桃尻娘
橋本 治 著
目 次
桃尻娘 ももじりむすめ
一年C組三十四番 榊原玲奈
無花果少年 いちぢく・ボーイ
二年A組 二番 磯村 薫
菴摩羅HOUSE まんごおハウス
二年A組三十八番 榊原玲奈
瓜売小僧 ウリウリぼうや
二年A組 十一番 木川田源一
温州蜜柑姫 おみかんひめ
三年A組三十八番 榊原玲奈
(三十九番 醒井凉子)
あとがき?
桃尻娘 ももじりむすめ
―――――一年C組三十四番 榊原玲奈
1
大きな声じゃ言えないけど、あたし、この頃お酒っておいしいなって思うの。黙っててよ、一応ヤバイんだから。夜ソーッと階段下りて自動販売機で買ったりするんだけど、それもあるのかもしれないわネ。家《ウチ》にだってお酒ぐらいあるけど、だんだん減ったりしてるのがバレたらヤバイじゃない。それに、ウチのパパは大体洋酒でしょ、あたしアレそんなに好きじゃないのよネ。なんていうのかな、チョッときつくって、そりゃ水割りにすればいいんだろうけどサ、夜中に冷蔵庫の氷ゴソゴソなんてやってらんないわよ、そうでしょ。やっぱり女の喉って、男に比べりゃヤワに出来てんじゃないの、筋肉が違うとかサ。
その点日本酒はねえ、いいんだ、トローンとして、官能の極致、なーンちゃって、うっかりすると止められなくなっちゃうワ。どうしよう、アル中なんかになっちゃったら。ウーッ、おぞましい。やだわ、女のアル中なんか。男だったらアル中だってもまだ見られるけど、女じゃねえ。今から男にもなれないし、いいけどね。
マ、そんなもんなのよ、高一って。
2
今日、アレが来た。アー、ホントにやっと来たって感じでサ、よかったよかった。心配してたのよねえ、だって新学期からズーッとなかったのよ。そりゃ、いつもキッチリ来るわけじゃないけどサ、「アー、ヤバイヤバイどうしようかな」って思いかけてたの。数Iの時間、「アッ、来るッ!」って突然分ってサ、もうホントに声出しそうになっちゃった。アー、よかった。
しつこく頑張って毎ン日《チ》毎ン日《チ》タンポン持ってたのが成功したんだと思う。いつもだったら、なんだってこんなのがあるんだろうって、イヤでイヤでしょうがないのに、今日ばっかりはよかったなアって思ったわ、勝手みたいかもしれないけど。
ホント、来てみて初めて分った。あたしはやっぱりおびえてたのよ。そうでしょう、妊娠なんかしちゃったら目もあてらんないもん。
もう今度からは絶対気をつけよう、カッコばっかつけてたってしょうがないんだから。そうよ、でも、どうすりゃいいワケ? どうすりゃいいか分んなかったから心配してたんでしょう。分ってたらこんな風におびえたりする訳ないじゃない。
仮にも十五の少女よ、「今日はだめなの」なんて自分の体のメカニズム知りつくしてるような口きける? ヤダア、あたしそんなにすれてないわ。
初めての女の子が「コンドームして」とかサ、そんなこと言える訳ないでしょう、相手が気がきかなかった場合にイ!
それとも、「だめッ! だめッ! だめえッ!」って喚《わめ》き続けりゃいいの? いやよ。処女がそんな事言ったら屠殺《とさつ》場で殺される豚と一緒じゃない。初めてだったらなおさらそんな事言えないわ。どうしてそんな事が分んないのかしら、みんな。
「だめッ! だめッ!」なんて大人になってからよ、成熟して、素敵だろうなア、そんな事チャンと言えるようになったら。大人になる希望はそれだけネ、今ン所。
成熟して、アレもキチンと来るようになったら安全日だって分るしさ、そうしたら誘惑してやるワ、ニッ≠ネんて笑って。
アーヤダ、今はだめねえ、アレくらいのセックスで来ないんだもん。イッパシ意識的にしてるつもりでも、体の方はおびえてんのよねえ、やっぱり。だめな、あ・た・し。
当分あんな事よそう、ちっともよくなんかないんだもん。「なんだ、初めてだったのかよ」なんて、小山のヤツにも言われるし。誰だっていつかは初めてなんだからしょうがないでしょう。一人でセックスできるんだったらサッサとしてるわよオ。それをサ、あたしが初めてだったからって、なんで小山のヤロウに「ゼンブ分ってんだぜ」って顔されなくちゃなんないの? 教えて欲しいわ、何が分るのか。何にも分ってない癖にサ。
アーア、そんなんだったら体操でもバンバンやって処女膜破いときゃよかったと思うわ。あんな時血が出てサ、肝心な時に来ない≠だもん、バカにしてるじゃない。ホントにいっつも血≠ネんだから、屈辱だったらありゃしない。
「一遍寝たからって、愛してるなんて思うなよ」だって。なぜエ? 教えて欲しいわ、どうしてそんな事言えるのかしら。そんなに自分が愛されてると思う訳? 冗談やめて欲しい。あんな軽薄な顔して、アンタの顔から知性探し出すの、金田一耕助だって至難の技《わざ》よ。
初めての相手は撰り好みしない事、なんてイキがらなきゃよかった。「あいつよ」って友達に教えても、そうみっともなさそうな男じゃないからいいやとか思ったけど、よく見りゃはっきりパアよ。
本なんか一冊も持ってないじゃない。アンタ一体どこの大学行ってんのよ。今の大学生ってホント何考えてんのかしら、アメリカ行ってバカにされてくりゃいいのよ。軽薄そうな方が可愛いいなんて迷信ネ。
アーヤダ、一遍ヤダと思い出すと全部だめだ。あんなにゴニョゴニョいじくりまわして、「可愛いいよ」だって、ホントにやめて欲しい。マンガの読み過ぎだよ。あんな男にあたし、見せちゃったんだ、ゼエーンブ。損しちゃった。こんなことならあたしも目を開けて、あいつの体よオく見といてやったらよかった。折角の初体験をサ、ホント、あんなのしかいなかったのかしら、あたしも悲劇よネ。でもいいわ、大切な思い出なんかにならなくて、せいせいした。これで心配さえなけりゃネ、ホントにいいんだけどサ、マ、とにかくよかった、落ち着きました。
ほっとしたからまたお酒でも飲もうかな、ホントはいけないんだって言うけどサ、血行をよくしちゃ。でもいいんだ、今日なんか一杯飲んで寝ちゃお。
アー、まだ起きてるウ、早く寝ちゃえばいいのよオ、親なんか。明日早いんでしょう。ウウン、やんなっちゃうなア、寝なさいよオ、あたしお酒買いに行けないじゃないのオ。
3
「ねえ榊原《さかきばら》さん。大西クン、どう思う?」
田口祐子が言った、いつも通りクチュクチュと、あんな風に話したらバカに見えるだけなのに。
「どう思うって?」
あたしにどう思えって言うの? 大西浩のことなんかどうとも思った事ないわ。要するにウチのクラスのその他大勢じゃない。
「あたし昨日ねえ、大西クンと、A≠竄チちゃった」
「フーン」
「ウウン、勿論ファースト・キスよ」
「フーン、いいんじゃないの」
「ウン、土曜日にねえ、電話かかって来たの、大西クンから。そいでねえ、交際してくれませんか≠チて言うの。大西クンたらねえ、いつもフザケてんのにサア、緊張してんのよ、スゴク。だからあたしサ、照れちゃって、エッ?≠ネんて言っちゃったのねえ」
Aだなんて嘘みたいに可愛いいこと言うんだから、顔見て言いなさいよネ。田口祐子と大西浩か、ピッタリじゃない、味噌《みそ》おでんとヒゲモヤシで。イイわネ、あんなクラスでロマンチックになれるなんてサ。
「それで、帰りに団地の公園まで送って来てくれて、あたし、ブランコに坐ってたのネ、大西クンがあそこの鎖ン所に立ってて。夕焼けがきれいだったでしょ、昨日。それであたし、遠くの方見てたのネ、ズッと、そしたら大西クンが、田口さん≠ト言うの。だから、あたしはナアニ≠チて顔上げたの、そしたら、大西クンがサ、黙っておでこに……アッアッ、違うのよ、あたしだってサ、交際申し込まれたその日にキスさせる気なんかなかったのよ、でもサ、ホントに突然だったんだもん、ネ、しょうがないでしょう、ネ?」
しょうがないでしょう、そりゃ、ただおでこと唇がぶつかっただけかもしんないんだから。それをAだって言うんなら、それであたしは一向に構わないしサ。
よりによってAだなんて、よく言うわよ。AだからBCDってなるんでしょう、あたしはイロハの方がいいわ、まだ意味があるもん、色は匂ってサ。ABCなんて無意味にかっこつけて、「だめよ」って言いながらチョッとずつ許してくのよネ、チョッとずつ確実に、高校生らしく節度を持って。でも、やりたくなると絶対に愛≠持ち出して来たりして。今からOLみたいな真似してどうすんのかしら。そんで最後には、「だめよ、こわいわ」って言って、あたしン所に来るんだ、「ねえねえ玲奈《れな》」って。そしてそれは|H・R《ホームルーム》で「男女交際について」をやった日で、昼休みの校舎の蔭なんだ、陳腐なのは顔だけにして欲しい。
ただの交際≠セけなら早いとこセックスしちゃえばいいじゃない。そりゃ、妊娠なんかしたらヤバイに決ってるけど、キスもセックスも本質的には同じだと、あたしは思うの。前にも村雲クンとキスした時――本当の初めてだったけど――どうして「イイだろ?」って言わないのか不思議だった。だって、どうせする≠フに。
あたしはキスよりセックスの方がイイ、あんまりよくなかったけど。終ってから帰る時に小山のヤロウにキスされた時はゾッとした。アイツの顔をモロに見てしまった。アアいう顔をすると、「ゲームだよ」なんて言えるらしい。それなら真剣の方がズッといいに決ってるじゃない。
よく分んないけど、セックスってもっと滅茶苦茶な気がする。田口祐子みたいにキチンと階段を昇ってくなんてあたしはイヤ。階段は毎日昇り降りする団地の階段だけで沢山よ。どうして祐子は明日にでも結婚するみたいな顔してこんな話ができるんだろう。きっと鈍器≠ネんだ。
もう明日からは一人で帰ろう、放課後図書館にいるかどうかして。祐子と話しながら帰ればイヤなものを見なくて済むと思ったけど、今じゃ祐子も同類だし、このまま行ったらあたしは親友≠ノされちまう。
どうして同級生じゃいけないんだろう。同じ団地から同じクラスに往復するだけじゃない、便宜上。その証拠に、あたしン家《チ》は七号棟で祐子ン家は十号棟だもん。
それだけでいいじゃないよ、どうして親友だなんて生臭い概念を持ち出したがるのか分らない。あたしなんかと生臭くならないで大西浩と生臭くなりなさいよ、男女交際なんて愚劣な事しないでサ。分った? 祐子。恋愛なら一人でやってよ。
あたし、明日クラブも何にもないから五時まで図書館にいるわ。そうすりゃ駅につくのは六時頃だし、そうすりゃお買物の時間帯にぶつからなくってすむから。駅降りて、商店街を抜けて団地まで、下を向いてりゃすむもん。女だけの雑踏に比べりゃ男が混ってる雑踏の方がまだ堪えられる。ヤナ女達。
ワンピース着て、パンタロン穿《は》いて、カーディガン引っかけて、エプロン締めて、籠《かご》提げて、カート引きずって、どの籠からもネギがはみ出してて、どうしてあんなに突《つ》っ慳貪《けんどん》にしか子供に口きけないんだろ。あたしが同じ風に子供相手にしたら、「ナンテ可愛気のない娘《コ》だろ」って顔する癖に。ゴソゴソと道の両側に群れて、どうしてあんなゾロゾロしか歩けないんだろ、ザブトンなんかしてるからよ、タンポンにすりゃいいのにサ。何の因果であたしはこんな時間にこんな所通んなきゃなんないんだろ。
一体何がおもしろくてキョロキョロしてんのよ、祐子。そんなみっともないこと止めてよ、まわりはいつだって同じなんだから、下向いてなきゃ恥かしいわよ。
子供ン時に見た絵本は違ってたのに。道の真ン中は真ッ赤な絨緞《じゆうたん》が敷いてあって、その両側には綺麗に着飾った貴族達がズラッと居並んで、そしてズッとズッと高い所は金色に輝やいてて、王子様が待ってたんだ。
今や高い所はあたしの団地で、コンクリートの壁に洗濯物がブラ下ってる。道の両側は女だけ。薩摩揚《さつまあ》げのニオイとビニールの紅葉《もみじ》の枝。あたしの為に飾ったんじゃない。スーパーのレジがファンファーレ鳴らしてる。誰もあたしの方なんか見やしない、どっちのピーマンのパックがトクか調べるので手一杯で。
「あれが新しい王女様よ、マア、なんてお美しいんでしょう」なんて誰も言いやしない、お城から新しいお触れが出たから、『輸入豚肉緊急放出大バーゲン』。
おまけにあたしは不良少女じゃないから、眼をそむけてもくれない。いずれ道の両側にいる女と同じ事になるのが分っているから。
誰がすき好《この》んで自分の同類をシゲシゲ見たりする?
将来変った所でせいぜい古団地がニュータウンになるくらい。これでゴミゴミした下町の堅実少女だったらどんなに救われるだろう。団地なんか早くスラムになっちゃえばいいのよ、決定的に。もっともっと歴然と貧乏になればあたしだって生活に溶け込めるんだわ。
「玲奈ちゃん、今お帰りかい」――なんて隣りのオバサン≠ヘ言って、
「ア、小母さん、ただいま」――って、あたしは健気《けなげ》にも答えるんだ。
「今日あんまり天気が良かったもんだからネ、あんたンとこ寄ったついでに洗濯物かたしといたげたから、後で取り込んどきなさいよ」
「すいません、天気がいいうちに帰ろうと思って急いで来たんですけど」
「いいのよ、ちょいとばかしおせっかいかとも思ったんだけど、折角のお天気だからサ、困った時はお互い様」
何故か、お母さんは病気で寝てるのよネ、お父さんはいなくて。そうすりゃうまく行くんだわ。タイミングよく頬だって赤らめてやれるしサ、人がキスした話も、「マア、いけないわ」って羨《うらや》ましそうに聞いたげる。
「玲奈アーッ!」
ビックリした。なんだア、イモバンか。
「あい変らずつっぱってんじゃないよ」
「べつに」
「フーン、元気イ」
「元気よオ」
「そう」
世間の方じゃつっぱってんのはあんたってことになってんのよ、イモバン。祐子がおびえてるじゃない。ヘンなミニチュア、だって、このまんま十五年も経つと二人がオバサンとミセスに変って、あたしはやっぱりイライラしたまんまの、ナンダロ、やっぱりミセスかな。ヤダ、職業婦人のオールド・ミスかな、似たようなもんだ。先が見えてるったって、これじゃあんまりだと思わない?
だから今はこうやってお互いシゲシゲ眺めて、先を見ないようにしてるって訳か。イモバン、あんたっておかしいネ。何か言いなよ。笑ったな、どうせあたしもおかしいよ。
「ゲリコオ! 早く来なよオッ!」
仲間が呼んでるじゃん。あんた、ゲリコになったの、本名が留里子じゃネ、悲劇だよ。
「ワアッタヨオッ! じゃアネ、玲奈」
「じゃアね」
あの子はあたしに話したい事があるんだ、多分。でも、あたしに話しかけた途端何を話したかったのか忘れちゃって、いつも、「じゃアネ」でおしまい、いつもよ、どうしてだろう。
「榊原さん、知ってるの、あの人達」
「イモバン? 中学ン時一緒だったのよ」
「そう、あの人達、評判よくないのよ」
「でしょう」
落ちぶれたとはいえ、こっちは都立の共学の普通科で、イモバンは三流の私立の女子校の商業。ふしだらで凶暴で低能で、何でも言いなさいよ、祐子。学校に男がいるだけでデカイ面できる身分じゃないのよ、あたし達は。
「アノサ、榊原さん、売春て、どう思う」
へーッ、存外つきつめてるじゃない、田口さん。
「あの人達、やってるんだって、言ってたわよ」
「そうみたいネ」
そんなに商売繁昌《はんじよう》とも思えないけどな。
「あたしネ、軽蔑しちゃいやよ、あたしサ、もし、もしもよ、誘われたらどうするだろうって、考えたの」
世の中、認識だけは進んでるんだわ。イモバンから聞いた話だけど、あすこに来た女の教生が気イきかして、「今日の|H・R《ホームルーム》は高校生売春について話し合いましょう」なんてやったっていうもん。オバサン扱いされるだけなのに、短大なんてイモねえ。
「あたしネ、やっぱり断われないような気がするの、いけないかしら」
いいわよ、どうせ短大行くんでしょう。
「あたしはやだわ」
「ウン、そうだけど」
売春≠トのはなんなの、祐子にとって。ささやかな冒険? 目的の為に選ばない手段? イモバンには退屈な日常なのに。
「純潔とか何とか別にしてみれば、いいんでしょ、分んなきゃ。そりゃ本気で考えれば恐いけど。でも、ホラ、避妊とかサ、向うでやってくれるんでしょ、チャンと」
「そんな話初耳よオ」
「そうなの。でもサ、ホラ、こうしてても自分の体がいくらになるかって考えてると素敵じゃない、なんかお金持になったみたいで」
「そうオ、三千円だって言ってたわよ」
「そうなのオ」
「あんた、いくらくらいだと思ってたの」
「ウーン、よく分んないけど、十万円くらいかなって思ってたの」
「あなた幻想持ってんのねえ」
「でもサア、大変よオ」
要するにこの子は、幾ら出されるとその気になるか考えてただけじゃない。それだったらあたし、三千万円は欲しいわ。
「でもサ、よく考えたら一回で三千円でしょう、一日十人として三万円よ、すごいわねえ、寝てるだけでいいんでしょう」
そこが問題なのよ、そこが。三千円ありゃ、そりゃ生活は楽になるけどさ、三千円だもんネ、たかが。大体自分の体が金になるなんて間違いよ。
デーンと仰向けに引っくり返って値札がつくんだったら八百屋のナスと同じだもん。バカにしてるじゃない。なんで男は金にならないのよ。
あんな駅前の喫茶店にたむろって煙草ふかして、「ジョシコオコオセイ」って書いてあるチョンバッグ抱えて、中から「売春」を取り出して見せるなんて、そんなオリジナリティのない事、あたし堪えらんない。
みんな同じ紺の制服着てムッチリ太って、どうして女子校行くとみんなズングリムックリになっちゃうんだろう、お尻ばっかり大きくなって。あれじゃ重心が不安定で、さア引っくり返せって言ってるみたいじゃない。モロに肉体でサ。
あたし思うんだけど、「君は都立無理だからアッチ」とかって教師が選別するの、アレ本当に偏差値でやってんのかしら。なんかお尻の大きさで決めてるような気がするんだ、多分流通機構の関係かなんかで……
こんな事考えるからって、あたしを差別人間だなんて思わないで欲しい。あたしは違うのよ、あたしは、イモバンも祐子も団地の奥様も、ミイーンナ平等に嫌いなだけなんだから。
「ごめんネ、こんな話して」
「何? ウン、いいよ」
「嫌いなんでしょ、こんな話」
「別に。どうして?」
「ならいいんだけど、なんか榊原さんこわい顔してたみたいだったから」
「あたし? ホント?」
「ウン? ウウン、別にあたし、本気で売春したいなんて思ってる訳じゃないの、だから、ごめんネ」
「ウ、ウン」
「じゃ、また明日ネ」
「じゃアネ」
明日もやっぱり祐子と一緒だ、多分。あたしホントにそんなこわい顔してたかなア。やだア、ホント、こんなに何でもヤダヤダって言ってたら、ほんとにヤナ女になっちゃう。
あんまりよねエ、何が思春期よオ。
4
ウチのクラスはほんとにロクな男がいない。
半分はガキで半分はオジサン、役付きの皆さんはモロに普通ときている。クラス委員なんか悲劇の極みよ。頭がよくて、スポーツマンで、正義漢で、事務能力があって、しかもおまけに全部適当に≠ェついて、適当≠ェ七三に頭分けてるよオ、アアヤダ、察して欲しい、それがあたしの相棒よ。
今でこそデカイ面してるけど、あたしも昔はあんまりパッとした女じゃなかった。今でもそうだという意見もありますがア、いいでしょう、自分で分ってるんだから、大目に見て欲しいわ、それぐらい。だから、当然昔あたしがクラス委員に選ばれるなんて予想外のソトだった。だから余計あたしは憧れていたのだ、クラス委員の男の子に。
アア、どうしてあんなに素敵だったのかしら、美形で知的で行動的で、何でもクラスで一番だったのに。デニムの半ズボンに黄色いヘリコプターのついたセーター着て、あたしはタータンチェックの吊スカートで、どうしてこんなにボワボワとウブ毛の目立つ恰好をさせられなくちゃいけないのかと思って、黙って見てたわ。あんなに色が白いのに何故か四番でピッチャーだったのに、どうして? 教えて欲しいわ。あたしがクラス委員になれなかった時はあんなに素敵だったのに、あたしがクラス委員に選ばれた頃からよ、イモしかいなくなったのは。
生徒会に出る苦痛を察して欲しい、おもしろ味のない事、デパートのトイレとそっくりよ。せめてニキビ面でもいてくれりゃそいつの欲望観察してやれるのに、ニキビ面もいやしない。高校生のおしゃれは清潔にする事、なんて心底信じてると顔まで清潔になっちゃうのかしら。
でもやっぱりイヤ、不気味だわ、ニキビなんて。隣りに坐ってる山科なんかモロ、スタンダールだもん。顔中真ッ赤で、学生服でしょ、ジュリアン・ソレルならいいけど、あたし、あの下にある欲望を思うとおぞましくって。きっと自分でもおぞましく思ってんだわ、あんなにムッツリ黙り込んでる所を見ると。言っちゃ悪いかなと思うけど、その黙り込んでる所がまた感じさせるのよネ。イヤッ! フケが落ちてる。そば来ないでよ。学生服ってフケ目立たせる為に黒いんじゃないの。やめて欲しいわ、ホント。
でも、一人だけネ、一人いるんだ、美少年が、ウチの生物部に。でも、あたしどうして「美少年」って言う時舌なめずりするように発音してしまうのだろうか。我ながら空恐ろしいと思う。ンでも、美少年よ。
頬ッペたがポッと赤くて、目は天使の如《ごと》く淫蕩《いんとう》で、あの唇のみだらにも可愛らしいったらないわ。部のノートで「一年C組 磯村薫」ってオドオドした字見た時、分ったの、美少年だって。放課後部室の窓に凭《もた》れてボーッとしてる所見ると、あたしはいつもゾクッとしてひっぱたきたくなる衝動を抑えきれない。
風が吹くと、髪の毛は当然絹糸だからフワッと揺れて、ヨイワヨイワ。でも、サッとタテガミを一振りするとスグ元通りに端正で……
男になって犯したらどうだろうなんて考えちゃう。ウチの男子は何やってんだろう、早く犯しちゃえばいいのよ。存在論的に言ってサ、美少年は犯されるべきものだと思うの、あたしは。そうでなくっちゃ美少年である意味がないじゃない。
でも、無理だと思うわね、口きくもん。薫ちゃん、お願いだから黙ってて、幻滅するから。一体美少年に知性が必要かしら、ほんとに世界が崩れる感じってこうよ。
――「榊原さん、心臓の形から見るとウシガエルはトカゲが挫折したものだと思うんだけど、どうかな」
そりゃあたしはこういう言い方をする男は嫌いじゃない、だけど、それは言い方が好きなんであってネ、よりによってあんたに言って欲しくないの。言うんならせめて、「ボク時々太陽がコワくなるんだ」ぐらいにしてよ、ジルベール。あんたの顔から見ると、使い込みしない経理課長は美少年の挫折したもんだと思うわ。あたしも詩人ネ、こんな訳の分んない事言ってんだから。
マア、試験も終った事だし、数少ない楽しみでもあるしと思って部室に出かけてったけど、美少年はいないし。二年生が修学旅行なんかに行ってるとこうも集まりが悪いもんかしらネ。それともあたしだけアテのない哀れな娘で、みんなどっかで楽しいことやってんのかしら。三年は授業が終るとさっさと帰っちゃうし、今日みたいに雨が降ってるとモロに秋の夕暮なのよね、つまんないから帰ろう。
これで傘でも持ってなけりゃおあつらえむきに一人でボーッと落葉眺めてるのに。あたしだって一応女だから期待ぐらいするわ、後ろからスッと傘が出て来て、「入らないか」ってバリトンが聞えるのを。でも、いつもキチンとロッカーに傘を入れとく所を見ると、女子高校生というのは、乙女が挫折したものになるんでしょうよ、畜生。
「アラ、木川田クン、どうしたの?」
「傘、忘れたみたい」
「らしくもない」
「どうして」
「いいわよ、入れてったげる」
「よかった」
あたしは忘れていたのだ、この子を、ウチのクラスで唯一ヘンな子を。授業中以外は五分の休み時間さえ教室にいやしないのよ、うっかりウチの子じゃないと思うじゃない。何しろ変ってるんだから、だって、あからさまに、恋なんかしてんのよ。そのらしくない≠チていうのは、いつもロッカーに置き傘三本ぐらいは置いてて、「僕が入れてってあげる」をこまめにやってるから。根性には負けるよ。
「雨ばっかりでイヤね」
「ウン」
「京都の方も雨だったら、二年生可哀想だネ」
「京都は降ってないよ」
「新聞の天気図見たの? わざわざ」
「違うよ、電話したんだ」
「気象庁に?」
「旅館」
「ヤダー、あんた電話したのオ滝上クンに」
「ウン」
「執念ねエ。で、なんだって」
「晴れてるって」
「そんだけ?」
「そんだけ」
「お土産買って来てとかなんとか言わないの」
「そんな事、言えないよオ」
「どうして。いいじゃない、それくらい」
「イインだ、それで」
「どうして」
「だって、愛されてるなんて思うと恐いもん」
「純情オ! ヤダッ、そんなとこ坐んないでよ、濡れちゃうじゃない」
「でも、つらいんだ」
「そうだろうと思うわ、イイ加減に」
「でも榊原さんどうして知ってるの、先輩の事」
「どうしてって?」
「今パッと名前言ったじゃない」
「エエッ! 知らないと思ってたのオ、ウソでしょう。あんたの事知らないのなんかいないと思うわよ、学校中探したって」
「ホント?」
「ナアニイ、誰も知らないと思ってたのオ」
「そりゃ少しは知ってるだろうけどサ、まわりの奴なんか」
「負けたわ、完全に」
滝上クンというのは二年のバスケット部の事実上のキャプテンで、データによると、身長一メートル八十一センチ、六十五キロ、九十二・七十三・八十九、股下はどうやって測ったか知らないけど、九十九・八センチ。草刈正雄の胴体に菅原文太の顔が乗ってる事になっている。木川田源一コト通称「カマゲン」またはその外見からして「ガマゲン」は入学式の日に滝上クンを見て、恋に陥ちた。
あたしの見た所、木川田クンは、あれで肩幅があれば柔道部に行った方がいいんじゃないかと思うけど、めげずにバスケットに入った。
あたしと同じぐらいの高さだから、滝上クンとは二十センチも違うし、ヤヤ#イきで鈍い。従って永遠に補欠の二軍と決っているけれども、消息筋によると、「その方が先輩をズッと見てられるからイイ」という事になっている。
休み時間は必ず二年生の教室に行く。行ってなにしているかは知らないけど、黙って見ているだけだったという説もあり、結構楽しそうにやっていたという目撃者もいる。
そして只今の証言によると、本人はそんな事してて別に目立つとも思っていないらしい。というよりは、本人は滝上クン以外の人間がこの学校に棲息《せいそく》しているという概念すら頭にないのだ。つまり、あたしが平等に全員嫌いなのと同じに、この子は全員を平等に無視しているらしいのだ。何という民主的な二人だろうか。博愛主義者が聞いたらサゾ怒るだろう、楽しいったらありゃしない。
「でサ、滝上クンとはどうなの」
「どうなのって?」
「つまりサ、その、関係よ、寝た?」
「ワアッ、すッごオい、ロコツだなア」
あたしもホントにしまったと思った。なんてドジなんだろ。仮にも十五の娘が、四十女が息子のライヴァルの成績を探り出すような真似をしてしまった。アー、ヤダヤダヤダ今のナシ!
「ごめん」
「榊原さんて、そういう人だったのオ、ヘエ、僕もっと真面目な人かと思ってた。尊敬しちゃうよ」
アー、もう駄目だ。こんな事言ってしまって、私は慢性欲情娘にされてしまう。明日っから学校なんか来れやしない。
チラッ……(黙っててくれる?)
チラッ……(黙っててくれるらしい、ホントよ)
「どうせあたしのこと恐怖の分裂少女だと思ってんでしょ、男子は」
「どうかなア、違うみたい」
「どうして分るのよ、あんたウチの男子と口なんかきかないでしょう」
「どうして?」
「だって教室になんかいないじゃない」
「付き合いなんて色々あるしサ」
ジャーン!! あたしは思わず身構えてしまう。
「……?」
そうなのだ、今やあたしの前にはアノ神秘な薔薇の世界がその全貌を現わそうとしているのだ。
「なんかカン違いしてない。人生そんな楽しくないよ」
「? (今度はあたしの番だ)」
「付き合いって、クラブとかサ、そういうことだよ」
なんだア、そんな事かア。考えてみりゃ学校の付き合いなんてクラスだけに限ったことじゃないに決ってんのに、何|捉《とら》われてんだろあたしは。
「榊原さんも好きだなア、こういう人なのオ、へー、おびえるよなア」
「どうせあたしは変態よ、マジメな顔してて損しちゃった、もういいわ」
「そうでもないんじゃないの。いつもサ、なんて言ってるか知ってる、みんな?」
「あたしのこと? モモ≠ナしょ、何よあれ、百恵に似てんの、あたし? フテてるから?」
「別にフケてなんかいないじゃない」
「失礼ねえ、不貞腐《ふてくさ》れてる方よ」
「チ・ガ・ウ、モモ≠ニ百恵は関係ないの」
「じゃ何よ、モモチャン=H 『がきデカ』の。いつもヒステリックだって言うんでしょ」
「自分の事そんな風に思ってんのオ、ヘエ、イイコト聞いちゃったア。でも、違うよ」
どうせあんたは人の事に関心なんかないでしょうよ、悪かったわネ。じゃなんなのよ、一体。太モモ? あたしなんかより露骨にフトモモの子一杯いるんだし、まさかねえ。
「一学期のクラスコンパで権助峠に行ったじゃない――(行った)、あん時榊原さんサ、ピンクのコッパン穿《は》いて来たでしょ――(イエス)、そんでみんな弁当喰ってる時一人でサ、丘の上かなんか上ってボケッとしてたじゃない」
そう。思い出した。あたしはあんまりみんなが健康なんでウンザリして、一人で丘の上に坐ってガムなんか噛《か》んでたんだ、頬杖ついて。そしたら下の方で男子がギャアギャア喚いてるから、何だろうと思って振り向いたんだ。男子なんかいつも気違いみたいに騒がしいからサ、またハシでも転がったのかと思ったけど、それが何なの?
「アン時僕らネ、あの下で弁当喰ってたのネ、そしたらキミがあの上来てサ、ヒョコッと坐ってカッコつけてんじゃない、こっちにお尻むけてサ。何だろと思って見てたんだよネ。そしたらサ、山科がモモジリ≠チて言ったんだ、桃≠フお尻=Aあんまりピッタリだったからサ、そんで、桃尻娘≠チて言うの」
「ギャーッ!!」
「アッ、ぶたないで」
アッ、アッ、アッ、あたし、アア、アア、アア、モ、モ、モモジリムスメ! 何という、何という、もうだめだ、全てが崩れて行く、桃尻娘!!
「おびえてないで傘ン中入んなさいよ! 何にもしないから、濡れたってしらないわよ」
現実ってそうよ。絶対にそうなのよ。あたしが、あたしが前向いてサ、「現実ってそんなもンなのよ」って、それでも健気《けなげ》に不貞腐れてると、そんな事誰も気にしなくって、それであたしが、こんな風に憎悪に満ち満ちてちゃいけないかなと思って、そこだけ身構えてるとサ、全然違う所から声が飛んで来るんだ。
よりによって「桃尻」って何よ、一体! 現実認識ってこういうことなのオ、アア、もっとシリアスなもンだと思うじゃない。どうしてそうなのよオ、世の中はこんな風に動いてンのッ! 教えて欲しいわ、その理由を。桃尻、モモジリムスメだなんて、アア、あたしのこれまでの苦労も水の泡だ。あたしのプライドがイカダに乗って流れてくわ。
「モモジリってどういう意味よ」
「女があんな風に坐ってと言うんじゃないの」
男はどうなのよ。女がしゃがむと桃尻なの? 男は桃太郎なのにイ、あんまりじゃないよオ。
よりによってピンクのコッパンなんて穿くんじゃなかった。可愛くキメようなんてしたのが間違いだったんだわ。
「ンとネ、山科が言ってたんだけどねえ、桃って丸くて不安定じゃない、お尻が。だからサ、お尻の坐りが悪いのをそう言うんじゃないの」
悪かったわねえ、自分は顔中イチゴジャムなのにイ、人のお尻の事なんか放っといて欲しいわ。アア、山科のヤロウ、あんな眠そうな目して、人のお尻のことばっかり考えてたのかア、アア、ヤダア……男子なんてサ、結局ガキなんじゃない。あたしがどんなに現実に失望して傷ついてるかなんて全然分りゃしないんじゃないよ、もうッ! あたし泣いちゃうわ、ほんとにッ!
「痛ッ。榊原さん、そんなとこで坐んないでよオ」
「木川田ア、何やってんだよオ」
「ワーイ、オカマが女泣かしてやがんのオ」
現実≠ェ黄色い声出して歩いてる。野蛮人!
「ウルセエナア、くやしかったら泣かしてみなア! ねえ、榊原さん、みんな見てるよ」
分ったわよオ、また言うんでしょ、モモジリって!
「そんなにショックだった?」
「べつに! もういい。どっかで御休憩しない。ビショビショだから」
「イイよ、『プラット・ホーム』行こうか」
「ウン」
「傘さしててこんなに濡れたの初めてだ。榊原さんサア、傘さしたげる時は相手に合わせないと駄目なんだよ」
そうでしょうよ、専門家は違うわよ。あたしだって別に雨ン中でドツキ漫才やりたくなんかないわよ。
それであたし達は喫茶店に入ったッ!
5
その『プラット・ホーム』で話した事といえば他愛もない事で、あたしは例のモモ≠ナガックリ来ていたし、源ちゃんは滝上クンがいないのでボーッとなってた所をあたしにノセられただけだから、やっぱりボーッとなったまんまだった。それまで殆《ほと》んど口なんかきいた事がなかったから、改めて坐り込むとそうなっちゃうのはしょうがないけど、でもそれであたし達は結構仲良くなって行った。もっとも付き合うったって源ちゃんはあたしに人格があるなんて思ってさえみないだろうけど――なにしろ滝上クンが全てなんだから――でも他の人間ときたひには存在さえ認められてないんだから気分はイイわ。
「ねえ、滝上クンて何考えてんの」
「何って?」
「あの人、結構女子に人気あんでしょう」
「決ってんじゃない」
「どこがいいワケ」
「どこって、分んない?」
「分るわよ、大体は、でも」
「玲奈ちゃんはサ、チョッとへんなんだよネ」
「どうせネ」
「女らしさに欠けてんじゃないの」
「悪かったわねえ」
あたし、この子にこんな事言われるとホントに崩れちゃうのよねエ。
「でサア、どこがいいワケ」
「どこって、サア、やさしいし」
「誰に? あんたに?」
「ウン」
「じゃホモなの、彼は」
「そんな事大きな声出して言わないでよ」
「じゃ、そうなの?」
「違うよオ」
「じゃなんなのよ、誰か付き合ってる人でもいるの?」
「女で?」
「そうよ勿論」
「いないよオ」
「どうしてそんな事分るのよ」
「僕に分んない訳ないじゃない」
マ、それもそうか。
「じゃ、何考えてんのよ」
「バスケット」
「それだけ?」
「そうだよ、バスケット一筋なんだから」
「嘘よオ、そんな筈《はず》ないわ、絶対」
「先輩は違うの、そんな人じゃないんだから」
「じゃア、ああいう子がイイナとかサ、そういう事も言わない訳?」
「それぐらい言うよ、高田みづえみたいな子がイイナ≠ニかサ」
「凡庸オ」
「イイじゃない、僕はそういう人が好きなんだから」
あたしは信じられない。十七の男よ、あたしもいい加減丸くなって来たから、十七の男は性欲の塊《かたま》りで日夜|悶々《もんもん》としてるとか、もうそんな激烈な事は言わなくなったけど、でも考えてもみて、一メートル八十一もあって、バスケなんて手も足もムキ出しでやってんだから、イヤでも見えちゃうわよ、シュートする時なんか、あたしドキッとしちゃうもん、ワキ毛。顔だって露骨に男だしサ。
あんな男が女に取り囲まれててそれに無関心で、そんでホモでもなくって、どこにでもいそうなタレントムスメが「イイナ」なんて第一考えられないじゃない。
「先輩のクラスに松崎って女がいるじゃない」
「いるウ」
このニュアンスを分って欲しい、ホントにいるウ≠チて感じでニューッと存在してるんだから、いかにも自分は女でござい≠チて顔して。あたしは大ッ嫌い、おぞましくって。
「彼女がサ、こないだの昼休みに言ったのネ、あんたいつもここに来て何してんのよ≠チて」
「ウン」
「そんでサ、彼女は先輩のこと好きなのね」
「ウンウン、分る、自分が無視されてっから頭きてんでしょ」
「そう。そんでサ、ここはあたし達の教室で、あんたみたいな子にウロチョロされたら目ざわりだから来ないでよ≠チて言うの」
「そんな事言うのオ、やアねえ」
「だから俺頭きてサ、そんなこと人の自由だろ≠チて言ってやったんだよネ、そしたら何てったと思う」
「何てったの」
「オカマの自由ってどんなんだか、あたし知らないわア≠セって。そんで俺サ、もう頭来たからサ、よっぽどひどい事言ってやろうかと思ったんだよネ」
「そうよ、当然よ」
「そしたらサ、先輩が来てサ、ここは君だけの教室じゃないし、こいつは僕の大事な後輩なんだから君にそんなことを言われる理由はないだろう。木川田に謝まったらどうなんだ≠チて言ったんだよネ。そしたらサ、彼女真ッ蒼になってオカマに頭下げたくなんかないワ≠チて言うワケ。先輩怒ってサ、パシッと横ッ面張っ倒してサ、高校生なら高校生らしい言葉を使ったらどうだ≠チて言ってやったの。モウ、彼女泣き出しちゃってサ、まわりにいた女なんか喚《わめ》き出しちゃって、滝上クン、どうして暴力なんかふるうのよ∞そうよ、スゴイわネ、口で言えばいいでしょう、謝まりなさいよ∞そうよそうよ≠ネんて言ってんだけどサ、他の女はイイ気味だ≠ネんて思ってたんじゃないの、シランプリして。先輩は彼女が僕の後輩を侮辱したのが先だろう。その事について謝まる理由はないけれど、殴ったのは確かに悪かった、スマン≠ト、男らしいの。そんで僕ン所来てサ、気にするなよ≠チて言って肩抱いてサ、送って来てくれたんだ。僕もうジイーンとしちゃってサ」
フーン、そうだろうなア、分んない事もないけどサ。でも一体そんな学園小説みたいな話があってもいいもんだろうか? あたしやっぱり分んないわ。
「でも、そんだけなの?」
「そんだけって、何を?」
源ちゃんはまだジイーンとしてる。
「例えば好きだよ≠ニかサ、キスするとかサ、そういう事はないワケ?」
「ないワケ」
「いいの?」
「いいの!」
フーン、でもよ、でもよ、あたしが目の前にいるでもない滝上クン≠ネる男とこんな風に対決したりするとサ、猛然と反感の嵐が湧き起ってくるのは事実なのよネ。
そりゃア、あたしみたいな女が学園の太陽≠ンたいな男に反感持ったりすると、絶対にみんな「そうだろ」って顔すんのは分ってんの、相手にして貰えないからだって、失礼しちゃうわ。
あたしは絶対にブスじゃないんだからネ、そりゃあたしはいわゆる美人でも可愛くもないけど、だからといってそれ以外全部ブスで通しちゃうようなバカとは話が出来ないわ。だってそうでしょ、もしも、もしもよ、あたしが源ちゃんの立場にいるとして――あたしがオカマだったらって話じゃないわよ、バカね――もしもあたしが滝上クンを好きで、そばにピッタリくっついてて、ライバルの女の子にいじめられたりしてる時に庇《かば》って貰えたら、泣くわよ、そりゃ。でもその時は「もう泣くなよ」って言って、恥かしそうな顔してソッポ向いたマンマ、「前から好きだったんだ、いつか言おうと思ってたんだけど」って地面に愛の告白するのがキマリでしょ。
そうじゃなくって、「確かにキミの事は好きだけど、それは妹みたいな気持なんだ、誤解しないでくれないか」、なんて言われたらどうする? バカにしてると思うじゃない。女だったら絶対そうよ、そんな事言われて丸めこまれちゃう程バカじゃないわ。そこまで言うんだったらせめてキスの一つぐらいしてもらいたいじゃないのよ。
そういう男はキスしたら自己嫌悪に陥るのよネ、決ってんじゃない。「高校生なら高校生らしい言葉を使ったらどうだ」とか「スマン」なんて言う男は。
あたし今までなぜピンと来なかったか分ったわ。あたしはあの光り輝く常識がイヤだったのよ。どうせ一生あんたの事を嫌いになる人間なんか一人もいないでしょうよ。そんでバスケット以外に考えてもみなかった青春≠ニか人生≠ネんて事突然言い出して、関係ないあたしまで巻き添えにするのよネ、素直じゃないって。イヤッ!
バッカみたい、人の恋人の事でこんなにカッカするなんて。
「でもさア」
「なによ」
「ホントに好きな人だったらサア、アノ、そんな事しようなんてサ、あんまり思わないんじゃないの。そりゃほんとはサ、少しはあれだけど」
「じゃ好きでもない相手とは構わないのオ?」
「しょうがないんじゃないの、それくらいはサ」
そうなのオ? そうかしら。そうオ? そうかなア、そうだろうか。あたしだって好きでもない相手とやっちゃった≠だけど、でも、そうかなア。
源ちゃんには、チャンと好きな相手がいるんでしょう。あたしは、結局好きな男がいなかったって事なんだろうけど――どうなのかなア。
あたしだって時々考える、もし本当に好きな人ができたらって。でもその時、どうだろう? ウーン、やっぱり考えてないかなア、その、モヤモヤっとした人と恋≠ネんかしてるんだけど、その先って……考えて、ないや。
そうだなア、あたしもろまんちっくなのかも、しれない。
「でさア、ホモッてどんな事するの?」
あたし暫《しばら》く分んなかった、自分が何を言ったのか。源ちゃんが困ったみたいな顔したから、それでやっと分ったの、自分がどんな事言ったのか。そういう意味じゃないの、そういう意味じゃないのホントに。あたしはただサ、ホモって分らないの、具体的にどういう事か。ただスッゴオイ神秘な事みたいな気がするだけなの。だって世の中にもう神秘な事って絶滅しちゃったじゃない。それなのにあたしの前に神秘≠ェ坐ってるのよ、当り前の顔して。誰だってそうでしょ、神秘な事があったら誰だって「どうなってんだろう」って思うじゃない。あたしもそう思っただけなの、ホントよ。でも、もういいわ。
昼休み、学校の廊下を友達と歩いてたりする時源ちゃんに会うと、あたしはどうしても「アラ、お出かけ」って声をかけたくなるの、団地の奥さんみたいに。源ちゃんはチラッと笑うだけだけど、そんな風に声かけたくなる時って、「イイナ」と羨ましく思うのと、この世界から脱けてよその世界に、お出かけ≠キる人とあたしは知り合いなのよって人に誇示したくなるのと、半々でしょ、そんな感じなのよ。
学校の帰り喫茶店に入って――源ちゃんは忙しい人だからタマにだけど――二人でポケーッとポスター眺めて音楽聞いてると、あたしは落ち着くの、ヘン? こんな所人が見たら高校生らしい節度ある交際をしてるなんて思うかもしれないけど、違うのに。
この子の顔見てると将来どうなるのか予想がつかない。パーマかけたリーゼントでニキビが二つ三つ浮んでて、ボウヤ以外の何物でもないのよネ。ズッとこのまんまじゃないのかって気がするわ、他の子の顔の上じゃみんな将来≠ェ笑ってんのに。
そんな事を考えながら、あたしは十六になって(あたしの誕生日は十一月三日の蝎座――赤丸ツキよ)、ウチのクラスのアノ野蛮な桃太郎達は山へヘマをしに、川へイモを洗いに行っては毎日を過し、祐子は大西浩のキビ団子をせっせと作り、滝上クンはキビ団子を一人占めしたまんまお伴の源ちゃんには一つもあげず、美少年は鬼ケ島へ凡庸を探しに行くつもりで実用一点張りの眼鏡をかけた。
校庭の樹は枝ばっかりになって、あたしの足許には、それでも女≠ェヒタヒタと満ちて来たりして、放課後一人でポツンポツンと帰る時、あたしは夕焼けの中をこうやって帰る為に高校に入ったのかもしれないなアと思ったりして、そして二学期は、終るの。
6
も・し・もオ、あたしのことを、ホモなんかに興味持ってる変態娘だと思ってんなら、オジサン、とんだ間違いよ。ウチのクラスの牧村久美なんかマンガ気違いで絶対に少女マンガ家になってみせるって頑張ってるけど、「ホモじゃない男はイモだ」って言ってるわよ。とにかく流行《はや》ってんだから少女マンガの世界じゃ。紫と緑のハートが飛びかってるのよ、すごいんだから、知らないでしょう。それで、試験休みにあたしと久美と祐子の三人で予備校の冬期講習の申し込みに原宿へ行った帰り、あたし達は探検しちゃったの、新宿のゲイバー街を。ここは昔、赤線≠トいうの? 売春街だったんでしょ。それを男に占領されちゃうんだもん、女も堕落したもんよネ。
夕方だったからそんなに人はいなかったけど、すごいのねえ、驚いちゃった、めったやたらにバーなんてあって、アレ、みんなそうなんでしょう。ドキドキしちゃった。名前だって「ヴェネチア」とか「ビアズレー」とか、ほんとに異国≠チて感じなのよねえ。空まで紫色に見えたわ。
それでもオカマと友達なんてあたしだけでしょう、威張っちゃうわ。だからあたし、珍らしくもって言うより、初めてだけど、源ちゃんから電話かかって来た時なんかザマアミロと思ったわ。冬休みなんてあの子が一番忙しい時に態《わざわざ》、「相談があるんだけど」なんて言って来るんだから、もう母の如き心境でサ。あの様子だと滝上クンに彼女でも出来たかなと思って『デモシカ・ハウス』に出かけて行ったの。
『デモシカ・ハウス』っていうのはここら辺で唯一気のきいた音楽を聞かせる所で、あたしは高校受験の時息抜きにチョクチョク行ってた。
『ホテル・カリフォルニア』だって、あんなに大|流行《はやり》する前は結構かけてたんだけど、どこでもかけるようになるとピタッと止めちゃうくらい格調高くて、あたしも好きだったからチョット寂しかったけど、でもそれだけ筋を通してるとやっぱり尊敬はしちゃう。
小山と夏休みに知り合ったのもここだったんだけど、その後ここで「ヤア、俺の女」って顔されたのにカチンときて、それから一遍も足踏み入れたことはなかった。ほんとに久し振りだったんだけど、でもマスターはあたしの顔覚えててくれて、「よオ、どうしてたんだ」って言ってくれたから余計嬉しくなった。
源ちゃんはベージュのスーツに銀鼠と紺の縞に細い焦茶の線の入ったスカーフでキメて、ちょっと場違いだったけど可愛かったわよ。
こんなことならあたしもアポロキャップにダッフル・コートなんて色気のない恰好《かつこう》してくんじゃなかったと思ったけど、マアいいわ。
「読んでよ」って、源ちゃんは縦長の封筒から白い便箋を抜き出してあたしに渡した。
「木枯しの冷たさを知っているかい、僕はその度に君を思うよ。君はなんて冷酷なんだ。金曜日の晩に遅れたのは確かに僕が悪かった。しかし君にも僕の側の事情を察してくれる思いやりがあってもいいのではないのかい。それともこれは僕の利己主義だろうか。
分ってくれとは言わない、君は軽蔑するだろうが、僕には妻も子もある、会社では人からも評価されるような仕事をしている。地位も名声も人並み程度にはある人間のつもりだ。
君と僕との間に年齢の隔たりがあるのは事実だ、君はその事で僕達二人が完全に理解し合えないと言うけれど、僕は君に不足を感じさせないだけの事はしているつもりだ。
それを、僕がほんの僅《わず》か遅れた事を口実にして、若い男とこれ見よがしに遊び歩いているのは不実ではないだろうか? 一体君の御両親はこの事を知っていられるのだろうか? そんな事実を耳になされたら御嘆きになるのではないのかな。
別に僕は君に脅迫めかした事を言うつもりはない、ただ僕の真情を分って欲しいだけなのだ。君が僕を警戒して連絡先を明してくれなかった事情はよく分る、だから君も僕がこうして禁を破って手紙を書かずにはいられなかった心境を察して欲しい。もう一度会って欲しい、そして二人で話し合おう、そうすれば君にもきっと分って貰えると思う。
是非是非もう一度僕に連絡して欲しい。僕は君の電話だけを一日千秋の想いで待ち侘《わ》びている。――兄」
「何、これ?」
「見りゃ分るでしょう、ラブレターだよ、おぞましい」
「そりゃそうだけど、誰よ、これ」
「オジン」
「あんたこんなのと付き合ってんのオ」
「寝ただけだよ、二、三回。それをサア、やんなっちゃうよなア、僕の住所だって絶対に教えなかったんだよ、それをサア、ヤバイなア」
源ちゃんは封筒をいじくりまわしてる。
「チョットそれ見して」
「何にも書いてないよ」
こんなシワクチャにして、ほんとだ、宛名しか書いてない。
「ヤバイんだよねエ、親父なんかに見つかったりすっと」
「いくらなんだって人の手紙開けたりなんかしないでしょう」
「するよオ。第一俺の部屋入って来る時ノックなんかした事ないんだぜ」
「おっそろしい、ホント?」
「ウン、この手紙来てるんだって僕が見つけたからいいけどさア」
「どうしてあんたの住所が分ったの?」
「僕のサア、仲のイイ子がいるのネ、あっちの世界に、その子はスッゴク可愛いい子なんだけどサ、フケセンなのネ」
「フケセンて何よ」
「オジン専門なの。そんでその子がこの便所屋のおジンに惚れてサ」
「何よ、便所屋って」
「ホラ、あれ、便器やなんか、あのトイレのサ、瀬戸物作ってる会社、そこの部長なの、コレは」
「じゃ兄≠ヌころの騒ぎじゃないじゃない」
「そう。そんでもこのオジンはサ、僕の方がよくって、アレだからア」
源ちゃんの話はアッチ行ったりコッチ行ったりするからあたしが整理すると、要するに源ちゃんはそのオジサンの死んだ恋人≠ノ瓜《うり》二つで(この世の話とも思えないわ)前からしつこく言い寄られてたのを趣味じゃないからって断ってたんだけど、タマタマやな事があって、寝ちゃったんだって。それ以来しつこくてしつこくてたまんないんだけど、そのオジサンは何でも買ってくれたりするから、ついつい付き合っちゃうんだって、それでもあんまりしつこいから――彼の表現によると変態≠ネんだって(!)――すっぽかしちゃったのを、そのオジサンはあきらめられなくて、例のスッゴク可愛いい子≠ニ情を通じて′ケちゃんの住所を探り出して、言う事を聞かないと親にバラすぞって脅しをかけてるの、これで整理≠ノなったかな?
で、こんな事相談できるのはあたししかいないからって――見なさいよ! ――今日の会談になった、ワケ。
「で、そのオジサンどんな顔してんの」
「梓みちよと田中角栄一緒にしたみたいな顔」
ブッ! 灰皿ひっくり返した、モウ、源ちゃん、あんた何よ、封筒破いたりするからこんなに散らかっちゃうんじゃないよ、マスターごめん。
「何よ、それ、ヘンなモン一緒にしないで」
「だってそうなんだモン」
だって≠ェつけば何でも肯定できると思ってんのかしら、この子は。あたしは精々《せいぜい》ヤラシクてTVの司会者ぐらいに思ってたのに。田中角栄と梓みちよ? どんなのよ、一体?
