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宗教なんかこわくない!
橋本 治
目 次
introduction[#「introduction」はゴシック体]
第T章 オウム真理教事件[#「第T章 オウム真理教事件」はゴシック体]
1 オウム真理教事件から宗教≠排除すると
2 会社が嫌いな人達
第U章 宗教とはismである[#「第U章 宗教とはismである」はゴシック体]
3 誰がシヴァ神を必要とするか?
4 だから、宗教はイデオロギーである
5 しかしオジサン達は宗教≠ニ主義≠フ間に一線を引けない
6 信仰を強制されない自由≠ニ信教の自由
7 「信仰≠ニ言えばキリスト教」の錯覚
8 どうしてあなたの頭は、すっきりと晴れないのか?
第V章 錯覚[#「第V章 錯覚」はゴシック体]
9 なにかがヘンだ
10 踏み絵が効く人達
11 宗教法人法の下で、宗教は現実を超えられない
12 宗教が無効になっていく日本の歴史
13 内面に語りかける宗教≠ニ、社会を維持する宗教=\―あるいはその抜けているなにか
14 既にして宗教は、おだやかな日常≠ナある
第W章 ずるい子供とずさんな大人[#「第W章 ずるい子供とずさんな大人」はゴシック体]
15 宗教を考えることは、ギャップの存在を頭に入れることである
16 大人と子供は、大人の側から見れば「対立しない」が、子供の側から見れば「対立する」
17 愛情に関する一章――残念ながら、これは私の独擅場だ
18 生産≠ノ関する二つの宗教
19 子供の犯罪
20 オウム真理教の信者は、現実の麻原彰晃を本当に必要としているのだろうか?
21 彼等は、どうして宗教法人であることにこだわるのか?
22 二本の007映画の語るもの
23 くだらないこと
24 麻原彰晃の話し方の不思議
25 生産を奨励しない宗教≠ェ人間生活の上位にあったりすると……
第X章 なんであれ、人は非合理を信じたりはしない[#「第X章 なんであれ、人は非合理を信じたりはしない」はゴシック体]
26 もしかしたら松本智津夫は、有能なヨガの教師だったかもしれない
27 遂にお釈迦様の出番が――
28 ちょっとしたインド宗教史
29 ゴータマ・ブッダは、他人の思想である苦行≠捨てて、自分の思想である悟り≠得た
30 仏教はいつ宗教≠ノなったか?
31 人格化される思想
32 人間の大人になる道が閉ざされていれば、人間はいつまでも子供のままさまよい続けるしかない
33 キリスト教も仏教になる
34 近代人は二度死ねない
35 思想≠ニは、突然変異を可能にする、最も利己的な遺伝子である
36 私がカナブンになりたい理由
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introduction[#「introduction」はゴシック体]
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まず、この本がどういう本かを紹介しておこう。
これは、オウム真理教事件≠ノ関する本である。地下鉄サリン事件∞松本サリン事件∞假谷さん拉致事件≠ニいう刑事事件に関する名称はあるが、どうやらオウム真理教事件≠ニいう名称はまだあまりポピュラーになっていないようだ。私は、そうしたオウム真理教の引き起こした数々の刑事事件も含めて、オウム真理教事件≠ニいう名称を使いたいし、そのことによって「オウム真理教の存在そのものが事件である」という、日本の問題を扱いたい。これは、そういう本である。
「オウム真理教が事件である」ということの裏には、「宗教団体がそういう事件を引き起こすのか?」という驚愕がある。と同時に、まず表立って言われないことだが、「そういう事件を引き起こす宗教団体がいても不思議はないよな」という巷の声≠セってある。その声は、容易に「宗教団体ならそういう事件も引き起こすよな……」に変わりうる。もしかしたら私は、もう既にとんでもないこと≠言っているのかもしれないが、「オウム真理教の存在そのものが事件である」ということの中には、「オウム真理教が宗教≠ナあることによって、宗教とはなにか?≠ニいう事件が引き起こされた」ということだってある、ということである。
ある人は、「宗教とは、犯罪事件から最も遠いものである」と思っているし、別のある人は、「宗教とは聖なる狂気である」とも言う。だから、「宗教がまさか……」という驚愕と、「宗教ならやっぱり……」という偏見が、同時に生まれるのである。
オウム真理教事件は、「宗教とはなにか?」という、普通の日本人ならまず考えないような問題を提起してしまった。これは、日本人にとっては、とんでもない事件≠ナある。なにしろ、問題提起≠ネどということさえも起こらない国で、突然の「宗教とはなにか?」という大議論である。これが事件≠ナなくしてなんであろうか?
だから、この本は、「宗教とはなにか?」に関する本でもある。そして、この本を書く私は、さっさとここでその答≠出してしまう。
宗教とはなにか?
宗教とは、この現代に生き残っている過去である。
「そんなものいらない」と思っていても、生き残っている以上、宗教は突然に姿を現すこともある。
宗教を、「この現代に生き残っている古臭いもの」と考える人だっているだろう。そういう人達は、「古臭いからいらない、もう意味はない」と言う。しかし私は、そんな風には言わない。「宗教とは、この現代に生き残っている過去である。だから、宗教を論ずるのはむずかしい」と言う。
宗教とは、この現代に生き残っている過去である――だから、「宗教とはなんなのか?」ということを考えるのだとすると、その過去の集積=歴史を頭に入れなければならない。それだからこそ、宗教を論ずるのはむずかしい[#「宗教を論ずるのはむずかしい」に傍点]のだ。
宗教がむずかしいのではない。宗教を論ずるために必要とされる歴史に関する知識の量≠ェ膨大で、それだからこそ、「宗教を論ずるのは大変だ[#「大変だ」に傍点]」なのだ。
宗教には、「宗教というむずかしいもの」という思い込みがあるから、それで「論ずるのはむずかしい」にもなるのだろうが、それも宗教に関する偏見の一つである。
宗教というものが一体何≠ネのかというのは、そんなにむずかしいことではない。様々な宗教があって、様々な宗教の形があって、その様々さを頭に入れると気が遠くなってしまいそうな気もするが、すべての宗教は、実のところ、「それを人は求めた」という点で一つなのである。
それを人は求めた。求めて、そして離れた。それが宗教である。今でもそれを求める人はいる。求める≠ニいうことに関して、過去と現在がごっちゃになってはいるが、しかし宗教が「人が求めるもの」「人が求めたもの」であることに変わりはないのだ。
つまり、「宗教とはなにか?」という問いは、「人はなにを求めるか?」という問いと重なるということである。
人はなにを求めるのか?
答は簡単である。人は幸福≠求める。もう少し正確に言えば、人は自分の幸福≠求める。違うことは、人それぞれによって、「なにを自分の幸福とするか?」の答が違う。それだけである。
神に愛されること≠自分の幸福と考える人がいる。人に愛されること≠自分の幸福と考える人がいる。この二つは全然違うものだろうか? そうではない。自分の幸福≠ニいう点で同じものである。だとしたら、こういう考え方も出来る。つまり、「人に愛されることを自分の幸福とする≠ニいう考え方は、神に愛されることを自分の幸福とする≠ニいう考え方から生まれたものである」と。
神に愛されることだけを自分の幸福と思って願って来た人間が、「これこそが自分の恋人……」と思えるような人間に出会ってしまったら、平気で神を捨てるかもしれない。つまり、「恋愛優位の考え≠ヘ、宗教から生まれた」である。
神に愛されること≠セけを考えていた人間が、自分を愛してくれる恋人に出会って神を捨ててしまったら、その人にとって宗教は、もう遠い過去≠セろう。その人間のことを、「色に狂って堕落した」と、かつての信者仲間が言ったとしたら、言われた方は、「まだそんな大昔のことを信じている人間がいるのか……」と思うかもしれない。
宗教が現代に生き残った過去≠セというのは、そんなとこである。
そして、神を捨てて恋人を得て、しかしその恋人に捨てられて、神に逆戻りする人間だっているかもしれない。これは、神を求める→神を求めた→神を求めない→神を求める≠ニいう変化である。「求める≠ニいうことに関して、過去と現在がごっちゃになっているのが宗教の現在だ」と私が言うのは、そんなところである。
ある人は、金を儲けること≠自分の幸福だと考えるかもしれない。別のある人は、神に愛されること≠自分の幸福だと考えるかもしれない。この二つは全然違うものだろうか? そうではない。自分の幸福≠ニいう点で同じものである。だとしたら、こういう考え方が出来る。つまり、「金儲けを自分の幸福とする≠ニいう考え方は、神に愛されることを自分の幸福とする≠ニいう考え方と関係がある」と。
「金儲けだけを考えていて、心の幸福≠まったく考えていなかった人間が、真実の教え≠ノ出会って、金儲けという考え方を捨てた――そして幸福になった」という話は、様々な宗教説話の中に当たり前にころがっているだろう。そして、宗教説話の中には絶対にないだろうが、この逆だって当然のことながらある。つまり、「神を信じて敬虔に生きていた人間が、ある時なんらかのきっかけで神の虚妄≠直感して、それでその人間は、その時以来信じられるものは金だけだ≠ニ言って生きている」とか。
つまり、「宗教とは、幸福≠ニいうものを求める人間が生み出した、幸福にまつわる模索=vなのである。「神≠ニか仏≠ニいうような超越的な存在こそが宗教だ」などと考えていると、そこんところが分からなくなる。だから、「人間の幸福≠扱う宗教は、たやすくその人の幸福≠扱うものにもなる」である。信教の自由≠ニいうものがあるから、今では人は、「宗教といえば個人のもの」と考えてしまうが、宗教が個人のもの≠ノなってしまうその以前には、エンエンと続く、民族のものである宗教≠フ時代があったのだ。だから、人間の幸福≠ニ個人の幸福≠貫く横軸があって、そこに過去の歴史≠ニ未来≠ニを貫く、時間という膨大な縦軸がある――それが宗教の座標である。
だから、いっさいはゴチャゴチャになってよく分からない。すべてはそれだけの話である。だから当然、この本は、そういう「ゴチャゴチャに関する本」でもある。
さてしかし、こんなことを言う私のことを、「なんてメチャクチャなことを言うやつだ」と思う人間も当然いるだろう。だから私は、このようにも言う――「これは、そんなメチャクチャなことを言う人間が書いた本でもある」と。
1987年が半分くらい終わろうとする時、私はふと考えた。「来年から1999年までは十二年ある。今、十二星座十二年分の占いの本を書くと、最後の年は、例の恐怖の大王がウンタラ≠フ年になる。となると、今が十二星座十二年分の占いの本≠書く絶好のチャンスで最後のチャンスだ。じゃ、今年の内にそういう占いの本¥曹「ちゃおうかな……」と。
「自分のあらかたはもう出来上がってしまっている。あとは、その既定方針通りに、自分のやるべきことをやっていけばいいだけだ。このアホらしい現実は早晩崩れてしまうだろうから、そっちの方の心配はする必要がない。ただ、世の中にはアホな人間がいくらでもいて、1999年≠ニいう年がやって来ることだけは確かだ。1999年がどうせたいした年じゃないだろうこともまた確かなことだが、1999の年、空から恐怖の大王が降りてくる≠ネどという厄介な呪詛が残されていることだけが気がかりで、今の内に手を打っとくべきことはそれだけだ。視界を喪失したアホな人間は、なにをしでかすか分からない。そんなやつらのつまんないパニックに巻き込まれるのはいやだから、今の内に先手を打って、全部を冗談に変えとこう。そうしとけば後はラクチンだから」と、これからバブルというものがいよいよ勢いを得ようとする、まだ昭和≠ニいう時代が永遠に続くと人々が考えていた1987年の六月に、私は考えたのである。そういうことが、実は私の『ぼくたちの近代史』という本の終わりに書き残してあったりもする。橋本治という人は、実はそういう人でもある。つまり、「最大の理性とは、すべてを冗談にする力である」と。
それで、はじめっから終わりまでウソと冗談だけで出来上がっている『アストロモモンガ』の1999年の項には、こういうことが書いてあるのである――。
「空からは恐怖の大王が降って来ますが、山梨からは甲府の大王が現れます。別府からは豆腐の大王、スコットランドからは毛布の女王が来日し、ニューオルリーンズからは娼婦協会会長とミス情婦が来日します。etc.」
1987年、既に山梨≠ノ目をつけていた私はエライが、『アストロモモンガ』の1998年の項には、ちゃんと「富士山麓にオウムは鳴けるか!?」とも書いてある。しかし、このルート5≠ノ関する予言は、私よりずーっと以前、1960年代の末期に高石友也が『受験生ブルース』の中で言っていることではある。
ついでに、来年の話だが、『アストロモモンガ』の語り手であるフランソワーズ・ハヤサカ女史は、「この間大掃除をしておりましたら、私の高校時代の日記帳が出てまいりましたのよ」という前置きつきで、こういう危険なことを言っている――。
「つまり1996年は灼鳥座の年で草刈正雄の他はみんな死んでしまう。人類は南極にだけ生きのびることが出来るのですが、それもつかの間、草刈正雄さんだけを残して、もうもうみんな死んでしまうのでございます。あの頃(後註:彼女の高校時代)私は草刈正雄さんの大ファンでございましたので、そのような運勢を作って遊んでいたのでございます」
『復活の日』を作った角川映画も滅亡してしまったが、きっと真理の御魂≠ヘこんなことを考えちゃいなかったろう。
やがて昭和も終わったし。バブルというものもはじけたし。だから、1989年に昭和が終わった時、私は「やったー……!」と言って驚喜して踊っていたのだが、それこそが、この私にとっての最終戦争《ハルマゲドン》だったりしたわけだ。そういうことを、私は自分の最終戦争の終結宣言書である『'89』の冒頭に書いたりもしたわけだが、それを言うこの本は、「そんなとんでもないことを言う人間のとんでもない観点から書かれたオウム真理教事件に関する本=vなのである。「オウム真理教事件とはとんでもない事件である」ということを理解する人にとって、私のこの言い方は、別にヘンでもなんでもないことだろう。
というわけで、オウムである――。
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第T章 オウム真理教事件[#「第T章 オウム真理教事件」はゴシック体]
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1 オウム真理教事件から宗教≠排除すると[#「1 オウム真理教事件から宗教≠排除すると」はゴシック体]
私にとってオウム真理教事件≠ニは、遅れて来た田中角栄信仰とオタク予備軍のしでかしたバブル末期の犯罪≠ナある。それだけの話だ。
俗に早川メモ≠ニ言われるものの中には、1995年の十一月の項として、「もう[#「もう」に傍点]戦争しかない」とあるんだそうな。それが恐怖の一行≠セったりもするのだろうが、しかし、一体なにがもう≠ネのだろう? こういう切羽つまったもう≠ェ登場する背景は、普通、会社社会の日本では一つしかない。それは、資金繰りが苦しくて「もう[#「もう」に傍点]倒産だ……」というようなシチュエイションである。
殺されたオウムの元科学技術庁長官の村井秀夫は、「オウムの資産は一千億円」と言った。それを真に受けて、オウムの謎≠ニか闇≠ニかが言われたりもするのだろうが、本当にそんなにあったんだろうか? 「まさか」と、私は考える。「精々あって三百億円ぐらいだろう」と、私は勝手に決めつける。バブルの日本では、それくらいの富を掻き集めることぐらいは簡単だったろうし、今の日本の一般人は、掻き集めればそれくらいの資産≠持っているんじゃないかと。オウム真理教事件は、そういうバブルの日本を背景にした、「金さえあればなんでも出来る」という愚かな日本人の裏側を見せつける事件なのだ。
がしかし、実際のところ、私にはオウム真理教の資産≠ェどれくらいあるのかは分からない。いかに膨大な資産≠ェあったとしても、それがどれくらいの価値を実際に持っている[#「どれくらいの価値を実際に持っている」に傍点]のかどうかもまた、分からない。現在の日本人の資産≠ニは、「持ってはいても、それを資産価値≠ノ見合うような形で換金するのはむずかしい」というようなものだろう。だから私は、「分からない」と言うのだ。
化学プラント工場である第七サティアンなるものを作るのに、億単位の金がかかったことは事実だろう。こういうものは、きっと資産≠セろう。しかし、この化学プラント工場にどれほどの資産価値≠ェあるのかは、かなり疑わしい。誰か、これに億単位の金を出して買う人間がいるんだろうか? 当人にとっては資産価値のある資産≠ナも、ハタから見れば利用価値がない――だから従って資産価値のない資産≠ノしかならないものは、今の日本にいくらでもある。
バブル≠ニ呼ばれる時代に、日本中の土地には資産価値≠ネるものがくっつけられて、いくらでも値上がりした。土地という担保がありさえすれば、銀行はいくらでも金を貸した。投資というものは、人の可能性に対して金を貸すのが本来のはずだが、人の可能性を見ることが出来ない人間だらけになった日本資本主義の末期に、銀行は人の可能性に投資することをやめて、値上がり必死の担保物件目当てに金を貸す金貸し≠ノ落ちた。そういう状況の中で、土地という最も確実な担保物件には、過剰なまでの資産価値≠ェくっつけられた。そうして土地は値上がりし、やがて、そういう状況そのものがバブル経済≠ニ喝破されるようになり、はじけた。オウム真理教の資産が一千億円≠ニか三百億円≠ニか言われるのは、こういう資産価値そのもののインフレ状況≠ェ背景にあってのことだ。
1990年の衆議院選挙敗退後に開催された石垣島セミナー≠ネるもので、麻原彰晃は、「もうすぐ日本は沈没するから、資産はすべて現金に換えろ」と命令したそうだ。資産価値の値下がりが問題になる現在のデフレ状況の中で、そういうことを言ったのだけが、彼の先見の明≠フようなものだが、彼が果たして先見の明≠ナそう言ったのか、ただ現金の形にならなければ資産≠ニして信用出来なかったのか、どちらかは分からない。
つぎ込んだ金と、所有する財産≠轤オきものを売却すれば、三百億円くらいにはなるのかもしれない。村井秀夫の言う「一千億円」という数字の根拠はそんなものじゃないのかと思うのだが、果たして、オウムの所有する資産≠ノ、それだけの換金能力があるのかどうかは分からない。三月二十二日の第一回強制捜査の時、警察は七億円の現金と一千百万円分の金塊を発見したというが、もしかしたら、その時点でのオウムの残金は、それだけだったのかもしれない。なにしろオウムは、すべてが現金決済だったというのだから、現金がなければ話にならない。信者からいくら寄付を集めても、それが値下がり必至で売れそうもないような不動産なら、現金化はむずかしい。資産≠ェあったとしても、現金が七億円ぽっちじゃ、「もう……」という切羽詰まった気持にはなるだろう。
なにしろ、戦争には金がかかる。決して戦争をしないで冷戦状態≠持続させたまま、アメリカとソ連は軍備増強競争をして、その結果ソ連は崩壊した。アメリカが日本との貿易戦争に負けたのも、その無意味な軍備増強のためだろう。戦争のための用意は、無意味に金がかかって、国家さえも傾ける。その真似をしたオウム真理教が湯水のように金を使って財政破綻をきたしたって、別に不思議ではない。
七億円で、戦車は七台ぐらい買えるだろう。しかし、戦車七台で戦争は出来ない。戦車の一台が買えれば、「本物だ!」と言って驚喜することは出来る、「もしかしたら、戦争だって出来るかもしれない……」と。しかし、戦車が一台で、戦争が出来るわけもない。そのためにサリンという毒ガスが必要にもなるのだろうが、大金をかけて建設した第七サティアンも、ロクな設備ではなくて事故が続出し、結局はプレハブ小屋の中で小規模な生産をするしかなかったという状況もある。「出来るはず」と「出来る」の間には結構な距離があって、それを埋めるためには、これまた結構な金がかかる。
農薬散布用のラジコン操縦のヘリコプターを買って、これでサリンを撒《ま》く計画をしたのだが、その実験中にラジコンヘリは墜落して壊れてしまったのだそうな。そこで科学技術省長官の村井秀夫は、「高いんだぞ!」と怒ったんだという。現実というものは、くだらないところで金を消費して行くものだ。いくら資産≠持っていたって、それが現実の中で意味を持つような現金≠ニいう形にならなければ、資産≠サのものに意味はない。
資産を抱えたまま倒産する会社なんか、いくらでもある。資産≠ニいうものは、いざという時にそれを売却して、出資した株主に対する保証の役割を果たすようなものなのだから、意味のない資産をいくら持っていても、その会社の現在≠説明する役には立たない。しかし、そういう会社社会の現実を知らない者にとって、ある程度以上の自由に使える金≠ニ、膨大に見えるような資産≠ェあるということは、鼻高々で自慢出来るようなことなのだろう。
がしかし、戦争≠ノはとんでもなく金がかかる。「金があるから戦争≠熄o来る」と思って、しかしその戦争≠ノは、莫大な金がかかる。「金はある」と思って始めたことが、逆に資金的な逼迫《ひつぱく》状況を加速させる。「これだけの資産≠ェある」と思って、その下らない資産≠後生大事に持ち続けて、そのまま無茶な事業≠拡大させて行く自滅行為と、それは同じものだ。リアリティのない妄想からスタートした事業≠ヘ、拡大∴ネ外に道はない。くだらない事業≠ェ世の流行に一時的にだけマッチして大当たりする――やがてすぐにその事業≠ヘつまずいて、まともな経営戦略を持たない経営者は、一発逆転を夢に見て、途方もない新規事業≠計画する。そして、そのアホらしい計画はすぐに倒産するのだ。そんないかがわしい経営者≠ヘ、バブルの時代にいくらでもいた。オウム真理教というものがそういうくだらないよくあるもの≠フ一つでないという保証は、どこにもないのだ。
強制捜査の突破口になった假谷さん拉致事件≠ェ、まだ人目のある夕刻≠ノ決行されたということは、彼等がそれだけ資金繰り≠ノ逼迫していたという証拠にもなろう。もしもオウム真理教の側に、もう≠ネどという切羽詰まった状況でもなかったら、あの事件は必ずや、人に知れないように夜中に[#「人に知れないように夜中に」に傍点]決行されたはずなのだから――その以前に起きた事件≠フ多くがそうであったように。
最大の資金源であるお布施集め≠フ逼迫は、そのまま教団の無茶な拡大方針の逼迫で、それはそのままイケイケ≠セけしか取り柄のなかった、バブルの頃の青年実業家の破綻≠ノ重なる。オウム真理教事件≠ヘ、そういうものでもあるのだ。
指名手配を受けて逃走していて、その潜伏逃走の間に弁当を買って(しかもノリ弁だそうな)、いちいちその領収書をもらっていたやつがいたんだそうな。そんなことをすりゃ足がつくのは当然なのに、それでもいちいち「オウム様」の領収書をもらっているのは、どういう神経なんだろう? 一連の事件がまだ疑惑≠フ段階にあった頃、マスコミはあっちこっちを取材して回って、そのいたるところで、「オウム」の名刺や「オウム様」の領収書を発見している。なんだってこんなに律儀に証拠≠ノなるようなものを残して回ったんだろうか?
本当に彼等は、会社日本の申し子みたいだ。いちいち領収書を提出しないと、ケチな教団の金庫番は、その経費を落としてくれなかったのだろう。その結果、逃走中にノリ弁を買ってきちんと領収書を集めている、出張中のビジネスマンみたいな哀れなやつも出て来る。ここまで律儀な社員教育が出来る会社というのは、今の日本にはそうそうないだろう。社員の忠誠心≠ニいう点では、麻原彰晃という卓越した経営者の作った|新しい会社《ヴエンチヤービジネス》は、かなりのものだった。
オウム真理教は、急速に発展して、その発展途中で無茶な業績拡大をして、そのためにあっという間に破綻した、バブル時代の妙ちきりんな会社≠フようなものなのだ。オウムの言う最終戦争《ハルマゲドン》≠ヘ、そんなものが口にする末期症状だとしか、私には思えない。
オウムに金の疑惑≠ェあるのだとしたら、「資産が一千億円」とか「三百億円」というようなところではないだろう。1989年に宗教法人としての認可申請を出したオウム真理教に「四億円」の金が既に用意されていたという点だけだ。ゼロから四億円を生むのは、とてつもなくむずかしいが、四億円を元手にして「三百億円にも一千億円にも見えるような資産」を作り上げることは、バブルの時代にはそうそうむずかしいことではなかったはずだ。わけの分からないものに対してポンと四億円を出してしまうような、不明瞭な存在だって、その時代にならいくらでもあっただろうし。
ところで、オウムに残されていた七億円≠ニいうのは、どれくらいの金額なのだろうか?
逮捕された時、麻原彰晃の枕元には、カゴに入れた九百六十万円があったという。七億円という金額は、一人一千万円を逃走資金にすると、たった七十人しか逃げられない金額だ。そして、一千万円という金額は、一泊五十万円のスィートルームに泊まると、飲まず食わずで二十日間しか滞在出来ない金額だ。バブルの潮が引いて、それでも砂浜のあちこちには、まだ贅沢≠ニいう水たまりが残っている。そういう日本で、倒産必至の経営者に残された七億円という金額は、なんとも悲しい程度の大金≠ネのだ。
高級なメロン≠ェ好きで、しかも回転寿司を二十万円分も買ったりする麻原彰晃という人は、新興宗教の教祖としては飛び抜けて質素な生活をしていた人だというが、質素だったのか贅沢を知らなかったのか、よく分からない。二十万円の回転寿司の量≠ナ大喜びする人間は、きっと二十万円も取られる高級寿司店の質≠ノはしりごみをするだろう。ロールスロイスに乗って、ドライブインでウナギやヒレかつ定食の大盤振る舞いをする感覚というのが、私にはまったく分からない。がしかし、そういう感覚の大金持ち≠ニいうのが、この日本という不健全に金持ちになってしまった国には、結構いたりもする。昔はそういうものを、「成り上がりの田舎者」と言ったものだけれども、バブル経済を生んだ日本は、金の使い方を知らない人間に、いくらでも不必要な金を与える国でもあったのだ。
オウムのえげつない金儲けの方法にあきれ、麻原彰晃のちんけな金の使い方を笑いながら、宗教≠ニいうものが前面に出てしまうと、「そんな人間は他にもいたな……」という発想を忘れてしまうのは、かなりに情けのないことだろうと、私は思うのだった。
2 会社が嫌いな人達[#「2 会社が嫌いな人達」はゴシック体]
それがオウム真理教[#「教」に傍点]≠セから、この事件には、宗教≠ェ重要な案件として登場する。しかし本当にそうなのだろうか? 「宗教などというものは、もう遠い昔にその存在理由を失っている」と思う私には、この事件の宗教≠ニいう要素は、ただ事件の背景を混乱させるためだけのものだとしか思えない。
この二十一世紀を間近にする近代日本でまだ生き延びていられた宗教≠ニは、結局のところ、「小学校卒業の学歴で総理大臣になる」「政治力を使って幽霊会社を作り金儲けをする」という田中角栄信仰≠セけだったのだと、私は思う。
そして、そういう土俗信仰≠ノ走れない多くの理性的な日本人に有効な最大のマインドコントロールとは、会社人間であること≠ネのだ。そのことを、オウム真理教事件≠ヘ端的に証明している。なにしろ、オウムの信者達は、「信者外の人間こそがマインドコントロールにかかっている」と信じているのだ。そしてこれは、別に間違ってなんかいないと、私だって思うのだから。
オウム真理教事件が起こったことによって問題にされるべき宗教≠フ局面とは、「現代において宗教とはなにか?」などではまったくなくて、「宗教が不必要になってしまった時代に、宗教というものはどのような形で現代人の間に存在しうるのか?」ということなのだ。日本人は、そのようにして、宗教≠ニいうものが分からない[#「分からない」に傍点]。
オウム真理教事件があきらかにしたことは、「オウム真理教事件≠ゥら宗教≠ニいう要素を抜き取って考えられないという点において、日本人が実のところ宗教≠ニいうものの意味をまったく理解していない」ということだ。だからこそ、このオウム真理教事件≠ナ一番重要なことは、「この事件から宗教≠ニいう要素を抜き去って考えること」なのだ。そして、そのために考えるべきこととは、「どうして日本人は、この妄想的犯罪事件から宗教≠ニいう要素を抜き取って考えることが出来ないのか?」ということだろう。
普通の人間なら、地下鉄サリン事件=オウム真理教≠聞かされたら、まず、「そんなことするなんて、頭がおかしいんじゃないの?」と思う。ところが、サリンを作った高学歴の技術者連中と同じように、ある程度以上の教養と学歴を持つ人間達は、そこに宗教≠ニいう謎を発見してしまうのだ。最大の謎とは、こんな宗教≠ネどという時代遅れのものが平気で登場して、それを「時代遅れ」と言い切ることが出来ない、日本の学卒連中の歴史認識の甘さだろうに。
宗教が分かんない人間ほど、わけの分かんない謀略≠ェ好きだ。それは、「仕事が出来ない人間ほど人事の噂話が好きだ」というのと、よく似ていると思う。分かるべきこと≠ェよく分からないもの≠ナあったら、人は平気でそのよく分からないもの≠、議論から排除してしまう。究明されなければならないことがよく分からないこと≠ナ、そのよく分からないこと≠ェさっさと排除されてしまったのなら、人はその事件の謎≠フ中に、自分のよく知っている謎≠平気で代入してしまう。だから、会社内の地位に不満を感じている人間は、会社内の些細な事件≠ノ対して、平気で「あれは専務の陰謀だ」などと言う。
オウム事件に謎≠ニか謀略≠ェつきまとうのは結構だが、その謎≠ニは、所詮よくある暴力団や政治家とのつながり≠ナ、それ以上の深い闇≠ニいうのは、結局、それを語る人間が、「宗教とは、神秘的な不可知に近いもの」と思い込んでいる結果の幻影だろう。私にはそうだとしか思えない。
私は、「就職したくない」と思っている大学生を知っている。「この会社が嫌いだから転職したい」と思っている若い会社員の存在も知っている。就職したくない学生は、なんらかの形で大学に残ろうとするし、自分の入った会社が嫌いな会社員は、もう一度大学に戻ろうとしたりする。「この会社、この仕事では自分≠ニいうものが活かされない」と思っている人間も知っている。
彼や彼女にとって、仕事≠ニいうのは、他人の需要に応えるためのもの≠ナはなくて、自分を表現するためのもの≠ネのだ。今まで一度も自分≠ニいうものが現実生活の中で表明されたことがなく、仕事≠ニいう状況の中では、他人の需要に応える≠ニいうことだけが要求される。「このまんま自分の中に眠っている自分≠ヘ、一度も日の目を見ることもなく終わってしまう……」と焦る気持も分かる。しかし、そういう彼や彼女が、果たしてそれまでに自分≠ネるものを表明しようとしたことがあったのだろうか? そういう苦闘≠ニいうものをしたんだろうか? 彼や彼女のした苦闘≠ヘ、「自分というものを絶対に表明すまい」というような苦闘だろう。そういう人間に、そんな自分の無能な過去を振り返らずに、まともな自己表現≠ネんかが出来るはずはない。
だから、そういう彼や彼女に対して、世間≠ニいうものは、「甘ったれんじゃないよ」という目を向ける。会社というところは、それに関しては典型的な社会だ。だから、会社というものは、自分≠ニいうものを圧殺してしまった彼や彼女を、平気で圧殺する。会社なる社会を作っている人間達は、他人の需要に応える≠ニいうことだけを考えて、自分の欲求≠まともに考えなかった人間が大部分なのだから。
彼や彼女は、だから当然、そういう会社社会の中の人間関係が嫌いだ。がしかし、果たして彼や彼女は、本当に人間関係≠サのものが嫌いなのだろうか? 私はそうだと思わない。
彼や彼女は、自分を取り巻く人間関係の中に、「自分を理解してくれる人間」がいないことを知って、そうして憎んでいる。彼や彼女は、「自分を丸ごと愛して受け入れてくれて、そして理解してくれる上司」がいれば、それでOKなのだ。彼や彼女は、そういう自分の人間関係に関するさもしさ≠理解していない。彼や彼女が愛情≠ノ飢えていたとしても、まだ未熟で曖昧な自分≠ネるものを外に出して露呈させてしまうことを恐れる彼等は、決して「自分は愛情に飢えている」などとは言わない。言わないで、ただ待っていたり、イライラジリジリしていたり、不機嫌に黙り込んでいたりする。
オウム真理教の旧外報部長上祐史浩には、へんな人気がある。「会社社会が嫌い」という前提に立てば、これはとってもよく分かる[#「よく分かる」に傍点]。こうだ――。
「会社社会の世間≠ヘ、自分をあんまり好意的に評価してくれない。ああだこうだと文句ばかり言う。その文句≠フ理由が、分からないわけでもない。しかし、そんなことを分かったら損しちゃう。だって、そんなことをこっちが分かってやったって、会社オヤジはこっちのことを分かろうとはしてくれない。しかも悲しいことに、会社オヤジはああだこうだと口ばっかり達者で、私にはそれに反抗するだけの言語能力がない。ああ、うっとうしい、ああ、ムシャクシャする……。せめて上祐さんみたいに、なんでもいいから言い返せる能力があったら……」ということになる。
残念ながら、日本のテレビには、しつこいまでにふっかけられた議論を押し返せるだけの頭のいい人間≠ニいうのは登場しない。頭のいい人間≠ヘ、いつだって予定調和的な体制派だ。テレビを見ている無責任な人間にとっての反体制派≠ニいうのは、大勢から袋だたきにあってもケロッとしている人間≠フことで、それこそがヒーロー≠ネんだろう。そういう見世物能力の高い人は、テレビの中でヒーローとなる――かつての羽賀研二の誠意≠フように。
「善悪なんかどうでもいい、自分の一貫性なんてもんもどうでもいい、ただこのややこしい自分の思い通りにならない状況≠切り抜けるだけの舌先の能力があればいい」と思っている人間は、男女を問わずいっぱいいるだろう。問題は、なんとなく追い詰められている自分≠ナ、必要なのは、そのなんとなく追い詰められている自分に親近感を持たせてくれるようなもの≠セ。必要なものは、その追い詰められている自分をやさしく受け入れてくれるもの≠セろう。そういう彼等を受け入れるものは、彼等の内部を直撃して、現実に触れさせないようにして、難解なことで包囲して、自分の方におびき寄せようとする、教祖≠セけなのだ。
私自身、うっかりすれば教祖≠ノさせられてしまう(だから私は、読者≠ニいうものが好きではない)。なんだか私は、遠い昔に起こったオタク=宮崎幼女連続殺人事件≠フ解説をやり直しているような気がする。
会社が嫌いな若者は、実はとっても会社が好きだ。なぜかというと、彼等は会社社会に適合する人間になるような教育だけを受けているからだ。会社社会と教育機関が無意識の内に結託して、会社社会にだけ適合するような人間を作り出していると言ってもいいだろう。日本人にとって会社≠ヘ最大の宗教で、教育は最大の洗脳だと言ってもいい。そして、そういう洗脳≠受けた人間達にとって不幸なことは、現実の会社というものが、あんまりそういう人間の内実を問題にしてくれないということだ。会社にしか適合しないような教育を受けた人間を、会社というところはあんまり歓迎しない。
景気のいい時は「なんでもいいから採用しろ!」で、景気が悪くなったら、「没個性の人間はいらない」と言う。当然のことながら、利潤追求機関であるところの会社は、有能な人間を求めている。そして、会社の言う「有能な人間」とは、会社にしか適合しないような教育をはねのけて、そこで有能な個≠作り上げた人間のことだ。そして、当然のことながら、この有能≠ヘ、会社という調和社会の秩序を壊さないようなもの[#「秩序を壊さないようなもの」に傍点]でもある。ということになると、これはとってもむずかしい。つまり、「会社の方針に反さない程度に、会社社会に対して反抗的な人間」ということにしかならないからだ。こんな不安定な条件を、人間はいつまでも持続していることが出来ない。若い人間なら、こんな条件はただ「矛盾」として斥ける。そして、そういう会社にやって来る人間の大多数は、「会社社会に適合するような教育を受けた人間」なのだ。
会社は、自分達の卑小なパロディのような人間を嫌う。嫌わなければ、ただこき使う。どっちにしろ、自分達の受けた教育の成果が百パーセント歓迎されるものではないことを、まともな頭を持った人間なら、簡単に理解する。その教育≠ニいう洗脳に不快感を感じた者なら、なおさらに。「会社は好きじゃない、会社のあり方には疑問を感じている、がしかし、その会社からは抜けられない」というジレンマは、「教団がサリンを撒いたというのなら、教団に疑問を感じる。でも、それだからといってどうしたらいいのか分からない」と言うオウム信者の心境とそっくりのはずだ。
オウムの信者は、本当にマインドコントロールを受けた被害者≠ネのだろうか? 私は、「自分を圧殺した会社社会や親というものに対して加害者でありたい」という意識が、彼等の中には濃厚にあると思う。いまどきの若者で、こういう考え方をしないでいる人間の方が不思議だ。それだから、日本の会社社会は、根本で行き詰まっている。結局オウムは、会社日本の行き詰まりを、そのまんまグロテスクな形で繰り返しているだけなのだ。
麻原彰晃は、そういう不満を持った人間をなんでも受け入れる上司≠フような教祖だ。そしてオウム真理教は、そういう彼等を受け入れる会社社会≠ネのだ。だからこそ、そこに属した彼等は、素直に領収書を集めている。黙って、ワーク≠ニいう強制労働のようなものに従事している。自分のための修行≠ェあって、そして教団のためのワーク≠ェある。自分を活かしてくれさえすれば、まだ自分の未熟な自我を(たとえ偽り≠ナあっても)伸ばしてくれさえすれば、会社≠ニいうところは、いかに会社外に害毒を垂れ流そうと、立派な理想社会≠ネのだ。
公害を垂れ流す企業の社員が、自分の会社の社会的責任≠ノ対して沈黙を守っていたのは、そうそう昔のことじゃない。会社社会に順応するようにしつけられた人間は、会社社会の中でしか生きられないようなものらしい。
小学校しか出ていない総理大臣田中角栄が、最高学歴を誇る日本のエリート官僚をいとも簡単に手なずけていたという奇妙な事実≠ェある。理科系高学歴人間の忠実さが売り物だったオウム真理教の奇妙≠ニ、これは実によく似ている。
ロッキード事件で逮捕されたその後でも、「田中角栄の人間的魅力」を語る人は、いくらでもいた。「田中角栄の人間的魅力」を語る人は、当然のことながら、官僚主導の日本政治にうんざりしている人達で、しかも困ったことに、田中角栄ほど、その官僚達に人気のある政治家もいなかった。「麻原彰晃の神秘≠ェ知識人をひきつける」なのだろうか? 「高度に細密化され分断されてしまった知性≠ノ、麻原彰晃の神秘≠ヘ働きかける」なのだろうか? 背広に下駄履きでパタパタ扇子を使って、一人で数字を駆使した政策≠喋りまくっていた田中角栄の、田舎由来の人なつっこさが、所詮は孤独な官僚達に人間関係の心地よさ≠教えていたのと、それは同じことなのではないのだろうか?
バブルの末期に登場した麻原彰晃の魅力≠ニは、いまどき珍しいような、羞恥心ゼロの田舎者感覚だろう。
なにしろ、昭和末期のバブル経済下の日本人は、一生懸命本物の国際人≠ノなろうとしていた。自分達のどこかにアカ抜けのしないイナカモノが隠れているような気がして、日本人は自分達の手にした金で本物≠買おうとして躍起になっていた。中途半端な国際人にしかなれない日本人の中に、そういう動きをケゲンな目で見ている人間達がいたとしても不思議ではない。無理な国際化と無理な都会人化は、一種のファシズムのように日本人を襲って、日本人の多くは自分の中のイナカモノ≠ェオープンにされることを恐れた。麻原彰晃というとんでもなく混濁したパーソナリティは、明らかにそれを恐れなかった。あの1990年の衆議院総選挙の時の、とんでもない異常さを見れば、それがよく分かる。
人は、「オウム真理教は、あの衆議院総選挙の敗退を転機として変質して行った」などと言うが、あの薄気味の悪い選挙戦が、ノーマルなものだと思うのだろうか?
選挙というものがアカ抜けなくて田舎臭いものになって、それだから多くの人間達が選挙に対して無関心になって、それを知って政治家達も躍起になってイメージ選挙などというアホらしい都会化≠図っていた時代に、白衣を着た竹の子族みたいなもんが幼稚な歌を歌って踊って、頭には象のお面をのっけて、ハリボテの醜男のお面をかぶって、「一体誰がいまどきあんなもんに投票するっていうんだ?」というようなカッコをして、それで一向に恥じ入らなかった――それどころか、平然と、「票の操作がなされている」などと、自分達の当選を疑わないようなことを言ってのけた――ということは、どう考えたってアレがまともな神経の持ち主のすることじゃないということだ。その選挙戦を実際に見た東京の杉並区に住む私の友人達は、「ヘンなの」と言って笑っていたが、私は到底笑う気になれなかった。あまりにも気持が悪いので、その選挙の間、絶対に杉並区に近寄らないようにしようと思っていたくらいだ(私の実家は杉並区にあるから)。
あのバブルという、オシャレ≠セけが取り柄の時代に、あれだけのことを平然と出来る神経は、尋常なものじゃない。「人に媚びる気がまったくない」と言うべきか、「対外認識がゼロ」と言うべきか、それとも「美意識が麻原彰晃≠ニいう特異な集団」と言うべきか――。
あれで平気でいられる麻原彰晃なる人物の神経がよく分からない。イナカモノ≠ニいう言葉は、もしかしたらまだ穏当でありすぎる表現[#「まだ穏当でありすぎる表現」に傍点]なのかもしれないが、あれを平気でやれるあの集団が都会的なセンスの持ち主≠ナないことだけは確かだろう。私がオウム真理教を恐怖するとしたら、その理由は、あの信じがたいほどの美意識の欠落にあるのだけれど、それをそうとは思わない人間達も、また一方には大勢いるのだろう。麻原彰晃の神秘≠フ正体は、都会人に変身することによって田舎者が失ってしまった、混沌とした土着≠ネのだ。そうだろうと、私は思う(しかし、あの選挙のひどさは、そういうものとは少し質の違うものだとも思うが、その件に関しては後に触れたい)。
一年だか二年だか前に、私のところに麻原彰晃との対談≠ニいう話がやって来た。私は、そういううっとうしい土着≠ェ嫌いな人間なので、当然のことながら「NO」と言う。そういうものを「好きだ」と言う人間はいくらでもいるだろうが、私は田中角栄的人間を信仰する人間が嫌いなのだ。私は、田中角栄を攻撃したメディアが、その田中角栄が総理になった時に「万歳!」の大合唱をしたことをよく覚えている。私が嫌悪したのは、当然のことながら、その「万歳!」の方だった――どうでもいい話だが。
麻原彰晃の作った会社≠ニいうのは、会社社会に適合出来ない人間達に対して、「君にもやりがいのある人生を!」と訴える、経営基盤がいたってあやふやないかがわしい会社だった。私はそのように思っている。(あるいは、「東京の会社で一旗上げたい」と思っている田舎の人間に、最終解脱≠ニいう不思議な一旗≠暗示するような東京の会社≠セったのかもしれない)
会社社会に適合するような教育を受けた人間にとっての行き場所は、結局会社≠オかないのだ。私は、上祐史浩に反感をもつ男達の正体も知っている。あれは、「自分より有能で、上司に取り入るのがうまい同僚に対する反感」と同質のものだ。
「どうして日本人は、この妄想的犯罪事件から宗教≠ニいう要素を抜き取って考えることが出来ないのか?」ということの答の一つは、もうはっきりしていると思う。それは、この日本という国が、会社≠ニいう宗教に汚染されている宗教社会だからだ。真相≠ヘ、意外とつまらない。
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第U章 宗教とはismである[#「第U章 宗教とはismである」はゴシック体]
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3 誰がシヴァ神を必要とするか?[#「3 誰がシヴァ神を必要とするか?」はゴシック体]
現在の日本人に必要なものは、神≠ナはない。自分のことをよく理解してくれてよく導いてくれる上司=教祖≠ネのだ。このことは結構重要なことだと思う。
オウム真理教は、シヴァ神を祀る。しかし、シヴァ神を主神とするような仏教はない。仏教において、すべての神≠ヘ、仏の教えを守るためのガードマンなのだから、そんなものを大事に信仰する必要はないのだ。だからそこのところをついて、来日していたチベット仏教の法王ダライ・ラマ十四世は、「あれは仏教ではない、ヒンドゥー教だ――だから私の管轄外だ」と言ったのかもしれない(がしかし、もしかしてそれは、「厄介なものとは関わり合いになりたくない」と思う、ダライ・ラマ十四世の政治的発言≠ネのかもしれない)。
がしかし、そんなことはどうでもいい。上祐旧外報部長は、「我々仏教徒は――」と平気で言う。私は、「どうして彼は我々オウム真理教徒は≠ニ潔く言わないのだろう?」と、不思議に思う。一体尊師≠ヘ、そこんところをどう考えているんだろうか?
麻原尊師は、きっと平気で、「我々オウム真理教徒は」と言うだろうと思う。シヴァ神と自分の写真だけを並べさせて、仏像≠ニいうものを全然祭壇≠ノ飾らない彼は、自分の宗教は自分の宗教≠ナ、「仏教でもヒンドゥー教でもかまわない」ぐらいの鷹揚《おうよう》さは見せるだろう。
麻原尊師は多分シヴァ神を信仰なさるだろう、がしかし、オウム真理教徒は、果たしてどれくらいシヴァ神を信仰しているのだろうか?
