうしたらいいのかわからなくて、やっぱり黙っていました。
「俺サァ、磯村といると落着くんだ」
木川田くんが言いました。
「うん」
磯村くんも言いました。
「俺、磯村のこと、好きだよ」
「うん」
男の子二人は、おんなじようなことばかり言っていました。
「もういい。なんか枕になるもんなァい?」
起き上って、木川田くんが言いました。
「ごめん、なんにもない。今度買っとく」
「うん、いい。俺のシャツ取って」
「ちょっと待って、電気つけるから」
磯村くんが起き上って、部屋の中はパッと明るくなりました。
急に明るくなったその明るさに馴《な》れなくて、二人は目をそらしましたが、永遠にその明るさなんかに馴れたくないと、少なくとも磯村くんは、思いました。
「電気消して」
枕がわりに、着て来たシャツとセーターを畳んだ木川田くんは、磯村くんに言いました。
「うん」
磯村くんが起き上って、部屋の中は又真っ暗になりました。隣りの部屋から話し声が少しだけ聞こえたような気がしました。
一瞬部屋の中は静かになって、磯村くんには隣りにいる筈の木川田くんが、どんな恰好で寝ているのかさっぱり分りませんでした。
「あー、チクチクする」
闇の中で木川田くんが言いました。
「ごめんね。今度枕買っとくよ」
「うん」
シーンとなって、「ひょっとしたらもう木川田くんは泊りに来てくれないかもしれないな」と、磯村くんは思いました。
「磯村、お前、男好き?」
木川田くんが言いました。木川田くんのザラザラした脚が、磯村くんの太腿に当ったみたいです。
「分んない」
磯村くんは言いました。
「俺も、分んない」
木川田くんが言いました。
「分んないの?」
磯村くんが訊きました。
「うん」
木川田くんが言いました。
「分んないけどな」
そう続けました。
重いものがあって、木川田くんの体を、磯村くんは感じました。
どこに何があるのか分らなくて、磯村くんは、木川田くんの体を、抱きしめようがありませんでした。
磯村くんの顔中に柔らかいものが押しつけられて、木川田くんだってやっぱり、磯村くんの唇がどこにあるのか、分らなかったのです。
「好きだよ、磯村。ごめん」と言って、磯村くんの鼻と木川田くんの鼻がぶつかり合った時、やっと磯村くんの唇は木川田くんの唇を探り当てました。
探り当てたけど、磯村くんにはその温かくて柔らかいものが木川田くんの唇なのかどうなのか、あんまり自信が持てませんでした。
いつものように木川田くんの小さい舌が磯村くんの唇の中に入って来て、「ああ、ちゃんとキス出来た」と、磯村くんは思いました。
とがった木川田くんの舌先が離れて、磯村くんの唇が木川田くんの唇に触れた時、磯村くんは、「木川田の唇って女の子みたいだ」と思いました。でも、堅く抱き合って唇を重ねている男の子達の唇はどちらもまだ柔らかくて、唇というよりは桃の花びらでした。
「もう少しだけ、こうしててもいい?」
磯村くんの耳許で木川田くんが囁《ささや》きました。
「うん、いいよ」
天井に向って、やっぱり磯村くんも囁きました。
「ごめんね」
木川田くんは、又何回目かのごめんね≠言いました。
「いいんだよ、そんなの」
磯村くんはまた、何回目かの似たようなことを言いました。
「ホント言うとサ、僕――」
磯村くんが話し始めました。
「一人で住んだら木川田と一緒にだってこうしてられるしって、そういうのもあったんだよ」
「うん」
木川田くんは答えました。
「それだけじゃないんだけど、なんていうのかなァ、なんか、子供みたいなことしてるのって、もういやんなったんだよね」
「うん」
「別に、今の自分が大人だなんて思わないけどサ」
「うん」
「なんか、一人でいるのもつまんないけど、でも、子供みたいに家にいてゴチャゴチャしてるのってすごくいやでサ」
「分るよ、なんとなく」
「分る?」
「うん」
磯村くんは、もっと言いたいことがあって、そのもっと言いたいことをもっとうまく言える自信だってあったのですが、その温かい関係の中でそんなことを言ったってしようがないなと思って、もう考えることをやめてしまいました。
「俺だってサ――」
だから、木川田くんがその後を続けるようになったのかもしれません。
「磯村と一緒にいたいって思うよ」
木川田くんが言いました。
「ホント?」
磯村くんも応《こた》えました。
「うん。でもサ、俺、やっぱしオカマじゃァん」
「そんなことないよ」
「なくてもサ、思うの」
「そうなの?」
「うん。だからってどうってことないんだけど」
「だったらいいじゃん」
「いいけどサ。お前、いいじゃん≠ツっても似合わねェよ」
「そうかな」
「うん。いいけど」
「似合わないかなァ?」
「似合うよ」
「そう?」
「うん。どうでもいいけど」
「うん」
「でもサ、俺サ、そんなに悪いことしてないぜ」
「そうなの?」
「そうだよ。信じないかもしれないけど、俺、ホント言ったら、あんまり外泊なんてしてないもん」
「またァ」
「ホント」
「そうなの?」
「いい子だよ、俺。そりゃ、寂しいけど、でもサ、あんまり一緒にいたいってヤツ、そんなにいねェもん」
「そうなの?」
「うん。なんかやっぱ、俺ってそういうの、ダメみたい」
「そういうの≠チて?」
「そういうのってねェ、なんて言うのかねェ……、ンとねェ、なんか、寝るだけって、ダメなの」
「寝てるじゃない、今」
「だからお前は知らないの」
「何を?」
「もういいッ。寝る」
「ずるいよそんなの、自分一人で分っちゃってサ」
「お兄ちゃん好き! なァんつってな」
そう言って、木川田くんは急に磯村くんに抱きつきました。
正直言って磯村くんは、ホントにドキッとしました。木川田くんが女の子だったらどうしようって、唐突にそう思ったんです。
「やっぱ、こういう状況じゃ話せねェってこともあんだよ」
磯村くんの耳をいじくりながら木川田くんは言いました。
「何を?」
「こういうこと」
そう言って木川田くんは、磯村くんの耳をくすぐりました。
「くすぐったいよォ」
「だから――」
「だから何?」
「いいよ。もう寝ようって。お前もう、明日ガッコないの?」
「あるよ、十時半からだけど」
「だったら早く起きなくちゃ」
「別に早くないじゃん」
「こっから大学までどんくらいかかる?」
「歩くのあるけど、二十分かかんないよ」
「ふーん、俺も来年中大受けようかなァ」
「受ける?」
「あんま受けたかないけど」
「どして?」
「なんとなく――。なんとなくだけど、でも、磯村がいるからいいや」
「僕がいるといい?」
「いいよ。ねェサ」
「なァに?」
「あのサ」
「うん」
「年賀状書く時、俺の、一番最初に書いた?」
「ああ、木川田の?」
「うん」
「あ、ちょっと待って――。うん。一番最初。やっぱり、もう知ってるから最初に書くのって恥かしいかと思ったんだけど、でもやっぱり最初に木川田に知らせたいとか思って」
「俺の他にまだここの電話番号知ってるヤツいる?」
「まだいない」
「ヒッヒッヒ」
「なァに?」
「別に。なァ、テレビ、ホントにいる?」
「だからいくらすんの?」
「七千円にしろって言う」
「それで大丈夫?」
「大丈夫だよ。それよかサァ」
「うん」
「なんでベッドじゃねェの?」
「うん。家置いて来ちゃったもん」
「家帰って寝んの?」
「寝るよ、そりゃア。帰ったら自分の家だもん」
「ゼエタクなヤツ」
「そうかなァ」
「そうだよォ」
「でも僕って、そんなに贅沢《ぜいたく》じゃないよ」
「分ってるよ。お前ってホント、ビンボ臭ェもん」
「そうかなァ」
「そうだよォ。もういいよ、寝ようぜ」
「眠い?」
「眠い」
「じゃ寝よう」
「お前もう、あんまり喋んなよ」
「喋ってないじゃないか」
「そうかよ?」
「そうだよ」
「ねェ、ラジオ点けようか?」
「なんだよォ、もう寝ようって言ったの自分だろォ!」
「だって眠くねェもん」
「もうッ!」
「からかっただけ」
「チェッ」
「磯村って可愛いな」
「僕、可愛いもん」
「違うよ」
そう言って木川田くんに抱きつかれた時――抱きつかれたというより押さえつけられた時、磯村くんは、やっぱりホントにゾクッとしました。
「そういう可能性だってあるんだ。そういう可能性だってあるんだ。そういう可能性だって――」――心臓のドキドキいう音は、そういう音を立てていました。
朝目を覚すとトン・トン・トンという音がして、磯村くんは自分がどこで寝ているのかよく分らない気がしました。
隣りに寝ていた木川田くんはいなくて、赤いホーロー引きのポット《やかん》がカタカタカタと蓋を鳴らしていました。
ハッと起き上がると、包丁を持った木川田くんが振り向いて、「なんでお前、冷蔵庫ん中にキャベツと豚肉しかねェの?」と、訳の分らないことを言いました。
「せっかく朝飯作ってやろうと思ってんのによォ」
「ああそうか? 木川田が御飯作ってくれてるんだァ」
そう思って、磯村くんはボーッとしていました。トン・トン・トンというのは、木川田くんがキッチン≠ナキャベツを刻んでいる音だったのです。
木川田くんは、磯村くんが起きたのを確認すると、又トン、トン、トンと、キャベツを刻み始めました。それはとってもトトトトントントン……≠ニいうような器用な動きではありませんでしたが、磯村くんは木川田くんがとっても好きなんだと思って、「そうだ、僕ってこういうことしたかったんだな」って、そう思いました。
磯村くんは、青春≠ェしたかったんです。
18
木川田くんが磯村くんの部屋に転り込んで来たのはその日からではありませんでした。木川田くんが磯村くんの部屋に転り込んで来たのは、年も明けて正月も過ぎた、一月も十日になってからのことでした。
クリスマスの次の日に木川田くんと会った磯村くんは、二十七日にボストンバッグを提げて、家へ帰って行きました。「お正月にまた電話するよ」とか言って。
木川田くんは「いつ帰って来るの?」と磯村くんに言って、「七日ぐらいだけど分んない。退屈してたらもっと早く帰って来るかもしれないけど」と磯村くんは言いました。
お正月まで、磯村くんは家に帰って退屈でしたけれども、でも、ニヤニヤしていました。意味もなく楽しそうで、それは大学に入って立ち直った(か又は開き直った)、木川田くんに会うまでの磯村くんでした。
十分に、現実の凡庸さに耐えられると思った磯村くんは、別にとりたててすることがなくても、なんとなく充実≠オていました。大学の友達に電話をかけて、新しい引っ越し先の電話番号を教えたり「今度遊びに来てェ」とか言ったり、「そうだなァやっぱり、一月の試験が終ったらバイトしよう」とか思ったりして、自分にはどういう仕事が向いているのかなァなんてことを、求人雑誌や新聞を見て考えていました。
それでも磯村くんは、大《おお》晦日《みそか》の日に木川田くんの家へ電話をしたのです。
紅白歌合戦が退屈になった十時頃、「もしいて、よかったら、初詣《はつもうで》にでも行かないかな」と思って、磯村くんは木川田くんの家に電話をしたのです。したら、案の定というかなんというか小母さんが出て、いつもの通り、暗い「いません」を言ったのです。
「そうですか」と言って電話を切ろうとしましたが、でも磯村くんは「でも自分は普通の友達≠ネんだ」と思って「すいません。だったらあの、磯村から電話があったって、伝えておいていただけませんか」と言いました。
「はい」と言って電話の向うの小母さんは「……どなたですか」と言いました。
「磯村です。あの――」と言って普通の友達です≠ニ言いかけたのですが「冗談が分らなかったら困るな」と思って、「高校の友達です」と言いました。
小母さんは「はい」と言って「イソムラさんですね」と、初めてはい≠ニいません∴ネ外の日本語を喋ったような気がしました。
だから、「お願いします」と言って電話を切った時、磯村くんは「やっぱりあのオバさんも人間なんだな」と思って嬉しくなったのです。
暗い玄関の中で一度しか会ったことのない、細い目のところに二本ずつ横皺《よこじわ》があって、どっちが目なのかよく分らない木川田くんのお母さんの顔を思い出して、「あのオバさんだって笑うことだってあるんだよな」と、そんな風に思いました。いつだったか、木川田くんが電話をしていて「お母さん?」と言った時のことを思い出して、「ひょっとしたら涙が出るぐらいやさしい時だってあったんだな、今だってそうかもしれないけど」とか思っていたらテレビでは村田英雄が出て来て、なんだか木川田くんのお母さんが村田英雄の妹みたいな気がして、おかしくなって笑いました。
「ハッハッハッ!」と声を上げて笑ったので、お母さんには「なァに?」と言われ、お兄さんには「バァカ」と言われました。お父さんは、きっと知らないギャグがどっかに映ってるんだと思ってテレビを見ましたが、応接間に近いリビングのテレビでは、紅白歌合戦をやっているだけでした。
磯村くんはなんだかまだおかしくて、「クックックッ」と笑っていました。
でも、木川田くんからはお正月になっても電話がかかっては来ませんでした。
「お正月だから電話しても悪いかな」とか思っていた磯村くんは、でも、「電話して来てくれたっていいじゃないか」と思ってはいました。磯村くんの年賀状を見たクラブの友達からは「引っ越したのォ?」とかいう電話がかかって来たのに!
「どうせ暇サ……」と、磯村くんは自分のことを思いました。そして、「あの小母さん、ホントに連絡してくれたのかなァ」って思いました。
大体これから磯村くんの思うことは一日に一コぐらいのテンポですから、それで磯村くんがお正月、如何に暇だったかを考えて下さい。
「小母さん、教えてくれなかったのかなァ」と思って、「ひょっとしたらあの小母さん、もうズーッと前から俺のこと、あの時のヤツ≠セって分ってたんじゃないかなァ」って思いました。
次の日は、「木川田、あんまし外泊しない≠ニかって言ったのに、チャンと外泊してるじゃないか」って思いました。
「どうせ、僕は大学のノンポリ少年で、あいつは都会の妖精さ」って、いつかテレビ≠二人揃って取りに行った日のことを思って、そう思いました。
ついでながら、なんでも知っていた磯村くんは、全部そういう知識を本屋の雑誌コーナーの立読みで仕入れていたので時々はヘンな覚え方をしていました。当時ブームだった全共闘雑誌≠見ていて、磯村くんはノンポリ≠ニいうのは、自分みたいに明るいだけでなんにも考えていない少年のことだと思っていましたが、その頃の大学には少年≠ネんていう人はあんまりいなかったのだということについては全く知りませんでした。
ついででした。
磯村くんがテレビを取りに行った日というのは、木川田くんが「重いから一人じゃいけねェ」っていう電話をかけて来た日です。何日だったかは忘れてしまったので、そういう説明にします。
磯村くんは木川田くんと一緒に電車に乗って、七千円払ったばっかりのSONYのテレビの元の持ち主である、某三流医科大学生の、眼鏡をかけた、その鼻ペチャの鼻の周りに未だに現役をしている薄汚いニキビ面のことを考えていました。「なんであんなのと木川田は知り合いなんだろ?」と思っていたのは、乗っている電車が「相模大野」から新宿へ向けて走っている小田急線という、突拍子もないものだったからです。
近所の大学生≠ニいうのならともかく、どうして東京の中野区に住んでる東京出身の普通科の都立高校に通っていた木川田くんが、神奈川県の相模大野に住んでる島根県出身の医科大学生を知っているのか、よく分りませんでした。どうせ足柄三太≠ニかいいそうな黒ブチ眼鏡男と木川田くんが恋愛≠ニいう線で結び付きそうもないし。木川田くんがホテトルのバイトをやってる女子大生≠セったりしたらまァ分るような気もしますけど――。
なんとなく、木川田くんについていった自分に対するそいつの視線のそっけなさというのを思うと、磯村くんには木川田源一=ホテトル女子大生$烽ニいうのもうなずけるような気もするのですが――。
それはほとんど、都会の女子大生のオープンなボーイフレンドに対する地方出身者の嫉妬《しつと》のような視線でしたけれども――。
それにしても、アパッチけんが顔を叩かれて大橋巨泉みたいになっちゃったヤツの住んでるマンションの立派さっていうのは、ちょっと信じられないようなもんでしたけれども――。
なにしろ、アクリルかもしれないけど、毛足が十センチもあるような白いカーペットが部屋に敷きつめてあるのですから――。
「なんだろ、こいつ?」と、その某三流医科大生を見て、磯村くんは思いました。
ハイテックで新婚してるような室内を見て、「どっかで見たなァ」とズーッと思っていて、「あ、そうか、ロマンポルノに出て来た女の子の部屋だなァ」と思って、よく分んなくなりました。
しかもそいつが、どうして七千円の金でテレビを売るのか、そのテレビがどうして、あまりにも明らかに新品ではない≠ニいうことが分るようなSONYの機種か――だって、そいつの部屋にはハイファイ・マックロードもあるのですから――そういうことは、みんなよく分りませんでした。
「ローンの期限が来てるからせめて利息だけでも払わなくちゃいけないんだって」と言われても、どうしてそいつの学生ローンの利子を自分が払わなくちゃならないのか、磯村くんにはよく分りませんでした。
「まァ、安いからいいけども」とは思いましたけど、「ホントに安いのかなァ?」というのもよく考えたら分りませんでした。一応持って出る時にそいつの部屋でキャビネットの周りは拭いたのですけれども、「とにかく家に帰ったらもう一遍きれいに掃除しよう」とかは絶対に思えました。
まァいいですけれども。
それでもやっぱり、陽の当る新宿行きの小田急電車の中で、木川田くんと、間に剥き出しのテレビを挟んで腰を下していると、「やったぜ、七千円払って公然とカッパライやって来たぜ」という、如何にも青春した≠ニいう感じで悪くはなかったのです、磯村くんは。
自分の財布に七千円≠ニいう穴はポッカリと空いたけども、でもそれは青春の痛み≠ナ、「遂に自分の手でテレビを買ってしまった!」と思うと、やっぱり磯村くんは感謝してしまったのです。
磯村くんは、「やっぱり木川田くんは都会の妖精なんだ」と、その時思ってしまったのです。
磯村くんはやっぱりお坊っちゃん≠ネんだけど、可愛いきゃそれでいいじゃないかと作者《わたし》は思いますです。
ああそうだった。なんの話してたんだっけか?
19
木川田くんが磯村くんの部屋に転がり込んで来たのは一月十日のことでした、という話でしたが一向に転がりこんで来ませんね。
悪いクセです。
「どうせ、僕は大学のノンポリ少年で、あいつは都会の妖精さ」って磯村くんが思ったとこまででした。
あ、それから、二人が相模大野から電車でテレビを運んだ日、木川田くんは磯村くんの部屋には泊りませんでした。「バイトがあるから帰る」って、木川田くんは次の日の心配をしてその日の夕方に帰って行きました。
木川田くんは、近所の電気屋さんでバイトの店員をしていたのです。
二人はまだそういう関係でした。
焦《じ》らしてはいけません。
焦らしてますけど。
その内なんとかなるからサ――。
それはそうと、あの医科大生≠チて、スゴーく、リアルでしょ? 勿論全部|創作《フイクシヨン》だけどサ。
まァいいから。
という訳で(よく言うよ)、磯村くんは、「どうせ、僕は大学のノンポリ少年で、あいつは都会の妖精さ」と、いつかテレビ≠二人で揃って取りに行った日のことを思い出して、そう思っていたのでした――。
「あんなヘンなのと知ってるんだから、僕の知らないとこで絶対一杯いんだ」と、磯村くんは思いました。ホントは「あんなヘンなのと知り合い」って思いかけたんですけど、そんなヘンなこと思いたくないから、「あんなヘンなのと知ってるんだ」なんていう、ヘンな思い方をしたのでした。
結局、嫉妬《しつと》してたんですけど、男なんてそういうもんです。それを嫉妬≠ニいう言葉で表現出来るような関係を持ってないだけです、嫉妬≠ニいう言葉を使えないのは――。
磯村くんは「七日ぐらいに帰って来る」と言いましたけど、でも、七日になってもアパートには帰りませんでした。まだ大学は始まってないし、大学始まってなかったら高幡不動にはなんにもないことを、磯村くんは知っていたのです。なんにもないだけなら高円寺もおんなじですが、高幡不動はなんにもない上に寒いので、それでグズグズしていたのです。ここら辺がさり気なく心理描写になっちゃうところですね。
20
実は木川田くんは、七日の日に磯村くんの部屋に電話をしたのでした。ホントは、四日の日と六日の日にも「ひょっとしたら帰ってるかな」と思って電話をしたのでした。でも、受話器の向うはル……≠ニ言っているだけでガチャッ・プーン≠ニいう音はしませんでした。
木川田くんは、いつも磯村くんのところには公衆電話からかけていました。
何故でしょう?
まだ分りません。
七日もかけて、九日の夜もかけて、十日の日にバイト先の電気屋さんから電話をかけて、やっとつながったので、木川田くんはホッとしました。
「どうしたの?」
木川田くんは言いました。
「なァに?」
磯村くんは言いました。
「ズーッとかけてもいないからサ」
「ゴメン、今帰って来たんだよ」
「なんだ、ズーッといなかったの?」
木川田くんが言いました。
「うん」
「俺、風邪でもひいたのかと思って心配しちゃった」
外は雨で、寒い一日でした。
「ナことない」
磯村くんは言いました。
磯村くんは、風邪なんかひいてなかったからです。
「どうしてたの?」
木川田くんは言いました。
珍しく木川田くんは、積極的にお喋りです。
「ズッと家にいたけどサ」
磯村くんは言いました。
その時木川田くんのいるお店の自動ドアが開いて、冷たい風とお客さんが一緒に入って来ました。
「ゴメン、お客さん来ちゃった。今バイトなんだ」
「あ、ホント」
「なんか元気ないね?」
「うん、今帰って来たばっかで寒くって」
「そっか。後でまた電話する」
「うん」
「今日、行ってもいいィ?」
木川田くんは言いました。
「いいよ」
磯村くんも言いました。
「はい、すいませーん!」
木川田くんがお客さん≠ノ言いました。
「じゃね」
磯村くんにそう言って、木川田くんは電話を切りました。
「乾電池をちょうだい」
三十代のミセスが、ユニフォームのジャンパーを着て近づいて行く木川田くんに言いました。道路沿いの、そんなに大きくはないけど決して小さくもない、照明器具がゴタゴタとぶら下った、電気屋さんの中でした。
21
磯村くんは十日の前の日、お母さんに「あなたいつまでいるの?」と言われたのです。
「明日帰るよ」
磯村くんは言いました。
「ホントにもう。やっぱり無駄遣いなんだからァ」と、お母さんは言いました。
「どうして?」
磯村くんは言いました。
「だってあなた、一ヵ月三万五千円でしょう。一日にすれば千いくらよ? 千百円?」
さすがに税理士の奥さんは細かいことを言います。
「十日で一万二千円ですよ」
「何さ、それ?」
「だから、家賃を、日割りにすれば――。先月だって入ったのは八日からだけど、契約は一日にしちゃったんだから全部払ったのよ」
「あ、そうなの」
「呑気ねェ。もういやなったんでしょ?」
「そんなことないよ。まだ大学始まってないしサ。行ったって別に面白いことなんてないしサ」
「やァねェ、そういうつもりで行ったの?」
「違うけどサ」
「だったらサッサと行きなさいよ、いつまでもグズグズしてないで」
「明日帰るって言ってるでしょ」
磯村くんは言いました。どうも、お母さんと磯村くんは、立場が逆になったようです。
お母さんにしてみれば、暮に帰って来た息子は帰って来たまんまゴロゴロしていて、突然「一人暮しをしたい!」って言って出て行った理由というのが結局は「なんとなくそういうことしてみたい」というよくあるハシカみたいなものだったと分ってしまったものですから、別にもううろたえる必要はなかったのです。
「言うだけは言ったけど、どうせその内いやんなって帰って来るわよ」と思っていたのが、どうやらそういう雰囲気にもうなりかけてしまっていたので、「これは困った、ここは一番放っぽり出して懲《こ》らしめてしまった方がいい」というところです。「それだったらまァ、三万五千円の出費というのも高くはないわ」と、お母さんは内心思いました。そして、「やっぱりこの子は甘いところがあるのよ。やっぱり末っ子だからかしらねェ」と思いました。
磯村くんにしてみれば、「そうかもしれないけど別にそういう訳じゃない」というところです。
磯村くんは、よく考えても「大学始まってないしサ、行ったって別に面白いことなんてないしサ」という、それだけの理由でグズグズしていました。高幡不動の町は、やっぱりいつまでたってもシーンとしていて、誰かが来るのを待っている≠フかもしれないけど、でも、別に約束もしてない人間が来るって信じてるのはバカみたいだしなァという感じに、磯村くんの頭の中ではなって来ていたのでした。
「僕今度引っ越したんだよね」と言っても、「どこ?」ということの答えを訊くと、大学の友達は「なんだァ、高幡不動かァ、お前、司法試験目指すの?」とか言うのです。磯村くんの行っている大学は伝統的に司法試験に強く、法曹界に幾多の人材≠送り込んでいるところです。広告研究会に入っている磯村くんとしては、法曹界≠ナはなくて放送界≠目指したがっている人間の方が友達には多いもんだから、「へー、変ってる」という風に見られるのです。司法試験目指してるんだったら、通学の便ということだけを考えてなんにもない高幡不動に下宿するのが一番いいのです。現に、磯村くんの住んでいるアパートの二階の一番右端には、司法試験を目指して勉学一筋の三年生が住んでいました。「折角卒業したばっかりなのにまた受験勉強なのかァ……」と、人気《ひとけ》のない高幡不動の駅前通りを、磯村くんが暗いイメージを思い浮かべて歩いて行ったとしても無理はありません。「別にまだ、今からどうこうって訳じゃないけどサ」と思って、「ひょっとしたら自分は高校二年ぐらいの時もそんなこと考えてたんじゃないかな」と思って、愕然《がくぜん》としました。
「別にまだ受験勉強なんかしなくてもいいんだけどサ」と思って、明るい道を目を細めて歩いていたのが高校時代の磯村くんです。
「今遊びすぎちゃって、いざ受験勉強しようっていう時にそういうことがクセになっちゃって抜けなくなったら困るしな」と思って、別に面白くない道を、「遊ぶこと以外になんか面白いことってないのかな」とか思いながら、真面目にただ歩いていただけなのが、高校時代の磯村くんです。
「結局自分て、そういうことしか出来ないのかな? そういうことにしか向いてないのかな?」なんてことを、暗ーく冷たく、やけになって思いながら、次の日磯村くんは、みぞれまじりの雨が降る、いよいよ寒い、いよいよ人気のない高幡不動の、町というよりはほとんど道だけあって町なんかかけらもないところ≠、重い荷物をブラ提げながら、思って歩いていました。
磯村くんが帰ろうと思っていた日は朝から雨で、「どうするの、あなた?」と、お母さんは案の定言いましたが、「うるさいなァ、いやみ言うなよ」と思って、意を決した磯村くんは出て来ちゃったのです。片手に着替えの入ったボストンバッグを提げて、その中に「帰ったら読もう」と思って、買ったまんまで放っといた本を三冊ばかり詰めて。
その磯村くんにお母さんは、紅茶とハムとチーズと粉末のインスタントスープとインスタントコーヒーとクラッカーとクッキーの入った缶と石鹸を五コ詰めこんだ、ビニール張りの紙袋を渡しました。「まだいるものないかしら?」と言って。
「こんなもん、どうやって持ってくんだろ?」と傘の心配をしながら、磯村くんは「もういいよッ!」と言いました。言いましたけども、「それで空っぽの冷蔵庫が少しふさがる――」と思って、その時初めて、「あ、空っぽの冷蔵庫のコンセント抜いて来たっけ?」と、二週間遅れの無意味な心配をしました。
という訳で、傘を差す磯村くんの手は真っ赤で、紙袋のビニールの吊り手を持つ磯村くんの手も真っ赤で、指先に辛うじてひっかかっているそのビニールの吊り手を持ち直すたんびに傘は傾き、脚はよろけるので、太腿から下はビショ濡れでした。勿論、足の先には感覚なんかありません。
高円寺の雨がだんだん多摩のみぞれに変って行くのを自分の運命のように思ってロマンチックに見ていた磯村くんも、その電車から降りて、グショグショの中を部屋に辿り着いた時はヤケクソで、「畜生! もう司法試験してやろうかなッ! どうせ僕の運命なんてそれしかないんだからッ!」というところまで行っていました。
だから、木川田くんの電話が鳴った時の磯村くんは、「あーあ、結局、僕の人生なんて狭い枠の中でなんとかなんてなりたくないやッ!≠ト不器用な抵抗してるだけなんじゃないか」という落ちこみ方をしていたという訳なのです。
髪の毛を拭いて、タオルでゴシゴシとやるたんびに自分のダサさがたまんなくなって来て、「こんななんにもない部屋ッ!」と思っていた時、木川田くんからの電話がリーンと鳴った、という訳なのです。
22
木川田くんの二度目の電話は、六時少し前にかかって来ました。
「今日ちょっとバイト遅くなりそうだから、七時過ぎちゃうけどいいィ?」と木川田くんは言いました。
「何時ぐらい?」
磯村くんも言いました。
「七時半過ぎちゃうと思うけど、八時までにはなんないと思う」と、木川田くんは言いました。
「うん、待ってる」そう磯村くんは言いました。
「なんか買ってくからサァ、待ってて」と、珍しく木川田くんは、やさしく言いました。
「うん」と言った磯村くんは、もう別に取り立てて怒っている磯村くんではありませんでした。
帰って来て、濡れた服を脱いで、乾いた服に着替えた磯村くんは、木川田くんの電話の後、濡れた服をお風呂場に持って行って、「電気洗濯機買おうかな」と思いました。「もう家にはねだれないし、どうしようかな」と思って、「木川田に言ってみよう」と思いました。「お金はどうしよう」と思って、「もう、いろんなこと考えんのやめよう」と思って、二週間閉めっぱなしになっていた窓ガラスを開けて、掃除を始めました。まだ男臭い≠ニいうより、湿った畳の匂いの方が強い、磯村くんの部屋でした。
着替えたばかりの乾いたシャツは窓から入って来る冷たい風の中で、まるで乾布まさつみたいに磯村くんの体を熱くして、「サァ、早くやっちゃおう!」という気に磯村くんをさせました。何がなんだかよく分らないけど、でもしっかりしなくちゃいけないんだということだけは磯村くんにも分りました。
小さな箒《ほうき》で、あまりないゴミを窓の方に掃き出して、「隣りの畑の白菜にあんまり埃をかぶせちゃいけないな」と、関係のないことを思いました。低くて小さな垣根の向うにあるシケた畑の白菜が、みぞれの中で、それでも健気《けなげ》に立っているのを見て、磯村くんはそう思ったのです。
だから、窓を閉めた後の磯村くんは、別にイソイソとかジリジリして木川田くんの来るのを待っているというような磯村くんではありませんでした。
開けっ放しにしていた窓の付近の畳がみぞれのせいで濡れているのを見て、オタオタと布巾《ふきん》で拭き始めた磯村くんは、それをお風呂場にポンと放りこんで、読みかけになっていた岸田秀先生の『幻想の未来』をボストンバッグから取り出すと、沸いたばかりのお湯で熱い紅茶を入れて、それを飲みながら畳の上で、横になってページを開きました。
もう、洗濯機のことはどうでもよかったのです。
23
木川田くんがやって来たのは、七時四十分を過ぎて、五十分がもう八時の方向に針を進めようかとしているそんな時間でした。
木川田くんは新宿ステーションビルのビニールの袋から、小さな肉饅頭とクタクタになったピザと、冷たくなった焼鳥と、サニーレタスの葉っぱの茶色の部分がやけに目立つサラダのパック二つをガサゴソと取り出しました。
「腹減ってなァい?」
「うん、減ってる」
木川田くんの質問に磯村くんは答えました。
「今作ってやっからな」と木川田くんは言って、寝っ転がって相変らず岸田秀先生の『幻想の未来』を読んでいる磯村くんのところに、キスしようと思って顔を近付けました。
「何すんだよォ」
おおいかぶさって来た木川田くんを見て磯村くんはそう言いました。
「折角キスしてやろうと思ったのにィ」と言って、木川田くんは、口をとんがらしました。
「ウン!」と言って、磯村くんは、少し不貞腐《ふてくさ》れたように木川田くんの方に向き直って、木川田くんは、その口の先にちょこっとだけキスをしました。
「なんだァ、お前、こんなもん食ってたの?」
テキパキと立ち上りかけた木川田くんは、磯村くんの枕許にある赤いプラスチックのお皿に残ったクラッカーを見て言いました。
「うまい?」
「別に」
木川田くんの問いに磯村くんは答えました。
「あんま、うまくねェな」
一枚だけ残ってしけっていたクラッカーをクシャッと口の中にほうりこんで、木川田くんは言いました。
「うん」と言ったのは磯村くんです。
「ねェ、磯村ァ」
寝っ転がったまんまの磯村くんの横に、ペタンと膝をついて木川田くんが言いました。
「なァに?」と言って顔を上げた磯村くんの前には、小さなホーロー引きのカップと赤いプラスチックのお皿を持った木川田くんの手があります。
「俺、ここに来ちゃダメ?」
木川田くんは言いました。
「どうして? 来てるじゃない?」
磯村くんは言いました。「人が電話したって出て来ないで、人が帰って来るとスグやって来るくせに、なにが来ちゃダメ?≠セよ」とか。すねながら。
「そうじゃなくって」
木川田くんは、お皿とカップを片付ける為に立ち上って、流しの前でそう言いました。
「なにを?」
磯村くんは言いました。
「ここに、住んじゃだめ?」
木川田くんは、もう一遍磯村くんの前にペタンと坐ってそう言いました。
「どうして?」
そう言った磯村くんの前にあったのは、今迄見たこともないような、明るく輝く、あどけない木川田くんの顔でした。
「俺、親と喧嘩しちゃった」
木川田くんは、まるでペロッと舌を出すいたずら小僧みたいな顔付きで言いました。
でも、木川田くんは決して、笑いながらそれを言ったのではありません。磯村くんは何故か、「どうしてそういう哀しいことをすんの?」と思わず言い出したくなってしまいそうになりました。そんな木川田くんの顔でした。
24
木川田くんは別の紙袋から小さなお鍋を取り出して、磯村くんに「ドンブリかなんかあるゥ?」と訊きました。「俺、親と喧嘩しちゃった」と言ったすぐ後です。
「どうして?」とだけ言った磯村くんに、「後で話すから。腹減っちゃってェ」と言って、小さなお鍋を取り出したのです。
「そこにあるけどォ……」と、磯村くんは流しの横にある、小さな造りつけの食器棚を指しました。
「これ?」
木川田くんの出して来たのは、小さな白い強化樹脂で出来たボールのような丼でした。
「うん。それじゃダメ?」
何にするのかよく分らない磯村くんは木川田くんに訊きました。
「どうかなァ?」
白いドンブリをためつすがめつして、新しいお鍋の中に入れてみたりして「やっぱりよくねェや。なんかねェかな」と言って、木川田くんは又、流しの横にある小さな食器棚を覗《のぞ》きこみました。
「なんにもねェのな」
木川田くんは言いました。
「なにすんの?」
磯村くんは言いました。
「肉マン温《あつた》めようと思ってサ」
木川田くんは言いました。
「フーン。いいじゃない、別にそのまんまでも」
磯村くんは言いました。「別に電子レンジがある訳じゃなし」とか思って。
「なこと言ったって、お前《メ》ェ、温《あつた》けェ方がおいしいもん」と木川田くんは言いました。
「これでいいかな?」
木川田くんは食器棚の中から、磯村くんの御飯茶碗と――何故か電気釜もないのに御飯茶碗だけはある磯村くんの一人暮しです――中ぐらいのお皿を取り出すと、それをもう一遍お鍋の中に入れて「大丈夫」と言いました。
「何すんの?」
立って来て、磯村くんは木川田くんの手許を覗きこみました。
「こうやってね、こうやってね、そんで蒸すの」
木川田くんは言いました。
まず御飯茶碗をお鍋の中に置いて、その周りにお水を少し入れて、そしてその上にお皿を乗っければ即席蒸し器の誕生という訳です。
「ふーん……」と言って磯村くんは見ていました。
木川田くんは肉饅頭のプラスチックのパックをバリバリと開けて、即席蒸し器のお皿の上に並べました。
「ホラ、こうすれば大丈夫だろ」
木川田くんは言いました。
「ホントだ」
磯村くんは言いました。「そんなことどこで習ったの?」と続けました。
「ここだよ。ここの問題」と、木川田くんは自分の頭を叩きました。
木川田くんが自分の頭を叩く為に手を上げた時、磯村くんがまたなんかされるのかと思ってビクッとしたことなど、勿論木川田くんは知りません。
「あれェ?」
木川田くんは即席蒸し器の蓋をした時にそう言いました。お饅頭がお鍋のヘリから頭を出しすぎていて、蓋がチャンと閉まらないのです。
「まァいいや」と言って、木川田くんは、それをそのままガスレンジに掛けました。お鍋の中はなんか不安定で御飯茶碗がゴトンゴトンと揺れているみたいでしたが、木川田くんは「まァ、大丈夫だろ」と思いました。
「ふーん、そうやるのか」
磯村くんは火を点《つ》ける木川田くんを見てそう言いました。
「そうだよ」
木川田くんはニコッと笑って言いました。
ニコッと笑って、そのまんま又木川田くんが顔を近付けて来たので、「今度こそ」と思って、磯村くんは緊張しました。
「磯村?」
木川田くんが言いました。
「なァにィ……」
磯村くんの目は、もう半分つむりかかっています。
「アルミフォイルかなんか、なァい?」
木川田くんが言いました。
「アルミフォイル?」
目だけは現実に帰って、口許だけは夢見心地の磯村くんがぼんやりと尋ねました。
「うん、アルミフォイル」
木川田くんは床に屈みこんで、焼鳥のパックを拾い上げるとそう言いました。
「何すんの、そんなの?」
磯村くんはそう言いました。
「うん? 温《あつた》めんだよ」
「どうやって?」
「直接フライパンの上に乗っけたら焦げちゃうでしょ? だからサ、アルミに包んでね、そんでフライパンで焼くの」
「へーッ」と磯村くんはただ感心して見ています。
木川田くんは感心されて見られていますが、だからと言って別になんにもすることはありません。キョロキョロとあちこちを見回して、「このまんまでいいか?」と、磯村くんに訊きました。
「うん、いいよ」
磯村くんは言いました。
「オーブントースターだっていいけどなァ、でもやっぱり、このまんまで焼いたら焦げちゃうだろ?」
焼鳥のパックと流しの隅に置いてある新品のオーブントースターを見比べて、木川田くんは言いました。新品のオーブントースターの床板に焦げ跡を作りたくなかったからです。
「今度、アルミフォイル買っとくよ」
磯村くんが言いました。
「うん」と言って、木川田くんはオーブントースターのタイマーをセットしました。
「そのまんま焼いちゃうの?」
磯村くんは、木川田くんの焼鳥を見てそう言いました。
「うん?」
木川田くんは焼鳥を見て、磯村くんを見て、それからこう言いました。
「違うよ。ピザ温《あつた》めんだよ」
「あ、そうか」
磯村くんは言いました。
レンジの上では、水蒸気を吹き上げるお鍋の底がガタガタと鳴っています。
「磯村、テーブルは?」
木川田くんが言いました。
「うん、そこ」と言って、磯村くんは部屋の隅から、脚付きの折畳み式のミッキー・マウスの絵の付いたトレーを持って来ました。
「そのまんまでいいよ」
トレーの脚を広げながら、磯村くんは、木川田くんの手の中にある焼鳥を見て言いました。
「そんなのヤだよ」
そう言って木川田くんは、焼鳥のパックを開けて、それを白いお皿に移しかえてから、磯村くんが部屋の真中に広げた小さな小さなテーブルの上にそれを置きました。
「どこでこんなこと覚えたの?」
磯村くんがそう言ったのは、木川田くんが食卓についた時です。
テーブルの上には、溢れんばかりの御馳走が並んでいました。勿論その御馳走が溢れそうだったのはテーブルが狭すぎたからですが、ピザパイと焼鳥とサラダと肉饅頭と、それから磯村くんが家から持って来たインスタントスープがカップの中で湯気を立てているのを見ると、やっぱり「御馳走だ!」という感じがしました。なにしろ磯村くんが越して来て以来、こんなにテーブルが御馳走で溢れ返ったことなどないからです。そんなことを考えもしなかったから、磯村くんは「これでいいや」と思って、小さな一人用のお盆《トレー》を選んだだけなのですから。
磯村くんの知っている男の人の中で、料理をする男の人というのは磯村くんのお兄さんだけでした。バジリコ風味のスパゲッティとか、イタリア風のよく分んないクズ肉の煮込みとか、そういうものばっかり磯村くんのお兄さんは、本を見ながら作っていました。家庭的なことは一切やらなかった磯村くんの家の男性達の中で――なにしろ一番家庭的なのは放っといてもゴミの日にゴミを黙って出しに行くお父さんだというぐらいに、磯村くんの家の男性達は何もしませんでしたが――磯村くんのお兄さんのこの趣味≠ヘ、一人だけ異色でした。
なんでお兄さんがそんな気になったのかはよく分りません。磯村くんに言わせりゃ、「はやりの教養≠ヘみんなやりたいだけでしょ」ということになりますが、お兄さんに言わせりゃ「お前にはなんにも分んない」で、結局なんにも説明してくれないのでさっぱり理由は分りません。やっぱり磯村くんの言う通り、それが今の教養だ≠ニいうことになるとなんでも手を出さずにはいられないお兄さんのダサさの表われだというのが一番近いのでしょうが、結局そんなことは自己矛盾をさらけ出すだけでした。男の手料理≠やっている時のお兄さんの腰付きは、他のどんな時よりも女性的な腰付きでしたから。好きだからやってる≠ナすむことを、でも磯村くんのお兄さんはそう言わなかったので、すべての事態はこじれたのでした。
状況があまりにも自分とかけ離れて来ると平気で残酷なことをモノローグに出来ちゃう磯村くんなんかは、そのお兄さんのマナ板に向う腰付きを見て、思わず「いいケツしてやがんなァ」と言いそうになってしまったくらいです。
お兄さんのイタリア風≠ヘ、なんの本を見ればそんなことが可能かということぐらい磯村くんにも分りましたが――でも、どうしてそんな本があるからってその通りに作らなくちゃいけないのか、作ろうと思うのかなんてことは磯村くんにはさっぱり分りませんでしたけど――でも木川田くんのお料理≠ヘどこで習って来たものか、磯村くんにもさっぱり見当がつきませんでした。
蒸し上った肉饅頭は、一部はふやけすぎていて、一部は直接お鍋に当って焦げていて、そして更に大部分は、お鍋の蓋にくっつきすぎて皮が剥がれて途中まで中味が見えかかっていましたが、でも、磯村くんは丼やお皿を使ってお鍋を蒸し器に変える方法なんて知りませんでした――少なくとも、お母さんがそんなことをやっているのを見たことがありません。
結局アルミフォイルがなくて焼鳥は冷たいまんまでしたが、でも、電子レンジがない時、フライパンとアルミフォイルを使えば焼鳥がチャンと温められるんだ、なんてことも知りませんでした。
オーブントースターとピザの関係ぐらいは知っていましたが、アルミフォイルがない時直接突っ込んでしまえば、少なくとも底板に溶けたチーズがくっついたとしてもチャンとピザは焼けてしまうということも、よく知りませんでした。
閉店間際の食品売場では、一コ二百八十円のサラダのパックが二つで二百八十円になるとか、おいしくないインスタントのポタージュを如何にもおいしく見せる方法とかも、やっぱり磯村くんは知りませんでした。
なんでそんなにもテキパキしててなんでも知ってるんだろうと、磯村くんは思ったのです。「もっと一杯色んなこと知ってる木川田と一緒に暮したら、きっと一杯色んなことを知れるだろう」と思ったから、磯村くんは言ったのです――「どこでこんなこと覚えたの?」って。
「別に。こんなこと常識だよ」と木川田くんは言いました。磯村くんは「ふーん」と言いましたが、でも自分の頭のどこを探しても、そういうものが常識≠ノなっているというインデックスは見つからないのでした。
「よく知ってるねェ」と磯村くんは言いました。
「ほうォ」と、肉饅頭を口に放りこみながら木川田くんは言いました。
そして「熱《あち》ッ」と言いました。
ともかく磯村くんにとって、木川田くんの作ったゴハン≠ヘ、すごくおいしかったのです。
25
「ねェ、喧嘩した≠チてなァにィ?」
磯村くんは、肉饅頭を食べながら言いました。小さな肉饅頭は、でも一口で食べるのには大きすぎて、中味をこぼしそうになった磯村くんは、下を向きながらそう言ったのです。
「うん。進路がどうしたってサ」
木川田くんは割り箸でレタスをヘンな風につかみながら、モシャモシャとそう言いました。木川田くんは、お箸の持ち方がうまくなかったのです。
「進路って?」
肉饅頭の中味だけうっかり全部食べちゃって、「この残った皮だけ、どうしようかな? 一口で食べちゃおかなァ」と思っていた磯村くんは、左手の肉饅頭を見ながらそう言いました。磯村くんの右手には、勿論、紅茶のカップというのがありましたけれども。
ホーロー引きのカップに入ったインスタントスープを一口|啜《すす》った磯村くんは「やっぱり紅茶のがいいや」と思って、木川田くんに紅茶を淹《い》れてもらったのです。もうカップがないので紙コップに入った紅茶を手で持って、「やっぱり食器とかってチャンと買おう」とかって、磯村くんは思っていました。
「うん。俺、浪人してんだろ」
木川田くんは、よく考えたらそうだけど、誰もそんなこと気にしてないんだから当人だって気にしてる筈もないというようなことを言いました。
「うん」と言ったのは磯村くんです。「食器買いに行く時、木川田について来てもらおう」と思って「うん」と言ってたのが、「あ、そうか、進路≠フ話か」と思って、思わず顔を上げました。
「そんで?」
磯村くんが言ったのです。
「うん。だからうるさくってよォ」
木川田くんはお箸を投げ出してそう言いました。あぐらをかいたまんま、両手は後についています。
「喧嘩したの?」
磯村くんは言いました。