「気持悪いのは分るけどサ、おっかなそう?」
「ウーン、冴《さ》えないよ。気が小さいんじゃないの」
この字の感じで行くと分るような気がする。恋文っていうより履歴書みたいな字だもん。便箋に会社のネームが入ってる所なんか泣けるしサ。
「そんなの程サ、思いつめたりすっとこわいんだよネ、ねえ、どうしよう」
「おどかしたら」
「おどかすって、どうすんのよ」
「つまりサ、このオジサンはバラすぞって言ってる訳だけど、それは自分の方もバラされたらヤバイって気があるからでしょう」
「そうかなア」
「そうよ、決ってんじゃない。だって結婚してんでしょ。ねえ、ホモって結婚すんの?」
「するよ、結構」
「フーン、マ、いいけどサ、この際。そんで部長なんでしょ。だったら絶対おびえるわよ、会社なんかにバレたら、そうじゃない」
「ア、そう! 前ネ、そのオジンと歩いてた時会社の奴に会ったんだよネ。ウン、関係ないとこで、すごかったよオ、焦っちゃって」
「そうでしょ、絶対なんだから。あんた家族の事話した?」
「ウウン」
「じゃサ、あんたの歳知ってる? そのオジサンは」
「オレ、十八なんだア」
「どうして?」
「あんまり若いとサ、ちょっとヤバイの。そりゃ若い子と付き合ってっ時は本当の事言うけどサ」
「じゃアサ、イイ、あんたあたしの弟ってことにすんの。そんでネ、イイ、あんたは中三ネ、そんであたしは高二、まさか学校まではバラしてないでしょ」
「当然」
「そんで、あんたまだこの返事してないのよネ。だったらいいわ、あたしあんたと一緒に会いに行くから」
「どうして?」
「だって向うは一人でしょ、奥さんとか会社なんかにバレたらまずい訳だから、そんでこっちはサ、姉弟そろって行く訳、ウチの弟にヘンな真似しないで下さい≠チて」
「オトウトだって、ギャッハッハッ」
「弟よ。分った?」
「ハーイ、オネエサマ、なアんちゃって」
「そうすりゃサ、向うはヒョッとしたらこっちじゃもうみんな知ってる事かと思うじゃない、そうすりゃ勝よ。だってもう弱味ないんだもん。反対に会社の上役にバラしてやるっておどかすの」
「大丈夫かな?」
「大丈夫よ、知らん顔してりゃ分りゃしないんだから。やろうよ、ネ」
「やろうか。ワア、おっもしろそう」
「その代りもうヘンなのと付き合うのやめなさいよ」
「ハーイ、おねえさま、ギッヒッヒッ」
あたし達姉弟≠ヘ、何日会うかとか、どんな服着てくかとか作戦を練った。何しろ源ちゃんは中三であたしの弟なんだからもっとガキッぽい恰好しなきゃなんないし、あたしも大の大人と渡り合うしっかりした姉なんだから精々女っぽくキメなきゃなんない。
場所は会社の応接室かなんかに乗り込んで、先手必勝だ、ウー、ワクワクしちゃう。
久し振りにおいしいコーヒーをお代りして――これは源ちゃんのおごり、流石《さすが》にパトロンのいる子は金回りが違うわ。マスターに「悪いこと企んでんだろ」って言われて、二人で淫靡《いんび》に笑って、勝利を祝して乾杯した。ホントはビールがよかったんだけど、マスターが「子供はだめだ」って言うからしょうがない。
マスターに「また来なよ」って言われて――あたしのこと、気に入ってんのかしら――源ちゃんと別れた後、あたしは図書館へ行った。
今日のあたしはスッゴク冴えてる、確か十五だかなんだかの子とはセックスしちゃいけないっていう法律かなんかあったのよ。それを思い出して、そうだったらもう鬼に金棒だから調べてサ、もうゴッキゲンよオ。
7
三日経って日曜日。パパは今年最後のゴルフに行って、ママは家《ウチ》でゴソゴソなんかやってる。そして、まさにあたしが出かけようとした時、ママが呼んだ。
「玲奈ちゃん、チョッといらっしゃい」
「今出かけるのよ、用事なら帰ってからでいいでしょ」
「どこ行くの」
「友達ンとこ」
「どのお友達」
「クラスのよ、六時までには帰って来ます」
「いけません」
どうしてよ? 何おっかない顔してんの?
「お友達ン所へ行くのにどうしてそんなお洒落《しやれ》をしていかなくっちゃいけないの。あなたいつもジーンズでしょう」
「今日は特別なの」
「何が特別なんだかおっしゃい。そうでなくっちゃ今日はいけません」
「どうして? だって、いつも」
「玲奈ちゃん、ママはネ、あなたの事ズッと信用して来たつもりよ、そうでしょ。どうしてその信頼を裏切ったりするの」
ドキッ、何だろ?
「何のこと?」
「これはどういう事なの。あなたのクラスには奥さんやお子さんのいらっしゃる同級生がいるの?」
アーッ、まずいッ! あの手紙、源ちゃんとこに来た手紙持ってる。あの日大事な証拠物件だけど源ちゃん家《チ》の人に見つかるとヤバイからって、あたしが預かってポケットン中に突っ込んだままだったんだ。
「違うのよママ、それあたしンじゃないんだから。返して、要るのよ」
「あなたのじゃないものがどうしてあなたのコートのポケットに入ってるの」
「だから、それはサア」
せめて封筒でもあればあたしン所に来たんじゃないって分るのに、源ちゃんいたずらしてビリビリ破いちゃうんだもん。
「あなた先々週の金曜日どこへ行ってたの?」
「だから予備校に申し込みによ、祐子だって一緒だったでしょう」
「祐子ちゃんは早く帰って来たでしょう。あなたはお友達と映画に行くとかって言ってたけど、ほんとは誰と一緒だったの」
「クラスの牧村さんよ」
「嘘おっしゃい」
「どうして嘘だって分るのよ。祐子に聞けば分るわ」
「じゃ、それは後で聞きに行きましょう。ともかく説明してちょうだい、これはどういうことなのか」
冗談じゃないワ、今そんな事モタモタやってたら遅れちゃうもん。
「分ったわ、帰って来たら説明するから、ネ、いいでしょ」
「いけません、何いってるの、今日なんかお外|出《だ》しませんからね」
「ジョオダン」
「何が冗談よ。玲奈ちゃん、あなた自分が何をしたか分ってるの」
「何もしてないわよ」
「そんな言い訳が通りますか。チャンと納得できるまでママは許しませんからネ。一体あなたは何の不満があってこういうことをするの、ママがいつ」
「分ったわ、説明するわよ。だからその前に電話させて、待ち合せに遅れちゃうもん」
「いけません」
「どうしてエ、ちゃんと話すって言ってるじゃない、どうしていけないのオ、電話ぐらいしたっていいでしょう」
「じゃ、ママがします。お断りすればいいんでしょう。電話番号おっしゃい」
もう勝手にしてよ、バカらしい。
「これは御自宅ネ」
「御自宅よ。あとであたしから電話するって言っといてネ」
さっさと片付けて欲しいわ。こっちだって忙しいんだから。
「モシモシ、木川田さんのお宅でいらっしゃいますか。失礼ですが御主人で? 私、榊原玲奈の母でございます。いつも娘が何かとお世話になっておりますそうで、何ですか今日は娘とお約束だそうでらっしゃるとか、只今《ただいま》娘が申しておりまして、私も注意が行き届きませんで今までうっかり致しておりましたんですけれども、何ですネ、いくら何でもそういった種類のお付き合いをですネ、モシモシ、とにかく母親といたしましては知らない内はともかく一旦気がつきました以上はですネ、モシモシ」
ちょっと待ってよ、なアにイ? そういう種類≠チて。
「何ですってッ、それは一体、知らばっくれるのもいい加減になすったらどうなんですか。仮にもですネ、そちら様には奥様や、お子様までおありなんでしょう。それをなんです、十五の娘をつかまえて、不実だの真情だのって」
「違うッ! ママ違う、そうじゃないの」
「何言ってんのよ、あなたは黙ってらっしゃい。モシモシ、よろしいですか。何ですって、御自分を棚に上げて何がバカですか、それが社会的責任ある方の」
「違う! ほんとに違うんだったら!」
「何が違うのよ! こんなレッキとした証拠がある癖に、モシモシ十五の娘と関係、モシモシッモシモシッ!」
当り前でしょ、誰だってそんな気違いじみた電話がかかって来たら切っちゃうの。何カン違いしてんのよ、もう目茶苦茶。あたしどうやって源ちゃんに言い訳すればいいのよ。
「どうして人の話も聞かないでそんな事するの」
「当然でしょう、けがらわしい、自分のした事を考えてごらんなさいッ! どうしてあなたはそんな風に……もう、ママはネ、ママはネ……情けなくって情けなくって、今日にでもパパが帰ってみえたらキチンとお話はつけていただきますからネ」
「話つけるって何をよ、誤解だって言ってるでしょう」
「何が誤解ですか、汚ならしい、十五の娘があんな男と。あなた、いつあったの? この前」
「三日前よ」
「嘘おっしゃい、いつもなら重苦しい顔してる人が生理の時あんなにはしゃいだりしますか。いつだったの、先月は。正直におっしゃい」
あたし、あたし、あきれて物が言えない。何、何、何よ、汚らしいのはどっちよ、よっくもそんな! 顔も見たくないッ!
「玲奈ちゃん! 玲奈ちゃん、待ちなさい、玲奈ちゃん、ここ開けて、開けなさい! そう、開けないのね、分ったわ。じゃ、そうしてらっしゃい、ママ当分ここで見張ってますからね、外に出ちゃいけませんよ。分ったわネ。そうやって一人で反省なさい、いいわネ、そして、明日ママと病院行きましょ。何もこわくないんだから、お医者様に見て頂きましょう。自分でした事はしようがないでしょう。行きましょうネ。玲奈ちゃん、分ったわネ」
どうしてこういう時にないんだろう、最大級人を踏みつけにされた時突ッ返してやれる言葉が。もう何にも言わない。絶対に話してなんかやるもんか。黙って真ッ赤になったタンポンひっこぬいてぶつけてやる。
あたしが何をしたって言うの? あたしが源ちゃんのお父さんとどうとかなるなんて、よくもそんな事考えられるわ。貧しいのね、哀れんでやるわ、その想像力の貧困さを。黙って死ねばいいんだわ、二人して。初めて分ったわ、母親が自分の娘の生理を黙ってのぞき見してるなんて。自分の娘の歳も分らないで、十六よ、あたしは!
どうせあなたなんかに分らないわよ。隠元《いんげん》のスジを取りながらヘラヘラ笑ってテレビ見てる人なんかに、あたしがどんなにか心配して、妊娠したらどうしようって、子猫みたいにおびえてた事なんか。
そして見当はずれの時に、自分の娘を産婦人科に連れてってサラシモノにするんでしょう。キチガイ!
キーコ・キーコ
アーア、もうどうだっていいんだア、どうだって。バカらしいったらないわア。フフンだ、よくもああぐっすり眠れるわよね。多分、怒鳴ると新陳代謝が活発になって、ぐっすり眠れるようになるんでしょうよ。大切な娘がこうやって夜中に外でフラフラしてるっていうのに、知らないわ、あたし。
キーコ・キーコ
お誂《あつら》え向きに屋上があるわ。団地って便利よね。フン、誰が上ってなんかやるもんですか。こんなことでいちいち死んでたら命がたまんないわ。当り前だけど……試しに死んでやろうかなア。新聞にでるわ。「私達が娘の話を聞いてやってさえいれば……」なんてサ、親は言うのよね。この|……《テンテンテン》は泣けるわ。でも、やだわ、薄汚くって、新聞の自殺記事の活字って本当に内臓ブチマケたって感じがするんだもん。あれ見るたんびに死にたくないなって思うの。理由だって陳腐だし。
キーコ・キーコ
あたしが何故死んだかっていうと、「思春期の」「多感な」「傷付きやすい」そんでもっても一つ「不可解」付きの「少女」の「感受性」だわ。キャーッ! 「感受性」だって、ウッウッウッ……泣けるったらないわア、あたしの「感受性」もお安く見られたもんよねえ、アーア。
キーコ・キーコ
アーア、バ・カ・ら・し・い。こんなとこでスネてたってしようがないのよネ、こんな貧乏くさい団地の公園なんかでサ。夜明け前の水銀灯の下で少女が一人ブランコ漕いでたって、別に誰かが見てくれてる訳でもないし。もうおさらばだわ。よいしょっと。
キーコ・キーコ・キーコ・キーコ……
一人で勝手に泣いてりゃいいんだわ、中古のブランコなんか。そうすりゃ子供好きの詩人かなんかが勝手に同情してくれるもん。大人なんて勝手なんだしサ。子供らしい子供はブランコ乗って遊んでるって勝手に決めればいいのよ。子供が何考えてるかなんて、どうせ分りゃしないんだしサ。
一応家出はしたいけど家出する根拠薄弱の子が自分|誤魔化《ごまか》して乗ってるだけよ、ブランブランて。鎖がついてるからどこにも飛んでけなくてサ。そんなの見て、母親は軽薄だから勝手に喜んでるだけだわ。「わア、なんとかチャン、スゴイスゴイ、高いなア」なんて。その癖転んで足を擦りむいたりすると怒るのよネ、「だから気をつけなさいって言ったでしょオ」って。絶対に「大丈夫、大丈夫、痛くなんかないのよ」ってやさしくなんか言いやしないんだから。
人が一人で喜んでれば、「そうよそうよ、マア素敵、よかったわねえ」って勝手に割り込んで来て、その癖人が失敗すればそれに便乗して自分は何でも知ってたんだって威張り散らすの。人の事に一々首突っ込んで自己主張しなくたっていいと思うのよネ。それともそうでもなきゃ自分の自己主張なんか出来ないのかしら?
多分そうよネ、自分なんてないんだもん。だから源ちゃんから電話かかって来たって、あんな風に平気で話が出来るのよ。なアにイ、あれ? 若い男が相手だと四十女はあんなにはしゃげるもんなの? みっともない。
「まアまアまア、やアねエ、ホントにごめんなさアい。もうホントにお恥かしくってねエ、ホントに穴があったら入りたいわア、ホホホホホホ。エェ、エェ、エェ、そうなんですよオ。あの子、私がちょっときついことをねえ、ホホ、言っちゃったもんだから。エェ、エェ、ハイ、もう伝えておきます。スネちゃってねえ。源一さんだからあなた出てお話ししたら?≠チて言うのに、どオでしょオ、出たくないわッ!≠チて、こうですよオ、ホントに怒鳴るんですものねえ、もう女の子がアレじゃ、困っちゃうわア、ネエ。ホホホホホホ、アラ、イヤだ、ごめんなさいねえ、本当にイ。エェ、エェ、もう本当にお父さまにはお恥かしくって。あなた、お帰りになったらお父様によろしくお伝えになって下さいねエ。エェ、こちらからも改めてお詫びに伺いますから。ハイ、じゃ今日はどうもごめんなさいねえ。それで、あなた今日はもうお家へお帰りになるの? そうオ、じゃ今度一度家の方にも是非遊びに――アラ、切れちゃったわ」
何よ、アレ? 笑って誤魔化せば全部通ると思ってんのかしら? それでもあの人、笑っただけじゃ落ち着かないもんだから、八ツ当りして。何も源ちゃんの悪口まで言わなくたっていいと思うのよねえ、「何だかはっきりしない口のきき方する人ねえ」って。誰が媚態まき散らした中年女とまともにしゃべれると思うのよ? その点ではあなたの言う通りネ――「でも、年頃の男の子ってみんなアアかしらねえ」って。
人が相手にしないからって、襖の向うで一人で若い男の事をああだこうだ言って、まるで牝犬ネ。婦人科行くのはそっちだわ。
アー寒いッ。作家の言う事なんかアテになんないわ。「怒りで体が熱くなる」なんて、嘘ばっかり。それともあたしの怒り方が足んないのかしら? そうかもしれないネ。多分あたしはもうどうしようもないシラケ娘なのよ。エーン、エーン、もう泣いてしまうのだ。なアンつったりしてサ。キャッ、キャッ、キャッ。
どうしようかなア、これから? 六時半だけどまだ暗いしねえ。どこ行こうかなア、こういう時は海でも行くのかねえ。行こうかなア。夜明けの海なんか行ったりして。ウーッ、ロマンチックだわア、恐ろしいことに。行ってしまおう、こういう時は海を見に、行くのだ。きっと寒いんだろうなア。マ、いいや。一応お金も持ってるし。トボトボと行って、しまおう。
でもサア、思うんだけどあたし、どうして世の中の少女≠ヘみんな簡単に海に行けちゃったりするのかしら。今朝だってあたし五時半に目を覚まして、ジッとしてられないから外出て来ちゃったけど、その時思ったわ。机の抽斗《ひきだし》開けて、お金がいくらあるかなって勘定してた時。あたしは如何にも感傷的になりたくてカッコつけてるから、こんな風に平然と千七百円お財布の中に入れられるんだって。
でもそんな風に考えちゃう自分て、矢ッ張りちょっと哀しいなって、思う。もっと素直になった方がいいのよネ。だって夜明けって、素敵だもん。
空がだんだん透き通ってくるのね、うまく言えないけど、空があんな風に薄くなってくると音まで透明になってくるのね。夜中だとシンとしてても、誰かが音立てるのをみんなで見張ってるみたいで緊張するけど、今なんかどんな音立ててもきっと聞こえないと思うんだ。
みんなあたしの事見逃してくれて、こんな風に自由になれるんならあたしは毎日早起きしてもいい。誰もいないし、ただ目茶苦茶に寒いけど、フフ、あたしもいい加減根性ないわね。
それでも向うから来る根性≠ネんかだったら、なくてもいいわ。何よトレパンなんか穿いて、いい年してまだ生きたいのかしらねえ、あんな真剣な顔しちゃってサ。あたしああいうオジサマが息切らして真面目な顔してるのって一番イヤよ。ああいう顔ってただ働きたい、働きたい≠チて言ってるだけなんだもん。こんな時間にあんなハタ迷惑な空気撒き散らして欲しくないわ。
どうしてエ? すごいわねえ。普段なんか通りすがりの人間の顔見もしない癖に、こういう時は平然と人の顔ジロジロ眺めてくのよねエ。まるで警官じゃないよ、おそろしいわねえ。あんな赤いトレーニング・ウエアなんて着ちゃってサ、おまけにストライプなんていやらしいもんまで入れて。ああやだ、普段自分はどんな恰好してんのよねエ、猫背のドブネズミの癖してサ。ワザとらしい、人とスレ違う時、息もしないんだもんネ。ああ、ヤダヤダ。
「ハッハッ、ハッハッ」
また来た。なアにイあれ。一体ここら辺じゃマラソンする時はみんな赤に白のストライプじゃなきゃいけないの? グロテスクねえ。
「アラ、ハッ、ハッ、玲奈ちゃん、じゃ、ハッ、ない、のッ、ハッハッ」
「おはようございます」
隣りの杉野さんのオバさん。それと、団地マラソン部隊婦人班。豚だわ。
「どしたの、散歩? お勉強の、息抜き?」
「エエ、そんなとこです」
「ハッ、ハッ、杉野さん、お先ッ」
「お先ッ」
「ア、待って、待って。じゃアネ、玲奈ちゃん」
「はい」
「アッ、アッ、玲奈ちゃん、あなたもマラソンなさいよ。体にいいわよオ、お勉強ばっかじゃ、毒よ」
「ええ」
「若いうちから体鍛えといた方がいいわよオ、ねえ」
「別にいいんです」
「そんな事言わないで、今度ママに言っといてあげるわ、そうしなさいよ、ネ」
「いいんです、あたしは」
「またそんな事言ってさ、アラいけないまたビリだわ。じゃアネ、ごめんなさい。チョッとチョッと品川さアん、先行かないでエ」
「ハッ、ハッ、ホラホラ、ハッ、ボヤボヤ、ハッ、してないッ」
「ハッ、ハッ、何よオ」
「ハッ、ハッ」
みっともない。止めてよ。ホントにみっともないッ! どうして? どうしてどうしてどうして、あんなに女は群れてばっかりいるの? イヤッイヤッイヤ、絶対イヤッ!
あんなに太ったお腹突き出してヨチヨチ走るの、あたしは絶対イヤッ!
ひどいわ。どこ行ったってあたしの事追いかけて来る。人がせっかく一人で歩いてるのに、それでも追いかけて来て邪魔ばっかりする。どうして? あなた達はいつでも自分のいる場所があるでしょオ。態《わざわざ》こんな時間まで占領しなくちゃいけないの? どこまでもどこまでもあのしつこい声と大きなお尻で占領しなくちゃ満足できないの?
それ以上生きてどうするの? それ以上丈夫になってどうするの? それ以上健康になって何があるっていうの?
あなた達はいつだって正しくて、いつだって健康で、いつだって自分の事しか考えなくて、いつだって他人の事も分ってるのよネ。嘘に決ってる。自分の事も考えないで、人の事も考えないで、何にも考えないで、ただ走ってるだけだわ。ただ走ってるだけなのに、ただ走ってるだけだと何か考えちゃうから、それが恐くて健康健康≠チて言ってるのよ。そうやって何でも片ッ端からあのみっともない生活に結びつけて、何にも考えないで生きてくんだわ。
高校生っていえばお勉強≠オかなくって、女の子っていえば純潔≠オかなくって、どうしてそんなつまんないものしかあたしにはないの? あたしが他の何か≠ナあっちゃどうしていけないの? あたしは絶対そんな役に立つ物なんかになりたくないんだ。あたしは唯の実用品≠ノなんかなりたくないんだ。だからあたしは、だからあたしはどんな事があったって、意地でも今日は海を見に行くんだ。
海に行ったって何にもあることないのに決ってるけど、でもやっぱりあたしは、一人で行くんだ。
無花果少年 いちぢく・ボーイ
―――――二年A組二番 磯村 薫
1
「薫《かおる》チャン、ママうっかりしてたんだけどネ、今日中沢サンとこ行かなきゃなんないのよ。それでネ、あんた、ついでで悪いんだけど、帰りにおばさんとこ寄ってあの柴漬《しばづ》け渡して来て。ネ、いいでしょ、せっかく楽しみにしてるんだからサ、そう? だったらサ、もう少しチャンと返事したらア、それじゃハイって言ってるんだか紅茶|啜《すす》ってるんだか分らないもの、いいのネ、そう? じゃチョッと待って、今包んじゃうから。エーッと、どっかにビニールの袋がっと……エ? アア、いいのいいの。アラア、なアにイ、尚治《しようじ》、あんた起きて来たの? どうせまたスグ寝るんでしょ? そう? だったらいいわよ、朝の仕度《したく》だけはしとくから勝手に喰べて頂戴《ちようだい》。ア、それからねえエ、あたしが出かけちゃった後でパパが起きて来たら美容院だって、分ったア、言っといてよオ。それから尚治イ、あんた起きてもうるさくしないでよオ、パパ疲れてるんだから、分ったア、あんたと違うんだからサ。チョッとオ、薫ちゃん、あんたいいのオ、そんなにのんびりしててエ」
だから待ってんじゃないかア、何いってんだよ。
「ハイ、じゃこれお願い、ママも電話しとくわ、あんたが持ってくってこと、だからねえ、アーッ、尚治イ、お湯止めてエ、寝ちゃったア? じゃアネ、行ってらっ、いいわよオ、もう起きて来なくたってエ……」
本当にサア、高校生なんか悲劇だよなア、父親とか兄貴なんて人はまだ惰眠《だみん》を貪《むさぼ》っててさア、末はああなるったって、今はエネルギー充満の母親に追ッ放り出されてサ、よく学校なんか行くよオ、全く。
高度成長も終ったことだし、今の日本を支えてんのは高校生だネ、勤勉なもんだよ、毎ン日《ち》毎ン日御出勤。おまけにこんなもんまで持たされてサ、なアんだこりゃア、舞子サンだって、よくもマアイイ年こいて恥かし気もなくこんな袋提げて京都から帰ってこられるよなア、家《うち》の親父さんは。中学の修学旅行ン時だって僕は悩んだぜ、ベタに京都名産≠ナ、まだ東京が田舎だと思ってんのかネ? 阿呆《あほ》かア、こんな袋にビニールおっかぶせてられる方が田舎だよオ、美意識ってモンがないのかネ、京都とそこに出張で出かける中年とには、アーア、ああはなりたかないネ、全く。そりゃネ、あなた方はいいでしょう、悩まなくて。しかしネ、僕はネ、悩むんだよねエ、ナウなヤング達の許《もと》へこれから出かけて行く人間としてはねエ。まあるで百姓ネ、「皆サンおはよおごぜえます」だ。
ハハン、現実ってのはうまく出来てるよ、二者択一でサ、断わりゃ大人《おとな》気《げ》ないしネ、持ってきゃイモだもんネ。おまけに、なんだア? この沢庵《たくあん》、キューリの糠漬《ぬかづ》けも。柴漬けだけなら許せるよ、まだしもサ、京都名産≠ェ僕の頭の上素通りしてくだけだからネ。それをなんだいこりゃ、モロに日常じゃないか。イヤシクも学校って所にサ、息子が家庭の日常性を持ち込めるだなんて母親は思ってんのかなア、エ?
学校教育がどうだこうだ言える筈《はず》だよ、自分|家《チ》の糠味噌《ぬかみそ》と一緒だもんネ。ああだこうだ言いながらこんなもん詰めこんじゃうんだから全く大したもんだよ、ダテに母親やってんじゃないネ。こんなもんだったらまだモグラの解剖標本のホルマリン漬けブラ提げてる方がましじゃないか、のぞかれたってただの変態ですむしサ。アーア、脇《わき》に抱えりゃうごめくし、第一汁が出たらどうすんだ、エ? イイヨ、モオッ、ダラーンとブラ提げてってやらア、舞子サンだよ、舞子サン。
アーア、ウチのクラスブスばっかでよかったよ、イヤ、一人いるのかな? マ、どうでもいいこの際、ホント。ただ、可哀想、僕。
それでも高等学校という所は高校生の帰属する場所だったりするから、一応は生徒のことも考えてくれてるんだよな、チャンとロッカーというものを用意してくれててサ、漬け物の袋提げて登校してくるバカな生徒の為にネ、アーア、温室でよかったよ。
だけど校門をぬけるとそこは現実≠ナ、足許《あしもと》見りゃ分るサ、チマチマと自分の影があって、なんだってこのアスファルトの道は白々しくもこんなにガランとしてる訳? 要するにサ、今日は楽しい土曜日だってことだろ、もうすぐみんなでサンザめくからサ、今はその準備に忙しくって外なんか歩いてやしないんだよナ。
兄貴だって今頃起き出して「さアて」の一つも言って新聞たたんでる頃でサ、どこでも行きゃいいじゃないか。僕はこれ持って電車乗っておばさん家《チ》行くからさア。どうせネ、うっとうしいでしょうよ、十七の男なんてサ。日当りの悪いオールド・ミスの家に行かせときゃいいんだよな。自分ばっか女とくっついてサ、大学生なんか幸福《しあわせ》だよオ。
僕はいつも思うんだ、学校の帰りに一人で電車乗ってると。クラブもない高校生の帰宅時間はいつも電車がすいてる時間でサ、大学生とオバハンしかいないんだよな――いたとしてもサ――そんで僕はいつも思うんだ。大学生なんか僕から見れば大人だろ、向うなんか十九とか二十でサ、こっちは十七なんだから絶対に僕の方がヤングじゃないか、そうだろオ。それなのにさア、大学生なんか自分達だけヤングだなんて顔して『メンクラ』とか『チェック・メイト』みたいな陽の当る場所占領してサ、どうせ僕等は『高二コース』だよオ。僕だってホントいえばネルシャツの一枚ぐらい持ってるサ、だけどサ、何ていうのかなア、やっぱりキチンと着ちゃうんだよね……ホントに高校生なんか何着たって高校生なんだもんなア……イヤダイヤダ。大学生なんてどこだか訳の分ンない大学行ってたってカッコだけはバークレーみたいだろ。冴《さ》えない高校生なんか電車の隅で小さくなって坐ってりゃいいんだ。
でもサ、電車の隅行けばサ、シルバーシートでサ、高校生がデカイ面して坐ってるって露骨に嫌味な顔してサ、そんならなんで大学生はあんなデカイ面してド真ン中に坐ってられるんだよなア。自分達だって少し前は高校生だった癖に大学入ると急に群れちゃってサ、辺りをヘイゲイして、高校生見ると目をそらすんだ、凶々《まがまが》しい過去の記憶にブチ当ったみたいな顔して。どうせ垢《あか》抜けてないよオ、悪かったなア。
きっとサ、世の中の身分は士・農・高校生なんだよネ。最下層民としてはサ、この胸ときめく土曜日の午後、このうごめく舞子サンの漬け物抱えてオバサン家《チ》へ行くよネ。どうしてあのおばさんが漬け物来るのを楽しみ≠ノしてると思えるんだろうか? あの人が殊勝にテーブル拭きながら待ってたりするとでも思ってるんだろうか? カルチュア・センターなんて所《とこ》行って「近代文学史」なんて役に立つもん習ってんならもう少し日本語をチャンと使ってもらいたいネ。歳喰った女の余生はもう漬け物だけだと思ってんのなら、オカアサン、あなたの洞察力は見事に甘過ぎます。自分の姉さんがあなたのことを何といっていらっしゃるか御存知でしょうか?
「大体あんたのカアサンは(おばさんは絶対にママ≠チていわないんだ――ウチ来ておふくろさんが薫チャン、ママはネ、ママはネ≠ネんていってるとへーッ≠ト顔露骨にするからネ)、昔っからすることがなくなると芸術に走るのよ。女学校の時なんかお汁粉ばっかり食べてデブンデブンに太ってサ、あたしが中原淳一センセイにそれこそ今の言葉でいうはげましのお手紙≠諱Aそれ書いてると、自分は紅梅焼《こうばいやき》食べながら、あんた紅梅焼って知ってる? 知らない? そうだろネ、で女学校出てまでそんなもん書いてるなんてバカじゃないか≠チて顔しててサ、嫁入り前の――何にもすることがない、ただ向うから恋愛が白い馬に乗ってやって、来る、か・も・しれないっていう時になってサ、『ローマの休日』見てボーッとなって帰って来て、見るまにヤセてサ、ついでに恋愛までやって来て、ウソかと思って口開けて見てたわよ、あたしは。口開けてる女の前は素通りしてくんだね、恋愛は。何て顔して人の事見てんのよ、家帰ってこんなこと話したらもうお小遣《こづか》い上げないからネ。あたしはあんたのカアサンが文学書を読むはおろか、さわってるとこすら見たことないわよ。で、なアに? 近代文学史? へーッ、何なの、そのカルチュア・センターっての? (知らないよオ僕だって)アララギねえ、よくやるねえ、あんたもそう思うよねえ、薫」
てなもんでサ、マ、もっとも来年になりゃ止めるネ、末の息子が大学受験だから。
そうなんだ、結局は。僕だって自分が執行猶予一年半に甘えてることぐらい分るサ。遊ぶでもない、勉強するでもない、ましてや非行に走る訳でもない――兄貴なんかホントに幸福だよなア、「僕も不良に憧《あこが》れたことはあったんだ、正直な話」なんて真面目な顔して言うもんなア。中学生じゃあるまいし、一橋入ったからってそんなに締めつけが厳しかったみたいな顔しなくたっていいじゃないかよなア。
自分は家でゴロゴロしててサ、今日だったら親父さんだってゴロゴロしてんだろ。ママは中沢さん家《チ》行ってサ、「本当に男が三人もゴロゴロしてるなんてやアよねえ」ってアララギやりゃアいいんだもんなア、あんな日常性と問題意識の両方を満喫してる幸福な人もいないと思うよなア、ハッハッハッ。
こんな日に家にいりゃみじめの一言だしサ、用事≠ェあってよかったよ、みっともなさに目エつぶれば日常は機械的に進行してくもんねエ。ザマミロ。
チャンとしろって言うんならいくらだってチャンとしますよ、デッカイケツして土ほじくってる甲子園の若人≠ンたいにネ。そのかわり、高等学校ってのはせめて五年制にしてもらいたいネ。僕だってサア、チャンと憧れてたんだよネ、ヒ弱な中学生としては。運動部に入って青春を謳歌《おうか》してサ、そんで勉強してサ、高校行きゃア体力《ポーズ》ッ!≠チてのになれるかと思ってたんだよねえ。そんなもん三年間で出来る訳ないじゃないか。スケベ根性出してサ、生物部なんて入るから間違ったよ、動物好きな純真な少年がサア、一学期だけだ、生物の点がいいのは、二年になりゃ生物なんかないもんネ、ハハハハハ、成績落ちる訳サ。
人並みに目は悪くなって、そんなとこでカッコつけてもしようがないのに。アッという間に一年は終って、僕も律義《りちぎ》だからソロソロ≠ネんて考えてしくじったんだ。二年になった途端受験準備するバカもいないよなア。ソロソロ≠セけ思って実際はゴロゴロ<l、一体このソロソロ≠チてのは何日《いつ》からだ? 明日かネ、明後日かネ? ひょっとして昨日からだったのかな? 来年の話だったりして、ハッハッハッ、今の僕は鬼ネ。
マ、今日は我慢しておつかいしましょう、来週の土曜日なんか遊びに行っちゃうからネ、断固として。その為にはおばさまから援助して頂きましょう、お駄賃でも久し振りに会った可愛いい甥《おい》へのお小遣いでも何でもいいから下さい。
ハイハイ、駅に着きました。さっさと降りて、さっさと用事を片付けましょう。いくらくれるかな? 五千円くらいくんないかなア、そうすりゃなア……
「いッそむらクン」
出たッ!
「何してんのオ、こんなとこで?」
2
僕はサ、一応隠しおおせたと思ったよ、授業終るなりパッと飛び出してサ、それがどうしてこんなのが付いて来んだよオ。人が電車ン中でいじましくもこんな袋抱えてる所を、僕は見られてしまったんだろうか?
「榊原《さかきばら》さんこそ何してんの?」
「あたしン家《チ》こっちだもん」
そうですか、そうですか。アー分ったよオ、もうどこでも帰れ。
「そんなもん提《さ》げてどこ行くの?」
「おばさんとこへサ、チョッとね、用事」
「フーン、あなたのおばさんここら辺に住んでる訳?」
「マアネ」
「じゃ、ここら辺よく来たりするの?」
「時々ネ」
「フーン」
こともなげな沈黙。
「榊原さんこないだのテストどうだったの?」
「ボチボチよ。でもさア、何も休み明け早々にあんな麗々しく試験しなくたっていいと思うのよねえ」
「ホント。大体先生はサ、夏休みボケの頭|醒《さ》ますとか言うけど、試験終ったらまたボケなおすだけなんだよネ、こっちは」
「そう、いえてる。いい迷惑よ」
この調子で彼女が好奇心を持たずにいてくれればじゃアまた≠ナすむからいい訳サ、別にどうということも――
「カオルチャン、気をつけて歩かないと赤頭巾チャンに逃げられるよ」
俺帰りたくなって来たなア。
「なんだよオ、おばさんどうしたのオ」
「御|挨拶《あいさつ》ねえ、あんたが来るっていうからケーキの一つでも買っといてやろうと思って出て来たんじゃない、ホラ。本当に失礼よねえ、お友達?」
「ア、榊原サン、同じクラスなんだ。榊原さん、僕のおばさん」
「こんにちは」
じゃ、これで失礼、榊原サン≠トいうのはどうかな?
「あなた、榊原さんて、ひょっとして、モモちゃんでしょう、違う?」
よしてくれよオ!
「えーッ、どうしてそんなこと知ってんですかア」
「この子が言うもの。チャンと絵まで見せてくれたわよ」
「またア」
「絵ってなアにイ?」
「ひょっとして、言っちゃいけなかったのネ、私はまた二人で仲良く歩いてるもんだから」
「絵って何よ」
「しらない。勘《かん》違いしてんじゃないのかな」
「しらばっくれて、見せてくれたでしょう、こないだ、『おまわりクン』とかってスゴイのを、全然違うじゃないの、本物はこんなに可愛らしいのにねえ」
ひょっとして、これで恋の取り持ちしてるつもり? 慣れないことすると怪我《けが》するぜエ、僕が。
「この人はよく話すのよ、あなたのこと」
話してない話してない。
「どうせ悪口でしょう、決ってんだわ」
「何も話したつもりはないんだ、僕は」
「じゃそうしましょうよ、照れちゃって、ボクは」
「あたしのことどういってるんですか? この際人生の真実に直面しておきたいわ」
「まア、偉いわねえ、あなたも見習ったらどう、薫ちゃん」
「僕は人生に真実があるなんて幻想は持ってないんだ」
「へーッ、モモちゃん、あなたも大変ねえ、疲れるでしょう、こういう人相手にしてると」
「エエ、フフッ」
なアにが「フフッ」だよ。顔見て笑えよなア、阿呆かお前ら。
「じゃおばさんコレ、渡せっつうから渡したよ、じゃ榊原さん、失礼。僕用事があるんだ」
「何よ、愛想のない子ねえ、彼女ほっぽり出して……アラア、何よオ、樽《たる》ごとくれるんじゃないのオ。薫ちゃん、あんたこれ持ってけっていわれたの?」
「そうだよ、なんで?」
「あたしは義行さんが柴漬け買って来たからどう?≠チていうから、そう、じゃ頂くわ≠チていっただけよ。あんたンとこでいるんならあたしは別にいりゃしないもの、今なんか旬《しゆん》でもなんでもないんだしサ。こんなポリエチレンの袋になんか詰めこんで、おすそ分けだか残り物だか分りゃしないじゃないよ。大体なんだってあたしがあんたとこの近所のスーパーで買った沢庵貰わなきゃなんないのよ、ねえ、モモちゃん」
「そうですね、フフッ」
「そんなもん引っ張り出すの止めてくれよなア」
「マア、美意識がないのは昔っからだからいいけどサ、アララギならもう少しねえ。それであんたのかあさんアララギ行ったの? こんなもん息子に押しつけて?」
「そうだから早くしまってくれってば」
「そんで磯村クン学校でコソコソやってたのかア」
「君に関係ないだろオ」
「そうよ、勿論。じゃアネ。失礼します」
「アラ、何もそんなことで喧嘩しなくたっていいでしょう」
「ア、そうじゃないんです、あたしン家《チ》アッチなんです、だからこれで」
「アラ?」
「タマタマネ、僕は彼女と駅で会っただけなんだ」
「それにしちゃ息が合ってるじゃないよ」
「そうですかア」
「旧制高校のレベルで考えないで欲しいよなア、別に関係ないんだからア」
「なんてマア憎ったらしい口きくのかしらねえ、この子は。あなたもいじめられてんでしょう?」
「そうなんですよオ」
「どっちがア!」
「なによ、文句ある?」
「別に。君ン家《チ》どこなんだよ」
「あたしの家? そこの戸部内《とべない》団地よ、ご存知でしょ、おばさま」
「おばさまだってよ」
「悪かったわネ、じゃアネ」
「マ、いいじゃないの。そんなに御近所だったら寄ってらっしゃいよ、何か御用でもあるの?」
「別にないですけど、お邪魔でしょ」
「平気よオ、この子はカッコつけたいだけなんだから。いらっしゃいよ、家はネ、蒲原薬局って御存知? ホラ、タイル張りの八幡様みたいな、そう、そこの裏なの」
「じゃ本当にスグ近所なんですねエ」
「そうよ、構わないでしょ?」
「お邪魔じゃなかったら」
「勿論。薫、あなたも来るでしょ」
「僕はサ、松村ンとこ行かなきゃ」
「そういうのをとってつけたっていうのよ、ホントはあんたにやって貰いたいことがあるんだから」
「何をオ、どうせロクでもないことだろ」
「家のイチヂク一杯なり過ぎて困ってるのよ、あんた採ってくれるでしょ」
「いいけど高いよ」
「イチヂクの木がどれだけ高いのよ」
「人件費」
「あんたのバイト料がどれ程だってのよ、独身貴族を甘くみなさんな。行きましょ、モモちゃん。ホラ、荷物ぐらい持ってよ、あんた男でしょ、薫ちゃん」
女の友情は儚《はかな》いなんていうけどサ、当り前だと思うよな、あんな簡単にひっつけるんだからサ。もっとも男だって、男やもめにウジが湧《わ》くって感じでしか友情の花が咲かないんだから大した事言えないけど。どっちにしろ関係ないや、こっちは高見の見物だもん。
「磯村クンて結構身が軽いんですネ」
「学校じゃ鈍い方なの? あの子」
「そういう訳じゃなくって、磯村クンと木登りってチョッと結びつかないんじゃないんですか。磯村クンてホラ、やっぱり美少年でしょう?」
「この頃の人は美少年だなんて恐ろしいこと平気で言うのネエ」
「いけませんかア」
「別にいけなきゃないけど、マ、あの子もそんな年になったのよねえ。昔は兄弟|揃《そろ》ってあの上でギャアギャアやってたもんだけど」
しかし女の友情というのは男をダシにしなきゃ成立しないってのが弱いよな、マ、それが女の限界だろうけどサ。
「ア、薫、その下の、そう、それがおいしそう」
ハイハイ奥様。
「オラヨッと」
「イヤーッ」
「もっと気をつけて投げなさいよオ、意地悪しないで、ホントに子供だねえ」
決まり文句ネ、ホントに子供だねえ=B
「モモちゃん、薫にそのカゴ渡しちゃいなさいよ、またぶつけられると困るから」
「ハイ、磯村クウン、これ。大丈夫ウ、片手で?」
「平気平気、なれてるから」
地上にいるより余っ程安全だよ、何が「磯村クウン」だよ、人前に出ると大人しそうな顔しやがって、いつもなんか自分一人分ってて他の奴はみんなガキだってミエミエの顔してる癖によ。お似合いといえばお似合いだよな、あの二人。現在形と未来形でオールド・ミスが並んでんだもんな。
アーア、ほんとにロクな女いやしないよ、クラスの奴はみんな醒井《さめがい》さん醒井さんなんていってるけど、醒井凉子だってなア。そりゃああいうのを美人ていうのかもしれないけどサ、おとなしいだけだろ、女なんかおとなしそうな顔してたって何考えてるか分りゃしないサ、なア。
「あの、失礼ですけど、おばさんずっとお一人ですか?」
「そうよ、オールド・ミス。フフッ、こわいでしょう」
「まさかア、だってオールド・ミスなんて言葉はもう絶滅したも同じでしょう。違いますか?」
「いいこというわね、そうよ」
「あたし考えたんですけど、結局結婚とかっていうのは一つの選択で、そのことによって束縛される前に自立して仕事を持った女であることが必要とされる訳でしょう、一人の女として。だったら婚期なんてナンセンスだわ」
「そうそう、あたしもそういう事をもっと早くから分ってればよかったの、やっぱり結婚に幻想持ってたしネ」
「そうですかア?」
「今でこそそんなことは高校生でも常識だけどネ、昔は周りもうるさかったし、マ、私の場合は戦争で男の人が少なかったのもあるしネ。それで色々考えたけど、この歳になりゃアネ、あたし、四十八よ」
「ウッソみたい」
「今は楽ネ、ある意味で、色んな女の人も出て来たし。逆に男の方ネ、結婚に幻想持ってるのは、ウチの部下なんかみんな早婚でネ、何やってるのかと思うわ、仕事は遊び半分だし」
「おばさま部下なんているんですか?」
「あたしは女管理職だもの」
「ワアーッ、すごオい」
「部下ったって、若い男が五人いるだけよ」
「へーッ、あたし女管理職って、本当いうと女ゴリラみたいに思ってたんですよ」
「悪かったわねえ」
「ア、そうじゃなくって、週刊誌やなんかに出てくるそういう人って、いっちゃ悪いけどやっぱり女としてどうかしらって人ばっかりでしょオ、おばさんみたいに素敵に女らしい人なんていないわア」
「あたしも週刊誌に出たけど」
「うそでしょオ」
「ホントよ」
「どの週刊誌ですか?」
「『週刊女ゴリラ』」
「またア。それ今持ってます?」
「あるわよ、見たい?」
「エエ、ぜひ」
「部屋の方にあるからいらっしゃいよ。薫ウッ、適当に切り上げて下りてらっしゃい、あたし達中にいるから」
「アイヨ」
オールド・ミスが絶滅したなら今家ン中に入ってく二人はなんだ? 生きた化石か? ネッシーの親類だな。自分で分ってんだよな、女ゴリラだって。
勝手に自立すりゃいいんだよな、自立して男の子のズボン脱がしてサ、最早《もはや》やさしさというものは女には求められないものなのだよ。やさしいおねえさん≠ニかやさしいおばさん≠ニいうものは消えたネ、この世から。たまたま何かにそう書いてあったとすれば、それは女ゴリラのつき上げにおびえた週刊誌の人間がオールド・ミス≠フ代りに使った言葉にすぎないんだよネ。僕はチャンと確かめたから知ってるんだ。やさしいおねえさんがキミの悩みに答えてくれるから≠ネんて書いてあるからサ、週刊誌に。僕はうまくのせられたよ。ああいうのは一々確認しないで本にのせるんだよな、絶対。
「あのオ、もし、もし、エーッと」
「ハイ、何かありましたか?」
「エーッと、マア一応、あったんですけど」
「どういうことかしら、ウン?」
「エーッと、その、実はですね、アノ、いたずらっちゅうのか、ヘンなことをネ、そのされちゃったんで、アノ、女に」
「いたずらって?」
「何ていうのかなア、女の人にね、その、強姦ていうんじゃないけど、されて……」
「女にイ」
「エ、エエ」
「嘘でしょオ」
「嘘だよ」
…………
「ホントなの?」
「ホント」
「からかってんじゃないでしょうネ、ホントなのッ?」
「ホントだってば、バカッ!」――≪ガシャン!!≫
幻想というものは綺麗《きれい》に消えるんだよネ、現実というものに付き合いさえすれば。兄貴なんかよく言えるよ、自分の女が「竹下景子にそっくりなんだぞ」なんてサ。似てたってどうってことないじゃないか、名前が似てるだけなんじゃないの、竹場さんていうんなら。
松村みたいに「女っていうものはだなア」なんて言ってるうちはダメなような気がする、多分。みんなサ、女だと思うから間違いなんだよ、あれはサ、ただの人間≠セと思っときゃ間違いないんだ。そうすりゃなんの不思議もないもんなア。そうだそうだ、そう思っときゃいいんだ。しかしいいのかなア、こんなに夢のないこと言ってて、十七の少年がサ……あの白い雲が僕の夢を運んで行ってしまう、ウッウッ、オーイ雲よオ、どこまで行くんかア――アッと、フーッ、危ない危ない。
「何ボーッとしてんのよオ、大丈夫ッ!」
「平気。籠《かご》ごと落っことしたから拾ってよオ」
「しようがないわねえ、あんたやる気がないんでしょう。イイ加減に下りてらっしゃい」
「そのうちネ」
「勝手にしなさい。モモちゃん、じゃちょっと手伝って」
「ハイ」
「何もモモちゃんが来てるからってすねなくてもいいのにねえ」
「そのモモちゃん≠トいうの、違うんです。マンガのモモちゃんじゃないんです。本当はあの、桃尻娘≠チていうんです」
「エッ?」
「モモジリムスメッ!」
「ンマアー、お下劣ねえ」
僕も知らなかった、そんなの、二年も一緒にいたけど、一年ン時《とき》はクラブで今は同級生だけど。へーッ、そオお、お下劣ねえ。
「あたしがちょっとヘンな恰好《かつこう》してたからって、本当に男子ってひどいんです」
「何なの、それ?」
「なんか小説にあったんですって」
「マア、そオお、この頃の小説はひどいものねえ、へーエ、それにしてもお下劣ねえ、やだ、おっかしいわねえ、ごめんなさい」
「いいんです、もうあきらめてるから」
「ちょっと生々しすぎるものねえ娘≠カゃ……でもそうネ、聞きようによっては可愛らしいんじゃない、ネ、そう思わない? あたしもそうしようかしら、ねええ、ちょっと桃尻婆アさん≠チてのは、お下劣かしら?」
「さア……ちょっとオ、でも……いいんじゃないですかア、若々しいですよ」
「そう? じゃ桃尻同士で頑張りましょうよ、ネ?」
頑張るって、一体何を頑張るんだア、それ以上頑張る必要なんかないじゃないか、病的なまでに健康なんだから。頑張るんなら僕の方だよなア……アーア、そろそろ下りるか。
「ねえ、モモちゃん、あの子だったら何かしら?」
「そうですねえ、さしずめ……」
「さしずめ……フフッ」
さしずめ≠ェどうした?