上祐旧外報部長の「我々=仏教徒」発言と、「尊師」という言葉を並べてみると、この知性派≠ヘ、どうもシヴァ神をあんまり重要視していないように思える。オウム真理教徒にとって、なににもかえがたく必要で大切なのは、麻原彰晃尊師≠ナあって、その尊師の必要性の前には、シヴァ神の意味は薄れるのだろうと、私も思う。もしかしたら、「シヴァ神は尊師のお道楽」ぐらいに思っている人間だっているかもしれない。
彼等に必要なのは尊師≠ナ、そしてその彼等に対して尊師≠演じなければならない麻原彰晃にとって必要なものが、シヴァ神≠ネのだ。私はそのように思うし、そのように思える。
麻原尊師は、既に仏教のことならすべてご存じであろうし、最終解脱者=\―(この最終≠ニいう言葉の意味が、実のところ私にはよく分からない。解脱は解脱で一つのもののはずだが、最終解脱≠ニいう言葉を使われると、まるで解脱にはいくつも段階があるみたいだ。解脱と脱皮を混同しているのだろうか?)――である彼には、「いまさら自分と同格であるような仏像を並べても仕方がない」という気もあるのだろう。「そういう自分だから、シヴァ神の声を直接聞いて予言≠することが出来る」ということにもなるのかもしれないが、しかし仏教の考え方でいけば、「神の下にある仏」などというものはないのだから、これはあきらかな間違い≠セ。
それだからこそ私は、オウム真理教は「仏教を超えた、仏教ではないオウム真理教」と言った方がいいと思う。上祐旧外報部長のように「我々=仏教徒」にこだわっていると、それは結局、尊師の間違いを指摘することになってしまうのだ。というよりも、オウム真理教にとって、上祐旧外報部長の「オウム真理教は仏教である」という考え方は、麻原尊師の絶対性を否定して、「自分も麻原尊師と同列に並びうる」という相対主義を導入する、なんとも由々しい異端の考え方≠ノしかならないはずだ。
ついでに言ってしまえば、麻原尊師は予言者≠ナあって、預言者≠ナはないらしい。予言≠ヘ、あらかじめ未来のことを言うこと=A預言≠ヘ神の言葉を預けられた者が言う神の言葉≠セ――少なくとも、日本語ではそのような使い分けをしている。つまり、預言には神の根拠≠ェあるのだけれども、予言にはそういうものがない。
ただしかし、「麻原尊師は絶対の力を持っている超能力者だから、神≠ネどというものを介在させなくても未来のこと≠語ることは出来る」というのなら、話は別だけれども。
自力で未来のことを予言してしまえる予言者≠ネら、ここに神はいらない。神に最も近くて、神の言うことを直接に聞くことが出来る能力≠ノよって預言をしているというのなら、預言者≠ニいう言葉を使うべきだろう。
「予言者の言葉を受け入れないものは神の怒りを買う」というのは、脅しとしてはアリかもしれないが、しかしこの言葉には、ほとんどなんの意味もない。
「預言者の言葉を受け入れないものは神の怒りを買う」は、古代のユダヤ教かイスラム教の発想だ。キリスト教徒だったら、「神の子である救世主の言葉を受け入れないものは神の怒りを買う」になるだろう。キリスト教は、イエス・キリストを救世主≠ニか神の子≠ニして遇してしまった段階で、リーダーとしての預言者絶対主義のユダヤ教とは縁を切ってしまっているから、「預言者の言葉を受け入れないものは神の怒りを買う」は、一種文学的な比喩にしかならないだろう。
「予言者の言葉を受け入れないものは神の怒りを買う」は、キリスト教的な世界では意味を持つかもしれないが、しかしこの予言者の言う「神」は、当然のことながら、キリスト教の神ではない。予言を可能にする魔力を授ける異教の神≠ナ、当然のことながら、こんなことを言う予言者は、異端の魔法使い≠ニいう扱いにしかならない。
仏教徒は、「別に神なんかどうでもいい」と思っているから、こういう人達にとって、「預言者の言葉を受け入れないものは神の怒りを買う」も、「予言者の言葉を受け入れないものは神の怒りを買う」も、意味不明の言葉だろう。シヴァ神を信仰するヒンドゥー教徒なら、神の間に介在する預言者≠竍予言者≠特別な存在だとは思わなくて、ストレートに、「シヴァ神のお怒りを受けるぞ」になるだろう。
なんであれ、「予言者の言葉を受け入れないものは神の怒りを買う」は、既成の宗教の文脈で解くと、意味不明の錯乱でしかない。だから私は、オウム真理教はオウム真理教≠ナあればいいと思うのだ。そして、シヴァ神と麻原尊師とを崇拝し信仰していればいいのだと。
そして、ここで賢明なる読者諸氏ならば、私がいたずらに話をややこしくさせようとしていることぐらいは、お分かりになるだろう。話を簡単にしたかったら、「仏教→シヴァ神→予言者」と続く矛盾点を衝いて、「オウム真理教は偽物のインチキ宗教だ」と言ってしまえばいいのだから。
がしかし私には、オウム真理教を「インチキ宗教だ」と言う気がない。それは、イスラム教の教義に基づいて仏教を「インチキ宗教だ」と言うのと同じことになってしまうからだ。オウム真理教はオウム真理教なのだから、オウム真理教が宗教≠ナある以上、これは別にインチキ宗教≠ナもなんでもない。すべての宗教を既成の別の宗教のモノサシで測ることこそが愚かなことで、オウム真理教は、オウム真理教の規定にのっとって、オウム真理教≠ニいう宗教になっている――それだけのことなのだ。
「果たしてあんなものが宗教なんでしょうか?」とオウム真理教をいかがわしげに見る人達は、すべてこの「Aという宗教の原理によってBという異質の宗教を測る」という間違いを冒している。残念ながら、オウム真理教は宗教で、あえて言ってしまえば、オウム真理教こそが[#「オウム真理教こそが」に傍点]宗教≠ネのだ。問題は、「オウム真理教が宗教に価するものかどうか」ということではなくて、「オウム真理教こそが宗教≠ナあるというような現実を目の前にして、それでもまだ宗教≠ヘ必要なんだろうか?」ということである。
「果たしてオウム真理教は宗教≠ネのか?」と問われたら、「正しくそうだ」としか答えられない。
誰が、薄汚い教祖≠ニいう男の入った風呂の残り湯を飲めるだろうか? 誰が本気で、「教祖と同じ脳波を共有する」などということを信じて、二十四時間頭に電流を流しっ放しにすることが出来るだろうか?
そんなことが出来るのは、それを本気で信じている[#「それを本気で信じている」に傍点]信者だけで、それを可能にするものは、宗教≠セけなのだ。
一体、誰がいまどき本気で神様≠ネどというものを信じる[#「信じる」に傍点]だろうか? それを「信じない」と言ったらカドが立つから、「そんなことは本気で考えないようにしている」というのが一般人にとっての宗教の現状≠ニいうものだろう。がしかし、宗教というものは、本気で[#「本気で」に傍点]神の存在を信じて[#「信じて」に傍点]、そのことをすべての前提にしているようなものなのだ。
重要なことは、神≠フ存在ではない。宗教というものが、その根本において信じる≠ニいうことを前提にしているということなのだ。
「オウム真理教の信者はヘンなことを信じている――だからオウム真理教はヘンでインチキな宗教だ」というのは間違いで、オウム真理教は、「信者が教祖を無原則に信じている[#「信じている」に傍点]」というその一点において、宗教∴ネ外のなにものでもないのだ。
4 だから、宗教はイデオロギーである[#「4 だから、宗教はイデオロギーである」はゴシック体]
宗教に神≠ヘ不可欠である。しかし、今の日本人にとって、神を信じるというのは、とても困難なことだろう。だから、教祖≠ニいうものが重要になる。教祖≠ニいうものは、神を信じることを可能にしてくれる者≠ニして、信者にとってはとても重要な存在なのだ。あるいは、「既成の宗教の中で力をなくしてしまった神≠ニいうものに新しい力を吹き込んで蘇らせる者として、新興宗教における教祖は、とても重要なものである」とか。
というところで、私はかなり重要なすっ飛ばしをしてしまった。
重要なことは、「新興宗教と既成の宗教とはどう違うのか?」ということと、「仏教は神≠あがめない」ということである。
新興宗教≠ニ既成の宗教≠ヘ、どう違うのか? あるいはこのことは、「オウム真理教事件≠ノ対して、どうして既成の宗教は沈黙を守っているのか?」ということと関わってくる。そしてこのことは、「宗教法人法というものが存在してしまった時点において、宗教というものは果たして宗教≠スりうるのか?」という問題ともからんでくる。
とんでもなく厄介な問題のようだが、しかしこのことは、「宗教団体に果たして破壊活動防止法を適用してもよいのか?」という問題ともからんでくる。そしてこうなると、もう問題はいたって簡単なものになる。その問題を解く糸口は、「イデオロギーは宗教か?」という問いである。
「オウム真理教に破壊活動防止法を適用する」という考えがある。これに対する反対意見≠フようなものは、「破壊活動防止法の適用を受けて現在公安当局の監察の対象になっているのは、日本共産党と朝鮮総連の二つだけで、このどちらも政治団体≠セから、果たしてオウム真理教という宗教団体≠ノこれを適応してもいいのだろうか?」というものである。この二つの政治団体≠ヘ、共産主義というイデオロギーを前提にするものだ。そして、イデオロギーというのは、ほとんど宗教のようなもの≠ニ、理解する人達は理解している。そして、この理解がほとんど[#「ほとんど」に傍点]宗教のようなもの[#「ようなもの」に傍点]≠ニいう曖昧さゆえに、イデオロギーの側の人は「いわれなき偏見、弾圧」と受け取るのだ。なにしろマルクス主義は、「宗教は阿片なり」と言って弾圧しているのだから。
がしかし、実際にイデオロギーとは宗教のようなもの≠ネのである。なぜかというと、それは、「宗教がイデオロギーだから」なのである。そういう考え方をしないから、すべてが間違うのだ。
宗教とは、近代合理主義が登場する以前のイデオロギーである。だから、近代合理主義が登場した段階で、宗教の生命は終わるのだ。そういう観点で、この先の私の話は続く。
新興宗教と既成の宗教との差は、それが国家が独占的に保護した時代に生まれたか否かの差だけである。言い換えれば、すべての宗教は、宗教であることにおいてすべて平等に新興宗教であり、特殊で風変わりな主義≠ネのだ。
国家がそれを独占的に保護しなければ、その宗教は、宙ぶらりんのままの新興宗教≠ノなる。その新興宗教は、国家の保護する宗教とは異質なものだから、いかがわしくて、排斥されるような対象となる。国家――あるいは国家の支配者がそれを保護してしまえば、もう新興宗教は新興宗教≠ナはない。そして、国家が保護しなければ、その宗教は永遠にいかがわしい新興宗教≠るいはいかがわしい異教≠フままであり、そして、国家が「信仰の自由」を標榜してしまって、ある宗教だけを独占的に保護する≠ニいうことをしなくなった段階で、「すべての宗教は宗教としての意味を既に失っていた」ということを暴露する――それだけの話である。
それを、「保護する価値がある」と国家や支配者という世俗の勢力が認めれば、その宗教[#「その宗教」に傍点]は、その社会の中で独占的な力を持つ。国家が認めれば正統≠セし、認めなければいかがわしい。宗教というものは、そういう宗教外の力≠ノよって宗教的価値≠高められたり低められたりするものなのである。つまり、信教の自由あるいは信仰の自由というものは、「その宗教だけを独占的に保護する」という、国家の支配力が弱まったことだけを意味する、宗教とはあまり関係のないことなのだ。
だから――よく考えてみれば分かるのだが――「どんな宗教を信じるのも自由」ということは、ある特定の宗教が特別な力を持っていた時代にはまったく考えられないような、ヘンなこと≠ネのである。なぜかと言えば、「どんな宗教を信じるのも自由」ということの裏には、「なぜならば、もうどんな宗教にも特別な力はない」という理由しかくっつかないからである。
どの宗教にも特別の力はない。だから、どんな宗教でも存在を許される。Aという宗教がBという宗教を「あんなものは宗教ではない」と言ったって、その発言を前提にしてBという宗教の取り締まりが起こることはない。なぜならば、Aという宗教には、「Bという宗教を取り締まれ!」と行政に対して命令するような力がないからである。
どの宗教にも特別の力はない。だから、どの宗教に対しても均等に、信教の自由≠ニいうものは訪れる。訪れて、しかしどの宗教に関しても平等に、もう特別の力≠ヘない。あるとしたら、「ウチの宗教にだけは特別の力がある」とする、その特定の宗教の信者の中でだけ、特別の力≠ヘ存在する。つまり、「信じるも信じないもお前の勝手」というようなもので、それだからこそ、信教の自由≠保証された宗教には、それが宗教≠ナあらねばならないような特別≠ェもう存在しないのだ。
そして、それであるにもかかわらず、なぜか知らん、「宗教というものは特別なものだ」という思い込みだけが残っている。宗教的に、「宗教というものは特別なものだ」という言葉はありえない。あるのだとしたら、「我が宗教は特別なものだ」という言葉だけである。これこそが、信仰の言葉であって、宗教は信仰の言葉≠ノよって成り立つものだからだ。
もうどこにも全世界を覆うような普遍的な宗教≠ニいうものはない。存在するのは、その信者が「自分達の宗教は全世界を覆うような普遍的な宗教」だと主張するような宗教≠セけで、これがいくつかある。その、それぞれが教義的にはバラバラのいくつかの宗教≠、信仰外の人間が勝手に宗教という一つのもの≠ニ考えている。
信仰の外にいるものだけが、宗教というもの≠勝手に存在させている。その信仰外の人間達の錯覚を前提にして、それぞれの宗教が、勝手に「自分達の宗教の特別」を成り立たせている。現在の宗教の特別≠ニは、そのようなものなのだ。
だから現在の宗教は、「好きな人だけが勝手に信仰をしていればいい」という信仰の自由≠フ下にあるのである。信仰の自由≠るいは信教の自由≠ニいうものは、もはやそういうもの[#「そういうもの」に傍点]なのだ。
そういう信仰の自由≠魂の自由≠ニ解したい人は、そのように解すればいい。そうなってしまった段階で、魂の自由≠ニいうものは、「そういう解釈が好きな人達がする特殊な考え方」というものになってしまっただけである。
信教の自由とは心の問題≠ナあり、信仰もまた心の問題≠セ。がしかし、宗教の絶対性≠るいはある宗教の優位性≠ニいうものは、心≠ニはまったく関係のない、いたって政治的な力関係の問題≠ネのである。
たとえば、英語で仏教のことをBuddhism(仏主義)≠ニ言い、イスラム教のことをIslamism(イスラム主義)≠ニ言う。これは、共産主義をMarxism(マルクス主義)≠ニ言うのとおんなじことである。それは当然、「マルクス主義は宗教である」ということではなく、「宗教とは主義(ism)である」ということだ。
そして、そういう言葉使いをする英語がキリスト教のことをなんと言うのかというと、これがChristianity(キリスト教であること・キリスト者であること)≠ナある。Christism(救世主《キリスト》主義)≠ニいう言葉は英語には存在しなくて、Christianism(救世主《キリスト》的主義)≠ニいう、キリスト教の教義・信仰・実践を表す言葉だけがある。「キリスト教とはChristianity(キリスト教であること)≠ナある」というのは、とんでもない問答無用だが、優位≠ニか支配的≠ニいうのは、こういうことだろう。
今では微妙なずれ方をしているが、英語とは、ほとんどキリスト教徒の言葉≠ナあった。だから当然、英語においてキリスト教≠ヘ特別な位置を占める。それは自分達の宗教≠ネのだから、決してよその宗教のようにism=主義≠ノはならない。よその宗教が仏主義≠竍イスラム主義≠ナあっても、自分達の大切な宗教は、決してキリスト主義≠ナはないのだ。
だからここで、「宗教は主義ではない」などということにはならない。「宗教とは、必ず自分達の宗教≠セけを特別なものとして考えるものである」ということにしかならない。
そして、Christism(キリスト主義)≠ニいう言葉がなくてもChristianism(キリスト的主義)≠ニいう言葉があって、そしてそれがキリスト教の教義・信仰・実践を表す言葉≠ナあるということから、主義=ism≠ェ宗教のようなもの≠ナあるということは、簡単に分かるだろう。教義とは、すなわち、実践して行く動き≠ナあり、信仰≠サのものなのだ。そのように動きのあるものが、ism=主義≠ネのだ。ismは容易に宗教≠ナあり、宗教はあっさりとism=主義≠ネのだ。(私は平気でism=主義=イデオロギー≠ノしてしまっているが、イデオロギー≠ニいう言葉がそのような使われ方をしていることも事実なので、「それでいいじゃないか」と平気で言う)
5 しかしオジサン達は宗教≠ニ主義≠フ間に一線を引けない[#「5 しかしオジサン達は宗教≠ニ主義≠フ間に一線を引けない」はゴシック体]
今までのところを整理する――。
まず、「イデオロギーとは、宗教のようなもの」である。なぜならば、「宗教がかつての時代のイデオロギーだったから」である。
イデオロギーが宗教の中に含まれるのではなく、宗教がイデオロギーの中に含まれるのだ。これこそが神≠ニいうものの存在を肯定する必要がなくなった時代の人間の、正しいものの考え方である。つまり、マルクス主義グループもオウム真理教も、教祖の考えを絶対として、その真理≠ゥらの逸脱を絶対に許さないという点においては、まったく同じ思想集団≠ネのである。(別に私は、いまさらマルクス主義グループが政府転覆を計画しているなどとは思わないが)
だからこそ、マルクス主義というイデオロギー支配から逃れたロシアという国は、さっさとその危険性を理解して、オウム真理教という宗教≠ノ活動停止と解散命令を出してしまった。この国では、そういうことをしても、「信教の自由に対する弾圧だ」などという良識≠ヘ登場しない。ロシア人は経験的に、もう危険≠ニいうことを知っているからだ。
宗教が危険なのでもない、イデオロギーが危険なのでもない。危険なもの≠セけが危険≠ネのだ。危険なもの≠フ危険≠目の前にして、「これは宗教だから特別だ、イデオロギーだから特別だ」などというつまらない配慮はいらないということである。
危険な宗教≠ヘ危険だし、危険なイデオロギー≠煌険だ。危険≠ニは、「社会に対して危害を加えること」で、それは、「刑事事件は刑事事件で、刑事事件は警察の管轄だ」というのと同じことだ。
危険じゃない宗教≠ヘ危険じゃないし、危険じゃないイデオロギー≠煌険じゃない――これをもっと正確に言えば、「すべての宗教は危険ではないし、すべてのイデオロギーも危険ではない」だ。なぜならば、それは頭の中の出来事≠ナしかなく、頭の中の出来事≠ヘ、それ自体では社会に対して危害を加える≠ネどということが出来ないからだ。危険≠ニは、それが頭の中≠ゥら出てしまった後のことである。≪危険≠ニは、「社会に対して危害を加えること」で、それは、「刑事事件は刑事事件で、刑事事件は警察の管轄だ」というのと同じことだ≫ということを、もう一度繰り返そう。
人に信教の自由があるように、人には思想信条の自由もある。頭の中≠ヘ、誰にも侵されない自由がある。だから、信じたいものは信じればいい。その点において、宗教だってイデオロギーだっておんなじである。いたって簡単な話なのに、どうして日本では、宗教≠セけが特別扱いなのだろうか? どうして、宗教≠前面に掲げられると、日本の良識は及び腰になってしまうのだろうか?
いまどきマルクス主義団体だけを特別に危険∴オいしている日本政府が、どうしてこのとんでもない宗教団体≠ノ対して、「十分に危険≠ナあることだけははっきりしているが、しかし宗教団体≠セから危険な団体≠セとは断定出来ない」などというへんなためらいを見せるのだろうか?
まずは、「どうして日本人は宗教はイデオロギーである≠ニいう考え方をしないのか?」である。
私は、破壊活動防止法というのが、とんでもなく時代遅れの法律だと思っている。なぜかと言えば、この昭和二十七年(1952)の七月に公布された法律は、共産党の活動を規制することをもっぱらの目的として作られたものだからである。
破壊活動防止法の第一条には、こうある――。
≪この法律は、団体の活動として暴力主義的破壊活動を行った団体に対する必要な規制措置を定めるとともに、暴力主義的破壊活動に関する刑罰規定を補整し、もって、公共の安全の確保に寄与することを目的とする≫
この暴力主義的破壊活動を行う団体≠ェ、当時の日本共産党をさすことは明白である。その以前の昭和二十六年に、既に日本共産党は暴力闘争方針≠決定しているし、暴力主義的≠フ主義≠ニいう言葉もまた、共産党をさす隠語のようなものだった。
破壊活動防止法は、はっきりとアメリカの謀略≠ナあるようなものである。第二次世界大戦の終結以後反共≠フ姿勢を強めたアメリカは、日本の左傾を恐れて、こういう法律を日本政府に作らせたのである。共産党が暴力闘争方針≠決定したといっても、破壊活動防止法成立以前に無残な事態≠ェ頻発していたわけではない。ただ「労働運動が盛んだった」という程度で、日本政府が破壊活動防止法の制定をちらつかせて、それに対する反対運動が盛り上がって、その盛り上がりの結果が血のメーデー≠ニいう事件≠引き起こして、その惨劇≠「それ見たことか」的な口実にして、日本政府は破壊活動防止法を成立させてしまったというのが、その経緯である。
破壊活動防止法は、はっきりと対共産党政策の産物である。だから、社会主義のソ連が崩壊しちゃって、「共産党ってなに?」的な状況になってしまった現在においても、こういう法律がこわい法律≠ニして残っていることの方が不思議なのだが、まだまだオジーサン達の間には主義《イデオロギー》政党(=共産党)≠ノ対するアレルギーは残っているのだろう。
時代遅れではあっても、まだ破壊活動防止法という法律は残っていて、ここには暴力主義的破壊活動を行う団体≠ニいう規定がある。だから、「オウム真理教に対して破壊活動防止法を適用しろ」という声も出て来るし、「政治団体じゃない宗教団体に対して破壊活動防止法は適用出来るのか?」という疑問の声も上がる。
私は、「宗教はイデオロギーである」という考えの人間だから、「別に宗教団体に対して破壊活動防止法は適用出来るのか?≠ネんてことをウジウジ考えなくたっていいじゃないか」と、いとも簡単に考える。がしかし、その私は同時にまた、「別にオウム真理教に破壊活動防止法なんてもんを適用する必要もないんじゃないの?」とも思う。「オウム真理教のしたことは、適用するのだったら内乱罪≠セし、オウム真理教自体を問題にするんだったら、宗教法人の解散≠命令すればいいことじゃないか」としか思わないからだ。
ここに破壊活動防止法を引っ張り出してくる必要性というのが、私にはよく分からない。がしかし、この日本では、「まず破壊活動防止法の適用」の声が出て、それから、「宗教団体は政治団体(=共産党のようなもの)ではない」という議論が起こる。私は、その日本的な議論の経緯を、「なぜ?」と考えるのだ。
まず、「日本では、なぜ暴力主義的破壊活動をする共産主義者と、オウム真理教徒を同じもの≠ニ考えてしまうのか?」である。そうでなければ、「オウム真理教に破壊活動防止法の適用を」という声は出て来ない。
この答は、いたって簡単である。日本人(のオジーサン)の中には、まだ「暴力主義的破壊活動をする共産党が一番こわい」と思っている人がいっぱいいるからである。彼等は、「オウム真理教とはどんなものか?」とか、「宗教とはなんなのか?」ということを、ほとんど考えない。「それは共産党とおんなじものなのだから、破壊活動防止法を――」という、昭和二十七年段階の発想を平気で持ち出してくる。
次に、「日本では、なぜマルクス主義とオウム真理教を並べて、イデオロギー団体としては同じもの≠ニいう考え方が出来ないのか?」である。これも実は、「日本では、なぜ暴力主義的破壊活動をする共産主義者と、オウム真理教徒を同じもの≠ニ考えてしまうのか?」という疑問と同質の古臭い背景≠持っている(あるいは、もっと古臭い背景≠ゥもしれない)。
つまり、「どうして日本人は宗教とはイデオロギーである≠ニいう考え方が出来ないのか?」という疑問は、「日本人は、どうして宗教のことをロクに分かりもしないくせに、平気で宗教というものを特別扱いして、触れたくないようなタブー≠ノしてしまうのか?」という疑問と同じだということである。
あきらかに、日本人の宗教に関する及び腰は、「かつてそこになんらかのタブーのようなものがあったのではないか?」ということを容易に推察させるようなものなのである。そう思わない人もいるのかもしれないが、私はあきらかにそう[#「そう」に傍点]だと思う。
6 信仰を強制されない自由≠ニ信教の自由=m#「6 信仰を強制されない自由≠ニ信教の自由=vはゴシック体]
日本人の宗教に対する不思議な態度≠ヘ、当然のことながら、現在の無宗教状態が訪れる以前の、国家神道≠ニいう全体主義宗教の存在と関係を持っている。タブーのようなもの≠フ正体とは、これである。
英語がキリスト教に対してism≠ニいう言葉を与えないで、Christianity(キリスト教であること・キリスト者であること)≠ニいう特別な態度を取っているのは、英語圏の人間達にとって、キリスト教が優位で支配的な唯一の宗教であったからである。だから英語は、「キリスト教は宗教=A他の宗教は主義(ism)=vという使い分けをする。日本人の、「政治団体と宗教団体を一緒にしていいものか?」という困惑と、これは同種の発想なのである。つまり、そういう同じ発想≠ェあるのなら、当然のことながら、「日本にだって、ism≠拒否した支配的で優位な宗教があった」ということになるのだ。
「じゃ、それはなにか?」ということになると、答ははっきりしている。国家神道≠ナある。
「日本は、宗教的にはどこに属しているのか?」という問いがある。答は、大体「仏教圏」ということになる。しかし、本当にそうだろうか? もしもこれが、「日本人が最も多く葬式に用いる宗教はなにか?」だったら、当然のことながら、答は「仏教」になるだろう。しかし、これが「宗教的には何教か?」の答になるとは思えない。
もしかしたら日本は、宗教的には「神道圏」なのかもしれない。なにしろ、日本でもっとも数の多い宗教法人は、神社本庁に所属する神社≠ネのだから。がしかし、「日本は宗教的には神道である」とは言えないだろう。これこそが、国家神道を廃棄して登場した戦後日本の、タブー中のタブーのようなものだからである。だから日本人は、「神道」という答を隠して、宗教的所属に関しては、「仏教」と答える。
かつて国家神道≠ニいう、支配的かつ一切の宗教の上に君臨する強大な宗教が、この日本にはあった。だから、この国家神道の時代に、日本には信教の自由≠ェなかった。だから、この国家神道によるファシズムが崩れて、信教の自由≠ェやって来る。ファシズム体制の崩れた戦後の日本に信教の自由≠ェやって来て、この時日本には多くの新興宗教が生まれた。マルクス主義が崩壊した後のロシアにも、雨後の竹の子のごとく、多くの新興宗教が生まれた。ロシアに進出したオウム真理教もその一つではあるけれども、これは、「他の宗教をism′トばわりして弾圧した支配的なismが崩壊した後では、一時的にism=宗教が花盛りになる」という、人間社会の法則のようなものだろう。だから、こういう仮説だって成り立つ――。
1980年代の中頃から、日本では若者達を対象にするような多くの新興宗教が生まれてきた。そういう事実があって、オウム真理教もその一つなのだが、だとすると、この時の日本では、「ある支配的なismが崩れた」ということにもなる。もうちょっとダイナミックな話に作り変えて、「1989年に昭和が終わった時、日本の若者達の間に多くの新興宗教が生まれた」ということになると、話は俄然おもしろくなる。そういうことになると、ここで崩れた支配的なism≠ニは、昭和という時代そのもの≠ニいうことになるからだ。別に1989年の昭和の終焉と同時に新しい宗教がいくつも生まれたわけではないから、そういうおもしろい話にはならないが、しかし昭和という時代そのもの=支配的なism≠ニいうのは、当たらずとも遠からず的≠ネ真実≠ゥもしれない。なにしろ、1989年は大波乱の年でもあったし。
まァ、それはさておき、国家神道が崩壊した時点での日本である――。
昭和二十二年の五月三日に、信教の自由≠保障する日本国憲法が施行されたのだが、この信教の自由≠ノはとても大きな特徴がある。私は、それが日本人の無宗教状態の由来≠とてもよく説明していると思う。なぜかというと、日本国憲法の保障する信教の自由≠ヘ、その多くの部分が、信仰を強制されない自由≠ノあてられているからである。
日本国憲法の信教の自由≠語る第二〇条は三項に分かれていて、そこにはこうある――。
≪@信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。A何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。B国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない≫
信教の自由≠ヘ、第二〇条の第@項で、いともあっさり保障されている。≪信教の自由は、何人に対してもこれを保障する≫――これだけである。その後になにが続くかは、条文を見てもらえば分かるだろう。信仰を強制されない自由≠ナあり、国民に信仰を強制するものが登場しないような禁止措置条項≠ナある。
国家神道の崩壊を受けて登場する日本国憲法の信教の自由≠ェ、「国家神道を復活させてはならない」ことを目的とするのは当然のことで、この条文の第A項は、ほとんどストレートにそのことを語っている。
つまり、「日本人は、国家神道が崩壊したその後になって、自分達の自由な信仰を得た」ではないのである。「日本人は、国家神道が崩壊したその後になって、信仰というものから自由になった[#「自由になった」に傍点]」なのだ。これが日本の戦後に訪れた信教の自由≠フ内実である。我々は、天下晴れて、信仰を強制されない自由≠得たのだ。
信仰を強制されない自由≠得て、そしてこの時点で、信仰の自由≠前提にする新興宗教が、雨後の竹の子のごとくに登場する。雨後の竹の子のごとくに登場した新興宗教を、信仰を強制されない自由≠得た日本人達の多くは、平気で、「へんなことをしているやつらだ」と、あっけらかんと笑った。信仰を強制されない自由≠ニはまた、信仰という規制の中にいる人間をあっけらかんと笑う自由≠ナもあった。重要なことは、このあっけらかんと笑う≠ナある。
今の日本人にこれが出来るだろうか?
日本に存在する宗教法人に登録されている信者数≠合計すると、日本の全人口の二倍になるんだそうな。がしかし、そうであっても、新しく出来た宗教の信者≠ニ信者じゃない日本人≠フ数を比べたら、信者じゃない日本人≠フ方が圧倒的に多いだろう。その多い数の日本人が、やはり、新しく出来た宗教の信者を笑う。笑うけれども、しかしこの笑い方が、どうも健康ではない。笑いながら、なんだか、笑う側の人間が妙なひっかかりを感じているような気がする。それは、うっかりすると国民に対してサリンをばら撒きかねない危険な宗教≠ェ存在してしまっていたという不気味さ≠ニ関係がないことはないだろう。宗教の信者を、内心「不気味でこわいものだ」と思いながら笑えば、その笑いは、当然のことながら、暗くひずんだものになる。
いつの間にか、熱心な宗教の信者は、「不気味でこわい感じがするもの」になってしまっている。宗教を見る側にそれがあれば、見られるオウム真理教の信者達が、「いつかハルマゲドンが来る。そうして、オウム真理教を嘲笑う人間達は滅びる。そうなっても当然だ。だって我々は、いかがわしいもの≠ニいう目で見られている。我々の周りには、いつも潜在的な宗教弾圧≠ェあるのだから、この邪悪な力≠ェ大きくなって、本当の宗教弾圧となって襲いかかって来るのも当然のことだろう」と思ってしまうのはしかたのないことだ。オウム真理教事件につきまとう不毛な空騒ぎ≠ニいう感覚は、これに由来していると思う。
それでは我々は、いつ宗教を恐れるようになってしまったのだろうか? 宗教に対して「不気味でこわい感じがするもの」という気持を抱くようになってしまったのは、ある種の宗教団体の特殊な活動のせいなのだろうか? 「私は別にこわがってはいない、ただバカげたもんだ≠ニ思って笑っているだけだ」と言う人があっても、その人達は、本当にあっけらかんと笑っている≠フだろうか? その笑う人達の中に、「自分に信仰はない。だから信仰≠サのものが分からない。だから、信仰に入っているやつを、バカ≠ニして斥ける以外にないのだ」という、信仰に関する劣等感≠ニいうのはないんだろうか? 私は、あるような気がする。
つまり、そのはじめは信仰を強制されない自由≠セったものが、いつの間にか信仰を理解出来ない不自由∞信仰を理解出来ないという劣等感≠ノ変わってしまったのではないのか?――ということである。
こう問われて、果たして「そんなバカな」と言い切れるだろうか? 私は、信教の自由≠ニいうものが、いつの間にか信仰を理解出来ない劣等感≠ニいう暗い内実を持ち始めてしまったのではないかと思っている。そして、そう思ってもいいだけの理由が、この日本国憲法の第二〇条には用意されていると思う。
実は、この憲法二〇条の裏にはある陰謀≠ェ隠されているという話もある。それは、「国家神道を捨てた日本人にキリスト教の信仰を植えつけよう」という陰謀≠ナある。ウソかホントかは知らない。しかし、この日本国憲法の条文には、そう思われても不思議がないような匂い≠ェないわけではないし、日本を占領したアメリカ軍がそう考えても不思議はない。なぜかと言えば、アメリカの軍隊に占領された日本は、いかがわしくもおぞましい、宗教による全体主義支配に陥ってしまっていた後進国≠セからである。そういうものを、キリスト教徒を多数派とする国の軍隊が見て、「だったらいっそこの国をキリスト教化してしまえばいい」と思ったって不思議はない。「そういうことがあったって不思議はない」とだけ私は思って、そのアメリカの陰謀≠ェウソかホントかは知らない。重要なことは、「信教の自由を保障する日本国憲法の条文には、そう思われても不思議がないような匂い≠ェある」ということだけである。
なぜ私はそんなことを言うのか? それは、「一体どれだけの日本人が、≪信教の自由は、何人に対してもこれを保障する≫と言われて喜ぶか?」ということがあるからである。
そんなことを言われて喜ぶのは、長い間うさん臭い西洋かぶれの変人≠ニ思われてきた、キリスト教徒ぐらいだろう。昭和二十二年の時点で、国家神道に弾圧されるような信仰≠持っていて、その弾圧の被害を受けていた日本人は、キリスト教徒ぐらいだろうと、私は思う。
日本で信仰≠ニいうような情熱を持っている宗教は、キリスト教と、開祖以来「売られたら喧嘩は買う」の情熱を持ち続けていた日蓮宗ぐらいだ。徳川幕府が禁止した宗教は、キリスト教と、「幕府の保護を受けない、だから、幕府の指示にも従わない」と言った日蓮宗の不受不施派《ふじゆふせは》だけで、この情熱は明治の日本になっても持続されていた。つまり、普通の日本人は、信仰≠ネどという特殊な精神状態を持ち続けていたりなんかはしなかったのだから、≪信教の自由は、何人に対してもこれを保障する≫なんて言われたって、「なんのことやら?」としか考えなかったはずなのだ。
だから、日本人の多くは、信教の自由≠信仰を強制されない自由=国家神道からの自由≠ニいう風に考えた。「なにかっていうと神社に参拝させられるんだから。ああいやだ……」と思った日本人は、この時代にならいくらでもいたはずだ。信教の自由≠ヘ、圧倒的多数の日本人にとって、内面的には、信仰からの自由≠意味しなかった。だから、雨後の竹の子のように登場した戦後の新興宗教群を見て、多くの日本人達は、「不思議なことをするやつらだ」と、あっけらかんと笑ったのだ。がしかし、それを保障するいたって気楽な信教の自由≠ヘ、実のところ既に信仰を持っている人達のため[#「既に信仰を持っている人達のため」に傍点]の信仰の自由≠セった。それだったら、信仰を持ってない人間達≠ヘどうしたらよかったのだろう?
もちろん、それを信仰を強制されない自由≠ニ解釈して喜ぶ頭を持てるだけの人なら、「なんで、どうすればいいのか?≠ネんて考えるんだ? そんなことは考える必要がない」と言っただろう。しかし、日本国憲法の第二〇条の条文は、うっかりすると、信仰を持たない(そして勉強好きで真面目な)日本人に対しては、「信仰を持たない人間はどうしたらいいんでしょうか?」と考えさせてしまうような、そんな内容を持つものでもあったのだ。
もしも信仰というものが、「持っていなくてもいいもの」なら、「私は宗教に関心がない」ですませるだろう。しかし、それをもし、「信仰というのは、本来なら誰でも持っていなければならないもの[#「いなければならないもの」に傍点]だ」とやられてしまうと、信仰を持たない多くの日本人は、「困った、私には宗教が分からない……」になってしまうのだ。つまり、日本国憲法の信教の自由≠ヘ、うっかりすると、多くの日本人に対して、「宗教を理解出来ない劣等感」を植えつけてしまうものにもなるということだ。
今度のオウム真理教事件の空回りする大騒ぎの中に、果たしてこれ[#「これ」に傍点]がなかったと言えるだろうか? 私は、十分にあったと思うのだ。
オウム真理教事件における、ノラクラ逃げる上祐vs.イライラするマスコミ≠フ図式は、保障された信教の自由を主張する者の優位vs.宗教あるいは信仰を理解出来ないものの劣等感≠ナもあったのだと、私は思う。
そして、この上祐vs.マスコミ≠フ信仰あるいは宗教に関するすれ違い≠ヘ、もっと大きな、日本人の宗教に関する錯覚≠含んでいるものだと思う。
7 「信仰≠ニ言えばキリスト教」の錯覚[#「7 「信仰≠ニ言えばキリスト教」の錯覚」はゴシック体]
近代になってからの日本人がしでかした宗教に関する最大の錯覚≠ヘ、「信仰≠ニ言えばキリスト教」というやつである。私はそのように断言する。
日本人は、宗教にはいろいろの種類があるということを知っている。しかし、日本人が知っているのは、もしかしたらそれだけ[#「それだけ」に傍点]かもしれない。「結婚する時はキリスト教で、家を建てる時のお祓いは神道で、葬式は仏教」というような、そんなとんでもないいろいろの種類≠セってあるだろう。「お式は、神式になさいますか? キリスト教ですか? 仏前結婚もございますよ」は、結婚式場業者のセリフで、日本人にとって、宗教のいろいろ≠ニは、料理の和・洋・中≠ョらいの差なのかもしれない。だから、もしかしたら、日本人の中にはこんな錯覚をしでかしている人だっているかもしれない――つまり、「葬式は仏教、お祓いは神道、信仰は[#「信仰は」に傍点]キリスト教、縁遠い異国の宗教はイスラム教……」というような。
私は、さっきうっかりと「日本国憲法の信教の自由≠ヘ、信仰を強制されない自由≠セ」などと言ったが、しかしよく見てみると、日本国憲法の第二〇条に、そんなことは一言も書かれていないのだ。もう一度掲げてみよう――。
≪@信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。A何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。B国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない≫
この全体から、あきらかに信仰を強制されない自由≠読み取ることは出来るし、この条文全体が、信教の自由≠ニ宗教への強制を排除する措置≠フ二つから成り立っていることも分かる。がしかし、ここには信教の自由≠ニいう言葉はあっても、信仰≠ニいう心の問題に触れた文章は一つもない。
この第A項は、≪何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない≫で、ここにあってもいいはずの信仰≠ニいう言葉はない。この第A項の規定に従うと、宗教とは宗教上の行為と祝典と儀式と行事≠ナ成り立っているもののように見えて、信仰≠ニいう内面の働き≠ヘいともあっさりと抜け落ちている。信仰≠ニいうのは、きっと宗教儀礼とは関係ない個人の心の内部の問題≠ネんだろうと、そんな皮肉を言ってみたくなるように、この条文には、「日本人がきっとそうだろうと思うような日本的な宗教の特色=vが出ている。
日本人にとって、宗教≠ニは、宗教上の行為と祝典と儀式と行事≠ネのだ。国家神道は、このことによってファシズムを盛り上げた――だから、「あの頃はなにかっていうと、お参り≠セの皇居遥拝≠ホっかりだったもんな」という、戦後の愚痴も出てくるのだ。行為と祝典と儀式と行事≠ェありさえすれば、信者の内面≠ネんかを問題にすることがなくても、日本の宗教≠ヘ宗教≠ニして成り立ってしまうのだ。
だから、どうなるのだろう?
こういうことになる――「日本では、人間の内面≠管轄するものは、宗教ではなく、哲学である」と。
だから、日本では、「宗教は難解なもの」になるのだ。こう言った時の宗教≠ェ、神道の儀式あるいは行事であるお祭≠さしていないことだけは確かだろう。日本人が、「宗教は難解なもの」と言う時、その宗教≠ヘ、ほとんど哲学の一項目であるような宗教という思想≠さし示しているのだ。
日本人の言うむずかしい宗教≠ニは、つまりが、哲学≠フことなのだ。そりゃむずかしいのは当然だろう。だから、もしかしたら、日本人にとっての信仰を強制されない自由≠ニいうものは、日本国憲法の第二〇条にあるのではなくて、その一つ前の第十九条に書いてあることなのかもしれない。
日本国憲法第十九条にはこうある――。
≪思想及び良心の自由は、これを侵してはならない≫
思想の自由≠ヘ分かるのだが、分かりそうで分からないのが、良心の自由≠ニいうやつである。一体、良心の自由≠ニいうのはなんなのか?
これは、「国は個人の内心の自由な価値判断に無干渉・中立であらねばならない」ということらしい。余計なお世話だ。がしかし、一方には、「良心の自由≠ニいうものは、信仰の自由≠ニ解するべきものである」という説もある。「日本以外の国の憲法で良心の自由≠掲げるものは、これを普通信仰の自由≠ニいう意味で使っているから」というのだ。つまり、日本人は、本来だったら信仰の自由≠ナもあるようなものを、信教の自由≠ニは別項目の、思想の自由≠フ方に持って行ってしまったということである。なるほど、「何人も他から信仰を強制されることがあってはならない」というような文章は、≪思想及び良心の自由は、これを侵してはならない≫と一緒に置かれている方が似つかわしいようなものだ。
つまり、思想及び良心の自由≠ェ信教の自由≠ニは独立したものとして立てられているということは、「日本では、個人の内面を問題にする宗教≠ニ個人の内面を問題にしない宗教≠フ二つがある」と言っているようなものなのだ。「普通一般に、個人の内面を問題にする宗教≠フことを哲学と言い、個人の内面を問題にしない宗教≠フことを宗教と言う」という、そんな日本的常識≠ェ、この日本国憲法の第十九条と第二〇条には書かれているようなものだ。「日本人は宗教を哲学≠フ一項目として扱い、それで宗教を難解なものだ≠ニ言っている」と私が言うのは、そのためである。
≪宗教は信じるものだから、(信じられる人間には)むずかしいものではない。哲学は考えて勉強するものだから、(あまり勉強していない人間には)むずかしい≫――どうやら、日本人はこのように信じている[#「信じている」に傍点]のである。
「宗教? むずかしいなァ、私は信仰を持ってないですからね」という、日本人が当たり前に持っている宗教に関するためらい≠フ由来とは、ここら辺にあるものだろう。
信仰≠ニいうのは、ある程度以上の知識と教養を有した人間のもので、だからこそ、「知識人と信仰」と言えば、高級で難解な問題になる。その一方、「大衆と信仰」と言ったら、ドロドロして難解で、知識人にとっては扱いにくい問題になる。扱いにくいのだから、普通「信仰を論じる」ということになったら、前者の知識人にとっての信仰≠セけになってしまう。つまり、信仰≠ニは、それをする態度を学習する[#「学習する」に傍点]≠ニいうようなものなのだ。学習する≠ヘ、日本の知識人のお得意技だ。日本人にとって、信仰≠ニは学習するような高級なもので、入って信じること≠ニいう、迷信じみたことではないのだ。
日本の若者の間に共産主義が流行した時代、若者達は、すぐにその有効性を信じて[#「信じて」に傍点]、それから、その思想を学習しようとした[#「学習しようとした」に傍点]。これは、ヨガから入って、すぐにオウム真理教の(あるいは麻原尊師の)有効性を信じて[#「信じて」に傍点]、それからその真理を学習しようとして修行に励んだ[#「修行に励んだ」に傍点]オウム真理教信者の若者達とおんなじである。やがて、指導者の独裁性に不信を感じて、去る者は去って行ったということも。
宗教はismだから、その教義を学習しなければならない。だから当然、その信仰する心の態度≠烽ワた、学習しなければならない。なにしろそれは、まだ学習途中で分からないもの≠ネのだから、当然のことながら、「この信仰態度=学習態度は正しいのか?」という疑問が信者の間で起こる。「こう信仰するのが正しい、こう学習するのが正しい」という指導≠ェ生まれて、そこに指導者の絶対性が付与されるのなんかは、当然の道筋だ。
日本で「宗教だから信じればいい」が可能になるのは、いまさら学習するまでもないくらいに自分の身近に当たり前に存在している宗教=仏教と神道≠セけで、そういうものは、近所のお寺≠竍近所の神社≠フ宗教なのだ。「その信仰によってこの閉鎖的なムラ社会から逃げ出そう」と思う若者にとって、そんなものが信じるに価する宗教(思想)∞宗教(思想)に価する宗教(思想)≠ノはならない。「近所のオッサンやオバサンに人生が分かったら、なにも若者は困らない」というようなことだ。
がしかし困ったことに、近代化≠ニいう新しい事態をめざした日本で、近所のオッサンやオバサン≠ヘ、役に立たない日常土俗の代表だったのだ。
キリスト教は、そういう近代化をめざそうとした日本に入って来た、近代化の指標≠フ一つだった。
日本は、欧米先進国の文化を進んで学んで吸収しなければならなかった。そして、「キリスト教はギリシア・ローマの文化と並んで欧米文明のバックボーンである」ということは、長い間日本の知識人の常識だった。「先進欧米国の文化を学ぶためには、キリスト教を学ばなければならない」である。だから、日本の知識人の多くは、頭で[#「頭で」に傍点]キリスト教を学ぼうとした。頭で[#「頭で」に傍点]、その信仰≠学ぼうとした。そんなことをしたって、分かるわけがない。信仰を分かる≠ニいうことは、膨大な教義の体系を学ぶということでも、神学をマスターするということでもなくて、神を信じる大衆の心を理解すること≠セからだ。
近代化をめざす日本で、キリスト教は、目標≠スる欧米先進国の文化の核心である。同じ日本で、大衆≠ヘ、近代化の必要をまったく理解しない愚かなもの≠ナある。これを教化する必要があるから、近代日本の学校教育というものも始まった。そういう段階の日本で、「キリスト教の信仰を理解することは、今でも神を信じている迷信深い大衆の心理を理解することである」とは、どうあったって言えないだろう。その信仰≠ニは、「まだまだ未熟な僕の頭ではどうも理解しにくいんだよ」というようなものでしかない。日本にやって来たキリスト教の側は、「分からなかったら、遠慮なく入ってらっしゃい」と、信仰を勧めてはいるんだけれども、そうそう簡単に異質な信仰≠フ中に入って行けるものではない。ここら辺のジレンマは、出家信者《サマナ》をその前提とするオウム真理教で、在家信者がなかなか出家に踏みきれないでいる≠ニいうのとおんなじである。
日本人は、実のところ、欧米先進国の技術≠ニ知識≠ニ思想≠必要としたのである。そして、西洋史というものにちょっとでも目を通せば簡単に分かることなのだが、その技術≠ニ知識≠ニ思想≠持つ西洋の近代≠ニいう段階は、宗教の支配と手を切ることによって達成されたものなのである。もちろん、この宗教≠ニは、西洋世界の唯一で支配的な宗教であるキリスト教のことだ。西洋の近代化は、唯一の支配的な宗教である国家神道と手を切らねばスタート出来なかった戦後日本の民主化とおんなじようなものだったのである。
誰もこんなことを言わないが、「唯一の神の下の平等」を言うキリスト教と、「唯一絶対の天皇の下の国民の平等」を言う国家神道とは、その構造においておんなじものなのである。だからこそ、キリスト教は国家神道に立ち向かおうとした。本来なら唯一の支配的な宗教≠ナあるはずのキリスト教にとって、所詮はismにしかすぎない国家神道との戦いは、ネロのローマ帝国以来おなじみの宗教戦争≠セったのである。他の日本人にはあまり理解出来ないことだが、「日本の国家神道がキリスト教国の連合軍に負けて信教の自由≠ェ訪れた」というのは、あきらかなる宗教戦争の勝利≠ネのである。
もうこれ以上くだくだ言うのはやめるが、日本人の言う「宗教が分からない」のかなりの部分は、欧米先進国の文化を学ぶために大学というところに進んでしまった高学歴の日本人の多くが言う、「キリスト教のことはちょっと分かんないんですよね」と、実のところ、おんなじものなのである。「なんだバカらしい」の一言でも言ってみたらどうだろうか?
