帰って来た桃尻娘
橋本 治
目 次
プロローグ――帰って来る桃尻娘
帰って来た桃尻娘
大学の桃尻娘
エレキの桃尻娘
レッツゴー桃尻娘
プロローグ―――帰って来る桃尻娘
1
あたしは今、なんにも考えてなんかいません。ほんとになんにも。
なんにも考えてなんかいないんだ。お腹の中が弓矢でキリキリ絞られてくみたいな気がするけど、でもなんにも、あたしはホントに考えてなんかいないんだ。
なんにも――。
ホントよ。
夜だけがシュンシュン音を立ててる。気がつくと静かで、前にもこんなことがあったような気がする。前にも――。
もう考えるのなんかやめよう。だってあたしは今、なんにも考えてなんかいないんだから。もう失敗なんてしたくないもん。だから――。
あたしはなんにも考えてなんかいないんだ。なんにも。
あーあ……、行替えが多いなァ……。
でもいいか……。いつかはこんなことって終るんだし……。
いつか――。
あーあ、こんなことやってていいのかしら……?
(いいの?)
あーあ……。
よくない!
やっぱりよくない。今のあたしに一番必要なのはそんなことじゃないもん。今のあたしに一番必要なのは勉強することなんだもん。自分のことなんか、……どうでもいい…………………………。
やーめた!
やめ。
(あたしは今、ホントになんにも考えてなんかいないんだ!)
(あたしは今――)
2
3
やったァ!
やった!!
やたっ!
やったの。
やった! やったやったやったやったやったやった!
旗立てちゃお。
なァーにをやってんだろ?
でもいいんだもん。
やったわママ! やったわ!
ああシラジラしい、この素直さ。あたしともあろうものが。
ああ、でもいいんだわッ!
ママァ! (ああ、私はやっぱりママンが恋しかったんだわ)やったのよ!
なに言ってんだか。でもいいんだわ。やったのよ。ざまァ見ろって言うんだわ。
勝った!
勝ったのよ。
ああ――。
谷岡ヤスジみたいに深く息を呑んで、ああ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――やったんだわ。
ざまァ見ろって言うのよ。
ああ……(ここんとこまで、ほとんど意味をなさない)勝つっていうことはすごいことねェ……。一体なにに勝ったのかよく分んないけど。
一体あたしは何に勝ったっていうんだろ? ああ……、でもそんなことよりともかく、あたしはやっぱり勝ったんだわ。こうまで「勝った、勝った」って言いたいんだから、絶対あたしは何かに勝って、絶対あたしは何かと闘ってたんだわ。そうなのよ、そうに決ってんだわ。
チック・ショオーッ!!
ああ!
たかだか大学に入ったからってこの騒ぎはないけど、でも嬉しい。あたしはやっぱりやったんだわ!
ああ! 日露戦争は終ったんだわ。明日は絶対提灯行列。
ああ、読者の皆様、明けましておめでとうございます、私、榊原玲奈は遂に、あの難攻不落の星(意味がほとんどわからない)早稲田大学(ああッ……)第一文学部に(ああ……、やっと他人事じゃなくってこの字が書ける!)合格いたしました。(やった!)
やったぜベイビー
やったのよ。富士山麓にオウムがないて、長い日本の夜にも朝が来たのよ。喪服を脱いで出かけるんだわ。
ああ、美しい日本の夜明けよ!
ああ! (こんなに悶えてていいのかしら?)
いいのよね、多分。
ああ……、読者の皆様あけましておめでたうござひます。ああ、わたしはつひにヒッヒッヒッ、早稲田大学第一文学部に入っちゃったのでした。巷ではあの東京大学よりもエライと言われている早稲田大学なんです。
ああ、なんということでしょう。あの松村唯史が地獄に落ちている間に、私は遂にあの(クドイ!)早稲田大学第一文学部に(クドクてもいいじゃない)入っちゃったのでした。(あーあー、くどいなァ……)
私は遂に(でもめげない)、日本の学歴社会に於ける第一身分の座を獲得してしまったのでした。ああ、この長くつらい忍従の日々よ。私はおしんをやってる間に松村唯史はただのバカだということが分ってしまいました(相当深く恨んでるなァ私は――何がっていうと、その自分のバカさ加減に)。
ともかくすっきりしちゃった。もういいんだ。だってあたしはもうエリートなんだもん。もう、バカな子なんかみんな落っこっちゃって、あたしだけ早稲田に入ったのよ。
ホントなのよ、今の日本で、今年なんか、もうホントに、早稲田に入っちゃったのなんかあたし一人なんだから(ホントよ――マァ、これは言いすぎなんだけど)。でもいいじゃない、そんな気分なんだから。
やったね
玲奈ちゃんエライ!
ああ、撫で撫で。
ともかく、ホッとしました。あたしは遂に、早稲田に入っちゃったんでした。
帰って来た桃尻娘
1
多分テレビだとシーンが変ってるのよね。朝で、小鳥が鳴いてて。チュンチュン言ってて、あたしが起きるの。テレビドラマなんかだとね。銀河ドラマとかサ。
そういう訳で、シーンは変りました。あたしはもう、大学に入ってる訳です。発表があったんです。おとつい≠チて言いたいけど、それはもう一週間も前のことです。ああ、もう一週間かっていう感じです。なんかホッとして、気が抜けたまんま、なんかパンツ――あ、誤解しないで、要するにズボンです――パジャマのパンツが、なんとなくズルズル落ちてくみたいに時間が過ぎてくみたいです。なんか、あたしは緊張するのだけが上手で、リラックスするのなんてホントに下手なんだなって気がするんです。そんな気が時々は、うっかりするとしたりする、毎日です。
そんな日が、気がつくと一週間も続いてたりはします。なんか、ホントに、居心地悪くてボケーッとだけしてます。
そうなのねェ、なんだろう? とか思うの。なんでこんな風に居心地悪くリラックスしてたりするんだろうって。リラックスしてたら、別に居心地なんか悪くない訳でしょう? だからサ、あたしは、やっぱりまだ緊張なんて残ってんのかなァ、とか思ってたりはするんです。でもよく考えたら、こんなにもあからさまになんにもしないでいいなんてこと、ホントに、生まれて初めてだったりもするんです。だから――、大学に入れてもらえることは決ってるけど、でもひょっとしてもう一回、大逆転みたいなのがあって「すいません、よく考えたらやっぱりあなたはダメでした」なんてことを早稲田が言って来るかもしれないし……、とかって。マァ、よく考えてみたらバカらしいんだけど、でもよく考えたら、大学だってまだホントは始まってなんかいないんだし。始まってないんだから、だから何が起こるのかもよく分らないんだし……。
あーあ、なに言ってんだろうねェ、あたしって。
まァいいけど。
去年だったら、それこそ大学の入試の発表があってから、もう、ズーッと、屈辱で頭来てたから、高校の卒業式が来るまで、なんか、親の敵つけ狙うみたいにズーッと待ってたような気もするけど、今年だったら、勿論そんなことないし……。それで気が抜けたみたいな気になってるのかなァ……?
一年遅れでサァ、大学へ入った子のサァ、昔の友達の合格発表なんか聞かされたって、なんか、今更気の抜けたビール飲まされるみたいで、別に面白くなんかないわよねェ……。そう思うんだ。マァ、いいんだけど……。なんか、引っかかってることがあるようで、ないようで、今更乙女心は不安定ね≠チて、笑ってごまかす訳にもいかないし……。なんか宙ぶらりんで、なんかヘンなの。
なんかあたし、ホントにヘンなんだ――。あーあ。
でもよく考えると、あたしがです・ます£イになると、ホントに宇能鴻一郎になっちゃうのよねェ。ホント。いいけど、気をつけようっと。
そっか……。気取ると宇ノー鴻一郎なんだ。ウーン……。深いなァ……。そっかァ……、気取るとねェ……。ウーン、乙女心も大変なんだァ……(なに言ってんのよ)。
という訳で、あたしはほとんど、生きてる銀河テレビ小説です。
よくやってるでしょ?
女の子が藤谷美和子で、男の子が太川陽介でサ、青春で、明るいの。下町で。朝起きると雀が鳴いてて、その前に必ず牛乳屋が通るの。
「なんとかちゃん、起きなさいよ」とかって、しっかり者のお姉さんかなんかが来て、それが倍賞千恵子で、お母さんだとよく知らないオバサンで――よく知らないオバサンてことないか、マァ、そういう女優さんで、そんで、藤谷美和子はしっかり毛布つかんで、「ウーン、まだ眠いよォ」とか言うの。
そうすると、お姉さんだかお母さんだかは、シャコッ! てカーテン開けて、「なに言ってんのよ、もう何時よ!」って言って――ああ、あたしもしっかりママゴトしてるなァ――そうするとあたしの藤谷美和子は突然ガポッて起きて、「そう言えばサァ、昨日三ちゃん、あれからどうしたの?」とかって、昨日≠フつづきの話すんの。
ウチの母親が見てるもんで、あたしもよく見てるんです。自主性がないから。『ニュースセンター9時』の後で、チャンネル替えるのがメンドくさいから、そのまんま銀河テレビ小説見てるんです。ああ、しっかりウノーコーイチローだ(いいけど)。
あたしはこの一週間、そういうことに象徴されるような毎日過ごして、朝は藤谷美和子で、夜はその藤谷美和子のドラマ見てて、『世界まるごとHOWマッチ』とか『なるほどザ・ワールド』とか見てて、『ザ・ベストテン』とかも。ほとんど非生産的で、その間はズーッと、カンマンに体重を増やし続ける作業に熱中してて、ほとんど主婦より悪いです。
ウチの主婦さん≠ヘ十時頃あたしの部屋のカーテンシャコッ!≠チて開けて、「早くしてよ、出かけるわよ」って言って、サッサと働きに行きます。
そうなんです。ウチのお母様、私が合格したら、途端に元気になって(というかなんていうか)働きに出ちゃったんです。近所のっていうか、ちょっと離れたとこにある鯛焼屋さんで(当人はファーストフードだって言ってる)、派手な制服着て(帽子もついてます――可愛い!)――水色と白なんです、ストライプで、胸にピンクの名札つけて、サカキバラ≠チて書いてあるんです(ウフッ)――働いてるんです。あたしが面白そうだから見に行ったら、「見に来ないでよ」って怒るんです。照れちゃうって。いいですけど、真面目な顔してやってるんです。カッコだけはディズニーランドだと思う。四十五ですけど。いいんです。なんか、「暇もて余してるのやだから」って、サッサと働きに行っちゃったんです。中年てやることが早いなって思います。
という訳で、あたしはダラダラしてるっていう訳です。十九の娘が(アーア、十九か……。十九なんて年は死んでると思ったけどなァ……。十九なんだァ……。どうしたって一番中年よねェ、十九なんて。十代の中年期だわァ、十九なんて)。
あたしはダラダラしてて、お母様はテキパキしてて。ほとんど現代の家族関係だと思いますけど、あたしは「ウーン……」とかって言って、パン頬張りながら、ディズニーランドに行くお母さんに「行ってらっしゃい」って言って、なんかホントに立つ瀬ないんだ。ひょっとして、あたしに立つ瀬ないこと教えようと思って、ウチのお母様は働いてらっしゃるのかなァ? まァいいけど。
という訳で、あたしは十時に起きてたのが、いつの間にか十一時に起きてるって言った方がいいような案配で、雀はもうチュンチュンも鳴きません。トラックがチリ紙交カンやって、ブーブー、窓の外を車が通ります。あたしは、誰もいない家ン中で、ズルズルとパジャマの下を引きずって、『笑っていいとも!』だけを心のささえで生きてるんです(でももう飽きた)。そりゃそうだよねェ、誰もいないのをいいことに、パジャマズルズルなんだもん。「女の子やめますか? それとも人妻やりますか?」って、そんな感じよねェ……。
トローンとしてる……。
という訳で、あたしは、なにがなんだかよく分らず、怠惰な日常だけを太らせて生きているという訳なのです――重点的に下腹部の方に(あーあ、二キロも太った)。
2
マァ、いい加減怠惰にも慣れましたけどね。なんとなく、落ち着かなかった原因も分って来たりしたみたいだし――。
なんとなく私は、どうも春休みがトロトロしてると、なんとなく過去なんかを振り返ったりしちゃったりするみたいです。そんなクセが、ついちゃったのかもしれません。
ついこないだが三月の二十日で、それでなんとなくカレンダー見てたら「ああこれかァ……」とかっていうのが分ったみたいな気がしたので、その時のことみたいのを言います。なにかっていうと、去年の三月二十日も(っていうか三月二十日は≠チていうか)あたしは、卒業式をやってたからです。
「そっかァ……、もう、卒業式に行かないでいいのかァ」とか思ったら、ドジでのろまなカメのあたしは、なんだかポカンと抜けてしまいました。
要するに、この、ドジでノロマでチアキの私は、「ああ、もう卒業式に行かなくていいのかァ……」とか思った途端、今まで自分が「ああ、今年の卒業式にどんな顔して行ったらいいのかなァ」なんてことを考えてたんだ、なんてことが分ったんです。
よく考えたら、もう卒業式なんてないのよね。高校なんて、ないのよね。あたしは去年卒業して、そのおかげで今年まで浪人≠トいうのをやってたんだから。
「ああ、もう卒業式なんかないんだァ」って思ったら、あたしはそれまでの呪縛≠ンたいのから、コポンて解放されてしまっちゃったんです。
なんかあたしは、今年もう一遍、みんなと会って、それで「やっとこれで卒業式のやり直しが出来る。キミだけが遅れたんで、ホントにみんなは迷惑したよ」なんて、そんなこと言われるんじゃないかって、そんな風に思ってたんです。そして――そしてそれから、「そんな風に言われるかもしんないなァ……」とか思ってて、でも、それでもやっぱり、あたしはチャンと卒業式をやり直したいなァ、とか、どっかで思ってたんです。「そうかァ、もう高校ってないのかァ」って思ったら、どっかであたしはジーンとしました。
一年かかってジーンとしました。あたしはバカで、ノロマなんです。一年もかかるなんて。そんで一年間、なんかメチャクチャに緊張してたなァ、とか思って、それで、パジャマのまんま外見てたのがバカらしくなって、洋服に着替えて、外歩いて来て、「ああ、これでもうダラダラしてちゃいけないなァ……」とか思ったんです。「お母さんもディズニーランドやってるし、あたしも女子大生やんなきゃなァ」とか思って。
「ダラダラしてちゃみっともないなァ。終ったんだし。終ったんだし。終ったんだし」と思って。
あたしとしては、それまであったんだかなかったんだかよく分んない、その高校三年間のモヤモヤした生活に、なんか、キッチリ落し前みたいのをつけて、それで堂々と大学に乗り込んでくんだとかって、そんな風に思ってたんです。でももう、卒業式ってないんですよねェ。あたしは一人で卒業しちゃってたんだし。ドラマチックって、いつだってずれてて、いつだって現実ってドラマチックにはなってくれないし、それであたしは、自分がヘンな風に気張ってたんだってことに、気がついたんです。
みんなは、とうの昔に出来上ってて、大学生になってて、そんなことは当り前で、なんかとっても板についてて、そんな風にして平然としてる中に、あたし一人が「すいません……、やっとあたし、女子大生になれて……」とかってオズオズ入ってって――なんかそんなことを想像してて。そんなことないのに二回目の卒業式を緊張して待ってて、それで、ヘンな風に怠惰がリラックスを強姦してたんだなって思いました。
もう、そんなことってないんだしね。
気がついたら、あたしが高校生だったことなんて、もう一年も前に終ってんだしね。あたしはもう、悠々と「生まれてからズーッと大学生です」って顔して大学の中に入ってけばいいんだし、そして、入ってかなくっちゃいけないんだなって思いました。
なんでなんだろう。なんでなんだろう。そんな簡単なことなのに、どうしてあたしって、こんな風に思いっ切りが悪いんだろうって、思ったんです。
そうなの、ホントに簡単なことなのに、あたしってなにをグズグズしてたんだろうって、そう思うんです。そんな風に、あたしの中であの三年間ていうのが重荷になってたのかなって。そうでもなけりゃこんな風に思い切りが悪いのって、一体何がひっかかってこんなにグズグズしなくちゃなんないんだろう、とかって、そんな風に思いました。
私は別に、何かをしでかした訳ではない(と思う)。みんなだって、なんか、そうなんじゃないかって思う(多分)。でも、あたしは、やっぱり、何か構えてたんだと思う。構えて、それで萎縮してたんだと思う。なんか、勝手に一人で、色んなこと考えすぎて、色んなことにガードしまくってて、それでつらくなりすぎてたんだって、そんな風に思う。だって、そうじゃなかったら、今年もう一遍卒業式があって、それで、そこにあたしが一人で遅刻したみたいに、みっともなくなって入ってくなんて、そんなこと考える訳がないと思う。そんなこと想像して、オズオズしたりする必要って、ないと思う。ないと思うし、ないと思うから、もう一遍卒業式のやり直しをしたいとかなんてこと、考える必要がないと思う。
あたしは萎縮してて、疲れてて、それで、それでやり直しが出来たら、誰かに、「よかったね」って、そんな風に言ってもらえるかもしれないって、そんな風に思ってたんだと思う。そうだと思う。やっぱりあたしは、誰かにやさしくされたかったんだって、やっぱりあたしはそう思う。
あたしはやっぱり三年間――それだけじゃなくってもっと前から、あたしは多分、ずっと、ヘンな風にヘンな我慢をしてたんだって、そう思う。ずっとヘンな我慢をしてて、それで疲れちゃったんだと思う。あんまり疲れすぎて、何考えてんのか分んなくなっちゃったんだと思う。もう、どうでもいいやと思って、松村くんとこへ飛びこんでって、飛びこんでってダメになって、それで浪人して、それで一年、あたしは、我慢してたっていうよりも、ズーッとズーッと、たった一人でズーッと、はっきり言ってすさんでたんだと思う。
なんにも考えてなかったし、なんにも考えたくなんてなかったし、どうせいいことないんだって思ってたし、「チクショー、チクショー! あたしは絶対に真面目な大学生になってやるんだ!」って、たった一人ですさんでたんだと思う。何があった訳でもないし、どうした訳でもないけど、この一年間、なんにもしないでただ勉強だけしてたら、なんだかしらないけど、ホントに心の中が荒涼としちゃったもん。荒涼として、たった一人で、「うるさい! うるさい!」って、自分の外側にあるもの全部に、片っ端から当り散らしてた。そうだと思う。
あたし別に、松村くんのことなんか、初めっから好きじゃなかった。やっぱり、何遍考えても、あの人のこと好きになれない。可哀想だとは思うけど、でもやっぱり、好きになんかなれない。だって、初めっからあの人のこと、あたしは好きなんかじゃないんだもん。なんかうるさいなァって思ってた。それだけなんだもん。
二年ぐらいの時、なんでつきまとうんだろうって思ってた。気のせいかな、とか思って。それでも、なんかつきまとってるなァ、とか思って、一人で自意識過剰してるのかなァ、とか思ってた。
三年になって、明らさまにくっついてられて、「なんだろ、この人?」とか思ってた。もしもあれで、誰か他の人があたしにつきまとってたりするんだったらあたしはドキドキしてたかもしれないけど、「別に、こんな人につきまとわれたって、どってことないや」って、そう思ってた。
あたしは、別にしおらしい女じゃないし、ほとんど、高校時代って、一人で喧嘩売って生きてるみたいなところがあったから、「だからどうだっていうのよ」って、あの人のこと思ってた。だって、あの人は浮き上ってる人で、そんな男に目ェつけられたって別にどってことないもんて、分ってたから。
あたしは、浮き上ってるかもしれない女だったかもしれないけど、でも、それだったからやっぱり、浮き上ってる男なんかと一緒になんかなりたくないし、させられたくないと思ってた。
あたしは、浮き上ってる女で、ナミの女じゃなくって、だからニチジョーのことなんかサラッとバカにしちゃってて、それでカッコなんかよかったんだけど、でも、それでそのまんまになってたら、ただのバカよ――そう思う。
浮き上ってるのなんて、みっともないもん。そのこと、クラス会に行って分ったわ(ああ、そうよねェ、その話しなくちゃいけないのよねェ。分ってるから、ちょっと待ってて、やっぱりあたし、あの話って、ちょっと気持悪いから言い出しかねてて――マァいいわ、後回しで)。
松村くんて、浮き上ってる子だったの。浮き上ってて、誰にも相手にされなくて、そのこと分ってるんだけど、でもそのことだけは絶対に認めたくなくて、それで、みんなに相手にされなくて、たった一人でカッコつけてる、可哀想な人だったの。誰にも相手にされない他人のクラス会に来て、それでも平気でクラス会やってるんだもん。みんなは分ってるから(または分ってないから)「あいつはああいうヤツなんだ」っていう風に思ってるから、松村くんだってそういう風に、「いかにも僕は変ってます」って顔してたけど、あたしは、見てなんかいられなかった。
あっちウロウロ、こっちウロウロってしてて、「ねェ、僕も入れてくんない?」って顔してて、それで、いつも気がつくと、部屋の隅で一人でビール飲んでるの。平気そうな顔して。あたしはホントに、やめてもらいたいと思った。そんな惨めなこと平気でさらしてて、それでバレないと思ってるなんてホントにバカだと思った。他の人は知らなくたって、だって、あたしだけは知ってるんだもん!
ミニコミの会社(?)で、一番の下っ端で、当人はイキがってそんなとこに行ったかもしれないけど、でも、そんなとこにひねた高校生が行ったって、誰にも相手にされないで、相手にされないでも、でもやっぱりそこにいなくちゃいけないの。
行きがかり上そんなとこへ行っちゃって、行っちゃったから、誰にも相手にされないなんてこと言いだせないで、言い出せないまんま、そこにいるの。あたし行って、びっくりしたもん。寒々しくって、一人で松村くんの来るの待ってて、誰にも相手にされなくて、あんな風に事務所に座ってたおかげで「松村の女」なんて思われるの全然いやで、よくあんなとこにいられるなって、あたしは思った。「やめた」とも言ってないから、まだいるんだろうと思う。どんどん卑屈になって、ホントにみっともなかった。「ああ、あんな人と一緒じゃなくてよかった」って、クラス会の時にそう思った。
ホントに、あんな人と一緒じゃなくてよかったし、あんな人となんかなくてよかった。
あたし、あの人のお姉さんだって知ってるし。去年の冬、松村くん家《チ》行って会っちゃったし――。
やっぱり、さっさと別れちゃってよかったんだと思う。やな女だったし。
ホントにやな女だった。
不気味だったし。
松村くんより三つ上で、あたしよりも三つ上だから二十一だったけど、ホントに不気味で、ウロコのとれた蛇女みたいだった。
目がギロギロしてて、口裂け女みたいによだれ垂してそうで、ホントに異様だった。女子大生でも、ホントにあんなにクラーイのがいるんだと思った。
あれが話の分る<lーさんで、頭のいい<lエサンだとしたら、松村くんの暗さってのも相当なもんだと思った。その時はそんな風には思わなかったけど、言わなかったけど。あたしのことなんか、明らさまにバカにしてたし。
「ねェさん、これが例の榊原さん」なんて松村くんが言うと、部屋の外の廊下に立ってるねェさん≠ェ、「あ、そう」とか言って、あたしのことをジーッと見てるの。古い家でね、暗くてね。ホントに大学教授なんていやだと思った。松村くんて、そういう息子なんです。
暗い廊下の中で、本持って立ってるのよ。今時髪の毛真ン中から分けてサ。ヌターっとした髪の毛の間から「あ、そう」って言ったまんま、あたしの顔ジーッと見てるの。ブスのくせに、異様に背が高くってサ。あたしはブスなんかにバカにされたって、ちっともこわくなんかないんだからねッ!
人のこと、「家来になるんだったら認めてやるわ」なんて顔してサ、「よろしく」とも言わないのよ、あたしが「こんにちは」って言ってるのにサ。松村くんなんか、異様にカン高い声なんか出しちゃってサ、姉さんの前で。
「フーン、そうなのかァ」って思ったけど、悪いからなんにも言わなかったわ(それがいけなかったんだけどサ)。
なんにも言わないからいけないのよね、あたしが。「好きだ」って言われて、自分はあの人のこと好きでもなんでもないのに、「好きだ」って言われて、それでボーッとなっちゃって、ドギマギしてて、黙ったまんま、なんとなくそういうことにしちゃって……。
バカなんだ、あたしは。
あの人の姉さん見てれば、やばいなってこと、すぐ分ったはずなのに。
姉さんの前だと、妙にオドオドしてて、そのクセどっか突っ張ってて、学校でいつもこの人がヘンだったのって、こういう姉さんがいたからだって分った。すごくつまんないこと一人で大きな顔してゴチャゴチャ言ってたのって、ウチで姉さんが本気で面白がってたからなんだ。だからあんなに暗いんだって分った。松村くん家《チ》から帰って来る時、送って来てくれたけど、その時松村くん、妙におとなしかったんだけど、そういうことなのかって、今になると分る。ねェさん′ゥられちゃったから、もうミもフタもなくなっちゃったって分ったからなんだと思う、アレは。あたしだって、なんにも言わないけど、そういう顔だけはする人だから(と思うけど)。なんか、言っちゃいけないことだけ溜ってくみたいで、松村くんて可哀想だなって、その時思った。
やっぱり、ああいう不気味な姉さんがいて、でもそれが身内だからって辻褄合わせてるの、しようがないけど、そういうの他人から見られるのってあんまり嬉しいことじゃないと思う。「なんかやだな」っていう、気だけはすると思う。だから、松村くんが黙って送って来て、あたしもなんかあんまり言えなくて、二人で夕方の町の中黙って歩いてると、如何にも如何にもそれ風になって来て、冬の町って、肩寄せ合って歩くように出来てんのよねェッ! (キャッ)
まァ、そういうことだってあったんです。あったのよ、言わなかったけど。まァいいじゃない、もう過ぎたことなんだからサ。時期も悪かったし――。
あたしは受験で追いつめられてたし、松村くんは逃げちゃってたし。
あたしはやっぱり、松村くんは逃げたんだと思う。別に大学に行くことがどうこうってことはないと思うけど、大学教授の息子で、姉さんが不気味にインテリで、そんなとこの子供が「大学行かない」ですんじゃうんだったら、やっぱりそれは、どんなにカッコつけたって、やっぱり逃げたんだと思う。逃げたんじゃなかったら、あんなにカッコ悪くなんかなんないと思う。他人のクラス会来て、「誰か相手してくんないかなァ……」なんて、ウロウロしないと思う。あたしはそれ知ってて、逃げるなんてこと絶対するもんかと思ってたんだと思う。我ながらつまんない意地の張り方だとは思うけど、でもそれはそれでしようがないんだと思う。だってやっぱりあたし、逃げるのなんていやなんだもん。それにどんな口実がついたって、やっぱりそれで逃げたりすんのいやなんだもん。大学行くのが分んないのとおんなじだけ、大学行かないことの正当性ってのもよく分んないんだもん。分んない同士喧嘩するんだったら、あたしはやっぱり「逃げた」って思いたくない方とると思うもん。
あたしってやっぱり、いろんなこと、分ってたんだよなァ……。分ってたんだけど、そのこと分ってると思ったら哀しくなっちゃうと思って、それで分んないことにしてたんだよなァ……――そんな風に思う。
やっぱり松村くんはなんにも出来ない人だったと思う。そのこと隠そうとしてたけど、でもそのことが一遍分っちゃうと、もうどうしようもなくなっちゃうんだ。
あの頃――高三の終り頃、あたしは一人で追いつめられてたんだと思う。いい加減我ながらしつこいと思うけど、でもやっぱりそうだから、そうだと思う。追いつめられてて、それがいやだから、醒井さんつかまえてて、でもそれもそろそろ限界になって来て、醒井さんの手、離さなくちゃいけなくなっちゃった頃松村くんがやって来て、あたしのこと「好きだ」って言ったんだ。「好きだ」って言われて、あたしはそれがどういうことかよく分んなかったけど(これはやっぱりホントだと思う、あたしはやっぱり、それがどういうことなのかよく分んなかったんだと思う)、ともかくそれにつかまっちゃえば、今の状況から逃げ出せると思って、それで松村くんの方に乗り換えたんだと思う。
乗り換えて、乗り換えてからもやっぱり松村くんのこと好きになれないってことどっかで分ってるくせに、あたしは、その手を離すのがやばいから、すごーくつまんない、カマトトでブリッ子の、すっごく臭い、嘘芝居やってたんだと思う。
松村くん、高三の時の二学期の終りにあたしのこと「好きだ」って言って(ホントによく覚えてるなァ)それっきり一回も「好きだ」とは言わなかった。言わなくて、あたし達はお付き合い≠ヘしてた。キスしてたら、好きなんだってことにもなるし……。
ウーッ……。そうなんだしィ……。ウーッ……、あたし達って、やっぱりホントに、青春映画やってたんだァ……、冬の黄昏の中で……。ウーッ……、人生は本気で少女マンガだったんだァ……。
ウーッ……(照れてるんですゥ)。ウーッ……(違うかもしれない……)。ウーッ……(よく分んないんですゥ……)。
ともかく――ああ……、あたし達が黄昏の中であんなことをしてたなんてことを思い出したらァ……、ああ、恥かしくなって来てしまった。
まァ、いいんだけども、少し休もう(ポッ)。
3
松村くんて、なんにも出来ない人だったんだと思う。だから一回しか「好きだ」って言わなかったんだ。言って、それであたしがそういう風になるのだけを待ってたんだ。待ってたっていう言い方はよくないかもしれないけど、あたしがしおらしくなっちゃったから、あの人はもう言わなくてもいいんだと思ってたんだと思う。もしもあの時、あの人がさる所≠ヨ行こうかって言った時に、あたしが「いいわ」って言ってたら、そしたらその時にもう一回、「好きだ」って言ったかもしれない。なんとなくそんな気がする。さる所≠ヨ行って、さること≠して、そして多分、その時にあたしの髪なんかを撫でながら――いいのかなァ、こんなこと言って――多分もう一回「好きだ」って言うんだ。そして、そう言ったらもう言わなくって、そしてあたしはどうなってたのかなァ? よく分んない。ともかくあたしは、あの人の前でしおらしい女の子をやってた。それだけなんだ、気味悪いけど。
あたしだって、そういう女の子になりたかったし(と思う)、それに、そういうことしなかったら、なにもかもに見放されたみたいな気がして、たまんなかったもん。
多分あたしって、なんでも分ってるんだ。分ってなくっても、なんでもすぐ分れちゃうんだ。分れちゃって、それが違うかもしれないなァってズーッと思ってて、それが当ってたってこと、すっごく後になってから気づくんだ。なんでもすぐ分っちゃったらつまんないし、そんなことしちゃったら、徹底的に男の子に嫌われちゃうって、分ってるんだ、どっかで。だから黙ってるんだ。そう思う。
なんだか知らないけど、あたしはいつかきっと決定的に世の中から取り残されちゃうかもしれないって、どっかで思ってるような気がする。それはもう、どっかであたしはズッと前から決定的に世の中から取り残されちゃってるんだってことを分ってるからじゃないのかって思う。ホント、そんな風な気がする。
あたしは、どっかで取り残されてて、でもそんなことじゃまずいから、必死で取り残されてなんかいないんだって、思おうとしてたような気がする。ちょうど、学校っていうのがプールで、あたし以外の子はみんな泳げてて、でもあたし一人泳げないから、他の子がスイスイ泳いでるのに隠れて、隅っこの方で一人でパシャパシャしてて、それで立ち泳ぎやってるみたいにごまかしててって、そんな気がする。パシャパシャやってたら、みんなプールから上ってて、あたし一人だけ、なんか確信持ってプールン中に入ってて、「あの人はいいのよ、ああいう人だから」って、そんな風に思われてたような気がする。思われてて、自分も「そう思われてるんだからそれでいいや」って、そう思ってたような気がする。そんなことやってたら、プールそのものもなくなって、今までごまかしてたあたしは、そういうあたしをまたごまかさしてくれるようなものを探したんだって。
松村くんだって、やっぱりごまかしてたんだと思うから、ごまかし合ってる人間が二人で、一生懸命ごまかし合ってたんだと思う。
あたしは一生懸命、心細そうな受験少女を演じてたし、松村くんは松村くんで、「それがどうしたの? きみもつまんないことでおびえるんだなァ」っていう、勇敢少年をやってたような気がする。
なんというクサイ芝居でしたでせう。
あたしが心細けりゃ、あの人はそれで強くなるんだもん。あたしは一生懸命、心細がって見せてたんだわ。あたしらしくもない。
ただでさえ入試なんか自信ないとこに持って来て、もっと自信なくせばもっと少女マンガになるんだもんね。エッエッ、エッって。あんなにバカだった時期ってないなァ……。一生懸命バカやってたもんなァ。バカになると、「大したことないじゃないか、バカだなァ」って、言ってくれる人がいたんだもんねェ……。ホントにバカだと思う。
落っこって、それ見てて、「ああ! ホントにバカだったんだ!」って思ったんだ、あたしは。それなのにまだ、あのバカは「どうしたの?」なんて人のこと抱こうとするから、あたしは「人前でみっともない!」と思ったんだ。こんなとこでロマンチックやんないでって。
「自分の顔見なさいよッ!」って、言ってやりたくなった。どう見たって相手は、青春ドラマの主人公って顔じゃなかったし、場所だってウソ寒い、早稲田の校庭だったし。自分達だけで密着したラブロマンスやってたのが、急に「バカ!」って声が合格掲示板から落っこって来て、みんなみっともなくなったの。なんて二流のラブコメだって。
バタバタ舞台装置が落っこってって、一番惨めなのがあたしだった。
あたし達の周りじゃ、自分達のバカに気がつかないバカが「あったァ、やったよォ」とか男に抱きついてて、それよりもあたしはバカなのかと思って、もう、ホントに泣きそうだった。
バカ、バカ、バカって、もう、何ヵ月も前からぶりぶりぶりっ子やってた自分が、もう、ホントにバカみたいで、情なかった。
だからやだったの。
やだったけど、やだって言えなくて、それで、あたしはこの一年、ホントに荒涼としてたんだわ。なんか、そんなこと言い出したら、あたしはもう、ホントに一人で生きてかなきゃいけない凄まじい女で、誰からも相手にはしてもらえないで、男という男は、もうみんなバカだってことが分っててって。言い出したらおしまいだけど、黙ってるのだってつらいのよねェ。荒涼とした心に、荒涼とした風が吹くだけなんだもんねェ。春荒涼の花の宴とか――つまんないこと言ってんの。
あたしホントに、この一年間、自分が絶対に恋愛なんて出来なくなったらどうしようって、ホントにそういう風に思ってたんだ。「まさかなァ……」とか思ってることがみんな当ってて、なんか、世の中はみんなバカで、バカだと思ったらいけないと思ったって、絶対にやっぱりバカなんだってこといつかはやって来て分っちゃうしって。分っちゃったらおしまいだし。もうそうなったらどうにもならないって、あたしは思ってたんだ。
何があっても他人事だし、あたしの周りで何が起ろうと、「だからどうしたのよ」って、思ってた。予備校なんて、ナンパの大社交場で、声かけられない女は女じゃないってことぐらいにはなってたけど――なってたと思うけど、「だからどうしたのよ?」って、あたしは思ってた。
こわい女だっただろうなァって、思うんだ。今更言ってもしようがないけど。
ナンパの社交場で声かけられて、「なによ!」って顔して見てたんだもんね、あたしは。「悪いけど興味ないの」って言ってサ。あたしに声かけて来る男なんて、みんなバカだと思ってたしサ、また、明らさまにバカなんだもん。ホントにバカなんだもん! そりゃね、声かけられればサ、満更でもないけど、「ああ、あたしだってまだすてたもんじゃないな」って思うけど、でもそうなるとまたサ、「そういうあたしに、一体どういう権限があって、あんたみたいなバカが声なんてかけてこれるのよォ」とか思っちゃってサ、乏しい数の男に声かけられたことをエネルギーにして、「ふん、バカ!」ってのやってるんだからねェ。我ながら、惨めというか、浅ましいというか――(ゴチャゴチャ)。
でもサァ、明らかに声かけて来る男って、バカよ。ほとんどもう明らさまにスケベ≠オか顔に書いてないんだもん。それでよくやるなァって、思うもん。僕は明らかにスケベです、それ以外の何者でもありません≠ト顔してて、それで馴れ馴れしく声かけて来て、絶対に、あれで引っかかった女だっていると思うの。その戦果踏まえて、「これならいける」なんて目星つけられたら、たまんないよォ。ホントバカバカしい。
「あーあ、あんなバカに声かけられるくらいだったら……」ってよそ見回わせば、もう、そうなって来ると今度は、別の地獄が口開けて来るのよねェ。ナンパして来るのはバカだけど、ナンパして来ないのはもっとバカだって。
もうほとんど、塾通いの小学生から一歩も出てないんだよねェ。チビで、モソモソしてて、ガキ同士でタラタラしてて。「どうしてあんた達あたしに声かけないのッ!」って、怒鳴りたくなっちゃう。
結局もうやっぱし、結論は一つのところに落ち着くしかないのよねェ――即ちまともな男がいない≠チて。
結局そうだと思うんだ。そういうのって、あたしのせいじゃないと思うんだ。モジャモジャモジャモジャ、カメの子ダワシみたいに歩いてるだけで、なんにも考えてなんかいないんだもん。あたしだって、やさしくされてたら素直になってたと思うよ。思うけど、それだけなんだもん。
あーあ、この世の中は、恋愛なしでは成立しないのかなァ……。
私は、そんなメンドクサイことなんか、やだなァ……。はっきり言ってそう思うなァ……。あたし、よく考えたら、恋愛しなくちゃいけないのかなァってことは考えたことあるけど、恋愛したいなんて思ったこと、一遍もないもんなァ……。
そうなのよねェ、あたし、恋愛したいって思ったことって、一遍もないのよねェ。困ったなァ……。別に、いけないとも思わないけど、私がしたいのは恋愛じゃなくって、ただやさしくしてもらいたいだけなんだ。
頭撫でられて、よしよしって言われて、ただそれだけなのよねェ……。
それだけなのに、それだけじゃいけないのかしらねェ……。
あたしは、よく分らない。世間はみんな、恋愛してるし。
恋愛してるしね。恋愛……。
そうなのよ。
そうなの!
ああ、頭来るッ!!
なんだってあたしがこんな風に一人でグチャグチャしてなきゃいけないのよッ! みんな醒井凉子がいけないんじゃないかッ!
あんな女がグチャグチャして、あんな女が恋愛したりするからいけないんじゃないかッ!
チクショオ! あんな女なんか大ッ嫌いだッ!
そうなんです。とり乱して申し訳ありません。私は、醒井凉子が大ッ嫌いになったんです。
あんな女! ホントにあんな女だと思います。私は、醒井凉子が大ッ嫌いになったんです!!