「薫ウッ! あんたねえ、イチヂク・ボーイだってサア、キャアーッヤダアッ!!」
ほんとにもオッ、バカヤロオッ、おお痛て、おお痛てえ……
僕なんか全然関係ないじゃないかア、僕が言った訳じゃないだろオ、自分で勝手に桃尻娘なんか持って来てえ、なんで僕までそんなヘンなモンになんなきゃなんないんだよオ、なんだって僕が樹から落っこちると「キャーッ、お下劣ねえ」で「大丈夫?」じゃないんだよオ! もう女の友情なんか止めてくれよなア、本当にイ……
それで次の晩、僕はやっぱりフラフラしてるからロクでもない事にひっかかるんだとか思って、それでやっぱり、もう建設的に受験の準備を始めるのが正解なんだろうなとか思って、机の前でポケーッとしてたんだけど、その時眼鏡の柄がポロッと折れちゃって――これは絶対に前の日の衝撃のせいに決ってんだけど――そうなるとこれはもう絶対勉強なんか出来ないっていう事だから、それで僕はもう止めたんだ。
それで何してたかっていうと、また一人でボケーッとしてて、それでボーッとしてるとどうしても、エーッと、そのマア、ああいうことになったりして。
そうするとその、やっぱり終った後っていうのはもっとボーッとなって、結局の所また意味もなく、寝てしまった。
こうやって僕は毎日自己完結してばっかりいるんだ、アーア。
3
週末の長い休日を抜けると現実であった。
(これワリと気に入ってんだよネ)現実の底が白けた。
(イラストレイターなんかになれりゃいいのになア)同時に電車が止った。向側の電車から娘が降りて来て、磯村の前の希望を蹴飛ばした。時ならぬ冷気が流れ込んだ。娘は耳|許《もと》で叫ぶように、
「イッちゃあん、おはようございます」
視線を避けてゆっくり歩を進めて来た男は怒りで鼻の頭まで赤くなり、
「ああ、モモちゃんじゃないか。また嫌なヤツに会ったよ」
「どういう意味よ」
「イッちゃんて何かな?」
「あなたの考えてる通りのことよ」
「お下劣ってどういう意味か知ってる?」
「イチヂク・ボーイのどこがお下劣なの?」
「モモジリ・ムスメと同じとこサ」
「悪かったわネ」
「べつに」
「あなたに関係ないけどサ、あなたのおばさんて素敵ネ」
「そう?」
「部長なんでしょ?」
「ほんとは大徳《だいとく》生命営業部第二企画室長」
「素敵よネ、保険のセールスbPが抜擢《ばつてき》されたんでしょう」
「bPてのは週刊誌のデッチ上げだよ、ほんとの成績はあそこで三位だもん」
「それだって素敵じゃない。あなたヘンにからむいい方するけど、自立した女に偏見持ってるんじゃないの?」
「べつに、あの人はただのおばさんだもん、僕の」
「そう。あたしはまた第二のママかと思ったわ」
「どういうことかな」
「別に」
「ア、そう」
「ところで、お体いかが?」
「お蔭様で、若いから、眼鏡壊しただけですんだよ」
「アラ、壊れちゃったの?」
「そう、衝撃というよりは毒気にあてられたのかな」
「なんだ、つまんない、あたしはまたあなたがその毒気にあてられて自覚したのかと思ったわ」
「それはどういうことかな」
「あなたがせっかくの美貌を台無しにしてるってことだわ」
「悪いけど僕は君とおつき合い≠キる気はないんだ」
「あたしも子供とつき合う趣味はないみたい」
「そうか、どうもありがとう」
「マ、下手に歳とってみっともなくなるくらいなら、子供のマンマの方がまだ耐えられるかなア」
「君もいっぱし背伸びをしたい訳か」
「失礼ねッ、あたしはただまわりの男がどんどんみっともなくなってくのに耐えらんないだけだわ。当然あなたも含めてよ」
「そんなの関係ないだろ」
「そうよ、でも美少年が醜男《ブおとこ》の真似すんのは自然の摂理に反してるんじゃないの」
「眼鏡が聞いたらビックリするだろうなア、自分の使命の重大さに」
「あんな黒ブチのオベンキョウメガネにそんな高級なこと分る訳ないじゃない」
「要するに銀ブチにしろってことか、単に」
「御自由に。あたしは自覚≠ノついていってるだけだもん」
「キミが眼鏡かけるようになったら僕も眼鏡はずすサ、自覚≠ニいう点でいえばネ」
「あたしがそんなことでおびえると思ってんのオ」
「悪いけど、僕は自分が美少年だなんて、ゼエンゼン思ってないんだ」
「倒錯したナルシシズムじゃないの? あなた美少年よ」
「悪いけど違うな、色キチガイ」
「自覚しなさいよ、自閉症の親子ドンブリスト」
「おはよ、牛丼ネエチャン」
「アッ、源ちゃん、いいとこ来た。ネ、あんた判定して、彼美少年よネ」
「朝っぱらから気が狂ったの?」
「あたしの世界観がかかってるのよ、あんた専門家でしょ、判定して」
「誰が? アレ、磯村、眼鏡どうしたの?」
「壊しちゃったんだ、ちょっとしたことがあってネ」
「フーン」
「ネ、眼鏡とると磯村クン美少年だと思わない?」
「エーッ、どこがア。悪いけどさア、違うんじゃないのオ」
「ホーラ見ろオ、キミ少女マンガの読み過ぎだよ」
「あたしが間違ってたわ、変態に変態の判定頼むなんて。先行くわッ! じゃアねッ!!」
「ア、玲奈《れな》ちゃん、今日の英作やってあるウ? 俺当るんだよ、今日」
「やってないわよ、あたし先週当ったもん。磯村クンならやってあんじゃないの、彼マ・ジ・メだから」
「磯村、やってある?」
「ウン」
「じゃ見して見して」
「いいよ、チョッと待って」
「こんなとこで見せてどうすんだよオ、早く行こ、先公来ちゃうから。じゃアネ、玲奈」
「じゃアネ、モオモちゃん」
「フン、だ」
「磯村ア、早くッ」
「オウッ」
こういう風にいうとヘンにとられるからヤなんだけどサア、割と言うんだよネ、みんな、僕のことサア、美少年だとか、可愛いいとかサア。多分ほめてんだろうから、そういう風に言われりゃ悪い気はしないけどサア、でもサア、何ていうのかなア、時々サア思うんだよネ。
なんか美少年≠トいわれるとお前は関係ないんだから≠チて仲間はずれにされてるみたいでサア、だからサア、僕はそんなんだったら関係ないし、第一僕はズーッとこんな顔だろオ、どうでもいいって気イすんだ。
そんな風に思ってて、木川田と話してるとサ、スゴイこというんだよネ。マア、木川田は僕の斜め前の席だけど、一応バスケなんかやってるから運動部グループというか、遊び人グループっていうか、そっちの方に属してて僕なんかの一般人グループとはそれまで交流がなかったんだけど、一遍英作のノート見せてからはワリとよく「見して」ってやって来て話したりすんだけど。
そんで松村の話してて――松村ってのは一年ン時《とき》の同級生で割と仲いいんだけど――木川田が言った訳、松村のことを。
「なんだア、あんな包茎エ」って、でもって、その、マア何というか一応僕の方もその、なんだったりすんだけどオ、ただ僕はア、エッとマア――こうなったらいっちゃうけどサ、要するに去年の春なんだよネ。でもって、高校に入る前の休みでエ、おっかない女が三人いてエ、そいでもって「チョッとオ、あんたどこの学校《ガツコ》よオ」とか言ってサ、マア要するにそいでもってズボン脱がされて、そんで、ちゃったりした訳でエ、ひどいんだよネ、そりゃこっちだって、エッとマア、そのやっぱりあったからついてっちゃったんだろうけどサ、でもサ、でもサ、縛るんだよネ、縛っちゃってサ、そんでもってサ、ねえ、考えられる? 縛っちゃうんだよネ、あそこを。だからそんでもってサ、僕は一応その、なんつうか、ムケ、ちゃったりした訳なんだけど、でもサア、そんなのやっぱりヤなんだよネ。だから必死になって戻したりしたんだけど、でもサ、やっぱりサ、駄目なんだよネ、先の方ブカブカって感じでサ、スゴくみっともないんだ。だからそれでスゴく恥かしいんだけど、こんな事絶対誰にも言わないでネ、絶対だよ、でもってサア、話は元に戻るんだけど――いいのかなア、こんなこと言っちゃって。僕はサアこういうことバレるとちょっと生きてけないんだよネ、でもってサ――ハイ、忘れましょオ。話は元に戻って「あんな包茎エ」っていうから――笑うことないだろオ! ――僕はサ、「見たの?」なんて思わず聞いちゃった訳。
「なんでそんなモン見なきゃいけないんだよ、俺が」
「でも、ホモなんだろ君は?」
「そういうことはネ、昼休みの教室であんまり大っぴらに言うことじゃないのッ」
「そうなの?」
「決ってんだろ、バカだな」
「でも松村とか榊原なんて割とホモがどうしたなんて言うぜ」
「あいつらは変態なの」
「やっぱりイ」
「松村ってお前ンとこよく来るB組のモッサイ奴だろ」
「アア」
「ああいうのはサ、顔見りゃ分る訳、包茎だなって」
「ホントにイ?」
「アア、一発だよ」
「ヘエ。そんで松村が言う訳サ、お前も『ジャンプ』ばっか読んでないで少しは竹宮恵子でも読んで自覚しろってサ。そんなこといったって僕はアイツから『ジャンプ』借りて読んでんだぜえ」
「自覚って何だよ」
「ン、あいつも勝手に決めてんだけどサ、僕をネ美少年だとかってサ。そんで、ジルベールって知ってるだろ?」
「ウン、あのエゲツないヤツだろ」
「そんでサ、美少年だったりするとサ、少しはアアいう傾向があった方がいいんだとか勝手なこと言う訳。大体僕はジルベールって女だと思ってたんだからさア」
「アハハハハハ、バカ」
「いいだろオ。でさア、僕は思うんだけど、ひょっとして松村ってホモなんじゃないのかなア?」
「何かあった訳?」
「イヤ、別にないんだけどサ、割とそういうこと言うから」
「違うんじゃないのオ、流行《はや》ってっからだと思うよ。だってあの顔じゃ絶望的だろ」
「そうかなア、『美少年論』とか『反世界のエロチシズム』とか変なのばっか書いてるけどな」
「要するにあいつは評論家になりたい訳?」
「どうかなア、ミニコミやりたいとは言ってたけど、マア、ロックの方もやりたがってるし」
「ロックって、どうせパープルだろ」
「どうして分んの?」
「見りゃ分るって、あのテはそうなんだから」
「へー」
「もうサ、何でも聞いて、バンバン教えてやっから」
「じゃアサ、ア、別にヤならいいんだけどサ、言わなくても、キミはサ、そう、なんだろ?」
「マアネ」
「じゃサ、ランボーって知ってる?」
「知らない、ア、名前聞いたことあるかな」
「じゃ、ヴェルレーヌは」
「ヴェルレーヌ?」
「秋の日のヴィオロンの≠チて知らない?」
「アア、ため息がどうしたこうしたってヤツ」
「そう。じゃ、巷《ちまた》に雨の降るごとく≠チて知ってる?」
「それもヴェルレーヌ?」
「そう」
「ヘエ、俺ナツメロの文句かと思ってた」
「ホオント、握手ッ! 僕もサ、やっぱりそう言って松村に阿呆って言われたんだ。大体がそんな感じだよなア」
「それがどうしたっつう訳?」
「でサ、ランボーってのは十七ン時詩を書いて認められたんだって、ヴェルレーヌに。そんでランボーってのはスゴイ美少年だったからヴェルレーヌとそういう関係になった訳。そいでサ、ヴェルレーヌってのはスンゴイ醜男《ブおとこ》でランボーにふられる訳」
「どっかで聞いたような話だな」
「知ってた? やっぱり?」
「イヤ、別の話」
「フーン(今考えてみると、このフーン≠ヘかなり意味深だったような気がする)」
「でサ、松村は僕のこと、同じ十七なんだから見習えなんてヘンなこと言う訳サ。そんでランボーの詩集貸してくれたんだけどサ、そんな話知らないだろ?」
「知らない。その詩集って今持ってる?」
「持ってるよ、ちょっと待って、エーッと、アア、これ」
「いいよ別に、なんかヤラシイことでも書いてあればだけど」
「何にも書いてないよ。だってなんだか知らないけど怒ってばっかいるんだ、ランボーってのは」
「どうしたの? 二人|揃《そろ》ってまたランボーとは」
「自覚したのサ」
「玲奈ちゃん、ランボーって知ってた?」
「あんた達知らないのオ?」
「ウン」
「今更驚かないけど」
「ランボーって美少年だったんだって、榊原さん?」
「そうよオ」
「でもこの写真見るとそうでもないと思うけどなア僕は」
「どおれ? ア、それは歳喰ってからの写真だもン。若い時の肖像画なんかホント素敵なんだからア」
「フーン」
「ねえ、源ちゃん、この写真サ、似てると思わない? 滝上クンに」
「どれエ? ジョオオダン。先輩こんなドブスじゃないよオ」
「あんた達一体どういう頭してんのッ!」
「磯村、磯村、耳貸して……。(ナ、変態だって言っただろ)」
「ハハハハハハ」
「バカッ!」
僕はサ、ベツに美少年でも構わないんだけどサ、でもそんなこと自分で決めるよオ。そんなこと人に任しといたらどうなるか分んないもン。
松村なんか「お前さア、ちょっとお兄さま≠ネんて言ってみな」ってからかうけど、家《うち》にいるもんねえお兄さま≠ヘ。あんなのに迫ったってメガネ同士がぶつかるだけでサ、なんかカマキリの共喰いみたいじゃない。そんなのバカらしいしサ、だから僕は自分で決めたい訳。自分が美少年かどうかとか、眼鏡はかけるのかかけないのかとか、メタルフレームに替えた方がいいのかどうかとかサ、そういうことを。
土曜日は家でゴロゴロしてるのか、友達と遊びに行くのか、おカアさまのお使いをするのか、チャンとお勉強をするのかどうか。惰性でする予習だけはやっておくのかどうか、受験勉強はいつから始めるのか、一体大学はどこ行くのか、大学行ってその先どうなるのかとか、そういうことを全部決めたい訳、自分で。
でも困るのは、今僕がそんなこと決めなくたって全然構わないってことなんだ。つまり、そういうことを決めなくちゃいけないのかどうかをまず決めなくちゃならないのかどうかも分らないって事サ。
今なんか何にも決める必要がないのにサ、それでもズッと先なんかは決ってるんだぜ、たかが知れてる≠チてことに。たかが知れてたっていいけどサ、じゃそういうことはいつ決ったんだよなア、僕は何にも決めてないもんねえ。多分たかが知れてるんだろうけどサ、でもそれこそまだ全然決めなくたって構わないことだろう。普通の人間ならみんなたかが知れてるっていうけど、美少年になったってやっぱりたかは知れてるじゃないかよなア。同じたかが知れてるんなら僕はやっぱり普通の人間の方がいいんだよな、楽チンだから。でも楽チンだったりすると、これでいいのかどうか決めなきゃなんないのかどうか分んなくてサ、要するにキリがないんだよな、阿呆らしいことに。
だから木川田みたいに「あんな包茎エ」ってきめつけられるのが僕は羨ましいんだよネ、本当に快刀乱麻なんだ。おまけに絶対当ってるし――九十八パーセントくらいは確かだと思うな。
今度修学旅行ン時松村の見ちゃおうかな。当ってたりして、おまけに短小だったりして。今度短小かどうか木川田に教えて貰おう、ハッハッハッ……でも、そうすると分っちゃうのかな、僕のも? そういうのは止めよう。木川田にバレたりするとヤバイから、止めよう。この事を考えるのは止めよう。それだけは決りだ。これでやっと一つ決った。
アーア、面倒くさいの、だから自分の事なんか考えるの嫌いだよ。
4
ウチの狭い玄関を抜けると電話であった。廊下の底がリーンと鳴った。(ゴメン)
「アッ、いいよオ、僕が出るウ。ハイ磯村です、エ? ア、ちょっと待って下さい。ママア、ママアッ、兄貴帰ってるの?」
「尚治? 電話は?」
「そう」
「今お友達がみえてるからママ呼んでくるわ」
「友達って女? だったら僕が呼んで来る」
「邪魔しちゃ駄目よ」
「ハイハイ」
玄関に女の靴なんかあるから、ヒョッとして、と思ったんだ。常々御自慢の竹下景子≠ニははたしてどんな女か? 竹宮恵子《たけみやけいこ》と竹下景子《たけしたけいこ》で一字違うと『風と木の詩《うた》』と『ある愛の詩』の差だもんネ。折しも曲はフランシス・レイじゃ。
コンコン
「失礼します。兄貴イ、電話」
「オウ」と言って出て行く兄貴がドアを閉めるその瞬間、発作的に頭を下げつつも、僕は見てしまった!! ガラス窓が落っこって本当に雪の冷気が流れこんで来た。『雪国』どころの騒ぎじゃないよ。どおしよオ! ……ドラマが向うからやって来た。
イヤ、本当の話あの女が誰に似てるかどうかはもう問題じゃないんだ。だってあの女は僕を襲ったあの三人組のネエチャンの一人だもん。
あの時は向うも制服だったから分んなかったけど、そうだよ、向うだっていつまでも高校生じゃないのは決ってんだから。今女子大の二年だとするとあの時は向うも高三だったのかア……
「アラ、どうかなさいまして、フフッ」なんて顔して、とてもあれが「ヨーコオ、早くズボン脱がしちゃえよオ」っていってた人間と同じと思えない、ホント、一体どうなってんだろう。ひょっとして違うのかなア、やっぱり。そうかもしれないなア……イヤッ、イヤ、違う、絶対にあの女だ。あの顔忘れられる訳ないだろオ。大体僕はあれから暫《しばら》く散歩恐怖症になったんだから……
アレは高校の合格発表が終って中学の卒業式までにはまだちょっと間のある時で、学校は一応休みだし、別にすることないから散歩でもしようかなと思ってブラブラ歩いてて、貝塚町の方まで行っちゃった時で、ほんとに昼前の住宅街なんてガラーンとしてて誰もいないんだなア、なんて考えてると、普通のアパートの階段の所に女子高校生が三人坐ってて、今だと高校生なんかそうとも思わないけど、その頃はまだ中学だったからスゴク大人に見えて、制服着た女が三人坐って煙草|咥《くわ》えてると、なんかバカでかいカラスがグツグツ笑ってるみたいだななんて思えたんだ。
そんで僕が前を通り過ぎると急に「キャーッ」なんてバカデカイ笑い声を出すから何だと思って振り向いたらサ、そん中の一人が――今家に来てる奴じゃなくて、ノンコってのが「彼氏イ、彼氏イ」って呼ぶ訳、僕は三人称で呼ばれたことなんかないからサ、「ヘッ?」なんてまた反対側振り向いたら、今度は今隣りの部屋にいる奴――ユリってんだ、おっそろしい、そのユリが「何トッポイ顔してんだよオ、あんただよ」って呼ぶ訳。
で、僕は「なアに?」って言ったんだけど、そしたら「なアに≠セって、ギャッハッハッ、カーワイイ」って三人で寄って来て、「ねえ、あんたア、学校《ガツコ》どこオ、青中? 四中?」なんて言って取り囲むんだ。
僕は「エッ、違いますよ」なんてバカみたいに正直に言ってサ、そんで今度はヨーコってちょっと沢たまきみたいな顔した女が「そんなことどうでもいいよオ、あんたサア、いくつウ、中二でしょオ、中三?」ていうから、「僕はもう中学卒業しました」なんて、ホントにあとで考えれば面接試験みたいでおかしいんだけど言っちゃって、そのたんびに「ヤダア卒業しました≠セって、キャーワイイ、ガハハハハハ」なんて笑われてサ、「あんた暇だったら付き合いなよオ」ってことになっちゃったんだ。
付き合い≠チてひょっとしてアノことかななんてチラッと思ったんだけど、ヤッパシ違うだろうなって勝手に思ったりして、ホントにバカなんだけどサ、「今ヨーコの彼氏がいなくって寂しがってるからさア、慰めてやんなよ」って言われると、どうして僕がそんなことしなくちゃいけないのかなとも思ったんだけど、ノンコに「あんた男だろオ、だったら慰めてくれったら慰めてやんだよオ、オラッ」って言われりゃ、やっぱり男だしなと思って、何だか知らないけど「慰めてあげなくちゃいけないのかな」と思って、そのアパートのヨーコの彼氏の部屋ってとこへ行っちゃった訳サ。
「コーラ飲む?」なんて言うから「ハイ、頂きます」なんて、ホントにガキっていわれてもしようがないんだけどサ、言って、そんでヨーコっていうのと、隣り≠フユリが僕の両側にくっついて、「フフフ」なんて笑うからサ、僕はひょっとしてやっぱりアノことかなと思って、そうすると残りの二人はどうするんだろうなんて関係ないこと考えてたらサ、ヨーコの方が僕のズボンの、とこに手伸して来て、僕はやっぱりギクッとして、でもひょっとして僕の勘違いなんじゃないかなと思って、一応しらん顔しようかと思ったら途端に押し倒されてサ、ヨーコってのが僕の体の上にのっかってっから動けなくって、「チョ、チョッとすいません、どいて下さい」なんて、ホントに何考えてんだろうと思うんだけど、言っちゃって、そんでまたなんか言おうとしたら今度はユリの方に口ン中へ何か押し込まれて――後から見たら男物のマフラーだったんだけど、それで後はズボン脱がされて、三人でサ……ちゃった、訳……
それでどうして抵抗しなかったのかって言われるだろうけど、でもネ、やっぱりその時は、ウソかと思うかもしれないんだけど、ホントに何が何だか全然分んなかったのも事実なんだ。バカっていわれりゃそうなんだけどサ、やっぱりしようがないとは思うんだよなア……
それで、終ってから、「寂しくなったらまた来なよ、慰めたげっからサ、ギャハハハハハ」なんていわれて。誰が来るか!≠ネんて思う気力もなくって、アパート出る時どっかのおばさんにぶつかって、今思えば別に向うは何とも思ってなかったんだろうけどサ、その時はホントにそのおばさんが「なんてヤラシイガキだろう」って顔してるような気がして、顔上げられないんだ。
本当にその日はもう何が何だか全然分んなくて、ひょっとしたら僕のアレもなくなっちゃってるんじゃないかと思ってズボンも脱げないんだ。ホントにおっかなくってサ、そんで次の日になったら急に、もう悔しくって、悔しくって頭来たから余っ程警察に行こうかとも思ったんだけど、でもさア、出来ないだろうそんなこと。でもってサ、ズーッと考えてて、だからヘンな電話相談≠ネんてのもしちゃったんだけど、やっぱりそんなこといってもサ、他人は関係ないんだよネ。僕だって実際相談してどうこうって気はなかったけど、だからサ、そんな女が隣りにいるかと思うと――
コンコン
「薫ウ、いるかア」
!!
「竹場さん紹介してやるぞオ。なんだア、ナニ阿呆面してんだよオ。百合江サン、弟。こいつがいつもウルサイんだ、家に連れて来い連れて来いって」
「ホントオ、はじめましてエ、竹場でエす」
「こんちは」
「ワーッ、全然似てないのねえ、カアワイイ」
「アア、どういう意味だよオ」
「べエつに、フフッ」
「まだガキなんだよ、お前挨拶ぐらいしろよ」
「したよ、さっき」
「照れてやがんの」
「よしなさいよ、可哀想ねえ」
「行こうか、駅まで送るよ」
「ウン、じゃアネ、薫ちゃん? でしょ?」
「アア、薫ちゃん。じゃアな、薫、一応見せてやったんだからな」
「見せただって、ヒッドイなア」
「なアンちゃって、行こうか」
本当にそうだ。ユリエさんだって、冗談じゃないよオ。覚えてないのかなア、しらばっくれてんのかな? どっちだろ? 本当に何見てんのかなア僕は、そういうとこをチャンと見抜かなきゃいけないんじゃないか、なア。
ホントに木川田に教わっときゃよかったよ、相手が女じゃだめかな、アア、オカマなんかじゃだめだ、やっぱりそういう知識は松村なんかに聞かなきゃ、アア、何言ってんだよ、そんなこと人が教えてくれる訳ないんだよ。だからこういう時の為にチャンと経験積んどかなきゃ駄目なんじゃないか、アァアァ、何言ってんだよオ、そんな経験がころがってる訳ないだろ、バカ。
ホントいって、気が付いてなかったみたいだよな、忘れちゃったのかな? ひょっとして。あいつあんなことばっかやってて、いちいち攫《さら》って来た男の顔なんか覚えてないのかな? そんな風にゃ見えなかったし……忘れてんだよな。決めた、本当に覚えてないんだ、多分。やっぱり、駅行こう!
今まで僕はサ、こんな駅で入場券売ってるなんて思わなかったよ。よっぽどあわててたんだよな、定期持ってこないんだから。辛《かろ》うじて百円玉一箇《こ》あったからよかったようなもんだけどサ、向うも「入場券下さい」って言ったらヘンな顔してたし。当り前だよな、こんなチャチイ駅に入場券買って入るバカもないもんだよ。
ホントに遅いよなア、何イチャイチャして歩いてんだよオ、あの二人は。ホントにバカじゃないのかア、戸開けた時なんか二人で平然とフランシス・レイ聞きながらアルバム見てんだから。あんな健全なことしてるなんてバカじゃないだろうか。大学生のクセしてよっぽど不健全だよナ。
やっぱり人違いかなア……あんなことする女なら男と二人で部屋ン中にいて紅茶飲んでるだけなんてことないと思うもんなア、多分。それならそれでいいんだけどサア……アッ、来た来た、早くしろよオ。
兄貴、そこで帰れよ、よオし、よし、対決だ。
「エーッと」
「アーラ、エーッと、薫クンだっけ」
「あのオ、ン、僕と、前|逢《あ》ったことありませんか? ヘンなこと聞くけど」
「エッ?」
「前に」
「逢ったこと? あったア、そんなの?」
「エと、去年、多分あなたが高校の時だったと思うんだけど」
「高校?」
「エエ」
「見たことあるかなア、この手の、ア、この手のなんて言っちゃいけないか、あるのオ? 逢ったこと」
「ヨーコとか、ノンコとかって、知りませんか?」
「アレ、なんであんた知ってんのオ、ひょっとしてあんたあいつらの友達イ? ネエネエ今どうしてんの、あの娘《コ》達」
「別にそういう訳じゃないんです。知ってるんならいいんです。忘れたんだよネ」
「ちょっと待って、チョッと坐んなさいよ、見たような気がする。あんた眼鏡かけてた?」
「ア、かけてない、勿論」
何やってんだろ僕は、相当焦ってるな。
「あんた……ひょっとしてえ、室田の部屋で……エーッ、ヤダアッ」
「室田だか誰だか知らないけど、あの貝塚町の汚いアパートのことならそうだよ」
「ウッソオーッ、やアねえ」
「やなのはこっちなんだけど」
「ハハハハ、ごめん、へーッ、あんた磯村クンの弟だったのオ。ホオーントオ、やアねえ――」
だからヤなのはこっちだって言ってんだろオッ!!
「ほんとオ、ごめんねえ、あたしだってサア、別に悪気があってやったんじゃなくってサア。たださア、あの頃ちょっとつまんない事がいっぱいあってネ。怒ってるウ? やっぱりイ? ごめんなさいネ。ねえ、磯村クンなんかに言わないでしょ?」
「そんな事言えると思ってんのッ!」
「そうよネ。そうかア、しまったなア、あの頃ちょっとあたしどうかしてたのよねえ。あれっきりあたしあいつらとは付き合ってないんだけどさア、ちょうど卒業の時だったでしょう。怒ってるウ? ごめえん、忘れろったって無理よネ」
「もういいんだ、じゃ」
「ちょ、ちょっと待って、ねえッ」
バカらしいから僕は帰って来たよ。「ハハハハ」って何だよ。ちょっとつまんないことがあるたんびにズボン脱がされてたまるかいッ! 駅員は切符渡す時にワメクしさ、そんなこというんなら入場券なんか売らなきゃいいだろッ!!
5
バカらしくてイチイチ書いてらんない。
あの日家帰ると兄貴は鼻唄で『ラブ・ストーリイ』なんかやってて、「どうだ、竹下景子よりイイだろ」なんて言って、人がブスッとしてると、「お前だって大学行ってから見つけりゃいいじゃねえか、メゲるなメゲるな」なんて勝手なこと言ってるんだ。
ウチの母親は「ちょっときつそうな感じだけど、チャーミングな人ネ」なんて言ってサ、僕はチャンと分るんだよネ、そういうセリフが嫁イビリの伏線だってことが。兄貴はそういう微妙なニュアンスが分んないから「目がチョッとネ」なんてバカなこと言ってられるのサ。
そりゃ僕だって何にも知らない時は「兄貴イ、竹場さんて人と結婚すんのオ?」なんて幸せなこと言ってたけど、初めっから不倫の関係の兄嫁だなんて知らなかったよ。兄貴はニマーッ≠ニ笑って「早いよ、そりゃ」なんて阿呆なこと言ってたけど、ひょっとしたらまだキスもしてないんじゃないのか、あの調子じゃ。ポール・モーリアとかフランシス・レイばっか聞いてるとあんなにバカになるんだよな、決ってらア。
兄貴の阿呆面見てると頭に来るっていうか気の毒になるっていうか、もうホントにやんなって、あんまりバカバカしいから僕が一人で片付けてやると思ってサ、電話しちゃったんだ、彼女ン家《ち》へ、兄貴の住所録見てサ。
初めは向うも警戒してて、「あのことだったら謝るわ」なんて殊勝にしてるから、僕も「一遍会って欲しいんだ」で終ったんだけど、ともかく引っ張り出すことには成功して、会ったんだ、彼女の大学のそばの『スワン』て喫茶店で。
それでその感じが前とは全然違ってるんで僕は驚いて、一体なんだと思ったのサ。
カチッとスーツっぽい洋服着て煙草ふかしてるんだけど、目がニマーッと笑ってるんだ。なんだろ? なんだろ?≠ニ思ってズーッと考えてたんだけど、喫茶店出て「大学案内したげるわ」って言ってスルッと腕組んだ時分ったよ。
「女子大だからってそんなにおびえなくっていいわよオ、もうあんなことしないからア」って。それもあったかもしれないけど、僕が本当にギクッとしたのは、彼女が誤解してるか――ひょっとして作戦だったのかもしれないけど、つまり僕はサ、昔の関係が忘れられなくて、あわよくばもう一度≠ニ思って年上の女《ひと》に接近した少年にされちゃった訳サ。ホントに頭来るぜえ。僕って男のサ、プライドはどうなるんだよ、プライドはア! ホントに頭来てパッと帰って来ちゃったよ。それで家帰って来てまた頭来て――どうして僕は頭来るのにイチイチ家に帰って来なくちゃなんないのかとも思うんだけど――僕は絶対にあの女をゴオカン≠オてやることに決めたんだ。
ゴオカンてのは――僕は強姦≠ト字は知ってるよ、チャンとネ、でもゴオカン≠ト書かないと感じ出ないんだ、悪いけど――やっぱり体力だろうと思って、兄貴からブルワーカー借りて来たんだけど、こんなことやってて次の機会に間に合う訳ないこと気がついて、ホントに何考えてるのかな、僕は。で、ついに自覚≠オて、決めたんだ、僕は美少年で行くッ!≠ト。
それでやおら眼鏡はずして松村ンとこへ素ッ飛んでって――なんかクラーク・ケントみたいだけど――「松村アッ! 俺美少年かッ!」て聞いたんだ。
「お前気が狂ったの?」
「違うか? 美少年だって言ってただろ?」
「そうだよ、前から言ってんだろう」
「絶対そうだな。お前の審美眼狂ってないなッ?」
「アア、だからどうしたんだよ」
「じゃいいんだ、俺これから美少年で行くからなッ! じゃアなッ!」
これがわざわざ二十分も自転車乗ってしに行く会話かとも思うんだけどサ、僕はなんかこんな風に宣言しなくちゃおさまんなかったんだ、分るだろ? そんで次の日学校行って――もう眼鏡なんかどっか行っちゃったよ――木川田に聞いたんだ。
「ねえ、やっぱり僕は美少年じゃないのかな?」
「ちょっと見してみな。アッチ向いて。そうだなア、ひょっとしたら美少年かもしんないなア。でもサア、ヘアとかサ、そういうとこチャンと凝《こ》らなきゃ。そのカットはないぜ」
「ウン、僕もマア、そうは思うけど」
「そういうのは、ただ髪伸してるっつう訳」
「でも僕だって髪型には一応サ、気はつかってるよ」
「問題は根本的な取り組み方よ。どこでそんな風にカットする訳?」
「自分でやって、後ろの方だけママにイ……」
「お前さア、子供じゃないんだよネ」
「ウン、勿論そうだけど」
「やっぱ美容院行かなきゃ駄目よ」
「ウーン、そうかなア」
「そういうとこで悩んでっと駄目なんじゃないの」
「やっぱりイ……あのサ、金、かかる?」
「美少年で行きたい訳?」
「そオッ!!」
「じゃ、教えてやるよ」
で、色々検討した結果――ホントに木川田っておしゃれなんだ、流石《さすが》だよ――予算の関係と、それから木川田の洋服なんか借りて着てみたんだけど、僕はもう一つってとこで決んなくて、「そう簡単にシチー・ボーイにゃなれねえずら」ってことで、パーマかけるだけで、あとはニュートラ常識派≠チてセンで行くことにした。
木川田は「顔が非常識だから、一般人ならそれで欺せるよ」って、よく分んないこというけど、僕は断固ホメ言葉だと決めて、美少年になったんだ、絶対にッ!!
もう一つ決らない≠チて分ったよ。僕ってもうちょっとのとこで恥かしくなっちゃうから駄目なんだ。そんでイジイジしてサ、余計みっともなくなっちゃうんだよネ。
眼鏡買う時だってそれで失敗したんだもん。僕は一人でメタルフレームのヤツ買いに行くつもりだったんだけど――大体みんなメタルフレームだろう、だから僕もサ、そう思ったんだけど――でもママは「眼鏡だって結構するのよ。あなた一人でヘンなの買って来て後で後悔しても知らないわよ」ってヘンなこと言い出して金呉れないんだ。
それで例によってついで≠持ち出して、「ついでがあるから一緒に行きましょう」って、どうして十七の男が母親と一緒に外歩けるなんて思えるんだよなア、やんなるよ。結局一緒になんか行っちゃった僕が悪いんだけどサ、案の定だよ。
「だって薫ちゃん、あんた、お洒落じゃないんだから、しっかりしてるの選ばなくちゃ駄目でしょオ」って言って、メタルフレームは全部駄目なんだ。カッコいい眼鏡かけた店員は笑いながら、「これだってしっかり出来てますよ」って僕の選んだの推してくれたんだけど、その男がバカそうに見えたんじゃないの、全然無視。「ウチの息子があんたみたいに軽薄になられたんじゃ困るわ」なんて考えてたに決ってんだ、ウチの母親は。
店員だって、ママの選んだ方が高いから欲につられて言いなりになっちゃうしサ。結局僕はオベンキョウメガネだよ。
僕だって頑張りたかったけど、軽く「お洒落じゃないんだから」なんて先に言われちゃうと、どうしたって「いいよ、別に僕は色気づいたガキなんかじゃないから」なんてヘンに見栄張っちゃうだろう。やっぱりそういうとこで自己主張しないと駄目なんだよネ。
だから自己主張するつもりで美容院行ったんだけど、今度は自己主張のしかたが分んないからサ、やっぱり木川田任せで――でもこれはしょうがないと思うんだ――「俺の言う通りしてりゃ間違いないって」って木川田は言うけどサア、どう見たっておかしいんだよね、パーマかけた後ってサ。それで僕は失敗したんじゃないのかなアっておびえてたんだけど、木川田は「もうちょっとしたら落ち着くから」って言うし、僕は絶対美少年になんないと困るしで、しつこくしつこく毎ン日《チ》指で髪の毛梳いてたよ。
そして、ジャーン! 僕はマイ・フェア・レディ≠ノなって、あの、おそろしい、ユリエを誘ったのだった!!
でも、駄目なんだよなア、あの女絶対におかしいよ。だって何回か会ったんだけど、いつもベターッとくっついて、ホントに「あたしはいつでもいいわよ」って顔してんだもん。いつでもいい女°ュ姦してどうすんだよ、そんなもン強姦なんかじゃないじゃないかア。こういうことは突如《とつじよ》ッ!!≠チて感じじゃなきゃ意味ないだろ、決ってらア。だから僕はいつも振り払って帰って来て、いつか隙《すき》を見せたら押し倒してやる、押し倒してやる≠チて、それだけを頼りに生きてった。
兄貴はバカだから「この頃竹場さんどうしたのかな」なんていってるのを横で聞いて、僕は「自分の女ぐらいしっかり捕まえてろッ」と思って、その日の為にやっぱり少しでも体力をと思ってブルワーカー使ってたんだけど、フト気がついたんだ。「ゴウカンして子供が出来たらどうしよオ!」ってことに。
こういうことに最初に気がつかないからやっぱりガキなんだろうけどサ、それでそんなになったらヤバイに決ってるから、近藤サン≠ニことお近付きになっとかなきゃと思って、第一今までコンドームなんかしたことないから、イザって時にそういうのスグつけらんなきゃなんないだろ。それで練習しなきゃと思って夜中に自動販売機へ買いに行ったんだ、見つかったらヤバイからワザワザ遠くの薬局の方までサ、行ったよ。
で、コンドームなんかいくらするか分んないし、でも自動販売機で売ってるぐらいだから多分千円はしないだろうって見当で百円玉掻《か》き集めて、六百円しかなかったから、それで足りなきゃまた明日ってことにして行ったら、一番安いのが三百円で「アア、二つ買えるな」と思って百円玉入れたんだけど、夜中ってスゴク響くんだ、お金入れる音が、で、結局一箇しか買えなかった。
それで家帰ってズボン脱いではめようとしたんだけど、難かしくってサ、ヘンな話だけど毛なんかはさんじゃって、痛テテなんてやって、どうにかこうにかしたんだけど、アレさア、普通じゃだめだろ、だからサ、ヘンナ感じになってサ、やっちゃったんだよネ、僕はどうせ意志薄弱だから。それでやっぱりはめ方が下手だったから、アッ≠トなった時パチンとはずれちゃって……ジュウタンの上にそんなのがベターッとしてるの見てるとサア、なんかホントにもうバカバカしいとしかいえなくってサア、何やってんだろうと思って、つくづく考えちゃったよ。
よく考えてみればホントにつまんない女なんだから。だってデート≠フ時なんかなんにも話すことなくってサ、グダーッと人の腕にくっついて、ウィンドウのぞいちゃ、「可愛いいわねえ」だけだろう。そんな時、同じ歳ぐらいの二人連れとスレ違ったりするとホントに恥かしくってサ、向うはいちいち見てる訳じゃないけど、却《かえ》ってサア、僕はヘンな女に骨抜きにされてる飢えた落ちこぼれみたいな気分になって、腕離そうとするんだけど、そんな時は却ってベターッとくっつくんだよネ、あの女は。やんなっちゃうよ。
形容詞っていえば「可愛いい」しかなくって、人のズボン脱がしても「カアワイイ」だし、靴屋のウィンドウのぞいたって「カワイイッ」だろ、本当にバカなんだ。こんなこと榊原に話したら原稿用紙三枚分ぐらいの形容詞くっつけてあの女のこと罵倒《ばとう》すると思うよ。だから僕はもう止めることにする。今度の土曜日会うことになってんだけど、スッポカす。同じ女なら榊原の方がスリリングで余っ程面白いよ。もうバカな女はヤメた。兄貴なんか阿呆だからどうでもいいや、そうしよう。決ーめたっと。
それで思うんだけど、僕はやっぱりソロソロ受験準備始めた方がよさそうなんだ、多分。ハハハハハハ、遅いわ! 気がつくのがッ!
6
「薫ちゃアん、薫ちゃアン、お電話よオ、崎田さんて女の方」
「崎田ア? 知らないよオ、そんな女ア」
「どうするのオ、お断りするのオ」
「イイ、出るからア」
誰だろ、崎田って、やっぱり美少年になると惚《ほ》れられるのかな、ナッハッハッ。
「モシモシ代りましたけど」
「薫ちゃん?」
「? そうですけどオ」
「あたし、ユリエ」
「(ウソだろオ)なんなのオ、兄貴なら今風呂入ってるよ」
「どうしてそんなこと言うのオ、ひどいわ、この前だってあたし二時間半も待ってたのよ。ねえ、どうして? まだアノことで怒ってるの? だから謝ったでしょう、ねえ、まだ許してくれないの? ねえ、薫ちゃん、ねえ、聞いてるの?」
「聞いてる」
「だったら返事ぐらいしてよ。どうしてそんなに意地悪するの? この前だってあたしミチヨにあなたのこと紹介するつもりで――(ミチヨッて誰だア?)――一緒に待ってたのよ。ミチヨはサ、子供だから気まぐれはしようがないよ≠チて慰めてくれたけど、でもサ、あなたは一遍だってそんな風にあたしのこと欺したりなんかしなかったでしょ、それだからあたしはサ、ミチヨが帰っちゃってもサ、ずっとあなたのこと待ってたのよ、それなのにあなたはサ」
「ミチヨってだアれ?」
「いつか話したでしょ、あたしの友達でサ、あなたのこと話したらサ」
「そんなの関係ないでしょ」
「そうネ、あなたがそういうんならサ、そうだと思うわ、だけどサ、グスッ、あたしはサ、グスッ」
「どうしたのオ? 泣いてんのオ」
「そうよオだってサ、あなたってひどいんだもん(冗談じゃないぜえ、なんだア、これエ)」
「オウ、薫、風呂空いたぞ」
「アッ、兄貴兄貴、電話。竹場さん」
「バカヤロ、早く言えよ。モシモシイ、モシモシ、尚治だけど、どうしてたの?」
「グスッ、ア、ごめんなさい」
「モシモシ、どうしたの? 何かあったの? オイッ、くっつくなよ、気持悪いなア。ア、ゴメン、君じゃないんだ。どうしたのオ? (こっちは裸なんだからくっつくなっていってんだろ、お前に関係ねえじゃねえかよオ)」
「そうだけどサ」
「早くあっち行けよ」
「薫ちゃアん、あんたお風呂入らないのオ」
「アア、後で入るウ」
「早く風呂入っちゃえってば」
「いいだろ」
「じゃア、ママ先に入っちゃうわよオ」
「イイよオ」
「アッチ行けってばア」
「……モシモシ、薫ちゃん? ねえ、グスッ、薫ちゃんじゃないの……」
「モシモシ、僕だよ、どうしたの? 君泣いてんの? ネエ、薫が何かいったの?」
「ウウン、違うの、もう切るわ」
「モシモシ、またスグかけ直すから、僕今風呂から出たばっかりだからサ、後で」
「ウウン、今あたし、外からなの」
「じゃアサ、じゃアサ、何時頃家帰るの? ねえ、聞いてる? モシモシ」
「じゃ、グスッ、また」――≪ガチャッ!≫
「モシモシ、モシモシッ!」
「切れてるよ」
「そんなこと分ってるよ、お前、彼女になんか言ったろ、オイッ」
「別に」
「嘘つけッ! じゃ彼女がなんで泣いてんだよ」
「なんか淋しかったんじゃないの」
「バッカヤロオ、しらばっくれやがってエ」
「痛えなア、何すんだよオ」
「お前、彼女が家来た時なんかしただろオ、どうもヘンだと思ってたんだ、何したんだッ!! なんかしたんだろオ、言えよッ!!」
「何にもしてないよオ、あんな女ッ」
「あんな女ってのはどういう意味だッ、何にも知らないクセしやがってッ!」
「手エ離せよオ、僕はみんな知ってんだからねッ」
「お前が何知ってんだよ、ガキのクセしやがって」
「ガキで悪かったなア、じゃア教えてやるよオ、あの女スケ番だったんだぜッ!」
「目茶苦茶言うなッ! バカヤローッ!」
「嘘だと思うんなら彼女に聞いてみなッ! 僕はあいつの仲間だって知ってんだからッ!」
「お前はそんなことで人を差別するんだな、エッ、だからどうした、彼女はそんな人じゃないぞッ!」
「そんならそれでいいだろオ、欲しけりゃくれてやるよ、あんな女ア」
「バカヤロオッ!! くれてやるってのはどういうセリフだよ、色気づきやアがって」
「何にも知らないんなら教えてやるよ、アレから僕はねえ、あの女ともう十回くらい会ってんだからッ、自分なんか何にも知らないで、竹場さんどうしたかな、竹場さんどうしたかな≠チて、バカじゃないのオ。痛えッ、本当のこと言ってんだろオ!! 僕があの女の為にどんな目に遭ったと思ってんだよッ!! あんな色キチガイッ! 有難く思えよなッ! 何すんだよオ!!」
「このオッ! 女みてえな面しやがって、バカヤロオ、俺が教えてやらア」
「何教えんだよオ、阿呆面して大学行ってるだけだろッ!」
「くやしかったら一橋入ってみろッ! 私立スレスレのクセしやがって」
「あんなとこ誰が行くかッ」
「てめえみたいなオカマヅラに来られてたまるかッ!」
「行かないよッ! あんなとこ行く奴包茎じゃねえかッ!」
「なんだとオッ!!」
タオル落っこったア!
「包茎でやんのオ!」
「テッメエッ!!」
ハハハハハハハハハハハハハハハハハハ、アーッハッハッハッハハ、オー痛エ、ハハハハハハ、ザマアミロ、ハハハハハハ、アーッ包茎って効くなア、ザマアミロ、クソバカが、ハッハッハだ。
オカマヅラで悪かったなア、美少年の怖ろしさを知らないなア、阿呆面がア。僕はもう絶対東大行くんだ、そんで東大行ってスケコマシになって見返してやるからナ。何だい、威張りやがってえ、自分が何だってんだよ、一般人のクセしやがって、お前なんかに日本の将来まかしとけるかア、包茎エ!
世の中の女がどんなにすごいか知らないで、よくも男でございって顔してるよオ、そんだから平気で大学行ってボケーッとしてんじゃないか。人の苦労も知らないで、よくいうぜえ、お前なんかがゴロゴロしてるから僕だってウットオしくて大学行く気になんないんじゃないかよオ、頭来るよなア。
悪いけどねえ、僕なんかもう、とオおの昔に包茎じゃないんだもんねえ、ワーイ、知らなかっただろオ、自分なんかまだ童貞だろオ、僕なんか違うもんねえ、もうズーッと前から童貞じゃないもんねえ。おまけに一遍に三人やっちゃったもんねえ、ハッハッハッ、そんでおまけに年上の女泣かしちゃったもんねえ、この歳で。ワーイ、泣かしたことなんかないだろオ。弟なんか泣かしたって駄目なんだもんねえ。ワーイ、お前なんか酒飲んで寝ちまえ、僕なんかこれから大恋愛するんだぞオ。お前なんか『ラブ・ストーリイ』聞いて泣いてりゃいいんだア、ワーイ。アア疲れた。
もう僕なんか恐いもんないぜ、アトは東大行くだけだ。多分だめだろうけど、ハッハッハッ、だってこないだの模試の成績だと、某大学への「ゴウカクカノウセイハ50〜25%デス」だもん、ハッハッハッ、笑いごとじゃないや、勉強しよう。
とにかく大学行ってそれからだ。あそこだって無理に包茎にしとこうなんてヘンなこと考えてたからみっともなかったんだ。もうブカブカじゃないもんネ、ムイちゃったもんネ。ホント言うとサ、スゴイヘンな気持ちなんだ、だってサ動くと擦《す》れて、ゾクッとしちゃうでしょ、でもそれはしようがないんだよネ? 違う? 思春期だからおかしくなったっていいんだもんねえ、なアンちゃって、ハッハッハッ。
でもホント、無花果《イチヂク・》少年《ボーイ》だなんてワイセツなことよく考えつくよなア。分っていってんのかネ、あの桃尻人種は。ひょっとして何かのあてつけのつもり? イチヂクは花が咲かないで実がなっちゃうから、それで花開かない青春≠ニか何とかいう?
だったら教えてやるけどねえ、イチヂクの実ってのは、アレ実じゃないんだぜ。ホントはネ、あの食べる所、花なんだよネ、あれでもサ。知らなかっただろオ。僕は知ってたんだ。何故かっていうとサ、つまり僕は元生物部員だったりしたじゃない、ハッハッハッ、ダテにクラブ入ってたんじゃないもんねえ、ワーイ。
無花果の高い樹の上に登ると、そこは花盛りだった!! ザマミロ(ゴメン)。
菴摩羅HOUSE まんごおハウス
―――――二年A組三十八番 榊原玲奈
1
放課後って、一言でいえば未練がましさだと思うの、なんとなく。普通の日なんかだとその未練がましさも精々《せいぜい》休み時間分くらいだけだけど、土曜日なんか昼休みと午後の授業時間分だけたっぷりと未練がましいわ。
別に何がある訳でもないのになんとなく教室ウロついて、そんでオタオタと家帰るの。大体いつだってなんとなく≠セけど、こういう時のなんとなくさ≠チてのまた一段と濃厚ネ。それだからこんな時の女同士って一番ヤだわ。
カバンぶつけ合って「ねえ、どうするウ」ってレズビアンごっこやりながら歩いてるの見ると、皮下脂肪の分だけ確実に空気が濁るって気がするもん。どんな醜《ブ》男にでも存在価値はあるかなって思うのはそういう時ネ。
「榊原《さかきばら》さん映画行かないか」なんて言われちゃうとつい「いいわよ」なんて言っちゃったりして、でもそれはサ、外歩いてる時男と一緒の方が気楽な感じがするってだけよ、それだけの話。
それでも分らないバカがいてサ、西窪《にしくぼ》ッ! あんたよ。
先週なんかあのバカに付いてってヒドイ目にあったわ。『アポロンの地獄』と『ベニスに死す』の気が狂ったような二本立てで、それはそれでよかったんだけど、その後よ。
あたしはサ、それでもやさしい気分になって、すぐさま「じゃアネ」とも言わずに、「チョッと歩かないか」ってのに付き合ってやったの。付き合うのと付き纏《まと》うのと同じ? 意味が。違うでしょオ。あたしが「帰るわ」って言うのに「そう」って言ってしつこく付いて来んの。そんで挙句《あげく》の果にサ、何て言ったと思う? 「君って案外慎重なんだネ」だって。ジョオオダンじゃないわッ! 何考えてんのかしら。あたしに「明日誰もいないから来ない?」って言えって言うのオ。止《や》めて欲しい。どうして映画行くたんびにいちいち女≠ノなんなきゃなんないのよねえ。あたしはあんたなんか趣味じゃないもン。
それなのにいちいち人を挑発してサ、悪かったわねえ慎重≠ナ。本当にズルイんだから、先に足ひっかけた方が勝ちなのよネ。あたしなんかサ、どうせガキだからいいんだもん、とてもあんたみたいに大人の男にはついてけないの、コワクて。
そうやって机に腰かけて女相手に高級風な話してるとこ見ると、あんたが先週目一杯掃除当番やってたなんて嘘かと思うもんネ。そうよ、あんたなんか大人なんだから、もう同級生なんて相手にしないで成熟した女相手にすりゃいいんだわ。「奥サン、掃除当番代ってくれませんか」なんつったりしてサ、キャハハハハハ。
たかが高校二年生の男が、何言ってんのよオ。
ヤーメたっと、関係ない男の揚《あ》げ足とっててもはじまんないわ。サッサと帰ろう、バカの未練がましさがうつるから。と言いつつも、しつこく教室にいるとこみると、あたしも相当未練がましい人間なのよねえ。
でもサア、いいでしょうそれくらいイ、たまにはあたしの趣味≠セってやって来て欲しいと思うわア。指なんか関節が目立つ程細くてサ、ヤセてて背が高いから現実≠ノ頭ぶつけないように猫背になってる風なのが。そしたらあたしだって、本気で慎重≠ノなっちゃうのに。
でも、来っこないわネ、掃除当番がバカ面して埃《ほこり》立ててるような場所にサ――ハハハハハハ、来た、但し四十過ぎでいつも同じ背広着てスリッパ引きずってるのが。担任だけど。憧れてみようかなア、目一杯鼻つまんで。でもいけないのよネ、あんなのに憧れてたら。今からそんなに現実的な少女だったりしたら気味悪がられるもんねえ。アア、寒気がして来た。
「玲奈《れな》ア」
「なんじゃ」
神様って本当にやさしいのよねえ、感謝しちゃうわ、あたしがケチつけるとスグその反対側持って来てくれるんだから。デブで指の先まで頑丈《がんじよう》なのがドスドスやって来たわ、バカ。
「なによオ、その顔はア」
「べーツに」
「ねえ、玲奈さア、あんた今日付き合ってくんない? どうせ暇なんだろ」
「どうせってのはどういう意味よ」
「どうせはどうせよ、どうせえってのよ。だって暇だろ?」
「どうしてあんたにそんなことが分る訳?」
「ア、そう、男が出来たのかア、人並にイ。で、いつ出来た訳?」
「男がいないとサ、いけない? 聞くけども」
「そういう風に果敢《はか》ない抵抗する所が哀しい、と思う訳、あたしは。いないのは分ってんだからサ、言いなよ暇だって」
「あたしはそういう○×式の発想、体張って拒否しちゃうわ。男がいる、うれしい。男がいない、即《そく》暇でサア、あんたよくそんな単純な発想でマンガなんて複雑なもん描けるわよねえ、感心するわ」
「創作と現実はネ、発想が別なの、分る?」
「ア、そう」
「ねえ、ホントに用があんのオ? ないんだろオ、別に」
「ないわよ」
「本当にもう、どうして可愛くないのかしらねえ。そういうことはネ、本当に素直に言わないと可愛くないわよ、分る? あたしも同情するけどサ、そんなこっちゃいつまで立っても男が出来ないわよ、玲奈ちゃん」
「フフフフフフ、じゃアサア久美イ、ちょっとお伺《うかが》いするけどサ、あんたの場合はどうなの? 可愛いいあんたの場合は」
「よく聞いてくれたわねえ、ホントに、もうあたしも気の毒でしようがないんだけどサ、男は近寄り難いらしいの、あたしのこの美貌のせいで」
「マア、そオお、フーン」
「そうなのオ、分っていただけるウ」
「本当に近寄り難いんだよなア、そのケツでぶっ飛ばされそうでサア。オバアン、どいてくれよなア、掃除出来ないだろうオ」
およそ掃除当番なんかやったことない筈《はず》の源ちゃんが箒《ほうき》持って立ってた。この子こんな恰好さすと抜群に似合うのよネエ、高校来てまで幼稚園になりきれる子なんかザラにいないわよ。
「なアにイ、あんたも可愛くないわねえ、そんな口叩いてると今に男に捨てられるんだからねえ」
「ノッホッホッ、悪いけどねえ、僕はいつも捨てる方だったりしてサ、アーア、可愛いいとつらいんでやんの」
「アーア、日本のホモの美意識はどうなってんのかしらねえ、こんなガマガエルがぶっつぶされたみたいな顔してよく言うよオ、サンジェルマン・デプレ行って勉強しといで」
「悪いけどオバサン、世界のゲイ・シーンはもう西《ウエスト・》海岸《コースト》に移っちゃったんだよねえ、行って勉強しといで」
「あたしになんの勉強しろってのよオ」
「オバンがやってもしようがねえかア」
「そうよオ。それよりあんた、行くんだったら東宝の撮影所行ったら」
「アア、友和の代役ネ」
「違うわよ、ゴジラの息子よ」
「じゃア自分は怪談|乳房《ちぶさ》榎《えのき》かよオ」
「なんだってあたしがそんなもんになんなきゃいけないのよオ、あんたでしょオ南部牛追いオカマは」
「そんならおのれは怪談|河内《かわち》音頭じゃ」
「なんでいちいち怪談がつくのよオ」
「顔に書いたるじゃん」
「あんたア、やる気イ」
「やんないよオ、体力で負けるもン」
「木川田ア、お前たまに掃除やんならよオ、真面目にやれよオ」
どうして西窪って男は何でも口出しするのかしらねえ。関係ない時にウットオシイ声出すの止めて欲しいわ。
「俺は真面目にやってんだぜえ、ンでもオバンが邪魔すっからサア」
「オバンて誰よオ」
「オバンだよ。じゃアな」
「あんた逃げんのオ、待ちなさいよオ」
「牧村さんサア、もう怪獣大戦争止めて木川田に掃除させてやったらア。年に一遍の事だから」
「チョッとオ、西窪クウン、あんたあたしにアヤつけたいワケエ、可愛くないわねえ」
「いや、別にそういう気はないけどサア。こわいなア、あんまりそば来ないでよオ」
「どうして?」
「迫力で負けるじゃない」
「迫力ってどこよ、エ? どこが迫力なの?」
「イヤ、それはサ、ハハ、魅力の間違いだよ、魅力の」
ホントに西窪クンて人もサ、ユーモアのセンス抜群で、あたしもイイ加減ウンザリするわ。また、久美も久美で一々愛嬌ふりまいてサア、律義というかねエ。
「久美、久美イ」
「あいよ」
「あたしに用事って何なの? 西窪が可愛くないのは分ってるんだから、放っときなさいよ」
「本当に可愛くないねえ」
そういってる牧村久美御当人がどれだけ可愛いいかっていえば、マ、ハートの女王が可愛いい程度には可愛いいわネ、『不思議の国のアリス』の。別にイヤ味じゃないわよ、あたしはあの「首を刎ねておしまいッ!」ってポーズかなり気に入ってんだから。もっとも久美はそう言ったら露骨に気イ悪くしたけど。本人の幻想は自《おの》ずから別ネ。
だってこの子少女マンガ描いてんですもん。話の感じだとギャグマンガだけど、全然違うのよ。この子のマンガの世界、リリシズムの風にあえかにも揺れてたりしちゃうんだからア。すごいわよオ、何しろ体力で現実蹴飛ばして、荘厳なまでに無関係なオトメチック・マンガ描いてんですもんねえ、やっぱりそれは迫力だと思うの。
「それで何なの、あたしに用って?」
「ウン、だからさア、玲奈ア、聞いてくれるウ?」
「そのだから≠ヘどっから続くのよ」
「だからサア、あたしの兄貴が――キャーッ! 玲奈、玲奈、どオしたの、どうしたのどうしたのあの子ッ! ねえ、どうしたの?」
本当にあたしの友達ってのは、どうしてみんなまともに話が出来ないのかしらねエ。
「誰エ?」
「あの子オ、ウーッ、ウッウッ、『ミルク・ボーイ』着てるウ、ウッウッ、奇蹟だわ、イヤッ! もう信じらんない」
振り向いたら磯村クンが源ちゃんと、スカーフの結び方がどうしたこうしたやってた。授業終ったらすぐどっかに素ッ飛んでったけど、今まであの子トイレの鏡の前でそんなことしつこく練習してたんだわ、多分。
「アア、磯村クン。あの子、この頃時々気が狂うわよ。何だか知らないけど」
「何平然としてんのよ。あの子がよオ、あのプチブル穏健派型常識少年が『ミルク・ボーイ』の服着てんのよオ、ウーッ! 男が出来たんだアッ!」
「あんたも好きねえ」
そりゃ人生測る尺度が一つよりも二つあった方がベターだけど、それが可愛くない≠ニ男が出来た≠セけじゃあんまりじゃないよネ。この世に有罪と無罪しかない訳じゃあるまいしサ。
「悪いけど久美、あの子は違うわよ、そういうのと」
「どうしてよ。オカマと美少年がお色直しゴチョゴチョやってて、どうしてそれが違うのよ。男が出来た以外に理由なんかありっこないでしょオ。ウーッ、もオーッ、いいわねえ、あんたのクラス、信じらんない、倒錯《デカダンス》の花園だわ。ウチのクラスなんか産直専門のイモ畑でサ。あたしもう、絶対来週からこっちの教室来るッ。玲奈、あんたあたしと教室替って、ネッ」
「それだけ現実離れしてるといっそ見事ネ。あの子違うわよ」
「どうしてあんたがそんな風に断定できんのよオ」
「源ちゃんが違うって言ってたもん」
「ウソオ、あれで男が出来たんじゃなきゃ、一体何なのよ」
「知らないわ。男の約束だから教えてやんないって言うんだもん」
「今時|男色《ソドミイ》以外に男の約束なんてもんがあったらお目にかかりたいわ」
「じゃア好きにすればア」
「するわよ当然。あたしまじまじと見ちゃうもん」
「よだれに気をつけなさいよネ、陛下」
あたしもその傾向があると思うから人の事はどうこう言えないけど、でも久美みたいに世界中の出来事を全部自分の主観で押し切っちゃうのって、どうかと思うのよネ。そりゃサ、そういう風な楽しみ方がある事も分るけどサ。教室なんてあたし達が属する殆んど唯一の世界であったりするから、ただでさえ過剰に娯楽を発見しちゃえるでしょう。あたしはそんな風に簡単に現実と手エ打ちたくないのよネ。
そりゃ磯村クンはサ、最近可愛く――という言葉もあたしとしては気がひけるけど――なったというのは事実であったりするけども、でも全然一貫なんかしてないのよネ。
火曜日は、アーガイルのセーター着て典型的なIVYボーイだったのが、昨日なんかお尻テカテカの学生服でしょう。一体何考えてんのかしらネ。気が向くと美少年になってサ、その癖そういう時が一番自信なさそうで、そんなバカな話あるの? いいけどサ、どうせ男なんて謎なんだから、同じ人間だと思ってるとこっちが怪我するわ。
それでも男だと、ある日何か≠ェやって来て変るのよネ、突如。原因不明でサ。女なんかどう変ったって、頭の上にコウノトリが飛んでるのが分るんだもん、ずるいわ。どうせ毎月来るもんは決ってんだし。それで赤いモンが来なくなると白い鳥がやって来て、お目出度い話よネ、全く。
「アーア、行っちゃったア、男が待ってんだわア。あたし後ついてっちゃおかなア」
「別に大した事ないじゃないよ」
「大した事ないって、玲奈、あんたねエ、『ミルク・ボーイ』がオカマに頑張って来いよ≠チて言われて出てくのよオ、それが大した事なかったら全て世は事もなしだわ」
「だったらあんたも事もなしネ」
「何が?」
「あんた、久美、あたしの教室に何しに来たの? 用があんでしょう」
「そうなのオ。あのサア、お願いがあるのオ」
「どうせ大した事ないのよネ」
「違うわよオ。それがさア、玲奈ア、聞いてえ」
「聞いてるわよ、あたしは」
「ホントにイ? じゃ言うけどサア、あたしのネエ、兄貴がサア、結婚したでしょ? それがサ、あたしに家、来いって言うの」
「別居したの?」
「そう」
「じゃ、行けばア」
「やアよオ」
「そんなの知らないわ」
「ねえ、一緒に行こう?」
「なんであたしがアンタとこの兄さん家《ち》行かなきゃなんないのよオ」
「もう行くって言ってある」
「嘘でしょオ! どうしてよオ」
「だってヤなんだもん」
「あたしに関係ないでしょオ。あんたひょっとして兄さんとられて嫉妬《しつと》してんでしょオ」
「やめてよ、気持悪い。あんたは周りで誰も結婚したことないから平気でそんなこと言ってられんのよ。一度でいいから結婚式出てみなさいよオ、もう恥かしくって死にそうになるから、ホントよオ、よく生きて帰れたと思ったわよ」
「そんなひどい?」
「もうネ、人間の考えられる範囲超えてるの。男はネ、みんなニヤニヤ笑うの。オジンはネ、みんなウロウロすんの。オバンはネ、みんな進路相談来たみたいに顔引きつらせてんの。女中は連れ込みから来たみたいだし、ボーイはみんな昨日炭鉱が潰《つぶ》れましたって顔してて、神主ときたひにゃあんた、ウチの担任とどこが違うってなもんよ」
「そんなにひどいの?」
「ひどいひどい、もうネ、あん時ぐらいあたし人前で煙草吸いたくなったことってなかったわよ。もう思わずヤニ! ヤニ!≠チて床這《は》いずりまわりたくなってサ、今ならブンタ一本で転んでやれると思ったよ、ホント」
「それは同情に価するわねえ」
「ホントよオ、アア、そんな話してたら急に煙草吸いたくなって来た」
「帰ろうか?」
「ウン、そんでもってサ、もう聞いてよ。一番ひどいのが新婦の友人ネ、どうしてあたしは爆弾の作り方覚えとかなかったのかと思って、泣いたわ、ソファに顔埋めて。だってスゴイのよオ、日本の女ってあんなに出ッ歯だとは思わなかった、本当の話。みんな口すぼめちゃってサ。口紅塗ると本当に出ッ歯になんだねえ、まいったよ。それがみんな着物着てサ、チコチコ歩いてんの。電話待ってる時ってあるでしょ、どっかから掛って来る。あんな感じネ。まアみっともないったらありゃしない」
「新婦ってのはどんなの?」
「新婦ウ? 泣いたよ。そんだけ」
「あんたの兄さんは?」
「それがさア、タキシード着てネ、白の。似合わないんだよねえ、あれならいっそグアムでもサイパンでも行ってスッポンポンでやってくれた方がズーッとましよオ。親は親でまた、クサイ芝居するしサ」
「あんた何着てったの?」
「きついなア、そのお言葉」
「何着てったのよ」
「黒のビロードのワンピース」
「あの襟《えり》にレースのついた?」
「そう!」
「キャーッハッハッハッハッハ」
この子がそれ着ると本当にどっかの王女様って感じになるのよねえ。いるでしょう、充分に子供産む準備する前に一人で勝手に出て来ちゃって、いかにも美しい弟や妹とは隔離されて生きてるみたいな長女っての、あれよ、楽しいわねえ。
「だからあたしは結婚式に行くのなんかヤだったんだ」
「分る分る」
「それだからサア、あたしは嫉妬も何もなくてサア、もう関係ないでいてくれりゃそれでよかったのよオ。嫁にしてみりゃこんな楽な話ってないでしょオ」
「ただでさえ小姑《こじゆうと》は鬼より恐いって言うもんねえ、ただでさえ」
「そうよッ! それなのに家《うち》の母親が何気が狂ったのかあんた志津子さんが気にいらないの?≠ト言うのネ。気に入らないも何も関係ないんだからサ、放っときゃいいのよ。それをサ、あたしがまるで悪いことしてるみたいに一度くらい遊びに行ってあげれば向うも喜ぶんだから≠チて、こうよオ。あんなとこ行って何が面白いのよ」
「どこなの?」
「埼玉」
「埼玉ア、あんたそんなド田舎にあたし引ッ張ってこうって言うのオ、土曜日にイ」
「しょうがないでしょオ、住んでんだからア」
「住んでるったってねえ、今日なんか向うから態《わざわざ》原宿までやって来《く》んのよオ、ヤングはア。あたしに埼玉の若者人口増やす手伝いしろってのオ」
「あたしだって行きたくないんだよオ、でも一回だけでも行ってあげれば済むことなんだから≠チてしつこく言うからサア。御馳走《ごちそう》するって」
「そんな月並なことされる為に大東京縦断するバカもないと思うわ」
「そうよオ、可哀想なんだから、あたしは。なんだったらお友だちと行けば≠チて。だからあんたも行くの」
「あたしは何だったら≠ネのオ」
「新婚家庭に一人で行くのも気恥かしいんだろ≠チて父親の御託宣よ」
「あんたのお父さんも随分気がきいたこと考えてくれるわねえ。本当に大人って何考えてんのかしら」
「あたしサア、とてもじゃないけどダイナマイトでも持たなきゃ、一人で行けないよオ。ねえ玲奈ア、女と見こんで頼むから。他人のだったらいくらだって暴れられるけどサア」
「女ねえ……」
本当に女ってのはこうなんだから、ロクな話来ないのよねえ、今から結婚のこと考えたくなんかないわよオ。
「あんまりゾッとした話じゃないなア」
「ウーン、だからサア」
「ア、榊原さん、キミ文化祭のことで残っててくれるんだろう?」
いくら人がゾッとしない話してるからってなんだって西窪が出て来なくちゃなんないのよ。ますますゾッとしないわ。
「今日何があんの、西窪クン?」
「だからディスコやる相談サ。君なんか結構ディスコに詳しい方なんじゃないの?」
「なアにイ、玲奈ア、あんたのクラス、文化祭でディスコやんのオ」
「そうだって」
「いいわねえ、あんたのクラスならオカマダンスやるのに不自由しないもんねえ」
「ひょっとして、木川田のこと言ってんの? 牧村さん」
「そうよ」
「僕だって結構うまいんだぜえ」
「じゃ踊ってみなさいよ」
「いいよ、ねえ榊原さんも踊んない? 割といけそうじゃない」
「あたしイ?」
あたしはネ、慎重なんだってあんたが言ったでしょ。慎重な女はディスコのことなんか知らないのッ! 一体サ、なんだって文化祭でディスコなんかやんなきゃなんないのよネエ。本当にやりたきゃ、そんなセコイもん自分とこでこさえなくたって本物のディスコ行くわよ。どうせネ、今なんかマラソンだって自分|家《ち》でやるんだからいいんだろうけどサ。
それにしても西窪って男はどうしてこう下手クソなのに平気で腰が振れるのかしら。一般人が今更オカマの真似したって、本性さらけ出してみっともないだけでしょオ。本物のオカマなんかいつまでもこんなとこでグズグズしてないで、サッサと当番さぼってどっか遊びに行っちゃったじゃないよ。あたしも早いとこ消えるわ。
「西窪クン。西窪クン!」
「イチ、ニイ……どう? 結構決ってんだろ?」
「あたし悪いけど今日用事あんの。第一あたしディスコのことなんか詳しくないわよ」
「ヘエー、キミって意外と保守的なんだな」
! エェエェエェ、そうよオ、あたしはもうサア、鉄の処女よッ! 何《なん》も知らんと。
「久美! 行くよッ、埼玉にッ!」
「あたしは保守的な人間と友達でよかったと思うわ、つくづく」
「土曜日に埼玉行っちゃうなんて目を覆《おお》うばかりにシブイわよねえ」
「そうよ、反動もここまでくれば前衛よ」
「じゃ西窪クン、また決ったら、あたしも手伝うから、教えてネ」
「ウン、君ならイイセン行くと思うんだ」
そうよそうよ、嬉しいわ、あんたに賞められて。一般人同士集って精々ナウにやって欲しいわッ!