8 どうしてあなたの頭は、すっきりと晴れないのか?[#「8 どうしてあなたの頭は、すっきりと晴れないのか?」はゴシック体]
この第U章は、いたってムダな章である。「どうして日本人の多くは宗教≠ェ分からないのだろう?」ということを考え始めると、これがエンエンと続く。エンエンと続いて、結局のところ、「なーんだ……」というようなところにしか行き着けない。「なーんだ……」というようなところにしか行き着けないことを、この章ではエンエンと繰り返していて、そしてさらに困ったことに、そのエンエンたる「なーんだ……」の繰り返しの後に、うっかりすると、「でも、それはそれでいいんだけどさ、どうして自分には宗教≠ニいうものが分かんないんだろう?」という疑問がやって来てしまうのである。エンエンと行って、でも気がつくと、一番はじめの入り口にいつの間にか戻って来てしまっているのだ。困ったもんだ。
一体これはどういうことなのかというと、そう考えるあなた達が、やっぱり、「信仰を持たない人間はどうしたらいいんでしょうか?」と考えているし、「信仰というのは、本来なら誰でも持っていなければならないものなんじゃないのか?」と考えているということなのだ。
そう考えるあなた達は、自分の中に、なんとかしたい自分≠ニか、「ホントに自分はこれでいいのかな?」という疑問≠抱えているのだ。だから、ここで私が、「そういうあなたのために、私がこうすればいい≠ニいうことを教えてあげましょう」と言ってしまえば、この本は橋本教への信仰の扉≠ノなってしまうのである。
宗教への道≠ヘ、いたって簡単なところに口を開けている。がしかしこの私は、「じゃこうすればいい」だけはなかなか言わない。人生相談の本ならいとも簡単に「こうすりゃいいじゃん」と言ってしまう私が、それ以外の本になると、絶対に「こうすればいい」を言わない。だから、うっかり私の本を読んでしまった人は、「一体この人はクドクドエンエンと、なにを言いたいんだろう?」と首をひねるのだ。そして困ったことに、この私の本は、いつも明快に、著者がなにを言いたいのか、分かったようで分からない≠ニいうところへ行くようになっている。つまり、「この橋本治という人は、あまりにも周到に、宗教にならないように≠ニいう仕掛けを自分の本に張りめぐらしすぎている」ということである。
ということはどういうことかというと、「宗教というものは、あまりにも簡単に答≠出してしまうものである」ということだ。
宗教の側の出す答≠ヘ、いつでも簡単だ。それは、「私の宗教に入りなさい。そうすれば簡単に分かりますよ」だからだ。宗教がまず信じる≠ニいうところから始まっていることを、よく考える必要がある。
信じればいい≠フだから、宗教は簡単である。そして、多くの人は、「自分はこのままでいいのかな?」「この自分≠ヘ、もう少しなんとかならないかな?」というような疑問を持っている。そして、その疑問の答≠ヘ、なかなか出ない。自分一人で考えていても分からないし、またそういう疑問は、そう簡単に他人には言い出しづらい。それだから、「自分はこのままでいいのかな?」「この自分≠ヘ、もう少しなんとかならないのかな?」という疑問を抱えている人達は、往々にして、一人でそう考えている≠ニいう状態に陥る。そしてそういう状態になると、他人との比較がしづらくなる。つまり、「自分はこのままでいいのかな?」「この自分≠ヘ、もう少しなんとかならないかな?」と思っている人達は、「他人はそんなこと考えてないんじゃないか?」「もしかしたら他人は、もうなんとかなってる≠じゃないだろうか?」と考えがちだということである。
「他人は、もう自分の抱えている不安や悩みのようなものをクリアーしてしまっているのかもしれない……。自分は一人でグズグズしているのかもしれない……」ということになってしまうかもしれない。おそらく、いとも簡単にそうなっているだろう。これが、最大の落とし穴≠ニいうものである。
「他人は、もう自分の抱えている不安や悩みをクリアーしてしまっているのかもしれない……。自分は一人でグズグズしているのかもしれない……」というような考え方をするということは、「悩みとか不安というものは、本来だったら、いとも簡単に解決してしまうはずのものなのではないのか?」という錯覚に、あなた自身が陥っているということである。つまり、「こういう悩み[#「こういう悩み」に傍点]、不安とも言えないような不安[#「不安とも言えないような不安」に傍点]を抱えている自分は、もしかしたら、根本的に間違った考え方[#「間違った考え方」に傍点]をしてしまっているのではないか?」と、あなた自身が考えてしまっているということだ。
「そんなことはない」とは、誰にも言えない。あなたは間違った考え方≠しているかもしれないし、していないかもしれない。それとは関係なく、ただ一つだけはっきり言えることは、≪悩み≠ニか不安≠ニいうものは、いつも当人にとっては、「これが不安なのか悩みなのかよく分かんないんだけど……」という形で訪れる≫ということだ。「悩みや不安は、はっきりしないから悩み≠竍不安≠ノなる」ということ。それともう一つ、「悩みや不安という輪郭のはっきりしないものは、それゆえにこそ、そうそう簡単に解決しない」と。
もちろん、「自分はこのままでいいのかな?」とか、「この自分≠ヘ、もう少しなんとかならないかな?」という疑問に対する答は、なかなか出ない[#「なかなか出ない」に傍点]。そういうもんである。であるにもかかわらず、人間は、「さっさと答を出さなきゃいけない……」と思うものである。そして、「なかなか答を出せない自分には、なにか欠陥≠ェあるのかもしれない」と思う。
別に欠陥なんかない。「そういう疑問に対する答は、なかなか出て来ないものである」だからだ。
にもかかわらず、人間は、「どっかにその答を簡単に出してくれる人がいるんじゃないか? その簡単な答≠ェあるんじゃないか?」と思っている。あなたがそう思っているんじゃなかったらいいけど、もしもあなたがそう思っているんだとしたら、あなたは宗教≠フいたって近いところにいる。
あなたはどこかで、≪なんとかしたい自分≠ニか、「ホントに自分はこれでいいのかな?」という疑問≠ノ対する答は、本当だったら宗教が与えてくれるものなのかもしれないけど……≫と思っている。だからこそあなたは、「信仰を持たない人間はどうしたらいいんでしょうか?」とか、「信仰というのは、本来なら誰でも持っていなければならないものなんじゃないのか?」と思っている。だからこそあなたは、「どうして自分には宗教≠ニいうものがよく分かんないんだろう?」と悩んでいる。うっすらと、そんなことを考えている。がしかし、あなたに欠けているのは、別に宗教に対する理解≠ナはない。あなたに欠けていて、あなたに一番必要なものは、「自分の頭でものを考える」ということで、「自分の頭でものを考えるということは、とんでもなく大変で、悠長で、効率の悪いことである」ということだ。
はっきりしているのは、「日本人に一番必要なものは宗教≠ナはなく、自分の頭でものを考える≠ニいう習性である」ということだ。
日本人は遠い昔に、宗教から宗教の必要性≠ニいうものを排除してしまった。日本人が西洋人から不思議がられるほどに即物的なのは、そのためだ。日本人は遠い昔に宗教の必要性≠ニいうものを排除してしまって、そのかわり、そこに代入されるはずの自分の頭でものを考える≠ニいうことを持ち込まなかった。だから、「自分の頭でものを考えること≠ノ関する混乱」が起こる。「自分がいつまでもつまらないことでグズグズしているのは間違いなんじゃないんだろうか?」とか。
日本人は、どういうわけだか、「グズグズしてる間にさっさとその先≠考える」が出来ない。「えっ? そんなことまで自分で考えちゃっていいんですか?」というような、寝ぼけたことを平気で言う。「答はエラい誰かが持って来てくれるもんで、自分はその指示を待っていなければならない。その答を先回りして考えたら失礼だし、そんなことを考えるのはメンドくさいから、おとなしく待ってる」と、まるで渋谷駅の忠犬ハチ公のようになっている。あるいは、「いくら待っても答を持って来てくれない社会なんか間違いだから、さっさと不良になってやる」とか。
必要なのは、宗教でも指示でも教祖でもリーダーでもなくて、自分の頭で考えられるようになること=\―日本に近代化の必要が叫ばれるようになってから、日本人に終始一貫求められているものは、これである。これだけが求められていて、これだけが達成されていなくて、これだけが理解されていない。だから、まだロクに自分の頭でものが考えられないまんまのくせに、平気で「近代は行き詰まった」なんてことを言う。残念ながら、自分の頭でものを考える≠アとの必要が理解されて、これがクリアーされるまで、日本人に近代≠ネんかは訪れないのだ。日本的近代≠ヘ、近代の模造品≠ナある。ここ十年二十年の懐疑は、それだけをあきらかにしたのだ。
さっさとこの日本に、みんなが自分の頭でものを考えられる近代≠ェ訪れて来てほしい。そういう近代≠ェ訪れてくれない限り、多くの日本人は「宗教ってなに?」と、ビクビクおびえ続けなければならないのだ。
断言してもいいが、「宗教が理解出来ない」などという不思議な劣等感を持つのは、日本人だけだ。誤解しない方がいい。「宗教を理解する」あるいは「宗教とはなにか?」を考えるということは、「もう宗教というものはいらない、もうこの宗教はいらない」と考えられる人間だけが出来ることで、そんな人間の集団は、日本人しかいないのだ。
だから日本人は、その孤立感覚にビクビクして、「宗教のことを分からなくちゃいけないんじゃないか?」なんてことを考える。それは、もう貧乏じゃなくなった人間が、「少しは貧しい人のことを考えてあげなくちゃいけないんじゃないか?」と考えることとおんなじ感覚なのだ。
日本人は、「私は宗教がいらない」とは言えない。自分に果たして宗教が必要なのかどうかを考えないで、平気で「私は宗教がよく分かりません」と言う。「私は宗教がいらない」と言わなければ、「私にはなぜ宗教がいらないのか」という理由≠熕燒セ出来ないのだ。「私はなぜ宗教がいらないのか?」の答と、「宗教とはなにか?」の答は、実のところ同じものなのである。
宗教のいらない理由≠ニいうのは、「私にはもうこれ≠ェあるから宗教はいらない」という形で説明される。それが理解されれば、すべては簡単に分かる。がしかし、実際問題として、日本人には「私はなぜ宗教がいらないのか?」の答が分からない。宗教を不必要にしてくれるこれ≠フ正体も分からない。宗教を不必要とするものは、ただなんでも自分の頭で考えられること≠ネのだ。
つまり、宗教≠ニは、まだ登場しないあるものの前段階≠ナあるようなものなのだ。つまり、「自分の頭でものが考えられない人間の前段階とは、神様や教祖様という絶対者からの指示待ち状態――すなわち宗教≠ナある」と。
「宗教とはなにか?」の答は、まずこのようにして包囲されるのだ。
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第V章 錯覚[#「第V章 錯覚」はゴシック体]
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9 なにかがヘンだ[#「9 なにかがヘンだ」はゴシック体]
オウム真理教が宗教≠ナあることに間違いはない。オウム真理教事件に宗教≠ェからんでいることも、間違いはない。しかし、なにかがヘンだ。オウム真理教事件には、宗教の問題≠セけでかたづけられないようななにか≠ェある。だから、「オウム真理教事件から宗教≠排除すると」という発想だって生まれる。オウム真理教事件の特異性は、「宗教がらみの事件のくせに、平気で事件から宗教を排除出来る」という点にもある。がしかしそのくせ、オウム真理教事件ほど執拗に宗教≠問いかけてくる事件もない。オウム真理教事件の全貌≠ニいうものは、いくら捜査当局が解明≠したって、それだけでは絶対に解明出来ないようななにか≠含んでいる。多くの人が、そんな風に感じている。「我々が解明してもらいたいのはそんなことではない」というように。
オウム真理教事件には、なにかこわいもの≠ェからんでいるような気がする。そして、そんなものがあるのだとしたら、それはきっと、「どうにも解明が出来ないようななにか≠ェ潜んでいること」である。
オウム真理教事件の不気味さには、たとえて言えば、ぬけぬけとした≠ニいうような要素がある。すべての追求にイエスとも言いノーとも言って、しかし追求される側には、一切の追求をかわしてしまえるようななにか≠ェある。
オウム真理教事件は恐ろしい事件≠ナあるのと同時に、なんだか間が抜けて不気味な事件≠ナもある。間が抜けて不気味≠セから、この事件には不思議な笑い≠煢Bされている。そんなものがあるから、まともな人間はこの薄気味の悪い事件に言い知れない不安≠感じるのだ。
一体、オウム真理教事件にはなに≠ェ隠されているのだろうか? 問題は、そのなにか≠フ正体で、そのなにか≠フ正体は、≪宗教≠ニいうものを求めてしまう、人間≠ニいうもののあり方にかかわってくる問題≫であるはずなのだ。
私は、地下鉄サリン事件が起きて、そこに犯人≠ニしてのオウム真理教が噂された途端、「そうか……、あんな気持悪いことをする人間は、麻原彰晃のオウム真理教しかいないってことか、ああよかった」と思った。
松本サリン事件で、ただの会社員≠ェ犯人扱いされた時、私はとっても気持が悪かった。うっかりと、「そんな気持の悪いことをする人間が、今の日本には当たり前にいるのか……」という気になってしまったからだ。「パソコン通信なんかで、誰にでもとんでもない知識≠ェ手に入って、そんなものを勝手に手に入れたやつが、密室の中で一人でニヤニヤ笑いながら作って≠「たりもするのか?」と思うと、気持の悪さでどうしようもなくなる。「そんな個人≠、どうやってまともな方向≠ノ引き戻せるんだ?」と考えれば、絶望的になってくる。「会社が嫌い」で、「どこにも属さず、一人で内心ニヤニヤ笑っているだけ」というような人間は、いくらでもいるだろうから。
しかしそれは、麻原彰晃のオウム≠セった。「いくらなんでも、そんなことをやる人間はそうそういないんだ」と思うと、ほっとする。だから私は、「よかった」と思った。だから私は、さっさとその処理≠勝手に考えてしまった。地下鉄サリン=オウム説≠ェ登場した段階で、すぐに私は、「じゃ、内乱罪だ。死刑か無期懲役だ。ああいうもんはもうなくなるんだ、ああよかった」と思ってしまったのである。
私は、「宗教なんか必要ない」と思っている人間だが、オウム真理教を「薄気味の悪い存在だ」と思うのは、別にそれが「宗教だから」ではない。私がそれを「気持が悪い」と思うのは、あの選挙の時のありさま≠ノ代表されるような、美意識の欠落≠艪ヲである。
私は『美男へのレッスン』という本の著者で、この本は、「美男≠ナはない普通の男≠ヘ、全員ブオトコである。そのブオトコが自分のブオトコ性を無視して人間の平等≠叫ぶのは、共和制の最大の間違いだ」と主張する本である。だから私は、麻原彰晃というあからさま以上のブオトコが最大の美意識≠ノなって、しかもそれが絶対者≠ノまで高められていることをまったく疑わないでいる信仰集団というのが、まったく理解出来ない。「薄気味の悪い存在だ」と思うし、「そういうものは根本的に間違っている」と思う。「あんなものが信じられるっていうんなら、それは人間としてのなにかが歪んでいるんだから、そういうものにはさっさとなくなってもらった方がいい」と思う。私はそんなことを考える点で、いたってメチャクチャな人間≠ナある。がしかし私は、世間一般がそう考えているくせに、でも絶対にそうだとは言わない真実≠ニいうものをいたって素直に表明してしまったという点で、ちっとも間違ってなんかいないのである。私はただ、自分の思想にいたって忠実にものを言って、「それが当たってるんだからしようがないだろ」と言うだけの人間なのである。
そういう私であるから、「ああよかった、オウムがなくなる」はいいが、それからが大変である。オウム疑惑≠ナ、連日連夜、あの薄っ気味の悪い麻原彰晃の顔や声がテレビに登場して来る。上祐だの村井だのという、とんでもなく気味の悪い論客≠ェ平気で出て来る。「この気持悪さを放置しといたら、こっちの頭がおかしくなる」と思った私は、その対抗上、ありとあらゆるくだらないことを考えた。薄気味の悪い不条理に対抗する最大の理性手段が笑い≠ナあるのは、もちろんのことだからである――。
10 踏み絵が効く人達[#「10 踏み絵が効く人達」はゴシック体]
たとえば、「オウムの報復」が噂されたXデー≠フ四月十五日――普段なら地下鉄なんかに乗ることもそうそうないこの私は、用事があって地下鉄に乗っていた。あんまりXデー≠ネんてことをマスコミがうるさく言うもんだから、地下鉄に乗る私は、きちんとその対策≠前日から考えていた。私はこう言ったのである――「明日はさ、地下鉄とか駅の改札口の床に、全部麻原彰晃の写真を貼っときゃいいんだよ。そうすりゃオウムは近づけないんだから」
今時踏み絵≠ネどというバカバカしいことを考え出す人間もそうそういなかろうが、私はそれが効く≠ニ思うから、そういうことをヘーキで言う。人は当然笑う。がしかし、何日かたってテレビを見ていたら、「上九一色村の反オウム集会にフリーのジャーナリスト≠装ってオウムの信者が潜入していた」という、過去のビデオを流していた。やっぱり、現実の中に生きている人達は現実に即した対応をするもので、スパイ≠発見した村人達は、「違う」とシラを切るスパイ≠フ前に、「じゃ、踏んでみろよ」と、麻原彰晃の写真が表紙になっているオウムの雑誌を投げ出していたのである。
そして、当然のことながら、スパイ≠ヘそれを踏めなかった――。
こういうくだらない内実≠持ったものであることがはっきりしているにもかかわらず、相手があまりにも常軌を逸してくだらないために、現実にいる側≠ヘ、その対抗手段が打てない。
駅の自動改札口の床に麻原彰晃のポスターを貼るのは、誰の仕事か?
まさか、警察はやれないだろう。営団地下鉄もJRもやんないだろう。東京都もやんないだろう。市民ボランティアかね? 効くんだけどなー。効くんだけど、誰もそんなことを、まともに「やろう」とは考えない。
踏み絵が「信教の自由」に触れるからだろうか? そうじゃないだろう。「そんなバカバカしいことやってどうするんだ?」と、普通の人間達が考えているからだろう。しかし、それが宗教≠ネら、信者はそれを信じている。信じているんだから、踏み絵だって効果がある。がしかし、「信教の自由」という言葉を知って、「宗教だから……」で及び腰になっている教団外の人間は、「まさか……」としか思わない。
「踏み絵は効くでしょうか?」と問われて、「効きます」と言えるオウム真理教以外の宗教関係者なんているだろうか? 「宗教をバカにするな」と怒る人間はいても、「効きます」とは言ってくれないような気がする。
今度の事件の異様さ≠ヘ、東京の地下鉄だけで十二人の死者が出て五千人もの被害者が出ているにもかかわらず現実感≠ニいうものが妙に欠落していることだろうが、その現実感の欠落は、「踏み絵が実際に効くグループ」と「そんなことテンから考えられないグループ」とが、不思議な形で向き合ってしまった結果だろう。
ついでに、私は「麻原彰晃がどこに隠れているか?」に関して、かなり早い段階で結論を出していた。それは地下≠ナある。「麻原彰晃は、富士山麓の地下で巨大化して卵を生んでいる」というのが、私の結論だった。だから、麻原逮捕の前後に上祐が青山の総本部を鉄板で暗くしていたのは、「きっと富士山麓から運び込んだ卵を孵化させようとしているのだ」という説だった。事態は、それくらいくだらない。それくらいのグロテスクに耐えられないと、この事件は正視出来ない。「麻原彰晃が巨大化して卵生んでる」って、想像すると、すごく気持悪いでしょ? 卵の大きさは九十センチぐらいでね、卵の一つ一つが、みんなあの顔≠ネの。毛が生えててね。気持悪いでしょ?
さらについでに、私はもっと気持悪いことを考えた。「麻原彰晃ってね、人に近づく時、あの顔を寄せてクンクン匂いを嗅ぐんだよ」である。「アレがクンクンするんだよ」と言われて、「やめてくれー」と言わなかった人間は、一人もいなかったぞー。ウチの助手なんか、「人が弁当食ってる時にそんなこと言わなくてもいいじゃないですか」と言ってたぞー。可哀想に。「それっぽっちのグロテスクにびっくりするもんか、こっちなんかもっと気持悪いこと考えられるんだぞ」ぐらいの気構えがないと、現代は乗り越えられませんね。
だから私は、麻原逮捕≠聞いて、「なんだ……、卵生んでたんじゃなかったの?」と、少しだけがっかりした。
11 宗教法人法の下で、宗教は現実を超えられない[#「11 宗教法人法の下で、宗教は現実を超えられない」はゴシック体]
私が地下鉄サリン=オウム≠ニ聞いて、「じゃ内乱罪だ」と思うのは、それが宗教≠セからである。彼等は、ホントに「自分達が正しくて、自分達の信仰を受け入れない世界は腐っている」と思っている――だから、「こんな腐った世界は滅ぼしてしまえ」という発想になる。だからこそ、地下鉄にサリンをばら撒《ま》いて無差別殺人を図る。これは、自分達以外の世界の崩壊を目的とした無差別殺人である。これは、立派に≪政府を転覆し、又は邦土《ほうど》を僭窃《せんせつ》し、その他|朝憲《ちようけん》を紊乱《びんらん》することを目的として暴動を為《な》したる者は内乱の罪と為し、左の区別に従って処断す(以下略)≫という内乱罪に相応する。そして、このオウム真理教教祖の計画したことは、この内乱罪の規定を遥かに超えて、ほとんど日本国刑法が規定していないような種類の犯罪である。なにしろ、彼等の中で、既に政府は存在していない[#「存在していない」に傍点]のであるから。そうでなければ、「オウムだけが生き残る」というような、オウム対全世界≠フ最終戦争《ハルマゲドン》なんかは考えられない。彼等の計画は、政府を倒す≠ネんかではなくて、教団外の人間全部を倒す≠ネのだ。彼等は、既に日本国政府の実効性なんてものを感じていなかったのだろう。
彼等が、「日本の領土を奪い取る(邦土を僭窃し)」ことを計画していたことは確かだ。政府は存在しないが、国土そのものは存在する。問題は、「その彼等の計画にどれほどのリアリティがあったか?」ではなくて、「彼等がまさしくそれを計画し、その計画の一部を実行してしまった」ということだ。
普通はこれを、「まさか……」と思う。しかし、それを「まさか……」と思うのは、この計画を知らされていない教団内部の人間と、教団外の普通の日本人だけだ。当事者は、決して「まさか……」とか「リアリティがない」などとは思っていない。思っていないところが、信仰≠ネのだ。リアリティは、教団の外にではなく、教団を支配する教祖の方にある。彼等が「まさか……」ということを考えたとしたら、それは、「まさかこの計画が失敗することなどあるはずがない」という、そういう文脈であろう。
彼等は、本気なのだ。そして、彼等がそのように本気である以上、彼等が現実に存在する日本国政府の規定する内乱罪≠ノ該当して、死刑なり無期懲役なりになるのはしかたがない。彼等がその存在を信じようとはしない教団外の現実≠ニは、それをそのように判断するものである。刑法という規定を持つ政府という現実≠ヘ、「まさかそんなことを考えていたなんて、信じられない……」などとは言わないものなのである。
彼等はそう信じて[#「信じて」に傍点]、そのように計画して、実行をしたのだ。ここに現実≠フ側が「まさか……」という言葉を持ち出すのだとしたら、それは、「精神鑑定」という領域を新たに設定する用意をした上での話だろう。
彼等の精神が異常でなければ、計画の実行者・指揮者の理性は、それを明確に信じていた[#「信じていた」に傍点]。それだけが事実≠ネのだ。
これに対して、「宗教というのは、現実を超越しているものだ」という説がある。それだから、「宗教を裁いてはならない」ということになるのかどうかは知らないが、とんでもない愚かなことを言う人間もいるものだ。
これは、個人の妄想する自由≠ニは違う。「オウム真理教の思想≠ェ裁かれてしまえば、自分の中に存在する現実を嫌悪する≠ニいう妄想あるいは思想も裁かれるのかもしれない。だから、オウムは内乱罪だ≠ネどとは言えない」ということなのかもしれないが、裁かれるのは、オウムの思想≠ナはなく、行為≠ネのだ。思想の自由≠ニは関係がない。彼等は、考える≠超えて、実行犯≠ノなってしまったのだ。考えるのは自由だが、刑というものは、その実行行為に対して与えられる――それだけの話ではないか。
これでもしも、オウム真理教が自ら進んで宗教法人の認可を受ける≠ニいうことをしていなかったら、話はかなり違ってくる。そうなってこそ、「宗教は現実を超えているのだから、我々は我々のしたことに確信を持っている」の一言も出る。「現実を超えている宗教が、なにゆえに宗教法人法≠ネどという傘の下に入らなければならないのか? 宗教法人法による免税特権≠ネどというものを享受しているからこそ、宗教は堕落するのだ。我々はその堕落した一切の既成宗教を憎む。それゆえにこそ、我々は一切の殲滅《せんめつ》を図るのだ」と主張するのなら、まだ分かる。そうなってこそはじめて、オウム真理教事件≠ヘ思想犯の事件≠ノなるのだ。しかし彼等は違った。
「我々はそんなことをやっていない。我々は、そんなことをやっていないと信じる」と主張する彼等は、「だからこそ宗教弾圧だ」と言い、宗教法人法による解散を拒絶しているのだ。宗教法人法が存在し、宗教がその傘の下で免税特権を享受しているのなら、その時点において、「宗教は現実を超越する」などと主張する権利が、宗教の側にはないのだ。事実≠ニは、それだけである。
宗教法人法によって免税特権を受けるということは、その宗教法人法≠ネるものを存在させている日本国憲法の下に入るということだ。宗教は、税金を払わないことによって、自分から現実を超えないこと≠認めた。宗教とは、現在そのようなあり方をするものになっているのだ。
だから現在の宗教≠ヘ、信者の親睦会であり、勉強会であり、残された古い遺跡を守る文化団体であり、「これがなくなるとどうしたらいいか分からない」と言うであろう人間のパニックをなくすための暫定機関なのである。既成の宗教がオウム真理教事件≠ナほとんどなんの発言もしないのは、別に不思議でもなんでもない。宗教というのは、もはやそういうもの≠セからである。だから、この事件に関して宗教者が発言をしても、宗教が発言した≠ノはならない。それは、信仰を持つある個人が発言した≠ニいうだけで、「信仰なんか全然ない」と言う人間の発言と、本質的に変わりはないのだ。
だから私は、「もはや宗教は無力だ」などとは言わない。だから私は、「宗教を特別視するのはやめろ」と言う。宗教は現在そのようなもの≠ナ、宗教はいつの間にかそのようなもの≠ノ変わったのだ。
12 宗教が無効になっていく日本の歴史[#「12 宗教が無効になっていく日本の歴史」はゴシック体]
宗教法人法の下に入った宗教は、今や現実を超えられないもの≠ナある。がしかし、宗教とは、そもそもこわい≠ニいう要素を含んだものである。それだからこそ、「宗教とは現実を超越して存在しているものだ」という声も出る。なにしろ宗教は、神≠ニか奇跡≠ニいうような超越的なものの存在をその前提にしていて、そういう超越的なものを信じるのが宗教≠セからである。それだからこそ、この本には『宗教なんかこわくない!』というタイトルが与えられている。かつて宗教は、それを信じようとしない者に対しては罰を与える≠ニいうこともした――そういうこわい≠烽フであったということが今でもなんらかの形で尾を引いている――だったらいっそ『宗教なんかこわくない!』ということにしてしまえと、この私が思ったからである。
さて、それではこの日本で、最初に「宗教なんかこわくない!」と言ったのは誰だろう? それは当然、戦国時代の武将織田信長である。
彼は、「宗教なんかこわくない!」と思った。だから、一向宗の一揆も殲滅《せんめつ》したし、比叡山の延暦寺にも火をつけた。実力主義の近代人である織田信長には、超越的なものをバックにして、人を脅しながら現実に対して武力闘争を仕掛けるという宗教≠フ勢力が不愉快でたまらなかったのだろう。
だから彼は、その宗教勢力に戦いを挑んで、これを滅ぼした。織田信長が本能寺で明智光秀に攻め殺された時、あるいは「仏の罰が当たった」と言った宗教関係者はいたかもしれないが、その後の現実の支配者達は、そんな言葉に耳なんか傾けなかっただろう。
織田信長が戦いを挑んで勝って、それで日本の宗教勢力はおとなしくなってしまった。だから、時の支配権力に刃向かうような宗教は、キリスト教しかなくなってしまったのである。
織田信長が一向一揆や比叡山と戦っていた頃、既にキリスト教の宣教師達は日本に来ていた。信長は彼等に布教を許して、格別これを弾圧しなかった。信長は、キリスト教の宣教師達が持って来る西洋文明の新しさ≠ェほしかったのだ。信長の時代に、まだキリスト教はそんなに大きな勢力を日本で獲得していなかったが、もしもこれが大勢力になっていたなら、きっと信長はこれを弾圧していただろう。「キリスト教なんかいらないが、しかしそれが存在する西洋文明だけはほしい」と思う点で、織田信長は、後の近代化を望む明治政府≠ニおんなじだ。そして、この姿勢は、それからずっと後の日本人達の姿とも重なる。日本人は、結局欧米≠ニいうブランドがほしいだけで、その相手を理解しようなんて思っていないのだろう。
織田信長が死んで、豊臣秀吉の時代が来て、布教を許されていたキリスト教はかなりの勢力を日本で獲得していた。だから豊臣秀吉は、これを禁止した。豊臣秀吉の姿勢は、一向一揆を弾圧した織田信長の姿勢と同じだろう。この姿勢は、その後の徳川幕府にも受け継がれる。
徳川幕府はキリスト教を禁止して、これを残酷に弾圧した。そして、キリスト教が日本で広がらないような監視政策を実施した。それが今でも日本に残っている檀家制度≠ナある。
日本人のかなりの部分が今でも自分の宗旨≠持っているのは、この徳川幕府の宗教政策のせいである。徳川幕府の時代から続いているものだから、日本人の多くが代々の自分の家の宗旨≠持っている。しかしだからといって、「日本人のほとんどが仏教徒で、仏教徒としての信仰を持っている」というのではないだろう。それは、「日本人の多くは自分の家の葬式を自分の家の宗旨でやる」というだけだ。
徳川幕府の発明した檀家制度は、「国民のすべては、いずれかの宗旨の寺に属さなければならない。すべての寺は、その宗派の本山とされるものを頂点とするピラミッド構造の中に属さなければならない」というものである。こんなに素晴らしい宗教政策はちょっとないだろうと思えるくらいに、これはすごい発明である。
徳川幕府は、表向き、既存の日本の宗教勢力のどれをも弾圧していないのである(日蓮宗のある一派だけが例外)。すべての宗教勢力をそのままに温存して、それを現実の政治システムに結びつけてしまった。だから、日本のすべての家は、その土地に存在するどこかの寺に、檀家≠ニして所属する。檀家として地域住民の管轄を受け持たされた寺は、その地域の人間生活を管轄する役場のような存在になった。だから、江戸時代の戸籍は、過去帳≠ニいう形で寺にある。出生届は寺に出し、婚姻届も死亡届も寺に出す。
寺に役場としての機能を与えることによって、徳川幕府は寺を行政機構の一端≠ニしてとらえることが可能になった。寺は、葬式という人生に関する最大の儀式を執行し、そのことによって、宗教儀礼を行う宗教の場所≠ニいう位置づけを得て、それ以上の宗教≠実践する必要はなくなった。寺の僧侶が日常業務(つまり、たまにある役場の仕事=jの合間に仏教を学ぶのは自由で、信教の自由≠ヘ損なわれていない。寺の所属する宗教≠ニいうものを、現実世界のシステムの一端に組み込んで、宗教の持つ超現実性を無効にしてしまった。しかも、この檀家制度という政策は、檀家が寺を支える≠ニいう形にして、住民の中に存在する信仰心を維持し、寺というものの存在を保護している。マルクス主義が「宗教は阿片である」と言ったのに対して、この日本の徳川幕府は、「宗教という阿片の薬効を抽出し活用した」なのである。まことによく出来た宗教政策≠ナ、「檀家制度によって、日本の宗教(仏教)は骨抜きになった――宗教としての意味をなさなくなった」と言われているのも道理である。
檀家制度は、宗教から力を奪った。「日本が銃社会にならないのは豊臣秀吉の刀狩以来、一般人が武器を持つ≠ニいう習慣が日本からなくなってしまっているせいだ」と言う人がいる。私もそうだろうと思う。日本は、その基本姿勢としては、もう四百年も前から平和な近代市民社会≠ノなっているのである――宗教が不必要な力を持たない≠ニいう点と、武器が野放しにされていない≠ニいう点において。
織田信長以来、日本人は宗教をこわがっていない。少なくとも、日本の現実政治の支配者達は、宗教というものをこわがっていない。ということは、超越的なものを信じていない現実主義者だということである。
それは、宗教からこわさ≠なくしてしまった日本で支配的になるismが、「君子は怪力乱神を語らず」と言って超現実的なものを否定する儒教だからだ。
儒教という人間関係の道徳を説くismが支配的になってしまった日本で、もう日本人は宗教をこわがらない。こわがらないと同時に、ほとんど尊敬もしていない。なにしろ宗教というものが、現実の支配システムの中に収まっている、信仰というものを必要とする大衆を管理する機関≠ノなってしまっているからである。もう宗教は世俗の一機関で、そんなものをこわがる必要はない。現実政治の支配者達の間に、「宗教を支配することが出来る」という自信が生まれて確立されてしまっていたからこそ、その後の日本に国家神道というものも生まれたのだろう。国家神道は、国民を支配するために利用された宗教のシステム≠ナある。
支配体制の中に存在する官僚個人が熱烈に宗教に帰依するという個人的な事件≠ヘあっても、官僚機構そのものが宗教をこわがる必要なんかない。日本のシステムは四百年も前からそのようになっている。これはほとんど、オウム真理教の幹部連中が、平気で好き勝手をやっていたのと似ている。
彼等がこわがるのは麻原尊師≠ネのであって、教団の中で出世した幹部連中には、もうオウム真理教という宗教をこわがる必要がない。それは、将軍様に絶対の忠誠を誓って、敬虔ではありながらも、別に宗教を畏怖する必要なんかは全然なかった、徳川幕府の武士達のあり方と同じだ。
畏怖とか忠誠というものは、教義とか信仰というものに対して向けられるのではなく、その組織の頂点にある人≠ノ対して向けられる。信仰の質が、組織を維持する人間への個人崇拝≠ナあるという点で、オウム真理教の精神構造は、封建時代のそれと同じなのである。
封建時代≠ニいうと、我々はすぐに迷信深い≠ニ思う。がしかし、この人間同士の忠誠≠重要視した世俗の制度は、宗教というものを全然恐れなかった人間同士の制度≠ネのである。そのことを補強するために、江戸時代には儒教というism(=宗教)があったのである。
歌舞伎の『勧進帳』は、兄頼朝の追求を避けるために山伏の一行≠ノ変装した源義経主従の話である。強力《ごうりき》(荷物運び)に身を変えた義経を、安宅《あたか》の関の関守である富樫《とがし》が見咎《みとが》める。山伏になっている弁慶は、偽の勧進帳を読んで、義経を助ける。勧進帳を読んでいる弁慶の姿に圧倒され、そして、主人を思う弁慶の心情にうたれて、それが源義経であるということをほぼ承知した上で、関守の富樫はこの一行を見逃す。義理と人情≠ニいう日本人の心性を描いたドラマとして有名な『勧進帳』は、江戸時代のドラマ≠ナある。
ところで、この歌舞伎の『勧進帳』には原典≠ェある。織田信長以前に成立する、能の『安宅』である。能の『安宅』と歌舞伎の『勧進帳』では、ほとんどそのストーリーに違いはないのだが、ある一カ所で重要な違い≠示す。それは、能の『安宅』では、関守の富樫が山伏をこわがる[#「山伏をこわがる」に傍点]という点である。
山伏は、宗教関係者である。仏教と日本古来の山岳信仰が合体して出来たものが山伏で、当然宗教≠セから、これはこわい=B能の『安宅』の弁慶は、「偽山伏だなどと言って我々に疑いをかけるなら、我々はお前達を祈り殺すぞ」と、脅しをかけるのである。だから富樫は、こわくなって[#「こわくなって」に傍点]一行を通す。通した後で、ご機嫌をとるために酒を運んで来たりもする。ここにあるのは江戸の人情ドラマ≠ネんかではなくて、中世の宗教ドラマ≠ネのだ。つまり、能の『安宅』が出来上がった時代に、日本人はまだ十分に宗教をこわがっていた[#「こわがっていた」に傍点]、ということである。
それが江戸時代の終わりになると、もう話の根本が変わってしまっている。「富樫が弁慶をこわがるのは、弁慶が山伏に変装していたからである」という『安宅』の根本が成り立たないくらい、人は宗教をこわがっていない。こわがるのだとしたら、「もしも黙って義経の一行を通過させたということが頼朝公にばれたらどうしよう……」という側面だし、もしも江戸の歌舞伎で「富樫が山伏に変装した弁慶をこわがる」をやったら、それは喜劇にしかならないだろう。
江戸時代の人間は、もう宗教をこわがっていない。江戸時代の人間は、こわがるのなら幽霊≠こわがった。江戸時代は怪談≠ニいうジャンルが花開いた時代である。江戸時代の人間は幽霊をこわがり、そして同時に、神社や寺へさかんに出掛けた。そこへ行ってご利益《りやく》≠願うためであるし、寺や神社の前には門前町というものが出来て、ここはアミューズメントセンターになっていた。こうなった江戸時代における宗教の意味は、オカルト≠ニ現実享楽≠セけである。現実社会はもう十分に安定していて、宗教という超越的なものの力に頼る必要が、基本的にはなくなっていたから、こういうことになったのだ。オカルト≠ニお願い≠セけというのは、ほとんど現代の宗教事情と変わらない。
ということはどういうことなのかというと、それは、「この時、既に現実は宗教を吸収してしまっていた」ということなのである。
基本的に、もう宗教は必要ない。多くの人はそう感じていて、しかし「それをなくしてしまえ」と言い出す理由もなかった。それくらい宗教はおとなしくなっていた[#「おとなしくなっていた」に傍点]し、人間の方も「宗教に求めるのは現実からはみ出したよけいなところ≠セけ」と思っていた(現実からはみ出したよけいなところ≠ニいうのが、オカルト≠ニ「あわよくば……」的なご利益のお願い≠ナある)。
江戸時代の宗教は、「さしたる意味はないが、なくすのもなんだから」という形でしか残っていなかった――私はそのように思う。問題は、もしかしたら、宗教がそんな中途半端な形で残っていた≠ニいうことにあるのかもしれない。
江戸時代が終わりに近づいて、明治時代に向かって進んで行こうとし始める頃、神道を中心にする国粋主義の芽が生まれてくる。徳川氏の幕府≠ニいうものと対決するために、古くからの天皇≠ニいうものを持ち出して来る動きである。江戸から明治への移り変わりには、徳川信仰対天皇信仰≠ニいう宗教的対立があったことは事実である。ただ、それを宗教的対立≠ニ言わなかっただけだが、明治になれば、天皇家の信仰≠ニしての神道が勢いを持ってくるのだから、江戸から明治への変化が、支配的な宗教の変化≠セったことは確かだ。そして、日本の場合、江戸時代に徳川幕府が仏教を骨抜きにしてしまったから、この江戸から明治へ≠フ背後にある宗教勢力の変化が、無宗教から神道へ≠ニいうような形になってしまったのだ。現代の若者における無宗教からオウムへ≠フ道筋は、江戸の無宗教から明治の国家神道、そしてファシズムへ≠ニいう、昔の日本人の選んだ愚かさとよく似ている。
明治の日本は、天皇を中心とする支配体制を確立する必要があった。だから、天皇家の信仰≠ナある神道を国家的なものにしなければならなかった。そして、そのためには、ある操作が必要だった。なぜかと言えば、江戸時代の三百年を通して、日本人はもう宗教をこわがらなくなってしまっていたからである。宗教をこわがらないということは、宗教に積極的な意味を見いださない≠ニいうことでもあるし、宗教の崇高を解さない≠ニいうことでもある。現在の日本人の体質はもう江戸時代に作られていて、国家神道というものの尊厳を確立しようとするものにとって、これはとっても大きな敵だった。つまり、シリアスを確立しようとするものの前にお笑いが立ちふさがっている≠ニいうようなものだったからである。
明治政府は、どうしても天皇家の信仰≠復活させなければならなかった。そのためには、国民の間に信仰態度≠ニいうものも復活させなければならない。なにしろ、江戸の日本人は、宗教に対するマジメな態度≠忘れてしまっているのだから。
そういう状況の中で一番効果があるのは、差別≠ニか戦い≠ニいう、問答無用のテンションの高さである。つまり、「徳川幕府は明治という素晴らしい時代の訪れを妨げていた。その徳川幕府を信仰の面で支えていたのは、国民の自由な発想を奪った、体制的な仏教という宗教である」という動きが神道の方から出て、廃仏毀釈《はいぶつきしやく》≠ニいう近代の宗教戦争≠ェ始まるのである。明治になって起こった廃仏毀釈という反仏教の動きはそういうものであろうと、私なんかは解釈している。
国民は、既に仏教などというものを真剣に必要とはしていなかった。「あそこの和尚様はいい方だ」という近所のオッサン$ォがあって、その立派な和尚様に対して、敬虔な村人や町人は、「こんにちは」とオジギをしていればよかったのである。それ以上のものを誰も望まなかった。
仏教が徳川体制の維持に関して、国民になにか特別な働きかけをしたわけではない。仏教は、国民に対してなにも特別な働きかけはしなかったのであり、国民の方だってそんなことを必要としてはいなかった。しかし、神道が復活するためには、神道の復活を妨げていた敵≠ェ必要で、そのために、檀家制度で日本全国に広まっていた仏教は、ヤリダマとしてあげられたのである。
まず廃仏毀釈の戦い≠ナ気勢を上げた神道は、宗教的にはゼロであるような国民の上に広がって行った。免疫がない人間の間にエボラ出血熱が広がるようなものである。国家神道が広がって行ったことの理由は、それでしか説明出来ない。
「どうしてファシズム化して行こうとする時代に、国民は軍部の暴走を押さえられなかったのか?」の問いの答は、「秀吉の刀狩以来、市民の間に武器を持つ≠ニいう習慣がなかったから」であろう。武器がないから武力には勝てない。ナチスドイツに占領されたフランスにレジスタンスの抵抗運動があったようなことは、日本ではきっと起こらないだろう。同様に、自衛隊による武力クーデターも起こらないだろう――オウム真理教の武装蜂起が決して成功するはずがなかったのと同じように。
つまり、武器が日常の中にない≠ニいうことは、武器を持って戦う≠ニいうことがリアルなものとして迫ってこないということなのだ。
それは、「宗教を日常の中に持たないものに宗教は理解出来ない」というのと同じである。だから、宗教の蔓延≠焉A武力の拡大≠ニ同じ理由で説明出来る。つまり、「どうしてファシズム化して行こうとするあの時代に、国民は国家神道の蔓延を押さえられなかったのか?」ということの問いの答は、当然のことながら、「だって、宗教なんかよく分からなかったんだもん」にしかならない。「分かんないものに攻めて来られたって、防ぎようなんてないじゃない」は、「日常の中に武器≠ニいうものが存在しないということは、武器を持って戦う≠ニいうことがリアルなものとして迫って来ない」と同じことなのである。
オウム真理教が、まだ各地でさまざまなトラブルを起こしている£度の段階にあった頃、オウムの事件≠ヘワイドショーのネタでしかなかった。被害対策弁護団が警察に動くよう働きかけても、警察はまったく動こうとしなかったというが、この警察の介入しようとしない姿勢≠ヘ、「宗教がピンとこないから」である。坂本弁護士拉致事件≠ノからんで、既にオウムの白い粉≠ニいう疑惑も浮上していた。それであるにもかかわらず、警察は動こうとしなかった。「分かんないものにわけの分かんないことをされても、真面目に動きようがない」ということなのであろう。
日本人は武器≠ニ宗教≠捨てて、国家神道のファシズムに無力だった。なぜならば、「その両方を持った相手(敵)を理解しようとしても、理解のしようがなかったし、対決のしようもなかったから」である。
宗教に対する免疫をとうの昔になくしていた日本人は、国家神道という宗教の侵略に対して、ひとたまりもなかった。これを逆に言えば、「国家神道のファシズムが日本を覆ったという事実は、それ以前の日本人が宗教≠竍信仰≠もう必要とはしていなかったという事実を証明する」である。
日本が太平洋戦争に敗れて国家神道が滅んだ時、果たして、「ほら見ろ、仏の罰が当たったのだ」と言った仏教関係者はいただろうか? 宗教や信仰が生きてあるのなら、当然のことながら、仏教関係者はこう言ったはずだ。なにしろ、国家神道は廃仏毀釈≠ニいう攻撃を仕掛けて、それで勢力を得たのだ。それを覚えていたのなら、仏教関係者は国家神道の崩壊に際して、「仏罰が下った」ぐらいは言ってもよかったのだ。
果たして仏教関係者は、それを言ったのだろうか? 私はそういう事実≠知らない。だから、「それゆえにこそ仏教はとうの昔に宗教としての力を失っていたのだ」と言うことも出来る。がしかし、そんなことを言ってなんになろう。そんなことを言ったら、「仏罰が下った≠チて言うことが、仏教が生きた宗教であることの証明なんですかァ……?」と、信仰≠竍宗教≠ェまだ生きていることを確信したい人達から笑われてしまう。
だから私は、「宗教が生きている≠ニいうことは、国家神道が滅んだ時に、廃仏毀釈をネに持った仏教関係者から仏罰が下った≠ニ言われる程度のことである。幸いなことに、仏教関係者はそんなセリフを吐かなかったらしいから、この日本では、もうとうの昔に、宗教が生きている≠ニいうことはそんなにも重要なことではなくなっていたのだ」と言う。重要なことは、「宗教が生きている」ということではなくて、「人が平和に生きている」ということなのだから。
昭和二十二年に日本国憲法が登場するまで、日本には信教の自由≠ェなかった。なぜなかったのかと言えば、「ほとんどの日本人が信教の自由≠ネどというものを必要としなかったから」である。オウム真理教事件は、そういう日本に現れた宗教の事件≠セったのだ――。
13 内面に語りかける宗教≠ニ、社会を維持する宗教=\―あるいはその抜けているなにか=m#「13 内面に語りかける宗教≠ニ、社会を維持する宗教=\―あるいはその抜けているなにか=vはゴシック体]
さてしかし、私の話はなにかがヘン≠セ。「日本ではその昔から宗教が無効になっていた≠ヘいいが、しかし宗教というのはそれだけのものなんだろうか?」ということを言い出す人もいるだろう。私の、「日本ではもうずっと以前から宗教が無力だった」という説には、なにか抜けているもの≠ェあるような気もする。宗教というものを、ある特定のものに限定して、そこから故意になにか≠欠落させているような気がしないでもない。
もちろん、その通りである。私のやった故意の欠落≠ヘ、織田信長以来続くこの日本の地で、多くの日本人がやっている通りのものだからである。
宗教には、二種類がある。社会を維持する宗教≠ニ、個人の内面に語りかける宗教≠フ、この二つである。そして、私が前節で語ってきたことは、前者の社会を維持する宗教≠ノ関してだけの話なのである。
宗教が社会を維持する≠ニいうことは、古代の社会においては重要なことだった。「日本では天皇が最高の祭司である」というのは、その古代の社会において確立されたことだ。政治のことを政治《まつりごと》≠ニ言うのは、古代の政治が、社会を維持する神を祀《まつ》ること≠第一の仕事としたからである。
しかし、「オレが実力でこの社会を維持する」と言い出す人間がいて、その人間に実際それだけの能力があったら、もうこの社会を維持する≠ニいう古代の宗教[#「古代の宗教」に傍点]は不要である。織田信長以来無効になってしまった宗教は、この古代の宗教≠セったのである。
それならば、この古代の宗教≠ナはない、個人の内面に語りかける宗教≠フ方はどうか? これは、日本では一貫して無視されて来た。だから、話がこっちの方面に及んでくると、日本人はテンから弱くなるのだ。
既に私は、故意の間違い≠しでかしてしまっている。「この間違い≠ノ気がつくかな……」と思って、あえてそういう間違いをしでかした。
社会を維持する宗教≠ェ古代の宗教なら、個人の内面に語りかける宗教≠セって、もちろん古代の宗教なのである。古代に確立した宗教≠セから、誰もそれを新興宗教とは言わないのである。
さて、古代に確立した個人の内面に語りかける宗教≠ニはなにか?