4
私、前にも言ったんですよね。クラス会行きましたって。で、その話しますって、言ったんですよね。その時はそう思ってたからそう言いましたけど、でも、よく考えるといやなんですよね。すっごく、いやになっちゃったんですよねェ。受験の準備だって本格的になって来ちゃったし、それでヘンなことなんて忘れようと思ってたんだけど、でもやっぱりいやで、ホントだったら、こんなこと書きたくないなって、あたしズーッと思ってたんです。
クラス会の後で醒井さんから電話かかって来たこともあったんだけど、あたし、関りなんか持ちたくなかったから「今忙しいからゴメンネ」とか言っちゃったんです。言っちゃって、それで気持悪くなって、胸がムカムカして来て、「なアにがお知らせしたくって」だ、とかって思ったんです。分らないことは分らないことでこれから話しますけど、ともかく、こんなことがあったんです――
私、クラス会に行きました。このことは前にも書いたと思います。「ふん、なによ、みんなカッコつけちゃって」とか、すさんでたことってのは、前にも書いたと思います。
前にも書いたと思いますけど、あたしはそんな風に思ってて、でも、自分ではそんな顔してるとは思ってなかったんです。
あたしは別に、「なんでもない」とか思ってて、「そうか、暇潰しにでも行ってみようか」とか思ってたんです。私は別に、普通の顔してたんだと思ってます。
高田馬場の、小さなレストランでした。磯村くんが幹事やってて、犬飼くんとか大崎とか、一体あんなのに未来があんのかしらとか思ってた子達にみんな未来があって、精一杯楽しそうにやるつもりをやってました。私はなんか、別にみんなが先に大学入っちゃってもいいから、少なくとも、先に行った人間の義務として、精一杯「未来はこんなに楽しいよ」ぐらいのことは見せてくれてもいいのに、とか思ってたんですけど、相変らずでした。相変らず、ウチのクラスはダサくって、それが高校生の時より仕末が悪くって、もう高校生じゃないからダサくないって勝手に決めてて、「あんた達は別に高校生じゃなくなったからってダサくなくなった訳じゃない」って、憎まれ口の一つも叩いてやりたいぐらいに思ってました。
あたしが行った時にはまだそんなにみんな来てなくて、「まァ、ダサイのはダサイでしようがないや」とか思って、普通の顔はしてました。来てたのはあたしの前に十人ちょっとぐらいで、数も多くなればダサさもにぎやかさでそれなりの隠せ方はしちゃうんだけど、十人ちょっとぐらいだったので、ちょっとでした。
なんか、黙ってると気が滅入りそうなので、近所にいる子と「どうォ?」とかって、普通にクラス会とかをやってました。女子大行った子で、おとなしい子で、近況報告とかをしてたんです、あたしと二人で。そしたら、部屋の隅に松村くんがいたんです。
「あ!」とか思って、「なんだろう?」とか思って、目ェ合わさないようにして、気がつかないようにしようと思ってたんです。初めの内は、向うだってあたしには気がついてないと思ってたんです。気がついてないんだから、こっちだって気がついてないことにしようと思って、ますます普通に、影山さんていうその子(だったと思う――時々あたしは女の子の名前なんか忘れちゃう)と一緒に、地味ィに、クラス会やってたんです。やりながら「どうしてあの人来てんだろう?」とか思って。話しながらチラッと見たら、やっぱり松村くんがいて、その時部屋の中に入って来たウチの男の子に「あれ、なんで松村、お前がいんの?」なんてことを言われてました。「いいじゃないか、親戚みたいなもんだから」って、あの人は言って、「もう開けてもいいんじゃないの?」とかって、ビールの栓に手をかけたんです。
「もう開けてもいいんじゃないの?」って言ったのは幹事の磯村くんにで、あの人は磯村くんの友達だから、まァ、それで親戚みたいなもん≠ノなるのかもしれません。ここら辺、男の人の発想ってよく分んないわ。
松村くんは、そうやってベチャクチャ喋ってました。磯村くんは、「もう時間だからいいかな」とか言って――私はなんでこの人が幹事始めたのかよく分んない、バカみたいだと思ってた――その頃には松村くんも、あたしのことは気がついてたと思うけど、私は知らんふりして磯村くんの方を見てたから、よく分んない。
「じゃァ、大体揃ったみたいなので」って磯村くんが言って、あたしはなんにも考えないで、クラス会が始まるのを待ってた――多分、一体あたしはなんで来たんだろうなァ……? なんてことを考えようとしてたのかもしれない。
ボヤーンと見てて、なんだか知らない、意味もなく「まァいいか」とか思ってたら、あたしの後ろをツンツン突っつくのがあった。
あたしはそれまで、「クラス会に行くんだ!」ってことしか考えてなかったから、バカみたい、クラス会に行ったら友達≠ノ会えるんだ、なんてことは全然、考えてもみなかったから、それでツンツン背中を突っつかれたのに驚いた。「ああ、あたしだって友達がいたんだ!」って、急に飛び起きた。源ちゃんとか醒井さんどうしてるんだろうとか思って、振り向いたらそこに、醒井さんが立ってた。
「じゃァ、乾杯しますから」って磯村くんが言って、それでみんな立ち上りかけてたのとは反対の方向に向いて、私と醒井さんは、並んで立ってた。
サメガイ≠チて、サン≠ワで出かかってたけど、出かかってたサン≠ヘ、ついにそのまんま素直には、出て来なかった。
あたしの前には、見慣れてた醒井さんの笑顔があったけど――見慣れてた笑顔だったけど、でもそれは、尋常じゃなかった。
みんなが立ち上って、乾杯するとこで、あたし達はその背中に囲まれて部屋の隅だったから、それで暗かったのかもしれないけど、でも、醒井さんの笑顔は、尋常じゃなく、明るかった。明るくって、目がギラギラと輝いてた。
あたしは、「この人どっか悪いんじゃないかしら」って、その時に思った。
真っ白な顔で、目だけは光らせて、そして、ホントに醒井さんは、突拍子もない恰好をしていた。
場所は、高田馬場の小っちゃいビルの二階で、みんな、昼間っからサラリーマンの予行演習してるみたいなダサイ、埃っぽいパーティー会場の中に、ホントに、紅白歌合戦から落ちぶれて降りて来た、麻丘めぐみ≠ンたいな醒井さんが立ってた。
白いブラウス着てて、シルクなんですね、素材は。フリルがビラビラしてて、それがみんな、ベルギー製だかなんだかのレースなんですね。すっごいの。
ちなみにあたしは、ベージュの普通の――リクルートルックと言わばいえ、そういうのしか着たくなかったんだからしようがない――ただのツー・ピースを着てました。アイビーのセンで、頑なに行きました。
レースのビラビラをつけた醒井さんは、パールのネックレスをチェーンにまいて、朝六時に起きて美容院に行ってきましたっていう感じで髪にウエーブをかけて――顔の両サイド、そこだけカットして、内側にカールしてるんです! ――オレンジ色のルージュつけてました。勿論、顔はバッチリ、フルメークです。
襟は、首のところまで這い上ってて、袖はたっぷりとふくれ上ってて、胸には胡蝶蘭のコサージュつけて――夕方とはいえ、まだ昼の四時ですよ――その下は、黒ビロードのチョーチンブルマーでした。ぷっくらとふくらんだ、一昔前にはやった、ディスコのハーレムパンツみたいのがキュロット丈で、その下から白レースに銀ラメの入ったストッキングが突き出てて、更にその下には、やっぱり白レースの飾りがついた、金のストライプがアクセントで入ってる、パールシルバーの靴でした。
夜会服ですね、明らかに靴は。スパンコール付きの黒のエナメルのバッグ提げてて。どんなにこの人が金持のお嬢さんで、金持のお嬢さんがどんな時にどんな金のかけ方をするのか、この時によく分ったような気がします。もう、パーティーっていったらパーティーなんです。パーティーなら、もうなんでもかんでも、みんな帝国ホテルでやるんだって決ってる、そういう常識がやって来ちゃったんです――フリルつけて。
「その恰好で来たの?」
あたしは思わず言っちゃいました。
来たからいるんだけど。その恰好で。
でもそんなこと分りきってるけど、あんまりだから、ついうっかりと言っちゃった訳です。
「ええ」って醒井さんは言いました。その後、「可愛いでしょ」って、ムカーシ、あたしがあの人の家で、とてつもないネマキ着せられた時に言ったようなことを言いました。言って、そして、「フフフ」と、あの人は笑ったのです。
断言します。あたしは、あの人のあんな「フフフ」なんて笑い方を見たことはありません! あの人は、「ウフフ」としか、笑わない人なんです。はにかんで、照れて、それで「ウフフ」って、ホントに可愛らしく笑う人だったんです。
あたしは、あの人の笑い顔が好きだったから、よく覚えてる。ホントに、ホントに、大好きだったから、あたしはあの人の笑い顔をよく覚えてる。
ホントにとろけそうに幸福で、あたしは、この人を笑わせる為ならなにをやってもいいと、そう思ったことだってあるんだ。ホントに、私は、あの人の笑い顔にどれだけ救われたのか分らない。天真爛漫て、こんな風にきれいなんだなァって、昔あたしは、思ってた。
でも、その醒井さんが、その時は違った風に笑ったんです。「フフフ」って、なんか、いやらしく、自信に満ちたみたいな笑い方を、あたしに向かってしたんです。「どう、よく見なさいよ」って、あたしは、チョーチンブルマーの麻丘めぐみに言われてるみたいな気がしました。気がして、ゾッとしたんです。
「どうしたの、醒井さん?」
あたしそう言いそうになりました。どっか違う。あたしの知ってる醒井さんとは、この人はどっか違うと、そういう風に思ったんです。
醒井さんは「お元気ィ?」って言いました。
あたしは「ええ」って言いましたけど、一体この人、どこからこんな病的な自信≠トいうのを引っ張り出して来たのかしらって、そう思ったんです。
あたしの知ってる醒井さんは、そんな風に「フフフ」って笑う人じゃなかった。そんな風に「お元気ィ?」なんて言う人じゃなかった。あたしの知ってる醒井さんは、真面目で内気で、それで、ホントに女の子のカガミにしたいぐらいの可愛い人だったの。「あたし、来年はサロメがやりたいわ」なんてトンチンカンなこと言うし、目もあてられないぐらいすごい趣味してるから麻丘めぐみになっちゃったって不思議もないけど、でも、こんな風に、落ちぶれた芸能人みたいな話し方する人じゃなかった。
「どうしたんだろ?」と思って、「じゃァ、今年はサロメなの?」なんて冗談を言う気もなくて、呆然としてあの人を見てたら、彼女は「凉子でェす」って、言った。
あたし、ゾッとしました。ゾッとして、思わず逃げ出しそうになりました。彼女、ホッソリとしてるんだけど、胸だけはすごくあるんです。Dとは行かないかもしれないけど、明らかに82のCです(測った訳じゃないけど)。華奢だけど、でも彼女の体つきは、明らかにそうなんです。昔、彼女の家のお風呂場で彼女の裸をサッと見た時のことを思い出しました。あんな体つきの人がいるんだ。あんな体つきの人が実際にいて、あんな体つきの人がおとなしそうな顔をして普通に学校に来てるんだって、その時に確かに思ったんです。その時にどう思ったのかは分りません、でも、クラス会であたしは「凉子でェす」って醒井さんに言われた時、それはすっごくこわいことだって、そう思ったんです。だって、あたしは女じゃないもの。
そんな人が平気で生きてるんだったら、そんな人が平気で「凉子でェす」なんて言うんだったら、そんなこと平気で言われちゃうあたしは、そんなこと言えないでいるあたしは、一体なんだろうってことになっちゃうんです。生身の女が、平気で、そんな生々しさを隠しもせずに平気で現われられちゃうんだったら、この骨ばった胸のない、背中ばっかりやけに伸ばしたあたしは、一体何になっちゃうんだろうって、そう思ったんです。
あたし、「お元気そうね」って、なんにも知らないオバサンみたいな口のきき方をしました。なんか、とってもヤバそうな気がしたからです。「凉子でェす」なんて言われて、それに合わせて「玲奈でェす」なんてことをやってたら、一体どんなヤバいことになっちゃうのか、ホントに分んないと思ったからです。
私が「お元気そうね」って、とっても他人行儀に言ったら、凉子さんは「元気よ、とっても元気なの、わたくし」って言いました。
一体どうしたんだろうって、私は思ったんです。なんかロクでもないことでもあったんじゃなかろうかと思って、私、凉子さんの方見ないで、丁度乾杯が始まりそうだったから、「ほら、凉子さん、グラス、グラス」とか、つまんない世話を焼き始めたんです。
あたしが前の方に出てって、テーブルの上にあるビールのグラス取って来て凉子さんに渡すと、あの人は「うん」て言って、そしてまた、「凉子でェす」って、グラス持ったまま、私の方にはしゃいで見せたんです。
右手にグラス持って、左手でスカート――じゃないブルマーの端持って、舞踏会でお辞儀するお姫様みたいにちょっと足引いて。
「一体どうしたんだこの女は? 一体何しに来たんだこの女は?」って、あたしはその時、そう思ったんです。
5
乾杯は滞りなく行なわれました。多分、こういう時はこういう表現をするんだと思います。
乾杯が終って、なんだか、盛り上ってんだか盛り上ってないんだかよく分ってない雰囲気で、なんか、みんな、立ってるんだか笑ってるんだかしてました。
あたしが「坐ろうかな」とか思ってたら、松村くんが立ってました。立って、あたしの方に「やァ」って言いました。ビールあおって、「ハァイ、元気ィ?」って。
あたしは、「ハァイ、元気ィ」の方は聞かなくて、「やァ」の方だけ答えました。「あ、こんにちは」って。「お元気そうね」って言いました。言うだけ言って、醒井さんに、「坐らない?」って言いました。
醒井さん、「ええ」って、昔みたいにおとなしく言って、あたしの顔見て、そして、松村くんの顔見てました。
あたしはそんなこと知らなくて、サッサと坐って、醒井さんに「大学の方はどうォ?」って訊きました。醒井さんに久し振りに会ったから訊いたんです。
醒井さんは松村くんの方を少しだけ見て――それは、昔醒井さんが松村くんを好き≠セったとかっていうこととは違って、要するに「どうしたんだろ?」というようなことでした。「どうしたんだろ?」って言われたってもう終ったんですから、関係なんかないんです。松村くんは来てたけど、それは松村くんが特殊に、親戚みたいなもん≠セから一人で来てたんで、あたしとは関係がないんです。だからあたしは、「あ、こんにちは」って言ったんです。知ってる人に声かけられたらそう言うのがきまりですから。
それだけなんです。
それだけだから、関係がないんです。だからあたしは醒井さんに――久し振りに会ったんだから、友達≠ネんだから、「どうしてるのかな?」と思ってそう訊いたんです。「大学の方はどうォ?」って。
あたしがそう言ったら醒井さん、松村くんの方を見てて、だからあたしが「坐らない?」って醒井さんにそう言って、それであたしの方を向いて、醒井さん、椅子に腰を下したんです。
会場の方は、なんか、ガサガサやってました。あたしは、あたしの横に松村くんが立ってるのは知ってました。ビールのコップ持って(みっともない!)。
立ってるのは自由ですから。
あたしがそうしてるんで、醒井さんは周りのこと気にしないで話し始めたんです――「ええ、とっても元気よ」って。それは、昔の内気な醒井さんが、とってもうるさい父≠振り切ってやっと大学に入ってのびのびしてるっていう、そういう感じでした。
あたしは、醒井さんが昔の醒井さん≠ノなってるのと、そしてあたしの後ろに松村くんが立ってるのを無視してることで、知らない内に、醒井さんの方に入りこんじゃったんです。おかしな恰好して、おかしな笑い方して、おかしなはしゃぎ方をする、あたしの知らない醒井さん≠フ方へ。
醒井さんは言いました――「とっても元気だし、やっぱり毎日が楽しいの」って。そう言って醒井さんは、グラスのビールを、まるで水の入ったグラスみたいに、自然に口の方に運びました。あたし醒井さんが、お酒に強いなんてこと、知らなかったんです。知らなかったからあたし、「ああ、やっぱり醒井さんといると楽しいな」とか、思ったんです。
そんな感じで、クラス会は普通に始まりました。普通に始まるってことは、別に盛り上りもせず、シラケもせずってことです。「じゃァ、あの、初めに、来れなかった人から返事が来てますから、それ、読み上げます」とか、磯村くんが言って、ほとんど、H・Rが始まりました。誰か、発言する人がいると「ああ助かった、シラケないですむ」とかみんなが思ってて、いつもと今までとおんなじです。私達って、ホントに成熟なんかしてないんだって、そういうことです。
なんにもなくて、いつもあなたまかせで、「別に」っていうだけで、時間が過ぎていくのを待ってるんです。それで楽しいんだとか思って、そういうのが楽しいんだとかって思って、マァ、言うのはやめますけどね、そういうんです。
そういうことばっかり考えたってしようがないし、そういうことばっかり考えてる自分なんて好きじゃないけど、でもやっぱり、そうなんですよね。言うと哀しくなるから言わないけど。だからその時だって、あたしはなんにも考えてなかったけど。だからホントに、リクルートルックでそこにいたんです、あたしは。なんにも考えたくなかったからそういう恰好してったんですよね。やっぱりあたしだって、なんだかんだ言いながらも自分のクラスって愛したいと思うし……。
マァいいんだけどね。(妙に落ちこんで来るなァ、この話は。だからあたしはあんまりしたくなかったんだけどなァ……。マァいいや、しょうがない)
ええ、クラス会って、H・Rだったんです。お酒が出て高田馬場のレストランでやる。だから終ると、それまでなんの発言もしないでいた、「出来ることなら発言しないでいられたらいいなァ……」って思ってる、気の小さい男女が、授業時間終了になると共に明るく元気になっちゃう会なんです――はしゃいでてね。一生懸命、「ちゃんとしなくちゃ。盛り上るかなァ?」とか心配してばっかりいる司会者は、終ると同時に暗くなっちゃう、とかね。
まァ、暗いんですけどね。
H・Rだから、磯村くんの司会で、近況報告ってのしたんです。「じゃァ、こっちの端からお願いします」って。(そうだなァ、磯村くんが司会してたのって、大きいかもしれないなァ。あの子が司会すると、やけにH・Rっぽくなっちゃうからなァ、まァいいけど)
みんなで、端っこからやってたんです。一生懸命、明るく自分達のこと報告しようとすんだけど、明るいことは分ってるけどどうしてその自分が明るいのかなんてことはみんな、一人だって分ってないから、「エッとォ」と「やだァ」ばっかりで、マァ、あたしも暗くならないように、一生懸命普通にやりました(どう考えたって、明るくなる理由もないから)。
まァ、それはそれでやりましたから、どうでもいいんです。近況報告とかっていうのを一人一人やってたら、木川田くんが入って来たんです。木川田くんていうか源ちゃんていうか、今のあたしの気分としては木川田くん≠ト感じだからそっちの方とりますけど、どっちかっていうとあたしは木川田くんのファン≠セから源ちゃん≠トいう風に呼びたい。呼びたいけど、所詮ファンだからしょうがないっていう風にも思います。ま、そういう訳でとにかく、木川田くんが来たんです。
ドア開けて来て、あたしは「あ、来たァ」とか思ったんです。まさか来る筈がないとか思ってたのかもしれませんけど、「来たァ」とか思ったんです。
木川田くんは、黙って入って来たんです。入って来て、みんながそっち向いたら、磯村くんが、「あ、木川田来たの。こっちおいでよ」って言ったんです。
「え?」とかあたし一瞬思って、「あ、そうか、磯村くんて木川田くんと仲良かったのかァ……」って思ったんです。「そういえばそうだったなァ」とか思って、「そんなに仲良かったのかなァ?」とかも思ったんです。「まァ、どうでもいいけど」って感じだったんですけど、磯村くんが「こっちおいでよ」って木川田くん呼んで、あたしはまだその時なんにも知らなかったから、その時に醒井さんがどんな顔してるかなんてこと、考えてもみなかったんです。
木川田くんは、ホントに、遅刻してH・Rに入って来たみたいでした。「こっちおいでよ」って磯村くんに言われて、「ふん」とか素直にうなずいて、スーッて部屋の中に入って来たんです。黙って、入って来るだけで、別に、誰かに挨拶するとかっていうんじゃないんです。
普通クラス会って、そうじゃないですよねェ? 遅れて来たって、別に、そんな友達がいなくたって、「おッ」とか言って、部屋ン中見回したりするでしょう? でもそういうことって、なかったんです。それと、不思議なんだけど、その時木川田くんがどういうカッコしてたかって、あたし、一生懸命思い出そうとすんですけど、でも全然思い出せないんです。木川田くんがクラス会なんかに来るんだったら、それは絶対ワザワザ≠セし、だとしたら絶対、彼は彼なりにすっごくキメて来る筈なんですけど、でもあたし、それに関する記憶がないんです。なんか、スッゴク普通の恰好してたなって、そういう記憶しかなくって。それがあったからひょっとして、遅れて来た木川田くんがH・Rみたいに見えたのかもしれない、とかは思うんです。でもよく考えたら、「よく来たなァ……」って感じですから、それも当然なのかもしれません。多分、木川田くんだって寂しかったんですよね。そうじゃなかったら、あの人がワザワザ、あんなクラス会なんかに来る訳なんかないもん!
木川田くんが入って来たら西窪くんが言いました――「おゥ、オカマ、よく来たな」って。それは勿論、一種の冗談だとは思います。思いますけど、そうとも言い切れないところって、西窪くんて人にはあるかもしれません――とかは思います。うまく言えないけど、西窪くんて人は、そういう人なんです。そういう人≠ェどういう人かって訊かれるとちょっと困るんだけど、よくいるでしょ? 一人だけ自分のことを極端に明るいと思ってて、なんか、言ってみるとすっごくハタ迷惑な――ひょっとして、松村くんと正反対のタイプかもしれない――。正反対だけど実はおんなじとかって――。
ともかく、その西窪くんが「おゥ、オカマ、よく来たな」って言ったんです。明るく笑って。まだ酔ってるってほどじゃありませんから、西窪くんは西窪くんで勝手に盛り上ってて、それで昔みたいにはしゃいでただけだと思ってたんです、あたしは。
その頃まだあたしは、西窪くんと滝上くんがおんなじクラスで大学に行ってて、それで醒井さんと滝上くんが出来て≠ト、それで木川田くんと滝上くんがダメになっててなんていう恐ろしい構図がウチの旧三年A組の中に出来上ってるなんてこと、全然知らないでいたからなんです。ウチのクラスって、ホントに恐ろしいことになってたんです。
「おゥ、オカマ、よく来たな」って言われて、木川田くんは、そのまんま普通に歩いて行きました。考えてみれば、全然、そんなことって言われつけてることだから、なんてことなくて、彼にしてみれば、全然普通で当り前のことだったんでしょう。だから、彼は、高田馬場のその小さいレストランの中を、スーッと普通に歩いて行ったんです。
部屋が四角くって、真ン中にテーブルがあって、その周りの壁際に椅子が置いてあって、あたし達は二十人ちょっとで、あたしと醒井さんは部屋の隅、それと対角線になる隅に磯村くんと、そして松村くん、その対角線を底辺とする、頂点のところに木川田くんの入って来たドアがあって、それと向い合うような部屋の隅に、西窪くん達のグループがいたんです。そう思ってほしいんです。だから木川田くんは、あたし達がいる方とは反対側の、磯村くん達のいる方に歩いて行ったんです。
6
木川田くんは、真っ直ぐ、磯村くんのいる方に歩いてくと思いました。磯村くんが「こっちおいでよ」って言ってましたから。木川田くんも「ふん」てうなずいてましたから。
そうやって、木川田くんが歩き出したら、西窪くんが「おゥ、オカマ」って言ったんです。「よく来たな」って。別になんてことないと思ったんです。だって、みんなそれで笑いましたから。立って、近況報告しかけてた子は、中断されてそれで黙ってて、みんなは笑いながら、木川田くんが席に着くのを待ってたんです。西窪くんが「おゥ、オカマ、よく来たな」って言ったら、他の子だって「オカマ、元気だったか?」って、楽しそうに言いましたから。そう言われたら、木川田くんとしても、いつもみたいに「うるせェな、バァロ」とか、明るくやり返すとか、少なくともあたしは、思ってたんです。
思ってたんですけど、なんかヘンでした。なんにも言わずに、黙ったまんま、スーッと、なんか、吸いこまれるみたいに歩いてくんです。司会役で立ってた磯村くんが、まるで手ェ広げて待ってて、その中に吸いこまれてくみたいに、なんだかヘンに異常に――っていうのはヘンな表現だな――ヘンに普通に、スーッて、流れてったんです。
流れてって、部屋の中の笑い声が、まるでエアコンに吸いこまれてく煙草の煙みたいにスーッてなくなってって、まるでスローモーションみたいに、木川田くんの動きが大きく膨れ上って行ったんです。
気がついたら「うるせェッ!」って声がして、水が――テーブルの上に置いてあったコップの中に入ってたお水が、ブァーッて舞い上っていたんです。
それからは一瞬でした。それまでがまるでスロービデオにかかってるみたいにゆっくりだったのとは反対に、パッて、全部が一瞬で終っちゃいました。
気がついたら西窪くんはスーツの上びしょ濡れにしてて、真ン中のテーブル、ガタカタ鳴らして、木川田くんはバタンとドア閉めて出てって、西窪くんがひっかけられた水の入ってたコップがガチャンて割れてたのになんか、気がつく暇もありませんでした。
バタン! て音して、木川田くんが入って来る前とおんなじ状況になっちゃいました。シーンとしてて。
「なんだあいつ、バカじゃねェの?」
西窪くんが、そう、おどけていいました。「オカマのヒステリーか」とか、隣りの子が言って、西窪くんが「あーあ」と、情なさそうに自分の濡れたシャツの胸元引っ張って、それでみんながゲラゲラ笑って、またクラス会は元の通りになりました。「あいつ何しに来たんだ?」って誰かが言えばいいのにと思ってたんですけど、誰も言いませんでした。
西窪くんが「あーあ」と言って、みんなが笑った途端、磯村くんは、ドアの方に走って行きました。「そりゃそうだろうな」とだけ、私は思いました。思って、「ねェ、源ちゃんどうしたんだろうね」って、醒井さんの方に言いました。言って、醒井さんの方を見たら、醒井さん、源ちゃんの出てった、磯村くんの出てった、ドアの方ジッと眺めてました。あたしはヘンだと思って、「どうしたの醒井さん?」て、訊いたんです。
「行きません?」
醒井さんそう言ったんです。
「え?」
私、よく分んないからそう言ったんです。
そうしたら醒井さん、真面目な顔して――昔の、「お化け屋敷やりたい」って言った時の思いつめた顔しちゃって、「あの、一緒に行っていただけません、榊原さん?」て、そう言ったんです。
「行くって、どうしたの?」って、あたし言ったんです。
「ええ、なんだか心配で」って、そしたら醒井さん、そう言ったんです。
「そりゃ心配だけど、一体それとこの人とどういう関係があるんだろ?」って、私、そう思いました。
醒井さん、「すいません」て言って立ち上って、なんだか知らないけどあたしは「面白そうだから行ってみよう」と思って、ついてったんです。床の上で割れたグラスは、男の子が片付けてて、それで、木川田くんがクラス会に来たっていう証拠は、もうなくなっちゃったんです。
みんなはそこでクラス会やってたんですし、なんだか訳の分んないことは、そのまんまでなくなっちゃうんです。誰かが――多分犬飼くんだったと思う――「じゃァ、なんとかさん、近況報告の続きやってよ」って言って、なんだかヘンなチン入者があったせいで、クラス会というのは、初めて我がクラスにふさわしい混乱めいた活気を呈して来ました。
磯村くんもいないし、あたしもいないし、ウチのクラスはウチのクラスで盛り上って来ちゃったし、そんな中でたった一人でいてどうするんだろうって、あたしは、部屋の隅にポツンと立ってる、ぼんやりした松村くんの姿を横目で見ながら考えて、醒井さんと一緒に部屋を出ました。
7
そのお店は、いわゆる雑居ビル≠フ中にあるんですね。一階がお店で、二階がその、パーティーとかをやれるような部屋になってて、その上に雀荘とかっていうのがあるんです。二階には、一階のお店の横からも直接入れるようになってて、だから、クラス会の会場出たら、すぐ階段でした。階段に出たら、下の、入口のすぐのところに、磯村くんと木川田くんが立ってました。木川田くんが壁に寄っかかって、それを磯村くんがなだめてるみたいで。それ見て、あたしと醒井さんは階段を下りていきました――「どうしたの?」って声かけて。
あたしがそう言ったら磯村くんと木川田くんこっち向いて、磯村くんが「じゃァ待っててよ」とか木川田くんに言って、木川田くんは「ウン」とかって、外に出て行きそうになりました。
あたしもう一遍、「どうしたの?」って訊いたんです。あたしに「行きません?」て言っといて、醒井さん、あたしの後に立ってるだけなんです。あたしと磯村くんが向き合ってて、その後に、木川田の源ちゃんと醒井さんがいるんです。
あたしが「どうしたの?」って言ったら、磯村くんが「なんでもないんだ」って言いました。
「源ちゃん、元気?」ってあたしが言ったら、磯村くんの向うで、木川田くん、ウン≠ニかっていう感じで頭振りました。それはほとんど、あたしが誰だか分んないで、ただ反射的に頭だけ下げたっていう感じでした。
磯村くん、木川田くんの肩に手ェかけて、「じゃァ」って言うと、あたし達の方に上って来ました。源ちゃんはそのまんま、外に出て行きます。
「源ちゃん」て、あたし言って、木川田くん振り向いて、そのまんまです。「どうしたの?」ってあたし、今度は磯村くんに訊きました。
「いや、別に」って磯村くんあたしに言ったら、そしたら、あたしの後で醒井さん、「木川田さん」て声かけました。それは、あたしのどうしたの?≠チていう感じとは違って、言ってみれば多分、明るい声でした。やっと、人混みの中で知ってる人に会えたっていう。あたしが振り返ったら、凉子さん笑ってましたし。
「木川田さん!」て言って、凉子さんそのまんま、あたし達の横を通って行きました。外に出てった木川田くんの後、追っかけて。木川田くんはそのまんま出てっちゃったから。「なんだ? ホントにィ」とか思って、あたしと磯村くんは二人だけで階段の上に立ってました。あたしは下向いて、磯村くんは上向いて。
磯村くんが「行かない?」ってあたしに言いました。「凉子さんどうしたのかな?」とかあたしは思ったんだけど、「まァいいや」とか思って、なんにも言いませんでした。
二人で階段上ってって、「あなたも大変ね」って言いかけたら、二階のドアが開いて松村くんが出て来ました。
「悪いけど、俺帰るわ」って松村くんが言って、磯村くんが「うん」て言いました。
「じゃ」って松村くんが私の方に言って、「さよなら」って私は言いました。なんか、私は悪いことしたでしょうか? なんにも言わないでそのまんま階段下りてく、あの人の方が悪いんです。私はただ、そうだからそう言っただけです。「さよなら」って。
深い意味じゃなくって。
磯村くんと私は並んで立ってて、「そうか、この人あの人の友達なんだから、多分あたしのこと、なんか言われて知ってるな」って、その時あたしはそう思ったんです。
「あなたも大変ね」
あたしはそう言いました。
「どうして?」
磯村くんは、なんにも考えてないって顔をしてそう言いました。
「どうしてって、別に」
あたしは、なんか、怒られたみたいな気がしたもんだから、そういう風に言いました。
あたし達はそうやってて、そして、晴れ晴れとした顔をして、醒井さんがその後に立ってました。
8
あたしは、醒井さんに訊きたくって訊きたくって、しようがなかったんです――「一体何があったの?」って。なんでだか知らないけど、どうしてだか知らないけど、どういう訳でそうなっちゃったんだか知らないけど、なんだか訳の分らない今度の一件≠ノ関しては、絶対に醒井さんがなんか知ってると思ったんです。そうじゃなかったら、醒井さんが源ちゃんの後を追っかけてくなんてことありえないから。そう思って、あたしは訊きたくて訊きたくてしようがなかったから、「一体何があったの?」って、戻って来た醒井さんに訊いたんです。そしたら醒井さん、晴れ晴れとした顔して、「後で話すわ」って、ニッコリ笑ったんです。私としては、一体何が彼女をこうも晴れやかにしているのかということこそが謎ではなかろうかという気もあったんですが、それはまァ、別に大したことじゃないんだという風に思いました。だって、彼女は生きてる謎なんですもん。謎が今更謎だったって別におかしくはない、とかサ――。
ともかくあたしは、その時にはまだ――その時っていうのは、松村くんが帰ってって、あたしと醒井さんと磯村くんが戻って来て、会場に入りながら醒井さんが「後で話すわ」って言った時――醒井さんの突飛な恰好と、源ちゃんがいきなり来ていきなり出てっちゃったこととの関係性なんてのには、全然気がつけなかったっていうだけなんです。慣れというのは恐ろしいもので、ズーッといる内、醒井さんのその恰好やその異常さっていうのは、ただ彼女が彼女なりにはしゃいでいるだけなんだっていう風に思うようになったんです。だって、彼女の言う「後で話すわ」の内には、「私、今年の夏に、木川田さんと海で御一緒したんですのよ」なんてことまで入ってるんですから。
あたしが、「どうしたの一体? 一体何があったの?」って言ったら、醒井さん、「後で話すわ」って言って、「ふふふ」って笑って、「あのね、私ね、私、今年の夏に木川田さんと海で御一緒したんですのよ」って、こうなんだから。
「御一緒って何よ?」って、あたしは言ったのね。そしたら醒井さん、「ふふふ」って笑って、また「後で話しますわ」って、それっきりなのよ。おまけに、「今日、終った後で御用事おありになります?」って。
「あたし? う、うん、別に」
そう言ったのね。そしたら、
「よかった。私、榊原さんにお話ししたいことって、一杯あるんですのよ」って。
一体ここは帝国ホテルか? 一体あんたは、三十すぎのブリッ子女優かって、私はそういう風に思ってしまいました。
彼女はやっぱり、はっきり言ってその時、一人で舞い上ってて一人でどっかがおかしかったのです。
そして、なんだか知らないけど、妙な人間関係がウネウネしてて、それがクラス会で一緒になって、そしてそのクラス会に彼女――醒井凉子が、まるでドサ回りの紅白歌合戦みたいにしてやって来るというのが最後のツメだったという構図が明らかになったのは、そのクラス会が終って、みんな出てって、幹事の磯村くんだけが一人で、まるで掃除当番みたいにお金の勘定をしてて、そこに麻丘めぐみの醒井さんが、まるで駝鳥のようにお尻を振って――黒いブルマーのお尻を振って、駆け出して行った、その時だったんです。
彼女、明らかに、その恰好を、見せつけに来たんです。そういう恰好をしてはしゃいでる自分を見せつけに。
誰に見せつけにかっていうと、しょうがない、あたしでしょうね。
誰も別に見ないし、見てる子は、初めっから醒井さんはそういう人だと思って見てるし、海で御一緒した*リ川田くんは別に見もしないで出てっちゃったし、だとしたら、「一体なんだ?!」って目ェ剥いてる人はあたし一人なんだから、すっごく論理的に言って、正解はあたしにそれを見せつけに来たっていうことになるでしょう?
それ≠ェ何かっていうことは今話しますけどサァ、それ≠ヘ別に恰好だけじゃないのよねェ。だって、女≠ナすもの(!)――あーあ、だからホント――ホント! だから女って嫌いなのよ、あたしは!!
なァにが、恋愛だっていうのよッ!! ああバカらしい!!
みっともないと思いなさいよねッ!!
大ッ嫌いだわッ、あんなのッ!!
気持悪いッ!!
9
クラス会は終ったのね。
みんな帰ってくわよね。H・Rは終って休み時間が始まるんだからサァ。あたしも、休み時間だと思ったからサ、「ねェ、どうする?」って、醒井さんに訊いたのよね――「さっきの話、聞かせてよ」って思って。訊きたいけどなんか、「はァッ、はァッ、待ちくたびれた、聞かせろ」って感じはみっともなくてやだったからサ、後でどっか行こう≠チて言ってたから行こうよ≠ニ思って、それであたしは「ねェ、どうする?」って醒井さんに訊いたのね(話がまどろっこしくてすいませんねェ――いいけど)。
そしたら醒井さん、「ええ」って言って、「ちょっと待ってて」って言って、磯村くんの方に走ってったわ。いそいそって。ホントに、いそいそって感じだった。自信たっぷりに。
みんながワサワサしてて、「どうしようかァ?」って感じで出てって、お店の人が来てて、磯村くんと犬飼くんと、幹事が三人でお金の勘定してて、そこに醒井さんがお尻振って入ってくのね――あたしに「ちょっと待ってて」って言って。「磯村さん、木川田さんと御一緒なさるんでしょ?」って言って。
あたしそれ聞いた時「えっ?」って思ったのね。「なんで磯村くんが木川田くんと御一緒≠キるのよ?」って。「ああ、そういえば、さっき待っててよ≠ニかって磯村くんが言ったことってそういうことだったのか」と思って、「ふーん」とか思ったの。
醒井さん、なんかゴチャゴチャやってて、「じゃ、御一緒しません?」とか言って、「あーあ、みんな御一緒≠セ」とか、あたしは思ってたの。
磯村くん、こっち振り向いて、醒井さんこっちやって来て、そしてこう言ったの――「あの、榊原さん、滝上さんて御存知?」って。
一瞬あたしは、聞いてはいけないような名前を聞いてしまったみたいな気がして、目まいがしそうだった――何故だか分らないけど。何故だか分らないけど、何故だか分らないけど、よりによって醒井凉子の口からそんな名前が出て来るなんて――おまけにニッコリ笑いながらそんな名前が出て来るなんて、絶対に、絶対に、ロクなことになる筈なんかがないっていう、そんな確信だった。
私はやっぱり、自分がなんでも分ってると思うし、なんでも、分ろうと思えばすぐ分れると思うけど、そういう私の最大の欠点は、分ってる筈の時に、「全然それは分ってることではないんだ」って思いこむことなんだって。やっぱりその時もそうだった。滝上くんと、そのビラビラドレスとの間には明らかに関係がある筈なのに、にもかかわらずあたしは、その直感を「まさか……」だけにして、ごまかしてた。いくらなんだって、そんなことってない筈なんだからって――。
「滝上くんて、一年上の?」
あたしはそう言ったんです。ええ、そう言ったのよ――あんまりヘンなことにやって来られたくないから。
「ええ、御存知でしょ?」
そう言ったら、醒井凉子はそう言ったわ。一年上に滝上≠チて苗字の子は滝上圭介≠スだ一人じゃないかもしれないのに。
そして、こうも言ったの、醒井凉子は――「滝上さんて、今、西窪さんと同じ教室にいらっしゃるんですのよ」って。
「え?!」ってあたしは言ったわ。なんのことだか分らなかったから。
「あのね、滝上さんね」
「うん」
彼女が言って私が言ったの。
「一年浪人なすったのね」
「ああ、そうね」
右に同じです。
「それで今、西窪さんと同じ大学にいらっしゃってて」
「えーっ?! あの子、どこだっけ? 独協? 駒沢? 国士館だっけ?」
「違うわよ、法政」
「ああ、似たようなもんね」
私も相当悪意がある。
「ええ、糸井さんがお出になった学校」
でもこの人は、全然メゲない。
「いといさん≠ト誰? 知ってる人?」
私は一瞬、この人のトーンに巻き込まれると、なにがなんだか分らなくなる。
「あら、榊原さん御存知ないの? 糸井重里さん。タコが言うのよ≠チて、コピーライターの」
私も、もうおしまいだと思った。この人にこんなこと教えられるようじゃ。
さすがに大学生よねェ、この人も。知ってるんだもんねェ、コピーライターなんてねェ。「あーあ、醒井凉子もジョシダイセエなのかァ」って思っちゃったわ。
彼女が言いました。
「私好きなんですのよ、あのタコ≠チていうの」
そう言えば彼女、田中裕子に似てないところがない訳でもない。もっと目はパッチリしてるけど。
「あのね、凉子さん」
私は言いました。
「タコ≠チて、仲畑さんよ。糸井さんじゃないのよ、糸井さんはウシ≠諱vって。
「ウシ≠チてなんですか? あのタコのハイボールは糸井さんじゃないんですか? 私、あれが大好きなのに。おいしいんですのよ。榊原さん、召し上りません?」
召し上りませんはいいけど、あれは仲畑貴志≠ネんだよねェ、タコは……。まァいいけど。
「あれは糸井さんじゃないんですの? 私は、『YOU』に出てらっしゃるから、てっきり糸井さんだとばっかり……」
どうして『YOU』に出るとタコハイのコピーが糸井重里になるのかがよく分んないけど、まァいいわ、この人はそういう人なんだから。
「それでねェーえ」
突然、醒井凉子は気が狂ったんです。
突然、醒井凉子は、あたしの腕に抱きついて来たんです。
ビラビラのまんま抱きついて来て、それであたしに言ったんです――「あたし今ねェ」って。あたしは突然、ピンと来ました。
「あんた、西窪くんと付き合ってんの!?」
言ってほとんど、衝撃のない驚き方を自分でもしてるなァ、とか思いました。
醒井凉子も、彼女なりにズッコケたみたいです。シルクのブラウスが、あたしの腕の中でズルッと滑りました。
「いやァねェ、榊原さんたら。西窪さんは、滝上さんのお友達ですのよ」って、醒井凉子は言ったんです。私の腕の中で、頬をポッと染めて。なんだかあたしは、シルクのブラウスがベトベトにむれて、なんだかすごーく暑苦しくなって来るみたいでした。
「滝上さんのお友達って、じゃァあなた?」
私はそう言いました。
「ええ、私――」
醒井凉子もそう言いました。
そう言われて、抱きつかれて、私は、体中の血が引いてくみたいにゾーッとしました。
「あなた、滝上くんと、付き合ってるの?」
「ええ……」
醒井凉子は、まるで勝ち誇ったみたいに、そして同時にあどけなくて、何がなんだか分らない調子でそう言いました。
「それじゃ、こんなカッコして来る訳だ」
何がなんだか分らないけど、私は唐突にそんな風に思いました。
「木川田さんに、とってもよくしていただいて」
醒井凉子は、そんな風にも言いました。
よくしていただいて=\―そんな訳の分らない表現て初めてでした。
よくしていただいて≠チてなんだろう? どうして誰かがこんなとこで、よくしていただいて≠ネんて表現が出て来るようなことが出来るんだろう? 私は、何がなんだか分んないけど、そのことだけは分りました――分ったような気がしました。「何かヤなことがある」――そのことだけは分りました。
「じゃ行こうか?」
お金の仕末が終った磯村くんは、私達の方を振り返ってそう言いました。「なんにも考えてない」って顔を、明らかにこの人はしてるんです。事務的にテキパキしてるっていうのはそういうことです。この人はこの日、なんかイジョーにテキパキしすぎてるみたいに見えました。
「あなたは何を知ってるの? あなたはどういう風にからんでるの?」――私は、なんだかそんなことを、磯村くんに向かって言いたいような気分でした。
「ロクなことはない、絶対にロクなことはない」――私は、そのことだけは分るようでした。
「行きましょう?」
醒井さんがニッコリ笑いました。もう醒井さん≠ナす。私はこうなって来ると、この人を呼び捨てにする体力なんてないんです。
磯村くんが立ってます。醒井さんが腕を取ります――「行きましょう?」って。
「行きましょう? って、どこ行くの?」
私は力なくそう思いました。「だってあたしは関係ないのよ」って。
「いやなことには巻きこまれたくない」――私ははっきり、そう思いました。
10
行ったところは、高田馬場の駅の近くにある、ビルの地下の喫茶店でした。
デカイところ――カトレアだったっけ? 忘れたけど。なんだってそんなところにいるんだろうと思ったけど――いる≠チてのは源ちゃんだけど――でも、そういうところの方が、なんか、安心するような気がする。カフェバーやライブハウスの片隅でやられるドロドロッぽい葛藤よりも。たとえソファが汚れてても、たとえ店員がオッサンぽくても、たとえそこに松田聖子が流れていても、ソファがフカフカだったら、いざっていう時、あたしは一人でボンヤリしてることだって出来るんだから――。
そう思ったけど、あたしはやっぱり、でも日本てカビがはえてるんだって思った。そのカトレアだかなんだかもカビがはえてたし、そこにいた源ちゃんだってカビがはえてたし、そんなとこでコーヒーなんか飲んでる人間は、みんなカビがはえてるんだ。陰湿で、じめじめしてるって。
磯村くんは、黙って源ちゃんの横に腰を下しました。「ふーっ」とかなんとか言っただけ。「待った」とかも言わないし「どう?」とかも言わない。醒井さんは「ふふふふ」って、相変らず笑ってる。どうしてこの人にはこの場の雰囲気ってのが分んないんだろうって、あたしは不思議に思った。とにかく、そこに人間が四人いて、何があったか知らないけど、なんかあったんだとしたらあったそのこととは全く関係ないあたしだけが、まともに生きてる。
おっさんのボーイが注文とりに来て、その時だけ、安心したみたいに磯村くんは口をきくの。なんだか知らないけど、男の友達ってそんなもんなんだろうなって思った。ただいるだけでなんの口もきかないの。こういう子が、女の子と付き合いだしたらマンガばっかり読んでるのよ、喫茶店で。
喫茶店でマンガ読んでて、それですぐネルんだわ――「行こうか」って言って。ついてく女もバカだけど、バカはバカなりに、他に付き合えるような男なんてこの世にはいないんだってこと、知ってるのかもしれない。
なんかそう思う。
「あたしは昔、この人になんか、幻想持ってたんだなァ」って思った。
幻想持ってて、なんにも知らなくって、なんにも知らないでいる間に男の子って、年だけはとってっちゃうんだなァって、そう思った。年だけはとって鈍感になって、ただ女の子と一緒にいる時に黙ってることだけが上手になるの。
こんな人と源ちゃんが付き合ってて、なんの接点もなくて友達≠セなんて、ホントに、男って可哀想だと思う。可哀想だとしか思えない。こんな人と付き合ってる源ちゃんがいて、こんな人と付き合ってる松村くんがいる。
男同士って、一体何してるんだろう? ただ群れてるだけで、ただゴタゴタ歩いてるだけで亀の子ダワシみたいな予備校の男の子達と、今目の前にいる磯村くん達とを並べて、そんな風に思ってる――そんな風に思ってた。
一体男の子って、男の子同士でいる時は何話してるんだろう? 磯村くんと松村くんはなんにも話してなかったと思う。昔友達だったっていうだけで、ただそれだけで一緒にいるだけだ。一緒にいるだけで、髭だけが濃くなってくんだ。まるでこの喫茶店みたい。
あたしは、こんなところにいるの、ゴメンだわ――そう思った。
磯村くんはそっぽ向いてるし、醒井さんはキョロキョロしてるし、木川田くんはせこく煙草をふかしてる。醒井さんが言った――「あのウ、木川田さん、一本いただけるかしら?」
「いいよ」
源ちゃんが言った。一体この人は、どうしてこうも木川田くんに馴れ馴れしいのか、あたしにはよく分んなかった。
醒井さんが源ちゃんのマイルドセブンに火を点けて「ああ、おいしい」ってやった。指に挟んだ煙草見ながら、「私、セーラムだったらよかったのに」って、ケラケラ言った。「これで、この人はこの人なりにはしゃいでるのかもしれない」って、私はまたしても思った。思ったけど、あんまり思いたくもなかった。
「どうしたの、ねェ、元気ないじゃない?」って、あたしは言った。煙草を吸ってる醒井さんじゃなくて、煙草をくれた源ちゃんの方に。
「えーっ?」って、源ちゃんは言った。言って、それで初めて、私が誰なのかが分ったみたいだった。
「ああ……」
あんまり面白くないことは確かだと思う。源ちゃんがともかく、あたしをあたしだと認めるのは、その時が最初だったのかもしれないし。そのジメジメした喫茶店で「ああ……」って言った時が最初で、それまでは多分、私はただのでしゃばりのオバサンだっただけだと思う。
「どうしてんの?」
あたしは言った。
「別に」
源ちゃんは言った。
「磯村さんはお吸いになりませんの?」
醒井凉子は横で言った。
「うるさいなァ」と私は思った。
「俺も吸おうかなァ……」
磯村くんは言った。
「だからなんだっていうのよ」って、あたしは思った。背伸びしないで。無理矢理に。
「木川田、一本貰ってもいい?」
磯村くんが言った。
「いいよ」
木川田くんが言った。
男の友情なんかは糞喰えだわ。
「俺、帰るよ」
木川田くんが言った。
「帰るの?」
磯村くんが言った。
どういうんだろ?
「うん……。なんか、頭痛ェ……」
源ちゃんが言った。
「西窪くんとなんかあったの?」
あたしが言って、コーヒーが来た。
私が言ったのとは関係なくて、「もう少しいましょうよ」って醒井さんが言った。「高田馬場は初めてだわ」って。
「これ飲んだらサァ、行くからサァ、ちょっと待っててよ」って磯村くんが言った。
「ふふふ」って笑って、醒井さんが、「これ飲んだら、ニューオータニのバーにでも行きません? もう開いてると思うけど」って関係ないことを言った。
「一体この女は何を考えてるんだろ?」ってあたしは思った。
「ねェ、榊原さんも御一緒に」って、あたしの手を取った。
「私、木川田さんにお礼を申し上げなくっちゃならないんですもの」って、醒井さんが言った。
「お礼ってなァに?」って私が言った。
「ふふふ」って、醒井凉子が笑った。「後で」って。
「みんな後でなのね」って、私は思った。
磯村くんはこわーい顔してて、木川田くんは、どっかで笑ってるみたいだった。そうなったらもう、「どうしたの?」って、私は訊けない。
「磯村、もう帰ろうぜ」って木川田くんが言った。言って、もう立ち上ってた。
「俺、用事があるんだ」
源ちゃんは、あたしに言った。
あたしは「うん」て言って、磯村くんも「うん」て言った。
「あら、まだよろしいじゃない。久し振りで皆さんとお会いしたんですもの」
醒井さんがそう言った。
「悪いけど、俺、頭が痛いんだ。悪いけどまた」
悪いけど≠二回も繰り返して源ちゃんが言った。
「磯村、金貸してて」って、伝票見てそう言った。
「あらァ、私が払いますわァ」って醒井さんが言って、それとは別に「うん、いいよ」って磯村くんが源ちゃんに言った。
醒井さんより磯村くんのがまだましだ。
「もう少しいません? ねェ、もう少し?」
醒井さんがそう言って、磯村くんが「やめなよ、みっともない」って、そう言った。
磯村くんがそう言ったことで、あたしは、ほとんど少し、感動をした。
「じゃァあたし達も一緒に出ません?」
醒井凉子がそう言って、あたしは当然、「悪いけど私は、もう少しいるわ」って、コーヒーを飲んだ。「じゃァね、またね」って、男の子二人に言った。
「うん、じゃァね。悪いけど、三百円ある?」って、磯村くんは、飲みかけのコーヒーカップの横に千円札を出した。
木川田くんは、もうサッサと先に行ってしまった。
「あらァ、私が払いますわァ」って醒井さんが言って、私は、サッサと財布の中から三百円を探した。「はい。じゃ、払っとく」って、磯村くんの千円札と交換をした。「う、うーん」て、醒井凉子は拗《す》ねたみたいにして体をねじくってた。磯村くんがいなくなったら、「いい加減でそんなことやめなさいよ」って、引っぱたいてやろうかとあたしは思った。
「じゃァね」
磯村くんは出てった。
「ウン、また。木川田くんによろしくね」
あたしは言った。
「あ、あたしも。ホントにどうもありがとうございますって、木川田さんに言っといて下さい。私ホントに感謝してますって――」
磯村くんは、コクンてうなずいてサッサと行っちゃった。
醒井凉子は、あたしの方を見てフフフフフフと、声を出さずに笑ってた。
「一体何があったのよ? サッサとあたしに言いなさいよ!」
私は、たった一年も経たない間にすっかり年を取ってしまった、その若づくりの、金のかかったクリスマスツリーみたいな私の(昔の)友達に、早いとこカタをつけてほしいと思ってそう言った。
「滝上くんと、一体何があったのよッ!」
私はそう言いました。
「あらァ、別になんにもなかったんですのよォ、私達ィ」
指をこねくり回して体中をよじって、ありすぎてありすぎて困ってる、どうしようもない女がそう言った。
「私達、今年の夏に知り合ったばかりなんですものォ」
「嘘おっしゃい」――私ははっきりオバサンになって、そんなことを言ってしまいたいような気分だった。
11
私が、醒井凉子から聞いたこと(第一部)――
一、醒井凉子は昔から滝上くんのことが好きだった。
二、醒井凉子は、今年の夏滝上くんと知り合った。
三、醒井凉子は、それだけで何もなかった。
私が醒井凉子に訊いたこと(もう箇条書きだわ)――
その一、
「一体あなた、何人男に憧がれてれば気がすむのよ?」
その答――
「あらひどい、何人て、私、滝上さんお一人だけですわよ」
さらにその答――
「あらそうォ?」
さらにさらにその答――(ズッと続きます)
「あらそうォ? って、どういうことかしら、私、ずっと滝上さんのことしか考えてませんでしたもの」
「あらそうォ。じゃァ去年サ、あなたはサ、私が松村くんになんか言われてた時にそばにいてサ、私になんにも言わなかったって、言うの?」
「あら、何か言ったかしら、わたくし」
「松村くんのこと素敵だ≠チて言ったじゃない」
「あらァ、そんなこと言ったことないわ」
「あるわよ。なんかうっとりしててサ。今日だってサ、あなた、松村くんのことジッと見てたじゃないよ」
「あら、見てませんわ」
「嘘よ。見てた」
「あら、どうして私がそんなことしなければいけないのかしら。私、あんな人になんか興味ないわよ。どういう魅力があるのかしら、あの方に?」
「あらそうォ。あたし達がいてサ、話してたらサ、あの人が来てサ、やァ≠ニかって言った時に、あなたズッと見てたじゃないの」
「あら、そうかしら? それは榊原さんの考えすぎじゃないのォ」
「そうおォ?」
「そうよ。だって私、あんな人に興味ありませんもの。運動神経だって鈍くてらっしゃるし。私はスポーツマンにしか興味ありませんもの」
(ああいやらしい! 醒井凉子がスポーツマン≠セなんて言ったら。もう、あの醒井凉子がスポーツマンだなんて言ったら、そりゃもう、男は体だけだわよ!≠チて言ってることとおんなじじゃないよッ! ああ、いやらしい!)