「で、どうすんの、久美? 保守的な人間としては?」
「行くのよ、二時間かけて」
「二時間! こっからア?」
「ウン」
「止めてよオ、あたし餓死するわア」
「だから御馳走が待ってるのッ!」
「御馳走ねえ……よく平気ねえ、あんた」
「しょうがないでしょオ、敵は毎《まい》ン日《ち》やってんだからッ!」
2
「何だって?」
「ウン? 車で送ってやろうかってサ」
「いいわよオ、もう」
「だから断って来たよ」
「あんたバス停までの道、覚えてる?」
「分るでしょ、大体」
「こんな同じ家ばっかりだと、だらだらしてるだけで距離感が全然つかめないのよネ。何も家建ててまで団地の真似することないと思うの」
「どうせ自分の家しか目に入んないんだから人ン家《ち》がどんな恰好してるかなんて分んないのよ。アーア、ホントに参った。ごめんネ玲奈」
「いいよ、あたしもマア、いい経験させて貰ったから。あんた煙草持ってんでしょ、久美」
「ブンタでよきゃあるよ」
「一本頂戴、セブンスターでもなんでもいいから」
「そうネ、煙草でも吸わなきゃ立ち上れないもんネ、ちょっと待ってネ。ハイヨ玲奈」
「サンキュー。フーッ、やっと人間らしくなった。もう堂々と歩いてやるもんねえ、咥《くわ》え煙草で。挑発でもしなきゃ歩けないじゃない、建売住宅街なんておぞましいとこは」
「本当に、何にもなくてただ家だけ並んでるって不気味よねえ」
「そうよオ、考えてみればサ、団地なんかよく出来てるわよ。一|旦《たん》扉を閉めちゃえば外から全然見えないでしょう、まだ羞恥心《しゆうちしん》があると思うの。ねえ、見てえ、あのオッサン。パイプ咥えてクラブ振ってるわよオ、臆面もなくよくやれるわねえ」
「日本の男って、パイプ咥えた途端、元貧乏人て感じになるのどうしてかねえ」
「団地の庭でゴルフの練習してる人間なんてまだオズオズしてて、頑張って見栄張ってるな≠チて可愛くなるけどサア、ここのは、ただみっともないだけだもんネ」
「女房が家に入れてくんないんだよ、だから庭でウロウロしてんの、決ってるよ」
「だったら久美サア、こんなにだだっ広いんだから精々散歩でもすりゃいいじゃないよ」
「やっぱりそれはさすがに恥かしいんじゃないのオ」
「恥かしいったってねえ、相手は大人なのよオ、現実に目を向けるべきだわ」
「だってサア、玲奈、それは可哀想よオ。現実に目エ向けたら即ローンだもん、羞恥心まで手がまわりっこないよ」
「そりゃ羞恥心だけならサ、自分のことだからいいわよ。でもサ、いちいち人の希望まで踏んづけていくのよオ。そんな風に生きてっていいのかしら、少しは子供の事も考えて欲しいわ」
「やアねえ、子供の事考えるとアアなるんじゃないよオ」
「そうかあ、ねえ久美、あんたっ家《ち》ってそんなに金持ちだったの? 紙問屋ってボロ儲けしてんのねえ」
「冗談じゃないわよオ、あんなペエペエ。あたしがケント紙くすねるので精一杯よ。そんでも建売りなんか買ったからサ、幾ら出したの?≠チて親父に聞いたのよネ、そしたら心配するな、お前の時もチャンとしてやるから≠ネんて見当外れの事言ってお終い。娘の質問に答えちゃいけないと思ってんのかしら?」
「娘に科学する心があるなんて思ってみたことないのよ。多分論理の構造が違ってんだわ、アッチとコッチとで」
「いいけどサア、でもトチ狂ってこんなド田舎に住まわされたらかなわないよ」
「でも結婚したらみんなここなんでしょオ、それも金持ちだった場合にサ」
「姥《うば》捨て山じゃないよオ、哀しいわネ」
「姥捨て山なら完全に田舎だからいいけど、ここなんか田舎の癖にぜんぜん田舎臭くないのよオ。乙にすましちゃってサ、見栄張るなら徹底して見栄張って欲しいわ。丸見えだって分んないのかしら」
「見せたいんでしょ、精々」
「やアネ」
「落ち着かないのよネ、なんかこう真ッ平《たい》らだとサ」
「ホント、空が広いってば広いけどサ、そういうのとも違うのネ、なんか上に載《の》っけたって感じネ、ドンと」
「空が?」
「ウン、何ていうのかなア、ホラ、フルーツゼリーあるでしょ、それも果物のカスだけ入れたって感じの。パイナップルやミカン入れたはいいけどみんな下に溜っちゃって上の方モロにゼラチンの塊《かたま》りだけってヤツ。空っていうよりはゼラチンの塊りが建売りの上にドテッと乗ってるって感じよ、ここは」
「今は空も黄色いしネ、ペパーミントなんて洒落《しやれ》たもん入れなかったんだな」
「そうそう」
「あそこの赤い屋根の建売りはサクランボか」
「そんなにいいもん?」
「そうか、じゃア……パパイア!」
「やアねえ、そんな恐ろしいこと言わないでよオ」
「ウッウッ、パパイアの庭にブラジャー干してあるウ。なんだって早いとこ仕舞わないのオ」
「なんかの飾りよオ、あれは。だってあのブラが一番ワイセツじゃないもん、あの家で。それとも下着泥棒に来て欲しいのかな……ネエ、久美、ネエッ、ネエッ、イヤッ、言えないわ、とてもじゃないけど言えない」
「何よ?」
「イヤッ、でも言っちゃう。パパイアじゃないわよ、ここら辺の家は。マンゴオよ、マンゴオ」
「ギャーッ、玲奈ッ、イヤッ! ヤアラシイ、ヤアラシイイッ、来ないでッ! このスケベ女!」
「やアねえ、違うわよオ」
「何が違うのよオ」
「こないだ辞書引いたら出てたんだもん」
「何の辞書よオ、どうせ『愛欲淫乱事典』かなんかでしょオ」
「違うわよ、ちゃんと普通の辞書引いたら出てたもん、菴摩羅《あんまら》≠チて」
「ヤアラシイイッ! やっぱり『変態事典』じゃないよ」
「違うわよッ! チャンと聞いて! 昔マンゴオのこと菴摩羅≠チて言ったの、そんで花ばっかり咲いて実がなんないことの譬《たと》えなのッ!」
「ホントにそう? フーン、菴摩羅ねエ。やっぱりそうかア、マンゴオかア、やらしいねエ」
「そうだっていってんでしょオ。ホラ、見なさいよオ、あんたが大きな声出すからあすこのオバサンが見てるじゃない」
「いいでしょオ、見せとけばア。どうせスケ番だと思ってんのよ、こっちの事」
「そうか、スケ番で行こ、スケ番で。煙草貸して久美」
「オラヨ」
「だめよ、久美イ、もっと股開いて歩かないとオ」
「こんなもん? ワギワギ、ワギワギ」
「そう。あたしは肩つっぱらかして歩くから」
「自分だけいいんだからア」
「しょうがないでしょオ、それは個性の問題なんだから。あんたがそうやるとホント迫力よオ」
「そオ? じゃ、もっとやっちゃう、ワギワギ、ワギワギ」
「ねえ? まだ見てる?」
「ウン? 見てない見てない、おびえて逃げたよ」
「根性ないわネ、どうせ後で旦那に報告すんだからしつこく見りゃいいのに」
「中で覗《のぞ》いてんのよ」
「結婚すると覗きくらいしかなくなるのかア、冗談じゃないわ」
「ねえ、バス停まだア」
「もう見えてるわよ、あすこに」
「ねえ、玲奈、駅着いたら何か食べない? せめてコーヒーでもいいから、口直しに」
「いいよ、あたし別にお腹は空いてないけどサ」
「あんたもまた律儀《りちぎ》に食べたもんねえ」
「しょうがないでしょオ、何かに集中してなきゃ間がもたないんだから」
「しかしあのロールキャベツはひどかった」
「どうしてあんなに甘ったるく出来んの?」
「知らなアい、どっかで習った通りやるとああなるんでしょう」
「トマト・ピューレってのがこの世にあるの知らないのかネ?」
「そうだよ多分、ケチャップだけで育ったんだ、あの女は」
「あんたの兄さんもタフねえ」
「いいんだよ、あんな男は、どうせ味なんか分りゃしないんだから。趣味性ゼロってのはもう顔に書いてあんだよネ」
「でも、なんか色々とお凝《こ》りになってらっしゃるんでしょ、この頃は」
「もうネ、みっともないから止めて欲しいのッ。大体ね、ワインに凝るったってサ、あんなヒドイ料理喰ってんのよオ、味なんか分る人種だと思う? ワインガブ飲みして味誤魔化してるだけじゃないよオ。もうネ、もうホントにあたしは信じらんないの」
「ああなるとお終いネ」
「そうそう、早く帰ろ、早くッ。玲奈ッ、次のバス何時?」
「エッとネ、今四時五十六分だから、もう来るよ、時間表通りならネ」
「来るもんかッ」
「そう怒んないでサ」
「これが平静でいられる? だってあんた、家《うち》帰れば、どうだった?≠チて聞かれてサ、あたし何て言えばいいのオ。気持悪かった≠チて言えばマア、この子は兄さんとられて嫉妬して≠ノなるしサ、関係ない≠チて言えばその内あんたにも分るわよ≠ノなってサ、黙ってりゃオッ、あてられたな≠諠I。冗談じゃないわッ! あたしこの件に関しては表現の自由奪われてんだからッ!」
「分った分った、ホラ、バスが来たからサ、表現の自由は坐ってやろう、ネ」
「そうしよ。ホントに疲れるわネッ!」
あたしもこう疲れるとは、思わなかった、若いのネ――当り前よ、まだ十六だもん。漠然と新婚なんかに近づくんじゃないとは思ってたけどねえ。
遠いでしょ、第一に。学校から二時間と十二分だったかな、電車に延々と揺られて、バスに乗って、着いた所が一面真ッ平らに家ばっかり並んでてさ――整然て恐いわネ――その家がどれもこれもみんな昼メロのヒロインが住んでるような家でしょう。
戸を開けると一番あたしの嫌いな平均的ジャパニーズ女が「サア見せびらかすわよ、見せびらかすわよ」って一人張り切ってるから、まずそこで挫《くじ》けるのよネ。あたしは第三者だから「あ、そうですか」って一応遠慮してると、久美もあたしに合せて遠慮してくれるの。遠慮してると感情露わにしなくていいから楽なのよネ。
それで長征≠フ感想をお愛想笑いで誤魔化すんだけど、やってるな≠チてのがお互に分っちゃうんで自分の愛想笑いに照れちゃって、「何よ、何よ」ってソファの上で肘《ひじ》の突ッつき合いなのネ。
久美の兄さんて人は妹が来ちゃったもんだから照れちゃって、「ハハハ、そうか、ハハハ、そうか」って言って、人に学校の話ばっかりさせる訳。それ聞いて嫁は――例の志津子≠諱\―「ヘエ、あたしたちの頃と全然違うのネ」と「あたしたちの時と全然変らないわ」って言って――当り前よねえ、そんなの――それで紅茶飲まされて、紅茶にレモン入れると必ずぬるくなっちゃうの何故かしら? 音楽は『白いブランコ』よ、めったに聞けないおそろしいもん聞かせて貰いながら、結婚式と新婚旅行の写真なんていうめったに見れないもん拝見させて頂いて、死ぬかと思ったわ。
あたしは全然知らない人の顔見たってはじまんないから、久美の王女様スタイルだけ見つけて仲間内でウケてると、いちいち兄さんが「どれ? ハハハハ」って同じ反応繰り返してくれるの。あたし達は一番得意の「なアにイ、これエ!」って反応を禁じられてソファの上の肉塊と化して仲良くお尻のぶつけっこしてると、必ず志津子さんが飛んで来て「これは誰それさんのなんとか」って一々水をさしてくれる訳。
挙句の果ては食事の仕度が出来るまでって、家の中案内されて、あたし達が狭い廊下でお揃いのスリッパ履いてオズオズ覗き込んでる所を知らない人が見たら、初めて連れ込みにやって来た世間知らずのレズビアンが番頭に案内されてる所と間違えるに決ってると思って、ゾッとしたわ。
兄さんて人は、前に会った時はもう少し素敵な人だったような気がしたんだけど、結局「よッ、来たのか」以外には何も言わない方がいい人なんだなって分ったの。
だってあたしたちにお風呂場まで見せちゃうのよオ。刑法一七五条が日本にあるの知らないのかしらア。照れ笑いですむんなら明日っからポルノは解禁になってるわよオ。それでもさすがにその照れ≠ェ何故《なにゆえ》に起るのかに気がついて、「実は僕達新婚に見えるかもしれないけど本当はやってないんだ」なんて滅茶苦茶な誤魔化し方を多分考えたんだと思うの、あたしたち庭に引ッ張り出されたから。
庭ったって、四畳半のあたしの部屋の半分ぐらいだけど、そこで自分は「アーア」って伸びをして――あたしたちに疲れてる≠ネんてとこ見せちゃっていいのかしらア――あたしたちも仲良く敷居に腰を下して日光消毒したわ。
そしたら食事の仕度をしてた筈の志津子さんが飛んで来て、「サダオちゃん、椅子《いす》見せてあげなさいよ」って言って――サダオちゃん≠チて言うのよ。久美は戸籍にまで文句つけらんないでしょッ≠チて果敢《はか》ない抵抗したけど――自分で庭の隅からペンキで赤く塗った木の椅子引ッ張り出して来て、「二人で塗ったのよオ」ってわざわざペンキ屋のいない不自由さを「可愛いい」って言葉に置き換えて教えてくれたわ。
あたし達は「へーッ」って言って――もっとも二人でニュアンスは微妙に違ったけど――サダオちゃんも「ヘヘッ」って言って、久美は人間がこんなにも簡単な文字で意思の疎通がはかれることに感動して、あたしはこんな独創的なことをする夫婦は日本に二組とないだろうと驚きの表情をして、日本の将来に思いを馳せたわ。
だから「泊ってったら」って恐ろしい言葉を、「家で心配しますから」って振り切って出て来た時――あたしはこの一言の為に付いて来たようなもんよ――疲労|困憊《こんぱい》の極だったわ、分って欲しい、ホントに。
あたし達はバスの一番後ろの席でグターッとして言論の自由を取り戻そうとし始めたんだけど、バスの騒音に打ち勝つような声なんか出すとあの家の有様がまざまざと目の前に迫って来て悪酔いしそうになるのネ、止めたわ。あたしたち理性があるから。
それでバス降りてどっか喫茶店行こうって探したんだけど、土曜の夕方なんかどこ行ったって、あたしたちの言論の自由封じてやろうってアベックで満員でしょ。しまいにはあたしたち汚れ物で一杯の洗濯機に投げ込まれた花柄パンティみたいな気がして来て、人目も憚《はばか》らず「帰ろうかア」って大ッぴらにレズビアンごっこしちゃった。あの空気の濃密さに比べればあたし達の皮下脂肪なんてどれ程でもないもんねえ。
アア、やだ、あれでまだあたしたち幼い少女に向って結婚に憧れろっていうのかしらねえ。結婚と仕事が両立するかどうかなんて暇なこと考える前にサ、結婚と恋愛が両立するかどうか考えて欲しいわ、前途ある少女たちの為に。あれが不純異性交遊でなかったら何よねえ。
ようやく帰り着いて、久美は「ありがと」と「ごめんネ」を交替にして帰ってった。あの子も大変だと思う、ホント。
それでもあたしはまだ関係ないからよかったと思って帰って来たの。そしたら家にもその後の志津子さん≠ト人がいて、御丁寧にもロールキャベツで迎えてくれたわ。今日なんか日本中どこでもケチャップ潰けよオ、やんなっちゃうわ。
本当の話、これでよく結婚なんか出来るわよねえ。
3
その日――次の週の日曜日ネ、あたしは『デモシカ・ハウス』にいたの。
だって天気がよかったんだもん。秋でサ、昼下りでサ、お日様が燦々《SUNSUN》と輝いててサ、そんで高校二年生の女の子だったりしたらサ、やっぱりスニーカー引っかけてブラブラ歩いたりしなきゃいけないと思うの。
だってそんなこともしなきゃ一生ロマンチシズムに見放されちゃうわ。
だってさア、日曜日にサア、スカートにブラシかけて学校なんか行きたくないんですもん。ウチの学校、今日文化祭なのよ。今頃埃臭い娘と脂ッぽい男がワックス塗った廊下ゾロゾロと歩いてるわ。
団地の家《うち》のベランダで近所の小学校が運動会の花火上げてるの見て、高校と似たようなことやってるなと思って、行くの止めたの。
一応出席だってとるんだけどサ、いいわ。ホントに教師ってヘンな趣味してるのよねえ、出席とるのだけが楽しみなんだから。しかもいつとると思う? 今日なんて夕方よオ、だって校庭でフォーク・ダンス踊らされるんだもん、ファイア・ストーム≠ニか言って。あれサア、本当に牧場で出荷する牛の数数えてるみたいでヤなのよねえ。きっとあんなみっともないことさせられるのウチの高校だけよ、都立だって他の都立はそんなことさせないと思う。ヤアよネ本当にウチの学校なんて。
だからサ、別に粋《いき》がった訳でもないんだけど、あたしはそんな事考えながら眠たくなるような町ン中歩いて、ここにやって来た訳。『デモシカ・ハウス』っていうのは白木の板張りの喫茶店で、出来たての頃は西《ウエスト・》海岸《コースト》がやって来たって感じに少しときめいてて、今はその汚れ具合もかなりに現実の日本風≠ノ落ちついたから、あたしにとっては普通のお店なの。
あたしがここへ来た時は男の客が二人ぐらいいてマンガ読んでたから、喫茶店で時間潰すのだけが人生じゃないとは思いつつも人生がやって来るのを待ってるだけの人間ているなアと思って、少しは共感したんだけど、今は客もあたしだけ。あたしと、マスターね。マスターはあたしの一つ隣りの席に坐って、二人でカウンターによっかかってはビリー・ホリディなんか聞いてるの。
マスターはやせて背の高いちょっと素敵な人。ちょっと≠ネんてカマトト染《じ》みた言い方するのはいやなんだけど、でもはっきり素敵≠ネんて言い切ったりするとあたしの全てが露呈しちゃうでしょう。そんなのとっても恥かしいから、やっぱりちょっと≠セわ。そこら辺の感じの、人。
それでエ、こういう時に男と女が何とはなしに何とはなくしてると、やっぱり何とはなしに何とはなくなったりしちゃうでしょ? しないかな?
「ねえマスター、日曜って大概、暇?」
「そうだな、暇だな」
「だとすると日曜なんか皆どこ行くのかな?」
「それは君の方が詳しいだろ、君はまだ現役なんだから」
「マスター、現役じゃないの?」
「結婚してこうやって店やってるんだから、もう現役でもないだろう」
「そうなのオ? だってニューファミリーなんていうじゃない」
「ハッハッハッ、違うからこそこうやって店番してるんじゃないか」
「奥さんなんか、文句いわない? 日曜まで働いてて?」
「彼女も今日は仕事」
「あれエ、奥さん働いてんの?」
「一応ネ、店も軌道にのったから」
「軌道にのるって、客がこないってことでしょう」
「そうなんだよ、もうすぐ潰《つぶ》れるからな此処《ここ》は、その時の為に女房を働かしてんだ」
「何やってんの?」
「彼女?」
「ウン」
「前にやってた雑誌の編集をネ、少し手伝ってくれって頼まれてやってる訳サ」
「フーン、いいなア。どんな雑誌?」
「一応PR誌なんだけどな、ナウだぞ」
「ホントオ、じゃひょっとして奥さんの方はまだ現役の人だったりするんでしょ?」
「大現役だよ、亭主の方はその代り引退しちゃったけどな」
「フーン、似たようなもんネ、あたしと」
「まだ若いじゃないか」
「若くても引退しちゃうの」
「この頃の人間も大変なんだなア」
「そうよオ、大変なのよオ、今日なんかサ、ウチの高校文化祭でサア」
「さぼったのか?」
「そう、ああいうのはもう若い人に任せるの、マスターだって引退したんでしょう」
「俺は隠居だ」
「じゃあたしは茶飲み友達。オジイサン、お水頂戴」
「ハイよ、バアサン」
いつの間にか布団《ふとん》屋のビルの二階にある『デモシカ・ハウス』は養老院になって、あたしたち老人コンビは年相応に窓の外のパチンコ屋の埃かぶったネオンをぼんやり見てたわ。
あたしとマスターの間の席には幻の奥さんがいて、マスターの喫いさしの煙草の煙が灰皿の上で揺れてたの。
マスターの奥さんて人は――勿論マスターも素敵なんだけど、もっと素敵な人なの。マスターと大体同い年くらいで、二十七八だと思うんだけどとってもそんな歳には見えなくて、いるでしょ? お化粧してるって感じさせないんだけど時々スッゴク魅力的に見えるの、何故かなって思ってよく見ると口紅がピシッと決ってたりしてて、それで洋服だけとってみると、いるんだかいないんだか分からないぐらい目立たないんだけど、でも一番お洒落だってスグ分っちゃう人。いっつも普通にしててサ、その癖スッゴク女らしいの。
前はよくお店に出てて、あたしはいいなアと思って秘かに憧れてたの。笑う時なんかいつも一瞬キョトンとしてから笑ったりして、可愛いいのよ。やっぱりあたし嫉妬しちゃうわア、そういう人には。
「ねえマスター、この煙草喫ってもいい?」
「いいのか?」
「いいの」
いいのか?≠ヘ当然高校生が≠ノ掛るの。でもいいの≠フ方は違うのよねえ。女って悪どいわア、煙草一本で男寝取った気分になっちゃうんだもん、内緒よ。
それでエ、今や、煙草の煙は二筋に、なったのでした。あたしはチラッとマスターの方眺めて、ひょっとしたら鈍いのかしら?≠ネんて思うんだけど、でも引退した人だったりすると、そこら辺の雰囲気は上手く誤魔化《ごまか》してくれるでしょう。それでやっぱり何とはなしなの。あたしも絶対大きくなったらこんな男養って生きてくんだとか言って、張り合ったりして、ね?
「何?」
「エ? ウン、なんか変ったレコードないかなと思って」
「どんな?」
「どんなんでもいいわ、変ったの」
「プロテスト・ソングなんかどうだ?」
「やだア、そんなの」
「日本の戦前のだぞ」
「余計やアよ」
「ナンセンスでも?」
「そんなヘンなのあるのオ?」
「あるある、今出してやるよ」
マスターはレジの椅子の上に乗ってレコード探し始めた。
どうせ今日なんかもう客は来ないわ。あたし勝手に決めることにする。
「どこやったかなア」
「見つかんなかったらいいよ」
「イヤ、あったんだ」
スゴイ恰好してるわア、椅子の上で片足立ちして、体なんか三十度ぐらい傾いてんだもん。引退したって男よねえ、足が長いのオ。
「危ないよオ」
「まアな」
まアな≠カゃないわよオ、だって、次の瞬間レコードの棚の方、引っこ抜いて落っこっちゃったんだもんマスター。
「危なアい、大丈夫ウ?」
こういえば大抵誰だって平気なんだけどサ、マスターは「痛え」って言ったまんま立たないの。
それであたしが「ホラ」って手を引っ張ったらあたしの方に「痛テテテテテ」って倒れかかって来たの。あたしは一瞬ダメッ!≠チて思ったわ。だって、だって嘘に決ってるでしょう、こんな時「痛い」なんてエ。
だからサア、目なんかつぶっちゃったんだけど、あたしも自意識過剰ねえ、やんなっちゃうわア、だってエ、マスター本当に足|捻挫《ねんざ》しちゃったんだもん!
あたし焦っちゃってサ、あわてて本気で心配したわ、それでマスターに肩貸してそばの席に坐らせたんだけど、やアネ、こんな時でも人間の体温て結構あったんだなア≠ネんてヘンにうっとりしちゃってサ、あたし焦って散らばったレコード拾い集めたわ。
「本当にマスター、大丈夫?」
「アア、大したことない」
大したことないって、でもかなり痛そうなのよ。マスターは「少し様子見る」って言うから、これ以上「大丈夫? 大丈夫?」って言い続けて自分のボキャブラリーの貧困さをさらけ出さないようにしたけど、あたしだってチャンと本気で心配したのよ。
それで腰屈めて床のレコード拾ってたら、あたしの目の前にヘンなもんが立ってるの。何だろ? と思ったら男でサ、よく考えてみたら、客なのよオ!
あたし焦ってこういう時何て言うんだっけって考えてたら、客はこっちの非常事態なんか無視して、マンガ持って一人で坐ってんの。あたしに一言「アメリカン」て言ってそれっきり。あたしはバイトの女の子になってしまった。
マスターは「やるやる」なんて無理したけど、とっても出来そうにないし、客はマンガさえあればソ連大使館に行ったって「アメリカン」ていいかねないバカそうな学生だったから、あたしコーヒー自分で淹《い》れちゃった。
一応心配はしたんだけど、客はマンガの方が大事らしくって、黙ってコーヒー啜《すす》ってたから、あたしはあの分ならゲンノショウコ飲ませても分んなかったなと思って悠然と伝票切ってやったわ。
「どうする、マスター? 救急車呼ぼうか?」
「オーバーだよ」
「じゃ、お医者さんは?」
「日曜休みだろ」
「ア、そうか、じゃ奥さん――アレ、出かけてんだっけ?」
「グラビアの撮影があるって言ってたからな」
「じゃ、どうすんの? ア、それからお店よ。どうする? 閉める? なんならあたしがやってもいいけど」
「ここ当分、客には来て欲しいからな、そいつはヤバいよ」
「じゃ、あの人帰ったらお店閉める、ネ」
「悪いな」
「いいわよ」
それであたしは、営業中≠フ札ひっくり返して、いかにも女主人だって顔してレジの所で頑張ってたわ。
人が早く金払えって待ってるのにサ、長ッ尻《ちり》なの、その客は。絶対に喫茶店でマンガ見る事だけが人生だと思ってるんだなと思って、改めてバカにしちゃった。本当は人の事なんか全然言えた義理じゃないんだけど、今やあたしは喫茶店の女主人だから平気で言っちゃうの。
それでやっと金置いて帰ってったんだけど、レジ閉める時って本当にいい音するのよねえ。あたしヒトゴトながら「金が貯る!」と思って、つくづく喫茶店てイイ商売だなと思ったわ。高校の文化祭笑えないわネ。
それからあたしたちはどうしたかっていうと、まず帰らなきゃなんないでしょう。だから帰ったわよ。マスターはびっこひいて、あたしはそれに肩貸して。
不倫の関係って素敵よねえ、だってマスターはあたしのことギュッと抱いてんだけど、いやらしい感じがしないのよネ。あたしは女じゃなくてもいいような気になってうっとりしたわ。盲目のオイディプスの手を引く『アポロンの地獄』の少年みたいに。
そうやって、ゆっくりゆっくりビルの階段を降りてったんだけど、現実ってイヤミなのよねえ、ホント。通りに出た途端向いのパチンコ屋が何始めたと思う?
「目エン無アイイ千イ鳥ノオ高アシイマアダア」なんて変な歌ボリューム一杯で流してサ、でもあたしは新妻なら見せびらかす権利はあるんだと思って、挫《くじ》けなかったわ。
4
マスターの家に着いた時――マスター『下山和樹』っていうの――あたしはやっぱり自分が貧乏人の娘!≠チて思ったの。だってえ、ずるいわア、ニューファミリーなんて本当にあるのよオ。自分たちは違うなんて言ってサ、ホントはニューファミリーだからそんなこと言えるのよねえ。
小さな木造の二階家がマスターの両親の家の庭に立ってるんだけど、ホントにどっかのグラビアなのよオ。
戸を開けると、しっとりした鼠色《グレー》の絨緞《じゆうたん》の上に普通の家具が静かに坐ってるの。いかにも可愛らし気で派手な色はどこにもなくって、その代り玄関の壁に"Kazuki & Keiko"の赤いネオンが光ってるの。結婚祝いに友達がくれたんだって。こんなあからさまに新婚なのにサア、ずるいわア、こんなにも清潔だなんてエ。
白い麻のカーテンの外じゃ午後の光りがシーンとしてて、部屋の中じゃ白い霞草《かすみそう》のドライフラワーと、コップに生けてあるマーガレットが一輪、やっぱりシーンとしてるの。マスターは靄《もや》色のグリーンのソファに足を投げ出して横になって、あたしは床の上にへたりこんで「アア、水族館だア」って、口開けて見てたわ。
あたしはやっぱり少年なんかじゃないから、いくら休み休みでも男の人に肩貸して三十分も歩けばヘトヘトになる筈なんだけど、今の疲労は別だわ。
マスターの足許にもたれかかった途端全身の力が脱けて、ソファに顔をこすりつけたまんま、何故かあたしの肩に手が置かれるのを半分眠りながら期待して、待ってた。
本当にトローンとして来たあたしの前には二階へ続く階段があって、でもあたしはあそこにだけは近づきたくないな≠ニ思って、ボンヤリとただ眺めてた。
シーンとした家の中にはあたしとマスターの二人しかいなくて、マスターの和樹さんは黙ってあたしに勝手なことを考えさせてくれてた。あたしの小さな部屋≠フ中では、コップの水を吸い上げたネタマシサの花がゆっくりと開き始めてるような気がして、もしそうなら、そんなみっともない事にならない内にあたしは帰ろうって、決めたの。
その時よ、外で車が止る音がして、「ケイコサン、あんた鍵忘れたのオ。開いてるじゃないよ」って言って駝鳥《だちよう》が入って来たのは。
それはよく見ると女だったけど、でもブーツの上にギャバのパンタロン穿いてる脚だけ見ると、矢ッ張り駝鳥だったわ。でもそうネ、よくよく脚だけ見ると駝鳥というよりはモアね。『三ツ目が通る』に出て来た鳥。
『モア』だから当然知的なんだけどサ、ハハ。それが毛布みたいなシャツ・ワンピースをベージュのタートルの上に重ねて、あんなの見てると、ブラウジングってホントに大国主命《おおくにぬしのみこと》よネ。あたしは快活≠ニか活発≠チていうのは家の中でやらないで外でやるべきだと思うんだけど、でも駝鳥は野生動物だからそこの所が分んないらしくって、バッサバッサ歩くの。
「なんだア、旦那帰ってるじゃないよオ」って一声表に向って吠えてから、あたし達の方にヌッて顔を突ッ込んで来た。
見慣れないものがあった場合には、それが食べ物かどうかを一々確かめる習性が駝鳥にはあるんだろうと思って、あたしもしげしげとその顔を眺めたわ。
眺めて分ったんだけど、頬紅ってあんなに攻撃的なもんだとは思わなかったわネ、あたしは。だってスゴイ馬面で、その上ボサボサの短髪《シヨート・ヘア》だから余計顔の長さが目立つ上に目ばっかりギョロリとさせて、カサカサの肌の上に頬紅塗りたくってるでしょ。その赤い色見てるとこっちまで塗りたくられそうな気がして目がささくれだっちゃうの。
あたしの事ジッと見てる癖に、あたしが誰かである事になんかは全然気づこうともしないで、ホントに失礼だと思ったわ。だってあたしは別に家ン中で裸になって日光浴してた訳じゃないんですもん。そんなにジロジロ見られる理由なんかないわよネ。
ケイコさんは、たっぷりしたオレンジ色のスカートをベルトでキュッと結んだトレンチコートの下からのぞかせて、「どうしたの?」って、入って来た。
「どうしたの、あなた?」
「ハハ、ちょっとヘマをしたんだな、これがまた」
「ヘマって?」
「あの、マスター、足、挫《くじ》いちゃったんです」
あたしはやっと口がきけたわ。だってケイコさんが長い髪掻き上げて話すと、それだけで部屋の風通しがよくなるんですもん。
「エッと、あなたは、前よくお店に見えてたわよネ」
「エエ、あの、あたし」
「玲奈ちゃんていうんだ」
駝鳥がフーンて顔して見てた。あたしの名前、どっかヘン?
「それで挫いたって、あなたお店で何かしてたの?」
「エエ、それがマスター、レコードの棚――」
「イヤ、レコード出そうとしてサ、あそこはヤバイな。一番上の棚、壊しちゃったよ」
「もう、やアねえ、大丈夫?」
「別にどうってことなかったよな、ナ?」
「そんなことないですよオ、痛テテテテ≠チて、大変だったんですからア」
「そうでしょう。あなたいいとこ見せようなんて、ヘンな事考えたんでしょう? ネ、玲奈さん」
「サア、どうかなア、フフフフ」
共犯幻想で結ばれたあたしとマスターは、イタズラッ子の気分で、その日のちょっとしたアクシデントについて話した。ケイコさんはそれで眉間にちょっと皺を寄せて、その夫の身の案じ方≠ェあんまり素敵だったから、あたしも勝手に夫の側に入れてもらう事にしたの。だってあたしはここまでマスターの手を引いてきたんですもんね、別にそうしたって図々しくなんかないわよネ。
ケイコさんは、「ごめんなさいねエ。本当に大人のクセにねエ、重かったでしょう」って言って、そうなると今度はあたしはケイコさんの側にまわって、一緒になってマスターの事を弄んでしまったのだ。やっぱりケイコさんて、素敵だわ。
その間駝鳥は「なんだ」って顔して、一人で部屋ン中をアッチコッチ嗅ぎまわっては、「アラッ、これどうしたの? へーッ、よく見つけたわネ。アーラ、あたしンとこにも同じのがあるわ。へー、だから駄目なのよ、じゃ今度あげるわ。へー、そオオ、フーン」って一生懸命自己主張して見せてた。
ケイコさんは撮影の小道具を取りに寄っただけで、外に車は待たせてあるし、内に駝鳥は放してあるしで、かなり大変そうだったから、あたしは、マスターに関してならばケイコさんの小間使いになってもいいと思って、「任せて下さい」って言ったの。
「本当にそうして頂けると助かるんだけど、迷惑じゃない?」
「どうせ暇だから、いいですよ」
「ごめんなさいねえ、ホントにこの人子供でしょう」
「あたしも子供だから、慣れてます」
「どうかなア、危ないぞオ、旦那は若い娘と浮気したそうな顔してるぞオ」
駝鳥が首突っ込んで来た。どうして娘≠チて言葉をこんなにイヤラシク使えるのかしらア。ヤな女ねえ、改めてしげしげ見ちゃうわ、顔なんか。
「そうでしょ、カズちゃん、言いなさいよ」
カズちゃん≠セってえ! 何よオ、自分の方がよっぽど浮気したがってんじゃないよオ。マスターはニヤニヤ笑ってそれを受け入れちゃうしサ、こういう時は少し毅然としてるべきだと思うわ、男なら。
ケイコさんはフッと笑って、「荷物とってくるわ」って二階へ上ってったけど、あたしはあんな風にやさしく拒絶もできるんだなと思って感心しちゃった。あたしも真似すんだわ。
駝鳥はといえば、大人のつき合いは性的なニュアンスに満ち満ちていなければならないのだと言わんばかりに、「フーンどこよオ捻挫したの」ってマスターのこと舐《な》めまわす様に見てんの。あたしは視線てものが納豆《なつとう》と同じに糸引くものだって、その時初めて知ったわ。
「何してるんですか?」
いきなり不審訊問風にやさしく聞いてやった。
「あたし?」
今まであたしの事無視してたのをよりはっきりさせる為に、あたしの事をまじまじと眺めてくれたわ、駝鳥は。
「あたしは今何する人なんだろうねえ」
こういう言い方すると、ナウになれると思ってるんだろうか?
「一応エディターなんじゃないの」
「そうだね。そうよ、エディター」
「フーン(それが偉いの?)」
「ねえ、カズちゃん、この子高校生?」
「そうだよ。ナ?」
「ウン」
いちいちマスター経由じゃないとあたし達の話は伝わんない訳。身分が違うから。
「女子高校生なんての見たらウチの亭主が泣いて喜ぶわ、ネ、分るでしょ?」
「好きそうだもんなア、ハッハッハッ。ア、悪い悪い」
最後の言葉だけあたし向き。気ン持ち悪イ、駝鳥の亭主の顔なんかアリアリと想像出来ちゃうわ。ヤセコケて眼鏡かけてて、色なんかウス黄色くてサ、口の端なんか突拍子もない時ニヤッとさせて笑うの。ウーッ、ヤダ!
「あなたも結構少女趣味なんでしょ」
「なんだよ、急に」
大人同士の会話。
「だって相変らず柑橘《かんきつ》系じゃないよ」
「よせよオ」
マスターの髪の毛掻きまわしながら駝鳥が匂い嗅《か》いでるのオ! 目の前でよオ、オッソロシイわねえ。
「晴美さアン、すみません、見て下さるウ」
ケイコさんが二階で呼んでる。それに返事もせずに駝鳥は上ってったわ。「ねえ、あたしこないだパリでいいコロン見つけて来たからあげるわ、彼につけさせなさいよオ」って腰を振りながら。エディターて夫婦生活に指図するのが仕事なの?
「ほんとはあの人なんなの? マスター」
「但馬《たじま》さんか?」
「晴美さんて人」
「彼女はネ、元コピイ・ライターにしてスタイリスト、コーディネイターにエディターにしてファッションライターのスーパーバイザーっていう何でもやっちゃうおばさんだな」
「横文字が縦書きになると悲劇ねえ」
「ハッハッハッ、いい感覚《センス》してるよ、広告《コピイ・》文案家《ライター》になれよ、玲奈ちゃん」
「やアよ」
だってあんなに平然とブスさらけ出して、しかもナウで誤魔化してるなんてさア、そんなみっともないこと出来ないわ、あたし。
ナウならナウだっていいけど、それなら一々人に「あたしはナウなんだから尊敬しろ」って、威張り散らす必要はないと思うの。そうでしょ?
「玲奈さん、ちょっとお願い出来る?」
ケイコさんと駝鳥が荷物抱えて下りて来た。
「なんですか?」
「ちょっと若い人の感覚を教えて欲しいんだけど、あなたならどっちを選ぶ?」
どっちって?
両方ともスゴイのよオ、片一方はベタにピンクの花柄で、もう一つはまるでモンペみたいな紺の格子縞のワンピースなの。それも超《ちよう》・弩《ど》ビッグでさア。こないだ久美と二人で『アンアン』かなんか見てたら丁度載ってて、「今更こんなの着て町歩いたらカマトトの化物ンだよねえ」「いるねえ」って罵《ののし》ってたのと同じヤツなんだもん。
「どっちもあたし好きじゃないなア」
「アラ困ったわネ」
「こちらとしては、もう少し自由になって貰いたいんだな、若い子には。ちょっと着て見て」
そう言うなり、駝鳥はあたしにワンピースかぶせて、「いいじゃなアい」よ。鏡の中にはフランスの田舎娘の恰好させられたモンゴロイドが不貞腐《ふてくさ》れて立ってるの。どうしてこれが自由≠ネの? そんなこといったら、フランスの田舎娘はみんな自由になっちゃうじゃないよ。
「しかし、もう一つ……ケイコさん、ショールあったでしょ」
「どっち?」
「紫」
「ピンクと紫じゃ大胆過ぎない?」
「それくらいの冒険はして貰いましょう」
誰の為に?
あたしはその上に何だかんだ巻きつけられて、第一、下には自分のセーターとコットン・パンツ穿いてるのよオ。駝鳥よりまだひどいわ。おまけにあたしの髪の毛つかまえて、
「この頭なんとかならないかなア」
「あたしはモデルなんかじゃありません!」
「あ、そうか」
「第一あたしの友だちは、誰もこんなヘンな恰好しませんよ」
あたしがそういった時の駝鳥のバカにしようったら、なかったわ。「だって、あんたの友達って、所詮高校生≠ナしょ。コオコオセイ」って、見え見えの顔してるの。
そりゃあたしは如何にも高校生≠チて恰好してるわよ、今は。でも何もあたしは今日モデルのオーディションを受ける為に外に出て来たんじゃないもん。普通に外歩きたかったから、外歩くような恰好して出て来ただけだもん。あなたに関係ないじゃないよ。
「だからあたしとしては精々冒険をして貰いたい訳よ。若いうちからそう硬直することないじゃない」
「別に関係ないと思いますよ、洋服なんか。第一こんなもんどこで着るんですか?」
「どこだって好きな所で着るのよ、当然でしょ。臆病になってたらファッションなんか意味ないわよ」
「町ン中でこんなの着てたらバカだと思われるだけだわ」
つい言っちゃってから、しまったと思った。だってここでそんな事はっきり言ったら、あたしは本当に我が強くてファッションなんかが全然分んない田舎娘になっちゃうんですもん。あたしは駝鳥にならとも角、ケイコさんにまで垢抜けのしない娘だなんて思われたくないから、ケイコさんの方見たんだけど、ケイコさんはマスターと何か話してて別にこっちの話は聞いてなかったみたい。
「困った困った、若い子がこれじゃホントに困っちゃう、折角あたしたちが翔《と》ぼうとしてるのに後から来る子がこれじゃ」
あんたの後になんかついてきたくないわッ!
「二人で何を揉めてるの?」
「何ネ、若い子の発想が意外と保守的なんで驚いてる所」
「晴美さんの発想はちょっと大胆だから、若い人はついてけないんじゃないの?」
ワーイ!
「そりゃあんたみたいに、流行とはすべからく超越しているべきものであるって顔の出来る人はそれでいいでしょうよ」
「ハイハイ晴美先生」
「こういう人が一番手に負えないわ」
「だってエ、晴美さんのいう通りにしてたらウチの財政が破綻しちゃうもの」
「ハイハイ、左様でございましょうともねエ。これだけ結構な生活させて頂いてて、よく言えるわねえ。カズちゃん! 彼女もっとお洒落したいって言ってるよオ」
「どうぞ御自由に、僕は別に反対してないからネ」
あたしに関係ない世界の話だわ。
「あたし、これもう脱いでもいいですか?」
「ア、ちょっと待って。ねエ、ケイコさん、こうなんだけど、どう? コレだと如何んせんヘアがアンバランスだけど、感じいいでしょ?」
コレ≠ニいうのが、あたしです。あたしは駝鳥に肩を把まれて、ケイコさんの前に向き直させられた。ケイコさんはあたしの恰好を職業的に上から下まで点検して、そうやって見られてる間、あたしは恥かしくて恥かしくてどこ見ていいのか分らなかった。
だってケイコさんはスゴク当り前で、そのくせ流行なんてものよりはズッとズッと素敵な恰好してあたしの前に立ってるのよ。あたしは――ただでさえ女らしいケイコさんなんかとは勝負にならないあたしは、全然チグハグな恰好させられてジッと、その素敵な人に見られてるのよ。あたしは、「なんてみっともないんでしょう」って言われてもしょうがないと思って、でもそんなこと考えてるの見すかされたくないから、黙って自分の顔が赤くならないようにするので精一杯だったわ。
ケイコさんは駝鳥に、「いいわネ」って言って、今この家で最高の決定権を握ってるのは駝鳥なんだなって、あたしはそれ聞いてて分ったの。でも、それは飽くまでも仕事の上での話よ。そうよネ。
「じゃお嬢ちゃん、それ脱いでもいいわよ。どうもネ」
あたしはサッサと脱ぎ始めた。
「似合ってたわよ、玲奈さん。可愛かったもの」
「そうですか? (今更ケイコさんに言われてもうれしくないわ)」
「可愛いい可愛いい。その気になりゃいくらだって可愛くなれるよ、その年頃は、ねエケイコさん」
「そうよねエ」
≪ブッブーッ≫
「アレ、クラクションが鳴っておるぞ」
「大変、ここら辺駐車禁止なのよ、怒られちゃう」
「そうなの?」
≪ブッブーッ≫
「ハーイッ! 今行きまアすッ! じゃ晴美さん、あたし運べるだけ運んじゃいますから」
「ウン、そうして。あなた、エッと名前なんだっけ、いいわどうでも、その脱いだのこっちかして」
「ハイ」
「なんだ、汗かいてるじゃない。ホラ、これで拭いて。こっちには汗つけてないよネ。ヨシ。ホラホラどいてどいて、こっちは忙がしいんだから」
あたしに小さなスカーフ握らせて、駝鳥は荷物抱えて車の方に飛んでった。こんな優雅な家の中で汗かくなんてみっともない事してるの、あたし一人だわ。首筋に髪の毛がくっついて。ワンピース脱ぐ時に乱れちゃったんだ。ヘンな頭、これじゃモデルじゃなくても、威張れたもんじゃないわ。
「今日はどうもごめんなさいネ、あたし達今急ぐから、今度改めて御招待するわ。よかったらもう少し彼の相手しててくれる?」
「エエ」
駝鳥はフフフン≠ト顔してドアの所に立って、あたしとケイコさんの方見てた。ひょっとするとあたし達の後の方にいるマスターの方見てたのかもしれないけど、どっちにしろ考えてる事なんか決ってる。「どうかなア、危ないぞオ」って、また考えてるんだ、どうせ。
「一応包帯とお薬だけは出しといたんだけど、それは彼に自分でさせてネ」
「ハイ、奥様」
あたしはホントに小間使いだ。帰る機会を逃すとみっともなくなるだけなんだわ。
「行くわよ、ケイコさん」
「エエ」
「カズちゃん、そこの子にヘンな事しちゃだめよ」
「だめよ晴美さん、彼にヘンな事けしかけないで、ねエ、玲奈さん」
「エ?」
「どうぞその点は御安心を、マダム」
「そうオ、フフ、行こ行こケイコちゃん」
「やアねエ、ホントに」
あたし自分がスカーフを握りしめてるのにその時気がついた。
「これ、このスカーフ返します」
「何? アア、そんなのいいわよ、どうせいらないんだから。上げる上げる」
「貰っちゃいなさいよ玲奈さん、迷惑料よ。ネ」
「エエ」
「じゃア、またネ」
「お邪魔ッ!」て言って駝鳥とケイコさんは出てった。包帯と湿布の薬をテーブルに残して。
「ねえ、マスター、あたしみっともない?」
「そんなことないだろう」
あたしはまた床に足投げ出してソファに凭《もた》れたわ。こういう状態を、一説には不貞腐れるっていうけど。
「スゴイおばさんだろう」
「マアネ」
「でもおもしろい人だろう?」
「そオお?」
「思わないか?」
「別に。あの人、奥さんの友達?」
「俺の前いた会社の上司というか同僚というか」
「マスター、会社勤めてたの?」
「そうでもなきゃ、いきなり店は始められないサ」
「どうして辞めたの?」
「しんどくなった、からかな」
あたし、マスターの顔見たの。楽観的ってこういう顔かなって顔してたの。ひょっとすると男の人って、みんな楽観的なのかもしれないなア。そうでもなきゃ、あんな駝鳥なんかと平然とつき合ってらんないと思うもん。多分、素敵な奥さんがいて、会社なんか止めると、こんな風に楽観的になれるんだよネ。要するに奥さん以外の女性なんか、どうでもいいんだわ。
あたしにしてみりゃおもしろくないけど、やっぱりマスターも、普通の人なのよネ、つまんないの。そんな事考えてたら急にマスターの腕がひゅるひゅるって伸びて来て、大きな手の平であたしの頭を抱えたの。
「ああいうタイプは好きじゃないか?」
あたしはああいうタイプ≠こういう≠チて聞き違えて、キスされるんじゃないかと、おびえたわ。マスターはフフッ≠ト笑って手を離すと、体をよじって靴下を脱ごうとして、あたしは黙ってそれを見てた。
「悪いけど玲奈ちゃん、薬取ってくれないかな」
あたしは立って薬を取ると、マスターの靴下を見てた。白いソックスだけど、あたしのセーターの脇の下と同じで薄汚れた毛玉が出来てる。
「手伝おうか?」
「じゃ、そうして貰おうかな」ってマスターは笑ったけど、あたしはこの笑いがどっかで見たことあるような気がして、ゾッとした。駝鳥と一緒に「好きそうだもんな」って言った時と同じ笑いよ。あたしなんかも、どうでもいい存在よ。それは分ってるわ。でもどうして、どうでもいいような人間相手にする時って、こんなに薄気味悪くなっちゃうの?