「そう」
木川田くんは口の中に手を突っこんで、奥歯の間に引っかかった鶏肉のスジを取ろうとしています。
「別に、喧嘩でもないんだけど」
畳の上に転がったティッシュペーパーを手に取って、木川田くんは指を拭いています。
「いつもだから」
木川田くんは言いました。
「いつもなの?」
磯村くんも言いました。
「うん」
木川田くんが答えました。
「だって、中大受けるって言ったじゃない」
「無理だよォ」
木川田くんが答えました。
訊ねるのは磯村くんです。
「どうして?」
「俺、全然勉強してねェもん」
「うん」
あまりにも当然な事実は、平然と人を黙らせます。
「だって」
磯村くんは言いましたが、これは勿論、沈黙に陥る前の惰性です。
木川田くんが後を引き取りました。
「だって、後、試験まで一ヵ月もねェだろ。大体一ヵ月ぐらいか?」
「そうだね」
木川田くんに言われて、磯村くんも自分の大学の期末試験ももうそろそろなんだということを、改めて思い出しました。
「なんにも今年やってなくってサ、今更大学なんて受けんの無理じゃん?」
「じゃどうすんの?」
磯村くんは木川田くんに、改めて彼が浪人してるんだという事実を突きつけられて、「じゃどうすんだろう?」と思ってそう言いました。
「分《わが》んね」
木川田くんは言いました。
「俺、ズーッと正月、家にいただろ」
「あ、そうなの?」
木川田くんに磯村くんは応えました。
「うん」
「僕、大《おお》晦日《みそか》に電話したんだよ」
「知ってる」
木川田くんは言いました。
「正月電話しようと思ったけどサ、お前、家にいただろ、だから悪いと思って」
木川田くんはそう言いました。
「別にそんなことないよ」
「うん」
「大晦日どこ行ってたの?」
磯村くんが尋ねました。
「近所のガキンチョと鎌倉行ってた」
「鎌倉?」
木川田くんの答に磯村くんがまた尋ねました。
「うん、初詣《はつもうで》。それもあんだけどサ」
「何が?」
「帰って来たら親父が言うんだ、いつまで高校生と付き合ってんだ≠チて。付き合ってるったってそういうんじゃないよ」
付き合ってる≠ニいう木川田くんの言葉にビクッとしている磯村くんに、木川田くんは言いました。
「近所のガキが暴走族やっててよ。別にゾクじゃないけど、そいつがお兄ちゃん行かない?≠ニかっつったから俺も行ったの。そんでサ、そいつが高校生でサ、ホントだったら俺なんか大学生なのに年下のヤツと何やってんだとかって、いうの」
「そんなの、別にどってことないじゃない」
磯村くんは木川田くんの言葉の中に突然出て来た、木川田くんのことをお兄ちゃん≠ニ呼ぶ近所の高校生≠フ存在に心を動かされました。多分それは嫉妬《しつと》でした。でもそれは、勿論その高校生に対する嫉妬ではなくて、お兄ちゃん≠ニ呼んでくれる近所の子を持てる、木川田くんの近所≠ノ対する嫉妬でした。そして、そういう人間関係を持ち合わせていられる木川田くんに対しての。
木川田くんはそんなことに構わず話を続けました。テーブルの上ではもう、一枚だけ残ったピザのチーズが蝋《ろう》のように固まり、一枚だけ残ったサニーレタスがドレッシングの中でしょぼたれ、一本だけ残った焼鳥が冷たいまんま残っていました。
話のついでに、木川田くんはその一本だけ残っている焼鳥の串を取り上げ、口でキーッとお肉を引き抜いては、話を続けました。
「大体、親父は俺のことが気に入らねェのよ。俺が浪人してサ、予備校行ってゴロゴロしててサ。別に予備校も行ってねェけど、バイトなんかしてフラフラしてんのが気に入らねェんじゃねェの。大学行かないんだったら就職しろ!≠ニかサ。就職してサ、お前、そんで夜間の大学行って資格取れって言うんだぜ。バッカじゃねェの」
「資格≠チて何よ?」
「公務員試験受けんのに、大卒と高卒じゃ違うって。バッカじゃねェの。なァ? なんで俺が公務員なんなきゃいけねェんだよなァ?」
「まァね」
磯村くんは一瞬、アロハ着てグラサンかけて、煙草|咥《くわ》えたまんま「はいよ」とか言って戸籍抄本を渡してる窓口の向う側の木川田くん≠ネんていうのを想像して、「それも面白いんじゃないの?」とか、クスッと思いました。
「まァサァ、親父にしてみりゃ一生懸命なんだろうとは思うんだけど、古いの。もうホント、ゼッツボー的に古いの。ゼッツボー三匹とか言ってな」
木川田くんがあんまり突然につまらないシャレを言うもんだから、飲もうか飲むまいかどうしようかなァと思って手つかずのまんまだったスープを取り上げていた磯村くんは、思わずそれをゴクンと飲んで、むせてしまいました。
「バカァ」
磯村くんは言いました。
「どしたの?」
木川田くんが言いました。
「つまんないシャレ言うからむせちゃったの」
「あ、ホント。ゴメン」
木川田くんは平然としてました。
「ティッシュ取って」
磯村くんが言いました。
「はい」
木川田くんの渡した、クリネックスでもスコッティでもネピアでもない銘柄のティッシュを持って、磯村くんはズボンの上を拭き始めました。
「俺ホント言うと親父のことなんかどうでもいいんだ」
「どして?」
磯村くんが言いました。
「だって、関係ねえもん」
木川田くんが答えました。
「あいつは俺のことなんか全然分んねェしサ、俺だって別に、あいつのことなんか分りたくねェし――」
木川田くんが続けました。
「俺、お前に話したことあったっけ」
「何を?」
「俺が親父と病院行った話」
「知らない」
「行ったんだ。病院つうんじゃなくて、なんか、相談所みたいなとこだったのかもしんないけど」
「ふーん」
「俺さァ、親父に、やってっとこ見られちゃったんだよ」
「誰と?」
「一年下のヤツ」
「ウチの高校の?」
「そう。まァ、どうでもいいんだけど――」
磯村くんは、なんか知らん、深いため息を「ふーん」とつきました。
「俺がそいつとやってっとこ見られてサ。俺の家だけど。誰もいないと思ってたら親父がいてサ、そういう訳なの」
「それ昼?」
「朝」
「試験の時かな。前の日だったか後の日だったか忘れたけど、なんかそんな感じ。そいつが泊りに来てて」
「そいつもそうだったの?」
磯村くんが訊きました。
「そう≠チて?」
木川田くんが訊き返しました。
「いやサ、つまりその――」
「ああそうだよ。そうだけどそんなことどうでもいいじゃん」
「うん」
「要するにそうなってサ、親父が驚いてサ、そういうとこ連れてかれた訳」
「そういうとこ≠チて?」
「精神病院だよォ!」
「ウソォ?!」
「ホント。精神病院じゃないかもしんないけど、そういうとこ」
「ホントォ」
「うん。俺なんかサァ、ホント言うと、精神病院連れてこうとする自分の親のがよっぽどイッちゃってると思うぜ。どこ行くんだ?≠チて言うのになんにも言わねェでサ、連れてかれたとこ見たら精神科≠ニかっていうのがあるからサァ、それ見た時、ホント、ゾーッとしちゃった。ウチの父ちゃん気が狂ったのかと思ったもん」
「そうだよねェ」
「そうだろ、なァ?」
「うん」
「そんでもサ、焦ってたんだと思うのッ。息子がオカマだって知ったらサ。だからもういいんだって、俺の方は思うのォ」
「うん」
そこまであけすけに言われちゃうと、磯村くんとしてはもう言葉もありません。「そんで?」とだけ言いました。
「そんで――? 別にどってことないんだけど、なんか要するに、俺、ウチのお父《と》っツァン気の毒になって来たっていうとこもあんのよ」
「そうなの?」
「うん。だってサァ、なんも分んないでオロオロしててサァ」
「その、医者のセンセイって、なんて言ったの?」
磯村くんが言いました。
「医者?」
木川田くんが訊き返しました。
「うん、きみの相談に行ったその人。きみじゃなくて、お父さんが連れてったっていうその――」
「あ、カウンセラーね」
「そうなの?」
「うん」
「その人なんて言ったのよ?」
「別になんにも」
木川田くんは言いました。
「なんてったっけな――。忘れちゃったけど、要するにサ、そういう人もいるんだから気にするな≠チて。なんかそんなこと」
「異常とか、そういう風には言わなかったの?」
「言わないよ。それは一種の個性≠ンたいなもんだとかって、そんなこと――。俺が終ってからお父っツァン呼ばれたの。あ、面接って、一人ずつやんのね」
「あ、そうなの」
「うん。磯村ァ、お茶|淹《い》れない? 俺、コーヒー飲みたいな」
「うん。じゃ、ここ片付けようか?」
「そうしよ」
磯村くんはともかく、木川田くんが自分のことを話すのを興味を持って聞いていました。ともかく面白い≠チて言えるようなことでもないし、でも人の話を聞くのは嫌いじゃないし、でもだからといってまだ面白い≠チてとこまでは行ってないし、面白い≠チて言っちゃいけないことなのかもしれないしで、だから、興味を持っていただけです。
友達が心を開いてくれるのは嬉しいけど、どういう開き方をするのかも分らないし、心なんか開かないかもしれないし、今更心なんか開く必要もないのかもしれないし、だからといって、今更ヘンな開き方なんかしてほしくないなっていう風にも思いました。
26
「面接でサ、俺が呼ばれた後でお父《と》っツァン呼ばれてサ、そんで、俺のことしばらくカウンセリングに通わせたらどうだ≠チて言われたらしいの」
「ヘェー」
磯村くんはレンジの前でヤカンを火にかけて、木川田くんは流しの前で食器を洗いながら,二人は話をしていました。木川田くんはズッと手を動かしていて、磯村くんはお湯が沸くのを待っていたという訳です。「俺、コーヒー飲みたいな」って言ってから、「俺やるよ。磯村コーヒー淹《い》れて」って、木川田くんは磯村くんに簡単な仕事を押しつけただけです。
磯村くんはただ立って、木川田くんの話を聞いていました。
「カウンセリング通ってどうすんの?」
磯村くんは訊きました。
「知らね。俺に気があったんじゃねェのっていうのは冗談だけどサ」
「うん」
磯村くんは相槌を打ちました。
「治そうとか、そういうんじゃないの」
「何を?」
木川田くんが訳の分んないことを言うから、磯村くんは訊きました。
「何を≠チて、ホモだろ」
「ホモって治んの?」
磯村くんは訊きました。
「知らないよ、そんなの」
木川田くんは言いました。
「そうだよね、そういうもんじゃないもんね」
磯村くんは、あわてたようにひとりごとを言いました。勿論これは声に出して≠ナす。
「じゃ、どういうんだよ?」
木川田くんは突っかかったように訊きました。
「知らないよ、そんなの。きみの方が専門家じゃないか」
「うるせェな。ああッ、冷てッ!」
木川田くんはイライラしたように、水の冷たさを訴えました。
「代ろうか?」
磯村くんは言いました。
「いいよッ!」
それは、初めて見せた、木川田くんの自我≠セったのかもしれません。小さく短く、木川田くんは、振り切るように言いました。そして、「俺なんかサァ、なんも分んないけど、結局、そうやってサ、なんか、専門家みたいなとこに行ってっと気休めになんじゃないかとかって、そういう風な意味なんじゃないの」と、自分の自我なんて主張したって寂しいだけだ=\―まるでそう言っているように、木川田くんは丁寧に説明をしました。
一体、木川田くんはいつからそうなってしまったんでしょう? もう一方の主役の話を、そろそろしなければならないような時が来たようです――。
木川田くんが初めて男の人と寝たのは、ニキビ花やかなりし中学三年生の時でした。正確には、中学三年生の義務が終った、高校入試の終った日でした。「映画見て来てもいいィ?」とお母さんに言って、木川田くんは夕方、新宿へ来ました。夕方と言っても、まだほの明るい五時前でした。お母さんはおこづかいをくれて「あんまり遅くならない内に帰って来なさい」と木川田くんに言いました。
木川田くんは「うん」と言って、下を向いたまま新宿へ行ったのです。
そういうところに行けばそういう人に会えると思って、それで、ドキドキしながらヨチヨチと、内股になって行きました。
新宿の駅を降りて、新宿の地下道をズーッと歩いて、その頃はまだ都営線の地下鉄が開通したばかりだったので、よく分らない地下道の新しい階段を辿って、伊勢丹の向い側に出ました。
伊勢丹の向い側に出て、「ここかな……」と思いながら、スナックやレストランや飲み屋さんが並んでいる「要《かなめ》通り」の道筋をギシギシと脚を緊張させて動かして、焼肉の長春館の横まで出て、その目の前にある大きな通りとその向うのゴルフの練習場を、まるで太平洋に突き当った時みたいに茫然と眺めるまで、ズーッと下を向いて歩いて行きました。
体の中はドキドキと熱くなって、誰かにうっかり声をかけられたら泣き出してしまいそうになって、胸の中は思いつめて、何も考えられなくなっていました。
向う岸にある陸地《まち》≠見つめていて、ズボンのポケットの中では、お母さんにもらった千円札が三枚、汗ばんでいました(可哀想に)。「お酒なら飲めるし、三千円あれば、コークハイだって三杯ぐらいは飲める」って、木川田くんはズーッと考えていました。
道には信号だってあって横断歩道だってあるのにもかかわらず、まるで渡し舟が来るのを待っている旅人のようにボサーッと立っている木川田くんの後で、焼肉屋さんのドアが開きました。
何か商売の打ち合わせをしていたみたいな男の人が二人出て来て、一人はそのまま、木川田くんがやって来た要通りの方へ入って行きましたが、もう一人の人は匂い消しのガムをクチャクチャと噛みながら、道端につっ立っている木川田くんの後姿を眺めていました。
Gパンの裾を折ってバスケットシューズを履いて、地味めなスタジャンを着ている木川田くんは、まるで群馬県から家出して来た中学生のように見えました。
「誰か待ってるの?」
その男の人は言いました。
薄い茶色のサングラスをかけて、ボアのついた皮のハーフコートを着ている三十ぐらいの男の人で、髪にはパーマがかかっていました。
木川田くんはなんのことか分らず、誰かに道を訊かれたのかと思って「はい?」と顔を上げました。その木川田くんのニキビだらけの顔を見て、その男の人は笑ったみたいです。
「誰か待ってるの?」
その男の人はもう一度言いました。木川田くんよりも少しばかり背は高く、そんなに大きな人とも思えませんでしたが、着ているコートのせいで、「すごく肩幅の大きな人だな」という風に、木川田くんには思えました。
「いえ、別に」と顔を上げて木川田くんが言うと、いつの間にかその男の人の腕は木川田くんの肩にかかっていました。
上げた顔がいつの間にか下って来て、木川田くんには、もうその男の人が何を言っているのか、よく分らなくなっていました。
「じゃァ、こんなところで何をしてるの?」
その男の人は言いましたが、木川田くんの答はやっぱり、「いえ、別に」でした。
「ひょっとしたら警察に連れて行かれるのかもしれない」――そんなことを考えたら脚がガタガタ震えて来て、もうどうしたらいいのか分らなくなって来ました。
「どうしたの? こわいの?」
その男の人は言いました。
「いえ、別に」
また木川田くんが言いました。
「そうか、寒いのか、それだったらこんなとこにいない方がいいな」と、その男の人が騙《だま》しました。
「いえ別に」というその木川田くんの答は、喉から出て来そうで、一向に出て来る気配はありませんでした。
「あの、僕、あの――」
木川田くんは泣きそうな声でこう言いました。
「僕、ホモなんです」
木川田くんは、男の人の腕の中で、泣く気もないのに泣いていました。
「困ったなァ、別に、取って食おうって言う訳じゃないんだからサァ」
別に困った様子も見せないで、その男の人は言いました。
「すいません」と言って、木川田くんは「もう帰らなくっちゃ」と思いました。
その動きが男の人に伝わったようです。
「何もこわがることなんかないサ、ね? 別に悪いことしてる訳じゃないんだから」
木川田くんは、「ホントに警察に連れて行かれるんじゃないか」と、その時やっぱり思ったのです。
「初めてなのかい?」
男の人はそう言いました。
「はい」と言おうか言うまいか、うなずこうかうなずくまいか、木川田くんは考えていて、でもその考え方は全身で「はい」と言っているのと同じでした。
「心配することないからね。やさしくして上げるからね」と言って、その男の人は通りかかったタクシーを、片手で呼び止めました。勿論、もう片一っ方の手は木川田くんの肩に回したまんまです。
木川田くんは、なんにも考えないでタクシーに乗っていました。「これでもう家に帰れないかもしれないけど、でもいいんだ」って、まるでどこか外国に売り飛ばされる時みたいな決心を、その時木川田くんはしたのです。
その初めての男の人が何をしている人か、木川田くんは知りませんでした。今も知りません。年齢も職業も名前も何一つ知らなくて、サングラスを外した時の目が小さくて、どこかコメディアンみたいな顔に見えるのが見ちゃいけないことのような気がして、ほとんどズッと、目をつむっていました。
その男の人に連れて行かれたホテルがどこにあるのか、木川田くんには未だによく分りません。「あそこかな?」とか思う時もあるのですが、あんまり思い出したくないので、ズーッと知らないまんまにしています。
行きの車の中では男の人にズーッと手を握られていて、木川田くんはただまっ直ぐ自分の膝と膝との間を見ていたので、どこへ連れて行かれるのか、分らなかったのです。
だから、帰り道だって「早く帰りたい!」とだけ思うのに道が分らないから、男の人に車に乗せられて、その人にジーッと顔を見られているのがいやだからと思って、新宿駅までズーッとうつむいていたのです。
それが木川田くんの、初めての、夜≠ニはいえない宵≠ナした。
八時前に帰った木川田くんを「あら早いのね」と言って、お母さんは迎えてくれました。
試験の疲れと、なんだか分らないことでの疲れで、木川田くんは次の日まで、死んだように眠り続けました。
朝、目覚めの扉を叩くのはなんだか分らないものの感触です。
男の人の腕に抱かれていて、その腕はロースハムのようにとっても太くて汗臭いのです。
すべすべするその腕の向うにとってもやさしい顔があって、木川田くんの方に笑いかけます。その笑顔はなんというか、とってもセクシーで、木川田くんは、その男の人の逞《たく》ましい唇で食べられてしまいたいと思うのです。
木川田くんはシーツに腰を押しつけて、もう、起きていました。起きて、きのうの男の人の逞ましい胸の隆起を考えていました。逞ましかったのかどうか、もう実際はよく分らなくなっていて、でも、木川田くんは自分がその人にしたことをもう一遍かき集めていたのです。無理矢理|咥《くわ》えさせられた男の人のモノとか――。
別に無理矢理ではなくて、無理矢理そうさせられるまで待っていたのかもしれませんが、それが、木川田くんの唯一知っている男の人≠ナした。
その男の人のことを考えるとあと五回ぐらいはイってしまえそうなのですが、でも、やっぱりそんなことはしたくないと思っていました。だって、その男の人は「ハンサムじゃなかった」からです。やさしかったかもしれないけど、それが気持悪かったと木川田くんは思っていました。
しっかりその人が男≠ナあることだけを思いこんで、贅沢《ぜいたく》を知ってしまった木川田くんは、もう一方ではもっとハンサムな人のことを思って――たとえば中学のクラスメートの山内くん≠ニか――全身で狂いました。「山内くん、好きだよ!」とか思って。
でも別に、木川田くんは、山内くん≠ナなくてもよかったんです。
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木川田くんがその次、そして初めて新宿の二丁目≠ノ行ったのは卒業式が終って春休み≠ノなってからです。
木川田くんが二週間以上、「やっぱ行きたい! やりたい!」と思っていた頃磯村くんの身の上に何が起きていたのかは皆さん既に御承知と思いますが、木川田くんは勿論、そんなことはまだなんにも知りませんでした。
ずい分軽い調子で書いていますが、よく考えたらこの話は、スゴイ話なんですねェ。
先へ行きます――
木川田くんは自分がニキビだらけなんだということを、その頃とっても気にしていました。
中学一年の終りぐらいからポツポツと出て来たニキビは中学二年の夏には満開になって、木川田くんの心をとっても悩ませていました。背が低くってガニ股で、おまけに顔だって悪くて、そこにニキビが満開になっていたら「僕はとってもスケベです」と、公言して歩いているようなものです。少なくとも木川田くんは、自分で自分のことをそう思っていました。
「スケベ!」と言われてしまえばモトもコもありませんが、でも「スケベ!」と言われた方がまだましだと思えるようなものが木川田くんの中では生まれていました。木川田くんは、同級生の男の子のことが気になるのです。普段の時ではなく、体育の授業の終る時――
体育の授業が終って男の子達がハァハァ≠ニ息をついて教室に戻って来ると、着替えの為に女の子達を締め出した教室の中は、まるで埃《ほこり》っぽい春先のまだ花の咲かない、花園のような匂いで満たされます。誰もそんなことは気にしませんけど、木川田くんだけは気にしました。まるで磁石だらけの部屋の中に入った小さな鉄の棒のように、自分の体が倒れてグラグラしそうな気がするのです。体操の得意な山内くん≠ニかロックやってる蓑浦くん≠ニか、中学二年生の木川田くんから見ればもう大人≠セとしか思えない男の子がいて、木川田くんはドキドキするのです。木川田くんは、もう自分が変態≠セっていうことは十分に分っていたのです。
自分が変態≠ナ、変態≠ニいう出口のない部屋に閉じこめられていて「どうしよう……!」と思うしかないのです。「どうしよう」と思ってジタバタすればするほど気持の悪い脂汗《あぶらあせ》が出て来て、それがニキビになるような気がしたのです。醜い≠ニ言われれば、その言葉が何を指しているのかは分らなくても、その当時の木川田くんなら、それだけで逃げ出したのかもしれません。木川田くんにとって、ニキビというものはそういうものでした。
他の男の子にはまだニキビなんてありません。まだというか、ズーッとないのかもしれません。それぐらい木川田くんの同級生達はツルツルの顔をしていました。
脚だってまだ、他の子達はツルツルしているのに、木川田くんは、色が白くてキャシャな体つきをしているのにもかかわらず、もう、大人並でした。
自分はウジウジしてるのに、でももう体だけは大人になって、木川田くんは恥かしくて恥かしくってたまりませんでした。顔はニキビで、ズボンを脱ぐとモシャモシャなのです。他の男の子達は普通に伸び伸びと服を脱いでいるのに、木川田くんだけは、コソコソと部屋の隅で小さくなって服を脱ぎました。誰かに見られたら、自分の全身がスケベの塊りになってるってことがバレそうで、たまらなかったのです。
でも、誰も木川田くんのことになんか注目してくれませんでした。悪い方も目につかなければ、いい方も注目なんかしてもらえませんでした。
木川田くんが部屋の隅でモソモソと服を脱いでいると、サッサと服を着替えた生徒会の役員の河口くん≠ェ着替えた服を、木川田くんの後ろの席に置きにやって来ます。河口くん≠ヘカッコいい子≠セったので、「どうしたの? 一緒に行かない?」って言うのかな、とか思ってドキドキするのですが、そのまんま河口くん≠ヘ他の友達を誘って出て行ってしまいます。
後に残った河口くん≠フシャツが木川田くんの目の隅でなんか言っているような気がするのです。
なんか言ってるけど分んない、木川田くんの汗ばんだ下半身を直撃するようなヤバイことを言ってるみたいで、「ああ、自分はもう変態なんだ」って思うしかないのです。
汗まみれになったトレーナーを脱いで山内くん≠ェ「あー、熱ィ、熱ィ」とか言って裸の長い腕を振り回してる休み時間なんか、木川田くんは「どうして抱いてもらえないんだろう」とか、そんなことばっかり考えるのです。ロックやってて男らしい顔してるのに裸になると妙にポチャポチャした体付きになる蓑浦くん≠ネんか見ると、「やっぱり蓑浦くんだってそうかもしれない……」とか、どうもいけません。
結局木川田くんだって、そういう形でみんなの中に入って行きたかっただけなのですが、そんな形で入って行く人間をそのまんま迎えてくれるほど世の中は変態≠ナはありませんでした。木川田くんは、中学校の教室で一人ぼっちになるしかありません。
一人ぼっちになったまま、一人ぼっちになった自分を隠しておくことほどつらいことはありません。木川田くんは、気がつくと目まいがしそうな自分の内側を見つめながら、いつも下を向いて歩いていました。
下を向いてヨチヨチと歩いている内に蓑浦くん≠ノつかまってしまったこともあります。体育の時間のランニングが終った後でした。
グラウンドを三周してハァハァ……≠ニ息を切らせていた木川田くんは、やっぱり息を切らせてハァハァ≠オていた蓑浦くん≠ニぶつかってしまいました。別にぶつかろうと思ってぶつかった訳ではなく、フラフラしていたらブチ当ってしまったというだけです。
後ろに生温かいものがあって、「なんだかホッとするなァ」と思って息を吸った途端、「なんだよォ!」という声が飛んで来て、「くっつくなよォ、ニキビがうつんだろォ」と言われて、やっぱり息をついている蓑浦くん≠ノ突き飛ばされたんです。
突き飛ばされた先に片倉くん≠トいう、別になんでもない男の子がいて、その子に抱きとめられたまんま木川田くんはハッ≠ニするような、蓑浦くん≠フ洗濯してないトレーナーのツンとする%いを思い出してしまいました。
「なんだこいつ、気持悪ィなァ」と蓑浦くん≠ェ言いました。クラスメートの名前が続々出て来ますが、そしたらチビで猿みたいなよく喋る青木のバカ≠ェ「オカマじゃねェの、ケッケッケッ」と言ったのです。
「オカマ! オカマ!」と言ったのは多分、高橋と吉沢と中村≠ナ、後は覚えていません。
先生が笛を吹いて「早く並べ!」と言ったのでそれはそのまんまになりましたが、木川田くんは「結局いつかはバレるんだ」と思っていたのでただ真っ赤になっていただけでした。「オカマなのはしょうがないけど、このニキビだけはなんとかなんないかなァ」と思うとやっぱり悲しくはなったのですが、オカマ≠チて言われて体育の時間に泣いたのかと思われると男の面子《メンツ》が立たないので、真っ赤になっているだけでした。
という訳で、中学を卒業した春休みに向う岸≠フ二チョーメまで出かけて行った時、木川田くんは、「ニキビで笑われたらどうしようかなァ」とだけ思っていたのでした。
28
時間は午後の四時でした。そんな時間にもう飲み屋さんが開いてるかどうかなんてことは、まだ中学校を出たばっかりの木川田くんには分りませんでしたが、「でもこないだみたいなことがあったらやだなァ」と思って、木川田くんはその日、少し早目に来たのです。
やっぱり、こないだの人≠ヘ好きではありませんでした。なんか、オモチャ≠ノされたみたいで木川田くんは、やっぱりいやだったんです。あんまり、さわらせてもくれなかったし。
時間が来るまで、木川田くんはその飲み屋さん街の一角にある喫茶店で待っていました。どんな時間≠ェ来るまでなのか木川田くんにも分りませんでしたが、とにかくまだ外は明るいし、そんな時間にそんな所をなんだか分らない中学生が一人で歩いてるなんて、こわいと思いました。
「自分は勇気がないけど、それはまだ馴《な》れてないからなんだ」ってそう思って、まるで映画のオープンセットみたいに両側が飲み屋さんの看板だけをズラッと並べている通りを見て、それでそのまま、喫茶店に駆け込みました。
ボーイさんが注文を取りに来て、「この人もそうなのかなァ」と思いましたが、でもよく分らないので、木川田くんは「コーヒー」とだけ言いました――「下さい」と付け加えて。
ボーイさんはお水だけ置いて黙って行ってしまったので、木川田くんは「僕なんか、やっぱり相手にしてもらえない(のかもしれない)」と思いました。
そのボーイさんは背が高くって、髪の毛をモシャモシャに伸ばしていて、ロックやってる蓑浦くん≠ニなら気が合うのかもしれないっていうような、そんな人でした。
木川田くんは黙って、窓際の席でコーヒーを飲んでいて、外を通る人の脚だけを見ていました。何故脚だけかというと、脚だけしか見ることが出来なかったからです。
黙って、「誰かに声かけられたら絶対に待ってるんです≠チて言おう」って、それだけを思ってました。「こないだの時みたいに誰か待ってるの?≠チて言われていえ別に≠チてだけ言ってたら、やっぱり好きでもない人とそういう風になっちゃうし」とか思って。
木川田くんは「今度はやっぱり、もっと素敵な人と≪ナントカ≫したい」と思っていたのです。
でも素敵な人≠ネんていう曖昧《あいまい》な人はそう簡単にはやって来ません。どういう人が素敵な人≠ネのか、木川田くんにも説明がつかないのですから。
「どうしたの? 誰か待ってるの?」って言って来た人は、こないだの人≠謔閧烽チとズーッと粘っこい感じのする人でした。四十か、ひょっとしたら五十ぐらいで、中肉中背というヤセ型で、やっぱり色眼鏡《サングラス》をかけていました。
「誰か待ってるの?」と、ほとんど黒ずくめのように見えた中年の人から声をかけられて、木川田くんは思いつめたように「は、い……」と言いました。
一生懸命「そう言おう、そう言おう」と思っていたことを言ったのですから、喉は涸《か》れて声は干からびて、まるで来ない人を待っているみたいに思いつめた声≠ノなっていたのです。
「でも、さっきからずい分待ってるじゃない?」
その男の人は、笑いながら木川田くんに言いました。
木川田くんは、自分がズーッと見張られてたんだと思ってゾーッとしました。「絶対にこの人はヤだっ!」って、木川田くんはそう思いました。まるでトイレに行く時みたいに自然に立ち上ってその人はやって来たので、ホントに木川田くんには、その人の「誰か待ってるの?」が自分に向けられたのかどうかもよく分らなかった――と思っていたのにもかかわらず、です。
木川田くんは「いいんです」って言いました。「思い切って、大胆になっちゃった……」って、そう言ってから思いました。「嘘ついてるってバレたらどうしよう」って、そう言ってから思いました。
「そう、ずい分待たせるんだねェ」と、その人はまた、笑いながら言いました。
木川田くんはどう言ったらいいのか分らなくて、今度は何も言わずに黙ってました。
「そうォ……」と言って、その人はポンポン≠ニ木川田くんの肩を叩いて、そのまんま行ってしまいました。
木川田くんはうつむいて、テーブルの上のグラスばかり眺めていたので、その男の人がポンポン≠フ後になんか言うもんだと思ってました。
思ってましたけど、その人の影がスッと見えなくなったみたいなので振り向くと、その人はレジの方へ伝票を持って歩いて行くところでした。
「どうしよう……」と思って、木川田くんは「悪いことをした」と思いました。「あのォ……」と、思い切って席を立とうとしましたが、腰を浮かしかけた途端、斜め前の席に坐っているローレル・ハーディーの太った方みたいな顔をしたチョビ髭のオッサンがこちらの方を見ているのに気がついて、慌てて坐り直しました。
木川田くんに声をかけた人は、後ろも見ずに出て行きます。木川田くんは、もう誰からもやさしい声≠かけてもらえないかもしれないと思って、ホントに心細くなりました。心細くなって、目の隅で、そのローレル・ハーディーのおじさん≠ェこっちに来ないようにこっちに来ないようにと思って祈りながら、見つめていました。
「そのおじさんがやって来たら自分のついてた嘘がバレてしまう」と思ったからです。
「嘘ついてたんだろう!≠チてそのおじさんに言われたらどうなっちゃうか分らない、どんなひどいことをされるか分らない」と思って、木川田くんはこわくなりました。
「こんなところにいてどうすんだろう」と思って、そして、「ホントは誰かのことを僕は待ってるんだ」って、自分のついた嘘がホントになって来たみたいな気がしました。「僕ズーッと待ってるのに来てくれない」って、悲しくなって、泣きそうになりました。
「ズーッと来てくれないし」って思って、「バカだな」って思って、それで、その太ったおじさんに近寄られない前に出て行けばいいんだってことにしました。
木川田くんはテーブルを見て、「ズーッと待ってたのに来てくれないから僕は行きます」っていうような顔《おしばい》をして、そして、そのテーブルをガタガタ言わせてそのお店を出て行きました。
でもその日、木川田くんが≪ナントカ≫なっちゃった相手というのは、素敵な人≠ナはなくって、芦屋雁之助みたいな丸まっちいおじさんでした。
29
その、ジャバ・ザ・ハットが人が好くなったみたいなおじさんに木川田くんが会ったのは、「ケント」というお店でした。
そこは、後に、磯村くんも連れて行かれる、「藤娘」の人形があってその他は全部トラッドしているという不思議なお店ですが、木川田くんが初めて行った時にはまだ「藤娘」はありませんでした。
ありませんでしたと思うのですが、でも確かなことは分りません。「ごめんなさい」と言っておきます。
別に木川田くんは、理由があってそのお店に入った訳じゃありません。そろそろ夕方になろうという三月の終り頃の異世界《ニチヨーメ》≠フ道を「どこに行こうかなァ」と思って歩き出して、でも下ばっかり見てたんじゃどうしようもないから時々思いついたように顔を上げて、細いビルの脇についてる飲み屋さんの看板を見て、「あ、ここ知ってる」と思うお店の方に入ってっただけです。
ホモ雑誌に広告を出してるそのお店は狭いビルの三階にあって、その細長い階段は途方もなく遠いように木川田くんには思えました。息を切らしたのか、それともあてのない旅を延々として疲れたのか、木川田くんが真っ赤になってドアを引っ張ったら、そのお店は休みでした。休みというよりは、まだ開店前でした。自分の開け方が悪いのかと思ってドアの把《と》っ手をガチャガチャとやっていたら、階段の上の方で「どうしたの?」って声がかかりました。
見上げるとアイビーカットのお兄さんが立っていて、その頃はまだ若かった「ケント」のママさんはすっごいハンサム≠ノ木川田くんには見えました。
「開かない」って、木川田くんは上ずったんだか甘えたんだかよく分んない声を出しました。
「あら、そんなの無理よ。だってそこまだ開いてないもん」と、その「ケント」のママさんは女言葉で喋りました。「ケント」のママさんというのはアヤちゃん≠ニいう名で、ホントは綾小路健人≠ニいう名前だそうですが、これは多分嘘でしょう。
とにかく木川田くんは、自分よりズッと素敵な人が自分とおんなじような人間なので、嬉しくなりました。
「ここまだだけど、よかったらウチやってるからいらっしゃい。下よ」と、そのアヤちゃん≠ヘ言いました。
「こういうとこ初めてなの?」
そのお兄さん≠ヘ、「どうしようかなァ」と思っている木川田くんにそう言いました。
木川田くんは「はい」と、蚊の鳴くような小さな声で言いました。
「大丈夫よ、ウチ安いから。いらっしゃい」そう言われて、木川田くんはそのお兄さんの後について行きました。
お店の中はまだ空っぽで、木川田くんより三つか四つぐらい年上に思えるスポーツ刈りの男の子が、一人でグラスを磨いていました。
「カンちゃん、お客さんよ」と言ってママさんが入って行ったので、そのカンちゃん≠ニ言われる子は顔を上げて「いらっしゃい」と言ったのですが、後から入って来た木川田くんの顔を見て「なァんだ」という顔を露骨にしました。
「なによ、お客さんなんだからァ。失礼ねェ」と言って、そのママさんは妙な笑い方をしました。
「いらっしゃい」
お兄さん≠ヘ木川田くんを呼んで、カウンター式の店の一番奥の席に案内しました。
「もうすぐしたら混んで来るから、ここにいらっしゃい」とそのお兄さん≠ヘ言いました。そして、「まァ、ニキビなんか作っちゃって、可愛いわねッ」と続けていいました。「なんにします?」と、またたて続けに口調を変えて言いました。
木川田くんはポッ≠ニなって、「あの、水割り……」と、思わず、背伸びをしました。
「あらいいの? あんた未成年なんでしょ」
お兄さん≠ヘ言いました。
「はい」
木川田くんは答えました。
「ボク、いくつなの?」
そのお兄さん≠ヘまた言いました。
「えっと、あの、コ、コーコーセイ」と、まだ正確には高校生になっていない木川田くんは、ちょっとばかり嘘をつきました。
「そう。だったら無理しなくたっていいのよ。コークあげようか?」
そのお兄さん≠ヘそう言いました。
「いえ、いいです」
木川田くんは少しばかり無理をしました。
「いいの? 水割りで」
「はい」
木川田くんは言いました。
「近頃のコーコーセエは水割り呑むかねェ」とそのお兄さん≠ヘ言いました。「嘘ついてんでしょ」って、一人言を言ってるようなもんでした。
「あの、高校生じゃなくって、まだ」
「なに、まだ中学なの?」
「卒業したばっかり」
木川田くんは、そのお兄さん≠ェ「可愛い」と言ってくれたので、ホントのことをつい言う気になってしまったのです。木川田くんはそれまで、人から可愛い≠ニ言われたことなんてなかったからです。
そして、そのジャバ・ザ・ハットのおじさんも、やっぱり木川田くんのことを「可愛い」って言ってくれました。
そのジャバ・ザ・ハットのおじさんも、やっぱり名前は分りません。郡山の方の人で、別れ際に木川田くんに名刺までくれたのですが、でも木川田くんはなんとなくそれを持ってると怒られるような気がしたので、家に着くちょっと前に下水溝に捨ててしまったから、名前は分らないのです。
そのおじさんは、時々田舎から出て来て、そういうお店に寄るのだそうです。
ママさんに木川田くんを紹介されると「お、可愛いなァ」といきなり寄って来て、木川田くんを恥かしくさせました。だって、そのおじさんの声があんまり大きかったから、店中の人が木川田くんの方を振り向いたからです。クスクス≠「う笑い声が聞こえて来ましたけど、それはそのおじさんの声が大きいからだと、木川田くんは思いました。
木川田くんは、馴《な》れないお酒を飲んで、それで気持が悪くなって、おじさんに介抱をされたのです。
そのおじさんは、ズーッと木川田くんのことを「可愛いなァ」と言っていました。
気持悪くなって「頭が痛い」と言っても「可愛いなァ」だし、「お水が飲みたい」って言っても「可愛いなァ」だし、木川田くんがおじさんの愛撫に顔を歪めても「可愛いなァ、可愛いなァ」でした。そのおじさんは、ホントに木川田くんのことを可愛いと思ってるようでした。だから「又会いたいなァ」と言って、「なんかあったら電話してな」と言って名刺をくれたのですけれども。勿論、お小遣いもくれましたけども。
名刺は捨てても、木川田くんはお小遣いは捨てませんでした。「もうけた」と思うより、「あのおじさん、それくらい僕のこと愛してくれてるんだ」と思って、ジーンとなりました。別に、そのおじさんのことを男性≠ニしては好きになんかなりませんでしたけれども、でも、木川田くんはそのおじさんのことを「好きだ」と思いました。だから、そのおじさんとはキスもしちゃったんです。
ニキビだらけの木川田くんの顔を撫で回して、そしてほとんど舐《な》め回して、そのおじさんは「可愛いなァ、可愛いなァ」って言ってくれました。木川田くんは、涙が出るほど嬉しくって、「ニキビがうつらないかなァ、ニキビがうつらないかなァ」と思いながらも、おじさんに向って、口を開いてしまいました。
おじさんの部厚い唇となんだか分らない舌が入って来て、木川田くんはむせそうになりましたが、でも好き≠チていうのはそういうことなんだと思って、別に教えられもしないのに、ホントだったら絶対にキスしたいなんて思う筈もない、ナメクジみたいなおじさんのナメクジみたいな舌を、一生懸命吸いました。
「儂《わし》が好きか? 儂が好きか?」とおじさんが言うので、木川田くんは「うん、うん」と言いました。
という訳で、木川田くんの男性関係にはおじさん≠ニいう人達が結構登場するのです。
30
話はもう一遍磯村くんのアパートに戻ります。
木川田くんは最後の洗い物の水を切って「おー、冷て」と言って、磯村くんはなかなかヤカンのお湯が沸きそうにないので、「お風呂沸かそうか?」と言って、お風呂場に入って行きました。
磯村くんがいなくなるとヤカンがカタカタカタッ≠ニ言って、シューッとお湯が沸き始めました。
「磯村、お湯沸いた。俺コーヒーにするけどお前、紅茶ァ?」と木川田くんが言いました。
ジャーッ≠ニいう水音を背景にして、磯村くんが「うん」と言いながらお風呂場から出て来ました。
「いいよ、俺やるから坐ってて」
木川田くんが言いました。
「うん」と言って、「いいよ、紅茶ぐらい僕が淹《い》れる」と言って、磯村くんは洗ったばかりのティーカップを取りました。
「テレビでも点《つ》けようか?」
磯村くんが言って、木川田くんは「うん」と言って、二人はそれぞれの飲み物を持ってテレビの前に坐りました。
テレビでは、何度目かの『マッド・マックス』をやっています。
「ねェ、喧嘩したって、そのこともあるの?」――テレビの画面を見ながら磯村くんが言いました。
「そのこと≠チてェ?」
木川田くんは磯村くんに向って訊きました。
「だから、あのこと」
磯村くんは自分のティーカップを見ながら、なんとなく言っちゃいけないかなという顔付きで答えました。
木川田くんが「うるせェな」って言って、その後で「俺なんかサァ、なんも分んないけど」って言いながら「カウンセリングに来いってことは気休めに来いって言ってることだよ」みたいなことを言って、なんとなくそれがそのまんまになっていることが、磯村くんには気詰まりだったのです。
木川田くんは「ああ」って言って、「それもあるかもしんないけど、それとは関係ないかもしんないけど、なんかよく分んないなァ」と言いました。
「来年どうするの?」
磯村くんは訊きました。
磯村くんが言っているのは今年≠ナはなく、来年もう一遍浪人してどこかの大学を受けるのか、ということです。
「分んない」
木川田くんが言いました。
「どうせ今年受けたってダメだしサ」
「うん。でも、中大受けてみればいいのに」
磯村くんが言いました。別に自分の行ってる大学がいいとこだからとかっていう訳ではないようでした。
「うん。でも、来年どうするかって、俺、春になってから決めようとかって、思うんだ。だってサ、今年サ、俺、失恋しちゃっただろ」
木川田くんは突然ボロボロと涙をこぼし始めました。テレビでは、暴走族に追われたアベックが追い詰められて、寄ってたかって車を叩き壊されるシーンをやっていました。
「テレビ小さくするね」
磯村くんはボリュームを下げて、「一体どうしちゃったんだろ」と思っていました。
「俺サ、ズーッと先輩と一緒にやってこうと思ってサ。したらサ、先輩サ、今年大学入っちゃうだろ。それはいいけどサ」
「うん」
「でも俺、先輩に嫌われちゃって」
「どうしてサ、どうしてそんなこと言うんだよ」
「いいんだよ。そんでもサ、俺サ」
テレビでは女の人が絶叫していました。
「なんか、なるって、思ってたのね」
木川田くんがグスッとしゃくり上げたので磯村くんはあわてて「テレビ止めるね」って小さな声で言いました。
木川田くんが小さな声でうなずいて磯村くんがテレビに手を伸ばそうとすると、テレビのブラウン管の中では、暴走族によってたかって車の外に引きずり出される若い男の人の、自分の運命≠承知しているみたいな顔が映っているところでした。勿論その後で、その男の人は、男の人達に強姦されちゃうんですけど……。
磯村くんはギョッとして、そしてすぐにテレビを消しました。
目の辺りをグショグショにした木川田くんが鼻をこすりながら「どうしたの?」っていう顔をして磯村くんを見ました。
「ううん」――そう言って磯村くんは、木川田くんに「どうしたの?」って訊きました。
「どうしたの、急に泣いて?」
「ごめん。なんか知らないけど急に悲しくなって来ちゃって」
「どうしたんだよ?」
磯村くんは木川田くんの肩をつかまえました。抱くのではなく、叩くようにです。
「うん、いい」
木川田くんは言いました。
「俺ってバカだったのね」
木川田くんが言いました。
「どうして?」
磯村くんが言いました。
「だってサァ、まだ分んなくてサ、なんか、先輩のことがまだ忘れらんなくてサ、そんでサァ、先輩のこと思ってればまだなんもしなくていいとか思っててサァ」
「そうなの?」
「そうだよ。俺ズーッと、先輩がなんかしてくれるって勝手に信じてたから。だから、先輩に嫌われても、まだそんでもそれ嘘だって思ってたから。そんで、フテてたの。そんでね」
「うん」
「どうすんだ、お前?≠チて、言うのね」
「うん」
「親父がね、俺ズーッと正月、家にいたからサ」
「そうなの?」
「うん、俺、いい子だったもん」
「だったら、電話してくれりゃいいのに」
「だって、正月なんか、電話したら悪いだろ」
「どうして」
「だって――。俺サ、四日に電話したんだよね」
「うん、そう言ったね」
「こっちに電話したらいないだろ」
「うん」
「退屈したら早く帰って来る≠チて言ってたからいるかもしんないなと思って」
「ごめん」
「ううん。俺サ、家にいるのやだったのね」
「どうして?」
「親父はなんだかんだ言うし。結局は俺がいけないのかもしんないけど、オフクロは暗ーくなってるし」
「そうなの?」
「そうだよ」
磯村くんは、なんか、なんにも考えるのがいやになって来ました。
「俺だって真面目にやってるし、そりゃ、バカだったかもしんないけど、でも、バカじゃなくなってから俺、そんなヘンなことあんまりやってない。俺、磯村と会ってから変ったんだよ」
「そうォ?」
「うん。あー、バカだったと思って、自分でなんとかしなくちゃいけないと思って、真面目にバイトだってしてたもん。十二月からサァ、俺、電気屋でバイトしてただろ」
「うん」
「あれだってサ、お前知らないかもしんないけど、近所の家で、オバサンと二人でやってたのね、オジサンが。そしたら急にオバサンが入院しちゃって」
「あ、そう言ってたね」
「うん」