「悪いけど私、あんな人には興味ありませんわ」
「あら、あんな人≠チてなによ? あんな人≠チて?」
「あらごめんなさい。ただ私、榊原さんが付き合ってらっしゃる方がどんな方かと思って、それで興味があったっていうだけですわ。もしも私があの方のことを見てたっていう風におっしゃるんだったら」
「もう、付き合ってなんかいないわッ!」
(滝上圭介がなんぼのもんだって言うのよッ!)
「あらごめんなさい。私、知らなくって」
「いいえェ。言わない私が悪いのよね」
「あらそんなこと――」
「そうよッ! 要するにあなたは、今自分の付き合ってる男にしか興味がないって言うんでしょう?」
「あら、どういうことかしら?」
「どういうことって、そういうことよ」
「あら、そう。まァ、そうかもしれないけれど、でも別に、私達、どうっていうことはないんですのよ」
「あら、そうォ? だったらそれでいいじゃないの」
「ええ。勿論」
その二、
「一体あなた、木川田くんに感謝するって、一体何を感謝するのよ?」
その答――
「それはね、ええと、色々あって」(と笑う)
「何よ? 何が色々あったのよ?」
さらなる答――
「何がって別に、そんな、大したことじゃなくって、別に」
さらなる尋問――
「別になんにもないんだったら、別になんか感謝することないじゃないよ」
さらにさらなる答――(当分続きます)
「そういうことではなくって――。私、どうして榊原さんがそんな風に怒ってらっしゃるのか、さっぱり分りませんわ」
「あら、なんで私が怒んのよ?」
「あら、怒ってらっしゃるわ」
「怒ってなんかいないわよ。失札ねッ!」
「あら、だったらよろしいけど」
「よろしいはいいから、一体なんだって言うのよッ!」
「別に」
(これで怒んなかったら、ただのバカだわ!)
「だったらもう、どうでもいい話なんかしないでよ。私もう帰るわッ!」
「あら、そんなことおっしゃらないで」
「だったらなんだって言うのよ」
「だったらって、私、ただ、男の人って、色々と複雑でらっしゃるからって思ってェ」
「それでェ?」
「私がやっぱりィ、単純すぎたこともあってェ」
(ブリッ子!)
「それでどうしたっていうのよ?」
「あの、榊原さん、あの、あなた、処女ではないんでしょう?」
「一体あなたは、何が言いたいっていうのォ!」
その三!
私の答――
「決ってるじゃないよ」
その答――
「よかった」
私の訊きたかったこと――
「だからなんだって言うの?」
その答――
「色々、あったんですよォ……」
だからなんだって言うんだって、私は言いたい!
12
私が醒井凉子から聞いたこと(第二部)の為の間奏曲(きどっちゃってェ)――
「あなた、滝上くんがどういう人だか知ってんの?」
「知ってんのって、とっても誠実な方ですわよ」
「違うわよ、そういう意味じゃないわよ」
「?」
「あなた、西窪くんから聞かなかった?」
「西窪さん?」
「うん」
「だって私……。西窪さんとお付き合いしてたのはもう前のことだし……。私、その頃は滝上さんのことは存じ上げなかったし……」
「ちがう!」
「え?」
「違うったら、違う。そういうことじゃないの。だって西窪くん、滝上くんとおんなじクラスなんでしょ?」
「ええ。昔のことじゃなくって今のことならそうですけど」
「だったらあなた、あの人からその話、なんにも聞いてない?」
「だって、西窪さんは滝上さんのお友達でらっしゃるし、私は別に、あの人とは……」
「ねェ、凉子さん、あなた昔あの人と付き合ってたことあるの?」
「え? ないわよ」
「ないわよ≠チて、今そう言ったじゃないよ。昔付き合ってたって」
「ウソー。一緒にお茶飲んだことが一遍あるだけよ」
「あ、そうォ。あなたの話聞いてると、まるで西窪くんが最初の人だったみたいよ」
「そりゃ、私に声をかけて下さった方はあの人が最初かもしれないけれど、でも、あの人とはなんでもありませんわ。なんかあったなんて、失礼だわ」
「あらそうォ、ごめんなさい」
「そうよ。失礼よ。だって私って(笑う――!)いやだわ、フフフフフフ、だって――」
(笑うなって!)
「だからなによ?」
「だからって別に。だって私」
「私≠ヘいいから、あなた、滝上くんのこと、ホントになんにも知らないの?」
「なんにもって、あの? 誰かいるんですか?」
「誰かって、あなた――」
「だって、あの人は私が最初だって」
「だからァ! あなた、木川田くんのこと知らないの?」
「知らないって、存じ上げてますわ。だって、海の家で滝上さんと御一緒でしたんですもの」
「だからサァ、あの人がどういう人だか知ってるでしょう?」
「あの人≠チて、滝上さん?」
「違う! 源ちゃん!」
「木川田さんがどうかしたの? とってもいい人だとは思うわよ」
(この口のきき方!)
「あなた、あの人が女に関心ないってこと、知ってるでしょ?」
(自然ここら辺、声が小さくなる)
「え?」
「えって、分らない?」
「あら、そうだったの?」
「そうだったのって、ホモってそういうことでしょう?」
「だって、オカマって、仇名でしょう?」
「仇名だけど、仇名が。仇名よ。じゃ、どうしてついたのよ?」
「それは――。よく分らないけれども、あの人が、だからでしょう?」
(どうしてこの人は、急に年増女みたいな口がきけるんだろう)
「だからならサァ、じゃァ、滝上くんは何よ?」
「あの人は普通の人よ。普通の人で、やっぱり純粋で」
「じゃァ、なんであの人と木川田くんが付き合ってんのよ?」
「付き合ってるって、どういうこと?」
「どういうことって、そういうことよ」
「そういうこと?」
「そう! あんまり大きな声じゃ言えないこと」
「あらやだ、榊原さん御存知ないのよ」
(と言ってこの人は「ホホホホ」と笑った)
「これだって大きな声じゃ言えないんですけれども」
「何よ?」
「だって私、私達――」
(そう言って醒井凉子はプーッ!!≠ニ吹いた。吹いてそうして、オールナイトフジになった)
「やっだァ、だってェ、冗談じゃないわァ、やっだァ、ウーン、バカねェえ」
(一体どうしたんだ)
「だってあなた、私達って、あんな情熱的に、愛し合ったんですよォ。どうしてそれであの人が女に関心ないなんてことになるのォ」
「あなたが誘ったの?」
「どうして? どうして私が? いやだァ、そんなの。ひどいわァ、ひどォーい、私、そんな女じゃないもん。ないわァ。それはひどいわよォ。榊原さん、どうかなさってるんだわ」
(「どうかなさってるのはあなたの方よ」って、私は言ってやりたかった)
13
私が醒井凉子から聞いたことの第二部は、ホテルニューオータニのバーからお送りします。
あの人は、「こんなところじゃ話せないわ」って言ったんです。十分声のトーンは低くなってて、低くなってくと同時にけたたましさもひどくなって、声のトーンが低くなるのは、けたたましさをひどく見せる為かと思いました。高田馬場の学生街で、季節はずれにドレス着た女が、一人でひそひそしてはケタケタ笑ってたら、一緒にいる私だって迷惑しちゃう。だから「出ません」って言った時に、私はOKしたの。OKして、「だって負けられるもんか!」って、そう思ったの。
一体なんだっていうのよ、ケタケタ、ケタケタ、気持悪い! 一体何を見せびらかそうっていうのよ、見極めてやろうじゃないのって、そう思ったの。
タクシー乗って、「行きつけのお店があるから」って言って、ホテルニューオータニのバーに行ったの。私は、行ったことないから簡単にOKしちゃって、それで失敗しちゃったんだけど。でもあの人って、自分が話し始めると、他人がどう思ってるかなんて、もう、眼中になくなるのね。
タクシーに乗った途端、こうだもの。運転手なんか、いたっていなくたって、関係がないんだもの。すごかった――
「あのね、私、滝上さんにズーッと憧がれてたのね(あらそうォ)。フフ、笑っちゃいやよ。(笑うもんですか)ずっと憧がれてて、今年の夏にバッタリ会っちゃったのねェ(あらそうォ)。そうなの。だから私、嬉しくって。あら運転手さん、そこ右行けません? あらそう。でね、(はいはい)その、私達、いろいろあって(あ、そうォ)。男の人って、色々あるでしょ? (色々って何よ?)つまり、恥かしいとか、照れるとか(誰が?)、だから私、もう捨てられちゃったのかと思ったの(ということは、拾われたっていうことか?)。だから私、もう、死にたいとか思っててェ(死ねばよかったのに)、そしたら木川田さんが来て下さって――」
「何しに来たの?」
「何しに≠チて、私が電話したんですけど」
「電話したって、なんでよ?」
「だから、滝上さんの連絡先が訊きたいとか」
「それで訊けたの?」
「そうよ勿論」
(道理で)
「なァに?」
「う、うん、別に」
「それで私達、やっぱり色々思い違いとかあったとかって」
「私達≠チて誰よ?」
「勿論、私と滝上さんよ」
「西窪くんはどうからんでんの?」
「西窪さん西窪さんてうるさいわねェ、あんな人関係ないのよォ」
「あらそうォ、ごめんなさい(私はまた、今日のこととどう関係してくんのかなって、思っただけよ)」
「あのね、私、チュージツしたの(そう聞こえた)」
「チュージツ?」
「やァねェ、中絶よ。誰にも言わないで」
「――(私はあきれて、口がきけなかった)」
「そうなると、男の人って色々あるでしょう? だから――。お願いだから誰にもおっしゃらないでね?」
「言わないわよ(でも分んないわよ)」
でも、はっきり言って、「おっしゃらないで、おっしゃらないで」ってことは、言いたくって言いたくってしようがないってことだと思う。
言いたくって言いたくってしようがなくって、「私は、こんなにも言いたくて言いたくてしようがありません!」て恰好して出て来たんだって、私は、その日の醒井凉子の恰好を見て、初めっから分ってた。
しかし私は、何が言いたいんだか分んなかったから、醒井凉子が「私は堕したんです」ってことを言いたくて言いたくてしようがなかったんだってことにその時初めて気がついた。
「堕したんならそれでいいじゃないよ、どうでもいいじゃないよ、ああやだ」って、私は思ってた。
「そんなこと私には関係ないしね、関係持ちたくもないしね」って。
私は恋に破れた女で――ええ、もっとはっきり言いますよ。私は、恋に見放された女で、私の隣りには、私にすがりつかんばかりの勢いで、恋の女神にとりつかれた女が坐ってたんだって、それだけのことなのよ。
それだけ。それだけのことなのよ。それだけのことなんだけど、恋に見放された女は弱くって、恋にとりつかれた女は強いのよ――それだけのことなのよ。それだけのことなんだけど、でもそんなこと認めたくないから、あたしは「負けるもんか」と思って、ホテルニューオータニまでついてったのよ、バカみたいに。
14
私はなんで、ホテルニューオータニなのか分らなかった。ただ彼女が金持ちのお嬢さんで、金持ちのお嬢さんだからそういうところに行きつけてて、行きつけてるから、今日みたいに舞い上ってる時には、友達をそんなところに連れこんでしまいたいんだって、そう思ってた。あの人が金持ちの娘なら、あたしだってビンボー人の娘だわ、負けるもんかと思ったわ。「お金払ってね、私持ってないわよ」って、あたしそれぐらいのことなら平気で言えるもんね。だってあたしは、レッキとしたビンボー人の娘なんだから。そんなとこ行ったってまごつくもんかって、そう思ったの。
思ったけど、思っただけじゃだめだって分ったの。そんだけなの。世の中って、私一人の思いこみで出来上ってるものじゃないから――。
ホテルのバーって、大きくって静かで暗くて広いの。それだけなの。それ以外、私に何を言えって言われてもなんにも言えない。あたしは去年まで十八で高校生だったんだから、どう考えたってホテルのバーとは縁がある訳じゃない。唯一つ言えることは、ここじゃァ私は、『CLASSY』程度のただのリクルート娘だけど、ビラビラベラベラの醒井凉子は、ここじゃ立派なお嬢さん≠セってこと。
だってこと、それだけ。ホテルというところがインビだということは、そういうことだと思う。泊るところがあって、すぐ泊れるからホテルがやらしい訳じゃない。ビラビラキラキラのお嬢さまが、何言ったって、どんなこと言ったって、それはそれで平気な顔をしてられるっていう、そういう場所だからインビなだけだっていうこと――そう思う。
ボーイはみんなオジサンで、大人のオジサンで、入って来る人には全員、顔見知りみたいな顔で「いらっしゃいませ」って言う。「いらっしゃいませ」って言われて、平気で笑えて、「今日は空いてるかしら」って平気な顔で言えなきゃダメ。
醒井凉子は平気でそう言って、私は一生懸命「関係がない」って顔してる。それでもう、くやしいけども、負けちゃったんだ。この、恋にも見放された娘は、オトナの世界からも見放されたただの娘だったって。あー、やだった!
「私達、ここ、よく利用するのよ」って、醒井凉子は言った。
「私達って?」
私は言った。
「あ、普段はバーじゃないんですけれども、学校が近いでしょう? だから、コーヒーハウスなんかにも、滝上さんとはよく来るんです」
コーヒーハウスなんかにも(!)∞学校が近いから(!)
醒井凉子は四谷の上智で、滝上圭介はお堀端の法政で、二人揃って、ニューオータニに来るの(!)、市ケ谷出て、四谷見附まで来て、醒井凉子誘って、ホテルニューオータニまで来るの(!)、二人揃って『CLASSY』に出ればいいんだわ。いやらしい!
醒井凉子は言ったわ。
「でもね、ここだけの話なんだけど、男の人って、気後れがするみたいなのね」
「なんで?」
「なんでだか知らないけど、前に滝上さんと来た時に、そんなこと言ってらしたわ」
「そう」
「そう。でも、そうなったら、私だとしたって、やっぱり、若い大学生の男の人が、人のお金でこういう所に来ていて、それであんまり、リラックスとかしていらっしゃるのって、あんまり好きではないんですけれども」
ということは、あの人は、あんたのお金でこういうところに来てるってことォ!
何考えてるんだろう?
何考えてるんだろう?
何考えてるんだかさっぱり分んない。私は、昔っからあの人が好きじゃなかったからかまわないけど、そんな男、金もらったからって、絶対に付き合いたくなんかないわッ!
なんだっていうのよ、あんな男ッ!
いくら金積まれたってゴメンだわッ、薄気味の悪い!!
「あのね」――醒井凉子が言った。ボーイの持って来たマティーニをすすりながら――「榊原さんて、やっぱり、私にとって先生に当る方だから、こんなこと言うのあれなんですけどね」って。
私は別に、この人に何かを教えたつもりはないもん!
「男の人って、やっぱり、気後れするみたいね」
「あらそうォ」
もういいわって、私は思ってた。
「そうなの」
でも醒井凉子は言った。まだ肝腎の、一番喋りたくて喋りたくてしようがないことを話し始める為に。
「私ね、中絶しましたでしょ? (だからァ!)その時にね、私、滝上さんに御連絡したんですのよね。(だからァ!)そうしたらあの方、いやそうな顔をなさって(そりゃそうだろ)、でも、電話だったから、顔とかっていうのは分らなかったんですけど(ああよかったね!)、私、ホントでしたら自分の力で、自分一人の力で仕末をつけようと思ってたんだけども(あらそうォ)、でもやっぱりあれ、同意書って、相手の人のサインがいりますでしょう? (そんなもん誰だっていいのよ!)だから私、それがなかったら、仕末とかっていうのもつけられないし、それで(それで?)、それで私、木川田さんに、お願いしちゃったんです(よしてよォ!)」
「あなた、ホントにそんなことしたの?」
私言ったわ。
「ええ。だって、他に相談する人っていないんですもの。私ね、孤独って、よくないことだって分ったのね」
あんたが分る≠ニロクなことはない。
「あんた、源ちゃんにサインさせたの?」
「いいえ? どうして?」
醒井さん、ポカンとしてた。
「だってあなた頼んだ≠チて、そうなんでしょ?」
私は言った。
「違うわよ」
彼女は言った。
「じゃァなによ?」
私は訊いた。
「私は、滝上さんのサインをもらって来てもらえないかと思って――」
「まさか!」
「どうして?」
「あなた、そんなこと平気でしたの?」
私はあきれてそう言った。
「だって、そんなことお願い出来るの、木川田さんしか私、知らないんですもの」
「あなた、木川田くんと滝上くんが、どういう関係だか知ってるの?」
「どういう関係って?」
「だから、さっき言ったでしょ」
「あら、それだったら、関係なんてありませんわよ」
「滝上くんがそう言ったの?」
「ううん」
「ううん≠ト、あの人はなんて言ってんの?」
「なんにも」
「なんにも≠チて、なんにも?」
「どうして私と滝上さんが木川田さんのお話をしなくちゃいけないの? そりゃ、滝上さんは私に前から木川田のこと知ってんの?≠ニかってお話しになったことはあるけど」
「あるけどなによ?」
「だって私、木川田さんとお話ししたことなんて、それまでだって一遍もないんですもん。知ってるって言われたって知りようがないでしょ?」
「知りようがないけどあなた、その知りようがない人に、同意書のサイン貰って来てくれって頼んだの? 可哀想に」
「あらァ、私が頼んだんじゃないわ。私が困ってたら、それであの人が貰って来てあげるって、そう言っただけなんですよォ。それだけよォ。私の方から何かを頼んだことなんてないわァ」
あーら、ずい分な口きくじゃない。
「私が黙ってたら、あの人、サイン貰って来て上げるって言って、私が、別に、頼んだ訳でもないのに、あの方用事がおありになるのに、あの方を連れて来るって言って」
ウソ。
「そりゃ私だって、やっぱり、一人で困難に立ち向かわなくちゃいけないって思うけど」
なにが?
「やっぱり、愛する方がそばにいてくれたら嬉しいって、思うでしょ?」
それでそんなことしたの?
それで、そんなことしたの?
殺すよッ!
「あなたそれで、木川田くんに滝上くんなんて連れて来させたの」
ブルン、ブルン――醒井凉子は、そう頭を振った。
「用事がおありになったの。木川田さんが来て、そういう風におっしゃって」
「来たって、どこに?」
「私の病室」
「うそ!」
「あら、何がおかしいの?」
「おかしいってあなた、そんな時に、自分の病室に、あなた、男なんて呼べるの?」
「男って、だって、木川田さんは違うでしょ?」
「違ったって男じゃないよ」
「あら、榊原さんて古いのねェ、どうして男の人をそういう風にしちゃいけないの? あなたの時には、そういう風にしたの?」
「あたしの時ってなによ?」
「なすったんでしょ?」
醒井凉子が声をひそめたのは、多分、その時だけだった。「なすったんでしょ?」って声をひそめて、そして醒井凉子は両手で――まるで、潮干刈りの時にするような、カッコウをしたッ!
(カリ、カリ)
やだっ! 大嫌いッ!
私、醒井凉子が、前からそういうことをする女だとは思ってた。前からそうなんだってことは分ってた。分ってて、でも、見て見ないふりはしてた、アレはなんかの間違いだって。でも、でもやだ。なんだって、そんなとこでそんなことを、平然とやってみせなきゃなんないのッ! お酒呑んで、それで、チョコチョコって手ェ動かして、そしてその手で、どうしてボーイさんなんか呼べるの?
そんなこと言っといて、どうしてボーイさん呼んで、「ドライ・ジンフィズ。あなたは?」なんて言えるの? 私には信じられない。
「私、悪いけど、そんなことしてないわ」
私は、ソファに貼りついたまんま、硬い顔してそう言った。
「そんなことってなァに?」
醒井凉子はそう言った。
だから私は、醒井凉子がしたみたいにして言った。
「潮干刈」
「あら、やァだァ。や、だァ、ホホホホホホ」
醒井凉子は大声で、そして、エンゼンと笑った。いくら笑ったって、ここだったら平気だって、ベタベタしそうな、吸音装置のついてる――絶対ついてるに決ってる――ホテルのバーの中で、年増オンナみたいに笑った。
「最高ねェ、榊原さん。やっぱりだわァ。潮干刈だなんて、もう最高」
あたしがどういう冗談を言ったっていうの? あたしがどういう冗談を!!
「そうォ?」
あたしはますます暗くなって、隅のソファにくっついていた。
「でも榊原さん、中絶なさったことないなんて、嘘でしょ?」
「ないわよ」
「あらホント。じゃ、よっぽど上手に――」
「上手になによ」
「ああ、上手にそういうことしてらっしゃるのかなァって」
「してないわ、私そんなこと」
「またァ、すぐ隠すんだから。私にばっかりそんなことを喋らせて、松村さんとはどうだったの? 私なんか、一回なのよォ。一回でもう、出来ちゃったのよォ。私、ちゃんと計算してたんですけど、でも、違うんですもん。ウウン、もう、ホントに焦っちゃったァ。あたしねェえ、情熱って多分、禁断の木の実を持ち運んで来るもんだと思うの。そうじゃなかったらだって、あんなことって考えられないもの。そうだと思いません?」
こんな女が源ちゃんを、病室に呼んだのか。何があったのか知らないけど、滝上くんは用事があって来れなかった≠チて? 一体どんな用事かっていうのよ。どうせロクな用事じゃないに決ってる。こんな女とそんな男がサカッて――ええ、さかってよ、それで、愛だの恋だの言わないでほしい!
「でも、やっぱり私、掻爬って、女の勲章だと思う」
醒井凉子がそう言った!
もう、やめてほしい。この女がそんなこと言うと、まるでこのホテルが、巨大な産婦人科病院みたいな気がする。棚にあるのは、洋酒のビンじゃなくて、まるで赤ン坊のホルマリン漬けみたいな気がする。
「悪いけど、私、帰るわ」
「あら、気に障ったの?」
私、こんなに明らさまに他人を睨《にら》んだことって、生まれて初めてだったと思う。
「気に障ったの?」――なによォ! なにが気に障った≠フよォ! 分って言ってんじゃないよォ! 分ってそんなこと言ってんじゃないよッ!
おしとやかな顔しちゃってサ、真っ赤な顔しちゃってサ、目なんか、色っぽく染めちゃってサ、一体私になんの恨みがあるっていうのッ!
私もう、絶対黙ってなんか帰らないわ。黙ってなんか帰ってやるもんかって、そう思った。
だから私は言ったの――「あなた、源ちゃんに謝りなさいよ」って。
「あらどうして?」って醒井凉子は言ったわ。
「分んないの?」
私は言ったの。
「木川田くんは、滝上くんのこと、愛してたのよ。ホントにずっと愛してたのよ。あんたなんか知らないだろうけど、ずっとずっと前から。それなのになによ、そんなことさせてさ! あたし、滝上くんがどんな人だか知らないけどサ、どんな人だか、あたしは別に好きじゃないから知らないけどサ、なによ、一体あんた達、何やってるっていうのッ!」
私はこれだけ言って、「ああ、嘘だ」って思った。こんなこと、全然嘘だって。滝上くんも源ちゃんも、そんなことなんでもないんだわって、そう思った。あたしはただ、醒井凉子に負けただけなんだ。負けただけだからくやしくって、だからそれで怒鳴ってるだけなんだって、その時、分ってた。
ああッ、それが悔しいッ!!
女の勲章≠セかなんだか知らない。そんなことになるのがバカなんだってことぐらい知ってる。でも、そんなこと知ってても、知ってるだけのあたしは、そんなバカな破目に陥るようなことさえもしてない!
あなたは上手にしてらっしゃる≠チて、松村さんとはどうなの?≠チて言われた時にはゾッとしたし、ブルブルしたけど、上手も下手もなくって、私は、そんなこと全然してない! 全然してなくって、チクショー、全然してなくって、どうして「全然してない」なんて言えるの?
チクショウ! くやしいッ!
私は、くやしいだけで、押さえてるだけで、つまんないだけで、ただ「つまんない、つまんない」って言ってるだけで、ブツブツブツブツ、「そんなことくだらない!」ってことだけ、呪文のように唱えて、でもあたしは、そんなこと全然してないんだ!
醒井凉子が薄気味悪いって言ったって、でも、そんなこと言ってる私は一体なんなの? くやしいッ! 私はただの、コムスメじゃないよッ! なにが榊原さんは私の先生≠諠b! くやしいッ! 私はこの一年で、こんなに差をつけられたんだわッ! 私はつまんない意地を一人で張ってて、それでもどっかで、醒井凉子につまんない優越感感じてて、でもそんなあたしは、現実に一歩も出て行けないで、「気持悪い、気持悪い」って言ってる間に、その気持悪い現実ン中、平気で泳いでる醒井凉子に、一歩も二歩も、差ァつけられちゃったんだわ!
何を言ってもだめ、何を言ってもみっともない、そんなこと十分分ってたけど、分ってたけど、みっともないことだって、私は言わなくちゃいられなかった。
私はたった一人で、気の狂ったオールドミスのジョシコーコーセエで(浪人なんて、女子高校生のオールドミスだわ)、「ひどいのね、ひどいのね、人の愛情踏みにじるなんて」なんて――ああ恥かしい、嘘くさくってみっともないことを、しかも、こともあろうに、ホテルのバーで、私はつまんない小娘やってたんだ。もう、大人になんか、なれやしない――そう思った。
そう思ったけど、バカね。
あたしってバカね、そんなこと分ってんのに、それでもあたしはまだ、ハチマキしめて演説してた――だって、私が言うと、言われた方は、顔色変えて行くんですもん。
「どうしましょう、どうしましょう」って、顔色変えてくんですもん、言わない方がバカよ。言った方が勝ちよ。だから言ってやったんだわ。
「知らばっくれて、みんな知っててやってたんじゃないよ。源ちゃんが滝上くんのこと好きだなんてこと知ってて、でも源ちゃんオカマだから手ェ出してもいいんだと思って、それでヘエキでやったんじゃないよ」って、あたしは思ってた。
だって、顔色変えるって、そういうことだもん。そうじゃなかったら、顔色なんか変えなきゃいいんだもん。そうよ、顔色なんか変えるから、あたしはいい気になって、この人のことを責め立てたのよ。
あーあ、責め立てれば責め立てるほど、あたしの方はみっともなくなって来る。人の愛情問題に正義感燃やすのほど、嘘臭いことってないんだもん。
あたしが、嘘臭くなればなるほど、この女って、色蒼ざめて来るんだもん。ホント、負けたわ。「自分の好きな人が自分以外の人と出来てて、それが分っててその間の連絡するなんて、どんなにつらいことかあなたに分るの!」なんて言った時なんか、ついに気絶しちゃったもんね。気絶したというか、ふりしたというか、よく分んないけどドラマチックになる方法なんていくらだってあるんだって。でもあたしは、たまりませんでしたわ。
あたしは帰り道、思ったんです。ニューオータニから赤坂見附の方まで一人で歩きながら、一体なんだってホテルっていうのはこういうヘンピなところにあるんだろって思いながら――。
くやしいけど、シャクだけど、でも、醒井凉子は勝ったんです。ああも見事に勝ったんだから、そうしたんなら、どんなに着飾ってクラス会に出て来たってちっともおかしくないって。
メソメソして、なんにも言わないで、黙って自分の恋敵の病室に行く源ちゃんなんて、やっぱりオカマ≠チて言われたってしようがないくらいみっともないし、用事だかなんだか言って、肝腎の時出て来ないで、それが終ったらフラフラと、まるで良心が咎めましたからって感じで出て来る滝上くんだってバカだけど、それと付き合ってる――そんな男とホテルニューオータニのラウンジ行って、なにが嬉しいんだかはしゃいでる醒井凉子だってバカだけど、でも、下半身丸出しにして台の上に乗った=\―気絶した後で、彼女はこうも言ったんです、さすがに下半身≠ニは言わなかったけど、まァ、もっとひどい表現と言えば言えるような言葉使ったけど――醒井凉子は、そういうの全部素っ飛ばして、ともかくも何か≠ノ勝ったんです。
「見事よ、見事としか言えない」――そう思ったんです。たとえ相手がバカでも、たとえ恋敵がオカマでも、ともかくあの人は、なんかをやっちゃったんだから。
「私なんかみじめよねェ」――そう思ったわ。バカな男相手にして、「バカだ、バカだ」って言ってて、「バカだ」って言うだけで、なんにもしなかったんだもん!
15
あーあ、これが去年の十一月よ。まだ十二月にもならないのよ。予備校の二学期なんて終ってないのよ。こんなことやって帰って来たら、あたしもう、どうやって年が越せるのかと思って、ホントに心配になっちゃった。
次の日予備校に行って、男の子に体触れられたら――ただ混雑して触れ合っただけだけど――それだけで「なんなのよッ!」って思っちゃうし、そう言いそうになった後で、「ああいけない、こういうこと考えてるから世の中と無縁になってくんだ」って思って、もうメチャクチャ。私が放課後、しばらく代々木の駅前でボーッとしてたのは、あれは、「誰か誘ってくんないかなァ」と思ってただけだったのでした(ああ恥かしい)。
だから、それから三日経って、醒井凉子から電話かかって来て、「あのゥ、お知らせしたいことがあって……」なんて電話かかって来た時なんか、「なによ!」って思っちゃったわ。
16
あの人、木川田くんに電話したんですって。「ごめんなさい」って。バカね、そんなことしなけりゃいいのに。そんなことするから、話がややこしくなるんじゃないよねェ。
「あ、そう」とかって、私言っちゃったわ。
「悪いけど用がある」って。
私にはあの人がよく分んない。
あの人は本気で、あたしが言ったことがこたえてたらしい。あたしが「あやまんなさいよ!」って言ったこと、ホントにこたえて、あやまったらしい。
あやまったらしいけど、でもだからっていって、私がそれで「仲良くしましょ」って、あの人に言える訳でもない。だって、私が「あやまんなさいよ!」って言って、あの人が気絶して、「私、悪いことをしてしまったわ、悪いことをしてしまったわ」って言って、それで私が「そんなこと言ったって今更しようがないじゃないよ」って慰めたら、すぐに「ええ」だもん。会った途端「凉子でェす」って、あたしをギョッとさせたのとおんなじ調子で、「でもわたし、今、とってもとってもハッピイなんです。いけないかしら?」って、平気で言うんですもん。「私、木川田さんの分まで、十分に幸せになりますわ」って、ヘーキでゆーのよォ。「訊いたらァ、源ちゃんにィ」とか、言いたくなったけどサァ。
要するに私は、あの人がよく分らない。昔は、あの人のよく分らないところがスッゴク魅力的だったけども、でももう、今のあの人にはついていけない。ついていけないし、ついてったら、あたしはあの人をますます不気味にするだけなんじゃないかって気もするし……。
私があの人を敬遠してるのとおんなじ理由で、多分あの人も、あたしのどっかを敬遠してるんだわ。そうなんだと思う。多分。
あの人とおんなじところで、なんか、張り合ったりとかっていうの、私は絶対に、なんか、出来ないような気はする。
人は人だし、私は私だし。だけど――。だけどやっぱり、どこか違うっていう気もするし……。
私の好きな醒井さんは、あんな醒井さんじゃなかったと思うし……。
違うのかなって思うけど、でも違わないっていう風にも思うし。
たった一つ確かなことは、私は昔、醒井さんが大好きだったっていう、そのことだけ――。
ホントに私は、大好きだったんだ。「凉子さん、凉子さん」て言うと、なんか、今でも胸ン中がジーンて温かくなるような気がする……。
恋愛感情≠セなっていえば、それはもう、恋愛感情だと思う。私は今でも思ってるもん、「ねェ凉子さん、どうしてあんなつまんない男とくっついちゃったのよ」って。
私は、誰よりも、醒井凉子が好きなんだ――。だから私は、誰よりも、あんな風になっちゃった醒井さんが、いやなんだ。
そう思う。
いやだし、嫌いだし、みっともないし。ねェ凉子さん、どうしてそんな風になっちゃったのよ。ねェ、凉子さん、一緒の大学、行けばよかったねって、私はどっかで言いたかったんだ――。
そんな気がする。
もう、遅いね。
凉子さん、好きだけど――。
17
そんな訳で、それぞれの人生ってのは、スタートしてくのよ。なんだかだんだん簡単になってく。お母《か》ァまはディズニーランドに行くし、私は大学に行くし。人生って、それだけなんだ。
なにがどうあるのかは分んないけど、でもともかく、あたしの人生は始まるんだ。それだけの人生が。
そう、始めちゃうの。
それだけの人生でもいい。それだけが人生なら、それだけの中に何があるか、私にはまだなんにも分ってなんかいないんだから。
だからあたしは始めちゃうの。
こういう風に言えちゃえばいい――「行ってきまァーす」って。大手を振って行けるところがあるんだったらそれだけでいい。余計なことは考えたくない。だから――。
こういう風にあたしは言います。
行ってきまァーす、って。
それでは皆様、
大学の桃尻娘
1
たびたびですいません。明るくなれなくてごめんね。人生って、やり直しがきくんでしょ? 私がバカなのは私のせいだけど、でも、私以外の人間がバカなのは、私のせいじゃないよね?
それでは言わせていただきます――
あー、やだっ! 大学なんか嫌いだ! 別にいい男なんか、一人もいないッ!
別に男探しに大学に行った訳じゃないけどサ、それにしてもね。
別に、いい男がいないのは私のせいじゃないけど、いい男を見つけられないのも私のせいじゃないよねと、そう思いたい!
まァ、別に、どうってことないんです。
そうそう人生って、思い通りに行くもんじゃないなっていうだけのことです。そんだけだから、あんまり気にしないで下さい。「ああつまんない」っていうのは、私の口グセですから。そうそう自分の人生を自分の口グセでダメにしようともあたしは思ってませんから。
などと言いながら、あたしはそうとうダメにしているような気もします。あたしがなんか言うたんびに、あたしは、自分の人生の希望の芽みたいのを一つ一つ摘みとっているような気もするもんで――。でも去年みたいに、ダマーッて、ベンキョオばっかりしてたってロクなことにはならないってこともあたしは重々知ってますから、精々、希望の芽を根絶やしにしないテードに、大学のことを悪く言わせてもらうことにします。
(あ、ひょっとしたら、私はただの根性悪オンナなだけなのかもしれない)
だって、つまんないんだもん。
別にあたしは、大学に過大な期待なんてしてなかったよ。してなかったと思うよ。人生、もう十年以上もなんか訳の分んない我慢し続けて、それで大学に来た時、それでもまだ単純な期待持ってられる人間がいたらバカだと思うよ。誰も期待なんかしてないっていう言い方はよくないと思うけどサ、でも、誰も正面切って明るい期待なんかしてないと思うよ、大学に。でもサ、そういうことがあったってサ、だからそれでいい訳じゃないとは思うのよね。子供が期待してないんだったら、「オーよしよし」って、こっちの間違った期待裏切ってくれたりすんのが大学《おとな》じゃないかって、あたしなんかはそう思うのよね。そう思うのが当り前じゃないかって思うのよね。それをみすみすサァ、こっちが期待してないのをいいことに、なんだろねェまァ、あの生意気で尊大で卑屈ななんにもなさっていうのはサァ、ぐらいのことは言ったっていいと思うのね。思うし、そういうこと言うのが、現代の大学生のツトメだと思うのね(なんたってやっぱし、あたしはエライ!)。そこまでこっちが分ってあげてんのにねェ、なんだろ、あの鈍感さは、なんてことを思う訳です。
だってホントよ。人間が一杯いるってことはサ、ただ一杯いるってこと以外の何者でもないなんてことをサ、どうしてわざわざ大学に行って教わんなきゃなんないの?
人が一杯いるんだったらサ、絶対になんかあると思うじゃない? なんかあるからサ、つまんないことでも人だかりってのは出来るわけでしょ? 洗濯機が回ってるから、洗濯機の水槽の上には泡が立ってる訳でしょ? 下にレモンのクリームがあるから、レモンパイの上にはメレンゲがかぶさってる訳でしょ? 甘いものが落っこってるから、蟻が群がってる訳でしょ? なんにもなくて泡だけあったらただのバカよ。そうじゃない? それなのにサ、どうしてそういうことを私は大学に入って教わんなくちゃなんないのよ? 大学なんて、パイ皿がなくてレモンクリームのない、ただのメレンゲよ。お砂糖のない蟻よ。洗濯機のない泡よ。バカらしいと思わない? 私は思うわね。
体育の課目の選択だって登録だって、健康診断だって、ただ人間がいるだけよ。「ハイ、並んで、ハイ、抽選します」って、人間がぞろぞろいるだけで、ホントに、それっぽっちのことだったら、こっちにつまんない自主性なんか要求しないで、サッサと向うで決めてほしいわ。そっちでやる気なんかないくせに、こっちばっかに自主性なんか要求してほしくないっていうのよね!
なれあいをやれっていうの?
あたしは、なんか、初めっから臭いとは思ってたのよね。なんか、臭い匂いがするとは思ってたのよね。
大学になんか、初めっからなんの期待もしてなかったけどサ、なんか、まだ発見だけはあるような気がしてたのよね。発見≠ェそんなことだけだとは思ってもなかったけどサ。
なんで知ってるのかって訊かれると困るけどサ、でもあたしは、初めっから大学にはなんにもないんだってことは知ってたような気がする。知ってたのは、確かだと思う。
確かだとは思うけども、でも、まだ何か知らないものがあると思ってたのも確かだと思う。
なんにもないことは分ってるけれども、でもそう言い切ってしまうのは惜しい――そのなんにもない大学には、あたしのまだ知らないことがなんかあるっていうことだけは確かだから、その、あたしがまだ知らないことがなんであるのかを見極める為だけででも、大学に行ってみるだけの価値はあると思う――あたしは、そう思ってたんだと思う。
そう思って、幸い親はそんなことに気がついてないみたいだから、だからそこら辺騙して大学に行っちゃえって、そう思ってたんだ。思ってたからあたしは、「大学になんかなんの期待もしてない!」ってことだけは、用心して口にするのを避けてたんだ――そう思う。
大学に行った時に、それは初めて分ったの。
「あ、なんかある!」って、「私の知らないことがまだなんかある!」って、大学に行った時に、初めてそれは感じたの。行った時≠チていうのは、それは勿論、大学に試験を受けに行った時のことです。
去年は私、それは分んなかったのね。まだ子供だったから。子供で、やっぱりオドオドしてて、大学っていうもんに圧倒されてたから、私はまだ、なんか、その時には分んなかったのね。その時に分んなくて、今年の時には分ったのね。「なんかあるな」と思って、「なんか臭いな」って、そんな風に思ったのね。そこら辺はなんか、やっぱり一年間黙って勉強して来たもののゆとりだと思うのね。試験場に来て、ピン! と来て、「よーし、このことだけを解明してやる為にも大学に来てやることは悪くない!」って、あたしは、そういう風に闘志を燃やしたのね。
そういう風に闘志を燃やして、それで、試験を受けて、発表を見に来て、手続きをして、入学式があって、ぞろぞろぞろぞろ歩いてて、いろんな手続きがあって、授業があって(というか講義≠ェあって)、ぞろぞろぞろぞろ歩いてて、人間がいて、御飯食べてて(昼休み食堂で)、それでそういうことやってて、ズーッと、「臭いな……」とか思い続けて、それでやっと分ったの。知ってるけど知ってないことってなんだ? っていったら、大学にはゾロゾロ人間がいるってことだけなんだもん。「あ、そうか、大学ってのは、ゾロゾロ人間がいるってことだけが高校とは違うんだ!」と思ったの。
だってサ、別に、大学の講義になんて、期待することなんかなんにもないでしょ? そのことだけは明らかだったと思うのよね。だって、本読めば分ることやるのが大学の講義なんだからサ。「あー、うっとうしいな」と思いながらも、高校で三年間教室に坐ってだけいた身にしてみればサ、向うの教えることがどういうことかなんて、もう、とうの昔に分っちゃってる訳じゃない?
学校の先生ってのは、なんにも教えてくれないで、ただ、「あ、なんとなくそういうのって分る!」っていう、あたし達の潜在的欲求っていうか、知的好奇心ていうのに火をつけてくれるだけの存在でサ、火だけつけられた私達はサ、燃えさかる欲求不満だけをブスブス抱えながら学校に行く訳よ。それが高校の三年間だった訳よ。だから、なんだか知らないけど、本だけは手当り次第に読む訳よ。「あ、そうか」って思って読んだり、「なーんだ、バカらしい」と思って読んだり。学校の先生は、あたし達が本読まない、なんてことは言うけどサ、ザーンネンでした。読んでる子は読んでますゥだ。ただ、あたし達の読んでる本は先生が読まないで、先生達が読めっていうような本はあたし達が読まないっていう、ただそれだけでーす、だ。
そうなのよ。だからあたし達はなんでも知ってるのよ。なんでも知ってて、そっから先のことになると、どの本にもなんにも書いてないから、なんにも知らないでいるっていう、ただそれだけのことよ。あたし達は、ある程度のことだったら、なんでも知ってるわ。なんでも知ってるから、あるテードのことだけを教える講義≠ネんてものに、なーんの期待もしてないっていう、ただそれだけのことよ。――っていう訳でもないか? やっぱり、一通りの期待ってのはしてたか?
そうだね、やっぱり、期待ってのはしてたね。ともかく、具体的なことっていうのはなんにも知らなかったからね。
「大学の講義はつまらない」っていう、一般論だけは、もう十分すぎるほど十分以上に知ってたからね。知って、聞いてたけど、でも、どういうものがあってどういうところがつまんないのかなんてことは、やっぱりまだ具体的に知らなかったからね。
知らないから、少しは期待っていうのはしてたね。期待しててやっぱり、『授業時間割ならびに講義要項』なんて書いてある、白い表紙の本もらった時なんかドキドキしたもんね。その下に早稲田大学第一文学部≠ネんて書いてあったら、「わァ、やっぱり私は、もう立派な早稲田の学生なんだァ!」っていって、薄い胸(ウン)ドキドキさせてたもんね。「やっぱり大学ってすごい、時間割が本になってる。何教えるかなんてこと、一冊の本にしなきゃなんないぐらい一杯あるんだァ!」なんて、素直に興奮したもんね。
興奮したから、初め見た時なんか、もう、何が書いてあるのかなんて、さっぱり分んなかったもんね。
もう、目が乱視になってて、「きっとこの私の訳の分んないでいる読めなさ加減ていうのは、やっぱりあたしがまだバカで、さすがに大学生はすごくてエライんだ」なんてことを思ってたもんね。思ってて、もったいないから、だからまだ「つまんなァい」なんてことは、思えなかったもんね。「せっかく親が高い金払って、こういう立派なもん買ってくれたんだ」なんて思ったら、もったいなくて読めなかったもんね、時間割はね。時間割の講義要項ね。「そういえば、予備校の時間割だって、結構厚い本になってたっけかなァ……」なんてことは、極力思わないようにしてたもんね。学生証貰った時だって、「なんか、予備校のよりチンケだなァ……」なんてことは、思わないようにしてたしね。
なんかやっぱり、どっかで畏れ多かったんだよね、大学っていうのは。予備校からやって来た、卑屈な新入生にとってはね。余計なことかもしれませんけど、やっぱり、十代のこの年で「私は同級生より一つ歳とってるんだ」と思うことは、かなり人間を卑屈にするんではないかと思います。これは個人的にではなくって、一般論的にはっていうことです。一般論がそうだったんなら、私は、個人的にもこういうことに双手を挙げて賛成します――そうです、十代の乙女にとって、他の子はまだ十八なのに、私はもう十九だ、ああ、今年あたしはハタチになっちまうよォ、というのはかなりにショックです。それで私は、やっぱり卑屈になってました。初めの内のホンの少しの間だけですけど。
余分な話はさておいて、話は元に返ります。ワーン、どこが元だか分んなくなっちゃったよォ、なんて泣き言は吐きません。さすがに大学生になっちゃうと、もう榊原玲奈さんは違うんです。勉強しようかなァ、とか思って大学に来た女の子の向学心が、如何にして無残に裏切られたかっていう話です。(あ、ひょっとして、私はこういうことを書いてて、「あ、そうなんだ、やっぱり私って、こういうことには本気で腹立ててるんだ」っていうことだけは分りました。そうなんです、あたしやっぱり腹立ててる。こういうことって、やっぱり大学のクセにいい加減でいいってことはないと思う!)