当然のことながら、仏教とキリスト教である。日本でキリスト教の信仰が安心して定着するのは近代になってからのことだから、もしかしたらキリスト教のことを近代の宗教≠ニ錯覚している人だっているかもしれない。冗談じゃない。近代になって成立した宗教≠フことを、普通は新興宗教≠ニ呼ぶのだ。それを言うのだったら、「キリスト教は、日本の近代になって、個人の内面に語りかける宗教≠ニして日本に入って来た」だろう。
そして、「キリスト教以前、日本には個人の内面に語りかける宗教はなかった――だからこそ、キリスト教は近代の宗教≠ネのである。だからこそキリスト教は、神道や仏教のような、古代から日本にある社会を維持する古代の宗教≠ニは違うのだ」と言いたがる人もあるかもしれないが、当然のことながら、これも間違いである。なぜならば、仏教は、キリスト教よりも成立の古い、個人の内面に語りかける宗教≠セからである。
ところがしかし、この日本では、仏教があまりそのようなものだとは思われてこなかった。
日本に仏教が入って来た時、この宗教は、それ以前からある神道よりも社会の維持に関して効力のある宗教≠ニして理解された。そしてそのようにして、日本に仏教は導入された。それが、日本の一番最初の仏教である鎮護国家の仏教≠ナある。やがて日本の仏教は、密教の時代に入る。密教は、個人に働きかける宗教≠ナはあるが、あまり個人に語りかける宗教≠セとは思われなかった。日本での密教は、個人の肉体[#「肉体」に傍点]に働きかけて病気を治す祈祷≠ナあるのがもっぱらだった。
平安時代は密教の時代≠ナ、この平安時代に個人の心[#「心」に傍点]に語りかける仏教≠ェ生まれて来て、やがて鎌倉の新仏教≠ノなる。法然・親鸞・道元・日蓮・一遍などが登場して来る。密教の中から生まれて来た鎌倉時代の新仏教≠アそが、日本製の個人の内面に語りかける宗教≠ナあり、その鎌倉時代こそが、日本の宗教の時代≠ネのだ。
鎌倉時代の個人の内面に語りかける仏教≠ェ目的としたものは、個人の救済≠セった。だから、個への働きかけ≠ェ最も強く存在したのは、四民平等の近代ではなくて、宗教の時代≠ナある鎌倉時代だった。日本でキリスト教に匹敵できるだけの信仰心の強さ≠発揮できる宗教は、この鎌倉時代に出来た宗教だけで、また日本の思想家≠フ多くも、この鎌倉時代の仏教に所属している。これは結構重要なことである。
日本人に一番必要なことは、自分の頭でものを考えられるようになること≠ナある。にもかかわらず、自分の頭でものを考えようとすると、いつの間にかふっと宗教が忍び寄って来てしまうことがある。それがなぜかと言えば、個人の救済≠ニか個人の内面に語りかける≠ニいうことに関する思想が、日本の場合、ほとんどが鎌倉時代の宗教関係者によって考え出された思想だからである。だから、すぐに『歎異抄』とか『教行信証』とか『正法眼蔵』とかに行ってしまう。『聖書』と『歎異抄』の間を行ったり来たりする、とか。
自分の頭でものを考えると、当然のことながら、孤独≠ニいうものがやって来る。そうなると、日本人の多くはすぐに心細くなって、「この心細い自分をなんとかしてもらいたい」ということになって、救済≠フ方へ行ってしまう。「自分の頭でものを考えて、それで孤独になるのなんか当たり前のことじゃないか。自分の頭でものを考える≠ニいうことは、一人で考える≠ニいうことなんだから」という、いたって単純な発想がないからそういうことになるのだが、なんでそういう単純な発想がないのかということになったら、自分の頭でものを考える≠ニいうことに、日本人が慣れていないだけだろう。
室町時代には、「紫式部は地獄に落ちた」という言い伝えがあった。「『源氏物語』というフィクションを書いた紫式部は、狂言綺語《きようげんきぎよ》という嘘≠弄して多くの人を騙したから、それで地獄へ落ちたのだ」という説である。つまり、自分の独創的な意見を言っただけで罰を受ける≠フである。他人の言うこととは関係なく、自分の意見を持って自分だけの世界≠ノ閉じこもれば、当然孤独が待っている。それだけで当人は心細いのに、そこへ、「自分の意見≠ニいうネもハもない嘘をついて人を騙した」という攻撃≠ェやって来るんだから、自分の頭でものを考える人間にとっちゃ、たまったもんじゃない。そういう前提だってあった国なのである――この国は。
日本人は孤独に弱い。ものを考える人間は特に。だから、自分の頭でものを考える≠ヘ、すぐに救済を求める≠ノ行ってしまう。自分の頭で結論を出す≠ュらいの我慢をすりゃいいのに、そういうことになる。それというのも、個に関する思想≠ェ鎌倉時代の人間の内面に語りかける宗教=個人を救済する宗教≠フレベルを、一歩も出ていないからである。
私もとっても大胆なことを言うが、日本人は、「理屈であれこれ考える」ということに弱くて、「信じれば救われる」という方を選ぶ。これこそが日本の思想史の特徴であって、この特徴は、「日本の思想がまだ鎌倉仏教の影響力を十分に払拭していない」というところから生まれているはずなのだが、そういうことはまだあんまり言われていないような気がする。
ともあれ、鎌倉時代の宗教は個人の内面に語りかける宗教≠ナ、それが目的としたものは、個人の救済≠ナある。鎌倉時代に登場した一向宗は、当然そういうものだった。がしかし、この一向宗の勢力は、織田信長と衝突して滅ぼされてしまう。一向一揆は織田信長によって殲滅されるのだが、しかし織田信長に滅ぼされたこの宗教は、別に社会を維持する古代の宗教≠ナはなかった。織田信長対一向一揆は、新興勢力対古代社会≠フ対立ではなかったのだ。一向宗は、個人の内面に語りかける宗教≠ナ、だからこそ、「自分達のために戦う」という一揆勢力にもなった。織田信長の滅ぼしたもの、織田信長が「こわくない!」と言った宗教は、だから、社会を維持する古代の宗教≠ナはなくて、個人の内面に語りかける古代からの宗教≠セったのだ。
織田信長がそういうものを滅ぼして、日本は暗黒の専制政治の時代≠ノなっただろうか?
どうもそうではない。
織田信長が宗教勢力と対立して勝って、それを一つの要素として、日本の近世という平和な人間の時代≠ェやって来る。どうあったって、「織田信長が個人の内面に語りかける宗教≠滅ぼしてしまったから、その後の日本は暗黒になった」ではないだろう。「救済を求める個人の群(=宗教勢力)が滅ぼされて、それでかえって社会には平和が訪れた」というパラドックスがある。だから、日本ではもう個人の救済≠ネどということが叫ばれなくなってしまった。だから、その後の日本史は個人の位置づけ≠ナ悩むことになるのだ。皮肉≠ニいうのは、こういうものである。
織田信長は、宗教的には暗黒の魔王≠セろう。しかし、織田信長のいた時点は、歴史的に見れば、個人の救済に関する解釈が変化するターニング・ポイント≠セったのだ。つまり、「世の中から、個々人が勝手に救済を求める≠ニいうことがなくなってしまったら、個人の救済を目的とする宗教≠セって、存在価値がなくなってしまうだろう」ということである。
個人の内面に語りかける宗教≠ヘ、救済を求める個人≠ェ存在した時代に成長した。そしてこの系列の宗教には、「個人が救済を求めなくなったらその存在理由が危うくなる」という必然性がある。つまり、社会が暗く閉鎖的であれば、そこで見捨てられた個人は、救済≠ニいう抽象的なものを求めるけれども、その社会が明るく開放的になってしまえば、もう人間達は見捨てられた個≠ニいうものになる必要はない。救済≠ネどという抽象的なものを求める必要もなくなって、「自分達の生活を豊かにする方向で働けばいい」ということにしかならないのである。
織田信長が一向一揆や比叡山の天台宗と戦った時代は、そういう方向に社会が動く転換の時代≠セった。そして、実力主義者の織田信長以来、世の中というものは、そういうものに変わってしまったのである。それだからこそ、個の救済≠考える宗教は、徳川幕府の考案した檀家制度というものによって、世俗体制の中に組み込まれてしまったのである。
世の中が平和でおだやかになってしまったら、もうこの人間社会を超えて存在する、宗教による救済≠ネどというものは必要がない。織田信長以来の、個人が実力によって社会を維持する≠ニいう体制が出来上がってしまったら、「その社会の不安定さによって、個人は救済を求めざるをえなくなる」という一項は、不必要になってしまう。つまり、将軍様を頂点とする徳川幕府の世俗の人間関係による支配体制≠ェ完成した時、個人の内面に語りかける宗教≠焉Aまた無効になってしまったということである。
そして平和が続く。そこには、やはりなにか≠ェ抜け落ちている。だからこそ、その後の近代≠ニいう時代になって、自分の頭でものを考えようとした時、青年達は孤独≠ノ直面しなければならなくなる。そして、その孤独に堪えられない≠ニいう弱点を露呈することになる。
なぜか?
それは、世の中が平和だからである。もう世の中に、救済を求める必要≠ェないからである。個人の内面に語りかける宗教≠無効にしてしまった段階で、世の中からは個人が救済を求める必要性≠ニいうものがぬけ落ちてしまった。だから、世の中の人々は、自分の頭でものを考える≠ニいうことをしなくなる。自分の頭でものを考えて、外の社会とずれたところへ行ってしまったら、困るからである。日本の社会はそういう段階になっていて、そしてそこに、自分の頭でものを考える≠ニいうことが必要とされる、基本的人権の、四民平等の、責任ある市民達の作る、近代≠ニいう段階がやって来る。
世間の人間は、既に出来上がった社会≠ニいうものの要請にこたえることだけはうまくなっている。がしかし、その世間の人間達は、自分の頭でものを考える≠ニいうことに慣れていない。だから、世間の人間は、あまり自分の頭でものを考える≠ニいうことをしない。今まで通りの社会の行き方≠ノ従っていれば、「まァなんとかなる」と思っている。ところがしかし、年寄り連中は今まで通りの社会の行き方≠知っちゃいるが、若いやつは、そんなことを知らないという点で若い=\―だからしようがない、なんでも自分の頭で考える≠ニいうことをやって、しかもその若いやつのいるところは、そのそれぞれの個が互いの調整をする≠ニいうことが必要とされる近代≠ニいうところなのだ。
若いやつは自分の頭でものを考えようとするが、そんな若いやつを取り巻く既成現実の方は、自分の頭でものなんか考えない。自分の頭でものを考えない人間に取り巻かれて、若いやつは孤独≠フ中に落っこちる。世間が自分の頭でものを考えることの孤独≠知らないのだから、若いやつは、当然のこととして、そんな孤独に堪えられない[#「堪えられない」に傍点]。
孤独になった青年がアップアップしてオウム真理教にたどりつくのは、もう少しのことである。
もう一度、私の結論を繰り返せば、≪日本が近代を迎えるにあたって必要だったのは、自分の頭でものを考えられるようになること≠セった。それこそが個人の内面に語りかけられるべきこと≠ナ、制度社会との調和から離れてそういうことをするのに慣れていない日本人達は、その内面に対する語りかけ≠宗教≠ニ錯覚した≫ということである。宗教≠フ話になって、いくら「もう宗教は無効だ」という話をしても、「しかしそうじゃないだろう? そういう結論に落ち着くには、まだなにか≠ェ抜けているような気がする」ということになるのは、そう考える人間が、「求める方向は宗教の方向≠ネんじゃないか……?」と、勝手な勘違いをしているからである。だからこそ、とんでもない大錯覚が生まれる。私なんか、いい迷惑だ。
たとえば、読者に対して踏み込んだ語り方[#「踏み込んだ語り方」に傍点]なんかをしてしまうと、それだけで、「なんだか宗教みたいだ」と言われてしまう。私なんか、いつもそれでケゲンな目を向けられている。ホントにいい迷惑だ。「もう少し人に語る≠ニいうことの内実を問題にすりゃいいものを」と思ってしまう。
つまり、宗教にその力があるかないかを別として、日本人は、内面に語りかけること≠、勝手に宗教≠セと誤解しているのである。「宗教はもうとうの昔に無効になっている」ということをきちんと考えないものだから、惰性で、「そこを扱うのは、やっぱり宗教≠ネんだろうな……」と考えているのである。だから、自分のこと≠考えようとした若いやつは、平気で間違って、宗教≠フ方へ行ってしまうのである。
近代以後の日本人に必要なことは、自分の頭でものを考えられるようになること≠ナ、「自分の頭でものを考えなさい」と命令する宗教を信仰すること[#「信仰すること」に傍点]≠ナはないのである。今は鎌倉時代≠カゃないんだから。
宗教に関する、とんでもない錯覚がある。それが、所詮古代の思想≠ナしかない宗教への過大評価を生んで、つまらない自称の宗教≠のさばらせるのだ。すべての古くからある宗教≠ヘ、みんな大昔に生まれた古代人の思想≠ネのだ。そういうことを考えて、その思想を採用するならするで、もうちょっと取捨選択をしっかりした方がいい。「宗教という阿片の中から薬効成分をちゃんと抽出した」という点において、檀家制度を作った徳川幕府の方が、ずーっと現代の我々より、迷信深くないのだ。大錯覚≠ニいうのは、これにつきる。
14 既にして宗教は、おだやかな日常≠ナある[#「14 既にして宗教は、おだやかな日常≠ナある」はゴシック体]
織田信長以来、宗教をこわがらなくなった日本人は、信仰とは別にある世俗の世界≠ナ、独自の信仰体系を作った。支配者に対する忠誠≠ノ代表される、個人崇拝である。これは、最後のism(=宗教)であるマルクス主義の個人崇拝まで続く。マルクス主義は個人崇拝を禁止しているが、しかしこれは実際上、自分達のリーダー以外の個人崇拝を禁止する≠ナある。個人崇拝を否定したら、日本の組織は動かなくなってしまう。今でもどこかに残っている田中角栄信仰≠ヘ、どうやらそのことを、裏側から証明しているだろう。
そして、この個人崇拝≠ヘ、崇拝する側の人間に、自分の頭でものを考える≠ニいうことを禁じるものである。なぜならば、自分の頭でものを考え始めたら、「なんであんなオヤジを崇めなきゃなんないんだ?」ということになってしまう。つまり、織田信長以来続いている宗教をこわがらない日本の社会≠ニは、会社国家日本≠ナあるためのすべてを備えた社会なのである。だから、この日本は、とっても不思議な形で、恒常的なファシズム状態にある。
以前の話を蒸し返して、再びマルクス主義とそれを嫌うオジサン達の対立構造の話≠ナある――。
かつて、マルクス主義を弾圧する国家の側は、国家神道≠ニいう宗教イデオロギーに拠っていた。国家神道とマルクス主義は、教祖≠戴くイデオロギーであることに関しては同じものなのだけれども、国家神道の側は、自分達に敵対し反抗するマルクス主義を、「自分達と同じ質を持つもの」だとは到底認識出来なかった。これは、「対立する二つの宗教が、相手を自分達と同じような宗教≠ニは絶対に認めない」というのと同じである。なにしろ相手は異教≠ネのだ。それだからこそ、この二つの宗教は対立する。対立する≠ニいうことは、互いに相手を「自分達とは違う!」と決めつけることでもある。
だから、国家神道は、「自分達は崇高な宗教=Aやつらは神をも恐れぬ政治犯=vという処理をしたのだ。この対立関係は、戦後になっても変わってはいない。国家神道の滅んだ戦後は、「我々は自由主義&民主主義、やつら(=共産主義者)は、その転覆を狙う政治犯」という構図だ。
この戦前と戦後の二つの対立構図で、変わっていないものはなにか? それは、「自分達とやつらは、絶対に違う」という、マルクス主義を敵対視する既成現実≠フ側の差異の強調≠セ。
マルクス主義を「アカだ」と言って排斥する人間達は、自分達のことを体制に刃向かわない敬虔な人間≠セと思う。敬虔≠フ根拠は、初日の出に手を合わせることかもしれないし、毎朝自分の家の前を掃除することかもしれないし、葬式で厳粛な顔をすることかもしれない。どっちにしろ、既に出来上がった日本的現実≠フ中にいる人間達は、「もう宗教は現実の中に吸収された」と思っている。つまり、日本人にとって、現実に根を下ろして生活している≠ニいうことは、既にして完成された宗教的現実の中にいる≠ニいうことと同じことなのだ。だから、国家神道はなくなっても、日本人が真面目で敬虔な日本人≠ナあろうとすれば、そこに宗教の色がからんでくるのは否定出来ない。そして、その宗教の色≠発見することは、ほとんど不可能に近い。なにしろ、現実に吸収されて、現実をしっかり現実として機能させている日本的な一体感の宗教≠ニは、宗教としての機能を失ってしまった宗教≠ネのだから。
だから、マルクス主義に代表される、自分達とは異質な思想集団に対峙する時、真面目な日本人は、「自分はそんないかがわしい思想に染まらない人間だ、なぜならば――」と、無意識的に自分の中の宗教≠探す。それがあれば、よその思想――宗教や主義といったismと、関係を持たなくてすむからだ。もっと簡単に言ってしまえば、「毎朝仏壇や神棚に手を合わせるオヤジは、自分のその態度とマルクス主義者の思想に対する忠誠心が、同じものだとは思えないだろう」ということである。「毎日ちゃんと会社に通う会社人間には、オウム真理教がやっぱりおんなじように会社≠ナあるということが理解できないだろう」ということである。
なにしろ、「自分達はやつらと違う」のであるから。一体感を誇る会社日本の宗教日本教≠フ最大の教理は、「自分達はやつらと違う、やつらは自分達と違う」なのであるから。
日本人は、真面目になろうとすると、無意識の内に自分の中に宗教≠探してしまう。だから、そんな日本人は、自分達とは異質な相手が宗教≠振りかざしたら、なにも言えなくなってしまう。違う≠ニ思っていた相手が、実は自分と同じもの≠持っていたら、もうその違い≠攻撃の論拠には出来ない。だから、「宗教団体を政治団体と同列に扱っていいのか?」などという寝ぼけた議論が起こったりもするのだが、しかし、うっかり真面目になろうとする時に日本人が自分の中に発見してしまうものは、実のところ、宗教≠ナはないのである。それは、「自分は当たり前の日本人だ」という、日本人としての一体感≠ネのである。それを宗教≠セと錯覚してしまうのだから、日本人は相当に宗教に弱い。がしかし、もしかしたら、そんな日本人は、最高に洗練された宗教の信者≠ネのかもしれない。
まァ、どうでもいいことだが、以上が「日本人のしでかしている宗教に関する錯覚」のほとんどすべて≠ナあろう。
日本人は宗教を無効にして、それだから「宗教は分からない」と言い、そのくせしかも、究極の宗教社会を作っている。だからこそ、自分の頭でものを考えようとした人間達≠ヘ、そこからケゲンな目を向けられて、排除されてしまうのである。昭和≠ニいう日本のismがまだ生きていた頃までは――。
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第W章 ずるい子供とずさんな大人[#「第W章 ずるい子供とずさんな大人」はゴシック体]
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15 宗教を考えることは、ギャップの存在を頭に入れることである[#「15 宗教を考えることは、ギャップの存在を頭に入れることである」はゴシック体]
理論上、私にはオウム真理教の教義≠熈真理≠熾ェからない。オウム真理教ばかりではない、私には、理論上、すべての宗教の教義や教理を正確に分かることが出来ない[#「出来ない」に傍点]。なぜならば、私はいかなる宗教の信者でもなく、そして宗教とは、「信者以外の人間に、その宗教の教義や教理や真理を理解した≠ニ言わせることを拒否出来るもの」だからである。
別の言い方をすれば、すべての宗教には、信者以外の人間の宗教理解を、「あなたの理解は間違っている」と言う権利がある≠ニいうことである。これをもうちょっと婉曲に表現すれば、すべての宗教は、信者以外の人間がその宗教を正しく理解した時、「それだけお分かりなのに、どうしてあなたはこの宗教を信仰しようとはなさらないのですか?」と言う権利がある≠ニいうことだ。宗教における宗教の理解≠ニは、そのまま信者になること≠ネのだから、信者になる気もないのにその宗教を理解しようとする≠ニいうのは、間違っていること≠ナあるし、理解なんか出来るはずがないこと≠ネのだ。
今では、そんなに面倒なことを、宗教の方でも言わないだろう。なにしろ、「宗教思想の研究のために、この宗教を知りたい」という言い方だってあるのだから。
ある宗教から、その宗教に固有の思想≠抽出することが、宗教思想の研究≠セ。そして、現在では、これはほとんど当たり前のように許されている。しかし、「信仰の中に入らないのに信仰が分かる」などということは、昔の宗教者だったら絶対に許さなかっただろう。それはほとんど、神を冒涜すること≠ネのだから。「研究したけりゃすればいい。あいつはまだなんにも分かっちゃいないんだ。あいつがちゃんと研究すれば、あいつは必ず信者になる」――これが、まだ宗教というものが世俗の上に力を持って生きていた時代の発想だろう。今の時代にこんな発想をしたのは、きっと麻原彰晃ぐらいだろうけど(信者にならなかったら注射≠オちゃうんだから)――。
宗教とは、思想行為でもある。だから、宗教思想≠ニいう言葉もある。そして、そうなった瞬間、宗教は、宗教であらねばならないような特別な意味≠失う。思想行為に必要なのは神≠ナはなくて、人間の頭≠セからだ。そしてそうなった時、「どうして大昔の人間は、自分の頭でものを考えようとする時に、神≠ネどというものを必要とし、存在させたのだろうか?」という謎≠熕カまれる。この謎を解こうとする行為が、宗教思想の研究≠セ。私にはそのようにしか考えられないし、大筋でこの考えに反対する人間はいないだろう。だから、それを宗教思想≠ニ呼ぶ外部の声≠ェ存在してしまった時、宗教はかつて宗教であった時に持っていた実質≠失ったのだ。今や宗教は、「それがあれば心が慰められる」という人達に働きかけるものになった。
だから、昔の宗教は頭≠セが、今の宗教は心≠ネのだ。「宗教は心の問題だ」というのが、今の時代の一番穏健な宗教理解なのかもしれないが、それは、「現代人が自分の心の問題=孤独≠考える時、昔の人間の宗教を信仰する≠ニいう態度が参考になる」ということだ。なにも、昔の宗教を信じた人間が、自分の頭でものを考えることを放棄していたわけではない。考えたからこそ信仰に入る≠ニか信仰を受け入れる≠ニいうことが出来たのだ。
だからこそ、そういう昔の人間のことを、今の目で考える≠ニいうことも出来る。信仰なんかしていなくても、その宗教を「分かる」ということは出来る。そして、宗教の側は、それを「間違っている」ということも出来るし、「うーん……」と絶句することも出来る。つまり、「現代に宗教を存在させてものを考える」ということは、そういうギャップの存在を考えなければならないということなのである。
宗教に関する信仰の内と外とのギャップ≠ニはそういうものだ。そういうギャップがあって、そしてその次には、「かつて宗教というものが存在していた」ということにまつわる、もう一つのギャップが問題となる――。
16 大人と子供は、大人の側から見れば「対立しない」が、子供の側から見れば「対立する」[#「16 大人と子供は、大人の側から見れば「対立しない」が、子供の側から見れば「対立する」」はゴシック体]
さて、この日本には隠れた対立≠ェある。世の中と一体化して自分の頭でものを考えなくなっている大人がいて、そういうものがいるから、当然のことながら、自分の頭でものを考えようとして孤独に陥ってしまう子供もいる。こういう風にして大人≠ニ子供≠ェいれば、簡単に対立≠ニいうものも生まれてしまうだろう。
がしかし、困ったことに、そういう対立≠ェ生まれると同時に、そういう対立≠フ存在をまったく理解しない人間もいる。理論上は、「対立がある」という人間と、「そんなもんがあるの?」と首をひねる人間の数は、フィフティ・フィフティになる。だからこそ、「この日本には対立≠ェある」ではなくて、「この日本には隠れた対立≠ェある」になるのだ。ギャップ≠ェある以上、話は必ずややこしくなる。
なにしろ、世の中と一体化してしまった大人は、自分の頭でものを考えない[#「自分の頭でものを考えない」に傍点]のだ。考えないだけで、別にこういう大人達が「自分の頭でものを考えてはいけない」と言っているわけではない。自分の頭でものを考えない人間≠ニ自分の頭でものを考える人間≠フ二種類がいて、そこに「自分の頭でものを考えてはいけない」というタブーがあれば、容易にそこに対立は生まれるだろうが、この日本はそういう国ではないのだ。
宗教(ism)が一切を支配している社会では、自分の頭でものを考える≠ニいうことは、副次的なことである。必要なのは、まず唯一の正しい教え≠ナあるはずのその社会を支配する宗教(ism)≠、信じること[#「信じること」に傍点]なのだから。
宗教(ism)が一切を支配している社会≠ノは、理論上、その教えを信じる人間≠ニその教えを信じない人間≠フ二種類がいる。そして、その教えを信じない人間≠ヘ、イコール自分の頭でものを考える人間≠ナはない。その教えを信じない人間≠フ中には、一切の宗教(ism)を信じないで自分の頭でものを考えようとする人間≠ニ、その宗教[#「その宗教」に傍点](ism)の教え[#「の教え」に傍点]ではない別の宗教(ism)の教えを信じる人間≠フ両方がいるからだ。
たとえば、キリスト教にism≠フ語を与えない欧米社会には、「自分はキリスト教徒でいい」と思っている大多数の人間がいる。「宗教なんかバカらしい」と思っている少数の人間もいる。「キリスト教はいやだ、別の宗教がいい」と思っている少数の人間もいる。これらはみんな大人≠ナ、だからこそ、ここには対立≠セってちゃんと生まれるし、その対立≠ちゃんと認めた上での和解≠セって生まれる。オウム真理教事件がアメリカで起こっていたら、必ずやド派手な銃撃戦になっていたのは間違いないが、それはアメリカが、大人同士で宗教に関する対立や和解≠演じてしまう国だからである。
ところが日本は違う。日本には支配的な宗教がないし、「自分の頭でものを考えてはいけない」というタブーもない。別に、アメリカやヨーロッパに「自分の頭でものを考えてはいけない」というタブーがあるというわけではない。それを言うなら、アメリカやヨーロッパは、原則として「自分の頭でものを考えなければいけない[#「いけない」に傍点]」だ。だから、信仰を持つ・持っている≠ニいうのなら、それは必ず、「自分の頭で考えて、この信仰を選び取った」という形になる。ところが日本は、「自分の頭でものを考えてもいい[#「いい」に傍点]」なのだ。そこに、「別に今時そんなことでクレームをつけてもしようがないし……」という保留≠ェついたりもする。
日本は、原則として、「自分の頭でものを考えなくてもすんでいる」という国だから、「自分の頭でものを考えるのも自由」だし、「自分の頭でものを考えないのも自由」なのだ。つまり、この国では考える≠ニいうことに関しての対立が、原則として起こらない[#「起こらない」に傍点]。起こるとしたら、対立≠ナはなく、排除≠ェ起こる――「あいつはものを考えられないバカだから仲間はずれにしよう」とか、「あいつはヘンなことを考えている気持悪いやつだから仲間はずれにしよう」とか。
日本では、対立≠ェ起こらなくて排除≠ェ起こる。そして日本では、必ず、「思想的に似たような人達の間だけで対立≠ェ起こる。表面はおだやかで、しかしその内部では激しい対立がある。派閥≠ニか内ゲバ≠ェあって、それが絶対に外には漏れないようになっている。
対立≠ニいうのは、その対立を成り立たせるための共通の地盤≠ニいうのが必要だから、日本では、同じ土俵に上がれるような人間の間でしか、対立は起こらないのだ。違う人間の思想≠ネんか分からないから、日本の論争はすれ違い≠ゥ仲間内のもの≠ノしかならない。日本人は、対立するかわりに、仲間はずれにする。そこで、自分の頭でものを考えない大人≠ニ、自分の頭でものを考えようとする子供≠フ間にある隠された対立≠ェ問題になる。
大人は、「自分の頭で考えたければ、自分の頭で考えればいい」と言う。がしかし、そう言う大人は、自分の頭でものを考えたことがないのだから(そういう必要がなかったのだから)、「自分の頭でものを考えたい」と思う子供に、「自分の頭でものを考えるということはこういうこと[#「こういうこと」に傍点]だ」と教えることが出来ない。そのかわりに、「そんなことはお前の自由だ」と言う。それは、「そういうヘンなことを選択したいのならすればいい、それはお前の自由だ」と言うこととおんなじで、そんな言い方をされれば、「あらかじめヘンなもの≠ニいう色がつけられた選択肢を選ぶ」ということにしかならない。だから、子供が「自分の頭でものを考える」という選択肢を選んでしまうと、「世の中に背を向けて、わざわざヘンなものを選んでしまったやつ」ということになって、公然たるというか隠然たるというか(どっちにしろ日本では同じことだが)、放逐の対象にしかならない。そういう構造が、実は日本の近代という時代の中に、幾層にも重なって存在している。幾層にも重なって存在していた大人と子供の間のギャップは、いつか対立≠ニなり、いつの間にか成り立たない対立≠ニなり、さらには「当人の自由なんだから知らない」という、対立の解消≠ノなる。
この「対立≠ェ成長して、やがては対立の解消≠ヨと進む」というのは、なんだか逆のような気がするが、しかし逆ではない。
日本では、その近代のはじめにおいて、子供は親の所有物だった。親≠ヘ、家≠ニいうものを構成するために存在していて、子≠ヘその家を継ぐために存在していた。子供は親の後継者で、子がまだ後継者候補≠ナある段階では、子は親に従わなければならない――これが前近代の社会システムで、日本の近代はこの上にのっかっている。だから、親が健在の間に子供が自己≠主張すると、「まだ一人前でもないくせに生意気だ」ということになって、対立≠ェ生まれる。子は子供≠フまま自己主張が出来ないのだから、それが自己主張をしてしまえば、その瞬間から大人≠フ扱いをされる。つまり、「子供のくせに分不相応な大人≠主張するとは生意気だ」になって、大人≠ニしての戦いを挑まれる。それ以前に、対立の土俵は大人の側≠ノしかなかったから、自己を主張した子供は、大人≠ニしての扱いを受けて戦わされるしかなかったのだ。
だからどういうことになるのかというと、「日本の近代における青年達の主張≠ニいうものがどれほど若く未熟なものだったかという検討がされないまま、近代は壁にぶつかった≠ニ言われる」ということになる。日本近代の思想も文学も主義運動も、実はとっても未熟なもんでしかないのだが、「それを主張する以上、扱いは大人=vということになっていたのだから、可哀想に、背伸びした子供の背伸び≠ヘ、見えなくなっているのだ。
対立は、同じ土俵の上でしか成り立たない。だから、日本の大人≠ェ曖昧になれば、この土俵の存在も曖昧になる。かつては「分不相応にも一人前を主張する」という形で嫌悪されたものが、いつの間にか、「そう主張するのも自由だから――」というなしくずしの譲歩に変わる。日本の大人の物分かりがよくなったのではなくて、かつては明確だった日本の大人≠ニいうものの輪郭が曖昧になっただけだ。だから、もう日本の子供は、大人と対立させてもらえない[#「対立させてもらえない」に傍点]。だから、対立は隠されたままで、成り立たない[#「成り立たない」に傍点]。
成り立たなければ成り立たないでもよいのだ。それは、「なんだ、誰にも邪魔されないで、自分の頭でものを考えて、自分の生きて行く世の中を作って行けばいいのだ」ということになるのだから。がしかし、どうもそういう具合には、すんなりと行かない。
すんなりと行かない理由には、「子供の方に、そうか、さっさと成長して行けばいいのか≠ニいう発想がなかなか生まれない」というのと、「大人の方に、こっちを置いてかないでくれ≠ニいうさもしさがある」というのの二つがあるからなんだが、とりあえず今のところは、そんなことはどうでもいい。問題は、「やはり今でも、大人と子供の間に隠された対立≠ェある」ということだ。もしかしたらこれは、ますますある[#「ある」に傍点]≠ゥもしれない。
大人は、子供に対して「勝手に自分の頭で考えろ」と言う。「もうこっちにはお前のことなんか分からないんだから、お前はお前の自由にすればいい」と言う。「そのかわり、こっちに迷惑かけるなよ」とつけたして。
さて、そういうことを大人から言われて、それで素直に「うん」と喜べる子供がどれだけいるだろうか? 多くの子供は、こう言われりゃ、ブーッと膨れる。なんで膨れるのかと言えば、それは子供が、「なんて愛情のない言い方なんだ」と思うからだ。
ここから、大人と子供の対立≠ノ、愛情≠ニいう厄介な要素がからんでくる。
宗教には、愛情≠ニいう要素を欠かすことは出来ない。オウム真理教事件は宗教の事件≠ナ、これは当然大人と子供の対立に関する事件≠ナもあるのだが、不思議なことに、愛情≠ニいう要素が語られることがあまりにも少ない。これが語られる時は、必ず事件の背後のセックス=いかがわしい教団の性の乱れ≠ニいうことになってしまう。愛情≠ノ近いところでは、「なんでこんなことになったんだろう?――みんな教育≠ェ悪いんだ」論がある。これは、「人に迷惑をかけるなんてシツケがなってない」とおんなじことで、当然のことながら、問題にされる教育≠ゥら愛情≠ニいう要素は抜け落ちている。なにしろこれは、「犬を飼うんだったらつないで飼え! なんで国はそのことを飼い主に徹底させないんだ!」と同じ論だからである。相手は人間の子供≠セっていうのにさ。
そして当然のことながら、「今の教育には愛情がたりないんだ」という言い方をする人間は、愛情に飢えているはずの子供から、かえって逆に毛嫌い≠ネんかされてしまったりもする。「なぜか?」は後のことで、今のところの結論はこうだ――。
≪愛情に関するギャップ≠ニいう重大な問題が隠されているからこそ、議論は不毛になって、ややこしくなる≫
17 愛情に関する一章――残念ながら、これは私の独擅場だ[#「17 愛情に関する一章――残念ながら、これは私の独擅場だ」はゴシック体]
人間の大人と子供の間に対立があって、その対立が隠されている≠フなら、話はいたって簡単だ。世の中と一体化して自分の頭でものを考えなくなってしまった大人≠ェ、自分の頭でものを考えようとして孤独に陥ってしまった子供≠、愛そうとしないから[#「愛そうとしないから」に傍点]だ。
なにしろ、子供は孤独に陥っている≠だから、当然のごとく愛情に飢えている=B愛情に飢えている人間≠ェ一方にいて、もう一方にそれに知らん顔をしている人間≠ェいれば、一方が他方を恨むのは当たり前だ。そしてそれが、大人≠ニ子供≠ナあるのなら、なおのことだ。
≪大人と子供は、大人の側から見れば「対立しない」が、子供の側から見れば「対立する」≫というのは、当然のことである。愛情に関するギャップ≠ヘ、この≪≫の中にすべて収まっていると言ってもいいだろう。
まず、この対立は、大人[#「大人」に傍点]と子供≠ナあって、親[#「親」に傍点]と子供≠ナはないということ。
次に、ここには愛情≠ニいう言葉が登場しないこと。≪大人と子供は、大人の側から見れば「対立しない」が、子供の側から見れば「対立する」≫の中には、対立≠ニいう言葉だけあって、愛情≠ニいう言葉がない。ギャップ≠ニいうのは、発見するまでが大変で、発見してしまえば、その後はなんとかするだけ[#「なんとかするだけ」に傍点]のもんなのだが、発見が大変で、しかもごテーネーに隠されている≠ニいう点で、これは正真正銘の、愛情に関するギャップ≠ネのだ。愛情≠ニいうものが、これまた、そういうもん[#「そういうもん」に傍点]だったりもする。
世間に、「親は[#「親は」に傍点]子供を愛さなければならない」という常識はあっても、「大人[#「大人」に傍点]は子供を愛さなければならない」は、あんまりない。こういうことになると、必ず、「なんで他人の子を愛さなくちゃならない?」になる。日本では、いつの間にか「世の中が子供を育てる」という発想がなくなってしまったので、「他人の子供を叱ろう」という運動だって生まれる。こういう運動≠ェ生まれるということは、愛する∴ネ前に、関わりを持つ≠ニいうことが欠落していることなのだが、困ったもんだ。こんなことまで言われなきゃなんない。「大人は子供を愛さなければならない」は、もちろん、「世の中は子供を育てなければならない」で、この育てる≠ニは、もちろん、一人前になれるようにする≠ニいうことなのだ。
そういう「大人と子供の愛情に関する認識不足」というギャップがある一方、子供≠ニいうことに関して言えば、「見てくれがどうあっても子供じゃない」という、子供に関する認識のギャップ≠セってある。
「自分はもう大人≠セ」と主張したい子供は、その証拠≠見せたがっている。その証拠≠ヘ、「もう子供じゃないんだから、愛情≠ネんてちゃんちゃらおかしいぜ」だったりもする。そして、そういう子供≠ェ、なんで「もう子供じゃない」ということを言いたがるのかというと、「子供をやっててもちっともいいことがないから」だ。つまり、「大人の要求を押しつけられるだけで、愛情というものを一向に与えられていない」ということが、今の子供達にはある――「今のまだ子供でいるような人間達≠フ過去に」と言うべきかもしれないが。
つまり、愛情≠必要とする子供ほど愛情の必要≠隠す。だから、「愛情がないからつまんない、つらい」という当事者の言葉≠謔閨A「大人と子供の間に対立がある」という、第三者の言葉≠選ぶ。オウム真理教の事件であれこれの論≠ェあって、そこに愛情≠ニいう言葉がほとんど登場しないのは、そのためだろう。それが出て来たらおしまいだ。正体がバレてしまう。
私は、愛情≠ニいうものにピンとこない人間が宗教に入るんだと、勝手に思っている。だから当然、「私のところはあんな事件なんか起こさない、私のところにはちゃんと愛情≠ェある」と言いたがる、他の宗教教団はいくらでもあるだろうなと、私は思う。問題は、「そこにしか愛情という抽象的なもの≠ェない」ことかもしれないじゃないか。
愛情≠ニ言えば話は簡単みたいだが、愛情にだって、いくつもの局面≠ェある(段階≠ゥもしれないが)。
人間関係における愛情≠、濃度≠ノよって分けると、「別に愛情があるわけじゃないけど、関わりがある」というのと、「そこから仲がいい≠ニいう親密な状態が生まれている」というのと、「特に濃厚な愛し合っている≠ニいう状態になっている」というのとの三段階がある。愛情≠言うと、必ずこの一番最後のものをさしてしまったりして、まず一番最初の「ただの人間関係がある」と言うのが、どっかに行ってしまう。恋愛関係≠ニいうものを経験したことがない人間ほど、いきなり一番最後の濃厚≠ノ行ってしまうものだ。
一番最初のただの人間関係≠経験しない人間が、いきなり一番最後の濃厚な愛情≠求めると、「見知らぬ男に待ち伏せされる女の恐怖」というものになる。この男≠ニ女≠ヘ、いつでも容易にひっくりかえる。だから当然、「見知らぬ男に待ち伏せされる男の恐怖」だってある。基本的な人間関係を知らないでいきなり濃厚な愛情≠ノ行ってしまえば、こういうことは簡単に起こる。そして、こういうことは、いたって簡単に起こっているのだ。(こっそり白状するが、私は実のところ、それでとっても困っていた)
昔は、この愛情の三段階のその上に、最も崇高なる神の愛・神への愛≠ニいうものがあったのだろうが、今の目で見ると、これは、「三番目の愛情を知らない人間がいきなりすっ飛んで行ったスットンキョー」のようなものだ。気にさわったらゴメンなさい。
今の日本人――特に自分の頭でものを考えざるをえなくなってしまった人間[#「自分の頭でものを考えざるをえなくなってしまった人間」に傍点]は、この愛情の三段階≠、まったく理解していない。(だから、勝手に四段階目≠想定してしまうのかもしれない)
自分の頭でものを考えざるをえなくなる≠ニいうのは、実のところ、ひとりぼっちになってしまった≠ニいうことである。だからしようがない、自分の頭でものを考えざるをえなくなる[#「自分の頭でものを考えざるをえなくなる」に傍点]。しかも日本では、これがいきなり来る[#「いきなり来る」に傍点]らしい。なにしろ日本という国は、原則として、自分の頭でものを考えなくてもいい≠ニいうことになっていた[#「なっていた」に傍点]ところだから、それが、「気がついたらいつの間にかそういう幸運状態がなくなっていた」になると、急にドッと来る[#「ドッと来る」に傍点]。気がついたらいきなり孤独≠ナ、気がついたらそれに対処する方法≠なんにも知らない。そこでパニックに陥って、いきなり最も濃厚な愛情≠求めることになってしまうのだろう。人間関係≠ニいう一番素朴な愛情からスタートさせて、コツコツ愛情≠ニいうものを蓄積させないと、こういう濃厚な愛情≠ノはたどりつけないことになっているはずなのだけれども、コツコツ貯める≠ニいうセコいことが嫌いな人間ほど一発勝負の大逆転≠狙うように、こちらも、いきなり濃厚な愛情≠ノなる。なって、「そんなことされる覚えなんか全然ない」と言う相手から、恐怖の悲鳴を上げられたりもする。
本当に、愛情に関して不器用な人間が多くなったから困る。愛情に関する知識や経験の欠落した人間≠ニ言うべきなのかもしれないが。
セックスの経験だけあって、愛情に関する経験が希薄な人間は、知らない間に、いきなり濃厚な愛情を一方的に求めて待ち伏せをする人間≠ノなってしまうのだけれども。
「愛情に飢えている」という自覚だけがあって、「愛情に飢えている」ということを認めるだけの勇気のない人間ほど、知らない間に最も濃厚な愛情≠求めてしまっているのだけれども。
ハタから見れば、「どうあったってアレは愛情に飢えている≠ニいうことでしかないのに」が簡単に分かるのに、しかし当人の側に愛情に関する知識≠ニいうものがすっぽり欠落してしまっているために、なんだか分からないまま濃厚な愛情と思われるもの≠フ中にすっぽりとはまり込んでいる人間もいる。
みんな、「こっちの勝手だろ」とは言うが、そういう人間の身近には、「勝手なら勝手でいいけど、それで本当に幸福なの?」と言ってくれる人間がいない。また、そういう人間がいたらいたで、そういう人間に対していきなり濃厚な愛情≠発揮してしまうもんだから、自分で自分の問題をこじれさせてばかりいる。本当に、愛情に関する常識の欠落≠ノも困ったもんだ。
さて、そういう愛情に関するギャップ≠烽って、そして話は相変わらず、宗教に関するギャップ≠ナある。
18 生産≠ノ関する二つの宗教[#「18 生産≠ノ関する二つの宗教」はゴシック体]
宗教には、二種類がある。それは当然のことながら、新興宗教≠ニ宗教(既成宗教)≠フ二つではない。すべての宗教は、本質的に新興宗教≠ナ、俗に新興宗教≠ニ呼ばれるものは、「国家が宗教によって保護される必要もなくなり、宗教も国家から保護されなくなった段階で登場する宗教のこと」だ。このことは既に言った。
宗教の二種類とは、全然別の考え方による。それは、生産を奨励する宗教≠ニ、別に生産を奨励しない宗教≠フ二つである――こう分けるのが正しいと思う。
当然のことながら、この二つの宗教は、社会を維持する宗教≠ニ、個人の内面に語りかける宗教≠ノ対応する。不思議なもんだが、「社会を維持する宗教は、生産を奨励する」のである。「個人の内面に語りかける宗教は、別に生産を奨励しない」のである。これはなにも、「個人の心の問題」が叫ばれて、「円高による生産の空洞化」が叫ばれる現代になってからのことではなくて、大昔からのことなのである。大昔から、宗教はそういう区分によって成り立っていて、そのことによって、この二つの宗教は、互いに対立をしたり、融合をしていたりするもんなのである。
たとえば、日本の仏教は「五穀豊饒《ごこくほうじよう》」の儀式をやるだろうか? 土着の民間信仰と一体化して、それをやるようになったところもあるかもしれない。がしかし、日本で「五穀豊饒」を祈るのなら、神道=神社の役割である。だから、神社には、「豊年満作」を祝う秋祭がある。新しい収穫物を祝う新嘗祭《にいなめさい》は、神道の伝統だ。日本の神道はこういうことをやるが、仏教はやらない。祭に神輿《みこし》を出す≠する寺は、日本には確かたった一カ所、例外的に存在しているだけだと思う。仏教はそういうことをやらなくて、「仏教の儀式=葬式」と思い込んでいる人達から、「仏教は地味だ」と思われているのである。仏教は、あまり地域のお祭≠フ主催者にならない。寺がこういうことに関わるのは、縁日≠ニいう形ぐらいである。
日本の仏教は、個人の幸福≠祈る。個人の幸福≠ノ付随して、一家繁盛≠ニかを祈る人間もいるが、数が増える=豊饒=生産≠フ系統は、基本的に、神道=神社系のものである。別に、このことは仏教に限らない。ヨーロッパのキリスト教圏にだって、個人の幸福=魂の救済≠祈るキリスト教と、生産物の豊饒≠祝う民間信仰の二種類がある。最も有名なのは、キリスト教に駆逐されてしまったケルトの信仰だろう。ピーター・グリーナウェイの映画『プロスペローの本』には、このケルトの祝祭≠ェ登場する。素っ裸の人間達が、それぞれ豊かな収穫物を持って、若い二人の結婚を祝福する妖精≠ノなって出てくる。当然これは、「素っ裸の肉体をいかがわしい∞ワイセツだ≠ニ言って嫌う、キリスト教に対する反対表明」であろう。現代のグリーナウェイだから、素っ裸の人間による妖精≠ニいう簡単明瞭な表現も取れたが、妖精が豊饒を祝福する≠ヘ、『プロスペローの本』の原作である『テンペスト』を書いたウィリアム・シェイクスピアの書いたことでもある。シェイクスピアだって、このグリーナウェイのいたって簡単率直な表現を見れば、「ああ、私の書きたかった通りだ」くらいのことは言うだろう。豊饒≠ニいうのは、そういうものだ。動物が性交によって増殖するように、植物だってオシベとメシベの交接で殖える。豊饒≠ニは、そういう豊かな実り≠ネのだ。
キリスト教は、ヨーロッパ各地に伝播して行く段階で、その地の民俗信仰を消滅させて行くが、しかしそれでもその土地に根づいた民間信仰≠ニいうものは、そうそう簡単に消えない。だから、日本の仏教が本地垂迹《ほんじすいじやく》≠ニいう形で、神道を吸収して民間信仰≠フようにしてしまったのと同じようなことを、キリスト教だってちゃんとしている。どうしてか? それは、キリスト教も仏教と同じような個人の内面に語りかける宗教≠ナ、あんまり五穀豊饒≠フ類を問題にしないからだ。
それは、社会の問題≠ナ、その社会は、そこに住む人間達を不幸にする。だから、その社会に住む人間達は、自分の幸福≠求めて、個人の内面に語りかける宗教≠求める。だから、個人の内面に語りかける宗教=別に生産を奨励しない宗教≠ヘ、生産を奨励して社会の維持発展を目指す宗教≠フ上に[#「上に」に傍点]くる。社会に阻害された個人≠ニいう問題は、結構大昔からあるのだ。そして、個人の内面に語りかける宗教≠ニいうものを生み出した大昔は、いともあっさりと、「個人を阻害する社会は悪い」と言ってしまって、いとも簡単に勝利してしまったのだ。だから、個人の内面に語りかける宗教≠ヘ、社会を維持する宗教≠フ上位に立って、これを吸収してしまう。仏教が本地垂迹で神道を従えてしまったように。キリスト教がケルトの信仰を闇に追いやってしまったように。
社会を維持する宗教≠ェ個人の内面に語りかける宗教≠ノ対してこれをやったらどうなるか? 「ファシズム!」と言われる事態になる。「ファシズム!」と言われる事態は、近代になっていくつか登場した[#「近代になっていくつか登場した」に傍点]というようなもんだから、人間は結構大昔から、個人の内面≠尊重していたりもするのだ。また、そうでもなければ、社会というものは、到底安定した状態≠ノはなれないだろう。そういうもんなのである。