別にマスターは引退≠オた訳じゃないんだ、ただの曖昧な中年なのよ。この家に着いてからマスターはちょっと変ったような気がしたけど、この人中年になっただけなんだわ。なんだか知らないけど、この家も妙にネバネバするの、初めはあんなにウットリしてたんだけど。あたし気味が悪いわ。
「あれエ、誰か来たみたい……見て来るネ」
「アア」
あたし袋に入った湿布の薬持ったまま玄関に飛んでったの、ケイコさんだったらいいなと思って。でも違った、代りにすごく上品そうな人が立ってた。
「どなた……」
「あら、あなたが圭子さんの言ってた何とかさんネ、チョッとごめんなさい、うっかり名前を忘れちゃって。……アラ、和樹さんだめよ。乱暴ねえ、無茶するからよ。見せてごらんなさい、だめだめ、骨にひびでも入ってたらどうするの。ここは? 痛くない? ここは? ……」
あたし、見たわ。どうしてそんなこと忘れてたのかと思ってバカみたいになって、見てたわ。三十にもなろうとする男の脚に臑毛《すねげ》が生えてないなんてどうして思えたのかしら? 細い脚に黒い毛がびっしり生えてて、それをお母さんの白い指が撫でてるの。ふくらはぎが生き物みたいに動いて、指で押すとそこだけ白くなるの。不気味だったわ。
あたしは頭を上げて見なかったから分らないけど、でも多分この家の天井のどこかにはウッスラと照れ≠ニいう文字が浮んでるだろうってことは感じで分って、それでマスターもこっち向いて笑ってたわ。
多分この人は何見てもヘラヘラ笑ってるんだろうなって、白痴の笑いを浮べて。
あたしは心底気持が悪くなって、「さよなら」を言ったの。
5
ドアの外でキチンとスニーカーを履《は》き直して紐《ひも》を結んでると、マスターのお母さんの声が聞こえてきた。
「どうしてあなたはいつまでたっても非常識なのかしらねえ、あまり圭子さんを困らせないようにして頂戴。帰って来たらあなたは怪我《けが》してる、そばには知らないお嬢さんがチョコンと坐ってるじゃ、圭子さんもびっくりするじゃありませんか。何もわざわざ関係のない方に御迷惑をかけなくても家に一言電話を入れれば済むことでしょうに。明日木下先生に一応見て頂きなさいよ、ハイ。……マアマアいつもよく片付いて、圭子さんも大変だわ……」
あたしはしっかりと靴紐を結び終えて、一歩ずつ歩き出した。よかった、歩けて。こんな所で靴が脱げて転んだりしたらみっともないだけだもの。
あの家じゃ、誰も関係ないのよ。あたし一人関係ないんじゃないわ。あの人にとってはみんなどうでもいいんですもん。喫茶店と同じなのよ。あたし一人関係ないからって、オドオドする事なんかなかったんだわ。
あたしはヘンにでしゃばって、駝鳥と同じにされちゃうのを恐れてたけど、でもあの家じゃ何したっていいんだわ、どうせ何も起りっこないんだから。いくら母親がいたって、植物人間相手じゃ近親相姦にもならないんだから。
あんな人と結婚してどうするんだろうと思う。多分なんでも、どうでもよくってサ、それでも自分の事だけは一応キチンとしてるから、見た目には素敵に見えてサ、でも他人の事なんかみんなどうでもいいんだ。
どうでもよくない事は圭子さんが一人でみんな片付けちゃってサ、圭子さん一人いれば後はみんなどうでもいいんだ。
どうして圭子さんが素敵だったか、分ったわ。圭子さんは自分以外のものに何にも期待なんかしてなかったから素敵だったのよ。あの家があんなに綺麗に片付いてたのだって、圭子さんが「あたしのお家、あたしのお家」ってベタベタ飾り立てなかったからだし、マスターが息切らせてアクセクアクセク働かないでいられたのも圭子さんが「あたしの旦那様、あたしの旦那様」って見せびらかしたりしなかったからだろうと思うの。
あたしがヘンな恰好させられても、それは圭子さんにとって仕事だから関係ないし、駝鳥がどんな恰好してたって、それが圭子さんの趣味でなけりゃ全然どうってことないの。圭子さんは圭子さんでチャンとしてて、だからそれでこそ素敵なんだろうけど、でもあたしはそれで寂しくないのかしらって、思うの。そりゃあたしはホントの事言ってまだ子供だし、結婚してるって事がどんな事かは全然分んないけど、旦那さんがあんなに奥さんに凭れかかってちゃいけないと思うの。
あたしが女だから余計圭子さんにばっかり感情移入してるのかもしれないけど、でもあたし、圭子さんだったらあんな風に放っとかれるの、いやだわ。「君は君で好きにしろよ」って言われたら、それはそれで気楽かもしれないけど、でもそれで家に帰って来ても男の人がいなかったら、あたしはいやだわ。
あんな風に「僕はどうでもいいから、僕はどうでもいいから」なんて笑ってられるのは男じゃないわ。いざって言う時にもたれかかったらズブズブズブズブ崩れて行っちゃいそうな人、男じゃないわ。
多分男は家ン中にいると男じゃなくなっちゃうのよ。埼玉の久美のお兄さんみたいに、ベタベタ飾り立てられた家の中で照れくさそうにしてるのは、あそこにいる限り自分が男じゃなくなっちゃうって感じてるからだわ。
マスターみたいに勝手にしんどく≠ネって、勝手に引退≠オて、平気で家ン中でニヤニヤしてられるのは男じゃないからだわ。
男がいない家なんて本当にマンゴオよ。マンゴオの家だわ。だからあんなにネバネバするのよ。だから圭子さんは何でもキチンとして、何にも期待しないで、それでもやさしく微笑んでいられたんだわ。そうじゃなかったら結婚した途端、女は溶けてなくなっちゃうもの。
あたしの言う事、どっかヘン? 勝手に人ン家《ち》の中に首突っ込んでああだこうだ′セってちゃいけないのかもしれないけど、でもあたしの言ってる事そんなに間違ってないと思うの。だってそうじゃなかったら、あんな駝鳥女が大きな顔してる訳ないんだもん。
だってあんな女、どこも素敵な所ないんだもん。ブスでサ、自分勝手でサ、ちょっとでも「違う」って言えば「翔んでない!」ってきめつけてサ。あんなにヤな女が自分の家ン中に入って来たら、男は「ヤな女だな」って追い出したっていいと思うの。あんなに素敵な奥さんがいるのにその人黙らせて、その代りあんなヤな女に大きな顔させとくなんて、そんな事しちゃいけないんだわ。
男がそんなことするとバカな女はつけ上るだけなのよ。それでイイ女はひたすらどんどん疲れてくのよ。あたしはそんな男におだてられたバカな女になんかなりたくないわ。
どうして? どうしてあたしはこんな真面目なこと考えなくちゃいけないの? あたしはまだ高校生なのよ、不貞腐《ふてくさ》れてる自由も権利だってあるのよ。今日なんかサテンでゴロマイてたっていいのよ。
やアねえ、あたしもう明日っから喫茶店なんか行けなくなっちゃったわア、どうするのオ。勉強するしかなくなっちゃったじゃないよオ。そんな目茶苦茶な話ってあるのオ。
不良になるには理性があり過ぎるし、真面目になるには柔軟過ぎるし、こんな娘はどうすりゃいいの? いっそ春でも売ればいいのオ? あの泣いて喜ぶ駝鳥の亭主にイ。
いやよそんなの、おぞましい男に決ってんだから。売る側にだって客を選ぶ権利はあると思うの、いやいやいやいや、いい男じゃなかったら売らない。マスターみたいにいい男じゃなかったら売らない、? ウッソオーッ、イヤイヤイヤイヤ、あんな男嫌い、イヤーッ、ウッウッウッ、具体的にいい男じゃなかったら売らない、具体的にいい男、具体的にいい男だったら誰でもいいから連れて来てえ!
「アアイム、エニリニエイタアヤム、エニリニエイタア、ヤマイヤム」
ヘンリー八世みたいな好色漢でも男らしけりゃいいわ、古典的《クラシツク》に、もう古典的か具体的か、どっちか……?
「イモバーン」
「エニリニエイタ? 玲奈ア? あんたなにしてんのオ」
「何にもしてないわよオ、やアねえ、あんた相変らずデブねえ」
「スッゴオーイ、なアにイ、あんたア、そんな何ヵ月振りに会うような友だちに向ってそんなムゴイこと言っていい訳エ」
「いいのよオ、あたし最近デブが好きになったから」
「変態。あんた昔っから変態だったけど暫《しば》らく会わない間にますます変態ねえ、よくそれで生きてけるわよねえ」
「バカねえ、今なんかデブでなかったら変態でしか生きてけないのよオ、知らないんでしょう」
「ウチの学校じゃそんな気のきいた事教えてくんないもん」
「あんたとこみたいな私立はそんなこと教えなくてもチャンと生きてけるからいいの、生命力があるから」
「ウチの学校なんか生きてくより転がってく方よ。ホオント女子校なんか女鑑別所と全然変んないんだからア」
「いいじゃないよオ、男なんかいればロクでもないもんだけなんだから。あたし、もういっそ女拷問人グレタのセンで行きたいわ」
「あんたみたいにトウがたったの今更ぐれたってしょうがないわよオ」
「ムゴオーイ、ムゴオーイ、あんたそんなに肉ばっかつけてるから平気でムゴクなれるのよ。少し肉頂戴!」
「無料《ただ》で触んないでよオ。あんたいつからそういう趣味になったのオ。いつか言ってたでしょオ、レズビアンなんか男がいない分二倍バカになるってえ」
「昔の話でしょ、つい最近分ったんだけど、男は女がいると四倍バカになるのよ」
「じゃアあたしなんか、一人で三百メートルだわ」
「何訳の分んないこと言ってんのよ。いいんだけどサ。ネエ、それよりあんたこれからどこ行くの?」
「例によって例の如《ごと》くだったりすんだけどサ、あんた暇な訳?」
「別にそうでもないんだけど」
「よかったらおいでよって言いたいんだけどサ、今日はちょっとネ、ジョーカーの可愛いい子とサ、あるから」
「そうか」
「一緒に来たっていいけどサ、男と会ってる所にいたってしようがないだろ?」
「名言。本当そう、あんたそういう所だけガゼン本道《まつとう》ねえ」
「そういうとこだけってどういうことよ」
「いいの、全部まっとうよ」
「当然」
「あんた結婚しても、あたしに家、来い≠ネんて言わないでしょう?」
「どうしてよオ、あんた気が狂ったの? なんであたしがあの子と結婚しなきゃなんないのよオ」
「いいの、別に関係ないから」
「フーン、あんたヘンな男に引っかかった?」
「どうしてエ?」
「脳梅みたいだから」
「スッゴオーイ、失礼ねえ、それは失礼よオ。せいぜいがとこ淋しいだけだわ」
「医者紹介してやろうか?」
「冗談に決ってんでしょッ! バカ」
「なアんだ、違うのか、心配して損しちゃった」
それであたしとイモバンは級友たち――あたしたち中学ン時の同窓なの――の噂をしながら、お尻をぶつけ合って駅まで行ったわ。
「アレどうしてる?」
「知らない」
「じゃ、あのバカは?」
「知るワケないだろう」
って。あたしはピンクのコッパンで、イモバンはピンクのつなぎで、ギンギンにピンクピンクで、それこそ歩く女学生サロン≠セったけど。
駅に着いても別にどうするって気はないし、でもイモバンと一緒にいると何故か久美に会いたいなって気分になって、あたしは素直に学校へ行くことにしたの。
多分まだ久美もマンガ研究会の部室で似顔絵なんか描いてたりして、きっとあたしが行くと「来るなッ!」てやさしく迎えてくれるんじゃないかと思って。運がよければ教室で踊り狂ってる源ちゃんとコンビが組めたりするかもしれない。
先の事なんか分らないけど、でも幸か不幸か今のあたしには、男じゃなくなっちゃうかもしれないような危険な男はいない。だから一人で目一杯ツッパッたって別に寂しくなんかならないと思うの。
第一あたしには、いちいちナウねえ≠チて感心してあげなくちゃいけないような厄介な御友達はいないんだもん。それだけは感謝しちゃう。あたしにいるのは、可愛くないッ!≠チて罵《ののし》り合える素敵なイモ娘だけだわ。
どっちにしろ、夕陽に向って学校へ行くのは満更悪い気分じゃない。なにしろあたしの行く所は、さしあたり学校しかないんだから。今のうちウンと恥かいて羞恥心にだけは磨きをかけとくの、大人になってから困らないようにサ。
どうせ高校生なんだもん、フォークダンスだって目一杯踊れるわ。オカマダンスだって何だって、もしあればフライパン音頭だって踊り狂っちゃうんだわ。それで、何だってこんなことさせられなくちゃなんないのかしらねえって、みんなでせせら笑って遊ぶのよ。まわりはみんなみっともないんですもん、それぐらい平気だわ。
それでももし、もし万が一耐えらんなかったら、みんなで校舎に火をつけちゃえばすむんだわ。だって、今日なんか、校庭の真ン中に火が燃えてんだからッ!
瓜売小僧 ウリウリぼうや
―――――二年A組十一番 木川田源一
1
「あのサ、思うんだけどネ、僕。女ってやっぱり馬鹿なんじゃないの」
おうおう、磯村クン、いっちょ前に言うではないの。
「決ってんだろそんなの」
「うん、そうなんだけどネ」
「要するに磯村、お前は例の女子大のこと言いたい訳だろ」
「マアネ」
「女子大なんてみんな色キチガイだぜ」
「またア、目茶苦茶言うんだもんな木川田は。だってサア、君はアレだろ」
「俺がなんだよ?」
「あれでしょ、女にはサ、興味ないんでしょ、君は?」
また一般人はスグそういうこと言うから。
「ナこと言やアそうだけんどよオ、俺、女と寝たことだってあるもんねえ」
「またア」
「お前に嘘ついてどうすんだよ。俺の近所にいる訳、女子大が。マ、そいつは美大なんか行ってっからまた極端なのかもしんねえけどよ、言う訳、俺に」
「なんて?」
「ホラ、俺なんかサ、ヤッパ道歩いてっと目立つじゃん」
「そうだと思うよ」
「磯村、お前、俺に偏見持ってんだろ」
「持ってないよオ」
「マ、いいけどヨ、そんでその女は何つうの、自分でフランクだとか思ってんじゃないの、あんた、源ちゃんていうの? 変ってんのネ≠ニか言う訳」
「なんで君の名前知ってんの?」
「ホラ、近所のスナックなんかで俺の名前聞いたりすんじゃない。初め木川田クンかア≠ニか言ってんだけどサ、なんかそういう風に言うと自分がいかにもゴワゴワ女子大生みたくなるって感じンだろ、そんで源ちゃん≠ネんて、また年増《としま》みたく言う訳」
「フーン」
「そんで暇なら家《うち》来ない≠ニか言って、もう見え見えグッド・バーでよ、俺も暇だったりしたから行った訳、そいつの部屋へ」
「勇気あるなア」
「べエつにイ、おもしろいじゃん」
「だってそうかなア……アパートだろう」
「アパートがどうしたんだよ」
「別にどうもしないけど、そんでどうしたの、君は」
「そんで? やったよ、そんだけ」
「そんだけってエ……」
「だってあんなもんスポスポやりゃ終りだろ、どうだっつうんだよ。お前だってやったんだろ」
「エ?」
「なんだア、お前まだやってないのオ、ドーテエかア。可ア愛イ、童貞エ、童貞エ」
「止めろよなア、そんなこと言うのオ」
「だってそうだろう、童貞エ」
「違うよオ、俺エ」
「何だよ、やったのかよ?」
「マアネ」
「マアネ≠セって、ヤアラシイ。やったのオ、スケベエ、スケベエ」
「何だよオ、やだなア」
「だってやったんだろ。ヌフフフフフ、女子大なんかとやると後が怖いぞオ」
「またア」
「俺のなんかサ、終った後言う訳、煙草|咥《くわ》えて、こんな股おっぴろげてよあんたって、意外と淡白なんじゃない≠ニかナ。あったり前だよなア、俺がそんなのネチッこく好きだったらどうすんだよなア、バッカじゃねえのかア」
「だからそれはサ、君があの、アレだから」
「俺がなんだっつう訳?」
「ホラ、君はやっぱりあの、ホモだろう?」
「お前もいちいちうるせえなア、やたらホモホモ言うなよな」
「木川田も気にしてる訳、一応は?」
「あったり前だろオ!」
「そうかア、気にしてたのかア」
ホントにこいつも呑気《のんき》でいいよなア。マ、磯村なんか可愛いいだけましだけどよ。ホント、ウチのクラブの奴なんかもう目茶苦茶だぜえ、スポーツ刈りの小汚ねえ顔してよ、ブットイ声で喚《わめ》く訳、「オイ、オカマアッ!」とかよ。ホントもうたまんねえんだよな、ウチのクラブ――俺バスケなんかやってんだけどよ、どうしてあいつらあんなにクソ汚なくて平気なんだか分んねえよ。あれで先輩≠ェいなかったら俺もう絶対入んなかったぜ、あんなとこ。
俺の先輩≠チてホオント素敵なんだよな、話飛ぶけど。俺、一メートル六十三だからそんなチビって訳でもないんだけど、先輩俺よか二十センチも高くて、鼻の穴なんかスゴクカッコいいんだ。空気吸う時なんかでも先輩が吸うとホント爽やか≠チて感じになって、俺も吸いこまれそうになっちゃって。眉毛なんかキリッとしてて、そんで、マツ毛が、もうサ、コイいんだよねえ、俺ワザとふざけて「先輩、誰だ?」なんて後ろから目かくししたりすっと、先輩のマツ毛がゾワッて手に当って、俺もう、ホント……そんで入ったばっかの時なんかボール持ってても俺下手だったりするから、先輩が後ろ来て「いいか木川田」なんて、俺の手の上からボール持って、持ち方教えてくれたんだけど、指が長いんだ。冷《ひや》っとしてて、そんで俺の耳ン所で「こうだぞ、分ったか」って、あんまりやさし過ぎるから俺、ぶっ倒れそうになっちゃった。俺が高一で先輩が高二で、去年一年ズッとそうだったんだ。
そんでももう先輩三年で受験だから、今は練習にも来ないし……。
「どうかした?」
「何が?」
「ウン? 一人でボケーッとしてるからサ」
「別に」
「あのサ、僕は別にアノ、君がホモだとかって、偏見持ってないからサ」
「ワアってる、ワアってる」
別に誰も偏見なんか持ってやしねえんだよな。要するに一般人の娯楽が少ないってだけでよ、今なんかちょっとでもケツ振りゃオカマだろ、そんなこと気にして生きてけっかよなア。
大体俺がホントにホモかどうかなんて知ってんのクラスでも玲奈《れな》くらいでよ、他の奴等なんか知りやしねえんだよな――バスケの連中はパアだから別にしてもよ――そんで俺が割とそれ風だからよ、「オカマ」とかっておもしろがってんだろうけど、言われる身にもなってみろってんだよな。
ヤだったぜエ。一年ン時、マ、昔の話だけども、授業で「遺伝子」がどうたらこうたらっつうのやる訳よ、ホラ、エンドウ豆の種が丸いだ四角いだとか、オシロイ花が赤だの白だのとか、AAとかAaとかつまんないの。そんでマア、ホモ≠ニかヘテロ≠ニか、かけ合わせてどうのこうのを教師は言ってサア、そうすっとクラスのバカどもが喜ぶ訳、「ホモオッ!」とか素頓狂《すつとんきよう》な声出して。またそれをオジンが真《ま》にうけて、「何を騒いでるんだ、今は変態の話をしてるんじゃないぞ」なんつうからもう大|喝采《かつさい》よ。
「オオッ! ヘンタイイッ!!」とか言って、そうなりゃもうサ、地球はボクらのオモチャ箱だわ。そんでバカは「木川田ア、お前なんか言えよオ」なんてでけえ声出して、俺は世界のアイドルよ、ホント頭来るぜえ。教師はスットボケてると言うか、あすこまで馬鹿じゃねえとやってらんないと言うか、俺ア知んねえけんど、「何だ、質問か? 木川田」とか、もうホオオント、何考えとんのか分らんよ、あのオジンは。俺なんか健気《けなげ》だからサ、「別に何でもありません」なんて冷静に答える訳。笑い事じゃないぜ、ホント、無知はオットロシイわい。
「あのサ、僕ホモってよく分んないんだけど」
「別にお前が分んなくたっていいだろう」
「ウン、そうなんだけどネ、でもサ、あの、木川田サ、僕は何かで読んだんだけどサ、アノオ、女にサ、無理矢理やられたりすっと、ホモになるとかって、ホント?」
「何? お前やられたの?」
「エーッ、違うよオ。あのサ、ホラ、エッと例えばの話」
「フーン。割と聞くな」
「本当? ひょっとして、君もそう?」
「俺? 関係ねえよ、そんなの」
「そうかア、割とあるのかア」
「お前なら平気じゃないの」
「どうして?」
「だってお前鈍感そうじゃない」
「アーッ、どういう意味だよオ」
「そりゃサ、この世界はセンシチブな人間が多いからあれなんだけどサ、マ、俺なんかを別にして、割とどういう訳かブスイ顔したのが多い訳よ、ンナハハハハハ」
「でも松村なんかはサ、少年愛ってのは宇宙感覚だから美しくなきゃ飛翔できないとか言うぜ」
「お前も松村松村ってしつこいんだよな、俺が言ってんだぜ。あいつの顔なんだよ、人間やめて獅子舞になったって喰ってけるぜえ」
「ハハハハハハ」
「ホラ、ヤッパ、ブスイ奴ほど少年愛とかってカッコつけたがんじゃないかと思う訳、俺は」
「フーン、専門家が言うんだとそうかな」
「イエー」
「何してんの二人で?」
来ました、噂の榊原。別に何《なん》も噂してねえけどな、俺らは。
「オウ、来たかヒマ女」
「悪かったわねえ」
「よかったらここ坐る? 榊原さん」
「いいわよオ、二人が態《わざわざ》売店の蔭で逢い引きしてるとこ邪魔しちゃ悪いから」
「僕達ただ話してただけだぜ」
「そうオ、これで我が校の昼休みもなかなかだったりしてネ、フフフフ」
「何笑ってんだよ、玲奈はよオ」
「あのサア、あそこの渡り廊下ンとこにさア女の子が二人いるでしょう」
「どこ? よく分んない。いる? 木川田」
「アア」
「あの二人一年の子なんだけどサア、何話してたか知ってる?」
「分る訳ないじゃないか、なア木川田」
「玲奈は立ち聞きすんだよなア、また」
「いいわよ、だって面白いんだもん。ねえ、あそこにいる人、二年の磯村さんでしょう≠ネんて言ってサ」
「ワーッ、お前人気あるウ」
「またア」
「それでネ、磯村さんて、国広富之に似てるわね≠チて、言うのオ」
「キャハハハハハ、スンゲエ、もッてるウ」
「嘘だよオ、俺あんなイイ顔してないもん」
「お前はあれがイイ顔っつう訳エ? あんなのチットモよくないぜ、なア玲奈」
「そうオ?」
「そうだぜえ、だってあいつ見るからに自信過剰でサア、生意気じゃん」
「それで?」
「もう歳だってのにボーイ・ボーイでようやるわ」
「源ちゃんサア、あんたっていちいち美少年なんてのが出て来ると張り合うのよネ、あたしおかしくって」
「あいつが美少年て歳かよオ、ナ、磯村?」
「でも国広富之って今一番人気あんだろ」
「またア、スットレエトは駄目だよな、そういうとこで大衆と迎合すっからサア。お前も張り合わなきゃだめなのよ、女子大なんか相手にすんなら」
「ストレートって何?」
「ノン気《け》だよ」
「それ、ホモじゃないってこと?」
「そオッ! お前も几帳面だよな」
「だって知らないもん」
「それなんだけどサ、あの娘達の続きネ」
「ウン」
「そしたら相手の子がサ、言う訳、でも一緒にいる人知ってるの?≠チて」
「俺のこと?」
「ウン。それでネ、あの人、有名なオカマよオ≠チて、言うのオ」
「アァアァ、もう好きにしろや」
「そんなこと言っちゃ悪いよ、榊原さん」
「先聞いて心配すればア。それから何てったか知ってんの? あんな人と一緒に人目を忍んで昼休みに逢い引きしてんのよ、あたしは絶対磯村さんも薔薇の人だと思うわ≠セアッてサ」
「ジョ、ジョーダンじゃないよオ」
「ワーイ、磯村、お前ホモだってサア、ハハハハハハ」
「そしたらネ、そしたらネ、聞いて、今の子ってスゴイのよ。あたし磯村さんがどうあってもいいの、愛してるから≠チて」
「お前、今に親衛隊が出来んじゃないの」
「止めてくれよオ」
「ハハハハ、まるで少女マンガじゃん」
「そう、そんで相手はサ、でもあなたが許したって社会が許すかどうか分らないでしょ≠ネんて言うんだもん、もう極め付きよネ」
「社会≠セって、社会≠セってよオ、磯村、お前どうする、社会が許してくんないって、オッソロシイ、ハハハハハハ社会だって、ハハア、オッソロシイイ」
「そんなの僕と関係ないだろオ」
「イヤ、一遍噂が立つともう駄目だ。社会的に抹殺されるのじゃ」
「じゃア自分はどうなんだよオ」
「俺は有名なオカマだろ、ナ、玲奈ちゃん」
「ウン、源ちゃん学園のアイドルだもんネ」
「そう。今度サインしてやっから花束持ってこいよな磯村」
「冗談じゃないよ」
「オウ、磯村、お前ここにいたのか」
また隣り組からヤナ野郎が出張して来おった。
「エ? 何だよ、松村か。ここでお前が出てくると話がますますややこしくなんだよな」
「何? 榊原さん、こいつと何の話してたの?」
「別に」
お前は招かれざる客なのよ、松村の旦那。
「フーン、磯村、お前リーダー持ってっか?」
「あるよ」
「じゃ貸してくれよ、五限目俺達英語なんだけど、忘れちゃって、榊原さん、最近なんか本読んだ?」
「あたし? 『脱走と追跡のサンバ』かな」
「そう、あれワリといいでしょう。僕はアレ読んだよ、『薔薇日記』」
「あなたって一貫してそういうの好きネ」
「ハハハ、でもエロチシズムってのはこれからの男に残された最後の砦なんじゃないの」
「そうオ?」
「そうだよ。体制にとって一番|搦《から》め捕り難《にく》いのはエロチシズムの中の異端性だろ。マ、今の状況は異端そのものも商業主義の中でファッション化しちゃってる訳だけどサ」
なんで俺のこと見んだよ? ファッション化と俺と関係あんのか? そりゃお前とファッション化は関係ねえだろうけどよ。
「要するに社会が許さないってことでしょう、ねえ松村クン」
「社会だってよ、ハハハハハハ」
「それはサ、榊原さん、社会って言うとまた違って来てサ、今の大衆状況ってのがみる訳でサ」
「やっぱり大衆社会も許してくんないんじゃないの、磯村は」
「なんだよオ、関係ないって言ってんだろ」
「磯村、お前なんかしたの?」
「関係ないよオ」
「関係しちゃうもんねえ。オーイ、見ろオ、こいつはなア」
「違うってばアッ!」
「何だ、磯村? お前何やってんの? ネエ、榊原さん、こいつら何やってんの?」
「遊んでんでしょ、最後の砦で」
「ハハハハハハ、砦だってよオ。取手エ取手エ、次は花月園」
「バカ。榊原さんサ、筒井もいいけど、ホッケなんか読まないの君は?」
「ホッケ?」
「『迷宮としての世界』だよ、知らない? マニエリスムの本」
「松村クン、あなたって難かしい本読んでんのねエ」
「別にそんなことないよ」
でもそれが自慢だったりして。
「君、読みたかったら今度貸すよ」
それを口実に接近したかったりして。
「別にいいわ」
まんまとふられたりして。
「読むと面白いんだけどな」
そんでもしつこく懲《こ》りなかったりして。アーア、つまんねえ話してやがんの、てめえに関係ねえ話してどうすんだよなア、そんなこと言ってる間に少しゃパッチ穿《は》いて獅子舞の練習すりゃいいじゃねえかよなア。もっさりもっさり歩きやがってよオ。この頃ヘンなの多いからやり難《づら》いぜ全く。ホモをネタにして女口説いてどうすんだア、エ? そりゃサ、俺も同情すっけどサア、なんか親に愛されなかったって顔してるからスネたいの分っけどよ、他所《よそ》でスネてくれや。甘えたいのは分っけど、お前みたいなひねこびたのチットモ可愛くねえもんなア。俺こいつ包茎かと思ってたけど短小だな、小学校の四年くらいでムケちゃってサ、それっきりデカクなんないの。恐怖の鉛筆チンコじゃ、なアんちって。
大体|威張《エば》ってる男にロクなのいないの。俺もう分ってんだ。一年ン時、クラブの合宿で蓼科《たてしな》行ったんだけど、そん時のOBとか三年なんてのはひでエんだから。普段あんまり顔出さないで馴染《なじ》みがないからサ、俺らと一緒にいるとシラける訳。そんだから気イ引くつもりで、マア怒鳴ってばっかよ、いい迷惑じゃこちとらは。文武両道だっけ? そんなこと言うけど、道≠ネんかつくと威張るだけナ。どっち転んだってこちとらたまんねえよ。やっぱり男も顔、やさしい人は絶対やさしい顔してんだから、ねえエ先輩。
アーア、つまんねえの、センパアーイ、俺つまんないよオ。
「昼休みあと三分だぜ、松村」
「オ、なら磯村、早くリーダー貸せよ」
「教室行かなきゃある訳ないだろ」
「オ、じゃ教室行こうぜ早く、榊原さん、行こうよ」
お前は誰の教室行くんだよ、モッサリ男。
「源ちゃんホラ、ボーッとしてないで行こう」
「アア」
「ねえ源ちゃん、あんたこの頃滝上クンとこ、あんまり行かないでしょ?」
「アア」
「何かまずいことでもあったの?」
「そんなもう、先輩受験だってのに甘えてばっかいらんないだろ」
「フーン、そうかア、気イ使ってんのネ」
「当り前だろ、だって――」
「あのオ、木川田、さん?」
アン?
「あのう、僕ウ……」
「玲奈、お前先行ってろよ」
「ウン、じゃアネ」
なんじゃ、こいつは?
「何か用かよ、ボウヤ」
「あのオ、僕、ズッと木川田さんのこと、あの尊敬してるから、だからこれ、エッと」
「読めっつう訳?」
「そう。さいならッ」
なんだありゃ? マアいっちょ前に字なんか書いて……エッ? エッ! なんだこりゃア!? 恋文じゃねえかよオ! アーア、こんなもん貰っちゃもうトシだよなア。来年俺十八だしサア。先輩がいけないんだよなア、構ってくんないからア。だからあんなガキにこんなの押ッつけられんだよなア、アーアもうおしまいだぜえ。
2
ホント、この頃の若い奴って、やること目茶苦茶でサア、訳分んねえよ。例のガキ――一年の――井関純也なんて生意気な名前つけて、「僕も木川田さんのような自由な生き方がしたいのです。どうぞ僕に力を貸して下さい」なんて書いてあっからサア、俺も昔思い出してその気になるじゃん。俺だって昔は――今だってそうなんだぜ、本当は――初心《うぶ》だったからそういう話聞きゃア、ジーンとなんだけどサ、全然違うんだ、ホント。
「もうこんな意気地のない僕はイヤなんです」なんて書いてありゃ、少しは前向きに生きる気ってもんがあんのかと誰だって思うじゃん。それがいつも周りに人がいない時だけニョロッて出て来て、「木川田さアん」つっておネエ丸出しで笑う訳。本人は寂し気な笑いのつもりなんだろうけどよ、どう見てもムチウチ症の狐がひきつけおこしてナメクジなめてるみたいにしか見えねんだよな。俺なんか「お前よくオカマ丸出しで恥かしくねえな」って言うんだけどサ、「だってええ」なんつってイヤイヤ専門よ。そんだから俺もいい加減ウットオしくなってサ、「もう来んな」って言っちゃう訳よ。
そうすっと次の日、俺が昼休み一人でボケーッとしてっ時、女連れてやって来てサ、人の前ウロチョロウロチョロして、見せびらかしてるつもりなんだろ。そんで帰りに校門とこに隠れてて、「木川田さアん」なんかやる訳。気色悪くって、なんかサア、その初々《ういうい》しさっつうの? そういうのがないんだよな。だから俺はそういうのは二丁目″sってやれってんだけどサ、「だってえ、こわいんだもん、ねえ、一緒に行ってえ」とかネチッこく言う訳。俺あんなのと一緒にされちゃたまんねえよオ! 俺ン時なんか全然違ったぜえ。
そりゃアサ、先輩はノン気で俺ア一応ホモだけんどもよ、やっぱり恋愛ってもんはもっと崇高なもんだろ。俺とだったらいつでもやれる≠ネんて感じでベトベトされちゃたまんねえよオ。俺なんか先輩と一年半も付き合ってっけどそんなヤラシクしたことなんか一遍もないぜえ。いつだって先輩の迷惑になんないようにチャンと考えてんだから。
昼休みに先輩の教室に遊びに行ったってサ、それは飽くまでもクラブの後輩として行ってんでサ――他の奴が何言ってんのか知らねえけどよオ、俺はチャンとそうしてんだもんネ。先輩はそんなこと全然気にしてないけど――だから僕は好きなんだ――俺はサ、やっぱり思う訳、いかにもオカマオカマしたのが毎ン日《ち》やって来りゃ、面と向っては言わないかもしれないけど、周りの奴は多分蔭でなんか言うだろうとかサ。だから俺は先輩の教室で一遍もべたついたことなんかないもんねえ。
クラブン時だって――マアあすこは知能程度の低いのが集中的に集ってっからだろうけど――俺と先輩が二人でどっか行ったりすっと、そんだけでみんなはニヤニヤ笑うんだけどサ、そういう時は俺一人オカマンなって先輩のガードしたげる訳。なんたって先輩はそういうとこ素人だもんな、俺がやんなきゃ誰がやる、だよ。先輩なんか、「あいつらやっぱり何かあるんじゃないのか」なんて思われてんのにサ、ゼエーンゼン分んないんだよネ、ホント可愛いいの。知識としてはサ、マ、ホモ≠ニか、あんだろうけどサ、現実にそういうのがあるとかってのはもうゼエーンゼンだめネ、分んないの。アーア、育ちがいいんだわア。
先輩のお母さんなんかスンゴイ上品な人でサ、声しか知んねえけんど、ウチのオカヤンなんぞた大|違《ちげ》エだよ。何しろウチのオカヤン、パートでスーパーのレジぶっ叩いてんだから。そんで先輩ン家《ち》電話すっと、「木川田さん? クラブの方《かた》ネ、ちょっとお待ち下さい。圭介さアん」なんて、先輩、滝上圭介≠チていうんだよネ、美しいなア。玲奈なんか馬鹿だからサ、「ケイ介? オモロイ夫婦じゃないよ」なんて言うんだ。あいつバカだよ。
俺なんか滝上圭介≠チて字書くだけでキューンとなっちゃってサ、この前の期末ン時だって、「山川先生ならどうせ試験問題毎年同じだろ」って、先輩は日本史のノート貸してくれたんだけど、俺、先輩の字見てるだけで涙が出て来ちゃうんだよネ。そんでサ、ありっこないんだけどサ、ノートのどっかにひょっとして源一≠チて僕の名前が書いてあんじゃないかとか、思ったりしてサ……当然ないけどよ。俺、三日間そのノート枕の下に入れて寝てたよ。いつも先輩のこと考えて寝るんだ、そんで朝起きると先輩の名前ンとこに頬っぺたくっつけて「おはよう」って言うんだ。大好きだよオ、センパアーイィィ。
そんでもサ、もう先輩三年だろ、だから受験でクラブになんか出て来ないし、そんなンなると俺だって先輩の教室にゃ行きにくいんだ。そんでも昼休みになるとついフラフラッと行っちゃうんだけど、教室の雰囲気なんか違うだろ、やっぱりちょっと入れねえよなア。先輩は友達と勉強の話してて、「オウ、木川田、なんか用か?」なんて言ったりして、前なんかそんな事絶対言わなかったのに、そんな風に言われるとサア、俺自分がなんかスゴク汚くなったみたいな気がして、たまんないんだ。「たまには練習見に来て下さいよオ」なんて俺は言うけどサ、なんで俺は先輩と同じ歳じゃなかったんだろうって、先輩のクラスの奴なんかみんな憎ったらしくてしようがねえよオ。
「バスケット? そりゃどこの世界の食い物《もん》だ?」なんて顔してよオ。先輩は一学期まで練習に来てたから、なんかちょっと他の奴らとはその、壁っつうのかな、そんなのがあるみたいで、その分余計真面目に見えんのかもしんないけど、なんか大人って感じになっちゃって、ちょっと近寄り難いんだ。
「先輩、勉強頑張って下さいよオ」なんて言っても、本当言やアそんなことで俺らがウロチョロすっこと自体勉強の邪魔だろう。俺もうどうしたらいいか分んなくてサ、いっそのこと来年先輩落っこっちゃえば俺と一緒に大学行けんのに、とか、ヘンなことばっか考えて、たまんないよなア。
それをだなア、あのガキャア人の事も考えねえで、「木川田さアん、僕のこと嫌いなのオ」とか調子のいいこと言ってんだろ、頭くんだよなッ、俺はッ!
でも来週、ファイア・ストームの後でクラブの奴と飲みに行くんだ。そんでそん時サア、俺サア、ヌフッ、ヌフッ、ヌフフフフフ。
3
「でもみんな部室で先輩が来んの待ってんですよオ」
「そうか、悪いことしたなア」
「桜間さんだってもう来てるしイ」
「クラスの奴と行くって言っちゃったんだよなア」
「駄目ですかア」
「オーイ、滝上イ、行くぞオ」
「オウ」
先輩、行っちゃだめエ。
「木川田、悪いな。その内部室に顔出すから、みんなによろしく言っといてくれよな」
「でもオ」
「じゃアな」
「センパアイ」
「ア、そうだ、木川田、お前『日米対抗』行くか?」
「『日米対抗』?」
「来月代々木で試合があるだろう」
「アア、あれ」
「行くんだったら切符があるから明日にでも教室へ取りに来いよ、じゃアな。オーイ、斎藤オ、お前さア……」
バカア! つまんないよオ、ホントずるいよなア、先輩なんか。俺のこと全然構ってくんないんだもんなア、今日なんかさア、俺ズーッと待ってたんだぜえ、それなのにサア。
「オイ、オカマア」
うるせえなバカヤロ。
「先輩どうしたんだよ、お前の先輩≠ヘ」
「行っちゃったよ、クラスの奴と、飲みに」
「なんだお前、滝上先輩なら任せとけなんつって全然拘束力ねえんじゃねえか。三年で来たの桜間さんと結城さんだけだぞ。何やってんだ、一体」
「しようがねえだろオ、もう受験なんだからア」
「ふられて焦ってやんの」
「てめえに関係ねえだろ」
「マアマアいいから。行こうぜ部室」
「アア、俺教室に荷物置いてあるから取ってくるわ」
「なんだドジ。じゃ俺先行ってるぞ。それからなア、オイ、オカマーッ、行くのはなア、『リビエラ』だからよオ、部室にいなかったらなアッ、そっち来いよオッ、いいかアッ!」
「アアッ!」
誰が行くかア、バカヤロオ。先輩≠烽「ないのにクラブのバカどもと飲みに行ってどうすんだッ! こんなんだったらホント、玲奈や磯村達と一緒に行きゃよかったよな。何も先輩、三年なったからってクラスの奴とばっかくっついてなくたっていいじゃないか。今日なんか俺、パンツだって一番いいの穿《は》いて来たんだぜ、関係ないけど。もうこんな機会なんか絶対ないんだよな、夜だっつうのに。俺なんかいつだって一人ぼっちなんだ。先輩なんかもう大ッ嫌いだよオ。「明日来い」なんて、明日なんか休みだろオ!
「オーイ、そこのオ、用があるなら早くしろ、校舎に鍵かけるぞ」
「すいません先生。俺教室に荷物置いてあっから」
「なんだお前か、木川田。じゃこのバッグお前のか?」
「ア、そう」
「だから教室に荷物置くなって言ってあるだろうが」
「痛ッ」
「ロッカーは何の為にあるのか。お前みたいなのがいるから教師は雑用がふえるんだ。分ったか」
「ハアイ」
「いくらファイア・ストームの後だからって浮かれるんじゃないぞ」
「ハイッ」
「それからな、オイ木川田、お前明日代休だからって遅くまで夜遊びするなよ。早いとこ切り上げてサッサと帰れよ」
「ハイセンセイワカリマシタ」
「よし」
阿呆。今みたく晩の七時に学校から解放されて真ッ直《ツ》グ家帰るバカがあっかよ。何がファイア・ストーム≠セア、名前ばっか大層に言いやがって、あんなチャンチキチャンチキ校庭でフォークダンスやっただけで浮かれるバカがいる訳ねえだろオ。みんな欲求不満になって飲みに行くんじゃねえか。高校生のウッセキしたヨクボオは捌《は》け口を求めとるんじゃッ!
「木川田さアん」
「バカヤロ、おどかすなよッ」
「ごめん。ねえ木川田さアん、どっか行くウ?」
「行かねえよ」
「どうしてえ、だってみんな帰りにどっか寄ってくよオ」
「そうかよ」
「家帰るのオ?」
「アア」
「僕も行くウ」
「勝手にしな」
「ダメエ?」
「うるせえなア、なんだよオ!」
「だって今日で文化祭終りでしょ、そんで遅くまでファイア・ストームやってて、明日代休でしょう、だから今日友達ンとこに泊るって、家に言ってきちゃったからア」
「お前俺ン家《ち》泊る気かよオ」
「だめえ? だって今日僕、パンツだって替えて来たんだよオ」
「そうかよオ、もう、勝手にしろや」
「よかったア、今日なんか僕さア、もうズッと待ってたんだよオ。もしもサア、ダメだって言われたらさア」
「ワーッタからもう何《なん》も言うなッ」
「ハアイ、先輩ってこわいの」
「ウルセエッ!」
≪こちらはア日本社会党公認、木之内|緑太郎《ろくたろう》、木之内緑太郎でエございます。新しい、日本の明日を担う、革新のオ本流、木之内イ緑太郎、木之内イ緑太郎をオよろしくウ、お願い申し上げまアす。木之内イ、木之内緑太郎でエござい、ありがとうございます、木之内≫
うるせえなア。
≪木之内イ、緑太郎オ、木之内イ≫
アアッ! ホントにもうッ!
「ウ、ウン、イヤア」
《緑太郎をオよろしくウ≫
「おはよ。ねえ、お兄ちゃん、もう何時イ?」
「十一時」
≪お願イ、木之内イ、緑ウ……≫
「うるさいネ、選挙って。ねえお兄ちゃん、オシッコしたい」
「してこいよ、勝手に」
「だってえ、洋服着んのメンドくさいもん」
「じゃア裸で行けよ」
「いるじゃなアい、下にイ」
「いねえよ誰も」
「ホント?」
「この時間、オカヤン、パートで出かけてる」
「ホントに?」
「アア」
「じゃ、してこよう、ブリーフだけ穿いて。どこ行ったかなア、僕の」
「くすぐってえなア」
「ア、これ、お兄ちゃんのだ。ねえ、僕もビキニ穿きたいなア」
「穿けよ」
「だってえ、そんなのママに言えないもん」
「じゃ止めろよ」
「お兄ちゃん、冷めたいなア」
「そんなこと知るか」
「ア、お兄ちゃんのも立ってるウ」
「早く行けよオ」
「ハアイ、じゃ行ってきまアす、待っててネ」
あのバカ! ホントもう、アァアァアァアァ、ホントにもオッ! なんでだよオ! バカヤロオ、なんだって俺が「お兄ちゃん」だよオ、人バカにしやがってエ。俺なんかさア、俺なんかさア、ホントにもうどんだけそんな風に言いたかったか分んねえのにイ。何だって俺があいつの「お兄ちゃん」だよオ、一遍寝たからってよくもぬけぬけと「お兄ちゃん」なんて言えるぜえ、エッ!
俺なんかサ、俺なんかサ、ホントもうズーッと先輩のことサ、お兄ちゃんてサ、お兄ちゃんてサ、ズーッと思ってたんだぜ。そんでもサ、そんでもサ、そんなこと一遍だってサ言ったことなんかないんだよな。僕なんかサ、僕なんかサ、お兄ちゃんとサ、一緒にサ、いられたらサ、どんなにいいかとかサ、そんなことばっかりもう毎ン日《ち》サ、考えてばっかいたのにサ、そんなこと一遍だってなくってサ、汚ったねえよなア、俺ばっかいつだって我慢してて、そんなこといつだってなくって、もうホントたまんないよオ。
お兄ちゃアん、お兄ちゃアァん、ずるいよオ、僕ホントお兄さんと寝たいんだよオ、おにイ――
「ねえ、お兄ちゃん、下に誰かいるよオ」
「いるわきゃねえだろ」
「だって僕がしてる時ガタン≠ト音したもん」
「じゃア、お前がションベンしてっとこ誰かがのぞいてたんだろ」
「いやらしいイ、お兄ちゃんてそういう人なのオ」
「そうだよ」
アァアァ、俺もうホントに、やさしいよなッ、考えらんねえやッ!
「寒ウい。お兄ちゃん、抱いてエ」
好きにしろや。
「お兄チャン」
「なんだよ」
「フフフフフフ」
「気持|悪《わり》いなア」
「イヤ、そんなこと言っちゃ。ねえ、お兄ちゃん、『薔薇族』なんか買う?」
「アア」
「勇気あるなア」
「どってことねえじゃねえかよ」
「だってえ、恥かしいよオ」
「そうかよ」
「お兄ちゃんて、強いんだなア」
阿呆。
「ねえ、今月買った、『薔薇族』?」
「アア」
「見して」
「そこに入ってるよ。ベッドの下の抽斗《ひきだし》」
「開けていい?」
「アア」
「よオいしょっと」
「お前《まえ》エ、布団持ってくなよなア」
「ごめん」
今頃先輩何してっかなア。俺だってもし昨日ひょっとしたら先輩ンとこでサア、俺だってサア、やっぱり言われたいよなア、先輩に、可愛いいとかサア……俺なんかどうせ顔も悪いしサア……いいんだ、もう、畜生。
「ねえお兄ちゃん、これ出したことあるウ?」
「何を?」
「文通」
「ねえよ」
「してみたいなア、僕ウ」
「すりゃいいだろ」
「だって未成年はダメって書いてあるよオ」
「黙ってりゃ分んねえだろ」
「そうかア、お兄ちゃん頭いいなア」
お前がパアなんだよ。
「ねえ、この人、どうかなア」
「どれエ?」
「ン? この人。夜明けのシティ・ボーイ≠セってエ、フフフフ、君はどんな子オ、僕はモオチロン、ガッツなメロウ・ボーイさア、マスクはバアツグン=v
「そいつ、いくつだよ」
「十九だってエ」
「フーン」
「そんでねエ、フフッ君はキュートなベイビイさア、サア、二人でシティに飛び、出そオぜエ≠チて。ねえ、お兄ちゃん、素敵だよねえ、ネ?」
「別にどってことねえじゃねえか」
「アア、お兄ちゃアん、嫉妬してんのオ、そうでしょオ」
「そうかよ。勝手にせエ」
「ア、ウソウソ、ごめえん、ウソだよオ。お兄ちゃんさア、そんな風に言うんなら僕もう止めるウ……」
「別に関係ねえよオ。いいかア、お前なア、そういうこという奴アみんなコレモンよ」
「コレってエ、鼻にかけてるってことオ?」
「そう。自分でマスク抜群≠ネんつってんのはよ。実際そうかもしんねえけど、もう自分だけな訳、この世ン中で」
「フーン」
「だからお前なんか行ってみな、一遍でポイよ」
「こわいねえ」
「当然よオ。マ、そいつなんかよ、生意気なんかはキマリだけど、意外とどってことねえ顔してんじゃねえの」
「そうかア。じゃア僕止める。そんで別な人にする、ネ?」
アァアァ、勝手にせエ。
「アッ、この人。いいイ?」
「アイよ」
「K生≠チていうのネ」
「けいせい=H」
「ペンネームだよ、どうしてエ?」
「別に」
こんなとこに先輩出てくる訳ねえもんなア。
「どこかにイ、可愛いい弟はいないかなア、僕はア、山と演歌が好きなア、いつも若く見られてばかりいるウ、二十七歳の自称オ、ヤングでエす=v
「お前もヘンなのが好きだなア」
「どうして?」
「そんなヤングがあっか。山と演歌ったら公務員に決ってんだろ」
「そうかア」
「大体なア、年より若く見られたがる奴にまともなのいねえの」
「でも若く見られるって書いてあるよオ」
「自分でそう思ってるだけ。オカマの典型よ」
「フーン、でも公務員でもいい。僕ホント言うと板谷先生みたいな人が好きだから」
「倫社の?」
「ウン、今倫社がないからつまんない。だからこの人、エッとネ、三十四だって。真実一路≠チていうんだよ、ペンネーム」
「お前も疲れるのばっか探すなよオ」
「どうして?」
「別にイ」
「いい? 読むよオ、スリムで甘えん坊のオ=A甘えん坊だってエ、フフフ、ヤングとオ、良識あるウ誠実な交際をしたいと思っているウ=v
「だめ」
「どうして」
「良識とか誠実なんつう奴に限っていつもおどかされたらどうしようってビクビクしてるだけだからおもしろかねえよ。後の方見てみな、プロ不可≠チて書いてあんだろ」
「ホントだ」
「金もねえくせによオ、プロがお前なんか相手にすっかア。そういうのが一番アン時にねちっこいんだよな」
「フーン。でもどうしてお兄ちゃんてそういうことよく知ってんのオ?」
「お前とここの出来が違うの、頭の」
「でも僕、そんな成績悪くないもん」
阿呆。
「でもさア、お兄ちゃんみたく言ってたらイイ人なんかいなくなっちゃう」
「ヘンなのに引っかかるよかましだろ」
「お兄ちゃん引っかかったのオ?」
「アア」
「嘘ついてんのオ」
「何をオ」
「さっきサア、文通なんかしたことないって、言ってたじゃないかア」
「バカ、二丁目≠ナ会ったの」
「いいなア、お兄ちゃんそんなに遊んでたのオ」
期待しすぎじゃ、おのれは。
「ねえ、ヘンな人って、どんな人オ?」
「便所屋のオジン」
「なアにイ、それ?」
「要するに、便器とかな、そういう瀬戸物みたいの作ってる会社の部長」
「じゃ、シブイ?」
「気持|悪《わり》イ」
「どんな風に?」
「色が黒いの」
「いいじゃない」
「顔だけ」
「顔だけ? じゃゴルフ灼《や》け?」
「そんなんじゃねえよ。そいつはな二丁目とかな、空気の悪いとこで遊んでばっかいっからよ、主に顔から毒素を重点的に吸収して黒くなった訳」
「フーン」
「裸になっとな、体だけマッチロでよ、そんな太ってないんだけどケツだけでかくて、ヤリ過ぎって一目で分んの。気持|悪《わり》イ」
「でもどうしてお兄ちゃんそんな人と寝たの? 寝たんでしょ?」
「そいつの死んだ弟になア――弟ってのは勿論アレだぜ」
「ウン」
「そいつの弟≠ノ俺が瓜二つなんだと」
「ワアーッ、すごオい、ロマンチックだなア」
「バカ。そいつはなア、誰ンでもそう言うの、瓜二つって。もうみんなウリウリボウヤよ」
「そうやって男の子を、ユウワク、なんかしちゃう訳? ねえ」
「誘惑っつうか、本人本気で信じてんだよな、似てるって。そんで口説く訳」
「どうして?」
「知らねえよオ、オジンのことなんざ」
「僕もそんな風に言われてみたいなア。もう別れちゃったんでしょオ、その人とは?」
「アア」
「そんな人オ、いないか、なア」
お前みたいのがああいうのとくっついてりゃ一番いいの。俺は先輩と一緒にいっから、お前はどこでも行けエ。
「ねえお兄ちゃん、じゃこれはア」
「何つうの?」
「フンドシ親爺=v
本気かお前?
≪……淳吾オ……田ア……をオ……≫
「ア、また選挙だ。いイい? 五十代のオ、やさしいパパでエす」
≪自由民主党公認≫
「可愛いい君のオ、ワア、やらしいイ」
≪桜田ア、淳吾オ、桜田ア≫
「をオ、して、あげよう、だって、フフフ」
≪責任ある政治の担い手≫
「苦学生のオ君ならア」
≪自由民主党公認のオ≫
「経済的なア援助もオ」
「エッ? 何?」
≪桜田ア≫
「ケイザイてきなッ!」
≪淳吾オ≫
「うるせえなア、本当にイ!」
「お兄ちゃんお兄ちゃん、電話鳴ってるウ」
「エ?」
「電話ッ!」
≪桜田ア淳吾をオどうぞオよろしくウ≫
「放っとけや」
「いいのオ?」
≪お願いイ≫
「いいよ」
≪いたしまアす≫
「だってあの人かもサ、しれないよ」
「誰だよ」
≪桜田ア淳吾オ≫
「ホラ、バスケットのサ」
「関係《かんけえ》ねえよッ!」
「嬉しい」
「なんでだよ」
≪党公認のオ≫
「僕が、いるからでしょ」
「そうだよッ!」
「お兄ちゃんお兄ちゃん抱いて抱いて」
≪ありがとオございます、ありがとオございます≫
「布団落っこっちゃっただろオ」
「いいイ、お兄イちゃアん、ウ、ウーン」
バタンッ!
「おい源一、お前に電――」
オトヤンッ! アッ、アッアッ、ヤッベエーッ!!