要するにあたしはサァ、『授業時間割ならびに講義要項――早稲田大学第一文学部』って本を見て、シサイに検討をしてって、幻滅というものを隠さなかったということなんです。
初めに思ったのは「なんて大ざっぱなんだろ?」ってことだったんです。興奮ていうのがさめて、「じゃァ自分は何とろうかなァ?」とか思ったら、そうやってチャンと見てったら、面白そうなものって、一つもなかったっていうことなんです。
初めは私、まだ自分が専門の方に行ってないからかなァ……って思ったんです。早稲田っていうのは――文学部は、二年から専門分野の専攻に分れて、一年の時は一般教育科目だけだから。まだ一年生だからつまんないのかなァ……、なんてことを思いました。思ってそれで、二年から始まる専門教育科目なんてのを見ちゃいました。一年の時はともかく、二年から先の私は一体どうなるのであろうか? とか、そういうことを考えたので見ました。見て、やっぱり面白くないなァって思いました。あたし一応、心理学の方に進もうとは思ってるんですけど、それで見た心理学専攻っていうのには、ロクなのってありませんでした。あたしは、はっきり言って人間心理というのを学びたいんだっていうことなんですけど、そこにあるのって、人間の心理じゃありませんでした。人間の心理じゃなくてなんなのかっていうとよく分りませんが、ともかくそれは、ほとんど工学部とか理学部とかにあたしが行ったんなら面白がれるかもしれないなァっていうようなことだったんです。「私は、人間を勉強したい訳で、機械を勉強したい訳じゃないわ。私は文学部に来たっていうのに、どうして数学なんかの勉強をしなくちゃいけないのよ」って、そう思いました。睡眠・夢、精神活動、情動などに随伴する生体の電気活動をポリグラフ的な視点から解説したい≠ネんて、ほとんど医学部じゃないのよって、そう思いました。ポリグラフの指標は種々あるが、脳波(含誘発電位、事象関連電位)、眼球運動、皮膚電気反射、脈波、心拍など体性系及び自律系を各種実験研究例から紹介する。教材は当方で準備したものを使用する≠ネんて、それはほとんど、「私が訳の分らないことを一方的に教えるから、お前達はそれを黙って拝聴するように」って、そう言ってるだけじゃないのって、思いました。
私、ホントのこと言うと、初めは和光大学に行こうと思ってたんですね。どうしてかっていうと、そこには岸田秀先生がいるから――。私、中学ン時に『ものぐさ精神分析』っていう本読んで、訳分んないとこもあったけど、ともかくガーン! と来たんですね。「そうだ、そうなんだ、私の思ってたことってそうなんだ」って、そう思ったんですね。高校入ってからも何遍か読んだし。読んでみて、やっぱりスゴイとかって思って、それで、和光大学行ってみようかなって思ったんですね、この先生がいるからって。いるからって思って、それで電話帳′ゥてて――電話帳≠チてのは『Kセツ時代』の増刊号です、受験専門の――和光大学っていうのが、入試科目二科目しかないんです。英語と国語。なんかあたし、それ見てバカにされたみたいな気がしたんですね。いくらなんでもあたし、やっぱりモノって知らないし、その私が知らないまんま大学なんて行っちゃっていいもんだろうかって、さすがに私、その時に考えちゃったんですね。
そりゃ、受験科目なんて少ない方がいいだろうし、いいだろうけど、でも、初めっから受験科目がなかったら、誰も勉強なんかしないよって、そう思ったんですね。あたしはそうだし、あたし以外の人間はもっとそうだろうと思ったんです。
あたしは分ってるからいいけど、でも他の人間なんか絶対に分ってない。分ってないで、妙にお気楽で妙にメンドくさいことばっかり言う人間がこういうとこに来るんだって、私、なんか、そういう風に思ったんです。勉強の出来ない松村唯史とか、そういう人間が。
あたしやっぱり、そういうのってやだからって、和光やめて早稲田にしたんです。やるんだったらやりがいのある方がいいとかって――やるっていうのは勿論、受験勉強のことですけど。どうせやるんだったらメチャクチャむつかしい方がいいしなァ、とか。まァ、国立やるほどあたしはなんでも勉強しときたい方でもないしな、とか思って、それで早稲田にしたんです。高校ン時の先生も「まァ、早稲田ならやってみても損はないじゃないか、キミならいけるよ」とかなんとかウマイこと言って。大体高校の先生ってのは、イヤなこととウマイことしか言わないのよね、まァいいけどサ。
そう思ってね、よく考えたらサ、岸田先生って、早稲田の学生だったのよね。早稲田の心理学出ててサ、それで和光大学の教授になったのよね。それでサ、あたし「そうかァ」とか思って、「和光大学はつまんないけど(ホントにつまんないかどうかは知らない、あたしはただそう思っただけだから)、そのつまんない現実の元を作った(しかし人のことだと思って、私は悪いこと言ってる)早稲田の心理学行って、私も岸田先生みたいな立派な人になろう」と思ったんです。笑われるかもしんないけど、でも、こう思った私は、マジで本気でした。本気だったし、やっぱこういう風に大学決めたっていいと思うし、他の人はどうかは知らないけど、私なんかにしてみれば、大学行くことを決めるっていうのはこういうことでしかないんだと思う。
そんでそういう風に思ってて、まァ、それだけでもなくって、やっぱり、「畜生、競争だったら偏差値の高い方がいいや!」っていうのもあって、どっちかっていうと、去年一年はそれだけで来ちゃったっていうこともあって、なんで自分は早稲田の心理なのかなァ……なんてことは忘れてたんですね。忘れてて、『講義要項』見てて、「ああ、心理学専攻ってつまんないんだ」って思ってて、そういえば岸田センセイ、大学の研究室ってネズミばっかり追っかけてるところだって書いてたなァとか思って、「あ、そうか、大学の心理学って、人間の心理を学ぶとこじゃなくって、心理学≠チていう外側だけを学ぶんだ」なんてことに気がついたんです。心理の学≠セけ学ぶんだったら、理論とかっていうのいるよなァ。学習≠ニか知覚≠ニかっていうよく分んないどうでもいいことの理論≠トいうのをねェ。そうしたら、ネズミっていうのを迷路で走らすわよねェ、とか思って。ひょっとしてもう、ネズミとかっていうのはもう走りきっちゃったから、その走りきっちゃったことに関する統計とかなんとかとってんのかなァ、そんでコンピューターがあんのかなァ、そんで統計学≠ネんてあんのかなァ……、どっちにしろあたしには関心ないなァ、とか思って、今やあたし、はっきりと心理学なんか専攻するつもりなくなってんです。
「ああ、すっきりした」とか思いますけど、別に思いこみで学問なんてやろうって気なんかないもんねェって、あたしは、そう思ってます。それより、なんかあたしは、『講義要項』とかってのパラパラ見てて、ああ、結構、あたしって知らないこと一杯あるんだって思って、ひょっとして、歴史とかなんか、そういう方に行こうかなァとか思ってるんです――っていうか、そういう気になってるんです。日本史とか、東洋史とか。
西洋史っていうのも、なんかいいかもしんないけど、あまりにも、あまりといえばあまりにも知らないことが多すぎてて、知りたいと思えることがそれに反比例してあまりにも少なすぎてて、「どうしようかなァ……?」っていう感じです。
やっぱり、なんか、講義要項とかって見てると、いろんなことって分って来ちゃうんですよね。なんか、明白な証拠物件手に入れちゃったっていう感じで。
パラパラ見てて、結局、大学の講義って面白くないんだ。面白いと思えるようなことって、多分話してなんかもらえないんだなんて、淋しいことだけが分って来ます。知らないんなら知らないでいいけど、私は自分の無知なんか、認められるところは平気で認められるけど、でも、「ああ、こういうことって知っておきたいなァ……」っていうようなことって、ほとんど直感的にないもん。こんなこと、知らなくっても別にどうってことないんだろうなァっていうようなことばっかり並んでるんだもん――としか思えないもん。まァ、それは先のことだからと思ってるけど(専門科目は二年になってからだから)、でも問題は、一般教育科目の方だと思う。
哲学なんてあるんですよね。よく考えたら、あたし達って、十九になるまで(十八の人もいるけど)――大学来るまで、哲学抜きで育って来たんですよねェ。よくまァ育っちゃったって気もするけど、だからあたし、哲学っていう科目見つけた時、「ワァー、嬉しい!」って思っちゃったんです。
「やっと哲学だァ!」とか思って、A・B・Cって。哲学にも三つあるんですよねェ。「ワァ、三つもある、どれの哲学にしようかなァ」とか思って。でもよく見たら、どれもこれも、「こういう哲学だったらあたし、いらなァい」っていうような哲学ばっかしなんだもん。ギリシアから現代までのヨーロッパの哲学をなるべくやさしく話しする。各自が自分の頭でものを考え、自分の言葉でものを言うようになるとよいと思う≠チての読んで、「これにしようかなァ」と思って、出てみて、「やさしく話すってああいうことなのかァ」とか思って、「よく考えたら、あたしはチャンと、自分の頭でもの考えて、自分の言葉でもの言ってる(と思う)けどなァ、既に」とか思って、「でも、哲学知ってる人で自分のこときちんと話せる人なんて、よく考えたらいないのかもねェ」とか思って、やめちゃいました。やめて、もう一コの方の哲学行きました。なんか知らないけど、こっちの先生の方がまだ、少なくとも「分ってもらいたい、関心を持ってもらいたい」とか思ってるような気がするから。ただ説明してるだけなんだけど、でも、なんにも知らない私としては、キチンと説明してくれるっていうのが、なんか知らないけど一番ありがたい。言っちゃ悪いけど、でも、キチンと説明出来ない先生っていうのは、やっぱり、頭の悪い先生なんだと思う。
結局あたしは、「あたしはなんにも知らない、だから黙って聴いてるより他にしようがない(どんなつまんないことでも)」っていう、最低線で妥協させられちゃったような気がする。私はバカなんだ≠チていうこと前提にさせられちゃって。
私がバカだからしようがない。私がバカだから、向うがどんなこと言っても聴いてるしかない。私はバカだから向うは「しようがないなァ」と思って、つまんないこと平気で話す。私はバカだから、先生から哀れみをかけられてる――ズーッと哀れみをかけられてる。かけられっ放しになって、いつか、初めに自分が自分で自分のことを「ひょっとして自分はバカなのかもしれないなァ、こんなつまんないこと平気で一方的に聴かされてるんだから」って妥協させたとこを忘れさせられちゃうのかもしれないって思った。
講義に出て居眠りしてる子もバカだけど、講義に出て居眠りしないでいられる子もバカだと思う。だって、あんなにも当り前のこと平気で聴いてられるなんて、実はなんにも考えないでなんにも知らないで平気でいられるってことでしかないんだもん。
私なんか、講義に出てるといつも思う――「あの白い表紙の『講義要項』をわざわざ乱視にして読んでた自分はなんだったんだ」って。私はわざわざへりくだって、きっと大学だから難しいんだと思って、きっと大学だから高級なんだと思って、それできっと私には眩しすぎて読めないんだと思って、目を細めて、字をぼやかして、そしてその字のぼやけた分だけ、自分の胸の中に希望≠ニかっていう、今迄ほとんど考えたこともないような二文字温めてたことなんか、絶対に忘れないと思う。
「アリストテレスはギリシアの人で」なんて当り前なこと聴かされてて、次に何が出て来んだろうと思って、少し訝《いぶか》しみながら耳を傾けてて、その次も更にその次も当り前のことが出て来てて、「なんだって一体こんなに当り前のことばっかり続くんだろ?」と思って、ひょっとしたらこの当り前の中には、あたしの知らない別の意味でもあるんだろうか? とか、満員の大教室で、その満員であるだけの生徒だけから圧倒されて、なんだか重っ苦しくなって、教科書開けてみたらその通りのことが書いてあって、概説≠チていうのは試験のない入試参考書みたいなもんで、時々先生の言うことで訳の分んないことが出て来るその難解さ≠チていうのは、実は活字で書いてあることをそのまんま喋ってるからだなんてことに時々気がつかされて、それでも後ろ見ると、そんなこと考えてるのはどうやらあたし一人だけらしくって、見渡す限りの大教室は、見渡す限り全員が大学生やってて、そっから「あたし一人だけ逃げ出すことなんて出来ないなァ……」って思うことによってだけ抜け出せなかったりするの。
一体それが大学生なのかなァ……、って思うの。いけませんか?
結局大学生って、数がいるだけなのかなァって――。高校の一クラスでやってたことを予備校並みの規模でやるのが大学なのかなァって。結局大学って、数が多いだけなのかなァって思うの。そういやそうだったなァって。ただ数だけ多かったなァって。
試験場って、それで興奮したんだなァって。緊張したのは、数が一杯いたからだなァって、今になって思うの。そういや発表の時も、受付けの時も、入学式の時も、って。
語学のクラスがシーンとしてたのは、あれは、数だけやたら多い大学の中で、急に唐突に高校並の人数だけで一教室作られちゃったもんだから、それで、なんか罠があるのかなァ……と思ってシーンとしてたのかなァ……って。
またね、文学部ってのは、一つだけ離れてるからね。理工学部もそうだけど、文学部は、本部から距離が離れて戸山だからね。政経・法・商とか、本部のあるとこはゴチャゴチャしてるけど、文学部だけは妙にガランとしててね。なんか、膨大なる組織に取り囲まれた空白みたいな気がして、それでなんとなく(ヘンな風に)緊張する。なんとなく、大学っていう巨人の掌で踊ってるみたいな気がして。ほとんど、大学の膨大さって、大きすぎて、まともな学生には心細さしか感じさせないような気がする。私が大学に来て知ったことって、その大きさ≠チてことだけなのかもしれないって思う。大きいから、そこを一杯にする為に人間が一杯いて、だから大学って、それだけの為に学生が群れてて、群れてるだけで、お互いに群れてるもんだから自分が群れさせられてるなんてことに気がつかないで(――だって、数が多いって、不安だもん。「自分はなんか知らないことがある」ってことだけを押しつけられちゃって、押しつけられたまんま人混みに囲まれちゃって身動きが出来ないの。不安だから、目を細くして、わざわざ目を乱視にして生きてるって、それが大学だって)。――だからそのまんま生きてったら絶対にバカになっちゃうだろうなァって、そういう儀式を通過するところが大学なんだなんてことは絶対に、大学に来てみなけりゃ分らなかったことだったと、あたしは思う――思いますですのです。
という訳で、私は大学に入って二週間半、心細くなりながらも、別に絶望はしてもいない、という訳なのです。大学は、絶望なんかさせてくれないから。
「そうか、大学って、数が多いってことなんだ。数が多いってことは、訳の分らないコンプレックスをかき立てられることなんだ」ってことが分っただけでも、私は大学に来た目的は果たせたような気がするから、別に絶望なんかする必要もないとは思っています。だって私は、別に、勉強したかったら本読めばいいやってことだけ知ってるから、それで絶望なんかしてる理由は全然ないもの。頭が悪くて向学心にだけは燃えてる、どうしようもない真面目人間とあたしは全然違う人間だったりする訳だからサ――(などというのはやっぱりつらいな)。
なんていうのは結局、あたしが(少なくとも)孤独ではないから言えることなんではないかと思うのでした。
つづきます――
2
あたし、大学に来てから決定的に変ったことって、人間付き合いがよくなったことだと思う。
あたしは、文句が多い方だけど――それ故に、人の撰り好みっていうのは激しかった方だけど、でも、大学に来てからは、そういうのって、なくなったと思う。根本的にはどうかは知らないけど――だって相変らず、あたしはまだ「ロクな男なんて一人もいない!」とか「バカばっかり!」とか平気で言ってるから――表面的には、なんとなくあたしは、普段の人付き合いってのがよくなったんだと思う。あたしはどっかで、「一人でクラーク文句つけててもしようがない」と、明らかにはっきりと思ってるから。
「ここにはあたしのことを助けてくれる人間なんて、一人もいない」ってこと、明晰に分っちゃっていたりするから。いないのにダダこねてもしようがないから。少なくとも、そんなつまんない理由だけで、みっともない女子大生なんかになるのなんかは、もう、ゼーッタイに、やだから!
だって、あたしの周りの女なんて、バカばっかりなんですもん。バカばっかりを相手にして、なんかメンドクサイこと言って「クライ」なァんてこと言われんの、いやですもん。「あんたはバカでもあたしはバカじゃない」って、あたしは、自分で自分のことよく知ってるもん。
という訳であたしは、ジョシダイセエをやっていたりはしちゃったりする訳です。
3
あたしね、大学に来て一番頭に来たことっていうのはね、みんながヘーキで、自分のことを頭の悪いバカ≠チてところに位置づけられてるってことだったんですね。
みんな頭悪そうだし、バカそうだし、「早稲田はダサい!」って信じこんでて、でもその早稲田の中で自分だけはダサい方ではないって、すっごく手のこんだ信じこみ方するダサい人間も一杯いるしで、ともかく、なんでもかんでも一杯で、もう一々そういうのと付き合ってらんないから、そんなこと考えてたらバカになるって思ったんですね――自分が。
みんなお気楽で、おとなしくて、ヘラヘラしてて、ピント外れのとこでクソ真面目してて、絶対にあたしのことなんか――あたしの絶望のことなんか分りっこないんだと思ったんですね。(みんなそう思ってるかもしれないけど、ああ、やだッ!)だからあたし、みんなとテキトーに手ェ打って生きてこうって思ったんですね。テキトーに堕落して、少なくとも現実と調和する榊原さんやってみようかなァ、とか思ったんです。
入ってすぐっていうか、新学期が始まってすぐ、戸山校舎――文学部の校舎をこう言います――の坂道(グラウンドから教室の方に上ってく時、坂道があるんです)ンとこに、サークルの新入生勧誘の机っていうのが、ズラッっていう風に、並ぶんですね。
並んでて、あたしはまた、「フン、ひょうきん大学生がまたバカやって」とか、思ってたんですね。自分に可愛気のないのは承知で思ってたんだからいいじゃないよ、とかは思いますけど、とにかくあたしはそう思ってたんです(ともかく大学が始まったばっかりだから)。「あーあ、大学生はやだ。早稲田はダサイ」とか、自分はまだ大学生になったという自覚もなければ、当分は早稲田から逃げられやしないんだ、なんてことは全然身にしみてなかったから。「日本はこれでいいのかしら」とか、「あーあ、広告研究会ってだから嫌いだ」とか思って、その机ばっかりの長い坂をタラタラと上ってったんですね。
なんで上ってったのかというと、オリエンテーションとかっていう用事があったからなんですけども――用事のある新入生目当てに市が立つんですけれども、新入生勧誘という人肉の市が――まァ、好き勝手なこと言ってますけれども、結局あたしって、ひがみっぽいんです。自分が主役にならないとおさまらないというか、勧誘される側より勧誘する側じゃなくちゃヤだっていうか、そういうつまんない見栄なんか張っちゃったりしてるから、すぐに「なによ!」って感じで一人で喧嘩腰になっちゃうんですけど、そんなこと考えてたら「――に入りませんか」っていうような、妙にカン高い声が聞こえて来たんですね、その私の上って行く坂道の途中で。
「|――《ナントカ》に入りませんか」って、その|――《ナントカ》の部分に棒が引っ張ってあるのは、別にあたしがなんにも聞いてなかっただけなんですけども、その「に入りませんか」っていう、カン高い声だけが、なんだか知らないけど、印象に残ったんですね。
で、「は?」って横向いたら――なんで私が横向いたのかというと、その「――に入りませんか」っていうのは、明らかにあたしに向ってかけられた声だったもんで、それであたしは横に向いたってだけなんですけどね(印象に残った≠烽ネにも、シラジラしいわねェ、あたしって、ウフ)――そしたら、すっごく可愛い男の子が立ってたんです!
あーあ、あたしも軽薄だなって思うな。相変らず病気が治ってないなって思うけど、でもしようがないよね、それはホントのことだからね、などと言いながらさり気なくつづく――
4
早い話が、私は美少年に声かけられたもんだから、嬉しくなっちゃってそこのクラブに入っちゃったっていうだけなんですけどね。ヒッヒッヒ()――ああ、軽薄。
「あたし病気だなァ」って思ったんですね、賢いから。聡明で自省心があるから、そういう風にすぐ思ったんですね――それともひょっとして、自分のそういう部分が後ろ暗いからすぐ思い出しちゃったのかもしれないけど――。
あたしがね、その坂道ですぐ横向いたら、まるで、インド人とフランス人がハーフになった上にサフランふりかけたみたいな、あまーい横顔の美少年てのが、道行く女子大生に愛嬌ふりまいてたんですね。肌がフランス人で目がインド人でって、そういう感じでエキゾチックで、ホント目がパッチリしてて睫毛なんかが濃いィんです。ゾクッとするぐらいきれェで、それが、赤くて甘い唇から(一瞬のことなのに、どうしてそうよく分るのか?)カン高い声出して、道行く女子大生を片ッ端から勧誘しまくってるんですね。あっち向いたりこっち向いたり、まるで自動車のワイパーがウイーン、ウイーン≠ト動いてるみたいに。だから正確に言えば、その「|――《ナントカ》に入りませんか?」っていう声はあたしだけに向けられたっていう訳でもないんですけどサ、まァいいわ、カタイことを言わないで、と思って聞いて下さい。
あたしは、坂の途中で「――に入りませんか?」の|――《傍線》以下の部分だけ聞いて、振り返ったら、そこに美少年があっち向いて立ってたってだけなんです。
で、そのあっち向いてた美少年がこっち向いたっていうことなんです。
彼がこっち向いて、あたしは一瞬、「あれ?」って思いました。思ってそして、すぐに「カッワイーイ!」って思いました。
一瞬「あれ?」と思ったというのは、その美少年が横から見るとインド人とフランス人のハーフみたいだけど、正面から見ると、神秘のかげりなんていうのがカケラもなかったりしたからなんです。どういう顔なのかというと、それは、いいとも青年隊のマコトちゃんを、もっと子供っぽくしたみたいな顔だったんです。おまけに背はあたしとおんなじぐらいの高さだし――という訳で、彼はあんまりリコウそうではなかったという訳なんです。
リコウそうではないけども、その彼がこっち向いてニコッと笑った時、あたしはホントに「カッワイーイ!」と女子大生をしちゃった訳なんです。
その彼――名前は田中くんと言います(後に分ったことですが、彼の名前は田中|優《まさる》っていう、まったく意味もない名前です)――その彼が「野草の会に入りませんか?」って、ニッコリ笑ってあたしに言ったんです。
「野草の会?」
あたし言ったんです。
その美少年は、「ウン」て、笑いながらうなずいたんです。あたしはその時、「一体あんた、ヤソーのカイ≠ネんてのに入って何やってんのよ?」って、言ってしまいたくなったんです。「一体なんだってその顔で地方公務員の暇つぶしみたいなことしなくちゃいけないのよ?」って、そう思いました。そう思ってあたしは、「野草の会って何するの?」って訊いてしまったのでした。
「何するのって、エーとねェ、自然に親しむんです。ええと、楽しいんですよ」って、その彼が言ったんです。
「一体何が楽しいんだろう」って、私ははっきりと思ったんです。思ったんですけど、でもその思い方は、あんまり邪悪な思い方ではありませんでした。何故かというと、それを言ったのが不細工な、むさっくるしい、薄汚い、垢抜けないだけで真面目な、ヒューマニスティックなだけでオッサンぽい、人がいいだけが取り柄の自閉症の(ああ、あたしの嫌いなタイプを全部並べてしまった)ただの大学生ではなくて、ほとんどあどけない男の子が、ほとんどあどけないまんまでニッコニッコ笑いながら言っていたからでした。
それはほとんど、荒野に咲いた一輪の花でした。「この子がこんな風に言うんだから、きっとあたしの知らないようないいことがあるに違いない」って、あたしはその時にそう思ったんです。
思ったんだけど、やっぱりあたしはそういうことをムキ出しでは言えないもんだから、「楽しいって、具体的にどういうことするの?」って、そう言っちゃったんです。
「具体的にって、エーと、ハイキングに行ったり、鑑賞したり、食べたりするんです」
彼はそう言いました。
私はそれを聞いて、ホントは「食べるの?」って言っちゃいたかったんですけど、それやるとあたしがメチャクチャ年上みたくなっちゃうから、「食べるんですか?」って、テーネーに言ったんです。
あたし、一浪してるでしょ。そして、目の前にいる彼は、既にその野草の会≠ネるサークルに入っててあたしを勧誘してる訳だから、あたしより一学年上な訳でしょ。いくら彼が、あたしに生意気な口をきかせる――もっとはっきり言ってしまえば、あたしの母性本能刺激するような稚さを持ってたとしたって、やっぱりあたし、自分はまだ頬を染めていたいなって、思ったんです。いくら相手が相手でも――いや、相手が相手だから、あたし、なおのことブリッ子やりたくなったんです。「あたし、今年入った玲奈ちゃんでェす」っていう感じで。
彼が、たとえあたしとおんなじ年であったとしたって(あたしには、その、後に田中くん≠ナあるという名前を知る彼が浪人してるとは思えませんでした――現役以外の何者でもない、トッチャン坊や的ウイウイしさをあたしは感じていたのでした)そんなことは後になってから気がつけばいいことだと思ったんですね。「あ、私ィ、一浪してるんですゥ」とか、カマトトやれば元に戻れるやァ、とか――。
あたしの勝手な被害妄想なのかもしれないけど、浪人しちゃって早稲田に入っちゃった私は、ただなんとなくひたすら、水気のなくなった早稲田女≠ノだけはなるまいと、どっかで堅く誓っていたからなのでした――年とると焦りも多い(でもこういうことって重要なことだと思う)。
私やっぱり、可愛い女になりたいって思ったんです。
つまんないこと多いし、つまんない男も多いし、そのつまんないことばっかり考えちゃうあたしってのもいるし、でも、そんなことやっててどうなるんだろうって思ったんです。「つまんない、つまんない」って言ってれば、その言ってるあたしを取り巻いてる膨大なつまんなさから、絶対に追いてきぼり喰っちゃうって思ったんです。そんなつまんないことになって、そんなつまんない理由でオールドミスになんかなったらたまんない! って、あたし思ったんです。何に負けらんないかっていったら、そのことにだけは負けらんないと思ったんです。
あたしは中味が濃い、そして、あたしの周りは中味が薄い。だとしたら、どう転がったって、中味の濃いあたしの方が最終的に勝つ筈だ――勝つに決ってる。だってそうじゃなかったら、この世に理論とか論理とかってものの存在理由がなくなっちゃう。あたしが平気で生きてられて、そしてあたしがどうしてこうまでも斯くの如くプライドが高いのかというと(それぐらいはしっかり知ってる)、私が最終的には中味の濃い人間が勝つ筈だ≠チていう信念をしっかり持ってるからだって、それだけなんですね。
それだけは確かだし、それだけは確かにしとかなきゃ困る。そんで――こっからが大事なんだけど、その、最終的に勝つあたしが、勝つ筈のあたしが、勝つべきよりどころである中味の濃さ≠ノよって「クラーイ」なんてレッテル貼られたらたまんないぜって、ことなんです。
早い話があたし、ブリッ子やろうって、決心したんです、その坂の上で。縁日のタコ焼屋みたいに突っ立ってる、そのボンヨーなる田中くん≠ニいう名前を持ってる美少年に声かけられて立ち止った時に。
バカかもしんない、アホかもしんない、ボンヨーかもしんない。もう、ホントにホントにどうしようもないかもしんない――少なくとも、この男《ひと》は知性≠ニいうところとは全く関係ないとこで成立してるような人間だってことは、私は、立ったまんま見てて分っちゃいました。分っちゃったけど、でもあたしは、その彼の顔を見て、ニッコニッコ笑うとこを見て「あ、カッワイイ!」って思っちゃったことだけは確かなんだって思いました。
大学入っちゃった余裕なのかもしんないし、大学に入っちゃった退廃なのかもしんないけど、あたし、彼の顔を見て「カッワイイ!」と思った時、そんな風に胸のときめき素直に感じさせちゃったことって、ホントに全然、ズーッ、絶えて久しくなかったなァ、とかも思っちゃったんです。
バカだのなんだの言う前に、娯楽だって必要だって、あたし、思っちゃったんです。
明らかにこの人は、知性とは無縁の顔してるけど(口のきき方だってそうだけど)、でも、この人だって早稲田に入ったんだしねェ、とかも思ったんです。ここら辺はひょっとして、惚れた(?)欲目っていうハンチュウの出来事かもしれないけど。
美少年は人類の玩弄物で、知性とは無縁だっていうのは、あたしの思いこみ過剰の偏見かもしれない。この人だって早稲田の学生なんだから、頭なんかいいのかもしれない。人は見かけによらないっていうこともあるし、ああ……、だとしたらやだわ、うっかり恋の花なんか咲いたらどうしよう……なんて、すいません、そういうことまで考えてました。あたしって、理性なくすと、トコトンどうしようもなくなるタイプだったんですね。ええ、今気がつきました。
私、ブリッ子出来る喜びってのがこの世にあるのって、知らなかったんです。その、ニッコニッコ笑ってる田中くんの前で、「ヘンだなァ、なんであたしはこんなにカマトトぶってるのかなァ……」って思うまでは。
やっぱり、嬉しいから、そういうのって、体が自然に向いちゃうんですね。
そうなんです。あたしの悲劇って、あたしにブリッ子やらせてくれるだけの、強靭な人間が、今迄にあたしの周りに一人もいなかったことにあったんですね!
(ウン、そうだと、私は今猛烈にうなずいています。そうなのよ! そうなんだわ!)
という訳で、私はブリッ子する喜びに目覚めちゃったのでした。強靭というよりも、多分鈍感≠ニ言った方がいいんだろうなァと、思えるような人の存在を目の当りにして。
だから私、目一杯ブリブリして、「食べるんですか?」って、ジョシダイセエ、しちゃったんです。(ああ……、ウノーコーイチローもしてるゥ)
5
あたし、「野草の会って何すんですか?」って訊いて、それでそのまんま野草の会に入っちゃった訳じゃないんですね。ここら辺がジョシダイセエの腕の見せどころなんだけど、その野草の会の机ンとこにいたのは、美少年の田中くんだけじゃなかったんですね。野草の会が何すんのかなんてことはこの人を見れば一目で分るっていう、ジーさんぽい納所《なつしよ》くんていうオジサンも一緒にいたんですね――一応代表で。
ダンガリーシャツ着て、ベルボトムで、頭は三ヵ月前からカットしてないリクルートカットっていう、典型的な昔東大今早稲田<Xタイルのおっさんも一緒にいたんですね。「野草の会って新興宗教なの?」って言いたくなるぐらい根がカタくて、一生懸命微笑まんとしてカルチャー志向の地方公務員になっちゃってる人が――しかしあたしもロコツだなァ、こういう人見ると、遠慮会釈もなく悪口雑言の限り尽しちゃう(いい人だと思うんだけど、いかんせん見た目がっていう……やっぱり好きじゃない、根拠だってあるし……)。
という訳で私は、「入らない?」と言うニコニコ顔の田中くんと、その上司≠フ、愛想がいい分だけ気味悪くなっちゃう可哀想な納所くんの勧誘笑いを前にして、「えーっ、後でまた来ますゥ」とか、やっちゃった訳です。いくらなんでも、美少年に引かれてタンポポ食べてる訳にはいかないわよっていう気もあったし。あったけど、まァいいやっていうアナーキーな気持もあったし、「どうせ今日は書類もらって来るだけだし、後で考えよう」とか思ってニコーッと笑ったんですね、あたしは。
笑ってまた、「ああ、アナーキーになっちゃおうかなァ……」とか思って、「ウーン……、野草の会に入っちゃうなんて、なんてアナーキーなんだろう」と思ったんです。このあたしがなんにも考えないで、道端に生えてるペンペン草やタンポポ食べてるなんて、ウーン……、なんとおぞましくペンペン草にもアナーキーなんだろうと思って、陶酔しちゃったんです。
まァ、私は大学に入ってからかなりアナーキーな撰択ばっかりしてたなってとこもありますけど。なにしろあたし、大学で必修になってる体育で何とったのかっていうと剣道≠セったりする訳で、何考えてんだろって言われそうな最先端がその野草の会≠セったんですね。
「ああ、もう、入っちゃお、入っちゃお」と思って、「どうせ大学なんてロクなことないんだし、あるかないかはまだ分んないけど、どうせロクなことなんかないだろうという確率の方が高いであろうというようなメンドーなことを考えなきゃいけないようなメンドーなとこで遊ぶんだったら、最初のとっかかりなんか早い内に決めといた方がいいや」と思って、「キーメた、キーメた」と、スキップランランで事務から書類貰って戻って来たんです――部員勧誘やってる坂道の上に。
(その途中、私が他のサークルの勧誘員の顔見回して、「あの野草の会より可愛い子なんかいるかしら?」とシサイな点検をしたのは言うまでもありません――あたしは、そういう点だけはシンチョーなんです。だって、もっとよそにいい子がいたらそっち行っちゃうのは、これはもう、女の子の宿命でしょ? サークルのシナサダメなんて、そんなテードだと思う)
という訳で私は、早稲田で一番≠ニいう折紙のついた――勝手につけた――野草の会へ入ったんです。他はもうどうでもいいと思って。青春をエンジョイしちゃおと思って。(やっぱり錯乱してたのかしら? という問いも微妙に残りますが……)
あたしが行ったら、その美少年の、まだ名前の分らない田中くん≠ヘ、「あ、入りませんか?」って、またニッコリ笑ったんです。あたしはもう、この人のこういうタルイところがたまんないんです。「やっぱり可愛いわ」って思っちゃうし、「やっぱりバカなんだわ」って思っちゃうし、やっぱりなんか、すっごく幸福になっちゃうんですね、こういうタルイ人見てたりすると。だから私、幸福な気分になりたいって、思っちゃったんです。思っちゃったから私、「自然に親しむのって、いいですよね」って言っちゃったんです。
「なァーんてシラジラしいこと平気で言うんだろ」って思っちゃったんです。思っちゃったけどでも、「この人の前でならこういうシラジラしいことなんかでも平気で言えちゃう」と思っちゃったし、「絶対に正解だ」って思っちゃったんです。
そしたら田中くん「そうですよねェ」って言ったんです。ほとんど、一年先輩のくせに、まるで同級生みたいな、ほとんど一年後輩みたいな言い方してニッコリ笑うんです。私、「ああ、この人と一緒にいられたら気分いいな」って思ったんです。このタルさって、恋とかっていうんじゃなくて、レンアイとかっていうんじゃなくて、ただ一緒にタンポポやレンゲの原っぱの中にいるみたいなとっても幸福な感じだって思って。それで私は、私以外の、野草の会にも入らないでモゾモゾやってる約一万人ぐらいの早稲田の学友≠ンたいのに思いなんて馳せちゃった訳です。「なにやってんのよ?」って。
私、「入ります」って言って、住所と名前書いて、それから「ハイキングにだって行くんでしょ?」って言っちゃったんです。「そりゃ勿論」とかって、代表の納所くんが言って、「あんたに訊いてんじゃないわよ」とか思って――あたしも酷い――「そうだなァ、この人も不幸な人なんだなァ」って思いました。
せっかく、田中くんみたいな人と一緒になって、レンゲやタンポポ摘んで回れんのになんで不景気な顔してんだろうと思って。「ああ、野草の会って、こういう人がこういう顔でなんかの自然運動みたいに布教して回ってるから、みんなビンボーくさくなるんだな」って、納所くんの顔見て思いました。なにもあたし達はお金がなくってタンポポ食べてる訳でもないのにサって、ほとんど最早、あたしは生え抜きの野草の会でした。
「ここにいてもいいですか?」って、あたし、田中くんに訊いたんです。その時にはもう名前教えてもらってたから。あたしも部員の勧誘がしたかったから。
「うん、いいよ」って田中くんも言いました。「彼女もやるって」って、田中くんは納所くんに言いました。「あ、そう」とかって言って、自閉症の納所くんは少し頬を赤らめました。「ウブだなァ」とか思って、「スケベだなァ」とか思って、この人が野草の会の代表やってるのも分るような気がするなァとか思って、「マァいいや」とか思ったんです。このテの顔って、放っときゃなんでも、メンドくさい段どりとかなんかみんなやってくれるからって(あたしも段々ひどい)。
でもホントなのよ。あたしがサァ、田中くんの横に坐ってサァ、机の上に置いてある『野草図鑑』ての見てて、「これなんですかァ?」とかってやってたら、納所くん――じゃなくってもう納所さん=\―「田中はもてるなァ」って、もう、太平洋戦争が終ってからこの日本じゃ一遍も聞かれたこともないようなこと言うんですもん。ホントにスケベだと、私は思いました。チャンとバレてるんです(東京の女子大生はこわいんだからと、岐阜の山奥から出て来た納所部長に、私はそっと恫喝をかけるのでした)。
6
私は、という訳で、きわどいところで悪口言いながら、凡庸な女子大生の青春やってる訳です。メンドクサイこと言わないで遊んでればいいんだって、私思っちゃったからなんです。
「ねェ、バカみたいだねェ」ってことが平気で言えれば、それはそれでバカみたいな中でも生きてけるってことだと思うし、そうやって「バカみたいだねェ」ってばっかりやってれば、私の知性だって『オールナイトフジ』みたく眠っちゃうこともないやとか思って――バカになればなったでいいやってことも思うし、部室のない野草の会のたまり場になってる、生協の横のラウンジ≠チて場所で納所部長に「大胆なこと言うなァ」って顔されながら好き勝手なこと言ってれば社会常識≠ノ関する免疫もつくんじゃないかって思ってね。なんたって、何言ったってニカニカ笑ってる田中くんはいるしね。
まァねェ、あたしもねェ、なんとなく人間て欲って出て来るもんだし、どうでもいいかァとか思ってても、やっぱり、なんとかなるもんだったらなんとかなっちゃったっていいんじゃないかなァ、なんてことは田中くんに関しては思うんですね(もって回った言い方してますが、あたしも一応女の子ですし、そういうことです)。
野草の会ってのは部員が十五人ぐらいいて、女の子って、八人もいるんですね――新入生が入っちゃって、あたしもまぜてそれくらいになっちゃったんですね。勿論中には、入っただけでなんにもしない、「ただ自然が好きだ」っていう恐怖の眼鏡少女もいるんですけどね――あたしはこういうの見てると、ホントに何が楽しくて生きてるんだと思う。こういうのが田中くんに付きまとったりすんのは、ホントにもうロコツにスケベでいやらしいと思う――真面目な女ほどそうだから。
女の子八人いて、年の離れた上級生三人いて(ホントはもっと一杯いるらしいけど)、私とおんなじ新入生が四人いて、でもそれで話の出来る子なんて、一人か二人ぐらいだもん。という訳で、あたしと田中くんは群を抜いて仲の良いカップルだったりはします。しますけどマァ、それだけだったりはします。
(ガラッと変って)あたしサァ、メンドくさいからサァ、入ってすぐ田中くんに「あたし一浪してる」って言っちゃったのね。「あたし一浪してるから、おんなじ年で話が合うね」とかって、田中くんに持ちかけちゃったのね。「おんなじ年なんだから、あたしあなたが子供っぽくても平気だよ」とかって感じで。そしたら田中くん、「あ、僕とおんなじだ、予備校どこ行ってたの?」って、訊くのね。おまけにこの人、牡牛座なんだって。四月生まれだから、かなり年が離れて上なんだよね。離れてる年上のくせに、この人ヘーキで、あたしのこと「榊原さんて僕のお姉さんみたいだ」って言うのよね。いいけどサ。そういう人だっているのよね。
永遠のアイドルなら永遠のアイドルでもいいんだ。私は。ともかくなごむから。
なごめりゃいいんだって思うわ。
私、毎週月曜の一限目に剣道やってるんですね。なんでそんなことやってんのかって言われたら、私は単純にハカマっての穿いてみたかっただけなんだけど。でも、声出すのって、スッゴク気持いい。まだ竹刀持ってるだけで殴り合いなんてしたことないけど、素振りやる時でも、剣道って声出すんですよね――声出さないといけないってとこあるから。月曜の朝起きてからスグ「面!」て声出すのって、すっごくすっきりする。剣道やってる男子ってパーだけど、剣道やってる女の子は好き。六十人ぐらいのクラスで、女の子五人ぐらいしかいないからすぐ仲良くなっちゃったし。
大学って、気楽にやってればいいんだわって思う。そうでもなかったらどうにもなんないし。「バカばっか」って言ってる私は、そのバカをどうすりゃいいのかってこともよく分んないんだしって、そう思う。
私ね、その野草の会に入って、すぐ田中くんと一緒に部員勧誘ってのやってたでしょ。いくらあたしが大胆だって言ったって、会ってすぐの人とそんなにベチャクチャ喋ってられる訳でもないから、私、黙って坐ってたりもしたんですよね。部員勧誘の机の前にね。「あ、そうだ、高校ン時もそうだった」って。「高校ン時もそうだったんだから、あたしってホントはケーハクな人間だったんだ」って、そう思ったんですね。
あたし、高校ン時には生物部に入ってて、そん時には、今やオジサンくさくなっちゃって、何が面白いんだか、サラリーマンの予行演習やるつもりでクラス会の幹事やってる、磯村くんて人が美少年で、まだ一緒にいたんだなァ、とか思ったんですね。一緒にモルモットの餌やりに行ってたなァ、とかね。「なんでそんなクラブに入ったのかなァ?」とか、高校の時のこと思い出してて、それで、「ああ、今と全然おんなじだ」って、そう思っちゃったんですね。
今となっては、なんで高校の時に生物部≠ネんていうヘンなクラブに入ってたのか全然分んない。ESSなんてやだし、テニス部なんてやだし、文芸部なんてもっとやだし映研なんて最悪だって思ってて、入ってみたいかなァとか唯一思うのがマン研だったりしただけで、そいでもってマン研の部室なんて行って見て、バカな男とバカな女がバカな話してて、おまけに生意気そうで感じ悪かったからやめちゃったっていうだけだし。「そうよね、バカよね、マンガなんか一人で見てればいいんだもんね」とか思って、マン研なんかシカトしちゃえばいいんだって思って、「一番なんだか訳の分んないクラブに入ろう!」と思って生物部行っただけだしね。行って「シブーイ」とか思ってただけだし。よく考えてみれば、あのシブーイ≠ヘ|暗ーい《シブーイ》≠セけだったのかもしれないけど。
そういえばあの頃、イノコズチがどうしたとか、ミンミン蝉の生態がとかって、つまんないことやってたような気がする。あんまりつまんないからやめちゃったけど、結局あたしは、あの頃、暗くてもなんでもいいから、ともかくなんにも考えないで雑役婦やってられりゃいいんだって、そう思ってただけなのね。当人は理科系だって分るインテリ女になりたいと思ってただけらしいけど、そんなのチャンチャラおかしいって、今になって思うもんね。今のあたしが野草の会に入ったのと、昔のあたしが生物部にいたのなんて、本質的には全然同じことだもんね。ただ、昔の方が今より、ズーッと暗くて、ズーッと効率の悪い理屈ばっかりこねてたってだけだわ。
別にクラブの活動内容なんてどうでもよかったし、どうでもよかったとこに夏休み一杯までいたってことは、要するにあすこにも美少年≠ェいたってだけなんだわ。結局あたしって、ここのところから一歩出れないケーハク女でしかないっていうことなのよねって思いました。
ケーハクでいいわって思うの。だってあたしってそうなんだもん。私が一方的に「いいわァ」とか勝手なこと思ってた磯村くんが、どうにも融通がきかなくて、どうにもつまんなくて、「サッサと地方公務員になっちゃえばいいのよ! あんたなんかッ!!」って、そうとしか思えなくなっちゃった段階であたしは生物部とはオサラバしちゃっただけなんだっていうことだしね。
私、磯村くんなんてどうでもよかったんだと思う。今となっては、つまんなかったしね。気取ってて、難かしそうな顔してて、「だからなんだっていうのよねェ」って、あたしにつまんない理屈貯めこむことしかなかったんだと思うしね――あの美少年は。
どうして田中くんみたいにケタケタ笑ってなかったのかなって思うけどね。それでいいんじゃないのって思うけどね。
私の、醒井凉子に言わせりゃ女の勲章≠ナあるような障害≠ノ出っ喰すこともなく、ただタンタンと終ってしまった一方的な男性遍歴っていうのは、結局、私がその三年間だか四年間だかの間、一遍も田中くんみたいなのに出会えなかったっていうだけなんだもん。
ケーハクで単純で素直で、すぐムキになっちゃうあたしは、ただ単に、つまんない男のつまんない顔に、シイタゲられて圧倒されて、それで過剰防衛してただけなんだって思う――(あー、大学生になると理屈っぽいなァ)――でもいいんだと思う。あたしだって稚いし、か弱いし、素直になりたいし、向上心なんていうつらいもんは、一時どっかの物置きにしまっててもらったっていいんだと思う。田中くんみたいに生きてって、なんの障害もないんだったら、あたしだって田中くんみたいに生きてったっていいんだと思う。そりゃあの人は頼りないけど、でも、あの人に頼ろうなんて考える人間の方がバカだと思う。
自分より年下の女の子つかまえて(あたしよ)「お姉さんみたいだ」って言う人よ。どうしてそういう人に頼らなくっちゃいけないのかって、あたしは思う。あの人のことなんだかんだ言う女だっているけどサ――頼りないとか頭よくないとか魅力ないとかっていう子は野草の会にもいるんです(はっきりブスだけど)――でもそれは、自分が男に頼りたいと思って、そして頼らしてくれるまともな男に巡り会えないブスの僻《ひが》みじゃないよって、あたしは思います。ルンルン出来ない方がバカなんだわって、あたしは思う。イナカのくせに。女子大生なんて、OLだわ。あたし大ッ嫌い。勉強しようと思ってる女子大生って、思ってるだけで絶対にしないんだから。
あたしねェ、なんか、プレッシャーってズーッと感じてたんですよね。なんか、ズーッと感じてて、それで、女の子ってルンルンしたらいけないって、ズーッと思ってたんですよね。それが何かっていったら、母なんですよね。家《うち》のハハがしっかりしてて、女の子がダラダラしてたらいけないって、そういう風にしてたんですよね。
7
家って、三人家族で、父親って人は印刷会社に勤めてんですよね。そんな、中小企業って訳でもないけど大日本印刷みたいな大企業でもなくって。それで、その人っていうのが一応労災∴オいにはしてもらったけど、一遍交通事故で死にそうになってるんですよね。三ヵ月入院してて会社は半年以上も休んでて、それあたしが、小学校の三年の時だったんです。ウチのお母さん、女子大出ててしっかりしてる人だけど、それで、過剰にしっかりしすぎちゃったんですね(と思う)。こんなこと当人に言ったって分んないから(というより認めないから)あたしは言わないけど、あたしはそうなんだと思うんです。
お父さん死にそうになっちゃって、もし死んじゃったらどうしようって、幼い娘のあたし抱えて、思ってたに決ってるんです。お父さんの行ってた病院て、完全看護だったから、付き添いって、あんまり必要じゃなかったんですね。必要じゃないけど――必要じゃないからっていったって、ウチのママは毎日行ってたけど(病院に)。
それでね、ウチのママはね、働きに出たんです。なんか、いてもたってもいられなくなったらしくって。あたし覚えてるもん――「あのね、玲奈ちゃんね、お父さんはね、幸い助かったけれどもね、でも万一ってことはあるのね。万一お父さんがなくなったら、お母さんは一人で玲奈ちゃんを育てなくちゃいけないのね」って、そう言ったんですね、ウチの母親は。私の前に坐ってね、私は立っててね、私の両腕ギュッとつかんでそう言うんですね。私はなんだかよく分んないから「一体何が始まったんだろう?」って思ってたんですね。小学校の三年の時。
お父さん轢かれて、家ン中暗くて、シーンとしてて、それでウチのお母《か》ァま、テレビドラマみたいに髪振り乱してそう言うんですね。お父《と》ゥまが入院してから一週間以上経ってて、もう死ぬ筈がないってこと分ってる時にそういう風に言うんですね。だから私、何が始まったんだろと思って、改めて、「お父さん死んじゃうの?」って訊いたんですね。「ヘンだなァ……、そんな筈じゃないのに」と思って。
私はもう、お父さんは死ぬ筈がなくて、ただ退院してくるまでの間入院してるだけなんだって思って分ってたんですけど、突然ウチの母親がおかしなこと言い出したもんだから、それで「ひょっとしてお父さんが死ぬ筈ないっていうのはあたしの聞き間違いで、死んじゃうのかなァ?」と思って、それであたしは「お父さん死んじゃうの?」って訊いたんですね。もし死んじゃうんだとしたら、それは厳粛な事実だから、厳粛な声以外出しようがないなァと思って、それで厳粛に訊いたんですね。そしたら、ウチのお母《か》ァ様《ま》は、私が幼くてなんにも分ってないからそんなこと言うんだと思ったらしくて、「死なないけれども、誰でも人間は死ぬことがあるのよ」って、お説教を始めたんです。幼稚園行ってる子供じゃあるまいし、そんなこと小学校の三年生だったら知ってるわよねェ、っていうことなんですけどね。でも、子供って哀しいのよね、そういう状況に追いこまれるとコクンてうなずかなきゃなんないもんね。コクンてうなずいて、私は母親の悲愴宣言を聞かなきゃなんなくなっちゃうんだけどサ。
ウチのお母ァ様は言いました――「玲奈ちゃんね、人間は誰でも死んじゃうの(そんなの分ってるわよと、私は言いたい)。ね? (はいはい)お父さんだってやっと助かったけど、もしお父さんが死んじゃったら、玲奈ちゃんはお母さんと二人だけで暮してかなくちゃいけないのよ(そんなの分ってるよ)。お父さんが死んじゃったら、この家だって出なくちゃならなくなるかもしれないのよ(あたしはこの時だけはゾッとした。勿論、家は公団だからそんなこともなくて、世間一般に比べりゃ家賃だって安いから、まず何が大丈夫っていったって住≠フ方だけは心配ないんだけど、そんなことってその当時は分んなかったからゾッとした)。女の子だからって、甘えてていい訳じゃないの(唐突にこの一節が出て来たの。私は別に、女の子だから甘えていたってことはないと思う。そりゃ自分のことだから断言は出来ないけど、当時のあたしにしてみれば、自分はともかく、男の子ってすごく甘えてるなっていう気しかしなかった)。分るわね? (分ってると思うけどなァと私は思ってたけど、そういう顔すると『女の子だから現実認識が甘い』と思われるかもしれないと思って、私は真剣にコクン≠した。そうしないと許されないという雰囲気はあった)明日からママは働きに出ますから、学校から帰って来ても寂しいだろうけども、しっかりお留守番をしていてちょうだい――」
私は「えーッ?!」と思いました。要するにそれだけが言いたかったんだなァと、最後の一節を聞いていたのでした。「母親が働きに出るんだとすると大変な事態になってるんだなァ」というようなことを私は一生懸命納得しちゃったりなんかをしちゃったんです。
私ははっきり言って、何が大変な事態だったのかは、よく分らない。家に帰ると母親がいなくって、夜になっても父親という人は帰って来ないという変った事態≠ナあったことだけは事実だったけども、それが大変かどうなのかはよく分らなかった。私に分ったのはたった一つ、髪振り乱した母親が一生懸命大変そう≠やってたってことだけ。
お昼前に病院に出かけてって、それでそのまんま近所のお店で店員さんやってて、六時すぎたら帰って来て、あたしの御飯作って、とかやってて、彼女は精一杯大変らしかったけど、私にしてみれば「あそこに大変≠ェあるなァ」っていうようなことでしかなかった。母親の大変そうさに圧倒されて、あたしは緊張してたけど、要するに、他人事でしかなかった。だって、たまに病院に行ってみれば、お父さんはのんびりと日向ぼっこしてるだけで、「一体彼女の緊張ぶりはなんなんだろう?」としか、私には思えなかった。
要するに彼女は、自分の些細にして穏当な日常が(ああ表現がカタイなァ)ぶっこわされるような危機感に直面して、それで過剰に防衛体制をしいちゃっただけなんだと思う。
私はサ、男だから甘えてていい訳じゃないっていうのとおんなじでサ、女だから甘えてていい訳じゃないとは思うのね。思うけど、それだけよ。それだけのことで、後はなんにもないのよ。なんにもないけど、家の場合は、それ以来少し異常だったっていうだけよ。
いつ危機がやって来るかもしんない――だから保険に入っとかなくっちゃって。ちゃんと一人で生きてかなくっちゃいけないって。
あたしの女としての基本的なモデルケースは、お父さんが入院して、色蒼ざめてパニック起しちゃった時のお母さんていう、極めて異常なサンプルなのよね。「シレーっとしてちゃいけません、いつなん時トラックが飛び込んで来るか分りません」ていうね。私はそうだと思うんだけど、こういうことって言ってもダメだと思うのね。もう、当人てのはそうだと信じこんでて、信じこんだあまり、別なとこ行っちゃってるからね。「お母さん、まだお父さんが昔に入院した時のこと思ってんの!」って言ったって、「なんのこと言ってんの? そんなこととは関係なくって、あんたがチャンとしなかったら、私は親として恥かしいって言ってんのよ!」とかね。
お父さんていう人はサ、自分の奥さんがあまりにも過剰に軍国主義体制しいちゃってるなってことは感じてるらしいんだけどサ、でも、やっぱり肝腎なある時期に自分が入院しちゃって、それで重点的に妻である家族に迷惑かけちゃったなんてこと思ってるからサ、私が「お母さんは考えすぎなのよ!」って言ったって、「まァそういうなよ、お母さんだってチャンと苦労して来たんだから」とかって言ってサ、「自分はあんまり苦労してないんだ」なんてことを暗黙の裡に言うのよね。いいけどサ。
私としてはサ、基本的に、自分の家にある、ことに母親を重点的に毒してる非常時意識≠チていうのが、とっても苦しかったのね。非常時≠ネんてのは、あるんだけどなくって、ないけどある≠ニいう意識からは逃げられないというね。
だってサ、貯金だとか年金だとか保険だとかって、コソコソコソコソ金貯めてて――まァ、私の大学費用だってここから出てるんだから文句は言えないけどサ――そういう非常事態の為の金は貯めてるけど、それで家買おうとかっていう発想はないのね。あるけど、ないのね。
だって言うもん。うるさく――
「だって玲奈ちゃんはいずれお嫁に行っちゃうんですもん、お父さんと二人だったら、一生団地住いでもいいわよねエ」とかサ、「家建てるからって、つまらないことでアクセクするのって、ホントにやァね」とか。こういうことをヒンパンに言うって、ほとんど代償作用じゃない? 家建てたいけど家建てられない――だから私は別に建てたいとも思わない、とかね。
「そんなヤセ我慢してるんだったら、さっさと有り金はたいて建てちゃったらァ」とかって言うと、「別にあたしは家建てたいなんてつまらないこと言ってないじゃないよ」とかね。言うの、ウチのお母ァまは。
私は明らかに言ってると思うよ、「ホントは建てたい!」ってことをね。そうじゃなかったら、「だって玲奈ちゃんはいずれお嫁に行っちゃって」なんてことを、ああもヒンパンに言うことなんてないと思うもん。あたしが浪人してる時なんて、もうほとんど、一日おきにそういうこと言ってたと思うね。
「要するにあたしが、サッサと男作ってこっから出てけばいい訳ェ?!」とか言うと、「なにもそんなこと言ってないじゃないよ」とかって喧嘩になったりね。
まァいいんだけど。あたしも大学入ったし、あの人もディズニーランドへ入ったし。あたし、あの人がイライラしてたのって、自分は働きたいんだけど働いちゃいけないんじゃないかって、そういうプレッシャーを持ってたからじゃないかって思うんですね。働きたいけど、働くんだったら、もう一遍自分の亭主をトラックに轢かせないとダメなんじゃないかっていうね、プレッシャーをね(あたしも我ながらひどいこと言ってると思うけど、でもこれは当ってると思う。少なくともあの人は、ディズニーランド≠竄骼桙ヘ楽しそうだし)。問題はあとは、あたしの独立≠セけなんだそうです。
そんなこと忘れてくれりゃいいと思うのね。ディズニーランドやって鯛焼き売ってりゃ楽しいんだからサ、あたしのことなんて放っといてくれたっていいと思うのね。十分あたしのことなんか放っといてると思ってはいるんだけど、でも彼女は、そのことでなんと、後めたさなんてのを感じちゃってたりはするのよね。
なんとなくね、そんな感じはするのよね。私はもう大学生なんだからサ、そんなことしてくれなくったっていいと思うのよね。後めたさ感じるんだったら家のパパにしてあげてって思うんだけどサ――あの人だんだん、なんの為に生きてるのか分んなくなっちゃってるみたいだしね。そういうのは私の問題じゃないから知らないとは思うけどね。
まァ、要するに、私は、そんなに立派な女になりたくないし、ウチのママだって、建て前捨てれば、そんな立派な女になんかならなくていいと思ってるんだと、私は思うの。たとえ立派な鯛焼き屋さんに彼女がなりたいと思ってたとはしてもね。
要するに、なんかもはや、すべてはどうでもいいだろうの、いい加減さの海に漂ってると思うのね。大学ってそういうとこだし、大学に行ってる娘持ってる母親ってそういうもんだし、そういう母娘のいる大学を持ってる社会っていうのも、そういうもんなんじゃないかって、私は社会学的に思っちゃったりはするんです。今度ウチのお父さんが轢かれたら、私はバイトに出ればいいと、ただそういうことなんです。そんで、ウチのお父さんはもう車に轢かれそうなこともないから、私は田中くんと遊んでればいいと、ただそれだけのことなんです。
人生にストーリーなんていらないと思う。だって、ヘンなストーリーが来れば、絶対に出演者は、それをねじまげてヘンな風なストーリーに変えちゃうに決ってるんだもん。濃厚にそういうことが好きな人っていると思うもの。
私だって、ホントは、毎日なんにも考えないで生きてっていいんだなんてことを考えるのは気持よくないんだけど、でも私って、そういうことをしたことがないからヘンに意地っ張りになっちゃったんだなって思うんです。
ストーリーのないとこでストーリーのないように生きてって、そういうのって退廃っていうのかもしれないけど、でも言わせてもらえば、演技力のない役者ほどクサイ芝居をするんじゃないんですか? 本多劇場に行くたんびに、あたしはそんな風に思います。
あたしは、今のあたしは、誰に見せる為でもない、自分の為に自分の人生を探してるだけなんだから、こんな風に、なんにもない無風状態のまんまだって、一向に構わないんだって思ってるんです。あたしは、こんな風にしてるのが楽しいんだもんて、ただ、それだけなんです。いけないかしら?