さてしかし、いくら個人の魂が救済されて、安定して幸福になっても、穀物が不作だったり、疫病がはやって家畜が死んでしまったりしたら、困ってしまう。だから、作物の豊饒と社会の安定繁栄を祈願するために、その土地に以前から根づいていた社会を維持する宗教≠ノよる民間信仰の祭≠ェ必要になる。宗教≠ニいうことを問題にすると、必ずこの部分が忘れられてしまう――「そこは民俗学の領域だ」と言わぬばかりに。困ったもんだ。それじゃまるで、穀物栽培もしていないのに、平気で「殺虫剤を作っている」と言い訳をしてしまうオウムの幹部じゃないか。
宗教には、二つの側面があるのだ。個なる人間の幸福≠問題にするものと、その土地=その社会の繁栄≠問題にするものと。だから、宗教には、個人の内面に語りかける宗教≠ニ、社会の維持をはかる宗教≠フ二つがある。我々は、宗教≠ニいうことになると、この前者ばかりを問題にして、生産の豊饒≠ノつながる後者の宗教をあまり問題にしなくなってしまう。これはほとんど、「自分のことばっかり考えていて会社に行きたくなくなってしまう今時の若者」とおんなじなのだ。今時の若者≠セって、結構、歴史の必然を引きずっていたりもするのである。
個人の内面に語りかける宗教≠ヘ、宗教が生きて存在している段階では、必ず社会を維持する宗教≠ノ勝つ。これは歴史の必然であり、歴史上の事実である。つまり、それくらい人間は、自分≠ニいうものが可愛くて、それくらい切実に自分≠ニいうものを自覚する生き物なのである。だから当然、自分≠ノ目覚めた者は、社会からの要請をなおざりにする。「仏教が栄えると国は滅びる」とは、昔の中国でよく言われたことである。なぜかというと、坊主はなんにも生産しないからである。昔の日本も、坊主になるのには、国の許可が必要だった。坊主を養うのは国のすることで、坊主を養成し維持することは、とっても費用がかかったからである。しかも、生活に困った人間は、平気で仕事を投げ出して、勝手に出家して税金を払わなくなる。だから、国としても困るので、奈良時代の日本には、「勝手に坊主になるのは禁止」という一項がちゃんとあった。
個人の内面は、社会という働くことしか考えていない俗な世界≠フ上に位置するものだから、個人の内面に語りかける宗教≠ヘ、テンから生産≠ニいう行為を無視して、全然生産≠ネんかを奨励しないのである。かえって、「苦役からの自由」なんてことを言って、働かない人間の怠け癖を助長したりするのであった。別に、会社をいやがっている今時の若いもんのことを言っているわけではない。宗教法人法の存在するずっと以前から、宗教というものには厄介もの≠ニいう一面がちゃんとあったのである。
宗教は、生産をしない。これは別に、社会を維持する宗教≠ナも個人の内面に語りかける宗教≠ナも違わない。宗教というものは、自分からはなんにも生産しないで、生産者からのほどこし(=お布施・喜捨《きしや》)によって生きて行くものなのである。
社会を維持する宗教≠ヘ、生産を奨励して、しかし自分からはなにも生産しない。かえって、生産を特別に奨励しない個人の内面に語りかける宗教≠フ方が、「なんにもしないでただ人に養ってもらっているのは恥ずかしい」と考えて、「自給自足」なんてことを言い出すぐらいである。宗教が強大な勢力を持って生きていた中世≠ニいう時代では、この自分からはなんにもしない宗教が大地主となって農民を搾取した――そんなことをしているから、中世をピークとして、宗教というものは勢いを失って行くのである。
自分≠ニいうものは、エゴイスティックなものである。そのことを、宗教というものが、ちゃんと証明している。自分≠ニいう、誰にとっても大切なものを人質にとって、それで他人に貢がせる――今時のイケイケ女のようなことをやっていたのが、大昔の宗教だったりもするわけである。
(その証明:「あんたは私が好きなんでしょ? だったら、私が好きなようにさせなさいよ。私が幸福だったらあんただって幸福なはずなんだからさ」は、「あなたも幸福になりたいのでしょう? だったら、寺に功徳をお積みなさい。寺に功徳を積むことは、あなた自身の功徳を積むことでもあるのですよ」とおんなじである)
宗教は、自分から働こうとしない人間のエゴイズムを助長して、正当化する。これは、社会を維持する宗教≠ナも個人の内面に語りかける宗教≠ナもおんなじであるが、個人の内面に語りかける宗教≠フ方が、タチは悪い。自分は働かないで、他人を働かせて貢がせて、しかもその他人の労働を「世俗の行為」と否定する。「働いて豊かになるのは悪だ」と言ってのける。個人の内面に語りかける宗教≠ナ、富の存在を肯定する宗教はない――自分達は金ピカの寺に住んでたりするくせに。しかし、生産労働というものは、順調に行けば富≠ニいうものを生み出してしまうのだ。仕事中毒《ワーカホーリツク》の日本人が、世界一の金持ちになってしまったように。そして、仕事人間のお父さんが、妻や子供に尊敬されないように、個人の内面に語りかける宗教≠焉A仕事ばっかりで金のことしか考えない人間≠バカにするのだ。
やっと話は、肝心な部分の糸口≠ノたどりついた。
19 子供の犯罪[#「19 子供の犯罪」はゴシック体]
うすうす「そうじゃないか……」と思っている人も多いはずなんだが、オウム真理教事件は、子供のしでかした犯罪≠ナある。私はそのように断言してしまう。
地下鉄サリン事件や松本サリン事件が外に向けられた犯罪≠ネら、その一方には、信者の拉致監禁・虐殺という内側の犯罪≠烽る。この内側の犯罪≠聞いて思うのは、南海の孤島に漂着した少年達が、やがて宗教を作り、蠅のたかる腐った豚の頭を「蠅の王」と呼んで崇め、そして殺し合いを始めるという不気味な小説――ウィリアム・ゴールディングの書いた『蠅の王』である。私は、子供の内部にはそうなってしまう要素がちゃんとあると思って、だからこのこわい小説が好きじゃないのだけれども、オウム真理教の内側の犯罪≠ヘ、これと似たようなものである。一方は南海の孤島で、一方は地続きの日本の中だけれども、孤立してしまう心に、それを物理的に可能にしてしまう要素が加われば、平気で子供達は孤立する。
以前、東京で少年達が自分の家の自分の部屋の中に女の子を監禁して、暴行して殺害してしまった事件があった。少年達の内の一人の家が仲間のアジトになって、そこにはちゃんとその少年の両親も住んでいたのだけれども、その部屋はちゃんと孤立した密室≠ノなっていた。事件≠ヘそこで起こっていた。なにが気に入らないのか分からないが、子供が親と口をきかなくなって、自分の部屋に閉じこもったまま学校にも行かない――親を自分の部屋に立ち入らせることもないという、家庭内の孤島現象は、現代の日本にいたって当たり前にある。オウム真理教の閉鎖状況は、その拡大版だとしか思えない。
「ああ言えば上祐」で有名になってしまったオウム真理教の上祐旧外報部長の釈明≠竍反論≠焉Aとんでもなくヘンなものである。「あんな一貫性のない反論にもならないような反論をなぜするんだろう?」と思う。普通の人間なら、あんな一貫性のない論≠続けて行くこと自体が苦痛だから、「よく続くなァ……、いつボロを出すんだろう?」ということにしかならない。オウム真理教は一貫して「宗教弾圧」を叫び続けているんだから、「宗教弾圧をするような外部に対して言うことはなにもない」で一貫すればいい。普通の信者がマスコミに対して沈黙を守っているように、旧外報部だって、「そんなくだらない不法な嫌疑をかける相手に対して、口を開く必要なんかない」と言えばよかった。「宗教弾圧」があるんだったら、マスコミはその先兵でしかないのに、なんでそんなことをするんだろう? だから私は、地下鉄サリン事件のすぐ後に、オウム真理教が会見≠ネんかをしてしまったことにビックリした。「なんでそんなことをするんだろう? なんでそんなことが出来るんだろう?」と。
そんなことが出来る理由は、二つしかない。一つは、「この会見に出て来る自分(上祐)とその背後にある教団は、地下鉄サリン事件とまったく関係がない」である。二つ目は、「この会見に出て来る自分は、もしも教団が地下鉄サリン事件と関係を持っていたとしても、そのことをまったく知らなかった」である。最初の方は、オウム真理教幹部の逮捕・起訴で、「オウム真理教のしでかした事件」が明白になってしまった。二つ目の方は、事件から三カ月たっても、まだ不明≠フままである。まァしかし、理由なんかはどうでもいい。重要なことは、教団側が会見を開いた[#「会見を開いた」に傍点]、会見を開きたがった[#「会見を開きたがった」に傍点]ということである――ということは、彼等が自分達の潔白≠信じていたということなのであるから。
ここでややこしいのは、彼等≠ニいう言葉の示すものだ。「地下鉄サリン事件の犯人はオウム真理教」ということになったって、オウム真理教の信者全員がそれをやったわけじゃない。「オウム真理教の信者なら、誰でもサリンを撒け≠ニ言われたら撒いた」というわけでもないだろう。実際にサリンの被害にあって、「自分達は外部の敵≠ノ攻撃されている」と信じている一般信者≠セっている。「自分達オウム真理教の存在は外部の敵≠ノとって重大な脅威となっていて、だからこそその敵≠ヘ我々にサリン攻撃を仕掛けた。オウム真理教に対する宗教弾圧の実態はこのように証明された」と信じている人間達は、教団内部にいくらでもいるだろう。しかし一方、サリン製造の事実やその撒布の実行に関与した人間達だってちゃんといる。その両者を彼等≠フ一言でごっちゃにするわけにはいかない。
「外部からのサリン攻撃=宗教弾圧」を信じている人間達なら、「そんな外部に対して、果たして会見なんか開く必要があるのか?」と思うだろう。だから当然、会見を開く・開きたがる人間は、「外部からのサリン攻撃=宗教弾圧」を信じていない人間だ。そうだとしか考えられない。だとしたら、そういう人間が、どうして潔白≠信じられるのかということである。
こういう場合に、潔白を主張する≠フは、そんなにむずかしいことではない。嘘をつけばいい。しかし、その嘘をどこまでもつき続けるためには、どうあっても、それをする自分の正当性を信じる≠ニいうことが必要になる。つまり、「会見を開いた彼等は、なんらかの形で、自分達の潔白を信じていた・信じていられた」ということが必要になるのだ。だからここで、その奇妙な潔白≠フ内実が問題になる。
これは、「教団の中に明白な犯罪行為≠フ事実があることを承知していて、しかも[#「しかも」に傍点]自分達の潔白を信じていた」である。「地下鉄サリン事件に関して我々は潔白だ」と言う時の潔白≠ニでは、言葉は同じだが、そのさし示す方向が違う。彼等の信じていたことは、「なんであれ自分達は正しい」という、そういう形での潔白≠ナあろう。そうでもなければ、ああいう種類の会見[#「ああいう種類の会見」に傍点]は出来ない。つまり、「我々はなんであれ潔白なのだから、いちいちのつまらない犯罪事件の潔白≠ョらいが証明出来ないなどということはありえない[#「ありえない」に傍点]」である。そういう風に信じていなければ、「あなたの言うことには一貫性がない。この間言ってたことと今日言ってたこととは全然違うじゃないか」という反論≠ェ続出する会見を開き続けることが出来ない。地下鉄サリン事件に関与していたか否かを問わず、オウム真理教の信者は、こういう質の潔白≠信じているのだ。このことによって、オウム真理教の彼等≠ヘ一つになるし、そのことによってしかオウム真理教の彼等≠ニいう言い方は出来ない。
地下鉄サリン事件をはじめとして、一連のオウム真理教の外に向けられた犯罪≠ノは、ある特徴がある。その特徴の質を一言で言ってしまえば、「これは愉快犯のしわざである」ということだ。いたって不愉快な言葉だが、この犯罪の質は、愉快犯のそれだろう。この犯罪は、外部の騒ぎをテンから問題にしていない。それは、「騒ぎを起こしておもしろがっている」だし、「騒ぎが起これば起こるほど、逆に自分達の潔白が証明される」と思い込んでいるかのようだ。それが可能になるように、オウム真理教と外部≠ヘ、はじめからすれ違っている。
愉快犯の犯人は、まるで自分のことを透明人間のように思っている。「自分はこの現実と関係がないから、なにが起こっても無関係で、高みの見物が出来る」と思っている。そうでもなければ、犯罪を起こして、その結果をおもしろがる≠ネどということは出来ない。オウム真理教の引き起こした外に向けての犯罪≠焉Aこれと同質のものを持っていると思う。
オウム真理教の彼等は、それが犯罪事件になろうとなるまいと、基本的には、「外部がなんと言おうと関係ない」なのだ。部屋に閉じこもってしまった子供が、親の存在を無視し続けるのと、これは同じことだろう。オウム真理教は、ドアを閉めた子供部屋≠セ。そのようにして、彼等は自分の正当性を信じている。
部屋の中に閉じこもっている子供は孤独だ。だから、彼等は、その苦しさ≠、なんらかの形で訴えたい。彼等は、「自分が被害者である」ということだけを知っている。しかし、そうであるにもかかわらず、彼等はまた、「自分が被害者になっていることにはあまり正当性がない」ということも知っている。彼等が苦しいのは、だから、孤独の中にいるから≠ナはなく、そういう矛盾の中にいるから≠セ。だから、彼等は、そういう矛盾から逃げ出そうとする。だから彼等は、自分の状態を矛盾≠ニしてではなく聞いてくれる相手を求める。だから彼等は、自分のそれまで≠よく知っている親には、なにも話さない。話せば、「なんでそんなことを考える」と言われてしまう。「お前の事実関係の認識は一方的に歪んでいて間違っている」と言われてしまう。またそれ以前に、自分が落ち込んでしまったそんな苦境≠、きちんと説得力を持って人に説明出来る能力がないということもあるだろう。そんな説明能力があれば、わざわざ部屋に閉じこもるなどということをする必要もないのだから。世の中には、「親にはなんにも話さないけど、友達にはなんでも話す」という人間だって、ちゃんといるのだから。そういう友達がいれば、別に自分一人の世界≠ナある自分の部屋なるものに閉じこもる必要もない。
しかし、この彼[#「この彼」に傍点]には、そういう自分自身に関する説明能力≠ェない。ないのだが、自分はあまりおもしろくない状況に陥っている≠ニいうことぐらいは、子供である彼自身にも分かる。だから彼は、そのことを人に話したい。だから、自分の言うことを疑わずに、ただ自分の話をフンフンと受け入れて聞いてくれる相手がほしい。学校にも行かず、両親とも口をきかず、一人で部屋に閉じこもっていて、たまに一人でゲームセンターに出かけるだけの子供の犯罪≠ニいうのが、以前にあったと思う。その子供の話相手は、ゲームセンターの店員であるお兄さん≠セけだった。その少年は、それくらいゲームセンターのゲームが好きだったんだろうか? そうかもしれない。がしかし、違うかもしれない。ゲームセンターにいる限り、彼はお客さん≠セった。そこの店員は、お客さん≠ノ対して失礼な口をきかない。お客さん≠フ話なら、フンフンと聞いてくれる。お客さん≠ニいう仮面をかぶって、話を自分という一人のお客さん≠ノ限定してしまえば、少年だってボロを出さないだろう。彼がゲームセンターで遊ぶ金ほしさに罪を犯してしまったとしても、それは本当に、ゲームセンターで遊ぶ金ほしさ≠ネんだろうか? その金は、ゲームセンターでお客さんをやっているために必要な金≠セったのではないだろうか? お客さん≠ノなっている限り、彼は自分の矛盾≠自覚しなくてすむ。オウム真理教事件の構造は、この孤独なゲームセンターの子供と同じものなのだろうと、私は思う。
上祐史浩の会見≠成り立たせるマスコミは、きっとゲームセンターのお兄さん≠セろう。少年の手配書が回って来た時、「その少年が来た」と警察に通報するのも、そのお兄さんの仕事ではあるけれども。
孤独な少年は、両親にも心を開かない。学校の教師にも。ゲームセンターに行っても、あくまでもお客さん≠ニしての待遇を受ける店員としか口をきかなくて、そこでたむろしている自分と似たような年頃の子供とは口をきかない。彼は孤独で、外の世界の一切と直接のコンタクトを取らない。そういう彼が犯罪に手を出すとして、彼は警察の存在を意識しないだろうか? 精神病患者の犯罪ならそういうことにもなるかもしれないが、彼は必ず警察の存在を意識するだろう。「お客さんならまともに扱ってもらえる」という現実世界のルールを知っているミエっぱりの彼は、「自分の行動にブレーキをかけるものがあるとしたら、それは警察だ」ということぐらい知っているだろう。ロクに現実を知らないままその現実を拒絶してしまった子供の世界認識は、いたって貧弱で、しかも自分のその貧弱に気がつかない。世界は、「自分と、ゲームセンターのお兄さんと、警察」だけなのだ。
地下鉄サリン事件で無差別殺人≠ェ行われて、しかしその無差別殺人≠ヘ、地下鉄の霞ヶ関駅をターゲットにした限定された無差別≠セった。霞ヶ関駅は、警視庁や警察庁の人間が乗り降りする。そして、その地下鉄サリン事件は、オウム真理教に対する強制捜査を事前に察知しての脅し≠フようなものだった。警察庁長官の狙撃事件の犯人が何者なのかは、事件から三カ月がたって、まだ分かっていない。オウム真理教の関与がいたって濃厚ではあるけれども。
地下鉄サリン事件に限定して、「オウムはなぜ警察と戦うのか?」という疑問がある。オウム真理教の教祖が「最終戦争《ハルマゲドン》」を言って、そして地下鉄サリン事件が起こったということになると、当然この無差別殺人事件は、「オウム自作自演のハルマゲドンの一環か?」ということになってしまうが、この無差別殺人は、霞ヶ関≠ニいう限定がついている以上、そんなに無差別≠ナはないのだ。だから、「なんでこんなことをするんだろう?」という疑問が生まれてもいい。「どうしてオウム真理教は、ことさらに警察と一戦を構えたいのか?」と。もう少し広げて、「どうしてオウムは、警察と被害者の会≠攻撃のターゲットにしたがるのか?」と。
オウムの攻撃は、決して無差別≠ナはないと思う。松本サリン事件にだって、係争中のオウム真理教関連の訴訟を担当する裁判官に対する脅し≠ニいう要素が隠れている。最終戦争を叫ぶオウム真理教は、今のところ「全世界の最終戦争であるような無差別殺人」をやってはいないのだと思う。新宿の地下トイレに仕掛けられた青酸ガス発生装置が簡単に発見されてしまったのは、それが所詮簡単に発見される程度のもの≠ナ、彼等には、「自分達の世界観に見合った明確な目標≠ェなければ行動出来ない」という、へんな特性があるんじゃないかとも思える。だからなんなのかというと、つまり、「オウム真理教は、警察≠ニ、信者の裏切りに代表されるような敵対行為≠オか、頭にないんじゃないのか?」ということである。
つまり、オウム真理教の世界観はいたってシンプルで、それは、「自分達≠ニ、警察≠ニ裏切り者の敵対者≠ニ、あとは霧のようなぼんやりした現実=vだけなんじゃないのか、ということである。孤独な少年の把握出来る現実が、「自分≠ニゲームセンターのお兄さん≠ニ、昔自分をいじめたヤなやつ≠ニ自分を捕まえようとする警察=vの四つの要素からしか出来上がっていないのと同じように――。
私は、そう思うからこそ、オウム真理教事件を子供のしでかした犯罪≠セと思うのだ。子供のすることは、細部のある部分だけが周到で、残りの部分はなにを考えているのか分からないくらいアイマイでぼんやりしている≠烽フだ。それは、子供の現実認識が、そういうものだからだ。その人の行為はその人の世界観の反映で、世界観が曖昧なら、その人のしでかした行為も、それを反映して、十分にズサンで曖昧なものになるだろう。
20 オウム真理教の信者は、現実の麻原彰晃を本当に必要としているのだろうか?[#「20 オウム真理教の信者は、現実の麻原彰晃を本当に必要としているのだろうか?」はゴシック体]
オウム真理教で驚嘆するのは、これが、今時の若いやつを受け入れるのにはとてもよく出来た組織≠セというところである。とてもよく出来ている。
まず第一に、若い人間をいつも動かしている[#「動かしている」に傍点]。修行があってワーク≠ェあって、それをこなさなきゃ眠れない。それをこなす裁量は、信者個人にゆだねられている。つまり、いつも「なにしようかな……? なにしたらいいのかな……?」とぼんやりしている人間に対して、退屈する暇を与えずに、しかもそれが当人の自主性を尊重する≠ニいう名目で成り立っていることである。自主性が重んじられている≠ニいうところが第二の美点である。だから、そこにいる当事者達は、自分がそこにいることに疑問を感じないですむ。
きっと、若い人にとっては天国だろう。なにしろ、「なんにもすることがない……」と思ってぼんやりして困っている若い人間は、ゴマンといるのだから。これは、「やり甲斐があって自主性を尊重してくれる理想の会社」である。日本の会社経営者はこれを見て、「若い人間にも働く気は十分にある。それが出て来ないのは経営者の人徳が足りないからである」ぐらいのことは、考えた方がいいだろう。おまけにこの会社は、就労中にウォークマン≠つけててもいいんだから。
「あんなものをつけて年柄年中頭に電流なんか流してて気持悪くないんだろうか?」と、オウムのヘッドギアを見て言う人もいる。ウォークマンでギンギンのハードロックを流して難聴になっても平気なやつだっているんだから、別にどうってことないんだろう。
それにしても、ソニーのウォークマンは画期的な発明だった。マンガ家の東海林さだお氏は、かつて「おばさんは自分のいるところをすべて自分の家のお茶の間に変えてしまう」という名言を吐いたが、このヘッドフォンステレオは、「若いやつのいるところをすべて自分の部屋の中≠ニいう密室に変えてしまう」ということを可能にした。それをしていれば、もう誰にも邪魔されることなく自分の世界の中≠セ。世の中なんてこわくない。たとえ失恋をしても、これをつけて美しいラブソングを流して、大都会の高層ビル街やウォーターフロントにたたずんでしまえば、たちまちにして、自分は美しいハリウッド映画のヒロインにもなれる。現代社会は劇場社会≠ネのかもしれないが、劇場社会に大衆社会がかぶさるととんでもないことになる。劇場の舞台の上は、シロートという大根役者だらけだからだ。
それはともあれ、オウムのヘッドギアは、修行のためだ。別に、ハタから強制されてあれをしてるんじゃない。めんどくさいワーク≠するんでも、あれをかぶったまますれば、気が散ったりはしない。「自分は今自分の修行≠ノ集中している」という気分になれる。オウムのヘッドギア=ウォークマン説はそれだが、オウム真理教というところは、すべてが自分の修行になる=自分のためになる≠ニいう、信者にとっては素晴らしい世界≠セ。誰かに騙されているわけでもないし、いやだと思うことを誰かに強制されているわけではない。日本の会社社会に欠けている、自分のため≠ニいう目的が、ちゃんとここにはある。信者の多くはそう思っているのだろう。「ここにいれば誰にも邪魔されることなく、自分のこと≠ノ集中出来る」と。
オウムの最大の特徴は、ここが、孤立したエゴイストの集団になってしまっているということだ。
ある日、上九一色にあるナントカサティアンの掃除をしていた若い信者が、高い建物の上から転落してしまったんだそうな。地面に倒れて血を流していても、仲間の信者は知らん顔なんだそうな。見かねた三十すぎの男の信者が、その倒れた仲間の頭から流れる血を拭いてやって、でも、それだけだったんだそうな。見かねた警備中の機動隊員が救急車を呼んで、病院に運ばせた――ということを、テレビでやっていた。「なんてひどいことをする鬼のようなやつらだ」なんてことを言ったら可哀想だろう。彼等は、そういう場合にどうしたらいいかを知らないのだ。人間は、教えられたり学習したりする機会を奪われたら、とんでもないことまで知らないままでいる≠フだから。
オウム真理教が若い人間を相手にしてとてもよく出来た組織≠セというのは、このように、孤立して助け合う≠ニいうことを知らないままでいる人間達を集めて、それでも組織≠ニして成り立っている点にある。これは、とっても驚くべきことである。「どうすればそんなことが出来るのか?」を知りたがる会社経営者はいくらでもいるだろう。でも残念ながら、それはナミの人間には無理なことだ。
オウム真理教が麻原彰晃を頂点とするピラミッド構造の組織であることは、もうよく知られている。「だから、なんでも信者は言うことを聞くんだ」になったら、きっと間違いだろう。今時の自分のことしか考えない若いやつが、ピラミッド構造の組織≠ネんてもんにおとなしくおさまっているか?――というのである。尊師の言うことは聞いても、すぐ上の幹部の言うことなんかバカにして、ロクすっぽ聞いてやしないということは、いたって当たり前に起こるだろう。だから、このピラミッド組織は仮のもの≠ネんだと思う。ピラミッド構造の教団組織はあって、しかし信者達はそこにおさまりきらないように揺れていて、尊師対信者の一対一の忠誠心がこの組織を支えているのだとしか考えられない。
麻原尊師は、なにかあるとすぐに信者のところに電話をかけてくる人なんだそうな。信者のところに電話をかけまくる教祖などというのは、聞いたことがない。「そんなに忙しいのか?」と、私なんかは仰天してしまうのだが、「偉い尊師がわざわざ自分のところに電話をかけてくる」なんてことになったら、普通の信者はひれ伏してしまうだろう。しかし、このオウム真理教という新興宗教教団は、尊師と信者が一対一でつながっているようなものだ。だから、この教団の本当の組織図は、デコボコのある平面に信者がちらばっていて、その上にただ一人麻原尊師が宙に浮いているような形になるはずなのだ。だからここでは、なによりも尊師≠ェ一番大切になる。尊師と信者は一対一でつながっていて、信者は、「尊師がそうおっしゃるんだから、あのつまらない幹部が指揮を取る組織の中に収まっていてやろう[#「いてやろう」に傍点]」になるのだろう。今時の自負心だけは強い自主性のある若者相手だったら、そうでもしなければ組織≠ネんてものは構成出来ない。だから、すべてはとっても不思議なことになる。
麻原彰晃こと松本智津夫が逮捕されて、信者の心は揺らいでいる。しかし、それであっても、多くの信者の心は揺らがない。揺らいで教団を離れたとしても、多くの信者は、自分の中にある麻原尊師≠ニいうものの存在を否定しきれない。それは、麻原彰晃の教え≠ニいうものがあって、信者になってしまった自分≠ニいうものがあるからだ。自分から納得して[#「自分から納得して」に傍点]進んで信者になった≠フなら、当然そうだ。だからこそ、麻原彰晃の教えの真実≠ニいうものがあって、その教えに納得した自分≠ニいうものがある。だから、この信者にとって、麻原彰晃≠ニいうものの存在がなくなったら困る。そんなことになったら、自分の人生の中で最も充実していたある期間が、そのまますっぽり欠落してしまうからだ。人間にとって最もつらいことは、充実していて幸福だった過去の記憶を根こそぎ奪われてしまうことである。だから、人間の心は、これに反抗する。麻原彰晃は正しいもの≠ニして存在していなければならない[#「いなければならない」に傍点]のだ。信者の胸の中には、そういう主観的な真実≠ェある。
一方、「麻原彰晃≠名乗る松本智津夫は警察によって逮捕されてしまった」という事実≠烽る。信者なら、これを客観的な事実≠ニはしないだろう。せいぜい認めて外部の事実≠ナ、事実≠ニ真実≠ェ食い違っている矛盾≠ェ、信者を苦しめる。だから、普通だったら、ここで「麻原尊師の無実を信じる」ということになるのだが、そして実際そうなってもいるらしいのだが、ここで問題になるのは、「その麻原尊師≠ニは誰か?」ということである。
逮捕され起訴されてしまった松本智津夫という男≠ネのか? それとも、信者一人一人の胸の中にいる、信者自身が作り上げてしまった麻原尊師≠ネのか?
この二つはまだ信者の中で混沌としていて、やがて信者達の多くは自分の中の麻原尊師≠選ぶだろう。自分の頭で判断して、その信仰を選んだのであれば、当然のことながら[#「当然のことながら」に傍点]――。
オウム真理教は、そのような「自分の判断でこの修行の道を選び取った」という信者達によって形成されている集団なのだから、そのようにしかならない。自分の中の麻原尊師≠フ存在を実感出来なければ、オウム真理教への傾斜などというものは起こりえないはずなのだから。だから、麻原尊師の悪口を言う人間は地獄に落ちる≠セろう。それが言えている間は、まだ信者の胸の中の麻原彰晃≠ニ、本名松本智津夫である現実の麻原彰晃≠ニの間にズレはなかったのだ。
しかし、その現実の麻原彰晃≠ェ逮捕されてしまったらどうなるのだろう? 自負心の強いオウム真理教徒に、こんな事実≠ネんか認められるわけがない。がしかし、そうでありながらも、自分に迫って来る現実の事実≠ニいうものに弱いオウム真理教徒は、この事実≠否定しきれない。だから、葛藤が起こる。
この葛藤≠ヘ、二つの側面から成り立っている。「麻原尊師は無実だ」として、尊師が逮捕された≠ニいう事実を抹殺する方向。いくらオウム真理教が強引だといっても、これはなかなかむずかしい。それよりも、信仰に生きる者には、もっとふさわしい方向がある。それは、「現実のことは知らない」にしてしまうことだ。なにしろ、松本智津夫なる男は逮捕されても、自分の中にいる[#「自分の中にいる」に傍点]麻原尊師≠ヘ、無実で潔白のままなのだから。信仰が揺らがない≠ニいうのは、そういうことである。揺らがない信仰を守ってオウム真理教徒として生きて行くためには、だから、「松本智津夫という男が逮捕された現実なんか知らない」としてしまうことである。
「尊師が逮捕されてどう思いますか」というマスコミの問いに対して、信者が「ノーコメント」とさえも言わずに無言≠フままでいるということは、信者達がこのことを我知らず選択してしまったということだろう。
彼等は、自分が解脱出来さえすれば、実のところ、麻原尊師≠ニいうものさえ必要はないのだ。既に麻原尊師は脳波≠ウえもくれていて、これを自分のものとして消化できないのは自分の修行がたりないためだけ[#「自分の修行がたりないためだけ」に傍点]なのだから、別に現実の麻原尊師≠ニいうものは、いなくてもいいのだ。いればいるにこしたことはないが、しかし「いないんだったらしようがない」である――後は自分でやればいい。そのために、オウム真理教の修行のプログラム≠ヘあるのだし、修行に専念するための出家≠ニいう道を選んだのだろうから。
彼等は自分の胸の中の麻原彰晃≠必要とする。しかし彼等は麻原彰晃を名乗って逮捕されてしまった現実の松本智津夫≠必要としない。オウム信者のクールな胸の内を覗いてしまえば、こういうことになるだろう。そして、こういう複雑な構造は、彼等の胸の中に、はじめから隠されていたのだと思う。
21 彼等は、どうして宗教法人であることにこだわるのか?[#「21 彼等は、どうして宗教法人であることにこだわるのか?」はゴシック体]
まだ青島幸男新東京都知事が都市博を中止にするかどうかで悩んでいた頃、彼の許に一つの書籍小包が届けられて、それが爆発した。秘書が大怪我をして、犯人が誰だか分からなかった。犯人は都市博の中止を阻止しようとするものか、オウム真理教の宗教法人解散を阻止しようとするもののどちらかだと、ささやかれた。私は当然、「なんか臭いけど、都市博系だろうな」と思っていたのだが、最近になって、逮捕されたオウム真理教の信者から、「あれもオウムのしわざ」という供述が出て来た。それで私は、ちょっと意外に思った。私は、「宗教法人の解散命令なんか出たって、別にオウム真理教の方じゃ関係ない≠ニ思ってんじゃないのかな」と思っていたので、これは意外なこと≠セったのだ。
不思議ではないだろうか? あれだけの非合法を平気でやっていて、それでもまだ「宗教法人としての資格を奪われるのはいやだ」と主張するのは。私は、不思議だと思う。
「そんなことは、別に不思議でもなんでもない」と、言う人は言うだろう。「麻原彰晃という男は、金のことしか考えていない男で、宗教法人の免税特権を剥奪されたら困るだろうし、宗教法人としての解散命令が出たら、オウム真理教の資産は全部国庫に没収されてしまうのだから」と。「まァそうなんだろうな」と私も思うけれども、しかし、「そんなこと一般信者に関係ないじゃないか」と思う。オウム真理教の資産は麻原彰晃のもので、別に一般信者のものじゃないんだから、そんなもんなくなったって、一般信者にはどうってことないじゃないかと、私なんかは考える。「そんなことで、都知事を爆殺しなけりゃならないのか?」と。
オウム真理教のしていることは、メチャクチャなことばっかりではあっても、決して脈絡のないことではないと思う。脈絡があって、そしてメチャクチャなのだ(だから厄介なのだ)。だから私は、「そんなメチャクチャなことをしなきゃいけない理由はなんなんだ?」と考え続けている。
オウム真理教の信者は、「宗教弾圧」を叫ぶ。これは別にオウム真理教の信者ばかりに限ったことではなくて、どこの新興宗教でも、機会があったら叫ぶことだ。どうしてかと言うと、それくらい新興宗教の信者が不安≠感じているからだ。
今の日本で「宗教を信じて信仰している」なんてことが分かったら、ケゲンな目で見られる。古くからある既成の宗教でもそうで、新しく出来た新興宗教なら、なおのことだ。信者になる前の人間はそういう現実の中にいる。もしかしたら、「信者になる前の自分は、そういう他人をケゲンな目で見ていました」ぐらいのことを言う信者は、当たり前にいるだろう。宗教をケゲンな目で見ているのだから、そんなやつらは、平気で宗教弾圧≠ノ走るだろう――と思うだろう。がしかし、残念なことに、信仰の外にいる人間は、弾圧をしたがるほど奇妙な他人の内部≠ノ関心がない。そんなヘンなもの≠ヘ、日本人の得意技で、仲間はずれの排除≠してしまえばいいのだ。だから、「宗教弾圧」を叫ぶ人達にとっては残念なことに、「宗教弾圧をやめろ!」の一言は、なんにも効果がないのだ。外部の人間は、弾圧をするほど宗教に関心を持っていない。だから、言うんだったら、「我々を弾圧するのはやめろ、我々の宗教を弾圧するのはやめろ、あんた達のしていることは、我々の宗教を弾圧することなのだから」と、まず説明≠しなければならない。
ところが、「宗教弾圧!」を叫ぶ人達はそんなことをしない。すぐに「宗教弾圧!」へ行ってしまう。「説明が足りない」と言われれば、「ちゃんとこの通り[#「この通り」に傍点]説明はしています」と言う。そして残念ながら、その説明が説明≠ノなっていたためしはない。論理が飛躍しすぎていたり、「いつそんな説明したの?」だったりするようなものばかりだ。説明≠ニいうのは、他に対してするもの≠ネんだから、他に分かるように[#「他に分かるように」に傍点]しなければならない。他が分からなければ、それはまだ説明になっていない≠ニいうことなのだ。説明になっている≠ニ他がうなずけるところまで説明をして、それでやっと「説明した」の一言が言える。そういう説明≠ヘ、まず「宗教弾圧!」を言う側に起こらない。なぜかというと、それは彼等が、まず「宗教弾圧!」を言いたいからだ。それを言うことになって、やっと「自分を受け入れてくれない他人≠ニ他人に受け入れてもらえない自分≠フ境界線」がはっきりするからだ。彼等が「宗教弾圧」を叫ぶのは、それを叫べば自分のそれまで≠ェ明瞭になるからだ――「他人に受け入れられないようなもの≠持っている自分がいて、それをきっと受け入れないだろう外側≠ェあって、それが、自分が宗教の信者になることによってやっとあきらかになった」という事実があるから、「宗教弾圧!」を叫べることは、嬉しいことなのだ。
「もしもこの宗教≠ェなかったら、きっと自分は、自分の中にある大切な自分≠弾圧していただろう。外側の人間が今この宗教≠弾圧しているように」と、「宗教弾圧!」を叫ぶ人間は考える。つまり、そういう人間にとっての宗教≠ニは、「今まで曖昧で形にならなかった自分≠ニいうものをきちんと理由づけてくれるもの」なのだ。「宗教弾圧!」を叫ぶ彼等は、だから「宗教弾圧!」と叫ぶことによって、「私を弾圧するな! 私をいかがわしい人間だと言うな! 私はいかがわしくないのだ!」と、そう叫んでいるのである。「そう叫べるのなら叫んでみたい」と思っている人間は、今ならいくらでもいるだろう。だから、「宗教にフッと入りそうになった」くらいのことを言う人間は、いくらでもいる。
彼等にとって一番重要なことは、「自分が正当でいかがわしくない」ということなのだ。だから、そんな彼等が宗教の中に入った時に一番重要なことは、「自分の正当性を守ってくれるこの宗教は、決していかがわしくない」ということなのだ。そのことを証明する、国家による傍証が、「宗教法人法によって認可を受けているきちんとした宗教団体[#「きちんとした宗教団体」に傍点]」という事実だろう。宗教法人法による認可には、そのような意味があるのだと思う。免税特権があるかどうか以前に、宗教法人法の認可を受けていなければ、宗教法人法の認可も受けていないいかがわしい宗教団体≠ノなってしまって、まず信者の獲得が困難になる。
信者になる方だって、なにもわざわざいかがわしい宗教団体≠フ信者になんかなる気はないだろう。だから、信者になるんだったら、宗教法人法で認可されたちゃんとした宗教法人≠選ぶ。これはほとんど、学校法人法で認可された専門学校≠選ぶのとおんなじだが、そういうもんなんだからしようがないだろう。
つまり、オウム真理教にとって、オウム真理教が宗教法人法の認可を受けた宗教法人であるということは、「オウム真理教はいかがわしい宗教ではない」ということの証明になるということである。なにしろ、国が定めた宗教法人法に合致したもの≠ネんだから、これがいかがわしいものであるはずはない[#「これがいかがわしいものであるはずはない」に傍点]――論理としてはこうなる。
つまり彼等は、オウム真理教がいかがわしくないことの証明として、宗教法人法による認可を重要視している。だから、その解散請求を斥けなければならない――だから都知事に爆弾を送るということになる。私にはそうだとしか考えられない。そしてそうなると、当然矛盾≠ェ出て来る。「オウム真理教というのは、国家権力による弾圧≠ニ戦ってるんじゃないか?」ということである。
宗教法人法を制定している国家も、強制捜査を行う警察を持っている国家も、どっちもおんなじ国家≠ネのである。だから、「国家権力と対決するものが、どうして国家の制定した法律の保護を受けなきゃなんないの?」と、私は疑問に思うのである。だからこそ私は、「オウム真理教は、別に宗教法人の資格を剥奪されたってかまわないと思ってるんじゃないのか?」なんて言うのである。
宗教弾圧をする国家権力は、宗教法人法を持っている国家権力でもあるのである。そして、この宗教法人法を持っている国家権力は、宗教法人法による認可を宗教団体に与える際に、なんにもうるさいことを言わない[#「なんにもうるさいことを言わない」に傍点]権力なのである。これでうるさいチェックでもするんなら、「宗教を弾圧し、信教の自由を侵害する国家権力」とも言えるだろうが、宗教法人法の認可は、書類さえ揃えば、ほとんど喫茶店の営業許可並に、簡単に下りるもんなのである。(もしかしたら、喫茶店の営業許可の方がむずかしいかもしれない)
オウム真理教に宗教法人の認可がなかなか下りなかったのは、ここがやたらとトラブルの多い団体だったからだ。それで例外的[#「例外的」に傍点]に、認可が遅くなった。遅くなっただけで、別に東京都はうるさいチェックもせずに、結局認可してしまった。宗教法人法の認可申請に対して、許可が下りないということはまずないのだから、こんなに甘い法律もない。宗教法人法を持って、その認可を都道府県にまかせている国家権力とは、そんなもん[#「そんなもん」に傍点]なのである。
誰も言わないが、ここにはあきらかに矛盾がある。つまり、「国家権力による宗教弾圧」を叫ぶ人間は、その国家権力≠ニ、いとも大甘な宗教法人法を持っているずさんな国家≠ニが、同じものだとは思っていない、ということである。「いい、そんな国家なんか相手にしない。どうせ宗教っていうのは、そんな国家権力の存在する現実から遠いところにあるんだから、オレ達は宗教法人法の保護なんかいらない。さっさとそんなもんの認可なんか返上して、オレ達だけで勝手にやる」という発想が出て来ないのは、そのためだろう。
彼等はもしかしたら、国家というものが二つある≠ニ思っているのかもしれない。きついお父さんとやさしいお母さん、あるいは、きついお母さんとやさしいお父さんの、その二人によって親≠ニいうものが構成されているように、国家というものも、きつい国家≠ニやさしい国家≠フ二つが存在していると思っているのかもしれない。
がしかし、もしかしたら違うかもしれない。この二つの国家≠存在させてしまう矛盾は、「現実は僕を排除する。でも、この現実のどこかには、僕のことを守ってくれる人はちゃんといるんだ」という、そういう思考法の反映かもしれない。
「現実は、僕を排除する。僕には、その排除される理由≠ェなんとなく分かる。でも、そんなことが分かるのは僕だけだから、そんなこと黙ってりゃバレやしないや。だから、この僕には、現実から排除される理由なんてなんにもない。だから、この僕は、僕が現実から排除されるのは不当だ≠ニ叫ぶ。だから皆さん、僕のことを支持してください」なんてことを言うやつがいるだろうか?――ということになったら、いるだろう。これは、典型的なずるい子供の論理≠セからだ。大甘な認可を下すずさんな大人の世界には、こういうずるい子供達だって存在するのである。「すべての関係はお互いさま[#「お互いさま」に傍点]である」というようなものだろう。
そういうものが、この事件の前提にあるということは、知っておくべきだろう。
22 二本の007映画の語るもの[#「22 二本の007映画の語るもの」はゴシック体]
1970年代の終わり、二本のジェイムズ・ボンド=007の映画が製作公開された。1978年の『007私を愛したスパイ』と、1979年の『007ムーンレイカー』である。「突然なんだ?」と思われるかもしれないが、まァ聞きなさい。
ジェイムズ・ボンド=007と言えば、その敵役はスペクターである。オウム関連でこういう言葉を発した人がいた。元公安関係者の佐々淳行氏である。「我々が予想出来なかったのは、日本にスペクターがあったってことですね」と、さすがにプロならでは(?)の発言をして、インタビュー相手の真面目なジャーナリスト氏は、いきなりの専門用語に面食らっていた。
スペクターは、無国籍人エルンスト・スタブロ・ブロフェルドの作った悪の組織≠ナある。007映画でおなじみの秘密基地≠作るやつである。オウムのサティアン群を称して、佐々氏は「スペクターの秘密基地」と見たのである。がしかし、「それはホントにスペクターか?」というのが私である。
イアン・フレミングの作ったブロフェルドのスペクター≠ヘ、実のところ「最終戦争《ハルマゲドン》」なんかを叫ばないのである。ジェイムズ・ボンド=007シリーズは、さすがにイギリス人の作家の手になるもので、これはゲーム感覚の駆け引き・取引≠ェ重要になる。エルンスト・スタブロ・ブロフェルドの作った悪の組織スペクターは、米ソの東西冷戦対立構造をバックにして、そのどさくさ紛れに金儲けを企むような悪い組織≠ネのである。NATO軍から核弾頭つきのミサイルを盗み取って、「金を払わなかったら爆発させてやる」という脅しをかける(『サンダーボール作戦』)悪いやつらなのである。大金儲けをするために、自分達も大金をかけて準備をする――その悪事の大掛かりさ、本気でやった荒唐無稽≠ェ、大人の遊びとして受けたのである。それがだんだんエスカレートして来て、「スペクターと言えば大掛かりな秘密基地」ということにもなってしまったが、しかしブロフェルドのスペクターが金儲け≠考えて、取引≠要求して来る犯罪者であることに間違いはなかった。スペクターだけではなくて、イアン・フレミングの作った007の悪役達は、基本的に金儲けだけを考えているマッドな人物達なのである。アメリカ合衆国政府の金塊保管所であるフォート・ノックスの金塊を盗み出そうとしたゴールドフィンガーは、「そんな大量な金塊運べないぞ」とジェイムズ・ボンドに言われて、平気な顔で「運び出さないよ」と言う。ゴールドフィンガーの狙いは、フォート・ノックスの中で原爆を爆発させ、合衆国の金塊を放射能汚染の使用不能状態にして、自分が所有している金塊の値上がりをはかることだったからである――というようにゲーム≠ネのだ。
国際的な金相場の攪乱と自分の手持ち資産の値上がりをはかるというのは、いかにもイギリス人の感覚だと思うのだが、しかし、いつの間にか、このゲーム感覚≠ェ古くなってしまう。「そんな大掛かりな仕掛けで大掛かりな金儲けを狙わなくたって、金ならもうある」という風に、ジェイムズ・ボンド=007映画を受け入れる西側世界が変わって来たのである。金をかけた大掛かりなアクション映画≠ヘ007がはしりだが、やがてハリウッドのアメリカ映画が、いろんなものを作り出す。スパイアクション≠ニいう1960年代にはやったものはもうはやらなくなって、1970年代後半の007映画はちょっと落ち目だった。そんな中で大ヒットを飛ばしたのが、シリーズ十作目の『007私を愛したスパイ』だったのである。
この映画に、もうブロフェルドのスペクターは登場しない。悪役は、ドイツ人の大金持ち、クルト・ユルゲンス扮するストロンバーグである。彼はやっぱり秘密の大要塞を作っちゃう人間なのだが、既にして大金持ちの実業家であるストロンバーグは、ブロフェルドのように金儲け≠考えない。「金はあるからもういい」なのである。シリーズ十作目にして、ジェイムズ・ボンドは金儲けを考えない思想犯≠相手にすることになる。なんとストロンバーグは、米ソの原子力潜水艦を盗み出して、それを使って世界を破滅させようと考えるのである。自分のものになった原子力潜水艦を出航させる時、ストロンバーグはちゃんと「ハルマゲドン!」と叫んでいる。ストロンバーグはなんでそんなことをするのか? 彼は、地上の文化を滅ぼして、海底都市を作るつもりなのだ。「新しい歴史[#「歴史」に傍点]を作るのだ!」というところが、とってもドイツ人らしいんだが、こういう金儲けを考えない思想犯は、彼が最初である。
彼に必要なのは、金を儲けることではなく、「もう儲けて持っている金をどう使うか?」だったのである。彼はもう金を持っている≠ゥら、世界が滅んでも平気≠ネのである。自分の海底都市による新しい水中文明の歴史≠スタートさせるためには、かえって既成の陸上文明が邪魔になる――だからハルマゲドンを起こす。大国を脅して金儲けをするブロフェルドは、自分の金儲けの必要のために、まだ大国に存在していてもらわなければならなかった。「世界戦争勃発の危機」を演出して、ブロフェルドのスペクターは、決して世界を滅ぼそうなんてことを考えていなかったのである。「そんなことをしたら、もう金儲けの犯罪ゲームというものが成り立たなくなってしまうから」であろう。
しかし、ストロンバーグの登場する1978年に、もうその必要はなかった。ストロンバーグは金持ちだったから、既成社会を相手にゲームを成り立たせるような必要がなかった。だから彼は、ゲームのルールそのものまで滅ぼしてしまおうとした。そういう人間だからこそ、原子力潜水艦を三隻も腹の中に呑み込める巨大タンカーなんてものを持っているし、またそういうマッドな設定でもなければ、巨大秘密基地≠ネどというもののリアリティが疑われるような時代になっていた。ストロンバーグのハルマゲドン計画は失敗したが、この新しいパターンの007映画は大ヒットした。そこで、次の年の『007ムーンレイカー』の出番になる。もしかしたら、オウム真理教のハルマゲドン計画は、これに近いのかもしれない。
今度の悪役は、フランス人の大金持ち実業家、ミシェル・ロンズデール扮するドラックスである。ドイツ人のストロンバーグが「新しい歴史を作る」のに対して、フランス人のドラックスは「新しいアダムとイヴによる新世界の創造」を目ざす。美男美女ばっかりを宇宙ステーションに連れてって、地球をアマゾンの植物から採った毒ガスで滅ぼしちゃう。美男美女による新しいアダムとイヴ≠ニいうところがいかにもフランス人の発想だというところが、こういう映画を作る人のシャレっ気でしょう。
ところで、一体こんな話がオウム真理教事件になんの関係があるのか?