そういう訳だったのです。
「俺、前から顔知ってたしサァ、お母ァちゃんがサァ、お前、誰かいい人いないかねェ≠チていうからサ、バイトだったら俺やってやるって、それでやってたのね」
「うん」
実はそういう訳だったのです。
「俺どうせ暇だからって言ってサ」
「うん」
「そしたらお母ァちゃん、俺やっぱりまだ浪人してると思ってるだろ」
「うん」
「予備校なんかズーッと行ってねェのによ」
「うん」
「そんでもサァ、俺がやる≠チて言うからサァ、いいの?≠チて言って、俺平気だからって、それでやってたのね。そんなのにそんな近所のどうでもいいところでウロチョロして≠チて、親父は言うのね。普段なんか俺のやってることなんかなんも知らねェのによ。会社休みになって、俺、大《おお》晦日《みそか》だから最後だと思って、そのオッチャンの家行っただろ?」
「うん」
「来年なったらもうすぐ退院すっから成人の日ぐらい迄は悪いけどもうちょっといてくれ≠ニかオジサン言ってサ」
「そのオバサンどこ悪いの?」
「なんか、子宮の方がどうとかってらしい。よく分んないけど。嫁に行ってた娘が病院行ったり、なんか、オッチャンの飯作ったりなんかしてた。オッチャン、なんか、配達なんかしてたりしててあんまり店にいねェだろ。だから電話番とかね、やってたんだけど。したらサァ」
「うん」
「大晦日でサァ、金貰ったらサァ、近所のガキンチョが来てサァ、お兄ちゃん行かない?≠ニか言っただろう」
「うん」
「だから外泊してて、家帰って来たらサァ、もう親父達ゾー煮食ってて、どこ行ってたんだ!≠ニか言うのな。そんな、大晦日だから初詣《はつもうで》行ったっていいだろ? そんでもサ、グチャグチャグチャグチャ言うの」
「君、お父さんのこと嫌いなの?」
磯村くんは言いました。
「好きじゃない」
木川田くんは言いました。
「分るけど――。俺のことなんかちっとも分んないし、イライラすんのって分っけど、でもサ、普段家にいる時だってなんにも言わないし、何考えてんのかなんて分んないし、第一、俺にやさしくしてくれたことなんて一遍もねェもん」
そんなこと言われたって、磯村くんも困ります。別にお父さんがやさしくないという訳ではないのですが、よく考えたら、磯村くんだってお父さんにやさしくされたことなんて一遍もないのです。お父さんがやさしくしたがってるなァと思ったことだけはありますが。だから「いい人なんだなァ」と思ったことはありますが。だから、「喜ばなくちゃいけないんだなァ」と思ったことはありますが。
だからといって、やさしくされたなんてことは、一遍だってないんです。嫌う理由なんてないんだから嫌っちゃいけないんだなァと思っていたとしても、だからといってそれでどうだというのでしょう? 今迄それでやって来たんだからそれでいいと、磯村くんは思ってました。
だから今更、「俺にやさしくしてくれたことなんて一遍もねェ」なんて言われたって困るんです。だって、お父さんて、そういうもんなんじゃないんでしょうか? 少なくとも、磯村くんはそう思っていました。
「俺さァ、親父の取り引き先の奴知ってんのね」
木川田くんが言いました。
「取り引き先っていうか、やっぱ取り引き先なんだ、親父が頭下げてっから。そいつがサァ、マゾなのね」
突然、訳の分らない単語が出て来たので、磯村くんは「?」て思いました。
「マゾって知ってる?」
よく分らなかったので磯村くんは「知らない」って言いました。その単語は知っててもどうしてそういう単語が出て来るのかがよく分らないから「知らない」って言ったのです。
「マゾって、ションベン飲むのな」
木川田くんが言いました。
「ションベン?」
磯村くんはなんだか分んないから、オウム返しに訊きました。
「うん。俺のションベン飲むの。ひっかけてやると喜ぶの。バカみてェ」
木川田くんがどこを見てるのかはよく分りませんでした。少なくとも磯村くんの方をではないし、コーヒーカップか、それとももっと遠くか、それはよく分りませんでした。
「親父の取り引き先の奴でサァ、俺そのこと知らないでそいつと付き合ってて、そしたらたまたま、そいつと親父が会ってるの見ちゃったの」
「その人、年上の人なの?」
磯村くんが言いました。
「そうだよ勿論。決ってんじゃない」
「うん、だけどサ」
磯村くんはなんとなく、木川田くんの相手の人がみんな年上の人≠ネんじゃないかと思ってはいましたが、そこまで年上の人≠セとは、なんとなく、思ってなかったのです。というよりも磯村くんは、木川田くんが誰かと≪ナントカ≫してる≠ニかっていうようなことは、まァ、考えさせられたことはあっても、具体的に木川田くんがどういう相手とどういうことをしているのかなんていうことは考えたことがなかったのに、突然出て来た具体的な相手≠ェ男の人で年上で、社会的なところになんとなくチャンと存在していそうな人だったから、それでクラッ≠ニ来たのです。木川田くんが下級生の男の子とドウトカっていうことを聞いた時もショックでしたが、これはもっとショックでした。すごくショック≠ニいうよりは、そういうショックもあったのか≠ニいうような種類のショックでした。
磯村くんは、普通の背広を着て歩いている普通の人が、やっぱり裸になって、やっぱりいやらしい恰好をして、それでやっぱりセックスとかっていうのをするなんていうことを、よく考えてみたら、考えてみたこともなかったんです。自分とおんなじようなヤラシイものが、自分とは全く違うと思うような、自分があんまりというかほとんど好きになれそうもないような男の人達にもおんなじようにあるということは、気が滅入るような、そして気持が悪くなるようなショックでした。そういうことは、よく考えたら、自分一人のことだけにしておきたかったんです。そうだと思ってたんです。
磯村くんは何が「だけど――」なのかは分りませんでしたが、「お前、ホントに男と寝れるの?」って、木川田くんにチャンと訊いてみたいと思いました。
でも磯村くんはなんにも言わないから、木川田くんは勝手に話を続けて行きました。それは、寝る≠ニか寝ない≠ニかっていうような次元を超えた話でした――。
31
木川田くんは言いました。
「俺サ、親父になんだかんだ言われっとサ、そいつのこと言ってやりたくなるのね。なんで俺だけがゴチャゴチャ言われなくちゃなんないのかって」
「うん」
磯村くんは、自分だって平気で聞いていられるんだぞってことを表わす為にも、いやでも相槌というのを打たなければなりませんでした。
お風呂の水はジャージャーと音を立てて流れています。どこまでそれが溜ったのかは分りません。その部屋の中には、立って見に行こうとする人はいなかったからです。
木川田くんは続けます。
「ホントだったら、家の親父だってあんまりそういうことは言わないのね」
「どういうこと?」
「ホモ、とか。なんか、タブーみたいだから。やっぱ、そういうのって考えたくないんだろ。俺だってあんま考えたくないから」
少しの沈黙――。
「でも、なんか最近、秋ぐらいから急に、お前この先どうするんだ≠チて言い出して、俺、別に分んないから分んない≠チて言ってたら、初めの内は黙ってて、それがなんかネチネチ言い出して、大学行くんなら行け、行かないんだったら行くな≠ニか言い出して、俺分んないから分んない≠チて言って、ホントはあんまりそういうこと考えたくなかったから考えなかっただけなんだけど、いつまでも男から男へ渡り歩いてる変態みたいな真似しててどうするんだ!≠チて言うから、俺いやんなって、別にお前なんかにそんなこと言われる理由なんかない!≠チて思って、そんで荒れてて――荒れてたんだけど、お前が来る前なんか――」
「そうなの?」
「そうなの。そんでサ、そいつに会ったの」
「そいつ≠チて?」
「その、親父の取り引き先の奴」
「ああ……」
「岡田っていうんだけど。ムカァシ会ってて、そんでズーッと会ってなかったんだけど、そいつに秋ぐらい急に会ったら、なんか、憎ったらしくなって、そんで、寝ちゃったの」
ちょっとしたため息です。
「新宿のホテル行ってサ、そいつが裸になってキスしようとすんだよな」
お風呂が溢れてます。
「いきなりキスしようとしたんだけど、俺ヤだから、脱げ≠チつったんだよな」
「ちょ、ちょっと、お風呂止めて来るね」
「うん」
一時停止はそのまんまです。
「したらサァ」
話はそのまんま続きます。
まだ磯村くんは立ったまんまです。お水は止めたからいいけど、火は点《つ》けた方がいいのかどうか、磯村くんは迷っています。
「俺、そいつの裸見たら急にカーッとなってサ」
木川田くんはそんなことを考えてくれないので、しようがないから磯村くんは坐ります。
「なんか、蹴っ飛ばしたくなっちゃったの」
「ふん」
相槌だけは宙に飛びます。視線なんかは落ちているのに。やっぱり、好きな人が他人と寝ている話なんて、聞きたくはないんです。ましてや、その好き≠ェどういう好き≠ゥ分らなくて、その好きな人≠ニ自分が、まだ宙ぶらりんな関係でいる時なんかは、特に。
宙ぶらりんなまんまでいることがいけないことだとは思えなくても、でも、宙ぶらりんであることを知ってしまったら、宙ぶらりんは宙ぶらりんなんですから。
「そいつが迫って来たらサ」
「うん」
磯村くんは、自分の中を見つめようとしています。見えないけれどなんかありそうな自分の中を。
「バカヤロ、なに気分出してやがんでェ≠ニか思って。別にそこに親父がいたって訳じゃないんだけど、なんか、そいつ引っ叩《ぱた》いたら親父がいい気分になるんじゃないかとか思って」
「うん」
でも磯村くんにはなんにも見えません。見えないものは無理なんです。
「どうしてそいつのこと引っ叩いたら親父がいい気分になるのかなんか分んないけど、なんか、でも、俺達がヤな気分になってるのにそいつが一人だけいい気分になってるのなんて気持悪くってヤだとか思って」
磯村くんだって「その生っ白い、誰だか分んなくて見たこともないヤツなんて引っ叩いちゃえばいい」と思いました。
「引っ叩いちゃったの。そしたら親父だって苦労しなくていい、とか、関係ないこと思って」
「そんなこと違うよ」って、何故か知らないけど、磯村くんは言ってみたくなりました。でも「どうして?」って木川田くんに訊かれるのは目に見えていたから、やめました。木川田くんが「どうして?」って訊く時のあどけない顔が、磯村くんにはどうにも苦手だったからです。「誰にも分らないこと平気で訊くなよ」って――。
でも、磯村くんはなんにも言わないので、木川田くんも「どうして?」とは訊きませんでした。「どうして?」って訊かないで、「どうして?」って人に訊く時みたいなあどけない、平気で人の心の中に入って来ちゃうような目をして、そしてそれを自分の心の中に刺し込むように向け直して、木川田くんは話を続けて行きました。
こうなるともう、誰にも手なんかつけられないんですけどね――。
「そしたらそいつ今日はずい分荒れてんのね≠チて言うんだ」
「うん」
磯村くんは言いました。
「そいつ男なんだけどサ、女言葉使うのな」
「うん」
やっぱり、磯村くんは、少し吐きそうになりました。
「お風呂点けて来るね」
磯村くんが言いました。
「うん」
木川田くんが言いました。
磯村くんが立って行って誰もいなくなった部屋を見て、木川田くんが言いました。
「磯村、こういう話するのいや?」
「ううん、別に」
磯村くんは、水色のポリバスを見て言いました。「僕ってひとりぼっちなんだな」って、磯村くんは思いました。
「いやならいいんだけど」
木川田くんも誰もいない部屋の中で畳に向って言いました。その時木川田くんは初めて、コーヒーも紅茶も冷たくなっていて、テレビの画面も冷たくなって、なんにも映していないことを知ったのです。
「後、二十分ぐらいで沸くからね」
部屋に戻って来た磯村くんが言いました。
「うん」
木川田くんが言いました。
「そんでね」
木川田くんがまだ続けました。
「そいつ、前からおかしかったんだけど、そん時もっとおかしくなって、俺に、顔踏んづけてくれって言うのね」
「ふん」
磯村くんは言いました。そして、「少し我慢しよう」と思いました。
「したの?」
磯村くんは言いました。
「うん」
木川田くんも言いました。言わなくてもいいことを言ってしまった後の沈黙というのは、やっぱり、言い出してしまった人間がケリをつけなくてはいけません。
木川田くんが言いました。
「顔踏んづけてギューッて押したら、なんか気持よくなって来て、そんでそいつ気分出してっから、バカヤロ≠ニか思って、蹴っ飛ばして、ブヨブヨなんだけど、なんか知んない、スゲェ気分出してんの。バカヤロ≠ニか思って電気アンマかけて、それで、こんなことされて気持いいのかよ≠チて言ったの」
「そしたら、そいつうん≠ト言って、俺があんまりメチャクチャやるんでそいつ舌噛みそうになって、そいつ、もっとやさしくして≠チて言ったの」
「なんでそんな残酷なこと言わせるのかな」って磯村くんは思いました。その誰だか知らないおじさんがではなく、やさしくされたがっている木川田くんに、という意味です。
でも、誰にもそんなことは出来ないのです。やさしい≠ニいうことはよく分らないことだからです。
木川田くんは言いました。
「そしたら俺、なんかもうホント、メチャクチャ腹立って来てメチャクチャしちゃったのね。そいつのケツ持ち上げて引っ叩くとか蹴ッ飛ばすとか。そんでもなんかつまんなくなって来たから、そいつのケツ持ち上げて、突っ込んで、やっちゃったのね。そんでサ、やりながらサ僕ねェ、お父さんに怒られてんのォ≠チて、言っちゃったのね」
「そしたら――」
あまりのことに、磯村くんもそこへ行ってそいつの顔を踏んづけたいような気がして、そう言いました。
「そしたらそいつ、俺がなんのこと言ってんのか分んないらしくって、ハァッ、ハァッ≠ニか言ってるだけなの」
「そんで?」
磯村くんは「早いとこなんとかしてくれ」っていうような気分でした。
「あんた、木川田って知ってるでしょう≠チて言って、俺の親父知ってるだろう!≠チて言って、そいつがサァ、俺のことオカマだって言うんだよォ≠チて。そう言ったら、そいつ、やめてッ!≠チて言って、いやがってるんじゃなくて、もっともっと気分出してるんだァ」
悲しいって、そういうことなんでしょうねェ。
「だからそうかよォッ≠チて俺言って、そいで引っこ抜いて、そいつの脚引っ張って、便所連れてったのね。そいつの会社そういうの作ってるから」
「そうなの?」
「そうなの」
そう言う時、木川田くんは笑ったみたいです。
「舐《な》めろ≠チて言ってそいつ突き飛ばして、そんで、そいつに俺ションベン引っかけたの」
磯村くんには最早《もはや》、何がなんだか分りませんでした。
「そしたらそいつハァッ、ハァッ≠チて言って、俺の舐めるの。舐めてそんで、飲んじゃったの。バカみたい、なんでこんな奴のとこに仕事貰いに行ったり頭下げたりすんだろう≠ニか俺思って、そんでもう、なんか、哀しくなっちゃったの。なっちゃったけど、別に哀しくなんかなんないで、そいつに俺がオカマだったらお前だってオカマだろ! そんなのになんだって俺だけ怒らんなきゃなんないんだよッ!≠チて言って、そんで明日会社行って言ってやろうか≠チて言ったの。お前んとこの部長なんてオカマだぞ≠チて、俺とこ来て小便飲んで泣いてんだぞ≠チて、そんで、親父の会社連れてって、こいつが俺のこと好きだって言ってるけどどうする≠チて、そういう風に言ってやろうかと思ったの」
「そんでどうしたの?」
木川田くんが又泣き出したら困るなと思って磯村くんは言いました。
「別に」
木川田くんは言いました。空は曇ってるけどお日様だけは照ってるっていうような、そんなヘンなお天気みたいな木川田くんの顔でした。
「だって別に、そいつ、そういうこと言われるのが嬉しいんだもん」
「どうして?」
磯村くんが言いました。
「だって、マゾってそういうんだもん」
「ふーン」
男の子二人は、大人の人の複雑なやり方が不思議で、よく分らなくて、一緒になって首をひねっていました。
「分んないけど」
木川田くんが言いました。
「なんか、そういうのが好きなんじゃないの」
説明にもなっていない説明に、磯村くんは「ふーん」と言いました。
「そいつ、俺とおんなじぐらいの娘がいんだぜ」
「子供がいんの?」
磯村くんが訊きました。
「うん。俺よか一つか、三つぐらい年下なのかもしんない」
「じゃァ、結婚してるんだ」
「うん」
「そんな人の子供って、何考えてんだろうね」
磯村くんが言いました。
「知らね」
木川田くんが言いました。
磯村くんはまだ会ったこともない、見たこともない年もよく分らない女の子≠フことを考えていました。「ホントに何考えてんだろ?」と思って。
「結婚しててそういうことしてていいのかなァ」
磯村くんは言いました。
「知らね。してんだからいいんじゃねェの」
木川田くんは言いました。
磯村くんは知りませんでしたけれども、木川田くんが一番最初に声をかけられた茶色の皮コートのおじさんも、ジャバ・ザ・ハットによく似たおじさんも、そしてオシッコ飲んじゃうおじさんも、みんな子供がいる、結婚した人でした。ジャバ・ザ・ハットのおじさんなんて子供が四人もいて、一番上の娘になんかは、もう孫まで二人もあったのです。
そして勿論、木川田くんのお父さんだって磯村くんのお父さんだって、結婚していたればこそ、木川田くんや磯村くんのお父さん≠ナはあったのです。
「俺昨日、親父にそのこと言っちゃったのな」
木川田くんが言いました。
「何をォ?」
磯村くんが言いました。
「だから、そのこ・と」
木川田くんが言いました。
「昨日帰って来てからむから――。お前、入試の方どうなってんだ≠チて言うから、知らない≠チて言って、俺、大学なんて行きたくない≠チて言っちゃったの。俺、それよかデザイナーになりたいって、そう言っちゃったの」
「なりたいの?」
「分んない。いっそその方がいいかと思って。そしたら、そんなチャラチャラしたことばっかり考えやがって≠チて。お前にそんな才能があるのか≠チて。俺分んないから分んない≠チて言ったの。そしたら引っ叩くからサァ、じゃァ自分は何やってんだよォ≠ニか思って」
「言っちゃったのォ?!」
「うん。お前の知ってる岡田なんて、俺のションベン飲むんだぞ≠チて」
「どうしたの?」
磯村くんが言いました。
「殴られた。出てけッ≠ト。俺別に、出てかなかったけどな」
その頃木川田くんのお父さんは何をしていたんでしょう?
木川田くんのお父さんは、お母さんと一緒になって、黙ってテレビの『アイ・アイ・ゲーム』を見ていました。
磯村くんのお父さんは、お母さんやお兄さんと一緒になって、教育テレビの『カサブランカ』を見ていました。
日曜日の夜で、一家は揃って集まっていましたけれども、そこには男の子はいませんでした。
「一人暮しするって出て行った男の子は、ちゃんとするんならしなさいよ」って言われて、大学のある町に帰って行きました。
学生時代に見たハンフリー・ボガートを見て、磯村くんのお父さんは「懐かしいなァ」と思いました。「色々なことを、見てると思い出すなァ」と思いましたが、色々なこと≠ェどんなことなのか、誰にもそれはよく分りませんでした。
学生時代に見たイングリッド・バーグマンを見て、お母さんは「若かったのねェ」と思いました。画面の中にいるイングリッド・バーグマンが、です。画面の中の若き日のイングリッド・バーグマンを見て、自分も若かったのだとお母さんは思いました。今の自分が、昔学生時代に見て「大人だなァ」と思った若き日のイングリッド・バーグマンよりももっともっと年を取ってしまっていることを、テレビを見ながらお母さんは忘れていました。
その二人の間に坐って「妙な雰囲気だなァ」と思いながらも、お兄さんは「ふーん」と思って、平気で名画を鑑賞していました。
木川田くんのお父さんは、別に山城新伍≠ェ好きだというのではなくて、お母さんが見ているからそれを見ていたのです。
木川田くんのお父さんには、よく考えたら、別に好きな俳優さんはいませんでした。
木川田くんのお母さんは、家にいる時の習慣で、いつものようにテレビを点けていただけです。
木川田くんが昨日言ったこと≠ネど、お母さんはもう、忘れてしまったことにしていました。よく分らないことを考えても仕方がないからです。そしてそれは、いつも木川田くんのお父さんがしていたことだからです。
「どうして俺ばっかり責められるんだ」って、誰もそんなことを言わないのに、木川田くんのお父さんは一人で考えていました。
32
木川田くんのお父さんは、ずい分早い時期にお父さんをなくしていました。戦後の混乱期で食糧難で、木川田くんのお父さんのお父さんは結核でした。だから、木川田くんのお父さんには、お父さんにやさしくされた記憶なんてないのです。あるのかもしれませんが、それはズーッとズーッと前のことで、無理して思い出せば思い出せるかもしれないというようなそんな思い出です。でも、そんな思い出し方が出来たとしても、そういう記憶はその後の大変さ≠ノすぐケシ飛んでしまいます。
戦争があって大変で、でもそれは大変でしたけれども、日本中がおんなじように大変なことでしたからまだよかったというようなものです。
戦争が終って大変で、そしてその大変さがもう少ししたら落着くかなァという頃に、木川田くんのお父さんのお父さんは結核になってしまいました。その頃の結核は今のガンとおんなじで、ほとんど不治の病いのようなものでした。不治の病いで、そしてドンドンお金を吸いこんで行くぐらいに贅沢《ぜいたく》な病気でした。日本中はまだ貧乏でしたけれども、それでも、木川田くんのお父さんの家はまだ更に貧乏になりました。
木川田くんのお父さんは中学生で、お兄さんと妹がいましたが、みんなで一緒になって働きました。さんざっぱら家の中を貧乏にして、木川田くんのお父さんのお父さんが死んだのは、それから一年後です。だから、木川田くんのお父さんにとって、お父さん≠ニいうものは、いつも寝巻を着てゴホゴホやっている人という、それだけでした。
お父さん≠フことを思うとそれはそれだけで、そのお父さん≠フことを自分が好きなのか尊敬しているのか、それとも恨んでいるのか、木川田くんのお父さんには分らなくなります――というよりももっと正確に言います――よく分らないのです。寝巻でゴホゴホやっていたお父さん≠フことを思い出すと「大変だったなァ」ということしか、木川田くんのお父さんには思い出すことが出来ないのです。
お母さんも大変でしたがお兄さんも大変でした。この二人が歯を喰いしばって働いていたから、木川田くんのお父さんも歯を喰いしばって頑張りました。木川田くんのお父さんにとっては、このお兄さん≠フ方がお父さんよりもお父さん≠ナした。ちょっとでもズルけたことを言うと、すぐ怒鳴ります。
怒鳴られて「なんでェ」なんてことを思ったりもしましたが、でもそのお兄さんは一家の為に一生懸命働いているのです。お母さんも、木川田くんのお父さんとお兄さんが喧嘩をすると悲しそうな顔をしました。
木川田くんのお父さんのお母さんは、そういう喧嘩の時になると木川田くんのお父さんの方ではなくて、お兄さんの方の肩を持つのが当然ですが――「だって、源一郎はお前達の為に働いてくれてるんじゃないか」と、木川田くんのお父さんのお母さんはよく言いました――でも、そう言っても、木川田くんのお父さんのお母さんは、やっぱり、木川田くんのお父さんのことだって分ってくれました。申し遅れましたが、木川田くんのお父さんの名前は源次郎≠ナ、木川田くんの名前の源一≠ヘ、このお兄さんの名前の源一郎≠ゥらもらったのです。
やっぱり、木川田くんのお父さんはお兄さん≠フことを尊敬していたのです。尊敬していなくちゃいけないと思っていたのです。そして、木川田くんのお父さんは、木川田くんにも自分の苦労を分ってもらいたいと思っていました。
思っていましたが、やっぱり木川田くんはそんなことを分ってはくれませんでした。
木川田くんが生まれた時、木川田くんのお父さんはいつかこいつもきっと俺の苦労を分ってくれるぞと思っていました。思っていましたが、それで「よーし頑張るぞ」と思うほど、木川田くんのお父さんは軟弱な人ではありませんでした。
木川田くんのお父さんが「よーし頑張るぞ」と思ったのは結婚した時で、それからはズーッと頑張っていたのです。今更頑張りようがありません。
結婚して頑張って子供が生まれて、東京に転勤になって「負けないぞ」と思ってズーッと頑張っていたので、木川田くんのお父さんは木川田くんが生まれたって、別に頑張りようがありませんでした。
気がつくと木川田くんは妙に気弱な子になっていて、お母さんのエプロンの端をつかまえて、東京の二間しかないアパートの台所の隅に立っていたりしました。
木川田くんのお母さんは、木川田くんのことを「心のやさしい子」という風に言っていましたが、でも、木川田くんのお父さんにはそれが気に入りませんでした。自分には見せたこともないようなやさしい顔をして、自分の奥さんがそんな風に言うのが気に入らなかったのです。
木川田くんのお父さんは、それで御多分に洩れず女の人≠作りましたが、それは忙しく外を飛び歩いている自分の為の補給基地≠ナ、男の本拠地≠ヘあくまでも家庭にあると思っていましたので、それがバレたり揉《も》めたりするようなことにはなりませんでした。
なにしろ、木川田くんのお父さんは東京出張所の若手≠フ中で一番最初に家を建てた人なのですから、つまらないことに脚を取られるということなどはなかったのです。
「息子だって分ってくれる」と、木川田くんのお父さんは思っていました。
六畳二間のアパートで、木川田くんは、知り合いのない東京生活を心細がっているお母さんのよき慰め相手になっていました。お父さんは忙しいし、知り合いはあんまりいないし、お母さんはとっても心細かったのです。
お父さんが帰って来るまで、木川田くんはお母さんの手伝いをしました。「今日はお父さん、何時ぐらいに帰って来るかなァ」とか言って、台所でお母さんの手伝いをしていると木川田くんは、「お父さん遅くなって、御飯終っちゃったぐらいの頃に帰って来るといいなァ」と、いつの間にかに、思うようになっていました。
だって、いつもイライラカリカリしているお父さんは、木川田くんには馴染めなくて、なんとなくこわかったからです。
木川田くんのお父さんは、いつも「勉強してるか?」と言いました。木川田くんは勿論勉強をしていましたから「うん」と言っていましたが、「でもどうしていつも分りきったことばっかり言うんだろう」って、そうも思っていました。せっかくおとなしく勉強していても、お父さんが帰って来ると、なんとなくせわしくなって、家の中が勉強する雰囲気ではなくなって来るからです。
「勉強してるか?」って言われると突然勉強する気がなくなって来る、そう木川田くんが思うようになったのは、小学校も五年の終りに近い頃でした。
「こいつももう中学なんだからチャンとさせないとな」と木川田くんのお父さんが思っていたのは当然といえば当然のことですが。
木川田くんがおかしくなったのは小学校三年の夏でした。
暑い夏の夜で、木川田くんは窓を開けたままで奥の部屋で寝ていました。出口に近い方の部屋ではお父さんとお母さんが寝ていて、境の襖《ふすま》は開いていました。真夜中だと思いましたが、それは木川田くんが「真夜中だ」と思っただけで、そんな遅い時間ではなかったのかもしれません。
寝苦しくなった木川田くんがフッと目を覚ますとどこかからヘンな声が聞こえて来ました。なんだかよく分らない声で、まるで犬が歯ぎしりをしているような声でした。
なんだか知らないけどドッ≠ニ汗が出て来るような気がしました。
ハッと気がついたら、襖の向うにヘンなものが見えるのです。よく分らないのでジーッと木川田くんは見ていました。ジーッと見てしまったらなんだか疲れたので、木川田くんはそのまんま寝てしまいました。
次の日、夏休みの水泳教室に学校へ行って、木川田くんは唐突に、昨日見たものを思い出しました。
泳げなくて、ちょっとプールの中に入ったら「やだなァ……」と思ってプールサイドに坐っていたのですが、同じクラスの男の子がプールの中に勢いよく飛びこんだ時にそれを思いました。
それは、お父さんの脚≠ナした。汗をかいたみたいにヌルヌル光って、そして、その先によく分らないものがありました。プールサイドをドタドタ走って行く裸の男の子達を見て、「そうだ、お父さんパンツを穿《は》いてなかった」と、木川田くんは思いました。
お父さんとは時々、お父さんが休みの日にお風呂に連れて行ってもらいましたから、勿論木川田くんだってパンツを穿いてないお父さんのことは知っていました。知っていましたけど、今、プールサイドの木川田くんの頭の中にあるパンツを穿いてないお父さん≠ヘ、お風呂屋さんで痛いぐらいにゴシゴシ頭を洗うお父さんではありませんでした。
「どうしたんだろう?」と思っている木川田くんの頭を、その時担任の女の先生がつかまえました。
「こら、どうして泳がないの?」――担任の根岸先生≠ヘちょっと怒って、ニコニコしながらプールサイドの木川田くんに言いました。
根岸先生≠ヘ紺の、胸のところに赤い縁のついた水着を着ていて、木川田くんの目の前には、その根岸先生≠フ白い、静脈が透けて見えて、そしてソバカスがポツポツと浮いている裸の胸がありました。勿論おっぱいは見えませんでしたけれども、木川田くんは、なんとなく、「ブヨブヨしたお母さんのおっぱいを吸っていて」と思いました。
それが誰≠セったのかはよく分りません。子供の時の自分かもしれないと思いました。「いつまでもお母さんに甘えているんじゃない」と子供の時に言われていたからです。
お母さんよりちょっと若い根岸先生≠フブヨブヨした白い胸を見て、木川田くんはソロソロと、後向きでプールに入りました。
その日は暑い日で、根岸先生≠フ上には、お父さんの汗に濡れた腰を思わせるような太陽が輝いていて、その日のプールには看視の男の先生が一人もいなかったから、木川田くんには何がなんだかよく分らなかったのです。
木川田くんがそのことを思い出したのは小学校の五年生の時です。五年生も終りに近い時で、おんなじクラスの男の子がエロ写真を持っていて、木川田くんはガツーン≠ニ頭をやられたのです。
なんか、グズグズするものが写真《そこ》にあって、そういうものがなんか、突然木川田くんの中に、存在してしまったのです。体の中に熱い棒のようなものがカッと生まれてしまったように思いました。
その写真を見せてくれた男の子は笑いながら「チンコ、チンコ」なんて言っていましたが、木川田くんはカーッとなるだけです。
「でっかいなァ」という声が聞こえて来て、木川田くんは教室の隅で、なんだか分らない太陽≠フようなものが、汗をかいてギシギシと動いているのを感じました。
野蛮で、よくないもので、なんか、よく分んないものでした。
木川田くんは、お母さんと二人の部屋に帰って、お母さんがおつかいに行ってしまって一人になると、台所の隅にある流しの、ヌルヌルしたゴミの塊りを見て、自分の体が腐って行くと、そう思いました。
木川田くんのお父さんが家を買って、木川田くんの一家が中野に越して来たのは、それから二年経ってのことです。木川田くんは、自分の体が腐らないことはもう知っていましたが、部屋の隅にあるお母さんの鏡台が冷たくって気持いいとか、そういうことが狭い部屋の中じゃいつかバレちゃうんじゃないかと思ってビクビクしていたので、自分の部屋が明るい二階にチャンとあるのを知って、「ホントにここに住んでいいんだろうか」と思いました。
「お前のしてることは全部知ってて、だからなんにもない部屋にお前を連れて来たんだぞ」って、お父さんが言ってるような気が、引っ越して来た初めての日に、新しい自分の部屋でしたからです。
木川田くんのお父さんは、もう木川田くんに何かを分ってもらおうとは思っていませんでした。
何遍も何遍もそういう話をして、木川田くんのお母さんに「今更そんな話したって」と言われていましたし、時代もそんな風になっていました。自分はもう大体貧乏にはなっていないし、「まァいいか」と、木川田くんのお父さんは思っていました。
思っていましたが、まさか自分の子供がそんな風になっているとは、木川田くんが高校二年生の秋になるまで、木川田くんのお父さんは気がつかなかったのです。
木川田くんのお父さんは、目の前が真っ暗でした。
33
木川田くんは高校に入って、だんだんとニキビが薄くなって来ました。「やっぱり、やりてェ、やりてェ≠ニ思ってっとニキビなんかもそんな風になんのな」――なんてことを鏡見ながら、ひとりごとで言えるようにもなりました。
木川田くんが滝上くんに会ったのはニキビが薄くなって来る、もう少し前です。
木川田くんは、自分の中でバカ≠ニリコウな人≠フ判別が出来るようになっていました。
たとえば、ロックの好きな蓑浦くん≠ヘバカです。何故かというと、木川田くんは蓑浦くん≠ノ抱かれたいとは思わないからです。そう思ったら、蓑浦くん≠ノ「あっち行け、バカヤロ」と言われるに決まっていると分っていたからです。
そのかわり木川田くんは、蓑浦くん≠フことを見て、「いい体してやんな」とか「たまんねェ」とかは思っていました。
木川田くんにしてみれば、自分にやさしくしてくれない男はバカ≠ネのです。
勿論、木川田くんにやさしくしてくれてもバカ≠ネヤツは一杯います。木川田くんにやさしくしてくれても、木川田くんがセックス・アピールを感じなかったら、それはバカ≠ネのです。
バカ≠ゥどうか分んないけど、とにかくいいヤツ≠チていうのもいました。これは、木川田くんがセックス・アピールを感じて「寝てやってもいいけどな」って思うけども、その相手がひょっとしたら木川田くんのことを「あっち行け!」って突き飛ばすかもしれないような可能性の残っている、そんな人でした。だから木川田くんは、こういう人達のことを「いいヤツかもしんないけどこわい」と思っていました。
リコウな人≠ニいうのは、勿論滝上くんのことだけです。
世界にはもっと色んな人もいたと思うのですが、木川田くんにとって、世の中にはこれだけの人達しかいなかったのです。
木川田くんにとって滝上さん≠ニいうのは、いい人≠ナやさしい人≠ナリコウな人≠ナした。時々バカ≠ノ見える時もありましたが、そういう時は可愛い≠ニいう、特別の表現を使うのです。
高校に入って、クラブの勧誘というのがあって、校庭にはバカ≠ニ、いいヤツかもしんないけどコワイ$lばっかりが机を並べていました。運動神経の鈍い木川田くんは、別に運動部に入ろうという気はなかったのですが、「ちょっとコワイけど」やっぱり、新しい環境に立ちこめているセックス・アピール≠フ匂いを嗅ぎたくって、ぼんやりと立っていたんです。
暗闇の中で白い光が燦《きら》めくような気がしたのは、木川田くんの目の前で陽に灼けた滝上くんが白い歯を見せて笑っていたからです。
木川田くんは「どうしよう……」と思いました。「先々週ぐらい、アイビー・カットのお兄さんと、ジャバ・ザ・ハットのおじさんに可愛い≠ニは言われたけれども、本当にこの人にも可愛い≠ネんてことが通用すんだろうか?」とか思っていました。
滝上くんは二年生になったばかりの部員勧誘だったので、アガっていました。「誰でもいいから、ともかく入れればいいんだ」と思っていました。滝上くんは、この世の中にはバスケットの才能のないヤツもいるんだということにまだ気がつかないでいたのです。このまだ≠ニいうのは、四年前の時点であると同時に今も≠ナす。
滝上くんは、自分のいるところの三メートルぐらい先のところに立って自分の方を見つめているボーッとした子を見て、「バスケットに入りたいのかな?」と思いました。自分も去年は、「中学時のレベルが高校に通用するかな……」とか思っていたので、やっぱりモジモジしていたのかもしれない、とかいうことを思い出していたのです。
「背が低いけど、すばしっこいかもしれない」なんてことを思いました。人を疑ぐることを知らない楽観主義者というよりは、育ちがよかったと言った方がよいのかもしれません。どの程度のよさだったのかは知りませんが。お父さんは証券会社の部長さんをしていました。
滝上くんのお父さんがどういう人だったのかということはここでは関係ないのでやりませんが、要は、木川田くんに声をかけたのは滝上くんの方が先だったということです。
まさかそんな人が自分に声をかけてくれるなんて、木川田くんは思ってもみませんでした。笑いかけてくれるとか。よりによって、運動神経の鈍い自分に「バスケットに入りませんか?」なんてことを言うのは、「気があるからだ」としか思えませんでした。
思えませんけど、やっぱり「まさか」というのがありました。ホントはこっちの方が優勢でした。「ひょっとしたら自分の思いこみかもしれないし、第一、この人は自分に運動神経がないのを知ったらガッカリするだけだ」と思いました。思って、思い切って言ってみました。「僕、全然バスケット、やったことが、ないんです……」
「誰だって初めは未経験だよ」
高校に来て初めて下級生≠ニいうものに出会った滝上くんは、「うまく上級生をやれるかな」と思って、一生懸命、緊張しないようにリラックスしてそう言いました。
「でも僕、運動神経鈍いし……」
生まれて初めて、心臓の中に直接手をつっこまれたみたいなトキメキを感じて、木川田くんは、自分が集められるだけの勇気をかき集めて、そう言いました。
「でも、バスケットがやりたいんじゃないの?」
木川田くんの前に立っている、若い男の神様≠ヘ、木川田くんの腰がガクガクになるようなことを言いました。
木川田くんは、「ここで勇気を出さなきゃダメだ」と思いました。「出来るか出来ないかじゃなくて、我慢出来るか出来ないかだ」って思いました。そして、途方もない夢を見て、「もしも自分がスポーツマンになったら山内くんと寝れるかもしれないし、蓑浦のことなんか犯しちゃえるかもしれない」と思いました。
という訳でうっかり、木川田くんは「はい……」と言ってしまったのです。
言ってしまって、「この人だってイイ人かもしれないけど、練習になったらコワイかもしれない」と思いました。うっかり自分がスポーツマンになるかもしれない≠ニいう夢を見てしまった時、木川田くんは、もう一つのやさしい神様≠フ夢の方からはシラジラと醒めて行ってしまったのです。
冷静になった木川田くんは「自分なんかどうせこんな素敵な人と対等になれる筈がない」と思って、「あのォ……、もう一遍考えなおしてみます」と言ってしまいました。
その人≠ヘ「そう」と言って、「でも、その気になったら来てみてよ」と言ってくれました。部屋≠フあるところだって教えてくれましたけど、冷静な木川田くんは、「夢だけ見れたからいいんだ(惜しいけど)」と、未練を振り払いました。
木川田くんは、「もう高校生なんだから夢ばっかり見ていちゃいけない」と、そう思ったのです。自分には異世界の現実≠セってあるし、とか思って。
ところで、人間の多くは、やっぱり夢を見ているのです。白日夢というのではなくて、しきたり≠ニか慣習≠ニかいう。
他人様が夢を見ている以上、妄想家がその夢に巻きこまれてしまったって仕方がありません。滝上くんを三年間バカ≠フまんまにしていて進歩を止めていたのが木川田くんの妄想だとすれば、その妄想をスタートさせたのは、やっぱり滝上くんのリアリティーのなさだったのです。
朝の通学バスの中は、人が一人素っ転ぶ程度の余白を残して、混んでいます。それは木川田くんの高校が都心や駅へと向うのとは反対の方向にあったからです。
心の中で滝上くんに一人で「さよなら」と言ってから三日目の雨の朝、木川田くんはバスの中で素っ転びました。
雨で床が濡れていたのでズルズルとすべりました。木川田くんは運動神経がなかったので、一遍素っ転ぶと、揺れる車内で行くところまで行くしかありませんでした。
「アーア、ケツがドロドロだ」と思って、立ち上ろうと思ったところで車がカーブをしたので「アアッ!」とまたよろけそうなところを捕まえたのが、滝上くんの腕でした。ワンマンバスの真ん中の降車口のところに、滝上くんは柱にもたれて立っていたのです。
「あ、こないだの一年生が乗って来たな」と思って二停留所過ぎたら、その一年生が戻って来たのです。ずい分低いポジションで。
知らない人にいきなり手首を把まれた木川田くんは、その冷《ひや》っとした感触に気をとられて、またバランスを崩しました。
という訳で、気がついたら木川田くんは、左手の手首を滝上くんに掴《つか》まれて、腰を滝上くんの左手に抱え上げられて、タンゴを一曲踊り終えていたのでした。
「アーア、俺《オラ》知らね」と神様《かたりて》が言ったことなど、この小説の読者しか知らないことです。
滝上くんは低い低音で「どうしたの? ちっとも来ないじゃないか」と、ニッコリ笑って、シンデレラに言ってしまったのです。
健全で礼儀正しい家庭に育ったユーモアを解する滝上くんは、こういうセリフとこういうシチュエーションが少女マンガの中でしか使われないのだということを知らなかったのです。
という訳で、この運命の二人≠ヘその後の三年間、成長というものをしなくなるのです。
誰だって、自分のことを手放しで賞めてくれる人間がそばにいて付きっきりだったら、努力なんてものをしようとは思いません。
そういうことです。
木川田くんは、滝上くんと「寝たい」とは思いませんでした。木川田くんは、滝上くんにリアリティーがないことを、自分では知ることの出来ない自分の一番奥深くで、知っていました。だから木川田くんは、夢を見れたのです。木川田くんにとって滝上くんは夢≠セったから、そのまんまでよかったんです。木川田くんは、「いつか先輩が僕のことを抱きしめに来てくれて、そして――」と思っていました。
そして、どうなるのか?≠ニいうことを、木川田くんは時々、途中のプロセスを素っ飛ばして、考えていました。この考えていた≠ニは、勿論肉体でです。肉体で考えて、泣いていました。泣く≠ニいうことが涙を流して泣くことだけではないということは、勿論です。
滝上くんがそういうことを分ってくれないのだといって一人で泣いていたこともありましたが、木川田くんにすれば、そういう絶望状態もまた嬉しかったのです。「明日になれば先輩に会える」と思うと元気が出て来て、ほとんど、元気になっちゃうのを一層際立たせる為に絶望状態を一人で作り出していたという方が正解でしょう。
絶望の中ででも遊んでいた木川田くんは、夢を見たかったんです。
誰もかまってはくれないし、訳の分らないものが自分の中を掻き回して訳の分らない状態にしちゃったし、そういうことを説明してくれる人なんていなかったし。
そういう状態の中で追いつめられてオドオドしている木川田くんを助けてくれる人はいましたけど、それは自分の現実≠ニは関係ない、よその世界の人でした。
人生の始まりでつまずいて、人生の結果だけを手に入れて、でも木川田くんには、その中間をつなぐ現実≠ニいうものがありませんでした。お母さんは黙々と生きているし、お父さんはつむじ風のように生きているし、そして友達≠ヘ――まァ、夢≠フ中に入ってしまえば夢の外側≠ノいる友達なんてどうでもいいようなものですけど。
木川田くんは、滝上くんが結果≠持って来てくれるのを待ってはいましたが、でも、滝上くんがその結果≠持って来てくれたら夢≠ェどうとかなっちゃうんじゃないかと、恐れていました。もっと正確に言ってしまえば、自分でも知ることの出来ない自分の一番奥深いところで、木川田くんは、滝上くんの舌が自分の唇の中に入って来たら夢は終りになってしまうんだっていうことを、知っていました。
だから木川田くんは、こわかったんです。そうなれば、自分の無能に直面することは目に見えていますから。自習の時間が終ったら、次には体育の時間が待っているようなものですから。
木川田くんは、夢を壊さないでいることに全力を上げました。
バスケット部の部室で、木川田くんは、滝上くんの着替えする姿を、見ないようにしました。滝上くんのことは全部知っていても、木川田くんは滝上くんのことを全部分らないですむように、ピントというものをはずしてしまいました。滝上くんは、妄想の中にしかいてはいけない人だったのです。
滝上くんの黒っぽい体が部室で横を通り過ぎる時、木川田くんの視力は急に落ちました。ひょっとすると滝上くんもそういうことを知っていたのかもしれません。木川田くんがいる時の滝上くんは、妙に行儀がよかったからです。
木川田くんは、自分にとって性的なものの塊りである筈の運動部の部室の中で、性的なものを、全部排除してしまいました。
滝上くんの体がどうなっているのかも知らないし、滝上くんの下着がどんな風になっているのかもなんにも知りませんでした。他の部員の体はみんな野蛮で、そこら辺に置いてあるサポーターなんかは「汚ったねェ」だけでした。
部室の中の人間はみんなバカ≠ナ、木川田くんはそうして、セックス恐怖症になったのです。
妄想の世界で自由に歩き回れる木川田くんは、現実の世界ではほとんどなんにも出来ませんでした。
木川田くんは、現実の世界では肉体を落っことして、もう一つの世界では心を落っことしていました。
木川田くんは、先輩≠好きになることは出来てもその人と寝ることは出来ませんでした。
木川田くんは、他の人と寝ることは出来ても、他の人を好きになることは出来ませんでした。
そういうことです。
木川田くんは、滝上くんをガードしました。
夢の王子様が、現実の中で無能をさらけ出しては困るからです。
木川田くんにとって滝上くんは、勉強が出来て男らしくてスポーツマンで――、まァ、それだけで十分に木川田くんの夢の王子様はやっていけますけれども――やさしい人≠ナした――実際はいざ知らず。
そういう訳で、滝上くんの成長は止まりました。成長なんかする必要はなかったんです。現実≠ヘ、木川田くんという魔法使いがやって来て、全力を挙げて押し留めてくれました。おまけにこの魔法使いは、そんなことをしても、一銭の報酬も要求しなかったのです。結婚を迫る女の子でもないし、妊娠をする女の子でもないし、わざわざ交際≠必要とする女の子でもないし。踏みつけにしても、自分がノビノビとしていれば喜んでくれる男の子でした。