まとまりがなくてごめんなさい。でも今あたしは、まとまりがない時期にいるんです。大学って、そういうとこだと思うんです。大学だって、もう少ししたら馴染んで変ってくんだって、そんな風に思ってるんです――。それでいいんじゃないよと、あたしは毎日思ってます。
エレキの桃尻娘
1
大学に入ってから、もう一ヵ月が経ちました。五月の連休には野草の会のハイキングで陣馬高原にも行きました。クラスコンパとかもあったし、クラスの友達――語学の授業はクラス単位で受けます――とも結構うまくやっています。今日なんかも私は、講義がお昼までで終っちゃったので、クラスの由梨ちゃんと一緒に、六本木に行きました。あたしん家《チ》ビデオがないもんだからまだWAVEに行ったことないとか言ってたら、由梨ちゃんが「じゃァ行こうよ」とか言って、行ったんです。喫茶店でタラタラしてたから、六本木についたのは三時頃でした。上からズーッと見て来て、「フーン」とかっていう感じで――結局「フーン」て言うしかないとこだと思ったWAVEってのは――一階にカフェバーがあるからそこ入ろうか、とかやってたら、あたし、磯村くんと会ったんです。
高校ン時の。一年の時はおんなじクラブで、二年と三年は同じクラスだった磯村くんと。
あたし、誰だか分んなかった。「あ、知ってる人だ」とか思ったんだけど、一瞬それが誰だか分んなくて、「あ、磯村くん」て間の抜けた声出したら、彼は、あたしのこと「誰だか分んない」って顔して見てた。
ほとんど、冷たい表情で、こわいっていう感じだった。
あたしのこと誰だか分んなくて、少し考えてて、それから「ああ……」って、それだけ言った。
あたし、「元気?」って言って、それで、自分が何言ってるのか全然分らなくなった。隣りに由梨ちゃんがいたから、「知ってる人よ」ってことを由梨ちゃんに分らせる為だけで「元気?」って言ったんだとしか思えない。
あたしは、ホントのこと言えば、それが磯村くんだってことは、バッタリ顔を合わせた瞬間に分ってたんだと思う。分ってたんだけど、それがどういうことだかよく分んないから、だから、それで誰だかよく分んなかったんだと思う。
WAVEの、玄関先の、ドアの所で、上から階段降りて来たあたしは、ちょうど、その時ドアを開けて入って来た磯村くん達とバッタリ会った。不思議だったのは、磯村くんの連れてた人が、あたしのよく知ってる人で、全然知らない人だったってこと。
磯村くんの横で、木川田くんが、女の子みたいな顔して、「何してんのォ?」って、笑って立ってた。笑い方は暗かったけど。
私がよく分らなかったのは、その二人がWAVEの中に入って来る時、手をつないでたってこと――。
あたしの前に磯村くんが立ってて、あたしが「あ、磯村くん」て言ったら、あの人はぼんやりと「ああ……」って言って、それで、木川田くんが磯村くんの手を離した。
手を離して、なんでもなかったみたいな顔して、「何してんのォ?」って木川田くんが言った。
あたしの隣りに由梨ちゃんがいたから、あたしは「ウン、暇つぶしてんのォ」って言って、そして、あたしの脚はガタガタと震えてた――。
あたしは今日、何が起きたのかがよく、分らない。いやなことが起きたってこと以外は。あたしにはすべてが、よく分らない――。
2
あたし達は四人で立ってて、誰も、「お茶飲まない?」って言わなかった。由梨ちゃんは、磯村くん達がただのあたしの知り合いだと思ってて、「どうすんのかな」って顔して立ってた。磯村くんは「どうもしないよ」って顔してたし、木川田のオカマは、「どうでもしろよ」って顔して立ってた。昔は友達≠セったのに。
あたしは誰かを憎んでる――。
あたしは、体の中心がガタガタして来て、脚の下から湧き上って来るのがなんだか分んなくて、ただ、立ってた。
我慢して、我慢して、一秒か二秒か、十秒か二十秒か、一時間か二時間かそれとも永遠か、よく分らないけど、時間がポッカリと空くのだけをこわがって、両手で時間のすき間だけをしっかりとつかまえてた。
堅くて冷たくて、意地が悪くて、手が真っ赤になるまでつかまえてて、時間がぼんやりと流れてかないように一生懸命つかまえてて、「そんじゃね」ってあたしは言った。
あたしがなんか言わなくちゃいけないんだ、あたしがなんか言わなくちゃいけなかったんだってことを「そんじゃね」って言った後で気がついたけど、とっても重いものを吐き出した後みたいに「そんじゃね」って言った後はホッとして、磯村くんは「ウン」て言って、木川田くんは「そんじゃね」と言った。
もう、源ちゃん≠ネんて言えない――。
あたしは黙って前だけを見てて、磯村くんと木川田くんはあたし達の横を通ってった。二階に上るエスカレーターに乗って、私は見てなかったけど、その二人が乗ってくのを由梨ちゃんがジッと見てたのだけは分った。
「行こうよ」
由梨ちゃんがあたしの横で言って、「うん」てあたしは言って、それが「うん」なのか「うん?」なのか、あたしにはよく分んなかった。
あたしはぼんやりしてて、由梨ちゃんがRAIN TREEっていうカフェバーの方を指した。
一階の隅っこの方にあるどうでもいいようなカフェバーだけど、あたしはどうしても「いやだ」って言えなくて、そのまんま由梨ちゃんに引っ張られるみたいにしてそこに入った。
誰かに命令される方が楽だし、一人だったらどうしていいのか分らない――。
一人になりたくないとも思ったし、一人になりたいとも思ったし、だからどうなのか、あたしには何がなんだかよく、分らなかった。
3
「ねェ、どうして知ってんの?」
椅子に坐って注文したら、由梨ちゃんが言った。RAIN TREEってカフェバーの中は、半分ぐらいしか人が入ってなくて、入ってるのはみんな、男と女のアベックで、なんだか知らないけどあたしは、普段よりそのアベック達をもっと憎んだ。
由梨ちゃんが「どうして知ってんの?」って言うから、あたしは「高校ン時の友達よ」って言った。
「おんなじクラスなのよ」ってあたしはくどく言って、そしたら由梨ちゃんは「ふーん……」て言って、結局あたしの答なんかに何一つ満足してないんだってことが分った。
あたしの目の前には面接の試験官が坐って、あたしはうかつなことなんか言えないし、言ったら怒られちゃうなと思ってたからこわかった。
あたしは、お店の人の持って来たジンジャーエールを見てて、ストローの袋を破いて、ジンジャーエールの中に突っこんだストローを見てた。
「回すと泡がつくんだなァ」なんて、つまんないことを考えて、ジンジャーエールの中のストローを見てた。
結局あたしは、「なんでもなかったんだ」ってことを全身で言ってただけだ。
4
「手ェつないでたね」って由梨ちゃんが言った。
「そうォ」ってあたしは言って、どうしてこんな時にコーヒーが飲めるのかと思って、コーヒーカップを持って笑ってる由梨ちゃんの方を見てた。
ホントに男の子が二人で手をつないでたのかどうかなんてあたしには分らなかったし、流行の尖端を行ってるとこだし、六本木だし、昼間だから誰かが手をつないでてもおかしくないなって思ってた。嘘だけど。
時代の尖端を行ってるとこだし、何がなんだかよく分んなくて、ただ「ふーん」て言うしかない前衛のやってるレコード屋なんだから、何が起ったって不思議はないんだなって思ってた。ホントかもしれない。
由梨ちゃんは「そうだよ」って言った。
ホントにそうだったらそうなのかもしれないけど、あたしには何がなんだかよく分んなかったから「そう?」としか言いようがなかった。
「あんた見なかったの?」
由梨ちゃんが言った。
「うん」
あたしは、嘘にならないようにして嘘をついた。
「あんたの顔見たら、パッと手ェ離したよ」って、また由梨ちゃんが言った。
あたしは、「どうでもいいじゃない」ってどっか別のとこではそう言ってたけど、口に出しては「ホント?」って言った。
「ホント?」って言って嘘をついて、嘘をついたら嘘をついただけ、誰かがきっと、あたしにホントのことを教えてくれるかもしれないって、そう思ってた。
「ホントにそうだったの?」――あたしが訊きたかったり言いたかったりしたことはそれだけだった。
でもそんなことは誰にも言えないから黙ってた。
「見なかったの?」って言われて「うん」て言えれば、あたしの中で思ってた「よく分んなかった」っていう部分だけはともかくホントになる。
あたしが「よく分んない」って思ってたのはホントだったから。
「あんたの顔見たらパッと手ェ離したよ」って言われて「ホント?」って言ったら、あたしの、「ホントにそんなことあったの?」って思ってた部分だけはホントになるから――。
「気持わるーい」って由梨ちゃんが言って、あたしは黙ってた。
「ホントに知らなかったの?」って由梨ちゃんが言って、「うん、そうだ」と思って、「うん」て言った。
「そうなんだ、気持悪いんだ」って思って、そういうことを、誰かに言ってもらいたかったんだってあたしは分った。
あたしが一人になりたくなかったのは、そういうことは絶対に一人じゃ言えなかったし、言ったら全部おしまいになっちゃうし、言えないから言えないでいい訳じゃないって思ってたから、あたしは、誰かに一緒にいて、そういうことを言ってもらいたいだけだった。
それが言えなかったらきっと、あたしはゲーゲー、訳が分んない気持悪さで、なんでもかんでも吐き出しちゃってたと思う。全部が虚しかったし、全部が気持悪かったから。
気持が悪かったし、気持が悪いとは言いたくなかったし、そんなこと言ったら傷つくだろうと思ってたし、気持が悪いのかどうかもよく分んなかったし、誰か、いやァ――な人がいてそのことを「気持悪い」って言ってくんないかなァって、それだけを待ってた。
そうなんだと思う。
由梨ちゃんは「やだァ」って言って、そんなこと言ったら舌っ足らずでジョシダイセエで、『オールナイトフジ』でバカ丸出しだったけど、でも由梨ちゃんは平気でそういうことを言った。
由梨ちゃんはとってもチューサン階級で、とっても醜くくって、でもあたしは、そういう醜いチューサン階級が気持悪いバカなことを言ってくれるのがうれしくて、もっともっと言ってほしいと思ってた。
もっともっとグチュグチュにして、もっともっとみっともなくしてもらいたかったのかもしれない。
カフェバーにいる人間はみんなチューサン階級で、チューサン階級がカプセルの中に入ってグチュグチュしてて、自分のことは絶対にチューサン階級だと思わないようにしてて、だから、そんなところでグチュグチュ、オールナイトフジをしてくれる由梨ちゃんがいると嬉しかった。
アベックは気持悪いし、男はみんな泳げないサーファーみたいだったし、字が読めないインテリみたいだったし、女はみんな川島なお美でナントカカントカだった。
グチャグチャ、カウンターにくっついてなんか言ってるのなんか見てると、チリ紙交換に出て来た『HOT‐DOG PRESS』と『CAN CAM』が水たまりでナンパしてるみたいで、ホントに薄っ気味が悪くていやだった。
由梨ちゃんは「やだァ」って言って、あたしは「ん、だったらね」って言ってた。
なにが「ん」で、なにが「だったらね」かは分らなかったけど、でも「そうだったら気持悪いんだって思ってもいいんだ」と思ったら、あたしは少し楽になった(と思う)。そうだったら気持が悪いし、でもまだ別にそうだった≠チて決った訳じゃないってあたしは思った――しっかり手ェつないでるところを見ちゃったというのに。
あたしは、目の錯覚だと思ってた。由梨ちゃんは見たんだろうけど、でも由梨ちゃんは頭が悪いから、ホントにそうだったのかどうかまでは分んないと思った。
そう思った。
「前からそうだったの?」
由梨ちゃんが訊いた。
あたしはなんのことだかよく分んないから、
「え?」って言った。
「え?」
「前からサ、そうだったの? あの二人は」
由梨ちゃんがそう言って、「そうだった≠チてどういうこと?」ってあたしが言った。
あたしは前よりももっとよく分んないから、分んないことには積極的になれないなと思って、そんなことより、ジンジャーエールのストローにくっついてるアブクの方が重要な問題だと思ったから、どっちかっていうと由梨ちゃんより、グラスの中のストローに訊いてみた。
「そういう人って、だって、ホモでしょう?」って由梨ちゃんは言った。
もう由梨ちゃんはオールナイターズじゃなくって、ただの真面目な女子大生だった。なんにも知らなくてただ勉強熱心で――。
なんにも知らなくて、ただ勉強熱心なだけだったから、あたしは由梨ちゃんと友達になったんだ。語学の教室で席近所にして話してたのってそうだから。
お父さんがいてビデオがあって、お兄さんがいてお母さんもいて、普通の家の子で、地味な顔してて、ウチにビデオがないって言ったら、その時だけ派手やってエバってた――あたしが由梨ちゃんについて知ってるのはそれだけだ。
それだけだけどうまくやってる。ともかく由梨ちゃんは、あたしの中を揺さぶらない。
大学に来てよかったなって思うのは、ともかく、周りの人間がみんな、あたしの中に立入らないことだ。だからあたしだって立入らないですむ。みんな「ほっといてよ!」って、それだけを黙って言ってる。それだけだと思う。
何かありそうだけど、でもなんにもないから、自分の中に入ってこられたら困る。あたしも含めて、みんなそう思ってるんだと思う。
だから、他人の噂話が好きだ。遠くて、関係なくて、でもしっかりそれが話題になるような他人の噂話が。
それだけでもってる――。
だから由梨ちゃんはそう言った。「そういう人って、だって、ホモでしょう?」って。
そうなんだけど、でもあたしは、その話についていけない。
他人なんだけど、他人の噂話なんだけど、でも、その話について行けない。行きたくないって、あたしのどっかで思ってるって、そう思った。
「そうなのかなァ……」
あたしはつらく頑張ってる。
でもそう言われたってあたしは知らないもの。知ってるくせに、それを知ってるなんてこと認めたくないんだって思ったら、急に、顔が熱くなって来て真っ赤になりそうだった。
「頭痛い」
あたしは言った。
「大丈夫?」
由梨ちゃんは言った。
「ウン」
あたしは言ったけど、要するに、あたしは「頭痛い」って言いたかっただけだ。
「顔色悪いよ」
由梨ちゃんがそう言った。
「ホントに?」
あたしはそう言った。
冗談じゃない、そんなことで頭なんか痛くなりたくないし、顔色だって悪くなりたくない。
あたしが「ホントに?」って言ったら、由梨ちゃんは「ウン」て言った。
だったらあたしは、顔色が悪いんだ。
悪いんだったら悪いんでもいいなって、あたしは思った。
「もう出ようか?」って言ってもらえるかなって思った。
思ったけど、由梨ちゃんは言ってなんかくれなかった。
由梨ちゃんはWAVEの入口に向って坐ってて、あたしは、WAVEの入口に背中を向けて坐ってた。こんなとこに来て、女の子二人で話すことなんかなんにもない。「男がいないんだな」って思われるだけなんだなってあたしは思ってた。
あたしがノらないから、由梨ちゃんは黙ってて、あたしはRAIN TREEの中のアベック見てたし、由梨ちゃんは反対側の、WAVEの玄関の方を見てた。
見てて、由梨ちゃんは「ホラァ」って言った。
由梨ちゃんが「ホラァ」って言ったから、「なァに?」って言って、あたしは後を振り向いた。
由梨ちゃんが見てたのは、磯村くんと木川田くんが出て行くとこで、「ああ、由梨ちゃんはズーッと興味津々だったんだな」って思った。
由梨ちゃんは「やだァ」って、笑いながら言ったけど、私には何がどう「やだァ」なのかよく分んなかった。磯村くんの横に木川田くんがいて、ああして見てれば木川田くんはいつもの木川田くんで、あたしがいつもの木川田くんを知らなかっただけなのかなと思った。
でも、どうして人間て、歩きにくい恰好して歩くんだろ? 源ちゃんは磯村くんの体に手ェ回してたけど、どうしてあんな歩き方するのかよく分らない。
歩きにくいと思うけど。
「やっぱりそうじゃない?」
由梨ちゃんは言った。
あたしはただ、歩きにくい恰好して二人で歩いてるだけだと思った。
5
あたしには、何がなんだかよく分らない。ズーッと、何がなんだかよく分らなくて、寒気だけがした。
何がなんだかよく分らないって、こんなにも寒いんだって思った。
家に帰って来て、ともかくいやだから布団の中に入って、ベッドの中に入ったら、ワーッ! って涙が出て来た。なんだか分らないけど、なんだか分らないけど、ギャーギャー泣き喚いて、布団かぶってても声なんか聞こえそうでも、それでも全然止まんないんだからしようがないじゃない!
あたしは磯村くんが好きなんだ。それだけだからいやなんだ。そのことだけがあたしは分った。
バカでバカでどうしようもなくて、ジンジャーエールが四百五十円もしたのとおんなじぐらいもったいなくて、ムダづかいでバカバカしくて、お金がないんだったらそんなとこ行かなきゃいいじゃないか。関係ないのに、バカバカバカ! と思ってたら、涙が出て来て止まんなくて、世界中から嗤《わら》われてるみたいだった。
私はたった一人で、私は誰からも相手にされない女なんだって、あたしはそんなこと認めるのなんか絶対にやだッ!!
6
御飯食べて、無表情で、「どうしたの?」ってママに言われて、「別に」って言って黙ってた。誰かに言いたいけど誰にも言えないって思ってたら、誰かに顔を押さえつけられてるみたいな気がして息が苦しくなって、ドッと吐いた。
「どうしたのよ?」って言われたけど、どうしたのかなんか絶対に言えない。
バカバカしくって、吐くものなんてなんにもなくなったのに、でも、それでもまだ私は、トイレの中で頑張ってた。吐くものが出て来たらその分だけあたしは考えなくってすむ――。
トイレの中で口開けて、無理して指を喉に突っ込んでてもまだ出て来る――「あたしは磯村くんが好きだったんだ」って。
こんなところでそんなこと思ってる女なんて絶対に誰からも好かれないって分ってて、分ってるからこそなおのこと、あたしはそんなところで磯村くんのことを思ってた。
胃の壁のところに「磯村くんが好きだ」っていう字がひっついてて、もう少し頑張ってればそれがとれるかもしれないと思って頑張ってた。
無理して「ゲー、ゲー」って、声だけ出してたら、後でお母さんが「どうしたのよ?」って、普通の声を出した。「まだそんなことやってるなんて、そっから先は心理的な問題よ」って、彼女が黙って言ってるみたいだった。
7
私は、色んなことを思い出す。なんで毎日学校に行ってたんだろうって。
何が楽しくて高校に行ってて、何が面白くなくて高校で突っ張ってたのか、よく分んなかったことがみんなよく分りすぎて、バカらしくって哀しくって、体中の毒素がみんな流れてって、いっそのことさっぱりして、みんなセイセイするって思う。
頭だけ痛くて、体だけズキズキして、でもフラフラしてどこにもいけないあたしは、ベッドの中で否応なく、そのことだけは考えさせられる。
記憶のダンプカーが袋小路に立ってるあたしを追いつめるみたいにして、ドシンドシンて、次から次へと体当りして来る。
お腹の中にはもう吐くものなんてないのに、それでもまだムカムカして、頭の中にドリルを突っ込まれたみたいに、そのことだけがグイグイと胸の中で暴れ回る。
「あたしは磯村くんが好きだったんだ」
「ああ、頭痛い」
「ああ頭――、あたしは磯村くんが好きだったんだ」
「好きじゃなかったって言ってるでしょ! ああッ! 頭が痛い」
「磯村くんが、磯村くんが――」
あたしは磯村くんが好きだったんだ!
8
あたしは磯村くんが好きだったんだ。ただそれだけだったんだ。
あたしは磯村くんが好きで、あたしは磯村くんに愛されないで、放っとかれて、無関心で、相手にされないで、だから、なんともないと思ってただけなんだ。
あたしは、誰からも相手にされないでいただけなんだ――。なんて淋しい青春を送ってたんだろうって、あたしは自分が可哀想になって、可哀想で可哀想で可哀想になって、可哀想になった自分の可哀想の為に、だからあたしは一生懸命に泣いた。もう取り返しがつかないって――。
9
二学期になって、高校の二年生だったわ。あたしは磯村くんとおんなじクラスで、朝一緒になって、学校へ行く途中で一緒になって、やっぱりあの頃は、あの人はニコニコ顔の田中くんとおんなじで、それでやっぱり、訳の分んないことばっかり二人で話してて、それで、喧嘩してるみたいのが楽しくて、そうやって歩いてたら木川田くんが来て、あたしと話してた磯村くんは、それで男の子同士で木川田くんと行っちゃった。
どうして男の子は教室に走ってくんだろう。あたしだって走って行けたけど、でもあたしが走ってったら、そんなこと嘘だってすぐ分っちゃう。
走って行けるかいけないかの問題じゃなくて、「走って行かない?」って言ってもらえるかどうかの問題だ。
そんなことすぐ分っちゃう。
分っちゃうからあたしは見てて、そんなことちっとも平気じゃないのに、でも分ってたから見てて、その内平気な私になっちゃった。「ブス!」って言われるのがこわくて、それで引っ込み思案でおとなしくしてるのとおんなじで、でも、そんなことはやっぱり、「ブス!」って言われて踏みつけにされるのとおんなじだ。
私は黙って見てて、男の子は「おいでよ」って言ってくれないで、言ってくれないの分ってるから、私は初めっから平気な顔してるだけのレッスンは積んでて、それが傷ついてるなんてこと、誰にも分ってはもらえない。
なんて淋しいんだろう。あたしだって傷ついてるのに、そんなことズーッと分ってもらえなくて、「フン、なによ」って言って、「フン、子供ね」って言って、だまーって追い越されて行っちゃうの。
知らないで黙ってる間に男の子は手をつないで、私だけは電撃ショックに会ったみたいに、身動きも出来ないでブルブル震えているだけ。あたしが何をした訳でもないのに、あたしの後では、知らない間に男の子達が手をつないでる。
手をつないでるだけで、あたしは仲間にも入れてもらえない。
あたしは、磯村くんと口をきいたことだってあるし、おんなじクラブだったこともある。一緒に帰ったことだってあるし、途中で帰り道一緒になったことだってあるわ。
一緒に歩いてて、一緒になって磯村くんのおばさんの家に行ったことだってあるわ。
磯村くんの家じゃなくて、磯村くんのおばさんの家に――。
そんなことしたことのある子なんて私の他にはいやしない。絶対にいないと思う。
磯村くんのおばさん家に行って、磯村くんのおばさんと話して、磯村くんのおばさんに「またいらっしゃい」って言われたことだってあるのよ。
ウチのクラスで、そんなこと言われたことのある人間なんてあたしだけだわ。
どうしてそのあたしが関係なくしてなくちゃいけないのかなんて、私には分らない!
あたしだって傷ついたわ。
傷ついて傷ついて、ズーッとズーッと傷ついてばっかりいたのに誰もそんなことなんて分ってなんかくれないんだわッ!
どうしてあたしが松村くんの家に行かなくちゃいけないの? どうしてあたしだけが、磯村くんや木川田くんの家に呼ばれないで、松村くんの家になんか行かなくちゃいけないの?
どうしてあたしと久し振りに会ったのに、あたしは「そんじゃね」なんてことを言わなくちゃいけないの? どうしてあたしは久し振りに会ったのに「どうしてるの? 元気? お茶飲まない?」って言ってもらえないの? どうしてあたしは一人で放っとかれて、「そんじゃね」って言わなきゃいけないようにさせられるの? どうして?
あたしだって傷ついてる。
あたしだって傷ついてる。
どうしてあんな冷たい目で見られなきゃいけないのか分んない。どうして私だけ入れてもらえないのか分んない。
男の子達は手ェつないでて、私はなんにもしてもらえないで一人で言葉だけ吐き出してる。
一人で言葉だけ吐き出してて、いつまでもそのまんまで、たった一人でつかまえられない言葉だけつかまえようとして、いつだっていつだって放っぽり出されてる。
いつだっていつだって――。
ズーッと私は一人ぼっちなんだ。
10
ズーッと寝てて、ズーッと一人で寝てて、夜になって、もっと夜になって、夜中になって、あたしは暗い部屋の中見つめてて「死んじゃおうかな」って思った。
手首切るのって痛いだろうなァ、壁に頭ぶつけるのって痛いだろうなァって、そういうことばっかり思ってた。
とっかかりなんか一つなくなったら、もうなんにもなくなっちゃう。あたしは、周りで何が起ってるかも知らずにぼんやりと真面目ぶって生意気に生きてて、そんなことに意味があると思ってるのはあたし一人で、周りはみんな手をつないでる。世の中なんかアベックばっかりで、そんなことに気がつけないのはあたし一人で、恋愛も出来ない自分の不器用さ棚に上げて悪口ばっかり言ってる。あたしが何を言ったとしてもそんなのは通じる訳もなくて、あたしのことなんて誰も聞かなくてやらしいことばっかりしてる。
掻爬は女の勲章なのよ! 醒井凉子は勝ったのよ。あたしは、あの女にズーッとせせら笑われてたのよ。口ばっかりでなんにも出来ないって。
口ばっかりで、なんにも出来ないんだもん。
なんにも出来ない――。
情なくて情なくて涙が出て来る。
口ばっかりでなんにも出来ない。
ズーッと、口ばっかりでなんにも出来なかった。
なんにも出来ないで、見えすいたことばっかり言ってて、あたしの横を男の子が二人、黙って手ェつないで通り過ぎてく。
みっともなくて哀れで、惨めなだけ。
いくら考えててもいくら考えてても、行くとこはそこだけ。
惨めで惨めで惨めで惨め!
あたしは、隣りの部屋から明りが漏れて来るのだけを見てた。
戸の縁がボーッと明るくなって、あたしの部屋だけが暗くなってる。
なんだか、とっても腹が立って来て、なんだかとっても腹が立って来て、腹が立って来てとしか言えなかった。
だって、この家は三人家族で、その内の二人はセックスしてて、残りの一人は泣いてるだけだもん!
いつだってあたしは仲間外れだ!!
隣りじゃ両親が『TONIGHT』見てる。なんでそんなもん見てんのよッ!
だってあんた達なんか夫婦じゃないよッ!
畜生ッ! くやしいッ!
あたしはあんまり悔しいから、黙って外に出ちゃった。
「玲奈ちゃんどうしたの?」ってお母さんが言ったけど、「うるさい! どうでもいいでしょッ!」ってあたしは思ってた!
11
あたしは、夜ン中を歩いてて、どこに行きたい訳でもないけど、でもどこに行きたいかは分ってた。行っちゃいけないとこだけど、でも、行ったらどうにかなるかもしれないと思って、私はぼんやりとそっちの方に歩いてた。
私は誰かに言いたかったし、私は誰かに「そうなの、ひどいわねェ」って言ってもらいたかった。
「おばさん、磯村くんてホモなんですよ。女より男の方が好きなんですよ」って、そういう風に告げ口したかった。他の人には絶対に言えないけど、でもあたしは、磯村くんのおばさんにならそういう風に言えるのかもしれないって思ってた。言えなくても、あの磯村くんのおばさんなら、「そう、ひどいわねェ」って言ってくれるかもしれないって思ってた。
だって、私のほしかった言葉は「やだァ」でもなけりゃ「気持悪い」でもなくて、ただ「ひどいわねェ」って、それだけだったから。
ひどいわね、ひどいわね、そんなことしなくたっていいじゃない。あたしだって精一杯生きてるのよ、それなのに、そんなひどいことしなくたっていいじゃない! あたしはそれだけを言いたかった。
そりゃあたしは不器用よ、そりゃあたしは臆病よ。自分が誰のこと好きなのかもズーッと分んないで、訳の分んない方向に向いて文句ばっかり言ってて、全然みっともなくてトンチンカンよ。でも、そんなことしなくたっていいじゃない! そんなことしなくたっていいじゃない!
なにもわざわざ、あたしの前で、男同士手なんかつながなくったっていいじゃない!
あたしはそれだけを言いたかった。
そんなにバカにしなくたっていいじゃない!
だからあたしは、おばさんに告げ口をしたかったんだ!
12
あたしは、磯村くんのおばさんの家の前に立ってた。
生け垣に囲まれた小さな家で、あたしの家からは十五分ぐらい離れたところにあった。あたしの家からは駅に行くのと反対の方向にあったから、あたしはほとんどそっちの方に行ったりはしなかったけど、でも、あたしは外を歩いてる時、時々は「あ、磯村くん家《チ》のおばさんの家こっちだな」って思ってた。やさしかったし話が分ったし、何よりも、信用出来そうな女の人だったから、あたしはやっぱり好きだった。
五十すぎてたけど結婚してなくて、一人で住んでた。「どうしてそんなにやさしく出来るんですか?」って、あたしはそれだけをおばさんに訊きたかった。
ホントにやさしかったかどうかは知らない。前に行った時「また遊びにいらっしゃい、近所なんだから」って言ってくれたの、もう覚えててくれないかもしれないけど、でも会えて、「ひどいわね」って言ってくれなくてもいいから、「どうしたの?」って訊いてもらいたかった。
私はどっかおかしかったしヘンだったけど、でもそれは身体の具合がおかしいんじゃなくって心の様子がヘンなのに、でも誰もそんな風に訊いてくれないから、だから「どうしたの?」って、せめて言ってもらいたかった。
おばさんの家は灯りが点いてて、でも灯りが点いてたけど、おばさんの家の表札は、磯村≠カゃなかった。
私は、結婚してないおばさんの苗字がなんだったか覚えてなくて、磯村くんのおばさん≠セからただ磯村≠セと思ってたのが違ってて、「ひょっとしたら違うのかもしれない。もう二年も三年も来てないんだから、ひょっとしたら間違ってるのかもしれない。違う人なのかもしれない」と思って、その表札が、こわかった。
違うのかもしれない。間違ってるのかもしれないし、第一、夜の十二時過ぎてるのに灯りが点いてるなんてヘンだし、ひょっとしたら磯村くんのおばさんなんてもういないのかもしれないし、ここが磯村くんのおばさんの家だなんてなんの根拠もないし――。
そう思って私は、表札眺めてた。眺めて、さわって。白い石に平山≠チて書いてある字撫でて、「磯村くんのおばさんて磯村さんじゃないんだ。磯村くんのおばさんが磯村≠カゃなかったら一体誰なんだろう」って思ってた。
あたしがここに立ってるのに、あたしが表札撫でてんのに、どうして誰も出て来てくれないんだろう。どうして磯村くんのおばさんはあたしのこと気がついてくれないんだろうって思ってた。
思ってて、あたしは変質者みたいになった気がして、「ここから離れなくちゃいけない、ここから離れなくちゃいけない」って思ってて、でもそっから動くことが出来なかった。
遠くで足音がしたから、遠くで人が来るのが見えたから、あたしは、磯村くんのおばさんの家の前から離れて、そして、道の反対側の電信柱の陰に立ってた。
ただ立ってた。
私は悲劇の小娘で、ただそこに立ってれば悲劇がパックリと口を開けて、なんか新しい解決策が出て来てくれるのかもしれないと思ってた。
13
私は、どれくらいそこに立ってたのか分らない。私の後で――磯村くんのおばさんの家とは反対側で、あたしの立っている側の家で、パッて灯りが点いた時、あたしは「あ、いけない」って思ってそこから逃げたから、どれくらいそこにいたのか分らない。
分らなくて、「あーバカだ」って思う代りに、バカ≠ノルビを振って「あー|バカ《ヘマ》だ」って思ってた。
あたしはどうかしてたんだ。
あたしはブラブラと歩いてて、窓に灯りの点いてる家に来るとそこの窓を覗いてた。一階に灯りが点いてると覗きこもうとして、二階に灯りが点いてたら、あたしは、見つからないようにして顔を伏せてた。
みんな多分、友達のとこや恋人のとこから帰って来て、そして一人で、今日やって来たことの幸福を噛みしめてるんだと思って、変質者のあたしは、誰からも相手にされなくて可哀想だった。
一人で歩いてて、元商店街のあったところに来て――シャッターの下りてる商店街は、商店街の廃墟だっていう感じがする――お酒の自動販売機があったから、百円玉を入れて、それを飲みながら歩いた。
お財布の中味が少なかったから、「ああ、バイトしなくちゃ」と思って、どういうバイトがいいかなって思って歩いてた。
鯛焼き屋さんだったらいやだけど、マクドナルドだったらいいかなって思ってた。
没個性ってすごく魅力的だもん。
没個性だったら絶対、あたしは幸福な結婚が出来るって思ってた。
没個性だったら絶対にマクドナルドがいいし、ロッテリアだったらもっと日本人臭くなるし、ケンタッキーフライドチキンだったらもう少し意地が悪くなりそうになるし、あとは何をやったらいいのかよく分んなかった。
そうだ、ラーメン屋さんもいいなって思った。田舎から出て来て、テレビばっかり見ている女の子だったら、ラーメンの丼の中に手ェ突っ込んでてもみんなから愛されるし――。
ジャージ穿いてラーメンライス喰べに来る男の子とだってすぐお友達になれるし。
そうだ、ラーメン屋の店員になろうって、知らない、一遍も入ったことのない汚いラーメン屋の前通った時に思った。
オバサンばっかりにラーメン屋の店員させとくことない。
あたしだって愛想がいいんだし、オバサンより若い女の子の方が絶対に男の子は喜ぶと思ってた。
あたしは酔っ払って、全然酔っ払ってなんかいないけど、遂にどうして自分が夜の町をほっつき歩いてんのか分んなくなったのに気がついて、よかったと思った。
「私はなんでこんなことをやってんのかさっぱり分んない。そうだわ、ビンボー人の娘のくせに、バイトもしないで、お嬢さんぶってお小遣いもらって、生意気にも一流の大学なんて行ってるからいけないんだわ」って、そう思った――。
14
次の日は学校に行かなくて、その次の日は土曜日で、その次の日は日曜日だから死んでた。
なんでだか分んないけど、なんにもしたくはなかったから。
「そういえば醒井さんから電話がかかって来たっけなァ」なんて、去年のことを思い出してた。
クラス会が終って、次の日か、その次の日か、もう少し経ってからか、あの人から電話がかかって来た。「榊原さんにお知らせしたいことがあって」とか。
あたしはウジウジして気持悪いとか思ってたから、ロクすっぽ聞いてなかったけど、そうしたらあの人は「木川田さんに電話してごめんなさい≠チて言ったんです」なんて、ホントに逆上するようなことを言ってた。
私はホントに逆上してたから、「悪いけど私、そんなこと聞きたくなんかないのよッ!」って、電話に向って怒鳴ってた。
醒井さん「ごめんなさい」って言って電話を切って、ホントにもう、電話なんか絶対にかけて来てもらいたくないって思ってた。
気持の悪い!
あたしは、ヘンなことに巻き込まれたくないと思ってた。
絶対に絶対に、もう二度とヘンなことに巻き込まれたくないと思ってた。
誰が誰とくっつこうと、誰が誰を好きになろうと、誰がそのせいで泣こうとバカになろうと、そんなことは絶対にあたしと関係なんかないまんまでいてほしいと思ってた。
思ってたから、そんな風になってるなんて、思ってもみなかった。
よく考えたら、あの時から二人は出来てたんだ。
よく考えたんならそうだったんだし、よく考えたくなかったんなら、よく考えたくない理由っていうのはどこかに絶対あったんだ。そんなこと考えてたら「淋しいなァ……」って思って、「これが最後だから」って思って、土曜日の昼過ぎに泣いた。
あの時からあの二人はそうだったんだって――。
だからあの二人はああしてたんだって。
だとすると松村くんが捨てられたのも、やっぱりそういう理由だったんだって、私はなんとなく、全部の謎々が分ったような気がしてた――。
磯村くんと木川田くんは、何故か知らないけど出来てて、それで磯村くんは木川田くんがいじめられてた時にかばったんだ――高田馬場のビルの階段を思い出すのはとってもつらい。
磯村くんが立ってて、木川田くんが立ってて、あたし達が出てったらあの二人は話すのをや・め・た――ちょうど六本木で、あたしの顔を見たらあの二人が手をつなぐのをやめたみたいに。
あたし達はあの時、あんな所へ出て行かなければよかったんだ。階段なんてないんだし。
あの時あたしは、ひょっとして、そういうことを多分全部、分ってたんだ。分ってたんだけど分りたくないから、それで全然知らないでいれたんだ。あの時はまだ、分らなきゃいけないようなことがそんなに一杯あるみたいにも思えなかったし。
あたしはあの時、あのクラス会のあったあのビルの階段の上で、「磯村くんて男らしくなったなァ」って、そう思って見てたんだ。
そう思って見てて……、どうしたんだろう?