もしかしたら、全然関係ないかもしれない。ただ『007私を愛したスパイ』と『007ムーンレイカー』が公開された1970年代の終わりに、麻原彰晃は二十代の前半だった。三十代中頃の幹部連中は十代の終わりだろうし、もっと若い一般信者は中学生だ。こういうのを、「カッコいいなー」とか「スゲーなー」とか思いながらリアルタイムで見ていたという可能性はある。「マッドな大金持ちが世界を滅ぼして」という007映画は、この1970年代の終わりの二本だけなのだ。残りの007映画は、みんな「金儲けを考える悪いやつ」である。(ついでに意外なことを言ってしまえば、スペクターが大掛かりな秘密基地を作った例は、『007ドクターノー』と、日本を舞台にした『007は二度死ぬ』の二回しかない。日本は、スペクターが秘密基地を作れるほど、未開の孤島≠フようなものだった)
金儲け≠ェまだ重要な意味を持っていた1960年代には、金をかけて大掛かりなセットを作るということに意味があった。「あんなに金がかけられるんだ、すごいなァ……」である。この時代、斜陽の大英帝国にとって、007映画は主要な輸出品の一つでもあったろうから、金をかけて客が来るなら、製作者は張り切って金をかけただろう。スペクターのブロフェルドが、大金をゆすり取るために大金をかけた大仕掛けを作ったように。この時代は、まだ金を持った大資本≠ェ憧れのまとになるような時代だった。そして時がたって、大資本の金は当たり前に分配された。ことさらの金儲け≠ヘ必要がなくて、西側の人間は金があることを前提にして、生活を享楽しようとしていた。大金をかけたセットが「すごい……」と言われるのではない。それは、もう大作映画なら当たり前の話で、問題は、そういう大道具をどうやって生かすかだった。大金をかけたセットを使って、どうやってバカげた遊び≠ノリアリティを感じさせるかが、映画製作者の根性の入れどころだった。この時、金はもう目的≠ナはなくて、遊びの背景≠ノ変わっていたのである。だから、この時代の映画を見て、「自分はそんなに金持ちじゃないけれども、これを見ちゃったらもう金持ちだっていう気分になるな……」という錯覚が生まれたって不思議はない。金を儲けることが目的≠セった1960年代の人間達は、それだからこそ、「自分はまだ金持ちじゃない」ということを自覚していた。1970年代の末期になって、それは、「自分はまだ金持ちじゃないけど、本当だったら自分は大金持ちであるはずなんだ」という錯覚に変わったかもしれない。
それくらい、金がある≠フは、当然の常識だった。金がある≠ニいうことを前提にして、現在の世界の地球規模での滅亡を願うマッドな大金持ちの映画≠ェ、二本作られた。この『007私を愛したスパイ』と『007ムーンレイカー』は、シリーズの中でも最もお遊びの要素≠ェ濃い作品なのである。「今時大金をかけたセットを見せびらかすだけじゃ古い、それで遊ばなくちゃ」である。1980年代に入るとすぐに、1965年の『サンダーボール作戦』が『ネバーセイ・ネバーアゲイン』のタイトルでリメイクされた。もうコンピューターを駆使したハイテクの時代≠ナある。1965年に「すげェ……」と人に言わせた、大掛かりな水中での格闘シーンなんかは、当たり前になっていた。ハイテク時代に大掛かりなものはダサいのである。だから、『サンダーボール作戦』では貫禄のあるオッサンだった悪役ラルゴは、『ネバーセイ・ネバーアゲイン』で、ハイテクのコンピューターを駆使する気味の悪いオタク系青年実業家に変わった。時代は高性能でコンパクトになって、大掛かりはダサくて、「そんなの簡単じゃん」と言い放てるパソコン小僧は、なんだか気持が悪かった。1970年代末期の二本の007映画は、そういう手軽なハイテク≠ノ移行する前の、最後の大掛かりな娯楽映画だった。1960年代の末期に登場したマニアックなオカルト趣味(ハルマゲドンとか)は、こうしてこの時、大金をかけてお遊び≠ノ変えられてしまったはずなのだが、これを、そのまんまマジだかなんだか分からないままに、受け継いでしまった人間だっていたかもしれない……。
23 くだらないこと[#「23 くだらないこと」はゴシック体]
私はとってもくだらないことを問題にして、「果たしてオウム真理教に007が関係あるかどうかなんか分かんないじゃないか」というヒンシュクを買っているかもしれない。しかし、オウム真理教事件は、実はくだらない事件≠ネのである。くだらないディテールばっかりで出来上がっている事件≠ニ言ってもいいかもしれない。そして困ったことに、このくだらない事件≠ヘ、実際に多数の死者≠出してしまっているのである。地下鉄サリン事件は、五千人の殺人未遂≠含む、とんでもない規模の殺人事件なのである。オウム真理教事件で一番不気味なのは、くだらない≠アとと人殺し≠ェ、平気で並んでしまっていることである。
サリン攻撃を防ぐため≠ニ言われているオウムの空気清浄器はコスモクリーナー≠ナある。『宇宙戦艦ヤマト』である。私は、あのオウムの服のマゼンタピンクと緑と紫が大っ嫌いなのだが、あれは、日本のある種のアニメに必須の色彩感覚であろうと思っている。
オウム真理教事件には、当然のことながら、007映画よりもアニメが大きな影を投げている。「若者を勧誘するためには、アニメによる宣伝が効果的だった」ということで、オウムのアニメ戦略≠ヘ言われている。そうなんだろうと、私も思う。がしかし、「アニメによる洗脳」を思いついた人間の中身は、それだけだったんだろうか? 本当に、「若者はアニメで勧誘すればいい」だけだったんだろうか? 私は、それよりも、「私もアニメに出たい」なんじゃないのかと思う。
教祖がアニメになって出て来るのはいいが、その吹き替えを、どうして教祖自身がやるんだろう? リアリズムの追求か? 誠実な勧誘態度か? 声優を雇う金がなかったのか? そうじゃないだろう。あいつは、自分でアニメに出たかったんだ。なにしろあいつは、自分でオーケストラの指揮までやりたがるやつなんだから。
信じられないことと言えば、やはり1990年の、あの衆議院選挙だ。あれ[#「あれ」に傍点]で本当に全員当選≠ニかトップ当選≠ニかが可能だと思っていたんだとすると、やっぱり「頭がどうかしている」としか思えない。がしかし、あの人は、あれ[#「あれ」に傍点]で落選すると、「あきらかに票の操作がなされている!」と、本気になって怒っている。とすると、あれ[#「あれ」に傍点]は最高の美学による最高の戦略だったということになる。
あれ[#「あれ」に傍点]でよかったら、誰も「選挙運動をどう展開するか?」で悩んだりはしないだろう。幼稚園児が喜ぶ程度の歌と踊りとヘンなお面と……。
あの人は、あれ[#「あれ」に傍点]が「絶対にウケる」と思ってたんだろう。それが受け入れられなくて、それで激しく傷ついたんだとすると、あの人の中身はとんでもなく幼い=Bそれが最大の問題だろう。
24 麻原彰晃の話し方の不思議[#「24 麻原彰晃の話し方の不思議」はゴシック体]
果たして麻原彰晃は、権力者≠ノなりたかったんだろうか? それとも人気者≠ノなりたかったんだろうか? あの人が時折見せる子供のような笑い顔≠ゥらすると、後者のように思える。あの選挙戦がマジなもの≠セったとすると、あの人は、「あの選挙を通じて自分が人気者≠ナあることを確信したかった」という結論にしかならないと思う。既にあの時点で、麻原彰晃は真理党の党首で、宗教法人オウム真理教の教祖だ。十分に権力≠ヘ掌握している。既に掌握している権力を「もっと!」と言うのだったら、あの選挙戦はもう少し違っていたものになっただろう。あれ[#「あれ」に傍点]は、既に権力者≠ノなっていたものが、「それだけじゃいやだ、ボクは人気者≠ナもありたい」というさらなる欲望[#「さらなる欲望」に傍点]をスタートさせたものだろう。
それが挫折した。「内部を従えて権力者≠ノはなれても、でもその力は、外部では通用しない。自分は絶対に、外部の人気を集める人気者≠ノはなれない」というのが、その挫折の中身だろう。「1990年総選挙の敗北以後、急速にオウム真理教は武装化への道を歩んで行く」というのが正しいのなら、それをさせる憎悪≠フ正体はあるはずだ。そして、そんな憎悪≠ェあるのだとしたら、あの選挙戦から導き出されるものは、ただ一つである。「自分は、絶対に人気者になれない」――これだけだろう。「そういう憎悪ですべてをスタートさせる人間がいるのか?」と言ったら、「そこにいるんだからしようがない」だろう……。
あまり言いたくないことだが、「全盲ではない松本智津夫が全寮制の盲学校に行かされていた」ということは、とても大きなことかもしれない。しかもそこに、「障害者ということになれば、国から金が入る」という、彼自身の希望とはまったく関係のない家庭環境の貧しさ≠ェからんでいたとすると。
松本智津夫は、既に盲学校時代に権力者≠セったという。十分に体力があって、体格もよくて、しかも目が見えないわけではないのだから、そうなっても不思議はないだろう。がしかし、全盲ではない弱視の彼が、盲学校で権力を掌握して、どうなるのだろう? 彼は、別に盲学校に行かなくてもすんでいたような人間で、そういう人間が盲学校で権力者になっても嬉しいだろうか? いや、盲学校で暴力的になっていたというそのこと自体が、もしかしたら、「自分は間違ってここに閉じこめられている」ということの表れかもしれない……。全寮制の盲学校の中でしか権力者になれない彼≠ニ、オウム真理教の中でしか権力者になれない彼≠ヘ、本来が一つのものなのではないかと思う。
彼は、自分に従う、自分とは条件の違う人間≠セけではなくて、自分と同じ条件を持つ、自分と対等に接してくれる友達≠ニいうのを、きっと求めていたろうなと、私は勝手にも思ってしまう。
なんでそんなことを考えるのかというと、私には、あの麻原彰晃の話し方≠ェ気になってならないからだ。
あの人は、とても不思議な話し方をする。オウム真理教の信者のためのテープ≠ェテレビで流されて、私はぞっとした。あれは、ただエンエンと続くひとりごと≠ナある。「さァ、修行するぞ、修行するぞ、修行するぞ」の、例のやつ[#「例のやつ」に傍点]である。
あれは、人に修行を勧め、さらなる信仰の深みに誘い込んで行くアジテイションのテープである。それなのに、不思議なことに、すべての語尾が落ちている。「さァッ、修行するぞッ! 修行するぞッ! 修行するぞッ!」と語尾が勢いよく上がらない。かえって逆に「さぁ修行するぞ…… 修行するぞ…… 修行するぞ……」と語尾が下がっている。それが早口でエンエンと続いていく。語尾が下がるんなら、語頭に勢いがあるのかというと、そうでもない。「さァッ しゅぎょうするぞ」でもなく、「さァツしゅぎょうするぞッ」でもなく、「さァ しゅぎょうするぞしゅぎょうするぞ」という、不思議なイントネーションで続いて行く。
こういうイントネーションが熊本の方言にはあるのかと思って、麻原彰晃とそんなに年の違わない熊本出身の人間に尋ねてみたら、「確かに語尾は下がるけれども、ああいう[#「ああいう」に傍点]喋り方にはならない」と、この不思議なイントネーションが熊本方言ではないことを証言してくれた。もちろんそんな方言があるわけはなくて、これはある種の人間に起こるようなことである。
他人に対して積極的に語りかけることを目的として、しかもイントネーションがこんなに尻下がりになる理由は、そんなにない。
まず第一の理由は、その相手が嫌いな時である。「話はしなくちゃなんないが、でもこんなやつに話したくない」と思っている時、人間の話し方はこんな風になる。仕事の最中に電話に出なきゃならなくなった私の喋り方は、基本的にこれである――「なんだよ、うるせーな(電話なんかに出たかねーよ)」である。私の電話の無愛想は有名で、私はそれでいいんだが、しかし、まさか大切な信者のお客様に語りかけるテープで、それはないだろう。
この、語頭に力がなくて語尾も下がるような話し方≠ヘ、基本的に一人でブツブツ言ってる時の話し方≠ナある。だから、嫌いな相手に話をする時は、相手の存在を抹殺するようなひとりごと≠ノもなるが、これをもっと特殊な用途で使うと、相手を自分の方に引き込む話し方≠ノもなる。なにしろ、聞き手の存在を認めないような話し方なんだから、この話を聞かされる方は大変だ。話のいちいちに、「なァに? なに?」と、身を乗り出すようにしなければ、相手の言ってることが理解出来ない。あえて高飛車を演じるならこの手もあるが、しかしこれは、相手に嫌われる可能性が非常に高い。これが有効になるのは、信者がたった一人で、集中力を高めながら、じっとその声の録音されているテープに耳を傾けているような時だけである。テープから流れる声は、自分が一人で唱えなければならないような言葉をひとりごと≠フようにして語りかけてくれる。これを聞く信者は、麻原尊師と一体になって[#「一体になって」に傍点]、このテープを聞くことになる。いたって有効な話し方になるのだけれども、しかし私は、そうは思わない。「信者が尊師とひとりごと≠共有出来る」というのは、ケガの功名の結果論で、「麻原尊師はそんな目的でこんな話し方をしているのではないだろう」と、私は思う。ほとんど直感で、そう思った。
私の答はこうである――「これは、他人から一度もまともに扱われたことのない人間の話し方である」と。話をしていて、その相手が友達で、それで意見の一致をみてしまったら、その時「そうだよなー!」という相槌を打つ。人間の話し方の語尾が、うっかり下がってしまう≠ニいうことになるのは、自信がないからである。自信のない人間は、相手に話をしたくない人間と同じように、語尾が下がる。それを修正してくれるのは、「そんなこと気にしなくてもいいよ」という、友達の存在である。友達とか家族とか、そういう、話をする時にいちいち構えなくてもすむ相手≠ネら、語尾は下がらない。だから人間は、「外ではボソボソ喋っていても、ウチに帰って来るとエラソー」になったりする。「外ではエラソーに喋っていても、ウチに帰って来るとボソボソ」もあるけど。
どっちにしろ、人間は、対等になれる相手が存在して、はじめて語尾が不必要に下がる≠ニいう話し方を克服出来る。だから、こんなにも語尾の下がる話し方をする人間なんか、普通はそんなにもいないのである。麻原彰晃のように、絶対服従の信者がいくらでもいる人がそんな話し方をしなければならないのは、とても不自然なことなのである。
だから一応は、信者を引き込むためのひとりごと作戦≠ニいう可能性は考えられる。しかし、やっぱり違った。テレビで謎の盗聴テープ≠ニいうのが流されて、麻原彰晃の普段の話し方≠ニいうのがオープンになってしまった。有名な、新実智光を「バカものがァ」と叱りつける選挙の時の声≠ナある。この語尾が下がっている[#「下がっている」に傍点]。公然と「バカヤロー!」呼ばわりを出来る相手に対して、このイントネーションは、とってもヘンだ。「バカものがァ」の最後にあるが℃ゥ体が、公然と怒鳴りつけることを遠慮するためにつけられた保留の音≠セったりもする。このが≠ェあって、それで自然に語尾が下がる[#「自然に語尾が下がる」に傍点]。このが≠ヘ、語尾を下げるためだけに必要な音符≠フようなものなのだ。
なんでこんな話し方をするんだろう?
この人が普通の話し方≠するのは、ニコニコ笑いながら人に対している時だけだ。たとえば、「まず一万六千円をドブに捨てたと思って――」と、オウム真理教への入会を勧める時とか。
この人は、腰の低い商人《あきんど》≠ノなる時だけ、語尾が落ちない。不必要な早口にもならない。オウム真理教に神聖法皇として君臨するこの人は、実は、人に対して高飛車になるような話し方が出来ない人なのだ――私は、大方の予想に反して、そのように結論する。
この人は、人と対等に話をする≠ニいうシチュエイションに恵まれたことがない人なのだ。だから、語尾が下がる。だから、ニコニコと丁寧になれる。この人は、他人からまともに人間≠ニして相手にされたことがない人なのだ。この人は、他人と対等≠ノなったことがないのだ。この人にとっての他人との関係≠ヘ、必ず上下の関係≠セったのだろう。そうとしか思えない、独特な話し方である。
この人にとって、暴力で人を支配する≠フは、簡単なことだったのだろう。それしかしようがないからそれをして、この人はちっともおもしろくなかっただろう。だからこの人は、きっとみんなの人気者≠ノなりたかったのだろう。あの有名な、「ショショショ、ショーコー」の歌は、もう自分が十分に人気者になってしまっている≠ニいう前提で作られた歌なんだろう。数々のオウムの歌≠フ中で、あの歌だけがひときわ幼稚で、他と違っているのは、「選挙で当選間違いなし!」を確信しながら、喜々として作られたものだからだろう。その夢≠ェ破れて、彼は激怒した――。
幼稚≠ニいうことは、とんでもなく悲しい。
25 生産を奨励しない宗教≠ェ人間生活の上位にあったりすると……[#「25 生産を奨励しない宗教≠ェ人間生活の上位にあったりすると……」はゴシック体]
この章の結論≠ナある。
生産を奨励する宗教≠ニ別に生産を奨励しない宗教≠フ話を、もう一度持ち出さなければならない。
宗教には二つの側面がある。個人の内面に語りかける宗教=別に生産を奨励しない宗教≠ニ、社会を維持するための宗教=生産を奨励する宗教≠セ。現代の我々は、普通に宗教≠ニいうと、この個人の内面=個人の幸福≠ホっかりの、別に生産を奨励しない、ほとんど生産の豊饒≠ノ関心を持たない、キリスト教とか仏教のことばかりを考えてしまう。がしかし、宗教≠ニいうものは、悟り≠竍魂の救済≠ニいう、個人的局面に関わるものばかりではないのだ。社会の繁栄=生産の豊饒≠願って、個人の内面にあんまり目を向けない宗教だって、ちゃんとある。そしてそうなって問題になるのは、この二つの宗教のねじれ具合だ。
個人の内面に語りかける宗教≠ナある仏教やキリスト教は、セックスに対してあまりいい顔をしない。セックスを否定しないのは、五穀豊饒′nの、生産を奨励する=社会を維持する宗教≠セ。
豊饒≠ニは、すなわち性交による豊饒≠ナ、かつては社会を維持する宗教≠ナあった民間信仰≠ノは、必ず性欲の賛美≠ェある。それは豊饒の賛美≠ニいうことなのだから、あって当然[#「あって当然」に傍点]で、そしてしかし、個人の内面に語りかける宗教≠フ方は、そういう性欲を忌避する。仏教もキリスト教も、その点では同じである。「宗教と言えば清らかな崇高、性欲と言えばいかがわしい闇の邪教」という発想は、ここに由来する。性欲を肯定するのは、「即身成仏《そくしんじようぶつ》」を目標にして、性欲エネルギーを肯定する密教くらいだ。
問題はなんなのだろうか?
「キリスト教や仏教のような既成の宗教は、きれいごとだけで、性欲を肯定する密教だけが正しい」ということなのだろうか? そう言いたい人もいるだろうが、私の言うことは違う。もっと簡単なことである。それはつまり、「生産の空洞化は、いたずらな個人の神秘化を招く」である。
円高で「日本国内の生産の空洞化」が言われている現代ではあるが、生産の空洞化≠ヘ、別に現代に始まったことじゃない。「仏教が栄えて国が滅びる」という言葉が昔あったことは、既に言った。俗世間を一段と低く見る生産を別に奨励しない宗教=個人的なことを問題にする宗教≠ヘ、その初めっからそう[#「そう」に傍点]なのだ。個人の内面に語りかける宗教≠ヘ、自分からはなにも生産しないで、宗教の外にいる生産者の施しによって生きている。腰を低くして喜捨を得る宗教もあるが、勢いを得た宗教は、威張って生産者から搾取をする。生産を低く見ることによって、生産者からの支持や信仰を勝ち取ってしまうのだから、人間というのは不思議に矛盾した生き物である。
時として人間は、大切な仕事≠ニか社会≠ニか他人との関係≠ニかを放っぽり出して、ひたすら自分のことばっかりを問題にしてしまうものである――それも、別に今に始まったことではない。生産を奨励しない宗教≠ヘ、初めっからみんなそう[#「そう」に傍点]なのだ。自分のこと≠ェまず最初にあって、その他の俗事≠ヘつけたし程度。
「そのこと(=自分のこと)がまず重要だ」と思えば、当面それだけ[#「それだけ」に傍点]でもいいだろう。しかし、「人はパンのみにて生きるにあらず」と言われる人間は、パンを食うんだし、そのためには、どこかで誰かがそのパンを作るのだ。パンじゃないもの≠大切にするのもいいが、そういう時には、「生産の空洞化は、いたずらな個人の神秘化を招く」ということを忘れないようにしておかなければならない――それくらい、現代では実生活にリアリティがないのだ、というだけの話である。
私は、円高日本の生き延びる道は、輸入を増やして物価を下げて、そのことから必然的に人件費も下げて、小さな規模での生産≠再開発する[#「再開発する」に傍点]しかないと思っている。それは、たとえて言えば、「工場制手工業《マニユフアクチヤー》の復活」である。なんでこんな唐突なことを言うのかというと、これまでの人間は、生産する≠ニいう生活体系の中で人間に関する真実や事実≠学んで来たからである。
今のままでは、人件費の安い海外に工場を移転するしかない。日本の人件費が高くなりすぎたからだ。しかし、日本人がそんなに全員高給取りになったのかといったら、そんなことはない。物価が高く、人件費がそれに見合った高さになっていて、その結合状態が、よその世界から見れば異常な高さのところにあるというだけである。高い物価の筆頭は、土地の値段であろう。土地の値段は、既に借金≠ニいう形で凍結されている。土地や建物の不動産を持っている人間のかなりの部分は、同時に膨大な借金≠抱えている。だからいまさら、土地の取引というものもロクな形では起こりえないし、収入の増加が見込めない社会では、借金≠ニいう形で資産を抱えた人間達は、その金利の支払いに追われて、ロクな贅沢=浪費も出来ないだろう。結構な財産を持っているように見える人間達は、しかしつつましい生活≠しなければならないという点で、低額所得者とそうそう変わらないようになる。国民の間の賃金格差は開いたままであっても、その使える額≠ノ関してはそうそう大きな開きがなくなるような時代が、もうそこまで来てしまっている。だったら、物価は下げた方がいいのだ。賃金格差が大きく開いて、そこに羨望≠ニいうものが入り込む余地のあった時代はもう終わって、今や百万円の差よりも十円・百円の格差が問題になるような時代になりつつある。価格破壊≠ニいうのは、このような動きだ。
バブルの時代、百万円の現金にはロクな価値がなかった。そんな現金を使うよりも、一千万円の借金をした方が有利だったからだ。でも、そんな時代は終わった。今は、実際に使える百万円の現金の価値の方が重い。考えてみれば、これは金の価値がノーマルに戻ってきたということである。少額の現金にも重みがある。不景気でも物価が下がるというのは、そういうことだ。少額の現金に重みが出て来たのなら、給料が下がってもいい。人件費を下げなければ、生産の空洞化にしか行きつけないのなら、それをするしかない。
人件費を下げるためには、物価を下げるしかない。物価を下げるには、高い人件費をかぶせられている国内製品を避けて、輸入を増やすしかない。そうして貿易黒字を減らして、過剰な円高をノーマルな円安状態に持って行くしかない。そのためには、一時的に国内産業が大打撃を受けるだろう。大打撃を受けながら、安い人件費による高度な生産≠ニいう状態を回復するしかない。もっと正確な言い方をすれば、適切な人件費による高度な生産≠セ。資源が多かろうと少なかろうと、世界が丸い以上、貿易≠ニいうことを切り捨てるわけにはいかない。だとしたら、日本がこの後も貿易を継続出来るようになるためには、適切な人件費による高度な生産≠回復するしかない。それをどうするのかと言ったら、当然機械化≠ニは反対の、高度な技術を持った人間の手による工場制手工業≠オかない。農業も漁業も商業も、すべての産業はそういう形でのハイテク化を目ざすしかないだろう。なぜならば、それは、「人間対人間《マンツーマン》の関係で、労働現場で直接人間が技術を教える」ということを必要とするからだ。それをしなければ、具体的な人間関係≠ェ滅んで、もう生産もへったくれもなくなるだろう。
今の日本で人間の(特に若い人間の)感情がおかしくなっているのは、日常生活の中にノーマルな人間関係がないからだ。「家族が一番あたたかい」などと言っても、所詮家族は、閉鎖的な人間集団の一つ≠ナしかないのだ。家族の外にノーマルな人間関係がなかったら、人間は家の中から外へ出て行けない。そして、家の外にある一番ありふれた人間関係の場所≠ヘ、労働の場所≠ネのだ。≪人間は、生産する≠ニいう生活体系の中で人間に関する真実や事実≠学ぶ≫なのだ。これを考えない限り、仲間≠熈恋愛≠烽ネいだろう。そういう愛情の濃度の高い関係を作るためには、一番最初のただのありふれた人間関係≠ェ基本になければいけないのだ。それがなければ、人間は人間関係≠サのものを誤ってとらえてしまう。1995年の日本を震撼させたオウム真理教事件は、まさに、そのことを言っているのではないだろうか? なにしろこの事件には、「出家も解脱もいいけどさ、それじゃあんた、人間として失格だよ」の一言が出て来ないのだから。
この一言が出て来て、この一言がまともに通用すれば、こんなひどい事態にはならなかっただろう。「人間≠考える」というのなら、その前提として、まずこの一言の中にある人間≠、人間の基準にするべきだ――「出家も解脱もいいけどさ、それじゃあんた、人間として失格だよ」の中の人間≠。
人間がお互いにつきあっていない。つきあえていない。濃厚すぎる関係≠セけがあって、人間関係というものはそういうものだと、勘違いしている。だから、宗教という濃厚の中で、オウムの信者はバラバラになっている。「それを知らないで大人≠烽ヨったくれもない」という事実が、平然と隠されている。だから、生産の空洞化≠ニいう由々しい事態が、「関係ないじゃん」で見過ごされている。
この人間関係の欠落を放置して、空洞化した日本でもう一度生産≠再開するとしたら、一体誰がどのようにして、生産≠ニいうものを知らない人間に、その生産技術を教えるのだろうか? 教えられるわけがない。だから、一度空洞化した日本の生産は、そのまま再開されることなく、滅びるのだ。こんな恐ろしい未来を目の前にして、それでも平然としていられる会社人間達の胸の内が分からない。
生産の空洞化は、いたずらな個人の神秘化≠招いて、個人の自由≠ヘ、神聖ニシテ侵スベカラズ≠フレベルにまで達してしまった。「お前ごとき人間の言う個人の自由≠野放しにしたら、お前は人を殺しても自由≠ナいられることになるな」のレベルまで、実際問題、来てしまっているというのが、オウム真理教事件のある日本だ。
「こんな子供達がなぜ生まれたんだろう?」は、「なぜこんな子供達に育ってしまったのだろう?」だ。子供を育てるのは、社会全体の仕事なんだ。それを「親の責任」と言って、孤立状態の中にあった親達を責められるんだろうか? それを「学校の責任」と言って、学校にすべてを預けっ放しにしていた親の責任はまぬがれるのだろうか? それを「今の社会の責任」と言って、そういう社会になるように方向づけてしまった人間の責任は問われないんだろうか? それを「社会の責任」と言って、なんらかの形で社会と関わりを持っているはずの日本人一人一人の責任は問われないんだろうか? そして、それを「周囲の責任」にして、愚かだった当人の責任は問われないんだろうか? ただ刑事事件である部分だけを問題にして、すべての処置を警察に任せるだけにして、それで「あれは特殊な犯罪」と言っていられるんだろうか? 情けない結論≠ノなってしまった。
情けないことに我々は、このとんでもない異常事件を目の前にして、ただ「分からない……」を連発していただけなのである。
関係がない[#「関係がない」に傍点]から、分からないのだ。だから、「関係がある」と思わなければならないのだ。
逆説的なことを言えば、ハイテク日本の貿易上の勝利は、人手不足から起こった。人手が足りないから機械化で補って、生産する会社日本は隆盛を迎えた。そうなって、仕事をいやがっていた若者達は、カネやタイコで会社に迎え入れられた。彼等の入った会社に、ロクな仕事はない。肝心なところは、みんな機械がやってしまうからである。機械が金儲けをして、人間は自分の取り分を取るだけになった。働かなくても給料は入る。給料とは、「会社に入ってやった[#「入ってやった」に傍点]自分がもらう、当然の権利」になったのである。そこから、高賃金高物価の日本が生まれて、生産の空洞化が起こる。そして、その生産を取りもどそうとしても、機械がその役割を奪っている。「機械があって人間の数が少ない」――それがこの日本の生産の現場である。ハイテクの工場から、小さな村の田んぼまで――。
生産の場に人間がいない。だから生産の場が寂しい。だから生産の場に入って行くのには決意がいる[#「決意がいる」に傍点]。生産の場に入ることは、今や孤独を決意することでもある。だから、生産の空洞はジリジリと広がる。
もう一度考え直した方がいい。「なぜ人手不足は起こったのか?」と。既にその時、若い人間は「自分が大事」で、生産の現場はそんな人間達の声を汲みとれなかったのだ。だから、その仕事は嫌われた[#「嫌われた」に傍点]。「3K」という、仕事を忌避するくだらない条件が、本当にその職場を衰退させたのだ。自分の頭でものを考えるための足腰を強くさせるはずの職場が、その機能を失っていた。それだからこそ、自分の頭でものを考えようとした若いやつらのその考え≠ヘ、妄想というところにしか行き着けなかったのだ。
生産の場に人間を戻すためには、機械を取り除くしかないだろう。もう既に世界に十分物はあふれて、そんなに数≠作り出す必要などないのだ。生産の場は、今や人間の生活のある場≠ノ復活しなければならない。それをするために、量産しか能のない機械を追放した方がいい。そうして、「人手不足や過疎はなぜ起こったか?」を考えてみればいい。そうすれば、おのずとその答は見えてくるのだと、私は思う。
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第X章 なんであれ、人は非合理を信じたりはしない[#「第X章 なんであれ、人は非合理を信じたりはしない」はゴシック体]
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26 もしかしたら松本智津夫は、有能なヨガの教師だったかもしれない[#「26 もしかしたら松本智津夫は、有能なヨガの教師だったかもしれない」はゴシック体]
なんであれ、人は非合理を信じたりはしない。「非合理だから、目をつぶって信じてしまう」のではない。合理的だからこそ、信じる≠ニいうことが可能になるのである。人間はそんなにバカではない。そして、一度信じてしまったら最後、その合理性がご破算になってもまだ信じようとして、「非合理を信じている」という悲惨を迎えるのである。人というものは、そのように愚かな生き物である。
愛情とは、「非合理になってしまったとしても、それでもまだ信じていたい」と思う心である。人はそのように、自分が可愛いのである。非合理になったものを愛しているのではない。なくしたくないものは、合理的だと思って信じた、その時の気持である。その時の、「自分と他とが一体になれた」という、至福の記憶である。人間が頭で考えるだけの生き物≠ネら話は簡単だが、人間はまた、心で検証する生き物≠ネのである。だから、いつの間にか頭が置き去りをくらって、「非合理を信じている浅ましさ」を露呈してしまうのである。
さて、オウム真理教である。
オウム真理教は、本当に百パーセントインチキでいかがわしい偽宗教なんだろうか? それを未だに捨てられないでいる信者は、本当にマインドコントロール≠ノかかっているのだろうか?
暴力的な拉致監禁や薬物投与の犠牲になった人ももちろんいる。しかし、そうならなくて、信者のままでいる人間だって、かなりの数がいる。どうしてそういうことになるのだろうか? 本当にマインドコントロール≠ネのだろうか? 人間は、本当にそんなに簡単に、わけの分からない他人の言いなりになってしまうものなんだろうか? 自分から進んでそうなっている[#「そうなっている」に傍点]≠フかもしれないのだ。自分から進んでそうなっている[#「そうなっている」に傍点]≠ニいうことの中に、なにか確実な根拠≠発見してはいけないんだろうか?
信者が信者であるためには、なにかそれにふさわしい根拠≠セってあるはずである。オウム真理教の中には、もしかしたら、別に宗教になっている必要のない[#「宗教になっている必要のない」に傍点]真理≠ニいうものだって、あるのかもしれない。それを見つけられないでいるから、つまんない形で信仰≠ノひっかかっているだけなのかもしれない。そういう、真理であるような根拠≠セって、オウム真理教の中にはあるかもしれないのだから。それだからこそ、信者の心の中には、現実の松本智津夫≠ナはない、自分の中の麻原彰晃≠ニいうものだって存在しうるのだ。教団になにが起ころうと、ただ「尊師はまだ生きてますから」と言って信仰を崩さない信者が多数いるということは、彼等が自分の中の麻原彰晃≠信じているからだろう。問題は、「彼等が自分の中の麻原彰晃≠設定していられるだけの根拠≠ニいうものはなにか?」ということなのだ。オウム真理教が信者に与えた真理≠ニは、それだろう。
それはおそらく、尊師への愛≠ナはない。もっと合理的な、尊師の教え≠信じるに足るような自分の中の確証≠ナある。
オウム真理教の信者になった人間の入り口として、オウムのヨガ道場≠ニいうのがある。「ここでヨガを習って信者になった」という人が、結構多いらしい。「病気になって、その後遺症に悩んでいて」も多い。根拠≠ヘここ[#「ここ」に傍点]だろう。私は、麻原彰晃こと松本智津夫の教えていたヨガは、結構効果のあるいいものだったんじゃないかと思う。なにしろ、オウム真理教≠ノなる以前には、彼がチベットだかインドだかで習って来た本式のヨガ≠教わりに、ヨガの教師達もその道場に通って来ていたというのだから。麻原彰晃=松本智津夫という、知性とは無縁の肉体性の権化≠ンたいな人間を見ていると、「この人のヨガだけは本物だったんじゃないか」という気にもなる。そういう人間が一方にいて、もう一方には、肉体性ゼロ≠ニいう人間だっているのだ。「生産の空洞化」とは、とりもなおさず、生産の拠点≠ナある肉体の空洞化なんだから、オウムの信者になった人間の多くは、肉体性ゼロの現代人だったんじゃないかと、私は勝手に推測するのだ。
オウム真理教付属医院の医師林郁夫――逮捕後真っ先に自供を始めて、「医者は根性がない」と言われてしまったその彼が、入信直後にヨガの修行をしているシーン≠フビデオを、テレビで見たことがある。見て、少しあきれた記憶がある。「ほんとにこいつはインテリだな、ヨガの才能がまったくない」と、その時の林郁夫の硬直した肩の動きを見て思った。肩の力を抜く≠ェヨガの原則なのに、この人はそれが出来ないのだ。力を抜くことが出来ずに硬直したままになっている自分の肩を、この人はあきらかにもてあましていた。そんなことが起こるということは、彼がそれまで、自分の肉体≠ニいうものを自分で把握しようとしたことがないからだ。
医者は人間の肉体のシステムに関わって行くものだが、それだからといって、医者が人間の肉体をきちんと把握しているかどうかは分からない。西洋医学の身体観が曲がり角に来て、東洋医学の身体観にスポットが当てられたのは、そういうことを意味する。他人の体の病気を治す医者が、自分の肉体≠把握しているかどうかは分からない。それこそ人さまざまで、自分の肉体に関する直感≠ゥら新しい身体論理≠探そうとする人もいるだろうし、ギクシャクした自分の肉体にまったく鈍感なまま新しい治療法≠ホかりを本で知る人だっているだろう。人間は、困ったことに、いともたやすく自分の肉体を虐待する。過労≠ニいうのはその典型的なもので、体は疲れきっているのに脳だけが異様に冴えているということだってある。肉体の発する異常信号に気がつかなくて、自分の肉体を把握することを忘れて、それでどんどん病状を悪化させて行くことだってある。
人間の体の構造は複雑だ。異常が起こっても、それを自分から進んで治してしまう自然治癒力≠ニいう不思議なシステムだってある。肉体の構造そのものが複雑なところにもってきて、それを「把握しよう」とする脳がある。「もう把握している」と脳が思えば、その人間は、「自分の肉体を把握している」になるのだが、もしもその脳に、自分の肉体に関する十分な知識≠ェ欠けていたら、その人間は、自分の身体を平気で虐待することになるだろう。
肉体のあり方と、その肉体を自分の肉体≠ニして把握する脳の感じ方とには、結構な開きがある。そのギャップが大きすぎれば、そこに超能力≠ネどというとんでもない妄想をはびこらせることだってあるだろう。超能力≠ニいうのは、それを持っている人にすればいたってなんでもない普通のこと≠ナ、それを身体感覚の欠落した人間が過大視して、超能力≠ニいう妄想を作り上げてしまうのだ。身体感覚のない人間が、超能力≠ニいう妄想を作り上げる。身体感覚だけの人間も、超能力≠ニいう妄想を作り上げる。肉体が鈍感なら、自分の肉体になにが起こってなにが起こらないかが理解出来ない。脳ミソが鈍感なら、妄想に歯止めをかけられない。身体感覚≠ニいうのは、だから脳ミソの勘違い≠セったりもするのだが、そんなことを言って無用な混乱をばら撒かない方がいいだろう。
要するに、「身体のことは身体にまかせろ」である。にもかかわらず、人間の脳ミソはデシャバリだから、平気で、「自分の肉体はこういうものだ」と決めつけてしまう。そういう人間もいれば、その一方で、「自分の身体? はて……?」と、平気で肉体をなおざりにしっ放しの人間だっている。林郁夫という人は、「自分の肉体をなおざりにする人」だったのだろう。私は彼を、「運動神経ゼロの男」と決めつける。「身体感覚ゼロ」とか。彼はきっと、頭だけで生きていた男≠セろう。そういう彼がヨガに出会った。自分の身体に働きかけて、自分の身体を刺激して、自分の身体を把握しようとするヨガに。
きっと彼には、ヨガが効いた[#「効いた」に傍点]んだろう。効いて[#「効いて」に傍点]、彼は自分の中になにか≠発見したんだろう。もっと正確に言えば、「きっとなにか≠ェ発見出来る」という確信≠セけはつかめたんだろう。「確信≠セけが先にあって、しかしその到達≠ヘ遅々たるものだったのだろうな」という類推だけは、彼のヨガに対する才能のなさ[#「才能のなさ」に傍点]から、いとも簡単に出来る。
だから彼は、それを身体で[#「身体で」に傍点]確信出来なくて、いちいち麻原尊師に、言葉で[#「言葉で」に傍点]尋ねたりしたのだろう。体が硬くて、自分の体の中に自分の身体≠発見出来なくて、かえって、「なにか≠ェある……、なに≠ェあるんだろう……?」と思って、意味不明であるがゆえの神秘≠発見してしまうようなインテリは、ヨガの修行を頭≠ナしたのだろう。そのようにして、自分の肉体を、麻原彰晃の語る不可思議な論理の中に追い込んでいったんだろう。
「その不思議な論理≠ヘ確かにあって、しかし自分にはまだ確認出来なくて、しかしすぐれた指導者である尊師がある≠ニ言う以上、それは必ずあるのだ。それはある[#「ある」に傍点]のだから、医学者である自分としては、その論理を体系づけて行けばいいだけだ」――ぐらいのことは考えたかもしれない。
愚かというか、不思議というか、どうして自分の肉体の論理≠自分で発見しないで、他人の作った迷宮≠フ中に閉じ込めてしまうのだろうか? 麻原彰晃は、身体性に暗い林郁夫を、彼が暗い≠フをいいことにして、いいように引きずり回したのだ。それはきっと、彼がずーっと以前に自分の同級生達にしたことと同じことだったのだろう。
なんでそんなものに引きずり回されるのだろう? 私には、それがまったく理解出来ない。自分の[#「自分の」に傍点]肉体の論理≠発見出来るのは、その肉体の持主である自分自身≠セけなのだ。それまでに一度も自分の肉体≠ネるものに対して考えをめぐらせたことのなかった人間達には、きっとこのことが理解出来ないのだ。だから、肉体の論理≠操ることが出来る唯一の人間である教祖麻原彰晃に、彼等はおとなしくついて行ったのだろう。本当に、「生産の空洞化は、いたずらな個人の神秘化を招く」だし、「未熟な人間は、自分の頭で十分にものを考えることが出来ない」の典型だ。
自分の中の麻原彰晃≠ニいうようなものは、まだ自分の頭でものを考えることが出来ない人間のする、思想の人格化≠ネのだ。宗教というものは、思想を思想として抽出することが出来ない人間がした、思想の人格化≠ゥら始まる。つまり、人格化された思想≠フ最たるものが、神≠セというわけなのである。
27 遂にお釈迦様の出番が――[#「27 遂にお釈迦様の出番が――」はゴシック体]
オウム真理教が仏教徒≠セと言うのなら仏教徒でもいいのだが、しかしそれなら、こういう話は知っているのだろうか?
オウム真理教の方では、もっぱら「サキャ神賢」と言っているらしい仏教の開祖ゴータマ・ブッダは、苦行を捨てて悟りを開いた[#「苦行を捨てて悟りを開いた」に傍点]のだ。悟りを開く≠ヘ、すなわち解脱する≠ナある。
紀元前の四世紀あるいは五〜六世紀、ゴータマ・ブッダの没年には説によって百年以上の開きがあるからこういうことになるんだが、そのゴータマ・ブッダの時代のインド人達は、輪廻転生を信じていた。そう書くとなんだかノンキな話みたいだが、この時代の輪廻転生とは、「輪廻転生の宿命の中で永遠に生き続けるしかない[#「しかない」に傍点]」だった。人は永遠に輪廻転生の苦しみ≠フ中にいて、そこから救われる方法はただ一つ、悟りを開いて解脱することだけだった。そうすれば、もう死んだ後で生まれ変わる必要はない。つまり解脱とは、普通の現代人になることだったのである。
普通の現代人は、輪廻転生なんかを信じていない。「死んだらそれまで」だと思っている。だから、「もう生きることに疲れました」と言って自殺してしまう人間もいる。「死んでしまえばそれまでだ」と思っているから、そういうことになるのである。「輪廻転生を信じたい」と思っている人間はいても、「再び生まれ変わる恐怖」などというものを抱いている人なんかいないだろう。でも、ゴータマ・ブッダの時代、古代のインド人はそう信じていたのである。
ということはどういうことか? まず第一に、「彼等にとって生きる≠ニいうこと自体が苦しいことだった」というのがある。そうでなければ、「またあんな苦しいことを繰り返さなければならないのか……」などという発想は生まれない。第二に、彼等が「自分の人生を生きている≠ニいう自覚が持てなかった」ということがある。そうでなかったら、輪廻転生の法則なり宿命なりに従って、生きることを繰り返させられている[#「させられている」に傍点]などという発想は生まれない。そういう前提が、解脱を求めようとした古代のインド人にあったということである。だから、その悟りを求めて達成させたゴータマ・ブッダ(解脱以前の名はゴータマ・シッダルタ)の求めたものとは、「自分の人生は自分のものだ≠ニ思うこと」だったのだ。つまり、輪廻転生なる宇宙の法則からの勝利とは、自我の獲得≠セったのである。だから、ゴータマ・ブッダの得た悟りとは、近代合理主義の開祖であるフランスのデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に近いのである。「我思う、ゆえに我あり」は、当然のことながら宗教からの自由≠ナある。つまりそれは、「私は神によって存在を許されているのではなくて、自分自身のありように従って存在しているのである」で、ゴータマ・ブッダの悟りは、これに似ている≠ナはなく、これとおんなじだ≠ニ言った方がいい。ゴータマ・ブッダという人は、デカルトより二千年以上も前に「我思う、ゆえに我あり」を自覚した人なのである。
ゴータマ・ブッダとデカルトの違いは、その二千年以上の歳月の開きである。デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」を本に書いて出版してしまった。ゴータマ・ブッダは、それを一人で自覚して、その彼は自覚している≠ニいう事実がパニックに近い驚愕を引き起こしたということである。
「一体そんなことのどこが宗教≠ネんだ?」という疑問はあるだろう。その「Why?」に対する答は、「その認識にいたることが、当時としては想像を絶するようなむずかしいことだったから」しかない。「彼はとんでもないことをやってしまった。そんなことが自力で理解出来るなんて尋常じゃない」という状況でもなければ、彼に対する神賢≠ネどという言葉は生まれない。神賢≠ニは、神のように賢い者・神にも等しい賢者≠ネのだから。
言われてしまえば簡単だが、当時の人は、解脱≠ニいうことがそういうことなのだとは分からなかった。解脱する∞悟りを開く≠ニいうことがそういう風に考えること[#「そういう風に考えること」に傍点]なのだとは、とても思えなかったのである。それあればこその、ゴータマ・ブッダの偉大≠ネのだ。
ゴータマ・ブッダが悟りを開いて解脱する以前には、「解脱とは、苦行によってなにか特別な存在≠ノなること」だと思われていた。特別なもの≠ニは、宇宙の真理であるアートマン≠ニかいうようなものである。そういうものと一体化して特別な存在≠ノなる――それこそが解脱≠セと思われていたのである。
「輪廻転生を受け入れねばならない自分は、ただの人間≠ナある。解脱をすれば、それを受け入れなくてもいい。だとしたら、そんなことが可能になるものがただの人間≠ナあるはずはない」――そういう風に考えれば、解脱する≠ニいうことは、「この自分がなにか特別なもの≠ノなること」としか考えられない。だから、解脱ということが超能力を得ること≠ネんていう風に錯覚されたんだろうが、残念ながら、解脱というのはそんなものではない。ただ、ただの人になること≠ネのである。
ただの人になる≠チたって、人間はいろんな考えにつきあわされて、それに惑わされている。「氾濫する膨大な情報に混乱させられて、まともな判断が出来にくくなる」と、これはおんなじことである。「他人の考えや既成の考えに惑わされず、自分の頭でちゃんとものを考えたいな」と思ったって、それはそんなに簡単なことじゃない。だから、ただの人になる≠ニいうことは、そんなに簡単じゃないのである。
そんなに簡単じゃないけど、でもただの人になること≠ヘ、超能力者になること≠カゃない。そんなことはいたって簡単に分かることなんだが、現実というものを見失ってしまって、たった一人の世界≠ノさまようことになってしまった人間には、そのことが分からない。自分だけがいて、その自分と比較対照される他人≠ェいないんだから、分かりっこない。自分一人の世界の中で、なんとかして「自分は特別なんだ」と思い込もうとする。「解脱という特別な状態[#「特別な状態」に傍点]を得て、なんとかして自分は特別なんだ≠ニいうことを証明しよう」とする。解脱に関する混乱≠ヘ、そんな風にして起こる。たった一人の世界≠ノ追い込まれてしまった人間は、自分をそんなところに追い込んでしまった他人達≠憎んでいて、その憎らしい他人達への手前もあって、「ここから抜け出した時には、なんとかして特別なもの≠ノなってないとカッコがつかないな」と思う。だから、現代で解脱を求める≠ネんていうヘンなところへ入り込んでしまった人間は、一生懸命特別なもの≠求めるのである。
今の日本じゃ、別に宗教≠ネんてものの中に入らなくても、ただの人≠ノはなれる。でも、仏教を追い払って、ゴータマ・ブッダ式の解脱≠ニいう考えをなくしてしまっているインドでは、まだゴータマ・ブッダ以前の解脱を求める≠やっている人だって、当然のことながらいる。ヨガには古い歴史があって、昔はこれが、れっきとした悟りを得るための特別の修行≠フ一つだった。ヨガで言うところの「体の中のチャクラを開く」は、「自分の中にあるはずの特別なものになるための回路≠開いて作動させること」なのである。そういうことにどれほどの意味があるのか、またそれがそんなに特別なこと≠ネのかどうか、私には分からない。だがしかし、解脱≠ニいうことをなにか特別な自分になること≠ニ思い込んでしまえば、「それこそが必須の修行」にもなるだろう。「チャクラを開く」が、果たして特別なこと≠ネのか、それとも存外当たり前の普通のこと≠ネのか。それは、それをする人の考え次第だろうが、「特別の自分になって今までの屈辱を一挙に清算してやる」と思ったって、そんなことが解脱≠ノつながらないのは、もちろんのことである。
28 ちょっとしたインド宗教史[#「28 ちょっとしたインド宗教史」はゴシック体]
結局、ゴータマ・ブッダの生まれたインドでは仏教がはやらなくて、そこは外からやって来たイスラム教や、ずーっと古くからの土着の宗教に由来するヒンドゥー教の土地になってしまった。解脱への苦行≠ヘ、やるんだったら、今はヒンドゥー教徒のものである。ゴータマ・ブッダの教えを排除して、そのゴータマ・ブッダを生んだ輪廻転生の風土≠ヘ、結局、カースト制度を肯定する複数の神々≠持つヒンドゥー教を選んだのである。
突然こんな話をするのもなんだが、ついでだからやっておくと、ゴータマ・ブッダの教えが古代のインドで広がったのは、それがカースト制度を否定する自由の教え≠セったからである。そしてそれがインドから消えてしまったのは、インドという社会がカースト制度による便利≠選んだからである。
古代インドの輪廻転生思想は、実のところ、身分制度≠肯定する。古代インドには四つの階層があって、それが、バラモン(祭司)、クシャトリヤ(武士)、ヴァイシャ(商人)、スードラ(奴隷と解されている)。身分というものは出生によるもので、これは固定化されて動かない。四つの身分の一番上に立つのは、古い支配者階級でもある祭司のバラモンで、このバラモンを一番上に置いて、古代インドの社会は固定されていた。その社会の中で力を得て来たのが、武力を持ったクシャトリヤである。祭司のバラモンは神官になるが、武力を持ったクシャトリヤは王になる。世俗の権力は戦争をするクシャトリヤが握り、戦争に勝った彼等は新しく広大な国≠ニいう単位を作り、古い権力者のバラモンは、田舎の地主≠フような存在になる。
クシャトリヤが世俗の王になっても、バラモンがその上位に立っていることに変わりはない。なぜならば、輪廻転生の思想はすべての身分を覆って存在していて、そこで出家をして解脱を求める修行の旅に出られるのは、バラモンの身分の者だけだったからだ。
もっと正確に言えば、バラモンの身分の人間だけが、「解脱を求めて出家する」というライフスタイルを持っていた[#「ライフスタイルを持っていた」に傍点]。クシャトリヤやヴァイシャやスードラの身分の人間は、「輪廻転生という宇宙の法則はあって、解脱を求めて出家するというバラモンのライフスタイルもあるけれど、それはそれとして[#「それはそれとして」に傍点]、自分達は自分達の身分のライフスタイルを生きればよい、生きるしかない」と思っていた。ゴータマ・シッダルタは、そういう身分制の社会にクシャトリヤの息子として生まれた――つまり王子様≠ナある。
「クシャトリヤの息子なんだから、解脱を求めて出家する必要なんかない」と、父親は思っていた。しかし息子のシッダルタは、出家を求めた。日本風に言えば、「武士の息子が坊主になりたがった」である。もちろん父親はそんなことを喜ばない。日本風に言えば、これは、「百姓の息子が学問してどうするんだ」である。
クシャトリヤの風変わりな息子であるシッダルタは、出家と解脱を求めた。この古代インドに、「クシャトリヤの息子が出家をしてはならない」という規則はなかった。がしかし、普通はクシャトリヤの息子はそんなことをしなかった。なぜかと言えば、「そんなことをしてもムダだ」ということを知っていたからだ。そこが身分制社会のゆえんたるところなのだが、世の中で一番上の身分であるバラモンこそが、人間の中で一番解脱に近い身分≠セったからである。「人間は輪廻転生の中でいろいろに生まれ変わる。生まれ変わって、前世に徳を積んだ人間がいい身分に生まれ変わる」――これが輪廻転生の原則で、バラモンは、その一番いい身分≠ネのである。だから、そのバラモンの下であるクシャトリヤの身分に生まれついたゴータマ・シッダルタには、解脱なんか出来る可能性が(本来なら)ないのである。だから普通は、クシャトリヤの息子は出家なんかしない。出家なんかするのは、バラモンの中の余裕のある男≠セけだった。
出家というのは、家族を捨てることである。だから、一家の長である男に出家されたら家族は困る。だから、責任ある一家の長は、家族が食って行くのに困らないような手を打って、それから出家をした。だから、バラモンで出家が可能だったのは、余裕のある男≠セけだったのである。
なんで女が出家をしなかったのかというと、古代のインドで思想≠ヘ男のものだったからである。別に古代のインドに限らず、古代の社会は、まず女に思想≠与えなかった。女に出家を許して女に男の思想≠フ一部を与えたのは、古代インドで身分の垣根を越えた解脱を達成してしまったゴータマ・ブッダだけで、女に思想世界への参加≠認めた人間は、彼が世界で最初である。女がそういうものに参加をしたいのかどうかは別として、余計なことをはっきりと言ってしまえば、もしかしたら世界観≠ニいうものは、所詮は男の妄想≠ナしかないものかもしれない。オウム真理教にたった一人で立ち向かって、終始冷静な姿勢を崩さない江川紹子氏を見ているとそんな気がしてくる――余計なこと≠ナはなくて、これは意外と重要なこと[#「重要なこと」に傍点]かもしれない。
さらについでに余計なことを言ってしまうと、オウム真理教が「虫を殺さない」というのは、古代インド以来の輪廻転生思想のゆえである。なぜかというと、人間は輪廻転生の中で虫に生まれ変わるかもしれないからだ。つまり、虫を殺す≠ニいうことは、虫になっている人間を殺す≠ニいうことでもある。つまり、「虫を殺すな」は慈悲の教え≠ナもなんでもなくて、殺人の禁止≠ネのである。オウム真理教の信者は、果たしてそういうことを分かっているんだろうか?
