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勉強ができなくても恥ずかしくない(3)
それからの巻
橋本 治
目 次
「ぜったいにローラースケートがやりたい」と思ったケンタくん
お母さんの|陰謀《いんぼう》で、家庭教師をつけられてしまうケンタくん
どうして家庭教師が来たのかが、さっぱりわからないケンタくん
中学受験に失敗するケンタくん
中学生になったケンタくん
高校を受験するケンタくん
「人間なんて、わからないさ」と思うケンタくん
高校生になったケンタくん
受験勉強しかしない友達を見て、ケンタくんが思うこと
「ひとりでもいいから高校三年生をやろう」と思ったケンタくん
ケンタくんのワンマンショー
放課後の|廊下《ろうか》で、ケンタくんが見ていたもの
大人になったケンタくんの思ったこと
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「ぜったいにローラースケートがやりたい」と思ったケンタくん
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六年生の二学期が始まって、みんながすっかり学校に慣れた十月の|頃《ころ》になると、クラスの男の子達のあいだでは、ローラースケートがはやりはじめました。
ケンタくんは、いちどだけローラースケートをやった経験がありました。五年生の終わりの頃、クラスの中村くんから、「ローラースケートをしに行かない?」と言われて、スケートリンクまでしに行ったのです。
ケンタくんの家の近くに、スケートリンクなんてありません。ローラースケートだって、テレビで大人がやっているのを見たことがあるだけです。自転車に乗って中村くんの家に行った時、とつぜん中村くんに「今からスケートしに行かない?」と言われて、連れて行かれてしまったのです。
スケートリンクは、自転車に乗って四十分くらいかかるような遠くにありました。|大冒険《だいぼうけん》です。スケートリンクのお金や、スケート|靴《ぐつ》を借りるお金は、中村くんが出してくれました。
体育が2のケンタくんは、スポーツがだめです。「運動神経がにぶい」と、ずーっと言われていました。学校の体育の時間はにがてです。でも、横町の子と遊ぶ時は、べつにそんなことを考えなくてもすんでいました。もちろん、すばしっこいユウジくんほど身軽ではありませんでしたが、みんなと|一緒《いつしよ》に走り回って、|塀《へい》でも屋根でも、なんとか登れていたので、ケンタくんは、「学校の体育で教えることじゃなかったら、だいじょうぶなのかもしれない」と、かってに思ってしまいました。ローラースケートだって、学校の体育の時間にはやらないことなのです。だから、「もしかしたらできるのかな」と思って、「行こうよ、行こうよ」と言う中村くんに、ついてきてしまったのです。
ところが、だめです。ローラースケートの靴を|履《は》いたら、もう終わりです。足もとがすべって、立てません。立とうとするところんで、思いっきりお|尻《しり》を打ちます。そんな痛いころびかたを今までにしたことがないくらいの、痛いころびかたです。
立てないケンタくんのそばを、中村くんはすべって行きます。ころんでしまったケンタくんに近づいて、立たせてくれます。手を引いて立たせてくれて、でもケンタくんは、すぐにころんでしまいます。結局ケンタくんは、中村くんがすべっているのを、スケートリンクの外のベンチに|座《すわ》って見ているだけでした。
ケンタくんは、その頃まだ泳げませんでした。だから、ただ見ている自分を、「プールの時とおんなじだ」と思いました。「プールの時より、もっとひどい」と思いました。プールなら、水の中に入ることはできます。でも、ローラースケートは、リンク外のベンチから立つことさえもできないのです。
帰り道、自転車をこぎながら、ケンタくんはお尻が痛くてしかたがありませんでした。「やっぱり自分は運動神経がゼロなんだ」と思うケンタくんは、自転車をこいで家に帰れるかどうかさえもが、心配になってしまいました。
そのローラースケートを、六年生の二学期になったら、クラスの男の子達がはじめたのです。
学校の裏のほうに、「|弁天池《べんてんいけ》」という場所がありました。小さな神社があって、池があって、そのまわりの道はアスファルトで|舗装《ほそう》がしてあって、しかもあんまり車が通りません。クラスの男の子達は、放課後その道に集まって、みんなでローラースケートをしているというのです。ケンタくんも、放課後に見に行きました。
よそのクラスの男の子もふくめて、十五人くらいがスケートをしていました。ころんでいる子もいますが、みんな|上手《じようず》です。ケンタくんは、「ぼくもやりたい!」と思いました。
そこでみんながやっているのがローラースケートじゃなかったら、ケンタくんはすぐに、「ぼくも入れて!」と言っていたでしょう。ローラースケートができないケンタくんは、しかたがなくて、「ぼくもやりたい!」と思うだけでしたが、ケンタくんは、みんなが楽しそうに遊んでいるのを見て、おとなしくしていられる子ではなくなっていたのです。
近所の子と遊ぶ時には、ルールがあります。近所の子は、「自分の知ってる子」としか遊ばないからです。少し|離《はな》れたところに住んでいる家の子や、|引《ひ》っ|越《こ》して来たばかりの家の子は、「入れて」と言っても、すぐ仲間に入れてもらえるかどうかはわかりません。知らない子を仲間に入れる時は、みんなで相談です。かんたんに仲間に入れてもらえないことだってあります。小さい時のケンタくんは、「入れて」ということもできなかったので、なかなか横町の子の仲間に入れてもらえなかったのです。そういうことを考えれば、弁天池のそばでローラースケートをしている子達も、知ってる子しか仲間に入れてくれないのかもしれません。そういう「|縄張《なわば》り」という考えかたもあったのです。
でもケンタくんは、もうそんなことを気にしていませんでした。もしもそこでみんなが遊んでいるのが、馬乗りや|馬跳《うまと》びだったら、すぐに「入れて!」と言ったでしょう。みんなで遊ぶ「横町の夏休み」を二回も経験して、ケンタくんは、もうせこいことを考えなくなっていたのです。それにケンタくんは、もう馬乗りや馬跳びなら、とくいなのです。ところが、そこでみんながやっているのは、ローラースケートです。ケンタくんはできません。だから困ったのです。
ケンタくんは、「いいなァ」と思いました。ローラースケートができる子達がうらやましくてうらやましくて、「仲間に入りたいなァ、仲間に入れないかなァ」と思って、それからケンタくんは毎日、弁天池のそばまで、みんながローラースケートをやっているのを見に行くようになりました。知ってる子に言って、「ちょっとやらせて」と|頼《たの》んだりもしました。
みんながやっていたローラースケートは、スケートリンクにあったスケート靴とはちがいます。金属製の台にローラーがついているだけで、それをふだん履いている靴にベルトで留めてすべるのです。ローラースケートを見に来ているのはケンタくんだけではなくて、「ちょっとやらせて」と言うのも、ケンタくんだけではありませんでした。
見ていたみんなは、交代でちょっとずつやらせてもらいました。器用な子もいましたが、たいていの子は、スケートをつけても立てません。立つところんで、それはやっぱり、ケンタくんも同じでした。「いちどやったことがあるから」と思っても、ケンタくんはできません。でも、ケンタくんはあきらめませんでした。
一緒にスケートリンクに行った中村くんも、弁天池のところへ来て、ローラースケートをはじめるようになりました。中村くんは、自分のローラースケートを、新しく買ってもらったのです。ケンタくんは、中村くんに言って、ちょっとやらせてもらいました。
すごく危なっかしかったのですが、ちょっとだけ立てました。立って、すべろうとしたら、すぐころびました。お尻が痛いのは、ぜんぜんかわりません。でもケンタくんは、「やっぱりローラースケートがやりたい!」と思いました。
ローラースケートは、駅前のおもちゃ屋さんで売っています。横町のユウジくんも持っています。ローラースケートを持っていない子が、「見に行こう」と言うので、ケンタくんも一緒に、駅前のおもちゃ屋さんまで見に行きました。
ローラースケートは、八百円もします。一緒におもちゃ屋さんに行った友達は、「ぼくも買ってもらおう」と言いました。なにしろ、弁天池のそばでローラースケートをやっている子は、二十人以上にふえていたのです。だから、ケンタくんも考えました。やっぱりどうしても、ローラースケートがやりたいのです。ケンタくんは大決心をして、「ローラースケートを買って」と、お母さんにねだることにしました。
小学校に入ってから、ケンタくんはいちども、お母さんに「おもちゃを買って」とねだったことがありません。おもちゃを買ってもらえるのは、クリスマスの時だけです。|叔母《おば》さんやおばあさんに言えば、おもちゃを買ってもらうこともできます。でも、お母さんに見つかると、「またそんなもの買ってもらって!」と|怒《おこ》られてしまいます。
ケンタくんは、野球のバットだけはクリスマスに買ってもらって持っていましたが、みんなが持っているグローブは、持っていませんでした。野球のボールも、三百円のおこづかいをもらった時、自分のお金ではじめて買いました。ケンタくんは、グローブだってほしかったのですが、野球のへたな自分がほしがっても、千円以上するグローブなんか買ってもらえないだろうと思っていたのです。
でも、ローラースケートは、グローブより安いのです。「買って」とお母さんに言っても、「友達に借りればいい」と言われるかもしれません。でも、それではうまくなれません。ちょっとやらせてもらって、すぐにころぶだけです。買ってもらって、いつも練習していたら、自分だってぜったいにすべれるようになる――ぜったいに、すべれるようになるまで練習する、と思いました。ビー玉だって、そうやってうまくなったのです。
もしも、叔母さんやおばあさんに言えば、ローラースケートは買ってもらえるかもしれません。でもケンタくんは、「お母さんに言って、買ってもらおう」と決めたのです。
もう、こそこそするのはいやです。ローラースケートのお金は、お母さんの|財布《さいふ》から|盗《ぬす》めません。ケンタくんは、もうそんなことをしなくなっていました。
「外へ行って遊べ」と言ったのは、お母さんです。学校の友達がみんなでローラースケートをやっているのに、自分は見ているだけなんて、いやです。「おまえは不器用で、なんにもできないんだ」と言われるのもいやです。|正々堂々《せいせいどうどう》とお母さんに言って、正々堂々とお母さんにローラースケートを買ってもらおうと思いました。ケンタくんにしてみれば、「学校の友達とローラースケートをする」というのは、小学校に入ってからずーっと引っこみ|思案《じあん》だった自分が「これでもうだいじょうぶだ!」ということを証明する、最終ゴールみたいなものだったのです。
ケンタくんは、大決心をして、お母さんに言いました。
「ローラースケート買って。みんな、やってるんだもん」
お母さんは、「クリスマスでいいじゃないか」と言いました。クリスマスまで、まだ二カ月もあります。クリスマスまで待っていたら、もう三学期になってしまいます。すぐ卒業です。そんなのはいやです。
「クリスマスはいらないから、今、ローラースケート買って」
お母さんは、「いくらするの?」と言いました。
ケンタくんは、ちょっと困りました。「そんな高いの、だめだ」と言われたらどうしようと、思いました。でも、言いました。
「八百円」
「やるんだね?」と、お母さんは言いました。
ケンタくんは、「お尻が痛くなるな」とちょっと思って、でも「やる!」と言いました。
お母さんは、それっきりなんにも言いません。「じゃ、ほら」と言って、ケンタくんに千円札をくれました。クリスマスでもないのに、夢みたいです。ケンタくんは、「ありがとう!」と言って、すぐに駅前のおもちゃ屋さんまで走って行きました。
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お母さんの|陰謀《いんぼう》で、家庭教師をつけられてしまうケンタくん
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それからのケンタくんは、毎日が練習です。何回もころんで、いやというほどお尻を打ちました。
横町の道路は土の道なので、ローラースケートではすべれません。ケンタくんの家のお店の前は商店街から続くアスファルトの舗装がしてある道なので、ローラースケートですべれます。それでケンタくんは、何人もの人が行ったり来たりする商店街のはずれの道で、何回も何回もころびました。もう、ケンタくんは気にしません。人に見られても平気です。「自分は正々堂々と、みんなができるようなことを、できるようになる練習をしているんだ」と思ったら、ころんでもよたついても、ぜんぜん|恥《は》ずかしくなんかありませんでした。
三日たったら、ケンタくんは、ころばずに立てるようになりました。それから、よたよたと、前に進む練習をしました。またころんで、道を行く知らない人の手につかまったりもしました。そして、それが「恥ずかしいこと」ではなくて、「人にめいわくがかかること」だという理解もしました。そして、よたよたと前に進めるようになったケンタくんは、自転車にローラースケートをのせて、みんなのいる弁天池のところまで行きました。
ほんとだったら、ローラースケートを靴につけたまま、弁天池のところまで、ザーッとすべって行きたかったのです。でも、それができないケンタくんは、自転車に乗ってみんなのいるところまで行って、それからスケートをつけて、よたよたと進んでは、すっころんでばかりいました。
ケンタくんには、恥ずかしいことなんかありません。前のめりに|倒《たお》れて、ズボンの|膝《ひざ》に穴を開けて、てのひらをすりむいても平気です。「傷は男の子の|勲章《くんしよう》だ」と思っていました。暗くなるまで弁天池のところでみんなと一緒にいて、家に帰って来て、晩ごはんのあとになっても、お店の前の道で練習をしていました。
仕事から帰って来た叔母さんに、「ねェ、見てて」と言って、うまくすべれるつもりで、平気ですっころんだりもしました。でも、ケンタくんは、ぜんぜん平気です。夜になって、お店の前の通りを行く人が少なくなるのが|好都合《こうつごう》で、だれも通らなくなる時間まで、ひとりですべる練習をしました。
一週間もしたら、ケンタくんはころばなくなりました。そして、|度胸《どきよう》を出してスピードをつけたほうが、ローラースケートというのはころばないものだということもわかりました。「よーし、わかった!」と思って、お店の前の道が行き止まりの|壁《かべ》になっているところまで、一気にすべって行きました。
ケンタくんは、一度もころびません。行き止まりの壁にぶつかるようにして止まって、「やった!」と思いました。ケンタくんはついに、ローラースケートがすべれるようになったのです。
「やった!」と思ったケンタくんは、お店の前まですべってもどって来て、また行き止まりの壁のほうに|突進《とつしん》して行きました。そして、すべれるのはいいけれど、自分は「止まりかた」を知らないんだということを理解しました。目の前に壁があって、ケンタくんができることは、ぶつかるか、ころぶか、「あ、あ、あ……」とまぬけな声を出してオタオタするかの、どれかです。壁に向かって行ったケンタくんは、「ああ、どうしよう……」と思いながら、壁にぶつかってころびました。
「どうやって止まるんだ?」
壁の前でへんなふうにころんだケンタくんは、起き上がりながら考えました。
「弁天池のところで、みんなはどうやって止まってたんだっけ?」と思って、ケンタくんの頭の中には、|恐《おそ》ろしいイメージが|浮《う》かびました。
スピードをつけて走って来た子が止まろうとする時には、大きく足を開いてはずみをつけて、両足で道路に大きな円をかくようにして、グルッと回るのです。|瞬間的《しゆんかんてき》に突然、グルッと円をかくようにして、方向を変えるのです。そうすると、自動的にその場で止まるのです。「みんな、そんなことやってた……」と思って、ケンタくんはぞっとしました。