あたしは磯村くんを見てて、「男らしくなったなァ」と思って、それで、知らない間に一歩引いてて、体を硬張らせてたんだ。「もしもこの人があたしに注目してくれなかったらどうしよう……」って。久し振りであったのに、この人に「やァ久し振りだねェ」って言ってもらえなかったらどうしよう――そして多分、言ってもらえないだろうってどっかで思ってて、それであたしは逃げたんだ。
こわがって、立ってて、それで、わざとお姉さんぶって、わざと関係ない優等生ぶって、それで「木川田くん、どうしたの?」なんてことを言ったんだ、シラジラしい。
あたしはホントは、「磯村くん、木川田くんどうしたの?」って、そう言いたかっただけなんだ――。
あたしは多分、その時に初めて、磯村くんが好きになったんだと思う。
そう思う――。
15
あたしは、木川田くんのこと面白がってて、それは多分木川田くんが誰からも相手にされないからで、それだからあたしは遊んで上げてて――でも向うにしてみればそれがどうだかはよく分らない。
あたしはそうで、木川田くんはそうで、それだけだから「知らない」とか思って――それだけで、一歩も先へは進めなくて、進めないまんま「あの人どうしてるんだか知らないわァ」とか思ってて、無関心を装ってて、それで、なんか突然その人がおかしくなっちゃって、それで「どうしたんだろ?」とか思って、「行ってもいいのかな?」「心配して上げてもいいのかな?」「そんなことしておせっかいじゃないかな?」「そんなことしても怒られないかな、まだ友達かどうかも分んないのに」って思ってて、実は好奇心だけで――、それで、でもそれでも近寄って見て、近寄ったらあたしの出る幕じゃないってことを言われてて、そう言った人が多分、あたしにとってはなんか≠セった。
磯村くんのこと、男らしいなって思ったのは、そうだもん。
「男らしい」と思って、「だったら私のもんだもん」て思って――あたしは勝手でわがままだから、そう思って、「さァ、どうしようかなァ」とか思ってたら、その人はサッサとあたしを無視して行っちゃった……、っていう、それだけのことなんだ。
あたしは、ホントだったら、クラス会の後で木川田くんと磯村くんが一緒になって帰ってっちゃった時に、そのことを分ればよかったんだ。まともだったら、きっと私はそのことなんてすぐ分っただろうと思う。思うけど、その時は隣りに醒井のバカ女がいたから、それでなんだかおかしくなって、なんだか全然分らなくなったんだ。
あの人は金持の娘だし、なんにもしなくたっていいんだし、ただ色キチガイみたいに男あさりしてればいいんだし、それでドタバタやってて、周りをゴチャゴチャひっかき回してればいいんだろうけど、あたしはそんな訳にいかない。デートの場所がニューオータニだなんて、あたしにはやってられることじゃないから。
そういう人はそういう人で勝手にやってけばいい。あたしはそんなところになんて近寄らないっていう、ただそれだけだ。
あの人がドタバタして、泣き喚いて、「あなた木川田くんの恋人盗ったのよ!」って言われて、言われてオタオタしたのは、別に悪いことしたと思った訳じゃなくて、「悪いことした≠チて言われた」ってだけだから。
あの人はそういう人だから――だからどっかで憎めない。
あの人はそういう人だから、だからバカみたいに、放っときゃいいものを、鼻つまんで木川田くん家《チ》に電話して「ごめんなさい」なんてことをやってる。
やらなきゃいいのに。そんなこと、やられた方が迷惑なんだから――。
そんなことやれって言ったのが私だって、そう言いたいみたいな顔して電話かけて来るから、あたしは「やだッ!」って言ったのよ。
なんだか知らないし、なんだか知らないけど、それは介入しちゃいけないことだったのよ。なんだか知らないけど、あたしはそれだけは分ってた。だって、そんなの当り前だもん。
あたしがいて、木川田くんがいて、醒井さんがいて、磯村くんがいて、四人がいて喫茶店で、それで木川田くんが「頭が痛い」って言い出したら、磯村くん、帰っちゃうんだもん。そうよね、その時から、もう、関係がなかったのよね。
そうだったから、あたしは好きになったんだよね。
多分そうだったんだよね。多分――。
16
あたしは、磯村くんを見て、高田馬場のビルの階段で磯村くんを見て、「男らしいな」って思って、「近づいたらいけないな」って思って、なんだか知らないけどあたしは、まだ近づくだけの――近づけるだけの、なんていうんだろう? 大きさ≠ニか、そういうんだろうか? 能力≠ニか――そういう近づけるだけの能力≠持った人間にまだなってないって思って、そのことだけは分ってて、だから、そのことだけは分ってるんだから、それで平気で近づいてったらホントにバカだって、それだけは思ってた。ホントにしっかと思ってた。(感じてたっていう方が近いかもしれない)
階段の途中に磯村くんが立ってて、階段の下に木川田くんが立ってて、階段の上にあたしが立ってて、あたしは一歩も動けなかった。
動いたらみっともないって、そのことだけは分ってた。
磯村くんが階段の途中に立ってて、木川田くんを、逃がしたんだ。逃がしたんだから、もしもそれを追っかけてったら、あたしだって、木川田くんに水をひっかけられた西窪くんとおんなじになる。あの人が木川田くんに何をしたのかは知らないけど――知らないけど、ともかく、あんなテードの低い男と一緒にされるのは、死んでもごめんだ。
だからあたしは動かなかった。だからあたしは、「木川田さァん」って言って平気で追い駆けてった、醒井凉子が、くやしくって憎らしくってバカらしくって(ああ畜生!)羨ましかった!
バカでもいい、みっともなくてもいい、平気で走っていけたら、階段の途中で、イすくめられたみたいに釘づけになってる必要なんてないから。
あれは、つらいわ――。
いつからあの人はあんなにスゴクなっちゃったんだろ。あたしはバカじゃないからそのぐらいは分る。そのぐらいは分って、でも、手も足も出ない。
昔はあんな人じゃなかったのに、どうしてあんな風になっちゃったんだろう。
毅然《きぜん》としてて、つまんないものがやって来たら絶対に寄せつけないって。
いくら悪口を言ってたってそれぐらい分る。言わなくていい悪口を言ってるんだったらなおさら――。
そんな風になっちゃったら近寄れない。
そんな風になられちゃったら、あたしはこわくて近寄れない。だってあたしは、つまんない女≠ノなんかなりたくない、つまんない人間≠ノなんかなりたくない、女だから。つまんないもの≠ノなんかなりたくないし、そういうことが分られちゃう人間に、分ってて媚《こび》を売るほど、バカな人間になんかはなりたくないから。
無視されて、無視した人間がつまんない人間だったらかまわないけど、無視されて、自分がつまんない人間かもしれないと思わされるのはつらい。
どうしようもなく、つらい。
つらいけど無視されてたらしようがない。
だから土曜日には死んでた。
泣いちゃった後は、もう結局それしかないから、ジタバタしたらホントにつまんない人間になっちゃうって、どっかで磯村くんが冷静に判断してるって、そう思ったらつらくって、泣いたってしようがないと思ったら、死んでるより他にはなかった。
だからあたしは、土曜日も死んでた。
17
土曜日も死んでて、土曜日の昼間は死んでて、死んでても死にきれなくて、土曜日の夜になったら起き上って、死人《ゾンビ》になって、起きて死んだ。
土曜日の晩に、あたしはバカだから、磯村くんの家に電話をかけた。「すみません、私を許して下さい」って、何故か言いたくて。女はバカでどうしようもない。
昼間は生きてられないけど、夜になったらみんなセックスするんだと思って、そしたら私は死んでなんかいられないと思って、そうやって起き上って、あたしはバカだから、磯村くんの家に電話をかけた。
「すみません、榊原ですけど、薫さんいらっしゃいますか」ってあたしは言った。
磯村くんの家に電話をしたのはズーッと昔で、あんまり昔すぎて、私達はまだ、友達≠ナさえなかった。
それはクラブの打ち合わせかなんかで、私はなんにも分らないから同じ一年生の磯村くんのところに連絡してた。それからあたし達が友達≠ノなったのかどうかは分らないけど、とにかく、あたしが磯村くんの家に電話をしたのは、高校に入ってすぐの頃で、それからあたしは、一遍もあの人の家に電話をしたことがなかった。
あたし達は、お互いに電話が出来るような親しさなんかではなかったという訳だ。
結局、仲がいい≠ニか知ってる≠ニか友達≠ネんていうのは、そんなものだとしか思えない。
だからあたしは、「すいません、榊原ですけど」って言った時、その電話機の先はズーッと昔の、忘れられた時間につながっているんじゃないかと思った。
あたしが「薫さんいらっしゃいますか」って言ったら、磯村くんのお母さんは、「薫は八王子の方に行ってますけど」って言った。
「八王子ですか?」
あたしが言ったら、磯村くんのお母さんは、「そっちの方に一人で住んでますけど、御存知ないんですか?」って言った。
あたしは知らないから「ええ」って言って、磯村くんのお母さんは「どなたですか?」って言った。
失礼しちゃうわねと思って、「榊原です。高校の時の友達ですけど」って言った。
「あ、そうですか」っておばさんは言って、あたしは、
「すいませんけど磯村くんの電話番号教えていただけませんか」って言った。
「はい、何か御用かしら?」っておばさんは言ったけど、「用があるから教えてって言ってんじゃないよ」ってあたしは思った。
「ええ」
あたしは言った。
そうやってあたしは、おばさんに電話番号を教えてもらった。
あたしは、おばさんに電話番号を教えてもらったんだから、それだから磯村くんのところに電話しなくちゃいけないんだと思った。
私はバカだ――。
18
あたしが電話したら磯村くんはすぐ出た。低い声で、あたしは磯村くんてこんな声を出すのかと思った。
「あたし榊原です」ってあたしは言った。
「ああ」って、磯村くんは言った。
そう言われたら、あたしはなんだかんだ言わなくちゃいけないことがあったような気がしたのを全部忘れて、一気に――
「ねェ、木川田くんといつから付き合ってんの?」って言ってた。
「別れたよ」
磯村くんの答は、あまりにも簡単だった。あまりにも簡単すぎて、私は何を言っていいのか分んなくなっていた。
私の計算では、私がいやらしく「ねェ、木川田くんといつから付き合ってんのよ」って言うと、磯村くんは、「え? なんでそんなこと知ってんの?」とか、「そんなことないよ」とか、色々訳の分んないことを言う筈だった。
訳の分んないことを言う筈だったから、私はその磯村くんのドギマギぶりの間を狙って、なんか、決定的なことを言う筈だった。
「不潔ねェ、いつからあんたそうなったのよ」とか、「ヘンな噂立てられたくなかったらあたしと付き合いなさいよ」とか、その他もろもろ、いやらしいこと。
あたしはゾンビだったんだからしようがない。
でもあたしは、そんな答が返って来るとは思ってもみなかった。
「別れたよ」なんて――。
私は「あ、そう」って言った。言って、「いつ別れたの?」って言った。
どうして私は、そんなに訳知りのおねェさん≠ノなりたいんだろうッ!!
バカッ!
「昨日」って、磯村くんは言った。
「あ、そう」って私は言った――バカな私は。
「なんか用なの?」って、そしたら磯村くんは言った。
私はまだ、なんにも考えてなかった。
「なんか用なの?」って訊かれて、もしもそれを訊かれたらなんて答えたらいいのかなんてことだけは、私は、初めっから終りまで、一遍も考えたことがなかったんだって分った。
分ったけど、でも口だけは、あたしのそんなこととは関係なく、スラスラと答えていた。
「あたしはあなたが好きなのよ」
相手はなんにも言わなかった。
言わなかったから私は、「それだけが言いたくて」なんて、余計なことまで言った。
「あ、そ」って、受話器の穴から聞こえて来て、あたしの目の前でガチャリと切れた。
ガチャリと切られて、それで初めて、なくしてた原稿が出て来たみたいに――役に立たない弁論大会が始まったみたいに、あたしの舌は「サァ、話すぞ」って態勢だけは整ってた。
誰も聞いてくれる相手のいない電話機に向って、あたしは、「だからね、あたしはそう言うことが言いたくって電話したんだけど、あたしってバカよね」って言って、ケラケラ笑ってた。
今更泣く訳にもいかない。
今更そんな見えすいた真似をして、そんな見えすいた真似をする為にバカな電話なんてかけたなんて、自分で自分のことを思うのがいやだから、あたしはケラケラ笑ってた。
だからあたしは日曜日――その次の日一杯を死んでたんだ。
「死んだ方がいい」――日曜日の夕方ぐらいにそう思った。
19
月曜日は一限が剣道で、八時二十分に体育館に行く。
体育館に行って、「生理です」って言って嘘をついて見学をした。
ホントだったらもう来てもいい筈だったけど、でも来なくって、嘘が半分だけだったのがつらかった。
黙って剣道を見てて、まだ防具もなんにもつけないでトレーニングウェアだけで素振りしてる他人を見てて、バカなことやってるなと思った。あたしはズーッと、こういうことをやってたのかと思った。
今週はともかく出来ないけど、でも来週からはやろうと思った。
やってた方がいいし、やってた方が似合う。あたしはどうせ、誰からも相手にされないんだし、誰ともうまくはやってけないんだから、それだったらたった一人で、こういうところに来て大きな声を出してればいいんだ。そういうことしてれば世の中に迷惑かけないんだって、そう思った。
九時五十分に一限は終って、帰って来てまた寝た。
世の中のことも分ったし、世の中のことも分って死んでるんだから、あたしはあたしで、別になんにも間違ったことはしてないんだと思った。明日まで死んでればなんとかなると思ってサ――。
20
火曜日は生きてた。
語学の授業があったから、行って教室で寝てた。
それが終って昼休みもボーッとしてて、それから東洋史の授業に出てて、それも寝てた。
そういう抗議だってあるんだと思った。
あんまり寝てたらバカになって、「ああ、生きてるのなんてかったるいな」って考えなくなっただけあたしは進歩したのかと思った。
磯村くんがどうしたのか、磯村くんをどうなのか、そういうことを考え始めると、磯村のイソの字で頭がズキーンと痛くなったから、もうなんにも考えないですむと思って楽になった。
あたしは誰かに見られてたのかもしれないし、あたしのことなんか誰も注目なんかしてないのかとも思った。
どういう訳だか由梨ちゃんはいなかった。神様もたまにはやさしいんだって、すねてあたしは、そう思った。
21
あたしがバカだというのはもう分っているけど、でもそれはあたしが一人で分っていることで、誰も他人はそんなこと分っていないんだってことは、水曜日になってから気がついた。大学に行って、昼休み、田中くんに会ったら、相変らずこの人はヘラヘラ笑っていたから。
「どうしたの?」ってあたしは言った。場所は大学のラウンジで、ここは部室のないクラブのたまり場で、大学当局がそういう目的の為に作ってくれたとこ。要するに、おしきせの養老院だと思う。
あたしは別に、野草の会に入ってやだなァと思うことってないんだけど、でもたった一つ「ヤバかったかなァ」って思うことがある。それが何かっていうと、早稲田っていうのは、政経・法・商・教育とかっていうのが本部≠チて形で早稲田にあって、文学部がそれとはちょっと離れて戸山校舎≠ノなってるってこと。離れてるっていえば理工学部だって離れてるけど、あんなとこ男子校≠ンたいなもんだと思うからあたしは知らない。
男子校なら男子校でいいけど、それでいうなら文学部は女子校≠ノ近い。近いけど女子校じゃないっていうのがつらい。
早稲田の中じゃ、文学部はやっぱり女が多いし、多いけど、でも過半数ってほどではない。やっぱり男子は多いし。
多いってことで、だから、私達は「これでもいいんだ」って思いこんじゃうところが文学部のヤバサだと思う。他の人はどうか知らないけど――多分、分ってる子は分ってると思うけど――ともかくあたしはそう思う。
適当に男の子はいて、適当に広さはあって、適当以上に大学してて、それだけは全部揃ってるんだから、別に早稲田で文学部しててもなんの不安もない。ないけど、でもそれとは別に、もっとすごく大学してる本部≠チていうのがあったりしたら、やっぱり、そういうとこドカドカ歩いてる男の子達見てると、あたし達、文学部は、文学部の女の子は、文学部の一年生である女の子のあたしは、なんか、やっぱり男の子達がウロウロしてるホンマもんの世界から隔離されてんのかなァ、甘やかされてんのかなァ、臆病になってんのかなァ……、とかは思う。
思ってて、それで野草の会なんかに入ってなかったら、トコトコ本部≠ワで出てって「よその男の子って何してんのかなァ?」っていう気にもなるかもしんないけど、あいにくあたしは既に野草の会なんかに入ってるから、だから、暇な時なんかだと「どうしてるかなァ」とか思ってノコノコとラウンジに入ってけば、暇はつぶせる。誰かがいれば話してるし、誰もいなけりゃ、備えつけの野草の会のノート≠ネんか見てるから、「バカなことやってんなァ」とか思ってても、まァ、それで大学生はやれてる。
大学生がやれてるラウンジ≠ネんてとこは、ホントに、スウェーデンかどっかの養老院みたいに明るくって、板張りでモダンでテラスなんかあって、ゆったりしてて、イギリスの教会の待ち合い室みたいな気がするから、なんか、そこにいてウロウロしてる人間見ると、やっぱりどっかで気が滅入る。
「気が滅入るのは暗い証拠だから、滅入るのよそう」と思ったって、みんながノラクラしてるのには変んない。別に、野草の会だけじゃなくったって、「映研は暗いから別に作った」っていうシネマクラブ≠セって、「暗くなけりゃクサくはないのォ?」って感じだしね。ホントに、ラウンジ≠チていう、食べ物のない食堂は――そういう作りになってる――避暑地の慰安施設みたいで、気が滅入る。
その気が滅入るところで――もっと正確にいうと、だるさがマンエンしてるそのところで、どうしてあなたはエヘラエヘラしてられるのかあたしは訊きたいと思って、それで野草の会の田中優くんにあたしは、「どうしたの?」って訊いただけだ。「なんかいいことがあったの?」って。
勿論その言い方に、どっかとんがったところがあっただろうなァというところは、あたしははっきり否定しない――。
22
あたしが「どうしたの?」って言ったら田中さんは「え?」って言ってた。
あたしは表向き、田中くんのことを田中さん≠ト言うからそう言った――。
「え?」って言って田中さんはあたしのこと見てたから、あたしは「なんかいいことあったんですか?」って、いやみでテーネーに言った。
勿論あたしとしては、この人が一人でニコニコしててあたしのことをかまってくれなかったから(かまってくれない≠ニいうのには重点的にあたしだけを≠ニいう条件はつく――もう知り合ってから一ヵ月も経つっていうのに、この人は一ヵ月前からおんなじ親しさだ。初対面の時が一番親しかったなんてバカにした話だと思う。バカにしてもイライラすると思う――ということをあたしはそろそろ思い出していた)――だからあたしは、「きっと他に、いいことがあるからあたしのことをかまってくれないのねェ」という意味でそう言った。
向うがそうならこっちが積極的に出るしかないわって、そう思ってた。
あたしがそう言ったら向うは「別にいいことなんかないよォ」と、いつものようにいとも日常的に、なんにも考えてないけど明るいというのが不思議に見える魅力的な少年(だか青年だか)≠チていうのをやろうとしてたから、「そうは行くもんか」とあたしは思った。
みんな、昼休みでゴハン食べに行ってて、食べ物の出ない食堂≠ナあるところのラウンジ≠ヘ、昼食後の喫茶店のようなものだから、昼休み直後は、まだすいている。
すいていて、ラウンジに並んでるテーブルの一つは、こうして野草の会の田中くんとあたしで占領されているんだから、なんとかなるんだったら今がチャンスじゃないかって思うのがどうしていけないのだろう? ――そう思って私は、どうしてそういうことに今迄気がつかなかったのだろうかと反省した。
私は鈍感だからいけない。
「そういう風になってるな」っていう人間を見て、「あ、あの二人はそういう風になってる」なんてことは直感で分るのに、「どうしたらそういう風になれるんだろう?」っていうシチュエイションの設定に関しては、ほとんど鈍感と思われるくらいに頭が回らない。
バカなんだ。
あたしは、ほとんどそういうことに関しては無知で無能でバカなんだ。男と女が二人でいたら、いつだってそれはそういうチャンス≠セっていうのに、どうしてそういうことに今まで気がつかなかったんだろうって、あたしはその時、初めてそういうことに気がついた。
「ええ、バカですよ、無能ですよ、アホですよ。そんなことやってたから誰からも相手にされなかったんだわ」ってあたしは思った。向うが気がつかないんだったら、こっちが気がつかせなくちゃいけないんだって!
23
あたしは、カマかける、というより、ほとんどからむ。「なんかいいことあったんですかァ」って。
カマトトブリブリいやらしい。
あの人は「だからなんだっていうのォ」って顔して、「別にいいことないよォ」って言う。
「ああ憎らしい。どうしてとぼけんのよォ」ってあたしは思う。
「これは、いつもの小猫がじゃれ合ってるような冗談挨拶じゃないんですよォ」って、あたしは思う。
「どっか自分が地に足がついてないなァ」ってことも同時に感じる。
ああうっとうしい、お黙りッ!
「だって田中さん、いつも楽しそうにしてるじゃないですかァ」
ああいやらしい。あたしは可愛い娼婦だわ。
「そうかなァ」
優《まさる》ちゃんが言う。
「そうですよォ」
あたしが言う(ああ、いやらしい……)。
「何考えてんだろう、この人は。超然としてようったってダメなのよ」って、あたしは思う!
「田中さん見てると、なんか、やなことってないみたァい」
あたしは、相手がどんなに可愛いく見える男の子からでも、お姉さんみたい≠セなんて言われるのは絶対やだ! (でも、そのやだ!≠チてあたしに言わせちゃうところが可愛い ――ああ、やらしい……)
「そうかなァ」
「ああ、どうしてあんたって人はそうかなァ≠オか言わないのよッ!」ってあたしは思う。
「そうですよォ」
(ああやらしい)
「今日はやけにからむねェ」
(ああ、バレてる)
「そうですかァ……」
(あたしもカマトト)
(うれしい!)
ああッ! どうしてその気になってるのに、あんたは笑ってばっかりいるのよッ!
「あたし、つまんないなァ」
(ああッ!! ゲロ吐いちゃう)
「あ、そう」
(ああッ!! あんたって人はッ!! こういう時は「どうしたの?」って訊くもんよッ! そうじゃなかったら話が進まないじゃないのッ!)
「つまんなくないんですか、田中さんは?」
「うーん、そうなんだけどねェ」
(そうなんだけどどうなのよッ!)
「そういうこと言ってもしようがないと思うんだよねェ」
(すぐ笑うんだからァ)
「でもサ? そういうこと言っててもいけないんじゃないんですか?」
「どうして?」
「だってサァ――」
(あ、いけないと思う。どうして私は会話を生徒会室にしちゃうんだろう? これじゃまるで、優等生の生徒会長と、真面目なだけの副会長の、青春を啓発する会話だわ!)
「だってなんなの?」
あたしが黙っちゃったら田中くんはノッて来た。
こういうところでノッて来てなんかほしくない! (あたしは退廃がほしいんだッ!)
(話を変えます。変えちゃう。変えちゃうんだからッ!)「田中さんは、失恋なんか、したことがないんですかァ……?」(上目づかい――ああいやらしい)
でも一挙に核心。
「失恋?」
「そう」
(ああッ! どうしてあんたは照れないのよッ! どうしてあんたは平静なのよッ!)
「したの?」
(私に訊かないでほしい)
「したんだったらいいんですけど……」
(さすがにうまい答! 我ながら感心!)
(でも感心なんかしちゃいけない。よく考えたら、これはホントのことだったんだ……)
「そうかァ、いろいろ大変だったんだなァ」
(あたしは人生相談してもらいたい訳じゃないんだけど……)
「………」
(そこで黙らないでほしい……)
「……………」
(お願いだから黙らないでほしい)
「…………………」
(気分がますます人生相談になるから……)(ひょっとして、この人、なんにも考えてないのかしら?)
(目がクリクリッとしてて眉毛が濃くって、鼻が高くって唇許《くちもと》が可愛いから、それでなんか考えてんのかと思ったんだけど、ひょっとして、この人なんにも考えてないのかしら?)
「…………」
(やっぱりそうかもしれない)
「あのゥ、あたしがこんなこと話すと、迷惑ですかァ?」
「ううん、別に」
(やっぱり、なんにも考えてないんだ)
「三限は何とるんですか?」
(やっぱり、こういう話をしなくちゃいけないのかなァ?)
「三浦先生の統計学だけど」
(あーあ……)
「あんなの面白いですかァ?」
と私。
「まァね」
と彼。
(やだ、こんなのつまんない!)
「先輩、女に興味ないんですか?」
(あたしも何訊いてんだろ)
「どうして?」
(やだ、ひょっとして、そういうことだってあるかもしれないじゃない?!)
「どうしてって……、女の人の話、聞かないからァ……」
「そうかなァ」
(ひょっとしてこの人って、すごい女|蕩《たら》しなのかなァ)
「私って、あんまり魅力感じません?」
(どうして私は身の上相談をするんだろう――ほとんど情ない)
「そんなことないんじゃない?」
(あなたはどうなの?)
「ああ、お腹空いたね」
(何言い出すのよ!)
「先輩まだ御飯食べてないんですか?」
「うん。さっき来たんだ」
(この人は、埼玉県の川越から、二時間かけて通ってる!)
「タフですねェ」
「別にそんなことないよ」
「今日何時に起きたんですか?」
「八時だけど――」
(あーあ、結局すべてはこうなって行く)
「日常って、やっぱり大変だよね」
(そんな話、聞きたくもない……)
24
私は、恋する少女が下手かもしれない。でも、それだったら、私の相手役がもっともっと下手クソなのはどうすればいいの?
私にやり方は分らない。分っているのは、不自然なことは自然になんかならないっていうことだけだ! 不自然だって分ってて、不自然を不自然のまんま、自然だなんて思いこむことは出来ないもんね、っていうことよ。
そう思ったら途端、私は自然になった。
自然になった途端、あたしは、田中くんの前で落ちこんだ。
落ちこんだら途端、「俺のことが好きなの?」って、田中くんが言った。
目の端が異様に、明らかに違ってた――。
「今日、これからいい?」
田中くんが言った。
なんて自然に言うんだろう。
あたしは自然が恐ろしい。
あたしはコクンとうなずいていた。
あたしは一体どうなるんだろう?
人生なんて分らない! あたしはやっぱりバカなんだ!!
25
胸騒ぎの街角ってこういうことだと、あたしは思う。早稲田の昼休みって、十一時半から十二時半までなんですよね。他の昼休みよりちょっと早いの――。だから十二時半の街角って、まだ人がドンドン大学に向かっているんですよね。あたしが大学に来て嬉しかったのは、大学っていうところが、いつだって人の流れとは逆の方向に歩いてってもいいっていう自由があるってこと。
何をもって回った言い方してるのかというと、十二時三十分のあたしと田中くんは、難民達の群れをかき分けて自分達だけのドラマを追い求めて行くロシア革命の中のウォーレン・ビーティとダイアン・キートンであったというか、ドクトル・ジバゴとラーラであったというようなことを遠回しに……(どうしてこういうことを平気で言える人がいるのか、私にはよく分らない)。
田中くんはあたしの手を引っ張って、戦火を逃れて早稲田大学の方になだれこんで来る難民の群れを掻き分けて進んで行った。早稲田を脱出するには坂を上らなけりゃならないからこの比喩は適切だった。なにしろ田中くんて人は「行こう!」って言ったきり(エクスクラメーション・マークがついてたかどうかは分らない。私の願望でビックリマークがついてるという説もある……)あたしの手を引っ張って、トットと歩いて行くので、あたしとしてはどこへ行くのかがさっぱり分んなかったから。
26
大学を抜けて、坂道を抜けて、早稲田の古本屋の並んだ古い街角を抜けて、汚い古い街角を曲って、辺りがどんどんパリの街角に変って行くのであたしは困った。嬉しいとは思えなかったのがあたしの欠陥ではないと思うけど、ともかく、辺りがパリの街角に変ってくなんてことは正直言って考えてみたこともなかったので、だから正直言って、困った。
着いたところは古い下宿屋で、木造の、アパートみたいなところです。パリの街角に日本人専用旅館を発見したみたいにホッとして――でもホントは汚いだけなんだ。
汚いジョギングシューズが玄関に転がってて、「ああ、ニッポンだから見たくない」と、あたしは思って、あたしはほとんど、風のようにロシア革命とカルチェ・ラタンを駆け抜けて来て、「何するの?」とも訊けないから、「何するの?≠ニも訊けないことをするんだろうなァ」と思ってて、なにしろ、「何するの?」って訊けないことをするんだろうから、「何するの?≠チて訊けないことをするんだろうなァ……」と思うしかないので、「それは多分間違っていない」としか思いようがないのですと思ってた。
田中くんはセカセカと、玄関先で靴を脱いで――それは、立ったまんまカカトだけをこすり合わせて靴を脱いじゃうという、男の子特有の、もしくは特権的なやり方で――「ちょっと待って」と言った。
「ちょっと待って」と言って、すぐ、「ちょっと来て」と言って、「どうしたらいいのかな?」と思ってる私をおいて、そのまんまトントントンと、階段を上って行ってしまった――しまいました。
私は、体臭だけが残っているような靴の海に一人佇むお姫様をやっていてもしかたがないので、ともかく「来てもいい」と言われたことだけは確かだと思って階段を上って行った。
二階の廊下には人がいなくて、田中くんの下半身だけが見えて、下半身だけだったので、あれが田中くんかどうかはよく分んないなとも思ったけど、カマトトやっててもしようがないから、そっちの方へ上って行った。
要するに田中くんは、二階の一室のドアを開けて、そこに立ったまんま上半身だけを突っ込んでなんかの交渉≠していた、という訳なのです――でした。
27
「ダメだって」と言って、田中くんはすぐに出て来た。
「風邪ひいたんだって」と言うもんだから、あたしは「何が?」って言った。
あたしが「何が?」って言ったもんだから、田中くんは得意そうなのとバカなんじゃないのっていうのをゴッチャまぜにしたみたいな顔して、「決ってんじゃない、部屋借りるんだよ」って言った。
「だって、好きなんでしょ?」って田中くんは言うんです。
私がコクンとうなずいたことは言うまでもありませんけど。
言うまでもないけど、どうして私がコクンとうなずいたのか、そしてそれがどうして言うまでもない≠フかは、どう考えてもよく分らない。
「もう一コ、遠いけどいい?」って田中くんは言った。
私にはいけない理由はなんにもないと思えたので、やっぱりコクンとうなずいた。うなずいたけど、やっぱりそれがどうして言うまでもない≠フかはよく分らない。
「じゃ、行こう」って言って、田中くんはタッタッタッと、階段を下りて行った。
私もコクンとうなずいて、やっぱり階段をタッタッタッと降りて行った。
私が、何が嬉しかったのかというと、修学旅行の時みたいに、男の子の後をタッタッタッと降りて行けたのが一番嬉しかったんじゃないかと思います。
あたしってヘンでしょうか?
へんでしょうね。
田中くんは、もう靴を履いています。足だけひっかけて、靴の海をかきわけて、入り口のところでスニーカーのかかとを直しています。この人のスニーカーがグリーンで、パンツもグリーンで、シャツもおんなじようで、少し違ったグリーンで、ヤツデの葉っぱの植え込みの前で、片脚ずつテキパキとかがめているこの人は、やっぱり素敵なんだと思いました。
彼は、グリーンが似合う人だったんです。
そう思いました。
「おいでよ」
外の光の中で彼が言いました。
私はやっぱり、コクンとうなずきました。
私としては、何するの?≠チて訊けないようなことをするってことは、何するの?≠チて訊かないですむような態勢を作っておく以外にないんだとしか思えなかったんです。
28
「どこ行くの?」
あたしはその、下宿屋だかアパートだかの前で田中くんに訊きました。ひょっとすると私は、「どこ行くんですか?」って田中さん≠ノ訊いてたような気もします。
よく分んないんです。
混乱してたことは確かだと思うんですけど。
「江古田だけどいい?」って田中さんは言いました。
なんとなく気分は、田中さん≠ノ統一されかかってました。
「いいですけど、なんですか、江古田って?」ってあたしは言った。
「友達がいるんだよ」
田中さんは言った。
「友達って、江古田?」
要するに私は、唐突に出て来た江古田≠チていう地名にまごついていただけ。
「うん。通学区間の一種だよ」
田中くんは言いました。やっぱりこういう時は田中くん≠ナす。
「?」
私はなんだかよく分んないから、顔の真ン中にクエスチョンマークをはっつけていました。
「だって俺、新宿線じゃない、西武の」
田中くんはそう言いました。
「あ、そうか」と私は思いました。思いましたけどよく分らない。
田中くんは、川越から西武新宿線に乗って高田馬場まで出て来て、それから大学に来るのです。
江古田は西武の池袋線だから、通学路の親戚だというような訳らしいのです。
通学路だからどうしたってことになると全然分んないんだけど、私はともかく「あ、それで江古田か」とか思ったんで「あ、そうか」と思っただけなんだけど。
(だからなんだっていうんだろ?)
「家帰るんですか?」
あたしは田中くんに言った。
「どうして?」
田中くんも言った。
言われてあたしは、「別に」って言った。
なんとなくあたしはその時に「ひょっとして、あたし達がこれから何するの?≠チて訊けないようなことをするっていうのは、あたし一人の思いすごしなんじゃないか」って思ったから。
それくらい、よく分らなかった。
あたしは、「男の子ってよく分らないんだ」って、そのことだけはなんとなく、しっかりと分り始めて来たようだった――。
29
それから、あたしと田中くんは、やっぱりよく分らなかった。
それからあたし達は、西武池袋線に乗るべく、高田馬場を目指して歩き始めた。陽はまだ高かったし、そんなにセカセカする必要はなかったし、第一あたしは、「これからやりに行くんだ」って気分をかかえて、黙って二人で通学バスに乗ってるなんて耐えられなかったし、バスで二駅だったら歩いた方がいいし――。
歩きながらあたしは、田中くんにいろんなことを訊いた。もう一時は過ぎてたし、難民の群れの大学生は早稲田に行っちゃってたし、難民の群れのサラリーマンは会社に入っちゃったから――。
高田馬場の駅へと続く道は、(なんとなく)大正時代からズーッと続いてガラーンとしているみたいな、哲学の雰囲気でした。
「いつも友達の部屋借りるんですか?」
私はそう言った。
あまりにも唐突で、あまりにもダイレクトではあったけれども、結局そういうことなんだなんてことはもうあたしには分り切っていたので、いまさらカマトトブリッ子しててもしようがないと思って――という理由もなくて、なんとなく私は、そういうことを言えてしまったんです。
「うん、安いでしょ」
田中くんはそう言った。この田中くんは、ニコニコ笑っている、坂の途中に机を並べて新入生を勧誘していたあの野草の会の田中くん≠セった。
あたしはこの時、(ヘンな話だけど)、「一体この人のあそこってどんなになってるんだろう?」って、そう思った。
なんか、異様に大きいとか……。
(え?)
なんか、グリーンのパンツの下でエレファントマンが象さんしてるとか……。
ジャングルの象さんはお天気のいい日にはお散歩するし、とか……。
なんか、そういう感じで――。
可愛い顔してんだけど、あの、「俺のこと、好きなの?」って言った時の、強姦してやろうか?≠チて言ったみたいの一瞬の熱っぽさっていうのはどこ行っちゃったんだろう? っていう感じで――。
「うん、安いでしょ」っていう言い方は色々にとれるけど、結局何を言っているのかというと、そういうことは当り前の日常だということで、だから色々にとれる≠ニいうことは、そういうことを当り前の日常だとしているこの人のことをあたしがどうとらえるかということでしかない訳で――。
あたしもメンドくさい。
となるとあたしも当り前になるしかない。
「友達はなんにも言わないんですか?」
あたしは言った。
「なんで?」
田中さんも言った。
「だって、女の子を、連れ込む――えっと、訳でしょう?」
「そうだよ。そう言いたいんならね」
「別にそういう訳じゃないけど――。ただあたしは、自分の友達が、なんていうか、そういう――セックスフレンドでしょ? 言ってみれば」
「そういうことになるのかもしれないけどねェ」
と言って田中さんは空見てる。
「かもしれないけど――」なんなのか、あたしは訊きたいんだとしたらそれが訊きたい。
あたし達はもう既に、一気にセックスフレンド≠ニいう言葉が使える関係になっていて、率直に言ってしまえば、まだ寝てもいないのにっていうことだけど――。
じゃ、やろうか≠ニいうことは「じゃ、行こうか」という言葉に隠されて、やりに行く≠ニいう行為は明らかに「やっている」という行為を表わして、やっちゃった≠ニいう行為は「ダメだって」という言葉で象徴される。誰かが風邪引いて寝てると、あたし達はなんにもしないでもセックスフレンド(という言葉が使える関係)になれている。( )の中は、必要もないけど明らかにそうだという内容で――(ああメンドクサイ)。
要するに私はよく分らない。
分らないことがいやだということではないっていうことだけははっきりしてる。
ともかく、なんだかよく分んないけど、高田馬場に向って歩いているあたし達(と言えるような組み合わせ)の内のあたしは、その状態を気分がいい≠ニいう言葉を使ってもいいような気分でいる。
(ああメンドクサイ)
要するに気分は、悪くないんだ(と思う)。
あたしは、田中くんと歩いていて、あたしの知らないまんまになっていた左半分が、いつの間にか子供から大人に変ってしまっていて、あたしが知っていると思っていた、大人になっていた右半分が、新しく大人になった左半分に追い抜かれて、「ああ、ウブだったのねェ」って引っくり返ってくような気がする。ウブなのか、バカなのか、中途半端なのか知ったかぶりなのか臆病なのか生意気なのか、よく分んないけどそんな風な言葉で言い表わされるような、中途半端に大人びてしまっていた部分が、もう時代遅れになったのが分って、引っくり返って行く――。
新しい左半分は、不安だけどしっかりしている。古臭い右半分は、ぶっ壊れてくけど小気味がいい。
歩いてくたんびに、あたしの右側には古い石膏のかけらがボロボロ落ちてくみたい。
森に行くヘンゼルとグレーテルの跡みたいに、あたし達の通った後には、どこからかは分らないけど、ある所から確実に、古い石膏のかけらがズーッと続いている。
そんな気がする。
そんな気がした。
「あのね」
あたしは口の中でそう言った。くん≠ゥらさん≠ノつながって行く為には、口の中で一応、「あのね、田中くんサァ」という、予行演習をするような必要がある気がして――。
(あのね、田中くんサァ)
「男の人って、そういうこと、平気なのかもしれないのね」
「どういうこと?」
田中くんは言った。
「どういうこと≠チて、友達が女の子連れて来ること――」
あたしは言った。
「部屋貸せ、とかって」
「どうしてサ?」
田中くんは言った。
「どうして≠チて、だって、そういうのは男の友情なんでしょ?」
あたしが言ったら田中くんは言った――不思議そうな顔して――
「あいつがバカなだけだぜ」
「あ、そう……」――あたしは思った。
訳の分んないことは訳の分んないまんまにしとく方がりこうだ。
それだけのことだ――。
30
江古田には日大の芸術学部――略してニチゲーがあって、学生ばっかやたらいる(という訳でもないかもしれない――早稲田はやたらにいるけどサ)。
あたしとしては、こんなところに大学があるということは、ほとんど、軽井沢に大学があるようなのとおんなじだ。
私鉄の駅前が大学で、そこが直接住宅地だなんて、まるで、木の穴を入るとハートのクイーンが住んでる不思議の国のアリスだ。
あたしだってこういうところの大学に入ってたら、こういうところの大学生になっていたろうなって、ただそれだけだ。
西武池袋線の黄色い電車の中で(知らない電車に乗るのはいつでも不気味で新鮮だ)、風邪を引いて寝てる、汚い下宿のバカなだけ≠フ学生である、田中くんの友達のことを考えていた。
顔洗ってなくて不精髭でパジャマ着てる大学生は、バカなだけで風邪引いてるんだったら、そこに行って「部屋貸してよ」って言う田中くんはサラ金の取り立てみたいだけど、でも、そうだったらサラ金の方がいいな。借りるバカより貸せる悪人とか――。
今度の人もバカなだけ≠ネんだろうか? あたしはやっぱりよく分らない。
あたしはともかくやりに来たんじゃなくて、電車に乗ってフキノトウを摘みに来たんだ(時期じゃないけど)。
そういう野草の会だって、あたしは思った――。(それが一番考えやすい)
あたし達の目的地は商店街をすぐ抜けたところにある、大きな樹に囲まれたマンション≠セった。
あたしは野草の会≠セけど、草が一メートル以上になるとなんだかよく分んなくなる。それは多分ケヤキなんじゃないかと思うんだけどよく分んない。
大きな木が枝一杯広げて緑でアパート全体を包んでる。学生街の大学生≠チて、こういうところに住んでるのかと思った。
二階建てのマンション≠トいう看板のかかったアパートだった。
二階の階段――今度は建物の外にある鉄の階段だった――を上がる時あたしは田中くんに訊いた。「ねェ、留守だったらどうするの?」
「いるに決ってるよ」って田中くんは言った。
あたしはどうしてこの人がこんなにも確信に満ち満ちているのかよく分らない。「≪ナニナニ≫じゃなかったら―→どうしよう?」っていう発想がこの人の中にはない。ないみたい。それがあたしは好きなんだろう――……。
あたしは、途中で駅前のマクドナルドの前通る時に、
「この人はお腹すいてるって言ってたけどどうしたんだろ?」と思った。
思っただけでなんにも言わなかったけど。だって、まだなんにもしてないのに「お腹すいてないの?」なんて訊くの、もう学生結婚して十年も経ってる女子大生みたいでいやじゃない。
あたしそんなこと出来ない。
だから黙ってて、アパートまでの間、ズーッとそのこと考えてた。「この人、お腹すいてるって言ってたのにどうするんだろ?」と思って。
(結局あたしは逃げたいのか?)
だからあたしは、マクドナルドが消えて、喫茶店が決定的になくなったところに来て訊いた――「ねェ、お腹すいてないの?」
そしたらこの人は「うん」て言った。「うん」て言ってそれだけ。「うん」て言ってすぐ、「ここだよ」って建物を指さした。
ここの二階≠セってことは、田中くんが階段を上りかけて初めて分る。だから私は「ねェ、留守だったらどうするの?」って言った。
「ねェ、留守だったらどうするの?」―→「いるに決ってるよ」
「ねェ、お腹すいてないの?」―→「うん」
そんだけ。
そんだけでサッサと先へ行ってしまう。あたしはひょっとして、この人にうっとうしがられてんのかもしんないと思った。
二階の廊下で、テラス式の廊下で、そこからはすぐ西武の池袋線の電車が見える。あたしは、ひょっとして、うっとうしいこと言い出して、メンドくさいこと言い出して、それで田中くんに嫌われて、それで田中くんにみせしめの為にアッチコッチ引っ張り回されて、それで結局は「バカ!」って言われる為だけにこんなとこに連れて来られたのかもしれないって思った。
あたしはいつだって不安だ。不安なのは誰のせいでもないけど、不安なのは誰かのせいだって、やっぱり思う――。
あたしの体の右半分は崩れてなくなったけど、でもその崩れた右半分はまだ残ってて、残った右半分の一部がジクジクと腐っていたのかもしれない。
「あたし、帰りましょうか?」って、あたしはその二階の廊下で、キビキビ動く田中くんに訊いた。
「どうして?」
田中くんは言った。
ただキョトンとしてて、でもそのキョトンとしてる目は、あたしがなんかヘタなことしたら、すぐ「バカだな」って言いそうな目だった。
だからあたしは、あわてて「あ、別に――」って言った。
言ってやっぱり、「バカじゃないの?」って田中くんに目で言われた。
あたしがこの人に「バカ」って言われたのは、この時が最初だ。
目で言ってこれだけなんだもん、口で言ったらもっとすごいだろうなって、あたしは思った――。
31
ドアを叩くと、中から人が出て来た。
もう、何しに来たのか分らない。
ドンドンてドアを叩いて「いるウ?」って田中くんが言って、「おゥ」って声が中から聞こえて、田中くんがドア開けようとしたら鍵がかかってて、しばらくしたら人が顔を出した。今まで眠ってたというようなのが明らかな顔だった。
眠ってたのは明らかだけど、こういう人なら眠っててもいいなと、私は思った。
角刈りで、短パン穿いて、Tシャツ着てた。Tシャツの胸はヤシの木で、サーファーやってる運動部って、どういうのかはあたしに想像もつかなかった。
サーファーの運動部は顔出して、「なんだまたかよ」って言った。両手を短パンの中に突っ込んで、ボリボリとお腹をかいた。よく知ってるような気もするけど、よく考えたらあたしは、こういう人とはほとんど関係のない世界の住人だったんだ。
そのサーファーの運動部(かどうかは知らない)は、ドアのアルファベットによるとTOSIKURA≠ニいう人で、その人は、「ちょっと待ってろよ」と言って、すぐ引っ込んだ。そして、引っ込んだ時に私の顔を見たことはいうまでもない。
あたしは、「なんか思ってるだろうなァ」とは思ってたけど、「なんか思われててもどうしようもないしなァ?」と思って、別に下向いたりする訳でもなかった。だって、なんか思われてるだろうけど、でもその運動部のサーファーが何思ってるか分んないもん、て。
あたしはドアの前で「友達なんですか?」って、田中さんに訊いた。
「うん、中学からの友達なんだ」って、田中くんは言った。ニッコリ笑ってたことは言うまでもない。あたしは、ひょっとしてこの人、ホントは女になんかは興味がないのかもしれないとやっぱり思った。
「やっぱりバカなんですか?」
あたしは余計なことを考えたくなかったから、小さな声で田中さんに言った。
「どうして?」
田中さんは言った。
「だって、女の人に部屋貸すのって――あ、違った――要するに、そういう目的で部屋貸すのって、バカだからでしょう?」
あたしは、早稲田の下宿屋の例をふまえてそう言った。
「どうして?」って田中さんは言って、「あいつがバカだっていうだけだよ」って、田中さんは早稲田の方を指して言った。指してというのは、勿論頭の中でだけど。
あたしはひょっとしたら、田中さんに「バカだ」って言われるのは二回目じゃなくて、三回目になるのかもしれないって思った。
「あいつがバカだからサ」って高田馬場の路上で言った時、そのあいつ≠フ中には、ひょっとしてあたしも含まれていたのかもしれないって、そう思った。
もう、後へは引けない。
32
サーファーの彼は出て行って、あたし達はすぐ中に入った。「ひょっとしてあたし達は、一体こんなところで何を待ってるんだろう?」って、よく考えたらその答はかなり恐ろしいものになるであろうような疑問は、だから、あんまり頭をかすめなかった。
あんまりかすめなくたって、一瞬かすめればそれは十分なような気もしたけれど。
部屋の中は男の子の部屋で、さすがニチゲーの男の子で、部屋の中は『HOT‐DOG PRESS』だった。
だったけどあたしは、一人暮しの男の子≠チていうのは、あんまり考えたくなかった。どっかで、「俺の部屋に入るなよ!」って言ってる一人暮しの男の子≠フ姿が頭の隅通ってった。
「最近、一人暮しを始めた男の子がいたんだ」って、あたしは思った。それが誰だかは分んなかったけど。
田中くんが、シャツの前ボタンをはずして、シャッとカーテンを閉めた。
「脱ぎなよ」って、普通に言った。
あたしは「うん」て言って、「なんの為に服を脱がなくちゃいけないのか――そういうことは少し考えなくちゃいけないような問題を含んでいるのかもしれないな」と、言葉にすればメンドクサくなるようなことを考えてた。
何故考えてたのか?