4
「どうぞ」
「失礼致します」
「木川田さんで?」
「ハイ。ア、あいにく名刺をきらしとりまして、申し訳ございません。私、鉛管関係の、あの水道のパイプですとか、そういったものを扱った会社におりまして」
「どうぞお楽になすって下さい」
「は。ホラ源一、坐りなさい」
「ハアイ」
「御相談は息子さんの事とありますが」
「は、どうもお恥かしい次第で、マ、普通の事でしたら私が何とか、マ、解決する、というような事もございますんですが何分その特殊と申しますか」
「何か問題がおありという?」
「は、その大変お恥かしい事で何なんですが、実はマ、息子がその、同性愛という」
「ほう」
「マ、何ともその申し上げようのないことでして」
申し上げてんじゃねえかよ。ドオセイアイ≠チて。ドオセイアイだってよ、おっそろしい、何かと思うじゃねえかよなア。
「はア、そうですか、それはまた」
「はア、何と申したらよろしいんですか」
ドオセイアイって申し上げろよ。
「マ、たまたま私が風邪気味で会社を休んでおりまして、そういう事に気がつきましたんですが」
「ほう」
「はア、その時のショックというものはです、もう、ちょっと言葉では言い表わせない訳でして」
「ハアハア」
「お分り頂けるかとも存じますンですが、このオ、マ、コレがたまたま文化祭の次の日で代休に当りまして、高校がですネ、それでその、私はマ、そのようになっているということは全然存じません訳ですから、コレの友人から電話がかかって参りましたものですから呼びに参りまして、そこで、その、それをですネ」
「御覧になったと」
「ハイ」
じっくりと。
「初め私はその、何が何だか分りませんで、そういえば昨日友達が泊りに来とったようだなとか思いまして、ハア。と思いましたんですがその、布団もかけずに裸で、その、男、同士がですな」
「ハア」
「その、マア、何と申しますんですか」
ドオセイアイッ!
「それを致しておりまして、一瞬もう本当に、その時実際何を言ったのかもう全然覚えておらないような訳でして、ハア」
「電話だぞ」っつったのッ! バカじゃねえのか、そんで戸閉めてツッタカ階段下りてったんじゃねえか。人の部屋黙って開けるからそんなことになんだよなア。自分だってオカヤンとやってっとこ見られたらどうすんだよなア。
そんでこっちは焦ってよオ、しようがないから着物着て電話ンとこ行ったら先輩だろ。後で電話するったってそれどころじゃねえよなア。井関のガキア真ッ青《ツアオ》になって「どうしようどうしよう」ってるし、オトヤン下で何やってんだかシーンとしてるし、しようがねえから俺、井関のガキと二人で家追ン出て、行っちゃったよ。
そんで二人でブラブラ町歩いてたけど、井関のガキはオタオタして、ま、そりゃ初めてだからしようがねえけどよ――俺だって当然こんなシチ面倒臭えのなんか初めてに決ってんだろ――「ね、お兄ちゃん、絶対僕のこと言っちゃヤダよ、ネ、絶対言っちゃヤだよ」って、当り前だろオ、家《うち》のトッツァマ一人で手エ焼いてんのにそんなとこに他人の親父まで出て来て見ろや、目も当てらんねえじゃねえか。
そんで井関のガキに心配すんなっつって追ッ返してから俺一人になってサ、先輩ンとこ電話しようかなア≠ニか、チラッと思ったけどサ、こんな時電話したら絶対迷惑になるし、それに俺、他の奴と寝てたなんて先輩だけには思われたくないんだよな。だからこんな時なんかホントは玲奈ンとこ行ったりすんだけど、あんまりみっともいい話じゃないしサア、俺ホントに強いよなア、一人で家帰ったよ、やっぱり。しようがねえもんな。ホント、こんな感心な子供ってめったいないぜえ。
「私もわずかばかりですが部下がおりまして、色々管理ですとか相談とかをですネ、ございまして」
「ハア」
「まア世代の断絶というようなことも言われておりますもんですから、少しそういった溝をですネ」
「エエ」
「マア埋めるとまでは参りませんですが、多少なりともマ、理解、ということをですネ、心がけるといっては何ですが、心理学とか、カウンセリング関係の、本といってもホンのハウツーでお恥かしいんですが、マ、少々」
「ホウ、それはそれは」
「マ、先生の前でこんなことを申し上げましても釈迦に説法でございますか? マ、そんなことをですネ」
「イヤ、それは」
「マ、そういった人事管理、ということでしたら多少なりともございますんですが、その異常、なんですか、性欲、でございますか、マ、そういった方はちょっとオ、このオ」
「ハアハア」
「マ、私も少し関心というのではございませんが、その、息子もこういったことになりましたもんですから。ハイ、少しは、その知らなくてはならないかとか、マ、ございまして、それでマア書店に参りまして、そういった類《たぐい》の、『異常心理学』ですとか、あの、『変態性欲』ですとかの本をですネ、見てみようかとも思っとったんですが、この、怖《お》じ気《け》といっては何なんですが」
「抵抗というような」
「ハイ、マ抵抗がございまして、私、自分でこういうことを申し上げるのも何なんですが、何しろこれまで、真面目一方で、ハハ、お恥かしい次第なんですがやってまいりましたもんですから」
「ハア」
「一体もう、どうしてコレがそういうことになりましたのか、皆目《かいもく》見当がつきませんで、息子はこの通りのお調子者でして」
関係ねえだろ。
「いや、それは」
「ハア、先生にそう言っていただけると有難いんですが、私といたしましては事が事だけにうかつな人にも相談できませんで」
「ハイ」
「いつも通勤でこの病院の前を通りますもんですから、アア、精神科の先生なら何か、その相談に乗っていただけるのではないかと、こう思いましてですネ、マ、こうしてお伺い致した訳なんですが、いかがでしょうか先生?」
「ハア」
「ハア」しか言わねえのな、そんで金とってんだからいい気なもんよ。そんなトッツァマもよ、慣れねえことやんないで放っときゃいいんだよな、俺のことなんか。どうせ分りゃしねえんだからよ。
そんでサ、俺がアン時家帰るとオトヤンいなくてサ、何となくそんな気がしたんだ、いねえんじゃねえかとかって、そんでオカヤン一人でポケーッとして待ってんだろ、俺が「お父さんは」っつったら、「出かけたよ」っつって、人の顔見て、「しょうがないねえ本当に」って、そんでお終《しま》い。
「しょうがないねえ」って言われりゃホントにしようがねえんでサア、俺も、「マアいいや」とか思って、飯喰うんで布巾《ふきん》とったら何にもねえんだよな。テーブルの上にカボチャの煮っころがしと潰け物しかなくってよ、俺こんな晩飯生まれて初めて見たからサ、なんだと思ってオカヤンの顔つい見ちゃったよ。そんでまたオカヤン、「しょうがないねえ」って溜息ついてサ、しょうがないは分ったけんども、なんかサア、ズッとそんなこと考えてカボチャ煮てるなんて不気味じゃない? 思うだろ? だから俺、なんつうの、同情っつうんじゃないけど、なんか悪いことしたかな、とか思ってサ、マ、そんなこと知らなきゃ知らないマンマで生きてけんだろ、オカヤンなんかサ、だからチョッと思う訳。
そんでオトヤン九時頃帰って来て、来るかなと思って暫くしたらヤッパ、「源一、ちょっと来い」なんて言う訳。ホント言やア俺だって部屋に鍵かけて、ムスーッと唇噛んでたりなんか出来たんだぜ、肩なんか震わしてサ、そんでもやっぱつき合ってやんなきゃいけないだろうとか思ってサ、行った訳、下に。
「オイ、テレビ止めろ」なんてオトヤン言ってサ、俺ああいう神経って分んねえんだよな。だってサ、これからかなりシアリヤスな話するってえのにサ、夫婦揃ってテレビ見てんだぜエ、よく出来るよなア。
そんで「坐れ」って、俺椅子に腰かけて、見んだよな。ホント深刻って顔して黙ってんだけどサ、オトヤン、よく見ると表情がないんだ、顔にベニヤ貼っつけたみたいでサ。なんか思うけど俺、ヤッパ深刻≠ニ中年≠ト合わないんじゃないの。言っちゃ悪いけど、そんな気イする。
そんでズーッと黙っててサ、「源一」って言う訳。「来たか」とか思って、「どうすっかなア」なんて考えてっと、「お前、この先どうするんだ」なんて言うワ・ケ。
ンなサア、考えてもないこといきなり訊かれたって困んだよなア。だってサア、子供がホモだってのがバレたばっかだっつうのにサア、そういうこと間題にしないでいきなり「この先」だろ、「この先」なんてそんなこと誰も分るわけねえだろオ。当面「この先」っつったら、俺高校三年でサ、その先大学行くだけだろ、そっから先なんか分りっこねえじゃねえかよなア。
だから俺面喰って、「この先って……」て言う訳。そうすっと待ってましたとばかりに、「お前そうやってこれからも生きていけるのか?」なんてスゲエこと言う訳。そんな目茶苦茶な話ってあるかよなア。そんな、人を勝手に決めこんでサ、生きてけるもへったくれもねえじゃねえかよなア。だってそうだろオ、俺今までだって生きて来たんだからア。親のこと考えてサア、一般人にゃ刺激が強過ぎるだろうと思って隠して来てやったんじゃねえかよなア。
今なんか少し落ち着いたからいいけどサ、昔なんか大変だったんだぜえ、中学ン時なんか、バレたらどうしようとか、下手すりゃ井関のガキと同じになるとこだったのによオ、そういう風に人が心配してるっつう時に自分は新聞見て、「三木さんていう人はどうもなんだなア、もう一つ煮えきらないというかなア」「そうですねえ」とか悠長なことやっててよオ、そんで今になって、「お前、これからも生きてけるのか?」だろオ、ンな目茶苦茶な話ってねえよなア。
「生きてけるってえ……」って、俺どう言やいいか分んないからサア、モゴモゴ言う訳だろう。なんかああいう時って、子供はモゴモゴしてないと満足しないみたいネ、親って。
何しろオトヤン、自分は何にも言うことないから黙ってて、「源一、どうなの? お父さんもお前のこと心配して言ってるのよ」ってオカヤンが言うのを、「お前は黙ってなさい」って、俺だって別に言うことないしサ、三人で黙ってサ、何やってるかって言うと、小汚ねえ流しの前で一家揃って「カボチャの煮っころがし鑑賞会」な訳。何つうのかな、ああいう風に黙ってっとサ、エッと、何だっけホラ、エッと、ア、そうそう緊張=A緊張よ。なんか緊張に耐えらんなくなって「お奉行《ぶぎよう》様申し訳ごぜえません」なんつってサ、そんで「目出度し目出度し」になると思ってんだよな、バカじゃねえのかア、俺もう言っちゃうよオ。
そんでこんなヘンな精神病院連れて来てよオ、「先生、私は全然分りません」なんて、こないだ自分が黙ってたのパアだったからって白状してるようなもんじゃねえか。少しは親の権威ってモン考えて貰いてえよなア、こんなとこで自分の親父の馬鹿さ加減黙って見せられてる子供はどうなんだよなア。ホント可哀想、俺。
「確かに最近増えてはおりますネ。ホモセクシュアルの傾向がですネ」
「はア、左様でございますか。マ、このオ、私思うんですが、マスコミでですネ、その週刊誌ですとか、小説の類《たぐい》で、このオ、どうも興味本位に、その面白おかしく取り上げ過ぎるんではないかとですネ、いかがでしょう先生?」
「確かにその、そういうこともありますが」
「あの先生、よろしかったら一つはっきりおっしゃっていただけないでしょうか」
「いや別にそういう訳では」
「マ、私も素人の生齧《なまかじ》りでこういうことを申し上げるのもなんなんですが」
「ハイ?」
「その、カウンセリングの場合ですネ、私も本当に浅い知識しか持ちあわせておりませんのですけれども、その、理解≠ニいうことですねエ」
「ハア」
「その理解と言う時にどうも自分の枠から抜けきれないで理解をしてしまう、その、診断的? ですか、理解をですネ、してしまって人を見下すとまで言っては何なんですが、評価的態度に立って聞き手の方が判断を下してしまうという事を読みまして、私非常に感心いたしまして、目から鱗《うろこ》が落ちたように思いましたんです」
「エエ」
「私、どうしてもそれまでもう一つ他人を把《つか》みきれない所があると自分でも思っておりましたもんですから深く反省致しまして、ハイ、アア人というものは曇りなき目で見なければならないと悟りまして」
「ハア」
「ですからですネ先生、私カウンセリングというものはよく存じておりますから、先生が私の考えに何か方向づけされることを怖れていらっしゃるんだということもよく分るんです」
「ハア」
「マアそれは大変有難いことだとはよく存じておりますけれども、その、事が事ですので、どうしても私、正確な所をですネ、教えて頂こうと思ってまいりましたもんですから、先生の方も一つ腹蔵のない所で御意見をお聞かせ願えませんもんでしょうか、誠に勝手なことでございますが」
「イヤ木川田さん、そこまで御存知でしたら、ハハ」
「ア、どうも恐縮でございます」
何やってんだ一体?
「で、先生、その、同性愛の原因というのはどういうもんなんでしょうかねえ」
「色々言われておりまして、その、先天的なものになりますと、遺伝ですとか、ホルモンですネ、そういった異常ですねえ」
「ハア」
「ただそういう原因だけでは把みきれないものですから」
「ハア」
今時、親の因果が子に報う訳ねえだろ。子供は泣くのよ、親が不憫《ふびん》だっつって。
「最近はもっぱら精神分析の立場でアプローチを進めておりまして、問題はどうも後天的な、その家庭環境、一人っ子ですとか片親ですね、そういった欠損家庭、それと大きいのは母親の過保護ですねえ」
「と申しますとやはり教育の問題になりますねえ」
「そういう面も考えられますし、また現在は一般に父親不在の時代≠ニいうことも言われております訳でして」
「ハア」
「父親が厳格過ぎたりしました場合にもこうした例は見られる訳なんですが、最近顕著なのはやはり、父親がいない、いても仕事で家庭を省《かえ》りみないで一切を母親に任せきりにしている、父親が頼りなくて子供に軽蔑されているといったようなケースですねえ」
「私もこれまで仕事仕事で参りましたもんですからどうしても家庭の方を疎《おろそ》かにしていたと、マ、今になって思っておりますんですが、どうも……ハハ」
もういい加減に止めろや、阿呆らしいから。そんなさア、今更親いじめたって始まんねえだろ、可哀想だから。オトヤン万年課長でサ、家のローンせっこらせっこら返して、オカヤンはレジぶっ叩いて働いてよ、そんでいいんだよなア、俺もう関係ねえからさア、止めてくれよな。そんなことごちょごちょ言ってどうすんだよもう、普通にしてりゃいいじゃねえか、普通に。そうだろ。
「それと思春期と言う時期が一つにはありまして」
「ハアハア」
「これはフロイトの説なんでして、御存知かとも思いますが」
「ハイ」
「人間の成長の段階というものがありまして、それは簡単に申しまして、自己愛、同性愛、異性愛と辿《たど》る訳なんですが」
「ハアハア」
「それのちょうど同性愛に当る段階が言わば、思春期に重なっておりまして、マア誰しも十六、七というのは同性に惹《ひ》かれたりということもありますから」
「ハーア、アア、そういうこともある訳ですか、ハア誰しもということもですよねエ、ハア」
そんなとこで喜ぶなっつうの。
「ただ何といいましてもサンプリングの数に限りがありまして、決定的なこれがという要因は、はっきり申し上げて分らない訳です、実際の所」
「ハア」
ザマアミロ。
「それでその、治療法ということなんですが」
「ですから申し上げましたように原因というものが分っておりません以上、治療といいましても対症療法に限られまして」
「何か薬でも?」
バカ。
「いえ、そういうものは残念ながら」
「左様ですか」
「色々と海外の実験結果も報告されとりますが、例えばですネ、一つは条件反射を利用致しまして」
パブロフじゃ、パブロフじゃ。
「同性愛の、この場合は男性の患者ですが、患者に男性の写真を見せまして、この場合同時に電気ショックを与える訳です」
「ホウ」
「そして次に同じように今度は女性の写真を見せまして、この場合には電気ショックは与えない訳です。そうしますと女性に対しては安心感を覚える一方で男性に対しては抑制が生まれる訳でして、これを嫌悪療法と呼んでおりまして」
本気でそんなこと考えた奴いんのかア! そっちの方がホント、キチガイじゃねえかア、もう死ね死ね!
「必ずしも全て成功という訳ではないんですが」
見ろオ、悪の栄えた例《ため》しはないのじゃ。
「そう致しますと息子の場合は」
「それは直接、エエと、源一君ですか、彼と話してみないことには何とも」
「ホラ、源一、先生に話して」
「何をオ?」
「いや、それは、マ、お父さんがいらっしゃると色々話し難《にく》いこともおありだろうから、ハハ」
「どうも、最近の若い者は何を考えておるのかさっぱり分りませんもので」
「イヤ、私も同じですよ」
「そうですか、アア、先生でもやはり。私も色々息子と話合ってみなくてはと思っておったんですが、いざ改まって話すとなると、どうも、照れまして、ハハ」
照れてあの顔かよオ。照れた顔ってなアもっと可愛気《かわいげ》があるぜえ、改まるとベニヤ板顔に貼っつけんだからよオ、たまったもんじゃねえよなア。大体ね、何が照れるって、やってっとこいきなり人に見られて、そいつとズッと暮してかなきゃなんねえ人間程照れるもんはねえんだよオ。自分もやってっとこのぞかれて見なア、本当に照れるってのが分っからア!
「それじゃお父さんは少し外にいていただいて」
「何分よろしくお願い致します。源一、正直に答えるんだぞ」
「アア」
やなこった。
「まともな返事も出来ませんで、本当にもうお恥かしい」
「いやいや、それじゃチョッと」
「ハイ、失礼致します」
「源一クンか、さてと」
さてと、こっから始まんだよなア、「エクソシスト・PART2」がサア、アーア。
「何だっつってた、あの先生?」
「しばらく面接に通ったらどうかとサ」
「やだよオ俺エ」
「お前より父さんの方が余ッ程いやだ」
「なアにイ、オトヤ、お父さんも来んのオ」
「お前は心配ないんじゃないかとサ」
ハハハハハハ。
「どうもあの先生は正常じゃないんじゃないかと思う」
「どうして?」
「現代でホモ、いやその何は、異常じゃないんだなんて言い出した」
「そうだよ」
「何を言ってるんだ! お父さんは何もお前を変態なんかにする為に毎ン日《チ》会社へ通ってたんじゃないんだ! それを、父の不在だとかもう、言いたい放題言って、あの医者は過激派崩れに決ってるんだ。一遍投書でもしてやった方がいい」
「止めなよ、みっともない」
「何言ってるんだ、お前の問題だぞッ!」
そうかよ。好きにしなッ!
5
つまりサ、何が問題かっつうとサ、「この先どうする」よりかサ、今を何とかして貰いたい訳、気の狂った親をサ。俺もうホント、たまんねえよ。
病院から帰る時駅の前で、何つったっけ、名前忘れたけど、テレビで司会やってるオバハンが選挙出てて演説してる訳。つまんねえこと言ってんだぜ、「私も二児の母として子供を育てて参りました。でも、このままでは恐ろしくてとても子供を学校へ通わせる訳には参りません。一体日本の先生方は子供を思う親の心をどのように考えていらっしゃるのでしょうか、『万葉集』の昔から、瓜食《うりは》めばア 子ども思ほゆウ 栗イ食《は》めばア まして偲《しぬ》ばゆウ≠ニ謳《うた》われおります親の心を」なんつうとさ、オトヤン、「アアその通りだ、全くその通りだ」って聞いてる訳。
こないだまで「もうタレントは沢山だ」とか言っててこうだもんな、もうコロコロ変んの。そんな当り前だよな、オカヤンと二人でウリウリはめっこしてりゃガキが出来んのよオ、そんで「思ほゆ」ったって思い方は目茶苦茶だろ。息子がオカマンなっと自民党の票が増えんのな、ハハ、そんでよけりゃいいけどよ、俺は。突然対話≠ネんか始められるよりか。
この頃大変なんだぜ、前だって割かしチャンと帰って来てたのが、もっとチャンと帰って来てサ、「さあ対話だ」って顔すんのな。その顔ってのがニヤニヤ笑ってて気持|悪《わり》イの。
よく電車ン中で俺なんかオジンにさわられんだけどサ、ホラ、やっぱ顔が可愛いいから俺、ナハハハハハ。そんな時みんなオジンて大概ニマアッ≠チて笑ってサ、いじる訳、あすこを。それと同じ顔すんだよなア、オトヤンも。ホラ、「ニホンジン、ワラッテバッカイル、キモチワリイ」なんて外人が言うのサ、あれ同じじゃないの、よく知んないけど。
電車ン中だとサ、「アバヨ」って終りだからいいけんど、家ン中だと逃げようがねえもんなア。避《よ》けりゃ、「お前は親をこんなに心配させて」ってスグ顔のチャンネル変えてベニヤ板になんだろ。痴漢に「何すんだよオ」っつうとシラーッとすんのと同じよ。そんでおまけにこないだなんか「どうだ源一、一緒に風呂入らないか」なんて言いだしてよオ、もうホオント、止めてくれよオ! そんな気持|悪《わり》イ話よオ。
大体息子がオカマだって分ったらうろたえてりゃいいんだよオ。それを見栄張って親の威厳≠ニか言いだすからおかしくなってサ、きのうなんか「これはいい本だから読んで見ろ」って俺に本渡す訳。何とかっつう外人のオッチャンの書いた本。何だと思う? 『日本の父へ』っつうんだぜ、俺が『日本の父へ』なんて本読んでどうすんだよなア、そんなの自分で読んで自分で勝手に感動すりゃいいだろう、なア、バッカじゃねえのかア、ホントにイ。
なんか、うろたえ方っつうの知らねえのな、可哀想。俺なんか学校で「オイ、オカマ」で鍛えられてっからさ、簡単にうろたえられっけど、年寄りってだめなんだよな、その点。そんで深刻な顔してっから、俺も「悪いことしたかな」なんて思うんだけどサ、なんかなア、中年は普段あんまり物考えねえからイザ考えようなんて時にあんな顔ンなっちゃうんじゃねえんかなアとか、チラッと思ってサ、こっちはオトヤンが「しょうがねえなア」って言ってくれんの待ってるだけよ。だってしょうがねえもんなア。
そんでもなア、しょうがねえってもなア、オカヤンみたいのもいるしなア……こないだ玲奈から電話掛かって来て、別にどってことでもねえんだけど、それオカヤンが出て、人が電話してる間そばに立ってる訳。「何やってんだア」とか思ってっと言う訳サ、「お前だって満更女の人とねえ、そうだよねえ、年頃なんだからねえ」とかさア、アァアァアァ、もうなアーンも分ってねえんだよなア、まともなの俺一人だよこの家でエ、ホントしょうがねえよ全く。
そんでも明日《あした》なんかサア、俺先輩とサア、ヌホホホホホ、行っちゃうんだア、試合見に、代々木にイ。切符ってサア、二枚しかなかったんだよなア、ニャッハッハッ。俺先輩ってダアーイ好き、クックックッ、デートだもんねえ、寝ちゃおう早く、ヌフフフフフ、お肌が荒れるから、キャッ。
6
「久し振りに試合見ると体がウズウズするなア」
「先輩勉強ばっかしてっからですよ」
「どうも体がナマってなア、夜中マラソンしてるけど、やっぱりボールがないと淋しくてな」
「たまには練習に来ませんか?」
「ウン。お前でも近所にいりゃマラソンしながらでもパスぐらい出来るんだけどなア」
俺エ……センパアイ……。
「あれだけ離れてりゃマ、無理だけどな」
行きたいなア、俺エ、先輩ン家《ち》イ。毎ン日《ち》だって行っちゃうよオ。夜中に二人だけでサア、練習してて、そんで、「少し休むか?」なんて言って、そんで先輩は「木川田、お前は可愛いいな」って言って、そんで、俺、俺、行きたいなア。どうして俺ン家《ち》先輩ン家《ち》のそばじゃないのかなア。
「あの時スゴかったな、見ただろお前。ミリアスが久保田かわしてドリブルでスパーッとインした時、あアいうの見るとなア、アメリカはスゴイと思うよな。日本なんかまだまだ幼稚園だよなア、お前もそう思うだろ?」
「ホント、そうすネ」
ホント俺、そんなの全然見てなかった。俺ズッと先輩のことばっか見てたから。先輩、ホント素敵なんだア、「ホラッ! そこだッ!」なんて口開けてんの見てっと、ホントもう、立っちゃうんだよなア……そんで「ヤッタ、ヤッタ!」なんて先輩興奮して俺の肩ギューッと抱いてくれてサア、俺もう、死んでもいいや。
「これからどうする、木川田?」
「表参道の方でも行きませんか? 先輩勉強があンならいいけど」
「どうせ今日は授業さぼっちゃったしな、息抜きに少し歩くか」
「ウン!」
ホント言えば原宿なんかもうブスとサラリーマンばっかで、どうせ行くんなら公園通りの方がいいけどサ、でもそっち真ッ直ぐ行けばスグ渋谷の駅だろ。表参道だとサ、駅からどんどん離れてくじゃない。だから俺サア、先輩とズッと一緒にいたいからア、行っちゃう訳、原宿に。
オリンピック・プールンとこにいるアベックなんかイモばっかでサア、あんなにベチャーッてくっついてんの、ああいうの冒涜《ぼうとく》っつうんだよな、恋愛に対する。俺と先輩なんか、もうホント、清く正しく美しいもんねえ、ニャハハハハハ。
「原宿も変ったなア」
「ホント、ちょっと来ないとビルばっかですネ」
「だんだん僕らのまわりからシティも消えてくなア」
「アーッ、先輩! スルドオイ、さすがだなア」
「お前も可愛いいこと言うな」
「だってえ――アッ!」
「なんだよ? どうかしたのか?」
「別に、何でもないです」
だって驚いたよ、俺が前付き合ってた気持|悪《わり》いオジンの会社が新しく建ってんだもん。こんなシャンゼリゼに便所屋のビルおッ建ててどうすんだよ。なんかいかにも美し気に陶器の会社だなんて誤魔化しやがって、マ、別にこんなもんどうでもいいけどよ。
「どっかでコーヒーでも飲むか? 木川田」
「飲みます!」
「どこに行くかな」
「どこでも、いいです!」
「何お前頑張ってんだ」
「へへへヘヘヘ」
先輩とお茶飲むなんて初めてよ、しかも昼下がりの町でよ、クーッ、たまんねえ!!
「じゃ、あそこにしよう」
ホントなア、先輩のセンスってサア、ちょっとなア、ホント育ちがいいっての分んだア。茶店《サテン》つうと、お母ア様に連れてかれた千疋屋《せんびきや》とか風月堂《ふうげつどう》とか、そんなのしか知らなくてサア、今なんかサラリーマンだってもうちょっと茶店《サテン》の選《え》り好みするぜえ、いいんだけどサア。うかつな店行って俺の知ってる奴に会っても困るしな、アッチの世界の。だからマアいいけど、俺やっぱそのうち少し先輩教育しよう。
「こっちのビルの中の店の方がいいかな」
そっちなんかダメエッ! オジンの会社だよッ!
「満員かア、今丁度三時だからな」
あアよかった。
「やっぱりここだな」
この際しようがねえや。
「ここも結構混んでますネ」
「オ、あそこの窓際、空いてるぞ」
クックックッ。窓際窓際。
「いらっしゃいませ」
「俺アメリカンねえ、先輩は?」
「そうだな、ブルー・マウンテンを下さい」
センパアイ、こんなとこで止めて下さいよオ、イモ丸出しだよオ。もう先輩、将来サラリーマンで決りだなア、俺はいいけどサア。
「今日は無理に付き合わせて悪かったな」
「先輩こそいいんですか、フケたりして」
「マア、ちょっとな、やっぱり見ときたいだろう」
「そうですよねえ、バスケの本にも書いてありましたよ、イイ試合を見ることも上達の秘訣だ≠チて」
「そうだぞ、お前最近上達したか?」
「ヘヘ」
「さぼってんだろう」
「やっぱ先輩みたいにチャンと見てくれる人がいないと」
「ホントにお前は駄目だなア。初め入って来た時なんか、ついてこれるのかどうか分んなかったぞ」
「でもついて来ましたよネ、俺」
「ウム。よかったなア去年は」
「ホント」
「もう一度帰りたい気もするなア、な、木川田」
ホントオ、俺もう先輩と別れるのいやだア、ズーッとあのまんまだったらよかったのにイ……。
「木川田、知り合いか? あの人お前の方見てるぞ」
「え?」
ヤッベエーッ! なんだってこんなとこに変態オヤジがいるんだよオッ!? 来るなッ、来るな来るな来るな、来るな、来るなッ!
「どうしたのオ源一クン、久し振りじゃないかア。こちら、お友達?」
「クラブの先輩」
お前に関係ないだろ。
「ア、そうオ、フーン、よろしくウ。ちょっと坐って、イイ?」
「ア、どうぞ」
ダメッ!
「じゃ、ちょっとかけさせて、コンニチは、元気?」
アアッ!
「そうオ」
「ア、先輩ネ、この人俺の、エッと、友達の、親父さん」
「ア、そうですか、滝上です」
「よろしく。僕はネ、源一クンと知り合いなの、ムスコが、ネ?」
ヤッラシイイ! ムスコだって、やめてくれよなこんなとこでエ。俺は先輩と、お前みたくヤラシイ関係じゃないんだからなッ! いい歳かっぱらって何が「よ・ろ・しく」だよ、早く消えろオ!
「何だか源一クンは元気なさそうだねえ」
さわんなよッ! 人にイッ!! アタッ!
「痛ッ、痛チチチチチ」
「おうッ、危ないぞ」
「アァアァ、こぼしちゃって、チョッとオ、すいません、ダスター貸してえ」
「ハイ」
「君は相変らずそそっかしいのねえ、ン?」
変態! テメエがこんなとこで人にさわっからだろッ!
「イヤア、どうもどうも」
!
「上で根本君につかまりまして、どうも申し訳、ア、お知り合いで……源一イ? お前何してるんだア」
もう、知るかア。
「源一って?」
「イヤア、岡田部長、息子ですよオ」
「エッ! 君のッ!?」
「ハア」
やめてくれよなア、なんだもう、一体。なんだってこんなとこに家の親父が出て来んだよオッ! 冗談じゃねえよオ、もう俺死ぬよオ。
「こちら御一緒ですかア」
「エ、エッ」
「何なさいますか?」
「そうだな私は。部長は何か?」
「ア、私は向うで、イヤ、アノ」
「じゃ私はコーヒーを。部長もいかがですか? おかわりを」
「ア、ア、そうネ」
「じゃコーヒーを、あと二つ。アア、全部一緒につけといて」
「ハイ」
「イヤ、それは」
「マアマア部長。よろしいですから。で、お前達は何してんだ?」
「エ? (知らねえよ)」
「アア、あのですネ」
「こちらは?」
「俺のクラブの先輩」
「滝上さんとおっしゃるの、ネ?」
「ア、滝上です。イヤア、参ったな、実は今日そこのオリンピック体育館でバスケの日米対抗試合があったもんですから」
「ホウ」
「ア、あなたも、バスケットをなさる訳だ?」
「ハア、イヤ、今は受験でちょっと」
「そうオ、大変だ、それは」
「源一、お前今日学校はどうしたんだ」
「イヤア、すみません僕が誘ったんで」
「なんだってあんたが源一を誘うんだ、エ?」
バカ! 何考えてんだお前はア! 先輩はホモなんかじゃないんだぞッ!
「マアマア、木川田さん、息抜きということも必要じゃアないですか。ねえ」
「イヤア、今木川田と二人でそんな話をしてたとこです」
「そうオ、じゃ滝上さんはお詳しいんだバスケットに、ネ?」
「ハア、マ、やってますから一応」
「そう、じゃ今度一度案内していただこうかな。ねえ、源一、クン」
「先輩そんな暇じゃないよ(スケベッ!)」
「お前はどうしてそういう口のきき方をするんだ!」
「マアマア、今の人はそうだから」
「ハア。で、部長と息子とはどういう?」
「エ、ア、アア、ア」
「木川田の友達のお父さんだって言ってましたよ」
「アレ、部長のお嬢さんは確かまだ中学生だったんじゃ」
「アレ、じゃ女の子なんですか?」
「イヤ、ハハハハ、その、ア、女房のネ、弟が、その、女房と年が離れてるもんだから、息子と、その」
ウソつけえ、もう止めてくれよオ! こいつ極めつけの変態なんだぜえ。暇さえありゃア男のケツばっか追っかけ廻して、そんでいちいち「死んだ弟に瓜二つだ」って、ホント気違いだよ、本気でそっくりだと思い込むんだから。俺だって言われたし、俺の知ってる奴だって言われたし、そんで俺らが似てるかって言やア全然似てないんだぜ。もうホントにそう思い込んじゃってサ、そんでしつこく追っかけんの、俺もう去年大変だったんだからア。追っかけられてっ時はそうでもないけど、他の奴追っかけてっ時なんか、ヤッパ見ててゾッとしちゃうんだよな。気持|悪《わり》いよ。そんで今なんかもう俺と先輩と両方狙ってんだろ、何が部長だよオッ!
「しかし奇遇ですなア、部長」
「マ、これを御縁ということだわネ」
「ハ、こちらこそ」
「そうだア、木川田さん、さっきの話ね、パイプの納入の件」
「ハア」
「アレ、やっぱりオタクにお願いするわ、全部。後であたしが上行って話しときますから」
「エッ、アア、本当にそうしていただけますかア、アア、もうそれはそれは本当に、有難うございます。もうこの通り、有難うございましたッ!」
「ハハ、およしなさいよ、息子さんが見てるウ」
見てらんない。
「いやア、もうこういう機会ですから、自分の親が外でどんなに苦労をしてるかを息子に見せときませんと、もうホントに」
「そうねえ、お父さんも大変だア、ねえエ、源一クウン」
さわんなよッ!
「もう、どうしようもない息子ですからこれは」
「そんなことないでしょう、いい息子さんだ、羨ましい」
「もう私の言うことなんか聞きゃしませんから。これを機会にですね、幸い部長の、弟さんとも知り合いだそうですから、部長の方からも何かと御注意を一つ」
「マア私も若い人が好きだから、ねえ、源一クン、お父さんを困らせないで、ねえ」
「別にイ」
「もう、これですから、ハハ」
「いいじゃないの若いんだから。ねえ? あなたも、滝上さん、よろしく、ネ」
「ハア」
ホントにもう、なんだこの、バカヤロオ、テメエは自分の息子の体売って喰いつないでんのかよオ! 何が苦労だアッ、もうもうもう死んじまえエ! この変態ッ! 誰が手前《てめ》エなんかに先輩渡すかア! 何が仕事だア! そうやってねちっこくヤラシク生きてオッチンじまえ! もうなア、もうなア、日本なんかおしまいだよオ! いいかア、見てろオ、テメエらなんか目茶苦茶にしてやっからなア!
「先輩ッ! アレ見てッ! あすこ! 道路の向う側! 男が二人歩いてんでしょオ、オジンと若いのッ!」
「あの背広着てる?」
「そうッ! あれねえ、あの二人ねえ、ホモだよッ!」
「源一ッ!」
「ねえ部長さん! ホモだよねッ!」
「さ、さア、そう言われても」
「お前は何を言いだすんだ!」
「ホラア、先輩分るでしょオ、ヤラシイ感じ、するでしょう、ネッ、するよネッ!」
「そう言えばなんか気持悪いな」
「やだねえ、あんなの」
「俺達には関係ないさ」
「そうだよねッ!」
「そうだな。じゃア、そろそろ行くか、木川田」
「ウン。じゃオトヤン、俺達帰るから。どいてよオジサン!」
いいんだどうなったって、俺なんか、別に先輩に好きだなんて言われなくったって、ただ、一緒にいられりゃいいんだ、ズッと。先輩、普通の人だもん。俺サ、いいんだ。
「ホモなんて本当にいるんだなア」
「そうですネ」
「なんだ、木川田どうしたんだお前」
「なんでもないんです」
「そりゃ外で親父さんが頭下げたってしようがないじゃないか、そんなことで腹立てんなよ」
「ハイ」
俺、もう……。
「なんだ、泣いてんのか?」
「そんなこと、ない」
「サテと、帰るかア」
「あ、アノサ、先輩」
「ウン?」
「先輩、青学受けんでしょ」
「アア」
「だったら、ちょっと早いけど、下見に、行きませんか? 駄目? 青学まで、近くでしょ」
「そうか、行ってみるか? そうだな、よし、行こうぜ」
これでいいんだ、俺は。少しだけ先輩と一緒にいられれば、そんで。
「来年受かるといいですネ、先輩」
「ハハ。お前はどこ受けるんだ?」
「僕? どこ……受けようかな」
「お前も青学受けろよ、そうすりゃまた一緒だろう、ナ?」
やっぱり俺、やっぱり俺、先輩の後ついてく。だって、俺先輩大好きだもん。そんで、そんで、俺いつか先輩と、結婚すんだ。ネ、先輩、結婚してネ、ネッ。
「ン?」
チェッ、分ってねえの、ナハハハ……
温州蜜柑姫 おみかんひめ
―――――三年A組 三十八番 榊原玲奈
(三十九番 醒井凉子)
1
「その夏、私は十七だった」って、フランソワーズ・サガンが威張ってたわ。いいわよネ、フランス人は気楽でサ、「その夏」で「十七」で「悲しみよ こんにちは」だもんね。あたしだって、この夏チャンと十七だったわ。でも、高等学校三年生だっていう正体のバレてる日本娘が十七だったからって、別に自慢にも何にもなりゃしないのよネ、決ってるわ。
夏の間何してたのかっていえば、友達と会ったり会わなかったり、友達と夏期講習に行って友達と海に行って、人から後ろ指さされないように立派に夏休みを勤め上げて、後はおとなしくお勉強、それでザッツ・オールね。放っときゃ自治会の掲示板に「当団地から来春の大学合格を目指す方は次の皆さんです、どうぞ激励してあげて下さい。七号棟402、榊原さん家《ち》の玲奈ちゃん、十号棟614、田口さん家《ち》の祐子ちゃん、十二号棟……」ってビラでも貼りかねないオバサン達の執拗な視線をかわすにはそれしかないのよ。
いいんだけどサ、大学受験を来年に控えて身悶えする高校生の話なんかどうせあたしが生まれて来る前からゴマンと転がってんでしょう、世間に。あたしだって今更そんな特権振り回して、半赤メガネのオールド・ファッションド・ガールにされたくないしサ、ただ一言、「別にイ……」っていうだけよ。
そうそう、ホントに「別にイ……」よ。「別に」じゃなかったらなんなのよ、ちょっとでも怒鳴れば、「アア、やっぱりそうなのオ、フーン、大変ねえエ」って舐め殺されるし、シラーッとしてれば、「やっぱりシラケ世代よねえ」って島流し。ニコッと笑えば「感心ねえ」、ブスッとしてれば座敷牢――「そっとしといてあげましょうよ」って。分ってるんならいいでしょオ、放っといてよっていい加減頭来て怒鳴れば、アーアーアーア、「この一年の辛抱じゃないの、ネ?」って、トドメを刺されておしまいよオ。ホントになアにイ、絶対にこの世の中じゃ『チャート式・受験生の揚げ足取り』なんて本が隠れたベストセラーになってんだわ、決ってる。
ウットオシイったらありゃしない、悲しみどころの騒ぎじゃないわ、今から早くも倦怠期よ。フン、どうせそうでしょうよ、この夏私は十七だったわよ、悪かったわネ。
2
きのう祐子が妊娠した。ホントいえばいつしたんだかあたしに分りっこないけど、関係ないからきのうでいいわ。きのうの放課後、久美がやって来てそれを教えてくれたの。
「玲奈。玲奈、ちょっと」
「何よ」
「ちょっと」
いつもなら平気で人の教室にズカズカ入りこんで来る子が「ちょっとちょっと」で廊下に呼び出すんだから、マア多分ロクな用事じゃないだろうとは思ったの。
「何よ」
「あんたサ、ウチの田口祐子と、一応友達よネ」
クサイんだよねえ、こういういい方は。
「どうして?」
「ウン」
なんかロクでもなさがますます匂うわ。一応≠チてのは何よ、一応友達≠チていうのは。
「あの子がどうかしたの?」
「したの」
「何を」
「D」
阿呆クサ。Dネ、デッド・ロックのDね。ついでに言えばCはクロース・インカウンター、Bはビフォア・クリトリス、そんでAは多分アイソなし≠フ略だわ。
「あの子がパアなのは昔っから分ってるわよ」
「あんたとあの子が昔っからの友達だってのも分ってるの。ねえ玲奈」
「確かさっきは一応≠ェついてたと思うんだけど、ねえ久美」
「それは礼儀上」
「だからどうだってのよ」
「金を出せ」
「ジョオオダン」
「薄情ねえ、あんたって」
「どうしてえ、だって関係ないでしょう」
「あんたあの子と友達でしょオ」
「一年の時同じクラスだっただけじゃないよ。同級生が即お友達なら、あたしはこの学校でもう七十人もお友達が出来ちゃってる筈でしょ」
「校長に言いなよ、喜ぶから」
「バカ。そりゃネ、あんたみたく祐子と三年も一緒だったらいい加減お友達になれるでしょうよ。だけどあたしは違うもん」
「だけど玲奈、あんた祐子と同じとこに住んでんじゃないよ」
「あたしが祐子と同棲してるみたいなこと言わないで」
「でも同じ団地でしょ」
「あんた団地に恨みでもあるの? 何だと思ってるのよ団地を。団地が運命共同体だとでも思ってる訳エ? あんなとこ単なる地域共同体よ。アアヤダ、どうして共同体ってこうも淫らな感じがすんのかしら。一斉に蒲団なんか干すからよネ、アアヤダ」
「いいけどネ。で、出すの? 出さないの? そんなにヤなの? ネエ、悋嗇《りんしよく》女」
「スゴイわねエ。で、相手は誰なのよ」
「祐子の?」
「他にもそんなドジ娘がゴロゴロしてんの?」
「あんたも一々つっかかるわねえ。あの子よ。誰にも言っちゃだめよ」
「言う訳ないでしょ」
「あの子、大西クン、D組の」
「大西浩イ!? なアにイ、あの子まだあんなのと付き合ってたのオ」
「人のこと言えるか」
「何よ」
あたしと松村クンなら関係ないわよ。
「別に」
「そうオ」
ホントオ、好きねえ、もう二年も前の話よオ、祐子があたしに「ねえねえ、あたし、大西君とA、やっちゃった」って言ったの。ちょうど今頃でしょ。二周年記念プレゼントのつもり? AからDまで丸二年だもんネ。ワンステップ跳ぶのに半年じゃない。単語帳覚えんのだってまだ能率がいいわよ――ア、違う、CからDまで半年なんてことない、いくらパアでも八ヵ月ってことないから、AからCまで約二年だ、だとすると、アーッ、もうバカらしい、そんな計算どうだっていうのよッ!
「そりゃサ、あたしだって祐子がガクエン遊び人≠セったりすりゃ、あんたンとこにカンパしてもらいになんかこないのよネ」
「じゃアあの子がまるで優等生みたいじゃないよ」
「そうは言わないけどサ。マ、あんたがあの子のことパアだっていうのは分るわよ。でもサ、そうなっちゃったんだからしょうがないでしょう。だからサ、ア、あのサ、ひょっとして玲奈、あんたひょっとして祐子のことサ、ひょっとしてあんた、嫉いてる? ねエ、ホントの話」
!(ついでにあと四つ)≪いちにイさんしイ≫ ホントにサア、なアにイ。あたしもうさア、マジマジとこの子の顔見ちゃうわア。どうしてエエ。
「ねえ、ねえねえ久美イ、あんた本気でそんなこと考えてる? ねえ、嫉いてるって、どこの国の話よ」
「だろうネ、ならいいんだけどサ。あたしもまさかとは思ったんだけど、でも意外とひょっとしたりすることもあるかなとか思ったりしてサ……ネ」
あたしはやっぱりこの子の顔マジマジと見ちゃう。嫉いてるっていう言い方はヘンだけど、ともかく動揺してる子はいるわよ。あたしじゃないわ、久美よ。だってこの子、まだvirginだもん。
大体ヘンなのよ。妊娠なんかしちゃったらサ、自分一人で何とかしようと思うもん。そうじゃなかったら相手の男の子と、それと自分の一番仲のいい女の子と三人で何とかしようって相談するもんなんだモン。それで始末しちゃってからサ、「ネエネエあの子困ってるんだけど」って――それは勿論お金の事でよ――話は世間に拡がってくもんだと相場は決ってるでしょ。
今みたいに一応&tきの友達であるあたしンとこにいきなりこんな話が来るなんてそもそも異常なのよ。
「ねえ久美、このことあんたのクラスで何人ぐらい知ってんの?」
「七人ぐらいかな。あたしは杉山さんから聞いたんだけどサ。あんまり言っちゃだめよこんなこと」
「分ってる」
やっぱりそうか、無知|蒙昧《もうまい》な処女が教室でウロウロしてるだけなのか。杉山博美は祐子の今一番仲のいい友達で、露骨に処女でしょ。あと祐子の交際範囲の中で七人ていうと大体見当はつく。あすこら辺なんかオール処女だもん。毎ん日《ち》隣りのクラスじゃ七人の処女が集って「侍を雇うべえよ」なんて相談してんだわ。
だからサア、だからサア、だからあたしは処女なんかヤなんだ。バカだから。そんなことで群れ集ったらみっともないだけよ、そうでしょう。少なくともちょっとでも経験がある子だったらサ、「出来た」なんて聞いたら、一応「大変だな」とは思ってもやっぱり「ドジ」の一言でしょう。黙って見てるわよ、親友でもなけりゃ。そこら辺が神聖なる処女達には分んないのよネ。
表向き、高校生の性交渉がどうしたこうしたの話には、「そんな大胆にしてられるのは一部の人達でえ――」とか言って、もう少し本音は「人は人、あたしはあたしで関係ないわ」だけど、でももっと本当の事言えば何にも分ってないだけでしょう。分んないなら分んないでいいのよネ。それをサ、如何にも一部の人達≠カゃないことの証明みたいに延々と二年もかけてやるような常識にかなった身近な子が妊娠したとなるとスグ「あたしはあたし」じゃなくなっちゃうんだから。
あたしも女であれなんだけどサ、女って自分に直接関係ないことって深刻にしないと納得できない傾向があるみたいネ。だって所詮花嫁道具のお飾りにしか過ぎない短大受ける子程「受験受験」って深刻に勉強してるわよ。久美だってそうよ、一見普通そうな顔してるけど、ホントいえば深刻な事件≠セと思ってるに決ってるんだ。
「ねえ玲奈、あんたなら分ってるだろうけどサ、今みたいな時期にまずいじゃない。ネ、Dなんてサ」
「そうネ」
今みたいな時期がいいんじゃないよ、今みたいな時期逃したらいつ女子高校生は妊娠すんの? 一年なら「ヤアネ、あの人」、二年なら「遊んでるウ」、三年の一学期なら「あの子就職すんの?」、夏休み前なら「夫婦きどり」、十月過ぎれば「計算間違いかア」、冬休みなら「淫乱!」、三学期なら「ノイローゼ?」よ。今以外にいつしたらいいのか教えて欲しいわ。夏の太陽は伊達に黄色かったんじゃないのよネ。こんな大ッピラにヘマ≠ェあやまち≠ノ転嫁されるのは夏休みをおいて他にないじゃないよ。
そんで二学期になると、今までつまんない冗談言って生徒の機嫌とってた教師は待ってましたとばかりに中年の本性さらけ出してニコリともしなくなって、一方、夏の終りのトタン屋根の上でジタバタと未練がましくも休み呆け≠ノ取りすがってた生徒達は自分達のとりつくしまがなくなって後は大学で遊ぶことだけに希望をつなぐしかなくなったことに気づかされるの。それが今よ、九月の終りよ。普通の子の妊娠にはドンピシャの時期よ。
[問]
文中の空欄に最も適当な語句を、後の語群から一つ選び、その記号で答えなさい。
「受験受験で明け暮れていた僕の高校時代、その僕にフトこれでよかったのだろうかと疑問を投げかけるきっかけを与えてくれたのが級友Tの[ ]でした」
(a)失恋騒ぎ。(b)自殺。(c)非行。(d)妊娠事件。
――こんな阿呆らしい問題すぐ分るわ。
[模範回答]
(a)――戦前の話。(b)――年寄り好みの純文学。(c)――今時そんな根性ある子いない。故に正解は(d)である。
あたし達はこんな見えすいたことやっちゃいけないと思うの。事件なんか何も起んないのよ。そりゃ第三者には事件が起った方が受験体制のひずみで楽しいでしょうよ。でも現実の高三なんて退屈なだけだわ。あたし達はジッと退屈に耐えて「いつか見返してやる」と思って大人達のこと黙って見てるだけだわ。それが一番のイヤガラセなのよ、それなのにサ、
「ねえ玲奈」
でも現実に事件は起きて、
「ねえ、可哀想じゃない、助けてやんなよ」
はた迷惑なことに、あたしも高三で、
「本気でイヤ?」
久美はあたしのこと、見てる。
「別にいやでもないけどサア」
ここであたしがまたゴチョゴチョ言い出したら、それこそあたしは決定的にヤナ女にされてしまうんだ。初めのウダウダは可愛《かわい》気《げ》ですむけど、最後までウダウダで通せば完全なエゴイスト。そんなの許されないのよネ。みんな一通りにエゴイストだから、それ以上にエゴイストなのは抹殺されるだけなんだ。やっぱりあたしだってそんな風に孤立したくないしサ、
「いくら?」
「一応千円ネ」
「千円かア、ハタ迷惑な話よねえ」
「しょうがないんじゃない、女の宿命だったりするとサ」
あたしはそんなとこで絶対いっしょくたになんかされたくないと、思う!
「でもあたし今お金持ってないよ」
「明日でもいいよ。ア、それともあんた、近いから祐子に直接渡す?」
「それでもいいよ(ホントはやだけど)」
「じゃ、これにて一件落着ね。ホントに大変よネ」
「そうネ」
あたしは久美のこと、もう少しいい女だと思ってたんだ。口は悪いけどたっぷりお肉はついてて、あたしは勝手に母なるイイ女≠ンたいに思ってたけど、矢ッ張り限界かなア。別に処女だからって訳じゃないけどサア、結局人のいいお嬢さんなのかなアって思うの。
「玲奈、帰るでしょ?」
「ウン」
「じゃカバン取ってくるから待っててネ」
六時間目の授業が終ってまだ三十分も経ってないのに廊下はガラーンとしてて誰もいない。校舎の一番端のあたし達の教室から六クラス分の廊下がただガラーンとしてるだけ。去年なんか男の子がここでスケボー転がしてて、「人にぶつかったらどうすんだッ!」て学担に怒られてたけど、今なんかぶつかりたくたって誰にもぶつかれないわ。転がせるもんなら転がしてみなって廊下が挑発してるだけでサ。
「お・待た・せ」
「ウン」
「行こう」
「ねえ久美、あんたサ」
「ウン?」
「やっぱ美大行かないの?」
「ウン。やっぱサ、親としてはあるみたいだからサ、娘がマンガ家みたいなヘンなもンになるのは心配だとかってのが」
「そうなの?」
「ウン、一発当てれば大儲け出来るって言ったんだけどサ、俺はまだお前に養って貰おうとは思わんよ≠チて。お前が好きならば別に反対はせんけどもオ、そんならそれでエ、大学はチャンとお行きよ娘と言っとりました」
「どうしてエ?」
「ウン? ホラさア、マンガなんて一応創作な訳でしょう、だからア、そういうことやるんなら絵の勉強もそうだけど、一般教養とかサ、そっちの方がもっと必要だっていうワ・ケ。ホントもうさア、近頃は素人だってマンガスクールの審査員みたいなこと言うからネ、参るよ、全く」
「あんた自身としてはどうなの?」
「あたしイ? あたしとしてはサ、やっぱりそうだろうなアとかは思うよオ。一応マンガ家になりたいという希望は捨ててはいないわけだけどサ」
「アレどうした、夏休み描いてたの、何だっけ『夏の』? 『夏のメリーゴーラウンド』」
「やめてよ、恥かしい」
「応募しなかったの? マンガスクールに」
「したよ、したけど、佳作だもん」
「へー、また名前載ったの? スゴイじゃん」
「そんでもサ、名前だけ載ったってしょうがないんだよネ。あたしはサ、応募して二回目にいきなり期待賞≠ナしょ」
「ウン」
「やっぱあすこら辺があたしの限界かもしれないなアって思うわけ、この頃は」
「どうしてエ、そんなことないよオ」
「だってあれから三回応募して、一回コケて二回が佳作でしょ、名前載っただけだしサ」
「だってそんなになんの大変でしょう」
「シロウトはサ、シロウトはそんでいいの。考えても御覧よ、ちょっと名前載っただけでサ、簡単にプロになれちゃうんだったら世の中少女マンガ家だらけだよ。あたしだってサ、高校出ていきなりマンガ家になりまアす≠ネんて家跳び出て、あんまり将来誤まりたくないもん」
「でも少女マンガ家って高校出じゃないと勤まんないっていうじゃない」
「そんなの昔の話よ、高卒の少女に栄光が待ってたなんて。今なんか高校出て出版社行って作家先生紹介してもらって、アシストやって、終りよ。アシスタントなんて体力だけだもん。やっぱそんなしんどいのヤじゃない。現実はそう甘くないのよ」
「フーン、そうかねえ」
結局この子も孤立したくないんだよネ。あたしだってそうだけど、やっぱ孤立したくないから大学行くんだよネ。
「アーア、面倒臭い面倒臭い、どっかにあたしをさらってってくれる男いないかな、なんていったりしてサ、ガッハッハッ」
「今の男はみんなスレンダーだわよ、久美ちゃん」
「どういう意味よ」
「別段どうとも」
斯くして女の子の幻想は受胎告知に一種の羨望を見出すのでありました――飽くまでもあたしを除いての話よ。面白くない話。
それできのうはそのまま家に帰って、机の抽出しを開けて、お小遣いは貰ったばかりだから机の中にチャンとあったけど、どう考えても損だと思って、それに十号棟の614号室じゃ田口祐子がどんな顔して待ってるのかと思うと、あたしはやっぱりおぞましくて、頭来て思わず机の上をドン、ドン≠ニ叩いてしまった。
よせばいいのにウチのママはその音を聞きつけて、ひょっとして娘の気が狂ったのかと期待半ば恐怖半ばで顔を出して「どうしたの、玲奈ちゃん?」と、言った。614号じゃ絶対に「どうしたの、祐子チャン」なんてセリフは聞かれないくせに。あたしばっかりそんなこと言われてサア、ホント損だわ、憎ったらしいったらありゃしない。
それで今に至るも千円札はあたしの机ン中にあるんだ。分ってます、あした学校で、チャンと久美に渡します。
ホントに損だわと、しつこく言ってやるのだ。
3
アーア、何に腹立つかっていえば、生意気にも入学試験をやるという大学に対してなのではなくて、それは飽くまでもあたしが現在通っているコオトオガッコオに対してなのです。
それは何故かというと、あんまり真面目な顔してバカクサイことをやっているからなのです。
それは何かというと――エーッと、ここで一応説明しときますと、あたしは決して成績は悪くないのだということでエす――言ってしまった。
あたしは別に「人並に大学だけは行っといたら」と親に言われて仕方なく勉強している中産階級ムスメでは(この「は」は「ワ」ではなく「ハ」と発音する)なく、一応どこの大学へ行くのかは自分で決めている健気姫《けなげひめ》だということです。
それがどこかというと、エーッと、一応なので、そんなこというとみんな笑うに決ってるから、言わない。ホントいうと絶対にそこに行きたいかどうかはよく分んないみたいなとこもあるから。
でもあたしなんかいい方よ、女子なんか大体志望校決めんのイイ加減なんだから(男子だって分りゃしないけどサ)。きっとこんなこと書けば世間のオジサンはあたしのこと不真面目だって言うだろうけどサ、そんなこと言うんなら自分の娘にチャンと聞いてみればいいと思う訳。ホントよ、絶対みんなそうだから。
それだからこんなことを真面目に考えているあたしは健気姫なのです。以上終って話は元に戻ります。
何故ウチのコオトオガッコオがバカクサイかというと、第一にコオトオガッコオだからです。
つまり予備校だと国立文系とか私立理系とか医学部コースまでキチンと分れてる訳だけど、ウチの高校はそこら辺スッゴクいい加減なワケ、やり方が。
何ていうの、自分とこは飽くまでも都立受験高校≠フクセしてサ、表向きは東京都立普通之高等学校≠チて見栄を張りたい訳なのね。ヨソなんかだとハッキリ国立私立文系理系って分けて撰択させてるとこもあるけど、ウチはそんなセコイことしてないと思いたいらしくて頑《かたく》なに文系理系の二本道で通してるの――別にあたしはヨソみたくして欲しいとも思わないけどサ、要するに大雑把にやっとけば予備校より格調高くやれると信じてんのよ、カッワイイ!!