勢いをつけて走って来て、いきなり足を開いてターンをして方向を変えるなんて、ケンタくんにできるでしょうか? ケンタくんは、「できない」と思いました。「運動神経がないぼくがそんなことをしたら、どんなころびかたをするんだろう?」と思って、ケンタくんはあきらめたのです。
「やっぱりできることだけしよう」と思ったケンタくんは、ただまっすぐすべることだけをしました。でも、なんだかおもしろくないのです。「これだけできるようになったんだから、もっとできるようになりたい」と思うケンタくんは、「できないかもしれないけど、ちょっとやってみよう」と|覚悟《かくご》をきめて、おそるおそる、ターンの練習をはじめました。
すべりながら、足を開くことだけはできました。でも、体をねじろうとしても、おそるおそるすべっているケンタくんの体にははずみがついていないので、体が回らないのです。「だめだ、こんなの」と思って、ケンタくんは、もっとスピードをつけて、またすべりはじめました。そして、「こわい」とかなんとかを思わずに、|根性《こんじよう》を出して足を開いて、体をグイッと動かしたのです。
自分でも、なにをどうしたのかわかりません。でも、ケンタくんの足は道路に大きな円をかいて、ケンタくんの体はころびもせずに、すごい勢いで、グルッと一周してしまったのです。そして、ケンタくんは、行き止まりの壁の前で、みごとに方向|転換《てんかん》をして止まっていた[#「止まっていた」に傍点]のです。
ケンタくんは、「すごい!」と思いました。「まぐれかもしれない」と思って、もういちど同じことをやってみました。なにをどうやったのかはわからないけど、「できた自分」を信用することにしました。
体はちょっとぐらつきましたが、両足を開いたままのケンタくんの体はみごとにターンをして、ケンタくんは止まることに成功していたのです。さっきまで、スピードをつけて走ることさえこわがっていたケンタくんが、ターンをして止まることまでできるようになってしまったのです。さっきまで「運動神経がない」と思っていたケンタくんは、「ぼくって天才かもしれない」という、とんでもなく|図々《ずうずう》しいことまで考えてしまいました。ケンタくんは、それほどうれしかったのです。
次の日、ケンタくんは学校から帰ってくると、すぐにローラースケートをつけて、弁天池のほうまですべって行きました。自転車ではなく、ローラースケートだけで行きました。
もちろん、それはかんたんなことではありません。ケンタくんが練習をしていた家の前の道は、まっすぐで平らな一直線でした。でも、弁天池のほうへ行くまでには、何回も道を曲がって、まっすぐではない道をぐねぐね行って、しかも|途中《とちゆう》には坂道もあります。ケンタくんは、どこかの家の塀につかまって、人とぶつかりそうになってころがって、もうちょっとで車にひかれそうになって、みんながローラースケートをやっている弁天池のそばの道まで、なんとかしてたどりついたのです。
もちろん、「車にひかれそうになった」なんてことは、だれにも言いませんでした。そんなことを言ったら、「危ないからだめだ」と言われてしまいます。ケンタくんの時代は、まだ道路に車がそんなに走っていない時代だったので、子供達だって、平気で道をローラースケートで走っていたのです。
それからしばらくのあいだ、ケンタくんはとてもしあわせでした。家に帰って来てローラースケートをつけるのがめんどくさいから、学校までローラースケートを持って行ってしまいました。クラスの男の子達が弁天池のそばでローラースケートをやっているというので、女の子達も見に来ました。「ケンタくん、すべって」と言われて女の子達の前ですべって、「上手!」と言われたりもしたのです。最高にしあわせでした。
ところが、そのしあわせがあまり長くはつづかなかったのです。どうしてかというと、ローラースケートを買ってくれたお母さんが、ケンタくんの知らないところで、ひそかな陰謀をたくらんでいたからです。
ケンタくんが弁天池のそばに行ってみんなと一緒にローラースケートですべりはじめてから、一週間くらいたった頃です。お母さんが言いました。
「明日から、家庭教師の先生が来るから」
ケンタくんは、びっくりしました。「なんのことだ?」と思ったのです。
その頃の子は、「家に家庭教師が来ている」なんていう子のことを、バカにしていました。それは、「どうしようもなく勉強のできない、みっともない金持ちの子」でしかなかったからです。「あいつん|家《ち》、家庭教師が来てんだぜェ」と、バカにしたようすでだれかのうわさをしているのを、学校で聞いたことだってあります。いくらなんでも、そんなバカげたことが自分の身の上に起こるなんて、ケンタくんは考えたこともありませんでした。
「なんでェ?」と、ケンタくんが泣きそうな顔で言うと、お母さんは、「もう決めてきたから」と言うのです。そして、「いいね」と言って、お店のほうへ働きに行ってしまいました。
新しく二階建てになった、ケンタくんの家の一階は、お店と仕事場と、お父さんの「会社」の事務所です。ケンタくんの家は、いつのまにか「会社」にもなっていたのです。
階段を下りて行くお母さんに向かって、ケンタくんは、「ねェ、なんでェ! どうしてェ! やだよォ」と言いました。でもお母さんは知らん顔で、「会社」からお店の方へ行ってしまいました。
二階の部屋で、ケンタくんは、「やだァ」とひとりで泣きました。
ケンタくんは、「勉強のできない子」じゃありません。|稲垣《いながき》くんのお母さんも、|岡村《おかむら》くんのお母さんも、「ケンタくんは勉強ができるんですってねェ」と言ってくれました。そう言ってくれたのは、稲垣くんのお母さんと岡村くんのお母さんの二人だけで、そんなことを自分のお母さんに言ったって、「一人や二人の人に言われたくらいでなんだっていうんだ」と言われるに決まっていると思って、ケンタくんはだまっていたのです。「もう一回、だれかにそう言われたらお母さんに言おう」と思っていたのに、その前に、家庭教師が来てしまうのです。ケンタくんは、「ずるい!」と思いました。
五年生の時、「どんぶり学園に行きたい」と言った時には、「あんなところは勉強のできない子が行くところだから、おまえは行かなくてもいい」と言われたのです。それなのに、どうして家庭教師が来るのでしょう? ケンタくんは、「自分はそんなに勉強ができない子なんだろうか?」と思いました。「もしかしたら、どんぶり学園に行かなくていい≠ニ言われたのは、家にお金がなかったからなんだろうか?」とも思いました。でも、そうだとするとへんです。家庭教師が来るのは、「どうしようもなく勉強のできない、金持ちの家[#「金持ちの家」に傍点]の子」のはずなのです。ケンタくんは、「自分の家は金持ちなんだろうか?」と思いました。
ぜんぜんそんなふうには思えません。
小学校に入ってから、ケンタくんの家は四回も改造をしました。そのたんびに、庭が|狭《せま》くなります。庭には、はじめっから|芝生《しばふ》なんかありません。ケンタくんの家で働く人の数はふえて、もう十人くらいいます。家の中の人間の数はすごく多くて、お母さんは、お手伝いさんも使わずに、ひとりでその食事のしたくをしています。晩ごはんの材料を買いに行くのは、メモをわたされるケンタくんの仕事です。そんな「金持ちの家」があるでしょうか? ケンタくんの家には、あいかわらず|玄関《げんかん》がないのです。
ケンタくんは、自分の家が「金持ちの家」とは思えませんでした。だとするとどうなるのでしょう? ケンタくんは、ただの「とんでもないバカな子」になってしまうのです。ケンタくんは、わけがわかりませんでした。
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どうして家庭教師が来たのかが、さっぱりわからないケンタくん
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次の日、家庭教師の先生が、本当にケンタくんの家へ来ました。
学校から帰ってみると、ケンタくんと妹の使っている子供部屋が、今まで見たことがないくらいきれいに|掃除《そうじ》されていて、まんなかにお客さん用のテーブルがおいてありました。白いレースのテーブルクロスまでかかっています。まるで、特別なお客さんが来るみたいです。
ケンタくんがテーブルの前で正座をして待っていると、お母さんが先生を案内して来ました。学生服を着た大学生で、|国分《こくぶん》さんといいます。
先生は、すごく静かでおとなしい人で、ケンタくんをぶったり怒ったりするようには見えません。実物の家庭教師というものを知らなかったケンタくんは、家庭教師というのが、メガネをかけてムチを持ってこわい顔をしていて、できない子を怒ったりぶったりするんじゃないかと、かってに思っていたのです。
国分先生は、そんな人ではありません。メガネもかけていません。ケンタくんのためにすごく厚い問題集を買って来て、それをケンタくんにやらせました。
先生は、特別になにかを教えるわけではありません。ケンタくんのやった問題集の、答をみてくれるだけです。家庭教師というのがなにをするのかわからないケンタくんは、「問題集をやるだけだったら、先生がいなくてもいいのに」と思いました。でももちろん、家庭教師の先生が来なかったら、ケンタくんが進んで問題集をやるはずはないのですが。
国分先生にたいして、ケンタくんには、不満なんかありません。でも、どうして自分のところに家庭教師の先生が来るのかが、ケンタくんには、さっぱりわからないのです。
先生は、毎週月曜日と木曜日の、二回来ることになりました。はじめの週はがまんしていましたが、次の週の木曜日になると、ケンタくんは、弁天池のところまでローラースケートをしに行ってしまいました。
ケンタくんがどこでローラースケートをしているのか、お母さんは知らないはずです。自分のところに家庭教師が来ることを、ケンタくんはだれにも言っていません。バレたら、とんでもないことになります。国分先生はこわくないので、「さぼっても怒られないだろう」と思うケンタくんは、みんなのところへローラースケートをしに行ってしまったのです。
ところが、ところがです。みんなでローラースケートをやっていると、あやしげな|気配《けはい》がします。「え?」と思って見ると、道路の向こうにお母さんが立って、「ケンタ」と呼んでいるのです。それは、まぎれもなく「自分のお母さん」ですが、そんなお母さんを見たことがありません。まるで、よその家のお母さんみたいにすまして、「ケンタ、先生がみえたわよ」と、やさしい声で呼んでいるのです。ケンタくんは、目の前がまっ暗になりました。
「ケンタくん、家庭教師来てるの?」と、そばにいた友達が言いました。ケンタくんはコクンとうなずいて、「行かなくていいでしょォ」とお母さんに言いました。お母さんは、まったく聞かないふりで、「早くいらっしゃい」と、|猫《ねこ》なで|声《ごえ》で言います。いつもだったら、「早く来いって言ってんだよ!」とどなるくせに。
ケンタくんはしかたなく、お母さんのほうに行きました。これ以上ほうっておいて、みんなに「家庭教師が来ている」ということを知られたくなかったからです。
ローラースケートをつけたケンタくんは、お母さんのほうへすべって行って、「もう少し、いちゃいけない?」と聞きました。お母さんは、やさしく[#「やさしく」に傍点]ケンタくんの手を取って、「行くの」とだけ言いました。しかたなくケンタくんは、みんなに「じゃァね」と言って、ローラースケートをつけたまま、お母さんに手を引かれてガラガラと道路をすべって行きました。なんだかすごくマヌケで、お笑いをやっているみたいでした。
ふしぎなことに、家庭教師の先生が来る日は、お母さんがぜんぜん怒りません。別人みたいです。休けい時間に、|吉原《よしはら》くんのお母さんみたいに、紅茶とカステラを持って来ます。なんだか、うそみたいです。
国分先生もいい先生で、クリスマスの前には、プレゼントに本をくれました。もちろん、マンガの本ではありませんけれど。
三学期になっても、国分先生は来ました。「先生は、いつまで来るんだろう?」と思っていると、「今日が最後だよ」と言いました。来た時も突然なら、終わる時も突然です。ケンタくんがぽかんとしていると、先生は言いました。
「お母さんから聞いてると思うけど、お母さんはきみを、国立か私立の中学に入れたいらしいんだ」
そんな話は初耳です。
ケンタくんがバカみたいな顔をしていると、国分先生は、「聞いてないの?」と言いました。ケンタくんの答は、「うん」です。
先生は、受験の時の注意をケンタくんにしたかったのですが、ケンタくんがそんなことをまったく知らなかったので、言うのをやめました。
国分先生は、「そのうちにお母さんから話があると思うよ」と言って、お別れに、新しくできた動物園へケンタくんを連れて行ってくれる約束をしました。
次の日曜日、ケンタくんは約束通り、国分先生と動物園へピクニックに行きました。妹も一緒でした。それから、お別れの手紙も書きました。家庭教師が、みんなの思ってるようなものではないこともわかりましたが、でもケンタくんのお母さんは、「中学受験」のことなんか、ひとことも言わないのです。「国分先生は、かん|違《ちが》いしてたんじゃないのかな」と、ケンタくんは思いました。
もちろんケンタくんは、よその中学になんか行きたくありません。行くつもりもありません。家庭教師の先生が来ていることがバレた後、いちどだけ学校で、「おまえんとこ、家庭教師なんか来てやんの!」と言われたことがありますが、でもそれだけで、いじめられたりはしませんでした。
ケンタくんは、自分の行っている小学校がだい好きです。卒業したら、みんなと一緒の公立の中学校に行きたいと思いました。
ケンタくんの学年は生徒の数が多いので、新しい中学ができることになっていました。ケンタくん達は、その中学に行くはずなのです。二学期の終わりに、教室で「みんな一緒だといいね」と言っていたら、稲垣くんが、「ぼくは行けないかもしれない」と、|寂《さび》しそうな顔をして言いました。稲垣くんの住んでいるところは、前からある古い中学校の近くで、稲垣くんは新しくできる中学に行けないかもしれないのです。
事情を聞いたケンタくんは、「なんとかならないの?」と言いました。稲垣くんも、みんなと同じ中学に行きたいので、そういう手続きをしてもらっているのだけれど、まだよくわからないと言うのです。
ケンタくんは、「ぜったいにそうしてもらいなよ」と言って、稲垣くんも、「そうしてもらう」と言いました。せっかく仲よくなった稲垣くんと、これでもうお別れだなんて、ケンタくんはいやだったのです。
稲垣くんにそういう問題が持ちあがった頃、山下さんのルミちゃんにも、受験の話があるということがわかりました。ピアノがひけるルミちゃんは、音楽大学の|附属《ふぞく》中学を受験するらしいというのです。ケンタくんはルミちゃんに、「ほんとなの?」と言いました。
ルミちゃんは、「うん」と言います。そして、「でも、行きたくないの。みんなと同じ中学に行きたいの」と言いました。
ケンタくんは、「そうだよね。みんな一緒の中学に行きたいよね」と言って、ルミちゃんも、「だから私、お父さんに頼んでみるの」と言いました。
ケンタくんは、せっかく仲よくなったみんなと別れるのがいやでした。それぞれの都合はあるんでしょうが、ぜったいに同じ中学に行きたくて、「みんなが同じ中学に行ければいいのに」と思っていました。みんなの気持ちも、同じだと思っていました。そして、好きじゃない中学の受験をさせられるのは、よその「勉強のできる子」で、自分ではないと思っていたのです。
「そのうちにお母さんから話があると思うよ」と国分先生は言いましたが、お母さんはなにも言いません。「まさか、そんなことがあるはずはない」と思っていたケンタくんは、自分からお母さんにそんなことを聞くつもりもなくて、テレビでやっている、「中学受験のための小学生の予備校のニュース」なんかを、バカにして見ていました。
テレビのニュースは、「空前の受験戦争」とか言います。ケンタくんは、わけがわかりません。中学なら、試験を受けなくたって入れる公立の中学校が、いくらでもあるのです。それなのに、どうして「受験」なんかをしなければいけないのでしょう?