ゴータマ・シッダルタは、本来なら解脱出来る資格なんかないはずのクシャトリヤから出て、解脱をしてしまった。解脱してゴータマ・ブッダ[#「ブッダ」に傍点]である。ブッダ≠ニは、「真に覚醒した人、真に悟りを開いた人」のこと。だからこの当時は、「真でもない悟りを開いてブッダ≠称するニセモノがうようよいた」ということである。なにしろ、バラモンの金持ちは、まるで「定年になったら趣味に生きる」というノリで、「人生の後半には出家をして解脱を求める」というライフスタイルを持っているんだから、へんな苦行にはまって、「私は解脱した!」という錯覚に陥って、それで平気で弟子を取っていた人間だっていただろうというのである。ちなみに、このブッダ≠ニいう言葉が中国語に訳されて仏陀《ぶつだ》≠ニなり、日本語の仏≠ノなる。ホトケ様≠ヘ、死人≠フことでもないし、雲に乗って現れる神様のようなもの≠ナもない。ただの「真に悟りを開いたとされる人間[#「人間」に傍点]」のことなのである。
ゴータマ・シッダルタは、悟りを開いてブッダになった。その彼は、だから当然、誰にでも教えを説く。「自分の人生は自分のものだと思ってもいいんだよ。でも、そんなこといきなり言われたって分からないかもしれないし、ロクな教育受けてないんだから、そんなことをきちんと実感出来ないかもしれないけど、でも、それはホントのことなんだよ」と。「一体そんなブッダの言葉が仏典のどこに書いてあるんだ?」と不審に思われる人もいるかもしれないが、ゴータマ・ブッダの思想とはそういうものなのである――それだけのことなのである。こういう風に説明しないから、仏教というものがリアリティを失ってしまっただけなのである。仏教関係者は、少し反省をした方がいいと思う。
ゴータマ・ブッダ以前、女に出家を許した人間もいないが、ゴータマ・ブッダ以前に、バラモン以外の階層の人間に教え≠説いた人間もいないのである。
バラモンの身分に生まれたということは、生まれ変わるとしても、もうそれ以上の身分は人間社会にない[#「もうそれ以上の身分は人間社会にない」に傍点]のだから、もう後は、金を貯めて出家して解脱するしかない――そういうところで、「定年後は趣味の生活」ならぬ「後半生は出家生活」というライフスタイルがバラモン達には出来ているのだから、こういう人間達がたとえ解脱を遂げたとしても、他の身分の階層に教えを説く≠ネんてことをするはずがない。そういういたってノンキにしていやみったらしい現実があったところに、ゴータマ・ブッダの教えがやって来る。ゴータマ・ブッダは、「カースト制度を廃止せよ!」なんていう社会運動には全然手を出さない人だけれども、彼の教え≠ェ「カースト制度の無意味」を暗示しているのは理の当然であろう。
ところでしかし、インドではカースト制度がなくならなかった。なぜなくならなかったのかというと、自分の頭でものを考えて生きて行くということが、とてもむずかしいことだからである。学校≠ニいうものがない時代に、「自分の頭でものを考えて自分の職業を自分の手で成り立たせて食って行けるようになること」は、とてもむずかしいことだからである。学校がある時代だって、これはとってもむずかしい。だから、「自分には格別な特技もないからサラリーマンだな」と思う人間は、それに従って大学というところへ行くのである。
仏教は、「自分の人生は自分のものだ」で始まったものだから、自分の頭でものを考える≠ェ原則なのである。これが、学校≠ニいう教育のシステムが存在しない紀元前の時代に生まれてしまった。学校教育≠ニいう、社会がその成員たる子供達の教育をわけへだてなく受け持つ≠ニいう制度は、ヨーロッパの近代になってはじめて誕生するものなのであるから、ゴータマ・ブッダのいた時代に、「自分の頭でものを考えてもいいんだよ」と言われたって、ほとんどの人間が「どうすりゃいいんだ……?」で頭を抱えたのは、当然のことであろう。そして、大学という高度な教育≠するところが職業教育≠ニはほとんど無縁なところであるということを考えてみれば、「自分の頭でものを考えられる」と「自分の腕に食って行ける技術が宿る」とが、ほとんど別物であることぐらい分かるだろう。カースト制というのは、この職業教育の不備を補うための制度なのである。
その家に生まれる≠ニいうことは、その家の職業の中に生まれる≠ニいうことである。インドのカースト制度は、バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・スードラの四つがその後複雑に進化して、とんでもない数に膨れ上がった。カースト制度はその家の職業に対応させられて、そうするカースト制度は、輪廻転生を前提にして存在している、前世の結果による現世のありさま≠ネのである。「人の体から出る汚れに触れなければならない職業」として、床屋はインドではいたって身分が低いのであるが、それは、「現世の床屋は前世の報い」というようなものなのである。中世のヨーロッパでは、床屋は医者を生み出す高級な職業だが(だから床屋の看板は、動脈と静脈とリンパ液の管を表す赤・青・白の三色による医学的シンボル≠ノなっている)、所変われば品変わるで、インドでは違うのである。だからそのことを反映して、ゴータマ・ブッダは、出家する時に自分の専属の床屋をお供として連れて行ったのである。「身分の高いバラモンだけがするような出家に際して、床屋に供を許した」ということは、つまり、「彼は身分の上下を問わない偉い人だった」ということなのである。そういう挿話が、彼にはある。
インドでは、床屋の家に生まれたら床屋にしかなれない。そして、床屋になるための技術教育は、お父さんがする。どの家にも、そのカーストに相応した職業が設定されているというところが、自分≠ナはなく社会の維持≠重視する、カースト制度の特徴なのである。
カースト制度に従えば、職業選択の自由≠ヘない。がしかし、それと同時に、失業のおそれ≠烽ネいのである。
自分の頭でものを考える、個人の内面に語りかける宗教≠ナある仏教は、そのゆえをもって、なにも作らない[#「なにも作らない」に傍点]。仏教は、「定年後は解脱」というバラモンの発想を引いているのだから、生産が大きな意味を持つ現実社会とは一線を引いて、生産を奨励する≠ニいう発想なんかない。「生産≠ネんていうことにばかりかかずらわっていると、重要なこと≠見逃すよ」である。これが救い≠ノなる人もいるが、「それじゃ食っていけない」の人もいる。そして、数から行けば、「食っていけない」の人の方が、圧倒的に多いのである。「カースト制度なんか無意味だ」と言って自分の自由≠説く人は、「出家すればいい」だけで、「俗世間でどうやって食べて行くか」を教えてはくれないのだ。
出家生活を成り立たせるためには、大金持ちの寄付≠ニいう、パトロンの存在が不可欠である。王様が仏教に帰依してくれればいいが、「そんなの関心ない」と言われてしまえば、出家者の生活は大変である。そうなってしまったら、誰かれかまわず「出家すればいい」とは言えなくなる。だとしたら、人間は、職業を保証してくれるカースト制度の中に生きるしかない。だから、カースト制度が職業=生活≠それなりに保証するインドでは、仏教という個人の内面に語りかけるだけで別に生産を奨励しない宗教≠ナある仏教がすたれて、社会を維持して生産を奨励する――何人もの奥さんがいて、破壊と創造を司るシヴァ神を最大の主神とする、いろんな神様のいるヒンドゥー教が主流となったのである。現実は複雑で、その複雑な現実生活に対応するさまざまな神々≠ェいないと、人間というのは、安心出来ないものだったのだ。
29 ゴータマ・ブッダは、他人の思想である苦行≠捨てて、自分の思想である悟り≠得た[#「29 ゴータマ・ブッダは、他人の思想である苦行≠捨てて、自分の思想である悟り≠得た」はゴシック体]
さて、再び、悟りを開くゴータマ・ブッダである。
ゴータマ・ブッダ以前、輪廻転生という宇宙を貫く法則から自由になる(解脱する)ための方策として、人は特別なものになる≠ニいうことしか考えつかなかった。そこで、まだブッダ以前のゴータマ・シッダルタは、そういう特別なもの≠ノなるための苦行≠した。他の出家したバラモン達はみんなそういう苦行≠していて、ゴータマ・シッダルタはそういうことをしようとはしなかったのだが、結局悟り≠得られない彼は、みんながやっているような苦行≠フ中に入った。彼の中には、「自分の求める解脱は、そういう方向にはないんじゃないか……」という疑問があったからなんだろうが、「他人の思想の間違いをきちんと証明するためには、その他人の思想≠マスターするしかない」ということもあったんだろう。また、「苦行に対して逃げ腰になっているクシャトリヤ出身のインチキ出家者」という、バラモン達の挑発だってあっただろう。結局シッダルタは、苦行≠選んだ。
そして、自分の体を痛めつけて、やがて彼は、「こんなものは無意味だ」と知る。なぜ彼が苦行を「無意味だ」と思ったのかは分からない。しかし重要なことは、彼が「無意味」を知って、「無意味だ」と思うことを選択してしまったこと[#「選択してしまったこと」に傍点]である。
無意味だと知って苦行を捨てて、ゴータマ・シッダルタは食物を取った。スジャータという少女の与えてくれた食物を取って、それで、自分自身の体を養った。そして、菩提樹の下に進み、瞑想に入った。それは、「自分の肉体がある。自分がある。だから自分の思想≠烽る」だろう。彼は考えて、そして知った(=悟った)。彼が自分の頭で考えて導き出したことは、それまでの世界観を百パーセント引っくり返してしまうことだった。
つまり、「解脱とは、なにか特別なもの≠ノなって、そして輪廻転生という宇宙の法則の上位に立つ[#「上位に立つ」に傍点]ことではない」ということ。「そういう超人幻想≠カみたヘンな考えに従わなくても、既存の法則を超えることは出来る」ということ。それは、「考え方を変える」ということだった。つまり、彼のした解脱≠ニは、「輪廻転生などという宇宙の法則≠ヘ存在しない」と、すべてを引っくり返してしまうことだった。仏教が一切の幻想を否定する≠ニいうのはここから出ているのだが、そう言い切れるだけの根拠≠ェ、もう彼の中にはあった。ここが一番感動的なところなのだが、「自分の頭で分かったことが確かな真実である≠ニいうことを決定するのは――決定出来るのは、自分自身以外にはない」のである。だから、それが出来るだけの自信がない限り、一切の知識も論理も、すべては机上の空論なのである。だから、悟り≠ニいうことをいたって簡単な言葉で言ってしまえば、それは、なんのてらいもなく自分の中に自信を感じていられる状態≠ネのだ。
誰が決めたのか分からない「輪廻転生」などという宇宙の法則≠フ存在を無条件に肯定している限り、「自分の人生は自分自身のものだ」という事実[#「事実」に傍点]は訪れない。だから彼は、彼以前に存在するすべての法則≠、幻想≠セとして斥けた。「すべては、人間の意識が作り出すもので、そこに絶対≠ネどというものはない」と。つまり、ゴータマ・ブッダの開いた悟りの根本は、「我思う、ゆえに我あり」なのである。
さて、それでは、その我≠ヘ絶対なのか? それを検証したくて、「種々様々の妄想・欲望・錯覚で、我≠ネるものは幻惑されていないか?」と考え、苦行を捨てるまでのプロセスでそのことを実感出来ていた[#「実感出来ていた」に傍点]彼は、「そんなことはない」と思った。自分の肉体を苦しめる苦行を無意味だと思い、「この苦行≠ニいう他人の思想≠ヘ無意味だ」という選択が既に出来ていた彼には、そう断言出来る権利があったのである。だから、「一切は幻想である中で、悟りを求めたい≠ニ思う我は、真≠ネのである」ということになる。だからこそ、「一切は空である」と言う仏教の中で、「悟りを求めたい≠ニ思うその人間の欲望」だけは、仏性《ぶつしよう》≠ニして肯定されるのである。仏教はそのような、人間を肯定する思想だ。だからこそ仏教は、神≠謔閧熈真を得た人間=ブッダ≠上におくのだ。
仏教は、そのはじめにおいて、全然宗教なんかではなかった[#「全然宗教なんかではなかった」に傍点]という事実を知っておかなければならない。
やがて仏教≠ニいう宗教になってしまったゴータマ・ブッダの教え≠ヘ、そのはじめにおいて、偉大なるものを信仰する教え≠ナはなく、自らが自らであることを獲得して行くための思想[#「思想」に傍点]≠セったのである。だから仏教は、その根本において、どこまでも徹底して認識の法≠セ。チベット仏教の『死者の書』は、「死んで恐ろしい幻想を見る。そこに地獄を見る。しかしそれも幻想である。正しくそのことを知って理解すれば、死のその段階で解脱を得ることが出来る」と言っている。
つまり、「地獄というものでさえも、所詮は、耐えて通過しなければならない幻影の一プロセスなのだ」ということなのだけれども、「地獄に落ちる」ということをこわがるオウム真理教の信者は、そんなことも知らないのだろうか? 修行というものは、それを知って、それを我が身に根づかせることではないか。一体なに≠ェこわいんだろう?
修行とは、自分のプログラムを自分で設定出来て、それではじめて達成が可能になるものだ。他人の設定した修行≠ニいうプログラムは、所詮自分のものではない他人の思想≠ナしかない。他人の設定した中途半端なプロセスの中に自分というものを放り込んで、そのプログラムの有効性の判断をいつまでも下せないままその修行を続けて、そこでいつまでも自分≠ニいうものを発見出来ないでいるのは、愚かなことだ。修行の中で自分を発見する≠ニいうことは、「もうこんな苦行は自分にとって[#「自分にとって」に傍点]無意味だ」という限界を知ることで、それをしない限り、修行自体がismになる。「そのことから何も得られなくても、そこにいればなんとなく意味があるように思える」という、合理性を失った非合理を平気で信じ続けるism(=宗教)に。
人は、いかなる非合理も信じられない。そして、合理を見る目を失ったら、人は無意味に非合理を信じ続ける悲惨≠迎えるのだ。
自分のことは自分でしか分からない。自分の判断は、自分にしか下せない。それが真実である。だからこそ人は、それぞれに人≠ニなるのだ。
30 仏教はいつ宗教≠ノなったか?[#「30 仏教はいつ宗教≠ノなったか?」はゴシック体]
さて、「宗教なんかもう不必要だ」と言ってるわりに、この人の言うことは宗教≠ナ、「もしかしたら橋本治は熱心な仏教徒なのか?」ということにもなってしまいそうだが、別に私は仏教徒じゃない。その証拠に、別に「仏様を拝みたい」という気なんか全然ない。私は宗教に内包されている思想をバカになんかしてないし、昔≠ニいう時代の人間のあり方をまともに考えようとしているだけの人間である。実は私は、「ゴータマ・ブッダの生涯」という小説を書きたくって、書くつもりで、そんな予定があるから、「ちょいとばかし主人公に感情移入をしすぎちゃったかもしれないな……」というだけの話なのである。なんたって、私の本業は、「狂言綺語《くちからでまかせ》で人を騙して地獄へ落ちる」という小説家なのである。なにしろ、「紫式部は地獄に落ちた」という伝説が出来たのは、日本で仏教が力を持っていた中世という時代なんだから。「教えがホント、後はウソ」という発想をするもんなんか、私は好きになれません。
まァ、それはさておき、問題は、「そのはじめには宗教≠ネんかじゃなかった仏教が、いかにして宗教≠ノなってしまったか?」である。
その理由の第一は、解脱したゴータマ・ブッダが死んでしまったからである。死んだ≠ニいう言葉を嫌って、仏教では入滅した≠ニいう言葉を使うが、解脱したゴータマ・ブッダが八十歳で死んでしまったのは事実である。
こんな当たり前のことがどうして大問題になるのかというと、それは、解脱した人間はもう生まれ変わらないから[#「もう生まれ変わらないから」に傍点]である。解脱≠ニいうのは、「自分の人生は自分のものだ」として輪廻転生の法則から離れてしまうものなのだから、解脱した人間は、もう生まれ変わったりなんかしないのである――他のすべての人間が、この先もずーっと生まれ変わり死に変わりして、輪廻転生の法則に従わなければならないのに反して。つまり、ゴータマ・ブッダは、輪廻転生の世界観を前提にすれば、世界で最初の死人≠ネのである。ゴータマ・ブッダは、「この生を最後として、私はもう輪廻転生に立ち戻らない!」と宣言して解脱に成功してしまった[#「成功してしまった」に傍点]最初の人だから、そういうことになる。
そして困ったことに、ゴータマ・ブッダは、人間の解脱≠問題にする仏教の中で、今のところ解脱に成功した最初で最後の人≠ネのである。つまり、仏教徒は、解脱に成功したゴータマ・ブッダの教えの中にいるにもかかわらず、もう二千何百年も、彼の教えを生かしていないということになるのである。解脱に成功した人のことをブッダ≠ニ言って、ブッダになった人間は、今のところゴータマ・ブッダしかいないことになっているのだから……。
ゴータマ・ブッダはさっさと死んでしまったが、他の人間達は生きている。ゴータマ・ブッダの弟子である出家者達は、ゴータマ・ブッダの教えを受けた在家の人間達に、「尊師の遺骸を私達に渡してください」と言われて、葬式をさっさと在家の人間の手にゆだねて、修行の旅≠ノ出てしまう。出家した人間達は、解脱するための自分達の修行を続けて、在家の人間は偉大なる師の死を悲しんだ。不思議と言えば不思議だが、当時の葬式の担当は、出家した坊主ではなくて、民間人の仕事だったのである。
ゴータマ・ブッダの遺骸は焼かれて、消えてしまった。もうその人は生きていない。神よりも偉大な人間の脳ミソ≠証明したブッダ(真に悟りを得た人)は、もうこの宇宙のどこにも存在しなくなってしまった[#「存在しなくなってしまった」に傍点]。他のものは、神々も含めて、みんな輪廻転生の中でエンエンと存在し続けているにもかかわらず、偉大なるゴータマ・ブッダだけは、もう存在しないのである。偉大なるゴータマ・ブッダを神格化したっていいのだが、しかしその人は、神になって生きている≠ニいうわけではないのである。神よりも偉大な、真に悟りを開いたその人は、神≠ネんかにはならず、ただの人間≠ノなって、いともあっさりと死んでしまった[#「死んでしまった」に傍点]のである。ゴータマ・ブッダを神≠ノしようとしても、自分から進んでただの人≠ノなってしまったゴータマ・ブッダには、理論上そんなことが起こりえないのである。
他の宗教の信者達は平気で神様を拝んでいるのに、可哀想に、残された仏教徒だけには、なんにも拝むもの≠ェなかったのである。この当時のインドには、まだ「仏像を作る」という発想がなかった。拝むものはなんにもないが、教え≠セけは残っている。これは、「あの人はなんにも思い出になるものを残してくれなかったんです。写真も一枚もないんです。でもそのかわり、生きるということはこういうことだ≠ニいう、すごーくむずかしい教えだけが残ってるんです。それで、私はその教えに従うしかないな≠ニは思うんですけど、なんか空しくって……」というのに似ている。つまり、仏教とは、そのはじめにおいて、「開祖がさっさと死んでしまったがために、信者はいともあっさりと取り残されて、そのままだった」という、とりつくしまもないような様相を呈するのである。
出家した人間はまだいい。ブッダの残した教えを忠実に実践していけばいい。しかし、困るのは、出家していない在家の普通の人間≠ネのである。
ゴータマ・ブッダの時代の宗教は、後にヒンドゥー教になるような、カーストの最上位を占めるバラモンが祭司を務める、社会を維持する宗教≠ナある。こういうのが社会一般にあって、人間はこの宗教の祀る神々に五穀豊饒≠フ類を願った。解脱≠ニいう個人的な方面は、定年後のバラモン専用≠フようなものだった。そこを破って、普通の人間に対しても個人的な救い≠説いたのが、ゴータマ・ブッダだったのである。ゴータマ・ブッダは、「すべての人間には悩みを抱く内面がある」と言ったに等しいのである。それを説かれて、自分の苦しい内面≠ニいうものを発見して、しかしそのまんまブッダに死なれてしまった普通の人間達≠ヘ、困った。困っている普通の人間達に語りかけてくれる人は、もういないのである。
ゴータマ・ブッダが説いて、後に仏教≠ノなってしまうような教えには、出家者が解脱する≠ニいうのと、在家の人間の悩みを救う≠ニいう、そういう二つの面があった。前者の教えは、ゴータマ・ブッダ以前にもあったけれども、後者の教えは、ゴータマ・ブッダが最初なのである。つまり、普通の人間の内面≠扱う宗教のノウハウなり教理などというものは、まだ存在していなかった時代なのである。
ゴータマ・ブッダ以前に、「解脱を求めて修行をする出家者に対してほどこしをするのは、その人間の功徳になる行為である」という考えがあった。だから、ゴータマ・ブッダの教えに従って修行する出家者を崇める≠ニいう形での宗教は、成立しやすかった。それで出来上がるのが、南の方の小乗仏教≠ナある。現在のスリランカとかタイとかの仏教である。ただ、小乗仏教≠ニいうのは、「お前達のは出家者専用の小さな乗りもの≠セ、オレ達のは大衆を救う大きな乗りものだ」と主張して始まった大乗仏教が言う差別的な表現で、小乗仏教の方は、自分達のことを小乗≠セなんて思っていない。だから現在では、そっちの仏教を部派仏教≠ニ呼んでいる(もちろん、呼んでいるのは大乗仏教の方で、部派仏教の方では、自分達の仏教をただ仏教≠セとしか考えていない)。
大乗仏教から小乗≠ニ呼ばれてしまうような、南の系統の仏教がまず出来上がって、次が大乗仏教である。大乗仏教は、中国・朝鮮・日本と、それからチベットの方にも伝わる。チベット密教と言われるものも、もちろん大乗仏教の系統の一つである。大乗仏教は在家の信者の存在を大きく問題にして出来上がって、そして仏教をややこしくしているのが、この大乗仏教なのである。
小乗仏教と大乗仏教の最も手っ取り早い違い≠言ってしまうと、「小乗仏教では拝む仏像の種類が一つしかないのに、大乗仏教ではこれが複数ある」ということである。観音菩薩《かんのんぼさつ》とか、阿弥陀如来《あみだによらい》とか、日本のお寺には当たり前にある仏像が、小乗仏教の世界にはない。仏像は、ゴータマ・ブッダの仏像(=釈迦像)だけである。しかも、ここでは涅槃《ねはん》像≠ニいうのがいたってポピュラーな形としてある。涅槃像というのは、お釈迦様が横になっている像≠セが、これは、お釈迦様にとっては死んでいる≠ニいうことなのである。死んでいる像≠カゃいやだから、お釈迦様は涅槃に入っていらっしゃる≠ニいうことにして出来上がるのが、釈迦の涅槃像≠ネのである。小乗仏教圏ではいたってポピュラーだが、大乗仏教圏では、これがあんまりない。つまり、小乗仏教圏では、あきらかに「ゴータマ・ブッダは死んでいる」のに対して、大乗仏教圏ではそうではない[#「そうではない」に傍点]のである。そこが大きな違いで、そこが仏教というものをややこしくしているのだ。
31 人格化される思想[#「31 人格化される思想」はゴシック体]
私には、大乗仏教の説明をまともにしようという気がない。こういうことを説明してもあまり意味がないと思うからだ。それはほとんど、学問と思想状況と学者の世界の構造と実態を述べる≠ニいうのに等しい。これから学者になろうとする人間には必要かもしれないが、自分の頭でものを考えようとする人間には、ほとんど関係がない。時々そっちの世界から有益なことが聞こえて来るから、そういうのに耳を傾けていればいいだけの話である。大乗仏教について説明する≠ニいうのも似たようなもので、それをやったって仏教の意味≠ニいうのは分からない。それをやって分かることは、人間というのはどうしてそんなに物事を複雑にしてしまうのか≠ニいう、そっちである。
大乗仏教は、膨大な理論の山である。ちょっとかじれば、「ふーん……」ということにもなる。それ以上かじれば、「なにがなんだか分からない……」である。
大乗仏教には、種々さまざまな宗派が存在する。日本だけでも、ざっと華厳《けごん》・律《りつ》・法相《ほつそう》・三論《さんろん》・倶舎《くしや》・成実《じようじつ》・天台《てんだい》・真言《しんごん》・浄土《じようど》・浄土真《じようどしん》・日蓮《にちれん》・一向《いつこう》・曹洞《そうとう》・臨済《りんざい》・黄檗《おうばく》・禅《ぜん》の各宗がある。中国にだって宗派はあるし、チベットにだってある。日本の密教(真言)とチベットの密教は違うし、日本の天台と中国の天台も違う。そして、これらの宗派はすべて、大乗仏教≠ニいう世界観を共有するものである。
大乗仏教が小乗仏教に「小乗!」という喧嘩を売っても、大乗仏教の中で異端論争≠ニいうのはない。論争は、「お前のその考えはこのように[#「このように」に傍点]間違っている」という、理論の整合性を問う論争≠ナある。つまり、それだけさまざまな宗派があったとしても、ここには正統≠ニいうものがないから、そんな争いが起こらないのである。だから、ある意味で大乗仏教とは、「独自な解釈がし放題」というものなのかもしれない。各人各様、各宗各様の理論の構築と解釈があって、各宗がある。そういうのに全部つきあっていたら、一生かかったって大乗仏教すべての理解≠ネんかは出来ないだろう。あきらめた方がいい。
小乗仏教と違う大乗仏教の特色は、複数の仏が存在すること≠ナある。悟りを開いてブッダ=仏になったのはゴータマ・ブッダだけであるにもかかわらず、大乗仏教ではそういうことが起こる。そして、大乗仏教で、ゴータマ・ブッダは死んでなんかいない[#「死んでなんかいない」に傍点]。死んでもいないが生きてもいない。なぜかというと、仏は普遍的に存在するから[#「普遍的に存在するから」に傍点]である。「仏《ブツダ》になる可能性=真に悟りを開く可能性は、普遍的に存在する」と言うのだったら分かるのだが、「仏は普遍的に存在する」なのである。こうなると、もう分かんない――だから考えない方がいい。宗教というのは、そのように「思想を人格化あるいは神格化してしまうもの」なのである。
比喩が一人歩きを始めればファンタジーになる。おとぎ話は人を責めないが、宗教という人間の根幹にかかわるおとぎ話は、人に教えを強要する。冗談の分からない人にファンタジーを与えると、それをそのまま本気にして、いたって厄介なことになるのだが、宗教という思想を人格化する行為≠ヘ、そういうものでもある。
「だから、ゴータマ・ブッダは生きてもいないが死んでもいない、ただ普遍的に存在する」なんていうことを、深く考える必要はない。必要なのは、「大乗仏教は、仏≠わけの分かんないもの≠ニして設定する」という、そのことだけである。
大乗仏教で、仏は神≠ナはない。「仏とは神≠フ上にあるもので、しかし、そのほとんど神のように絶対的な存在の仕方をする仏は、神≠ナはない。その証拠に、仏はなにも創造しない[#「なにも創造しない」に傍点]」というのが、大乗仏教の考え方である。「神は天地を創造するが、仏はそういうものを創造しない」である。もうなんだか分からないのだが、仏=ブッダ≠ニいうものは、もともと、認識の結果そうなった≠ニいうようなものである。だから、大乗仏教の言う仏≠ニは、認識というものの神格化≠セと考えればいいのだ。そうすれば、「仏は神と違ってなにも創造しない」ということが簡単に理解出来る。「考えるだけで別に生産をしない」のが思索≠ナ、仏教というものは、そのもともとが思索≠セからである。
私は前に、「まだ自分の頭でものを考えることが出来ない人間が思想≠人格化する」と言った。大乗仏教の仏≠ヘ、そのように人格化された思想≠ネのである。
人格化された思想≠フ代表的なものに、もう一つ菩薩《ぼさつ》≠ェある。サンスクリット語で言えばボーディサットヴァ=\―オウム真理教が有名にした言葉である。
菩薩というのは、そもそも、悟りを開く前の段階にあるゴータマ・ブッダのことを言う。つまり、ブッダ=真に悟りを開いた人≠フ前段階で、いずれブッダになる人≠ナある。これが、そういう悟りの段階≠表すような言葉だけだったらいいが、これは発達して、とんでもなく複雑なものになる。たとえば、「観音菩薩のお導きで――」とあったら、誰もその観音菩薩を、悟りの前段階にある人間[#「人間」に傍点]≠セとは思わないだろう。観音菩薩は観音菩薩で、特別な存在だと思う。「仏様でしょ?」とか。
大乗仏教で仏≠ヘ、またの名を如来《によらい》≠ニ言う。釈迦如来≠ニか阿弥陀如来≠ニか。如来≠ヘ、真理から生まれたもの≠ニいうような意味である。仏は如来≠ナ、菩薩はまだ[#「まだ」に傍点]如来じゃない≠ゥら、観音菩薩は仏様[#「仏様」に傍点]≠ナはない[#「ではない」に傍点]のである。
菩薩で有名なものに弥勒《みろく》菩薩≠ェある。弥勒=マイトレーヤ=\―すなわち、オウム真理教ではこれが旧外報部長の上祐史浩をさすのだが、弥勒菩薩というのは、「釈迦入滅の五十六億七千万年後にこの地上に姿を現して、人々を救う教えを説く」というものである。現在は兜率天《とそつてん》≠ニいうところにいることになっている。兜率天≠ェどこにあるのかは知らないが、それがこの地球の上にある場所でないことだけは確かである。この菩薩は、「兜率天から地上にやって来て教えを説いて人間を救って、そしてその功績によって仏≠ノなる」ということになっている。つまり、現在名の弥勒菩薩は、その遠い先に弥勒如来[#「如来」に傍点]≠ノなるというのである。
どうあっても菩薩は人間≠カゃないし、仏≠ニ菩薩≠フ間にもあきらかな一線が引かれている。引かれているが、その一線≠フ存在が、なんだか妙に功利的だ。もしかしたら、この菩薩≠ニ如来=仏≠フ一線は、「小乗仏教の仏は所詮菩薩≠セが、大乗仏教の仏は、そんな菩薩の上を行く如来≠ネんだぞ」ということを示すためのものなのかもしれない。大乗仏教は、「自分が悟りを開いただけじゃだめだ、大衆を救ってこそはじめて悟りを開いた仏=ブッダ≠セ」という、大衆救済的なものでもあるから、そんな論功行賞的な一線≠ェあるのかもしれない。
菩薩という人間じゃないけど仏でもないもの≠設定したことが、大衆を救済しようとする大乗仏教の特色なんだが、大乗仏教というのは、大衆を救済しようとするくせに、それとはウラハラに、とっても難解なものだったりもする――「菩薩は如来と違って仏じゃない」とか、「釈迦入滅の五十六億七千万年後」だとか、「兜率天」だとか。「第一、その菩薩≠ニいうのが思想の人格化あるいは神格化だっていうなら、それは一体なんの思想≠ネの?」という難解もあるだろう。
問題やら疑問やらディテールの難解やらはいろいろあるんだが、しかし事態はそんなにむずかしいことでもない。「大衆を救おうとするものが、どうしてむずかしい議論ばっかりしていて、大衆とはかけ離れた難解なものになるのか?」ということに関しては、いたって近代的で身近な例があるからである。それはつまり、共産主義=マルクス主義である。
ここには指導部≠ニいうのがあって、いろいろな難解な路線方針≠検討して難解な議論を繰り返していたりする。大乗仏教の難解は、これとおんなじなのである。
人民大衆は、この指導部の路線≠正しく学習しなければならない。「人民のため≠言ってるくせに、なんで党指導部の言うことはそんなに難解なんだ」と言うと、それで収容所送りだったり除名だったりもする。つまり、指導部は大衆≠カゃないから、平気で難解でいられるのである。そして大衆は、自分の頭でものを考えるのが苦手だから、そんなことをするよりも、正しい偉い人≠フ後をついて行きたいのである。このようにして、「大衆を救う理論はなぜ大衆からかけ離れて難解か?」というのは簡単に説明出来るのだが、大乗仏教も、そういう「大衆を救う理論」なのである。
だから――話はいたって簡単になるだろう。「大衆を救う理論」は、宗教なのである。主義と宗教がおんなじismであるということは、このように簡単に証明出来る。
大衆はむずかしいことなんか分からないが、大衆というものは膨大なものを抱えている。だから、大衆を救うためには大衆≠ネるものの膨大を把握しなければならない。だから、大衆を救う理論はいたって難解なものになって、大衆には理解出来ない。そうなったら大衆は、その難解な理論をちゃんと把握している指導部に従う[#「従う」に傍点]しかない。従う=\―つまり信じる≠ナある。ただの理論≠ヘ、そのあり方において、いとも簡単に信仰を強要する宗教≠ノなる。大乗仏教も、基本的には、そういう理論≠ネのである。
「大衆を救わなければならない。まず、その大衆≠ニいうのはどこにいるのか? 大衆のいる世界というのは、宇宙全体の構造では、どこら辺に位置づけられるのか?――ここからの検討が必要だ」ということになったら、話はいくらでも膨大になるだろう。大乗仏教の理論は、そのように膨大で、だからこそ難解なのである。
大乗仏教を説明するのに際して一番むずかしいのは、「大乗仏教というものはこんなにも変わっているのだ」ということを呑み込ませることである。そもそも宗教というのはシュールなものだから、「変わってる≠チたって、仏というシュールなものを存在させてる宇宙観なんだから、別に変わってたっていいじゃない」ということにもなってしまうだろう。しかし、大乗仏教というのは、宗教としても、とても変わってヘンテコリンなものなのである。小乗仏教の分かりやすさ≠ニ比較してみれば、「どうして大乗仏教は自分達をそんなにもヘンテコリンなものにしたのか」という、その複雑なるいびつ≠フ意味も分かってくるかもしれない。
小乗仏教がどういうあり方をしているのかというのは、とても簡単である。これは、キリスト教と同じなのだ。
寺があって坊主がいて、坊主は悟りを開くための修行をして、戒律に従って生きている。坊主は、たった一人の仏[#「たった一人の仏」に傍点](お釈迦様=ゴータマ・ブッダ)を崇め、一般の人々はこの坊主を崇め、坊主は一般の人達に大切な教え≠説く。寺は世俗世界とは別な系統で存在していて、国という世俗の世界は、この寺を尊敬して丁重に扱っている。仏≠イエス・キリスト≠ノ置き換えたら、これはキリスト教社会のあり方とおんなじである。
イエス・キリストは、神≠ナはなくて、人間の処女から生まれた神の子≠ネのである。神ではなく仏を崇める仏教≠ニ、神ではなく神の子を崇めるキリスト教≠ヘ、あり方として、おんなじなのである。
小乗仏教のあり方は、そのように、いたって分かりやすい。しかし大乗仏教は、複数の仏を持つ宗教≠ネのである。「複数のイエス・キリスト」なんてことを言ったら、キリスト教では大変な騒ぎになってしまうだろうが、大乗仏教というのは、言ってみれば、複数のイエス・キリストを持つ宗教≠ネのである。
仏になったゴータマ・ブッダは、ゴータマ・シッダルタという名を持つ人間だった。それが悟りを開いて神格化して、仏様≠ノなってしまった。それはほとんど、ナザレの大工の子供だったイエスが、神の子≠ニして神格化され、人間ではない別のもの≠ノなってしまったのとおんなじである。仏は神≠ナはないし、イエス・キリストも神≠ナはない。「神の子≠ナはあって神≠ナはない。だったらイエスとは一体どんなものなんだ?」という議論がキリスト教で起こるのと、「人間でもない神でもない仏≠ニいうのはなんなんだ?」という疑問が起こる仏教とは、そのように似ている[#「似ている」に傍点]のである。しかし、キリスト教にイエス・キリストは一人しかいない。大乗仏教には仏≠ェ複数でいて、しかもその上に菩薩≠ニいうものも複数で存在する。小乗仏教には、その複数の仏≠熈菩薩≠烽ネいから、小乗仏教は、あり方としてキリスト教とおんなじなのだが、大乗仏教はそうじゃないから変わっている≠フである。
十六世紀に、東南アジアの小乗仏教圏を通って日本へやって来た宣教師達は、日本の寺にある仏の数の多さにびっくりする。「なんといういかがわしい偶像崇拝の多神教であろう」と。キリスト教だってイエス・キリストの像を拝んでるんだから偶像崇拝≠ネのだけれども、キリスト教にはイエス・キリストが一人しかいない。大乗仏教圏の日本にはやたらと多い複数の仏≠ェいるから、それで多神教≠セと思っちゃったんだが、別に複数の仏を擁する大乗仏教は多神教≠カゃない。なにしろ、「仏は神≠カゃない」からである。
まァしかし、そんな不毛なアゲアシ取りをしていても仕方がない。そんなことよりも、「複数の仏を持っている」という実情に即して、大乗仏教が多神教でも[#「も」に傍点]ある≠ニいうことを考えた方が利口である。つまり、大乗仏教は多神教じゃないが、しかしその痕跡は十分に残している宗教なのである。その多神教の痕跡が、菩薩≠ニいうものの存在なのである――私はそのように考える。
菩薩≠ニは、ゴータマ・ブッダの教えがインド各地に広まって、その土地に定着して、そしてその地域の神を吸収して出来上がった存在なのである。そういう一面がある。本地垂迹はなにも日本だけに特徴的な現象ではなくて、インドにだってチベットにだって起こった。インドの社会がカーストを前提として存在していたように、仏教がやってくる社会には、それ以前にその社会を維持する宗教≠ェちゃんと存在しているのである。自分からはなんにも生産しないで、ただ個人の内面に語りかけるだけの仏教という宗教は、そういう社会であるような要素≠、なんらかの形で吸収しなければならないのである。そうでなければ、大衆の存在する社会で、仏教という宗教は宗教になれない。チベット密教の複雑は、それ以前に存在していたポン教という民間信仰を吸収して出来上がった結果なのだが、そういうことをやって、はじめて仏教という観念的な教え≠ヘ、社会という現実世界をフォロー出来るのである。
仏教の基本は認識する思想≠セから、たとえて言えば、頭だけあって肉体がない≠ニいうようなものである。観念だけあってドラマがない≠ニか。別の言い方をすれば、「個人の内面に語りかける宗教≠ノは、地域地域の具体性をきちんと補足出来ない難点がある」である。だから、仏教は地域の神≠吸収した。キリスト教という個人の内面に語りかける宗教≠セって似たようなもんなのだが、こちらは地域の神を滅ぼす≠やってしまったので、その滅ぼされた神々≠ェ後々にオカルト≠ニなって祟るのである。
小乗仏教は、地域の神≠吸収しない。吸収する必要がない。なにしろ、出家した人間が悟りを開く≠ェ小乗仏教の最大特色だから、こっちは思想≠ウえあればいい。そういう「思想さえあればいい」の僧侶を、大衆が崇めて信仰すれば、その僧侶の側は大衆の功徳を考えてくれる。それだから、地域の神≠吸収して、わざわざ信仰体系を複雑にする必要なんかない。しかし、大乗仏教≠ヘ、地域の現実の中で生きる人間に直接訴えかける[#「直接訴えかける」に傍点]≠ネんだから、当然、地域の神≠吸収しなければならない。その吸収も、いたって自然に起きる。そして、その吸収された地域の神≠ヘ、菩薩≠ノなる。そう思ってみると、菩薩≠ネるものの特徴は、いたって重要である。
「菩薩は、まだ仏≠ノなっていない。菩薩は、人民大衆を救わなければならない。それが出来れば仏≠ノなれる」である。つまり、「地域の神=その社会を維持する宗教の神≠ヘ、まだ各人の胸の中に分け入っていない」ということである。
「この地域を守る私達の神様≠ヘ、まだ私達の胸の中の悩み≠ニいう抽象的な領域にまで下りて来てくれない。早く来て下さい。じゃないと、あなたは本物の神様じゃありませんよ」という発想が、菩薩≠ネるものを誕生させた主要動機の一つだろうというのである。つまり、菩薩なるものを登場させた人格化された思想≠ニは、「この地域よ、早く私達の胸の内を理解して、ちゃんとしたものになれ!」である。そういう祈りが、仏教の中に菩薩≠ネる発想を誕生させた。もちろんこれは、私自身の考えである。
もう一つ、菩薩£a生には、別の側面もある。これは、もっと単純なものである。菩薩≠誕生させたものは、「私は早く人を救えるだけの力を持ちたい。そのような方向で悟りを得たい」という、出家者の願望である。菩薩≠ヘ、そのまま悟りを開きたい僧の神格化≠ネのだから。
つまり、菩薩≠ニいうものは、「なんとかなりたい≠ニ思う地域の思想」と、「他人をなんとかしてあげたい≠ニ思う知識人の思想」が合体して出来た、思想の人格化なのである――これが私の答で、大乗仏教という宗教は、そういう宗教[#「そういう宗教」に傍点]なのである。
32 人間の大人になる道が閉ざされていれば、人間はいつまでも子供のままさまよい続けるしかない[#「32 人間の大人になる道が閉ざされていれば、人間はいつまでも子供のままさまよい続けるしかない」はゴシック体]
宗教というのは、シュールなものである。神がいたり、仏がいたり、神の子がいたり、それが処女から生まれたり――。なんでそんなことになるのかというと、「シュールでも信じられる、シュールな方が信じられる、信じるというのはシュールなものを信じることである」と思い込んでいる人達がいるからである。
しかし、なにも話をそんなに複雑にする必要もない。もっと簡単にしてしまえば、「子供は神様や仏様を信じられる」である。子供の時には神様や仏様を信じていて、その結果、神様や仏様を本気でこわがったりもする。ところが大人になれば、だんだんそんなことがなくなる。別に、神様や仏様に頼る必要もないし、ある程度以上のことは自分の頭で判断出来るから、不必要に神様や仏様の罰≠ニいうものを恐れる必要もなくなるから、である。
がしかし、それだからといって、「神様や仏様を信じない!」とは、なんとなく言い切れない。なんとなく、そんなことを言うとカドが立ちそうな気もするし、どこかにまだ神様や仏様の存在を信じている自分≠烽「るような気がするからだ。人間の中には、いつでも子供の部分が残っている――それはそれで全然かまわない。だから普通の人は、「宗教が存在していたってかまわない」と思う。私だって、実はそのように思っている。
思っているのだが、ここでただ一つ、困ったことがある。それは、記憶というものをたどれば、「子供時代の自分がこうして[#「こうして」に傍点]大人になったんだな……」ということは確認出来ても、宗教に関しては、歴史をたどってもそういうことが出来ないからである。「あの時代の神様≠ニいう概念が、結局は現代のこういう[#「こういう」に傍点]ことになったんだな……」という確認は出来ない。「神は死んでしまった」とか、「宗教はもう古い」という、そんな切り捨てだけが歴史の中にあって、「宗教を信じていた人間の心が、やがて成長して、こういうものになりました[#「こういうものになりました」に傍点]」という後づけが出来ないのである。宗教は切り捨てられ、神様≠ニか仏様≠ニいう概念も成長することがなくて[#「成長することがなくて」に傍点]、ただ切り捨てられてある≠フである。
歴史の中には、あるとしたら、宗教を捨てて行く人間の歴史≠ェある。
「不思議なことを言っている」と思う人もあるかもしれない。しかし、信仰というものがリアリティを持って生きていた過去の時代において、信仰とは美しいこと≠セったのである。人間の歴史には美術≠ニいう美しいものが存在していて、それが存在出来ている功績のかなりの部分は、宗教への信仰≠ノよっているのである。「宗教はもう[#「もう」に傍点]無効だ」はいいのだけれど、それをして、「過去においても宗教は無効だった」ということにしてしまうと、人間は、長い時間をかけて作り出した美しいもの≠フかなりの部分を失ってしまうのである――「なんだこれ? ヘンなの、全然分かんない!」と言って。
必要なのは、「宗教はもう美しいものを作り出す力を失った。今では〇〇が宗教にかわって美しいものを作り出している」であるはずなのである。ところが困ったことに、我々はこの〇〇の中に、うまい答を入れられないのである。なぜか? それは、我々が「美しいものを作り出してきたもの」を、歴史の中から切って捨ててしまったからである。それは、「自分の中から子供時代の美しい記憶を切って捨ててしまったら、その後には索漠とした現在しか残らない」というのに似ている。
「自分の中の記憶を探ったってロクなものはない。悲惨なもんだったし、親だって怒鳴りつけるだけだった。だからそんなもん覚えていたくない」と言って子供時代の記憶を切り捨ててしまったら、そのロクなもんがなかった時代に、「どうしていいことってないんだろう? 空はこんなにきれいなのに、どうして僕には幸福ってないんだろう?」と思って見上げた美しい空の記憶≠ウえもなくなってしまう。
歴史に残る信仰の美しさ≠ニは、その美しい空の記憶≠ネのである。
空を「美しい」と思って見上げることは、「幸福を夢見ること」なのである。「いやだから全部を忘れる」をしてしまったら、その「幸福を夢見る」ということも、一緒に捨て去られてしまう。それは、「幸福とはどういうことなのか?」と模索することを忘れてしまうことなのである。
「幸福とはどんなことか? それはあの青い空≠ノ対応するようなものだ。一体あの美しい青空≠ニいうのは、自分にとってなんだったんだろう?」という思考方法を捨ててしまったら、もう幸福≠ネるものは発見出来ない。つまり、「どう生きて行ったらいいか分からない」になるということである。
人は、「幸福になりたい」と思って、「幸福になれる方向はこっちだ」と思って、そうして生きる方向≠考えるものなのである。そうであるものが、それを考える手がかり≠ニなるようなものを忘れてしまったら、どうなるか? 進むべき方向を見失って――だから善悪の判断も失って――ただぼんやりと浪費を繰り返して彷徨をするだけの、索漠たる現在≠ノなる。
宗教≠ニは、遠い記憶の中に浮かぶ子供の時の家≠ナある。それが美しいいい記憶≠ナある人もいれば、やな記憶≠ナある人もいる。「思い出すのもいやだ」で、そのやな記憶≠切って捨ててしまった人にとって、それは遠い記憶の中に浮かぶだけのもの≠ナある。それを、「いつまでも持っていたい」と思う人にとっても、子供の時の記憶≠ヘ、遠い記憶の中に浮かぶだけの子供の時の記憶≠ナある。もう直接、現在の役には立たない。宗教とは、現在そのようなものだ。