滝上くんはだから、大学に落ちました。現実問題として、自分の力がどれくらいあるかの判断が、もう彼には出来なくなっていたからです。
という訳で、大学に入ってからの滝上くんはほとんど、無能状態をさらけ出します。西窪くん≠ニいうメフィストフェレスにとっつかれたのも、あんまり滝上くんが脳天気なくせに一人前のカッコをつけていたからでしょう。「なんであんな取り柄のないヤツが堂々とスターやってるんだよ?」と西窪くんが思ったって当然です。西窪くんにしてみれば、木川田くんがどうこうというよりも、平然と一人前面をしている滝上くんの方が憎かったんです。
木川田くんは関係のない世界の住人だけど、滝上くんは自分とおんなじ世界の住人です。それがなんだって、平気な顔して無銭飲食をして歩けるのか、西窪くんには訳が分りませんでした。女にコナかけるんだってリツ悪いし、女がなんか面倒なことを言ってくることだってあるし、好きでもないお愛想言ってみなくちゃならないことだってあるのに、気がついたら、滝上くんは、おんなじ男≠ナあるのにもかかわらず、そういう努力を一切していないのです――たかだかオカマにまとわりつかれているというだけで。
「ノホホンがバカ面下げて向うから歩いて来た」――大学で一緒になった時、西窪くんは滝上くんのことをそんな風に思ったんです。
木川田くんは、そのことを直感で分りました。滝上くんが西窪くんを連れてやって来た時、それは、滝上くんが西窪くんを連れて来たんじゃなくて、西窪くんが滝上くんを連れて来たんだっていうことがすぐ分りました。歌舞伎町のポルノショップで、自分がガードしきれなくなった夢の王子様≠ェどんな風になってしまっているかを見てしまった後で、自分が無視し続けて来た現実≠ェ、夢の王子様≠ノ鎖をつけて歩いて来たのです。「ヘー、これがお前の夢なの? ヘーッ! これがお前の夢なのォ!!」――その現実≠ヘ、木川田くんにはそう言っているように感じられたのです。
勿論、木川田くんのお父さんは、自分の息子がこんなバカなことをしているとは夢にも思っていませんでした。木川田くんのお父さんは、夢なんか見たことがない人だったからです。
木川田くんのお父さんはその夜、たった一人の自分を思って、改めて、自分の今迄にして来た苦労≠分ってもらいたいと思っていました。
でも、口下手のお父さんにはそんなこと、うまく言えません。唯一人話相手になってくれる筈の自分の奥さんは、自分とおんなじように、黙ってテレビを見ています。どっちが先にテレビを見始めたのか、もう木川田くんのお父さんには分りませんでした。
分らないといえば、分ってもらいたい筈の苦労≠ェどんなものだったのか、それも、実はもう木川田くんのお父さんにはよく分らなくなっていたのです。
「もう寝ようか」と言いかけて、「もう寝ようか」という言葉がこの家の中ではひどく響きそうだなァということだけを、木川田くんのお父さんは感じました。
世の中なんてそんなもんです。夜というのはそういう時です。時々、停電だってやって来ます。
そういう訳で、世の中なんて、真っ暗でした。
34
磯村くんはズーッと考えていました。木川田くんの言っていることがズーッと分らなくて。
木川田くんの言っていることは分るのですが、でも木川田くんが言った後で「一体こいつは何を言ってるんだろう?」ということになると、磯村くんにはさっぱり分らないのです。まるで、透明なドームにすっぽりと包まれて、木川田くんの言っている言葉がそのドームの上を滑って行くのを下から眺めているような気分です。
磯村くんは言いました。「お母さん、その話聞いてたの?」って。
木川田くんがお父さんに「ションベン飲むんだぞって言っちゃった」その後です。
木川田くんは「うん」て言いました。「あんまり言いたくなかったけどな」って、そう言って黙ってしまいました。
磯村くんは「そうだろうなァ」と思って、黙っていました。それが思いやり≠セと思っていたのです。
磯村くんにはなんにも分りませんでしたが、木川田くんのお母さんがどんなにつらい思いをしているのかはよく分りました。磯村くんは、女の人のことならよく分るのです。
だから、磯村くんには、ここにお父さん≠引っ張り出して来る発想などなかったのです。
木川田くんの話で磯村くんが分ったことはおしっこ飲んじゃうおじさんの娘って何考えてんだろうなァ……≠ニいうことと、木川田のお母さんもつらいだろうなァ……≠ニいう、そのことだけです。そこら辺に磯村くんの謎≠解く鍵はありそうなのですが、それは磯村くんが自分ですればいいことなので≪わたくし≫は知りません。
でも、たとえ磯村くん自身がそこまで気がついたとしても、磯村くんにはもう一つ気がつけないでいることがあるなんていうことは、磯村くんには決して分らなかったでしょう。
磯村くんは、お父さんに「出てけっ!」て言われた木川田くんがどうして「俺別に、出てかなかったけどな」なんて言ったのか、それがよく分りませんでした。というより磯村くんは、そこを聞いていなかったのです。
「そんなこと言ったかな?」と思うぐらい、磯村くんにはそれがよく分りませんでした。
磯村くんにしてみれば、「出てけっ!」て言われたら、それでおしまい≠ネんです。おしまい≠セから後はないんです。多分そのまんま主人公はどっかに出てっちゃうし、おしまい≠セから「なんとなくそんなとこ」なんです。
磯村くんには決して、「出てけ!」なんてことを言われるシチュエーションに立とうという気はありませんでした。そんなことになったらその先どうしたらいいのか分らなくなってしまう、なんてことは、目に見えていました。だって、そこから先はおしまい≠セから、なんにもない≠セったんです。
という訳で磯村くんは、「木川田もつらいだろうなァ」と思っていました。その他モロモロのことは聞き洩らして、結局この一行だけが残りました。この一行だけ押さえておけば、その他のことは分らなくても分ったことにはなれると、磯村くんが思っていたからです。
35
磯村くんはズーッと考えていました。木川田くんを残して一人でお風呂に入っている時も、木川田くんがお風呂に入って自分がパジャマに着替えて、布団の中で木川田くんが出て来るのを待っている時も。
磯村くんはズーッと、木川田くんがいても自分は我慢出来るだろうかって、それだけをズーッと考えていました。
他のことは分りません。なんだかすごいことがあってもそれは木川田くんのことで、そのすごいことと自分とは関係が全くないんだっていうことは、磯村くんには分っていました。関係がないその証拠には、磯村くんは木川田くんの言っていることが結局は、よく分らないでいたからです。
問題は、可哀想な木川田くんをどうするかということでした。
「そんな風になっちゃったらつらいだろうなァ」と思っていて、そんな風になっちゃった人がやって来たからです。
そこでおしまい≠ノなった筈のその後に何がやって来るのかというと、それは余韻≠ナす。可哀想≠ニいう余韻を残して、木川田くんが立っていました。
磯村くんにはそう思えたんです。
「別に、出てかなかったけどな」と言った木川田くんが、そこで話をおしまい≠ノしないで、「なんだか分んないけどその先一人でやってみよう、関係ないもん、関係ないって思わなかったらやってけないもん」ていう決意をしたことなど、磯村くんには分らなかったのです。
磯村くんは、その余韻≠セけを見つめていました。第一部が終って主役が死んじゃったんなら、第二部の主役は自分が代って引き受けなくちゃいけないんじゃないかと、磯村くんは思っていました。その自信が自分にあるのかどうかと――。
磯村くんは、余韻≠ニいうものがあんまり好きではありませんでした。
それは何故かというと、とらえどころがなかったからです。
とらえどころのないものをどうやって相手にしていいのか、磯村くんにはさっぱり分りませんでした。
そして、その余韻には何か余分な不純物があるような気がして、磯村くんは困りました。その余分な不純物というのは勿論、木川田くんの性的な傾向です。
「分る」と思ってはいたけれど決定的に違うそれを見て、やっぱり磯村くんは少し不安になりました。そして「この不安をどう処理すればいいんだろう」と、いつの間にか磯村くんは、そればっかりを考えるようになっていました。
木川田くんがお風呂から出て来ました。
チェックのトランクスとシャツ姿です。「ふーっ」と言って、木川田くんは汗を拭いています。汗と髪の毛を。
「開ける?」
磯村くんは言いました。
「何を?」
木川田くんはキョトンとして訊きました。
「窓」
磯村くんは、みぞれが降る暗く寒い夜の外を思いました。
耳を澄ますと雨音がして、窓を開けたら畳が冷たい水でまた濡れてしまうことが、磯村くんには分ったのです。
「いいよ、寒いから」
木川田くんは言いました。
「うん」
そう言って磯村くんは木川田くんの脚を眺めていました。細くてゴリゴリしていて毛深くて。
どう見ても木川田くんは、自分とおんなじような男の子でした。
親とうまく行かなくて、親に捨てられた、自分とおんなじような男の子だと、磯村くんは思っていました。
そんな、自分とおんなじ境遇の男の子に、どうして少しでも性的な関心なんて持てたんだろうって、磯村くんは不思議に思って、木川田くんの白いTシャツ姿を眺めていました。
「磯村、ドライヤー貸して?」
「うん」
ドライヤーのガーッ≠ニいう音の中で、磯村くんは、着替えを持って来なかった木川田くんのTシャツが相変らず真っ白に輝いていることを確めていました。
「磯村、もう寝る?」
木川田くんが言いました。
「うん」
磯村くんが言いました。
「もうちょっと詰めて」
木川田くんが言いました。
「うん」
磯村くんが言って、磯村くんは布団の中で体をちょっとずらしました。磯村くんはまだ木川田くんに、「ここにいてもいいよ」とは言っていなかったのです。
木川田くんが布団の横に正座するみたいに坐って、掛布団のへりを持ち上げようとしました。
磯村くんは布団の中で半身を起してこう言いました――。
「木川田、僕のこと、好き?」
木川田くんは磯村くんの目を見て――それはやっぱりなんにも見てない目≠ナしたが――それから目を伏せて、「あんまり、好きじゃ、ない」と言いました。
磯村くんは「うん」て言って、少しつらかったかもしれないけど、木川田くんが「ごめんね」って言ったもんだから「いいよ」って言いました。
木川田くんが布団の中に入って来て木川田くんの脚がコツン≠ト磯村くんの脚に当って、「あ、電気消さなくちゃ」と木川田くんは言いました。
「お風呂消して来た?」
磯村くんは言いました。
「あ、いけね!」
木川田くんは言って、お風呂場に飛びこんで行きました。
「こうだっけェ!」
お風呂場の中で木川田くんが叫びました。
お布団の中で上体だけを起こして「その、上についてるヤツ、右に回すの!」と磯村くんは言いました。
「分ったァ!」
そう言って、木川田くんはお風呂の火を消しました。
お風呂場の電気のスイッチを切って立っている木川田くんに、磯村くんはこう言いました。
「春までならサ、いてもいいよ」
「ホント?」
木川田くんは言いました。
「うん……」
磯村くんは言って、「多分、我慢出来るな」と思いました。
「磯村、好きッ!」
そう言って木川田くんが布団ごと抱きついて来た時、
「やっぱり、好きじゃないより好きな方がいいし……」って、磯村くんは思いました。
「もう一コ布団買わなきゃね」
木川田くんが言いました。
「うん」
そう言って磯村くんは布団にもぐりこみました。
「木川田、電気消してよ」
「うん」
でもそう言って横になった磯村くんは、それよりも少し前、暗い部屋の中で木川田くんのお母さんがこんなことを考えていたのだということなんかは、夢にだに知りはしませんでした――(そう言えばあんまり、磯村くんという人も夢を見なかった人なのかもしれませんけれども……)。
36
木川田くんのお母さんは、暗い部屋の中で横になって、黙って天井を見て考えていました。横に寝ている筈のお父さんがもう眠っているのかどうなのか、木川田くんのお母さんにはちっとも分りませんでした。もっとも、分っても分んなくても、そんなことに少しも興味のないお母さんにとっては、そんなことどっちだってよかったんです。
「そんなに好きだったら、なんでも上げちゃえばいいのよ」
暗い中で、木川田くんのお母さんは、そういうことを考えていました。
「それで、あんたの取り引きだかなんだかがうまく行くなら、それでいいじゃないの」
もしそこに家族全員がいるのならそう言っているかもしれない自分のことを、木川田くんのお母さんは考えていました。天井のとこにはお茶の間があって、そこには木川田くんのお父さんとお母さんと源一くんの三人がいて、みんなで困って考えこんでいるような情景が、木川田くんのお母さんには見えるようでした。
そういう幻のお母さんは、どんどんどんどん雄弁になって行くようでした――。
「だって、その人はそういうことが好きなんでしょ? だったらそれでいいじゃないの。源一だってそれでお仕事のお役に立つんだから」
幻の源一くんは、「そうだよねッ」て、明るく笑って言っているように、布団の中のお母さんには思えました。
「でもなァ」と幻のお父さんが言って、「ホントにあんたは体裁ばっかり気にして」って、幻のお母さんは、やっぱり幻の中ででも旦那さんにズケズケとした口をきくのは遠慮があるような顔をして、一人言を言いました。
木川田くんのお母さんにとって、木川田くんは、生まれたばかりの赤ちゃんで、おしめを替えている時に小さいおちんちんから、木川田くんのお母さんはおしっこを引っかけられたこともありました。
「ホントに可愛いかった……」
木川田くんのお母さんは、ニッコリとお布団の中で笑いました。
「お父さん≠ヘもじゃもじゃで、なんだかメンドクサイことばっかり言って暗くするけど、あの子はホントに可愛いかった」と、木川田くんのお母さんは思いました。
「どうしてそんなことが問題になるのかさっぱり分んない」――お母さんは思いました。
「あたしなんか、あの子のおしっこぐらい何回だって飲んじゃったわよ。バカね」――お母さんはそう思いました。
「それで仕事がうまく行くんだったらサッサと源一に頼んでそうしてもらえばいいじゃない。どうして家に帰って来てからムスーッとばっかりしてるのかしらね、ホントに愛想がないんだから」
布団の中のお母さんも、いつの間にか雄弁になって来ました。スーパーでレジのパートを木川田くんのお母さんはやっていたのですが、時々他の人達に比べて自分は田舎育ちだから愛想が悪いのかなァと思いかけていたお母さんは「やっぱりそうだ!」と思ったのです。
「あたしがこの人に合わせてるからあたしまで愛想が悪くなって来るんだ」――木川田くんのお母さんは思いました。
「行くとこまで行くと楽になっちゃうのかもしれない」
そう木川田くんのお母さんは思いかけていました。
息子が問題≠起こしてお父さんが騒ぎ立てて、その間に挟まって「どうしたらいいんだろう……」って暗くオロオロしていたお母さんはこの時、暗い布団の中で「いらっしゃいませ」という発声練習を、声を出さないでやっていたのでした。
「どうしても声がこもるのよねェ、あたしの場合……」
NHKの若い女性のアナウンサーの、口紅の輝いたテキパキした唇の動きを思い出しながら、木川田くんのお母さんは、「なんとかならないかしら」と思いかけていたのでした。
37
暗い中で、磯村くんと木川田くんは、枕を並べて眠っていました。
正確にはまだ眠っていなくて、黙って横になっているだけでした。
「なァ、磯村ァ……。お前、ホントに好きな女、いないの……」
木川田くんが言いました。
「いないよォ……」
間延びのした声で磯村くんは言いました。
木川田くんがゆったりと寝返りを打って、磯村くんは、自分とおんなじ広告研究会にいる竜崎頌子ちゃん≠フことを考えていました。
「あの子、可愛いなァ……」
磯村くんはぼんやりと思いました。
木川田くんの手が自分の胸を撫でてるなァと磯村くんは思いましたが、でも、それだけでした。
「あんまりやめてよ」
磯村くんは言いました。
「ふん」
木川田くんは言いました。どこか「うん」の息が抜けて「ふん」になっているような「うん」でした。
「だったら我慢出来るな」
磯村くんは思いました。
そろそろ眠気が襲って来ます。トロトロと、磯村くんは気持がよくなって来ました。
一人の男の子がスースーと寝息を立てている横で、もう一人の男の子は、隣の男の子の肩に顔を寄せて、その男の子のパンツの中で息づいて来ていたものを、まるで、赤坊をあやすようにして撫でていました。
それが木川田くんの一宿一飯の仁義だとは、眠ってしまった磯村くんにはもう気がつくことは出来ませんでした。
そうして、最初の夜はゆるやかに、どこかへ向って流れて行き始めました。雨はもう熄《や》んでいて、みぞれももう熄んでいて、凍えるような空気だけが、アパートの周りを取り巻いていました。
二人のスースーという寝息だけが部屋を暖めて、真夜中の下で、暖房の止った部屋は、静かに室温を下げて行きました。一月の、十日でした。
38
磯村くんの試験中も、木川田くんのアルバイトは続いていました。「遠いなァ」と言いながらも、毎日木川田くんは、自分の家の近所まで通って行きました。
磯村くんは「木川田、可哀想……」とか思っていましたがオカマの源ちゃん≠ヘ、別にメゲている雰囲気でもありませんでした。磯村くんの部屋に転がりこんで来た次の日、バイト先の電気屋さんを途中でちょっと抜け出して家に着替えを取りに行った木川田くんは、これまた電気屋に電話してパート先のスーパーを抜け出して来たお母さんと会って、「うん」とか言って、意気軒昂になって帰って来ました。
木川田くんが何に対して「うん」と言ったのかというと、それは口をききなれないお母さんの、「悪いことしたと思ってるんじゃなかったら、ごめんなんて言うんじゃないの」という、朴訥《ぼくとつ》な言葉にです。
玄関の戸を開けてバッグをかついで出て来たら、スーパーの制服を着たお母さんが立っていました。田舎から出て来てもう二十年近く経つのに、しっかりと顔に自分のアイデンティティーを刻みこんでいるお母さんが立っているもんだから、木川田くんは思わず「ゴメン」と言ってしまいました。
言ってもまだ黙ってるから、「メンドクセェ、行っちまえ」と思ったら、お母さんはそう言ったのです。「悪いことしたと思ってるんじゃなかったら、ごめんなんて言うんじゃないの」って。
木川田くんは少し感動して、「お母さんはそうやって許してくれるんだ」と思って、「うん」と言ったのです。
しかしお母さんはどうやら本気で、木川田くんが何か悪いこと≠したとは思っていないようでした。木川田くんが「うん」と言った後お母さんが何を言ったのかというと、「行く当てはあるの?」から始まって、「じゃァ、その磯村さんていう人によろしく言わないと」に至って、下手すりゃ「じゃァ、カステラでも買って来なくちゃ」と走り出しそうなところまで行ってしまいました。
まるで、木川田くんは、集団就職で東京へ出て行く大昔の中学生です。さすがに木川田くんは「どうしてウチのオカヤン、こうダセェんだろう」と思ってしまいました。
という訳で、あっという間に木川田くんは、もとの源ちゃん≠ノ戻ってしまいました。木川田くんのお母さんにすれば、高校二年のいつぞやの一件以来ウチの人≠ェムスーッと黙りこんでしまって、しようがないからそれに合わせて地味に暗くしてたのが、その元凶≠ェ旅立ってしまうもんだからもう別に暗くしてる理由もないと思って、妙にサバサバしてしまったというだけなのでした。
後は「しっかりしろ」と言うだけです。だから、しっかりしろと言いました。ホントに女というものは、化け物のようなものです。
あんなに気をつかっていた磯村くんも、木川田くんのお母さんがなんでもかんでも右から左へとスーッと素通りさせてしまって、「自分の息子がお世話になるのが磯村さんだ」という段になって初めて「磯村さんね、磯村さん……、はいはい」と、天を仰いで暗唱しているのだと知ったら腰を抜かしてしまうでしょう。
勿論、お母さんのダサさを恥ずかしがっている木川田くんがそんなことを磯村くんに言う筈もありませんが。
という訳で、木川田くんは磯村くんの部屋から自分の家へ日常をやりに通ってるというようなことにもなってしまいました。
木川田母子はタフだったのです。
もうこうなったら笑うしかありません。
はっはっは。
でも、それを知らない磯村くんでした。
木川田くんは自分なりの恭順の色を見せて、地道に働いているように見えました。
見えただけで、木川田くんはなんにも言いませんでした。しようがないから磯村くんは、一人で緊張するだけの生活に入って行きました。
可哀想にというのは、磯村くんです。
作者《わたし》もとっても意地悪でした。
39
磯村くんは、まるでこわいお化けと一緒に住んでいるような緊張感を味わっていました。そのこわいお化けは、磯村くんが少しでもスキを見せたら、すぐに取り殺しにやって来ます。磯村くんには、そんな風に思えました。
まるで、エライお坊さんに教えられて毎日毎日お経を唱えているように、磯村くんは、緊張の中で生きていました。
お化けの名は、他人≠ニ言います。
磯村くんは、さり気なくしていなければいけませんでした。
自分の友達は可哀想な人≠ネのです。どんなに明るく見せていても、でも、その内実はとってもせつないのです。明るさが哀しいような、そんな人なのです。
磯村くんは、そんな友達とどう付き合ったらいいのか分りませんでした。分ることは唯一つ、相手の傷≠フ中に踏みこまないように、さり気なく構えて相手を見守っているということだけでした。
分ったからといって出来る訳でもないのが若さです。磯村くんは、一人で構えているしかありませんでした。
もしも相手が茶々を入れてくれれば、もしも相手が泣きついてくれれば、無理をして作っていた磯村くんの包容力が破綻《はたん》してしまうこともあったでしょう。悲鳴を上げて突き飛ばしてしまうことも出来たでしょう。でも、相手は、知らん顔をしていました。
磯村くんの思惑とは関係なく、木川田くんは別に可哀想な人≠ナもなんでもなくなっていました。
可哀想なのは磯村くんです。ちっとも愛してくれない人を相手にして、「僕は彼女のことを愛してない、僕は愛してない」と呟《つぶや》いている熱烈な片思いのようでした。
木川田くんがいない時、磯村くんは、フッと「木川田がいないな」と思う時がありました。
「いないな――でも何してるんだろう?」――磯村くんは、ちっとも落着くことが出来ませんでした。
木川田くんは、初めはまっ直ぐに帰って来ました。二人で御飯を食べて、二人でテレビを見て、ラチもないことを話していました。
木川田くんが帰って来ない間、磯村くんは、部屋に帰って来て試験の下準備をしていました。
まだ布団は一つしかありませんでしたけれども、二人は、朝起きて「このまんまじゃ風邪引いちゃうよなァ」と、自然に言い合えるようになっていました。
一宿一飯の義理を果たした木川田くんは、家にいる時みたいに熟睡をしたかったので、ホントにそういう風に自然に言いました。
でも、木川田くんのことを労《いたわ》っていた磯村くんは、そうは思っていてもそう口にしてはいけないんじゃないかと思っていて、木川田くんに「このまんまじゃ風邪引いちゃうよなァ」と言われて一瞬、「あ、そうだ。そういう考えだってあったんだ」ってポカンとして、「そうだよね」と、自然に言うのです。昨日だって木川田くんは、寝る前に「もう一コ布団買わなきゃね」と言っていたのに――。
磯村くんの口は、自然に動かなくなって、自然に動く他人の口の後について行くことが自然なことなのだと、思うようになっていました。
アルバイトが休みの時に木川田くんの布団が運び込まれて、押し入れの中の半分が――そして半分以上が――木川田くんのニギヤカな衣裳類で一杯になって、「ここ寂しくない?」という木川田くんの意見で、壁にボーイ・ジョージとワムのポスターが貼られて、「こういうのがよくない?」って言われてHABITAの食器が食器棚に詰めこまれて、木川田くんがいなくても十分に木川田くんがいるという風に部屋が出来上って行った時、「あ、この方がいいね」と言ってしまった磯村くんは、その自分の言葉に押しのけられて、部屋の半分を失ってしまっていました。
「そろそろ試験勉強しなくちゃ」と磯村くんが言って、「ゴメン、俺テレビ見てていい?」と木川田くんが言って、音のしない光の明滅が磯村くんの視界の隅に入ると、「ひょっとして僕、彼のことを一人にしといていいのかな?」なんて磯村くんは思って、落着きませんでした。
気がつくと、三ページめくった教科書の、一体何を読んでいたのか、磯村くんにはまったく分らなくなっていたのです。
一人でポリポリとおせんべいを食べている木川田くんが気になってそちらを見ると、「ごめん。気になった?」と木川田くんが振り向きます。
「僕にもくんない?」
咄嗟《とつさ》に磯村くんは、おせんべいが食べたくなるのです。
「あ、ごめん、お茶淹《い》れて上げるね」
磯村くんが勉強をしている時の木川田くんは、信じられないくらいやさしい心遣いをしてくれます。
「ああ、こんなに他人に神経使ってたら、折角の木川田の好意が全部無駄になっちゃうな」と、改めて教科書に集中する磯村くんは、実は木川田くんが、心のやさしい子≠ナあると同時に、好きでもない相手にはなんの関心も示さない人間であるということが分らないのです。
磯村くんは、一人で追いつめられていました。
「ごめん。磯村、俺がいると勉強出来ないから出かけて来る」
そんな磯村くんの気配を察してか、夕方の六時過ぎに木川田くんが出かけて行ってしまうこともありました。帰りは十一時過ぎです。
帰って来て、「こんな田舎だからアレだと思ってたけど、終電って十二時まであるのな」なんてことを木川田くんが言うと、「どこ行ってたの?」と言ってその瞬間、覚えていたことをみんな忘れてしまう磯村くんです。
磯村くんは、自分が落着かないでいることがよく分りませんでした。「他人がいるって緊張するんだな」って思いましたが、「でも、木川田のこと他人≠ト思っちゃ悪いかな」と思って、心のもう一段下のところで緊張をしました。
でも、そんな磯村くんだって、初めの内は楽しくって楽しくってしようがなかったんです――。
40
木川田くんが転がりこんで来た次の日の朝、磯村くんは大学へ行きました。木川田くんと高幡不動の駅で別れて多摩動物公園行きの電車に乗りこんだ時、磯村くんは、大勢の見知らぬ同級生に囲まれて幸福でした。ルンルン気分で、「僕なんか青春してるんだもんね」と言い出したいような気分でした。
一月の山の上は寒いのに、でも磯村くんは、あんまり寒いとは思いませんでした。講義が終って、エジプトの大神殿を思わせる校舎群を抜けて、エジプトの大神殿の付属の用務員詰所みたいな鉄筋のサークル棟≠フ階段を上って行く時なんか、自分は誰よりも軽薄に軽快な大学生をやってるという自信で、磯村くんは満ち溢れていました。
大体文化系のサークルというのは、暗い≠ニころを除いては年に一、二回のお祭《イベント》をやって、あとはその余熱で生きているようなものなのですが、磯村くんのいたクラブでもやっぱりそうでした。
オリエンテーションの時のバカ騒ぎで、「ああ、おんなじバカ騒ぎやるんだったら、仕掛けられる側より仕掛ける側に入った方がいい。どうせどっちもおんなじなんだもん」と思ってそこに入った磯村くんは、肝腎のガク祭の時には木川田くんとなんだか分らないインインメツメツをやってたもんだから「なんかバカらしい」としか思えませんでしたが、今や、「それでいいんだ!」と思っていました。
それ≠ニは勿論、一般的なバカ学生をやっていてもいいんだ≠ニいうことです。
なんとなく磯村くんは、そのバカらしさに関してなら全学に君臨出来るような自信さえ、その日は持っていました。
いましたけど、別にどうっていうことはありませんでした。広告研究会の部室には竜崎頌子ちゃん≠ェ来ていなかったからです。
「なんだァ ハハン」と思って、磯村くんは煙草を咥《くわ》えました。そばにいた一年生がマイルドセブンの箱を、如何にも手馴れたように――しかしその実は貧乏ったらしく、トントンと叩いていたからです。
「一本ちょうだい」
磯村くんは珍しく――というかほとんど生まれて初めて、そんなことを言いました。
「フン、フン」
煙をくゆらせて見る八王子の山並は格別のように思えました。
「これかァ……」
磯村くんは思いました。別になんにもすることがなくても、雑然としたコンクリートの部屋の中で煙草をくゆらせて外を見ていると、なんだか自分が大した人間のように思えて来るのです。
「その為に自然てあるんだ。大学もよく考えてるなァ」
サークル棟の二階の窓から、多摩ニュータウンの方まで続く雄大な景色を眺めて、磯村くんはそう思いました。
でも、大学を出て駅で降りて、駅前の道を左にとって京王線の下を通る高幡不動の地下道に向かいだす頃、そんな磯村くんの元気も、少しはなくなって来ていました。
アパートの部屋のドアを開けた時、そしてそれをガチャリと閉めた時、磯村くんは「ふ……」「あーあ」と、二度ため息をつきました。それが何故だか、磯村くんには分りませんでしたが。
次の日に大学から帰って来た磯村くんは、駅を降りるとそのまま部屋には戻らず、なんとなく、駅前の喫茶店に寄りました。ビルの二階の、駅前の通りを見下すところです。
コーヒーを注文して、期末試験の時間割りを整理していると、磯村くんは、女の子から声をかけられました。
そのお店で働いているウエートレスの、太った子です。色は黒い方で、名前はまだ知りません。顔だって、ひょっとすればまだ覚えていないような土着っぽい女の子でした。
「ずい分来なかったじゃない?」
その女の子は言いました。あんまり頭はよさそうじゃないけど、愛想がよくてニギヤカそうな感じの子でした。
その子がニカニカ笑っているので、磯村くんは「うん」と言いました。顔はその子の方を向いていましたが、シャーペンを持った手はテーブルのノートの上でした。
その子はクチャクチャとガムを噛んでいます。
「こっちに住んでんのォ?」
その子は言いました。
「うん」
磯村くんは言いました。
「あんたチューダァイ?」
その子は言いました。
お店の中は暇そうで、お喋りをしている主婦のグループとお喋りをしている主婦の二人連れがポツンポツンといるだけでした。
「うん」
磯村くんは言いました。
「そうォお」
その子は言いました。
その子の同僚の子がコーヒーを持ってやって来ました。
「コーヒーお待たせしました」
新しく来たやせた方の女の子がそう言いました。
「ヘェ、コーヒー飲むのォ?」
その太った方の子が言いました。
「ウン」
磯村くんが言いました。
「カナちゃん=A知ってんのォ?」
やせた方の女の子が太った方の女の子に言いました。
「知ってるよ。いつも紅茶ばっかりだもん」
カナちゃん≠ェ言いました。
「いつも≠チて、僕、そんなに来ないでしょ?」
磯村くんが言いました。
「三回ぐらいだね」
カナちゃん≠ェガムをクチャクチャさせながら言いました。
「ヘーッ、僕の来たこと知ってんだァ?」って、磯村くんは思いました。
「すいませェん、ちょっと、すいませェん」
窓際の奥の席で若い主婦の四人連れが呼びました。
「マイちゃん=v
カナちゃん≠ェやせた方の女の子を呼んで、マイちゃん≠ニ呼ばれた方の女の子は立って行きました。カナちゃん≠フ方は悠然として、磯村くんの向いの席の背凭《せもた》れに肘をついてクチャクチャとやっています。
「坐る?」
磯村くんは言いました。
「ううん。仕事中だもん」
カナちゃん≠ェ言いました。
「ねェ、あんた一人で住んでんの?」
カナちゃん≠ェまた言いました。
「うん。だけど今、友達と住んでんだ」
磯村くんが言いました。
「フーン。友達って男ォ?」
「うん」
カナちゃん≠ェ言って磯村くんが言って、カナちゃん≠ヘ「ヤーらしい」と言いました。
「いいじゃない。別に肉体関係ないんだから」
磯村くんが言いました。
カナちゃん≠ヘニカーッ≠ニ笑って、「ねェ、あんたガールフレンドいるゥ」と言いました。
「いないよ」
磯村くんが言ったらカナちゃん≠ヘ「ウッソォーッ!」と言いました。
カナちゃん≠ニいうのは不思議な女の子で、インディアンの女酋長と牧場の牝牛を一緒にしたみたいな女の子でした。
「どうして?」
磯村くんが言いました。
「だァッてェ、その顔でいない訳ないじゃん」
「そう見える?」
磯村くんは真面目な顔で答えました。勿論、真面目な顔と真面目な答は違いますけども。
カナちゃん≠ヘ「あ、いるんだァ」と言って可愛い顔を見せて笑いましたがその時二人の子供を連れたお母さんが「ほら、こっちよ、こっちいらっしゃい」と言って入って来たので、そっちへ行ってしまいました。
それだけですが、レジでカナちゃん≠ノお金を払って「またね」と言われて「ウン」と言った磯村くんは、一階へ降りる階段のところで肩の力を抜きました。
ふうっ。
そのまんま磯村くんは、ニコニコしてアパートに帰って来ました。
41
磯村くんがそのカナちゃん≠アと加奈恵ちゃんとヤッちゃったのは大学の試験が終ったその日のことですが、その前にもう少し磯村くんのことを書いておきましょう。
磯村くんは、アパートの自分の部屋に帰ると緊張していましたが、それは、木川田くんがいる時よりも、木川田くんがいない時の方が多いようでした。
昼間は干してある布団をとりこんだりなんだかで気は紛《まぎ》れましたが、夕方からシンとする夜にかけては、なんとなく落着きませんでした。夕方一人で帰って来て部屋の戸を開けて、木川田くんの脱ぎっ放しの靴下なんかがポンと置きっ放しで転がっているのを見たりすると、ドキッとしました。部屋のドアを開ける迄は、「自分は一人で住んでるんだ」と磯村くんは思いこんでいるのですが、部屋のドアを開けた瞬間、誰もいない筈の部屋に誰かがいるのです。「あれ、誰もいない筈なのに……」と思って、「あ、木川田か……」とか思うのです。
まァ、磯村くんにそんなことを思わせるぐらい、毎日木川田くんがとっかえひっかえファッションをチェンジさせていたということもありますが――。だから、七人ぐらいいる違う種類の木川田くんの、「今日はどの木川田かなァ……」というのに付き合わされていると馴れる≠ニいうことが出来なくなってしまう、ということもありますけど。
磯村くんは、「他人と暮すのって大変だなァ」とそんな自分のことを感じて考えていましたが、それは勿論嘘ですね。
それは何故かと言いますと、木川田くんと一緒にいる時、別に磯村くんはどんな大変≠熨Sく感じないでいることが出来たからです。
磯村くんはマメな人間ではありませんでしたが、一応はきれい好きでした。部屋の中が散らかっているとやっぱり気になるんです。
一方木川田くんは、一応マメでしたが、別にきれい好きな人間ではありませんでした。部屋のゴミをマメに拾っている時もありましたが、自分の脱ぎ捨てた服を平気でほったらかして、一向に片付ける気配も見せませんでした。
日曜の朝は、雨が降っても天気でも、まず掃除をすることになっていましたが、「掃除なら日曜の朝にチャンとしとけばいいじゃない」と言った木川田くんが、進んで掃除をしたことなどはありませんでした。進んで掃除どころか、バイトのある木川田くんは、日曜日大学が休みの磯村くんよりもズッと、布団の中でグズグズしていました。
でも別に、これで磯村くんがカリカリ来ることはありませんでした。「ホラ、木川田ァ、掃除するって約束だろォ!」と、平気で怒鳴りました。平気で怒鳴って一人で掃除をしてしまって、「ねェ、磯村ァ、俺のこと怒ってるゥ?」という木川田くんのことを不思議がっていました。「なんでそんなこと言うんだろう?」って。
磯村くんは、もうそれで木川田くんのことを「傷つけてしまった……」と思うほどのバカではありませんでしたが、別に木川田くんのことを怒るつもりもありませんでした。「そういう性格なんだァ……」と思うと、それだけで磯村くんはスッキリしてしまって、一向に平気でした。
磯村くんは、自分から何かを決めるとか何かを作り出すということは苦手でしたが、決められたルールをちゃんとこなすとか、他人となんとかやって行くということは得意でした。「自分の人生はそれだけだからつまんない」と、ついこの間まで思っていたぐらいですから。
木川田くんがそこにいれば、自分のポリシーとは全然|相容《あいい》れないことでも「ああ、そういう性格なのかァ……」と割り切って行くことが出来ます。割り切れれば、それで落着けました。落着いて平気で、「木川田ァ、約束が違うじゃないかァ」なんてことを言えました。どっちかといえば自分ではなくて木川田くんが言い出したルールでも、一旦それがルールになってしまえば、磯村くんは平気でそれに従えました。ルールがなければなんにも分んないけど、でもルールがあれば平気でいられるのが磯村くんでした。もっともこれも、ついこないだまではやっぱり「自分てそういう性格でそれだけだからやだなァ」と磯村くんは思っていましたけれども。
だから磯村くんは、別に、一緒にいる他人≠ニ一緒に暮すのはなんでもなかったのです。
木川田くんの御飯作りが意外とモタモタしていて、そして意外と味が単調で、「こういう風にしたらいいんじゃないの?」と自分が手を下した方が意外とおいしく出来るとか、一緒にコタツに入ってゴロゴロしてるだけなら全然ラクだとか、そういう風に思っていた磯村くんにとっては勿論、「自分て料理が下手なんだ……」とか「こんな時どうしてればいいんだろ。黙ってゴロゴロしてるだけなんて、磯村、俺のこと怒ってるんだ……」とか思ってる木川田くんの心理状態なんかは、予想の外だったのです。
「他人と暮すのって大変だなァ」と思っていた磯村くんは平気で他人と暮していましたし、「他人と暮すのって大変なんだ……」と思いかけていた木川田くんは「僕ってダメなのかもしれないなァ……」と思いかけていました。
木川田くんは他人がいなければ平気≠セったし、磯村くんは他人がいなければダメ≠ナした。それだけの差でしたが、この二人がその違いを分ることはまずありませんでした。それ以前に二人は、「磯村は俺に興味ないから俺だって磯村に興味ないし」「木川田は僕のこと興味ないみたいだし僕だってホントは、あんまり木川田のこと興味ないし」と、お互いに微妙に違った一線を引き合っていましたから、差≠ヘそこで尽きていました。
磯村くんはそんなことも分らずどんなことも分らず、ただ木川田くんの性格≠セけをよく分って行って、一人暮しの技術だけはマスターして行きました。
お掃除だってしました。洗濯だってしました。トイレの掃除だってあんまり好きじゃないけど、チャンとしました。御飯だってチャンと作れるようになりました。朝はコーヒーとトーストで、時々は目玉焼が付きます。木川田くんがそういう朝御飯を作ったので、「あ、そうなんだ」と思ってそういう朝御飯にしたのです。機能的だし、チャンと目が覚めるし、チャンと朝御飯を食べた気にもなれるし。
コーヒーは時々紅茶にもなります。コーヒーがなくなった時はそうなります。
自分一人で朝御飯を作っていた時は「こんなのでいいのかなァ……」と思ってなんとなく味気なかった朝御飯も、今では自信を持って朝御飯になっています。でももう、磯村くんには朝御飯がおいしいのかどうか、それがよく分らなくなっていました。おいしいかどうかよりも、自分はチャンと朝御飯を食べているから、それでなんの問題もなかったのです。
だから磯村くんは、共同生活が苦ではなかったのです。
他人がいればその他人は色々と言ってくれます。何も言わなくても「ああ、そうかァ」と思うことで、色々のことが分って行けます。だから磯村くんが辛かったのは、そのいる他人≠ェいない時でした。
いなければいないでいいのです。いるのならいるで、それはまたそれでいいのです。でも、いる筈の人間がいない時は大変でした。自分はどっちの生活様式で生きていいのか分らなかったからです。
磯村くんは、一人でいる時は、冷たい人でした。自分ではそう思っていました。自分なりの生活を持っていて自分なりの考え方を持っていて、自分なりの分り方を身につけていて、それで人生を生きていました。時々、あまりにも整然としていて荒涼としていてつまらないと思ってしまうぐらい、それはテキパキとしてスムースでした。「こんなにテキパキとやれてしまうのは、自分がそのことにあんまり関心が持てなくて、義務だから手ッ取り早く片付けちゃおうと思ってるんだ」と思うぐらい、それは当り前でした。
そして磯村くんは、他人といる時は人当りのいい人でした。
色んな他人がいて色んな都合がぶつかり合う時なんか、自分なりの考えとか自分なりの都合とか、そういうものは全部保留にしておいて、ともかくその場をうまくやって行く方法だけは知っていました。
でもそれは、磯村くんにとってはつまらないことでした。
何故かといえば、それはやっぱり社会のルール≠ノ基づいてやっていることで、個性というものがそうした人間関係の中ではなくなって行くからです。
要するに磯村くんは、「自分が好きになれる人がそこにいないからつまんない」と、人付き合いのいい自分の、その人付き合いの場≠あんまり高く評価していませんでした。
という訳で磯村くんは、割り切って、二人の自分を使い分けていました。
一人でいる自分は、「まァ、だってそういうもんなんだからいいじゃない」と思って平然と孤高でしたし、他人といる自分は、「まァ、だってそういうもんなんだからいいじゃない」と思って、平然と円満でした。それがルールで、それが出来ない人はバカ≠ナした。
他人といる時に大したこともない意見とか主義主張を声高に言ったりするのは、磯村くんにとってはバカ≠ナした。そういう人間は一杯いると思いました。
一人でいる時にチャンと自分を立派に見せている能力のない人も、やっぱり磯村くんにはバカ≠ナした。
学校の外には前者のバカ≠ェ一杯いて、学校の中には後者のバカ≠ェ一杯いるような気がしました。
世の中というものは、そう思ってる自分がテキトーに合わせて行けばいいものだからラクだと、磯村くんは思っていました。「でも、それだけじゃつまんないし」と、磯村くんはそれも思っていました。
でも磯村くんは、そう思っている自分が、実際に世の中とテキトーに合わせて行けるだけの能力を持っている自分かどうかは、まだ分りませんでした。だってまだ、磯村くんは世の中に出ていないのですから。
でも磯村くんは、もうズーッと長い間世の中とテキトーに合わせて来ていたんだと思っていました。家から一歩出て学校友達≠ニいうようなところに行けば世の中≠ニいうものはありましたから。
でも磯村くんはそういう世の中≠フ中にいて、自分がフッと、「どうしてみんなバカなんだろう」と思ってしまっていることに気がつけませんでした。「自分は今、テキトーに他人と合わせているんだからそんなことをしている筈はない」と、そう思っていました。
磯村くんは、自分に処世術があって、二つの生活様式を使い分けているだけで、自分は一つしかないと思っていましたが、実際の磯村くんが二人いることには気がつけなかったのです。
磯村くんは二人いて、その二人の磯村くんがそれぞれテキトーな処世術を持っていて、その二人の間が曖昧《あいまい》にぼやけているなんてことは、全く分りませんでした。曖昧にぼやけている≠ニいうよりは、あるチャンネルから別のチャンネルにテレビのチャンネルを移動する時、実はザーッ≠ニいう音を立てている空白のチャンネルがある、といった方が正解でしょうか?
磯村くんは、その空白に決して気がつこうとはしませんでした。
1チャンネルから3チャンネルへ瞬時に飛ばして、「あ、自分の見たいのこっちじゃないや」と思って又すぐ1チャンネルに戻す――そうすれば、自分が3チャンネルを見ていたとは思わずにすみます。途中で見てしまったけど、それは見たい≠ニ思って見た訳じゃないから見ていたことにはならない――磯村くんの考え方はこうです。
1チャンネルの番組が退屈だからチャンネルをひねって遊んでいた。それでたまたま3チャンネルがなんかやっているのがブラウン管に映っただけだ――磯村くんの考え方はこうでした。それでいけば勿論、ザーッ≠ニ音を立てている2チャンネルを覗《のぞ》いてしまったことなど、見たことには入りません。
この時の磯村くんは1チャンネルの番組を見ている≠ニいう、1チャンネルのルールに従っている磯村くんです。「自分は今そっちのルールに従ってるんだから、こっちのルールなんて知る訳ないじゃないか」と思っていますが、でも実際はそっち∴ネ外のルールも知っているのです。
1チャンネルの磯村くん≠ニ3チャンネルの磯村くん≠ニの二人です。
1チャンネルが世間≠ネら3チャンネルは家族≠ナしょうか。
家にいる時も、家の外にいる時も、実は映っているテレビを見ているということで、おんなじ二人の磯村くんでした。家の外にいる時はテキトーにニコニコしていて、家の中にいる時はテキトーにブーブー言っている。違っている――としたら、それは、映っているテレビ≠見ている磯村くんの、態度だけです。
1チャンネルも3チャンネルも、その他もどれも面白くない時、磯村くんは、テレビを消して一人の部屋に入ります。テレビ≠見ていない時の磯村くんが何を考えて、どんな磯村くんでいるのか、それは誰にも分りません。だって、テレビには何も映っていないのだから、態度のとりようというものが、そもそもないのです。
という訳で、テレビを消してしまった時の磯村くんというのは、なんにも映っていない2チャンネルのザーッ≠ニいう真っ白い、走査線の波が流れている画面を見ている磯村くんと同じです。
何も映っていないものをどうして見ることが出来るでしょうか? 何も映っていないものを、どうして平気で見ているのでしょうか? それは一体どういうことなんでしょう?