何故田中くんがカーテンを閉めたのかと、関係があるかもしれない。
というのは、何故TOSIKURA≠ュんがカーテンを開けてったのかということもあるからだというのは、あたしが、裸になって田中くんに抱かれて、TOSIKURA≠ュんのベッドに横になっていた時、カーテンの向うでは窓が開けっ放しになっていたからだけど、でも、そんなことを考えるのは、もう遅すぎる――。
33
あたしは、田中くんの胸に抱かれて、ベッドの横にある、あたしの脱ぎ捨てた洋服の山を見てた。
キャメルのキュロットパンツとキャメルのトレーナーと、薄いブルーのストライプの入ったシャツブラウスと、白のブラと、ネイビーブルーの、ストライプ入りのパンティーと。
「私は、なんにも考えないで全部脱いだんだ」――そう思って、まるで、時間以内に書き上ってしまった試験の答案をもう一度見直してるみたいにして、見てた。
田中くんはさっさと全部脱いじゃって、「おいでよ」って言ってベッドの中に入ってった。毛布だけかけて。
「さっきまで男の人が寝てたベッドに裸になって入ってくってどういうことなんだろう」って、あたしは、その田中くんのベッドに入ってく時の一瞬に見たお尻の割れ目を見て、そう思った。「女だったら妊娠しちゃうかもしれない」とか――。
あたしはどっかで、なにかいたたまれないような恥かしさを感じて、あたしがなんかするんであっても間違えたことはしたくないと思って、ベッドの横に散らばっている――しかも枕許の方に散らばっている田中くんの服の塊りを見て、素早く、白いブリーフもそこに乗っかってるのを見て、そっと、パンティーを脱いだ。
「これで間違ってないでしょうか?」――そう訊きたいと思ってベッドに入った。
ベッドに入って顔を埋めて、あの人の腕が、あたしの腕の間を通って、胸の横を通って、下から背中に回されてくのを、待ってた(感じてた?)。
もう片一方の手は頭を撫でてて、あたしは、なんか言ってもらえるかなと思って、黙って、田中くんの体に、腕を回して待ってた。
誰だって心臓の音がするんだって思ったのはもう少したってからで、あたしの、あまりにもドキドキする音と、田中くんのあまりにもドキドキしない音とは、しばらくの間、どっちもあたしには感じられなかった。
感じられなかったからあたしは、自分の脱いだ服の山を見てたのかもしれない。背中からは外の風が吹いて来て、このまんまなんにもしなければいいなって、思ってた。
思ってただけで、キスだけはされたいなって思ってた。女の子だから。
でも、田中くんは、髪を撫でてた腕に力を入れて、あたしを、そっと引っくり返した。
「初めてなの?」って、あたしに言って、あたしは、なんにも考えないで頭を振ってた。
田中くんの目がケゲンそうなのも見てたし、あたしが頭を振るのだけ一生懸命なのも見られてた。
田中くんは、あたしの首筋に唇を埋めて、あたしの耳の後に唇づけをして、あたしは、天井に貼ってある早見優の水着ポスターを見て、「ああ、目をつぶらなくちゃいけないな」と思って、目をつぶった。
34
「前はどうだったっけ?」って、あたしは、目をつぶって考えた。
「胸、さわられてる」って考えたけど、胸さわられてるだけで、なんとも思えなかった。
「ひょっとしたら、この人はスゴーク上手な人なんだ」って、目ェつぶりながら、田中くんの複雑な指の動きを考えてた。
「すごーく上手なのに、あたしにはその上手さがよく分んないんだ」って――。
「大丈夫なの?」って、耳のそばで田中くんは言った。
「そうなんだ、あたしは目をつぶってても、その部分は起きてるんだ」って思って、あたしは目を開けた。
目の前には田中くんの眼があった。
「うん」てあたしは、目をつぶりながらそう言った。
来る筈のものがまだ来てなくて、危険なのか危険じゃないのかよく分らない。毎日体温計なんか挟んでる訳じゃない――。
私は大丈夫≠ネんだ。その心配はないし、出来たって、その心配は大丈夫なんだ。
醒井凉子のことなんて忘れてた。
その向うにいる、何人かの人間のことだっても忘れてた。
あたしはただ、目をつぶりたかっただけだ――。
35
目をつぶって、田中くんの指だけを感じてる。
「感じてる」と思ってる部分も眠りたい。
「眠ったら気持がよくなるんだ」
「眠りたい」
「田中くんのが、大きいのかどうかは分らない」
「だって、分らないもの――」
目をつぶっていると、お腹の中に太陽が上がって来るような気がする。
両手をつかまれて、首筋を押さえられて、お腹の中に、太陽が上って来るような気がする。
「私の後から声をかけないで」――どこか、そんな気がするからそう思う。
「私の脚は、田中くんの脚をつかまえててもいいの?」
「なんてすべすべした脚なんだろう」って、田中くんの脚を思う。
「何人、女の人を知ってるんだろう?」
太陽が日食になって、コロナだけは燃えて行く――。
36
「あたしは遂にキスしてもらえなかったな」って、田中くんがベッドの上に坐って、ティッシュペーパーを使っているのを感じて、そう思う。
あたしは横向いてかがんでて、あたし自身のティッシュペーパーを使っている。
「そんなことをされたら、私は永遠に田中くんより年取ってしまう」――そう思って、田中くんがもそもそ起き上った時に、あたしは横を向いた。
「お腹の上がたるんでいるのは、女の子だからしようがないよね?」
誰にも言えなくて、あたしは、あたしの手の中のティッシュペーパーさんに訊く。ひょっとしてそれは、この家の持主の、クリネックスの箱入りのティッシュペーパーの持ち主さんに訊いていたのかもしれない。
もうあたしは、知らない男の人のティッシュペーパーを使ったからって、うっかり妊娠しちゃうとは思えない。
「これ捨ててよ」
田中くんが、丸めたティッシュペーパーをあたしに渡す――。
「うん」て言って、あたしは受け取る。
あたしのと、田中くんのと、おんなじティッシュペーパーで、枕許のゴミ箱に(ポンと)捨てて、二度と会うこともないかもしれないこの部屋の御主人と、あたし達のティッシュペーパーは一つになる。あたしと、田中くんと、それからもう一人が同じティッシュペーパーを使って――。
それがどういうことになるのか、あたしにはよく分らない。
どういう関係≠ネのか――。
田中くんは、ベッドの上でニコニコ笑ってる。裸のまんまで、正座して。
あたしは、田中くんに対して、もっと邪悪なことが出来るんだって、田中くんの、裸の、きれいなお腹を見て、そう思う。
あたしは裸の女だー――。
でも、それはしてはいけないんだって、あたしは思う。だって、あたしの為に、田中くんはこういうことをしてくれたんだから――。
身動きがとれないのにジタバタしたがる時ってあると思う。
身動きがとれないからジタバタしたいんだろうけど――。
「ああ、腹減った!」
田中くんが言った。
あたしはやっぱり、この人が憎めない。
あたしに「ごめんね」って言わせてくれる機会を作ってくれるなんて、なんてやさしい人なんだろう。
「ごめんね」って、あたしは、お腹をすかした田中くんにニッコリ言った。
「へへへ」って田中くんが笑って、裸でいるのは恥かしいと、その時初めて私は思った。
37
外へ出て、鍵かけて、かけた鍵を、窓のすき間から放りこんで、外へ出て、歩きながら田中くんが言った。
「そんなにひどい失恋したの?」
「そんな訳じゃないんですけど――」
そう言って、言ってしまった後で、あたしは何を見すかされたのか分んないけど、何かを見すかされてドギマギした。
「フーン……」て田中くんは言って、「あー、腹減ったなァ」ってそう言った。
田中くんは、太陽とお話ししてただけだ。
あたしは、ドギマギして、「一体何を見すかされたんだろう?」と思って地面さんに訊いた。
地面さんがお話ししてくれる訳でもないけど。
「ねェ、腹減らない?」って田中くんが言った。いつまでもジクジク考えてたら、この人とは付き合えない。
「すいたけど」ってあたしは言った。
「すいたけど、まだあたし、食べたくはないんです」って、そう言った。
そう言ったら田中くんは、「そう、俺、朝からなんにも食ってないから腹ペコでサァ」って言った。
この人が俺≠チて言うと一番可愛い。
「ねェ、ここで食ってかない?」って、目の前にあったラーメン屋さんの前で言った。
「あたし、帰ります」って、そう言った。
「そう」って、田中くんも言った。
「だって、恋人≠ノなっちゃいけないんでしょう?」って、あたしは思った。
「じゃァね」って、田中くんは、ラーメン屋さんの戸を開けた。
あたしはペコンておじぎして、「あたしは、オバサンになんかなりたくないもん」て、そう思った。
一緒に御飯食べるのなんて、一緒にセックスするのとおんなじだもん。あたしにはまだ、そこまでは割り切れない。(かたくなかもしれないけど、図々しくはなれない)
一緒に入って一緒に坐って、もう十年も一緒に暮してる夫婦みたいに、あたしは田中くんの世話を焼くんだ。
世話を焼いて、それを見ていて、田中くんは、「しようがないな」と思って、あたしに世話を焼かせるんだ。
あたしはつまらない世話を焼いて、あたしはつまらない世話を焼く女だと気の毒がられて、気がついたら田中くんはまた別の女と寝てる。
あたしはそうやって年を取るんだ。
年を取って、図々しくなりたかったら、図々しくなって醜くなりたかったら入っておいでって、そう田中くんは絶対に言ってた。
あたしには、そこまでの自信はないもの。
あたしはバカだから、田中くんにすがって、田中くんは(なんでだか知らない)、あたしを拾った。
なんであの人がその瞬間目をギロッとさせたのか、あたしにはよく分らない。
あの人は多分、すごく冷たくてやさしくて、恐ろしい人なんだ。黙って恐ろしい人になっちゃうから、それでとっても恐ろしい人なんだ。
なんにも言わないけど、あの人はサッサと行っちゃう。サッサと行っちゃって、それが間違ってることは一度もない。それに乗り遅れたらバカなんだ。
あたしは、そこまですごくなれる自信が全くない。
ないのに、ついてって甘えるほどバカではない。
あたしだって、それだけは分るんだ。
五月の空は天気が良くて、学生街には、暗い女は似合わない。
あたしはあの、スポーツ刈りのサーファー野郎に、また会いたいなと、そう思った。
38
知らない電車を、一人で帰るのは、つらい。つらい≠チて言い切るのは嘘かもしれないけど、でも、なんか落ち着かない。うまく写ってる自信のない自分の写真を、ズーッと人前に並べられてくみたいな気がする。
緊張して乗って来たのに、その緊張が帰り道は、蛇の脱け殻みたいに、みっともなく、電車の中に落っこってる。
「一体ここはどこだろう?」と思って「わざわざ来た通りの帰り方しなくたって、別の帰り道見つければ家に早く帰れるのに」って思ったって別の帰り道が見つからなくて、「ヤーイ」って誰かに笑われるかもしれないなって思いながら、ヨタヨタと来た通りに帰るの。
「しようがないから池袋に出よう」と思って、一人でお財布開いて、それで、「あ、一緒に御飯食べよう」って言われて、素直に「はい」って言えなかったのはこのせいだって気づくの。
「あたしはあんまりお金がないんだ」
「何ふらふらしてたんだろう?」ってあたしは思う。「サッサとバイト見つけなくちゃ」って。「そんなことしてるからつまんないこと考えるのよ」って。そしてあたしは唐突に、すべすべしていた田中くんの裸の脚を思い出す。
思い出して、さっき自分は何をしていたのかって――。
何か熱いものが体のどこかにあって、どこかにあることは分ってるんだけど、それがどこだかは具体的に分らないの。
パッと目をつぶると、田中くんがあたしの横で裸になって正座してたのが飛びこんで来る。
あたしはうっかり笑いそうになって、電車に飛び乗って、男の子のあそこばっかり見ている自分に気がついて、
「あたしはこの大学に来たい!」って唐突に思う。
蛇の脱け殻電車に乗って吊り皮につかまって、あたしは、それがやって来たのをお腹で思う――「まだだめよ!」
まだあたしは、電車の中にいるんだから――。
レッツゴー桃尻娘
1
あたしがその人に会ったのは、意外や意外、その次の日の午後だった。
その人≠ニいうのは勿論、スポーツ刈りのサーファーの(あたしはこう書いているけど、彼がサーファー≠ナある確証はどこにもない)、あの、田中くんに部屋を貸したバカじゃない&のTOSIKURAくんだ。
あたしは彼が江古田に住んでいるから日芸の学生だと思ってたけど、意外や意外、彼はなんと、早稲田の法学部の学生だった。
こういう場合、あたしはどういう顔をしたらいいんだろ? ただのスケベ娘だと思われてればいいんだろうか?
でも、しかたがないのは会っちゃった。
あたしは別にスケベ娘じゃないから、会った時にはスケベ娘の顔をしてなかった(ごめんなさい)。
でも、会った途端にスケベ娘になりそうだったからあたしは困っちゃっただけなのだ――と言ってしまったら可哀想――。(こまったもんだわ)
あたしは大学をウロウロと歩いてた。
なんでウロウロと歩いてたのかというと、それはきっとあたしがウロウロとしていたからだ。(突然バカになりました)
あたしは学校行って――大学生が学校行って≠烽ネいもんだけど、でもホントだからしようがない――いつもとおんなじように、知ってる子に会ったら話してて、知ってる子に会わなかったらそのまんまにしてて、昨日の今日だから、なんだかあたしがその日に限ってラウンジ≠ノ顔出さないのもヘンだと思って、とかヘンないきがりを出して行ったら、その日は田中くんが来てなくて、いないのはひょっとしたら昨日喰べたラーメン屋の餃子のせいに違いないと、かってに食中毒を確信して、早い話が手っ取り早く、あたしはウキウキしていた(というか妙にフラフラしていたというか、やっぱりウキウキしてた≠フが正解かな?)ので、「この調子なら絶対、男はものに出来るんだ!」なんてことを考えていたのでした。(ゴメンナサイ)しかし、あたしも現金。
やっぱりそういうもんなんでしょうか、女って? なにしろ昨日は男とお客さん≠ェ一緒に来ちゃったもんだから。何がフフフ≠ゥ分んないんだけど、やっぱりあたしはウフフで外を歩いていたのです。
二限で語学があって、四限でイギリス小説史≠ネんて講義があって(あたしは全然、心理学していない)真ン中が空いてたんです。空いてたから、もし昼休みに田中くんが見つかったら「戸山ハイツ(文学部の裏にある)の方に野草でも見に行きません?」とか言って、ロマンチックなことしようかなァとか勝手に思ってたんです。なんか、やっぱりドギマギしてたから、そういう理屈でもあればラウンジ≠ノ顔を出せるな、とか思って――。(やっぱりあたしだってウブなんですよ)
そしたらやっぱりいないから、なんかあたしは養老院≠ノいるのもやだしと思って、「そうだ、あたしにはもっと広い世界が待っている!」とか思って、図書館に行ったんです。
普通、図書館ていうのは別に調べ事がある時じゃなかったらあんまり明るく行くとこじゃないんだけど、なんかあたしは、「そうだ! ジョイスなんか原書で読んじゃお!」とかバカなことを考えて、ドカドカ本部≠フ方に行ったんですね。
「ジョイス読んでたからって、別に男に嫌われる訳もないや!」とかって確信して。「男はこの世に一杯いるし」と思って、それで意気揚々と行ったんですね。(男あさりに行ったのね)
図書館てのは、政経・法・商と、やたら男ばっかいる本部≠フ中にあって――やっぱりあたしどっかおかしいのかな? ――まァいいんです。とにかくそうなんです。
とにかくそうなんですけど、やっぱりそんな時に本なんか読んでたって面白くもない訳で、あたしはとにかく、目立たないように――しかしなおかつしっかり目立つように、椅子をガタガタさせたり頬杖を一生懸命一杯突いたり、色々やってて、遂に自己嫌悪に陥るまで自意識過剰をやってた訳です。
(辞書引いて本読むのなんてかったるいんだもん! 図書館にいる男はみんな暗いしサ! 暗くなかったらセーケツだしサ――マァいいけど)あたしは何をしに行ったんでしょう?
そんな訳であたしは「やっぱり、こういう時は一人で、大学の裏にでも行って、こっそりと名もない野の花を見てるのがよかったのかなァ……。あたしはすぐ調子に乗るからなァ……、根拠ないのにィ……」とか思っていたりする破目に陥ってしまったのでした。四限の始まる二時前には、二日前の暗さに逆戻りしていました。「イ≠フ字で始まる××くんは何してんだろう?」のかわりに、「田中くんて何考えてんだろう……?」とか……やっぱり女の赤い血は呪われてるんだわ、とか。あわてて、池袋の駅に着いたらトイレに飛びこんだりとか。ロクなことなんて思い出さない。ロクなことなんか思い出さないけど、でも、それで暗くなれるかっていったらなれないし……。
暗くなりたい時に暗くなれないのって一番つらいのかもしれない。「暗くなれたら楽なのにィ」という、甘え根性がいけないのかもしれないけど。
別に、トイレで暗い始末してたって暗くなんかなんない。「あたしの問題はあたしの問題だ」って、アプリケーターが教えてくれる。始まるまでは男の子の領域で、始まってからは女の子の領域だって、そんなことをあんなにも明らさまに教えられたことってないし。
朝日が昇ると元気になるとか、ドメスチックになると堂々とするとか。「ああ、あたしはもう女の子じゃなくて女≠ネんだなァ」って、そんなこと思った。
そう思ったことを考えてたら、暗くなんてなりきれない。
あたしの周りにあった、なんだろう? 人間の壁≠チていうのかな? ――そういうのが急にどっか行っちゃって、みんな、一人ずつ席を空けて読書をしている。そんな図書館冷蔵庫(詩になってる……)。
誰かに邪魔されてる方が生きてる感じはする。するってことは、あたしは年中、イライラしてるってことだ。
イライラしてるってことは、ほとんど、満員電車の中で「押されてたまるもんか!」って闘志燃やしてるみたいなもんだ。
そんな時なんか、ほとんど、痴漢の手が伸びて来るのを待ってる。「来たら切るわよッ!」って。
突然、満員電車がガラすきになったからって文句は言えない。だって、満員電車であることの方が異常だもん。
などということを、図書館の中で思っていたのでした。
(よく考えたらあたしは、ただしみじみすることがヘタなだけだ――)
2
たっぷりと冷房の効いたガラすきの電車から降りた時みたいに――しかもそれは、梅雨時で雨がジトジト降っていて十分に涼しい時であるにもかかわらず、さっきまで混んでいたからって冷房を入れっ放しにしていた冷房車から降りた時みたいであったのだが、突然に文学になってしまった――。
あたしは、石の階段降りて来て、図書館の裏にある八号館という建物は、地下に色んなサークルの部屋がフェリーニの『サテリコン』みたいにかたまっているところだから――ということは早い話が、こわい、暗い、気味が悪い、だがしかしなんとなく気になるお化け屋敷で、『原宿プラザ』に掘り出しものを探しに行く気分に似てる(セントラルアパートの下の)――「行ってみようかなァ」という気分になっていた。先生が講義聴きにいらっしゃい≠チて誘いに来てくれないんなら、あたし行きたくないなァっていう、気分になっていた。
裏に回って八号館に行って、「やっぱり、行きたくないなァ」って、石段の上に立っていた。
あたしは桃井かおりじゃないからそんなとこでお芝居は出来ないけど、でも、人の通る石段の上に立ってると、なんとなく、そんな気はして来る。
「ああ、こういう時に鳥の羽搏《はばた》きでも聞こえて来るといいなァ」って、ふっと思った。
空見上げて、晴れてるけど、「空が曇ってたらいいなァ」とかって。そしたらふっと、橋本治の『暗野《ブラツク・フイールド》』の舞台はここだったんじゃないかって思った。なんとなく、「そうだ、ここで鳥の羽搏きが聞こえんのよ」とか。「禿鷹が鳴いて古本屋が壊れるのよ」とか、そう思った。
そう思ったらその途端、「そうだ!」と思った。ヒマラヤ杉だってあるし、早稲田から高田馬場まで、坂はあるし、古本屋はあるし、「ああ、ゼーッタイ、『暗野』の舞台は早稲田なんだ」って、そう思った。
どうしてそういうこと気がつかないんだろ? これは絶対に新しい発見だわ。絶対そうなんだってあたしは思った。
禿鷹が飛んで、グチョグチョになるのよ。砂嵐なんだから。ほとんど『幻魔大戦』とゴッチャにしてるけど――。
「ああ、だとしたら、もぞもぞとウジ虫が這うんだわ」――そう思った。
「ウジ虫じゃなかったかな? なんか、ヘンな虫――気持悪いの(「そうだわ、あの小説は十分に気持悪い!)」って、あたしは思った。「あたしは当事者なんだから十分に気持悪いと思ってもいいんだわ」って、そう思った。だって、あたしのクラスメートが、気が狂って、頭からゴジラを出すかもしれないんだもん! 橋本治は、あれを「永井豪だ」って言ってたけど、あたしにしてみれば、あれは十分に吾妻ひでお≠セって思う。やっぱりあの人は、ちょっとおかしいのよ。
なんてことを思ってたら、頭からウジ虫を出す人がやって来た。
ヒドラの頭は九つ≠ネんていうけど、『暗野』の主人公は、頭にミミズを飼ってただけよ。文学≠セから、ミミズがヒドラになったんだわ――一瞬にしてそう思えるくらいに、その人は、頭にミミズを飼っていました。
はっきり言って、エクスクラメーション・マークが頭にミミズ飼ってたらこうなるって、そういうような衝撃でした。
あたしは初め、誰だか分らなかったのです。「この人ならミミズ飼っててもおかしくない」って思ってたら、ドンドン近づいて来て、「あれェ!!」と思ったというだけなのです。
「あれェ!!」がスポーツ刈でドンドン進んで行くので――あたしがいるのも気づかずに、二号館の横の門から入って来て、あたしの立ってる石段の横を通り過ぎて行くのです。だもんだからあたしは、「あのォ」と、その方に向って声をかけてしまったという訳だったのです。(恋すると、醒井凉子になるのかしら? いやだわ)(女って――)
あたしは「あのォ」と言いました。あの方は「?」という顔をしてました。それはほとんど「あのォ、アルバイトしませんか?」という、街頭ネズミ講の世界でした。
あたしは「あのォ」と言ったのですが、言ってどうするということは、実は全然考えていなかったのでした。どうして声かけたんだろうっていうことも、よく考えたら分らないでいたのでした。
さっき、冗談みたいに恋すると≠ネんて言っちゃいましたけど、それは本当だったと思います。よく考えるとあたしは多分、恋をしてたんだと思います。「この人に怒られたらこわいなァ……」という感情は――しかもそれが甘い期待であるような感情は、恋≠セっていうんじゃないかと思います。と同時、もしあたしが恋なんかしてたら、絶対に声なんてかけられなかったと思います。(思いますけど、よく考えたら声なんてかけるかもしんないな、とかは思います。思いますけど、でもそれは決して、「あのォ」というような声ではないと思います。「ちょっとあんた、なにしてんのよッ!」というような、ほとんどカツアゲのような声じゃないかと思います。あたし自分で分ってんです。困ったもんです)
まァ、あたしは、「この人に怒られたらこわいなァ……」っていうようなのがあったから「あのォ」だったんですけども(と思いますけども)、それと同時にやっぱしあたしは、「田中くんがァ……」というようなのもあったと思います。やっぱしあたしはこの時には、田中くんが好きなのかTOSIKURAくんが好きなのか、どっちがどっちなのかよく分らなかったっていうのが正解なんだと思います。
一人の方のは「もう知っちゃってるから好きになってるのかもしれないし……」っていう感じだし、もう一人の方のは、「まだ知らないから、だから好きだっていうのは知りたいっていうことかもしれないし……」っていうような感じで、まだ日本は生まれてなくて、世界はヌトヌトだったんです。
あたしが「あのォ」って言ったら、TOSIKURAくんは「?」でした。昨日はオレンジ色の短パンだったけど、出て行く時は白のGパンだったけど、今日は、普通のGパンに、オレンジ色のTシャツでした。昨日とは違うけどやっぱりヤシの木で、埼玉にもハワイがあるのかしらって、あたしは思いました。
そのヤシの木が少し揺れて(背が高いから胸しか見えない)、空の方から「ああ」という声が洩れて来ました。田中くんが高い声なら、TOSIKURAくんは低い声です。
「ああ、きのうの」って、TOSIKURAくんは言いました。
「はい……」ってあたしは言いました。まさか「覚えてますゥ?」とも言えないし。ねェ?
で、「はい……」って言いながら、あたしは|……《テンテン》部分で「どうしようかなァ……」という感情を盛り上げつつありました。テンが一ケ増えるたんびに、あたしは昨日のアパートの廊下での情景を、「一体あたしはあの時に何をしようとして待っていたのだろうか?」という後めたさ的感情を伴なって、体の中に思い起させていたからです。(ああ、うっとうしい)要するに、あたしは赤くなって・い・た。
3
「覚えてますか?」
あたしはしようがないから、蚊の鳴くような声を出しました。(だって、しようがないもん)
「ああ」と言って、TOSIKURAくんは、無表情にあたしの顔を眺めてました。
「この人は、木の幹が振動するようにしか声を出さない人だな」って、あたしは思いました。
「今日は田中は?」って、あの人は言いました。
「今日は会ってないんです」って、あたしは言いました。
「そう」って言って、あの人は、講義が始まるのに急いでる群れの中で、ちょっと迷惑そうに見えました。
あたしは、あたしの講義が始まるのなんてほとんどどうでもいいと思ってたんですけど、この人に迷惑かけちゃいけないなって、それだけは思いました。だってこの人は、迷惑そうな顔をしているワリには、「じゃァ」と言って、サッサと教室の方に歩いて行っちゃいそうなふりもしなかったからです。
あたし達は、一瞬、沈黙して立ってたと思います。その時あたしはどんな顔をしてたのか分りません。その時も分りませんし、今も分りません。あたしがヘンな顔してたのか、TOSIKURAくんがいい人だったのか、どっちだかよく分りませんが――多分前者だったように思いますが――TOSIKURAくんは、いきなりこう言ったんです。
「あいつのこと、あきらめた方がいいよ」って。
あたしは、「ヘェ?!」って思いました。ホントに、「ヘェ?!」って思いました。TOSIKURAくんは横向いてて――即ち、自分の進んで行く構内の方向いてて、向いたまんま、あたしにそう言ったんです。
あたしは「ヘェ?!」と思ったもんだからそう言いました。「ええ?」って。内心と実際とは、ちょっとだけ違うんです。
「あいつならやめた方がいいって」
TOSIKURAくんはそう言いました。やっぱりそっぽを向いたままです。
「あたし、あの――」
あたしは、自分の意志に反した言葉が素直に出て来るという複雑な状況にいました。
「あたし、あの、別に田中くん、好きじゃありません」
あたしが下を向いて言っていたのは、やっぱりその言葉を吐き出してしまうことがつらかったからだろうなって、そう思います――。なんでだかよく分んないけど。
4
多分、その時に方向が決ったんだと思います。どっちに行くか≠チていう方向じゃなくて、どっちに行かないか≠チていう方向が――。
多分、方向って一杯ありすぎたんだと思います。ありすぎたから、道だらけで、あたしの目の前はなんにもない空き地に見えてたんだと思います。
道を探すのって、道をふさぐことかもしれない。「そっちはもういいんだ」って。
一つふさいで、一つふさいで、穴だらけになってしまった壁をふさぐみたいに、一つずつじっと見て、ふさがってるのを確めて、「そっちにはもう行けないな」って思って、それで、多分道って、見えて来るような気がします。
だからあたしは――。
つらかったのか淋しかったのか、どっちだかよく分んなくてどっちでもあるような感じで、下向いてた・ん・で・しょう――。
ともかくあたしは言ったんです。「あたし別に田中くん好きじゃありません」て。
それ、ホントだったんだと思うよ。ホントにしちゃったんだと思うよ。その時にそうやって――。
そしたらあの人、あたしを見てた。
あたしも、いつまでも下向いてるほど田中くんのことを好きがってられないのが分ったから、顔見たのよ――。
「好きじゃないの?」
TOSIKURAくんが言って、「ええ」って言ってた、あたしは。
あたしは言ってて、TOSIKURAくんの目ェ見てて、TOSIKURAくんの目の中に、なんか感情を探そうとしてた。
探そうとしてて、TOSIKURAくんの目になんかが動いて、「あらいやだ」と、あたしは汗かいた。
「好きじゃないのに寝ちゃったなんて思わないで」って、あたしのモノローグは汗かいてて、「バカね、黙ってんのよ」と、あたしの理性は居直っていた。
どうしてあんなに平気なのかはよく分らない。多分あたしは、「自分は間違ったことしてない」って思ってたんだ。思ってたから平気なんだ。
ちょっとためらって、「そうなるとあたしは強いんだ」って、哀しい(?)顔して居直った。(居直るのはいつだって哀しい)
そう、あたしは平気で人が騙せる。
騙していいんだ、女だもん!
あたしの理性は高鳴った。
「あのォ、ヘンな風にとらないでほしいんですけど、あのォ、そういう意味じゃなくって、あのォ」
あたしは、焦ってなんかはいなかった。そういう風にしなくちゃいけないって、分っていたからそうしたんだ。そうやるのが正解だって、あたしの理性は言っていたんだ! 女はトクする!
女の子が急に焦ったもんだから、TOSIKURAくんは急に焦った。「ホラ、正解!」とそう思って、あたしはゆっくり居直っていた。道の真ン中でもうすぐ、四限が始まるのを待っていた。
「もうすぐ始まる。もうすぐ。始まらないかな、早く。そうしたらどうするかな。そうしたら」
あたしはモジモジしてて、全然平気。
あたしはしぶとく、立っていた。
「どうしてシンデレラは、お城の時計を狂わせなかったのかしら?」って、あたしは思った。そうすれば、永遠にシンデレラはジタバタする必要なんてなかったのに!
「もうすぐ始まる、もう二時は過ぎたから」――あたしがそう思ってじっと立ってたら、TOSIKURAくんが「ねェ、きみ、次、講義あるの?」って、そう訊いた。
ホラ、もう真夜中の時計が鳴るわ!
毎日、毎日、夜中の十二時一分前に十二時の鐘が鳴ったら、そうしたらシンデレラは、永遠に元になんか戻らなくてすんだ!
そうすればよかったんだ!!
あたしは、「いいえ……」って言った。
あたしの腕時計はその時二時九分をさしていて、あと一分もすれば午後の四限は始まってしまう。
あと一分、あとひょっとしたら三十秒。それともあなたは、五分遅れで教室へ行くのですか、王子様?
王子様、鐘が鳴ります。でも、その鐘を鳴らすのはあなたですけど……()。
十二時の鐘は十二時に鳴る。でも、四限の始まりは誰が決めるの? 先生? 大学? それとも学生? あたしだって、鐘ぐらい鳴らせるわ。
「あの、あたし、訊きたいことがあるんですけど――」
王子様、私は鐘をこわしましたわ()。
5
南門から本部へ入って、八号館と図書館の間を抜けて、大隈重信の銅像の立ってるメーンストリートを横切って、政経学部の横を通って行くと演劇博物館の前に着く。ロミオとジュリエットの背後霊が「おいで、おいで」って言ってるみたいだ。
あたし、「あの、講義はいいんですか?」ってTOSIKURAくんに訊いた。
「ま、どうでもいいけどサ」
TOSIKURAくんは言った。
「あたし、早稲田の人じゃないと思ってたんですよね」
歩き出しながらあたしは言った。
「あ、じゃなくって、早稲田の人だとは思ってなかったんですよね」
TOSIKURAくんも、歩いて言った。
「どうして?」
「だって、日芸があったでしょ。だから」
「あ、そう」
「早稲田の近所に下宿するほどバカじゃない」って、TOSIKURAくんは言ってるみたいだ。
「田中くんとは、親しいんですか?」
あたしは言った。もう、さん≠ナもなくてくん≠ナもなくて、田中くんは、弟みたいな田中くん≠ノなってしまった……。
「うん」
TOSIKURAくんは言った。表情がないというより、表情がまだないっていうようなTOSIKURAくんだった。
田中くんは表情を消してるけど――遠い昔からズーッと――、だからいつも笑ってるけど、TOSIKURAくんには、まだ表情がない。だから可愛い。でも「可愛い」と思ったらおしまいになる。
あたしだってそれぐらいは分ってる。
だから、それだけがTOSIKURAくんには危険なんだ。
あたしは、この人を眺めたくは、ない。
「高校の時の友達だって、田中くんは言ってましたけど」
あたしは言った。
「うん、前からだけどサ、もっと」
「ああ、中学だって言ってた」
「そう」
TOSIKURAくんは言った。
あたしは「もう少し気をつけなくちゃ」って、遠くに見える、白いルネサンス様式の建物の壁を見て思った。二回も田中くん≠ネんて言ったら、あたしは、遊び上手な、ケーケンホーフなジョシダイセーにされてしまう。
ロミオとジュリエットに、笑われるわ――。
(もうちょっと)まだ行く先は分らない――。
「あのォ、あたしのこと、どう思います?」
あたしは言った。
「どうって?」
TOSIKURAくんは、あたしの方を見てそう言った。
あたし達の足は、メーンストリートに踏みこんでいる。
あたしは、知らないふりして横切って行く。
「どうって言われても困るんですけど――」
あたしも、TOSIKURAくんも、黙って歩いている。
「あのォ、ホントに講義、いいんですか?」
あたしは言った。メーンストリートは、結構幅がある。
「いいよ、全然」
TOSIKURAくんは、ほとんど迷惑そうにさえそれを言った。
あんまりじらしすぎてもいけないんだ。
メーンストリートを抜けると、ホントに静かになる。ほとんどせせっこましくって、どっか、北欧の街みたいだ。コペンハーゲンとか……。
「あたし、別に、田中くんが好きっていうんじゃないけど」
「うん」
「別に嫌いっていう訳でもなくって」
「ふん」
「あのォ、田中くんて、よく、ああいうことするんですか?」
「ああいうことって?」
TOSIKURAくんが言った。
「ああいうことって、あのォ、部屋貸せ≠ニか」
「よくってほどでもないけどサ」
あたしが言ったらそう言った。
「田中のこと訊きたいの?」
TOSIKURAくんは更に言った。明らかに、彼はメンドくさがっている。(そりゃそうだろうな、あたしが何を言いたいのかよく分んないもんな――ブリッ子め!)
あたしはきっぱり言った。
「ええ」
(だって、そうじゃなかったら、あたしの話なんかしようがない!)
エリザベス朝の、白い、前庭を持ったルネサンス様式の演劇博物館が迫って来る。
(あそこのベンチに坐りましょうね)
6
「あいつ、変ってんだよ」
TOSIKURAくんが言った。
「あたしもそう思う」
あたしは急に素顔になった。
だってホントだもん。
「あんたもやっぱり変ってるよ」
TOSIKURAくんはあたしに言った。
「どうして?」
あたしは訊いた。
「なんとなく」
TOSIKURAくんはそう言った。
なんにも考えてないみたいな顔だった。
そう言ってもらえるのは嬉しい。
それだけでほっといてもらえるのはもっと嬉しい。色々メンドくさいこと、言われたくないから!
あたしは言った。
「でも、あたしより田中くんのが変ってると思うけど」
「そりゃそうだな」
TOSIKURAくんが、少し笑いかけて言った。
あたしは、この人の、素朴な男性優位的世界観が嬉しい。他人より自分の友達のがエライっていう、素朴な、地方社会的世界観が嬉しい!
だって、スケベじゃないもん! だって、こういう人って、いなかったんだもん!
「いやァ、あいつ、前からああなんだけどサ」
TOSIKURAくんが言った。
「坐りません?」
あたしは演博《エンパク》の前のベンチを指した。こうやって、言葉を崩してって大学生になるんだ。あたしも、みんなも。
「あの、あたし、榊原です」
あたしはベンチに腰を下してそう言った。
「ああ、俺――。名前、知ってる?」
TOSIKURAくんが言った。
あたしはウウン≠ト首を振った。知ってるかもしれないけど、でも日本人は横文字の名前なんか使わない。
「田中なんかは、俺のことトシ≠チて言うけどね」
TOSIKURAくんはそう言った。
「トシちゃんなんですか?」
あたしは言った。
「いやァ、ホントはトシクラっていうんだけどサ」
TOSIKURAくんはやっと日本語で言った。掌の上で字を教えてくれた。
「ああ、それでトシちゃん≠ネんだ」
「いや、ホントはカンジなんだけどサ」
「漢字?」
「いや、カンジって名前。こういう字――」
ホントに、素朴な人は手間がかかる。あたしはそうやって利倉完二≠ニいう名前を覚えたのだ。
「兄貴がいるからサ、それで二≠ネんだ。次男だろ」
利倉くんが言った。
「あ、そうなの。男の兄弟っていいなァ」
あたしは言った。
「いないの?」
完二くんは言った。完二さん≠ゥな?
「あたし一人っ子だもの」
あたしは言った。
「じゃ、つまんねェだろ?」
利倉くんは言った。
「まァねェ」
あたしは言った。ということはこの人は、単純に、兄弟愛を信じてるってことだ。ケダモノみたいだなって、あたしは思った。いいんだけど。
「ねェ、田中くんて一人っ子なの? やっぱり?」
あたしはそう言って、少し馴れ馴れしすぎたかなとも思った。
「あ、ごめんなさい」
「あ、いいよ、別に」
分ってんだったらいいの。
「あ、なんか飲みます? 買って来ましょうか?」
あたしは言った。道の脇には自動販売機がある。そして、ベンチのそばにはゴミ箱がある。大学当局がそうしろと言ってるようなもんだ――もんだわ。
「ああ、俺、オレンジがいいな」
利倉くんは言った。
「はい」
あなたにはオレンジが似合うわ。内陸部のミカンはオレンジがいいわ。埼玉にオレンジなんて、よく似合うもの。
という訳であたしは、ベンチに腰かけて大学生をしていた。彼はこつぶっ子≠ナ、あたしはFANTA・ORANGE。ビタミンCがホントに入ってるかどうかなんて知らない。Gパン穿いてたって、どうせあたしは、ダサイ早稲田の大学生だ。なんにも知らない、早稲田オンナは学校のベンチでお話してればいいんだ!
でもあたしは、それがとっても嬉しいんだ!!
「ねェ、あなたの家も川越なの?」
あたしは、FANTA・ORANGEを口につけて言った。
どうしてあたしはすぐいやらしくなってしまうのだろう。
「あ、ごめんなさい」
「いいけど」
利倉くんが言った。
「ちょっと離れてるけどね」
やっぱり利倉くんが言った。ちょっと離れてるけど、やっぱり自分も川越だっていう意味だ。
「あの――」
ねェ≠ニ言わないようにすると、どうしてもあたしはブリっ子になる。
「あの、田中くんの家って、どういう家なんですか?」
あたしは言った。
「どういう家って、普通の家だよ。商売やってるけど」
「あ、そう。やっぱり一人っ子なの?」
あたしは、どういう口のきき方をしたらどういう女の子に見られるのか、それがもうさっぱり分んないからそう言った。
そしたら利倉くんは、「うんにゃ」と言った。「どういう口のきき方でも、したけりゃすればいいんじゃない」って言ってるようなもんだ。
「姉さんいるよ」
利倉くんは言った。
「あ、そう」
あたしは言った。
「けっこう齢、離れてんだけどな」
利倉くんは言った。
「あ、そう」
そう言ってあたしは「姉さんいると、やっぱり問題多いのかな」って思った。あたしはそういう人を約一名知っているから。もっとも、それはあの人が問題多いっていうより、あたしがあの人の姉さんを嫌いなだけだ。
ブスのくせに学芸大なんて行ってるんだから、ブスのはずよ。姉さんが美人じゃないなんて悲劇の元だわ。すべての物事は姉さんが美人である≠チていう前提に立ってるんだから。
可哀想な松村くん。それであの人、人生を誤ったのね。まァいいけど。
「もう結婚しちゃったけど、美人だったぜ」
利倉くんが言った。
「あ、そう」
あたしは言った。田中くんのお姉さんだったら、お嫁に行く時もきっと美人だったろうなと、あたしは思った。
「じゃァ、田中くん、跡継ぎなんだ」――あたしは言った。
「なんで?」
利倉くんは言った。
「だって、田中くん家《チ》商売してるんでしょ? それでお姉さん、お嫁に行ったら」
あたしは何故か、田中くん一人で家に帰って、そして、大学卒業したら一人でお店を継ぐんだって考えたら、そういう寂しげな感じがあの人には似合うと思った。
「違うよ」
利倉くんは言った。
「姉さんが店継いでる」
「あ、そうなの?」
あたしは思った。結局あたしは、いつも田中くんには間違えさせられるんだ。
いいけどサ。
「田中くんのお家って、どんなことしてんの?」
あたしはまたうっかり、馴れ馴れしく言った。
「田中ン家《チ》?」
利倉くんは言った。
「うん」
あたしは言った。(もういいや)
「瓦屋だよ」
「瓦屋?」
「うん。瓦屋」
「カワラって、屋根の?」
「そう」
「ふーん」――あたしには想像もつかない。瓦屋の息子が早稲田来て野草の会やってるの? 毎日二時間も電車に乗って? 文学部の教育学専攻で?
よく分んない――けど、よく分るような気もする。あの人のことは、いつも決定的によく分らないんだ。「それが僕だよ」って、あの人が言ってるような気がする。
「あの、田中くんて、いつもああいうこと、するんですか?」
あたしはまた、おんなじことを訊いた。
「ああいうことって?」
利倉くんはやっぱりまた、おんなじことを言った。意地悪なのか素直なのかよく分らない。あたしだって、何を訊きたいのかよく分らない。
「田中くんて、いつもああいうことするんですか?」――
「田中くんて、いつも女の子連れて来て部屋貸せ≠チて言うんですか?」
「それをあなたは平気なんですか?」
そういうことだって勿論訊きたい。
「田中くんて、いつも女の子に相談されると、すぐ女の子を誘っちゃうんですか?」
「そういうことをあなたは知ってるんですか?」
そういうことだってあたしは訊きたい。
「そういうことを知ってて、あなたはどう思うんですか?」
そういうことだってあたしは訊きたい。
「そういう女の子と話してるのって、あなたはどういう風に思ってるんですか?」
そういうことだって勿論訊きたい。
そういうことを訊きたいんだったら、そういうことを言わなくっちゃいけない。なにしろあたしは、昨日、あなたの家で、あなたではない人と、公然とやってしまって、それをあなたに公然と知られてしまっているのですからね――そう思ってあたしは、ともかくしようがないから、話し始めた――。
「あたし、実は昨日、すごく落ちこんでたんですね――」
あたしは話し始めました。FANTA・ORANGE握りしめてると手が痛くなるから、そばに置いて。置いとくとぬるくなるだろうなァって思いながら。
「――それで、昨日あたし、田中さんに会ったから、なんとなく、そんな話してたんですね――」
それは嘘じゃないと思う。
「――そしたら田中さん、急に俺のこと好きなの?≠チて言い出して」
利倉くんは「ふーん」と言った。
違ってるかもしれないけど、でも結局はそういうことだと思って、あたしは言った。
「あたし、好きなの?≠チて言われたら、田中さんのこと、嫌いじゃないんですよね。好きだと思うし――はっきり言って。でも、やっぱりなんかあたし、そういう意味で好きではないんですよね。分ります? そういう意味って?」
「なんとなくね――」
利倉くんはこつぶっ子≠噛み噛みそう言った。
「分ってるんだろうなァ……」と、あたしは不安でそう思った。
「あたしははっきり言って、ああいう風にして、なんか、好かれるのって、好きじゃなくって――なんか、そういうことを今頃言うのはヘンな気もするんだけど」
なんか、この人は、メンドクサそうな顔して聞いているような雰囲気だった。
「いやですか? こういう話?」
あたしは言った。
「いや、別に」
彼は言った。
「それであたし、なんか分らなくなって――」
あたしは続けた――。
「好きなんだけど、なんかヘンだなァと思って。ヘンならしなけりゃいいんだろうと思って。あたしはただ付いてっただけだからあれなんだけど、やっぱりあなたにも迷惑かけたかもしれないし」
「いや、別にそんなことないよ」
利倉くんは言った。
「あなたは平気なんですか?」
あたしは言った。
「何を?」
彼も言った。
「だから、自分の友達が女の子連れて来て、そういうの――」
「あいつ、病気だからな」
彼は言った。
「病気って、あの人――」
あたしはびっくりして言った。
「いや、そういう意味じゃないよ」
利倉くんは言った。
「そういう意味じゃなくって、あいつの病気っていうのは、女見ると親切にしちゃうっていうことだよ」
あたしは、何故かショックであんぐりとなった。女蕩しもいやだけど、そういうのもちょっと――。
「あいつサァ、前からそうなんだ」
利倉くんが言った。
「俺はやめとけっていうんだけどサァ、あいつ、女にやさしいんだよ」
そうだと思う。
「やさしくってサ、やさしいけど、どっかヘンなんだよ」
そうだと思う。
「俺はやめろ≠チて言ったんだけどサ、あいつはすぐやっちゃうんだよ。寝ちゃうってことだけど。そうすると、女なんて治るってサァ」
「治る?」
「女のビョーキなんか、メンドクセェからすぐやっちゃえば治るって」
「じゃァ、トランキライザーじゃない」
「何、それ?」
「あ、精神安定剤」
「ああ、そうなんじゃねェの」
確かによく効く!