どうして、仲のいい近くの友達と離れて、ぜんぜん知らない町の中学に行かなければならないのか、ケンタくんにはよくわかりません。ケンタくんは、遠くの私立の小学校に行かされて、それであんまりしあわせそうな顔をしなくなった子供を、何人も知っていたのです。まさか、自分がそんなことをさせられるとは、夢にも思っていませんでした。
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中学受験に失敗するケンタくん
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でも、国分先生の言ったことは本当でした。二月になると、お母さんは、国立大学の附属中学と、私立の中学校の入学願書を持って来ました。それは、テレビのニュースで聞いたことのある中学校でした。
ケンタくんは、「なんで?」と言いました。
「なんで? なんでみんなと一緒の中学に行っちゃいけないの? なんでこんなとこ行かなくちゃいけないの? やだ! ぼくは、みんなと一緒の中学に行くんだから、ぜったいにやだ!」と言いました。
ケンタくんは、すごくいやです。「いやだ」と、泣きながら言いました。それでお母さんは、「受けるだけ、受けてみるだけ」と言いました。
「受けるだけ? 受けるだけで、行かなくてもいいの?」と、ケンタくんは言います。
ほんとのことはわかりません。お母さんだって、ケンタくんが受験して合格できるかどうかはわかりません。だから、「受けてみるだけでいいから」と言ったのです。
お母さんには、うそをつく気もなかったのですが、ほんとのことを言うつもりもなかったのです。お母さんの本当の気持ちは、もちろん、「合格したらいい中学[#「いい中学」に傍点]に行かせる」です。
しかたがないのでケンタくんはお母さんと一緒に、願書を出しに行きました。お母さんと二人きりでどっかへ行ったのは、小学校の入学式以来です――それと、「先生がみえたわよ」と言われて、ローラースケートのままガラガラと引かれて行った時だけです。「お母さんと二人きり」というのが、ケンタくんにとってはちょっとうれしかったのですが、目の前に見た古い中学校の大きな建物は、ちっともすてきじゃありませんでした。「ここには来たくない」としか思えませんでした。建物だけがあって、仲のいい友達の顔がぜんぜん見えないところなんか、つまらないだけでした。
受験の前の日、ケンタくんは、稲垣くんや岡村くんや、ルミちゃんや、そのほかの仲のいい友達に、「受けるだけ≠ネんだって。行かなくてもいいんだって。みんなと一緒の中学に行くよ」と言って、学校から帰りました。勉強ができる岡村くんだって、どっかの中学を受験するわけではないのです。ケンタくんは、「だったらぼくが、よその中学に行く必要なんかないじゃないか」と思いました。
試験の日、お母さんはケンタくんについて来ました。試験が終わった後で、「これから帰って、学校に行ってもいい?」と言ったら、お母さんは、「あさってもまた試験があるだろう」と言いました。
次の日は、学校を休まされました。「明日、試験なんだから勉強しろ」と言われて、しょうがなく問題集を開きましたが、「受けるだけで行かなくていいんだろう?」と思うケンタくんは、テレビを見てマンガを見て、ゴロゴロしていました。さすがのお母さんも、べつに文句は言いませんでした。
次の日、試験はお昼で終わりました。ケンタくんはまた、「帰ったら、学校に行ってもいい?」と言いました。お母さんは、「帰ったら、もう学校は終わってるだろ」と言いました。ケンタくんの言うことは、「終わってなかったら、学校に行ってもいい?」だけです。
家に着いて時計を見たら、五時間目が終わるちょっと前でした。ケンタくんは、試験場に持って行った筆箱をランドセルに入れかえて、六時間目のノートと教科書をつっこむと、「行って来まーす!」と言って、学校へすっ飛んで行きました。
道の途中で、チャイムが聞こえました。「五時間目が終わったんだ」と思って、ケンタくんは校庭に突進して行きました。校庭では、クラスのみんなが長なわ|跳《と》びをしていました。クラスのみんなは仲がよかったので、三学期の休み時間には、クラスのほとんど全員が教室から出て、一緒に校庭で遊んでいたのです。
ランドセルをしょったままのケンタくんは、「入れて!」と叫んで、そのままなわ跳びのなわの中に飛びこんで行きました。みんな、「おお!」と言って、ケンタくんを|迎《むか》えてくれました。
ちょうど目の前にいたルミちゃんが、「試験行って来たの?」と言うので、ケンタくんは、なわ跳びの中で、「うん、落っこって来た」と言って、そのまま、元の小学生にもどったのです。
ケンタくんが言ったとおり、中学受験は二校とも落第しました。わざと失敗したのではありません。「受けるだけでいいから」と言われて、ケンタくんはちゃんと試験を受けました。ちゃんと考えて問題もときました。でも、ケンタくんの成績は、そんなによくなかったのです。
合格発表を見に行ったお母さんに「落ちた」と言われて、ケンタくんは、古くて大きな建物から「バカ」と言われたような気が、ちょっとだけしました。でも、知ったこっちゃありません。ケンタくんは、行きたくない中学に、行かなくてすんだのです。
三月になって、卒業文集に作文を書かなければいけない時が近づきました。ケンタくんは、作文がきらいです。ずーっときらいで苦手で、作文の時間になると、いつも「なんにも書くことがない」と思って、困っていました。六年生の最後になっても同じです。机に向かっても、なにを書いたらいいのかが、さっぱりわかりませんでした。
卒業はしても、みんなはまた中学で一緒です。べつに「おわかれ」ではありません。そう思ったら、書くことなんかなんにもなかったのです。「ぼくは、小学校で六年間なにをしたんだろう?」と、ケンタくんは考えました。
「なにかはいろいろしたけど、べつに作文に書けるような、ちゃんとしたことじゃないな」と思いました。「いろいろなこと」をした結果、ケンタくんは元気な小学生になったのですが、「作文にはちゃんとしたことを書かなくちゃいけない」とだけ思っていたケンタくんには、「ぼく自身が六年間の作文です」などと考えることはできませんでした。
「先生にほめられそうなことって、なんなんだろう?」と思って、ケンタくんは、「勉強のこと」を考えました。そして、あまり深く考えずに、いきなりこう書いてしまいました。
≪ぼくはよく、「ケンタくんは勉強ができるのね」と言われる。でも、本当はちがう。≫
ケンタくんの書いたことには、ちょっとだけうそがあります。「勉強ができるのね」と言われたのは、二回しかありません。「よく言われる」というのは、うそです。そのことを知っていて、ケンタくんは、ごまかしてしまいました。
稲垣くんのお母さんと、岡村くんのお母さんにそう言われて、ケンタくんは、「もう一回、だれかそう言ってくれないかなァ」と思っていました。そうしたら、「言われたのは一回や二回」じゃなくなって、「みんな勉強ができる≠チて言ってくれるよ!」と、お母さんに言えると思ったのです。みんなに「勉強がよくできる」と言われたら、もう勉強なんかしなくてすむと、ケンタくんは思っていたのです。
「勉強ができる子」と言われたら、カッコいいかもしれません。でも、それだけじゃちっともおもしろくないということを、ケンタくんはよく知っていました。そして、でもやっぱり、「勉強ができる」と言われないと、ちっとも自由に遊べないのです。
「勉強ができる≠チて言われたらいいな。そしたら、勉強なんかしなくても、みんなと一緒に遊んでいられるのにな」と、ケンタくんは思っていたのです。稲垣くんや岡村くんや、一緒に|模擬《もぎ》試験に行っていた友達にあこがれていたのは、ケンタくんが、「勉強ができる子は、なんでもできて、友達もいて、いつも元気にしてられるんだ」と思いこんでいたからです。
たしかにそうでした。でも、勉強ができる子は、勉強ができなくなると怒られて、「勉強のできる子とだけ遊びなさい」と言われているみたいなのです。ケンタくんは、それもいやです。「勉強ができるって言われたいけど、勉強のできる子にはなりたくないな」と、ケンタくんは、思うようになっていました。それで、ちょっとだけうそをついて、作文を書いたのです。
作文がへたなケンタくんは、なにをどう書いていいのかわかりませんでした。でも、さいしょの二行を書いたら、あとはもうどうでもよくなりました。すごく苦労して、作文用紙一枚分の作文を書きましたが、さいしょの二行以外は、どうでもいいことばかりでした。生まれてはじめて、作文用紙一枚全部に字を書くことができたのに、それで「やった!」とも思いませんでした。
≪ぼくはよく、「ケンタくんは勉強ができるのね」と言われる。でも、本当はちがう。≫と書いたケンタくんは、「ぼくは六年間がんばって、みんなと仲よくできるようになったんだから、もう自由になってもいいでしょう」と、ただそれだけのことを言いたかっただけなのです。
それは、自分のお母さんに向けてだけのことではなくて、友達のお母さんや小学校の先生や、模擬試験をやる会社や、そういう試験を受けに行きたがる友達ぜんぶに向けてで、ケンタくんは、それだけを言って、中学生になりたかったのです――「もう大人なんだから、自由に自分で生きたい」と。
そう思っていて、でも、そんなふうにちゃんとした作文にはなりませんでしたが、中学に入ったケンタくんは、ほんとに「自由で元気な子供」になってしまったのです。
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中学生になったケンタくん
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中学生になったケンタくんは、ぜんぜん勉強をしなくなりました。学年のはじめには、「もう中学生になったんだから、ちゃんとがんばろう」「もう二年生になったんだからがんばろう」「もう三年生なんだから――」とは思うのですが、すぐにズブズブになってしまうのです。どうしてかと言えば、楽しいことがいくらもあるからです。
中学生になったケンタくんは、もうだれかと友達になることを、そんなにめんどくさく考えなくなりました。「みんな、同じクラスの友達なんだから、仲よくしちゃいけない理由なんてない」とだけ思いました。
中学に入ってさいしょに仲よくなったのは、家の近くの洋服屋の島田くんです。商店街にある島田君の家は、家族みんなで、男のお客さん用の|背広《せびろ》を作って売っている、そういう「洋服屋」でした。島田くんは横町の子ではなくて、小学校の時に同じクラスになったこともないので、いちども口をきいたことがありませんでした。でも、中学では同じクラスで、帰り道が一緒だったので、「これから一緒に学校行こう」と約束して、それからは、毎朝、呼びに行ったり来たりするようになりました。
中学校は小学校より遠いので、歩く|距離《きより》もずっと長くなります。その途中に、同じクラスの子の家もあります。島田くんのことを、ケンタくんはいつのまにか「タケちゃん」と、小学生みたいに名前で呼ぶようになっていたのですが、そのタケちゃんが、途中にあるクラスの子の家を見つけると、「こいつも呼んで行こうぜ」と言うようになったのです。
ケンタくんの知らない、タケちゃんが小学校の時に同じクラスの子を呼んで、そのうちにタケちゃんは、「途中にいるクラスのやつぜんぶ呼んで、一緒に学校行こうぜ」と、すごいことを言いだしたのです。
ケンタくんも、「そうしよう!」と言って、次の日から二人は、三十分も早く起きて、今までの倍以上の時間をかけて、遠回りも回り道もいっぱいして、クラスの男の子達をかたっぱしから呼びだして、一緒に学校に行くようになったのです。
みんなはぞろぞろと行進するように歩いて、校門のところへ来る時には、もう二十人近くの行列になっていました。そんなことを平気でしていたので、「同じクラスのやつはみんな友達」が、かんたんに実現してしまいました。
勉強は、予習も復習もしません。そのうちに、宿題もあんまりやらなくなりました。「先生に当てられるかもしれない」という|恐怖《きようふ》も、学年のはじめにはありましたが、慣れてくると、テキトーにごまかせることもわかって、「いいや」ということになってしまったのです。復習は、はじめっからしません。「勉強は、授業時間にぜんぶおぼえてしまえばいい」と思ったのです。
もちろん、そんなになんでもかんたんには覚えられません。でもケンタくんは、「だいたいわかればなんとかなる」と思っていました。先生が授業中に言うことで、大切なことはそんなに多くありません。同じようなことを何回かくりかえして、本当に大切なことは、次の授業でもくりかえします。そういうことがわかったので、ケンタくんは、「あ、ここんとこだけ今覚えちゃえば、あとはテキトーに遊んでられる」と思って、覚えることの最低限だけを、授業中に「えいやッ」と集中力を|駆使《くし》して、覚えてしまうようにしたのです。
それでだいたいのこと[#「だいたいのこと」に傍点]はわかったので、ケンタくんはべつに、勉強で苦労しませんでした。「わからないこと」があっても、べつにケンタくんには困らないので、「わかんないからいいや」ということにしていました。ですからもちろん、成績は、「いいんだか悪いんだかわからない」のまんまです。ケンタくんは、「勉強は優等生にまかせとけばいい」と思っていたので、それでかまいませんでした。もちろん、テストの成績はお母さんに見せません。お母さんだって、「見せろ」とは言いません。「もう小学生じゃないんだから、それでいいんだ」と、ケンタくんは思っていました。
学期末になって通知表をもらった時、「見せろ」というお父さんは、「おまえ、もうちょっとなんとか努力しろよ」とは言うのですが、目は笑っていますし、成績も「5から2までぜんぶある」というのは小学校時代と同じだったので、ケンタくんは、「べつにいいじゃん」としか思いませんでした。「勉強してオール5になれるんだったら、きっと、ずっと昔にオール5になってる」と思いました。
勉強なんかするひまがないくらい、ケンタくんは|忙《いそが》しかったのです。
なにに忙しかったのかというと、特別なことではありません。ただ、体の中がずっと幸福で、生きてるだけで忙しくて、勉強なんかしてるひまはなかったのです。
タケちゃんとはちがう、やっぱり近所に住んでいる|雲井《くもい》くんとは、いつも|冗談《じようだん》ばっかり言っていました。学校の帰りに、雲井くんと二人でゲラゲラ笑いながら道を歩いていると、あとから来た知らないおばさんが、「あなた達、ほんとにしあわせそうねェ」と言って、笑いながら通りすぎて行きました。ケンタくんと雲井くんは顔を見合わせて、「なんだあれ?」と言って、またおかしかったので、ゲラゲラ笑いました。
そうすると、前を行ったおばさんがふりかえって、やっぱり笑いながら、二人に「こんにちは」と言うみたいに、頭を下げました。ケンタくんも雲井くんも、なんだかわからないまんまおばさんにあいさつをして、それからケンタくんは、「もしかして、自分達が幸福になっていると、ほかの人達も幸福な気分になるのかもしれないな」と思いました。なぜだか知らないけど、そんなふうに思ったのです。だからケンタくんは、「みんなのためにも、もっとずーっと、幸福のまんまでいよう!」と決めてしまったのです。
同じクラスの中には、仲のいい子達のグループがいくつもあります。でも、ケンタくんは、どのグループにも属しませんでした。あるグループに属して仲よくしていて、でも、ほかのグループがおもしろそうだと思うと、「なにしてんの?」と言って、平気でよそのグループに入ってしまうのです。
一年のあいだ、クラスのグループをいくつもわたり歩いて、一年が終わるとクラス|替《が》えです。三年間でクラスが三回替わって、そのたんびに友達がふえていったので、中学三年になった時のケンタくんは、一学年ぜんぶが知り合いみたいになってしまいました。