磯村くんは、ただ見ていることしか出来ない人だったから、見ているものがなくなってしまったら、ないものを見ているしかなかった、という訳なのです。
磯村くんにとって木川田くんの存在は、『ママとあそぼうピンポンパン』とおんなじものでした。
テレビの向うで体操のお兄さんが「サァ、みんな元気にしてたかな?」とニッコリ笑っていうと、磯村くんもやっぱり、テレビの前でコクン≠ニうなずいたという、それだけなのです。
磯村くんは元気にしています。元気にしていてよい子です。でも、そんな磯村くんの前にあるテレビは、いつしか終ってしまいます。幼児番組が映っている間ズーッとよい子にしていた磯村くんは、それが終ってもまだ、よい子をしています。ズーッとそうしていたから、そうしているクセがついてしまったのです。そういうクセがついて、そういう体勢のままで待っていても、テレビの画面は、一向に磯村くんに話しかけてはくれません。気がつくと、ザーッ≠ニ言っているだけです。磯村くんはどうしたらいいのか分りません。「自分は確かによい子なんだけど……」と思ったまま、自分一人の生活を始めるだけです。
体操をしたりお姉さんにうなずいている時は元気ですが、でもザーッ≠ニしか言わないテレビの画面を見ながら、そこで期待されている理想のよい子像を演じることは、ほとんど不可能なことです。
一人になった磯村くんは、まるで錆びついた人形のようにギシギシと動き始めます――「確か、こうだったと思うけど……」と、自分の知っている筈の一貫性だけを、手探りで確かめながら。
磯村くんは、自分が一人しかいないと思っています。だから自分は一貫していなければいけないし、一貫している筈だと思っています。でも、実際の磯村くんは二人なのです。
そばに自分以外の人間がいて、それに合わせてやっている自分ともう一人、そばに誰もいなくて、ただザーッ≠ニいう白い画面を眺めているだけの自分と。
でも磯村くんには、そのザーッ≠ニいう白い画面がなんなのか分りません。ブラウン管の走査線が作る不規則なグジャグジャ模様にはなんかの意味があるのかもしれませんが、ともかく映っているそれは、なんのことだか分りません。「分らない自分が悪いんだ」と思って、「どうやらこれは、こんな風に映っているらしいな」と、映っていない画面の動きを読んで、ギクシャクと動き出すのです。
「これでいい筈なんだけどな……。これでいいと思うんだけど……。これでいいんじゃないかと……」――そう思いながら、確かに自分を看視している筈の誰か≠フ前で、磯村くんは、ない筈の自分の一貫性を確かめるのです。
磯村くんが大変≠セったのは、他人と暮すことではなくて、他人の幻から自由になった自分を作ることでした。磯村くんを看視していたのは他人≠ナはなくて、確かにいると思える、他人の幻≠ナした。
磯村くんは、他人を見ていることは平気でした。他人と付き合うことは他人を見ていることでしたから。そして、いい他人≠ニは、自分を遊ばせてくれる他人でした。その人に遊んでもらっている間はとにかく、自分の頭の中にはザーッ≠ニいう白いスクリーンが出て来ないのですから。
磯村くんは、自分以外の人間と付き合っていくことは気骨の折れることだと思っていました。そして、大したことのないヤツとテキトーにやって行くのは大して難しいことではないとも思っていました。でも、そう思っている磯村くんには、実は、自分以外の人間≠ネんていう人は一人もいなかったんです。
磯村くんが他人の中にいる間、磯村くんが他人と共にいる間、そこに磯村くんはいませんでした。
そして、いる磯村くんが何かを考え始めた途端、磯村くんの周りには、人間なんか一人もいませんでした。
なんにも出来ないいる磯村くん≠ニ、なんにも考えられないいない磯村くん≠ニ、実は、磯村くんは一人ではなく、二人いたのでした。
そして勿論、賢明な皆さんにはもうお分りだと思いますがザーッ≠ニ言って流れているブラウン管は、実は、もう一人の――そして唯一人本当である、いる筈のそしていなければならない真の磯村くん≠ナした。
本当の磯村くん≠ヘ、まだどこにもいなかったのです。
そして、その白い画面をただ眺めているだけの磯村くんには、まだそのことが分らないでいたのです。
「こうして眺めている自分は確かにいるし……」「そして、眺めているということで自分は確かに一貫しているし……」
しかし、意味のない一貫性はメチャクチャ≠ニいう言葉でしか表わせないものなのです。
気がつくと磯村くんは、大学のキャンパスで、竜崎頌子ちゃんとペチャクチャ喋りながら歩いていました。
でもこの文章は、嘘です。
気がつくと≠ニいうのは、一体誰が・気がつく≠フでしょう?
磯村くんはなんにも気がつきませんでした。私達、磯村くんとは関係のない読者と作者だけが気がつくと、広大な公園墓地のような多摩のキャンパスを、つまらないことを喋りながら歩いている磯村くんと竜崎さんの姿を目にすることが出来たという、それだけです。
磯村くんは、なんにも気がついてはいませんでした。
「ああ、やっと会えた」と思って、同じクラブの竜崎頌子ちゃんと日向《ひなた》ぼっこをしていました。
頌子ちゃんは、十人並のアイドル歌手みたいな、可愛い顔をした女の子で、つまんないことをさも知っている≠謔、に力説して話す、女子大生です。
どうして磯村くんがこの子に平気で相槌を打っているのか、私達にはよく分りません。
第一部の『無花果少年』からの流れを見て来ると、どう考えても、磯村くんはそういう子ではないのです。磯村くんがここで平気で相槌を打っていられるのなら、それには絶対に何か裏≠ェあるのです。下心≠ニか。
下心≠もてあまして、磯村くんは何かブツブツ言いながら、その、あんまりブリッ子をしない――ということはあんまりニコニコしない竜崎頌子ちゃんの話を聞いているのでしょうか?
答は、NOです。
磯村くんは、なんにも考えてはいませんでした。
「僕、なんにも考えてないから平気で頌子ちゃんとも付き合えるんだよね」と磯村くんが言えるなら、ここには隠された言葉があります。それはこうです――「僕、なにも考えてないから平気で(バカな)頌子ちゃんとも付き合えるんだよね」
でも磯村くんは、竜崎頌子ちゃんのことを、ちっともバカだとは思っていませんでした。
「ヘー、こういう喋り方すんのか。あ、そういう風に目ェ動かすのか。ヘー、意外と手の爪小さいんだ。ヘーッ、あ、スカートって、すぐめくれるんだ。彼女、どういう男が好みなんだろ?」
磯村くんはそういうことを考えていたので、磯村くんの頭の中は、別にザーッ≠ニ音を立てて流れる白いブラウン管ではありませんでした。
そして磯村くんは、自分がそういう風にして女の子と付き合っているんだなんてことに、決して気がつきはしませんでした。
(私達が)気がつくと、大学から戻って来た磯村くんは、高幡不動の駅前の本屋さんで『写真時代JR』を見て、ズボンの前を膨らませていました。
磯村くんは、後めたさから自由になりたいと思っていましたが、実は、そんな考え方しか出来ない磯村くんには到底分らないようなことだってあったのです。それが何かというと、磯村くんが一番必要としていたのは後めたさ≠ネどということを決して考えないですむだらしなさ≠ニいうものだった、ということです。
磯村くんは、木川田くんという訳の分らない他人≠フ存在に追い詰められて、そして追い出されて、平気で、そういう他人≠フいないところではだらしなくなっていられる男の子に、なっていました。
「はァ……」
隣りに人が来たので、その雑誌売場に立っていた磯村くんは、『写真時代JR』を元に戻して、今度は『写真時代』を手に取りました。「そうか、あんまり僕って、年上っぽいのって好きじゃないんだよな。年上っぽいっていうか、プロっぽいっていうか……。ウーン」
磯村くんは、そのことにだけは気がついていたのです。
42
磯村くんが初めて自主的に童貞を捨てた時のことです。
試験が終って磯村くんは、ブラブラと高幡不動の駅前を歩いていました。生えかけた恥毛のようにぼんやりと漂っている性欲をまぎらわせてくれる竜崎頌子ちゃんとは会えなかったので、昼間っからアホみたいなヤローとブラついてもしょうがないと思った磯村くんは、「どうするの?」というクラスメートの声に「うん、家帰って洗濯でもするゥ」とか言って、高幡不動の駅で降りました。
これはホントのことで、バイトの退職金がわりに木川田くんが電気屋さんから貰って来た洗濯機が部屋にはあったので、こんな天気のいい日はサッサと洗濯しちゃった方がいいなと、磯村くんは思っていたのです。妄想がダメなら、現実もあったんです。冬には珍しく、生温いというような感じの、あったかい日でした。
「どうしようかなァ……、まっすぐ帰って洗濯しようかなァ……」とか磯村くんが思って地下道の辺りまで来ると向う≠ゥら加奈恵ちゃんがやって来ました。
「どうしたのォ?」
加奈恵ちゃんが言いました。今日はピンクの喫茶店の制服ではなくて、チンチクリンでピチピチのGパンと、真ッ赤なスタジャンの私服です。
「うん。今日で試験が終ったんだ」
「ホントォ」
磯村くんは、木川田くんから借りたビギの白いブルゾンを着ています。
「どこ行くのォ」
磯村くんが言いました。
「うん、今日休みだからサァ、新宿でも行こうかなァと思ってェ」
「ホントォ」
磯村くんが言って加奈恵ちゃんが言いました。
「ねェ、あんた何してんのォ」
磯村くんが言いました。
「うん。家帰って洗濯でもしようかなァと思ってェ」
「フーン」
「暇なのォ?」
磯村くんが言いました。
「暇だよォ」
加奈恵ちゃんが言いました。
「ウチ来るゥ?」
磯村くんが言いました。
「ウーン」
加奈恵ちゃんが言いました。
「どこなのォ」
「うんとねェ、ガード越えてねェ、潤徳小学校の裏ァ」
「あ、ホントォ」
「分るゥ?」
「うん。あそこら辺。団地の辺でしょォ」
「あ、そう。君家どこなのォ?」
「つくしんぼ保育園≠フそば」
「どこなの、それ?」
磯村くんが訊きました。
「お不動様の先ィ」
「あ、ホントォ、じゃァウチとは逆なんだァ」
「そうだよォ」
加奈恵ちゃんは言いました。
「ウチ行ってもいいのォ?」
「いいよォ」
磯村くんは言いました。
「友達いないのォ?」
加奈恵ちゃんは訊きました。
「いないと思うよォ」
そう言って磯村くんはまた言いました。
「あれ、なんで知ってんのォ?」
「自分で言ったじゃなァい」
加奈恵ちゃんはドン≠ニ磯村くんのことを突き飛ばしました。
「あ、そっかァ」
磯村くんは頭をかきました。
「じゃ、行こう」
加奈恵ちゃんは磯村くんに腕を差し出しました。
「うん」
磯村くんは加奈恵ちゃんと腕を組んで歩き出しました。ひょっとすると、加奈恵ちゃんの方が磯村くんよりは、ちょっとばかし背が高いのかもしれません。
地下道を越えたら、磯村くんは、加奈恵ちゃんが十八でカナエ≠ニいう名前なんだということを知っていました。
柿の木のあるとこから電車区のある建物の見えるところまで来ると、カナエちゃんは、磯村くんがイソムラ≠チていう名前で、その下はカオルくん≠ナ、四月になったら二十歳になる十九歳の牡牛座で、中大の法学部なんだっていうことを知りました。両親は杉並にいて一人で下宿してるとか。
カナエちゃんは天秤座で、天秤座と牡牛座の相性は、よく分りませんでした。カナエちゃんは「あ、相性がいいんだァ」っていう方面しか知りませんでしたから、よくない方向にちょっとでも傾くと、たちまち分らなくなるのです。
アパートの手前まで来ると、畑の向うの垣根越しに木川田くんの洗濯物が干してあるのが見えました。その向うのガラス戸は白っぽく光っていて、カーテンが閉っているのが分りました。
「やっぱりいないや」
磯村くんが言いました。
「あ、ホント」
カナエちゃんが言いました。
「洗濯モン、干してあるもん」
「どォれ?」
カナエちゃんは言いました。
「あれェ」
磯村くんは自分の部屋の方を指しました。
「ふーん」
カナエちゃんは言いました。
「ねェ、あんたの友達ってどんな人ォ」
磯村くんは言いました。
「変ってる」
「ふーん」
カナエちゃんは言いました。
「ねェ、なんで一緒に住んでんのォ」
磯村くんは言いました。
「親と喧嘩したんだって」
カナエちゃんは言いました。
「あ、ホントォ」
磯村くんは言いました。
「こっちだよ」
カナエちゃんは言いました。
「うん」
部屋の中に入るとカーテンが閉っていてほの暗かったのですが、珍しく出かける前の木川田くんはテキパキしていたらしく、脱ぎ捨てのシャツとTシャツが隅っこに落っこっているだけで、後はキチンと片付いていました。
「入んなよ」と言って、磯村くんはシャーッとカーテンを開けました。
カナエちゃんが入って来る前に、磯村くんは木川田くんのチェックのシャツと白いTシャツを抓《つま》み上げて、「あいつ、これどうすんのかな?」と思って、ちょっと匂いを嗅ぎました。なんか、甘くって、ちょっと独特の匂いがしました。
「なんか、男臭ァい」とカナエちゃんが言いました。
「そうォ?」と言って磯村くんは、窓を開けて、その外に置いてある洗濯機の中に、木川田くんのシャツとTシャツをブチこんでしまいました。
カナエちゃんは部屋の隅に置いてある座布団に腰を下して、部屋の中を見ていました。
「ずい分勉強してんだね」
カナエちゃんは言いました。
「どうして?」
磯村くんは言いました。
「だって、本が一杯あるじゃない」
「そうかな」
磯村くんはストーブを点《つ》けます。
「お茶|淹《い》れるね」
磯村くんは言います。
「灰皿ちょうだい」
カナエちゃんは言います。
「うん」と言って磯村くんは、「えーっと」と辺りを見回して、木川田くんが流しに置きっ放しにしてある、裸の女の人のついた赤いブリキの灰皿を発見します。
灰皿を洗ってお茶を淹れて、磯村くんは大忙しです。
「ねェ、やる?」
お茶を飲み終ったらカナエちゃんがいいました。
「いいの?」
磯村くんは言いました。
「いいよ」
カナエちゃんは言いました。
「大丈夫?」
磯村くんは訊きました。
「何が?」
カナエちゃんは言いました。
「アッチ」
磯村くんは言いました。磯村くんの部屋には、残念ながらコンドームがなかったのです。
「平気だよ」
カナエちゃんは言いました。
「昨日終ったばっかりだから」
「あ、ホント」
磯村くんは言いました。
「よかったね」
「うん」
そう言ってカナエちゃんは、赤い口紅のついた煙草を灰皿で消すと、「ヨイショ」と言って、Gパンのチャックを降ろし始めました。降ろし始めましたが、カナエちゃんは太っているので、そのまんまではチャックが降りません。チャックは降りたとしても、ピチピチのGパンは、坐ったまんまでは脱げません。しようがないからカナエちゃんは、立ち上ってGパンを脱ぎました。
赤いスタジャンを肩から引っかけた下は白いブラウスだけで、ブラウスの裾からはムチムチと太った太腿がチラチラと見えて、あまりにも喰い込みすぎた白いレースのスキャンティが透けて、黒く見えました。
磯村くんはカナエちゃんが立ってGパンを脱いでいる間、ちょっと立ち上りかけて「まァいいや」と思ってしまったのでそのまんまになりかけて、正座した中腰の膝に両手を当てて待っているという、おあずけ≠ンたいな姿勢でした。
「いいよ」と言って、カナエちゃんは元の通りに坐って――坐りにくいから、二枚重ねてあった座布団の一枚はポンと蹴飛ばして――磯村くんの来るのを待ちました。
磯村くんは「ウン」と言って、そのまんまのカッコウでカナエちゃんの方に近づきました。カナエちゃんが開いている脚の間に坐って、オッパイを揉みました。
「ちょっときつい」
カナエちゃんがそう言って、スキャンティをずらしたので、磯村くんもそこでズボンを降ろしました。
結局磯村くんは、坐ったまんまでやってしまいました。
カナエちゃんとはあんまりキスがしたくなくて、肩やおっぱいを掴《つか》んでやっていると、どうやらカナエちゃんはオッパイを掴まれるよりも突っつかれているだけの方が感じるみたいなので、結局肩を掴まえていたらそうなってしまったという訳なのです。
初めは磯村くんがカナエちゃんの脚の上に乗ったのですが、カナエちゃんは「痛い」というもので、改めて磯村くんの脚の上にカナエちゃんが股を開いて乗ったのです。磯村くんは本気でビニ本とやってるみたいで、本気で感じてしまいました。
本気で感じると、磯村くんはなんとなく肩を揉みたいとか首をしめたいとか、そんな感じで指先に力が入って来て、でもカナエちゃんの髪の毛は細くて長いものだからそれが邪魔くさくって困りました。
「今度は横にしてやってみたいな」と思っていたら終っちゃって、カナエちゃんは「あんたってタフねェ」と磯村くんに言いました。
磯村くんは「そうォ?」と言いましたが、まだ磯村くんはホントにやったという実感がないので、「もう一遍横にしてやってみて、それでタフかどうかって決めない?」って思っていました。
礼儀正しい磯村くんは、もうズボンを元の通りに戻していましたが、ホンポーなカナエちゃんは、そのまんまで、磯村くんの脚の上から降りて、腹這いになって煙草を吸っていました。
磯村くんはそのカナエちゃんのモビイ・ディックみたいなお尻を見ていると、「横向きになって横からやるのも悪くないけど、後向きも悪くないな」っていう気になりました。「でもカナエちゃんの場合、もっとズッと脚開いてくんないとやりにくいしなァ」とか思って、「脚開いてくれるかなァ」と思っているとカナエちゃんが、「あれェ、もう二時半じゃなァい」と言いました。
磯村くんの机の上の時計は二時二十七分でした。
「なんか約束あるの?」
磯村くんが言うとカナエちゃんは「うん」と言って、「また来るね」と言って出て行きました。
磯村くんは「うん」と言いましたが、カナエちゃんがスキャンティ穿いてGパン穿いているその間に、「もう一遍、指だけでも突っこませてくれないかなァ」とか、そんなことを考えていました。
カナエちゃんが出て行った後に一人でゴロゴロしていると、部屋のカーテンが開けっ放しになっていることに気がつきました。庭に面したガラス戸は、上半分が透明なのですが下半分はスリガラスなので、「多分大丈夫だろうな」と磯村くんは思いました。「それで僕は坐ってやったのかな? だとしたら僕ってエライな」、と磯村くんが思っていたら、ドアを開けてブカブカのオーバーを着た木川田くんが帰って来ました。
「帰って来てたの?」
木川田くんが言いました。
「うん」
磯村くんが言いました。
「洗濯モン、まだしまわなくて大丈夫でしょ?」
磯村くんは言いました。
「うん、平気だろ」
木川田くんが答えました。
「あ、そこに脱いであったシャツさァ、洗濯機の中入れちゃったけどいいィ?」
磯村くんが言いました。
「うん、いいよ。サンキュー」
木川田くんが言いました。
「誰か来てたの?」
流しの横に、洗ってあるカップが二つ置いてあったので木川田くんはそう言ったのです。
「うん、大学のヤツ」
「あ、ホント」
「どこ行ってたの?」
「バイト決めて来た」
「あ、ホント。今度どこ?」
磯村くんは相変らず寝っ転がったまんま尋ねました。
「下北沢《シモキタ》の飲み屋。喫茶店だけどサ」
木川田くんはオーバー姿のまんま、磯村くんの横に腰を下しました。両膝を立てて腰を落す、例のウンコ坐り≠ナす。
「どっか行こうかァ?」
磯村くんは言いました。
「試験終ったの?」
木川田くんは言いました。
「うん、終った」
磯村くんはニッコリ笑って答えました。
「よかったね」
木川田くんは言いました。言って木川田くんは、なんとなく磯村くんにキスしてもいいんじゃないかっていう気になりました。なんか、磯村くんがそんな風にしているような気がしたからです。
木川田くんがちょっと首を傾けると、すぐ磯村くんの手が伸びて来ました。
木川田くんのドデカイオーバーを着た肩を抱きながら、なんとなく磯村くんは、カナエちゃんの時の延長のような気がしてなりませんでした。
顔を離して木川田くんが言いました。
「久し振りだね」
「そうだね」
磯村くんが言いました。
「どこ行きたい?」
磯村くんが言いました。
「大学行きたい」
木川田くんが言いました。
「今からァ?」
磯村くんが言いました。
「うん」
木川田くんが言いました。
「だって、今帰って来たばっかりなんだよォ」
磯村くんが言いました。
「いや?」
木川田くんが訊きました。
「いやじゃないけど、別に、今じゃなくたっていいじゃない」
「いいけどサ、俺、磯村のガッコウって、ちゃんと見たことないんだもん」
「だって、去年受けたんだろ、自分だって」
磯村くんが言いました。
「だって、そんなの覚えてないもん」
木川田くんは、相変らず磯村くんの横でうずくまっています。磯村くんに引き寄せられてウンコ坐りが崩れてしまった木川田くんは、ドデカイオーバーの中で横坐りをしていたら、なんとなくうずくまっているように見えたのです。
「だったらいいよ」
磯村くんは言いました。
「行こう」
「ヤじゃない?」
木川田くんは言いました。
「全然」
磯村くんは言いました。
「ねェサァ、帰りに動物園行かない?」
木川田くんは言いました。
「動物園?」
磯村くんは訊きました。
「うん。コアラ見ちゃったァ?」
日本にただ一ヵ所、多摩動物公園にだけ、オーストラリア産のコアラはいたのです。だから木川田くんは言ったのです。だから京王線には、コアラの電車が走っているのです。
「もう見ちゃったよォ」
磯村くんは言いました。
「どうして?」
木川田くんは言いました。
「だって、学校が休講になったら、コアラぐらいしか見るもんがないんだもん」
「そっかァ」
磯村くんの言うことに、木川田くんは素直に答えました。
木川田くんは、セックスっていうのは男と男でしかしないもんだと思っていたので、磯村くんが自分の留守中になんかやってたんだなんてことには全然気がつかなかったのです。
テキパキした磯村くんは、サッサと口紅の付いた吸い殻をティッシュと一緒にゴミ箱に捨ててしまいましたし、口紅の付いたティーカップはさっさと洗ってしまっていました。
メンドくさがりやの木川田くんは、畳に髪の毛が落ちていても気にせず、寝っ転がっている磯村くんの頭を突っついていました。
「行くなら行こう。日が暮れちゃうよ」
磯村くんが言って立ち上りました。
「うん」
木川田くんが言って、畳の上の髪の毛がずい分細くて長いなァ、とか思いました。
ブルゾンを着た磯村くんがシャーッ≠ニカーテンを閉めて、「洗濯物どうする?」と木川田くんに訊きました。
「後でいいよ、まだ乾いてないと思うもん」
木川田くんはそう言って、磯村くんのでも木川田くんのでもない髪の毛を抓《つま》みました。
「木川田、ストーブ消して」
「うん」
磯村くんに言われてストーブを消して、それからゴミ箱の中に髪の毛をポイ≠ニ入れて――でも静電気を起こした髪の毛はなかなかポイ≠ニは行かなくて、「何してんのォ」と、戸口に立った磯村くんは言いました。
「今行く」
木川田くんは髪の毛をからめたまんま部屋を出ました。出て、ドアのところに指をなすりつけて、その髪の毛を指からとりました。
「木川田、鍵かけてね」
アパートの前でそう言っている磯村くんを見て、木川田くんは「チェッ、黙って男女交際なんてやっちゃってェ」なんてことを思いました。思いましたが、木川田くんの思っている男女交際とは、お茶を飲んでラジオを聞いてお話をしていることだけでした。
二人が出て行ったのは二時五十二分で、それが磯村くんの初めての体験≠セったという訳なのです。
43
それからは平穏無事でした。磯村くんは試験が終っても家には帰らず、高幡不動駅から二駅新宿寄りにある「聖蹟桜ケ丘」という、今売り出し中の未来都市《ニユータウン》のドデカイビルの中にある花屋さんで生まれて初めてのバイトを始め、木川田くんは、シモキタの、イタリア料理を出す喫茶店みたいな飲み屋――要するにカフェバー≠ナボーイを始め、二人は一人はビルで花売りに、一人は町で身を投げて(ちょっと違うか)≠ニいうような生活をするようになっていました。磯村くんは七時に仕事が終って、木川田くんは十時に終るという、それだけの差です。
磯村くんはそれからもカナエちゃんと会うには会いましたが、カナエちゃんにもBFはいるらしく、二月の間に二人がセックスをしたのは一回だけです。
磯村くんの方も「あんまりそういうことだけ考えて悶々としてるのはヤだし」という理性が返って来ていたので、別に深追いはしませんでした。聖蹟桜ケ丘の駅ビルの中は広く、花屋さんはきれいで色んな花が咲いていたので、「きれいだなァ」と磯村くんは思っていました。
磯村くんはあんまり花の名前に詳しくはありませんでしたが「これはナントカの花だ」という風に主任さんに教えてもらうと、「はァ、なるほど」とか思って、毎日が新鮮でした。
主任さんは四捨五入しなくてもすぐ三十になってしまいそうな男の人で、その他にはもう一人レジを預かる佐藤さん≠ニいう真行寺君枝が石原真理子になったみたいの女の人と、人畜無害の丸い女の子がバイトで働いていました。花屋さんの向いには「MIZUNO SPORTS」があって、レオタードが似合いそうな女の子がいて、その子と磯村くんは話が合っていました。
勿論このまんま話が無事に終わる訳がないので、あざとい展開というのをこれからします――。
ホントだったらこのお話の中に出て来てもいい人がまだ出て来ていません。出て来てもいいんだけど、ひょっとしたらもう出て来なくてもいいのかもしれないなァと思われるあの人≠ナす。
一体、滝上圭介くんはその頃何をしていたのでしょうか? あざといというのはここのところです。
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ひょっとして、この世の中から娯楽というものはもうなくなってしまったのでしょうか? ということもあります。それともひょっとして、アルコールというのは相変らず、人間にとって最も根源的な娯楽だということなのでしょうか?
どっちかは分りませんがとにかく、スキーに行って金を使い果してしまった西窪くんは、タダ酒を求めてここへやって来ていました。ここ≠ニいうのは、要するにここ≠ナす。
西窪くんも男≠ナすから。
若くって少年で大学生ですから、そういう人に来てもらうと嬉しいからタダ酒を飲ましてくれちゃう所もあるんです。そうしょっちゅうという訳でもないでしょうが、一回や二回なら大目に見てもらえるというような。
西窪くんだって現代の男の子だから、ちょっとばかし危険≠ンたいのがあった方がタバスコ入りのトマトジュースみたいで現代なんです。
まァ、面倒なことはどうでもいいですが、という訳で、西窪くんがゲイバーにいたってちっともおかしくないんです。
という訳で、その横に滝上くんがいたってちっともおかしくはないんです。
新宿二丁目の文化人だかジャーナリストだかがよく来そうなお店に来ていた西窪くんが、好奇心にかられて、その隣りのビルの階段を、滝上くんと一緒に上って行ったって、ちっとも不思議ではありませんでした。
大目に見てもらうことが得意の西窪くんが、融通の利かない滝上くんを連れてそこに入って、そこのママさんが滝上くんに好奇心を持ったなということをすぐに見抜いて、「もう一遍こいつを連れてけばタダ酒が飲めるな」と思って、「うん、いいよ」と平気で言う、現代青年≠ノ変身してしまった滝上くんを連れてそこら辺を歩いてたって、別になんの変哲も不思議もない、という訳なのです。勿論、そこに木川田くんが現われてしまったって――。
木川田くんは、そのお店にやって来ました。三月の初めの頃でした。
そのお店は「ケント」とは違って、部屋の真中に大きなテーブルのある、アメリカ風のお店でした。木川田くんは何回かそこに来たことがあったから、フラリと入ったのです。その頃の木川田くんはかなり不思議なパーソナリティーになっていたのですが、それはまた後の話にしましょう。
木川田くんは初め、分りませんでした。テーブルの真中にライトスタンドが置いてあって、目が馴《な》れなければ、テーブルの向う側が見えないからです。
目が馴れて、木川田くんは愕然としました。隣りにいるのは誰だか分りませんが、とにかく、斜め前にいて隣りの誰かと喋っているのは、滝上くんだったからです。
暗くボソボソと、見ようによっては、かなり親密な相手とかなり親密な話をしているように見えました。
木川田くんは顔が凍りつくような気がしました。「どうしよう!」と思いました。「どうしよう!」と思いましたが、逃げる訳にはいきません。関係ない人なんだから知らん顔しているのに限ると思ったからです。
こう言えば木川田くんが冷静だったように見えますがそういう訳ではありません。咄嗟《とつさ》に知らん顔をするしか、木川田くんには思いつけなかったのです。滝上くんの隣りにいる人が西窪くんだと知った時は、もっとショックでした。「僕よりもあんなヤツがいいの」と、悲しい思いで二人の間を睨《にら》みました。睨んだけど、「ああ、関係ないんだ」と思って、そのまんま睨むのをやめました。
「僕が関係なくなった途端、そういう風になるの」と思って、そしたらもっともっと悲しくなりました。まるで、脚が三本しかない四本脚の椅子に坐ってるようです。あっちへ力をかければ、こっちに傾きます。三本脚の内の一本も、やっぱりイカレているようです。
「悲しいっていうことも関係ないことなんだ」って思うことは、木川田くんにはつらいことでした。
悲しい時には悲しいことにのめりこんで行って、それで悲しいことに耐えるのが木川田くんのそれ迄のやり方でしたから、のめりこんで行きそうな、引っくり返って行きそうな自分を自分で支えるのは大変なことでした。
大変なことを辛うじてやって、でもなんの為にそれをやっているんだろうと思うと、心がはち切れそうでした。だってもう、その人の為にやろう≠ニ思うその人≠ヘ、木川田くんの中にはいないのですから。
その人≠フ前で、その人≠ェ見てくれる訳でもないのに、「自分はなんにも考えてないよ」っていう顔をすることは、最悪でした。
サッサと出て行けばよかったんですが、サッサと出て行くだけのゆとりさえも、木川田くんにはなかったんです。サッサと出て行って、その人がいない所で、「一体何してたんだろう? 一体何してるんだろう?」と考えることはもっと辛いことだと、咄嗟の中で、木川田くんは考えたのです。
向う≠ナ西窪くんが「アレッ?」という顔をしたみたいです。西窪くんは滝上くんのことをチョンチョン≠ニ肘で突ついたみたいです。西窪くんがニヤッ≠ニでも笑ってくれたら、まだ木川田くんにとっては幸福だったのかもしれません。でも、大学という大人の世界に一年もいて、十分に世の中に退屈しきってしまった西窪くんは、いつまでもそんな子供≠ナはありませんでした。
西窪くんはもう大人で、礼儀正しく、知っている人の顔を探しました。それだけです。
木川田くんは一生懸命真っ直ぐに前を向いていたので、右眼の隅で起っていることがあんまりよくは、分りませんでした。西窪くんに突っつかれた滝上くんがどうしているかなんて。
そろりと、視線をそっちの方に移すと、滝上くんが黙ってこちらを見ているのにぶつかりました。
慌てて知らないふりをして、木川田くんは視線を元に戻して、掌の中でグラスをじっと握りしめていました。アーリー・アメリカン・タイプの四角い縁のついたグラスは、握りしめているのにちょうどいい感じでした。
掌の中でグラスがぬるくなって来て、もう一遍木川田くんは、視線を動かしました。
滝上くんは相変らず前とおんなじ恰好で、でも、自分の方を見ているという訳ではありませんでした。
木川田くんは改めて滝上くんの顔を見て、「ひょっとして先輩は、ズーッと俺の方なんか見てなかったのかもしれない」、と思いました。「きっとそうだ」と思いました。
「きっとそうだったんだ。ズーッと俺のことなんか見てなかったんだ。西窪になんか言われたかもしれないけどへー≠ニか思って、ちょっとだけ見て、なんだ、あんなの≠ニ思って、それで俺のことなんか興味なかったんだ」と思いました。
「もう、ズーッとそうだったんだよな。一年か、もう、二年前ぐらいから」とか、木川田くんは思いました。
自分の、グラスを握っている自分の掌を見つめて、「泣いちゃったらいいのになァ」とか、木川田くんは思いました。
うっかり泣いちゃって、グラスを握りしめている手の間に涙なんか落ちちゃって、でもそれはグラスの濡れたしずくだから誰にも分んないやと思ってると、「どうしたんだい?」っていう声が後でして、振り向くと先輩なんかよりズーッと素敵なズーッと渋い人が立ってて「ずい分辛そうじゃないか?」って言ってくれて、その人が自分の隣りに腰を下して、黙って自分の肩抱いてくれて、黙って、「そんなこと別にどってことないや」って顔して前に坐ってる奴に見せつけてやるの――なんてことを考えていたら、ホントに、木川田くんの目から涙がこぼれて来そうになりました。
「バーカ」と思ったら、オットットット……≠ニいう感じで涙がポロポロポロってこぼれて来て、それでおしまいになりました。
三発ぐらいこぼして、それで、さり気なく目なんか拭いてやったら、絶対に向うだって「悪いことした」って思うだろって、そう思いました。
思って、そこまではうまく行ったのですが、どうすればカターク、カターク握りしめてしまったグラスから手を離して、さり気なく手を目のところに持って行けるのかということになると、木川田くんにはさっぱり分りませんでした。
「どうしよう……」と思ってじっと考えている間に涙は乾いて来てしまって、なんか、顔のそこんとこだけがこわばりそうだから、「あん!」とか思って、木川田くんはコチョコチョッと顔を拭いてしまいました。
顔を拭いてというよりもこすって、木川田くんは、「ふーっ」と大きく息を吐《つ》いて、椅子の背に凭《もた》れかかってしまいました。一人で遊んでると、滝上くんなんか別にいたっていなくたっておんなじだという気になってしまいました。
そして、ポンポン≠ニ肩を叩かれて振り向くと、滝上くんが立っていて、「久し振りだな」と言いました。
その横に西窪くんが立っていて、「おゥ」と言って、二人はそのまんま出て行ってしまいました。
木川田くんがワナワナと震え出したのは言うまでもありません。
木川田くんは階段を駆けて行きました。いなかったらいないでもいいやと思って、外に出てキョロキョロ見回しました。
五メートルぐらい先を、渋い恰好をした二人が歩いて行きます。
木川田くんは思い切って追いつきました。
西窪くんが振り返って、西窪くんも立ち止まりました。木川田くんは西窪くんの横に立ちすくんで、「あの」と言ったきり、なんにも言えませんでした。まさか滝上くんの方から立ち止まってくれるなんて、木川田くんには思えなかったからです。
黙ってつっ立っている木川田くんを見て、滝上くんは西窪くんに「じゃァな」と言いました。木川田くんは黙って足許を見ていたので、何が起ったのかは分りません。滝上くんに「じやァな」と言われた西窪くんは、「ああ……」と言って、歩いて行きました。
そこにいるのは滝上くんと木川田くんだけです。
滝上くんは黙ってうつむいている木川田くんに「どうしたんだよ?」って言いました――。
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勿論その前に滝上くんと西窪くんがお店の中でこんな話をしていたなんてことは、木川田くんは知りません。
「なんか結局、退屈だな」
西窪くんは言いました。
「そうな」
滝上くんも言いました。
何か、少し危険なアヴァンチュールで、そして同時に、あんまりさし障りのないことが起ったら面白いなァと思ってそのお店にいた二人には、ちっとも面白いことが起こりませんでした。
滝上くんも、ちょっとはお店の人に気に入られたみたいですけど、平気でまた関係のない人――西窪くんのことです――を連れて来てタダ酒にありつこうという根性を見透かされて、あんまり歓待してもらえませんでした。色と欲とをはかりにかけて、あんまり期待出来そうもない色≠フ方に望みを托すほど商売人はバカじゃありません。
という訳で、滝上くんと西窪くんが手持無沙汰になっていると、木川田くんがやって来ました。
という訳で、「あれ、木川田じゃないの?」と西窪くんは言いました。
「どれ? ホントだ」と、滝上くんも言いました。
「こんなとこに来てんのか」
西窪くんが言いました。
「あいつも可哀想なヤツなんだよな」
滝上くんはそう言いました。
「結局な」
西窪くんも言いました。
「ま、結局こんなとこ来たって何がある訳でもない訳だしサ」
そんなことを西窪くんが言うので滝上くんも「まァな」と言いました。
「あれからお前、あいつと会ってんの?」
「だァれ?」
西窪くんの問いに滝上くんが答えると、西窪くんは顎で前の方を指して、「あいつ」と言いました。そのあいつ≠ニは勿論木川田くんのことです。
「全然」
そう言ったのは滝上くんです。
「その内、気がついたら、あいつもこっち来るんじゃないの」
西窪くんが言いました。
「来るかなァ」
滝上くんは言いました。
「サァな」
西窪くんは言いました。
「来たら声でもかけてやれば」
そう言う西窪くんの声に滝上くんは「ふん」と言いました。これは勿論鼻の先で嗤《わら》ったのではなく、大人っぽく「うん」と言っただけです。
「あいつも可哀想なヤツなんだろうなァ」
滝上くんがまた言いました。
「ふん」
西窪くんがこう言ってまた言いました。
「来《こ》ねェみてェな」
「うん」
「そろそろ行くか」
「ああ」
そう言って、西窪くんと滝上くんは出て行ったのです。ポンポンと木川田くんの肩を叩いて。
お店を出ると木川田くんが追っかけて来るのが分りました。
「おい、来るぜ」
西窪くんが言いました。
「ああ」
滝上くんも分っていたようです。
「どうすんの?」
西窪くんが滝上くんに訊きました。
「どうするかなァ」
滝上くんが言いました。
「付き合ってやれば」
西窪くんが言いました。少し笑ったかもしれません。
「お前はどうすんの?」
滝上くんは言いました。
「俺、もう帰るよ。帰ってバイトでも探すわ」
「そうか」
滝上くんは言いました。
「お前どうすんだよ」
西窪くんが言った時、木川田くんの息づかいが聞こえるようでした。
「ちょっとぐらいならな」
滝上くんが言って、西窪くんが「そうか」と言った時、足音が止ったのです。
だから木川田くんが「あの……」と言った時、滝上くんは「じゃァな」と言って、西窪くんは「ああ……」と言ったのです。
親切というのは残酷なものですね。
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滝上くんに「どうしたんだよ?」と言われて、木川田くんは返す言葉がありませんでした。冷たく無視されるのが当然と思っていたのに、二人の関係は相変らず続いているみたいに滝上くんは口をきいてくれたからです。
「ひさしぶりだな」
滝上くんは言いました。
やっと「はい」とは言えたものの、木川田くんは顔を上げることが出来ませんでした。
滝上くんは何もなかったみたいにしてくれているのに、自分はなんか、一杯いろんなことを勝手に考えていて、それが恥かしくて申し訳なかったからです。
「先輩……なんで、こんなとこにいるの……」
木川田くんは辛うじて、それだけを言いました。
「なんか、暇だからな。西窪が一遍行ってみよう≠ニか言うからサ」
「そう……」
滝上くんの言うことがあんまりサバサバしているので、木川田くんは自分の思ってたことがみんな嘘だったんだと思って情なくなりました。今迄だって普通だったし、自分がスネてる時だって滝上くんは普通だったし、これからだってやっぱり普通なんだって思いました。
自分一人が気ィ回して、自分がオカマだからってヘンな風に気ィ回して、それで先輩に迷惑かけてたんだって、そう思ったんです。
そりゃ、少しぐらいはショック受けたかもしれないけど、でも先輩は、俺がオカマだからとかって、そんなこと問題にしてないんだ。だって、初めて会った時だってそうだったもん。バス中で「どうしたの?」って言って俺のこと抱きとめてくれた時だってと、木川田くんは思いました。
「俺、先輩に別にヤラしい気持もってないし……」とか。
「普通にしてれば、やっぱり今迄通りにやっていけんのに、俺ってバカ……」って、木川田くんは思いました。
滝上くんは、あんまり木川田くんが黙ってばっかりいるものだから、辺りをキョロキョロ見回して「どっかでお茶でも飲まないか」と言いました。キョロキョロしていたのは勿論、喫茶店を探していたからではなく、暇だったからです。
木川田くんは涙声で、「うん」と言いました。
滝上くんは、「そんな風に押しつけられても困んだよなァ」と思いました。「まるで、女の子を妊娠させたみたいだ」と思って、少し、きまりが悪くなって来ました。
「そうか、そういうことなのか」と滝上くんは、そうして、思いました。「男だと思うからヤバイんで、女だと思えば別にヤバくもないし」って。
「なんで自分はそういうヘンなことにこだわってたのかなァ」って、滝上くんは思いました。
世の中にははっきりしてる女の子もいればはっきりしない女の子もいる――話の分る男以外には結局世の中にはこの二種類の人間しかいないと思いかけていた滝上くんの世界観を裏打ちするような木川田くんでした。
それしか世界がない滝上くんを責めてもしようがありません。木川田くんだって別の種類の狭い世界観しか持ってなかったんですから。
滝上くんにしてみれば、木川田くんははっきりしない女の子≠ナした。
はっきりしてる女の子とはっきりしてない女の子の差は、扱い方の違いだけでしかありません。はっきりしてる女の子は「そんじゃ」ですぐ別れられましたが、はっきりしてない女の子とはしばらくウダウダと時間を過して、その後で「もうきみとはこれっきりにしたいんだ」と言わなければなりませんでした。
もっとも、違いはこれだけなのですから大した苦労もありません。分ってしまえばすぐ馴《な》れます。
という訳で、滝上くんも、はっきりしない女の子≠フ扱い方は心得ていたのです。
滝上くんがキョロキョロとしていると、木川田くんは「こっち、行かない?」と言いました。はっきりしない女の子≠ヘ、でも放っとけばこれぐらいのことははっきりと言うのです。放っとくだけの間がメンドくさくてかないませんが。
木川田くんと滝上くんは、新宿の二丁目の仲通りを突っ切って厚生年金会館の方に歩いて行きました。木川田くんは何故か、反対側のメインストリートの方へは行きたくなかったのです。
木川田くんと滝上くんは、歌舞伎町のネオンが遠くに見えるところまで来て、道を渡りました。「お茶でも飲まないか」と言い出したわりに、滝上くんは喫茶店を探そうとしている風でもありませんでした。
三月の初めでもまだ夜は寒くって、二人は人気《ひとけ》のない方へ歩いて行きました。
木川田くんははっきり言って、どうしたらいいのか分らなかったのです。「お茶でも飲まないか」って言ってもらえたのは嬉しいけど、でも、明るい喫茶店で向かい合ったら、何をどう言ったらいいのか分らなくなると思って、それが不安でした。だから、たらたらたらたら、人気のない方へと歩いて行きました。
滝上くんは黙って「しょうがねェな」と思ってついて行きましたが、「花園饅頭」のネオン塔の見えるビルの方に木川田くんが迂回しようとした時、「どこ行くの?」と訊きました。
木川田くんは「別に」と言って、「ダメ?」と言いました。滝上くんは「いや、別に」と言って、木川田くんが腕を組むのをほうっておきました。夜の九時前です。
反対側から来る人が滝上くんの方をチラッ∞チラッ≠ニ見ましたが、滝上くんは「ダサイ女ですいません」ぐらいにしか思っていませんでした。
勿論木川田くんはうつむいたまんまなのでそんなことは分りません。いつまでもこんなことをしててもしようがないので、シーンは早いとこ、花園神社の境内に移ります――。
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「こっち通ってこうか」と、滝上くんは言いました。どこまで行ってもキリがないし、ここを抜けて新宿の雑踏の方に入っちゃえば自分の義務≠熄Iると思ったからです。もの分りのいい男の別れ方を演じるのも大変だなと思いましたが、でも滝上くんは場数を踏んでいたので、馴れていました。いつまでも相手に引きずられてるのはバカだと思っていましたから。
花園神社の境内に脚を踏み入れて、ドキドキしながら、木川田くんは先輩≠ノ訊きました。
「先輩、俺のこと、好き……?」
「ああ」
滝上くんはそう答えました。
木田川くんはやっぱり、自分が思ってたみたいに自分は一人でバカなことを考えてたんだって、思いました。
敷石の上を歩いてくと拝殿の方に上ってく階段に突き当って、そうなると木川田くん達は左に曲って、人通りの多い大通りに出なければなりません。
「どうしよう……」と木川田くんは思いました。「そこを左に曲ったら、もう永遠に、先輩にキスしてもらうチャンスはなくなっちゃう」と思いました。「先輩、俺のこと、好き……?」と訊いた時の、滝上くんの「ああ」という甘い声は、麻薬のように木川田くんの頭を痺《しび》れさせていました。
腕を組んで、滝上くんの肩に頭を寄せて、どうしてそっから先に自分は踏みこめないんだろうと、木川田くんは思っていました。先輩がせっかく「こっちを通ってこうか」って言ってくれたのにって……。
勇気がない。勇気がない――。今迄だって、何遍だってこんな機会があったかもしれないのに、自分に勇気がないから全部そういう機会をダメにしてたんだって、木川田くんは思いました。そんなことしてるから、自分は先輩に嫌われるんだって――。
先輩の肩に顔を寄せて、先輩のオーバーのツイードの向うに先輩のやさしい匂いがするんだと思って、木川田くんは、あと二歩で左に曲るというところで、思いきって滝上くんの腕の中に飛びこんで行きました。
滝上くんの胸に顔を埋めて、目を閉じたまま、滝上くんの唇を求めて行きました。
滝上くんの唇があって、滝上くんの唇に触れて、滝上くんは「だめだ」とは言わないようでした。
もう一遍思いきって吸いついて、そして、唇で、チョッと滝上くんの唇に触れてみました。
チョッと触れたら滝上くんの唇は開いて、滝上くんの舌が、木川田くんの舌を、迎えてくれました。もう木川田くんはなんにも考えられなくて、思いきってムチャクチャに滝上くんの口の中をゴチャゴチャに吸い回しました。
夢から醒めたというのはこのことでしょう。木川田くんは初め、なんのことか、分りませんでした。トントンと、誰かが背中を叩いているような気がするのです。誰かが背中を叩いてるのに気がついたら、今度は自分が何をしていたのかが分らなくなっていました。
「はっ」と思ったら目の前に滝上くんが立っていて、滝上くんが両肩に手を当てて、木川田くんの肩を、引き離そうとしていたのです。「あ、そうか、いけない」と思って、木川田くんは我に返りました。
照れくさくなって、笑いながら顔を上げました。
そしてそこで木川田くんが見たものは――。
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「いつまでこんなことやってるんだよ」
滝上くんが言いました。
「いい加減にしろよ」とも。
木川田くんはカーッとなりました。そんなものがこの世の中にあるのかと思いました。あまりに恐ろしい思いをすると人はなかなか自分が恐ろしい目に遭っているのだということに気がつけなくなると言いますが、その時の木川田くんもそうでした。
脚がガクガクと震えて、ホントに何がどうなっているのかが分りませんでした。
肩に置いてある滝上くんの手がそのまま、自分の首を締めに来てもおかしくないと、そう思いました。滝上くんはそれぐらい、表情のない顔をしていました。
バスケットの試合中に滝上くんはよくそういう顔をしていました。敵に追いつめられて是が非でもそこから抜け出さなきゃならない時なんか、そんな顔をしてました。
木川田くんは滝上くんの試合をよく見ていたからそのことは知っていたのです。
それは、自分以外の一切を自分の中からはねのけて、敵に向って行く顔でした。滝上くんがそういう顔をしてボールを床に叩きつけて行く瞬間、木川田くんは応援するよりも「こわい」と思いました。熱心に闘っている間にそんなことを考える自分はいけないとは思いましたが、いつかそんな顔が自分に向かって来るかもしれないと思ったら、「こわい」と思うことを止めることが出来ませんでした。
滝上くんが試合をしている姿を、木川田くんはもう二年以上も見ていませんでした。
だからそんなことは忘れていました。
でも、今自分の目の前にあるのはそんな顔でした。
切れ長で黒目がすっきりと輝いている滝上くんのその瞳が、急に作りものになったみたいで、黒い睫毛と眉毛に縁取られた涼しい目許の周囲から炎が吹き出して、反対にその白いところだけが凍りついているように見えました。
木川田くんは、滝上くんが何を言っているのかが分らなかったのです。
だから滝上くんは、「いい加減にしろよ」と付け加えたのです。
脚の下の地面がドーンとなくなってしまったような気がしました。
木川田くんは滝上くんの胸を、やっぱりドーンと叩きつけて、バッとそこから逃げ出しました。木川田くんが滝上くんの胸を叩きつけたのは、やっぱり滝上くんが憎かったからですが、木川田くんには、自分がそんなことをしているという自覚はありませんでした。
木川田くんは逃げて、気がついたら電車の中にいました。
自分が立って吊り皮につかまっているのがなかなか理解出来ず、電車が「調布」を過ぎて少し席が空いて、そこに坐りこんで初めて、窓の外の暗い田園風景を見て、「ああ、自分は家に帰るんだ」って、そう思いました。
家≠ニは勿論、高幡不動のアパートのことでした。
49
滝上くんは、花園神社の真中で「ばァか」と一人で思いました。思って、口に出しました。滝上くんは、自分がせっかく感じないことにしてしまったものをドンドン叩かれて、それをこじ開けられてしまったことに腹を立てていたのです。女の子ではないヤツ≠無理矢理はっきりしない女の子≠セと思い直して、そしてそいつと手が切れてセイセイしたと滝上くんが一息つくのは、それから、もう少し後のことです。
新宿の大通りに出て滝上くんは、「もう少し飲みたいな」と思いましたが、でも滝上くんのオーバーのポケットにはもう百円玉しかありませんでした。
「家へ帰るのはヤだけど家へ帰るしかないな」と思って、滝上くんはまた一歩、大人≠ヨの道を歩き出したのです。
二十歳《はたち》になった滝上くんが、大学二年生になろうとする、春休みのことでした。
50
その頃の木川田くんが少しおかしかったという話は前にしておきましたが、木川田くんがどうおかしかったのかということはまだしていませんでしたね。
木川田くんは、自分が自由すぎることに不安を抱いていたのです。
51
自由というものは不安なものです、自分が自由だという確証がなければ。