だからサ、あたし達は受験生∴ネ外の何物でもないのにも拘らず、扱いとしては飽くまでも高三≠ナ通されてる訳。バカらしいわよ。
つまりサ、高三は一応高校生でしょ。だから入試とは別に高三としてのお勤めがある訳。お勤めって何だと思う? それ聞いたらバカらしくってもう「教育問題」なんて論じたくなくなるからア。
それは何かというと、「保健」ネ、それと「政経」ネ。「保健」たって性教育と関係ないわよ、人間の血は体ン中でどう流れるかとかサ、伝染病がどうしたってことよ。これ何か重要なことなの? 十七、八の入試を目前にした青少年にとって?
「国の仕組」なんかどうでもいい事だからその分さぼって内職に精出せって訳? 政治に背エ向けてパートで稼ぐのなんか結婚してからでいいじゃないよ、ねえ。今からそういう状態に慣れといて将来立派な主婦になれっていうのオ。
それならそれでサ、「保健」や「政経」の教師をもう少し説得しといて欲しいと思う訳。普段は、自分が無視されてんの分ってるから死んでるみたいだけど、チョッとしたことがあると目茶苦茶に荒れてサ、ホントにハタ迷惑よネ。あれで自分の職業に疑問感じないのかしら。あたしも一応先生に同情はするけどサ、でも自分達のがよっぽど可哀想だから放っとくわ。
だって高校生が高校生らしく「保健」や「政経」チャンとやってると、担任は言う訳、「それもいいけどな、肝腎な方はどうなんだ」って、クサーイ顔してサ。だからって受験生の本領発揮して露骨に内職すればサ、「ここは予備校じゃないッ!」って怒るでしょ。ホント、スゴイと思う。あたし達、学校の虚栄心のオモチャにされてんのよネ。あんまり過ぎるわよオ。
そしてエ、都立普通之高校大虚栄心極め付け大会は何かというとオ、ジャーン! それは正に、彼の|L・H・R《ロング・ホーム・ルーム》以外の何物でもなかったりするのです。
要するに何かっていえばサ、お話し合い≠諱Aお話し合い=Bでも実際間題としてお話し合いする事なんか何にもなかったりしてネ、ハハハ。だから原則としてこの時間は「自習」でありたいというのが暗黙の了解としてみんなの間にある訳。
だけどもサ、そういつもいつも自習だとサ、ホラア、高校生らしくないでしょオ、ハハハハハハ。だからア、毎週何かについて一応お話し合いはなさる訳、あたし達。
マア、必死になってお話し合いの材料探して来て一時間|保《も》たせようって気はあるんだけどサ、やっぱりノレない話ってあるでしょう、そういう時はどうしても途中で自習に変るわネ。だってあんまりあからさまにドッチラケだったりするとサア、いくら何でもあたし達学校なんかにちょっと来れなくなるのよネ、シラケて。そこら辺あたし達ってかなり微妙よ。
「磯村君どうですか?」
「べつにありません」
「じゃア、仲川君」
「アノ、やっぱり必要じゃないかと、思います」
「大崎さんはどう思いますか?」
「エッと、あの、あたしも、一応仲川君と同じです」
別に誰も意見なんかないから司会に指名されて椅子引いて立ち上がる音が目立つだけネ。この分じゃ今日のL・H・Rもドッチラケの口だわ。あたし達が「文化祭について」を今話し合ってどうすんのよねえ。これは多分始めっから自習を目指す計画と決りました。
「木川田君、内職止めて下さい」
司会の萩原クンが言った。
「アイヨ」
あたしの愛するオカマの源ちゃんが答えた。かなりヘンな言い方だけど、今この教室で一番男っぽい子ったら、ひょっとしたら源ちゃんかもしれないな。だってL・H・Rで内職やって見え見えお勉強少年と思われたくないっていう他の民主主義人間の思惑無視して悠然と内職やってるの、この子だけだもん。
「文化祭について木川田君、何か意見ありますか?」
「意見? 何言う訳エ?」
「木川田ア、ディスコディスコ」
西窪君、不規則発言。この子いっつもそうなのネ、軽薄の極みよ。去年文化祭でディスコやったことしつこく持ち出して、今年は自分なんかなんにもする気ないクセにサ。ニヤニヤするな! おぞましい。
「木川田お前得意だろ」
「そんなの昔の話」
ワーイ、ザマミロ。
「大体さア、今文化祭の話してどうするワケ。早いとこ決《けつ》とってサ、参加すっかどうか決めて終りにすりゃいいんじゃないの。ンなロクな意見でねえんだからア。意見終り」
今こういう正論吐くの源ちゃんだけよ。この子偉いの。だってサ、授業さぼってまで予備校飛んでく迫力のある子、この子だけだもん。そりゃいじましく予備校行く子はいるわよ、でもこの子違うんだもん。予備校にはサ、いる訳、彼の愛人《アミ》が。
それは源ちゃんのクラブの先輩で、滝上クンていうんだけど、彼今年青学受けてサ、こけた訳。それで源ちゃんは泣いて喜んでネ(この二つの感情は同格≠ナす)、二人揃って、受験生≠ノなった訳。だから源ちゃん学校じゃ徹底して三教科しかやんないしサ(だって今まで全然勉強してないんだからそうでもなきゃ現役は無理でしょ)授業終れば、または一方的に終りということになったら、スグ予備校の自習室にスッ飛んでって、二人肩並べて勉強してんの。こんだけ動機と目的が明確な子、受験生の鑑《かがみ》でおかしくないと思うわ。
「エッとオ、今木川田君が言ったことで決を取りたいと思うんですけど、そのことに異議ある人、いますか?」
「ハアイ」
「ア、片山君」
「あのサア、そんなの目茶苦茶だと思うんだよねえ。だってサア、参加するとかしないとかサア、つまり僕等の自主性な訳でしょオ。それでいけば当然さア、僕等の内部にある衝動っつうのが問題になる訳じゃない」
それでどうなのよ、コウモリ男。
「つまり参加不参加は何やりたいかっていうテーマによって違って来るでしょオ。やりたいことが何もないんだったら不参加にすればいい訳でエ、まずやりたい事があるのかどうかを先に話し合うべきだと思うんだよネ」
「今片山君からそういう意見が出たので、エッと一応そういう風にしたいと思います」
大体萩原君て何なの? 自主性のカケラもないのよネ。だから平然と「文化祭について」なんてドッチラケのテーマで司会なんか出来るんだわ。
「ア、ハイ」
「ハイ、片山君」
もう二人でやって。
「それからサア、要するにそういう風なテーマが決るとサ、当然そうなると思うんだけど、それはサ、好みの問題になると思うんだよネ結局は、そのテーマなんかは。だからそうなるとサ、それはクラス参加とかっていうんじゃなくて、飽くまでもやっぱり『三A有志』参加になると思うんだけど」
なんだア、結局そうかア。要するに自分は言うだけ言ってサ、もし万一なんかでクラス参加になったら自分だけ逃げたと思われたくないもんだからサ、有志参加にして大ッピラに逃避したいだけなんじゃないよ。アア、ヤナ男。ゴリゴリのエゴイスト。
そんでおまけにこの片山――コウモリ男――守男は早稲田受けんだよネ、あたしと同じで、アッ! 言ってしまった。もういいや。あたしは一応志望校早稲田ってことになってるの。『青春の門』と関係ないわよ。関係ないけどこんなコウモリ男と同じ大学行くのなんか絶対やアネ、にらんでやる。
「その事で誰か意見、ないですかア。榊原さんなんかどうですかア?」
なんであたしよオ、やアねエ、あんなバカにらむんじゃなかった。アーア。
「でもねえ、有志参加で行くんだったら初めっからこんなとこで討論したって意味ないと思うのねえ。どうせさア、誰も文化祭でやりたいことなんてないと思うのよねえ」
「そんなこと分んないだろオ」
「じゃア片山クンは何か参加したいテーマがある訳エ」
「別に」
「そうでしょオ、だから早く決《けつ》とってクラス参加しないって決めちゃえばいいんじゃないのオ」
「ハハハハハハ」
「女ニヒリストオ」
笑ったの源ちゃん。そんで後の方は西窪のバカ。もう嫌い嫌い大ッ嫌い、あんな男!
「そんな目茶苦茶なこと――」
「ハイ、片山君」
「言いだしたらサア――」
「身も蓋も無いんだよなア」
「西窪クン、言いたいことあったら手エ挙げて言ったらア(あたし言っちゃうわッ)」
「西窪君、意見ありますか?」
「別にありませえん」
「ハイ」
「榊原さん」
「どっちでもいいから早く決着つけて貰いたいと思います」
「どっちでもいいってどういうことなのかなア――」
「ハイ、片山クン」
「ア、つまりサ、有志でやるのとクラス全体でやるのとじゃ、はっきり違う訳でしょオ」
そんなつまんない事が違うのあんただけよ。なんであたしはこんなつまんない事で喧嘩腰になんなきゃなんないの?
「あ、のオ」
「ハイ、醒井《さめがい》さん」
「わたしイ、は、あの、榊原さんの意見とは、あの、反対なんで、す……」
あたしの言ったことのどこに反対されるような具体的な意見があったって言うのよオ。ホントにおとなし城のグズリ姫まで手エ挙げちゃうんだから今日のL・H・Rなんか大正解ネ。
「あの、まず、希望を、文化祭で何やりたいかっていうのを、最初にイ、出し、合うのがあの、順序だと思うんです、けどオ」
「そうだと思うよ」
美人に助けて貰って嬉しいでしょうよ、コウモリ男は。
「じゃア希望があるかどうか、エッと、文化祭でこういうことやって参加したいっていう意見ある人いますかア?」
シィイーン。
だから言ったでしょ。
「何にもありませんか?」
ありません!
「醒井さん、さっき意見言ったけど、何かやりたいものありますか?」
ある訳ないわよ。
「わたしは、あの、他の人がやりたくないっていうんなら、だけど、去年はディスコティックやったから、今年はやるんだったら、わたしはあのオ、お化け屋敷がやりたいと思うんですけど」
ウッソオーッ!! どうしてエ、何気が狂ったの?
この人今までH・Rで意見言ったことなんて一遍もないのよオ、それが口開いたら「お化け屋敷」って、どういうこと?
「あの、他のクラスなんかでは、よく喫茶店なんかみたいな模擬店やりますけど、それはただお客様が来るだけで、エッと、あれだし、あの思うんですけど、お化け屋敷だとコミュヌケイションがあっていいんじゃないかとか」
この人いつも小さな声で喋ってるから分んなかったけど、英語の発音スゴクいいのよネ。それにしてもスゴイ論理展開よねえ、どうしてお化け屋敷がコミュニケーションな訳? 抱きつくから? これだけ目茶苦茶なこと考えてれば当然声も小さくなるわよネ。
「お化けってサア、君何やんの?」
この際不規則発言は全員の意志代表しちゃうわネ。
「あの、あたし……マリア様」
なんだ? なんだ? 一体それは?
「だってあの、こわいわよ、ホントのこと言って……」
遂にこの人怯えて坐っちゃった。何考えてんのかしら? ヘンな人ねえ。
この人サ、どこのクラスにでもいると思うんだけど、黙ったきりで全然いるんだかいないんだか分んない人種の人な訳。一応マア、美人て言うのかな、テストの成績だって悪くないんだけど、マアはっきり言って時代に乗り遅れた人な訳よ。名簿なんか見ると某有名ミッション系女子中から都立来てるから――これマリア様≠ニ関係あんのかな? ――そんだけでチョッとイワクありげなんだけどサ、一年ン時から同じクラスだった子に聞いたら、どってことないつまんない人なんだって。なんかそれでこの人にまつわる神話は消えたわネ――バカな子がいてサ、彼女の家が没落して金払いきれなくなって都立来たんじゃないか、とか言ってネ、そんな話もあった訳。
もっとも男子の間の評価ってのはまた別でサ、我がクラスでは唯一人女≠ニしての待遇を受けてらっしゃるんだけど、マ、いってみりゃ体のいい仲間外れよ。おとなし城のグズリ姫≠チてあだ名だけど、一部でははっきりキャリー≠ナあったりする訳。マ、大旨女子というものは、残忍よ、いじめやすい人種に対しては。
「エッと、それで今ンとこお化け屋敷やるって案しか出てないんですけど、これで決《けつ》とっていいですか?」
いいわよいいわよ、早くして。
「ハイ、質問」
「片山クン」
「決って、どういう決とるんですか」
「エッと、それは、文化祭で、お化け屋敷をやるかどうかっていう」
「それは飽くまでもクラス参加になる訳?」
「エッと、それはア」
「ハイ」
「ア、ハイ、藤浦君」
「さっきから聞いてて思うんだけどサ、あんまりバカバカしくない? つまりサ、僕等にとって文化祭はどういう意味があるのかって話し合うのは、それで意義ある事だと思うんだけどネ。でも現実問題としてネ、僕等がそういうことやって遊んでられる余裕があるのかっていうことなんだよネ」
あたしはサ、思うワケ、自主性の勝利だなって。藤浦君みたいな立派な人がチャンといるからサ、学校もあたし達にL・H・Rなんて危なっかしいこと平気でやらせとけるのよネ。
ホント担任の憎ったらしいこと、さっきからズッとあたし達の話なんかロクスッポ聞いてなかったのに、今の藤浦君の話なんか、もっと露骨に聞いてないもんネ。あれじゃワザと聞いてないの見え見えよ。
「それと、さっきから片山が問題にしてんのは、討論の進め方なんだろうけどサ、僕が間題にしたいのは、今こういう時期に、はっきり言って入試を目の前にしてってことだけど」
そりゃあなたははっきりしてるでしょうよ、東工大一本なんだからア。
「お化け屋敷なんてバカげた事は論外だと思うんだよネ」
可哀想、醒井さん真ッ赤になっちゃった。あたしは時代遅れの技術者《エンジニア》より、同じ時代遅れならお姫様の方が好きだわ。要するに藤浦君は初めっから遊ぶのが好きじゃない人なんだもん。去年のディスコだって自分が興味ないから執拗に反対したしサ、そんな人にここ来て、入試を盾にとってあたし達の世界観まで蹂躙《じゆうりん》して貰いたくないわネ。
「今僕等が入試と、それから中間試験前にしてサ、ここでお化け屋敷について手を挙げるか挙げないかやってるのは喜劇以外の何物でもないと思うんだよネ。だから今更だけど僕としてははっきり不参加を提案したいと思います」
喜劇だっていうんなら入試目前にして高校三年やってる方が余ッ程喜劇じゃないよ。よく喜劇だなんて言葉使えるわよネ。遊ぶっていうんならL・H・Rだってお遊び以外の何物でもないでしょう。ともかくあたしはあんたみたいな公式見解人間におめおめ追従《ついしよう》したくないわネ。
「じゃ、決とります。藤浦君のいう不参加に賛成の人」
十二人。
「じゃア、醒井さんのお化け屋敷に賛成の人」
「ハイ」
ウッソオーッ! どうしてエ、どうしてあたし一人よオ!
4
なんだかんだ言ってもヒマ人ているのネ。「ヒマ人」を、一般社会を意識した表現にすれば受験体制から逃避したがっているヒ弱な若人≠フことだけど。なんだか知らないけど有志というのが五人集ってお化け屋敷をやるという騒ぎになったわ。
おかげであたし達は教室でははっきりバカと烙印を押されてしまった。源ちゃんなんかあたしの事「ヒマ女」の一言よ。考えてみればあたしなんか去年の文化祭スッポかしてたんだから、よくよく根性が曲ってることになるみたいネ、いいけど。
文化祭の準備と称して放課後教室に残ってはみたけど、まだ三週間も先のことだし、適当にやろうってことになって、体のいいおしゃべり大会になったわ。でもこんな時に籠城しようなんていう男子は、言っちゃ悪いけどあんまり有能じゃない人間揃いで、なんとなくいるだけって感じだから、自然とあたしは凉子姫――醒井凉子姫と女二人でボソボソお話しするようになってしまったの。
「ねえ醒井さん、あなた大学どこ行くの」
「私? 私は父に女子大へ行くように言われてるから、聖心か……」
「あなただったら女子大の方が向いてるみたいネ」
「そう? ……榊原さんは、早稲田受けるんでしょ?」
「一応よ。あたしは別の所受けようかなと思ってたんだけど、そこの受験科目って国語だけなのネ、英語の他に。現国と古文。現国の受験勉強せっせとするなんてバカらしいでしょう。だから先生が一応早稲田受けてみないかって言って」
「榊原さんなら大丈夫でしょう」
「ダメに決ってるわア、あんなとこオ。だってサア、結局先生なんか自分の生徒がいいとこ行って自分の成績上がればいいと思ってるだけでしょう。誰でも片ッパシからチャレンジさせちゃうじゃない」
「ホントに篠崎先生って、チャレンジっていう言葉が好きねえ」
「ア、あなたもそう思う? あたしもそう思うのネ。なんかサア、ホラ、チャレンジってあれじゃない、酔ッ払いがサア、その気もないのに、ヨオヨオ姉ちゃん、今晩付き合えよッ≠トいうのに感じが似てると思わない?」
「……あなたって、大胆ね」
「そうお?」
「あたしはとても、ダメだわ」
「でもサア、あなただって相当よオ」
「何故?」
「だってえ、お化け屋敷がコミュニケーションだなんて言い出すんですもん」
「いや、もう止めて、恥かしいわ」
「あたしあの時一体この人何考えてんのかしらと思ったわよ、ホントの話。だってねえ、なんかさア、あなたのお化け屋敷観て、ア、こんなこと言うとまた言われるかな」
「何を?」
「大胆だとかってサ、マ、いいわこの際、みんな帰っちゃったことだし。だってさア、あなたが言うお化け屋敷って、まるでピンク・サロンよオ」
「そんな風に、聞こえた?」
「ウン、あたしの感受性が異常なのかもしれないけどサ、おまけにマリア様だなんて言い出すし」
「あの時わたしもどうかしてたみたいネ」
「やっぱりイ」
「なんであんな事言っちゃったのかなって思って、ズッと恥かしくって、だから採決の時でも手なんか挙げられなかったんだけど」
「そうだと思うわ」
「わたし、中学まで高崎にいて」
「じゃ転校して東京来たの?」
「そうなの、父が会社を東京へ移すので。それでズッと田舎にいたんだけれども」
「会社移すって、あなたのお父さん、オーナーなの?」
「オーナーっていっても、新橋に小さなビル一つ持ってるだけだから」
持ってる? ビルを?
「じゃ、あなた、社長令嬢なの?」
「そうだけど、でもホントに小さな会社なのよ、従業員だって百二十人しかいないし」
何が没落した≠諱A大金持じゃない、やアねエ。
「榊原さん何か誤解してるのよ、ホントに大した会社じゃないんですもの。それでネ、ア、あのわたしね」
「フンフン」
「あの、田舎にいた時、お祭りなんてあるでしょう」
「ウン」
「それであのオ、お化け屋敷なんて来るのよネ」
「へーエ、いいわねえ」
「エエ、田舎でしょ、だから。それでお友達はみんな出かけたりするんだけど、わたしは父がいけないっていって」
「やっぱり令嬢って違うのネ」
「ウウン、そういうのとは全然違うんだけど。一遍だけお友達とこっそり行ったことがあって」
「アア、そういう幼児体験があった訳?」
「エエ、楽しかったわ。それで高校来たら大抵どこかのクラスが文化祭でやるでしょう」
「中学じゃそういうのなかったの?」
「あそこはカソリックだからそういうのは禁止されてるの」
「じゃ、あなた高校来て三年間お化け屋敷やりたいってズーッと考えてたの、黙って今まで?」
「別にそういう訳でもないけれど……そういう面もあった、かもしれないわね」
正直ねえこの人、自分が何言ってるか分ってんのかしら。
「でもウチのクラスじゃやろうっていう人いないし、他の教室でやってるからわたしも入ってみたいって思うんだけど、どうしてもよその教室に一人で入るのって、あれでしょう、勇気が、いるでしょう」
「あなたってスッゴク内向的なのネ」
「そうみたいネ……だからあなたのこと、羨ましかったみたい」
「本当? バカにしてたんでしょう」
「そんなことないわよ」
あたし今まで殆んど口きいた事ないっていうよりも、彼女に興味なかったのよネ。奇しくも出席簿順に並ぶと彼女あたしの後なんだけど。だってサいつも黙ってて一人でフ≠チて唇の端を上にして立ってるでしょ、何考えてんだろうって、思うだけでしんどいのよネ。あたしだって忙がしいしサ、ヒョッとしたら人のことバカだと思ってるかもしれない人の事なんて、構っていられないじゃない、ネ。
「ヘエ、変った取り合わせじゃない、まだ帰んないの?」
「アレ、松村クン、あなたまだいたの」
「チョッと文芸部なぞという所へ行って遊んで来た」
「あなたもヘンなとこ好きネ」
「文化祭に出す文集に書かせないかって言ったんだけどサ、あいつらパアなんだよな。全然分んないんだから」
「パアじゃなくてもあなたの文章分るの大変だと思うわよ」
「意識の問題だよ、それは」
「今度何書いたの?」
「『三里塚世界革命に於けるマカロニほうれん荘症候群』、君読む?」
「遠慮するわ」
「いい加減君も旧人類的なんだよな」
「だって難かしいんですもん」
「榊原さん」
「ア、ごめんなさい」
「わたし、先に失礼するわ」
「そう?」
「エエ、もう四時でしょう、こんなに遅くなったのわたし、初めてですもの」
「四時だなんてどってことないじゃないか」
「あなたの規準とは違う人もいるの」
「そうかな」
「そうよ」
「じゃアネ、また、楽しかったわ」
「ウン、明日ネ、ありがと」
「さようなら」
「さようなら、お嬢さん」
「止めなさいよ、からかうの。サ、あたしも帰ろうかな。あなた帰らないの?」
「アア、帰る帰る。ところで君、醒井嬢と何してたの?」
「話してただけよ、何故?」
「イヤ、ありがとうなんていうからサ」
「あなたはサ、あたしのことまだ旧人類の尻ッ尾つけてるなんて言うけどサ、世の中には旧人類どころか類人猿に近い人だっているのよ」
「そりゃいるに決ってるサ。殆んどがそうだって言った方がいいくらいだろう、何故?」
「あなたはサ、そういう人バカにするけどサ」
「キミだって相当なもんだぜ」
「そうだけどサア、可哀想な人だっているのよオ」
「彼女?」
「ウン。醒井さんて三年間学校来てて殆んど友達と口きいたことなかったんだから」
「無口なんじゃないの」
「そんなことないわよ。今だってチャンと喋ってたもん」
「じゃ今まで言語化能力に欠けてたんだろ」
「冷淡ネ」
「そうサ、そういう能力は自分で開発してかなきゃ人類はいつまでたってもこの段階に留ったままじゃないか」
「そうそう、あなたエスパーだもんネ」
「キミは意識革命をスペオペ風に短絡してとらえてんだよな」
「どうせあたしはパアよ。ねえ、松村君サ、あなた醒井さんが社長令嬢だって知ってた?」
「アア」
「どうして知ってんの、そんなこと?」
「俺のクラスに彼女と一年ン時同じクラスだった奴がいてサ、そんでクラス名簿見てたんだよな」
「だって名簿見たってあの人の父兄欄には『淑徳総業株式会社』しか書いてないわよ」
「なんだキミ、『淑徳総業』って知らないの?」
「ウン、有名な会社?」
「有名ってば有名だけどな」
「フーン、じゃ彼女謙遜してたんだ、大したことない大したことないって言ってたから」
「そりゃあんまり大っぴらには言えないかもしれないなア」
「どうして?」
「だってピンク・チェーンの元締めだもん」
5
あたしも悪いこと言っちゃったと思ってねえ。でもサア、そんなのしょうがないわよねえ。あたしが『ロリータ・チェーン』の本社の名前知ってる訳ないものねえ。彼女はああいう人だしサ、あたしが「ピンク・サロン」とか「酔っ払い」って言ったのに傷ついてまたビトッと陰に籠られたりすると責任感じちゃったりするでしょう。
あたしは別に持ってないけど、彼女がロリータ<Rンプレックスなんか持ってたりすると可哀想だし、結局の所ひょっとしてあたしも女の話し相手求めてたりしたのかもしれないけど、あって、あたし達年柄年中くっついてるみたいな感じになっちゃったのネ。だってあの人可愛いいのよ、「きのう母に言われたのよ、凉子さんこの頃帰りが遅いのネって、フフフ」なんてスッゴク嬉しそうに言うんですもん。
だからこの頃は大概駅前の喫茶店に二人で五時頃までいるわネ(たまには松村クンも一緒にいるけど)。それまでは話があっても大体教室で立ち話だったんだけど、もうこうなったらそんなとこで受験生の義理たててる必要もないやと思って、そうしちゃったの。あたしもそういう所でスッゴク縛られてたみたい、いっそセイセイしたわ。
「ねえ凉子さん、文化祭のことだけど」
「エエ」
「何だかあんまりパッとしないみたいネ」
「やっぱりみんな受験があるからでしょう」
「でもそれはあたし達だって同じじゃない?」
「そうだけど」
「あなた勉強進んでる?」
「エエ、家に帰って一通りはしてるけど……」
「あなた偉いのねえ」
「でもそれぐらいしかすることがないし」
「そういう説もあったわね」
「榊原さんは何してるの? 家で」
「別に、普通よ。ただこの頃あんまり勉強する気になんなくて」
「スランプね」
「あたしそういう言い方あんまり好きじゃないな」
「ごめんなさい」
「いいのよ別に」
「でも今、早稲田難しいでしょう」
「ウーン、そうなんだけどサア、ただあたしここんとこ来て迷ってるのよネ」
「何を?」
「あたしは別に先生の言うみたいに無責任なチャレンジしたくないし」
「じゃ、いつか言ってたもう一つの方を本命になさるの?」
「そういうんじゃなくって、大学なんてみんな同じでしょう。ただサ、難易度だけじゃない、違うの」
「エエ」
「それで一学期に志望校提出する時もかなりいい加減だったんだけど、要するになんであたしは志望校を決められたのか、と思う訳ネ」
「エエ」
本当にこの人あたしの言うこと聞いてんのかなア、段々不安になってくるわ。
「それで思うんだけど、教室に電話帳≠るじゃない、あの『螢雪時代』の増刊」
「エエ」
「休み時間なんかみんなする事ないとあんなの見てるけどサ、その時志望校なんか決ってないとどこ見ていいか分らないのよねえ、あんな厚いの。でもサ、なんかアレめくって見るの義務みたいになってるでしょう」
「やだア、義務だなんて、おかしい」
「義務だと思うわあんなの、脅迫がましい」
「ア、その脅迫がましいっていうの何となく分るわ」
「そうオ? だからサ、ここ受けるって決めちゃえば見る所《とこ》決って、楽じゃない? こんなのってヘンかしら!」
「そうネ」
どっちなのかなア、この人時々曖昧な合槌打つから困るのよネ。
「女子なんかどうして大学行くのかなア。男子だったらサ、行かなきゃ会社入れて貰えないっての分ってるけどサ」
「でも榊原さん、あたしはもう少し、勉強したいわ」
「あたしだって当然そうよ」
「ア、ごめんなさい」
「一々謝まらなくっていいわよ」
「エエ」
「凉子さん、大学行って何やりたいの?」
「わたしは月並だけど、英文科に、行きたいわ」
「月並っていえばどこの学科行ったって月並よオ」
「きびしいのネ、榊原さん」
そうかなア、ヘンなとこでヘンな合の手入れられるとズッこけるわ。何しろあたしの目の前には女の塊り≠ェ坐ってるもんだから、自分が余計キンキン娘みたいな感じしてくるのよネ。
「榊原さんは大学で何なさるの?」
「あたしは一応ネ、心理学なんてやりたいかなとか思ってるけど。もうこんな話止めない」
「そうね」
「それでサア、話はお化け屋敷なんだけど」
「エエ」
目の輝き方が違う!
「あなたどうする?」
「どうするって言われても、わたし具体的には全然分らないわ。わたし、榊原さんみたいに創造能力がないから」
「あたしだってないわよオ、そんなのオ」
この人、人のこと何だと思ってんだろうネ、自分でお化け屋敷だなんて言い出しといてサ。
「ホラ、凉子さんあなたサア」
「なアに?」
「あなたマリア様やりたいって言ったじゃない」
「エエ、でもあれは違うのよ」
「ウウン、違わない違わない、あなたマリア様やりなさいよ」
「だめよ、そんなの、無理だわ」
「いいわよ、やりなさいよ、あなた髪の毛長いしサ、こわいと思うわよ、赤ン坊抱えてサ、ニッて笑うの、口が耳まで裂けて」
「出来ないわよ、そんなの私に、榊原さんやって、ネ」
「あなたのが適役よ、こういうのは美人がやらなくちゃ怖くないもの」
「わたしなんか全然美人じゃないわッ」
「あなた美人よオ、絶対化粧映えのする顔だもん。やりなさいよオ、みんな驚くと思うの、ネッ」
「だめよだめよ、あなたやって、わたしそういうの全然自信ないもの、絶対絶対榊原さんの方が適役よオ」
なんだかこれホメてんだかケナシ合ってんだか分んない話ねえ。あたしも自分で言っといてなんだけど、お化け屋敷に聖母マリアが立ってていいもんかしら? この人何の疑問も感じてないみたいだけど、一体カソリックって何教えてるの?
「榊原さん? 思い出したんだけど、田舎で見たのネ。その赤ちゃん、仕掛けでお地蔵様に変るのよ」
変なお化けと一緒にしないでエ!
「お地蔵様ってあなた、その赤ちゃん誰だと思ってるの? イエス・キリストよ、分って言ってる?」
「そうだったわネ。じゃ、食べちゃうのは、駄目?」
「何を?」
「赤ちゃん」
真面目な顔して恐ろしいこと言う人ねえ、日本の教育はどうなってるのかしら。
「ねえ、コワク、ない?」
あなたの方が余ッ程コワイわ。
「どうやってやるの、そんなこと?」
「あのネ、パンをネ、赤ちゃんの形に焼いて、その中にミート・ソースを入れておくの、それを持っててネ、ガブリって、かじっちゃうの、フフ、ホラ、そうすると口の周りが真ッ赤になるでしょう、駄目かしら?」
そういえばこの人、家庭科の時間嬉々としてケーキ焼いてたような気はするなア。
「抜群だと思うわ」
「本当? うれしい、賞められたの初めてよオ、学校来て。どうも有難う」
「でもそれあなたがやるのよ」
「パンだったら、ウチのオーブンで焼けると思うわ」
「違うわよ、かじる方よ」
「それもやらなくちゃ駄目かしら?」
「言い出した以上責任はあるわよ」
「わたし、出来そうもないわ、とても」
「出来る出来る、やってごらんなさいよ」
「笑われないかしら?」
「誰が笑ったって関係ないわよ。だってあたし達はもうH・Rで手エ挙げた時から笑われてるんだから。ネッ」
「そう、ね」
「今更誰にも笑うことなんて出来ないと思うわ。こうなったらもう、あっけにとらせてやるのよ、ネッ、やろう、ネ」
「あたしに出来るかしら」
「根性でやるの、あたしがついてるわよ」
「だったらわたし……あの、チャレンジして、みるわ」
担任がこのセリフ聞いたら泣いて喜ぶだろうなア、知らないけど。
「でもそうなると馬小屋やなんか欲しいわねエ、凉子さん」
「馬小屋?」
「ベツレヘムのよ」
「そうね。お墓とか提灯もいるでしょう、あと、卒塔婆《そとば》とか」
多分この人、仏教系のミッション・スクール行ってたのネ。
「明日木島君達と相談しようか、あの人なら美大受けるからそういうこと得意かもしれないし、でももうあんまり時間ないから大したこと出来そうもないネ」
「それに今週の日曜は模試があるでしょう」
「多分そんなに凝れないネ、机で迷路作って、コンニャク置くぐらいかな」
「コンニャク?」
「顔に当ると気持ち悪いでしょう。あと床に敷いたりネ」
「ああ、そういう仕組なのオ。じゃアサ、榊原さん、あなた見積り出して下さる?」
「見積りイ?」
「だって生徒会から補助金が出るでしょう?」
「あなたビル建てるんじゃないわよ、何千円出ると思ってるの?」
「何千円て、そんなに少ないの?」
「決ってるじゃない」
「そうだったの、それじゃ何も出来ないわネ……あの、差し出がましいんですけど、よかったら私に任せて下さらない」
「何を?」
「父の会社の関係で内装の方専門にやってる所があるの、そこだったら多分言う事を聞いてくれると思うわ。あと、ライティングとかP《ピー》・A《エー》もいるでしょう」
「ねえ、凉子さん、ロックフェスやるんじゃないのよ、分って言ってる?」
「エ? ア、そうよネ、そうだわ、そうね、分ったわ」
多分、分ってないと思うなア、この人は。
6
流石《さすが》にP・Aとまでは行かなかったけど、凉子姫は本当に「父の関係」をライト・バン一台分呼び寄せてしまった。
文化祭の前の日、ストロボ・ライトに小型のスポット、暗幕(これはあたし達の教室二つ分楽に包み込めるだけの量があった)、馬のぬいぐるみ(!)、ハリボテの丸太数本、衝立てみたいになってる竹藪と古提灯(中にはピンクのも紛れ込んでた)、墓石らしきもの(多分元は墓石だったんだろうけど、現在は発泡スチロールの塊りと言った方が正確なモノ)に、お化けのお面と白装束。更にはどういう訳かビニールの桜の造花と雪洞《ぼんぼり》セット(いいけどサア、でもここは飽くまでも教育の場ではあったりするのよねエ)まで入った箱をあたし達バカ組がせっこらせっこら運び込んだ時、ウチのクラスの受験生達は眼の色変えて狂喜した――ザマアミロ。
それまであたし達のことを揶揄《やゆ》以外の目で見やしなかった西窪クンは、「どうしてこういうこと黙ってたのかなア、去年言ってくれりゃもっとスゴイこと出来たのにイ」とか凉子姫に言って、彼女は例の如く「ごめんなさい」って謝ってたけど、あたしはそんな必要全然ないと思って、無視してやったわ。
それで大体の段取りをつけてから、後は美大志望の木島君に任せて、あたしと凉子姫は秘密任務遂行の為、醒井邸へ向った。あたし達の「聖お化け屋敷帝国」もあのおとなしい木島司令官じゃ平民達に乗っ取られてしまいそうな危険性があったけど、ここまで来たら平民達の思うままにさせといてもいいんだと思って、放っといたわ。あたし達大勝利だもん。
凉子姫のお屋敷が大きいんだか小さいんだかは夜だったんでよく分んなかったけど、中は普通の家だった――当り前よネ、いくら『ロリータ・チェーン』の生みの親でも私生活までそうだったら大変なことになっちゃうもん。ただ台所の流しは、TVのCMってこういう生活程度を規準にしてやってるんだなって納得出来るだけの大きさだったわ。
そこであたし達二人は十一時過ぎまで、ウロウロする二人のお手伝いさんを尻目に汗みどろになってパンを捏《こ》ねた。
凉子姫のお母さんは病気がち≠ナ顔を見せないし、お父さんは娘が台所にいる限りは何も文句を言わないという非常に恵まれた環境であったので、あたしはリラックスして行動出来たけど、さすがにパン種を寝かし終えた時は、「これで明日やれるのかなア」と思えるぐらい消耗していた。少なくともあたしに関して言えば。
「凉子さん、お風呂沸いてますから、お友達と御一緒に」
お手伝いの成ちゃんが言った。
「ハアイ。榊原さん、よかったら先に入って」
「ウン。でもよかったら一緒に入らない? 明日早いでしょ。サッサと寝ちゃった方がいいと思うもん」
「エエ、でもわたし、今日は止すわ」
「どうして? 駄目よオそんなの、あなた明日主役よオ、綺麗にしてなきゃ駄目じゃない」
「エエ、そうだけど」
「だってあなた、三ツ編パーマするんでしょう、髪洗わなくっちゃ意味ないわよ(一体ここは誰の家よ?)、ア、あなたひょっとして、アレ?」
「エ? ウ、ウウン、違うわよ」
「じゃア早いとこしちゃいましょうよ。その髪の毛全部編んじゃうの大変だもん」
「そうね、分ったわ。じゃ、入るわ」
この人、自分の家でまで遠慮してるのよねえ。困るわ、あたしがメチャ図々しいみたいで。
「凉子さん、あなたきれいな体してるわねえ」
脱衣場で裸になった時、あたし思わず言っちゃったわ。ホントそうなんですもん。こんなこと言うの実際癪ではあるんだけれども、ある意味でやっぱりあたしの体は日本人的である訳。安産型ではあるけれども、母乳で行くとなるとどうだろうかという――何勘違いしてんのよオ! あたしはそんなヘンなオバサンみたいな体型してる訳じゃないわよ。自分で自分の体冷静に見て一応そう謙遜して言ってるだけじゃないよ。チャンと足だって長いしサ、ただ腰から腿の部分がちょっとあるだけだってサ、それ以外足だけとってみれば少年の脚とそう変りはないと思うわ、あたしの脚は。ただサ、如何ンせん、客観的に見た場合胸が少しと言《ゆ》うかネ、あってサ、でもエグレてるとかサ、そういうんじゃないもんネ。そんなこと言えば日本人の八十パーセントはAカップでしょう、あたしはチャンと人並だと思うわ。
でもサ、凉子姫っていうのは決定的に違うんだよネ。つまりどこが違うかっていうとサ、男と女の違いがあって、それはどこが違うかっていうと具体的に、エッと、どこだろ? ホラア、だから「保健」なんかやったって何の役にも立たないって言うのよネ。
マ、それはとも角として、エッと、そう。『プレイボーイ』やなんかあるでしょう、男子が見てるからあたしも見るんだけどサ、バカそうな女が載ってるじゃない――こういう風に言えば嫉妬してるって思われてヤなんだけどサ、でもそうよ、よくあんな顔出来るって、口半開きにしちゃってサ、ワザとらしい訳じゃない。あたしだったらもっとチャンと自然に女らしく出来るとか思うけどサ、マアそれはおいといてエ、一応ネ――時たま、ホント綺麗だなアって思う人がいる訳よ。普通の女だとサ、「アァアァ一生懸命裸になって」とか思うんだけど、完全に裸になってる方が似合ってる人がいる訳。この人着物着ちゃったら却っていやらしくなるんじゃないかとかサ、そういう人な訳。
彼女オレンジ色の下着つけててサ、それもカリフォルニア・オレンジというよりは、温州《うんしゆう》みかんという感じのネ。あたし達後ろ向きになって服脱いでたから――当り前でしょオ、女同士でお風呂入る時にジロジロ眺めまわすバカいる訳ないじゃない、そんなの男の幻想よオ――分らなかったんだけど、チラッてオレンジ色のモンが飛び込んで来たのよネ、目の端に。あたしはオレンジなんて色似合わないしサ、余ッ程色が白くでもなきゃオレンジが飛び込んで来る訳ないんだけど、それであたしは、またスゴイもの穿《は》いてるなアと思ってサア。だって世間の相場から言えばこういう人は純白である訳でしょオ、下着はア。でもマアこの人は黙ってお化け屋敷の人だから黙って温州みかんということもあるかもしれないなと思って、そんでマジマジと見てしまった訳、あたしは。
彼女は「エ?」と一言いったきりそそくさとお風呂場に行っちゃって――少なくともここの家は「浴室」といえるものはあるわネ、「浴槽」だけで済ましてるあたしの家とは違って――あたしは、「ひょっとするとアアいう羞恥心は男を刺激するのに有効であるかもしれないかな」とか思った。でもそれがそのままあたしに役立つかといえば、個々の肉体の拠って立つ所が違う以上役には立たないであろう、とは思うけどネ。
あたしの肉体だとやっぱりその基盤は弾力≠セと思う訳ネ。マア友達の久美みたいにグラマラスがBカップの中で泳いでたりすると皮下脂肪も大したもんだと思うけど、凉子姫の肉体の場合には皮下脂肪という言葉を持ち出したらイヤラシクて目もあてられないと思う訳。
骨格がきゃしゃという訳でもないんだけどネ彼女は。でも何て言うのかな、あたしみたいに肩の骨が自己主張してたりはしないのよネ(失礼ねえ、そんな怒《いか》り肩連想しないで、あたしは筋肉女なんかじゃないわよオ、知らないのあなた? 洋服は肩で着るんですからネ、あたしは一番洋服が似合う体型してるんですもんねエ、失礼)。
それでエ、彼女の体の自己主張に関して言えば、恐ろしいことに、何もない訳、自己主張が。腕はすんなり胸はたわわ、腰はほっそりお尻はバン! だけど、どこか一ヵ所「ここだ!」って強烈な所がない訳。
あたしが体をザッと流して湯舟に入ろうとすると、先に入ってた彼女はさっと出ちゃって――別に狭いからじゃないわよ――反対側で髪を洗い始めたから、あたしは見るともなく見てたんだけど、「肌はほんのり桜色」ってこういう時に使うのね。
ボーッとしちゃって、官能の本質というものはとらえ所のない所にあるのではないか、とか思ってサ、伊達《だて》におとなしやかにしてんじゃないなと納得したわ。
それでお風呂から出た後、あたし達はバスタオルを巻きつけたまんま、凉子姫の部屋の鏡台の前で明日の準備を始めたの。
彼女の髪の毛は癖がなくてたっぷりと長いから、そのまんまでも清純な処女懐胎で行けるんだけど――でも実態は飽くまでも温州みかんよ――お化け屋敷でもあったりするしネ。それにやっぱり彼女みたいな人にそういうことやらせるんだといつもの日常生活の延長線上にあるのとは違ってやった方がいいと思ってサ、エキゾチシズムで迫ろうということになった訳。
ホラ、ルネッサンス頃の女の人って長い髪縮らせてサラッとさせてるでしょう、あの時代パーマなんてないからサ、アレ毎晩侍女に髪の毛細かい三ツ編みにさせて縮らせてた訳よネ。山岸凉子(ア、奇しくも同じ名前だ)のマンガによく出て来るじゃない。神秘的な横顔で長いローブ身にまとってサ、アレで行こうってことになったのネ。だからあたし達はそれをせっこらせっこらやってる訳。
しかしこれは単調な作業でネ、彼女は鏡台の前に坐ってるからいいかもしれないけど、あたしは立ったまんま手伝ってるのよオ、いい加減くたびれちゃうわよ。
「しっかしこれは大変ねえ、一時間ぐらいで片がつくかと思ったけど、とんでもなさそうねえ」
「榊原さん、あなた湯冷めしそうだったらガウン出しましょうか」
「まだいいわ、ちょっと汗かいちゃうもん」
「フフ、でもなんかおかしい、この頭。半分土人の子みたいでしょう」
「明日になったらみんなアッと言うわよ」
「わたし心配だわ」
「平気、平気って。ねえ、凉子さん、あなた脇、抜いてるの?」
「エ?」
「毛」
「……、目、立つ?」
「ウン? 全然、スッゴク綺麗よ、あたしも抜いちゃおうかな、痛い?」
「エ、エエ」
「やっぱり一々剃ってるのってメンドくさいでしょう」
「そうネ」
「ねえエ、あたしってスッゴクバカなのねえ、子供ン時にねえ、女の人って脇毛なんて生えないもんだと思ってたのねえ」
「…………」
「だからホラ、女性用のシェーバーってあるでしょう。アレねえエ、スネ毛剃る為のモンだと思ってたのよ、オッカシイわねえ、だってサァア、毛深い人っているでしょう。小学校の時のねえエ、音楽の先生だったんだけど、女の先生よ、若かったんだけどスッゴク毛深かった訳、足なんかネ。ストッキングの下で毛が渦巻いてる訳、ホントよオ。だからあたし達それ見てて、狩野センセイ――ア、その先生狩野っていうのネ――みたいな人ってそんなに一杯いるもの?≠ネんて話してたの。だってサア、そんな人が一杯いなきゃシェーバーなんて売れないでしょう」
「そうネ」
「そしたらネ、他の子が来て、やアねエ、違うわよ、アレはワキの毛剃る為にあるのよ≠チて言うから、あたし達そんなもん生えないと思ってたでしょう。だから、ウソよウソよ≠ネんて言ってサ、おかしかったの。クシュッ、ア、湯冷めするかな? 凉子さん、よかったら上に羽織るもの貸して下さらない?」
「ハイ。わたしの寝巻で悪いんですけど」
「いいわよ」
「これどうかしら?」
彼女一貫してこういう所の趣味、スゴイわね。ホント、弩《ど》ピンク色のベビー・ドールだもん。あんまり平然としてこういうもの出すからサ、ホラ人ってそういう所で何か言われると傷つくでしょう、だからあたし、おとなしくそれ着て上げたわ。彼女は伊予柑みたいなオレンジのネグリジェで、またそれにフリルが目茶苦茶ついてるのよねえ、人って分らないわ。この人普段学校じゃ地味なグレイのスーツ着てるのに。
「凉子さん、あなたいつもこういうの着て寝るの?」
「そうよ、可愛いいでしょ」
ガクッ。
「そうよねえ」
「榊原さんはいつもどういうの着ておやすみになるの」
「あたしはただのパジャマよ」
「あなたはそういう快活なものが似合うのよネ」
「快活っていうかなア、よく分んないわ」
普段地味な恰好《かつこう》してるとその反動でこういう密室的な所に抑圧がはね返るのか、それとも本質的に支離滅裂な趣味だからバレるのがヤバくて普段地味な恰好してるのか、どっちかしら? マリア様の衣裳だって「白でシンプルなの」って念押しとかなきゃどんなの仕立てて来るか分ったもんじゃなかったもんネ。ホント、あらかじめ点検しといてよかった。
「ア、それでさっきの話のつづきネ」
「なアに?」
「シェーバーの話」
「エ、エ」
「それで中二の時かなア、夏でネ、体操の時間水泳だったのネ。それで初めて水着着るから、前の日鏡の前で着て見てた訳、カッコつけてネ。あなたそういうことしなかった?」
「わたし?」
「あなたみたいだとしないのかなア、ア、凉子さん、リボン取って」
「ハイ」
「ウン。それでネ、マリリン・モンローみたいに腕上げて、鏡にビタッてくっついて色目つかってたのネ。そしたらサ、ヘンなモンが見える訳、脇に。丁度梅雨が明けたころだったからサ、まさかとは思ったんだけど、カビでも生えたかなとか思っちゃってね、キャハハハハハ、ホントバカよねえ。あたし、脇毛っていきなり黒いモンかと思ってたのねえ。だってさア、男の人だとそうでしょう。その頃だとまだ男子だってそんなの生えてないからサァア、脇毛だなんて思わない訳よねえ、だから気がついた時ショックでさア、ホントよオ、愕然としちゃったわア。あなたってそういうことなかった?」
「わたし?」
「ウン。あたしってそういう所で何ていうのかなア、スッゴク自分が女であること憎んでたりしたのネ、言い方はおかしいけど、だからそんな風に思ってたの」
ホントに、憎んでたんだわ、あたし、醒井凉子みたいな女を。
生理が始まる前、小学校の四年生か、五年生ぐらいだった頃、クラスにはもう始まってる人がいて、あたしは見て分ってたの。ホントにいやだったの。その人は見るからに女で、動きも鈍くて、頭も鈍くて、成績は悪くなかったのかもしれないけど、でもあたしは頭も鈍いんだってきめつけてたの。だって一挙手一投足に媚《こび》がまつわりついてるのよ。あれで鈍くなかったら嘘だわ。
あたしだってそうなるんだって分ってたけど、でも分ってたからこそ許せなかったの、あたしも同じだっていつも鼻先で見せつけられてる気がして、あたし達はいつもそんな子を仲間外れにして遊んでたわ。だってホントにみっともなかったんですもん。あたし達の周りにいるクラスの男の子達はいつも気高くて、あたしもそうありたかったんだけど、でもその子が来るとはっきり汚れるの、ホントにいやだったわ。
小学校の六年の時に、来て、それっきりあたしは目をつぶる事にしたの。それっきりあたしの体に何が起ろうと何が生えてこようと関係なかったわ、だってもう覚悟は出来てたもん。そんなとこでジタバタしたらみっともないに決ってること分ってたから、もうそれ以上みっともなくなりたくなかったの。自分は女だって分ってたし、それ以上汚ならしくもなんともないと思って、平然としてたわ。でもやっぱり所詮あたしは子供だったから、ぬけてたのよネ。脇の下まで頭がまわらなかったんですもん。
ああいう所って一番最後に来るのよネ、忘れた頃に。それまではただの女≠ナ済んでたのがただの女≠ヌころの騒ぎじゃなくって人間の女≠セってなるから愕然とするのよネ。髭が生えようと何しようと男の子なんか£j≠ナある限りあたし達をおびやかさないけど、でもそんな風に人間の男≠ニ人間の女≠セったりすると耐えられないのよネ。だって繋がってるんですもん、生臭いわ、自分の体が。
「男性ホルモン」て言葉聞くだけで恐ろしくて、自分に欲望を認めるのがこわいのよ、自分がどこ行っちゃうのか分らなくて。だからあたしはその徴候が出て来た時パッと蓋《ふた》しちゃったわ。だって剃っちゃえばなくなっちゃうんですもん、どってことないのよ。ズッと忘れてたんだわ、そんな事。
今鏡ン中に醒井さんの顔が映ってるけど、頭蓋骨から何本も黒い紐がぶら下ってるみたいで、みっともないの。ひょっとしたらあたし、彼女をみっともなくさせられるからこうやって一生懸命手伝ってられるのかもしれないって思わないでもない。そういう感情、やっぱりあるもの。
「大体終ったわ。榊原さん、後ろはどう?」
「ウン、もう終りよ」
「大変、もう一時よ、明日六時に起きないと間に合わないでしょ?」
「そうネ。ハイ、終ったわ」
「どうも有難う。フフ、おかしいわネ、この頭」
「そうネ、何となく。もう寝ない、凉子さん」
「エエ……ねえ、榊原さん」
「ウン?」
「わたし、へん、に見える?」
「朝になればチャンとなるわよ」
そんな真剣な顔して聞くことないのにネ。
「そうネ。じゃ寝ましょう、わたしのベッドで狭くて悪いんですけど」
「ウウン、別に」
「あの、わたし暗くして寝るんですけど、あなた明るい方がいい?」
「あたしも暗くていいわ」
「そう、じゃ消すわね。おやすみなさい」
「おやすみ」
こういう風にビラビラのベビー・ドール着て女同士で寝るというのも妙に落ち着かないわね。もっとも人の家というのはいつでも落ち着かないものではあるけれども。サ、早いとこ寝よう。
「榊原さん?」
「ウン?」
こうして同じベッドの中で身じろぎもしないというのはまた、不気味でもあるわネ、なアんて言って、
「なアに?」
「榊原さん、あなた……オナニー、なさる?」
次の瞬間彼女がこっちに寝返りを打ってかかりそうな気がして、あたしははっきり、恐怖した。
7
その晩の事って、あんまり言いたくないわ。だって、あまりにも、何ていうのかなア、ナマ、なのよネ、要するにナマっていうんでもなくって、つまりサ、いやなのよネはっきり言って、ああいう風に自分の肉体にこだわりを感じ続けるって。
エッとその、エッと、オナニーとか、その誰でもする事をサ、つまりその、そういう事を持ち出さないと自分のこと言えないとかサ、なんかいつも肉体そのものが自分にビトーッてくっついてて平気でいられる感覚っていうのが、いやなのよネ。
彼女、中学ン時女子校でいじめられたって言うんだけどサ、当り前だと思うのネ。もしあたしだってそこにいたら、いじめる方に当然まわってると思うわ。つまり女の中にはサ、いる訳、その同性として見てて耐えらんないとこばっかり目立つ人っていうのが。多分中学時代の彼女ってそうだったんだろうと思うのネ。殊に女子校なんかだとサ、周りに男がいないから、そういうヤナ女目の前につきつけられても気が紛れない訳じゃない。だからいじめられて当然なのよ。そうでもしなきゃ自分までその女のぐじぐじしたとこが感染しちゃうんだから。
彼女が言うにはネ――一応順序立ってるんだから――その、田舎にいた時はお金持ちのお嬢様だったっていう訳。つまり、元地主でいろんな商売やってたりして、そんでピンク・キャバレーというのもそのお父さんの事業のワン・ノブ・ゼムだからどってことなかったって言うのネ。そんで彼女自身は、マア早くから女≠セった訳だから、一応別扱いで丁重にもてなされてる訳、中学まで。
そんでお父さんが、その、積極的に事業というものに目覚めてサ、何しろ一番景気いいのがピンク・キャバレーだから、それ持って高崎から東京まで進出してくる訳ネ。それが中二の二学期で、彼女も東京の学校に転入してくる訳だけど、そうすると田舎じゃ名家のお嬢さんだったのが東京来るとサ、田舎|者《モン》でグズのピンク≠フ娘になっちゃう訳。それだって初めっからみんなと一緒だとサ、そんなこと簡単に誤魔化せるけど、転入でしょ、浮いちゃうのよネ。
そんな風にしてて元からおとなしかった人が孤立して半分自閉症風になってる時にサ、体操の時間に着替えてたんだって、みんなで。それまであたしと同じで、彼女自分の体にワキ毛が生えてるのなんて気がついてなかったっていうんだけど、それをそん時に見つかったのネ、それもクラスで一番派手なグループに。
言われた訳。「ヤダア、醒井さん、あんた何繁らしてんのよ」って。こういうこと言うんだよねえ女はまた、目|敏《ざと》く見つけてサア。だからそんなの放っときゃいいのに、彼女はまた素直に反応してサ、真ッ赤になってへたりこんじゃう訳。マアねえ、分るんだけどサア。
そんで悪いことにはネ、そん時一緒にいた子が「高崎山」って言ったんだって。彼女は何のことか全然分んなかったんだけど妙に頭に残ってて、ある時それが「九州の高崎山の猿」のことではないのかと、パッとひらめいた訳。そんなこと何のことだか分んないんだからサ、ひらめかなくったっていいと思うのよネ。言った方がパアで群馬県と九州ごっちゃにしただけかもしんないんだからサ。
それを彼女は御丁寧に一人でキチンキチンと解釈なさってく訳よ。高崎は田舎だから山奥で高崎山なのであろう、自分は田舎者であるから山猿なのであろう、自分は猿並に毛深いのであろう、そうなってくると自分は猿なのであるからきっと異臭を発しているに違いない、そうだとするとその源はどこであろうっていって、どんどんどんどん自分の肉体の中に深入りしてっちゃう訳。それをまたあの晩あの人はサ、そういう抑えつけといたもの一遍口にしちゃったもんだから、スンゴク具体的に言う訳あたしに。真ッ暗なベッドン中でそういう話聞かされてごらんなさいよオ、なんかホントにベッドン中が饐《す》えてくみたいでたまんないわよ。
あたしは「明日早いからもうよさない」って言うんだけどサ、彼女は「エエそうね、エエそうね」って言って、どんどんどんどん先に行く訳。あたしは参ったわネ。そんで自分は話すだけ話すと、「楽になったわ、おやすみなさい」って、コテンと寝ちゃうし、あたしはいきなりそんな話ドッと聞かされたもんだから落ち着かなくて寝られないのよネ、ひどい目に遭ったわ。
そんで自分は次の朝一人で起きてサ、頭から黒い紐∴齡tにブラ下げたまんま「ランランラン」て感じでパン焼いちゃって、「おはよう榊原さん。あなたよく寝てらしたからわたし一人でパン焼いちゃったわ、どう?」って言って、寝呆けてるあたしの目の前にこんがり焼けてテカテカ光ってる赤ン坊%ヒき出すのよネ。あたしは人喰い人種の家に泊ったかと思って、モロ焦ったわ。
8
そして、文化祭は成功裡だかなんだか知らないけど終って、あたしはまた元通りの受験生に突き戻されてしまった。
あたし達に全部任せっきりにしてたクラスの連中は、たまたま一ン日だけヘンなこと出来てめっけものだったってはしゃぐだけはしゃいで、スグまた元の生活に戻ってったけど、あたしはそうなるとなんだか少刑帰りの非行少女みたいで、「なんだよオ、あたいだって人並みにお勉強は出来ンだからねエッ」って感じがして、勝手に卑屈になってみんなの後をついて行った。ホントについて行った≠ネの、ひどいわ、人にみんなやらせといてサ。
それにひきかえ彼の凉子姫は、文化祭の後、顔を上気させて「来年サロメがやりたいわ」と、あたしをズッコケさせるような事平然と言って、そのまま意気揚々と元の日常生活に帰って行った。ホント、大したもンよ。結局今度の事で一番トクしたのは彼女みたいネ。
あたしは他の人にしちゃいけないってことは分ってたんだけど、でもどうしても黙ってられなくなって――アアいうことは伝染病と同じで、他人にうつさないとどうにもなんないのよ――久美に電話して凉子姫の事を話してしまった。
久美は受話器の向うで、「ヘエーッ、へんな女ねえ」「そうなのオ、ヘエーッ、すごい趣味ねえ」「なアにイ、そんな風に言うのオ」「やアねえ、あんたそんなの平気で聞いてたのオ」って言って、あたしは一々ごもっともなんだけど、凉子姫の天真爛漫な顔思い出すと、「別に、そこまでひどくないんだけどネ」とか弁護したくなって、結局よく分らなくなってしまった。
おまけに凉子姫は、あたしが「パティ・スミスなんか自分のLPの写真に平気で脇毛生やかしてるわよオ」って言ったもんだから、おっかなびっくりレコード屋に飛んでってニューヨーク・パンクの女王のレコード買い込んで来て――レコード屋で男の子に「キミ、パティよく聞くの?」って声かけられたんだって、よかったよかった!! ――「わたし『牝馬』って、好きよ」って、聞きようによってはスゴイこと言うし、こないだなんか先生が来るまで教室で「紳士用トイレへようこそ」なんてこっそり英語で唄ってるのよ。またあの人リズム感ゼロだからさア、パティ・スミスなんて結構合ったりするのよネ、不思議と。
あたしが「人前でそんな歌唄っていいの?」っていうと、「だって家では気がひけるでしょう」なんて言うしサ、おりもの≠ヘどうしたのよ、おりもの≠ヘア、あたしもう言っちゃうわア、ホント大したもんよ、あの人は。
それでも凉子姫なら「他にすることがない」で勉強が出来るからいいだろうけど、あたしは普通の人間だからそうも行かなくて、赤ペン握っては机の前の計画予定表にらみつけるんだけどサ、全然塗り潰せないのよねえ、そんなの。だから悲しくなってサ、これは予定表がいけないんだと思って、もっと塗りやすいような予定表を作ってから勉強に励もうとか誤魔化して、そんなことばっかやってるから全然勉強なんか進まないしサ。気がつけばアッという間に十一月も半ば過ぎててドサクサ紛れに十八にはなっちゃうし……もう十八よ、十八、あたしもうババアだわア、アア、もう、ホントにホントにどうしよう。
「玲奈ちゃん。お電話、松村さん」
「ハイ」
「よかったら、ママお断りしましょうか?」
「いいわよ、別に、出るから」
「ちょっと多過ぎない?」
「何が?」
「お電話よ」
「そんなの知らないわよオ、向うがかけて来るんだもン」
「あなた、そういう事言って」
「モシモシ――悪いけど黙ってて――代りました」
「今晩は。僕だけど、君さア、明日の放課後付き合ってくんないか、話があんだけどサ」
「いいけど、でも、あたし達明日放課後面接があるのよ進路決定の」
「アア、僕等今日あったよ」
「ア、そう」
「それ終ってからでいいからサ、『プラット・ホーム』来てくんない」
「いいけど、でも四時過ぎちゃうよ」
「いいよ、俺さ、大学行くの止めたんだ」
「エーッ、どうしてエ」
「いや、また長くなるからサ、明日話すよ。そこに君のオフクロさん居んだろ」
「ウ? ウン。いるよ、エ? ひょっとして何か言った?」
「イヤ、お互い大切な時期だから、とかサ」
「エーッ、そんなこと言ったのオ」
「マ、それはいいからサ、とも角明日」
「ごめんねエ」
「いいよ、別に、じゃ」
「ウン。じゃアネ」
ホントやアねエ、そんなこと言わなきゃいいのにイ。どうして母親ってそういうこというのかしらねえ。
「玲奈ちゃん」
「ウン?」
「お茶がはいったから」
「いいわ、今勉強やりかけてるから」
「そう。ねえ、玲奈ちゃん、あの人と、どうなの?」
「別に何でもないわよ」
「そういうこと言ってるんじゃないのよ、ママは。別にあなたが男の方とお付き合いすることをママ反対してるんじゃないの、ネ」
「それで」
「ただね、時期っていうものがあるでしょう。何もお付き合いするんだったら大学入ってからだって、別に遅くはないんだし」
「だから勉強してるでしょう」
「それはネ、息抜きも必要だと思うわよ、ママも。でも今週今日もいれて三日でしょう、お電話。そのたんびにあなたがせっかくのお勉強中断しなくちゃならないんだったら却って息抜きも逆効果じゃないの?」
「あたしはあたしでチャンと自分のペースでやってるもン」
「それならそれでいいんだけれども、今日ね、スーパーで祐子ちゃんのお母さんにお会いして」
「それで?」
「祐子ちゃん、お付き合いしてらっしゃる方、いらっしゃるんだってねえ」
「アア、大西クンでしょう」
「ママ、そこまでは知らないけど。キチンとけじめはつけてるっていうわよ」
「そうでしょう、あの子は」
そのけじめ≠フ為にあたしは千円損したんだから。
「あなたはそういう言い方をするけれども、もう入試まで三ヵ月しかないのよ」
「だからチャンとやってるじゃないよオ」
「チャンとやってる人がどうして明日デートなの?」
「そんなの関係ないわア」
「関係ないっていう言い方はないでしょう。別にママは祐子ちゃんみたいにお電話は週に一回だけって決めて欲しいって――」
「なアにイ、そんなバカなことやってるのオ、あの子オ」
「どっちがバカな子なの。ママは笑われたのよ」
「何を?」
「ホントに玲奈ちゃんは積極性がおありになる≠チて。ママは黙って見てましたけどネ、今ここへ来てお茶も飲んでられない程ジタバタするぐらいだったらどうしてあなたは文化祭だなんていう事を夢中になってやったの?」
いつも母親は黙って見てるのよネ、いつも。
「それは学校の行事も大切でしょうけれど、祐子ちゃんは毎日キチンキチンと四時には帰って来てたのよ。それなのにあなたは暗くなってからでしょう。余裕がおありになるのねえ≠チて言われる度にママは恥かしかったわよ。それでもあなたは遅くまで起きてるから、やる事はやってるんだなと思ってたけど、お掃除のたんびにあなたの予定表見るけど全然進んでないでしょう」
止めてよ、もオ!