学校に、こわいものはありません。休み時間にふざけて友達のお尻を|蹴《け》っ|飛《と》ばして、追いかけられて|逃《に》げ|場《ば》がなくなったら、平気で職員室に逃げこみました。
おじぎをして戸を開けて、職員室に入ると、知っている先生が、「なんだ? ケンタ、なんか用か?」と言います。ケンタくんは、「はい」と言って、だれか先生を探すふりをして職員室の中を見回すと、「探してる先生はいなかった」という顔をして、「失礼します」と言って職員室を出てしまいます。いくらなんでも、職員室の中まで追っかけて来る子はいないので、職員室に「|避難《ひなん》」をして出て来ると、もうケンタくんは安心です。安心してのんびりと|廊下《ろうか》を歩いていて、追っかけてる子に見つかったら、また逃げます。
ケンタくんにとって、学校の廊下や階段は、ひたすらに|駆《か》け|回《まわ》るところでした。ケンタくんの体育の成績は、2と3のあいだを行ったり来たりしているだけで、徒競走の時は、いつでもビリです。でも、学校の廊下だと、走り回ってつかまったことは、ほとんどないのでした。
ケンタくんの学校にも、番長はいました。中三になって転校して来た|菅原《すがわら》くんは、体も大きくて、「|柔道《じゆうどう》が黒帯だ」と言われていて、でも、不良でした。「授業をさぼってタバコを吸ってる」とか、「先生が警察に呼ばれて引き取りに行った」とか、そんな話がありました。授業中、先生が廊下を|慌《あわ》てて通って行くのを見たことはありますが、菅原くんが悪いことをしているのを、ケンタくんは、実際に見たことがありません。「それって、ただの|噂《うわさ》なんじゃないかな」と思っていました。
それが、中三の二学期の終わり近くになってのことです。放課後で人のいなくなった|薄暗《うすぐら》い廊下を歩いていたケンタくんの前に、だまって菅原くんが現れました。そして、「ちょっと来い」とケンタくんを呼んだのです。
クラスの違う菅原くんとは、さすがに一度も口をきいたことがありません。そこは三年生の教室の並んでいる廊下で、あたりには、ケンタくんと菅原くんのほかにはだれもいません。そばで見る菅原くんはすごくがっちりとした強そうな体で、おまけに、トウモロコシを食べています。昼の休み時間以外、学校でものを食べるのは禁止です。でも、菅原くんは平気です。トウモロコシを食べながら、「ちょっと来い」と言って、ケンタくんを、だれもいなくなった薄暗い教室の中に呼ぶのです。
「なァに?」と、ふつうの友達に呼ばれたみたいにして、ケンタくんは教室に入りました。窓ぎわにもたれた菅原くんは、トウモロコシを食べながら、「おまえ、最近でかい顔してんだってな」と言うのです。あきらかに、ケンタくんを|脅《おど》かしているのです。
ケンタくんは、「でかい顔してるって言われたら、そうかもしれないな」と思いました。自分ではそんなつもりがなくても、中学でこわいものがないのは、事実です。自分ではそんなふうに思わなくても、菅原くんがどう思うのかはべつです。それでケンタくんは、「どこが?」と、菅原くんに聞きました。菅原くんがそう言う以上、ケンタくんのどこが「でかい顔」なのかは、菅原くんが知っているはずだと思って、「どこが?」と聞いたのです。
菅原くんはなにも言いません。だまって、トウモロコシを食べているだけです。
さすがにケンタくんは、こわくなりました。でも、「ここでがんばらなかったら負けだ」と思って、だまっていました。「でかい顔してる」と言ったのは菅原くんで、それがどういうことかわからなくて「どこが?」と聞いたのですから、菅原くんには答える義務がある――それがルールだと、ケンタくんは思ったのです。
でも、菅原くんはなにも言いません。クチャクチャとトウモロコシを食べる音だけを大きくして、それからケンタくんに、「もういい、行け」と言いました。
ケンタくんはほっとしましたが、でも、「ほんとにいいのかな?」と思いました。「いい」と言われて、逃げるみたいにするのはいやでした。
「ほんとにいいのかな?」と思っているケンタくんの前で、菅原くんはよそを向いていました。「ほんとにもういいんだ」と思って、ケンタくんは、菅原くんの前をはなれました。ほかの友達だったら、「じゃァね」と言うところですが、菅原くんがなにを考えているのかはよくわからないので、だまって教室を出ました。
さすがに教室の戸を閉めた時、足がガクガクしました。「菅原くんが追っかけて来たらどうしよう?」とも思いました。でも、ケンタくんはなにもなかったみたいな顔をして、廊下を歩きました。
三年の教室は、校舎の三階にあります。廊下から階段までの|距離《きより》が、すごく長く感じました。廊下にだれもいなくて、薄暗くなっているのも、不安に思いました。教室の戸を開けて、菅原くんが「待て!」と追っかけて来るんじゃないかと思いました。でもケンタくんは、なにもなかったみたいな顔で、階段を下りて行きました。
途中で、歌をうたいはじめました。そうしたのは、いつもケンタくんが、そうして歌をうたいながら歩いていたからです。ケンタくんは、「いつもどおりにしてよう」と思って、歌をうたいながら階段を下りたのです。
三年の教室のある廊下はしんとして静かで、そのあとはなんにもありませんでした。
校舎の外に出て、ケンタくんは、「菅原くんは、きっとさびしいんだな」と思いました。理由はありません。ただ、そう思ったのです。外に出て校舎を見上げると、だれもいない三階の教室の窓の向こうに、空を見ている菅原くんの顔が見えました。ただ、それだけです。
ケンタくんは、「菅原くんと友達にならなくちゃいけないのかな」と思いました。でも、だれも友達がいなかった昔の自分のことを思いだして、「やめよう」と思いました。
友達になるのには、なにかのルールがあるのです。そのルールを無視して友達になるのは、ぜったいにうそだと思いました。
「菅原くんだって、さびしいんだったら、人を脅かしたりしないで、自分でそのルールを発見しなくちゃいけないんだ」と、ケンタくんは思ったのです。
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高校を受験するケンタくん
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どうしてその時、薄暗くなった三階の教室にケンタくんと菅原くんしかいなかったのかというと、高校入試の時期が近づいていたからです。
「勉強をしなくちゃいけない」と思う友達は、早く帰ってしまいました。でも、ケンタくんは、「どうして受験勉強をしなくちゃいけないんだろう?」と思っていました。「するんだったら、三学期になってからすればいいんでしょう?」と思っていたので、校舎からだれもいなくなっているのにも気づかず、ひとりでウロウロしていたのです。
菅原くんは、進学をするのか就職をするのかが、決まっていませんでした。勉強をさぼって、「このままじゃ受験はむりだぞ」と先生に言われていた菅原くんは、「なにもかもいやだ」と思って、ひとりで教室にいたのです。
その時、受験勉強をしていなかったのは、ケンタくんと菅原くんの二人だけくらいだったのです。
ケンタくんは、べつになにかに|反抗《はんこう》していたわけではありません。「公立高校だったら、ふだんの勉強をちゃんとしていれば入れるはずです」と、先生がいつもみんなに言っているのを聞いて、「じゃ、いいんだ」と思っていただけです。ケンタくんが、ふだんの勉強をちゃんとしていたのかどうかは、じつのところ、よくわかりませんが。
中学三年になっても、二学期が終わり近くになっても、ケンタくんはぜんぜん変わりませんでした。時々マヌケないたずらをして、怒った先生に思いっきりなぐられたりもしましたが、べつに、なんとも思いませんでした。
クラスの進路相談の時、担任の先生は、「どこの高校に行きたいんだ?」と聞きました。ケンタくんには、べつに行きたい高校なんてありません。私立の高校じゃなくて、勉強のできる優等生の行く公立高校じゃなければ、どこでもいいと思っていました。私立はお金がかかります。勉強をしなきゃいけない学校はいやです。ただ、それだけの話です。「じゃ、勉強のできない子の行く高校でもいいのか?」と言われると、ちょっとこまります。それもやっぱり、いやです。
「どこの高校に行きたいのか?」というのは、じつは、「どこの高校になら行けるのか」ということで、そんなこと、ケンタくんにはわかりません。「きみの成績だったら、この高校に行ける」と先生に決めてもらって、その高校が「バカの行く学校」だと思われなければ、それでよかったのです。だからケンタくんは、「べつに、行きたい高校ってありません」と、先生に言いました。ほんとは、高校に行くよりも、「もう少し中学にいられればいいな」と思っていただけです。
先生は、自分の志望がわからないケンタくんのために、高校を探してくれました。「学区で一番」ではないけれど、けっこうレベルは高くて、しかも校風はノンキだから、「ここでいいんじゃないのか」と言うのです。
先生の言う高校の名前を、ケンタくんは聞いたことがありませんでした。ケンタくんは聞いたことがないけど、人に言っても笑われるような高校ではないみたいなので、「それでいいや」と思いました。お父さんもお母さんも、べつに反対はしませんでした。「じゃ、それでいいんだ」とケンタくんは思って、志望校を決めました。決めたら、もうそれだけで入学が決まったみたいな気になって、「じゃ、いいや」のまんまになってしまったのです。公立の高校なら、「ふだんの勉強をちゃんとしていれば」ですむのですから、そんなに問題はないはずだと思ったのです。二学期の中頃にそういうことが決まって、それで、ケンタくんは、前とおんなじように楽しくしていました。
中学三年生のケンタくんの勉強ができたかどうかというのは、よくわかりません。前とおんなじです。そして、ケンタくんは、そんなことさえ気にしなくなっていました。というのは、その頃のケンタくんが、「勉強のできない子なんていないんじゃないの?」と思っていたからです。
中学になったら、毎月教室で模擬試験があります。仲のいい子は、平気で見せ合って、「ここをまちがえた、ここがわかんなかった」と言い合っています。
二学期になったケンタくんは、女の子のグループと男の子のグループと一緒につきあっていて、いつのまにかその二つのグループは、一つのグループになっていました。
男の子同士は、平気でテストを見せ合います。ケンタくんの成績は、どれでも「百点と七十点のあいだ」というおおざっぱなもので、ケンタくんの勉強ができるのかどうかは、本当にわかりません。特別に勉強のできる子ではなくても、ケンタくんよりテストの成績のいい子は、ふつうにいるからです。
その日も、模擬テストの答案を先生からかえしてもらったケンタくんは、男の子達と成績を見せ合っていました。そこに、女の子達がやって来たので、ケンタくんはふつうに、「トミちゃん、見せてよ」と言ったのです。
「トミちゃん」の名前は、|富岡《とみおか》さんです。
トミちゃんは、「や!」と言いました。「なんで?」とケンタくんが言うと、「だって、よくないんだもん」と言います。
「よくないって、どれくらい?」とケンタくんが言っても、「よくないからよくないから、や!」と言います。
ケンタくんは、あまり信じられません。富岡さんは、自分ではかってに「勉強ができない、成績がよくない」と思いこんでいるのですが、ケンタくんには、富岡さんがそんなふうには思えないからです。
一学期の頃、教室の|隅《すみ》に女の子同士でかたまってヒソヒソやっていた時の富岡さんは、そんなに勉強のできる子には思えませんでした。体育の時間だって、飛び箱に尻もちをついていました。富岡さんだけじゃなくて、そのグループの女の子がみんなそうでした。でも、二学期になってつきあいはじめたら、ぜんぜんそうではないのです。体育の時間のあと、体育用具をかたづける時に飛び箱の飛びかたを教えてあげたら、すぐ飛べるようになりました。五年生になるまで飛び箱が飛べなかったケンタくんは、「ぼくよりずっと運動神経がいいじゃないか」と思いました。だからケンタくんは、トミちゃんが「勉強ができない」と言うのは、なんかの冗談だと思ったくらいです。
でも、富岡さんや、一緒にいる|三崎《みさき》さんや|江藤《えとう》さんは、みんな自分のことを「勉強なんかできないもん」と言っているのです。
「そんなのうそだろう」と思う、ケンタくんは、富岡さんが「見せない」と言っているテストの答案を、さっと取ってしまいました。富岡さんが、「や! や!」と言っているのに、開けて点数を見てしまいました。
数学のテストは、三十点でした。ケンタくんは、びっくりしました。富岡さんは、「だから言ったでしょう!」と言って、ケンタくんの手から答案を取りかえしました。
でも、ケンタくんはふしぎです。富岡さんの成績が、そんなに悪いはずはないのです。「ちょっと貸して」と言って、ケンタくんは、富岡さんの持って行った答案を、また取りかえしてしまいました。そして、答のまちがっているところを見て、「ここがちがうよ」と教えてあげました。
富岡さんも、「どこ?」と言ってのぞきこんできて、そこで教えっこが始まってしまったのです。
ケンタくんが、「ここはこうでさ」と言うと、まわりの男の子達も、「そう、そう」と言います。そうすると、富岡さんや、ほかの女の子達がのぞきこんで、「あ、そうなのォ」と言います。
ケンタくんの教える番が終わると、べつの男の子が、「ここはさァ」と、別のところを富岡さんに教えます。それは、じつは、ケンタくんもまちがえた問題です。それでケンタくんは、友達の男の子の説明を聞いて、「あ、そうか」と言ったのです。
でも、ケンタくんにはその説明がわかっても、女の子達はそうかんたんにわかりません。それで、ケンタくんも一緒になって、みんなで女の子に教えたのです。女の子達も、そのうちに「あ、そうか」と言って、それ以来、ケンタくんのグループでは、教室での教えっこがあたりまえになってしまったのです。
それまでは勉強の話をいやがっていた、富岡さんや三崎さんや江藤さんも、平気で男の子達に聞きます。ケンタくんも、わからないところがあったら、さっさと女の子や男の子に聞きました。その時から、みんなは、勉強やテストがこわくなくなってしまったのです。
次の月、模擬試験の答案をかえしてもらった後で、富岡さんと三崎さんが、一緒になってケンタくん達のところへ来ました。うしろには、かえしてもらった答案をかくしていました。
「どうだった?」と聞くと、富岡さんは、「ジャーン!」と言って、答案を見せました。前の月に三十点だった答案が、今月は六十五点になっていました。富岡さんのうしろにいた三崎さんも同じです。前の月に四十点だった三崎さんは、七十点になっていました。その次の月には、二人とも、数学のテストで八十点以上取るのは、あたりまえになっていたのです。
ケンタくんは、ちょっとあせりました。自分はたしか、「勉強のできる子」と言われたこともあったのではないか、と思ったからです。
成績がよくなったのは、女の子だけではありません。ケンタくんと仲のいい冗談友達だった、同じグループの山野くんなんかは、「勉強のできない子」だったはずです。でも、今ではそんなことありません。ケンタくんが、「こんなのどうでもいい」と思っていた国語の試験なんかは、ケンタくんよりずっといい、百点です。数学だって平気です。それを言うのなら、成績が上がらないのは、「いいのか悪いのかわからない」のまんまの、ケンタくんだけなのです。ケンタくんは、「自分がバカになっているのかな?」と、ちょっと不安になりました。
それは、だれもいない廊下で菅原くんに呼びとめられる、少し前のことです。「自分はバカになったのかな?」と思っているケンタくんは、担任の先生から、職員室へ来るように言われました。