木川田くんだけではなく、それは磯村くんにとっても同じことでした。
磯村くんは時々「ふっと我に返る」というような経験をするようになっていました。どこから何が返って来るのかはよく分りませんが、そんな気がしました。そんな気がしても、別に自分は気を失っていた訳ではないので「そんな気がする」とだけ思っていました。
勿論、磯村くんだって自由になっていたのです。自由になっていたけれど、でもそれ以前の自分が別に不自由≠セったとも磯村くんは思っていなかったので、自分が自由になっているとは思えなかった、思わなかった、それだけでした。
自分では(それなりに)青春をエンジョイしてると思っていた磯村くんは、ただボーッとしてただけでした。自分が自由だ≠ニいう確証のない自由はそんなものです。磯村くんはただ、ザーッ≠ニ音のする画面に馴《な》れただけです。その雑音が聞こえなくなったからその雑音から自由になれたということなのですが、でも磯村くんにはそのことがよく分りませんでした。
一方、木川田くんは自由になりました。自分は自由なんだと、木川田くんは改めて思いました。メンドくさいこと言うオトヤンはいないし、暗い顔してるオカヤンは自分のこと許してくれてるみたいだしと思っていたので、別にイジイジしたり突っ張ったりする必要はあんまりありませんでした。
木川田くんは、中野の家にいる時はあんまり外泊したりする人間ではありませんでしたが、でも、全く外泊しないという訳ではありませんでした。外泊もするけど「うるさいこと言うの分ってるからあんまりしない」という、その程度でした。
でも、磯村くんと一緒にいる時は違いました。「一緒にいて付き合ってなきゃいけないのかな?」とか木川田くんは初め思っていましたが、でも、試験がある磯村くんなんかを見ていると、あんまりそうしない方がいいんだっていう気になって、平気で外へ出て行きました。平気で外へ出て行ける≠ニ言った方がいいでしょうか。
外泊ばかりでなく、将来どうするんだ!≠チていうことも当分考えなくていいので楽でした。
という訳で、木川田くんはフワフワしていました。その日新宿に行ったというのも、バイトが休みだったから「なんとなく」行ったのです。
でも、木川田くんがつかまえた自由というのは、よく考えたら、木川田くんが今迄やっていた生活とおんなじものでした。ただ誰もうるさいことを言わないという、それだけが違いでした。でもそれは、裏を返せば誰もかまってくれない≠ニいうことです。でもその日まで、まだ木川田くんはそのことに気がつかないでいたのです。
という訳で、木川田くんは帰って来るのです。もっともっと恐ろしいことに出遭う為に――。
52
木川田くんが部屋に入ると、磯村くんはもう帰っていました。そんなことは部屋に入る前から灯りが点《つ》いていることで分ることですが、木川田くんは戸を開けて、「やっぱり……」と思いました。
電車に乗って高幡不動の駅に降りた時、木川田くんはどうしたらいいのか分らなくなっていました。
ついうっかり電車に乗ってしまいましたが家≠ノ帰ったら磯村くんがいるのです。
どんな顔をしていいのか、木川田くんにはよく分りませんでした。
木川田くんはもう、お酒を飲みたいとも思いませんでした。男の人と寝たいとも思いませんでした。木川田くんが悲しくなった時に逃げ込む場所は、もう滝上くんが出入りするような場所になっているのです。もう、逃げるところはありませんでした。
中野の家にも帰れません。あそこではもう、絶望が当り前になりすぎています。自分が今迄ズーッと貯めて来た絶望と、今更木川田くんは対面したいとは思いませんでした。ひょっとしたらお母さんが慰めてくれるかもしれないと、一瞬だけそんなことも思いましたが、思って吐き気がしました。自分はもうそんな子供≠カゃないんだっていうことは、木川田くんにはよく分っていましたから。
木川田くんのお母さんは、木川田くんを赤ちゃんにして可愛がることしか出来ない人でしたから。
木川田くんは、ちゃんとした誰かにかまってもらいたかったのです。
「そういうのひどいね」って、誰かに言ってもらいたかったのです。
電車に乗り込む時、木川田くんは別にそんなにはっきりしたことを考えていた訳じゃありません。瞬間瞬間に通り過ぎて飛び去って行った木川田くんの考えをまとめればそんな風になるというだけです。
駅を降りて、木川田くんはお酒の自動販売機を見つけました。お金を入れて、機械をガタガタ言わせて、木川田くんはお酒を飲みました。一口グッと飲んで、フーッ≠ニ思ったら、もう、飲めなくなりました。なんだか分らない、それだけでもうお酒が体の中に入らないのです。円筒形の透明なグラスの中には、まだ日本酒が七割がた残っています。木川田くんは胸からお腹の中がカーッと熱くなって来るのを感じて、「そうだ、自分てあったかくなりたかったんだ」って思いました。あんまり寒くって寒さを感じられなくなってたんだって思ったら、なんだか、急に寒くなって来ました。しばらく収っていた震えがまた戻って来て、ガタガタ震えながら、木川田くんはお酒のグラスを道端にそっと置きました。「下手すると吐いちゃうかもしれない」って、木川田くんはそう思ったんです。
「吐いちゃってメチャクチャになっちゃえばいい」と木川田くんが思っていたのなら、それはそれで簡単だったかもしれません。でも、「下手すると吐いちゃうかもしれない」と思ってそっと道端に空き壜《びん》を置く木川田くんは違いました。時として、希望とか前向きとかやさしさとかいうものは、絶望よりも厄介な事態を惹き起こすのです。
木川田くんだってそんな気がしたのかもしれません。でも木川田くんは、それでもやっぱり、生きていたいと思ったのです。
「どうしたの?」
部屋に入ったら磯村くんは言いました。少し大人っぽくなったけど、磯村くんは、いつもとおんなじ磯村くんでした。磯村くんはなんにも言わないけど、「でもひょっとしたら、磯村最近、女と付き合ってんじゃないかな」なんてことを、さすがに鈍い木川田くんも感じていました。
日曜日の晩に電話で話している磯村くんの受話器の向うから、女の人の声が洩れて来ることもあったからです。
「うん」
磯村くんに「どうしたの?」と訊かれて、木川田くんはそれだけを答えました。
「あ、そうか、今日休みだったのか」
磯村くんはそう言いました。
机に向って戸口の方に顔だけ向けている磯村くんに「うん」とだけ言って、木川田くんは態々《わざわざ》冷たい流しのところの床に、凭《もた》れるようにして坐りました。
「死んじゃおうかなァ」
木川田くんは、一番あどけなく見えるような顔をして、敢えてポツンとそう言いました。木川田くんは、自分が十分そういうお芝居の出来る人間だっていうことは知っていました。
「死んじゃおうかなァ」って言ってそのまんま畳を見つめている木川田くんを見て、磯村くんは「どうしたのォ?」って言いました。
あんまり磯村くんが、自分が思った通りの言い方をするもんだから、それだけがおかしくって「ははん」と、木川田くんは笑いました。
「なんだよ?」って磯村くんが言って、「別に」と木川田くんが言って、「そんなにいやなら死んじゃえば」って、磯村くんはニッコリ笑って言いました。磯村くんは最近「MIZUNO SPORTS」にいる真理ちゃん≠ニ付き合っていたので、もって回ったことを言う付き合いは「つまらないな」って思っていたのです。
真理ちゃん≠ニいう子は、短大を出てアメリカに行って、それから日本でジャズダンスのインストラクターになるのが夢だっていう、高樹澪みたいな感じのするストレートな女の子でした。磯村くんは最近、自分がそういうまっすぐな感じ≠チてなくしちゃったなって思ってたから、その子が好きになったのです。
磯村くんは別にいやがらせで言ったのではなくて、そういう風に冗談にしちゃえば楽になると思ったから、「死んじゃえば」って言ったのですが、木川田くんは、なんか、そういう磯村くんを明るくさせているもののことを感じて、そのことに嫉妬《しつと》をしました。
「ホントにどうしたの?」
磯村くんは机のところを離れて、木川田くんの前に立って言いました。その様子は、木川田くんが道端でビロードを敷いてアクセサリーを売っている人で、磯村くんはそれの取材をしている流行に鈍感なジャーナリストみたいでした。
「別に」
すねたみたいに木川田くんは言いました。もう滝上くんのことは好きじゃないんだって、そう自分では分って来たようでした。すねている木川田くんは、もう滝上くんの顔を思い出してはいませんでしたから。
木川田くんの方を覗《のぞ》きこんでいた磯村くんは、「ヘンなの」と言って背中を伸ばして、「木川田ァ、お風呂入る?」と言いました。
ちょっと開き気味にして脚を構えて、そして伸びをして、顔だけをお風呂場の方に向けて、磯村くんはそう言ったのです。磯村くんは、グレーのジャージを穿いていて男の子でした。
「お風呂に入る?」と訊かれた木川田くんは「俺、入りたくない」と言いました。すべてはどうでもよくなって来たのです。
木川田くんの前に磯村くんが立ってて、木川田くんの目のあるところのちょっと上に、磯村くんの腰がありました。
「どうしようかなァ」と言って、磯村くんはブラブラとお風呂場の方に歩いて行きました。
ドアを開けてお風呂場を覗きこんで「いいや、メンドくさいから」と言っている磯村くんの後ろ姿を見て、木川田くんは、磯村くんも男≠ネんだと思っていました。「あの、モッコリしたとこがたまんないや」と思って、ジャージの下にあるもののことを、頭の中で感じていました。ちょっとダブダブのジャージだとそんなに目立たないけど、でも、歩くと、なんかの拍子にプクッとした膨みが見えるみたいでした。
「あいつのって、結構デカイんだよな。立つと」とかって、木川田くんは思っていました。
「テレビでも見ようかなァ」と言って、磯村くんは、ちょうど木川田くんの向い側にあるテレビの前で腰を屈《かが》めました。
木川田くんの前にお尻を突き出して、ジャージの下からブリーフの線が見えるみたいでした。
「あのまんま降ろしちゃえばラクなのに」って、木川田くんは二本のゴムで止まってる、磯村くんのジャージとブリーフと、その中身のことを考えてました。
「そうだィ、結局はあいつだって好きなのに」って、木川田くんは滝上くんのことを考えてました。
「舌入れて来たくせに」とか――。
木川田くんは、癪《しやく》だったのです。
「もう少しうまくやれば滝上くんだってものに出来たかもしれない」とか木川田くんは思いました。「いやがってなかったのにチクショー、もう少しうまくやってればその気に出来たのに」とか、木川田くんは思いました。その気になれば男なんてみんなおんなじだって、木川田くんは知ってましたから。でも、すべての男はすべての男なりに、その気になるなり方が違うっていうことは、木川田くんは、少ししか知りませんでした。
木川田くんは不貞腐《ふてくさ》れたまんま、磯村くんが自分の方を向くのを待ってました。「その気にさせたら絶対自信あるから」って。
磯村くんは「なんか見たいのある?」って木川田くんに振り返りました。
木川田くんはこの時とばかり「別に!」と言ってそっぽを向きました。そっぽを向いて、「もうちょっとかな」と思って、一生懸命悲しいことを考えようとしました。悲しいことを考えて悲しそうな顔をして、それで気を引こうと思いました。それが一番簡単で手っ取り早かったからです。
でも、滝上くんとのことを考えまいとしている木川田くんの中にはなんにも悲しいことが浮かんで来ませんでした。「チクショー、あのヤロー、いい体してやがんな」とか、見たこともない滝上くんの体が滝上くんの表情に重なって来るだけです。「見たことがない訳でもないし」って、木川田くんは、滝上くんのあそこのことを考えていました。
「どうしたの?」
磯村くんのやさしい声が聞こえるようでした。透き通ってけがれを知らない、どこか女の子を思わせるようなところもある磯村くんの声は、でもやっぱり男の子の声でした。「それで、木川田がほしい……≠チて言ってくれたら、それでいいのに」って、木川田くんは部厚いオーバーの中で体をくねらせて考えてました。
磯村くんの肌は白くって、唇はピンクです。髭の剃り跡がうっすらと青くなっています。「ああ、なんかああいうのって感じる」って、木川田くんは思いました。
ストーブの効いた部屋の中でオーバーを着ている木川田くんの体は、オーバーの下のセーターの中で、春みたいにあったかくなっていました。
「いそむら……」
そう言って木川田くんは、磯村くんの首に手を回しました。
目は閉じて、磯村くんの唇を探しています。
磯村くんの唇はぷっくりと柔らかくて、スポーツマンの滝上くんとは違っていました。
磯村くんの唇はまるで木川田くんの唇を遊ばせてくれてるみたいで、木川田くんは「こっちの方がいい」と思いました。
もう木川田くんの脚の間では、硬くなったものがトランクスの薄くて丈夫なきれを突き上げています。
「うーん……。だったら、そう言えばいいのにィ」
磯村くんが焦れたみたいに言いました。磯村くんはもう、セックスがこわくなくなっていたのです。
木川田くんは、中腰になった磯村くんを落ち着けようとして、磯村くんの首にかかった腕に力を入れて、磯村くんを引っ張りました。
木川田くんに引っ張られると、磯村くんの体は横坐りになってしまいます。
「ン! ちゃんとしなよ!」
磯村くんはそう言って腰を落ち着けると、オーバーごと木川田くんの体に腕を回しました。
もう磯村くんにとっては、女とするのも男とするのもおんなじだったのです。
木川田くんは磯村くんに抱かれると「いや」と言って体をよじりました。体をよじって磯村くんの腕を振りほどくと、怒ったようにオーバーの袖から腕を抜きました。
「ほらァ!」と言って、木川田くんは、そのまんま磯村くんの首に腕を回して、押し倒すようにしてのしかかって行きました。
「ほらァ、ストーブ倒すよォ」
部屋の真中に横たわりながら、磯村くんは冷静でした。一遍押し倒された体を「ちょっと」と言って整えると、そのまんま、木川田くんの頭を抱きました。
木川田くんは磯村くんの首筋に顔を埋めると、首に回していた腕を解いてそのまま伸ばし、大の字になったみたいの磯村くんの腕をつかみました。そのまんま這わせて、磯村くんの指と、指先をからめました。
磯村くんは、「手を握るのは嬉しいけど、首筋はくすぐったいな」と思っていました。
木川田くんの脚は磯村くんの脚と絡まって、磯村くんの腰に熱い硬い、やっぱり熱いものが当りました。腰骨の辺りをそれでゴシゴシとこすられているのは気持がいいなと、磯村くんは思いました。お風呂に入ってもゴシゴシと体をこするのが気持のいい磯村くんでしたから。
木川田くんは、磯村くんの両脚の間に右脚を割りこませて、ちょうど両脚で磯村くんの右脚を押さえこむようにしていました。
右脚の太腿で磯村くんの腰を撫で上げて、それでまだ膨んだまんまでいるところの感触を確かめていました。「こいつ結構ウブだからな」と思って。
木川田くんはゆっくりやるよりも手っ取り早くした方がいいと思って、磯村くんの掌を握っていた指をすべらすと、そろそろと、右手を磯村くんのジャージの中心に持って来ました。吸水性のいいその体操用の化学繊維はヘンな感じで、柔らかなくせにゴムみたいに粘るのでした。
木川田くんはジャージの上から磯村くんのそこを掴《つか》んで、掌の中で大体の感じを確かめていました。全身の神経を掌に集中すると、今迄付き合って来た男の人達のデータが掌の中でコンピューターになって、「どの辺のどんくらいの男」というのが大体分るのです。
磯村くんのあそこは、前よりもかなり大きくなって来たみたいな気がしました。
木川田くんは磯村くんの首筋を舐《な》めて、「舌でくすぐるよりもいっそ噛んじゃった方が早いかな」なんてことを思っていました。
磯村くんは黙って、声を出しません。「もう、すっかりその気になってんだ」と、木川田くんは思いました。
柔らかかったものが少し硬くなって来たような気がしました。磯村くんよりも、もう木川田くんの方がその気になっていました。
木川田くんはジャージの上から磯村くんのものをこすり上げると、我慢出来なくなって、そのまんまその手を、磯村くんのズボンの中へ突っ込んでしまいました。
磯村くんのお腹は少し汗ばんでいて、木川田くんの指先でブリーフのゴムが少し、引っかかりました。
木川田くんは、もうその気≠ネんだと思って、「あ……」という声を喉の中で出しました。
磯村くんがゴロン≠ニ脚を開げたみたいです。木川田くんは磯村くんの掌に頭を掴まれて、そしてそのまま磯村くんの掌は木川田くんの背中を撫で回していました。背中から腰へと。
木川田くんは「ふん、下手糞」と思っていました。
下手糞でも磯村くんの動きはテキパキとしていて、木川田くんがしているように、木川田くんのズボンの真中辺にまで、磯村くんの手は降りて来ていました。
磯村くんは、セックスのことなら大体分っているつもりでしたが、でも、大体のトバ口からもうちょっと先へ行くと、どうしたらいいのか分らなくなりました。やっぱり、男は女じゃないからです。
やっぱり、木川田くんにあそこを撫でられてると気持がいいんだから、そういう風にすればいいんだろうと磯村くんは思ってました。突っ込むとこと柔らかいとこのない相手とのセックスというのは一種のスポーツみたいなものだから、大体相手のやってる通りにすれば間違いはないんだろうと思いました。
木川田くんの穿《は》いているツイードのズボンはちょっとゴワゴワしてちょっとチクチクしましたが、でもやっぱりそれは人間の着ているものだから、あったかくて柔らかでした。
木川田くんの太腿も女の子とおんなじようにあったかでしたが、でも、木川田くんのあそこは、そういうあったかさとは別でした。女の子の場合は、そこはあったかくても地面のようにゆるやかで湿っていますが、男の木川田くんはそうではありませんでした。まるで、住宅街の中で一生懸命張り切って活動している小さなハンバーガー工場のようでした。
どんな比喩かはよく分りませんが、まァ、そんなとこでした。
「木川田のって、僕のこと大きい≠チて言ってたけど、自分だって結構大きいじゃない」って、磯村くんは思いました。時々、「磯村の、大きい」って言うから、木川田くんのがどんなに小さいかと思っていたら結構自分とおんなじぐらいあるじゃないかと、磯村くんはそう思いました。磯村くんはそれまでに、他人のおちんちんなんて、さわるはおろか、見たこともなかったからです――(あ、そうか)お兄さんのは一遍見たことがあります。見て「包茎ェ」って言ったことはあります。それで「勝った!」と、磯村くんは思ったのです。
それで木川田くんが「大きい」って言うものだから、磯村くんはやっぱり、自分のが大きい≠ニ思ってたんです。
でも、実際触ってみると、木川田くんのも自分とおんなじぐらいあります。正確なとこはよく分りませんが、ひょっとしたら自分のよりも大きいかもしれないと思いました。
実際はともかく、磯村くんはその時、科学する心に感動をおぼえたのです。
「大きいじゃない」
磯村くんは言いました。
もう少し確かめようと思って、磯村くんは、木川田くんのおちんちんをよくつかまえようとしました。
木川田くんの腰がビクッ≠ニ動いたようです。磯村くんの指が、容赦なく、木川田くんの腰を追って行きます。
木川田くんは腰を屈めて、磯村くんに触られないようにしてドンドン後に引きました。
「ねェねェねェ」
磯村くんの指は、かまわずに追っかけて行きます。
「木川田のだって結構大きいんじゃないの?」
木川田くんは磯村くんに肩を掴まれて、あお向けにされています。
木川田くんの右手はまだ磯村くんのジャージの中に突っ込まれたままで、磯村くんのそこは、まだ固くなんてなっていません。お風呂に入って出て来た時みたいに、磯村くんの体はスベスベしています。
木川田くんは慌てて手を引きました。
磯村くんのジャージの強いゴムは、すぐに元に戻って、でもついさっきまで木川田くんがヘンなことをしていたのを強調するように、そのゴムの上には白いTシャツがクシャクシャと出ていました。
木川田くんは、丸裸にされて、床の上に磔《はりつけ》にされているような気持です。
磔にされている自分は丸裸で、まだ胸の肋《あばら》の間にニキビを残していて、ゴツゴツとやせていて、黒々と腋毛が生えていて、毛深くって、男の子の印しを表わすものがニョッキリと、人より大きく生えていて、でも、それがさっきまで女≠フ真似をしていたのです。
「なんだよ、どうしたの?」
そう言っている磯村くんの顔は勿論、逃げて来たばかりの滝上くんの顔とは違った無表情でした。
やさしさというのは、どこにもありませんでした。科学≠ヘとっても冷静ですから。木川田くんは、ノッペラボーから逃げて来ておそば屋さんに会ったら、今度は自分がノッペラボーになってしまっているような気がしました。だから、おそば屋さんはニヤニヤと笑うのです。ノッペラボーのおそば屋さんに会った方がまだましです。
木川田くんは、自分の胸の中に太くて冷たい鉄棒をグッと突っ込まれたみたいで、最早《もはや》、口もきけませんでした。
「帰りたい! 帰りたい!」
木川田くんは灯りの点《つ》いた部屋の中で、キチンと洋服を着たまんま、まるで赤ん坊のように、膝を抱えて震えていました。
「ヘンだなァ」
磯村くんは立ち上ると、木川田くんのせいでグシャグシャになったTシャツやシャツをジャージの中に突っこんで、傍に倒れている木川田くんを不思議そうな顔つきで眺めていました。眺めていただけですが、でもその服装を直している磯村くんの動きは「お前のせいだぜ」って言っているみたいでした。
木川田くんは、自分が男≠ナあることを、一番いやな形で磯村くんに突きつけられたのです。
「そんなこと初めから当り前じゃない」と言っている磯村くんの無表情は、木川田くんにとって何よりも恐ろしいものでした。だって、当り前なら誰も助けてはくれません。当り前なら誰だって平気で笑うでしょう。でも木川田くんは、誰かに助けてもらいたかったのです。誰かに笑われたくはなかったのです。そう思っちゃいけないと思っていた木川田くんは、その日全部、希望というものをなくしました。
希望のかわりに押しつけられたのは、木川田くんがズーッと曖昧《あいまい》なままにしていた、自分は男であるという、見たくもない事実でした。
木川田くんは男で、大きなチンボコをくっつけたまんまみっともない女をやっていたという、自分の見たくもない今迄を全部、同じ男≠ナある磯村くんに教えられたという訳でした。
知らないでそれを教えた磯村くんは「あーあ」と背中をかいて、急にオシッコがしたくなったのでトイレへ行ってしまいました。
「こんなのがなんだっていうんだろ?」
磯村くんはそれが不思議で、うっかりトイレの床を濡らしてしまいそうになりました。でも磯村くんにはなんとなく、その答が分るような気も、したはしたのでした。それはホントになんとなく≠ナしたが――。
ホントに、なんとなく。
53
その日から木川田くんは、もう磯村くんの部屋には帰って来ませんでした。正確には次の日の朝から≠ナしたが。
朝起きたらもう、木川田くんはいませんでした。昨日の晩「頭が痛い」って言ってスグ、洋服のまんま寝ちゃった木川田くんがいないので、磯村くんは「あれ?」と思いました。
布団は敷きっ放しで、木川田くんだけがいないから、「トイレにでも行ったのかな?」とか、磯村くんは思いました。
トン、トン≠ニドアを叩いたら音がなくて、開けてみたらトイレのドアは開きました。
「どこに行ったんだろう?」と思って、布団の中に戻りましたが、でもバイトに行かなきゃならないので、磯村くんは起きなくちゃなりませんでした。
磯村くんの隣りでは誰もいない布団が白い中味を覗《のぞ》かせて、まるでアンコの入ってない柏餅みたいでした。
「オーバーもないし」と思って、昨日の晩流しの床に脱ぎっ放しのまんまになっていたオーバーがなくなっているのに磯村くんは気づきました。
「ひょっとしたら押入れの中かな?」とも思いましたが、そんなことはないと思っているのはそう思った磯村くんその人でした。
「どこ行ったんだろう?」と思って、「でも起きなきゃ」と思って、磯村くんは、自分の布団を畳みました。
自分の布団だけ畳んでお湯を沸しに流しのところまで立って行った磯村くんは、流しの側に敷いてある木川田くんのお布団が邪魔になって、それをそのまんま、部屋の中央まで引っ張って行きました。
「一緒に畳んじゃおうかなァ」とも思ったのですが、そう思った途端、「ひょっとしたらあいつ、薬でも買いに行ったのかな?」と磯村くんは思いました。「昨日の晩、頭痛い≠チて言ってたから」――。
カーテンを開けた部屋の真ん中に一つだけ、白いカバーのかかった布団が敷いてあるのを見ると、やっぱり木川田くんは病気なんだと、そんな風に納得出来るようでした。
「このまんまにしといてやろう」と思って磯村くんが部屋を出たのは、朝の九時五十二分のことでした。
54
木川田くんは、その晩も帰って来ませんでした。MIZUNO SPORTSの真理ちゃん≠焉u用事がある」と言ってそのまんま帰ってしまったので、磯村くんは真っ直ぐにバイト先から帰って来ました。帰って来て、布団がそのまんまになっているので「あれ?」と思いました。しようがないので、湿って冷たくなっている布団を押入れの中にしまいました。
「友達≠フとこにでも行ってるのかな?」と磯村くんは思って、「友達≠ニも木川田はああいうことをするのかな?」って、昨日の晩のことを思い出しました。
友達≠チて言っても磯村くんには、例の眼鏡をかけたテレビ≠フ医科大生しか思いつかないので、「オエッ」と思いました。
ジャージに穿《は》き替えて、磯村くんはジャージのウエストを引っ張ってみて、その中に自分のブリーフを穿いたお腹があるのを見て、そして今度は、ブリーフのゴムも引っ張って見て、その中に自分の毛の生えたおちんちんがあるのを見て、「なるほど」と思いました。
何が「なるほど」でどういう風に「なるほど」なのかはよく分らないのですが、ともかく磯村くんはそう思って、それからしばらくは立ったまんま――部屋の真ん中に≠ニいう意味です――ジャージのゴムを引っ張ったり伸ばしたりして、お腹のところでパチンパチンと音を立てて遊んでいました。
十一時を過ぎても十二時を過ぎても帰って来ないので、磯村くんは「友達のとこにでも泊ったのかなァ」と思いました。
今度は、そう思ったら「関係ないや」と思いました。次の日MIZUNO SPORTSの真理ちゃん≠ニデートする約束のあった磯村くんは、今頃*リ川田くんが友達≠フ部屋で何をしてようと関係がないなと思ったのです。「結局僕じゃいやなんだろうしサ」って。
55
木川田くんは、ズーッと帰って来ませんでした。三日目にバイト先のカフェバーに電話しても「ズッと休んでます」としか言ってくれないので、しようがないから磯村くんは、木川田くんの家にまで電話をしたのです。
その前の日は真理ちゃんとデートをしていて、「鳴るかもしれないな」と部屋の電話を気にしながら話をしているのは落着かなくていやだったからです。
真理ちゃんとは帰り道、駅まで送って行く途中でキスをしましたが、まだセックスまではしていません。
磯村くんは木川田くんの家に電話をしました。向うでベルが鳴っている間、磯村くんは「ホントに保護者だよ、やんなっちゃう」と、自分のことを思っていました。
「はい、木川田です」
木川田くんのお母さんは相変らず暗い声でした。暗い声でしたが、でもそれは以前の井戸の中から聞こえて来るような暗さではなくて、刈り入れの終った田圃《たんぼ》に初めて霜が降りた日の夕方みたいな暗さでした。なんとなく実質だけはあるというようなことです。
磯村くんはその木川田くんのお母さんの声を聞いて、「暗いは暗いけど、前よりは少しテキパキとして来たんじゃないの」というようなことを思いました。
「あのォ……磯村といいますが、あの、源一くん……」と磯村くんが言ったら木川田くんのお母さんは、今迄磯村くんが聞いたこともないような賑《にぎ》やかな声を出して、「ああ、ああ、ああ……ああ、磯村さん、もう本当に源一がお世話になって」と、まるで田舎の駅長さんが旗を振ってるみたいな話し方をしました。
磯村くんはなんだか分らないので、「はい」とも言えず「はァ……」とだけ言いました。
木川田くんのお母さんは一生懸命お礼を言ってました。「一度は御挨拶に伺わなくちゃいけないと思っていたんですけども」って、まるで明日にも文明堂のカステラを持ってやって来そうな言い方をしました。「どう考えたってこれは木川田が帰って来てるって感じじゃないな」と磯村くんは思いましたが、「でもひょっとしてこのはしゃぎ方は木川田が帰って来てるってことなのかな?」っていうような気もしました。それで磯村くんは「ズーッと木川田くん帰って来てないんですけど」って言うのはやめて、「あの、木川田くん、もしかして」って言いました。
「は?」って、木川田くんのお母さんは言いました。
「もしかして木川田くん、そっちに行ってませんか?」
磯村くんは言いました。
「いえッ 来ておりませんがッ」
木川田くんのお母さんは打って変って、頭のてっぺんで「秋田おばこ」を踊ってるみたいな声を出しました。
磯村くんはもうあんまり深入りしたくないもんで、「あ、ちょっと急ぎの用事があったものですから、ひょっとしたらそっちに寄ってないかなと思って」と、嘘をつきました。
「いえ☆いえ☆いえ☆ 来てませんです☆☆☆」
電話の向うで鳩時計がプルプルプルッ≠ニ頭を振って午後九時を告げているみたいに、木川田くんのお母さんが言いました。よくもまァ、次から次へとメチャクチャな比喩《ひゆ》が出て来るものです。
磯村くんはあんまりメチャクチャな比喩が続くと、楽しむというよりは不安になるようなタイプだったので「早いとこ切っちゃお」と思いました。一体どうして磯村くんに俺の使う比喩が分るんだという話もありますが、そこのところは親の心子知らず≠ナす(すぐ嘘をつく)。
磯村くんには木川田くんがどこへ行ったのかは分りませんでしたが、木川田くんのお母さんが、別に暗い悲劇の中で押し潰された漬け物になっている訳ではないということだけは分りました。「結局僕ってバカだから、シチュエーションを悲劇的にとることしか出来ないのかな?」って、磯村くんは思いました。「ヘンな心配をすると木川田にダサイって思われるだけかな」――そう思いました。「木川田には木川田で、僕の知らない付き合いってある筈だし」って、そういうことを考えるとまるで自分が見捨てられたみたいで、磯村くんは、布団を敷きっ放しで出て行かなくちゃならないという、そちらの方の異常性を考えるのはやめてしまいました。磯村くんにとって、木川田くんが一人で遊び歩いているということは自分があんまり好かれてない≠ニいうことだったのです。
「その内帰って来るんだろう」と、磯村くんは思いました。たかだか二晩、木川田くんが留守しただけでオタオタしている自分がバカみたいだと思いました。
磯村くんはシチュエーションを悲劇的にとることしか出来ないバカな人間≠ネのではなくて、「シチュエーションが悲劇的だったら僕だって手をさしのべられるし、さしのべてもいいと思えるからシチュエーションが悲劇的になってくれたらホントはいい」と思ってるフシもある、引っ込み思案で臆病な人間≠セったというだけなのです。
木川田くんは帰って来ませんでした。一週間後に磯村くんがアルバイトから帰って来ると、机の上に「家に帰ります。メーワクかけてゴメンね。木川田」と書いた紙だけが置いてありました。P.S.≠ニは書いてなくて、その後に「ビギのブルゾンと洗タクキはあげるからおいてく」って書いてありました。
部屋に貼ってあるポスターなんかはそのままなので、別に磯村くんには何かがあったとは思えなかったのですけれど、よく見たら、ブリキの灰皿はなくなっていました。食器棚の中だって別に変った様子もなくて、押し入れを開けたらガランとした中に白いビギのブルゾンだけが掛っていました。
窓の外を見れば洗濯機が置いてあるのはズーッと前からおんなじです。磯村くんは、何がなんだかよく分りませんでした。
磯村くんは「何があったんだろ?」と思って、隣りの部屋の新婚さんのドアをノックしました。隣りの奥さんは、「なんだかよく分らないけど、一緒にいた男の子(木川田くんのことです)が荷物運び出してたみたいよ」と言いました。「一人でですか?」と磯村くんが訊くと「誰か男の人が車運転してたみたいだったけどねェ」と、その奥さんは言いました。磯村くんはまるで自分がバカみたいなので、「そうですか、どうも――。あ、すいません」と言って部屋を出ました。
自分の部屋のドアを開けて、見回すと、確かに玄関に置いてある筈の木川田くんの靴がありません。あまりにもあっけないので、磯村くんは呆然としました。呆然として頭に来て「一体どうなってるんだ?」と思って、木川田くんの家に電話をしました。
木川田くんのお母さんは、今度は花電車に乗って花笠踊りを踊ってるみたいで、「ホントにおかげさまで源一も帰って来ましてありがとうございました」と言いました。
磯村くんはお礼を言われたくて電話した訳ではないので「すいません、木川田くんをお願いします」と言いました。小母さんは「はいはいはいはい☆☆☆ ちょっとお待ち下さい」と、まるでキラキラ星がお茶菓子を置いて出て行ったみたいに、受話器の向うからいなくなりました。遠くで「源一! 源一!」と大石内蔵助が討入りをするみたいな声が聞こえました。
「すいません、源一は頭が痛いと言って、寝ておりまして」と、しばらくして戻って来た小母さんは愛想笑いをしてそう言いました。
「そうかよォ……」と、磯村くんは黙って思いました。
磯村くんが「じゃァいいです」と言うと、小母さんは「ホントにあんな子をねェ……もう、ああいう子ですから申し訳ないんですけど、本当にお世話になってしまって」と、まるで今迄とは別人のように「ホホホホホホ……」と笑いました。
「くさい芝居やってろ!」と磯村くんは思いました。「あんな子≠チてどんな子だよ?」と、磯村くんは思いました。
「エゴイストで、勝手で、わがままなだけじゃないかよッ!」って、電話を切った後で、磯村くんは一人の部屋の中で黙って叫びました。
「バカヤロ!」と思って、ボーイ・ジョージとワムのポスターを壁から引っぺがしました。磯村くんは、ボーイ・ジョージもワムも、どっちも好きじゃなかったのです。
ポスターを止めてあった赤と緑のプラスチックの画鋲《がびよう》がアチコチに飛んで、うっかりそれを踏んづけた磯村くんは「痛ッ!」と一人で叫びました。
56
木川田くんは、磯村くんの部屋を出てから一週間、一人でホテルを泊り歩いていました。なんの着替えも持っていない木川田くんがどうして一週間もそんなところにいられたのかというと、そこは、服を着ないでもすむホテルだったからです。
男の人だけが泊まれて男の人だけがセックス出来るように、そんな目的だけで出来ているホテルが東京にはいくつかあって、木川田くんはそこに泊っていました。木川田くんは、セックスだけがしたかったのです。
そして勿論、木川田くんはセックスなんか全然したくなかったから、そういうところにも平気でいられたのです。
修学旅行の大広間みたいに、男の人みんなが枕投げみたいなセックスをしている薄暗い部屋の隅で、木川田くんはぼんやりとその光景を眺めていました。
初めはなんでそんなとこにいるのか、自分でもよく分んなかったんですけど、二日もしたら、「そういうの見たくない!≠チて言いたいからそれが言えるまでズッと見てる」ことが分りました。
ズーッと見てて、四日目には「バカみたい」と思いました。
五日目には「帰りたい」と思って心細くなって、男の人に抱かれました。違う人に五人です。
六日目の朝、自分のことを抱いてるオジサンが気持悪くなって、よそへ引っ越しました。
六日目の夕方、また三日目までとおんなじことを、男の人が十人ぐらいからみ合ってる部屋の隅で考えてて、木川田くんは「どうしたの? 出ようよ?」って言ってくれる人が来るのを待ってるんだってことに気がつきました。
「どうしたの? 出ようよ?」って言ったのは三十過ぎの下町の石屋のお兄さんで、木川田くんがあんまりボンヤリしてるんでそう言ったのだそうです。
その日はそのお兄さんのマンションに泊めてもらって、どうしてぼんやりしてたのかっていう訳を話しました。
木川田くんがその人のいいお兄さんに話した訳≠ニいうのは、同棲してた恋人と喧嘩しちゃってもう帰れない≠ニいう、よくある話でした。「荷物置きっぱなしにして来ちゃった」と言って、「なんだ、そんなの簡単じゃないか」というお兄さんに頼んで、磯村くんの留守に荷物を運び出したという訳です。
荷物を運び出して高幡不動のアパートのドアを閉めると、木川田くんは磯村くんに貰った合鍵でドアに鍵をかけました。ドアに鍵をかけて、「この鍵どうしよう?」と木川田くんは思いました。「貰ってく訳にいかないし」と思って。
鍵かけて、鍵は余ったけど、でも鍵を置いてく場所はありません。木川田くんは辺りを見回して、「ひょっとして……」と思って、玄関と並んでいるお風呂場の窓に手をかけました。
鉄の柵の向うで案の定、そのお風呂場の窓は開いていて、木川田くんはゆっくりと少しだけ、その鍵のかかっていない窓を開けました。
「磯村、ごめんね」と言って、木川田くんは、背伸びをして、その窓の隙き間から鍵を投げました。力一杯投げないとヘンなとこに落っこちそうだったので、ヘンな恰好で鍵を投げている木川田くんのその様子は、とっても「ごめんなさい」と言っているようには見えませんでした。
お風呂場の端にあるドアに向って木川田くんは鍵を投げたのですが、残念ながらそのドアには届かず、タイルの床にはねかえって、その鍵は浴槽の置いてあるコンクリートのたたきの上に落っこちてしまいました。
「どこ行ったんだろう?」と思って木川田くんは覗きこみましたが見えません。「それだったら初めっからお風呂のフタの上に落っことしとけばよかったなァ」と木川田くんは思いましたが、もう後の祭りです。窓のすぐ下にあるフタのしてある浴槽の上に落したら、その鍵ははね返ってヘンなところに行っちゃうかもしれないと思って、木川田くんは遠くへ投げたのです。
赤いカリーナに乗った石屋のお兄さんがプップーッ≠ニクラクションを鳴らしました。木川田くんは「ごめんね」とまた言って、それで中野に帰ったのです。
磯村くんがその鍵を発見したのは、木川田くんが荷物を運び出したその次の日です。
お風呂の水を抜いて、しばらくそれが流れるのを見ていたら、コンクリートの隅に何かがあるのを見つけて、それが木川田くんの投げた合鍵だったという訳です。
「バカヤロ! 逃げやがって!」と思って、磯村くんはもう一遍、その合鍵を下水溝の方へ叩きつけました。
カチン!≠ニ、何かが割れたようです。
57
石屋のお兄さんに中野まで送ってもらった木川田くんは、別れ際にそのお兄さんから「また困ったことがあったら言って来な」と言ってもらえたんですが、でもそのお兄さんに「うん」て言いながら、木川田くんは「もう行かないよ」って思っていました。
その、顔や体は四角いけど、目はやさしいお兄さんに、自分は嘘をついてしまったと思っていたからです。
そりゃ、磯村くんとは同棲≠オてたかもしれないけど、でも、磯村くんは恋人≠カゃなかったし喧嘩した*でもなかったからです。
磯村くんはいい奴≠ナ、仲が良くなりたかったけど、でも自分がダメだったから≠サれで嫌われて――別に嫌われた訳じゃないかもしれないけど、絶対あのまんまだったらすぐ嫌われちゃうこと分ってたから、それで、木川田くんは逃げて来たのです。
木川田くんは磯村くんが好きで友達になりたいと思ってたけど今の自分なんて迷惑かけるだけなんだと思っていたのです。だから、磯村くんが電話をして来た夜、木川田くんはホントに、頭が痛くなって寝てたんです。別に頭は痛くなかったけど、疲れてなんにも考えないで寝てたらホントに起きられなくなって、磯村くんに何を言ったらいいのか分らないからそのまんま寝ていたっていうだけです。
お母さんは、「ホントに礼儀知らずなんだから」と思って、体を揺すって起こしたんですが、でも木川田くんのお母さんは子供が可愛くって、「源一も疲れてるんだろう」と思って、木川田くんをかばったのです。
だから、その晩の木川田くんは、必ずしも磯村くんが思ったように「居留守を使ったバカなヤツ!」という訳でもなかったんですね……。
でも木川田くんは、次の日も、その次の日も、磯村くんに電話をすることが出来ませんでした。
帰って来た次の日は「昨日逃げちゃった」と思って。その次の日は、「逃げちゃったことの言い訳って、なんて言ったらいいんだろう」と思って。そしてその次の日は「三日も電話しなかったから怒ってるに決まってる」と思って――。
言い訳の量ばっかり増えて、結局木川田くんはなんにも言えませんでした。すべての理由を一言で言ってしまえば「迷惑をかけるから」で、でもそんなことを言ったら磯村くんは、絶対に「どうして?」って言うに決まっています。木川田くんには、その理由を説明することはもう出来ませんでした。
磯村くんはいい人で、自分にやさしくしてはくれたけれども、でも磯村くんは変態≠カゃなかったからです。
変態じゃない磯村くんに変態の自分の説明をしたって、絶対にまた……――「木川田だって大きいじゃない」って言われたらって……、木川田くんはそう思うとつらくってつらくって、もうなんにも言えなくなってしまうのでした。
磯村くんに「ごめんね」としか言えなかった木川田くんは、実は、「そんなみっともない自分に気がつかないでいてごめんね」って言いたかっただけなんです。
でも、そんなことを言ったって磯村くんは分ってくれるんでしょうか? それは、磯村くんにとっては複雑すぎることのような気がしました。
自分が「オカマだ」って思ってたら別に分ってもらえなくても構わないでしょうけれども、でも木川田くんは、もう、「分ってもらえないのはいやだ」と、そう思ってしまっていたのです。
木川田くんは、「つらいことを考えるのはいやだ」と思って、これから先自分はどうしたらいいのかっていう、進路≠フことだけを考えるようになりました。
「ホントだったらもう、ズッと前から考えてなくちゃいけなかったんだよね」って思うと、つらくてつらくて、涙が出て来そうでした。でももう木川田くんは、そんな理由でもつけなければ涙を流すことが出来なくなっていたのです。だって、もう誰かに分ってもらいたいなんていう甘ったれたことを言うことは出来ないのですから。
「分ってもらいたい」と思うたんびにみっともないことしかすることが出来ない自分を思って、木川田くんは恥かしさに震えました。春は、そうやって、やって来たのです。
58
磯村くんの住んでいる町は川のほとりにあります。高幡不動の町の北には「浅川」という多摩川の支流が流れているのです。
磯村くんのアパートを出て、駅とは反対の方向に行くと小さな雑木林があって、それに沿ってしばらく行くと、浅川の堤に出ます。磯村くんは、よくこの辺りを散歩します。
下流の方に行くとすぐ新井橋があり、そこから上流の方を振り返ると、初めてお母さんとお兄さんの運転する車に乗って不動産屋さんにやって来た時に渡った高幡橋が遠くに見えます。
冬の間は、広い河原一面に生い茂った枯れ葦の間を細い水路が通っていて小鴨《こがも》や尾長鴨《おなががも》、都鳥《ゆりかもめ》などが飛んでいます。広い河原に白い都鳥がすゥっと飛んで行く時など、磯村くんは「鳥って不思議だなァ」と思って、いつまでも飽きずに見ていることがありました。
ただ白い生き物で、構造的には飛べるようになっているのかもしれないけど、それが目の前で実際にすべるように飛んで行くのを見ると、磯村くんは「不思議だなァ」と思うしかなかったのです。
磯村くんは、動物というものをそのように見ていました。きれいはきれいだけど、やっぱり不思議だって。
磯村くんはただ堤をタラタラと歩いていただけですが、木川田くんは「やだよ寒いから」と言ってなかなか散歩には付き合ってくれませんでした。別に「いやだ!」と言って部屋の中ですねているという訳ではありませんでしたが、でも一緒に土手に出て歩いていても、木川田くんは「寒い」と言って、二、三歩だけ歩いて、後は足踏みをしているだけです。まるで、熱いお風呂に入る時みたいに。磯村くんは知らん顔をして一人で十メートルぐらい歩いて行っては、立って待っている木川田くんに「帰ろうか?」と言うのです。
冬の間に二人が一緒に散歩したことはよく考えてみればそんなになかったのですが、いつも大体そんな風でした。
木川田くんは、どうせ行くのなら吹きっさらしの川の土手ではなくって、茶店の蒸籠《せいろう》から熱い湯気を立てているお饅頭のある、高幡不動の境内の方が好きだったようです。木川田くんとは二回だけそこへ行ったことがありますが、木川田くんはいつも甘酒を飲んで、子供のようにポカーンとしていました。高幡不動の境内には松や杉の常緑樹の緑があって、それで木川田くんも落着いたのかもしれません。
磯村くんだって勿論それは嫌いではありませんでしたが、でも、古い建物と静かな緑の中に一人でいたりすると、あまりにも落着きすぎてこわくなってしまうような気がしたのです。どちらかというと磯村くんは、歩く為ではなくて、広い空間が見たかったから川の堤に出て来ていたのかもしれません。
雑木林を通って都営団地の前の坂を上って堤の上に出ると、思わず「わーっ……」と言いたくなるような広がりが見えるのです。「今日もそれがあるかな……」「やっぱりあった……」それを確かめたくて、いやがる木川田くんを黙って引っ張って来ちゃったのかもしれません――散歩をする磯村くんは。
磯村くんは三月の終りの日に、浅川の堤の上を歩いていました。もうすぐ新学期だしと思って。二ヵ月続いていたアルバイトも終りになっていました。MIZUNO SPORTSの真理ちゃん≠ニは、どこか相性が合わなかったみたいだし……。「なんか、現実的な夢を見てる女の子ってあまりにも現実的じゃないし……」なんてことを、磯村くんは考えていました。
もう春で、冬の間にいた鳥は少しずつ数が減って行ったみたいで、枯葦の間からよく見えた小鴨の親子連れも今日は姿が見えません。向う岸を、ひょっとしたら最後の都鳥《ゆりかもめ》かもしれない白い一羽が、スッと弧を描いて飛んで行きました。
磯村くんは、なんだかそれを見ていると「向う岸に行ってみたいな」という気になって、いつもだと上流にトロトロと歩いて行くのをやめて、下流の新井橋の方に歩いて行きました。
橋のたもとから団地が始まっていて、四階建ての建て物が百メートルかひょっとして二百メートルぐらい、磯村くんのいる土手の右側に続いていました。「二メートルとか三メートルなら分るけど、百メートル以上になった途端にどうでもよくなるなァ」なんてことを磯村くんは思ってクスッ≠ニ一人で笑いました。
あれっきり木川田くんからはなんの連絡もなくて、磯村くんは「どうしてるかなァ」と思うことはあっても、「もうどうでもいいや!!」と思うようなことはなくなっていました。
橋の上には道路が通っていて、よく磯村くんが利用する「ほっかほか弁当」の前の道路はここにつながっていたのか、なんて呑気なことを、磯村くんは考えていました。
川の向うは磯村くんのやって来た側の土手の世界とはちょっと違って、古い農家や一戸建て住宅がポン、ポン、と存在する世界でした。
磯村くんは土手に立って、自分がやって来た反対側の堤を眺めました。
団地があって、小学校があって、電車区があって、その向うに八王子の大学に通じている山があって、山の上まで、白い建て売り住宅が点々とつながっていました。「こうやって見ると、僕の来た方って、とっても近代≠ネんだなァ」って、磯村くんは思いました。川を挟んで近代と土着が向かい合ってるんだなんて悪いことを、考えていたのでした。
磯村くんが歩いている土手の上には蓬《よもぎ》やスギナが緑を作っていて、河原の枯れた葦の中にも、ボヤーンと淡い緑の芽が吹き出しているみたいでした。
橋を渡って、ちょうど向う岸で自分が土手に上ったぐらいのところまで来ると、磯村くんは「もういいか……」と思いました。「なんの為に来たのかなァ」とも思いましたが、行く手にある高幡橋まで歩いて行くのはちょっと骨だから「まァ戻るしかないや」と思って、磯村くんはもと来た道を引き返したのです。
橋にかかって、橋に近寄って、磯村くんは、「あ、そうか、こっちにだって道があるんだ」と、橋の向うの、下流の方へと続く川沿いの土手の道を覗きこみました。
浅川の川原は結構広くって、百メートルぐらいあります。だから当然、下流へと向かう土手の上にだって楽々一車線以上の道が通っています。通っていますが、「ちょっと違うな」と磯村くんが思ったのは、その下流へと続く道には人気《ひとけ》がなかったことです。
そりゃ川沿いに団地が建っていたって、磯村くんの実家のある高円寺近辺と高幡不動とは全く違いますから、人の通りはどこでもそんなには多くありません。でも、その川沿いの淡い緑の中に霞む左側の道は、それよりもずっと静かだったのです。
磯村くんは、「行ってみようかな?」と思いました。「どうせ暇だし」と。
磯村くんは知らなかったのですが、その先には高校があって、東京都の野犬管理所があって、衛生処理場があって、というようなところだったので、春休みの今は、殊更《ことさら》にしーん≠ニしていたのでした。
「行ってみよう」――磯村くんは信号のボタンを押して、横断歩道を渡りました。「つまんなかったら帰ってこ」と思って。
新井橋から下流の川原は、やはり枯葦が生い茂ってというところもありましたが、しかしなんだか分らないけど、牧草地みたいな感じで、黒い土の上に短い緑が点々と生えている土地がズーッと続いていました。川原というと白い石ころがゴロゴロゴロゴロ、まるでしゃれこうべみたいに転がっている所と思っていたのとは違って、こちらの方は同じ川原とは思えないような感じでした。
緑色の金網を張った高校があって、その先にもやはり公共の建物らしい白いコンクリートの塊りがありました。右を見ると、川をはさんで向う岸は、ズーッと日常的な住宅街です。
「今度は日常≠ニ非日常≠ネのかな?」なんてことを磯村くんは思いました。
「あっちが日常で、こっちが非日常で」――金網越しに高校の校庭を見て、磯村くんはそんな風に思いました。ホントに誰もいない高校の校庭というのは、非日常的なものです。去年卒業したばかりの高校が、自分の中では「もうずい分遠くなってるな」と、磯村くんは思いました。そう思って、「でも、高校って、初めっから僕の中じゃ遠かったんだよね」なんてことを改めて思いました。
だけど校門をぬけるとそこは現実≠ナ、足許を見りゃ分るサ、チマチマと自分の影があって、なんだってこのアスファルトの道は白々しくもこんなにガランとしてる訳?