かつて私はこういうことを言った――「まだ自分の頭でものを考えることが出来ない人間が思想≠人格化する。宗教というものは、思想を思想として抽出することが出来ない人間がした、思想の人格化≠ゥら始まる」と。だから、宗教はおとぎ話≠ネのである。信じる人間にとって、そのおとぎ話≠ヘリアリティに満ち満ちている。だから子供は、そのリアリティに満ちたおとぎ話≠フ中で、自分自身を成長させて行く。かつて宗教の生きていた時代に、人間達がそうしたように。
だから、子供は大きくなって、自分を成長させてくれたおとぎ話≠フ中に、自分の成長を可能にしてくれた要因≠発見することが出来る――それをしようと思えば。「歴史を見る」というのも、そういうことだ。そう思って見れば、歴史の中に人間の成長を可能にしてくれた要因≠発見することだって出来る。歴史は、そういうおとぎ話≠ナもある。がしかし、その歴史の中に存在する宗教≠ニいうおとぎ話≠セけは、それをさせてくれないのだ。
神様は、何百年たっても何千年たっても神様≠フまま、意味≠ニして解体されることを拒んでいる。なぜならば、神様≠ヘ神様≠ナ、それは解体出来ない意味≠ニして人間によって存在させられたものだからである。
輪廻転生の中から自分の人生≠獲得したゴータマ・ブッダも、神≠ニいうものを解体してはくれなかった。ゴータマ・ブッダは、きっと、「おとぎ話にはおとぎ話としての存在理由がある」と思ったからだろう。仏様≠ニいうシュールなものを、悟りを開いた人=ブッダ=自分の人生を自分のものにしたただの人≠ニいう形で解体すれば、こういう理解だって簡単に起こるけれども、しかし困ったことというのは、「神ではないが人間でもない神の子」という、ブッダ≠フような置かれ方をしてしまったイエス・キリストには、そのような意味としての解体≠ェ起こらないことである。
神様≠ノは、早いとこ解体してもらった方がいい。そうじゃないと、「いつまでたっても子供のおとぎ話だけを唯一の真理≠セと思い込んでいる醜悪な大人」がはびこるだけだからである。
宗教は解体された。だからこそ人間は、今や信仰抜きでも美しいもの≠作り出せる。宗教≠ニは、「まだ人間達が自分の頭で十分にものを考えられない時期に作り出された、生きて行くことを考えるための方法=vなのである。だから、「まだ考えられないところは、信じる≠ニいうことにしなさい」という保留≠ェついている。宗教は、捨てられるものではなくて、人間達によって解体され再吸収されることを必要としている子供の時の美しい空の記憶≠ネのである。そう思っているのは、仏教徒だけではない。実はキリスト教徒の方にだって、そういう考え方はある。「子供の時に神様を信じていた」は、どこにだってある事実なのだから。
子供の時に神様を信じていて、イエス様も信じていて、そして大人になって、「あの重要なファクターはなんだったんだろう?」と振り返っても、自分で悟りを開いてただの人間になったお釈迦様とは違って、神様の子として処女から生まれて、そして十字架に掛けられて死んで、復活したイエス様≠ヘ、人間として解体されずに、シュールなままなのだ。その解体されないシュールさに焦《じ》れて、西洋人の知性は、「宗教を捨てるしかない」と言ったのかもしれないが、それが最近になって、全然違う光を当てられるようになった。それが、ナグ・ハマディ写本によるグノーシス思想≠ニ、死海文書による歴史の中に生きた一人の人間としてのイエスの発見≠ナある。
33 キリスト教も仏教になる[#「33 キリスト教も仏教になる」はゴシック体]
おそろしいタイトルである。「キリスト教も仏教になる」……。しかし、手っ取り早く言ってしまえば、そうなのである。
一言で言ってしまえば、仏教とは、「悟りを開いて、自分の人生を自分のものにして、ただの人になるのが正しい」という教えである。大乗仏教の大衆性とは、「それは誰にでも出来るよ」ということである。その一言を言うのがとってもむずかしいことだったので、大乗仏教はとっても難解になったのである。ということはつまり、「出家しないと解脱は出来ないんだから、そんなこと一般人には無理だ」という考えがいかに頑固に支配していたかということである。
さて、仏教は「誰にでも悟りは開ける」である。それが「仏《ブツダ》=ただの人になる」ことなんだから、意外なことに仏教は、能動的ななる[#「なる」に傍点]教え≠ネのである。一方キリスト教はそうではない。イエス・キリストは神の子≠ネんだから、「神の子になる」なんていうとんでもないことは言い出せないし、「なってもいい」なんてことも言えない。イエス・キリストのキリストは救世主の意味で、救世主《メシア》もおんなじである。キリスト教は、このイエスという救世主によって救われる≠ニいう教えである。この救世主には、絶対にそれが出来る力がある――だからこそ、このイエスという救世主《キリスト》は神の子≠ネのである。その神の子の力を信じる=\―つまりキリスト教は、受動的なしてもらう≠フ宗教なのである。
ところがしかし、そう考えない人間達がいたって不思議はない。グノーシス≠ニはそういう人間達の思想なのである。
グノーシスは、キリスト教が成立してすぐの頃に異端≠ニして滅ぼされた。キリスト教最大の異端≠ニされるグノーシスは、しかしだからといって、別に悪魔を崇拝していたわけではない。グノーシスとは、光≠フ意味である。しかもそれは、外から照らす光≠ナはなく、内側をおのずと照らすような光≠ナ、直感的な深い知恵≠フことである。手っ取り早く言ってしまえば、悟り≠ナある……。
イエス・キリストは、ゴータマ・ブッダと同じように、その当時の人々の内面に語りかけた。その言うところは正しく、その言う言葉は力強かった――だからこそ彼は、人々を救う救世主≠セとも思われた。「だからこそ彼によって救われたい」と思う人もいるだろう。しかしその一方には、「だからこそ彼のようになりたい[#「なりたい」に傍点]」と思う人達もいる。グノーシスは、この彼等の思想なのである。
しかしキリスト教は、その救世主の力を信じる[#「信じる」に傍点]ことによって、人間の社会を救う社会を維持する宗教≠ノもなりつつあった。一番重要なのは救世主を信じること≠ナあって、救世主のようになりたい≠ヘ、これと真っ向から対立する思想である。だからこそグノーシスは、キリスト教の初期の段階で異端≠ニして滅ぼされた。グノーシスがキリスト教最大の異端≠ナあるというのは、そういうことである。グノーシスが滅んで、キリスト教は信じる宗教≠ニして確立された。キリスト教には、なる≠ニいう可能性だってあったのだけれども、それがまず最初に弾圧されたということである。
これが弾圧されちゃったもんだから、宗教≠ニいうものがややこしくなった。宗教は、「そうなりたい、成長したい」であってもいいはずのものなのに、しかしそれが禁じられてしまったからである。そのことによって、この宗教は、「大人になれない、子供のままでいる」を強制することになってしまった。だから、西洋の歴史が成熟して、人間達が「大人になりたい」と思い始めた時、人間は宗教から独立するしかなくなって、宗教は捨てられたおとぎ話≠ノなってしまったのである。西洋の知識人の孤独は、だからこの「成長してはいけない」と言う宗教と戦わなければならなかったことに由来しているのだろうと、私は思う。親を憎んで親と仲直り出来ないままだったら、さぞかし寂しかろうというのである。おまけにイエス・キリストは、人間の罪≠背負って、人類を代表して磔にかけられた≠フである。そこから独立して、それを見捨てなければならないものが、罪を背負って磔になっているもの≠セったりしたら、さぞかし寝覚めが悪かろうというのである。そこで磔になっているのは、宗教という大切なものを捨てるという罪を冒した自分自身≠フようなものなんだから。近代になって、キリスト教が強迫神経症の因になってしまうのも仕方がない。
だから、「キリスト教こそが宗教だ」という考え方をしてしまうと、とんでもなく精神衛生上よくない結果になってしまうのである。「宗教はいらない」とか、「信仰なんてバカげてる」と言うと、後ろに血だらけの人が十字架を背負ってそっと立っているみたいな気になってしまうのは、「キリスト教こそが宗教だ」と考えた結果であろう。日本の近代はこのキリスト教の影響が大きいから、近代になって成立した新興宗教は、こういうヤバい要素を知らない間に取り込んでいるんじゃないかと思う。なる≠禁止するキリスト教的発想をしてしまうと、「自分の頭でものを考える」という選択が、どうしても、「親を足蹴にした不良」のようなものになってしまうからである。
グノーシスの思想は、ここのところをあっさり解消してくれる。グノーシスは、「イエスみたいになりたい」なんだから、ほとんど大乗仏教である。「大乗仏教の影響を受けてグノーシス思想は成立した」という説だってある。この、大昔に絶滅したはずのグノーシスの思想を書いた写本が、第二次世界大戦が終了した年に、エジプトのナグ・ハマディというところで発見された。ナグ・ハマディ写本というのがそれである。
だから、そのグノーシスの方面から、キリスト教のあり方を再検討しようとする人達も出て来た。再検討した方がいいのである。
ナグ・ハマディでとんでもないものが発見されてしばらくしてから、今度は死海の西のクムランで、もっととんでもないものが発見された。それは、イエス・キリストが生きていたのと同時代の、ある宗教教団の記録である。「もしかしたら、ここにはイエス・キリストが同時代の人物≠ニして書かれているかもしれない……」というので、とんでもない大騒ぎになった。このある宗教教団≠ェ、ユダヤ教の教団であるのは間違いがなくて、それはもしかしたら、イエス・キリストの所属していた教団そのものの記録≠ゥもしれないからだ。新約聖書が書かれたのは、もうイエス・キリストの記憶にもボーッと霞がかかって来たような頃だから、このストレートな同時代≠ノはとんでもない期待が集まった。
まァ、これに関してはさまざまな話があって、それを知りたかったらマイケル・ベイジェントとリチャード・リーという二人のジャーナリストの書いた『死海文書の謎』(高尾利数訳・柏書房刊)を読めばいい。ベラボーにおもしろい本だが、どうやら間違ってるところがあるみたいで、死海文書とその語るもの≠もっと正確に知りたかったら、バーバラ・スィーリングというオーストラリアの学者の書いた『イエスのミステリー――死海文書で謎を解く』(高尾利数訳・NHK出版刊)を読めばいい。ただ後者は専門書≠ナもあって、とても「読みやすい本」だとは言いかねる。この本を読むためには、結局のところ、新約聖書一冊を丸暗記でもしていなけりゃ無理だから、読めるとこだけ読んでりゃいいのだ。
で、結論はなにかと言うと、バーバラ・スィーリング氏によると、「イエスは人間の子で、父ヨセフと母マリアが正式の結婚をする前に生まれてしまったので、私生児∴オいをされるしかなかった、ダビデ王家の血を引く王子様」ということになる。彼は人間の子≠ナ、母親は処女でもなかったし、ローマとユダヤと彼自身の教団との三つ巴の争いの中で十字架にかけられて死んだけれども、すぐに息を吹き返して、そのまま七十を過ぎても生きていたユダヤ人の宗教活動家にして思想家≠ニいうことになる。
この件に関して、私はエンエンと論を展開する資格なんかなくて、私はただ「あー、やっぱり人間だと思ってよかったんだ、あー嬉しい」ということになる。そうなれば、グノーシスもやっと「イエスみたいになる[#「なる」に傍点]」をいたって当たり前に主張出来るし、私も、「やっとこれでキリスト教が分かる」と言える。
キリスト教の謎は、それが永遠に宗教のままでいなければならない不合理を含んでいること≠ナ、「キリストは処女なる聖母マリアから生まれた」とか、「死んで復活して天に上った」とかいう非合理は、いたって厄介なものである。これがネックになって、大人はキリスト教の前で頭を抱えて、その結果寂しく有用な子供時代の記憶≠捨てなければならないのである。大人に、「ああ、やっぱり子供の時この宗教を信じていてよかったんだ」という合理性が発見出来なければ、この宗教に未来はなくなるだろう。「悔い改めなさい」の一点ばりですむような御時世じゃないんだから。
それだから、このキリスト教の非合理が合理的なもの≠ニして説明されると、「なんであれ、人は非合理を信じたりはしない。ただ、まだ自分の頭でものを考える≠ニいうことが出来にくい人間だけが、その非合理を合理≠ニ思うことが出来て、非合理≠ニされるものでも、実のところ、ちゃんとした合理性を含んでいるのだ。そうじゃないと、それを信じた人間の信じる≠ニいう行為が無になってしまう」という私の説が生きるのである。
バーバラ・スィーリングは、「新約聖書の福音書は暗号≠ノよって書かれているのに等しくて、その謎を解く鍵が死海文書なのである」という前提に立っている。そして、なんで福音書が暗号≠ネんかで書かれなくちゃならないのかというと、バーバラ・スィーリングは、「世の中には、おとぎ話しか信じられないレベルの低い人間≠ニおとぎ話なんか信じられないレベルの高い人間≠フ両方がいて、前者を獲得しないと宗教としては生き残れないから」と言っている。紀元の一世紀にして、そのありさまなのである。
世の中には、十分に自分の頭でものを考えられる人間≠ニ、ロクに自分の頭でものを考えられない人間≠ニの二種類がいる。宗教は、その両方にまたがらなければならないから、一方では合理的でなければならないし、一方では非合理的でもあらねばならないのである。だから、こういうことだって言える――「宗教とは、頭の悪い人間によって汚されてしまった、合理的で明晰な思想の成れの果てでも[#「も」に傍点]ある」と。
こんなことを言えば激怒する宗教関係者はいくらでもいるかもしれないが、「そういうこともありうるのだ」という考え方をしない限り、宗教はこの先、ただのどうしようもないもの≠ノなってしまうだけだろう。世の中には、「自分の頭でちゃんとものを考えられるようになりたい」と思っている人間はいくらでもいて、そういう人を励ますということになったら、結局その声は宗教≠ノなるしかないからだ。宗教というものが、そういう人に語りかける愛情≠ナあることを忘れない方がいい。愛情だからこそ宗教≠セったりもするのだ。いつまでも、混濁した思想を「正しいから信じろ」なんてことを言っていると、愛情を必要とする人間に必要な愛情≠ェ届かなくなってしまう。オウム真理教の混濁≠ヘ、そのことをストレートに語っているのではないだろうか。
34 近代人は二度死ねない[#「34 近代人は二度死ねない」はゴシック体]
さて、これで宗教のあらかたは片づいた。残るは、科学≠セけである。もしかしたら、これを語って私の話は一挙に宗教≠ノなってしまうのかもしれないが、私は宗教なんかこわくないから、宗教になることだってこわくない――なにしろ1981年の『噂の真相』にはちゃんと「橋本教≠噂される橋本治の周辺」というアホらしい記事だって載っているんだから。そういう頭にくるような前おきをふっておいて、引っ張り出されてくるテーマは、例の、輪廻転生≠ナある。
ゴータマ・ブッダは、解脱して、輪廻転生から下りて、死んでしまった。それで仏教の根本は、一度で死ねるただの人になること≠ナある。そしてそうなって困るのは、人は誰でも皆そう簡単に悟りを開いて、「人生はこの一度限りでいい!」とは言えないということなのである。だから、もしかしたら現代で宗教が成り立ちうるとしたら、「人生は一度でいい」の解脱志向≠ナはなくて、「人生は何度でもある」の輪廻転生志向≠フ方かもしれないのである。「死に際にこのまま死んじゃうのはやだな……≠ニ思いそうだな……」と、それで自分の人生に未練を残して、「悟りなんか遠いな……」と思ってる人はいくらでもいるはずなのだから。つまり、「古代人は何度でも死ぬことをいやがったが、現代人は一度しか死ねないことをいやがっている」なのである。
輪廻転生は、果たしてあるのか? あるいはまた、人間の魂の永遠性とは?――こういうとんでもない問題に挑むのが、この節なのである。テキストは、イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(日高敏隆他訳・紀伊國屋書店刊)である。むずかしければ、これを分かりやすく紹介するテキトーな類書もあるだろうから、それを参考にされたい。
ドーキンスの利己的遺伝子≠簡単に要約してしまうと、「生物は、己れの遺伝子を遺すために生きている」である。重要なのは個体≠ナはなく、遺伝子≠ネのである。要するに、「昔霊魂、今遺伝子」なのである。「肉体は滅んでも遺伝子は遺る」で、なぜかと言えば、「遺伝子を遺すのが遺伝子の目的」だからである。「肉体は滅んでも魂は永遠」の、科学的根拠かもしれない。
そしてドーキンスによれば、この遺伝子の利己的≠ニは、「他を利することが自己を利することとイコールになっている」ということなのである。Aという人間がいてBという人間もいる。個体としてはAとBとで違うけれども、どっちにもヒトの遺伝子≠ェあることは共通で、AがBを生かすために死を選んでも、BがAを生かすために死を選んでも、どっちにしろ助けられて生き残った方の中にヒトの遺伝子≠ェ残るのはおんなじである。つまり、遺伝子とは、そのような働きかけを個体に対してするという点で、利己的≠ネのである。こう言うといたってメンドくさい話のようだが、これは「情けは人のためならず」の生物学的証明である。
最近じゃ間違って、これを「他人に同情するとその人をスポイルすることになってよくない」の意味だと誤解しているバカものも多いらしいが、これは、「他人を利することは、めぐりめぐって自己を利することになる」という意味である。この格言のもとが仏教の思想であるのは間違いないが、イギリスは仏教国じゃないので、こういう格言を知らないのである。知らないからこそ、わざわざ「情けは人のためならず」の実効性を、アリとかハチを使って証明してくれて、しかもそのことにわざわざ「複雑なる利己主義」というレッテルを貼ってくれているのである。
「不器用は発明の母」とは言わないが、「必要は発明の母」である。科学というのは、もしかしたら、仏教を知らないキリスト教徒のする、宗教によらない仏教へのアプローチ≠ネのかもしれない。同じイギリスの天才物理学者のS・W・ホーキングも、「理論的に、宇宙には始めも終わりもない」と、「天地創造の神様はいなくてもいい」ということを証明してくれているが、「仏はなにも作らない、ただ存在する」だけですませる不精な仏教徒は、絶対にこんなことをしないだろう。(ほめてんだか、けなしてんだか)
さて、インドを境にして、人間のあること≠ノ関する考え方は、二つに分かれる。つまり、インドから東は、「人間は輪廻転生をする」という思想のある文化圏で、インドから西は、「人間は輪廻転生をしない」の文化圏だということである。これが重要で、そしてしかも、「人間は魂の不滅を信じている」という思想に関しては、東西共通なのである。
だからなんなのかというと、「輪廻転生を信じちゃった方が合理的かもしれない」ということである。
インドの西であるエジプトのファラオは、「魂の永遠」を信じていた。そこでピラミッドを作って、その中で、身体から出て行った魂が帰って来るのを待っていた。中のインテリアも、生きていた時のまんまにして。しかしどうやら魂は帰って来なくて、彼は包帯の中でミイラになってしまっているところを発見されただけだった。
「魂の不滅」は、やっぱり、人間の死に対する恐怖であろう。それはいいんだが、問題は、死んだ肉体においてけぼりを食わされた魂のその後≠ナある。インド人は、この魂が、自分で「もういい、ここで死ぬことにする」と判断出来るようになるまで、いろんな生物の肉体の中に繰り返し繰り返し生まれ続けるという、遺伝子のような輪廻転生説≠とった。合理的と言えばこれが一番合理的な考え方であろうが、しかしインドの西の人達は、どうも我《が》≠ニいうものが強すぎた。この人達は、「魂の不滅」を信じていたが、ただの「魂の不滅」ではなかった。この人達の信じていた「魂の不滅」は、「自分の魂の不滅」だったのである。自分の魂≠ェ不滅なんだから、これが虫≠ノなったり猫≠ノなったりはしない。自分の魂≠ヘ不滅で、これが帰って来る[#「帰って来る」に傍点]んだとしたら、その帰って来る先は自分の体の中≠ノしかない。だから、ファラオは防腐処置をほどこされるのである。がしかし、そうなると、「それは果たして魂の不滅≠ネのか?」という疑問も生じてくる。「それって、どっちかっていうと肉体の不滅≠ネんじゃないの?」と――。実は、そうなのである。
「魂の不滅」を考えるインド人達は、さっさと死骸を焼いて、灰にして川に撒いちゃうが、それが魂の不滅≠ネのか肉体の不滅≠ネのか、イマイチ混乱してよく分かっていないインドの西側人間は、死骸を火葬にはしないのである。死骸は、そのまんま、いつ生き返ってもいいように、保存される[#「保存される」に傍点]。だから時々、保存に失敗したまま生き返ってしまった例≠ニいうのもあるらしくて、ここにはゾンビという腐った不滅≠烽るのである。
冗談はさておき――というわけではない。「魂の不滅」をまともに論じると、こういうトーン[#「こういうトーン」に傍点]にしかならないのである。
キリスト教もユダヤ教もイスラム教もそうだが、「魂の不滅」を前提にしているところでは、最後の審判≠ェ用意されている。インドの西では、「最後の審判で、人の魂は天国行きと地獄行きとに振り分けられる。最後の審判を恐れよ。心正しく生きよ!」ということになるんだが、この最後の審判≠ェいつあるのかというと、ずーっと先≠ネのである。日本のように、死ぬと閻魔《えんま》様の前で「地獄行きと極楽行きのお裁きを受ける」ではないのである。つまり、どう違うのかというと、「日本では毎日閻魔様のお裁き≠ェあるけれども、インドの西の方では、そのお裁きがずーっと先≠フことで、まだ一度も行われたことがない」ということである。つまり、日本の地獄では、毎日毎日、来るやつもいるし出ていくやつもいるしの出入りがあって、休日なしで「二十四時間営業中」なのに対して、インドから西の地獄では、「まだそこにやって来た人間は一人もいない」なのである。『神曲』の地獄篇を書いたダンテは、一体どこへ行ってそれ[#「それ」に傍点]を見たんだろうか? 確かなことは、インドから西にも「地獄に落ちる」をこわがった人達はいっぱいいたはずなんだが、その誰も、「ウチとこの地獄はまだ営業してないよ」という発想をしなかったということである。とっても不思議である。それくらい地獄がこわかったのかもしれない。こわいから、「ある」と思い込んで、その地獄が果たして現在営業中なのかどうかを考えなかったのである。「ずーっと先に地獄がオープンするんだとしてもやっぱりこわい」と考えてしまうほど、インドの西側の人達は「魂の永遠性」を信じていたんだろうということになるんだが、そうなると「魂の不滅」もアホみたいなもんである。巨大な東京ドームのような地獄の予定地≠ェ、臨海副都心みたいな形で、ずーっと放置されっ放しというのがインドの西の地獄なんだが、それでもやっぱりこわい≠ネんだろうか?
ちょっとあきれたでしょ?
つまり、輪廻転生≠ニいう思想を持たないインドから西では、魂の永遠≠ェ、かなり不思議な形で定着しているということである。
キリスト教やユダヤ教やイスラム教の教えに従えば、「人間は死んで、その魂は、最後の審判の来る日を待っている[#「待っている」に傍点]」のである。
どこで?
分からない。
だから、「人間は死ぬとどこ行くの?」という臨死体験≠ェ、インドから西では問題になるのである。「最後の審判の日まで、人間の魂はどこで待っているのか?」は、重要な神学上の議論≠セったりもしたのだ。
日本だと、死ぬと四十九日で別のところに生まれ変わる――ということになっている。だから、あんまり待合室≠フ必要もないのだが、インドから西では、そういうことが問題になる。なにしろ、死んだ人間の魂は、ずーっと最後の審判≠ェ来るのを待ち続けなければならない[#「待ち続けなければならない」に傍点]からである。映画の『天国から来たチャンピオン』みたいに、一時的に下界に降りて来るというのは、天国≠ェ待合室で、「ここで待っている間、ちょっと下界に行ってもいい?」という発想も起こるからだろう。ティム・バートンの映画『ビートルジュース』にも、この待合室≠ヘ出て来た。
魂はどっかの待合室で待ってて、肉体の方は墓の中で待ってる。待ってる間に腐っちゃうかもしれないが、「最後の審判の時が来ると、死者は墓場から甦る」ということになってるんだから、そういうことにしかならない[#「そういうことにしかならない」に傍点]のである。だから、「魂の永遠」を信じて、「最後の審判で悪い結果が出たらどうしよう……」と心配しているインドから西の人達は、最後の審判の時の肉体の心配もしているのであろう――入社試験の面接の時に着て行く服の心配をしている新卒予定者のように。「もしも僕の体が腐ってて、それで審判官の心証を悪くして天国に行けなかったらどうしよう……」とか。
キリスト教では、この最後の審判をイエス・キリストがやることになっている。システィナ礼拝堂の壁にミケランジェロが描いたのが、その未来想定図≠ナある。キリスト教は「魂の永遠」を当然のことながら信じているのだが、インドから西の人達の中には、遠い昔のまだキリスト教徒になる以前から、そのことを信じていた人達も多くいた。信じていて、「キリスト教の方が効果がありそうだ」と思って、それで新しく出て来たキリスト教に乗り換えたのである。そういう方面[#「方面」に傍点]もあるのである。
どういうことかというと、それが「キリスト教徒はキリストの復活を信じる」というキリスト教の教義と重なってくるのである。
福音書では、「磔にされたイエスは、死んで、そして復活した」ということになっている。「復活して、肉体を持った人間の形のまま、天へ昇って行った」ということになっている。これが重要なのである。なぜかというと、これが死者の復活≠ニしては最も理想的な形だからである。
「最後の審判の時、墓場から復活するにしても、その時自分の体が腐っていたらどうしよう……」という心配は当然あって、他の宗教はそこんところに関してはなんのケアもしてくれないのだが、キリスト教だけは、そこんところを「大丈夫ですよ」と保証してくれているのである。腐らないできれいな体になって復活した――ただし磔の時に出来た傷だけは残っていたらしいが――イエス・キリストが、その保証人なのである。バーバラ・スィーリングの説によると、「イエスは仲間によって薬を飲まされて、一時的に気を失うようにさせられていて、そしてその死体≠ェ仲間に介抱されて蘇生した」ということになるんだが、その史実≠ゥら仲間の手≠抜いてしまうと、「神の子イエスは、死後もちゃんと復活して、きれいなまんま昇天した」になる。
「魂の不滅」を信じていて、「最後の審判」も信じていて(最後の審判≠ヘキリスト教以前にユダヤ教徒が発想していたものである)、そしてその時の自分の肉体の保存状況≠フ心配もしている多くの一般大衆にとって、この「イエスは死んで復活した[#「復活した」に傍点]」は、とっても意味のある重大なことだったのである。そのことを知っていて、福音書作者は、イエスの十字架からの脱出≠イエスの死からの復活≠ニ表現してしまったのである。
だからなんなのかというと、「魂の復活」を信じるのもいいが、そういう目に見えないシュールを信じるのはとてもむずかしくて、だからこそ、「肉体の不滅を信じる」の方に傾いちゃうんだろうな、ということである。インドから西の魂の永遠≠ヘ、どう考えても、自分の肉体の永遠≠ネのである。
だから、キリスト教のその初期の段階では、「死者が復活して天に昇る≠ネんていうのは、アンビリーバブルだ」と言う人もいっぱいいたのである。なにしろ、それよりずーっと以前の古代エジプトのファラオだって、復活≠ノは成功していないんだから。キリスト教の発生した地域は、そういう古いエジプト文化圏≠ナもあったのだから、うるさいことを言う知識人はいくらでもいたのである。
それで、だからなんなのかというと、「輪廻転生≠ニいう発想を受け入れちゃえばいいのに」ということになるのである。そうすれば、待合室問題≠熈最後の審判の時のスタイル問題≠焉A別にどうってことはないのである。がしかし、それはインドから西においては、異教の発想≠セった。と同時に、自分の肉体≠ノこだわる人達は、やっぱり、死んだ後でネコ≠竍ネズミ≠竍ゴキブリ≠ノはなりたくなかったであろう。だから、インドから西では、そういう思想的な受け入れ≠ヘしないで、利己的遺伝子≠ニいう科学[#「科学」に傍点]の方へ行くのである。「それならそれでもいいんだけど」と、私は言うだけである。「やっぱり、人生は一度きりか≠ニ思うと心細くなるのは、インドから西でもおんなじか」と。
007シリーズの作者イアン・フレミングは、日本へやって来た。そこで俳句だかなんだかを教えられたんだろう。イアン・フレミングが興味を持ったその短い言葉は、「|あなたは二度しか生きられない《ユー・オンリー・リヴ・トワイス》」だった。それを知って、イアン・フレミングは、「日本人はなんと不思議な考え方をするのだろう」と思ったのだろう。それをそのまんま、自分の作品のタイトルにした。"YOU ONLY LIVE TWICE"――すなわち『007は二度死ぬ』である。「あなたは二度しか生きられない」のもとの日本語がなんなのかは知らないが、イギリス人にとって、東洋の東の果ての小国の民が、「別に人生は一度だけじゃない」と思っていることは、とっても不思議なことだったのだ。「イアン・フレミングは死んで、輪廻転生してリチャード・ドーキンスになった」というわけでもないんだろうが。
35 思想≠ニは、突然変異を可能にする、最も利己的な遺伝子である[#「35 思想≠ニは、突然変異を可能にする、最も利己的な遺伝子である」はゴシック体]
ドーキンスによれば、生き続けるのは遺伝子≠ネのである。生き物の体は、所詮遺伝子の乗り物≠ネのである。ますます遺伝子は輪廻転生≠ナ、永遠の魂≠ナある。
そうなると、人間はこのようにぼやくことになる――「じゃなに? オレは生きてても、あんまり生きてないの? 所詮オレは、遺伝子を生かすためのいれもの≠ネの? じゃ、オレがアレコレ考えても、そんなことなんの意味もないの?」と。そして、そういうことになって登場して来るのが、突然変異≠ニいう、重要なファクターなのである。こっから先が、私の考え――。
遺伝子は、外界の影響を受けて突然変異≠起こす。遺伝子の生きる物語とは、この突然変異をいかに効果的に収集し生かすか≠ナあろう。そうなると重要なのは、突然変異を起こす遺伝子ではなくて、遺伝子に突然変異を起こさせる外界の状況≠ナある。こうなると、もう話は「遺伝子という女≠妊娠させる、外界状況という男=vである。つまり、遺るのは遺伝子だが、遺すのは頭[#「遺すのは頭」に傍点]ということである。
人間の思想は、他に働きかけて突然変異≠起こす。宗教が誕生する≠ニいうのは、この典型的な例だろう。宗教という、強烈に他人に働きかける思想≠生み出した人間は、そのことによって完全に神格化されてしまうし、新しい宗教の誕生は社会のありさまを変える。人間は思想によって影響されるのだから、思想は突然変異を持ちかける外界状況=A影響される人間は突然変異を選びとる遺伝子≠ネのである。だから、思想は時を超えて人の胸に生きる遺伝子≠ネのであるし、そしてまた、思想とは、「他人に働きかけることによって、自分をも利する利己的なもの」なのである。
たとえば、「オレの考え方は、どうも人と違うらしい。そんなことないと思うんだけど、どうもオレの考え方は世間の考え方と違ってて、それで、いつもオレはヘンな目で見られる。自分はそんなにヘンじゃないと思うけど、いつもヘンだヘンだ≠チて言われるから、世間の考え方に合わせなきゃなんない。それがとっても窮屈だ。よく考えてみれば、世間の人間達だって窮屈そうにしている。もしかしたら、オレの考えはそんなにヘンなものじゃなくて、世間の考え方がヘンなのかもしれない。だから、オレはとっても世間を窮屈に感じて、根本のところでは、自分の考え方はちっともヘンじゃない≠ニ思っているんだ。でも、そう思う自分の考えはまだまだ不十分で、オレがなにを言ったって、世間の人は納得してくれない。だとしたら、世間の人が納得してくれるようなところまで、オレの考えをちゃんとさせればいいんだ。自分の考え方がそう十分なものでもないということぐらい、ウスウスは知ってるから、それでオレだって、ヘンなの≠チて言われても、ブーッとなって黙ってなきゃなんないんだ」と考えている人間が、世間の人間も自分も納得するような新しい考え方≠提出してしまえば、そのことによって、ヘン≠ニ言われなくなる。世間の人間も、その考え方を選択した方がリーズナブルだと思うから、その考えを選択する。つまり、そんな彼は、「世間の人間のため」を思って考えてやれば[#「考えてやれば」に傍点]、自分の一番納得できる楽な考え方によって出来ている世の中で、一番楽に生きて行くこと≠ェ可能になる。それはつまり、「自分も楽、他人も楽」ということで、「他人の楽を考えてやることが自分の楽をもたらす」――すなわちこれこそが、情けは人のためならず%Iな利己的遺伝子主義なのである。
つーことは、この私は、生きて利己的な遺伝子なのだということなのである。
思い出とは、遺伝子である。人の胸の中に生き残ってしまえば、それで、その人の生きた理由≠ヘ、達成されてしまうようなものである。そして、誰だって、他人の胸の中に自分の思い出を遺すことは可能なことだ。人間はそれ自体で、個体が死んでもまだ生き続ける利己的な遺伝子≠ネのである。
「自分を遺したい」と思うことによって、人はそれ自体で遺伝子≠ナある。人は、そのように遺したい≠フだ。「自分の子供を遺したい」と、「自分の思い出を人の胸に遺したい」とは、実は、人間にとって同じように切実なことで、人間の遺伝子の遺し方には、この二つがあるのである。そのように、遺伝子である人間≠ヘ、輪廻転生≠フ中に入って行くことも出来るのである。
人間が、他人の心に働きかけることが出来る生き物≠セということを、大切にしましょう。
「人生これで終わりなんてやだな」と思ったら、「もう一回ある」と思えばいい。たとえ今がその二回目の人生≠ノ当たっているにしたって、その当人には「これがオレの二回目の人生だ」なんていうことは分かりゃしない。輪廻転生には、不可知という利点がある。分かんないんだから、どう考えたっていいんだ。なにしろ「生まれ変わることだって出来る」と思ったって、エイリアンが卵を生みつけるんじゃないんだから、誰にも迷惑なんかかからない。
「このまんまじゃやだな、次の人生はもっといいもんじゃないとやだな」と思うんだったら、その次の人生≠ェもっといいものになるように、この人生[#「この人生」に傍点]で頑張るしかない。そしてそのことを、日本のいたって当たり前の仏教は、「来世のために功徳を積む」と言った。「来世のために功徳を積む」は、「死んで極楽に行けますように……」と願うジーサンバーサンのするもんだと思ったら間違いだ。極楽≠ニいうのは、輪廻転生の世界観の中では、所詮一つの通過点≠ノすぎない。地獄ももちろん、所詮一つの通過点=B
輪廻転生の一番重要なところは、あくまでも、人間になって[#「人間になって」に傍点]、「これを私の最後の生とする!」と宣言することだ。そのような、自分で納得出来るような充実した人生を送ることが、輪廻転生のゴールで、ハッピーエンド。だから、「次の人生がもっといいもんであるように頑張ろう」と思っている内に、そのことによって、「これでいいや、これで幸福になっちゃった」という解脱≠セって迎えるかもしれない。
「あってもいいし、なくてもいい」――それこそが、不可知であるような、輪廻転生思考のいいところだったりする。
「そろそろお後がよろしいようで」と言うべきところに来てしまったかもしれない。
36 私がカナブンになりたい理由[#「36 私がカナブンになりたい理由」はゴシック体]
「宗教は洗脳である」と言ったバカがいる。宗教は信仰≠ネのであって、洗脳≠カゃない。それを言うなら、「教育は洗脳だ」と言うべきである。そしてもちろん、教育というのは洗脳≠ネのだ。だから、多かれ少なかれ、子供というものはみんな勉強をいやがる[#「いやがる」に傍点]。受けていやなのが洗脳≠セからだ。
教育というのは、もちろん洗脳≠ナある。そんなことは、もう分かっている。そして、教育という洗脳にとって一番必要なことは、それが明確にいい加減である≠ニいうことである。
教育という体系は、当人ならぬ他人[#「他人」に傍点]によって与えられる。その自分自身に当てはまらない教育という体系に自分自身をはめ込むのは、とてもつらい――「つらい」と分かる人間だけが、他人のする教育を自分のもの≠ノすることが出来る。
教育というのは、まだなにも知らない子供に対してほどこされるものなのだから、それは当然洗脳≠ナある。だからこそ、多くの教育は子供の自主性≠損なう。だから、真面目な教育者ほど、「教育は洗脳だ」と言われることに困る。その通りだからだ。じゃ、どうすればいいのか?
洗脳とは、相手の自主性を奪うことである。そして教育とは、子供の自主性を伸ばすことである。あきらかに洗脳≠ニ教育≠ニは違うものなのだ。しかし、その結果が、ヘタをすると一つになりかねない。ならないためにはどうすればいいのか?
答は一つしかない。子供が、その洗脳プロセスの中から勝手に逃げ出して行けるような抜け道≠用意しておいてやることである。
つまり、正しい教育≠ニは、いい加減な洗脳をすること≠ネのである。そして、自主性とは、自分で勝手に、「ここから逃げよう」と、抜け道を発見することなのである。それをこそ自主性≠ニ言う。
「苦行を捨てることが悟りへの第一歩」とは、こんな風に、宗教の外側においてでも真実≠ネのである。だから、宗教を特別なものだと考える必要はない。
そして、そんなことを一番最後にもって来るこの私は、「人がマトモな教育をしてくれないんだったら、自分で自分にマトモな教育をほどこすしかないな」と思った人間なのである。だから、この橋本治という人の最大の特徴は、自分で言ったことを、必ず最後に自分で引っくり返すことである。いつも必ず、「やーめた!」と言って、律儀にいい加減≠実演し続けているのである。それで、こんなことを言う。
実は私は、自分のことを悟ったとも、解脱したとも思っていないのである。実は、「死んだらカナブンになりたい」と思っているのである。「そうなったら輪廻の中で迷いっ放しじゃないか」とも思う人は思うだろうが、そんなこと、別にどうでもいいのである。
私が『アストロモモンガ』を書こうと思った年、私は三十九歳だった。実は私は、「自分の寿命は七十五年」と勝手に決めていた人間なのである。「そんくらいまではマトモになんかやってて、その後はぼけて死んじゃえばいい」と、勝手に若い頃に思っていたら、日本人の平均寿命はそんなもんになって、いたって平均的な考え方≠ノなってしまった。それはいいんだが、その私が三十八を過ぎて三十九になりかかっている頃に、ハタと気がついた――「もう、オレの寿命、半分終わってるじゃねーか!」と。そして私は、当然のことながら、怒ったのである。その怒り方は、さすがにこの人独特のものであるが、こうである――。
「オレの人生半分終わって、オレがこれでいいや、これで人生始めよう≠チて思えるだけの前提って、まだ全部出来上がってねーじゃねーか。どうしてくれんだよ!」
そのように思ったのである。思って、「もうさっさとやめちゃおう。今度の次の仕事が終わったら、それでもう前提は出来た≠チてことにしちゃお。そうじゃねーときりがねーや」ということにしたのである。橋本治という人もあんまりな人であるが、事実は事実なんだからしよーがねーじゃねーか、というのである。「早いとこ前提≠終わりにしちゃわないと、オレは一生前提作り≠ナ、一生いい思いもしないで死んじゃうだけだ。やーめた、やめた」である。
私はもうずーっと長い間、「一体オレのどこがおかしいっていうんだよ? 頭くんな!」で怒ってた人なのである。悩んでたわけじゃない。怒ってたのである。「なんだかんだ言って、結局いつだってオレのが正しいじゃないか」とか、そういうことを、ずーっと子供の時から実感し続けていたのである。「オレは、人からゴチャゴチャ言われなけりゃ、自分でさっさと幸福になる能力だってあるはずなのに、なんでいっつもいっつも邪魔ばっかすんだよ」と、それでプンプンになっていて、「いいよ、じゃオレはこういう前提で生きている≠チてことをさっさとはっきりさせて、こっちの方がずっと合理的だ≠チてことにして、さっさと勝手に生きてってやるから」という、そういう方針を立ててしまったのである。だから私は、いつもいつも、「ほーら、これでよかったんじゃないか」という、結果論的なややこしい腹の立て方をしているのである。
前提作り≠ニいうのはそういうもんで、それはそれでいいのだが、しかし、「そんな前提作りに自分の人生の半分以上使わされちゃったら、おもしろくもなんともないじゃないか」というのである。「オレなんか、ずーっとわーい!≠チて言って、それでそのまんま生きてられりゃいいとしか思ってなかったのに、これからジジーになってそんなガキのまねしたってしようがねーじゃねーか、どうしてくれるんだ?」が、その不満の元凶である。
「まァ、もう半分終わっちゃって、ジジーでもいいか≠ニ思ってる部分もなきにしもあらずだが、もしもこれで死ぬ間際になって、やっぱりやだった、こんなの!≠ニいうことになったらどうしよう? それじゃ取り返しがつかないぞ」と思ったのである。
だから、「もうしようがないから、この人生はこの人生[#「この人生はこの人生」に傍点]ということにして、さいわい私は、わーい! だけで生きてってもいい≠ニいう思想だけは証明しちゃったから、次の人生では、なんにも考えなくてもみんなにチヤホヤされて、アホのまんまでも生きて行けるようになるであろう。じゃ、そういうことにしよう」と思ったのである。思ったがしかし、「来世もまた人間になって、これでオレも人がいいから、うっかり騙されて、次の人生でもまたこんなメンドくさい仕事[#「こんなメンドくさい仕事」に傍点]させられることになったらどうしよう……?」と思ったのである。「ガキのまんまわーい!≠ヘいいが、そうやって、それを前提に成長してマトモな大人≠ネんてもんになっちゃったら、またこの人生[#「この人生」に傍点]の二の舞いだぞ」と思って、きっとそうさせるに違いないと思われる未来の人生における周囲の人間達のこと≠ぼんやりと考えたのである。「きっとそうなるな」と思って浮かんだのは、未来の人間達の顔じゃなくて、現在の人間達の顔≠セったんだが、ともかく、「もうやだから人間はやめ!」と決めたんである。
「人間はやめてカナブンになる」と考えたのである。「成長して一人前のカナブンになって、なったその瞬間、わーい!≠ニ思いっきり飛んでって、マヌケだからそのまんま壁にぶつかって死んじゃうのがいいな」と思ったのである。「いっそ、そういうことをする虫だったら、カブトムシとかの方がいいかな?」とかも思ったのだが、「カブトムシになりたい」ということになると、なんだかつまんないミエが入ってるみたいで、「要は飛んでって壁にぶち当たるだけ≠ネんだから、カナブンの方が実質がある」と思ったのである。
その昔、人と話しながら大笑いして歩いていた私は、ある瞬間、突然歩けなくなった[#「突然歩けなくなった」に傍点]のである。「えっ? どうしたんだ……」と思った瞬間、私のオデコを衝撃が襲ったのである。思いっきり痛かった。気がつくと私は、コンクリートの電信柱に抱きつくように衝突していたのである。いくらよそ見をして歩いていてもそういうことになる中学生はあんましいないだろうが、私はその時、「自分の本質はこれだ」と思ったのである。
だから、カナブンになって思いっきり激突して死んじゃうというのは、私にとっては別に悪い話≠ナはないのである。
こういう本を書くと、きっとまた「宗教臭い」とか言われて、「弟子にしてください」とかっていうアホらしい手紙も来たりスンだろうが、私はそういうカナブンになりたい人間なんだから、あんましマジメな顔してつまんないこと言わないでくれ。ほんとにそれで、もうずーっといい迷惑してんだから。
もうホントに、カナブンのがずーっといいね。人間てーのはバカだから、「自分の頭が宇宙で一番たいしたもんだ」と思ってるんだ。だから、「輪廻転生で虫になる」ってのは、下の下のことだと思ってるんだ。この世の中には頭のいい元気なカナブンだっていて、そいつだって、「わーい!≠チて言って、それで最後にしよう」って、解脱してんのかもしんねーじゃねーか。
宅地開発で生きどころをなくしたカエルやメダカやゲンゴローやアメンボが、しようがないから人間になって、それでロクでもない頭使って世の中をゴチャゴチャにしてんのかもしんねーじゃねーか。「それだったらいっそ、カナブンのがずーっといいね」と、昔カナブンの好きだった子供の私は、そのように思うのだった。
橋本治(はしもと・おさむ)
一九四八年東京生まれ。東京大学文学部国文学科卒業。在学中の六八年に駒場祭ポスター「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへいく」でイラストレーターとして注目される。『桃尻娘』で講談社小説現代新人賞佳作。以後、小説、戯曲、舞台演出、評論、エッセイ、古典の現代語訳など、その仕事はひとつのジャンルに収まらない。〇二年『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で「小林秀雄賞」を受賞。小説に『桃尻娘シリーズ』『つばめの来る日』『蝶のゆくえ』他、エッセイに『これも男の生きる道』『戦争のある世界――ああでもなくこうでもなく4』他、評論に『いま私たちが考えるべきこと』『上司は思いつきでものを言う』『ひらがな日本美術史』『人はなぜ「美しい」がわかるのか』『ちゃんと話すための敬語の本』他、古典の現代語訳に『桃尻語訳 枕草子』『絵本徒然草』『窯変 源氏物語』『双調平家物語』他、著書多数。
この作品は、一九九五年七月、マドラ出版より刊行され、一九九九年八月、ちくま文庫に収録された。