先生は、「来年の受験はかなりきびしいらしい」と言いました。
ぼんやりしたケンタくんは、「そうなんだ」と思って、「はい」と言いました。すると先生は、クラスで成績がトップの|熊本《くまもと》くんのことを話し始めました。
熊本くんは、公立の学校で一番レベルの高い、|北西《ほくせい》高校を受験することになっていたらしいのです。先生にそう言われて、ケンタくんは、「やっぱりそうなのか」と思いました。「クマちゃんならそうだよな」と思っていると、先生は、「熊本が受験のことを不安に思っていて、志望校のランクを下げたがっている」と言うのです。
ケンタくんは、「クマちゃんがそんなことを考えてるんだ」と思いました。熊本くんはいつもとおんなじで、そんなことを考えているようには見えなかったからです。それから、「でも」と、ケンタくんは思いました。「それと、ぼくとなんの関係があるんだ?」と思ったからです。
先生は言いました。
「熊本はランクを下げて、きみと同じ高校を受けたいと言うんだ。きみは、志望校を変えたらどうかな?」
ケンタくんは、ショックを受けました。「きみの成績が下がっているから、志望校のランクを下げろ」と言われるのならわかるのですが、先生の言うことはちがうのです。先生は、「熊本がきみの志望校を受けるから、きみはだめだ」と言うのです。ケンタくんは、「なんで?」と思いました。
ケンタくんは、べつに熊本くんがきらいではありません。二年生の終わりに転校して来て、すごくまじめですごく成績がよくて、すごくしっかりしていて頭もいいから、三年になると生徒会長になりました。みんなは「クマちゃん」と呼んで尊敬して、ケンタくんもおんなじでした。でも、先生に「志望校を下げろ」と言われて、ケンタくんは、熊本くんのことを「やなやつ」と思いました。熊本くんがとつぜん横から出てきて、「ぼくは頭がいいんだから、おまえはどけ」と、ケンタくんに言っているような気がしたからです。
ケンタくんは、「やだ」と思いました。熊本くんが志望校を下げるのは、熊本くんの問題で、北西高校はそれくらい合格がむずかしいところなのかもしれないけど、それと、ケンタくんの受ける高校とは、関係がないはずだからです。
先生はケンタくんに、「きみは熊本より勉強ができないんだから、熊本よりランクの下の高校へ行け」と言っているのです。
ケンタくんは、「そんなの、わかんないじゃないか」と思いました。熊本くんは熊本くんで、ケンタくんはケンタくんです。ろくに勉強もしないくせに、ケンタくんは、「ぼくはぼくだから、クマちゃんとは関係ないでしょ」と思ってしまったのです。
ケンタくんがだまっているので、先生は言いました。
「ともかく、家でご両親と相談してごらん」
ケンタくんは「はい」と言いましたが、すごく不満でした。まるで、大きな子に「貸せ」と言われて、ビー玉を全部取りあげられたみたいな気がして、ケンタくんは、泣きそうになりました。
ケンタくんは家に帰って、お父さんに言いました。「先生が、志望校を変えろって言うんだ」と言って、その理由も話しました。
お父さんは、「おまえはどう思うんだ」と言いました。
ケンタくんは、「やだ」と言いました。「熊本くんが志望校を下げるのと、ぼくは関係ないもん」と言いました。
するとお父さんは、べつにめんどくさいことも言わずに、「じゃ、そうしろ」と言いました。そして、「高校に行くのがいやなら、お父さんの仕事を|継《つ》げばいいんだからな」と言いました。
ケンタくんは、「あ……」と思いました。ケンタくんの家には、中学を卒業して働いている年上の人が、何人もいたからです。その頃は、まだ中学を卒業しただけで働くというのは、ふつうのことでした。
お父さんは、「みんな中学を出て働いてるんだからな」と言いました。ケンタくんは、「おまえひとり、働かないで高校に行くんだから、そんなことは、おまえの責任で決めろ」と言われているみたいな気がしました。
ケンタくんは、「わかった」と言って、「でも、やっぱりやだ」と思ったのです。
次の日、ケンタくんは学校へ行って、「志望校を変えるのはいやです」と、先生に言いました。先生は、ちょっとびっくりしていたみたいですが、でも、なんにも言いませんでした。そして、「志望校を変えるのはやだ」と思ってそう言ってしまったケンタくんは、「クマちゃんに負けないようにがんばる!」とは思いませんでした。「いやです」と言ってしまったケンタくんは、ぜんぜんちがうことを考えはじめてしまったのです。
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「人間なんて、わからないさ」と思うケンタくん
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「熊本くんが志望校のランクを下げる」という話を聞かされた時、ケンタくんは、「じゃ、受験はたいへんなんだ」とは思いませんでした。そのかわり、「熊本くんも|悩《なや》んでるんだ」と思いました。「あんな成績のいいクマちゃんがどうして悩むんだろう?」と思って、そしてでも、「やなやつ!」と思いました。先生に、「熊本と同じ志望校じゃむりだ」と言われたみたいだったからです。でも、先生に「志望校を変えません」と言って、そのまんまにしてしまった時から、ケンタくんは、熊本くんのことを「やなやつ」とは思わなくなりました。
もともと熊本くんのことは、きらいじゃありません。先生に「志望校を変えるのはいやです」と言ってしまったケンタくんは、そのあとで、「そうか、自分はクマちゃんと同じ高校に行くんだ」と思ってしまったのです。前には、クマちゃんに「どけ!」と言われていたみたいだったのが、こんどは、クマちゃんに「一緒の高校に行こうよ」と言われたみたいな気になってしまったのです。
ノンキなケンタくんは、「そうかァ、ぼくはクマちゃんと同じ高校に行くんだ。すごいなァ」と、かってに思いこんでしまったのです。まるで、「ほんとは北西高校に行ける熊本くんが、わざわざランクを下げて、一緒の高校に行ってくれるようになった」みたいに、思いこんでしまったのです。そんな熊本くんのことを、「やなやつ」と思う理由が、ケンタくんにはなくなっていました。そしてケンタくんは、あらためて、「クマちゃんだって、ぼくらみたいに悩むんだ……」と思うようになったのです。
転校して来てすぐに生徒会長になってしまうような熊本くんは、それまでにケンタくんが知っているどんな友達ともちがっていました。すっごくまじめで頭のいい熊本くんは、外見だって、すごく大人びているのです。一目で、「ふつうの中学生とはちがう」ということがわかるのです。だから、ケンタくんは、熊本くんがなにかで悩むことがあるなんて、まったく考えられませんでした。熊本くんは、そういうこととは、ぜんぜん無関係でいられる人だと思っていたのです。
でも、熊本くんが悩むのです。熊本くんが自信をなくして志望校のランクを下げるなんて、ケンタくんにはぜんぜん想像ができませんでした。みんなでテストの見せっこをするようになって、クマちゃんも仲間に入りました。クマちゃんのテストの成績を見るなんて、そんなおそれおおいことはできないと思っていたのですが、みんなで見せっこをしているそばにクマちゃんがいたので、ついでに「クマちゃんも見せてよ」と言ってしまったのです。
見てびっくりです。クマちゃんのテストは、みんな百点なのです。「おお……」と言って、みんなひれふしてしまいそうになりました。だから、クマちゃんの成績が悪くないなんてことは、ケンタくんも知っていたのです。
そのクマちゃんが悩むなんて、想像もつきません。「北西高校って、そんなにむずかしいんだろうか?」と思うのですが、そもそも高校受験にあまり関心のないケンタくんには、自分と関係ない高校のむずかしさなんかは、わかるはずがないのです。ケンタくんにわかるのは、「|無敵《むてき》」とも言える熊本くんにも、ひとりで悩むことがあるというそのことだけなのです。それでケンタくんは、「自分達とはぜんぜんちがう人間だと思っていた熊本くんも、ぼくらと同じような人間だったのか」と思ってしまったのです。
ケンタくんは、じつは、そういう「人間」をもうひとり知っていたのです。
中三になったケンタくんのクラスは、じつは、すごいクラスでした。熊本くんと同じような、すごく勉強のできる「伝説の人」が、もうひとりいたからです。小学校の時にはいつも「オール5」で、「オール5の大山くん」と言われていた人です。熊本くんが生徒会長になる前の生徒会長は、大山くんだったのです。成績別のクラスなんかではないくせに、ケンタくんのいたクラスは、生徒会長が二人もいるような、とんでもないクラスだったのです。
大山くんの名前は、小学校の時から知っていました。「オール5の大山くん」といったら、見たことがなくても、名前だけはだれでも知っていました。ケンタくんも同じです。中二の時、よそのクラスにいた大山くんが生徒会長に立候補した時は、「これが大山くんか」と思って、まじまじと見てしまいました。大山くんは、ほんとにまじめな優等生でした。ところが三年になって、ケンタくんは、大山くんと熊本くんが一緒にいるクラスに入ってしまったのです。ケンタくんは、「ゴジラ対アンギラス」みたいに、「大山くんと熊本くんとでは、どっちの頭がいいんだろうか?」などと、かってなことを考えていたのです。
ところが、一学期を半分すぎたくらいの頃に、ケンタくんは、とんでもないことを知ってしまいました。まじめだとばかり思っていた大山くんが、すごくおもしろい子だったのです。
休み時間に、教室でケンタくんがテレビの歌番組の話をしていたら、大山くんが聞いていて、「知ってる、知ってる」と、話に入ってきたのです。そればかりではなくて、「こういうの知ってる?」と言って、べつの歌手のふりまねまではじめてしまったのです。「まじめな子は、テレビの歌番組なんかは見ない」と思っていたケンタくんは、びっくりしてしまいました。でも、大山くんひとりに、そんなおいしいことをさせておくことはできないのです。ケンタくんも、すぐに「知ってる!」と言って、大山くんと二人で、教室のすみで歌まねをはじめて、一緒にお尻まで|振《ふ》ってしまったのです。
ケンタくんは、大山くんの「本当の姿」を知って、感動してしまいました。「大山くんは、サイコーだ」と思いました。まじめで頭がよくて、自分なんかとはぜんぜんちがうところにいる大山くんが、自分とおんなじように冗談が好きで、テレビの歌番組が好きで、教室で一緒にふりまねまでやってしまうなんて、ほんとに「サイコー」だったのです。
ケンタくんは、「大山くんも人間だったんだ」と思いました。大山くんがだい好きになって、それまでは、「同じ教室に大山くんがいる」と思って|緊張《きんちよう》していた授業時間も、ぜんぜん気にならなくなってしまいました。そのおかげで、「もう中三なんだからちゃんと勉強しよう」と思っていた、学年のはじめの決意も、かんたんにズブズブになってしまいましたけれど。
ケンタくんは、「大山くんも人間だ」ということを知っていました。そして、「熊本くんも人間なんだ」ということを、二学期の終わり近くになって知ったのです。
熊本くんは、みんなと一緒にテストの見せっこをします。みんながわからないところを、「これはね」と言って、かんたんに教えてくれます。ケンタくんは、「どうして熊本くんはいばらないんだろう?」と、いつも思っていました。
いちど、いつも百点があたりまえの熊本くんが、九十五点を取ったことがあります。その、まちがえたところを富岡さんが見て、「あ、クマちゃんまちがえてんのォ」と言ったことがあります。ケンタくんだけではなくて、みんなが、「熊本くんは特別だ」と思っていたのです。ところが、その熊本くんがまちがえています。しかも、「クマちゃんまちがえてんのォ」と言ったトミちゃんの富岡さんは、その問題ができていたのです。
みんなは、「トミちゃん、すごーい!」と言いました。熊本くんは、てれくさそうに笑っていました。なんだか、うれしそうでした。それを見たケンタくんは、「ぼくだったら、やっぱりチクショー≠チて思っちゃうのに、どうして熊本くんは怒んないんだろう?」と思ったのです。
でも、ケンタくんには、その熊本くんのことが、もうなんとなくわかるように思えました。熊本くんだって、「人間」なんです。あんなに勉強ができても、入試に不安になって、ひとりで悩むんです。「だったら、きっとみんなと仲よくしたいよなァ」と、ケンタくんは、そんなふうに思いました。「ひとりだけ特別だ≠ニ思われて、いつも百点を取っているよりも、たまにまちがえて、みんなにからかわれているほうが、きっと楽しいに決まっている」と、ケンタくんは、そう思いました。「だれかひとりが頭がよくて、みんながそれについてくよりも、みんなでいろんなところの頭がよかったほうが、ぜったいに楽しいに決まっている」と、そういうふうに考えたのです。
ケンタくんは、小学校の時の横町の夏休みを思いだしていました。「学年はちがったって、みんなそれぞれに|得意《とくい》なことがあって、自分の得意なことが|自慢《じまん》だったから、みんなとても仲よくできるんだ」と、ケンタくんは、その頃から思っていたのです。だから、横町のみんながだい好きでした。
「今のクラスのみんなは、横町のみんなみたいになってるのかな?」と、ケンタくんは思いました。
熊本くんは、志望校のランクを下げて、ケンタくんと同じ高校にします。ケンタくんだって、もしかしたらむりかもしれないけど、「そんなことやだ!」と言って、熊本くんと同じ志望校のままにしました。トミちゃんだって、山野くんだって、みんな、同じように成績はいいのです。ケンタくんは、「トミちゃんや山野くんの成績がよくなって、自分とおんなじくらいになったのは、よかったんだ」と思いました。そして、「自分の成績があんまり変わんなくたって、ぜんぜんあせることなんかないんだ」と思ってしまったのです。
小学校の六年の時、「みんなで一緒の中学に行こうね」と言い合っていました。それが、いちばん幸福でした。入学試験のある高校だと、それぞれに行くところはちがってしまいますが、でも、みんなの成績が同じくらいだったら、「一緒に高校に行こうね」とは言えます。「それでいいじゃないか」と、ケンタくんは思いました。
「クマちゃんは、もうちょっと勉強ができなくなればいいんだよ」と、熊本くんと志望校が同じになってしまったケンタくんは、先生が「受験がたいへんだ」と言っているにもかかわらず、ぜんぜん逆のことを考えてしまったのです。
「みんな、成績なんてそんなに変わらないんだもん。勉強のできない子なんて、ほんとはいないんだよ」と、ケンタくんは思ってしまいました。
「熊本くんだって人間だし、大山くんだって人間だし、人間なんて、ほんとはどういう人間かなんて、わからないじゃないか」と思いました。
「ぼくだって、昔はぜんぜん今みたいじゃなかったし、どうなるかなんて、わからないじゃないか」と思いました。そして、「先生はぼくのこと、熊本くんより成績が悪いと思ってるらしいけど、人間なんてわからないじゃないか」と思って、ケンタくんは、そのまんまで中学三年生をやっていたのでした。
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高校生になったケンタくん
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本当に、人間なんてわかりません。ケンタくんと熊本くんは、そんなにたいした苦労もしないで、同じ志望校に合格してしまいました。熊本くんはどうかわかりませんが、ケンタくんはあまり苦労をしませんでした。それは、ケンタくんの頭がよくなったからじゃありません。「今年の受験はたいへんだ」とだれもが思っていたらしくて、ケンタくん達の志望校を受験する子がすごく少なくなって、そこの試験は、競争率が学区で最低になってしまったのです。