もうズーッと遠くて、高校って、僕にとっては初めっから非現実だったのかもしれないな。
磯村くんはそう思いました。
なんか、知らない高校の白い校庭が、妙に哀しいようなものに思えて来るようでした。
高校が非現実なら、大学はなんなの?
磯村くんは、もうそんなことなんて考えたくないような気がしました。
ともかく自分は大学生なんだし、そのことから逃げるのはやめようって、そう思いました。
また新学期が始まって、また去年みたいになるのかな?
去年と違うのは、僕はもうウブじゃないっていうことで……。そんなことを思って、磯村くんは、大学が始まったらみんなを下宿に呼ぼうなんて、そう思いました。別に僕一人が大学生じゃないんだしって。
麻雀やろうかな、とか。
磯村くんは不思議な人で、そんなことを考えると、ドンドン現実的になって行くのです。現実的なことを足がかりにした方が確実な考え方がドンドン膨れて行って、それで安心して行けるというタイプの人なのでした。
ホントはロマンチックなことが好きなのに。そういうことになると、ホントになり振り構わず子供っぽさをむき出しにして平気でヘマをやって喜んでいるくせに――。
「どうせ僕はリアリストさッ!」
誰もいない浅川の土手に立って、磯村くんは一人で思いました。
「これだって食べちゃうんだから」
そう思って磯村くんは、道端に生えている蓬をもぎ取って、目の前にかざして、パッと放しました。
緑色の蓬の葉っぱは川に吸いこまれるように、パラパラパラと、川原の方に落ちて行きました。
「あっちが非現実で、こっちが現実なんだ」
土手の上で、磯村くんはそう思いました。
向う岸には建て売り住宅よりもうちょっと古い、普通の日本の家が何軒も建って町並を作り、こちら側では、まるで人のいない化学薬品工場のような東京都の建物が、薄黄色の雲がボァッと流れる空の下で、白いSFちっくなたたずまいを見せていました。
振り返ると、渡って来た新井橋はもう遠くて、今更引き返すのもおっくうだなァという気にさせました。
磯村くんは、まだ先の下流の方を見て、そこに大きな橋がぼやっとかかっているのを見つけました。
「あすこから渡って帰ろう」
川の上ですから距離はよく分りませんが、それは少なく見つもっても一キロ以上先にある橋のようでした。
「どうせ暇だし。ひょっとしたらあそこは聖蹟桜ケ丘なのかな?」なんてことを思いましたが、「聖蹟桜ケ丘なら昨日までバイトをしてたSFだ」とか思って、「どうして現実と非現実の接点にはSFがあるのかなァ」なんていう高級なことを考えました。考えましたが「そんなことはただの遊びサ」と、冗談好きの論理派少年は一人で自己完結をしました。
川は、下流に行くに従って水の量が増して行くようでした。土手のずっと下であることには変りがありませんけれども、枯葦の中を細々と流れていた水路は、もうここら辺に来たら立派に川≠ナ、とうとうと水音を立てて流れて行きました。
誰かが向う岸に立って自分を呼んでいるような気がふとしました。でも、向う岸では自転車に乗ったおばさんが一人、上流の高幡不動の駅の方へ行こうとしているだけでした。
「ああ、もう帰りたいな」
磯村くんはメンドくさくなってそう思いました。でも、後にある新井橋と、向うに見える幻の橋≠ニの間には、見渡せど見渡せど、橋が一本もないのです。
「やんなっちゃうなァ」と、さすがに自分のバカさに気がついた磯村くんは、少し汗ばんで来た額に手をやってそう呟《つぶや》きました。
「しょうがない、今日はオリエンだ」って、そう思いました。
別に走る気もなかったからジョギングでもなくクロスカントリーでもなく、磁石片手にウロウロするオリエンテーリングだと、磯村くんはそう思ったのです。
でも磯村くんは、磁石は勿論、地図なんていうものも当然のことながら持ち合わせてはいませんでした。ただの散歩だって、そう思っていただけですから。
磯村くんは、歩いて行きました。川は、急に広くなって、突然海みたいな気がしました。都鳥《ゆりかもめ》が一羽、磯村くんの後からバサバサバサッという羽音を立てて、真っ直ぐに、その海≠ヨ向って飛んで行きました。
そこは、海でした。
多摩川の支流である浅川は突然そこでなくなって、それよりもズッと広い多摩川の流れに合流していました。
磯村くんがやって来た川≠ヘ、そこではもうなくなっていたのです。
磯村くんは、多摩川という海≠ノ突き出した、岬の突端に立っていました。
歩いて来た道はなくなり、そこから先は崖になって、多摩川の水の表面へと続いていました。
その先はないのです。
幻の橋≠ヘ、永遠に辿り着けない橋でした。
磯村くんの立っている両側で、二つの川は水音を立てて、磯村くんの行く先にある道を消していました。
「広いなァ……」
磯村くんは、突然自分の目の前に現われた広大な空間を見回して、ただそれだけを呟いていました。
その夜に見た夢で、やはり磯村くんは、同じところに立っていました。
道はそこで途切れて、目の前には広大な空間があって、その先には大きな幻の橋がかかっていました。
そこまでは現実とおんなじで、でもそこから先が違うのは、下を見ると多摩川の川原には水がなく、まるで旱魃《かんばつ》にでもあったようにカラカラに干からびていたというそのことです。
磯村くんは、白い川原の代りに現われた茶褐色のひび割れを見て、「行けるかもしれないけど、でも行きたくないや――。だって、砂漠なんだもん」と、黙ってその橋を見つめていました。
空は曇っているのにもかかわらず雨は一滴も降りそうにありませんでした。
そんな夢の外で、春の雨が連翹《れんぎよう》の花を濡らしているのなんて、磯村くんには知りようもないことです。雨音だけが遠くに聞こえました。
春は四月に変ります。
59
大学は無事に始まりました。八王子の山の中ではアチコチに山桜が呆けたように咲いて、春でした。「去年もこんなだったかなァ」と、サークル棟の部屋の窓から八王子の山々を見渡して、磯村くんは思いました。「去年もこんなだった気がするし、去年はこんなじゃなかったみたいな気もするしどっちかよく分らないな」と、煙草の煙をくゆらせて、磯村くんは思いました。煙草の煙も白くて紫で、ほとんどぼんやり春でした。
磯村くんは、もう大学をつまらないとは思わなくなっていました。
実際に磯村くんがそれまで大学をつまらないと思っていたのかどうかはよく分りませんが、磯村くんが「大学なんてつまんないに決ってる」と思っていたことだけは確かでした。「つまんないに決ってるから、せめてつまんない≠チて顔をするのだけはやめよう」って思っていたことも確かでした。
でももう磯村くんは、大学生であること以外にやることはなくなっていたのです。「自分のしていることをとにかく、つまらないと思うのはやめよう」、そう磯村くんは思っていました。「こんなつまんないこと!」と思ったが最後、そんなつまんないことにしがみついている自分が惨めになって来るからです。
つまらないということだけをしっかりと心に刻みこんだ磯村くんは、だからもう大学をつまらないとは思わなくなっていました。
「もし、もし……」
そんな磯村くんに木川田くんから電話がかかって来たのは、五月の連休の最終日でした。
連休に同じクラブの竜崎頌子ちゃんと旅行に行っていた磯村くんは、部屋の電話がリーンと鳴った時、すぐに受話器を取りました。夕方の七時過ぎです。部屋には音楽が鳴っていました。
「はい磯村です」
磯村くんが言いました。声の調子は元気でした。
「もし、もし……」
その声の調子はどこかオズオズとしているようで、聞き覚えのある声でした。
「もしもしッ」
磯村くんは言いました。
「木川田じゃないの?」
「そう……」
電話の向うはそう言いました。
「どうしてんのォ!」
磯村くんはそう言って、クルリと体を傾けました。今迄部屋の中心に向けていた体を、流しの方に向けたのです。
磯村くんの後では、壁に凭《もた》れた竜崎頌子ちゃんが煙草をふかしながらデビッド・ボウイーの悲しげな声に耳を傾けていました(ひょっとしたら傾けていなかったのかもしれません)。
電話の向うでは「え?」という声がしました。
続けて、「怒ってない?」という木川田くんの声がしました。
「怒ってないよう」
磯村くんが言いました。
「心配しちゃったけどサァ」
「ごめんね」
木川田くんが言いました。ホントは磯村くんは「当然だよう」って言いたかったんです(多分)。
「怒ってない?」と訊かれれば怒ってるかもしれないし、でも怒ってないかもしれませんでした。でも、これ以上重っ苦しい雰囲気を、磯村くんは作りたくなかったのです。
昨日まで泊りがけで旅行に行って来て、疲れて帰って来て、それで新宿で食事をして、「来る?」と言って頌子ちゃんを部屋に連れて来た磯村くんは、疲れていました。
頌子ちゃんは、決して磯村くんの目を見ないのです。磯村くんの目を見る時はキスをする時だけです。
キスして唇を離すと、頌子ちゃんは磯村くんの目をマジマジと見ています。
初めはポカン≠ニしているんだろうと磯村くんも思いました。でもいつもです。時々は磯村くんも、頌子ちゃんの目の前で視力検査みたいに手を振ってやろうかと思うこともあります。でも頌子ちゃんは、冗談の分らない女の子でした。
磯村くんは、頌子ちゃんに飽きているのではなくて、頌子ちゃんの作り出す退屈な緊張感に飽きていました。
「今どうしてんの?」
磯村くんは言いました。
「今ァ?」
木川田くんが言いました。
「うん」
磯村くんが言いました。
「俺サァ、デザイン学校入ったの」
木川田くんが言いました。
「ホント?」
「うん。洋服の、なんだけどサ」
「ホントォ」
「うん」
「すごいじゃない」
「別にすごくなんかないよ」
「じゃァ、デザイナーになるんだ?」
磯村くんが言いました。
「分んないよ、そんなの」
木川田くんが言いました。少し照れているようでした。
木川田くんが言いました。
「大変なんだ」
「毎日学校行ってるの?」
磯村くんが言いました。
「うん」
木川田くんが答えました。
「ホントはもっと早く電話しようと思ったんだけど」
木川田くんが言いました。
「うん」
磯村くんが答えました。
「なんか、俺、君に悪くってサァ……」
木川田くんは磯村くんのことを君≠ニ呼びました。
「そんなことないよ」
磯村くんは、そんなことには気がつかないようでした。
「でもサァ」
木川田くんは言いました。
磯村くんの横で、頌子ちゃんは脚を動かしたようです。
「俺、黙って出て来ちゃっただろう」
「もういいじゃない」
磯村くんは言いました。
頌子ちゃんは煙草を灰皿で消しました。灰皿はニッカのノベルティーでした。消してそのまんま手を組んで、坐っています。
頌子ちゃんは、ゆったりとしたフレヤースカートです。
「うん」
木川田くんが言いました。
「俺やっぱり、なんか磯村に一杯言いたいことがあったんだけど、自分がなんか、フラフラしてるとまたロクなことになんないとか思って」
「うん」
磯村くんは言いました。
「だから落着くまで電話出来なかったの」
「落着いたの?」
磯村くんは言いました。
「うん。少しね」
木川田くんは言いました。
「また会わない?」
磯村くんは言いました。
頌子ちゃんは相変らずジッとしていました。
「うん」
木川田くんは言いました。
「今何してたの?」
木川田くんは訊きました。
「今ァ?」
磯村くんは言いました。
「もう御飯食べちゃったァ?」
木川田くんは言いました。
「うん」
「ずい分早いんだね」
木川田くんは言いました。
「今頃だったら飯食ってるかなって思って」
「うん」
磯村くんは言いました。
「旅行行ってたんだよね」
「あ、そう」
木川田くんは言いました。
「うん。だからサ、食べて来ちゃったの」
「あ、ホント」
木川田くんは言いました。
「電気釜、使ってる?」
「うん、時々ね」
電気釜だって、木川田くんは引っ越しの時持って来てたのです。「プレゼント!」と言って。
二人で御飯を炊いて食べたこともありました。木川田くんはそのことを言っていたのです。
「今、友達が来てるんだ」
磯村くんは言いました。
「あ、ホント」
木川田くんは言いました。
「大学のヤツ?」
木川田くんは言いました。
「うん。一緒に旅行行ってた」
「あ、そっかァ」
木川田くんは言いました。
頌子ちゃんは、壁に頭をつけました。
「ねェ、いつか会おうよ。来ない?」
磯村くんは言いました。
木川田くんは、磯村くんの部屋にいるのは女の子じゃないかと思いました。思いましたけどでも、「来ない?」って言ってくれてるんだから「うん」と素直に言いました。
「うん」
木川田くんは言いました。
「いつ暇?」
「大体おんなじ」
磯村くんは言いました。
「あ、そっかァ」
木川田くんは言いました。
「木川田はいつ暇なの?」
磯村くんは言いました。
「ンとねェ、水曜にねェ、課題提出しなくちゃいけないんだよねェ」
「課題≠チてなァにィ?」
磯村くんは言いました。
「スカート縫ってんの」
木川田くんは笑いました。
「あ、ホントォ」
「女みたいね」
木川田くんは言いました。
「そんなことないよ」
磯村くんは言いました。
「俺もう、オカマじゃないよ」
木川田くんは言いました。
「うん。でも僕、初めっからそんな風に思ってないよ」
磯村くんは言いました。
「うん、ありがと」
木川田くんは言いました。道端の、公衆電話の中でした。
「じゃ、いつ来る?」
受話器の向うで磯村くんは言いました。
「水曜日終ったら行く。それでいい?」
木川田くんは言いました。
「うん。いいよ。何時頃?」
磯村くんは言いました。頌子ちゃんは、天井を見ています。
「また電話する、水曜日」
木川田くんは言いました。
「うん」
「大体何時ぐらい戻ってる? 水曜日」
木川田くんは言いました。
「四時ぐらいかなァ」
磯村くんは言いました。
「もうバイトしてないの?」
木川田くんは訊きました。
「うん」
放っとけば、電話はいつまでも続きそうでした。
頌子ちゃんは首を曲げました。
「だったらいいね」
磯村くんが「うん」と言ったので、木川田くんが言いました。「バイトしてないんだったらずっと会えるね」っていう意味です。
磯村くんも「うん」て言いました。「うん」ばっかりだから、木川田くんは、もう潮時だなって思いました。
「じゃ電話する」
木川田くんは言いました。
「うん」
磯村くんの「うん」は明るい「うん!」でした。
「じゃァね」
木川田くんは言いました。
「じゃまた」
頌子ちゃんが待ってると思って、磯村くんは平静になりました。ともかく木川田くんは、恋人≠ナはなかったのですから。
木川田くんは受話器を置いて、道路沿いの公衆電話のボックスから出ました。なんとなく木川田くんにとって、磯村くんは特別の人≠ナした。いつも付き合ってる人達とは勝手が違うから、だから、いつもの自分がいて、そのいつもの自分を知ってる家族のいるところから、磯村くんのいるところへ直接の電話をしにくかったのです。
磯村くんは、唯一人、木川田くんの甘えることを許してくれる人でした。
木川田くんは公衆電話を出て「ふゥッ」と大きな伸びをしました。お腹が空いて、早く家に帰って御飯を食べようと思っていました。少なくとも、木川田くんのお母さんは普通のお母さんでしたし、木川田くんのお父さんも、現代にいる普通のお父さんでした。
60
「高校の時の友達なんだ」
受話器を置いて、磯村くんは頌子ちゃんに言いました。
「あ、ホント」
磯村くんは、頌子ちゃんがいやになっていました。
新学期が始まって、磯村くんも頌子ちゃんも二年生になっていました。
新学期になって磯村くんは、頌子ちゃんがこんなに暗い女の子だったかなと思いました。それほど竜崎頌子ちゃんは変っていました。広告研究会の他の子にそう言ったら「そうかなァ?」という答が返って来ました。磯村くんは「変った」と思うのですが、他の男の子達は「変らない」というのです。
「じゃァ、昔っから暗かったのかなァ」と磯村くんが言うと、「別に暗くないじゃない」という答が返って来ました。「なんだよ、もう別れる計算してんのかよ?」なんて言葉さえも飛んで来ました。
「えーっ?」と思いましたが、磯村くんはなんだかよく分りませんでした。「だってサァ、竜崎っていうのはサァ」って説明をしようとしたら、磯村くんは、竜崎頌子≠チていう女の子がどういう女の子なのか全然分んないということに初めて気がつきました。
とりたてて特徴もないし、性格だって分んないし、自分とおんなじクラブにいて文学部の史学科にいて、おとなしいんだか暗いんだかもよく分んない。お喋りだったのかもしれないけどそれだってよく分んない。まるでノッペラボーみたいな女の子と自分は付き合ってたのかと思ったら、ヘンな気になりました。
キャンパスの中を一緒に歩いていてもあんまり喋りません。「もっと一杯話したような気もするんだけど」と磯村くんは思いました。思いましたが、何を話したのか、磯村くんにはなんにも思い浮びません。気がつくと、頌子ちゃんは磯村くんのことをジーッ≠ニ見つめているのです。
春のキャンパスの芝生に腰を下して、磯村くんはゾーッとなりました。「なんだよ、もう別れる計算してんのかよ?≠チて、そういうことなんだろうか?」と磯村くんは思いました。
自分はなんにもしてないけどこの人≠ニ僕は付き合ってる――一体自分は何をしてたんだろうと思ったら、磯村くんはゾーッとなりました。磯村くんはなんにもしてないし、何かをしたという記憶もないのです。知らない間に磯村くんは、異次元世界の蜘蛛の巣に閉じこめられてしまったような気がしました。
竜崎頌子ちゃんは、格別に不気味なところのある女の子でもありません。喋る時は喋っています。でも磯村くんには、彼女と具体的な話をしたという記憶がないのです。おとなしいのかもしれないし、おとなしくないのかもしれないし、自分に気があるのかもしれないし、自分に気がないのかもしれないし、すべてはなんだかよく分りません。はっきりしていることは唯一つ、磯村くんには、彼女と別れる@摎Rがないのです。
ひょっとしたら、彼女に元気がないだけなのかもしれないと思いました。彼女を明るくする為にもう少し付き合ってあげようかとは思いました。
でも、彼女は明るくなる訳でもなく、彼女との付き合いを否定する理由がますます磯村くんにはなくなったという、ただそれだけのことでした。
家庭環境が暗いのかなァとも思いました。家族のことを訊いたら、「別にィ」とだけ彼女は言いました。
よく分りません。
はっきりしていることは、彼女と付き合っていて退屈することはないということでした。
よく分らなくて、「なんだろう?」「どうしてだろう?」と考えていると、それは退屈ではないからです。
内容のない女の子かもしれないけど、内容があるのかどうか、ともかく磯村くんには、それが見えないのです。
何も見えないまま、磯村くんと彼女の仲はジリジリと接近して来ました。気がつくと、彼女はその前までよりももっと近くにいるのです。磯村くんは、「追いつめられてる……」という感じを、どこかで感じました。でも、どこかで感じて後を振り向いても、自分には追いつめられる場所は、ないのです。磯村くんの後に壁があったり崖があったりしたら、それで磯村くんは追いつめられた≠ニいうことにもなるでしょう。でも、磯村くんの後にはなんにもないのです。追いつめられる@摎Rもないのです。
磯村くんは、自分のやり方が下手なのかと思いました。向かい合って坐っていて、彼女が黙っていて、そしてその沈黙が別に思いつめたような沈黙でもなくて――もしも彼女がジッとうつむいて黙りこんでいたら「どうしたの?」「なんとか言ってよ!」とか言うことも出来たでしょうが――言われることには答えて、話のない時にはどこかに視線が流れていてとなったら、磯村くんには、対処のしようがありません。
「あたしを退屈させているのはあなたが悪いのよ」と言われている気分になります。もし彼女がそう言うのなら、もしも彼女がそう言いそうな顔をしているのなら、そのことに対してカチーン!≠ニ来ることもあるでしょう。でも、そうではないのです。
磯村くんにはどうしていいのか分りませんでした。
だから磯村くんは「しない?」と、彼女の気を引くつもりもないのに、竜崎頌子ちゃんにデートの提案ばかりしていました。
一緒に映画を見に行ったり、一緒に喫茶店で話をしていたり、一緒に旅行まで行ってしまいました。磯村くんが何かを持ちかけない限り、彼女はまるでおしとやかなスッポンのように、磯村くんの前から吸いついて離れないのです。
同じクラブにいて、二人の関係は社会的に認知されているようなものでした。同じ大学にいて、おとなしい彼女を泣かせることは犯罪行為のようなものでした。
どうにもしようがなくて彼女と付き合っていて、でも付き合っている磯村くんは、いやなものをいやと言うだけの自分≠ェいなくなっていることに気がつきませんでした。
そういう自分がいないから「いや」だとは言えないのです。そういう自分がいないから、決して追いつめられることなく、どこまでもどこまでも得体の知れないものに追いつめられ続けるのだということに気がつけませんでした。
伊豆の海を見下す民宿に一泊して、一緒に並べられた布団に寝て、気がついたら磯村くんは、彼女とセックスをしていました。もっとも、「一緒にどっか行かない?」と言われて彼女が「うん」と言った時からそうなることは決っていたのですが――。
彼女と東京に戻って来て、一緒に食事をして、それでも彼女が平気でいるものだから、疲れ切った磯村くんは「ウチに来る?」と言ったのです。
「もう、セックスしちゃったんだからそれでいいだろうし、その方が自然だろうし」と思っていて、磯村くんはそう言ったのです。
電話を切った磯村くんは、磯村くんの部屋で磯村くんの横にいる竜崎頌子ちゃんに「高校時の友達なんだ」と言いました。
「あ、ホント」と、竜崎頌子ちゃんは言いました。
とても抱き寄せてキスしたり「泊ってく?」なんてことを訊きたい気分ではありませんでした。
磯村くんは、もうその退屈な永遠≠ェいやになったのです。
「あーあ」と言って、磯村くんは立ち上りました。ゲンコツで腰を叩きながら「どうするの?」と、坐っている頌子ちゃんに訊きました。なんだか、関係のないものが目の前にいるような気が磯村くんにはしたのです。
「帰るわ」――珍しくはっきりした口のきき方を頌子ちゃんがしたように思いました。
「うん」
磯村くんは言いました。
「送ってくよ」
磯村くんは言いました。
「うん」
なんだか、渋々という感じで頌子ちゃんは立ち上りました。
磯村くんは「あーあ」と、大きな伸びをしました。
なんだか、悪い空気が消えて行くような気がしたのです。
61
木川田くんがやって来たのは、それから二日経った水曜日の午後でした。午後というよりは夕方でした。前の電話では「行く」って言っていたのに、いざとなると木川田くんは「ホントに行っていいの?」と言いました。
「ホントに行っていいの?」って言われると、磯村くんもなんとなく自信がなくなるみたいでした。「こないだの時は、なんとなく、来てもらえると嬉しいなんていう気がしたんだけど……」なんてことを、磯村くんはその日の夕方の木川田くんの電話の途中に思いました。「あの時は竜崎《かのじよ》がいて、それで来ない?≠チて言ったら頌子《かのじよ》を追い払えるんじゃないかと思ってそう言ったけど、でも僕は――」って、磯村くんは思いました。
「会いたいことは確かだけど」って――。
でも木川田くんはなんの心配もなくて、前とおんなじような木川田くんで、前よりは少し大人っぽくなったみたいな木川田くんでした。
木川田くんも、おんなじことを感じていたみたいでした。
磯村くんは、前とおんなじ磯村くんで、前とは少し違った磯村くんで、前よりは少し大人になった磯村くんでした。
二人の男の子は久し振りで会って、どこがおんなじでどこが違ったか、それを黙って、お互いにお互いを探り合っていました。
磯村くんと木川田くんは、大学二年生と文化服装学院の一年生で、二人とも、二十歳《はたち》と十九の青年でした。少年だったのかもしれません。
「どうしようかなァ……」と思っていて、二人はおんなじ部屋にいました。
62
十時を過ぎた頃、磯村くんは「どうする?」って訊きました。
「帰るよ」って、木川田くんは言いました。「うん」て、磯村くんは言いました。それは、どっちかっていうと「うん……」ていうような「うん」でした。
「誰か、付き合ってる人いるの?」
木川田くんは訊きました。
「ううん」
磯村くんは言いました。
「こいつのううん≠ヘあてにならないからなァ」と思って、木川田くんは「ホント?」と言いました。
「誰か付き合ってる人いるの?」
今度は磯村くんが言いました。
「ううん」
木川田くんも言いました。
「そう」
そう言って磯村くんは、「木川田のことってよく分らないし」って、そう思いました。
どっちも正解で、どっちもずれた答でした。
「終電て、何時?」
木川田くんが訊きました。
「十一時半ぐらいだったと思うけど……」
磯村くんが言いました。
「泊っていきたい訳じゃないけど、でも、一人で帰るのってヤだな」って、木川田くんは思っていました。あの光の点《つ》いた電車に乗って夜の中を帰って行くと、いつか滝上くんに会った時の夜のことを思い出すからです。そんな心細さがしたからです。
「帰したい訳でもないけど、でも、泊めるのって、なんとなく、ヤだな」って、磯村くんはそう思いました。
駅まで送ってく時の晴々とした気持って、やっぱり後めたいことなんじゃないかって、こないだ竜崎頌子ちゃんを送って行った時のことを思って、磯村くんはそう思ったのです。
「だって、今木川田を送り出しちゃったら、僕って一人ぼっちになってしまうもの」って、磯村くんは、晴々とした顔の後にあるさっぱりした気分の、その後を思ってそうためらいました。
誰もいないのは寂しいのです。だから、あんな訳の分らない関係を女の子と続けていたのです。
磯村くんは、いつも甘えていたい木川田くん≠ノなってしまっていました。
でも木川田くんは、「やっぱり帰ろう」と思っていたのです。
63
磯村くんは、十一時半まで何分あるかなァと思っていました。二十分ぐらいだったら、歩いて行っても間に合うなァと思っていました。駅までは、急いで歩けば十分とかかりません。
でも木川田くんだって、友達≠ヘほしかったんです。
「泊ってかない?」
磯村くんは言いました。
「いいの?」
木川田くんは言いました。
「いいけど」
「いいけど≠ネんだろう?」と、磯村くんは思いました。
「明日、学校あるの?」
磯村くんは木川田くんに訊きました。
「あるけど」
「あるけど≠ヌうしよう……」って、木川田くんは思いました。
「あるけどサ」
木川田くんは言いました。
「どうしようかなァ……」
木川田くんは言いました。「どうしようかなァ」って、考えていたのです。
「泊ってってもいいけど、布団一つしかないし、明日の授業の用意ってしてないし。泊ってってもいいけど、なんか、泊ってっちゃいけないような気もするし」って、木川田くんは考えていました。
「明日、午前中講義ないんだ」
磯村くんは言いました。
「ホント」
木川田くんは言いました。「甘えちゃお」って、木川田くんは思いました。
「泊ってく」
木川田くんにそう言われて「あ、ホント」って磯村くんは言いました。
言ってから、「ホントにいいんだろうか」って、磯村くんは思いました。
「何が引っかかってんだろうか」って、磯村くんは思いました。
「パジャマあるゥ?」
木川田くんは訊きました。
「ないけどォ……」
そう言って磯村くんは、ナマナマしいことがこわいんだって、そう思いました。
一緒にいて、そばに他人がいて、シーツが敷いてあって、布団があって、シーツのかかっている布団はいつも冷たくって、そういうナマナマしさの上にもう一つ肉体≠ニいうナマナマしさが乗っかってて……。
磯村くんは、女の人と寝るんじゃないことがやっぱりこわいんだって、そう思いました。
64
木川田くんは、お風呂には入らないって言いました。磯村くんもお風呂には入りたくないって思いました。
パジャマがないから磯村くんは木川田くんにジャージを貸して、布団を敷いたのはそれから二時間も後でした。
木川田くんは明るく元気で、自分のことを喋っていました。新しい環境で色々なことがあって。
磯村くんは「ふーん」て言って、もっぱらそれを聞いていました。自分はなんだか、ズーッと昔からこんなところにいるって、まるでそのアパートの一室で自分が生まれたような錯覚に陥りそうでした。
「狭いよ」って言って布団を敷いて、その磯村くんの言葉に「うん、馴《な》れてる」って木川田くんが言ってニッコリ笑った時、磯村くんは少しだけゾクッとしました。冷たいもので、どこか体をうっかりと撫でられたような気がしたからです。
布団の中に入ると、ジャージにTシャツ姿の木川田くんはパジャマに着替えた磯村くんの肩に顔を寄せて来ました。
「電気消さなきゃ」
磯村くんはそう言って、木川田くんは「うん」て言いました。木川田くんの頬がピンクに輝いていたことなんて、立ち上って電気を消した磯村くんには分らないことです。
もう一度横になった磯村くんの肩に、木川田くんは頬を寄せて来ました。あお向けになった磯村くんの横に木川田くんは体をうつぶせにして、木川田くんは磯村くんの右肩にそっと手を置きました。
「磯村、好きだよ」
木川田くんが言いました。
「うん」
「俺にとって、磯村って、一番大事な人なんだ」
木川田くんの脚は、敷布団のところでキチンと合わさって、磯村くん一人だけが、布団の中で脚を広げていました。
「俺もう、変態じゃないからね」
磯村くんの首筋に唇を寄せるようにして木川田くんは言いました。
「うん」
磯村くんはそう言いましたが、もう磯村くんは「初めっからそんな風に思ってないよ」とは言いませんでした。
木川田くんはクスクスッ≠ニ笑って、「俺もう、男とは縁を切ったんだァ」って言いました。
「ホントォ」
磯村くんは言いました。
「うん。もう一ヵ月もしてないから、溜って溜って」
木川田くんは笑いながらそう言いました。
「ねェ磯村ァ、ホントに女と付き合ってないのォ?」
そうも言いました。
「付き合ってないよォ」
磯村くんは答えました。
「そうォ?」
木川田くんがそう言うので、「そうだよォ」と磯村くんは言いました。
「じゃァあいつどうしたのよォ?」
木川田くんが訊きました。
「だァれ?」
磯村くんが答えました。
「ホラあいつ、名前知らないけど、バイト先の女」
木川田くんが言いました。
「バイト先の女ってだァれ?」
磯村くんは、MIZUNO SPORTSの真理ちゃん≠フことが思い出せなくって、平気でそう答えました。
「付き合ってなかったの?」
木川田くんがそう言った時、「ああ、あの娘」と、磯村くんは口に出したのです。
「付き合ってなかったの?」
木川田くんは又おんなじことを言いました。
「付き合ってたけど、別にィ……」
そう言って磯村くんは、「どうしてあの子のこと忘れてたんだろう?」って、そう真理ちゃん≠フことを思いました。
「どうしてだろう?」
木川田くんは磯村くんの腕の中で喋っていて、そのまんま眠ってしまいました。
磯村くんは、自分の腕の中にいるものがなんなのかよく分らなくなっていました。男ではないし、女ではないし、子供ではないし、大人ではないし、友達ではないし、恋人ではないし――一体なんなんだろうって、思っていました。
木川田くんの体の温かいことが磯村くんには不思議でした。温かいのに、温かいとは思えないのです。
「放り出したらどんなに楽になるだろう」と思うのに、その木川田くんの体は、接着剤でつけたように、磯村くんの体から離れないのです。磯村くんは、木川田くんの体を抱いている自分の腕が痺《しび》れて来て、それで木川田くんの体を温かく感じとれないのだと思っていました。
木川田くんの髪の毛が匂います。それは、どこかで嗅いだことのある匂いでした。「いやだ」と思うような匂いではありませんでした。でも、自分の顔の横にあるその木川田くんの横顔は、磯村くんには自分が見たどの顔よりも自分から遠くにある顔のようにしか思えませんでした。
朝の六時に目を覚して、木川田くんの体がいつの間にか横向きになっていて、自分に背を向けているのを磯村くんは見て、「なんで一緒に寝ているんだろう」と思いました。
磯村くんの目には、いつか見た、あの浅川と多摩川の合流点の、広い広い空が見えるようでした。広い空の下に橋があったのかどうか、磯村くんにはよく分りませんでした。
セックスをする時に、人間は他人≠フ存在なんか忘れてしまうものなのです。
セックスをしたら、人間は、その他人のことを、うっかり愛してしまったりするものなのです。
忘れない為に、人間はその他人とのセックスに、遊び≠ニいうクサビを打ち込んでしまうのです。
そんなこと、磯村くんは知りもしませんでした。
自分はまだしたことがない。だから、自分はそれをしなくちゃいけない。そう思っただけの磯村くんは、自分というものをどこかに置き忘れて来ていました。
誰よりも遠いところにいると磯村くんの思っていた木川田くんは、でも、その時磯村くんのそばで、磯村くんが置き忘れて来てしまった磯村くん自身の本当の姿を、こっそりと抱きかかえて眠っていたのです。
面影の中にしかいない磯村くんは、その時木川田くんの胸の中で、「いつまでもいつまでも友達でいようね」って、そう囁《ささや》いていました。
65
二度寝の眠りはなかなか醒めずに、ハッと気がつくと磯村くんは、自分を見つめている木川田くんの顔とぶつかりました。
「どしたの?」
磯村くんは言いました。
「寝坊しちゃった」
木川田くんは言いました。
「何時?」
磯村くんは言いました。
「九時半」
木川田くんは言いましたが、磯村くんは半分眠っていました。
「眠い」
磯村くんは布団をかぶりました。
「ごめん」
木川田くんは言いました。
「寝ちゃいなよ」
布団の中で磯村くんは言いました。
「うん」
今から家に帰って学校に行ってもしようがないと思って、木川田くんはそううなずきました。
磯村くんは寝返りを打って、布団の上に坐りこんでいる木川田くんの脚に頭をすりつけました。
「うーん……」といって磯村くんが唸《うな》るので、木川田くんは「可哀想」と思って、磯村くんの頭を撫でました。撫でて、「磯村、もうちょっとあっち行って」と言って、木川田くんは布団の中にもぐりこもうとしました。
磯村くんが黙って木川田くんに背中を向けると、どうやら木川田くんがもぐりこめそうな隙間が出来ました。
五月の朝はまだちょっと涼しくて、布団をめくりっ放しの木川田くんに、磯村くんは「寒い」と言いました。
「ごめん」と言って木川田くんは布団の中に潜りこみましたが、木川田くんは、パジャマの上着と下着の間から覗《のぞ》いている、磯村くんの丸めた背中のゴツゴツを見ていたのです。磯村くんの脊椎《せきつい》は、まるで麻酔準備をじっと待っている、若い男の子の病人のようでした。
布団の中に潜りこむと、木川田くんは後ろから磯村くんの背を抱え、両手をそっとパジャマのズボンの中に滑りこませました。
木川田くんの手は冷たく、磯村くんのお腹は滑らかであったかく、モジャモジャとした毛の先に、もっと熱いものが膨んで立っていました。
66
磯村くんは気がつくと、木川田くんの胸に顔を埋めていました。木川田くんの脚に自分の脚を絡《から》ませて、「はァ……」と思うと、一時を過ぎていました。磯村くんは起き上ると、「木川田、木川田、一時!」と、ぐっすり寝ている木川田くんの体を揺すりにかかりました。
「うーん……、まだ寝たい……」
でもそう言ってる木川田くんの口調は、明らかにウソ寝でした。
67
二人は起きて、ゴハンを食べて、外へ出て、「どうしようか?」と言いました。そう言ったのは、カナエちゃんのいる駅前の喫茶店です。
「今起きたのォ?」とカナエちゃんが言いました。
「うん」とそう言ったのはいつもの磯村くん≠ナす。でも、そのいつもの磯村くん≠ェどの磯村くんなのか、それは誰にも分りませんでした。
四月に二十歳になったしっかりした男の子がホントの磯村くん≠カゃなかったら、一体磯村くん≠ヘどこにいるというのでしょう? でも、そんなことは誰にも分りません。
カナエちゃんがいなくなると、木川田くんは「なんだ、ブス」と言いました。
でもそれを見て磯村くんは「子供だなァ」と木川田くんのことを思いました。
磯村くんと木川田くんが六本木にやって来たのは、それから二時間後です。
68
榊原さんと、同じ大学の溝呂木《みぞろぎ》由梨ちゃんが、その頃六本木の「WAVE」というビルの中にいたことは、第三部をお読みの皆さんなら既に御存知でしょう。
磯村くんと木川田くんは、そこに腕を組んでやって来ました。榊原さんと由梨ちゃんが階段を降りて来た時です。
磯村くんは、その昔、木川田くんと一緒に六本木に来たことなんて、忘れていました。磯村くんの脳味噌の中では、それは三葉虫が生きていたのと同じぐらい遠い昔の出来事でした。「ふーん」と言っている磯村くんにとって、六本木はなんだかよく分らない町でした。いっそ田舎弁でも使ってやろうかと思って、「ここはなんというとこだんべ」なんてことを磯村くんは言いました。
それを聞いて、木川田くんはケラケラと笑いました。
磯村くんは、自分が何をしているのかが分らなかったのです。
「WAVE」に入って来ると、磯村くんは「あ、ヤな女」と思いました。暗闇の中に点《とも》った千メートル先の外灯のように、それだけが磯村くんの頭の中に点りました。
それぐらい磯村くんは、ぼんやりとしていたのです。
磯村くんには、それが誰だかよく分りませんでした。顔の上にヤな女≠チていう雨合羽《あまがつぱ》をかぶっているみたいで、その雨合羽が邪魔で、誰だか相手がよく分りませんでした。
「磯村くん」と言われて、「ああ……」と思いました。「ああ……、誰だっけ……」「ああ……、高校の……」
やっとそれが知ってる人だとは分りましたが、それが榊原玲奈≠ニいう名前を持つ人だとはなかなか分りませんでした。
それどころか磯村くんは、自分の隣りに誰がいるのかもよく分りませんでした。
勿論その隣りにはさっきまで腕を組んでいて、そして榊原さんに会った途端、きまり悪そうにその手を離した木川田くんがいました。
木川田くんははしゃいでいて、「何してんのォ?」と、久し振りに現実復帰の出来たヤングみたいな口のきき方をしました。
磯村くんに、まだ現実は帰って来ていません。
エスカレーターに乗って、なんだか訳の分らないお店の中を歩いていて、気がつくと、木川田くんが自分の腕を握っていました。
「一体何してるんだろう」と思って、磯村くんは、自分が男と街を歩いてるんだってことに気がつきました。
男と腕を組んでて、男と一緒に寝ていた自分にも気がつきました。なんだか、おそろしくグロテスクなことをしていた自分も。
体をじんわりと包むような快感も覚えていて、うっかり声を出したりしたら、その全部が今この場所に飛び出して来てしまうような感じがしました。
公然と男と唇を合わせている自分が――。
磯村くんは、ゆっくりと忍び足でその場から逃げようとしました。その場≠ニは勿論、操り人形で、脱け殻になってしまった自分自身≠ナす。
磯村くんはゆっくりと、少しずつ冷静になって行きました。
「まずここを出て、それから腕を離して、それから――」って。
「そろそろ行かない?」
磯村くんはそう言いました。
「うん、行こうかァ」
木川田くんは、まだはしゃいでいました。
自分にはしっかりした現実があって、ちゃんとした家族があって、そして何よりも楽しい友達がいて、世界中のヤングのチャンピオンのような気がしていました。
まるでいつかの磯村くんです。
木川田くんは磯村くんに凭《もた》れて、「WAVE」の丸い階段をグルグルと降りて行きました。一生懸命体を強張《こわば》らせている磯村くんは、木川田くんにとっては誰よりも頼もしい、誰よりも自分を守ってくれる神様のようでした。
相変らず木川田くんは、そういう発想しか出来なかったのです。
階段を降りて、ドアを押して、誰も見つめるものがいないビルの外に出た時、ビルの外へ出て来て六本木の通りを右に曲った時、磯村くんは、低い声で言いました。
「もう、いいんじゃないの」
木川田くんはちょっとビクッとしたみたいですけど、素直に「うん」と言いました。「見なくてもいい夢を見てたんだな」って、その時に木川田くんは思いました。
木川田くんは手を離して、体を離して、黙って磯村くんのことを見ていました。
磯村くんはちょっと下を見て、「悪いけど」って言いました。
木川田くんは、もう何を言われるか分っていたので――そんな気がしたので――「うん」て言いました。
磯村くんは顔を上げて、もう一遍「悪いけど」って言って、「もうこれっきりにしてほしいんだ」って言いました。
木川田くんは、全部、分ったような気がしました。何が分ったのかはよく分らないけど、全部分ったような気がしました。それは当り前のこと≠ナ、それは当然のことで、それは泣いたり喚《わめ》いたりするようなことではなくって、そのまんま通り過ぎて行くものなんだって、そう思いました。
木川田くんは、そういう道を選んだのです。だって、木川田くんは男の子だから。
「うん」と木川田くんが言った時、もう磯村くんは、地下鉄の入り口の方へと歩いて行っていました。
「ごめんね」って言いかけて、「でももう自分はごめんね≠チて言わないんだ」って、木川田くんはそう思いました。
「だって、僕も君もおんなじ男の子だもの」――磯村くんの見えなくなる後ろ姿に向って、木川田くんはそう思いました。
口に出して言えれば絶対言っていたけど、でもまだ木川田くんは、自分にそれだけの自信がないと思っていたから、胸の中で呟《つぶや》いたのです。
「さよなら。いつかまた――。僕絶対、君みたいにカッコいい男の子になるからねッ!」
木川田くんは、磯村くんの思い出に向って、一人でそう大声で囁《ささや》いていました。
69
一体磯村くんは何を考えていたんでしょう?