「ホントにママ気が気じゃなかったわよ、あの時はもう。今刺激するような事は言わない方がいいと思って何も言わなかったけど」
「じゃアここへ来たら刺激してもいいのオ」
「そんな事は言ってません」
「言ってるわよ」
「じゃアどうして言われるような事するの。黙ってれば文化祭の準備だといって外泊はする。どうしてあなたがそこまでする必要があったの」
「もう済んだことでしょオ」
「済んでませんよ。一体どういうお付き合いなの、あなた方は?」
「あなた方って?」
「松村さんよ」
「関係ないわよ、ただの友達だもん」
「あなた、ただのお友達じゃ済まないのよオ。もう十八でしょうが、一人前の男と女がお友達で済む訳ないでしょう、エ? 一体どういう方なのあの方は?」
「大学教授の息子」
「そう。じゃアチラもそこら辺はチャンと分ってらっしゃるわネ。あなたがイヤならママがします」
「何を?」
「お断りのお電話」
「またア! 昔それでヘマやったのにまだ凝りないのオ」
ホントに女親って何考えてんのかしらア。
「だから今度はあなたが自分でなさいって言ってるでしょう。別に付き合っちゃいけないって言ってる訳じゃないんだから、あなただって分るでしょう。お互いに大学入るまでは自粛しましょうって、それだけ、ネ、今ここで約束してちょうだい」
「でもお互いって、あの人大学行かないって言ってるわよ」
「なんですってエ! じょ、じょオだんじゃないわよオ、冗談じゃありませんよあなた。ちょっと玲奈ちゃんあなた、それで何て言ったの、何て、エ? まさかあなたまでそんなバカな事言い出したんじゃないでしょうネ、エ? エ、ちょっと、困ったわア、ねえ玲奈ちゃん、あなた」
「何も言ってないわよ、あたしは」
「じゃア何て言ったの? 何て言ったの? あの人は?」
「知らない、行くの止めた≠チて」
「あなたって人は、何てマア、何呑気な事言ってるの、いけませんよ、絶対いけません、冗談じゃありませんよ、何言ってるの」
何も言ってないじゃない、バカネ。
「何を荒れてるんだい、また?」
「ア、お帰りなさい」
「アッ、パパ、あなた、ちょっと、聞いて下さいよ。この人のお付き合いしてる人が、大学を止めるって」
「何だ、一体?」
「松村君が大学行かないんですって」
「それがお前の付き合ってる相手か?」
「別に付き合ってなんかいないわ」
「別に付き合ってない人がどうしてあア毎晩電話してくるのッ」
「知らないわ」
「その人が大学を? 止めた?」
「そうだって」
「また変ったこと考えるもんだな」
「冗談じゃありませんよ、ホントに。大学のセンセイが何考えてらっしゃるのかしらねえ。どうせロクな学校じゃないんでしょ。どこの大学の先生?」
「知らないわ」
「知らない知らないであなた、それが通ると思ってるのッ!」
「だって知らないもんッ!」
「マアマア。別に玲奈お前が大学行かない訳じゃないんだろ?」
「そうよ」
「それでその人とは、好き合ってるのか?」
「別にイ」
「だったら別にどうってことないじゃないか」
「そうよ。ママが勝手に騒いでるんだもん」
「勝手に騒いでるって、どういうことなの? 玲奈ちゃん、あなたネ、ママは前から思ってたの、この頃あなた少しひどすぎるわよ、今自分がどういうことになってるか、分ってるの?」
「分ってるからチャンとやってるでしょう」
「チャンとしてるチャンとしてるはいくらでも言えます。実際はどうなのッ!」
「マアマア、ここでそう目くじら立ててもしょうがないじゃないか」
「しょうがないって、実際あなた、この人、もう、私が毎晩どれだけ心配してるかなんて少しも分ろうとするどころか」
「分った分った。玲奈、お前いいのか、油売ってて」
「ちゃんとしてるわよ。変にサ、からむからサ」
「からむって何なのッ!」
「いいからお前は、ホラ、勉強しろ、ナ」
「当り前よオ!」
本当に冗談じゃないわ。そんなに「心配だ、心配だ」っていうこと以外に自分にすることがないんなら、自分も大学受けてみればいいんだわッ。
こそこそこそこそ人の机のぞき込んで。あたしの「英文解釈」がどこまで進もうとあなたに関係ないじゃないよッ! よその奥さん連中と「大変ネ、大変ネ」って話すことのネタがなくなったから娘の机の上見て話す材料探してるっていうのッ? せっかく娘が自力で大学行こうとしてるのに。自分はサッ、みんなチャンとしてるのに自分の娘だけ人並み逸《そ》れたら大変だ、恥かしいって、もう見え見えじゃないよッ! よくもそんなことしてて恥かしくないわよネ。
そんでその癖最終的には「大学に行かせてやる」ってチラつかせて、あたしはただ大学に行きたいのよッ! 「行きたいなら行かせてやろう」って言ってて、それがどうして「行って貰わなくっちゃ困る」に変れるの?
あたしがこんなこと言い出せばどうせサ、「ママは別にそんなにまでしてあなたに大学行って貰おうとは思ってないの」って言い出してサ、「じゃ、よかったわネ、そこで手エ打ちましょうよ」ってあたしが言い出す前に、「でもネ」って言って、「後で後悔しない?」から「よその人は」、「人並に」って変ってくでしょ。それでいつも主語は「あなたが」で、「あなたが」「あなたが」「あなたが」って百遍も言えばそれがあたしの事になるとでも思ってるらしいけど、「あなたが」っていうのは、いつも自分の事でしょう、違うの?
あたしと松村君なんか何にも関係ないのにサ、自分は関係ある≠カゃないと理解できないもんだから勝手に関係つけちゃって、そんな関係ないとこでゴチャゴチャ言われたくないのよネ。
おとついの電話だってサ、「ボウイーと表現主義がどうした」って話でサ、あたしは表現主義なんか知らないから、「デビッド・ボウイーとマレーネ・ディートリッヒの出る男妾《ジゴロ》の映画」っていうのが面白そうだから「フーン」て黙って聞いてただけだわ。
あの人の話はいつだって「こないだの」で、「こないだ読んだ『現代詩手帖』は」「こないだ聞いた『チープ・トリック』は」「こないだ見た『大島弓子』は」「こないだ会った先輩は」「こないだ会った姉貴の友達は」「こないだ書いた文章は」で、あたしは半分興味あるけど半分興味ないから「フーン」て聞いてる、ただそれだけだわ。
そりゃサ、一年以上も付き合ってるから、二人で一緒にいればサ、「こりゃヤバイかな」って思う時、あるけどサ、それは相手が男だからしょうがないと思うのよネ。あたしはサ、全然期待してないって言ったら、ウソになるけどサ、寝れども寝れども妊娠しない¥ャ説の主人公と自分は違うって分ってるしサ、やっぱりヘンな風に現実押しのけてあたしの中に侵入されるのがコワイって気持ちだってあるしサ、好奇心だけでフフフ≠チて笑えるバカじゃないと自分じゃ思ってるから、やっぱりあたしと松村クンは今の所別に関係ないと思うんだ、いけない?
そりゃサ、あたしだって正直言えばそう電話ばっか掛ってくるのウットオシイと思うことあるけどサ、でもホント言って一人で勉強なんかしてるよりそっちの方がまだ、楽しいもん。それだからっていってサ、松村クンが大学行かないのとあたしと関係ないじゃないよねえ。
ホントに自分は何にもすることないから自分の娘のことばっかゴチャゴチャ言っててサ。あたしは絶対あんな風になりたくなんか、ないッ!
9
「榊原さん、先生、どうですって?」
「ぼやぼやしてると第二志望も危ないぞって、言われちゃったわ、自分でも分ってるけどサ」
「そんな事ないと思うわよ」
「そうかな? ア、それよりあなた早く行かないと。先生待ってるわよ、凉子姫」
「じゃ行ってくるわね。ア、榊原さん、一緒に帰りましょ、待ってていただける?」
「いいわよ」
「じゃ」
「エッと、醒井はどうし、ホラ、早く来なさい」
「ア、先生すみません」
凉子姫が「帰りましょ」なんて誘ったの、考えてみれば初めてネ。自主性とか何とかゼロだった人が「待ってていただける」って、人に命令まで出来ちゃうんですもんネ、大したもんだわ。この受験のドンヅマリの季節に来ても元気なの、あの人ぐらいネ。そういえばそろそろ温州みかんの季節でもあるし、関係ないか。
「帰りましょ」もいいけど、もう四時過ぎちゃったしネ、松村クン待ってるし……でもあの人受験止めたんだから暇な筈だもんネ、そんくらい待たしたって別に怒んないと思うから、いいわ。
ホント、考えてみれば受験止めちゃえば何にもなくなるんですもんネ、楽でいいわよネ。教師にイヤ味言われることもないしサ、親に「行かせて貰える」ことで喧嘩する事もないしサ、昨日みたいに。
どうして行くのかねえ。考えてみれば別にあたしなんて大学行かなくったっていいんだもんねえ、別に早稲田なんて行かなくたって、女は短大の家政科でいいという思想は十分はびこってるしサア。
今から「志望校のランク落します」なんて言いに行ったらまたイヤミ言うだろうなア、教師は。いっそのこと言わしちゃおうかなア……でも意外と「ア、そうか、じゃそうしろ」なんて、見捨てられてたりしてネ、クックックッ。
「ごめんなさい、待たせちゃって」
「ウン? いいわよ。どうだった、先生? あなたなら聖心OKって言ったでしょ? あなた聖心じゃなかったっけ?」
「あのネ、榊原さんネ、わたし志望校替えちゃったの。フフ、内緒よ」
「エーッ! あなたこの期《ご》に及んで大胆な事するわねエ。どこにしたの?」
「ホントはICUにしたかったんだけど、あそこは問題が特殊でしょ、だから上智にしたの」
「あなた、女子大どうなったのよ」
「止めたわ」
「そんな簡単に止められるモンなのオ? あなた父が父が≠チて、おびえてたじゃない」
「そうなんだけど、でも父が行く訳じゃないでしょう」
「そうよオ」
「そりゃ父なら女子大行っても楽しいかもしれないけど、フフ」
いつからこの人冗談言うようになったのよ?
「わたしやっぱり、大学行って、キミ、パティよく聞くの?≠チて言われたいのネ、男の人に」
「ウン! ウン! アッ、いけない、あたし待ち合わせてたんだ。悪いけどその話、歩きながらしよう」
「ア、ごめんなさい。その時ネ、ア、レコード屋さんでの事なんだけれど、大学生だと思うのね多分その人、メタルフレイムの眼鏡かけてやさしそうな顔してたんだけれど」
「あなた男の人に声かけられたの、その時初めて?」
「ウウン、違うわよ。二年の時西窪クンに誘われたけど」
あンのオ、バカ男ッ!
「そんなことあったの?」
「エエ、でもわたし、男の人と何話していいか分らなかったでしょう。だからとってもつまらない女だと思われたんじゃないのかしら、その時だけだったわ」
そうだろうねえ。
「それでネ、その人、ア、レコード屋さんで会った人よ」
「ウン」
「その人と会った時、ちょうどあたし『イースター』のレコード持ってたのネ。あなたに教えてもらった例の、ワキ毛の」
「ああ」
「それだからわたし、自分のワキの下見られちゃったみたいで」
「そうかア」
「エエ、何にも言えなくて、逃げてきちゃったの。それに、そうでなくても、その時わたしパティのレコードなんて全然聞いてなかったでしょう、お答え出来なかったと思うの」
正直な人ねえ!
「でも凉子姫、そういう時は適当な事言っとけばいいのよ」
「エエ、でもわたし、今ならパティ、よく聞くわ」
飽くまでもこの人は、「パティ、よく聞くの?」で迫られたい訳か。お化け屋敷といいベビー・ドールといい、ワン・パターンもここまで徹底すりゃ大したもんよ。
「あのネ、榊原さん。パティの曲の中に"Little sister, the fates are callin'on you"って、フレイズがあるのネ」
「フェイッ?」
「そう、運命が訪れるって、だから、私止めたの」
まさか紳士用トイレ≠ノ訪れたんじゃないでしょうねえ。
「先生は今から志望校変えると損だぞ≠チておっしゃったけど、わたしチャレンジしてみたいの」
「凉子さん、あなたその話家の人にした?」
「ウウン」
「じゃ、どうするの?」
「受けるわよ、女子大も。でもネ、内緒よ、この事は」
「ウン」
「わたしね、女子大落っこちちゃうの、フフフ。だって落ちちゃったらもう行けないでしょう」
「そうだけどオ」
「それでネ、上智の方はチャレンジだけさせて下さいって父に言っておくの。上智の方がウンと難かしい事にしてネ。父はそんなこと分らないでしょう」
「でもそっちも、落ちたら、どうするの?」
「予備校に行くわ。予備校にもパティが好きな人、いるでしょう?」
「そりゃ、いると思うけどオ、あなたエライわねえ、感心するわア、ホントにイ」
「ありがとう。榊原さんに賞められて嬉しいわ。あのネ、"Till Victory"って曲があるの」
「『勝利まで』?」
「そう、教えて上げるわ、プレイザスカアイィイゴットフラアイィ、オバーレーオバーザシィイィ」
発音はいいかもしれないけど、スゴイ歌ねえ。
「あのネ天を讃えよ、我等は岩壁を越え、海を超えて、飛ばねばならない≠チていう意味なの」
「そう(天まで讃えちゃうのねえ、この人すごいわねえ)」
「その続きはネ」
この人こうやって延々と唄い続けて歩くのかしら? あの「笑われないかしら?」はどこ行っちゃったの? 羞恥心もやっぱり伝染病と同じで、人にうつすと直っちゃうのかしら? あたし、うつされたのかなア、この人にイ。
「ヴィクトォリイ・ヴィクトォリイ」
「ねえ、凉子さん?」
「なアに?」
「あたしこれから松村クンと会うんだけど、よかったら一緒に来ない?」
「あの、いつもの喫茶店?」
「そう」
「お邪魔じゃない?」
「関係ないわよ。あの人ネ、大学行くの止めたの」
「そうなのオ、勇気があるのねえ」
どっこいどっこいだと思うけどなア、二人とも。
「あの人パティ・スミスなんてよく聞いてるから、話が出来ると思うわよ」
「でも、あたしはただ聞いてるだけだから、話って言われても、だめだわ、多分」
「でもさっきよく聞いてる≠チて言ったじゃない」
「ウーン、でも、だめよオ」
ひょっとしたらこの人はレコード屋のメタルフレイム∴ネ外お呼びじゃないのかもしれないなア、何しろワン・パターンだから。でも信仰≠ニいうものはそうなんだから、やっぱりマリア様の人であったりはするのよネ、多分。
「つまりサア、何て言ったらいいのかな」
喫茶店じゃ、松村クンは一人でしゃべってばっかりいた。
「いつもサ、僕が言ってるだろう。僕等と大人達の間にはギャップがあってサ、要するに僕等はそういうギャップってものを乗り超えてかなきゃならない訳だけどサ、そうであるためにはまず僕等の間でコミュニケーションていうものが確立されてかなきゃならない訳だろう」
「フン」
「そうするためのメディアがあってサ、それは結局、僕等の意識を変革して行くための手段な訳だよネ。僕等にとって、その、ロックであるとか、マンガであるとか、映画であるとかサ、そういう映像とか文学とか全てひっくるめてのメディアに対する可能性の問い直しっていうのかな、マア結局既製の雑誌なんかじゃあきたりない訳だからサ、そういうことをやって行こうとしている訳サ」
よく分んないんだけど、要するに松村クンは大学行くの止めて、お姉さんの友達がやってるミニコミの手伝いをするんだって。
「それであなたはミニコミ屋さんで食べて行く訳?」
「食べてくって言ったって、それは分んない訳だからサア。ともかく来年一年やってサ」
「その事、家の人は何だって?」
「マアサ、それが正しいと思うんだったら、やりたいようにやれって。若いうちの一年くらいどうってことないだろうって親父は言うんだけどサ、こういうとこに若い≠ネんて言葉が出て来ると、僕なんか違うなア≠チて思っちゃうんだけどネ」
「じゃア、もう全然大学にはお行きにならないの? 松村さんは」
これは凉子姫。
「それは分らないなア。マア、また行きたくなるようになるかもしれないけどネ、将来」
「だったらサア、そんな事やるの、大学行ってからだって別に遅くないと思うんだけどなア」
「ヘエー、君も意外とそこら辺の小母さんみたいな事言うんだなア」
「そうかしら?」
「そうサ」
でもサア、どうせ大学行ったって別にする事ないんだしサア、言っちゃ悪いけど、そんな事するの大学行ってからだって十分出来ると思うのよネ、あたしとしては。
「でも意外だったな、今日は」
「何が?」
「イヤ、君がサ、あんまりこういう話に興味なさそうだからサ」
「そんなことないわよ、別に」
「そう?」
「ウン。ただサ、昨日ネ、ホラあなたから電話かかって来たでしょう」
「ウン」
「あの後で喧嘩しちゃったのネ、母親っていう人と」
「そうかア、悪かったなア」
「いいのよ別に。だからサ、またそんなになるのヤだから、今日は早く帰らなくちゃいけないの、ホントにやンなっちゃうわ。凉子姫ンとこなんか、そういうことなアい?」
「家は別に。だって私、そんなに遅く帰ることないし、それでも大抵遅かったのね≠ョらいよ」
「いいわねえ。ウチなんかサア、普段は何にも言わないくせに、いつ遅かったっていうのはしつこく覚えてんのよ。ホントに定期にして貯金してるんだから。きのうなんかそれが満期になったらしくて全部下して来てサ、イヤ味なんか複利で増えてくるんだから、たまったもんじゃないわ」
「だからサア、そんな日常レベルの問題でグズグズ言ってるんならサア、キミだって受験止めちゃえばいいんだよ」
「ジョオダンじゃないわア、そんな事言い出したらウチの母親なんか髪逆立てて、歩く噴水になっちゃうわよオ」
「イヤアねエ、榊原さんたら」
「ホントなのよオ。きのうなんかあなた方どういうお付き合いなのッ! どういうお付き合いなのッ!≠チて、うかつな事言い出したらそのまンま病院連れてきかねなかったんだから」
「そうなの」
「ウーン。だから別になんでもない≠チていうのに全然分んないのネ。娘=《イコール》進学∞お付き合い=ホドホド≠チて、それしか頭にない訳。だからあたし、松村クン、大学行くの止めちゃったんですって≠チて言っちゃったの」
「そしたら何だって、キミのおフクロさん?」
「『未知との遭遇』よ、UFO見た時ってあんな顔になんじゃないの。冗談じゃありませんよ、冗談じゃありませんよ≠チて、まるで冗談じゃありませんよ≠フ自動販売機よ。それしか出てこないんだもん」
「ハハハハ」
「笑い事じゃないわよオ、あなたのせいなんだから」
「いや、でも冗談じゃなくてサ、僕は思うんだけど、君なんかユニークなんだからサ、いっそのこと進学なんか止めちゃうと面白いんじゃないの」
「進学止めてどうするのよ?」
「だからサ、マ色々あるだろうけど、僕等なんかの仕事手伝ったっていい訳じゃない」
「嘘でしょう。ねエ、凉子さん」
「エエ」
「マ、それは例えばの話だけどサ」
「そうでしょう。だって今更恐ろしくって、進学止める≠ネんて言えっこないもん」
「そうよね」
「恐ろしいって、君の言うのは親の事?」
「それもあるし、さっきだってねえ、先生はサ、ネチネチネチネチ言うし、もうホント、やんなっちゃう」
「それはしょうがないだろう、自分が大学行く以上はサ」
「冷めたいのネ、松村クンて。そりゃサ、自分は進学止めちゃったからいいだろうけどサ、圧倒的多数の人間はみんな苦しんでるのよ」
「何言ってんだよオ、僕だって一生懸命考えたんだぜ。何故自分は大学行くのかとか、何故自分は高校生であり続けてるのか、とかサ」
だって松村クンは考える事が好きなんでしょ。でもあたしはサ、今更そんなこと深刻に考えたくなんかないんだもん。「何故自分は大学行くのか?」なんて考え始めたら、せっかく自分のこと机に縛りつけられるようになったのが目茶苦茶になっちゃうでしょう。第一自分からそんなこと引ッ張り出して来て考えなくても、ウチには約一名そういうこと専門的に考えるようにしむけてくれる人がいるんだもんね、血のつながった女性で。
だからあたしはサ、ズルイかもしれないけど、そんな事に頭使うよりは人の悪口でも言って、このモヤモヤっとした気分を発散させる方が余ッ程ましだと思う訳。こんな事言ったら松村クンに怒られるに決ってるけどサ。
「と、マアサ、そんな風に考えて、僕は僕なりの結論を出した訳」
「フーン」
とマア、結局あたしはロクすっぽ松村クンの話を聞いてなかったという訳。
「でサア、僕これから、六時にその人と新宿で会う事になってんだけどサ」
「だアれ? その人って?」
「ウン? 姉貴の友達」
「アア、ミニコミやってる人ね」
「ウン。だからサア、榊原さん、君も来ないか?」
「あたしイ? だめよオ、今日なんかそんなことしてたら大変な事になっちゃうもん」
「そうかア、じゃいいや。エッと、もうソロソロ僕は行かなきゃなんないんだけどサ、君達はまだここにいる?」
「どうする、凉子姫?」
「私は……」
「よかったらもう少しいない?」
「私は構わないけれど、でも榊原さん早く帰らなくちゃいけないんでしょう」
「そうなんだけどサ、ちょっとねエ」
「だったら新宿来ないか?」
「だって今から新宿なんて行ったら家帰るの八時過ぎちゃうもん」
「じゃ榊原さん、後三十分だけここにいる事にしない? それなら構わないでしょう?」
「そうネ、そうするわ。あのサ、松村クン、あたし達もう少しここにいるから」
「そう。じゃ、僕はそろそろ行くわ」
「ウン」
「エッとねえ、それから、結局、僕は考えたんだけど……」
「ウン」
「ウン。マア、ここに醒井さんなんかもいたりしてチョッと言いにくいんだけど、結局色々考えてサ、僕は君のことネ」
「ウン」
「やっぱり、好きなんだ」
「またア」
「イヤ、冗談じゃなくてホントの話。一応、なんか言っときたくてネ。じゃ、また」
「ちょっと、待ってよ松村クン」
「ウン、また電話するよ、じゃ」
「松村クン!」
行っちゃった。どういうつもりイ、あの人オ? 全然分んないわ。「好き」って、どういうことオ? 分って言ってんのかしら?
「ヘンな人ねエ。そう思うでしょ、凉子さん」
「ウン、わたしは……」
「何考えてるのかしらネ、あの人。あたし困っちゃうわ」
だってサ、「好き」って、あれでしょう、愛の告白でしょう? 「一応言っときたい」ってサア、そんな風に言われたってサア、だってねエ……
「松村さんて、ああいう風に言うのネ」
「何を?」
「ウン? プロポウズよ」
「あれがプロポーズ?」
「違うかしら?」
「だってあんなとってつけた言い方ってないわよ。あなただって聞いてたでしょう。自分の事延々と喋ってサ、そんで最後になんか言っときたいんだけど≠チて、そんなプロポーズなんて聞いた事ないわよ」
「でもプロポウズする人が全員花束持って来なくちゃいけない訳でもないでしょう」
「そりゃそうだけど」
「私はあんな風な、さりげない言い方って素敵だと思うんだけれど」
「さりげなさ過ぎると思うわ、冗談じゃなくてホントの話≠ネんてサ」
「榊原さんて、理想が高いのねエ。私だったらあんな風に言われただけで感動してしまうわ」
「そうオ?」
「エエ。榊原さんは何も感じない? うれしいとか」
「そりゃアサア、思うけどオ。でも松村クンとは好きとか嫌いとかっていう関係じゃないのよオ、だからサア、そりゃ全然違う人に言われたらまたあるのかもしれないけど」
「じゃ、どういう人になら言われたいの?」
「どういう人って」
「あの、木川田クンと仲がいいでしょう、榊原さん」
「ウン」
「ああいう人が好きなの?」
「まさかア、だってあの子オカマよオ、それに顔だってよくないしサ」
「顔がいい人がいいの?」
「そりゃそうでしょう、違う?」
「じゃア磯村クンみたいな人?」
「あの子全然パアよ」
「榊原さんてはっきり言うのねエ」
「いけなアい?」
「私は松村さんもそんなにひどい顔してると思わないけど」
「松村クン、鼻の横にイボがあるわよ」
「気にならないわ」
「あなた、あの人の文章読んだことあるウ?」
「ないけど、でもとってもユニークなんでしょう」
「ユニークだっていえばいいけどサ、何が書いてあるのか半分も分んないんですもん、あれに付き合わされてごらんなさいよ、イイ加減気が狂うわよ」
「私は、そういう現代感覚に欠けてるから遠慮させていただくわ」
「遠慮させていただくったって、許してくれるもんですか。あなたがパティ・スミス好きだって言ったら、もう延々とその話が続くから。パティに於けるランボーなんていうのから始まって、パティに於ける『一二のアッホ』まで飛んじゃうわよ、そんなのに一生付き合ってける?」
「でも私じゃなくても、松村さんのまわりにはそういう事理解できる方が他にもいるんでしょう」
「そりゃいるでしょう。ヘンなミニコミにでも首突っ込めばまた増えると思うわよ」
「だったら私はそういう方達の聞き役にまわるわ」
「そりゃネ、あなただったらいいでしょうよネ、いつもエエ∞エエ≠チて笑って聞いてるだけなんだから」
「アラ、ひどいわア、榊原さん私の事をそういう風に思ってらしたのオ?」
「マ、それは言葉のはずみだけど」
「だったら私もいわせていただくけど、榊原さん、あなた松村さんに甘えてらっしゃるんじゃないの」
「アーラ、どうしてエ」
「だってあなた松村さんみたいなやさしい方の事、悪くばっかり言ってらっしゃるでしょう」
「あの人がやさしいのオ!」
「やさしいわよオ。あなたは気がつかなかったかもしれないけれど、さっきあなたが、松村さんとの事は別に関係ないんだ≠チてお母様におっしゃったって話を聞いた時、あの方とっても寂しそうな顔なすってたのよ、だから私は――」
「あの方って……凉子姫」
「それなのにあなたは無視して御自分の事、夢中になって話してらしたでしょう。榊原さんはあの方のさりげないプロポウズがお気に入らないらしいけれど、でもそれはあなたがあの方のお誘いをお断りしたからでしょう」
「お誘いって?」
「新宿に行かないか≠チて、お誘いになってたでしょう。あの方、私が、エッと、多分あの、邪魔になるから、だから二人になってから、その事をおっしゃりたいとか」
「あのサ、凉子姫。ネエ、おっしゃりたいって、あなた。あなたひょっとして松村クンが好きなんでしょう!」
「いやだわ私、絶対、そんなこと絶対ないわよ」
「嘘よオ。やアねエそうなのよオ、あなた松村クンのこと、好きなのよオ、やアねエ。へーエ、ホオントオ。嘘みたい」
「ねえ榊原さん、そんなこと絶対におっしゃらないで、ネ、お願いだから」
「いいけど。でもあなたって、ヘンな趣味ねえ」
「アラ、どうしてかしら?」
「だってもっと素敵な人、他にいるでしょう」
「そうかしら」
「そうよ。だってあの人なんかサ、ホラ、モサーッとして大きいでしょう。歩く時だってなんかヌソヌソって、熊みたいじゃない」
「男らしいと思うわ、私」
「あの人運動神経ゼロよ」
「おとなしい方なのよ」
「あんなに喋ってばっかりいて?」
「頭がいいんだわ」
「そうネ、大学行かなくて済むんですもんネ」
「私は、あの方が自分で考えて決めた事に対してとやかく言うべきじゃないと思うの」
「じゃ、あなたも進学止める?」
「あの方が私に止めろっておっしゃるんなら、私も止めるわ」
「でもあたしはそんな事言わないと思うな」
「じゃそれだったら、私は大学行くわ」
「ヘエー、何の為にイ?」
「何のためにって、だって私、大学にでも行かなかったらどこにも行く所がないんですもの」
「あッきれたア、あなたそんな単純な理由で進学しちゃうのオ」
「いけないかしら」
「松村クン、喜ぶと思うわ」
「アラ、だってそんな事言ったら榊原さんだって大学に行くはっきりした根拠なんて、おありじゃないんでしょう」
「別に今なんかなくったって、その内見つかると思うわ」
「あなたって、ユニークな方ねえ」
「それ皮肉?」
「そうよ」
「そう。ねえ、凉子姫、あなたホントに松村クン好きなの?」
「エエ。でも、もし榊原さんがあの方を好きなら、わたしの方は、構わないの」
「構わない≠チて、あなたそんなにイイ加減なこと言ってて、いいの?」
「エエ」
ヘンな人ねえ。こんなとんでもない三角関係が出来上っちゃったのに、この人平然といつもの微笑浮べてすましてるのよ。やっぱり、はっきり言ってこの人謎だわ。
それでサ、あたしは凉子姫がそうなると――別に松村クン奪《と》られるのが惜しくなったっていう訳じゃないけど――一応考えて、そう言われてみると甘えてるような気もするかなと思って、でもそうかといって別に胸がときめいたりする訳でもなくて、確かに松村クンのこと嫌いではないんだけど、でも結局はよく分らなくて、曖昧なまんま、あたしもやっぱり謎になってしまった!
10
でも松村クンてひどいのよ。だって「また電話する」っていって、その後全然電話なんか掛けてこないんですもん。学校で会ったって、前と同じで「ヤア」でしょう。まさかあたしの方から、「ねえ、松村クン、あなたあたしのこと好きだって言ったわよネ」って言う訳にもいかないしサ、それに受験勉強しながらそんなことしつこく考えてる訳にもいかないでしょう。だから「やっぱりあれはナシにしよう」と思って、そうしたの。なんだかバカみたいネ。
それで二週間くらい経って、期末試験も始まろうって頃になってやっと――こういう時にやっと≠ニいう表現は適切なんだろうか? ――電話がかかって来たの、松村クンから。
あたしは勝手にこの前の続き≠チて決めてたのに、あの人そんな事全然言わないのよオ! それで何言うのかと思ってたら例の如く、自分自身に関する近況報告でしょ。ホラ、例のミニコミ――『クロロック・ワールド』っていうんだって――それに首突っ込んじゃったから、その話。あたしは雑誌作るのなんかには半分興味あるけど、全然知らない人の事なんか半分も興味ないから、フーンて聞いてたけど、やっぱり思うのよネ、あの「好きだ」ってのどうなっちゃったんだろうって。
別に凉子姫のことがあるから焦ってる訳じゃないんだけどサ、ただ彼女の「そうかしら」っていう挑発的な表情思い出すと、そんなにいい男かしら≠チていう気になったりするでしょう、それで、ついつい松村クンの話聞いちゃうの。
それで、普通だったらあたし、イヤな事があっても人にそんな事しつこく言ったりしないんだけどサ、一応あたしの事「好きだ」って言ってくれた人だからチョッとぐらい言ってもいいかなとか思って、勉強が全然進まなくて落ちそうな気がするとか言っちゃって、恥かしくてそんな泣き事みたいの普通は言えない筈なんだけど、でも言っちゃうと、「フーン、そうか」なんて聞いてくれたりして、あたしはそれでやっぱり慰められて、悪くはなかったりしたの。
そうやって冬休みになって、あたしはただシーンと勉強をするだけの生活で、松村クンは忘れた頃に時々電話を掛けて来て、あの人はいつも自分の事しか喋らないけど、でもあたしの言うつまんない愚痴もチャンと聞いててくれるのが分るような気がするから、あたしはいつの間にかあの人をあてにして、せっせと可愛らし気な愚痴を掻き集めてる自分に気がつくの。
あの人は相変らず、「好きだ」って事の続きについては何にも言わないけど、この前久し振りで一緒に外を歩いてた時、いつのまにか二人の体がくっついてたりする事に気がついて、あたしはそれも悪くないんだって、決めたの。
あたしはブーブー言いながらも一年間、高校三年生らしき事やってきたと思うから、一応満足して――ひょっとするとブーブー言う事≠ェ唯一の高校三年生らしい事かもしれないんだけど――黙って大学受験生になり切る事にしたの。だってねえ、もう入試まで二ヵ月もないんですもん、ガタガタいってたらホントに落っこっちゃうわ、実際の話。
今じゃ、あたしの中のポリバケツにモヤモヤが溜ると、清掃局が電話して持ってってくれるようになったし、あたしはもう誰に文句言われる筋合いもないから、大手を振って大学に入ってってやるんだって決めたの。もっとも向うが大手を拡げて断わってくるかもしれないけどサ、ハハ。
でもネ、図々しいかもしれないけど、やっぱりあたしは言っちゃうの。もしもあたしが大学落っこちでもしたら――そりゃあたしにも責任の一端はあるけどサ――それは絶対に、日本の教育制度が悪いんだって。だって、あたし、チャンとした普通の高校生だったんだもん。
普通の高校生が普通の高校生活を送ってて、それでなおかつ大学に入れなかったら、絶対そっちの方がおかしいわよネ。ネッ、そうでしょ? だからあたしは、もうこれ以上グズグズ言わないわ。偉いでしょう、ヘヘ。
そうそう、忘れてた。あのねえ凉子姫ネ、あたし思うんだけど、あの人絶対に本物の淫婦≠諱Bウウン、別に毎ン日《チ》男と遊び歩いてる訳じゃないんだけどサ、絶対にそんな気がするの。聖なる淫婦≠ネんてのがいたら、それは絶対凉子姫の事だって。
ホラ、あの人、前に松村クンの事好きだって言って、スグにそれ引ッ込めちゃったでしょう。あたしアレねえ、どうしてだろうって考えてたのネ。ひょっとしたら、あたしの事松村クンにくっつける手の混んだ作戦かなとも思ったんだけど、どう考えても彼女にそんな高級なこと出来る訳ないでしょう。それであたしは考えて、結論に達した訳。即ち彼女は、男なら誰でもいいんだって事に。
つまりあの人――田舎にいた頃は知らないけど――中学からズッと今まで、あたしの他に殆んど他人と接触した事がないでしょう。だからねえ、近づいて来るものみんな、なんでも良くなっちゃうんだと思うの。
今までだと、男の子と近づいても、彼女が「いいな」とか何とか思う前に、もう男の子はうんざりしてどっか消えちゃってる訳でしょう。だから彼女のそばにいてくれればそれだけで、男は全部素敵≠ノなっちゃうのよ。
それでねえ、彼女がブスだったりすればサ、それはよくある話だから全然問題ないんだけどサア、彼女此の頃|頓《とみ》に、妖艶なのよねえ。自分で意識してるんだかしてないんだか知らないけど、「そうかしら」の一件以来|頓《とみ》によ。
休み時間なんか隣りの席の男の子に、「よろしかったら、此処、教えていただけない?」なんて、始めて――考えらんないわ――相手の男子なんか事務的に、「こうでしょ、こうでしょ」なんて相手してるけど、彼女は口許こそ例の「エエ、エエ」だけど、目なんか喰い入るように相手の目見てるのよねえ。何しろ御本人、邪心はないけど妖気はある人だから、あれで見られたら大抵の男は一コロだと思うわ。
今なんかみんな、受験受験で平静になってるけど、あれで普通の時だったら一人や二人怪我人は出てると思うわネ。ともかくウチのクラスで人並以上に勉強してて、なおかつ完全に浮いてる人、彼女唯一人! あれで大学行ったらどうするのかしらねえ、多分毎ン日パティ・スミスのレコード抱えて校門の所に立ってるわよ――ひょっとして、人前で平然とスカートたくし上げたりして。誰も知らないだろうけど、何しろ彼女のパンティ、温州《お》蜜柑《みかん》色だもんねえ。どうなるのかしら? あたしの親友は、多分将来、見物《みもの》だわ。
ホントにこんな事考えてるとスグ時間経っちゃう。もっとも此頃はお勉強の方もスグ時間が経っちゃうけどネ、充実してるのかもしれないけど、多分焦ってるんだわ。今度松村君から電話掛ってきたら、この事言おう、焦ってるって。でもホント、いくらあの人があたしの焦りをセッセと吸い取ってってくれても全然減らないんですもん、いい加減やんなっちゃうわ。
でもそれはしょうがないんだ。何事も日本の教育制度のためなんだから。精々頑張って、日本の教育のためにも、あたしは大学行くんだ。
11
・
12
・
13
春ニナリマシタ。
エーッ、日本の教育制度について、御報告をしたいと思います。
やはり、春は名のみの風の寒さだったりして、畜生、あたしは、綺麗さっぱり、ゼエーンブ、落っこちました。落っこったのよ、落っこったの。これ以上の事はもう書きたくありません。
唐突乍《とうとつなが》ら勝手に終らせていただきます。
でも、やっぱり、くやしいわッ!(グスッ)
あとがき?
何が「関係ない」だ、バカヤロ。俺は著者なんだよネ、悪いけど。ハイ、あとがきでございます。
『桃尻娘』は「第二十九回小説現代新人賞」の佳作に選ばれました。普通あまり陽の目を見ない佳作がこうして陽の目を見てしまいました。これも皆様の厚い御支援の賜物《たまもの》と感謝しております(そのワリにははげましのお便りが全然来ない≠ニしつこく泣いておったようですが、本人は)。
処女作というも気恥かしい第一作『桃尻娘』は『小説現代Gen第三号』に発表されましたが、その際分り難い≠ニ不評だった応募原稿のラスト・シーンを書き替え(「キーコ・キーコ」以後)、更に唐突過ぎる≠ニ悪評を蒙りましたが、単行本収録にあたって、改めて当初の計画通りラスト・シーンを書き足しました。これで更に評判悪いと私はまた泣かねばなりません。どうぞお目こぼしを願います。この作に関しては方々で喋り過ぎたので、題名の由来のみを語ります。
出典は久生十蘭作『我が家の楽園』、即ち――「細紐一本の長女さまが縁側にすえた七輪を桃尻になってあおいでいるのを、古|褞袍《どてら》の重ね着で、踵の皮をむしりながら、平気でながめていられる(註:この主語は、父である農林省係長の石田|九万《くま》吉)」にあります。かなり猥雑な状況が気にいって採用しました。もっとも辞書を引けば「お尻が不安定で馬乗りが下手なこと」といった意味もチャンと出ております。そこから思春期の少女の不安定さをお汲み取りいただいても、当方としては一向に構いません。
しかしながら「ももじりむすめ」というのはあまりにもナマナマしすぎる、おまけにこれが処女作(!)と来ては、という声に負けて「ピンク・ヒップ・ガール」でありましたが、作者の本意は飽くまでも『桃尻娘《ももじりむすめ》』であります。ここにこの題名が復活しえたのを喜びと致します。
題名でいえば、二作目の『無花果《いちぢく・》少年《ボーイ》』も初出――「Gen第四号」では「いちじく」であったのを敢えて仮名遣いに逆らって今般「いちぢく」としていただきました。より猥雑になりまして、本望です。
私は図々しくも『桃尻娘』が入選するかどうかも不分明な以前から、二作目をどうしようかと考えておりまして、似たような話の二作目が一作目を凌駕《りようが》する訳ないから主人公を変える! と固く心に誓っておりまして、男の子が強姦される話に決めていたのでした。序でに更に図々しくも言えば、小説家になれば当分何か書き続けなければいけないから(当り前だ)、面倒臭いからシリーズにしてしまえという、かなりひどい発想の下に磯村君は登場したのでした。
私の見る所では、高校生の女の子は普段常に心の中でブツクサ言っている筈だ、そして男の子は、多分何も考えていないのだ(ワリイ・ワリイ)ということですので、その男の子に口を開かすのはかなりしんどい作業でありました。出来上りはかなり気に入っています。
シリーズ化でいえば、当初の予定では榊原玲奈はもう登場しないはずでしたが、「あの娘《こ》はこれからどうなるのだ?」というリクエストがかなりございましたので、作者としてはかなりしんどいことなのですが、五作通して登場させることにしました。それが三作目『菴摩羅《まんごお》HOUSE《ハ ウ ス》』であります。
しつこく当初の予定にこだわりますと、二作、三作と学年が上り、四作目は主人公の浪人時代になる筈で、『無花果少年』『桜桃令嬢』『菴摩羅HOUSE』『人参果《にんじんか》の樹の下で』と題名も全て決っておりましたが、ここへ来て、榊原玲奈の二年生がないのは惜しい! という不逞な考えが胸にきざしまして、三作目『菴摩羅HOUSE』となりました。
マア、女はブツクサ言っておるから書けるだろうと思っておったのに反しまして、これが一番苦痛でした。五作書く内の三作目は少しウットオシイものを置かねば構成が狂うと決めておりましたものですから、捨て石≠ナもと思って書きました。なお初出は『Gen』が休刊になったので『小説現代五月号』となりました。シリーズの途中で掲載誌が替るというのも苦痛でありました。初出タイトルは『菴摩羅《まんごう》HOUSE』でありましたが、例によって、猥雑を求める私はまんごお≠ノこだわりまして(分るでしょ、ネ?)、目出度く『菴摩羅《まんごお》HOUSE』復活となりました。よかった。
榊原玲奈のその後を求める声と同時に起ったのが、「オカマの源ちゃんを主役に!」でありました。私はこの燎原の火のような要望に簡単に応えて(作家の自主性はどうなるのかなア?)、『瓜売《ウリウリ》小僧《ぼうや》』出現とはなりました。
当初の予定では彼を主役にする気はなかったのです。五作目として『人参果の樹の下で』という源ちゃんのお父さんを主役にした三人称小説を予定していたので。と同時に、いつもホモを狂言廻しだけに使うというのも作家の良心に反するような気がしたので(見ろ! チャンと良心だってあるのだ)、堂々のホモ小説となりました。
これを書いていて私は最初発狂するかと思いました。何しろ彼が目茶苦茶なことばかり言うもので。これほどゲラゲラ笑いながら書いた経験は初めてです。この作品はラストがどうなるかを全然予想せずに書いたのですが、結果として笑いっ放しのマンマ最後へ来て泣ける話というのになったので、作者としてはかなり満足しています(別に泣いてくれなくても構わないけどサ)。
これで私も一応高校生小説≠書いている訳で、高校生といえば即青春、青春イコール純愛ですので、純愛小説≠ェ書けないのも困ると思っていた所へ、ヘンな方から純愛がやって来たもんで、喜んでいます。
いささか変調をきたした私の頭脳は五作目に至っても復調せず、五作目はそれまで八十枚平均で来た所が百三十枚を突破してしまいました。
実をいえば一作目で習慣づけられた、初稿――雑誌掲載稿――単行本稿と一作につき三稿作るという馬鹿げた癖は一貫して続き、五作全部が三稿――即ち、私はこの単行本一冊の為に十五稿書いた――あるというひどい作家なのですが、この五作目は雑誌掲載の都合上、短縮版を決定稿(第二稿)の次に改めて作るという面倒臭いことをやりました。
つまり、初稿『桜桃《さくらんぼ・》令嬢《おねえさま》』(未発表)、第二稿『温州蜜柑姫』(本巻収録)、第三稿『桜桃令嬢』(『小説現代十二月号』所載)の順です。
この『温州《お》蜜柑《みかん》姫《ひめ》』でやりたかった事は、受験時代である所の高校三年生の憤懣を書くという事でした。私は何を隠そう高三当時、人知れずブーブー毒づきっ放しだったのです。何が頭来るかと言えば、皆大学行ったら知らん顔して人がこんなに苦しんでるのに何にもしてくれないという事でした。よって、一つでも歳上の人間はみんな嫌い! という恐ろしい思想を抱いておりまして、「僕が大人になったら絶対そんな卑怯な人間にはならないんだ」と決めておりました。今の高校生が何を考えているのかは知りませんが(かなり無責任な発言だな)、もしもそういう恐ろしい思想を抱いた人間が一人でもいるとヤバイので、能《あた》うる限りしつこく高校三年生を書いて大人の責任というものを果したつもりではおります(飽くまでもつもり≠ナすが)。
各作とも夏休みの終った九月から冬休みまでの期間を舞台としています。そして二、三、四作は三人の主人公が同時進行形で並列し、一、五作とあわせて各主人公が遁走曲《フーガ》形式で追っかけっこをするという形をとったつもりですが、何分佳作¥繧閧ネので成功したかどうかはよく分りません(大体「季節はいつなんですか?」なんて質問が来るぐらいですから推して知るべしであります)。
最後に、『桃尻娘』以来、何故に私がしつこく猥雑にこだわるかと言えば、それが現実≠セからです。大体青春≠トいえば現実無視して平気でいられるっていう思想が僕は気にいらないんだよネ。だから僕はポルノまがいの題名をつける訳でサ、でも目指す所は飽くまでもアンチ・ポルノなんだけど、以上。
初出誌一覧
「桃尻娘」 小説現代Gen第3号'77爽秋
「無花果少年」 小説現代Gen第4号'78早春
「菴摩羅HOUSE」小説現代'78年5月号
「瓜売小僧」 小説現代'78年7月号
「温州蜜柑姫」 小説現代'78年12月号(「桜桃令嬢」改題)
本作品は一九七八年十一月、小社より単行本として刊行され、一九八一年九月に講談社文庫に収録されました。