「北西高校はむずかしいからやめたほうがいい――そう思って志望校のランクを下げるやつがいっぱいいるはずだから、この高校[#「この高校」に傍点]もむずかしくなる」と、ケンタくんの担任の先生は考えていて、きっと、よその中学の先生達も、そう考えていたんでしょう。「北西高校もむずかしいけど、こっちもむずかしい」と思った先生や生徒がいっぱいいたおかげで、ケンタくん達の志望校を受験する生徒の数がへって、競争率は、一・〇七倍とかいう、すごい低い数字になってしまったのです。すごくいっぱいの受験生の中で、落第する生徒の数は、たったの「十七人」だということが、入試の前にわかってしまったのです。それで、試験会場に行ったケンタくん達は、「ねェ、今のうちに、落ちそうな十七人を決めちゃわない?」と言って、まわりにいっぱいいるほかの受験生達を見回して、「あいつと、あいつと、あいつとあいつね」とか言いながら、「落ちそうな十七人」をかってに決めてしまったのです。そして、同じ中学から試験を受けに来た仲間と、「オレ達はもうだいじょうぶだよな」ということにしてしまったのです。そういう事情で、ケンタくんも熊本くんも、ほかのみんなも、その高校に合格してしまったのです。
「ほら、やっぱりぼくのほうが正しかったじゃないか!」と思って、ケンタくんは「志望校を変えろ」と言った担任の先生を、ちょっとだけうらみました。本当に、人間なんてわからないのです。
高校に入っても、ケンタくんはぜんぜん変わりませんでした。学校の廊下は、いつも走ってました。高校から帰って来る時、いつもケンタくんの学生服は、チョークの粉でまっ白になっていました。みんなとふざけていると、そうなってしまうのです。授業中によぶんなことを言って、先生から学生服の背中に、チョークで大きなバツを書かれたこともありました。
一学期の終わり頃には、|HR《ホームルーム》で担任の先生に、「ケンタ、この教室は古いんだからな、暴れて|床《ゆか》を破るなよ」と言われてしまいました。ケンタくんは、「はーい」とまぬけな声を出して、それから放課後になって、木造校舎の二階にある自分の教室の床を、ドンドンと、力を入れて|踏《ふ》んづけてみました。べつに、床はぬけませんでした。ケンタくんは、「なんだ、だいじょうぶじゃないか」と思って、前とおんなじように、ドタバタと教室の中を走り回りました。そしてもちろん、勉強は「できるのかできないのかよくわからない子」のまんまでした。
高校の新しいクラスに入ってすぐケンタくんが思ったことは、「一年のあいだに、クラスの全員と仲よくなろう」でした。そして、休み時間になって教室を見回して、「もしかして、それはちょっとむずかしいかもしれないから、一年のあいだに、クラスの全員と、最低でも一回は口をきこう」と、少し考えを修正しました。
中三の時のクラスでの「みんなと仲よくなる」の達成率は、九十五パーセントまでいっていました。クラスの全員とは、一度以上話をしました。一緒に話をしていて、相手が一緒になって笑ったら、「仲よくなる」は達成です。ケンタくんはそう思っていて、でも、百パーセントの人間と仲よくなるのはむずかしいこともわかっていました。
いくら話しかけても、のってきてくれない子はいます。ケンタくんは、「自分がきらわれている」とは思いませんでした。あんまり好きじゃなくたって、仲よくなることはできるのです。同じクラスの子だったら、そうじゃなくちゃいけないと、思っていました。でも、「仲よくなる」ということができない子だっているのです。自分がそうだったので、ケンタくんはそういう子のこともよくわかっていました。なれていないので、友達と口をきくのがこわいのです。ケンタくんは、そうでした。
でも、「同じクラスにいる子を無視しちゃいけないんだ」と、ケンタくんは思っていました。「自分は学級委員でもなんでもないけど、同じクラスの子だったら、きみだって同じクラスだよね≠ニいうことをはっきりさせるために、友達と口をきけない子に、最低一回は話しかけるべきだ」と思っていたのです。
同情して、むりに友達になるのはうそだということも、ケンタくんはわかっていました。「友達になる」というのは、なんか、もっと自然なことなのです。自然なことだけど、でも、なんかのきっかけはいるのです。そして、自分が学校に行ってだまっているだけだった時にはわからなかったことですが、じっとだまっているだけの子に話しかけるのは、やっぱりなんか、こわいのです。ただ、声をかけるだけでも、勇気がいるのです。友達なら、そういうことだってわかってくれなくちゃいけないと、ケンタくんは思っていました。だから、「友達になれるかどうかはわからないけど、同じクラスにいるんだったら、だれとでも、最低一回は口をきくのがルールじゃないのかな」と、考えたのです。高校生になっても、ケンタくんにとっていちばんだいじなことは、そういうことでした。
ケンタくんは、高校生になってもぜんぜん変わっていませんでした。中学生のままで、小学生のままでした。それで、まちがっていないと思っていました。
ケンタくんは、高校のクラスでもすぐに友達ができて、だれとでも仲よくなれて、そして、教室の中でじっとだまってすわったまんまの子と、どうすれば口がきけるかと考えていて、でも、高校生になったケンタくんは、今までとは、ちょっとだけ変わりました。それは、だれとでも仲よくなれるケンタくんが、「だれとでも仲よくなれるってことは、じつは、本当に仲のいい友達がいないからじゃないか?」と考えるようになってしまったからです。
「ぼくは、だれとでも仲よくなれるんだから、だれか、ぼくとだけ仲よくなってくれる友達っていないかなァ」と、そういうふうに思ってしまったのです。ケンタくんは、だれとでも仲よくなれていて、でも、ケンタくんだけと特別に仲よくしてくれる友達が、まだケンタくんにはいなかったのです。そんな友達は、小学四年生の時の、吉原くんだけでした。ケンタくんは、「ぼくだけの友達がほしい」と思うくらいのちょっとだけ、大人になっていたのです。
でも、そんなケンタくんにも、すぐに「特別な友達」はできてしまいました。ケンタくんは、「親友」という言葉を使ってもいいんだと思って、ドキドキしてしまいました。
そして、すごく仲のいい「特別の友達」ができたケンタくんの高校生活は、なんの問題もなかったのです。高校二年の終わりになるまでは――。
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受験勉強しかしない友達を見て、ケンタくんが思うこと
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高校一年のクラスで、ケンタくんはさわがしくて、そして、幸福でした。二年になってクラス替えがあって、新しいクラスになったケンタくんは、「今までとはクラスの感じがちがう」と思いました。なにがちがうのかはわかりません。でも、気にしませんでした。新しいクラスで、新しい親友もすぐにできました。べつに、気にすることはなにもないみたいでした。ところが冬休みが終わって、三学期の教室に入った時、ケンタくんはびっくりしました。
クラスのみんなが席についていて、自分の机で、だまって勉強をしているのです。ケンタくんは、それまでそんな風景を見たことがありませんでした。「なんか、へんだ」と思って、自分の席にカバンをおいて、それから、窓ぎわに行って、窓のところに|腰《こし》かけました。いつも、そうしていました。ケンタくんがそうしなくても、だれかがそうしていました。授業が始まるまでは窓ぎわに集まって、いつも、みんなでどうでもいい話をしていました。でも、その日はそうじゃありません。みんなが席について、だまって勉強をしています。窓ぎわにいるケンタくんは、ひとりぼっちで、教室の中はシーンとしています。なんだか、友達に声をかけちゃいけないようなふんいきです。「今日って、試験があったんだっけ?」と、ケンタくんは思いました。
始業式のその日に試験があったことなんか、一回だってありません。親友の|中上《なかがみ》くんが来たので、「今日って、試験だった? そんなことないよね」と言いました。中上くんは、「ちがうよ」と言って、ちょっとだけ窓ぎわにいましたが、すぐに自分の席に行ってしまいました。チャイムが鳴るまで席につかないでいたのは、ケンタくんひとりでした。
「冬休みのあいだに、なんか、|緊急連絡《きんきゆうれんらく》ってあったんだろうか?」と、しんとして、みんながうつむいて「自習」のようなことをしている教室を見て、ケンタくんは思いました。でも、「緊急連絡」なんかはありませんでした。
なんだか、すごくへんです。その日は、「気のせいかな」と思いましたが、次の日も、その次の日も、さらにまたその次の日も、次の週になっても、教室のふんいきは変わりませんでした。休み時間になっても、みんないやらしいくらい席にすわったままで、放課後になると、みんなさっさと帰ってしまうのです。そんなことははじめてです。ケンタくんは、学校に行くのがいやになりました。
二学期の終わりまでに、ケンタくんはクラスのほとんどの子と口をきいていました。口をきいていないのは、三人だけです。クラスの七割とは、ふつうに仲よく友達です。そのはずです。口をきいていない三人のうちの一人の木村くんは、一年の時から一緒のクラスです。でも、木村くんは、しぶといくらいに、口をきくチャンスを与えてくれません。木村くんがだれかと話をしているのを、ケンタくんは見たことがありません。先生にさされても、木村くんの声はすごく小さくて、声をきいたこともありません。気がつくと、木村くんはいつでも席にすわっています。一度、火災訓練の時、ドアのところで一緒になった木村くんに、「早く行こうよ」と言ったことがありますが、木村くんは、「うん」とも言ってくれません。おとなしそうなさびしそうな顔をしたまま、だまって行ってしまいました。ケンタくんは、「木村くんとはむりだ」と思って、「なに考えてんだろう?」と思いましたが、三学期になった教室は、まるで全員が、木村くんになってしまったみたいなのです。
男の子も女の子も、だまって席にすわっています。「みんなと話をしよう」という空気が、まったくありません。教室全体がしずんで、ケンタくんひとりが浮いているのです。
どうしてそうなったのか、理由がわからないわけでもありません。大学受験の勉強です。「きっとそうなんだろうな」と、ほかに理由が思いつかないケンタくんは思うのですが、でも、そうなってしまった教室のふんいきが、ケンタくんには信じられないのです。
学区でいちばんの北西高校なら、そういうのはあるのかもしれません。でも、ケンタくんが来たのは、「ノンキな高校」だったはずです。しかも、まだ三年じゃなくて、二年の三学期です。それなのに、どうして受験勉強をしなくちゃいけないのか、ケンタくんにはわかりませんでした。
中学生の時、「公立の高校だったら、ふだんの勉強をちゃんとしていればだいじょうぶ」と言われました。中学生向けの受験雑誌にも、そういうことが書いてありました。中三の三学期になったら、「受験がはじまるので」という理由で出席を取らなくなって、学校に行っても行かなくても同じになってしまいました。学校に来ない子が多いので、ケンタくんも学校を休んで、でもなにをしたらいいのかわからなくて、家でブラブラしていました。みんなも同じらしくて、「ケンター、なにしてんのォ」とか言って、遊びに来る子が何人もいました。ケンタくんも一緒になって、よその子の家に「なにしてんのォ」と言いに行くツアーに参加してしまいました。高校受験のための|塾《じゆく》に行っているという子は、ケンタくんの知るかぎり、ひとりもいませんでした。
「高校受験と大学受験じゃ、きっとちがうんだろうなァ」とは思いましたが、まだ高校三年にもならない二年生の時に受験勉強を始めてしまう、クラスのみんなのことが、よくわかりませんでした。
それでも、「まだ高校二年の三学期だ」ということは、みんなにもしばらくしてわかったのでしょう。二月になると、教室の中の冷たい空気も、なんとなくだらしなくなってきました。ケンタくんは、「ほら、みろ」と思いましたが、でも、二学期までのようなふんいきは、ついに教室の中にもどってきませんでした。
春休みが終わって、三年の一学期になると、もう始業式の日から、「志望校はどうするの?」とか、「あそこはむずかしいぞ」とか、クラスのみんなは、大学受験の話しかしないようになっていました。親友の中上くんだって同じです。
ケンタくんは、話に入っていけません。大学に関心がなくて、大学の名前だって、そんなに知らなかったからです。
教室のすみには、電話帳みたいに厚い、『|大学一覧《だいがくいちらん》』とかいう本がおいてあって、みんなが見ていました。ケンタくんも見てみましたが、なにがおもしろいのか、さっぱりわかりませんでした。
ケンタくんには、「大学に行きたい」という気持ちがありません。お父さんは、「行きたくなかったら行かなくていいぞ」と言います。そう言いながら、自分でかってに、「ケンタはナントカ大学に行って、それでお父さんの|後《あと》を継ぐんだよな」なんてことを言っています。
大学へ行くのには、お金がかかります。ケンタくんの家では、ケンタくんと同じ年の人が何人も、大学にも高校にも行かずに働いています。ケンタくんは、なんだか自分ひとりが遊んでいるみたいで、悪くて、家にいる自分と同じ年の人とは、口がきけないのです。
「大学に行かないとどうなるのかなァ?」と思うと、やることはわかります。バイクの|免許《めんきよ》を取って、アイスクリームや牛乳の配達です。同じクラスのみんなは、だれもそんなことを考えません。大学に行くのだって、高校の時とおんなじで、成績順に、先生と相談して決めるのです。
高校生になったケンタくんは、「勉強のできない子」ではありませんでした。成績の順なら、ケンタくんは大学に行ってもいいのです。でも、べつに行きたくはありません。行きたくはないけど、でも、「行かない」と言ったら、そのとたん、「大学に行けないバカなやつ」と思われてしまいそうです。教室の中には、もうそんなふんいきがありました。だからケンタくんは、すごく|腹《はら》がたちます。
「大学に行くのは、就職するためだ」と、みんなは言います。でも、ケンタくんには、大学を出て卒業した自分が、どっかに就職してサラリーマンになるということが、よくわかりません。ケンタくんの家族にも、|親戚《しんせき》にも、大学を出てサラリーマンになった人がひとりもいないので、ケンタくんには、「大学を出て就職をしてサラリーマンになる」ということが、よくわからないのです。「そんなことを言って、お父さんはなっとくするのかなァ?」と考えると、わかりません。大学に行って、四年間勉強をして、そのあとどうするかなんてことは、「大学に行って勉強してみなければわからない」と思うのです。
「そんな先のことはわからないから、考えなくてもいい」と、ケンタくんは思います。「そういう、わからない先のことは、いつかわかるようになる≠ニ思っておいて、今やらなくちゃいけないことを考えるのが、本当なんじゃないか」としか思えないのです。
でも、みんなそんなことは考えなくて、大学のことがよくわからないケンタくんのことを笑います。笑われるとくやしいので、「じゃ、ぼくだって大学行ってやるよ」とは思うのですが、ケンタくんにはそもそも、「大学へ行って勉強したい」という気がないのです。大学というのは、「学部」というものがわかれていて、「どこの学部でなにを勉強する」ということを、まず決めなければなりません。でもケンタくんは、「べつに勉強したいことなんかない」としか思っていないので、「なに学部に行くか」がわからないのです。