「だからサァ、そんなのやめろって」
「どうして?」
あたしは言った。
「だってよォ、あいつの連れて来る女って、みんな気持悪いんだぜェ」
あたしは利倉くんと目を合わせて、それで、ドキッとなった。
そして、あたしがドキッとなった分だけ、利倉くんもポッとなった(そうだと思う)。
「だから俺、昨日あれ?≠チて思ったんだ」
「どうして?」
利倉くんが言ったからあたしは言った。
「いつもと感じが違ったんだ。いつもだと病気だしサ、なんか、気持が悪いんだ」
「そうなの?」
「うん、なんか、ホラ、戸川純ているだろ?」
「うん」
「なんか、あいつとどっか似てんだよ。なんか、戸川純だとワザとやってるって感じするけど、あいつの連れて来る女って、みんなどっか、モロなんだ」
「そうなの――」
「うん。それで、なんか、あんただけはちょっと違うんだけどサ。なんか、そんな気がしたんだけどォ」
そんな気がしたんだけど、おんなじ=H
「そんな気がしたんだけど、おんなじ?」
やっぱりあたしは言ってしまった。
「分んねェなァ……」
利倉くんは、困ったような顔をしていた。
半分は合格で、半分は不合格――。
「ともかくサァ、俺ンとこに来んだよなァ」
「誰が?」
あたしは言った。
「だから、そういうのが」
彼も言った。
「そういうの≠チて、女の子?」
「そう」
彼が言った。
「ともかくサァ、田中のヤツがサァ、一遍きりなんだァ」
「何が?」
「女」
「ああ……」
あたしは、声もない。
「あいつは一遍やってサァ」
利倉くんは言った。
「そんで、一遍やって、おしまいなんだ。俺はそれ以上やる気ない≠チて。女なんかそれでいいんだって」
「それでいい≠チて?」
あたしは訊いた。
「なんか――」
利倉くんは言った。
「あいつは、女にやさしいだろ。顔だって悪くないしサ。それで、なんか、あいつは女にもてるんだ」
あたしはフッと思った。「この人田中くんが好きなんだ」って。田中くんが好きだから、それで田中くんのこと助けて上げてるんだって、そう思った。そうじゃなかったら、いくら自分の友達だからって、いきなりその人が女の子連れて来て部屋貸せ≠チて言ったって、絶対に貸すもんじゃない。
そう思ったからあたしは言った。
「田中くんが好きなんでしょ?」
「俺?」
利倉くんが言った。
「うん」
あたしが言った。
「好きだよ」
利倉くんが平然と言った。
「だから俺、心配してんだよ」って。
「あいつサァ、女にもてんだろ。俺なんかサァ、はっきり言って羨ましいと思うよ。一人回せよとかサ、そんな風に思うんだけど、あいつはサァ、なんかヘンなんだ。ロクなのいねェよォ≠ニか言って。まァ、はっきり言って、あいつの連れて来たのにロクなのはいなかったけどよォお」
すいません。
「あ、あんたは一応別としてね。ンでサァ、俺もそうかな、とか思ってたんだけど、よく見てるとあいつ、ヘンなのとばっか付き合うんだ」
すいませェん。
「昔っからそうなんだ。いい女と悪い女といるとサァ、あいつ絶対に、ロクでもない方とるんだ」
ヘーェ。
「ンでサァ、俺、なんでお前の趣味ってそう偏ってんの?≠チてあいつに訊いたんだ。高校ン時。そしたら、そうかなァ≠チてあいつ言うんだ。あいつサァ、好きで付き合ってんじゃねェんだよな。可哀想で付き合ってんだよな」
すいませェん。
「あたしもそうだったのかもしれない」
あたしは言った。
「そうなの?」
利倉くんは言った。
「うん。私はなんか、十分に可哀想だったような気がする。昨日は――なんか、そんな気がします」
あたしが言ったら利倉くんは言った――「ふーん」って。複雑なことは分らない人の方があたしは好きだ。そういう愛情だってあると思う。
「でもなんか、昨日は俺、違ったような気がしたんだけどな」
利倉くんは言った。
「どうして? (ですか?)」
あたしは訊いた。
「なんか、こいつは本気かな、とか、ちょっと思って」
「どうして?」
あたしは利倉くんに言った。
「だから、いつもと違ったって――」
そういうところに、ボキャブラリーってないんですか? あなたは。
「なんか、いつもだと、目の下にクマがあんだ。グルーッと。目がドローンとしてて、腐ったみたいに目の下が曇ってて。だから戸川純だと思ってたんだけど――」
それであたしは違った≠フね。
あたしは「ふーん」て言った。言ったけど、コンパクト持ってればよかったって、そう思った。あたし化粧、しようかなァ……。
利倉くんは、なんか、照れ臭そうにこつぶっ子&盾ナてて、あたしは「そうやってこの人は田中くんを見てるのか」と思った。
「昨日ねェ、あたし。あ、こんな言い方してごめんなさい」
「うん、いいよ」
あたしと彼とは、いつもこんな会話してる。
「あたし、昨日、田中くんに、あの後で、御飯食べない≠チて誘われたんです」
「あ、ホント」
「どうかしたんですか?」
利倉くんがヘーッって顔したからあたしは訊いた。
「ううん、別に」
利倉くんは言った。
それだからあたしも、話を続けた。
「でもあたし、それ断ったんですね」
「どうして?」
利倉くんが言った。
「どうしてって、あたしがあんまりお腹すいてなかったってこともあるんですけど、あたし、なんか、そこまでする気って、なかったんです」
「どうして?」
「だって、あたし、やっぱりどっかで分ってたんですね。なんか、田中くんが親切にしてくれてるだけだって。それをなんか、好きとかなんとかっていう風に変えちゃいけないとか」
「どうして?」
「だって、嘘なんですもん。そんなことしたら、嘘なんですもん。さっき、トランキライザーとかって言ってたけど、あたし、どっかでそれって分ってたんですよね。それで、なんていうのか、副作用に注意しましょうっていうのか、なんか、そんな気分で――。なんか、誘ってもらったのは嬉しいけど、それ以上はつけ上っちゃいけないとか――」
「行ってやればよかったのに?」
「え?」
あたしは、利倉くんの言ったことがよく分んなかった。
7
「あいつサァ、そんなことしたの初めてなんだよ」
利倉くんが言った。
「多分、俺の知ってる限りじゃね」
「あなたはそんなに知ってるんですか?」――あたしは、そう言いたいような気分になった。言ったってよかったのかもしれないけど。言ったって多分、「親友だもん」とかっていう言葉しか返って来ないと思うけど。
男の人って、自分が自分の友達を好きなことに、気がつかないんだ。なんでだか知らないけど、そう思った。
「田中くんが好きなんでしょ?」ってあたしが言ったら利倉くんは「好きだよ」って言ったけど、多分、あたしの言う好き≠ニ利倉くんの言う好き≠ヘ、微妙に違うんだ。違うまんまであってほしいと思うけど――。
でも、微妙に違うことは事実だ。微妙に違うから、この微妙な違いには男の子は気づかないだろうけど――。
でも、気がつかないままであってほしいとは思うけど――。
どうでもいいことだって、あたしは、言っておきたい……。
「あいつ、女を誘ったことなんて、ないぜ。多分」
利倉くんは言った。
「どうして?」
あたしは訊いた。
「だから病気だって言うんだけど」
利倉くんはそう言った。
でもあたしは誘われたわよ。だから、この人の部屋に行ったんだもの。
「違うの」
あたしがそういう顔をしてたもんだから利倉くんは言った。
「あいつはサァ、いつも終るとそれっきりなんだ。それっきりで、追い出しちゃうんだ」
「追い出しちゃうって?」
あたしは訊いた。
「部屋から?」
まさかと思った。
「そう」
利倉くんは言った。
だったら病気≠謔ヒェ。
「終ったらサァ、さっさと出てけよ≠チて言うんだ」
「まさか?」
「そう言わない時もあるけどサ」
「どうしてあなたがそれ知ってるの?」
「だって、俺が帰ると、あいつだけ部屋にいるもん」
「!」
「いやァ、一遍サァ、俺がバイトあったから、それで遅くなって帰って来たらサァ、あいつ一人で待ってたもん」
異常よ、それ!
「なんか、来たのなんて、昨日とおんなじ時間だったぜ。そんくらい」
いやねェ(ポッ)。
「だからサァ、俺、きのう帰ったらいないだろう。だからヘェ≠ニか思ってサ」
泣いたんでしょう? (まさかね)
「そしたら今日、あんたに会っただろう。そしたらサァ、あんたはサ、今日田中に会ってないとか言うだろう」
「別に、そういう訳じゃなくって――」
「まァ、だと思うんだけど。俺サァ、またかァ≠ニか思って」
「あ、よかったらこれどうぞ」
あたしは、空になったこつぶっ子≠フ缶を振ってる利倉くん見て、飲んでなかったFANTAを渡した。
「あ、どうも」と言って、利倉くんは、飲んでしまった。
だから好き――。
「あいつサァ、女殴るんだぜェ」
利倉くんはそう言った。
「まさか」って言ったけど、あたしはどっかで、「やっぱし」と思った。
やっぱし、そういう気がする。そういう気がしなかったら、嘘だと思う。「俺のこと、好きなの?」って言った時の目つきって、やっぱり、そういう時の目つきだもん。
異常よ――。(だからといってどうでもないけど――)
あたしは、異常が好きでもない。でも、異常が嫌いでもない。嫌いでもないけど、異常は異常、そう思う。それだけ。
いい人だって、異常は異常。そのことだけは覚えておきたい。
異常だからって、可哀想とも思えない。だって、あたしはその可哀想な人に助けられてはいるんだから。
哀しいことに、人にはそれぞれの事情があるって、ただそれだけのことなんだ。
ただそれだけ――(言うのはつらい)。
「女はサァ、その気になるだろう、やっぱりサァ」
利倉くんはそう言った。女は≠ニ言っているのか、きみも≠チて言っているのか、どっちにだってとれる。あたしだって微妙なら、利倉くんだって微妙だ(そうだと思う)。
あたしだって「うん」て言う。
「その気になってサァ、終ったら出てけ≠チて、ないだろう?」
「田中くんてそうなの?」
「大体な」
あたし達の会話は、そのことによって均衡を保ってる――田中くんのことによって。
「女はサ、なんか、一遍はあきらめた気になっても、やっぱり、違うんだ――と思うんだ」
利倉くんは、女に詳しい。
「でも、あきらめたらあきらめただけだけど、そうじゃない時だってあるよ」
あたしだって女≠セけど。
「どういうこと?」って利倉くんは訊いた。
「たとえば、その気になったって、それがすんじゃったらもう、どうでもよくなるとか――」
あたし達は、一般論で均衡をとってもいる。
「あたしは別に、田中くんのことって、どうでもいいもん……」
「だからそれで、あいつは、惚れたのかなァ?」
「惚れた?」
「うん」
あたしだって、言うと赤くなる言葉はある。誰が、誰に、どうしたの?
あなたはいやなの?
あなたはどうなの?
「あたしのこと、いやですか?」
あたしは言った。別に作ってる訳でもなんでもなくて、思ったら、自然にそう言っていた。
「いやってなァに?」
利倉くんはそう言った。
鈍いか素直か意地悪か、それとも、ホントに田中くんを愛しているのか――。
「つまり、あたしが田中くんを愛してる訳でもなくて、それで、田中くんが、今までの人とはちょっと違った感じを持ってて――つまり、利倉さんの、あの、説に従うと。それで、やっぱり、利倉さんは、田中さんの、親友でしょ?」
「うん」
「だから、あたしが裏切ったとか――」
あたしはかなり正直だ。
「いや、別にそういうことは思わないけど」
思わないけど、なんですか?
この人は、すぐ黙る。
黙ったまんま、はっきりしない。
「でも利倉さん。田中さん、あたしのこと、お姉さんみたいって、言ったんですよ」
あたしは言った。
「ああ」
ポカンとしたその人は、かなりになかなか見物だった。
8
利倉くんの説によれば、田中くんは、シスターコンプレックスだという。但し、利倉くんはシスターコンプレックス≠ニいう言葉なんかは使わないけど。
ホントに、利倉くんは、そういう言葉を使わない。あたしがそういう言葉を使いたがるだけ。トシは、「あいつは姉さんが好きなんだ」としか言わない。
利倉くんは、あたしに田中くんの精神分析をしてくれたけど、でもそれは、精神分析ではなく隠されたエピソード≠ナしかない。
お話≠するのがトシで、それを分析≠ノ変えてしまうのがあたし。
利倉くんはロマンチックで、あたしはうるおいがない。田中くんが、利倉くんに甘えるのも分るような気がする。田中くんは、利倉くんのことをバカだとは言わなかったもの。
利倉くんのお話による田中くんは、古い宿場町に生まれた少年で、古い因襲の中に続いている瓦屋さんの跡継ぎで、とっても可愛い。お姉さんは美人で、おとなしくって、やさしい。お姉さんは古風な人だからお父さんやお母さんに逆らえない。
お姉さんと田中くんは齢が離れていて、田中くんは跡継ぎだけど、田中くんが大きくなるのを待っていたら、お家の瓦屋さんが潰れてしまう。だから、お姉さんには縁談が来たのだけれど、お姉さんには別に好きな人がいた。好きな人がいたけれども、その人は煮えきらなくて、お姉さんを連れて逃げてはくれなかった。だからお姉さんは、泣く泣く、お父さんとお母さんの決めた男の人と結婚をして、古い宿場町の由緒ある瓦屋で、一人寂しく人妻をしている――「だから田中は、可哀想な女の子を見ていると助けずにはいられなくなる」というのが利倉くんの話。
「だったらどうして女の子を殴るのよ」っていうのが、あたしの疑問。
あたしにしてみれば、田中くんのお姉さんは、何考えてるか分らない。あたしに似てるんだとしたら――それで古風な美人≠セとしたらなおさら――何考えてるか分らない(自分でこんなこと言うのもなんだけど)。
そして、田中くんも、何考えてるのかは分らない。やさしくしてるのか、残酷にしてるのかよく分らないから。
でもたった一つ言えることは、利倉くんが田中くんのことを愛してて、田中くんの言うことならなんでも信じてるってこと。田中くんが好きだから、古風な家に住む薄幸の美男美女の姉弟の話を信じてる。丸ごと。
信じてるんなら、それでいいと思う。
信じてて、信じられない分は自分でカバーして上げてるんだから。
だって信じられない。田中くんが邪慳《じゃけん》にした女の子は、夜中に利倉くんのところに来るんだってよ。それを利倉くんは、相手して上げるんだってよ(相手っていったって、相談相手だけど)。
女の子が泣き出しちゃって、どうしても田中くん呼んでって言って、それで田中くん呼び出して(田中くんは車持ってる)、田中くんがやって来ていきなり女の子怒鳴りつけて引っぱたいて(あたしはやっぱり今イチ信じきれない)、もうこの世の終りが来るかと思うようなシチュエーションを、なだめすかすのは利倉くんの役なんだってよ。
女の子は終電車で帰って、田中くんは利倉くんのベッドでふんぞり返って、利倉くんはそれ眺めてるんだってよ。
そういうのって異常じゃない? 嫉妬かもしれないけど、そういうのって異常じゃない? あたしは、目の下にクマ作ってる女になんか全然同情しないけど――そういうバカなことやってるから男の子がいじけるんだけど――そういう風になっちゃって友情≠チてことになっちゃったら、それこそ女の子の立ち入るすきって、ないんじゃない?
いいけど、それはあんまりじゃない?
はっきり言ってやだわ。
ああッ!! 悪夢だわッ!!
なにが「もう別れた」よ!
木川田くんと磯村くんは手ェつないでたわッ!
私はなんとかしてほしいッ!!
だから私はなんにも言わない。美しい、薄幸の姉弟がいたら、それはそれでいいと思う。利倉くんが、それをそれで信じていたら、あたしはそれでもいいと思う。
「ヘンだよ」なんて、あたしは言わない。
この世の中には、言わなくたっていいことがあるような気がする。
ともかく、男の子達は気がついてないんだもの。
美しい友情なら美しいまんまでいいわ。
私は男じゃないんだもの――。
9
あたしは、田中くんに気に入られてる。
利倉くんはそう思ってる。
田中くんはあの日、あたしにもっといてもらいたかったんだって、利倉くんはそう言ってる。
そしてあたしは、田中くんがどういう人だか分ってる。分ってるから、だから田中は好きなんだって、利倉くんはあたしに言った。
そしてあたしは、分ってるから、田中くんのことは、好きでもない――勿論、嫌いでもないけど。
そして「だとしたらあなたはどうなの?」――それだけはあたしは言わなかった。その日――。
ただあたしは、少し斜めに、ベンチの上で傾いて行ったし、利倉くんは、あたしがなんか言うのを待っていた。
あたしは、昨日の今日でなんにも言えない。言ったらおしまい。たとえ好きだって分っていたって。
もしもあたしが好きだって言えば、利倉くんは、いつか、あたしのことを怒るだろう――「田中の心を裏切った」って。
そう言うだろうなって、あたしは思う。
好きだって言って、それでくっついたら、それだけになっちゃうことって、多分あるのよ。
あたしは、利倉くんの方がズーッとやさしいんだと思う――田中くんより。
でも――だから≠ゥ――だから、利倉くんの方がズーッとこわい。
利倉くんの方が、田中くんより単純だと思う。でも、田中くんの方が利倉くんの方よりズーッとシンプルだという点に於いては、あたしは、利倉くんの方が複雑だと思う。
田中くんの頭には、ネズミ捕りがあるのよ。うっかりそれにさわったら、パチンと手を挟まれて、それで一巻の終りなのよ。
でも、利倉くんは違う。利倉くんの頭の中にはネズミ捕りなんかない。あの人の頭の中には、鈍感なミミズが住んでるだけだ。
ネズミ捕りに挟まれないように田中くんと付き合うのは簡単だけど――だって、考えてみたら、あたしの頭の中にだってネズミ捕りが仕掛けてある、キタキツネ用の罠だって――でも、利倉くんはそうじゃない。ミミズが何考えてるかなんて、分らないもの。ミミズがいつ、凶暴なゴジラになるかは分らないもの。そういうのって、不気味だもん。
友達が女の子連れて来て、それで「部屋貸せ」って言った時、「うん」て言って、でも部屋の窓、開けっぱなしにするんだもん。
あたしに彼は分らない。
「あたし、また江古田に行きたいなって、思ったんですよ」
あたしは、四限も終って、五限も始って、それで夕焼け空が始まろうとする頃、ロミオとジュリエットが全然出て来ない演劇博物館のベンチの上で、利倉くんにそう言った。
「どうして?」って利倉くんは言った。
この人にオレンジ色はよく似合うの。
あたしは、夕焼け空に目を細めながら、「なんとなく」って、そう言った。
「なんとなく――。なんとなく、なんでなのかな? なにか、思い出があるような気がして。田中くんじゃなくって、なんでもなくって――、でも、なんかあった時って、やっぱり、なんかあったことを覚えておきたいような気持になるでしょう?」
あたしの後で、ベンチの背に回した利倉くんの指が、ほんの少しだけど、ちょっと、あたしの白いサマーセーターに触れたような気がした。
「あなたに会えてよかったって思ってんです――」
もしもその指がなんか言ったら、あたしは、そう言おうと思っていました。
(ああ……。言わなかったけど……)
あの人の胸はいけないと思う。
いつもあたしの目の前にある。
「さよなら」って言う時は、いつも、そっちの方に行きそうになる。
「あの、早見優って好きなんですか?」――あたしは、あの人の腕に抱かれてそう訊きたい。
「ホントに好き?」って、あの人の胸に。
「またね」――そう言えば始まるし、そう言わなくちゃ始まらないことがあるんだって分ったのは、その木曜日のことでした。
それから三日が経つのです――。
あたしはやっぱり、ロマンチストだ――。
10
あたしは、アルバイトをしなくちゃと思っていました。ええ、あのリリックな木曜日からズッと。思ってて、思ってただけですけど。
あたしはやっぱり、ロマンチストじゃないんです。かもしれないけど、どっか、ヘンなんです。あたし、利倉くんと別れて、その後、発作的に駅の売店で、売れ残りの『FROM A』買っちゃいました。
ええ、ロマンチックなことがないと現実的にはなれないっていう、そういうリアリストだったんです。あたしは。
利倉くんなんてなんにも考えてないと思うけど、あたしは、ヘンなこと一杯考えてたんです。(どうしてあたしはそうなんだろう?)
まず第一に、江古田に行くんだと思ったら、「お金がなくっちゃ」って、そう思ったんです。
何故か、江古田の駅で、自動販売機の前でお金勘定してた時のことを思い出して。
恋をする女は自立してなきゃいけないって思います。(なんとなく言っただけだけど、言ってからホントだと思いました)
そうです! 恋をする女は自立してなきゃいけない!! ホントです!
ホントにそうだわ。ホントに!
なんとなくそう思うと燃えて来る。
そうなのよねェ。
そうなのよねェ、燃えて来るのよねェ。
燃えて来そうな気がしたから、だからあたしは、売れ残りの『FROM A』を発作的に買ったのよねェ。「ねェちゃん、売れ残るよ」って、言われてるみたいな気がしてねェ――その売れ残りの『FROM A』に。
あたしってダメなんです、ホントに。そんなに売れ残りがこわいんだったら、『FROM A』なんて買わないで、毎日出てる『日刊アルバイトニュース』を買えばいいんです。でもあたしって、ダメなんです(ああ、ウノーコーイチローだ)。あんなに厚くって、あんなに毎日出てたら、あたし、どれにしていいか分んなくなっちゃうんです(もうノッてます)。
「こっちの方がいいかもしれない。いや、こっちの方がいいかもしれない」って。なんか、ヘタに選んで損するといやだって、結局、選べない方向に行っちゃうんです。もう、売れ残りギリギリで、ドタン場のところの方がいいんです。よく考えないですむから。
あたし、考えるとダメなんですよね。
だから、あたし、この三日間なんにも考えませんでした。ほとんどなんにも考えないで、「バイトかァ、ヒッヒッヒ……」と笑ってました。なんでニヤニヤしてたのか全然分んないんですけど。
ボァーンと『FROM A』見てて、ニヤニヤと笑ってました。お金があるのっていいなァと思って。
お金がないとダメですね。だって、なんにも出来ないもの。利倉くんの部屋のこと考えてるとそう思う。お金があるとなんでも出来るって。
あたし、不思議と、家を出たいっていう気がないんです。なんでだろうと思うけど。そういうところであたしって乳離れしてないんだろうかって思うけど、じゃァ、その乳離れしてないそういうところ≠チてどういうとこだろうと思うと、よく分んない。
ウチは、女二人で男一人で、あたしがいなくなるとお母さん一人になっちゃうのかなって、そう思ってるからかもしれない。なんか、昔はほとんど憎んでたけど、でも、今となってはほとんどどうでもいい。愛してるかどうかっていうより、お母さんが帰って来て、お父さんが帰って来て、そのお父さんが帰って来るまでの間、あたしはなんとなく、家にいてあげたいってあたしは思う。仕事から帰って来て(例の鯛焼き屋のディズニーランドです)、誰も家にいなかったら寂しいだろうなァって、あたしは思う。
あたしがいずれ結婚して、家出てって、それで一人になったら――マァ、お父さんはいるけど――やっぱり寂しいんじゃないかなァって、あたしは思う。あたしは、あの人の寂しさっていうのはよく分るから――なんとなく、よく分る気がするから。やっぱり、女って寂しいなと思う。どう頑張ったって、やっぱり、寂しいなと思う。そういうことを、お母さん見てると直感出来る。どこがどうこうって具体的には言えないけど。
だからあたしは、しばらくの間、家にいて上げたい。
「どうせこの子はお嫁に行っちゃうんだし、そうなったら夫婦二人でしょう。その為にねェ、家建てるのなんてもったいないわ」って言っているお母さんの為にも。
「どうせあたしは邪魔ですよォ」って言ってるのは、あたしの屈折した愛情表現でもあるけれども。
という訳で、あたしは、あんまり、お家を出ようとは(今)思わない。思わないけど、それでおとなしくしてようとも、思わない。財布の紐を、もうあんまり人生のことを考えなくなった人に預けとくのも好きではない。だってあたしは、色々といるんだもの。色々と、多分、やばいであろうようなお金の使い方ってするんだもの。だから、そんな時に、おとなしくお小遣いなんて、貰ってられない(すいません)。
別に、男がほしくってバイトしたい訳じゃないもんね。だから、ラーメン屋で今更働きたいとも、もう思わないもんね。別に、思ってもいいけどサ。あたしは、カッとなると何考えるか分んない。ともかくあたしは、人と、接触の出来る場所がほしかったし、それでなんか、一人でガムシャラに、妄想の中で体当りだけしてた。体当りだけして、なんか、自分がバカだってことだけは分ったけどサ――(ヒヒ)。
なんか、あたしはねェ、外食する時に、お金の心配をしないですむようなだけのお金は持ちたいのよ。お金があれば別に、外でお友達≠ニ御飯食べてても、別に後ろめたさって、感じる必要って、ないでしょう? あたしはともかく、お昼だけじゃなくって、晩御飯の心配をする必要がなくなりたいと、そう思っているだけなんです。
タクシー代とか。別に贅沢しようって訳じゃないけど、交通費のプールぐらいしときたいとか。何があるか分らないから(ヒヒ……)。
「家に帰ってくればいいでしょ」って声を背にして――しかも、背後霊のように引きずって、女の子同士で「ねェ、何食べるゥ?」って、お財布の中味検討してるのって、いやなのよ。お財布の中からお母ァ様の顔が出て来るみたいで。
節度のあるお付き合いって、いやなのよ。なんか、ただでさえ嘘臭いお付き合いが、もっとどうしようもなく嘘臭くなっちゃう気がして。
ホントに自分て、いじましくお財布の中味検討して、男の子と付き合ってたんだなァって思います。「お財布の中味が心細くなるからあたし帰ります」って、そういう言い訳がましさが、いつもあたしの中にあった!
ホントに!
もうそんなことしなくていいんだ。もう、お金持になっちゃったっていいんだ。もう、せこせこと子供の学生やってなくていいんだって、そう思った!!
来年二十だし。なんとなく、海がグーッとせり上って来るみたいな気がして――ポセイドン・アドベンチャーみたく――あたしは、どっか安定してないから、そうなった時、なんか自分が引っくり返されちゃうんじゃないかってそう思ってた。ただ、お財布が軽かっただけなのね。
一人でお金持ったら大変なことになるって思ってたけど(だったような気がする)、お金持っちゃって、それで、それを基本にしてなんとかすればいいんだって、そう思った。もう子供じゃないんだから。
どう転がったって、もう子供には戻れないんだから。戻らないというか、よく考えたら、あたしは十分に子供っぽいんだから。
あたしは大人になりたい。
だからあたしは、利倉くんのところに行くんです。
だからあたしは、それでニヤニヤしていたんです。
11
「じゃァ、月曜日に遊びに行ってもいい、ですか?」って言って、それで、お金の算段してるのなんて、あたしって下品な女なのかもしれないけど、やっぱりそういうのって、必要だと思うなァ。だって相手は、一人で部屋借りて住んでるんだもん。
誰がお金出してるのかは知らないけど。少なくとも、相手はどっしりと構えてて、独立採算制なんだもん。そんなところに、お小遣い貰ってるお嬢さんが行ったら、無重力空間に浮かぶ宇宙飛行士みたいになっちゃう。母船にどっかでつながってる。
あたしってそういうの、ヤなんだ。
やだからお金がほしいって思ったの。思ったけどヒッヒッヒ、まだいいやと思って、自分がお金を持ってる可能性と、ヒッヒッヒ、三日間、戯むれていたというだけなんです。
仕事口は一杯あるし、ありすぎるとすぐあたしの目は乱視を起して、「夢だけ見てればいいんだよ」っていう風に、なっちゃうの。「そうかァ、あの部屋で……、あたしは独立採算制で通うのかァ……」とか思うとウッヒッヒッで――、はしたない。
「どうしたの、あんた?」って、ウチの母親が言ってました。「こないだまでは不愛想な顔してて」って。
年頃の娘がそうなったら、理由なんて決ってるじゃないよねェ! だからあたしはいやなのよ、鈍感な人にお財布の紐握られてんのは。だからあたしは言ったのよ、「ねェ、五千円ちょうだァい」って。「参考書買うから」って、「バイトしたら返すから」って。
伏線は見事に張ってあって、あたしはルンルン豪遊出来る。「別にあたしはあの人の部屋に泊りたくもないしサ」って――そうでもないかも分んないけど、でも、まさかねェ。でも分んないけど。
少なくともあたしは、タクシーで帰れる()。
少なくともあたしは、「友達に借りたの」って、嘘ぐらいつける()。
だってお母ァ様は、娘の本箱なんて見ない。どうして娘が大学生になると、母親は娘の本箱っていうのを見ないのかしらねェ? そっちの方がよっぽど必要だっていうのに。
ともかく、あたしはバイトをするのだ。売れ残りではない、『FROM A』の新しい号を火曜日に買って――。
12
あたし、バニーガールになりました。
はい、なりたかったもんで。
応募要項見てたら、ムラムラっと、そういう気になりました。
容姿に自信のあるあなたに最高の職場です!≠チての見たら、「そうだ!」って思いました。「受けて立とうじゃないの」って、そういう風に思いました。
雲の上の会員制レストランクラブ日比谷にオープン!≠ト書いてあったら、「ここだ!」って思いました。
新宿はやだし(気味悪くって、近すぎる)、渋谷はやだし(誰かに会いそう)、六本木もやだし(働くとこじゃない)、銀座に行くほど落ちぶれてない――あたしは専業ホステスになんかなりたくない(目の整形したくないから)。
「日比谷はいいセン!」とか思って、見たらバニーガールで、「ウーン、そういう手があったかァ」ってニマニマ笑ってしまって。「そうかァ、バニーガールかァ」って、自然、そういうのばっかり探してしまった。
探してしまって、やっぱり、日比谷で雲の上≠ナ、これに勝るものはないって、そう思ってしまいました。やっぱり、貧乏なとこで脚、出したくないもん。
終わるのが十一時なんですよね、仕事。これだったらヤバクないなって思ったんです。時間としてはギリギリのセンだと思う。
日曜、祝日休み(!)――やっぱし、学生が休みの時は、バイト娘も休みたい。
パートの時間帯は相談に応じます=\―応じてほしい。但しあたしは時間帯じゃなくて、曜日にだけ。何故ならば水曜は五限がある。
日曜休み、水曜休み、後はズーッと働いてる。ビルの上だから、夜景が見える。絨緞があるから、気取って歩ける()。
時間給千九百円の六時間労働で、二十万円! 一ヵ月働いてやめちゃうもんねェ。
二十万円! 半年遊べる(!)。
「少なくとも、三ヵ月はいてほしいんだけどねェ」と、面接の時に支配人は言った。
「はい」とあたしは素直に言った。
「ホントに早稲田なの?」
面接の時に支配人はあたしに言った。
「はい」――まんざら早稲田も捨てたもんじゃないんだって、あたしは思った。
「アメリカに行きたいんです」――あたしはヘーキで嘘をついた。
誰が行くもんですか。誰が三ヵ月もやるもんですか。学生証以外に、ホントのことなんか、なんにもないのよ。
いいんだもん、会員制レストランクラブなんて、くっだらない!
つまんない男が、カッコつけて歩いてるだけだもんね。女だって来るしサ。
「お客さんとの同席はありませんから」って言ってたけど(支配人は)、あんなとこであったらたまんないわよ!
女はみんなバカだしね。男はみんなバカだしね。こんなとこで三ヵ月も働いてらんないと思うもんね。
一ヵ月であきちゃうと思うし。
一ヵ月。
ああ、一ヵ月もこんなカッコしてられるかと思うと、あたしは嬉しい!
要するにあたしは、大っぴらに脚を出したかっただけなんだ!
あたしはホントにそう思う。ホントにホントにそう思う。
ああ! とってもホントにそう思うッ!!
あたしは、網タイツが穿きたかった。あの、ほとんどくいこむような、レオタードのような制服が着たかった。胸の一部だけ押さえて、上半身は全部、丸出しにしたかった。
だって、あたしは女なのよ!
あたし、支配人に会って、「じゃ、明日から来てもらえますか?」って言われた時、「早くそれ、着させて下さい」って、言いそうになっちゃった。
ともかく着たい!
あたしなんて、初めての日、更衣室で着替えたら、あまりのことに、失神したくなっちゃった!
なんて気持がいいの!
肩なんてムキ出しよ。全部丸見えよ!
ああ、胸なんて、あったってなくったっておんなじよ。
あたしは、けっこう自分の胸は薄いんだと思ってたけど、「あの胸でバニーガールやるの?」っていう女がけっこういたから、あたしなんか、勝っちゃったわ。
それにあの、網タイツ!
ああ! あの黒の、網タイツ!
ああ、嬉しいッ!!
あたしはやっぱり、自分が変態かもしれないって思った。更衣室で着替えて、一瞬着方が分らないような山積みの制服見て、それで着替えて鏡を見て、「ああ、オタオタと着替えていたのに、こんなにも似合ったのか!」って、あたしは、恍惚としてしまった。
はっきり言ってあたしは、濡れる≠チていうことがどういうことなのか、ああ、分ってしまった! もう、ウノーコーイチローになってしまった!!
ああ、あたし、ぬれちゃうんです。
(バカね)
でもホント。
あんまり鏡の前に立ってるんで、「ちょっと、早くしてよ」なんて言われちゃった。
仕事はけっこう大変なんですけどね。なにしろ、お客さんにさわられない職業ですからね。
お酒運んで、煙草運んで、それだけなんですけど、初めの日なんか、腕が疲れてしまいました。
お盆てけっこう重いんですよ。重い上に、オールドのボトルとグラスと氷がのってるんですよ。けっこう大変なんですよォ。大変なんだけどまァいいんです――とは言いにくいぐらい、やっぱり仕事はきついです。
いきなりこれは、肉体労働だと分ってしまいました。
両親は、知りません。
知らせたっていいんですけど、知らせない方が、あの人達は喜ぶでしょう。「学生相手のレストランで、ウエイトレスなのよ」と、私は言ってあります。場所も、六本木ということになっています。六本木で学生相手≠セと、何が起っても許されるような状況になっています。なっているみたいです。「学生だったらねェ、六本木だったらねェ、もうなんにも言えないわよねェ」っていう顔を、母親はしています。「でも、気をつけてちょうだいよ」って、それだけは母親も言ってました。それだけを言っておけばよいのです。それだけを言っておかないと、母親というものはヤバイのです。だって、ウチのオカアサマったらサァ、「六本木で学生相手のレストランなのよォ」って言ったら、「いいわねェ、あたしも若かったらやりたいわァ」っていう顔を――そう思われてもしようがないような顔を、あの人はロコツにいたしました(!)。
ホラね。
だから何やってもいいんだと、あたしは思うんだ。
だってあたしって、可愛いんですもん。
金色の制服で、お尻のところに尻ッ尾がついてるんですよ。あたし可愛いから、クイッ、クイッって、暇な時、お尻を振っちゃうんです。見えないように。
大東京の夜の夜景に輝やいて(昼の夜景ってあるんでしょうか?)、あたしのお尻って、輝やくんです(金色だから)。
ああ、可愛いわ! (ストリップやりたい!)
あたし、お風呂に入って思いました。
初めての日、帰って来て、もう十二時になってましたけど、あたしはお風呂に入りました。
お風呂場で裸になって、「あたしって可愛いんだ」って、鏡に向って思いました。
どうしてこういうことに気がつかなかったんだろうって。
肩だって、脚だって、背中だって、人前で大っぴらに出したっていいのに、どうして今まで気がつかなかったんだろうって。
お尻だって振っちゃうのに。
手を伸ばして、手を上げて、手を下して、手を曲げて、そっと胸を包んで、あたしって、やっぱり可愛いんだって、鏡の中に頬ずりをしました。
あそこだって可愛いんだって、鏡の中で思いました。一人になる時には絶対に、大きなお風呂場と大きな鏡のある部屋に住みたい! だってェ、小さな鏡っていやらしいわ。
あたしの可愛いあそこが見えない!
あたし、利倉くんとは、まだキヨイ関係です。別に、あの人が手ェ出さないっていう訳じゃありません。あたしが「手ェ出して」って言わなかったからでもありません。どっちかっていうとあたしが、「お願いだから、もう少しは、このまんまでいたい……」って、そう言ったからです。
あの人はいい人です。ホントに、いい人だと思います。
あの人のベッドで、あの人の友達と、ヘンなことをしたっていうのに、そんなこと、ちっとも口になんか出さないんです。
あたしは、あの人の部屋に行って、あの人のベッドに坐って、そして、ベッドの横にあるゴミ箱を見て、ああ、あの人は何を考えてアレを捨てたんだろう≠チて思いました。アレって、ティッシュです。
あたし、平気で捨てちゃったけど、あたし、平気で恥かしかったんだって、そう思いました。そう思ったから、なんにも言わないようにしました。
「この部屋は、あたしの裸を見てたんだ」って、そう思いましたけど――そう思いましたから、そこに立っている利倉くんを見た時は、あたしはドキッとしましたけど、でも、それは言わなくてもいいことです。
言わなくってもいいことだって、あたしは思いました。あたしはあたしじゃなかったし、彼は彼じゃなかったし――じゃなかったら、とてもあんなことって出来ないから。
あんなことって、平気で友達にベッド貸したり、平気で知らない友達の部屋までついてっちゃってネちゃったりとか、そんなことです。
あたしはあたしで彼は彼で、そして田中くんは田中くんなんだって思います。
利倉くんの部屋にはヤシの木≠ェあります。ペパミントグリーンのヤシの木で、利倉くんの部屋のカーテンに、ついています。ヤシの木模様のカーテンなんです。あのカーテンは。
あたし、それが分らなかった。だって、ペパミントグリーンのヤシの木って、色がうすいんですもん。グリーンと赤の、三角と丸のプリントのカーテンだと思ってた。
グリーンの三角と赤の丸の間に、ペパミントグリーンのヤシの木がちらばってる模様なんです。そのカーテンは。
だからあたし、利倉くんの部屋に入った時、「田中くんがいる」って思ったんです。
田中くんの履いてるグリーンのスニーカーと、そのカーテンの三角模様の緑色と、おんなじ色だと思ったんです。
どっかに田中くんがいる、どっかに田中くんがいたから、この部屋の中には田中くんの匂いがするって、そう思ったんです。
そう思って、色の薄くなったヤシの木を見つけて、安心したんです。やっぱりここは利倉くんの部屋だって。
あたし、「もう田中くんに部屋貸さないで」って、利倉くんに言いました。だって、好きな男の人のベッドに、知らない女がいるなんて、あたしいやなんですもん。知らない女と、それだけじゃなくって、知ってる男もいるなんて。だから――。
利倉くんも「うん」て言ってました。「俺もそろそろそう言おうと思ってたんだ」って。
利倉くんがあたしの横に来て、あたしの肩を抱いた時、「田中がどう思うかな」って、利倉くんは言いました。
「あたしは、考えないことにしてるの。田中くんには感謝してるところもあるけど」
あたしはそう言いました。
確かにあの人は、トランキライザーとしてはすごかった。すごいトランキライザーだと思う。でも、人間がトランキライザーやってられる訳がない。消耗するでしょ――。
だからあたしは考えない。
あたしはまだ、野草の会の会員だけど。
だからあたしは、「田中がどう思うかな」って利倉くんが言ったことの、言葉の内までよく考えない。
男の人は、言いたいだけよ。
友情に厚い男の人は――。
あたしは、利倉くんに取られたのか、あたしが、利倉くんを取ったのか……、考えない方がいいことは沢山ある。
考えたってしようがないもん。考えるのはあたしじゃないし。
利倉くんの部屋には、サーフボードがあったんです。部屋の隅に。ハワイアンイエローの。
どうしてあたし、それに気がつかなかったんだろうと思いました。
見えないことが一杯あるのに、考えなくてもいいことを考えるのはヘン――そう思う。
利倉くんは、サーファーだったんです――「まだ三回しかやったことないけど」って。
スポーツ刈りのサーファーだってところが渋い。
「埼玉は海がないから、海に憧がれるんだよ」って、分って言ってるとこが、渋い。分って言ってるってのは、その言い方が埼玉県人の公式見解であるってことを分って言ってるってことですけども。
言いながら、利倉くんは、照れてました。照れてたから分ったんです。
あたしはまだ、利倉くんとはキヨイままです。
月曜日に行った時も、「そうなってもいいんだけどな」って思ってました(あたしは)。
でも、ドアを開けたら違ってました。
「やァ」って言って微笑まれると、やっぱしあたしは、この部屋で田中くんとなんかあった自分を、消したくなったんです。
そうじゃなくっちゃいや。
あたしは別に(淫乱)じゃないもの――。
あたしは利倉くんに「キスして」って言いました――利倉くんの腕に抱かれながら。
してほしかったら、そう言えばいいんだって、そう思いました。
利倉くんの胸の中は、湘南の潮の匂いじゃなくて、どっちかっていえば、川越の汗の匂いがしたけど、あたしは、大地に抱かれてるのが気持がいい。
利倉くんは、あんまりキスなんか上手じゃないけど(と思うけど)、あんまり上手じゃない方があたしは嬉しい。(だって、あんまり上手だって、あたしにはそれがよく分らないんだもん)乱暴なぐらいじゃないと、鈍感なあたしは感じないのかもしれない、そう思った。
抱かれながら、押し倒されながら、あたし、「今はやなの」って言いました。
「うん」て、利倉くんも言いました。
あの人はやさしい。
(その後でメチャクチャにキスされたけど)
「今はやなの」って、言ってもいいと思う。だって、今はやなんだもん。
今はいやで、もう少ししたらOKよ。「そう言ったっていいんだもん」て、あたしは思った。
あたしは、いつだって順序を間違える。間違えてばっかりいるくせに、いつだって、順序を間違えてることには気がつかない。
なんだってあたしは、好きでもない男と寝ちゃったんだろう?
何故だか全然分らない――。
高一の時に初めてで、何故だか全然分らない。
分らないことしてて、高三の時に、好きでもない男を「好きだ」って思ってた。
何故だか全然分らない。
いきなり寝ちゃっていきなり別れて、そういう人がいるかと思うと、「もうちょっと待って」って言う、好きな人≠ェいる。
あたしは全然分らない。
あたしが間違えてばっかりいるのか、あたしが間違えてなくて、みんなが間違えてばかりいるのか、それとも、あたしの周りには間違えてばかりいる人間しか来ないのか――。
ともかく全然分らない。
水曜日の午後は利倉くんと会って、土曜日の午後は利倉くんと会って、日曜日のことを打ち合わせる。
あたしは、利倉くんが好きなのか、利倉くんに抱かれているのが好きなのか、どちらかだんだん分らなくなる。
なってもいいんだ。そうなったらそうなったでまた考えるから。
利倉くんと寝ることは、利倉くんと別れることなんだろうか? すぐ別れるのがやだから、あたしは「待って」って言ってるのだろうか?
あたしは、利倉くんに「今は――」って言って、週の内五日は、いやらしいカッコウしてる。
一種のリハビリなのかなァって、時々は思う。思うけど、どうでもいいとも思う。
利倉くんと付き合ってるのだって、それを言ったらリハビリだもん。
トランキライザーの次はリハビリか――。
(あーあ、あんたってどうしてそう夢がないのッ!)
時々あたしは、鏡の中の自分に向かって怒鳴りつける。
怒鳴りつけるけど、困ったわ――鏡の中のあたしは、ニッコリと笑ってる。
可愛いんだからしようがないじゃない!
あたしだって可愛いのよ。
(あ、ひょっとしたらあたしは、ものおしみしてるのかもしれない。そんな可愛いあたしを簡単に利倉くんなんかに上げないわ、って)まさかね。
でもまさかとも言いきれない。この頃あたしは変って来たから。
あたしは、やっぱり抜けてるところはある。いやァ、一生懸命考えても抜けてるところはある。
それが何かっていいますとね、あたし、チップ貰えるんです、バイト先で。バニーガールやってると、チップって貰えるんです。
あたし、初め分んなかったんです。
「なんだろう? あたし、なんか悪いことしたんだろうか?」って思ったんです。
お客さんに煙草買って来て上げて、そしたらお客さん、あたしに怒鳴るんです。真っ赤な顔してなんか。なんかあたしに押しつけようとして。
「やばい、やっぱり水商売ってやだな」って、そう思ったんです。
思ったら違って、「ちっぷう、ちっぷう」って、田舎のおじさん(だと思う)、日本語で怒鳴るんです。千円札押しつけるんです、あたしに。二百円の煙草で、千円くれるんですもん、ボロイ商売ねェ!
あたし、なんにもしないでお金になる!!
怒鳴ったのはそのおじさんだけで、あとの人は大体ニッコリ。
ニッコリ笑って、百円くれたり五百円くれたり千円くれたり。
大人って、孤独なんだなァって思っちゃった。
思っちゃったけど、もらうものはもらいます。フフッ
ともかくあたしはお金になる。立ってるだけでお金になる。別に、万札なんてほしくない。立ってればお小遣いもらえるって、そのことだけがただ嬉しい。
一ヵ月勤めてやめちゃうの。
あと二週間。
腕を鳴らして、腕を伸ばして、なんだか私は張り切っている。
なんだか私は頑張っている。もっともっと、頑張れるんだって、あたしは思う。
だって、世の中って、広いんだもん!
夜の海はとっても広いわ。
灯りが燦《きら》めいて。
それだけでなんとなくジーンとする。
夜の海はとっても広いの!
ジーンとして、あたしは時々、バニーガールの制服のまんまで、ビルの窓をぶち破りたい。ぶち破って、空を飛びたい――そう思う。
夜の空は気持がいいし。
そうじゃなかったら、なんであたしの勤め先はビルの上なの? あたしは空だって飛べるんだわ。
そうよね? そうよね。
あたしは空だって飛べるんだ。あたしは空飛ぶウサギなんだ!
飛びます、飛びます。
Yeah!
本作品は一九八四年十月、小社より単行本として刊行され、一九八七年十月、講談社文庫に収録されました。