ホントになんにも考えていなかったんだっていうことを、磯村くんは、歩き出してから気がつきました。「恵比寿」へ出て地下鉄を降りて、山手線に乗り換えて「渋谷」で降りて、井の頭線に乗り換えて「明大前」で降りて、京王線に乗り込んで初めて「恥ずかしい! 恥ずかしい!」という思いを振り切れた磯村くんは、「僕ってなんにも考えてなかったんだ!!」って、改めて自分の愚かしさを呪いました。
本当に、なんにも考えてなんかいなかったんだって――。
木川田くんがこわかったんだって、磯村くんは思いました。木川田くんが初めっからこわかったんだって、磯村くんは思いました。
夕方の京王線はおんなじ顔をした男の子達で一杯のように思えました。
自分の大学と自分の大学じゃない大学と色んな大学があって、でもみんなおんなじ大学でみんなおんなじ大学生で、みんなおんなじ恰好をしていてみんなおんなじ顔をしていて、みんなおんなじトッチャンボウヤで、みんなおんなじうっとうしい顔をしていて、でもそんなことを考える自分がどれだけそんなおんなじ大学生達と違うんだろうって、磯村くんは思いました。
いつから木川田くんがこわくなったんだろうと思って、初めっからだって思って、そしたら自分はその時からものを考えなくなっていたんだって思って、磯村くんは、そんな自分とおんなじ大学生達とおんなじ電車に乗っているのがこわくなりました。
70
磯村くんはなんにも考えられなくなって、黙ってアパートへ帰りました。白い埃《ほこり》だらけの道を歩いて、自分の眼の左っ側の隅から真っ赤な夕陽が射しこんで来るのに目を細めて、その大きな夕陽に「バァカ」って、嗤《わら》われているような気になりました。
71
磯村くんはなんにも考えられないまんま夜を過して、なんにも考えていない瞳に朝日を受けて、目を覚しました。
目を覚してはッ≠ニなって、自分は昨日、なんかとんでもないことをしでかしたんだって、磯村くんは気づきました。なんかとんでもないことをしでかしたんだけどそれがなんだかよく分らないので、磯村くんは、緑色になってしまった強い光の当る部屋の中で、パチパチと目をしばたたかせました。
気がつくと頭の中はボロボロになっていて、何がなんだかよく分りません。「よく分らないのは、よくないことがこの中にあって、だから頭はボロボロになっているんだ」って、磯村くんは思いました。
ボロボロになった頭を誰かにガンガン叩いてもらって、バラバラになった色んなことをもう一遍一つにしてもらいたいと思いました。
何がなんだかよく分らないって。
磯村くんは突然、ピンクのレオタードのことを思いました。射しこむ光の中で緑色になってしまっている部屋の景色がまぶしくって、目を閉じた途端、瞼《まぶた》の裏がピンクになったのです。
ピンクのレオタードが飾ってあって、ピンクのバラが飾ってあって、って、磯村くんは思いました。
白いビニール・コーティングの金網《ネツト》が吊ってあって、そこにアディダスのジョギング・シューズとピンクのレオタードが飾ってあって、そこは花屋さんの向い側でした。
「そうだ、真理ちゃんはやらせてくれなかったんだ」って、磯村くんは布団の中で思いました。起き上って、掛け布団の上に手をついて、磯村くんはそう思いました。
「真理ちゃんはやらせてくれなかったし、でも僕は別にそんなこといいと思ってたんだ」って、磯村くんは思いました。
真っ白い薔薇の花の飾ってあるショーケースのそばにレジスターが置いてあって、花束用に切り落した葉っぱや羊歯《しだ》や、生け花用の緑色の灌木が缶に差してあって、その中にレジ係の佐藤さん≠ェいました。いつも白いブラウスをすっきりと着こなしていて、「磯村さん、そこ片付けて頂戴」って、バイト先の花屋さんで、佐藤さんにいつもそう言われていたことを磯村くんは思い出していました。
佐藤さんはきれいな人で近寄り難くって、真理ちゃんと会って部屋に帰って来た後で、いつも磯村くんは佐藤さんのことを考えてオナニーをしていました。
「あーあ」
磯村くんはうんざりして起き上りました。
五月の朝は天気がよくて、風が強くて、カーテンを開けると隣りの畑から土埃《つちぼこり》がビュービュー上っているのが見えました。
土埃が窓を開けちゃいけないと言っているので、磯村くんはパジャマ姿のまんま、体臭のこもった部屋の中に坐りこんで、ポリポリ≠ニ頭をかきました。
「真理ちゃんがやらしてくれなくてもいいや、僕には佐藤さんがいるから≠ネんてことを考えてたんだなァ、イッパシぶっちゃって……」なんてことを、磯村くんは考えました。
磯村くんは、はずみのつかない限り、なんにもものを考えられない人だったのです。
頭の中がシーンとしていて、シーンとしているのに疲れて来ると、磯村くんは頭の中で喋り始めました。
「佐藤さんは好きだったけど、相手にしてもらえないの分ってたからな」って、磯村くんは思いました。
自分のいやなことをほじくり返すのなんて、誰だっていやですから。
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磯村くんは大学へ行くのがいやでした。いやでしたけど、でも磯村くんは他にすることがなかったので大学へ行きました。
部屋を出て高幡不動の駅まで行きましたが、磯村くんは、電車に乗りたくないと思いました。
改札口の向うは細い柱が何本も立っていて、日陰になっているホームの屋根の下にいる男の子達がまるで、田舎の露天風呂にいるおじいさん達のように見えたので、磯村くんはそこに行きたくなかったのです。
磯村くんはそこで電車に乗るのをやめて、多摩動物公園行きのバスが来るのを待ちました。
日の当る駅前でバスが来るのを待っていると、磯村くんの目の前は真っ暗になって行きます。「なんで真っ暗なんだろう?」って、磯村くんは考えました。
分りきったことを考え直すのは力のいることなのです。
磯村くんは、坂道を上って行くガラ空《す》きの多摩動物公園行きのバスの中で、なんにも物を考えてはいませんでした。
だって、外は天気がいいけど、バスの中は暗かったからです。
磯村くんは、マゾのおじさん≠フことを思い出していました。
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大学の大教室の中で、やっぱり磯村くんはなんにも考えてはいませんでしたというのは、磯村くんがなんにも考えずにすんでいたからです。
「大学の講義って、ホントになんにも物を考えないでいいからラクだなァ」って、ホッとした磯村くんは思っていました。
「それでみんな大学に来るんだなァ」って、磯村くんは大教室の中で考えていました。
「だって、みんな先生が喋ってくれるんだもんなァ……」って。
大学の講義がつまんないって考えていた自分がホントにバカだったって、磯村くんは思いました。「ここにくればつらいこと考えさせられる心配ってないんだもんなァ」と思って、リラックスして眠りました。「みんな、なんにも考えたくないんだよなァ」と思ったら、やっと磯村くんも安心出来たんです。安心して、大学生になることが出来たんです。救いのないことを考えたってしようがないし――。
だからみんな、ものって考えないんですよね。
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帰りは、磯村くんは歩いて帰りました。バスで来たから、道は分っていたんです。
ホントは三限だって講義があったんですけど、でも、|生協の大食堂《ヒル・トツプ》に御飯を食べに行かなくちゃいけないんで、いやだから帰りました。学生がウジャウジャいるんです。
何故それがいやかって訊かれても困ります。ヤなものはヤだとしか、磯村くんが答えてくれないからです。
磯村くんは階段を降りて、長いスロープを降《くだ》って、多摩動物公園行きのバス乗り場に立っていました。これは、いつも磯村くんが帰るのとは反対の方向です。
京王線の多摩動物公園駅から大学まで続く山道は北門≠フ方で、正門はそれとは反対の南にありました。正門の前にバス乗り場があって、磯村くんは、陽の当る坂道を歩いてここまで来たのです。
チャンチャラおかしいやというぐらいに、お昼のお日様はギラギラと輝いて、青空に浮んでいました。
バスはなかなか来ませんでしたが、なんでいつもとは逆の方向に行ったのかというと、それは勿論、午後の授業目指して爽やかな新緑の山道をゾロゾロとやって来る健康な同級生達に出会うのが、磯村くんにはいやだったからです。
もう理由は訊かないで下さい。
多摩動物公園行きのガラ空《す》きのバスの中で、磯村くんはあのマゾのおじさん≠フことを考えていました。
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磯村くんが、大学から五分とかからない、待ち時間を入れたら歩く方が早い、乗る奴がバカだと言われるような、多摩動物公園駅までの短いバス区間の間にマゾのおじさん≠フ何を考えていたのかというと、あんまり大したことではありませんでした。
ほとんどなんにも考えていなかったに等しいぐらい、やっぱり磯村くんは大したことを考えていませんでした。
ポカポカと眠くなるようなバスのシートの中で、磯村くんは、「マゾのおじさんのことはどう考えればいいんだろう?」と、ただそれだけを考えていたのです。
「結局俺は、マゾのおじさんなんて、こわくもないもんなァ……」
コアラのいる多摩動物公園の前でバスを降りて、京王線の線路と平行して走っている白い道路をテクテクと歩きながら、磯村くんはそう思っていました。
京王線の線路と磯村くんの歩いている真っ白な道路とは平行になっていますが、でも八王子の山の緑はその間にふっさりとしたカーテンのようにかぶさって、磯村くんを一人ぼっちにしてくれました。同級生達の笑っているかもしれない明るい表情はもう見えないし、同級生達のどんよりしているかもしれないうっとうしい表情ももう見えませんでした。どっちにしろ見えないということはどっちだか考えなくてもすむということで、磯村くんは楽でした。磯村くんの頭の中は、まるで緑の山の中を走る真っ白いバイパスのように、きれいさっぱりとなんにもなかったのです。
磯村くんは考えていました。「あの、オシッコ飲んじゃうマゾのおじさんなんか、俺、ちっともこわくなかったしなァ」って。
僕≠ェ俺≠ノなっちゃうぐらい、磯村くんの頭の中はつっぱっていました。頭の中はつっぱってなかったのかもしれないけど、やっぱり若い二十歳の青年の身体は新緑の中でのびのびとつっぱっていたので、磯村くんの空っぽの頭も強気になれていたのです。
健康というのは、そういうことなんですね。
磯村くんは、「木川田がこわかったとすると」って、もう一遍考えていました。「それはいつからだろう?」って。
そしたらマゾのおじさん≠フことが頭に浮かんで来ました。「なんかヤだなって思ったことだけは確かなんだけどな」って、磯村くんは思いました。
でもよく考えたら、磯村くんにはマゾのおじさんがちっともこわくなかったんです。「ヤだけどこわくない」と思って、「じゃァ、なんでヤなんだろう」と磯村くんは思いました。
磯村くんは、マゾのおじさんが「もっとやさしくして」と言ったことが、いやだったんです。
磯村くんは、多分タイル張りのどっかの浴室みたいなところを考えていました。キラキラ光る山の緑と見たことのないおじさんの変態性欲なんていうのはヘンな取り合わせでしたが、頭の中と頭の外というのはそんなもんなのでした。
ベタベタ光る蜂蜜みたいなものを体中に浴びて、気持悪いものが「やさしくして」なんて言っているところを考えると、磯村くんの頭は暗くなりました。「やさしくしてもらいたいのは僕なのに!」って、磯村くんは思いました。
「やさしくしてもらいたいのは僕なのに、なんで僕がそんなヤツにやさしくしてやんなきゃなんないんだよッ!」って、磯村くんは思いました。気持悪いことがあるとすればそれで、ヤなことがあるとすればそれでした。
「やさしくなんてしてやる必要のないヤツが勝手にやさしくして≠ネんて言って、それが一番気持悪い!」って磯村くんは思いました。
思いましたけどでも、それはなかなか木川田くんとは結びつきませんでした。
木川田くんがこわかったにしても、別に木川田くんは磯村くんに「やさしくして」って言った訳でもなくて、磯村くんに「おしっこかけて」って言った訳でもないんです。
でも、磯村くんはそう思って、「木川田がそう言ったらこわいかもしれないな」って思いました。
「木川田がそう言ったら、こわかったかもしれないな」
「木川田がそう言うからこわいのかもしれないな」
「木川田がそう言いそうでこわかったのかもしれないな」
「木川田がそう言ったらこわいって思ってたのかもしれないな……」
似たようなことを一杯考えて、なんだか考えがまとまらなくて、ようやく磯村くんは答を見つけたみたいでした。
「木川田がそう言ったらこわいって思ってたのかもしれないな」って。
「そんなこと言いそうだったのかな、あいつ」と思って、磯村くんは、考えるのをやめました。なんだかそんなことを考えるのは辛くって、そんなことを考えたら木川田くんが可哀想だと思って。
磯村くんは、「ずーっと木川田のことをこわいと思ってたんだなァ……」って、今初めてした発見みたいに、そのことを握りしめていました。
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磯村くんの頭は、一日に一つのことしか考えられない頭でした。
もしも考えてどうにかなるというようなことだったら無理しても一杯考えたでしょうが、考えてもどうにもならないことを考えるのは辛いので、一コのことを考えると、もう頭が疲れて真っ白になってしまうのです。
「ずーっと木川田のことをこわいと思ってたんだなァ……」ってことを発見した磯村くんは、ズーッと道路を歩いて行って、道を間違えてしまいました。真っ直ぐ行かなきゃいけないところを左に曲ってしまったもので――どちらかというと、左に曲る道が真っ直ぐに行っている道≠ノ見えたというせいもありますが――気がつくと、高幡不動の駅には着かず、高幡不動の駅を降りて右に行く、磯村くんのアパートとは正反対の方向にある、高幡不動のお不動様の前に出てしまいました。
「なんかヘンだなァ」と磯村くんは思いましたが、そのまんま道の続く方向に沿って、意味もなく歩き続けてしまいました。お不動様のところを右に折れてしまえばすぐに駅前に着いたのですが、頭が空っぽになっていた磯村くんはなんにも考えず、道の導くまんまに左の方へ行ってしまったのです。
気がつくと、ガソリンスタンドがあって、お腹が空《す》いていました。
そこら辺はガソリンスタンドしかなくて、他にはなんのお店もありませんでした。竹藪なんかあったってしょうがないし。
さすがにガソリンスタンドがものを食べさせてくれるお店ではないことぐらい磯村くんにも分りましたが、どうしたらいいのかは、よく分りませんでした。
ガソリンスタンドの先にある信号を渡ると、どういう訳か目の前に、橋が見える道路がありました。「ああ、橋なら川があるし、川ならもう近くだ」と、磯村くんは思いました。磯村くんのアパートは川のそばにあった訳ですし。
その橋の方に続く道は上り坂になっていて、まるで、天に向って上って行くみたいでした。空がどんどん近くなって来て、「このまんま天国に行けちゃうんじゃないか」って磯村くんは思いましたが、結局、橋の上は橋でした。
それは、磯村くんの住むアパートよりはズーッと上流にある高幡橋で、磯村くんの住むアパートに磯村くんが帰り着く為には、その橋を渡って、向う岸を川沿いに一キロメートルぐらい歩いて、そしてまた新井橋を渡り直して歩くっていう、とてつもなくメンドウくさいことをしなければなりませんでした。
そのことを考えると絶望的になって、とってもお腹が空いたのですが、辺りに食べ物屋さんはおろか、お店なんか一軒もありませんでした。ガソリンスタンドでガソリンを飲んでも生きて行けませんし。
磯村くんはお腹が空いたのですが、後に戻るのはいやでした。後に戻ったって結局おんなじぐらい歩かなきゃなんないし、第一、後に戻ったら、その間ズーッと、「どうして大学で飯喰って来なかったの? バカだなァ」って、来る道筋にズーッと落っことして来たちょっと前の自分≠トいうのに言われ続けるに決ってると思ったからです。
「もう、今更バカに戻りたくないし」って磯村くんは思いました。
という訳で、ヘトヘトになって部屋に帰り着いた磯村くんは、頭とおんなじだけ体も空っぽになって、ちょうどいい按配《あんばい》にバランスをとって、そのまんま寝込んでしまいました。
バカですね。
食欲が出れば少しだって考えは変ったのかもしれないのに。
磯村くんは、はずみがつかないと、そのまんまでどこまででも行ってしまう人だったのです。
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次の日起きて、食パンを一枚食べて、またかったるいので、磯村くんは昼まで寝てしまいました。
昼まで寝てしまいましたが、結局誰も枕許には御飯を持って来てくれないので、しようがないから起きなければいけません。「メンドくさいなァ」と思って、律義な磯村くんは布団を畳みました。「外で御飯食べて来て、また部屋に帰って不貞寝《ふてね》の続きしよう」なんていう器用な発想は、磯村くんにはなかったのです。
ノロノロとパジャマを着替えて、ノロノロと布団を畳んで、ノロノロとカーテンを開けて、ノロノロと部屋の中を見回して、「なんか、することってないかなァ……?」って、磯村くんは思いました。なんか部屋の中ですることがあればその間ものを考えないですむと、磯村くんが思っていたからです。
なんにも考えなくなった真っ白な頭の中で一生懸命考えなくちゃいけないことを生み出すのはとっても疲れたから、磯村くんはなるべく他のことをしていたかったのです。
逃げたくないものから逃げていなくちゃいけない時というのは、自分の無能ばっかり、知らない内に指摘され続けているのと同じで、とってもつらいのです。
でも、御飯を食べちゃったら、なんにもする気はなくなってしまいました。
部屋に寝っ転がっていたら、寝っ転がっているのにふさわしいようなことがジワジワと湧いて来ました。
という訳で、磯村くんは竜崎頌子ちゃんのことを考えていたのです。
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日が暮れて、スーパーで買って来たサンドイッチをつまみにして、冷蔵庫に一本だけ残っていたペンギンの缶ビールを飲んでいた磯村くんは、考えたくもないことを考えていました。
磯村くんは、「似てるなァ……」と思ったのです。
誰が誰に似ているのかというと、それは勿論、磯村くんと竜崎さんでした。白に近いグレーのジャージの脚を開いて、壁に寄っかかってビールを飲んでいた磯村くんは、そのことを思ったのです――。
頌子ちゃんは、なんにもない女の子でした。そして、それと付き合っていた磯村くんも、なんにもない男の子でした。ノッペラボー同士だから平気で付き合ってられたんだって、磯村くんは思いました。
頌子ちゃんのことを不思議がってズーッと「ヘンだなァ」と思っていた磯村くんは、自分がズーッとその間ヘンになっていたからそのなんにもなさ≠ェ不思議に見えたのです。
磯村くんはゾーッとしました。
相手はともかく、その間自分は何してたんだろうって。
なんにも分らないんです。
「普通に大学生やってるってそういうことなのかな」って、磯村くんは思いました。ともかく、頌子ちゃんと付き合ってる間の自分が何してたかって考えたら普通に大学生してた≠チていうだけですから。
「普通に大学生してたから別にどうってことないと思ってたけど、普通に大学生してた≠チて、そういうことなのか」って、磯村くんは、なんにも思い出すことが出来ないその間の自分というのを考えて、ゾッとしました。
頌子ちゃんがスカートをふわっと広げて、自分と向かい合った壁に凭《もた》れて脚を伸ばしているような気がしました。
歯が悪い時は、舌の先をソロソロと悪い虫歯の方に近づけて行きたくなるものなんです。
「あんなのとセックスしたんだァ……」とか思うとゾッとするかなと思った通りにはならなくて、別にゾッともしませんでした。
「もう、関係ないもんなァ」っていう気しかしませんでした。
自分ていうのが、スケベなのかどうかよく分らない磯村くんでした。
だって、もしも自分がスケベだったら、頌子なんかにスッゴクのめりこんでて、思い出してもゾッとする筈なんだけどな――なんてことを、磯村くんは思っていました。
なんでそんなことを考えるのかっていうと、やっぱり自分はすごくスケベだっていう実感があるからなんだなって、やっぱりそんなことも磯村くんは思いました。
どうしてスケベなのかっていうと、って思ったら、磯村くんはすぐ、カナエちゃんのアソコを見ていました。
困っちゃうなァと思うぐらい磯村くんは、そのことが好きでした。
自分てどうしようもないなァって、磯村くんは思いました。
ジャージのゴムに手をかけるつもりはありませんでしたが、この部屋に転がって、一人でヤラシイことしてる自分ていうのを考えると、自分てホントにそれだけなんだなって、そういう気さえして来るのでした。
「ひょっとしたら、そういう自分を木川田に見られたくなかったんだなァ」って、磯村くんは思いました。
いつもカッコつけていたかったし、いつも気取っていたかったしって、磯村くんはそう思いました。
木川田にだけは弱味を握られたくないって、そう思ってカッコつけてたって――。
だって自分て、それだけでスケベなんだし、スケベなくせにやり方なんて知らないんだしって。
木川田は男だし、やり方なんて分んないし、分んないことを教えてもらうのなんてヤだし、一遍、木川田に頭下げたら、どんなことさせられるか分んないし――分んないって思ってたし。だからカッコつけてたし気取ってたし、って。
「結局木川田がこわかったんだなァ」って、磯村くんは思いました。「僕の知らないこと知ってたし」って。
でもそう思った磯村くんは、「じゃァ、僕の知らないこと≠チてなんだろう?」って思いました。
「なんにも知らないじゃないか」って、磯村くんはホントに、この時ばかりは自分のことを、はっきり「バーカ!」と思いました。
思ったけど別にどうもなりません。磯村くんは冷静に、自分のことをそう思っていただけですから。
そして、冷静になった磯村くんというのは、いつも肝腎なことを忘れてしまう磯村くんでした。
79
電話が鳴りました。自分のことを「バーカ!」と思ってポカンとしていた磯村くんは「誰だろう?」と思いました。「ひょっとして頌子かもしれない」って磯村くんは思いました。「自分の正体がバレたもんだから、それでひょっとしたら脅かしに来るのかもしれない」なんて思いました。磯村くんは、木川田くんから電話がかかって来た時の竜崎頌子ちゃんのことを思ってました。「アレはフテてたに違いない」って。「だからその証拠に、僕がどうするの?≠チて訊いたら帰るわ≠チて言ったんだ」って、「ザマァミロ、正体はバレてんだぞ」って、なんかそんな風に磯村くんは思いました。
この時の磯村くんにとって、竜崎頌子ちゃんというのは、ほとんど人をとり殺そうとするナメクジの化け物でした。でも、磯村くんは知らなかったのですが、竜崎頌子ちゃんというのは、ただの普通の女の子だったというだけです。普通の女の子がそういうものだと、磯村くんが知らなかった、ただそれだけです。
電話が鳴りました。
「負けないぞ」と思って、磯村くんは受話器を取りました。
緊張していたので、少し声は嗄《か》れていました。
「はい、磯村です」
そしたら少し沈黙があって、「あたし、榊原です」って、向こうが言いました。
「誰だろ?」と思いました。聞いたことのない声で、ともかく竜崎頌子じゃないことだけは確かで、「誰だろ?」と思いました。
「誰だろ?」と思って、「最近会ったことがある」って思いました。思って、「榊原≠チて誰だろ?」って思いました。
「榊原≠チて誰だろ?」って思った途端、「ああ!」って分りました。
「ああ」って分っただけで、結局何が分ったのかさっぱり分りませんでした。
だから磯村くんは「ああ……」って言ったんです。
「ああ……」
そう言ったら、電話の向うで、誰かが笑ったようです。笑いながらなんか言っているようです。少なくとも、磯村くんにはそう思えました。
榊原さんが言いました。
「ねェ、木川田くんといつから付き合ってんの?」
ククククク……≠チて、その後に笑い声が続いてるみたいでした。バカヤロ≠ニ思って、磯村くんはホントのことを言いました。「別れたよ」って――。
「別れたよ」
そう言ったら、相手の方はカウンター・パンチを喰らったみたいでした。磯村くんはそう思いました。
そう思ったら磯村くんは、「自分は本当のことを言ったんだ」って、そう思いました――「別れたんだ」って。
「あ、そう。いつ別れたの?」って、榊原さんは言いました。
だから磯村くんはそのまんまスラスラとホントのことを言いました。
「昨日」って。
「昨日≠ネんだ」って、磯村くんは思いました。「昨日木川田のこと考えてたから、だから昨日≠ネんだ」って、磯村くんは思いました。「じゃァ、おとついはなんなんだ?」って、遂に磯村くんはそのことを思い出しました。
「昨日の前の日、僕は何してたんだろう」って、磯村くんは思いました。
思ったら、考えることが忙しくなって、電話の向うでなんか訳の分んないことを言ってる女がうっとうしくなって来ました。
「別れたよ」「あ、そう。いつ別れたの?」「昨日」「あ、そう」
「だからなんだって言うんだよ!」――磯村くんは思いました。
「あたしはあなたが好きなのよ」
榊原さんが笑ったみたいに磯村くんは思いました。それまでは誰だかよく分んない女≠セと思っていたのが突然、磯村くんは「榊原があたしはあなたが好きなのよ≠チて言った」と思いました。
それだけ分って、後はよく分りません。
笑った筈の榊原玲奈が、急に「お悔み申し上げます」って言ったと、磯村くんは思いました。「あたしはあなたが好きなのよ。――それだけが言いたくて」って、榊原さんが言ったからです。
「バカにしやがって、お前なんかに関係ないだろ」って、磯村くんは思いました。「あ、そ」って言ったら、頭より先に手の方が考えてました。
受話器を置いて、「バカにしやがって、イタズラ電話なんてかけて来んなよ」って磯村くんは思いました。
そう思ってそのことにケリをつけて、「昨日の前の日、僕は何してたんだろう?」って、考えたいと思っていたことの続きを急いで考え始めようとしました。
「木川田から電話がかかって来て、おいでよ≠チて言って、泊りに来て、僕が帰っちゃヤだ≠ニ思って泊ってってよ≠チて言って」って、そこまで考えたら、磯村くんはゾーッ≠ニしました。ホントにゾーッ≠ニしました。
「今、何言った?」って。
「今、気持悪いヤツが来て、すごーく気持悪いこと言ってった……」って、磯村くんは思いました。
すごーく気持悪い。すごーく気持悪い。
すごーく、すごーく……。
気持、悪い………………………。
好き≠チて、そんなに気持悪いことなんだって、磯村くんは思いました。
思った瞬間、缶ビールは引っくり返って、ほんのちょっと残っていた中味は畳の上にこぼれました。
あわててティッシュペーパーを引っ張り出して、そこを拭いて、ビールの空き缶を燃えないゴミの袋の中に放りこみました。
ペタンと畳に坐りこんで、磯村くんは、「ホントに好き≠チて、そんなに気持悪い言葉だったんだ」ってそう思いました。
もう、磯村くんの頭の中を追っかけるのはやめましょう。磯村くんがどんなに気持悪い≠ニ思ってどんなにバカだ≠ニ思って、バカだ∞バカだ∞バカだ≠チて思い続けたかなんていうことはどうでもいいことですから。
磯村くんは立ち上りたいから、悪いものを全部吐いてしまいたいと思ったという、ただそれだけのことですから。
磯村くんは、自分が言われたように、木川田くんにも「好きだ」って自分は言うだろうなって思いました。それしか言いようがないから。
自分の中には好きだ≠チていう感情があってもそれがどういうことだか分らないから、きっと言うとなったらあんな風に言うしかないなって、そう思いました。
ニヤニヤ笑って気持悪く、そして怒りながら――。
「俺、木川田が好きだぜ、ヘッヘッヘ」――そんな言い方しか自分には出来ないな。そんな言い方をする時だけ、自分は本当に木川田くんのことを好きだ≠チて思えるんだなって、磯村くんは思いました。
どうしてだろう? どうしてそんな風にしか言えないんだろう? それを考えても、磯村くんにはさっぱり分りませんでした。はっきりしてることは、木川田くんに言えるんだとしたらそんな言い方でだけでしか「好き」とは言えないっていう、そのことだけでした。
木川田くんが可哀想だったら、「僕、木川田のこと好きだよ」って磯村くんは言えたかもしれません。磯村くんは「言ってた」って思いました。
「木川田が可哀想だったら、平気で木川田好きだよ≠チて言ってた」って。「僕は、慰めることだったら出来るんだ」って、磯村くんは思いました。「でも、好きなくせに、絶対に好きだ≠チて言えない」って、磯村くんは思いました。顔をメチャクチャに崩してヘッヘッヘッ≠ニ笑っている自分の顔を思って、磯村くんはもう死にそうでした。「どうして自分はそんな風にしか言えないんだろう」って。
「そんなに自分が大切なの?」って、磯村くんは思いました。
自分が可哀想でなりませんでした。
そんなにまでして自分を守らなくちゃならない自分の哀れさがたまりませんでした。
「だって、誰も僕のことを愛してなんかくれなかったんだもん」て、磯村くんは思いました。
それだけだったんです。
誰も、磯村くんのことを愛してくれなかったって――。
80
お父さんは、磯村くんのことを避けてました。
何故か知らないけど、磯村くんには分りました。
お兄さんは、磯村くんのことをいじめてました。何故か分らないけど、そう思いました。ホントは、扱い方が分らないでいただけなのかもしれないけど、でも磯村くんには、お兄さんが僕のことを愛してなくて、いつも僕のことをいじめてたとしか、思えませんでした。
お父さんがいてお兄さんがいて、その二人の男性と付き合っていたお母さんは、男性というのはそういうものだとばっかり思っていて、磯村くんのことを決して分ってくれようとはしませんでした。
磯村くんにはそのことがよく分りました。「だから自分は遠慮してたんだ」って、磯村くんはそう思いました。「僕って、お父さんやお兄さんとは違うんだよ」って言い出してお母さんを悲しませたくないって、磯村くんはズーッと思っていたのです。
何故か知らないけど、そういうこと言ったらお母さんは悲しむんだって、磯村くんはそう思っていました。
何故かは分りません。何故か分ろうとする前に磯村くんは、お母さんの思いこんでいるお父さんやお兄さんみたいな男の人≠ノなっていることで手が一杯でしたから。ともかくそうしていれば、三度三度の御飯にありつけて、飢え死にしないですむことだけは確実なんだって、磯村くんには分っていました。
ズーッとそうして来たから、磯村くんにはなんにも分らなかったんです。
だから、木川田くんがお父さんと喧嘩して出て来た時、磯村くんは「力になって上げられる」って思って、それで嬉しかったんです。「力になって上げられるし、これで僕も木川田もおんなじ風になれて嬉しい」って、一人暮しの磯村くんはそう思ったんです。
磯村くんは、木川田くんと力を合わせて一緒にやってけるかもしれないって思って、助け合って生きて行けるなんて嬉しいと思って、でも木川田くんがそうしてくれないから、辛かったんです。
木川田くんは木川田くんで生きてましたし、木川田くんは木川田くんで愛されたい≠ニ思ってましたし、磯村くんにはそのことがよく分ってましたから。
だから磯村くんは、木川田くんから距離を置いたんです。だって、一緒になんかやってくれないなんてことが分っちゃったらつらくてしようがないって、磯村くんには分っていましたから。
磯村くんは木川田くんに好かれたくて、でも木川田くんは絶対に、磯村くんのことなんか好いてくれないって分っていたから、つらかったんです。
磯村くんはよく考えたら、初めっからそうでした。木川田くんと二人きりで歩いた、あの九月の長い夜から。
目を伏せた木川田くんの唇が近づいて来るのを、磯村くんは見ていたのです。
「我慢出来る」と思って、磯村くんは唇を寄せて来る木川田くんの目を見ていました。睫毛《まつげ》だけあって、その下では、木川田くんの目は、閉じてはいませんでした。
木川田くんは、どこか、磯村くんのいるところではないところを見ていて、磯村くんは、そんな自分に近づいて来る木川田くんを見ていて、二人に分れました。
一人は目をつぶって木川田くんの唇を受けている磯村くんで、もう一人はそれがこわくなって、磯村くんの背中からそっと抜け出した磯村くんで、二人の磯村くんはお互いに、決して、自分とはもう一人余分の自分がいるなんてことを認めようとはしませんでした。
磯村くんは、そんなぼんやりした二人の自分の間に漂っていて、「誰か助けに来てくれないかなァ……」って、そんな風に思ってました。思ってましたけどでも、「自分は木川田から逃げてるんだから、そんなこと思っちゃいけないんだよね」って、そういう風に思ってました。自分よりも可哀想な木川田くんを助けて上げなくちゃ自分は誰からも助けてもらえないって。
磯村くんはいつも、いいことをしてごほうびを貰うことだけを待っている優等生でした。優等生をやっているのは大変だから、だから自分からはなんにもしないんだって、そういう風に不貞腐《ふてくさ》れていたのでした。
でも、そんな磯村くんになんかしてくれる誰かがいるかどうかなんて、誰にも分りません。分らないから磯村くんは「絶対平気(多分)」って、タカをくくっていられたのです。
磯村くんを愛してくれた人は一人しかいませんでした。それは、インディアンの女酋長と牧場の牝牛が一緒になったみたいな、あのカナエちゃんでした。
カナエちゃんはとってもぶっきらぼうでズケズケしてましたが、磯村くんのことを愛してくれてました。磯村くんは、そのことをよく知ってました。
よく知ってましたけど、気のいいカナエちゃんとセックスしかしなかった磯村くんは、愛してもらえるっていうことがどれだけすごいことかよく分んなかったんです。磯村くんの知ってるセックス≠チていうのは、どうもそういうもんではなかったようだったからです。
一体、セックスってなんなんでしょうね?
よく分りません。
結局、木川田くんと一遍もセックスなんかしなかった磯村くんは「どうしてなんだろう?」って考えました。
考えて答の出ることなら考えてもトクになるかもしれませんが、その磯村くんの考えはどうもそうではなさそうでした。だって、磯村くんはまだ一遍も人を愛したことがなかったからです。
子供の時間が過ぎて、一人で小さな箱の中から出て行った磯村くんは、その箱の外があまりにも広すぎて「ただ広いなァ……」と言うしかなかったからです。
きっと、誰かが手を差し伸べてくれるんだ、そしたら僕だってきっとその人を愛して上げることが出来るんだって思っていた磯村くんは、その差し伸べられる手が実は色んなところから色んな風に出て来るんだっていうことを知らなかったんですね。そして、差し伸べてくれる、その相手の方だって、色々こわいから、出したり引っこめたりしてるんだってことに気がつけなかったんですね。自分だって実はそんな風にしてるのに。
手を差し伸べて、すぐ引っこめて、「ああ、気がついてもらえない」って、一々律義に傷ついていた磯村くんは、一遍ですべてが解決しちゃうって思ってたんですね。だから、その一遍で解決出来ない自分が情なくて、つらかったんですね。
木川田くんをこわがっていた磯村くんは、実は、木川田くんになんにもすることが出来ない自分の、そのだらしなさやみっともなさを見つめるのをこわがっていただけなんですね。
磯村くんは、木川田くんのことを考えていました。「どうしてあんなに木川田は、僕に向って磯村、俺のこと好き?≠チて言ってたんだろう?」って。「どうしてあんなに木川田は、俺、磯村のこと好き≠チて言ってたんだろう」って。
そんな風に言ってくれた木川田くんに何をして上げられたんだろうって。
磯村くんは、木川田くんがちょっとずつしか好き≠チて言えない人だっていうことに気がついてたんです。
「木川田は好き≠チて言ってくれたけど、僕は、いつもそれをごまかす為にしか好き≠チて言えなかった」って。
磯村くんは、自分が最後に木川田くんになんて言ったのか、思い出すことが出来ませんでした。そんなひどいこと思い出したら僕もうなんにも出来なくなっちゃうって、磯村くんはそう思ってました。
青《わか》い春は終りました。都鳥《ゆりかもめ》はもういなくなって、いつまでも降る雨の中に、すばしっこいツバメが滑るように飛んで行きました。
アパートの裏の、川の見える土手に立って、磯村くんは「濡れちゃうなァ」って思っていました。
目の前の川原にはもう稚《わか》いとはいえない青い葦が茂って、水はとうとうと流れていました。
「あの橋を渡って、あの向う岸の土手を歩いて、ズーッとどこまでも歩いて行ったらまたあの橋≠ェ見えるんだけどな」って、雨の中で傘を差した磯村くんは、団地の向こうの新井橋の方を眺めていました。
「あの二つの川が一つになって海≠ノなっているところが見たいんだけどな」と思って、「でも、あそこまで行ったら濡れちゃうし」って、磯村くんは思ってました。
「ロマンチックやりに行くのかバカやりに行くのか分んないし」って。
「雨が降ってたら泣けるかもしれないなァ」って、およそ、泣くことの下手な磯村くんはそんな風に思ってました。
六月の緑の中で、雨だけが降っている、そんな梅雨の日でした。
「学校もないし、することもないし、一人でなにかを慰めよう」と思って、磯村くんは、川の堤に立っていました。
「いないのかなァ?」そう思って木川田くんは、磯村くんのところにかけた電話を切りました。
だから大丈夫って言ったのに――。
「源一、あんた出掛けるところがなかったら留守番しててね」
そう言って木川田くんのお母さんは、廊下の電話のところに立っている源一くんに言いました。
「いいよォ、どこ行くのォ」
木川田くんが言いました。
「ちょっと、お芝居の切符もらっちゃってサァ」
「ふーん、いいよォ」
「また後で電話してみよう」と木川田くんは思って、お母さんにそう言いました。
木川田くんは天使で、磯村くんが何を考えているかなんて、ちっとも知ろうとはしませんでした。
「あーあ、僕ってやっぱりダメなのかなァ」
雨の中で磯村くんが呟《つぶや》きました。「お腹空《す》いちゃったァ」とか。
身も蓋もない終り方ですいませんが、「ウチの子に限って大丈夫さ」って、どこかで誰かが言ってました。
「そうかな」って、それを聞いた磯村くんなら言ったでしょう。でも、「決ってるじゃん」て、木川田くんなら言ったでしょう。
相変らずよく分んない∴髑コくんだったのです。
「あーあ、腹減った」と言って、木川田くんは冷蔵庫を開けました。
「ねェ、ちょっとどうォ? あんたの作ってくれたこのワンピース?」
木川田くんのお母さんが、おっそろしく派手なワンピースを着て出て来ました。
初めっから「こりゃだめだ」と思っていた木川田くんは、でも、とっても心のやさしい子だったので、「あ、いいじゃん」と、無責任なことを言いました。
「似合うか似合わないか分んない人間て一杯いるんだなァ」って、木川田くんは思いました。「もっと勉強しなきゃ」って。
バカなことをやっていた磯村くんは、知ってか知らずか、クシュン≠ニくしゃみを一つしました。
ツバメがまた一羽通りすぎて、一体ツバメは鳴くのでしょうか?
「よく分らないな」と、磯村くんは思いました。
「そんならそれでいいじゃないか!」――そう神様が言ったことなど、磯村くんは全然知りませんでした。知らなくっても大丈夫だっていうのは何故かというと、その時に磯村くんは自分で、「そんならそれでもいいことにしよう」と思ったからです。
磯村くんはまだ、木川田くんに電話をすることが出来ませんでした。しようと思うと、「自分はなんかひどいことを言ったんだよねェ」と思って、「それがバレたらあのお母さん、きっと、花笠踊りで刀持って怒るなァ」なんて、訳の分らないことを考えていたからです。
(これでまだ続いて行くんだから、世の中なんて分りませんね――)
この本は昭和六十年六月、小社より単行本として刊行され、一九八八年六月講談社文庫に収録されました。