「ぼくだって行ってやるよ!」と思っても、行く理由がまったくありません。それでケンタくんは、「なんでみんな大学に行きたいんだろう?」と思うのです。
そんなことを言っても、笑われるだけで、だれも答えてくれません。二年の三学期のHRで、「受験」というテーマが出されて、ケンタくんは、「受験がたいへんだからっていう理由で受験勉強したって、みんながよぶんな受験勉強をすればするほど、受験がたいへんになるだけなんだから、受験のたいへんさをなくすためには、みんなで受験勉強なんかしない≠チて、決めればいいんだと思います」と言ってしまいました。そして、「そうすれば、悪い大人にだまされないんだから」と言いました。
でも、だれもケンタくんの言うことには答えてくれませんでした。みんな、知らん顔をして、ケンタくんの言うことは無視です。ケンタくんはまた、腹がたちました。
ケンタくんは、いつのまにかHRがだいきらいです。「だれか、なんか意見ありませんか?」と司会に言われても、みんな知らん顔をして、当てられないように、下を向いているだけです。はじめはケンタくんだって、意見を言うのなんか恥ずかしかったのですが、みんなが「当たらないように」と思って下を向いているのがいやになって、「意見ならなんでもいいんだろう」と思って、自分の思ってることを平気で言うようになったのです。
HRの司会は、「だれか、ちゃんとした意見[#「ちゃんとした意見」に傍点]のある人はいませんか?」なんて言わないのです。「なんか意見ありませんか?」としか言わないのですから、「意見ならなんでもいいんだろう」と思って、ケンタくんは、「はい」と言って手を挙げて、平気で意見を言うようになったのです。
平気で自分の意見が言えるようになって、それから、ケンタくんはHRがだいきらいになりました。ケンタくんがなにか「意見」を言っても、ほかのクラスメイトは、だまっているだけで、なにも言わないまんまだからです。
だから、ケンタくんは、「ずるい」と思います。「だれもなんにも言わないで、人がなんか言ってもだまってるだけじゃないか」と思うからです。
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「ひとりでもいいから高校三年生をやろう」と思ったケンタくん
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ケンタくんは、クラスのみんながきらいになりました。「中上くんは、なにを考えてんのかな」と思うのですが、中上くんは、大学に行くことを決めていて、志望の学部もはっきりしています。そして、ケンタくんには、少しよそよそしくなっていました。ケンタくんは、「中上くんにきらわれるのはやだな」と思って、中上くんにはなんにも言えませんでした。
ケンタくんは、「学校に行くのがやだな」と思うようになっていました。小学校の五年生になってからは、いちども「学校に行くのがやだ」と思ったことはありません。でも、高校三年生になってしまったケンタくんは、それ以前の状態に、逆もどりしてしまったのです。
「ぼくは、ほんとに元気な子なのかな? うそをついてるんじゃないのかな? ぼくは本当は、だれにも相手にしてもらえない、ひとりぼっちの子なんじゃないのかな?」と、小学校の時にこっそり思っていたことが、いつのまにか、本当になってしまっていたのです。
学校に行っても、友達とはうまく口がきけません。前とおんなじようにしているつもりでも、心の中はぜんぜんおもしろくないのです。勉強も、わからなくなってきました。
クラスはそのままですが、大学受験の志望によって、勉強は理科系と文科系の二つのコースにわかれてするようになりました。数学はとくいでも、物理とか化学がきらいだったケンタくんは、文科系にしました。男子の多くは理科系で、いつのまにか、「成績のいい子は理科系だ」という感じにもなっていました。
授業中に、ちがう勉強をする子は、いくらでもいます。「この科目は受験に関係ないから」と思うと、みんな平気で、授業とはべつの勉強をするのです。ケンタくんの席はうしろのほうだったので、みんながちがう勉強をしているのが、よくわかりました。
先生だって、きっと知っているはずなのですが、ほとんど文句を言いません。ケンタくんは、「先生に悪い」と思って、授業中にべつの勉強をするのだけはやめました。その前だったら、次の時間のやってこなかった宿題を、授業中にやっていたこともありますが、ぜったいにそんなことをしなかった優等生が、こそこそと昔のケンタくんのまねみたいなことをしているのを見て、「ぜったいにやんない!」と思いました。
授業中に内職をしなくても、ケンタくんは、先生の授業を聞いていませんでした。ただ目をあけて、前を向いているだけで、先生の言っていることを聞いているふりをするだけでした。聞いても、「これって受験に関係がないのかな?」とか、「だれも聞いてない高三の授業を聞いてて、なんか意味があるのかな?」と思って、頭に入らなくなってしまうのです。すぐ授業にあきるケンタくんでも、前は、「ここんとこだけ覚えとかなくちゃ」と思うところはしっかり覚えるようにしていたのですが、授業そのものがどうでもよくなってしまったので、なにをどう覚えるのかが、わからなくなってしまったのです。
しょうがないので、ケンタくんは、授業中に落書きをするようになりました。ノートに、先生の似顔絵を|描《か》くのです。なにしろ、授業中には、先生の顔を見る以外にすることはありません。じっと先生の顔を見て、それをノートに描こうとしているケンタくんのようすは、「ちゃんと授業を聞いている子」のようにしか見えませんでした。
その頃、ケンタくんは、クラスの保健委員もやっていました。たまたま、二年生のはじめに保健委員に選ばれて、「自分の仕事だ」と思うとなんでも|一生懸命《いつしようけんめい》にやってしまうケンタくんのようすが、「あいつを保健委員にしとけばまちがいがない」と思われて、そのままずーっと、保健委員に選ばれていたのです。
保健委員の仕事は、クラスの子が「気持ちが悪い」と言いだしたら保健室へ連れて行くことと、教室の掃除です。ケンタくんは、保健室の先生と仲よくなって、そして、ずーっと、掃除当番をかんとくするボスになっていたのです。
保健委員だからといって、いつも掃除当番をやっていなきゃいけない理由はありません。でも、「受験勉強があるから」と思うみんなは、掃除当番をさぼって帰りたがるのです。高三になったケンタくんは、掃除当番でもないのに、いつでも放課後の教室に残って、「さぼんなよ!」と、掃除当番の見はりをするようになって、ついには掃除当番を手伝って、いつでも教室の掃除をしているようになってしまいました。ケンタくんには、それくらいしか、やることがなくなっていたのです。
ケンタくんは、「また昔みたいになっちゃったな」と思いました。でも、「やることがあるからいいや」と思って、掃除当番をつづけるようになりました。そうすれば、「なんにもすることがないから、早く学校から帰ろう」と思わなくてもすむからです。
「みんな、ほんとは高校三年生のくせに、そうじゃなくて、大学受験生≠フつもりでいるけど、そんなのうそだから、ぼくはひとりで高校三年生≠やろう」と思って、ケンタくんは、ちっともおもしろくない学校へ、毎日行くようになったのです。
勉強をしなくなって、勉強がよくわからなくなっていたケンタくんは、一学期の期末テストの数学で、〇点をとりました。数学は得意だったはずなのに、「ぼくは文科系コースだから関係ないや」と思っているうちに、ケンタくんは数学の問題がぜんぜんわからなくなっていたのです。
そのテストのあいだ、ケンタくんは、ずーっとあせっていました。「えーと、えーと」と思っても、ちっともわからないのです。「この問題はあとまわしにしよう」と思って次の問題を見ると、やっぱり同じです。「えーと、えーと」とあせりつづけて、一問もできませんでした。それでも、「なんか書いたから、ちょっとくらい点はくれるかな」と思っていて、答案をかえしてもらったら、〇点でした。
ケンタくんは、生まれてはじめて、「わからない」ということがどういうことなのか、わかったのです。
「わからない」ということは、すごく苦しくて、つらくて、そして、とても困るのです。
もちろん、それまでもケンタくんには、「わからない」と思うことが、いくらでもありました。でも、それまでのケンタくんは、テストでわからないことがあっても、ちっとも困らなかった[#「困らなかった」に傍点]のです。
「だいたいわかってりゃいいや」と思って、ひとつやふたつわからなくても、ぜんぜん気にしませんでした。二年の時に、物理や化学のテストで、三十五点とか十八点という点も取りましたが、それでもぜんぜん困りませんでした。ちょっとショックだとは思いましたが、「そのうちなんとかなるさ」と思って、やっぱりまた、少しだけはなんとかなったので、そんなに気にしなかったのです。「物理や化学は、好きなやつがいい点取って、ぼくはきらいだから、どうでもいいんだ」ですませてきました。でも、こんどの〇点はちがうのです。
ケンタくんは、「ぼくはバカになったんだ」と思いました。「やろうと思ってもわからないし、できると思ってもできなかった」と、そのことがはっきりわかりました。そして、「大学のことなんかぜんぜんわかんなくて、大学受験のこともぜんぜんわかんなくて、どうでもいいと思ってるぼくが、テストで〇点取ったってことがわかったら、みんなやっぱり!≠チて言うだろうな」と思いました。ケンタくんは、それが困りました。それが、くやしくてくやしくてたまりませんでした。
でも、ケンタくんのテストの成績は、〇点なのです。「バカだから大学へ行けなくて、それであいつは教室でふざけてるんだ」って、きっとみんなに言われるだろうなと、ケンタくんは思いました。
「勉強ができない」ということは、高校三年のケンタくんにとって、みんなに無視されて笑われて、そして、なんにも言えなくて、ただだまっていなければならない、ということだったのです。ケンタくんは、くやしくてくやしくてたまりませんでした。
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ケンタくんのワンマンショー
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夏休みになって、ケンタくんは、中上くんにさそわれて、一緒に予備校の夏季講習へ行きました。中上くんがどう思っているのかは知りません。でもケンタくんは、それで自分が来年になって、大学に行けるようになるとは思えませんでした。
二学期になって学校がはじまって、教室のふんいきは、一学期よりにぎやかになりました。みんな、受験勉強に本気になって、はりきっていたからです。教室の中での話は、大学受験と受験勉強のことだけです。ケンタくんは、「関係ないや」と思っていました。
昼休み、ひとりで校庭に出て、ぶらぶらと歩いていました。それくらいしか、することがありませんでした。体育館の横には、鉄棒があります。手を|伸《の》ばして飛びつかなければならないくらいの、高い鉄棒です。
ケンタくんは、いちばんさいしょに小学校へ行った時のことを思いだしました。そして、「もしかして、今なら鉄棒ができるかもしれない」と思いました。飛び箱も飛べるようになって、徒競走もビリにはならなくなって、体育もだいたいのことができるようになっていて、でもケンタくんは、鉄棒だけができないままでした。|懸垂《けんすい》だって、一回もできないのです。「でも、もしかしたら、今ならできるかもしれない」と、ケンタくんは思いました。できないままで高校を卒業して、それで終わりになってしまうのは、いやだなと思ったのです。
「できないかもしれないけど、やってみよう」と、ケンタくんは、だれもいない鉄棒の前で思いました。
そして、手をのばして鉄棒にとびつきました。自分の体が、今まででいちばん軽くなっているような気がして、ケンタくんは、そのまま|逆上《さかあ》がりをしました。
「こんなふうだったよな」と思ったその時、ケンタくんの体は鉄棒を|軸《じく》にしてまわって、グルリと、逆上がりができていたのです。
「すごい、できた!」と、鉄棒の上でケンタくんは思いました。「まぐれかもしれない」と思って、もういちどやってみました。やっぱりできて、ケンタくんは、何回も何回も逆上がりをつづけました。それだけは前からできていた「前回り」もやって、一度もできなかった懸垂も、やってみようと思いました。そしたらなんと、いきなり二十回もつづけて、懸垂ができてしまったのです。
ケンタくんは、ぼうぜんとして鉄棒から下りて、その|隣《となり》にある、もっと高い鉄棒に飛びつきました。つかまるだけでもたいへんな高さの鉄棒につかまって、懸垂をしました。そして、逆上がりもしました。「やろうと思えば、ぼくはもっといろんなことができたんだ」と思って、ほかの鉄棒のやりかたをなんにも知らないでいることを、ざんねんに思いました。小学校に入って十二年目になって、ケンタくんは、ついに鉄棒ができたのです。
でももう学校には、「ねェ、見て、見て!」と言える相手がいません。「そんなこと言っても、バカだとしか思われないだろうな」と思って、ケンタくんは、鉄棒から飛び下りました。
鉄棒ができるようになったケンタくんの感想は、とてもかんたんなものです。「どんなことだって、できるようになりたいと思って、そのことを忘れなかったら、いつかできるようになるんだな」だけです。
いろんなことができるようになって、「もしかしたらそうかもしれないな」と思っていたケンタくんは、「やっぱり、そう思っててよかったんだ」と思って、鉄棒の前からはなれました。そしてまた、五時間目の授業のための教室に、ひとりでもどって行きました。
次の週のHRでは、ケンタくんにとってうれしい知らせがありました。体育祭です。
ケンタくんの高校では、体育祭が三年間で二回しかありません。へんな決まりですが、そういうことになっていました。一年の時に体育祭はありましたが、二年の時にはありませんでした。三年になった今年の秋には、それがあるのです。しかも、今年は体育祭で仮装行列をやることが決まったというのです。ケンタくんは、「わォ」と思いました。一度も体育祭で、仮装行列をやったことがないからです。
司会の学級委員が、「参加しますか? どうしますか?」と言いました。ケンタくんはすぐ、「やろう! やろう!」と、手を挙げて言いました。参加するクラスには、生徒会から予算が出て、なんでもできるというのです。
「じゃ、決を採ります」と、学級委員が言いました。学級委員は、頭のいい理系コースの男子です。「参加できなかったらすべてがおしまいになる」と思ったケンタくんは、黙っておとなしく、賛成に手を挙げました。ケンタくんは|祈《いの》るような気持ちでしたが、賛成はクラスの三分の二以上ありました。「おお……」と思って、ケンタくんは、神に感謝しました。
参加が決まったら、次は「なにをやるか」です。ケンタくんは、少し考えました。「どうすればそれができるか」を考えなかったら、「なにをやるか」なんてありえないからです。
ケンタくんがだまって考えているあいだ、だれも意見を言いません。「だれか、意見ありませんか?」と言っていた学級委員は、前のほうにすわっている自分の友達をさして、「意見ありませんか?」と言いました。
そいつは、まじめでつまらないやつです。「そんなやつに意見言わしたってなんにもないぞ」とケンタくんが思っていると、そいつはなにかを言いました。「なんだ?」と思っていると、学級委員は黒板に、「世界の民族」と書きました。
ケンタくんは、「そんなつまんないもんに命なんかかけんなよォ」と思って、すかさず、「はい!」と手を挙げました。ケンタくんが提案したのは、人気マンガのキャラクターです。学級委員は、そのマンガのタイトルを黒板に書きましたが、そのあとで、にくったらしいことに、「でも、こんなのできるの?」と言いました。
ケンタくんはすぐ、「できるよ」と言って、作りかたの説明をしました。どこかで太い竹ひごをいっぱい買ってきて、それで骨組を作って、その上に新聞紙をはって、色をぬって、着ぐるみみたいなはりぼてを作ればいいのです――そう思いました。
もちろん、ケンタくんは、まだそんなのを作ったことがありません。でも、「クラスの中に、そんなのを作ったことがあるやつがひとりくらいいるだろうから、みんなでやればなんとかなる」と思ったのです。ケンタくんの計画した、マンガのキャラクターのはりぼての数は、十人分でした。
ケンタくんの説明に、学級委員は、「ふーん」とうなずいて、それから、「ほかに意見ありませんか?」と言いました。ケンタくんは、なんかむかついて、「はい!」と手を挙げました。
「ケンタくん」と学級委員に言われて、ケンタくんは、「じゃ、世界の民族って、どんなことをやるんですか」と言いました。
「オレにばっかり説明させやがって」と、ケンタくんは思ったのです。
思いつきで「世界の民族」なんて言ったやつは、なんかテキトーなことを言いました。ケンタくんは、「そんなんじゃ、ぜったいにできない」と思って、相手のプランのずさんさに反論しました。そして、「勝った」と、ひとりで思いました。
プランは、ケンタくんの意見と「世界の民族」の二つしかないので、決を採りました。ケンタくんの勝ちです。「やった!」と思っていると、学級委員は、「じゃ、ケンタよろしく」と言いました。
ケンタくんは、「え?」と思いました。「みんなでやるんじゃないの?」と思いました。でも、HRは、それで終わりです。「だれが仮装行列実行委員になるのか」とか、そういうことを決めずに、学級委員は、「ケンタ、予算出して。金わたすから」と言うのです。いつのまにか、はりぼての制作は、ケンタくんひとりの仕事になっていました。
その日から、ケンタくんの|奮闘《ふんとう》がはじまりました。「そんなの、作ったことがない」なんて言っていられません。「竹ひごの太いのみたいのなら、裏門のそばに売ってるところがあるよ」と、中上くんが教えてくれたので、一緒に買いに行きました。竹を二センチくらいの|幅《はば》に割ったものがあって、一本の長さは一メートルくらいあります。それなのにすごく安くて、五百円で|両腕《りよううで》にかかえきれないくらいありました。それを|肩《かた》にかついで教室に帰ってくると、「ざまァみろ」という気分になりました。
もちろん、設計図なんかありません。いっしょに買ってきたヒモで、竹を曲げてしばって、手で折って、バンバン骨組を作っていきました。だれも、なにができるのかわからないので、だまって見ています。ケンタくんは、「できるものはできる」と思って、ひとりで組み立てていきました。
家に帰って、ケンタくんは、かんたんな設計図を書きました。まだ骨組なんかぜんぜんできていないけれど、次の日は、新聞紙を持って学校に行きました。そして、HRで、「新聞紙がいるので、みんな、家から持って来てください」と言いました。そう言って、みんなに少しでも参加してほしかったのです。
でも、ケンタくんがなにをやろうとしているのか、だれにもわからないので、だれも新聞紙を持って来てはくれませんでした。それで、ケンタくんは一日も早く骨組だけを完成させようと思って、昼休みも、放課後も、短い休み時間も、教室のうしろのあいている場所をつかって、はりぼての骨組を作りつづけました。ケンタくんのクラスの教室は広い|視聴覚《しちようかく》教室を使っていたので、それをするスペースだけはあったのです。
ケンタくんはひとりで、割った竹をつかって骨組を作りつづけました。それは、十日間以上かかりました。完成したあとは、新聞紙をはります。ケンタくんはもういちど、HRで、「新聞紙を持って来てください」と言いました。
校務員室へ行って火を借りて、家から持って来た古いナベと小麦粉を使って、ナベいっぱいのノリをねりました。ナベいっぱいのノリをハケでぬって、竹の骨組に紙をはりはじめました。
なんだかわからないけど、形ができてきたので、休み時間にはみんながよってきました。おもしろそうなので、「ちょっと手伝わせて」と言う子もいました。ケンタくんは、「いいよ」と言って、「でも、ほんとは、みんなでやるはずなんだよ」と、だまって思いました。
毎日毎日、新聞紙をはり重ねて、さいごに、白い紙で全体をおおいました。そして、その上に色をぬって、マンガのキャラクターの顔を書いていきました。たったひとりで二十日間をかけて、ケンタくんは、仮装行列に使う、十人分のはりぼてを作ってしまったのです。
できあがったのを見て、みんな、「すげェ」と言いました。まだ絵の具が|乾《かわ》いていないのにさわろうとするので、「だめだよ」とだけ言って、ケンタくんは、みんなのすることをだまって見ていました。ケンタくんも、自分の作ったのを見て、「けっこうよくできたな」と思いました。体育祭の二日前のことでした。
体育祭の日、ケンタくんもまぜた十人のクラスメートが、マンガのキャラクターになって、校庭を一周しました。ケンタくんは、うれしくも悲しくもなくて、「これが終わったら、なにをしよう?」と思いました。
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放課後の|廊下《ろうか》で、ケンタくんが見ていたもの
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体育祭の次の日は、代休でした。その次の日からまた学校がはじまって、ケンタくんも学校へ行きました。学校へ行っても、することがありません。体育祭の前の日まで、下校時間ぎりぎりまで学校にいたケンタくんには、急に早く帰ることもできませんでした。
はりぼて作りのためには、まず教室の掃除をしなければなりません。早くはじめたいので、ケンタくんは、いつも掃除当番をてつだっていました。掃除が終わるとみんなが帰って、ケンタくんはひとりで、竹を曲げたり、紙をはったり、いろんなことをしていました。下校時間になる前に、自分のちらかした教室の掃除をまたして、ひとりでゴミを捨てに行きました。ケンタくんの学校には定時制もあるので、下校時間はぜったいに守らなければなりません。だれもいない廊下をひとりで歩いてゴミを捨てて帰ってくると、時々、「自分はひとりで、なんでこんなことをしてるんだろう?」という気になりました。でも、「バカだからしかたがないな」と思って、泣きませんでした。
でも、体育祭が終わったら、そういうこともできません。放課後になって、ケンタくんがぼんやりしていると、掃除がはじまりました。ケンタくんは、体育祭の前の日みたいに手伝って、そして、ケンタくんが掃除をはじめるのを見たら、掃除当番のひとりが、「もう帰ってもいいかな?」と言いました。
ケンタくんは、「うん、いいよ」と言って、そのまま掃除をつづけていました。だいたい終わった頃に、「ゴミなら捨てとくから、もう帰っていいよ」と、のこった掃除当番の子に言いました。それがあまりにも自然だったので、みんなそうして、いつのまにか、教室の掃除は、ケンタくんがひとりでやるものになっていました。
もう十月も終わりで、日はどんどん短くなっていました。ケンタくんの教室は東のいちばん|端《はし》にあって、ドアを開けると目の前に長い廊下があって、その横に三年生の教室がずっとつづいていました。
教室は、校舎の三階です。掃除が終わってドアを開けると、だれもいない廊下だけが見えます。そのずっと向こうの窓に、しずんで行く秋の|夕陽《ゆうひ》が見えました。それが、毎日少しずつ大きくなって、毎日少しずつ、金色から赤に変わっていきます。昼の時間が短くなっていくからです。
階段を下りて一階に行くと、職員室があります。その横に|掲示板《けいじばん》があって、本のポスターがはってありました。えらい作家の書いた本と、新しく出る日本の歴史の全集のポスターです。一枚のポスターに二つの広告が一緒になっていて、そのポスターと同じ広告が、新聞にも大きく出ていました。ケンタくんは、新聞の広告を見て、「自分も読んでみたいな」と思いました。えらい作家の書いたほうはどうでもよくて、歴史の全集のほうを読みたいと思いました。学校の授業だけだとなんだかわからなくて、もう少しよくわかりたいと思っていたのです。
でも、「新聞に大きく広告が出るような本だから、きっとむずかしいんだろうな」と思っていました。子供の時は本を読むのが好きだったけど、だんだん遊んでいるのに忙しくなったケンタくんは、本を読まなくなって、本を読むのさえもにがてになっていました。本を読むのがにがてになったケンタくんは、「きっとこれは、大人向きでむずかしいんだろうな」と思っていたのですが、学校の掲示板にも同じポスターがはってあるのです。
「じゃ、高校生が読んでもいいんだ」と、ケンタくんは思いました。「でも、ぼくなんかに読めるのかな?」と、「自分はバカになった」と思うケンタくんは、ひとりでゴミ箱をかかえたまま、そのポスターをながめているだけでした。
毎日、ゴミを捨てるたびにポスターの前を通って、毎日ながめていて、そのうち、|日没《にちぼつ》が早くなって、暗くて見えないようになりました。
二学期の終わり近くになって、ケンタくんは本屋さんに行って、その歴史の全集の一冊目を買いました。「読めるのかな」と思って、なかなか度胸がつかなくて、ずっとカバンの中に入れて、ながめていました。学校の昼休みに思いきって開いて読みはじめたら、すごくおもしろくて、「自分もこんな本が読めるんだ」と思いました。それまでにケンタくんが読んだのは、物語や小説だけで、それ以外の本は読んだことがなかったのです。
一冊目を読んで、二冊目を買ったら、二学期が終わりました。三学期になったら、もう学校へ行かなくていいのです。冬休みのあいだ、ケンタくんは二冊目を読んでいました。そして、学校へ行く必要のない三学期が来て、ケンタくんはやっと、受験用の問題集を開きました。
入試に受かるとは、思っていませんでした。でも、「ぼくは、ちゃんと高校三年生をやったんだから、どこかに、ぼくを入れてくれる大学はあるだろう」と思いました。
ケンタくんは、大学をいくつか受けましたが、みんな不合格でした。でも、ケンタくんは泣きませんでした。平気でした。
三月になって、卒業式の前の日に、ケンタくんはひさしぶりで高校へ行きました。あんなにみんな勉強していたのに、男子のほとんどは不合格で、|浪人《ろうにん》をするそうです。中上くんは合格して、志望の大学に行けました。中上くんは二学期の終わり頃に病気になって、入試はあきらめなきゃいけないかもしれないと言われていたので、ケンタくんは、「よかったね」と思いました。
卒業式の日、クラスの男子は、新しく行く予備校の話で、もりあがっていました。ケンタくんは、「予備校になんか行くもんか」と思いました。卒業式では、泣きませんでした。家に帰って来て、大声をだして、ワーワーと泣きました。「どうせ落第するのに、どうしてみんな、ぼくのこと手伝ってくれなかったんだよ!」と思ったら、くやしくてくやしくて、いつまでも|涙《なみだ》が止まりませんでした。
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大人になったケンタくんの思ったこと
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一年間浪人して、ケンタくんは大学に行きました。大学三年の時、お父さんが仕事に失敗して、ケンタくんは、お父さんの仕事を継ぐ必要がなくなりました。ケンタくんは、気がついたら、作家という職業についていました。大学に行っているうちに、ケンタくんは、勉強が好きになったのです。
大学での勉強は、「自分の考えたいことをきちんと考える」というものでした。ケンタくんには、考えたいことがいくらでもありました。「世の中は、どっかおかしい」とか、「どうしてみんな、大学に行くんだろう?」とか、「なんかへんだな」と思うことは、いくらでもありました。
「自分の考えたいことを考える」ということがわかって、ケンタくんは、「小学校や中学校や高校の勉強は、そういうことができるようになるためにするもんなんだな」ということもわかりました。そして、「今頃そんなことわかっても、|遅《おそ》いかな」とも思いました。
作家になっても、ケンタくんは、あんまり変わりませんでした。ずっと「へんなやつ」と思われていて、人からもあんまりほめられませんでした。大人になったケンタくんは平気で、「そういうのには慣れている」と思いました。でも、そう思うと、時々、高校の廊下で見た大きな夕陽がしずんでいくところが、ふしぎに思いだされるのです。そしてケンタくんは、「自分はあんまり成長してないのかもしれないな」と思うのです。
ある時、ケンタくんは長い小説を書いて、大きな出版社から出すことになりました。その出版社は、「もうひとつ別の全集を出す予定があるので、一緒に宣伝をしましょう」と言って、ポスターを作ってくれることになりました。そして、できあがったポスターの見本を、ケンタくんのところに持ってきてくれました。
それを見て、ケンタくんはびっくりしました。なんだか、手がふるえそうでした。
「こういうポスターは、いつも作っているんですか?」と、ケンタくんは聞きました。
出版社の人は、「昔、一度だけ作ったことがあるんですが、それ以来のことですね」と言いました。
ケンタくんは、涙が出そうになりました。「早くひとりになりたい」と思いました。大人になったケンタくんの前にあったポスターは、昔、高校の職員室の掲示板で見たポスターと、そっくりのデザインでした。その本を出す出版社は、昔ケンタくんが買って読んだ歴史の全集を出した出版社と同じでした。「昔、いちどだけ作ったことがある」というのは、ゴミ箱を持ったケンタくんが、ひとりで見ていたあのポスターのことだったのです。
大人になったケンタくんは、ずっと昔に高校生だった自分に向かって、「よかったな、おまえはバカじゃなかったんだぞ」と、言ってやりたいと思って、それで、「ひとりになりたい」と思ったのです。
ひとりになったケンタくんは、遠い昔の自分に向かって、「よかったな、おまえはバカじゃなかったんだぞ」と、声に出さずに言いました。昔の自分はなんにも知らないままで、ゴミ箱を持ったまま、ひとりでポスターの前に立っていました。
遠い未来で、大人になったケンタくんは、また昔の自分に言いました。
「だいじょうぶだから、そのまま歩いて来いよ」
ケンタくんの話は、これでおしまいです。
[#地付き]完
橋本治(はしもと・おさむ)
一九四八年東京生まれ。東京大学文学部国文科卒業。在学中の一九六八年に駒場祭ポスター「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへいく」でイラストレーターとして注目される。『桃尻娘』で講談社小説現代新人賞佳作。以後、小説、戯曲、舞台演出、評論、エッセイ、古典の現代語訳など、その仕事はひとつのジャンルに収まらない。一九九六年『宗教なんかこわくない!』で「新潮学芸賞」、二〇〇二年『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で「小林秀雄賞」を受賞。小説に『桃尻娘シリーズ』『つばめの来る日』『蝶のゆくえ』他、エッセイに『これも男の生きる道』『戦争のある世界――ああでもなくこうでもなく4』他、評論に『いま私たちが考えるべきこと』『上司は思いつきでものを言う』『ひらがな日本美術史』『人はなぜ「美しい」がわかるのか』他、古典の現代語訳に『桃尻語訳 枕草子』『絵本徒然草』『窯変 源氏物語』『双調平家物語』他、著書多数。
本作品は二〇〇五年五月、ちくまプリマ―新書の一冊として刊行された。